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3,420 | 法務省 | 法務省(ほうむしょう、英: Ministry of Justice、略称: MOJ)は、日本の行政機関のひとつ。法の整備、法秩序の維持、国民の権利擁護、出入国管理等を所管する。
国家行政組織法および法務省設置法に基づき省の一つとして設置されている。任務は「法務省は、基本法制の維持および整備、法秩序の維持、国民の権利擁護、国の利害に関係のある争訟の統一的かつ適正な処理ならびに出入国の公正な管理を図ること」である(法務省設置法第3条)。司法制度、民事行政(国籍、戸籍、登記、供託)、刑事、民事制度の企画、立案、検察、矯正、更生保護、行政訴訟、人権擁護、出入国管理、破壊的団体の規制、司法書士および土地家屋調査士に関することなどを管轄する。
法務省では桐紋を省の象徴として使用することが多い。桐紋は内閣や法治国家の象徴としても扱われるが、法務省では桐紋のなかでも主に五三桐を用いる。五三桐は省の標章として使用されており、法務省旧本館(中央合同庁舎第6号館赤れんが棟)の正門などに掲げられている。また、近年では、法務省の英語名称「Ministry of Justice」の頭文字「MOJ」を配置した図案もシンボルとして用いられている。
1954年(昭和29年)に初めて国会に提出された人権委員会設置法案は、日本が人種差別撤廃条約に加入したのちの、2002年、2005年には人権擁護法案、2012年には人権委員会設置法案として新たに提出されたが、衆院解散などの理由により未だ成立していない。
ただし、少年犯罪に対する加害者への人権には配慮しており、1997年の神戸連続児童殺傷事件の際、実名報道をした『FOCUS』などの複数の雑誌に対し法務省が削除要請を行った。また、『週刊新潮』の実名報道に対しても、たびたび是正勧告を行っている。
女性や在日外国人などの人権にも配慮がされており、毎年11月の人権週間では女性の人権を真っ先に取り上げ、DVやセクハラの無料相談を受け付けている。在日外国人に対しても人権侵害の問題を多く取り上げ外国人差別をしてきたホテル・銭湯等に是正を勧告したことがある。2023年までに、ある自民党国会議員にたいし、法務局が人権侵害の警告を発したこともある。
更にインターネット上の書き込みについても名誉毀損として法務省は厳しい姿勢を見せている。
しかし刑務所や入国者収容所といった「人権に制限を加える機関(死刑のように人命までをも奪う)」を持つ官庁が「人権擁護活動」を行うのは問題があるという意見もある。
法務省の起源は、1869年(明治2年)に設置された刑部省にまで遡るが、直接の前身は1871年(明治4年)7月9日に設置された司法省とされている。司法省は、裁判所の監督など、司法行政事務を含む広範な法務、司法に関する事務を司っていた。
司法省の中でも検事局が主流を成しており、平沼騏一郎による検事主導の積極介入主義のもと、検事は、政党、軍部、官僚と並ぶ一大勢力に成長し、検察権力を第一義とする司法権の独立が明確化する。大正期から昭和戦前期には、「検尊判卑主義」が公然と囁かれるようになり、検事局、司法省、裁判所の要職を、検事がほぼ独占するようになっていた。
1940年前後には、「司法権の独立」は、軍部の「統帥権の独立」と並ぶ政治的イデオロギーとなり、陸軍三長官会議をモデルに、司法大臣、大審院院長、検事総長による三長官会議の設置まで提唱されるようになる。
1947年(昭和22年)4月の裁判所法及び検察庁法の成立、また三権分立体制を謳った日本国憲法の施行、また12月の法務庁設置法の成立に伴い、司法官僚は、司法省、検察庁、最高裁判所事務総局など、大きく分けて3つに分散し、裁判所関係の司法行政事務は最高裁判所事務総局の所管に移されることになった。
翌1948年(昭和23年)2月15日、司法省は廃止され、内閣法制局を統合して、法律問題に関する政府の最高顧問とされる法務総裁を長とする法務庁が設置された。法務庁設置法(昭和22年12月17日法律第193号)はその後に改正を重ね、中央省庁再編が始まる1999年まで存続した。
その中で、1949年(昭和24年)6月1日の行政機構改革では、法務庁は法務府に改称され内部部局が簡素化された。また、法務省を所管とする人権擁護委員法が成立した。
1952年(昭和27年)8月1日の行政機構改革では、法務府は法務省と改称され、法制に関する事務を内閣法制局に再び移管するなど、機構の大幅な整理が行われた。この行政機構改革の頃から、国家行政組織法別表において各省の筆頭に掲げられ、法務省は政府の各府省の建制順(列記する際の序列)では、内閣総理大臣が主任の大臣を務める総理府に次ぐ位置であった。
1954年(昭和29年)、国会に人権委員会設置法案が提出されるが廃案となる。1995年に日本が人種差別撤廃条約に加入したのち、2002年、2005年には人権擁護法案、2012年には人権委員会設置法案として新たに提出された。
2001年(平成13年)1月6日の中央省庁再編により、法務省設置法(昭和22年法律第193号)に基づく法務省が廃止され、法務省設置法(平成11年7月16日法律第93号)及び法務省組織令(平成12年6月7日政令第248号)に基づく法務省が設置され、各種の部局や審議会、施設機関が再設置された。序列は総務省に次ぐ2番目となった。
2017年(平成29年)6月15日、改正組織犯罪処罰法にテロ等準備罪が新設され、日本国は国連の組織犯罪防止条約及び腐敗防止条約を受諾することとなった。
2012年(平成24年)11月9日、三条委員会である人権委員会設置を目的とする人権委員会設置法案が再度提出された。同法案の趣旨は、同委員会は、(1) 政府からの独立性を有する立場で、公権力による人権侵害行為を始めとする人権侵害行為についてより実効的な救済を図る、(2) 新たに調停・仲裁の制度を取り入れて救済を推進する、(3) 国内の人権状況等を踏まえ、内閣総理大臣、関係行政機関の長又は国会に対し意見を提出することができるというものであったが、同月16日の衆議院の解散により廃案となり、国内人権機関は未だ設置されていない。
2019年 (平成31年) 4月1日内局である入国管理局が廃止され、新たに外局に出入国在留管理庁を新設する組織改編を行った。
現行の司法法制部は、国内外の法令、法務に関する資料の整備、編纂、司法省であった1921年(大正10年)に始まる『法務資料』の刊行、霞が関の法務図書館の運営、2009年(平成21年)からは『日本法令外国語訳データベースシステム』(Japanese Law Translation)の運営などを行い、また日本司法支援センターの運営に関する業務を行っている。
上述の法務省設置法3条に規定された任務を達成するため、同法4条は計40号にわたって所掌事務を列記している。具体的には以下に関することなどがある。
法務省の内部組織は一般的に、法律の法務省設置法、政令の法務省組織令及び省令の法務省組織規則が階層的に規定している。
法務省の施設等機関には以下の8区分がある。
検察庁法にもとづき、特別の機関として検察庁がある(法律14条)。検察庁には最高検察庁、高等検察庁、地方検察庁及び区検察庁の4区分に分かれ、それぞれ最高裁判所、高等裁判所、地方裁判所(と家庭裁判所)及び簡易裁判所に対応して置かれている(検察庁法2条1項)。
法務省の地方支分部局には以下の5区分がある。
法務省が主管する独立行政法人は2023年4月1日現在、存在しないが、総合法律支援法にもとづいて設置され、独立行政法人通則法を準用する日本司法支援センターを主管している。
法務省が主管する特殊法人は2023年4月1日現在、存在しない。
法務省が主管する特別の法律により設立される民間法人(特別民間法人、2023年4月1日現在)は以下の通りである。
法務省が主管する地方共同法人および認可法人は2023年4月1日現在、存在しない。
2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における法務省所管の歳出予算は 7250億414万3千円。機関別の内訳は法務本省が1701億628万8千円、法務総合研究所が21億6623万8千円、検察庁が1135億233万8千円、矯正官署が2351億217万3千円、更生保護官署が272億567万3千円、法務局が1057億9057万4千円、出入国在留管理庁が546億3003万円、公安審査委員会が6270万4千円、公安調査庁が164億3812万5千円となっている。
歳入予算は927億364万3千円で、全額が「雑収入」(5部)に分類される。そのうち、「許可及手数料」(5部3款06項)の529億5024万5千円と「懲罰及没収金」(5部3款08項)346億4412万4千円が大半を占める。独自の項目としては刑務所作業収入と少年院職業補導収入から成る「矯正官署作業収入」(5部3款10項)があり、22億3880万6千円が計上されている。
特別会計としてかつては登記特別会計を所管していたが、2010年度限りで廃止された。現在は国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管するのみである。
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、法務省全体で、検察官を含め52,467人である。内訳は、検察官以外の職員が、本省42,284人(男性32,788人、女性9,496人)、出入国在留管理庁5,952人(男性3,958人、女性1,955人)、公安審査委員会4人(男性4人、女性0人)、公安調査庁1,572人(男性1,281人、女性291人)、検察官が全体で2,704人で、内訳は、本省(検察庁を除く)107人、検察庁2,592人、出入国在留管理庁5人、公安審査委員会0人、公安調査庁7人となっている。なお、一般職国家公務員在職状況統計表(令和4年7月1日現在)において検察官の男女別の人数の記載はない。別途の資料では、2021年3月31日現在で検察官総数2,721人(男性2,177人、女性544人)である。
行政機関定員令に定められた法務省の定員は特別職1人を含めて55,224人(2023年12月31日までは55,231人)うち検察庁の職員が11,865人(2023年12月31日までは11,872人)である。本省、各外局別の定員は省令の法務省定員規則に定められており、本省47,138人(2023年12月31日までは47,145人)で、うち検察庁の職員は11,865人(2023年12月31日までは11,872人)であり、出入国在留管理庁6,314人、公安審査委員会が4人(事務局職員の定員)、公安調査庁1,768人となっている。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職8人、一般職55,214人の計55,222人である。特別職8人は、すべて法務本省であり、一般職の機関別内訳は法務本省が829人、法務総合研究所が84人、検察庁が11,865人、矯正官署が23,595人、更生保護官署が1,829人、法務局が8,926人、出入国在留管理庁が6,314人、公安審査委員会(事務局)が4人、公安調査庁が1,768人となっている。特別会計の予算定員は、東日本大震災復興特別会計(法務省所管分)9人(すべて法務局)である。
以上は定員内職員についてであるが、これとは別に法務省には非常勤職員など多数の定員外職員が在籍している。非常勤職員については2022年7月1日現在の総数は58,758人で、国の行政機関の非常勤職員(158,554人)のおよそ37%が法務省に在籍している計算である。これは更生保護ボランティアである保護司47,718人を含んでいることによる。ほかに委員顧問参与等職員が4,835人おり、厚生労働省(7,531人)の次に多い。続いて事務補助職員が3,910人、技能職員が586人、医療職員が532人、教育職員が378人などとなっている。教育職員は国の行政機関に任用された者(421人)の9割を占めている。非常勤職員とは別に再任用職員は3,178人となっている。さらに傷病や労組専従による休職が194人、育児等の休業が566人、派遣(国際機関、法科大学院、弁護士職務経験等)が39人となっている。
職員の競争試験による採用は国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、国家公務員採用総合職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(高卒程度試験)、刑務官採用試験、法務省専門職員(人間科学)採用試験の合格者の中から行われる。いずれも人事院が実施する。ただし検事の採用には国家公務員法の特例として検察庁法が適用され、主として司法修習生の修習を終えた者から任命される(検察庁法18条1項)。
前記の通り法務省と最高裁判所事務総局は共に司法省を母体として設立された機関であり、両者は司法省の廃止後も判検交流と呼ばれる人事交流を行っていた。これは人材育成の一環として行われていたとされるが、検察と裁判所の癒着という指摘もあり、日弁連も指定代理人制度と絡めて廃止を求めてきていた。そのため、より職務の公正さを確保していくとして、民事部門での交流縮小に次ぎ、2012年4月をもって刑事部門での人事交流が停止された。
法務省職員は一般職の国家公務員なので、給与は一般職の職員の給与に関する法律(一般職給与法)によって規律される。ただし、検察官には検察官の俸給等に関する法律が適用され、検事総長、次長検事及び検事長は特別職の職員の給与に関する法律、検事及び副検事については一般職給与法の規定に準じた給与制度が設けられている。俸給表は基本的に行政職俸給表(一)および指定職俸給表が適用されるが、人事院規則九―二の規定により、入国者収容所及び地方出入国在留管理局の入国警備官(4条2号)と刑務所、少年刑務所、拘置所又は矯正管区に勤務する者並びに矯正研修所支所に勤務する教頭及び教官(4条3号)には公安職俸給表(一)が、検察事務官及び公安調査官(5条1号)と少年院、少年鑑別所又は婦人補導院に勤務する者(5条2号)には公安職俸給表(二)が適用され、検察官は検察官の俸給等に関する法律2条に規定された俸給表が適用される。
令和5年度予算の予算定員を俸給表別にみると、公安職俸給表(一)が20,722人と最も多く、次いで行政職俸給表(一)が16,733人、公安職俸給表(二)が13,695人、検察官が2,766人などとなっている。矯正施設や更生保護施設には被収容者の矯正医療のために、厚生労働省と並んで多数の医療従事者が勤務していることから、医療職俸給表(一)の適用を受ける定員が334人、医療職俸給表(二)が181人、医療職俸給表(三)が522人となっている。
労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は保障されており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法108条の2第3項)。ただし、刑事施設に勤務する職員は国家公務員法によって団結権も認められておらず、職員団体を結成し、又はこれに加入してはならない(国家公務員法108条の2第5項)。
2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数は単一体1、支部30の計31団体となっている。組合員数は3,595人、組織率は14.7%となっている。主要な職員団体は全法務省労働組合(全法務)で、国公労連(全労連系)に加盟している。
一般職の幹部は以下の通りである。
法務省の事務次官や内部部局の長など一般職の要職には、一般の国の行政機関とは異なり、国家I種試験(現国家総合職試験)合格者から採用された者ではなく、検察官(判検交流により裁判官から任用された者を含む)が任用される傾向が強い。元検事総長の但木敬一は、犯罪者の更生を担当する矯正局、保護局などのトップは検事にこだわらず適材適所で考えた方がいい時代になったと思うと述べている。近年は、矯正局長に初の刑務官出身の局長や女性局長が誕生したり、保護局長にプロパー職員が就任するなど改革も見られる。他官庁の事務次官は最高位の「上がりポスト」であるが、法務省の場合は事務次官で退官することはほとんどなく、高検検事長(ほとんど東京)か次長検事に転出し多くは検事総長となるなど、キャリアパスの一つと化している。
2007年度新司法試験における慶應義塾大学法科大学院教授による類題講義では、当該行政法教授の考査委員解任以降、司法試験委員会による調査結果により、影響が明らかでないとして何ら是正措置はとられなかった。但し、合格発表後、難問の択一行政法18問目における慶大生の正答率が5%以上高かったこと、慶大の合格率は前年の9位から3位に上昇していたことなどが明らかとなっている。
ただ、その調査方法は問題の渦中にあったと指摘された複数の慶大教授らの自己申告を調査報告とし、さらに自己申告の任意とし、申告なき者は当該調査から外されるなど不可解な点が多く指摘されている。また解任された行政法の教授に対するヒアリングなどもなされていない。
これは、行政法同様に漏洩が指摘されていた刑事法では現職の派遣検察官が講義を行っていたためとされ、よって法務省が当初から結論ありきに終始していたためとも指摘されている。
2015年度司法試験において、青柳幸一明治大学法科大学院教授が、自身が同試験考査委員として作成した憲法問題を同大学法科大学院出身の女性受験者に漏洩したとして、同年5月、国家公務員法(守秘義務)違反容疑で東京地検特捜部に告発され、併せて法務省から考査委員を解任された。
また、その他明大法科大学院生への影響の可能性も指摘されているが、調査等は実施されなかった。 | [
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"tag": "p",
"text": "上述の法務省設置法3条に規定された任務を達成するため、同法4条は計40号にわたって所掌事務を列記している。具体的には以下に関することなどがある。",
"title": "所掌事務"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "法務省の内部組織は一般的に、法律の法務省設置法、政令の法務省組織令及び省令の法務省組織規則が階層的に規定している。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "法務省の施設等機関には以下の8区分がある。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "検察庁法にもとづき、特別の機関として検察庁がある(法律14条)。検察庁には最高検察庁、高等検察庁、地方検察庁及び区検察庁の4区分に分かれ、それぞれ最高裁判所、高等裁判所、地方裁判所(と家庭裁判所)及び簡易裁判所に対応して置かれている(検察庁法2条1項)。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "法務省の地方支分部局には以下の5区分がある。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "法務省が主管する独立行政法人は2023年4月1日現在、存在しないが、総合法律支援法にもとづいて設置され、独立行政法人通則法を準用する日本司法支援センターを主管している。",
"title": "所管法人"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "法務省が主管する特殊法人は2023年4月1日現在、存在しない。",
"title": "所管法人"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "法務省が主管する特別の法律により設立される民間法人(特別民間法人、2023年4月1日現在)は以下の通りである。",
"title": "所管法人"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "法務省が主管する地方共同法人および認可法人は2023年4月1日現在、存在しない。",
"title": "所管法人"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における法務省所管の歳出予算は 7250億414万3千円。機関別の内訳は法務本省が1701億628万8千円、法務総合研究所が21億6623万8千円、検察庁が1135億233万8千円、矯正官署が2351億217万3千円、更生保護官署が272億567万3千円、法務局が1057億9057万4千円、出入国在留管理庁が546億3003万円、公安審査委員会が6270万4千円、公安調査庁が164億3812万5千円となっている。",
"title": "財政"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "歳入予算は927億364万3千円で、全額が「雑収入」(5部)に分類される。そのうち、「許可及手数料」(5部3款06項)の529億5024万5千円と「懲罰及没収金」(5部3款08項)346億4412万4千円が大半を占める。独自の項目としては刑務所作業収入と少年院職業補導収入から成る「矯正官署作業収入」(5部3款10項)があり、22億3880万6千円が計上されている。",
"title": "財政"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "特別会計としてかつては登記特別会計を所管していたが、2010年度限りで廃止された。現在は国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管するのみである。",
"title": "財政"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "一般職の在職者数は2022年7月1日現在、法務省全体で、検察官を含め52,467人である。内訳は、検察官以外の職員が、本省42,284人(男性32,788人、女性9,496人)、出入国在留管理庁5,952人(男性3,958人、女性1,955人)、公安審査委員会4人(男性4人、女性0人)、公安調査庁1,572人(男性1,281人、女性291人)、検察官が全体で2,704人で、内訳は、本省(検察庁を除く)107人、検察庁2,592人、出入国在留管理庁5人、公安審査委員会0人、公安調査庁7人となっている。なお、一般職国家公務員在職状況統計表(令和4年7月1日現在)において検察官の男女別の人数の記載はない。別途の資料では、2021年3月31日現在で検察官総数2,721人(男性2,177人、女性544人)である。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "行政機関定員令に定められた法務省の定員は特別職1人を含めて55,224人(2023年12月31日までは55,231人)うち検察庁の職員が11,865人(2023年12月31日までは11,872人)である。本省、各外局別の定員は省令の法務省定員規則に定められており、本省47,138人(2023年12月31日までは47,145人)で、うち検察庁の職員は11,865人(2023年12月31日までは11,872人)であり、出入国在留管理庁6,314人、公安審査委員会が4人(事務局職員の定員)、公安調査庁1,768人となっている。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2023年度一般会計予算における予算定員は特別職8人、一般職55,214人の計55,222人である。特別職8人は、すべて法務本省であり、一般職の機関別内訳は法務本省が829人、法務総合研究所が84人、検察庁が11,865人、矯正官署が23,595人、更生保護官署が1,829人、法務局が8,926人、出入国在留管理庁が6,314人、公安審査委員会(事務局)が4人、公安調査庁が1,768人となっている。特別会計の予算定員は、東日本大震災復興特別会計(法務省所管分)9人(すべて法務局)である。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "以上は定員内職員についてであるが、これとは別に法務省には非常勤職員など多数の定員外職員が在籍している。非常勤職員については2022年7月1日現在の総数は58,758人で、国の行政機関の非常勤職員(158,554人)のおよそ37%が法務省に在籍している計算である。これは更生保護ボランティアである保護司47,718人を含んでいることによる。ほかに委員顧問参与等職員が4,835人おり、厚生労働省(7,531人)の次に多い。続いて事務補助職員が3,910人、技能職員が586人、医療職員が532人、教育職員が378人などとなっている。教育職員は国の行政機関に任用された者(421人)の9割を占めている。非常勤職員とは別に再任用職員は3,178人となっている。さらに傷病や労組専従による休職が194人、育児等の休業が566人、派遣(国際機関、法科大学院、弁護士職務経験等)が39人となっている。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "職員の競争試験による採用は国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、国家公務員採用総合職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(高卒程度試験)、刑務官採用試験、法務省専門職員(人間科学)採用試験の合格者の中から行われる。いずれも人事院が実施する。ただし検事の採用には国家公務員法の特例として検察庁法が適用され、主として司法修習生の修習を終えた者から任命される(検察庁法18条1項)。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "前記の通り法務省と最高裁判所事務総局は共に司法省を母体として設立された機関であり、両者は司法省の廃止後も判検交流と呼ばれる人事交流を行っていた。これは人材育成の一環として行われていたとされるが、検察と裁判所の癒着という指摘もあり、日弁連も指定代理人制度と絡めて廃止を求めてきていた。そのため、より職務の公正さを確保していくとして、民事部門での交流縮小に次ぎ、2012年4月をもって刑事部門での人事交流が停止された。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "法務省職員は一般職の国家公務員なので、給与は一般職の職員の給与に関する法律(一般職給与法)によって規律される。ただし、検察官には検察官の俸給等に関する法律が適用され、検事総長、次長検事及び検事長は特別職の職員の給与に関する法律、検事及び副検事については一般職給与法の規定に準じた給与制度が設けられている。俸給表は基本的に行政職俸給表(一)および指定職俸給表が適用されるが、人事院規則九―二の規定により、入国者収容所及び地方出入国在留管理局の入国警備官(4条2号)と刑務所、少年刑務所、拘置所又は矯正管区に勤務する者並びに矯正研修所支所に勤務する教頭及び教官(4条3号)には公安職俸給表(一)が、検察事務官及び公安調査官(5条1号)と少年院、少年鑑別所又は婦人補導院に勤務する者(5条2号)には公安職俸給表(二)が適用され、検察官は検察官の俸給等に関する法律2条に規定された俸給表が適用される。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "令和5年度予算の予算定員を俸給表別にみると、公安職俸給表(一)が20,722人と最も多く、次いで行政職俸給表(一)が16,733人、公安職俸給表(二)が13,695人、検察官が2,766人などとなっている。矯正施設や更生保護施設には被収容者の矯正医療のために、厚生労働省と並んで多数の医療従事者が勤務していることから、医療職俸給表(一)の適用を受ける定員が334人、医療職俸給表(二)が181人、医療職俸給表(三)が522人となっている。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は保障されており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法108条の2第3項)。ただし、刑事施設に勤務する職員は国家公務員法によって団結権も認められておらず、職員団体を結成し、又はこれに加入してはならない(国家公務員法108条の2第5項)。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数は単一体1、支部30の計31団体となっている。組合員数は3,595人、組織率は14.7%となっている。主要な職員団体は全法務省労働組合(全法務)で、国公労連(全労連系)に加盟している。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "一般職の幹部は以下の通りである。",
"title": "幹部人事"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "法務省の事務次官や内部部局の長など一般職の要職には、一般の国の行政機関とは異なり、国家I種試験(現国家総合職試験)合格者から採用された者ではなく、検察官(判検交流により裁判官から任用された者を含む)が任用される傾向が強い。元検事総長の但木敬一は、犯罪者の更生を担当する矯正局、保護局などのトップは検事にこだわらず適材適所で考えた方がいい時代になったと思うと述べている。近年は、矯正局長に初の刑務官出身の局長や女性局長が誕生したり、保護局長にプロパー職員が就任するなど改革も見られる。他官庁の事務次官は最高位の「上がりポスト」であるが、法務省の場合は事務次官で退官することはほとんどなく、高検検事長(ほとんど東京)か次長検事に転出し多くは検事総長となるなど、キャリアパスの一つと化している。",
"title": "幹部人事"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2007年度新司法試験における慶應義塾大学法科大学院教授による類題講義では、当該行政法教授の考査委員解任以降、司法試験委員会による調査結果により、影響が明らかでないとして何ら是正措置はとられなかった。但し、合格発表後、難問の択一行政法18問目における慶大生の正答率が5%以上高かったこと、慶大の合格率は前年の9位から3位に上昇していたことなどが明らかとなっている。",
"title": "関連紛争・諸問題"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ただ、その調査方法は問題の渦中にあったと指摘された複数の慶大教授らの自己申告を調査報告とし、さらに自己申告の任意とし、申告なき者は当該調査から外されるなど不可解な点が多く指摘されている。また解任された行政法の教授に対するヒアリングなどもなされていない。",
"title": "関連紛争・諸問題"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "これは、行政法同様に漏洩が指摘されていた刑事法では現職の派遣検察官が講義を行っていたためとされ、よって法務省が当初から結論ありきに終始していたためとも指摘されている。",
"title": "関連紛争・諸問題"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2015年度司法試験において、青柳幸一明治大学法科大学院教授が、自身が同試験考査委員として作成した憲法問題を同大学法科大学院出身の女性受験者に漏洩したとして、同年5月、国家公務員法(守秘義務)違反容疑で東京地検特捜部に告発され、併せて法務省から考査委員を解任された。",
"title": "関連紛争・諸問題"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "また、その他明大法科大学院生への影響の可能性も指摘されているが、調査等は実施されなかった。",
"title": "関連紛争・諸問題"
}
] | 法務省は、日本の行政機関のひとつ。法の整備、法秩序の維持、国民の権利擁護、出入国管理等を所管する。 | {{otheruses||日本以外の法務省・司法省|司法省 (曖昧さ回避)}}
{{行政官庁
|国名 = {{JPN}}
|正式名称 = 法務省
|公用語名 = ほうむしょう
|英名 = Ministry of Justice
|紋章 = [[File:法務省ロゴ.svg|220px]]<hr/>[[File:Japanese Crest GosannKiri MOJ.svg|110px]]
|画像 = Japan government office no6a.jpg
|画像サイズ = 240px
|画像説明 = 法務省が設置される[[中央合同庁舎第6号館]]A棟
|主席閣僚職名 = [[法務大臣|大臣]]
|主席閣僚氏名 = [[小泉龍司]]
|次席閣僚職名 = [[法務副大臣|副大臣]]
|次席閣僚氏名 = [[門山宏哲]]
|補佐官職名 = [[法務大臣政務官|大臣政務官]]
|補佐官氏名 = [[中野英幸]]
|総長職名 = [[最高検総長|検事総長]]
|総長氏名 = [[甲斐行夫]]
|次官職名 = [[#歴代法務事務次官|事務次官]]
|次官氏名 = [[川原隆司]]
|上部組織 = 上部組織
|上部組織概要 = [[内閣 (日本)|内閣]]<ref>[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/satei_01_05_3.pdf 我が国の統治機構] 内閣官房 2022年3月22日閲覧。</ref>
|下部組織1 = [[内部部局]]
|下部組織概要1 = [[法務省大臣官房|大臣官房]]<br/>[[民事局]]<br/>[[法務省刑事局|刑事局]]<br/>[[矯正局]]<br/>[[保護局]]<br/>[[人権擁護局]]<br/>[[訟務局]]
|下部組織2 = [[審議会等]]
|下部組織概要2 = [[司法試験委員会]]<br/>[[検察官適格審査会]]<br/>[[中央更生保護審査会]]<br/>[[日本司法支援センター評価委員会]]<br/>[[法制審議会]]<br/>[[検察官・公証人特別任用等審査会]]
|下部組織3 = [[施設等機関]]
|下部組織概要3 = [[刑務所]]<br/>[[少年刑務所]]<br/>[[拘置所]]<br/>[[少年院]]<br/>[[少年鑑別所]]<br/>[[婦人補導院]]<br/>[[法務総合研究所]]<br/>[[矯正研修所]]
|下部組織4 = [[特別の機関]]
|下部組織概要4 = [[検察庁]]
|下部組織5 = [[地方支分部局]]
|下部組織概要5 = [[矯正管区]]<br/>[[法務局]]<br/>[[地方法務局]]<br/>[[地方更生保護委員会]]<br/>[[保護観察所]]
|下部組織6 = [[外局]]
|下部組織概要6 = [[公安調査庁]]<br/>[[公安審査委員会]]<br/>[[出入国在留管理庁]]
|所在地 = {{color|red|〒}}100-8977<br/>[[東京都]][[千代田区]][[霞が関]]1-1-1
|位置 = {{coord|35|40|35|N|139|45|12|E|region:JP|display=inline,title}}
|定員 =55,224人(2023年12月31日までは55,231人)<br/>うち検察庁が11,865人(2023年12月31日までは11,872人)<ref name="定員令">{{Egov law|344CO0000000121|行政機関職員定員令(昭和44年5月16日政令第121号)(最終改正、令和5年3月30日政令第90号)}}</ref>
|年間予算 = 7250億414万3千円<ref name="予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202311001.pdf 令和5年度一般会計予算]}} 財務省</ref>
|会計年度 = 2023
|根拠法令=[[法務省設置法]]|設置年月日 = [[2001年]]([[平成]]13年)[[1月6日]]
|改称年月日 =
|前身 = [[刑部省]]→[[司法省 (日本)|司法省]]→[[法務庁]]→[[法務府]]
|ウェブサイト = {{official website|name=法務省}}
|その他 =
}}
'''法務省'''(ほうむしょう、{{lang-en-short|Ministry of Justice}}、[[略称]]: '''MOJ''')は、[[日本]]の[[日本の行政機関|行政機関]]のひとつ<ref>[https://kotobank.jp/word/法務省-132457 法務省] コトバンク 2021年3月27日閲覧。</ref>。[[法_(法学)|法]]の整備、[[法秩序]]の維持、[[国民]]の[[権利]]擁護、[[出入国管理法|出入国管理]]等を所管する<ref group="注釈">「基本法制の維持及び整備、法秩序の維持、国民の権利擁護、国の利害に関係のある争訟の統一的かつ適正な処理並びに出入国の公正な管理を図る」([[法務省設置法]]3条)</ref>。
==概説==
[[ファイル:Homusho.jpg|thumb|190px|法務省の石銘板]]
[[ファイル:Japanese Crest GosannKiri.svg|thumb|100px|法務省の紋章として使用される[[桐紋|五三桐]]]]
[[ファイル:Seal of the Ministry of Justice of Japan cropped 2 Ministry of Justice Japan01s3200.jpg|thumb|180x200px|[[法務省旧本館]](中央合同庁舎第6号館赤れんが棟)正門の五三桐(中央の金色部分){{efn|赤煉瓦棟は[[プロイセン王国]]の[[ヘルマン・エンデ]]、[[ヴィルヘルム・ベックマン]]、[[ヘルマン・ムテジウス]]らによる[[官庁集中計画]]によって建設された。ムテジウスは[[靖国神社]]近隣のプロイセンの[[東郷坂教会]]の設計者。}}]]
[[国家行政組織法]]および[[法務省設置法]]に基づき省の一つとして設置されている。任務は「法務省は、基本法制の維持および整備、[[法秩序]]の維持、[[国民]]の権利擁護、国の利害に関係のある争訟の統一的かつ適正な処理ならびに出入国の公正な管理を図ること」である(法務省設置法第3条)。[[司法]]制度、民事行政([[国籍]]、[[戸籍]]、[[登記]]、[[供託]])、刑事、民事制度の企画、立案、[[検察庁|検察]]、[[矯正 (法学)|矯正]]、[[更生保護]]、[[行政訴訟]]、[[人権擁護]]、[[出入国管理]]、破壊的団体の規制、[[司法書士]]および[[土地家屋調査士]]に関することなどを管轄する。
法務省では[[桐紋]]を省の象徴として使用することが多い。桐紋は[[内閣 (日本)|内閣]]や[[法治国家]]の象徴としても扱われるが、法務省では桐紋のなかでも主に五三桐を用いる。五三桐は省の標章として使用されており、[[法務省旧本館]]([[中央合同庁舎第6号館赤れんが棟]])の正門などに掲げられている。また、近年では、法務省の英語名称「Ministry of Justice」の頭文字「MOJ」を配置した[[デザイン|図案]]もシンボルとして用いられている。
=== 人権への配慮 ===
1954年(昭和29年)に初めて国会に提出された[[人権委員会設置法案]]は、日本が[[人種差別撤廃条約]]に加入したのちの、2002年、2005年には[[人権擁護法案]]、2012年には人権委員会設置法案として新たに提出されたが、衆院解散などの理由により未だ成立していない{{efn|国際連合の会合に出席する「人権担当大使」は[[外務省]]の役職である。}}。
ただし、[[少年犯罪]]に対する[[加害者]]への[[人権]]には配慮しており、[[1997年]]の[[神戸連続児童殺傷事件]]の際、[[実名報道]]をした『[[FOCUS]]』などの複数の雑誌に対し法務省が削除要請を行った。また、『[[週刊新潮]]』の実名報道に対しても、たびたび是正勧告を行っている。
[[女性]]や[[日本の外国人|在日外国人]]などの人権にも配慮がされており、毎年11月の[[人権週間]]では女性の人権を真っ先に取り上げ、[[ドメスティックバイオレンス|DV]]や[[セクハラ]]の無料相談を受け付けている。在日外国人に対しても[[人権蹂躙|人権侵害]]の問題を多く取り上げ[[外国人]]差別をしてきた[[ホテル]]・[[銭湯]]等に是正を勧告したことがある。2023年までに、ある[[自由民主党 (日本)|自民党]]国会議員にたいし、[[法務局]]が人権侵害の警告を発したこともある。
更に[[インターネット]]上の書き込みについても[[名誉毀損]]として法務省は厳しい姿勢を見せている<ref>「ネット書き込みでの名誉毀損めぐり最高裁が初判断 有罪判決確定」 [[産経新聞]] 2010年3月16日付け記事</ref>。
しかし[[刑務所]]や[[入国者収容所]]といった「人権に制限を加える機関(死刑のように人命までをも奪う)」を持つ官庁が「人権擁護活動」を行うのは問題があるという意見もある<ref>{{Cite web|和書
|date=2003-02-21
|url=https://www.nichibenren.or.jp/document/opinion/year/2003/2003_83.html
|title=人権擁護法案に関する意見
|publisher=[[日本弁護士連合会]]
|accessdate=2015-08-02
}}</ref>。
{{clear}}
== 歴史 ==
法務省の起源は、[[1869年]](明治2年)に設置された'''[[刑部省]]'''にまで遡るが、直接の前身は[[1871年]](明治4年)[[7月9日]]に設置された'''[[司法省 (日本)|司法省]]'''とされている。司法省は、[[裁判所]]の監督など、[[司法行政権|司法行政事務]]を含む広範な法務、司法に関する事務を司っていた。
司法省の中でも検事局が主流を成しており、[[平沼騏一郎]]による検事主導の積極介入主義のもと、検事は、政党、軍部、官僚と並ぶ一大勢力に成長し、検察権力を第一義とする司法権の独立が明確化する。大正期から昭和戦前期には、「検尊判卑主義」が公然と囁かれるようになり、検事局、司法省、裁判所の要職を、検事がほぼ独占するようになっていた<ref name="mikuriya">[[御厨貴]] 『権力の館を歩く 建築空間の政治学』 ちくま文庫 p.246</ref>。
1940年前後には、「[[司法権]]の独立」は、軍部の「[[統帥権]]の独立」と並ぶ政治的イデオロギーとなり、陸軍三長官会議をモデルに、[[法務大臣|司法大臣]]、[[大審院院長]]、[[検事総長]]による三長官会議の設置まで提唱されるようになる<ref name="mikuriya" />。
[[1947年]](昭和22年)4月の[[裁判所法]]及び[[検察庁法]]の成立、また[[三権分立]]体制を謳った[[日本国憲法]]の施行、また12月の[[法務庁設置法]]の成立に伴い、[[司法省 (日本)|司法]][[官僚]]は、司法省、検察庁、[[最高裁判所事務総局]]など、大きく分けて3つに分散し、[[裁判所]]関係の[[司法行政権|司法行政事務]]は[[最高裁判所事務総局]]の所管に移されることになった。
翌[[1948年]](昭和23年)[[2月15日]]、司法省は廃止され、[[内閣法制局]]を統合して、法律問題に関する政府の最高顧問とされる[[法務大臣|法務総裁]]を長とする'''[[法務庁]]'''が設置された。[[法務庁設置法]](昭和22年12月17日法律第193号)はその後に改正を重ね、[[中央省庁再編]]が始まる[[1999年]]まで存続した。
その中で、[[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]の[[行政改革|行政機構改革]]では、法務庁は'''[[法務庁#概要|法務府]]'''に改称され内部部局が簡素化された。また、法務省を所管とする[[人権擁護委員法]]が成立した。
[[1952年]](昭和27年)[[8月1日]]の行政機構改革では、法務府は'''法務省'''と改称され、[[法制]]に関する事務を[[内閣法制局]]に再び移管するなど、機構の大幅な整理が行われた。この行政機構改革の頃から、[[国家行政組織法]]別表において各省の筆頭に掲げられ、法務省は政府の各府省の[[建制順]](列記する際の序列)では、[[内閣総理大臣]]が主任の大臣を務める[[総理府]]に次ぐ位置であった。
1954年(昭和29年)、国会に[[人権委員会設置法案]]が提出されるが廃案となる。1995年に日本が[[人種差別撤廃条約]]に加入したのち、2002年、2005年には[[人権擁護法案]]、2012年には人権委員会設置法案として新たに提出された<ref>[https://web.archive.org/web/20181101110056/http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken03_00041.html#Q1 「人権委員会が設置されると,何ができるようになるのですか」]法務省Q&A。</ref>。
[[2001年]](平成13年)1月6日の[[中央省庁再編]]により、法務省設置法(昭和22年法律第193号)に基づく法務省が廃止され、法務省設置法(平成11年7月16日法律第93号)及び[[法務省組織令]](平成12年6月7日[[政令]]第248号)に基づく法務省が設置され、各種の部局や審議会、施設機関が再設置された。序列は[[総務省]]に次ぐ2番目となった。
2017年(平成29年)6月15日、改正[[組織犯罪処罰法]]に[[テロ等準備罪]]が新設され、日本国は国連の[[組織犯罪防止条約]]及び[[腐敗防止条約]]を受諾することとなった。
2012年(平成24年)11月9日、[[三条委員会]]である[[人権委員会 (法務省)|人権委員会]]設置を目的とする[[人権委員会設置法案]]が再度提出された。同法案の趣旨は、同委員会は、(1) 政府からの独立性を有する立場で、公権力による人権侵害行為を始めとする人権侵害行為についてより実効的な救済を図る、(2) 新たに調停・仲裁の制度を取り入れて救済を推進する、(3) 国内の人権状況等を踏まえ、[[内閣総理大臣]]、関係行政機関の長又は国会に対し意見を提出することができるというものであったが、同月16日の[[野田内閣 (第3次改造)|衆議院の解散]]により廃案となり、[[国内人権機関]]は未だ設置されていない<ref>[[日本弁護士連合会]][https://web.archive.org/web/20211112034434/https://www.nichibenren.or.jp/activity/human/human_rights_organization.html 「国内人権機関の設立に向けた取り組み(国内人権機関実現委員会)」]。</ref>。
[[2019年]] (平成31年) 4月1日内局である[[出入国在留管理庁|入国管理局]]が廃止され、新たに外局に[[出入国在留管理庁]]を新設する組織改編を行った。
現行の司法法制部は、国内外の法令、法務に関する資料の整備、編纂、[[司法省 (日本)|司法省]]であった[[1921年]]([[大正]]10年)に始まる『法務資料』の刊行、霞が関の[[支部図書館#行政・司法各部門の国立国会図書館支部図書館|法務図書館]]の運営、[[2009年]](平成21年)からは『[[日本法令外国語訳データベースシステム]]』(Japanese Law Translation)の運営などを行い、また[[日本司法支援センター]]の運営に関する業務を行っている。
==沿革==
* 1869年(明治2年):維新後の初代[[刑部卿]]に[[正親町三条実愛|正親町三條實愛]]が任ぜられる。
* 1871年(明治4年) :[[刑部省]]を廃止し[[司法省 (日本)|司法省]]となる。
* 1872年(明治5年) :初代司法卿に[[江藤新平]]が任ぜられる。
* 1885年(明治18年)12月22日:内閣設置により司法大臣に[[山田顕義|山田顯義]]が任ぜられる。
* 1947年(昭和22年)5月3日:[[日本国憲法]]と[[裁判所法]]の施行に伴い[[司法行政権]]を[[裁判所]]へ移管。
* 1948年(昭和23年)2月15日:法務庁設置法により、司法省を廃止し法務庁となる(長は法務総裁)。
* 1949年(昭和24年)6月1日:行政機構改革により、法務庁を法務府と改称(前同)。
* 1952年(昭和27年)7月21日:[[破壊活動防止法]]の施行と同時に、同法に関する業務を行う[[外局]]として、[[公安調査庁]]と[[公安審査委員会]]が発足した。
* 1952年(昭和27年)8月1日:行政機構改革により、法務府を法務省と改称(長は法務大臣)。
* 2001年(平成13年)1月6日:[[中央省庁再編]]における(新)法務省設置法により、(旧)法務省を廃止し(新)法務省発足。初代大臣は[[高村正彦]]、初代副大臣は[[長勢甚遠]]、初代法務大臣政務官は[[大野つや子]]。
* 2004年(平成16年)1月1日:それまでの、外局の司法試験管理委員会が廃止され、[[審議会等]]の一つとして[[司法試験委員会]]が設置された。
* 2015年(平成27年)4月10日:大臣官房の訟務部門を移管し、訟務局を設置した。
* 2019年(平成31年)4月1日:入国管理局を格上げする形で[[出入国在留管理庁]]が発足した。
== 所掌事務 ==
上述の法務省設置法3条に規定された任務を達成するため、同法4条は計40号にわたって所掌事務を列記している。具体的には以下に関することなどがある。
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* [[民事法|民事法制]](1号)
* [[刑事法|刑事法制]](2号)
* [[司法]]制度(3号)
* [[司法試験]](4号)
* 内外の法令及び法務に関する資料の整備及び編さん(5号)
* [[法務]]に関する調査及び研究(6号)
* [[検察]](7号)
* [[司法警察職員]]の教養訓練(8号)
* 刑事に関する国際間の共助(9号)
* 犯罪の予防(10号)
* [[刑事]]一般(11号)
* [[刑罰|刑]]及び[[勾留]]など[[矯正 (法学)|矯正]]一般(12〜12号の2)
* [[恩赦]](13号)
* [[仮釈放]]、仮出場、仮退院、[[不定期刑]]の終了及び退院(14号)
* [[保護観察]]、更生緊急保護及び刑事施設等(15号)
* [[保護司]](16号)
* 更生保護事業の助長及び監督(17号)
* [[更生保護]]一般(18号)
* [[心神喪失]]状態で重大な他害行為を行った者の精神保健観察(18号の2)
* 破壊的団体の規制(19号)
* [[無差別大量殺人]]行為を行った団体の規制(20号)
* [[国籍]]、[[戸籍]]、[[登記]]、[[供託]]及び公証(21号)
* [[司法書士]]及び[[土地家屋調査士]](22号)
* [[民事]]一般(23号)
* [[外国法事務弁護士]](24号)
* [[債権管理回収業]](25号)
* 民間紛争解決手続の業務の認証(25号の2)
* 人権侵犯事件(26号)
* 人権啓発及び民間における人権擁護運動の助長(27号)
* [[人権擁護委員]](28号)
* 人権相談(29号)
* 総合法律支援(30号)
* 国の利害に関係のある争訟(31号)
* [[出入国管理]](32号)
* 外国人の在留(33号)
* [[難民認定]](34号)
* [[国際連合]]に協力して行う研修、研究及び調査(35号)
* 所掌事務に係る国際協力(36号) - [[法整備支援]]
* [[法科大学院]]への検察官の派遣(38号)
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== 組織 ==
[[ファイル:Toshio Ogawa 20120113.jpg|thumb|right|200px|[[法務大臣]]の記者会見(写真:2012年1月13日、[[小川敏夫]]法務大臣、[[野田第1次改造内閣]])]]
法務省の内部組織は一般的に、法律の[[法務省設置法]]、政令の法務省組織令及び省令の法務省組織規則が階層的に規定している。
=== 幹部 ===
* [[法務大臣]](法律2条2項)
* [[法務副大臣]]([[国家行政組織法]]16条)
* [[法務大臣政務官]](国家行政組織法17条)
* [[大臣補佐官|法務大臣補佐官]](国家行政組織法第17条の2) - 必置ではない。
* [[法務事務次官]](国家行政組織法18条)
* [[秘書官|法務大臣秘書官]]
=== 内部部局 ===
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{{no col break|
* [[法務省大臣官房|大臣官房]](政令2条1項)
** 政策立案総括審議官
** 公文書監理官
** サイバーセキュリティ・情報化審議官
** 審議官(政令11条1項)(6人)
** 参事官(政令12条1項)(8人)
** 秘書課(政令13条1項)
** 人事課
** 会計課
** 国際課
** 施設課
** 厚生管理官
** 司法法制部(政令13条2項)
*** 参事官(政令12条1項)(2人)
*** 司法法制課(政令13条2項)
*** 審査監督課
}}
* [[民事局]]
** 参事官(4人)
** 総務課(政令22条)
** 民事一課
** 民事二課
** 商事課
** 民事法制管理官
* [[法務省刑事局|刑事局]]
** 参事官(3人)
** 総務課
** 刑事課
** 公安課
** 刑事法制管理官
** 国際刑事管理官
* [[矯正局]]
** 参事官
** 総務課
** 成人矯正課
** 少年矯正課
** 更生支援管理官
** 矯正医療管理官
* [[保護局]]
** 参事官
** 総務課
** 更生保護振興課
** 観察課
* [[人権擁護局]]
** 参事官
** 総務課
** 調査救済課
** 人権啓発課
* [[訟務局]]
** 参事官
** 訟務企画課
** 民事訟務課
** 行政訟務課
** 租税訟務課
** 訟務支援課
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=== 審議会等 ===
* [[司法試験委員会]]([[司法試験法]]、法律5条)
* [[検察官適格審査会]]([[検察庁法]]、法律5条)
* [[中央更生保護審査会]]([[更生保護法]]、法律5条)
* [[日本司法支援センター評価委員会]]([[総合法律支援法]]、法律5条)
* [[法制審議会]](政令55条)
* [[検察官・公証人特別任用等審査会]]
=== 施設等機関 ===
法務省の[[施設等機関]]には以下の8区分がある。
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*[[刑務所]]([[刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律]]、法律8条)(62)
** 支所(法律9条2項)
*[[少年刑務所]](5)
** 支所
*[[拘置所]](8)
** 支所
*[[少年院]](法律8条)(50)
** 分院(法律10条2項)
*[[少年鑑別所]](50)
** 分所(法律11条2項)
*[[婦人補導院]]
** 分院(法律12条2項)
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*[[法務総合研究所]](政令58条)
** 支所(政令58条2項)
: 検事、副検事、検察事務官、法務局職員、保護観察官等に対する研修のほか、発展途上国への[[法整備支援]]を行っている。
}}
*[[矯正研修所]]
** 支所(政令59条2項)
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=== 特別の機関 ===
[[検察庁法]]にもとづき、[[特別の機関]]として[[検察庁]]がある(法律14条)。検察庁には最高検察庁、高等検察庁、地方検察庁及び区検察庁の4区分に分かれ、それぞれ[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]、[[高等裁判所]]、[[地方裁判所]](と[[家庭裁判所]])及び[[簡易裁判所]]に対応して置かれている(検察庁法2条1項)。
* [[最高検察庁]](検察庁法1条2項)
* [[高等検察庁]](8)
** 支部(検察庁法2条4項)(6)
* [[地方検察庁]](50)
** 支部(検察庁法2条4項)(203)
* [[区検察庁]](438)
==== 高等検察庁 ====
* [[東京高等検察庁]]
* [[大阪高等検察庁]]
* [[名古屋高等検察庁]]
* [[広島高等検察庁]]
* [[福岡高等検察庁]]
* [[仙台高等検察庁]]
* [[札幌高等検察庁]]
* [[高松高等検察庁]]
==== 地方検察庁 ====
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* [[東京地方検察庁]]
* [[横浜地方検察庁]]
* [[さいたま地方検察庁]]
* [[千葉地方検察庁]]
* [[水戸地方検察庁]]
* [[宇都宮地方検察庁]]
* [[前橋地方検察庁]]
* [[静岡地方検察庁]]
* [[甲府地方検察庁]]
* [[長野地方検察庁]]
* [[新潟地方検察庁]]
* [[大阪地方検察庁]]
* [[京都地方検察庁]]
* [[神戸地方検察庁]]
* [[奈良地方検察庁]]
* [[大津地方検察庁]]
* [[和歌山地方検察庁]]
* [[名古屋地方検察庁]]
* [[津地方検察庁]]
* [[岐阜地方検察庁]]
* [[福井地方検察庁]]
* [[金沢地方検察庁]]
* [[富山地方検察庁]]
* [[広島地方検察庁]]
* [[山口地方検察庁]]
* [[岡山地方検察庁]]
* [[鳥取地方検察庁]]
* [[松江地方検察庁]]
* [[福岡地方検察庁]]
* [[佐賀地方検察庁]]
* [[長崎地方検察庁]]
* [[大分地方検察庁]]
* [[熊本地方検察庁]]
* [[鹿児島地方検察庁]]
* [[宮崎地方検察庁]]
* [[那覇地方検察庁]]
* [[仙台地方検察庁]]
* [[福島地方検察庁]]
* [[山形地方検察庁]]
* [[盛岡地方検察庁]]
* [[秋田地方検察庁]]
* [[青森地方検察庁]]
* [[札幌地方検察庁]]
* [[函館地方検察庁]]
* [[旭川地方検察庁]]
* [[釧路地方検察庁]]
* [[高松地方検察庁]]
* [[徳島地方検察庁]]
* [[高知地方検察庁]]
* [[松山地方検察庁]]
{{div col end}}
=== 地方支分部局 ===
法務省の[[地方支分部局]]には以下の5区分がある。
{{div col}}
* [[矯正管区]](法律15条)(8)
** 一部(政令62条1項)
** 二部
** 三部
* [[地方更生保護委員会]](8)
** 事務局([[更生保護法]]20条1項)
* [[法務局]](8)
** 訟務部(政令65条1項)
** 民事行政部
** 人権擁護部
** 支局(法律19条)
** 出張所(法律20条)
* [[地方法務局]](42)
** 支局
** 出張所
* [[保護観察所]](50)
** 支部(法律25条)
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{{div col}}{{no col break|
==== 矯正管区 ====
* [[札幌矯正管区]](政令61条)
* [[仙台矯正管区]]
* [[東京矯正管区]]
* [[名古屋矯正管区]]
* [[大阪矯正管区]]
* [[広島矯正管区]]
* [[高松矯正管区]]
* [[福岡矯正管区]]
}}{{no col break|
==== 地方更生保護委員会 ====
* 北海道地方更生保護委員会(政令63条)
* 東北地方更生保護委員会
* 関東地方更生保護委員会
* 中部地方更生保護委員会
* 近畿地方更生保護委員会
* 中国地方更生保護委員会
* 四国地方更生保護委員会
* 九州地方更生保護委員会
}}{{no col break|
==== 法務局 ====
* [[札幌法務局]](政令64条)
* [[仙台法務局]]
* [[東京法務局]]
* [[名古屋法務局]]
* [[大阪法務局]]
* [[広島法務局]]
* [[高松法務局]]
* [[福岡法務局]]
}}{{div col end}}
==== 地方法務局 ====
{{div col||10em}}
* 函館地方法務局(政令66条)
* 旭川地方法務局
* 釧路地方法務局
* 青森地方法務局
* 盛岡地方法務局
* 秋田地方法務局
* 山形地方法務局
* 福島地方法務局
* 水戸地方法務局
* 宇都宮地方法務局
* 前橋地方法務局
* さいたま地方法務局
* 千葉地方法務局
* 横浜地方法務局
* 新潟地方法務局
* 甲府地方法務局
* 長野地方法務局
* 静岡地方法務局
* 富山地方法務局
* 金沢地方法務局
* 福井地方法務局
* 岐阜地方法務局
* 津地方法務局
* 大津地方法務局
* 京都地方法務局
* 神戸地方法務局
* 奈良地方法務局
* 和歌山地方法務局
* 鳥取地方法務局
* 松江地方法務局
* 岡山地方法務局
* 山口地方法務局
* 徳島地方法務局
* 松山地方法務局
* 高知地方法務局
* 佐賀地方法務局
* 長崎地方法務局
* 熊本地方法務局
* 大分地方法務局
* 宮崎地方法務局
* 鹿児島地方法務局
* 那覇地方法務局
{{div col end}}
==== 保護観察所 ====
{{div col||10em}}
* 札幌保護観察所<br />(政令68条)
* 函館保護観察所
* 旭川保護観察所
* 釧路保護観察所
* 青森保護観察所
* 盛岡保護観察所
* 仙台保護観察所
* 秋田保護観察所
* 山形保護観察所
* 福島保護観察所
* 水戸保護観察所
* 宇都宮保護観察所
* 前橋保護観察所
* さいたま保護観察所
* 千葉保護観察所
* 東京保護観察所
* 横浜保護観察所
* 新潟保護観察所
* 甲府保護観察所
* 長野保護観察所
* 静岡保護観察所
* 富山保護観察所
* 金沢保護観察所
* 福井保護観察所
* 岐阜保護観察所
* 名古屋保護観察所
* 津保護観察所
* 大津保護観察所
* 京都保護観察所
* 大阪保護観察所
* 神戸保護観察所
* 奈良保護観察所
* 和歌山保護観察所
* 鳥取保護観察所
* 松江保護観察所
* 岡山保護観察所
* 広島保護観察所
* 山口保護観察所
* 徳島保護観察所
* 高松保護観察所
* 松山保護観察所
* 高知保護観察所
* 福岡保護観察所
* 佐賀保護観察所
* 長崎保護観察所
* 熊本保護観察所
* 大分保護観察所
* 宮崎保護観察所
* 鹿児島保護観察所
* 那覇保護観察所
{{div col end}}
=== 外局 ===
{{div col}}
* [[出入国在留管理庁]](旧、入国管理局)
** 総務課
** 政策課
** 出入国管理部
** 在留管理支援部
** [[入国者収容所]](2)
** [[地方出入国在留管理局]](8) - 支局、出張所
*[[公安調査庁]](国家行政組織法、公安調査庁設置法、法律26条)
** 総務部(政令88条)
** 調査第一部
** 調査第二部
** 公安調査庁研修所(政令94条)
** [[公安調査局]](政令95条)(8)
*[[公安審査委員会]](国家行政組織法、公安審査委員会設置法、法律26条)
** 事務局(公安審査委員会設置法14条)
{{div col end}}
=== その他会議 ===
* 法曹有資格者の活動領域の拡大に関する有識者懇談会<ref>法曹有資格者の活動領域の拡大に関する有識者懇談会『{{PDFlink|[https://www.moj.go.jp/content/001146527.pdf 法曹有資格者の活動領域の拡大に関する有識者懇談会取りまとめ]}}』 平成27年5月25日</ref>
** 企業における法曹有資格者の活動領域の拡大に関する分科会
** 国、自治体、福祉等の分野における法曹有資格者の活動領域の拡大に関する分科会
** 法曹有資格者の海外展開に関する分科会
* 法曹養成制度改革連絡協議会
* 外国弁護士制度研究会
* 成年年齢引下げを見据えた環境整備に関する関係府省庁連絡会議
* 若年者に対する刑事法制の在り方に関する勉強会
* 法教育推進協議会
* 「国民の声」を聴く会議
* 出入国管理政策懇談会
== 所管法人 ==
法務省が主管する[[独立行政法人]]は2023年4月1日現在、存在しない<ref>{{Cite web|和書|title=独立行政法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871325.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>が、総合法律支援法にもとづいて設置され、[[独立行政法人通則法]]を準用する[[日本司法支援センター]]を主管している。
法務省が主管する特殊法人は2023年4月1日現在、存在しない<ref>{{Cite web|和書|title=所管府省別特殊法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000876791.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>。
法務省が主管する[[特別の法律により設立される民間法人]](特別民間法人、2023年4月1日現在<ref>{{Cite web|和書|title=特別の法律により設立される民間法人一覧(令和5年4月1日現在:34法人)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871326.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>)は以下の通りである。
*[[日本司法書士会連合会]]
*[[日本土地家屋調査士会連合会]]
法務省が主管する[[地方共同法人]]および[[認可法人]]は2023年4月1日現在、存在しない。
== 財政 ==
2023年度(令和5年度)[[一般会計]]当初予算における法務省所管の歳出予算は 7250億414万3千円<ref name="予算" />。機関別の内訳は法務本省が1701億628万8千円、法務総合研究所が21億6623万8千円、検察庁が1135億233万8千円、矯正官署が2351億217万3千円、更生保護官署が272億567万3千円、法務局が1057億9057万4千円、出入国在留管理庁が546億3003万円、公安審査委員会が6270万4千円、公安調査庁が164億3812万5千円となっている。
歳入予算は927億364万3千円で、全額が「雑収入」(5部)に分類される。そのうち、「許可及手数料」(5部3款06項)の529億5024万5千円と「懲罰及没収金」(5部3款08項)346億4412万4千円が大半を占める。独自の項目としては刑務所作業収入と少年院職業補導収入から成る「矯正官署作業収入」(5部3款10項)があり、22億3880万6千円が計上されている。
[[特別会計]]としてかつては登記特別会計を所管していたが、2010年度限りで廃止された。現在は国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管<ref group="注釈">国の予算を所管するすべての機関である。なお人事院は予算所管では内閣に属するのでここにはない。</ref>の[[東日本大震災復興特別会計]]を共管するのみである。
== 職員 ==
=== 職員数 ===
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、法務省全体で、検察官を含め52,467人である<ref name="zinzitoukei">{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/joukin_toukei.pdf 一般職国家公務員在職状況統計表]}}(令和4年7月1日現在)</ref>。内訳は、検察官以外の職員が、本省42,284人(男性32,788人、女性9,496人)、出入国在留管理庁5,952人(男性3,958人、女性1,955人)、公安審査委員会4人(男性4人、女性0人)、公安調査庁1,572人(男性1,281人、女性291人)、検察官が全体で2,704人で、内訳は、本省(検察庁を除く)107人、検察庁2,592人、出入国在留管理庁5人、公安審査委員会0人、公安調査庁7人となっている。なお、一般職国家公務員在職状況統計表(令和4年7月1日現在)において検察官の男女別の人数の記載はない。別途の資料<ref>{{PDFlink|[https://www.gender.go.jp/research/kenkyu/sankakujokyo/2021/pdf/1-1-d-2.pdf 内閣府ホーム > 内閣府男女共同参画局ホーム > 基本データ > 調査研究等 > 女性の政策決定参画状況調べ > 令和3年度 女性の政策、方針決定参画状況調べ 各分野における参画状況 1. 国、地方公共団体○国の立法、司法、行政 d、司法 (2)検察官]}}</ref>では、2021年3月31日現在で検察官総数2,721人(男性2,177人、女性544人)である。
行政機関定員令<ref name="定員令"></ref>に定められた法務省の定員は[[特別職]]1人を含めて55,224人(2023年12月31日までは55,231人)うち検察庁の職員が11,865人(2023年12月31日までは11,872人)<ref name="定員令"></ref>である。本省、各外局別の定員は省令の法務省定員規則に定められており、本省47,138人(2023年12月31日までは47,145人)で、うち検察庁の職員は11,865人(2023年12月31日までは11,872人)であり、出入国在留管理庁6,314人、公安審査委員会が4人(事務局職員の定員)、公安調査庁1,768人となっている<ref name="定員規則">「[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=413M60000010016 法務省定員規則(平成13年1月6日法務省令第16号)]」(最終改正:令和5年3月30日法務省令第18号)</ref>。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職8人、一般職55,214人の計55,222人である<ref name="予算"></ref>。特別職8人は、すべて法務本省であり、一般職の機関別内訳は法務本省が829人、法務総合研究所が84人、検察庁が11,865人、矯正官署が23,595人、更生保護官署が1,829人、法務局が8,926人、出入国在留管理庁が6,314人、公安審査委員会(事務局)が4人、公安調査庁が1,768人となっている。特別会計の予算定員は、東日本大震災復興特別会計(法務省所管分)9人(すべて法務局)である<ref>{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202312001.pdf 令和5年度特別会計予算]}} 財務省</ref>。
以上は定員内職員についてであるが、これとは別に法務省には非常勤職員など多数の定員外職員が在籍している。非常勤職員については2022年7月1日現在の総数は58,758人で<ref name="hizyoukin">{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/hijoukin_toukei.pdf 非常勤職員在職状況統計表]}}(令和4年7月1日現在)</ref>、国の行政機関の非常勤職員(158,554人)のおよそ37%が法務省に在籍している計算である。これは更生保護ボランティアである[[保護司]]47,718人を含んでいることによる。ほかに委員顧問参与等職員が4,835人おり、厚生労働省(7,531人)の次に多い。続いて事務補助職員が3,910人、技能職員が586人、医療職員が532人、教育職員が378人などとなっている。教育職員は国の行政機関に任用された者(421人)の9割を占めている。非常勤職員とは別に再任用職員は3,178人となっている。さらに傷病や労組専従による休職が194人、育児等の休業が566人、派遣(国際機関、法科大学院、弁護士職務経験等)が39人となっている。
=== 任用 ===
職員の[[公務員試験#国家公務員試験|競争試験]]による採用は国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、国家公務員採用総合職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(高卒程度試験)、刑務官採用試験、法務省専門職員(人間科学)採用試験の合格者の中から行われる。いずれも[[人事院]]が実施する。ただし検事の採用には国家公務員法の特例として検察庁法が適用され、主として司法修習生の修習を終えた者から任命される(検察庁法18条1項)。
前記の通り法務省と[[最高裁判所事務総局]]は共に[[司法省 (日本)|司法省]]を母体として設立された機関であり、両者は司法省の廃止後も[[判検交流]]と呼ばれる人事交流を行っていた。これは人材育成の一環として行われていたとされる<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b171505.htm 衆議院議員鈴木宗男君提出裁判官と検察官の人事交流に関する質問に対する答弁書 平成二十一年六月十六日]</ref>が、検察と裁判所の癒着という指摘もあり<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120503/trl12050322330001-n1.htm|title=裁判官と検察官の人事交流 廃止、縮小の動き加速 「なれ合い」指摘に配慮 |author= |date=2012-05-03 |work= |publisher=産経新聞 |accessdate=2012-09-17}}</ref><ref name="kaiken20120508">[https://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho08_00289.html 法務大臣閣議後記者会見の概要 平成24年5月8日]</ref>、日弁連も指定代理人制度と絡めて廃止を求めてきていた<ref>{{PDFlink|[http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/committee/list/data/gyousokaikaku_b.pdf 日弁連がいま重要と考え、国民各層の意見を聞くための行政訴訟改革要綱案解説書 日本弁護士連合会 2002年11月29日]}}</ref>。そのため、より職務の公正さを確保していくとして<ref name="kaiken20120508"/><ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=117415206X00620100325 第174回国会 参議院法務委員会 第6号 平成二十二年三月二十五日(木曜日)]</ref>、民事部門での交流縮小に次ぎ、2012年4月をもって刑事部門での人事交流が停止された。
=== 給与 ===
法務省職員は一般職の[[国家公務員]]なので、[[給与]]は[[一般職の職員の給与に関する法律]](一般職給与法)によって規律される。ただし、[[検察官]]には[[検察官の俸給等に関する法律]]が適用され、検事総長、次長検事及び検事長は[[特別職の職員の給与に関する法律]]、検事及び副検事については一般職給与法の規定に準じた給与制度が設けられている。俸給表は基本的に行政職俸給表(一)および指定職俸給表が適用されるが、[[人事院規則]]九―二の規定により、入国者収容所及び地方出入国在留管理局の入国警備官(4条2号)と刑務所、少年刑務所、拘置所又は矯正管区に勤務する者並びに矯正研修所支所に勤務する教頭及び教官(4条3号)には公安職俸給表(一)が、検察事務官及び公安調査官(5条1号)と少年院、少年鑑別所又は婦人補導院に勤務する者(5条2号)には公安職俸給表(二)が適用され、検察官は検察官の俸給等に関する法律2条に規定された俸給表が適用される。
令和5年度予算の予算定員<ref name="予算" />を俸給表別にみると、公安職俸給表(一)が20,722人と最も多く、次いで行政職俸給表(一)が16,733人、公安職俸給表(二)が13,695人、検察官が2,766人などとなっている。[[矯正施設]]や更生保護施設には被収容者の矯正医療のために、[[厚生労働省]]と並んで多数の医療従事者が勤務していることから、医療職俸給表(一)の適用を受ける定員が334人、医療職俸給表(二)が181人、医療職俸給表(三)が522人となっている。
=== 職員団体 ===
[[労働基本権]]のうち争議権と団体協約締結権は[[国家公務員法]]により認められていない。[[団結権]]は保障されており、職員は[[労働組合]]として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法108条の2第3項)。ただし、刑事施設に勤務する職員は国家公務員法によって団結権も認められておらず、職員団体を結成し、又はこれに加入してはならない(国家公務員法108条の2第5項)。
2022年3月31日現在、[[人事院]]に登録された[[職員団体]]の数は単一体1、支部30の計31団体となっている<ref>{{PDFlink|[https://www.jinji.go.jp/hakusho/pdf/1-3-6.pdf 令和3年度 年次報告書(公務員白書) 「第1編第3部第6章:職員団体 - 資料6-2;職員団体の登録状況。2022年3月31日現在。]}}</ref>。組合員数は3,595人、組織率は14.7%となっている。主要な職員団体は全法務省労働組合(全法務)で、国公労連([[全国労働組合総連合|全労連]]系)に加盟している。
== 幹部人事 ==
一般職の幹部は以下の通りである<ref>[https://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/kanbu.html 法務省幹部一覧 令和3年9月3日現在] 法務省</ref><ref>出入国在留管理庁については、[https://www.moj.go.jp/isa/about/organization/executive.html 出入国在留管理庁幹部一覧 令和4年8月2日] 出入国在留管理庁</ref>。
{{div col}}
* 事務次官:[[川原隆司]]
* 大臣官房長:[[佐藤淳 (検察官)|佐藤淳]]
* 政策立案総括審議官:上原龍
* 司法法制部長:[[坂本三郎 (法務官僚)|坂本三郎]]
* 民事局長:[[竹内努]]
* 刑事局長:[[松下裕子]]
* 矯正局長:[[花村博文]]
* 保護局長:宮田祐良
* 人権擁護局長:鎌田隆志
* 訟務局長:春名茂
* 出入国在留管理庁長官:[[菊池浩]]
* 公安調査庁長官:[[浦田啓一]]
{{div col end}}
法務省の事務次官や内部部局の長など一般職の要職には、一般の国の[[行政機関]]とは異なり、国家I種試験(現国家総合職試験)合格者から採用された者ではなく、[[検察官]](判検交流により[[裁判官]]から任用された者を含む)が任用される傾向が強い。元検事総長の[[但木敬一]]は、犯罪者の更生を担当する矯正局、保護局などのトップは検事にこだわらず適材適所で考えた方がいい時代になったと思うと述べている<ref>『ドキュメント検察官』 129頁。</ref>。近年は、矯正局長に初の[[刑務官]]出身の局長や女性局長が誕生したり、保護局長に[[プロパー]]職員が就任するなど改革も見られる。他官庁の事務次官は最高位の「上がりポスト」であるが、法務省の場合は事務次官で退官することはほとんどなく、高検検事長(ほとんど東京)か次長検事に転出し多くは検事総長となるなど、キャリアパスの一つと化している{{refnest|group="注釈"|法務事務次官を最後に退職したのは歴代で津田實のみである。津田は[[第1次田中角栄内閣|田中角栄内閣]]の意向で[[最高裁判事]]に任命される予定だったが、[[石田和外 (裁判官)|石田和外]][[最高裁判所長官|長官]]らが強硬に反対して実現しなかったとされる<ref>[https://gendai.media/articles/-/54938?page=4 法の正義より政治家への「忖度」を重んじる、おかしな最高裁] 現代ビジネス 2018年4月7日配信 2021年6月23日閲覧。</ref>。}}<ref group="注釈">他省庁で同様の例として[[外務省]]が挙げられる。次官経験後に重要国大使ポストに就くことが多い。</ref>。
=== 歴代法務事務次官 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
! 氏名
! 在任期間
! 前職
! 主な後職
|-
| [[清原邦一]]
| 1952.8.1 - 1955.1.26
| 刑政長官
| 次長検事、検事総長
|-
| [[岸本義広]]
| 1955.1.26 - 1957.7.23
| 次長検事
| 東京高等検察庁検事長
|-
| [[馬場義続|馬場義續]]
| 1957.7.23 - 1961.12.22
| 最高検察庁検事
| 東京高等検察庁検事長、検事総長
|-
| 竹原精太郎
| 1961.12.22 - 1964.7.1
| 仙台高等検察庁検事長
| 次長検事
|-
| [[竹内壽平]]
| 1964.7.1 - 1967.11.2
| 刑事局長
| 東京高等検察庁検事長、検事総長
|-
| [[大沢一郎 (検事総長)|大澤一郎]]
| 1967.11.2 - 1969.3.4
| 最高検察庁刑事部長
| 次長検事、検事総長
|-
| [[津田實]]
| 1969.3.4 - 1972.6.29
| 札幌高等検察庁検事長
| 退職
|-
| [[神谷尚男]]
| 1972.6.29 - 1975.1.25
| 東京地方検察庁検事正
| 東京高等検察庁検事長、検事総長
|-
| [[鹽野宜慶]]
| 1975.1.25 - 1977.3.22
| 東京地方検察庁検事正
| 東京高等検察庁検事長、最高裁判所判事
|-
| [[安原美穗]]
| 1977.3.22 - 1979.8.21
| 刑事局長
| 東京高等検察庁検事長、検事総長
|-
| [[伊藤榮樹]]
| 1979.8.21 - 1981.7.23
| 刑事局長
| 次長検事、検事総長
|-
| [[藤島昭]]
| 1981.7.23 - 1983.12.2
| 東京地方検察庁検事正
| 次長検事、最高裁判所判事
|-
| [[前田宏]]
| 1983.12.2 - 1985.12.19
| 刑事局長
| 東京高等検察庁検事長、検事総長
|-
| [[筧栄一|筧榮一]]
| 1985.12.19 - 1988.6.17
| 刑事局長
| 東京高等検察庁検事長、検事総長
|-
| [[岡村泰孝]]
| 1988.6.17 - 1990.6.13
| 刑事局長
| 次長検事、検事総長
|-
| [[根來泰周]]
| 1990.6.13 - 1993.12.22
| 刑事局長
| 東京高等検察庁検事長
|-
| 濱邦久
| 1993.12.22 - 1996.1.16
| 刑事局長
| 東京高等検察庁検事長
|-
| [[則定衛]]
| 1996.1.16 - 1998.6.23
| 刑事局長
| 東京高等検察庁検事長
|-
| [[原田明夫]]
| 1998.6.23 - 1999.12.22
| 刑事局長
| 東京高等検察庁検事長、検事総長
|-
| [[松尾邦弘]]
| 1999.12.22 - 2002.1.18
| 刑事局長
| 次長検事、東京高等検察庁検事長、検事総長
|-
| [[但木敬一]]
| 2002.1.18 - 2004.6.25
| 大臣官房長
| 東京高等検察庁検事長、検事総長
|-
| [[樋渡利秋]]
| 2004.6.25 - 2006.6.30
| 刑事局長
| 広島高等検察庁検事長、東京高等検察庁検事長、検事総長
|-
| [[大林宏 (検察官)|大林宏]]
| 2006.6.30 - 2007.7.10
| 刑事局長
| 札幌高等検察庁検事長、東京高等検察庁検事長、検事総長
|-
| [[小津博司]]
| 2007.7.10 - 2009.7.14
| 刑事局長
| 札幌高等検察庁検事長、次長検事、東京高等検察庁検事長、検事総長
|-
| [[大野恒太郎]]
| 2009.7.14 - 2011.8.11
| 刑事局長
| 仙台高等検察庁検事長、東京高等検察庁検事長、検事総長
|-
| [[西川克行]]
| 2011.8.11 - 2014.1.9
| 刑事局長
| 札幌高等検察庁検事長、東京高等検察庁検事長、検事総長
|-
| [[稲田伸夫]]
| 2014.1.9 - 2016.9.5
| 刑事局長
| 仙台高等検察庁検事長、東京高等検察庁検事長、検事総長
|-
| [[黒川弘務]]
| 2016.9.5 - 2019.1.18
| 大臣官房長
| 東京高等検察庁検事長
|-
| [[辻裕教]]
| 2019.1.18 - 2021.9.3
| 刑事局長
|仙台高等検察庁検事長
|-
| [[高嶋智光]]
|2021.9.3 - 2023.1.10
|大臣官房長
|名古屋高等検察庁検事長
|-
|川原隆司
|2023.1.10 -
|刑事局長
|
|}
== 関連紛争・諸問題 ==
=== 公訴権・裁判権に関わる問題 ===
{{See|公訴権|裁判管轄}}
* [[在日米軍裁判権放棄密約事件]]
=== 行刑に関わる問題 ===
* [[法秩序]]を維持する[[官庁]]ゆえの[[権威主義]]、[[行刑密行主義]]に代表される[[秘密]]主義が指摘されている<ref>[[森達也]] 『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』 [[朝日出版社]]、2008年1月10日。ISBN 9784255004129</ref>。
=== 人権に関わる問題 ===
{{See|#人権への配慮}}
* [[人質司法]]
* [[同和教育]] - [[人権教育]]
* [[北朝鮮拉致問題]] - [[北朝鮮による日本人拉致問題]] - [[北朝鮮人権侵害問題啓発週間]]
=== 公安に関わる問題 ===
{{See|公安調査庁|公安|治安}}
* [[オウム真理教事件]] - [[オウム真理教破壊活動防止法問題]]
* [[北朝鮮による日本人拉致事件]]
=== 汚職や経済犯罪など政治経済体制に関わる問題 ===
{{See|特別捜査部}}
=== 新司法試験漏洩問題における対応 ===
;2007年度
{{main|2007年度新司法試験漏洩問題}}
2007年度[[新司法試験]]における[[慶應義塾大学]][[法科大学院]]教授による類題講義では、当該行政法教授の考査委員解任以降、[[司法試験委員会]]による調査結果により、影響が明らかでないとして何ら是正措置はとられなかった。但し、合格発表後、難問の択一行政法18問目における慶大生の正答率が5%以上高かったこと<ref>[[朝日新聞]] 2007年11月11日1面</ref>、慶大の合格率は前年の9位から3位に上昇していたことなどが明らかとなっている。
ただ、その調査方法は問題の渦中にあったと指摘された複数の慶大教授らの自己申告を調査報告とし、さらに自己申告の任意とし、申告なき者は当該調査から外されるなど不可解な点が多く指摘されている。また解任された行政法の教授に対するヒアリングなどもなされていない。
これは、行政法同様に漏洩が指摘されていた刑事法では現職の派遣[[検察官]]が講義を行っていたためとされ<ref>[http://www34.atwiki.jp/vipepper/ 慶應大学法科大学院に在籍する新司法試験考査委員による平成19年度新司法試験の問題リークに関するwiki]</ref>、よって法務省が当初から結論ありきに終始していたためとも指摘されている。
;2015年度
2015年度[[司法試験 (日本)|司法試験]]において、[[青柳幸一]][[明治大学]]法科大学院教授が、自身が同試験考査委員として作成した憲法問題を同大学法科大学院出身の女性受験者に漏洩したとして、同年5月、[[国家公務員法]]([[守秘義務#法律上の守秘義務|守秘義務]])違反容疑で[[特別捜査部|東京地検特捜部]]に[[告訴・告発|告発]]され、併せて法務省から考査委員を解任された<ref>[http://www.asahi.com/sp/articles/ASH983GHYH98UTIL00S.html 司法試験漏洩、法務省が刑事告発 東京地検特捜部が捜査 朝日新聞 2015年9月8日] {{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。
また、その他明大法科大学院生への影響の可能性も指摘されているが、調査等は実施されなかった<ref>[http://www.sankei.com/smp/affairs/news/150920/afr1509200012-s.html 元教授、短答式の論点も漏らす? 大学院授業で学生に] [[産経デジタル|産経ニュース]] 2015年9月20日</ref>。
=== 不祥事等 ===
*2002年、[[朝日新聞]]紙上に告発した元大阪高検公安部長の[[三井環]]により、[[検察庁]]内における「調査活動費」(調活費)の不正な[[裏金]]流用疑惑が表面化した<ref>『ドキュメント検察官 ― 揺れ動く「正義」』 [[読売新聞]][[社会部]] [[中公新書]] 2006年9月 141-144頁</ref><ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a169233.htm 平成二十年三月二十七日提出 質問第二三三号 検察組織における調査活動費の裏金流用に関する質問主意書 提出者 鈴木宗男] [[衆議院]]</ref>。
*2001年及び2002年の[[名古屋刑務所]]において、[[受刑者]]が死亡する[[不祥事]]が多発した事件([[名古屋刑務所事件]])。「[[矯正局#不祥事・問題点]]」も参照。
*その他、裁判官出身職員や事務官職員による盗撮や痴漢等の事件があった<ref>2014年5月1日 日本経済新聞、
2017年9月7日 毎日新聞</ref>。
*[[出入国在留管理庁]]については「[[出入国在留管理庁#不祥事・問題点]]」を参照。
== 庁舎 ==
<gallery>
ファイル:中央合同庁舎第6号館A棟.jpg|中央合同庁舎第6号館A棟外観
ファイル:Ministry of Justice Japan01s3200.jpg|[[法務省旧本館]](中央合同庁舎第6号館赤れんが棟)
ファイル:Homusho-akarenga1.jpg|中央合同庁舎第6号館赤れんが棟外観
ファイル:Ministry of Justice Japan02s3200.jpg|中央合同庁舎第6号館赤れんが棟外観
</gallery>
== 発行物 ==
[[file:Monthry_Report_(Nov._1952).jpg|thumb|200px|]]
* 『検察統計』<ref>[https://www.moj.go.jp/housei/toukei/toukei_yougo_kensatsu.html ウェブサイト『検察統計』] 法務省 2021年10月25日閲覧。</ref>
* 『犯罪白書』<ref>[https://www.moj.go.jp/housouken/houso_hakusho2.html ウェブサイト『犯罪白書』] 法務省 2021年10月25日閲覧。</ref>
* 刑事局『検察月報』、『検察月報抄録』、他
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author=読売新聞社会部
|authorlink=読売新聞
|title=ドキュメント検察官…揺れ動く「正義」
|origdate=2006-09-25
|accessdate=2009-07-19
|edition=初版
|publisher=[[中央公論新社]]
|series=[[中公新書]]
|isbn=9784121018656
}}
== 関連項目 ==
* [[検察庁]]
** [[特別捜査部]] - [[特別刑事部]]
* [[矯正施設]]
* [[司法省 (日本)]]
* [[最高裁判所事務総局]]
* [[検察官]] - [[副検事]] - [[キャリア (国家公務員)|キャリア]] - [[準キャリア]]
* [[法務省旧本館]]
* [[国際法務総合センター]]
* [[日本の行政機関]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Ministry of Justice (State of Japan)}}
* {{official website|name=法務省}}
{{中央省庁}}
{{法務省}}
{{北朝鮮による拉致問題}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ほうむしよう}}
[[Category:法務省|*]]
[[Category:災害対策基本法指定行政機関]]
[[Category:19世紀の日本の設立]]
[[Category:法曹関連団体]] | 2003-03-05T00:39:20Z | 2023-12-30T03:05:40Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%8B%99%E7%9C%81 |
3,422 | 外務省 | 外務省(がいむしょう、英語: Ministry of Foreign Affairs、略称: MOFA)は、日本の行政機関のひとつ。日本の外交を所管する。
外務省設置法第3条に掲げられた目標を達成するため、外交政策、外交使節、通商航海、条約等の国際法規の締結、運用、外国政府との交渉、情報収集、分析、発信、在留邦人の保護および文化広報活動など国の対外関係事務全般を司る。
外務省の刊行物には、外務省発行の外交専門誌「外交」がある。
外務省設置法第4条は、計29項目の所掌する事務を列記している。
主なものに以下がある。
海外滞在中の日本人が犯罪行為により、その国家の刑務所に収監されたり、死刑判決が下される場合、外務省(在外公館の職員)は、邦人保護の一環として面会などの対応をとる。
明治新政府が成立すると、現在の外務省の前身となる外交機構が設置され、幾度かの改組を経て明治2年7月8日に「外務省」という名の組織が設置されることとなった。
慶応3年12月9日に王政復古の大号令が発せられ、明治新政府が設立される。
慶応4年1月9日、征夷大将軍として大阪に出陣していた議定・仁和寺宮二品嘉彰親王が外国事務総裁の宣下を受け、議定・三条実美、参与・東久世通禧らが外国事務取調掛を拝命した。これが、外交事務専管の官員任命の嚆矢である。
慶応4年1月17日、布告第36号によって「三職分課」が公布され、外国事務課が設置された。外国事務総督には山階二品晃親王のほか、三条や東久世らが任じられ、後藤象二郎、岩下方平らが外国事務掛に任じられた。
慶応4年2月3日、政府が官制の変更を行い、太政官代の中に7つの事務局を設置し、事務局の一つとして外国事務局が置かれた。各事務局には、局務を統べる督が置かれ、その補佐をする権、輔権、さらにその下に数名の判事が置かれた。外国事務局の督には議定・山階二品晃親王(山階宮)が任じられ、輔には議定・伊達宗城(宇和島少将)、権輔には参与・東久世通禧(東久世全少将)、議定・鍋島直大(肥前侍従)が任じられた。
慶応4年閏4月21日、政府は「政体書」を頒布し、政体書七官官制が定められた。この官制の下では、政府は太政官と称され、この中に中央官庁として7つの官が置かれた。その一つが外務省の直接の前身である外国官であり、その長は知官事と呼ばれた。知官事の下には副知官事、判官事、権判、訳官、訳生が置かれ、知官事には伊達宗城、副知官事には東久世通禧が任じられた。
同年5月、議定仁和寺宮二品嘉彰親王が外国事務総裁の宣下を受けた際に大阪におり、その後も伊達宗城が大阪で外国事務を統べていたという理由で七官のうちで唯一大阪に設置されていた外国官を、京都の太政官内に移転することを伊達宗城が奏請した。これが受け入れられ、6月3日に外国官は二条城の太政官代に移転する。さらに、9月8日に慶応が明治に改元され、20日に車駕東幸が行われて、10月13日には天皇が東京城に入城して皇居と定めた。これに伴って東京に五官出張所が設けられることとなり、各国公使が横浜に駐在しているという理由で外国事務は東京で取り扱うこととなった。これにより、外国官は知官事を含めた全官員が東京に移ることとなった。
明治2年4月17日、外国官知事・伊達宗城は持病再発を理由に三条輔相に辞表を提出する。この当時、英国公使パークスは英国副領事代理ロバートソン一行や英国軍艦オーシャン号艦長スタノップ一向に対する下車要求事件などを理由に日本政府に不信を表明し、警護のための軍隊の配置などを求めていた。この時のパークスの強硬な態度に耐えかねたことが、伊達が辞表を提出した理由であった。辞表は保留されたが、5月13日に行われた外国官知事の選挙で公選されたされた際にも伊達が奉職の意思を示さなかったため、京都留守官勤務の参与・沢宣嘉が召喚され外国官知事任命の内意を示し、6月25日に伊達の辞表は受理された。その後、6月26日に沢が正式に外国官知事に任じられた。
1869年太政官の下に外務省が置かれる。
1871年(明治3年)に、外務省は銀座から霞が関に移転し、江戸時代に建築された大名屋敷の福岡藩黒田邸上屋敷をそのまま使用していたが、1877年(明治10年)2月1日に焼失した。
1881年(明治14年)、英仏人建築家ボアンヴィル(Charles Alfred Chastel de Boinville)の設計による新庁舎が竣工した。
1905年(明治38年)ポーツマス条約の締結(小村壽太郎)により日露戦争に勝利、以後の不平等条約の完全撤廃に繋がった。
1909年(明治42年)、日本電報通信社(現在の電通)に秘密補助金を出して、同省肝いりの在中国日系新聞記者に送電・配信させる構想を練る。
1914年(大正3年)設立の国際通信社が出した赤字を補填。
1939年(昭和14年)ニューヨーク総領事館が『米国共産党調書』を発行し、ソ連・コミンテルンとアメリカ共産党による日米分断策動への注意喚起を促した。その翌年、松岡洋右外務大臣に『米国内ノ反日援支運動』を提出。
1941年(昭和16年)ハル・ノート(原案作成はハリー・ホワイト)の提示により日米交渉打ち切り。12月に太平洋戦争開戦。
1982年(昭和57年)レフチェンコ事件発生。この事件は外務省を震撼させ、後のスパイ防止法案の審議や特定秘密保護法の制定に大きな影響を与えた。さらに、事件はソ連崩壊後に公開されたミトロヒン文書でも裏付けられている。
1993年(平成5年)に、総合外交政策局と国際情報局が新設された。
2001年(平成13年)4月に小泉純一郎が内閣総理大臣に就任し第1次小泉内閣が発足したとき、田中眞紀子議員(田中角栄元総理の長女)が外相に就任した。女性初の外相。田中外相は人事凍結方針を打ち出し、外務官僚がそれに反発、外務省は機密費流用問題、公金流用疑惑、裏金などの不祥事が続出し、田中外相は外務省を『伏魔殿』と呼び、外務省改革を唱えた。
以降、ことあるごとに田中外相と外務官僚の対立が続くようになった。田中外相は事務次官の任免を繰り返し、外務省改革を断行しようとするが、2001年(平成13年)9月11日発生のアメリカ同時多発テロ事件以降、外交政策は官邸主導になり、肝心の外相は1人取り残されるようになった。
その後、アフガニスタン紛争の復興支援に関して、NGOを復興会議から排除した問題が浮上。NGO排除に鈴木宗男議員の大きな影響があったと大西健丞NGO「ピースウィンズ・ジャパン」代表が発言、小泉首相も鈴木議員の圧力を認めたが、野上義二外務事務次官はそれを否定。田中外相、鈴木議員、外務省の3者をめぐって全面的な争いが起こった。2002年(平成14年)1月、小泉純一郎は田中外相と野上事務次官を更迭した。
その後、外務省への過度な圧力などを指摘され、2002年(平成14年)3月11日に、鈴木宗男議員が証人喚問を受けることになった。
川口順子大臣時代の2004年(平成16年)8月1日に、儀典長(次官級)が大臣官房儀典長(局長級)に格下げ、領事移住部を領事局に格上げし、国際情報局が統括官組織に改組(国際情報統括官組織)され、条約局が国際法局に改編された。
2006年(平成18年)8月1日に、部局の統廃合が行われた。この統廃合では、躍進著しいインドや東南アジア諸国連合などとの関係強化を図るため、アジア大洋州局内に「南部アジア部」が新設された。一方、局単位の改編として、経済協力局及び大臣官房国際社会協力部(ODA関係部局)を統合して「国際協力局」を新設した。よって全体の局部数に変更はない。
2011年(平成9年)、外務省から国会図書館に出向した職員が日本共産党を含む国会議員の図書館利用状況を本省に報告するというスパイ行為を行った疑惑について、日本共産党の市田忠義書記局長(当時)は外務省に対して資料提出を求め、関係者の証人喚問を衆院議院運営委員会に要求すると記者会見で述べた。外務省外交文書の公開により、2011年(平成23年)2月に発覚した。
2012年(平成24年)1月18日に、野田第1次改造内閣(野田佳彦総理)の玄葉光一郎外相時に大臣の定例記者会見に初めて英語の同時通訳を導入した。大臣発言と日本人や外国人記者の質問は日本語と英語に相互に訳され、会見では貸出されるイヤホンを介して聴取することが出来る。
2017年(平成29年)3月、文部科学省天下り問題で、外務省職員が違法な天下り斡旋により国立大学法人東京外国語大学特任教授に就任していたことが判明した。
2018年(平成30年)7月1日に、部局の統廃合が行われた。この統廃合ではアジア大洋州局北東アジア課を二課に分け、北東アジア第一課及び北東アジア第二課を設置した。両課の設置に伴い、北東アジア第一課が韓国情勢、日韓協力等,北東アジア第二課が北朝鮮情勢、日朝関係等を所掌する。また、アジア大洋州地域に関する外交政策の総合的な企画立案及び調整の必要性が特に高い事情にかんがみ、アジア大洋州局地域政策課を地域政策参事官(組織令上は大臣官房の参事官)に改組した。
2020年(令和2年)8月3日に、部局の統廃合が行われた。WTO協定、経済連携協定、投資協定等の紛争解決規定に基づく紛争解決の処理への対応を強化するため、国際法局に経済紛争処理課を設置、経済局経済安全保障課を廃止し、経済局政策課にエネルギー、鉱物資源、食料の安定供給の確保に関する事務を所掌する資源安全保障室を新設、総合外交政策局安全保障政策課新安全保障課題政策室の室名を経済安全保障政策室に変更する(所掌事務は変更なし)。
2022年6月、自民党の広報本部長(当時)河野太郎がtwitter上で外務省においてFAXが廃止されていることを明らかにした。
1869(明治2)年に設置され、改称せずに現存する日本最古の行政機関である。なお大蔵省は名称自体(大宝律令の大蔵省は明治維新まで存続し維新の時に一度廃止されている)は701年(大宝元年)の大宝律令から明治維新を経て2001年(平成13年)の中央省庁再編まで約1300年続いた。
最初に「外務省」の名称が用いられたのは、1869年(明治2年)8月15日から始まった太政官制(二官六省制)からである。名称が公議所で議論された際、原案は「外国省」となっていたが、公議員であった依田学海が「雅ならず」として「太宰府」「外務省」「治部省」のいずれかにすべきと提案したという経緯がある。
1885年(明治18年)の内閣制度創設以後、一度も名称を変更していない唯一の省である。太政官達(内閣職権)、外務省官制、旧外務省設置法など、設置根拠法に変遷はあるが、省の名称は継続して用いられている。
外務省のシンボルは、漢字の「外」の文字を変形させた図案が用いられている。それまでは歴代大臣が使用していた硯箱の蓋に描かれていた図案であったが、1937年(昭和12年)に職員徽章の図案として正式に制定された。材質は純銀。それ以来、省の標章として使用されており、庁舎の正門に掲げられるとともに、職員の身分証明書などにも描かれている。
外務省の内部組織は一般的に、法律の外務省設置法、政令の外務省組織令および省令の外務省組織規則が階層的に規定している。外務大臣を長とし、内部部局として大臣官房および総合外交政策局等の10局、審議会として外務人事審議会および海外交流審議会、施設等機関として外務省研修所、特別の機関として在外公館を設置する。
一般職の幹部は以下のとおりである。
特別の機関として在外公館を設置する(法律第6条)。在外公館は大使館、公使館、総領事館、領事館、政府代表部および日本政府在外事務所の5種類がある(法律第6条第2項・第3項)。実在する在外公館の名称および位置は「在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律」に規定されている。一覧は日本国在外公館の一覧を参照。
外務省が主管する独立行政法人 は、2023年4月1日現在、国際協力機構、国際交流基金の2法人。特殊法人及び特別の法律により設立される民間法人(特別民間法人)はない。
2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における外務省所管予算は7434億4954万3千円。組織別の内訳は外務本省が5673億2389万6千円、在外公館が1761億2564万7千円である。
外務省は、特別会計として、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、外務省全体で6,332人(男性 4,208 人、女性2,124人)である。行政機関職員定員令に定められた外務省の定員は特別職173人を含めて6,597人。外務省は外局を有しないため、他省のように省令の定員に関する規則はない。2023年度一般会計予算における予算定員は特別職180人、一般職6,424人の計6,604人である。特別職のうち、大使が167人、公使が4人となっている。機関別内訳は本省が2,949人、在外公館が3,655人となっている。
外務省の一般職職員の給与に関する法制は、基本的に国家公務員法と一般職給与法から成るが、在外公館に勤務する職員(以下、在外職員)には、特別法として在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律(外務公務員給与法)も適用される。
外務省の一般職の職員は非現業の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は労働組合として国家公務員法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国家公務員法第108条の2第3項)。2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体は存在しない。2001年度はおよそ3割の組織率があったが、翌年度に0%となり、現在にいたる。過去にあった労組は外務省職員組合で、連合・全労連いずれにも属さない中立系の組合であった。
常勤職員の採用試験には、国家公務員採用総合職試験および一般職大卒程度試験(技術系)、一般職高卒試験のほか、独自の専門職試験として外務省専門職員採用試験が設けられている(人事院規則8―18第3条)。また、任期付職員として専門調査員、在外公館派遣員(財団法人 国際交流サービス協会が派遣するもの)、現地採用職員などがある。
かつては、旧国家公務員採用I種試験に相当した外務省独自のキャリア採用試験である外務公務員採用I種試験(通称「外交官試験」)があったが、2001年(平成12年)度試験を最後に廃止された。以降は、国家公務員採用I種試験(2011年度の採用試験体系の見直し後は、国家公務員採用総合職試験)の合格者からキャリア職員を採用している。
省内の派閥関係としては、語学研修部門別の「アメリカ・スクール」、「チャイナ・スクール」、「ロシア・スクール」などがあるが、出身学校別としては、総合職職員は東大、専門職職員は東京外大出身者、創価学会員や創価大出身者による派閥「大凰会(凰会)」などが知られている。
外務省庁舎は千代田区霞が関2丁目2番1号本館に所在する。小坂秀雄設計。「本館(中央・南庁舎)」、「本館(北庁舎)」および「新庁舎」の3つの建物から構成され、それらは口型に配置されている。
中央・南庁舎は地上8階、地下1階のL字型の建物であり、内部は中央庁舎と南庁舎に分かれている。1970年(昭和45年)に完成した。北庁舎は地上8階、地下1階で1960年(昭和35年)完成。
新庁舎は南庁舎と北庁舎の間、中央庁舎の向かい側に位置し、地上7階、地下3階である。北庁舎から中央庁舎への連絡は2階-1階、5階-4階、および8階-7階である。
南庁舎から中央庁舎への連絡は2階-1階及び8階-7階である。1995年(平成7年)に完成した。
以前は南庁舎には旧科学技術庁および公正取引委員会が入居していたが、中央省庁再編に伴い移転した。
本庁舎の耐震工事のため、2002年(平成14年)初頭から2003年(平成15年)末まで一時的に仮庁舎が開設され、港区芝公園の住友不動産芝公園タワーに移転した。
旅券課など一部の部署は港区芝大門の住友芝大門ビルに分散入居していた。南庁舎2階には、24時間営業のコンビニエンスストア(ローソン:2013年2月13日現在)がある。霞が関に立地する最初の官庁である。終戦後は日産館などに入居していた。
飯倉公館ともいう。首脳会談や外相会談のほか、各種会議やレセプションなどの交流活動にも利用されている。
1971年(昭和46年)に完成。吉田五十八設計。所在地は東京都港区麻布台1丁目5番3号だが、名称に冠した「飯倉」はこの地の歴史的名称「飯倉町」に由来する。
また江戸時代幕末期の開国以来の外交資料を保管し展示する外交史料館を併設している。近傍には旧事務次官公邸だった麻布台別館もある。
原則、政治家は除く。例外として民間登用大臣など。 | [
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"text": "外務省設置法第3条に掲げられた目標を達成するため、外交政策、外交使節、通商航海、条約等の国際法規の締結、運用、外国政府との交渉、情報収集、分析、発信、在留邦人の保護および文化広報活動など国の対外関係事務全般を司る。",
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2006年(平成18年)8月1日に、部局の統廃合が行われた。この統廃合では、躍進著しいインドや東南アジア諸国連合などとの関係強化を図るため、アジア大洋州局内に「南部アジア部」が新設された。一方、局単位の改編として、経済協力局及び大臣官房国際社会協力部(ODA関係部局)を統合して「国際協力局」を新設した。よって全体の局部数に変更はない。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2011年(平成9年)、外務省から国会図書館に出向した職員が日本共産党を含む国会議員の図書館利用状況を本省に報告するというスパイ行為を行った疑惑について、日本共産党の市田忠義書記局長(当時)は外務省に対して資料提出を求め、関係者の証人喚問を衆院議院運営委員会に要求すると記者会見で述べた。外務省外交文書の公開により、2011年(平成23年)2月に発覚した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2012年(平成24年)1月18日に、野田第1次改造内閣(野田佳彦総理)の玄葉光一郎外相時に大臣の定例記者会見に初めて英語の同時通訳を導入した。大臣発言と日本人や外国人記者の質問は日本語と英語に相互に訳され、会見では貸出されるイヤホンを介して聴取することが出来る。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2017年(平成29年)3月、文部科学省天下り問題で、外務省職員が違法な天下り斡旋により国立大学法人東京外国語大学特任教授に就任していたことが判明した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2018年(平成30年)7月1日に、部局の統廃合が行われた。この統廃合ではアジア大洋州局北東アジア課を二課に分け、北東アジア第一課及び北東アジア第二課を設置した。両課の設置に伴い、北東アジア第一課が韓国情勢、日韓協力等,北東アジア第二課が北朝鮮情勢、日朝関係等を所掌する。また、アジア大洋州地域に関する外交政策の総合的な企画立案及び調整の必要性が特に高い事情にかんがみ、アジア大洋州局地域政策課を地域政策参事官(組織令上は大臣官房の参事官)に改組した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2020年(令和2年)8月3日に、部局の統廃合が行われた。WTO協定、経済連携協定、投資協定等の紛争解決規定に基づく紛争解決の処理への対応を強化するため、国際法局に経済紛争処理課を設置、経済局経済安全保障課を廃止し、経済局政策課にエネルギー、鉱物資源、食料の安定供給の確保に関する事務を所掌する資源安全保障室を新設、総合外交政策局安全保障政策課新安全保障課題政策室の室名を経済安全保障政策室に変更する(所掌事務は変更なし)。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2022年6月、自民党の広報本部長(当時)河野太郎がtwitter上で外務省においてFAXが廃止されていることを明らかにした。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1869(明治2)年に設置され、改称せずに現存する日本最古の行政機関である。なお大蔵省は名称自体(大宝律令の大蔵省は明治維新まで存続し維新の時に一度廃止されている)は701年(大宝元年)の大宝律令から明治維新を経て2001年(平成13年)の中央省庁再編まで約1300年続いた。",
"title": "名称とシンボル"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "最初に「外務省」の名称が用いられたのは、1869年(明治2年)8月15日から始まった太政官制(二官六省制)からである。名称が公議所で議論された際、原案は「外国省」となっていたが、公議員であった依田学海が「雅ならず」として「太宰府」「外務省」「治部省」のいずれかにすべきと提案したという経緯がある。",
"title": "名称とシンボル"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1885年(明治18年)の内閣制度創設以後、一度も名称を変更していない唯一の省である。太政官達(内閣職権)、外務省官制、旧外務省設置法など、設置根拠法に変遷はあるが、省の名称は継続して用いられている。",
"title": "名称とシンボル"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "外務省のシンボルは、漢字の「外」の文字を変形させた図案が用いられている。それまでは歴代大臣が使用していた硯箱の蓋に描かれていた図案であったが、1937年(昭和12年)に職員徽章の図案として正式に制定された。材質は純銀。それ以来、省の標章として使用されており、庁舎の正門に掲げられるとともに、職員の身分証明書などにも描かれている。",
"title": "名称とシンボル"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "外務省の内部組織は一般的に、法律の外務省設置法、政令の外務省組織令および省令の外務省組織規則が階層的に規定している。外務大臣を長とし、内部部局として大臣官房および総合外交政策局等の10局、審議会として外務人事審議会および海外交流審議会、施設等機関として外務省研修所、特別の機関として在外公館を設置する。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "一般職の幹部は以下のとおりである。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "特別の機関として在外公館を設置する(法律第6条)。在外公館は大使館、公使館、総領事館、領事館、政府代表部および日本政府在外事務所の5種類がある(法律第6条第2項・第3項)。実在する在外公館の名称および位置は「在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律」に規定されている。一覧は日本国在外公館の一覧を参照。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "外務省が主管する独立行政法人 は、2023年4月1日現在、国際協力機構、国際交流基金の2法人。特殊法人及び特別の法律により設立される民間法人(特別民間法人)はない。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における外務省所管予算は7434億4954万3千円。組織別の内訳は外務本省が5673億2389万6千円、在外公館が1761億2564万7千円である。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "外務省は、特別会計として、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "一般職の在職者数は2022年7月1日現在、外務省全体で6,332人(男性 4,208 人、女性2,124人)である。行政機関職員定員令に定められた外務省の定員は特別職173人を含めて6,597人。外務省は外局を有しないため、他省のように省令の定員に関する規則はない。2023年度一般会計予算における予算定員は特別職180人、一般職6,424人の計6,604人である。特別職のうち、大使が167人、公使が4人となっている。機関別内訳は本省が2,949人、在外公館が3,655人となっている。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "外務省の一般職職員の給与に関する法制は、基本的に国家公務員法と一般職給与法から成るが、在外公館に勤務する職員(以下、在外職員)には、特別法として在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律(外務公務員給与法)も適用される。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "外務省の一般職の職員は非現業の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は労働組合として国家公務員法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国家公務員法第108条の2第3項)。2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体は存在しない。2001年度はおよそ3割の組織率があったが、翌年度に0%となり、現在にいたる。過去にあった労組は外務省職員組合で、連合・全労連いずれにも属さない中立系の組合であった。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "常勤職員の採用試験には、国家公務員採用総合職試験および一般職大卒程度試験(技術系)、一般職高卒試験のほか、独自の専門職試験として外務省専門職員採用試験が設けられている(人事院規則8―18第3条)。また、任期付職員として専門調査員、在外公館派遣員(財団法人 国際交流サービス協会が派遣するもの)、現地採用職員などがある。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "かつては、旧国家公務員採用I種試験に相当した外務省独自のキャリア採用試験である外務公務員採用I種試験(通称「外交官試験」)があったが、2001年(平成12年)度試験を最後に廃止された。以降は、国家公務員採用I種試験(2011年度の採用試験体系の見直し後は、国家公務員採用総合職試験)の合格者からキャリア職員を採用している。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "省内の派閥関係としては、語学研修部門別の「アメリカ・スクール」、「チャイナ・スクール」、「ロシア・スクール」などがあるが、出身学校別としては、総合職職員は東大、専門職職員は東京外大出身者、創価学会員や創価大出身者による派閥「大凰会(凰会)」などが知られている。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "外務省庁舎は千代田区霞が関2丁目2番1号本館に所在する。小坂秀雄設計。「本館(中央・南庁舎)」、「本館(北庁舎)」および「新庁舎」の3つの建物から構成され、それらは口型に配置されている。",
"title": "庁舎"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "中央・南庁舎は地上8階、地下1階のL字型の建物であり、内部は中央庁舎と南庁舎に分かれている。1970年(昭和45年)に完成した。北庁舎は地上8階、地下1階で1960年(昭和35年)完成。",
"title": "庁舎"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "新庁舎は南庁舎と北庁舎の間、中央庁舎の向かい側に位置し、地上7階、地下3階である。北庁舎から中央庁舎への連絡は2階-1階、5階-4階、および8階-7階である。",
"title": "庁舎"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "南庁舎から中央庁舎への連絡は2階-1階及び8階-7階である。1995年(平成7年)に完成した。",
"title": "庁舎"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "以前は南庁舎には旧科学技術庁および公正取引委員会が入居していたが、中央省庁再編に伴い移転した。",
"title": "庁舎"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "本庁舎の耐震工事のため、2002年(平成14年)初頭から2003年(平成15年)末まで一時的に仮庁舎が開設され、港区芝公園の住友不動産芝公園タワーに移転した。",
"title": "庁舎"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "旅券課など一部の部署は港区芝大門の住友芝大門ビルに分散入居していた。南庁舎2階には、24時間営業のコンビニエンスストア(ローソン:2013年2月13日現在)がある。霞が関に立地する最初の官庁である。終戦後は日産館などに入居していた。",
"title": "庁舎"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "飯倉公館ともいう。首脳会談や外相会談のほか、各種会議やレセプションなどの交流活動にも利用されている。",
"title": "庁舎"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1971年(昭和46年)に完成。吉田五十八設計。所在地は東京都港区麻布台1丁目5番3号だが、名称に冠した「飯倉」はこの地の歴史的名称「飯倉町」に由来する。",
"title": "庁舎"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "また江戸時代幕末期の開国以来の外交資料を保管し展示する外交史料館を併設している。近傍には旧事務次官公邸だった麻布台別館もある。",
"title": "庁舎"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "原則、政治家は除く。例外として民間登用大臣など。",
"title": "外務省出身の著名人"
}
] | 外務省は、日本の行政機関のひとつ。日本の外交を所管する。 | {{Otheruses|日本の外務省|各国の外交主管庁}}
{{行政官庁
|国名 = {{JPN}}
|正式名称 = 外務省
|公用語名 = がいむしょう
|英名 = Ministry of Foreign Affairs
|紋章 = Seal of the Ministry of Foreign Affairs of Japan.svg
|紋章サイズ = 100px
|画像 = Ministry-of-Foreign-Affairs-Japan-03.jpg
|画像サイズ = 280px
|画像説明 = 外務省庁舎
|主席閣僚職名 = [[外務大臣 (日本)|大臣]]
|主席閣僚氏名 = [[上川陽子]]
|次席閣僚職名 = [[外務副大臣|副大臣]]
|次席閣僚氏名 = [[辻清人]]<br />[[柘植芳文]]
|補佐官職名 = [[外務大臣政務官|大臣政務官]]
|補佐官氏名 = [[高村正大]]<br/>[[深澤陽一]]<br/>[[穂坂泰]]
|次官職名 = [[外務事務次官|事務次官]]
|次官氏名 = [[岡野正敬]]
|上部組織 = 上部組織
|上部組織概要 = [[内閣 (日本)|内閣]]<ref>[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/satei_01_05_3.pdf 我が国の統治機構] 内閣官房 2022年3月22日閲覧。</ref>
|下部組織1 = [[内部部局]]
|下部組織概要1 = [[外務省大臣官房 (日本)|大臣官房]]<br/>[[総合外交政策局]]<br/>[[アジア大洋州局]]<br/>[[北米局]]<br/>[[中南米局]]<br/>[[欧州局]]<br/>[[中東アフリカ局]]<br/>[[経済局 (外務省)|経済局]]<br/>[[国際協力局]]<br/>[[国際法局 (外務省)|国際法局]]<br/>[[領事局]]<br/>[[国際情報統括官組織|国際情報統括官]]
|下部組織2 = [[審議会|審議会等]]
|下部組織概要2 =外務人事審議会<br/>海外交流審議会
|下部組織3 = [[施設等機関]]
|下部組織概要3 = [[外務省研修所]]
|下部組織4 = [[特別の機関]]
|下部組織概要4 = [[在外公館]]
|下部組織5 =
|下部組織概要5 =
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|下部組織概要6 =
|所在地 = {{color|red|〒}}100-8919<br/>[[東京都]][[千代田区]][[霞が関]]2-2-1
|位置 = {{Coor dms|35|40|26.4|N|139|44|56.4|E|scale:10000|display=inline,title}}
|定員 = 6,597人<ref name="定員令">{{Egov law|344CO0000000121|行政機関職員定員令(昭和44年5月16日政令第121号)(最終改正、令和5年3月30日政令第90号)}}</ref>
|年間予算 = 7434億4954万3千円<ref name="予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202311001.pdf 令和5年度一般会計予算]}} 財務省</ref>
|会計年度 = 2023
|設置年月日 = [[1869年]]([[明治]]2年)[[8月15日]](旧暦7月8日)
|改称年月日 =
|前身 = 外国官
|ウェブサイト = [https://www.mofa.go.jp/mofaj/index.html 外務省]
|その他 =
}}
'''外務省'''(がいむしょう、{{lang-en|Ministry of Foreign Affairs、略称: '''MOFA'''}})は、[[日本]]の[[日本の行政機関|行政機関]]のひとつ<ref>[https://dictionary.goo.ne.jp/word/外務省/ 外務省の意味] goo辞書 2021年3月27日閲覧。</ref>。日本の[[外交]]を所管する<ref group="注釈">「[[平和]]で安全な国際社会の維持に寄与するとともに主体的かつ積極的な取組を通じて良好な国際環境の整備を図ること並びに調和ある対外関係を維持し発展させつつ、国際社会における[[日本国]]及び[[日本国籍|日本国民]]の利益の増進を図ること」([[外務省設置法]]第3条)</ref>。
== 概説 ==
[[外務省設置法]]第3条に掲げられた目標を達成するため、[[外交政策]]、外交使節、通商航海、条約等の[[国際法]]規の締結、運用、外国政府との交渉、情報収集、分析、発信、[[在外日本人|在留邦人]]の保護および文化広報活動など国の対外関係事務全般を司る。
外務省の刊行物には、外務省発行の外交専門誌「[[外交 (雑誌)|外交]]」<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/gaikou/index.html 外交専門誌「外交」] 外務省</ref>がある。
=== 所掌事務 ===
外務省設置法第4条は、計29項目の所掌する事務を列記している。
主なものに以下がある。
{{div col}}
* [[外交政策]](外務省設置法第4条第1項第1号)
* 外国政府との交渉(第2号)
* [[国際連合]]その他の[[国際機関]]等(第3号)
* 条約締結(第4号)
* [[国際法]]規の解釈及び実施(第5号)
* 渉外法律事項(第6号)
* 国際情勢の情報収集及び分析並びに外国及び国際機関等に関する調査(第7号)
* 日本国民の海外における法律上又は経済上の利益その他の利益の保護及び増進(第8号)
* 海外における邦人の生命及び身体の保護その他の安全(第9号)
* 海外における邦人の身分関係事項(第10号、第11号)
* [[日本国旅券|旅券]](いわゆる[[パスポート]])の発給並びに[[危険情報|海外渡航]]及び海外移住(第12号)
* [[査証]](いわゆるビザ)(第13号)
* 本邦に在留する[[外国人]]の待遇(第14号)
* 海外事情についての国内広報(第15号)
* 日本事情についての海外広報(同号)
* 外国における[[日本の文化|日本文化]]の紹介(第16号)
* 外交文書の発受(第17号)
* [[外交官]]及び[[領事]]官の派遣(第18号)
* 外交官及び領事官の接受並びに国際機関の要員の受入れ(第19号)
* [[勲章]]・[[記章]]・[[日本の栄典]]の国際的なあっせん(第20号)
* 儀典その他の外交上の儀礼(第21号)
* 外交史料の編さん(第22号)
* [[外地]]整理事務(第23号)
* [[政府開発援助]](第24~26号)
{{div col end}}
海外滞在中の[[日本人]]が[[犯罪]]行為により、その国家の[[刑務所]]に[[収監]]されたり、[[死刑]]判決が下される場合、外務省([[在外公館]]の職員)は、邦人保護の一環として面会などの対応をとる。
== 沿革 ==
[[ファイル:Gaimusho in early Meiji era.jpg|thumb|250px|旧黒田邸時代の外務省]]
[[ファイル:1893年頃の外務省.jpg|thumb|250px|1893年頃の外務省]]
===外務省前史===
明治新政府が成立すると、現在の外務省の前身となる外交機構が設置され、幾度かの改組を経て明治2年7月8日に「'''外務省'''」という名の組織が設置されることとなった{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|p=3}}。
====外国事務取調掛====
慶応3年12月9日に[[王政復古の大号令]]が発せられ、明治新政府が設立される{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|p=4}}。
慶応4年1月9日、[[征夷大将軍]]として大阪に出陣していた議定・[[小松宮彰仁親王|仁和寺宮二品嘉彰親王]]が外国事務総裁の宣下を受け、議定・[[三条実美]]、参与・[[東久世通禧]]らが'''外国事務取調掛'''を拝命した{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|p=5}}。これが、外交事務専管の官員任命の嚆矢である{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|p=6}}。
====外国事務課====
慶応4年1月17日、布告第36号によって「[[三職分課]]」が公布され、'''外国事務課'''が設置された{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=8-11}}{{sfn|大蔵省財政金融研究所財政史室編|1998|pp=7-8}}。外国事務総督には[[山階宮晃親王|山階二品晃親王]]のほか、三条や東久世らが任じられ、[[後藤象二郎]]、[[岩下方平]]らが外国事務掛に任じられた{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=8-11}}。
====外国事務局====
慶応4年2月3日、政府が官制の変更を行い、[[太政官代]]の中に7つの事務局を設置し、事務局の一つとして'''外国事務局'''が置かれた{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=11-19}}。各事務局には、局務を統べる督が置かれ、その補佐をする権、輔権、さらにその下に数名の判事が置かれた{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=11-19}}。外国事務局の督には議定・山階二品晃親王(山階宮)が任じられ、輔には議定・[[伊達宗城]](宇和島少将)、権輔には参与・東久世通禧(東久世全少将)、議定・[[鍋島直大]](肥前侍従)が任じられた{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=11-19}}{{sfn|島|2007|p=27}}。
====外国官====
慶応4年閏4月21日、政府は「[[政体書]]」を頒布し、政体書七官官制が定められた{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=22-23}}。この官制の下では、政府は[[太政官]]と称され、この中に中央官庁として7つの官が置かれた{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=22-23}}。その一つが外務省の直接の前身である'''外国官'''であり、その長は知官事と呼ばれた{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=22-23}}。知官事の下には副知官事、判官事、権判、訳官、訳生が置かれ、知官事には伊達宗城、副知官事には東久世通禧が任じられた{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=22-23}}。
同年5月、議定仁和寺宮二品嘉彰親王が外国事務総裁の宣下を受けた際に大阪におり、その後も伊達宗城が大阪で外国事務を統べていたという理由で七官のうちで唯一大阪に設置されていた外国官を、京都の太政官内に移転することを伊達宗城が奏請した{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=25-27}}{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|p=11}}。これが受け入れられ、6月3日に外国官は[[二条城]]の太政官代に移転する{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=25-27}}。さらに、9月8日に慶応が明治に改元され、20日に[[車駕東幸]]が行われて、10月13日には天皇が東京城に入城して[[皇居]]と定めた{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=25-27}}。これに伴って東京に五官出張所が設けられることとなり、各国公使が横浜に駐在しているという理由で外国事務は東京で取り扱うこととなった{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=25-27}}。これにより、外国官は知官事を含めた全官員が東京に移ることとなった{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=25-27}}。
明治2年4月17日、外国官知事・伊達宗城は持病再発を理由に三条輔相に辞表を提出する{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=27-29}}。この当時、英国公使[[ハリー・パークス|パークス]]は英国副領事代理ロバートソン一行や英国軍艦オーシャン号艦長スタノップ一向に対する下車要求事件などを理由に日本政府に不信を表明し、警護のための軍隊の配置などを求めていた{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=27-29}}。この時のパークスの強硬な態度に耐えかねたことが、伊達が辞表を提出した理由であった{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=27-29}}。辞表は保留されたが、5月13日に行われた外国官知事の選挙で公選されたされた際にも伊達が奉職の意思を示さなかったため、京都留守官勤務の参与・[[沢宣嘉]]が召喚され外国官知事任命の内意を示し、6月25日に伊達の辞表は受理された{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=28-39}}。その後、6月26日に沢が正式に外国官知事に任じられた{{sfn|外務省百年史編纂委員会編|1969a|pp=28-39}}。
===外務省===
[[1869年]]太政官の下に'''外務省'''が置かれる{{Sfn|牧原|2008|p=80}}。
[[1871年]](明治3年)に、外務省は[[銀座]]から霞が関に移転し、[[江戸時代]]に建築された[[武家屋敷|大名屋敷]]の[[福岡藩]]黒田邸[[上屋敷]]をそのまま使用していたが、[[1877年]](明治10年)2月1日に焼失した。
[[1881年]](明治14年)、英仏人建築家[[チャールズ・アルフレッド・シャストール・ド・ボアンヴィル|ボアンヴィル]]({{fr|Charles Alfred Chastel de Boinville}})の設計による新庁舎が竣工した。
[[1905年]](明治38年)[[ポーツマス条約]]の締結([[小村壽太郎]])により[[日露戦争]]に勝利、以後の[[不平等条約]]の完全撤廃に繋がった。
[[1909年]](明治42年)、日本電報通信社(現在の[[電通]])<!--と密約し→当時の国家政府が私企業と同等な密約はしない。いうなら命令です。-->に秘密補助金を出して、同省肝いりの在中国日系新聞記者に送電・配信させる構想を練る<ref>[[アジア歴史資料センター]] B03040681700</ref>。
[[1914年]](大正3年)設立の[[通信社の歴史#「国際」と「東方」|国際通信社]]が出した赤字を補填。
[[1939年]](昭和14年)ニューヨーク総領事館が[[若杉要#『米国共産党調書』発行|『米国共産党調書』]]を発行し、[[ソ連]]・[[コミンテルン]]と[[アメリカ共産党]]による日米[[分断工作|分断策動]]への注意喚起を促した<ref>[[若杉要#『米国共産党調書』発行|米国共産党調書]] [https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/result?IS_KEY_S1=%E7%B1%B3%E5%9B%BD%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E8%AA%BF%E6%9B%B8&IS_KIND=summary&IS_STYLE=default&DB_ID=G0000101EXTERNAL&GRP_ID=G0000101&IS_START=1&IS_EXTSCH=&DEF_XSL=default&IS_TAG_S1=InD&IS_NUMBER=20&IS_SORT_KND=acs&IS_SORT_FLD=sort.seq%2Csort.refc&DIS_SORT_FLD=sort.seq&ON_LYD=on 検索結果一覧] - [[国立公文書館]] [[アジア歴史資料センター]]</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20210617-B2QEGBXGEZKKPM5QRWKQZDEV2Y/ 日米対立でアジア共産化、外務省の情報生かされず] - [[産経デジタル#産経ニュース|産経ニュース]]</ref><ref>[https://nikkan-spa.jp/plus/1661933 日本版「ヴェノナ文書」が明らかにした戦前の日本外務省のインテリジェンス能力]</ref>。その翌年、[[松岡洋右]]外務大臣に『米国内ノ反日援支運動』を提出<ref>江崎道朗『日本の外務省はソ連の対米工作を知っていた』P68~71、[[育鵬社]]、2020年</ref>。
[[1941年]](昭和16年)[[ハル・ノート]](原案作成は[[ハリー・ホワイト]]<ref>[https://www.jfss.gr.jp/index.php/Home/Index/kiho_page/id/517 対日最後通牒ハル・ノートの原案を作成した元米国財務次官補] 日本戦略研究フォーラム(JFSS)</ref><ref>[https://www.tv-asahi.co.jp/scoop/update/toppage/180812_10.html 真珠湾攻撃77年目の真実 ルーズベルトは知っていた!? ~日米ソの壮絶”スパイ戦争 ザ・スクープスペシャル 終戦企画] 2018年8月12日(日)午後1時55分~3時20分放送(一部地域を除く) [[テレビ朝日]] [[ザ・スクープ]]</ref>)の提示により[[日米交渉]]打ち切り。12月に[[太平洋戦争]]開戦。
[[1982年]](昭和57年)[[レフチェンコ事件]]発生。この事件は外務省を震撼させ、後の[[国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案|スパイ防止法案]]の審議や[[特定秘密の保護に関する法律|特定秘密保護法]]の制定に大きな影響を与えた。さらに、事件はソ連崩壊後に公開された[[ミトロヒン文書]]でも裏付けられている。
[[1993年]](平成5年)に、総合外交政策局と国際情報局が新設された。
[[2001年]](平成13年)[[4月]]に[[小泉純一郎]]が[[内閣総理大臣]]に就任し[[第1次小泉内閣]]が発足したとき、[[田中眞紀子]]議員([[田中角栄]]元総理の長女)が[[外務大臣 (日本)|外相]]に就任した。女性初の外相。田中外相は人事凍結方針を打ち出し、外務官僚がそれに反発、外務省は[[外務省機密費流用事件|機密費流用問題]]、[[公金]]流用疑惑、[[裏金]]などの不祥事が続出し、田中外相は外務省を『'''[[伏魔殿]]'''』と呼び、外務省改革を唱えた。
以降、ことあるごとに田中外相と外務[[官僚]]の対立が続くようになった。田中外相は[[事務次官]]の任免を繰り返し、外務省改革を断行しようとするが、[[2001年]](平成13年)[[9月11日]]発生の[[アメリカ同時多発テロ事件]]以降、[[外交政策]]は[[総理大臣官邸|官邸]]主導になり、肝心の外相は1人取り残されるようになった。
その後、[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|アフガニスタン紛争]]の[[復興]]支援に関して、[[非政府組織|NGO]]を復興会議から排除した問題が浮上。NGO排除に[[鈴木宗男]]議員の大きな影響があったと[[大西健丞]]NGO「[[ピースウィンズ・ジャパン]]」代表が発言、[[小泉純一郎|小泉]][[内閣総理大臣|首相]]も鈴木議員の圧力を認めたが、[[野上義二]]外務事務次官はそれを否定。田中外相、鈴木議員、外務省の3者をめぐって全面的な争いが起こった。[[2002年]](平成14年)[[1月]]、[[小泉純一郎]]は田中外相と野上事務次官を更迭した。
その後、外務省への過度な圧力などを指摘され、[[2002年]](平成14年)3月11日に、鈴木宗男議員が[[証人喚問]]を受けることになった<ref>
[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/001815420020311022.htm 第154回国会 予算委員会 第22号] [[2002年]](平成14年)3月11日</ref>。
[[川口順子]]大臣時代の[[2004年]](平成16年)8月1日に、儀典長(次官級)が大臣官房儀典長(局長級)に格下げ、領事移住部を[[領事局]]に格上げし、国際情報局が統括官組織に改組([[国際情報統括官組織]])され、条約局が国際法局に改編された。
[[2006年]](平成18年)8月1日に、部局の統廃合が行われた。この統廃合では、躍進著しい[[インド]]や[[東南アジア諸国連合]]などとの関係強化を図るため、[[アジア大洋州局]]内に「南部アジア部」が新設された。一方、局単位の改編として、経済協力局及び大臣官房国際社会協力部([[政府開発援助|ODA]]関係部局)を統合して「国際協力局」を新設した。よって全体の局部数に変更はない。
[[2011年]](平成9年)、外務省から国会図書館に出向した職員が日本共産党を含む国会議員の図書館利用状況を本省に報告するというスパイ行為を行った疑惑について、日本共産党の市田忠義書記局長(当時)は外務省に対して資料提出を求め、関係者の証人喚問を衆院議院運営委員会に要求すると記者会見で述べた<ref>「[https://web.archive.org/web/20110312175304/http://www.47news.jp/CN/201102/CN2011021901000542.html 議員の依頼資料を極秘報告 国立図書館出向の外務官僚]」 [[共同通信]]、2011年2月19日。</ref><ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2011-02-22/2011022201_03_1.html 国会図書館スパイ問題 真相の徹底糾明を 市田書記局長 証人喚問を要求] しんぶん赤旗 2011年2月22日</ref><ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2011-02-22/2011022202_01_1.html 国会図書館への出向者 20年余で7人送る 外務省 幹部職員切れ目なく] しんぶん赤旗 2011年2月22日</ref>。外務省外交文書の公開により、[[2011年]](平成23年)2月に発覚した{{要出典|date=2022年11月}}。
[[2012年]](平成24年)1月18日に、[[野田内閣 (第1次改造)|野田第1次改造内閣]]([[野田佳彦]]総理)の[[玄葉光一郎]]外相時に大臣の定例[[記者会見]]に初めて[[英語]]の[[同時通訳]]を導入した。大臣発言と[[日本人]]や[[外国人]]記者の質問は[[日本語]]と英語に相互に訳され、会見では貸出される[[ヘッドフォン|イヤホン]]を介して聴取することが出来る<ref>読売新聞2012年1月19日13S版4面、[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120118/plc12011818190010-n1.htm 外相の定例記者会見に英語同時通訳]</ref>。
[[2017年]](平成29年)3月、[[文部科学省天下り問題]]で、外務省職員が違法な[[天下り]]斡旋により[[東京外国語大学|国立大学法人東京外国語大学]]特任教授に就任していたことが判明した。
[[2018年]](平成30年)7月1日に、部局の統廃合が行われた<ref group="注釈">外務省組織令の一部を改正する政令(平成30年政令第193号)による改正。</ref>。この統廃合ではアジア大洋州局北東アジア課を二課に分け、北東アジア第一課及び北東アジア第二課を設置した。両課の設置に伴い、北東アジア第一課が韓国情勢、日韓協力等,北東アジア第二課が北朝鮮情勢、日朝関係等を所掌する。また、アジア大洋州地域に関する外交政策の総合的な企画立案及び調整の必要性が特に高い事情にかんがみ、アジア大洋州局地域政策課を地域政策参事官(組織令上は大臣官房の参事官)に改組した<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_006172.html 外務省HP >会見・発表・広報 > 報道発表 > アジア大洋州局の組織改編]</ref>。
[[2020年]](令和2年)8月3日に、部局の統廃合が行われた<ref group="注釈">外務省組織令の一部を改正する政令(令和2年政令第232号)、外務省組織規則の一部を改正する省令令(令和2年外務省令第10号)による改正。</ref>。WTO協定、経済連携協定、投資協定等の紛争解決規定に基づく紛争解決の処理への対応を強化するため、国際法局に経済紛争処理課を設置、経済局経済安全保障課を廃止し、経済局政策課にエネルギー、鉱物資源、食料の安定供給の確保に関する事務を所掌する資源安全保障室を新設、総合外交政策局安全保障政策課新安全保障課題政策室の室名を経済安全保障政策室に変更する(所掌事務は変更なし)<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_008637.html|publisher= 外務省 |title= 報道発表 > 経済局、国際法局及び総合外交政策局の組織改編等|date= 2020-07-31|accessdate= 2020-08-037}}</ref>。
2022年6月、自民党の広報本部長(当時)[[河野太郎]]がtwitter上で外務省においてFAXが廃止されていることを明らかにした<ref>{{Cite web|和書|title=外務省、“ほぼ”FAX廃止→原則メールに 企業では意外と現役? |url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2206/22/news219.html |website=ITmedia ビジネスオンライン |access-date=2022-06-23 |language=ja}}</ref>。
== 名称とシンボル ==
=== 名称 ===
[[1869年|1869]]([[明治]]2)年に設置され、改称せずに現存する[[日本最古の一覧|日本最古]]の行政機関である{{Efn|[[財務省]]の前身(改編改称前)の[[大蔵省]]も外務省と同時期の1869年に設置された<ref>{{cite journal|last=金関|first=義則 (Kaneseki, Yoshinori)|others=日本科学史学会|title=日本科学技術史大系: 土木技術|volume=16|publisher=第一法規出版株式会社|year=1978|origyear=1970|url=//books.google.co.jp/books?id=Ps8VAAAAMAAJ|page=16|isbn=4-474-15016-3|quote=1869 年 8 月 15 日(明治二年七月八日)八官を廃してニ官(神祇官,太政官) ,六省(民部省,大蔵省,兵部省,刑部省,宮内省,外務省)を設けた。}} ISBN 978-4-474-15016-4</ref>}}。なお大蔵省は名称自体(大宝律令の大蔵省は[[明治維新]]まで存続し維新の時に一度廃止されている)は[[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年)の[[大宝律令]]から[[明治維新]]を経て[[2001年]]([[平成]]13年)の[[中央省庁再編]]まで約1300年続いた{{要出典|date=2022年11月}}。
最初に「外務省」の名称が用いられたのは、[[1869年]](明治2年)[[7月8日 (旧暦)|8月15日]]から始まった[[太政官制]](二官六省制)からである。名称が[[公議所]]で議論された際、原案は「外国省」となっていたが、公議員であった[[依田學海|依田学海]]が「雅ならず」として「[[太宰府]]」「外務省」「治部省」のいずれかにすべきと提案したという経緯がある<ref>[[鈴木淳 (歴史学者)|鈴木淳]]『維新の構想と展開』(講談社、2002年)54頁</ref>。
[[1885年]](明治18年)の[[内閣 (日本)|内閣制度]]創設以後、一度も名称を変更していない唯一の[[省]]である<ref group="注釈">もう一つの“改称せずに今まで来た”省だった大蔵省は2001年(平成13年)に「財務省」と改称された{{要出典|date=2022年11月}}。</ref>。太政官達([[内閣職権]])、外務省官制、旧外務省設置法など、設置根拠法に変遷はあるが、省の名称は継続して用いられている。
=== シンボル ===
[[ファイル:Seal of the Ministry of Foreign Affairs of Japan.svg|thumb|right|200x150px|外務省の標章。「外」の文字を変形させた図案が用いられている。]]
外務省の[[シンボル]]は、漢字の「外」の文字を変形させた[[図案]]が用いられている<ref name="sonota">「その他」『[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sonota_02.html 外務省: 外交史料 Q&A その他]』外務省。</ref>。それまでは歴代大臣が使用していた[[硯]]箱の蓋に描かれていた図案であったが、[[1937年]](昭和12年)に職員徽章の図案として正式に制定された。材質は純銀<ref name="sonota" />。それ以来、省の標章として使用されており、庁舎の正門に掲げられるとともに、職員の身分証明書などにも描かれている<ref name="sonota" />。
== 組織 ==
外務省の内部組織は一般的に、法律の外務省設置法、政令の外務省組織令および省令の外務省組織規則が階層的に規定している。[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]を長とし、[[内部部局]]として大臣官房および総合外交政策局等の10局、[[審議会]]として外務人事審議会および海外交流審議会、[[施設等機関]]として外務省研修所、[[特別の機関]]として在外公館を設置する。
=== 次官級以上のポスト ===
* [[外務大臣 (日本)|外務大臣]](国家行政組織法第5条、法律第2条第2項)
* [[外務副大臣]](国家行政組織法第16条)(2人)
* [[外務大臣政務官]](国家行政組織法第17条)(3人)
* [[大臣補佐官|外務大臣補佐官]](国家行政組織法第17条の2)(1人)(必置ではない)
* [[事務次官等の一覧#外務事務次官(外務次官)|外務事務次官]](国家行政組織法第18条)
* [[外務審議官]](法律第5条)(2人)
* [[秘書官|外務大臣秘書官]]
=== 内部部局 ===
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* [[外務省大臣官房 (日本)|大臣官房]](政令第2条)
** 総務課(政令第18条){{Efn|総務課には外交史料の編さんを行う[[外務省外交史料館]](東京都港区)が置かれている。}}
** 人事課
** 情報通信課
** 会計課
** 在外公館課
** 文化交流・海外広報課
** [[儀典長|儀典]]
** [[外務報道官]]・広報文化組織
*** 広報文化外交戦略課
*** 報道課
*** 文化交流・海外広報課
*** 国際報道官
* [[総合外交政策局]]
** 総務課(政令第30条)
** 安全保障政策課
*** 経済安全保障政策室(規則12条8項)
** 国連企画調整課
** 国連政策課
** 人権人道課
** 軍縮不拡散・科学部
*** 軍備管理軍縮課(政令第30条第2項)
*** 不拡散・科学原子力課
* [[アジア大洋州局]]
** 北東アジア第一課(政令第38条)
** 北東アジア第二課
** 中国・モンゴル第一課
** 中国・モンゴル第二課
** 大洋州課
** 南部アジア部
*** 南東アジア第一課(政令第38条第2項)
*** 南東アジア第二課
*** 南西アジア課
* [[北米局]]
** 北米第一課(政令第46条)
** 北米第二課
** [[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]課
*** [[日米地位協定]]室
* [[中南米局]]
** 中米カリブ課(政令第50条)
** 南米課
* [[欧州局]]
** 政策課(政令第53条)
** 西欧課
** 中・東欧課
** ロシア課
* [[中東アフリカ局]]
** 中東第一課(政令第58条)
** 中東第二課
** [[アフリカ審議官|アフリカ部]]
*** アフリカ第一課
*** アフリカ第二課
* [[経済局 (外務省)|経済局]]
** 政策課(政令第63条)
*** 資源安全保障室(規則34条4項)
** 国際経済課
** 国際貿易課
** 経済連携課
* [[国際協力局]]
** 政策課(政令第69条)
** 開発協力総括課
** 緊急・人道支援課
** 国別開発協力第一課
** 国別開発協力第二課
** 国別開発協力第三課
** [[地球規模課題審議官|地球規模課題審議官組織]]
*** 地球規模課題総括課
*** 地球環境課
*** 気候変動課
* [[国際法局 (外務省)|国際法局]]
** 国際法課(政令第79条)
*** 海洋法室(規則43条1項)
*** 国際裁判対策室
** 条約課
** 経済条約課
** 経済紛争処理課
** 社会条約官
* [[領事局]]
** 政策課(政令第84条)
** 海外邦人安全課
** 旅券課
** 外国人課
* [[国際情報統括官組織]]
** 国際情報統括官
** 国際情報官(4人、政令第89条)
{{div col end}}
==== 現在の幹部 ====
一般職の幹部は以下のとおりである<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/meibo/list.html#03 幹部名簿 令和5年9月15日] 外務省</ref>。
{{div col}}
* 事務次官:[[岡野正敬]]
* 外務審議官(政務):[[船越健裕]]
* 外務審議官(経済):[[小野啓一]]
* 官房長:[[志水史雄]]
** 儀典長:[[島田丈裕]]
** 外務報道官:[[小林麻紀]]
* 総合外交政策局長:[[河辺賢裕]]
** 軍縮不拡散・科学部長:海部篤
* アジア大洋州局長:[[鯰博行]]
** 南部アジア部長:加納雄大
* 北米局長:[[有馬裕]]
* 中南米局長:[[野口泰]]
* 欧州局長:[[中込正志]]
* 中東アフリカ局長:[[長岡寛介]]
** アフリカ部長:[[米谷光司]]
* 経済局長:[[片平聡]]
* 国際協力局長:[[遠藤和也]]
** 地球規模課題審議官:赤堀毅
* 国際法局長:[[御巫智洋]]
* 領事局長:[[安藤俊英]]
* 国際情報統括官:[[新居雄介]]
* 外務省研修所長:[[武藤顕]]
{{div col end}}
=== 審議会等 ===
* [[外務人事審議会]](政令第90条)
* [[海外交流審議会]](政令第90条)
=== 施設等機関 ===
* [[外務省研修所]](政令第93条)
=== 特別の機関 ===
特別の機関として[[在外公館]]を設置する(法律第6条)。在外公館は[[大使館]]、公使館、総領事館、[[領事館]]、[[政府代表部]]および日本政府在外事務所の5種類がある(法律第6条第2項・第3項)。実在する在外公館の名称および位置は「[[在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律]]」に規定されている。一覧は[[日本国在外公館の一覧]]を参照。
=== 所管法人 ===
外務省が主管する[[独立行政法人]] は、2023年4月1日現在、[[国際協力機構]]、[[国際交流基金]]の2法人<ref>{{Cite web|和書|title=独立行政法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871325.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>。特殊法人<ref>{{Cite web|和書|title=所管府省別特殊法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000876791.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>及び[[特別の法律により設立される民間法人]](特別民間法人)<ref>{{Cite web|和書|title=特別の法律により設立される民間法人一覧(令和5年4月1日現在:34法人)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871326.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>はない。
=== 財政 ===
2023年度(令和5年度)[[一般会計]]当初予算における外務省所管予算は7434億4954万3千円<ref name="予算" />。組織別の内訳は外務本省が5673億2389万6千円、在外公館が1761億2564万7千円である。
外務省は、特別会計として、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管<ref group="注釈">国の予算を所管するすべての機関である。なお人事院は予算所管では内閣に属するのでここにはない。</ref>の[[東日本大震災復興特別会計]]を共管する。
== 職員 ==
[[一般職]]の在職者数は2022年7月1日現在、外務省全体で6,332人(男性 4,208 人、女性2,124人)である<ref>{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/joukin_toukei.pdf 一般職国家公務員在職状況統計表]}}(令和4年7月1日現在)</ref>。行政機関職員定員令に定められた外務省の定員は[[特別職]]173人を含めて6,597人<ref name="定員令"></ref>。外務省は[[外局]]を有しないため、他省のように[[省令]]の定員に関する規則はない。2023年度一般会計予算における予算定員は特別職180人、一般職6,424人の計6,604人である<ref name="予算"></ref>。特別職のうち、大使が167人、公使が4人となっている。機関別内訳は本省が2,949人、在外公館が3,655人となっている。
外務省の一般職職員の[[給与]]に関する法制は、基本的に国家公務員法と一般職給与法から成るが、在外公館に勤務する職員(以下、在外職員)には、特別法として[[在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律]](外務公務員給与法)も適用される。
外務省の[[一般職]]の職員は非現業の[[国家公務員]]なので、[[労働基本権]]のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。[[団結権]]は認められており、職員は[[労働組合]]として国家公務員法の規定する「[[職員団体]]」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる([[国家公務員法]]第108条の2第3項)。2022年3月31日現在、[[人事院]]に登録された職員団体は存在しない<ref>{{PDFlink|[https://www.jinji.go.jp/hakusho/pdf/1-3-6.pdf 令和3年度 年次報告書(公務員白書) 「第1編第3部第6章:職員団体 - 資料6-2;職員団体の登録状況。2022年3月31日現在。]}}</ref>。2001年度はおよそ3割の組織率があったが、翌年度に0%となり、現在にいたる<ref>原田久「公務員労働組合の機能」『最新 : 公務員制度改革』 [[学陽書房]]、2012年1月。</ref>。過去にあった労組は外務省職員組合で、連合・全労連いずれにも属さない中立系の組合であった。
常勤職員の[[公務員試験|採用試験]]には、国家公務員採用総合職試験および一般職大卒程度試験(技術系)、一般職高卒試験のほか、独自の[[専門職]]試験として外務省専門職員採用試験が設けられている(人事院規則8―18第3条)。また、任期付職員として[[専門調査員]]、在外公館派遣員([[財団法人]] [[国際交流サービス協会]]が派遣するもの)、現地採用職員などがある。
かつては、旧国家公務員採用I種試験に相当した外務省独自の[[キャリア (国家公務員)|キャリア]]採用試験である外務公務員採用I種試験(通称「外交官試験」)があったが、2001年(平成12年)度試験を最後に廃止された。以降は、国家公務員採用I種試験(2011年度の採用試験体系の見直し後は、国家公務員採用総合職試験)の合格者からキャリア職員を採用している。
省内の[[派閥]]関係としては、語学研修部門別の「アメリカ・スクール」、「[[チャイナ・スクール]]」、「ロシア・スクール」などがあるが、出身学校別としては、総合職職員は東大、[[専門職]]職員は[[東京外国語大学|東京外大]]出身者、[[創価学会]]員や[[創価大学|創価大]]出身者による派閥「大凰会(凰会)」<ref>外務省出身で元[[公明党]]議員[[遠藤乙彦]]が、信仰を共通にする人たちのいわば「懇親の場」があることを述べている( [https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=112905261X00219940221 第129回国会 予算委員会 第2号] 平成6年([[1994年]])2月21日)。</ref>などが知られている。
== 庁舎 ==
=== 外務省庁舎 ===
外務省庁舎は[[千代田区]][[霞が関]]2丁目2番1号本館に所在する。[[小坂秀雄]]設計。「本館(中央・南庁舎)」、「本館(北庁舎)」および「新庁舎」の3つの建物から構成され、それらは口型に配置されている<ref>[https://www.mlit.go.jp/gobuild/kasumi_map_04_tyousya_gaimu.htm 官庁営繕 : 外務省庁舎 国土交通省]、2012年8月7日閲覧。</ref>。
中央・南庁舎は地上8階、地下1階のL字型の建物であり、内部は中央庁舎と南庁舎に分かれている。[[1970年]](昭和45年)に完成した。北庁舎は地上8階、地下1階で[[1960年]](昭和35年)完成。
新庁舎は南庁舎と北庁舎の間、中央庁舎の向かい側に位置し、地上7階、地下3階である。北庁舎から中央庁舎への連絡は2階-1階、5階-4階、および8階-7階である。
南庁舎から中央庁舎への連絡は2階-1階及び8階-7階である。[[1995年]](平成7年)に完成した。
以前は南庁舎には旧[[科学技術庁]]および[[公正取引委員会]]が入居していたが、[[中央省庁再編]]に伴い移転した。
本庁舎の耐震工事のため、[[2002年]](平成14年)初頭から[[2003年]](平成15年)末まで一時的に仮庁舎が開設され、[[港区 (東京都)|港区]][[芝公園]]の住友不動産芝公園タワーに移転した。
旅券課など一部の部署は港区[[芝大門]]の住友芝大門ビルに分散入居していた。南庁舎2階には、24時間営業の[[コンビニエンスストア]]([[ローソン]]:[[2013年]][[2月13日]]現在)がある。霞が関に立地する最初の官庁である。終戦後は[[日産館]]などに入居していた。
=== 飯倉別館 ===
飯倉公館ともいう。[[首脳会談]]や外相会談のほか、各種会議やレセプションなどの交流活動にも利用されている。
[[1971年]](昭和46年)に完成。[[吉田五十八]]設計。所在地は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[麻布台]]1丁目5番3号だが、名称に冠した「飯倉」はこの地の歴史的名称「[[飯倉 (東京都港区)|飯倉町]]」に由来する。
また[[江戸時代]][[幕末]]期の[[開国#日本の開国|開国]]以来の外交資料を保管し展示する[[外務省外交史料館|外交史料館]]を併設している。近傍には旧事務次官[[公邸]]だった麻布台別館もある。
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ファイル:2018 Ministry of Foreign Affairs of Japan Main Building.jpg|外務省本館庁舎
ファイル:Ministry-of-Foreign-Affairs-Japan-01.jpg|外務省本館庁舎
ファイル:Ministry of Foreign Affairs of Japan.jpg|外務省本館庁舎
ファイル:Ministry-of-Foreign-Affairs-Japan -02.jpg|外務省本館庁舎([[国土交通省]]側から撮影)
ファイル:Iikura Guesthouse.jpg|飯倉別館(飯倉公館)
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== 外務省出身の著名人 ==
原則、政治家は除く。例外として民間登用大臣など。
*[[青木周蔵]] - [[外務次官]]、[[外務大臣]]、駐独兼駐英公使。[[陸奥宗光]]の下、駐英公使時に調印した[[日英通商航海条約]](陸奥条約)により[[領事裁判権]]の撤廃及び[[関税自主権]]の部分的回復。曾孫は[[在ペルー日本大使公邸占拠事件]]の[[青木盛久]]。
*[[ヘンリー・デニソン]] - 外務省顧問。[[お雇い外国人]]として採用されて以降、[[日英同盟]]や[[ポーツマス条約]]に至る明治日本の[[外交交渉]]実務を事実上担った。
*[[高平小五郎]] - 外務次官、駐米公使([[日露戦争]]後に大使に格上げ)。[[大学南校]]([[開成学校]])で同期生にあたる[[小村壽太郎|小村寿太郎]]の下、ポーツマス条約、[[高平・ルート協定]]を締結。
*[[珍田捨巳]] - 外務次官、[[侍従長]]、[[伯爵]]。[[桂太郎]]の下、[[桂・タフト協定]]に立ち会う。
*[[石井菊次郎]] - 外務次官、駐仏大使。[[石井・ランシング協定]]を締結。
*[[幣原喜重郎]] - 外務次官、駐米大使、外務大臣、[[内閣総理大臣]]。「[[幣原外交]]」を展開し、駐米大使時に全権として石井・ランシング協定、日英同盟を破棄し[[九カ国条約|ワシントン体制]]締結。結果、[[満洲事変#スティムソン・ドクトリン|中国及び満洲権益で米国との対立]]を顕在化させ{{refnest|group="注釈"|たとえば、[[南満洲鉄道]]は[[満洲]]の地で、[[戦略物資]]として欠くべからず鉄鉱石から電気電力、車や航空機までの工業製品に加え、大豆や小麦の生産力向上を図っていた。特に[[ダイズ|大豆]]は、[[1920年代]]半ば(昭和初頭)から世界的に需要が激増し、満鉄により[[品種改良]]や新種開発を重ねた「満洲大豆」を抱える[[満洲国]]は、大豆の[[穀倉地帯]]として世界最大の輸出国になり、[[高度経済成長|飛躍的に経済規模が拡大]]していた。しかし、のちの[[ABCD包囲網]]にみるように、米国に頼っていた[[コムギ|小麦]]や大豆生産に必須の[[肥料|化学肥料]]の[[リン]]([[リン酸]])などを石油などと共に禁輸対象にされた。第二次世界大戦後、米国が大豆の世界最大の輸出国になった([[満洲国の経済]]、[[満洲産業開発五カ年計画#同計画の具体的内容]]、[[ダイズ#生産]]を参照)。}}、[[容共]]の侵蝕を許した。また、[[日本国憲法第9条]]「[[不戦条約|戦争放棄]]条項」の発案者ともされている。
*[[諸井六郎]] - 小村寿太郎の下で日英通商航海条約(陸奥条約)改正による関税自主権の完全回復の原案作成。
*[[本多熊太郎]] - [[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])時の駐中国大使、[[東條内閣]]の外交顧問。戦後[[極東国際軍事裁判]]の[[A級戦犯]]となり病没。
*[[松岡洋右]] - 外務省では[[吉田茂]]の二期上。退官後、衆院議員、満鉄総裁、外務大臣。[[満洲国]]承認強硬派[[内田康哉]]外相の「[[内田康哉|焦土演説]]」に押し切られ[[国際連盟]]総会での[[リットン調査団|リットン報告書]]採択の際、衆院議員で全権首席代表松岡は[[長岡春一]]や[[佐藤尚武]]らと議場を退席。[[日独伊三国同盟]]案では日・独・ソ・伊四か国同盟を主張し、「[[ハル・ノート#ハル・ノートにおける満洲国について|日米諒解案]]」に基づく[[日米交渉]]に反発、[[独ソ戦]]開戦後は[[北進論]]を主張。「[[弐キ参スケ]]」の一人。
*[[来栖三郎 (外交官)|来栖三郎]] - 駐独大使として日独伊三国同盟を締結。その後駐米大使として太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前の[[日米交渉]]に携わる。
*[[天羽英二]] - 外務次官、[[内閣情報局]]総裁。「日本単独での[[東アジア]]支配」を主張した「天羽声明」が列強の反発を受ける。[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]、極東国際軍事裁判のA級戦犯となり[[公職追放]]。
*[[白鳥敏夫]] - [[情報局|外務省情報部]]長、駐伊大使。日独伊三国同盟を推進した[[革新官僚|外務省革新派]]のリーダー。
*[[沢田廉三]] - [[国連大使]]。[[戦後]]日本の[[国際連合]](国連)加盟に尽力。
*[[河相達夫]] - [[終戦]]後の[[情報局]]総裁兼外務次官。1937年外務省情報部長時代、米[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]][[大統領]]の「[[フランクリン・ルーズベルト#隔離演説から参戦まで|シカゴ演説(隔離演説)]]」に反駁談話を発表し、また[[児玉誉士夫]]を見出した。
*[[須磨弥吉郎]] - 南京総領事時に[[山本五十六]]海軍次官と[[情報局|内閣情報部]]を誕生させ、さらにスペイン公使時、欧州を舞台に[[東機関]]を設置した日米[[諜報]]戦のパイオニア。<!--https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/3987 歴史街道より-->
*[[蜂谷輝雄]] - [[自由インド仮政府]]初代公使、[[第2次吉田内閣]]時の[[吉田茂]][[内閣総理大臣秘書官]]。
*[[阪本瑞男]] - 中立国[[スイス]]の公使として[[第二次世界大戦]]終戦の工作にあたったが駐独大使[[大島浩]]の妨害を受け失敗。そのままスイスで病没。終戦工作は同期の[[加瀬俊一 (1920年入省)|加瀬俊一]](後述[[加瀬俊一 (1925年入省)]]とは別人)に引き継がれた。
*[[亀山一二]] - 外務省電信課長を経て駐ソ連大使館参事官。戦前の[[日米交渉]]の段階で、既に[[暗号]]が洩れていたことを把握していたと述懐している。
*[[井口貞夫]] - 外務事務次官、駐米大使。[[真珠湾攻撃]]での日本政府による[[日本の対米英宣戦布告|対米宣戦布告]]遅延問題発生時に駐米大使館参事官を務めた。
*[[西村熊雄]] - 条約局長、駐仏大使。条約局長時に[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]や[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|旧日米安保条約]]締結事務にあたる。
*[[杉原千畝]] - 駐[[リトアニア]]在[[カウナス]]日本領事館領事代理、駐[[ルーマニア]]公使館三等書記官。カウナス在任時、外務省の命令に反し大量の[[査証]]を発給し、[[ナチス・ドイツ]]の迫害から逃れた[[ユダヤ人]]の亡命を助けた。
*[[加瀬俊一 (1925年入省)|加瀬俊一]] - [[日本]]の国連加盟に尽力し、加盟後の初代国連大使を務めた。退官後内閣総理大臣顧問を務め、[[佐藤栄作]]の[[ノーベル平和賞]]受賞を実現。[[戦前]]は情報局第三部長・報道部長を歴任し、終戦時の[[日本の降伏文書|戦艦ミズーリ上の降伏文書調印]]随行員。京都産業大学教授。
*[[奥村勝蔵]] - 外務事務次官、駐スイス大使。真珠湾攻撃での[[日本の対米英宣戦布告|宣戦布告]]遅延問題発生時に一等書記官を務めた。戦後[[ダグラス・マッカーサー]]と[[昭和天皇]]の通訳など。
*[[結城司郎次]] - 駐[[トルコ]]大使、駐[[セイロン]]大使。真珠湾攻撃前夜、[[日米交渉]]時の英米への日本側の情報漏洩元としてその名がたびたび挙がる。
*[[下田武三]] - 外務事務次官、駐米大使、[[最高裁判所判事]]。外交官初の[[日本野球機構]]コミッショナーとして[[プロ野球]]に携わる。
*[[牛場信彦]] - 外務事務次官、駐米大使。対外経済担当大臣。戦前は[[枢軸国|枢軸]]派ないし外務省革新派として鳴らし、終戦後の[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]で大島浩の弁護人に加わる。[[日米繊維交渉]]大詰め時の駐米大使。
*[[高橋通敏]] - 条約局長、駐[[エジプト]]大使。[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|新日米安保条約]]、及び付属の[[日米地位協定]]締結事務にあたる。
*[[吉野文六]] - [[北米局|アメリカ局]]長、外務審議官、駐[[西ドイツ|西独]]大使。[[沖縄返還]]密約。
*[[山根敏子]] - 女性初の外交官。34歳で殉職。
*[[岡崎久彦]] - 情報調査局長、駐[[タイ王国|タイ]]大使。在職中から『隣の国で考えたこと』『戦略的思考とは何か』『繁栄と衰退と――オランダ史に日本が見える』などの著作、退官後、評論家。
*[[波多野敬雄]] - 国連大使。日本の[[国際連合安全保障理事会]]常任理事国への参入を目指す方針を創作した。
*[[三宅和助]] - 初代[[外務報道官]]、[[中近東アフリカ局]]長、駐[[シンガポール]]大使。退官後詐欺被害に遭遇し自宅等の財産を損失する。
*[[小和田恆]] - 外務事務次官、国連大使。退官後[[裁判官 (国際司法裁判所)|国際司法裁判所判事]]。第22代[[国際司法裁判所#歴代所長|国際司法裁判所所長]]。
*[[皇后雅子]] - 経済局国際機関第二課、のち北米局北米二課員。小和田恆の長女、旧名:小和田雅子。
<!--*[[中村順一]] - [[国立京都国際会館|京都国際会館]]元館長。→現在(2022/2/11)の記事ですと、同人をここで掲載するだけの特徴が足りない-->
*[[松浦晃一郎]] - アジア人初の[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]事務局長、駐仏大使。
*[[加藤良三]] - [[外務審議官]]、駐米大使。退官後日本野球機構コミッショナー。
*[[野上義二]] - 外務事務次官、駐英大使。次官時に[[田中眞紀子]]外務大臣と対立し、大臣、次官双方が退任した。
*[[孫崎享]] - [[国際情報局]]長、駐[[ウズベキスタン]]大使。評論家。
*[[竹内行夫]] - 外務事務次官、最高裁判事。野上義二の辞任を受け急遽次官就任。次官在任中、[[瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件]]、[[上海総領事館員自殺事件]]が発覚する。
*[[東郷和彦]] - [[鈴木宗男事件]]で[[丹波實]]らと共にロシア・スクールが一掃され駐蘭大使を更迭後、退官。京都産業大学教授。[[東郷茂徳]]の孫。
*[[岡本行夫]] - 北米局北米第一課長で退官後、評論家。[[内閣総理大臣補佐官]]などを歴任し[[在日米軍]]の[[普天間基地移設問題]]などにあたった。
*[[馬渕睦夫]] - 駐[[ウクライナ]]兼[[モルドバ]]大使、[[防衛大学校]]教授。評論家。
*[[田中均]] - 外務審議官。[[小泉純一郎]]首相と[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[金正日]]総書記との[[日朝首脳会談]]を巡る水面下の交渉に携わった。
*[[天木直人]] - 駐[[レバノン]]大使。退官後、自著の外務省批判の書籍がベストセラーとなった。
*[[田中信明]] - ユネスコ事務次長を経て[[国際連合事務次長|国連事務次長]](軍縮局長)時代、[[潘基文]]が同事務総長に就任し辞任。
*[[沼田幹男]] - 外務省[[領事局]]長、駐[[ミャンマー]]大使を経て、[[日本台湾交流協会|交流協会]][[台北]]事務所長。語学専門職試験採用者では初の外務本省局長<!--[http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/08/23/kiji/K20110823001468720.html 61歳拓殖大卒 外務省局長にノンキャリアを初起用]-->にして、[[拓殖大学]]出身者としては初の[[中央省庁]]本省局長。また、拓大同期出身者には[[高橋博史]]駐[[アフガニスタン|アフガン]]大使が、拓大先輩には政治家[[鈴木宗男]]がいる。
*[[宮家邦彦]] - [[内閣官房]]内閣参事官([[内閣官房副長官補]]付)で退官後、評論家。
*[[佐藤地]] - ユネスコ大使、駐[[ハンガリー]]大使。2015年、[[端島 (長崎県)|端島]](軍艦島)の世界遺産登録において、[[端島 (長崎県)#韓国による世界遺産登録反対運動|韓国により日韓合意が突如反故にされた]]。[[岸田文雄]]外相、[[杉山晋輔]]外務審議官及び佐藤は、韓国側が求める[[日本統治時代の朝鮮人徴用|徴用工]]に言及する“強い言葉(「forced labor」)”の趣旨を大幅に盛り込む形で譲歩した。
*[[佐藤優 (作家)|佐藤優]] - 主任分析官。鈴木宗男事件で逮捕後、評論家となる。
*[[栗原菜緒]] – 実業家。[[秋篠宮文仁親王]]妃[[文仁親王妃紀子|紀子]]の義妹(実弟の妻)にして[[悠仁親王]]の叔母。[[国家公務員|非常勤の一般職国家公務員]]として[[国際法局 (外務省)|国際法局]]に奉職。
== 関連紛争や諸問題 ==
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* [[日米関係]]
** [[日米貿易摩擦]]
** [[日米地位協定#内容]]
** [[普天間基地移設問題]]
** [[高江ヘリパッド問題]]
** [[孤立主義#新孤立主義|米国の孤立主義的傾向]]に対応する[[日本の集団的自衛権#PKO協力法と再度の解釈改憲|集団的自衛権の解釈変更]]
** [[対外有償軍事援助|対外有償軍事援助(FMS)]]の高額調達等の問題
* [[日露関係]]
** [[北方領土問題]] - [[北方領土問題#択捉島、国後島、色丹島における中国企業による高速ネット網の整備|中国ファーウェイによる北方領土とサハリン間における光ケーブル網敷設問題]]
** [[若杉要#『米国共産党調書』発行|米国共産党調書]]([[ベノナ|ヴェノナ文書]]も参照)
** [[ラストヴォロフ事件]]
** [[レフチェンコ事件]]
** [[ミトロヒン文書]]
** 法眼俊作自殺事件{{refnest|group="注釈"|[[法眼晋作]]元外務次官の長男で、弟に[[法眼健作]]元国連事務次長がいる。[[東京都立日比谷高等学校|日比谷高校]]時代の同級生で外務省入省後輩にあたる[[加藤紘一]]らが言うには「[[ソビエト連邦|ソ連]]担当だった法眼俊作は[[ハニートラップ]]に引っ掛かりスイスで自殺した」とのこと<ref>「[https://books.google.com/books/about/%E6%9C%88%E5%88%8AHanada2017%E5%B9%B43%E6%9C%88%E5%8F%B7.html?hl=ja&id=c-1dDwAAQBAJ 蒟蒻問答 (第129回) トランプはプーチンに○○○○握られたな (笑)]」 [[堤堯]]・[[久保紘之]] [[月刊Hanada]]2017年3月号 p.104、<br />「小説 東大法学部」 [[大下英治]] [[角川文庫]] 1989年</ref>。}}
* [[日中関係史|日中関係]]
** [[価値観外交]]
** [[セキュリティダイヤモンド構想]]
** [[自由で開かれたインド太平洋戦略]]
** [[日米豪印戦略対話]]
** [[台湾有事]]
** [[尖閣諸島周辺海域における中国船による領海侵入等の問題|尖閣諸島中国船領海侵犯問題]]([[尖閣諸島関連年表]]も参照)
** [[中国漁船サンゴ密漁問題]]([[海上保安庁の歴史]]も参照)
** [[天皇特例会見]]
** [[政府開発援助#対中ODA|対中ODAの終了(2022年3月)]]<ref>{{Cite news|author= |url=https://www.jica.go.jp/press/2021/20220331_02.html |title=中国におけるODA事業の終了について |publisher=[[国際協力機構|国際協力機構(JICA)]] |date=2022-03-31|archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref>{{Cite news|author= |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO79130030S2A110C2EAC000/ |title=日本のODA、歴史に幕 中国 グローバルウオッチ |newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=|date=2022-01-12|archiveurl= |archivedate= }}、<br />{{Cite news|author= |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/zenkoku/primenews/202203/sp/0015180113.shtml |title=日本の対中ODA終了 協力縮小でパイプ細る懸念 |newspaper=[[神戸新聞]]|publisher=|date=2022-03-31|archiveurl= |archivedate= }}、<br />{{Cite news|author=高田正幸|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ3Y6X5YQ3YUHBI028.html|title=対中ODAが今月末で終了 「日本の支援、中国で知られず」批判も|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher= |date=2022-03-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220331075846/https://www.asahi.com/articles/ASQ3Y6X5YQ3YUHBI028.html |archivedate=2022-03-31}}</ref>
* [[日朝関係史|日朝関係]]・[[日韓問題]]
** [[北朝鮮による日本人拉致問題]]
** [[朝鮮民主主義人民共和国に対する制裁|北朝鮮に対する制裁]]([[経済制裁#現在経済制裁を受けている国|現在経済制裁を受けている国]]も参照) - [[瀬取り#朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による瀬取り|北朝鮮による瀬取り等制裁回避問題]]
** [[竹島問題]]
** [[日本の慰安婦問題]]
** [[慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話|河野談話]]
** [[村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」|村山談話]]
** [[慰安婦問題日韓合意]]
** [[端島 (長崎県)#韓国による世界遺産登録反対運動|韓国による端島世界遺産登録反対運動(徴用工問題)]]
** [[ディスカウントジャパン運動]] - [[告げ口外交]]
* [[靖国神社問題]]
* [[外交|外交問題]]・国外事件
** [[在クウェート日本大使館占拠事件]]
** [[在ペルー日本大使公邸占拠事件]]
** [[イラク日本人外交官射殺事件]]
** [[瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件]]
** [[上海総領事館員自殺事件]]
** [[プリンセス・マサコ]]出版問題([[菊タブー]])
* 国内問題・国内事件
** [[西山事件]]
** [[外務省審議官実父宅放火殺人事件]]
* [[不祥事]]
** [[外務省機密費流用事件]]
** [[鈴木宗男事件]]
** 在[[コンゴ民主共和国]]日本大使館書記官公金横領放火事件<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/kaiken4_000033.html |title=記者会見 越川官房長会見記録 |accessdate=2021年02月15日 |publisher=外務省 |date=2013年12月2日15時01分}}</ref>{{refnest|group="注釈"|なお当時の駐在大使は、[[福岡大学]]体育学部から[[青年海外協力隊]]員を経て外務省に入省した[[冨永純正]]だった。}}
** 外務省事務官[[覚醒剤]]所持事件{{refnest|group="注釈"|「[[霞ヶ関]]」の[[薬物]]事件は、2018年11月に起きた外務省の同件、2019年5月8日の[[経済産業省]]([[経済産業省#不祥事など]]参照)、同年5月28日の[[文部科学省]]([[文部科学省#不祥事や疑惑など]]参照)と3例続いた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/affairs/news/181126/afr1811260016-n1.html |title=外務省課長補佐を逮捕 歌舞伎町で覚醒剤所持疑い |accessdate=2021年2月15日 |publisher=[[産経新聞]] |date=2018年11月26日}}</ref>。}}
** その他の事件等{{refnest|group="注釈"|1999年・2001年・2004年に、事務官職員による痴漢や盗撮等の事件があった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a171054.htm |title=第171回国会 質問本文情報 平成二十一年一月二十三日提出 質問第五四号 痴漢や盗撮行為により逮捕された外務省職員が在職し続けることの是非等に関する再質問主意書 提出者 鈴木宗男 |accessdate=2023年2月03日 |publisher=[[衆議院]] |date=2009年01月23日}}</ref>。}}
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist|25em}}
===出典===
{{reflist|25em}}
== 参考文献 ==
===書籍===
* {{Citation |和書 |last = 牧原|first = 憲夫|authorlink=牧原憲夫|editor=|title=文明国をめざして|year=2008|publisher=[[小学館]]|series=日本の歴史|volume=13|isbn=978-4-09-622113-6|ref=harv}}
* {{Citation
|和書
|title = 外務省の百年(上)
|year = 1969
|publisher = 原書房
|editor = 外務省百年史編纂委員会
|url =
|ncid = BN02001600
|ref = {{sfnref|外務省百年史編纂委員会編|1969a}}
}}
* {{Citation
|和書
|title = 大蔵省史 : 明治・大正・昭和(第1巻)
|year = 1998
|publisher = 大蔵財務協会
|editor = 大蔵省財政金融研究所財政史室
|url = https://www.mof.go.jp/pri/publication/mof_history/okurasib.htm
|ncid = BA38517578
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}}
===定期刊行物===
====学術論文====
* {{Citation
|和書
|last = 島
|first = 善高
|title = 後藤新平関係文書--書翰の部(九)
|year = 2007
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|journal = 早稲田社会科学総合研究
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|pages = 21-43
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}}
<!--
====雑誌====
* {{Citation
|和書
|title = 大学ランキング 2022年版
|year = 2021
|publisher = 朝日新聞出版
|series = AERA MOOK進学
|editor =
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|ncid =
|isbn = 978-4-02-279275-4
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* {{Citation
|和書
|title = 大学ランキング 2021年版
|year = 2020
|publisher = 朝日新聞出版
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* {{Citation
|和書
|title = 大学ランキング 2020年版
|year = 2019
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|和書
|title = 大学ランキング 2019年版
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* {{Citation
|和書
|title = 大学ランキング 2018年版
|year = 2017
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|和書
|title = 大学ランキング 2017年版
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-->
== 関連項目 ==
{{commonscat|Ministry of Foreign Affairs (Japan)}}
* [[外交官#日本の外交官制度]] - [[外務公務員]] - [[キャリア (国家公務員)|キャリア]] - [[準キャリア]]
* [[外交記録公開文書]]
* [[報償費#外務省報償費]](外務[[機密]]費)
* [[政府開発援助]](ODA)
* [[日本の行政機関]]
* [[外国奉行]]
* [[ラヂオプレス]]
;その他関連団体
*[[霞関会]]
*[[日本外事協会]]
*[[日本外交協会]]
*[[外交時報社]]
== 外部リンク ==
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/ 外務省]
* [https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/Gaimusho.html 国立国会図書館 憲政資料室 外務省文書(Archives in the Japanese Ministry of Foreign Affairs, 1868-1945)]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81 |
3,423 | 農林水産省 | 農林水産省(のうりんすいさんしょう、英: Ministry of Agriculture, Forestry and Fisheries、略称: MAFF)は、日本の行政機関のひとつ。食料の安定供給、農林水産業の発展、森林保全、水産資源の管理等を所管する。日本語略称・通称は、農水省(のうすいしょう)。
国家行政組織法第3条第2項および農林水産省設置法第2条第1項に基づき設置されている。農林水産省設置法により、「農林水産省は、食料の安定供給の確保、農林水産業の発展、農林漁業者の福祉の増進、農山漁村および中山間地域等の振興、農業の多面にわたる機能の発揮、森林の保続培養および森林生産力の増進ならびに水産資源の適切な保存および管理を図ることを任務とする」(第3条)と規定されている。農業、畜産業、林業、水産業をはじめ、食料の安全・安定供給、農村の振興などを所管する。広義の「食」の安全については、農水省消費・安全局も関与しているが、狭義の「食品」の安全については、厚生労働省(医薬食品局)が所管している。競馬の監督官庁でもあり、競走名に「農林水産省賞典」がつく中央競馬の重賞競走がある。地方競馬の場合は農林水産大臣賞典となる。国営競馬時代には競馬部が競馬を主催したこともある。
農林水産大臣を長とし、内部部局として大臣官房、消費・安全局、食料産業局、生産局、経営局および農村振興局ならびに政策統括官を置くほか、審議会等として農業資材審議会、食料・農業・農村政策審議会、獣医事審議会、農林漁業保険審査会および農林物資規格調査会を、施設等機関として植物防疫所、動物検疫所および那覇植物防疫事務所並びに動物医薬品検査所、農林水産研修所および農林水産政策研究所 を、特別の機関として農林水産技術会議、食育推進会議および農林水産物・食品輸出本部を、地方支分部局として沖縄を除いた全国を分轄する形で、7つの地方農政局と北海道農政事務所を設置する。地方農政局と北海道農政事務所の下にはそれらの一部事務を分掌する出先機関として計81人の地方参事官、農業水利や土地改良をつかさどる事務所および計45の事業所が置かれている。
設置当初は、農林省(のうりんしょう)という名称だったが、200海里水域問題など種々の問題で水産行政の重要性が高まりつつあったため、1978年7月5日に現在の省名に改められた。
出典:
上述の農林水産省設置法第3条に示された任務を達成するため、農林水産省設置法第4条は計87号に及ぶ事務を列記し、所掌させている。具体的には以下などに関することがある。
農林水産省の内部組織は一般的に、法律の農林水産省設置法、政令の農林水産省組織令および省令の農林水産省組織規則が階層的に規定している。
農林水産省の施設等機関には以下の6区分がある。
農林水産省の地方支分部局は地方農政局と北海道農政事務所の2区分がある。
独立行政法人(2023年4月1日現在)
上記のうち行政執行法人
特殊法人(2023年4月1日現在)
特別の法律により設立される民間法人(特別民間法人、計2法人、202年4月1日現在)
認可法人
地方共同法人
特別の法律により設立される法人(2021年11月1日現在)
2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における農林水産省所管歳出予算は、2兆936億6754万3千円である。組織別の内訳は農林水産本省が1兆4973億8275万2千円、本省検査指導機関が 165億3511万4千円、農林水産技術会議が635億2429万2千円、地方農政局が720億7580万6千円、北海道農政事務所が37億3022万1千円、林野庁が2911億3617万7千円、水産庁が1492億8318万1千円となっている。本省予算のうち主なものは担い手育成・確保等対策費1790億3389万1千円、農業農村整備事業費1981億27万円、国産農産物生産基盤強化等対策費3811億8773万8千円である。
歳入予算の合計は4679億5823万7千円である。大半は雑収入で4306億6495万5千円となっており、主要なものは日本中央競馬会納付金が3608億3924万8千円、公共事業費負担金が361億8230万8千円となっている。雑収入以外では、国有林野事業収入354億3820万6千円などがある。
農林水産省は、食料安定供給特別会計と国有林野事業債務管理特別会計(林野庁)の2つの特別会計を所管する。また国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省および防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。
一般職の在職者数は2022年7月1日現在で1万8641人(男性14,769人、女性3,872人)である。機関別内訳は本省が1万3361人(男性10,309人、女性3,052人)、林野庁4,361人(男性3,687人、女性674人)、水産庁919人(男性773人、女性146人)となっている。
2013年3月まで、林野庁の国有林野事業に従事する職員の大半が適用されていた、国有林野事業を行う国の経営する企業に勤務する職員の給与等に関する特例法は、国有林野事業改正に伴い2013年4月から廃止されたため、現在では特別職を除く、全員が一般職給与法が適用される。
行政機関職員定員令に定められた農林水産省の定員は特別職1人を含めて19,622人(2023年9月30日までは、19,624人)である。本省および各外局別の定員は省令の農林水産省定員規則に定められており、本省13,934人(2023年9月30日までは、13,936人)、林野庁4,689人、水産庁999人と規定している。
2023年度の一般会計の予算定員は特別職が7人、一般職が19,407人の計19,414人である。これとは別に特別会計の予算定員として食料安定供給特別会計で201人(本省125人、水産庁23人、地方農政局53人)。東日本大震災復興特別会計で13人(地方農政局10人、林野庁3人)が措置されている。国有林野事業債務管理特別会計は、整理会計のためとして定員の措置はされていない。一般会計予算定員の機関別内訳は以下の通りである。
農林水産省の一般職職員は非現業の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は労働組合として、国家公務員法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国家公務員法第108条の2第3項)。従前は、林野庁の国有林野事業職員は、団体協約締結権も認められていた。これは国有林野事業職員が現業職員であるゆえに、非現業の職員と異なる公務員法によって規律されているためであったが、国有林野の改正により、労働組合法と特労法の適用から国家公務員法の適用となったため、現在は団体協約締結権はなくなった。国有林野は、かつて5現業といわれたものの最後であった。
2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数は単一体2、支部197となっている。組合員数は1万498人、組織率は66.6%となっている。この組織率は12府省2院の中で最高である。2位の厚生労働省を6.9ポイント上回り、全体平均の37.0%より29.6ポイント高い。職員団体は全農林労働組合と全国林野関連労働組合(林野労組)である。全農林は国有林野事業を除いた省関係機関全体に組織を置き、林野労組は国有林野事業の職員および作業員から構成されている。加盟産別は、前者は国公関連労働組合連合会(略称:国公連合)、後者は全日本森林関連産業労働組合連合会(森林労連)で、どちらも連合の構成組織である。また全農林は国公連合を介して、林野労組は直接、連合系の官公労協議会である公務公共サービス労働組合協議会(公務労協)に加盟している。
従来は農家の申請は紙の書類が基本であり、1つの手続きに必要な書類の厚さは50cmにも達していた。このような紙に依存した業務を見直しデジタルトランスフォーメーションを勧めるため、2019年に事務次官直轄の「デジタル戦略グループ」が発足し、ITに精通した若手官僚を中心に改革が進められた。
2000年代初頭に電子政府計画時にも、25億円以上の予算で電子申請システムを整備したが、職員側の知識が不足しており書類による事務から脱却することができず、ベンダーに丸投げした結果、使いにくい仕様となり、2008年度時点で利用率が0.09%などほぼ使われない状態であった。このような反省を踏まえ、デジタル戦略グループのメンバーが応用情報技術者試験やプロジェクトマネージャ試験を受けて資格を取得するなど研鑽を積むなどしてベンダーと高度な対話が可能となったことで使いやすいシステムの開発が可能となり、2021年4月には約3000ある手続きの3分の1をオンライン化した「農林水産省共通申請サービス(eMAFF)」の運用が開始された。
省内ではプログラミングに詳しくない一般職員でも、オンライン申請用の画面を構築できる仕組みと操作の研修を行うなど、現在では霞が関で最もデジタル改革が進んでいるとされる。
農林水産省が編集する白書には『食料・農業・農村白書』、『森林・林業白書』および『水産白書』があり、それぞれ、食料・農業・農村基本法、森林・林業基本法および水産基本法の規定により、毎年、政府が国会に提出する報告書および今後の施策文書を収録している。たとえば、『食料・農業・農村白書』は食料・農業・農村基本法第14条に定められた「食料、農業及び農村の動向並びに政府が食料、農業及び農村に関して講じた施策に関する報告」と「食料、農業及び農村の動向を考慮して講じようとする施策を明らかにした文書」が収録される。森林・林業白書と水産白書も同様である。また、これらの報告書・文書は対応する審議会の意見を聴いて作成しなければならず、食料・農業・農村は食料・農業・農村政策審議会が、森林・林業は林政審議会が、水産は水産政策審議会がの役割を担う。
定期刊行の広報誌としては、農林水産本省の「aff(あふ)」、林野庁の「林野」、水産庁の「漁政の窓」がそれぞれ月刊で刊行されている。
ウェブサイトのURLのドメイン名は「www.maff.go.jp」。ほかに林野庁は「www.rinya.maff.go.jp」、水産庁は「www.jfa.maff.go.jp」、農林水産技術会議は「www.s.affrc.go.jp」と、独自のドメイン名を持つ。
省の公式YouTubeチャンネルとして「maffchannel」を有しており、大臣記者会見などを流しているが、これと別に「食、地方の魅力を伝えるSNS発信プロジェクト」としてYouTubeチャンネル「BUZZ MAFF」(ばずまふ)を2020年1月7日に立ち上げた。これは当時の農林水産大臣の江藤拓の「ネットを使った日本の魅力を若い世代に世界中に発信したい」という発案によるもので、地方農政局職員を含む若手職員14チーム69人が日常業務の一環として発信を続けている。
一般職の幹部は以下のとおりである | [
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"text": "農林水産省(のうりんすいさんしょう、英: Ministry of Agriculture, Forestry and Fisheries、略称: MAFF)は、日本の行政機関のひとつ。食料の安定供給、農林水産業の発展、森林保全、水産資源の管理等を所管する。日本語略称・通称は、農水省(のうすいしょう)。",
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"text": "国家行政組織法第3条第2項および農林水産省設置法第2条第1項に基づき設置されている。農林水産省設置法により、「農林水産省は、食料の安定供給の確保、農林水産業の発展、農林漁業者の福祉の増進、農山漁村および中山間地域等の振興、農業の多面にわたる機能の発揮、森林の保続培養および森林生産力の増進ならびに水産資源の適切な保存および管理を図ることを任務とする」(第3条)と規定されている。農業、畜産業、林業、水産業をはじめ、食料の安全・安定供給、農村の振興などを所管する。広義の「食」の安全については、農水省消費・安全局も関与しているが、狭義の「食品」の安全については、厚生労働省(医薬食品局)が所管している。競馬の監督官庁でもあり、競走名に「農林水産省賞典」がつく中央競馬の重賞競走がある。地方競馬の場合は農林水産大臣賞典となる。国営競馬時代には競馬部が競馬を主催したこともある。",
"title": "概説"
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"text": "農林水産大臣を長とし、内部部局として大臣官房、消費・安全局、食料産業局、生産局、経営局および農村振興局ならびに政策統括官を置くほか、審議会等として農業資材審議会、食料・農業・農村政策審議会、獣医事審議会、農林漁業保険審査会および農林物資規格調査会を、施設等機関として植物防疫所、動物検疫所および那覇植物防疫事務所並びに動物医薬品検査所、農林水産研修所および農林水産政策研究所 を、特別の機関として農林水産技術会議、食育推進会議および農林水産物・食品輸出本部を、地方支分部局として沖縄を除いた全国を分轄する形で、7つの地方農政局と北海道農政事務所を設置する。地方農政局と北海道農政事務所の下にはそれらの一部事務を分掌する出先機関として計81人の地方参事官、農業水利や土地改良をつかさどる事務所および計45の事業所が置かれている。",
"title": "概説"
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{
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"text": "設置当初は、農林省(のうりんしょう)という名称だったが、200海里水域問題など種々の問題で水産行政の重要性が高まりつつあったため、1978年7月5日に現在の省名に改められた。",
"title": "概説"
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"text": "出典:",
"title": "沿革"
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"text": "上述の農林水産省設置法第3条に示された任務を達成するため、農林水産省設置法第4条は計87号に及ぶ事務を列記し、所掌させている。具体的には以下などに関することがある。",
"title": "所掌事務"
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"text": "農林水産省の内部組織は一般的に、法律の農林水産省設置法、政令の農林水産省組織令および省令の農林水産省組織規則が階層的に規定している。",
"title": "組織"
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"text": "農林水産省の施設等機関には以下の6区分がある。",
"title": "組織"
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"text": "農林水産省の地方支分部局は地方農政局と北海道農政事務所の2区分がある。",
"title": "組織"
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"text": "独立行政法人(2023年4月1日現在)",
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"text": "特殊法人(2023年4月1日現在)",
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"text": "特別の法律により設立される民間法人(特別民間法人、計2法人、202年4月1日現在)",
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"title": "所管法人"
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"text": "地方共同法人",
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"text": "特別の法律により設立される法人(2021年11月1日現在)",
"title": "所管法人"
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"text": "2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における農林水産省所管歳出予算は、2兆936億6754万3千円である。組織別の内訳は農林水産本省が1兆4973億8275万2千円、本省検査指導機関が 165億3511万4千円、農林水産技術会議が635億2429万2千円、地方農政局が720億7580万6千円、北海道農政事務所が37億3022万1千円、林野庁が2911億3617万7千円、水産庁が1492億8318万1千円となっている。本省予算のうち主なものは担い手育成・確保等対策費1790億3389万1千円、農業農村整備事業費1981億27万円、国産農産物生産基盤強化等対策費3811億8773万8千円である。",
"title": "財政"
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"text": "歳入予算の合計は4679億5823万7千円である。大半は雑収入で4306億6495万5千円となっており、主要なものは日本中央競馬会納付金が3608億3924万8千円、公共事業費負担金が361億8230万8千円となっている。雑収入以外では、国有林野事業収入354億3820万6千円などがある。",
"title": "財政"
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"text": "農林水産省は、食料安定供給特別会計と国有林野事業債務管理特別会計(林野庁)の2つの特別会計を所管する。また国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省および防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。",
"title": "財政"
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"text": "一般職の在職者数は2022年7月1日現在で1万8641人(男性14,769人、女性3,872人)である。機関別内訳は本省が1万3361人(男性10,309人、女性3,052人)、林野庁4,361人(男性3,687人、女性674人)、水産庁919人(男性773人、女性146人)となっている。",
"title": "職員"
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"text": "2013年3月まで、林野庁の国有林野事業に従事する職員の大半が適用されていた、国有林野事業を行う国の経営する企業に勤務する職員の給与等に関する特例法は、国有林野事業改正に伴い2013年4月から廃止されたため、現在では特別職を除く、全員が一般職給与法が適用される。",
"title": "職員"
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{
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"text": "行政機関職員定員令に定められた農林水産省の定員は特別職1人を含めて19,622人(2023年9月30日までは、19,624人)である。本省および各外局別の定員は省令の農林水産省定員規則に定められており、本省13,934人(2023年9月30日までは、13,936人)、林野庁4,689人、水産庁999人と規定している。",
"title": "職員"
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"text": "2023年度の一般会計の予算定員は特別職が7人、一般職が19,407人の計19,414人である。これとは別に特別会計の予算定員として食料安定供給特別会計で201人(本省125人、水産庁23人、地方農政局53人)。東日本大震災復興特別会計で13人(地方農政局10人、林野庁3人)が措置されている。国有林野事業債務管理特別会計は、整理会計のためとして定員の措置はされていない。一般会計予算定員の機関別内訳は以下の通りである。",
"title": "職員"
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{
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"text": "農林水産省の一般職職員は非現業の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は労働組合として、国家公務員法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国家公務員法第108条の2第3項)。従前は、林野庁の国有林野事業職員は、団体協約締結権も認められていた。これは国有林野事業職員が現業職員であるゆえに、非現業の職員と異なる公務員法によって規律されているためであったが、国有林野の改正により、労働組合法と特労法の適用から国家公務員法の適用となったため、現在は団体協約締結権はなくなった。国有林野は、かつて5現業といわれたものの最後であった。",
"title": "職員"
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"text": "2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数は単一体2、支部197となっている。組合員数は1万498人、組織率は66.6%となっている。この組織率は12府省2院の中で最高である。2位の厚生労働省を6.9ポイント上回り、全体平均の37.0%より29.6ポイント高い。職員団体は全農林労働組合と全国林野関連労働組合(林野労組)である。全農林は国有林野事業を除いた省関係機関全体に組織を置き、林野労組は国有林野事業の職員および作業員から構成されている。加盟産別は、前者は国公関連労働組合連合会(略称:国公連合)、後者は全日本森林関連産業労働組合連合会(森林労連)で、どちらも連合の構成組織である。また全農林は国公連合を介して、林野労組は直接、連合系の官公労協議会である公務公共サービス労働組合協議会(公務労協)に加盟している。",
"title": "職員"
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"text": "従来は農家の申請は紙の書類が基本であり、1つの手続きに必要な書類の厚さは50cmにも達していた。このような紙に依存した業務を見直しデジタルトランスフォーメーションを勧めるため、2019年に事務次官直轄の「デジタル戦略グループ」が発足し、ITに精通した若手官僚を中心に改革が進められた。",
"title": "DX"
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"text": "2000年代初頭に電子政府計画時にも、25億円以上の予算で電子申請システムを整備したが、職員側の知識が不足しており書類による事務から脱却することができず、ベンダーに丸投げした結果、使いにくい仕様となり、2008年度時点で利用率が0.09%などほぼ使われない状態であった。このような反省を踏まえ、デジタル戦略グループのメンバーが応用情報技術者試験やプロジェクトマネージャ試験を受けて資格を取得するなど研鑽を積むなどしてベンダーと高度な対話が可能となったことで使いやすいシステムの開発が可能となり、2021年4月には約3000ある手続きの3分の1をオンライン化した「農林水産省共通申請サービス(eMAFF)」の運用が開始された。",
"title": "DX"
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"text": "省内ではプログラミングに詳しくない一般職員でも、オンライン申請用の画面を構築できる仕組みと操作の研修を行うなど、現在では霞が関で最もデジタル改革が進んでいるとされる。",
"title": "DX"
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"text": "農林水産省が編集する白書には『食料・農業・農村白書』、『森林・林業白書』および『水産白書』があり、それぞれ、食料・農業・農村基本法、森林・林業基本法および水産基本法の規定により、毎年、政府が国会に提出する報告書および今後の施策文書を収録している。たとえば、『食料・農業・農村白書』は食料・農業・農村基本法第14条に定められた「食料、農業及び農村の動向並びに政府が食料、農業及び農村に関して講じた施策に関する報告」と「食料、農業及び農村の動向を考慮して講じようとする施策を明らかにした文書」が収録される。森林・林業白書と水産白書も同様である。また、これらの報告書・文書は対応する審議会の意見を聴いて作成しなければならず、食料・農業・農村は食料・農業・農村政策審議会が、森林・林業は林政審議会が、水産は水産政策審議会がの役割を担う。",
"title": "広報"
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"text": "定期刊行の広報誌としては、農林水産本省の「aff(あふ)」、林野庁の「林野」、水産庁の「漁政の窓」がそれぞれ月刊で刊行されている。",
"title": "広報"
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"text": "ウェブサイトのURLのドメイン名は「www.maff.go.jp」。ほかに林野庁は「www.rinya.maff.go.jp」、水産庁は「www.jfa.maff.go.jp」、農林水産技術会議は「www.s.affrc.go.jp」と、独自のドメイン名を持つ。",
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"text": "省の公式YouTubeチャンネルとして「maffchannel」を有しており、大臣記者会見などを流しているが、これと別に「食、地方の魅力を伝えるSNS発信プロジェクト」としてYouTubeチャンネル「BUZZ MAFF」(ばずまふ)を2020年1月7日に立ち上げた。これは当時の農林水産大臣の江藤拓の「ネットを使った日本の魅力を若い世代に世界中に発信したい」という発案によるもので、地方農政局職員を含む若手職員14チーム69人が日常業務の一環として発信を続けている。",
"title": "広報"
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] | 農林水産省は、日本の行政機関のひとつ。食料の安定供給、農林水産業の発展、森林保全、水産資源の管理等を所管する。日本語略称・通称は、農水省(のうすいしょう)。 | {{行政官庁
|国名 = {{JPN}}
|正式名称 = {{big|{{ruby-ja|農林水産省|のうりんすいさんしょう}}}}
|英名 = Ministry of Agriculture, Forestry and Fisheries
|紋章 =農林水産省ロゴ.svg
|紋章サイズ = 260px
|画像 = Central Gov't Bldg 1.jpg
|画像サイズ = 280px
|画像説明 = 農林水産省本省庁舎([[中央合同庁舎第1号館]])
|主席閣僚職名 = [[農林水産大臣|大臣]]
|主席閣僚氏名 = [[坂本哲志]]
|次席閣僚職名 = [[農林水産副大臣|副大臣]]
|次席閣僚氏名 = [[鈴木憲和]]<br/>[[武村展英]]
|補佐官職名 = [[農林水産大臣政務官|大臣政務官]]
|補佐官氏名 = [[高橋光男]]<br/>[[舞立昇治]]
|次官職名 = [[事務次官]]
|次官氏名 = [[横山紳]]
|上部組織 = 上部組織
|上部組織概要 = [[内閣 (日本)|内閣]]<ref>[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/satei_01_05_3.pdf 我が国の統治機構] 内閣官房 2022年3月22日閲覧。</ref>
|下部組織1 = [[内部部局]]
|下部組織概要1 = [[農林水産省大臣官房|大臣官房]]<br/>[[消費・安全局]]<br/>[[輸出・国際局]]<br/>[[農産局]]<br/>[[経営局]]<br/>[[農村振興局]]<br/>[[畜産局]]
|下部組織2 = [[審議会|審議会等]]
|下部組織概要2 = [[農業資材審議会]]<br/>[[食料・農業・農村政策審議会]]<br/>[[獣医事審議会]]<br/>[[農漁業保険審査会]]<br/>[[日本農林規格調査会]]<br/>[[国立研究開発法人審議会 (農林水産省)|国立研究開発法人審議会]]
|下部組織3 = [[施設等機関]]
|下部組織概要3 = [[植物防疫所]]<br/>[[動物検疫所]]<br/>[[那覇植物防疫事務所]]<br/>[[動物医薬品検査所]]<br/>[[農林水産研修所]]<br/>[[農林水産政策研究所]]
|下部組織4 = [[特別の機関]]
|下部組織概要4 = [[農林水産技術会議]]<br/>[[食育推進会議]]<br/>[[農林水産物・食品輸出本部]]<br/>[[木材利用促進本部]]
|下部組織5 = [[地方支分部局]]
|下部組織概要5 = [[地方農政局]]<br/>[[北海道農政事務所]]
|下部組織6 = [[外局]]
|下部組織概要6 = [[林野庁]]<br/>[[水産庁]]
|所在地 = {{color|red|〒}}100-8950<br/>[[東京都]][[千代田区]][[霞が関]]1-2-1<br><small>{{coord|35.673741|139.751542|scale:10000|display=inline,title}}</small>
|位置 =
|定員 = 19,622人(2023年9月30日までは、19,624人)<ref name="定員令">{{Egov law|344CO0000000121|行政機関職員定員令(昭和44年5月16日政令第121号)(最終改正、令和5年3月30日政令第90号)}}</ref>
|年間予算 = 2兆936億6754万3千円<ref name="予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202311001.pdf 令和5年度一般会計予算]}} 財務省</ref>
|会計年度 = 2023
|根拠法令=[[農林水産省設置法]]|設置年月日 = [[1978年]]([[昭和]]53年)[[7月5日]]
|改称年月日 =
|前身 = [[農林省 (日本)|農林省]]
|ウェブサイト = {{official website|name=農林水産省}}
|その他 =
}}
'''農林水産省'''(のうりんすいさんしょう、{{lang-en-short|Ministry of Agriculture, Forestry and Fisheries、[[略称]]: '''MAFF'''}})は、[[日本]]の[[日本の行政機関|行政機関]]のひとつ<ref>[https://dictionary.goo.ne.jp/word/農林水産省/ 農林水産省の意味] goo辞書 2021年3月27日閲覧。</ref>。[[食品|食料]]の安定供給、[[第一次産業|農林水産業]]の発展、[[森林]]保全、[[海洋資源|水産資源]]の管理等を所管する。[[日本語]]略称・通称は、'''農水省'''(のうすいしょう)。
==概説==
[[国家行政組織法]]第3条第2項および[[農林水産省設置法]]第2条第1項に基づき設置されている。農林水産省設置法により、「農林水産省は、食料の安定供給の確保、農林水産業の発展、農林漁業者の福祉の増進、農山漁村および中山間地域等の振興、農業の多面にわたる機能の発揮、森林の保続培養および森林生産力の増進ならびに水産資源の適切な保存および管理を図ることを任務とする」(第3条)と規定されている。[[農業]]、[[畜産|畜産業]]、[[林業]]、[[水産業]]をはじめ、[[食料]]の安全・安定供給、[[農村]]の振興などを所管する。広義の[[食の安全|「食」の安全]]については、農水省消費・安全局も関与しているが、狭義の「[[食品]]」の安全については、[[厚生労働省]](医薬食品局)が所管している。[[競馬]]の監督官庁でもあり、競走名に「[[農林水産省賞典]]」がつく[[中央競馬]]の[[重賞]]競走がある。地方競馬の場合は農林水産大臣賞典となる。[[国営競馬]]時代には競馬部が競馬を主催したこともある。
[[農林水産大臣]]を長とし、[[内部部局]]として[[大臣官房]]、消費・安全局、食料産業局、生産局、経営局および農村振興局ならびに政策統括官を置くほか、[[審議会|審議会等]]として農業資材審議会、食料・農業・農村政策審議会、獣医事審議会、農林漁業保険審査会および農林物資規格調査会を、[[施設等機関]]として植物防疫所、動物検疫所および那覇植物防疫事務所並びに動物医薬品検査所、農林水産研修所および農林水産政策研究所 を、[[特別の機関]]として農林水産技術会議、食育推進会議および農林水産物・食品輸出本部を、[[地方支分部局]]として沖縄を除いた全国を分轄する形で、7つの地方農政局と北海道農政事務所を設置する。地方農政局と北海道農政事務所の下にはそれらの一部事務を分掌する出先機関として計81人の地方参事官{{Efn|旧・地域センター。}}、農業水利や土地改良をつかさどる事務所および計45の事業所が置かれている。
設置当初は、'''農林省'''(のうりんしょう)という名称だったが、[[排他的経済水域|200海里水域]]問題など種々の問題で水産行政の重要性が高まりつつあったため、[[1978年]][[7月5日]]に現在の省名に改められた。
== 沿革 ==
出典:<ref>{{PDFlink|[http://dajokan.ndl.go.jp/SearchSys/enkaku_H.pdf 官制沿革表]}}、国立国会図書館。</ref><ref>[https://www.digital.archives.go.jp/hensen/hensen-index.html 省庁組織変遷図]、国立公文書館。</ref>
* 1881年4月7日 - [[農商務省 (日本)|農商務省]]が設置される。
* 1925年4月1日 - 農商務省が分割されて、農林省(第1次)と[[商工省]](第1次)になる。
* 1943年11月1日 - 農林省(第1次)が廃止され、商工省の一部事務を引き継いで[[農商務省 (日本)|農商省]]が設置される。なお、同時に商工省を廃止して、[[軍需省]]が設置される。
* 1945年8月26日 - 農商省が農林省(第2次)となり{{Efn|法令上は農商省を改称。}}、軍需省が商工省(第2次)となる{{Efn|法令上は軍需省を改称。}}。
: [[外局]]の[[馬政局]]は農林省畜産局馬産課設置に伴い、廃止。
* 1946年10月19日 - [[自作農創設特別措置法]]<ref> {{Cite book| 和書| editor=| translator=| author=|year=1946| origyear=| title=[{{NDLDC|2962444/2}} 自作農創設特別措置法](昭和21年法律第23号、[[官報]])| publisher=[[大蔵省印刷局]]| location =東京| page=142|section=| quote=| isbn=| ref=harv}}</ref>、自作農創設特別措置特別会計法が公布。[[小作制度]]が廃止され、地主が所有し小作人から地代を取得していた小作地は自作農創設特別措置法3条の規定に基づき買収され農林省が土地所有者として[[登記]]されるなどしたのち、小作人に売却されるという[[農地改革#日本の農地改革|農地改革]]が行われた。
* 1948年7月1日 - 水産庁設置法(昭和23年7月1日法律第78号)により[[水産庁]]が設置される。
* 1949年6月1日 - 農林省官制(昭和18年勅令第821号)等に基づく農林省が廃止され、農林省設置法(昭和24年法律第153号)に基づく農林省となる。[[食糧庁]]と[[林野庁]]が設置される。
* 1963年1月20日 - 農林省設置法の一部を改正する法律(昭和38年1月16日法律第1号)により水産庁設置法(昭和23年7月1日法律第78号)が廃止され、水産庁の設置規定は、農林省設置法に規定された。
* 1968年6月 - 蚕糸局、園芸局を統合し蚕糸園芸局を設置。食糧庁の業務第二部を廃止。
* 1972年12月 - 農地局、農政局、蚕糸園芸局を再編し、構造改善局、農蚕園芸局、食品流通局を設置。1官房5局(大臣官房、農林経済局、構造改善局、農蚕園芸局、畜産局、食品流通局)体制となる。
* 1978年7月5日 - [[排他的経済水域]][[200海里]]時代を迎え、日本にとって水産行政の重要性が高まったことから<ref>[[東京新聞]] [https://www.tokyo-np.co.jp/article/12522]</ref>、農林省が農林水産省に改称される。農林経済局は経済局に改称。
* 1995年11月 - 養蚕業の不振等により農蚕園芸局から農産園芸局に改称。
* 2001年1月6日 - [[中央省庁再編]]により、農林水産省設置法(昭和24年法律第153号)に基づく農林水産省が廃止され、農林水産省設置法(平成11年7月16日法律第98号)に基づく農林水産省となる。これまでの1官房5局(経済局、構造改善局、農産園芸局、畜産局および食品流通局)から1官房4局(総合食料局、生産局、経営局および農村振興局)に再編する。
* 2003年7月1日 - 食糧庁を廃止して、消費・安全局を新設するなどの組織再編を行う。
* 2011年9月1日 - 総合食料局を廃止して、食料産業局を新設するなどの組織再編を行う。
* 2015年10月1日 - 政策統括官を新設するなどの組織再編を行う。
* 2021年7月1日 - 政策統括官の廃止、畜産局の復活、輸出・国際局の新設などの組織改編を行う。
== 所掌事務 ==
上述の農林水産省設置法第3条に示された任務を達成するため、農林水産省設置法第4条は計87号に及ぶ事務を列記し、所掌させている。具体的には以下などに関することがある。
{{Col-begin}}
{{Col-3}}
* [[食料政策|食料の安定供給の確保に関する政策]](第1号)
* 農林水産業に係る国土の総合開発および国土調査(第2号)
* 農林水産業者の[[協同組合|協同組織]]の発達(第3号)
* 所掌事務に係る一般消費者の利益の保護(第4号)
* [[日本農林規格]]および農林物資の品質に関する表示の基準(第5号)
* 飲食料品および油脂(第6号)
* [[卸売市場]]の整備および[[中央卸売市場]]の監督(第7号)
* 農林水産物市場における取引および商品投資の監督(第8号)
* 食品産業一般の発達、改善および調整(第9号)
* 食品産業における資源の有効利用(第10号)
* 農林水産物の輸出入並びに関税および国際協定(第11号)
* 農畜産物(第12号)
* 農林水産物の食品としての安全性の確保に関する事務のうち生産過程に係るもの(第14号)
* 農作物の作付体系の合理化(第15号)
* 農林水産植物の品種登録(第16号)
* [[家畜]]の改良および増殖ならびに取引(第17号)
* [[農地]]の土壌の改良ならびに汚染の防止および除去(第18号)
* [[草地]]の整備(第19号)
* 病虫害の防除、家畜の衛生ならびに輸出入に係る動植物および畜産物の[[検疫]](第20号)
* [[獣医師]]および獣医療(第21号)
* 肥料、農機具、農薬、飼料その他の農畜産業専用物品(第22号)
* 農業機械化の促進(第23号)
* [[中央競馬]]および[[地方競馬]]の監督および助成(第24号)
* 農業経営の改善および安定(第25号)
* 農業を担うべき者の確保(第26号)
* 農業労働(第27号)
{{Col-3}}
* 農業技術の改良・発達および農林漁業従事者の生活に関する知識の普及交換(第28号)
* 農地制度(第29号)
* 農地の権利移動その他農地関係の調整(第30号)
* 農業構造の改善(第31号)
* 農業者年金(第32号)
* 農業災害補償、森林保険ならびに漁船損害等補償、漁船乗組員給与保険および漁業災害補償(第33号)
* 農林水産業および食品産業の金融(第34号)
* [[日本政策金融公庫|株式会社日本政策金融公庫]]、[[農林中央金庫]]、農業信用基金協会、漁業信用基金協会および[[農水産業協同組合貯金保険機構]](第35号)
* 農住組合(第37号)
* [[農山村|農山漁村]]および[[中山間地域]]等の振興(第38号)
* [[豪雪地帯]]の[[雪害]]防除および振興(第39号)
* 農業振興地域整備計画(第40号)
* 農業生産条件に関する不利を補正するための支援(第41号)
* 土地、水その他の資源の農業上の利用の確保(第42号)
* 農地の転用(第43号)
* [[灌漑|農業水利]](第44号)
* 交換分合(第45号)
* [[土地改良法|土地改良事業]](第46号)
* 農地の保全に係る海岸の管理(第47号)
* 農地の保全に係る[[地すべり]]および[[ぼた山]]の崩壊の防止事業(第48号)
* 農山漁村と都市との交流(第49号)
* [[市民農園]]の整備の促進(第50号)
* 主要食糧の需給の調整(第51号)
* 主要食糧の輸入に係る納付金の徴収(第52号)
* 主要食糧の価格(第53号)
* 輸入飼料の流通(第54号)
* 農産物検査法の規定による農産物の検査(第55号)
{{Col-3}}
* [[森林]]資源(第56号)
* 林野の造林および治水、林道の開設(第57号)
* 森林経営の監督および助成(第58号)
* [[保安林]](第59号)
* 森林病害虫の駆除および予防(第60号)
* 林野の保全に係る地すべりおよびぼた山の崩壊の防止事業(第61号)
* 国土緑化の推進(第62号)
* 木材その他の林産物および加工炭(第63号)
* 林業経営(第64号)
* 林業技術の改良・発達・普及交換および林業・木材産業改善資金(第65号)
* 林業構造の改善(第66号)
* [[日本の国有林|国有林野]]の管理経営(第67号)
* 水産資源の保存および管理(第68号)
* 漁業の指導および監督(第69号)
* 外国人が行う漁業および水産動植物の採捕の規制(第70号)
* [[遠洋漁業]]および沖合漁業に係る漁場(第71号)
* [[沿岸漁業]]に係る漁場の保全および持続的な養殖生産の確保(第72号)
* [[栽培漁業]](第73号)
* [[遊漁船業]](第74号)
* 水産物(第75号)
* 水産業専用物品および氷(第76号)
* 水産業経営(第77号)
* 水産技術の改良・発達・普及交換および沿岸漁業改善資金(第78号)
* [[北方領土問題対策協会|独立行政法人北方領土問題対策協会]]の行う資金の貸付け(第79号)
* 沿岸漁業の構造改善(第80号)
* [[漁船]]の建造、登録および検査(第81号)
* [[漁港]](第82号)
* 漁港の区域に係る海岸の管理(第83号)
* 農林水産業に係る保護増殖事業(第84号)
{{Col-end}}
== 組織 ==
[[ファイル:Norinsuisansho1.jpg|thumb|250px|農林水産省庁舎・正面]]
農林水産省の内部組織は一般的に、法律の[[農林水産省設置法]]、政令の農林水産省組織令および省令の農林水産省組織規則が階層的に規定している。
=== 幹部 ===
* [[農林水産大臣]]([[国家行政組織法]]第5条、法律第2条第2項)
* [[農林水産副大臣]](2人)(国家行政組織法第16条)
* [[農林水産大臣政務官]](2人)(国家行政組織法第17条)
* [[大臣補佐官|農林水産大臣補佐官]](1人、必置ではない) (国家行政組織法第17条の2)
* [[事務次官等の一覧#農林水産事務次官|農林水産事務次官]](国家行政組織法第18条)
* [[農林水産審議官]](法律第5条)
* [[秘書官|農林水産大臣秘書官]]
=== 内部部局 ===
* [[農林水産省大臣官房|大臣官房]]
** 秘書課
** 文書課
** 予算課
** 政策課
** 広報評価課
** 地方課
** 環境バイオマス政策課
** 新事業・食品産業部
*** 新事業・食品産業政策課
*** 食品流通課
*** 食品製造課
*** 外食・食文化課
** 統計部
*** 管理課
*** 経営・構造統計課
*** 生産流通消費統計課
*** 統計企画管理官
** 検査・監察部
*** 調整・監察課
*** 検査課
* [[消費・安全局]] : 食料品に係る消費者保護、農林水産物の生産過程のリスク管理。
** 総務課
** 消費者行政・食育課
** 食品安全政策課
** 農産安全管理課
** 畜水産安全管理課
** 植物防疫課
** 動物衛生課
* [[輸出・国際局]] : 輸出関連施策の実行、省横断的に強力に指揮、指導、対外関係や国際協力などの業務の全体的な調整。
** 総務課
** 輸出企画課
** 輸出支援課
** 国際地域課
** 国際経済課
** 知的財産課
** 参事官
* [[農産局]] : 農産物の生産・管理。
** 総務課
** 穀物課
** 園芸作物課
** 地域対策官
** 地域作物課
** 農産政策部
*** 企画課
*** 貿易業務課
*** 技術普及課
*** 農業環境対策課
* [[畜産局]] : 畜産物の生産・管理。
** 総務課
** 企画課
** 畜産振興課
** 飼料課
** 牛乳乳製品課
** 食肉鶏卵課
** 競馬監督課
* [[経営局]] : 農業経営安定化、農協、農業構造改善、農業者年金など。
** 総務課
** 経営政策課
** 農地政策課
** 就農・女性課
** 協同組織課
** 金融調整課
** 保険課
** 保険監理官
* [[農村振興局]] : 農山漁村・都市農業の振興、農村景観や土地・水の農業利用の確保、都市農村間の交流(グリーン・ツーリズム)、農業関連資本整備など。
** 総務課
** 農村政策部
*** 農村計画課
*** 地域振興課
*** 都市農村交流課
*** 鳥獣対策・農村環境課
** 整備部
*** 設計課
*** 土地改良企画課
*** 水資源課
*** 農地資源課
*** 地域整備課
*** 防災課
=== 審議会等 ===
* 農業資材審議会(法律第6条第1項)
* [[食料・農業・農村政策審議会]]([[食料・農業・農村基本法]]、法律第6条第2項)
* 獣医事審議会([[獣医師法]]、法律第6条第2項)
* 農漁業保険審査会([[農業災害補償法]]、法律第6条第2項)
* 農林物資規格調査会(政令第85条)
* 国立研究開発法人審議会(政令第85条)
=== 施設等機関 ===
農林水産省の[[施設等機関]]には以下の6区分がある。
* [[植物防疫所]](法律第8条第1項)
** 支所・出張所(法律第9条第2項)
** 横浜植物防疫所(省令第65条)
** 名古屋植物防疫所(省令第65条)
** 神戸植物防疫所(省令第65条)
** 門司植物防疫所(省令第65条)
* 那覇植物防疫事務所(法律第8条第2項)
** 出張所(法律第10条第2項)
* [[動物検疫所]]
** 支所・出張所(法律第11条第2項)
* [[動物医薬品検査所]](政令第87条)
* 農林水産研修所(政令第87条)
* [[農林水産政策研究所]] (政令第87条)
=== 特別の機関 ===
* [[農林水産技術会議]](法律第12条)
** 事務局(法律第15条)
** 研究調整課(技術会議事務局組織規則第1条)
** 研究企画課
** 研究推進課
** 国際研究官
* 食育推進会議(食育基本法第26条)
* 農林水産物・食品輸出本部([[農林水産物及び食品の輸出の促進に関する法律]]第3条)
* 木材利用促進本部(脱炭素社会の実現に資する等のための建築物等における木材の利用の促進に関する法律第25条)
=== 地方支分部局 ===
農林水産省の地方支分部局は[[地方農政局]]と[[北海道農政事務所]]の2区分がある。
* 地方農政局(法律第17条)
** 事務所・事業所(法律第19条)
* 北海道農政事務所(法律第17条)
==== 地方農政局 ====
* [[東北農政局]](政令第91条)
* [[関東農政局]]
* [[北陸農政局]]
* [[東海農政局]]
* [[近畿農政局]]
* [[中国四国農政局]]
* [[九州農政局]]
=== 外局 ===
* [[林野庁]](国家行政組織法第3条第2項、法律第23条)
** 林政部
** 森林整備部
** 国有林野部
** 林政審議会
** 森林技術総合研修所
** 森林管理局
* [[水産庁]](国家行政組織法第3条第2項、法律第23条)
** 漁政部
** 資源管理部
** 増殖推進部
** 漁港漁場整備部
** 水産政策審議会
** 広域漁業調整委員会
** 漁業調整事務所
== 所管法人 ==
'''[[独立行政法人]]'''(2023年4月1日現在<ref>{{Cite web|和書|title=独立行政法人一覧(令和4年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000679614.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2022
-04-16}}</ref>)
*主管(計9法人)
**[[農林水産消費安全技術センター]]
**[[家畜改良センター]]
**[[農業・食品産業技術総合研究機構]]([[財務省]]と共管)
**[[国際農林水産業研究センター]]
**[[森林研究・整備機構]]
**[[水産研究・教育機構]]
**[[農畜産業振興機構]]
**[[農業者年金基金]]
**[[農林漁業信用基金]]([[財務省]]と共管)
*他省庁との共管
**[[水資源機構]]([[厚生労働省]]、[[経済産業省]]および[[国土交通省]]と共管)
**[[土木研究所]]([[国土交通省]]と共管)
**[[北方領土問題対策協会]]([[内閣府]]と共管)
上記のうち[[行政執行法人]]
*[[農林水産消費安全技術センター]](役職員は[[国家公務員]]の身分を有する)
'''特殊法人'''(2023年4月1日現在<ref>{{Cite web|和書|title=所管府省別特殊法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000876791.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>)
*単独主管
**[[日本中央競馬会]](JRA)
*他省庁との共管
**[[日本政策金融公庫]](財務省と共管、農林漁業金融の関係による)
'''[[特別の法律により設立される民間法人]]'''(特別民間法人、計2法人、202年4月1日現在<ref>{{Cite web|和書|title=特別の法律により設立される民間法人一覧(令和5年4月1日現在:34法人)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871326.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>)
*[[農林中央金庫]]
*[[全国漁業共済組合連合会]]
'''[[認可法人]]'''
*[[農水産業協同組合貯金保険機構]]
'''[[地方共同法人]]'''
*[[地方競馬全国協会]]
'''[[特別の法律により設立される法人]]'''(2021年11月1日現在<ref>{{Cite web|和書|title=特別の法律により設立される法人(令和3年11月1日現在)|url=https://www.maff.go.jp/j/corp/toku_hou/|publisher=農水産業省|accessdate=2022-12-06}}</ref>)
*単独所管(2法人)
**全国土地改良事業団体連合会
**全国食肉業務用卸協同組合連合会
*他省庁との共管
**[[日本商品先物取引協会]]([[経済産業省]]と共管)
== 財政 ==
2023年度(令和5年度)[[一般会計]]当初予算における農林水産省所管歳出予算は、2兆936億6754万3千円である<ref name="予算"></ref>。組織別の内訳は農林水産本省が1兆4973億8275万2千円、本省検査指導機関が 165億3511万4千円、農林水産技術会議が635億2429万2千円、地方農政局が720億7580万6千円、北海道農政事務所が37億3022万1千円、林野庁が2911億3617万7千円、水産庁が1492億8318万1千円となっている。本省予算のうち主なものは担い手育成・確保等対策費1790億3389万1千円、農業農村整備事業費1981億27万円、国産農産物生産基盤強化等対策費3811億8773万8千円である。
歳入予算の合計は4679億5823万7千円である。大半は雑収入で4306億6495万5千円となっており、主要なものは日本中央競馬会納付金が3608億3924万8千円、公共事業費負担金が361億8230万8千円となっている。雑収入以外では、国有林野事業収入354億3820万6千円などがある。
農林水産省は、[[食料安定供給特別会計]]と[[国有林野事業債務管理特別会計]](林野庁)の2つの特別会計を所管する。また国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省および防衛省所管<ref group="注釈">国の予算を所管するすべての機関である。なお人事院は予算所管では内閣に属するのでここにはない。</ref>の[[東日本大震災復興特別会計]]を共管する。
== 職員 ==
[[一般職]]の在職者数は2022年7月1日現在で1万8641人(男性14,769人、女性3,872人)である<ref>{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/joukin_toukei.pdf 一般職国家公務員在職状況統計表]}}(令和年7月1日現在)</ref>。機関別内訳は本省が1万3361人(男性10,309人、女性3,052人)、林野庁4,361人(男性3,687人、女性674人)、水産庁919人(男性773人、女性146人)となっている。
2013年3月まで、林野庁の国有林野事業に従事する職員の大半が適用されていた、国有林野事業を行う国の経営する企業に勤務する職員の給与等に関する特例法は、国有林野事業改正に伴い2013年4月から廃止されたため、現在では特別職を除く、全員が[[一般職の職員の給与に関する法律|一般職給与法]]が適用される。
行政機関職員定員令に定められた農林水産省の定員は[[特別職]]1人を含めて19,622人(2023年9月30日までは、19,624人)である<ref name="定員令"></ref>。本省および各[[外局]]別の定員は省令の農林水産省定員規則に定められており、本省13,934人(2023年9月30日までは、13,936人)、林野庁4,689人、水産庁999人と規定している<ref name="定員規則">「[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=413M60000200027&openerCode=1 農林水産省定員規則(平成13年1月6日農林水産省令第27号)]」(最終改正:令和5年3月30日農林水産省令第21号)</ref>。
2023年度の一般会計の予算定員は特別職が7人、一般職が19,407人の計19,414人である<ref name="予算"></ref>。これとは別に特別会計の予算定員として食料安定供給特別会計で201人(本省125人、水産庁23人、地方農政局53人)<ref group="注釈">水産庁が、食料安定供給特別会計の予算定員を有するのは、漁船再保険及び漁業共済保険特別会計が、平成26年度より、食料安定供給特別会計の漁船再保険勘定および漁業共済保険勘定となったため。</ref>。東日本大震災復興特別会計で13人(地方農政局10人、林野庁3人)が措置されている<ref>{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202312001.pdf 令和5年度特別会計予算]}} 財務省</ref>。国有林野事業債務管理特別会計は、整理会計のためとして定員の措置はされていない。一般会計予算定員の機関別内訳は以下の通りである。
* 農林水産省本省 - 3,761人(うち、特別職7人)
* 農林水産本省検査指導機関 - 1,760人
* 農林水産技術会議 - 174人
* 地方農政局 - 7,589人
* 北海道農政事務所 - 468人
* 林野庁 - 4,686人
* 水産庁 - 976人
農林水産省の[[一般職]]職員は非現業の[[国家公務員]]なので、[[労働基本権]]のうち[[争議権]]と[[団体交渉|団体協約締結権]]は[[国家公務員法]]により認められていない。[[団結権]]は認められており、職員は[[労働組合]]として、[[国家公務員法]]の規定する「[[職員団体]]」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国家公務員法第108条の2第3項)。従前は、林野庁の国有林野事業職員は、団体協約締結権も認められていた。これは国有林野事業職員が現業職員であるゆえに、非現業の職員と異なる公務員法によって規律されているためであったが、国有林野の改正により、[[労働組合法]]と[[特定独立行政法人等の労働関係に関する法律|特労法]]の適用から国家公務員法の適用となったため、現在は団体協約締結権はなくなった。国有林野は、かつて5現業といわれたものの最後であった。
2022年3月31日現在、[[人事院]]に登録された職員団体の数は単一体2、支部197となっている<ref>{{PDFlink|[https://www.jinji.go.jp/hakusho/pdf/1-3-6.pdf 令和3年度 年次報告書(公務員白書) 「第1編第3部第6章:職員団体 - 資料6-2;職員団体の登録状況。2022年3月31日現在。]}}</ref>。組合員数は1万498人、組織率は66.6%となっている。この組織率は12府省2院の中で最高である。2位の[[厚生労働省]]を6.9ポイント上回り、全体平均の37.0%より29.6ポイント高い。職員団体は[[全農林労働組合]]と全国林野関連労働組合(林野労組)である。全農林は国有林野事業を除いた省関係機関全体に組織を置き、林野労組は国有林野事業の職員および作業員から構成されている。加盟産別は、前者は[[国公関連労働組合連合会]](略称:国公連合)、後者は全日本森林関連産業労働組合連合会(森林労連)で、どちらも[[日本労働組合総連合会|連合]]の構成組織である。また全農林は国公連合を介して、林野労組は直接、連合系の官公労協議会である[[公務公共サービス労働組合協議会]](公務労協)に加盟している。
== DX ==
従来は農家の申請は紙の書類が基本であり、1つの手続きに必要な書類の厚さは50cmにも達していた<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=もう書類はいらない!?官僚たちのDX|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211216/k10013390381000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-12-17|last=日本放送協会}}</ref>。このような紙に依存した業務を見直し[[デジタルトランスフォーメーション]]を勧めるため、2019年に事務次官直轄の「デジタル戦略グループ」が発足し、ITに精通した若手官僚を中心に改革が進められた<ref name=":0" />。
2000年代初頭に[[電子政府]]計画時にも、25億円以上の予算で電子申請システムを整備したが、職員側の知識が不足しており書類による事務から脱却することができず、[[ベンダー]]に丸投げした結果、使いにくい仕様となり、2008年度時点で利用率が0.09%などほぼ使われない状態であった<ref name=":0" />。このような反省を踏まえ、デジタル戦略グループのメンバーが[[応用情報技術者試験]]や[[プロジェクトマネージャ試験]]を受けて資格を取得するなど研鑽を積むなどしてベンダーと高度な対話が可能となったことで使いやすいシステムの開発が可能となり、2021年4月には約3000ある手続きの3分の1をオンライン化した「農林水産省共通申請サービス(eMAFF)」の運用が開始された<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=ポータル {{!}} 農林水産省共通申請サービス|url=https://e.maff.go.jp/GuestPortal|website=e.maff.go.jp|accessdate=2021-12-17}}</ref>。
省内ではプログラミングに詳しくない一般職員でも、オンライン申請用の画面を構築できる仕組みと操作の研修を行うなど、現在では霞が関で最もデジタル改革が進んでいるとされる<ref name=":0" />。
== 広報 ==
農林水産省が編集する[[白書]]には『食料・農業・農村白書』、『森林・林業白書』および『[[水産白書]]』があり、それぞれ、[[食料・農業・農村基本法]]、[[森林・林業基本法]]および[[水産基本法]]の規定により、毎年、[[日本国政府|政府]]が[[国会 (日本)|国会]]に提出する報告書および今後の施策文書を収録している。たとえば、『食料・農業・農村白書』は食料・農業・農村基本法第14条に定められた「食料、農業及び農村の動向並びに政府が食料、農業及び農村に関して講じた施策に関する報告」と「食料、農業及び農村の動向を考慮して講じようとする施策を明らかにした文書」が収録される。森林・林業白書と水産白書も同様である。また、これらの報告書・文書は対応する[[審議会等|審議会]]の意見を聴いて作成しなければならず、食料・農業・農村は食料・農業・農村政策審議会が、森林・林業は林政審議会が、水産は水産政策審議会がの役割を担う。
定期刊行の広報誌としては、農林水産本省の「aff(あふ)」、林野庁の「林野」、水産庁の「漁政の窓」がそれぞれ月刊で刊行されている。
[[ウェブサイト]]の[[Uniform Resource Locator|URL]]の[[ドメイン名]]は「<code>www.maff.go.jp</code>」。ほかに林野庁は「<code>www.rinya.maff.go.jp</code>」、水産庁は「<code>www.jfa.maff.go.jp</code>」、農林水産技術会議は「<code>www.s.affrc.go.jp</code>」と、独自のドメイン名を持つ。
省の公式[[YouTube]]チャンネルとして「maffchannel」を有しており、大臣記者会見などを流しているが、これと別に「食、地方の魅力を伝える[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]発信プロジェクト」としてYouTubeチャンネル「[[BUZZ MAFF]]」(ばずまふ)を2020年1月7日に立ち上げた。これは当時の農林水産大臣の[[江藤拓]]の「ネットを使った日本の魅力を若い世代に世界中に発信したい」という発案によるもので、地方農政局職員を含む若手職員14チーム69人が日常業務の一環として発信を続けている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2001/21/news048.html|title=農水省職員が官僚系YouTuberに 大臣の“ネット活用アイデアがほしい”に若手が「待ってました」と提案|website=[[ITmedia]]|date=2020-01-21|accessdate=2020-03-25}}{{リンク切れ|date=2021年11月}}</ref>。
== 幹部職員 ==
一般職の幹部は以下のとおりである<ref>{{Cite web|和書|title=農林水産省幹部職員名簿 令和5年7月7日現在 |url=https://www.maff.go.jp/j/org/who/meibo/230707.html |website=www.maff.go.jp |access-date=2023-07-09 |publisher=農林水産省}}</ref>
* 事務次官 : [[横山紳]]
* 農林水産審議官 : [[小川良介]]
* 大臣官房長 : [[渡邊毅 (農林水産官僚)|渡邊毅]]
** 総括審議官 : [[杉中淳]]
** 総括審議官(新事業・食品産業): [[宮浦浩司]]
** 技術総括審議官 : [[川合豊彦]]
** 危機管理・政策立案総括審議官 : [[松尾浩則]]
** 農林水産政策研究所長 : [[高橋孝雄]]
** 検査・監察部長 : 増田直弘
** 統計部長 : 山田英也
** 新事業・食品産業部長 : 小林大樹
* 消費・安全局長 : [[安岡澄人]]
* 輸出・国際局長 : [[水野政義]]
* 農産局長 : [[平形雄策]]
** 農産政策部長 : 松本平
* 畜産局長 : [[渡邉洋一]]
* 経営局長 : [[村井正親]]
* 農村振興局長 : [[長井俊彦]]
** 農村振興局次長 : 青山健治
** 農村政策部長 : 佐藤一絵
** 整備部長 : 緒方和之
* 農林水産技術会議事務局長 : 川合豊彦
* 林野庁長官 : [[青山豊久]]
** 林野庁次長 : [[小坂善太郎 (農林水産技官)|小坂善太郎]]
** 林政部長 : 谷村栄二
** 森林整備部長 : 長﨑屋圭太
** 国有林野部長 : 橘政行
* 水産庁長官 : [[森健 (農林水産官僚)|森健]]
** 水産庁次長 : [[藤田仁司]]
** 漁政部長 : 山口潤一郎
** 資源管理部長 : 魚谷敏紀
** 増殖推進部長 : 坂康之
** 漁港漁場整備部長 : 田中郁也
== 関連紛争・諸問題 ==
=== 関連紛争 ===
* [[食糧管理制度]] - [[ミニマム・アクセス]] - [[日米貿易交渉 (2018年-2019年)]] - [[主要農作物種子法]](通称・種子法、2018年廃止) - [[日本のTPP交渉及び諸議論]]([[投資家対国家の紛争解決|ISDS条項]]等を参照)
* [[種苗法#令和2年の一部改正|改正種苗法]](2020年の一部改正)<ref>{{Cite news|url=https://toyokeizai.net/articles/-/616796?page=3 |title=損失100億、シャインマスカット「中国流出」の痛恨中国の栽培面積は日本の30倍、逆輸入の危機も |author=印南志帆 : [[東洋経済新報社|東洋経済]]記者 |publisher=[[東洋経済新報社]] |date=2022-09-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220911180343/https://toyokeizai.net/articles/-/616796?page=3 |archivedate=2022-09-11 }}</ref>
* [[遺伝子組み換え作物|遺伝子組み換え農産物]] - グリホサート含有除草剤[[ラウンドアップ]]問題 - [[モンサント (企業)|モンサント]]([[バイエル (企業)|バイエル]]に統合し消滅)
* [[捕鯨問題]] - [[中国漁船サンゴ密漁問題]]([[水産庁]])
=== 不祥事等 ===
* [[BSE問題]]
* [[ミートホープ#食肉偽装事件|ミートホープ食肉偽装事件]]
* [[事故米不正転売事件]]
* [[情報漏洩#事例|情報漏洩]]<ref>[https://eset-info.canon-its.jp/malware_info/special/detail/200324.html Googleドライブなどのクラウドストレージを使う際のセキュリティ対策 | サイバーセキュリティ情報局] キヤノンマーケティングジャパン株式会社</ref><ref group="注釈">2013年7月、[[環境省]]、[[復興庁]]、農林水産省、[[国土交通省]]、[[厚生労働省]]で[[クラウドストレージ]]における[[ファイル共有]]設定のミスにより、内部のメールやファイルが誰でも見られる状態となっていた。これらの情報には各省庁の機密データだけでなく、医療機関の患者情報など、個人情報も含まれていたことが当時、問題視された。</ref>。
=== その他 ===
* [[農水省オウムソング事件]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
== 関連項目 ==
{{commonscat|Ministry of Agriculture, Forestry and Fisheries (Japan)}}
* [[食料政策]]
* [[食糧自給率]] - [[食糧安全保障]]
* [[日本の農業]]
** [[土地改良区]] - [[農林水産省直轄ダム]] - [[植物工場]] - [[認定農業者]]
* [[農業協同組合]] - [[森林組合]] - [[漁業協同組合]]
* [[Go To キャンペーン|Go To イート]]([[Go To キャンペーン]])
* [[日本の行政機関]]
* [[将太の寿司|将太の寿司 心にひびくシャリの味]] - 農林水産省の[[政府広報]]番組。スポンサーも同省の一社提供であった。
*[[李春光事件]] - 農林水産省の機密文書が漏洩した疑いが指摘されている事件。
== 外部リンク ==
* {{official website|name=農林水産省ホームページ}}
{{中央省庁}}
{{農林水産省}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:のうりんすいさんしよう}}
[[Category:農林水産省|*]]
[[Category:災害対策基本法指定行政機関]]
[[Category:農業省]]
[[Category:1978年設立の政府機関]]
[[Category:1880年代日本の設立]] | 2003-03-05T00:58:23Z | 2023-12-30T06:56:11Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E6%9E%97%E6%B0%B4%E7%94%A3%E7%9C%81 |
3,424 | 防衛省 | 防衛省(ぼうえいしょう、英: Ministry of Defense、略称: MOD)は、日本の行政機関のひとつ。自衛隊の管理・運営及び日米安全保障条約に係る事務を所管する。
本省は「防衛省」と呼称されるが、英称は国防省と日本語訳されるものと同じである。
戦争放棄及び戦力の不保持を定めた日本国憲法第9条のもと、日本の国防を所管する行政機関であり、国家行政組織法3条および防衛省設置法2条に基づき内閣の統轄の下に設置される。長である防衛大臣は、陸海空自衛隊を含む防衛省全体の組織を統括する。任務は防衛省設置法が「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つことを目的とし、これがため、陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊を管理し、及び運営し、並びにこれに関する事務を行うこと」(3条1項)および「条約に基づく外国軍隊の駐留及び日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定の規定に基づくアメリカ合衆国連邦政府の責務の本邦における遂行に伴う事務で他の行政機関の所掌に属しないものを適切に行うこと」(3条2項)と規定する。
また日本ジブチ地位協定に係る事務とその協定に基づいてジブチ共和国に駐留している自衛隊員と自衛隊基地の管理等も行う。
シンボルマークは“青い球(地球)を守るように抱える緑色のヒトの形の上半身”である(自衛隊員を象徴する)。
1950年(昭和25年)、前身である警察予備隊本部が発足し、その後保安庁を経て、1954年(昭和29年)7月1日以来、防衛庁として総理府、内閣府の外局だったが、2007年(平成19年)1月9日に防衛省へ移行、内閣の統轄の下に行政事務をつかさどる機関である省の一つとなった。同年9月1日に防衛施設庁が内部部局の地方協力局と地方支分部局の地方防衛局に再編されたうえで統合された。
内部部局として大臣官房、防衛政策局、整備計画局、人事教育局、地方協力局を、審議会等として防衛施設中央審議会、自衛隊員倫理審査会及び防衛人事審議会を、施設等機関として防衛大学校、防衛医科大学校及び防衛研究所を、 特別の機関として防衛会議、統合幕僚監部、陸上幕僚監部、海上幕僚監部、航空幕僚監部、陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊等を、地方支分部局として8つの地方防衛局を、外局として防衛装備庁を置く。陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊とは、対応する陸海空幕僚監部並びに統合幕僚長及び対応する陸海空幕僚長の監督を受ける部隊及び機関とされている(自衛隊法2条2〜4項)。
行政組織法上はこれらすべての機関が防衛省の一部であるが、マスコミ報道においては特別の機関である陸海空自衛隊を除いた部分、特に内部部局のみを指して防衛省と呼ぶことが多い。自衛隊(陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊)とは、自衛隊法上は審議会等と駐留軍等労働者の労務管理等をつかさどる部局(防衛省地方協力局労務管理課)を除外した防衛大臣以下、内部部局からを含む防衛省の全体を指し(自衛隊法2条1項)、つまり「防衛省」と「自衛隊」はほぼ同一の組織のことを指している。一方、防衛省設置法に基づく国の行政機関としての側面からの名称が「防衛省」、国防等の職務を担う軍事的組織としての側面からの名称が「自衛隊」ということになる。
隊員とは防衛省の職員で、防衛大臣、防衛副大臣、防衛大臣政務官、防衛大臣補佐官、防衛大臣政策参与、防衛大臣秘書官、審議会等委員及び地方協力局労務管理課職員以外のものをいう(自衛隊法2条5項)。防衛事務次官、防衛書記官、防衛部員をはじめとする内部部局等のいわゆる文官は、自衛隊員であるとされており、自衛官(制服組)と同様に、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努める」という文言を含む服務の宣誓を行うこととされている(自衛隊法53条、自衛隊法施行規則39条)。
単一の省としては最も多くの職員が在籍する行政機関であり、防衛省職員への給与は国家公務員給与費の4割以上を占める。2023年度の一般会計予算は6兆7879億6544万6千円である。2002年度(平成14年度)の4兆9345億円から2012年度(平成24年度)の4兆6453億円まで11年連続で減少を続けていたが、第2次安倍内閣の成立後は増額している。
外務省との関係では、2023年(令和5年)1月1日現在、防衛駐在官72名(陸33名、海20名、空19名)が、外務省に出向して86大使館6政府代表部(兼務を除く在勤としては49大使館2政府代表部)に派遣されている。
明治2年から明治5年にかけて「国の防衛と治安維持」を管轄とする兵部省(ひょうぶしょう)という省庁が存在し、これは陸軍省と海軍省に分離・改組され日本の軍事を担っていた。1945年(昭和20年)の十五年戦争(支那事変・大東亜戦争・第二次世界大戦)終結により陸軍省は第一復員省、海軍省は第二復員省に改組されたのち、統合され復員庁となり1947年(昭和22年)に廃止された。
現在の防衛省の直接の前身は、1950年(昭和25年)6月の朝鮮動乱(韓国名6・25戦争、北朝鮮名祖国解放戦争)勃発を受けて発足した警察予備隊本部(けいさつよびたいほんぶ)に遡ることができる。その後、保安庁(ほあんちょう)、防衛庁(ぼうえいちょう)を経て現在の防衛省に至る。
防衛省の前身である防衛庁は、半世紀あまりの間「庁」のまま国家行政組織法上の位置付けの変更は行われなかったが、その間も「省」へ移行(府省の外局である庁から内閣直属の省へ昇格)させるべきとの意見は根強く、検討議論は頻繁になされていた。しかし、具体的な提案として、防衛庁の省移行が政治日程に上ったのは、小泉政権後期の2005年後半のことで、第1次安倍政権下の2007年1月に実現した。この間の経緯は以下のとおりである。
省への移行によって、内閣法にいう主任の大臣は、総理府・内閣府の長たる内閣総理大臣から防衛大臣となった。すなわち、防衛大臣は防衛省の所掌事務である国防について分担管理する大臣として責任を負う。しかし、防衛大臣が自衛隊に対して命令できる行動は「海上警備行動」までであり、それより上位の「警護出動」・「治安出動」、最上位の「防衛出動」は内閣の首長としての内閣総理大臣に命令権が与えられている。このため、省への移行に伴う防衛大臣(旧防衛庁長官)の職責上の変更点は、閣議への請議や財務大臣への予算要求、省令の制定などが防衛大臣の名において行えるようになったことに留まった。したがって、省への移行の具体的な効果は事務手続のごく若干の緩和、庁より格が高いとされる省への名称変更による隊員と職員の士気向上、他国の国防機関との均衡の改善などが挙げられている。
2007年(平成19年)11月27日、守屋武昌が東京地検の事情聴取を受け、軍需専門商社である山田洋行の元専務からゴルフ旅行などの接待を受けた見返りに防衛装備品の調達で便宜を図った疑いが強まったとして、妻と共に収賄容疑で逮捕された。それだけで終わらず守屋は庁の頃からゴルフ旅行などを行っており、かつての長官(久間章生、額賀福志郎)も事件の関与の疑いもあり、一部の雑誌で庁へ格下げ論を取り上げられるなどした(山田洋行事件)。
この事件や他の不祥事(防衛秘密の漏洩、報告義務違反)を踏まえ、町村信孝内閣官房長官は2007年(平成19年)11月に防衛省が抱える問題について検討を行う場として「防衛省改革会議」を開催することを決定した。会議は12月から開催され、南直哉が座長に就任した後、2008年の12月まで1年にわたって12回開催された。2008年(平成20年)7月15日に会議は「報告書 - 不祥事の分析と改革の方向性」を福田康夫内閣総理大臣に答申した。報告書の改革案には防衛大臣を中心とする政策決定機構の充実として、防衛参事官制度を廃止し、防衛大臣補佐官(現防衛大臣政策参与)を設置すること、防衛会議を法律で明確に位置づけることが盛り込まれていた。
この報告書を受けて、「防衛省設置法等の一部を改正する法律案」が策定され、2009年(平成21年)2月17日に閣議決定、同日国会に提出された。法案は従来訓令に基づく存在だった「防衛会議」を法律に規定された組織として「特別の機関」に位置づけるとともに、防衛参事官の廃止、防衛大臣補佐官3人以内の新設をするものだった。法案は同年5月27日に可決成立し、6月3日に「防衛省設置法等の一部を改正する法律」(平成21年法律第44号)として公布され、2009年(平成21年)8月1日に施行された。
南直哉を座長とする防衛省改革会議は2008年(平成20年)7月15日、防衛省再編に関する最終報告書をまとめ、福田康夫内閣総理大臣に提出した。内局の運用企画局を廃止し部隊運用を統合幕僚監部に一本化、統合幕僚副長の文官起用など、背広組と制服組の混合が柱となっている。また、2008年(平成20年)12月22日には、防衛省内の省改革本部会議が「基本的な考え方」を発表した。同報告書の内容を発展的に踏襲し、他省庁との調整も含む運用部門の統幕への一本化を盛り込んだ。しかし、2009年(平成21年)8月に執行された第45回衆議院議員総選挙により生じた政権交代の結果本項を含む組織改編は見送られ、同会議は同年11月17日もって廃止された。
2015年(平成27年)6月10日の参議院本会議において防衛省設置法を改正する法律が自民・公明両党及び維新の党などの賛成多数で可決され、この中で背広組を主体とする運用企画局を廃止し、部隊運用を統幕に一本化すること、防衛装備品の調達等を一元的に行う防衛装備庁の設置が盛り込まれ、同年10月1日付けで施行された。
防衛省設置法4条は33号にわたって所掌事務を列記している。具体的には以下の事項に関する事務がある。
なお、旧帝國陸海軍の残務処理については厚生労働省社会・援護局援護・業務課、旧軍人に支給される恩給については総務省政策統括官部局恩給業務管理官が所掌する。
防衛省の内部組織(内部部局、地方支分部局、防衛装備庁のほか特別の機関である幕僚監部、情報本部、防衛監察本部等を含む)は法律の防衛省設置法、政令の防衛省組織令が規定している。また特別の機関のうち自衛隊の部隊および機関については自衛隊法、自衛隊法施行令及び自衛隊法施行規則が詳細に規定している。
内部部局の幹部は以下のとおりである(2023年〈令和5〉年7月21日現在)。
自衛隊情報保全隊及び自衛隊サイバー防衛隊は陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊の共同の部隊として、自衛隊体育学校、自衛隊中央病院、自衛隊地区病院及び自衛隊地方協力本部は共同の機関として置かれている。
地方支分部局として地方防衛局を置く(法律33条1項)。前身は防衛施設庁の防衛施設局と装備本部の地方支部等である。内部組織として、総務部、企画部、調達部、管理部(東北防衛局、近畿中部防衛局及び中国四国防衛局には置かない。)、装備部(北関東防衛局に限る。)を(政令212条3項〜5項)、審議会として防衛施設地方審議会を(政令213条1項)それぞれ置く。
外局として防衛装備庁を置く。装備品等について、その開発及び生産のための基盤の強化を図りつつ、研究開発、調達、補給及び管理の適正かつ効率的な遂行並びに国際協力の推進を図ることを任務とする(法36条)。2015年10月1日に「防衛省設置法等の一部を改正する法律(平成27年法律第39号)」が施行されたことにより、「特別な機関」であった技術研究本部及び装備施設本部を廃止して設置された。
防衛省が主管する独立行政法人は2023年4月1日現在、駐留軍等労働者労務管理機構のみである。駐留軍等労働者労務管理機構は行政執行法人であり、役職員は国家公務員の身分を有する。
防衛省が主管する特殊法人及び特別の法律により設立される民間法人(特別民間法人)は2023年4月1日現在、存在しない。
防衛省が主管する認可法人、地方共同法人及び特別の法律により設立される法人は存在しない。
2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における防衛省所管の歳出予算6兆7879億6544万6千円である。
組織別の内訳は防衛本省が6兆4310億8391万2千円、地方防衛局が2181億984万8千円、防衛装備庁が3350億6168万6千円となっている。
本省予算の主な内訳は、防衛本省共通費が7937億1850万5千円、自衛官給与費が1兆4717億6845万6千円、武器車両等整備費が1兆1171億4199万3千円、航空機整備費が1兆1926億7162万7千円、艦船整備費が2467億0295万円、防衛力基盤整備費が8066億130万1千円、在日米軍等駐留関連諸費が3862億2267万8千円などであり、また防衛装備庁所管の防衛力基盤強化推進費が2885億1290万円となっている。
主管する歳入予算は523億554万5千円で、「官業益金及官業収入」(3部)が143億6816万8千円、「政府資産整理収入」(4部)が7億4957万8千円、「雑収入」(5部)が371億8779万9千円となっている。官業益金及官業収入は全額が防衛省病院収入(3部2款1項2目)である。
また、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、防衛省(本省のみ在職、防衛装備庁には在職しない。)で24人(男性20人、女性4人)である。他に非常勤職員が95人(男性65人、女性30人)であり、そのうち93人(男性63人、女性30人)が参与顧問委員等職員である。非常勤職員のうち7人(男性4人、女性3人)は、防衛装備庁に在籍し、全員が参与顧問委員等職員である。
行政機関職員定員令に定められた防衛省の定員は20,903人でこのうち特別職20,945人であり、一般職の定員は26人である。本省及び外局別の定員は省令の防衛省定員規則が、本省19,487人、防衛装備庁1,484人と規定する。
自衛官の定数は、防衛省設置法に定められており、陸上自衛隊の自衛官15万856人、海上自衛隊4万5363人、航空自衛隊4万6942人並びに共同の部隊に所属する自衛官1259人のほか、統合幕僚監部に所属する自衛官638人、情報本部に所属する自衛官1911人、内部部局に所属する自衛官48人並びに防衛装備庁に所属する自衛官407人を加えた総計24万7154人としている(6条)。
定員外の職員として自衛官候補生、予備自衛官、即応予備自衛官、予備自衛官補、防衛大学校学生、防衛医科大学校学生、陸上自衛隊高等工科学校生徒などの制度があり、またその他の非常勤職員も任用されている。ただし、予備自衛官は4万7900人(自衛隊法66条2項)、即応予備自衛官は8075人(自衛隊法75条の2第2項)と員数が法定されている。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職268,174人、一般職26人の計268,200人である。
防衛省の職員は原則として国家公務員の特別職であり、防衛省設置法や自衛隊法、防衛省職員給与法など一般職とは異なる公務員法制の下で人事管理が行われている。
防衛省のうち一般職の国家公務員であるものは、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は保障されており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。
2022年3月31日現在、一般職のうち管理職員以外の職員は21名であり人事院に登録された職員団体は、存在しない。
防衛省職員は、一般職の国家公務員であるものを除き、自衛官以外の者も自衛隊員であり、職務の性質から団結権も認められておらず、労働組合結成や加入してはならない(自衛隊法第64条)。
職員の試験による採用のうち、自衛官以外の隊員(職員)については国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、国家公務員採用総合職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(高卒者試験)及び防衛省専門職員採用試験の合格者の中から行われる。防衛省専門職員採用試験は防衛省が、それ以外の試験は人事院が実施する。2011年度までは現在の総合職試験に相当する試験として防衛省職員採用I種試験を、一般職試験(大卒程度試験)に相当する試験として防衛省職員採用II種試験(行政、技術、研究)を、防衛省専門職員採用試験に相当する試験としてII種試験(語学、国際関係)を、一般職試験(高卒者試験)に相当する試験として防衛省職員採用III種試験をそれぞれ防衛省が独自に実施していた。2012年度に人事院が現在の形に試験体系を改めたのを機に、現在の試験制度となった。
自衛官、自衛官候補生、学生、生徒及び予備自衛官補の採用もまた、原則として試験による(自衛隊法施行規則21条1項)。隊員の採用試験の方法は、筆記試験、身体検査及び口述試験とする(22条1項)ほか、自衛官、自衛官候補生及び予備自衛官補の採用試験においては適性検査を(22条2項)、防衛大学校の学生の採用試験においては、適応能力試験、討議試験及び体力試験を行うことができる(22条3項)。2017年度の具体的な採用区分を以下に示す。自衛官応募ナビ(各種募集種目)、防衛省職員も参照
防衛省職員の給与は一般職を除いて「防衛省の職員の給与等に関する法律」によって規律されている。一部、一般職の国家公務員の給与法規が準用されているが、主に自衛官を中心に独自の給与制度が定められている。
特別職であっても事務官等(自衛隊教官を除く。)には「一般職の職員の給与に関する法律」等に定められた一般職の国家公務員と同じ俸給表が適用される(防衛省職員給与法4条)。自衛隊教官には防衛省の職員の給与等に関する法律に定められた自衛隊教官俸給表(別表第一)、自衛官には、同法に定める自衛官俸給表(別表第二)に定められた額の俸給がそれぞれ支給される。2023年度予算の予算定員は自衛官俸給表に246,697人措置されている。
また事務官等には一般職の職員の給与に関する法律の規定を準用する形で本府省業務調整手当や地域手当、広域異動手当など、国家公務員の一般職と同様の手当を支給される(14条1項)。自衛官にも一般職と共通する手当が設けられているが、超過勤務手当、休日給及び夜勤手当等の特別の時間帯にかかる勤務に関する手当が支給されない。防衛出動を命ぜられた職員には防衛出動手当が支給される(15条1項)。また政令で定める自衛官には航空手当、乗組手当、落下傘隊員手当、特別警備隊員手当及び特殊作戦隊員手当が支給される(16条1項)。自衛官の航海、営外居住にはそれぞれ航海手当(17条1項)、営外手当(18条1項)が支給される。
賞与である期末手当及び勤勉手当は一般職の国家公務員の例により支給される(18条の2)。
防衛大学校又は防衛医科大学校の学生には給与として学生手当及び期末手当を支給する(防衛省の職員の給与等に関する法律25条1項) 。学生手当は月額11万5800円で(2項)、期末手当は一般職の国家公務員の例による(3項)。陸上自衛隊高等工科学校生徒にも同様に生徒手当(月額10万2500円)と期末手当が支給される(25条の2)。
自衛隊法は自衛隊員の服務の本旨について、「隊員は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身をきたえ、技能をみがき、強い責任感をもつて専心その職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に努め、もつて国民の負託にこたえることを期するものとする」(第52条)。自衛隊員になった者は服務の宣誓を行わなければならない(自衛隊法第53条)。一般の隊員は以下の宣誓文を記載された宣誓書に署名押印して服務の宣誓を行うことが義務付けられている(自衛隊法施行令39条)。
自衛官候補生、学生及び生徒、予備自衛官、即応予備自衛官、予備自衛官補、幹部自衛官は別の宣誓文がある。
隊員は勤務態勢について、何時でも職務に従事することのできる態勢になければならない(54条1項)とされ、さらに職務上の危険若しくは責任を回避し、又は上官の許可を受けないで職務を離れてはならない(56条)。自衛官は、防衛大臣が指定する場所に居住しなければならず(55条)、防衛大臣の定めるところに従い、制服を着用し、服装を常に端正に保たなければならない(58条2項)。守秘義務、職務専念義務、政治的行為の制限、私企業からの隔離については、一般職の国家公務員と同様の規程が自衛隊法に設けられている。労働組合の結成、争議行為は全面的に禁止されている(64条)。
職務に係る倫理の保持については特別に自衛隊員倫理法が定められており、部員級以上の自衛隊員は、事業者等から贈与等や報酬の支払を受けたときは四半期ごとに、贈与等報告書を防衛大臣に提出しなければならない(自衛隊員倫理法6条1項)。独自の取り組みとして自衛隊員向けに倫理啓発ビデオを製作している。2007年3月に完成し、同年6月から全自衛隊員を対象に上映されている。ビデオに登場する人物は、「ゴルフ接待漬けの上司」という設定であり、後に収賄で逮捕された守屋武昌にかけられた容疑をそのまま反映したかのようであった。
自衛隊が必要とする工業製品は、防衛省が発注している。種類は多いが少量生産であり、日本の防衛産業への影響および経済効果は比較的低く、工業生産額は0.6パーセントに留まっている。需要については長年武器輸出三原則により輸出が厳しく規制されていたため、納入先が日本国内にほぼ限定されており量産による低価格化が進まずに高価となる傾向がある。この点については他国との技術交流や各種コスト高を解消する目的も含めて新たに防衛装備移転三原則に基づいた柔軟な対応を採る方針が近年進みつつある。
防衛省と契約を結ぶ企業は約1,500社あるが、さらに広範囲な下請企業が存在する。戦車や戦闘機、護衛艦など、1つの兵器の製造に約1,200 - 2,500社以上関わるものもある。しかし、主要な製品を扱う企業が撤退するような事態に陥ると、主要な製品が特殊な技術および設備が必要とされる場合が多々あるため、産業の回復に投資と相応の期間を要し、防衛省はその維持と育成に着目している。
2022年(令和4年)度中央調達の契約相手方別契約高順位表の上位20社は以下の通りである。
防衛省は防衛白書にて「わが国の平和と安全を守る防衛省・自衛隊の活動は、国民一人ひとりの理解と支持があって初めて成り立つものである。このため、分かりやすい広報活動を積極的に行い、国民の信頼と協力を得ていくことが重要である」と、防衛省・自衛隊における広報活動の重要性を強調している。
国の防衛政策について、国民の理解を得るために『防衛白書』を年1回発行している。法律で義務づけられた国会への報告を収録する法定白書とは異なり、法律に定めのない非法定白書ではあるが、閣議案件として内閣の関与の下に刊行されている。1970年に最初に発行され、1976年以降は毎年刊行されている。
子ども向けに防衛白書を分かりやすく解説するために『まんがで読む防衛白書』という漫画冊子も毎年製作されている。「陸・海・空自衛隊の統合運用」(2012年度)、「東日本大震災における自衛隊の災害派遣活動」(2011年度)、「ハイチにおける国際平和協力活動」(2010年度)など、その年の白書の中から重要なテーマを一つを解説する内容となっている。
防衛省が編集協力する広報誌として『MAMOR』が扶桑社により月刊で刊行されている。防衛庁の時代には、広報誌として防衛弘済会が発行していた『セキュリタリアン』(1992年(平成4年)までは『防衛アンテナ』)があったが、平成18年(2006年)9月号を持って休刊となり、新たに『MAMOR』が2007年1月21日に創刊された。
同省サイト内の「防衛省・自衛隊の動画配信」ページおよびYouTube内の「防衛省動画チャンネル」にて防衛省・自衛隊に関する動画を配信している。
2022年(令和4年)6月、政権与党自由民主党は参院選公約で、NATO加盟国が対GDP比2%以上の国防ないし軍事予算増額を目標に掲げているのに比例して、日本も5年以内に防衛予算2%増額を目指す方針とした。並立して、思いやり予算(同盟強靱化予算)の増額と共に、高額納入や調達未納など米国対外有償軍事援助(FMS)の機能不全が指摘されている。 | [
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"text": "防衛省(ぼうえいしょう、英: Ministry of Defense、略称: MOD)は、日本の行政機関のひとつ。自衛隊の管理・運営及び日米安全保障条約に係る事務を所管する。",
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"text": "本省は「防衛省」と呼称されるが、英称は国防省と日本語訳されるものと同じである。",
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"text": "戦争放棄及び戦力の不保持を定めた日本国憲法第9条のもと、日本の国防を所管する行政機関であり、国家行政組織法3条および防衛省設置法2条に基づき内閣の統轄の下に設置される。長である防衛大臣は、陸海空自衛隊を含む防衛省全体の組織を統括する。任務は防衛省設置法が「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つことを目的とし、これがため、陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊を管理し、及び運営し、並びにこれに関する事務を行うこと」(3条1項)および「条約に基づく外国軍隊の駐留及び日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定の規定に基づくアメリカ合衆国連邦政府の責務の本邦における遂行に伴う事務で他の行政機関の所掌に属しないものを適切に行うこと」(3条2項)と規定する。",
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"text": "また日本ジブチ地位協定に係る事務とその協定に基づいてジブチ共和国に駐留している自衛隊員と自衛隊基地の管理等も行う。",
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"text": "シンボルマークは“青い球(地球)を守るように抱える緑色のヒトの形の上半身”である(自衛隊員を象徴する)。",
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"text": "1950年(昭和25年)、前身である警察予備隊本部が発足し、その後保安庁を経て、1954年(昭和29年)7月1日以来、防衛庁として総理府、内閣府の外局だったが、2007年(平成19年)1月9日に防衛省へ移行、内閣の統轄の下に行政事務をつかさどる機関である省の一つとなった。同年9月1日に防衛施設庁が内部部局の地方協力局と地方支分部局の地方防衛局に再編されたうえで統合された。",
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"text": "内部部局として大臣官房、防衛政策局、整備計画局、人事教育局、地方協力局を、審議会等として防衛施設中央審議会、自衛隊員倫理審査会及び防衛人事審議会を、施設等機関として防衛大学校、防衛医科大学校及び防衛研究所を、 特別の機関として防衛会議、統合幕僚監部、陸上幕僚監部、海上幕僚監部、航空幕僚監部、陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊等を、地方支分部局として8つの地方防衛局を、外局として防衛装備庁を置く。陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊とは、対応する陸海空幕僚監部並びに統合幕僚長及び対応する陸海空幕僚長の監督を受ける部隊及び機関とされている(自衛隊法2条2〜4項)。",
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"text": "行政組織法上はこれらすべての機関が防衛省の一部であるが、マスコミ報道においては特別の機関である陸海空自衛隊を除いた部分、特に内部部局のみを指して防衛省と呼ぶことが多い。自衛隊(陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊)とは、自衛隊法上は審議会等と駐留軍等労働者の労務管理等をつかさどる部局(防衛省地方協力局労務管理課)を除外した防衛大臣以下、内部部局からを含む防衛省の全体を指し(自衛隊法2条1項)、つまり「防衛省」と「自衛隊」はほぼ同一の組織のことを指している。一方、防衛省設置法に基づく国の行政機関としての側面からの名称が「防衛省」、国防等の職務を担う軍事的組織としての側面からの名称が「自衛隊」ということになる。",
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"text": "隊員とは防衛省の職員で、防衛大臣、防衛副大臣、防衛大臣政務官、防衛大臣補佐官、防衛大臣政策参与、防衛大臣秘書官、審議会等委員及び地方協力局労務管理課職員以外のものをいう(自衛隊法2条5項)。防衛事務次官、防衛書記官、防衛部員をはじめとする内部部局等のいわゆる文官は、自衛隊員であるとされており、自衛官(制服組)と同様に、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努める」という文言を含む服務の宣誓を行うこととされている(自衛隊法53条、自衛隊法施行規則39条)。",
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"text": "単一の省としては最も多くの職員が在籍する行政機関であり、防衛省職員への給与は国家公務員給与費の4割以上を占める。2023年度の一般会計予算は6兆7879億6544万6千円である。2002年度(平成14年度)の4兆9345億円から2012年度(平成24年度)の4兆6453億円まで11年連続で減少を続けていたが、第2次安倍内閣の成立後は増額している。",
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"text": "外務省との関係では、2023年(令和5年)1月1日現在、防衛駐在官72名(陸33名、海20名、空19名)が、外務省に出向して86大使館6政府代表部(兼務を除く在勤としては49大使館2政府代表部)に派遣されている。",
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"text": "明治2年から明治5年にかけて「国の防衛と治安維持」を管轄とする兵部省(ひょうぶしょう)という省庁が存在し、これは陸軍省と海軍省に分離・改組され日本の軍事を担っていた。1945年(昭和20年)の十五年戦争(支那事変・大東亜戦争・第二次世界大戦)終結により陸軍省は第一復員省、海軍省は第二復員省に改組されたのち、統合され復員庁となり1947年(昭和22年)に廃止された。",
"title": "沿革"
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"text": "現在の防衛省の直接の前身は、1950年(昭和25年)6月の朝鮮動乱(韓国名6・25戦争、北朝鮮名祖国解放戦争)勃発を受けて発足した警察予備隊本部(けいさつよびたいほんぶ)に遡ることができる。その後、保安庁(ほあんちょう)、防衛庁(ぼうえいちょう)を経て現在の防衛省に至る。",
"title": "沿革"
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"text": "防衛省の前身である防衛庁は、半世紀あまりの間「庁」のまま国家行政組織法上の位置付けの変更は行われなかったが、その間も「省」へ移行(府省の外局である庁から内閣直属の省へ昇格)させるべきとの意見は根強く、検討議論は頻繁になされていた。しかし、具体的な提案として、防衛庁の省移行が政治日程に上ったのは、小泉政権後期の2005年後半のことで、第1次安倍政権下の2007年1月に実現した。この間の経緯は以下のとおりである。",
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"text": "省への移行によって、内閣法にいう主任の大臣は、総理府・内閣府の長たる内閣総理大臣から防衛大臣となった。すなわち、防衛大臣は防衛省の所掌事務である国防について分担管理する大臣として責任を負う。しかし、防衛大臣が自衛隊に対して命令できる行動は「海上警備行動」までであり、それより上位の「警護出動」・「治安出動」、最上位の「防衛出動」は内閣の首長としての内閣総理大臣に命令権が与えられている。このため、省への移行に伴う防衛大臣(旧防衛庁長官)の職責上の変更点は、閣議への請議や財務大臣への予算要求、省令の制定などが防衛大臣の名において行えるようになったことに留まった。したがって、省への移行の具体的な効果は事務手続のごく若干の緩和、庁より格が高いとされる省への名称変更による隊員と職員の士気向上、他国の国防機関との均衡の改善などが挙げられている。",
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"text": "2007年(平成19年)11月27日、守屋武昌が東京地検の事情聴取を受け、軍需専門商社である山田洋行の元専務からゴルフ旅行などの接待を受けた見返りに防衛装備品の調達で便宜を図った疑いが強まったとして、妻と共に収賄容疑で逮捕された。それだけで終わらず守屋は庁の頃からゴルフ旅行などを行っており、かつての長官(久間章生、額賀福志郎)も事件の関与の疑いもあり、一部の雑誌で庁へ格下げ論を取り上げられるなどした(山田洋行事件)。",
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"text": "この事件や他の不祥事(防衛秘密の漏洩、報告義務違反)を踏まえ、町村信孝内閣官房長官は2007年(平成19年)11月に防衛省が抱える問題について検討を行う場として「防衛省改革会議」を開催することを決定した。会議は12月から開催され、南直哉が座長に就任した後、2008年の12月まで1年にわたって12回開催された。2008年(平成20年)7月15日に会議は「報告書 - 不祥事の分析と改革の方向性」を福田康夫内閣総理大臣に答申した。報告書の改革案には防衛大臣を中心とする政策決定機構の充実として、防衛参事官制度を廃止し、防衛大臣補佐官(現防衛大臣政策参与)を設置すること、防衛会議を法律で明確に位置づけることが盛り込まれていた。",
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"text": "この報告書を受けて、「防衛省設置法等の一部を改正する法律案」が策定され、2009年(平成21年)2月17日に閣議決定、同日国会に提出された。法案は従来訓令に基づく存在だった「防衛会議」を法律に規定された組織として「特別の機関」に位置づけるとともに、防衛参事官の廃止、防衛大臣補佐官3人以内の新設をするものだった。法案は同年5月27日に可決成立し、6月3日に「防衛省設置法等の一部を改正する法律」(平成21年法律第44号)として公布され、2009年(平成21年)8月1日に施行された。",
"title": "沿革"
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"text": "南直哉を座長とする防衛省改革会議は2008年(平成20年)7月15日、防衛省再編に関する最終報告書をまとめ、福田康夫内閣総理大臣に提出した。内局の運用企画局を廃止し部隊運用を統合幕僚監部に一本化、統合幕僚副長の文官起用など、背広組と制服組の混合が柱となっている。また、2008年(平成20年)12月22日には、防衛省内の省改革本部会議が「基本的な考え方」を発表した。同報告書の内容を発展的に踏襲し、他省庁との調整も含む運用部門の統幕への一本化を盛り込んだ。しかし、2009年(平成21年)8月に執行された第45回衆議院議員総選挙により生じた政権交代の結果本項を含む組織改編は見送られ、同会議は同年11月17日もって廃止された。",
"title": "沿革"
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"text": "2015年(平成27年)6月10日の参議院本会議において防衛省設置法を改正する法律が自民・公明両党及び維新の党などの賛成多数で可決され、この中で背広組を主体とする運用企画局を廃止し、部隊運用を統幕に一本化すること、防衛装備品の調達等を一元的に行う防衛装備庁の設置が盛り込まれ、同年10月1日付けで施行された。",
"title": "沿革"
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"text": "防衛省設置法4条は33号にわたって所掌事務を列記している。具体的には以下の事項に関する事務がある。",
"title": "所掌事務"
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"text": "なお、旧帝國陸海軍の残務処理については厚生労働省社会・援護局援護・業務課、旧軍人に支給される恩給については総務省政策統括官部局恩給業務管理官が所掌する。",
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"text": "防衛省の内部組織(内部部局、地方支分部局、防衛装備庁のほか特別の機関である幕僚監部、情報本部、防衛監察本部等を含む)は法律の防衛省設置法、政令の防衛省組織令が規定している。また特別の機関のうち自衛隊の部隊および機関については自衛隊法、自衛隊法施行令及び自衛隊法施行規則が詳細に規定している。",
"title": "組織"
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"text": "内部部局の幹部は以下のとおりである(2023年〈令和5〉年7月21日現在)。",
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"text": "自衛隊情報保全隊及び自衛隊サイバー防衛隊は陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊の共同の部隊として、自衛隊体育学校、自衛隊中央病院、自衛隊地区病院及び自衛隊地方協力本部は共同の機関として置かれている。",
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"paragraph_id": 25,
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"text": "地方支分部局として地方防衛局を置く(法律33条1項)。前身は防衛施設庁の防衛施設局と装備本部の地方支部等である。内部組織として、総務部、企画部、調達部、管理部(東北防衛局、近畿中部防衛局及び中国四国防衛局には置かない。)、装備部(北関東防衛局に限る。)を(政令212条3項〜5項)、審議会として防衛施設地方審議会を(政令213条1項)それぞれ置く。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "外局として防衛装備庁を置く。装備品等について、その開発及び生産のための基盤の強化を図りつつ、研究開発、調達、補給及び管理の適正かつ効率的な遂行並びに国際協力の推進を図ることを任務とする(法36条)。2015年10月1日に「防衛省設置法等の一部を改正する法律(平成27年法律第39号)」が施行されたことにより、「特別な機関」であった技術研究本部及び装備施設本部を廃止して設置された。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "防衛省が主管する独立行政法人は2023年4月1日現在、駐留軍等労働者労務管理機構のみである。駐留軍等労働者労務管理機構は行政執行法人であり、役職員は国家公務員の身分を有する。",
"title": "所管法人"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "防衛省が主管する特殊法人及び特別の法律により設立される民間法人(特別民間法人)は2023年4月1日現在、存在しない。",
"title": "所管法人"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "防衛省が主管する認可法人、地方共同法人及び特別の法律により設立される法人は存在しない。",
"title": "所管法人"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における防衛省所管の歳出予算6兆7879億6544万6千円である。",
"title": "財政"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "組織別の内訳は防衛本省が6兆4310億8391万2千円、地方防衛局が2181億984万8千円、防衛装備庁が3350億6168万6千円となっている。",
"title": "財政"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "本省予算の主な内訳は、防衛本省共通費が7937億1850万5千円、自衛官給与費が1兆4717億6845万6千円、武器車両等整備費が1兆1171億4199万3千円、航空機整備費が1兆1926億7162万7千円、艦船整備費が2467億0295万円、防衛力基盤整備費が8066億130万1千円、在日米軍等駐留関連諸費が3862億2267万8千円などであり、また防衛装備庁所管の防衛力基盤強化推進費が2885億1290万円となっている。",
"title": "財政"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "主管する歳入予算は523億554万5千円で、「官業益金及官業収入」(3部)が143億6816万8千円、「政府資産整理収入」(4部)が7億4957万8千円、「雑収入」(5部)が371億8779万9千円となっている。官業益金及官業収入は全額が防衛省病院収入(3部2款1項2目)である。",
"title": "財政"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "また、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。",
"title": "財政"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "一般職の在職者数は2022年7月1日現在、防衛省(本省のみ在職、防衛装備庁には在職しない。)で24人(男性20人、女性4人)である。他に非常勤職員が95人(男性65人、女性30人)であり、そのうち93人(男性63人、女性30人)が参与顧問委員等職員である。非常勤職員のうち7人(男性4人、女性3人)は、防衛装備庁に在籍し、全員が参与顧問委員等職員である。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "行政機関職員定員令に定められた防衛省の定員は20,903人でこのうち特別職20,945人であり、一般職の定員は26人である。本省及び外局別の定員は省令の防衛省定員規則が、本省19,487人、防衛装備庁1,484人と規定する。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "自衛官の定数は、防衛省設置法に定められており、陸上自衛隊の自衛官15万856人、海上自衛隊4万5363人、航空自衛隊4万6942人並びに共同の部隊に所属する自衛官1259人のほか、統合幕僚監部に所属する自衛官638人、情報本部に所属する自衛官1911人、内部部局に所属する自衛官48人並びに防衛装備庁に所属する自衛官407人を加えた総計24万7154人としている(6条)。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "定員外の職員として自衛官候補生、予備自衛官、即応予備自衛官、予備自衛官補、防衛大学校学生、防衛医科大学校学生、陸上自衛隊高等工科学校生徒などの制度があり、またその他の非常勤職員も任用されている。ただし、予備自衛官は4万7900人(自衛隊法66条2項)、即応予備自衛官は8075人(自衛隊法75条の2第2項)と員数が法定されている。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2023年度一般会計予算における予算定員は特別職268,174人、一般職26人の計268,200人である。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "防衛省の職員は原則として国家公務員の特別職であり、防衛省設置法や自衛隊法、防衛省職員給与法など一般職とは異なる公務員法制の下で人事管理が行われている。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "防衛省のうち一般職の国家公務員であるものは、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は保障されており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2022年3月31日現在、一般職のうち管理職員以外の職員は21名であり人事院に登録された職員団体は、存在しない。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "防衛省職員は、一般職の国家公務員であるものを除き、自衛官以外の者も自衛隊員であり、職務の性質から団結権も認められておらず、労働組合結成や加入してはならない(自衛隊法第64条)。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "職員の試験による採用のうち、自衛官以外の隊員(職員)については国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、国家公務員採用総合職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(高卒者試験)及び防衛省専門職員採用試験の合格者の中から行われる。防衛省専門職員採用試験は防衛省が、それ以外の試験は人事院が実施する。2011年度までは現在の総合職試験に相当する試験として防衛省職員採用I種試験を、一般職試験(大卒程度試験)に相当する試験として防衛省職員採用II種試験(行政、技術、研究)を、防衛省専門職員採用試験に相当する試験としてII種試験(語学、国際関係)を、一般職試験(高卒者試験)に相当する試験として防衛省職員採用III種試験をそれぞれ防衛省が独自に実施していた。2012年度に人事院が現在の形に試験体系を改めたのを機に、現在の試験制度となった。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "自衛官、自衛官候補生、学生、生徒及び予備自衛官補の採用もまた、原則として試験による(自衛隊法施行規則21条1項)。隊員の採用試験の方法は、筆記試験、身体検査及び口述試験とする(22条1項)ほか、自衛官、自衛官候補生及び予備自衛官補の採用試験においては適性検査を(22条2項)、防衛大学校の学生の採用試験においては、適応能力試験、討議試験及び体力試験を行うことができる(22条3項)。2017年度の具体的な採用区分を以下に示す。自衛官応募ナビ(各種募集種目)、防衛省職員も参照",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "防衛省職員の給与は一般職を除いて「防衛省の職員の給与等に関する法律」によって規律されている。一部、一般職の国家公務員の給与法規が準用されているが、主に自衛官を中心に独自の給与制度が定められている。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "特別職であっても事務官等(自衛隊教官を除く。)には「一般職の職員の給与に関する法律」等に定められた一般職の国家公務員と同じ俸給表が適用される(防衛省職員給与法4条)。自衛隊教官には防衛省の職員の給与等に関する法律に定められた自衛隊教官俸給表(別表第一)、自衛官には、同法に定める自衛官俸給表(別表第二)に定められた額の俸給がそれぞれ支給される。2023年度予算の予算定員は自衛官俸給表に246,697人措置されている。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "また事務官等には一般職の職員の給与に関する法律の規定を準用する形で本府省業務調整手当や地域手当、広域異動手当など、国家公務員の一般職と同様の手当を支給される(14条1項)。自衛官にも一般職と共通する手当が設けられているが、超過勤務手当、休日給及び夜勤手当等の特別の時間帯にかかる勤務に関する手当が支給されない。防衛出動を命ぜられた職員には防衛出動手当が支給される(15条1項)。また政令で定める自衛官には航空手当、乗組手当、落下傘隊員手当、特別警備隊員手当及び特殊作戦隊員手当が支給される(16条1項)。自衛官の航海、営外居住にはそれぞれ航海手当(17条1項)、営外手当(18条1項)が支給される。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "賞与である期末手当及び勤勉手当は一般職の国家公務員の例により支給される(18条の2)。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "防衛大学校又は防衛医科大学校の学生には給与として学生手当及び期末手当を支給する(防衛省の職員の給与等に関する法律25条1項) 。学生手当は月額11万5800円で(2項)、期末手当は一般職の国家公務員の例による(3項)。陸上自衛隊高等工科学校生徒にも同様に生徒手当(月額10万2500円)と期末手当が支給される(25条の2)。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "自衛隊法は自衛隊員の服務の本旨について、「隊員は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身をきたえ、技能をみがき、強い責任感をもつて専心その職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に努め、もつて国民の負託にこたえることを期するものとする」(第52条)。自衛隊員になった者は服務の宣誓を行わなければならない(自衛隊法第53条)。一般の隊員は以下の宣誓文を記載された宣誓書に署名押印して服務の宣誓を行うことが義務付けられている(自衛隊法施行令39条)。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "自衛官候補生、学生及び生徒、予備自衛官、即応予備自衛官、予備自衛官補、幹部自衛官は別の宣誓文がある。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "隊員は勤務態勢について、何時でも職務に従事することのできる態勢になければならない(54条1項)とされ、さらに職務上の危険若しくは責任を回避し、又は上官の許可を受けないで職務を離れてはならない(56条)。自衛官は、防衛大臣が指定する場所に居住しなければならず(55条)、防衛大臣の定めるところに従い、制服を着用し、服装を常に端正に保たなければならない(58条2項)。守秘義務、職務専念義務、政治的行為の制限、私企業からの隔離については、一般職の国家公務員と同様の規程が自衛隊法に設けられている。労働組合の結成、争議行為は全面的に禁止されている(64条)。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "職務に係る倫理の保持については特別に自衛隊員倫理法が定められており、部員級以上の自衛隊員は、事業者等から贈与等や報酬の支払を受けたときは四半期ごとに、贈与等報告書を防衛大臣に提出しなければならない(自衛隊員倫理法6条1項)。独自の取り組みとして自衛隊員向けに倫理啓発ビデオを製作している。2007年3月に完成し、同年6月から全自衛隊員を対象に上映されている。ビデオに登場する人物は、「ゴルフ接待漬けの上司」という設定であり、後に収賄で逮捕された守屋武昌にかけられた容疑をそのまま反映したかのようであった。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "自衛隊が必要とする工業製品は、防衛省が発注している。種類は多いが少量生産であり、日本の防衛産業への影響および経済効果は比較的低く、工業生産額は0.6パーセントに留まっている。需要については長年武器輸出三原則により輸出が厳しく規制されていたため、納入先が日本国内にほぼ限定されており量産による低価格化が進まずに高価となる傾向がある。この点については他国との技術交流や各種コスト高を解消する目的も含めて新たに防衛装備移転三原則に基づいた柔軟な対応を採る方針が近年進みつつある。",
"title": "調達"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "防衛省と契約を結ぶ企業は約1,500社あるが、さらに広範囲な下請企業が存在する。戦車や戦闘機、護衛艦など、1つの兵器の製造に約1,200 - 2,500社以上関わるものもある。しかし、主要な製品を扱う企業が撤退するような事態に陥ると、主要な製品が特殊な技術および設備が必要とされる場合が多々あるため、産業の回復に投資と相応の期間を要し、防衛省はその維持と育成に着目している。",
"title": "調達"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2022年(令和4年)度中央調達の契約相手方別契約高順位表の上位20社は以下の通りである。",
"title": "調達"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "防衛省は防衛白書にて「わが国の平和と安全を守る防衛省・自衛隊の活動は、国民一人ひとりの理解と支持があって初めて成り立つものである。このため、分かりやすい広報活動を積極的に行い、国民の信頼と協力を得ていくことが重要である」と、防衛省・自衛隊における広報活動の重要性を強調している。",
"title": "広報"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "国の防衛政策について、国民の理解を得るために『防衛白書』を年1回発行している。法律で義務づけられた国会への報告を収録する法定白書とは異なり、法律に定めのない非法定白書ではあるが、閣議案件として内閣の関与の下に刊行されている。1970年に最初に発行され、1976年以降は毎年刊行されている。",
"title": "広報"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "子ども向けに防衛白書を分かりやすく解説するために『まんがで読む防衛白書』という漫画冊子も毎年製作されている。「陸・海・空自衛隊の統合運用」(2012年度)、「東日本大震災における自衛隊の災害派遣活動」(2011年度)、「ハイチにおける国際平和協力活動」(2010年度)など、その年の白書の中から重要なテーマを一つを解説する内容となっている。",
"title": "広報"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "防衛省が編集協力する広報誌として『MAMOR』が扶桑社により月刊で刊行されている。防衛庁の時代には、広報誌として防衛弘済会が発行していた『セキュリタリアン』(1992年(平成4年)までは『防衛アンテナ』)があったが、平成18年(2006年)9月号を持って休刊となり、新たに『MAMOR』が2007年1月21日に創刊された。",
"title": "広報"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "同省サイト内の「防衛省・自衛隊の動画配信」ページおよびYouTube内の「防衛省動画チャンネル」にて防衛省・自衛隊に関する動画を配信している。",
"title": "広報"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2022年(令和4年)6月、政権与党自由民主党は参院選公約で、NATO加盟国が対GDP比2%以上の国防ないし軍事予算増額を目標に掲げているのに比例して、日本も5年以内に防衛予算2%増額を目指す方針とした。並立して、思いやり予算(同盟強靱化予算)の増額と共に、高額納入や調達未納など米国対外有償軍事援助(FMS)の機能不全が指摘されている。",
"title": "関連紛争や諸問題"
}
] | 防衛省は、日本の行政機関のひとつ。自衛隊の管理・運営及び日米安全保障条約に係る事務を所管する。 本省は「防衛省」と呼称されるが、英称は国防省と日本語訳されるものと同じである。 | {{行政官庁
|国名 = {{JPN}}
|正式名称 = {{big|{{ruby-ja|防衛省|ぼうえいしょう}}}}
|公用語名 =
|英名 = Ministry of Defense
|紋章 =Symbol of Japanese MOD.svg
|紋章サイズ = 140px
|画像 = Ministry of Defense2.JPG
|画像サイズ = 280px
|画像説明 = 防衛省が設置される防衛省庁舎A棟(左奥)と<br />防衛省庁舎正門(手前)
|主席閣僚職名 = [[防衛大臣|大臣]]
|主席閣僚氏名 = [[木原稔]]
|次席閣僚職名 = [[防衛副大臣|副大臣]]
|次席閣僚氏名 = [[鬼木誠 (1972年生の政治家)|鬼木誠]]
|三席閣僚職名 = [[防衛大臣政務官|大臣政務官]]
|三席閣僚氏名 = [[松本尚]] <br />[[三宅伸吾]]
|補佐官職名 = [[防衛大臣補佐官|大臣補佐官]]
|補佐官氏名 = 空席
|次官職名 = [[防衛事務次官|事務次官]]
|次官氏名 = [[増田和夫]]
|上部組織 = 上部組織
|上部組織概要 = [[内閣 (日本)|内閣]]<ref>{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/satei_01_05_3.pdf 我が国の統治機構]}} 内閣官房 2022年3月22日閲覧。</ref>
|下部組織1 =[[内部部局]]
|下部組織概要1 = [[防衛省大臣官房|大臣官房]]<br />防衛政策局<br />整備計画局<br />人事教育局<br />地方協力局
|下部組織2 = [[審議会等]]
|下部組織概要2 = 自衛隊員倫理審査会<br />防衛施設中央審議会<br />捕虜資格認定等審査会<br />防衛人事審議会
|下部組織3 = [[施設等機関]]
|下部組織概要3 = [[防衛大学校]]<br />[[防衛医科大学校]]<br />[[防衛研究所]]
|下部組織4 = [[特別の機関]]
|下部組織概要4 = [[防衛会議]]<br />[[統合幕僚監部]]<br />[[陸上幕僚監部]]<br />[[海上幕僚監部]]<br />[[航空幕僚監部]]<br />[[陸上自衛隊]]<br />[[海上自衛隊]]<br />[[航空自衛隊]]<br />[[情報本部]]<br />[[防衛監察本部]]<br />([[外国軍用品審判所]])
|下部組織5 = [[地方支分部局]]
|下部組織概要5 = [[地方防衛局]]
|下部組織6 = [[外局]]
|下部組織概要6 =[[防衛装備庁]]
|所在地 = {{color|red|〒}}162-8801<br/>[[東京都]][[新宿区]][[市谷本村町]]5番1号
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 41 | 緯度秒 = 34.8 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 139 |経度分 = 43 | 経度秒 = 40.8 | E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP
|定員 = 268,125人<br />内訳 自衛官以外の職員20,971人(うち一般職26人)<ref name="定員令">{{Egov law|344CO0000000121|行政機関職員定員令(昭和44年5月16日政令第121号)(最終改正、令和4年12月9日政令第374号)}}</ref>。<br />自衛官247,154人<ref name="law"></ref>。<br />(定員外の[[防衛大学校]]学生、[[予備自衛官]]、[[即応予備自衛官]]等を除く。)
|年間予算 = 6兆7879億6544万6千円<ref name="予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202311001.pdf 令和5年度一般会計予算]}} 財務省</ref>
|会計年度 = 2023
|根拠法令=[[防衛省設置法]]|設置年月日 = [[2007年]]([[平成]]19年)[[1月9日]]
|改称年月日 =
|前身 = [[防衛庁]]
|ウェブサイト = {{official website|name=防衛省・自衛隊}}
|その他 =
}}
'''防衛省'''(ぼうえいしょう、{{lang-en-short|Ministry of Defense}}{{efn|ただし、他の国の防衛省(国防省と同義)と区別するため、「Japan Ministry of Defense」と公式に表記する場合もある。}}、略称: '''MOD''')は、[[日本]]の[[日本の行政機関|行政機関]]のひとつ<ref>[https://kotobank.jp/word/防衛省-178038 防衛省] コトバンク 2021年3月27日閲覧。</ref>。[[自衛隊]]の管理・運営及び[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]に係る事務を所管する{{efn|「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つことを目的とし、これがため、[[陸上自衛隊]]、[[海上自衛隊]]及び[[航空自衛隊]]([[自衛隊法]]第2条第2項・第3項・第4項で規定)を管理し、及び運営し、並びにこれに関する事務を行うこと」、「[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|条約]]に基づく[[在日米軍|外国軍隊]]の駐留及び[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定]]の規定に基づく[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ合衆国政府]]の責務の日本国内(条文上の表記は、本邦)における遂行に伴う事務で他の行政機関の所掌に属しないものを適切に行うこと」([[防衛省設置法]]第3条第1項・第2項)}}。
本省は「防衛省」と呼称されるが、英称は'''[[国防省]]'''と日本語訳されるもの{{efn|日本以外の[[漢字文化圏]]の国家では、[[中華人民共和国]]・[[中華民国]]・[[大韓民国]]・[[シンガポール|シンガポール共和国]]・[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]で「国防部」、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で「国防省」である。他の国は、「国防省」と漢字表記しているわけではなく、単に日本語訳の問題である。}}と同じである。
==概説==
[[戦争]]放棄及び戦力の不保持を定めた[[日本国憲法]][[日本国憲法第9条|第9条]]のもと、日本の[[国防]]を所管する[[日本の行政機関|行政機関]]であり、[[国家行政組織法]]3条および[[防衛省設置法]]2条に基づき[[内閣 (日本)|内閣]]の統轄の下に設置される。長である[[防衛大臣]]は、陸海空自衛隊を含む防衛省全体の組織を統括する。任務は防衛省設置法が「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つことを目的とし、これがため、[[陸上自衛隊]]、[[海上自衛隊]]及び[[航空自衛隊]]を管理し、及び運営し、並びにこれに関する事務を行うこと」(3条1項)および「条約に基づく外国軍隊の駐留及び[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定]]の規定に基づく[[アメリカ合衆国連邦政府]]の責務の本邦における遂行に伴う事務で他の行政機関の所掌に属しないものを適切に行うこと」(3条2項)と規定する。
[[ファイル:Djibouti-Ambouli_International_Airport_Onyshchenko.jpg|サムネイル|260x260ピクセル|ジブチ共和国に駐留している自衛隊の拠点。]]
また[[日本ジブチ地位協定]]に係る事務とその協定に基づいて[[ジブチ|ジブチ共和国]]に[[ジブチ共和国における自衛隊拠点|駐留している自衛隊員と自衛隊基地]]の管理等も行う。
シンボルマークは“青い球(地球)を守るように抱える緑色のヒトの形の上半身”である([[自衛隊員]]を象徴する)。
[[1950年]]([[昭和]]25年)、前身である[[警察予備隊]]本部が発足し、その後[[保安庁]]を経て、[[1954年]](昭和29年)[[7月1日]]以来、'''防衛庁'''として[[総理府]]、[[内閣府]]の[[外局]]だったが、[[2007年]]([[平成]]19年)[[1月9日]]に'''防衛省'''へ移行、内閣の統轄の下に行政事務をつかさどる機関である[[省]]の一つとなった。同年9月1日に[[防衛施設庁]]が内部部局の地方協力局と地方支分部局の地方防衛局に再編されたうえで統合された。
内部部局として大臣官房、防衛政策局、整備計画局、人事教育局、地方協力局を、審議会等として防衛施設中央審議会、自衛隊員倫理審査会及び防衛人事審議会を、施設等機関として防衛大学校、防衛医科大学校及び防衛研究所を、 特別の機関として[[防衛会議]]、[[統合幕僚監部]]、[[陸上幕僚監部]]、[[海上幕僚監部]]、[[航空幕僚監部]]、陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊等を、地方支分部局として8つの[[地方防衛局]]を、[[外局]]として[[防衛装備庁]]を置く。陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊とは、対応する陸海空幕僚監部並びに[[統合幕僚長]]及び対応する陸海空幕僚長の監督を受ける部隊及び機関とされている(自衛隊法2条2{{〜}}4項)。
行政組織法上はこれらすべての機関が防衛省の一部であるが、マスコミ報道においては特別の機関である陸海空自衛隊を除いた部分、特に内部部局のみを指して防衛省と呼ぶことが多い。[[自衛隊]](陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊)とは、[[自衛隊法]]上は審議会等と[[駐留軍等労働者]]の労務管理等をつかさどる部局(防衛省地方協力局労務管理課)を除外した防衛大臣以下、内部部局からを含む防衛省の全体を指し(自衛隊法2条1項)、つまり「防衛省」と「自衛隊」はほぼ同一の組織のことを指している。一方、防衛省設置法に基づく国の行政機関としての側面からの名称が「防衛省」、国防等の職務を担う軍事的組織としての側面からの名称が「自衛隊」ということになる。
隊員とは防衛省の職員で、防衛大臣、[[防衛副大臣]]、[[防衛大臣政務官]]、[[防衛大臣補佐官]]、[[防衛大臣政策参与]]、防衛大臣秘書官、審議会等委員及び地方協力局労務管理課職員以外のものをいう(自衛隊法2条5項)。[[防衛事務次官]]、[[防衛書記官]]、[[防衛部員]]をはじめとする内部部局等のいわゆる文官は、自衛隊員であるとされており、自衛官(制服組)と同様に、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努める」という文言を含む[[服務の宣誓]]を行うこととされている(自衛隊法53条、自衛隊法施行規則39条)。
単一の省としては最も多くの職員が在籍する行政機関であり、[[防衛省職員]]への[[給与]]は[[国家公務員]]給与費の4割以上を占める。2023年度の一般会計予算は6兆7879億6544万6千円<ref name="予算"></ref>である。[[2002年]]度(平成14年度)の4兆9345億円から2012年度(平成24年度)の4兆6453億円まで11年連続で減少を続けていたが、第2次安倍内閣の成立後は増額している。
[[外務省]]との関係では、2023年([[令和]]5年)1月1日現在、[[防衛駐在官]]72名(陸33名、海20名、空19名)が、外務省に出向して86大使館6政府代表部(兼務を除く在勤としては49大使館2政府代表部)に派遣されている<ref name=haken>{{PDFlink|[https://www.mod.go.jp/j/publication/shiritai/chuuzaikan/pdf/haken_jyoukyou.pdf 防衛駐在官の派遣状況 令和5年1月1日現在]}} 防衛省</ref>。
== 沿革 ==
=== 前史 ===
[[ファイル:Flags of JGSDF and JMSDF with Tokutaro Kimura Defense Agency 1954.png|thumb|right|200px|「防衛庁」の看板(1954年6月)]]
[[明治2年]]から[[明治5年]]にかけて「国の防衛と治安維持」を管轄とする[[兵部省#兵部省 (明治時代)|兵部省]](ひょうぶしょう)という省庁が存在し、これは[[陸軍省]]と[[海軍省]]に分離・改組され日本の軍事を担っていた。[[1945年]]([[昭和]]20年)の[[十五年戦争]]([[日中戦争|支那事変]]・[[大東亜戦争]]・[[第二次世界大戦]])[[日本の降伏|終結]]により陸軍省は[[第一復員省]]、海軍省は[[第二復員省]]に改組されたのち、統合され[[復員庁]]となり[[1947年]](昭和22年)に廃止された。{{main|復員庁#概要|社会・援護局#所掌業務}}
現在の防衛省の直接の前身は、[[1950年]]([[昭和]]25年)[[6月]]の[[朝鮮戦争|朝鮮動乱]]([[大韓民国|韓国]]名6・25戦争、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]名祖国解放戦争)勃発を受けて発足した'''[[警察予備隊]]本部'''(けいさつよびたいほんぶ)に遡ることができる。その後、'''[[保安庁]]'''(ほあんちょう)、'''防衛庁'''(ぼうえいちょう)を経て現在の防衛省に至る。{{see also|逆コース#「逆コース」といわれるもの|朝鮮戦争#逆コース}}
=== 設置 ===
[[ファイル:防衛省・アルミ合金製看板.jpg|thumb|150px|right|防衛省発足当時のアルミ合金製仮看板(看板の作製が間に合わないため、アルミ合金の仮看板を採用していた)]]
[[ファイル:Japan Ministry of Defense Temporary Plaque 2007.png|thumb|200px|right|仮看板を掲げていた正門]]
防衛省の前身である防衛庁は、半世紀あまりの間「庁」のまま国家行政組織法上の位置付けの変更は行われなかったが、その間も「省」へ移行(府省の外局である庁から内閣直属の省へ昇格)させるべきとの意見は根強く、検討議論は頻繁になされていた。しかし、具体的な提案として、防衛庁の省移行が政治日程に上ったのは、小泉政権後期の[[2005年]]後半のことで、[[第1次安倍内閣|第1次安倍政権]]下の[[2007年]]1月に実現した。この間の経緯は以下のとおりである。
* [[2005年]](平成17年) - 政府部内において庁から省への昇格の議論が本格化、省昇格法案を[[国会 (日本)|国会]]に提出することが予定される。
* [[2006年]](平成18年)
** [[1月30日]] - [[防衛施設庁談合事件]]が発覚し、防衛施設庁の問題を放置したまま防衛庁を省へ移行させることへの反対意見が起こる。
** [[6月9日]] - 防衛庁を防衛省へ移行させるため、「[[防衛庁設置法]]<!--ここは改正前の法に言及しているので題名中の字は「庁」のままでいい-->等の一部を改正する法律案」が[[第164回国会]]に提出されるが、第164国会では[[継続審議]]になる<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/keika/1DA0472.htm 衆議院トップページ>立法情報>議案情報>第164回国会 議案の一覧>閣法 第164回国会 91 防衛庁設置法等の一部を改正する法律案]</ref>。
** [[11月30日]] - [[第165回国会]]において第164国会で継続審議とされた防衛庁設置法等の一部を改正する法律案が[[衆議院]]で可決<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/keika/1DA059E.htm 衆議院トップページ>立法情報>議案情報>第165回国会 議案の一覧>閣法 第164回国会 91 防衛庁設置法等の一部を改正する法律案]</ref>。
** [[12月15日]] - 防衛庁設置法等の一部を改正する法律案が[[参議院]]で可決<ref name="sangiin20061215">[https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/vote/165/165-1215-v003.htm 参議院HP> 本会議投票結果 防衛庁設置法等の一部を改正する法律案(第164回国会内閣提出、第165回国会衆議院送付)]</ref>。衆議院<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_iinkai.nsf/html/gianrireki/165_164_kakuho_91.htm 衆議院トップページ >立法情報 >法律案審査経過概要 >法律案等審査経過概要 第165回国会 防衛庁設置法等の一部を改正する法律案(内閣提出、第164回国会閣法第91号)]</ref>、参議院<ref name="sangiin20061215" />ともに[[自由民主党 (日本)|自民]]・[[公明党|公明]]・[[民主党 (日本 1998-2016)|民主]]・[[国民新党|国民新]]の賛成多数により、同法が成立し、[[2006年]](平成18年)[[12月22日]]に法律第118号として公布された。
* [[2007年]](平成19年)
** [[1月9日]] - 防衛庁設置法等の一部を改正する法律(平成18年法律第118号)<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/16520061222118.htm 防衛庁設置法等の一部を改正する法律]平成18年法律第118号、2006年12月22日公布。衆議院制定法律一覧。2023年11月27日閲覧。</ref>の施行により、防衛庁設置法が[[防衛省設置法]]に改題され、防衛庁は防衛省(Ministry of Defense)に改められた。
** [[3月22日]] - 初の防衛省令となる「防衛大学校、防衛医科大学校、防衛研究所、技術研究本部及び装備本部組織規則等の一部を改正する省令」<ref>[https://kanpou.npb.go.jp/old/20070322/20070322g00057/20070322g000570015f.html 防衛大学校、防衛医科大学校、防衛研究所、技術研究本部及び装備本部組織規則等の一部を改正する省令(防衛省令第1号)]平成19年(2007年)3月22日官報号外第57号15面</ref>が公布された。
省への移行によって、[[内閣法]]にいう[[主任の大臣]]は、総理府・内閣府の長たる[[内閣総理大臣]]から防衛大臣となった。すなわち、防衛大臣は防衛省の所掌事務である国防について分担管理する大臣として責任を負う。しかし、防衛大臣が自衛隊に対して命令できる行動は「[[海上警備行動]]」までであり、それより上位の「[[警護出動]]」・「[[治安出動]]」、最上位の「[[防衛出動]]」は内閣の首長としての内閣総理大臣に命令権が与えられている。このため、省への移行に伴う防衛大臣(旧防衛庁長官)の職責上の変更点は、[[閣議 (日本)|閣議]]への請議や[[財務大臣 (日本)|財務大臣]]への[[予算]]要求、[[省令]]の制定などが防衛大臣の名において行えるようになったことに留まった。したがって、省への移行の具体的な効果は事務手続のごく若干の緩和、庁より格が高いとされる省への名称変更による隊員と職員の士気向上、他国の国防機関との均衡の改善などが挙げられている{{efn|なお、防衛省への移行の際の法改正で国際平和協力活動等の海外活動が自衛隊の本来任務化されているが、これは省への移行と直接関係はなく、省への移行の改正に本来任務の追加も含めたものである。}}。
=== 山田洋行事件と防衛省改革 ===
2007年(平成19年)11月27日、[[守屋武昌]]が[[東京地方検察庁|東京地検]]の[[事情聴取]]を受け、軍需専門商社である[[山田洋行]]の元専務から[[ゴルフ]]旅行などの接待を受けた見返りに防衛装備品の調達で便宜を図った疑いが強まったとして、妻と共に[[賄賂罪|収賄]]容疑で[[逮捕]]された。それだけで終わらず守屋は庁の頃からゴルフ旅行などを行っており、かつての長官([[久間章生]]、[[額賀福志郎]])も事件の関与の疑いもあり、一部の雑誌で庁へ格下げ論を取り上げられるなどした([[山田洋行事件]])。
この事件や他の不祥事([[防衛秘密の漏洩]]、報告義務違反)を踏まえ、[[町村信孝]][[内閣官房長官]]は[[2007年]](平成19年)11月に防衛省が抱える問題について検討を行う場として「防衛省改革会議」を開催することを決定した。会議は12月から開催され、[[南直哉 (実業家)|南直哉]]が座長に就任した後、2008年の12月まで1年にわたって12回開催された。[[2008年]](平成20年)7月15日に会議は「報告書 - 不祥事の分析と改革の方向性」を[[福田康夫]]内閣総理大臣に答申した。報告書の改革案には防衛大臣を中心とする政策決定機構の充実として、防衛参事官制度を廃止し、防衛大臣補佐官(現防衛大臣政策参与)を設置すること、防衛会議を法律で明確に位置づけることが盛り込まれていた。
この報告書を受けて、「防衛省設置法等の一部を改正する法律案」が策定され、[[2009年]](平成21年)2月17日に閣議決定、同日国会に提出された。法案は従来訓令に基づく存在だった「防衛会議」を法律に規定された組織として「特別の機関」に位置づけるとともに、防衛参事官の廃止、防衛大臣補佐官3人以内の新設をするものだった。法案は同年5月27日に可決成立し、6月3日に「防衛省設置法等の一部を改正する法律」(平成21年法律第44号)として公布され、2009年(平成21年)8月1日に施行された。
=== 統合幕僚監部への統合議論 ===
南直哉を座長とする防衛省改革会議<ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/bouei/index.html 防衛省改革会議] 首相官邸</ref>は2008年(平成20年)7月15日、防衛省再編に関する最終報告書をまとめ、福田康夫内閣総理大臣に提出した。内局の運用企画局を廃止し部隊運用を統合幕僚監部に一本化、統合幕僚副長の[[文官]]起用など、背広組と制服組の混合が柱となっている<ref>『{{PDFlink|[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/bouei/dai11/pdf/siryou.pdf 報告書――不祥事の分析と改革の方向性]}}』防衛省改革会議、[[2008年]](平成20年)[[7月15日]]。</ref>。また、2008年(平成20年)12月22日には、防衛省内の省改革本部会議が「基本的な考え方」を発表した。同報告書の内容を発展的に踏襲し、他省庁との調整も含む運用部門の統幕への一本化を盛り込んだ。しかし、2009年(平成21年)8月に執行された[[第45回衆議院議員総選挙]]により生じた[[政権交代]]の結果本項を含む組織改編は見送られ、同会議は同年11月17日もって廃止された<ref>{{PDFlink|[http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/rireki/2009/11/17am_siryou.pdf 閣僚会議等の廃止について]}}</ref>。
2015年(平成27年)6月10日の[[参議院]][[本会議]]において[[防衛省設置法]]を改正する法律<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/18920150617039.htm 防衛省設置法等の一部を改正する法律](法律第39号、平27年6月17日)衆議院</ref>が[[自由民主党 (日本)|自民]]・[[公明党|公明]]両党及び[[維新の党]]などの賛成多数で可決され、この中で背広組を主体とする運用企画局を廃止し、部隊運用を統幕に一本化すること、防衛装備品の調達等を一元的に行う[[防衛装備庁]]の設置が盛り込まれ<ref>[https://web.archive.org/web/20150612064559/https://www.47news.jp/CN/201506/CN2015061001001123.html 「文官統制」を全廃、改正防衛省設置法が成立](47NEWS、2015/06/10,2015/06/11閲覧)</ref>、同年10月1日付けで施行された。
=== 年表 ===
; 前史
* ([[1947年]](昭和22年)[[5月10日]] - [[連合国軍最高司令官総司令部]]の要求に応えるため、'''特別調達庁'''が設置される。のちの[[防衛施設庁]]。)
* [[1950年]](昭和25年)[[6月25日]] - [[朝鮮戦争]]が勃発、これに対応するため、[[在韓米軍]]と共に[[在日米軍]]の兵力も充当。
* 1950年(昭和25年)[[7月8日]] - 日本国内における兵力の不足を受けて連合国軍総司令官および国連軍総司令官である[[ダグラス・マッカーサー]]は、首相の[[吉田茂]]に対して警察予備隊の創設を指示。
* 1950年(昭和25年)[[8月10日]] - [[ポツダム政令]]として警察予備隊令<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/result?DEF_XSL=detail&IS_KIND=detail&DB_ID=G9100001EXTERNAL&GRP_ID=G9100001&IS_TAG_S16=eadid&IS_KEY_S16=M0000000000001374974&IS_LGC_S16=AND&IS_TAG_S1=all&IS_KEY_S1=%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E4%BA%88%E5%82%99%E9%9A%8A&IS_MAP_S1=&IS_LGC_S1=&IS_EXTSCH=F2009121017005000405%2BF2005031817310703163%2BF2010031814245398056%2BF2010031814340798059%2BF0000000000000558386&IS_ORG_ID=M0000000000001374974&IS_STYLE=default&IS_SORT_FLD=sort.tror%2Csort.refc&IS_SORT_KND=asc |title=警察予備隊令(昭和25年政令第260号) |date=1950-08-10 |accessdate=2023-08-20 |publisher=国立公文書館デジタルアーカイブ}}</ref>が公布・施行され発足した[[警察予備隊]](現在の[[陸上自衛隊]]に相当)を管理・運営する[[総理府]]の機関として'''警察予備隊本部'''が設置。
* [[1952年]](昭和27年)[[4月26日]] - [[海上保安庁]]の附属機関として[[海上警備隊]](現在の[[海上自衛隊]]に相当)が発足。
* (1952年(昭和27年)[[4月28日]] - '''[[日本国との平和条約]]締結。占領解除。連合国軍最高司令官総司令部廃止。''')
* 1952年(昭和27年)[[8月1日]] - 総理府の外局として'''保安庁''' (National Safety Agency) が発足。
** 同日、海上保安庁海上警備隊は保安庁に移管のうえ'''[[警備隊 (保安庁)|警備隊]]'''に改められたが、警察予備隊の方は準備等の都合からそのままの名称で保安庁の所轄下に移管され、遅れて10月15日に'''[[保安隊]]'''となった。
* [[1954年]](昭和29年)[[7月1日]] - 保安庁は'''防衛庁''' (Japan Defense Agency) に改組移行(引き続き総理府の外局)。
** 防衛庁の本庁内部部局は、長官官房、防衛局、教育局、人事局、経理局、装備局の1官房5局による構成。
** 保安隊は陸上自衛隊に、警備隊は海上自衛隊にそれぞれ改組発足したほか、航空自衛隊が新たに発足。自衛隊の詳細については[[自衛隊]]の項目を参照。
* [[1956年]](昭和31年)[[3月23日]] - 防衛庁、[[江東区]][[越中島]]から[[千代田区]][[霞が関]]{{Efn|松代・真田藩邸跡。}}<ref>[https://www.fukushishimbun.co.jp/topics/8720 官庁街の成立② 関東大震災で壊滅]20215年4月10日、福祉新聞 2021年4月29日閲覧</ref>へ移転。
* [[1957年]](昭和32年)[[8月1日]] - [[次長]]職を廃し[[事務次官]]を設置。
** 国家行政組織法の改正に伴い、国務大臣を長とする庁にも事務次官を置くことができるようになったことに伴う措置。
* [[1958年]](昭和33年)[[5月23日]] - 防衛庁の本庁内部部局として、新たに[[衛生局]]を設置し、1官房6局による構成。
* [[1960年]](昭和35年)[[1月11日]] - 防衛庁、千代田区霞が関から[[港区 (東京都)|港区]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の[[檜町駐屯地|檜町地区]]{{Efn|現:[[東京ミッドタウン]]。}}へ移転。
* [[1968年]](昭和43年)[[6月15日]] - 防衛庁の本庁内部部局を再編し、教育局と人事局を統合して新たに人事教育局を設置し、1官房5局による構成。
** 教育局が所管していた教育訓練のうち、部隊訓練は防衛局に移管。
** 当時の佐藤首相の強力な指示により、各省庁が一律に1局削減しなければならなくなったことにより、1局1課だった教育局を削減。
* [[1984年]](昭和59年)[[7月1日]] - 防衛庁の本庁内部部局を再編し、人事教育局を教育訓練局と人事局に分離。これに伴うスクラップ・アンド・ビルドのため、衛生局は廃止。
* [[1997年]]([[平成]]9年)
** 1月20日 - [[特別の機関]]として[[情報本部]]が発足。
** 7月1日 - 防衛庁の本庁内部部局を再編し、教育訓練局と人事局の2局を、運用局と人事教育局の2局に改組。
* [[2000年]](平成12年)[[4月26日]] - 防衛庁、港区赤坂の[[檜町駐屯地|防衛庁檜町地区]]から[[新宿区]][[市谷本村町]]の[[防衛省市ヶ谷地区|防衛庁市ヶ谷地区]]へ移転。
* [[2001年]](平成13年)[[1月6日]] - [[中央省庁再編]]により[[内閣府]]の外局となる。
** 本庁内部部局を再編し、経理局と装備局を統合して管理局を設置し、1官房4局による構成。
* [[2006年]](平成18年)[[7月31日]] - 防衛庁の本庁内部部局を再編し、防衛局を防衛政策局に、運用局を運用企画局に、管理局を経理装備局にそれぞれ改組。
; 防衛省設置後
* 2006年(平成18年)[[12月15日]] - 防衛庁を省へ移行させる「[[防衛省設置法|防衛庁設置法]]等の一部を改正する法律案」が[[国会 (日本)|国会]]で可決、成立。
* [[2007年]](平成19年)[[1月9日]] - 防衛庁が防衛省に移行。
* 2007年(平成19年)[[9月1日]] - [[防衛施設庁談合事件]]を受け、[[外局]]である[[防衛施設庁]]を廃止し本省に統合。
** 防衛施設庁が所管していた業務を所管するため、防衛省の本省内部部局として、新たに地方協力局を設置。1官房5局による構成。
** [[地方支分部局]]として[[地方防衛局]]が発足、特別の機関として[[防衛監察本部]]が発足。
* 2007年11月27日 - 前事務次官の守屋武昌が東京地検特捜部に軍需専門商社からの収賄容疑で逮捕される(山田洋行事件)。
* 2009年(平成21年)[[8月1日]] - [[防衛会議]]を訓令に基づき設置された機関から法律に基づいて設置された特別の機関に格上げ。[[防衛大臣政策参与|防衛大臣補佐官]](現防衛大臣政策参与)を新設。[[防衛参事官]]を廃止。
* 2011年(平成23年)- 防衛省は、[[アフリカ]]の[[ジブチ共和国]]に[[ジブチ共和国における自衛隊拠点|自衛隊の永続的な拠点]]を開設させた。第二次世界大戦後の日本としては初の海外基地となった。
* 2014年(平成26年)[[5月30日]] - 新しい[[防衛大臣補佐官]]ポストを新設。これと同時に旧防衛大臣補佐官を[[防衛大臣政策参与]]に改称。
* 2014年(平成26年)[[7月25日]]
**次官級審議官の[[防衛審議官]]を新設。
**地方協力局次長の定数を2名から1名へ、大臣官房参事官の定数を4名から2名にそれぞれ縮小。
* 2015年(平成27年)
:[[6月10日]] - 参議院本会議において「防衛省設置法等の一部を改正する法律(平成27年法律第39号)」が自民・公明両党及び維新の党などの賛成多数で可決・成立。技術研究本部、装備施設本部が廃止され、防衛装備庁の設置が決まった。同改正法は同年10月1日に施行された。
:[[10月1日]] - 防衛省設置法改正法施行により防衛装備庁が設置され、防衛省組織令等の改正<ref>[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11329794/www.mod.go.jp/j/presiding/seirei/seirei_2015.html 防衛省設置法等の一部を改正する法律の施行に伴う関係政令の整備等に関する政令](政令第334号、平成27年9月18日公布)</ref><ref>[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11450712/www.mod.go.jp/j/presiding/seirei/2015/334/sinkyu.pdf 防衛省設置法等の一部を改正する法律の施行に伴う関係政令の整備等に関する政令案新旧対照条文]</ref>により以下の局等が改組された。
#運用企画局を廃止し、部隊運用に関する事務を統合幕僚監部へ一本化。
#[[技術研究本部]]及び[[装備施設本部]]を廃止し、[[防衛装備庁]]に統合。また、防衛調達審議会も防衛装備庁長官の所轄に移行。
#大臣官房の技術監を廃止し、施設監を新設。
#防衛政策局に戦略企画課、運用政策課および訓練課を新設し、防衛計画課を整備計画局に移管(5課から7課体制へ)。
#経理装備局を廃止し、整備計画局を新設(防衛計画課、情報通信課、施設計画課の3課体制)。経理装備局の会計課、監査課を大臣官房に移管(大臣官房は4課から6課体制へ)。
* 2017年(平成29年)[[8月9日]] - 情報公開査察官を新設。同月、航空自衛隊に宇宙部隊を創設すると発表<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASK8K51YTK8KUTFK00B.html 陸上イージス・宇宙部隊…日米連携が理由、新装備次々]</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/20170818-OYT1T50055.html 空自「宇宙部隊」創設へ…対衛星兵器など監視]</ref>。
* 2019年(平成31年)[[4月1日]] - 公文書管理官を新設。
* 2020年([[令和]]2年)[[7月1日]] - 防衛政策局参事官を新設。
* 2021年(令和3年)7月1日<ref name="20210701kaiso">{{PDFlink|[https://www.mod.go.jp/j/presiding/seirei/2021/0630/02_seirei.pdf 防衛省組織令等の一部を改正する政令(令和3年政令第189号)]}} 防衛省、2021年7月1日閲覧</ref><ref>{{Cite news|title=地方協力局大幅改編 地域社会との協力強化 地元・在日米軍・環境重視に(2021年7月1日)|newspaper=朝雲新聞 |date=2021-07-12| url=https://www.asagumo-news.com/homepage/htdocs/news/newsflash/202107/210712/21071205.html|accessdate=2021-07-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210722041132/https://www.asagumo-news.com/homepage/htdocs/news/newsflash/202107/210712/21071205.html|archivedate=2020-07-22}}
</ref><ref>{{Cite news|title=ドタバタ続きの地元対策をてこ入れ 防衛省が組織改編へ |newspaper=朝日新聞 |date=2021-06-13|url=https://www.asahi.com/articles/ASP6D658MP5PTIPE03B.html?iref=pc_ss_date_article |accessdate=2021-12-29}}</ref>
** 大臣官房審議官を6人から7人、大臣官房参事官を3人から5人に増員。
** 地方協力局を8課並びに沖縄調整官1人及び調達官1人から8課に改組。
* 2023年(令和5年)7月1日<ref>[https://kanpou.npb.go.jp/20230630/20230630g00137/20230630g001370009f.html 防衛省組織令の一部を改正する政令(令和5年政令第228号)]2023年6月30日、官報号外第137号9面</ref>
** 大臣官房参事官を5人から7人に増員。
** 防衛政策局を7課及び参事官1人から6課及び参事官3人に改組。
** 整備計画局の情報通信課をサイバー整備課に改組。
== 所掌事務 ==
防衛省設置法4条は33号にわたって所掌事務を列記している。具体的には以下の事項に関する事務がある。
なお、'''[[日本軍|旧帝國陸海軍]]の残務処理については[[厚生労働省]][[社会・援護局]]援護・業務課、旧軍人に支給される[[恩給]]については[[総務省]][[政策統括官 (総務省)|政策統括官部局]][[人事・恩給局|恩給業務管理官]]が所掌する。'''{{see also|社会・援護局#所掌事務|政策統括官 (総務省)#組織}}
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* 防衛及び警備(1号)
* 自衛隊の行動(2号)
* 陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊の組織、定員、編成、装備及び配置(3号)
* 1{{〜}}3号の事務に必要な情報の収集整理(4号)
* 職員の人事(5号)
* 職員の補充(6号)
* 礼式及び服制(7号)
* 若年定年退職者給付金(8号)
* 教育訓練(9号)
* 職員の保健衛生(10号)
* 経費及び収入の予算および決算並びに会計および会計の監査(11号)
* 施設の取得及び管理(12号)
* 装備品等の調達、補給及び管理並びに役務の調達(13号)
* 装備品等の研究開発(14号、15号)
* 自衛隊法の規定による漁船の操業の制限及び禁止並びにこれに伴う損失の補償(16号)
* 防衛に関する知識の普及及び宣伝(17号)
* 調査および研究(18号)
* [[在日米軍|駐留軍]]の使用に供する施設及び区域の決定、取得及び提供並びに駐留軍に提供した施設及び区域の使用条件の変更及び返還(19号)
* 沖縄県における境界不明地域内の駐留軍用地等に係る土地の位置境界の明確化(20号)
* 防衛施設周辺の生活環境等の整備(21号)
* 駐留軍のための物品及び役務の調達並びに駐留軍から返還された物品の管理、返還及び処分(21号)
* 相互防衛援助協定の実施に係る円資金の提供並びに不動産、備品、需品及び役務の調達、提供及び管理(23号)
* 駐留軍等によるまたはそのための物品及び役務の調達に関する契約から生ずる紛争の処理(24号)
* 駐留軍等及び諸機関のために労務に服する者の雇入れ、提供、解雇、労務管理、給与及び福利厚生(25号)
* 特別調達資金の経理(26号)
* [[アメリカ合衆国]]の軍隊の水面の使用に伴う漁船の操業の制限及び禁止並びにこれに伴う損失の補償(27号)
* 自衛隊及びアメリカ合衆国軍隊の行為による農業、林業、漁業等事業者の損失の補償(28号)
* 武力攻撃事態等におけるアメリカ合衆国の軍隊による損失の補償(29号)
* 合衆国軍協定18条および日米地位協定18条の規定に基づく請求の処理(30号)
* 合衆国軍協定18条5項(g)の規定により同項の他の規定の適用を受けない損害の賠償の請求についてのあつせん等(31号)
* 防衛大学校、防衛医科大学校等において教育訓練および研究を行うこと(34号)
* その他法令に基づき防衛省に属させられた事務(35号)
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== 組織 ==
[[ファイル:Japan Defense Agency.jpg|thumb|300px|right|正門方向から[[防衛省市ヶ谷地区|防衛省市ヶ谷庁舎]]を望む]]
防衛省の内部組織([[内部部局]]、[[地方支分部局]]、[[防衛装備庁]]のほか特別の機関である[[幕僚監部]]、[[情報本部]]、[[防衛監察本部]]等を含む)は法律の防衛省設置法<ref name="law">{{Egov law|329AC0000000164|防衛省設置法 (昭和29年6月9日法律第164号)(最終改正:令和3年4月28日法律第23号)}}</ref>、政令の防衛省組織令<ref>{{Egov law|329CO0000000178|防衛省組織令 (昭和29年6月30日政令第178号)(最終改正:令和3年6月30日政令第189号)}}</ref>が規定している。また特別の機関のうち自衛隊の部隊および機関については自衛隊法<ref>{{Egov law|329AC0000000165 自衛隊法 (昭和29年6月9日法律第165号)(最終改正:令和3年6月15日法律第75号)}}</ref>、自衛隊法施行令<ref>{{Egov law|awId=329CO0000000179|自衛隊法施行令(昭和29年政令第179号)(最終改正:令和5年3月10日政令第48号)}}</ref>及び自衛隊法施行規則<ref>{{Egov law|329M50000002040|自衛隊法施行規則 (昭和29年6月30日総理府令第40号)(最終改正:令和5年4月5日防衛省令第6号)}}</ref>が詳細に規定している。
=== 幹部 ===
* [[防衛大臣]] ([[国家行政組織法]]第5条、防衛省設置法第2条の2)
* [[防衛副大臣]](国家行政組織法第16条)
* [[防衛大臣政務官]](国家行政組織法第17条)(2人)
* [[防衛大臣補佐官]](国家行政組織法第17条の2)(1人以内、必置ではない)
* [[防衛大臣政策参与]](防衛省設置法第7条)(3人以内、必置ではない)
* [[防衛事務次官]](国家行政組織法第18条)
* [[防衛審議官]](防衛省設置法第7条の2)
* [[秘書官|防衛大臣秘書官]](国家行政組織法第19条)
=== 内部部局 ===
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* [[防衛省大臣官房|大臣官房]](政令2条)
** 政策立案総括審議官
** 衛生監(政令10条の3第1項)
** 施設監{{efn|防衛装備庁設置及び装備施設本部の廃止に伴い廃止された技術監に代わり設置。}}
** 報道官
** 公文書監理官
** サイバーセキュリティ・情報化審議官
** 審議官(7人)
** 米軍再編調整官(政令10条の4第1項)
** 参事官(7人)
** 秘書課(政令11条)
** 文書課
** 企画評価課
** 広報課
** 会計課{{efn|name="keiri"|経理装備局の廃止に伴い大臣官房に移管。}}
** 監査課{{efn|name="keiri"}}
** 訟務管理官
* 防衛政策局
** 次長(2人)(政令10条の2第1項)
** 防衛政策課
** 日米防衛協力課
** 国際政策課
** 運用政策課{{efn|name="soubityo-un-you"|防衛装備庁発足及び運用企画局及び経理装備局の廃止に伴い新編。}}
** 運用基盤課
** 調査課
** 参事官(3人)
* 整備計画局
** 防衛計画課
** サイバー整備課
**施設計画課
**施設整備官
**提供施設計画官
**施設技術管理官
*人事教育局
** 人事計画・補任課(政令25条)
** 給与課
** 人材育成課
** 厚生課
** 服務管理官
** 衛生官
* 地方協力局{{efn|防衛施設庁廃止に伴い新設。}}
** 次長(1人)(政令10条の2第1項)
** 総務課(政令42条の2)<ref name="20210701kaiso" />
** 地域社会協力総括課
** 東日本協力課
** 西日本協力課
** 沖縄協力課
** 環境政策課
** 在日米軍協力課
** 労務管理課
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=== 内部部局幹部 ===
内部部局の幹部は以下のとおりである<ref>[https://www.mod.go.jp/j/profile/mod_sdf/sosikizu/inner/kanbumeibo.html 防衛省内部部局幹部名簿] 防衛省</ref>(2023年〈令和5〉年7月21日現在)。
* 事務次官:[[増田和夫]]
* 防衛審議官:[[芹澤清]]
* 大臣官房長:[[中嶋浩一郎]]
* 防衛政策局長:[[加野幸司]]
* 整備計画局長:[[青柳肇]]
* 人事教育局長:[[三貝哲]]
* 地方協力局長:[[大和太郎]]
=== 審議会等 ===
* 自衛隊員倫理審査会(自衛隊員倫理法)
* 防衛施設中央審議会(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う土地等の使用等に関する特別措置法)
* 捕虜資格認定等審査会([[武力攻撃事態及び存立危機事態における捕虜等の取扱いに関する法律]])
* 防衛人事審議会(政令43条)
=== 施設等機関 ===
* [[防衛大学校]](法律15条)
* [[防衛医科大学校]](法律16条)
* [[防衛研究所]](政令44条)
=== 特別の機関 ===
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* [[防衛会議]](法律19条1項)
* [[統合幕僚監部]]
** 統合幕僚副長(法律25条1項)
** 総括官
** 総務部(政令57条)
** 運用部
** 防衛計画部
** 指揮通信システム部
** 報道官(政令71条)
** 首席[[法務官 (自衛隊)|法務官]](政令72条)
** 首席後方補給官(政令73条)
** [[統合幕僚学校]](政令74条)
* [[陸上幕僚監部]]
** 陸上幕僚副長
** 監理部(政令78条)
** 人事教育部
** 運用支援・訓練部
** 防衛部
** 装備計画部
** 指揮通信システム・情報部
** 衛生部
** [[監察官]](政令103条)
** [[法務官 (自衛隊)|法務官]](政令104条)
** 警務管理官(政令105条)
* [[海上幕僚監部]]
** 海上幕僚副長
** 総務部(政令109条)
** 人事教育部
** 防衛部
** 指揮通信情報部
** 装備計画部
** [[監察官]](政令131条)
** 首席[[法務官 (自衛隊)|法務官]](政令132条)
** 首席会計監査官(政令133項)
** 首席衛生官(政令129条1項)
* [[航空幕僚監部]]
** 航空幕僚副長
** 総務部(政令138条)
** 人事教育部
** 防衛部
** 運用支援・情報部
** 装備計画部
** 科学技術官(政令158条)
** 監理[[監察官]](政令159条)
** 首席[[法務官 (自衛隊)|法務官]](政令160条)
** 首席衛生官(政令161条)
* [[陸上自衛隊]]
** [[陸上総隊]](自衛隊法10条1項)
** [[方面隊]]
** 防衛大臣直轄部隊
** 学校 (14)(自衛隊法施行令33条の2)
** [[補給処]](5)(自衛隊法施行令39条)
** [[陸上自衛隊教育訓練研究本部]](自衛隊法施行令48条の4)
** [[陸上自衛隊補給統制本部]](自衛隊法施行令48条の5)
* [[海上自衛隊]]
** [[自衛艦隊]](自衛隊法15条1項)
** [[地方隊]]
** [[教育航空集団]]
** [[練習艦隊]]
** 防衛大臣直轄部隊
** 学校(6)(自衛隊法施行令34条)
** 補給処(2)(自衛隊法施行令39条の2)
** [[海上自衛隊補給本部]](自衛隊法施行令48条の7)
* [[航空自衛隊]]
** [[航空総隊]](自衛隊法20条1項)
** [[航空支援集団]]
** [[航空教育集団]]
** [[航空開発実験集団]]
** 防衛大臣直轄部隊
** 学校(6)(自衛隊法施行令35条)
** 補給処(3)(自衛隊法施行令40条)
** [[航空自衛隊補給本部]](自衛隊法施行令48条の8)
* [[共同の部隊 (自衛隊)|共同の部隊]]
** [[自衛隊情報保全隊]](自衛隊法施行令30条の16第1項)
*** 自衛隊情報保全隊本部(自衛隊法施行令30条の16第2項)
*** 中央情報保全隊
*** 地方情報保全隊
** [[自衛隊サイバー防衛隊]](自衛隊法施行令30条の18第1項)
*** 自衛隊サイバー防衛隊本部(自衛隊法施行令30条の18第2項)
*** ネットワーク運用隊
*** サイバー作戦隊
*** 中央指揮所運営隊
* [[共同の機関 (自衛隊)|共同の機関]]
** [[自衛隊体育学校]](自衛隊法施行令33条1項)
** [[自衛隊中央病院]](自衛隊法施行令44条1項)
** [[自衛隊地区病院]](10)(同条3項)
** [[自衛隊地方協力本部]](自衛隊法施行令48条1項)(50)(同条3項)
* [[情報本部]]
* [[防衛監察本部]]
** 副監察監(政令207条1項)
** 総務課(政令208条)
** 統括監察官
* [[外国軍用品審判所]](法律19条2項、武力攻撃事態及び存立危機事態における外国軍用品等の海上輸送の規制に関する法律。臨時に置かれる。)
* 駐留軍等再編関連振興会議(法律附則5項、駐留軍等の再編の円滑な実施に関する特別措置法)
{{div col end}}
自衛隊情報保全隊及び自衛隊サイバー防衛隊は陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊の[[共同の部隊 (自衛隊)|共同の部隊]]として、自衛隊体育学校、自衛隊中央病院、自衛隊地区病院及び自衛隊地方協力本部は[[共同の機関 (自衛隊)|共同の機関]]として置かれている。
=== 地方支分部局 ===
[[地方支分部局]]として[[地方防衛局]]を置く(法律33条1項)。前身は[[防衛施設庁]]の[[防衛施設局]]と[[装備本部]]の地方支部等である。内部組織として、総務部、企画部、調達部、管理部([[東北防衛局]]、[[近畿中部防衛局]]及び[[中国四国防衛局]]には置かない。)、装備部([[北関東防衛局]]に限る。)を(政令212条3項{{〜}}5項)、審議会として防衛施設地方審議会を(政令213条1項)それぞれ置く。
* [[北海道防衛局]](政令211条1項)
* [[東北防衛局]]
* [[北関東防衛局]]
* [[南関東防衛局]]
* [[近畿中部防衛局]]
* [[中国四国防衛局]]
* [[九州防衛局]]
* [[沖縄防衛局]]
=== 外局 ===
外局として防衛装備庁を置く。装備品等について、その開発及び生産のための基盤の強化を図りつつ、研究開発、調達、補給及び管理の適正かつ効率的な遂行並びに国際協力の推進を図ることを任務とする(法36条)。2015年10月1日に「防衛省設置法等の一部を改正する法律(平成27年法律第39号)」が施行されたことにより、「特別な機関」であった技術研究本部及び装備施設本部を廃止して設置された。
* [[防衛装備庁]](法35条)
** 防衛技監(1)(政令170条)
** 長官官房(政令171条)
** 装備政策部
** プロジェクト管理部
** 技術戦略部
** 調達管理部
** 調達事業部
** 防衛調達審議会(政令212条1項)
** 航空装備研究所(政令213条)
** 陸上装備研究所
** 艦艇装備研究所
** 次世代装備研究所
** 千歳試験場
** 下北試験場
** 岐阜試験場
== 所管法人 ==
防衛省が主管する[[独立行政法人]]は2023年4月1日現在、[[駐留軍等労働者労務管理機構]]のみである<ref>{{Cite web|和書|title=独立行政法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871325.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>。駐留軍等労働者労務管理機構は[[独立行政法人#行政執行法人|行政執行法人]]であり、役職員は国家公務員の身分を有する。
防衛省が主管する特殊法人及び[[特別の法律により設立される民間法人]](特別民間法人)は2023年4月1日現在、存在しない<ref>{{Cite web|和書|title=所管府省別特殊法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000876791.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=特別の法律により設立される民間法人一覧(令和5年4月1日現在:34法人)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871326.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>。
防衛省が主管する[[認可法人]]、[[地方共同法人]]及び[[特別の法律により設立される法人]]は存在しない。
== 財政 ==
2023年度(令和5年度)[[一般会計]]当初予算における防衛省所管の歳出予算6兆7879億6544万6千円である<ref name="予算"></ref>。
組織別の内訳は防衛本省が6兆4310億8391万2千円、地方防衛局が2181億984万8千円、防衛装備庁が3350億6168万6千円となっている。
本省予算の主な内訳は、防衛本省共通費が7937億1850万5千円、自衛官給与費が1兆4717億6845万6千円、武器車両等整備費が1兆1171億4199万3千円、航空機整備費が1兆1926億7162万7千円、艦船整備費が2467億0295万円、防衛力基盤整備費が8066億130万1千円、在日米軍等駐留関連諸費が3862億2267万8千円などであり、また防衛装備庁所管の防衛力基盤強化推進費が2885億1290万円となっている。
主管する歳入予算は523億554万5千円で、「官業益金及官業収入」(3部)が143億6816万8千円、「政府資産整理収入」(4部)が7億4957万8千円、「雑収入」(5部)が371億8779万9千円となっている。官業益金及官業収入は全額が防衛省病院収入(3部2款1項2目)である。
また、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管{{efn|国の予算を所管するすべての機関である。なお人事院は予算所管では内閣に属するのでここにはない。}}の[[東日本大震災復興特別会計]]を共管する。
== 職員 ==
{{Main|防衛省職員|自衛隊員}}
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、防衛省(本省のみ在職、防衛装備庁には在職しない。)で24人(男性20人、女性4人)である<ref name="ippan">{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/joukin_toukei.pdf 一般職国家公務員在職状況統計表]}}(令和4年7月1日現在)</ref>。他に非常勤職員が95人(男性65人、女性30人)であり、そのうち93人(男性63人、女性30人)が参与顧問委員等職員である<ref name="hizyoukin">{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/hijoukin_toukei.pdf 非常勤職員在職状況統計表]}}(令和4年7月1日現在)</ref>。非常勤職員のうち7人(男性4人、女性3人)は、防衛装備庁に在籍し、全員が参与顧問委員等職員である<ref name="ippan" />。
行政機関職員定員令に定められた防衛省の定員は20,903人でこのうち特別職20,945人であり、一般職の定員は26人である<ref name="定員令" />。本省及び外局別の定員は省令の防衛省定員規則が、本省19,487人、防衛装備庁1,484人と規定する<ref name="定員規則">{{Egov law|427M60002000014| 防衛省定員規則(平成27年10月1日防衛省令第14号)]」(最終改正:令和4年3月31日防衛省令第3号)}}</ref>。
自衛官の定数は、防衛省設置法に定められており、陸上自衛隊の自衛官15万856人、海上自衛隊4万5363人、航空自衛隊4万6942人並びに共同の部隊に所属する自衛官1259人のほか、統合幕僚監部に所属する自衛官638人、情報本部に所属する自衛官1911人、内部部局に所属する自衛官48人並びに防衛装備庁に所属する自衛官407人を加えた総計24万7154人としている(6条)。
定員外の職員として[[自衛官候補生]]、[[予備自衛官]]、[[即応予備自衛官]]、[[予備自衛官補]]、防衛大学校学生、防衛医科大学校学生、陸上自衛隊[[高等工科学校生徒]]などの制度があり、またその他の非常勤職員も任用されている。ただし、予備自衛官は4万7900人(自衛隊法66条2項)、即応予備自衛官は8075人(自衛隊法75条の2第2項)と員数が法定されている。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職268,174人、一般職26人の計268,200人である<ref name="予算"></ref>。
防衛省の職員は原則として[[国家公務員]]の[[特別職]]であり、防衛省設置法や自衛隊法、防衛省職員給与法など一般職とは異なる公務員法制の下で人事管理が行われている。
防衛省のうち一般職の[[国家公務員]]であるものは、[[労働基本権]]のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。[[団結権]]は保障されており、職員は[[労働組合]]として国公法の規定する「[[職員団体]]」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。
2022年3月31日現在、一般職のうち管理職員以外の職員は21名であり[[人事院]]に登録された職員団体は、存在しない<ref>{{PDFlink|[https://www.jinji.go.jp/hakusho/pdf/1-3-6.pdf 令和3年度 年次報告書(公務員白書) 「第1編第3部第6章:職員団体 - 資料6-2;職員団体の登録状況。2022年3月31日現在。]}}</ref>。
防衛省職員は、一般職の[[国家公務員]]であるものを除き、自衛官以外の者も自衛隊員であり、職務の性質から団結権も認められておらず、労働組合結成や加入してはならない(自衛隊法第64条)。
=== 採用 ===
職員の試験による採用のうち、自衛官以外の隊員(職員)については国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、国家公務員採用総合職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(高卒者試験)及び防衛省専門職員採用試験の合格者の中から行われる。防衛省専門職員採用試験は防衛省が、それ以外の試験は人事院が実施する。2011年度までは現在の総合職試験に相当する試験として防衛省職員採用Ⅰ種試験{{Efn|技術系職種(技官)を採用する試験区分のみを実施。その他は人事院実施のⅠ種試験合格者を採用}}を、一般職試験(大卒程度試験)に相当する試験として防衛省職員採用Ⅱ種試験(行政、技術、研究)を、防衛省専門職員採用試験に相当する試験としてⅡ種試験(語学、国際関係)を、一般職試験(高卒者試験)に相当する試験として防衛省職員採用Ⅲ種試験をそれぞれ防衛省が独自に実施していた。2012年度に人事院が現在の形に試験体系を改めたのを機に、現在の試験制度となった。
自衛官、自衛官候補生、学生、生徒及び予備自衛官補の採用もまた、原則として試験による(自衛隊法施行規則21条1項)。隊員の採用試験の方法は、筆記試験、身体検査及び口述試験とする(22条1項)ほか、自衛官、自衛官候補生及び予備自衛官補の採用試験においては適性検査を(22条2項)、防衛大学校の学生の採用試験においては、適応能力試験、討議試験及び体力試験を行うことができる(22条3項)。2017年度の具体的な採用区分を以下に示す<ref>防衛省 「[https://www.mod.go.jp/j/publication/wp/wp2014/pc/2014/html/nse70000.html 資料編 平成26年度自衛官等募集案内]」『平成26年(2014年)版防衛白書』</ref>。[https://www.mod.go.jp/gsdf/jieikanbosyu/recruit/ 自衛官応募ナビ(各種募集種目)]、[[防衛省職員]]も参照
* [[幹部候補生 (自衛隊)|自衛隊幹部候補生]]
* [[医官|医科]]・[[歯科医官|歯科]]幹部自衛官
* 公募幹部
* [[技術曹|技術海曹]]・[[技術曹|技術空曹]]
* [[航空学生]]
* [[一般曹候補生]]
* [[自衛官候補生]]
* [[防衛大学校]]学生
* [[防衛医科大学校]]医学科学生
* [[防衛医科大学校看護学科学生]](自衛官候補看護学生)(別に技官候補看護学生もある。)
* [[高等工科学校生徒]]
* [[自衛隊貸費学生|貸費学生]](技術)
* [[予備自衛官補]]
=== 給与 ===
防衛省職員の[[給与]]は一般職を除いて「防衛省の職員の給与等に関する法律」によって規律されている。一部、一般職の国家公務員の給与法規が準用されているが、主に自衛官を中心に独自の給与制度が定められている。
特別職であっても事務官等(自衛隊教官{{Efn|陸上自衛隊高等工科学校又は陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊の共同の機関として置かれている病院に置かれている准看護師養成所に勤務する者で教育に従事することを本務とするものをいう。}}を除く。)には「[[一般職の職員の給与に関する法律]]」等に定められた一般職の国家公務員と同じ俸給表が適用される(防衛省職員給与法4条)。自衛隊教官には防衛省の職員の給与等に関する法律に定められた自衛隊教官俸給表(別表第一)、自衛官には、同法に定める自衛官俸給表(別表第二)に定められた額の俸給がそれぞれ支給される。2023年度予算の予算定員は自衛官俸給表に246,697人措置されている。
また事務官等には一般職の職員の給与に関する法律の規定を準用する形で本府省業務調整手当や地域手当、広域異動手当など、国家公務員の一般職と同様の[[手当 (給与)#国家公務員における各種手当|手当]]を支給される(14条1項)。自衛官にも一般職と共通する手当が設けられているが、超過勤務手当、休日給及び夜勤手当等の特別の時間帯にかかる勤務に関する手当が支給されない。防衛出動を命ぜられた職員には防衛出動手当{{Efn|ただし、2003年に防衛出動手当が規定されてから2023年7月現在においてもその支給額は決定していない。}}が支給される(15条1項)。また政令で定める自衛官には航空手当、乗組手当、落下傘隊員手当、特別警備隊員手当及び特殊作戦隊員手当が支給される(16条1項)。自衛官の航海、営外居住にはそれぞれ航海手当(17条1項)、営外手当(18条1項)が支給される。
[[賞与]]である期末手当及び勤勉手当は一般職の国家公務員の例により支給される(18条の2)。
防衛大学校又は防衛医科大学校の学生には給与として学生手当及び期末手当を支給する(防衛省の職員の給与等に関する法律25条1項) 。学生手当は月額11万5800円で(2項)、期末手当は一般職の国家公務員の例{{Efn|支給割合は勤勉手当を含めて調整されている。}}による(3項)。陸上自衛隊高等工科学校生徒にも同様に生徒手当(月額10万2500円)と期末手当が支給される(25条の2)。
=== 服務・倫理 ===
自衛隊法は自衛隊員の服務の本旨について、「隊員は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身をきたえ、技能をみがき、強い責任感をもつて専心その職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に努め、もつて国民の負託にこたえることを期するものとする」(第52条)。自衛隊員になった者は服務の[[宣誓]]を行わなければならない(自衛隊法第53条)。一般の隊員は以下の宣誓文を記載された宣誓書に署名押印して服務の宣誓を行うことが義務付けられている(自衛隊法施行令39条)。
{{quotation|私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法 及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。}}自衛官候補生、学生及び生徒、予備自衛官、即応予備自衛官、予備自衛官補、幹部自衛官は別の宣誓文がある。
隊員は勤務態勢について、何時でも職務に従事することのできる態勢になければならない(54条1項)とされ、さらに職務上の危険若しくは責任を回避し、又は上官の許可を受けないで職務を離れてはならない(56条)。自衛官は、防衛大臣が指定する場所に居住しなければならず(55条)、防衛大臣の定めるところに従い、制服を着用し、服装を常に端正に保たなければならない(58条2項)。[[守秘義務]]、[[職務専念義務]]、[[政治的行為]]の制限、私企業からの隔離については、一般職の国家公務員と同様の規程が自衛隊法に設けられている。[[労働組合]]の結成、[[争議行為]]は全面的に禁止されている(64条)。
職務に係る倫理の保持については特別に自衛隊員倫理法が定められており、部員級以上の自衛隊員は、事業者等から贈与等や報酬の支払を受けたときは四半期ごとに、贈与等報告書を防衛大臣に提出しなければならない(自衛隊員倫理法6条1項)。独自の取り組みとして自衛隊員向けに倫理啓発ビデオを製作している。2007年3月に完成し、同年6月から全自衛隊員を対象に上映されている。ビデオに登場する人物は、「ゴルフ接待漬けの上司」という設定であり、後に収賄で[[逮捕]]された[[守屋武昌]]にかけられた容疑をそのまま反映したかのようであった。
== 調達 ==
自衛隊が必要とする工業製品は、防衛省が発注している。種類は多いが少量生産であり、日本の防衛産業への影響および経済効果は比較的低く、工業生産額は0.6パーセントに留まっている。需要については長年[[武器輸出三原則]]により輸出が厳しく規制されていたため、納入先が日本国内にほぼ限定されており量産による低価格化が進まずに高価となる傾向がある<ref name="bo-san">{{PDFlink|[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/286844/www.mod.go.jp/j/delibe/bo-san/tyukan/tyukan.PDF 防衛産業・技術基盤の維持・育成に関する基本的方向]}} 防衛産業・技術基盤研究会 平成12年11月</ref>。この点については他国との技術交流や各種コスト高を解消する目的も含めて新たに[[防衛装備移転三原則]]に基づいた柔軟な対応を採る方針が近年進みつつある。
防衛省と契約を結ぶ企業は約1,500社あるが、さらに広範囲な下請企業が存在する。戦車や戦闘機、護衛艦など、1つの兵器の製造に約1,200 - 2,500社以上関わるものもある。しかし、主要な製品を扱う企業が撤退するような事態に陥ると、主要な製品が特殊な技術および設備が必要とされる場合が多々あるため、産業の回復に投資と相応の期間を要し、防衛省はその維持と育成に着目している。
[[2022年]](令和4年)度中央調達の契約相手方別契約高順位表の上位20社は以下の通りである<ref>{{PDFlink|[https://www.mod.go.jp/atla/souhon/supply/jisseki/pdf/r04_jisseki_r05_mikomi.pdf 中央調達における令和4年度調達実績及び令和5年度調達見込]}} 防衛装備庁</ref>。
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# [[三菱重工業]](3652億円)
# [[川崎重工業]](1692億円)
# [[日本電気]](944億円)
# [[三菱電機]](752億円)
# [[富士通]](652億円)
# [[東芝インフラシステムズ]](363億円)
# [[IHI]](291億円)
# [[小松製作所]](274億円)
# [[日本製鋼所]](254億円)
# [[藤倉航装]](249億円)
# [[沖電気工業]](224億円)
# [[日立製作所]](218億円)
# [[出光興産]](185億円)
# 中川物産(168億円)
# [[ダイキン工業]](163億円)
# [[日本飛行機]](137億円)
# [[ジーエス・ユアサコーポレーション#事業会社|ジーエス・ユアサテクノロジー]](131億円)
# [[日本無線]](124億円)
# [[ジャパン マリンユナイテッド]](119億円)
# [[日立国際電気]](119億円)
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== 広報 ==
防衛省は防衛白書にて「わが国の平和と安全を守る防衛省・自衛隊の活動は、国民一人ひとりの理解と支持があって初めて成り立つものである。このため、分かりやすい広報活動を積極的に行い、国民の信頼と協力を得ていくことが重要である」と、防衛省・自衛隊における広報活動の重要性を強調している<ref>防衛省・自衛隊「[https://www.mod.go.jp/j/publication/wp/wp2014/pc/2014/html/n4223000.html 3 情報発信や情報公開など]」」『平成26年(2014年)版防衛白書』</ref>。
国の防衛政策について、[[国民]]の理解を得るために『[[防衛白書]]』を年1回発行している。法律で義務づけられた国会への報告を収録する法定[[白書]]とは異なり、法律に定めのない非法定白書ではあるが、[[閣議 (日本)#閣議付議案件|閣議案件]]として内閣の関与の下に刊行されている。1970年に最初に発行され、1976年以降は毎年刊行されている。
子ども向けに防衛白書を分かりやすく解説するために『まんがで読む防衛白書』という漫画冊子も毎年製作されている。「陸・海・空自衛隊の統合運用」(2012年度)、「東日本大震災における自衛隊の災害派遣活動」(2011年度)、「ハイチにおける国際平和協力活動」(2010年度)など、その年の白書の中から重要なテーマを一つを解説する内容となっている。
防衛省が編集協力する広報誌として『[[MAMOR]]』が[[扶桑社]]により月刊で刊行されている。防衛庁の時代には、広報誌として防衛弘済会が発行していた『[[セキュリタリアン]]』(1992年(平成4年)までは『防衛アンテナ』)があったが、平成18年(2006年)9月号を持って休刊となり、新たに『MAMOR』が2007年1月21日に創刊された。
同省サイト内の「防衛省・自衛隊の動画配信」ページ<ref>[http://www.mod.go.jp/j/publication/douga/mod_douga.html 防衛省・自衛隊:防衛省・自衛隊の動画配信]</ref>および[[YouTube]]内の「防衛省動画チャンネル」にて防衛省・自衛隊に関する動画を配信している。
== 関連紛争や諸問題 ==
=== 普天間基地移設問題 ===
{{main|普天間基地移設問題}}
=== 韓国海軍レーダー照射問題 ===
{{Main|韓国海軍レーダー照射問題}}
{{See also|[[朝鮮民主主義人民共和国に対する制裁|北朝鮮に対する制裁]]|[[瀬取り#朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による瀬取り]]}}
=== 集団的自衛権の限定的行使容認 ===
{{Main|日本の集団的自衛権#PKO協力法と再度の解釈改憲}}
=== 防衛予算の増額 ===
[[2022年]]([[令和]]4年)6月、政権与党[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]は[[参院選]]公約で、[[北大西洋条約機構|NATO]]加盟国が対[[国内総生産|GDP]]比2%以上の国防ないし軍事予算増額を目標に掲げているのに比例して、日本も5年以内に[[防衛費1%枠|防衛予算2%増額]]を目指す方針とした<ref>{{Citenews|title=自民公約、防衛費「GDP比2%念頭」 原発は最大活用 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA092XH0Z00C22A6000000/ |publisher=[[日本経済新聞]] |date=2022-06-09 |accessdate=2022-08-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220609151803/https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA092XH0Z00C22A6000000/ |archivedate=2022-06-09}}</ref>。並立して、[[思いやり予算]](同盟強靱化予算)の増額と共に、高額納入や調達未納など米国[[対外有償軍事援助]](FMS)の機能不全が指摘されている<ref>{{Citenews|title=戦略なき防衛費増 数字ありきでは必ず無駄遣いに(政治プレミア) |url=https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20220713/pol/00m/010/010000c |author=[[佐道明広]]中京大教授 |publisher=[[毎日新聞]] |date=2022-07-15 |accessdate=2022-08-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220717143500/https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20220713/pol/00m/010/010000c |archivedate=2022-07-18}}</ref>。
=== 不祥事等 ===
{{Main|防衛不祥事#日本}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 関連項目 ==
* [[国家安全保障戦略]]
* [[防衛計画の大綱]]
* [[兵部省]] / [[陸軍省]] / [[海軍省]] / [[国防省]]
* [[軍需産業]] / [[軍需省]]
* [[自衛権]] / [[敵基地攻撃能力]] / [[核抑止力]] / [[核共同保有]] / [[核武装論]]
* [[自衛隊海外派遣]] / [[国際平和協力本部]] / [[国際連合平和維持活動]]
* [[防衛省市ヶ谷地区]] / [[中央指揮所]] / [[C4Iシステム (自衛隊)|中央指揮システム]]
* [[檜町駐屯地]] / [[東京ミッドタウン]] - 所在地が旧防衛庁跡地
* [[隊友会]]
* [[日本の行政機関]]
* [[キャリア (国家公務員)|キャリア]] / [[準キャリア]] / [[自衛官]]
* [[予報業務許可事業者]] - 防衛省は第22号である。
; 関連法規
* [[平和安全法制]] / [[有事法制]] / [[武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律|武力攻撃事態法]] / [[武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律|国民保護法]] / [[重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律|重要影響事態法]]
* [[国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律|国際平和協力法]] / [[テロ対策特別措置法]] / [[イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法|イラク復興支援特別措置法]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Ministry of Defense (Japan)}}
* {{official website|name=防衛省・自衛隊}}
* {{Facebook|mod.japn|防衛省(Japan Ministry of Defense)}}
* {{Twitter|ModJapan_jp|防衛省・自衛隊}}
* {{instagram|modjapan|防衛省・自衛隊}}
* {{YouTube|user=modchannel|防衛省・自衛隊公式動画チャンネル【modchannel】}}
** [https://www.mod.go.jp/j/publication/wp/ 防衛白書]
* {{PDFlink|[https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12251721/www.kantei.go.jp/jp/singi/bouei/dai11/pdf/siryou.pdf 防衛省改革会議最終報告書]}}(2008年7月15日)
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E7%9C%81 |
3,425 | 国家公安委員会 | 国家公安委員会(こっかこうあんいいんかい、英: National Public Safety Commission、略称: NPSC)は、日本の行政機関のひとつ。警察庁を管理する内閣府の外局である(行政委員会)。
国の公安に係る警察運営事項の統轄と警察行政の調整を行い、警察庁を管理する最高機関として、内閣府設置法第49条第1項および警察法に基づき内閣総理大臣所管の下に置かれ、内閣府の外局とされる合議制の行政委員会である。委員会は、国務大臣をもって充てられる国家公安委員会委員長と、5人の委員の計6名から構成される(警察法第4条・第6条)。委員長には国務大臣が充てられるいわゆる大臣委員会とされ、警察の政治的中立性の確保と治安に対する内閣の行政上の責任を明確化することを目的とした組織である。委員会には、その特別の機関として警察庁が置かれ(内閣府設置法第56条、警察法第15条)、それを管理する(警察法第5条4項)。委員会の庶務は警察庁において処理することとされ(警察法第13条)、国家公安委員会の会務全般は、警察庁長官官房によって行われている。
国の公安に係る警察運営をつかさどり、警察教養、警察通信、情報技術の解析、犯罪鑑識、犯罪統計及び警察装備に関する事項を統轄し、並びに警察行政に関する調整を行う事により、個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持することを任務とする(警察法第5条1項)。
警察庁に対する「管理」の概念であるが、国家公安委員会は警察行政の民主主義的、中立的運営のために存在し、個々の案件に対して警察庁を指揮監督するのではなく、大綱方針を定め、その運営が適切に行われているか否かを監督する。従って、具体的事件の捜査についての指示や命令を行うことはできない。しかし、警察行政の執行が法令に違反し、あるいは国家公安委員会の定める大綱方針に則していない疑いが生じた場合には、その是正又は再発防止のため、具体的事態に応じ、個別的又は具体的に採るべき措置を指示することは許される。「監察」については、国家公安委員会がその職権として、必要があると認める場合、個別案件についても随時行うことができ、警察庁に対し調査を指示できる。警察庁は、適宜、国家公安委員会に対して警察行政の執行につき所要の報告を行うべき職責を有する。また、国家公安委員会から報告を求められたときは、速やかにそれを行うべきであるとされる。これら国家公安委員会の権限行使については警察法及び国家公安委員会運営規則に定められている。
委員長が招集する。委員長及び3人以上の委員の出席がなければ会議を開き、議決をすることができないとされ議事は出席委員の過半数でこれを決し、可否同数の時は委員長の決するところによる。企画運営は警察庁が行い、警察庁を管理すること以外は国家公安委員会の職権行使について警察庁の補佐を受ける。警察庁長官官房に課長級として国家公安委員会会務官が置かれている(警察庁組織令第7条・13条)。
検事総長と常に緊密な連絡を保つものとするとされるが、刑事訴訟法上における検察官の警察官に対する一定の指揮権のようなものは存在せず、常に協力関係にある。
警察庁は国家公安委員会以外の機関から管理監督されることはないが、司法警察活動に際し、個別の警察官は一定の指揮を検察官から受けることがある。当然、警察官は正当な理由がある場合には、この検察官の指示に従う必要はない。ただし、検事総長、検事長または検事正は、国家公安委員会が懲戒権限を持つ者、つまり国家公務員たる警察官に対する懲戒の請求を国家公安委員会に行うことが認められている。また、検察官は、司法警察員又は司法巡査に指定された警察官に対しては「捜査を適正にし、その他公訴の遂行を全うするために必要な事項に関する一般的な準則を定める」一般的指示を行うことが刑事訴訟法193条で定められている。同条により、検察官が自ら犯罪を捜査する場合において必要があるときは、司法警察職員を指揮して捜査の補助をさせることができる。
しかし、検事総長、検事長又は検事正自身には懲戒権限はないため、この正当性の判断は国家公安委員会が警察の民主的運営および政治的中立性に鑑みて、独自に判断することとなっている。国家公安委員会の管理権と検察官の捜査指揮権が相反する場合にどちらを優先させるかが問題となるが、あくまでも正当性の判断主体は国家公安委員会であり、国務大臣たる国家公安委員長を長とする国家公安委員会の管理権は民主主義的基盤を持っているため、行政機関である検察官の指揮権よりも優位する。したがって、国家公安委員会の管理権が優先される。なお、司法警察活動とは違って、犯罪の予防・鎮圧活動を主とする行政警察活動については、警察が独自に行うこととなっており、検察官の指揮を受けることはない。
1955年(昭和30年)11月28日から1956年(昭和31年)12月23日まで、委員長の政務を補佐する職として定数1人の政務次官(辞令上の職名は「国家公安政務次官」)が置かれ、大谷瑩潤が在任した。
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] | 国家公安委員会は、日本の行政機関のひとつ。警察庁を管理する内閣府の外局である(行政委員会)。 | {{Otheruseslist|内閣府の外局である国家公安委員会|都道府県に置かれる行政委員会のひとつ|公安委員会|[[フランス革命]]期に同国で設置された国家機関|公安委員会 (フランス革命)|名称が似ている[[法務省]]の外局の公安審査委員会|公安審査委員会|同じく法務省の外局である公安調査庁|公安調査庁|あくまで警察内の一部門である公安警察|公安警察}}
{{行政官庁
|国名 = {{JPN}}
|正式名称 = 国家公安委員会
|公用語名 = こっかこうあんいいんかい
|英名 = National Public Safety Commission
|紋章 = File:Emblem of the Government of Japan.svg
|紋章サイズ = 120px
|画像 = Government Office Complex 2 of Japan 2009.jpg
|画像サイズ = 200px
|画像説明 = 国家公安委員会が設置されている<br/>[[中央合同庁舎第2号館]]
|主席閣僚職名 = [[国家公安委員会委員長|委員長]]
|主席閣僚氏名 = [[松村祥史]]
|次席閣僚職名 = 委員
|次席閣僚氏名 = {{ublist|[[櫻井敬子]]|[[横畠裕介]]|[[宮崎緑]]|[[竹部幸夫]]|[[野村裕知]]}}
|補佐官職名 =
|補佐官氏名 =
|次官職名 =
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|上部組織 = 上部組織
|上部組織概要 = [[内閣府]]
|下部組織1 = [[特別の機関]]
|下部組織概要1 = [[警察庁]]
|所在地 = {{color|red|〒}}100-8974<br/>[[東京都]][[千代田区]][[霞が関]]2丁目1番2号
|位置 =
|定員 = 8,026人(警察庁の職員の定員)(うち2,291人は[[警察官]]<ref name="定員令">{{Egov law|344CO0000000121|行政機関職員定員令(昭和44年5月16日政令第121号)(最終改正:令和5年3月30日政令第90号)}}</ref>、882人は[[皇宮護衛官]]<ref name="定員規則">[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=344M50400000004 警察庁の定員に関する規則(昭和44年6月5日国家公安委員会規則第4号)]」(最終改正:令和5年3月30日国家公安委員会規則第6号)</ref>、4,853人は一般[[職員]]<ref name="定員規則" /><ref group="注釈">全体の定員から警察官及び皇宮護衛官とされる人員を控除して算出した。</ref>)
|年間予算 = 2901億6851万1千円<ref name="予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202311001.pdf 令和5年度一般会計予算]}} 財務省</ref>
|会計年度 = 2023
|根拠法令=[[内閣府設置法]]、[[警察法]]|設置年月日 = 1954年([[昭和]]29年)7月1日<br/>(新警察法に基づく委員会の<br/>第1回開催日)
|改称年月日 =
|前身 = 国家公安委員会<br/>(旧警察法に基づく委員会)<br/>第1回開催日は<br/>1948年(昭和23年)3月8日)
|ウェブサイト = {{official website|name=国家公安委員会}}
|その他=
}}
'''国家公安委員会'''(こっかこうあんいいんかい、{{lang-en-short|National Public Safety Commission}}、[[略称]]: '''NPSC''')は、[[日本]]の[[日本の行政機関|行政機関]]のひとつ。[[警察庁]]を管理する[[内閣府]]の[[外局]]である([[行政委員会]])。
==組織==
国の公安に係る警察運営事項の統轄と警察行政の調整を行い、[[警察庁]]を管理する最高機関として、[[内閣府設置法]]第49条第1項および[[警察法]]に基づき[[内閣総理大臣]]所管の下に置かれ、[[内閣府]]の[[外局]]とされる[[合議制]]の[[行政委員会]]である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E5%85%AC%E5%AE%89%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A-65203 国家公安委員会とは コトバンク]</ref>。委員会は、[[国務大臣]]をもって充てられる[[国家公安委員会委員長]]と、5人の委員の計6名から構成される(警察法第4条・第6条)。委員長には国務大臣が充てられるいわゆる[[大臣委員会]]とされ、警察の政治的中立性の確保と治安に対する[[内閣 (日本)|内閣]]の行政上の責任を明確化することを目的とした組織である<ref>[https://www.npsc.go.jp/about/summary/index.html 国家公安委員会の概要|国家公安委員会Webサイト]</ref>。委員会には、その[[特別の機関]]として警察庁が置かれ(内閣府設置法第56条、警察法第15条)、それを管理する(警察法第5条4項)。委員会の庶務は警察庁において処理することとされ(警察法第13条)、国家公安委員会の会務全般は、[[警察庁長官官房]]によって行われている。
== 任務 ==
国の公安に係る警察運営をつかさどり、警察教養、警察通信、情報技術の解析、犯罪鑑識、犯罪統計及び警察装備に関する事項を統轄し、並びに警察行政に関する調整を行う事により、個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持することを任務とする([[警察法]]第5条1項)。
== 委員会の管理権 ==
警察庁に対する「管理」の概念であるが、国家公安委員会は警察行政の[[民主主義]]的、中立的運営のために存在し、個々の案件に対して警察庁を指揮監督するのではなく、大綱方針を定め、その運営が適切に行われているか否かを監督する。従って、具体的事件の捜査についての指示や命令を行うことはできない。しかし、警察行政の執行が法令に違反し、あるいは国家公安委員会の定める大綱方針に則していない疑いが生じた場合には、その是正又は再発防止のため、具体的事態に応じ、個別的又は具体的に採るべき措置を指示することは許される。「監察」については、国家公安委員会がその職権として、必要があると認める場合、個別案件についても随時行うことができ、警察庁に対し調査を指示できる。警察庁は、適宜、国家公安委員会に対して警察行政の執行につき所要の報告を行うべき職責を有する。また、国家公安委員会から報告を求められたときは、速やかにそれを行うべきであるとされる。これら国家公安委員会の権限行使については警察法及び国家公安委員会運営規則に定められている。
== 委員会の運営 ==
委員長が招集する。委員長及び3人以上の委員の出席がなければ会議を開き、議決をすることができないとされ議事は出席委員の過半数でこれを決し、可否同数の時は委員長の決するところによる。企画運営は警察庁が行い、警察庁を管理すること以外は国家公安委員会の職権行使について警察庁の補佐を受ける。[[警察庁長官官房]]に課長級として国家公安委員会会務官が置かれている(警察庁組織令第7条・13条)。
== 検事総長との関係 ==
[[検事総長]]と常に緊密な連絡を保つものとするとされるが、[[刑事訴訟法]]上における[[検察官]]の[[日本の警察官|警察官]]に対する一定の[[指揮権 (法務大臣)|指揮権]]のようなものは存在せず、常に協力関係にある。
警察庁は国家公安委員会以外の機関から管理監督されることはないが、[[司法警察|司法警察活動]]に際し、個別の警察官は一定の指揮を検察官から受けることがある。当然、警察官は正当な理由がある場合には、この検察官の指示に従う必要はない。ただし、検事総長、検事長または検事正は、国家公安委員会が懲戒権限を持つ者、つまり[[国家公務員]]たる警察官に対する懲戒の請求を国家公安委員会に行うことが認められている。また、検察官は、[[司法警察員]]又は[[司法巡査]]に指定された警察官に対しては「捜査を適正にし、その他[[公訴]]の遂行を全うするために必要な事項に関する一般的な準則を定める」一般的指示を行うことが刑事訴訟法193条で定められている。同条により、検察官が自ら[[犯罪]]を捜査する場合において必要があるときは、[[司法警察職員]]を指揮して捜査の補助をさせることができる。
しかし、検事総長、検事長又は検事正自身には懲戒権限はないため、この正当性の判断は国家公安委員会が警察の民主的運営および政治的中立性に鑑みて、独自に判断することとなっている。国家公安委員会の管理権と検察官の捜査指揮権が相反する場合にどちらを優先させるかが問題となるが、あくまでも正当性の判断主体は国家公安委員会であり、国務大臣たる国家公安委員長を長とする国家公安委員会の管理権は民主主義的基盤を持っているため、行政機関である検察官の指揮権よりも優位する。したがって、国家公安委員会の管理権が優先される。なお、司法警察活動とは違って、犯罪の予防・鎮圧活動を主とする[[行政警察活動]]については、警察が独自に行うこととなっており、検察官の指揮を受けることはない。
== 委員長および委員 ==
*委員長職の詳細および歴代の委員長一覧については、[[国家公安委員会委員長]]の項目を参照。
*(旧)警察法に基づく委員は、警察職員及び他の官公庁の職業的公務員のいずれの経験も有しない者の中から、[[国会同意人事|衆・参両議院の同意]]([[衆議院の優越]]あり)を得て任命された。委員の任期は同法第7条第1項では一律5年となっていたが、同法附則第2条第1項で初回のみ「一人は一年、一人は二年、一人は三年、一人は四年、一人は五年」とされた<ref group="注釈" name="kisai">氏名は[[官報]]掲載順に左から記載した。</ref>。委員長は委員の互選により選出され、委員長の任期は1年であった。この旧法時代は、法文上は「委員」の文字を重畳する「国家公安委員会委員」の表記がなされたが、辞令上は重畳しない「国家公安委員に任命する」との表記が用いられた。
*(新)警察法に基づく委員は、衆・参両議院の同意を得て[[内閣総理大臣]]が任命する。委員の任期は5年で、1回に限り再任が可能である。なお、同法附則第4項の規定により初回の任期のみ「一人は一年、一人は二年、一人は三年、一人は四年、一人は五年」とされた<ref group="注釈" name="kisai"/>。
*委員長不在([[外遊]]、短期間の疾病など)の場合に備えて、委員のうちの1人があらかじめ委員長代理として互選されており、会議の招集、議長役を代行する。ただし、この委員長代理には「国務大臣たる委員長」の代理権限まではないため、国家公安委員会規則の公布文署名等の行為は、内閣総理大臣が一時的に指名する国務大臣が「国家公安委員会委員長事務代理」の名で代行する。
=== 歴代委員の一覧 ===
[[ファイル:National Public Safety Commission 20230309.jpg|サムネイル|300px|現在の委員(2023年3月9日撮影)]]
{|class=wikitable style="font-size:small" border="1"
!colspan=6|国家公安委員<br>1947年(昭和22年)制定 警察法(昭和22年法律第196号)
|-
!期間!!委員1!!委員2!!委員3!!委員4!!委員5
|-
|nowrap|1948年(昭和23年){{0}}3月{{0}}7日 - ||nowrap|[[植村環]]||nowrap|[[清瀬三郎]]||nowrap|[[生方誠]]||nowrap|[[辻二郎 (機械工学者)|辻二郎]]||nowrap|金正米吉
|-
|nowrap|1949年(昭和24年){{0}}3月{{0}}7日 - ||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1949年(昭和24年){{0}}4月15日 - ||nowrap|植村環||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1950年(昭和25年){{0}}3月{{0}}7日 - ||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1950年(昭和25年){{0}}3月31日 - ||nowrap|↑||nowrap|[[青木均一]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1951年(昭和26年){{0}}3月{{0}}7日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1951年(昭和26年){{0}}4月{{0}}4日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[小汀利得]]||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1952年(昭和27年){{0}}3月{{0}}7日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席||nowrap|↑
|-
|nowrap|1952年(昭和27年){{0}}3月28日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[花井忠]]||nowrap|↑
|-
|nowrap|1953年(昭和28年){{0}}1月19日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席||nowrap|↑
|-
|nowrap|1953年(昭和28年){{0}}3月{{0}}7日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席||nowrap|金正米吉
|-
|nowrap|1953年(昭和28年){{0}}7月31日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|高野弦雄||nowrap|↑
|-
|nowrap|1954年(昭和29年){{0}}4月15日 - ||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1954年(昭和29年){{0}}6月{{0}}4日 - ||nowrap|[[野村秀雄]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
!colspan=6|国家公安委員会委員<br>1954年(昭和29年)全部改正 [[警察法]](昭和29年法律第162号)
|-
|nowrap|1954年(昭和29年){{0}}7月{{0}}1日 - ||nowrap|野村秀雄||nowrap|青木均一||nowrap|小汀利得||nowrap|高野弦雄||nowrap|金正米吉
|-
|nowrap|1955年(昭和30年){{0}}7月{{0}}1日 - ||nowrap|↑||nowrap|[[永野重雄]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1956年(昭和31年){{0}}7月{{0}}1日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|小汀利得||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1957年(昭和32年){{0}}7月{{0}}1日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|高野弦雄||nowrap|↑
|-
|nowrap|1958年(昭和33年){{0}}1月14日 - ||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1958年(昭和33年){{0}}2月{{0}}7日 - ||nowrap|[[安井英二]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1958年(昭和33年){{0}}7月{{0}}1日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席
|-
|nowrap|1958年(昭和33年){{0}}7月{{0}}8日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|金井米吉
|-
|nowrap|1959年(昭和34年){{0}}7月{{0}}1日 - ||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1959年(昭和34年){{0}}7月{{0}}4日 - ||nowrap|安井英二||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1960年(昭和35年){{0}}7月{{0}}1日 - ||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1960年(昭和35年){{0}}7月23日 - ||nowrap|↑||nowrap|永野重雄||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1961年(昭和36年){{0}}7月{{0}}1日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1961年(昭和36年){{0}}7月11日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|小汀利得||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1962年(昭和37年){{0}}7月{{0}}1日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席||nowrap|↑
|-
|nowrap|1962年(昭和37年){{0}}9月{{0}}3日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[名川保男]]||nowrap|↑
|-
|nowrap|1963年(昭和38年){{0}}7月{{0}}8日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席
|-
|nowrap|1964年(昭和39年){{0}}6月26日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[坂西志保]]
|-
|nowrap|1964年(昭和39年){{0}}7月{{0}}4日 - ||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1965年(昭和40年){{0}}4月28日 - ||nowrap|[[津田正夫]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1965年(昭和40年){{0}}7月23日 - ||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1965年(昭和40年){{0}}9月14日 - ||nowrap|↑||nowrap|[[藤井丙午]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1966年(昭和41年){{0}}7月11日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1966年(昭和41年){{0}}9月{{0}}9日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[真野毅|眞野毅]]||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1967年(昭和42年){{0}}9月{{0}}3日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|名川保男||nowrap|↑
|-
|nowrap|1969年(昭和44年){{0}}6月26日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席
|-
|nowrap|1969年(昭和44年){{0}}9月12日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|坂西志保
|-
|nowrap|1970年(昭和45年){{0}}4月28日 - ||nowrap|津田正夫||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1970年(昭和45年){{0}}9月14日 - ||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1970年(昭和45年)10月{{0}}7日 - ||nowrap|↑||nowrap|藤井丙午||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1971年(昭和46年){{0}}9月{{0}}9日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1971年(昭和46年)12月17日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[池田潔]]||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|1972年(昭和47年){{0}}9月{{0}}3日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席||nowrap|↑
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|nowrap|1972年(昭和47年){{0}}9月12日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[松本正雄]]||nowrap|↑
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|nowrap|1973年(昭和48年){{0}}9月20日 - ||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1973年(昭和48年)10月{{0}}1日 - ||nowrap|↑||nowrap|田實渉||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|1974年(昭和49年){{0}}9月12日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席
|-
|nowrap|1974年(昭和49年)10月{{0}}1日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[今井久 (内務官僚)|今井久]]
|-
|nowrap|1975年(昭和50年){{0}}4月28日 - ||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1975年(昭和50年){{0}}5月23日 - ||nowrap|橘善守||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1975年(昭和50年)10月{{0}}7日 - ||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1975年(昭和50年)12月25日 - ||nowrap|↑||nowrap|田實渉||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1976年(昭和51年)12月17日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1977年(昭和52年){{0}}2月22日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|池田潔||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1977年(昭和52年){{0}}9月12日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|松本正雄||nowrap|↑
|-
|nowrap|1979年(昭和54年)10月{{0}}1日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|今井久
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|nowrap|1980年(昭和55年){{0}}5月23日 - ||nowrap|橘善守||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|1980年(昭和55年){{0}}7月26日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席
|-
|nowrap|1980年(昭和55年)10月29日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[高辻正己|高辻正巳]]
|-
|nowrap|1980年(昭和55年)12月25日 - ||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|1981年(昭和56年){{0}}2月14日 - ||nowrap|↑||nowrap|[[平岩外四]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|1982年(昭和57年){{0}}2月22日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[牛場大蔵]]||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|1982年(昭和57年){{0}}9月12日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[大塚喜一郎]]||nowrap|↑
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|nowrap|1984年(昭和59年)10月{{0}}1日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|高辻正己
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|nowrap|1985年(昭和60年){{0}}5月23日 - ||nowrap|[[坂本朝一]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|1986年(昭和61年){{0}}2月14日 - ||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|1986年(昭和61年){{0}}2月15日 - ||nowrap|↑||nowrap|平岩外四||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|1987年(昭和62年){{0}}2月22日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|牛場大蔵||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|1987年(昭和62年){{0}}9月12日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|石井成一||nowrap|↑
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|nowrap|1988年(昭和63年)12月31日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席
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|nowrap|1989年(平成元年){{0}}4月{{0}}7日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[富田朝彦]]
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|nowrap|1989年(平成元年)10月{{0}}1日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席
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|nowrap|1989年(平成元年)10月{{0}}7日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|富田朝彦
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|nowrap|1990年(平成{{0}}2年){{0}}5月23日 - ||nowrap|坂本朝一||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|1991年(平成{{0}}3年){{0}}2月15日 - ||nowrap|↑||nowrap|[[那須翔]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|1992年(平成{{0}}4年){{0}}2月22日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[岩男寿美子]]||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|1992年(平成{{0}}4年){{0}}9月12日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|石井成一||nowrap|↑
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|nowrap|1994年(平成{{0}}6年)10月{{0}}7日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[長岡實]]
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|nowrap|1995年(平成{{0}}7年){{0}}5月23日 - ||nowrap|[[新井明]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|1996年(平成{{0}}8年){{0}}2月15日 - ||nowrap|↑||nowrap|那須翔||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|1997年(平成{{0}}9年){{0}}2月22日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|岩男寿美子||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|1997年(平成{{0}}9年){{0}}9月12日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席||nowrap|↑
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|nowrap|1997年(平成{{0}}9年)11月12日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|磯邊和男||nowrap|↑
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|nowrap|1999年(平成11年)10月{{0}}7日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席
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|nowrap|1999年(平成11年)12月{{0}}7日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|渡邊幸治
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|nowrap|2000年(平成12年){{0}}5月23日 - ||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2000年(平成12年){{0}}5月24日 - ||nowrap|荻野直紀||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2001年(平成13年){{0}}2月15日 - ||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2001年(平成13年){{0}}2月22日 - ||nowrap|↑||nowrap|[[安崎暁]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2002年(平成14年){{0}}2月22日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2002年(平成14年){{0}}3月13日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|川口和子||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2002年(平成14年)11月12日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席||nowrap|↑
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|nowrap|2002年(平成14年)11月19日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[大森政輔]]||nowrap|↑
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|nowrap|2004年(平成16年)12月{{0}}7日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[佐藤行雄]]
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|nowrap|2005年(平成17年){{0}}5月24日 - ||nowrap|[[吉田信行]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2006年(平成18年){{0}}2月22日 - ||nowrap|↑||nowrap|[[葛西敬之]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2007年(平成19年){{0}}3月13日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[長谷川眞理子]]||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2007年(平成19年)11月19日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席||nowrap|↑
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|nowrap|2007年(平成19年)12月19日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[田尾健二郎]]||nowrap|↑
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|nowrap|2009年(平成21年)12月{{0}}7日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[高木剛]]
|-
|nowrap|2010年(平成22年){{0}}5月24日 - ||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|2010年(平成22年){{0}}5月27日 - ||nowrap|[[山本剛嗣]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
|-
|nowrap|2011年(平成23年){{0}}2月22日 - ||nowrap|↑||nowrap|[[前田晃伸]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2012年(平成24年){{0}}3月13日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|長谷川眞理子||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2012年(平成24年)12月19日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||空席||nowrap|↑
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|nowrap|2013年(平成25年){{0}}3月{{0}}5日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|奥野知秀||nowrap|↑
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|nowrap|2014年(平成26年)12月{{0}}7日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[川本裕子]]
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|nowrap|2015年(平成27年){{0}}5月27日 - ||nowrap|[[北島信一]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2016年(平成28年){{0}}2月21日 - ||nowrap|↑||空席||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2016年(平成28年){{0}}2月22日 - ||nowrap|↑||nowrap|[[木村惠司]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2017年(平成29年){{0}}3月13日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[安藤裕子 (裁判官)|安藤裕子]]||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2018年(平成30年){{0}}3月{{0}}5日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[小田尚]]||nowrap|↑
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|nowrap|2019年(令和元年)12月{{0}}7日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[櫻井敬子]]
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|nowrap|2020年(令和2年){{0}}5月27日 - ||nowrap|[[横畠裕介]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2021年(令和3年){{0}}2月22日 - ||nowrap|↑||nowrap|[[宮崎緑]]||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2022年(令和4年){{0}}3月13日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[竹部幸夫]]||nowrap|↑||nowrap|↑
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|nowrap|2023年(令和5年){{0}}3月{{0}}5日 - ||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|↑||nowrap|[[野村裕知]]<ref>[[日経ビジネス]]編集長『[https://web.archive.org/web/20230521043806/https://www.jcfia.gr.jp/report/pdf/no29/04.pdf ITとリスク]』。</ref>||nowrap|↑
|}
== 政務次官 ==
1955年(昭和30年)11月28日から1956年(昭和31年)12月23日まで、委員長の政務を補佐する職として定数1人の[[政務次官]](辞令上の職名は「国家公安政務次官」)が置かれ、[[大谷瑩潤]]が在任した。
しかし政務次官には委員会に出席する権限もなくほとんど機能せず、国家公安委員の[[金正米吉]]ら委員会の反対を受けて、この役職は一代限りで廃止された<ref>{{Cite book|title=情と理<上>|year=1998|author=後藤田正晴|date=|pages=102-103|publisher=講談社}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|National Public Safety Commission (Japan)}}
*[[警察庁]]
*[[日本の行政機関]]
== 外部リンク ==
*{{official website|name=国家公安委員会}}
{{中央省庁}}
{{内閣府}}
{{都道府県警察}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:こつかこうあんいいんかい}}
[[Category:国家公安委員会|*]]
[[Category:1954年設立の政府機関]] | 2003-03-05T02:03:15Z | 2023-09-13T11:05:58Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E5%85%AC%E5%AE%89%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A |
3,426 | 酪農 | 酪農(らくのう)とは、牛や山羊などを飼育し、乳や乳製品を生産する農業の形態である。
その歴史は古く、人類が狩猟生活から農耕生活に入ったのと同時期に、こうした酪農、畜産も始まったといわれる。移動しながらの遊牧も行われるようになった。
冷涼な高地が乳牛飼育に向いた土地。一軒につき数頭から数百頭の乳牛を、牧場等で放牧したり畜舎で飼育する。
日本の乳牛では、放牧主体の酪農はほとんど行われておらず、約74%がスタンチョン(牛の首の部分をはさんで繋いでおく道具)やタイストール(牛をチェーンで繋ぐ方式)での繋ぎ飼いであり、約25%は牛舎内での放し飼い(寝床が個別のフリーストール、自由に寝られるフリーバーン)であり自然放牧による酪農は2%に満たない。
氷期に氷床に覆われていた地域では、氷河が地表の土壌を侵食したため、土地がやせているが、牧草の栽培は可能であり、酪農が展開される。
乳牛はいかに多く搾り取るかを最大の課題とされ、改良が進められた。その結果、1頭あたり年間乳量は8,636kg(2018年農林水産省牛乳乳製品統計調査参照)にまで増加した(肉用に飼育される牛の年間乳量は1000kg程度)。そのため一日でも乳牛を搾乳しないまま放置すると、乳房炎という病気になるため、きめの細かい管理が必要である。一般的には等間隔で朝と夕に搾乳を行うことが多い。
また搾乳時に邪魔であったり、糞尿がついた尻尾が搾乳の中に入ったりすることがあるため、尻尾の切断が行われることもある。尻尾の付け根をきつく縛り、尻尾を壊死させて切断するという方法などで実施される。動物福祉の考え方に対応した乳牛の飼養管理指針」では断尾はできうる限りしないほうがのぞましい、とされている。
日本でも昔(1960年代頃まで)は人の手で乳搾りを行い、搾った生乳(せいにゅう)をバケツに取り、さらに牛乳缶と呼ばれる20リットル程度の金属製容器に貯蔵していたが、現代では工程のほとんどが機械化されている。 現在、日本では、畜舎内に走るパイプラインと牛の乳房をミルカー(搾乳機)で接続して搾乳するパイプライン方式が普及しているが、規模拡大(メガファームの増加)傾向に伴い、牛を搾乳室に集約して効率的に搾乳するミルキングパーラー方式や搾乳作業を自動化して省力化を図る搾乳ロボットの導入も増えている。 日本では通常、年中無休で1日2回の搾乳が一般的であるが、1日1回搾乳や季節繁殖による夏期を中心とした搾乳、先に挙げた従業員交代制による1日3回のミルキングパーラー搾乳や1日に複数回の搾乳を行う搾乳ロボットなど搾乳方式は多様化しつつある。
搾乳後の生乳はバルククーラー(生乳を冷やす冷蔵タンク)に送られ冷却・一時貯蔵、その後集乳車(タンクローリーの一種)により集荷され、牛乳工場へ運ばれる。
乳牛は生後14~16ヶ月を経過すると、はじめの人工授精が行われる。出産しなければ乳はでないため、経済効率をあげるために分娩の間隔をあけぬよう、定期的に人工授精が行われる。
乳量の多いホルスタイン種乳牛が主流。日本で飼育されている乳牛の98%は、飼料効率がよく、温厚な性質のホルスタイン種である。乳質向上のため、農家によっては数十頭のホルスタイン種のグループに数頭のジャージー種(脂肪分などの成分が高い)を導入する場合もある。
肉牛の場合と基本的な違いは無い。 飼料は大まかに言って、繊維質の多い、生の牧草・乾草などの「粗飼料」と繊維質の少ないトウモロコシ(デントコーン)などの穀類や植物油の絞りかす等をつかった「濃厚飼料」とに分けられる。粗飼料に比べ濃厚飼料のほうが高カロリーである。高脂肪の乳を搾り取るため、粗飼料中心の酪農から、近年は濃厚飼料中心の酪農へと変ってきている。
これには乳脂肪分3.5%を下回る生乳を出荷すると、メーカーと農協によって牛乳の出荷価格(単価)が半値にされてしまうルールが導入されてきた経緯が大きく関係しており、乳脂肪分を一定に保ちにくい放牧酪農が激減したこともこれに由来する。
そのため粗飼料の不足や濃厚飼料の多給により乳牛のルーメンアシドーシス(第一胃の病気)が増えている。この病気は吸収や中和など通常の胃の働きに弊害が起こることによって進行し、初期にはちん鬱や採食量の低下などが現れる。さらに進行すると毒素が産生され血中へ入り込むことにより蹄葉炎や肝障害、肺炎を引き起こすことに繋がっている。
牧草は乾燥させた乾草(かんそう)として給与するか、保存等のために密封、乳酸発酵させてサイレージとして給与することが多い。かつては牧草を気密度の高い塔型サイロに入れて発酵させていたが、この方式は機械の故障が多発し、維持管理に多額の費用がかかることから廃れ、現在では平面型のバンカーサイロ等が使用されるようになった。また通常のサイロよりも簡易的な牧草をロール状に巻き取り、これをビニールで包んで発酵させるラップサイレージが主流となりつつある。
なお、牛乳の「味」としては、緑色のままの牧草(牧草地に生えている状態の牧草)だけを、食べさせた乳牛の乳はやや「青臭み」があり、これを取り去るには乾草も食べさせねばならない。また、牛乳の味には「季節要因」もあり、一般に夏場の方が「飲み口がさっぱり」しているが「コク」が少ない。 また、この「コク」=タンパク質を牛乳に増やすためには、飼料にたんぱく質を多く含む大豆、米、麦などの穀類を混ぜる必要がある。この問題から、配合飼料のタンパク分を増加させるために「肉骨粉」が使用され、「BSE問題」へと発展した。
酪農家の職業的幸福度と動物福祉には関連があり、酪農家のストレスが低いほど、乳牛の動物福祉は高い。さらに乳牛の動物福祉が高さは農場の拡大とも正の関係にあった。このように動物福祉の向上は経営者の利益にもなるものだが、日本の畜産動物福祉は遅れていることが指摘されており、国際評価も最低ランクのGとなっている。
除角の手法としては焼きゴテ、電熱式除角器(デホーナー)、ゴムリング、断角器、薬品などがある。
ホルスタインには角がないというイメージが一般的に定着しているが、乳牛の多くは除角されている。除角(角を取り除く処置)は牛同士の突きあいによる怪我や従業員の安全のために行われているが、2015年の畜産技術協会の調査によると85.5%の農場が除角を行っており、そのうち85.1%の農場が麻酔を使わずに行っている。角には神経があり血も流れているため痛みを伴う処置であり、動物福祉の観点から無麻酔での除角が問題視されている。角カバーも販売されているが普及していない。
日本の約74%の酪農場の搾乳牛はつなぎ飼いで飼育されており、動物福祉上の問題リスクが高まる飼育方法とされている。ヨーロッパではつなぎ飼いへの規制が進んでいるが日本ではまだその動きは見られていない。
北海道、岩手県、千葉県、栃木県、長野県、熊本県などで盛んであるが、特に国内4割の生乳は釧路地方、十勝地方、根室地方の道東地域で一農家で数百頭もの乳牛を飼うという大型牧場経営が行われている。農業所得額全国一位は80年代後半から現在に至るまで釧路市の隣にある酪農の北海道鶴居村の1,370万円である。
全国的な傾向として根釧地域を除き、近年では競合飲料の台頭により飲用牛乳の消費量が減退傾向にあるため、生乳の余剰問題が顕著となっている。またこれに伴って生産者乳価も低陰傾向にある。
2023年2月24日、中央酪農会議は、指定団体が生乳販売を受託する酪農家の戸数が2022年12月時点で1万1202戸(前年同月比6.5%減)だったと発表した。指定団体に生乳を出荷している酪農家は全体の約9割を占めており、中央酪農会議の調査で全般的な状況はおおむね把握できるとされる。
酪農が開始されたのは、千葉県南部(現南房総市)に設置された「嶺岡牧」。元は安房国守里見氏が開いた牧場であったが、のちの、1614年に江戸幕府の直轄となり、8代将軍徳川吉宗の時、インド産の白牛を放牧・繁殖、白牛酪(バター)を生産した。2004年現在この地には千葉県畜産総合研究センター「嶺岡乳牛研究所」があり、「日本酪農発祥之地」の記念碑が設置されている。その記念碑のとなりには、房州酪農の礎ともいうべき「エー アレンデーリー エリート」号の記念碑がある。ここで生産した乳製品は強壮剤や解熱用の薬などの材料となり、庶民に渡ることはなかった。
その後、千葉県白子町出身の前田留吉が、オランダ人より酪農に関する技術を学び、1863年に横浜で牛乳の生産を開始した。これにより庶民でも牛乳に手が届くようになった。1876年、北海道根室に東梅牧場(柳田藤吉による国内初の大規模な近代牧場)が築かれて以降、北海道において欧米の酪農技術を取り込んだ近代的な酪農経営が行われるようになった。
農家の手によって酪農がおこなわれるようになるのは、第一次世界大戦の前後とされ、畜産業の一環として行われた。第二次世界大戦の影響で一時期衰退。戦後、政府による酪農振興法の制定、学校給食や食事の欧米化による乳製品の需要拡大により再び発達した。
1954年6月14日、酪農振興法が公布された(酪農審議会の設置、酪農地域制度、生乳取引の公正化などによる酪農の振興をめざす)。
1970年代からは過剰生産により乳価が下落するようになり、経済力のない小規模農家は多くが離農、大規模農家は経営効率化のための施設拡大を進めた。同時に、各地の小規模な地場乳業メーカーも、多くが統廃合が進んだ。 | [
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] | 酪農(らくのう)とは、牛や山羊などを飼育し、乳や乳製品を生産する農業の形態である。 その歴史は古く、人類が狩猟生活から農耕生活に入ったのと同時期に、こうした酪農、畜産も始まったといわれる。移動しながらの遊牧も行われるようになった。 | {{子記事|畜産}}
{{出典の明記|date=2020-12}}
'''酪農'''(らくのう)とは、[[ウシ|牛]]や[[ヤギ|山羊]]などを飼育し、[[乳]]や[[乳製品]]を生産する[[農業]]の形態である。
その[[歴史]]は古く、[[人類]]が狩猟生活から農耕生活に入ったのと同時期に、こうした酪農、畜産も始まったといわれる。移動しながらの[[遊牧]]も行われるようになった。
[[Image:Holstein cows large.jpg|right|thumb|270px|乳牛の主力・[[ホルスタイン|ホルスタイン種]]]]
==概要==
[[ファイル:日本の酪農 乳牛.jpg|サムネイル|269x269ピクセル|日本では繋ぎ飼育が主流 写真は日本 スタンチョンによる繋ぎ飼育]]
[[File:Stanchion (PSF).png|thumb|スタンチョン(Stanchion)。繋ぎ飼育には、{{ill2|タイストール|en|Tie stall}}という支柱とチェーンでつなぐ方式もある。タイストール式では自由に寝ることができる。タイストール式は、ニューヨーク式とコンフォート式がある<ref>[https://www.nemuro.pref.hokkaido.lg.jp/fs/2/2/2/6/2/5/8/_/03geiryu.pdf 1. 繋留方法にもいろいろあります] [[根室振興局]]</ref>。]]
冷涼な[[高地]]が乳牛飼育に向いた土地。一軒につき数頭から数百頭の[[乳牛]]を、[[牧場]]等で[[放牧]]したり畜舎で飼育する。
日本の乳牛では、放牧主体の酪農はほとんど行われておらず、約74%がスタンチョン(牛の首の部分をはさんで繋いでおく道具)やタイストール(牛をチェーンで繋ぐ方式)での繋ぎ飼いであり、約25%は牛舎内での放し飼い(寝床が個別の[[フリーストール牛舎|フリーストール]]、自由に寝られる[[フリーバーン]])であり自然放牧による酪農は2%に満たない<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=資料 5 乳用牛飼養実態アンケート調査(中間とりまとめ) |url=http://jlta.lin.gr.jp/report/animalwelfare/h20/cow/no2/cm5.pdf |format=PDF |date=2008-3-10 |publisher=畜産技術協会 |accessdate=2019-8-10}} 平成20年度乳用牛分科会第2回</ref>。
[[氷期]]に[[氷床]]に覆われていた[[地域]]では、[[氷河]]が[[地表]]の[[土壌]]を[[侵食]]したため、[[土地]]がやせているが、[[牧草]]の[[栽培]]は可能であり、酪農が展開される{{sfn|仁科淳司|2007|p=116}}。
== 搾乳 ==
{{see|en:Rotolactor}}
[[Image:Cow milking machine in action DSC04132.jpg|thumb|200px|ミルカー(搾乳機)]]
乳牛はいかに多く搾り取るかを最大の課題とされ、改良が進められた。その結果、1頭あたり年間乳量は8,636kg(2018年農林水産省牛乳乳製品統計調査参照)にまで増加した(肉用に飼育される牛の年間乳量は1000kg程度)。そのため一日でも乳牛を[[搾乳]]しないまま放置すると、[[乳房炎]]という病気になるため、きめの細かい管理が必要である。一般的には等間隔で朝と夕に[[搾乳]]を行うことが多い。
また搾乳時に邪魔であったり、糞尿がついた尻尾が搾乳の中に入ったりすることがあるため、尻尾の切断が行われることもある。尻尾の付け根をきつく縛り、尻尾を壊死させて切断するという方法などで実施される。[[動物福祉]]の考え方に対応した乳牛の飼養管理指針」では断尾はできうる限りしないほうがのぞましい、とされている<ref>[http://jlta.lin.gr.jp/report/animalwelfare/index.html 畜産技術協会・資料]の「家畜飼養管理国際基準等対応事業」の「乳用牛」</ref>。
日本でも昔([[1960年代]]頃まで)は人の手で[[乳搾り]]を行い、搾った[[生乳]](せいにゅう)をバケツに取り、さらに牛乳缶と呼ばれる20リットル程度の金属製容器に貯蔵していたが、現代では工程のほとんどが機械化されている。
現在、日本では、畜舎内に走る[[パイプライン輸送|パイプライン]]と牛の乳房を[[ミルカー]](搾乳機)で接続して搾乳するパイプライン方式が普及しているが、規模拡大([[メガファーム]]の増加)傾向に伴い、牛を搾乳室に集約して効率的に搾乳する[[ミルキングパーラー]]方式や搾乳作業を自動化して省力化を図る[[搾乳ロボット]]の導入も増えている。
日本では通常、年中無休で1日2回の搾乳が一般的であるが、1日1回搾乳や季節繁殖による夏期を中心とした搾乳、先に挙げた従業員交代制による1日3回のミルキングパーラー搾乳や1日に複数回の搾乳を行う搾乳ロボットなど搾乳方式は多様化しつつある。
搾乳後の生乳はバルククーラー(生乳を冷やす[[冷蔵]]タンク)に送られ冷却・一時貯蔵、その後[[集乳車]]([[タンクローリー]]の一種)により集荷され、牛乳工場へ運ばれる。
== 種付け ==
乳牛は生後14~16ヶ月を経過すると、はじめの人工授精が行われる。[[出産]]しなければ乳はでないため、経済効率をあげるために分娩の間隔をあけぬよう、定期的に人工授精が行われる。
== 乳牛 ==
乳量の多い[[ホルスタイン]]種[[乳牛]]が主流。日本で飼育されている乳牛の98%は、飼料効率がよく、温厚な性質の[[ホルスタイン]]種である。乳質向上のため、農家によっては数十頭のホルスタイン種のグループに数頭の[[ジャージー種]]([[脂肪]]分などの成分が高い)を導入する場合もある。
== 飼養 ==
肉牛の場合と基本的な違いは無い。
[[飼料]]は大まかに言って、繊維質の多い、生の[[牧草]]・乾草などの「[[粗飼料]]」と繊維質の少ない[[トウモロコシ]](デントコーン)などの穀類や植物油の絞りかす等をつかった「[[濃厚飼料]]」とに分けられる。粗飼料に比べ濃厚飼料のほうが高カロリーである。高脂肪の乳を搾り取るため、粗飼料中心の酪農から、近年は濃厚飼料中心の酪農へと変ってきている。
これには[[乳脂肪]]分3.5%を下回る[[生乳]]を出荷すると、メーカーと[[農協]]によって牛乳の出荷価格([[単価]])が半値にされてしまうルールが導入されてきた経緯が大きく関係しており、[[乳脂肪]]分を一定に保ちにくい[[放牧]]酪農が激減したこともこれに由来する。
そのため[[粗飼料]]の不足や[[濃厚飼料]]の多給により乳牛の[[ルーメンアシドーシス]](第一胃の病気)が増えている。この病気は吸収や中和など通常の胃の働きに弊害が起こることによって進行し、初期にはちん鬱や採食量の低下などが現れる。さらに進行すると[[毒素]]が産生され血中へ入り込むことにより[[蹄葉炎]]や肝障害、[[肺炎]]を引き起こすことに繋がっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.nara.jp/secure/13728/rumen.pdf|title=家保便り 第 28-2-11 号平成 28 年 8 月 15 日|accessdate=2020/09/28|publisher=家畜保健衛生所|format=PDF}}</ref>。
牧草は乾燥させた[[乾草]](かんそう)として給与するか、保存等のために密封、乳酸[[発酵]]させて[[サイレージ]]として給与することが多い。かつては牧草を気密度の高い塔型[[サイロ]]に入れて[[発酵]]させていたが、この方式は機械の故障が多発し、維持管理に多額の費用がかかることから廃れ、現在では平面型のバンカーサイロ等が使用されるようになった。また通常のサイロよりも簡易的な牧草をロール状に巻き取り、これをビニールで包んで発酵させるラップサイレージが主流となりつつある。
なお、[[牛乳]]の「味」としては、緑色のままの[[牧草]](牧草地に生えている状態の牧草)だけを、食べさせた乳牛の乳はやや「青臭み」があり、これを取り去るには乾草も食べさせねばならない。また、牛乳の味には「季節要因」もあり、一般に夏場の方が「飲み口がさっぱり」しているが「コク」が少ない。
また、この「コク」=[[タンパク質]]を牛乳に増やすためには、飼料にたんぱく質を多く含む[[大豆]]、[[米]]、[[麦]]などの[[穀類]]を混ぜる必要がある。この問題から、配合飼料のタンパク分を増加させるために「[[肉骨粉]]」が使用され、「[[BSE問題]]」へと発展した。
== 動物福祉 ==
酪農家の職業的幸福度と動物福祉には関連があり、酪農家のストレスが低いほど、乳牛の動物福祉は高い。さらに乳牛の動物福祉が高さは農場の拡大とも正の関係にあった。このように動物福祉の向上は経営者の利益にもなるものだが、日本の畜産動物福祉は遅れていることが指摘されており<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0019/topic049.html |title=“アニマルウェルフェア”とは? 専門家が1から解説 |access-date=20221125}}</ref>、国際評価も最低ランクのGとなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dir.co.jp/report/research/economics/japan/20211206_022692.pdf |title=なぜ今、「アニマルウェルフェア」に向き合 うべきなのか ~二の足を踏む日本、「家畜を苦しませない」の世界的潮流に迅速な対応を~ |access-date=20220529|format=PDF}}</ref>。
=== 除角 ===
除角の手法としては焼きゴテ、電熱式除角器(デホーナー)、ゴムリング、断角器、薬品などがある<ref>{{Cite web|和書|title=除角のオルタナティブ ? 生まれつき角を持たない牛 |url=https://www.hopeforanimals.org/dairy-cow/polled-cows/ |date=2019-02-04 |accessdate=2020-09-28 |language=ja}}</ref>。
[[ホルスタイン]]には角がないというイメージが一般的に定着しているが、乳牛の多くは除角されている。除角(角を取り除く処置)は牛同士の突きあいによる怪我や従業員の安全のために行われているが、2015年の畜産技術協会の調査によると85.5%の農場が除角を行っており、そのうち85.1%の農場が[[麻酔]]を使わずに行っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://jlta.lin.gr.jp/report/animalwelfare/H26/factual_investigation_cow_h26.pdf|title=乳用牛の飼養実態アンケート調査報告書|accessdate=2020/09/28|publisher=畜産技術協会|format=PDF}}</ref>。角には[[神経]]があり血も流れているため痛みを伴う処置であり、[[動物福祉]]の観点から無[[麻酔]]での除角が問題視されている。角カバーも販売されているが普及していない。
=== つなぎ飼い ===
日本の約74%の酪農場の搾乳牛はつなぎ飼いで飼育されており<ref name=":0" />、[[動物福祉]]上の問題リスクが高まる[[飼育]]方法とされている<ref>{{Cite web |url=https://www.woah.org/en/what-we-do/standards/codes-and-manuals/terrestrial-code-online-access/?id=169&L=1&htmfile=chapitre_aw_dairy_cattle.htm |title=ANIMAL WELFARE AND DAIRY CATTLE PRODUCTION SYSTEMS |access-date=20221125}}</ref>。ヨーロッパではつなぎ飼いへの規制が進んでいるが日本ではまだその動きは見られていない。
== 日本の酪農 ==
[[北海道]]、[[岩手県]]、[[千葉県]]、[[栃木県]]、[[長野県]]、[[熊本県]]などで盛んであるが、特に国内4割の生乳は釧路地方、十勝地方、根室地方の道東地域で一農家で数百頭もの乳牛を飼うという大型牧場経営が行われている。農業所得額全国一位は80年代後半から現在に至るまで[[釧路市]]の隣にある酪農の[[北海道]][[鶴居村]]の1,370万円{{いつ|date=2013年1月}}である。
全国的な傾向として根釧地域を除き、近年では競合飲料の台頭により飲用牛乳の消費量が減退傾向にあるため、生乳の余剰問題が顕著となっている。またこれに伴って生産者乳価も低陰傾向にある。
2023年2月24日、中央酪農会議は、指定団体が生乳販売を受託する酪農家の戸数が2022年12月時点で1万1202戸(前年同月比6.5%減)だったと発表した。指定団体に生乳を出荷している酪農家は全体の約9割を占めており、中央酪農会議の調査で全般的な状況はおおむね把握できるとされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/233011|title=酪農戸数、6.5%減少 飼料高騰、離農進行に危機感:東京新聞 TOKYO Web|accessdate=2023-02-25|publisher=東京新聞}}</ref>。
; 国営根釧(こんせん)パイロット事業[http://www.ks.hkd.mlit.go.jp/nougyou/pdf/h26/history.pdf]{{リンク切れ|date=2018年11月}}
: [[1955年]]度~[[1966年]]度にかけて、北海道の[[根釧台地]]、[[別海町]]で行われた大規模酪農で、これは短期に酪農経営を確立することを目的として、[[世界銀行]]から融資を受けて行われた。開発は北海道、[[北海道開発局]]、農地開発機械公団(現緑資源公団)によりおこなわれ、約7000ヘクタールの[[原野]]を機械を用いて[[開墾]]した。最終的には約360戸が入植したが、当初国は乳牛の選択を間違い[[ジャージー種]]であったために牛乳の生産性が低く経営の厳しさから事業が破綻し離農する者も多く見られた。乳牛を[[ホルスタイン種]]に変え、さらに大規模化することで生産性は向上し、寒冷地であり太平洋沿岸からの霧が運ぶ豊富なミネラルが乳牛に最適な牧草を育み、アジア有数の大牧草地帯として成長した結果、高品質牛乳、[[ハーゲンダッツ]]社等の高級[[アイスクリーム|アイス]]の一大生乳原料供給地となっている。ここ一帯生産される生乳は各酪農家からミルクローリー車で各社メーカーの生乳施設に運ばれ一次加工しさらにミルクローリー車を[[釧路港]]から[[RO-RO船]]で首都圏にデイリー輸送されている。年間1700億円台の生産規模がある。なおこのときに国は「パイロットファーム」とよんだ。一般的にパイロットファームとは、観賞用植物や現地に自生する植物などを試験的に栽培、採取するための実験農場のことである。一連の事業には開墾事業、根釧機械開墾事業(狭義の本事業)、国営開拓パイロット事業、国営農地開発事業、国営草地開発事業、そして[[根室市]]・[[中標津町]]にも範囲を広げた新酪農村建設事業が含まれる。また、1989年には国営農地再編パイロット事業が行われている。
=== 歴史 ===
[[ファイル:Chichi by Takeuchi Keishū.jpg|サムネイル|着物で搾乳する女性。[[武内桂舟]]画。1913年]]
酪農が開始されたのは、[[千葉県]]南部(現[[南房総市]])に設置された「[[嶺岡牧]]」。元は安房国守[[里見氏]]が開いた牧場であったが、のちの、1614年に[[江戸幕府]]の直轄となり、8代将軍[[徳川吉宗]]の時、[[インド]]産の白牛を放牧・繁殖、白牛酪([[バター]])を生産した。2004年現在この地には千葉県畜産総合研究センター「嶺岡乳牛研究所」があり、「日本酪農発祥之地」の記念碑が設置されている。その記念碑のとなりには、房州酪農の礎ともいうべき「エー アレンデーリー エリート」号の記念碑がある。ここで生産した乳製品は強壮剤や解熱用の[[薬]]などの材料となり、庶民に渡ることはなかった。
その後、千葉県[[白子町]]出身の[[前田留吉]]が、[[オランダ]]人より酪農に関する技術を学び、[[1863年]]に[[横浜市|横浜]]で[[牛乳]]の生産を開始した。これにより庶民でも牛乳に手が届くようになった。[[1876年]]、北海道根室に東梅牧場([[柳田藤吉]]による国内初の大規模な近代牧場)が築かれて以降、北海道において欧米の酪農技術を取り込んだ近代的な酪農経営が行われるようになった。
農家の手によって酪農がおこなわれるようになるのは、[[第一次世界大戦]]の前後とされ、畜産業の一環として行われた。[[第二次世界大戦]]の影響で一時期衰退。戦後、政府による酪農振興法の制定、[[給食#学校給食|学校給食]]や食事の欧米化による乳製品の需要拡大により再び発達した。
1954年6月14日、[[酪農振興法]]が公布された(酪農審議会の設置、酪農地域制度、生乳取引の公正化などによる酪農の振興をめざす)。
[[1970年代]]からは過剰生産により乳価が下落するようになり、経済力のない小規模農家は多くが離農、大規模農家は経営効率化のための施設拡大を進めた。同時に、各地の小規模な地場乳業メーカーも、多くが統廃合が進んだ。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{cite book|和書|author=仁科淳司 |title=優しい気候学|edition=増補版|publisher=[[古今書院]]|date=2007 |isbn=978-4-7722-8500-1 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[農業]]
* [[畜産業]]
* [[酪農学園大学]]
* [[乳飼比]]
* [[畜舎]]
== 外部リンク ==
* [http://www.dairy.co.jp/ 中央酪農会議]
* [http://www.zenrakuren.or.jp/ 全国酪農業協同組合連合会]
* [http://d-helper.lin.gr.jp/index.html 酪農ヘルパー全国協会]
* {{Kotobank}}
{{乳}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%AA%E8%BE%B2 |
3,427 | ベルリンの壁 | ベルリンの壁(ベルリンのかべ、独: Berliner Mauer)は、1961年から1989年までベルリン市内に存在した壁である。
冷戦下でドイツは、東西陣営に西ドイツと東ドイツで分裂していたが、往来が自由であった西ベルリンと東ベルリンの境界線を経由して東側から西側への人口流出が続き、東ドイツに深刻な影響を及ぼした。東ドイツは自国の体制を守るべく、1961年8月13日、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離、のちにコンクリートの壁を作った。
このベルリンの壁はドイツ分断の象徴であり、かつ東西冷戦の象徴でもあった。そして1989年秋の東欧革命にともなう東ドイツ国内の混乱のなか、同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、壁の国境検問所がなし崩し的に無効になり、やがて壁そのものが撤去された。これは「ベルリンの壁崩壊」と呼ばれている。
1945年5月8日、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線がドイツの無条件降伏により終わり、同年7月にベルリン郊外のポツダムでの会談でドイツの非軍事化・非ナチ化・民主化を主眼とする占領改革を進めることで合意された。このポツダム協定でドイツはイギリス・アメリカ合衆国・フランス・ソ連の戦勝4か国により分割占領され、そして首都ベルリンもこの4か国のそれぞれの管理地区に分割されることが決まった。
やがて英米仏3国とソ連が対立し、1948年6月24日にソ連が英米仏の管理地区(西ベルリン)と西ドイツとの陸路を封鎖して「ベルリン封鎖」を行った。イギリスとアメリカは6月26日から「ベルリン大空輸」で対抗し、この西ベルリン市民への生活物資の空輸作戦の成功でソ連は翌1949年5月12日に封鎖を解除し、「ベルリン封鎖」は失敗に終わった。
この決定的な英米ソの対立で、社会主義陣営に属するドイツ民主共和国(以下、東ドイツ)と、自由主義陣営に属するドイツ連邦共和国(以下、西ドイツ)が成立した。この東西両陣営の冷戦時代に入ってから、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が後を絶たず、危機感を抱いたソ連と東ドイツは、1961年8月13日午前0時に突然西ベルリンを包囲し、東西ベルリン間48キロを含む西ベルリンと東ドイツとが接する分割境界線155キロあまりの境界線の通行を一切遮断し、西ベルリン周囲の境界線から少し東ドイツ領内に入った地点に有刺鉄線を張りめぐらせ、その後に巨大な壁を建設した。
以後、東ベルリン市民の西ベルリンへの通行は不可能となり、多くの家族や友人・知人と不意に引き裂かれた。そしてこの後、壁を越えて越境しようとした者約200人以上が越境できずに命を失い次々と射殺されるなどの悲劇が生まれた。なお、「ベルリンの壁」は「東西ドイツの国境の一部」ではなく、英米仏ソの戦勝4か国の共同管理に置かれたベルリンの特異な状況から生じたものである(東西ドイツの国境は、ドイツ国内国境線と呼ばれる)。
その28年後の1989年11月9日夕方、東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策としてそれまで認めていなかった自国民の西側への旅行の規制緩和措置を発表するが、このときドイツ社会主義統一党政治局員で党ベルリン地区委員会第一書記のギュンター・シャボフスキーが不用意に「ベルリンの壁を含むすべての国境検問所から出国が認められる」と発言した。しかも外国人記者の質問に答えて発効は「即刻です」と返答したことによって、多くの東ベルリン市民が壁の前に集まり国境検問所が緊迫した事態を生じて、混乱を避けるため夜遅くに検問所が東ベルリンの通過を認め、なし崩し的にベルリンの壁は開放された。この11月9日の夜に突然ベルリンの壁が崩壊したことは世界を驚かせ、その後の東ドイツの崩壊に至った。
ベルリンは1701年にプロイセン王国の都となって以降、1871年のドイツ帝国成立、ヴァイマル共和政を経てナチス・ドイツ政権が1945年5月8日に崩壊するまで、一貫してドイツの首都であった。東ドイツと西ドイツの境界上にあったわけではない。
戦後のベルリンの管理については、大戦が終わる8か月前の1944年9月12日に英米ソ間の協定の第2条で「『ベルリン地区』は当該最高司令官が指定する米英ソの武装軍隊により共同して占領される」と取り決められた。その後、11月14日の協定によりドイツ全体についても協定が結ばれ、各占領軍の政策によるのではなく、ドイツ管理理事会が指揮することになっていた。しかし実際は、各占領軍が自国の占領政策を展開し、各占領地域ではその最高司令官が最高決定権を持っており、独自に命令や法令を発することができる状況になっていた。
ドイツの降伏後、1945年6月5日に「ベルリン宣言」が発表され、ドイツは英米ソにフランスを含めた戦勝4か国の分割統治となる。しかし、直前4月のベルリンの戦いの際に東から侵攻した赤軍(=ソ連陸軍)が西から侵攻した英米軍に先んじてベルリンを占領しており、両勢力の境界線はベルリンより西になったため、ベルリン市周囲のドイツ本土はソ連統治地区になった。その上でベルリン市内も英米仏ソ4か国で分割統治したため、英米仏3か国が統治するベルリン市内の地区は周囲をソ連の統治地区に囲まれる形となった。
6月14日付の電信でハリー・S・トルーマン大統領は、ヨシフ・スターリン書記長に対して英米仏軍のベルリンへの鉄路・陸路・空路の自由な使用を要請したが、6月16日付の返電は「必要に応じて保障する」という曖昧な内容であった。6月29日に西側は
などを要求したが、赤軍最高司令官ゲオルギー・ジューコフ元帥は、1つの鉄道、1つの高速道路、1つの航空路、2つの飛行場の使用を認める、とした回答であった。
戦後のベルリンでは、先に駐留していたソ連が着々と自国型の新しい秩序を作り上げつつあるところに、1945年7月4日に英米軍が、8月12日に仏軍が進駐してきた。ここで市の4か国統治が始まり、この特殊な形態により、ベルリンは東西両陣営による占領政策が真っ向から対立することとなった。
この西側3か国とソ連との間での占領政策の対立は、1947年から英米ソ間で激しさを増し、1947年6月にアメリカが戦後ヨーロッパ経済の復興と再建を目的とした経済復興計画「マーシャル・プラン」を発表、1948年6月に新しい通貨ドイツマルクを導入する通貨改革を西側だけで実施した。これにソ連が反対してソ連統治地区で東ドイツマルクを発行し、強硬策に出た。1948年7月24日、ソ連は西ベルリンと西ドイツをつなぐすべての陸上交通を遮断した。これにより交通網だけでなく、水道や電気などのライフラインまで遮断されたため、市民生活に深刻な影響を与えたが、イギリスとアメリカは陸の孤島となった西ベルリンに大空輸作戦を敢行して援助物資を大量に送り、ソ連は10か月後の1949年5月12日に封鎖を解除した(ベルリン封鎖)。
ソ連は、西側諸国が西ドイツの建国と再軍備を目指していると見ていた。西ベルリンを封鎖したのはそれらを放棄させようとしたものであり、そして西側に西ベルリンを放棄させ市を統一し、ソ連に政治的にも軍事的にも依存した国家を建設しようと考えていた。東ドイツの心臓部に西側の拠点があることはソ連にとって都合が悪く、西側が西ベルリンを放棄することになれば、西ドイツの人々も西側に追随することに躊躇するだろうという読みもあった。しかし、トルーマン大統領は「ソ連の圧力に屈することがあってはならないが、全面戦争に発展しかねない対決も避けねばならない」と考え、大々的な物資支援によってその意思を見せつけたことで、ソ連は封鎖の目的を果たせなかったばかりか、西欧各国に自主防衛の強化、また集団防衛体制の構築を促し、1949年4月に北大西洋条約が締結され、結局ソ連にとってマイナスの効果しか生まなかった。
しかし、封鎖の間にベルリン市議会は東西に分裂し、分断国家の歩みは既成事実化していった。封鎖が解除された直後の1949年5月23日、イギリス・アメリカ・フランス側占領統治地区にボンを暫定首都としたドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、10月7日にはソ連占領統治地区にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立、ベルリンが東ドイツの首都となった。
東西分裂後の1952年3月10日、のちに「スターリン・ノート」と呼ばれるソ連からの覚書がアンドレイ・グロムイコ外務次官から英米仏3か国の大使に手渡された。その内容は懸案になっていたポーランド西部国境(オーデル・ナイセ線)には触れずに、ドイツを再統一し、英米仏ソの占領軍は撤退、統一ドイツは独自の軍隊の保持を認めるが、その代わりに中立化するとした提案であった。このための平和条約を結ぶために米英仏ソのほかポーランド、チェコスロバキア、ベルギー、オランダ、ほかに対独戦に参加した諸国を参加国とするとして、その条約には7項目の政治的原則、領土、経済的原則、2項目の軍事的原則、そしてドイツと国際連合組織からなっていた。これはスターリンとしてはかなり譲歩したものであった。
翌日3月11日、西側陣営と西ドイツとで協議したが、ソ連の妨害工作として否定的な意見が出た。これは当時西欧で協議していた欧州防衛共同体(EDC)構想で、欧州統一軍に西ドイツの兵士を参加させる案が進められていることに対して、西ドイツの再軍備を阻む目的があったとされている。西ドイツのコンラート・アデナウアー首相も断固反対であったが、国内では与党内でも「検討に値する」との意見が出て、野党ドイツ社会民主党はこの覚書を再統一へ向けて建設的に活かそうとする意向であった。
スターリン・ノートは英米仏にとって最も真意がつかみにくい文書として、のちに議論が絶えなかった。3月25日にアメリカは覚書の回答を送り、国連委員会の管理下でドイツ全土での自由選挙を提案した。これに対し、4月9日にソ連は4か国の管理下での自由選挙の実施を提案してきた。5月13日に英米仏はこの提案には同意できない旨回答した。その理由は、4か国が裁判官にもなり党派を代表することにもなるため避けなければならないというものであった。5月24日、ソ連は業を煮やしてドイツ問題の協議を進展させたいとしながら、西ドイツの再軍備とEDCへの参加に強い非難をしている。この3日後にEDC条約が調印され、このスターリン・ノートは文書でのやり取りで終わった。アデナウアーはソ連のドイツ中立化の狙いは欧州のソ連圏への組み込みだと判断し、最初からスターリン・ノートをソ連の牽制だとして受け入れる意志はまったくなかった。
封鎖が収まっても、ベルリンの緊張状態は変わらなかった。とりわけ、最初にソ連・英米仏間で食い違っていたベルリンへの通行に関する問題は未解決のままであった。西ドイツから西ベルリンへ行くには東ドイツ領内の高速道路を通り抜けるか、西ドイツ国内の飛行場から英米仏の航空便を利用するしか選択肢はなく、西ドイツ独自に動くことはできなかった。
ソ連による西側への交通妨害は封鎖解除後も変わらず、1952年5月27日に西ドイツがEDCに加盟すると、西ベルリンへの交通網が再度遮断され、同時に東西ベルリン間および東ドイツとの電話回線も全部絶たれた。同日に西側は声明を発表し、ベルリンに対する攻撃は西側連合国に対する直接の攻撃とみなす旨を警告した。交通遮断はすぐに解除されたが、以降もたびたび遮断と解除を繰り返している。しかし、電話回線の切断はそのまま続行され、20年後の1972年にようやく解除された。
8月2日にはベルリンへの高速道路通行料に多額の道路税を課したが、9月20日に東西間の貿易協定が締結されたことによって解決された。この間には米軍の病院機がソ連機に妨害される事態や、1953年には英軍機がエルベ川上空でソ連機に撃墜される事件が発生している。これらの問題は1961年夏のベルリンの壁の建設時に、米ソ首脳(ケネディ大統領とフルシチョフ首相)間で暗黙の了解で安定化し、1971年9月3日の4か国協定で法的な保障を得ている。
東西ドイツ国境(ドイツ国内国境線)は1952年に閉鎖されたが、ベルリンにおいて東西間の移動は壁の建設までは自由で、通行可能な道路が数十あったほかに、ベルリン地下鉄(Uバーン)や高速鉄道(ベルリンSバーン)などは両方を通って普通に運行されていた。境界を越えて通勤する市民も多く、1950年代の時点で東から西の職場へ行っている者が約6万3,000人で、逆に西から東の職場に行っている者が約1万人いた。この時代は西のマルクのヤミ値が東の4倍だったため、西で稼いで東に暮らすと生活は楽であった。それ以外の一般的な往来も多く、1日あたり約50万人が東西境界線を通過していたといわれる。このため、周囲を全て東ドイツに囲まれた西ベルリンは「赤い海に浮かぶ自由の島」、「自由世界のショーウィンドー」と呼ばれた。
西ベルリンと西ドイツとの間の往来は、指定されたアウトバーン、直通列車(東ドイツ領内では国境駅以外停まらない回廊列車)、および空路により可能であった。東ドイツを横切る際の安全は協定で保証されたが、西ベルリンに入れる航空機は英米仏のものに限られた。
東ドイツ・西ベルリン間の道路上の国境検問所は3か所あり、NATOフォネティックコードでA()、B()、C()と呼ばれた。Cは「チェックポイント・チャーリー」の別名で知られ、特に有名な東西冷戦の舞台の一つとなった。
ドイツの東西分裂以降、時が経つにつれ、東ドイツのドイツ社会主義統一党の一党支配に基づく社会主義体制に不満を持つ人々の西ドイツへの逃亡が相次いだ。1952年に東西ドイツの国境線が閉鎖されて以降は唯一往来が自由であったベルリン市内の境界線を経由して逃亡するようになり、全難民に占める割合は4割以下から6割台に上昇した。
毎年15万から30万人の東ドイツ国民が西ドイツに大量流出した。特に1953年は、6月17日に東ベルリンで反政府暴動が起こりソ連軍の介入で鎮圧された(ベルリン暴動)影響で、年間亡命者は東西分裂期で最多の33万人にのぼった。1949年から1961年までの13年間に273万9,000人が東ドイツから西ドイツへ流出したとされ、これは東ドイツの人口の約15パーセントにあたる。特に医師や技術者・熟練技術者の頭脳流出は東ドイツ経済に打撃を与え、しかも25歳以下の若者が多かった。これは当時の東ドイツの人口の6人に1人の割合であり、戦後の1945年から1948年までにソ連占領地区から西側3か国占領地区へ逃れた人を含めれば300万人に達したと見られている。
壁が建設された1961年は、6月のウィーン会談(後述)で米ソ首脳が対立、6月末までの半年間の総数は10万3,159人(うち49.6パーセントが25歳以下の若者)であったが、7月に流出者が跳ね上がって総数は3万415人(25歳以下は51.4パーセント)にのぼった。そして8月に入って最初の1週間だけで1万人に達するなど、人口流出は史上最高のペースに達していた。
この間の東ドイツから西ドイツへの難民総数の推移の公式の数字は以下の通りである。
1961年の時点で、東ドイツの人口は約1,700万人、西ドイツの人口は約6,000万人であった。
また、東ドイツ領域も自国領土とする立場をとっていた西ドイツは、東ドイツ国民にも自国籍を認めていたため、西ドイツに移った東ドイツ国民には、自動的に同国の市民権が与えられた。こうした措置も人口の流出を促したとされる。
1958年11月27日、ソ連のフルシチョフ首相が西ベルリンを半年以内に非武装の自由都市にする通告を行った。これは西ベルリンを東西ドイツのどちらにも属さず、どちらからも干渉を受けない地域にすることを述べたうえで、6か月以内に東ドイツとの間に英米仏ソの4か国とで協定を結ぶ、それができない場合は米英仏ソの4か国がベルリン問題に関して持っている契約および権利は失効するとした。
これは「戦後の4か国協定(ポツダム協定)をことごとく反古にし、ベルリンに関する協定は守っているがそれを悪用し、承認もしていない東ドイツの領空領内を通って西ベルリンとの交通・通信に使用している。しかも西ドイツをNATO(北大西洋条約機構)に加盟させドイツ統一を妨げている。このような異常な憂慮すべき状態を解決するために、西ベルリンをいかなる国の干渉も受けない自由都市にすること、西側軍隊は半年以内に撤退する、その合意がなければ、東ドイツは独立国家として陸路、水路、空路のすべてに関わる一切の権利を行使する、そして以後ベルリンに関する問題について米英仏との接触は一切終結する」ということが提案理由であった。
フルシチョフが西ベルリンの変則的な状況を打開する決意をしたのは、専門知識や熟練技術を持つ人材がベルリンを経由して流出し続ける限り東ドイツの経済が逼迫し続け、東ドイツがソ連の安定した同盟国にはなり得ないと判断したためであった。そして英米仏がベルリン問題で核戦争のリスクを冒すことはないだろうと読んで、最大限ソ連が妥協したとしてベルリンを国連監視下で非軍事化することを狙っていた。
翌11月29日に西ドイツの有力紙フランクフルター・アルゲマイネ紙は「ソ連、西ベルリンのダンチヒ化を希望」との見出しで報じた。ドイツの歴史家ハンス=ペーター・シュヴァルツは「この1958年の最後通牒から1963年までの期間は、すべての外交に第三次世界大戦の影がさしていた」としている。フルシチョフの通告に対し、ヴィリー・ブラント西ベルリン市長はその日のうちに拒否の声明を出した。
12月14日にパリで英米仏および西ドイツの各外相が集まり、これに西ベルリン市長も加わって討議し、16日にNATO理事会での協議を経て、ソ連の非難には法的根拠がない(ベルリンに対する取り決めはポツダム宣言以前の1945年2月6日に発効されたものである)として自由都市化を拒絶するものであった。そして12月31日に占領軍としての権利を断念する気はないと回答している。翌1959年2月にフルシチョフは西側軍隊の6か月以内の撤兵期限を延期し、その後9月に米国を訪問しアイゼンハワー大統領と会談して期限を再度保留し、ベルリンの将来的地位とドイツ問題と軍縮について1960年5月にパリで予定されている英米仏ソ4か国首脳会談で協議することで米ソ間で合意した。しかしこのパリ会談は直前に起きたU2型機事件で失敗に終わった。
後にニクソン大統領の時代に、国家安全保障担当特別補佐官そして国務長官を務めて米中外交の立役者となったヘンリー・キッシンジャーは、著書「外交」の中で、西ドイツのアデナウアー首相はフルシチョフとの交渉に一切希望を持っていなかった、と述べている。アデナウアーは自国の将来において、英米とドイツの利益は不可分である、として大西洋同盟に参加し、西側同盟国はドイツ統一を東西外交の課題とすることで自由選挙に基づくドイツ統一でなければならないと考えていた。
しかしイギリスとアメリカは違っていた。イギリスはドイツ統一に現実性を認めず、かつての敵国の首都ベルリンを巡って戦争の危険を冒すことには躊躇していた。マクミラン首相は戦争を望まなかったし、第二次大戦の敵であったドイツ人のための戦争などは論外であり、ドイツ再統一に反対であることを隠そうとはしなかった。
アメリカは、この時期に米ソ関係でデタントが進み、フルシチョフが平和共存路線をとる中で、ベルリンのために戦争の危険を冒す意図はなく、アイゼンハワー大統領はヨーロッパで地上戦を戦うことはないであろうと公言していたし、ダレス国務長官は「2つの国家による連邦制度は受け入れ可能である」とほのめかし、それを聞いたアデナウアーは激怒し連邦制は全く受け入れられないと譲らなかった。
1958年11月の最後通牒の時にアイゼンハワーはダレスに、東西ベルリンとそのアクセス権が国連の管理下に置かれるのであれば自分は自由都市の考え方を受け入れることは可能だと電話での会話で述べていた。アイゼンハワー政権の国家安全保障担当補佐官ゴードン・グレイは、アイゼンハワーはベルリンの地位を変えようという意思を持っていたことを、後に述べている。ただしアイゼンハワーの戦略は封じ込めの原則から導かれており、ソ連が西側に挑むことになれば当然どこでもソ連と戦う姿勢であることに変わりはない。あくまで現状維持に重心を置いていた。アイゼンハワーはフルシチョフの言動は脅しであると見通して、戦略兵器全般でソ連が劣勢であることも気づいていた。後任のケネディ大統領もこの現状維持からベルリンでの些細な危険を冒すことを躊躇していた。西ベルリンへのアクセス権やドイツ統一のためにアメリカ兵を失う危険を冒すことが如何に愚かなことであるかを考えていた。この期間、英米と西ドイツ・フランスとの間では対ソ関係でズレが生じていた。
フランスは1958年に第五共和政がスタートした時であったが、ド・ゴール大統領は一貫して英米の大西洋同盟を嫌い、かつての侵略国であった西ドイツとの間で仏独協調を重視し、かつソ連との交渉は一切妥協してはならないとして非妥協的態度を貫き、戦争の危険性は主に西側の優柔不断さにあると明言していた。しかしこの時期はアルジェリア戦争が終結を迎えたがフランス国内は世論の左右分裂で苦しんでいた時期であり、フランスからみるとベルリン危機は考え得る最も不都合な時期に到来した問題でもあった。
こうした中で1961年初頭に、それまでに東西ベルリンの交通遮断を求めていた東ドイツのウルブリヒト第一書記は、ソ連のフルシチョフ首相宛てに書簡を送り、英米仏の西ベルリン占領権を終わらせること、西側軍隊の削減そして撤退、西側のラジオ局とスパイ機関の撤去、英米仏そしてソ連が管理する郵便サービスから航空管制までの国家的機能の東ドイツへの移譲を要求した。とりわけ西ドイツから西ベルリンへの全航空アクセスの管理権を強く要求した。
この全航空アクセスの管理権を東ドイツが持てば、西ベルリンから西ドイツへの飛行便を全て止めることができ、人口流出問題の解決どころか、西ベルリンを締め上げ、自由な西側都市としての力を削ぐことが可能となる。ウルブリヒトはそう考えていた。ウルブリヒトはまた党政治局会議で「難民の流出を基本的に阻止する」計画の策定を目的とした作業部会を設置することも年初に決めていた。この作業部会の中心メンバーがカール・マロン内相、エーリッヒ・ミールケ国家保安相、そしてエーリッヒ・ホーネッカー党書記であった(後にウルブリヒトの後任として第一書記に就任する)。
この「難民流出阻止」のための策が東西ベルリン間の通行遮断であり、壁を建設することであった。実はこの計画そのものは、9年前の1952年にウルブリヒトは当時のスターリンに同様の解決策を示し、これを進める許可を求めたことがあった。またこの1961年3月のワルシャワ条約機構諸国会議の時にウルブリヒトは東西ベルリンの国境線の封鎖を提案している。この時はソ連が棄権し、他の5ヵ国は異常な手段による威信の喪失を惧れて反対し、否決されていた。
しかし西側から東ドイツを守るため、東西ベルリンの交通を遮断しベルリンの壁が建設される方向で東ドイツは動き始めた。実質的には、西ベルリンを封鎖する壁というより東ドイツを外界から遮断する壁であり、西ベルリンを東ドイツから隔離して囲む形で構築されたのがベルリンの壁である。そしてそれは国境線の境目に建てられたのではなく、東側に入った所に建てられた。このことは壁そのものに対して西側からは何も出来ないことを意味していた。あとはフルシチョフの決断を待つだけであった。
ドイツの歴史家マンフレート・ヴィルケが著書『壁の道』の中で1961年8月のウルブリヒト・フルシチョフ会談の記録から、壁の建設の決定権はソ連が握っていたことを明らかにした。壁の建設について、当時のウルブリヒト国家評議会議長が東ドイツ国家の崩壊を恐れて、ソ連のフルシチョフに東西ベルリンの交通遮断を求めていた。ヴィルケによると、ウルブリヒトが東西ベルリン遮断をソ連側に求めたが、フルシチョフは1961年6月のウィーンでのジョン・F・ケネディ米大統領との会談まで待つよう返答していた。
1961年6月3日から4日にかけて、ケネディとフルシチョフとの間で米ソ首脳会談が行われた。初日のキューバ問題や東西関係全般についての協議は両者の主張を述べる平行線的状況にとどまっていたが、2日目にベルリン問題が討議されると、激しい意見の応酬になった。
まず、フルシチョフは、米英仏ソと西ドイツは、東ドイツと平和条約を結んで、第二次世界大戦の戦後処理を終えるべきだと主張し、「ベルリンの地位を変更する平和条約を結ぶことで大統領と合意したいと思う。それが出来なければソ連単独で条約を結び、これまでの戦後の約束を全て反故にするつもりだ。以後は西ベルリンは自由都市となる。そこにはアメリカ軍は留まるがソ連軍も入る。国連軍や中立国軍が駐留することも賛成する用意がある。」と語った。対してケネディは「西欧はアメリカの国家的安全のためには不可欠なものです。西ベルリンを語ることは西欧を語っているのです。なぜアメリカが不可欠な関係を持ち長く存在している場所から去るように求めるのか、理解するのが困難だ。戦争によって勝ち得た権利を放棄することをアメリカは決して同意しない。」と主張した。
するとフルシチョフは激しく反発して「この行動がアメリカの利益に反するとは全く理解に苦しむ発言です。ベルリンにおける自国の利益を保護しなければならないというアメリカの論理は到底理解できないし、ソ連が受け入れることはありません。世界の如何なる力をもってしても我々が平和条約に向けて前進することは誰も止めることは出来ません。」と語り、ここで平和条約を結んだ後の西ベルリンの状態についてフルシチョフは「ソ連と東ドイツで平和条約が為されれば、ドイツ降伏の際に連合国間で取り決めたベルリン占領権や通行権は失効する、つまり、各国の軍隊はベルリンから撤退せねばならない」と説いた。これに対して、ケネディは「ベルリンを見捨てればアメリカは信用を失う」と主張し、激しい応酬となった。
フルシチョフは「ソ連は平和条約を結びます。ドイツ民主共和国の主権は尊重されます。その主権に対するいかなる侵害もソ連によって公然たる侵略行為と見なし、しかるべき結果を招きます。」と半ば戦争を招くことになると公言してケネディを驚かせた。結局ケネディは引き下がらず、フルシチョフは「ソ連は今年中に単独でも東ドイツと平和条約を締結する。」と告げ、あるいは「条約に至らなくても東ドイツと暫定的協定を結び、そして戦争状態が終結すれば、(東ドイツ領土である)西ベルリンに西側の軍隊が駐留するのは侵略行為になる。」と続けた。さらに「侵略を阻止するためには戦争も辞さない」と捲し立てた。しかしケネディは、フルシチョフの要求を完全に突き返し、どんな危険を冒しても西ベルリンを守りきると告げ、物別れのままウィーン会談は終わった。
ケネディとの会談でフルシチョフは、米国が東ドイツを国家承認し、平和条約を結ぶするよう求めたが、ケネディは拒否した。そしてそれならばソ連は単独で東ドイツと平和条約を結び、その結果西ベルリンの占領統治は終わり、東ドイツに返還しなければならないと主張した。
しかしこれは結局ソ連にとって自らの手を縛ることになった。西ベルリンに西側3ヵ国の軍が、東ベルリンにソ連軍が存在する状況で、東ドイツに管理権を譲ったところでそもそも東ベルリンに東ドイツ軍は入っていない状態であり、東ドイツには何もできない。ヴィルケによれば「東ドイツはソ連を通じてしか目的を実現できず、国際交渉において発言力は無かった」と指摘し、「ソ連にとってベルリン問題はあくまでも欧州の力関係をソ連優位にするためのテコだった」とし、ベルリンの壁建設は米軍を撤退させ、西ベルリンの管理権を握るというソ連の外交攻勢からの撤退だったと結論している。
後にフルシチョフが語ったところでは、ウルブリヒト第一書記がベルリンの交通遮断を求めたが、壁の建設にフルシチョフは苦悩していた。 壁の建設は社会主義の世界的評判にとって打撃であることを彼は十分認識していたが、一方で東から西へ大量の人口流出に対策を早急に打たなければ東ドイツ経済が完全に崩壊するのは目に見えていたためである。人口流出を防ぐためには空路の遮断か壁の建設の二つだが、前者は米国との武力衝突を招きかねなかったのである。
ウィーン会談の決裂をきっかけとして、フルシチョフは壁の建設とベルリンの交通遮断を認めた。しかし、会談で通告した東ドイツとの平和条約締結は10月に撤回している。東ドイツへの影響力を保持するには現状のままでベルリン問題へのソ連の主導権を確保することが得策であることに気づいたからであった。やがて米ソ両国の主導権を握る地域を明確に分けて、お互いが干渉しない暗黙の了解が成立し、ベルリンの壁を建設し通行を遮断したことで、ベルリン問題はその後に固定化し、逆に状況は安定化に向かうことになる。
6月15日にウルブリヒトは西側記者との会見に臨んだ。この時点ではまだ壁建設の了解をソ連から取り付けていなかったが、ウィーン会談の結果を聞いてウルブリヒトは壁建設に進めると確信していた。そしてこの日の記者会見で、東ドイツはブランデンブルク門の脇に国境を設けるのかという質問に対して「そうした壁建設の計画があるとは承知していない。我が国の建設労働者は住宅建設に忙しく、誰も壁の建設など考えていない。」と答えた。国境のことを聞かれて思わず壁について答えてしまったのである。しかし記者たちはそのことに気づかず、その後の展開を誰も予測していなかった。
翌月に壁の建設の了解をソ連から得たことで、ウルブリヒトは向後にソ連と平和条約を結び、ソ連の後押しで西ベルリンの「解放」に進めると考えた。
ウィーン会談でフルシチョフのベルリン問題についての言及に苦しめられたケネディ大統領は、その後ベルリンに差し迫った状況が訪れようとしていることを予感していた。アチソン外交顧問(トルーマン政権での国務長官)は、最も強硬な対応策を主張し、核戦争も辞さずとして国家非常事態宣言と戦時のような動員をかけるよう文書で大統領に提出した。しかしアーサー・シュレジンジャー特別補佐官は、この年の4月に行ったキューバのカストロ政権の転覆工作が準備段階で政治問題を過小評価して、軍事的及び作戦的な諸問題に注意を集中しすぎた結果失敗したピッグス湾事件の過ちを喚起して、2人のスタッフ(エイブラム・チェイズとヘンリー・キッシンジャー)とともに、別の案を作成した。この間は政権内部で強硬派と柔軟派との議論が沸騰していた。
シュレジンジャー特別補佐官にとってアチソン案は、この危機を引返せないところまで押しやるリスクを含んでいることを危惧していた。それがピッグス湾事件の教訓であった。7月7日にケネディに自身の案を文書で提出した。アチソンの意見は最後の手段を検討しているが、危機が深まるまで交渉はせず、同盟国との協調もなく、軍事行動は述べてもその政治的目的は述べておらず、核戦争に踏み切る大義名分を練り上げることが不可欠であると書き入れた。それはアチソンの影響力を削ぐためであった。
7月8日にハイアニスポートのヨット「マーリン号」の中で、ケネディ・ラスク・マクナマラとテーラー軍事顧問が話し合った際には、ケネディは国務長官に声を荒らげて国務省の緩慢な対応に激怒していた。ケネディはこの時に国防長官にベルリンで衝突した場合の核を使用しない抗戦方法についての計画案の提出を命じ、核戦争への突入を避けるためにフルシチョフと語り合う時間を与える練り上げられたものでなければならないと述べた。このハイアニスポートのヨットでの会議から7月25日の大統領声明までの17日間の間に、アチソンの強硬な提案が少しずつ削ぎ落されていった。
この後に7月13日と19日に国家安全保障会議が開かれた。とりわけ19日の会議ではアチソンとマクナマラとの間で意見の応酬が交わされて、結局アチソン案は見送られた。そして25日にケネディはテレビ演説を行った。
「西ベルリンはコミュニストの海に浮かぶ自由の小島です。西ベルリンは鉄のカーテンの裏側の希望への灯です。(略)我々は西ベルリンの自由な人々を、我々の権利を、彼らの安全を維持しなければなりません。」と決意を表明して、国家非常事態の宣言ではなく、32億4700万ドルの国防費追加要請、陸軍兵力を87万5000人から100万人に増員、海・空軍の実践部隊の増員、そのための徴兵を3倍に増やし予備兵力を招集し、ワルシャワ条約機構諸国に対する経済制裁を課すことを述べて、年内までに対ベルリンへの空輸能力を高め、ヨーロッパへの配備に6個師団を追加することも発表した。
この演説において、ケネディは「西ベルリン」、「ベルリン」という語句を区別して使用していた。「西ベルリン」という単語を17回使用した。ベルリンの西部に手を付けない限り、ベルリンの東部は構わない、というメッセージに読めるものであった。この演説の前日に演説草稿文を読んだCIA高官ジェームズ・オドネルは、西ベルリンの安全保障ばかり繰り返しているとしてスピーチライターのセオドア・ソレンセンに文句を言っていた。ベルリンは理論上は4ヵ国の管理下にあるのだが、ケネディはソ連に東ベルリンでのフリーハンドを与えると伝えているようなものであった(この微妙なニュアンスについて、当時のマスメディアは全く気が付かなかった)。
これより前に6月のウィーン会談で、アメリカ側の政府高官は首脳2人の会議録を読んで驚いていた。アイゼンハワー大統領まではヨーロッパが東西に分裂している現実についてのコメントは控えていたが、ケネディ大統領は分割されている現実を積極的に受け入れて、分割を受容可能で永続的なものと認め、しかも「世界に生起し勢力均衡に影響を与える変化は、米ソ両国が威信をかけた条約上の誓約に関わりの無い形で起こることが決定的に重要である。」とフルシチョフに語っていた。これはワルシャワ条約機構加盟国など東側に属する国にはアメリカの干渉はあり得ないことを示唆していることになるのである。
そして8月初め、ケネディは冷静にフルシチョフの言葉を振り返って、ウオルト・ロストウ補佐官に語っていた。「フルシチョフは東ドイツを失いかけている。東ドイツを失えば東欧全体を失うことになる。だから難民流出を止めるために何か手を打つだろう。たぶん壁を築くことになるだろう。我々はそれを阻止できない。だが西ベルリンを守ることは出来る。しかし東ベルリンを塞がせないために行動することは出来ない。」。
ケネディはフルシチョフがウィーン会談で突き付けた最後通牒を拒否し、西ベルリンについて、西側軍隊の駐留、自由な通行、自由な政治状況の保持の3点を要求したが、これは米国の関心が西ベルリンの現状維持に限られることを示すシグナルに他ならなかった。
1961年7月6日にフルシチョフがウルブリヒトに、「東西ベルリンの境界閉鎖」の決定を伝えた。8月3日にフルシチョフとウルブリヒトはモスクワで細目の詰めを行った。この時にソ連と東ドイツとの平和条約を結ぶ件については、壁の建設が終わってからとして、フルシチョフは「西ベルリンと西ドイツを結ぶ地上ルートも航空ルートも妨害する如何なる行動を取ることを望まない」と述べて、ウルブリヒトは「難民流出に比べれば二次的な問題だ」として同意した。また実行に当たっては全ての作戦が厳密に東ベルリンの内側で行わなければならないとして、「1ミリでもはみ出してはならない」と釘を刺した。そして8月12日(土曜日)から13日(日曜日)にかけての夜間に実行することで決まった。
5日、ワルシャワ条約機構首脳会談最終日に、フルシチョフが
と述べると、これを加盟諸国は異論なく受け入れ、自国の軍隊をソ連軍支援のために移動させることに同意した。しかし東ドイツへの経済的保証については加盟各国は西側とも貿易関係があったため、西側の経済的報復を恐れて同意には至らず、フルシチョフは憤然とした。そして加盟国からなぜ米国の軍事的反応をもっと心配しないのだ、との声があり、フルシチョフは「ケネディはライト級だ」と答えた。実は、この時にフルシチョフは6月3-4日のケネディとのウイーン首脳会談でのケネディの言動やその後の7月25日の演説を検討しながら、感触としてケネディのスタンスは、ソ連や東ドイツがどのような行動を取ろうと、それがソ連圏内に限定される限り、そして西ベルリンへのアクセス権を妨害しない限りアメリカは干渉しないというもの、と考えていた。
ウルブリヒトは東ベルリンに戻り、境界閉鎖そして壁の建設の準備の仕上げに入った。総指揮は党書記エーリッヒ・ホーネッカーであった。
この時、ベルリンで西へ逃れる難民の数は週1万人に達し、1日で2000人を超す日もあった。8月4日、東ベルリンを管理するソ連軍政官は東ベルリンに住みながら西ベルリンに働きに出て行く人々に対して、氏名を登録して家賃と光熱費を東側通貨のドイツマルクで支払うように命じた。この週末の難民流出者は3268人に上った。その後も流出者総数は8日に1741人、9日に1926人、10日に1709人、11日に1532人に上った。人民警察内部でも越境亡命者が後を絶たず、1959年で55人、1960年で61人、1961年はこの8月までで40人の流出が記録されている。
8月10日、イワン・コーネフ元帥が東ドイツ駐留ソ連軍の総司令官として派遣された。第二次大戦でのソ連邦英雄であり、ワルシャワ条約機構の初代司令官であり、フルシチョフが見込んでの派遣であった。
8月11日、東ドイツ人民議会は「ベルリンにおける報復主義的状況に対処するために東ドイツがとろうとする如何なる手段をも承認する」とした決議を採択する。この時点では議員もその具体的内容は伝えられておらず、壁の建設を知っていたのは軍のトップと社会主義統一党(SED)のウルブリヒト第一書記周辺だけで、政治局委員や国家保安局(シュタージ)幹部でも知らされていなかった。それほどに機密保持が厳重であったがために、西側各国及び情報機関も感知できず、アメリカCIAが東側に配置した諜報員からの情報でも壁の建設は全く入っていなかった。この間は西側情報機関は、東側が現状への打開策を打ち出すことは十分予想はしていたが、その内容は予測出来なかった。まして壁の建設は想像してもまず不可能という判断で思いも寄らなかった。西ドイツ連邦情報局には少なくとも複数の情報から、ソ連がウルブリヒトの裁量に任せて何かの行動に出ること、そして地区境界線を封鎖されそうであること、柵を築くのに適した軽量な資材が蓄えられていること、作業の開始が分からないこと等の情報は入っていた。その情報は少数の党幹部だけが知っていた。
東ベルリンに支局を置いた唯一の西側通信社であるロイター通信のアダム・ケレット=ロング記者は、たまたまこの人民議会の謎めいた決議について、党の宣伝担当責任者であったホルスト・ジンダーマン(後の東ドイツ首相)に聞くと、「この週末にベルリンを離れることを、私はしない」という答えが返ってきた。彼はそれから市内を取材して駅での警官の多さを見てから、事務所に戻り、「東ドイツは西ベルリンへの難民流出に関して、この週末に行動に出るだろう」という記事を世界中の新聞社に配信した。
1961年8月12日は土曜日でいつもの休日であった。西ベルリン市長ヴィリー・ブラントは、社会民主党(SPD)の党首でもあり、9月に総選挙が行われるので、その選挙遊説でバイエルン州ニュルンベルクに出かけ、アデナウアー首相は同じようにリューベックに遊説に出ていた。マリーエンフェルデ難民収容所は、この日も多くの難民が押し寄せ、その数は最終的に2662人になった。そして夜になってブラントは遊説先のニュルンベルクから夜行列車でキールに向かった。オリンピックスタジアムに近い将校専用クラブでは、この夜にダンスパーティーが開かれ、西側外交団や軍関係者が参加していた。
午後4時に政治局会議が開かれ、ウルブリヒトから説明があったが討議はなく、したがって異議は無かった。会議後ウルブリヒトは指令書に署名し、ホーネッカーに執行を命じた。それからウルブリヒトは目立たないように、ベルリン郊外の迎賓館に行き、政府高官を集めた園遊会を夕方開いた。そして夜10時に参集した高官を一同に集めて、ウルブリヒトは「東西ベルリン間は今から3時間以内に閉鎖される。保安部隊にこの行動を私は命じた。まだ開いたままの境界を今後適切な管理のもとに置くための行動である」、「ついては、この命令書に閣僚諸君は署名してもらいたい」と語った。閣僚たちはこの時初めて壁の建設計画を知った。
数十台のトラックが数百のコンクリート柱を東ベルリンパンコウ地区の警察営舎の備蓄場に集めていた。東ベルリン郊外のホーエンシェーンハウゼンの国家保安省の広大な敷地に、東ドイツ中から数百人の警察官が集まっていた。彼らは事前に角材4本を組み合わせた木製の障害物を作った。これに釘や留め金を打ち込み、有刺鉄線を張るためである。東側は、三重の包囲線を敷いていた。
13日午前1時、東ドイツ警察隊本部は、二つの指令を発した。1時5分にブランデンブルク門に国境警備隊が現れた。1時11分にロイター通信のアダム・ケレット=ロングのオフィスにワルシャワ条約機構加盟諸国の「西ベルリン全領域の周囲に確実な保護手段と効果的管理を構築する」旨の声明が届き、彼は急ぎ車を走らせてブランデンブルク門に向かったが、途中で警官に止められ、境界は閉鎖された旨を伝えられた。すぐにそこを離れて支局に戻り、「東西の境界線は本日、日付が改まると同時に閉ざされた」と世界中に配信した。この時に東ドイツ政府は東西ベルリン間の68の道すべてを遮断し、有刺鉄線で最初の「壁」の建設を開始し始めていた。午前1時30分、東ドイツ当局は全ての公的輸送を停止した。東西ベルリンを結ぶフリードリッヒ通り駅では、西ベルリンから来た全列車の乗客の降車を許さず、各駅で列車の線路を破壊して有刺鉄線を張り拡げていった。その時西側3ヵ国の兵士はまだ寝入ったままであった。
イギリス特使団政治顧問バーナード・レドウィッジは、将校専用クラブのパーティーから遅くに帰宅して寝る準備に入った時に、英軍憲兵隊から電話で列車の深夜運行の中止、通信の遮断、検問所での道路封鎖の報告を受けた。急ぎスタジアム近くのオフィスに出向き、ロンドンに電話し、至急電を送った。これが最初の正式な通知であった。レドヴィッジはこの作戦にそれほど驚いておらず、「絶対に何かあるとは感じていたが、誰も推測出来なかった。情報源からは報告は無かった」と後年のインタビューで答えている。
西ベルリン駐在アメリカ公使アラン・ライトナーは、午前2時に境界閉鎖の第一報を受ける。部下のスマイサーとトリンカが指示を受けて偵察に出向き、車でポツダム広場から東ベルリンに入ることが許可されて、約1時間東側を回り、ブランデンブルク門から西ベルリンに戻った。スマイサーの目撃情報からライトナーはソ連軍がこの作戦に直接役割を果たしていないことで、アメリカにとって軍事的脅威でないと考える一方で、東ドイツの軍隊を東ベルリンに入れることを禁止している4ヵ国協定に違反していることも念頭に置いた。午前11時にラスク国務長官に最初の詳細な報告を打電した。「東ベルリン住民が西ベルリンへ入ることは妨げられた」、「東の経済的損失と、社会主義陣営の威信を失う難民流出に対処する措置である」と述べて、夜に次の電報を打電した時にはソ連軍の動きにも言及し、直接の介入は無いが、かなりの規模で動員したことは東ドイツ軍の信頼度について疑念を持っていることも付記し、また西側の軍関係者及び文民公務員は東へ自由に出入りしていることも付け加えた。
ほぼ午前2時すぎから、各地区に配置した労働者階級戦闘団から準備完了の連絡が相次ぎ、午前3時に警察本部は内務省への第1回目の報告を行い、その後1時間ごとに報告を続けた。3時25分にUPI通信が速報を配信した。午前4時、ブラントの乗った列車はキールに向かっていたが、途中のハノーファーに到着後に連絡が入り、急ぎ同地で下車しタクシーに乗り空港に向かった。午前4時30分にアデナウアー首相は首都ボン近くの自宅で就寝中に起こされ、状況を知らされた。ブラントが急ぎ西ベルリンに向かったのに対し、アデナウアーは西ベルリンにすぐに行くことはなかった。フランスのド・ゴール大統領は、パリ南のコロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーゼの別荘でいつものように週末の休暇で、やはり就寝中にクーヴ・ド・ミュルヴィル外相から電話で事態を知らされた。ド・ゴールはその時に「これで、ベルリン問題に片が付く」と語ったといわれる。
この頃、アメリカのスマイサーとトリンカは偵察を続け、フリードリッヒ通り駅に到着した。まだ深夜であったが、数十人の乗客(女性・子供・老人ら)がプラットホームに上がろうとして警官に押し戻されて、トリンカは後に「これが最後のチャンスと思ったのだろう。全ておしまいだと悟り、涙を流していた。」と語っている。駅構内には、12日付の党中央委員会からの命令書が以下のように張り出されていた。
ベルリンの東西を運行する都市鉄道の以下の路線は運行を停止する。 (中略、該当路線リスト) 都市鉄道は今後も当駅と西ベルリン間を連絡するが列車はプラットホームBの発着とする。
この命令書には、その他に地下鉄の閉鎖駅が列挙され、西側からの路線の通る東側の地下鉄駅は列車が停止しないことも明らかにしていた。そしてここには記されていなかったが、これ以降西へ乗車できるのは警察からの正式な証書を持つ人だけとなり、プラットホームAとBはやがて閉鎖された。この駅から西へ向かって運行が再開されたのは、1989年になってからである。この日に都市鉄道の8路線、地下鉄の4路線が交通不能となり、都市鉄道の48駅の全てで地区間交通が廃止され、東ベルリンの33駅のうち13駅が営業停止となった。
東ベルリンは大騒ぎとなり、人が動きトラックが動き回り、空気ドリルが道路を掘削していた。警察本部では電話が鳴り響き、各地区警察には命令が飛び交った。午前5時30分には、ポツダムに駐屯する工兵小隊が建設作業に駆り出された。実際国境線近くの作業に駆り出された国境警備隊、予備警察隊、警察学校生徒、そして労働者階級戦闘団などは、内容は事前に一切知らされず、深夜になってから命令が出されて、動員されているのがほとんどであった。
エーリッヒ・ホーネッカーはずっと境界沿いを車で走り、細かい指示を出しながら作戦の進行状況を確認していた。午前4時頃にはほぼ作戦の重要な部分が達成されていることに満足して執務室に戻った。午前6時頃には全指揮官から任務は指示された通り実行されたとの報告を受けた。朝の6時までに東西ベルリン間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は午後1時までにほぼ建設が完了した。ホーネッカーはウルブリヒトに最終報告を済ませて帰宅した。
この夜のうちに、まだ境界線が強化されていない地域から、数百人の東ベルリン市民が西へ脱出した。湖沼や運河を渡った者、西ベルリン市民の知人の車のトランクや座席の下に隠れた者、自分のナンバープレートを西の友人のプレートに付け替えて越境した者など様々であったが、難民脱出のハッチはこの夜に閉ざされた。1961年8月13日にマリーエンフェルデ難民収容所に来た者は150名だった。しかし実際の越境者の数は不明である。
これで東西ベルリン間の48キロを含む、西ベルリンを囲む環状155キロに渡る有刺鉄線が僅か一夜で完成した。2日後には石造りの壁の建設が開始された。その境界線は東西に193本の主要道路及び脇道を横切っており、それまで81カ所の検問所があって通行可能であったが、その内69カ所がこの日に有刺鉄線によって封鎖され、12カ所に限定された。
東ドイツは建設当時、この壁を「近代的な西部国境」と呼び、「平和の包囲線」とも呼ばれていた。そして翌年8月、壁建設1周年記念行事を準備していた時に、この壁の正式名称の検討を始め、党政治局に設置された情宣委員会と中央委員会書記アルベルト・ノイデンが名称を「防疫線(コルドン・サニテル)」とする案がいったんは通ったが、再度検討することとなり、西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであるとして、「対ファシズム防壁(Antifaschistischer Schutzwall)」と呼ぶことに決定した。これは名目で、実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった。
午前5時にハノーファーで夜行列車から急遽降りて、空港から飛行機で西ベルリンに戻ったブラントは、すぐに壁の建設現場に駆けつけた。「それまで何度かの危機でも頭はさめていたのだが、今度ばかりは冷静、沈着でいられなかった。」「何千、何万という家族が引き裂かれ、ばらばらにされていくのを見て、怒り、絶望する以外にはなかった。」と後に自伝で述べている。そしてブラントの目に映ったもう一つの冷たい現実があった。アメリカの冷静な態度であった。西ベルリン駐留のアメリカ軍は国防総省にも国務省にもホワイトハウスにも報告はしていた。しかし伝えられてきたのは「収拾がつかないような反応が起こらないようにせよ。」であった。休暇先からボンに戻ったモスクワ駐在西独大使のクロルは「西側諸国の受け身の態度に西ドイツの失望は大きかった。ベルリン市民は見捨てられたと感じていた。」と語っている。8月13日に、西ドイツも西ベルリンも連合国側の冷静さに驚かされていた。8月16日付けの西ドイツの大衆紙「ビルト」は一面トップで「西側、何もせず」という見出しを出した。西側は口頭での抗議しかなかった。後に有名になったこのビルト紙の見出しは「東側は行動を起こす・・西側は何をするか・・西側は何もせず・・ケネディは沈黙する・・マクミランは狩りに行く・・アデナウアーはブラントを罵る」であった。
壁を作った東側への怒り、何の手も打たない西側諸国とりわけアメリカへの失望、さらに西ドイツ政府への幻滅、アデナウアーはベルリンに来ず、15日の選挙演説でブラントの過去を取り上げて個人攻撃をする始末であった。アデナウアー首相は西ドイツ首相として首都ボンに留まり、すぐにベルリンに赴くことはせず、過度に慎重な姿勢に終始した。それどころか、ボンに駐在するソ連大使スミルノフに会い、「西ドイツは状況を危険に曝すような如何なる手段も取らない」と述べ、またタカ派で有名であったシュトラウス国防相でさえ、国民に冷静さを呼び掛けていた。
8月16日に市庁舎前の広場で25万人の市民が集まって抗議集会が開かれ、ブラントは抗議の演説をした。しかしまかり間違えば、市民の怒りは連合国側へ向けられることも十分に予測される事態に苦渋に満ちたものであった。ここで「ソ連の愛玩犬ウルブリヒトはわずかな自由裁量権を得て、不正義の体制を強化した。我々は東側の同胞の重荷を背負うことは出来ません。しかしこの絶望的な時間において彼らと共に立ち上がる決意のあることを示すことでのみ、彼らを援助出来る。」としてアメリカに対して「ベルリンは言葉以上のものを期待します。政治的行動に期待しています。」と述べた。ブラントはケネディに書簡を送ったことも明らかにした。
ソ連は東ドイツ軍の後方の第三陣として布陣して、大量の軍事的動員を行うことで、アメリカ軍などの西側への強いメッセージを送った。アメリカ軍が介入してきた場合の代価がどれほどのものになるか、明確に伝えたのであった。東ドイツ駐留ソ連軍総司令官のイワン・コーネフ元帥は、若干の危惧を持っていた。東ドイツ軍及び警察部隊の忠誠がどこまで信用できるのか、西側諸国の軍隊が前進してきたら彼らはどう反応するのか不安を感じざるを得なかった。しかし西側の軍隊は動かなかった。
そしてモスクワではフルシチョフが有頂天になっていた。米英仏を出し抜いたことで、最初は安堵しそれから歓喜の情に浸り込んでいった。東ドイツとの平和条約の締結によって得られると思っていたそれ以上のものを得たと感じていた。そしてフルシチョフはさらに突き進んだ。しばらく米ソ間で行っていなかった核実験の再開をアメリカよりも早く行った。
アメリカなど西側諸国はベルリンをめぐる一連の出来事に対して最初から慎重な態度であった。それはこの動きが全て東側の領土内でのことで、ケネディが7月25日の声明で示した3つの条件の侵害はなく、全て向こう側のことであったことがその理由だった。それはまた西側も望んでいたことでもあった。不思議なことに実はアデナウアーも同様だった。
8月13日(日曜日)午前10時(ベルリン時間午後4時)にラスク国務長官とコーラー国務副長官が国務省に着いた。ラスクは「東ドイツとソ連が自国内でしたことだから戦争と平和の問題には直結しない。」と考え、「壁は彼らの防衛手段だ。また西ベルリンの位置とそこを包囲する軍事力の差を考えると自滅に追い込まれると予想され、道理に合わない。」と後に述べている。そして現地がソ連に対して抗議声明を出すことを禁じていた。1945年7月7日に米英仏ソの4ヵ国で、ベルリンではお互いの部隊が制限を受けることなく行動できることを同意していた。ベルリン封鎖の後に1949年6月20日にも4ヵ国協定によって再度確認していた。従ってケネディは、この協定に基づいて東ドイツ部隊によって作られた壁を解体せよとアメリカ軍に命令する権利を持っていた。そもそもベルリンで東ドイツ軍が行動する権利はないのであった。しかし西側は動かなかった。この日にハイアニスポートで休暇中だったケネディとラスクが電話で打合せして抗議声明の内容を決めたが、この4ヵ国協定を引き合いに出しているものの予想の範囲内でしかなかった。ラスクはその日の午後に大リーグの試合セネタース対ヤンキースを見に野球場に行った。アーサー・シュレンジャー補佐官はその後の著書の中で「東ドイツの出血を止めることで、壁はベルリンに対するソ連の最大の関心を鎮めた。」と述べている。これはソ連勢力圏内の一現象に過ぎない、下手に介入するとか、脅迫じみた言動をすることは、危険すぎると考えていた。
8月14日にハイアニスポートからワシントンに戻ったケネディは午前にモスクワから戻ったトンプソン大使と会い、午後にラスク国務長官と会談した。ベルリン駐在のライトナー公使から何度もメッセージが届き、西ベルリン市民の士気が急激に低下している旨の内容であった。西ベルリンに居住する西側3ヵ国の軍関係者及び家族などの軍属並びに外交官などは従来通り東ベルリンへの通行は妨げられず、3カ所のチェックポイントを通って東ベルリンと往来は出来た。また西ドイツから西ベルリンへの陸路、そして空路もそのままで、西ベルリンに関する西側の権利を侵害することは無かった。
そして16日にブラントからの書簡を受け取ったケネディであったが、アデナウアー首相を飛び越えて一つの都市の市長からアメリカ大統領に書簡を送ったこと自体にケネディは怒っていた。しかし西ベルリンではアメリカが裏切ろうとしているという疑念が広まっているという報告を受けて、自分は一貫してクレムリンに立ち向かっていることをベルリン市民にも、ソ連人にも、そして国内のアメリカ人にも示すことが重要である認識に至り、何らかの行動に出ることを決意した。
イギリスのマクミラン首相は趣味の狩猟に出かけてスコットランドに滞在し第一報が入ってもそこに留まった。マクミランには状況は改善したと見えていた。これでドイツの分断は固定化し、ベルリン問題は安定化し、ベルリン危機は緩和された。つまりすべて目的は達せられたと考えていた。
8月18日、ケネディはジョンソン副大統領とクレイ将軍をボンに派遣し、副大統領と将軍はそこから翌19日に西ベルリンに飛び、西ベルリン市民は二人を熱狂的に迎えた。ジョンソンは市庁舎前の広場で「今日、新しい危機において、あなた方の勇気は自由を愛する全ての人々に希望をもたらします。」「この都市の存続と未来を、我々アメリカは我々の先祖が独立宣言で誓ったもの、それと同じく我々の生命、財産、神聖な名誉に懸けて誓うものです。」と述べた。この言葉は13日の国境封鎖以来、意気消沈していたベルリン市民を勇気づけ、涙する者もいた。そして西ドイツから陸路アウトバーンで東ドイツを通過してアメリカ陸軍の精鋭部隊が西ベルリンに向かっていることもこの時にベルリン市民に伝えた。
8月20日にアメリカ陸軍第8歩兵師団(英語版)第1戦隊約1600人が西ベルリン駐留部隊を増強するため、ベルリン市民の歓呼の中で西ベルリンに到着した。この精鋭部隊を東ドイツを通って西ベルリンに派遣すること自体がソ連との武力抗争を引き起こしかねない危険を伴うものと危惧する幹部もいたが、ケネディは西ベルリンを徹底的に防衛する決意を示すために実行した。そしてこの結果は西ベルリンへのアクセス権の確保が確かなものであることも裏付けられたが、西ベルリン市民にとってはアメリカが旗幟を鮮明にしたことだけで十分であった。
壁の建設は一気に行われたわけではなく、数度にわたって造り替えられた。特に初期の壁、ブロックを積み上げた文字通りの「壁」はベルリン中心部の一部にすぎず、郊外の田園地帯・牧草地帯・森林地帯・湖沼では、巻いた有刺鉄線の仕切りが二列に並べられただけのものであった。この二列は間隔が70m開いた部分もあれば、地形や住居の接近如何によってかなり狭まった部分もあった。
時代が下るにつれて壁はより頑丈になり、1976年に行われた改造(4度目の改造のため、「第四世代」と呼ばれた)によって壁の建設はほぼ完成した。最終段階の壁では高密度の鉄筋コンクリート製のものが二重に建てられており、その2枚の壁の間は数十メートルの無人地帯となっており、東側から順番に、金網の柵(アラームつき)、道路(国境警備隊パトロールのため)、柵と道路の間に一定間隔の監視塔(東西ベルリン間48キロの区間だけで302カ所)、柔らかい土のベルト地帯(常に均されていて警備隊でも入れず、何者かが通ると痕跡が残る。夜は無数の照明に照らされている)、段差や対車輌障害物(車での突破を防ぐため)が仕掛けられていた。東ドイツ当局が監視の目を光らせており、壁を越えようとするものがいればすぐに分かるようになっていた。
壁の高さは3.6m、高いところで4.2mで、最上部が半円形にされており、乗り越えようとしても絶対に掴まる所が無く引っ掛ける所も無い状態であった。一番東側の壁から西側の壁までの距離は60mを超え、警備隊員と番犬以外は全く無人地帯で隠れることが出来ない恐ろしいほど殺伐とした光景の一帯であった。また、1970年には仕掛けケーブルに触れると散弾を発射する対人地雷SM70(英語版)(自動発砲装置(ドイツ語版)と呼ばれ、クレイモア地雷と原理において同じ)も設けられたものの、被害者に大きな苦痛を与えると非難されたため1984年に撤去された。
最終的に壁の総延長は155km、無人地帯の総面積は49,000mから55,000mに及び、ほぼ1つの町の総面積に等しいものであった。壁は東側からは幅100mの無人地帯のため立ち入ることができなかったが、西側からは接近することができたため、壁の西側では壁の建設を非難し撤去を求める政治的な落書きが出現するようになった。やがてさまざまなメッセージや色鮮やかなストリートアートが壁の西側を彩った。
1961年10月17日、ソ連共産党第22回大会でフルシチョフ首相は年末までに東ドイツとの平和条約を結ぶとの主張を取り下げた。事前に相談を受けなかったウルブリヒト東独第一書記はこのソ連の方針変換に不満であり、抗議の意思をこめて東ベルリンでの境界線での入国審査の厳格化という実力行使に訴えた。西側の文民公務員に対し身分証明書の提示を求めるようになったが、この対応は4ヵ国協定に違反しており、ソ連からもマリノフスキー国防相名で、東ドイツはソ連の許可なしに境界線において何も変更してはならない、と通達を出していた。
10月22日、アラン・ライトナー米国公使夫妻がチェックポイント・チャーリーを通過しようとしたときに身分証明書の提示を要求された。ライトナー公使はこれを拒否し、警備隊と押し問答の末に強引に検問所を突破して往来の自由を主張するなどした。その後、クレイ将軍は本国のラスク国務長官の許可の下、チェックポイント・チャーリーでの外交官の示威行動を行い、米軍兵士の護衛付きで外交官が検問所を突破するなどした。警備隊は当初は特段強行に阻止するなどはしていなかったが、10月27日、示威行動を行った米国側が引き返そうとしたところ、突如としてソ連軍が戦車を検問所前まで進めた。米軍も待機していた戦車を出動させ、両軍は検問所を挟んでにらみ合った。
クレイ大将は実力行使も辞さずの構えだったが、ケネディは西側諸国間でのベルリン問題の意見の相違の調整で苦しんでいた時期であり、一検問所でのトラブルを大きくする余裕はなかった。一方フルシチョフは、壁の建設の時点でのケネディのシグナルから米国がこれ以上の行動に出ることは無いと確信しており、報告を聞いても「戦争なんて起こる訳はない」と考えていた。ケネディとフルシチョフは極秘で連絡をとり、一触即発の状態は20時間ほどで解消された。米軍側を主導したクレイ大将はその後本国に呼び戻された。またフルシチョフも米・東独間の平和条約締結案を正式に取り下げたうえで、ウルブリヒトに対しては「特にベルリンにおいて、状況を悪化させるような行動は避けよ」と改めてくぎを刺した。
この事態は「(ベルリン危機(英語版))」と呼ばれ、後に「米ソの最初で最後の直接武力対決の舞台」と言われた。
この事件以降、壁の存在は両陣営の武力衝突を回避し、冷戦の状態を維持する役割を果たすことになった。実際にケネディも「(壁は)非常によい解決法というわけではない、が、戦争になるよりはずっとましだ」と、壁の存在について容認する発言をしていた。
ベルリン駐在の米国外交官リチャード・スマイサーは後に「壁は東ドイツを強化ないし救済するためのもので、チェックポイント・チャーリーでの事件はある意味でゲームだった。クレイは戦車隊が到着してすぐにそれを察知し、様子を見ることにしょう、と言った。実際戦車が対峙していても緊迫した空気は無かったし、双方とも発砲する気は無かった。この事件で第三次世界大戦を始めようとは思っていなかったし、ロシアもそのつもりは無かった。」と語っている。
ヘンリー・キッシンジャーはその著書「外交」の中で、このベルリン問題について、「フルシチョフが東ドイツとの平和条約を断念し、ベルリンの壁の成功が個別の平和条約を不要にしたと宣言したことで、ベルリン危機は終わった。」と述べた。そして「危機を通じて序盤に鮮やかな動きを見せた後に、相手が進退窮まって投了するのを待つチェスの棋士のように振る舞った。しかし外交記録を読むと、交渉で数多の選択肢が示されて論じられ暗示されているのにそれを少しも利用しなかったことは理解しがたいことだ。」「結局フルシチョフは自分が何度も最終期限を設定しながら何もせず、西側同盟国を交渉に巻き込ませた数々の選択肢についても何もしなかった。3年間の最後通牒と血も凍る脅迫(1958年の自由都市宣言と1961年ウイーン会談におけるケネディへの最後通牒)の後でフルシチョフの成功はベルリンの壁を作ったことだが、これは結局、ソ連のベルリン政策の失敗を象徴するものとなった。」「フルシチョフは自ら作り出した絡み合った罠に自らはまり込んでしまった。」としてベルリン危機は翌年秋に起こったキューバ危機とともに冷戦の転換点となったと述べている。この壁建設は結局1958年の最後通牒から大きく後退し、西側に対決するものでなく、東ドイツ人の利益に対立するものであった。そしてこの時は西側は知らなかったが、東側陣営での中ソ対立で中国との関係が悪化していたことが一定程度西側への態度を軟化させていた、とも見られている。
この1年後の1962年10月に、キューバにソ連が密かに核ミサイル基地を建設しようとしていたことを発見した米国はキューバを海上封鎖してソ連にミサイル基地撤去を迫り、核戦争の一歩手前まで行ったがうまく回避しソ連のミサイル基地撤去を勝ち取った。
1963年6月26日にケネディ大統領は西ベルリンを訪問した。ベルリンの壁建設時は苦境に立たされたケネディであったが、翌年10月のキューバ危機では、トルコからのミサイル引き揚げと取り引きする形でキューバへの核兵器配備を阻止し、6月10日にアメリカン大学での「平和のための戦略」演説でソ連との直接交渉を始めたばかりであった。この時期には西ベルリン市民のケネディへの人気は高まっていた。
この日、アデナウアー首相とブラント市長とともに100万人の市民の歓呼に答え、ベルリンの壁近くの市庁舎前広場で30万人のベルリン市民を前に演説した。ベルリンの壁が築かれてまだ西ドイツも西ベルリンも複雑な状況ではあったが、この頃になると次第に状況は安定に向かっていた。演説においてケネディは、ここで有名なフレーズを述べた。
そして共産主義を激しく批判して、最後にまたドイツ語で締めくくった。
この言葉はアメリカの西ベルリンに対する決意の強さを表すものとしてソ連に対する強いメッセージとなった。それは西ベルリンを守ったという自負と、貧しい東から豊かな西へ逃亡しないようにしたのがこの壁であることの勝利の表明であった。壁建設の時点では見せなかった憤激を露わに共産主義を非難し、そしてこの時にケネディは大統領就任後に初めて、「これはドイツ人が戦後18年の行動を通じて勝ち得た権利であり、私はベルリンが、ドイツ国民が、そしてヨーロッパ大陸がいつの日か統一されるであろうことを確信するものである。」と、ドイツ再統一の権利について述べた。ケネディはこの演説でドイツとベルリンに関する米国の政策を新しい決意のもとに変えて、ベルリンを守るべき場所とし、以後米国はベルリンで引き下がることは無かった。
この演説は多くのベルリン市民やドイツ国民の心に残ることとなった。この広場で行った演説は彼の政治活動のなかで最も成功したものだった。
ケネディ暗殺後、この広場はジョン・F・ケネディ広場と改名された。
西ドイツのブラント首相の東方外交で、西ドイツとソ連、西ドイツとポーランド、そして東西ドイツの間で関係改善が進むと、ベルリン問題についても恒久的であれ暫定的であれ平和的に処理しようとする動きが1970年に入ってから活発になった。そして1971年9月3日に米英仏ソの4ヵ国協定が締結され、更に東西ドイツ間で細部の取り決めを合意し、翌1972年6月3日に発効した。この協定には東西ベルリンの地位は曖昧で、東ベルリンは「隣接する地域」と表現されてベルリン全体の問題には触れていないが、ソ連は東ベルリンに大使館を置きながら西ベルリンにも領事館を置き、暗黙のうちに西ベルリンが自己の勢力範囲であることを断念し、また西側3ヵ国軍の西ベルリンへの駐留、西ベルリンへの通行を認めた。一方西側は西ドイツと西ベルリンとが政治的には別の存在であることを認め、かつ東ベルリンを東ドイツの首都であることも認めた。これで戦後の東西ベルリンの間で未解決であった西ベルリンでの西側各国の駐留権、西ベルリンへの通行権が保障された。
さらに1972年に東西ドイツ基本条約が結ばれて、相互に対等な主権と領土を認め、翌1973年に東西ドイツは同時に国連加盟を果たした。
東西ドイツの間で1961年から1988年までに総計23万5000人が「共和国逃亡」によって西ドイツに逃れた。そのうち4万人が国境の見張りをすり抜けて越境した者で、更にその中の約5000人余りがベルリンの壁を乗り越えた者であるが、その大部分はまだ壁の国境管理が甘かった1964年までの数字である。東ドイツ側の国境超えの「逃亡未遂」に関する刑事訴訟の手続きは1958年から1960年までで約2万1300件、1961年から1965年までで約4万5400件であった。そして1979年から1988年までの「逃亡未遂」の有罪判決は約1万8000件であった。これはベルリン以外の東西ドイツ国境での逃亡未遂も含めての数であり、ベルリンの壁を超えようとした未遂及びその準備をした者はおよそ6万人以上とみられ、有罪判決受けて、平均4年の禁固刑であった。そして逃亡幇助の計画準備の場合は実行者より重く終身懲役刑を科されることもあった。
東から西への亡命は、壁建設が始まっていない地点からいち早く抜け出した例、検問所の設備が整う前に強行突破した例、国境警備隊の監視網をかいくぐって奇跡的に亡命を果たした例、果たせず逮捕された例、射殺された例など、様々なエピソードを産んだ。特に壁の設備がある程度完成した1964年までの間に、脱走の試みは集中した。
エドガー・ヴォルフルムは著書『ベルリンの壁』で「今日までベルリンの壁における犠牲者の正確な人数については確実な情報がない。」と述べている。しかし「ベルリンの壁の傍で亡くなった者は122人から200人」として「壁倒壊までに東ドイツから逃れようとして(ベルリン以外を含めて)死んだ人は1200人以上に上る」と推測している。
クリストファー・ヒルトンは著書「ベルリンの壁の物語」で、氏名が明確な死亡者について、その越境の行動と死亡に至る状況について克明に記して、氏名不詳の者も含めて165人の被害者の状況を述べているが、その彼も「壁の犠牲者に関しての決定的な情報は得られないかもしれない。」と述べている。彼は1991年にドイツで発行された「Opfer der Mauer(壁の犠牲者)」から多くの情報を得たとしているが、しかしこの文書は東ドイツの事件に関する機密扱いであった公式報告書を用いて調査されたものであるが完全ではないとしている。ある文書では172名の死亡者の一覧があったが、ヒルトンは「全てが亡命を目指していたとは言い難い」として「28年間に亡命を試みて死亡した者の一部は西側に報告されず東側にも記録に残っていない可能性がある」また「誰にも知られずに溺死した者がいた可能性がある」「越境しようとして泳いだが誰にも気付かれず遺体となったが発見もされなかったことが考えられる」と述べている。そして「私は全員の氏名を余さず記し、それぞれに人間らしい逸話を盛り込みたかったが、日付と簡単な説明だけを記すだけで精一杯であった。彼らの多くは無縁仏として埋葬あるいは火葬された」と語った。
1990年から2005年にかけてベルリンの壁で越境者を射殺した狙撃兵の裁判の訴訟文書によって解明が進んだとされて、「死亡者数は合計192名」であったり、「少なくとも136名」、「200人以上」、「射殺されたは238名」、「500人以上の人々が厳重に監視された境界で逃亡を試みて命を落とした」、「壁を越えようとして射殺された人は700人を超えると言われている」、「東西ドイツ及びベルリンの境界で命を落とした者は全体で943人にのぼる」などの諸説があり、1961年から63年までの壁建設の初期の期間で把握していない部分があるとしている。
東西間の通行が遮断されて、越境が危険を伴うことから、1963年頃から西への逃亡援助が営利事業と化し「逃亡援助を生業とする連中」が牛耳るようになって、西ドイツ側の態度も変わったと言われる。そしてその後に東西ドイツ政府間で裏取引が1964年頃から制度化され、東ドイツ政府の「人道的措置」によって東の刑務所に拘置された政治犯を西ドイツに送ることが可能となった。
その人数は1963年から1989年までに男女33,755人に上り、また家族結合の名目で約25万人以上とされている。西ドイツはその見返りに約35億ドイツマルクを支払った。1人について、その人物の教育水準・刑期の長さ・重要度に応じてまちまちの代金が交渉で決められて、40,000ドイツマルクから95,847ドイツマルクになったと言われる。これは見方を変えれば『人身売買』であり、東ドイツにとっては好ましくない市民や反体制分子を追放できて、しかも同時に利益を得るうま味のある『特別ビジネス』であった。
1964年11月に東ドイツ政府は年金受給者に対し、訪問あるいは滞在のために西側へ行くことを許可した。これで満65歳になって東ドイツ政府に移民申請をすれば、無条件で西ドイツに移住できた。これは当時の東ドイツにおける年金支給開始年齢であり、たとえ移住であれ65歳以上の人口が減れば年金を払う必要がないため政府は歳出をそれだけ削れ、お金だけかかる人間を厄介払いできるという東ドイツにとって実に都合のいい理由が背景にあった。他にもアルコール中毒患者や精神病患者も厄介払いとして東ドイツは簡単に西へ送っていた。1961年から1988年までに383,181人が西側へ行き、その大半が年金受給者であった。
壁建設直後は、射殺や溺死などの犠牲者が相次ぎ、壁付近は緊張に包まれて、西ベルリン市民の抗議や反発は収まらず、西側市民の東側への通行は不可能であった。しかしようやく沈静化に向かった1963年12月に7回に及ぶ予備会談の末、東ドイツとベルリン市との間で「ベルリン通行証協定」が締結されて、1963年12月19日から1964年1月4日までの17日間、一時的に西側市民が東側を訪れることが可能となった。これは東側に親戚がいることが証明された家族のみの限定で、クリスマスを東側の親戚とともに過ごすためのものであった。この制度を利用した西側市民は73万人以上で、西ベルリン市民の半数に近い延べ120万人が東ベルリンに入ったという。この協定は翌1964年も結ばれて、1964年10月30日から11月12日まで、12月19日から1965年1月3日まで、そして復活祭から聖霊降臨祭までのそれぞれ14日間であった。
やがて1967年になって通行証協定が改められて規則が緩和された。しかし東側に入るときにはビザとパスポートを持ち、西側の印刷物の持ち込みは不可であった。また東ドイツ政府にとって外貨獲得の一環として機能しており、西ドイツ市民は有無を言わさず西ドイツマルクを収奪させられていた。まず越境時に東西マルクを1対1で交換させられ、東独滞在時に使いきれなかった東独マルクは西独に戻るときに再両替されずに没収されることになっていた(建前では東独の銀行に預け次の訪問時に引き出せるが、その際の引き出しの手続きはややこしく、事実上の没収状態であった)。東独は物価が安く、更にモノの供給量が少ないので両替分を使いきれないことが多く、多くの場合において没収された。さらに東ベルリンの他の街を訪問する場合にも、どの街に入る時にも強制両替を行い、ここでも残った金額を没収していた。しかも最初の越境時から交換額を記した紙片の携帯が義務づけられており、最後に残金を没収されるときに東側で買ったもの全てを書類に書き入れなくてはならなかった。この申請に不備があると後で面倒なことになった。
一方で東側市民が西へ行くことは容易に認められず、親の葬儀への参列については認められることがあったが申請が通るかはまちまちで、後には誕生日のお祝い訪問も40歳・50歳・60歳の区切りで許可されたが、これも許可が下りない場合もある恣意的な運用であった。その後も、親戚訪問、ビジネス、東側団体主催の催し物への参加などだけを認め、外国人には認められた市内見物やオペラ観劇は西独市民には認めなかった。そして1年間で合計30日以内という制限があった。
1985年にソビエト連邦共産党書記長にゴルバチョフが就任し、それまでの閉塞状況であったソ連にペレストロイカ(改革)を推し進めて、この動きはやがて東ヨーロッパ諸国、とりわけ80年代初めから国内で連帯運動が起こったポーランドとハンガリーに波及し、1988年にポーランドでは非共産党政権が誕生し、ハンガリーでも社会主義労働者党の改革派が政権を担った。これが1989年になると、他の東ヨーロッパ諸国にも大きな影響を及ぼした。
1989年5月2日、既に民主化を進めていたハンガリーのネーメト首相が、オーストリアとの国境にある鉄のカーテンと呼ばれる国境の鉄条網を撤去すると、ハンガリー経由での国外出国に希望を持った東ドイツ国民が夏期休暇の名目でハンガリーを訪ね、そこに滞留する事態となった。
8月19日、汎ヨーロッパ・ピクニックが欧州議員オットー・フォン・ハプスブルクの主催でこれにハンガリー政府の改革派の後援により、ハンガリーとオーストリアの国境付近のショプロンで開催された。これは、秘密裡にハンガリーが東ドイツ市民をオーストリアに越境させることを企図したイベントであった。そしてこの集会のさなかに東ドイツ市民661人がオーストリアへの越境に成功した。その後もオーストリア経由で出国が出来ると考えた東ドイツ市民がオーストリアと国境を接するハンガリーとチェコ・スロバキアに殺到した。8月25日、ハンガリーのネーメト首相は密かに西ドイツを訪れてコール首相と会談し、東ドイツ市民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させる決断をしたことを明らかにした。やがて西ドイツ側の受け入れ準備が整った9月11日にはハンガリー政府は正式に東ドイツとの協定を破棄して東ドイツ市民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させた。9月30日には、チェコスロバキアのプラハの西ドイツ大使館に集まっていた東ドイツ市民4000人の前に西ドイツのゲンシャー外相が現れて西ドイツへの出国が可能となったことを伝え、月末までに約3万人が出国した。
もはやベルリンの壁は有名無実化しつつあり、東ドイツ国内でもデモ活動が活発化していた。
こうした国民の大量出国やライプツィヒの月曜デモ等で東ドイツ国内は混乱していたにもかかわらず、最高指導者のエーリッヒ・ホーネッカー社会主義統一党書記長は改革には背を向け続けていた。10月7日の東ドイツ建国40周年記念式典のために東ベルリンを訪問したミハイル・ゴルバチョフがその際行われたドイツ社会主義統一党幹部達との会合で自らの進めるペレストロイカについて演説をしたのに対し、ホーネッカーは自国の社会主義の発展を自画自賛するのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべて党幹部達を見渡すと、舌打ちをし、ゴルバチョフが改革を行おうとしないホーネッカーを否定したことが他の党幹部達の目にも明らかになった。これを機にエゴン・クレンツ(政治局員・治安問題担当書記・国家評議会副議長)やギュンター・シャボフスキー(政治局員・社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記)ら党幹部達はホーネッカーの退陣工作に乗り出した。10月17日、政治局会議でシュトフ首相が提議したホーネッカーの書記長解任動議が可決し、ホーネッカーは失脚し、後継者となったのはクレンツであった。
1989年11月9日、この日エゴン・クレンツ率いる社会主義統一党中央委員会総会で翌日から施行予定の出国規制を緩和するための新しい政令案を決定した。その日の夕方、クレンツ政権の広報担当者シャボフスキーは、この規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。シャボフスキーは、中央委員会の討議には出席しておらず、クレンツからも細かい説明もなく、また中央委員会で攻撃に曝されていたことで、クレンツ政権内部が混乱したことがその原因とされる(ベルリンの壁崩壊)。
ただし、その質問をしたイタリアの記者エーマンは、2009年に「会見前、シャポフスキー氏とは別の高官から電話で『出国自由化の時期を必ず質問するように』と言われた」と回想している。これが真実であれば、歴史的なベルリンの壁崩壊は、記者会見における凡ミスの結果ではなく、演出者と協力者の関係をもとに綿密に予定されていたシナリオであったといえる(ただしシャポフスキーはそれを否定している)。
この記者会見を各国メディア及び東ドイツ国営テレビ局などが報道し、同日夜には東ベルリン市民が東西ベルリン間の7か所の国境検問所に殺到した。旅行自由化の政令は実際は査証発給要件を大幅に緩和する法律であり越境にはあくまで査証が必要であったが、殺到した市民への対応に困った国境検問所の国境警備隊の現場指揮官は、政府からの指示もなく、11月9日22時45分に止む無く国境ゲートを開放した。査証の確認なども実行されず、ベルリンの壁はこの時に有名無実となった。
11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁の破壊が始まった。のちに東ドイツによって壁はほぼすべてが撤去された。ただし歴史的な意味のある建造物のため、一部は記念碑として残されている。
ベルリンの壁崩壊により東西両ドイツの国境は事実上なくなり、翌1990年10月3日、東西ドイツは統一した。
ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一、更に冷戦の終結にいたりベルリンの壁は名実ともにその存在意義を失った。その一方で、ベルリンの壁は米ソ冷戦の象徴的遺跡としての保存の声が高まりシュプレー川沿いの約1.3kmの壁(イースト・サイド・ギャラリー(ドイツ語版))は残された。この部分には「ベルリンの壁建設」にインスピレーションを得た24の国の芸術家118人による壁画が描かれた部分であり、その中には「ホーネッカーとブレジネフの熱いキス」を描いた戯画も含まれている。
文化財として保存が決まったものの、経年による劣化と観光客の落書きとその場しのぎの上塗りによる補修で保存は危機的状況に陥った。2000年には寄付によって壁の北側は修復され、2008年に残りの補修には250万ユーロの寄付が必要と試算された。2009年には残る部分の修復に着手している。
その他、ベルリン中央部のニーダーキルヒナー通り(ドイツ語版)沿いの一帯(ゲシュタポ本部や国家保安本部があったあたり)には、再統一後に「テロのトポグラフィー(ドイツ語版)」という博物館が建てられ、この部分に沿って建っていたベルリンの壁も残されている。さらに記念品としてライン川畔のコブレンツに白い壁を2枚移設し、また日本には宮古島市上野のうえのドイツ文化村に2枚移設している。この時に地下を含む構造が明らかになり、地下のL字型の下のコンクリートが東ベルリン側が数倍長いのは、地下から(=塀の下を掘り返して)の逃亡を防ぐためだったと見られている。
ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの統一が実現した後に、ベルリンの壁について、国境警備隊による越境者への狙撃及び射殺に対してどのように扱うかは喫緊の課題であった。壁崩壊の翌年1990年には国境警備兵に対する裁判手続きが進められていった。東ドイツの狙撃兵は東ドイツの国内法では訴追は出来ないため、道義的概念は持ち込めるのか、事後に成立した法に基づく訴追は遡及効禁止と齟齬を及ぼすのか、法が正義に反する場合は実定法に対して正義と道義が優先されるのか、射殺命令を執行した狙撃兵と射殺命令を出した上官との罪の上下は...などドイツ国内で様々な議論がなされた。この後にドイツの裁判所はベルリンの壁の死者と射殺命令に関する審理にほぼ15年を費やした。
ドイツ連邦議会は1992年に「ドイツにおけるドイツ社会主義統一党独裁の歴史と帰結の批判的総括」を行うための調査委員会を設置した。そして2年後に社会主義統一党独裁のほぼ全局面を明らかにする15,000ページ余りの調査報告書を公表し、この中で東ドイツで行われた国家犯罪や人権侵害など負の遺産についての真相究明、責任や罪の承認、浄化や和解、補償と賠償、そして裁判などが述べられていた。これらには独裁の犠牲者を悼み、犯行者を処罰することも含まれていた。
かつてナチス時代の暴力犯罪に対して、法が正義に反する場合に実定法よりも正義と道義性が優先されるのか、といった論争があったが、狙撃兵裁判でもその論争は再燃した。そして越境する者に対して射殺命令をいつ、誰が発したかも焦点となり、1961年夏のベルリンの壁建設の9日後に社会主義統一党政治局が発砲命令を出したと言われるが、それが明確な文書としては残っておらず、当時のブラント西ベルリン市長が東ドイツの国境警備兵に「自分と同じ国の人間を撃つな」と訴えた時に、ウルブリヒト第一書記は「国境を侵す者には、武器を用いてもその行動を慎むように命じなければならない」と語っていた。
その射殺命令およびその実行に関して、東ドイツの最高指導者と政権幹部、国境警備隊幹部、現場の兵士に対して、1990年10月からドイツ再統一後のドイツ連邦共和国の裁判所で裁判が行われ、裁判所は社会主義統一党中央委員会政治局から狙撃兵に至るまで途切れることなく責任の連鎖が存在することは確認した。そしてその際に、社会主義統一党指導部は市民の生命を保護し身体無傷性を守る義務を負っていたとして「民主共和国市民の人格と人権は不可侵である」としたドイツ民主共和国憲法と国際人権協定をその字義どおりに解釈した。
このドイツ民主共和国の不正を理由として始められた捜査手続きの総数は壁の射殺事件以外も含めて約10万件に達すると見られ、この総数に対しての有罪判決はおよそ133分の1の数であった。この内に両独国境での強行犯罪については総計244件の訴追があり、466人が告発されて385人に判決が下され、110人が無罪で、275人の有罪が確定した。刑の量定は連隊司令官、国境警備隊長、政治局員まで地位に順じて重くなった。しかし大半の被告は執行猶予付の判決で、命令権者の20人は執行猶予の付かない自由刑の有罪判決であった。これらの不正行為と見なしたものの捜査と裁判が最終的な処理が終えたのは壁崩壊から16年が過ぎた2005年であった。
壁で越境しようとした市民を射殺したと訴追された警備隊兵士からは、「的を外して撃った」との主張がなされることもあったが、多くは射殺命令を実行したと認定された。しかしその兵士に対して、最終的には、執行猶予付きの有罪判決の場合がほとんどであった。「殺意なき殺人」として処理されている。また1997年のエゴン・クレンツの裁判で、裁判官は「国境警備隊は国境の安全に責任を負っていた。警備兵に下された射殺命令は実際にはイデオロギー上のものであった」と裁定している。
1961年8月24日に壁付近で川を泳いで最初に銃の犠牲者となったギュンター・リトフィンの事件では、彼を撃った兵士は1997年に裁判で禁固18カ月の有罪判決であったが執行猶予がついた。「やや軽度の重大事犯」にあたる故殺と見なされた。
1962年8月17日に壁を越えようとして撃たれ、東側に落下してからしばらく虫の息だが生きていたものの東西両側から救助されず、1時間後にその場で失血死したペーター・フェヒターの事件では、1997年3月に元国境警備兵2人が殺人罪で訴追された。裁判長はどちらが彼を撃ったのか判断できないとして、裁判時には61歳であったロルフ・フリードリッヒに21カ月、エーリッヒ・シュライバーに20カ月、それぞれ執行猶予のついた有罪判決であった。しかし裁判長はフェヒターの失血死について警備兵のどちらにも責任がないとしたが、起こった事実は容認しがたいと明言した。ペーターの父は傷心で精神を病み1968年に亡くなり、母も精神を病み1991年まで生きたが壁崩壊についてはっきり理解することが出来なかった。姉ギーゼラは「弟はドイツからドイツへ行こうとしただけで撃たれた、そして誰も助けようとはしなかった。」と泣いた。後日、ロルフ・フリードリッヒは「本当に申し訳ない。フィヒターに謝罪したい。」と語っていた。
1989年2月6日にベルリンの壁で最後に射殺されたクリス・ギュフロイの事件では、1991年9月に国境警備兵4名が告発され、法廷で命令遵守を訴えたが人道に対する罪で、致命傷を与えた銃弾を放ったインゴ・ハインリッヒは3年半の懲役の判決が下りるものの、1994年に減刑されて2年の保護観察となった。同僚のアンドレアス・キューンパストは懲役2年に執行猶予が付いた。当初東ドイツはこの壁で死者が出た事実を否定する方針であったが世界中から非難されて認めざる得なかった。クリスの母カーリン・ギュフロイはシュタージにいつか息子を殺した罪に問われるだろうと言い放ったが、鼻でせせら笑われるだけだったという。この裁判では結局発砲を命じた側は罪に問われなかった。
なおこのギュフロイの死去に関して東ドイツ政府は新聞に家族からの死亡広告を出すことを許可し(壁の死者で許可されたケースはそれまで無かった)、葬儀が2月23日に行われ約120人が参列した。それまで葬儀どころか遺体を家族に引き渡すことも、あるいは壁で死んだことも連絡しないケースが多く、壁が崩壊してから壁で射殺されたことを家族が知ったことが多かった。また一緒に越境しようとして国境警備隊に逮捕されたクリスティアン・ガウディアンは裁判で懲役3年を言い渡されたが、西ドイツが身代金を支払い、彼の身柄を引き取った。 | [
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"text": "このベルリンの壁はドイツ分断の象徴であり、かつ東西冷戦の象徴でもあった。そして1989年秋の東欧革命にともなう東ドイツ国内の混乱のなか、同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、壁の国境検問所がなし崩し的に無効になり、やがて壁そのものが撤去された。これは「ベルリンの壁崩壊」と呼ばれている。",
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"text": "1945年5月8日、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線がドイツの無条件降伏により終わり、同年7月にベルリン郊外のポツダムでの会談でドイツの非軍事化・非ナチ化・民主化を主眼とする占領改革を進めることで合意された。このポツダム協定でドイツはイギリス・アメリカ合衆国・フランス・ソ連の戦勝4か国により分割占領され、そして首都ベルリンもこの4か国のそれぞれの管理地区に分割されることが決まった。",
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"text": "その28年後の1989年11月9日夕方、東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策としてそれまで認めていなかった自国民の西側への旅行の規制緩和措置を発表するが、このときドイツ社会主義統一党政治局員で党ベルリン地区委員会第一書記のギュンター・シャボフスキーが不用意に「ベルリンの壁を含むすべての国境検問所から出国が認められる」と発言した。しかも外国人記者の質問に答えて発効は「即刻です」と返答したことによって、多くの東ベルリン市民が壁の前に集まり国境検問所が緊迫した事態を生じて、混乱を避けるため夜遅くに検問所が東ベルリンの通過を認め、なし崩し的にベルリンの壁は開放された。この11月9日の夜に突然ベルリンの壁が崩壊したことは世界を驚かせ、その後の東ドイツの崩壊に至った。",
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"text": "6月14日付の電信でハリー・S・トルーマン大統領は、ヨシフ・スターリン書記長に対して英米仏軍のベルリンへの鉄路・陸路・空路の自由な使用を要請したが、6月16日付の返電は「必要に応じて保障する」という曖昧な内容であった。6月29日に西側は",
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"text": "などを要求したが、赤軍最高司令官ゲオルギー・ジューコフ元帥は、1つの鉄道、1つの高速道路、1つの航空路、2つの飛行場の使用を認める、とした回答であった。",
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"text": "ソ連は、西側諸国が西ドイツの建国と再軍備を目指していると見ていた。西ベルリンを封鎖したのはそれらを放棄させようとしたものであり、そして西側に西ベルリンを放棄させ市を統一し、ソ連に政治的にも軍事的にも依存した国家を建設しようと考えていた。東ドイツの心臓部に西側の拠点があることはソ連にとって都合が悪く、西側が西ベルリンを放棄することになれば、西ドイツの人々も西側に追随することに躊躇するだろうという読みもあった。しかし、トルーマン大統領は「ソ連の圧力に屈することがあってはならないが、全面戦争に発展しかねない対決も避けねばならない」と考え、大々的な物資支援によってその意思を見せつけたことで、ソ連は封鎖の目的を果たせなかったばかりか、西欧各国に自主防衛の強化、また集団防衛体制の構築を促し、1949年4月に北大西洋条約が締結され、結局ソ連にとってマイナスの効果しか生まなかった。",
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"text": "しかし、封鎖の間にベルリン市議会は東西に分裂し、分断国家の歩みは既成事実化していった。封鎖が解除された直後の1949年5月23日、イギリス・アメリカ・フランス側占領統治地区にボンを暫定首都としたドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、10月7日にはソ連占領統治地区にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立、ベルリンが東ドイツの首都となった。",
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"text": "東西分裂後の1952年3月10日、のちに「スターリン・ノート」と呼ばれるソ連からの覚書がアンドレイ・グロムイコ外務次官から英米仏3か国の大使に手渡された。その内容は懸案になっていたポーランド西部国境(オーデル・ナイセ線)には触れずに、ドイツを再統一し、英米仏ソの占領軍は撤退、統一ドイツは独自の軍隊の保持を認めるが、その代わりに中立化するとした提案であった。このための平和条約を結ぶために米英仏ソのほかポーランド、チェコスロバキア、ベルギー、オランダ、ほかに対独戦に参加した諸国を参加国とするとして、その条約には7項目の政治的原則、領土、経済的原則、2項目の軍事的原則、そしてドイツと国際連合組織からなっていた。これはスターリンとしてはかなり譲歩したものであった。",
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"text": "翌日3月11日、西側陣営と西ドイツとで協議したが、ソ連の妨害工作として否定的な意見が出た。これは当時西欧で協議していた欧州防衛共同体(EDC)構想で、欧州統一軍に西ドイツの兵士を参加させる案が進められていることに対して、西ドイツの再軍備を阻む目的があったとされている。西ドイツのコンラート・アデナウアー首相も断固反対であったが、国内では与党内でも「検討に値する」との意見が出て、野党ドイツ社会民主党はこの覚書を再統一へ向けて建設的に活かそうとする意向であった。",
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"paragraph_id": 19,
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"text": "スターリン・ノートは英米仏にとって最も真意がつかみにくい文書として、のちに議論が絶えなかった。3月25日にアメリカは覚書の回答を送り、国連委員会の管理下でドイツ全土での自由選挙を提案した。これに対し、4月9日にソ連は4か国の管理下での自由選挙の実施を提案してきた。5月13日に英米仏はこの提案には同意できない旨回答した。その理由は、4か国が裁判官にもなり党派を代表することにもなるため避けなければならないというものであった。5月24日、ソ連は業を煮やしてドイツ問題の協議を進展させたいとしながら、西ドイツの再軍備とEDCへの参加に強い非難をしている。この3日後にEDC条約が調印され、このスターリン・ノートは文書でのやり取りで終わった。アデナウアーはソ連のドイツ中立化の狙いは欧州のソ連圏への組み込みだと判断し、最初からスターリン・ノートをソ連の牽制だとして受け入れる意志はまったくなかった。",
"title": "ベルリンをめぐる東西対立"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "封鎖が収まっても、ベルリンの緊張状態は変わらなかった。とりわけ、最初にソ連・英米仏間で食い違っていたベルリンへの通行に関する問題は未解決のままであった。西ドイツから西ベルリンへ行くには東ドイツ領内の高速道路を通り抜けるか、西ドイツ国内の飛行場から英米仏の航空便を利用するしか選択肢はなく、西ドイツ独自に動くことはできなかった。",
"title": "ベルリンをめぐる東西対立"
},
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ソ連による西側への交通妨害は封鎖解除後も変わらず、1952年5月27日に西ドイツがEDCに加盟すると、西ベルリンへの交通網が再度遮断され、同時に東西ベルリン間および東ドイツとの電話回線も全部絶たれた。同日に西側は声明を発表し、ベルリンに対する攻撃は西側連合国に対する直接の攻撃とみなす旨を警告した。交通遮断はすぐに解除されたが、以降もたびたび遮断と解除を繰り返している。しかし、電話回線の切断はそのまま続行され、20年後の1972年にようやく解除された。",
"title": "ベルリンをめぐる東西対立"
},
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"tag": "p",
"text": "8月2日にはベルリンへの高速道路通行料に多額の道路税を課したが、9月20日に東西間の貿易協定が締結されたことによって解決された。この間には米軍の病院機がソ連機に妨害される事態や、1953年には英軍機がエルベ川上空でソ連機に撃墜される事件が発生している。これらの問題は1961年夏のベルリンの壁の建設時に、米ソ首脳(ケネディ大統領とフルシチョフ首相)間で暗黙の了解で安定化し、1971年9月3日の4か国協定で法的な保障を得ている。",
"title": "ベルリンをめぐる東西対立"
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"tag": "p",
"text": "東西ドイツ国境(ドイツ国内国境線)は1952年に閉鎖されたが、ベルリンにおいて東西間の移動は壁の建設までは自由で、通行可能な道路が数十あったほかに、ベルリン地下鉄(Uバーン)や高速鉄道(ベルリンSバーン)などは両方を通って普通に運行されていた。境界を越えて通勤する市民も多く、1950年代の時点で東から西の職場へ行っている者が約6万3,000人で、逆に西から東の職場に行っている者が約1万人いた。この時代は西のマルクのヤミ値が東の4倍だったため、西で稼いで東に暮らすと生活は楽であった。それ以外の一般的な往来も多く、1日あたり約50万人が東西境界線を通過していたといわれる。このため、周囲を全て東ドイツに囲まれた西ベルリンは「赤い海に浮かぶ自由の島」、「自由世界のショーウィンドー」と呼ばれた。",
"title": "ベルリンをめぐる東西対立"
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"tag": "p",
"text": "西ベルリンと西ドイツとの間の往来は、指定されたアウトバーン、直通列車(東ドイツ領内では国境駅以外停まらない回廊列車)、および空路により可能であった。東ドイツを横切る際の安全は協定で保証されたが、西ベルリンに入れる航空機は英米仏のものに限られた。",
"title": "ベルリンをめぐる東西対立"
},
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"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "東ドイツ・西ベルリン間の道路上の国境検問所は3か所あり、NATOフォネティックコードでA()、B()、C()と呼ばれた。Cは「チェックポイント・チャーリー」の別名で知られ、特に有名な東西冷戦の舞台の一つとなった。",
"title": "ベルリンをめぐる東西対立"
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{
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"tag": "p",
"text": "ドイツの東西分裂以降、時が経つにつれ、東ドイツのドイツ社会主義統一党の一党支配に基づく社会主義体制に不満を持つ人々の西ドイツへの逃亡が相次いだ。1952年に東西ドイツの国境線が閉鎖されて以降は唯一往来が自由であったベルリン市内の境界線を経由して逃亡するようになり、全難民に占める割合は4割以下から6割台に上昇した。",
"title": "ベルリンをめぐる東西対立"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "毎年15万から30万人の東ドイツ国民が西ドイツに大量流出した。特に1953年は、6月17日に東ベルリンで反政府暴動が起こりソ連軍の介入で鎮圧された(ベルリン暴動)影響で、年間亡命者は東西分裂期で最多の33万人にのぼった。1949年から1961年までの13年間に273万9,000人が東ドイツから西ドイツへ流出したとされ、これは東ドイツの人口の約15パーセントにあたる。特に医師や技術者・熟練技術者の頭脳流出は東ドイツ経済に打撃を与え、しかも25歳以下の若者が多かった。これは当時の東ドイツの人口の6人に1人の割合であり、戦後の1945年から1948年までにソ連占領地区から西側3か国占領地区へ逃れた人を含めれば300万人に達したと見られている。",
"title": "ベルリンをめぐる東西対立"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "壁が建設された1961年は、6月のウィーン会談(後述)で米ソ首脳が対立、6月末までの半年間の総数は10万3,159人(うち49.6パーセントが25歳以下の若者)であったが、7月に流出者が跳ね上がって総数は3万415人(25歳以下は51.4パーセント)にのぼった。そして8月に入って最初の1週間だけで1万人に達するなど、人口流出は史上最高のペースに達していた。",
"title": "ベルリンをめぐる東西対立"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "この間の東ドイツから西ドイツへの難民総数の推移の公式の数字は以下の通りである。",
"title": "ベルリンをめぐる東西対立"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1961年の時点で、東ドイツの人口は約1,700万人、西ドイツの人口は約6,000万人であった。",
"title": "ベルリンをめぐる東西対立"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "また、東ドイツ領域も自国領土とする立場をとっていた西ドイツは、東ドイツ国民にも自国籍を認めていたため、西ドイツに移った東ドイツ国民には、自動的に同国の市民権が与えられた。こうした措置も人口の流出を促したとされる。",
"title": "ベルリンをめぐる東西対立"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1958年11月27日、ソ連のフルシチョフ首相が西ベルリンを半年以内に非武装の自由都市にする通告を行った。これは西ベルリンを東西ドイツのどちらにも属さず、どちらからも干渉を受けない地域にすることを述べたうえで、6か月以内に東ドイツとの間に英米仏ソの4か国とで協定を結ぶ、それができない場合は米英仏ソの4か国がベルリン問題に関して持っている契約および権利は失効するとした。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "これは「戦後の4か国協定(ポツダム協定)をことごとく反古にし、ベルリンに関する協定は守っているがそれを悪用し、承認もしていない東ドイツの領空領内を通って西ベルリンとの交通・通信に使用している。しかも西ドイツをNATO(北大西洋条約機構)に加盟させドイツ統一を妨げている。このような異常な憂慮すべき状態を解決するために、西ベルリンをいかなる国の干渉も受けない自由都市にすること、西側軍隊は半年以内に撤退する、その合意がなければ、東ドイツは独立国家として陸路、水路、空路のすべてに関わる一切の権利を行使する、そして以後ベルリンに関する問題について米英仏との接触は一切終結する」ということが提案理由であった。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "フルシチョフが西ベルリンの変則的な状況を打開する決意をしたのは、専門知識や熟練技術を持つ人材がベルリンを経由して流出し続ける限り東ドイツの経済が逼迫し続け、東ドイツがソ連の安定した同盟国にはなり得ないと判断したためであった。そして英米仏がベルリン問題で核戦争のリスクを冒すことはないだろうと読んで、最大限ソ連が妥協したとしてベルリンを国連監視下で非軍事化することを狙っていた。",
"title": "壁の建設に至るまで"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "翌11月29日に西ドイツの有力紙フランクフルター・アルゲマイネ紙は「ソ連、西ベルリンのダンチヒ化を希望」との見出しで報じた。ドイツの歴史家ハンス=ペーター・シュヴァルツは「この1958年の最後通牒から1963年までの期間は、すべての外交に第三次世界大戦の影がさしていた」としている。フルシチョフの通告に対し、ヴィリー・ブラント西ベルリン市長はその日のうちに拒否の声明を出した。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "12月14日にパリで英米仏および西ドイツの各外相が集まり、これに西ベルリン市長も加わって討議し、16日にNATO理事会での協議を経て、ソ連の非難には法的根拠がない(ベルリンに対する取り決めはポツダム宣言以前の1945年2月6日に発効されたものである)として自由都市化を拒絶するものであった。そして12月31日に占領軍としての権利を断念する気はないと回答している。翌1959年2月にフルシチョフは西側軍隊の6か月以内の撤兵期限を延期し、その後9月に米国を訪問しアイゼンハワー大統領と会談して期限を再度保留し、ベルリンの将来的地位とドイツ問題と軍縮について1960年5月にパリで予定されている英米仏ソ4か国首脳会談で協議することで米ソ間で合意した。しかしこのパリ会談は直前に起きたU2型機事件で失敗に終わった。",
"title": "壁の建設に至るまで"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "後にニクソン大統領の時代に、国家安全保障担当特別補佐官そして国務長官を務めて米中外交の立役者となったヘンリー・キッシンジャーは、著書「外交」の中で、西ドイツのアデナウアー首相はフルシチョフとの交渉に一切希望を持っていなかった、と述べている。アデナウアーは自国の将来において、英米とドイツの利益は不可分である、として大西洋同盟に参加し、西側同盟国はドイツ統一を東西外交の課題とすることで自由選挙に基づくドイツ統一でなければならないと考えていた。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "しかしイギリスとアメリカは違っていた。イギリスはドイツ統一に現実性を認めず、かつての敵国の首都ベルリンを巡って戦争の危険を冒すことには躊躇していた。マクミラン首相は戦争を望まなかったし、第二次大戦の敵であったドイツ人のための戦争などは論外であり、ドイツ再統一に反対であることを隠そうとはしなかった。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "アメリカは、この時期に米ソ関係でデタントが進み、フルシチョフが平和共存路線をとる中で、ベルリンのために戦争の危険を冒す意図はなく、アイゼンハワー大統領はヨーロッパで地上戦を戦うことはないであろうと公言していたし、ダレス国務長官は「2つの国家による連邦制度は受け入れ可能である」とほのめかし、それを聞いたアデナウアーは激怒し連邦制は全く受け入れられないと譲らなかった。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1958年11月の最後通牒の時にアイゼンハワーはダレスに、東西ベルリンとそのアクセス権が国連の管理下に置かれるのであれば自分は自由都市の考え方を受け入れることは可能だと電話での会話で述べていた。アイゼンハワー政権の国家安全保障担当補佐官ゴードン・グレイは、アイゼンハワーはベルリンの地位を変えようという意思を持っていたことを、後に述べている。ただしアイゼンハワーの戦略は封じ込めの原則から導かれており、ソ連が西側に挑むことになれば当然どこでもソ連と戦う姿勢であることに変わりはない。あくまで現状維持に重心を置いていた。アイゼンハワーはフルシチョフの言動は脅しであると見通して、戦略兵器全般でソ連が劣勢であることも気づいていた。後任のケネディ大統領もこの現状維持からベルリンでの些細な危険を冒すことを躊躇していた。西ベルリンへのアクセス権やドイツ統一のためにアメリカ兵を失う危険を冒すことが如何に愚かなことであるかを考えていた。この期間、英米と西ドイツ・フランスとの間では対ソ関係でズレが生じていた。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "フランスは1958年に第五共和政がスタートした時であったが、ド・ゴール大統領は一貫して英米の大西洋同盟を嫌い、かつての侵略国であった西ドイツとの間で仏独協調を重視し、かつソ連との交渉は一切妥協してはならないとして非妥協的態度を貫き、戦争の危険性は主に西側の優柔不断さにあると明言していた。しかしこの時期はアルジェリア戦争が終結を迎えたがフランス国内は世論の左右分裂で苦しんでいた時期であり、フランスからみるとベルリン危機は考え得る最も不都合な時期に到来した問題でもあった。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "こうした中で1961年初頭に、それまでに東西ベルリンの交通遮断を求めていた東ドイツのウルブリヒト第一書記は、ソ連のフルシチョフ首相宛てに書簡を送り、英米仏の西ベルリン占領権を終わらせること、西側軍隊の削減そして撤退、西側のラジオ局とスパイ機関の撤去、英米仏そしてソ連が管理する郵便サービスから航空管制までの国家的機能の東ドイツへの移譲を要求した。とりわけ西ドイツから西ベルリンへの全航空アクセスの管理権を強く要求した。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "この全航空アクセスの管理権を東ドイツが持てば、西ベルリンから西ドイツへの飛行便を全て止めることができ、人口流出問題の解決どころか、西ベルリンを締め上げ、自由な西側都市としての力を削ぐことが可能となる。ウルブリヒトはそう考えていた。ウルブリヒトはまた党政治局会議で「難民の流出を基本的に阻止する」計画の策定を目的とした作業部会を設置することも年初に決めていた。この作業部会の中心メンバーがカール・マロン内相、エーリッヒ・ミールケ国家保安相、そしてエーリッヒ・ホーネッカー党書記であった(後にウルブリヒトの後任として第一書記に就任する)。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "この「難民流出阻止」のための策が東西ベルリン間の通行遮断であり、壁を建設することであった。実はこの計画そのものは、9年前の1952年にウルブリヒトは当時のスターリンに同様の解決策を示し、これを進める許可を求めたことがあった。またこの1961年3月のワルシャワ条約機構諸国会議の時にウルブリヒトは東西ベルリンの国境線の封鎖を提案している。この時はソ連が棄権し、他の5ヵ国は異常な手段による威信の喪失を惧れて反対し、否決されていた。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "しかし西側から東ドイツを守るため、東西ベルリンの交通を遮断しベルリンの壁が建設される方向で東ドイツは動き始めた。実質的には、西ベルリンを封鎖する壁というより東ドイツを外界から遮断する壁であり、西ベルリンを東ドイツから隔離して囲む形で構築されたのがベルリンの壁である。そしてそれは国境線の境目に建てられたのではなく、東側に入った所に建てられた。このことは壁そのものに対して西側からは何も出来ないことを意味していた。あとはフルシチョフの決断を待つだけであった。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ドイツの歴史家マンフレート・ヴィルケが著書『壁の道』の中で1961年8月のウルブリヒト・フルシチョフ会談の記録から、壁の建設の決定権はソ連が握っていたことを明らかにした。壁の建設について、当時のウルブリヒト国家評議会議長が東ドイツ国家の崩壊を恐れて、ソ連のフルシチョフに東西ベルリンの交通遮断を求めていた。ヴィルケによると、ウルブリヒトが東西ベルリン遮断をソ連側に求めたが、フルシチョフは1961年6月のウィーンでのジョン・F・ケネディ米大統領との会談まで待つよう返答していた。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1961年6月3日から4日にかけて、ケネディとフルシチョフとの間で米ソ首脳会談が行われた。初日のキューバ問題や東西関係全般についての協議は両者の主張を述べる平行線的状況にとどまっていたが、2日目にベルリン問題が討議されると、激しい意見の応酬になった。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "まず、フルシチョフは、米英仏ソと西ドイツは、東ドイツと平和条約を結んで、第二次世界大戦の戦後処理を終えるべきだと主張し、「ベルリンの地位を変更する平和条約を結ぶことで大統領と合意したいと思う。それが出来なければソ連単独で条約を結び、これまでの戦後の約束を全て反故にするつもりだ。以後は西ベルリンは自由都市となる。そこにはアメリカ軍は留まるがソ連軍も入る。国連軍や中立国軍が駐留することも賛成する用意がある。」と語った。対してケネディは「西欧はアメリカの国家的安全のためには不可欠なものです。西ベルリンを語ることは西欧を語っているのです。なぜアメリカが不可欠な関係を持ち長く存在している場所から去るように求めるのか、理解するのが困難だ。戦争によって勝ち得た権利を放棄することをアメリカは決して同意しない。」と主張した。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "するとフルシチョフは激しく反発して「この行動がアメリカの利益に反するとは全く理解に苦しむ発言です。ベルリンにおける自国の利益を保護しなければならないというアメリカの論理は到底理解できないし、ソ連が受け入れることはありません。世界の如何なる力をもってしても我々が平和条約に向けて前進することは誰も止めることは出来ません。」と語り、ここで平和条約を結んだ後の西ベルリンの状態についてフルシチョフは「ソ連と東ドイツで平和条約が為されれば、ドイツ降伏の際に連合国間で取り決めたベルリン占領権や通行権は失効する、つまり、各国の軍隊はベルリンから撤退せねばならない」と説いた。これに対して、ケネディは「ベルリンを見捨てればアメリカは信用を失う」と主張し、激しい応酬となった。",
"title": "壁の建設に至るまで"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "フルシチョフは「ソ連は平和条約を結びます。ドイツ民主共和国の主権は尊重されます。その主権に対するいかなる侵害もソ連によって公然たる侵略行為と見なし、しかるべき結果を招きます。」と半ば戦争を招くことになると公言してケネディを驚かせた。結局ケネディは引き下がらず、フルシチョフは「ソ連は今年中に単独でも東ドイツと平和条約を締結する。」と告げ、あるいは「条約に至らなくても東ドイツと暫定的協定を結び、そして戦争状態が終結すれば、(東ドイツ領土である)西ベルリンに西側の軍隊が駐留するのは侵略行為になる。」と続けた。さらに「侵略を阻止するためには戦争も辞さない」と捲し立てた。しかしケネディは、フルシチョフの要求を完全に突き返し、どんな危険を冒しても西ベルリンを守りきると告げ、物別れのままウィーン会談は終わった。",
"title": "壁の建設に至るまで"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ケネディとの会談でフルシチョフは、米国が東ドイツを国家承認し、平和条約を結ぶするよう求めたが、ケネディは拒否した。そしてそれならばソ連は単独で東ドイツと平和条約を結び、その結果西ベルリンの占領統治は終わり、東ドイツに返還しなければならないと主張した。",
"title": "壁の建設に至るまで"
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"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "しかしこれは結局ソ連にとって自らの手を縛ることになった。西ベルリンに西側3ヵ国の軍が、東ベルリンにソ連軍が存在する状況で、東ドイツに管理権を譲ったところでそもそも東ベルリンに東ドイツ軍は入っていない状態であり、東ドイツには何もできない。ヴィルケによれば「東ドイツはソ連を通じてしか目的を実現できず、国際交渉において発言力は無かった」と指摘し、「ソ連にとってベルリン問題はあくまでも欧州の力関係をソ連優位にするためのテコだった」とし、ベルリンの壁建設は米軍を撤退させ、西ベルリンの管理権を握るというソ連の外交攻勢からの撤退だったと結論している。",
"title": "壁の建設に至るまで"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "後にフルシチョフが語ったところでは、ウルブリヒト第一書記がベルリンの交通遮断を求めたが、壁の建設にフルシチョフは苦悩していた。 壁の建設は社会主義の世界的評判にとって打撃であることを彼は十分認識していたが、一方で東から西へ大量の人口流出に対策を早急に打たなければ東ドイツ経済が完全に崩壊するのは目に見えていたためである。人口流出を防ぐためには空路の遮断か壁の建設の二つだが、前者は米国との武力衝突を招きかねなかったのである。",
"title": "壁の建設に至るまで"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ウィーン会談の決裂をきっかけとして、フルシチョフは壁の建設とベルリンの交通遮断を認めた。しかし、会談で通告した東ドイツとの平和条約締結は10月に撤回している。東ドイツへの影響力を保持するには現状のままでベルリン問題へのソ連の主導権を確保することが得策であることに気づいたからであった。やがて米ソ両国の主導権を握る地域を明確に分けて、お互いが干渉しない暗黙の了解が成立し、ベルリンの壁を建設し通行を遮断したことで、ベルリン問題はその後に固定化し、逆に状況は安定化に向かうことになる。",
"title": "壁の建設に至るまで"
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "6月15日にウルブリヒトは西側記者との会見に臨んだ。この時点ではまだ壁建設の了解をソ連から取り付けていなかったが、ウィーン会談の結果を聞いてウルブリヒトは壁建設に進めると確信していた。そしてこの日の記者会見で、東ドイツはブランデンブルク門の脇に国境を設けるのかという質問に対して「そうした壁建設の計画があるとは承知していない。我が国の建設労働者は住宅建設に忙しく、誰も壁の建設など考えていない。」と答えた。国境のことを聞かれて思わず壁について答えてしまったのである。しかし記者たちはそのことに気づかず、その後の展開を誰も予測していなかった。",
"title": "壁の建設に至るまで"
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"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "翌月に壁の建設の了解をソ連から得たことで、ウルブリヒトは向後にソ連と平和条約を結び、ソ連の後押しで西ベルリンの「解放」に進めると考えた。",
"title": "壁の建設に至るまで"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ウィーン会談でフルシチョフのベルリン問題についての言及に苦しめられたケネディ大統領は、その後ベルリンに差し迫った状況が訪れようとしていることを予感していた。アチソン外交顧問(トルーマン政権での国務長官)は、最も強硬な対応策を主張し、核戦争も辞さずとして国家非常事態宣言と戦時のような動員をかけるよう文書で大統領に提出した。しかしアーサー・シュレジンジャー特別補佐官は、この年の4月に行ったキューバのカストロ政権の転覆工作が準備段階で政治問題を過小評価して、軍事的及び作戦的な諸問題に注意を集中しすぎた結果失敗したピッグス湾事件の過ちを喚起して、2人のスタッフ(エイブラム・チェイズとヘンリー・キッシンジャー)とともに、別の案を作成した。この間は政権内部で強硬派と柔軟派との議論が沸騰していた。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "シュレジンジャー特別補佐官にとってアチソン案は、この危機を引返せないところまで押しやるリスクを含んでいることを危惧していた。それがピッグス湾事件の教訓であった。7月7日にケネディに自身の案を文書で提出した。アチソンの意見は最後の手段を検討しているが、危機が深まるまで交渉はせず、同盟国との協調もなく、軍事行動は述べてもその政治的目的は述べておらず、核戦争に踏み切る大義名分を練り上げることが不可欠であると書き入れた。それはアチソンの影響力を削ぐためであった。",
"title": "壁の建設に至るまで"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "7月8日にハイアニスポートのヨット「マーリン号」の中で、ケネディ・ラスク・マクナマラとテーラー軍事顧問が話し合った際には、ケネディは国務長官に声を荒らげて国務省の緩慢な対応に激怒していた。ケネディはこの時に国防長官にベルリンで衝突した場合の核を使用しない抗戦方法についての計画案の提出を命じ、核戦争への突入を避けるためにフルシチョフと語り合う時間を与える練り上げられたものでなければならないと述べた。このハイアニスポートのヨットでの会議から7月25日の大統領声明までの17日間の間に、アチソンの強硬な提案が少しずつ削ぎ落されていった。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "この後に7月13日と19日に国家安全保障会議が開かれた。とりわけ19日の会議ではアチソンとマクナマラとの間で意見の応酬が交わされて、結局アチソン案は見送られた。そして25日にケネディはテレビ演説を行った。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "「西ベルリンはコミュニストの海に浮かぶ自由の小島です。西ベルリンは鉄のカーテンの裏側の希望への灯です。(略)我々は西ベルリンの自由な人々を、我々の権利を、彼らの安全を維持しなければなりません。」と決意を表明して、国家非常事態の宣言ではなく、32億4700万ドルの国防費追加要請、陸軍兵力を87万5000人から100万人に増員、海・空軍の実践部隊の増員、そのための徴兵を3倍に増やし予備兵力を招集し、ワルシャワ条約機構諸国に対する経済制裁を課すことを述べて、年内までに対ベルリンへの空輸能力を高め、ヨーロッパへの配備に6個師団を追加することも発表した。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "この演説において、ケネディは「西ベルリン」、「ベルリン」という語句を区別して使用していた。「西ベルリン」という単語を17回使用した。ベルリンの西部に手を付けない限り、ベルリンの東部は構わない、というメッセージに読めるものであった。この演説の前日に演説草稿文を読んだCIA高官ジェームズ・オドネルは、西ベルリンの安全保障ばかり繰り返しているとしてスピーチライターのセオドア・ソレンセンに文句を言っていた。ベルリンは理論上は4ヵ国の管理下にあるのだが、ケネディはソ連に東ベルリンでのフリーハンドを与えると伝えているようなものであった(この微妙なニュアンスについて、当時のマスメディアは全く気が付かなかった)。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "これより前に6月のウィーン会談で、アメリカ側の政府高官は首脳2人の会議録を読んで驚いていた。アイゼンハワー大統領まではヨーロッパが東西に分裂している現実についてのコメントは控えていたが、ケネディ大統領は分割されている現実を積極的に受け入れて、分割を受容可能で永続的なものと認め、しかも「世界に生起し勢力均衡に影響を与える変化は、米ソ両国が威信をかけた条約上の誓約に関わりの無い形で起こることが決定的に重要である。」とフルシチョフに語っていた。これはワルシャワ条約機構加盟国など東側に属する国にはアメリカの干渉はあり得ないことを示唆していることになるのである。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "そして8月初め、ケネディは冷静にフルシチョフの言葉を振り返って、ウオルト・ロストウ補佐官に語っていた。「フルシチョフは東ドイツを失いかけている。東ドイツを失えば東欧全体を失うことになる。だから難民流出を止めるために何か手を打つだろう。たぶん壁を築くことになるだろう。我々はそれを阻止できない。だが西ベルリンを守ることは出来る。しかし東ベルリンを塞がせないために行動することは出来ない。」。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ケネディはフルシチョフがウィーン会談で突き付けた最後通牒を拒否し、西ベルリンについて、西側軍隊の駐留、自由な通行、自由な政治状況の保持の3点を要求したが、これは米国の関心が西ベルリンの現状維持に限られることを示すシグナルに他ならなかった。",
"title": "壁の建設に至るまで"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "1961年7月6日にフルシチョフがウルブリヒトに、「東西ベルリンの境界閉鎖」の決定を伝えた。8月3日にフルシチョフとウルブリヒトはモスクワで細目の詰めを行った。この時にソ連と東ドイツとの平和条約を結ぶ件については、壁の建設が終わってからとして、フルシチョフは「西ベルリンと西ドイツを結ぶ地上ルートも航空ルートも妨害する如何なる行動を取ることを望まない」と述べて、ウルブリヒトは「難民流出に比べれば二次的な問題だ」として同意した。また実行に当たっては全ての作戦が厳密に東ベルリンの内側で行わなければならないとして、「1ミリでもはみ出してはならない」と釘を刺した。そして8月12日(土曜日)から13日(日曜日)にかけての夜間に実行することで決まった。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "5日、ワルシャワ条約機構首脳会談最終日に、フルシチョフが",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "と述べると、これを加盟諸国は異論なく受け入れ、自国の軍隊をソ連軍支援のために移動させることに同意した。しかし東ドイツへの経済的保証については加盟各国は西側とも貿易関係があったため、西側の経済的報復を恐れて同意には至らず、フルシチョフは憤然とした。そして加盟国からなぜ米国の軍事的反応をもっと心配しないのだ、との声があり、フルシチョフは「ケネディはライト級だ」と答えた。実は、この時にフルシチョフは6月3-4日のケネディとのウイーン首脳会談でのケネディの言動やその後の7月25日の演説を検討しながら、感触としてケネディのスタンスは、ソ連や東ドイツがどのような行動を取ろうと、それがソ連圏内に限定される限り、そして西ベルリンへのアクセス権を妨害しない限りアメリカは干渉しないというもの、と考えていた。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ウルブリヒトは東ベルリンに戻り、境界閉鎖そして壁の建設の準備の仕上げに入った。総指揮は党書記エーリッヒ・ホーネッカーであった。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "この時、ベルリンで西へ逃れる難民の数は週1万人に達し、1日で2000人を超す日もあった。8月4日、東ベルリンを管理するソ連軍政官は東ベルリンに住みながら西ベルリンに働きに出て行く人々に対して、氏名を登録して家賃と光熱費を東側通貨のドイツマルクで支払うように命じた。この週末の難民流出者は3268人に上った。その後も流出者総数は8日に1741人、9日に1926人、10日に1709人、11日に1532人に上った。人民警察内部でも越境亡命者が後を絶たず、1959年で55人、1960年で61人、1961年はこの8月までで40人の流出が記録されている。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "8月10日、イワン・コーネフ元帥が東ドイツ駐留ソ連軍の総司令官として派遣された。第二次大戦でのソ連邦英雄であり、ワルシャワ条約機構の初代司令官であり、フルシチョフが見込んでの派遣であった。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "8月11日、東ドイツ人民議会は「ベルリンにおける報復主義的状況に対処するために東ドイツがとろうとする如何なる手段をも承認する」とした決議を採択する。この時点では議員もその具体的内容は伝えられておらず、壁の建設を知っていたのは軍のトップと社会主義統一党(SED)のウルブリヒト第一書記周辺だけで、政治局委員や国家保安局(シュタージ)幹部でも知らされていなかった。それほどに機密保持が厳重であったがために、西側各国及び情報機関も感知できず、アメリカCIAが東側に配置した諜報員からの情報でも壁の建設は全く入っていなかった。この間は西側情報機関は、東側が現状への打開策を打ち出すことは十分予想はしていたが、その内容は予測出来なかった。まして壁の建設は想像してもまず不可能という判断で思いも寄らなかった。西ドイツ連邦情報局には少なくとも複数の情報から、ソ連がウルブリヒトの裁量に任せて何かの行動に出ること、そして地区境界線を封鎖されそうであること、柵を築くのに適した軽量な資材が蓄えられていること、作業の開始が分からないこと等の情報は入っていた。その情報は少数の党幹部だけが知っていた。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "東ベルリンに支局を置いた唯一の西側通信社であるロイター通信のアダム・ケレット=ロング記者は、たまたまこの人民議会の謎めいた決議について、党の宣伝担当責任者であったホルスト・ジンダーマン(後の東ドイツ首相)に聞くと、「この週末にベルリンを離れることを、私はしない」という答えが返ってきた。彼はそれから市内を取材して駅での警官の多さを見てから、事務所に戻り、「東ドイツは西ベルリンへの難民流出に関して、この週末に行動に出るだろう」という記事を世界中の新聞社に配信した。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1961年8月12日は土曜日でいつもの休日であった。西ベルリン市長ヴィリー・ブラントは、社会民主党(SPD)の党首でもあり、9月に総選挙が行われるので、その選挙遊説でバイエルン州ニュルンベルクに出かけ、アデナウアー首相は同じようにリューベックに遊説に出ていた。マリーエンフェルデ難民収容所は、この日も多くの難民が押し寄せ、その数は最終的に2662人になった。そして夜になってブラントは遊説先のニュルンベルクから夜行列車でキールに向かった。オリンピックスタジアムに近い将校専用クラブでは、この夜にダンスパーティーが開かれ、西側外交団や軍関係者が参加していた。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "午後4時に政治局会議が開かれ、ウルブリヒトから説明があったが討議はなく、したがって異議は無かった。会議後ウルブリヒトは指令書に署名し、ホーネッカーに執行を命じた。それからウルブリヒトは目立たないように、ベルリン郊外の迎賓館に行き、政府高官を集めた園遊会を夕方開いた。そして夜10時に参集した高官を一同に集めて、ウルブリヒトは「東西ベルリン間は今から3時間以内に閉鎖される。保安部隊にこの行動を私は命じた。まだ開いたままの境界を今後適切な管理のもとに置くための行動である」、「ついては、この命令書に閣僚諸君は署名してもらいたい」と語った。閣僚たちはこの時初めて壁の建設計画を知った。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "数十台のトラックが数百のコンクリート柱を東ベルリンパンコウ地区の警察営舎の備蓄場に集めていた。東ベルリン郊外のホーエンシェーンハウゼンの国家保安省の広大な敷地に、東ドイツ中から数百人の警察官が集まっていた。彼らは事前に角材4本を組み合わせた木製の障害物を作った。これに釘や留め金を打ち込み、有刺鉄線を張るためである。東側は、三重の包囲線を敷いていた。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "13日午前1時、東ドイツ警察隊本部は、二つの指令を発した。1時5分にブランデンブルク門に国境警備隊が現れた。1時11分にロイター通信のアダム・ケレット=ロングのオフィスにワルシャワ条約機構加盟諸国の「西ベルリン全領域の周囲に確実な保護手段と効果的管理を構築する」旨の声明が届き、彼は急ぎ車を走らせてブランデンブルク門に向かったが、途中で警官に止められ、境界は閉鎖された旨を伝えられた。すぐにそこを離れて支局に戻り、「東西の境界線は本日、日付が改まると同時に閉ざされた」と世界中に配信した。この時に東ドイツ政府は東西ベルリン間の68の道すべてを遮断し、有刺鉄線で最初の「壁」の建設を開始し始めていた。午前1時30分、東ドイツ当局は全ての公的輸送を停止した。東西ベルリンを結ぶフリードリッヒ通り駅では、西ベルリンから来た全列車の乗客の降車を許さず、各駅で列車の線路を破壊して有刺鉄線を張り拡げていった。その時西側3ヵ国の兵士はまだ寝入ったままであった。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "イギリス特使団政治顧問バーナード・レドウィッジは、将校専用クラブのパーティーから遅くに帰宅して寝る準備に入った時に、英軍憲兵隊から電話で列車の深夜運行の中止、通信の遮断、検問所での道路封鎖の報告を受けた。急ぎスタジアム近くのオフィスに出向き、ロンドンに電話し、至急電を送った。これが最初の正式な通知であった。レドヴィッジはこの作戦にそれほど驚いておらず、「絶対に何かあるとは感じていたが、誰も推測出来なかった。情報源からは報告は無かった」と後年のインタビューで答えている。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "西ベルリン駐在アメリカ公使アラン・ライトナーは、午前2時に境界閉鎖の第一報を受ける。部下のスマイサーとトリンカが指示を受けて偵察に出向き、車でポツダム広場から東ベルリンに入ることが許可されて、約1時間東側を回り、ブランデンブルク門から西ベルリンに戻った。スマイサーの目撃情報からライトナーはソ連軍がこの作戦に直接役割を果たしていないことで、アメリカにとって軍事的脅威でないと考える一方で、東ドイツの軍隊を東ベルリンに入れることを禁止している4ヵ国協定に違反していることも念頭に置いた。午前11時にラスク国務長官に最初の詳細な報告を打電した。「東ベルリン住民が西ベルリンへ入ることは妨げられた」、「東の経済的損失と、社会主義陣営の威信を失う難民流出に対処する措置である」と述べて、夜に次の電報を打電した時にはソ連軍の動きにも言及し、直接の介入は無いが、かなりの規模で動員したことは東ドイツ軍の信頼度について疑念を持っていることも付記し、また西側の軍関係者及び文民公務員は東へ自由に出入りしていることも付け加えた。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "ほぼ午前2時すぎから、各地区に配置した労働者階級戦闘団から準備完了の連絡が相次ぎ、午前3時に警察本部は内務省への第1回目の報告を行い、その後1時間ごとに報告を続けた。3時25分にUPI通信が速報を配信した。午前4時、ブラントの乗った列車はキールに向かっていたが、途中のハノーファーに到着後に連絡が入り、急ぎ同地で下車しタクシーに乗り空港に向かった。午前4時30分にアデナウアー首相は首都ボン近くの自宅で就寝中に起こされ、状況を知らされた。ブラントが急ぎ西ベルリンに向かったのに対し、アデナウアーは西ベルリンにすぐに行くことはなかった。フランスのド・ゴール大統領は、パリ南のコロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーゼの別荘でいつものように週末の休暇で、やはり就寝中にクーヴ・ド・ミュルヴィル外相から電話で事態を知らされた。ド・ゴールはその時に「これで、ベルリン問題に片が付く」と語ったといわれる。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "この頃、アメリカのスマイサーとトリンカは偵察を続け、フリードリッヒ通り駅に到着した。まだ深夜であったが、数十人の乗客(女性・子供・老人ら)がプラットホームに上がろうとして警官に押し戻されて、トリンカは後に「これが最後のチャンスと思ったのだろう。全ておしまいだと悟り、涙を流していた。」と語っている。駅構内には、12日付の党中央委員会からの命令書が以下のように張り出されていた。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ベルリンの東西を運行する都市鉄道の以下の路線は運行を停止する。 (中略、該当路線リスト) 都市鉄道は今後も当駅と西ベルリン間を連絡するが列車はプラットホームBの発着とする。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "この命令書には、その他に地下鉄の閉鎖駅が列挙され、西側からの路線の通る東側の地下鉄駅は列車が停止しないことも明らかにしていた。そしてここには記されていなかったが、これ以降西へ乗車できるのは警察からの正式な証書を持つ人だけとなり、プラットホームAとBはやがて閉鎖された。この駅から西へ向かって運行が再開されたのは、1989年になってからである。この日に都市鉄道の8路線、地下鉄の4路線が交通不能となり、都市鉄道の48駅の全てで地区間交通が廃止され、東ベルリンの33駅のうち13駅が営業停止となった。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "東ベルリンは大騒ぎとなり、人が動きトラックが動き回り、空気ドリルが道路を掘削していた。警察本部では電話が鳴り響き、各地区警察には命令が飛び交った。午前5時30分には、ポツダムに駐屯する工兵小隊が建設作業に駆り出された。実際国境線近くの作業に駆り出された国境警備隊、予備警察隊、警察学校生徒、そして労働者階級戦闘団などは、内容は事前に一切知らされず、深夜になってから命令が出されて、動員されているのがほとんどであった。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "エーリッヒ・ホーネッカーはずっと境界沿いを車で走り、細かい指示を出しながら作戦の進行状況を確認していた。午前4時頃にはほぼ作戦の重要な部分が達成されていることに満足して執務室に戻った。午前6時頃には全指揮官から任務は指示された通り実行されたとの報告を受けた。朝の6時までに東西ベルリン間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は午後1時までにほぼ建設が完了した。ホーネッカーはウルブリヒトに最終報告を済ませて帰宅した。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "この夜のうちに、まだ境界線が強化されていない地域から、数百人の東ベルリン市民が西へ脱出した。湖沼や運河を渡った者、西ベルリン市民の知人の車のトランクや座席の下に隠れた者、自分のナンバープレートを西の友人のプレートに付け替えて越境した者など様々であったが、難民脱出のハッチはこの夜に閉ざされた。1961年8月13日にマリーエンフェルデ難民収容所に来た者は150名だった。しかし実際の越境者の数は不明である。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "これで東西ベルリン間の48キロを含む、西ベルリンを囲む環状155キロに渡る有刺鉄線が僅か一夜で完成した。2日後には石造りの壁の建設が開始された。その境界線は東西に193本の主要道路及び脇道を横切っており、それまで81カ所の検問所があって通行可能であったが、その内69カ所がこの日に有刺鉄線によって封鎖され、12カ所に限定された。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "東ドイツは建設当時、この壁を「近代的な西部国境」と呼び、「平和の包囲線」とも呼ばれていた。そして翌年8月、壁建設1周年記念行事を準備していた時に、この壁の正式名称の検討を始め、党政治局に設置された情宣委員会と中央委員会書記アルベルト・ノイデンが名称を「防疫線(コルドン・サニテル)」とする案がいったんは通ったが、再度検討することとなり、西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであるとして、「対ファシズム防壁(Antifaschistischer Schutzwall)」と呼ぶことに決定した。これは名目で、実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "午前5時にハノーファーで夜行列車から急遽降りて、空港から飛行機で西ベルリンに戻ったブラントは、すぐに壁の建設現場に駆けつけた。「それまで何度かの危機でも頭はさめていたのだが、今度ばかりは冷静、沈着でいられなかった。」「何千、何万という家族が引き裂かれ、ばらばらにされていくのを見て、怒り、絶望する以外にはなかった。」と後に自伝で述べている。そしてブラントの目に映ったもう一つの冷たい現実があった。アメリカの冷静な態度であった。西ベルリン駐留のアメリカ軍は国防総省にも国務省にもホワイトハウスにも報告はしていた。しかし伝えられてきたのは「収拾がつかないような反応が起こらないようにせよ。」であった。休暇先からボンに戻ったモスクワ駐在西独大使のクロルは「西側諸国の受け身の態度に西ドイツの失望は大きかった。ベルリン市民は見捨てられたと感じていた。」と語っている。8月13日に、西ドイツも西ベルリンも連合国側の冷静さに驚かされていた。8月16日付けの西ドイツの大衆紙「ビルト」は一面トップで「西側、何もせず」という見出しを出した。西側は口頭での抗議しかなかった。後に有名になったこのビルト紙の見出しは「東側は行動を起こす・・西側は何をするか・・西側は何もせず・・ケネディは沈黙する・・マクミランは狩りに行く・・アデナウアーはブラントを罵る」であった。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "壁を作った東側への怒り、何の手も打たない西側諸国とりわけアメリカへの失望、さらに西ドイツ政府への幻滅、アデナウアーはベルリンに来ず、15日の選挙演説でブラントの過去を取り上げて個人攻撃をする始末であった。アデナウアー首相は西ドイツ首相として首都ボンに留まり、すぐにベルリンに赴くことはせず、過度に慎重な姿勢に終始した。それどころか、ボンに駐在するソ連大使スミルノフに会い、「西ドイツは状況を危険に曝すような如何なる手段も取らない」と述べ、またタカ派で有名であったシュトラウス国防相でさえ、国民に冷静さを呼び掛けていた。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "8月16日に市庁舎前の広場で25万人の市民が集まって抗議集会が開かれ、ブラントは抗議の演説をした。しかしまかり間違えば、市民の怒りは連合国側へ向けられることも十分に予測される事態に苦渋に満ちたものであった。ここで「ソ連の愛玩犬ウルブリヒトはわずかな自由裁量権を得て、不正義の体制を強化した。我々は東側の同胞の重荷を背負うことは出来ません。しかしこの絶望的な時間において彼らと共に立ち上がる決意のあることを示すことでのみ、彼らを援助出来る。」としてアメリカに対して「ベルリンは言葉以上のものを期待します。政治的行動に期待しています。」と述べた。ブラントはケネディに書簡を送ったことも明らかにした。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
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{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "ソ連は東ドイツ軍の後方の第三陣として布陣して、大量の軍事的動員を行うことで、アメリカ軍などの西側への強いメッセージを送った。アメリカ軍が介入してきた場合の代価がどれほどのものになるか、明確に伝えたのであった。東ドイツ駐留ソ連軍総司令官のイワン・コーネフ元帥は、若干の危惧を持っていた。東ドイツ軍及び警察部隊の忠誠がどこまで信用できるのか、西側諸国の軍隊が前進してきたら彼らはどう反応するのか不安を感じざるを得なかった。しかし西側の軍隊は動かなかった。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
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{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "そしてモスクワではフルシチョフが有頂天になっていた。米英仏を出し抜いたことで、最初は安堵しそれから歓喜の情に浸り込んでいった。東ドイツとの平和条約の締結によって得られると思っていたそれ以上のものを得たと感じていた。そしてフルシチョフはさらに突き進んだ。しばらく米ソ間で行っていなかった核実験の再開をアメリカよりも早く行った。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "アメリカなど西側諸国はベルリンをめぐる一連の出来事に対して最初から慎重な態度であった。それはこの動きが全て東側の領土内でのことで、ケネディが7月25日の声明で示した3つの条件の侵害はなく、全て向こう側のことであったことがその理由だった。それはまた西側も望んでいたことでもあった。不思議なことに実はアデナウアーも同様だった。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
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{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "8月13日(日曜日)午前10時(ベルリン時間午後4時)にラスク国務長官とコーラー国務副長官が国務省に着いた。ラスクは「東ドイツとソ連が自国内でしたことだから戦争と平和の問題には直結しない。」と考え、「壁は彼らの防衛手段だ。また西ベルリンの位置とそこを包囲する軍事力の差を考えると自滅に追い込まれると予想され、道理に合わない。」と後に述べている。そして現地がソ連に対して抗議声明を出すことを禁じていた。1945年7月7日に米英仏ソの4ヵ国で、ベルリンではお互いの部隊が制限を受けることなく行動できることを同意していた。ベルリン封鎖の後に1949年6月20日にも4ヵ国協定によって再度確認していた。従ってケネディは、この協定に基づいて東ドイツ部隊によって作られた壁を解体せよとアメリカ軍に命令する権利を持っていた。そもそもベルリンで東ドイツ軍が行動する権利はないのであった。しかし西側は動かなかった。この日にハイアニスポートで休暇中だったケネディとラスクが電話で打合せして抗議声明の内容を決めたが、この4ヵ国協定を引き合いに出しているものの予想の範囲内でしかなかった。ラスクはその日の午後に大リーグの試合セネタース対ヤンキースを見に野球場に行った。アーサー・シュレンジャー補佐官はその後の著書の中で「東ドイツの出血を止めることで、壁はベルリンに対するソ連の最大の関心を鎮めた。」と述べている。これはソ連勢力圏内の一現象に過ぎない、下手に介入するとか、脅迫じみた言動をすることは、危険すぎると考えていた。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "8月14日にハイアニスポートからワシントンに戻ったケネディは午前にモスクワから戻ったトンプソン大使と会い、午後にラスク国務長官と会談した。ベルリン駐在のライトナー公使から何度もメッセージが届き、西ベルリン市民の士気が急激に低下している旨の内容であった。西ベルリンに居住する西側3ヵ国の軍関係者及び家族などの軍属並びに外交官などは従来通り東ベルリンへの通行は妨げられず、3カ所のチェックポイントを通って東ベルリンと往来は出来た。また西ドイツから西ベルリンへの陸路、そして空路もそのままで、西ベルリンに関する西側の権利を侵害することは無かった。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "そして16日にブラントからの書簡を受け取ったケネディであったが、アデナウアー首相を飛び越えて一つの都市の市長からアメリカ大統領に書簡を送ったこと自体にケネディは怒っていた。しかし西ベルリンではアメリカが裏切ろうとしているという疑念が広まっているという報告を受けて、自分は一貫してクレムリンに立ち向かっていることをベルリン市民にも、ソ連人にも、そして国内のアメリカ人にも示すことが重要である認識に至り、何らかの行動に出ることを決意した。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "イギリスのマクミラン首相は趣味の狩猟に出かけてスコットランドに滞在し第一報が入ってもそこに留まった。マクミランには状況は改善したと見えていた。これでドイツの分断は固定化し、ベルリン問題は安定化し、ベルリン危機は緩和された。つまりすべて目的は達せられたと考えていた。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "8月18日、ケネディはジョンソン副大統領とクレイ将軍をボンに派遣し、副大統領と将軍はそこから翌19日に西ベルリンに飛び、西ベルリン市民は二人を熱狂的に迎えた。ジョンソンは市庁舎前の広場で「今日、新しい危機において、あなた方の勇気は自由を愛する全ての人々に希望をもたらします。」「この都市の存続と未来を、我々アメリカは我々の先祖が独立宣言で誓ったもの、それと同じく我々の生命、財産、神聖な名誉に懸けて誓うものです。」と述べた。この言葉は13日の国境封鎖以来、意気消沈していたベルリン市民を勇気づけ、涙する者もいた。そして西ドイツから陸路アウトバーンで東ドイツを通過してアメリカ陸軍の精鋭部隊が西ベルリンに向かっていることもこの時にベルリン市民に伝えた。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "8月20日にアメリカ陸軍第8歩兵師団(英語版)第1戦隊約1600人が西ベルリン駐留部隊を増強するため、ベルリン市民の歓呼の中で西ベルリンに到着した。この精鋭部隊を東ドイツを通って西ベルリンに派遣すること自体がソ連との武力抗争を引き起こしかねない危険を伴うものと危惧する幹部もいたが、ケネディは西ベルリンを徹底的に防衛する決意を示すために実行した。そしてこの結果は西ベルリンへのアクセス権の確保が確かなものであることも裏付けられたが、西ベルリン市民にとってはアメリカが旗幟を鮮明にしたことだけで十分であった。",
"title": "ベルリンの壁の建設"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "壁の建設は一気に行われたわけではなく、数度にわたって造り替えられた。特に初期の壁、ブロックを積み上げた文字通りの「壁」はベルリン中心部の一部にすぎず、郊外の田園地帯・牧草地帯・森林地帯・湖沼では、巻いた有刺鉄線の仕切りが二列に並べられただけのものであった。この二列は間隔が70m開いた部分もあれば、地形や住居の接近如何によってかなり狭まった部分もあった。",
"title": "壁の構造"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "時代が下るにつれて壁はより頑丈になり、1976年に行われた改造(4度目の改造のため、「第四世代」と呼ばれた)によって壁の建設はほぼ完成した。最終段階の壁では高密度の鉄筋コンクリート製のものが二重に建てられており、その2枚の壁の間は数十メートルの無人地帯となっており、東側から順番に、金網の柵(アラームつき)、道路(国境警備隊パトロールのため)、柵と道路の間に一定間隔の監視塔(東西ベルリン間48キロの区間だけで302カ所)、柔らかい土のベルト地帯(常に均されていて警備隊でも入れず、何者かが通ると痕跡が残る。夜は無数の照明に照らされている)、段差や対車輌障害物(車での突破を防ぐため)が仕掛けられていた。東ドイツ当局が監視の目を光らせており、壁を越えようとするものがいればすぐに分かるようになっていた。",
"title": "壁の構造"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "壁の高さは3.6m、高いところで4.2mで、最上部が半円形にされており、乗り越えようとしても絶対に掴まる所が無く引っ掛ける所も無い状態であった。一番東側の壁から西側の壁までの距離は60mを超え、警備隊員と番犬以外は全く無人地帯で隠れることが出来ない恐ろしいほど殺伐とした光景の一帯であった。また、1970年には仕掛けケーブルに触れると散弾を発射する対人地雷SM70(英語版)(自動発砲装置(ドイツ語版)と呼ばれ、クレイモア地雷と原理において同じ)も設けられたものの、被害者に大きな苦痛を与えると非難されたため1984年に撤去された。",
"title": "壁の構造"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "最終的に壁の総延長は155km、無人地帯の総面積は49,000mから55,000mに及び、ほぼ1つの町の総面積に等しいものであった。壁は東側からは幅100mの無人地帯のため立ち入ることができなかったが、西側からは接近することができたため、壁の西側では壁の建設を非難し撤去を求める政治的な落書きが出現するようになった。やがてさまざまなメッセージや色鮮やかなストリートアートが壁の西側を彩った。",
"title": "壁の構造"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "1961年10月17日、ソ連共産党第22回大会でフルシチョフ首相は年末までに東ドイツとの平和条約を結ぶとの主張を取り下げた。事前に相談を受けなかったウルブリヒト東独第一書記はこのソ連の方針変換に不満であり、抗議の意思をこめて東ベルリンでの境界線での入国審査の厳格化という実力行使に訴えた。西側の文民公務員に対し身分証明書の提示を求めるようになったが、この対応は4ヵ国協定に違反しており、ソ連からもマリノフスキー国防相名で、東ドイツはソ連の許可なしに境界線において何も変更してはならない、と通達を出していた。",
"title": "チェックポイント・チャーリーの対決"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "10月22日、アラン・ライトナー米国公使夫妻がチェックポイント・チャーリーを通過しようとしたときに身分証明書の提示を要求された。ライトナー公使はこれを拒否し、警備隊と押し問答の末に強引に検問所を突破して往来の自由を主張するなどした。その後、クレイ将軍は本国のラスク国務長官の許可の下、チェックポイント・チャーリーでの外交官の示威行動を行い、米軍兵士の護衛付きで外交官が検問所を突破するなどした。警備隊は当初は特段強行に阻止するなどはしていなかったが、10月27日、示威行動を行った米国側が引き返そうとしたところ、突如としてソ連軍が戦車を検問所前まで進めた。米軍も待機していた戦車を出動させ、両軍は検問所を挟んでにらみ合った。",
"title": "チェックポイント・チャーリーの対決"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "クレイ大将は実力行使も辞さずの構えだったが、ケネディは西側諸国間でのベルリン問題の意見の相違の調整で苦しんでいた時期であり、一検問所でのトラブルを大きくする余裕はなかった。一方フルシチョフは、壁の建設の時点でのケネディのシグナルから米国がこれ以上の行動に出ることは無いと確信しており、報告を聞いても「戦争なんて起こる訳はない」と考えていた。ケネディとフルシチョフは極秘で連絡をとり、一触即発の状態は20時間ほどで解消された。米軍側を主導したクレイ大将はその後本国に呼び戻された。またフルシチョフも米・東独間の平和条約締結案を正式に取り下げたうえで、ウルブリヒトに対しては「特にベルリンにおいて、状況を悪化させるような行動は避けよ」と改めてくぎを刺した。",
"title": "チェックポイント・チャーリーの対決"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "この事態は「(ベルリン危機(英語版))」と呼ばれ、後に「米ソの最初で最後の直接武力対決の舞台」と言われた。",
"title": "チェックポイント・チャーリーの対決"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "この事件以降、壁の存在は両陣営の武力衝突を回避し、冷戦の状態を維持する役割を果たすことになった。実際にケネディも「(壁は)非常によい解決法というわけではない、が、戦争になるよりはずっとましだ」と、壁の存在について容認する発言をしていた。",
"title": "チェックポイント・チャーリーの対決"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "ベルリン駐在の米国外交官リチャード・スマイサーは後に「壁は東ドイツを強化ないし救済するためのもので、チェックポイント・チャーリーでの事件はある意味でゲームだった。クレイは戦車隊が到着してすぐにそれを察知し、様子を見ることにしょう、と言った。実際戦車が対峙していても緊迫した空気は無かったし、双方とも発砲する気は無かった。この事件で第三次世界大戦を始めようとは思っていなかったし、ロシアもそのつもりは無かった。」と語っている。",
"title": "チェックポイント・チャーリーの対決"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "ヘンリー・キッシンジャーはその著書「外交」の中で、このベルリン問題について、「フルシチョフが東ドイツとの平和条約を断念し、ベルリンの壁の成功が個別の平和条約を不要にしたと宣言したことで、ベルリン危機は終わった。」と述べた。そして「危機を通じて序盤に鮮やかな動きを見せた後に、相手が進退窮まって投了するのを待つチェスの棋士のように振る舞った。しかし外交記録を読むと、交渉で数多の選択肢が示されて論じられ暗示されているのにそれを少しも利用しなかったことは理解しがたいことだ。」「結局フルシチョフは自分が何度も最終期限を設定しながら何もせず、西側同盟国を交渉に巻き込ませた数々の選択肢についても何もしなかった。3年間の最後通牒と血も凍る脅迫(1958年の自由都市宣言と1961年ウイーン会談におけるケネディへの最後通牒)の後でフルシチョフの成功はベルリンの壁を作ったことだが、これは結局、ソ連のベルリン政策の失敗を象徴するものとなった。」「フルシチョフは自ら作り出した絡み合った罠に自らはまり込んでしまった。」としてベルリン危機は翌年秋に起こったキューバ危機とともに冷戦の転換点となったと述べている。この壁建設は結局1958年の最後通牒から大きく後退し、西側に対決するものでなく、東ドイツ人の利益に対立するものであった。そしてこの時は西側は知らなかったが、東側陣営での中ソ対立で中国との関係が悪化していたことが一定程度西側への態度を軟化させていた、とも見られている。",
"title": "チェックポイント・チャーリーの対決"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "この1年後の1962年10月に、キューバにソ連が密かに核ミサイル基地を建設しようとしていたことを発見した米国はキューバを海上封鎖してソ連にミサイル基地撤去を迫り、核戦争の一歩手前まで行ったがうまく回避しソ連のミサイル基地撤去を勝ち取った。",
"title": "チェックポイント・チャーリーの対決"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "1963年6月26日にケネディ大統領は西ベルリンを訪問した。ベルリンの壁建設時は苦境に立たされたケネディであったが、翌年10月のキューバ危機では、トルコからのミサイル引き揚げと取り引きする形でキューバへの核兵器配備を阻止し、6月10日にアメリカン大学での「平和のための戦略」演説でソ連との直接交渉を始めたばかりであった。この時期には西ベルリン市民のケネディへの人気は高まっていた。",
"title": "ケネディ大統領の訪問"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "この日、アデナウアー首相とブラント市長とともに100万人の市民の歓呼に答え、ベルリンの壁近くの市庁舎前広場で30万人のベルリン市民を前に演説した。ベルリンの壁が築かれてまだ西ドイツも西ベルリンも複雑な状況ではあったが、この頃になると次第に状況は安定に向かっていた。演説においてケネディは、ここで有名なフレーズを述べた。",
"title": "ケネディ大統領の訪問"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "そして共産主義を激しく批判して、最後にまたドイツ語で締めくくった。",
"title": "ケネディ大統領の訪問"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "この言葉はアメリカの西ベルリンに対する決意の強さを表すものとしてソ連に対する強いメッセージとなった。それは西ベルリンを守ったという自負と、貧しい東から豊かな西へ逃亡しないようにしたのがこの壁であることの勝利の表明であった。壁建設の時点では見せなかった憤激を露わに共産主義を非難し、そしてこの時にケネディは大統領就任後に初めて、「これはドイツ人が戦後18年の行動を通じて勝ち得た権利であり、私はベルリンが、ドイツ国民が、そしてヨーロッパ大陸がいつの日か統一されるであろうことを確信するものである。」と、ドイツ再統一の権利について述べた。ケネディはこの演説でドイツとベルリンに関する米国の政策を新しい決意のもとに変えて、ベルリンを守るべき場所とし、以後米国はベルリンで引き下がることは無かった。",
"title": "ケネディ大統領の訪問"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "この演説は多くのベルリン市民やドイツ国民の心に残ることとなった。この広場で行った演説は彼の政治活動のなかで最も成功したものだった。",
"title": "ケネディ大統領の訪問"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "ケネディ暗殺後、この広場はジョン・F・ケネディ広場と改名された。",
"title": "ケネディ大統領の訪問"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "西ドイツのブラント首相の東方外交で、西ドイツとソ連、西ドイツとポーランド、そして東西ドイツの間で関係改善が進むと、ベルリン問題についても恒久的であれ暫定的であれ平和的に処理しようとする動きが1970年に入ってから活発になった。そして1971年9月3日に米英仏ソの4ヵ国協定が締結され、更に東西ドイツ間で細部の取り決めを合意し、翌1972年6月3日に発効した。この協定には東西ベルリンの地位は曖昧で、東ベルリンは「隣接する地域」と表現されてベルリン全体の問題には触れていないが、ソ連は東ベルリンに大使館を置きながら西ベルリンにも領事館を置き、暗黙のうちに西ベルリンが自己の勢力範囲であることを断念し、また西側3ヵ国軍の西ベルリンへの駐留、西ベルリンへの通行を認めた。一方西側は西ドイツと西ベルリンとが政治的には別の存在であることを認め、かつ東ベルリンを東ドイツの首都であることも認めた。これで戦後の東西ベルリンの間で未解決であった西ベルリンでの西側各国の駐留権、西ベルリンへの通行権が保障された。",
"title": "その後"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "さらに1972年に東西ドイツ基本条約が結ばれて、相互に対等な主権と領土を認め、翌1973年に東西ドイツは同時に国連加盟を果たした。",
"title": "その後"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "東西ドイツの間で1961年から1988年までに総計23万5000人が「共和国逃亡」によって西ドイツに逃れた。そのうち4万人が国境の見張りをすり抜けて越境した者で、更にその中の約5000人余りがベルリンの壁を乗り越えた者であるが、その大部分はまだ壁の国境管理が甘かった1964年までの数字である。東ドイツ側の国境超えの「逃亡未遂」に関する刑事訴訟の手続きは1958年から1960年までで約2万1300件、1961年から1965年までで約4万5400件であった。そして1979年から1988年までの「逃亡未遂」の有罪判決は約1万8000件であった。これはベルリン以外の東西ドイツ国境での逃亡未遂も含めての数であり、ベルリンの壁を超えようとした未遂及びその準備をした者はおよそ6万人以上とみられ、有罪判決受けて、平均4年の禁固刑であった。そして逃亡幇助の計画準備の場合は実行者より重く終身懲役刑を科されることもあった。",
"title": "その後"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "東から西への亡命は、壁建設が始まっていない地点からいち早く抜け出した例、検問所の設備が整う前に強行突破した例、国境警備隊の監視網をかいくぐって奇跡的に亡命を果たした例、果たせず逮捕された例、射殺された例など、様々なエピソードを産んだ。特に壁の設備がある程度完成した1964年までの間に、脱走の試みは集中した。",
"title": "その後"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "エドガー・ヴォルフルムは著書『ベルリンの壁』で「今日までベルリンの壁における犠牲者の正確な人数については確実な情報がない。」と述べている。しかし「ベルリンの壁の傍で亡くなった者は122人から200人」として「壁倒壊までに東ドイツから逃れようとして(ベルリン以外を含めて)死んだ人は1200人以上に上る」と推測している。",
"title": "その後"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "クリストファー・ヒルトンは著書「ベルリンの壁の物語」で、氏名が明確な死亡者について、その越境の行動と死亡に至る状況について克明に記して、氏名不詳の者も含めて165人の被害者の状況を述べているが、その彼も「壁の犠牲者に関しての決定的な情報は得られないかもしれない。」と述べている。彼は1991年にドイツで発行された「Opfer der Mauer(壁の犠牲者)」から多くの情報を得たとしているが、しかしこの文書は東ドイツの事件に関する機密扱いであった公式報告書を用いて調査されたものであるが完全ではないとしている。ある文書では172名の死亡者の一覧があったが、ヒルトンは「全てが亡命を目指していたとは言い難い」として「28年間に亡命を試みて死亡した者の一部は西側に報告されず東側にも記録に残っていない可能性がある」また「誰にも知られずに溺死した者がいた可能性がある」「越境しようとして泳いだが誰にも気付かれず遺体となったが発見もされなかったことが考えられる」と述べている。そして「私は全員の氏名を余さず記し、それぞれに人間らしい逸話を盛り込みたかったが、日付と簡単な説明だけを記すだけで精一杯であった。彼らの多くは無縁仏として埋葬あるいは火葬された」と語った。",
"title": "その後"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "1990年から2005年にかけてベルリンの壁で越境者を射殺した狙撃兵の裁判の訴訟文書によって解明が進んだとされて、「死亡者数は合計192名」であったり、「少なくとも136名」、「200人以上」、「射殺されたは238名」、「500人以上の人々が厳重に監視された境界で逃亡を試みて命を落とした」、「壁を越えようとして射殺された人は700人を超えると言われている」、「東西ドイツ及びベルリンの境界で命を落とした者は全体で943人にのぼる」などの諸説があり、1961年から63年までの壁建設の初期の期間で把握していない部分があるとしている。",
"title": "その後"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "東西間の通行が遮断されて、越境が危険を伴うことから、1963年頃から西への逃亡援助が営利事業と化し「逃亡援助を生業とする連中」が牛耳るようになって、西ドイツ側の態度も変わったと言われる。そしてその後に東西ドイツ政府間で裏取引が1964年頃から制度化され、東ドイツ政府の「人道的措置」によって東の刑務所に拘置された政治犯を西ドイツに送ることが可能となった。",
"title": "その後"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "その人数は1963年から1989年までに男女33,755人に上り、また家族結合の名目で約25万人以上とされている。西ドイツはその見返りに約35億ドイツマルクを支払った。1人について、その人物の教育水準・刑期の長さ・重要度に応じてまちまちの代金が交渉で決められて、40,000ドイツマルクから95,847ドイツマルクになったと言われる。これは見方を変えれば『人身売買』であり、東ドイツにとっては好ましくない市民や反体制分子を追放できて、しかも同時に利益を得るうま味のある『特別ビジネス』であった。",
"title": "その後"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "1964年11月に東ドイツ政府は年金受給者に対し、訪問あるいは滞在のために西側へ行くことを許可した。これで満65歳になって東ドイツ政府に移民申請をすれば、無条件で西ドイツに移住できた。これは当時の東ドイツにおける年金支給開始年齢であり、たとえ移住であれ65歳以上の人口が減れば年金を払う必要がないため政府は歳出をそれだけ削れ、お金だけかかる人間を厄介払いできるという東ドイツにとって実に都合のいい理由が背景にあった。他にもアルコール中毒患者や精神病患者も厄介払いとして東ドイツは簡単に西へ送っていた。1961年から1988年までに383,181人が西側へ行き、その大半が年金受給者であった。",
"title": "その後"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "壁建設直後は、射殺や溺死などの犠牲者が相次ぎ、壁付近は緊張に包まれて、西ベルリン市民の抗議や反発は収まらず、西側市民の東側への通行は不可能であった。しかしようやく沈静化に向かった1963年12月に7回に及ぶ予備会談の末、東ドイツとベルリン市との間で「ベルリン通行証協定」が締結されて、1963年12月19日から1964年1月4日までの17日間、一時的に西側市民が東側を訪れることが可能となった。これは東側に親戚がいることが証明された家族のみの限定で、クリスマスを東側の親戚とともに過ごすためのものであった。この制度を利用した西側市民は73万人以上で、西ベルリン市民の半数に近い延べ120万人が東ベルリンに入ったという。この協定は翌1964年も結ばれて、1964年10月30日から11月12日まで、12月19日から1965年1月3日まで、そして復活祭から聖霊降臨祭までのそれぞれ14日間であった。",
"title": "その後"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "やがて1967年になって通行証協定が改められて規則が緩和された。しかし東側に入るときにはビザとパスポートを持ち、西側の印刷物の持ち込みは不可であった。また東ドイツ政府にとって外貨獲得の一環として機能しており、西ドイツ市民は有無を言わさず西ドイツマルクを収奪させられていた。まず越境時に東西マルクを1対1で交換させられ、東独滞在時に使いきれなかった東独マルクは西独に戻るときに再両替されずに没収されることになっていた(建前では東独の銀行に預け次の訪問時に引き出せるが、その際の引き出しの手続きはややこしく、事実上の没収状態であった)。東独は物価が安く、更にモノの供給量が少ないので両替分を使いきれないことが多く、多くの場合において没収された。さらに東ベルリンの他の街を訪問する場合にも、どの街に入る時にも強制両替を行い、ここでも残った金額を没収していた。しかも最初の越境時から交換額を記した紙片の携帯が義務づけられており、最後に残金を没収されるときに東側で買ったもの全てを書類に書き入れなくてはならなかった。この申請に不備があると後で面倒なことになった。",
"title": "その後"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "一方で東側市民が西へ行くことは容易に認められず、親の葬儀への参列については認められることがあったが申請が通るかはまちまちで、後には誕生日のお祝い訪問も40歳・50歳・60歳の区切りで許可されたが、これも許可が下りない場合もある恣意的な運用であった。その後も、親戚訪問、ビジネス、東側団体主催の催し物への参加などだけを認め、外国人には認められた市内見物やオペラ観劇は西独市民には認めなかった。そして1年間で合計30日以内という制限があった。",
"title": "その後"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "1985年にソビエト連邦共産党書記長にゴルバチョフが就任し、それまでの閉塞状況であったソ連にペレストロイカ(改革)を推し進めて、この動きはやがて東ヨーロッパ諸国、とりわけ80年代初めから国内で連帯運動が起こったポーランドとハンガリーに波及し、1988年にポーランドでは非共産党政権が誕生し、ハンガリーでも社会主義労働者党の改革派が政権を担った。これが1989年になると、他の東ヨーロッパ諸国にも大きな影響を及ぼした。",
"title": "ベルリンの壁崩壊へ"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "1989年5月2日、既に民主化を進めていたハンガリーのネーメト首相が、オーストリアとの国境にある鉄のカーテンと呼ばれる国境の鉄条網を撤去すると、ハンガリー経由での国外出国に希望を持った東ドイツ国民が夏期休暇の名目でハンガリーを訪ね、そこに滞留する事態となった。",
"title": "ベルリンの壁崩壊へ"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "8月19日、汎ヨーロッパ・ピクニックが欧州議員オットー・フォン・ハプスブルクの主催でこれにハンガリー政府の改革派の後援により、ハンガリーとオーストリアの国境付近のショプロンで開催された。これは、秘密裡にハンガリーが東ドイツ市民をオーストリアに越境させることを企図したイベントであった。そしてこの集会のさなかに東ドイツ市民661人がオーストリアへの越境に成功した。その後もオーストリア経由で出国が出来ると考えた東ドイツ市民がオーストリアと国境を接するハンガリーとチェコ・スロバキアに殺到した。8月25日、ハンガリーのネーメト首相は密かに西ドイツを訪れてコール首相と会談し、東ドイツ市民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させる決断をしたことを明らかにした。やがて西ドイツ側の受け入れ準備が整った9月11日にはハンガリー政府は正式に東ドイツとの協定を破棄して東ドイツ市民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させた。9月30日には、チェコスロバキアのプラハの西ドイツ大使館に集まっていた東ドイツ市民4000人の前に西ドイツのゲンシャー外相が現れて西ドイツへの出国が可能となったことを伝え、月末までに約3万人が出国した。",
"title": "ベルリンの壁崩壊へ"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "もはやベルリンの壁は有名無実化しつつあり、東ドイツ国内でもデモ活動が活発化していた。",
"title": "ベルリンの壁崩壊へ"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "こうした国民の大量出国やライプツィヒの月曜デモ等で東ドイツ国内は混乱していたにもかかわらず、最高指導者のエーリッヒ・ホーネッカー社会主義統一党書記長は改革には背を向け続けていた。10月7日の東ドイツ建国40周年記念式典のために東ベルリンを訪問したミハイル・ゴルバチョフがその際行われたドイツ社会主義統一党幹部達との会合で自らの進めるペレストロイカについて演説をしたのに対し、ホーネッカーは自国の社会主義の発展を自画自賛するのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべて党幹部達を見渡すと、舌打ちをし、ゴルバチョフが改革を行おうとしないホーネッカーを否定したことが他の党幹部達の目にも明らかになった。これを機にエゴン・クレンツ(政治局員・治安問題担当書記・国家評議会副議長)やギュンター・シャボフスキー(政治局員・社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記)ら党幹部達はホーネッカーの退陣工作に乗り出した。10月17日、政治局会議でシュトフ首相が提議したホーネッカーの書記長解任動議が可決し、ホーネッカーは失脚し、後継者となったのはクレンツであった。",
"title": "ベルリンの壁崩壊へ"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "1989年11月9日、この日エゴン・クレンツ率いる社会主義統一党中央委員会総会で翌日から施行予定の出国規制を緩和するための新しい政令案を決定した。その日の夕方、クレンツ政権の広報担当者シャボフスキーは、この規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。シャボフスキーは、中央委員会の討議には出席しておらず、クレンツからも細かい説明もなく、また中央委員会で攻撃に曝されていたことで、クレンツ政権内部が混乱したことがその原因とされる(ベルリンの壁崩壊)。",
"title": "ベルリンの壁崩壊へ"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "ただし、その質問をしたイタリアの記者エーマンは、2009年に「会見前、シャポフスキー氏とは別の高官から電話で『出国自由化の時期を必ず質問するように』と言われた」と回想している。これが真実であれば、歴史的なベルリンの壁崩壊は、記者会見における凡ミスの結果ではなく、演出者と協力者の関係をもとに綿密に予定されていたシナリオであったといえる(ただしシャポフスキーはそれを否定している)。",
"title": "ベルリンの壁崩壊へ"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "この記者会見を各国メディア及び東ドイツ国営テレビ局などが報道し、同日夜には東ベルリン市民が東西ベルリン間の7か所の国境検問所に殺到した。旅行自由化の政令は実際は査証発給要件を大幅に緩和する法律であり越境にはあくまで査証が必要であったが、殺到した市民への対応に困った国境検問所の国境警備隊の現場指揮官は、政府からの指示もなく、11月9日22時45分に止む無く国境ゲートを開放した。査証の確認なども実行されず、ベルリンの壁はこの時に有名無実となった。",
"title": "ベルリンの壁崩壊へ"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁の破壊が始まった。のちに東ドイツによって壁はほぼすべてが撤去された。ただし歴史的な意味のある建造物のため、一部は記念碑として残されている。",
"title": "ベルリンの壁崩壊へ"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "ベルリンの壁崩壊により東西両ドイツの国境は事実上なくなり、翌1990年10月3日、東西ドイツは統一した。",
"title": "ベルリンの壁崩壊へ"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一、更に冷戦の終結にいたりベルリンの壁は名実ともにその存在意義を失った。その一方で、ベルリンの壁は米ソ冷戦の象徴的遺跡としての保存の声が高まりシュプレー川沿いの約1.3kmの壁(イースト・サイド・ギャラリー(ドイツ語版))は残された。この部分には「ベルリンの壁建設」にインスピレーションを得た24の国の芸術家118人による壁画が描かれた部分であり、その中には「ホーネッカーとブレジネフの熱いキス」を描いた戯画も含まれている。",
"title": "ベルリンの壁崩壊へ"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "文化財として保存が決まったものの、経年による劣化と観光客の落書きとその場しのぎの上塗りによる補修で保存は危機的状況に陥った。2000年には寄付によって壁の北側は修復され、2008年に残りの補修には250万ユーロの寄付が必要と試算された。2009年には残る部分の修復に着手している。",
"title": "ベルリンの壁崩壊へ"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "その他、ベルリン中央部のニーダーキルヒナー通り(ドイツ語版)沿いの一帯(ゲシュタポ本部や国家保安本部があったあたり)には、再統一後に「テロのトポグラフィー(ドイツ語版)」という博物館が建てられ、この部分に沿って建っていたベルリンの壁も残されている。さらに記念品としてライン川畔のコブレンツに白い壁を2枚移設し、また日本には宮古島市上野のうえのドイツ文化村に2枚移設している。この時に地下を含む構造が明らかになり、地下のL字型の下のコンクリートが東ベルリン側が数倍長いのは、地下から(=塀の下を掘り返して)の逃亡を防ぐためだったと見られている。",
"title": "ベルリンの壁崩壊へ"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの統一が実現した後に、ベルリンの壁について、国境警備隊による越境者への狙撃及び射殺に対してどのように扱うかは喫緊の課題であった。壁崩壊の翌年1990年には国境警備兵に対する裁判手続きが進められていった。東ドイツの狙撃兵は東ドイツの国内法では訴追は出来ないため、道義的概念は持ち込めるのか、事後に成立した法に基づく訴追は遡及効禁止と齟齬を及ぼすのか、法が正義に反する場合は実定法に対して正義と道義が優先されるのか、射殺命令を執行した狙撃兵と射殺命令を出した上官との罪の上下は...などドイツ国内で様々な議論がなされた。この後にドイツの裁判所はベルリンの壁の死者と射殺命令に関する審理にほぼ15年を費やした。",
"title": "狙撃裁判"
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"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "ドイツ連邦議会は1992年に「ドイツにおけるドイツ社会主義統一党独裁の歴史と帰結の批判的総括」を行うための調査委員会を設置した。そして2年後に社会主義統一党独裁のほぼ全局面を明らかにする15,000ページ余りの調査報告書を公表し、この中で東ドイツで行われた国家犯罪や人権侵害など負の遺産についての真相究明、責任や罪の承認、浄化や和解、補償と賠償、そして裁判などが述べられていた。これらには独裁の犠牲者を悼み、犯行者を処罰することも含まれていた。",
"title": "狙撃裁判"
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"paragraph_id": 147,
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"text": "かつてナチス時代の暴力犯罪に対して、法が正義に反する場合に実定法よりも正義と道義性が優先されるのか、といった論争があったが、狙撃兵裁判でもその論争は再燃した。そして越境する者に対して射殺命令をいつ、誰が発したかも焦点となり、1961年夏のベルリンの壁建設の9日後に社会主義統一党政治局が発砲命令を出したと言われるが、それが明確な文書としては残っておらず、当時のブラント西ベルリン市長が東ドイツの国境警備兵に「自分と同じ国の人間を撃つな」と訴えた時に、ウルブリヒト第一書記は「国境を侵す者には、武器を用いてもその行動を慎むように命じなければならない」と語っていた。",
"title": "狙撃裁判"
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"text": "その射殺命令およびその実行に関して、東ドイツの最高指導者と政権幹部、国境警備隊幹部、現場の兵士に対して、1990年10月からドイツ再統一後のドイツ連邦共和国の裁判所で裁判が行われ、裁判所は社会主義統一党中央委員会政治局から狙撃兵に至るまで途切れることなく責任の連鎖が存在することは確認した。そしてその際に、社会主義統一党指導部は市民の生命を保護し身体無傷性を守る義務を負っていたとして「民主共和国市民の人格と人権は不可侵である」としたドイツ民主共和国憲法と国際人権協定をその字義どおりに解釈した。",
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},
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"paragraph_id": 149,
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"text": "このドイツ民主共和国の不正を理由として始められた捜査手続きの総数は壁の射殺事件以外も含めて約10万件に達すると見られ、この総数に対しての有罪判決はおよそ133分の1の数であった。この内に両独国境での強行犯罪については総計244件の訴追があり、466人が告発されて385人に判決が下され、110人が無罪で、275人の有罪が確定した。刑の量定は連隊司令官、国境警備隊長、政治局員まで地位に順じて重くなった。しかし大半の被告は執行猶予付の判決で、命令権者の20人は執行猶予の付かない自由刑の有罪判決であった。これらの不正行為と見なしたものの捜査と裁判が最終的な処理が終えたのは壁崩壊から16年が過ぎた2005年であった。",
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"text": "壁で越境しようとした市民を射殺したと訴追された警備隊兵士からは、「的を外して撃った」との主張がなされることもあったが、多くは射殺命令を実行したと認定された。しかしその兵士に対して、最終的には、執行猶予付きの有罪判決の場合がほとんどであった。「殺意なき殺人」として処理されている。また1997年のエゴン・クレンツの裁判で、裁判官は「国境警備隊は国境の安全に責任を負っていた。警備兵に下された射殺命令は実際にはイデオロギー上のものであった」と裁定している。",
"title": "狙撃裁判"
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"paragraph_id": 151,
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"text": "1961年8月24日に壁付近で川を泳いで最初に銃の犠牲者となったギュンター・リトフィンの事件では、彼を撃った兵士は1997年に裁判で禁固18カ月の有罪判決であったが執行猶予がついた。「やや軽度の重大事犯」にあたる故殺と見なされた。",
"title": "狙撃裁判"
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"paragraph_id": 152,
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"text": "1962年8月17日に壁を越えようとして撃たれ、東側に落下してからしばらく虫の息だが生きていたものの東西両側から救助されず、1時間後にその場で失血死したペーター・フェヒターの事件では、1997年3月に元国境警備兵2人が殺人罪で訴追された。裁判長はどちらが彼を撃ったのか判断できないとして、裁判時には61歳であったロルフ・フリードリッヒに21カ月、エーリッヒ・シュライバーに20カ月、それぞれ執行猶予のついた有罪判決であった。しかし裁判長はフェヒターの失血死について警備兵のどちらにも責任がないとしたが、起こった事実は容認しがたいと明言した。ペーターの父は傷心で精神を病み1968年に亡くなり、母も精神を病み1991年まで生きたが壁崩壊についてはっきり理解することが出来なかった。姉ギーゼラは「弟はドイツからドイツへ行こうとしただけで撃たれた、そして誰も助けようとはしなかった。」と泣いた。後日、ロルフ・フリードリッヒは「本当に申し訳ない。フィヒターに謝罪したい。」と語っていた。",
"title": "狙撃裁判"
},
{
"paragraph_id": 153,
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"text": "1989年2月6日にベルリンの壁で最後に射殺されたクリス・ギュフロイの事件では、1991年9月に国境警備兵4名が告発され、法廷で命令遵守を訴えたが人道に対する罪で、致命傷を与えた銃弾を放ったインゴ・ハインリッヒは3年半の懲役の判決が下りるものの、1994年に減刑されて2年の保護観察となった。同僚のアンドレアス・キューンパストは懲役2年に執行猶予が付いた。当初東ドイツはこの壁で死者が出た事実を否定する方針であったが世界中から非難されて認めざる得なかった。クリスの母カーリン・ギュフロイはシュタージにいつか息子を殺した罪に問われるだろうと言い放ったが、鼻でせせら笑われるだけだったという。この裁判では結局発砲を命じた側は罪に問われなかった。",
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},
{
"paragraph_id": 154,
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"text": "なおこのギュフロイの死去に関して東ドイツ政府は新聞に家族からの死亡広告を出すことを許可し(壁の死者で許可されたケースはそれまで無かった)、葬儀が2月23日に行われ約120人が参列した。それまで葬儀どころか遺体を家族に引き渡すことも、あるいは壁で死んだことも連絡しないケースが多く、壁が崩壊してから壁で射殺されたことを家族が知ったことが多かった。また一緒に越境しようとして国境警備隊に逮捕されたクリスティアン・ガウディアンは裁判で懲役3年を言い渡されたが、西ドイツが身代金を支払い、彼の身柄を引き取った。",
"title": "狙撃裁判"
}
] | ベルリンの壁は、1961年から1989年までベルリン市内に存在した壁である。 冷戦下でドイツは、東西陣営に西ドイツと東ドイツで分裂していたが、往来が自由であった西ベルリンと東ベルリンの境界線を経由して東側から西側への人口流出が続き、東ドイツに深刻な影響を及ぼした。東ドイツは自国の体制を守るべく、1961年8月13日、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離、のちにコンクリートの壁を作った。 このベルリンの壁はドイツ分断の象徴であり、かつ東西冷戦の象徴でもあった。そして1989年秋の東欧革命にともなう東ドイツ国内の混乱のなか、同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、壁の国境検問所がなし崩し的に無効になり、やがて壁そのものが撤去された。これは「ベルリンの壁崩壊」と呼ばれている。 | [[ファイル:Berlin Wall 1961-11-20.jpg|thumb|330px|東ドイツ当局により建設中のベルリンの壁。(1961年11月20日)]]
[[File:Bundesarchiv Bild B 145 Bild-P061246.jpg|thumb|330px|壁の前の[[ブランデンブルク門]]。左側が東側で右側が西側である。(1961年)]]
[[File:West and East Berlin.svg|thumb|330px|壁による分断を示すベルリンの地図]]
'''ベルリンの壁'''(ベルリンのかべ、{{lang-de-short|Berliner Mauer}})は、[[1961年]]から[[1989年]]まで[[ベルリン]]市内に存在した[[壁]]である<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030229_00000 ベルリンの壁 崩壊|ニュース|NHKアーカイブス]</ref>。
[[冷戦]]下で[[ドイツ]]は、東西陣営に[[西ドイツ]]と[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]で[[分断国家|分裂]]していたが、往来が自由であった[[西ベルリン]]と[[東ベルリン]]の境界線を経由して東側から西側への人口流出が続き、東ドイツに深刻な影響を及ぼした。東ドイツは自国の体制を守るべく、1961年[[8月13日]]、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて[[有刺鉄線]]で隔離、のちに[[コンクリート]]の壁を作った。
このベルリンの壁はドイツ分断の象徴であり、かつ[[冷戦|東西冷戦]]の象徴でもあった<ref>{{Cite book|和書|author=杉本稔|authorlink=杉本稔|title=現代ヨーロッパ政治史|date=|year=2007|accessdate=|publisher=[[北樹出版]]|isbn=978-4779300905}}</ref>。そして1989年秋の[[東欧革命]]にともなう東ドイツ国内の混乱のなか、同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、壁の国境検問所がなし崩し的に無効になり、やがて壁そのものが撤去された。これは「[[ベルリンの壁崩壊]]」と呼ばれている。
== 概要 ==
[[File:West-Berlin_in_Germany.svg|thumb|東ドイツにある西ベルリン。ベージュが西ドイツでその右の東ドイツの中の赤い部分が西ベルリン]]
1945年5月8日、[[第二次世界大戦]]のヨーロッパ戦線が[[ドイツ]]の[[無条件降伏]]により終わり、同年7月にベルリン郊外の[[ポツダム会談|ポツダムでの会談]]でドイツの非軍事化・[[非ナチ化]]・[[民主化]]を主眼とする占領改革を進めることで合意された。このポツダム協定でドイツは[[イギリス]]・[[アメリカ合衆国]]・[[フランス]]・ソ連の戦勝4か国により[[連合軍軍政期 (ドイツ)|分割占領]]され、そして首都ベルリンもこの4か国のそれぞれの管理地区に分割されることが決まった<ref name=":3">{{Cite book|和書|author=マンフレッド・マイ|title=50のドラマで知る ドイツの歴史〜祖国統一の道〜|date=|year=2013|accessdate=|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623064618|translator=小杉寸次}}</ref>{{Rp|325}}。
やがて英米仏3国とソ連が対立し、1948年6月24日にソ連が英米仏の管理地区(西ベルリン)と西ドイツとの陸路を封鎖して「[[ベルリン封鎖]]」を行った。イギリスとアメリカは6月26日から「ベルリン大空輸」で対抗し、この西ベルリン市民への生活物資の空輸作戦の成功でソ連は翌1949年5月12日に封鎖を解除し、「ベルリン封鎖」は失敗に終わった。
この決定的な英米ソの対立で、社会主義陣営に属する[[ドイツ民主共和国]](以下、東ドイツ)と、自由主義陣営に属する[[ドイツ連邦共和国]](以下、西ドイツ)が成立した。この東西両陣営の[[冷戦]]時代に入ってから、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が後を絶たず、危機感を抱いたソ連と東ドイツは、1961年8月13日午前0時に突然西ベルリンを包囲し、東西ベルリン間48キロを含む西ベルリンと東ドイツとが接する分割境界線155キロあまりの境界線の通行を一切遮断し、西ベルリン周囲の境界線から少し東ドイツ領内に入った地点に有刺鉄線を張りめぐらせ、その後に巨大な壁を建設した。
以後、東ベルリン市民の西ベルリンへの通行は不可能となり、多くの家族や友人・知人と不意に引き裂かれた。そしてこの後、壁を越えて越境しようとした者約200人以上が越境できずに命を失い次々と射殺されるなどの悲劇が生まれた。なお、「ベルリンの壁」は「東西ドイツの国境の一部」ではなく、英米仏ソの戦勝4か国の共同管理に置かれたベルリンの特異な状況から生じたものである(東西ドイツの国境は、[[ドイツ国内国境線]]と呼ばれる)。
その28年後の1989年11月9日夕方、東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策としてそれまで認めていなかった自国民の西側への旅行の規制緩和措置を発表するが、このとき[[ドイツ社会主義統一党]]政治局員で党ベルリン地区委員会第一書記の[[ギュンター・シャボフスキー]]が不用意に「ベルリンの壁を含むすべての国境検問所から出国が認められる」と発言した。しかも外国人記者の質問に答えて発効は「即刻です」と返答したことによって、多くの東ベルリン市民が壁の前に集まり国境検問所が緊迫した事態を生じて、混乱を避けるため夜遅くに検問所が東ベルリンの通過を認め、なし崩し的にベルリンの壁は開放された。この11月9日の夜に突然ベルリンの壁が崩壊したことは世界を驚かせ、その後の東ドイツの崩壊に至った。
== ベルリンをめぐる東西対立 ==
[[File:Occupied Berlin.svg|thumb|4ヵ国に分割されたベルリン]]
[[ファイル:Berlin-wall-map en.svg|thumb|300px|西ベルリンを囲むベルリンの壁 丸い記号は国境検問所で、青丸が東西ドイツ市民専用、赤丸が東西ドイツ市民および外国人用だった]]
=== 分割占領の開始 ===
ベルリンは1701年に[[プロイセン王国]]の都となって以降、1871年の[[ドイツ帝国]]成立、[[ヴァイマル共和政]]を経て[[ナチス・ドイツ]]政権が1945年5月8日に崩壊するまで、一貫してドイツの首都であった{{Sfn|本村|p=47}}<ref group="注">厳密には、ドイツ帝国、ヴァイマル共和政、ナチス・ドイツを通じて正式国名は一貫して「[[ドイツ国]]」であった。</ref>。東ドイツと西ドイツの境界上にあったわけではない。
戦後のベルリンの管理については、大戦が終わる8か月前の1944年9月12日に英米ソ間の協定の第2条で「『ベルリン地区』は当該最高司令官が指定する米英ソの武装軍隊により共同して占領される」と取り決められた。その後、11月14日の協定によりドイツ全体についても協定が結ばれ、各占領軍の政策によるのではなく、ドイツ管理理事会が指揮することになっていた。しかし実際は、各占領軍が自国の占領政策を展開し、各占領地域ではその最高司令官が最高決定権を持っており、独自に命令や法令を発することができる状況になっていた{{Sfn|本村|pp=48-49}}。
ドイツの降伏後、1945年6月5日に「[[ベルリン宣言 (1945年)|ベルリン宣言]]」が発表され、ドイツは英米ソにフランスを含めた戦勝4か国の分割統治となる。しかし、直前4月の[[ベルリンの戦い]]の際に東から侵攻した[[赤軍]](=ソ連陸軍)が西から侵攻した英米軍に先んじてベルリンを占領しており、両勢力の境界線はベルリンより西になったため、ベルリン市周囲のドイツ本土は[[ソ連占領地区|ソ連統治地区]]になった。その上でベルリン市内も英米仏ソ4か国で分割統治したため、英米仏3か国が統治するベルリン市内の地区は周囲をソ連の統治地区に囲まれる形となった{{Sfn|本村|p=48}}。
6月14日付の電信で[[ハリー・S・トルーマン]]大統領は、[[ヨシフ・スターリン]]書記長に対して英米仏軍のベルリンへの鉄路・陸路・空路の自由な使用を要請したが、6月16日付の返電は「必要に応じて保障する」という曖昧な内容であった。6月29日に西側は
# 西側占領地域からベルリンとの間で、3つの高速道路の無制限使用権
# 指定された鉄道の3路線の使用権
# 3つの飛行場の無制限の航空路使用権
などを要求したが、赤軍最高司令官[[ゲオルギー・ジューコフ]]元帥は、1つの鉄道、1つの高速道路、1つの航空路、2つの飛行場の使用を認める、とした回答であった。
戦後のベルリンでは、先に駐留していたソ連が着々と自国型の新しい秩序を作り上げつつあるところに、1945年7月4日に英米軍が、8月12日に仏軍が進駐してきた。ここで市の4か国統治が始まり、この特殊な形態により、ベルリンは東西両陣営による占領政策が真っ向から対立することとなった{{Sfn|本村|p=50}}。
=== ベルリン封鎖 ===
この西側3か国とソ連との間での占領政策の対立は、1947年から英米ソ間で激しさを増し、1947年6月にアメリカが戦後ヨーロッパ経済の復興と再建を目的とした経済復興計画「[[マーシャル・プラン]]」を発表、1948年6月に新しい通貨[[ドイツマルク]]を導入する通貨改革を西側だけで実施した。これにソ連が反対して[[ソ連占領地区|ソ連統治地区]]で[[東ドイツマルク]]を発行し、強硬策に出た<ref name=":1">{{Cite book|和書|author=石田勇治|authorlink=石田勇治|title=図説ドイツの歴史|date=|year=2007|accessdate=|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309761053}}</ref>{{Rp|89}}。1948年7月24日、ソ連は西ベルリンと西ドイツをつなぐすべての陸上交通を遮断した。これにより交通網だけでなく、水道や電気などの[[ライフライン]]まで遮断されたため、市民生活に深刻な影響を与えたが、イギリスとアメリカは陸の孤島となった西ベルリンに大空輸作戦を敢行して援助物資を大量に送り、ソ連は10か月後の1949年5月12日に封鎖を解除した([[ベルリン封鎖]])。
ソ連は、西側諸国が西ドイツの建国と再軍備を目指していると見ていた。西ベルリンを封鎖したのはそれらを放棄させようとしたものであり、そして西側に西ベルリンを放棄させ市を統一し、ソ連に政治的にも軍事的にも依存した国家を建設しようと考えていた。東ドイツの心臓部に西側の拠点があることはソ連にとって都合が悪く、西側が西ベルリンを放棄することになれば、西ドイツの人々も西側に追随することに躊躇するだろうという読みもあった。しかし、トルーマン大統領は「ソ連の圧力に屈することがあってはならないが、全面戦争に発展しかねない対決も避けねばならない」と考え、大々的な物資支援によってその意思を見せつけたことで、ソ連は封鎖の目的を果たせなかったばかりか、西欧各国に自主防衛の強化、また集団防衛体制の構築を促し、1949年4月に北大西洋条約{{Refnest|group="注"|NATO(北大西洋条約機構)の基になった条約で、前年1948年3月にイギリス・フランス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクがブリュッセルで条約を結んで相互防衛の行動を約束し、このブリュッセル条約締結国に加えて、アメリカ・カナダ・デンマーク・アイスランド・イタリア・ポルトガル・ノルウエーの各国が相互防衛を規定した条約である。1952年にギリシャとトルコ、1955年には西ドイツが加わった<ref name=":2" />{{Rp|61-62}}。}}が締結され<ref name=":2">{{Cite book|和書|author=マイケルL・ドックリル|title=冷戦 1945-1991|date=|year=2009|accessdate=|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000272056|translator=伊藤裕子|author2=マイケルF・ホプキンズ}}</ref>{{Rp|59-62}}、結局ソ連にとってマイナスの効果しか生まなかった。
しかし、封鎖の間に[[ベルリン市議会]]は東西に分裂し、分断国家の歩みは既成事実化していった<ref>{{Cite book|和書|author=石田勇治|authorlink=石田勇治|title=20世紀ドイツ史|date=2005-7-25|year=|accessdate=|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560026069}}</ref>{{Rp|73-74}}。封鎖が解除された直後の1949年5月23日、[[バイゾーン|イギリス・アメリカ・フランス側占領統治地区]]に[[ボン]]を暫定首都とした[[西ドイツ|ドイツ連邦共和国]](西ドイツ)が、10月7日にはソ連占領統治地区に[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)が成立、ベルリンが東ドイツの首都となった<ref name=":1" />{{Rp|90}}。
=== スターリン・ノート ===
東西分裂後の1952年3月10日、のちに「[[スターリン・ノート]]」と呼ばれるソ連からの覚書が[[アンドレイ・グロムイコ]]外務次官から英米仏3か国の大使に手渡された。その内容は懸案になっていたポーランド西部国境([[オーデル・ナイセ線]])には触れずに、ドイツを再統一し、英米仏ソの占領軍は撤退、統一ドイツは独自の軍隊の保持を認めるが、その代わりに中立化するとした提案であった。このための平和条約を結ぶために米英仏ソのほかポーランド、チェコスロバキア、ベルギー、オランダ、ほかに対独戦に参加した諸国を参加国とするとして、その条約には7項目の政治的原則、領土、経済的原則、2項目の軍事的原則、そしてドイツと国際連合組織からなっていた。これはスターリンとしてはかなり譲歩したものであった{{Sfn|本村|p=102}}。
翌日3月11日、西側陣営と西ドイツとで協議したが、ソ連の妨害工作として否定的な意見が出た。これは当時西欧で協議していた[[欧州防衛共同体]](EDC)構想で、欧州統一軍に西ドイツの兵士を参加させる案が進められていることに対して、西ドイツの再軍備を阻む目的があったとされている。西ドイツの[[コンラート・アデナウアー]]首相も断固反対であったが、国内では与党内でも「検討に値する」との意見が出て、野党[[ドイツ社会民主党]]はこの覚書を再統一へ向けて建設的に活かそうとする意向であった{{Sfn|本村|p=104}}。
スターリン・ノートは英米仏にとって最も真意がつかみにくい文書として、のちに議論が絶えなかった。3月25日にアメリカは覚書の回答を送り、国連委員会の管理下でドイツ全土での自由選挙を提案した。これに対し、4月9日にソ連は4か国の管理下での自由選挙の実施を提案してきた。5月13日に英米仏はこの提案には同意できない旨回答した。その理由は、4か国が裁判官にもなり党派を代表することにもなるため避けなければならないというものであった。5月24日、ソ連は業を煮やしてドイツ問題の協議を進展させたいとしながら、西ドイツの再軍備とEDCへの参加に強い非難をしている。この3日後にEDC条約が調印され、このスターリン・ノートは文書でのやり取りで終わった。アデナウアーはソ連のドイツ中立化の狙いは欧州のソ連圏への組み込みだと判断し、最初からスターリン・ノートをソ連の牽制だとして受け入れる意志はまったくなかった{{Sfn|本村|pp=104-105}}。
=== ベルリンへの通行問題 ===
封鎖が収まっても、ベルリンの緊張状態は変わらなかった。とりわけ、最初にソ連・英米仏間で食い違っていたベルリンへの通行に関する問題は未解決のままであった。西ドイツから西ベルリンへ行くには東ドイツ領内の高速道路を通り抜けるか、西ドイツ国内の飛行場から英米仏の航空便を利用するしか選択肢はなく、西ドイツ独自に動くことはできなかった。
ソ連による西側への交通妨害は封鎖解除後も変わらず、1952年5月27日に西ドイツがEDCに加盟すると、西ベルリンへの交通網が再度遮断され、同時に東西ベルリン間および東ドイツとの電話回線も全部絶たれた。同日に西側は声明を発表し、ベルリンに対する攻撃は西側連合国に対する直接の攻撃とみなす旨を警告した。交通遮断はすぐに解除されたが、以降もたびたび遮断と解除を繰り返している。しかし、電話回線の切断はそのまま続行され、20年後の1972年にようやく解除された。
8月2日にはベルリンへの高速道路通行料に多額の道路税を課したが、9月20日に東西間の貿易協定が締結されたことによって解決された。この間には米軍の病院機がソ連機に妨害される事態や、1953年には英軍機がエルベ川上空でソ連機に撃墜される事件が発生している{{Sfn|本村|pp=58-59}}。これらの問題は1961年夏のベルリンの壁の建設時に、米ソ首脳(ケネディ大統領とフルシチョフ首相)間で暗黙の了解で安定化し、1971年9月3日の4か国協定で法的な保障を得ている{{Sfn|本村|p=66}}。
=== 当時のベルリン ===
東西ドイツ国境([[ドイツ国内国境線]])は1952年に閉鎖されたが、ベルリンにおいて東西間の移動は壁の建設までは自由で、通行可能な道路が数十あったほかに、[[ベルリン地下鉄]](Uバーン)や高速鉄道([[ベルリンSバーン]])などは両方を通って普通に運行されていた。境界を越えて通勤する市民も多く、1950年代の時点で東から西の職場へ行っている者が約6万3,000人で、逆に西から東の職場に行っている者が約1万人いた。この時代は西のマルクのヤミ値が東の4倍だったため、西で稼いで東に暮らすと生活は楽であった。それ以外の一般的な往来も多く、1日あたり約50万人が東西境界線を通過していたといわれる<ref name=":4" />{{Rp|160}}。このため、周囲を全て東ドイツに囲まれた西ベルリンは「赤い海に浮かぶ自由の島」、「自由世界のショーウィンドー」と呼ばれた。
西ベルリンと西ドイツとの間の往来は、指定された[[アウトバーン]]、直通列車(東ドイツ領内では国境駅以外停まらない[[回廊列車]])、および空路により可能であった。東ドイツを横切る際の安全は協定で保証されたが、西ベルリンに入れる[[航空機]]は英米仏のものに限られた。
東ドイツ・西ベルリン間の道路上の[[国境検問所]]は3か所あり、[[NATOフォネティックコード]]で{{読み仮名|A|アルファ}}、{{読み仮名|B|ブラボー}}、{{読み仮名|C|チャーリー}}と呼ばれた。Cは「[[チェックポイント・チャーリー]]」の別名で知られ、特に有名な東西冷戦の舞台の一つとなった。
=== 亡命と頭脳流出 ===
ドイツの東西分裂以降、時が経つにつれ、東ドイツの[[ドイツ社会主義統一党]]の一党支配に基づく社会主義体制に不満を持つ人々の西ドイツへの逃亡が相次いだ。1952年に東西ドイツの国境線が閉鎖されて以降は唯一往来が自由であったベルリン市内の境界線を経由して逃亡するようになり、全難民に占める割合は4割以下から6割台に上昇した<ref name=":4" />{{Rp|161}}。
毎年15万から30万人の東ドイツ国民が西ドイツに大量流出した。特に[[1953年]]は、[[6月17日]]に東ベルリンで反政府暴動が起こりソ連軍の介入で鎮圧された([[ベルリン暴動]])影響で、年間亡命者は東西分裂期で最多の33万人にのぼった<ref name=":1" />{{Rp|100}}<ref group="注">西ドイツはこの事件への抗議の意を込めて、ブランデンブルク門から西に延びる通りを「[[6月17日通り]]」と改名した。東側は変わらず[[ウンター・デン・リンデン]]と呼ばれた。</ref>。1949年から1961年までの13年間に273万9,000人が東ドイツから西ドイツへ流出したとされ、これは東ドイツの人口の約15パーセントにあたる<ref name=":11">{{Cite book|和書|author=川口マーン恵美|authorlink=川口マーン恵美|title=ベルリン物語〜都市の記憶をたどる〜|date=|year=2010|accessdate=|publisher=[[平凡社]]|series=[[平凡社新書]]|isbn=978-4582855197}}</ref>{{Rp|195}}。特に医師や技術者・熟練技術者の[[頭脳流出]]は東ドイツ経済に打撃を与え、しかも25歳以下の若者が多かった<ref name=":1" />{{Rp|99}}。これは当時の東ドイツの人口の6人に1人の割合であり、戦後の1945年から1948年までに[[ソ連占領地区]]から[[バイゾーン|西側3か国占領地区]]へ逃れた人を含めれば300万人に達したと見られている{{Sfn|ケンプ|2014a|p=21}}。
壁が建設された1961年は、6月の[[ウィーン会談]](後述)で米ソ首脳が対立、6月末までの半年間の総数は10万3,159人(うち49.6パーセントが25歳以下の若者)であったが、7月に流出者が跳ね上がって総数は3万415人(25歳以下は51.4パーセント)にのぼった。そして8月に入って最初の1週間だけで1万人に達するなど、人口流出は史上最高のペースに達していた{{Sfn|ヒルトン|2007a|pp=31-36}}。
この間の東ドイツから西ドイツへの難民総数の推移の公式の数字は以下の通りである<ref name=":4" />{{Rp|161}}<ref name=":22">{{Cite book |last=Harald. |author=Klaus horn |first=Horn, |title=Die Berlin-Krise 1958/61 : zur Funktion der Krise in der internationalen Politik |url=https://www.worldcat.org/oclc/310529600 |date=1970 |publisher=Europ. Verl.-Anst |isbn=3434200304 |location=Frankfurt am Main |oclc=310529600}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|-
!年
!難民総数
!西ベルリン経由
!25歳以下の割合
|-
|1949-1951年
|492,681
|193,227
|データなし
|-
|1952年
|182,393
|118,300
|データなし
|-
|1953年
|331,390
|305,737
|48.7%
|-
|1954年
|184,198
|104,399
|49.1%
|-
|1955年
|252,870
|153,697
|49.1%
|-
|1956年
|279,189
|156,377
|49.0%
|-
|1957年
|261,622
|129,579
|52.2%
|-
|1958年
|204,092
|119,552
|48.2%
|-
|1959年
|143,917
|90,862
|48.3%
|-
|1960年
|199,188
|152,291
|48.8%
|-
|1961年
|207,026
|150,481
|49.2%
|-
|(壁建設以前)
|(155,402)
|(125,053)
|
|-
|(壁建設以後)
|(51,624)
|(25,428)
|
|}
1961年の時点で、東ドイツの人口は約1,700万人、西ドイツの人口は約6,000万人であった{{Sfn|ケンプ|2014a|p=21}}。
また、東ドイツ領域も自国領土とする立場をとっていた西ドイツは、東ドイツ国民にも自国籍を認めていたため、西ドイツに移った東ドイツ国民には、自動的に同国の市民権が与えられた。こうした措置も人口の流出を促したとされる。
== 壁の建設に至るまで ==
=== フルシチョフの非武装自由都市化宣言 ===
[[1958年]][[11月27日]]、ソ連の[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]首相が西ベルリンを半年以内に非武装の自由都市にする通告を行った。これは西ベルリンを東西ドイツのどちらにも属さず、どちらからも干渉を受けない地域にすることを述べたうえで、6か月以内に東ドイツとの間に英米仏ソの4か国とで協定を結ぶ、それができない場合は米英仏ソの4か国がベルリン問題に関して持っている契約および権利は失効するとした。
これは「戦後の4か国協定(ポツダム協定)をことごとく反古にし、ベルリンに関する協定は守っているがそれを悪用し、承認もしていない東ドイツの領空領内を通って西ベルリンとの交通・通信に使用している。しかも西ドイツをNATO(北大西洋条約機構)に加盟させドイツ統一を妨げている。このような異常な憂慮すべき状態を解決するために、西ベルリンをいかなる国の干渉も受けない自由都市にすること、西側軍隊は半年以内に撤退する、その合意がなければ、東ドイツは独立国家として陸路、水路、空路のすべてに関わる一切の権利を行使する、そして以後ベルリンに関する問題について米英仏との接触は一切終結する」ということが提案理由であった{{Sfn|本村|p=62}}。
フルシチョフが西ベルリンの変則的な状況を打開する決意をしたのは、専門知識や熟練技術を持つ人材がベルリンを経由して流出し続ける限り東ドイツの経済が逼迫し続け、東ドイツがソ連の安定した同盟国にはなり得ないと判断したためであった。そして英米仏がベルリン問題で核戦争のリスクを冒すことはないだろうと読んで、最大限ソ連が妥協したとしてベルリンを国連監視下で非軍事化することを狙っていた<ref name=":2" />{{Rp|100-102}}。
翌11月29日に西ドイツの有力紙[[フランクフルター・アルゲマイネ]]紙は「ソ連、西ベルリンのダンチヒ化を希望」との見出しで報じた<ref group="注">ダンチヒ(現在のポーランド領[[グダニスク]])は、かつて[[プロイセン王国|プロイセン]]領内にあったが[[ポーランド]]の海の玄関口であり、[[第一次世界大戦]]後にポーランドが独立を回復してドイツとポーランドの狭間となった際はどちらの国にも属さない[[自由都市ダンツィヒ|自由都市ダンチヒ]]として存在したことを意識したもの。</ref>。ドイツの歴史家ハンス=ペーター・シュヴァルツは「この1958年の最後通牒から1963年までの期間は、すべての外交に第三次世界大戦の影がさしていた」としている。フルシチョフの通告に対し、[[ヴィリー・ブラント]]西ベルリン市長はその日のうちに拒否の声明を出した<ref name=":4">{{Cite book|和書|author=永井清彦|authorlink=永井清彦|title=現代史ベルリン|date=|year=1984|accessdate=|publisher=[[朝日新聞社]]|series=[[朝日選書]]|isbn=978-4022593467}}</ref>{{Rp|149-153}}。
12月14日にパリで英米仏および西ドイツの各外相が集まり、これに西ベルリン市長も加わって討議し、16日にNATO理事会での協議を経て、ソ連の非難には法的根拠がない(ベルリンに対する取り決めはポツダム宣言以前の1945年2月6日に発効されたものである)として自由都市化を拒絶するものであった{{Sfn|本村|pp=62-63}}。そして12月31日に占領軍としての権利を断念する気はないと回答している<ref name=":4" />{{Rp|149-153}}。翌1959年2月にフルシチョフは西側軍隊の6か月以内の撤兵期限を延期し、その後9月に米国を訪問しアイゼンハワー大統領と会談して期限を再度保留し、ベルリンの将来的地位とドイツ問題と軍縮について1960年5月にパリで予定されている英米仏ソ4か国首脳会談で協議することで米ソ間で合意した。しかしこのパリ会談は直前に起きたU2型機事件で失敗に終わった<ref name=":2" />{{Rp|102}}。
=== ベルリン問題への西側各国のスタンス ===
後に[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]大統領の時代に、国家安全保障担当特別補佐官そして国務長官を務めて米中外交の立役者となった[[ヘンリー・キッシンジャー]]は、著書「外交」の中で、西ドイツの[[コンラート・アデナウアー|アデナウアー]]首相はフルシチョフとの交渉に一切希望を持っていなかった、と述べている。アデナウアーは自国の将来において、英米とドイツの利益は不可分である、として大西洋同盟に参加し、西側同盟国はドイツ統一を東西外交の課題とすることで自由選挙に基づくドイツ統一でなければならないと考えていた<ref name=":7">{{Cite book|和書|author=ヘンリー・キッシンジャー|authorlink=ヘンリー・キッシンジャー|title=外交|date=|year=1996|accessdate=|publisher=[[日本経済新聞社]]|isbn=978-4532161903|translator=岡崎久彦(監訳)|volume=下}}</ref>{{Rp|183-184}}。
しかしイギリスとアメリカは違っていた。イギリスはドイツ統一に現実性を認めず、かつての敵国の首都ベルリンを巡って戦争の危険を冒すことには躊躇していた<ref name=":7" />{{Rp|184-185}}。[[ハロルド・マクミラン|マクミラン首相]]は戦争を望まなかったし、第二次大戦の敵であったドイツ人のための戦争などは論外であり、ドイツ再統一に反対であることを隠そうとはしなかった<ref name=":8">{{Cite book|和書|author=エドガー・ヴォルフルム|title=ベルリンの壁〜ドイツ分断の歴史〜|year=2012|accessdate=|publisher=洛北出版|isbn=978-4903127170|translator=飯田収治・木村明夫・村上亮}}</ref>{{Rp|68}}。
アメリカは、この時期に米ソ関係で[[デタント]]が進み、フルシチョフが平和共存路線をとる中で、ベルリンのために戦争の危険を冒す意図はなく、アイゼンハワー大統領はヨーロッパで地上戦を戦うことはないであろうと公言していたし、[[ジョン・フォスター・ダレス|ダレス]]国務長官は「2つの国家による連邦制度は受け入れ可能である」とほのめかし、それを聞いたアデナウアーは激怒し連邦制は全く受け入れられないと譲らなかった。
1958年11月の最後通牒の時にアイゼンハワーはダレスに、東西ベルリンとそのアクセス権が[[国際連合|国連]]の管理下に置かれるのであれば自分は自由都市の考え方を受け入れることは可能だと電話での会話で述べていた<ref name=":7" />{{Rp|190-193}}。アイゼンハワー政権の国家安全保障担当補佐官ゴードン・グレイは、アイゼンハワーはベルリンの地位を変えようという意思を持っていたことを、後に述べている<ref name=":7" />{{Rp|196}}。ただしアイゼンハワーの戦略は封じ込めの原則から導かれており、ソ連が西側に挑むことになれば当然どこでもソ連と戦う姿勢であることに変わりはない。あくまで現状維持に重心を置いていた。アイゼンハワーはフルシチョフの言動は脅しであると見通して、[[戦略兵器]]全般でソ連が劣勢であることも気づいていた。後任のケネディ大統領もこの現状維持からベルリンでの些細な危険を冒すことを躊躇していた。西ベルリンへのアクセス権やドイツ統一のためにアメリカ兵を失う危険を冒すことが如何に愚かなことであるかを考えていた<ref name=":7" />{{Rp|199-200}}。この期間、英米と西ドイツ・フランスとの間では対ソ関係でズレが生じていた。
フランスは1958年に[[フランス第五共和政|第五共和政]]がスタートした時であったが、[[シャルル・ド・ゴール|ド・ゴール]]大統領は一貫して英米の大西洋同盟を嫌い、かつての侵略国であった西ドイツとの間で仏独協調を重視し、かつソ連との交渉は一切妥協してはならないとして非妥協的態度を貫き、戦争の危険性は主に西側の優柔不断さにあると明言していた<ref name=":7" />{{Rp|187-189}}。しかしこの時期は[[アルジェリア戦争]]が終結を迎えたがフランス国内は世論の左右分裂で苦しんでいた時期であり、フランスからみるとベルリン危機は考え得る最も不都合な時期に到来した問題でもあった<ref name=":8" />{{Rp|68}}。
=== 東ドイツの焦燥===
[[File:Bundesarchiv Bild 183-J1231-1002-002 Walter Ulbricht, Neujahrsansprache.jpg|thumb|200px|left|ヴァルター・ウルブリヒト(1970年)]]
こうした中で1961年初頭に、それまでに東西ベルリンの交通遮断を求めていた東ドイツの[[ヴァルター・ウルブリヒト|ウルブリヒト]]第一書記は、ソ連のフルシチョフ首相宛てに書簡を送り、英米仏の西ベルリン占領権を終わらせること、西側軍隊の削減そして撤退、西側のラジオ局とスパイ機関の撤去、英米仏そしてソ連が管理する郵便サービスから航空管制までの国家的機能の東ドイツへの移譲を要求した。とりわけ西ドイツから西ベルリンへの全航空アクセスの管理権を強く要求した。
この全航空アクセスの管理権を東ドイツが持てば、西ベルリンから西ドイツへの飛行便を全て止めることができ、人口流出問題の解決どころか、西ベルリンを締め上げ、自由な西側都市としての力を削ぐことが可能となる。ウルブリヒトはそう考えていた{{Sfn|ケンプ|2014a|pp=166-167}}。ウルブリヒトはまた党政治局会議で「難民の流出を基本的に阻止する」計画の策定を目的とした作業部会を設置することも年初に決めていた。この作業部会の中心メンバーがカール・マロン内相、[[エーリッヒ・ミールケ]]国家保安相、そして[[エーリッヒ・ホーネッカー]]党書記であった{{Sfn|ケンプ|2014a|p=145}}(後にウルブリヒトの後任として第一書記に就任する)。
この「難民流出阻止」のための策が東西ベルリン間の通行遮断であり、壁を建設することであった。実はこの計画そのものは、9年前の1952年にウルブリヒトは当時のスターリンに同様の解決策を示し、これを進める許可を求めたことがあった{{Sfn|ケンプ|2014b|p=12}}。またこの1961年3月の[[ワルシャワ条約機構]]諸国会議の時にウルブリヒトは東西ベルリンの国境線の封鎖を提案している。この時はソ連が棄権し、他の5ヵ国は異常な手段による威信の喪失を惧れて反対し、否決されていた<ref name=":4" />{{Rp|157}}<ref group="注">この情報は当時は伏せられて西側には伝わらず、5年後の1966年8月に『[[デア・シュピーゲル]]』が伝えて初めて分かったことであった。</ref>。
しかし西側から東ドイツを守るため、東西ベルリンの交通を遮断しベルリンの壁が建設される方向で東ドイツは動き始めた。実質的には、西ベルリンを封鎖する壁というより東ドイツを外界から遮断する壁であり、西ベルリンを東ドイツから隔離して囲む形で構築されたのがベルリンの壁である。そしてそれは国境線の境目に建てられたのではなく、東側に入った所に建てられた。このことは壁そのものに対して西側からは何も出来ないことを意味していた。あとはフルシチョフの決断を待つだけであった。
ドイツの歴史家マンフレート・ヴィルケが著書『壁の道』の中で1961年8月のウルブリヒト・フルシチョフ会談の記録から、壁の建設の決定権はソ連が握っていたことを明らかにした<ref>{{Cite|title=|date=2011年8月14日|year=|last=|first=|newspaper=読売新聞|page=国際6面|publisher=|isbn=}}</ref>。壁の建設について、当時のウルブリヒト国家評議会議長が東ドイツ国家の崩壊を恐れて、ソ連のフルシチョフに東西ベルリンの交通遮断を求めていた。ヴィルケによると、ウルブリヒトが東西ベルリン遮断をソ連側に求めたが、フルシチョフは1961年6月の[[ウィーン]]での[[ジョン・F・ケネディ]]米大統領との会談まで待つよう返答していた<ref group="注">ウルブリヒトがこの時に強気に出たのは事実だが、フルシチョフがその要請に屈したとか、待つように求めたという言説は当時の東西冷戦時代の時代環境を理解すればあり得ない話である。これはベルリンに関する4ヵ国協定が存在する限り、東ドイツは何も出来ず、ソ連は米英仏3ヵ国との緊張関係の中でベルリンと関わっていて、一触即発で戦争状態も想定される状態の中で、むしろ東ドイツの動きを抑える立場であった。主導権は東ドイツが崩壊するまでソ連が握っていた。</ref>{{要出典|date=2022年3月}}。
=== ウィーン会談 ===
[[画像:John Kennedy, Nikita Khrushchev 1961.jpg|300px|left|thumb|フルシチョフ首相(左)とケネディ大統領(右)(1961年6月3日)]]
1961年6月3日から4日にかけて、ケネディとフルシチョフとの間で[[ウィーン会談|米ソ首脳会談]]が行われた。初日のキューバ問題や東西関係全般についての協議は両者の主張を述べる平行線的状況にとどまっていたが、2日目にベルリン問題が討議されると、激しい意見の応酬になった。
まず、フルシチョフは、米英仏ソと西ドイツは、東ドイツと[[平和条約]]を結んで、[[第二次世界大戦]]の戦後処理を終えるべきだと主張し、「ベルリンの地位を変更する平和条約を結ぶことで大統領と合意したいと思う。それが出来なければソ連単独で条約を結び、これまでの戦後の約束を全て反故にするつもりだ。以後は西ベルリンは自由都市となる。そこにはアメリカ軍は留まるがソ連軍も入る。国連軍や中立国軍が駐留することも賛成する用意がある。」と語った。対してケネディは「西欧はアメリカの国家的安全のためには不可欠なものです。西ベルリンを語ることは西欧を語っているのです。なぜアメリカが不可欠な関係を持ち長く存在している場所から去るように求めるのか、理解するのが困難だ。戦争によって勝ち得た権利を放棄することをアメリカは決して同意しない。」と主張した。
するとフルシチョフは激しく反発して「この行動がアメリカの利益に反するとは全く理解に苦しむ発言です。ベルリンにおける自国の利益を保護しなければならないというアメリカの論理は到底理解できないし、ソ連が受け入れることはありません。世界の如何なる力をもってしても我々が平和条約に向けて前進することは誰も止めることは出来ません。」と語り、ここで平和条約を結んだ後の西ベルリンの状態についてフルシチョフは「ソ連と東ドイツで平和条約が為されれば、ドイツ降伏の際に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]間で取り決めたベルリン占領権や通行権は失効する、つまり、各国の軍隊はベルリンから撤退せねばならない」と説いた。これに対して、ケネディは「ベルリンを見捨てればアメリカは信用を失う」と主張し、激しい応酬となった。
フルシチョフは「ソ連は平和条約を結びます。ドイツ民主共和国の主権は尊重されます。その主権に対するいかなる侵害もソ連によって公然たる侵略行為と見なし、しかるべき結果を招きます。」と半ば戦争を招くことになると公言してケネディを驚かせた。結局ケネディは引き下がらず、フルシチョフは「ソ連は今年中に単独でも東ドイツと平和条約を締結する。」と告げ、あるいは「条約に至らなくても東ドイツと暫定的協定を結び、そして戦争状態が終結すれば、(東ドイツ領土である)西ベルリンに西側の軍隊が駐留するのは侵略行為になる。」と続けた。さらに「侵略を阻止するためには戦争も辞さない」と捲し立てた。しかしケネディは、フルシチョフの要求を完全に突き返し、どんな危険を冒しても西ベルリンを守りきると告げ、物別れのままウィーン会談は終わった{{Sfn|ケンプ|2014a|pp=330-346}}。
=== ソ連の袋小路===
ケネディとの会談でフルシチョフは、米国が東ドイツを国家承認し、平和条約を結ぶするよう求めたが、ケネディは拒否した。そしてそれならばソ連は単独で東ドイツと平和条約を結び、その結果西ベルリンの占領統治は終わり、東ドイツに返還しなければならないと主張した。
しかしこれは結局ソ連にとって自らの手を縛ることになった。西ベルリンに西側3ヵ国の軍が、東ベルリンにソ連軍が存在する状況で、東ドイツに管理権を譲ったところでそもそも東ベルリンに[[東ドイツ軍]]は入っていない状態であり、東ドイツには何もできない。ヴィルケによれば「東ドイツはソ連を通じてしか目的を実現できず、国際交渉において発言力は無かった」と指摘し、「ソ連にとってベルリン問題はあくまでも欧州の力関係をソ連優位にするためのテコだった」とし、ベルリンの壁建設は米軍を撤退させ、西ベルリンの管理権を握るというソ連の外交攻勢からの撤退だったと結論している。
後にフルシチョフが語ったところでは、ウルブリヒト第一書記がベルリンの交通遮断を求めたが、壁の建設にフルシチョフは苦悩していた。
壁の建設は社会主義の世界的評判にとって打撃であることを彼は十分認識していたが、一方で東から西へ大量の人口流出に対策を早急に打たなければ東ドイツ経済が完全に崩壊するのは目に見えていたためである。人口流出を防ぐためには空路の遮断か壁の建設の二つだが、前者は米国との武力衝突を招きかねなかったのである{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=13,58-59}}。
ウィーン会談の決裂をきっかけとして、フルシチョフは壁の建設とベルリンの交通遮断を認めた。しかし、会談で通告した東ドイツとの平和条約締結は10月に撤回している。東ドイツへの影響力を保持するには現状のままでベルリン問題へのソ連の主導権を確保することが得策であることに気づいたからであった。やがて米ソ両国の主導権を握る地域を明確に分けて、お互いが干渉しない暗黙の了解が成立し、ベルリンの壁を建設し通行を遮断したことで、ベルリン問題はその後に固定化し、逆に状況は安定化に向かうことになる。
=== ウルブリヒトの壁発言 ===
6月15日にウルブリヒトは西側記者との会見に臨んだ。この時点ではまだ壁建設の了解をソ連から取り付けていなかったが、ウィーン会談の結果を聞いてウルブリヒトは壁建設に進めると確信していた。そしてこの日の記者会見で、東ドイツはブランデンブルク門の脇に国境を設けるのかという質問に対して「そうした壁建設の計画があるとは承知していない。我が国の建設労働者は住宅建設に忙しく、誰も壁の建設など考えていない。」と答えた。国境のことを聞かれて思わず壁について答えてしまったのである。しかし記者たちはそのことに気づかず、その後の展開を誰も予測していなかった<ref name=":8" />{{Rp|61-62}}。
翌月に壁の建設の了解をソ連から得たことで、ウルブリヒトは向後にソ連と平和条約を結び、ソ連の後押しで西ベルリンの「解放」に進めると考えた。
=== アメリカの動き ===
ウィーン会談でフルシチョフのベルリン問題についての言及に苦しめられたケネディ大統領は、その後ベルリンに差し迫った状況が訪れようとしていることを予感していた。[[ ディーン・アチソン|アチソン]]外交顧問(トルーマン政権での国務長官)は、最も強硬な対応策を主張し、核戦争も辞さずとして国家非常事態宣言と戦時のような動員をかけるよう文書で大統領に提出した。しかし[[アーサー・シュレジンジャー]]特別補佐官は、この年の4月に行ったキューバのカストロ政権の転覆工作が準備段階で政治問題を過小評価して、軍事的及び作戦的な諸問題に注意を集中しすぎた結果失敗した[[ピッグス湾事件]]の過ちを喚起して、2人のスタッフ([[エイブラム・チェイズ]]と[[ヘンリー・キッシンジャー]])とともに、別の案を作成した。この間は政権内部で強硬派と柔軟派との議論が沸騰していた{{Sfn|ケンプ|2014a|p=383}}{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=15-23}}。
シュレジンジャー特別補佐官にとってアチソン案は、この危機を引返せないところまで押しやるリスクを含んでいることを危惧していた。それがピッグス湾事件の教訓であった。7月7日にケネディに自身の案を文書で提出した。アチソンの意見は最後の手段を検討しているが、危機が深まるまで交渉はせず、同盟国との協調もなく、軍事行動は述べてもその政治的目的は述べておらず、核戦争に踏み切る大義名分を練り上げることが不可欠であると書き入れた。それはアチソンの影響力を削ぐためであった{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=17-22}}{{Refnest|group="注"|キッシンジャーは、この時に別に文書をケネディに提出していた。その文書では、モスクワに対する強硬な意見をキッシンジャーも持っているが、外交を一切無視するようなアチソンの提言を無謀と断じた。そしてベルリン問題に対するケネディのスタンスに対しての警告を誤解の余地の無い内容で表現した。フルシチョフのベルリン自由都市構想(1958年)に対する中途半端さ、自由選挙に基づくドイツ統一を空想的と見なす考え方、アデナウアー首相を毛嫌いしていること、ベルリン問題についての関心不足が大西洋同盟に危機を生み出し、その結果で米国の安全上の利益を害する恐れがあり、西側諸国に深刻な影響を与えることなどを述べて「政策に関する如何なる考察も西側はベルリンで敗北などしていられないという前提から出発しなければならない」「大統領は西ベルリン市民の希望と勇気を維持するために、彼らに我々の信念が確実で実体的な証しを与えるべきだ」とした。しかし結局自分の意見が真剣に取り上げられることはない、と感じてこの年の10月にホワイトハウスのスタッフを辞任した{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=22-25}}。キッシンジャーがホワイトハウスに国家安全保障担当特別補佐官として戻ってきたのは、それから8年後のニクソン政権になってからである。}}。
7月8日にハイアニスポートのヨット「マーリン号」の中で、ケネディ・ラスク・マクナマラとテーラー軍事顧問が話し合った際には、ケネディは国務長官に声を荒らげて国務省の緩慢な対応に激怒していた。ケネディはこの時に国防長官にベルリンで衝突した場合の核を使用しない抗戦方法についての計画案の提出を命じ、核戦争への突入を避けるためにフルシチョフと語り合う時間を与える練り上げられたものでなければならないと述べた。このハイアニスポートのヨットでの会議から7月25日の大統領声明までの17日間の間に、アチソンの強硬な提案が少しずつ削ぎ落されていった{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=27-30}}。
この後に7月13日と19日に国家安全保障会議が開かれた。とりわけ19日の会議ではアチソンとマクナマラとの間で意見の応酬が交わされて、結局アチソン案は見送られた。そして25日にケネディはテレビ演説を行った。
「西ベルリンはコミュニストの海に浮かぶ自由の小島です。西ベルリンは鉄のカーテンの裏側の希望への灯です。(略)我々は西ベルリンの自由な人々を、我々の権利を、彼らの安全を維持しなければなりません。」と決意を表明して、国家非常事態の宣言ではなく、32億4700万ドルの国防費追加要請、陸軍兵力を87万5000人から100万人に増員、海・空軍の実践部隊の増員、そのための徴兵を3倍に増やし予備兵力を招集{{Sfn|本村|p=64}}し、ワルシャワ条約機構諸国に対する経済制裁を課すことを述べて、年内までに対ベルリンへの空輸能力を高め、ヨーロッパへの配備に6個師団を追加することも発表した{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=30-37}}。
この演説において、ケネディは「西ベルリン」、「ベルリン」という語句を区別して使用していた。「西ベルリン」という単語を17回使用した。ベルリンの西部に手を付けない限り、ベルリンの東部は構わない、というメッセージに読めるものであった。この演説の前日に演説草稿文を読んだCIA高官ジェームズ・オドネルは、西ベルリンの安全保障ばかり繰り返しているとしてスピーチライターのセオドア・ソレンセンに文句を言っていた。ベルリンは理論上は4ヵ国の管理下にあるのだが、ケネディはソ連に東ベルリンでのフリーハンドを与えると伝えているようなものであった(この微妙なニュアンスについて、当時のマスメディアは全く気が付かなかった){{Sfn|ケンプ|2014b|pp=37-38}}。
これより前に6月のウィーン会談で、アメリカ側の政府高官は首脳2人の会議録を読んで驚いていた。アイゼンハワー大統領まではヨーロッパが東西に分裂している現実についてのコメントは控えていたが、ケネディ大統領は分割されている現実を積極的に受け入れて、分割を受容可能で永続的なものと認め、しかも「世界に生起し勢力均衡に影響を与える変化は、米ソ両国が威信をかけた条約上の誓約に関わりの無い形で起こることが決定的に重要である。」とフルシチョフに語っていた。これはワルシャワ条約機構加盟国など東側に属する国にはアメリカの干渉はあり得ないことを示唆していることになるのである{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=311,318,319}}。
そして8月初め、ケネディは冷静にフルシチョフの言葉を振り返って、ウオルト・ロストウ補佐官に語っていた。「フルシチョフは東ドイツを失いかけている。東ドイツを失えば東欧全体を失うことになる。だから難民流出を止めるために何か手を打つだろう。たぶん壁を築くことになるだろう。我々はそれを阻止できない。だが西ベルリンを守ることは出来る。しかし東ベルリンを塞がせないために行動することは出来ない。」{{Sfn|ケンプ|2014b|p=42}}。
ケネディはフルシチョフがウィーン会談で突き付けた最後通牒を拒否し、西ベルリンについて、西側軍隊の駐留、自由な通行、自由な政治状況の保持の3点を要求したが、これは米国の関心が西ベルリンの現状維持に限られることを示すシグナルに他ならなかった<ref name=":1" />{{Rp|96}}。
==ベルリンの壁の建設 ==
[[File:Mauer axb01.jpg|thumb|300px|left|'''ベルリンの壁''']]
[[File:Bouchéstraße-Harzer Straße - Berliner Mauer, 1989-11-18.png|thumb|分断されたハルツ通り。1989年]]
1961年7月6日にフルシチョフがウルブリヒトに、「東西ベルリンの境界閉鎖」の決定を伝えた{{Sfn|ケンプ|2014b|p=12}}。8月3日にフルシチョフとウルブリヒトはモスクワで細目の詰めを行った。この時にソ連と東ドイツとの平和条約を結ぶ件については、壁の建設が終わってからとして、フルシチョフは「西ベルリンと西ドイツを結ぶ地上ルートも航空ルートも妨害する如何なる行動を取ることを望まない」と述べて、ウルブリヒトは「難民流出に比べれば二次的な問題だ」として同意した。また実行に当たっては全ての作戦が厳密に東ベルリンの内側で行わなければならないとして、「1ミリでもはみ出してはならない」と釘を刺した。そして8月12日([[土曜日]])から13日([[日曜日]])にかけての夜間に実行することで決まった{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=43-44}}。
5日、ワルシャワ条約機構首脳会談最終日に、フルシチョフが
* 東西ドイツ間に存在する国境と同程度に浸透不能な境界を設置する。
* ベルリン市内の境界を含むドイツ民主共和国の国境に西側諸国の国境に存在するものと同程度の管理を実行する。
と述べると、これを加盟諸国は異論なく受け入れ、自国の軍隊をソ連軍支援のために移動させることに同意した。しかし東ドイツへの経済的保証については加盟各国は西側とも貿易関係があったため、西側の経済的報復を恐れて同意には至らず、フルシチョフは憤然とした。そして加盟国からなぜ米国の軍事的反応をもっと心配しないのだ、との声があり、フルシチョフは「ケネディはライト級だ」と答えた{{Sfn|ケンプ|2014b|p=12}}。実は、この時にフルシチョフは6月3-4日のケネディとのウイーン首脳会談でのケネディの言動やその後の7月25日の演説を検討しながら、感触としてケネディのスタンスは、ソ連や東ドイツがどのような行動を取ろうと、それがソ連圏内に限定される限り、そして西ベルリンへのアクセス権を妨害しない限りアメリカは干渉しないというもの、と考えていた{{Sfn|ケンプ|2014b|p=44-47}}。
ウルブリヒトは東ベルリンに戻り、境界閉鎖そして壁の建設の準備の仕上げに入った。総指揮は党書記[[エーリッヒ・ホーネッカー]]であった。
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1986-0421-044, Berlin, XI. SED-Parteitag, Erich Honecker.jpg|thumb|200px|[[エーリッヒ・ホーネッカー]]党書記(当時)]]
この時、ベルリンで西へ逃れる難民の数は週1万人に達し、1日で2000人を超す日もあった{{Sfn|ケンプ|2014b|p=58}}。8月4日、東ベルリンを管理するソ連軍政官は東ベルリンに住みながら西ベルリンに働きに出て行く人々に対して、氏名を登録して家賃と光熱費を東側通貨のドイツマルクで支払うように命じた。この週末の難民流出者は3268人に上った{{Sfn|ヒルトン|2007a|pp=39-40}}。その後も流出者総数は8日に1741人、9日に1926人、10日に1709人、11日に1532人に上った。人民警察内部でも越境亡命者が後を絶たず、1959年で55人、1960年で61人、1961年はこの8月までで40人の流出が記録されている{{Sfn|ヒルトン|2007a|pp=42-43}}。
8月10日、イワン・コーネフ元帥が東ドイツ駐留ソ連軍の総司令官として派遣された。第二次大戦でのソ連邦英雄であり、ワルシャワ条約機構の初代司令官であり、フルシチョフが見込んでの派遣であった{{Sfn|ケンプ|2014b|p=59}}。
8月11日、東ドイツ人民議会は「ベルリンにおける報復主義的状況に対処するために東ドイツがとろうとする如何なる手段をも承認する」とした決議を採択する{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=62-63}}。この時点では議員もその具体的内容は伝えられておらず、壁の建設を知っていたのは軍のトップと社会主義統一党(SED)のウルブリヒト第一書記周辺だけで、政治局委員や国家保安局(シュタージ)幹部でも知らされていなかった。それほどに機密保持が厳重であったがために、西側各国及び情報機関も感知できず、アメリカCIAが東側に配置した諜報員からの情報でも壁の建設は全く入っていなかった。この間は西側情報機関は、東側が現状への打開策を打ち出すことは十分予想はしていたが、その内容は予測出来なかった。まして壁の建設は想像してもまず不可能という判断で思いも寄らなかった。西ドイツ連邦情報局には少なくとも複数の情報から、ソ連がウルブリヒトの裁量に任せて何かの行動に出ること、そして地区境界線を封鎖されそうであること、柵を築くのに適した軽量な資材が蓄えられていること、作業の開始が分からないこと等の情報は入っていた。その情報は少数の党幹部だけが知っていた{{Sfn|ヒルトン|2007a|pp=52-57}}。
東ベルリンに支局を置いた唯一の西側通信社であるロイター通信のアダム・ケレット=ロング記者は、たまたまこの人民議会の謎めいた決議について、党の宣伝担当責任者であったホルスト・ジンダーマン(後の東ドイツ首相)に聞くと、「この週末にベルリンを離れることを、私はしない」という答えが返ってきた。彼はそれから市内を取材して駅での警官の多さを見てから、事務所に戻り、「東ドイツは西ベルリンへの難民流出に関して、この週末に行動に出るだろう」という記事を世界中の新聞社に配信した{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=63-64}}<ref group="注">彼がこのレポートを出してすぐに西ベルリン支局から編集者が訪れたが、彼はその根拠を示せぬまま、東ベルリンで息をひそめながら注意深く周囲を観察していた。</ref>。
=== 国境封鎖そして有刺鉄線 ===
[[1961年#カレンダー|1961年8月12日]]は土曜日でいつもの休日であった。西ベルリン市長[[ヴィリー・ブラント]]は、[[ドイツ社会民主党|社会民主党]](SPD)の党首でもあり、9月に総選挙が行われるので、その選挙遊説でバイエルン州[[ニュルンベルク]]に出かけ、アデナウアー首相は同じように[[リューベック]]に遊説に出ていた。マリーエンフェルデ難民収容所は、この日も多くの難民が押し寄せ、その数は最終的に2662人になった{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=68-71}}。そして夜になってブラントは遊説先のニュルンベルクから夜行列車で[[キール (ドイツ)|キール]]に向かった{{Sfn|ヒルトン|2007a|p=55}}。[[ベルリン・オリンピックスタジアム|オリンピックスタジアム]]に近い将校専用クラブでは、この夜にダンスパーティーが開かれ、西側[[外交団]]や軍関係者が参加していた{{Sfn|ヒルトン|2007a|p=85}}。
午後4時に政治局会議が開かれ、ウルブリヒトから説明があったが討議はなく、したがって異議は無かった。会議後ウルブリヒトは指令書に署名し、ホーネッカーに執行を命じた。それからウルブリヒトは目立たないように、ベルリン郊外の迎賓館に行き、政府高官を集めた園遊会を夕方開いた。そして夜10時に参集した高官を一同に集めて、ウルブリヒトは「東西ベルリン間は今から3時間以内に閉鎖される。保安部隊にこの行動を私は命じた。まだ開いたままの境界を今後適切な管理のもとに置くための行動である」、「ついては、この命令書に閣僚諸君は署名してもらいたい」と語った。閣僚たちはこの時初めて壁の建設計画を知った{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=79-80}}。
数十台のトラックが数百のコンクリート柱を東ベルリン[[パンコウ区|パンコウ地区]]の警察営舎の備蓄場に集めていた。東ベルリン郊外のホーエンシェーンハウゼンの国家保安省の広大な敷地に、東ドイツ中から数百人の警察官が集まっていた。彼らは事前に角材4本を組み合わせた木製の障害物を作った。これに釘や留め金を打ち込み、[[有刺鉄線]]を張るためである。東側は、三重の包囲線を敷いていた{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=55-56}}。
* 第一の包囲線は、[[ドイツ民主共和国国境警備隊|国境警察隊]]、予備警察隊、警察学校生徒、[[労働者階級戦闘団]]で構成されており、国境線に有刺鉄線を張り、コンクリート柱を立てて第一の障壁を仕上げるのを援助する。
* 第二の包囲線は、[[国家人民軍|正規軍]]で構成されており、緊急事態が発生した場合は直ちに前進して最前線部隊を支援する。1945年7月の4か国協定では、東ドイツ軍は4ヵ国の許可がないと東ベルリンには入れないことになっており、これは協定違反であった。
* 第三の包囲線は、ソ連軍で構成されており、東ドイツ軍が総崩れになった場合は進出することになっていた。
[[File:Bundesarchiv Bild 183-85458-0002, Berlin, Mauerbau, Kampfgruppen am Brandenburger Tor.jpg|thumb|有刺鉄線の周囲を警護する労働者階級戦闘団(1961年8月13日)]]
13日午前1時、[[ドイツ人民警察|東ドイツ警察隊]]本部は、二つの指令を発した。1時5分にブランデンブルク門に国境警備隊が現れた。1時11分にロイター通信のアダム・ケレット=ロングのオフィスにワルシャワ条約機構加盟諸国の「西ベルリン全領域の周囲に確実な保護手段と効果的管理を構築する」旨の声明が届き、彼は急ぎ車を走らせてブランデンブルク門に向かったが、途中で警官に止められ、境界は閉鎖された旨を伝えられた。すぐにそこを離れて支局に戻り、「東西の境界線は本日、日付が改まると同時に閉ざされた」と世界中に配信した{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=83-84}}。この時に東ドイツ政府は東西ベルリン間の68の道すべてを遮断し、有刺鉄線で最初の「壁」の建設を開始し始めていた。午前1時30分、東ドイツ当局は全ての公的輸送を停止した。東西ベルリンを結ぶ[[フリードリッヒ通り駅]]では、西ベルリンから来た全列車の乗客の降車を許さず、各駅で列車の線路を破壊して有刺鉄線を張り拡げていった{{Sfn|ケンプ|2014b|p=56}}。その時西側3ヵ国の兵士はまだ寝入ったままであった。
イギリス特使団政治顧問バーナード・レドウィッジは、将校専用クラブのパーティーから遅くに帰宅して寝る準備に入った時に、英軍憲兵隊から電話で列車の深夜運行の中止、通信の遮断、検問所での道路封鎖の報告を受けた。急ぎスタジアム近くのオフィスに出向き、ロンドンに電話し、至急電を送った。これが最初の正式な通知であった。レドヴィッジはこの作戦にそれほど驚いておらず、「絶対に何かあるとは感じていたが、誰も推測出来なかった。情報源からは報告は無かった」と後年のインタビューで答えている{{Sfn|ヒルトン|2007a|pp=85-86}}。
西ベルリン駐在アメリカ公使アラン・ライトナーは、午前2時に境界閉鎖の第一報を受ける。部下のスマイサーとトリンカが指示を受けて偵察に出向き、車でポツダム広場から東ベルリンに入ることが許可されて、約1時間東側を回り、ブランデンブルク門から西ベルリンに戻った。スマイサーの目撃情報からライトナーはソ連軍がこの作戦に直接役割を果たしていないことで、アメリカにとって軍事的脅威でないと考える一方で、東ドイツの軍隊を東ベルリンに入れることを禁止している4ヵ国協定に違反していることも念頭に置いた。午前11時にラスク国務長官に最初の詳細な報告を打電した。「東ベルリン住民が西ベルリンへ入ることは妨げられた」、「東の経済的損失と、社会主義陣営の威信を失う難民流出に対処する措置である」と述べて、夜に次の電報を打電した時にはソ連軍の動きにも言及し、直接の介入は無いが、かなりの規模で動員したことは東ドイツ軍の信頼度について疑念を持っていることも付記し、また西側の軍関係者及び文民公務員は東へ自由に出入りしていることも付け加えた{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=86-89}}。
ほぼ午前2時すぎから、各地区に配置した[[労働者階級戦闘団]]から準備完了の連絡が相次ぎ、午前3時に警察本部は内務省への第1回目の報告を行い、その後1時間ごとに報告を続けた。3時25分にUPI通信が速報を配信した{{Sfn|ヒルトン|2007a|pp=87-89}}。午前4時、ブラントの乗った列車はキールに向かっていたが、途中のハノーファーに到着後に連絡が入り、急ぎ同地で下車しタクシーに乗り空港に向かった。午前4時30分にアデナウアー首相は首都ボン近くの自宅で就寝中に起こされ、状況を知らされた<ref group="注">アデナウアーは、この日が日曜日であったので、いつものように朝にミサに行っている。</ref>。ブラントが急ぎ西ベルリンに向かったのに対し、アデナウアーは西ベルリンにすぐに行くことはなかった。フランスの[[シャルル・ド・ゴール|ド・ゴール]]大統領は、[[パリ]]南のコロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーゼの別荘でいつものように週末の休暇で、やはり就寝中に[[クーヴ・ド・ミュルヴィル]]外相から電話で事態を知らされた。ド・ゴールはその時に「これで、ベルリン問題に片が付く」と語ったといわれる{{Sfn|本村|pp=91,96}}。
この頃、アメリカのスマイサーとトリンカは偵察を続け、フリードリッヒ通り駅に到着した。まだ深夜であったが、数十人の乗客(女性・子供・老人ら)がプラットホームに上がろうとして警官に押し戻されて、トリンカは後に「これが最後のチャンスと思ったのだろう。全ておしまいだと悟り、涙を流していた。」と語っている。駅構内には、12日付の党中央委員会からの命令書が以下のように張り出されていた{{Sfn|ヒルトン|2007a|pp=96-97}}。
{{quotation|東ベルリンと西ドイツ間の長距離列車は時刻表通り運行するが、当駅ではプラットホームAの発着とする。<br>
ベルリンの東西を運行する都市鉄道の以下の路線は運行を停止する。<br>
(中略、該当路線リスト)<br>
都市鉄道は今後も当駅と西ベルリン間を連絡するが列車はプラットホームBの発着とする。<br>
東ベルリン側郊外からの列車は当駅を終点としプラットホームCの発着とする。}}
この命令書には、その他に地下鉄の閉鎖駅が列挙され、西側からの路線の通る東側の地下鉄駅は列車が停止しないことも明らかにしていた。そしてここには記されていなかったが、これ以降西へ乗車できるのは警察からの正式な証書を持つ人だけとなり、プラットホームAとBはやがて閉鎖された。この駅から西へ向かって運行が再開されたのは、1989年になってからである{{Sfn|ヒルトン|2007a|p=98}}。この日に都市鉄道の8路線、地下鉄の4路線が交通不能となり、都市鉄道の48駅の全てで地区間交通が廃止され、東ベルリンの33駅のうち13駅が営業停止となった{{Sfn|ヒルトン|2007a|pp=175-176}}。
[[File:Bundesarchiv_Bild_183-88574-0004,_Berlin,_Mauerbau,_Bauarbeiten.jpg|thumb|left|200px|チェックポイント・チャーリーでのコンクリート壁の建設(1961年)]]
[[File:Bundesarchiv Bild 183-87665-0002, Berlin, Mauerbau, Checkpoint Charlie.jpg|thumb|220px|バスの乗客に許可証の提示を求める東ドイツ警備兵(1961年8月)]]
東ベルリンは大騒ぎとなり、人が動きトラックが動き回り、空気ドリルが道路を掘削していた。警察本部では電話が鳴り響き、各地区警察には命令が飛び交った。午前5時30分には、ポツダムに駐屯する工兵小隊が建設作業に駆り出された{{Sfn|ヒルトン|2007a|p=103}}。実際国境線近くの作業に駆り出された国境警備隊、予備警察隊、警察学校生徒、そして労働者階級戦闘団などは、内容は事前に一切知らされず、深夜になってから命令が出されて、動員されているのがほとんどであった。
[[エーリッヒ・ホーネッカー]]はずっと境界沿いを車で走り、細かい指示を出しながら作戦の進行状況を確認していた。午前4時頃にはほぼ作戦の重要な部分が達成されていることに満足して執務室に戻った。午前6時頃には全指揮官から任務は指示された通り実行されたとの報告を受けた。朝の6時までに東西ベルリン間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は午後1時までにほぼ建設が完了した。ホーネッカーはウルブリヒトに最終報告を済ませて帰宅した。
この夜のうちに、まだ境界線が強化されていない地域から、数百人の東ベルリン市民が西へ脱出した。湖沼や運河を渡った者、西ベルリン市民の知人の車のトランクや座席の下に隠れた者、自分のナンバープレートを西の友人のプレートに付け替えて越境した者など様々であったが、難民脱出のハッチはこの夜に閉ざされた。1961年8月13日にマリーエンフェルデ難民収容所に来た者は150名だった。しかし実際の越境者の数は不明である{{Sfn|ヒルトン|2007a|p=177}}。
これで東西ベルリン間の48キロを含む、西ベルリンを囲む環状155キロに渡る有刺鉄線が僅か一夜で完成した。2日後には石造りの壁の建設が開始された。その境界線は東西に193本の主要道路及び脇道を横切っており、それまで81カ所の検問所があって通行可能であったが、その内69カ所がこの日に有刺鉄線によって封鎖され、12カ所に限定された{{Sfn|ヒルトン|2007a|p=176}}。
東ドイツは建設当時、この壁を「近代的な西部国境」と呼び、「平和の包囲線」とも呼ばれていた。そして翌年8月、壁建設1周年記念行事を準備していた時に、この壁の正式名称の検討を始め、党政治局に設置された情宣委員会と中央委員会書記アルベルト・ノイデンが名称を「防疫線(コルドン・サニテル)」とする案がいったんは通ったが、再度検討することとなり、西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであるとして、「対ファシズム防壁([[:de:Antifaschistischer Schutzwall|Antifaschistischer Schutzwall]])」と呼ぶことに決定した<ref name=":8" />{{Rp|124-125}}。これは名目で、実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった。
=== ブラント市長の苦悩===
午前5時にハノーファーで夜行列車から急遽降りて、空港から飛行機で西ベルリンに戻ったブラントは、すぐに壁の建設現場に駆けつけた。「それまで何度かの危機でも頭はさめていたのだが、今度ばかりは冷静、沈着でいられなかった。」「何千、何万という家族が引き裂かれ、ばらばらにされていくのを見て、怒り、絶望する以外にはなかった。」と後に自伝で述べている<ref name=":4" />{{Rp|163}}。そしてブラントの目に映ったもう一つの冷たい現実があった。アメリカの冷静な態度であった。西ベルリン駐留のアメリカ軍は国防総省にも国務省にもホワイトハウスにも報告はしていた。しかし伝えられてきたのは「収拾がつかないような反応が起こらないようにせよ。」であった。休暇先からボンに戻ったモスクワ駐在西独大使のクロルは「西側諸国の受け身の態度に西ドイツの失望は大きかった。ベルリン市民は見捨てられたと感じていた。」と語っている。8月13日に、西ドイツも西ベルリンも連合国側の冷静さに驚かされていた。8月16日付けの西ドイツの大衆紙「ビルト」は一面トップで「西側、何もせず」という見出しを出した。西側は口頭での抗議しかなかった<ref name=":4" />{{Rp|163-166}}。後に有名になったこのビルト紙の見出しは「東側は行動を起こす・・西側は何をするか・・西側は何もせず・・ケネディは沈黙する・・マクミランは狩りに行く・・アデナウアーはブラントを罵る」であった<ref name=":8" />{{Rp|70}}。
壁を作った東側への怒り、何の手も打たない西側諸国とりわけアメリカへの失望、さらに西ドイツ政府への幻滅、アデナウアーはベルリンに来ず、15日の選挙演説でブラントの過去を取り上げて個人攻撃をする始末であった。アデナウアー首相は西ドイツ首相として首都ボンに留まり、すぐにベルリンに赴くことはせず、過度に慎重な姿勢に終始した。それどころか、ボンに駐在するソ連大使スミルノフに会い、「西ドイツは状況を危険に曝すような如何なる手段も取らない」と述べ、またタカ派で有名であったシュトラウス国防相でさえ、国民に冷静さを呼び掛けていた{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=112}}。
8月16日に市庁舎前の広場で25万人の市民が集まって抗議集会が開かれ、ブラントは抗議の演説をした<ref name=":4" />{{Rp|167}}。しかしまかり間違えば、市民の怒りは連合国側へ向けられることも十分に予測される事態に苦渋に満ちたものであった。ここで「ソ連の愛玩犬ウルブリヒトはわずかな自由裁量権を得て、不正義の体制を強化した。我々は東側の同胞の重荷を背負うことは出来ません。しかしこの絶望的な時間において彼らと共に立ち上がる決意のあることを示すことでのみ、彼らを援助出来る。」としてアメリカに対して「ベルリンは言葉以上のものを期待します。政治的行動に期待しています。」と述べた。ブラントはケネディに書簡を送ったことも明らかにした{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=116-117}}。
=== ソ連の安堵 ===
ソ連は東ドイツ軍の後方の第三陣として布陣して、大量の軍事的動員を行うことで、アメリカ軍などの西側への強いメッセージを送った。アメリカ軍が介入してきた場合の代価がどれほどのものになるか、明確に伝えたのであった。東ドイツ駐留ソ連軍総司令官のイワン・コーネフ元帥は、若干の危惧を持っていた。東ドイツ軍及び警察部隊の忠誠がどこまで信用できるのか、西側諸国の軍隊が前進してきたら彼らはどう反応するのか不安を感じざるを得なかった。しかし西側の軍隊は動かなかった{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=96-97}}。
そしてモスクワではフルシチョフが有頂天になっていた。米英仏を出し抜いたことで、最初は安堵しそれから歓喜の情に浸り込んでいった。東ドイツとの平和条約の締結によって得られると思っていたそれ以上のものを得たと感じていた。そしてフルシチョフはさらに突き進んだ。しばらく米ソ間で行っていなかった核実験の再開をアメリカよりも早く行った{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=123-126}}。
=== アメリカの沈黙===
アメリカなど西側諸国はベルリンをめぐる一連の出来事に対して最初から慎重な態度であった<ref name=":3" />{{Rp|356}}。それはこの動きが全て東側の領土内でのことで、ケネディが7月25日の声明で示した3つの条件の侵害はなく、全て向こう側のことであったことがその理由だった。それはまた西側も望んでいたことでもあった。不思議なことに実はアデナウアーも同様だった。
8月13日(日曜日)午前10時(ベルリン時間午後4時)にラスク国務長官とコーラー国務副長官が国務省に着いた。ラスクは「東ドイツとソ連が自国内でしたことだから戦争と平和の問題には直結しない。」と考え、「壁は彼らの防衛手段だ。また西ベルリンの位置とそこを包囲する軍事力の差を考えると自滅に追い込まれると予想され、道理に合わない。」と後に述べている。そして現地がソ連に対して抗議声明を出すことを禁じていた<ref name=":12">{{Cite book|和書|author=クリストファー・ヒル|title=ベルリンの壁の物語|volume=上}}{{疑問点|title=クリストファー・ヒルトン?|date=2019-01}}</ref>{{Rp|137-138}}。1945年7月7日に米英仏ソの4ヵ国で、ベルリンではお互いの部隊が制限を受けることなく行動できることを同意していた。ベルリン封鎖の後に1949年6月20日にも4ヵ国協定によって再度確認していた。従ってケネディは、この協定に基づいて東ドイツ部隊によって作られた壁を解体せよとアメリカ軍に命令する権利を持っていた。そもそもベルリンで東ドイツ軍が行動する権利はないのであった。しかし西側は動かなかった{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=94-95}}。この日にハイアニスポートで休暇中だったケネディとラスクが電話で打合せして抗議声明の内容を決めたが、この4ヵ国協定を引き合いに出しているものの予想の範囲内でしかなかった。ラスクはその日の午後に大リーグの試合セネタース対ヤンキースを見に野球場に行った。アーサー・シュレンジャー補佐官はその後の著書の中で「東ドイツの出血を止めることで、壁はベルリンに対するソ連の最大の関心を鎮めた。」と述べている<ref name=":4" />{{Rp|168}}。これはソ連勢力圏内の一現象に過ぎない、下手に介入するとか、脅迫じみた言動をすることは、危険すぎると考えていた。
8月14日にハイアニスポートからワシントンに戻ったケネディは午前にモスクワから戻ったトンプソン大使と会い、午後にラスク国務長官と会談した。ベルリン駐在のライトナー公使から何度もメッセージが届き、西ベルリン市民の士気が急激に低下している旨の内容であった{{Sfn|ヒルトン|2007a|pp=191-192}}。西ベルリンに居住する西側3ヵ国の軍関係者及び家族などの軍属並びに外交官などは従来通り東ベルリンへの通行は妨げられず、3カ所のチェックポイントを通って東ベルリンと往来は出来た。また西ドイツから西ベルリンへの陸路、そして空路もそのままで、西ベルリンに関する西側の権利を侵害することは無かった。
そして16日にブラントからの書簡を受け取ったケネディであったが、アデナウアー首相を飛び越えて一つの都市の市長からアメリカ大統領に書簡を送ったこと自体にケネディは怒っていた。しかし西ベルリンではアメリカが裏切ろうとしているという疑念が広まっているという報告を受けて、自分は一貫してクレムリンに立ち向かっていることをベルリン市民にも、ソ連人にも、そして国内のアメリカ人にも示すことが重要である認識に至り、何らかの行動に出ることを決意した{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=117-120}}。
イギリスのマクミラン首相は趣味の狩猟に出かけてスコットランドに滞在し第一報が入ってもそこに留まった。マクミランには状況は改善したと見えていた。これでドイツの分断は固定化し、ベルリン問題は安定化し、ベルリン危機は緩和された。つまりすべて目的は達せられたと考えていた<ref name=":8" />{{Rp|71}}。
=== 西ベルリンへの軍隊派遣===
8月18日、ケネディはジョンソン副大統領とクレイ将軍{{Refnest|group="注"|ルシアス・クレイ。1948年に西ベルリンが東側に封鎖された時に、大空輸作戦で西ベルリンを守った功労者である。<ref name=":16" />{{Rp|159}}}}をボンに派遣し、副大統領と将軍はそこから翌19日に西ベルリンに飛び、西ベルリン市民は二人を熱狂的に迎えた。ジョンソンは市庁舎前の広場で「今日、新しい危機において、あなた方の勇気は自由を愛する全ての人々に希望をもたらします。」「この都市の存続と未来を、我々アメリカは我々の先祖が独立宣言で誓ったもの、それと同じく我々の生命、財産、神聖な名誉に懸けて誓うものです。」と述べた。この言葉は13日の国境封鎖以来、意気消沈していたベルリン市民を勇気づけ、涙する者もいた。そして西ドイツから陸路アウトバーンで東ドイツを通過してアメリカ陸軍の精鋭部隊が西ベルリンに向かっていることもこの時にベルリン市民に伝えた{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=127-130}}。
8月20日に[[アメリカ陸軍]]{{仮リンク|第8歩兵師団 (アメリカ軍)|en|8th Infantry Division (United States)|label=第8歩兵師団}}第1戦隊約1600人が西ベルリン駐留部隊を増強するため、ベルリン市民の歓呼の中で西ベルリンに到着した。この精鋭部隊を東ドイツを通って西ベルリンに派遣すること自体がソ連との武力抗争を引き起こしかねない危険を伴うものと危惧する幹部もいたが、ケネディは西ベルリンを徹底的に防衛する決意を示すために実行した。そしてこの結果は西ベルリンへのアクセス権の確保が確かなものであることも裏付けられたが、西ベルリン市民にとってはアメリカが旗幟を鮮明にしたことだけで十分であった{{Sfn|ケンプ|2014b|p=132-134}}。
== 壁の構造 ==
[[ファイル:Structure of Berlin Wall.svg|thumb|left|350px|壁と無人地帯の構造]]
壁の建設は一気に行われたわけではなく、数度にわたって造り替えられた。特に初期の壁、ブロックを積み上げた文字通りの「壁」はベルリン中心部の一部にすぎず、郊外の田園地帯・牧草地帯・森林地帯・湖沼では、巻いた有刺鉄線の仕切りが二列に並べられただけのものであった。この二列は間隔が70m開いた部分もあれば、地形や住居の接近如何によってかなり狭まった部分もあった{{Sfn|ヒルトン|2007a|p=202}}。
時代が下るにつれて壁はより頑丈になり、1976年に行われた改造(4度目の改造のため、「第四世代」と呼ばれた)によって壁の建設はほぼ完成した。最終段階の壁では高密度の鉄筋[[コンクリート]]製のものが二重に建てられており<ref name=":11" />{{Rp|216-217}}、その2枚の壁の間は数十[[メートル]]の[[無人地帯]]となっており、東側から順番に、金網の柵(アラームつき)、道路(国境警備隊パトロールのため)、柵と道路の間に一定間隔の監視塔(東西ベルリン間48キロの区間だけで302カ所)、柔らかい土のベルト地帯(常に均されていて警備隊でも入れず、何者かが通ると痕跡が残る。夜は無数の照明に照らされている)、段差や対車輌障害物(車での突破を防ぐため)が仕掛けられていた。東ドイツ当局が監視の目を光らせており、壁を越えようとするものがいればすぐに分かるようになっていた<ref name=":11" />{{Rp|216-217}}。
壁の高さは3.6m、高いところで4.2mで、最上部が半円形にされており、乗り越えようとしても絶対に掴まる所が無く引っ掛ける所も無い状態であった。一番東側の壁から西側の壁までの距離は60mを超え、警備隊員と[[番犬]]以外は全く無人地帯で隠れることが出来ない恐ろしいほど殺伐とした光景の一帯であった<ref name=":11" />{{Rp|217-218}}<ref group="注">なお一部の無人地帯には電線があったが、これは警報装置への電源・信号ケーブルで、一部で言われたような[[電気柵|高圧電流を流した剥き出しの金属線]]ではなかったとされている。</ref>。また、[[1970年]]には仕掛けケーブルに触れると散弾を発射する対人地雷{{仮リンク|SM70|en|SM-70}}({{仮リンク|自動発砲装置|de|Selbstschussanlage}}と呼ばれ、[[クレイモア地雷]]と原理において同じ)も設けられたものの<ref>{{Cite book|author=|title=Jane's mines and mine clearance, 2000-2001|url=https://www.worldcat.org/oclc/52132880|edition=5th ed|date=2008-06-25|year=|accessdate=|publisher=Jane's Information Group|isbn=0710620268|quote=SM-70 (Germany), Mines less widely used|location=Coulsdon, Surrey, UK|oclc=52132880}}</ref>、被害者に大きな苦痛を与えると非難されたため1984年に撤去された。
[[ファイル:Berlinermauer.jpg|thumb|200px|彩られたベルリンの壁の西側([[1986年]])]]
最終的に壁の総延長は155[[キロメートル|km]]{{Refnest|group="注"|『ベルリン物語』<ref name=":11" />では155kmとしているが、『ベルリンの壁』<ref name=":8" />では 160kmとしている。}}、無人地帯の総面積は49,000m{{Sup|2}}から55,000m{{Sup|2}}に及び、ほぼ1つの町の総面積に等しいものであった{{Sfn|ヒルトン|2007a|p=202}}。壁は東側からは幅100mの無人地帯のため立ち入ることができなかったが、西側からは接近することができたため、壁の西側では壁の建設を非難し撤去を求める政治的な落書きが出現するようになった。やがてさまざまなメッセージや色鮮やかな[[ストリートアート]]が壁の西側を彩った。
== チェックポイント・チャーリーの対決==
[[File:EUCOM Checkpoint Charlie Standoff 1961.jpg|thumb|left|[[チェックポイント・チャーリー]]でソ連側と睨み合う米軍戦車(1961年10月27日)]]
{{See|チェックポイント・チャーリー}}
1961年10月17日、ソ連共産党第22回大会でフルシチョフ首相は年末までに東ドイツとの平和条約を結ぶとの主張を取り下げた。事前に相談を受けなかったウルブリヒト東独第一書記はこのソ連の方針変換に不満であり、抗議の意思をこめて東ベルリンでの境界線での入国審査の厳格化という実力行使に訴えた。西側の文民公務員に対し身分証明書の提示を求めるようになったが、この対応は4ヵ国協定に違反しており、ソ連からもマリノフスキー国防相名で、東ドイツはソ連の許可なしに境界線において何も変更してはならない、と通達を出していた{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=212-213}}。
10月22日、アラン・ライトナー米国公使夫妻が[[チェックポイント・チャーリー]]を通過しようとしたときに身分証明書の提示を要求された。ライトナー公使はこれを拒否し、警備隊と押し問答の末に強引に検問所を突破して往来の自由を主張するなどした。その後、クレイ将軍は本国のラスク国務長官の許可の下、チェックポイント・チャーリーでの外交官の示威行動を行い、米軍兵士の護衛付きで外交官が検問所を突破するなどした{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=235-236}}。警備隊は当初は特段強行に阻止するなどはしていなかったが、10月27日、示威行動を行った米国側が引き返そうとしたところ、突如としてソ連軍が戦車を検問所前まで進めた。米軍も待機していた戦車を出動させ、両軍は検問所を挟んでにらみ合った{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=237-239}}。
クレイ大将は実力行使も辞さずの構えだったが、ケネディは西側諸国間でのベルリン問題の意見の相違の調整で苦しんでいた時期であり、一検問所でのトラブルを大きくする余裕はなかった{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=226-229,231-234}}。一方フルシチョフは、壁の建設の時点でのケネディのシグナルから米国がこれ以上の行動に出ることは無いと確信しており、報告を聞いても「戦争なんて起こる訳はない」と考えていた{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=248-249}}。ケネディとフルシチョフは極秘で連絡をとり、一触即発の状態は20時間ほどで解消された{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=253-254}}。米軍側を主導したクレイ大将はその後本国に呼び戻された{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=252-253}}。またフルシチョフも米・東独間の[[平和条約]]締結案を正式に取り下げたうえで、ウルブリヒトに対しては「特にベルリンにおいて、状況を悪化させるような行動は避けよ」と改めてくぎを刺した<ref>{{cite web|author=Langill, Richard L.|url=http://homepages.stmartin.edu/Fac_Staff/rlangill/PLS%20310/The%20Wall,%201958-1963.htm|title=The Wall, 1958-1963|language=英語|accessdate=2008年5月11日}}</ref>。
この事態は「({{仮リンク|ベルリン危機 (1961年)|en|Berlin Crisis of 1961|label=ベルリン危機}})」と呼ばれ、後に「米ソの最初で最後の直接武力対決の舞台」と言われた{{Sfn|ケンプ|2014b|p=210}}。
この事件以降、壁の存在は両陣営の武力衝突を回避し、冷戦の状態を維持する役割を果たすことになった。実際にケネディも「(壁は)非常によい解決法というわけではない、が、戦争になるよりはずっとましだ」<ref>Gaddis, John Lewis, ''The Cold War: A New History,'' 2005, p. 115.</ref>と、壁の存在について容認する発言をしていた。
ベルリン駐在の米国外交官リチャード・スマイサーは後に「壁は東ドイツを強化ないし救済するためのもので、チェックポイント・チャーリーでの事件はある意味でゲームだった。クレイは戦車隊が到着してすぐにそれを察知し、様子を見ることにしょう、と言った。実際戦車が対峙していても緊迫した空気は無かったし、双方とも発砲する気は無かった。この事件で第三次世界大戦を始めようとは思っていなかったし、ロシアもそのつもりは無かった。」と語っている<ref name=":12" />{{Rp|281-283}}。
ヘンリー・キッシンジャーはその著書「外交」の中で、このベルリン問題について、「フルシチョフが東ドイツとの平和条約を断念し、ベルリンの壁の成功が個別の平和条約を不要にしたと宣言したことで、ベルリン危機は終わった。」と述べた。そして「危機を通じて序盤に鮮やかな動きを見せた後に、相手が進退窮まって投了するのを待つチェスの棋士のように振る舞った。しかし外交記録を読むと、交渉で数多の選択肢が示されて論じられ暗示されているのにそれを少しも利用しなかったことは理解しがたいことだ。」「結局フルシチョフは自分が何度も最終期限を設定しながら何もせず、西側同盟国を交渉に巻き込ませた数々の選択肢についても何もしなかった。3年間の最後通牒と血も凍る脅迫(1958年の自由都市宣言と1961年ウイーン会談におけるケネディへの最後通牒)の後でフルシチョフの成功はベルリンの壁を作ったことだが、これは結局、ソ連のベルリン政策の失敗を象徴するものとなった。」「フルシチョフは自ら作り出した絡み合った罠に自らはまり込んでしまった。」としてベルリン危機は翌年秋に起こったキューバ危機とともに冷戦の転換点となったと述べている<ref name=":7" />{{Rp|208-210}}。この壁建設は結局1958年の最後通牒から大きく後退し、西側に対決するものでなく、東ドイツ人の利益に対立するものであった。そしてこの時は西側は知らなかったが、東側陣営での中ソ対立で中国との関係が悪化していたことが一定程度西側への態度を軟化させていた、とも見られている<ref name=":15">{{Cite book|和書|author=ハインリヒ・アウグスト ヴィンクラー|title=自由と統一への長い道 〜ドイツ近現代史 1933-1990年〜|date=|year=2008|accessdate=|publisher=[[昭和堂]]|isbn=978-4812208342|volume=II}}</ref>{{Rp|199}}。
この1年後の1962年10月に、キューバにソ連が密かに核ミサイル基地を建設しようとしていたことを発見した米国はキューバを海上封鎖してソ連にミサイル基地撤去を迫り、核戦争の一歩手前まで行ったがうまく回避しソ連のミサイル基地撤去を勝ち取った。{{Main|キューバ危機}}
== ケネディ大統領の訪問==
[[File:JFKBerlinSpeech.jpg|thumb|left|ベルリン市民の前で演説するケネディ(1963年6月26日)]]
[[File:JFK speech lch bin ein berliner 1.jpg|thumb|right|ケネディの演説を聞くために市庁舎前に集まった30万人のベルリン市民(1963年6月26日)]]
{{See also|Ich bin ein Berliner}}
1963年6月26日にケネディ大統領は西ベルリンを訪問した。ベルリンの壁建設時は苦境に立たされたケネディであったが、翌年10月のキューバ危機では、トルコからのミサイル引き揚げと取り引きする形でキューバへの核兵器配備を阻止し、6月10日にアメリカン大学での「平和のための戦略」演説でソ連との直接交渉を始めたばかりであった。この時期には西ベルリン市民のケネディへの人気は高まっていた。
この日、アデナウアー首相とブラント市長とともに100万人の市民の歓呼に答え、ベルリンの壁近くの市庁舎前広場で30万人のベルリン市民を前に演説した<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=fhr4PKxVyvE&t=144s Reel America: President Kennedy in Berlin, 1963] C-SPAN</ref>。ベルリンの壁が築かれてまだ西ドイツも西ベルリンも複雑な状況ではあったが、この頃になると次第に状況は安定に向かっていた。演説においてケネディは、ここで有名なフレーズを述べた<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=-GN1tcAWx9Y&t=109s John F. Kennedy at American University and in Berlin] C-SPAN</ref>。
{{quotation|2000年前、最も誇り高き言葉は「{{lang|la|[[Civis romanus sum]]}}(キウィス・ロマーヌス・スム、私はローマ市民だ)」であった。今日この自由な世界で誇り高き言葉は「{{lang|de|[[Ich bin ein Berliner]]}} (イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー、私はベルリン市民だ)」である。}}
そして共産主義を激しく批判して、最後にまたドイツ語で締めくくった。
{{quotation|このベルリンの壁は共産主義の失敗を最も如実に示している。(中略)自由世界と共産世界の差異が分からないという者が多数いる。彼らはベルリンに来てみるがいい。(中略)共産主義は未来の波であるという人もいる。彼らはベルリンに来てみるがいい。(中略)欧州でも他の地域でも共産主義者と協力できるという人がいる。彼らはベルリンに来てみるがいい。(中略)共産主義は悪い制度だが経済的進歩をもたらすという人も少数はいる。{{lang|de|Lass'sie nach Berlin Kommen}}(彼らはベルリンに来てみるがいい)。{{Refnest|group="注"|ここで、ケネディはドイツ語で語っている。これはドイツ到着後にRIAS放送ディレクターのロバート・ロックナーとアデナウアー首相の通訳ハインツ・ヴェーバーから教わり、耳で聞いた通りにカードに書き込んでいた。そしてIch bin ein Berlinerも同じカードに書き込んでいた{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=278-279}}。}}(中略)民主主義は不完全ではあるが、自国民を囲い込んでおくために壁を建設したことは未だ嘗て一度もありません。(中略)自由になる、必ずその日はやって来ますが、その時20年以上も最前線に西ベルリン市民がいたという事実を静かに噛みしめるでしょう。どこに住んでいようと世界中のすべての自由を求める者は皆、ベルリン市民である。だからこそ私はこの言葉に誇りを持っています。{{lang|de|''[[Ich bin ein Berliner]]''}}{{Refnest|group="注"|よくこの言葉は不定冠詞einを入れたので「私はドーナッツ菓子です」と言っているようなものだ、という指摘をして間違ったドイツ語だったという説を唱える向きがあるが、RIAS放送ディレクターとアデナウアー首相の通訳の2人と事前に話し合って、einを抜かすと「私はベルリン生まれである」という意味になって、かえって聴衆を混乱させるとして、この言い方になったという。聞いていた30万人の西ベルリン市民がその意味するところを理解したからこそ熱狂し、その表現に言語学的疑問を感じた者はいなかった{{Sfn|ケンプ|2014b|p=279}}。}}。(以下略)}}
この言葉はアメリカの西ベルリンに対する決意の強さを表すものとしてソ連に対する強いメッセージとなった。それは西ベルリンを守ったという自負と、貧しい東から豊かな西へ逃亡しないようにしたのがこの壁であることの勝利の表明であった<ref name=":16">{{Cite book|和書|author=土田宏|authorlink=土田宏|title=ケネディ 神話と実像|date=2007-11-1|year=|accessdate=|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|isbn=978-4121019202}}</ref>{{Rp|166}}。壁建設の時点では見せなかった憤激を露わに共産主義を非難し、そしてこの時にケネディは大統領就任後に初めて、「これはドイツ人が戦後18年の行動を通じて勝ち得た権利であり、私はベルリンが、ドイツ国民が、そしてヨーロッパ大陸がいつの日か統一されるであろうことを確信するものである。」と、ドイツ再統一の権利について述べた。ケネディはこの演説でドイツとベルリンに関する米国の政策を新しい決意のもとに変えて、ベルリンを守るべき場所とし、以後米国はベルリンで引き下がることは無かった{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=279-280}}。
この演説は多くのベルリン市民やドイツ国民の心に残ることとなった{{Refnest|group="注"|「ヒトラーもビスマルクもどの皇帝も王も、これほど多くの人々の熱狂に歓迎されたことはない」とワルター・H・ネルソンは著書「ベルリン子たち」で書いている。そしてこの時の迎える側のブラント西ベルリン市長は後に「これほどの歓喜の声に包まれた客人はベルリン史上に例があるまい」と自伝に書いている<ref name=":4" />{{Rp|190-192}}。}}。この広場で行った演説は彼の政治活動のなかで最も成功したものだった<ref name=":17">{{Cite book|和書|author=ギャレス・ジェンキンス|title=ジョン・F.ケネディ―フォト・バイオグラフィ|date=2006/10|year=|accessdate=|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562040322}}</ref>{{Rp|231}}{{Refnest|group="注"|その日の夜、大統領専用機でベルリンを後にアイルランドに向かった際に、機内でケネディはセオドア・ソレンセンに「われわれの人生で今日みたいな日は二度とないだろう」と語った<ref name=":23">{{Cite book|和書|author=フレデリック・ケンプ|title=ベルリン危機1961〜ケネディとフルシチョフの冷戦〜|volume=|date=|year=2014|accessdate=|publisher=[[白水社]]|translator=[[宮下嶺夫]]}}{{疑問点|title=上巻または下巻では?|date=2019-01}}</ref>{{Rp|280}}。}}。
ケネディ暗殺後、この広場はジョン・F・ケネディ広場と改名された<ref name=":4" />{{Rp|196}}。
== その後==
西ドイツのブラント首相の東方外交で、西ドイツとソ連、西ドイツとポーランド、そして東西ドイツの間で関係改善が進むと、ベルリン問題についても恒久的であれ暫定的であれ平和的に処理しようとする動きが1970年に入ってから活発になった。そして1971年9月3日に米英仏ソの4ヵ国協定が締結され、更に東西ドイツ間で細部の取り決めを合意し、翌1972年6月3日に発効した。この協定には東西ベルリンの地位は曖昧で、東ベルリンは「隣接する地域」と表現されてベルリン全体の問題には触れていないが、ソ連は東ベルリンに大使館を置きながら西ベルリンにも領事館を置き、暗黙のうちに西ベルリンが自己の勢力範囲であることを断念し、また西側3ヵ国軍の西ベルリンへの駐留、西ベルリンへの通行を認めた。一方西側は西ドイツと西ベルリンとが政治的には別の存在であることを認め、かつ東ベルリンを東ドイツの首都であることも認めた。これで戦後の東西ベルリンの間で未解決であった西ベルリンでの西側各国の駐留権、西ベルリンへの通行権が保障された{{Sfn|本村|p=73-74}}。
さらに1972年に[[東西ドイツ基本条約]]が結ばれて、相互に対等な主権と領土を認め<ref group="注">国際法的な意味での国家承認ではない。エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」147P参照</ref>、翌1973年に東西ドイツは同時に[[国際連合|国連]]加盟を果たした。
=== 東から西への亡命 ===
東西ドイツの間で1961年から1988年までに総計23万5000人が「共和国逃亡」によって西ドイツに逃れた。そのうち4万人が国境の見張りをすり抜けて越境した者で、更にその中の約5000人余りがベルリンの壁を乗り越えた者であるが、その大部分はまだ壁の国境管理が甘かった1964年までの数字である<ref name=":8" />{{Rp|104}}。東ドイツ側の国境超えの「逃亡未遂」に関する刑事訴訟の手続きは1958年から1960年までで約2万1300件、1961年から1965年までで約4万5400件であった。そして1979年から1988年までの「逃亡未遂」の有罪判決は約1万8000件であった<ref name=":8" />{{Rp|105}}。これはベルリン以外の東西ドイツ国境での逃亡未遂も含めての数であり、ベルリンの壁を超えようとした未遂及びその準備をした者はおよそ6万人以上とみられ、有罪判決受けて、平均4年の禁固刑であった。そして逃亡幇助の計画準備の場合は実行者より重く終身懲役刑を科されることもあった。
東から西への亡命は、壁建設が始まっていない地点からいち早く抜け出した例、検問所の設備が整う前に強行突破した例、国境警備隊の監視網をかいくぐって奇跡的に亡命を果たした例、果たせず逮捕された例、射殺された例など、様々なエピソードを産んだ。特に壁の設備がある程度完成した1964年までの間に、脱走の試みは集中した{{Sfn|ヒルトン|2007a|pp=253-254}}。
* ベルナウ通り<ref group="注">あるいは「ベルナウアー通り」と表記する文献もある。</ref>では道路と建物の間に境界線が引かれていたが、壁の建設が始まった時に事情をいち早く察知して逃亡した者以外は壁の建設部隊が到着するまで建物に住み続けていた。壁建設から1週間後の1961年8月19日、当局が通り一帯の住民およそ2000人に退去命令を出し、境界線(通りに面したドアと窓の目の前)にレンガを積み始めた。建物の2階に住んでいたルドルフ・ウルバン(47歳)は窓からロープを伝って降りようとしたが、その最中に警察が自室に入ってきたことで慌ててロープから手を放し、3mの高さから落下し、その後病院で死亡した。これがベルリンの壁での最初の犠牲者とされている{{Sfn|ヒルトン|2007a|p=236}}。
* 同じくベルナウ通りの住人フリーダ・シュルツ(77歳)は、窓の下の地面消防隊が敷いた毛布に飛び降りようとしたが、部屋に踏み込んできた警官に両手を掴まれた。外で受け止めようと待ち構えていた西側の市民が彼女の足首を掴んで二人がかりで引っ張り返し、身柄を警官からもぎ離した。この場面は丁度この現場を通りかかったアメリカ特使団のヘムシング広報官が目撃して「非常に感動的な光景だった」と後に述べ、またこの場面を撮影していたフィルムはニュース映画に使われて有名な話となった{{Sfn|ヒルトン|2007a|pp=262-263}}。最終的にベルナウ通り沿いの建物は廃屋となり、やがて爆破され、更地となった。東ドイツ当局は9月半ばまでに東ベルリン市民2665人を政治犯罪で連行した{{Sfn|ヒルトン|2007a|p=259}}。この政治犯の連行は、別に6000人以上が逮捕されその内3100人が刑務所に数年入れられたとする説がある<ref name=":8" />{{Rp|38}}。
* 8月24日、[[ギュンター・リトフィン]]は、交通警官に呼び止められたのを無視して水路に飛び込んだが、撃たれて死亡した。ベルリンの壁建設後、最初の市民の殺害事件であった<ref name=":8" />{{Rp|32-33}}<ref group="注">壁崩壊後の1997年の「狙撃兵裁判」でリトフィンを射殺した警備兵は禁固1年6カ月の有罪判決を受けたが執行猶予付きであった。</ref>。
* 1961年暮れに8両編成の列車の運転士が計画して、もう1人が線路のポイントスイッチを切り替えて、東側から西側につづく線路に進入して有刺鉄線を引き倒してすぐ西側の野原に停車した。この時に男性8人、女性10人、子供7人がそのまま西へ逃れ、事情を知らない他の乗客は東へ戻った{{Sfn|ヒルトン|2007a|p=293}}<ref group="注">この派手な逃亡劇はその後映画化されている。</ref>。
* 1962年8月17日、[[ペーター・フェヒター]](18歳)がチェックポイント・チャーリーのすぐ近くで越境しようとして撃たれた。その時はまだ息があったが、倒れた場所が壁の東側だったため西側にいた警官や米兵や報道陣、群衆は彼を救い出すことは出来ず、壁の上の鉄条網から救急箱を投げ入れるのが精一杯であった。そして東側は西側との衝突を恐れて監視所から動かず、彼はそのまま失血死した。この一部始終を目撃した人は多く、西ベルリンでは激しい抗議行動が起こった。彼はベルリンの壁の最も有名な犠牲者となった。37年後の1999年にベルリン市はこの場所にペーター・フェヒターの記念碑を除幕している<ref name=":11" />{{Rp|214-215}}<ref name=":8" />{{Rp|102-104}}{{Sfn|ヒルトン|2007a|pp=311-323}}。
* 1962年9月14日から15日にかけて29人がおよそ135メートルの地下トンネルを通って西ベルリンへ亡命。[[トンネル29]]として知られ、このトンネルを原作にしてフィクションのテレビ映画「[[トンネル (映画)|トンネル]]」が作られた。
* 1964年10月に、トンネルを掘って57人が西へ逃れた。計画したのは西側の冒険家で工科大学の学生も含めて組織的に行われ、西からトンネルを掘り、東側では西の連絡員が手引きした大掛かりな脱出作戦であった。場所はベルナウ通りを挟んで西側のパン屋の地下室から3m下へ掘り、そこから145m進んで、ベルナウ通りの向こう側のある家の裏庭の今にも倒壊しそうな屋外トイレまで半年をかけて掘った。穴の縦はおおよそ70cmで、掘り出した土は西側のパン屋の部屋に積み上げていった。連絡員の間では同年の東京オリンピックにかけて「トーキョー作戦」と呼ばれた。1人は入口の見張りとして東側に合法的に入り東側の国境警備隊の動きを見張った。そして西側の連絡員が暗号電報を使って連絡を取り合い、越境を希望する者を探し、トンネルの入口付近の家に案内し、西側から双眼鏡で監視して尾行されていないことを確認してから無線で東側の家の中にいる者に連絡してドアを開けて家の中に入れた(この時の合言葉はトーキョーであった)。そして裏庭から屋外トイレに行き、便器を取り外して下のトンネルに入り、およそ11分から30分かけて西側のパン屋の地下室に達した。時間がかかったのは途中で水が深くなって息をするのが難しい地点があったことと、トンネルに入った人々は一様に恐ろしさに震え、泣き出す女性もいて、{{要説明範囲|無遊状態|date=2019-01}}になって足取りが覚束ない人もいたからであった。それだけに脱出した後は激しい感情の波が押し寄せたとされている{{誰2|date=2019-01}}。こうして10月3日に28人、4日に29人が西ベルリンに逃れた。内訳は男性23人、女性31人、子供3人であった。しかし5日朝にシュタージに発見されて、裏庭で撃ち合いとなり[[エゴン・シュルツ|東側兵士]]が1人撃たれて死亡したが、西側の4人はトンネル入口のトイレから下へ通じ、そのまま西へ戻ることが出来た。この直後に東ドイツ政府は東西間の境界付近の保安活動は国家保安省(シュタージ)のみで行うことを決めた。この作戦行動は後に助かった57人から「'''トンネル57'''」として最も有名なトンネル脱出劇となった{{Sfn|ヒルトン|2007b|p=17}}。
* 同じく1964年、米軍車両が東ベルリン地区で定期的に行っていたパトロール{{Refnest|group="注"|上述の通り、米英仏ソ4か国の軍隊は壁を越えて市内全域のパトロールを認められており、米軍はこの権利を誇示する目的で1日おきに昼間と夜間に4-5台が東ベルリンをパトロールしていた。このパトロールは、規定によりボンネットに国旗を立てていたため、「'''フラッグ・パトロール'''」と呼ばれていた{{Sfn|ヒルトン|2007b|pp=8-9}}。}}に着目した東ベルリン市民が、ひそかに米軍車と同型の偽物を造り、これも本物と同じデザインの軍服を着た偽物の軍人が運転し、トランク内にそれ以上の人数が隠れて、本物の米軍車がパトロールを行っている最中に堂々と検問所を突破した。検問官も偽物の車両であることに気づかず、しばらくしてから本物の車両が戻ってきたときに押問答になってからことが発覚した{{Sfn|ヒルトン|2007b|pp=9-11}}。
[[File:121211 Berlinerwall.JPG|thumb|鉄条網を飛び越える[[コンラート・シューマン]]の写真をもとにしたグラフィティ]]
* [[ドイツ民主共和国国境警備隊]]に従事する兵士の中からも、亡命者が続出し、ベルリンの壁建設直後の6週間で85人が逃亡した<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=33YOe2nZBCY YouTube - 3-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~]{{リンク切れ|date=2019-01}}</ref>。1961年8月15日に[[人民警察機動隊|機動隊]]下士官[[コンラート・シューマン]]はルピン通りとベルナウ通りが交わる地点の国境線で逃亡を企てる者を阻止する任務についていたが、反対側の西側の多くの人々が見ている前で有刺鉄線を飛び越えて西へ逃れた。この兵士が有刺鉄線を飛び越えた瞬間の写真はその後『自由への飛翔』として有名なものとなった<ref name=":8" />{{Rp|38}}{{Sfn|ケンプ|2014b|pp=106-110}}。1968年時点では、総勢8,000人で、ベルリン市民でなく西ドイツに親類がいない者が、「ベルリンの壁」担当の警備兵となっていた。逃亡防止のために2人一組で行動していたが、逆に逃亡を試みた側が同僚を銃撃することもあった。勤務中に射殺された警備兵は16人であったが、その半数は逃亡を図った警備兵の犯行であった<ref name="mauer">[http://www.youtube.com/watch?v=YfBcMdI7BN8 YouTube - 4-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~]{{リンク切れ|date=2019-01}}</ref>。
* ベルリンの壁を巡る最後の犠牲者は、[[1989年]][[2月6日]]の[[クリス・ギュフロイ]](20歳)が最後とされている。ただしクリストファー・ヒルトンは、この後の3月3日に気球に乗って西へ飛んだヴィンフリート・フロイデンベルク(33歳)が西で落下して死亡したこと、4月16日に18歳前後と思われる氏名不詳の男性が溺死したことも追記している{{Sfn|ヒルトン|2007b|pp=157-158}}。
エドガー・ヴォルフルムは著書『ベルリンの壁』で「今日までベルリンの壁における犠牲者の正確な人数については確実な情報がない。」と述べている。しかし「ベルリンの壁の傍で亡くなった者は122人から200人」として「壁倒壊までに東ドイツから逃れようとして(ベルリン以外を含めて)死んだ人は1200人以上に上る」と推測している<ref name=":8" />{{Rp|37}}。
クリストファー・ヒルトンは著書「ベルリンの壁の物語」で、氏名が明確な死亡者について、その越境の行動と死亡に至る状況について克明に記して、氏名不詳の者も含めて165人の被害者の状況を述べているが、その彼も「壁の犠牲者に関しての決定的な情報は得られないかもしれない。」と述べている。彼は1991年にドイツで発行された「Opfer der Mauer(壁の犠牲者)」から多くの情報を得たとしているが、しかしこの文書は東ドイツの事件に関する機密扱いであった公式報告書を用いて調査されたものであるが完全ではないとしている。ある文書では172名の死亡者の一覧があったが、ヒルトンは「全てが亡命を目指していたとは言い難い」として「28年間に亡命を試みて死亡した者の一部は西側に報告されず東側にも記録に残っていない可能性がある」また「誰にも知られずに溺死した者がいた可能性がある」「越境しようとして泳いだが誰にも気付かれず遺体となったが発見もされなかったことが考えられる」と述べている{{Sfn|ヒルトン|2007a|p=237}}。そして「私は全員の氏名を余さず記し、それぞれに人間らしい逸話を盛り込みたかったが、日付と簡単な説明だけを記すだけで精一杯であった。彼らの多くは無縁仏として埋葬あるいは火葬された」と語った{{Sfn|ヒルトン|2007b|p=159}}。
1990年から2005年にかけてベルリンの壁で越境者を射殺した狙撃兵の裁判の訴訟文書によって解明が進んだとされて<ref name=":8" />{{Rp|111}}、「死亡者数は合計192名」であったり、「少なくとも136名」{{Refnest|group="注"|2009年8月にドイツ政府の委託で壁記念センターと現代史研究センターとが4年がかりで壁の死者について調査した結果を発表した。その発表では、1961年から1989年までにベルリンの壁を乗り越えようとして死亡した者は少なくとも136名に達したとしている<ref name=":24">{{Cite book|和書|author=平田達治|title=ベルリン・歴史の旅〜都市空間に刻まれた変容の歴史〜|date=|year=2010|accessdate=|publisher=[[大阪大学]]出版会}}</ref>{{Rp|260}}。2009年11月8日にNHKはニュースで放送している。}}、「200人以上」<ref name=":18">{{Cite book|和書|author=アンドレーア・シュタインガルト|title=ベルリン〜記憶の場所を辿る旅〜|date=2006/04|year=|accessdate=|publisher=[[昭和堂]]|isbn=978-4812206010}}</ref>{{Rp|145}}、「射殺されたは238名」<ref name=":19">{{Cite book|和書|author=ヴィクター・セベスチェン|title=東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊|date=2009/11|year=|accessdate=|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560080351}}</ref>{{Rp|364}}、「500人以上の人々が厳重に監視された境界で逃亡を試みて命を落とした」<ref name=":20">{{Cite book|和書|author=グイド・クノップ|title=ドイツ歴史図鑑 壁の崩壊|date=|year=|accessdate=|publisher=}}{{疑問点|title=100のトピックで知る ドイツ歴史図鑑、ISBN-13: 978-4562047598?|date=2019-01}}</ref>{{Rp|260}}、「壁を越えようとして射殺された人は700人を超えると言われている」<ref name=":11" />{{Rp|215}}、「東西ドイツ及びベルリンの境界で命を落とした者は全体で943人にのぼる」<ref name=":15" />{{Rp|490}}などの諸説があり、1961年から63年までの壁建設の初期の期間で把握していない部分があるとしている。
=== 政治犯買取り ===
東西間の通行が遮断されて、越境が危険を伴うことから、1963年頃から西への逃亡援助が営利事業と化し「逃亡援助を生業とする連中」が牛耳るようになって、西ドイツ側の態度も変わったと言われる。そしてその後に東西ドイツ政府間で裏取引が1964年頃から制度化され、東ドイツ政府の「人道的措置」によって東の刑務所に拘置された政治犯を西ドイツに送ることが可能となった{{Refnest|group="注"|{{要出典範囲|date=2017-12|【西ドイツは東ドイツ国民も本来は自国民であるとの考えから政治犯を「買い取って」いたため、東ドイツ国民であれば「壁を越える」という方法を採らなくても「西ドイツに行きたがる政治犯」として東ドイツ当局に逮捕されれば犯罪歴等がない限り、西ドイツに亡命できる可能性はあった。例えば検問所に行き「西に行きたい」と言って当局職員の説得を受け入れず逮捕されるとか、西行きの列車に[[パスポート]]なしで乗り込み国境でのパスポート検査で逮捕されるといった方法である。】 といった言説は、東側に《犯罪歴が無い限り》といってもこの行動自体で「逃亡未遂罪」の重大な犯罪に問われ、平均4年の禁固刑に処せられ、この逃亡を幇助した者にはより重い刑罰が科されること<ref name=":8" />{{Rp|116}}からすれば、余りにも東ドイツの現実の厳しさを知らない話である。実際に起こったことではなく、政治犯の処遇の過酷さも分からないお粗末な話で、無知な妄言と言わざるを得ない。}}}}。
その人数は1963年から1989年までに男女33,755人に上り、また家族結合の名目で約25万人以上とされている。西ドイツはその見返りに約35億ドイツマルクを支払った{{Sfn|本村|p=115}}。1人について、その人物の教育水準・刑期の長さ・重要度に応じてまちまちの代金が交渉で決められて<ref name=":8" />{{Rp|117-118}}、40,000ドイツマルクから95,847ドイツマルクになったと言われる{{Sfn|本村|p=115}}。これは見方を変えれば『人身売買』であり、東ドイツにとっては好ましくない市民や反体制分子を追放できて、しかも同時に利益を得るうま味のある『特別ビジネス』であった<ref name=":8" />{{Rp|118-119}}{{Refnest|group="注"|【政治犯の一人当たりの買取価格は9万5,847[[マルク (通貨)|マルク]]([[1977年]]以降。壁崩壊時のレートで約700万円)で、西ドイツは離散家族も含めて25万人を買い取り、計35億マルクを東ドイツに支払った<ref name=":25">{{Cite book|和書 |author=吉田一郎 |title=世界飛び地大全―不思議な国境線の舞台裏 (国際地理BOOKS (VOL.1)) |url=https://www.worldcat.org/oclc/169993462 |date=2006-8-1 |publisher=[[社会評論社]]|isbn=4784509712 |location=Tōkyō |oclc=169993462}}</ref>。】という言説は、単純計算で人数に誤りがあり、正確性を欠いている。}}。
=== 年金生活者の西送り ===
1964年11月に東ドイツ政府は年金受給者に対し、訪問あるいは滞在のために西側へ行くことを許可した{{Sfn|ヒルトン|2007b|p=24}}。これで満65歳になって東ドイツ政府に移民申請をすれば、無条件で西ドイツに移住できた。これは当時の東ドイツにおける[[年金]]支給開始年齢であり、たとえ移住であれ65歳以上の人口が減れば年金を払う必要がないため政府は歳出をそれだけ削れ、お金だけかかる人間を厄介払いできるという東ドイツにとって実に都合のいい理由が背景にあった。他にもアルコール中毒患者や精神病患者も厄介払いとして東ドイツは簡単に西へ送っていた<ref name=":11" />{{Rp|206}}。1961年から1988年までに383,181人が西側へ行き、その大半が年金受給者であった{{Sfn|ヒルトン|2007b|p=24}}<ref group="注">{{要出典範囲|date=2017-12|【他にも東欧共産圏への複数回の旅行(許可制)を繰り返して政府を信頼させ西側への旅行許可を得て亡命したものもいるが、富裕層以外には不可能な方法である。また特に若い女性であれば、外国人との結婚により容易に国外への移住が可能であった。】という言説は滑稽な話である。そもそも社会主義国に富裕層は存在せず、党幹部でも簡単に外国へは行けない国であった。国内の旅行さえ不自由な国で外国人との結婚が容易である訳はなく、また結婚できても国外への旅行は申請しても簡単には許可がおりず、壁が東の人間を閉じ込めていたことを少しも理解していない話である。}}</ref>。
=== 西ベルリン市民の東側への一時訪問 ===
壁建設直後は、射殺や溺死などの犠牲者が相次ぎ、壁付近は緊張に包まれて、西ベルリン市民の抗議や反発は収まらず、西側市民の東側への通行は不可能であった。しかしようやく沈静化に向かった1963年12月に7回に及ぶ予備会談の末、東ドイツとベルリン市との間で「ベルリン通行証協定」{{Refnest|group="注"|正式には「ドイツ民主共和国政府及びベルリン参事会間の議定書」と呼ばれ、東西ドイツ間の協定ではない。東側が従来から西ベルリンは西ドイツと別個の政治単位であると主張していたためである。このため西ドイツ政府(アデナウアー政権)はこの通行証協定は東側の主張を認めるものであるとの懸念を隠せなかったが、ブラント市長は人道的措置であることを強調した。実際には、交渉の当事者である西ベルリン市から協定交渉の妥結をボンの西ドイツ政府に伝え、西ドイツ政府が閣議で了承した後にブラント市長宛てに通告してから協定を結ぶものであった{{Sfn|本村|pp=70-71}}。}}が締結されて、1963年12月19日から1964年1月4日までの17日間、一時的に西側市民が東側を訪れることが可能となった{{Sfn|本村|pp=70-71}}。これは東側に親戚がいることが証明された家族のみの限定で、クリスマスを東側の親戚とともに過ごすためのものであった。この制度を利用した西側市民は73万人以上で、西ベルリン市民の半数に近い延べ120万人が東ベルリンに入ったという{{Sfn|本村}}。この協定は翌1964年も結ばれて、1964年10月30日から11月12日まで、12月19日から1965年1月3日まで、そして復活祭から聖霊降臨祭までのそれぞれ14日間であった{{Sfn|本村|pp=70-71}}。
やがて1967年になって通行証協定が改められて規則が緩和された{{Sfn|ヒルトン|2007b|p=8}}。しかし東側に入るときにはビザとパスポートを持ち、西側の印刷物の持ち込みは不可であった。また東ドイツ政府にとって外貨獲得の一環として機能しており、西ドイツ市民は有無を言わさず西ドイツマルクを収奪させられていた。まず越境時に東西マルクを1対1で交換させられ、東独滞在時に使いきれなかった東独マルクは西独に戻るときに再両替されずに没収されることになっていた(建前では東独の銀行に預け次の訪問時に引き出せるが、その際の引き出しの手続きはややこしく、事実上の没収状態であった)。東独は物価が安く、更にモノの供給量が少ないので両替分を使いきれないことが多く、多くの場合において没収された。さらに東ベルリンの他の街を訪問する場合にも、どの街に入る時にも強制両替を行い、ここでも残った金額を没収していた。しかも最初の越境時から交換額を記した紙片の携帯が義務づけられており、最後に残金を没収されるときに東側で買ったもの全てを書類に書き入れなくてはならなかった。この申請に不備があると後で面倒なことになった<ref name=":11" />{{Rp|203-205}}。
一方で東側市民が西へ行くことは容易に認められず、親の葬儀への参列については認められることがあったが申請が通るかはまちまちで、後には誕生日のお祝い訪問も40歳・50歳・60歳の区切りで許可されたが、これも許可が下りない場合もある恣意的な運用であった{{Sfn|ヒルトン|2007a|p=247}}。その後も、親戚訪問、ビジネス、東側団体主催の催し物への参加などだけを認め、外国人には認められた市内見物やオペラ観劇は西独市民には認めなかった。そして1年間で合計30日以内という制限があった<ref name=":11" />{{Rp|205}}。
== ベルリンの壁崩壊へ ==
{{Main|ベルリンの壁崩壊}}
[[ファイル:Berlinermauer.jpg|thumb|200px|彩られたベルリンの壁の西側([[1986年]])]]
[[1985年]]にソビエト連邦共産党書記長にゴルバチョフが就任し、それまでの閉塞状況であったソ連にペレストロイカ(改革)を推し進めて、この動きはやがて[[東ヨーロッパ]]諸国、とりわけ80年代初めから国内で連帯運動が起こったポーランドとハンガリーに波及し、[[1988年]]にポーランドでは非共産党政権が誕生し、ハンガリーでも社会主義労働者党の改革派が政権を担った。これが[[1989年]]になると、他の[[東ヨーロッパ]]諸国にも大きな影響を及ぼした。
{{Main|東欧革命}}
1989年5月2日、既に[[ハンガリー民主化運動|民主化]]を進めていた[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]の[[ネーメト・ミクローシュ (政治家)|ネーメト]]首相が、[[オーストリア]]との国境にある[[鉄のカーテン]]と呼ばれる国境の鉄条網を撤去すると、ハンガリー経由での国外出国に希望を持った東ドイツ国民が夏期休暇の名目でハンガリーを訪ね、そこに滞留する事態となった。
[[8月19日]]、[[汎ヨーロッパ・ピクニック]]が欧州議員[[オットー・フォン・ハプスブルク]]の主催でこれにハンガリー政府の改革派の後援により、ハンガリーとオーストリアの国境付近のショプロンで開催された。これは、秘密裡にハンガリーが東ドイツ市民をオーストリアに越境させることを企図したイベントであった。そしてこの集会のさなかに東ドイツ市民661人がオーストリアへの越境に成功した。その後もオーストリア経由で出国が出来ると考えた東ドイツ市民がオーストリアと国境を接するハンガリーと[[チェコ・スロバキア]]に殺到した。[[8月25日]]、ハンガリーのネーメト首相は密かに西ドイツを訪れてコール首相と会談し、東ドイツ市民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させる決断をしたことを明らかにした。やがて西ドイツ側の受け入れ準備が整った9月11日にはハンガリー政府は正式に東ドイツとの協定を破棄して東ドイツ市民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させた<ref name=":21">{{Cite book|和書|author=三浦元博|title=東欧革命-権力の内側で何が起きたか-|date=|year=1992|accessdate=|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波新書]]|isbn=4004302560|author2=山崎博康}}</ref>{{Rp|82}}。9月30日には、チェコスロバキアのプラハの西ドイツ大使館に集まっていた東ドイツ市民4000人の前に西ドイツのゲンシャー外相が現れて西ドイツへの出国が可能となったことを伝え、月末までに約3万人が出国した。
もはやベルリンの壁は有名無実化しつつあり、東ドイツ国内でも[[デモ活動]]が活発化していた。
こうした国民の大量出国や[[ライプツィヒ]]の[[月曜デモ (1989年)|月曜デモ]]等で東ドイツ国内は混乱していたにもかかわらず、最高指導者の[[エーリッヒ・ホーネッカー]]社会主義統一党書記長は改革には背を向け続けていた。[[10月7日]]の東ドイツ建国40周年記念式典のために東ベルリンを訪問した[[ミハイル・ゴルバチョフ]]がその際行われたドイツ社会主義統一党幹部達との会合で自らの進める[[ペレストロイカ]]について演説をしたのに対し<ref name=":21" />{{Rp|8}}、ホーネッカーは自国の社会主義の発展を自画自賛するのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべて党幹部達を見渡すと、舌打ちをし<ref name=":21" />{{Rp|9}}、ゴルバチョフが改革を行おうとしないホーネッカーを否定したことが他の党幹部達の目にも明らかになった。これを機に[[エゴン・クレンツ]](政治局員・治安問題担当書記・[[国家評議会 (東ドイツ)|国家評議会]]副議長)や[[ギュンター・シャボフスキー]](政治局員・社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記)ら党幹部達はホーネッカーの退陣工作に乗り出した<ref name=":21" />{{Rp|15}}。10月17日、政治局会議で[[ヴィリー・シュトフ|シュトフ]]首相が提議したホーネッカーの書記長解任動議が可決し、ホーネッカーは失脚し、後継者となったのはクレンツであった。
=== 11月9日===
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1989-1109-030, Berlin, Schabowski auf Pressekonferenz.jpg|thumb|left|350px|「旅行許可に関する出国規制緩和」を発表するシャボフスキー(1989年11月9日)]]
[[ファイル:West and East Germans at the Brandenburg Gate in 1989.jpg|thumb|right|300px|壁の崩壊に歓喜するベルリン市民]]
[[ファイル:Berlin_die_Mauer.jpg|thumb|200px|壁が撤去された後の路面に残された刻銘]]
[[ファイル:Berlin wall 1990.jpg|thumb|200px|ほとんど全ての壁は[[ベルリンの壁崩壊|崩壊]]後に散り散りになった]]
[[ファイル:BerlinWall01b.jpg|thumb|200px|ホーネッカーとブレジネフが接吻して挨拶する有名な写真のモチーフと、東ドイツの国民車[[トラバント]](ベルリンの壁跡の落書き)]]
1989年[[11月9日]]、この日エゴン・クレンツ率いる社会主義統一党[[中央委員会]]総会で翌日から施行予定の出国規制を緩和するための新しい政令案を決定した。その日の夕方、クレンツ政権の広報担当者シャボフスキーは、この規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「'''私の認識では『ただちに、遅滞なく』です'''」と答えてしまった。シャボフスキーは、中央委員会の討議には出席しておらず、クレンツからも細かい説明もなく、また中央委員会で攻撃に曝されていたことで、クレンツ政権内部が混乱したことがその原因とされる([[ベルリンの壁崩壊]])。
ただし、その質問をしたイタリアの記者エーマンは、2009年に「会見前、シャポフスキー氏とは別の高官から電話で『出国自由化の時期を必ず質問するように』と言われた」と回想している<ref>{{Cite web|和書|title=やらせ質問で東西冷戦の壁崩壊?/元記者、20年後に新証言 {{!}} 全国ニュース {{!}} 四国新聞社 |url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/international/print.aspx?id=20090423000108 |website=www.shikoku-np.co.jp |access-date=2022-08-31}}</ref>。これが真実であれば、歴史的なベルリンの壁崩壊は、記者会見における凡ミスの結果ではなく、演出者と協力者の関係をもとに綿密に予定されていたシナリオであったといえる<ref>[[後藤玲子]]・[[玉井雅隆]]・宮脇昇編『やらせの政治経済学』ミネルヴァ書房、2017年</ref>(ただしシャポフスキーはそれを否定している)。
この記者会見を各国メディア及び[[東ドイツ国営テレビ]]局などが報道し、同日夜には東ベルリン市民が東西ベルリン間の7か所の国境検問所に殺到した。旅行自由化の政令は実際は[[査証]]発給要件を大幅に緩和する法律であり越境にはあくまで査証が必要であったが、殺到した市民への対応に困った国境検問所の[[ドイツ民主共和国国境警備隊|国境警備隊]]の現場指揮官は、政府からの指示もなく、11月9日22時45分に止む無く国境ゲートを開放した。査証の確認なども実行されず、ベルリンの壁はこの時に有名無実となった。
[[11月10日]]に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁の破壊が始まった。のちに東ドイツによって壁はほぼすべてが撤去された。ただし歴史的な意味のある建造物のため、一部は記念碑として残されている。
ベルリンの壁崩壊により東西両ドイツの国境は事実上なくなり、翌1990年10月3日、東西ドイツは統一した。
=== 文化財保存 ===
ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一、更に冷戦の終結にいたりベルリンの壁は名実ともにその存在意義を失った。その一方で、ベルリンの壁は米ソ冷戦の象徴的遺跡としての保存の声が高まり[[シュプレー川]]沿いの約1.3kmの壁({{仮リンク|イースト・サイド・ギャラリー|de|East Side Gallery}})は残された。この部分には「ベルリンの壁建設」にインスピレーションを得た24の国の芸術家118人による壁画が描かれた部分であり、その中には「[[神よ、この死に至る愛の中で我を生き延びさせ給え|ホーネッカーとブレジネフの熱いキス]]」を描いた[[戯画]]も含まれている。
文化財として保存が決まったものの、経年による劣化と観光客の[[落書き]]とその場しのぎの上塗りによる補修で保存は危機的状況に陥った。[[2000年]]には寄付によって壁の北側は修復され、[[2008年]]に残りの補修には250万ユーロの寄付が必要と試算された。[[2009年]]には残る部分の修復に着手している。
その他、ベルリン中央部の{{仮リンク|ニーダーキルヒナー通り|de|Niederkirchnerstraße}}沿いの一帯([[ゲシュタポ]]本部や[[国家保安本部]]があったあたり)には、再統一後に「{{仮リンク|テロのトポグラフィー|de|Topographie des Terrors}}」という博物館が建てられ、この部分に沿って建っていたベルリンの壁も残されている。さらに記念品として[[ライン川]]畔の[[コブレンツ]]に白い壁を2枚移設し、また日本には[[宮古島市]][[上野村 (沖縄県)|上野]]の[[うえのドイツ文化村]]に2枚移設している。この時に地下を含む構造が明らかになり、地下のL字型の下のコンクリートが東ベルリン側が数倍長いのは、地下から(=塀の下を掘り返して)の逃亡を防ぐためだったと見られている。
== 狙撃裁判 ==
ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの統一が実現した後に、ベルリンの壁について、国境警備隊による越境者への狙撃及び射殺に対してどのように扱うかは喫緊の課題であった。壁崩壊の翌年1990年には国境警備兵に対する裁判手続きが進められていった。東ドイツの狙撃兵は東ドイツの国内法では訴追は出来ないため、道義的概念は持ち込めるのか、事後に成立した法に基づく訴追は遡及効禁止と齟齬を及ぼすのか、法が正義に反する場合は実定法に対して正義と道義が優先されるのか、射殺命令を執行した狙撃兵と射殺命令を出した上官との罪の上下は…などドイツ国内で様々な議論がなされた。この後にドイツの裁判所はベルリンの壁の死者と射殺命令に関する審理にほぼ15年を費やした<ref name=":8" />{{Rp|227-230}}。
ドイツ連邦議会は1992年に「ドイツにおけるドイツ社会主義統一党独裁の歴史と帰結の批判的総括」を行うための調査委員会を設置した。そして2年後に社会主義統一党独裁のほぼ全局面を明らかにする15,000ページ余りの調査報告書を公表し、この中で東ドイツで行われた国家犯罪や人権侵害など負の遺産についての真相究明、責任や罪の承認、浄化や和解、補償と賠償、そして裁判などが述べられていた。これらには独裁の犠牲者を悼み、犯行者を処罰することも含まれていた<ref name=":8" />{{Rp|227-229}}。
かつてナチス時代の暴力犯罪に対して、法が正義に反する場合に実定法よりも正義と道義性が優先されるのか、といった論争があったが、狙撃兵裁判でもその論争は再燃した<ref name=":8" />{{Rp|231}}。そして越境する者に対して射殺命令をいつ、誰が発したかも焦点となり、1961年夏のベルリンの壁建設の9日後に社会主義統一党政治局が発砲命令を出したと言われるが<ref name=":8" />{{Rp|31}}、それが明確な文書としては残っておらず、当時のブラント西ベルリン市長が東ドイツの国境警備兵に「自分と同じ国の人間を撃つな」と訴えた時に、ウルブリヒト第一書記は「国境を侵す者には、武器を用いてもその行動を慎むように命じなければならない」と語っていた<ref name=":8" />{{Rp|31-32}}。
その射殺命令およびその実行に関して、東ドイツの最高指導者と政権幹部、国境警備隊幹部、現場の兵士に対して、[[1990年]]10月から[[ドイツ再統一]]後の[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]の裁判所で裁判が行われ、裁判所は社会主義統一党中央委員会政治局から狙撃兵に至るまで途切れることなく責任の連鎖が存在することは確認した。そしてその際に、社会主義統一党指導部は市民の生命を保護し身体無傷性を守る義務を負っていたとして「民主共和国市民の人格と人権は不可侵である」としたドイツ民主共和国憲法と国際人権協定をその字義どおりに解釈した<ref name=":8" />{{Rp|233}}。
このドイツ民主共和国の不正を理由として始められた捜査手続きの総数は壁の射殺事件以外も含めて約10万件に達すると見られ、この総数に対しての有罪判決はおよそ133分の1の数であった。この内に両独国境での強行犯罪については総計244件の訴追があり、466人が告発されて385人に判決が下され、110人が無罪で、275人の有罪が確定した<ref name=":8" />{{Rp|234}}。刑の量定は連隊司令官、国境警備隊長、政治局員まで地位に順じて重くなった。しかし大半の被告は[[執行猶予]]付の判決で、命令権者の20人は執行猶予の付かない自由刑の有罪判決であった。これらの不正行為と見なしたものの捜査と裁判が最終的な処理が終えたのは壁崩壊から16年が過ぎた2005年であった<ref name=":8" />{{Rp|233}}。
; ドイツ社会主義統一党幹部
* [[ヴァルター・ウルブリヒト]] …壁建設時の社会主義統一党第一書記(後に書記長)。1973年死去。
** 戦後の東ドイツの最高指導者。1971年に引退。ベルリンの壁の構築の提唱者であり、実行者であり、そして最高責任者であった。{{要出典範囲|壁建設後に武器の使用を躊躇わず、射殺命令を出したと言われている。|date=2021年10月}}壁崩壊時は既に死去していたので、訴追はされなかった。
* [[エーリッヒ・ホーネッカー]]…壁建設時の党書記。1976年より1989年10月まで社会主義統一党書記長。
** 壁建設の陣頭指揮に当たり、壁を越境しようとする者に対して射殺命令を出したとされて、統一後に49件の殺人罪によって起訴されたが、[[1993年]]に刑事裁判が免除され、翌年逃亡先のチリで病死する。
* [[ヴィリー・シュトフ]]…内務相、国防相、[[ドイツの首相|閣僚評議会議長]](首相)、[[ドイツの国家元首一覧|国家評議会議長]](元首)などを歴任。1976年10月から1989年11月まで[[ドイツの首相|閣僚評議会議長]](首相)。
** [[1991年]]にベルリンの壁関連の殺人罪で逮捕されたが、翌年8月に健康上の理由で釈放され、最終的に審理停止となる。
* [[エーリッヒ・ミールケ]]…1957年から1989年11月まで国家保安相。
** [[1993年]]に射殺命令の責任者として起訴され、別件の警官殺害の件で懲役6年の判決であったが、[[1995年]]に釈放され、[[2000年]]に死去する。
* [[ハインツ・ケスラー]]…空軍司令官、参謀総長、国防次官を経て、1985年から1989年まで国防相。
** 1993年に懲役7年6ヵ月の有罪判決を受け、1998年に出所した。 [[2017年]]に死去。
* [[ギュンター・シャボフスキー]]…壁崩壊時の党広報担当者。社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記(ベルリン支部長)。
** [[1997年]]8月にベルリンの壁での3人の殺害の件で懲役3年半の判決を受けた。しかしシャボフスキーが無実の人間が殺害されたことに対して責任を認めたことが考慮され収監期間1年ほどで釈放された<ref name="potsdam">[http://www.youtube.com/watch?v=MuFMV705mRk YouTube - 6-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~]{{リンク切れ|date=2019-01}}</ref>。その後、[[保守主義]]に転向し、共産主義者であった過去に対して批判的になった。2015年に死去。
* [[エゴン・クレンツ]]…壁崩壊時の社会主義統一党書記長。
** 1999年に懲役6年半の判決を受けた。党幹部としての責任(治安問題担当書記を兼務していた)を問われたが、ベルリンの壁犠牲者には遺憾の意を表している。シュパンダウ刑務所で1999年から2003年まで4年間の収監であり、昼間は刑務所外で働くことができるという半自由刑の扱いとなった。ただし、有罪判決が出た後にヨーロッパ裁判所に抗告し、その際にベルリンの壁の死者は東ドイツ政府の責任ではなく冷戦の犠牲者であると主張した。
* ギュンター・クライバー…壁崩壊時の社会主義統一党経済専門委員
** 懲役3年の有罪判決であった。
* クラウス=ディーター・バウムガーテン…壁崩壊時の国境警備隊隊長
** 懲役6年半の有罪判決であった。
; 国境警備隊兵士
壁で越境しようとした市民を射殺したと訴追された警備隊兵士からは、「的を外して撃った」との主張がなされることもあったが、多くは射殺命令を実行したと認定された。しかしその兵士に対して、最終的には、執行猶予付きの有罪判決の場合がほとんどであった<ref name="potsdam"/>。「殺意なき殺人」として処理されている<ref name="potsdam"/>。また1997年のエゴン・クレンツの裁判で、裁判官は「国境警備隊は国境の安全に責任を負っていた。警備兵に下された射殺命令は実際にはイデオロギー上のものであった」と裁定している{{Sfn|ヒルトン|2007b|p=335}}。
[[1961年]][[8月24日]]に壁付近で川を泳いで最初に銃の犠牲者となったギュンター・リトフィンの事件では、彼を撃った兵士は1997年に裁判で禁固18カ月の有罪判決であったが執行猶予がついた。「やや軽度の重大事犯」にあたる故殺と見なされた<ref name=":8" />{{Rp|33}}。
[[1962年]][[8月17日]]に壁を越えようとして撃たれ、東側に落下してからしばらく虫の息だが生きていたものの東西両側から救助されず、1時間後にその場で失血死した[[ペーター・フェヒター]]の事件では、[[1997年]]3月に元国境警備兵2人が殺人罪で訴追された。裁判長はどちらが彼を撃ったのか判断できないとして、裁判時には61歳であったロルフ・フリードリッヒに21カ月、エーリッヒ・シュライバーに20カ月、それぞれ執行猶予のついた有罪判決であった。しかし裁判長はフェヒターの失血死について警備兵のどちらにも責任がないとしたが、起こった事実は容認しがたいと明言した。ペーターの父は傷心で精神を病み1968年に亡くなり、母も精神を病み1991年まで生きたが壁崩壊についてはっきり理解することが出来なかった。姉ギーゼラは「弟はドイツからドイツへ行こうとしただけで撃たれた、そして誰も助けようとはしなかった。」と泣いた。後日、ロルフ・フリードリッヒは「本当に申し訳ない。フィヒターに謝罪したい。」と語っていた{{Sfn|ヒルトン|2007b|pp=335-337}}。
[[1989年]][[2月6日]]にベルリンの壁で最後に射殺された[[クリス・ギュフロイ]]の事件では、1991年9月に国境警備兵4名が告発され、法廷で命令遵守を訴えたが人道に対する罪で、致命傷を与えた銃弾を放ったインゴ・ハインリッヒは3年半の懲役の判決が下りるものの、[[1994年]]に減刑されて2年の保護観察となった。同僚のアンドレアス・キューンパストは懲役2年に執行猶予が付いた。当初東ドイツはこの壁で死者が出た事実を否定する方針であったが世界中から非難されて認めざる得なかった。クリスの母カーリン・ギュフロイはシュタージにいつか息子を殺した罪に問われるだろうと言い放ったが、鼻でせせら笑われるだけだったという。この裁判では結局発砲を命じた側は罪に問われなかった{{Sfn|ヒルトン|2007b|pp=332-334}}。
なおこのギュフロイの死去に関して東ドイツ政府は新聞に家族からの死亡広告を出すことを許可し(壁の死者で許可されたケースはそれまで無かった)、葬儀が2月23日に行われ約120人が参列した。それまで葬儀どころか遺体を家族に引き渡すことも、あるいは壁で死んだことも連絡しないケースが多く、壁が崩壊してから壁で射殺されたことを家族が知ったことが多かった。また一緒に越境しようとして国境警備隊に逮捕されたクリスティアン・ガウディアンは裁判で懲役3年を言い渡されたが、西ドイツが身代金を支払い、彼の身柄を引き取った{{Sfn|ヒルトン|2007b|pp=155-156}}。
== エピソード ==
* 壁の建設と同時に、西ベルリン市民のおよそ1万人が、東側の別荘や畑へ行くことが不可能となった。彼らはその土地の所有者であり、[[不動産]]の所有権の証書は保管していたが、やがてそれらは何の役にも立たない紙くずとなった{{Sfn|ヒルトン|2007a|p=204}}。
* 東西ドイツの国境付近で、同じ町、同じ村で東西が分断された自治体は多い。[[メドラロイト]]もその一つであり、村の中を国境線が引かれ「リトル・ベルリン」と呼ばれた<ref group="注">同一都市内に壁が建設された都市は、このベルリン以外には[[メドラロイト]]だけであった。という言説があるが、正しくはメドラロイトは村であり、都市ではない。</ref>。
* ベルリンの壁の存在は「越えられない物」「変えられない物」の象徴に例えられた。
* 壁崩壊後2枚の壁が、沖縄県[[宮古島市]]上野(旧上野村)のテーマパーク「[[うえのドイツ文化村]]」に寄贈された。[[長崎県]][[西彼杵郡]][[時津町]]の[[日本ビソー]]長崎事業所に、東ドイツ政府より譲られた壁の一部が展示されている。一般公開はされていないが、滋賀県彦根市の[[マルホ]]株式会社彦根工場内にも、1枚展示されている。<ref>{{Cite web |title=Maruho Arts ー 受け継がれる「生命(いのち)」への想い ー {{!}} マルホ株式会社 |url=https://www.maruho.co.jp/stories/article/maruho_art.html |website=www.maruho.co.jp |access-date=2023-12-27 |language=ja}}</ref>
* 破壊された壁の破片は、[[土産]]品として一般に販売されたりもして出回ったが、壁の原料であるコンクリートには、大量の[[石綿|アスベスト]]が含まれており、破片の取扱いには注意が必要である。流通した壁の中には、[[墓石]]を砕いただけの偽物もあった。
* 2009年に行われた世論調査によると、旧西ドイツ出身者が旧東ドイツ復興のため税金が上がったことに、旧東ドイツ出身者たちは旧西ドイツとの所得格差に不満を持ち、7人に1人はベルリンの壁の復活を望んでいるという結果が出た<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-11547120090917|title=ドイツ人の7人に1人、「ベルリンの壁」の復活望む=調査 {{!}} ロイター|accessdate=2019-01|date=2009年9月17日|publisher=ロイター|quote=同調査ではまた、多くの旧西ドイツ出身者が旧東ドイツ復興のため税金が上がったことを苦々しく感じている一方で、旧東ドイツ出身者たちは所得水準に不満を持っていることが示された。|language=ja}}</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist2|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|18em}}
== 参考文献==
* {{Cite book|和書|author=フレデリック・ケンプ|authorlink=フレデリック・ケンプ|translator=[[宮下嶺夫]]|title=ベルリン危機1961〜ケネディとフルシチョフの冷戦〜|volume=上|publisher=白水社|year=2014|isbn=978-4560083710|ref={{SfnRef|ケンプ|2014a}}}}
* {{Cite book|和書|author=フレデリック・ケンプ|authorlink=フレデリック・ケンプ|translator=[[宮下嶺夫]]|title=ベルリン危機1961〜ケネディとフルシチョフの冷戦〜|volume=下|publisher=白水社|year=2014|isbn=978-4560083727|ref={{SfnRef|ケンプ|2014b}}}}
* {{Cite book|和書|author=クリストファー・ヒルトン|authorlink=クリストファー・ヒルトン|translator=[[鈴木主税]]|title=ベルリンの壁の物語|volume=上|publisher=原書房|year=2007|isbn=978-4562040650|ref={{SfnRef|ヒルトン|2007a}}}}
* {{Cite book|和書|author=クリストファー・ヒルトン|authorlink=クリストファー・ヒルトン|translator=[[鈴木主税]]|title=ベルリンの壁の物語|volume=下|publisher=原書房|year=2007|isbn=978-4562040667|ref={{SfnRef|ヒルトン|2007b}}}}
* {{Cite book|和書|author=本村実和子|authorlink=本村実和子|title=ドイツ再統一 分断から統一まで|publisher=リーベル出版|year=1993|isbn=978-4897983158|ref={{SfnRef|本村}}}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Berlin Wall|Berlin Wall}}
* [[ベルリンの歴史]]
* [[ベルリンの壁崩壊]]
* [[ドイツ民主共和国国境警備隊]]
* [[メドラロイト]]
* [[東欧革命]]
* [[板門店]]、[[38度線]]
* [[グレート・ファイアウォール]]
* [[ニコシア]]
* [[鉄のカーテン]]
* [[竹のカーテン]]
* [[Ich bin ein Berliner]]
* [[この壁を壊しなさい!]]
* [[寒い国から帰ってきたスパイ]] - [[ジョン・ル・カレ]]のスパイ小説、ベルリンの壁がラストシーンとなっている
* [[ブランデンブルク門]]
* ジョン・ケイ - [[ステッペンウルフ]]のボーカル、ギター。四歳の頃、[[ソビエト連邦]]の支配から逃れるために母と共に東ドイツ側から[[西ドイツ]]に向ってベルリンの壁を越えたという過去を持つ
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=http://www.mauer.jp/index.html |title=ベルリンの壁写真館 |date=20040926125718}}
* {{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/euro/berlin.html |title=世界飛び地領土研究会-西ベルリン |date=20050326130034}}
* [http://www.jfklibrary.org/j062663.htm Remarks in the Rudolph Wilde Platz]{{リンク切れ|date=2019-01}} - 一般に「Ich bin ein Berliner」の名で知られるケネディの演説(英語)
* {{NHK放送史|D0009030229_00000|ベルリンの壁 崩壊}}
* [https://www3.nhk.or.jp/news/special/heisei/feature-movie/feature-movie_05.html 平成元年(1989)ベルリンの壁崩壊|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB]
* {{NHK for School clip|D0005402948_00000|ベルリンの壁-中学}}
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
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[[Category:ベルリンの壁|*]]
[[Category:西ベルリン]]
[[Category:東ベルリン]]
[[Category:分断時代のドイツ]]
[[Category:1961年竣工の建築物]]
[[Category:1989年解体の建築物]]
[[Category:ユネスコ記憶遺産]]
[[Category:分離壁]]
[[Category:ヴァルター・ウルブリヒト]]
[[Category:ヴィリー・ブラント]] | 2003-03-05T02:33:40Z | 2023-12-27T02:12:03Z | false | false | false | [
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3,430 | キャラクタユーザインタフェース | キャラクタユーザインタフェース (英: character user interface; CUI)、キャラクタベースユーザインタフェース (character-based user interface, CUI) 、コンソールユーザインタフェース (英: console user interface; CUI) 、またはコマンドラインインタフェース (英: command line interface; CLI) は、キーボード等からの文字列を入力とし、文字列が表示されるウィンドウや古くはラインプリンタで印字される文字などを出力とする、ユーザインタフェースの様式である。キャラクタユーザインタフェースの語は日本語での使用が主流であり、英語圏やその日本法人などでは『command line interface』と称すのがほとんどで、英語版Wikipediaの表題もCommand line interfaceである。もっぱらグラフィカルユーザインタフェース (GUI) の対義語として使われる。
初期のコンピュータは、CUIによる対話環境が主流であった。その後、コンピュータの性能が向上したことにより、GUI環境を標準搭載しているパーソナルコンピュータ (MacintoshやWindows 95など)がオフィスや一般家庭にも普及し、専門家を除いてCUIの利用頻度は減っていった。
多くのネットワーク機器は、TELNETやSSHに対応しており、CUIを標準搭載している。また、パーソナルコンピュータ (PC) やサーバ向けのオペレーティングシステム (OS) には、既定のインターフェイスがGUIであってもコマンドラインターミナルなどのCUI環境が標準で用意されている。しかし、スマートフォンなどのモバイル端末向けOSには標準で用意されていないことが多い。 ユーザインタフェースがCUIのアプリケーションをコンソールアプリケーションという。また、あまり一般的ではないが、テキストコンソールを利用してウィンドウなどを表現しているインタフェースをテキストユーザインタフェースという。
以降、CUIそのものだけでなくコマンドラインインタプリタ、シェルについても述べる。
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] | キャラクタユーザインタフェース、キャラクタベースユーザインタフェース 、コンソールユーザインタフェース 、またはコマンドラインインタフェース は、キーボード等からの文字列を入力とし、文字列が表示されるウィンドウや古くはラインプリンタで印字される文字などを出力とする、ユーザインタフェースの様式である。キャラクタユーザインタフェースの語は日本語での使用が主流であり、英語圏やその日本法人などでは『command line interface』と称すのがほとんどで、英語版Wikipediaの表題もCommand line interfaceである。もっぱらグラフィカルユーザインタフェース (GUI) の対義語として使われる。 | [[ファイル:Bash screenshot.png|thumb|200px|CLIの画面例。内容は[[Gentoo Linux]]でBashコマンドを実行したもの。]]
'''キャラクタユーザインタフェース''' ({{Lang-en-short|character user interface}}; '''CUI''')<ref>{{Cite book| url = http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/93366/m0u/ |title = goo辞書、デジタル大辞泉 |publisher = 小学館 |accessdate = 2014-11-29}}</ref>、'''キャラクタベースユーザインタフェース''' ({{Lang|en|character-based user interface, '''CUI'''}}) <ref>[http://www.pcmag.com/encyclopedia/term/40572/cui CUI Definition from PC Magazine Encyclopedia]</ref>、'''コンソールユーザインタフェース''' ({{Lang-en-short|console user interface}}; '''CUI''') <ref>[http://www.winehq.org/docs/wineusr-guide/cui-programs WineHQ - Text mode programs (CUI: Console User Interface)]</ref>、または'''コマンドラインインタフェース''' ({{Lang-en-short|command line interface}}; '''CLI''') <ref>[http://publib.boulder.ibm.com/infocenter/iadthelp/v6r0/index.jsp?topic=/com.ibm.etools.egl.doc/topics/ceglinf0010.html ヘルプ - IBM, EGL アプリケーションの開発 - コンソール・ユーザー・インターフェース]</ref>は、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]等<ref>物理的なハードウェアキーボードのほか、GUIとして実装されている[[ソフトウェアキーボード]]([[スクリーンキーボード]])や、画像から文字認識を行なう「手書き入力パッド」によって入力される文字、といった形態もある。</ref>からの[[文字列]]<ref>正確には文字ストリーム。</ref>を入力とし、[[端末エミュレータ|文字列が表示されるウィンドウ]]や古くはラインプリンタで印字される文字などを出力とする、[[ユーザインタフェース]]の様式である。キャラクタユーザインタフェースの語は日本語での使用が主流であり、英語圏やその日本法人などでは『{{lang|en|command line interface}}』と称すのがほとんどで<ref>[https://www.techtarget.com/searchwindowsserver/definition/command-line-interface-CLI IBM MobileFirst Platform Command Line Interface]</ref><ref>[https://www.techtarget.com/searchwindowsserver/definition/command-line-interface-CLI TechTarget What is a command-line interface (CLI)]</ref><ref>[https://www.ei-navi.jp/dictionary/content/command%2Bline%2Binterface/ 英ナビ!辞書、[[日本英語検定協会|公益財団法人 日本英語検定協会]] 運営・管理]</ref><ref>[[Amazon Web Services|AWS Command Line Interface バージョン 2 用ユーザーガイド]]</ref>、英語版Wikipediaの表題も[[:en:Command-line_interface|Command line interface]]である。もっぱら[[グラフィカルユーザインタフェース]] (GUI) の対義語として使われる。
== 特徴 ==
初期のコンピュータは、CUIによる対話環境が主流であった。その後、コンピュータの性能が向上したことにより、GUI環境を標準搭載している[[パーソナルコンピュータ]] ([[Macintosh]]や[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]など)がオフィスや一般家庭にも普及し、専門家を除いてCUIの利用頻度は減っていった。
多くのネットワーク機器は、[[Telnet|TELNET]]や[[Secure Shell|SSH]]に対応しており、CUIを標準搭載している。また、[[パーソナルコンピュータ]] (PC) やサーバ向けの[[オペレーティングシステム]] (OS) には、既定のインターフェイスがGUIであってもコマンドラインターミナルなどのCUI環境が標準で用意されている。しかし、[[スマートフォン]]などのモバイル端末向けOSには標準で用意されていないことが多い。
ユーザインタフェースがCUIのアプリケーションを[[コンソールアプリケーション]]という。また、あまり一般的ではないが、テキストコンソールを利用してウィンドウなどを表現しているインタフェースを[[テキストユーザインタフェース]]という。
以降、CUIそのものだけでなく[[コマンドラインインタプリタ]]、[[シェル]]についても述べる。
=== 長所 ===
* GUIでは表示し切れないような膨大なファイル群を複数の処理に通す際に、処理順にコマンドやファイル名のパターンを列挙して一括処理させることができる。
* 処理の自動化([[バッチ処理]])が容易である(一連のコマンドや制御文は文字情報なのでファイルに単純に保存しておくことができ、それを後で何度でも実行・修正できる)。
* プログラムを作成する際、ユーザからの入力を処理する部分([[コマンドラインインタプリタ]])を比較的簡単に作れる。GUIのプログラムは、一般にユーザインタフェースの作成に手間がかかり、管理すべき内部状態も多くなる。
: これに関連して、異なるOSにプログラムを移植する際も、[[標準入出力]]のみを使用するコンソールプログラムのほうがはるかに移植しやすい。また、標準入出力は多くの[[プログラム言語]]で標準ライブラリや組み込みの言語機能として提供されているため、プログラム言語の入門や[[プロトタイピング]]、[[ソフトウェアテスト|テストドライバ]]としても向いている<ref>[http://msdn.microsoft.com/ja-jp/library/k1s1x6ck%28v=vs.90%29.aspx コンソール アプリケーション テンプレート]</ref> <ref>[http://msdn.microsoft.com/ja-jp/library/hh875011.aspx Visual C++ の Win32 コンソール アプリケーション]</ref> <ref>[http://msdn.microsoft.com/ja-jp/library/452fz12a%28v=vs.90%29.aspx コンソール アプリケーションの作成 (Visual C#)]</ref>。
* プログラムの出力を別のプログラムに直接入力したり(簡易なプロセス間通信: [[パイプ]])、ファイルに保存したりできる。なお、多くの[[統合開発環境]] (IDE) ではGUIのクライアントを使って直感的にアプリケーションを開発できるようになっているが、プログラムのコンパイル・ビルド時にバックで動作しているのは(単独でも動作可能な)コマンドラインの[[コンパイラ]]や[[リンケージエディタ|リンカ]]である。
* リモートログインする場合、[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]側で専用の[[ソフトウェア]]が不要である([[Secure_Shell|SSH]]クライアント程度で済む)ことが多い。
* 別のコンピュータにリモートログインする場合、画像情報の転送が不要あるいは必要最低限に抑えられるため、ネットワークへの負荷が低い。低速な回線でもリモート操作ができる。
* 一般に自動補完機能(オートコンプリート)や履歴が利用できるため、コマンドをすべて手で入力する必要はない<ref>[https://atmarkit.itmedia.co.jp/fwin2k/win2ktips/247comhist/comhist.html @IT:Windows TIPS -- Hint:コマンド・プロンプトの履歴機能を活用する]</ref>。
* キーボードだけで操作できるため、手慣れたユーザは作業を敏速に行える。
* 直前操作の確認や、資料収集(操作履歴の保存・他人への提供)などが容易である。
* 入力元・出力先の切替が容易である([[リダイレクト (CLI)|リダイレクト]])。
* 先行入力が可能である。GUIにおける、操作を行うためのボタンが表示されるまで待たされる、といったことが避けられる。
など
=== 短所 ===
* 多くの場合、コマンドや応答は英語を基本としている。そのため、英語を母語としていない者にとっては使いづらい。
* 直感的な操作はできず、まず基本的なコマンドをある程度覚える必要があるため、アプリケーションのエンドユーザにとっては習得コストがかかる。各プログラムのパラメータも必要に応じて調べる必要がある。
* 人間の視覚的な能力をあまり活用できない。
* 選択肢やヘルプなどを画面上に表示することにも限界がある。
* 画像や図形の操作や編集には向かないか不可能である。
* 同じ目的のプログラムでも操作方法がまったく異なるケースがある。例えば[[テキストエディタ]]ではフルスクリーンエディタとラインエディタに大別できるが、後者では、編集中は結果が反映されないため、中断してモードを切り替える必要がある。
など
== 関連項目 ==
* [[インタラクティブフィクション]]
* [[端末エミュレータ]]
* [[MS-DOS]]
== 脚注 ==
{{reflist}}
{{デフォルトソート:きやらくたゆうさいんたふえいす}}
[[Category:コンピュータのユーザインタフェース]]
[[Category:ソフトウェアアーキテクチャ]] | 2003-03-05T02:44:34Z | 2023-12-23T06:49:48Z | false | false | false | [
"Template:Lang-en-short",
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"Template:Reflist",
"Template:Cite book"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%B9 |
3,431 | 花粉症 | 花粉症(かふんしょう、英: hay fever、pollen allergy、pollen disease、医: pollinosis または pollenosis)とは、I型アレルギー(いちがたアレルギー)に分類される疾患の一つ。植物の花粉が、鼻や目などの粘膜に接触することによって引き起こされ、発作性反復性のくしゃみ、鼻水、鼻詰まり、目のかゆみなどの一連の症状が特徴的な症候群のことである。日本においては北海道の大半と沖縄を除いてスギ花粉が抗原となる場合が多い(スギ花粉による花粉症についてはスギ花粉症を参照)。
枯草熱(こそうねつ)とも言われる。枯草熱も医薬品等の効能に表記される医学(医療)用語であるが、この記事では花粉症というように、古語・現代語、一般名・疾病名、の観点で呼び分けることもある。
日本ではアレルギー疾患対策基本法の対象疾患である。公害とみなす動きもある(詳細は環境要因の節を参照)。
主な症状は、くしゃみ、鼻水、鼻詰まり、目のかゆみとされ、一般に花粉症の4大症状と呼ばれる。耳鼻科領域においては、目のかゆみを除外したものを3大症状と呼んでいる。
くしゃみ、鼻水、鼻詰まりなどはアレルギー性鼻炎(鼻アレルギー)の症状であり、花粉の飛散期に一致して症状がおこるため、季節性アレルギー性鼻炎(対:通年性アレルギー性鼻炎)に分類され、その代表的なものとなっている。目のかゆみや流涙などはアレルギー性結膜炎の症状であり、鼻炎同様に季節性アレルギー性結膜炎に分類される。広義には花粉によるアレルギー症状全てを指すこともあるが、一般的には上記のように鼻および目症状を主訴とするものを指す。また、狭義には鼻症状のみを指し、目症状は結膜花粉症(または花粉性結膜炎)、皮膚症状は花粉症皮膚炎または花粉皮膚炎、喘息の症状は花粉喘息、喉の不快感などの症状はアレルギー性咽喉頭炎などと別に呼ぶことがある。
喘息様発作については、咳が多く出たり呼吸機能の低下がみられ、重症例では呼吸困難になることもある。そうなった場合はすみやかに救急医療機関を受診するか、救急車を呼ぶべきである。従来は、花粉の粒子サイズから、それらは鼻で捕らえられるために下気道の症状である喘息などは起きないとされていたが、近年の研究でスギ花粉の周りにオービクル(英語版)またはユービッシュ体と呼ばれる鼻を通過するサイズの微粒子が多数付着していることがわかり、それらを吸引することで喘息が起こり得ることがわかってきた。二次飛散を繰り返すうちに一部の花粉が細かく砕かれるとの推測もある。
花粉によってアレルゲン性の高さも異なり、花粉の種類と量によっては、まれにアナフィラキシーショックを起こすこともある。重症者や、特に喘息の既往症のある患者は、激しい呼吸によって多量の花粉を吸引するおそれがあるような運動はなるべく避けるべきである。
果物などを食べると口の中にかゆみやしびれなどを生じる口腔アレルギー症候群 (OAS) を起こす場合もある。特に北海道に多いシラカバ花粉症でよくみられるほか、関西で多いヤシャブシ花粉症などでもみられる。リンゴ、モモ、ナシ、イチゴなど、バラ科の果実に反応することが多い。他に、メロンやトマトにも反応するという。これらはアレルゲンがきわめて類似しているためと考えられている。口腔アレルギー症候群 (OAS)(外部リンク)も参照のこと。
スギ花粉飛散の前から症状を呈する患者も多くいるが、実際にごく微量の花粉に反応している場合だけでなく、季節特有の乾燥や冷気によるものもあると考えられている。患者は自己診断に頼らず、専門家の診断を受けることが望ましい。
花粉症を引き起こす植物は60種以上が報告されている。
春先に大量に飛散するスギの花粉が原因であるものが多いが、ヒノキ科、ブタクサ、マツ、イネ科、ヨモギなど他の植物の花粉によるアレルギーを持つ人も多くいる。
特にスギ花粉症患者の7 - 8割程度はヒノキ花粉にも反応する。また、「イネ科」と総称されることからもわかるとおり、その花粉症の患者は個別の植物ではなくいくつかのイネ科植物の花粉に反応することが知られている(○○科と総称されるのは光学顕微鏡による肉眼観察では区別がつかないためでもある)。これらは花粉に含まれているアレルゲンがきわめて類似しているため、交差反応を起こしている。
花粉症には地域差もあるといわれる。例えばスギの少ない北海道ではスギ花粉症は少なく、イネ科やシラカバ(シラカンバ)による花粉症が多い。中国地方、特に六甲山周辺において、大量に植樹されたオオバヤシャブシによる花粉症が地域の社会問題になったこともある。北陸の稲作が盛んな地域では、他地域よりもハンノキ花粉症が多い。シラカバ、ハンノキ、ヤシャブシ、オバヤシャブシなどは口腔アレルギー症候群をおこしやすい。
アメリカ合衆国ではブタクサ、ヨーロッパではイネ科の花粉症が多い。北欧ではシラカバ等カバノキ科の花粉症が多い。
花粉症の原因となる植物は、風に花粉を乗せて飛ばす風媒花が一般的であるが、職業性の花粉症にみられるように、その花粉を大量かつ長期にわたって吸い込んでいれば、どんな植物の花粉でも花粉症になり得ると考えられている。職業性の花粉症は果樹の人工授粉に従事する栽培農家などによくみられるが、華道家が発症した例もある。
なお、セイタカアワダチソウ(セイタカアキノキリンソウ)の俗名がブタクサということもあり、ごく一部で混乱が生じている。実際、過去に花粉症の原因植物と言われたこともあったが、セイタカアワダチソウは虫媒花のため、原則的には花粉は飛ばさない。ただし、大群落を作ることが多く、こぼれた花粉が周辺に飛散してしまうことはある。同じキク科のブタクサやヨモギ等の花粉に対しても交差的に感作が成立することもある。
日本人の主食の米となるイネは、開花期が早朝でごく短く、水田で栽培されるため、花粉症の原因になることは少ない。
原因花粉をつきとめるためにはアレルゲンの検査が必要であるが、身近にその植物があれば患者自身でもわかる場合がある。花粉の観測を行っている施設は多いが、その多くはスギ・ヒノキの飛散期間のみであり、通年で行っていたとしても、ほとんどはビルの屋上などに装置を設置しているため、草花花粉についての正しい飛散情報を得ることは難しい。また、飛散範囲が局地的であることも、草花花粉の飛散情報を得るのが難しい原因となっている。
花粉量は多い年と少ない年が交互になる傾向があり、花粉量が多い年を「表年」、少ない年を「裏年」という。
花粉症は、患者が空中に飛散している植物の花粉と接触した結果、後天的に免疫を獲得し、その後再び花粉に接触することで過剰な免疫反応、すなわちアレルギー反応を引き起こすものである。花粉症はアレルギーの中でも、IgE(免疫グロブリンE)と肥満細胞(マスト細胞)によるメカニズムが大きく関与しており、即時型のI型アレルギーの代表的なものである。
同じI型アレルギーが主であるアトピー性皮膚炎では、IV型のアレルギー反応も部分的に関与するといわれる。花粉症でも、皮膚症状が出る場合には、IV型(すなわち接触性皮膚炎、いわゆるかぶれ)が関与している場合もあると考えられている。
ここでは、即時型のI型アレルギーのみを紹介している。また、一つの仮説としてTh細胞バランスを紹介する。
花粉症の患者は、症状が現れる以前にアレルギーの元(アレルゲン)になる花粉に接触している。目や鼻などの粘膜に花粉が付着すると、花粉内およびオービクルからアレルゲンとなるタンパク質が溶け出し、マクロファージ(貪食細胞)に取り込まれ、非自己(異物)であると認識される。この情報は胸腺由来のリンパ球であるヘルパーT細胞のうちのTh2を介し、骨髄由来のリンパ球であるB細胞に伝えられる。B細胞は花粉アレルゲンと特異的に反応する抗体を作り出す。
抗体は本来、体内に侵入した病原細菌や毒素などの異物を排除・無害化するためのものであり、ヒトにはIgG、IgM、IgA、IgD、IgEの5つのタイプが存在するが、花粉症の患者で最も重要なのがIgEである(こうした抗体が関与する免疫反応を液性免疫という)。このIgEは、血液や粘膜中に存在する肥満細胞や好塩基球に結合し、再び花粉アレルゲンが侵入してIgEに結合すると、様々な化学伝達物質(ケミカルメディエーター)が遊離して症状を引き起こす(後述)。
なお、IgEが一定レベルまで肥満細胞に結合した時を感作が成立したと言い、発症の準備が整ったことになる。どの程度までIgEが蓄積されると発症するかなどは個人差が大きいとされる。また、IgEのレベル以外に発症を誘引する因子があるのかないのかなどについても詳しいことはわかっていない。いずれにしろ、ある年に突然に花粉症が発症したように思えても、それまでに体内では発症のための準備が着々と進んでいたということである。このことを理解しやすくするため、一般にアレルギーコップという喩えがよく用いられる。すなわち、体内のコップに長期間かけて一定レベルの発症原因がたまり、それがあふれると突然に発症するというものである。一度感作が成立すると、原則的に花粉症の自然治癒は困難である。病原菌などに対する免疫と同様、「花粉は異物である」という情報が記憶されるためである。
遊離したケミカルメデイエーターのうちもっとも重要なのは、ヒスタミンとロイコトリエンである。
こうした症状そのものは、体内に入ってきた異物を体外に出すための反応であり、また引き続いて体内に入ってこないようにする正常な防衛反応であると解釈できる。しかし、害のない異物と考えられる花粉アレルゲンに対して過剰に反応し、それによって患者が苦痛を感じる点が問題となる。
症状を起こした粘膜では、血管から浸潤した炎症細胞(特に好酸球)からのロイコトリエン等によってさらなる鼻粘膜の膨張が起こる。その他のケミカルメディエーターや酵素などにより組織障害も起きる。抗原曝露後6 - 10時間にみられる遅発相反応がこれで、アレルギー性炎症と呼ばれる。こうした炎症細胞を呼び寄せるのも肥満細胞などから放出されるケミカルメディエーター(上記のPAFなど)である。
症状が繰り返し起こることによって、粘膜過敏性は増加し、症状は慢性化する。不可逆的な粘膜の肥厚なども起こり得る。重症例では、花粉の飛散が減少または終了しても、病変はすぐには改善されない。
一つの仮説として、免疫系を制御しているヘルパーT細胞のバランスが関与するという考えがある。抗体産生細胞であるB細胞に抗原の情報を伝達するヘルパーT細胞は、産生するサイトカインの種類により1型と2型(Th1とTh2)に大別される。これらのうち、インターロイキン4などを分泌してアレルギーに関わるIgEを産生するように誘導するのはTh2である。いっぽうのTh1は主に感染症における免疫反応に関わる。すなわちマクロファージやキラーT細胞などを活性化させ、細菌そのものやウイルスに感染した細胞を障害する(細胞性免疫という)。B細胞にIgGを産生させ、いわゆる正常の免疫を作ることにも関与する。
これらのことから、アレルギー患者においてはTh2が優位に働いているということがいえるが、なぜTh2が優位になるのかについてはよく判っていない。幼少時における感染症が減ったためにアレルギーを起こしやすい体質になっているのではないかという説については、この仕組みが関与していると考えられている。成長期において細胞性免疫を獲得する機会が減っているため、おのずとTh1よりTh2が優位になる人が多く、アレルギー人口が増えたというものである。強く影響を与える感染症としては、過去に国民病ともいわれた結核が疑われている。鼻症状に限定すれば、やはり過去には多かった副鼻腔炎の減少の関与を考える場合もある。
これらヘルパーT細胞のバランスは出生後数か月のうちに決まるとも、3歳程度までのうちに決まるともいわれるが、のちに人為的に変化させることもできるという説もある。なお、ヒトは胎内にいるときや出生直後はもともとTh2優位の状態であり、また、Th1とTh2は相互に抑制しあう関係にあるという。
衛生仮説ともいわれるこの説は現在もっとも有力な説となっている。しかし、近年の研究によれば、単にTh1/Th2バランスによってのみ説明できることばかりではないこともあり、調節性T細胞の関与を考える説も出されている。衛生仮説を説明したこのTh1/Th2パラダイムは1980年代後半に提唱されたものだが、広く免疫を考えるときに重要なものであることは現在でも変わりがない。
衛生仮説の応用として、結核のワクチンであるBCG接種によって花粉症の治療をしようという試みや、結核菌と同じグラム陽性菌である乳酸菌の一種を摂取することが治療に役立たないかどうかの研究も行われている。菌のDNAの一部であるCpGモチーフを抗原ペプチドとともに投与して減感作療法の効率をあげる試みもなされている。
関連として、環境中の細菌等が産生する微量の毒素が関係すると提唱する研究者もいるほか、最近では、医療における抗生物質の多用(によるヒトと共生している菌のバランスの崩れ)が関わっているのではないかという見方も出てきている。ピロリ菌感染との逆相関が認められることも報告された。
花粉症の患者では、原因植物の花粉に対するIgE量が多いことは明らかであり、これがアレルギーを起こす直接の原因である。しかし、花粉症の原因となる花粉と接触しても全ての人が花粉症になるわけではなく、IgEが多くても発症しない人がいる。またIgEの量と重症度とは必ずしも相関しない。なぜこうしたことがあるかについては、遺伝要因(遺伝的素因)や環境要因などさまざまな要因の関与が考えられている(すなわち花粉症は多因子疾患である)が、全貌は明らかになっていない。
遺伝要因については、広く体質(いわゆるアレルギー体質)と呼ばれるものが相当する。しかし広義の体質は、遺伝による体質と、出生後に後天的に獲得した体質とが混同されているため、これらは分離して考える必要がある。アレルギーになりやすい遺伝的素因、すなわちIgEを産生しやすい体質は劣性遺伝すると考えられており、それを規定する候補遺伝子は染色体11qや5qなどに存在するといわれるが確証はない。こうした遺伝的要因については、IgE産生に関わるもののほか、各種のケミカルメディエーター遊離のしやすさや受容体の発現のしやすさの違いなども考えられている。どんな物質に対してアレルギーを起こすかということも、遺伝的に規定されているとの説もある。
大気汚染や生活環境の変化、衛生環境の変化による人体の免疫作用の変化との関連が指摘されており、下記のような調査が進められている。
元々日本の森林は広葉樹を主体とした多種多様な樹木が分布しており森林の90%近くが広葉樹であった。しかし高度経済成長による建築用木材の需要増大で生育が早く加工が容易でまっすぐに成長する杉や檜などの針葉樹の植樹が各地で行われた。その結果森林全体では針葉樹が50%を占めるようになった。人工林では99%が針葉樹となっている。
高度経済成長の終息や海外から安い木材が輸入されるようになると日本の針葉樹林は放置され大量の花粉を排出するようになった。杉や檜は樹齢30年を過ぎると子孫を残す段階に移行するため、特に多くの花粉を排出するようになる。近年の花粉症患者の増大はそのためと考えられる。
また、針葉樹は動物の食糧となる木の実が成らず、針葉樹林は緑の砂漠と言われる。針葉樹林の増加は人間だけではなく森にすむ動物にとっても深刻な問題である。
ディーゼルエンジンの排気ガス中に含まれる微粒子 (DEP) や、ガソリンエンジンからも排出される窒素酸化物 (NOx)、オゾン (O3) などに長期間暴露されることにより花粉アレルギー反応の閾値を下げる、アレルギー反応を増幅するなどの影響が指摘されており、様々な実験・調査がされている。NHK地上TVでも、排気ガスと花粉の化合物の問題を取り上げ、幹線道路沿いの住民が花粉症発生率が高いと報道した。
また、そもそも東京都内などほぼ全域にわたって大気汚染物質の濃度が高いところでは疫学的研究による差が出にくい(比較的低濃度の地域であっても閾値を超えていることが考えられる)ことや、動物実験について臨床との差異があることを理由に結果を否定しようとする向きがあること(前述)、PM2.5 などこれまで充分に測定されていない物質の影響が調査できていないといった問題もあることから、環境省や大気汚染が進む自治体などでは、より広範な情報収集・調査を行うための観測地域や対象物質の拡大といった、観測体制の整備が進められている。
大気汚染物質としては、前述の自動車排ガスのほか、自動車タイヤと道路の摩擦から発生する道路粉塵、煙草の煙や換気の悪い室内での暖房時に出るガス状物質、黄砂や土ぼこりなども、症状を悪化させるという報告がある。
都市化との関連については、別項にて述べているように、それによりいつまでも空中を漂い続ける花粉数が増えているという説もある。
そのほか、従来からの日本式家屋とは異なる高気密の住宅が普及したことも、花粉症が増えた原因のひとつではないかという考えがある。高気密ではあるが高断熱ではない住宅では局所的に湿度が蓄積されやすく、不十分な換気などによってダニ・カビが繁殖しやすい環境になる。これによって幼少児期のうちからハウスダストに対するアレルギー性鼻炎や小児喘息などを発症し、中にはそれが原因で花粉症にもなりやすくなっている人もいるとの考え方である。すなわち、なんらかのアレルギーになると、それがきっかけで違うアレルギーにもなりやすくなるというものである。逆に、そうした時期にアレルゲンを絶つとアレルギーになりにくいとの研究もある。たとえば妊娠期および授乳期に卵を厳格に除去すると、卵に対するIgEが低値であるだけでなく、ダニに対するIgEも低値であったという研究もある。しかし様々なデータがあるため、現在では、それらの関連は不明である。
しかし、こうした住宅事情の変化はハウスダストアレルギー増加をうまく説明しても、前述のどのようなアレルゲンに反応するかは遺伝的に規定されているという説によれば、これが花粉症増加の原因であるとはいいがたい。ただし花粉症患者のかなりは、その発症以前にハウスダストアレルギーを発症しているという事実もあり、花粉症の素因を持った人の発症時期を早める影響は否定できない。そうであれば、高気密住宅の多い都市部に花粉症患者が多くなることも、ある程度は説明ができる。
都市生活ならではのストレスや食生活の洋風化などについては、明らかなことはわかっていないが、個人により影響を強く受ける人もいるかもしれないとは考えられている。特に食品中のさまざまな栄養成分とアレルギーとの関連は、実験的なデータや理論(仮説)はあるものの、疫学的に実証されているとはいいがたい。建材などから発生する有毒化学物質や食品中の添加物の影響を考えるむきもあるが、花粉症との関連は調査されていない。授乳時の人工栄養や早期離乳などについてはいくつかのデータがあるが結論はなされていない。
不飽和脂肪酸ω-6系とω-3系のバランスが崩れているという仮説もある。
炎症性のあるロイコトリエンやプロスタグランジンのようなアラキドン酸カスケードの原料であるω-6脂肪酸(リノール酸)の摂り過ぎと代謝酵素が共通しているために拮抗関係にあるω-3脂肪酸(α-リノレン酸)との摂取バランスが崩れて、アレルギーが惹起されやすくなっているとの報告もある。リノール酸、α-リノレン酸は必須脂肪酸である。
花粉症の検査は、
の2点が重要であり、そのための検査が行われる。
なお、花粉に限らずいくつかの代表的なアレルゲンは、日本においては定期健診のオプションメニューで受診ができる場合もある。
日本で行われているアレルギーテストは血液検査のRASTのみであることが多い。しかし、RASTには陰性でも、欧米で一般的に行われている感度の高い皮膚テストが行われずに、皮膚テストで陽性の患者の原因アレルゲンの特定が不可能になることがある。RASTよりも感度の高い皮膚テストを行うことによって、患者の原因アレルゲンの特定をより正確に行うことの必要性を主張する医師もいる。
実際の重症度を調べるには、患者自身がアレルギー日記(花粉症日記)をつけるのが一番の方法である。この利点としては、自分の重症度や日による症状の変化などを把握できるため、アレルゲンが特定できていない場合、それを推定するのに有用となることがある。
しかし、重症度とQOLの障害は別物であり、近年はこのQOLを重視する方針での治療が推進されるようになっているため、治療の経過を判断する材料にはなるが、それだけで判断することはない。
一般的には、花粉症の治療を受ける場合に適した診療科は耳鼻咽喉科であるが、アレルギー増加に伴い、大抵の医師は一定レベルの知識を有している。よって内科などでも充分な治療が受けられることがある。小児の場合は、慣れているという点で小児科の方が良いことがある。同様に妊婦および授乳婦の場合は、産婦人科の方が融通がきくことがある。
ただし、症状がひどい場合は、その部位の専門医に相談するほうがよい。すなわち鼻や喉の症状であれば耳鼻咽喉科、目の症状であれば眼科、皮膚症状がひどい場合は皮膚科が適する。これらの診療科とともに、アレルギー科の標榜がなされていると、なおよいといえる(一般にアレルギー科単独で標榜していることは少ない)。ただし、アレルギー科を標榜している医療機関に必ずしもアレルギー専門医がいるとは限らない。アレルギー専門医を調べるには、日本アレルギー学会や日本アレルギー協会に問い合わせるとよい。アレルギー学会のサイトにて調べることもできる。
なお、自治体の保健所などが相談体制を整えつつあるので、まずはそこで相談するのもよい。
治療は目的や方法によっていくつかに分けることができる。
薬剤の分類や呼び方は少々の混乱が生じている。専門家における呼称と一般に広く用いられる呼称も異なったまま慣用されている。
花粉症はアレルギーであるため、その治療に用いられるものは抗アレルギー薬といえる。それらは薬理作用により以下のように大別できる(広義ではステロイド薬をも含めて抗アレルギー薬と考えることもある)。
専門的には、1. の遊離抑制作用のみを抗アレルギー作用と呼ぶ。よって、1. の遊離抑制作用のある薬のことを抗アレルギー薬と呼ぶ。これは、初のケミカルメディエーター遊離抑制薬であるクロモグリグ酸ナトリウムのことを、ヨーロッパの一部において抗アレルギー薬( anti-allergic drug )と呼んだことに由来している。
しかし、遊離抑制作用を持つものを抗アレルギー薬と呼ぶと定義すると問題が生じることがある。抗ヒスタミン薬の中には、抗ヒスタミン作用の効果だけでなく、ケミカルメディエーター遊離抑制薬およびケミカルメディエーター遊離抑制作用を持つもの(これを第二世代抗ヒスタミン薬と言う。)があり、第二世代抗ヒスタミン薬も抗アレルギー薬に含まれるという分類になる。患者向けとして広く一般に用いられている呼称はこれが多く、第二世代抗ヒスタミン薬は抗アレルギー薬として普及してしまっている。一方、ケミカルメディエーター遊離抑制作用のない第一世代抗ヒスタミン薬は、単に抗ヒスタミン薬と呼ばれることが多い。
こうした薬剤の分類や呼び分けは、医師・研究者や治療する疾病の分野によってやや異なることがある。一般向けに出版されている書籍での説明や、インターネット上の花粉症・アレルギーの説明を行う各種サイトによっても、微妙に異なる場合がある。たとえば、第二世代抗ヒスタミン薬をさらに細分化し、第三世代とのカテゴリーを設ける医師・研究者もいる。
過去にケミカルメディエーター遊離抑制薬(抗アレルギー薬)のことを体質改善薬ということがあったが、抗ヒスタミン薬とは作用機序が異なる事実においてそのように呼ばれただけであり、いわゆるアレルギー体質は改善されない。アレルギーの発症を予防する効果もない。便宜的に患者に対してそう説明されることがある。
第一、第二を含めて「症状を抑える」という対症的な治療効果であり、根治薬ではない。
ステロイド薬は、遊離抑制作用や受容体拮抗作用などといった限られた作用ではなく、アレルギーのメカニズムのほとんどを抑制する。抗炎症作用も強く、多くはこの作用を期待して用いられる。しかし、強力にアレルギーを抑えるということは、免疫そのものも減弱させるということでもあり、不必要な長期投与など不適切な使用によって他の感染症を招いたり、体内のホルモンバランスが崩れることにより重い副作用や後遺症が現れることもある。その他の副作用も多く知られている。
IPD(アイピーディー)というTh2活性阻害薬(内服薬)が、症状に応じて使用されることがある。IPDは、アトピー性皮膚炎や気管支喘息でも使われる薬剤である。花粉症では、Th2細胞活性の亢進・サイトカインの中のIL-4・IL-5(アレルギー症状を誘発するもの)の産生の増加がみられることがあるが、この薬剤はTh2細胞の活性を低下させIL-4・IL-5の産生を抑制する作用があり効果があるとされる。ただし、即効性はなく、効果が現れるのに数週間ほどの時間がかかるという特徴がある。
鼻詰まりが強い場合、いわゆる血管収縮剤(α交感神経刺激薬)と呼ばれる薬剤の点鼻薬が処方されることがあるが、連用すると効果が弱まるだけではなく、かえって鼻詰まりがひどくなり、依存(離脱困難)になることもある。そうした副作用が出やすいため、短期間に限って処方されることが多い。鼻詰まりがひどい患者がステロイド点鼻を行うとき、薬剤が鼻腔内に入っていきやすいように、あらかじめ鼻粘膜を収縮させるために用いる場合がある。この種の薬剤は市販のほとんどの点鼻薬に含まれており、即効性と高い効果があるため、説明書の注意書きを守らずに乱用してしまいがちである。花粉症に使われる市販薬でいちばん問題になるのが、この点鼻薬の副作用である。幼児の場合、まれに重い副作用が出ることもあるので使用を避けるべきである(原則的に5歳以下には用いない)。
血管収縮剤は充血を取ると称する市販の点眼薬にも多く含まれており、やはり連用するとかえって充血がひどくなることがある。
副交感神経遮断薬である抗コリン薬はエアゾール剤の関係で製造を中止している。
病気によっては禁忌となっている薬もあるので、持病のある人はたとえ気軽に買える市販薬であっても、その使用については医師・薬剤師に相談すべきである。他に薬剤を常用している人や、乳幼児、小児、妊婦、授乳婦も同様である。なんらかの副作用を感じたら、早めに医師・薬剤師に相談すべきである。
作用と副作用とのバランスを考え、効果が不充分なものであったり、眠気などの副作用があまりに日常生活に支障があるようであれば、違う薬および治療法に変更してもらうよう医師に相談することも大切である。
花粉症の確実な根治療法はまだ確立されておらず、アレルゲン免疫療法(減感作療法)がもっとも根治療法に近い。広く免疫療法とも呼ばれ、広義では変調療法ともいわれる。一般的には下記の抗原特異的アレルゲン免疫療法を指す。WHOの見解書では、アレルゲン免疫療法が花粉症の自然経過を変える唯一の根本的治療法として記述されている。花粉症の症状の治癒と予防に関しては、臨床上の観察において、アレルゲン免疫療法以外の治療では治癒や予防は期待できず、花粉やダニの免疫療法の必要性を説く医師もいる。
20世紀初頭よりトキソイド研究から派生した抗原特異的アレルゲン免疫療法は大別すると皮下投与による減感作療法と経口投与による舌下減感作療法とに大別される。
アレルゲン免疫療法は薬物療法とは異なり、治療終了後もアレルギー防止効果が持続する点が特徴である(患者によっては数年 - 十数年後に同一または異なる花粉に再感作する可能性はある)。一方、現在承認されている治療方法では毎週 - 月1回程度の通院治療が必要であり、完全な効果を得るにはに数年程度継続する必要がある。舌下減感作療法は在宅治療が期待されるが日本においてはアレルゲンワクチン錠は未承認である。
花粉症のアレルゲン免疫療法は花粉シーズン前から開始すると有効性が高い。
2007年時点では米国では数十種類の標準化アレルゲンワクチンが上市されているのに対して、日本においては標準化スギアレルゲンが上市されているに過ぎない。日本においても標準化アレルゲンワクチンの多様化を期待する意見がある。
直接アレルゲンをアレルゲンワクチンとする抗原特異的アレルゲン免疫療法以外にも、限定的ではあるが非特異的アレルゲン免疫療法も存在している。
減感作療法において、日本で使用されている皮膚テスト用のアレルゲンは12種類しかない。それに比べて公益財産法人日本アレルギー協会を通して入手可能な米国政府承認の皮膚テスト用アレルゲンは64種類ある。皮膚テスト用アレルゲンと治療用アレルゲンワクチンをともに多様化することで、日本のアレルギー診療の質が向上可能だと指摘する医師もいる。
ハンドスプレー式の容器に薄めた花粉エキスを入れ一日一回口の中にスプレーする治療法。最初の2週間は専用のスプレーで少しずつ量を増やしていき、3週間目から専用のボトルで一定の量を服用し続ける。難点は治療期間が3年以上と長い事。全ての患者に有効ではなく、何らかの改善が見られるのは70%に留まっている。2014年10月より保険適用となる。「舌下免疫療法」とも呼ばれている。
鼻内部のアレルギー症状をおこす部分の粘膜にレーザー光線を照射して焼灼し、その部位を変質させることで鼻水・鼻づまりを抑える治療法。原則的には鼻詰まりの治療法である。保険が利くが、美容整形クリニックなどで自由診療(保険外診療)として行っている場合がある。レーザー照射をしてから数日は、傷(やけどのようなもの)のために花粉症以上の鼻水が出て苦しむこともある。一般的にはシーズンの1 - 2か月前に予防的に行う。効果の程度は個人差があり、有効でない場合もある(医師の技術にもよる)。
効果の持続は整形手術などとは違い、短ければ数か月、長くて2年程度のことが多い。そのため毎年行う患者もいるが、そうした繰り返しの処置による不可逆的な組織の変化、すなわち後遺症については、歴史が浅いこともあって明らかな知見はない。安全だという医師もいれば、毎年はやらないという方針の医師もいる。
細かくみれば、レーザー光線の種類や術式の違いもある。いうまでもなく鼻の処置であるため、目の症状には効果はない。
スギ花粉症緩和米を1日1食2か月間食べ制御性T細胞を増やす食事療法。2015年4月現在50人が治験を受けている。2016年11月から約1年間、1日5グラムの割合で通常の米に混ぜて食べてもらい効果を確かめる臨床研究が予定されている。
漢方薬による治療も行われる。従来の漢方専門薬局のみならず、総合病院や開業医でも扱うことが増えてきており、漢方科を設置するケースも見受けられる。有名メーカーの顆粒エキス剤は医療保険対象のものが多い。元来、漢方薬は症状ではなく、個々人の体質によって薬を選択するので、漢方専門家の診断と、予後経過観察しながらの投薬の種類や用量の適宜変更が必要であるが、西洋医は、効果のマイルドな薬という観点で西洋薬学的に用いることが多いため、時に上記の抗ヒスタミン薬など西洋薬との併用も行われるが、そのような運用手法は東洋医学的には誤りであることも多い。西洋医は東洋医学には精通していないのが主因である。例えば小青竜湯は水気の貯まった肺や気管支を乾かし熱を帯びさせるが、その予後を経過観察せず飲み続けると今度は鼻炎など炎症が悪化してしまう、という具合である。適度の鼻水で潤されるのも、きちんとした生理的理由があるのである。うかつに症状を取るだけでは漢方医療とは言えない。
花粉症によく用いられる漢方薬
このように、症状を抑える即効性の薬のほか、長く飲み続けて体質を変えて根治をねらうとされる種類の薬もある。体力と免疫力の落ちた状態、血行の悪い部位、リンパの蓄積でむくみがある状態、ではアレルギー物質に弱くなり反応が悪化する、というように、気血水や胸脇苦満などの理論に基づいた、基礎体力をはじめとする体質改善の方が、対症療法よりも効果が高いケースも往々にしてある。体質が弱体化したまま、対症薬だけ服用しても、山火事に放水するに等しいなどという例えられ方をする。
よく誤解されているが、漢方薬なら副作用がないというのは誤りである。特に小青竜湯や葛根湯に含有されるマオウは、体質や服用量により動悸や血圧上昇などが起こる可能性があるので、服用に当たっては熟達した漢方薬剤師か、漢方処方経験に厚い西洋医師に運用を依存するべきである。メジャーな漢方材料による副作用は他に、カンゾウによる偽性アルドステロン症(低カリウム症状が出る)や、ジオウとダイオウなどでの下痢、柴胡処方による血流や体温の低下に伴う、衰弱の進行した重病患者の合併症増発などが代表的である。虚弱体質の人が小柴胡湯を飲んで冬の山に行くと、消炎作用が強いため凍えて動けなくなってしまう恐れすらある。この場合はせめて柴胡桂枝湯などに処方を変えなくてはいけない。
おおむね、女性の妊娠・授乳期にも比較的安全といわれる処方が多いが、逆に妊婦には禁忌の処方や望ましくない服用量、服用法もあるので、処方箋を出した主治医に事前に相談することが望ましい。これも『漢方に副作用は無い』という風説と同じく、眉唾と言える。
ハーブによる発症抑制、緩和が注目されている。抗アレルギー作用のあるネトル、抗ウイルス効果の高いエルダーフラワー(ニワトコ、en:Elder flower)、免疫力を強化するエキナセアが特に注目されるほか、鼻通りを良くするペパーミントや鼻の粘膜に効くレモンバーム、鼻炎に効果の高いカモミールや殺菌力で知られるユーカリ、気管支炎に良いとされるクレソンやブルーマロウ(ウスベニアオイ、en:Malva sylvestris)、目の粘膜を強くするアイブライト(コゴメグサ、en:Eyebright)などにも緩和効果があると話題にされることが多い。いずれも健康茶の域であって、ステロイド剤のような強力性や漢方薬ほどの薬用性、即効性はないが、シーズン中の常用茶として利用することに有意義性がみられる。最近の流行で、ハーブティー専門店にてこれらハーブが調合されたブレンドティーが多く発売されている。
ダチョウの卵黄を利用し作られた抗スギ花粉ダチョウ抗体・抗ヒノキ花粉ダチョウ抗体。抗体を含んだスプレーの塗布や、のど飴として摂取することで、花粉症の症状を緩和する作用がある。
レーザーと同様な原理で、鼻粘膜に対する超音波メスによる処置や、高周波電流を使った鼻の処置が行われている。薬剤の塗布によって鼻粘膜を化学的に焼く方法もある。治療成績や後遺症については、レーザー同様、確立した知見はない。
特に通気性の改善のため、鼻中隔湾曲など鼻の器質的な異常に対する手術も行われる。最近では入院が前提となる後鼻神経切断術と同時におこなうことにより、半永久的根治治療を行うことが可能である。
鼻水がひどい難治例にはビディアン神経切除術なども行われる。
麻酔科からのアプローチとして、首にある星状神経節のブロックという方法も行われる。治療成績は明らかでない。
目の涙管に抗アレルギー薬を注入するという治療法も一部の眼科で行われている。これは保険適用外。
その他、その医師の独自の考え方により特殊な治療法が実施されることもある。治療成績はもちろん、安全性についても明らかでないものがある。
代替医療・民間療法には、食品や飲料の摂取などのほか、さまざまなグッズ類を使用したり、鍼灸などの伝統医療や整体、医師によらない漢方治療、エネルギー療法などがある。
これらの成分とビタミン・ミネラル等を配合したサプリメント類や清涼飲料水など、いわゆる健康食品類も多く出ている。
2007年2月、スギ花粉(スギのつぼみ)をカプセルにつめた健康食品にて、服用した患者が一時意識不明になるという事故がおきた。厚生労働省は、「残念ながら民間医療の多くに十分な効果の根拠があるとは言えません」「安全性が危惧される民間医療も指摘されています」としている。
花粉症の症状はアレルゲンと接触したときにのみ現れるので、花粉との接触を断つことがもっとも効果的な対策である。アレルギーの原因にさかのぼって対処するため、原因療法といわれることもある。症状が出てから対策を行うのではなく、症状が出る前から予防的にケアを開始するとより有効である。すなわち自分で行う初期治療である。
アレルゲンとの接触を続けていれば抗体値も上がり、症状もひどくなる。すなわち、薬剤治療により症状を抑えているからといって、なんの対策もしなくてよいということにはならない。患者にとっては、こうしたセルフケアはもっとも基本的なことといえる。
近代医学的な記録で最古のものは、1565年(一説には1533年)のイタリアの医師 Leonardo Botallus によるものとされる。「バラ熱(Rose cold または Rose fever)」と呼ばれる症状で、記録によれば、その患者はバラの花の香りをかぐとくしゃみやかゆみ、頭痛などの症状をおこすという。原則的にバラは花粉を飛散させないため、花粉症であるとは言い難いが、現在でも Rose fever は「晩春から初夏の鼻炎」様の意味で Hay fever 同様に用いられることがある。
花粉症であることが確かな最初の臨床記録は、1819年にイギリスの John Bostock が、春・秋の鼻症状、喘息、流涙など、牧草の干し草と接触することで発症すると考えられていた Hay fever と呼ばれる夏風邪様症状について報告したものである。彼自身も長年にわたって症状に苦しめられたというが、有効な治療法は発見できなかったという。彼は最初これを夏季カタルと呼んだ。発熱(fever)は主要な症状ではないので、粘膜の炎症を示すカタルの方が適切ではあった。この報告の後しばらくの間、この症状は「Bostockのカタル」と呼ばれたと言われる。1831年には同じくイギリスの J.Elliotson により、証明はなされなかったが花粉が原因であろうとの推定がなされた。そして1872年、北アメリカでブタクサが Hay fever の原因であるという報告がなされた。ブタクサは Hay ではないが、その当時すでに Hay fever という名称は定着していたと考えられる。
その後、イギリスの Charles H. Blackley によって、Hay fever は気温の変化あるいは花粉が発する刺激性のにおいや毒素などが原因とする考えが、実験的に否定された。彼は空中花粉の測定、鼻誘発試験や皮膚試験など、現在でも通用する試験を行ってイネ科花粉症を実証し、遅発相反応にさえ言及した著書『枯草熱あるいは枯草喘息の病因の実験的研究』を1873年に著した。これにより Hay fever は Pollinosis、もしくはGrass pollen(花粉症)と呼ばれることが一般化した(pollen は花粉のこと)。これらのことから、自らも花粉症であった Blackley は花粉症の父と呼ばれている。しかし、アレルギーという概念が成立するには20世紀になるまで待たなければいけなかったため、この段階では花粉に過敏に反応する人とそうでない人がいるということしかわからなかった。
1935年と1939年には空中花粉の測定が行われ、空中花粉数は少なくないが花粉症の原因となる花粉はきわめて少ないと報告された。戦後、進駐軍の軍医により調査がなされ、気候風土などの関係により、日本でのブタクサおよびイネ科の花粉はアレルゲンとして重要ではないと結論した報告が1948年になされた。これらにより、日本における花粉症の研究および患者の発見・報告等が遅れたという指摘がある。
1960年代に次々と報告されたブタクサ、カモガヤ、スギ、ヨモギなどによるものが日本における花粉症の始まりである。しかし、その正確な出現時期はわかっていない。なお、日本初の花粉症の報告は、1960年の荒木によるブタクサ花粉症であり、次いで1964年の杉田・降矢によるカモガヤ花粉症、堀口・斎藤によるスギ花粉症、1965年の寺尾・信太によるイネ科花粉症、佐藤によるイタリアンライグラス(ネズミムギ)花粉症、1967年の我妻によるヨモギ花粉症などの順である。
スギ花粉症の発見者である斎藤洋三(当時は東京医科歯科大学所属)は、1963年に鼻や目にアレルギー症状を呈する患者を多く診察したのが花粉症に気付くきっかけとなったというが、過去の記録を調べ、毎年同時期に患者が急増することを確認している。また、1989年に65歳以上の耳鼻咽喉科医師に対してアンケートを行った結果、初めてスギ花粉症と思われる患者に接したのは1945年以前であるとの回答が4.7%あったなど、総合的にみてスギ花粉症の「発見」以前に患者に接していた医師は回答者の4分の1に達したとの調査がある。さらに、高齢の患者を調べたところ、戦前の1940年以前に発症したとみられる患者もいた。
1960年後半時点でも、依然として花粉症の知名度は低かった。1969年11月の朝日新聞では豊島病院医長の発言を引用する形で「日本では花粉アレルギーはまれとされてきたが、最近は患者が増えている。アレルギー鼻炎といわれる人の1-2割は花粉でブタクサ、クサモドキなどによるものが多い」との記事が掲載された。この時点ではスギはまったく問題視されていない。
1970年代中頃からスギ花粉症患者が急増した。特に関東地方共通のできごととして1976年に第1回目の大飛散があり、その後1979年、1982年にもスギ花粉の大量飛散と患者の大量発症があり、全国的ではないにしろ、ほぼこの時期に社会問題として認知されるに至った。「花粉症」という言葉が報道等で一般的に用いられるようになったのもこれ以降である。原則的に自然治癒は期待できないため、毎年のように患者数は累積し、現在では花粉症といえばスギ花粉症を指すと思われるほどになっている。花粉症のおよそ80%はスギ花粉症と言われ、新たな国民病とも呼ばれる。
環境が清潔すぎると、アレルギー疾患が増えるという衛生仮説は非常に話題となっていたが、2002年、ドイツを中心とする医科学チームの研究により乳幼児期におけるエンドトキシンの曝露量が、以後の花粉症やぜんそくの発症に密接に関係していることが明らかにされた。これは、乳幼児期の環境が清潔すぎると、アレルギー疾患の罹患率が高くなるという衛生仮説を裏付ける重要な報告である。
また、これらの研究を取り上げたドキュメンタリー番組「病の起源 (NHKスペシャル) 第6集 アレルギー ~2億年目の免疫異変~」が2008年11月23日(日)午後9時 - 9時49分にNHK総合テレビで放送された。
厚生労働省の調査によれば、平成22年時点で日本国民の約30%が花粉症であると言われる。 1994年の花粉症を含めたアレルギー性鼻炎の調査では、その患者はおよそ1800 - 2300万人と推定された。
2005年末から2006年にかけて行われた首都圏8都県市によるアンケートでは、花粉症と診断されている人が21%、自覚症状からそう、あくまでも参考値ではあるが思うという人が19%、すなわち花粉症患者は40%という数値が出されている。また、ロート製薬によるアンケートでは、16歳未満の3割が花粉症と考えられるという。
その他、病院への受診者の推移などから、1970年代に患者数は3 - 4倍に増加したとの報告がある。
スギがない沖縄県や北海道へ、花粉を避けるための短 - 中期の旅行に出かける患者が増えているという(俗に花粉疎開と呼ばれる)。旅行会社がそうしたツアーを売り出すことも行われており、観光資源の一つとして誘致に名乗りをあげる地域もある。患者が移住した例も報道された。医学的にみれば転地療養といえる。地域別花粉情報(外部リンク)も参照。
一般に性差に関する疫学的調査の件数は少なくはっきりとはわかっていないが、少なくとも性差は見られないとする文献が複数存在する。花粉症患者の多くは花粉症だけでなくダニやハウスダスト等を抗原とする通年性アレルギー性鼻炎を患う患者も多い。通年性アレルギー性鼻炎については男性の発症が多いとされる報告があるため、花粉症についても一部に男性に多く発症するような表現が見られるが、疫学調査の対象患者には花粉症患者であるとともに通年性アレルギー鼻炎患者も対象に含まれている影響を受けている可能性が高く、見かけ上男性が多く見える場合でも花粉症のみの結果として容易に結論付けられないとの指摘がある。
年齢が高い人よりも低い人の方が、症状が重い人は多いと言われている。また花粉症の人を対象とした調査から、花粉症の発症年齢が低いほど症状が重くなる傾向が明らかになっている。
自然治癒率についての確立した知見はないが、概ね1 - 2割と言われる(治癒とは、臨床的に3シーズン連続して症状を呈さない状況を言う)。
すでに述べたように、ヨーロッパではイネ科の植物、アメリカではブタクサが多い。日本のスギ花粉症を含めて、世界の3大花粉症ともいわれる。
アメリカ合衆国における有病率は5 - 10%程度といわれる。ブタクサがほとんどともいわれるが、国土が広大なため、地域によってさまざまな種類の樹木・草本が問題になっているようである。北欧と同じく寒冷な地域であるカナダではカバノキ科の花粉症が多く、6人に1人という数字もある。
アジア太平洋地域では、文献的にはトルコやオーストラリアなどが40%以上という異常に高率の有病率を示しているが、この数字には疑問が残る。実際には10 - 20%と推測される。
世界的にみて、先進工業国ではおおむねアレルギーが増えており、花粉症も全人口の1 - 2割というところではないかとみられている。
いずれも、英語圏でなくとも、あるいは Hay(干し草)が原因ではなくとも、Hay fever の病名が慣用されることがある。さらに、アレルギー性鼻炎全般を Hay fever と代名詞的に総称することすらあるようであり、一般向けの病気についての解説等は、日本の感覚では疑問を持たざるを得ないことがある。
現在(特にヨーロッパ方面では)は、牧草や芝生、雑草などを手入れ時期に患者が増加する傾向があるため、草 (Grass) を用いて、Grass fever と呼ぶ場合も多くなってきている。
こうした日本国外の花粉症については、プロスポーツ選手の日本国外進出などにともなって、ニュースとしてよく目にするようになってきている。
日本国内であればマスクや薬の入手は容易であるが、日本国外ではそうとは限らない。特に欧米では工事現場や病院等の特定の職場で働く人間、もしくはよほどの重病でない限りマスクをする習慣がないため、奇異な目で見られるということもある。街角でポケットティッシュを配るなどのことも行われてはいない。
その反面、日本では処方薬となっている第二世代抗ヒスタミン薬が、国によっては一般の薬店で買えるなどのこともある。しかし、それが自分の体質に合っているとも限らない。特にヨーロッパでは、当地の伝統医療であるホメオパシーのレメディを勧められることもあるという。
これらのことにより、花粉症患者が事情がよくわからない国へ訪れる場合は、シーズンを問わず、念のために自分に適した薬とマスク程度は持参したほうがよいといえる。一般に花粉症はきわめてまれと考えられている、いわゆる南洋の島などに観光旅行に行ったさいにも、原因不明の花粉症様の症状に苦しめられたとの情報もある。
特に病院で抗アレルギー薬の処方を受けている患者が、シーズン中に短期(1週間前後)の旅行を行う場合は、その効果を減弱させないためにも、旅行中も薬の服用を欠かさないほうがよい。やや長めの旅行であれば一時中断してもよいが、帰国時が花粉症シーズンであるならば、その数日前から予防的に薬を服用しておくとよい。これは初期治療と同じ原理である。
ただし、国によって使用が許可されている薬と禁止されている薬は当然違っているため、渡航先の国がその薬の所持を許可しているかどうかを出来るだけ事前に確認しておく事が望ましい。日本では普通に処方されていても当該の国や州では違法、と言う扱いになっていた場合、よくて税関での没収、最悪の場合勾留や逮捕、強制送還をされてしまう恐れがある。
近年ではペットの花粉症も問題となっている。イヌの花粉症は1998年に、ネコの花粉症は2000年に初めて報告されたとされるが、ヒトの場合と同様、それ以前から存在したと推測される。特にイヌにおいては、ヒトのような鼻症状より毛が抜けるなどの皮膚症状が多く見られ、見た目にも悲惨な状態となることが多いといわれる。
獣医師により検査や治療は可能だが、イヌにおいてはヒトと違って抗ヒスタミン薬が効きにくく、ステロイドに頼らざるを得ないことが多い。重症の場合は減感作治療が行われることがある。ネコにおいては検査も治療も困難であるといわれる。
近年はこうしたペット向けのサプリメント類も販売されるようになってきている。
使われる医療費は、1994年の推計では年間1200 - 1500億円とされた。1998年の調査では、有病率10%とした場合の年間医療費が2860億円 、労働損失が年間650億円と推定された。
なお、第一生命経済研究所の試算によれば、患者が花粉症対策に用いる費用(俗に花粉症特需といわれる)は639億円に上るが、シーズン中の外出などを控えるために、1 - 3月の個人消費が7549億円減少するという(ただし、これはスギ花粉の大飛散があった2005年の場合である)。
2021年の時点で、花粉対策グッズ・食品・家電、薬品など花粉症マーケットは1兆円を超える産業になっている。
2005年、文部科学省の第8回技術予測調査によれば、日本において重要な課題の第2位が「花粉症やアトピーなどのアレルギーを引き起こす免疫制御機構や環境要因の解明に基づく、即時型アレルギーの完全なコントロール技術」であり、これが実現する時期は2015年、さらに、それが社会的に適用されるのは2027年であると予測された。 | [
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"text": "花粉症(かふんしょう、英: hay fever、pollen allergy、pollen disease、医: pollinosis または pollenosis)とは、I型アレルギー(いちがたアレルギー)に分類される疾患の一つ。植物の花粉が、鼻や目などの粘膜に接触することによって引き起こされ、発作性反復性のくしゃみ、鼻水、鼻詰まり、目のかゆみなどの一連の症状が特徴的な症候群のことである。日本においては北海道の大半と沖縄を除いてスギ花粉が抗原となる場合が多い(スギ花粉による花粉症についてはスギ花粉症を参照)。",
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"text": "枯草熱(こそうねつ)とも言われる。枯草熱も医薬品等の効能に表記される医学(医療)用語であるが、この記事では花粉症というように、古語・現代語、一般名・疾病名、の観点で呼び分けることもある。",
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"text": "日本ではアレルギー疾患対策基本法の対象疾患である。公害とみなす動きもある(詳細は環境要因の節を参照)。",
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"text": "主な症状は、くしゃみ、鼻水、鼻詰まり、目のかゆみとされ、一般に花粉症の4大症状と呼ばれる。耳鼻科領域においては、目のかゆみを除外したものを3大症状と呼んでいる。",
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"text": "くしゃみ、鼻水、鼻詰まりなどはアレルギー性鼻炎(鼻アレルギー)の症状であり、花粉の飛散期に一致して症状がおこるため、季節性アレルギー性鼻炎(対:通年性アレルギー性鼻炎)に分類され、その代表的なものとなっている。目のかゆみや流涙などはアレルギー性結膜炎の症状であり、鼻炎同様に季節性アレルギー性結膜炎に分類される。広義には花粉によるアレルギー症状全てを指すこともあるが、一般的には上記のように鼻および目症状を主訴とするものを指す。また、狭義には鼻症状のみを指し、目症状は結膜花粉症(または花粉性結膜炎)、皮膚症状は花粉症皮膚炎または花粉皮膚炎、喘息の症状は花粉喘息、喉の不快感などの症状はアレルギー性咽喉頭炎などと別に呼ぶことがある。",
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"text": "喘息様発作については、咳が多く出たり呼吸機能の低下がみられ、重症例では呼吸困難になることもある。そうなった場合はすみやかに救急医療機関を受診するか、救急車を呼ぶべきである。従来は、花粉の粒子サイズから、それらは鼻で捕らえられるために下気道の症状である喘息などは起きないとされていたが、近年の研究でスギ花粉の周りにオービクル(英語版)またはユービッシュ体と呼ばれる鼻を通過するサイズの微粒子が多数付着していることがわかり、それらを吸引することで喘息が起こり得ることがわかってきた。二次飛散を繰り返すうちに一部の花粉が細かく砕かれるとの推測もある。",
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"text": "花粉によってアレルゲン性の高さも異なり、花粉の種類と量によっては、まれにアナフィラキシーショックを起こすこともある。重症者や、特に喘息の既往症のある患者は、激しい呼吸によって多量の花粉を吸引するおそれがあるような運動はなるべく避けるべきである。",
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"text": "果物などを食べると口の中にかゆみやしびれなどを生じる口腔アレルギー症候群 (OAS) を起こす場合もある。特に北海道に多いシラカバ花粉症でよくみられるほか、関西で多いヤシャブシ花粉症などでもみられる。リンゴ、モモ、ナシ、イチゴなど、バラ科の果実に反応することが多い。他に、メロンやトマトにも反応するという。これらはアレルゲンがきわめて類似しているためと考えられている。口腔アレルギー症候群 (OAS)(外部リンク)も参照のこと。",
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"text": "スギ花粉飛散の前から症状を呈する患者も多くいるが、実際にごく微量の花粉に反応している場合だけでなく、季節特有の乾燥や冷気によるものもあると考えられている。患者は自己診断に頼らず、専門家の診断を受けることが望ましい。",
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"text": "花粉症を引き起こす植物は60種以上が報告されている。",
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"text": "春先に大量に飛散するスギの花粉が原因であるものが多いが、ヒノキ科、ブタクサ、マツ、イネ科、ヨモギなど他の植物の花粉によるアレルギーを持つ人も多くいる。",
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"text": "特にスギ花粉症患者の7 - 8割程度はヒノキ花粉にも反応する。また、「イネ科」と総称されることからもわかるとおり、その花粉症の患者は個別の植物ではなくいくつかのイネ科植物の花粉に反応することが知られている(○○科と総称されるのは光学顕微鏡による肉眼観察では区別がつかないためでもある)。これらは花粉に含まれているアレルゲンがきわめて類似しているため、交差反応を起こしている。",
"title": "原因植物"
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"text": "花粉症には地域差もあるといわれる。例えばスギの少ない北海道ではスギ花粉症は少なく、イネ科やシラカバ(シラカンバ)による花粉症が多い。中国地方、特に六甲山周辺において、大量に植樹されたオオバヤシャブシによる花粉症が地域の社会問題になったこともある。北陸の稲作が盛んな地域では、他地域よりもハンノキ花粉症が多い。シラカバ、ハンノキ、ヤシャブシ、オバヤシャブシなどは口腔アレルギー症候群をおこしやすい。",
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"text": "アメリカ合衆国ではブタクサ、ヨーロッパではイネ科の花粉症が多い。北欧ではシラカバ等カバノキ科の花粉症が多い。",
"title": "原因植物"
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"text": "花粉症の原因となる植物は、風に花粉を乗せて飛ばす風媒花が一般的であるが、職業性の花粉症にみられるように、その花粉を大量かつ長期にわたって吸い込んでいれば、どんな植物の花粉でも花粉症になり得ると考えられている。職業性の花粉症は果樹の人工授粉に従事する栽培農家などによくみられるが、華道家が発症した例もある。",
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"text": "なお、セイタカアワダチソウ(セイタカアキノキリンソウ)の俗名がブタクサということもあり、ごく一部で混乱が生じている。実際、過去に花粉症の原因植物と言われたこともあったが、セイタカアワダチソウは虫媒花のため、原則的には花粉は飛ばさない。ただし、大群落を作ることが多く、こぼれた花粉が周辺に飛散してしまうことはある。同じキク科のブタクサやヨモギ等の花粉に対しても交差的に感作が成立することもある。",
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"text": "日本人の主食の米となるイネは、開花期が早朝でごく短く、水田で栽培されるため、花粉症の原因になることは少ない。",
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"text": "原因花粉をつきとめるためにはアレルゲンの検査が必要であるが、身近にその植物があれば患者自身でもわかる場合がある。花粉の観測を行っている施設は多いが、その多くはスギ・ヒノキの飛散期間のみであり、通年で行っていたとしても、ほとんどはビルの屋上などに装置を設置しているため、草花花粉についての正しい飛散情報を得ることは難しい。また、飛散範囲が局地的であることも、草花花粉の飛散情報を得るのが難しい原因となっている。",
"title": "原因植物"
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"text": "花粉量は多い年と少ない年が交互になる傾向があり、花粉量が多い年を「表年」、少ない年を「裏年」という。",
"title": "原因植物"
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"text": "花粉症は、患者が空中に飛散している植物の花粉と接触した結果、後天的に免疫を獲得し、その後再び花粉に接触することで過剰な免疫反応、すなわちアレルギー反応を引き起こすものである。花粉症はアレルギーの中でも、IgE(免疫グロブリンE)と肥満細胞(マスト細胞)によるメカニズムが大きく関与しており、即時型のI型アレルギーの代表的なものである。",
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"text": "同じI型アレルギーが主であるアトピー性皮膚炎では、IV型のアレルギー反応も部分的に関与するといわれる。花粉症でも、皮膚症状が出る場合には、IV型(すなわち接触性皮膚炎、いわゆるかぶれ)が関与している場合もあると考えられている。",
"title": "医学的見地による原因"
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"text": "ここでは、即時型のI型アレルギーのみを紹介している。また、一つの仮説としてTh細胞バランスを紹介する。",
"title": "医学的見地による原因"
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"text": "花粉症の患者は、症状が現れる以前にアレルギーの元(アレルゲン)になる花粉に接触している。目や鼻などの粘膜に花粉が付着すると、花粉内およびオービクルからアレルゲンとなるタンパク質が溶け出し、マクロファージ(貪食細胞)に取り込まれ、非自己(異物)であると認識される。この情報は胸腺由来のリンパ球であるヘルパーT細胞のうちのTh2を介し、骨髄由来のリンパ球であるB細胞に伝えられる。B細胞は花粉アレルゲンと特異的に反応する抗体を作り出す。",
"title": "医学的見地による原因"
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"text": "抗体は本来、体内に侵入した病原細菌や毒素などの異物を排除・無害化するためのものであり、ヒトにはIgG、IgM、IgA、IgD、IgEの5つのタイプが存在するが、花粉症の患者で最も重要なのがIgEである(こうした抗体が関与する免疫反応を液性免疫という)。このIgEは、血液や粘膜中に存在する肥満細胞や好塩基球に結合し、再び花粉アレルゲンが侵入してIgEに結合すると、様々な化学伝達物質(ケミカルメディエーター)が遊離して症状を引き起こす(後述)。",
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"text": "なお、IgEが一定レベルまで肥満細胞に結合した時を感作が成立したと言い、発症の準備が整ったことになる。どの程度までIgEが蓄積されると発症するかなどは個人差が大きいとされる。また、IgEのレベル以外に発症を誘引する因子があるのかないのかなどについても詳しいことはわかっていない。いずれにしろ、ある年に突然に花粉症が発症したように思えても、それまでに体内では発症のための準備が着々と進んでいたということである。このことを理解しやすくするため、一般にアレルギーコップという喩えがよく用いられる。すなわち、体内のコップに長期間かけて一定レベルの発症原因がたまり、それがあふれると突然に発症するというものである。一度感作が成立すると、原則的に花粉症の自然治癒は困難である。病原菌などに対する免疫と同様、「花粉は異物である」という情報が記憶されるためである。",
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"text": "遊離したケミカルメデイエーターのうちもっとも重要なのは、ヒスタミンとロイコトリエンである。",
"title": "医学的見地による原因"
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"text": "こうした症状そのものは、体内に入ってきた異物を体外に出すための反応であり、また引き続いて体内に入ってこないようにする正常な防衛反応であると解釈できる。しかし、害のない異物と考えられる花粉アレルゲンに対して過剰に反応し、それによって患者が苦痛を感じる点が問題となる。",
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"text": "症状を起こした粘膜では、血管から浸潤した炎症細胞(特に好酸球)からのロイコトリエン等によってさらなる鼻粘膜の膨張が起こる。その他のケミカルメディエーターや酵素などにより組織障害も起きる。抗原曝露後6 - 10時間にみられる遅発相反応がこれで、アレルギー性炎症と呼ばれる。こうした炎症細胞を呼び寄せるのも肥満細胞などから放出されるケミカルメディエーター(上記のPAFなど)である。",
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"text": "症状が繰り返し起こることによって、粘膜過敏性は増加し、症状は慢性化する。不可逆的な粘膜の肥厚なども起こり得る。重症例では、花粉の飛散が減少または終了しても、病変はすぐには改善されない。",
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"text": "一つの仮説として、免疫系を制御しているヘルパーT細胞のバランスが関与するという考えがある。抗体産生細胞であるB細胞に抗原の情報を伝達するヘルパーT細胞は、産生するサイトカインの種類により1型と2型(Th1とTh2)に大別される。これらのうち、インターロイキン4などを分泌してアレルギーに関わるIgEを産生するように誘導するのはTh2である。いっぽうのTh1は主に感染症における免疫反応に関わる。すなわちマクロファージやキラーT細胞などを活性化させ、細菌そのものやウイルスに感染した細胞を障害する(細胞性免疫という)。B細胞にIgGを産生させ、いわゆる正常の免疫を作ることにも関与する。",
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"text": "これらのことから、アレルギー患者においてはTh2が優位に働いているということがいえるが、なぜTh2が優位になるのかについてはよく判っていない。幼少時における感染症が減ったためにアレルギーを起こしやすい体質になっているのではないかという説については、この仕組みが関与していると考えられている。成長期において細胞性免疫を獲得する機会が減っているため、おのずとTh1よりTh2が優位になる人が多く、アレルギー人口が増えたというものである。強く影響を与える感染症としては、過去に国民病ともいわれた結核が疑われている。鼻症状に限定すれば、やはり過去には多かった副鼻腔炎の減少の関与を考える場合もある。",
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"text": "これらヘルパーT細胞のバランスは出生後数か月のうちに決まるとも、3歳程度までのうちに決まるともいわれるが、のちに人為的に変化させることもできるという説もある。なお、ヒトは胎内にいるときや出生直後はもともとTh2優位の状態であり、また、Th1とTh2は相互に抑制しあう関係にあるという。",
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"text": "衛生仮説ともいわれるこの説は現在もっとも有力な説となっている。しかし、近年の研究によれば、単にTh1/Th2バランスによってのみ説明できることばかりではないこともあり、調節性T細胞の関与を考える説も出されている。衛生仮説を説明したこのTh1/Th2パラダイムは1980年代後半に提唱されたものだが、広く免疫を考えるときに重要なものであることは現在でも変わりがない。",
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"text": "衛生仮説の応用として、結核のワクチンであるBCG接種によって花粉症の治療をしようという試みや、結核菌と同じグラム陽性菌である乳酸菌の一種を摂取することが治療に役立たないかどうかの研究も行われている。菌のDNAの一部であるCpGモチーフを抗原ペプチドとともに投与して減感作療法の効率をあげる試みもなされている。",
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"text": "関連として、環境中の細菌等が産生する微量の毒素が関係すると提唱する研究者もいるほか、最近では、医療における抗生物質の多用(によるヒトと共生している菌のバランスの崩れ)が関わっているのではないかという見方も出てきている。ピロリ菌感染との逆相関が認められることも報告された。",
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "花粉症の患者では、原因植物の花粉に対するIgE量が多いことは明らかであり、これがアレルギーを起こす直接の原因である。しかし、花粉症の原因となる花粉と接触しても全ての人が花粉症になるわけではなく、IgEが多くても発症しない人がいる。またIgEの量と重症度とは必ずしも相関しない。なぜこうしたことがあるかについては、遺伝要因(遺伝的素因)や環境要因などさまざまな要因の関与が考えられている(すなわち花粉症は多因子疾患である)が、全貌は明らかになっていない。",
"title": "その他の原因"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "遺伝要因については、広く体質(いわゆるアレルギー体質)と呼ばれるものが相当する。しかし広義の体質は、遺伝による体質と、出生後に後天的に獲得した体質とが混同されているため、これらは分離して考える必要がある。アレルギーになりやすい遺伝的素因、すなわちIgEを産生しやすい体質は劣性遺伝すると考えられており、それを規定する候補遺伝子は染色体11qや5qなどに存在するといわれるが確証はない。こうした遺伝的要因については、IgE産生に関わるもののほか、各種のケミカルメディエーター遊離のしやすさや受容体の発現のしやすさの違いなども考えられている。どんな物質に対してアレルギーを起こすかということも、遺伝的に規定されているとの説もある。",
"title": "その他の原因"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "大気汚染や生活環境の変化、衛生環境の変化による人体の免疫作用の変化との関連が指摘されており、下記のような調査が進められている。",
"title": "その他の原因"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "元々日本の森林は広葉樹を主体とした多種多様な樹木が分布しており森林の90%近くが広葉樹であった。しかし高度経済成長による建築用木材の需要増大で生育が早く加工が容易でまっすぐに成長する杉や檜などの針葉樹の植樹が各地で行われた。その結果森林全体では針葉樹が50%を占めるようになった。人工林では99%が針葉樹となっている。",
"title": "その他の原因"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "高度経済成長の終息や海外から安い木材が輸入されるようになると日本の針葉樹林は放置され大量の花粉を排出するようになった。杉や檜は樹齢30年を過ぎると子孫を残す段階に移行するため、特に多くの花粉を排出するようになる。近年の花粉症患者の増大はそのためと考えられる。",
"title": "その他の原因"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "また、針葉樹は動物の食糧となる木の実が成らず、針葉樹林は緑の砂漠と言われる。針葉樹林の増加は人間だけではなく森にすむ動物にとっても深刻な問題である。",
"title": "その他の原因"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ディーゼルエンジンの排気ガス中に含まれる微粒子 (DEP) や、ガソリンエンジンからも排出される窒素酸化物 (NOx)、オゾン (O3) などに長期間暴露されることにより花粉アレルギー反応の閾値を下げる、アレルギー反応を増幅するなどの影響が指摘されており、様々な実験・調査がされている。NHK地上TVでも、排気ガスと花粉の化合物の問題を取り上げ、幹線道路沿いの住民が花粉症発生率が高いと報道した。",
"title": "その他の原因"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "また、そもそも東京都内などほぼ全域にわたって大気汚染物質の濃度が高いところでは疫学的研究による差が出にくい(比較的低濃度の地域であっても閾値を超えていることが考えられる)ことや、動物実験について臨床との差異があることを理由に結果を否定しようとする向きがあること(前述)、PM2.5 などこれまで充分に測定されていない物質の影響が調査できていないといった問題もあることから、環境省や大気汚染が進む自治体などでは、より広範な情報収集・調査を行うための観測地域や対象物質の拡大といった、観測体制の整備が進められている。",
"title": "その他の原因"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "大気汚染物質としては、前述の自動車排ガスのほか、自動車タイヤと道路の摩擦から発生する道路粉塵、煙草の煙や換気の悪い室内での暖房時に出るガス状物質、黄砂や土ぼこりなども、症状を悪化させるという報告がある。",
"title": "その他の原因"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "都市化との関連については、別項にて述べているように、それによりいつまでも空中を漂い続ける花粉数が増えているという説もある。",
"title": "その他の原因"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "そのほか、従来からの日本式家屋とは異なる高気密の住宅が普及したことも、花粉症が増えた原因のひとつではないかという考えがある。高気密ではあるが高断熱ではない住宅では局所的に湿度が蓄積されやすく、不十分な換気などによってダニ・カビが繁殖しやすい環境になる。これによって幼少児期のうちからハウスダストに対するアレルギー性鼻炎や小児喘息などを発症し、中にはそれが原因で花粉症にもなりやすくなっている人もいるとの考え方である。すなわち、なんらかのアレルギーになると、それがきっかけで違うアレルギーにもなりやすくなるというものである。逆に、そうした時期にアレルゲンを絶つとアレルギーになりにくいとの研究もある。たとえば妊娠期および授乳期に卵を厳格に除去すると、卵に対するIgEが低値であるだけでなく、ダニに対するIgEも低値であったという研究もある。しかし様々なデータがあるため、現在では、それらの関連は不明である。",
"title": "その他の原因"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "しかし、こうした住宅事情の変化はハウスダストアレルギー増加をうまく説明しても、前述のどのようなアレルゲンに反応するかは遺伝的に規定されているという説によれば、これが花粉症増加の原因であるとはいいがたい。ただし花粉症患者のかなりは、その発症以前にハウスダストアレルギーを発症しているという事実もあり、花粉症の素因を持った人の発症時期を早める影響は否定できない。そうであれば、高気密住宅の多い都市部に花粉症患者が多くなることも、ある程度は説明ができる。",
"title": "その他の原因"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "都市生活ならではのストレスや食生活の洋風化などについては、明らかなことはわかっていないが、個人により影響を強く受ける人もいるかもしれないとは考えられている。特に食品中のさまざまな栄養成分とアレルギーとの関連は、実験的なデータや理論(仮説)はあるものの、疫学的に実証されているとはいいがたい。建材などから発生する有毒化学物質や食品中の添加物の影響を考えるむきもあるが、花粉症との関連は調査されていない。授乳時の人工栄養や早期離乳などについてはいくつかのデータがあるが結論はなされていない。",
"title": "その他の原因"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "不飽和脂肪酸ω-6系とω-3系のバランスが崩れているという仮説もある。",
"title": "その他の原因"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "炎症性のあるロイコトリエンやプロスタグランジンのようなアラキドン酸カスケードの原料であるω-6脂肪酸(リノール酸)の摂り過ぎと代謝酵素が共通しているために拮抗関係にあるω-3脂肪酸(α-リノレン酸)との摂取バランスが崩れて、アレルギーが惹起されやすくなっているとの報告もある。リノール酸、α-リノレン酸は必須脂肪酸である。",
"title": "その他の原因"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "花粉症の検査は、",
"title": "診断・検査"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "の2点が重要であり、そのための検査が行われる。",
"title": "診断・検査"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "なお、花粉に限らずいくつかの代表的なアレルゲンは、日本においては定期健診のオプションメニューで受診ができる場合もある。",
"title": "診断・検査"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "日本で行われているアレルギーテストは血液検査のRASTのみであることが多い。しかし、RASTには陰性でも、欧米で一般的に行われている感度の高い皮膚テストが行われずに、皮膚テストで陽性の患者の原因アレルゲンの特定が不可能になることがある。RASTよりも感度の高い皮膚テストを行うことによって、患者の原因アレルゲンの特定をより正確に行うことの必要性を主張する医師もいる。",
"title": "診断・検査"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "実際の重症度を調べるには、患者自身がアレルギー日記(花粉症日記)をつけるのが一番の方法である。この利点としては、自分の重症度や日による症状の変化などを把握できるため、アレルゲンが特定できていない場合、それを推定するのに有用となることがある。",
"title": "診断・検査"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "しかし、重症度とQOLの障害は別物であり、近年はこのQOLを重視する方針での治療が推進されるようになっているため、治療の経過を判断する材料にはなるが、それだけで判断することはない。",
"title": "診断・検査"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "一般的には、花粉症の治療を受ける場合に適した診療科は耳鼻咽喉科であるが、アレルギー増加に伴い、大抵の医師は一定レベルの知識を有している。よって内科などでも充分な治療が受けられることがある。小児の場合は、慣れているという点で小児科の方が良いことがある。同様に妊婦および授乳婦の場合は、産婦人科の方が融通がきくことがある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ただし、症状がひどい場合は、その部位の専門医に相談するほうがよい。すなわち鼻や喉の症状であれば耳鼻咽喉科、目の症状であれば眼科、皮膚症状がひどい場合は皮膚科が適する。これらの診療科とともに、アレルギー科の標榜がなされていると、なおよいといえる(一般にアレルギー科単独で標榜していることは少ない)。ただし、アレルギー科を標榜している医療機関に必ずしもアレルギー専門医がいるとは限らない。アレルギー専門医を調べるには、日本アレルギー学会や日本アレルギー協会に問い合わせるとよい。アレルギー学会のサイトにて調べることもできる。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "なお、自治体の保健所などが相談体制を整えつつあるので、まずはそこで相談するのもよい。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "治療は目的や方法によっていくつかに分けることができる。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "薬剤の分類や呼び方は少々の混乱が生じている。専門家における呼称と一般に広く用いられる呼称も異なったまま慣用されている。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "花粉症はアレルギーであるため、その治療に用いられるものは抗アレルギー薬といえる。それらは薬理作用により以下のように大別できる(広義ではステロイド薬をも含めて抗アレルギー薬と考えることもある)。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "専門的には、1. の遊離抑制作用のみを抗アレルギー作用と呼ぶ。よって、1. の遊離抑制作用のある薬のことを抗アレルギー薬と呼ぶ。これは、初のケミカルメディエーター遊離抑制薬であるクロモグリグ酸ナトリウムのことを、ヨーロッパの一部において抗アレルギー薬( anti-allergic drug )と呼んだことに由来している。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "しかし、遊離抑制作用を持つものを抗アレルギー薬と呼ぶと定義すると問題が生じることがある。抗ヒスタミン薬の中には、抗ヒスタミン作用の効果だけでなく、ケミカルメディエーター遊離抑制薬およびケミカルメディエーター遊離抑制作用を持つもの(これを第二世代抗ヒスタミン薬と言う。)があり、第二世代抗ヒスタミン薬も抗アレルギー薬に含まれるという分類になる。患者向けとして広く一般に用いられている呼称はこれが多く、第二世代抗ヒスタミン薬は抗アレルギー薬として普及してしまっている。一方、ケミカルメディエーター遊離抑制作用のない第一世代抗ヒスタミン薬は、単に抗ヒスタミン薬と呼ばれることが多い。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "こうした薬剤の分類や呼び分けは、医師・研究者や治療する疾病の分野によってやや異なることがある。一般向けに出版されている書籍での説明や、インターネット上の花粉症・アレルギーの説明を行う各種サイトによっても、微妙に異なる場合がある。たとえば、第二世代抗ヒスタミン薬をさらに細分化し、第三世代とのカテゴリーを設ける医師・研究者もいる。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "過去にケミカルメディエーター遊離抑制薬(抗アレルギー薬)のことを体質改善薬ということがあったが、抗ヒスタミン薬とは作用機序が異なる事実においてそのように呼ばれただけであり、いわゆるアレルギー体質は改善されない。アレルギーの発症を予防する効果もない。便宜的に患者に対してそう説明されることがある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "第一、第二を含めて「症状を抑える」という対症的な治療効果であり、根治薬ではない。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ステロイド薬は、遊離抑制作用や受容体拮抗作用などといった限られた作用ではなく、アレルギーのメカニズムのほとんどを抑制する。抗炎症作用も強く、多くはこの作用を期待して用いられる。しかし、強力にアレルギーを抑えるということは、免疫そのものも減弱させるということでもあり、不必要な長期投与など不適切な使用によって他の感染症を招いたり、体内のホルモンバランスが崩れることにより重い副作用や後遺症が現れることもある。その他の副作用も多く知られている。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "IPD(アイピーディー)というTh2活性阻害薬(内服薬)が、症状に応じて使用されることがある。IPDは、アトピー性皮膚炎や気管支喘息でも使われる薬剤である。花粉症では、Th2細胞活性の亢進・サイトカインの中のIL-4・IL-5(アレルギー症状を誘発するもの)の産生の増加がみられることがあるが、この薬剤はTh2細胞の活性を低下させIL-4・IL-5の産生を抑制する作用があり効果があるとされる。ただし、即効性はなく、効果が現れるのに数週間ほどの時間がかかるという特徴がある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "鼻詰まりが強い場合、いわゆる血管収縮剤(α交感神経刺激薬)と呼ばれる薬剤の点鼻薬が処方されることがあるが、連用すると効果が弱まるだけではなく、かえって鼻詰まりがひどくなり、依存(離脱困難)になることもある。そうした副作用が出やすいため、短期間に限って処方されることが多い。鼻詰まりがひどい患者がステロイド点鼻を行うとき、薬剤が鼻腔内に入っていきやすいように、あらかじめ鼻粘膜を収縮させるために用いる場合がある。この種の薬剤は市販のほとんどの点鼻薬に含まれており、即効性と高い効果があるため、説明書の注意書きを守らずに乱用してしまいがちである。花粉症に使われる市販薬でいちばん問題になるのが、この点鼻薬の副作用である。幼児の場合、まれに重い副作用が出ることもあるので使用を避けるべきである(原則的に5歳以下には用いない)。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "血管収縮剤は充血を取ると称する市販の点眼薬にも多く含まれており、やはり連用するとかえって充血がひどくなることがある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "副交感神経遮断薬である抗コリン薬はエアゾール剤の関係で製造を中止している。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "病気によっては禁忌となっている薬もあるので、持病のある人はたとえ気軽に買える市販薬であっても、その使用については医師・薬剤師に相談すべきである。他に薬剤を常用している人や、乳幼児、小児、妊婦、授乳婦も同様である。なんらかの副作用を感じたら、早めに医師・薬剤師に相談すべきである。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "作用と副作用とのバランスを考え、効果が不充分なものであったり、眠気などの副作用があまりに日常生活に支障があるようであれば、違う薬および治療法に変更してもらうよう医師に相談することも大切である。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "花粉症の確実な根治療法はまだ確立されておらず、アレルゲン免疫療法(減感作療法)がもっとも根治療法に近い。広く免疫療法とも呼ばれ、広義では変調療法ともいわれる。一般的には下記の抗原特異的アレルゲン免疫療法を指す。WHOの見解書では、アレルゲン免疫療法が花粉症の自然経過を変える唯一の根本的治療法として記述されている。花粉症の症状の治癒と予防に関しては、臨床上の観察において、アレルゲン免疫療法以外の治療では治癒や予防は期待できず、花粉やダニの免疫療法の必要性を説く医師もいる。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "20世紀初頭よりトキソイド研究から派生した抗原特異的アレルゲン免疫療法は大別すると皮下投与による減感作療法と経口投与による舌下減感作療法とに大別される。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "アレルゲン免疫療法は薬物療法とは異なり、治療終了後もアレルギー防止効果が持続する点が特徴である(患者によっては数年 - 十数年後に同一または異なる花粉に再感作する可能性はある)。一方、現在承認されている治療方法では毎週 - 月1回程度の通院治療が必要であり、完全な効果を得るにはに数年程度継続する必要がある。舌下減感作療法は在宅治療が期待されるが日本においてはアレルゲンワクチン錠は未承認である。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "花粉症のアレルゲン免疫療法は花粉シーズン前から開始すると有効性が高い。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "2007年時点では米国では数十種類の標準化アレルゲンワクチンが上市されているのに対して、日本においては標準化スギアレルゲンが上市されているに過ぎない。日本においても標準化アレルゲンワクチンの多様化を期待する意見がある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "直接アレルゲンをアレルゲンワクチンとする抗原特異的アレルゲン免疫療法以外にも、限定的ではあるが非特異的アレルゲン免疫療法も存在している。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "減感作療法において、日本で使用されている皮膚テスト用のアレルゲンは12種類しかない。それに比べて公益財産法人日本アレルギー協会を通して入手可能な米国政府承認の皮膚テスト用アレルゲンは64種類ある。皮膚テスト用アレルゲンと治療用アレルゲンワクチンをともに多様化することで、日本のアレルギー診療の質が向上可能だと指摘する医師もいる。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ハンドスプレー式の容器に薄めた花粉エキスを入れ一日一回口の中にスプレーする治療法。最初の2週間は専用のスプレーで少しずつ量を増やしていき、3週間目から専用のボトルで一定の量を服用し続ける。難点は治療期間が3年以上と長い事。全ての患者に有効ではなく、何らかの改善が見られるのは70%に留まっている。2014年10月より保険適用となる。「舌下免疫療法」とも呼ばれている。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "鼻内部のアレルギー症状をおこす部分の粘膜にレーザー光線を照射して焼灼し、その部位を変質させることで鼻水・鼻づまりを抑える治療法。原則的には鼻詰まりの治療法である。保険が利くが、美容整形クリニックなどで自由診療(保険外診療)として行っている場合がある。レーザー照射をしてから数日は、傷(やけどのようなもの)のために花粉症以上の鼻水が出て苦しむこともある。一般的にはシーズンの1 - 2か月前に予防的に行う。効果の程度は個人差があり、有効でない場合もある(医師の技術にもよる)。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "効果の持続は整形手術などとは違い、短ければ数か月、長くて2年程度のことが多い。そのため毎年行う患者もいるが、そうした繰り返しの処置による不可逆的な組織の変化、すなわち後遺症については、歴史が浅いこともあって明らかな知見はない。安全だという医師もいれば、毎年はやらないという方針の医師もいる。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "細かくみれば、レーザー光線の種類や術式の違いもある。いうまでもなく鼻の処置であるため、目の症状には効果はない。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "スギ花粉症緩和米を1日1食2か月間食べ制御性T細胞を増やす食事療法。2015年4月現在50人が治験を受けている。2016年11月から約1年間、1日5グラムの割合で通常の米に混ぜて食べてもらい効果を確かめる臨床研究が予定されている。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "漢方薬による治療も行われる。従来の漢方専門薬局のみならず、総合病院や開業医でも扱うことが増えてきており、漢方科を設置するケースも見受けられる。有名メーカーの顆粒エキス剤は医療保険対象のものが多い。元来、漢方薬は症状ではなく、個々人の体質によって薬を選択するので、漢方専門家の診断と、予後経過観察しながらの投薬の種類や用量の適宜変更が必要であるが、西洋医は、効果のマイルドな薬という観点で西洋薬学的に用いることが多いため、時に上記の抗ヒスタミン薬など西洋薬との併用も行われるが、そのような運用手法は東洋医学的には誤りであることも多い。西洋医は東洋医学には精通していないのが主因である。例えば小青竜湯は水気の貯まった肺や気管支を乾かし熱を帯びさせるが、その予後を経過観察せず飲み続けると今度は鼻炎など炎症が悪化してしまう、という具合である。適度の鼻水で潤されるのも、きちんとした生理的理由があるのである。うかつに症状を取るだけでは漢方医療とは言えない。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "花粉症によく用いられる漢方薬",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "このように、症状を抑える即効性の薬のほか、長く飲み続けて体質を変えて根治をねらうとされる種類の薬もある。体力と免疫力の落ちた状態、血行の悪い部位、リンパの蓄積でむくみがある状態、ではアレルギー物質に弱くなり反応が悪化する、というように、気血水や胸脇苦満などの理論に基づいた、基礎体力をはじめとする体質改善の方が、対症療法よりも効果が高いケースも往々にしてある。体質が弱体化したまま、対症薬だけ服用しても、山火事に放水するに等しいなどという例えられ方をする。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "よく誤解されているが、漢方薬なら副作用がないというのは誤りである。特に小青竜湯や葛根湯に含有されるマオウは、体質や服用量により動悸や血圧上昇などが起こる可能性があるので、服用に当たっては熟達した漢方薬剤師か、漢方処方経験に厚い西洋医師に運用を依存するべきである。メジャーな漢方材料による副作用は他に、カンゾウによる偽性アルドステロン症(低カリウム症状が出る)や、ジオウとダイオウなどでの下痢、柴胡処方による血流や体温の低下に伴う、衰弱の進行した重病患者の合併症増発などが代表的である。虚弱体質の人が小柴胡湯を飲んで冬の山に行くと、消炎作用が強いため凍えて動けなくなってしまう恐れすらある。この場合はせめて柴胡桂枝湯などに処方を変えなくてはいけない。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "おおむね、女性の妊娠・授乳期にも比較的安全といわれる処方が多いが、逆に妊婦には禁忌の処方や望ましくない服用量、服用法もあるので、処方箋を出した主治医に事前に相談することが望ましい。これも『漢方に副作用は無い』という風説と同じく、眉唾と言える。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "ハーブによる発症抑制、緩和が注目されている。抗アレルギー作用のあるネトル、抗ウイルス効果の高いエルダーフラワー(ニワトコ、en:Elder flower)、免疫力を強化するエキナセアが特に注目されるほか、鼻通りを良くするペパーミントや鼻の粘膜に効くレモンバーム、鼻炎に効果の高いカモミールや殺菌力で知られるユーカリ、気管支炎に良いとされるクレソンやブルーマロウ(ウスベニアオイ、en:Malva sylvestris)、目の粘膜を強くするアイブライト(コゴメグサ、en:Eyebright)などにも緩和効果があると話題にされることが多い。いずれも健康茶の域であって、ステロイド剤のような強力性や漢方薬ほどの薬用性、即効性はないが、シーズン中の常用茶として利用することに有意義性がみられる。最近の流行で、ハーブティー専門店にてこれらハーブが調合されたブレンドティーが多く発売されている。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "ダチョウの卵黄を利用し作られた抗スギ花粉ダチョウ抗体・抗ヒノキ花粉ダチョウ抗体。抗体を含んだスプレーの塗布や、のど飴として摂取することで、花粉症の症状を緩和する作用がある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "レーザーと同様な原理で、鼻粘膜に対する超音波メスによる処置や、高周波電流を使った鼻の処置が行われている。薬剤の塗布によって鼻粘膜を化学的に焼く方法もある。治療成績や後遺症については、レーザー同様、確立した知見はない。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "特に通気性の改善のため、鼻中隔湾曲など鼻の器質的な異常に対する手術も行われる。最近では入院が前提となる後鼻神経切断術と同時におこなうことにより、半永久的根治治療を行うことが可能である。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "鼻水がひどい難治例にはビディアン神経切除術なども行われる。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "麻酔科からのアプローチとして、首にある星状神経節のブロックという方法も行われる。治療成績は明らかでない。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "目の涙管に抗アレルギー薬を注入するという治療法も一部の眼科で行われている。これは保険適用外。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "その他、その医師の独自の考え方により特殊な治療法が実施されることもある。治療成績はもちろん、安全性についても明らかでないものがある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "代替医療・民間療法には、食品や飲料の摂取などのほか、さまざまなグッズ類を使用したり、鍼灸などの伝統医療や整体、医師によらない漢方治療、エネルギー療法などがある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "これらの成分とビタミン・ミネラル等を配合したサプリメント類や清涼飲料水など、いわゆる健康食品類も多く出ている。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "2007年2月、スギ花粉(スギのつぼみ)をカプセルにつめた健康食品にて、服用した患者が一時意識不明になるという事故がおきた。厚生労働省は、「残念ながら民間医療の多くに十分な効果の根拠があるとは言えません」「安全性が危惧される民間医療も指摘されています」としている。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "花粉症の症状はアレルゲンと接触したときにのみ現れるので、花粉との接触を断つことがもっとも効果的な対策である。アレルギーの原因にさかのぼって対処するため、原因療法といわれることもある。症状が出てから対策を行うのではなく、症状が出る前から予防的にケアを開始するとより有効である。すなわち自分で行う初期治療である。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "アレルゲンとの接触を続けていれば抗体値も上がり、症状もひどくなる。すなわち、薬剤治療により症状を抑えているからといって、なんの対策もしなくてよいということにはならない。患者にとっては、こうしたセルフケアはもっとも基本的なことといえる。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "近代医学的な記録で最古のものは、1565年(一説には1533年)のイタリアの医師 Leonardo Botallus によるものとされる。「バラ熱(Rose cold または Rose fever)」と呼ばれる症状で、記録によれば、その患者はバラの花の香りをかぐとくしゃみやかゆみ、頭痛などの症状をおこすという。原則的にバラは花粉を飛散させないため、花粉症であるとは言い難いが、現在でも Rose fever は「晩春から初夏の鼻炎」様の意味で Hay fever 同様に用いられることがある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 105,
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"text": "花粉症であることが確かな最初の臨床記録は、1819年にイギリスの John Bostock が、春・秋の鼻症状、喘息、流涙など、牧草の干し草と接触することで発症すると考えられていた Hay fever と呼ばれる夏風邪様症状について報告したものである。彼自身も長年にわたって症状に苦しめられたというが、有効な治療法は発見できなかったという。彼は最初これを夏季カタルと呼んだ。発熱(fever)は主要な症状ではないので、粘膜の炎症を示すカタルの方が適切ではあった。この報告の後しばらくの間、この症状は「Bostockのカタル」と呼ばれたと言われる。1831年には同じくイギリスの J.Elliotson により、証明はなされなかったが花粉が原因であろうとの推定がなされた。そして1872年、北アメリカでブタクサが Hay fever の原因であるという報告がなされた。ブタクサは Hay ではないが、その当時すでに Hay fever という名称は定着していたと考えられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 106,
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"text": "その後、イギリスの Charles H. Blackley によって、Hay fever は気温の変化あるいは花粉が発する刺激性のにおいや毒素などが原因とする考えが、実験的に否定された。彼は空中花粉の測定、鼻誘発試験や皮膚試験など、現在でも通用する試験を行ってイネ科花粉症を実証し、遅発相反応にさえ言及した著書『枯草熱あるいは枯草喘息の病因の実験的研究』を1873年に著した。これにより Hay fever は Pollinosis、もしくはGrass pollen(花粉症)と呼ばれることが一般化した(pollen は花粉のこと)。これらのことから、自らも花粉症であった Blackley は花粉症の父と呼ばれている。しかし、アレルギーという概念が成立するには20世紀になるまで待たなければいけなかったため、この段階では花粉に過敏に反応する人とそうでない人がいるということしかわからなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 107,
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"text": "1935年と1939年には空中花粉の測定が行われ、空中花粉数は少なくないが花粉症の原因となる花粉はきわめて少ないと報告された。戦後、進駐軍の軍医により調査がなされ、気候風土などの関係により、日本でのブタクサおよびイネ科の花粉はアレルゲンとして重要ではないと結論した報告が1948年になされた。これらにより、日本における花粉症の研究および患者の発見・報告等が遅れたという指摘がある。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "1960年代に次々と報告されたブタクサ、カモガヤ、スギ、ヨモギなどによるものが日本における花粉症の始まりである。しかし、その正確な出現時期はわかっていない。なお、日本初の花粉症の報告は、1960年の荒木によるブタクサ花粉症であり、次いで1964年の杉田・降矢によるカモガヤ花粉症、堀口・斎藤によるスギ花粉症、1965年の寺尾・信太によるイネ科花粉症、佐藤によるイタリアンライグラス(ネズミムギ)花粉症、1967年の我妻によるヨモギ花粉症などの順である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "スギ花粉症の発見者である斎藤洋三(当時は東京医科歯科大学所属)は、1963年に鼻や目にアレルギー症状を呈する患者を多く診察したのが花粉症に気付くきっかけとなったというが、過去の記録を調べ、毎年同時期に患者が急増することを確認している。また、1989年に65歳以上の耳鼻咽喉科医師に対してアンケートを行った結果、初めてスギ花粉症と思われる患者に接したのは1945年以前であるとの回答が4.7%あったなど、総合的にみてスギ花粉症の「発見」以前に患者に接していた医師は回答者の4分の1に達したとの調査がある。さらに、高齢の患者を調べたところ、戦前の1940年以前に発症したとみられる患者もいた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 110,
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"text": "1960年後半時点でも、依然として花粉症の知名度は低かった。1969年11月の朝日新聞では豊島病院医長の発言を引用する形で「日本では花粉アレルギーはまれとされてきたが、最近は患者が増えている。アレルギー鼻炎といわれる人の1-2割は花粉でブタクサ、クサモドキなどによるものが多い」との記事が掲載された。この時点ではスギはまったく問題視されていない。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "1970年代中頃からスギ花粉症患者が急増した。特に関東地方共通のできごととして1976年に第1回目の大飛散があり、その後1979年、1982年にもスギ花粉の大量飛散と患者の大量発症があり、全国的ではないにしろ、ほぼこの時期に社会問題として認知されるに至った。「花粉症」という言葉が報道等で一般的に用いられるようになったのもこれ以降である。原則的に自然治癒は期待できないため、毎年のように患者数は累積し、現在では花粉症といえばスギ花粉症を指すと思われるほどになっている。花粉症のおよそ80%はスギ花粉症と言われ、新たな国民病とも呼ばれる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 112,
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"text": "環境が清潔すぎると、アレルギー疾患が増えるという衛生仮説は非常に話題となっていたが、2002年、ドイツを中心とする医科学チームの研究により乳幼児期におけるエンドトキシンの曝露量が、以後の花粉症やぜんそくの発症に密接に関係していることが明らかにされた。これは、乳幼児期の環境が清潔すぎると、アレルギー疾患の罹患率が高くなるという衛生仮説を裏付ける重要な報告である。",
"title": "疫学"
},
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"paragraph_id": 113,
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"text": "また、これらの研究を取り上げたドキュメンタリー番組「病の起源 (NHKスペシャル) 第6集 アレルギー ~2億年目の免疫異変~」が2008年11月23日(日)午後9時 - 9時49分にNHK総合テレビで放送された。",
"title": "疫学"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "厚生労働省の調査によれば、平成22年時点で日本国民の約30%が花粉症であると言われる。 1994年の花粉症を含めたアレルギー性鼻炎の調査では、その患者はおよそ1800 - 2300万人と推定された。",
"title": "疫学"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "2005年末から2006年にかけて行われた首都圏8都県市によるアンケートでは、花粉症と診断されている人が21%、自覚症状からそう、あくまでも参考値ではあるが思うという人が19%、すなわち花粉症患者は40%という数値が出されている。また、ロート製薬によるアンケートでは、16歳未満の3割が花粉症と考えられるという。",
"title": "疫学"
},
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"paragraph_id": 116,
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"text": "その他、病院への受診者の推移などから、1970年代に患者数は3 - 4倍に増加したとの報告がある。",
"title": "疫学"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "スギがない沖縄県や北海道へ、花粉を避けるための短 - 中期の旅行に出かける患者が増えているという(俗に花粉疎開と呼ばれる)。旅行会社がそうしたツアーを売り出すことも行われており、観光資源の一つとして誘致に名乗りをあげる地域もある。患者が移住した例も報道された。医学的にみれば転地療養といえる。地域別花粉情報(外部リンク)も参照。",
"title": "疫学"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "一般に性差に関する疫学的調査の件数は少なくはっきりとはわかっていないが、少なくとも性差は見られないとする文献が複数存在する。花粉症患者の多くは花粉症だけでなくダニやハウスダスト等を抗原とする通年性アレルギー性鼻炎を患う患者も多い。通年性アレルギー性鼻炎については男性の発症が多いとされる報告があるため、花粉症についても一部に男性に多く発症するような表現が見られるが、疫学調査の対象患者には花粉症患者であるとともに通年性アレルギー鼻炎患者も対象に含まれている影響を受けている可能性が高く、見かけ上男性が多く見える場合でも花粉症のみの結果として容易に結論付けられないとの指摘がある。",
"title": "疫学"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "年齢が高い人よりも低い人の方が、症状が重い人は多いと言われている。また花粉症の人を対象とした調査から、花粉症の発症年齢が低いほど症状が重くなる傾向が明らかになっている。",
"title": "疫学"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "自然治癒率についての確立した知見はないが、概ね1 - 2割と言われる(治癒とは、臨床的に3シーズン連続して症状を呈さない状況を言う)。",
"title": "疫学"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "すでに述べたように、ヨーロッパではイネ科の植物、アメリカではブタクサが多い。日本のスギ花粉症を含めて、世界の3大花粉症ともいわれる。",
"title": "世界の花粉症"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国における有病率は5 - 10%程度といわれる。ブタクサがほとんどともいわれるが、国土が広大なため、地域によってさまざまな種類の樹木・草本が問題になっているようである。北欧と同じく寒冷な地域であるカナダではカバノキ科の花粉症が多く、6人に1人という数字もある。",
"title": "世界の花粉症"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "アジア太平洋地域では、文献的にはトルコやオーストラリアなどが40%以上という異常に高率の有病率を示しているが、この数字には疑問が残る。実際には10 - 20%と推測される。",
"title": "世界の花粉症"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "世界的にみて、先進工業国ではおおむねアレルギーが増えており、花粉症も全人口の1 - 2割というところではないかとみられている。",
"title": "世界の花粉症"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "いずれも、英語圏でなくとも、あるいは Hay(干し草)が原因ではなくとも、Hay fever の病名が慣用されることがある。さらに、アレルギー性鼻炎全般を Hay fever と代名詞的に総称することすらあるようであり、一般向けの病気についての解説等は、日本の感覚では疑問を持たざるを得ないことがある。",
"title": "世界の花粉症"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "現在(特にヨーロッパ方面では)は、牧草や芝生、雑草などを手入れ時期に患者が増加する傾向があるため、草 (Grass) を用いて、Grass fever と呼ぶ場合も多くなってきている。",
"title": "世界の花粉症"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "こうした日本国外の花粉症については、プロスポーツ選手の日本国外進出などにともなって、ニュースとしてよく目にするようになってきている。",
"title": "世界の花粉症"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "日本国内であればマスクや薬の入手は容易であるが、日本国外ではそうとは限らない。特に欧米では工事現場や病院等の特定の職場で働く人間、もしくはよほどの重病でない限りマスクをする習慣がないため、奇異な目で見られるということもある。街角でポケットティッシュを配るなどのことも行われてはいない。",
"title": "世界の花粉症"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "その反面、日本では処方薬となっている第二世代抗ヒスタミン薬が、国によっては一般の薬店で買えるなどのこともある。しかし、それが自分の体質に合っているとも限らない。特にヨーロッパでは、当地の伝統医療であるホメオパシーのレメディを勧められることもあるという。",
"title": "世界の花粉症"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "これらのことにより、花粉症患者が事情がよくわからない国へ訪れる場合は、シーズンを問わず、念のために自分に適した薬とマスク程度は持参したほうがよいといえる。一般に花粉症はきわめてまれと考えられている、いわゆる南洋の島などに観光旅行に行ったさいにも、原因不明の花粉症様の症状に苦しめられたとの情報もある。",
"title": "世界の花粉症"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "特に病院で抗アレルギー薬の処方を受けている患者が、シーズン中に短期(1週間前後)の旅行を行う場合は、その効果を減弱させないためにも、旅行中も薬の服用を欠かさないほうがよい。やや長めの旅行であれば一時中断してもよいが、帰国時が花粉症シーズンであるならば、その数日前から予防的に薬を服用しておくとよい。これは初期治療と同じ原理である。",
"title": "世界の花粉症"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "ただし、国によって使用が許可されている薬と禁止されている薬は当然違っているため、渡航先の国がその薬の所持を許可しているかどうかを出来るだけ事前に確認しておく事が望ましい。日本では普通に処方されていても当該の国や州では違法、と言う扱いになっていた場合、よくて税関での没収、最悪の場合勾留や逮捕、強制送還をされてしまう恐れがある。",
"title": "世界の花粉症"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "近年ではペットの花粉症も問題となっている。イヌの花粉症は1998年に、ネコの花粉症は2000年に初めて報告されたとされるが、ヒトの場合と同様、それ以前から存在したと推測される。特にイヌにおいては、ヒトのような鼻症状より毛が抜けるなどの皮膚症状が多く見られ、見た目にも悲惨な状態となることが多いといわれる。",
"title": "ペットの花粉症"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "獣医師により検査や治療は可能だが、イヌにおいてはヒトと違って抗ヒスタミン薬が効きにくく、ステロイドに頼らざるを得ないことが多い。重症の場合は減感作治療が行われることがある。ネコにおいては検査も治療も困難であるといわれる。",
"title": "ペットの花粉症"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "近年はこうしたペット向けのサプリメント類も販売されるようになってきている。",
"title": "ペットの花粉症"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "使われる医療費は、1994年の推計では年間1200 - 1500億円とされた。1998年の調査では、有病率10%とした場合の年間医療費が2860億円 、労働損失が年間650億円と推定された。",
"title": "医療費等"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "なお、第一生命経済研究所の試算によれば、患者が花粉症対策に用いる費用(俗に花粉症特需といわれる)は639億円に上るが、シーズン中の外出などを控えるために、1 - 3月の個人消費が7549億円減少するという(ただし、これはスギ花粉の大飛散があった2005年の場合である)。",
"title": "医療費等"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "2021年の時点で、花粉対策グッズ・食品・家電、薬品など花粉症マーケットは1兆円を超える産業になっている。",
"title": "医療費等"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "2005年、文部科学省の第8回技術予測調査によれば、日本において重要な課題の第2位が「花粉症やアトピーなどのアレルギーを引き起こす免疫制御機構や環境要因の解明に基づく、即時型アレルギーの完全なコントロール技術」であり、これが実現する時期は2015年、さらに、それが社会的に適用されるのは2027年であると予測された。",
"title": "将来展望"
}
] | 花粉症とは、I型アレルギー(いちがたアレルギー)に分類される疾患の一つ。植物の花粉が、鼻や目などの粘膜に接触することによって引き起こされ、発作性反復性のくしゃみ、鼻水、鼻詰まり、目のかゆみなどの一連の症状が特徴的な症候群のことである。日本においては北海道の大半と沖縄を除いてスギ花粉が抗原となる場合が多い(スギ花粉による花粉症についてはスギ花粉症を参照)。 枯草熱(こそうねつ)とも言われる。枯草熱も医薬品等の効能に表記される医学(医療)用語であるが、この記事では花粉症というように、古語・現代語、一般名・疾病名、の観点で呼び分けることもある。 日本ではアレルギー疾患対策基本法の対象疾患である。公害とみなす動きもある(詳細は環境要因の節を参照)。 | {{出典の明記|date=2007年5月}}
[[ファイル:Misc pollen.jpg|240px|thumb|[[花粉]]の[[電子顕微鏡]]写真]]
'''花粉症'''(かふんしょう、英: hay fever、pollen allergy、pollen disease<ref group="注釈">''pollen allergy'' は花粉アレルギー、''pollen disease'' は花粉病(花粉による疾患)の意である。</ref>、医: pollinosis または pollenosis)とは、'''I型[[アレルギー]]'''(いちがたアレルギー)に分類される疾患の一つ。[[植物]]の[[花粉]]が、[[鼻]]や[[目]]などの[[粘膜]]に接触することによって引き起こされ、発作性反復性の[[くしゃみ]]、[[鼻水]]、[[鼻詰まり]]、目のかゆみなどの一連の症状が特徴的な症候群のことである。日本においては[[北海道]]の大半と[[沖縄]]を除いて[[スギ]]花粉が[[抗原]]となる場合が多い<ref>[https://www.mhlw.go.jp/new-info/kobetu/kenkou/ryumachi/kafun/iryojyuji-qa.html 厚生労働省:平成21年花粉症対策]</ref>(スギ花粉による花粉症については[[スギ花粉症]]を参照)。
'''枯草熱'''(こそうねつ)とも言われる<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%9E%AF%E8%8D%89%E7%86%B1-65005 枯草熱] - コトバンク(2020年9月27日閲覧)</ref>。枯草熱も医薬品等の効能に表記される医学(医療)用語であるが、この記事では花粉症というように、古語・現代語、一般名・疾病名、の観点で呼び分けることもある。
日本では[[アレルギー疾患対策基本法]]の対象疾患である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E7%96%BE%E6%82%A3%E5%AF%BE%E7%AD%96%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%B3%95-1736707 アレルギー疾患対策基本法とは] - コトバンク</ref>。'''[[公害]]'''とみなす動きもある(詳細は[[#環境要因|環境要因]]の節を参照)。
== 症状 ==
=== 一般的症状(一次症状) ===
主な症状は、'''[[くしゃみ]]'''、'''[[鼻水]]'''、'''[[鼻詰まり]]'''、'''目のかゆみ'''とされ、一般に'''花粉症の4大症状'''と呼ばれる。耳鼻科領域においては、目のかゆみを除外したものを3大症状と呼んでいる。
くしゃみ、鼻水、鼻詰まりなどは'''[[アレルギー性鼻炎]]'''(鼻アレルギー)の症状であり、花粉の飛散期に一致して症状がおこるため、'''季節性アレルギー性鼻炎'''(対:通年性アレルギー性鼻炎)に分類され、その代表的なものとなっている。目のかゆみや[[涙|流涙]]などは'''アレルギー性[[結膜炎]]'''の症状であり、鼻炎同様に'''季節性アレルギー性結膜炎'''に分類される。広義には花粉によるアレルギー症状全てを指すこともあるが、一般的には上記のように鼻および目症状を主訴とするものを指す。また、狭義には鼻症状のみを指し、目症状は結膜花粉症(または花粉性結膜炎)、皮膚症状は花粉症[[皮膚炎]]または花粉皮膚炎、[[気管支喘息|喘息]]の症状は花粉喘息、喉の不快感などの症状はアレルギー性咽喉頭炎などと別に呼ぶことがある。
=== 二次症状 ===
* 鼻詰まりによって匂いがわからなくなることがある。それにより口呼吸をするため喉が障害されることも多い。
* [[後鼻漏]]と呼ばれる喉に流れる鼻汁により喉がイガイガしたり、咳や[[痰]]が出る場合もある。
* [[副鼻腔炎]]などが合併することがある。これは風邪と同様に鼻汁が粘度の高いものになり、眉間や目の下など、顔の奥の部分に重い痛みなどを感じることが特徴であるが、そうした症状を感じないこともある。後鼻漏もおきやすい。後鼻漏による鼻水が気道に入ると[[気管支炎]]の原因ともなり得る。特に副鼻腔炎は小児に多いといわれる。
* 目の異物感や流涙、目やにが出現する。不適切に[[コンタクトレンズ]]を使用している場合、巨大乳頭結膜炎などにもなり得る。
* [[耳]]の奥の痒みが出現する。小児の場合、痒みなどから鼻をいじることが多く、[[鼻血]]の原因になることも少なからずある。
* [[頭痛]]や頭重感、微熱やだるさなどの全身症状を呈する場合もある。[[ニセアカシア]]などの花粉症では症状が比較的重く、これらの症状を示す場合が多い。
* [[口]]から入った花粉や花粉を含んだ鼻水を飲み込むことにより、[[下痢]]・[[吐き気]]・[[腹痛]]などの[[消化器]]症状が出る場合もある。([[好酸球性消化管疾患]])
* 目の周りや目の下、首筋などによくみられる炎症などの皮膚症状は、花粉症[[皮膚炎]]と呼ばれることもある。また、[[アトピー性皮膚炎]]の患者は、花粉症の時期にかゆみが増すことも知られている。
* 睡眠不足、集中力欠如、イライラ感、食欲不振等も生じてくる。[[うつ]]など心理的影響を呈する場合もある。
* 髪の毛が抜けるなど抜け毛・脱毛の原因となることもある。
* 頻度は低いが[[気管支喘息|喘息]]に似た症状が出ることもあり、すでに喘息患者である場合はその発作が起きることもある(→''[[花粉症#花粉症と喘息|花粉症と喘息]]'')。
* 花粉の種類と量によっては、まれに[[アナフィラキシーショック]]を起こすこともある(→''[[花粉症#花粉症とアナフィラキシーショック|花粉症とアナフィラキシーショック]]'')。
==== 花粉症と喘息 ====
[[喘息]]様発作については、咳が多く出たり呼吸機能の低下がみられ、重症例では呼吸困難になることもある。そうなった場合はすみやかに救急医療機関を受診するか、[[救急車]]を呼ぶべきである。従来は、花粉の粒子サイズから、それらは鼻で捕らえられるために[[下気道]]の症状である喘息などは起きないとされていたが、近年の研究でスギ花粉の周りに{{ill|オービクル|en|Orbicule}}またはユービッシュ体と呼ばれる鼻を通過するサイズの微粒子が多数付着していることがわかり、それらを吸引することで喘息が起こり得ることがわかってきた。二次飛散を繰り返すうちに一部の花粉が細かく砕かれるとの推測もある。
==== 花粉症とアナフィラキシーショック ====
花粉によってアレルゲン性の高さも異なり、花粉の種類と量によっては、まれに[[アナフィラキシーショック]]を起こすこともある。重症者や、特に喘息の既往症のある患者は、激しい呼吸によって多量の花粉を吸引するおそれがあるような運動はなるべく避けるべきである。
果物などを食べると口の中にかゆみやしびれなどを生じる[[口腔アレルギー症候群]] (OAS) を起こす場合もある。特に北海道に多い[[シラカバ]]花粉症でよくみられるほか、関西で多い[[ヤシャブシ]]花粉症などでもみられる。[[リンゴ]]、[[モモ]]、[[ナシ]]、[[イチゴ]]など、[[バラ科]]の果実に反応することが多い。他に、[[メロン]]や[[トマト]]にも反応するという。これらはアレルゲンがきわめて類似しているためと考えられている。[http://www.mirai.ne.jp/~seisinc5/oas.htm 口腔アレルギー症候群 (OAS)](外部リンク)も参照のこと。
=== 鑑別症状 ===
; 感冒(風邪)
: 花粉症は、水のようなサラサラした鼻水と目のかゆみが特徴的であり、感染症である鼻[[風邪]]との鑑別点になる。鼻風邪であれば、一般的には目のかゆみはなく、数日のうちに鼻水は粘性の高いものになり、さらに黄色や緑など色のついたものとなる。また、屋外のほうが花粉が多いため、症状も強くなるという点も風邪との違いである。
; 他のアレルギー
: 非常に似通った症状ではあるが、屋内のほうが症状が強い場合、ほこりなどの[[ハウスダスト]]等によるアレルギー性鼻炎を疑ったほうがよい(一般に「アレルギー性鼻炎」と言った場合、こうしたハウスダスト等による通年のアレルギー性鼻炎のことを指すことが多い)。
スギ花粉飛散の前から症状を呈する患者も多くいるが、実際にごく微量の花粉に反応している場合だけでなく、季節特有の乾燥や冷気によるものもあると考えられている。患者は自己診断に頼らず、専門家の診断を受けることが望ましい。
=== その他の特徴 ===
; 症状の個人差
: 患者により、くしゃみや鼻水がひどいタイプと、鼻詰まりがひどいタイプ、どちらもひどいタイプなどに分けられる。症状の程度も個人により異なる。そうした症状のタイプと重症度により、適した治療、薬剤なども異なってくる。目の症状の重症度などによっても治療法は異なる。これらの重症度などはくしゃみの頻度などを記録してスコア化することによって調べることができる。同じ花粉飛散量であっても症状の程度が異なるほか、どの程度の花粉で症状が出るかの敏感さも個人によって異なる。
; 花粉飛散量と症状の無相関
: 例えば花粉飛散量が2倍になったからといって、症状が2倍ひどくなるわけではない。<!--簡単には、飛散量が1桁上がると症状は1段階ひどくなると思って大きな間違いではない。←「花粉飛散量と症状は相関しない」と矛盾している-->多量の花粉に曝露されると症状も悪化するが、少量であっても連続すると重症化していくのも特徴である。また、一旦最重症化すると、少々の花粉量の変化では症状は変化しなくなる傾向があり、花粉飛散期が終了しても、症状はなかなか改善しない。
; モーニングアタック
: 目覚めのときに強く症状が出ることもあり、俗にモーニングアタックといわれる。就寝中に吸い込んだ花粉が目覚めとともに症状を引き起こしたり、[[自律神経]]の切り替えがスムーズにいかないのと、鼻粘膜における高まった過敏性とがあいまって症状が出ると考えられている。緊張すると症状がおさまる、リラックスすると症状が出てくるなども、自律神経のバランスの具合によって説明されている。リラックス時や就寝時には[[副交感神経系|副交感神経]]が優位となり、その場合に症状が出やすいという。
: なお、自律神経の影響を強く受ける、すなわち鼻における[[自律神経失調症]]ともいうべき症状は[[血管運動性鼻炎]]といい、一般に気温差などにより鼻水が多く出るのが特徴である。雨の日なのに症状がひどい場合、花粉症にこれが合併していると考えることもある。
; 遅発相
: 6 - 10時間程度遅れて出てくる症状を遅発相という。花粉がないはずの室内で、就寝前などに強い鼻詰まりに悩まされる場合などがこれにあたると考えられている。[[空気清浄機]]等を使用しても症状の改善がない場合は、遅発相の可能性がある。
== 原因植物 ==
[[ファイル:Cryptomeria japonica-Male flower.jpg|right|170px|thumb|スギの雄花と花粉]]
[[File:YASHABUSHI Alnus firma.jpg|thumb|170px|right|[[ヤシャブシ]]]]
[[ファイル:Ambrosia artemisiifolia 080908.JPG|thumb|170px|right|ブタクサ]]
花粉症を引き起こす植物は60種以上が報告されている。
春先に大量に飛散する[[スギ]]の花粉が原因であるものが多いが、[[ヒノキ科]]、[[ブタクサ]]、[[マツ]]、[[イネ科]]、[[ヨモギ]]など他の植物の花粉によるアレルギーを持つ人も多くいる。
特にスギ花粉症患者の7 - 8割程度はヒノキ花粉にも反応する。また、「イネ科」と総称されることからもわかるとおり、その花粉症の患者は個別の植物ではなくいくつかのイネ科植物の花粉に反応することが知られている(○○科と総称されるのは光学顕微鏡による肉眼観察では区別がつかないためでもある)。これらは花粉に含まれているアレルゲンがきわめて類似しているため、[[交差反応]]を起こしている。
花粉症には地域差もあるといわれる。例えばスギの少ない[[北海道]]ではスギ花粉症は少なく、イネ科や[[シラカバ]](シラカンバ)による花粉症が多い。中国地方、特に[[六甲山]]周辺において、大量に植樹されたオオバヤシャブシによる花粉症が地域の社会問題になったこともある。北陸の稲作が盛んな地域では、他地域よりも[[ハンノキ]]花粉症が多い。シラカバ、[[ハンノキ]]、[[ヤシャブシ]]、オバヤシャブシなどは口腔アレルギー症候群をおこしやすい。
[[アメリカ合衆国]]では[[ブタクサ]]、[[ヨーロッパ]]では[[イネ科]]の花粉症が多い。[[北欧]]ではシラカバ等[[カバノキ]]科の花粉症が多い。
花粉症の原因となる植物は、風に花粉を乗せて飛ばす[[風媒花]]が一般的であるが、職業性の花粉症にみられるように、その花粉を大量かつ長期にわたって吸い込んでいれば、どんな植物の花粉でも花粉症になり得ると考えられている。職業性の花粉症は果樹の[[人工授粉]]に従事する栽培農家などによくみられるが、華道家が発症した例もある。
なお、[[セイタカアワダチソウ]](セイタカアキノキリンソウ)の俗名がブタクサということもあり、ごく一部で混乱が生じている。実際、過去に花粉症の原因植物と言われたこともあったが、セイタカアワダチソウは[[虫媒花]]のため、原則的には花粉は飛ばさない。ただし、大群落を作ることが多く、こぼれた花粉が周辺に飛散してしまうことはある。同じ[[キク]]科の[[ブタクサ]]や[[ヨモギ]]等の花粉に対しても交差的に感作が成立することもある。
日本人の主食の米となるイネは、開花期が早朝でごく短く、水田で栽培されるため、花粉症の原因になることは少ない。
原因花粉をつきとめるためにはアレルゲンの検査が必要であるが、身近にその植物があれば患者自身でもわかる場合がある。花粉の観測を行っている施設は多いが、その多くはスギ・ヒノキの飛散期間のみであり、通年で行っていたとしても、ほとんどはビルの屋上などに装置を設置しているため、草花花粉についての正しい飛散情報を得ることは難しい。また、飛散範囲が局地的であることも、草花花粉の飛散情報を得るのが難しい原因となっている。
花粉量は多い年と少ない年が交互になる傾向があり、花粉量が多い年を「表年」、少ない年を「裏年」という<ref name="national/207431">{{Cite news|url=http://www.chibanippo.co.jp/news/national/207431|title=花粉は4割減ったのに… 重症割合、昨年並み 来年飛散量1.5~2倍と予想|newspaper =[[千葉日報]]|date=2014-08-06|accessdate=2014-08-07}}</ref>。
== 医学的見地による原因 ==
花粉症は、患者が空中に飛散している植物の花粉と接触した結果、後天的に[[免疫]]を獲得し、その後再び花粉に接触することで過剰な免疫反応、すなわちアレルギー反応を引き起こすものである。花粉症はアレルギーの中でも、IgE([[免疫グロブリンE]])と[[肥満細胞]](マスト細胞)によるメカニズムが大きく関与しており、即時型のI型アレルギーの代表的なものである。
同じI型アレルギーが主である[[アトピー性皮膚炎]]では、IV型のアレルギー反応も部分的に関与するといわれる<ref group="注釈">症例によってはIII型も関与するといわれるが確証はない。</ref>。花粉症でも、皮膚症状が出る場合には、IV型(すなわち接触性皮膚炎、いわゆるかぶれ)が関与している場合もあると考えられている。
ここでは、即時型のI型アレルギーのみを紹介している。また、一つの仮説としてTh細胞バランスを紹介する。
=== アレルギー反応のメカニズム ===
==== 発症まで ====
花粉症の患者は、症状が現れる以前にアレルギーの元([[アレルゲン]])になる花粉に接触している。目や鼻などの粘膜に花粉が付着すると、花粉内およびオービクルからアレルゲンとなるタンパク質が溶け出し、[[マクロファージ]](貪食細胞)に取り込まれ、非自己(異物)であると認識される。この情報は胸腺由来の[[リンパ球]]である[[ヘルパーT細胞]]のうちのTh2を介し、骨髄由来のリンパ球である[[B細胞]]に伝えられる。B細胞は花粉アレルゲンと特異的に反応する[[抗体]]を作り出す。
抗体は本来、体内に侵入した病原細菌や[[毒素]]などの異物を排除・無害化するためのものであり、ヒトにはIgG、IgM、IgA、IgD、IgEの5つのタイプが存在するが、花粉症の患者で最も重要なのが'''IgE'''である(こうした抗体が関与する免疫反応を液性免疫という)。このIgEは、血液や粘膜中に存在する肥満細胞や[[好塩基球]]に結合し、再び花粉アレルゲンが侵入してIgEに結合すると、様々な化学伝達物質([[ケミカルメディエーター]])が遊離して症状を引き起こす(後述)。
なお、IgEが一定レベルまで肥満細胞に結合した時を'''感作が成立した'''と言い、発症の準備が整ったことになる。どの程度までIgEが蓄積されると発症するかなどは個人差が大きいとされる。また、IgEのレベル以外に発症を誘引する因子があるのかないのかなどについても詳しいことはわかっていない。いずれにしろ、ある年に突然に花粉症が発症したように思えても、それまでに体内では発症のための準備が着々と進んでいたということである。このことを理解しやすくするため、一般に'''アレルギーコップ'''という喩えがよく用いられる。すなわち、体内のコップに長期間かけて一定レベルの発症原因がたまり、それがあふれると突然に発症するというものである。一度感作が成立すると、原則的に花粉症の自然治癒は困難である。病原菌などに対する免疫と同様、「花粉は異物である」という情報が記憶されるためである。
==== ケミカルメディエーター ====
遊離したケミカルメデイエーターのうちもっとも重要なのは、[[ヒスタミン]]と[[ロイコトリエン]]である。
; ヒスタミン
: 知覚神経([[三叉神経]])を刺激してかゆみを感じさせたりくしゃみ反射を起こす。また、分泌中枢を刺激することで腺からの鼻汁の分泌も増える。
; ロイコトリエン
: 血管を広げ、水分などが染み出ることにより粘膜が腫れ上がる。すなわち鼻詰まりがおこる。目(眼瞼および眼球結膜)などにおける反応も同様である。
; その他
: PAF([[血小板活性化因子]])、[[トロンボキサン]]A<sub>2</sub>、[[プロスタグランジン]]D<sub>2</sub>などのケミカルメディエーター、各種の[[インターロイキン]]などの[[サイトカイン]]も症状に少なからず関係するといわれるが、花粉症(鼻アレルギー)の実際の症状においては、どれほどの影響があるのかなどくわしいことは明らかになっていない。
こうした症状そのものは、体内に入ってきた異物を体外に出すための反応であり、また引き続いて体内に入ってこないようにする正常な防衛反応であると解釈できる。しかし、害のない異物と考えられる花粉アレルゲンに対して過剰に反応し、それによって患者が苦痛を感じる点が問題となる。
=== 遅発相反応のメカニズム ===
症状を起こした粘膜では、血管から浸潤した炎症細胞(特に[[好酸球]])からのロイコトリエン等によってさらなる鼻粘膜の膨張が起こる。その他のケミカルメディエーターや[[酵素]]などにより組織障害も起きる。抗原曝露後6 - 10時間にみられる遅発相反応がこれで、アレルギー性炎症と呼ばれる。こうした炎症細胞を呼び寄せるのも肥満細胞などから放出されるケミカルメディエーター(上記のPAFなど)である。
=== 慢性化反応のメカニズム ===
症状が繰り返し起こることによって、粘膜過敏性は増加し、症状は慢性化する。不可逆的な粘膜の肥厚なども起こり得る。重症例では、花粉の飛散が減少または終了しても、病変はすぐには改善されない。
=== Th細胞のバランス ===
一つの仮説として、免疫系を制御している[[T細胞#ヘルパーT細胞|ヘルパーT細胞]]のバランスが関与するという考えがある。抗体産生細胞であるB細胞に抗原の情報を伝達するヘルパーT細胞は、産生するサイトカインの種類により1型と2型(Th1とTh2)に大別される。これらのうち、インターロイキン4などを分泌してアレルギーに関わるIgEを産生するように誘導するのはTh2である。いっぽうのTh1は主に感染症における免疫反応に関わる。すなわちマクロファージや[[T細胞#キラーT細胞|キラーT細胞]]などを活性化させ、細菌そのものやウイルスに感染した細胞を障害する(細胞性免疫という)。B細胞にIgGを産生させ、いわゆる正常の免疫を作ることにも関与する。
これらのことから、アレルギー患者においてはTh2が優位に働いているということがいえるが、なぜTh2が優位になるのかについてはよく判っていない。幼少時における感染症が減ったためにアレルギーを起こしやすい体質になっているのではないかという説については、この仕組みが関与していると考えられている。成長期において細胞性免疫を獲得する機会が減っているため、おのずとTh1よりTh2が優位になる人が多く、アレルギー人口が増えたというものである。強く影響を与える感染症としては、過去に国民病ともいわれた[[結核]]が疑われている。鼻症状に限定すれば、やはり過去には多かった副鼻腔炎の減少の関与を考える場合もある。
これらヘルパーT細胞のバランスは出生後数か月のうちに決まるとも、3歳程度までのうちに決まるともいわれるが、のちに人為的に変化させることもできるという説もある。なお、ヒトは胎内にいるときや出生直後はもともとTh2優位の状態であり、また、Th1とTh2は相互に抑制しあう関係にあるという。
[[衛生仮説]]ともいわれるこの説は現在もっとも有力な説となっている。しかし、近年の研究によれば、単にTh1/Th2バランスによってのみ説明できることばかりではないこともあり、調節性T細胞の関与を考える説も出されている。衛生仮説を説明したこのTh1/Th2パラダイムは1980年代後半に提唱されたものだが、広く免疫を考えるときに重要なものであることは現在でも変わりがない。
衛生仮説の応用として、結核のワクチンである[[BCG]]接種によって花粉症の治療をしようという試みや、結核菌と同じ[[グラム陽性菌]]である[[乳酸菌]]の一種を摂取することが治療に役立たないかどうかの研究も行われている。菌の[[デオキシリボ核酸|DNA]]の一部であるCpGモチーフを抗原[[ペプチド]]とともに投与して減感作療法の効率をあげる試みもなされている。
関連として、環境中の細菌等が産生する微量の毒素が関係すると提唱する研究者もいるほか、最近では、医療における[[抗生物質]]の多用(によるヒトと共生している菌のバランスの崩れ)が関わっているのではないかという見方も出てきている。[[ピロリ菌]]感染との逆相関が認められることも報告された。
== その他の原因 ==
花粉症の患者では、原因植物の花粉に対するIgE量が多いことは明らかであり、これがアレルギーを起こす直接の原因である。しかし、花粉症の原因となる花粉と接触しても全ての人が花粉症になるわけではなく、IgEが多くても発症しない人がいる。またIgEの量と重症度とは必ずしも相関しない。なぜこうしたことがあるかについては、遺伝要因(遺伝的素因)や環境要因などさまざまな要因の関与が考えられている(すなわち'''花粉症は多因子疾患'''である)が、全貌は明らかになっていない。
=== 遺伝要因 ===
遺伝要因については、広く体質(いわゆるアレルギー体質)と呼ばれるものが相当する。しかし広義の体質は、遺伝による体質と、出生後に後天的に獲得した体質とが混同されているため、これらは分離して考える必要がある。アレルギーになりやすい遺伝的素因、すなわちIgEを産生しやすい体質は劣性遺伝すると考えられており、それを規定する候補[[遺伝子]]は[[染色体]]11qや5qなどに存在するといわれる{{要出典|date=2015年4月}}が確証はない。こうした遺伝的要因については、IgE産生に関わるもののほか、各種のケミカルメディエーター遊離のしやすさや受容体の発現のしやすさの違いなども考えられている{{要出典|date=2015年4月}}。どんな物質に対してアレルギーを起こすかということも、遺伝的に規定されているとの説もある{{要出典|date=2015年4月}}。
=== 環境要因 ===
[[大気汚染]]や生活環境の変化、衛生環境の変化による人体の免疫作用の変化との関連が指摘されており、下記のような調査が進められている。
==== 建築用木材のためのスギ・ヒノキの大量植樹 ====
元々日本の森林は[[広葉樹]]を主体とした多種多様な樹木が分布しており森林の90%近くが広葉樹であった。しかし高度経済成長による建築用木材の需要増大で生育が早く加工が容易でまっすぐに成長する杉や檜などの針葉樹の植樹が各地で行われた。その結果森林全体では針葉樹が50%を占めるようになった。人工林では99%が針葉樹となっている<ref>{{Cite web|和書|title=スギ・ヒノキ林に関するデータ|publisher=林野庁|accessdate=2020-3-28|url= https://www.rinya.maff.go.jp/j/sin_riyou/kafun/data.html}}</ref>。
高度経済成長の終息や海外から安い木材が輸入されるようになると日本の[[針葉樹林]]は放置され大量の[[花粉]]を排出するようになった。杉や檜は樹齢30年を過ぎると子孫を残す段階に移行するため、特に多くの花粉を排出するようになる。近年の花粉症患者の増大はそのためと考えられる。
また、針葉樹は動物の食糧となる木の実が成らず、針葉樹林は[[緑の砂漠]]と言われる。針葉樹林の増加は人間だけではなく森にすむ動物にとっても深刻な問題である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hanasuusuu.net/ka_kafunriyuu.shtml |title=花粉症対策:スギ花粉が増えた理由|accessdate=2020-3-28}}</ref><ref>森を守る枠組みの再編を 1996.4.22毎日新聞社説</ref>。
==== 自動車排気ガスによる大気汚染の関与 ====
[[ディーゼルエンジン]]の[[排気ガス]]中に含まれる微粒子 (DEP) や、[[ガソリンエンジン]]からも排出される[[窒素酸化物]] (NOx)、[[オゾン]] (O<small>3</small>) などに長期間暴露されることにより花粉アレルギー反応の閾値を下げる、アレルギー反応を増幅するなどの影響が指摘されており、様々な実験・調査がされている。NHK地上TVでも、排気ガスと花粉の化合物の問題を取り上げ、幹線道路沿いの住民が花粉症発生率が高いと報道した<ref>『花粉アレルギーと大気汚染』、篠原出版、1995年、ISBN 4-87949-145-4。</ref><ref>[https://www.env.go.jp/press/press.php?serial=4125 大気汚染と花粉症の相互作用に関する調査研究結果(平成14年度分)について(環境省)]</ref>。
また、そもそも東京都内などほぼ全域にわたって大気汚染物質の濃度が高いところでは疫学的研究による差が出にくい(比較的低濃度の地域であっても閾値を超えていることが考えられる)こと<ref>[http://www.yasuienv.net/KafunDiesel.htm 花粉症とディーゼル排気の報道](市民のための環境学ガイド [[安井至]])</ref>や、動物実験について臨床との差異があることを理由に結果を否定しようとする向きがあること(前述)、PM2.5 などこれまで充分に測定されていない物質の影響が調査できていないといった問題もあることから、環境省や大気汚染が進む自治体などでは、より広範な情報収集・調査を行うための観測地域や対象物質の拡大といった、観測体制の整備<ref>[https://www.env.go.jp/press/press.php?serial=6781 環境省花粉観測システム(愛称:はなこさん)の稼働について(環境省)]</ref>が進められている。
==== 自動車排気ガス以外の浮遊物質の関与 ====
大気汚染物質としては、前述の自動車排ガスのほか、自動車タイヤと道路の摩擦から発生する道路粉塵、[[煙草]]の煙や換気の悪い室内での暖房時に出るガス状物質、[[黄砂]]や土ぼこりなども、症状を悪化させるという報告がある。
==== 都市化の影響 ====
都市化との関連については、別項にて述べているように、それによりいつまでも空中を漂い続ける花粉数が増えているという説もある。
そのほか、従来からの日本式家屋とは異なる高気密の住宅が普及したことも、花粉症が増えた原因のひとつではないかという考えがある。高気密ではあるが高断熱ではない住宅では局所的に湿度が蓄積されやすく、不十分な換気などによって[[ダニ]]・[[カビ]]が繁殖しやすい環境になる。これによって幼少児期のうちから[[ハウスダスト]]に対する[[アレルギー性鼻炎]]や[[小児喘息]]などを発症し、中にはそれが原因で花粉症にもなりやすくなっている人もいるとの考え方である。すなわち、なんらかのアレルギーになると、それがきっかけで違うアレルギーにもなりやすくなるというものである。逆に、そうした時期にアレルゲンを絶つとアレルギーになりにくいとの研究もある。たとえば妊娠期および授乳期に卵を厳格に除去すると、卵に対するIgEが低値であるだけでなく、ダニに対するIgEも低値であったという研究もある。しかし様々なデータがあるため、現在では、それらの関連は不明である。
しかし、こうした住宅事情の変化はハウスダストアレルギー増加をうまく説明しても、前述のどのようなアレルゲンに反応するかは遺伝的に規定されているという説によれば、これが花粉症増加の原因であるとはいいがたい。ただし花粉症患者のかなりは、その発症以前に[[ハウスダスト]]アレルギーを発症しているという事実もあり、花粉症の素因を持った人の発症時期を早める影響は否定できない。そうであれば、高気密住宅の多い都市部に花粉症患者が多くなることも、ある程度は説明ができる。
都市生活ならではのストレスや食生活の洋風化などについては、明らかなことはわかっていないが、個人により影響を強く受ける人もいるかもしれないとは考えられている。特に食品中のさまざまな栄養成分とアレルギーとの関連は、実験的なデータや理論(仮説)はあるものの、疫学的に実証されているとはいいがたい。建材などから発生する有毒化学物質や食品中の添加物の影響を考えるむきもあるが、花粉症との関連は調査されていない。授乳時の人工栄養や早期離乳などについてはいくつかのデータがあるが結論はなされていない。
=== 栄養要因 ===
[[不飽和脂肪酸]]ω-6系とω-3系のバランスが崩れているという仮説もある。
炎症性のある[[ロイコトリエン]]や[[プロスタグランジン]]のような[[アラキドン酸カスケード]]の原料であるω-6脂肪酸(リノール酸)の摂り過ぎと代謝酵素が共通しているために拮抗関係にある[[ω-3脂肪酸]]([[α-リノレン酸]])との摂取バランスが崩れて、[[アレルギー]]が惹起されやすくなっているとの報告もある<ref>馬場實、中川武正:食物アレルギーの手引き、南江堂、1、54-55、1994</ref>。リノール酸、α-リノレン酸は[[必須脂肪酸]]である。
== 診断・検査 ==
花粉症の検査は、
# '''その症状がアレルギー反応であることを証明すること'''
# '''アレルギーの原因となっているアレルゲンを特定すること'''(花粉で反応しているかどうか、感作されている花粉の種類の特定)
の2点が重要であり、そのための検査が行われる。
=== アレルギーの証明 ===
* 前述のように、感冒など、花粉症の症状に似た疾患があるため、'''症状をしっかり把握'''し、問診によってアレルギーの既往症や家族歴があるかどうか(アトピー素因があるかどうか)を調べることが必要である。また、鼻内の粘膜の様子を検査する。典型的な症状があって、実際に花粉飛散時期に一致しているのであれば、概ねこれだけで鑑別がつくことが多い。
* 一般的に追加して行われる検査は、'''鼻汁好酸球検査'''であり、これによってアレルギー症状であることがほぼ証明される。アレルギー症状特有の好酸球という白血球が鼻汁中に増加していることを、患者の鼻汁を採取し、染色法によって確認する。これは、診療時に簡単に行うことができる。
* 血液中の'''総IgEの定量 (RIST)''' も参考になる。血液検査でわかる。ただし、重症度の目安にもなるが、必ずしも実際の症状とは相関しない。
* 副鼻腔炎などが疑われる場合はエックス線検査など、他の検査も一緒に行われることがある。
=== アレルゲンの特定 ===
* アレルゲンを特定するためには、血液中の'''特異的IgE (RAST)''' を測定する方法がよく行われる。この血液検査は、採取した血液を検査機関に送付して行うため、結果が出るまで数日かかるが、検査用アレルゲンを用意しておく必要がないので簡便である。ただし費用はかかる。
* その他、微量のアレルゲンを皮内注射して反応を調べる'''皮内テスト'''、針で小さく傷をつけたところにアレルゲンをたらして反応を調べる'''スクラッチ(プリック)テスト'''などの皮膚テストや、アレルゲンを染み込ませた紙のディスクを鼻粘膜にのせて症状を誘発させる'''鼻誘発テスト'''などがある。これらの実際に反応を調べる方法は、テスト前に患者が薬剤を使用していると正しい反応が得られない。薬剤の使用を数日以上中止して症状を我慢させなくてはならないため、シーズン以外での検査に適するといえる(薬剤を用いていない初診患者であれば適用となる)。
なお、花粉に限らずいくつかの代表的なアレルゲンは、日本においては[[健康診断|定期健診]]のオプションメニューで受診ができる場合もある。
日本で行われているアレルギーテストは血液検査のRASTのみであることが多い。しかし、RASTには陰性でも、欧米で一般的に行われている感度の高い皮膚テストが行われずに、皮膚テストで陽性の患者の原因アレルゲンの特定が不可能になることがある。RASTよりも感度の高い皮膚テストを行うことによって、患者の原因アレルゲンの特定をより正確に行うことの必要性を主張する医師もいる<ref>[http://jja.jsaweb.jp/am/view.php?pubdate=20050430&dir=2005s&number=05s_spp050000]、社団法人日本アレルギー学会ホームページ</ref>。
=== 重症度の把握 ===
実際の重症度を調べるには、患者自身が'''アレルギー日記'''(花粉症日記)をつけるのが一番の方法である<ref group="注釈">[http://www.tky.3web.ne.jp/~imaitoru/DegeDiary.xls 週間花粉症日記]のExcelワークシートが公開されている。</ref>。この利点としては、自分の重症度や日による症状の変化などを把握できるため、アレルゲンが特定できていない場合、それを推定するのに有用となることがある。
しかし、重症度とQOLの障害は別物であり、近年はこのQOLを重視する方針での治療が推進されるようになっているため、治療の経過を判断する材料にはなるが、それだけで判断することはない。
== 治療 ==
=== 受診が推奨される診療科 ===
一般的には、花粉症の治療を受ける場合に適した[[診療科]]は耳鼻咽喉科であるが、アレルギー増加に伴い、大抵の医師は一定レベルの知識を有している。よって内科などでも充分な治療が受けられることがある。小児の場合は、慣れているという点で小児科の方が良いことがある。同様に妊婦および授乳婦の場合は、産婦人科の方が融通がきくことがある。
ただし、症状がひどい場合は、その部位の専門医に相談するほうがよい。すなわち鼻や喉の症状であれば耳鼻咽喉科、目の症状であれば眼科、皮膚症状がひどい場合は皮膚科が適する。これらの診療科とともに、アレルギー科の標榜がなされていると、なおよいといえる(一般にアレルギー科単独で標榜していることは少ない)。ただし、アレルギー科を標榜している医療機関に必ずしもアレルギー[[専門医]]がいるとは限らない。アレルギー専門医を調べるには、日本アレルギー学会や日本アレルギー協会に問い合わせるとよい。アレルギー学会のサイトにて調べることもできる。
なお、自治体の[[保健所]]などが相談体制を整えつつあるので、まずはそこで相談するのもよい。
=== 治療の分類 ===
治療は目的や方法によっていくつかに分けることができる。
; [[対症療法]]と根治療法
: 一般に花粉症の各症状を抑えることが目的のものは'''対症療法'''と呼び、花粉症そのものの治癒を目指すものは'''根治療法'''と呼ぶ。医療機関における各種の薬剤治療(薬物療法)は対症療法であり、確実な根治療法は開発されていない。唯一、減感作療法が根治療法にもっとも近いものといえる。
; 投与期における分類
: 症状が出る前から予防的に薬を服用するなどのことを'''初期治療(療法)'''または'''予防'''、'''季節前投与'''と呼び、症状が出てからも比較的コントロールできている状態に維持すること'''保存的治療'''または'''維持療法'''などと呼ぶことがある。いったん症状がひどくなってしまった場合、その症状を押さえ込む治療を'''導入療法'''と呼ぶこともある。医療者側からみた分類といえる。初期治療を受け、花粉が飛散する前から薬の内服などをすると症状が出にくく、出ても軽くすむことは実証されている。スギ花粉症のシーズン前には、飛散開始時期の予測が出されるので、それを目安に2週間程度前に受診し、適切な薬の処方を受けて使用をはじめるとよい。症状がひどくなると炎症を抑えるのが難しくなる傾向があるので、予防ができなかった場合でも、できるだけ軽いうちに受診したほうがよい。
; メディカルケアとセルフケア
: 薬の処方を受けるなど医療機関における治療('''メディカルケア''')とは別に、患者自身が生活上さまざまなことに気をつけると発症を遅らせることができたり、軽く抑えることができる。こうした患者自身ができる対策を'''セルフケア'''と呼ぶ。多くはアレルゲンの回避と除去が目的であり、考え方によってはもっとも重要な治療といえる。薬局・薬店において市販薬(大衆薬)を購入して使用するのはセルフメディケーションというメディカルケアであり、かつセルフケアでもあるといえよう。
=== 薬物療法(対症療法) ===
==== 抗アレルギー薬 ====
===== 定義 =====
薬剤の分類や呼び方は少々の混乱が生じている。専門家における呼称と一般に広く用いられる呼称も異なったまま慣用されている。
花粉症はアレルギーであるため、その治療に用いられるものは'''抗アレルギー薬'''といえる。それらは薬理作用により以下のように大別できる(広義では[[ステロイド]]薬をも含めて抗アレルギー薬と考えることもある)。
# 肥満細胞からのケミカルメディエーター(化学伝達物質)の遊離を抑えるもの(ケミカルメディエーター遊離抑制薬。肥満細胞安定薬とも)
# 遊離された後のケミカルメディエーターの作用を阻害するもの(抗ケミカルメディエーター薬:[[抗ヒスタミン薬]]、抗プロスタグランジン・抗トロンボキサン薬、抗ロイコトリエン薬など。受容体拮抗薬とも)
専門的には、1. の遊離抑制作用のみを'''抗アレルギー作用'''と呼ぶ。よって、1. の遊離抑制作用のある薬のことを'''抗アレルギー薬'''と呼ぶ。これは、初のケミカルメディエーター遊離抑制薬であるクロモグリグ酸ナトリウムのことを、ヨーロッパの一部において抗アレルギー薬( anti-allergic drug )と呼んだことに由来している。
しかし、遊離抑制作用を持つものを抗アレルギー薬と呼ぶと定義すると問題が生じることがある。[[抗ヒスタミン薬]]の中には、抗ヒスタミン作用の効果だけでなく、ケミカルメディエーター遊離抑制薬およびケミカルメディエーター遊離抑制作用を持つもの(これを[[第二世代抗ヒスタミン薬]]と言う。)があり、第二世代抗ヒスタミン薬も抗アレルギー薬に含まれるという分類になる。患者向けとして広く一般に用いられている呼称はこれが多く、第二世代抗ヒスタミン薬は抗アレルギー薬として普及してしまっている。一方、ケミカルメディエーター遊離抑制作用のない[[第一世代抗ヒスタミン薬]]は、単に'''抗ヒスタミン薬'''と呼ばれることが多い。
こうした薬剤の分類や呼び分けは、医師・研究者や治療する疾病の分野によってやや異なることがある。一般向けに出版されている書籍での説明や、インターネット上の花粉症・アレルギーの説明を行う各種サイトによっても、微妙に異なる場合がある。たとえば、第二世代抗ヒスタミン薬をさらに細分化し、第三世代とのカテゴリーを設ける医師・研究者もいる。
過去にケミカルメディエーター遊離抑制薬(抗アレルギー薬)のことを体質改善薬ということがあったが、抗ヒスタミン薬とは作用機序が異なる事実においてそのように呼ばれただけであり、いわゆるアレルギー体質は改善されない。アレルギーの発症を予防する効果もない。便宜的に患者に対してそう説明されることがある。
===== 薬物の特徴 =====
* 古い第一世代抗ヒスタミン薬は抗コリン作用が現れやすく、実用上では口が渇いたり眠気などの副作用が強い。一方、新しいタイプの第二世代抗ヒスタミン薬は、そうした副作用などが現れにくい。
* 上述のように第二世代抗ヒスタミン薬は、ケミカルメディエーター遊離抑制作用(抗アレルギー作用)がある。
第一、第二を含めて「症状を抑える」という対症的な治療効果であり、根治薬ではない。
===== 薬物作用 =====
; 抗ヒスタミン作用(効果)
: 肥満細胞から遊離したヒスタミンが、神経や組織にある受容体に結合するよりも前に、その受容体に結合してしまう作用である。すなわち、鍵穴に鍵が差し込まれる前に、鍵穴をふさいでしまう作用といってよい(ただし、現在では受容体の活性を落とす作用がその主要な効果であると考えられている)。一般にきわめて即効性がある。
; ケミカルメディエーター遊離抑制作用
: ヒスタミンなどのケミカルメディエーターが肥満細胞から出てこないようにする作用である。こちらは、一般に数日以上たたないと充分な効果が出てこない。そのため、この作用を期待するには、予防的に発症前から薬を用いるとよい(これは発症後に用いても無駄ということではない)。
===== 治療の実際 =====
; 抗ヒスタミン薬(第一世代抗ヒスタミン薬)の投与
: 飲んで数十分で強い効果が出てくる[[第一世代抗ヒスタミン薬]]は、病院で処方されることもあるが、薬局・薬店で購入できる総合鼻炎薬の主剤となっている。こうした鼻炎薬には、効果を増強するため[[交感神経興奮剤]]([[プソイドエフェドリン|塩酸プソイドエフェドリン]]、[[フェニレフリン|塩酸フェニレフリン]]など)や[[抗コリン剤]]([[ベラドンナ総アルカロイド]]、[[ダツラエキス]]など)といった薬が配合されているが、皮膚のかゆみなどの飲み薬には、ほとんど第一世代抗ヒスタミン薬だけというものもある。
: 第一世代抗ヒスタミン薬は一般に下記の第二世代抗ヒスタミン薬よりも眠気などの副作用が強く出やすいため、特に乗り物の運転や機械操作などには要注意である。同じ成分は風邪薬にも含まれているため、鼻炎薬の持ち合わせがないときなど、緊急避難的に風邪薬を服用して症状を抑えることも可能である。また、第一世代抗ヒスタミン薬はアレルギー学会や製薬会社により、別名「鈍脳」と呼ばれる[[インペアード・パフォーマンス]]、認知機能を低下する作用のキャンペーンがなされ、これらの副作用が少ない第二世代抗ヒスタミン薬の使用が推奨されている。
:* 第一世代抗ヒスタミン薬(内服) - [[クロルフェニラミン|マレイン酸クロルフェニラミン]]、[[クロルフェニラミン|d-マレイン酸クロルフェニラミン]]、[[ジフェンヒドラミン|塩酸ジフェンヒドラミン]]、[[マレイン酸カルビノキサミン]](シベロン)、[[クレマスチン|フマル酸クレマスチン]]など
:
; 抗アレルギー薬(第二世代抗ヒスタミン薬)の投与
: 数日から2週間程度服用して充分な効果が出てくる[[第二世代抗ヒスタミン薬]](これを抗アレルギー薬と呼ぶことが多い)や[[ケミカルメディエーター遊離抑制薬]]については、医師の処方箋が必要であり、メキタジンを除き日本では市販されていない(2007年現在、[[メキタジン]]に続いて[[アゼラスチン|塩酸アゼラスチン]]、[[ケトチフェン|フマル酸ケトチフェン]]が[[一般用医薬品#スイッチOTC|スイッチOTC内服薬]]として市販されるようになっている。後者は[[点鼻薬]]としても市販されている)。多くの第二世代抗ヒスタミン薬は、ケミカルメディエーター遊離抑制作用などを併せ持っており、鼻詰まりにも効果的な[[ロイコトリエン拮抗薬|抗ロイコトリエン]]作用があるものもある。現在、花粉症に対して病院で処方される内服薬の多くは第二世代抗ヒスタミン薬である。予防薬として処方されるものも、これが多い。
: 第二世代は第一世代より眠気や口の渇きなどの副作用が少なくなっているが、副作用の出方は人により大きく異なる。なお、第一世代、第二世代という分類は欧米でおこったというが、第二世代抗ヒスタミン薬が市販されている日本国外であっても、少なくとも一般薬店レベルでは通じないといわれる。鼻炎やアレルギー、かゆみの治療に用いられるものは全て抗ヒスタミン(アンチヒスタミン)薬と呼ばれているためである。
:* 第二世代抗ヒスタミン薬(内服) - メキタジン、塩酸アゼラスチン、フマル酸ケトチフェン、[[オキサトミド]]、[[エメダスチン|フマル酸エメダスチン]]、[[エピナスチン|塩酸エピナスチン]]、[[エバスチン]]、[[セチリジン|塩酸セチリジン]]、[[ベポタスチン|ベシル酸ベポタスチン]]、[[フェキソフェナジン|塩酸フェキソフェナジン]]、[[オロパタジン|塩酸オロパタジン]]、[[ロラタジン]]など
:* 第二世代抗ヒスタミン薬(点鼻・点眼) - [[塩酸レボカバスチン]]
:
; その他のケミカルメディエーター遊離抑制薬の投与
:ケミカルメディエーター遊離抑制薬は点鼻薬・点眼薬として処方されることもある(数は少ないながら市販薬にもある)。
:* ケミカルメディエーター遊離抑制薬(内服) - [[トラニラスト]]、[[ペミロラスト|ペミロラストカリウム]]など
:* ケミカルメディエーター遊離抑制薬(点鼻・点眼) - [[クロモグリク酸|クロモグリク酸ナトリウム]]など
==== ステロイド薬 ====
===== 概要 =====
ステロイド薬は、遊離抑制作用や受容体拮抗作用などといった限られた作用ではなく、アレルギーのメカニズムのほとんどを抑制する。抗炎症作用も強く、多くはこの作用を期待して用いられる。しかし、強力にアレルギーを抑えるということは、免疫そのものも減弱させるということでもあり、不必要な長期投与など不適切な使用によって他の感染症を招いたり、体内のホルモンバランスが崩れることにより重い副作用や後遺症が現れることもある。その他の副作用も多く知られている。
===== 治療の実際 =====
; ステロイドの投与
:花粉症においては主に重症例に対する抗炎症作用を期待して用いられる。抗ヒスタミン薬の内服などでは充分な効果がない場合、副作用の心配があるので短期間または頓服として内服が行われる。症状を抑える効果が高いこともあり、漫然と処方を続ける医師も存在するが、副作用だけでなくステロイド離脱困難に陥ることがある。特に小児に長期投与を行うと成長障害など重大な副作用が起こり得る。
:第一世代抗ヒスタミン薬ほどの即効性はなく、充分な効果が出るまで1日程度かかる。基本的に短期であれば問題となる副作用はないが、第一世代抗ヒスタミン薬との合剤では、その抗ヒスタミン薬の副作用である眠気を感じることが多い。
:点鼻薬のステロイドの場合は、局所に作用したのち体内ですばやく分解されるものもあり、副作用の心配も少ないため、重症の鼻炎がある場合には積極的に用いられる(医師により、重症でない場合も積極的に用いる場合がある)。特に遅発相による鼻詰まりに効果的とされる。鼻血が出やすくなる副作用を感じる患者もいる。
:目の症状がひどい場合もステロイドの点眼薬が出されることがあるが、副作用に注意して慎重に使う必要がある。眼圧などの検査ができる眼科専門医に処方してもらうことが望ましい。
:* ステロイド剤(内服) - [[ベタメタゾン]]・マレイン酸クロルフェニラミン配合剤、[[プレドニゾロン]]など
:* ステロイド剤(点鼻) - デキサメタゾンシペシル酸エステル、[[ベクロメタゾン|プロピオン酸ベクロメタゾン]]、[[フルチカゾン|プロピオン酸フルチカゾン]]など
:* ステロイド剤(点眼) - [[フルオロメトロン]]など
:
; ステロイドの注射
:スポーツ選手が行っていたり、口コミで話が広がっている治療であり、徐放性ステロイド療法という。1回の「[[注射剤|注射]]」で治ると噂になっている治療だが、統計によれば1回だけの注射で満足な効果を得られる例はそう多くはない。鼻アレルギーの[[診療ガイドライン]]においても、望ましくない治療とされている。内服と同様、全身のアレルギー(免疫)や炎症を抑える方法であるが、デポ剤という、油に薬剤を溶かした徐放性のものが用いられるため、筋肉内にとどまった注射液から数週間にわたって薬剤が放出され続ける点が異なる。報告されている副作用も多く、のちのちの体調に影響する後遺症の心配もある(骨粗しょう症など)。
:なにをやってもかんばしくなかったという患者の最終手段に近い治療法、または事情があってどうしても薬の内服などができない場合の治療法であり、もしも副作用が出ても体から薬を抜く方法がないというリスクを考え、インフォームドコンセントを確実に行い、注射前後の検査を怠らぬよう慎重に実施すべきである。もちろん根治療法ではない。
:ステロイドであることを隠して注射をする医師がいたり、患者もなんの疑問も持たずに気軽に注射を受けているなど、なにかと問題の多い治療法といえる。本来は保険適用の治療法であるが、[[自由診療]](保険外診療)として高額な治療費を請求する医師もいる。注射した部位がへこむなどの副作用で訴訟になった例もあるといわれる。注射の副作用だと気づかなかったり、医師から示談を提示されるなどのため、表に出てこない事故も多いと考えられている。相談や苦情をいう第三者機関が事実上存在しないため、事故があっても患者は泣き寝入りをするしかないことも多いとみられる。
:* ステロイド剤(デポ注射) - {{ill|トリアムシノロンアセトニド|en|Triamcinolone acetonide}}(ケナコルトAなど)、[[メチルプレドニゾロン|酢酸メチルプレドニゾロン]](デポ・メドロールなど)など
:* (備考)デポステロイド筋注による副作用の例 - 満月様顔貌3.9%、副腎皮質機能低下0.1%、皮膚・皮膚付属器障害3.9%、月経異常ほか3.9%、適用部位障害(萎縮ほか)1.4%
:* [http://www.myjibika.com/steroid.html ステロイド剤の筋肉注射について](外部リンク)も参照。
==== Th2活性阻害薬 ====
IPD(アイピーディー)というTh2活性阻害薬(内服薬)が、症状に応じて使用されることがある。IPDは、[[アトピー性皮膚炎]]や[[気管支喘息]]でも使われる薬剤である。花粉症では、Th2細胞活性の亢進・[[サイトカイン]]の中のIL-4・IL-5(アレルギー症状を誘発するもの)の産生の増加がみられることがあるが、この薬剤はTh2細胞の活性を低下させIL-4・IL-5の産生を抑制する作用があり効果があるとされる。ただし、即効性はなく、効果が現れるのに数週間ほどの時間がかかるという特徴がある。
==== 自律神経作用薬 ====
鼻詰まりが強い場合、いわゆる血管収縮剤(α交感神経刺激薬)と呼ばれる薬剤の点鼻薬が処方されることがあるが、連用すると効果が弱まるだけではなく、かえって鼻詰まりがひどくなり、依存(離脱困難)になることもある。そうした副作用が出やすいため、短期間に限って処方されることが多い。鼻詰まりがひどい患者がステロイド点鼻を行うとき、薬剤が鼻腔内に入っていきやすいように、あらかじめ鼻粘膜を収縮させるために用いる場合がある。この種の薬剤は市販のほとんどの点鼻薬に含まれており、即効性と高い効果があるため、説明書の注意書きを守らずに乱用してしまいがちである。花粉症に使われる市販薬でいちばん問題になるのが、この点鼻薬の副作用である。幼児の場合、まれに重い副作用が出ることもあるので使用を避けるべきである(原則的に5歳以下には用いない)。
血管収縮剤は充血を取ると称する市販の点眼薬にも多く含まれており、やはり連用するとかえって充血がひどくなることがある。
副交感神経遮断薬である抗コリン薬はエアゾール剤の関係で製造を中止している。
* 血管収縮剤(点鼻) - [[ナファゾリン|硝酸ナファゾリン]]、塩酸トラマゾリンなど
==== 薬物療法の注意点 ====
病気によっては禁忌となっている薬もあるので、持病のある人はたとえ気軽に買える市販薬であっても、その使用については医師・薬剤師に相談すべきである。他に薬剤を常用している人や、乳幼児、小児、妊婦、授乳婦も同様である。なんらかの副作用を感じたら、早めに医師・薬剤師に相談すべきである。
作用と副作用とのバランスを考え、効果が不充分なものであったり、眠気などの副作用があまりに日常生活に支障があるようであれば、違う薬および治療法に変更してもらうよう医師に相談することも大切である。
=== 減感作療法 ===
{{main|アレルゲン免疫療法}}
花粉症の確実な根治療法はまだ確立されておらず、'''アレルゲン免疫療法'''([[減感作療法]])がもっとも根治療法に近い。広く免疫療法とも呼ばれ、広義では変調療法ともいわれる。一般的には下記の'''抗原特異的アレルゲン免疫療法'''を指す。WHOの見解書では、アレルゲン免疫療法が花粉症の自然経過を変える唯一の根本的治療法として記述されている<ref>{{Cite journal|author=Bousquet J, Lockey R, Malling HJ.|title=Allergen immunotherapy: therapeutic vaccines for allergic diseases. A WHO position paper|year=1998|month=Oct|journal=J Allergy Clin Immunol.|volume=102|issue=4 Pt 1|pages=pp.749-794}}, {{PMID|9802362}}</ref>。花粉症の症状の治癒と予防に関しては、臨床上の観察において、アレルゲン免疫療法以外の治療では治癒や予防は期待できず、花粉やダニの免疫療法の必要性を説く医師もいる<ref>[http://jja.jsaweb.jp/am/view.php?pubdate=20100410&dir=2010s&number=10s_msc003sen3-1]、第22回日本アレルギー学会春季臨床大会 2010年5月開催</ref>。
20世紀初頭より[[トキソイド]]研究から派生した抗原特異的アレルゲン免疫療法は大別すると皮下投与による'''減感作療法'''と経口投与による'''舌下減感作療法'''とに大別される。
アレルゲン免疫療法は薬物療法とは異なり、治療終了後もアレルギー防止効果が持続する点が特徴である(患者によっては数年 - 十数年後に同一または異なる花粉に再感作する可能性はある)。一方、現在承認されている治療方法では毎週 - 月1回程度の通院治療が必要であり、完全な効果を得るにはに数年程度継続する必要がある。舌下減感作療法は在宅治療が期待されるが日本においてはアレルゲンワクチン錠は未承認である<ref>日本経済新聞朝刊2017年2月19日付</ref>。
花粉症のアレルゲン免疫療法は花粉シーズン前から開始すると有効性が高い。
2007年時点では米国では数十種類の標準化アレルゲンワクチンが上市されているのに対して、日本においては標準化スギアレルゲンが上市されているに過ぎない。日本においても標準化アレルゲンワクチンの多様化を期待する意見がある<ref name="長屋2007_a">{{Cite journal|和書|author=[[長屋宏]]|year=2007|title=日本のアレルギー診療は50年遅れている|publisher=メディカルトリビューン|pages=pp.12-17}}</ref>。
直接アレルゲンをアレルゲンワクチンとする抗原特異的アレルゲン免疫療法以外にも、限定的ではあるが'''非特異的アレルゲン免疫療法'''も存在している。
減感作療法において、日本で使用されている皮膚テスト用のアレルゲンは12種類しかない。それに比べて公益財産法人日本アレルギー協会を通して入手可能な米国政府承認の皮膚テスト用アレルゲンは64種類ある。皮膚テスト用アレルゲンと治療用アレルゲンワクチンをともに多様化することで、日本のアレルギー診療の質が向上可能だと指摘する医師もいる<ref>[http://jja.jsaweb.jp/am/view.php?pubdate=20070430&dir=2007s&number=07s_sy090004]、社団法人日本アレルギー学会ホームページ</ref>。
==== 舌下減感作療法 ====
ハンドスプレー式の容器に薄めた花粉エキスを入れ一日一回口の中にスプレーする治療法。最初の2週間は専用のスプレーで少しずつ量を増やしていき、3週間目から専用のボトルで一定の量を服用し続ける。難点は治療期間が3年以上と長い事。全ての患者に有効ではなく、何らかの改善が見られるのは70%に留まっている。2014年10月より保険適用となる。「'''舌下免疫療法'''」とも呼ばれている。
=== その他の治療 ===
==== レーザー手術 ====
鼻内部のアレルギー症状をおこす部分の粘膜に[[レーザー]]光線を照射して焼灼し、その部位を変質させることで鼻水・鼻づまりを抑える治療法。原則的には鼻詰まりの治療法である。保険が利くが、美容整形クリニックなどで[[自由診療]](保険外診療)として行っている場合がある。レーザー照射をしてから数日は、傷(やけどのようなもの)のために花粉症以上の鼻水が出て苦しむこともある。一般的にはシーズンの1 - 2か月前に予防的に行う。効果の程度は個人差があり、有効でない場合もある(医師の技術にもよる)。
効果の持続は[[整形手術]]などとは違い、短ければ数か月、長くて2年程度のことが多い。そのため毎年行う患者もいるが、そうした繰り返しの処置による不可逆的な組織の変化、すなわち後遺症については、歴史が浅いこともあって明らかな知見はない。安全だという医師もいれば、毎年はやらないという方針の医師もいる。
細かくみれば、レーザー光線の種類や術式の違いもある。いうまでもなく鼻の処置であるため、目の症状には効果はない。
==== 遺伝子組み換え米療法 ====
[[スギ花粉症緩和米]]を1日1食2か月間食べ[[制御性T細胞]]を増やす食事療法。2015年4月現在50人が治験を受けている。2016年11月から約1年間、1日5グラムの割合で通常の米に混ぜて食べてもらい効果を確かめる臨床研究が予定されている<ref>朝日新聞2016年10月25日、朝刊、3面</ref>。
==== 漢方薬による治療 ====
[[漢方薬]]による治療も行われる。従来の漢方専門薬局のみならず、総合病院や開業医でも扱うことが増えてきており、漢方科を設置するケースも見受けられる。有名メーカーの顆粒エキス剤は医療保険対象のものが多い。元来、漢方薬は症状ではなく、個々人の体質によって薬を選択するので、漢方専門家の診断と、予後経過観察しながらの投薬の種類や用量の適宜変更が必要であるが、西洋医は、効果のマイルドな薬という観点で西洋薬学的に用いることが多いため、時に上記の抗ヒスタミン薬など西洋薬との併用も行われるが、そのような運用手法は東洋医学的には誤りであることも多い。西洋医は東洋医学には精通していないのが主因である。例えば[[小青竜湯]]は水気の貯まった肺や気管支を乾かし熱を帯びさせるが、その予後を経過観察せず飲み続けると今度は鼻炎など炎症が悪化してしまう、という具合である。適度の鼻水で潤されるのも、きちんとした生理的理由があるのである。うかつに症状を取るだけでは漢方医療とは言えない。
花粉症によく用いられる漢方薬<ref group="注釈">ただし個々人でケースバイケースである。以下の通りに薬種を選択すべきではない。</ref>
* 頓服の対症薬として:[[小青竜湯]]、[[葛根湯]]、[[葛根湯加川芎辛夷]]、柴朴湯、[[小柴胡湯]]、[[荊芥連翹湯]]、麻黄附子細辛湯など
* 対症薬を飲む前に、あるいは同時服用による、基礎体質強化として:[[補中益気湯]]、[[六君子湯]]、[[人参湯]]、[[帰脾湯]]など
このように、症状を抑える即効性の薬のほか、長く飲み続けて体質を変えて根治をねらうとされる種類の薬もある。体力と免疫力の落ちた状態、血行の悪い部位、リンパの蓄積でむくみがある状態、ではアレルギー物質に弱くなり反応が悪化する、というように、気血水や胸脇苦満などの理論に基づいた、基礎体力をはじめとする体質改善の方が、対症療法よりも効果が高いケースも往々にしてある。体質が弱体化したまま、対症薬だけ服用しても、山火事に放水するに等しいなどという例えられ方をする。
よく誤解されているが、漢方薬なら副作用がないというのは誤りである。特に小青竜湯や葛根湯に含有される[[マオウ属|マオウ]]は、体質や服用量により動悸や血圧上昇などが起こる可能性があるので、服用に当たっては熟達した漢方薬剤師か、漢方処方経験に厚い西洋医師に運用を依存するべきである。メジャーな漢方材料による副作用は他に、カンゾウによる[[偽性アルドステロン症]](低カリウム症状が出る)や、ジオウとダイオウなどでの下痢、柴胡処方による血流や体温の低下に伴う、衰弱の進行した重病患者の合併症増発などが代表的である<ref group="注釈">柴胡での合併症増発は、漢方に未熟な西洋医のオペミスとして有名である。</ref>。虚弱体質の人が小柴胡湯を飲んで冬の山に行くと、消炎作用が強いため凍えて動けなくなってしまう恐れすらある。この場合はせめて[[柴胡桂枝湯]]などに処方を変えなくてはいけない。
おおむね、女性の妊娠・授乳期にも比較的安全といわれる処方が多いが、逆に妊婦には禁忌の処方や望ましくない服用量、服用法もあるので、処方箋を出した主治医に事前に相談することが望ましい。これも『漢方に副作用は無い』という風説と同じく、眉唾と言える。
==== ハーブによる緩和 ====
[[ハーブ]]による発症抑制、緩和が注目されている。抗アレルギー作用のある[[ネトル]]、抗ウイルス効果の高い[[エルダーフラワー]]([[ニワトコ]]、[[:en:Elder flower]])、免疫力を強化する[[エキナセア]]が特に注目されるほか、鼻通りを良くする[[ペパーミント]]や鼻の粘膜に効く[[レモンバーム]]、鼻炎に効果の高い[[カモミール]]や殺菌力で知られる[[ユーカリ]]、[[気管支炎]]に良いとされる[[クレソン]]や[[ブルーマロウ]]([[ウスベニアオイ]]、[[:en:Malva sylvestris]])、目の粘膜を強くするアイブライト([[ミヤマコゴメグサ|コゴメグサ]]、[[:en:Eyebright]])などにも緩和効果があると話題にされることが多い。いずれも健康茶の域であって、ステロイド剤のような強力性や漢方薬ほどの薬用性、即効性はないが、シーズン中の常用茶として利用することに有意義性がみられる。最近の流行で、ハーブティー専門店にてこれらハーブが調合されたブレンドティーが多く発売されている。
==== 抗体 ====
ダチョウの卵黄を利用し作られた抗スギ花粉ダチョウ抗体・抗ヒノキ花粉ダチョウ抗体<ref>{{Cite web|和書|url=http://dachou-koutai.com/antibody_and_product.html|title=開発された抗体と製品 / 文部科学大臣賞受賞 ダチョウ抗体×塚本康浩教授|accessdate=2018-08-08|website=dachou-koutai.com|language=ja}}</ref>。抗体を含んだスプレーの塗布や、のど飴として摂取することで、花粉症の症状を緩和する作用がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2018/0330/8p.html|title=山口新聞/ニュース|accessdate=2018-08-08|website=www.minato-yamaguchi.co.jp}}</ref>。
==== その他の処置・治療 ====
レーザーと同様な原理で、鼻粘膜に対する[[超音波]]メスによる処置や、高周波電流を使った鼻の処置が行われている。薬剤の塗布によって鼻粘膜を化学的に焼く方法もある。治療成績や後遺症については、レーザー同様、確立した知見はない。
特に通気性の改善のため、[[鼻中隔]]湾曲など鼻の器質的な異常に対する手術も行われる。最近では入院が前提となる[[後鼻神経切断術]]と同時におこなうことにより、半永久的根治治療を行うことが可能である。
鼻水がひどい難治例にはビディアン神経切除術なども行われる。
麻酔科からのアプローチとして、首にある星状神経節のブロックという方法も行われる。治療成績は明らかでない。
目の涙管に抗アレルギー薬を注入するという治療法も一部の眼科で行われている。これは保険適用外。
その他、その医師の独自の考え方により特殊な治療法が実施されることもある。治療成績はもちろん、安全性についても明らかでないものがある。
=== 代替医療・民間療法 ===
[[代替医療]]・[[民間療法]]には、食品や飲料の摂取などのほか、さまざまなグッズ類を使用したり、[[鍼灸]]などの伝統医療や整体、医師によらない漢方治療、エネルギー療法などがある。
* [[エネルギー療法]] - 近年花粉症の改善・治癒に向けてエネルギー療法、なかでもEFT(Emotional Freedom Techniques、感情解放テクニック)が使用され、潜在意識における「花粉に対する嫌悪感、恐れ」の感情に着目し、それを解放することによって結果として「花粉に平気になり」、免疫システムの過剰反応が軽減、または消失し、花粉症の不快症状が改善、治癒するという効果が認められている。薬を用いない自然療法として妊婦などにも望まれるが、まだ十分な症例に乏しく更に検証が必要な分野である。
* [[乳酸菌]]類 - 衛生仮説とも関わりがあり、臨床試験やメカニズムの解明が進められている。
*地方の特産品 - 消費推進のため、その健康効果を実証する試みも多く行われているようである。
* [[ポリフェノール]](4,000 - 5,000種類あるという) - 植物生薬の一部において、植物の苦味・渋み成分が広義の抗アレルギー効果を示すという。
* [[ビタミン]]の一種 - 植物生薬成分中に含まれ、症状の軽減に有効とされたこともある。
これらの成分とビタミン・[[ミネラル]]等を配合したサプリメント類や[[清涼飲料水]]など、いわゆる[[健康食品]]類も多く出ている。
2007年2月、スギ花粉(スギのつぼみ)をカプセルにつめた健康食品にて、服用した患者が一時意識不明になるという事故がおきた。厚生労働省は、「残念ながら民間医療の多くに十分な効果の根拠があるとは言えません」「安全性が危惧される民間医療も指摘されています」としている<ref>[https://www.mhlw.go.jp/new-info/kobetu/kenkou/ryumachi/okamoto.html 厚生労働省:花粉症の民間療法について]</ref>。
<!--必要と考えるならば根拠を示してください。
* 植物生薬
** '''[[甜茶]]'''、[[ラカンカ]]、'''日本山人参'''、'''[[霊芝]]'''、'''シジュウム([[グァバ]])茶'''、'''[[紫蘇]]の葉'''、[[ニンニク]]、'''アマランス([[アマランサス]])'''、'''[[緑茶]]'''、凍頂'''[[烏龍茶]]'''、'''[[杜仲]]茶'''、'''[[ナンテン]]'''、'''[[ドクダミ]]'''、'''[[アロエ]]'''、[[タマネギ]]抽出物、'''[[クロレラ]]'''、'''[[カキノキ|柿]]の葉茶'''、[[ミント]]、ネトル(西洋[[イラクサ]])、'''[[花粉]]'''('''[[スギ花粉]]''')、スギ茶、[[カリン]]、'''青[[ミカン]]抽出物'''、[[ハトムギ]]茶、'''[[つくし]]'''、'''クミスクチン'''、[[メチル化カテキン]]
* 機能性食品
** '''[[パパイヤ]]エキス'''、エゾウコギ、月見草種子エキス、[[リノレン酸]]、'''[[ショウガ]]'''、'''[[ゴボウ]]'''、'''青汁'''、'''各種[[乳酸菌]]'''、[[にがり]]、フコイダン、'''ヨード卵'''、[[DHA]]、'''[[じゃばら]]'''、[[フキ]]('''[[西洋フキ]]''')
* [[理学療法]]
** [[鍼]]、[[灸]]、電気治療、[[整体]]、[[指圧]]-->
=== セルフケア ===
==== 抗原の回避と除去 ====
花粉症の症状は[[アレルゲン]]と接触したときにのみ現れるので、花粉との接触を断つことがもっとも効果的な対策である。アレルギーの原因にさかのぼって対処するため、'''原因療法'''といわれることもある。症状が出てから対策を行うのではなく、症状が出る前から予防的にケアを開始するとより有効である。すなわち自分で行う初期治療である。
アレルゲンとの接触を続けていれば抗体値も上がり、症状もひどくなる。すなわち、薬剤治療により症状を抑えているからといって、なんの対策もしなくてよいということにはならない。患者にとっては、こうしたセルフケアはもっとも基本的なことといえる。
; 外出時に[[マスク]]や[[ゴーグル]]を着用
: マスクは隙間を作らないことが肝要で、スギ花粉症のシーズン特有の乾燥や低温から鼻粘膜を保護することにもなり、シーズン前から(発症前から)の着用が推奨される。
: 日本では、花粉を[[光触媒]]で分解するとする機能性マスクも販売されていたが、2019年10月現在、効果や表示方法について[[消費者庁]]と[[大正製薬]]の間で見解の相違がある<ref>{{Cite web|和書|date=2019-10-05 |url=https://web.archive.org/web/20191005213438/https://this.kiji.is/552996866976515169 |title=大正製薬、消費者庁に審査請求 |publisher=共同通信 |accessdate=2019-10-05}}</ref>。
: ゴーグルは、いわゆる[[伊達眼鏡|だてメガネ]]でも有効であることが実験によって示されている。
; 外出時間や窓を開けての掃除をする時間等を考慮
: 地域により花粉飛散量が多い時間なども異なる。一般に夜間 - 早朝が少ないといわれるが、当てはまらないこともある。晴れて気温が高く、湿度の低い風のある日が花粉が多い。雨の日であれば飛散量は少ないかゼロである。ただし、原因は不明であるが、必ずしも雨のほうが楽だという患者ばかりではない<ref group="注釈">血管運動性鼻炎が合併しているとの見方もある。</ref>。雨の日の翌日に晴れると、2日分の花粉が飛散するといわれるので注意が必要である。
; 室内に花粉を持ち込まない
: 花粉の付着しにくい上着を着用したり、帰宅時に玄関の外で花粉を落としてから入室するなどの対策も有効である。換気などのために窓を開けることはもちろん、洗濯物や布団などを屋外に干すことも避けるべきである。干す場合は取り込むときによくはたく、ブラシではらう、または掃除機で吸い取ることが推奨されている。同居の家族にも協力してもらったほうがよい。
; 掃除
: どうしても花粉は屋内に侵入してくるので、床の花粉を舞い上げないよう、掃除機ではなく濡れぞうきんによる拭き掃除が推奨されている。
; [[空気清浄機]]や、清浄機能のあるエアコン
: 室内に浮遊している花粉を除去する。空気清浄機は風量の豊富なものを選択し、花粉が落下する前に吸い取ることを考えるべきであり、装置の自動運転を過信しないことが大事である。
; 加湿器
: 浮遊している花粉を湿らせて重くし、落下を早めるために有効とされる。湿度を高めることは鼻や喉の粘膜のためにもよい。ただし湿度を上げすぎるとダニやカビの問題が出てくる。一般に湿度50%程度が適当といわれる。加湿器がない場合、ぬれたタオルなどを室内干しするのも効果がある。
; 転地療養
: スギに関していえば、[[沖縄諸島]]や[[奄美群島]]、[[小笠原諸島]]、札幌以北の[[北海道]]では花粉の飛散量が少ないため、花粉症の症状が現れない。こうしたところにと旅行するのもよい。ただし、旅行中に症状が出なくとも、シーズン全体を通しての症状にどれだけ好影響があるかは不明である。スギは日本および中国の一部にしかないのでこの時期の日本国外への旅行もよい。ただし、ヒノキ科の針葉樹は日本国外にもあり、それが花粉を飛ばしている地域では、スギ花粉症患者でも症状が起こる可能性がある。
; 原因植物自体を排除
: 自宅の庭に生えたキク科やイネ科の植物などがアレルゲンになっている場合には有効。河川敷や公園などの植物が原因と考えられる場合は、管理者である自治体などに相談するとよい。
==== その他の対処法 ====
* [[自律神経]]のバランスのくずれは[[アレルギー症状]]を悪化させることがあるため、不規則な生活リズムや、[[睡眠不足]]、[[過労]]や精神的[[ストレス (生体)|ストレス]]を避けることは症状軽減に有効な場合がある。高タンパク・高脂肪の、いわゆる西洋風の食生活との関連も指摘されており、食事内容の見直しも有効な場合がある(和食がよいともいわれる)。
* [[飲酒]]は血管を広げて鼻水を増やすため避けたほうがよい<ref>飲酒と喫煙は増悪因子 http://health.nikkei.co.jp/pollinosis2006/sub23.cfm</ref>。
* [[鼻洗浄]](鼻うがい)、目の洗浄。ただし、いずれも頻回に行うとよくないといわれる。洗浄する際は[[生理食塩水]]を33度程度に温め用いるのがよいとされる。[[水道水]]での洗浄は避けたほうがよい(特に鼻洗浄は粘膜上の[[繊毛]]が障害されるので禁忌である)。
* 温かい[[スチーム]]を吸入する治療法(局所温熱療法)。効果は医学的にも確かめられているが、100%有効であるわけでもなく、その効果も弱い(スコアで1段階の症状の軽減程度)。ただし薬剤を使わないため、[[妊娠]]・授乳期の[[女性]]には第一選択となる。スチームの温度は43度程度が適するといわれているが、38度でも効果があるという実験がある。1日数回の吸引を繰り返すとよい。器具がない場合、蒸しタオルなどを顔にあてて湯気を吸入するとよい。
* 目のかゆみに、冷やしたタオルなどをあてる([[局所冷罨法]])。目の症状が出やすい人はドライアイの人に多いともいわれるので、その対策にも気を使うとよい。原則的に[[コンタクトレンズ]]は使用禁止である。使う場合はレンズの洗浄を確実に行うか、1日使い捨てタイプの使用が推奨されている。
* 前述のアレルギー日記等を記録して、自分にとってなにが悪化要因だったのかをつきとめることも有用。薬剤の効果を確かめることにもなり、医師の協力が得られれば、それを治療計画に役立てることもできる。
* 粘膜(主に鼻腔)の保護と強化に努めることも肝要である。[[ワセリン]](スキンケアクリーム等)を眼や鼻腔内に充分塗り、ビタミンやコラーゲン、ヨーグルトや水分をたっぷり摂るのも効果的である。アルコール類やにんにくなどは、鼻腔や眼の炎症を悪化させてしまう。症状がひどい時は、充分に暖かくし、湿度も保たれた(40~60%)部屋で安静にしているべきである。タオル等を顔に掛け粘膜を保護することもできる。
== 歴史 ==
=== 世界史 ===
近代医学的な記録で最古のものは、[[1565年]](一説には[[1533年]])の[[イタリア]]の医師 Leonardo Botallus によるものとされる。「[[バラ]]熱(Rose cold または Rose fever)」と呼ばれる症状で、記録によれば、その患者はバラの花の香りをかぐとくしゃみやかゆみ、頭痛などの症状をおこすという。原則的にバラは花粉を飛散させないため、花粉症であるとは言い難いが、現在でも Rose fever は「晩春から初夏の鼻炎」様の意味で Hay fever 同様に用いられることがある。
花粉症であることが確かな最初の臨床記録は、[[1819年]]に[[イギリス]]の John Bostock が、春・秋の鼻症状、喘息、流涙など、[[牧草]]の干し草と接触することで発症すると考えられていた '''Hay fever''' と呼ばれる夏[[風邪]]様症状について報告したものである。彼自身も長年にわたって症状に苦しめられたというが、有効な治療法は発見できなかったという。彼は最初これを夏季カタルと呼んだ。発熱(fever)は主要な症状ではないので、粘膜の炎症を示すカタルの方が適切ではあった。この報告の後しばらくの間、この症状は「Bostockのカタル」と呼ばれたと言われる<ref group="注釈">なお、Hay fever は枯草熱と訳されているが、字義通りに解釈するのであれば、干し草熱とした方が適切であった。Hay とはイネ科の牧草 grass の干し草を指すからである。</ref>。[[1831年]]には同じくイギリスの J.Elliotson により、証明はなされなかったが花粉が原因であろうとの推定がなされた。そして[[1872年]]、北アメリカで[[ブタクサ]]が Hay fever の原因であるという報告がなされた。ブタクサは Hay ではないが、その当時すでに Hay fever という名称は定着していたと考えられる。
その後、イギリスの Charles H. Blackley によって、Hay fever は気温の変化あるいは花粉が発する刺激性のにおいや毒素などが原因とする考えが、実験的に否定された。彼は空中花粉の測定、鼻誘発試験や[[皮膚]]試験など、現在でも通用する試験を行って[[イネ科]]花粉症を実証し、遅発相反応にさえ言及した著書『枯草熱あるいは枯草喘息の病因の実験的研究』を[[1873年]]に著した。これにより Hay fever は '''Pollinosis'''、もしくは'''Grass pollen'''(花粉症)と呼ばれることが一般化した(pollen は[[花粉]]のこと)。これらのことから、自らも花粉症であった Blackley は花粉症の父と呼ばれている。しかし、[[アレルギー]]という概念が成立するには20世紀になるまで待たなければいけなかったため、この段階では花粉に過敏に反応する人とそうでない人がいるということしかわからなかった。
=== 日本史 ===
[[1935年]]と[[1939年]]には空中花粉の測定が行われ、空中花粉数は少なくないが花粉症の原因となる花粉はきわめて少ないと報告された。戦後、[[進駐軍]]の軍医により調査がなされ、気候風土などの関係により、日本でのブタクサおよびイネ科の花粉はアレルゲンとして重要ではないと結論した報告が[[1948年]]になされた。これらにより、日本における花粉症の研究および患者の発見・報告等が遅れたという指摘がある<ref group="注釈">1939年の米国帰国者の症例報告では、当地において「バラヒーバー」と診断されたと記録されている。前述の「バラ熱」のことである。</ref><ref group="注釈">[[1955年]]の[[マリリン・モンロー]]の映画『[[七年目の浮気]]』で主人公の友人で作家マッケンジーが避暑地で主人公の妻と干し草ドライブに行ったろうといわれて「干し草アレルギー」だから行かなかったと答える場面があるが、当時はまだ日本ではあまり知られていなかったアレルギーである。</ref>。
[[1960年代]]に次々と報告されたブタクサ、[[カモガヤ]]、[[スギ]]、[[ヨモギ]]などによるものが日本における花粉症の始まりである。しかし、その正確な出現時期はわかっていない。なお、日本初の花粉症の報告は、1960年の荒木によるブタクサ花粉症であり、次いで[[1964年]]の杉田・降矢によるカモガヤ花粉症、堀口・斎藤によるスギ花粉症、[[1965年]]の寺尾・信太によるイネ科花粉症、佐藤による[[イタリアンライグラス]](ネズミムギ)花粉症、[[1967年]]の我妻によるヨモギ花粉症などの順である<ref group="注釈">報告年は文献により多少異なるが、初例報告か完成度を高めた研究報告かなど、取りまとめる際の観点の違いによると思われる。</ref>。
[[スギ花粉症]]の発見者である[[斎藤洋三]](当時は[[東京医科歯科大学]]所属)は、[[1963年]]に鼻や目にアレルギー症状を呈する患者を多く診察したのが花粉症に気付くきっかけとなったというが、過去の記録を調べ、毎年同時期に患者が急増することを確認している。また、[[1989年]]に65歳以上の耳鼻咽喉科医師に対してアンケートを行った結果、初めてスギ花粉症と思われる患者に接したのは[[1945年]]以前であるとの回答が4.7%あったなど、総合的にみてスギ花粉症の「発見」以前に患者に接していた医師は回答者の4分の1に達したとの調査がある。さらに、高齢の患者を調べたところ、戦前の[[1940年]]以前に発症したとみられる患者もいた。
[[1960年]]後半時点でも、依然として花粉症の知名度は低かった。1969年11月の朝日新聞では[[東京都保健医療公社|豊島病院]]医長の発言を引用する形で「日本では花粉アレルギーはまれとされてきたが、最近は患者が増えている。アレルギー鼻炎といわれる人の1-2割は花粉でブタクサ、クサモドキなどによるものが多い」との記事が掲載された<ref>猛威 黄色い悪草 終戦時に進駐し大繁殖 花粉で鼻炎の心配も『朝日新聞』昭和44年(1969年)11月9日朝刊、12版、15面</ref>。この時点ではスギはまったく問題視されていない。
[[1970年代]]中頃からスギ花粉症患者が急増した。特に[[関東地方]]共通のできごととして[[1976年]]に第1回目の大飛散があり、その後[[1979年]]、[[1982年]]にもスギ花粉の大量飛散と患者の大量発症があり、全国的ではないにしろ、ほぼこの時期に[[社会問題]]として認知されるに至った。「花粉症」という言葉が報道等で一般的に用いられるようになったのもこれ以降である<ref group="注釈">[[必殺仕事人III]]第30話(1983年5月6日放送)に「'''スギの花粉症'''に苦しんだのは主水」というサブタイトルが付けられていることからみて、この時点では既に広く知られている言葉であったと考えられる。</ref>。原則的に自然治癒は期待できないため、毎年のように患者数は累積し、現在では花粉症といえばスギ花粉症を指すと思われるほどになっている。花粉症のおよそ80%はスギ花粉症と言われ、新たな[[国民病]]とも呼ばれる。
== 疫学 ==
=== 疫学的原因 ===
環境が清潔すぎると、アレルギー疾患が増えるという[[アレルギー#衛生仮説|衛生仮説]]は非常に話題となっていた<ref>{{PDFlink|[http://www.nch.go.jp/imal/Publication/0407saito.pdf アレルギー疾患・喘息発症に関わるサイトカイン支配]}} [[国立成育医療センター]]</ref>が、2002年、[[ドイツ]]を中心とする医科学チームの研究により乳幼児期における[[エンドトキシン]]の曝露量が、以後の花粉症や[[ぜんそく]]の発症に密接に関係していることが明らかにされた<ref>[https://www.nejm.jp/abstract/vol347.p869 The NEW ENGLAND JOURNAL of MEDICINE 学齢児におけるエンドトキシンへの環境曝露と喘息の関係]</ref>。これは、乳幼児期の環境が清潔すぎると、アレルギー疾患の罹患率が高くなるという衛生仮説を裏付ける重要な報告である。
また、これらの研究を取り上げた[[ドキュメンタリー]]番組「[[病の起源 (NHKスペシャル)]] 第6集 アレルギー ~2億年目の免疫異変~」が2008年11月23日(日)午後9時 - 9時49分に[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]で放送された。
=== 患者数 ===
厚生労働省の調査によれば、平成22年時点で日本国民の約30%が花粉症であると言われる<ref>[https://www.mhlw.go.jp/new-info/kobetu/kenkou/ryumachi/kafun/ippan-qa.html 厚生労働省 花粉症Q&A集(平成22年花粉症対策用)]</ref>。
[[1994年]]の花粉症を含めたアレルギー性鼻炎の調査<ref>[http://minds.jcqhc.or.jp/n/med/4/med0024/G0000062/0011 鼻アレルギー 第2章 疫学][http://minds.jcqhc.or.jp/ 財団法人日本医療機能評価機構のMinds医療情報サービス]</ref>では、その患者はおよそ1800 - 2300万人と推定された。
[[2005年]]末から[[2006年]]にかけて行われた首都圏8都県市によるアンケートでは、花粉症と診断されている人が21%、自覚症状からそう、あくまでも参考値ではあるが思うという人が19%、すなわち花粉症患者は40%という数値が出されている。また、[[ロート製薬]]によるアンケートでは、16歳未満の3割が花粉症と考えられるという。
その他、病院への受診者の推移などから、[[1970年代]]に患者数は3 - 4倍に増加したとの報告<ref>[http://minds.jcqhc.or.jp/n/med/4/med0024/G0000065/0005 鼻アレルギー アレルギー性鼻炎の疫学][http://minds.jcqhc.or.jp/ 財団法人日本医療機能評価機構のMinds医療情報サービス]</ref>がある。
=== 地域差 ===
スギがない[[沖縄県]]や[[北海道]]へ、花粉を避けるための短 - 中期の旅行に出かける患者が増えているという(俗に花粉疎開と呼ばれる)。旅行会社がそうしたツアーを売り出すことも行われており、観光資源の一つとして誘致に名乗りをあげる地域もある。患者が移住した例も報道された。医学的にみれば転地療養といえる。[http://www.santen.co.jp/al/al_list1.html 地域別花粉情報](外部リンク)も参照。
=== 男女差 ===
<!-- {{誰2範囲|一般に、小児期には男性に多く、成人では女性に多い傾向があると言われる|date=2016年3月}}。→に対して下記反論追記します。-->
一般に性差に関する疫学的調査の件数は少なくはっきりとはわかっていないが、少なくとも性差は見られないとする文献が複数存在する<ref>榎本雅夫,硲田猛真,嶽良博 ほか、「[https://doi.org/10.3950/jibiinkoka.102.1311 和歌山県におけるスギ花粉特異的IgE抗体陽性率の疫学調査 1995年の調査と1985年, 1990年の比較]」 日本耳鼻咽喉科学会会報 1999年 102巻 12号 p.1311-1317m {{doi|10.3950/jibiinkoka.102.1311}}</ref><ref>増田佐和子,寺田明彦,藤澤隆夫 ほか、「[https://doi.org/10.15036/arerugi.49.1138 アレルギー外来受診幼児におけるスギ花粉感作状況と幼児スギ花粉症の臨床的検討]」 アレルギー 2000年 49巻 12号 p.1138-1145, {{doi|10.15036/arerugi.49.1138}}</ref>。花粉症患者の多くは花粉症だけでなくダニや[[ハウスダスト]]等を抗原とする[[通年性アレルギー性鼻炎]]を患う患者も多い。通年性アレルギー性鼻炎については男性の発症が多いとされる報告がある<ref>定永恭明,五十川修司,吉田誠, ほか、「[https://doi.org/10.11334/jibi1954.38.5_569 当科アレルギー外来における最近8年間の臨床集計]」 耳鼻と臨床 1992年 38巻 5号 p.569-575, {{doi|10.11334/jibi1954.38.5_569}}</ref>ため、花粉症についても一部に男性に多く発症するような表現が見られるが、疫学調査の対象患者には花粉症患者であるとともに通年性アレルギー鼻炎患者も対象に含まれている影響を受けている可能性が高く<ref>中村昭彦,浅井忠雄,吉田博一 ほか、「[https://doi.org/10.3950/jibiinkoka.105.215 アレルギー性鼻炎の全国疫学調査 全国耳鼻咽喉科医および家族を対象にして]」日本耳鼻咽喉科学会会報 2002年 105巻 3号 p.215-224 , {{doi|10.3950/jibiinkoka.105.215}}</ref>、見かけ上男性が多く見える場合でも花粉症のみの結果として容易に結論付けられないとの指摘がある<ref>定永恭明,宇野正志,鮫島靖浩 ほか、「[https://doi.org/10.11334/jibi1954.40.1_34 スギ花粉症の発症における疫学的因子の検討]」 耳鼻と臨床 1994年 40巻 1号 p.34-44, {{doi|10.11334/jibi1954.40.1_34}}</ref>。
=== 年齢差 ===
年齢が高い人よりも低い人の方が、症状が重い人は多いと言われている。また花粉症の人を対象とした調査から、花粉症の発症年齢が低いほど症状が重くなる傾向が明らかになっている<ref name="test">[https://stalgie.co.jp/suppleport/#survey サプリポートによる花粉症に関するアンケート調査]</ref>。
=== 自然治癒率 ===
自然治癒率についての確立した知見はないが、概ね1 - 2割と言われる([[治癒]]とは、臨床的に3シーズン連続して症状を呈さない状況を言う)。
== 世界の花粉症 ==
すでに述べたように、[[ヨーロッパ]]ではイネ科の植物、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]ではブタクサが多い。日本のスギ花粉症を含めて、'''世界の3大花粉症'''ともいわれる。
アメリカ合衆国における有病率は5 - 10%程度といわれる。ブタクサがほとんどともいわれるが、国土が広大なため、地域によってさまざまな種類の樹木・草本が問題になっているようである。北欧と同じく寒冷な地域である[[カナダ]]ではカバノキ科の花粉症が多く、6人に1人という数字もある。
アジア太平洋地域では、文献的には[[トルコ]]や[[オーストラリア]]などが40%以上という異常に高率の有病率を示しているが、この数字には疑問が残る。実際には10 - 20%と推測される。
世界的にみて、先進工業国ではおおむねアレルギーが増えており、花粉症も全人口の1 - 2割というところではないかとみられている。
いずれも、英語圏でなくとも、あるいは Hay(干し草)が原因ではなくとも、Hay fever の病名が慣用されることがある<ref group="注釈">そのため、花粉症の説明において、干し草が原因ではないとのことが述べられることもある。</ref>。さらに、アレルギー性鼻炎全般を Hay fever と代名詞的に総称することすらあるようであり、一般向けの病気についての解説等は、日本の感覚では疑問を持たざるを得ないことがある<ref group="注釈">もっとも、症状や治療方法はほぼ同じであるため、原因物質によって区別する必要もない。</ref>。
現在(特にヨーロッパ方面では)は、牧草や芝生、雑草などを手入れ時期に患者が増加する傾向があるため、草 (Grass) を用いて、Grass fever と呼ぶ場合も多くなってきている。
こうした日本国外の花粉症については、プロスポーツ選手の日本国外進出などにともなって、ニュースとしてよく目にするようになってきている。
=== 日本国外への旅行時の注意 ===
日本国内であればマスクや薬の入手は容易であるが、日本国外ではそうとは限らない。特に欧米では工事現場や病院等の特定の職場で働く人間、もしくはよほどの重病でない限りマスクをする習慣がないため、奇異な目で見られるということもある。街角でポケットティッシュを配るなどのことも行われてはいない。
その反面、日本では処方薬となっている第二世代抗ヒスタミン薬が、国によっては一般の薬店で買えるなどのこともある。しかし、それが自分の体質に合っているとも限らない。特にヨーロッパでは、当地の伝統医療である[[ホメオパシー]]のレメディを勧められることもあるという。
これらのことにより、花粉症患者が事情がよくわからない国へ訪れる場合は、シーズンを問わず、念のために自分に適した薬とマスク程度は持参したほうがよいといえる。一般に花粉症はきわめてまれと考えられている、いわゆる南洋の島などに観光旅行に行ったさいにも、原因不明の花粉症様の症状に苦しめられたとの情報もある<ref group="注釈">多量に栽培されている[[マンゴー]]や[[サトウキビ]]などによる可能性がある。これは国内でも、南方へ旅行した際に同様なことが起こる可能性がある。</ref>。
特に病院で抗アレルギー薬の処方を受けている患者が、シーズン中に短期(1週間前後)の旅行を行う場合は、その効果を減弱させないためにも、旅行中も薬の服用を欠かさないほうがよい。やや長めの旅行であれば一時中断してもよいが、帰国時が花粉症シーズンであるならば、その数日前から予防的に薬を服用しておくとよい。これは初期治療と同じ原理である。
ただし、国によって使用が許可されている薬と禁止されている薬は当然違っているため、渡航先の国がその薬の所持を許可しているかどうかを出来るだけ事前に確認しておく事が望ましい。日本では普通に処方されていても当該の国や州では違法、と言う扱いになっていた場合、よくて[[税関]]での没収、最悪の場合[[勾留]]や[[逮捕]]、[[退去強制|強制送還]]をされてしまう恐れがある。
== ペットの花粉症 ==
近年では[[ペット]]の花粉症も問題となっている。[[イヌ]]の花粉症は1998年に、[[ネコ]]の花粉症は2000年に初めて報告されたとされるが、ヒトの場合と同様、それ以前から存在したと推測される。特にイヌにおいては、ヒトのような鼻症状より毛が抜けるなどの皮膚症状が多く見られ、見た目にも悲惨な状態となることが多いといわれる。
獣医師により検査や治療は可能だが、イヌにおいてはヒトと違って抗ヒスタミン薬が効きにくく、ステロイドに頼らざるを得ないことが多い。重症の場合は減感作治療が行われることがある。ネコにおいては検査も治療も困難であるといわれる。
近年はこうしたペット向けの[[サプリメント]]類も販売されるようになってきている。
== 医療費等 ==
使われる[[医療費]]は、1994年の推計では年間1200 - 1500億円とされた。1998年の調査では、有病率10%とした場合の年間医療費が2860億円
<ref>[http://www.nistep.go.jp/achiev/ftx/jpn/stfc/stt059j/0602_03_feature_articles/200602_fa01/200602_fa01.html 科学技術政策研究所 「我が国における花粉症対策の展望」、新田裕史客員研究員]</ref><!-- 医療費については、国民健康保険中央会の資料を参照すると良いでしょう。http://www.kokuho.or.jp/ -->、労働損失が年間650億円と推定<ref>環境省 花粉症保健指導マニュアル -2007年3月改訂版-</ref>された。
なお、第一生命経済研究所の試算によれば、患者が花粉症対策に用いる費用(俗に花粉症特需といわれる)は639億円に上るが、シーズン中の外出などを控えるために、1 - 3月の個人消費が7549億円減少する<ref>毎日新聞2005年1月25日「花粉大量飛散でGDP 0.6ポイント押し下げ」</ref>という(ただし、これはスギ花粉の大飛散があった2005年の場合である)。
2021年の時点で、花粉対策グッズ・食品・家電、薬品など花粉症マーケットは1兆円を超える産業になっている<ref>{{Cite journal|和書|author=伊藤幹二 |title=雑草リスク情報-その4:知る人ぞ知る雑草花粉の脅威 |journal=草と緑 |volume=13 |pages=38-49 |year=2021 |doi=10.24463/iuws.13.0_38 |url=https://doi.org/10.24463/iuws.13.0_38 |publisher=緑地雑草科学研究所}}</ref>。
== 将来展望 ==
2005年、[[文部科学省]]の第8回技術予測調査によれば、日本において重要な課題の第2位が「花粉症やアトピーなどのアレルギーを引き起こす免疫制御機構や環境要因の解明に基づく、即時型アレルギーの完全なコントロール技術」であり、これが実現する時期は2015年、さらに、それが社会的に適用されるのは2027年であると予測された。
== 研究事例 ==
* '''抗IgE抗体療法'''
** ステロイド薬と抗ヒスタミン薬の併用([[標準治療]])に抗IgE抗体を追加することにより標準治療より有意に症状が改善する<ref>{{Cite journal|和書|author=後藤穣 |title=重症花粉症に対する抗IgE抗体療法 |url=https://doi.org/10.7248/jjrhi.60.99 |journal=日本鼻科学会会誌 |volume=60 |issue=1 |pages=99-99 |year=2021 |doi=10.7248/jjrhi.60.99 |publisher=日本鼻科学会}}</ref>。
* '''食物アレルギーの合併'''
** 花粉症患者が食物アレルギーを合併することがあり、それは口腔アレルギー症候群 (OAS) と呼ばれる<ref name="koukuu">{{Cite journal|和書|author=司会:曾根三千彦 |title=ランチョンセミナー4 : 花粉症に関連した食物アレルギー |url=https://doi.org/10.14821/stomatopharyngology.31.295 |journal=口腔・咽頭科 |volume=31 |issue=3 |pages=295-295 |year=2018 |doi=10.14821/stomatopharyngology.31.295 |publisher=日本口腔・咽頭科学会}}</ref>。OASに対処するには、口腔違和感を覚えたら食物を摂取しないことである<ref name="koukuu"/>。
** カバノキ科花粉症により[[交差反応性]]から花粉-食物アレルギー症候群 (PFAS) としてセリ科のスパイスアレルギーを発症した1例がある<ref>{{Cite journal|和書|author=林優佳, 西本創, 谷田部良美, 森茂亮一, 桃井貴裕, 谷口留美, 高見澤勝 |title=カバノキ科花粉症により花粉-食物アレルギー症候群として発症したと考えられたセリ科のスパイスアレルギーの1例 |url=https://doi.org/10.3388/jspaci.33.117 |journal=日本小児アレルギー学会誌 |volume=33 |issue=1 |pages=117-122 |year=2019 |doi=10.3388/jspaci.33.117 ||publisher=日本小児アレルギー学会}} {{要購読}}</ref>。
** 北海道のシラカバ花粉症のうち20%にリンゴ果肉過敏症が合併しており、他のアレルギーや他の花粉症に比べて高率であった<ref>{{Cite journal|和書|author=山本哲夫, 朝倉光司, 形浦昭克 |title=北海道のシラカバ花粉症とリンゴ果肉過敏症について |url=https://doi.org/10.15036/arerugi.42.1701 |journal=アレルギー |volume=42 |issue=11 |pages=1701-1706 |year=1993 |doi=10.15036/arerugi.42.1701 |publisher=日本アレルギー学会}}</ref>{{refnest|group="注釈"|リンゴアレルギーには、リンゴそのものにアレルギーがあるときと、花粉症と関連の口腔アレルギー症候群としての症状がある<ref>[https://allergyportal.jp/faq/524/ リンゴアレルギーの人は、リンゴジュースやリンゴ酢は食べることができませんか。] アレルギーポータル 2022年3月13日閲覧。</ref>。}}。
* '''経皮ワクチン投与法'''
** 皮膚浸透性を高めたT細胞エピトープペプチド製剤による経皮ワクチン投与が注射治療より効果的なペプチド免疫治療のキャリアとなる可能性が示された<ref>{{Cite journal|和書|author=後藤雅宏, 東島弘樹, 北岡桃子 |title=抗原エピトープ封入油状ナノキャリアを用いた 花粉症経皮ワクチンの開発 |url=https://doi.org/10.5360/membrane.46.226 |journal=膜 |volume=46 |issue=4 |pages=226-232 |year=2021 |doi=10.5360/membrane.46.226 ||publisher=日本膜学会}}</ref>。
* '''食物・物質の摂取による症状の軽減'''
** 「雲南紅豆杉」が[[好塩基球]]ならびに[[好酸球]]からのヒスタミン放出などを有意に抑制し、ヒスタミンの血中半減期が30分程度であることから、主にヒスタミンによる症状の早期緩和が示唆された<ref>{{Cite journal|和書|author=守川耕平, 関谷和治, 信川京子, 浜口玲央, 岡野哲郎 |title=補完食品「紅豆杉」の花粉症に対する即効性 |url= https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=201802262680715392 |journal=東海学院大学研究年報 |issn= |publisher= |year=2018 |volume= |issue= |pages= |naid= |doi=}}</ref>。
** 4<sup>G</sup>-β-D-Galactosylsucrose([[オリゴ糖#利用|ラクトスクロース]]、LS)を1日1回18週間摂取させたLS群ではプラセボ群と比較して花粉症の症状である鼻かみ、鼻閉および眼のかゆみなどが有意に軽減した<ref>{{Cite journal|和書|author=定清剛, 安田亜希子, 三皷仁志, 牛尾慎平 |title=4{{sup|G}}-β-D-Galactosylsucrose(ラクトスクロース)摂取による花粉症の症状緩和 |url=https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010925894 |journal=応用糖質科学 |ISSN=2185-6427 |publisher=日本応用糖質科学会 |year=2018 |month=11 |volume=8 |issue=4 |pages=291-297 |naid=40021737134}}</ref>。
** [[和歌山県]][[北山村]]産柑橘類[[ジャバラ]]果汁を単回摂取の180分後に花粉症の自覚症状の改善が認められた<ref>{{Cite journal|和書|author=冨田知里, 大谷義夫, 澤田めぐみ |title=和歌山県北山村産柑橘類ジャバラの花粉症症状に対する効果および客観的な花粉症治療効果指標の探索 |url=https://doi.org/10.20838/00012021 |journal=東京家政大学研究紀要 |issn= |publisher= |year=2021 |volume=61 |issue=2 |pages=pp19 - 24 |naid= |doi=10.20838/00012021}}</ref>。
** [[シソ]]および[[甜茶]]配合エキスを含有する食品の予防的摂取がスギ花粉症の発症の抑制または症状の軽減に有用であることが示された<ref>{{Cite journal|和書|author=梶本修身, 申曼珍, 高橋丈生 |title=568 シソおよび甜茶エキス配合食品におけるスギ花粉症に対する予防効果の二重盲験結果 |url=https://doi.org/10.15036/arerugi.48.1086_4 |journal=アレルギー |volume=48 |issue=8-9 |pages=1086 |year=1999 |doi=10.15036/arerugi.48.1086_4 ||publisher=日本アレルギー学会}}</ref>。
** 乳酸菌{{ill|Leuconostoc mesenteroides|en|Leuconostoc mesenteroides}} RIEを含む食品をスギ花粉飛散開始約3週間前より摂取することで、用量依存的な花粉症症状緩和効果が得られる可能性が示唆された<ref>{{Cite journal|和書|author=国東礼美, 小土井理恵, 安田隆弘, 早川克志, 八村敏志, 榎本雅夫 ||title=MS16-2 乳酸菌''Leuconostoc mesenteroides'' RIEのスギ花粉症症状緩和効果(花粉症代替医療,第20回日本アレルギー学会春季臨床大会) |url=https://doi.org/10.15036/arerugi.57.378_3 journal=アレルギー |volume=57 |issue=3-4 |pages=378 |year=2008 |doi=10.15036/arerugi.57.378_3 ||publisher=日本アレルギー学会}}</ref>。
* '''花粉、黄砂、PM2.5の同時飛来'''
** 花粉、黄砂、PM2.5が同時飛来した場合、花粉症については症状の軽減が図れるが、黄砂、PM2.5の気道症状は治療法が確立していないため、花粉、黄砂、PM2.5との接触回避が重要となる<ref>{{Cite journal|和書|author=澤津橋基広|title=花粉症と黄砂・PM 2.5 の飛来 -三重苦を乗り切るには- |url=https://doi.org/10.11334/jibi.65.6_190 |journal=耳鼻と臨床 |volume=65 |issue=6 |pages=190-195 |year=2019 |doi=10.11334/jibi.65.6_190 |publisher=耳鼻と臨床会}}</ref>。
* '''花粉症対策の議論内容'''
** 日本の国会における花粉症対策の議論は森林・林業関係の内容が多く、今後も議論の中心になると推測される<ref>{{Cite journal|和書|author=安髙志穂 |title=国会における花粉症対策に係る議論の動向:国会会議録を分析して |url=https://doi.org/10.20818/jfe.65.1_49 |journal=林業経済研究 |volume=65 |issue=1 |pages=49-59 |year=2019 |doi=10.20818/jfe.65.1_49 |publisher=林業経済学会}}</ref>。
** 全国の都道府県議会の花粉症に関する発言も森林・林業対策に係る発言が最多で、特に花粉症対策苗木に係る発言が最多であった<ref>{{Cite journal|和書|author=安髙志穂 |title=都道府県議会における花粉症対策に係る議論の状況:47都道府県議会の会議録を分析して |url=https://doi.org/10.20818/jfe.65.2_9 |journal=林業経済研究 |volume=65 |issue=2 |pages=9-18 |year=2019 |doi=10.20818/jfe.65.2_9 |publisher=林業経済学会}}</ref>。
* '''着香したマスクの効果'''
** 着香した衛生マスクは無香のマスクに比べて装着直後に花粉症による鼻の不快感を強く低減したが、その後はいずれのマスクも不快感の低減が飽和状態となった<ref>{{Cite journal|和書|author=前澤知輝, 宮崎由樹, 松長芳織, 若杉慶, 柴田彰, 河原純一郎 |title=衛生マスクへの着香が花粉症の不快感低減に及ぼす効果とその時間的推移 |url=https://doi.org/10.5100/jje.56.29 |journal=人間工学 |volume=56 |issue=1 |pages=29-33 |year=2020 |doi=10.5100/jje.56.29 |publisher=日本人間工学会}}</ref>。
* '''花粉症の原因植物'''
** スギ・ヒノキ属花粉症の長引く人の約半数がブナ科花粉症の可能性がある<ref>{{Cite journal|和書|author=藤井まゆみ |title=スギ花粉症に隠れたブナ科の花粉症 |url=https://doi.org/10.11334/jibi.65.5_125 |journal=耳鼻と臨床 |volume=65 |issue=5 |pages=125-130 |year=2019 |doi=10.11334/jibi.65.5_125 |publisher=耳鼻と臨床会}}</ref>。
* '''花粉症患者のQOL'''
** スギ花粉症患者では国民標準値と比べると精神面での[[クオリティ・オブ・ライフ|QOL]]が有意に低下した<ref name="qol">{{Cite journal|和書|author=藤井つかさ, 荻野敏, 有本啓恵, 入船盛弘, 岩田伸子, 大川内一郎, 菊守寛, 瀬尾律, 竹田真理子, 玉城晶子, 馬場謙治, 野瀬道宏 |title=花粉大量飛散ピーク時における花粉症患者のQOL : SF-8を用いて |url=https://doi.org/10.15036/arerugi.55.1288 |journal=アレルギー |volume=55 |issue=10 |pages=1288-1294 |year=2006 |doi=10.15036/arerugi.55.1288 |publisher=日本アレルギー学会}}</ref>。男女別では女性のほうが精神面、身体面共にQOLが障害され、年齢別では加齢に伴い特に身体面でのQOLが低下した<ref name="qol"/>。
* '''舌下免疫療法の研究'''
** スギ花粉症舌下免疫療法の治療期間は中等度飛散年では1 - 2年で十分よくなるが、大飛散年では3年以上行うのがよく、特に4年目の成績がよかったので長期治療がよいと考えられる<ref>{{Cite journal|和書|author=湯田厚司, 小川由起子, 鈴木祐輔, 荻原仁美, 神前英明, 太田伸男, 清水猛史 |title=スギ花粉症舌下免疫療法のスギ花粉多量飛散年での臨床効果と治療年数の効果への影響 |url=https://doi.org/10.15036/arerugi.67.1011 |journal=アレルギー |volume=67 |issue=8 |pages=1011-1019 |year=2018 |doi=10.15036/arerugi.67.1011 |publisher=日本アレルギー学会}}</ref>。
** スギ花粉症に対する舌下免疫療法は治療効果を自覚するためには少なくとも2シーズンの治療継続が望ましい可能性が示唆された<ref>{{Cite journal|和書|author=草野佑典, 太田伸男, 湯田厚司, 小川由起子, 東海林史, 粟田口敏一, 鈴木直弘, 千葉敏彦, 陳志傑, 草刈千賀志, 武田広誠, 神林潤一, 志賀伸之, 大竹祐輔, 鈴木祐輔, 柴原義博, 中林成一郎, 稲村直樹, 長舩大士, 和田弘太, 欠畑誠治, 香取幸夫, 岡本美孝 |title=スギ花粉症に対する舌下免疫療法の1~4シーズン目のアンケート調査 |url=https://doi.org/10.3950/jibiinkoka.123.469 |journal=日本耳鼻咽喉科学会会報 |volume=123 |issue=6 |pages=469-475 |year=2020 |doi=10.3950/jibiinkoka.123.469 |publisher=日本耳鼻咽喉科頭頸部外科学会}}</ref>。
** スギ花粉症の舌下免疫療法はヒノキ花粉症に対して効果的な例と効果不十分の例がある<ref>{{Cite journal|和書|author=湯田厚司 |title=スギ花粉症に対する舌下免疫療法のヒノキ花粉症への効果 |url=https://doi.org/10.7248/jjrhi.54.503 |journal=日本鼻科学会会誌 |volume=54 |issue=4 |pages=503-508 |year=2015 |doi=10.7248/jjrhi.54.503 |publisher=日本鼻科学会}}</ref>。
* '''花粉の飛散数'''
** 1996年から2017年の間に[[大分大学]]研究棟においてスギ花粉、ヒノキ花粉ともに総飛散数に有意な増加傾向が認められた<ref name="hisanryou">{{Cite journal|和書|author=渡辺哲生, 鈴木正志 |title=スギ花粉飛散と比較したヒノキ花粉飛散状況の検討 |url=https://doi.org/10.3950/jibiinkoka.123.139 |journal=日本耳鼻咽喉科学会会報 |volume=123 |issue=2 |pages=139-144 |year=2020 |doi=10.3950/jibiinkoka.123.139 |publisher=日本耳鼻咽喉科頭頸部外科学会}}</ref>。またスギ花粉、ヒノキ花粉の総飛散数に有意な相関が認められた<ref name="hisanryou"/>。
* '''労働生産性の低下'''
** 花粉症症状により[[生産性|労働生産性]]が3/4程度に低下していると感じる人が最多であり、75.6%が何らかの労働生産性の低下を感じている<ref>{{Cite journal|和書|title=スギ花粉症におけるアウトカム研究(第4報) : 就労者におけるスギ花粉症の労働生産性に対する影響 |url=https://doi.org/10.15036/arerugi.54.627 |author=角谷千恵子, 荻野敏, 池田浩己, 榎本雅夫 |journal=アレルギー |volume=54 |issue=7 |pages=627-635 |year=2005 |doi=10.15036/arerugi.54.627 ||publisher=日本アレルギー学会}}</ref>。
** 花粉症患者の全般労働障害率(生産性のロス)は約33%である<ref>{{Cite journal|和書|author=荻野敏 |title=S24-4 花粉症患者の労働(勉学)生産性およびQOLに与える影響(S24 アレルギー疾患が労働勉学およびQOLに与える影響:現状と対応,シンポジウム24,第24回日本アレルギー学会春季臨床大会) |url=https://doi.org/10.15036/arerugi.61.446_2 |journal=アレルギー |volume=61 |issue=3-4 |pages=446 |year=2012 |doi=10.15036/arerugi.61.446_2 |publisher=日本アレルギー学会}}</ref>。
* '''花粉の飛散時期'''
** 一般にスギ花粉飛散は空中花粉調査では2月から3月にかけて観察されるが、肉眼的な調査では1月上旬から観察され、敏感なスギ花粉症患者は1月上旬から症状が誘発される可能性がある<ref>{{Cite journal|和書|author=平英彰, 庄司俊雄, 寺西秀豊, 剣田幸子, 槻陽一郎 |title=スギ雄花の花粉飛散特性とスギ花粉症患者の発症との関連性について |url=https://doi.org/10.15036/arerugi.44.467 |journal=アレルギー |volume=44 |issue=4 |pages=467-473 |year=1995 |doi=10.15036/arerugi.44.467 |publisher=日本アレルギー学会}}</ref>。
* '''有病率の研究'''
** 花粉症の有病率の地域差において、相関が高かったのは花粉の飛散期間で次いで花粉数、湿度(高いほど有病率は低い)の順であった<ref>{{Cite journal|和書|author=村山貢司, 馬場廣太郎, 大久保公裕 |title=スギ花粉症有病率の地域差について |url=https://doi.org/10.15036/arerugi.59.47 |journal=アレルギー |volume=59 |issue=1 |pages=47-54 |year=2010 |doi=10.15036/arerugi.59.47 |publisher=日本アレルギー学会}}</ref>。
** 農村的地域、都市の郊外において有病率が低い、北海道は他の地域より有病率が低い、世帯の所得水準が高いほど花粉症のリスクが高くなるといった結果が示された<ref>{{Cite journal|和書|author=村中亮夫, 中谷友樹, 埴淵知哉 |title=社会地区類型に着目した花粉症有病率の地域差 |url=https://doi.org/10.5638/thagis.19.127 |journal=GIS-理論と応用 |volume=19 |issue=2 |pages=127-137 |year=2011 |doi=10.5638/thagis.19.127 |publisher=地理情報システム学会}}</ref>。
* '''薬物療法の研究'''
** [[ロイコトリエン拮抗薬|ロイコトリエン受容体拮抗薬]] [[プランルカスト]]はスギ花粉症に対する初期療法薬として、鼻症状全般に効果があり、特に夜間の鼻閉を改善し、QOLの改善が期待できる<ref>{{Cite journal|和書||author=宮之原郁代, 松根彰志, 大堀純一郎, 黒野祐一 title=スギ花粉症に対するプランルカスト初期療法の有用性 |url=https://doi.org/10.11334/jibi.55.31 |journal=耳鼻と臨床 |volume=55 |issue=1 |pages=31-38 |year=2009 |doi=10.11334/jibi.55.31 |publisher=耳鼻と臨床会}}</ref>。
* '''花粉症と喘息'''
** 眼鼻症状主体の花粉症と喘息主体の花粉喘息の相違点は「花粉喘息の発症年令は花粉症より若く、花粉症が20-30代の単峰を示すのに対して、花粉喘息は5歳以下と20代の2峰性の分布を示す」「花粉喘息は花粉症を繰り返して生ずるより初めから喘息として発症することが多い」「花粉喘息の[[アセチルコリン]]感受性は明らかに高い」「花粉症の発作季節は原因花粉飛散季節と一致するが、喘息ではしばしば春秋型をとり、必ずしも花粉季節と一致しない」「花粉症も花粉喘息も主因外花粉に対する皮内反応はほぼ同様の傾向を示すが、花粉以外の[[ハウスダスト]]や真菌類に対しては花粉喘息は明らかに高い陽性率を示す」「花粉喘息の[[プラウスニッツ・キュストナー反応|PK価]]は皮内反応の閾値との関係において花粉症のそれより低い」の6つが見いだされた<ref>{{Cite journal|和書|author=信太隆夫, 降矢和夫, 水野勝之, 我妻義則, 松山隆治, 宮田亮 |title=花粉喘息の特徴 |url=https://doi.org/10.15036/arerugi.19.739 |journal=アレルギー |volume=19 |issue=10 |pages=739-751,800-80 |year=1970 |doi=10.15036/arerugi.19.739 |publisher=日本アレルギー学会}}</ref>。
== 文化における花粉症 ==
* イギリスの劇作家ノエル・カワード( Noel Coward 1899 - 1973)の戯曲に「[[:en:Hay Fever|Hay Fever]]」(1925年初演)がある。日本では「花粉熱」と題されて1996年や2003年に上演されたことがある。
* ポーランドのSF作家[[スタニスワフ・レム]]の作品に「枯草熱」(原題は"Kater" 1976年)がある。
* Sunflower's Gardanのアルバムに「ひまわり花粉症」(2004年発売)がある。
* [[沢田亜矢子]]のシングルレコードに「花粉症」(1982年発売)がある。
* [[チャーリー浜]]のシングルCDに「私は涙の花粉症」がある。
* [[必殺仕事人III]]に「スギの花粉症に苦しんだのは主水」(第30話)がある。
* アマチュア歌手「奥様レコード」の楽曲に「[http://www.duo.xii.jp/okusama_records/m/sound/sfh0008.htm 花粉症]」がある。
* 2010年公開のイタリアのロマンティック・コメディに「{{ill|Hayfever|en|Hayfever (film)}}」がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* 鼻アレルギー診療ガイドライン2002(鼻アレルギー診療ガイドライン作成委員会)
* 鼻アレルギー診療ガイドライン2005(鼻アレルギー診療ガイドライン作成委員会)
* 鼻アレルギー基礎と臨床(奥田稔)
* 花粉症の最新治療新編(斎藤洋三)
* アレルギー疾患ガイドブック2004(東京都)
* 花粉症保健指導マニュアル(環境省)
* 花粉症対策と治療法(順天堂大学医学部)
* 専門のお医者さんが語るQ&A花粉症(大塚博邦)
* ここまで進んだ花粉症治療法(佐橋紀男+花粉情報協会)
* 東京の環境2004(東京都環境局総務部企画調整課)
* スギ花粉症(三好彰)
* アレルギーなんかこわくない!(三宅健)
* 好きになる免疫学(多田富雄/萩原清文)
* なぜ花粉症は激増するのか(北村美遵)
* 環境問題としてのアレルギー(伊藤幸治)
* 新版花粉症の科学(斎藤洋三/井手武/村山貢司)
* すぐわかる森と木のデータブック2002(日本林業調査会)
== 関連項目 ==
* [[鼻茸]]
* [[人工林]]
* [[ω-6脂肪酸]]
* {{ill2|雷雨喘息|en|Thunderstorm asthma}} - 雷雨によって花粉が膨張・破裂して、アレルゲンが空気中に飛散し、アレルギーを持つ人間に喘息症状を起こすとされる。
== 外部リンク ==
=== 政府機関によるもの ===
* [https://www.env.go.jp/chemi/anzen/kafun/ 環境省「花粉情報サイト」]
* [http://kafun.taiki.go.jp/ 環境省花粉観測システム]
* [https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kafun/index.html 厚生労働省「花粉症特集」]
* [https://www.rinya.maff.go.jp/j/sin_riyou/kafun/qanda.html 林野庁「森林・林業とスギ・ヒノキ花粉に関するQ&A」]
=== それ以外のもの ===
<!-- 宣伝目的のリンクはやめましょう-->
* [http://www.jsaweb.jp/ 社団法人日本アレルギー学会]
* [http://www.jaanet.org/ 財団法人日本アレルギー協会]
* [http://kafun-now.com/ 花粉なう] - 花粉症についての情報サイト。製薬会社のMSD株式会社が運営。
* [https://www.jaanet.org/allergy/ 公益財団法人日本アレルギー協会 アレルギー情報]
* [http://pollen-net.com/ 全国花粉情報 花粉いんふぉ] - 特定非営利活動法人 花粉情報協会
* [https://www.kampo-view.com/nayami/kafun01.html アレルギー性鼻炎・花粉症 漢方ビュー 漢方のポータルサイト] - ツムラ
* [https://hanamizu.jp/ NPO花粉症・鼻副鼻腔炎治療推進会]
* [http://www.yomiuri.co.jp/iryou/medi/saisin/20060206ik0f.htm 花粉症の診療指針] - 花粉症の重症度に応じた治療法
* [http://www.3443.or.jp/esse/h02_bien03.htm 花粉症のルーツ]
{{アレルギー}}
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[[Category:花粉症|*]]
[[Category:免疫病]]
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[[en:Hay fever in Japan]] | 2003-03-05T02:56:54Z | 2023-12-17T21:29:34Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E7%B2%89%E7%97%87 |
3,433 | 未確認飛行物体 | 未確認飛行物体(みかくにんひこうぶったい、英: unidentified flying object)とは、その名の通り、正体が確認されていない飛行物体のこと。英語の頭文字からUFO(ユーエフオー、ユーフォー)と略称される。
1947年にアメリカの実業家のケネス・アーノルドが、ワシントン州レーニア山頂近くを飛行する一連の円盤状物体を機上から目撃し、空飛ぶ円盤(flying saucer)と名付けたのが始まり。その後、国防上の見地からアメリカ空軍が詳細に調査、未確認飛行物体(UFO)と総称されるようになった。
地球上では正体不明の飛行物体の目撃が毎年数百例も報告され、その正体は航空機など既知の人工物体、流星、蜃気楼などで、遠方のサーチライトや自然物(天体・雲・鳥など)の誤認も含まれる。
2021年6月25日に公開されたアメリカ合衆国国家情報長官室の報告書では、UFOに代えて、未確認空中現象(英: unidentified aerial phenomenon、UAP)の呼称が用いられている。
未確認飛行物体(UFO)は本来、航空・軍事用語であり、当局で把握できていない航空機や気象観測用の気球、他国からのミサイルなどさまざまなものを指す。風に流された気球や航路から逸脱した旅客機など悪意はないが事故につながる可能性のある事例もあるが、他国の偵察機や爆撃機、ミサイルによる先制攻撃の可能性があり、国家の安全を脅かす危険すらあるためスクランブル(緊急発進)の対象となる。空軍などの航空交通管制においては、レーダーに捕捉された正体不明の飛行物体に対しては、それが何であるか確認できるまで、警戒態勢を取る緊急の必要があり、特にレーダー電波を明確に反射する金属製の物は爆撃機やミサイルであるケースも確認されている。「何かがこちらに向かって飛んでくる」という注意を喚起するために「(方位)から未確認飛行物体接近」と表現することもあるが、明らかに航空機である場合は「所属不明機」(Bogey)と表現することも多い。
逆に正体を確認済みのもの(飛行計画が配信された旅客機や民間貨物機、鳥の集団など)は確認済飛行物体(英: identified flying object、IFO)と総称する。必ずしも物体ではなく、自然現象を誤認する場合もあるため、未確認空中現象(英: unidentified aerial phenomenon、UAP)が用いられることもある。実際に飛行しているところが目撃されなくても、飛行可能と思われるものが着陸していた場合などにも使われる。水中に目撃されたものは未確認潜水物体(英: unidentified submerged object、USO)ということもある。
小型の無人航空機や気象観測気球は移動速度が遅いが風で流されることで通常の航空機とは異なる動きをする、小型なためレーダーに映りにくく接近しても目視で捉えにくい、低速なため戦闘機ではすぐに追い抜いてしまうため視認できる時間が短い、スクランブル機が到達する前に着陸・墜落しても痕跡を発見しにくいなど「未確認飛行物体」のまま行方不明となりやすい条件が多く、スクランブルに対応した戦闘機パイロットの体験談が超常現象として流布されることもある。夜間や視界不良時の飛行ではパイロットが星や自然現象を航空機と誤認し報告する事例もある。これらは目視はできるがレーダーに映らないため「レーダーに反応しない機体と遭遇した」という体験談が広まることもある。速度と高度の関係で航空機による接近が難しいため、危険性が低い場合はスクランブルの対応をせずに監視のみという対応もある。
一口に「未確認飛行物体」といっても「航空・軍事用語として用いている」のか「超常現象用語として用いている」のかを区別する必要がある。未確認飛行物体を超常現象として捉える考えはフィクションの題材として多数用いられており、多くの映画・小説・テレビ番組などが製作・出版・放映されて、興行的成功を収めている(映画『未知との遭遇』など)。ユーフォロジーとは未確認飛行物体を超常現象であるという解釈に基づいて行うUFO研究のことである。航空軍事用語としてのUFO(アメリカ軍の公式用語)とは意味が異なる。
UFO目撃現象の分類として、高々度や宇宙空間での目撃、車が追跡された事件、電気的・機械的な影響を及ぼした事件、人間に心理的・物理的影響を与えた事件、着陸の痕跡を残した事件などがある。奇妙な泡を残して、海中に沈む様子が目撃された例もあれば、その姿形は円盤型であったり三角形型であったりと描写はさまざまである。UFOと共に搭乗者が目撃されたり、目撃者がUFO搭乗者による誘拐被害(エイリアン・アブダクション)を訴えたりする例もあり、それらは「第3・4種接近遭遇」例とも呼ばれる。
「UFO」は 英語: unidentified flying object の頭文字であり、英語では「ユー・エフ・オー」と読まれる。
ただ、この言葉をアメリカ空軍の公式用語として採用したエドワード・J・ルッペルト(英語版)大尉は、自著で「ユーフォー」としており、古くはこの読みも行われていたことがわかる。
一方、日本では1950年代から1960年代末期までは、未確認飛行物体の形状の違いにかかわらず「空飛ぶ円盤」と総括的に呼称されるのが一般的だった。古くは「ユー・エフ・オー」と読まれていた。例えば日本では1970年に放送されたテレビドラマ『謎の円盤UFO』の日本語版タイトルは「なぞのえんばん ユー・エフ・オー」となっていた。他方、世界の怪奇現象やオカルトを興味本位に紹介する特別番組などでは早くから「ユーフォー」の読みで紹介されており、現在の日本では「ユーフォー」の読みが一般的となっている。これはピンク・レディーのシングル曲である「UFO」のヒットによるものである。それでも、この読み方が完全に定着した後の1978年に製作された東宝映画『ブルークリスマス』などは、海外場面を含めて全編を「ユー・エフ・オー」の発音で通している。
アメリカ空軍の公式用語では「UFO」はあくまでも「正体を確認できない飛行物体」を意味する。ステルス機や無人航空機(UAV)の時代において国防上の問題と捉えたアメリカ軍は、新たに未確認空中現象(英: unidentified aerial phenomenon、UAP)という言葉を定義して、積極的な目撃報告を促している。
こうした経緯から、2020年にアメリカ国防総省が「UAP」の映像を公表したのに対して、世間では「アメリカ軍が『UFO』の存在を認めた」との誤った認識が広まった。この映像について防衛省は「アメリカの国防総省が、アメリカ海軍のパイロットがUFOを撮影した映像を公開いたしました。自衛隊のパイロットは今までUFOに遭遇したことはないようですが、万が一遭遇したときの手順をしっかり定めたいと思います」と公式に発表している。また、河野太郎防衛大臣は記者会見で、「あまりUFOは信じていないが、アメリカ国防総省が画像を出したので、真意や分析を聞きたい」とUFOを超常現象の用語と定義の上で見解を述べている。アメリカ空軍のUFOの定義に対する日本の対応は自衛隊法84条に基づき対領空侵犯措置があり、自衛隊の通常任務となっている。
運用者が不明のUFOは正体のわからない飛行物体であるので、根拠をもって分類することは不可能である。その解釈は多岐に上っており、その中にはUFOそのものを未知の宇宙生命体と見なす意見さえあるほどで、その全てを網羅することは困難である。
発見や回収、運用者とのコンタクトなどその物体の確認が取れればUFOではなくなる。
ジョーゼフ・アレン・ハイネックが考案した。UFO目撃者からの観測パターンによる分類。
古代・中世から、超常現象としてのUFOと思われる物体は度々目撃が報告されており、古代文明の遺跡から出た壁画(アフリカ北部タッシリナジェールなど)や人形(日本の遮光器土偶など)の一部は「異星人」を思わせるとする解釈がある。浦島太郎など古来より伝わる幾つかの神話・おとぎ話は、宇宙人やUFOとの遭遇を元に作られたという説を唱えるUFO愛好家がいる。いわゆる宇宙人らしきものとともに目撃される例もある。これらは伝承や遺跡の解釈の問題でもあり、すぐには事実と認定できない。また地球人類以外の知的生命体が製造した飛行物体、生きた宇宙人やその遺体が確認された例はまだない。
近代において円盤型の目撃例が増える20世紀後半より以前にも、19世紀末のアメリカでは「謎の飛行船(英語版)」、第二次世界大戦中の「フー・ファイター」、終戦直後の北欧では「幽霊ロケット」が目撃された。
航空機からの目撃例が多い他、なぜか軍事施設や原子力発電所の近辺、戦争中に目撃される例(前述のフー・ファイターなど)が多い。アメリカ同時多発テロ事件の際にも、2機目が突っ込んだ前後2 - 3秒ほどの間、UFOを付近で目撃したという発言が多発した。噂は存在するが情報の確認は行われていない(同項目を参照)。
以下ではUFO目撃史において代表的とされる事件を挙げる(なお、以下の例では航空軍事用語とエイリアンクラフトとしてのUFOが混在している)。分類可能なものはハイネック博士による分類法などにより年代順に整理する(→#アレン・ハイネックによるエイリアンクラフトの分類)。
以下はパイロットなどが近距離から未確認飛行物体を目撃した代表的ケースである。
第二次世界大戦中の1939年から1945年にかけて、未確認飛行物体が戦闘が激しい地域を中心にたびたび目撃された。「フー・ファイター」とは連合国の兵士たちの間で使用された「未確認飛行物体」の総称である。夜でもまばゆいほど発光しながら正確な編隊を組んでいたり、信じられないほどの高速で飛行したりしたと伝えられている。連合国側だけでなく枢軸国の日本軍やドイツ軍でも未確認飛行物体が目撃され、戦地で噂になっていた。
大戦当初にヨーロッパで目撃されたケースでは「ドイツの新型爆撃機だ」、また1941年12月の日本やアメリカの参戦後にアメリカ本土付近で目撃された際は「大日本帝国が秘密兵器を飛ばした」、「近海に日本の大艦隊がいる」、「ドイツの科学力と日本の航空技術が結ばれた」など、様々な噂が飛び出した。
実際に、1942年2月に日本海軍の艦船がカリフォルニア州サンタバーバラ近郊の石油施設を艦砲射撃した翌日未明には、後に「ロサンゼルスの戦い」と呼ばれることになる未確認飛行物体(アメリカ陸海軍が日本軍の航空機と誤認した)の目撃と、それに対する大規模な攻撃がアメリカ陸軍によって行われ、多くの市民がこれを目撃し、対空砲火の破片や心臓発作で6人もの死傷者まで出す騒ぎになった。
また大戦後期のドイツは原爆(原爆はアメリカや日本も開発していた)やV2ロケット開発に着手し、当時の水準ではアメリカやソ連、イギリスを超えるほどの世界一ともいわれている科学力を持っていたため、戦後になっても「実はドイツは円盤型の超音速戦闘機を完成させていたのではないか」などの憶測を飛ばすことになった。そのためか、架空戦記ではドイツ軍の円盤型戦闘機などが登場するものもある。
1947年6月24日にアメリカ人のケネス・アーノルドが、自家用機で飛行中ワシントン州上空で9個の奇妙な物体を目撃した事件。この事件の影響により「空飛ぶ円盤(フライングソーサー)」という語が普及した。
1972年、高知県高知市東部にて、当時の中学生たちが両手に乗るほどのサイズの小型UFOを捕獲したとされる事件。
1982年11月にポルトガルの空軍パイロット3名が飛行中に、直径3mの円盤型で金属製のUFOと遭遇した。UFOは停止したと思えば空軍機の周囲を旋回してつきまとったりと不規則な動きをした。後にもう1機の空軍機が応援に駆けつけUFOと対峙した。最後にUFOは非常な速度で飛び去った。後の民間研究では、否定派の科学者がUFOは気球だったと主張したが、目撃したパイロットたちはその意見を否定した。
1986年11月17日に日本航空のボーイング747貨物機が、アラスカ州上空でUFOに遭遇し追跡された事件。
2007年11月、コスタリカ サンホセ州タルバカ地区に住む建築材料の加工作業を行っていた一般男性が、作業現場周辺(Calle Azulillos)でUFOが浮遊しているのを目撃した事例。モトローラのRAZR V3という携帯電話を用いて近距離撮影に成功したという。当時コスタリカの現地マスコミによって放送された。この映像がCGIやVFXではない場合、非常に近い距離且つ、高品質な状態で動画での撮影に成功した最初の興味深い事例だと言える。 有志による画像解析とデータ検証によって、高い確率で加工された形跡が無いことが確認されている。
コスタリカでは原因は不明だが、UFO現象が昔から多発しているという。2021年においてもこのサンホセ周辺でこのようなものが時折目撃されるという。
RV(Radar/Visual Reports)とはレーダー機器と目視で同時にUFOが観測された事例である。
1994年1月28日、ニース - ロンドン間の上空にて、エールフランス3532便の操縦士3名が奇妙な飛行物体を目撃した。当初「ぺしゃんこになった鐘」に見えたその物体は、すぐに赤黒い円盤状に形を変えた。2分後にその物体は消失したが、ある時はレンズ豆、ある時は矢のように見えるなど、絶えず輪郭を変化させていた。
同時刻にフランス空軍のレーダー、そしてトゥール市にあるレーダー探知センターが、3532便と直角に交わる未確認の物体を捕捉した。レーダーの記録などから、飛行物体が航空機や観測用気球であるという説は退けられた。パイロット達の証言の詳細は一致しており、物体が消失した時間の証言も、レーダーの記録と一致した。飛行物体の大きさは推定500メートルから1キロメートルであった。
1998年10月19日、中華人民共和国河北省滄州市の空軍基地上空にUFOが出現した。地上からも「キノコのような形」をして地上に光を放射しながら飛んでいく物体が目撃された。この軍用機でも民間機でもない飛行物体が4つのレーダー基地でも観測されたため、基地司令のリー大佐は迎撃命令を出した。発進した戦闘機には2名が搭乗していた。
この乗員の証言によれば、UFOはSF映画に出てくる形をしており、麦わら帽子のようであった。また、戦闘機が接近しようとすると逃走し、遠くに逃げ去ったかと思うと戦闘機の真上に出現したりと、相手をからかうような挙動を示した。飛行物体の高度が20,000メートルに達すると、戦闘機の燃料が乏しくなったため追跡は断念された。飛行物体はやがてレーダー反応からも消失した。
2008年1月8日のアメリカ南部テキサス州にて、警察官を含む17名が、フットボール競技場ほどのサイズのUFOを目撃した。UFOはレーダーでも3機捕捉されたが、そのうちの1機は飛行禁止空域だったジョージ・W・ブッシュの自宅に真っ直ぐ向かっていたため、F-16戦闘機が発進する事態となった。
フラップとは、同じ地域で短期間にUFOの目撃が多発する現象。「UFOウェーブ」とも呼ばれる。
対日戦が始まってから約3か月後の1942年2月24日の夕方、日本海軍の大型潜水艦がカリフォルニア州サンタバーバラ近郊の石油精製所を砲撃した(アメリカ本土砲撃)。米英戦争以来の本土攻撃を受けたアメリカ軍と政府は大混乱に陥り、アメリカ西海岸一帯に厳重な警戒態勢が敷かれた。
日本海軍による攻撃がその後なかったために、同日深夜には警戒態勢が解かれたものの、警戒態勢が解かれた直後の2月25日未明に、光を放ちながら数百キロメートルの低速で飛ぶ数十機の未確認飛行物体がロサンゼルス市上空に出現し、同時にレーダーにもとらえられたためにアメリカ西海岸一帯に再び警戒警報が出された。
その後飛行物体を目視で確認したアメリカ陸軍によって、飛行物体に向けて1430発もの対空砲火が撃ち込まれた。対空射撃は2時間続いたが、撃墜された飛行機はなかった。数千人の目撃者の中には、対空砲火の中を光を放つ飛行物体がサーチライトに照らされている写真を撮影したものや、「秒速8キロメートルでジグザグに移動する光体」がいたことを証言するものがいた他、ラジオでは対空砲火が行われている風景が実況中継された。なおこの作戦中に落ちてきた対空砲火の破片を受けたり、驚きのあまり心臓発作を起こした6人が死亡した。
しかし戦後公開された日本海軍の資料では、当時アメリカ西海岸沿岸で活動していた潜水艦の艦上機を合わせても10機にも満たなかった上に、この日にアメリカ西海岸上空を日本海軍機が飛行した記録はなかった(日本海軍機による初のアメリカ本土空襲が行われたのは同年9月である)。
1965年、米国ニューハンプシャー州のエクセターにて「巨大な金属製の物体」が音もなく上空に静止しているのを警察官2名と大学生が目撃した。物体は急降下して目撃者に接近してきたが、警官は銃を抜くことができなかった。民間人のコラムニストであるジョン・フラーがこの事件を調査したところ、75件を超える目撃情報があることが判明した。
この事件について空軍は自然現象の誤認説(→#気温逆転説)での説明を試みた。しかし、そうした公式見解は逆にジョン・フラーら民間研究者に「空軍によるUFO隠蔽説」の疑惑を抱かせることとなった。この事件により、1960年代のアメリカではUFO問題への多くの公開討論が各地で行われることとなった。
1976年10月14日に大韓民国・ソウル上空に12機の国籍不明の飛行物体が侵入。首都周辺に駐屯する韓国軍が対空砲で一斉射撃を行い、市街地に流れ弾が着弾し数人が負傷。
1979年11月11日の夜、109名の乗客を乗せたTAE(英語版) JK-297便のパイロットが、マニゼス東海上で驚くべき速度で飛来する2個の赤い光を目撃した。ジャンボジェットほどのサイズである2個の光の動きは完全に連動しており、航空機の周りを自由自在に飛び回り「挑発」とも取れる動きを示した。機長は空港に連絡を取りバレンシアに緊急着陸を行った。その後も赤い光は上空に見えており、地上要員や航空管制官、空港長が目撃した。その空域のレーダーにも捕捉された。スペイン防空司令部はロス・リャノス空軍基地のミラージュ戦闘機にスクランブルを命じたが、飛行物体は逆に戦闘機への急接近を行った。
ちょうど1年後の1980年11月11日、同じ飛行物体がスペイン北東部に再び現れ、少なくとも6機のスペイン旅客機がそれを目撃した。飛行物体は非常に明るい緑色の球形で、空港の滑走路を「うろついた」後に「飛び去って行った」と目撃者は述べている。
1981年1月8日、フランスのプロヴァンス地方にて、自宅の庭で日曜大工をしていたレナート・ニコライが、爆音とともに急降下してくる鉛色の物体を目撃した。物体の大きさは2.5mで、スープ皿が上下に重なったような形をしており、光に包まれていた。1分をしないうちに物体は急速度で飛び去って行った。物体の下部にはドアが付いているようだった。地面には2mの円形の着陸痕が残っており、UFOという言葉を知らなかったニコライは憲兵に通報した。
憲兵による現場の調査結果はニコライの目撃証言とほぼ一致した。ニコライの証言によれば、飛行物体は驚くほど正確な操縦技術で操作されていた。ニコライ家の近隣には軍事基地があったが、時間帯や着陸場所から考えてもヘリコプターや飛行機ではなく物体は全く無音で飛行したため、エンジンで動く機体でもなかった。フランス国立宇宙研究センターのUFO調査部署であるGEPAN(英語版)は、現場から採取した土や植物のサンプルを解析した。その結果、着陸痕の地面は衝撃で摂氏600度まで上昇し、微量の鉄や亜鉛などが検出された。現場で採取されたウマゴヤシは、電磁気的な影響により損傷を受けていたため、飛行物体が電磁気で飛行していたという仮説が立てられた。物体の質量は推定500〜700kgであった。
懐疑的な研究者はUFOの着陸痕が完全な円形ではなく、車のタイヤに似ていること、当時の発見場所には車の往来があったこと、GEPANが現場に到着し調査を行うまでには時間の空白があったので、人為的な影響を及ぼすことが可能であったことなどを指摘している。そこで1988年には調査が再開された。再度による土壌分析では植物に影響を及ぼしうる(粉末状のセメントなどの)物質は見つからなかった。「これらの分析から重大な物理現象が実際に起き、植物への説明できない影響、地面を擦った後、熱衝撃をもたらしたという結論が得られた」と分析者は述べている。
815年(あるいは852年)、フランスのリヨンにて、空から球状の物体が連なりつつ降下をしてくる事件が起きた。球体は草原に着陸すると、やがて「ドア」が開き、中から3人の男性と1人の女性が現れた。球体はやがて上空に消え去った。周囲の目撃者は出現した4人を魔術師だと思い処刑しようとしたが、やつれきった様子の彼らの説明を聞き、介抱した。介抱された4人の説明によれば、自分たちは普通の村人であり、野原にいる時にあの「球状の物体」と出会ったということであった。球体からは自分たちとよく似た男たちが現れ、彼らは自分たちは邪悪な者ではないと述べたという。4人は球体に乗り込み飛行経験をすることとなり、丸い窓から眼下の地上を眺めたり、世界各地の町を訪れたりといった体験をした。
この説明は当時の人々に受け入れられず、4人は火炙りとなるところであったが、現場にいた司教が介入しこの混乱を鎮めた。事件の詳細はこの司教により記録された。
1948年に西ドイツのズンデルン (ザウアーラント)地方のヘマー村にて、全長30mの金属型の飛行物体が牧羊者の前に現れた。牧羊者は牧草地の中に着陸した物体の表面に触れると強いショックを受け気絶状態となった。彼が意識を取り戻すと、周りに体長1mほどのアーモンド形の目をした頭部の大きな生物たちがいた。彼らはおそらく酸素の容器と思われるチューブのついた箱を手にしており、気体を吸い出していた。彼らは理解できない言語で話し、土壌や草を調べサンプル採集を行っていた。やがて飛行物体に乗り戻ると、物体は高速で飛び去った。着陸痕として、丸く草が焼けた個所が複数並んでいた。目撃した牧羊者は、いつのまにか強い日焼けをしていた。
1952年マイニンゲン近くの森にて、48才の元ドイツの陸軍少佐が、11才の娘を連れてバイク走行していた。娘が150m先に変な物体があると言ったので近寄ってみたところ、円盤状の物体と、体長1.5mほどの銀色のスーツを着た2人の小人がいた。小人は目撃されたことに気づくと円盤に乗り込み、円盤は加速して飛び去っていた。辺りには押しつぶされた草が残っていた。元陸軍少佐は米当局にその話をし、西ドイツに駐在していたCIAに体験の証拠を提出した。
1954年10月10日、隣国のフランスでのUFO目撃がピークに達したころ、再びヘマー村の真北50kmの地点て、葉巻型の飛行物体が目撃された。あるミュンスターの映写技師は低空1.5mの高さで低空する葉巻型物体と、その下で作業する体長1m以下の小人たちを見た。彼らの頭部は大きく、ゴム製のような衣服を身に着けていた。小人たちは梯子を使い、物体の中に入っていった。その数時間前には、近くの田舎道を走行していた3名が、2体の小さな生き物がハイウェイを横切り円盤の中に入っていくのを目撃していた。
上記の目撃者は、誰も他の者の体験について知らなかった。目撃された飛行物体は同じ形状で、その搭乗者にしても当時流行していたハンサムで長髪のUFO搭乗者の記述とは一致していなかった。
1950年にアルゼンチンで起こった事件。当時、建築技師であったエンリケ・ボッタ(Enrique Botta)は、高速道路を車で走行中に、そばの草地に円盤型で金属製の物体があることに気づいた。物体は静止していたため、ボッタは意を決し中に入ることにした。内部は(天井があることを除けば)空のように見え、壁際には4つの座席があった。座席には身長1.2mほどの灰色の小人が計器やパネルに向かって座っており、その身体は焼けただれていた。生物はすでに死んでいた。座席前の制御パネルの上には透明な球体が回転していた。
高速道路に戻ると、ボッタは大急ぎで友人2人を呼びに行った。既に日が暮れていたので、翌朝になり3人は「UFOの墜落現場」に戻った。既にそこに円盤はなく、代わりに灰の山があった。1人がそれを手ですくってみると、手は緑色に変色し何日もそのままだった。その直後、1人が上空を見上げると、葉巻型と円盤形の3つの飛行物体が浮かんでいた。ボッタは5枚の写真を撮影したが、現像した結果はぼんやりとした形が2枚写っていただけだった。
ボッタはこの事件の後に、高熱に見舞われ皮膚が膨れ上がった。医者に診せても原因不明と診断され、この症状は数週間続いた。ボッタはこの事件を公表しなかったが、後に彼の2人の友人が公表した。ボッタは博士号をもつ人物であり、地元での評判も良く、無視できない目撃者であった。
1957年11月5日に全米各地で数多くの未確認の飛行物体が目撃された。目撃された場所は多数であり各地の警察署の電話回線はパンク状態となり、報告を受けた米軍はジェット機の緊急発進を行った。メキシコ湾の航行中の警備隊やニューメキシコ州のミサイル試射場の憲兵隊員、テキサス州の米空軍気象観測官らも飛行物体を目撃した。特にカリフォルニア州の気象観測官3名と、そこからわずかに離れた上空を飛行していた空軍兵10名は「円盤型で磨き上げたアルミニウムのように輝く6機の飛行物体」をほぼ同時刻に目撃した。テキサス州の防空監視団は「赤い光を放つ巨大な飛行物体」からの通信を傍受することに成功したが、その内容は解読不能であった、と証言した。民間人からのいくつかの証言は「飛行物体が近づいた途端に自動車のエンジンやカーラジオが停止した」などの点では一致した。
同日、カリフォルニア州で穀物飼料問屋に勤めるラインホルト・シュミット(en:Reinhold O. Schmidt)という名の男性が、「金属でできた銀色の宇宙船」を目撃し、その内部から現れた「2人の男」と会話を交わしたと証言した。宇宙船内部には、地球人と似た6名の男女がおり、内部を見せてもらった後に宇宙船は垂直に飛び去ったと語った。シュミットは警察に届け出たが、正気ではないと判断され精神病院に送られた。シュミットはその後、自らの体験を自費出版した後に行方不明となった。宇宙船の着陸現場に出かけた警察署長は「確かに何らかの機械がここに着陸した」と判断した。シュミットが宇宙船を目撃した地域で、謎の飛行物体を目撃したという報告が複数人の目撃者により寄せられた。彼らはシュミット同様に、飛行物体が接近した際に車のエンジンが停止した、と語った。シュミットが宇宙船を目撃した翌日には、テネシー州に住む12歳の少年が宇宙船と宇宙人を目撃したと報告した。その描写はシュミットの描写とほぼ同様のものであり、少年がシュミットの事例を知っている可能性は皆無だった。フラップ(UFOの大量目撃)と第3種接近遭遇が同時に報告されたまれなケースである。
1959年6月26日、パプアニューギニアにて、空中に浮かんでいる円盤型のUFOを38名の人間が目撃した。円盤の中には4名の人影が何らかの作業をしている様子が見えた。目撃者の1人が搭乗者に向かい手をふると 搭乗者達も同じ動作をした。目撃者が両手を上げて振ると、乗員たちも両手を上げて振って応えた。UFOは45分もの間観測され、最後には空中に飛び去って消えた。その後しばらくの間、カトリック教会の上空などに断続的にUFOは出現した。最終的な目撃者は約150人に及んでいた。目撃者であるWilliam Booth Gill神父が目撃内容を詳細に文書に記し、他の目撃者25名がその文書に署名した。
迷信深い者たちによる目撃事件にすぎない、と批判する者も出たが、目撃者の中には高等教育を受けた者や、別国の宣教師や貿易商などが含まれていた。パプアニューギニアとは関係のないアメリカ空軍はなぜかこの事件について、土星や木星などの天体が光の屈折により目撃された自然現象であった、と発表した。だが目撃された乗務員についての言及はなかった。
なお、この事件が発生する6日前から「コーヒー皿のような飛行物体」や「窓のあるラグビーボール」の光体などが目撃されている。さらにこの事件の後2か月にわたって、同地域にてUFOが目撃され続けた。
1973年11月1日、米国ニューハンプシャー州マンチェスターでのルート114にて、車で帰宅中のリンダ・モレル夫人が、明るいオレンジ色に輝く六角形で構成された巨大な球体を目撃した。その物体は半分透けているような性質があり、上方には窓のようなものが見えた。モレル夫人は体中がヒリヒリする感じを受け、意識が薄れたが気が付くとUFOの近くまで進んでいた。物体の窓には人影があり、グレイ型の人相をしていた。搭乗者は彼女に「怖がらないように」何とか伝えようとしていると感じられた。女性はパニックになり車から抜け出し、近くの民家に助けを求めた。民家の住人が警察を呼び、警察官が駆けつけると、遠くに色を変えながら移動する光体が見えた。民家の住民を含めた合計4名がそれを目撃したが、嘲笑を恐れ、地元の新聞社には曖昧に報告した。モレル夫人は調査を受けたが、催眠状態での質問の受け答えでも彼女の話に矛盾点などは見られなかった。
そして11月3日になると同地域にて再びUFOが出現した。レックス・スノーと妻のテレサは、小型望遠鏡で銀色の円盤を目撃した。そして同日の真夜中に、レックスは自宅回りが異様に発光していることに気付き、外に出たところ「銀色のスーツ」を着た異形の人物2人を目撃した。レックスは飼い犬に「飛びかかれ」と命じたが、銀色の生物ににらまれると飼い犬は沈黙した。銀色の人物2人はしばらく地面から何かを拾い上げる作業を続けた後に木立の中に消えた。テレサは「銀色の輝き」が木立の中を遠ざかっていくのを目撃した。
1975年に山梨県甲府市で起きた、UFOと宇宙人を目撃したと報道された事件。
一部の古代宇宙飛行士説論者が江戸時代に起きたと主張する事件である。
1897年4月17日、アメリカ合衆国テキサス州オーロラ(英語版)近郊に“飛行船”が墜落。住民たちが見に行くと未知の金属の破片や当時の地元新聞の表現によると“この世のものではない”("not of this world") 操縦士の遺体を発見し、火星人と考えた住民はキリスト教の儀式に則り葬儀埋葬し、墓を建てたという。その後1970年代に再注目されるまで70年以上この事件は忘れられていた。
ケネス・アーノルド事件の直後に起きた、いわゆる「ロズウェル事件」は極めて有名であり、複数のフィクションにおいて何度も題材にされているほどである(『ロズウェル - 星の恋人たち』など)。これは、アメリカ南部ニューメキシコ州のロズウェル近郊に「UFOが墜落し、その残骸が軍によって回収され秘匿されている」というものである。
1947年6月14日、ニューメキシコ州ロズウェル近郊にある牧場で、マック・ブレーゼルは牧場内に散乱した金属片を発見した。7月に入ってブレーゼルと彼の家族は金属片を集め、保安官のジョージ・ウィルコックスに通報。ウィルコックスはロズウェル空軍基地に連絡した。7月7日の午後、基地からやってきた2人とブレーゼルは残りの破片を捜してゴムや金属箔を見つけたのち、元の形を復元しようとした(が、上手くはいかなかった)。翌朝、破片は基地へ持ち帰られた。
7月8日、ロズウェル基地付け報道官のウオルター・ハウト陸軍中尉が「陸軍航空隊がロズウェル近郊の牧場に墜落した空飛ぶ円盤(Flying Disc)を回収した」と発表し、マスコミの注目を浴びた。しかし同日中にロジャー・M・レーミー空軍准将が「発見された空飛ぶ円盤は軍が使用している気象観測用の気球だった」と訂正を行った。後に行われた発表では残骸も公表されて、事件はすぐに忘れ去られた。それから30年以上、UFO研究家も含めて誰も関心を持つことはなかった。
しかし1978年になって、破片回収を行った軍人ジェシー・マーセルに対してUFO研究家がインタビューを行った際、マーセルはこの事件を軍による隠蔽とする意見を表明した。この話題はUFO愛好家の間で関心を持たれるようになり、1980年にはタブロイド紙『ナショナル・エンクワイアラー (National Enquirer)』がマーセルへのインタビューを載せたことで、広く世間で知られるようになった。
「ロズウェル事件」が有名になると、既に30年以上経過していたにもかかわらず、軍の圧力があったとする証言や「政府の秘密文書」などが多数表れるようになった。「ロズウェル事件の際に回収した異星人の解剖フィルム」なるものまでが現れた。1997年には、アメリカ政府より正式報告書「ロズウェル・リポート」が改めて発行された。この報告書では「当時墜落したのは実は秘密実験に使用されていた気球で、後に発見された異星人の死体といわれるものは高度での人体への影響を調べるための観測用ダミーである」としている。また解剖映像が捏造()であったことが後に判明した(宇宙人解剖フィルムの項目を参照)。
2007年、ロズウェル基地の元報道官ウォルター・ホート大尉が、ロズウェル事件について「隠蔽があった」ことや、基地の格納庫で「異星人の死体を直接見たこと」を記述する宣誓供述書に署名していたことが判明した。研究者であるドナルド・シュミットによれば、これは最も強力な証拠であり、他にも異星人の死体や墜落した円盤を目撃した関係者の証言が多数得られているという。空軍により尋常ではないほどの家宅捜索や脅迫をされたため、隠蔽工作があったことを確信する証言者も多い。
1957年12月から翌年の1月にかけて、ブラジル海軍が国際地球観測年に向けての観測基地を南大西洋に浮かぶマルティン・ヴァス諸島のトリンダージ島に設営する際に、数回にわたり観測隊員や島民が円盤型の飛行物体や光を目撃したとされる伝達情報。日本のUFO愛好家の間では昔からあった有名な話であり、たびたび出版されている。出版物などで同島を「トリニダーデ島」と呼ぶが、正しい名称は「トリンダージ島」(Trindade、ポルトガル語であり綴りが異なる)である。トリニダーデ島(Trinidad、元来はスペイン語)とはカリブ海にあるトリニダード・トバゴの島であるので、誤訳といえる。超常現象としてのUFOの話にはこのような誤訳が多い。
この話はブラジル国内ではほとんど知られていないが、他国では書籍の写真を通して有名である。同島はブラジル東南部のエスピリトサント州の沖にあり、本土から1200キロメートル以上離れている。居住島民はおらず、海軍の駐在所と科学研究員の宿泊施設がある。
1958年1月1日にブラジル海軍長官と観測隊員が同島周辺を飛行する光体を目撃したとされた。同月15日と16日には海軍練習船アウミランチ・サウダーニャ号(Almirante Saldanha )が観測船として同島に接近したときに円盤型の飛行物体が出現したとされる。ただし、この目撃例は地球観測年だけのもので翌年以降はない。また、「公認のUFO写真」という有名な写真が海外の雑誌に出版されたが、ブラジル海軍は遭遇を認めていないので「公認」の写真ではない。
写真に写っている物体は湿った大気中を飛んでヴェイパーに包まれた飛行機という意見もあり、ツインボナンザという機種が似ていると研究されたが、特定されてはいない。写真は4枚の連続写真であり、1枚目は飛行機の側面から、2枚目以降は正面からとられたものと推測されている。1枚目はぼんやりと土星型に写っているが、2枚目以降はもっとはっきりとした円盤型に写っている。それが水蒸気に包まれた双発のプロペラ機を正面から見た形に似ていると指摘する研究者もいる。しかし最近のデジタル化した写真の分析により、二重露出で物体を写したものという意見が説得力をもっている。
写真を公表したのは海軍ではなく、同行したカメラマンであるアルミロ・バラウーナ(Barauna)であった。彼にはトリック写真を作る技術があり、この事件以前にも偽UFO写真を撮って「UFOに追いかけられた」というジョーク記事も書いたことがある。この件も面白そうな形に写った飛行機の写真を思わせぶりに見せただけだと考えられるが、結果として国外では大変有名になってしまった。ブラジル最大の新聞『オ・グローボ(ポルトガル語版)』は、バラウーナのいたずらと結論付けた。
2004年3月5日に、麻薬密輸の監視にあたっていたメキシコ空軍機が十数機のUFOに遭遇し、追尾されたとする事件。赤外線探知機の画像には、よく見れば静止した物体であることがわかる11個の点が映っていた。しかし、メキシコ空軍が公式に発表したために世界各国で報道された。その後、地元のUFOに肯定的な団体の調査により、UFOの隊形と煙突の配置が同じであること、画像の「UFO」は移動していないことから、海上油田の煙突のフレアスタックの誤認だと結論されている。メキシコ政府は公式発表についてその内容を変更してはいないが、そもそもの「発表」が、報告を受けた将官が知人のUFOマニアに見せた以上の調査もせずに行われたものだ。
UFO現象の中には、「UFOに誘拐された」とする「アブダクション」の事例報告が存在する。体験者によると、UFOによりUFOの中に誘拐され、医学的な手術を受けたり、小さなトランスミッター(発信機)を埋め込まれたり、実験や研究の対象となったという証言、場合によっては性行為(男女双方に対する強制的、もしくは非強制的な)の対象となったという報告もある。宇宙人と好意的な関係を結んだとする「ポジティブなケース」も存在するが、多くの場合、体験者はトラウマを抱え込むことになる。
アブダクション時には体外離脱などの現象も起こるため、ある研究者は臨死体験との類似を指摘している(→#臨死体験説)。アブダクションにはある特定の傾向がある。「アブダクトされたという時間と場所に、確かにいるはずの人がいない」「帰ってきたときに、身体に異常な痕跡が残っている」「複数人が同時にアブダクトされ、お互いの体験を検証できる」といった特徴である。またアブダクションを報告するものはコンタクティー(英語版)と混同されることが多いが、ほとんどのアブダクション体験者は、その体験で金銭を得ようとはしない傾向がある。また多くの場合、自分の体験が異常なものであると感じるため、体験者は自分の存在を公にしたがらない傾向がある。アブダクションの対象となった人々は医師・弁護士・教授などの職業層から非熟練労働者まで広い範囲にわたっている。
アブダクション体験は証言のみで物的証拠が伴わない場合が多く、調査の結果フィクション、もしくは虚偽記憶、想像上の体験であることが判明したケースもある。物的証拠については、体内に埋め込まれた「トランスミッター」、もしくは物質を後からMRIやCTで発見し、手術によって取り出した、とする事例もある(それは小規模な脳梗塞などの画像だとする説もある)。
数多い報告の1つに「鼻の奥に球状のインプラントを埋め込まれた」という例がある。この場合、医師により鼻孔の奥が調査された結果、証言通りに謎の金属球が発見されたり、鼻孔に説明不可能な穴が開いている事が確かめられたケースもある。宇宙人の子供を授かったというケースでは、妊娠が確認された体験者の体内から、いつのまにか胎児が消えていたことを医師が発見したケースがあるという。アブダクション後には癌が治癒していたと語る者もいる。2013年のシチズンズ・ヒアリング・ディスクロージャー公聴会には、エイリアンにアブダクションされたと主張する人々の身体を調査を行った医師が参加し、全く傷痕のない患者の体内に異物が混入していたケースが存在したことなどを証言している。
これらのアブダクション現象については虚偽記憶(False Memory)で説明できるという考え方がある。アブダクション体験談の多くは「催眠状態の誘導により思い出されたもので、そこに虚偽記憶が介在する余地があるため、信頼性の高い情報とはいえない」という側面があるという理論である。
なお、研究者であるデイヴィッド・マイケル・ジェイコブズはこの虚偽記憶説を批判している。「アブダクション体験者は互いに面識がなく、UFOについての知識がないにも関わらず一般に知られていない詳細なアブダクション現象の共通点を同じように報告してくるため、それらが作り話や虚偽記憶であるという可能性は極めて低い」と述べている。
もし催眠下にある人間がアブダクション体験を捏造しようとした場合、その報告はバラバラで全く共通点がなくなるという実験結果も出ている(アルヴィン・ロースンの実験)。またUFOとの遭遇を直接思い出した者と、催眠により思い出した者とが語る証言には、実質的な違いは何もないと結論した研究もある。アブダクション体験者の中には、催眠を用いずに体験を思い出した例もあり、そうした体験者がウソ発見器をパスしたケースもある(1973年のパスカグーラ事件など)。
アブダクション現象は幼児期の性的虐待の記憶が多くの人間に虚偽記憶として蘇っているのではないかとする「出生外傷説」がある。スタニスラフ・グロフがLSDを用いた研究では、出生外傷に基づくと思われる意識状態にて、第4種接近遭遇とよく似た現象を報告した者がいる。しかし、この説では「アブダクション体験者が催眠により虐待そのものの記憶を取り戻さないこと」や「多くのアブダクション体験者が子供の頃の虐待体験を否定していること」などの事実の説明がつかない。
ベティ・ヒルとバーニー・ヒルの夫妻は、1961年9月19日から9月20日まで地球外生命体に誘拐されていたと主張した。催眠療法により両者が同じ記憶を思い起こしたことが話題となった。この事件はアブダクション事例の中でも最も有名なものとなり、さまざまな議論を呼んだ。
1989年11月30日深夜、アメリカ東部ニューヨークのマンハッタンにて、マンションの窓をすり抜けて女性が空中に浮き上がり、上空の UFO に吸い込まれるという事件が起きた。この光景を、第5代国際連合事務総長であるハビエル・ペレス・デ・クエヤルと彼を護衛する2人のボディガードが目撃していたとされる。アブダクションされた女性リンダ・ナポリターノは後に退行催眠などにより事件の記憶を思い出した。またデ・クエヤルはこの目撃談の存在を否定した。
後に研究者のバッド・ホプキンズ(英語版)がこの事件を調査している。ホプキンズが取材を行ったところ、国連事務総長であるデ・クエヤルは、アブダクションは事実であったと述べた上で「それを自ら公表することは混乱を招くのでできない」と発言した。また目撃者は他にも存在していた。郵便局員とジャーナリスト、電話交換手など複数の者が、リンダが空中に吸い込まれていく光景などを目撃していた。
1967年1月25日、ベティ・アンドレアソンは台所の扉を透過して入ってきた5人の小人たちに導かれて、小型のUFOに乗りこんだ。「出産テスト」をうけたあと、不思議なトンネルを通って、未知の世界へと旅をして、不死鳥の映像を見せられた。事件から10年後の1977年、UFO研究家の調査に応じて逆行催眠をかけられて、何に遭遇したのかを知った。CUFOS (Center for UFO Studies) の所長ジョーゼフ・アレン・ハイネック博士は、アンドレアソンの事例によってUFO問題が「驚くほど複雑」になってきたことがわかると記している。アンドレアソン事件は複雑であるため、拉致事件の記録のなかでも重要度においては最大級の出来事である。
UFOについて、実名で言及した軍関係者は数多い。
これら諸説は、いわゆる「超常現象としてのUFO」の存在を肯定して、その正体について言及するもの「超常現象としてのUFO」の存在を否定して、現在の人類が知り得る科学的知見の範囲内で説明するもの(誤認説など)と、2通りに大別できる。
「UFOは未来の人々が開発した、時間移動を行うために使用する乗り物(タイムマシン)である」とする説。UFOが消えたり現れたりすることを空間移動ではなく時間移動と解釈する。
フランスのUFO調査機関であるGEPAN(英語版)の設立者ルネ・フーエルは、UFO搭乗者が一般的に人類との接触を避けているのは、彼らが未来人でありタイムパラドックスを避けている可能性があると述べている。
歴史上の重要な時点でUFOが目撃されることがしばしばあるが、これは未来人が過去の重要な場面を選んでいるからだという推測もある。例えば20世紀直前の時期には飛行船が将来に実用化されると考えられていたが、当時のUFOは飛行船の形態と似ていた。第二次世界大戦中には爆撃機のマーカーとして輝くキャンドルが使用されたが、当時のUFOは発光する球体の形をしていた。第二次大戦後の1946年にはロケットの形をした「ゴースト・ロケット」が世界を騒がせた。1990年代には米国のステルス戦闘機を真似た三角形型のUFOが目撃された。これらの物真似はその時代にどういった種類の飛行物体が製造されるのか前もって知っていなければ不可能である。
UFOと遭遇し20分間行方不明になっていた男性が、発見された時は5日分のヒゲが伸びていたというケースがある。UFO搭乗者が、地球の言語を話したり、地球製の衣服を着ていたり、地球の食物を食べていたという事例も見られる。また極まれに搭乗者が目撃者に対して「今は何年か?」と尋ねたり、未来の地球からやってきた、と証言するケースもある。UFO搭乗者の姿は、背が低く頭の大きな子供のような姿で描写されることが多いが、これはネオテニーが進んだ未来の人類の姿であるという推測もある。
この説に関しては物理的な根拠、証拠は一切示されていない。
HISTORYチャンネルの「古代の宇宙人」シリーズでは古代宇宙人の来訪だと主張するジョルジョ・ツォカロスの説が紹介された。
「UFOを写した」とされる写真の中には、人工物や自然現象の誤認の他に、模型や光学合成による作り物が多いことも知られている。近年はコンピュータグラフィックスによってかなりリアルな画像を捏造するケースが多い。安価なカメラを用いても、トリックをうまく計画すれば、超常現象雑誌に掲載されるレベルの完成度の高い画像を作ることは可能である。「本物」とされ繰り返し出版された写真の中にも、後年になってトリックを見破られた例は多い。
なお、UFOのトリック写真には以下のものが多い。
この他に気球や凧を上げるなどの方法もある。これらは故意によらず誤認されることがある。マンテル大尉事件がその一例。
クロップサークル(ミステリーサークル)がUFOのような光によって作成されていたり、クロップサークルの近くをUFOが飛んでいたりする目撃談があることから、クロップサークルとの関連も考えられることが多かったが、クロップサークルの多くはイタズラであったと後に判明している。その典型がイギリスのダグ・バウアー(Doug Bower)とデイブ・チョーリー(Dave Chorley)である。この2人はミステリー・サークルの最初の製作者として名乗りを上げ、簡単な道具と人力によって立派なミステリー・サークルが比較的短時間で作れることを実演してみせた。この実証により、現在ではミステリー・サークルは人間によるイタズラと見なされるようになった。1990年9月17日、福岡県糟屋郡篠栗町の稲田で直径20メートルと5メートルのサークルが出現し、全国ネットのニュース番組で取り上げられた。篠栗町ではミステリー・サークルのテレホンカードを売り出すなど、町おこしに活用している。それをきっかけに2か月間に福岡県と佐賀県で5箇所で10個のサークルが出現するなど日本各地でミステリー・サークルが発見され、マスコミでも大きく取り上げられた。しかし、1991年10月、福岡県内で窃盗の常習犯として警察に検挙された高校生12人のグループが、篠栗町ミステリー・サークルを作ったのが自分たちだと自白し、いたずらと判明。この報道以降、日本におけるミステリー・サークル発生報告はほとんどなくなりブームは鎮静化した。
一部の軍事評論家は、UFOの目撃談は軍事組織や情報機関によって捏造された物であると主張している。これらは最新ドローンやステルス攻撃機の目撃談、政府による極秘の宇宙開発プロジェクトや軍部独自の地球外生命体探査など重大な機密が世間やスパイに漏れるのを防ぐため、敢えて超常現象としてマスメディアを通じて喧伝()したり噂話を増長させることで肝心な部分から目をくらます欺瞞()工作であるというのだ。地球外の古代遺跡やタイムマシン、古代文明人の来訪など捏造自体はそれと証明された物が多いが、これらに軍や情報機関が関与している証言や物証は乏しく陰謀論から抜け出すものではない。ただし、エリア51のように、秘密兵器の研究基地であることがわかっている場合もある。テレビ局が超常現象を扱う人気番組を作るために故意に物語を捏造したり、偶発的に起こった騒ぎを利用したり誇張したりする場合もある。(→#ヴァルジーニャ事件)
UFO現象のうちいくつかは、それが起こる直前から無名のSF作家たちにより人知れず予想されていたケースがある。また超現実的で夢のような性質をもつUFO遭遇事例も多く、UFOの搭乗者が無意味な行動を取ったり、地球上の衣服を身に付けていたり、当時流行していたサイエンス・フィクションの影響を受けている事例もある。これらから、UFOは人間の無意識が投影されたものであるとする見方がある。
ただし、UFOや異星人という概念自体が深層意識においてさえ存在しない時代の目撃例は、この説では説明がつかない。(→#9世紀のUFO搭乗事件)
自国を含めて、地球上のどこかの国の軍部によって秘密裏に開発されている戦闘機や兵器ではないかという説。冒頭で述べた通り、UFOの正体についての諸説は、いわゆる「超常現象としてのUFO」の存在を肯定するか否定するかで2通りに大別できるが、本説はその両者を含む。つまり従来の科学的知見を超えた秘密兵器を誰かが極秘裏に開発しているのではないかという主張と、単に見慣れない格好の航空機を誤認したに過ぎないという主張である。
新兵器を誤認したという観点では、例えばアメリカ軍であれば、XF5Uフライングパンケーキ、YB-49、F7Uカットラス、F-117ナイトホークなどの航空機が候補にあげられる。一般人からすると形状が奇妙だったり開発・運用が秘密だったりする。これらの機体は「UFO」であり正体を明かされていない飛行物体である。それらの新型機はいずれも民間空港で見慣れた形態ではなく、全翼機などの近未来風のSF戦闘機を想起させる形状をしており、常識を超えた速度(目視による速度の見積もりは問題が多い)で飛行できるなど、超常現象としてのUFOの目撃例と類似した点が見られる。実際、アメリカのネヴァダ砂漠にある空軍基地エリア51は、新型飛行機を含めた新兵器が開発・訓練するための基地である。当然のことながらこれらは軍事機密である。マンテル大尉事件においては、海軍が開発していたスカイフック気球を誤認したというのが、有力な説かつ空軍による公式見解であるが、当時のスカイフック気球は海軍の機密事項であったため、その存在を知らない大尉にとっては本来の意味においての「未確認飛行物体」であった。また実際に電波をすべての方向に均等に反射する目的で、円盤型の実験機が1950年代に製作されたこともあったが、空力的安定性があまりにも悪いために実用化には失敗した。
東西冷戦期には「ソ連の新型機」ではないかという説も盛んに主張された。確かに冷戦時代のソ連にはTu-95、Tu-160などの爆撃機をベースに改造された超長距離偵察機なども配備させていた。現在もロシアにそれらの機種は存在し稼動中である。これらは、しばしばアメリカ本土付近に現れ防空識別圏に侵入し、挑発的偵察活動を行った。日本付近にも現れた記録がある。2013年3月には、ロシアのSu-27戦闘機2機が北海道北部にある利尻島の日本領空に出現した。これらの偵察機は、米軍機や航空自衛隊など西側諸国の空軍機によって確認された場合もあったが、目視確認される前に飛び去った場合も多々あった。戦闘機が超音速で飛行できる時間はごく限られているので、亜音速偵察機でも時間に余裕があれば邀撃機に捕捉確認されずに十分遠方に逃亡できる。
また、2021年ころより、米国連邦政府機関(国家安全保障局、中央情報局、第16空軍、国防情報局など)は、UAPが「中国が開発する新型無人兵器、自律型AI兵器」である可能性も含め、その正体や物体、現象を検知し分析する調査部会「AOIMSG」を設置した。米国のインテリジェンスコミュニティーだけでなく、エネルギー省の研究機関やDARPA,IARPA、その他Palantirといった民間機関とも情報を連携、協力して調査を進めると言う。ファイブアイズに所属する英国やカナダとも情報を共有して未確認空中現象を検証する。
この説は海外では古代宇宙飛行士説とも呼ばれており、一般に認識されている宇宙人もしくは何らかの未知の生命体が地球内に飛来して来た時に、地球人には彼らの乗り物が「UFO」として認識されているという説である。陰謀論を主張する者は世界各国の政府はこれらの重大な事実を認識しながら、一般市民によるパニックやエネルギー問題などの社会構造の大転換を恐れて隠ぺいと事実の否定を繰り返しているという。この議論は物理学者からSF作家までさまざまな立場の人物が情報を提供したり、宇宙人の存在の可能性について指摘している。
NASAのような公的な宇宙研究機関の職員や米軍関係者、民間の軍事テクノロジー企業の技術者も引退後、ある程度の年月が経ってから宇宙人関連の機密情報を暴露した、もしくは死の直前に「地球外の文明」や「他の惑星の物質」に言及しているケースは多々見受けられる。有名な例が宇宙飛行士のエドガー・ミッチェル大佐やロッキード・マーティン社の上級エンジニアだったボイド・ブッシュマン博士である。彼らは生前、主にグレイと呼ばれる生命体について語っていて、彼らが知っている範囲の生物的な特徴や嗜好、知能レベルについて暴露している。
世界の大国の国防機関や最先端の研究機関には機密の漏洩に関して厳しいルールが存在し、機密漏洩の誓約書に反する行為に抵触した場合、厳しい罰則や禁錮刑が科せられる場合がある。この条件下でエドガー・ミッチェル大佐やボイド・ブッシュマン博士は職業やプロジェクト勤務前に機密の漏洩に関する誓約書に署名をしていると思われ、未知の生命体グレイと接触し、国家最高機密レベルの仕事に携わったとしても、こういった極秘の宇宙開発のプロジェクトの全貌や地球外生命体の存在の可能性については、死を悟る直前まで黙秘を貫いてきた理由だと個人による情報配信サイトや一部のマスコミは指摘している。
グレイ型宇宙人の出身星に関する憶測については、アマチュア天文学者で作家及びオハイオ州で小学校教師をしていたマージョリー・フィッシュ( Marjorie Fish)はグレイ型宇宙人に誘拐されたとするヒル夫妻誘拐事件に興味を持ち、独自の調査を行った結果、「グレイ」の故郷はレチクル座ゼータ星から来ていると結論付けた。またUFO研究家であり作家のミルトン・ウィリアム・クーパーは、一部の政府機密文書の入手と関係者への取材による調査によってつかんだ事実として、グレイにも数種類のグループがおり、そのうちの「大きな鼻のグレイ型宇宙人 (large nosed gray aliens)」の出身惑星はオリオン座のベテルギウスであると述べている。これらの説を検証するため、FBIは一部のUFO事件とされる事案を扱った例があり、大学の宇宙研究所から民間企業まで宇宙生物学的観点から宇宙探査やSETIへの新規参入など様々な研究機関で地道な研究が行われているのが現状であり、公的な研究機関や世界各国の政府が地球外生命体を公式に認めた例は現時点では存在しない。
陰謀家のデイビッド・アイクは、地球には爬虫類型の宇宙人「レプタリアン」も既に地球に来ていると主張し、このレプタリアン達は普段ホモサピエンス科の人間に成りすましていて、世界各国の政治・経済界の指導的立場に就いて、世界を支配しているという。このレプタリアン説は一部の陰謀論者から熱烈な支持を得ている。
先ほどの「グレイ陰謀論」「レプタリアン陰謀論」に比べ考古学と宇宙人の来訪を結びつける要素が強いのが「古代宇宙飛行士説」と呼ばれる一部の作家の憶測や研究者による検証方法である。ギリシャ国籍の作家ジョルジョ・ツォカロスやスイスの歴史作家エーリッヒ・フォン・デニケンなどの作家は地球外生命体が紀元前から地球に来訪していると主張している。その根拠となるのは古代メソポタミア文明やマヤの遺跡から発掘された古代の文書や絵画で、そこには、その時代には存在し得なかった奇妙な物体や風景が描かれているという。日本においても古代宇宙飛行士説があり、『竹取物語』も完全な実話であり当時の地球にやって来た宇宙人が物語(記録)に登場していると作家の小泉芳孝は主張している。
宇宙物理学の分野においては、過去にブラックホールの特異点定理の理論を確立したスティーヴン・ホーキングは「UFOは宇宙人の乗り物ではない」という見解を示しながらも、地球外生命体と地球人類が接触することへの危機感をメディアで表明した。
NASAエイムズ研究センターに勤める日本人研究者の関根康人はタイタンにおける潮汐加熱によるハビタブルゾーンの可能性も指摘しており、現実にイオやエウロパでは潮汐加熱が大きな熱源となっていることから、窒素とメタンで構成される厚い大気に覆われ、液化したメタンの雨が降り、川や湖を作るのみならず、温度の状態が安定していることを鑑み、さまざまな仮説をもとに地球外生命体の存在の可能性を指摘している。
このように一部の陰謀論者や宇宙研究者が地球外の脅威と未知の文明、地球上における生命の起源を結びつけた仮説を打ち立てた結果、今現在、問題になっている未知の飛行体の存在とアメリカ国防総省によって科学的分析が行われている謎の空中現象に関してのさまざまな憶測が、娯楽としてSF映画などの題材になっているのが現状である。
UFOは隠れた現実である「異次元」から来ているとする説。「精神投影説」のように、UFOを「心理現象」であると解釈してしまうと、UFOの着陸跡(焦げ跡など)やレーダー上の航跡、アブダクションされた人々の手術痕などの物理的痕跡の説明がつかない。そこで人間の意識が投影された異次元が存在することを想定し、そこからUFOが現れると推測する説が成り立つ。「UFOが地球外の物であることを示す証拠は何もないが、時空を超越した異次元からきている証拠は山ほどある」と研究家であるジャック・ヴァレは指摘しており、ジョーゼフ・アレン・ハイネックは、UFOが突然出現し、忽然と消え去る現象が多数目撃されているため、それらは他の惑星からやって来たものではなく、異次元からやってきたものではないか、とコメントしている。
しかし、UFOを遠い星系から飛来する宇宙船であるとする説やタイムマシンであるとする発想から見ても、星間旅行や時間旅行を同種の技術で実施している可能性があり、それらの説と重複しているとする面がある。
ノンフィクション作家のマイケル・タルボット(英語版)は、現実とは決して客観的なものではなく人間の精神が生み出す間主観的なホログラムである、と述べたうえで、ホログラフィックな別次元からUFOが現れるのではないかと推測している。
宇宙の力を全て統一的に記述できるとされる「超弦理論」では、プランク長以下の極小空間に、隠れた6次元が存在するとされている。その隠れた6次元を構成する幾何学構造は、他のDブレーン(多宇宙)とつながっていると主張する物理学者もいる。
また、地球外生物説と重複してしまう可能性があるが、シミュレーション仮説との関連性も指摘されている。この世界を作った「上位管理者が何らかの形で介入した結果がUFO現象として現れている」という可能性を米国の愛好家の中で提案されている。
変性意識状態に入った人間がUFOとの遭遇を異次元にて起こした、と解釈する説。UFOとの遭遇時には体外離脱を経験する者も多く、そうした例では何らかの変性意識下の状態にあったと推測される。(→#アブダクション(第4種接近遭遇))
臨死体験研究者であるケネス・リング(英語版)やハーバード大学の宗教学教授であるキャロル・ザレスキーによれば、UFOとの遭遇はシャーマンが隠された次元に旅する時に遭遇する神話的な現実と似ているという。研究家のダニエル・ピンチベック(英語版)は我々の世界に別次元から干渉している妖精や異星人などの存在が太古から存在し、シャーマンのような特殊な資質をもった人間だけが彼らを知っていたのではないか、と述べている。
立花隆によれば、臨死体験を経験した後に、UFOと遭遇する者は少なくない。臨死体験の研究者であるケネス・リングが収集した事例では、その体験が臨死体験なのかUFO遭遇体験なのか区別できない事例が複数あったという。
一例として、ニューヨークに住むある女性が腫瘍で倒れ、体外離脱を経験した後に、気が付けば宇宙の施設内の手術台の上にいたという事例がある。女性が窓から宇宙を眺めていると「7人くらいの背の高い痩せた何か」に囲まれ「それ(腫瘍)はもうなくなった」と告げられた。女性の意識が地球に落下していき、肉体の中に戻ると、腫瘍が消失していることに気付いた。臨死体験説は矢追純一によるUFO番組特集でも取り上げられ話題になった。
ここに書かれた情報の多くは、航空・軍事用語での未確認飛行物体、UFOではなく、超常現象、エイリアンクラフトとしてのUFO学(UFOLOGY)的な意味での情報認識である。
世界的に広がっているUFO目撃を発表しあう会では、元アメリカ軍関連者やNASA関連者、その他パイロットと称する人々がそれまで軍や政府、しかしこれらの会合は一般的に英語で行われていることが多く、また目撃の多いラテンアメリカではスペイン語、もしくはポルトガル語圏であることもあり、日本へはUFO関連のイベントや会誌など情報の認知に時間がかかってしまうためか欧米諸国のブームを後追いする形になっている。
ポルトガル語を話すブラジルで発生したとされる「ヴァルジーニャ事件」を、日本ではしばしば「ヴァージーナ事件」とするカタカナ綴りで呼ばれる。これはポルトガル語つづりを強引に英語読みにした誤読であり、情報伝達上に問題があった。また、ポルトガル語の「JARDIM」を公園と訳しているが、この場合はヴァルージーニャ市の区の名前であった。これらの誤読、誤訳、誤解釈は、ポルトガル語から英語に訳されたときに起こったと考えられる。詳細はヴァルジーニャ事件の項目を参照。
インターネットやデジタルカメラの普及により最近では現象を収めたという映像など、アマチュア発の情報が増えていることもあり近年では会の世界的な活動も易しくなってきている。YouTube.comでの投稿数の多さは興味の高さを知る一つの手がかりとなる。しかし、投稿数が多いからといって、超常現象の信頼性が高いとは限らない。
これまで日本ではメディアでたびたび取り上げられるなどしているが、オカルト雑誌、オカルト番組などであり、バラエティ番組やワイドショーには登場してもニュース番組などではあまり扱われてこなかった。しかし、2017年12月16日及び2020年4月27日のUFOに関するアメリカ国防総省の報道について、ニュース番組や新聞を含む各種メディアにおいて報道されることとなった。
日本国の領空周辺には防空識別圏が設定されており、未確認飛行物体の領空侵犯に対し、自衛隊が対領空侵犯措置をとる。航空自衛隊は戦闘機を緊急発進し、海上自衛隊の護衛艦は対空戦闘用意が下令される。
日本国政府は、2007年12月18日に閣議決定された答弁書において、「地球外から飛来してきたと思われる」飛行物体について「存在を確認していない」、「研究も飛来した場合の対策も行なっていない」としている。なお、この答弁書については、町村信孝内閣官房長官(当時)が、同日行われた定例記者会見において「政府答弁は政府答弁であり、私は個人的には、こういうものは絶対いると思っております」と笑顔で答えたため、多くのマスコミで報道された。また石破茂防衛大臣(当時)は、同年9月27日に放送の日本テレビ『モクスペ』「UFO vs 世界の科学者100人」のインタビューで「UFOが領空侵犯したらどうすべきか役人と議論した」と語っており、核兵器の使用を在日米軍に要請するかの議論が必要としている。同年12月20日に行われた会見において、「防衛省の見解ではなくあくまで個人的見解である」と前置きをした上で「未確認飛行物体、それを操る生命体(当然人類もそれに含まれる)が存在しないと断定しうる根拠はない。(中略)少なくともないと断定するだけの根拠を私は持っていない。そういうものはあり得るだろうということだと私は思う」と述べた上で、未確認飛行物体、UFOが日本国の領空に飛来した場合の対処と法整備などを考えておくべきと述べた。この場合も、未確認飛行物体の用語定義を明らかにしないと、発言者の意思とはかけ離れたと解釈が生まれる。
2020年4月にアメリカ国防総省が正体不明のままだった飛行物体の映像を公開したことを受け、河野太郎は防衛大臣在任中の2020年9月に、自身はUFO(エイリアンクラフト)を信じていないと前置きしつつ、自衛隊機が未確認飛行物体と遭遇した際の手順を定める考えを示した。なお2020年4月現在、公式には自衛隊機が遭遇した報告は無いという。
聖書の文章をUFOに関すると解釈する主張はしばしば見られる。真っ先に挙げられているのは、イエス・キリスト誕生の際に現れたという「動く星」である。キリスト誕生のとき東方の三博士は動く星に導かれ、星は厩()の上にとどまった、というものである(新約聖書・マタイ福音書第2章)。
また、旧約聖書・エゼキエル書第1章には、輝く人の姿をした生き物の横に輪があり、輪はその生き物の動きに従って移動し、屋根のようなものの上には椅子があり、人の姿をした者がいた、と記述されている。これもUFOとその搭乗者として解釈されることがある。
キリスト教の絵画にはUFOらしきもの(以下、円盤と記す)が描かれていることがある。「受胎告知」「雪の奇跡」「聖母と聖ジョヴァンニーノ」「キリストの洗礼」「三位一体」「キリストの磔刑」など枚挙にいとまがない。描かれている内容も「円盤が光線を発射している」「円盤を見上げる人がいる」「円盤が火を噴いて飛行している」「2つの円盤が飛行しており、それぞれに表情の異なる人物が搭乗している」など、意図的に描いたことは明らかである。
さらにこれらの説を発展させた物が「キリスト=宇宙人」説であり、古代宇宙飛行士説と関連づけて解釈されることもある。また、聖書とUFOを関連つけた解釈として有名なものにゼカリア・シッチンの説などがある。
1970年代後半に日本でUFOブームと呼ばれる現象が起きた。ピンク・レディーの楽曲「UFO」をはじめUFOを題材にした多くの派生作品が作られ、社会現象としてUFOが流行になった。また、日本ではUFOを呼ぶときに「ベントラベントラ」と呪文を唱える方法があるとされるが、この「ベントラ」はレイ・スタンフォードのUFOの呼び方が元となっている。
1978年に映画『未知との遭遇』が日本公開されると、そのブームは頂点に達した。フィクションのテーマとしては大変面白いので、多数の作品が製作されヒットした。後述の作品リストの年代を参照。同時代に日清食品は「日清焼そばU.F.O.」と命名した即席焼きそばを発売し、現在まで販売し続けている超ロングセラーとなった。容器の形を空飛ぶ円盤に見たてるとともに、「UFO」を「うまい(U)、太い(F)、大きい(O)」のイニシャルにかけている。
SFには無数のバリエーションにわたる異星人が登場する。その乗り物も構造から材質、推進法まで綿密に設定された作品もあり、世間に流布しているUFOのイメージ形成にも大きく寄与している(ただし円盤型ではない宇宙船が登場する作品も多い)。地球人類との接触は侵略目的だったり、友好的交流や啓蒙、指導、庇護のためだったり、不時着・遭難だったりする。
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"text": "未確認飛行物体(みかくにんひこうぶったい、英: unidentified flying object)とは、その名の通り、正体が確認されていない飛行物体のこと。英語の頭文字からUFO(ユーエフオー、ユーフォー)と略称される。",
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"text": "1947年にアメリカの実業家のケネス・アーノルドが、ワシントン州レーニア山頂近くを飛行する一連の円盤状物体を機上から目撃し、空飛ぶ円盤(flying saucer)と名付けたのが始まり。その後、国防上の見地からアメリカ空軍が詳細に調査、未確認飛行物体(UFO)と総称されるようになった。",
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"text": "地球上では正体不明の飛行物体の目撃が毎年数百例も報告され、その正体は航空機など既知の人工物体、流星、蜃気楼などで、遠方のサーチライトや自然物(天体・雲・鳥など)の誤認も含まれる。",
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"text": "2021年6月25日に公開されたアメリカ合衆国国家情報長官室の報告書では、UFOに代えて、未確認空中現象(英: unidentified aerial phenomenon、UAP)の呼称が用いられている。",
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"text": "未確認飛行物体(UFO)は本来、航空・軍事用語であり、当局で把握できていない航空機や気象観測用の気球、他国からのミサイルなどさまざまなものを指す。風に流された気球や航路から逸脱した旅客機など悪意はないが事故につながる可能性のある事例もあるが、他国の偵察機や爆撃機、ミサイルによる先制攻撃の可能性があり、国家の安全を脅かす危険すらあるためスクランブル(緊急発進)の対象となる。空軍などの航空交通管制においては、レーダーに捕捉された正体不明の飛行物体に対しては、それが何であるか確認できるまで、警戒態勢を取る緊急の必要があり、特にレーダー電波を明確に反射する金属製の物は爆撃機やミサイルであるケースも確認されている。「何かがこちらに向かって飛んでくる」という注意を喚起するために「(方位)から未確認飛行物体接近」と表現することもあるが、明らかに航空機である場合は「所属不明機」(Bogey)と表現することも多い。",
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"text": "逆に正体を確認済みのもの(飛行計画が配信された旅客機や民間貨物機、鳥の集団など)は確認済飛行物体(英: identified flying object、IFO)と総称する。必ずしも物体ではなく、自然現象を誤認する場合もあるため、未確認空中現象(英: unidentified aerial phenomenon、UAP)が用いられることもある。実際に飛行しているところが目撃されなくても、飛行可能と思われるものが着陸していた場合などにも使われる。水中に目撃されたものは未確認潜水物体(英: unidentified submerged object、USO)ということもある。",
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"text": "小型の無人航空機や気象観測気球は移動速度が遅いが風で流されることで通常の航空機とは異なる動きをする、小型なためレーダーに映りにくく接近しても目視で捉えにくい、低速なため戦闘機ではすぐに追い抜いてしまうため視認できる時間が短い、スクランブル機が到達する前に着陸・墜落しても痕跡を発見しにくいなど「未確認飛行物体」のまま行方不明となりやすい条件が多く、スクランブルに対応した戦闘機パイロットの体験談が超常現象として流布されることもある。夜間や視界不良時の飛行ではパイロットが星や自然現象を航空機と誤認し報告する事例もある。これらは目視はできるがレーダーに映らないため「レーダーに反応しない機体と遭遇した」という体験談が広まることもある。速度と高度の関係で航空機による接近が難しいため、危険性が低い場合はスクランブルの対応をせずに監視のみという対応もある。",
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"text": "一口に「未確認飛行物体」といっても「航空・軍事用語として用いている」のか「超常現象用語として用いている」のかを区別する必要がある。未確認飛行物体を超常現象として捉える考えはフィクションの題材として多数用いられており、多くの映画・小説・テレビ番組などが製作・出版・放映されて、興行的成功を収めている(映画『未知との遭遇』など)。ユーフォロジーとは未確認飛行物体を超常現象であるという解釈に基づいて行うUFO研究のことである。航空軍事用語としてのUFO(アメリカ軍の公式用語)とは意味が異なる。",
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"text": "UFO目撃現象の分類として、高々度や宇宙空間での目撃、車が追跡された事件、電気的・機械的な影響を及ぼした事件、人間に心理的・物理的影響を与えた事件、着陸の痕跡を残した事件などがある。奇妙な泡を残して、海中に沈む様子が目撃された例もあれば、その姿形は円盤型であったり三角形型であったりと描写はさまざまである。UFOと共に搭乗者が目撃されたり、目撃者がUFO搭乗者による誘拐被害(エイリアン・アブダクション)を訴えたりする例もあり、それらは「第3・4種接近遭遇」例とも呼ばれる。",
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"text": "「UFO」は 英語: unidentified flying object の頭文字であり、英語では「ユー・エフ・オー」と読まれる。",
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"text": "ただ、この言葉をアメリカ空軍の公式用語として採用したエドワード・J・ルッペルト(英語版)大尉は、自著で「ユーフォー」としており、古くはこの読みも行われていたことがわかる。",
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"text": "一方、日本では1950年代から1960年代末期までは、未確認飛行物体の形状の違いにかかわらず「空飛ぶ円盤」と総括的に呼称されるのが一般的だった。古くは「ユー・エフ・オー」と読まれていた。例えば日本では1970年に放送されたテレビドラマ『謎の円盤UFO』の日本語版タイトルは「なぞのえんばん ユー・エフ・オー」となっていた。他方、世界の怪奇現象やオカルトを興味本位に紹介する特別番組などでは早くから「ユーフォー」の読みで紹介されており、現在の日本では「ユーフォー」の読みが一般的となっている。これはピンク・レディーのシングル曲である「UFO」のヒットによるものである。それでも、この読み方が完全に定着した後の1978年に製作された東宝映画『ブルークリスマス』などは、海外場面を含めて全編を「ユー・エフ・オー」の発音で通している。",
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"text": "アメリカ空軍の公式用語では「UFO」はあくまでも「正体を確認できない飛行物体」を意味する。ステルス機や無人航空機(UAV)の時代において国防上の問題と捉えたアメリカ軍は、新たに未確認空中現象(英: unidentified aerial phenomenon、UAP)という言葉を定義して、積極的な目撃報告を促している。",
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"text": "こうした経緯から、2020年にアメリカ国防総省が「UAP」の映像を公表したのに対して、世間では「アメリカ軍が『UFO』の存在を認めた」との誤った認識が広まった。この映像について防衛省は「アメリカの国防総省が、アメリカ海軍のパイロットがUFOを撮影した映像を公開いたしました。自衛隊のパイロットは今までUFOに遭遇したことはないようですが、万が一遭遇したときの手順をしっかり定めたいと思います」と公式に発表している。また、河野太郎防衛大臣は記者会見で、「あまりUFOは信じていないが、アメリカ国防総省が画像を出したので、真意や分析を聞きたい」とUFOを超常現象の用語と定義の上で見解を述べている。アメリカ空軍のUFOの定義に対する日本の対応は自衛隊法84条に基づき対領空侵犯措置があり、自衛隊の通常任務となっている。",
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"text": "運用者が不明のUFOは正体のわからない飛行物体であるので、根拠をもって分類することは不可能である。その解釈は多岐に上っており、その中にはUFOそのものを未知の宇宙生命体と見なす意見さえあるほどで、その全てを網羅することは困難である。",
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"text": "発見や回収、運用者とのコンタクトなどその物体の確認が取れればUFOではなくなる。",
"title": "UFOの分類"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ジョーゼフ・アレン・ハイネックが考案した。UFO目撃者からの観測パターンによる分類。",
"title": "UFOの分類"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "古代・中世から、超常現象としてのUFOと思われる物体は度々目撃が報告されており、古代文明の遺跡から出た壁画(アフリカ北部タッシリナジェールなど)や人形(日本の遮光器土偶など)の一部は「異星人」を思わせるとする解釈がある。浦島太郎など古来より伝わる幾つかの神話・おとぎ話は、宇宙人やUFOとの遭遇を元に作られたという説を唱えるUFO愛好家がいる。いわゆる宇宙人らしきものとともに目撃される例もある。これらは伝承や遺跡の解釈の問題でもあり、すぐには事実と認定できない。また地球人類以外の知的生命体が製造した飛行物体、生きた宇宙人やその遺体が確認された例はまだない。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "近代において円盤型の目撃例が増える20世紀後半より以前にも、19世紀末のアメリカでは「謎の飛行船(英語版)」、第二次世界大戦中の「フー・ファイター」、終戦直後の北欧では「幽霊ロケット」が目撃された。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
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"text": "航空機からの目撃例が多い他、なぜか軍事施設や原子力発電所の近辺、戦争中に目撃される例(前述のフー・ファイターなど)が多い。アメリカ同時多発テロ事件の際にも、2機目が突っ込んだ前後2 - 3秒ほどの間、UFOを付近で目撃したという発言が多発した。噂は存在するが情報の確認は行われていない(同項目を参照)。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "以下ではUFO目撃史において代表的とされる事件を挙げる(なお、以下の例では航空軍事用語とエイリアンクラフトとしてのUFOが混在している)。分類可能なものはハイネック博士による分類法などにより年代順に整理する(→#アレン・ハイネックによるエイリアンクラフトの分類)。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
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"text": "以下はパイロットなどが近距離から未確認飛行物体を目撃した代表的ケースである。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "第二次世界大戦中の1939年から1945年にかけて、未確認飛行物体が戦闘が激しい地域を中心にたびたび目撃された。「フー・ファイター」とは連合国の兵士たちの間で使用された「未確認飛行物体」の総称である。夜でもまばゆいほど発光しながら正確な編隊を組んでいたり、信じられないほどの高速で飛行したりしたと伝えられている。連合国側だけでなく枢軸国の日本軍やドイツ軍でも未確認飛行物体が目撃され、戦地で噂になっていた。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
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"text": "大戦当初にヨーロッパで目撃されたケースでは「ドイツの新型爆撃機だ」、また1941年12月の日本やアメリカの参戦後にアメリカ本土付近で目撃された際は「大日本帝国が秘密兵器を飛ばした」、「近海に日本の大艦隊がいる」、「ドイツの科学力と日本の航空技術が結ばれた」など、様々な噂が飛び出した。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
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{
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"text": "実際に、1942年2月に日本海軍の艦船がカリフォルニア州サンタバーバラ近郊の石油施設を艦砲射撃した翌日未明には、後に「ロサンゼルスの戦い」と呼ばれることになる未確認飛行物体(アメリカ陸海軍が日本軍の航空機と誤認した)の目撃と、それに対する大規模な攻撃がアメリカ陸軍によって行われ、多くの市民がこれを目撃し、対空砲火の破片や心臓発作で6人もの死傷者まで出す騒ぎになった。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また大戦後期のドイツは原爆(原爆はアメリカや日本も開発していた)やV2ロケット開発に着手し、当時の水準ではアメリカやソ連、イギリスを超えるほどの世界一ともいわれている科学力を持っていたため、戦後になっても「実はドイツは円盤型の超音速戦闘機を完成させていたのではないか」などの憶測を飛ばすことになった。そのためか、架空戦記ではドイツ軍の円盤型戦闘機などが登場するものもある。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
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"text": "1947年6月24日にアメリカ人のケネス・アーノルドが、自家用機で飛行中ワシントン州上空で9個の奇妙な物体を目撃した事件。この事件の影響により「空飛ぶ円盤(フライングソーサー)」という語が普及した。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
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"text": "1972年、高知県高知市東部にて、当時の中学生たちが両手に乗るほどのサイズの小型UFOを捕獲したとされる事件。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
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"text": "1982年11月にポルトガルの空軍パイロット3名が飛行中に、直径3mの円盤型で金属製のUFOと遭遇した。UFOは停止したと思えば空軍機の周囲を旋回してつきまとったりと不規則な動きをした。後にもう1機の空軍機が応援に駆けつけUFOと対峙した。最後にUFOは非常な速度で飛び去った。後の民間研究では、否定派の科学者がUFOは気球だったと主張したが、目撃したパイロットたちはその意見を否定した。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "1986年11月17日に日本航空のボーイング747貨物機が、アラスカ州上空でUFOに遭遇し追跡された事件。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
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{
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"text": "",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "2007年11月、コスタリカ サンホセ州タルバカ地区に住む建築材料の加工作業を行っていた一般男性が、作業現場周辺(Calle Azulillos)でUFOが浮遊しているのを目撃した事例。モトローラのRAZR V3という携帯電話を用いて近距離撮影に成功したという。当時コスタリカの現地マスコミによって放送された。この映像がCGIやVFXではない場合、非常に近い距離且つ、高品質な状態で動画での撮影に成功した最初の興味深い事例だと言える。 有志による画像解析とデータ検証によって、高い確率で加工された形跡が無いことが確認されている。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
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{
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"text": "コスタリカでは原因は不明だが、UFO現象が昔から多発しているという。2021年においてもこのサンホセ周辺でこのようなものが時折目撃されるという。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
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"text": "RV(Radar/Visual Reports)とはレーダー機器と目視で同時にUFOが観測された事例である。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
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"text": "1994年1月28日、ニース - ロンドン間の上空にて、エールフランス3532便の操縦士3名が奇妙な飛行物体を目撃した。当初「ぺしゃんこになった鐘」に見えたその物体は、すぐに赤黒い円盤状に形を変えた。2分後にその物体は消失したが、ある時はレンズ豆、ある時は矢のように見えるなど、絶えず輪郭を変化させていた。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
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"text": "同時刻にフランス空軍のレーダー、そしてトゥール市にあるレーダー探知センターが、3532便と直角に交わる未確認の物体を捕捉した。レーダーの記録などから、飛行物体が航空機や観測用気球であるという説は退けられた。パイロット達の証言の詳細は一致しており、物体が消失した時間の証言も、レーダーの記録と一致した。飛行物体の大きさは推定500メートルから1キロメートルであった。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
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"paragraph_id": 36,
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"text": "1998年10月19日、中華人民共和国河北省滄州市の空軍基地上空にUFOが出現した。地上からも「キノコのような形」をして地上に光を放射しながら飛んでいく物体が目撃された。この軍用機でも民間機でもない飛行物体が4つのレーダー基地でも観測されたため、基地司令のリー大佐は迎撃命令を出した。発進した戦闘機には2名が搭乗していた。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "この乗員の証言によれば、UFOはSF映画に出てくる形をしており、麦わら帽子のようであった。また、戦闘機が接近しようとすると逃走し、遠くに逃げ去ったかと思うと戦闘機の真上に出現したりと、相手をからかうような挙動を示した。飛行物体の高度が20,000メートルに達すると、戦闘機の燃料が乏しくなったため追跡は断念された。飛行物体はやがてレーダー反応からも消失した。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
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"text": "2008年1月8日のアメリカ南部テキサス州にて、警察官を含む17名が、フットボール競技場ほどのサイズのUFOを目撃した。UFOはレーダーでも3機捕捉されたが、そのうちの1機は飛行禁止空域だったジョージ・W・ブッシュの自宅に真っ直ぐ向かっていたため、F-16戦闘機が発進する事態となった。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "フラップとは、同じ地域で短期間にUFOの目撃が多発する現象。「UFOウェーブ」とも呼ばれる。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
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{
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"text": "対日戦が始まってから約3か月後の1942年2月24日の夕方、日本海軍の大型潜水艦がカリフォルニア州サンタバーバラ近郊の石油精製所を砲撃した(アメリカ本土砲撃)。米英戦争以来の本土攻撃を受けたアメリカ軍と政府は大混乱に陥り、アメリカ西海岸一帯に厳重な警戒態勢が敷かれた。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
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"text": "日本海軍による攻撃がその後なかったために、同日深夜には警戒態勢が解かれたものの、警戒態勢が解かれた直後の2月25日未明に、光を放ちながら数百キロメートルの低速で飛ぶ数十機の未確認飛行物体がロサンゼルス市上空に出現し、同時にレーダーにもとらえられたためにアメリカ西海岸一帯に再び警戒警報が出された。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "その後飛行物体を目視で確認したアメリカ陸軍によって、飛行物体に向けて1430発もの対空砲火が撃ち込まれた。対空射撃は2時間続いたが、撃墜された飛行機はなかった。数千人の目撃者の中には、対空砲火の中を光を放つ飛行物体がサーチライトに照らされている写真を撮影したものや、「秒速8キロメートルでジグザグに移動する光体」がいたことを証言するものがいた他、ラジオでは対空砲火が行われている風景が実況中継された。なおこの作戦中に落ちてきた対空砲火の破片を受けたり、驚きのあまり心臓発作を起こした6人が死亡した。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "しかし戦後公開された日本海軍の資料では、当時アメリカ西海岸沿岸で活動していた潜水艦の艦上機を合わせても10機にも満たなかった上に、この日にアメリカ西海岸上空を日本海軍機が飛行した記録はなかった(日本海軍機による初のアメリカ本土空襲が行われたのは同年9月である)。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
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"paragraph_id": 44,
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"text": "1965年、米国ニューハンプシャー州のエクセターにて「巨大な金属製の物体」が音もなく上空に静止しているのを警察官2名と大学生が目撃した。物体は急降下して目撃者に接近してきたが、警官は銃を抜くことができなかった。民間人のコラムニストであるジョン・フラーがこの事件を調査したところ、75件を超える目撃情報があることが判明した。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "この事件について空軍は自然現象の誤認説(→#気温逆転説)での説明を試みた。しかし、そうした公式見解は逆にジョン・フラーら民間研究者に「空軍によるUFO隠蔽説」の疑惑を抱かせることとなった。この事件により、1960年代のアメリカではUFO問題への多くの公開討論が各地で行われることとなった。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "1976年10月14日に大韓民国・ソウル上空に12機の国籍不明の飛行物体が侵入。首都周辺に駐屯する韓国軍が対空砲で一斉射撃を行い、市街地に流れ弾が着弾し数人が負傷。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "1979年11月11日の夜、109名の乗客を乗せたTAE(英語版) JK-297便のパイロットが、マニゼス東海上で驚くべき速度で飛来する2個の赤い光を目撃した。ジャンボジェットほどのサイズである2個の光の動きは完全に連動しており、航空機の周りを自由自在に飛び回り「挑発」とも取れる動きを示した。機長は空港に連絡を取りバレンシアに緊急着陸を行った。その後も赤い光は上空に見えており、地上要員や航空管制官、空港長が目撃した。その空域のレーダーにも捕捉された。スペイン防空司令部はロス・リャノス空軍基地のミラージュ戦闘機にスクランブルを命じたが、飛行物体は逆に戦闘機への急接近を行った。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 48,
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"text": "ちょうど1年後の1980年11月11日、同じ飛行物体がスペイン北東部に再び現れ、少なくとも6機のスペイン旅客機がそれを目撃した。飛行物体は非常に明るい緑色の球形で、空港の滑走路を「うろついた」後に「飛び去って行った」と目撃者は述べている。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1981年1月8日、フランスのプロヴァンス地方にて、自宅の庭で日曜大工をしていたレナート・ニコライが、爆音とともに急降下してくる鉛色の物体を目撃した。物体の大きさは2.5mで、スープ皿が上下に重なったような形をしており、光に包まれていた。1分をしないうちに物体は急速度で飛び去って行った。物体の下部にはドアが付いているようだった。地面には2mの円形の着陸痕が残っており、UFOという言葉を知らなかったニコライは憲兵に通報した。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "憲兵による現場の調査結果はニコライの目撃証言とほぼ一致した。ニコライの証言によれば、飛行物体は驚くほど正確な操縦技術で操作されていた。ニコライ家の近隣には軍事基地があったが、時間帯や着陸場所から考えてもヘリコプターや飛行機ではなく物体は全く無音で飛行したため、エンジンで動く機体でもなかった。フランス国立宇宙研究センターのUFO調査部署であるGEPAN(英語版)は、現場から採取した土や植物のサンプルを解析した。その結果、着陸痕の地面は衝撃で摂氏600度まで上昇し、微量の鉄や亜鉛などが検出された。現場で採取されたウマゴヤシは、電磁気的な影響により損傷を受けていたため、飛行物体が電磁気で飛行していたという仮説が立てられた。物体の質量は推定500〜700kgであった。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "懐疑的な研究者はUFOの着陸痕が完全な円形ではなく、車のタイヤに似ていること、当時の発見場所には車の往来があったこと、GEPANが現場に到着し調査を行うまでには時間の空白があったので、人為的な影響を及ぼすことが可能であったことなどを指摘している。そこで1988年には調査が再開された。再度による土壌分析では植物に影響を及ぼしうる(粉末状のセメントなどの)物質は見つからなかった。「これらの分析から重大な物理現象が実際に起き、植物への説明できない影響、地面を擦った後、熱衝撃をもたらしたという結論が得られた」と分析者は述べている。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "815年(あるいは852年)、フランスのリヨンにて、空から球状の物体が連なりつつ降下をしてくる事件が起きた。球体は草原に着陸すると、やがて「ドア」が開き、中から3人の男性と1人の女性が現れた。球体はやがて上空に消え去った。周囲の目撃者は出現した4人を魔術師だと思い処刑しようとしたが、やつれきった様子の彼らの説明を聞き、介抱した。介抱された4人の説明によれば、自分たちは普通の村人であり、野原にいる時にあの「球状の物体」と出会ったということであった。球体からは自分たちとよく似た男たちが現れ、彼らは自分たちは邪悪な者ではないと述べたという。4人は球体に乗り込み飛行経験をすることとなり、丸い窓から眼下の地上を眺めたり、世界各地の町を訪れたりといった体験をした。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "この説明は当時の人々に受け入れられず、4人は火炙りとなるところであったが、現場にいた司教が介入しこの混乱を鎮めた。事件の詳細はこの司教により記録された。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1948年に西ドイツのズンデルン (ザウアーラント)地方のヘマー村にて、全長30mの金属型の飛行物体が牧羊者の前に現れた。牧羊者は牧草地の中に着陸した物体の表面に触れると強いショックを受け気絶状態となった。彼が意識を取り戻すと、周りに体長1mほどのアーモンド形の目をした頭部の大きな生物たちがいた。彼らはおそらく酸素の容器と思われるチューブのついた箱を手にしており、気体を吸い出していた。彼らは理解できない言語で話し、土壌や草を調べサンプル採集を行っていた。やがて飛行物体に乗り戻ると、物体は高速で飛び去った。着陸痕として、丸く草が焼けた個所が複数並んでいた。目撃した牧羊者は、いつのまにか強い日焼けをしていた。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1952年マイニンゲン近くの森にて、48才の元ドイツの陸軍少佐が、11才の娘を連れてバイク走行していた。娘が150m先に変な物体があると言ったので近寄ってみたところ、円盤状の物体と、体長1.5mほどの銀色のスーツを着た2人の小人がいた。小人は目撃されたことに気づくと円盤に乗り込み、円盤は加速して飛び去っていた。辺りには押しつぶされた草が残っていた。元陸軍少佐は米当局にその話をし、西ドイツに駐在していたCIAに体験の証拠を提出した。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1954年10月10日、隣国のフランスでのUFO目撃がピークに達したころ、再びヘマー村の真北50kmの地点て、葉巻型の飛行物体が目撃された。あるミュンスターの映写技師は低空1.5mの高さで低空する葉巻型物体と、その下で作業する体長1m以下の小人たちを見た。彼らの頭部は大きく、ゴム製のような衣服を身に着けていた。小人たちは梯子を使い、物体の中に入っていった。その数時間前には、近くの田舎道を走行していた3名が、2体の小さな生き物がハイウェイを横切り円盤の中に入っていくのを目撃していた。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "上記の目撃者は、誰も他の者の体験について知らなかった。目撃された飛行物体は同じ形状で、その搭乗者にしても当時流行していたハンサムで長髪のUFO搭乗者の記述とは一致していなかった。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1950年にアルゼンチンで起こった事件。当時、建築技師であったエンリケ・ボッタ(Enrique Botta)は、高速道路を車で走行中に、そばの草地に円盤型で金属製の物体があることに気づいた。物体は静止していたため、ボッタは意を決し中に入ることにした。内部は(天井があることを除けば)空のように見え、壁際には4つの座席があった。座席には身長1.2mほどの灰色の小人が計器やパネルに向かって座っており、その身体は焼けただれていた。生物はすでに死んでいた。座席前の制御パネルの上には透明な球体が回転していた。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "高速道路に戻ると、ボッタは大急ぎで友人2人を呼びに行った。既に日が暮れていたので、翌朝になり3人は「UFOの墜落現場」に戻った。既にそこに円盤はなく、代わりに灰の山があった。1人がそれを手ですくってみると、手は緑色に変色し何日もそのままだった。その直後、1人が上空を見上げると、葉巻型と円盤形の3つの飛行物体が浮かんでいた。ボッタは5枚の写真を撮影したが、現像した結果はぼんやりとした形が2枚写っていただけだった。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ボッタはこの事件の後に、高熱に見舞われ皮膚が膨れ上がった。医者に診せても原因不明と診断され、この症状は数週間続いた。ボッタはこの事件を公表しなかったが、後に彼の2人の友人が公表した。ボッタは博士号をもつ人物であり、地元での評判も良く、無視できない目撃者であった。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1957年11月5日に全米各地で数多くの未確認の飛行物体が目撃された。目撃された場所は多数であり各地の警察署の電話回線はパンク状態となり、報告を受けた米軍はジェット機の緊急発進を行った。メキシコ湾の航行中の警備隊やニューメキシコ州のミサイル試射場の憲兵隊員、テキサス州の米空軍気象観測官らも飛行物体を目撃した。特にカリフォルニア州の気象観測官3名と、そこからわずかに離れた上空を飛行していた空軍兵10名は「円盤型で磨き上げたアルミニウムのように輝く6機の飛行物体」をほぼ同時刻に目撃した。テキサス州の防空監視団は「赤い光を放つ巨大な飛行物体」からの通信を傍受することに成功したが、その内容は解読不能であった、と証言した。民間人からのいくつかの証言は「飛行物体が近づいた途端に自動車のエンジンやカーラジオが停止した」などの点では一致した。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "同日、カリフォルニア州で穀物飼料問屋に勤めるラインホルト・シュミット(en:Reinhold O. Schmidt)という名の男性が、「金属でできた銀色の宇宙船」を目撃し、その内部から現れた「2人の男」と会話を交わしたと証言した。宇宙船内部には、地球人と似た6名の男女がおり、内部を見せてもらった後に宇宙船は垂直に飛び去ったと語った。シュミットは警察に届け出たが、正気ではないと判断され精神病院に送られた。シュミットはその後、自らの体験を自費出版した後に行方不明となった。宇宙船の着陸現場に出かけた警察署長は「確かに何らかの機械がここに着陸した」と判断した。シュミットが宇宙船を目撃した地域で、謎の飛行物体を目撃したという報告が複数人の目撃者により寄せられた。彼らはシュミット同様に、飛行物体が接近した際に車のエンジンが停止した、と語った。シュミットが宇宙船を目撃した翌日には、テネシー州に住む12歳の少年が宇宙船と宇宙人を目撃したと報告した。その描写はシュミットの描写とほぼ同様のものであり、少年がシュミットの事例を知っている可能性は皆無だった。フラップ(UFOの大量目撃)と第3種接近遭遇が同時に報告されたまれなケースである。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "1959年6月26日、パプアニューギニアにて、空中に浮かんでいる円盤型のUFOを38名の人間が目撃した。円盤の中には4名の人影が何らかの作業をしている様子が見えた。目撃者の1人が搭乗者に向かい手をふると 搭乗者達も同じ動作をした。目撃者が両手を上げて振ると、乗員たちも両手を上げて振って応えた。UFOは45分もの間観測され、最後には空中に飛び去って消えた。その後しばらくの間、カトリック教会の上空などに断続的にUFOは出現した。最終的な目撃者は約150人に及んでいた。目撃者であるWilliam Booth Gill神父が目撃内容を詳細に文書に記し、他の目撃者25名がその文書に署名した。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "迷信深い者たちによる目撃事件にすぎない、と批判する者も出たが、目撃者の中には高等教育を受けた者や、別国の宣教師や貿易商などが含まれていた。パプアニューギニアとは関係のないアメリカ空軍はなぜかこの事件について、土星や木星などの天体が光の屈折により目撃された自然現象であった、と発表した。だが目撃された乗務員についての言及はなかった。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "なお、この事件が発生する6日前から「コーヒー皿のような飛行物体」や「窓のあるラグビーボール」の光体などが目撃されている。さらにこの事件の後2か月にわたって、同地域にてUFOが目撃され続けた。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "1973年11月1日、米国ニューハンプシャー州マンチェスターでのルート114にて、車で帰宅中のリンダ・モレル夫人が、明るいオレンジ色に輝く六角形で構成された巨大な球体を目撃した。その物体は半分透けているような性質があり、上方には窓のようなものが見えた。モレル夫人は体中がヒリヒリする感じを受け、意識が薄れたが気が付くとUFOの近くまで進んでいた。物体の窓には人影があり、グレイ型の人相をしていた。搭乗者は彼女に「怖がらないように」何とか伝えようとしていると感じられた。女性はパニックになり車から抜け出し、近くの民家に助けを求めた。民家の住人が警察を呼び、警察官が駆けつけると、遠くに色を変えながら移動する光体が見えた。民家の住民を含めた合計4名がそれを目撃したが、嘲笑を恐れ、地元の新聞社には曖昧に報告した。モレル夫人は調査を受けたが、催眠状態での質問の受け答えでも彼女の話に矛盾点などは見られなかった。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "そして11月3日になると同地域にて再びUFOが出現した。レックス・スノーと妻のテレサは、小型望遠鏡で銀色の円盤を目撃した。そして同日の真夜中に、レックスは自宅回りが異様に発光していることに気付き、外に出たところ「銀色のスーツ」を着た異形の人物2人を目撃した。レックスは飼い犬に「飛びかかれ」と命じたが、銀色の生物ににらまれると飼い犬は沈黙した。銀色の人物2人はしばらく地面から何かを拾い上げる作業を続けた後に木立の中に消えた。テレサは「銀色の輝き」が木立の中を遠ざかっていくのを目撃した。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1975年に山梨県甲府市で起きた、UFOと宇宙人を目撃したと報道された事件。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "一部の古代宇宙飛行士説論者が江戸時代に起きたと主張する事件である。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 70,
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"text": "1897年4月17日、アメリカ合衆国テキサス州オーロラ(英語版)近郊に“飛行船”が墜落。住民たちが見に行くと未知の金属の破片や当時の地元新聞の表現によると“この世のものではない”(\"not of this world\") 操縦士の遺体を発見し、火星人と考えた住民はキリスト教の儀式に則り葬儀埋葬し、墓を建てたという。その後1970年代に再注目されるまで70年以上この事件は忘れられていた。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
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"paragraph_id": 71,
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"text": "ケネス・アーノルド事件の直後に起きた、いわゆる「ロズウェル事件」は極めて有名であり、複数のフィクションにおいて何度も題材にされているほどである(『ロズウェル - 星の恋人たち』など)。これは、アメリカ南部ニューメキシコ州のロズウェル近郊に「UFOが墜落し、その残骸が軍によって回収され秘匿されている」というものである。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
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"text": "1947年6月14日、ニューメキシコ州ロズウェル近郊にある牧場で、マック・ブレーゼルは牧場内に散乱した金属片を発見した。7月に入ってブレーゼルと彼の家族は金属片を集め、保安官のジョージ・ウィルコックスに通報。ウィルコックスはロズウェル空軍基地に連絡した。7月7日の午後、基地からやってきた2人とブレーゼルは残りの破片を捜してゴムや金属箔を見つけたのち、元の形を復元しようとした(が、上手くはいかなかった)。翌朝、破片は基地へ持ち帰られた。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
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"text": "7月8日、ロズウェル基地付け報道官のウオルター・ハウト陸軍中尉が「陸軍航空隊がロズウェル近郊の牧場に墜落した空飛ぶ円盤(Flying Disc)を回収した」と発表し、マスコミの注目を浴びた。しかし同日中にロジャー・M・レーミー空軍准将が「発見された空飛ぶ円盤は軍が使用している気象観測用の気球だった」と訂正を行った。後に行われた発表では残骸も公表されて、事件はすぐに忘れ去られた。それから30年以上、UFO研究家も含めて誰も関心を持つことはなかった。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
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"text": "しかし1978年になって、破片回収を行った軍人ジェシー・マーセルに対してUFO研究家がインタビューを行った際、マーセルはこの事件を軍による隠蔽とする意見を表明した。この話題はUFO愛好家の間で関心を持たれるようになり、1980年にはタブロイド紙『ナショナル・エンクワイアラー (National Enquirer)』がマーセルへのインタビューを載せたことで、広く世間で知られるようになった。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
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{
"paragraph_id": 75,
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"text": "「ロズウェル事件」が有名になると、既に30年以上経過していたにもかかわらず、軍の圧力があったとする証言や「政府の秘密文書」などが多数表れるようになった。「ロズウェル事件の際に回収した異星人の解剖フィルム」なるものまでが現れた。1997年には、アメリカ政府より正式報告書「ロズウェル・リポート」が改めて発行された。この報告書では「当時墜落したのは実は秘密実験に使用されていた気球で、後に発見された異星人の死体といわれるものは高度での人体への影響を調べるための観測用ダミーである」としている。また解剖映像が捏造()であったことが後に判明した(宇宙人解剖フィルムの項目を参照)。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
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"paragraph_id": 76,
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"text": "2007年、ロズウェル基地の元報道官ウォルター・ホート大尉が、ロズウェル事件について「隠蔽があった」ことや、基地の格納庫で「異星人の死体を直接見たこと」を記述する宣誓供述書に署名していたことが判明した。研究者であるドナルド・シュミットによれば、これは最も強力な証拠であり、他にも異星人の死体や墜落した円盤を目撃した関係者の証言が多数得られているという。空軍により尋常ではないほどの家宅捜索や脅迫をされたため、隠蔽工作があったことを確信する証言者も多い。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
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"paragraph_id": 77,
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"text": "1957年12月から翌年の1月にかけて、ブラジル海軍が国際地球観測年に向けての観測基地を南大西洋に浮かぶマルティン・ヴァス諸島のトリンダージ島に設営する際に、数回にわたり観測隊員や島民が円盤型の飛行物体や光を目撃したとされる伝達情報。日本のUFO愛好家の間では昔からあった有名な話であり、たびたび出版されている。出版物などで同島を「トリニダーデ島」と呼ぶが、正しい名称は「トリンダージ島」(Trindade、ポルトガル語であり綴りが異なる)である。トリニダーデ島(Trinidad、元来はスペイン語)とはカリブ海にあるトリニダード・トバゴの島であるので、誤訳といえる。超常現象としてのUFOの話にはこのような誤訳が多い。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "この話はブラジル国内ではほとんど知られていないが、他国では書籍の写真を通して有名である。同島はブラジル東南部のエスピリトサント州の沖にあり、本土から1200キロメートル以上離れている。居住島民はおらず、海軍の駐在所と科学研究員の宿泊施設がある。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "1958年1月1日にブラジル海軍長官と観測隊員が同島周辺を飛行する光体を目撃したとされた。同月15日と16日には海軍練習船アウミランチ・サウダーニャ号(Almirante Saldanha )が観測船として同島に接近したときに円盤型の飛行物体が出現したとされる。ただし、この目撃例は地球観測年だけのもので翌年以降はない。また、「公認のUFO写真」という有名な写真が海外の雑誌に出版されたが、ブラジル海軍は遭遇を認めていないので「公認」の写真ではない。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "写真に写っている物体は湿った大気中を飛んでヴェイパーに包まれた飛行機という意見もあり、ツインボナンザという機種が似ていると研究されたが、特定されてはいない。写真は4枚の連続写真であり、1枚目は飛行機の側面から、2枚目以降は正面からとられたものと推測されている。1枚目はぼんやりと土星型に写っているが、2枚目以降はもっとはっきりとした円盤型に写っている。それが水蒸気に包まれた双発のプロペラ機を正面から見た形に似ていると指摘する研究者もいる。しかし最近のデジタル化した写真の分析により、二重露出で物体を写したものという意見が説得力をもっている。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "写真を公表したのは海軍ではなく、同行したカメラマンであるアルミロ・バラウーナ(Barauna)であった。彼にはトリック写真を作る技術があり、この事件以前にも偽UFO写真を撮って「UFOに追いかけられた」というジョーク記事も書いたことがある。この件も面白そうな形に写った飛行機の写真を思わせぶりに見せただけだと考えられるが、結果として国外では大変有名になってしまった。ブラジル最大の新聞『オ・グローボ(ポルトガル語版)』は、バラウーナのいたずらと結論付けた。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "2004年3月5日に、麻薬密輸の監視にあたっていたメキシコ空軍機が十数機のUFOに遭遇し、追尾されたとする事件。赤外線探知機の画像には、よく見れば静止した物体であることがわかる11個の点が映っていた。しかし、メキシコ空軍が公式に発表したために世界各国で報道された。その後、地元のUFOに肯定的な団体の調査により、UFOの隊形と煙突の配置が同じであること、画像の「UFO」は移動していないことから、海上油田の煙突のフレアスタックの誤認だと結論されている。メキシコ政府は公式発表についてその内容を変更してはいないが、そもそもの「発表」が、報告を受けた将官が知人のUFOマニアに見せた以上の調査もせずに行われたものだ。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "UFO現象の中には、「UFOに誘拐された」とする「アブダクション」の事例報告が存在する。体験者によると、UFOによりUFOの中に誘拐され、医学的な手術を受けたり、小さなトランスミッター(発信機)を埋め込まれたり、実験や研究の対象となったという証言、場合によっては性行為(男女双方に対する強制的、もしくは非強制的な)の対象となったという報告もある。宇宙人と好意的な関係を結んだとする「ポジティブなケース」も存在するが、多くの場合、体験者はトラウマを抱え込むことになる。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "アブダクション時には体外離脱などの現象も起こるため、ある研究者は臨死体験との類似を指摘している(→#臨死体験説)。アブダクションにはある特定の傾向がある。「アブダクトされたという時間と場所に、確かにいるはずの人がいない」「帰ってきたときに、身体に異常な痕跡が残っている」「複数人が同時にアブダクトされ、お互いの体験を検証できる」といった特徴である。またアブダクションを報告するものはコンタクティー(英語版)と混同されることが多いが、ほとんどのアブダクション体験者は、その体験で金銭を得ようとはしない傾向がある。また多くの場合、自分の体験が異常なものであると感じるため、体験者は自分の存在を公にしたがらない傾向がある。アブダクションの対象となった人々は医師・弁護士・教授などの職業層から非熟練労働者まで広い範囲にわたっている。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "アブダクション体験は証言のみで物的証拠が伴わない場合が多く、調査の結果フィクション、もしくは虚偽記憶、想像上の体験であることが判明したケースもある。物的証拠については、体内に埋め込まれた「トランスミッター」、もしくは物質を後からMRIやCTで発見し、手術によって取り出した、とする事例もある(それは小規模な脳梗塞などの画像だとする説もある)。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "数多い報告の1つに「鼻の奥に球状のインプラントを埋め込まれた」という例がある。この場合、医師により鼻孔の奥が調査された結果、証言通りに謎の金属球が発見されたり、鼻孔に説明不可能な穴が開いている事が確かめられたケースもある。宇宙人の子供を授かったというケースでは、妊娠が確認された体験者の体内から、いつのまにか胎児が消えていたことを医師が発見したケースがあるという。アブダクション後には癌が治癒していたと語る者もいる。2013年のシチズンズ・ヒアリング・ディスクロージャー公聴会には、エイリアンにアブダクションされたと主張する人々の身体を調査を行った医師が参加し、全く傷痕のない患者の体内に異物が混入していたケースが存在したことなどを証言している。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "これらのアブダクション現象については虚偽記憶(False Memory)で説明できるという考え方がある。アブダクション体験談の多くは「催眠状態の誘導により思い出されたもので、そこに虚偽記憶が介在する余地があるため、信頼性の高い情報とはいえない」という側面があるという理論である。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "なお、研究者であるデイヴィッド・マイケル・ジェイコブズはこの虚偽記憶説を批判している。「アブダクション体験者は互いに面識がなく、UFOについての知識がないにも関わらず一般に知られていない詳細なアブダクション現象の共通点を同じように報告してくるため、それらが作り話や虚偽記憶であるという可能性は極めて低い」と述べている。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "もし催眠下にある人間がアブダクション体験を捏造しようとした場合、その報告はバラバラで全く共通点がなくなるという実験結果も出ている(アルヴィン・ロースンの実験)。またUFOとの遭遇を直接思い出した者と、催眠により思い出した者とが語る証言には、実質的な違いは何もないと結論した研究もある。アブダクション体験者の中には、催眠を用いずに体験を思い出した例もあり、そうした体験者がウソ発見器をパスしたケースもある(1973年のパスカグーラ事件など)。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "アブダクション現象は幼児期の性的虐待の記憶が多くの人間に虚偽記憶として蘇っているのではないかとする「出生外傷説」がある。スタニスラフ・グロフがLSDを用いた研究では、出生外傷に基づくと思われる意識状態にて、第4種接近遭遇とよく似た現象を報告した者がいる。しかし、この説では「アブダクション体験者が催眠により虐待そのものの記憶を取り戻さないこと」や「多くのアブダクション体験者が子供の頃の虐待体験を否定していること」などの事実の説明がつかない。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "ベティ・ヒルとバーニー・ヒルの夫妻は、1961年9月19日から9月20日まで地球外生命体に誘拐されていたと主張した。催眠療法により両者が同じ記憶を思い起こしたことが話題となった。この事件はアブダクション事例の中でも最も有名なものとなり、さまざまな議論を呼んだ。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "1989年11月30日深夜、アメリカ東部ニューヨークのマンハッタンにて、マンションの窓をすり抜けて女性が空中に浮き上がり、上空の UFO に吸い込まれるという事件が起きた。この光景を、第5代国際連合事務総長であるハビエル・ペレス・デ・クエヤルと彼を護衛する2人のボディガードが目撃していたとされる。アブダクションされた女性リンダ・ナポリターノは後に退行催眠などにより事件の記憶を思い出した。またデ・クエヤルはこの目撃談の存在を否定した。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "後に研究者のバッド・ホプキンズ(英語版)がこの事件を調査している。ホプキンズが取材を行ったところ、国連事務総長であるデ・クエヤルは、アブダクションは事実であったと述べた上で「それを自ら公表することは混乱を招くのでできない」と発言した。また目撃者は他にも存在していた。郵便局員とジャーナリスト、電話交換手など複数の者が、リンダが空中に吸い込まれていく光景などを目撃していた。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "1967年1月25日、ベティ・アンドレアソンは台所の扉を透過して入ってきた5人の小人たちに導かれて、小型のUFOに乗りこんだ。「出産テスト」をうけたあと、不思議なトンネルを通って、未知の世界へと旅をして、不死鳥の映像を見せられた。事件から10年後の1977年、UFO研究家の調査に応じて逆行催眠をかけられて、何に遭遇したのかを知った。CUFOS (Center for UFO Studies) の所長ジョーゼフ・アレン・ハイネック博士は、アンドレアソンの事例によってUFO問題が「驚くほど複雑」になってきたことがわかると記している。アンドレアソン事件は複雑であるため、拉致事件の記録のなかでも重要度においては最大級の出来事である。",
"title": "代表的な目撃例とされた事件"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "UFOについて、実名で言及した軍関係者は数多い。",
"title": "UFOについて言及した著名な人物"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "これら諸説は、いわゆる「超常現象としてのUFO」の存在を肯定して、その正体について言及するもの「超常現象としてのUFO」の存在を否定して、現在の人類が知り得る科学的知見の範囲内で説明するもの(誤認説など)と、2通りに大別できる。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "「UFOは未来の人々が開発した、時間移動を行うために使用する乗り物(タイムマシン)である」とする説。UFOが消えたり現れたりすることを空間移動ではなく時間移動と解釈する。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "フランスのUFO調査機関であるGEPAN(英語版)の設立者ルネ・フーエルは、UFO搭乗者が一般的に人類との接触を避けているのは、彼らが未来人でありタイムパラドックスを避けている可能性があると述べている。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "歴史上の重要な時点でUFOが目撃されることがしばしばあるが、これは未来人が過去の重要な場面を選んでいるからだという推測もある。例えば20世紀直前の時期には飛行船が将来に実用化されると考えられていたが、当時のUFOは飛行船の形態と似ていた。第二次世界大戦中には爆撃機のマーカーとして輝くキャンドルが使用されたが、当時のUFOは発光する球体の形をしていた。第二次大戦後の1946年にはロケットの形をした「ゴースト・ロケット」が世界を騒がせた。1990年代には米国のステルス戦闘機を真似た三角形型のUFOが目撃された。これらの物真似はその時代にどういった種類の飛行物体が製造されるのか前もって知っていなければ不可能である。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "UFOと遭遇し20分間行方不明になっていた男性が、発見された時は5日分のヒゲが伸びていたというケースがある。UFO搭乗者が、地球の言語を話したり、地球製の衣服を着ていたり、地球の食物を食べていたという事例も見られる。また極まれに搭乗者が目撃者に対して「今は何年か?」と尋ねたり、未来の地球からやってきた、と証言するケースもある。UFO搭乗者の姿は、背が低く頭の大きな子供のような姿で描写されることが多いが、これはネオテニーが進んだ未来の人類の姿であるという推測もある。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "この説に関しては物理的な根拠、証拠は一切示されていない。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "HISTORYチャンネルの「古代の宇宙人」シリーズでは古代宇宙人の来訪だと主張するジョルジョ・ツォカロスの説が紹介された。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "「UFOを写した」とされる写真の中には、人工物や自然現象の誤認の他に、模型や光学合成による作り物が多いことも知られている。近年はコンピュータグラフィックスによってかなりリアルな画像を捏造するケースが多い。安価なカメラを用いても、トリックをうまく計画すれば、超常現象雑誌に掲載されるレベルの完成度の高い画像を作ることは可能である。「本物」とされ繰り返し出版された写真の中にも、後年になってトリックを見破られた例は多い。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "なお、UFOのトリック写真には以下のものが多い。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "この他に気球や凧を上げるなどの方法もある。これらは故意によらず誤認されることがある。マンテル大尉事件がその一例。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "クロップサークル(ミステリーサークル)がUFOのような光によって作成されていたり、クロップサークルの近くをUFOが飛んでいたりする目撃談があることから、クロップサークルとの関連も考えられることが多かったが、クロップサークルの多くはイタズラであったと後に判明している。その典型がイギリスのダグ・バウアー(Doug Bower)とデイブ・チョーリー(Dave Chorley)である。この2人はミステリー・サークルの最初の製作者として名乗りを上げ、簡単な道具と人力によって立派なミステリー・サークルが比較的短時間で作れることを実演してみせた。この実証により、現在ではミステリー・サークルは人間によるイタズラと見なされるようになった。1990年9月17日、福岡県糟屋郡篠栗町の稲田で直径20メートルと5メートルのサークルが出現し、全国ネットのニュース番組で取り上げられた。篠栗町ではミステリー・サークルのテレホンカードを売り出すなど、町おこしに活用している。それをきっかけに2か月間に福岡県と佐賀県で5箇所で10個のサークルが出現するなど日本各地でミステリー・サークルが発見され、マスコミでも大きく取り上げられた。しかし、1991年10月、福岡県内で窃盗の常習犯として警察に検挙された高校生12人のグループが、篠栗町ミステリー・サークルを作ったのが自分たちだと自白し、いたずらと判明。この報道以降、日本におけるミステリー・サークル発生報告はほとんどなくなりブームは鎮静化した。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "一部の軍事評論家は、UFOの目撃談は軍事組織や情報機関によって捏造された物であると主張している。これらは最新ドローンやステルス攻撃機の目撃談、政府による極秘の宇宙開発プロジェクトや軍部独自の地球外生命体探査など重大な機密が世間やスパイに漏れるのを防ぐため、敢えて超常現象としてマスメディアを通じて喧伝()したり噂話を増長させることで肝心な部分から目をくらます欺瞞()工作であるというのだ。地球外の古代遺跡やタイムマシン、古代文明人の来訪など捏造自体はそれと証明された物が多いが、これらに軍や情報機関が関与している証言や物証は乏しく陰謀論から抜け出すものではない。ただし、エリア51のように、秘密兵器の研究基地であることがわかっている場合もある。テレビ局が超常現象を扱う人気番組を作るために故意に物語を捏造したり、偶発的に起こった騒ぎを利用したり誇張したりする場合もある。(→#ヴァルジーニャ事件)",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "UFO現象のうちいくつかは、それが起こる直前から無名のSF作家たちにより人知れず予想されていたケースがある。また超現実的で夢のような性質をもつUFO遭遇事例も多く、UFOの搭乗者が無意味な行動を取ったり、地球上の衣服を身に付けていたり、当時流行していたサイエンス・フィクションの影響を受けている事例もある。これらから、UFOは人間の無意識が投影されたものであるとする見方がある。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "ただし、UFOや異星人という概念自体が深層意識においてさえ存在しない時代の目撃例は、この説では説明がつかない。(→#9世紀のUFO搭乗事件)",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "自国を含めて、地球上のどこかの国の軍部によって秘密裏に開発されている戦闘機や兵器ではないかという説。冒頭で述べた通り、UFOの正体についての諸説は、いわゆる「超常現象としてのUFO」の存在を肯定するか否定するかで2通りに大別できるが、本説はその両者を含む。つまり従来の科学的知見を超えた秘密兵器を誰かが極秘裏に開発しているのではないかという主張と、単に見慣れない格好の航空機を誤認したに過ぎないという主張である。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "新兵器を誤認したという観点では、例えばアメリカ軍であれば、XF5Uフライングパンケーキ、YB-49、F7Uカットラス、F-117ナイトホークなどの航空機が候補にあげられる。一般人からすると形状が奇妙だったり開発・運用が秘密だったりする。これらの機体は「UFO」であり正体を明かされていない飛行物体である。それらの新型機はいずれも民間空港で見慣れた形態ではなく、全翼機などの近未来風のSF戦闘機を想起させる形状をしており、常識を超えた速度(目視による速度の見積もりは問題が多い)で飛行できるなど、超常現象としてのUFOの目撃例と類似した点が見られる。実際、アメリカのネヴァダ砂漠にある空軍基地エリア51は、新型飛行機を含めた新兵器が開発・訓練するための基地である。当然のことながらこれらは軍事機密である。マンテル大尉事件においては、海軍が開発していたスカイフック気球を誤認したというのが、有力な説かつ空軍による公式見解であるが、当時のスカイフック気球は海軍の機密事項であったため、その存在を知らない大尉にとっては本来の意味においての「未確認飛行物体」であった。また実際に電波をすべての方向に均等に反射する目的で、円盤型の実験機が1950年代に製作されたこともあったが、空力的安定性があまりにも悪いために実用化には失敗した。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "東西冷戦期には「ソ連の新型機」ではないかという説も盛んに主張された。確かに冷戦時代のソ連にはTu-95、Tu-160などの爆撃機をベースに改造された超長距離偵察機なども配備させていた。現在もロシアにそれらの機種は存在し稼動中である。これらは、しばしばアメリカ本土付近に現れ防空識別圏に侵入し、挑発的偵察活動を行った。日本付近にも現れた記録がある。2013年3月には、ロシアのSu-27戦闘機2機が北海道北部にある利尻島の日本領空に出現した。これらの偵察機は、米軍機や航空自衛隊など西側諸国の空軍機によって確認された場合もあったが、目視確認される前に飛び去った場合も多々あった。戦闘機が超音速で飛行できる時間はごく限られているので、亜音速偵察機でも時間に余裕があれば邀撃機に捕捉確認されずに十分遠方に逃亡できる。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "また、2021年ころより、米国連邦政府機関(国家安全保障局、中央情報局、第16空軍、国防情報局など)は、UAPが「中国が開発する新型無人兵器、自律型AI兵器」である可能性も含め、その正体や物体、現象を検知し分析する調査部会「AOIMSG」を設置した。米国のインテリジェンスコミュニティーだけでなく、エネルギー省の研究機関やDARPA,IARPA、その他Palantirといった民間機関とも情報を連携、協力して調査を進めると言う。ファイブアイズに所属する英国やカナダとも情報を共有して未確認空中現象を検証する。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "この説は海外では古代宇宙飛行士説とも呼ばれており、一般に認識されている宇宙人もしくは何らかの未知の生命体が地球内に飛来して来た時に、地球人には彼らの乗り物が「UFO」として認識されているという説である。陰謀論を主張する者は世界各国の政府はこれらの重大な事実を認識しながら、一般市民によるパニックやエネルギー問題などの社会構造の大転換を恐れて隠ぺいと事実の否定を繰り返しているという。この議論は物理学者からSF作家までさまざまな立場の人物が情報を提供したり、宇宙人の存在の可能性について指摘している。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "NASAのような公的な宇宙研究機関の職員や米軍関係者、民間の軍事テクノロジー企業の技術者も引退後、ある程度の年月が経ってから宇宙人関連の機密情報を暴露した、もしくは死の直前に「地球外の文明」や「他の惑星の物質」に言及しているケースは多々見受けられる。有名な例が宇宙飛行士のエドガー・ミッチェル大佐やロッキード・マーティン社の上級エンジニアだったボイド・ブッシュマン博士である。彼らは生前、主にグレイと呼ばれる生命体について語っていて、彼らが知っている範囲の生物的な特徴や嗜好、知能レベルについて暴露している。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "世界の大国の国防機関や最先端の研究機関には機密の漏洩に関して厳しいルールが存在し、機密漏洩の誓約書に反する行為に抵触した場合、厳しい罰則や禁錮刑が科せられる場合がある。この条件下でエドガー・ミッチェル大佐やボイド・ブッシュマン博士は職業やプロジェクト勤務前に機密の漏洩に関する誓約書に署名をしていると思われ、未知の生命体グレイと接触し、国家最高機密レベルの仕事に携わったとしても、こういった極秘の宇宙開発のプロジェクトの全貌や地球外生命体の存在の可能性については、死を悟る直前まで黙秘を貫いてきた理由だと個人による情報配信サイトや一部のマスコミは指摘している。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 117,
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"text": "グレイ型宇宙人の出身星に関する憶測については、アマチュア天文学者で作家及びオハイオ州で小学校教師をしていたマージョリー・フィッシュ( Marjorie Fish)はグレイ型宇宙人に誘拐されたとするヒル夫妻誘拐事件に興味を持ち、独自の調査を行った結果、「グレイ」の故郷はレチクル座ゼータ星から来ていると結論付けた。またUFO研究家であり作家のミルトン・ウィリアム・クーパーは、一部の政府機密文書の入手と関係者への取材による調査によってつかんだ事実として、グレイにも数種類のグループがおり、そのうちの「大きな鼻のグレイ型宇宙人 (large nosed gray aliens)」の出身惑星はオリオン座のベテルギウスであると述べている。これらの説を検証するため、FBIは一部のUFO事件とされる事案を扱った例があり、大学の宇宙研究所から民間企業まで宇宙生物学的観点から宇宙探査やSETIへの新規参入など様々な研究機関で地道な研究が行われているのが現状であり、公的な研究機関や世界各国の政府が地球外生命体を公式に認めた例は現時点では存在しない。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
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"text": "陰謀家のデイビッド・アイクは、地球には爬虫類型の宇宙人「レプタリアン」も既に地球に来ていると主張し、このレプタリアン達は普段ホモサピエンス科の人間に成りすましていて、世界各国の政治・経済界の指導的立場に就いて、世界を支配しているという。このレプタリアン説は一部の陰謀論者から熱烈な支持を得ている。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
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"text": "先ほどの「グレイ陰謀論」「レプタリアン陰謀論」に比べ考古学と宇宙人の来訪を結びつける要素が強いのが「古代宇宙飛行士説」と呼ばれる一部の作家の憶測や研究者による検証方法である。ギリシャ国籍の作家ジョルジョ・ツォカロスやスイスの歴史作家エーリッヒ・フォン・デニケンなどの作家は地球外生命体が紀元前から地球に来訪していると主張している。その根拠となるのは古代メソポタミア文明やマヤの遺跡から発掘された古代の文書や絵画で、そこには、その時代には存在し得なかった奇妙な物体や風景が描かれているという。日本においても古代宇宙飛行士説があり、『竹取物語』も完全な実話であり当時の地球にやって来た宇宙人が物語(記録)に登場していると作家の小泉芳孝は主張している。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
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"text": "宇宙物理学の分野においては、過去にブラックホールの特異点定理の理論を確立したスティーヴン・ホーキングは「UFOは宇宙人の乗り物ではない」という見解を示しながらも、地球外生命体と地球人類が接触することへの危機感をメディアで表明した。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
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"text": "NASAエイムズ研究センターに勤める日本人研究者の関根康人はタイタンにおける潮汐加熱によるハビタブルゾーンの可能性も指摘しており、現実にイオやエウロパでは潮汐加熱が大きな熱源となっていることから、窒素とメタンで構成される厚い大気に覆われ、液化したメタンの雨が降り、川や湖を作るのみならず、温度の状態が安定していることを鑑み、さまざまな仮説をもとに地球外生命体の存在の可能性を指摘している。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
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"text": "このように一部の陰謀論者や宇宙研究者が地球外の脅威と未知の文明、地球上における生命の起源を結びつけた仮説を打ち立てた結果、今現在、問題になっている未知の飛行体の存在とアメリカ国防総省によって科学的分析が行われている謎の空中現象に関してのさまざまな憶測が、娯楽としてSF映画などの題材になっているのが現状である。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
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"text": "UFOは隠れた現実である「異次元」から来ているとする説。「精神投影説」のように、UFOを「心理現象」であると解釈してしまうと、UFOの着陸跡(焦げ跡など)やレーダー上の航跡、アブダクションされた人々の手術痕などの物理的痕跡の説明がつかない。そこで人間の意識が投影された異次元が存在することを想定し、そこからUFOが現れると推測する説が成り立つ。「UFOが地球外の物であることを示す証拠は何もないが、時空を超越した異次元からきている証拠は山ほどある」と研究家であるジャック・ヴァレは指摘しており、ジョーゼフ・アレン・ハイネックは、UFOが突然出現し、忽然と消え去る現象が多数目撃されているため、それらは他の惑星からやって来たものではなく、異次元からやってきたものではないか、とコメントしている。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
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"text": "しかし、UFOを遠い星系から飛来する宇宙船であるとする説やタイムマシンであるとする発想から見ても、星間旅行や時間旅行を同種の技術で実施している可能性があり、それらの説と重複しているとする面がある。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
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"text": "ノンフィクション作家のマイケル・タルボット(英語版)は、現実とは決して客観的なものではなく人間の精神が生み出す間主観的なホログラムである、と述べたうえで、ホログラフィックな別次元からUFOが現れるのではないかと推測している。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 126,
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"text": "宇宙の力を全て統一的に記述できるとされる「超弦理論」では、プランク長以下の極小空間に、隠れた6次元が存在するとされている。その隠れた6次元を構成する幾何学構造は、他のDブレーン(多宇宙)とつながっていると主張する物理学者もいる。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
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{
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"text": "また、地球外生物説と重複してしまう可能性があるが、シミュレーション仮説との関連性も指摘されている。この世界を作った「上位管理者が何らかの形で介入した結果がUFO現象として現れている」という可能性を米国の愛好家の中で提案されている。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
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"text": "変性意識状態に入った人間がUFOとの遭遇を異次元にて起こした、と解釈する説。UFOとの遭遇時には体外離脱を経験する者も多く、そうした例では何らかの変性意識下の状態にあったと推測される。(→#アブダクション(第4種接近遭遇))",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
{
"paragraph_id": 129,
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"text": "臨死体験研究者であるケネス・リング(英語版)やハーバード大学の宗教学教授であるキャロル・ザレスキーによれば、UFOとの遭遇はシャーマンが隠された次元に旅する時に遭遇する神話的な現実と似ているという。研究家のダニエル・ピンチベック(英語版)は我々の世界に別次元から干渉している妖精や異星人などの存在が太古から存在し、シャーマンのような特殊な資質をもった人間だけが彼らを知っていたのではないか、と述べている。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
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"text": "立花隆によれば、臨死体験を経験した後に、UFOと遭遇する者は少なくない。臨死体験の研究者であるケネス・リングが収集した事例では、その体験が臨死体験なのかUFO遭遇体験なのか区別できない事例が複数あったという。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
},
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"paragraph_id": 131,
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"text": "一例として、ニューヨークに住むある女性が腫瘍で倒れ、体外離脱を経験した後に、気が付けば宇宙の施設内の手術台の上にいたという事例がある。女性が窓から宇宙を眺めていると「7人くらいの背の高い痩せた何か」に囲まれ「それ(腫瘍)はもうなくなった」と告げられた。女性の意識が地球に落下していき、肉体の中に戻ると、腫瘍が消失していることに気付いた。臨死体験説は矢追純一によるUFO番組特集でも取り上げられ話題になった。",
"title": "UFOの正体についての諸説"
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"text": "ここに書かれた情報の多くは、航空・軍事用語での未確認飛行物体、UFOではなく、超常現象、エイリアンクラフトとしてのUFO学(UFOLOGY)的な意味での情報認識である。",
"title": "日本においての認識"
},
{
"paragraph_id": 133,
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"text": "世界的に広がっているUFO目撃を発表しあう会では、元アメリカ軍関連者やNASA関連者、その他パイロットと称する人々がそれまで軍や政府、しかしこれらの会合は一般的に英語で行われていることが多く、また目撃の多いラテンアメリカではスペイン語、もしくはポルトガル語圏であることもあり、日本へはUFO関連のイベントや会誌など情報の認知に時間がかかってしまうためか欧米諸国のブームを後追いする形になっている。",
"title": "日本においての認識"
},
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"paragraph_id": 134,
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"text": "ポルトガル語を話すブラジルで発生したとされる「ヴァルジーニャ事件」を、日本ではしばしば「ヴァージーナ事件」とするカタカナ綴りで呼ばれる。これはポルトガル語つづりを強引に英語読みにした誤読であり、情報伝達上に問題があった。また、ポルトガル語の「JARDIM」を公園と訳しているが、この場合はヴァルージーニャ市の区の名前であった。これらの誤読、誤訳、誤解釈は、ポルトガル語から英語に訳されたときに起こったと考えられる。詳細はヴァルジーニャ事件の項目を参照。",
"title": "日本においての認識"
},
{
"paragraph_id": 135,
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"text": "インターネットやデジタルカメラの普及により最近では現象を収めたという映像など、アマチュア発の情報が増えていることもあり近年では会の世界的な活動も易しくなってきている。YouTube.comでの投稿数の多さは興味の高さを知る一つの手がかりとなる。しかし、投稿数が多いからといって、超常現象の信頼性が高いとは限らない。",
"title": "日本においての認識"
},
{
"paragraph_id": 136,
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"text": "これまで日本ではメディアでたびたび取り上げられるなどしているが、オカルト雑誌、オカルト番組などであり、バラエティ番組やワイドショーには登場してもニュース番組などではあまり扱われてこなかった。しかし、2017年12月16日及び2020年4月27日のUFOに関するアメリカ国防総省の報道について、ニュース番組や新聞を含む各種メディアにおいて報道されることとなった。",
"title": "日本においての認識"
},
{
"paragraph_id": 137,
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"text": "日本国の領空周辺には防空識別圏が設定されており、未確認飛行物体の領空侵犯に対し、自衛隊が対領空侵犯措置をとる。航空自衛隊は戦闘機を緊急発進し、海上自衛隊の護衛艦は対空戦闘用意が下令される。",
"title": "日本においての認識"
},
{
"paragraph_id": 138,
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"text": "日本国政府は、2007年12月18日に閣議決定された答弁書において、「地球外から飛来してきたと思われる」飛行物体について「存在を確認していない」、「研究も飛来した場合の対策も行なっていない」としている。なお、この答弁書については、町村信孝内閣官房長官(当時)が、同日行われた定例記者会見において「政府答弁は政府答弁であり、私は個人的には、こういうものは絶対いると思っております」と笑顔で答えたため、多くのマスコミで報道された。また石破茂防衛大臣(当時)は、同年9月27日に放送の日本テレビ『モクスペ』「UFO vs 世界の科学者100人」のインタビューで「UFOが領空侵犯したらどうすべきか役人と議論した」と語っており、核兵器の使用を在日米軍に要請するかの議論が必要としている。同年12月20日に行われた会見において、「防衛省の見解ではなくあくまで個人的見解である」と前置きをした上で「未確認飛行物体、それを操る生命体(当然人類もそれに含まれる)が存在しないと断定しうる根拠はない。(中略)少なくともないと断定するだけの根拠を私は持っていない。そういうものはあり得るだろうということだと私は思う」と述べた上で、未確認飛行物体、UFOが日本国の領空に飛来した場合の対処と法整備などを考えておくべきと述べた。この場合も、未確認飛行物体の用語定義を明らかにしないと、発言者の意思とはかけ離れたと解釈が生まれる。",
"title": "日本においての認識"
},
{
"paragraph_id": 139,
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"text": "2020年4月にアメリカ国防総省が正体不明のままだった飛行物体の映像を公開したことを受け、河野太郎は防衛大臣在任中の2020年9月に、自身はUFO(エイリアンクラフト)を信じていないと前置きしつつ、自衛隊機が未確認飛行物体と遭遇した際の手順を定める考えを示した。なお2020年4月現在、公式には自衛隊機が遭遇した報告は無いという。",
"title": "日本においての認識"
},
{
"paragraph_id": 140,
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"text": "聖書の文章をUFOに関すると解釈する主張はしばしば見られる。真っ先に挙げられているのは、イエス・キリスト誕生の際に現れたという「動く星」である。キリスト誕生のとき東方の三博士は動く星に導かれ、星は厩()の上にとどまった、というものである(新約聖書・マタイ福音書第2章)。",
"title": "歴史文献とUFO"
},
{
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"text": "また、旧約聖書・エゼキエル書第1章には、輝く人の姿をした生き物の横に輪があり、輪はその生き物の動きに従って移動し、屋根のようなものの上には椅子があり、人の姿をした者がいた、と記述されている。これもUFOとその搭乗者として解釈されることがある。",
"title": "歴史文献とUFO"
},
{
"paragraph_id": 142,
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"text": "キリスト教の絵画にはUFOらしきもの(以下、円盤と記す)が描かれていることがある。「受胎告知」「雪の奇跡」「聖母と聖ジョヴァンニーノ」「キリストの洗礼」「三位一体」「キリストの磔刑」など枚挙にいとまがない。描かれている内容も「円盤が光線を発射している」「円盤を見上げる人がいる」「円盤が火を噴いて飛行している」「2つの円盤が飛行しており、それぞれに表情の異なる人物が搭乗している」など、意図的に描いたことは明らかである。",
"title": "歴史文献とUFO"
},
{
"paragraph_id": 143,
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"text": "さらにこれらの説を発展させた物が「キリスト=宇宙人」説であり、古代宇宙飛行士説と関連づけて解釈されることもある。また、聖書とUFOを関連つけた解釈として有名なものにゼカリア・シッチンの説などがある。",
"title": "歴史文献とUFO"
},
{
"paragraph_id": 144,
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"text": "1970年代後半に日本でUFOブームと呼ばれる現象が起きた。ピンク・レディーの楽曲「UFO」をはじめUFOを題材にした多くの派生作品が作られ、社会現象としてUFOが流行になった。また、日本ではUFOを呼ぶときに「ベントラベントラ」と呪文を唱える方法があるとされるが、この「ベントラ」はレイ・スタンフォードのUFOの呼び方が元となっている。",
"title": "UFOブーム"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "1978年に映画『未知との遭遇』が日本公開されると、そのブームは頂点に達した。フィクションのテーマとしては大変面白いので、多数の作品が製作されヒットした。後述の作品リストの年代を参照。同時代に日清食品は「日清焼そばU.F.O.」と命名した即席焼きそばを発売し、現在まで販売し続けている超ロングセラーとなった。容器の形を空飛ぶ円盤に見たてるとともに、「UFO」を「うまい(U)、太い(F)、大きい(O)」のイニシャルにかけている。",
"title": "UFOブーム"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "SFには無数のバリエーションにわたる異星人が登場する。その乗り物も構造から材質、推進法まで綿密に設定された作品もあり、世間に流布しているUFOのイメージ形成にも大きく寄与している(ただし円盤型ではない宇宙船が登場する作品も多い)。地球人類との接触は侵略目的だったり、友好的交流や啓蒙、指導、庇護のためだったり、不時着・遭難だったりする。",
"title": "SFとUFO"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "UFOを題材にした作品"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "UFOを題材にした作品"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "アルバム名",
"title": "UFOを題材にした作品"
}
] | 未確認飛行物体とは、その名の通り、正体が確認されていない飛行物体のこと。英語の頭文字からUFO(ユーエフオー、ユーフォー)と略称される。 1947年にアメリカの実業家のケネス・アーノルドが、ワシントン州レーニア山頂近くを飛行する一連の円盤状物体を機上から目撃し、空飛ぶ円盤と名付けたのが始まり。その後、国防上の見地からアメリカ空軍が詳細に調査、未確認飛行物体(UFO)と総称されるようになった。 地球上では正体不明の飛行物体の目撃が毎年数百例も報告され、その正体は航空機など既知の人工物体、流星、蜃気楼などで、遠方のサーチライトや自然物(天体・雲・鳥など)の誤認も含まれる。 2021年6月25日に公開されたアメリカ合衆国国家情報長官室の報告書では、UFOに代えて、未確認空中現象の呼称が用いられている。 | {{Redirect|UFO||UFO (曖昧さ回避)}}
{{複数の問題|参照方法=2022年6月|独自研究=2022-7}}
'''未確認飛行物体'''(みかくにんひこうぶったい、{{lang-en-short|unidentified flying object}})とは、その名の通り、正体が確認されていない飛行物体のこと<ref name="digidai">デジタル大辞泉</ref>。英語の頭文字から'''{{lang|en|UFO}}'''(ユーエフオー、ユーフォー)と略称される。
1947年に[[アメリカ]]の実業家の[[ケネス・アーノルド]]が、[[ワシントン州]][[レーニア山]]頂近くを飛行する一連の[[円盤]]状物体を機上から目撃し、[[空飛ぶ円盤]](flying saucer)と名付けたのが始まり。その後、国防上の見地から[[アメリカ空軍]]が詳細に調査、未確認飛行物体(UFO)と総称されるようになった<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|date=|url=https://kotobank.jp/word/UFO-144947|title=株式会社平凡社百科事典マイペディア|publisher=コトバンク|accessdate=2021-9-12}}</ref>。
[[地球]]上では正体不明の飛行物体の目撃が毎年数百例も報告され、その正体は[[航空機]]など既知の人工物体、[[流星]]、[[蜃気楼]]などで<ref name="kotobank"/>、遠方の[[サーチライト]]や自然物([[天体]]・[[雲]]・[[鳥]]など)の誤認も含まれる。
[[2021年]]6月25日に公開されたアメリカ合衆国[[国家情報長官]]室の報告書では、UFOに代えて、'''未確認空中現象'''({{lang-en-short|unidentified aerial phenomenon}}、'''{{lang|en|UAP}}''')の呼称が用いられている<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2021-06-28 |url=https://japanese.engadget.com/odni-ufo-uap-134716343.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210626135625/https://japanese.engadget.com/odni-ufo-uap-134716343.html|archivedate=2021-06-26|deadlinkdate=2022-05-01|title=米情報機関、UFOあらため「UAP」報告書を公開。5つの可能性を挙げる |publisher=[[Engadget]]日本版 |accessdate=2021-08-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=稲葉義泰 |date=2021-08-03 |url=https://trafficnews.jp/post/109492 |title=アメリカUFO報告書 読み込んだら何が見えた? 9ページ約1万5000字の要点を解説! |publisher=乗りものニュース |accessdate=2021-08-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2021-11-25 |url=https://www.bbc.com/japanese/59411997 |title=米国防総省、UFO調査部署を新設 |publisher=[[BBC]] |accessdate=2022-06-29}}</ref>。
== 概要 ==
[[File:F-4Es 57FIS Tu95D 1980.jpeg|thumb|right|240px|スクランブルによって出撃したアメリカ軍の[[F-4 (戦闘機)|F-4ファントムII戦闘機]]にインターセプトされたソ連軍の[[Tu-95]]爆撃機。米軍戦闘機によって確認されるまでは、この哨戒機は「未確認飛行物体」であった。しかしこの写真のように確認された後は、「確認済飛行物体」となる。]]
未確認飛行物体(UFO)は本来、[[航空]]・[[軍事]]用語であり、当局で把握できていない航空機や気象観測用の[[気球]]、他国からの[[ミサイル]]などさまざまなものを指す<ref name="digidai" />。風に流された気球や[[航路]]から逸脱した[[旅客機]]など悪意はないが事故につながる可能性のある事例もあるが、他国の[[偵察機]]や[[爆撃機]]、ミサイルによる[[先制攻撃]]の可能性があり、国家の安全を脅かす危険すらあるため[[スクランブル]](緊急発進)の対象となる。[[空軍]]などの[[航空交通管制]]においては、[[レーダー]]に捕捉された正体不明の飛行物体に対しては、それが何であるか確認できるまで、警戒態勢を取る緊急の必要があり、特にレーダー電波を明確に反射する金属製の物は爆撃機やミサイルであるケースも確認されている。「何かがこちらに向かって飛んでくる」という注意を喚起するために「(方位)から未確認飛行物体接近」と表現することもあるが、明らかに航空機である場合は「所属不明機」(Bogey)と表現することも多い。
逆に正体を確認済みのもの([[飛行計画]]が配信された旅客機や民間貨物機、鳥の集団など)は'''確認済飛行物体'''({{lang-en-short|identified flying object}}、'''{{lang|en|IFO}}''')と総称する。必ずしも物体ではなく、自然現象を誤認する場合もあるため、'''未確認空中現象'''({{lang-en-short|unidentified aerial phenomenon}}、'''{{lang|en|UAP}}''')が用いられることもある。実際に飛行しているところが目撃されなくても、飛行可能と思われるものが着陸していた場合などにも使われる。水中に目撃されたものは'''[[未確認潜水物体]]'''({{lang-en-short|unidentified submerged object}}、'''{{lang|en|USO}}''')ということもある。
小型の[[無人航空機]]や気象観測気球は移動速度が遅いが風で流されることで通常の航空機とは異なる動きをする、小型なためレーダーに映りにくく接近しても目視で捉えにくい、低速なため[[戦闘機]]ではすぐに追い抜いてしまうため視認できる時間が短い、スクランブル機が到達する前に着陸・墜落しても痕跡を発見しにくいなど「未確認飛行物体」のまま行方不明<ref>{{Cite news |和書 |title=白い球体、「所有者・目的不明」の結論…十字形の部品と2基のプロペラ付く |newspaper=[[読売新聞]] |date=2020-07-03 |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20200702-OYT1T50267/ |accessdate=2022-06-29}}</ref>となりやすい条件が多く、[[スクランブル]]に対応した戦闘機パイロットの体験談が超常現象として流布されることもある。夜間や視界不良時の飛行ではパイロットが星や自然現象を航空機と誤認し報告する事例もある。これらは目視はできるがレーダーに映らないため「レーダーに反応しない機体と遭遇した」という体験談が広まることもある。速度と高度の関係で航空機による接近が難しいため、危険性が低い場合はスクランブルの対応をせずに監視のみという対応もある<ref>{{Cite news |和書 |title=仙台上空のUFO? 菅長官「必要な警戒監視している」 |newspaper=[[朝日新聞]] |author=安倍龍太郎 |date=2020-06-18 |url=https://www.asahi.com/articles/ASN6L4CB8N6LULFA00F.html |accessdate=2022-06-29}}</ref>。
一口に「未確認飛行物体」といっても「航空・軍事用語として用いている」のか「超常現象用語として用いている」のかを区別する必要がある。未確認飛行物体を超常現象として捉える考えはフィクションの題材として多数用いられており、多くの映画・小説・テレビ番組などが製作・出版・放映されて、興行的成功を収めている(映画『[[未知との遭遇]]』など)。ユーフォロジー<ref group="注">{{lang-en-short|ufology}}</ref>とは未確認飛行物体を超常現象であるという解釈に基づいて行う[[UFO研究]]のことである。航空軍事用語としてのUFO(アメリカ軍の公式用語)とは意味が異なる。
UFO目撃現象の分類として、高々度や宇宙空間での目撃、車が追跡された事件、電気的・機械的な影響を及ぼした事件、人間に心理的・物理的影響を与えた事件、着陸の痕跡を残した事件などがある。奇妙な泡を残して、海中に沈む様子が目撃された例<ref>{{Cite web |url=http://www.roswellproof.com/Shag_Harbour/Shag_Harbour1_summary.html |title=The 1967 Shag Harbour UFO crash |accessdate=2022-06-29}}</ref>もあれば、その姿形は円盤型であったり三角形型であったりと描写はさまざまである。UFOと共に搭乗者が目撃されたり、目撃者がUFO搭乗者による誘拐被害(エイリアン・アブダクション)を訴えたりする例もあり、それらは「第3・4種[[接近遭遇]]」例とも呼ばれる。
==UFOという呼称==
[[File:Supposed UFO, Passaic, New Jersey.jpg|thumb|240px|1952年に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ニュージャージー州]]で撮影されたUFOの写真]]
[[File:1871UFO.png|thumb|240px|1870年撮影の謎の飛行船とされる写真。実際は単なる霜の上の異物だという意見もある。]]
「{{スペル|UFO|lang=en}}」は {{lang-en|unidentified flying object}} の頭文字であり、英語では「ユー・エフ・オー」と読まれる<ref>{{Cite video |date=2021-05-29 |title=Former Pentagon official: Real question is, what are we really dealing with? |url=https://www.youtube.com/watch?v=fwIr_6ME0P4 |format=テレビ番組 |language=英語 |publisher=CNN |accessdate=2022-06-29 |time=00:04}}</ref>。
ただ、この言葉を[[アメリカ空軍]]の公式用語として採用した{{仮リンク|エドワード・J・ルッペルト|en|Edward J. Ruppelt}}大尉は、自著で「ユーフォー」としており、古くはこの読みも行われていたことがわかる。
一方、日本では1950年代から1960年代末期までは、未確認飛行物体の形状の違いにかかわらず「空飛ぶ円盤」と総括的に呼称されるのが一般的だった。古くは「ユー・エフ・オー」と読まれていた。例えば日本では1970年に放送されたテレビドラマ『[[謎の円盤UFO]]』の日本語版タイトルは「なぞのえんばん ユー・エフ・オー」となっていた。他方、世界の怪奇現象や[[オカルト]]を興味本位に紹介する特別番組などでは早くから「ユーフォー」の読みで紹介されており、現在の日本では「ユーフォー」の読みが一般的となっている。これは[[ピンク・レディー]]のシングル曲である「[[UFO (ピンク・レディーの曲)|UFO]]」のヒットによるものである。それでも、この読み方が完全に定着した後の1978年に製作された東宝映画『[[ブルークリスマス]]』などは、海外場面を含めて全編を「ユー・エフ・オー」の発音で通している。
アメリカ空軍の公式用語では「{{スペル|UFO|lang=en}}」はあくまでも「正体を確認できない飛行物体」を意味する。[[ステルス機]]や無人航空機(UAV)の時代において国防上の問題と捉えたアメリカ軍は、新たに未確認空中現象({{lang-en-short|unidentified aerial phenomenon}}、{{lang|en|UAP}})という言葉を定義して、積極的な目撃報告を促している。
こうした経緯から、2020年に[[アメリカ国防総省]]が「UAP」の映像<ref>{{Cite web |date=2020-04-27 |url=https://www.defense.gov/Newsroom/Releases/Release/Article/2165713/statement-by-the-department-of-defense-on-the-release-of-historical-navy-videos/ |title=Statement by the Department of Defense on the Release of Historical Navy Videos |publisher=アメリカ国防総省 |accessdate=2022-06-29}}</ref>を公表したのに対して、世間では「アメリカ軍が『UFO』の存在を認めた」との誤った認識が広まった。この映像について[[防衛省]]は「アメリカの国防総省が、アメリカ海軍のパイロットがUFOを撮影した映像を公開いたしました。自衛隊のパイロットは今までUFOに遭遇したことはないようですが、万が一遭遇したときの手順をしっかり定めたいと思います」<ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-28 |url=https://www.mod.go.jp/j/press/kisha/2020/0428a.html |title=防衛大臣記者会見 令和2年4月28日(火)10:39〜11:09 |publisher=防衛省 |accessdate=2022-06-29}}</ref>と公式に発表している。また、[[河野太郎]][[防衛大臣]]は記者会見で、「あまりUFOは信じていないが、アメリカ国防総省が画像を出したので、真意や分析を聞きたい」<ref>{{Wayback |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200428/k10012408701000.html |title=河野防衛相 自衛隊もUFO遭遇時の手順定める考え示す |date=/20200428045746}} - [[日本放送協会|NHK]]</ref>とUFOを超常現象の用語と定義の上で見解を述べている。アメリカ空軍のUFOの定義に対する日本の対応は[[自衛隊法]]84条に基づき対領空侵犯措置があり、自衛隊の通常任務となっている<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[丸 (雑誌)|丸]] |date=2011-12 |publisher=[[潮書房光人新社|潮書房]] |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}}}}</ref>。
== UFOの分類 ==
=== 航空軍事用語としてのUFOの分類 ===
* 運用者不明の既知の航空機 - 運用者(人間、宇宙人などの主体)が不明、[[飛行計画]]が通報されていないが、一般的な航空機であればそれで分類出来る。
* 未確認の物体 - エイリアンクラフトや個人的な趣味で作られた航空機など未登録の機材、[[ラジオゾンデ|気象用バルーン]]、[[無人航空機|ドローン]]、意図せずに飛び上がったビニールシート、隕石、落下する人工衛星、成層圏携帯基地局などの物体など。
* 未確認の生物 - 鳥の集団、高高度を飛行する昆虫など。
* 未確認の自然現象 - 発光体、ガス、[[プラズマ]]、エネルギー体、地球物理学的化学反応など
* 人工的な光学現象 - 音楽ライブ会場からのレーザー投影、雲に映ったホログラムなど
運用者が不明のUFOは正体のわからない飛行物体であるので、根拠をもって分類することは不可能である。その解釈は多岐に上っており、その中にはUFOそのものを未知の宇宙生命体と見なす意見さえあるほどで、その全てを網羅することは困難である。
発見や回収、運用者とのコンタクトなどその物体の確認が取れればUFOではなくなる。
=== アレン・ハイネックによるエイリアンクラフトの分類 ===
[[ジョーゼフ・アレン・ハイネック]]が考案した。UFO目撃者からの観測パターンによる分類。
* NL 夜間発光体(Nocturnal Lights):夜間に目撃されたUFO。
* DD 白昼円盤体(Daylight Discs):日中に目撃されたUFO。
* RV (Radar/Visual cases):レーダーと目視の2つの手段によって確認されたUFO。
* CE [[接近遭遇]](Close Encounter)
** CE1 第一種接近遭遇:近距離からの目撃[厳密には150m以内]。物理的証拠を残さないもの(例-飛行物体の目撃、UFOの噂を聞くこと)。
** CE2 第二種接近遭遇:UFOが周囲に影響を与えたりして何らかの物理的証拠を残したもの(例-ミステリーサークル、UFO発着時にできたと考えられている地面の焼き焦げを目撃することなど)。
** CE3 第三種接近遭遇:UFOの搭乗者、宇宙人の目撃。
** CE4 第四種接近遭遇:[[アブダクション]](宇宙人による誘拐)。後に追加された分類。4つに細分化される。
*** 誘拐体験をはっきりと記憶している。
*** 夢と現実が混在し、不明瞭。
*** 記憶が欠落している。
*** 直接の接触はせず、[[テレパシー]]などの方法によりコンタクトしたもの。
== 代表的な目撃例とされた事件 ==
[[File:Nuremberg Apr 14 1561.jpg|right|thumb|340px|[[1566年]]に[[ドイツ]]で制作された木版画([[1561年のニュルンベルク上空の天文現象]])。[[オーロラ]]や[[幻日]]ではないかという考察の一方で、これはUFOを描いたもので、右下には墜落して煙を上げていると見られる、と考える人もいる。]]
[[古代]]・[[中世]]から、超常現象としてのUFOと思われる物体は度々目撃が報告されており、古代文明の遺跡から出た[[壁画]](アフリカ北部[[タッシリナジェール]]など)や人形(日本の[[遮光器土偶]]など)の一部は「異星人」を思わせるとする解釈がある。[[浦島太郎]]など古来より伝わる幾つかの[[神話]]・[[おとぎ話]]は、宇宙人やUFOとの遭遇を元に作られたという説を唱えるUFO愛好家がいる。いわゆる[[宇宙人]]らしきものとともに目撃される例もある。これらは伝承や遺跡の解釈の問題でもあり、すぐには事実と認定できない。また地球人類以外の知的生命体が製造した飛行物体、生きた宇宙人やその遺体が確認された例はまだない。
近代において円盤型の目撃例が増える20世紀後半より以前にも、19世紀末のアメリカでは「{{仮リンク|謎の飛行船|en|Mystery airship}}」、[[第二次世界大戦]]中の「[[フー・ファイター]]」、終戦直後の北欧では「[[謎のロケット|幽霊ロケット]]」が目撃された。
航空機からの目撃例が多い他、なぜか軍事施設や[[原子力発電所]]の近辺、[[戦争]]中に目撃される例(前述のフー・ファイターなど)が多い。[[アメリカ同時多発テロ事件]]の際にも、2機目が突っ込んだ前後2 - 3秒ほどの間、UFOを付近で目撃したという発言が多発した。噂は存在するが情報の確認は行われていない(同項目を参照)。
以下ではUFO目撃史において代表的とされる事件を挙げる(なお、以下の例では航空軍事用語とエイリアンクラフトとしてのUFOが混在している)。分類可能なものはハイネック博士による分類法などにより年代順に整理する(→[[#アレン・ハイネックによるエイリアンクラフトの分類]])。
{{see also|en:List of reported UFO sightings}}
=== 第一種接近遭遇(近距離からのUFO目撃例) ===
以下はパイロットなどが近距離から未確認飛行物体を目撃した代表的ケースである。
==== フー・ファイター ====
{{main|フー・ファイター}}
第二次世界大戦中の1939年から1945年にかけて、未確認飛行物体が戦闘が激しい地域を中心にたびたび目撃された。「フー・ファイター」とは[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の兵士たちの間で使用された「未確認飛行物体」の総称である。夜でもまばゆいほど発光しながら正確な編隊を組んでいたり、信じられないほどの高速で飛行したりしたと伝えられている。連合国側だけでなく[[枢軸国]]の日本軍やドイツ軍でも未確認飛行物体が目撃され、戦地で噂になっていた。
大戦当初にヨーロッパで目撃されたケースでは「[[ドイツ国|ドイツ]]の新型爆撃機だ」、また[[1941年]]12月の日本やアメリカの参戦後にアメリカ本土付近で目撃された際は「[[大日本帝国]]が秘密兵器を飛ばした」、「近海に日本の大艦隊がいる」、「ドイツの科学力と日本の航空技術が結ばれた」など、様々な噂が飛び出した。
実際に、[[1942年]]2月に日本海軍の艦船が[[カリフォルニア州]][[サンタバーバラ]]近郊の[[アメリカ本土攻撃|石油施設を艦砲射撃]]した翌日未明には、後に「[[ロサンゼルスの戦い]]」と呼ばれることになる未確認飛行物体(アメリカ陸海軍が日本軍の航空機と誤認した)の目撃と、それに対する大規模な攻撃がアメリカ陸軍によって行われ、多くの市民がこれを目撃し、対空砲火の破片や心臓発作で6人もの死傷者まで出す騒ぎになった。
また大戦後期のドイツは[[原子爆弾|原爆]](原爆はアメリカや日本も開発していた)や[[V2ロケット]]開発に着手し、当時の水準ではアメリカやソ連、イギリスを超えるほどの世界一ともいわれている科学力を持っていたため、戦後になっても「実はドイツは円盤型の超音速戦闘機を完成させていたのではないか」などの憶測を飛ばすことになった。そのためか、[[架空戦記]]ではドイツ軍の円盤型戦闘機などが登場するものもある。
==== ケネス・アーノルド事件 ====
{{main|ケネス・アーノルド事件}}
[[1947年]]6月24日にアメリカ人の[[ケネス・アーノルド]]が、自家用機で飛行中[[ワシントン州]]上空で9個の奇妙な物体を目撃した事件。この事件の影響により「空飛ぶ円盤(フライングソーサー)」という語が普及した。
==== 介良事件 ====
{{main|介良事件}}
[[1972年]]、[[高知県]][[高知市]]東部にて、当時の中学生たちが両手に乗るほどのサイズの小型UFOを捕獲したとされる事件。
==== ポルトガル空軍機による遭遇事件 ====
[[1982年]]11月に[[ポルトガル]]の空軍パイロット3名が飛行中に、直径3mの円盤型で金属製のUFOと遭遇した。UFOは停止したと思えば空軍機の周囲を旋回してつきまとったりと不規則な動きをした。後にもう1機の空軍機が応援に駆けつけUFOと対峙した。最後にUFOは非常な速度で飛び去った。後の民間研究では、否定派の科学者がUFOは気球だったと主張したが、目撃したパイロットたちはその意見を否定した<!--<ref>http://www.youtube.com/watch?v=ZYd81VhgbkQ ENCONTROS IMEDIATOS - OVNI OTA</ref> (著作権侵害の動画と見られる)-->。
==== 日航ジャンボ機UFO遭遇事件 ====
{{main|日航ジャンボ機UFO遭遇事件}}
[[1986年]]11月17日に[[日本航空]]の[[ボーイング747]]貨物機が、[[アラスカ州]]上空でUFOに遭遇し追跡された事件。
==== コスタリカでの目撃例 ====
[[2007年]]11月、[[コスタリカ]] [[サンホセ州]]タルバカ地区に住む建築材料の加工作業を行っていた一般男性が、作業現場周辺(Calle Azulillos)でUFOが浮遊しているのを目撃した事例。モトローラのRAZR V3という携帯電話を用いて近距離撮影に成功したという。当時コスタリカの現地マスコミによって放送された。この映像がCGIやVFXではない場合、非常に近い距離且つ、高品質な状態で動画での撮影に成功した最初の興味深い事例だと言える。[https://www.youtube.com/watch?v=n5B7fYlAijY] 有志による画像解析とデータ検証によって、高い確率で加工された形跡が無いことが確認されている。<ref>{{Cite web |title=Costa Rica UFO sighting in 2007. Tarbaca UFO case |url=https://ufoac.com/costa-rica-ufo-sighting-in-2007.-tarbaca-ufo-case.html |website=ufoac.com |access-date=2022-11-25}}</ref>
コスタリカでは原因は不明だが、UFO現象が昔から多発しているという。2021年においてもこのサンホセ周辺でこのようなものが時折目撃されるという。<ref>{{Cite web |title=In Costa Rica, reports of OVNIs (UFOs) increased during the pandemic |url=https://qcostarica.com/in-costa-rica-reports-of-ovnis-ufos-increased-during-the-pandemic/ |website=Q COSTA RICA |date=2021-01-24 |access-date=2022-11-25 |language=en-US}}</ref>
=== RV(レーダーと目視によるUFO目撃例) ===
RV(Radar/Visual Reports)とはレーダー機器と目視で同時にUFOが観測された事例である。
==== エールフランス3532便事件 ====
[[1994年]][[1月28日]]、[[ニース]] - [[ロンドン]]間の上空にて、[[エールフランス]]3532便の操縦士3名が奇妙な飛行物体を目撃した。当初「ぺしゃんこになった鐘」に見えたその物体は、すぐに赤黒い円盤状に形を変えた。2分後にその物体は消失したが、ある時はレンズ豆、ある時は矢のように見えるなど、絶えず輪郭を変化させていた。
同時刻に[[フランス空軍]]のレーダー、そしてトゥール市にあるレーダー探知センターが、3532便と直角に交わる未確認の物体を捕捉した。レーダーの記録などから、飛行物体が航空機や観測用気球であるという説は退けられた。パイロット達の証言の詳細は一致しており、物体が消失した時間の証言も、レーダーの記録と一致した。飛行物体の大きさは推定500メートルから1キロメートルであった。
==== 人民解放軍空軍UFO追跡事件 ====
[[1998年]][[10月19日]]、中華人民共和国[[河北省]][[滄州市]]の空軍基地上空にUFOが出現した。地上からも「キノコのような形」をして地上に光を放射しながら飛んでいく物体が目撃された。この軍用機でも民間機でもない飛行物体が4つのレーダー基地でも観測されたため、基地司令のリー大佐は迎撃命令を出した。発進した戦闘機には2名が搭乗していた。
この乗員の証言によれば、UFOはSF映画に出てくる形をしており、麦わら帽子のようであった。また、戦闘機が接近しようとすると逃走し、遠くに逃げ去ったかと思うと戦闘機の真上に出現したりと、相手をからかうような挙動を示した。飛行物体の高度が20,000メートルに達すると、戦闘機の燃料が乏しくなったため追跡は断念された。飛行物体はやがてレーダー反応からも消失した<ref>{{Cite news |和書 |title=中国紙「わが軍機が『空飛ぶ円盤』追跡、攻撃寸前に」…1998年 |newspaper=エキサイトニュース |date=2010-10-25 |agency=[[サーチナ (ポータルサイト)|サーチナ]] |url=https://www.excite.co.jp/news/article/Searchina_20101025073/ |accessdate=2022-06-29}}</ref><ref>{{Cite web |date=2013-03-29 |url=http://worldufophotosandnews.org/?p=4802 |title=CHINESE FIGHTER JET PURSUES A UFO OVER CHINA |language=英語 |accessdate=2022-06-29}}</ref>。
==== テキサス州事件 ====
[[2008年]][[1月8日]]のアメリカ南部[[テキサス州]]にて、警察官を含む17名が、フットボール競技場ほどのサイズのUFOを目撃した。UFOはレーダーでも3機捕捉されたが、そのうちの1機は飛行禁止空域だった[[ジョージ・W・ブッシュ]]の自宅に真っ直ぐ向かっていたため、F-16戦闘機が発進する事態となった<ref name="daizen">{{Cite book |和書 |author=並木伸一郎 |authorlink=並木伸一郎 |date=2010-02 |title=未確認飛行物体UFO大全 |publisher=[[学研プラス|学研パブリッシング]] |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}} |isbn=978-4-05-404442-5}}</ref>。
=== フラップ(多人数によるUFO目撃)===
'''フラップ'''とは、同じ地域で短期間にUFOの目撃が多発する現象。「UFOウェーブ」とも呼ばれる。
==== ロサンゼルス空襲事件 ====
{{main|ロサンゼルスの戦い}}
[[File:Battle of Los Angeles LATimes.jpg|thumb|right|220px|未確認飛行物体の飛来を伝える[[ロサンゼルスタイムズ]]紙]]
[[太平洋戦争|対日戦]]が始まってから約3か月後の[[1942年]][[2月24日]]の夕方、日本海軍の大型潜水艦がカリフォルニア州サンタバーバラ近郊の石油精製所を砲撃した([[アメリカ本土砲撃]])。[[米英戦争]]以来の本土攻撃を受けたアメリカ軍と政府は大混乱に陥り、アメリカ西海岸一帯に厳重な警戒態勢が敷かれた。
日本海軍による攻撃がその後なかったために、同日深夜には警戒態勢が解かれたものの、警戒態勢が解かれた直後の[[2月25日]]未明に、光を放ちながら数百キロメートルの低速で飛ぶ数十機の未確認飛行物体が[[ロサンゼルス市]]上空に出現し、同時にレーダーにもとらえられたためにアメリカ西海岸一帯に再び警戒警報が出された。
その後飛行物体を目視で確認したアメリカ陸軍によって、飛行物体に向けて1430発もの[[対空砲火]]が撃ち込まれた。対空射撃は2時間続いたが、撃墜された飛行機はなかった。数千人の目撃者の中には、対空砲火の中を光を放つ飛行物体がサーチライトに照らされている写真を撮影したものや、「秒速8キロメートルでジグザグに移動する光体」がいたことを証言するものがいた他、ラジオでは対空砲火が行われている風景が実況中継された。なおこの作戦中に落ちてきた対空砲火の破片を受けたり、驚きのあまり心臓発作を起こした6人が死亡した<ref name="Timothy">{{Cite book |和書 |author=ティモシー・グッド |others=森平慶司(訳) |date=1990-05 |title=トップシークレット |publisher=[[二見書房]] |series=サラ・ブックス |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}} |isbn=4-576-90055-2}}</ref>。
しかし戦後公開された日本海軍の資料では、当時アメリカ西海岸沿岸で活動していた潜水艦の艦上機を合わせても10機にも満たなかった上に、この日にアメリカ西海岸上空を日本海軍機が飛行した記録はなかった(日本海軍機による初の[[アメリカ本土空襲]]が行われたのは同年9月である)。
==== エクセター事件 ====
{{see also|en:Exeter incident}}
1965年、米国[[ニューハンプシャー州]]の[[エクセター (ニューハンプシャー州)|エクセター]]にて「巨大な金属製の物体」が音もなく上空に静止しているのを警察官2名と大学生が目撃した。物体は急降下して目撃者に接近してきたが、警官は銃を抜くことができなかった。民間人のコラムニストであるジョン・フラーがこの事件を調査したところ、75件を超える目撃情報があることが判明した。
この事件について空軍は自然現象の誤認説(→[[#気温逆転説]])での説明を試みた。しかし、そうした公式見解は逆にジョン・フラーら民間研究者に「空軍によるUFO隠蔽説」の疑惑を抱かせることとなった。この事件により、1960年代のアメリカではUFO問題への多くの公開討論が各地で行われることとなった。
==== 青瓦台UFO襲撃事件====
1976年10月14日に[[大韓民国]]・[[ソウル]]上空に12機の国籍不明の飛行物体が侵入。首都周辺に駐屯する韓国軍が対空砲で一斉射撃を行い、市街地に流れ弾が着弾し数人が負傷<ref>{{Cite news|last=Kim|first=You-Min|date=8 November 2020|title="Blood on your shoulders." 1976 Blue House UFO Incident|work=[[ソウル新聞]]|url=https://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20201108500031|url-status=live|language=韓国語|access-date=2021-07-15}}</ref>。
==== マニゼスUFO事件 ====
{{see also|es:Incidente ovni de Manises}}
1979年[[11月11日]]の夜、109名の乗客を乗せた{{仮リンク|TAE|en|TAE – Trabajos Aéreos y Enlaces}} JK-297便のパイロットが、[[マニゼス]]東海上で驚くべき速度で飛来する2個の赤い光を目撃した。ジャンボジェットほどのサイズである2個の光の動きは完全に連動しており、航空機の周りを自由自在に飛び回り「挑発」とも取れる動きを示した。機長は空港に連絡を取り[[バレンシア空港|バレンシア]]に緊急着陸を行った。その後も赤い光は上空に見えており、地上要員や航空管制官、空港長が目撃した。その空域のレーダーにも捕捉された。スペイン防空司令部は[[ロス・リャノス空軍基地]]の[[ミラージュF1 (戦闘機)|ミラージュ戦闘機]]にスクランブルを命じたが、飛行物体は逆に戦闘機への急接近を行った。
ちょうど1年後の[[1980年]][[11月11日]]、同じ飛行物体がスペイン北東部に再び現れ、少なくとも6機のスペイン旅客機がそれを目撃した。飛行物体は非常に明るい緑色の球形で、空港の滑走路を「うろついた」後に「飛び去って行った」と目撃者は述べている。
=== 第2種接近遭遇(UFOの物理的証拠が残る例)===
==== トラン=アン=プロヴァンス事件 ====
[[1981年]][[1月8日]]、[[フランス]]の[[プロヴァンス]]地方にて、自宅の庭で日曜大工をしていたレナート・ニコライが、爆音とともに急降下してくる鉛色の物体を目撃した。物体の大きさは2.5mで、スープ皿が上下に重なったような形をしており、光に包まれていた。1分をしないうちに物体は急速度で飛び去って行った。物体の下部にはドアが付いているようだった。地面には2mの円形の着陸痕が残っており、UFOという言葉を知らなかったニコライは憲兵に通報した。
憲兵による現場の調査結果はニコライの目撃証言とほぼ一致した。ニコライの証言によれば、飛行物体は驚くほど正確な操縦技術で操作されていた。ニコライ家の近隣には軍事基地があったが、時間帯や着陸場所から考えてもヘリコプターや飛行機ではなく物体は全く無音で飛行したため、エンジンで動く機体でもなかった。[[フランス国立宇宙研究センター]]のUFO調査部署である{{仮リンク|GEPAN|en|GEIPAN}}は、現場から採取した土や植物のサンプルを解析した。その結果、着陸痕の地面は衝撃で摂氏600度まで上昇し、微量の[[鉄]]や[[亜鉛]]などが検出された。現場で採取された[[ウマゴヤシ]]は、[[電磁気学|電磁気]]的な影響により損傷を受けていたため、飛行物体が電磁気で飛行していたという仮説が立てられた。物体の質量は推定500〜700kgであった。
懐疑的な研究者はUFOの着陸痕が完全な円形ではなく、車のタイヤに似ていること、当時の発見場所には車の往来があったこと、GEPANが現場に到着し調査を行うまでには時間の空白があったので、人為的な影響を及ぼすことが可能であったことなどを指摘している<ref>Figuet, M. (Ed.) (1995). L’affaire de Trans-en-Provence. Dompierre-les-Ormes, SERPAN.</ref>。そこで1988年には調査が再開された。再度による土壌分析では植物に影響を及ぼしうる(粉末状のセメントなどの)物質は見つからなかった。「これらの分析から重大な物理現象が実際に起き、植物への説明できない影響、地面を擦った後、熱衝撃をもたらしたという結論が得られた」と分析者は述べている。
=== 第3種接近遭遇(UFO搭乗者の目撃例)===
==== 9世紀のUFO搭乗事件====
[[815年]](あるいは852年)、フランスの[[リヨン]]にて、空から球状の物体が連なりつつ降下をしてくる事件が起きた。球体は草原に着陸すると、やがて「ドア」が開き、中から3人の男性と1人の女性が現れた。球体はやがて上空に消え去った。周囲の目撃者は出現した4人を魔術師だと思い処刑しようとしたが、やつれきった様子の彼らの説明を聞き、介抱した。介抱された4人の説明によれば、自分たちは普通の村人であり、野原にいる時にあの「球状の物体」と出会ったということであった。球体からは自分たちとよく似た男たちが現れ、彼らは自分たちは邪悪な者ではないと述べたという。4人は球体に乗り込み飛行経験をすることとなり、丸い窓から眼下の地上を眺めたり、世界各地の町を訪れたりといった体験をした。
この説明は当時の人々に受け入れられず、4人は[[火刑|火炙り]]となるところであったが、現場にいた司教が介入しこの混乱を鎮めた。事件の詳細はこの司教により記録された<ref>{{Cite book |last1=Vallee |first1=Jacques |last2=Aubeck |first2=Chris |year=2010 |title=Wonders in the sky : unexplained aerial objects from antiquity to modern times and their impact on human culture, history, and beliefs |publisher=TarcherPerigee |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}} |isbn=9781585428205}}</ref><ref>{{Cite web |date=2012-04-16 |url=https://marilynkaydennis.wordpress.com/2012/04/16/ixth-century-trip-in-a-ufo/ |title=IXth Century trip in a UFO |language=英語 |accessdate=2022-06-29}}</ref>。
==== ヘマー村事件 ====
[[1948年]]に西ドイツの[[ズンデルン (ザウアーラント)]]地方のヘマー村にて、全長30mの金属型の飛行物体が牧羊者の前に現れた。牧羊者は牧草地の中に着陸した物体の表面に触れると強いショックを受け気絶状態となった。彼が意識を取り戻すと、周りに体長1mほどのアーモンド形の目をした頭部の大きな生物たちがいた。彼らはおそらく酸素の容器と思われるチューブのついた箱を手にしており、気体を吸い出していた。彼らは理解できない言語で話し、土壌や草を調べサンプル採集を行っていた。やがて飛行物体に乗り戻ると、物体は高速で飛び去った。着陸痕として、丸く草が焼けた個所が複数並んでいた。目撃した牧羊者は、いつのまにか強い日焼けをしていた。
[[1952年]][[マイニンゲン]]近くの森にて、48才の元ドイツの陸軍少佐が、11才の娘を連れてバイク走行していた。娘が150m先に変な物体があると言ったので近寄ってみたところ、円盤状の物体と、体長1.5mほどの銀色のスーツを着た2人の小人がいた。小人は目撃されたことに気づくと円盤に乗り込み、円盤は加速して飛び去っていた。辺りには押しつぶされた草が残っていた。元陸軍少佐は米当局にその話をし、西ドイツに駐在していたCIAに体験の証拠を提出した。
[[1954年]][[10月10日]]、隣国のフランスでのUFO目撃がピークに達したころ、再びヘマー村の真北50kmの地点て、葉巻型の飛行物体が目撃された。あるミュンスターの映写技師は低空1.5mの高さで低空する葉巻型物体と、その下で作業する体長1m以下の小人たちを見た。彼らの頭部は大きく、ゴム製のような衣服を身に着けていた。小人たちは梯子を使い、物体の中に入っていった。その数時間前には、近くの田舎道を走行していた3名が、2体の小さな生き物がハイウェイを横切り円盤の中に入っていくのを目撃していた。
上記の目撃者は、誰も他の者の体験について知らなかった。目撃された飛行物体は同じ形状で、その搭乗者にしても当時流行していたハンサムで長髪のUFO搭乗者の記述とは一致していなかった。
==== エンリケ・ボッタ事件 ====
[[1950年]]に[[アルゼンチン]]で起こった事件。当時、建築技師であったエンリケ・ボッタ(Enrique Botta)は、高速道路を車で走行中に、そばの草地に円盤型で金属製の物体があることに気づいた。物体は静止していたため、ボッタは意を決し中に入ることにした。内部は(天井があることを除けば)空のように見え、壁際には4つの座席があった。座席には身長1.2mほどの灰色の小人が計器やパネルに向かって座っており、その身体は焼けただれていた。生物はすでに死んでいた。座席前の制御パネルの上には透明な球体が回転していた。
高速道路に戻ると、ボッタは大急ぎで友人2人を呼びに行った。既に日が暮れていたので、翌朝になり3人は「UFOの墜落現場」に戻った。既にそこに円盤はなく、代わりに灰の山があった。1人がそれを手ですくってみると、手は緑色に変色し何日もそのままだった。その直後、1人が上空を見上げると、葉巻型と円盤形の3つの飛行物体が浮かんでいた。ボッタは5枚の写真を撮影したが、現像した結果はぼんやりとした形が2枚写っていただけだった。
ボッタはこの事件の後に、高熱に見舞われ皮膚が膨れ上がった。医者に診せても原因不明と診断され、この症状は数週間続いた。ボッタはこの事件を公表しなかったが、後に彼の2人の友人が公表した。ボッタは博士号をもつ人物であり、地元での評判も良く、無視できない目撃者であった<ref>{{Cite web |date=2012-08-04 |url=http://www.educatinghumanity.com/2012/08/Dr-Botta-UFO-Crash-Incident-South-America-1950.html |title=Dr. Enrique Botta Incident - Entering a UFO 1950 |website=Educating Humanity |accessdate=2022-06-29}}</ref><ref>{{Wayback |url=http://ufocon.blogspot.jp/2013/06/and-now-for-something-not-completely.html |title=And now for something NOT completely different... |date=20130908045143}}</ref>。
==== ラインホルト・シュミット事件====
[[1957年]][[11月5日]]に全米各地で数多くの未確認の飛行物体が目撃された。目撃された場所は多数であり各地の警察署の電話回線はパンク状態となり、報告を受けた米軍はジェット機の緊急発進を行った。メキシコ湾の航行中の警備隊やニューメキシコ州のミサイル試射場の憲兵隊員、テキサス州の米空軍気象観測官らも飛行物体を目撃した。特にカリフォルニア州の気象観測官3名と、そこからわずかに離れた上空を飛行していた空軍兵10名は「円盤型で磨き上げたアルミニウムのように輝く6機の飛行物体」をほぼ同時刻に目撃した。テキサス州の防空監視団は「赤い光を放つ巨大な飛行物体」からの通信を傍受することに成功したが、その内容は解読不能であった、と証言した。民間人からのいくつかの証言は「飛行物体が近づいた途端に自動車のエンジンやカーラジオが停止した」などの点では一致した。
同日、[[カリフォルニア州]]で穀物飼料問屋に勤めるラインホルト・シュミット([[:en:Reinhold O. Schmidt]])という名の男性が、「金属でできた銀色の宇宙船」を目撃し、その内部から現れた「2人の男」と会話を交わしたと証言した。宇宙船内部には、地球人と似た6名の男女がおり、内部を見せてもらった後に宇宙船は垂直に飛び去ったと語った。シュミットは警察に届け出たが、正気ではないと判断され精神病院に送られた。シュミットはその後、自らの体験を自費出版した後に行方不明となった。宇宙船の着陸現場に出かけた警察署長は「確かに何らかの機械がここに着陸した」と判断した。シュミットが宇宙船を目撃した地域で、謎の飛行物体を目撃したという報告が複数人の目撃者により寄せられた。彼らはシュミット同様に、飛行物体が接近した際に車のエンジンが停止した、と語った。シュミットが宇宙船を目撃した翌日には、テネシー州に住む12歳の少年が宇宙船と宇宙人を目撃したと報告した。その描写はシュミットの描写とほぼ同様のものであり、少年がシュミットの事例を知っている可能性は皆無だった。フラップ(UFOの大量目撃)と第3種接近遭遇が同時に報告されたまれなケースである。
==== パプアニューギニアでの目撃事件 ====
[[1959年]]6月26日、[[パプアニューギニア]]にて、空中に浮かんでいる円盤型のUFOを38名の人間が目撃した。円盤の中には4名の人影が何らかの作業をしている様子が見えた。目撃者の1人が搭乗者に向かい手をふると 搭乗者達も同じ動作をした。目撃者が両手を上げて振ると、乗員たちも両手を上げて振って応えた。UFOは45分もの間観測され、最後には空中に飛び去って消えた。その後しばらくの間、[[カトリック教会]]の上空などに断続的にUFOは出現した。最終的な目撃者は約150人に及んでいた。目撃者であるWilliam Booth Gill神父が目撃内容を詳細に文書に記し、他の目撃者25名がその文書に署名した。
迷信深い者たちによる目撃事件にすぎない、と批判する者も出たが、目撃者の中には[[高等教育]]を受けた者や、別国の宣教師や貿易商などが含まれていた。パプアニューギニアとは関係のないアメリカ空軍はなぜかこの事件について、土星や木星などの天体が光の屈折により目撃された自然現象であった、と発表した。だが目撃された乗務員についての言及はなかった。
なお、この事件が発生する6日前から「コーヒー皿のような飛行物体」や「窓のあるラグビーボール」の光体などが目撃されている。さらにこの事件の後2か月にわたって、同地域にてUFOが目撃され続けた<ref name="daizen" /><ref name="tondemo">『トンデモUFO大全』<!--(当該書籍なし。『トンデモUFO入門』の間違いか?)-->洋泉社</ref><ref>{{Cite web |date=2013-04-17 |url=http://worldufophotosandnews.org/?p=4937 |title=ALIEN CRAFT LANDING WITNESSED BY MANY IN NEW GUINEA |language=英語 |accessdate=2022-06-29}}</ref>。
==== ニューハンプシャー事件 ====
1973年11月1日、米国[[ニューハンプシャー州]][[マンチェスター (ニューハンプシャー州)|マンチェスター]]でのルート114にて、車で帰宅中のリンダ・モレル夫人が、明るいオレンジ色に輝く六角形で構成された巨大な球体を目撃した。その物体は半分透けているような性質があり、上方には窓のようなものが見えた。モレル夫人は体中がヒリヒリする感じを受け、意識が薄れたが気が付くとUFOの近くまで進んでいた。物体の窓には人影があり、[[グレイ (宇宙人)|グレイ]]型の人相をしていた。搭乗者は彼女に「怖がらないように」何とか伝えようとしていると感じられた。女性はパニックになり車から抜け出し、近くの民家に助けを求めた。民家の住人が警察を呼び、警察官が駆けつけると、遠くに色を変えながら移動する光体が見えた。民家の住民を含めた合計4名がそれを目撃したが、嘲笑を恐れ、地元の新聞社には曖昧に報告した。モレル夫人は調査を受けたが、催眠状態での質問の受け答えでも彼女の話に矛盾点などは見られなかった。
そして11月3日になると同地域にて再びUFOが出現した。レックス・スノーと妻のテレサは、小型望遠鏡で銀色の円盤を目撃した。そして同日の真夜中に、レックスは自宅回りが異様に発光していることに気付き、外に出たところ「銀色のスーツ」を着た異形の人物2人を目撃した。レックスは飼い犬に「飛びかかれ」と命じたが、銀色の生物ににらまれると飼い犬は沈黙した。銀色の人物2人はしばらく地面から何かを拾い上げる作業を続けた後に木立の中に消えた。テレサは「銀色の輝き」が木立の中を遠ざかっていくのを目撃した<ref>{{Cite book |和書 |author=中村省三(編著) |date=1991-08 |title=宇宙人の死体写真集2 |publisher=[[青泉社|グリーンアロー出版社]] |series=グリーンアローブックス |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}} |isbn=4-7663-3129-X}}</ref>。
==== 甲府事件 ====
{{main|甲府事件}}
[[1975年]]に[[山梨県]][[甲府市]]で起きた、UFOと宇宙人を目撃したと報道された事件。
==== 虚舟UFO漂流事件 ====
{{Main|虚舟}}
一部の古代宇宙飛行士説論者が江戸時代に起きたと主張する事件である。
=== 未分類の事例 ===
==== オーロラUFO墜落事件 ====
{{main|オーロラUFO墜落事件}}
[[1897年]][[4月17日]]、[[アメリカ合衆国]][[テキサス州]]{{仮リンク|オーロラ (テキサス州)|label=オーロラ|en|Aurora, Texas}}近郊に“飛行船”が墜落。住民たちが見に行くと未知の金属の破片や当時の地元新聞の表現によると“この世のものではない”("not of this world") 操縦士の遺体を発見し、火星人と考えた住民はキリスト教の儀式に則り葬儀埋葬し、墓を建てたという。その後1970年代に再注目されるまで70年以上この事件は忘れられていた。
==== ロズウェル事件 ====
{{main|ロズウェル事件|グレイ (宇宙人)|MJ-12}}
[[ケネス・アーノルド事件]]の直後に起きた、いわゆる「ロズウェル事件」は極めて有名であり、複数のフィクションにおいて何度も題材にされているほどである(『[[ロズウェル - 星の恋人たち]]』など)。これは、アメリカ南部[[ニューメキシコ州]]の[[ロズウェル (ニューメキシコ州)|ロズウェル]]近郊に「UFOが墜落し、その残骸が軍によって回収され秘匿されている」というものである。
[[1947年]]6月14日、[[ニューメキシコ州]]ロズウェル近郊にある牧場で、マック・ブレーゼルは牧場内に散乱した金属片を発見した。7月に入ってブレーゼルと彼の家族は金属片を集め、保安官のジョージ・ウィルコックスに通報。ウィルコックスはロズウェル空軍基地に連絡した。7月7日の午後、基地からやってきた2人とブレーゼルは残りの破片を捜してゴムや金属箔を見つけたのち、元の形を復元しようとした(が、上手くはいかなかった)。翌朝、破片は基地へ持ち帰られた。
7月8日、ロズウェル基地付け報道官のウオルター・ハウト陸軍中尉が「陸軍航空隊がロズウェル近郊の牧場に墜落した空飛ぶ円盤(Flying Disc)を回収した」と発表し、マスコミの注目を浴びた。しかし同日中にロジャー・M・レーミー空軍准将が「発見された空飛ぶ円盤は軍が使用している[[気象]]観測用の気球だった」と訂正を行った。後に行われた発表では残骸も公表されて、事件はすぐに忘れ去られた。それから30年以上、UFO研究家も含めて誰も関心を持つことはなかった。
しかし[[1978年]]になって、破片回収を行った軍人ジェシー・マーセルに対してUFO研究家がインタビューを行った際、マーセルはこの事件を軍による隠蔽とする意見を表明した。この話題はUFO愛好家の間で関心を持たれるようになり、[[1980年]]にはタブロイド紙『ナショナル・エンクワイアラー ([[:en:National Enquirer|National Enquirer]])』がマーセルへのインタビューを載せたことで、広く世間で知られるようになった。
「ロズウェル事件」が有名になると、既に30年以上経過していたにもかかわらず、軍の圧力があったとする証言や「政府の秘密文書」などが多数表れるようになった。「[[宇宙人解剖フィルム|ロズウェル事件の際に回収した異星人の解剖フィルム]]」なるものまでが現れた。[[1997年]]には、アメリカ政府より正式報告書「ロズウェル・リポート」が改めて発行された。この報告書では「当時墜落したのは実は秘密実験に使用されていた気球で、後に発見された[[グレイ (宇宙人)|異星人]]の死体といわれるものは高度での人体への影響を調べるための観測用ダミーである」としている。また解剖映像が{{読み仮名|捏造|ねつぞう}}であったことが後に判明した([[宇宙人解剖フィルム]]の項目を参照)。
2007年、ロズウェル基地の元報道官ウォルター・ホート大尉が、ロズウェル事件について「隠蔽があった」ことや、基地の格納庫で「異星人の死体を直接見たこと」を記述する宣誓供述書に署名していたことが判明した<ref>{{Cite book |和書 |author1=ドナルド・シュミット |author2=トマス・キャリー |others=並木伸一郎(訳) |date=2010-10 |title=ロズウェルにUFOが墜落した 臨終の証言者たちが語った最後の真実 |publisher=学研パブリッシング |origyear=2007 |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}} |isbn=978-4-05-404235-3}}</ref>。研究者であるドナルド・シュミットによれば、これは最も強力な証拠であり、他にも異星人の死体や墜落した円盤を目撃した関係者の証言が多数得られているという。空軍により尋常ではないほどの家宅捜索や脅迫をされたため、隠蔽工作があったことを確信する証言者も多い。
==== トリンダージ島事件 ====
{{see also|pt:Caso da Ilha da Trindade}}
[[1957年]]12月から[[1958年|翌年]]の1月にかけて、[[ブラジル海軍]]が[[国際地球観測年]]に向けての観測基地を南[[大西洋]]に浮かぶ[[マルティン・ヴァス諸島]]のトリンダージ島に設営する際に、数回にわたり観測隊員や島民が円盤型の飛行物体や光を目撃したとされる伝達情報。日本のUFO愛好家の間では昔からあった有名な話であり、たびたび出版されている。出版物などで同島を「トリニダーデ島」と呼ぶが、正しい名称は「トリンダージ島」(Trindade、[[ポルトガル語]]であり綴りが異なる)である。[[トリニダード島|トリニダーデ島]](Trinidad、元来は[[スペイン語]])とはカリブ海にある[[トリニダード・トバゴ]]の島であるので、誤訳といえる。超常現象としてのUFOの話にはこのような誤訳が多い。
この話はブラジル国内ではほとんど知られていないが、他国では書籍の写真を通して有名である。同島はブラジル東南部の[[エスピリトサント州]]の沖にあり、本土から1200キロメートル以上離れている。居住島民はおらず、海軍の駐在所と科学研究員の宿泊施設がある。
[[1958年]][[1月1日]]にブラジル海軍長官と観測隊員が同島周辺を飛行する光体を目撃したとされた。同月15日と16日には海軍練習船アウミランチ・サウダーニャ号(Almirante ''Saldanha'' )が観測船として同島に接近したときに円盤型の飛行物体が出現したとされる。ただし、この目撃例は地球観測年だけのもので翌年以降はない。また、「公認のUFO写真」という有名な写真が海外の雑誌に出版されたが、ブラジル海軍は遭遇を認めていないので「公認」の写真ではない。
写真に写っている物体は湿った大気中を飛んで[[ヴェイパー]]に包まれた飛行機という意見もあり、[[ビーチクラフト ツイン・ボナンザ|ツインボナンザ]]という機種が似ていると研究されたが、特定されてはいない。写真は4枚の連続写真であり、1枚目は飛行機の側面から、2枚目以降は正面からとられたものと推測されている。1枚目はぼんやりと[[土星]]型に写っているが、2枚目以降はもっとはっきりとした円盤型に写っている。それが水蒸気に包まれた双発のプロペラ機を正面から見た形に似ていると指摘する研究者もいる。しかし{{要出典範囲|最近のデジタル化した写真の分析により、[[多重露光|二重露出]]で物体を写したものという意見が説得力をもっている。|date=2022年6月}}
写真を公表したのは海軍ではなく、同行したカメラマンであるアルミロ・バラウーナ(Barauna)であった。彼にはトリック写真を作る技術があり、この事件以前にも偽UFO写真を撮って「UFOに追いかけられた」というジョーク記事も書いたことがある。この件も面白そうな形に写った飛行機の写真を思わせぶりに見せただけだと考えられるが、結果として国外では大変有名になってしまった。ブラジル最大の新聞『{{仮リンク|オ・グローボ|pt|O Globo}}』は、バラウーナのいたずらと結論付けた。
==== メキシコ空軍UFO事件 ====
[[2004年]][[3月5日]]に、麻薬密輸の監視にあたっていた[[メキシコ空軍]]機が十数機のUFOに遭遇し、追尾されたとする事件。赤外線探知機の画像には、よく見れば静止した物体であることがわかる11個の点が映っていた。しかし、メキシコ空軍が公式に発表したために世界各国で報道された。その後、地元のUFOに肯定的な団体の調査により、UFOの隊形と煙突の配置が同じであること、画像の「UFO」は移動していないことから、海上油田の煙突の[[フレアスタック]]の誤認だと結論されている。メキシコ政府は公式発表についてその内容を変更してはいないが、{{要出典範囲|date=2013年7月|そもそもの「発表」が、報告を受けた将官が知人のUFOマニアに見せた以上の調査もせずに行われたものだ}}。
=== アブダクション(第4種接近遭遇) ===
UFO現象の中には、「UFOに[[誘拐]]された」とする「アブダクション」の事例報告が存在する。体験者によると、UFOによりUFOの中に誘拐され、医学的な手術を受けたり、小さなトランスミッター(発信機)を埋め込まれたり、実験や研究の対象となったという証言、場合によっては性行為(男女双方に対する強制的、もしくは非強制的な)の対象となったという報告もある。宇宙人と好意的な関係を結んだとする「ポジティブなケース」も存在するが、多くの場合、体験者はトラウマを抱え込むことになる。
アブダクション時には[[体外離脱]]などの現象も起こるため、ある研究者は臨死体験との類似を指摘している(→[[#臨死体験説]])。アブダクションにはある特定の傾向がある。「アブダクトされたという時間と場所に、確かにいるはずの人がいない」「帰ってきたときに、身体に異常な痕跡が残っている」「複数人が同時にアブダクトされ、お互いの体験を検証できる」といった特徴である。またアブダクションを報告するものは<!--UFO (英語版ウィキペディアの項目名に倣う)-->{{仮リンク|コンタクティー|en|Contactee}}と混同されることが多いが、ほとんどのアブダクション体験者は、その体験で金銭を得ようとはしない傾向がある。また多くの場合、自分の体験が異常なものであると感じるため、体験者は自分の存在を公にしたがらない傾向がある。アブダクションの対象となった人々は医師・弁護士・教授などの職業層から非熟練労働者まで広い範囲にわたっている。
アブダクション体験は証言のみで物的証拠が伴わない場合が多く、調査の結果フィクション、もしくは[[虚偽記憶]]、想像上の体験であることが判明したケースもある。物的証拠については、体内に埋め込まれた「トランスミッター」、もしくは物質を後から[[核磁気共鳴画像法|MRI]]や[[コンピュータ断層撮影|CT]]で発見し、手術によって取り出した、とする事例もある(それは小規模な脳梗塞などの画像だとする説もある<ref>{{Cite book |和書 |author=横屋正朗 |date=1994-07 |title=UFOはこうして製造されている! |publisher=[[徳間書店]] |series=TOKUMA BOOKS |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}} |isbn=4-19-505287-4}}</ref>)。
数多い報告の1つに「鼻の奥に球状のインプラントを埋め込まれた」という例がある。この場合、医師により鼻孔の奥が調査された結果、証言通りに謎の金属球が発見されたり、鼻孔に説明不可能な穴が開いている事が確かめられたケースもある。宇宙人の子供を授かったというケースでは、妊娠が確認された体験者の体内から、いつのまにか胎児が消えていたことを医師が発見したケースがあるという<ref name="Yukai">{{Cite book |和書 |author=デイヴィッド・M.ジェイコブズ |others=[[矢追純一]]、原田勝(訳) |date=1994-05 |title=未知の生命体―UFO誘拐体験者たちの証言 |publisher=[[講談社]] |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}} |origyear=1993 |isbn=4-06-207059-6}}</ref>。アブダクション後には癌が治癒していたと語る者もいる<ref>{{Cite web |date=2013-05-10 |url=http://www.phantomsandmonsters.com/2013/05/puerto-rico-real-ufo-humanoid-encounters.html |title=Puerto Rico: Real UFO / Humanoid Encounters |website=Phantoms and Monsters |language=英語 |accessdate=2022-06-29}}</ref>。2013年の[[シチズンズ・ヒアリング・ディスクロージャー公聴会]]には、エイリアンにアブダクションされたと主張する人々の身体を調査を行った医師が参加し、全く傷痕のない患者の体内に異物が混入していたケースが存在したことなどを証言している。
==== 虚偽記憶説・出生外傷説 ====
これらのアブダクション現象については[[虚偽記憶]](False Memory)で説明できるという考え方がある。アブダクション体験談の多くは「催眠状態の誘導により思い出されたもので、そこに虚偽記憶が介在する余地があるため、信頼性の高い情報とはいえない」という側面があるという理論である。
なお、研究者であるデイヴィッド・マイケル・ジェイコブズはこの虚偽記憶説を批判している。「アブダクション体験者は互いに面識がなく、UFOについての知識がないにも関わらず一般に知られていない詳細なアブダクション現象の共通点を同じように報告してくるため、それらが作り話や虚偽記憶であるという可能性は極めて低い」と述べている。
もし催眠下にある人間がアブダクション体験を捏造しようとした場合、その報告はバラバラで全く共通点がなくなるという実験結果も出ている(アルヴィン・ロースンの実験)<ref name="Yukai" />。またUFOとの遭遇を直接思い出した者と、催眠により思い出した者とが語る証言には、実質的な違いは何もないと結論した研究もある<ref name="omega">{{Cite book |和書 |author=ケネス・リング |others=片山陽子(訳) |date=1997-09 |title=オメガ・プロジェクト |publisher=[[春秋社]] |origyear=1992 |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}} |isbn=4-393-36113-X}}</ref>。アブダクション体験者の中には、催眠を用いずに体験を思い出した例もあり、そうした体験者がウソ発見器をパスしたケースもある(1973年のパスカグーラ事件など)。
アブダクション現象は幼児期の[[性的虐待]]の記憶が多くの人間に虚偽記憶として蘇っているのではないかとする「出生外傷説」がある。[[スタニスラフ・グロフ]]が[[LSD]]を用いた研究では、出生外傷に基づくと思われる意識状態にて、第4種接近遭遇とよく似た現象を報告した者がいる。しかし、この説では「アブダクション体験者が催眠により虐待そのものの記憶を取り戻さないこと」や「多くのアブダクション体験者が子供の頃の虐待体験を否定していること」などの事実の説明がつかない<ref name="Yukai" />。
==== ヒル夫妻のアブダクション事件 ====
{{main|ヒル夫妻誘拐事件}}
ベティ・ヒルとバーニー・ヒルの夫妻は、[[1961年]][[9月19日]]から[[9月20日]]まで地球外生命体に誘拐されていたと主張した。催眠療法により両者が同じ記憶を思い起こしたことが話題となった。この事件はアブダクション事例の中でも最も有名なものとなり、さまざまな議論を呼んだ。
==== リンダ・ナポリターノ事件 ====
[[1989年]][[11月30日]]深夜、アメリカ東部[[ニューヨーク]]の[[マンハッタン]]にて、マンションの窓をすり抜けて女性が空中に浮き上がり、上空の UFO に吸い込まれるという事件が起きた。この光景を、第5代[[国際連合事務総長]]である[[ハビエル・ペレス・デ・クエヤル]]と彼を護衛する2人のボディガードが目撃していたとされる。アブダクションされた女性リンダ・ナポリターノは後に退行催眠などにより事件の記憶を思い出した。またデ・クエヤルはこの目撃談の存在を否定した<ref name="tondemo" />。
後に研究者の{{仮リンク|バッド・ホプキンズ|en|Budd Hopkins}}がこの事件を調査している。ホプキンズが取材を行ったところ、国連事務総長であるデ・クエヤルは、アブダクションは事実であったと述べた上で「それを自ら公表することは混乱を招くのでできない」と発言した。また目撃者は他にも存在していた。郵便局員とジャーナリスト、電話交換手など複数の者が、リンダが空中に吸い込まれていく光景などを目撃していた<ref>{{Cite web |url=http://www.ufocasebook.com/Manhattan.html |title=The Manhattan Abduction (Linda Cortile Napolitano) |accessdate=2022-06-29}}</ref><ref>{{Cite web |last=Spence |first=Yancy |url=http://www.ufocasebook.com/daze.html |title=The Daze After Manhattan Stood Still |accessdate=2022-06-29}}</ref>。
====アンドレアソン事件====
{{main|アンドレアソン事件}}
[[1967年]][[1月25日]]、ベティ・アンドレアソンは台所の扉を透過して入ってきた5人の小人たちに導かれて、小型のUFOに乗りこんだ。「出産テスト」をうけたあと、不思議なトンネルを通って、未知の世界へと旅をして、不死鳥の映像を見せられた。事件から10年後の[[1977年]]、UFO研究家の調査に応じて逆行催眠をかけられて、何に遭遇したのかを知った<ref name="daizen" /><ref name="kikan">{{Cite book |和書 |author=レイモンド・E・ファウラー |others=井上篤夫(訳) |date=1979-06 |title=外宇宙からの帰還 |publisher=集英社 |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}} |id={{全国書誌番号|79024023}}}}</ref>。CUFOS ([[:en:Center for UFO Studies|Center for UFO Studies]]) の所長[[ジョーゼフ・アレン・ハイネック]]博士は、アンドレアソンの事例によってUFO問題が「驚くほど複雑」になってきたことがわかると記している<ref name="daijiten">{{Cite book |和書 |author=ジム・マース |others=柴田譲治(訳) |date=2002-02 |title=『深[地球史]宇宙人UFO大事典 |publisher=徳間書店 |origyear=1997 |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}} |isbn=4-19-861482-2}}</ref>。アンドレアソン事件は複雑であるため、拉致事件の記録のなかでも重要度においては最大級の出来事である<ref name="jiten">{{Cite book |和書 |author=ジョン・スペンサー (編著)|others=[[志水一夫 (作家)|志水一夫]](監修) |date=1998-08 |title=UFO百科事典 |publisher=[[原書房]] |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}} |origyear=1997 |isbn=4-562-03107-7}}</ref>。
== UFOについて言及した著名な人物 ==
=== 元宇宙飛行士 ===
;[[エドガー・ミッチェル]]
:2008年にイギリスのラジオで「UFO現象は事実であり地球には異星人が訪れている」「政府は60年以上そのことを隠してきたが情報が漏れつつある」と述べた<ref>{{Cite web|和書|title=「米国政府は宇宙人存在隠ぺい」 元宇宙飛行士「暴露」騒動拡大|url=https://www.j-cast.com/2008/07/28024211.html|website=J-CAST ニュース|date=2008-07-28|accessdate=2021-12-29|language=ja}}</ref>。またミッチェルによると、その地球外生命体に敵意は無く偵察任務の時にも彼らとの接触があり、彼らは人類の行く末(未来)を悲観的に捉えていたという。
;[[エドウィン・オルドリン]]
:[[アポロ11号]]にてニール・アームストロングと共に初の月面着陸を成し遂げたバズ・オルドリンは2005年に、『サイエンス・チャンネル』という番組でUFOとの遭遇について報告した。オルドリンによると月面に降りた際に「円筒形の物体」が観察できるほど近くにあった。また飛行中もアポロ11号に覆いかぶさるほどのUFOを目撃していた。そしてNASAはその事実を隠したと番組中で語った。しかしオルドリンは2年後の2007年のインタビューで、「99.9パーセント、あれは宇宙船の分離パネルだった」と、前言を撤回した。その2年後の2009年にオルドリンは「[[火星]]の衛星[[フォボス (衛星)|フォボス]]には、人工構造物である巨大な石板が存在する」と語っている<ref name="UFOgensho">{{Cite book |和書 |author=並木伸一郎 |date=2011-03 |title=完全版・世界のUFO現象FILE |publisher=学研パブリッシング |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}} |isbn=978-4-05-404916-1}}</ref>。
;[[ジェームズ・マクディビット]]
:マクディビットは1965年[[ジェミニ4号]]で飛行中に「ポールの突き出た円筒形の飛行物体」を目撃した。彼は後にその物体は異常なものではなかったと述べた<ref name="kimitsu">{{Cite book |和書 |author=ティモシー・グッド |others=森平慶司(訳) |date=1990-05 |title=トップ・シークレット UFO目撃機密文書! |publisher=二見書房 |series=サラ・ブックス |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}} |isbn=4-576-90055-2}}</ref>。
;[[ドナルド・スレイトン]]
:[[マーキュリー・セブン]]の元飛行士スレイトンは、1951年に飛行機のテスト中、直径1mほどのUFOを目撃したと述べた。スレイトンによるとそれは明らかに観測用気球ではなく、時速480キロメートルで飛ぶ飛行機を軽く引き離し、突然急上昇して上空に消えた<ref name="kimitsu" />。
;[[ゴードン・クーパー]]
:クーパーは1951年に未確認飛行物体が編隊を組んで飛んでいるのを目撃したと語っている。また後にクーパーは宇宙飛行士の名声を利用して嘘の情報を流し利益を上げようとする人間が多いため、ほとんどの宇宙飛行士はUFOについて論じるのを渋っている、と話した<ref name="kimitsu" />。1955年にクーパーのチームは、金属製で円盤型のUFOが3本の着陸ギアを下ろして着陸する現場を目撃した<ref>{{Cite video |date=2011-11-10 |title=UFOTV Presents UFOs OUT OF THE BLUE |medium=インターネット番組 |url=https://www.youtube.com/watch?v=cYPCKIL7oVw |language=英語 |accessdate=2022-06-30}}</ref>。1963年には[[オーストラリア]]のパース上空にて、クーパーは「赤い尾をひく、緑色の物体」を見た。
:1976年の『ロサンゼルス・エグザミナー』 ([[:en:Los Angeles Herald Examiner]]) のインタビューでは「他の惑星から知的生命体が、われわれ人類と接触しようとして、定期的に地球を訪れている。宇宙を航行している間にも、私は多くの宇宙船に遭遇した」「[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]とアメリカ政府はこのことを知っており、膨大な証拠を持っている。にもかかわらず、一般大衆に知らせまいと沈黙している」と語っている<ref name="UFOgensho" />。
=== 政府関係者 ===
;[[ポール・ヘリヤー]]
:元カナダ防衛大臣のポール・ヘリヤーは2013年に「少なくとも4種類のエイリアンが何千年もの間、地球に来ている。」「今いるエイリアンのうち5種類の名前は「ゼータ・レティクル、プレアデス、オリオン、アンドロメダ、わし座([[アルタイル]])」「UFOの情報開示を阻む、既得権を持つ「[[影の政府]]」がアメリカには存在する」と発言した。後にインタビューにて「1961年に50機のUFOが編隊を組み、ロシアから南下しヨーロッパを横切った」「ほとんどすべての(エイリアンの)種族は、人間に対して友好的で人間を助けたがっている」と述べた。
;[[キルサン・イリュムジーノフ]]
:[[ロシア連邦]][[カルムイク共和国]]の大統領であったイリュムジーノフは、2010年4月26日にロシアの国営放送に出演した際、宇宙人に連れ去られた経験があることを明かした。宇宙船は半透明のチューブ型で、宇宙人は黄色い服を着ていた。彼の運転手と大臣、補佐官もこのことを目撃したと書いている。
;[[ドミートリー・メドヴェージェフ]]
:ロシア首相(前大統領)であったメドヴェージェフは「地球外生物は地球を訪れているだけではなく、実際我々の中で既に生活している者もいる。」「大統領が引き継ぐ『宇宙人ファイル』が存在する」と発言した。この発言はジョークであるという見方もあり、物議をかもした<ref>{{Cite news |和書 |title=「ソ連はUFOと交信していた」 |newspaper=ロシア・ビヨンド ([[:en:Russia Beyond]]) |author=スヴェトラーナ・スメタニナ |date=2013-04-12 |url=https://jp.rbth.com/science/2013/04/12/ufo_42413 |accessdate=2022-06-30}}</ref>。
;[[ジミー・カーター]]
:当時州議会議員だったジミー・カーターは、自ら未確認飛行物体を目撃したことがあると公に認め、大統領在任中には情報公開法に基づいて多くの政府による未確認飛行物体情報を開示した。ただしこの場合、未確認飛行物体(UFO)とは「自然現象か鳥か航空機か、あるいはそれ以外の物か判別できない物体」を指す、航空・軍事用語でのUFOを意味する。
;[[ロナルド・レーガン]]
:カーターの後任であるロナルド・レーガン大統領も、公式の記者会見において未確認飛行物体の存在を認める発言を数回に渡り行っている。
;[[河野太郎]]
:[[防衛大臣]]として記者会見時に「あまりUFOは信じていないが、アメリカ国防総省が画像を出したので、真意や分析を聞きたい」と超常現象のUFOと解釈して公表している。前述の「UFOという呼称」の通り、アメリカ国防総省は一般的な未確認飛行物体と言う意味で画像を出している。
=== 軍関係者 ===
UFOについて、実名で言及した軍関係者は数多い。
{{see|UFOディスクロージャー・プロジェクト}}
;[[ウラジーミル・チェルナヴィン]]
:元ソビエト連邦海軍総司令官であり[[ソ連邦英雄]]。2009年に行われたインタビューで、ソ連海軍には海面上で不可解な物体に遭遇した多数の事例があることや、専門の分析部門がそれらを分析していたことなどを明かした。チェルナヴィンが明かした情報の中には、元海軍のVladimir AzhazhaによるUFOの統計情報があり、それによればUFOとの遭遇事例の5%は海に、15%は湖に関連していた。また、ロシアの潜水艦を追跡した正体不明の6つの物体が、海中から飛び出し空中へ飛び去った事件が存在することなどを明かした<ref>{{Cite web |date=2009-07-29 |url=http://www.theufochronicles.com/2009/07/russian-navy-has-released-new-data-on.html |title=Russian Navy Has Released New Data on UFOs |website=THE UFO CHRONICLES |language=英語 |accessdate=2022-06-30}}</ref>。
;[[:en:Philip J. Corso|フィリップ・J・コーソー]]
:元アメリカ陸軍情報将校。著書『[[:en:The Day After Roswell|ペンタゴンの陰謀]]』(邦訳は1998年に[[二見書房]]刊行)において、アメリカ政府が[[ロズウェル事件]]で墜落したエイリアンクラフトを回収しており、その[[リバースエンジニアリング]]により[[ステルス性|ステルス]]技術など多くのハイテクを獲得・開発したと主張した。この主張は科学技術史的に辻褄が合わないものであり多くの研究者に捏造話であると批判されている<ref>{{Cite web|和書|author=横着者|date=2013-10-23 |url=http://news21c.blog.fc2.com/blog-entry-3264.html |title=回収した UFO から光ファイバー技術が生まれたというのは与太話 |website=海外の妖しい Blog 記事から |accessdate=2022-06-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=横着者 |date=2016-10-25 |url=http://news21c.blog.fc2.com/blog-entry-7487.html |title=John Alexander : Phillip Corso の主張を完全否定 (途中:その3) |website=海外の妖しい Blog 記事から |accessdate=2022-06-30}}</ref>。
;ロバート(ボブ)・ディーン([[:en:Robert Dean (ufologist)|Robert Dean]])
:元[[アメリカ陸軍]]下士官曹長。[[北大西洋条約機構]](NATO)在籍中に異星人ファイル「アセスメント」を閲覧し、そこには4種の人間型の異星人情報が書かれていたと証言した。それらは多次元的な存在であり、太古から人類と親密な相互関係をもつ者たちだと述べた。2009年にスペインで開催されたヨーロピアン宇宙政治学サミットでは、マリナー9号やソ連の火星探査衛星フォボス2が火星を撮影した際に、写真に人工的な建造物や都市が写っていたことを証言した。
;ロバート・ウォーカー(Robert Walker)
:元アメリカ陸軍少尉。[[アメリカ航空諮問委員会]]の施設公開時に、ドイツから研究目的で接収した円盤形の航空機を目撃したと証言している。後に銀色の円盤形UFOを写真に収めもしたが、フィルムごと没収されたと述べている<ref>https://www.youtube.com/watch?v=LorFBqM_9KA</ref>{{出典無効|date=2022-06-30 |title=当該アカウントが停止されている}}。
;クリフォード・ストーン(Clifford Stone)
:元アメリカ陸軍軍曹。1960年代のベトナムでUFOを目撃したことや1989年に軍を退役した時に57種類の異星人がアメリカ陸軍の目録に載っていたことなどを記者会見で語っている。
;[[ミルトン・ウィリアム・クーパー]]
:元アメリカ海軍将校。アメリカ政府に2種類の宇宙人が接触したことや、アメリカ秘密政府がUFO技術を有していることなどを講演会を証言した。
=== その他 ===
;[[横尾忠則]]
:芸術家。著書でUFOとのコンタクト経験があることや宇宙人との交信記録を明かしている。横尾によれば、美術作品を創る上でサポートがあったという<ref>{{Cite book |和書 |author=横尾忠則 |date=1997-09 |title=私と直観と宇宙人 |publisher=[[文藝春秋]] |series=[[文春文庫]] |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}} |isbn=4-16-729704-3}}</ref>。
;[[木村秋則]]
:農業家。世界で初めて[[無農薬]][[有機栽培]]のリンゴの栽培することに成功したが、それはUFO・異星人との遭遇体験によるものだと語っている<ref>木村秋則『すべては宇宙の采配』東邦出版{{Full|date=2022年6月}}<!--2009年刊と2013年刊の加筆・軽装版が存在。どちらの何ページ?--></ref>。
;[[アーサー・C・クラーク]]
:SF作家。UFOを計6回目撃したと述べている<ref>http://www.youtube.com/watch?v=rR_mg93Tok4</ref>{{出典無効|date=2022-06-30 |title=当該アカウントが停止されている}}。
;[[山口百恵]]
:1975年8月、仕事先の[[千葉県]][[九十九里海岸]]で2機のUFOを目撃した<ref name=momoe>{{Cite book |和書 |author=篠山紀信|authorlink=篠山紀信 |date=1980-09-01 |title=百恵 |publisher=[[集英社]] |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}} |id={{全国書誌番号|81015352}}}}</ref>。
;[[ジョン・レノン]]
:[[1974年]][[8月23日]]に、ニューヨークにある自宅アパートのバルコニーの窓の真上に空飛ぶ円盤が接近してホバリングしているのを、恋人のMay Pangとともに目撃したと発言している。物体のサイズはジェット機に近く、円錐型の胴体の周りに白い輪が点滅しながら取り囲んでいた。通り過ぎていくUFOを見て、慌てて何枚かの写真を撮ったが露出オーバーで映らなかった。レノンの曲「Nobody told me」には「ニューヨークの上空にUFO がいたが、私はそんなには驚かなかった」と歌う個所があり、「Out of the blue」には「UFO のように君は私のところにやって来た。そして人生の不幸を吹き飛ばしてくれた」とある。もともとUFOに関心を抱いていたレノンは、この事件を機にUFO現象にますます熱を上げていった<!--<ref>https://www.youtube.com/watch?v=rujGGM-hp1s John Lennons ufo radio interview(英語)</ref>(著作権侵害の動画と見られる)-->。
== UFOの正体についての諸説 ==
これら諸説は、いわゆる「超常現象としてのUFO」の存在を肯定して、その正体について言及するもの「超常現象としてのUFO」の存在を否定して、現在の人類が知り得る科学的知見の範囲内で説明するもの(誤認説など)と、2通りに大別できる。
=== タイムマシン説 ===
「UFOは未来の人々が開発した、[[タイムトラベル|時間移動]]を行うために使用する乗り物([[タイムマシン]])である」とする説。UFOが消えたり現れたりすることを空間移動ではなく時間移動と解釈する。
フランスのUFO調査機関である{{仮リンク|GEPAN|en|GEIPAN}}の設立者ルネ・フーエルは、UFO搭乗者が一般的に人類との接触を避けているのは、彼らが未来人であり[[タイムトラベル#タイムパラドックス|タイムパラドックス]]を避けている可能性があると述べている。
歴史上の重要な時点でUFOが目撃されることがしばしばあるが、これは未来人が過去の重要な場面を選んでいるからだという推測もある。例えば20世紀直前の時期には[[飛行船]]が将来に実用化されると考えられていたが、当時のUFOは飛行船の形態と似ていた。[[第二次世界大戦]]中には爆撃機のマーカーとして輝くキャンドルが使用されたが、当時のUFOは発光する球体の形をしていた。第二次大戦後の[[1946年]]にはロケットの形をした「ゴースト・ロケット」が世界を騒がせた。1990年代には米国のステルス戦闘機を真似た三角形型のUFOが目撃された。これらの物真似はその時代にどういった種類の飛行物体が製造されるのか前もって知っていなければ不可能である。
UFOと遭遇し20分間行方不明になっていた男性が、発見された時は5日分のヒゲが伸びていたというケースがある。UFO搭乗者が、地球の言語を話したり、地球製の衣服を着ていたり、地球の食物を食べていたという事例も見られる。また極まれに搭乗者が目撃者に対して「今は何年か?」と尋ねたり、未来の地球からやってきた、と証言するケースもある。UFO搭乗者の姿は、背が低く頭の大きな子供のような姿で描写されることが多いが、これは[[ネオテニー]]が進んだ未来の人類の姿であるという推測もある。
この説に関しては物理的な根拠、証拠は一切示されていない。
[[ヒストリーチャンネル|HISTORYチャンネル]]の「[[古代の宇宙人]]」シリーズでは古代宇宙人の来訪だと主張する[[ジョルジョ・A・ツォカロス|ジョルジョ・ツォカロス]]の説が紹介された。
=== イタズラ ===
「UFOを写した」とされる写真の中には、人工物や自然現象の誤認の他に、[[模型]]や[[光学合成]]による作り物が多いことも知られている。近年は[[コンピュータグラフィックス]]によってかなりリアルな画像を捏造するケースが多い。安価なカメラを用いても、トリックをうまく計画すれば、超常現象雑誌に掲載されるレベルの完成度の高い画像を作ることは可能である。「本物」とされ繰り返し出版された写真の中にも、後年になってトリックを見破られた例は多い。
なお、UFOの[[トリック]]写真には以下のものが多い。
;吊るし型
:[[ピアノ線]]など極細い糸を使ってUFOの模型を吊るし、それを撮影する。きわめて初歩的な技術であり容易さのために多用されるが、簡単に見破ることができる。スペインの「ウンモ星人」の円盤の例が有名(画像処理により、吊るしていた糸が見えた)<ref>{{Cite book |date=2016-06-23 |url=http://ufojikenbo.blogspot.com/2016/06/ummo.html |title=ウンモ星人 |website=UFO事件簿 |accessdate=2022-06-30}}</ref>。
;[[投擲]]型
:金属製の[[灰皿]]、タイヤの[[車輪|ホイール]]、CDなど円板状のものを投げ、それを撮影する。うまく撮影するためには熟練を要するが、雑誌に掲載するのには十分よい写真が取れる。
;合成型
:別々の写真を合成するもの。[[コンピュータ]]が普及したことで合成が容易になった。熟練技術があれば動画も作れる。
;投影型
:強力な映写機や投光器を使って夜間、雲に光を当てる。UFO自体に人造物を使ったトリックではないために技法や造形の不自然さを見抜かれる危険は少ないが、強力な光源を用意しなくてはならないため、費用がかかる。自動車のライトが反射したものや、投光器などの投影光が誤認される例も多い。
;その他
:その他に[[窓ガラス]]にUFOのシルエットを模した[[シール]]や紙の切り抜きを貼り、ガラス越しに外の風景を撮影する、という方法がある。安易な手法であるが、よほどうまく作らないとよい写真は取れない。
この他に[[気球]]や[[凧]]を上げるなどの方法もある。これらは故意によらず誤認されることがある。[[マンテル大尉事件]]がその一例。
[[ミステリー・サークル|クロップサークル(ミステリーサークル)]]がUFOのような光によって作成されていたり、クロップサークルの近くをUFOが飛んでいたりする目撃談があることから、クロップサークルとの関連も考えられることが多かったが、クロップサークルの多くはイタズラであったと後に判明している。その典型がイギリスのダグ・バウアー(Doug Bower)とデイブ・チョーリー(Dave Chorley)である。この2人はミステリー・サークルの最初の製作者として名乗りを上げ、簡単な道具と人力によって立派なミステリー・サークルが比較的短時間で作れることを実演してみせた。この実証により、現在ではミステリー・サークルは人間によるイタズラと見なされるようになった。1990年9月17日、[[福岡県]][[糟屋郡]][[篠栗町]]の稲田で直径20メートルと5メートルのサークルが出現し、全国ネットのニュース番組で取り上げられた。篠栗町ではミステリー・サークルのテレホンカードを売り出すなど、町おこしに活用している。それをきっかけに2か月間に福岡県と佐賀県で5箇所で10個のサークルが出現するなど日本各地でミステリー・サークルが発見され、マスコミでも大きく取り上げられた。しかし、1991年10月、福岡県内で窃盗の常習犯として警察に検挙された高校生12人のグループが、篠栗町ミステリー・サークルを作ったのが自分たちだと自白し、いたずらと判明。この報道以降、日本におけるミステリー・サークル発生報告はほとんどなくなりブームは鎮静化した。
{{main|[[ミステリー・サークル|クロップサークル(ミステリーサークル)]]}}
=== 組織的捏造説 ===
一部の[[軍事評論家]]は、UFOの目撃談は[[軍事組織]]や[[情報機関]]によって[[捏造]]された物であると主張している<ref>[[神浦元彰]] {{Wayback |url=http://www.kamiura.com/abc4.html |title=ET,UFOの正体を解明する |date=20160308232044}}</ref>。これらは最新ドローンやステルス攻撃機の目撃談、政府による極秘の[[宇宙開発]]プロジェクトや軍部独自の[[地球外生命|地球外生命体]]探査など重大な機密が世間や[[スパイ]]に漏れるのを防ぐため、敢えて超常現象として[[マスメディア]]を通じて{{読み仮名|喧伝|けんでん}}したり噂話を増長させることで肝心な部分から目をくらます{{読み仮名|欺瞞|ぎまん}}工作であるというのだ。地球外の古代遺跡や[[タイムマシン]]、古代文明人の来訪など捏造自体はそれと証明された物が多いが、これらに軍や情報機関が関与している証言や物証は乏しく[[陰謀論]]から抜け出すものではない。ただし、[[エリア51]]のように、秘密兵器の研究基地であることがわかっている場合もある。テレビ局が超常現象を扱う人気番組を作るために故意に物語を捏造したり、偶発的に起こった騒ぎを利用したり誇張したりする場合もある。(→[[#ヴァルジーニャ事件]])
=== 精神投影説 ===
UFO現象のうちいくつかは、それが起こる直前から無名のSF作家たちにより人知れず予想されていたケースがある。また超現実的で夢のような性質をもつUFO遭遇事例も多く、UFOの搭乗者が無意味な行動を取ったり、地球上の衣服を身に付けていたり、当時流行していたサイエンス・フィクションの影響を受けている事例もある。これらから、UFOは人間の無意識が投影されたものであるとする見方がある。
ただし、UFOや異星人という概念自体が深層意識においてさえ存在しない時代の目撃例は、この説では説明がつかない。(→[[#9世紀のUFO搭乗事件]])
=== 秘密兵器説 ===
自国を含めて、地球上のどこかの国の軍部によって秘密裏に開発されている戦闘機や[[兵器]]ではないかという説。冒頭で述べた通り、UFOの正体についての諸説は、いわゆる「超常現象としてのUFO」の存在を肯定するか否定するかで2通りに大別できるが、本説はその両者を含む。つまり従来の科学的知見を超えた秘密兵器を誰かが極秘裏に開発しているのではないかという主張と、単に見慣れない格好の航空機を誤認したに過ぎないという主張である。
新兵器を誤認したという観点では、例えばアメリカ軍であれば、[[XF5U (航空機)|XF5Uフライングパンケーキ]]、[[YB-49 (航空機)|YB-49]]、[[F7U (航空機)|F7Uカットラス]]、[[F-117 (航空機)|F-117ナイトホーク]]などの航空機が候補にあげられる。一般人からすると形状が奇妙だったり開発・運用が秘密だったりする。これらの機体は「UFO」であり正体を明かされていない飛行物体である。それらの新型機はいずれも民間空港で見慣れた形態ではなく、[[全翼機]]などの[[近未来]]風のSF戦闘機を想起させる形状をしており、常識を超えた速度(目視による速度の見積もりは問題が多い)で飛行できるなど、超常現象としてのUFOの目撃例と類似した点が見られる。実際、アメリカのネヴァダ砂漠にある空軍基地[[エリア51]]は、新型飛行機を含めた新兵器が開発・訓練するための基地である。当然のことながらこれらは[[軍事機密]]である。[[マンテル大尉事件]]においては、海軍が開発していた[[スカイフック気球]]を誤認したというのが、有力な説かつ空軍による公式見解であるが、当時のスカイフック気球は海軍の機密事項であったため、その存在を知らない大尉にとっては本来の意味においての「未確認飛行物体」であった。また実際に[[電波]]をすべての方向に均等に反射する目的で、円盤型の実験機が1950年代に製作されたこともあったが、空力的安定性があまりにも悪いために実用化には失敗した。
[[東西冷戦]]期には「[[ソビエト連邦|ソ連]]の新型機」ではないかという説も盛んに主張された。確かに冷戦時代のソ連には[[Tu-95]]、[[Tu-160]]などの爆撃機をベースに改造された超長距離偵察機なども配備させていた。現在もロシアにそれらの機種は存在し稼動中である。これらは、しばしばアメリカ本土付近に現れ[[防空識別圏]]に侵入し、挑発的偵察活動を行った。日本付近にも現れた記録がある。2013年3月には、ロシアの[[Su-27]]戦闘機2機が北海道北部にある[[利尻島]]の日本領空に出現した。これらの偵察機は、米軍機や[[航空自衛隊]]など[[西側諸国]]の空軍機によって確認された場合もあったが、目視確認される前に飛び去った場合も多々あった。戦闘機が超音速で飛行できる時間はごく限られているので、亜音速偵察機でも時間に余裕があれば邀撃機に捕捉確認されずに十分遠方に逃亡できる。
また、2021年ころより、米国連邦政府機関([[アメリカ国家安全保障局|国家安全保障局]]、[[中央情報局]]、第16空軍、[[アメリカ国防情報局|国防情報局]]など)は、UAPが「中国が開発する新型無人兵器、自律型AI兵器」である可能性も含め、その正体や物体、現象を検知し分析する調査部会「AOIMSG」を設置した<ref>{{Cite web |title=DoD Announces the Establishment of the Airborne Object Identification and Management Synch |url=https://www.defense.gov/News/Releases/Release/Article/2853121/dod-announces-the-establishment-of-the-airborne-object-identification-and-manag/ |website=U.S. Department of Defense |accessdate=2021-12-01 |language=en-US}}</ref>。米国のインテリジェンスコミュニティーだけでなく、エネルギー省の研究機関や[[国防高等研究計画局|DARPA]],IARPA、その他Palantirといった民間機関とも情報を連携、協力して調査を進めると言う。[[UKUSA協定|ファイブアイズ]]に所属する英国やカナダとも情報を共有して未確認空中現象を検証する。
===地球外生物の来訪説===
この説は海外では[[古代宇宙飛行士説]]とも呼ばれており、一般に認識されている宇宙人もしくは何らかの未知の生命体が地球内に飛来して来た時に、地球人には彼らの乗り物が「UFO」として認識されているという説である。陰謀論を主張する者は世界各国の政府はこれらの重大な事実を認識しながら、一般市民によるパニックやエネルギー問題などの社会構造の大転換を恐れて隠ぺいと事実の否定を繰り返しているという。この議論は物理学者からSF作家までさまざまな立場の人物が情報を提供したり、宇宙人の存在の可能性について指摘している。
[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]のような公的な宇宙研究機関の職員や[[アメリカ軍|米軍]]関係者、民間の軍事テクノロジー企業の技術者も引退後、ある程度の年月が経ってから宇宙人関連の機密情報を暴露した、もしくは死の直前に「地球外の文明」や「他の惑星の物質」に言及しているケースは多々見受けられる。有名な例が宇宙飛行士の[[エドガー・ミッチェル|エドガー・ミッチェル大佐]]やロッキード・マーティン社の上級エンジニアだったボイド・ブッシュマン博士である。彼らは生前、主に[[グレイ (宇宙人)|グレイ]]と呼ばれる生命体について語っていて、彼らが知っている範囲の生物的な特徴や嗜好、知能レベルについて暴露している。
世界の大国の国防機関や最先端の研究機関には機密の漏洩に関して厳しいルールが存在し、機密漏洩の誓約書に反する行為に抵触した場合、厳しい罰則や[[禁錮]]刑が科せられる場合がある。<ref>{{Citation|title=パネルディスカッション「UFOはオカルトから安全保障問題へ」|url=https://www.youtube.com/watch?v=piUCCh8hIKw}}</ref>この条件下でエドガー・ミッチェル大佐やボイド・ブッシュマン博士は職業やプロジェクト勤務前に機密の漏洩に関する誓約書に署名をしていると思われ、未知の生命体グレイと接触し、国家最高機密レベルの仕事に携わったとしても、こういった極秘の[[宇宙開発]]のプロジェクトの全貌や[[地球外生命|地球外生命体]]の存在の可能性については、死を悟る直前まで黙秘を貫いてきた理由だと個人による情報配信サイトや一部のマスコミは指摘している。
グレイ型宇宙人の出身星に関する憶測については、アマチュア[[天文学者]]で作家及び[[オハイオ州]]で小学校教師をしていたマージョリー・フィッシュ( Marjorie Fish)はグレイ型宇宙人に誘拐されたとするヒル夫妻誘拐事件に興味を持ち、独自の調査を行った結果、「グレイ」の故郷は[[レチクル座ゼータ星]]から来ていると結論付けた。またUFO研究家であり作家の[[ミルトン・ウィリアム・クーパー]]は、一部の政府機密文書の入手と関係者への取材による調査によってつかんだ事実として、グレイにも数種類のグループがおり、そのうちの「大きな鼻のグレイ型宇宙人 (large nosed gray aliens)」の出身惑星は[[オリオン座]]の[[ベテルギウス]]であると述べている。これらの説を検証するため、[[連邦捜査局|FBI]]は一部のUFO事件とされる事案を扱った例があり<ref>{{Cite web|title=Inside the FBI: UFOs|url=https://www.fbi.gov/audio-repository/inside-the-fbi-ufos-102921.mp3/view|website=Federal Bureau of Investigation|accessdate=2021-12-28|language=en-us}}</ref>、大学の宇宙研究所から民間企業まで[[宇宙生物学]]的観点から[[宇宙開発|宇宙探査]]や[[地球外知的生命体探査|SETI]]への新規参入など様々な研究機関で地道な研究が行われているのが現状であり、公的な研究機関や世界各国の政府が地球外生命体を公式に認めた例は現時点では存在しない。
[[陰謀論|陰謀]]家の[[デイビッド・アイク]]は、地球には[[爬虫類]]型の宇宙人「[[ヒト型爬虫類|レプタリアン]]」も既に[[地球]]に来ていると主張し、このレプタリアン達は普段[[ホモ・サピエンス|ホモサピエンス科]]の人間に成りすましていて、世界各国の政治・経済界の指導的立場に就いて、世界を支配しているという。このレプタリアン説は一部の陰謀論者から熱烈な支持を得ている。
先ほどの「グレイ陰謀論」「レプタリアン陰謀論」に比べ[[考古学]]と宇宙人の来訪を結びつける要素が強いのが「[[古代宇宙飛行士説]]」と呼ばれる一部の作家の憶測や研究者による検証方法である。ギリシャ国籍の作家[[ジョルジョ・A・ツォカロス|ジョルジョ・ツォカロス]]やスイスの歴史作家[[エーリッヒ・フォン・デニケン]]などの作家は地球外生命体が紀元前から地球に来訪していると主張している。その根拠となるのは古代メソポタミア文明や[[マヤ文明|マヤ]]の遺跡から発掘された古代の文書や絵画で、そこには、その時代には存在し得なかった奇妙な物体や風景が描かれているという。日本においても古代宇宙飛行士説があり、『[[竹取物語]]』も完全な実話であり当時の地球にやって来た宇宙人が物語(記録)に登場していると作家の小泉芳孝は主張している。
[[天体物理学|宇宙物理学]]の分野においては、過去に[[ブラックホール]]の[[特異点定理]]の理論を確立した[[スティーヴン・ホーキング]]は「UFOは宇宙人の乗り物ではない」という見解を示しながらも<ref>{{Citation|title=UFOは宇宙人の乗り物ではない!天才ホーキング博士の答え|url=https://www.youtube.com/watch?v=CiLPpOjbIZQ|language=ja-JP|access-date=2022-08-07}}</ref>、地球外生命体と地球人類が接触することへの危機感をメディアで表明した<ref>{{Cite news |和書 |title=ホーキング博士「宇宙人と接触は危険」 米TVで発言 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0102J_T00C10A5CR8000/ |newspaper=日本経済新聞 |date=2010-05-03 |access-date=2022-06-19 |language=ja}}</ref>。
NASA[[エイムズ研究センター]]に勤める日本人研究者の[[関根康人]]は[[タイタン (衛星)|タイタン]]における潮汐加熱による[[ハビタブルゾーン]]の可能性も指摘しており、現実に[[イオ (衛星)|イオ]]や[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]では潮汐加熱が大きな熱源となっていることから、[[窒素]]と[[メタン]]で構成される厚い大気に覆われ、液化したメタンの雨が降り、川や湖を作るのみならず、温度の状態が安定していることを鑑み、さまざまな仮説をもとに地球外生命体の存在の可能性を指摘している。
このように一部の陰謀論者や宇宙研究者が地球外の脅威と未知の文明、地球上における生命の起源を結びつけた仮説を打ち立てた結果、今現在、問題になっている未知の飛行体の存在と[[アメリカ国防総省]]によって科学的分析が行われている謎の空中現象に関してのさまざまな憶測が、娯楽として[[SF映画]]などの題材になっているのが現状である。
=== 異次元からの飛行物体説 ===
UFOは隠れた現実である「[[異次元]]」から来ているとする説。「精神投影説」のように、UFOを「心理現象」であると解釈してしまうと、UFOの着陸跡(焦げ跡など)やレーダー上の航跡、アブダクションされた人々の手術痕などの物理的痕跡の説明がつかない。そこで人間の意識が投影された異次元が存在することを想定し、そこからUFOが現れると推測する説が成り立つ。「UFOが地球外の物であることを示す証拠は何もないが、時空を超越した異次元からきている証拠は山ほどある」と研究家である[[ジャック・ヴァレ]]は指摘しており、ジョーゼフ・アレン・ハイネックは、UFOが突然出現し、忽然と消え去る現象が多数目撃されているため、それらは他の惑星からやって来たものではなく、異次元からやってきたものではないか、とコメントしている。
しかし、UFOを遠い星系から飛来する宇宙船であるとする説やタイムマシンであるとする発想から見ても、星間旅行や[[タイムトラベル|時間旅行]]を同種の技術で実施している可能性があり、それらの説と重複しているとする面がある。
ノンフィクション作家の{{仮リンク|マイケル・タルボット (作家)|label=マイケル・タルボット|en|Michael Talbot (author)}}は、現実とは決して客観的なものではなく人間の精神が生み出す間主観的な[[ホログラフィー|ホログラム]]である、と述べたうえで、ホログラフィックな別次元からUFOが現れるのではないかと推測している。
宇宙の力を全て統一的に記述できるとされる「[[超弦理論]]」では、[[プランク長]]以下の極小空間に、隠れた6次元が存在するとされている。その隠れた6次元を構成する幾何学構造は、他の[[Dブレーン]](多宇宙)とつながっていると主張する物理学者もいる。
また、地球外生物説と重複してしまう可能性があるが、[[シミュレーション仮説]]との関連性も指摘されている。この世界を作った「上位管理者が何らかの形で介入した結果がUFO現象として現れている」という可能性を米国の愛好家の中で提案されている。
=== 神秘体験説 ===
変性意識状態に入った人間がUFOとの遭遇を異次元にて起こした、と解釈する説。UFOとの遭遇時には[[体外離脱]]を経験する者も多く、そうした例では何らかの変性意識下の状態にあったと推測される<ref name="omega" />。(→[[#アブダクション(第4種接近遭遇)]])
[[臨死体験]]研究者である{{仮リンク|ケネス・リング|en|Kenneth Ring}}やハーバード大学の宗教学教授であるキャロル・ザレスキーによれば、UFOとの遭遇は[[シャーマニズム|シャーマン]]が隠された次元に旅する時に遭遇する神話的な現実と似ているという。研究家の{{仮リンク|ダニエル・ピンチベック|en|Daniel Pinchbeck}}は我々の世界に別次元から干渉している妖精や異星人などの存在が太古から存在し、シャーマンのような特殊な資質をもった人間だけが彼らを知っていたのではないか、と述べている<ref>{{Cite web |date=2019-04-13 |url=http://paranormaljournal.wordpress.com/2009/04/13/alien-abduction-whitley-strieber/ |title=Alien Abduction, Whitley Strieber… |website=Paranormal Journal |accessdate=2022-06-30}}</ref>。
==== 臨死体験説 ====
[[立花隆]]によれば、[[臨死体験]]を経験した後に、UFOと遭遇する者は少なくない<ref>立花隆『臨死体験(上)』{{Full|date=2022年6月}}<!-- 1994年刊の単行本と2000年刊の文庫が存在。どちらの何ページ?)--></ref>。[[臨死体験]]の研究者であるケネス・リングが収集した事例では、その体験が臨死体験なのかUFO遭遇体験なのか区別できない事例が複数あったという。
一例として、ニューヨークに住むある女性が[[腫瘍]]で倒れ、体外離脱を経験した後に、気が付けば宇宙の施設内の手術台の上にいたという事例がある。女性が窓から宇宙を眺めていると「7人くらいの背の高い痩せた何か」に囲まれ「それ(腫瘍)はもうなくなった」と告げられた。女性の意識が地球に落下していき、肉体の中に戻ると、腫瘍が消失していることに気付いた<ref name="omega" />。臨死体験説は矢追純一によるUFO番組特集でも取り上げられ話題になった。
=== 誤認説 ===
;幻覚
:UFOやその搭乗者などの目撃は、[[幻覚]]の類のものであるという主張がある。この説の問題点は、多くの者が同時にUFOを目撃したケースや物的痕を残したケースを説明できないことである。
:例えば[[報道]]などにより集団幻覚が誘発できるとしても、その目撃場所にはあまり偏りが生じないと思われる。実際は物体の直線の飛行経路数十km以上にわたって目撃を追跡できる事例がある。幻覚であれば直線に沿って起きることはない。
:ここで言う幻覚とは、文字通り[[覚醒剤]]などによるものである。
;人工物
:遠くの車のヘッドライト、夜間に飛行する飛行機や[[ヘリコプター]]などを誤認したという説。不規則に明滅する人工衛星も誤認されやすい。これらが偶然に平行して移動していればより「本物」らしく見える。車のヘッドライトなら目撃者との間に木などの障害物があれば、不規則に明滅したり、瞬間的に消えたり現れたりしているように見える。複数台の車が通れば急速に左右に動いているようにも見える。また起伏のある道を走行している車のヘッドライトを遠くから見た場合も、不自然に明滅、移動しているように見えることがあるため、これらを誤認したという説もある。
:観測用気球もよくUFOと誤認される。逆に気球を観測中にUFOが目撃された例もある<ref>{{Cite web |url=http://www.nicap.org/wsands.htm |title=The McLaughlin Crew Case |publisher=[[:en:National Investigations Committee On Aerial Phenomena|NICAP]] |accessdate=2022-06-30}}</ref>。
;自然現象
:珍しい自然現象を見た際に、そのショックと恐怖によりUFOと誤認したという説。誤認されやすい自然現象の例として[[球電]]現象、[[火球]]、[[流星]]、[[プラズマ]]などがある。[[金星]]や[[火星]]、[[木星]]も誤認されやすい物体としてあげられる。また空飛ぶ円盤が写ったと言われる写真が、実は鳥、[[コウモリ]]、[[ハエ]]などの昆虫、麦の穂、道路標識だったと判明したこともある。もし目撃した物が火球や流星であれば、[[気象台]]で確認することができる。必ずしもすべての火球や流れ星を気象台が把握しているわけではないが、寄せられた同様の目撃談の特徴から正体が判明することもある。また、月や木星、金星のようにほぼ静止している光源でも、動き回りながら見る人間にとってはUFOに見えることがある。これらの光点を[[ピンボケ]]撮影するとUFOめいた写真が撮れる。
;気温逆転説
:1952年に天文学者[[ドナルド・メンゼル]]は『[[ルック (アメリカの雑誌)|ルック]]』誌と『[[タイム (雑誌)|タイム]]』誌上でUFO現象は[[蜃気楼]]であり、低温の大気層が温かい大気層に挟まれたことにより起こるという「気温逆転説」を発表し話題を呼んだ。UFO目撃時の環境やUFOが砂漠で多く目撃されていること、そして最後には必ず消えてしまうことなどから、UFOの正体は[[逆転層]]であると唱えた。
;構造の歪み理論(TST)
:[[心理学|心理学者]]のマイケル・パーシンジャー ([[:en:Michael Persinger]])によれば、[[地震]]や[[竜巻]]が起こる前後数か月から数年間にかけて、主に[[震央]]から数百km以内で異常な発光現象 (ALP) が起こりやすいという。地質構造の歪みを誘起する[[電場]]が原因で深い岩石層から発光現象が起こる。それを目撃した距離が遠いとただの発光現象に見えるが、目撃者の距離が近いとその電磁的性質が人間の脳の[[側頭葉]]に影響を及ぼし、幻覚的なビジョンを見せるのではないか、と主張している。
:この説の疑問点は何故震央直近でUFOが目撃されないのか、といった点である。また、地下深くで電場が生じてもその効果は地表に及ばず大気中に紛れてしまう。電場自体は長い期間にわたって存在しており人間はそれに適応しているため嵐の時に我々の脳に幻覚は起こったりしない。[[自動車]]は電場を遮断するが、UFO目撃者の多くは自動車に乗っていることが多い。電場は地表への着陸痕やレーダーへの捕捉といった現象を残さない、といった指摘もされている。
;地球光説
:上記のパーシンジャーの説と違い、空中の発光球のみを対象とした説である。[[イギリス]]など幾つかの地域では古来より光体が目撃されており、それは主に[[鉱床]]や旧鉱で見られ、多くは白色で50cm程のサイズである。この光体はすぐに消えるか、短時間だけ滞在する傾向がある。まれにかなりの高度まで上昇するものがあり、地表に触れると消失する。多くは水上や送電線付近、洞窟の入り口で目撃されている。地球光には電磁的な性質があるため、UFO遭遇者が電磁的な性質を帯びる傾向もこれで説明できる<ref name="omega" />。
== 日本においての認識 ==
ここに書かれた情報の多くは、航空・軍事用語での未確認飛行物体、UFOではなく、超常現象、エイリアンクラフトとしてのUFO学(UFOLOGY)的な意味での情報認識である。
=== 一般 ===
世界的に広がっているUFO目撃を発表しあう会では、元アメリカ軍関連者や[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]関連者、その他[[パイロット (航空)|パイロット]]と称する人々がそれまで軍や政府、しかしこれらの会合は一般的に[[英語]]で行われていることが多く、また目撃の多い[[ラテンアメリカ]]では[[スペイン語]]、もしくは[[ポルトガル語]]圏であることもあり、日本へはUFO関連のイベントや会誌など情報の認知に時間がかかってしまうためか欧米諸国のブームを後追いする形になっている。
ポルトガル語を話すブラジルで発生したとされる「ヴァルジーニャ事件」を、日本ではしばしば「ヴァージーナ事件」とするカタカナ綴りで呼ばれる。これはポルトガル語つづりを強引に英語読みにした誤読であり、情報伝達上に問題があった。また、ポルトガル語の「JARDIM」を公園と訳しているが、この場合はヴァルージーニャ市の区の名前であった。これらの誤読、誤訳、誤解釈は、ポルトガル語から英語に訳されたときに起こったと考えられる。詳細は[[ヴァルジーニャ事件]]の項目を参照。
[[インターネット]]や[[デジタルカメラ]]の普及により最近では現象を収めたという映像など、アマチュア発の情報が増えていることもあり近年では会の世界的な活動も易しくなってきている。[[YouTube|YouTube.com]]での投稿数の多さは興味の高さを知る一つの手がかりとなる。しかし、投稿数が多いからといって、超常現象の信頼性が高いとは限らない。
これまで日本ではメディアでたびたび取り上げられるなどしているが、[[オカルト]]雑誌、オカルト番組などであり、バラエティ番組や[[ワイドショー]]には登場しても[[ニュース番組]]などではあまり扱われてこなかった。しかし、2017年12月16日及び2020年4月27日のUFOに関するアメリカ国防総省の報道について、ニュース番組や[[新聞]]を含む各種メディアにおいて報道されることとなった<ref>{{Cite news |和書|title=米国防総省がUFO調査 予算なくなるも元職員「続行」|url=https://www.asahi.com/articles/ASKDK45P7KDKUHBI00P.html|newspaper=朝日新聞デジタル|author=香取啓介 |date=2017-12-17 |accessdate=2020-07-02|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=米国防総省が「UFO映像」を公開 正体は未確認のまま|url=https://www.asahi.com/articles/ASN4X3HGXN4XUHBI00B.html|newspaper=朝日新聞デジタル|author=渡辺丘 |date=2020-04-28 |accessdate=2020-07-02|language=ja}}</ref>。
=== 日本国政府の対応と見解 ===
日本国の[[領空]]周辺には[[防空識別圏]]が設定されており、未確認飛行物体の[[領空侵犯]]に対し、[[自衛隊]]が[[スクランブル|対領空侵犯措置]]をとる。[[航空自衛隊]]は[[戦闘機]]を緊急発進し、[[海上自衛隊]]の[[イージス艦|護衛艦]]は対空戦闘用意が下令される。
日本国政府は、[[2007年]][[12月18日]]に[[閣議決定]]された[[答弁書]]において、「地球外から飛来してきたと思われる」飛行物体について「存在を確認していない」、「研究も飛来した場合の対策も行なっていない」<ref>{{Cite news |和書 |title=「UFOの存在、確認していない」 閣議で答弁書を決定 |newspaper=朝日新聞 |date=2007-12-18 |url=http://www.asahi.com/special/070912/TKY200712180100.html |publisher=[[朝日新聞社]] |accessdate=2022-06-30}}</ref>としている。なお、この答弁書については、[[町村信孝]][[内閣官房長官]](当時)が、同日行われた定例記者会見において「政府答弁は政府答弁であり、私は個人的には、こういうものは絶対いると思っております」<ref>{{Cite news |和書 |title=UFO「確認したことはない」答弁書を閣議決定 |newspaper=[[産経デジタル|産経ニュース]] |date=2018-02-27 |url=https://www.sankei.com/article/20180227-CJX7JMWAGJORFM7DLSLPTJXVBE/ |accessdate=2022-06-30}}</ref>と笑顔で答えたため、多くのマスコミで報道された<ref>{{Cite news |和書 |title=町村官房長官、「UFOの存在信じる」{{!}} 世界のこぼれ話 |newspaper=[[ロイター]] |date=2007-12-19 |url=http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-29424020071219 |accessdate=2022-06-30}}</ref>。また[[石破茂]][[防衛大臣]](当時)は、同年9月27日に放送の[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[モクスペ]]』「UFO vs 世界の科学者100人」のインタビューで「UFOが領空侵犯したらどうすべきか役人と議論した」と語っており<ref>{{Cite Journal |和書 |author=[[亀和田武]] |title=テレビ健康診断 |date=2007-10-25 |Journal=[[週刊文春]] |publisher=[[文藝春秋]] |pages={{要ページ番号|date=2022年6月}}}}</ref>、[[核兵器]]の使用を[[在日米軍]]に要請するかの議論が必要としている。同年12月20日に行われた会見において、「[[防衛省]]の見解ではなくあくまで個人的見解である」と前置きをした上で「未確認飛行物体、それを操る生命体(当然人類もそれに含まれる)が存在しないと断定しうる根拠はない。(中略)少なくともないと断定するだけの根拠を私は持っていない。そういうものはあり得るだろうということだと私は思う」と述べた上で、未確認飛行物体、UFOが日本国の領空に飛来した場合の対処と法整備などを考えておくべきと述べた<ref>{{Cite news |和書 |title=石破防衛相、UFO襲来論議に熱弁 |newspaper=AFPBB News |date=2007-12-20 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2328266 |publisher=[[フランス通信社]] |accessdate=2022-06-30}}</ref>。この場合も、未確認飛行物体の用語定義を明らかにしないと、発言者の意思とはかけ離れたと解釈が生まれる。
=== 報告と調査についての現状 ===
2020年4月にアメリカ国防総省が正体不明のままだった飛行物体の映像を公開したことを受け<ref>{{Cite web |date=2020-05-14 |url=https://www.cnn.co.jp/fringe/35153758.html |title=米海軍機と「UFO」の接近事案、詳細な報告書を入手 |publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |accessdate=2022-06-30}}</ref>、[[河野太郎]]は防衛大臣在任中の2020年9月に、自身はUFO(エイリアンクラフト)を信じていないと前置きしつつ、自衛隊機が未確認飛行物体と遭遇した際の手順を定める考えを示した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-09-15 |url=https://www.taro.org/2020/09/%EF%BD%95%EF%BD%86%EF%BD%8F%E5%AF%BE%E5%87%A6%E6%96%B9%E9%87%9D.php |title=UFO対処方針 |website=河野太郎公式サイト |accessdate=2022-06-30}}</ref>。なお2020年4月現在、公式には自衛隊機が遭遇した報告は無いという<ref>{{Cite news |和書 |title=「UFO」遭遇したらどうする 呼び掛け、領空侵犯は?―自衛隊 |newspaper=[[時事通信]] |date=2020-04-30 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2020042900453&g=soc |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200430100107/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020042900453&g=soc |archivedate=2020-04-30}}</ref>。
<!--専門家の意見として(どの分野の専門家?)、上記の[[水産庁]]調査船「開洋丸」の遭遇記録のように、現場レベルにおいては報告事例が存在するが、統括調査する部署がないため、記録が散在している可能性が高い、と言う人がいる{{要出典|date=2011-7}}{{誰|date=2011-7}}。{{要出典範囲|[[1970年代]]の在日アメリカ軍の遭遇事案では、アメリカ軍上層部に[[板付基地]]周辺で目撃例を報告し、その中で、[[航空自衛隊]]や[[漁船]]からもUFOの目撃、報告があったとする報告書が存在する|date=2011-7}}と指摘されている{{誰|date=2011-7}}。このことは一部で報道された{{要出典|date=2011-7}}。これが事実であったとしても、超常現象説の信頼性を高めることにはならない。UFOとは正体が確認されていない飛行物体のことであり、地球外文明の宇宙船を指すわけではない。飛行物体の実体が飛行機であれ、ヘリコプターであれ、気球であれ、正体がわかるまでは未確認飛行物体である。最終的に確認できなかったものは、未確認飛行物体のまま公式記録に残る。したがってUFOは存在するし、存在して当然である。--->
== 歴史文献とUFO ==
=== 聖書とUFO ===
[[聖書]]の文章をUFOに関すると解釈する主張はしばしば見られる。真っ先に挙げられているのは、[[イエス・キリスト]]誕生の際に現れたという「動く星」である。キリスト誕生のとき[[東方の三博士]]は動く星に導かれ、星は{{読み仮名|厩|うまや}}の上にとどまった、というものである([[新約聖書]]・[[マタイ福音書]]第2章)。
また、[[旧約聖書]]・[[エゼキエル書]]第1章には、輝く人の姿をした生き物の横に輪があり、輪はその生き物の動きに従って移動し、屋根のようなものの上には椅子があり、人の姿をした者がいた、と記述されている。これもUFOとその搭乗者として解釈されることがある。
キリスト教の絵画にはUFOらしきもの(以下、円盤と記す)が描かれていることがある。「受胎告知」「雪の奇跡」「聖母と聖ジョヴァンニーノ」「キリストの洗礼」「三位一体」「キリストの磔刑」など枚挙にいとまがない。描かれている内容も「円盤が光線を発射している」「円盤を見上げる人がいる」「円盤が火を噴いて飛行している」「2つの円盤が飛行しており、それぞれに表情の異なる人物が搭乗している」など、意図的に描いたことは明らかである。
さらにこれらの説を発展させた物が「キリスト=宇宙人」説であり、[[古代宇宙飛行士説]]と関連づけて解釈されることもある。また、聖書とUFOを関連つけた解釈として有名なものに[[ゼカリア・シッチン]]の説などがある。
== UFOブーム ==
1970年代後半に日本でUFOブームと呼ばれる現象が起きた。ピンク・レディーの楽曲「[[UFO (ピンク・レディーの曲)|UFO]]」をはじめUFOを題材にした多くの派生作品が作られ、社会現象としてUFOが流行になった。また、日本ではUFOを呼ぶときに「ベントラベントラ」と呪文を唱える方法があるとされる<ref name="getnews20160509">{{Cite web|和書|url=http://getnews.jp/archives/1456887|title=UFO召喚に成功!?あらゆる方法を駆使してUFOを呼んでみた結果|publisher=[[ガジェット通信]]|date=2016-05-09|accessdate=2017-01-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://npn.co.jp/article/detail/23801198/|title=「ベントラ、ベントラ…」アイドルがUFO召喚に成功した!?|publisher=[[内外タイムス|リアルライブ]]|date=2012-11-20|accessdate=2017-01-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://ddnavi.com/tokushu/237651/a/|title=日本中がどうかしていた! スゴすぎる昭和のオカルトブームをふり返る|publisher=[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチニュース]]|date=2015-5-1|accessdate=2017-01-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://eiganavi.entermeitele.net/news/2012/04/kickufo18-e778.html|title=サイキック芸人・KICK☆と観客が心をひとつにUFO召喚にチャレンジ!『アポロ18』トークショー付き試写会|publisher=映画ナビ|date=2012-4-4|accessdate=2017-01-22}}</ref>が、この「ベントラ」は[[宇宙友好協会|レイ・スタンフォード]]のUFOの呼び方が元となっている<ref name="getnews20160509" />。
1978年に映画『[[未知との遭遇]]』が日本公開されると、そのブームは頂点に達した。フィクションのテーマとしては大変面白いので、多数の作品が製作されヒットした。後述の作品リストの年代を参照。同時代に日清食品は「[[日清焼そばU.F.O.]]」と命名した即席焼きそばを発売し、現在まで販売し続けている超ロングセラーとなった。容器の形を空飛ぶ円盤に見たてるとともに、「UFO」を「うまい(U)、太い(F)、大きい(O)」の[[イニシャル]]にかけている。
== SFとUFO ==
[[File:Unerkanntes Fliegendes Objekt.jpg|right|thumb|340px|空中に浮かぶUFO。[[フライング・ヒューマノイド]]とも考えられる形をしている。詳細は不明。]]
SFには無数のバリエーションにわたる異星人が登場する。その乗り物も構造から材質、推進法まで綿密に設定された作品もあり、世間に流布しているUFOのイメージ形成にも大きく寄与している(ただし円盤型ではない宇宙船が登場する作品も多い)。地球人類との接触は侵略目的だったり、友好的交流や啓蒙、指導、庇護のためだったり、不時着・遭難だったりする。
== UFOを題材にした作品 ==
=== ドキュメンタリー ===
* [[古代の宇宙人]](2010年~、[[ヒストリーチャンネル]])
* [[幻解!超常ファイル ダークサイド・ミステリー|幻解!超常ファイル ダークサイド・ミステリー]](2013年~、[[日本放送協会|NHK]])
* [[BS世界のドキュメンタリー]]「UFO 隠された証拠」(2019年、NHK)
* [[コズミックフロント☆NEXT]]「U.F.O.の真実」(2020年、NHK)
=== 映画 ===
*[[スーパーマン]] (1948年、アメリカ)
*[[地球の静止する日]](1951年、アメリカ) - 2008年に『[[地球が静止する日]]』としてリメイク。
*[[遊星よりの物体X]](1951年、アメリカ) - 1982年版リメイク『遊星からの物体X』では冒頭に円盤が南極に墜落するが、原作『[[影が行く]]』と再リメイク作品『[[遊星からの物体X ファーストコンタクト]]』に登場する宇宙船は円盤ではない。
*{{仮リンク|謎の空飛ぶ円盤|en|The Flying Saucer}} (1953年、アメリカ)
*[[宇宙戦争 (1953年の映画)|宇宙戦争]](1953年、アメリカ) - [[宇宙戦争 (H・G・ウェルズ)|原作]]および[[宇宙戦争 (2005年の映画)|2005年のリメイク作品]]にはUFOは登場しない。
*[[宇宙水爆戦]](1955年、アメリカ)
*[[世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す]] (1956年、アメリカ)
*[[空飛ぶ円盤恐怖の襲撃]](1956年、日本)
*[[地球防衛軍 (映画)|地球防衛軍]] (1957年、日本)
*[[スーパージャイアンツ]](1957年 - 1959年、日本)
*[[プラン9・フロム・アウタースペース]](1959年、アメリカ)
*[[宇宙大戦争]](1959年、日本)
*[[頭上の脅威]] (1964年、フランス・イタリア合作)
*[[怪獣大戦争]](1965年、日本)
*[[宇宙大怪獣ギララ]](1967年、日本)
*{{仮リンク|火星人大来襲|en|Mars Needs Women}}(1967年、アメリカ)
*[[怪獣総進撃]](1968年、日本)
*[[吸血鬼ゴケミドロ]](1968年、日本)
*[[ザ・タイガース 世界はボクらを待っている]] (1968年、日本)
*[[ガメラ対大悪獣ギロン]](1969年、日本)
*{{仮リンク|UFOとの遭遇|en|The UFO Incident}} (1975年、アメリカ) - 「[[ヒル夫妻誘拐事件]]」を基にしたテレビ映画
*[[スター・ウォーズシリーズ]] (1977年、アメリカ)
*[[未知との遭遇]] (1977年、アメリカ) - 原題の「Close Encounters of the Third Kind(「第三種接近遭遇」の意)」は、ハイネックの著書で提唱された用語である
*[[惑星大戦争]](1977年、日本)
*[[ブルークリスマス]] (1978年、日本)
*[[スーパーマン (1978年の映画)|スーパーマン]] (1978年、アメリカ)
*[[エイリアン (映画)|エイリアン]] (1979年、アメリカ) - SFホラーの古典。
*[[スター・トレック (1979年の映画)|スター・トレック]] (1979年、アメリカ) - ドラマ『[[宇宙大作戦]]』のレギュラーを中心とした映画第1作。
*[[戦国自衛隊 (映画)|戦国自衛隊]] (1979年、日本)
*[[E.T.]](1982年、アメリカ)
*[[スーパーガール (DCコミックス)|スーパーガール]] (1984年、アメリカ)
*[[コクーン (映画)|コクーン]](1985年、アメリカ)
*[[竹取物語 (1987年の映画)|竹取物語]](1987年、日本) - 蓮の花型の巨大宇宙船で月の迎えが来るラストの特撮シーン。
*[[ニューヨーク東8番街の奇跡]] (1987年、アメリカ)
*[[コクーン2/遥かなる地球]](1988年、アメリカ)
*[[花嫁はエイリアン]] (1988年、アメリカ)
*{{仮リンク|コミュニオン 遭遇|en|Communion (1989 film)}}(1989年、アメリカ)
*[[インデペンデンス・デイ]](1996年、アメリカ)
*[[マーズ・アタック!]](1996年、アメリカ)
*[[メン・イン・ブラック (映画)|メン・イン・ブラック]]シリーズ(1997年 - 、アメリカ)
*[[ロスト・イン・スペース (映画)|ロスト・イン・スペース]](1998年、アメリカ) - ドラマ『[[宇宙家族ロビンソン]]』を映画化。
*[[ゴジラ2000 ミレニアム]](1999年、日本)
*[[こちら葛飾区亀有公園前派出所 THE MOVIE2 UFO襲来! トルネード大作戦!!]](2003年、日本)
*[[スーパーマン・リターンズ]](2006年、アメリカ)
*[[スター・トレック (2009年の映画)|スター・トレック]] (2009年、アメリカ) - ドラマ『宇宙大作戦』の主要キャラクターを新しいキャストで描いた作品であり、映画第11作。
*[[第9地区]](2009年、[[ニュージーランド]])
*[[THE 4TH KIND フォース・カインド]] (2009年、アメリカ)
*[[アバター (2009年の映画)|アバター]] (2009年、アメリカ)
*[[SPACE BATTLESHIP ヤマト]] (2010年、日本) - アニメ作品『宇宙戦艦ヤマト』の初の実写版映画である。
*[[世界侵略: ロサンゼルス決戦]](2011年、アメリカ) - 「ロサンゼルスの戦い」が前日談として用いられている。
*[[アイアン・スカイ]](2012年、フィンランド・ドイツ・オーストラリア合作) - [[:en:Nazi UFOs|ナチスの円盤機]]の噂を基にしたストーリー。
*{{仮リンク|シリウス (映画)|en|Sirius (2013 film)}}(2013年、アメリカ)
*[[クレヨンしんちゃん 襲来!!宇宙人シリリ]](2017年、日本)
*Beyond the Spectrum: Being Taken(2018年、アメリカ) - 邦題『UFO真相検証ファイル Part1 戦慄!宇宙人拉致事件の真実』
*Beyond the Spectrum: Maussan's UFO Files & Humanoids(2019年、アメリカ) - 邦題『UFO真相検証ファイル Part2 衝撃!カメラに映った宇宙人たち』
*Nope/ノープ(2022年、アメリカ)
=== ドラマ ===
* [[アウター・リミッツ (1963年)|アウター・リミッツ]](1963年 - 1965年、アメリカ) - 日本では『ウルトラゾーン』のタイトルで放映。
* [[宇宙家族ロビンソン]](1965年 - 1968年、アメリカ)
* [[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]](1965年 - 1966年、イギリス)
* [[ウルトラシリーズ]](1966年 - 、日本)
* [[宇宙大作戦]](1966年 - 、アメリカ)
* [[インベーダー (テレビドラマ)|インベーダー]](1967年 - 1968年、アメリカ)
* [[キャプテン・スカーレット]](1967年、イギリス)第25話
* [[巨人の惑星]](1968年 - 1970年、アメリカ)
* [[謎の円盤UFO]] (1970年、イギリス) - 「UFO」という言葉を一般に紹介する先駆的役割を果たした。
* [[スペクトルマン]] (1971年 - 1972年、日本)
* [[円盤戦争バンキッド]] (1976年、日本)
* [[スペース1999]] (1977年、イギリス)
* [[UFO大戦争 戦え! レッドタイガー]] (1978年、日本)
* {{仮リンク|プロジェクトUFO|en|Project U.F.O.}}(1978年 - 1979年、アメリカ) - 「{{仮リンク|プロジェクト・ブルーブック (研究)|label=プロジェクト・ブルーブック|en|Project Blue_Book}}」を基にしたストーリー。
* [[V (1983年のテレビドラマ)|V]](1983年 - 1984年、アメリカ) - 2009年から2011年にかけて[[V (2009年のテレビドラマ)|リメイク]]。
* [[地球防衛軍テラホークス]](1983年 - 1984年、アメリカ)
* [[Xファイル]](1993年 - 2002年、アメリカ)
* [[ダークスカイ]](1996年 - 1997年、アメリカ)
* [[TAKEN]](2002年、アメリカ)
* [[サンダーバード ARE GO]](2015年 - 2020年、イギリス・ニュージーランド) - 特撮人形劇『サンダーバード』のリブート・リメイク作品。
* [[SUPERGIRL/スーパーガール]](2015年 - 2021年、アメリカ)
=== 漫画・アニメ ===
[[File:FamousFunniesNo212.jpg|thumb]]
* [[スーパーマン (1940年代のアニメ映画)|スーパーマン]] (1940年代、アメリカ) - アニメ映画。
* [[少年ロケット部隊]]([[横山光輝]]、1960年 - 1963年、日本)
* {{仮リンク|シドニー行き714便|en|Flight 714}}([[エルジェ]]、1968年、ベルギー) - 『[[タンタンの冒険]]』シリーズの一編。
* [[ドラえもん]] (1969年 - 1996年、日本)
* [[恐怖新聞]]([[つのだじろう]]、1973年 - 1975年、日本)
* [[チャージマン研!]](1974年、日本)
* [[宇宙戦艦ヤマトシリーズ]](1974年 - 、日本)
* [[これがUFOだ!空飛ぶ円盤]](1975年、日本)
* [[UFOロボ グレンダイザー]](1975年、日本)
* [[UFO戦士ダイアポロン]](1976年、日本)
* [[侵略円盤キノコンガ]]([[白川まり奈]]、1976年、日本)
* [[氷河戦士ガイスラッガー]](1977年、日本)
* どんずる円盤(白川まり奈、1978年、日本)
* [[円盤同乗記]]([[水木しげる]]、1987年、日本)
* [[MMR マガジンミステリー調査班]]([[石垣ゆうき]]、1990年 - 、日本) - 1996年に『[[MMR未確認飛行物体]]』としてドラマ化。
* [[岸和田博士の科学的愛情]]([[トニーたけざき]]、1992年 - 1998年、日本)
* [[空想科学大戦!]]([[柳田理科雄]]・[[筆吉純一郎]]、1998年 - 2006年、日本)
* [[20世紀少年]]([[浦沢直樹]]、1999年 - 2007年、日本) - 2008年から2009年にかけて映画化。
* 戦いの末裔([[松本零士]]、2005年、日本) - 『[[戦場まんがシリーズ|ザ・コクピット]]』シリーズの一編。
* [[天体のメソッド]](2014年、日本)
=== ゲーム ===
* [[スペースインベーダー]] ([[タイトー]]、1978年発表、日本)
* [[UFOキャッチャー]] ([[セガ・インタラクティブ]]、1985年登場、日本)
* [[UFO仮面ヤキソバン]] (DEN'Z、1994年、日本)
* [[矢追純一]]極秘プロジェクト UFOを追え!! (日本クラリービジネス、1996年、日本)
* [[スペースボンバー]]([[彩京]]、1998年、日本)
* [[UFO -A day in the life-]] ([[アスキー (企業)|アスキー]]、1999年、日本)
* [[サイレントヒル]]シリーズ([[コナミデジタルエンタテインメント|コナミ]]、1999年 - 、日本)
* [[THE 地球防衛軍]]シリーズ([[ディースリー・パブリッシャー]]、2003年 - 、日本)
* [[デストロイ オール ヒューマンズ!|デストロイオールヒューマンズ!]]([[THQ]]、2005年、アメリカ)
* [[東方星蓮船 〜 Undefined Fantastic Object.]] ([[上海アリス幻樂団]]、2009年、日本)
*[[星のカービィ|星のカービィロボボプラネット]](コピー能力としてもある、[[HAL研究所]]、2016年)
=== 小説 ===
* [[地球SOS]]([[小松崎茂]]、1948年 - 1952年、日本) - 2006年に『[[Project BLUE 地球SOS]]』としてリメイク。
* [[幼年期の終り]]([[アーサー・C・クラーク]]、1953年、イギリス)
* [[宇宙怪人]]([[江戸川乱歩]]、1953年、日本)
* [[美しい星 (小説)|美しい星]]([[三島由紀夫]]、1962年、日本)
*: 当時の三島は「[[日本空飛ぶ円盤研究会]]」に入会し、空飛ぶ円盤観測会にも参加していた。
* [[果しなき流れの果に]](小松左京、1965年、日本)
* [[見知らぬ明日]](小松左京、1968年、日本)
* [[OH! WHEN THE MARTHIANS GO MARCHIN'IN]]([[野田昌宏]]、1969年、日本)
* [[地球軍独立戦闘隊]]([[山田正紀]]、1976年、日本)
* [[妖精作戦]]([[笹本祐一]]、1984年 - 1985年、日本)
* ズッコケ宇宙大旅行([[那須正幹]]、1985年、日本) - 『[[ズッコケ三人組]]』シリーズの一編。
* [[アミ 小さな宇宙人]]([[エンリケ・バリオス]]、1986年 - 1997年、チリ)
* [[トミーノッカーズ]]([[スティーヴン・キング]]、1987年、アメリカ)
* [[機神兵団]](山田正紀、1990年 - 1994年、日本)
* [[鏖殺の凶鳥]]([[佐藤大輔]]、2000年、日本)
* [[ほしからきたもの。]](笹本祐一、2001年 - 2002年、日本)
* [[イリヤの空、UFOの夏]]([[秋山瑞人]]、2001年 - 2003年、日本) - 派生作品にOVA・ラジオドラマ・ゲーム・漫画。
* [[神は沈黙せず]]([[山本弘 (作家)|山本弘]]、2003年、日本)
* [[ここはボツコニアン]]([[宮部みゆき]]、2010年 - 2015年、日本)
* [[UFOはもう来ない]](山本弘、2012年、日本) - 「[[と学会]]」会長でもある著者によるSF。
* 燃える空飛ぶ円盤 [北村小松UFO小説集]([[北村小松]]、2012年、日本)
* [[宇宙にいちばん近い人]]([[浜口倫太郎]]、2013年、日本)
=== 楽曲 ===
* U.F.O([[沢田研二]]、1975年) アルバム『いくつかの場面』
*: 作詞:[[及川恒平]] 作曲:[[ミッキー吉野]] 編曲:ミッキー吉野
* MADE IN U.F.O. (山口百恵、1977年)
*: 作詞:[[阿木燿子]] 作曲:[[宇崎竜童]] 編曲:加藤ヒロシ
* [[UFO (ピンク・レディーの曲)|UFO]]([[ピンク・レディー]]、1977年)
*: 作詞:[[阿久悠]] 作曲:[[都倉俊一]]
* UFO音頭([[大泉滉]]、1978年)
*: 作詞:[[山本正之]] 作曲:[[山本直純]] 編曲:[[たかしまあきひこ|高島明彦]]
* UFO([[遠藤賢司]]、1979年) アルバム『東京ワッショイ』
*: 作詞:遠藤賢司 作曲:遠藤賢司 編曲:[[遠藤賢司]]、[[佐久間正英]]
* [[キャベツUFO]](1984年、NHK『[[みんなのうた]]』)
*: 作詞・作曲:[[工藤順子]] 編曲:MAKI
* 打楽器協奏曲「UFO」(1999年、[[ワシントン・ナショナル交響楽団]]初演)
*: 作曲:[[:en:Michael Daugherty|マイケル・ドアティ]]
* UFO([[Mr.Children]]、2002年) アルバム『[[IT'S A WONDERFUL WORLD]]』
*: 作詞:[[桜井和寿]] 作曲:[[桜井和寿]] 編曲:[[小林武史]]、[[Mr.Children]]
* UFOロマンティクス([[ギターウルフ]]、2002年) アルバム『UFO ロマンティクス』
* UFO神社(LOVE JETS 2004年)
* 恋人はUFO([[西田エリ]]、2010年) アルバム『Eri's Collection』
* UFO (きくお、2014年)
*UFO ([[NEWS (グループ)|NEWS]]、2018年) アルバム『[[EPCOTIA]]』
*: 作詞:Hacchin' Maya 作曲:[[ヒロイズム (音楽プロデューサー)|ヒロイズム]] 編曲:[[CHOKKAKU]]
*ひみつのユーフォー ([[ナユタン星人]]、2021年)
'''アルバム名'''
* [[UFO (アルバム)|UFO]]([[電気グルーヴ]] 1991年)
* [[UFOと恋人]]([[筋肉少女帯]] 1993年)
* 衝撃のUFO 衝撃のREMIX(VA 2002年)
* U.F.O. LOUNGE Mixed by YABE "[[ユナイテッド・フューチャー・オーガニゼイション|UNITED FUTURE ORGANIZATION]]" (YABE(MIX)2005年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{仮リンク|デビッド・M・ジェイコブス|en|David M. Jacobs}} 『全米UFO論争史』 [[ヒロ・M・ヒラノ]]訳 ブイツーソリューション 2006年9月 ISBN 4434083732
* {{仮リンク|ピーター・ブルックスミス|en|Peter Brookesmith}} 『政府ファイルUFO全事件―機密文書が明かす「空飛ぶ円盤」50年史』 [[大倉順二]]訳 ISBN 489063097X
* {{仮リンク|カーティス・ピーブルズ|en|Curtis Peebles}} 『人類はなぜUFOと遭遇するのか』 [[皆神龍太郎]]訳( ISBN 4478850151 ISBN 4167651254
* [[横山茂雄|稲生平太郎]] 『何かが空を飛んでいる』ISBN 4404019645
* [[志水一夫 (作家)|志水一夫]] 『UFOの嘘』データハウス1990年11月 ISBN 4924442976
* 高倉克祐『世界はこうして騙された さらばUFO神話』(悠飛社・1994年)
* 高倉克祐『世界はこうして騙された2 UFO神話の破滅』(悠飛社・1995年)ISBN 4946448330
* 木原善彦 『UFOとポストモダン』 平凡社新書 平凡社 ISBN 4582853099
* {{仮リンク|エドワード・J・ルッペルト|en|Edward J. Ruppelt}} 『未確認飛行物体に関する報告』(開成出版・2002年)
* アメリカ下院科学および宇宙航行学委員会編 『米下院UFOシンポジウム』(本の風景社・2003年)
* スーザン・A. クランシー 林雅代 訳 『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』早川書房 ISBN 4150503133
* 高橋克雄作SF『時を飛ぶUFO』シリーズ (金の星社発行中 1 3巻2006/12 )
* {{仮リンク|イロブラント・フォン・ルトビガー|de|Illobrand von Ludwiger}} 『ヨーロッパのUFO』 ブイツーソリューション 2007年12月 ISBN 9784434113611
* ビル・コールマン『米空軍「UFO機密ファイル」の全貌』グリーアンアロー出版社
* 久保田八郎[https://adamski.jp/gap-japan/cosmo/cosmo-dld.html 『UFOと宇宙(コズモ)』]ユニバース出版
* 久保田八郎[https://www.adamski.jp/gap-japan/ucon/ 『UFOコンタクティー(ニューズレター)』]日本GAP
== 関連項目 ==
[[ファイル:UFO神社PA030467.JPG|thumb|240px|[[淡路島]]・[[立川水仙郷]]のUFO神社]]
* [[UFO研究]]
** [[UFOディスクロージャー・プロジェクト]]
** [[シチズンズ・ヒアリング・ディスクロージャー公聴会]]
** [[日本空飛ぶ円盤研究会]] (JFSA) - [[徳川夢声]]、三島由紀夫、[[星新一]]、石原慎太郎などが会員であった。
** [[宇宙友好協会]] (CBA)
* [[ロズウェル事件]]
* [[UFO宗教]]
* [[福島市飯野UFOふれあい館]]
* [[宇宙人]]
* [[地球外生命体]]
* [[無人航空機]]
* [[エリア51]] - アメリカ空軍の基地
* [[未確認潜水物体]]
* [[ジョージ・アダムスキー]]
* [[矢追純一]] - 「UFO」に関するテレビ番組を多く手がけた元[[ディレクター]]。
* [[羽咋市]] - 地域おこしとして「UFOのまち」をアピールしている。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|UFO}}
* {{Wayback|url=https://www.neco-t.co.jp/gust/teiji/mokuji/mokuji.html |title=UFOレポート |date=20030121110938}}(日本語)
* [http://www.sspc.jpn.org/ufo/sub/link.html UFOリンク]
* [https://www.gizmodo.jp/2021/06/uap-report-released-by-the-pentagon.html 長いけどいくぜ! 全人類必読! ペンタゴンUFOレポート全訳] - [[ギズモード]]・ジャパン
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:みかくにんひこうふつたい}}
[[Category:未確認飛行物体|*]] | 2003-03-05T03:17:02Z | 2023-11-24T19:39:30Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E7%89%A9%E4%BD%93 |
3,435 | 文字コード | 文字コード(もじコード、英: character code)は、文字や記号など(キャラクタ)を通信やコンピュータで扱えるように、一文字一文字に固有の識別番号を与えて区別できるようにした、その対応関係についての規則体系(コード ※)のこと。
文字コードは、文字や記号やそれに類するものを、通信やコンピュータで扱うために、各文字や記号などに対して番号を与えた対応規則の体系である。通常、通し番号を与え、文字と番号の対応表が作成される。どの文字コードを使うか決まっている状況では、ある数(番号)が与えられるとそれに対応する文字や記号を特定することができる。
1870年代にはフランスの電信技術者のエミール・ボドーが、5ビットと文字・記号類を対応させるコードを発明し、1876年に、そのコードを用いる電信装置の特許をフランスで取得した(この装置に使われている5ビットのコードがBaudot Code(ボドー・コード)として知られるようになった)。
1963年には、アメリカの情報通信用の文字コードとして7ビットのASCII(アスキー、英: American Standard Code for Information Interchange の略)がアメリカ規格協会(ASA)で制定された。1964年にはIBM社がSystem/360とともにEBCDICという文字コード、4ビットのBCDを8ビットに拡張した文字コードを発表した。
世界のさまざまな言語の表記にはさまざまな文字が使われているので、英語用のアルファベットや記号しか使えないようでは世界では全然使い物にならないので、各言語用にそれぞれ文字コードが作り出された。 。 ASCIIは英語圏以外では基本的な通信にすら使えず、不便すぎるので、各国それぞれで独自にASCIIに代わる文字コードが生み出される事態を生んだ。たとえばブラジルではASCIIの代わりに、ブラジル・ポルトガル語で通信するのに必要なアクセント記号つきのアルファベットも含む文字コードで、BraSCIIというASCIIとは異なる文字コードが生み出された。またASCIIの対応表の後ろに独自に別の対応表を足すということが行われた国もある。
さらにひとつ言語用にもコンピュータメーカー(コンピュータベンダー)ごとに別々の文字コードが生み出され、さらにひとつのメーカーの中でも、その時々の都合で文字コードを開発することが行われ文字コードが増えていったので、文字コードが多数乱立することになり、代表的な文字コードを数えるだけでも100以上になった(細かく数えると数百以上になった)。
ひとつの言語についても複数の文字コードが乱立し、ひとつの国の中でもあるマシン用の文字コードを別のマシンで使おうとすると文字が正常に表示されず《文字化け》が発生する事態になった。また製造された国の言語ならばかろうじて複数の文字コードで表示できるというマシンが開発されることは一部ではあったが、たいていは他の言語圏の文字は全く使えないというようなことが一般的になった。
世の中では自分が使用している言語以外には無関心で無頓着な人は多いので、ある言語圏の技術者により開発されたマシンは、当該地域の言語以外の言語のことは全く配慮しておらず全く表示できないということが頻繁に起きた。
だが必要性という観点からは、国境をまたいだビジネス上のやりとりであれ、学術上の記述であれ、複数の言語をひとつの通信やひとつの文書に織り込まなければならないことは世界では多く、それを求める要望は強いので、ひとつのマシンで複数の言語の文字コードを表示できるようにする技術的な努力は続けられたが、2言語間の、複数の文字コードと複数の文字コードの対応関係だけでも複雑で、それが3言語、4言語...となると指数関数的に複雑さが増し、OSのレベル、プログラミング言語のレベル、アプリケーションソフトのレベルなどでそれぞれ対応しかつ統一的な対応をしなければ整合性がとれないのに、実際にはそれぞれのレベルでチグハグな技術的対応を採用したり、あるレベルでは多言語対応を拒否して無視したりすることが起き、多言語の文字コードへの技術的な対応は非常に困難であった。おまけにある言語の文字コードについての説明はその言語で書かれる(基本的に英語では書かれない、その言語で書かれる。)ので、ついには世界全体の文字コードの状態を全て把握することは誰にもできないほどの大混乱状態になってしまい、世界の多数の言語の文字コードに対応するコンピュータは開発することが非常に困難になってしまった。その結果、コンピュータで複数の言語を扱おうとすると《文字化け》が頻発した。
そのような混乱(大混乱)をできるだけ解消するために、世界中の様々な言語の膨大な数の文字に全て(できうる限り全て)に通し番号を割り当てひとつのコード体系で使用できるようにすることが構想されるようになり、Unicode(ユニコード)が実現した。 Unicodeが普及し、オペレーティングシステムやJavaなどのプログラミング言語で採用されることが増え、Unicodeに収録される文字の種類も増えるにつれ、コンピュータ上の《文字化け》が減ってきており各言語の文字を正常に表現することができるようになりつつある。
なおMicrosoft WindowsやmacOSなどの最近のOSは、表面上はUnicode以外の文字コードを使っていても内部処理上はUnicodeに変換して処理しているものが多い。この場合、波ダッシュのように、字によってはUnicodeと各文字コードの変換テーブルがOSによって異なるなどの問題が生じる場合がある。
文字コードを、以下の2段階に区別する場合がある。
「符号化文字集合」や「文字符号化方式」といった用語は標準化団体によっても定義が異なるため、「これは符号化文字集合だ、いや文字符号化方式だ」といった議論は意味をなさないことがある。元来、文字コードは文字の集合の各文字に直接一意なバイト表現を割り当てただけのシンプルなものだったが、JIS X 0208というひとつの文字集合に対してISO-2022-JP、EUC-JP、Shift_JISなど複数の符号化方式が存在するようになってきたり、逆に複数の文字集合を切り替えて使うISO-2022-JPやEUC-JPといった符号化方式が用いられるようになってきたため、「符号化文字集合」と「文字符号化方式」とを区別するようになったと考えられる。
両者の区分はIETFでは用いられる一方、ISO/IECやJISでは「文字符号化方式」を「符号化文字集合の構造」あるいは「文字符号の構造及び拡張法」として規定している。
Unicode文字符号化モデルではさらに進んで、文字コードは以下の4段階に分けられる。
その後、バイト列をgzipなどで圧縮したり、7ビット伝送路に通すためBase64、uuencode、BinHex、Quoted-printableなどで変換することがあるがこれらは文字コードの範囲外である。
外字とは表外字(規格表の外の文字)の略であり、ユーザがデザインして用いるユーザ定義文字や、メーカーなどが定義した環境依存文字(いわゆる機種依存文字)もしくはベンダ拡張漢字のことを指す。
外字というユーザが独自に文字を登録できる領域がある文字コードは複数存在する。Unicodeにおいては6,400+131,072文字の「PUA(Private Use Area=私用領域)」があり、Windows-31J(Microsoft Windows Codepage 932)にも1,880文字の外字領域がある。ユーザが独自にフォントを登録した文字(ユーザ定義文字)は、文書の交換時に配慮しない限りは他の環境で読むことができないため、互換性の上で重大な問題を引き起こす場合がある。ベンダ拡張文字の場合は、ユーザが表外字でないことを認識せずに利用してしまうことがあるため、より重大な問題を引き起こす(例として挙げれば、Windows環境(CP932)のローマ数字がMac環境では化けて表示されるなど)。
JIS規格においては、JIS X 0208で定義された文字集合に対してEUC-JPまたはShift_JISによる符号化を行う際、1〜94区に対応しない領域(EUC-JPやShift_JISでは94区に94点をかけた8,836を超える文字が定義可能であるため)や、1〜94区の範囲内であっても文字が定義されていない箇所(JIS X 0208には、そのような空き領域が複数存在している)に外字を入れる実装が存在した。1997年改正(JIS X 0208:1997)ではShift_JIS符号化およびEUC-JP符号化も規格で規定することにより、空き領域を外字として使用することが原則禁止された。またJIS X 0213:2000では、主要なベンダ外字の文字を規格に入れて94区までの空き領域をなくしたことで、94区までの区間内の外字を扱える箇所をなくし、2面を使用した実装水準4を選択する場合にはShift_JIS-2004符号化の場合、94区外の領域も埋まるため、外字を入れることが可能な領域がなくなった。
1バイト系文字コードは、俗に「半角文字」と呼ばれることもある。
2バイト系文字コードは、俗に「全角文字」と呼ばれることもある。
印刷業界においては、公的な文字コード規格では包摂されている異体字やグリフの相違を厳密に区別したいというニーズが強く存在する。そのため、そのようなニーズに応える文字集合が企業主導で策定されている。一般的な情報交換に用いられることはない。
以下は、主にメインフレーム・オフコンなどのプロプライエタリな古いレガシーコンピュータやレガシーなシステム、特殊な環境において利用される文字コードを含む。レガシーなものとの連携を目的とする場合を除き、パソコンで利用されることがないものが多い。 | [
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"tag": "p",
"text": "1バイト系文字コードは、俗に「半角文字」と呼ばれることもある。",
"title": "文字コードの一覧(一部)"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2バイト系文字コードは、俗に「全角文字」と呼ばれることもある。",
"title": "文字コードの一覧(一部)"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "印刷業界においては、公的な文字コード規格では包摂されている異体字やグリフの相違を厳密に区別したいというニーズが強く存在する。そのため、そのようなニーズに応える文字集合が企業主導で策定されている。一般的な情報交換に用いられることはない。",
"title": "文字コードの一覧(一部)"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "以下は、主にメインフレーム・オフコンなどのプロプライエタリな古いレガシーコンピュータやレガシーなシステム、特殊な環境において利用される文字コードを含む。レガシーなものとの連携を目的とする場合を除き、パソコンで利用されることがないものが多い。",
"title": "文字コードの一覧(一部)"
}
] | 文字コードは、文字や記号など(キャラクタ)を通信やコンピュータで扱えるように、一文字一文字に固有の識別番号を与えて区別できるようにした、その対応関係についての規則体系(コード ※)のこと。 | '''文字コード'''(もじコード、{{Lang-en-short|character code}})は、[[文字]]や記号など([[キャラクタ (コンピュータ)|キャラクタ]])を[[通信]]や[[コンピュータ]]で扱えるように、一文字一文字に固有の識別[[番号]]を与えて区別できるようにした、その対応関係についての規則体系([[コード]] ※)のこと。{{Efn|文字コードは通信用語辞典にも掲載されており、コンピュータ用語辞典にも掲載されている。通信用語でもあり、コンピュータ用語でもある。}}
:: (※)code コードという語の基本的な意味は[[法規]]や[[規則]]である。そういう用語なので、数字と文字・記号の対応に関する規則を定めた時にもそれを「コード」と呼ぶようになった。{{Efn|英語や西ヨーロッパ諸語では、今でも、日常的にも、「code」の1番目や2番めの意味は法規体系(規則体系)なので、英語やヨーロッパ諸語の母語話者が「code」という語を見る際は、常に規則体系という概念が、意識レベルであれ無意識レベルであれ想起されている。欧米の人々はそのような意識を土台として、文字・記号と番号の対応関係を定めた規則やそれを表現した対応表も見ている。}}
==概説==
文字コードは、文字や記号やそれに類するものを、通信やコンピュータで扱うために、各文字や記号などに対して番号を与えた対応規則の体系である。通常、通し番号を与え、文字と番号の対応表が作成される。どの文字コードを使うか決まっている状況では、ある数(番号)が与えられるとそれに対応する文字や記号を特定することができる。
;歴史
1870年代にはフランスの[[電信]]技術者の[[エミール・ボドー]]が、5[[ビット]]と文字・記号類を対応させるコードを発明し、[[1876年]]に、そのコードを用いる電信装置の特許をフランスで取得した(この装置に使われている5ビットのコードが'''[[Baudot Code]]'''(ボドー・コード)として知られるようになった)。
1963年には、アメリカの情報通信用の文字コードとして7ビットの'''[[ASCII]]'''(アスキー、英: American Standard Code for Information Interchange の略)が[[米国国家規格協会|アメリカ規格協会]](ASA)で制定された。1964年には[[IBM]]社が[[System/360]]とともに[[EBCDIC]]という文字コード、4ビットのBCDを[[8ビット]]に拡張した文字コードを発表した。
世界のさまざまな言語の表記にはさまざまな文字が使われているので、英語用のアルファベットや記号しか使えないようでは世界では全然使い物にならないので、各言語用にそれぞれ文字コードが作り出された。
{{Efn|たとえばASCIIはアメリカ人が開発したのでアメリカ英語のことしか考えておらず、<u>英語以外の言語への配慮が全く欠如している</u>。たとえば西ヨーロッパ諸国の人々が母国語を表記するのに当然必要なアクセント文字群は全然含まれておらず、[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]などは全然うまく表記できない。たとえば基本語彙を挙げると、ポルトガル語の基本語彙のひとつ「明日」は「amanhã アマニャン」というが、ASCIIにはãという文字が含まれていないので、「じゃあ、また明日ね」というポルトガル人が毎日のように交わす挨拶すら表記できない。ポルトガル語で腕は「braço ブラッソ」だがASCIIには「ç」(cの下にヒゲがついたような文字)が含まれないので、ポルトガル人はASCIIでは「腕」という基本的な語すら書くことができない。(各言語のどの文字や基本語彙が書けないか、いちいち説明していると長文になりすぎるので省略するが)ともかく、同様にスペイン語、フランス語、ドイツ語などの基本的な語彙すらASCIIでは書くことができない。ともかくオリジナルのASCIIは、基本的に英語でしか使い物にならない代物である。}}。 ASCIIは英語圏以外では基本的な通信にすら使えず、不便すぎるので、各国それぞれで独自にASCIIに代わる文字コードが生み出される事態を生んだ。たとえばブラジルではASCIIの代わりに、[[ブラジル・ポルトガル語]]で通信するのに必要なアクセント記号つきのアルファベットも含む文字コードで、'''[[:en:BraSCII|BraSCII]]'''というASCIIとは異なる文字コードが生み出された。またASCIIの対応表の後ろに独自に別の対応表を足すということが行われた国もある。
さらにひとつ言語用にもコンピュータ[[メーカー]](コンピュータ[[ベンダー]])ごとに別々の文字コードが生み出され、さらにひとつのメーカーの中でも、その時々の都合で文字コードを開発することが行われ文字コードが増えていったので、文字コードが多数乱立することになり、代表的な文字コードを数えるだけでも100以上になった(細かく数えると数百以上になった)。
ひとつの言語についても複数の文字コードが乱立し、ひとつの国の中でもあるマシン用の文字コードを別のマシンで使おうとすると文字が正常に表示されず《[[文字化け]]》が発生する事態になった。また製造された国の言語ならばかろうじて複数の文字コードで表示できるというマシンが開発されることは一部ではあったが、たいていは他の言語圏の文字は全く使えないというようなことが一般的になった。
世の中では自分が使用している言語以外には無関心で無頓着な人は多いので、ある言語圏の技術者により開発されたマシンは、当該地域の言語以外の言語のことは全く配慮しておらず全く表示できないということが頻繁に起きた。
だが必要性という観点からは、国境をまたいだビジネス上のやりとりであれ、学術上の記述であれ、複数の言語をひとつの通信やひとつの文書に織り込まなければならないことは世界では多く、それを求める要望は強いので、ひとつのマシンで複数の言語の文字コードを表示できるようにする技術的な努力は続けられたが、2言語間の、複数の文字コードと複数の文字コードの対応関係だけでも複雑で、それが3言語、4言語...となると[[指数関数]]的に複雑さが増し、OSのレベル、[[プログラミング言語]]のレベル、[[アプリケーションソフト]]のレベルなどでそれぞれ対応しかつ統一的な対応をしなければ整合性がとれないのに、実際にはそれぞれのレベルでチグハグな技術的対応を採用したり、あるレベルでは多言語対応を拒否して無視したりすることが起き、多言語の文字コードへの技術的な対応は非常に困難であった。おまけにある言語の文字コードについての説明はその言語で書かれる(基本的に英語では書かれない、その言語で書かれる。)ので、ついには世界全体の文字コードの状態を全て把握することは誰にもできないほどの大混乱状態になってしまい{{Efn|2〜3程度の言語を理解できる人、つまりバイリンガルやトリリンガル程度なら世の中には多数いるが、それ以上の数の言語を理解できる人なると数が減る。かなりの多言語が使えることを誇る人でも、使えるのはせいぜい7〜8言語程度である。それ以上の数になると、ひとつの言語あたりの使用時間・経験時間・学習時間が減ってしまい、ひとつひとつの言語の理解力がかなり低くなる。文字コードの理解に話を戻すと、世界の数百、数千の言語を理解できる人はおらず、数百の言語で書かれた各国語の文字コードに関するドキュメントや説明文を自力で読んで、俯瞰的かつ細かく理解できる人など、この世にいない。}}、世界の多数の言語の文字コードに対応するコンピュータは開発することが非常に困難になってしまった。その結果、コンピュータで複数の言語を扱おうとすると《[[文字化け]]》が頻発した。
::他にも多様な文字コードの存在は文字コードの互換性問題を引き起こした。文字コードの互換性問題とは、ある文字コードで記録されたデータを別の文字コードに変換しようとするとき、一方で定義されている文字がもう一方では定義されていない(あるいは用途によって2種類の文字に分けられている)という問題である。日本語では、これは特殊な漢字(名字や団体名に使われる漢字)などが入ったデータベースを扱うときなどに問題となる。また文字コードの変換にかかるコストはばかにならないことが多い。
そのような混乱(大混乱)をできるだけ解消するために、世界中の様々な言語の膨大な数の文字に全て(できうる限り全て)に通し番号を割り当てひとつのコード体系で使用できるようにすることが構想されるようになり、[[Unicode]](ユニコード)が実現した。
Unicodeが普及し、[[オペレーティングシステム]]や[[Java]]などの[[プログラミング言語]]で採用されることが増え、Unicodeに収録される文字の種類も増えるにつれ、コンピュータ上の《文字化け》が減ってきており各言語の文字を正常に表現することができるようになりつつある。
なお[[Microsoft Windows]]や[[macOS]]などの最近のOSは、表面上はUnicode以外の文字コードを使っていても内部処理上はUnicodeに変換して処理しているものが多い。この場合、[[波ダッシュ#Unicodeに関連する問題|波ダッシュ]]のように、字によってはUnicodeと各文字コードの変換テーブルがOSによって異なるなどの問題が生じる場合がある。
==符号化文字集合、文字符号化方式==
文字コードを、以下の2段階に区別する場合がある。
; '''[[文字集合|符号化文字集合]]'''({{abbr|CCS|coded character set}}) : 文字と一意に振られた番号のペアの集合。
; '''[[文字符号化方式]]'''({{abbr|CES|character encoding scheme}}) : 文字に振られた番号をバイト表現に変換する方法。
「符号化文字集合」や「文字符号化方式」といった用語は標準化団体によっても定義が異なるため、「これは符号化文字集合だ、いや文字符号化方式だ」といった議論は意味をなさないことがある。元来、文字コードは文字の集合の各文字に直接一意なバイト表現を割り当てただけのシンプルなものだったが、[[JIS X 0208]]というひとつの文字集合に対して[[ISO-2022-JP]]、[[EUC-JP]]、[[Shift_JIS]]など複数の符号化方式が存在するようになってきたり、逆に複数の文字集合を切り替えて使う[[ISO-2022-JP]]や[[EUC-JP]]といった符号化方式が用いられるようになってきたため、「符号化文字集合」と「文字符号化方式」とを区別するようになったと考えられる。
両者の区分は[[Internet Engineering Task Force|IETF]]では用いられる一方、[[国際標準化機構|ISO]]/[[国際電気標準会議|IEC]]や[[日本産業規格|JIS]]では「文字符号化方式」を「符号化文字集合の構造」あるいは「[[ISO/IEC 2022|文字符号の構造及び拡張法]]」として規定している。
==Unicode文字符号化モデル==
Unicode文字符号化モデル<ref>{{Cite web
| url=https://www.unicode.org/reports/tr17/tr17-7.html
| title=UTR#17: Unicode Character Encoding Model
| publisher=The Unicode Consortium
| language=English
| date=2008-11-11
| accessdate=2019-05-21
}}</ref>ではさらに進んで、文字コードは以下の4段階に分けられる。
; 抽象文字集合 ({{abbr|ACR|abstract character repertoire}}) : 符号化の対象とする順序のない文字の集合。ただし一般的な「文字」とは異なる場合があり、[[書記素]]と混同するべきではない<ref>{{Cite web
| url=https://www.unicode.org/versions/Unicode12.0.0/UnicodeStandard-12.0.pdf
| title=The Unicode Standard Version 12.0
| format=PDF
| publisher=The Unicode Consortium
| language=English
| date=2019-05-07
| accessdate=2019-05-23
| page=90
| quote=An abstract character does not necessarily correspond to what a user thinks of as a “character” and should not be confused with a grapheme.
}}</ref>。
; 符号化文字集合({{abbr|CCS|coded character set}}) : 抽象文字集合を[[非負整数]]に対応させたもの。この非負整数の範囲を符号空間、各値を符号位置といい、抽象文字は対応後、符号化文字となる<ref>{{Cite web
| url=https://www.unicode.org/versions/Unicode12.0.0/UnicodeStandard-12.0.pdf
| title=The Unicode Standard Version 12.0
| format=PDF
| publisher=The Unicode Consortium
| language=English
| date=2019-05-07
| accessdate=2019-05-21
| page=29
| quote=The range of integers used to code the abstract characters is called the codespace. A particular integer in this set is called a code point. When an abstract character is mapped orassigned to a particular code point in the codespace, it is then referred to as an encodedcharacter.
}}</ref>。抽象文字は複数の符号化文字に対応されることもある([[異体字セレクタ]])<ref>{{Cite web
| url=https://www.unicode.org/versions/Unicode12.0.0/UnicodeStandard-12.0.pdf
| title=The Unicode Standard Version 12.0
| format=PDF
| publisher=The Unicode Consortium
| language=English
| date=2019-05-07
| accessdate=2019-05-21
| page=29
| quote=an abstract character may be represented by a sequence of two (or more) other encoded characters.
}}</ref>。Unicodeでは代用符号位置・非文字符号位置・未割り当て符号位置があるため、すべての符号位置が抽象文字と対応しているわけではない<ref>{{Cite web
| url=https://www.unicode.org/versions/Unicode12.0.0/UnicodeStandard-12.0.pdf
| title=The Unicode Standard Version 12.0
| format=PDF
| publisher=The Unicode Consortium
| language=English
| date=2019-05-07
| accessdate=2019-05-21
| page=30
| quote=Not all assigned code points represent abstract character.
}}</ref>。
; 文字符号化形式({{abbr|CEF|character encoding form}}) : 符号化文字集合の非負整数を符号単位列に変換する方法。文字符号化形式によってはひとつの符号化文字が複数の符号単位になる場合がある([[Unicode#サロゲートペア|サロゲートペア]])。これを含め、文字により異なる長さの符号単位列となる文字符号化形式を可変幅、どの文字を変換しても同じ長さの符号単位列になるものを固定幅という。文字符号化形式はコンピュータ中に実際にデータとして文字を表現することを可能にする。
; 文字符号化方式({{abbr|CES|character encoding scheme}}) : 符号単位列をバイト列に直列化する方法。符号単位が8ビットより大きい場合は[[エンディアン]]が関係してくる。
その後、バイト列を[[gzip]]などで圧縮したり、7ビット伝送路に通すため[[Base64]]、[[uuencode]]、[[BinHex]]、[[Quoted-printable]]などで変換することがあるがこれらは文字コードの範囲外である。
==類似の用語==
;コードセット
:この語はたとえば、[[ソフトウェア]]の実装において、任意の文字コードが扱えるよう実装すること(たとえば[[Ruby|ruby 1.9]]のStringオブジェクト)を指してコードセット独立(CodeSet Independent, CSI)といったように使われる<ref>http://docs.oracle.com/cd/E19455-01/806-5582/6jej6u9sp/index.html</ref>。
;キャラクタセット
:[[Multipurpose Internet Mail Extensions|MIME]]では'''キャラクタセット'''({{lang-en|charsetまたはcharacter set}})という概念が用いられる。言葉通りには「文字集合」であるが、実際に意味しているものは文字コードに近い。
:この「キャラクタセット」は「[[8ビット|オクテット]]の並びを[[文字]]の並びに変換する方式」などと定義されている<ref>Freed and Postel. 参考文献, ‘1.3. Charset’, p.1.</ref>。MIMEで実現する[[電子メール]]メッセージなどの処理を主眼に置いた概念である。
:[[インターネット]]上で用いることのできる「キャラクタセット」の登録と公開は[[IANA]]が行っている(「外部リンク」参照)。
;文字マップ
:Unicode文字符号化モデルでは、文字列をバイト列に変換する4段階の操作を総称して'''文字マップ'''({{lang-en-short|character map}}; CM)と呼ぶ<ref>{{Cite web
| url=https://www.unicode.org/reports/tr17/tr17-7.html
| title=UTR#17: Unicode Character Encoding Model
| publisher=The Unicode Consortium
| language=English
| date=2008-11-11
| accessdate=2019-07-20
| quote=a mapping from sequences of members of an abstract character repertoire to serialized sequences of bytes bridging all four levels in a single operation
}}</ref>。
;コードページ:[[IBM]]や[[マイクロソフト]]は独自に文字コードに番号([[コードページ]])を振って管理している。
;エンコーディング
:[[Extensible Markup Language|XML]]においては、文字コードの宣言としてencodingという用語を用いている。
==外字==
{{Main|外字}}
外字とは表外字(規格表の外の文字)の略であり、ユーザがデザインして用いる[[ユーザ定義文字]]や、メーカーなどが定義した環境依存文字(いわゆる[[機種依存文字]])もしくは'''ベンダ拡張漢字'''のことを指す。
外字というユーザが独自に[[文字]]を登録できる領域がある文字コードは複数存在する。[[Unicode]]においては6,400+131,072文字の「[[外字|PUA]](Private Use Area=私用領域)」があり、Windows-31J([[Microsoftコードページ932|Microsoft Windows Codepage 932]])にも1,880文字の外字領域がある。ユーザが独自にフォントを登録した文字(ユーザ定義文字)は、文書の交換時に配慮しない限りは他の環境で読むことができないため、互換性の上で重大な問題を引き起こす場合がある。ベンダ拡張文字の場合は、ユーザが表外字でないことを認識せずに利用してしまうことがあるため、より重大な問題を引き起こす(例として挙げれば、Windows環境([[Cp932|CP932]])のローマ数字がMac環境では化けて表示されるなど)。
[[日本産業規格|JIS規格]]においては、JIS X 0208で定義された文字集合に対してEUC-JPまたはShift_JISによる符号化を行う際、1〜94区に対応しない領域(EUC-JPやShift_JISでは94区に94点をかけた8,836を超える文字が定義可能であるため)や、1〜94区の範囲内であっても文字が定義されていない箇所(JIS X 0208には、そのような空き領域が複数存在している)に外字を入れる実装が存在した。1997年改正([[JIS X 0208-1997|JIS X 0208:1997]])ではShift_JIS符号化およびEUC-JP符号化も規格で規定することにより、空き領域を外字として使用することが原則禁止された。またJIS X 0213:2000では、主要なベンダ外字の文字を規格に入れて94区までの空き領域をなくしたことで、94区までの区間内の外字を扱える箇所をなくし、2面を使用した実装水準4を選択する場合には[[Shift_JIS-2004]]符号化の場合、94区外の領域も埋まるため、外字を入れることが可能な領域がなくなった。
==文字コードの一覧(一部)==
===1バイト系文字コード(符号化文字集合)===
<!-- そもそも 1 バイト系、2 バイト系と分けるのは適切なのか? -->
<!-- 分けるのなら、94文字集合、96文字集合、その他にも分けるべきかも。 -->
1[[バイト (情報)|バイト]]系文字コードは、俗に「[[半角]]文字」と呼ばれることもある。
*US-ASCII([[ASCII]] [ANSI INCITS 4] 対応)
*[[ISO/IEC 646]]
**ISO646-JP
*[[ISO/IEC 8859]](ISO/IEC 8859-1 〜 ISO/IEC 8859-16)
**[[ISO-8859-1]]([[ISO/IEC 8859-1]] 対応)
**ISO-8859-5([[ISO/IEC 8859-5]] 対応)
**ISO-8859-6([[ISO/IEC 8859-6]] 対応)
**ISO-8859-7([[ISO/IEC 8859-7]] 対応)
**ISO-8859-11([[ISO/IEC 8859-11]] 対応)
**ISO-8859-15([[ISO/IEC 8859-15]] 対応)
*[[windows-1252]](Microsoft Windows Codepage 1252 対応)
*macintosh([[MacRoman]] 対応)
*[[KOI8-R]]
*[[KOI8-U]]
*[[TIS-620]]
*[[EBCDIC]]
*[[JIS X 0201]](JIS ローマ字、カタカナ)
<!-- *[[JIS X 0211]] (JIS 制御コード)図形文字集合ではない -->
===2バイト系符号化文字集合===
<!-- そもそも 1 バイト系、2 バイト系と分けるのは適切なのか? -->
2バイト系文字コードは、俗に「[[全角]]文字」と呼ばれることもある。
*[[JIS X 0208]] - [[日本]]。(第一・第二水準漢字など)
*[[JIS X 0212]](補助漢字など)
*[[JIS X 0213]](JIS X 0208 に第三・第四水準漢字などを追加した文字集合。JIS X 0213:2004はJIS2004とも呼ばれる)
*[[GB 2312]] - [[中国]]の[[簡体字中国語]]
*[[GB 18030]] - [[中国]]
*[[KPS 9566]] - [[朝鮮語]]が使われる[[北朝鮮]]
*[[KS X 1001]](KS C 5601) - [[ハングル]]などが使われる[[韓国]]
*[[Big5]] - [[繁体字中国語]]
*[[CNS 11643]] - [[台湾]]
===文字符号化方式と文字コード(キャラクタセット)===
*[[ISO/IEC 2022]]系(ISO/IEC 2022自体は文字符号化方式というより、そのフレームワークのようなものである)
**[[ISO-2022-JP]]({{IETF RFC|1468}}、俗に「JISコード」と呼ばれる文字コード。[[JIS X 0208]]対応)
***[[ISO-2022-JP-1]]({{IETF RFC|2237}}、JIS X 0208と[[JIS X 0212]]に対応)
***[[ISO-2022-JP-2]]({{IETF RFC|1554}}、多言語拡張。[[JIS X 0208]]、[[JIS X 0212]]、[[GB 2312]]、[[KS X 1001]]、[[ISO/IEC 8859-1]]、[[ISO/IEC 8859-7]]対応)
***[[ISO-2022-JP-3]](JIS X 0213:2000対応)
***[[ISO-2022-JP-2004]](JIS X 0213:2004対応)
**[[ISO-2022-CN]]({{IETF RFC|1922}}、[[GB 2312]]、[[CNS 11643]][第一字面・第二字面]対応)
***[[ISO-2022-CN-EXT]]({{IETF RFC|1922}}、[[GB 2312]]、ISO-IR-165、[[CNS 11643]][第一字面から第七字面]対応)
**[[ISO-2022-KR]]({{IETF RFC|1557}}、[[KS X 1001]]対応)
*[[Extended Unix Code|EUC]]……[[Extended Unix Code|拡張 UNIX コード]](EUC)文字符号化方式を用いた8ビットの文字コード。[[ISO/IEC 2022]]の8ビット符号化表現に相当する。
**[[EUC-JP]]([[JIS X 0208]] 対応)
***[[EUC-JIS-2004|EUC-JISX0213]](JIS X 0213:2000対応)
***[[EUC-JIS-2004]](JIS X 0213:2004対応)
**[[EUC-KR]]({{IETF RFC|1557}}、[[KS X 1001]]対応)
**[[GB2312]](別名EUC-CN。[[GB 2312]]対応)
***[[GBK]](Microsoft Windows Codepage 936対応)
***[[GB18030]](GB 18030対応)
**[[EUC-TW]]([[CNS 11643]]対応)
*[[シフト符号化表現]]の文字符号化方式を用いた8ビットの文字コード。
**[[Shift_JIS]]([[JIS X 0208]]対応)
***[[Shift_JIS-2004|Shift_JISX0213]](JIS X 0213:2000対応)
***[[Shift_JIS-2004]](JIS X 0213:2004対応)
**[[Microsoftコードページ932|Windows-31J]](Microsoftコードページ932対応)
**[[x-Mac-Japanese]]([[MacJapanese]]対応)
*その他の文字符号化方式を用いた7ビットの文字コード。
**[[HZ-GB-2312]]({{IETF RFC|1842}}、{{IETF RFC|1843}}、[[GB 2312]]対応)
===大規模文字集合===
{{see|大規模文字セット}}
===ISO/IEC 10646およびUnicode===
*[[Unicode]]
*[[ISO/IEC 10646]](UCS、[[JIS X 0221]])※ISO/IEC 10646-1とISO/IEC 10646-2はISO/IEC 10646:2003で統合された。同様にJIS X 0221-1はJIS X 0221:2007で改訂された。JIS X 0221のうち、「日本文字部分レパートリ」は'''JIS X 0221 附属書JA'''という制限部分集合として定義する。
===Unicode の文字符号化方式===
*[[UTF-8]]
*UTF-16 文字符号化形式
**[[UTF-16]]
**[[UTF-16BE]]
**[[UTF-16LE]]
**Compatibility Encoding Scheme for UTF-16: 8-Bit([[CESU]])
*UTF-32 文字符号化形式
**[[UTF-32]]
**[[UTF-32BE]]
**[[UTF-32LE]]
*[[UTF-7]]
*[[UTF-EBCDIC]]
*Standard Compression Scheme for Unicode([[SCSU]])
*Binary Ordered Compression for Unicode([[BOCU-1]])
===印刷業界の文字集合===
印刷業界においては、公的な文字コード規格では包摂されている[[異体字]]や[[グリフ]]の相違を厳密に区別したいというニーズが強く存在する。そのため、そのようなニーズに応える文字集合が企業主導で策定されている。一般的な情報交換に用いられることはない。
*[[Adobe-Japan1]]文字コレクション
**Adobe-Japan1-0
**Adobe-Japan1-1(JIS X 0208-1990、[[MacJapanese]]対応)
**Adobe-Japan1-2(IBM拡張文字に対応)
**Adobe-Japan1-3(OpenType Std)
**Adobe-Japan1-4(OpenType Pro)
**Adobe-Japan1-5(OpenType Pr5、JIS X 0213にほぼ対応)
**Adobe-Japan1-6(OpenType Pr6、JIS X 0212・[[U-PRESS]]対応)
**Adobe-Japan1-7(「[[令和]]」[[元号]]の[[合字]]対応)
*Adobe-Japan2文字コレクション
**Adobe-Japan2-0(Adobe-Japan1-6に統合され廃止)
*Adobe-GB1文字コレクション([[簡体字]][[中国語]])
**Adobe-GB1-0
**Adobe-GB1-1
**Adobe-GB1-2
**Adobe-GB1-3
**Adobe-GB1-4
**Adobe-GB1-5
*Adobe-CNS1文字コレクション([[繁体字]][[中国語]])
**Adobe-CNS1-0
**Adobe-CNS1-1
**Adobe-CNS1-2
**Adobe-CNS1-3
**Adobe-CNS1-4
**Adobe-CNS1-5
**Adobe-CNS1-6
**Adobe-CNS1-7
*Adobe-Korea1文字コレクション([[朝鮮語]])
**Adobe-Korea1-0
**Adobe-Korea1-1
**Adobe-Korea1-2(Adobe-KR9に移行)
*Adobe-KR文字コレクション
**Adobe-KR9
*電算写植
**SKコード(SK72、SK78、外字A、外字B、外字C)
**:写研が開発した文字コード。独自の文字セットを持つ。文字セットの大部分はすでにAdobe-Japan1に収録されている。
**PMTコード
**:印刷機械貿易が開発した文字コード。
*新聞業界
**[[CO-59]]
**[[CO-77]]
**[[K-JIS]]
**[[U-PRESS]]
**:共同通信社が開発したユニコードベースの文字コード。
*電子書籍
**BBeB 標準文字セット
**:ユニコードをベースにソニーが拡張。
**[[新潮文庫の100冊]]の外字
**<!--[[青空文庫]]外字-->[[青空文庫]]が[[文学作品]]に登場するJIS X 0208にない文字を集めた文字リスト<ref>[http://sumomo.sakura.ne.jp/~aozora/gaiji/gaiji0208/mokuji.html 文学作品に現れたJIS X 0208にない文字](1999.2-3[[青空文庫]])</ref>
===ベンダごとの文字コード===
以下は、主に[[メインフレーム]]・[[オフィスコンピュータ|オフコン]]などの[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]な古い[[レガシーコンピュータ]]やレガシーなシステム、特殊な環境において利用される文字コードを含む。レガシーなものとの連携を目的とする場合を除き、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]で利用されることがないものが多い。
{|class=wikitable style="font-size:small"
!ベンダー!!文字コード!!特徴
|-
|style="white-space:nowrap"|マイクロソフト||style="white-space:nowrap"|cp932||マイクロソフト版[[Shift_JIS]]。
|-
|style="white-space:nowrap"|マイクロソフト||style="white-space:nowrap"|cp10001||マイクロソフト版[[MacJapanese]]。
|-
|style="white-space:nowrap"|マイクロソフト||style="white-space:nowrap"|cp20290||マイクロソフト版IBM CCSID 00290。
|-
|style="white-space:nowrap"|マイクロソフト||style="white-space:nowrap"|cp20932||マイクロソフト版日本語EUC。
|-
|style="white-space:nowrap"|マイクロソフト||style="white-space:nowrap"|cp21027||マイクロソフト版IBM CCSID 01027。
|-
|style="white-space:nowrap"|マイクロソフト||style="white-space:nowrap"|cp50220||マイクロソフト版ISO-2022-JPの一つ。
|-
|style="white-space:nowrap"|マイクロソフト||style="white-space:nowrap"|cp50221||マイクロソフト版ISO-2022-JPの一つ。
|-
|style="white-space:nowrap"|マイクロソフト||style="white-space:nowrap"|cp50222||マイクロソフト版ISO-2022-JPの一つ。
|-
|style="white-space:nowrap"|マイクロソフト||style="white-space:nowrap"|cp51932||Windows-31JをEUC-JPで表したもの。
|-
|style="white-space:nowrap"|サン・マイクロシステムズ||style="white-space:nowrap"|cp942C||cp942の拡張。
|-
|style="white-space:nowrap"|サン・マイクロシステムズ||style="white-space:nowrap"|cp943C||cp943の拡張。
|-
|style="white-space:nowrap"|Apple||style="white-space:nowrap"|[[MacJapanese]]||Apple版[[Shift_JIS]]。
|-
|style="white-space:nowrap"|富士通||style="white-space:nowrap"|{{ruby|[[JEF漢字コード|JEF]]|ジェフ}}||[[メインフレーム]](Mシリーズ、GSシリーズ)で利用される。[[JIS C 6226]]-1978をGR(Graphic Right)に展開し、その上方エリアに「JEF拡張漢字」というベンダ選定[[拡張漢字]]を配置。
|-
|style="white-space:nowrap"|富士通||style="white-space:nowrap"|[[EUC-U90]]||[[DS/90]]系UNIXサーバで利用される。JIS X 0208-1990をGRに展開し、「JEF拡張漢字」をシングルシフトのGR展開で表現。
|-
|style="white-space:nowrap"|日本電気||style="white-space:nowrap"|{{ruby|[[JIPS]](J)|ジップスジェー}}||[[ACOS-6]]系[[メインフレーム]]で利用される。[[JIS C 6226]]-1978の9区〜13区に特殊文字を登録し、GR領域に「G1集合」というベンダ選定拡張漢字を登録したコード。
|-
|style="white-space:nowrap"|日本電気||style="white-space:nowrap"|{{ruby|JIPS(E)|ジップスイー}}||[[ACOS-2]]、[[ACOS-4]]系[[メインフレーム]]で利用される。JIPS(J)の上下1バイトをそれぞれ[[EBCDIC]]に変換して得られるコード。
|-
|style="white-space:nowrap"|日本電気||style="white-space:nowrap"|NEC内部コード(E)||[[ITOS]]、[[A-VX]]系の[[オフィスコンピュータ|オフコン]]で利用される。JIPS(J)の上1バイトをシフトさせたものに対して上下1バイトをそれぞれ[[EBCDIC]]に変換して得られるコード。
|-
|style="white-space:nowrap"|日立製作所||style="white-space:nowrap"|{{ruby|[[KEIS(78)]]|ケイスナナハチ}}||[[メインフレーム]](Mシリーズ、APシリーズ)で利用される。[[JIS C 6226]]-1978をGRに展開し、その上方エリアに「拡張文字セット3」というベンダ選定拡張漢字を配置。
|-
|style="white-space:nowrap"|日立製作所||style="white-space:nowrap"|{{ruby|[[KEIS(83)]]|ケイスハチサン}}||[[メインフレーム]](Mシリーズ、APシリーズ)で利用される。[[JIS X 0208]]-1983をGRに展開し、その上方エリアに「拡張文字セット3」というベンダ選定拡張漢字を配置。
|-
|style="white-space:nowrap"|<span id="IBM">[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]]</span>||style="white-space:nowrap"|[[IBM漢字]]([[DBCS-Host]])||[[メインフレーム]]([[システム/360]]系)、[[AS/400]]系[[オフィスコンピュータ|オフコン]](現行製品では[[IBM i搭載のPowerSystem]])で利用される。[[JIS C 6226]]-1978以前に制定されたため、完全に独自の漢字表を使用。漢字部分については、[[Microsoftコードページ932|Windows-31J]]の第一・第二水準漢字およびIBM拡張文字との間で一対一の対応がある。
|-
|style="white-space:nowrap"|日本IBM||style="white-space:nowrap"|cp930||メインフレームで利用される。
|-
|style="white-space:nowrap"|日本IBM||style="white-space:nowrap"|cp932||IBM OS/2で利用される。マイクロソフトのcp932との同一性は未確認。
|-
|style="white-space:nowrap"|日本IBM||style="white-space:nowrap"|cp939||メインフレームで利用される。
|-
|style="white-space:nowrap"|日本IBM||style="white-space:nowrap"|cp942||IBM OS/2で利用される。
|-
|style="white-space:nowrap"|日本IBM||style="white-space:nowrap"|cp943||IBM OS/2で利用される。
|-
|style="white-space:nowrap"|日本ユニシス||style="white-space:nowrap"|{{ruby|[[LETS-J]]|レッツジェー}}||[[ユニバック]]系[[メインフレーム]]で利用される。[[JIS X 0208]]-1983をGRに展開し、その上方および左方エリアにベンダ選定拡張漢字を配置。
|-
|style="white-space:nowrap"|日本ユニシス||style="white-space:nowrap"|{{ruby|[[JBIS]]|ジェイビス}}||[[バロース]]系のコンピュータで利用される。
|-
|style="white-space:nowrap"|三菱電機||style="white-space:nowrap"|{{ruby|[[JSII]]|ジェイエスツー}}<br>・[[MELCOM]]漢字||三菱電機の[[メインフレーム]]で利用される。[[JIS X 0208]]-1983をGRに展開し、その上方エリアにベンダ選定拡張漢字を配置。
|-
|style="white-space:nowrap"|[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]||style="white-space:nowrap"|[[DEC 漢字]]||[[ミニコンピュータ|ミニコン]]の[[VAX]]用OSである[[VMS]]で利用される。[[JIS X 0208]]-1983をGRに展開し、その左方エリアにベンダ選定拡張漢字を配置。
|-
|style="white-space:nowrap"|DEC||style="white-space:nowrap"|[[Super DEC 漢字]]||[[ミニコンピュータ|ミニコン]]の[[VAX]]用OSである[[VMS]]で利用される。[[JIS X 0208]]-1983をGRに展開し、その左方エリアにベンダ選定拡張漢字を配置。そして、シングルシフトのGR展開で[[JIS X 0212]]を表現。
|-
|style="white-space:nowrap"|アドビ||style="white-space:nowrap"|90ms-RKSJ-H||アドビ版cp932 横書き用。
|-
|style="white-space:nowrap"|アドビ||style="white-space:nowrap"|90ms-RKSJ-V||アドビ版cp932 縦書き用。
|-
|style="white-space:nowrap"|アドビ||style="white-space:nowrap"|90msp-RKSJ-H||アドビ版cp932 半角英字プロポーショナル版横書き用。
|-
|style="white-space:nowrap"|アドビ||style="white-space:nowrap"|90msp-RKSJ-V||アドビ版cp932 半角英字プロポーショナル版縦書き用。
|-
|style="white-space:nowrap"|アドビ||style="white-space:nowrap"|83pv-RKSJ-H||アドビ版漢字Talk6拡張版Shift_JIS 横書き用。
|-
|style="white-space:nowrap"|アドビ||style="white-space:nowrap"|90pv-RKSJ-H||アドビ版MacJapanese 横書き用。
|-
|style="white-space:nowrap"|アドビ||style="white-space:nowrap"|Add-RKSJ-H||アドビ版富士通FMR拡張版Shift_JIS 横書き用。
|-
|style="white-space:nowrap"|アドビ||style="white-space:nowrap"|Add-RKSJ-V||アドビ版富士通FMR拡張版Shift_JIS 縦書き用。
|-
|style="white-space:nowrap"|アドビ||style="white-space:nowrap"|Ext-RKSJ-H||アドビ版NEC拡張版Shift_JIS 横書き用。
|-
|style="white-space:nowrap"|アドビ||style="white-space:nowrap"|Ext-RKSJ-V||アドビ版NEC拡張版Shift_JIS 縦書き用。
|}
===その他の文字コード===
*[[大漢和辞典]] - 日本で漢字の収録がもっとも多い辞典。大漢和辞典の漢字番号が漢字の同定識別に使われることがある。
**[[今昔文字鏡]] - 諸橋大漢和の重複などを指摘している。
**[[TRONコード]] - 今昔文字鏡を二次利用している。
*官公庁
**[[戸籍統一文字]](戸籍統一文字番号) - [[日本]]の[[戸籍システム]]で使用される文字。
**[[住基統一文字]](住基ネット統一文字コード) - 日本の[[住民基本台帳ネットワークシステム]]で使用される住民基本台帳ネットワーク統一文字を符号化したもの。
**[[登記統一文字]](登記統一文字番号) - 日本の[[登記]]情報システムで使用される文字([[戸籍統一文字]]と[[登記固有文字]]からなる)。
**[[MJ文字]](MJ文字図形名) - 日本の文字情報基盤の文字、[[情報処理推進機構|IPA]]の文字情報基盤整備事業で整備された文字集合([[戸籍統一文字]]と[[住基統一文字]]をもとに整備)。
**[[在留カード及び特別永住者証明書における正字|入管正字]](入管正字コード) - 日本の[[在留カード]]および[[特別永住者証明書]]の氏名に使用できる漢字。
*デジタル放送
**[[ARIB外字]] - 日本のARIB STD-B24にある文字符号化。
*企業・団体のコード
**[[筆まめ]]人名外字 - 日本の[[筆まめ]]社が自社ソフト用に作成したコード。
**JTBコード - 日本の[[JTB]]が自社の客室予約システム[[TRIPS]]で使用していた漢字コード<ref>[https://it.impressbm.co.jp/articles/-/6719 【事例編】JTB、基幹系プラットフォームを刷新 - 進化するITプラットフォーム Part8](2009.6 [[IT Leaders]]編集部、[[インプレス (企業)]])</ref>。
**コード会のコード(案) - 日本の[[コード会]]により作成されたコード。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
<references />
==参考文献==
* 安岡孝一、安岡素子『文字コードの世界』東京、東京電機大学出版局、1999年9月、ISBN 4-501-53060-X
* 小池和夫、府川充男、直井靖、永瀬唯『漢字問題と文字コード』東京、太田出版、1999年10月、ISBN 4-87233-486-8
* 『bit』2001年4月号別冊、小林龍生・安岡孝一・戸村哲・三上喜貴編「インターネット時代の文字コード」東京、共立出版、2001年4月、ISBN 4-320-12038-8
* 三上喜貴『文字符号の歴史』アジア編、東京、共立出版、2002年3月、ISBN 4-320-12040-X
*Ken Lunde 『CJKV日中韓越情報処理』、東京、オライリー・ジャパン、2002年12月、ISBN 4-87311-108-0
* 安岡孝一、安岡素子『文字符号の歴史』欧米と日本編、東京、共立出版、2006年2月、ISBN 4-320-12102-3
==関連項目==
*[[マルチバイト文字]]
*[[文字化け]]
*[[機種依存文字]]
==外部リンク==
*[https://www.iana.org/assignments/character-sets/character-sets.xhtml IANA 文字集合レジストリ (IANA Character Set Registry)] ([[IANA]] によって登録されている文字コードの情報一覧)
*[http://ash.jp/code/ 文字コードについて]
*[http://euc.jp/i18n/charcode.ja.html 文字コードの話]
*[http://www.shuiren.org/chuden/teach/code/index-j.html 文字コード入門]
*{{IETF RFC|2130}}: The Report of the IAB Character Set Workshop held 29 February 1 March([[インターネットアーキテクチャ委員会|IAB]]が文字コードについて検討したレポート)
*[https://www.ibm.com/downloads/cas/G01BQVRV Character Data Representation Architecture]([[IBM]]文字データ表現体系(CDRA)リファレンス IBMのベンダー規格)
*[https://www.w3.org/TR/charmod/ Character Model for the World Wide Web 1.0: Fundamentals]([[World Wide Web Consortium|W3C]]の[[World Wide Web|WWW]]向け文字モデル:基本編)
*[https://encoding.spec.whatwg.org/ Encoding Standard]
**[https://triple-underscore.github.io/Encoding-ja.html Encoding Standard 日本語訳]
{{文字コード}}
{{タイポグラフィ用語}}
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{{DEFAULTSORT:もしこおと}}
[[Category:文字コード|*]] | 2003-03-05T04:40:59Z | 2023-11-17T14:16:08Z | false | false | false | [
"Template:Abbr",
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"Template:脚注ヘルプ",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AD%97%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89 |
3,436 | 京都市営地下鉄 | 京都市営地下鉄(きょうとしえいちかてつ)は、京都市交通局が運営する地下鉄。烏丸線・東西線の2つの路線があり、西京区を除く京都市内10区と宇治市を通っている。条例上の正式名称は京都市高速鉄道である。
以下の2路線がある。日本全国の地下鉄事業者で唯一、全ての地下鉄路線が他社線と直通運転を行っている。
1968年に京都市の諮問機関である交通対策協議会が、その年の11月に出した答申が、京都における地下鉄建設計画の始まりである。その後、1972年10月24日に運輸大臣(当時)から地方鉄道事業(地下鉄烏丸線)の事業免許を取得。工事が進められ、1981年5月29日に地下鉄烏丸線(北大路駅 - 京都駅間)の営業を開始した。
開業当時の京都市営地下鉄の特色は、主要4駅にエレベーターを備えたことで、当時の日本の地下鉄では先進的であった。バリアフリーが広まる前の1972年頃から、車椅子常用者、障害者支援団体が運動を起こして京都市に請願し、京都市会と舩橋求己市長を動かした成果である。京都市は、相対式で設計されていた駅を急遽島式に変更し、将来的に全駅にエレベーターを設置することにした。
烏丸線・東西線を合わせた乗車距離に応じた区間制運賃を採用している。2019年10月1日改定。
このほか、地下鉄一日券、地下鉄・バス一日券も発売されている。
2023年4月1日時点で、6キロ以下の距離の運賃が日本の地下鉄で最も高い。普通運賃は乗車距離によって大阪地区に比べ−8%〜+16%、東京地区に比べ−5%〜+44%の差がある。
2022年度決算は一般会計からの補助金を含んで7億円の経常赤字であり、247億円の営業収益に対し支払利息などの営業外費用に34億円を計上している。東西線開業後は収支が改善していたが、新型コロナウイルス感染症の流行による乗客減少も影響し、2009年度から9年間および2020年度から3年間は経営健全化団体となっている。企業債などの残高は3,403億円に上る。
この経営の厳しさの一因には、地下鉄建設の計画時の予算に比べ、実際の建設費が大幅に増大したことが挙げられる。また、烏丸・東西の両線とも古都と言う土地柄ゆえに、開削工法を採用した工区の多くで、文化財保護法に基づく工事着工前の埋蔵文化財(遺跡)発掘調査が義務づけられ、そのための経費と期間が必要となった。埋蔵文化財の存在するような浅い地層に手をつけないことが可能なトンネル工法であれば発掘調査は不要だったが、費用が割高なことから開削工法が採用された。その結果、文化財調査費用が必要となり、安価な開削工法を用いてもトンネル工法以上に建設費が増大した(2路線合計31.2kmで9537億円)。また、京都市内には強い高さ規制があるため、沿線に高層マンション等を建設する振興策も難しい。
このような問題に対して京都市交通局では、駅業務の一部民間委託や高金利企業債の借換え、京都高速鉄道の直営化などによる各種コストの削減を進めている。また、駅ナカビジネスの展開などによる収益増にも取り組んでいる。なお、この一環で2010年4月より駅に掲示している駅名標付近に「駅名表示板下広告」の掲示を開始した。 | [
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"text": "2023年4月1日時点で、6キロ以下の距離の運賃が日本の地下鉄で最も高い。普通運賃は乗車距離によって大阪地区に比べ−8%〜+16%、東京地区に比べ−5%〜+44%の差がある。",
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"text": "2022年度決算は一般会計からの補助金を含んで7億円の経常赤字であり、247億円の営業収益に対し支払利息などの営業外費用に34億円を計上している。東西線開業後は収支が改善していたが、新型コロナウイルス感染症の流行による乗客減少も影響し、2009年度から9年間および2020年度から3年間は経営健全化団体となっている。企業債などの残高は3,403億円に上る。",
"title": "経営状況"
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"text": "この経営の厳しさの一因には、地下鉄建設の計画時の予算に比べ、実際の建設費が大幅に増大したことが挙げられる。また、烏丸・東西の両線とも古都と言う土地柄ゆえに、開削工法を採用した工区の多くで、文化財保護法に基づく工事着工前の埋蔵文化財(遺跡)発掘調査が義務づけられ、そのための経費と期間が必要となった。埋蔵文化財の存在するような浅い地層に手をつけないことが可能なトンネル工法であれば発掘調査は不要だったが、費用が割高なことから開削工法が採用された。その結果、文化財調査費用が必要となり、安価な開削工法を用いてもトンネル工法以上に建設費が増大した(2路線合計31.2kmで9537億円)。また、京都市内には強い高さ規制があるため、沿線に高層マンション等を建設する振興策も難しい。",
"title": "経営状況"
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"text": "このような問題に対して京都市交通局では、駅業務の一部民間委託や高金利企業債の借換え、京都高速鉄道の直営化などによる各種コストの削減を進めている。また、駅ナカビジネスの展開などによる収益増にも取り組んでいる。なお、この一環で2010年4月より駅に掲示している駅名標付近に「駅名表示板下広告」の掲示を開始した。",
"title": "経営状況"
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] | 京都市営地下鉄(きょうとしえいちかてつ)は、京都市交通局が運営する地下鉄。烏丸線・東西線の2つの路線があり、西京区を除く京都市内10区と宇治市を通っている。条例上の正式名称は京都市高速鉄道である。 | {{Redirect|京都市高速鉄道|かつて存在した京都市の第3セクター鉄道事業者|京都高速鉄道}}
{{Infobox 公共交通機関
|名称 = 京都市営地下鉄<!-- #3a204b -->
|ロゴ = Kyoto MTB Logo.svg
|ロゴサイズ = 90px
|画像 =
|画像サイズ =
|画像説明 =
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[京都府]][[京都市]]、[[宇治市]]
|種類 = [[地下鉄]]
|開業 = {{Start date and age|1981|5|29}}
|廃止 =
|所有者 =
|運営者 = [[京都市交通局]]
|ウェブサイト = [https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/ 京都市交通局公式ウェブサイト]
|総延長距離 = 31.2 [[キロメートル|km]]
|路線数 = 2路線
|駅数 = 31駅
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|1日利用者数 = 34万8,000人<ref>[https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000285222.html 市バス・地下鉄のお客様数について(令和4年度)]</ref>
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|路線図 = [[File:KyotoSubwayRouteMap.png|300px|京都市営地下鉄の路線図]]
}}
'''京都市営地下鉄'''(きょうとしえいちかてつ)は、[[京都市交通局]]が運営する[[地下鉄]]。[[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]]・[[京都市営地下鉄東西線|東西線]]の2つの路線があり<ref name="hakusho">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/cmsfiles/contents/0000073/73257/hakusho02.pdf|title=京都市交通事業白書(事業概要)令和2年度|work=|publisher=京都市交通局|accessdate=2023-05-05|date=2023-05-04}}</ref>、[[西京区]]を除く[[京都市]]内10区と[[宇治市]]を通っている。条例上の正式名称は'''京都市高速鉄道'''である<ref name="zyourei2" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/1019214|title=利用客に通じないので「地下鉄」と称しているが正式名称は「京都市高速鉄道」|work=京都政界辞典|website=京都新聞|publisher=京都新聞社|accessdate=2023-05-05|date=2023-05-04}}</ref>。
== 路線 ==
以下の2路線がある。日本全国の地下鉄事業者で唯一、全ての地下鉄路線が他社線と直通運転を行っている。
{| class="wikitable"
|-
!style="width:1.1em"|色
!記号
!路線名
!区間
|-
|style="background:#3cb371"|
|style="text-align:center"|K
|[[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]]
|[[国際会館駅]] (K01) - [[竹田駅 (京都府)|竹田駅]] (K15)<ref group="T">竹田駅から[[近鉄京都線]]と相互[[直通運転]]。普通列車は[[新田辺駅]]、急行は[[近鉄奈良駅]]まで運転。</ref>
|-
|style="background:#ff4500"|
|style="text-align:center"|T
|[[京都市営地下鉄東西線|東西線]]
|[[六地蔵駅]] (T01) - [[太秦天神川駅]] (T17)<ref group="T">[[京阪京津線]]の電車が[[びわ湖浜大津駅]]から[[御陵駅]]を経て[[太秦天神川駅]]まで直通運転。</ref>
|}
{{Reflist|group="T"}}
== 歴史 ==
[[ファイル:Kyoto_City_Subway.jpg|thumb|right|250px|駅ホーム内にある駅ごとの出口、乗換ガイド]]
[[1968年]]に京都市の諮問機関である交通対策協議会が、その年の11月に出した答申が、京都における地下鉄建設計画の始まりである。その後、[[1972年]]10月24日に運輸大臣(当時)から地方鉄道事業(地下鉄烏丸線)の事業免許を取得<ref name="hakusho" />。工事が進められ、[[1981年]]5月29日に地下鉄烏丸線(北大路駅 - 京都駅間)の営業を開始した<ref name="hakusho" />。
開業当時の京都市営地下鉄の特色は、主要4駅に[[エレベーター]]を備えたことで、当時の日本の地下鉄では先進的であった。[[バリアフリー]]が広まる前の[[1972年]]頃から、車椅子常用者、障害者支援団体が運動を起こして京都市に[[請願]]し、[[京都市会]]と[[舩橋求己]]市長を動かした成果である。京都市は、[[相対式ホーム|相対式]]で設計されていた駅を急遽[[島式ホーム|島式]]に変更し、将来的に全駅にエレベーターを設置することにした<ref name=BU1981/>。
* [[1981年]]([[昭和]]56年)[[5月29日]]:烏丸線[[北大路駅|北大路]] - [[京都駅|京都]]間が開業<ref name="hakusho" />。
* [[1988年]](昭和63年)
** [[6月11日]]:烏丸線京都 - 竹田間が開業<ref name="hakusho" />。
** [[8月28日]]:烏丸線、近鉄京都線と新田辺駅まで相互直通運転開始<ref name="hakusho" />。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[10月24日]]:烏丸線[[北山駅 (京都府)|北山]] - 北大路間が開業<ref name="hakusho" />。
* [[1993年]](平成5年)[[7月1日]]:市バス・地下鉄共通の「トラフィカ京カード」を導入<ref name="hakusho" />。
* [[1997年]](平成9年)
** [[5月22日]]:御池駅が烏丸御池駅に改称。
** [[6月3日]]:烏丸線国際会館 - 北山間が開業<ref name="hakusho" />。
** [[10月12日]]:東西線[[醍醐駅 (京都府)|醍醐]] - [[二条駅|二条]]間が開業<ref name="hakusho" />。京阪京津線が御陵から[[京都市役所前駅|京都市役所前]]まで乗り入れ開始。
* [[1998年]](平成10年)[[12月31日]]:大晦日から元旦の[[終夜運転]]開始<ref name="hakusho" />。
* [[2000年]](平成12年)
** [[3月1日]]:[[スルッとKANSAI]]対応カードが利用可能に<ref name="hakusho" />。
** [[3月15日]]:烏丸線国際会館 - 近鉄奈良間直通の急行を運転開始<ref name="hakusho" />。
* [[2004年]](平成16年)[[11月26日]]:東西線六地蔵 - 醍醐間が開業<ref name="hakusho" />。京都市外の宇治市に初めて地下鉄駅が開業。[[駅ナンバリング]]導入<ref name="hakusho" />。
* [[2007年]](平成19年)[[4月1日]]:[[PiTaPa]]導入<ref name="hakusho" />(乗り入れしている[[近畿日本鉄道]]、[[京阪電気鉄道]]大津線も同時導入)。
* [[2008年]](平成20年)[[1月16日]]:東西線二条 - 太秦天神川間が開業<ref name="hakusho" />。京阪京津線の乗り入れ区間を太秦天神川まで延長<ref name="hakusho" />。
* [[2010年]](平成22年)[[3月19日]]:同日実施の[[近畿日本鉄道|近鉄]]全線でのダイヤ変更に伴い、烏丸線・東西線ともに21・22時台の増発や、[[烏丸御池駅]]での乗り継ぎ時間の均等化などのダイヤ改正を実施。東西線に直通運転する京阪京津線もダイヤが一部変更される。また、烏丸御池駅での烏丸線・東西線終電の全方向一斉発車作戦を交通局では公式に「シンデレラクロス」と名付けている。
* [[2013年]](平成25年)
** [[3月23日]]:地下鉄全線で[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]を開始<ref name="hakusho" />。当時のICカードチャージサービスは1000円単位。
** [[9月16日]]:[[平成25年台風第18号|台風18号]]の豪雨により東西線御陵駅が冠水、営業を停止した{{Efn|東西線は9月20日に運転を再開。京阪京津線は[[追分駅 (滋賀県)|追分駅]] - [[上栄町駅]]の土砂災害が甚大だったために9月29日から運行再開し、9月30日から通常運転に戻る。}}。
* [[2014年]](平成26年)[[12月20日]]:烏丸御池駅の烏丸線ホームで[[可動式ホーム柵]]の稼働を開始<ref name="hakusho" />(2015年度には[[四条駅]]、京都駅にも設置)。
* [[2015年]](平成27年)[[10月2日]]:烏丸線・東西線ともに、年末年始及びお盆期間を除いた毎週金曜日のみ終電を30分延長する「コトキン・ライナー」の運行を開始<ref name="hakusho" />(烏丸御池駅での「シンデレラクロス」も実施)。
* [[2017年]](平成29年)4月1日:地下鉄で[[ICOCA]]、およびICOCA定期券の発売および[[ICカード]]でのバス・地下鉄での乗り継ぎ割引を開始<ref name="hakusho" />(市バスも同時に発売・バス同士の乗り継ぎ割引も開始)。同時に券売機・乗り越し精算機が更新されたことにより、交通系ICカードチャージサービスを東京メトロに次いで全国2番目となる10円単位でのチャージが可能となるように変更。
*[[2021年]]([[令和]]3年)[[3月26日]]:[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]の拡大防止対策で「コトキン・ライナー」の運行を当面の間休止<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000279907.html|title=【令和3年3月実施】市バス新ダイヤ及び地下鉄のコトキン・ライナー(終電延長)の休止|accessdate=2021-2-20|publisher=京都市交通局|date=2021-1-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130050025/https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000279907.html|archivedate=2021-1-30}}</ref>。
*2021年(令和3年)[[10月1日]]:各種割引乗車券等の抜本的見直しにより一日券類の価格適正化(値上げ)および廃止、地下鉄昼間回数券とトラフィカ京カードの発売終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000284803.html|title=【広報資料】各種割引乗車券等の抜本的見直し及び現行乗車券の取扱いについて|accessdate=2021-5-26|publisher=京都市交通局|date=2021-5-30|}}</ref>。
*[[2023年]](令和5年)4月1日:「京都 地下鉄・バス ICポイントサービス『もえポっ』」を導入<ref name="kyoto20221206">[https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000306225.html 【広報資料】「京都 地下鉄・バス ICポイントサービス」の御利用方法等について] - 京都市交通局、2022年12月6日</ref>。これに伴い市バスおよび京都バスとの地下鉄連絡普通券の発売終了<ref name="kyoto20230116" />{{Efn|京阪バスと京阪京都交通は継続予定。}}、ICカードによる乗継割引およびPiTaPaでの利用額割引廃止<ref name="kyoto20230116" />。
== 運賃 ==
烏丸線・東西線を合わせた乗車距離に応じた区間制運賃を採用している<ref name="fare">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000240757.html|title=定期券以外の運賃(地下鉄)|website=京都市交通局公式サイト|date=2019-10-1 |accessdate=2019-10-7}}</ref>。2019年10月1日改定<ref>{{Cite news |title=消費増税、地下鉄や二条城も値上げ 京都市、10月から78項目 |newspaper=京都新聞 |date=2019-05-04 |url=https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20190503000129 |publisher=京都新聞社 |accessdate=2019-10-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191003173414/https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20190503000129 |archivedate=2019-10-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=現行・改定運賃比較表(地下鉄) |url=https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/cmsfiles/contents/0000257/257394/tikatetuteiki.pdf |date=2019-09-05 |publisher=京都市交通局 |accessdate=2019-10-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191003173116/https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/cmsfiles/contents/0000257/257394/tikatetuteiki.pdf |archivedate=2019-10-03}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|区数
!rowspan="2"|距離
!colspan="2"|普通運賃(円)
!colspan="2"|特定割引運賃(円)
|-
!大人!!小児!!大人!!小児
|-
!1区
|3kmまで||220||110||110||60
|-
!2区
|3kmを超え7kmまで||260||130||130||70
|-
!3区
|7kmを超え11kmまで||290||150||150||80
|-
!4区
|11kmを超え15kmまで||330||170||170||90
|-
!5区
|15kmを超える区間||360||180||180||90
|}
;乗継割引
:* 烏丸線京都駅 - くいな橋駅間と[[近鉄京都線]] [[伏見駅 (京都府)|伏見駅]] - [[向島駅]]間の各駅を直通乗車もしくは乗り継いだ場合に市営地下鉄・近鉄の運賃合算額から10円または20円の割引がある<ref name="fare"/>。
:* 東西線[[三条京阪駅]] - 御陵駅間と[[京阪大津線]]([[京阪京津線|京津線]]・[[京阪石山坂本線|石山坂本線]])各駅との間を直通乗車もしくは乗り継いだ場合に市営地下鉄・京阪の合算運賃から20-90円の割引がある。[[京阪電気鉄道#運賃]]の項を参照。
: 以下の乗継割引はポイントサービス導入に伴い2023年4月1日に廃止された<ref name="kyoto20230116">[https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000306260.html ポイントサービスの導入に伴い廃止する割引乗車券及び割引サービスの取扱いについて] - 京都市交通局、2023年1月16日</ref>。
:* [[交通系ICカード全国相互利用サービス|ICカード]]で[[京都市バス]](100円循環バスを除く)・[[京都バス]]と地下鉄を当日中に乗り継いだ場合、2乗車目の運賃を60円(小児30円)割引く<ref name="IC-fare">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000214551.html |title=乗継割引サービス【ICOCAやPiTaPaなど全国10種類の交通系ICカードが対象】|website=京都市交通局公式サイト|date=2019-03-16 |accessdate=2019-04-16}}</ref>。
:*「[[京都市営バス#カード式乗車券|トラフィカ京カード]]」で京都市バス(100円循環バスを除く)・京都バスと地下鉄を当日中に乗り継いだ場合(複数回可)、偶数回乗車目の運賃を120円(小児60円)割引く<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000033332.html |title=「トラフィカ京カード」による乗継割引 |website=京都市交通局公式サイト|date=2019-03-16 |accessdate=2019-04-16}}</ref>。
:* 京都市バス・京都バス・[[京阪京都交通]]の市内均一区間(230円区間)と地下鉄を乗り継いだ場合に120円(小児60円)引きで利用できる「バス・地下鉄(地下鉄・バス)連絡普通券」を販売。地下鉄駅などで販売していたが、バス車内では販売していなかった。また、現金精算時には乗継割引が適用されなかった。
;特定割引
:身体障害者ならびに知的障害者とその介助者(第一種限定)、児童福祉施設等に入通所する児童と介助者は「特定割引普通旅客運賃」の対象となる
;回数券・回数割引
:以下の回数券を販売している。いずれも大人用・小児用があり、販売額は対象区間運賃の10倍相当<ref name="fare"/>。
:*回数券:普通運賃相当の区間券11枚。終日利用可能
:*特定割引回数券:特定割引相当の区間券11枚。特定割引対象者のみ利用可能。
:以下の回数券は販売終了した。いずれも大人用・小児用があり、販売額は対象区間運賃の10倍相当<ref name="fare"/>。
:*昼間割引回数券:普通運賃相当の区間券12枚。平日の午前10時から午後4時までに乗車(改札)した場合のみ利用可能(日祝日の利用不可)。2021年10月1日発売停止。
:また、PiTaPaでの月間利用額が京都市交通局(地下鉄・バス)と京都バスの合算で3,300円(小児1,650円)を超える場合に、請求額を9.09%割引(利用額が3,000円(1,500円)を超え3,300円(1,650円)までの場合は請求額を3,000円(1,500円)に据え置き)する<ref name="IC-fare"/>。2023年4月1日廃止<ref name="kyoto20230116" />。
;団体券
:25人以上の団体が同一区間を利用する場合、運賃の10%引き(学生団体は20%引き)で販売する<ref name="fare"/>。事前申し込みが必要。
このほか、地下鉄一日券、[[地下鉄・バス一日券]]も発売されている。
2023年4月1日時点で、6キロ以下の距離の運賃が[[日本の地下鉄]]で最も高い。普通運賃は乗車距離によって大阪地区に比べ−8%〜+16%、東京地区に比べ−5%〜+44%の差がある。
== 車両 ==
=== 現有車両 ===
; 烏丸線
: 烏丸線の車両は20 [[メートル|m]]級車体に[[両開き]]4扉を備え<ref name="RF233p33"/>、ラインカラーの緑色の帯が巻かれている<ref name="RP394p24"/>。
:*[[京都市交通局10系電車|10系]]
:*[[京都市交通局20系電車|20系]](2022年 - )
:: 烏丸線開業当初から運用している10系電車のうち更新時期を迎える9編成を置き換える予定で2021年度から2025年度に投入が計画されている新型車両。京都市交通局の「経営ビジョン」で明言されている<ref name="vision2019" />。烏丸線に導入予定の[[ホームドア|可動式ホーム柵]]に対応すべく[[自動列車運転装置]] (ATO) 対応とされた。
:: [[2017年]][[8月31日]]に「高速鉄道烏丸線新造車両デザイン検討業務」の入札が行われ、[[総合車両製作所]]が1円([[予定価格]]500万円)で落札している<ref>車両デザインの入札には3社が応札した。残りの2社の入札価格は、近畿車輛は396万円、川崎重工業は445万円だった。{{Cite web|和書|url=http://www2.nyusatsu.city.kyoto.lg.jp/kotsu/ebid/buppin/kekka2017c/4293000510.htm |title=入札執行結果詳細<物品> 入札番号:4293000510 |accessdate=2018-12-02 |publisher=京都市交通局}}</ref><ref>[https://response.jp/article/2017/09/01/299245.html 京都市営地下鉄の新造車両、デザイン検討は「1円」…J-TRECが落札、予定価格500万円] - Responce 2017年9月1日17時発信、2018年7月31日閲覧。</ref>。
:: [[2019年]][[3月5日]]から18日にかけて外装・内装の最終デザイン案の一般投票が行われ、外装は「前面の造形に曲面を多用した、より近未来的なイメージのデザイン」が、内装は「華やかで雅なカラーデザイン」が選定された<ref>{{Cite news|url=https://trafficnews.jp/post/84856|title=地下鉄烏丸線の新型車両「より近未来的な」外観に 内装もデザイン決定 京都市交通局|newspaper=乗りものニュース|date=2019-03-29|accessdate=2019-08-19}}</ref>。
:: なお、製造は[[近畿車輛]]が6両編成9本54両を受注している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinkisharyo.co.jp/ja/news/news190906.htm |title=京都市交通局殿が烏丸線に導入する新型車両受注に関するお知らせ |publisher=近畿車輛 |date=2019-09-06 |accessdate=2022-09-18 |archive-url=https://web.archive.org/web/20191112143911/http://www.kinkisharyo.co.jp/ja/news/news190906.htm |archive-date=2019-11-12 }}</ref>。この車両は2022年3月26日から運行開始、近鉄直通運転は4月12日から運行開始している。
<gallery widths="200">
ファイル:Kyoto City 10 series EMU early type 001.JPG|10系(1・2次車)
ファイル:Kyoto Subway 1111.JPG|10系(3次車)
ファイル:京都市営地下鉄20系KS31編成 急行 国際会館行.jpg|20系
</gallery>
;
; 東西線
: 東西線の車両は16 m級車体に両開き3扉を備える準小型車両<ref name="RF441p88"/> で、[[オレンジ色]]のラインカラーの帯が車体に巻かれている<ref name="RF426p61"/>。
:* [[京都市交通局50系電車|50系]]
<gallery widths="200">
File:Kyoto_Municipal_Subway_50_Series_5614.jpg|50系
</gallery>
=== 乗り入れ車両 ===
; 烏丸線
* [[近畿日本鉄道]]
** [[近鉄3200系電車|3200系]](1986年 - )
** [[近鉄3220系電車|3220系]](2000年 - )
<gallery widths="200">
ファイル:Kintetsu-3200_001_JPN.JPG|3200系
ファイル:Kintetsu_3220_KL21_Express.jpg|3220系
</gallery>
; 東西線
* [[京阪電気鉄道]]
** [[京阪800系電車 (2代)|800系(2代)]](1997年 - )
<gallery widths="200">
ファイル:Keihan-Series-800.jpg|800系
</gallery>
== 経営状況 ==
{| class="wikitable floatright" style="text-align:right"
|+ 決算概要 <ref>京都市の[http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000020415.html 交通事業決算概要]及び[http://www.city.kyoto.lg.jp/menu5/category/69-2-3-0-0-0-0-0-0-0.html 交通局主要施策の概要]より。2021年10月9日閲覧。2023年度は当初予算。</ref>(単位:百万円)
|-
! 年度 || 経常収支 || 企業債等残高 || 一般会計<br>からの繰入金
|-
! 2012年
| ▲4,841 || 436,848 || 16,619
|-
! 2013年
| ▲4,055 || 421,469 || 13,199
|-
! 2014年
| ▲862 || 406,655 || 14,326
|-
! 2015年
| 848 || 391,069 || 14,974
|-
! 2016年
| 1,608 || 376,384 || 12,821
|-
! 2017年
| 212 || 362,897 || 10,055
|-
! 2018年
| 2,333 || 352,946 || 6,051
|-
! 2019年
| 2,345 || 344,493 || 6,811
|-
! 2020年
| ▲5,392 || 343,234 || 8,407
|-
! 2021年
| ▲3,797 || 340,278 || 8,134
|-
! 2022年
| ▲678 || 334,494 || 7,300
|-
! 2023年
| ▲3,200 || 331,200 || 6,483
|}
2022年度決算は一般会計からの補助金を含んで7億円の経常赤字であり、247億円の営業収益に対し支払利息などの営業外費用に34億円を計上している。東西線開業後は収支が改善していたが<ref name="2010evaluation"/>、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の流行]]による乗客減少も影響し、2009年度から9年間および2020年度から3年間は[[地方公共団体の財政の健全化に関する法律|経営健全化団体]]となっている<ref>{{Cite web|和書|title=経営健全化計画完了報告書 |url=https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/cmsfiles/contents/0000249/249383/kosokukanryouhoukoku.pdf |publisher=京都市 |accessdate=2019-3-29}}および、[https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000295419.html 京都市交通局市バス・地下鉄事業経営ビジョン【改訂版】]</ref>。企業債などの残高は3,403億円に上る<ref name="BS2013"/>。
この経営の厳しさの一因には、地下鉄建設の計画時の予算に比べ、実際の建設費が大幅に増大したことが挙げられる{{Efn|一例として、[[京都高速鉄道]](解散)が建設した東西線の三条京阪 - 御陵間の建設費は、事業免許を取得した時点での建設費が610億円と想定されていたのに対し、実際の建設費は1,544億円となった。当該区間は工事時期が[[バブル景気]]と重なったことも建設費高騰の原因とされるが、同時期に計画・建設された大阪の片福連絡線([[JR東西線]])の建設費は、計画時点での2,800億円に対し、実際には3,200億円程度と、京都市営地下鉄ほどの極端な増加は見られない。}}。また、烏丸・東西の両線とも[[古都]]と言う土地柄ゆえに、[[トンネル#開鑿(開削)工法|開削工法]]を採用した工区の多くで、[[文化財保護法]]に基づく工事着工前の[[埋蔵文化財]]([[遺跡]])発掘調査が義務づけられ、そのための経費と期間が必要となった。埋蔵文化財の存在するような浅い地層に手をつけないことが可能なトンネル工法であれば発掘調査は不要だったが、費用が割高なことから開削工法が採用された。その結果、文化財調査費用が必要となり、安価な開削工法を用いてもトンネル工法以上に建設費が増大した(2路線合計31.2kmで9537億円)。また、京都市内には強い高さ規制があるため、沿線に[[高層マンション]]等を建設する振興策も難しい<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20220930-OYO1T50000/ 京都市、JR京都駅南側などで建物の高さ規制を緩和へ…子育て世代の定住・企業誘致を図る:地域ニュース : 読売新聞オンライン]</ref>。
このような問題に対して京都市交通局では、駅業務の一部民間委託{{Efn|2007年4月から順次委託が開始されており、2019年4月現在、17駅での出札業務・案内業務が[[日本通運]]と京都市交通局協力会に委託されている。}}や高金利企業債の借換え、京都高速鉄道の直営化などによる各種コストの削減を進めている。また、[[駅ナカ]]ビジネスの展開などによる収益増にも取り組んでいる。なお、この一環で[[2010年]]4月より駅に掲示している駅名標付近に「駅名表示板下広告」の掲示を開始した。
{| class="wikitable floatright" style="text-align:right;"
|+ 1日平均乗車人員の推移<ref name="jigyohakusho" />
! 年度 !! 乗車人員 !! 前年度比
|-
| 1981年 || 117,827人 || —
|-
| 1982年 || 121,699人 || +3.3%
|-
| 1983年 || 126,205人 || +3.7%
|-
| 1984年 || 130,345人 || +3.3%
|-
| 1985年 || 130,297人 || -0.0%
|-
| 1986年 || 133,816人 || +2.7%
|-
| 1987年 || 135,571人 || +1.3%
|-
| 1988年 || 160,725人 || +18.6%
|-
| 1989年 || 178,301人 || +10.9%
|-
| 1990年 || 187,990人 || +5.4%
|-
| 1991年 || 201,519人 || +7.2%
|-
| 1992年 || 201,854人 || +0.2%
|-
| 1993年 || 203,328人 || +0.7%
|-
| 1994年 || 203,443人 || +0.1%
|-
| 1995年 || 206,464人 || +1.5%
|-
| 1996年 || 208,506人 || +1.0%
|-
| 1997年 || 256,310人 || +22.9%
|-
| 1998年 || 302,479人 || +18.0%
|-
| 1999年 || 301,718人 || -0.3%
|-
| 2000年 || 304,864人 || +1.0%
|-
| 2001年 || 310,991人 || +2.0%
|-
| 2002年 || 309,205人 || -0.6%
|-
| 2003年 || 310,627人 || +0.5%
|-
| 2004年 || 310,777人 || +0.0%
|-
| 2005年 || 314,814人 || +1.3%
|-
| 2006年 || 315,508人 || +0.2%
|-
| 2007年 || 318,565人 || +1.0%
|-
| 2008年 || 328,248人 || +3.0%
|-
| 2009年 || 326,507人 || -0.5%
|-
| 2010年 || 330,191人 || +1.1%
|-
| 2011年 || 334,180人 || +1.2%
|-
| 2012年 || 339,311人 || +1.5%
|-
| 2013年 || 348,453人 || +2.7%
|-
| 2014年 || 358,953人 || +3.0%
|-
| 2015年 || 371,882人 || +3.6%
|-
| 2016年 || 379,216人 || +2.0%
|-
| 2017年 || 387,365人 || +2.1%
|-
| 2018年 || 396,564人 || +2.4%
|-
| 2019年 || 399,915人 || +0.8%
|-
| 2020年 || 267,250人 || -33.2%
|-
| 2021年 || 295,024人 || +10.4%
|-
| 2022年 || 348,000人 || +18.0%
|}
== 営業路線の概要 ==
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
!colspan="2"|路線名<ref name=general/>
!烏丸線
!東西線
|-
|colspan="2"|ラインカラー
|<span style="border-left: 1em solid #3cb371; padding-left:1px">緑色</span>
|<span style="border-left: 1em solid #ff4500; padding-left:1px">朱色</span>
|-
|colspan="2"|路線記号
|K
|T
|-
|colspan="2"|起点
|国際会館駅(京都市左京区)
|六地蔵駅(京都府宇治市)
|-
|colspan="2"|終点
|竹田駅(京都市伏見区)
|太秦天神川駅(京都市右京区)
|-
|colspan="2"|キロ程(営業キロ)
|13.7 km<ref name="tm8888"/>
|17.5 km<ref name="tm8888"/>
|-
|colspan="2"|駅数
|15駅
|17駅
|-
|colspan="2"|開業年月日
|1981年5月29日<br />(北大路 - 京都間6.5 km)<ref name="tm8888"/>
|1997年10月12日<br />(二条 - 醍醐間12.7 km)<ref name="tm8888"/>
|-
|colspan="2"|全線開業年月日
|1997年6月3日<ref name="tm8888"/>
|2008年1月16日<ref name="tm8888"/>
|-
|colspan="2"|複線区間
|全線
|全線
|-
|rowspan="4"|直通運転
|相手路線名
|近鉄京都線
|京阪京津線
|-
|方式
|相互直通
|京阪からの片乗り入れ
|-
|区間
|竹田(京都市伏見区)<br /> - 近鉄奈良(奈良県奈良市)間
|御陵(京都市山科区)<br /> - びわ湖浜大津(滋賀県大津市)間
|-
|キロ程
|35.4 km<ref name=general/>
|8.8 km<ref name=general/>
|-
|colspan="2"|標準所要時間
|27分30秒<ref name=general/>
|34分30秒<ref name=general/>
|-
|rowspan="2"|標準運転間隔時間
|ピーク時
|朝混雑時3分30秒-4分00秒<br/>夕混雑時5分00秒
|朝混雑時4分00秒-6分30秒<br/>夕混雑時6分30秒-8分30秒
|-
|オフピーク時
|6分00秒 - 7分30秒<ref name=general/>
|7分30秒<ref name=general/>
|-
|colspan="2"|最大車両編成数
|6両編成<ref name="tm8889"/>
|6両編成<ref name="tm8889"/>
|-
|colspan="2"|使用車両
|10系
|50系
|-
|colspan="2"|所有車両数
|120両<ref name="tm8889"/>
|102両<ref name="tm8889"/>
|-
|colspan="2"|最高速度
|75 km/h<ref name="tm8889"/>
|75 km/h<ref name="tm8889"/>
|-
|colspan="2"|表定速度
|29.9 km<ref name=general/>
|30.4 km<ref name=general/>
|-
|colspan="2"|軌間
|1435 mm<ref name="tm8889"/>
|1435 mm<ref name="tm8889"/>
|-
|colspan="2"|電気方式
|直流1500 V<ref name="tm8889"/>
|直流1500 V<ref name="tm8889"/>
|-
|colspan="2"|集電方式
|架空線方式<ref name="tm8889"/>
|架空線方式<ref name="tm8889"/>
|-
|colspan="2"|電化区間
|全線
|全線
|-
|colspan="2"|閉塞方式
|車内信号式
|車内信号式
|-
|colspan="2"|信号保安装置
|[[自動列車制御装置|ATC]]・[[列車集中制御装置|CTC]]<ref name=general/>
|ATC・CTC・[[自動列車運転装置|ATO]]<ref name=general/><ref name="tm8889" />
|-
|colspan="2"|1日当たり輸送人員(2021年度)
|18万3775人<ref name="jigyohakusho" />
|11万1249人<ref name="jigyohakusho" />
|-
|colspan="2"|キロ当たりの建設費用
|213億円{{Efn|区間ごとでは、北山-竹田で222億円、北山-国際会館で174億円である。}}
|309億円{{Efn|区間ごとでは、醍醐-御陵、三条京阪-二条で316億円、御陵-三条京阪で359億円、六地蔵-醍醐で232億円、二条-太秦天神川で162億円である。}}
|-
|colspan="2"|可動式ホーム柵の設置状況
|一部設置済<ref name="H26budget"/><ref name="rf20141126"/><!--<ref group="N">2019年度に全駅設置の計画を策定予定。</ref><ref name="vision2019"/>-->
|開業当初から全駅に設置済<ref name=KHI/><ref name=general/>
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name=general>{{Cite web|和書|url=http://www.jametro.or.jp/upload/data/UklSNCUrzToN.pdf|title=令和3年度 地下鉄事業の現況|publisher=一般社団法人 日本地下鉄協会|accessdate=2022-09-11}}</ref>
<ref name=KHI>{{Cite web|和書|url=http://www.khi.co.jp/rs/product/detail/pro_tozai_homedoor.html|title=京都市交通局殿向東西線ホームドア|publisher=川崎重工業|accessdate=2015-01-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150122101530/http://www.khi.co.jp/rs/product/detail/pro_tozai_homedoor.html|archivedate=2015-01-22}}</ref>
<ref name="tm8888">{{Cite web|和書|url=http://www.jametro.or.jp/japan/kyoto.html|publisher=一般社団法人 日本地下鉄協会|title=京都市営地下鉄|accessdate=2015-01-23}}</ref>
<ref name="tm8889">{{Cite web|和書|url=http://www.jametro.or.jp/guide/kyoto.html|publisher=一般社団法人 日本地下鉄協会|title=京都市営地下鉄 車両|accessdate=2015-01-23}}</ref>
<ref name="H26budget">{{Cite web|和書|url=http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/cmsfiles/contents/0000162/162293/h26-budget.pdf#page=5|title=平成26年度京都市交通事業予算概要|publisher=京都市交通局|date=2014-02-07|accessdate=2015-01-23|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140222155603/https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/cmsfiles/contents/0000162/162293/h26-budget.pdf |archivedate=2014-02-22}}</ref>
<ref name="rf20141126">{{Cite web|和書|title=京都市営地下鉄烏丸線烏丸御池駅に可動式ホーム柵設置|url=http://railf.jp/news/2014/11/26/120000.html |date=2014-11-26|accessdate=2015-01-13|publisher=railf.jp 鉄道ニュース}}</ref>
<ref name="2010evaluation">{{Cite web|和書|url=http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/cmsfiles/contents/0000088/88907/22jimujigyo.pdf|title=平成22年度京都市交通事業事務事業評価|publisher=京都市交通局|date=2010-09|accessdate=2015-01-23}}</ref>
<ref name="BS2013">{{Cite web|和書|url=http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000020415.html|title=予算及び決算について|publisher=京都市交通局|accessdate=2015-01-23}}</ref>
<ref name="zyourei2">{{Cite web|和書|url=https://en3-jg.d1-law.com/kyoto/d1w_reiki/H341901010033/H341901010033.html|title=京都市交通事業の設置等に関する条例 |accessdate=2022-09-11}}</ref>
<ref name="vision2019">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/cmsfiles/contents/0000249/249338/vision_honpen_.pdf |format=PDF |title=京都市交通局市バス・地下鉄事業経営ビジョン(2019年度~2028年度) |publisher=京都市交通局 |year=2019|month=3|accessdate=2019-3-29}}</ref>
<ref name=BU1981>[[#BU1981|『佛教大学学報』通巻31号]]</ref>
<ref name="RF233p33">[[#鉄道ファン233|『鉄道ファン』通巻233号p33]]</ref>
<ref name="RP394p24">[[#RP394|『鉄道ピクトリアル』通巻364号p24]]</ref>
<ref name="RF426p61">[[#鉄道ファン426|『鉄道ファン』通巻426号p61]]</ref>
<ref name="RF441p88">[[#鉄道ファン441京都|『鉄道ファン』通巻441号p88]]</ref>
<ref name="jigyohakusho">[https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000073257.html 京都市交通事業白書]</ref>
}}
<!-- 未使用分
<ref name=kyoto20100609>{{cite web|url=http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/cmsfiles/contents/0000083/83046/22hoshin.pdf|title=平成22年度 交通局運営方針|page=16|publisher=京都市交通局|date=2010-06-09|accessdate=2014-02-28}}</ref>
<ref name="KyoyoNS20130206">{{cite web|url=http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20130206000084|title=駅別名?実は広告です 京都市地下鉄、増収へ23駅導入|publisher=京都新聞|date=2013-02-06|accessdate=2013-02-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130206210445/http://kyoto-np.co.jp/top/article/20130206000084|archivedate=2014-02-28}}</ref>
<ref name="zenkoku">{{cite web|url=http://www.pitapa.com/area/zenkoku.html|title=交通系ICカードの全国相互利用サービスについて|publisher=PiTaPa.com|date=2012-12-18|accessdate=2015-01-23}}</ref>
<ref name="cindelleracross">{{Cite web|url=http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000187312.html| title=金曜日における地下鉄の終電延長について|accessdate=2015-10-02}}</ref>
-->
== 参考文献 ==
=== 雑誌記事 ===
* {{Cite journal|和書|author=森田久男|title=障害者運動と福祉政策 京都市地下鉄をめぐって|journal=佛教大学学報|issue=31|year=1981|label=BU1981}}
* 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』通巻233号(1980年9月・[[交友社]])
** {{Cite journal ja-jp|和書|author=久保恵信|year= |month= |title=来春オープンです 京都の地下鉄|journal= |issue= |pages= 32-37 |publisher= |ref = 鉄道ファン233}}
* 『鉄道ピクトリアル』通巻394号(1981年9月・電気車研究会)
** {{Cite journal ja-jp|和書|author=竹田昭三|year= |month= |title=京都市営地下鉄烏丸線の概要|journal= |issue= |pages= 19-24 |publisher= |ref = RP394}}
* 『鉄道ファン』通巻426号(1996年10月・交友社)
** {{Cite journal ja-jp|和書|author= |year= |month= |title=京都市交通局50系|journal= |issue= |pages= 60-61 |publisher= |ref = 鉄道ファン426}}
* 『鉄道ファン』通巻441号(1998年1月・交友社)
** {{Cite journal ja-jp|和書|author=京都市交通局高速鉄道本部 |year= |month= |title=京都市交通局地下鉄東西線建設と路線の概要|journal= |issue= |pages= 86-89 |publisher= |ref = 鉄道ファン441京都}}
== 関連項目 ==
* [[地下鉄]]
** [[日本の地下鉄]]
* [[京都市交通局]]
** [[京都市電]]
** [[京都市バス]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kyoto Municipal Transportation Bureau}}
{{Multimedia|京都市交通局の画像}}
* [https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/category/166-0-0-0-0-0-0-0-0-0.html 京都市交通局:地下鉄]
{{京都市交通局}}
{{日本の地下鉄}}
{{スルッとKANSAI}}
{{ICOCA}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:きようとしえいちかてつ}}
[[Category:京都市営地下鉄|*]]
[[Category:京都市交通局の鉄軌道事業|*]]
[[Category:日本の地下鉄|きょうと]] | 2003-03-05T04:44:04Z | 2023-11-23T02:39:37Z | false | false | false | [
"Template:Infobox 公共交通機関",
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"Template:Redirect",
"Template:京都市交通局",
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"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%96%B6%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84 |
3,437 | 符号化方式 | 符号化方式(ふごうかほうしき)は、デジタル処理・伝送・記録のための、情報のデジタルデータへの変換方式のことである。変換されたデータを符号と呼び、符号から元の情報へ戻すことを復号と呼ぶ。
情報をデジタルデータ化すると、コンピュータ(処理)や光ケーブル(伝送)、メモリ・ディスクなどの記録媒体(蓄積)で扱いやすい。
情報源符号化(source coding)とは文字・画像・音声などの元情報の符号化である。符号化の対象となる情報の性質に応じた符号化方式が選択される。
例えば、音響であれば人間の聴覚の特性に基づいたサンプリング周波数の選択や、心理聴覚理論に基づいた高効率符号化(高能率符号化あるいは圧縮とも)などが行われる。
一般にコンピュータはバイト単位でデータにアクセスするため、ほとんどの符号化方式では文字や画像などを最終的にバイト列として表現できるようにしている。
映像には次のような特性がある。
人間の聴覚特性には周波数特性(フレッチャーマンソン曲線など)のほか、心理音響モデルによれば、ある周波数の音が響いている時には近い周波数の音は聞こえにくくなる。これをマスキング効果という。この性質を利用することにより効率良い符号化を行うのがMPEGオーディオ規格(MP3等)である。
日本語の 文字コード を符号化するときに問題となるのが文字の種類の多さである。1文字に対して1バイトを使うと256種類の文字までしか表現できない。英語であれば文字の種類は数十種類と少ないため、古くは 1文字 = 1バイトの形式が主流であった。しかし漢字はこの範囲におさまらないため、いくつかの符号化方式が提案された。現在は複数の方式が混在する状態になってしまっている。 日本語を表記するための符号化方式として代表的なものは ISO-2022-JPやShift_JIS、EUC-JPなどであるが、最近徐々に UTF-8 などの符号化方式も利用されるようになってきている。
通信路符号化(Channel Coding)とは、情報を送る通信路の帯域、雑音や妨害などの性質に応じて、すでに情報源符号化された情報を再度符号化するものである。
たとえば、データの信頼性を高めるための誤り検出、誤り訂正符号の付加や、畳み込み符号化などがある。 | [
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"text": "通信路符号化(Channel Coding)とは、情報を送る通信路の帯域、雑音や妨害などの性質に応じて、すでに情報源符号化された情報を再度符号化するものである。",
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] | 符号化方式(ふごうかほうしき)は、デジタル処理・伝送・記録のための、情報のデジタルデータへの変換方式のことである。変換されたデータを符号と呼び、符号から元の情報へ戻すことを復号と呼ぶ。 情報をデジタルデータ化すると、コンピュータ(処理)や光ケーブル(伝送)、メモリ・ディスクなどの記録媒体(蓄積)で扱いやすい。 | {{出典の明記|date=2014年1月}}
'''符号化方式'''(ふごうかほうしき)は、[[デジタル]]処理・伝送・記録のための、[[情報]]のデジタルデータへの変換方式のことである。変換されたデータを符号と呼び、符号から元の情報へ戻すことを復号と呼ぶ。
情報をデジタルデータ化すると、[[コンピュータ]](処理)や[[光ケーブル]](伝送)、[[メモリ]]・[[ディスクメディア|ディスク]]などの記録媒体(蓄積)で扱いやすい。
== 情報源符号化 ==
{{main|符号理論#情報源符号化}}
情報源符号化(source coding)とは文字・画像・音声などの元情報の符号化である。符号化の対象となる情報の性質に応じた符号化方式が選択される。
例えば、音響であれば人間の聴覚の特性に基づいた[[サンプリング周波数]]の選択や、心理聴覚理論に基づいた高効率符号化(高能率符号化あるいは[[データ圧縮|圧縮]]とも)などが行われる。
一般にコンピュータは[[バイト (情報)|バイト]]単位でデータにアクセスするため、ほとんどの符号化方式では文字や画像などを最終的にバイト列として表現できるようにしている。
=== 情報源符号化の諸方式 ===
==== 映像情報の符号化 ====
映像には次のような特性がある。
; 高い[[自己相関]]性
: [[写真]]や[[絵画]]などの自然画像の場合、ある1点の状態(明るさや色)は周囲の状態との類似性が高い。つまり画像を[[画素]]で表現した場合、任意の点の上下左右・斜め四方に隣り合う画素の状態とはほぼ同じということである。また、画像を[[映像信号|走査線]]により表現した場合、ある走査線は前後の走査線の状態と類似する。さらに、[[動画|動画像]]の場合にはある[[コマ (映画・漫画)|フレーム]]の画像は全体として前後のフレームの画像とよく似ている。こうした性質を利用することにより予測符号化を行うことが可能である。
; 人間の視覚特性が利用できる
: 人間の[[視覚]]の性質上、明るさの変化に対し色彩の変化のほうが感知しにくい。言いかえれば輝度の解像度は色彩の解像度よりも高い。また、ゆるやかな明るさや色の変化の途中に不連続的な変化があると知覚しやすい反面、複雑な変化をする部分は細かく見分けにくく、多少の違いを感知することは難しい。このような視覚の性質を考慮して、違いを感知できない範囲であれば情報を簡略化することが可能である。予測符号化の精度を決定するに当たりこの性質を利用すると無駄なく符号化が行える。
==== 音響信号の符号化 ====
{{節スタブ}}
人間の聴覚特性には周波数特性(フレッチャーマンソン曲線など)のほか、心理音響モデルによれば、ある周波数の音が響いている時には近い周波数の音は聞こえにくくなる。これをマスキング効果という。この性質を利用することにより効率良い符号化を行うのが[[Moving Picture Experts Group|MPEG]]オーディオ規格([[MP3]]等)である。
==== 文字コードの符号化 ====
{{Main|文字符号化方式}}
日本語の [[文字コード]] を符号化するときに問題となるのが文字の種類の多さである。1文字に対して1[[バイト (情報)|バイト]]を使うと256種類の文字までしか表現できない。英語であれば文字の種類は数十種類と少ないため、古くは 1文字 = 1バイトの形式が主流であった。しかし漢字はこの範囲におさまらないため、いくつかの符号化方式が提案された。現在は複数の方式が混在する状態になってしまっている。
日本語を表記するための符号化方式として代表的なものは [[ISO-2022-JP]]や[[Shift_JIS]]、[[EUC-JP]]などであるが、最近徐々に [[UTF-8]] などの符号化方式も利用されるようになってきている。
== 通信路符号化 ==
{{main|符号理論#通信路符号化|誤り検出訂正}}
通信路符号化(Channel Coding)とは、情報を送る[[通信路]]の帯域、雑音や妨害などの性質に応じて、すでに情報源符号化された情報を再度符号化するものである。
たとえば、データの信頼性を高めるための[[誤り検出]]、誤り訂正符号の付加や、畳み込み符号化などがある。
== 暗号符号化 ==
{{main|暗号理論}}
== 伝送路符号化 ==
{{main|伝送路符号化}}
== 関連項目 ==
* [[符号理論]]
* [[誤り検出]]・誤り訂正
* [[データ圧縮]]
* [[ベースバンド伝送]]
* [[デジタル変調]](搬送帯域伝送)
* [[伝送工学]]
{{DEFAULTSORT:ふこうかほうしき}}
[[Category:符号理論]]
[[Category:符号化]]
[[Category:データ圧縮]]
[[Category:通信工学]]
[[Category:無線工学]]
[[Category:数学に関する記事]] | null | 2018-01-08T03:29:34Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:Main",
"Template:節スタブ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A6%E5%8F%B7%E5%8C%96%E6%96%B9%E5%BC%8F |
3,438 | GB 2312 | GB 2312-80(あるいはGB 2312-1980)は、中華人民共和国の国家規格として定められた簡体字中国語の符号化文字集合(いわゆる文字コード)で、主に中国大陸などで使われる。規格名は《信息交换用汉字编码字符集・基本集》という。GB0とも呼ばれ、GBコードといったときには、多くの場合この規格を指す。漢字を含む文字集合規格の基本となっていることや構造など、日本のJIS X 0208と共通点が多い。
中華人民共和国国家標準総局(当時)により1981年5月1日に実施された。GBは“国家标准”(拼音: Guójiā Biāozhǔn=国家標準)の略で、日本のJISに当たる中華人民共和国国家規格の略称である。なお、中国の標準化機関は、数回に亘る改称・改組などを経て、2001年に国家標準化管理委員会となった。
JIS X 0208とよく似た構造を持つ94×94の文字集合で、漢字の他に各種記号、丸数字、ローマ数字、英数字、仮名(ただし長音符「ー」を除く)、ギリシア文字、キリル文字、声調符号付き拼音字母、注音符号といった非漢字682字を含んでいる。漢字は一級漢字(3755字)と二級漢字(3008字)に分かれ、前者が読みの順、後者が部首の順である点もJIS X 0208と似ている。
GB 2312をEUCで符号化したものを簡体字中国語EUC (EUC-CN) という。他の符号化方式としては、1990年代半ばに、インターネットメールやネットニュースなど7ビットの経路で使用されていた非公式な方式であるHZ(Hanzi〈漢字〉の略、IANAへの登録名は “HZ-GB-2312”)がある。ISO-2022-CN というものもあるが、ほとんど使われていない。今日ではもっぱらEUC-CNのみが使われるため、単にGB 2312といっただけでEUC-CNを意味している場合が多い。IANAの登録名もGB2312となっている。 | [
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"text": "GB 2312-80(あるいはGB 2312-1980)は、中華人民共和国の国家規格として定められた簡体字中国語の符号化文字集合(いわゆる文字コード)で、主に中国大陸などで使われる。規格名は《信息交换用汉字编码字符集・基本集》という。GB0とも呼ばれ、GBコードといったときには、多くの場合この規格を指す。漢字を含む文字集合規格の基本となっていることや構造など、日本のJIS X 0208と共通点が多い。",
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"text": "中華人民共和国国家標準総局(当時)により1981年5月1日に実施された。GBは“国家标准”(拼音: Guójiā Biāozhǔn=国家標準)の略で、日本のJISに当たる中華人民共和国国家規格の略称である。なお、中国の標準化機関は、数回に亘る改称・改組などを経て、2001年に国家標準化管理委員会となった。",
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{
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"text": "JIS X 0208とよく似た構造を持つ94×94の文字集合で、漢字の他に各種記号、丸数字、ローマ数字、英数字、仮名(ただし長音符「ー」を除く)、ギリシア文字、キリル文字、声調符号付き拼音字母、注音符号といった非漢字682字を含んでいる。漢字は一級漢字(3755字)と二級漢字(3008字)に分かれ、前者が読みの順、後者が部首の順である点もJIS X 0208と似ている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "GB 2312をEUCで符号化したものを簡体字中国語EUC (EUC-CN) という。他の符号化方式としては、1990年代半ばに、インターネットメールやネットニュースなど7ビットの経路で使用されていた非公式な方式であるHZ(Hanzi〈漢字〉の略、IANAへの登録名は “HZ-GB-2312”)がある。ISO-2022-CN というものもあるが、ほとんど使われていない。今日ではもっぱらEUC-CNのみが使われるため、単にGB 2312といっただけでEUC-CNを意味している場合が多い。IANAの登録名もGB2312となっている。",
"title": "概要"
}
] | GB 2312-80は、中華人民共和国の国家規格として定められた簡体字中国語の符号化文字集合(いわゆる文字コード)で、主に中国大陸などで使われる。規格名は《信息交换用汉字编码字符集・基本集》という。GB0とも呼ばれ、GBコードといったときには、多くの場合この規格を指す。漢字を含む文字集合規格の基本となっていることや構造など、日本のJIS X 0208と共通点が多い。 | '''GB 2312-80'''(あるいは'''GB 2312-1980''')は、[[中華人民共和国]]の国家規格として定められた[[簡体字]][[中国語]]の[[文字集合|符号化文字集合]](いわゆる[[文字コード]])で、主に[[中国大陸]]などで使われる。規格名は'''{{lang|zh-cn|《信息交换用汉字编码字符集・基本集》}}'''という。'''GB0'''とも呼ばれ、'''GBコード'''といったときには、多くの場合この規格を指す。漢字を含む文字集合規格の基本となっていることや構造など、日本の[[JIS X 0208]]と共通点が多い。
== 概要 ==
[[中華人民共和国]]国家標準総局(当時)により[[1981年]][[5月1日]]に実施された。'''GB'''は{{lang|zh-cn|“国家标准”}}({{ピン音|Guójiā Biāozhǔn}}=国家標準)の略で、[[日本]]の[[日本工業規格|JIS]]に当たる中華人民共和国国家規格の略称である。なお、中国の[[標準化団体|標準化機関]]は、数回に亘る改称・改組などを経て、2001年に[[:zh:国家标准化管理委员会|国家標準化管理委員会]]となった。
JIS X 0208とよく似た構造を持つ94×94の文字集合で、漢字の他に各種記号、[[丸数字]]、[[ローマ数字]]、英数字、[[仮名 (文字)|仮名]](ただし[[長音符|長音符「ー」]]を除く)、[[ギリシア文字]]、[[キリル文字]]、[[声調|声調符号]]付き[[ピン音|拼音字母]]、[[注音符号]]といった非漢字682字を含んでいる。漢字は一級漢字(3755字)と二級漢字(3008字)に分かれ、前者が読みの順、後者が部首の順である点もJIS X 0208と似ている。
GB 2312を[[Extended Unix Code|EUC]]で符号化したものを'''簡体字中国語EUC''' ('''EUC-CN''') という。他の[[文字符号化方式|符号化方式]]としては、[[1990年代]]半ばに、[[電子メール|インターネットメール]]や[[ネットニュース]]など7ビットの経路で使用されていた非公式な方式である'''HZ'''(Hanzi〈漢字〉の略、[[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]]への登録名は “'''HZ-GB-2312'''”)がある。[[ISO-2022-CN]] というものもあるが、ほとんど使われていない。今日ではもっぱらEUC-CNのみが使われるため、単にGB 2312といっただけでEUC-CNを意味している場合が多い。IANAの登録名も'''GB2312'''となっている。
== 派生・後継規格 ==
; GB/T 12345-90
: 規格名を{{lang|zh-cn|《信息交换用汉字编码字符集 第一辅助集》}}といい、GB 2312の[[繁体字]]版といえるもの。「'''GB1'''」ともいう。「T」は、{{lang|zh-cn|“推荐”}}({{ピン音|tuījiàn}}=推奨)を意味し、強制性がないことを示す。GB 2312に収録された2112字の漢字を対応する繁体字に入れ換え、62字を追加し、GB 2312に収録されていた41字は対応する繁体字に符号位置を明け渡すために追加領域に移動している。このようになっているのは、簡体字の中には複数の繁体字・異体字を一つに統合したものがあるという漢字の簡化の経緯による。<!-- Unicode/UCSには、香港字58字、吏読90字余がこの規格をソースとして収録されていることになっているが、詳細未確認。 -->
; GBK
: {{main|GBK}}
: Kは{{lang|zh-cn|“扩展”}}({{ピン音|kuòzhǎn}}=拡張)を意味する。正式には{{lang|zh-cn|《汉字内码扩展规范》}}という。国家技術監督局標準化司(当時)と電子工業部科技与質量監督司(当時)が発布実施した「技術規範指導性文件(文件=文書)」であり、正式な規格ではない。[[ISO/IEC 10646]].1:1993(UCS)=[[Unicode]] 1.1の中国語翻訳規格といえるGB 13000.1-93(日本でいえばJIS X 0221-1995に相当する)の中国語サブセットで、GB 2312 EUC-CNを拡張したもの。UCSからGB 2312にない漢字を追加し、漢字2万1003字(当時の[[CJK統合漢字]]全2万0902字、追加漢字101字)を収録した。繁体字・日本漢字・韓国漢字だけでなく{{lang|zh-cn|“啰”}}({{lang|zh-tw|「囉」}})や{{lang|zh-cn|“镕”}}({{lang|zh-tw|「鎔」}})のようにGB 2312の制定後に簡化され「規範漢字」となった字も取り込まれた。中国大陸向けの[[Microsoft Windows 95]]簡体中文版に採用されたことにより普及した。マイクロソフト・[[コードページ]]936。
; GB 18030
: {{main|GB 18030}}
: 規格名は{{lang|zh-cn|《信息技术 中文编码字符集》}}。GBKをさらに拡張し、[[中国の少数民族|少数民族]]言語の文字なども含む大規模な文字セットで、GBKに取って代わる正式な国家規格。[[2000年]][[3月17日]]に国家質量技術監督局(当時)によって{{lang|zh-cn|《GB 18030-2000 信息交换用汉字编码字符集基本集的扩充》}}として発布・実施され、[[2001年]][[8月]]以降、中国大陸で流通するコンピュータ製品は原則としてこれを実装することが定められた強制規格である。[[2005年]][[11月8日]]に現行の新版に置き換えられ、[[2006年]][[5月1日]]に実施された。これを使った[[文字符号化方式]]には “'''GB18030'''” (IANA登録名)がある。
== 関連項目 ==
* [[Big5]]
* [[CNS 11643]]
* [[JIS X 0208]]
* [[KS X 1001]] (KS C 5601)
* [[CJK統合漢字]]
{{文字コード}}
[[Category:文字コード|GB 02312]]
[[Category:中国語]]
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3,439 | Big5 | Big5(ビッグファイブ、中国語名:大五碼あるいは五大碼)は、繁体字中国語の文字コード(文字集合)で、台湾・香港・マカオといった繁体字圏で最も一般的に使われている。
1984年5月1日に台湾の資訊工業策進会(Institute for Information Industry)が制定したもので、「電腦用中文字型與字碼對照表」として発行したものである。5大パソコンメーカーであったエイサー(宏碁)、マイタック(神通)、佳佳、ゼロワン(零壱)、FIC(大衆)が共同で策定したことによりこの名がある。このオリジナルのBig5の文字セットは、後の拡張と対比してBig5-1984と呼ばれることがある。
ローマ字、アラビア数字、蘇州号碼、記号類、注音符号のほか、漢字1万3062字を収録するが、そのうち2字は重複しているため、実際の漢字の文字集合は1万3060字である。台湾や香港、マカオなどの繁体字地域で普及しているが、MS-DOS時代の「中国語システム(中文系統)」、WindowsやMac OSといったオペレーティングシステムで採用されたことにより定着したデファクトスタンダードである。2003年にCNS 11643の附属書で追認され公的規格となった。
2バイトで約1万3000字を収容し、第一バイトは0xA1〜0xC6および0xC9〜0xF9、第二バイトは0x40〜0x7Eおよび0xA1〜0xFEの範囲をとる。大きく分けて、非漢字、常用漢字、次常用漢字の3つのブロックで構成され、漢字は総画数順、次いで部首順に配列されている。これはJIS X 0208やGB 2312の第2水準の「部首・画数順」とは逆になる。なお一部、重複している漢字や、配列の誤りがある。
符号空間がシフトJISと似ており、第二バイトに0x5Cが含まれるため、シフトJISの抱える円記号問題と同様の問題をも抱えている。ただし、シフトJISはJIS X 0208文字集合の符号化方式の一つであるのに対して、Big5は文字集合と符号化方式が一体化しており、通常これ以外の符号化方式で利用されない点が大きく異なる。
Big5に対しては、これまでさまざまな拡張が行われている。代表的なものについて以下に挙げる。
民間の独自拡張としては、Windows 95以前に最も普及していた中国語システムである倚天中文系統のものが古くから知られている。「碁銹恒裏墻粧嫺」の7字(倚天拡張字)のほか、罫線素片やキリル文字、丸数字などが採用されている。また倚天の拡張には仮名が含まれ、Big5ベースのシステムで日本語を表現する方法として盛んに用いられた。この拡張は、時に「Big5-Eten」とも呼ばれ、独自拡張としては最も重要なものの一つといえる。
Microsoft Windowsで使われている繁体字文字集合である「コードページ950」は、オリジナルのBig5に、倚天拡張字7字と罫線素片を取り入れたものである。Windows MEからは、「€(ユーロ記号)」が追加された。 | [
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] | Big5は、繁体字中国語の文字コード(文字集合)で、台湾・香港・マカオといった繁体字圏で最も一般的に使われている。 | {{Otheruses|中国語の文字コード|その他|ビッグ5}}
'''Big5'''(ビッグファイブ、中国語名:'''大五碼'''あるいは'''五大碼''')は、[[繁体字]][[中国語]]の[[文字コード]]([[文字集合]])で、[[台湾]]・[[香港]]・[[マカオ]]といった繁体字圏で最も一般的に使われている。
== 特徴 ==
[[1984年]][[5月1日]]に台湾の資訊工業策進会(Institute for Information Industry)が制定したもので、「{{lang|zh-tw|電腦用中文字型與字碼對照表}}」として発行したものである。5大[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]メーカーであった[[エイサー (企業)|エイサー(宏碁)]]、マイタック(神通)、佳佳、ゼロワン(零壱)、FIC(大衆)が共同で策定したことによりこの名がある。このオリジナルのBig5の文字セットは、後の拡張と対比して'''Big5-1984'''と呼ばれることがある。
[[ローマ字]]、[[アラビア数字]]、[[蘇州号碼]]、[[記号]]類、[[注音符号]]のほか、漢字1万3062字を収録するが、そのうち2字は重複しているため、実際の漢字の文字集合は1万3060字である<REF>漢字領域以外に度量衡記号の領域0xA259-0xA261に「{{lang|zh|兙兛兞兝兡兣嗧瓩糎}}」の9文字がある。重複字は「兀」(0xC94A)と「{{lang|zh|嗀}}」(0xDDFC)。 </REF>。[[台湾]]や[[香港]]、[[マカオ]]などの繁体字地域で普及しているが、[[MS-DOS]]時代の「中国語システム(中文系統)」、[[Microsoft Windows|Windows]]や[[Mac OS]]といった[[オペレーティングシステム]]で採用されたことにより定着した[[デファクトスタンダード]]である。2003年に[[CNS 11643]]の附属書で追認され公的規格となった。
2[[バイト (情報)|バイト]]で約1万3000字を収容し、第一バイトは0xA1〜0xC6および0xC9〜0xF9、第二バイトは0x40〜0x7Eおよび0xA1〜0xFEの範囲をとる。大きく分けて、非漢字、常用漢字、次常用漢字の3つのブロックで構成され、[[漢字]]は総[[画数]]順、次いで部首順に配列されている。これは[[JIS X 0208]]や[[GB 2312]]の第2水準の「部首・画数順」とは逆になる。なお一部、重複している漢字や、配列の誤りがある。
符号空間が[[Shift JIS|シフトJIS]]と似ており、第二バイトに0x5Cが含まれるため、シフトJISの抱える[[Shift_JIS#2バイト目が5C等になりうることによる問題|円記号問題]]と同様の問題をも抱えている。ただし、シフトJISは[[JIS X 0208]]文字集合の[[文字符号化方式|符号化方式]]の一つであるのに対して、Big5は文字集合と符号化方式が一体化しており、通常これ以外の符号化方式で利用されない点が大きく異なる。
== 拡張 ==
Big5に対しては、これまでさまざまな拡張が行われている。代表的なものについて以下に挙げる。
=== 民間の独自拡張 ===
民間の独自拡張としては、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]以前に最も普及していた中国語システムである[[倚天中文系統]]のものが古くから知られている。「{{lang|zh-tw|碁銹恒裏墻粧嫺}}」の7字(倚天拡張字)のほか、[[罫線素片]]や[[キリル文字]]、[[丸数字]]などが採用されている。また倚天の拡張には[[仮名 (文字)|仮名]]が含まれ、Big5ベースのシステムで[[日本語]]を表現する方法として盛んに用いられた。この拡張は、時に「Big5-Eten」とも呼ばれ、独自拡張としては最も重要なものの一つといえる。
[[Microsoft Windows]]で使われている繁体字文字集合である「コードページ950」は、オリジナルのBig5に、倚天拡張字7字と罫線素片を取り入れたものである。[[Microsoft Windows Millennium Edition|Windows ME]]からは、「{{JIS2004フォント|€}}([[ユーロ記号]])」が追加された。
=== 台湾の公的拡張 ===
; Big5+
: 中文數位化技術推廣基金會(Chinese Foundation For Digitization Technology, CMEX, 中推会)が「BIG-5碼字集擴編計畫」により1997年7月に策定したもので、[[ISO/IEC 10646]]:1993 ([[Unicode]] 1.1) の漢字をすべて取り入れたもの。追加部分は、一般の文書で常用される「標準字集」の4670字と、「推薦字集」の3250字からなる。この文字コードセットは、従来のBig5のコードの範囲を超えていることから、Windowsなどのパーソナルコンピュータ・オペレーティングシステムで使用することができず、ほとんど普及しなかった。Unicodeの漢字をすべて取り込んだことと、文字符号化の手法の2点において[[中華人民共和国|中国]]の[[GBK]]によく似ている。
; Big-5E
: 「BIG-5碼補充字集 (BIG-5 Extension Character Set)」の略称。Big5の外字エリアに収まるようにBig5+の「標準字集」から政府機関で常用される3954字を選び出したもの。
; Big5-2003
: [[:zh:中華民國國家標準|中華民国国家標準]]を所管する[[中華民国経済部|経済部]][[:zh:經濟部標準檢驗局|標準検験局]]の委託を受けた中推会は、国内の業者・専門家を招集して Big5の対照表を作成し、CNS 11643に附属書として盛り込んだ。これにより Big5は正式に公的規格の一部分となった。
: Big5-2003には、Big5-1984の全ての文字のほか、マイクロソフト・コードページ950のユーロ記号、倚天拡張の0xA3C0-0xA3E0、0xC6A1-0xC7F2、0xF9D6-0xF9FE の範囲の文字が追加された。Big5-2003には、CNS 11643にないという理由で、「行列輸入法」の特殊符号や0xC7F3-0xC875のキリル文字は収録されなかった。それ以外の倚天拡張の文字は全て取り込まれた。
=== 香港の公的拡張 ===
; [[香港増補字符集]] HKSCS
: [[香港特別行政区政府|香港政府]]によって当初Big5の拡張文字セット([[外字]])として制定された文字集合。Big5に収録されなかった[[広東語]][[方言字]]、固有名詞や科学技術に用いる漢字、仮名、漢字の部品などを補充したもの。
== 注 ==
<div class="references-small"><references /></div>
== 参考資料 ==
{{参照方法|date=2011年9月}}
* {{Cite book |和書| first=Ken |last=Lunde |authorlink=ケン・ランディ |translator=小松章、逆井克己 |title=CJKV : 日中韓越情報処理 |publisher=オライリージャパン |date=2002 |isbn=4-87311-108-0 |ref=harv }}
* [http://www.cmex.org.tw/cmex/info.htm CMEX財團中文數位化技術推廣基金會]{{Zh-tw icon}}
== 関連項目 ==
* [[GB 2312]]([[簡体字]])
* [[CNS 11643]](国家規格)
* [[香港増補字符集]]
* [[JIS X 0208]]
* [[KS X 1001]]
* [[CJK統合漢字]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Big5 |
3,440 | Shift JIS | Shift_JIS(シフトジス)は、コンピュータ上で日本語を含む文字列を表現するために用いられる文字コードの一つ。シフトJIS(シフトジス)と表記されることもある。
かつてはベンダーによる独自拡張を含む文字コード群を指した曖昧な名称であったが、1997年にJIS X 0208で標準化された。
JIS X 0201を1バイトで、JIS X 0208を2バイトで符号化する可変幅文字符号化方式。2バイト文字は、第1バイトに8116-9F16またはE016-EF16の47通り、第2バイトに4016-7E16または8016-FC16の188通りを用いる。
さらに、JIS X 0213に拡張したShift_JIS-2004では、第1バイトの未使用領域であるF016-FC16を利用している。
1980年代、パソコン用16ビットCPUの普及もあいまって、漢字やひらがな・カタカナを表示可能なハードウェアを備えた情報機器が続々と発売された。これらの製品では、日本語を表現できる文字符号化方式が模索されており、先行してJIS C 6220(現在のJIS X 0201)の8ビット符号(以下「英数字・半角カナ」)と、JIS C 6226(現在のJIS X 0208、以下「漢字」)がよく利用されていた。この両文字集合の混在にあたっては、ISO 2022によるエスケープシーケンスで文字集合を切り替える設計となっていた。
Shift_JISの設計では、ファイルサイズ節約や処理時間短縮を図るため、これら文字集合をエスケープシーケンスなしで混在可能にすることを企図した。 ISO 2022では、英数字・半角カナ・漢字はそれぞれ、8ビット符号空間の中のGL(2116-7E16)・GR(A116-FE16)のいずれか1領域を使うことで表現する。このうち英数字・漢字だけの混在であれば英数字をGL、漢字をGRに割り当てることもできるが、既にGLに英数字、GRに半角カナを割り当てた実装が普及しており、既存のGL・GR領域に漢字を混在させることは困難だった。
1982年、漢字の符号位置をこれら符号空間の隙間に押し込む形でShift_JISが実装された。これを実現するためには、漢字の1バイト目として、ISO 2022において不使用のCR(8016-9F16)領域に加え、半角カナに割り当てられていたGR領域に約3分の1残されていた未使用領域から捻出することとした。さらに2バイト目には、ISO 2022とは異なり、英数字・半角カナに使用済みの領域をも含む、GL、CR、GRにあたる各領域のほぼ全てを使う必要があった。ただし、GL領域においては、JIS X 0201の記号に当たる部分は極力避けた。
マイクロソフト日本法人元会長の古川享によると、Shift_JISの制定にはアスキー、マイクロソフト(米)、三菱電機、マイクロソフトウェア・アソシエイツ、デジタルリサーチ(米)が関わり、特にアスキーの山下良蔵が中心となって行われたという。これに対する異説として、京都大学助教授の安岡孝一は、マイクロソフトウェア・アソシエイツと三菱電機のみの共同開発だと主張していたが、山下本人の発言により安岡は自説を撤回する発言をしている。また古くはLife with UNIXの訳書 (ISBN 4-7561-0783-4) の「UNIX人名事典」翻訳版加筆部分 (p.45) で、深瀬弘恭に「MS漢字コードの作者の一人」という紹介文が書かれていた。
Shift_JISはマイクロソフトのMS-DOSに「MS漢字コード」(および後のMicrosoftコードページ932)、デジタルリサーチのCP/M-86に「SJC-26」として採用された。両者はほぼ同じだが、全角スペースの扱いに違いがある。全角スペースにMS-DOSは814016を割り当てているが、CP/M-86は半角スペース2文字分と同等の202016を割り当てている。CP/M-86での実装は文字列からスペースを探索する処理が簡単になるというプログラミング上の利点があった。一方、MS-DOSは全角スペースに別のコードを割り当てることで、半角入力モードでスペースキーが2回押されたのか、全角入力モードでスペースキーが1回だけ押されたのかをプログラムが判別できるようにした。これは当時のアプリケーションソフト(Multiplanなど)でメニュー選択にスペースキーを使用していたためであった。また、プリンターでは全角スペースと半角スペースの幅の比が2対1でない場合があるため、スペースの区別は帳票設計に影響があった。
Shift_JISは ISO 2022の符号化の範囲外にあるベンダー独自の実装として誕生しており、普及後もしばらく標準化されずにいたが、JIS X 0208:1997において附属書1で「シフト符号化表現」という名前で仕様が定義された。また、IANAにおいても「Shift_JIS」の名称が登録されている。
JIS X 0208の拡張規格であるJIS X 0213では、2000年制定時に附属書1で上位互換仕様のShift_JISX0213が定められ、2004年改定時にShift_JIS-2004と名称が変更された。
その後は更新は停止したが、日本語版Windowsが長らく標準をShift_JISに定めていたことで使用され続けた。不都合が多いためUnicodeへの移行が呼びかけられている。
JIS X 0208では文字集合が区点番号として94×94の文字表の行と列の番号の組で表現される。これら区点番号をShift_JISでは以下のような対応で符号化している。
JIS X 0213では94×94の文字表が2つあり、それぞれ第1面・第2面と表現される。第1面(第1・2・3水準)は上記符号化の範囲に収まる。第2面(第4水準)は区番号が1・3・4・5・8・12-15・78-94区と不連続に構成されており、この26区分を収録するためにShift_JIS-2004では以下のように対応している。
面区点番号 m , k , t {\displaystyle m,k,t} から Shift_JISの 第1バイト s 1 {\displaystyle s_{1}} ・第2バイト s 2 {\displaystyle s_{2}} は以下の式で求められる。構文解析に失敗 (SVG(ブラウザのプラグインで MathML を有効にすることができます): サーバー「http://localhost:6011/ja.wikipedia.org/v1/」から無効な応答 ("Math extension cannot connect to Restbase."):): \lfloor x\rfloor は床関数。
初期のShift_JISでは、第1バイトが47通り、第2バイトが188通りの符号があるため、 47 × 188 = 94 × 94 = 8836 の2バイト文字を表現することができ、これはJIS X 0208で規定された区点番号のすべてを収められるように設計されている。ここに158字の英数字・半角カナ(スペース含む、DEL除く)を加えると、計 8994 文字となる。
さらに、第1バイトはF016-FC16を用いることで60通りまで拡張されており、 60 × 188 + 158 = 11438 文字を表現することができる。Microsoftコードページ932のIBM拡張文字やShift_JIS-2004の第4水準文字の符号化ではこれらの領域を動員している。
Shift_JISでは、カタカナの「ソ」、漢字の「噂」など一部の文字の2バイト目に、5C16を使用している。この符号はJIS X 0201では円記号、ASCIIなどではバックスラッシュに該当し、多くのプログラミング言語(C、Perl、Bourne Shellなど多数)ではエスケープ文字と扱う。したがって、ソースコードや文字データの処理においてShift_JISを想定していないプログラミング環境では問題が起こる。この問題は、同じように2バイト目の範囲に5C16を含むBig5や、まれではあるがGBKなどの文字コードでも発生しうる。
また、5C16以外についても類似の問題が発生することがある。
このようなASCII約物と同じ符号を含むためにプログラム上で不具合を起こしうるマルチバイト文字を俗に「だめ文字」あるいは「ダメ文字」と呼ぶ。
この問題を回避する伝統的な方法として、以下のようなものがある。
Shift_JISの「シフト」とは、JIS X 0208の文字集合を分割したうえで8ビット符号空間内に“ずらして配置”して符号化していることを意味する。
他の符号化方式においても、複数の文字集合をシフトコードで切り替える操作を「シフト」と呼ぶが、これとは異なる。例えば、ISO-2022-JPはエスケープシーケンスで漢字と英数字を切り替えることを、EUC-JPは補助漢字と半角カナをシングルシフトで切り替えることを指す。
また、ビット演算の「ビットシフト」とも関係がない。
「MS_Kanji」は、IANAによりShift_JISの別名として割り当てられている。
「x-sjis」は、IANAに「Shift_JIS」が登録される以前にNetscape Navigator 2.0において使っていたエンコーディングの指定子名である。HTMLドキュメントの「charset」の指定にShift_JISの別名として使えるブラウザエンジンがある。 | [
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"text": "JIS X 0201を1バイトで、JIS X 0208を2バイトで符号化する可変幅文字符号化方式。2バイト文字は、第1バイトに8116-9F16またはE016-EF16の47通り、第2バイトに4016-7E16または8016-FC16の188通りを用いる。",
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"text": "さらに、JIS X 0213に拡張したShift_JIS-2004では、第1バイトの未使用領域であるF016-FC16を利用している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "1980年代、パソコン用16ビットCPUの普及もあいまって、漢字やひらがな・カタカナを表示可能なハードウェアを備えた情報機器が続々と発売された。これらの製品では、日本語を表現できる文字符号化方式が模索されており、先行してJIS C 6220(現在のJIS X 0201)の8ビット符号(以下「英数字・半角カナ」)と、JIS C 6226(現在のJIS X 0208、以下「漢字」)がよく利用されていた。この両文字集合の混在にあたっては、ISO 2022によるエスケープシーケンスで文字集合を切り替える設計となっていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "Shift_JISの設計では、ファイルサイズ節約や処理時間短縮を図るため、これら文字集合をエスケープシーケンスなしで混在可能にすることを企図した。 ISO 2022では、英数字・半角カナ・漢字はそれぞれ、8ビット符号空間の中のGL(2116-7E16)・GR(A116-FE16)のいずれか1領域を使うことで表現する。このうち英数字・漢字だけの混在であれば英数字をGL、漢字をGRに割り当てることもできるが、既にGLに英数字、GRに半角カナを割り当てた実装が普及しており、既存のGL・GR領域に漢字を混在させることは困難だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "1982年、漢字の符号位置をこれら符号空間の隙間に押し込む形でShift_JISが実装された。これを実現するためには、漢字の1バイト目として、ISO 2022において不使用のCR(8016-9F16)領域に加え、半角カナに割り当てられていたGR領域に約3分の1残されていた未使用領域から捻出することとした。さらに2バイト目には、ISO 2022とは異なり、英数字・半角カナに使用済みの領域をも含む、GL、CR、GRにあたる各領域のほぼ全てを使う必要があった。ただし、GL領域においては、JIS X 0201の記号に当たる部分は極力避けた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフト日本法人元会長の古川享によると、Shift_JISの制定にはアスキー、マイクロソフト(米)、三菱電機、マイクロソフトウェア・アソシエイツ、デジタルリサーチ(米)が関わり、特にアスキーの山下良蔵が中心となって行われたという。これに対する異説として、京都大学助教授の安岡孝一は、マイクロソフトウェア・アソシエイツと三菱電機のみの共同開発だと主張していたが、山下本人の発言により安岡は自説を撤回する発言をしている。また古くはLife with UNIXの訳書 (ISBN 4-7561-0783-4) の「UNIX人名事典」翻訳版加筆部分 (p.45) で、深瀬弘恭に「MS漢字コードの作者の一人」という紹介文が書かれていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "Shift_JISはマイクロソフトのMS-DOSに「MS漢字コード」(および後のMicrosoftコードページ932)、デジタルリサーチのCP/M-86に「SJC-26」として採用された。両者はほぼ同じだが、全角スペースの扱いに違いがある。全角スペースにMS-DOSは814016を割り当てているが、CP/M-86は半角スペース2文字分と同等の202016を割り当てている。CP/M-86での実装は文字列からスペースを探索する処理が簡単になるというプログラミング上の利点があった。一方、MS-DOSは全角スペースに別のコードを割り当てることで、半角入力モードでスペースキーが2回押されたのか、全角入力モードでスペースキーが1回だけ押されたのかをプログラムが判別できるようにした。これは当時のアプリケーションソフト(Multiplanなど)でメニュー選択にスペースキーを使用していたためであった。また、プリンターでは全角スペースと半角スペースの幅の比が2対1でない場合があるため、スペースの区別は帳票設計に影響があった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "Shift_JISは ISO 2022の符号化の範囲外にあるベンダー独自の実装として誕生しており、普及後もしばらく標準化されずにいたが、JIS X 0208:1997において附属書1で「シフト符号化表現」という名前で仕様が定義された。また、IANAにおいても「Shift_JIS」の名称が登録されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "JIS X 0208の拡張規格であるJIS X 0213では、2000年制定時に附属書1で上位互換仕様のShift_JISX0213が定められ、2004年改定時にShift_JIS-2004と名称が変更された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "その後は更新は停止したが、日本語版Windowsが長らく標準をShift_JISに定めていたことで使用され続けた。不都合が多いためUnicodeへの移行が呼びかけられている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "JIS X 0208では文字集合が区点番号として94×94の文字表の行と列の番号の組で表現される。これら区点番号をShift_JISでは以下のような対応で符号化している。",
"title": "符号化方式"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "JIS X 0213では94×94の文字表が2つあり、それぞれ第1面・第2面と表現される。第1面(第1・2・3水準)は上記符号化の範囲に収まる。第2面(第4水準)は区番号が1・3・4・5・8・12-15・78-94区と不連続に構成されており、この26区分を収録するためにShift_JIS-2004では以下のように対応している。",
"title": "符号化方式"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "面区点番号 m , k , t {\\displaystyle m,k,t} から Shift_JISの 第1バイト s 1 {\\displaystyle s_{1}} ・第2バイト s 2 {\\displaystyle s_{2}} は以下の式で求められる。構文解析に失敗 (SVG(ブラウザのプラグインで MathML を有効にすることができます): サーバー「http://localhost:6011/ja.wikipedia.org/v1/」から無効な応答 (\"Math extension cannot connect to Restbase.\"):): \\lfloor x\\rfloor は床関数。",
"title": "符号化方式"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "初期のShift_JISでは、第1バイトが47通り、第2バイトが188通りの符号があるため、 47 × 188 = 94 × 94 = 8836 の2バイト文字を表現することができ、これはJIS X 0208で規定された区点番号のすべてを収められるように設計されている。ここに158字の英数字・半角カナ(スペース含む、DEL除く)を加えると、計 8994 文字となる。",
"title": "符号化方式"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "さらに、第1バイトはF016-FC16を用いることで60通りまで拡張されており、 60 × 188 + 158 = 11438 文字を表現することができる。Microsoftコードページ932のIBM拡張文字やShift_JIS-2004の第4水準文字の符号化ではこれらの領域を動員している。",
"title": "符号化方式"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "Shift_JISでは、カタカナの「ソ」、漢字の「噂」など一部の文字の2バイト目に、5C16を使用している。この符号はJIS X 0201では円記号、ASCIIなどではバックスラッシュに該当し、多くのプログラミング言語(C、Perl、Bourne Shellなど多数)ではエスケープ文字と扱う。したがって、ソースコードや文字データの処理においてShift_JISを想定していないプログラミング環境では問題が起こる。この問題は、同じように2バイト目の範囲に5C16を含むBig5や、まれではあるがGBKなどの文字コードでも発生しうる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "また、5C16以外についても類似の問題が発生することがある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "このようなASCII約物と同じ符号を含むためにプログラム上で不具合を起こしうるマルチバイト文字を俗に「だめ文字」あるいは「ダメ文字」と呼ぶ。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "この問題を回避する伝統的な方法として、以下のようなものがある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "Shift_JISの「シフト」とは、JIS X 0208の文字集合を分割したうえで8ビット符号空間内に“ずらして配置”して符号化していることを意味する。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "他の符号化方式においても、複数の文字集合をシフトコードで切り替える操作を「シフト」と呼ぶが、これとは異なる。例えば、ISO-2022-JPはエスケープシーケンスで漢字と英数字を切り替えることを、EUC-JPは補助漢字と半角カナをシングルシフトで切り替えることを指す。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "また、ビット演算の「ビットシフト」とも関係がない。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "「MS_Kanji」は、IANAによりShift_JISの別名として割り当てられている。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "「x-sjis」は、IANAに「Shift_JIS」が登録される以前にNetscape Navigator 2.0において使っていたエンコーディングの指定子名である。HTMLドキュメントの「charset」の指定にShift_JISの別名として使えるブラウザエンジンがある。",
"title": "名称"
}
] | Shift_JIS(シフトジス)は、コンピュータ上で日本語を含む文字列を表現するために用いられる文字コードの一つ。シフトJIS(シフトジス)と表記されることもある。 かつてはベンダーによる独自拡張を含む文字コード群を指した曖昧な名称であったが、1997年にJIS X 0208で標準化された。 | {{DISPLAYTITLE:Shift_JIS}}
'''Shift_JIS'''(シフトジス)は、[[コンピュータ]]上で[[日本語]]を含む[[文字列]]を表現するために用いられる[[文字コード]]の一つ。'''シフトJIS'''(シフトジス)と表記されることもある<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.atmarkit.co.jp/aig/01xml/shiftjis.html| title=XML用語事典 [シフトJIS(Shift_JIS)]| work=[[@IT]] | accessdate=2021-1-11}}</ref>。
かつては[[ベンダー]]による独自拡張を含む文字コード群を指した曖昧な名称であったが、1997年に[[JIS X 0208]]で標準化された。
{{Main2|[[マイクロソフト]]などの各ベンダーが実装するShift_JISの亜種|Microsoftコードページ932|[[Mac OS]]が実装する亜種|MacJapanese}}
== 構造 ==
[[JIS X 0201]]を1バイトで、[[JIS X 0208]]を2バイトで符号化する可変幅文字符号化方式。2バイト文字は、第1バイトに{{十六進|81}}-{{十六進|9F}}または{{十六進|E0}}-{{十六進|EF}}の47通り、第2バイトに{{十六進|40}}-{{十六進|7E}}または{{十六進|80}}-{{十六進|FC}}の188通りを用いる。
{{Shift_JISの符号表}}
<!-- 【これはJIS X 0208の説明】
ただし、9区(8540<sub>16</sub>)から15区(889E<sub>16</sub>)まで、および85区(EB40<sub>16</sub>)から94区(EFFC<sub>16</sub>)まではJIS X 0208で空き領域とされており、文字は割り当てられていない。
-->
さらに、[[JIS X 0213]]に拡張した[[Shift_JIS-2004]]では、第1バイトの{{font color||#bff|未使用}}領域である{{十六進|F0}}-{{十六進|FC}}を利用している。
{{Shift JIS拡張の符号表}}
== 歴史 ==
=== Shift_JISの誕生 ===
[[1980年代]]、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]用[[16ビット]][[CPU]]の普及もあいまって、[[漢字]]や[[ひらがな]]・[[カタカナ]]を表示可能な[[ハードウェア]]を備えた情報機器が続々と発売された。これらの製品では、日本語を表現できる[[文字符号化方式]]が模索されており、先行してJIS C 6220(現在の[[JIS X 0201]])の[[8ビット]]符号(以下「[[英数字]]・[[半角カナ]]」)と、JIS C 6226(現在の[[JIS X 0208]]、以下「漢字」)がよく利用されていた。この両文字集合の混在にあたっては、[[ISO/IEC 2022|ISO 2022]]による[[エスケープシーケンス]]で[[文字集合]]を切り替える設計となっていた。
Shift_JISの設計では、ファイルサイズ節約や処理時間短縮を図るため、これら文字集合をエスケープシーケンスなしで混在可能にすることを企図した。 ISO 2022では、英数字・半角カナ・漢字はそれぞれ、8ビット符号空間の中のGL({{十六進|21}}-{{十六進|7E}})・GR({{十六進|A1}}-{{十六進|FE}})のいずれか1領域を使うことで表現する。このうち英数字・漢字だけの混在であれば英数字をGL、漢字をGRに割り当てることもできる<ref>[[EUC-JP]]はおおよそそのように実装されており、半角カナの表現には切替が必要。</ref>が、既にGLに英数字、GRに半角カナを割り当てた実装が普及しており、既存のGL・GR領域に漢字を混在させることは困難だった。
[[1982年]]、漢字の[[符号点|符号位置]]をこれら符号空間の隙間に押し込む形でShift_JISが実装された。これを実現するためには、漢字の1バイト目として、ISO 2022において不使用のCR({{十六進|80}}-{{十六進|9F}})領域に加え、半角カナに割り当てられていたGR領域に約3分の1残されていた未使用領域から捻出することとした。さらに2バイト目には、ISO 2022とは異なり、英数字・半角カナに使用済みの領域をも含む、GL、CR、GRにあたる各領域のほぼ全てを使う必要があった。ただし、GL領域においては、JIS X 0201の記号に当たる部分は極力避けた。
[[マイクロソフト]]日本法人元会長の[[古川享]]によると、Shift_JISの制定には[[アスキー (企業)|アスキー]]、マイクロソフト(米)、[[三菱電機]]、[[マイクロソフトウェア・アソシエイツ]]、[[デジタルリサーチ]](米)が関わり、特にアスキーの[[山下良蔵]]が中心となって行われたという<ref>古川享 「[https://web.archive.org/web/20061105073147/http://furukawablog.spaces.live.com/Blog/cns!1pmWgsL289nm7Shn7cS0jHzA!2225.entry 私のマイコン遍歴、日本のパソコン30年史、その1]」の2005年12月28日のコメント 『古川享ブログ』 2005年12月28日</ref>。これに対する異説として、[[京都大学]]助教授の[[安岡孝一]]は、マイクロソフトウェア・アソシエイツと三菱電機のみの共同開発だと主張していたが<ref>安岡孝一 「[http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/publications/ISCIE2001.pdf 日本における最新文字コード事情]」『システム/制御/情報』、Vol. 45, [http://www.iscie.or.jp/j/?%E3%80%8C%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%2F%E5%88%B6%E5%BE%A1%2F%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%80%8D%E7%AC%AC45%E5%B7%BB#na671586 No. 9], pp. 528–535, 2001<br />
安岡孝一 「[http://slashdot.jp/~yasuoka/journal/334730 シフトJISの誕生]」 2005年12月22日<br />
安岡孝一 「[http://slashdot.jp/comments.pl?sid=292835&cid=857031 Re:古川享さんがシフトJIS誕生について書いています]」 2005年12月29日<br />
安岡孝一、安岡素子『文字符号の歴史 欧米と日本編』共立出版 2006年2月 ISBN 978-4-320-12102-7</ref>、山下本人の発言<ref>山下良蔵 「[http://furukawablog.spaces.live.com/Blog/cns!1pmWgsL289nm7Shn7cS0jHzA!2225.entry 私のマイコン遍歴、日本のパソコン30年史、その1]」の2006年9月21日のコメント 『[http://furukawablog.spaces.live.com/ 古川享ブログ]』 2006年9月21日</ref>により安岡は自説を撤回する発言をしている<ref>安岡孝一「[http://slashdot.jp/comments.pl?sid=292835&cid=1028873 Re:古川享さんがシフトJIS誕生について書いています]」 2006年{{0}}9月29日</ref>。また古くは''{{en|Life with UNIX}}''の訳書 (ISBN 4-7561-0783-4) の「UNIX人名事典」翻訳版加筆部分 (p.45) で、[[深瀬弘恭]]に「MS漢字コードの作者の一人」という紹介文が書かれていた。
=== 初期の実装 ===
Shift_JISはマイクロソフトの[[MS-DOS]]に「MS漢字コード」(および後の[[Microsoftコードページ932]])、デジタルリサーチの[[CP/M-86]]に「SJC-26」として採用された。両者はほぼ同じだが、[[全角スペース]]の扱いに違いがある。全角スペースにMS-DOSは{{十六進|8140}}を割り当てているが、CP/M-86は半角スペース2文字分と同等の{{十六進|2020}}を割り当てている。CP/M-86での実装は文字列からスペースを探索する処理が簡単になるという[[プログラミング]]上の利点があった。一方、MS-DOSは全角スペースに別のコードを割り当てることで、半角入力モードで[[スペースキー]]が2回押されたのか、全角入力モードでスペースキーが1回だけ押されたのかをプログラムが判別できるようにした。これは当時のアプリケーションソフト([[Microsoft Multiplan|Multiplan]]など)でメニュー選択にスペースキーを使用していたためであった。また、[[プリンター]]では全角スペースと半角スペースの幅の比が2対1でない場合があるため、スペースの区別は[[帳票]]設計に影響があった<ref name=":0">西田憲正「Unix風の機能を持ち込んだ日本語MS-DOS2.0の機能と内部構造」『日経エレクトロニクス』 1983年12月19日号、pp.165-190。</ref>。
=== 標準化 ===
Shift_JISは ISO 2022の符号化の範囲外にあるベンダー独自の実装として誕生しており、普及後もしばらく標準化されずにいたが、JIS X 0208:1997において附属書1で「シフト符号化表現」という名前で仕様が定義された。また、[[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]]においても「Shift_JIS」の名称が登録されている<ref name="iana-charsets">{{Cite web|publisher=[[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]]|url=https://www.iana.org/assignments/character-sets/character-sets.xhtml|title=CHARACTER SETS|accessdate=2011-07-04}}</ref>。
JIS X 0208の拡張規格であるJIS X 0213では、[[2000年]]制定時に附属書1で上位互換仕様の'''Shift_JISX0213'''が定められ、[[2004年]]改定時に'''Shift_JIS-2004'''と名称が変更された。
その後は更新は停止したが、日本語版Windowsが長らく標準をShift_JISに定めていたことで使用され続けた。不都合が多いため[[Unicode]]への移行が呼びかけられている<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/serial/yajiuma/1238646.html 外字を使うのはやめてくれ! Unicodeへの移行を呼びかけるMicrosoftの公式ブログ記事が話題に - やじうまの杜 - 窓の杜]</ref>。
== 符号化方式 ==
=== 区点番号の割当 ===
[[JIS X 0208]]では文字集合が[[区点番号]]として94×94の文字表の行と列の番号の組で表現される。これら区点番号をShift_JISでは以下のような対応で符号化している。
{| class="wikitable"
|+ '''表: 区点(第1面)とShift_JIS符号化'''
! colspan=2 rowspan=2 | Shift_JIS || colspan=8 | 第2バイト(16進)
|-
! 40 || … || 7E || 80 || … || 9F || … || FC
|-
! rowspan=6 | 第1バイト<br/>(16進) || 81
| 1区1点 || || 1区63点 || 1区64点 || || 2区1点 || || 2区94点
|-
! ⋮
| || || || || || || ||
|-
! 9F
| 61区1点 || || 61区63点 || 61区64点 || || 62区1点 || || 62区94点
|-
! E0
| 63区1点 || || 63区63点 || 63区64点 || || 64区1点 || || 64区94点
|-
! ⋮
| || || || || || || ||
|-
! EF
| 93区1点 || || 93区63点 || 93区64点 || || 94区1点 || || 94区94点
|}
[[JIS X 0213]]では94×94の文字表が2つあり、それぞれ第1面・第2面と表現される。第1面(第1・2・3水準)は上記符号化の範囲に収まる。第2面(第4水準)は区番号が1・3・4・5・8・12-15・78-94区と不連続に構成されており、この26区分を収録するためにShift_JIS-2004では以下のように対応している。
{| class="wikitable"
|+ '''表: 区点(第2面)とShift_JIS符号化'''
! colspan=2 rowspan=2 | Shift_JIS || colspan=8 | 第2バイト(16進)
|-
! 40 || … || 7E || 80 || … || 9F || … || FC
|-
! rowspan=8 | 第1バイト<br/>(16進) || F0
| 1区1点 || || 1区63点 || 1区64点 || || 8区1点 || || 8区94点
|-
! F1
| 3区1点 || || 3区63点 || 3区64点 || || 4区1点 || || 4区94点
|-
! F2
| 5区1点 || || 5区63点 || 5区64点 || || 12区1点 || || 12区94点
|-
! F3
| 13区1点 || || 13区63点 || 13区64点 || || 14区1点 || || 14区94点
|-
! F4
| 15区1点 || || 15区63点 || 15区64点 || || 78区1点 || || 78区94点
|-
! F5
| 79区1点 || || 79区63点 || 79区64点 || || 80区1点 || || 80区94点
|-
! ⋮
| || || || || || || ||
|-
! FC
| 93区1点 || || 93区63点 || 93区64点 || || 94区1点 || || 94区94点
|}
=== 区点番号からの変換 ===
面区点番号 <math>m, k, t</math> から Shift_JISの 第1バイト<math>s_1</math>・第2バイト<math>s_2</math>は以下の式で求められる<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.asahi-net.or.jp/~wq6k-yn/code/enc-x0213.html#sjis-2004 | title=JIS X 0213の代表的な符号化方式 § Shift_JIS-2004 | language=ja | accessdate = 2019-04-27 }} Hexadecimal numbers in the source have been converted to decimal for display.</ref>。<math>\lfloor x \rfloor</math>は[[床関数]]。
:<math>s_1 = \begin{cases} \left \lfloor \frac{k + 257}{2} \right \rfloor & \mbox{if } m = 1 \mbox{ and } 1 \le k \le 62 \\
\left \lfloor \frac{k + 385}{2} \right \rfloor & \mbox{if } m = 1 \mbox{ and } 63 \le k \le 94 \\
\left \lfloor \frac{k + 479}{2} \right \rfloor - \left \lfloor \frac{k}{8} \right \rfloor \times 3 & \mbox{if } m = 2 \mbox{ and } k = 1, 3, 4, 5, 8, 12, 13, 14, 15 \\
\left \lfloor \frac{k + 411}{2} \right \rfloor & \mbox{if } m = 2 \mbox{ and } 78 \le k \le 94 \end{cases}</math>
:<math>s_2 = \begin{cases} t + 63 & \mbox{if } k \mbox{ is odd and } 1 \le t \le 63 \\
t + 64 & \mbox{if } k \mbox{ is odd and } 64 \le t \le 94 \\
t + 158 & \mbox{if } k \mbox{ is even }
\end{cases}</math>
=== 符号化可能な文字数 ===
初期のShift_JISでは、第1バイトが47通り、第2バイトが188通りの符号があるため、 47 × 188 = 94 × 94 = 8836 の2バイト文字を表現することができ、これはJIS X 0208で規定された区点番号のすべてを収められるように設計されている。ここに158字の英数字・半角カナ(スペース含む、DEL除く)を加えると、計 8994 文字となる。
さらに、第1バイトは{{十六進|F0}}-{{十六進|FC}}を用いることで60通りまで拡張されており、 60 × 188 + 158 = 11438 文字を表現することができる。[[Microsoftコードページ932]]の[[IBM拡張文字]]やShift_JIS-2004の第4水準文字の符号化ではこれらの領域を動員している。
== 特徴 ==
; 利点
:# 全角文字と、JIS X 0201で定義したいわゆる半角カナ文字を同一のコード体系で表現できる。
:# 日本語環境においては、MS-DOSで日本語用文字コードとして採用されて以来、パソコンにおいて圧倒的な普及度があり、その他の文字符号化方式に比べてデータ交換可能性が高い。
:# [[UTF-8]]などに比べてサイズが小さい。UTF-8では半角カナや漢字の多くは3バイトを要する。
; 欠点
:# 半角カナのための領域を確保した関係上、区点番号と符号の相互演算には前述のように煩雑な条件分岐が必要である。
:# 2バイト目に{{十六進|80}}未満([[ASCII]]のコード領域)が現れる。このため、文字の区切りの判定に手間がかかる。ファイルや電文の先頭から文字コードの判定をする場合はよいが、後ろから判定をしようとすると、最悪の場合、先頭までたどらないといけないことがあるため、プログラムの作り方に工夫が必要になる。また、この領域に含まれる一部の文字の扱いのため、マルチバイトのEUC-JP、[[UTF-8]]などに比べ、プログラミング上の扱いが難しい([[#2バイト目が5C等になりうることによる問題|次項]]を参照)。
:# [[JIS X 0212|JIS補助漢字]]が表現できない。<!-- 補助漢字の文字数はShift_JISのコード未登録部分に収まらない。実用的に利用している漢字の表現は、文字鏡フォントがあり、このフォントを表すためには、Shift_JISのような方式での文字コードの拡張がよいのか、HTMLによる文字コードと文字フォントの両方を指定するのがよいかは、未解決の問題である。-->
:# 文字集合については実装ベンダがJIS X 0208で規定されていない機種依存の拡張を施していることが多く、こういった拡張部分に関してはデータ交換可能性が低い。特に広く普及している[[Microsoftコードページ932]]は[[JIS X 0213]]で拡張された[[Shift_JIS-2004]]と併用できない。
=== 2バイト目が5C等になりうることによる問題 ===
{| class="wikitable" style="font-size: 85%; float:right;"
|+ '''{{Visible anchor|表}}: JIS X 0208で2バイト目に{{十六進|5C}}を持つ文字一覧'''
! 文字 !! style="white-space:nowrap" | 符号<br/>(16進) !! 読み・字義 !! 文字化け例
|-
| ― || 815C || [[ダッシュ (記号)|ダッシュ]] ||
|-
| ソ || 835C || [[そ]] ([[片仮名]]) || ソフト→ャtト
|-
| Ы || 845C || [[Ы|ゥイ]] ([[キリル文字]]) ||
|-
| 噂 || 895C || ソン、[[噂|うわさ]] || '''噂'''話→汚b
|-
| 浬 || 8A5C || リ、[[海里|かいり]]、[[ノット]] ||
|-
| 欺 || 8B5C || ギ、あざむ-く || 詐'''欺'''師→詐去t
|-
| 圭 || 8C5C || [[圭|ケイ]] || [[錦織圭]]など→錦織撃ネど
|-
| 構 || 8D5C || コウ、かま-える || '''構'''成→告ャ
|-
| 蚕 || 8E5C || サン、[[カイコ|かいこ]] || 養'''蚕'''業→養視ニ
|-
| 十 || 8F5C || ジュウ、とお ([[漢数字]]の10) || '''十'''人'''十'''色→署l署F
|-
| 申 || 905C || シン、もう-す、[[干支|さる]] || '''申'''請→瑞ソ、 '''申'''込み→錐桙ン
|-
| 曾 || 915C || ソ、ひ (「曽」の旧字) || '''曾'''孫→荘キ、 '''曾'''祖父→荘c父
|-
| 箪 || 925C || タン (「簞」の[[国語国字問題#表外漢字字体表|簡易慣用字体]]) || '''箪'''笥→註y
|-
| 貼 || 935C || チョウ、は-る || '''貼'''り付け→唐阨tけ
|-
| 能 || 945C || ノウ、よ-く、あた-う || '''能'''力→迫ヘ、 可'''能'''性→可柏ォ
|-
| 表 || 955C || ヒョウ、おもて、あらわ-す || '''表'''示→侮ヲ、 代'''表'''的→代蕪I
|-
| 暴 || 965C || ボウ、バク、あば-れる || '''暴'''力→沫ヘ、 '''暴'''露→迄I
|-
| 予 || 975C || ヨ、あらかじ-め、かね-て || '''予'''算→落Z、 '''予'''想→卵z
|-
| 禄 || 985C || ロク || 元'''禄'''X年→元蝋年
|-
| 兔 || 995C || ト、[[ウサギ|うさぎ]] (「兎」の異体字) ||
|-
| 喀 || 9A5C || カク、キャク、は-く || '''喀'''血する→嚮撃キる
|-
| 媾 || 9B5C || コウ || '''媾'''和→尨a <br/>(「講和」の非[[同音の漢字による書きかえ|書換え]])
|-
| 彌 || 9C5C || ミ、ビ、や (「弥」の旧字) || [[和泉元彌]]など→和泉元怩ネど
|-
| 拿 || 9D5C || ダ || '''拿'''捕する→摯゚する
|-
| 杤 || 9E5C || とち (「[[栃]]」の異体字) ||
|-
| 歃 || 9F5C || ソウ、ショウ、すす-る || 血を'''歃'''って→血を氓チて
|-
| 濬 || E05C || シュン、さら-う || [[長谷川濬]]など→長谷川烽ネど
|-
| 畚 || E15C || ホン、ふご、[[もっこ]] || '''畚'''に乗る→痰ノ乗る
|-
| 秉 || E25C || ヘイ、ヒン、と-る <!--「兼」の字源(諸説あり)--> || '''秉'''燭→竦C
|-
| 綵 || E35C || サイ、あや || [[動植綵絵]]→動植繩G
|-
| 臀 || E45C || デン、[[尻|しり]] || '''臀'''部など→苺狽ネど
|-
| 藹 || E55C || アイ || 和気'''藹'''々→和気蛛X
|-
| 觸 || E65C || ショク (「[[触]]」の旧字) ||
|-
| 軆 || E75C || タイ (「[[体]]」の異体字) ||
|-
| 鐔 || E85C || タン、[[鍔|つば]] || 金'''鐔'''焼き→金闖トき
|-
| 饅 || E95C || マン || '''饅'''頭→體ェ
|-
| 鷭 || EA5C || [[バン (鳥類)|バン]] (鳥の名) || '''鷭'''の群れ→黷フ群れ
<!-- 【環境依存の符号化は一旦コメントアウト】
|-
| {{JIS2004フォント|晡}} || EB5C || [[JIS X 0213]]: ホ、さる || [[晡時臥山]]
|-
| {{JIS2004フォント|瀆}} || EC5C || JIS X 0213: トク、けが-す || 冒'''瀆'''する
|-
| {{JIS2004フォント|祥}}<br/>{{JIS2004フォント|偆}} || ED5C || JIS X 0213: ショウ (「祥」の旧字) <br/> [[CP932]]: シュン、とむ、あつい || 最上義偆
|-
| {{JIS2004フォント|薌}}<br/>{{JIS2004フォント|砡}} || EE5C || JIS X 0213: キョウ <br/> CP932: ギョク、そろえる || [[薌城区]]<br/>砡瓶
|-
| {{JIS2004フォント|鍥}} || EF5C || JIS X 0213: ケツ、かま ||
|-
| {{JIS2004フォント|Ⅸ}}<br/>{{JIS2004フォント|㎇}} || 875C || JIS X 0213: [[ローマ数字]]の9<br />[[MacJapanese]]: [[ギガバイト]]
|-
| {{JIS2004フォント|跬}}<br/>{{JIS2004フォント|纊}} || FA5C || JIS X 0213: キ <br/> CP932: コウ、わた || 跬歩 <br/> 属纊に就く
|-
| {{JIS2004フォント|𨫤}}<br/>{{JIS2004フォント|犾}} || FB5C || JIS X 0213: ひ <br/> CP932: ギン、いず || 𨫤押坑道<br/>鬼犾頭
-->
|}
Shift_JISでは、カタカナの「ソ」、漢字の「噂」など一部の文字<ref>区点番号では、奇数区29点の文字が該当する。</ref>の2バイト目に、{{十六進|5C}}を使用している。この符号は[[JIS X 0201]]では[[円記号]]、ASCIIなどでは[[バックスラッシュ]]に該当し、多くのプログラミング言語([[C言語|C]]、[[Perl]]、[[Bourne Shell]]など多数)では[[エスケープ文字]]と扱う。したがって、ソースコードや文字データの処理においてShift_JISを想定していないプログラミング環境では問題が起こる。この問題は、同じように2バイト目の範囲に{{十六進|5C}}を含む[[Big5]]や、まれではあるが[[GBK]]などの[[文字コード]]でも発生しうる。
また、{{十六進|5C}}以外についても類似の問題が発生することがある。
* 2バイト目が{{十六進|7C}}になる文字(「ポ」「芸」など)。この符号はASCIIでは<code>|</code>([[バーティカルバー]])に該当する。[[Unix]]やMS-DOSなどの[[シェル]]上でこの符号は[[パイプ (コンピュータ)|パイプ記号]]と認識され、これらの文字を含むファイルは正常に操作できない。
* 2バイト目が{{十六進|5B}}(「ゼ」「深」など)、{{十六進|5D}}(「ゾ」「転」など)になる文字。これらの符号はASCIIでは<code>[</code>, <code>]</code>に該当する。そのためこれらの文字は[[正規表現]]と組み合わせて使うことができない。
このようなASCII[[約物]]と同じ符号を含むためにプログラム上で不具合を起こしうるマルチバイト文字を俗に「だめ文字」あるいは「ダメ文字」と呼ぶ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ossforum.jp/jossfiles/Linux_SJIS_Support.pdf|title=Linuxマイグレーションガイド LinuxのShift JISサポート -現状とその対応策-|author=日本OSS推進フォーラム プラットフォーム部会 マイグレーションタスクフォース|date=2009-07-10|accessdate=2018-10-16}}</ref>。
この問題を回避する伝統的な方法として、以下のようなものがある。
* ソースコード全体を[[EUC-JP]]や[[UTF-8]]などのGL領域と混用のない符号に変換し、実行またはコンパイルする(例:Perl のencodingプラグマ)。
* 5Cを含む文字列を扱う場合、「<code>ソ</code>」→「<code>ソ\</code>」のようにダメ文字の直後にエスケープ文字を挿入することで目的の符号列として認識させる(例:[[Perl]]のSjisソフトウェア<ref>[https://metacpan.org/release/Char-Sjis Char-Sjis-1.08 - Native Encoding Support by Traditional Scripting - metacpan.org]</ref>や[[JavaScript]])。
* 文字または文字列として扱わず対象文字および内部表現形式を数値の配列として変換を行い、取り扱う際に文字に復号して扱う(例:PerlのEncodeモジュール<ref>[https://metacpan.org/release/Encode Encode-3.00 - character encodings in Perl - metacpan.org]</ref>)。
; 文字化け例
: マルチバイト非対応環境では、Shift_JISの「構わない」という文字列は「高墲ネい」<ref name="ms932">[[Microsoftコードページ932]]による符号</ref>または「高筲ネい」<ref>[[Shift_JIS-2004]]による符号</ref>に文字化けすることがある。後の文字の2バイト目が[[半角カナ]]「ネ」として認識されるため、「い」でデコードが再同期され、後の文字列は正常に表示される。
:{| class="wikitable" style="text-align:center;"
! colspan="2" | 構
! colspan="2" | わ
! colspan="2" | な
! colspan="2" | い
|-
| 8d || style="background: yellow;"| '''5c''' || 82 || ed || 82 || c8 || 82 || a2
|-
| colspan="8" | ▼エスケープ文字にあたる'''5c'''が抜けた場合
|-
| 8d || style="background: yellow;"| || 82 || ed || 82 || c8 || 82 || a2
|-
! colspan="3" | 高
! colspan="2" | 墲<ref name="ms932"/>
! ネ
! colspan="2" | い
|}
: また、同様に「芸能界」という文字列は「芸矧E」に文字化けする。
: {| class="wikitable" style="text-align:center;"
! colspan="2" | 芸
! colspan="2" | 能
! colspan="2" | 界
|-
| 8c || 7c || 94 || style="background: yellow;"| '''5c''' || 8A || 45
|-
| colspan="6" | ▼エスケープ文字にあたる'''5c'''が抜けた場合
|-
| 8C || 7c || 94 || style="background: yellow;"| || 8A || 45
|-
! colspan="2" | 芸
! colspan="3" | 矧
! E
|}
== 名称 ==
=== 「シフト」について ===
Shift_JISの「シフト」とは、JIS X 0208の文字集合を分割したうえで8ビット符号空間内に“ずらして配置”して符号化していることを意味する。
他の符号化方式においても、複数の文字集合を[[漢字シフトコード|シフトコード]]で切り替える操作を「シフト」と呼ぶが、これとは異なる。例えば、[[ISO-2022-JP]]は[[エスケープシーケンス]]で漢字と英数字を切り替えることを、[[EUC-JP]]は[[JIS X 0212|補助漢字]]と半角カナをシングルシフトで切り替えることを指す。
また、[[ビット演算]]の「[[ビット演算#シフト|ビットシフト]]」とも関係がない。
=== 別名 ===
「'''MS_Kanji'''」は、IANAによりShift_JISの別名として割り当てられている<ref name="iana-charsets"/>。
「'''x-sjis'''」は、IANAに「Shift_JIS」が登録される以前に[[Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)|Netscape Navigator]] 2.0において使っていた[[文字符号化方式|エンコーディング]]の指定子名である。[[HyperText Markup Language|HTML]]ドキュメントの「charset」の指定にShift_JISの別名として使える[[HTMLレンダリングエンジン|ブラウザエンジン]]がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[Shift_JIS-2004]]
* [[JIS X 0208]]
* [[EUC-JP]]
* [[文字化け]]
{{文字コード}}
{{DEFAULTSORT:しふとしす}}
[[Category:文字コード]]
[[Category:日本語用の文字コード]] | 2003-03-05T05:21:43Z | 2023-09-30T07:10:37Z | false | false | false | [
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
"Template:0",
"Template:文字コード",
"Template:十六進",
"Template:Shift JISの符号表",
"Template:Font color",
"Template:Visible anchor",
"Template:Reflist",
"Template:Main2",
"Template:Shift JIS拡張の符号表",
"Template:En"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Shift_JIS |
3,441 | ECMAScript | ■カテゴリ / ■テンプレート
ECMAScript(エクマスクリプト)は、Ecma Internationalもとで標準化されたJavaScriptの規格である。ISO/IEC JTC 1はISO/IEC 16262として、日本もJIS X 3060:2000として規格を定めている。
ECMAScript仕様は、Ecma InternationalにてECMA-262という規格番号で標準化されている。改訂にあたっては版 (edition) が更新されている。
6th editionから、「ECMAScript 2015」仕様の名称に発行年が付加されることになった。以降、ECMAScriptは毎年改訂されることになり、以降特定の版を指す場合は、edition名ではなく年号つきの仕様書名で呼ばれることが推奨されている。
ECMAScriptにはいくつかの拡張が存在する。
EcmaはECMAScriptのための "Compact Profile" も定義した — ES-CP、あるいはECMA 327として知られる — リソースの厳しいデバイス用にデザインされている。ECMAScriptのいくつかの動的な機能(『eval』関数など)はオプションにされている。これにより、処理系はプログラムの振る舞いに対してより多くの仮定ができるようになり、その結果、より良いパフォーマンス・トレードオフを実行時に得ることができるようになる。 HD DVD standardはECMAScript Compact Profileに準拠し、完全なECMAScriptの支援をより少ないメモリのデバイスで実行できるよう採用している。
ECMAScript は、ウェブブラウザをはじめとする多くのアプリケーションでサポートされている。DOMとの連携はドキュメントの操作を可能にする。
ECMAScript 4は過去2回仕様作成が挑戦されたが、仕様がまとまらず、失敗に終わっている。
2000年〜2003年ごろ行われた。主に、旧Netscape社とマイクロソフトによって行われたが、意見がまとまらずに、打ち切りとなった。この時の案はActionScriptへと引き継がれた。
2007年〜2008年ごろ、2回目の仕様作成が行われた。大きく機能を追加される予定であったが、意見がまとまらず、2008年8月13日に、小規模の改善にとどまる、ECMAScript 3.1を進めることとなった。仕様は、http://www.ecmascript.org/docs.php にて公開されている。
以下のような予定があった。 | [
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"text": "ECMAScriptにはいくつかの拡張が存在する。",
"title": "バージョン"
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"text": "EcmaはECMAScriptのための \"Compact Profile\" も定義した — ES-CP、あるいはECMA 327として知られる — リソースの厳しいデバイス用にデザインされている。ECMAScriptのいくつかの動的な機能(『eval』関数など)はオプションにされている。これにより、処理系はプログラムの振る舞いに対してより多くの仮定ができるようになり、その結果、より良いパフォーマンス・トレードオフを実行時に得ることができるようになる。 HD DVD standardはECMAScript Compact Profileに準拠し、完全なECMAScriptの支援をより少ないメモリのデバイスで実行できるよう採用している。",
"title": "バージョン"
},
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"text": "ECMAScript は、ウェブブラウザをはじめとする多くのアプリケーションでサポートされている。DOMとの連携はドキュメントの操作を可能にする。",
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"text": "ECMAScript 4は過去2回仕様作成が挑戦されたが、仕様がまとまらず、失敗に終わっている。",
"title": "ECMAScript 4"
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"text": "2000年〜2003年ごろ行われた。主に、旧Netscape社とマイクロソフトによって行われたが、意見がまとまらずに、打ち切りとなった。この時の案はActionScriptへと引き継がれた。",
"title": "ECMAScript 4"
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"text": "2007年〜2008年ごろ、2回目の仕様作成が行われた。大きく機能を追加される予定であったが、意見がまとまらず、2008年8月13日に、小規模の改善にとどまる、ECMAScript 3.1を進めることとなった。仕様は、http://www.ecmascript.org/docs.php にて公開されている。",
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"text": "以下のような予定があった。",
"title": "ECMAScript 4"
}
] | ECMAScript(エクマスクリプト)は、Ecma Internationalもとで標準化されたJavaScriptの規格である。ISO/IEC JTC 1はISO/IEC 16262として、日本もJIS X 3060:2000として規格を定めている。 | {{出典の明記|date=2020年6月}}
{{Infobox プログラミング言語
| fetchwikidata = ALL
| onlysourced = false
| name = ECMAScript
| released = {{start date and age|1997}}
| latest release version = ECMA-262 12th Edition (ECMAScript 2021)<ref name="ES2021">{{cite web|date=June 2021|title=ECMAScript 2021 Language Specification|url=https://262.ecma-international.org/12.0/|publisher=[[Ecma International]]|accessdate=2021-08-16}}</ref>
| latest release date = {{Start date and age|2021|06}}
| dialects = [[JavaScript]], [[ActionScript]], [[JScript]], [[QtScript]], [[DMDScript]], [[InScript]]
| typing = [[ダック・タイピング]]、弱い[[動的型付け]]
| website = {{ConditionalURL}}
}}
{{Infobox file format
| name = ECMAScript
| icon = [[ファイル:Crystal source.png]]
| logo =
| screenshot =
| caption =
| extension = <code>.es</code>
| mime = text/javascript<ref>過去には {{IETF RFC|4329}} で「application/ecmascript」とされていたが、互換性のために {{IETF RFC|9239}} で廃止(OBSOLETE)され「text/javascript」に統一された。</ref>
| type code =
| uniform type =
| magic =
| owner = [[サン・マイクロシステムズ]]<br />[[Ecma International]]
| released = {{release date and age|1997|6}}
| latest release version = 10th Edition
| latest release date = {{release date and age|2019|6}}
| genre = [[スクリプト言語]]
| container for =
| contained by =
| extended from = [[JavaScript]]
| extended to =
| standard =
| url = {{unbulleted list
|* [https://www.ecma-international.org/publications/standards/Ecma-262.htm ECMA-262]
|* [https://www.ecma-international.org/publications/standards/Ecma-290.htm ECMA-290]
|* [https://www.ecma-international.org/publications/standards/Ecma-327.htm ECMA-327]
}}
}}
{{プログラミング言語}}
'''ECMAScript'''(エクマスクリプト)は、[[Ecma International]]もとで標準化された[[JavaScript]]の規格である。[[ISO/IEC JTC 1]]はISO/IEC 16262<ref>ISO/IEC 16262は、[https://www.iso.org/standard/29696.html ISO/IEC 16262:1998]→[https://www.iso.org/standard/33835.html ISO/IEC 16262:2002]→[https://www.iso.org/standard/55755.html ISO/IEC 16262:2011]と改訂されてきたが、2021年8月時点の最新の[https://www.iso.org/standard/73002.html ISO/IEC 22275:2018 Information technology — Programming languages, their environments, and system software interfaces — * ECMAScript Specification Suite]として、
* ECMA-262, ECMAScript Language Specification
* ECMA-402, ECMAScript Internationalization API Specification
* ISO/IEC 21778, Information technology — The JSON data interchange syntax (Adoption of ECMA-404)
の最新規格を一括して参照するようになった。</ref>として、日本もJIS X 3060:2000として規格を定めている<ref>JIS X 3060:2000は、ISO/IEC 16262:1998(ES1相当)の日本語訳。</ref><ref>{{Cite web|和書|
| url = https://webdesk.jsa.or.jp/books/W11M0090/index/?bunsyo_id=JIS+X+3060%3A2000
| title = JIS X 3060:2000, ECMAScript言語, Information technology -- ECMAScript language specification
| date = 2000-06-30
| accessdate = 2021-08-16
| quote = 対応国際規格:ISO/IEC 16262:1998 (IDT); IDT=identical(一致)
}}</ref>。
__TOC__
==バージョン==
{{更新|date=2022年3月}}
ECMAScript仕様は、Ecma InternationalにてECMA-262という規格番号で標準化されている。改訂にあたっては版 (edition) が更新されている。
6th editionから、「ECMAScript 2015」仕様の名称に発行年が付加されることになった。以降、ECMAScriptは毎年改訂されることになり、以降特定の版を指す場合は、edition名ではなく年号つきの仕様書名で呼ばれることが推奨されている<ref>http://www.wirfs-brock.com/allen/posts/778</ref>。
{| class="wikitable"
|- style="background:#ccf;"
!Edition
!公開日
!以前のバージョンとの違い
!編集者
|-
|1
|1997年6月
|初版
|[[ガイ・スティール・ジュニア|Guy L. Steele, Jr.]]
|-
|2
|1998年6月
|Editionとしての仕様はそのままであり、ISO/IEC 16262 international standardに完全な対応をした
|Mike Cowlishaw
|-
|3
|1999年12月
|正規表現、よりよい文字列の取り扱い、新しいコントロール構文、try/catch例外処理、より厳格なエラー処理、数字のその他の書式化フォーマット
|Mike Cowlishaw
|-
|4
|放棄
|4th Editionは放棄された。言語の複雑化に関する政治的な差異による。いくつかの成果は5thの基礎として採用され、いくつかは6thの基礎となっている。
|
|-
|5
|2009年12月
|"strictモード"、初期化時に発生しがちなエラーを回避するための追加仕様の追加。多くの曖昧な部分、および仕様に準拠しつつも現実世界の実装の融通の利く振る舞いを明確にした。いくらかの新機能、getterやsetter、[[JavaScript Object Notation|JSON]][[ライブラリ]]のサポート、より完全な[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]]の[[属性]]の[[リフレクション (情報工学)|リフレクション]]<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=Kq4FpMe6cRs JavaScriptの変更, Part 1: EcmaScript 5]</ref>
| Pratap Lakshman, Allen Wirfs-Brock
|-
|5.1
|2011年6月
|
|Pratap Lakshman, Allen Wirfs-Brock
|-
|6 (2015)
|2015年6月
|[[クラス (コンピュータ)|クラス]]、[[モジュール]]、イテレータ、for/ofループ、[[Python]]スタイルのジェネレータ、アロー関数、2進数および8進数の整数リテラル、Map、Set、WeakMap、WeakSet、プロキシ、テンプレート文字列、let、const、型付き配列、デフォルト引数、Symbol、Promise、分割代入、可変長引数
|Allen Wirfs-Brock
|-
|7 (2016)
|2016年6月
|冪乗演算子、Array.prototype.includes
|Brian Terlson
|-
|8 (2017)
|2017年6月
|非同期関数 ([[async/await]])、SharedArrayBufferとAtomics、String.padStart/padEnd、Object.values/entries、Object.getOwnPropertyDescriptors、関数の引数における末尾のカンマ許容
|
|-
|9 (2018)
|2018年6月
|オブジェクトに対するスプレッド構文、非同期イテレーション、Promise.prototype.finally、正規表現への機能追加
| Brian Terlson
|-
|10 (2019)
|2019年6月
|Array.prototype.flat、Array.prototype.flatMap、Object.fromEntriesの追加、他
|Brian Terlson, Bradley Farias, Jordan Harband
|-
|11 (2020)
|2020年6月
|[[Null条件演算子|オプショナルチェイニング演算子]]<code>?.</code>、[[Null合体演算子]]<code>??</code>、BigIntの追加、他
|Jordan Harband, Kevin Smith
|}
ECMAScriptにはいくつかの拡張が存在する。
* ECMA-357 ([[ECMAScript for XML]]) - 2004年公開、E4Xとして知られる
* ECMA-402(国際化API) - 2012年公開
* ECMA-404 (JSON) - 2013年公開
EcmaはECMAScriptのための "Compact Profile" も定義した — ES-CP、あるいはECMA 327として知られる — リソースの厳しいデバイス用にデザインされている。ECMAScriptのいくつかの動的な機能(『eval』関数など)はオプションにされている。これにより、処理系はプログラムの振る舞いに対してより多くの仮定ができるようになり、その結果、より良いパフォーマンス・トレードオフを実行時に得ることができるようになる。
[[HD DVD]] standardはECMAScript Compact Profileに準拠し、完全なECMAScriptの支援をより少ないメモリのデバイスで実行できるよう採用している。
== 文法 ==
{{main|JavaScript#文法}}
== 方言およびその呼称 ==
ECMAScript は、[[ウェブブラウザ]]をはじめとする多くの[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]でサポートされている。[[Document Object Model|DOM]]との連携はドキュメントの操作を可能にする。
{| class="wikitable"
|-
!アプリケーション
!呼称
!最新バージョン
!対応するECMAScriptリビジョン
|-
|[[Mozilla]]およびその派生品
|[[JavaScript]]
|1.8.5
|ECMA-262 5.1 edition<br/>ECMA-357<ref group="呼称">Mozillaは[http://www.mozilla.org/releases/mozilla1.8b1/README.html 1.8 Beta 1]以降で[[ECMAScript for XML|E4X]]をサポートしている。</ref>
|-
|rowspan="2" | [[Internet Explorer]]
|[[JScript]](IE8まで)
|5.8
|ECMA-262 3rd edition
|-
|JavaScript (Chakra)
|11.0
|ECMA-262 5.1 edition
|-
|[[Google Chrome]]<br>[[Opera]]
|JavaScript
|
|ECMA-262 5.1 edition
|-
|[[Safari]] (JSCore)
|JavaScript
|
|ECMA-262 5.1 edition
|-
|[[Konqueror]] (KJS)
|JavaScript
|
|ECMA-262 3rd edition
|-
|[[iCab]]
|InScript
|
|ECMA-262 3rd edition
|-
|[[.NET Framework|Microsoft .NET]]
|[[JScript .NET]]
|10.0
|ECMA-262 4th草案 <ref group="呼称">2001年頃の[[マイクロソフト]]の草案であり、独自に開発を進めたもので、現在のECMAScript 4草案とは大きく異なる。</ref>
|-
|[[Adobe Flash]]
|[[ActionScript]]
|3
|ECMA-262 4th草案 <ref group="呼称">2001年頃のNetscapeの草案に近く、現在のECMAScript 4草案のサブセットに近い。</ref><br/>ECMA-357
|-
|[[Adobe Acrobat]]
|JavaScript
|1.5
|ECMA-262 3rd edition
|-
|[[Adobe Creative Suite]]
|[[ExtendScript]]
|
|ECMA-262 3rd edition
|-
|[[DMDScript]]
|[[DMDScript]]
|
|ECMA-262 3rd edition
|-
|[[Qt]]
|[[QtScript]]
|
|ECMA-262 3rd edition
|-
|[[Max/MSP]]
|JavaScript
|1.5
|ECMA-262 3rd edition
|}
{{Reflist|group=呼称}}
== ECMAScript 4 ==
{{See also|JavaScript#JavaScript 2.0}}
ECMAScript 4は過去2回仕様作成が挑戦されたが、仕様がまとまらず、失敗に終わっている。
=== 1回目 ===
2000年〜2003年ごろ行われた。主に、旧[[ネットスケープコミュニケーションズ|Netscape]]社<ref>https://www-archive.mozilla.org/js/language/old-es4</ref>と[[マイクロソフト]]によって行われたが、意見がまとまらずに、打ち切りとなった。この時の案は[[ActionScript]]へと引き継がれた。
=== 2回目 ===
2007年〜2008年ごろ、2回目の仕様作成が行われた。大きく機能を追加される予定であったが、意見がまとまらず、[[2008年]][[8月13日]]に、小規模の改善にとどまる、ECMAScript 3.1を進めることとなった<ref>https://mail.mozilla.org/pipermail/es-discuss/2008-August/003400.html</ref>。仕様は、http://www.ecmascript.org/docs.php にて公開されている。
以下のような予定があった。
* 大規模・大人数開発のための機能の追加{{要出典|date=2011年2月}}<!--というか具体的に-->
* 型に関する機能の追加{{要出典|date=2011年2月}}<!--これも具体的に-->
* [[ジェネリックプログラミング]]の機能の追加
* ECMAScript 3 が下位互換だが、互換でない仕様が一部に入る{{要出典|date=2011年2月}}<!--これも具体的に-->
* ActionScript 3 の上位互換だが、互換でない仕様が一部に入る{{要出典|date=2011年2月}}<!--これも具体的に-->
== 実装 ==
* [[V8 (JavaScriptエンジン)|V8]] - C++ - Google Chromeブラウザで使われている
* [[Rhino]] ([http://www.mozilla.org/rhino/ Rhino]) - Java
* [[Narcissus]] - JavaScript
* [[SpiderMonkey]] ([http://www.mozilla.org/js/spidermonkey/ SpiderMonkey]) - C - Firefox/Mozillaブラウザで使われている
* [http://webcvs.kde.org/kdelibs/kjs/ KJS] - C++ - KDEのKonquerorブラウザで使われている
* [http://developer.apple.com/darwin/projects/webcore/ JavaScriptCore] - C++ - MAC OS XのSafariブラウザやdashboardで使われている。KJSベース
* [http://www.njs-javascript.org/ NJS] - C
* [http://www.adaptive-enterprises.com.au/~d/software/see/ SEE - Simple ECMAScript Engine] - C
* [http://ixlib.sourceforge.net/ ixlib] - C++
* [http://www.trolltech.com/products/qsa/ QSA - Qt Script for Applications] - C++
* [http://www.digitalmars.com/dscript/ DMDScript] - C++/D
* [https://osdn.net/projects/dmonkey/ DMonkey] - Delphi
* [http://www.lugrin.ch/fesi/ FESI - Free EcmaScript Interpreter] - Java
* [http://scriptonite.sourceforge.net/ Scriptonite] - Java
* [http://www.xwt.org/ xwt] - Java
* [http://janet-js.sourceforge.net/ JANET] - Java
* [http://www.mozilla.org/js/language/Epimetheus.html Epimetheus] - C++ - Mozillaプロジェクトによる以前のECMAScript Edition 4草案の実装
==脚注==
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[ECMAScript for XML]] (E4X)
* [[JavaScript Object Notation]] (JSON)
* [[CommonJS]]
* [[TypeScript]]: JavaScriptの構文を保ちつつ、型に関する機能を外部的に追加したプログラミング言語
== 外部リンク ==
{{外部リンクの注意|section=1}}
* [https://www.ecma-international.org/ ECMAScript]
* ECMAScript言語仕様
** [https://www.ecma-international.org/publications/standards/Ecma-262.htm Standard ECMA-262]
*** [https://www.ecma-international.org/publications/files/ECMA-ST-ARCH/ECMA-262,%203rd%20edition,%20December%201999.pdf ECMA-262 ECMAScript Language Specification 3rd edition (December 1999)]
*** [https://www.ecma-international.org/publications/files/ECMA-ST-ARCH/ECMA-262%205th%20edition%20December%202009.pdf ECMA-262 ECMAScript Language Specification 5th edition (December 2009)]
*** [https://www.ecma-international.org/ecma-262/5.1/index.html ECMA-262 ECMAScript Language Specification 5.1 edition (June 2011)]
*** [https://www.ecma-international.org/ecma-262/6.0/index.html Standard ECMA-262 6th Edition / June 2015 ECMAScript 2015 Language Specification]
*** [https://www.ecma-international.org/ecma-262/12.0/index.html Standard ECMA-262 12th Edition / June 2015 ECMAScript 2021 Language Specification]
** [https://tc39.es/ecma262/ The most accurate and up-to-date ECMAScript Language Specification]
** [https://www.ecma-international.org/publications/standards/Ecma-290.htm Standard ECMA-290 ECMAScript Components Specification (June 1999)]
** [https://www.ecma-international.org/publications/standards/Ecma-327.htm Standard ECMA-327 ECMAScript 3rd Edition Compact Profile (June 2001)]
** [http://www2u.biglobe.ne.jp/~oz-07ams/2002/ecma262r3/index.html Under Translation of ECMA-262 3rd Edition(日本語訳)]
{{ECMAScript}}
{{プログラミング言語一覧}}
[[Category:JavaScript|*]]
[[Category:スクリプト言語]]
[[Category:Ecma]] | 2003-03-05T05:22:07Z | 2023-11-07T14:54:35Z | false | false | false | [
"Template:外部リンクの注意",
"Template:出典の明記",
"Template:Infobox プログラミング言語",
"Template:Infobox file format",
"Template:プログラミング言語",
"Template:Reflist",
"Template:See also",
"Template:要出典",
"Template:ECMAScript",
"Template:更新",
"Template:Main",
"Template:Cite web",
"Template:プログラミング言語一覧"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/ECMAScript |
3,443 | EUC-JP | EUC-JP(Extended UNIX Code Packed Format for Japanese、日本語EUC)は日本語の文字を扱う場合に利用されてきた文字コード(符号化方式)のひとつである。
1980年代中頃、当時UNIXのライセンス事業を展開していたAT&TがUNIXの日本語化に向けて、日本のUNIXベンダーをメンバーとする日本語UNIXシステム諮問委員会を設置。ここでUNIXで日本語を扱うための文字コードについて議論が行われ、議論の結果をもとに同委員会から報告書がAT&T側へ出され、AT&Tにより定められた日本語機能のガイドラインがEUC-JPの起こりである。この時、AT&TからExtended Unix Code (EUC) として日本語に限らず多言語に対応できるように定められ、EUCのうち日本語を扱うものを特にEUC-JPなどと呼ぶ。他に、EUC-KR(韓国語)、EUC-CN(簡体中国語)等がある。
EUC-JPはEUCのエンコード方式上にASCIIとJIS X 0208文字集合を配置したもので、半角カナ (JIS X 0201) とJIS補助漢字 (JIS X 0212) も含むことができる。半角カナと補助漢字を使用しない場合は、JIS X 0208で規定されている符号化方式「国際基準版・漢字用8ビット符号」と同一となる。ISO/IEC 2022に適合する。
日本語文字はJIS X 0208をGR領域に表現したものを基本としており、2バイトで表現され、1バイト目、2バイト目ともに0x80 - 0xFFの範囲内にある。このため英数字と日本語文字の区別がしやすく、プログラム上での扱いが楽である。ただし、半角カナはISO-2022-JPやShift_JISと異なり制御文字SS2(シングルシフトツー、0x8E)に続けて現れるので都合2バイト、補助漢字は制御文字SS3(シングルシフトスリー、0x8F)に続けて現れるので都合3バイトを要する。
JIS X 0213:2004に対応するEUCコードはEUC-JIS-2004(2000年初版時はEUC-JISX0213)。
UNIX系OSの標準的な文字エンコードとして使用されてきた。かつて、WebサーバにUNIX系OSが多く用いられていたことから日本語のウェブサイトではShift_JISと並んでEUC-JPが多く使われていたが、2006年頃から世界的にUTF-8が普及し始めている。全言語の主要なウェブサイトに占めるEUC-JPのシェアは、2010年から2019年にかけて0.7%から0.1%に低下している。
1984年7月、当時UNIXのライセンスを販売していたAT&Tが東アジア・太平洋地域でライセンス事業を展開するため、子会社のAT&Tインターナショナル・ジャパンにUNIXシステム東京事務所(AT&Tユニックス・パシフィック)を設立。最初に日本で事業を展開するにあたり、UNIXの日本語化に向けて石田晴久を委員長に、日本電信電話公社、沖電気工業、東芝、日本電気、日立製作所、富士通、三菱電機といった当時のUNIXベンダーをメンバーとする日本語UNIXシステム諮問委員会を設置した。ここでUNIXで日本語を扱うための文字コードや機能について議論が行われ、その結果をもとに1985年4月30日付けで同委員会から報告書『UNIXシステム日本語機能の提案にあたって』がAT&T側へ提出された。日本語EUCとしてのベースはこの報告書で概ね出来上がっていたが、AT&Tはこれを国際的に通用するよう、国際機能と各国語機能に分けて定義した。そして1986年2月にアナハイムで開催されたUNIXカンファレンス UniForum にて、各国語機能のサポート第1弾として Japanese Application Environment (JAE; 日本語アプリケーション・エンバイロメント) を発表。この中に文字コードの構造 (EUC) と日本語機能で使用される文字セットが定められた。
1990年にJIS X 0212で補助漢字が制定されたことを受けて定義を拡張する必要が生じたため、1991年12月、Open Software Foundation (OSF) とUNIX International (UI)、UNIXシステムラボラトリーズ・パシフィック (USLP) はUNIX上の共通日本語文字コードとして日本語EUCを定義した。
EUC-JPには亜種が存在する。二種類を以下に解説する。
eucJP-msは、オープン・グループ及び日本ベンダ協議会が策定した文字符号化方式。実装例はMySQL v5.0以降等。
CP51932はマイクロソフトがWindowsで使用しているWindows-31JのEUC-JP互換表現。実装例はInternet Explorer4.0以降、EmEditor、秀丸エディタ等。このコードはNECのPC-9800シリーズの漢字コード(9区から12区の特殊文字を除外したもの)をGR表現したような体裁を持つ。ただし、PC-9800シリーズの漢字コードはJIS C 6226-1978をベースにするのに対して、CP51932はJIS X 0208-1990をベースとする点が異なる。 | [
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] | EUC-JPは日本語の文字を扱う場合に利用されてきた文字コード(符号化方式)のひとつである。 1980年代中頃、当時UNIXのライセンス事業を展開していたAT&TがUNIXの日本語化に向けて、日本のUNIXベンダーをメンバーとする日本語UNIXシステム諮問委員会を設置。ここでUNIXで日本語を扱うための文字コードについて議論が行われ、議論の結果をもとに同委員会から報告書がAT&T側へ出され、AT&Tにより定められた日本語機能のガイドラインがEUC-JPの起こりである。この時、AT&TからExtended Unix Code (EUC) として日本語に限らず多言語に対応できるように定められ、EUCのうち日本語を扱うものを特にEUC-JPなどと呼ぶ。他に、EUC-KR(韓国語)、EUC-CN(簡体中国語)等がある。 EUC-JPはEUCのエンコード方式上にASCIIとJIS X 0208文字集合を配置したもので、半角カナ とJIS補助漢字 も含むことができる。半角カナと補助漢字を使用しない場合は、JIS X 0208で規定されている符号化方式「国際基準版・漢字用8ビット符号」と同一となる。ISO/IEC 2022に適合する。 日本語文字はJIS X 0208をGR領域に表現したものを基本としており、2バイトで表現され、1バイト目、2バイト目ともに0x80 - 0xFFの範囲内にある。このため英数字と日本語文字の区別がしやすく、プログラム上での扱いが楽である。ただし、半角カナはISO-2022-JPやShift_JISと異なり制御文字SS2(シングルシフトツー、0x8E)に続けて現れるので都合2バイト、補助漢字は制御文字SS3(シングルシフトスリー、0x8F)に続けて現れるので都合3バイトを要する。 JIS X 0213:2004に対応するEUCコードはEUC-JIS-2004(2000年初版時はEUC-JISX0213)。 UNIX系OSの標準的な文字エンコードとして使用されてきた。かつて、WebサーバにUNIX系OSが多く用いられていたことから日本語のウェブサイトではShift_JISと並んでEUC-JPが多く使われていたが、2006年頃から世界的にUTF-8が普及し始めている。全言語の主要なウェブサイトに占めるEUC-JPのシェアは、2010年から2019年にかけて0.7%から0.1%に低下している。 | '''EUC-JP'''('''E'''xtended '''U'''NIX '''C'''ode Packed Format for '''J'''a'''p'''anese、'''日本語EUC''')は[[日本語]]の文字を扱う場合に利用されてきた[[文字コード]]([[文字符号化方式|符号化方式]])のひとつである。
1980年代中頃、当時[[UNIX]]のライセンス事業を展開していた[[AT&T]]がUNIXの日本語化に向けて、日本のUNIXベンダーをメンバーとする日本語UNIXシステム諮問委員会を設置。ここでUNIXで日本語を扱うための文字コードについて議論が行われ、議論の結果をもとに同委員会から報告書がAT&T側へ出され、AT&Tにより定められた日本語機能のガイドラインがEUC-JPの起こりである。この時、AT&Tから[[Extended Unix Code]] ('''EUC''') として日本語に限らず[[多言語]]に対応できるように定められ、EUCのうち日本語を扱うものを特にEUC-JPなどと呼ぶ。他に、[[EUC-KR]](韓国語)、[[EUC-CN]](簡体中国語)等がある。
EUC-JPはEUCの[[文字符号化方式|エンコード方式]]上に[[ASCII]]と[[JIS X 0208]]文字集合を配置したもので、[[半角カナ]] ([[JIS X 0201]]) とJIS補助漢字 ([[JIS X 0212]]) も含むことができる。半角カナと補助漢字を使用しない場合は、JIS X 0208で規定されている符号化方式「国際基準版・漢字用8ビット符号」と同一となる。[[ISO/IEC 2022]]に適合する。
日本語文字は[[JIS X 0208]]を[[ISO/IEC_2022|GR領域]]に表現したものを基本としており、2バイトで表現され、1バイト目、2バイト目ともに0x80 - 0xFFの範囲内にある。このため英数字と日本語文字の区別がしやすく、[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]上での扱いが楽である。ただし、半角カナは[[ISO-2022-JP]]や[[Shift_JIS]]と異なり制御文字SS2(シングルシフトツー、0x8E)に続けて現れるので都合2バイト、補助漢字は制御文字SS3(シングルシフトスリー、0x8F)に続けて現れるので都合3バイトを要する。
[[JIS X 0213]]:2004に対応するEUCコードは[[EUC-JIS-2004]](2000年初版時はEUC-JISX0213)。
UNIX系OSの標準的な文字エンコードとして使用されてきた。かつて、[[Webサーバ]]にUNIX系OSが多く用いられていたことから日本語のウェブサイトではShift_JISと並んでEUC-JPが多く使われていたが、2006年頃から世界的に[[UTF-8]]が普及し始めている<ref>{{Cite web |title=Unicode over 60 percent of the web |url=https://googleblog.blogspot.com/2012/02/unicode-over-60-percent-of-web.html |website=Official Google Blog |access-date=2023-02-05 |language=en |date=2012-02-03 |last=Davis |first=Mark}}</ref>。全言語の主要なウェブサイトに占めるEUC-JPのシェアは、2010年から2019年にかけて0.7%から0.1%に低下している<ref>{{Cite web |title=Historical yearly trends in the usage statistics of character encodings for websites |url=https://w3techs.com/technologies/history_overview/character_encoding/ms/y |website=W3Techs |access-date=2023-02-05 |archive-url=https://archive.today/2021.06.08-122120/https://w3techs.com/technologies/history_overview/character_encoding/ms/y |archive-date=2021-06-08}}</ref>。
== 制定経緯 ==
1984年7月、当時UNIXのライセンスを販売していたAT&Tが東アジア・太平洋地域でライセンス事業を展開するため、子会社のAT&Tインターナショナル・ジャパンにUNIXシステム東京事務所(AT&Tユニックス・パシフィック)を設立。最初に日本で事業を展開するにあたり、UNIXの日本語化に向けて[[石田晴久]]を委員長に、[[日本電信電話公社]]、[[沖電気工業]]、[[東芝]]、[[日本電気]]、[[日立製作所]]、[[富士通]]、[[三菱電機]]といった当時のUNIXベンダーをメンバーとする日本語UNIXシステム諮問委員会を設置した。ここでUNIXで日本語を扱うための文字コードや機能について議論が行われ、その結果をもとに1985年4月30日付けで同委員会から報告書『UNIXシステム日本語機能の提案にあたって』がAT&T側へ提出された<ref>{{Cite journal|和書|author=AT&Tユニックス・パシフィック|year=1985|title=AT&Tおよび日本企業によるUNIXシステムV日本語機能の開発について|journal=情報科学|volume=21|issue=5|pages=46-62|publisher=情報科学研究所|ISSN=0368-3354}}</ref>。日本語EUCとしてのベースはこの報告書で概ね出来上がっていたが、AT&Tはこれを国際的に通用するよう、国際機能と各国語機能に分けて定義した。そして1986年2月に[[アナハイム]]で開催されたUNIXカンファレンス UniForum にて、各国語機能のサポート第1弾として Japanese Application Environment (JAE; 日本語アプリケーション・エンバイロメント) を発表。この中に文字コードの構造 (EUC) と日本語機能で使用される文字セットが定められた<ref>{{Cite journal|和書|author=門田|first=次郎|year=1986|title=日本市場におけるAT&TのUNIX戦略―これからのシステムV日本語機能の展開|journal=コンピュートピア|volume=20|issue=236|pages=72-75|publisher=コンピュータ・エージ社|ISSN=0010-4906}}</ref>。
1990年に[[JIS X 0212]]で補助漢字が制定されたことを受けて定義を拡張する必要が生じたため、1991年12月、[[Open Software Foundation]] (OSF) と[[UNIX International]] (UI)、UNIXシステムラボラトリーズ・パシフィック (USLP) はUNIX上の共通日本語文字コードとして'''日本語EUC'''を定義した<ref>{{Cite journal|和書|year=1992|title=UNIXの標準化2団体日本語EUC共通化|journal=標準化ジャーナル|volume=22|issue=3|page=90|publisher=日本規格協会|ISSN=0285-600X}}</ref>。
== EUC-JPの亜種 ==
EUC-JPには亜種が存在する。二種類を以下に解説する。
'''eucJP-ms'''は、[[オープン・グループ]]及び[[日本ベンダ協議会]]が策定した文字符号化方式。実装例は[[MySQL]] v5.0以降等。
'''CP51932'''は[[マイクロソフト]]が[[Microsoft Windows|Windows]]で使用している[[Microsoftコードページ932|Windows-31J]]のEUC-JP互換表現。実装例は[[Internet Explorer]]4.0以降、[[EmEditor]]、[[秀丸エディタ]]等。このコードは[[日本電気|NEC]]の[[PC-9800シリーズ]]の漢字コード(9区から12区の特殊文字を除外したもの)をGR表現したような体裁を持つ。ただし、PC-9800シリーズの漢字コードは[[JIS C 6226]]-1978をベースにするのに対して、CP51932は[[JIS X 0208]]-1990をベースとする点が異なる。
{| class="wikitable"
|-----
! rowspan="2" |
! colspan="3" | CP51932
! colspan="4" | eucJP-ms
|-----
! 面&区番号
! 1バイト目
! 2バイト目
! 面&区番号
! 1バイト目
! 2バイト目
! 3バイト目
|-----
! JIS X 0208-1990<br />(ひらがな・カタカナ等)
| 1面1区 - 8区 || 0xA1 - 0xA8 || rowspan="4" | 0xA1 - 0xFE
| 1面1区 - 8区 || 0xA1 - 0xA8
| rowspan="3" | 0xA1 - 0xFE || rowspan="5" | ―
|-----
! NEC特殊文字
| 1面13区 || 0xAD || 1面13区 || 0xAD
|-----
! JIS X 0208-1990<br />(第一・第二水準漢字)
| 1面14区 - 84区 || 0xB0 - 0xF4 || 1面14区 - 84区 || 0xB0 - 0xF4
|-----
! NEC選定IBM拡張文字
| 1面89区 - 92区 || 0xF9 - 0xFC || ― || ― || ―
|-----
! ユーザ定義文字<br />(前半)
| rowspan="5" | ― || rowspan="5" | ― || rowspan="5" | ―
| 1面85区 - 94区 || 0xF5 - 0xFE || 0xA1 - 0xFE
|-----
! JIS X 0212-1990<br />(前半)
| 2面1区 - 11区 || rowspan="4" | 0x8F || 0xA1 - 0xAB
| rowspan="4" | 0xA1 - 0xFE
|-----
! JIS X 0212-1990<br />(後半)
| 2面16区 - 77区 || 0xB0 - 0xED
|-----
! IBM拡張文字<br />(JIS X 0212 以外)
| 2面83区 - 84区 || 0xF3 - 0xF4
|-----
! ユーザ定義文字<br />(後半)
| 2面85区 - 94区 || 0xF5 - 0xFE
|}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |title=UNIX System V 日本語アプリケーション・エンバイロメント リリース 1.0 機能導入説明書 |publisher=AT&Tユニックス・パシフィック |year=1986}}
* {{Cite journal|和書|last=中原|first=康|year=1986|title=III. 日本語処理技術|url=https://doi.org/10.11526/ieejjournal1888.106.1198|journal=電氣學會雜誌|volume=106|issue=12|pages=1198-1202|ISSN=0020-2878}}
* 小野芳彦: UNIXの日本語化の実現方法, 情報処理, Vol.27, No.12 (1986年12月), pp.1393-1400.
* 中原康: 日本語EUCの定義と解説, Revision 1.7, UI-OSF-USLP共同技術資料 (1991年12月10日).
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3,447 | クロード・シャノン | クロード・エルウッド・シャノン(Claude Elwood Shannon, 1916年4月30日 - 2001年2月24日)はアメリカ合衆国の電気工学者、数学者。20世紀科学史における、最も影響を与えた科学者の一人である。
情報理論の考案者であり、「情報理論の父」と呼ばれた。情報、通信、暗号、データ圧縮、符号化など今日の情報社会に必須の分野の先駆的研究を残した。アラン・チューリングやジョン・フォン・ノイマンらとともに今日のコンピュータ技術の基礎を作り上げた人物として、しばしば挙げられる。
シャノンが生まれたとき、家族はミシガン州ゲイロード(英語版)に住んでおり、クロードは近くのペタスキー(英語版)の病院で生まれた。 父のクロード・シニア(1862-1934)は実業家で、ゲイロードの検認判事(英語版)を務めたこともある。母のメイベル・ウルフ・シャノン(1890-1945)は語学の教師で、ゲイロード高校の校長も務めた。父方の祖先はニュージャージーへの入植者であり、母はドイツ系移民の子供だった。
シャノンはゲイロードで育ち、1932年にゲイロード高校を卒業した。シャノンは機械や電気に興味を持っていた。得意科目は理科と数学だった。家では、飛行機の模型やラジコンボートを作ったり、半マイル離れた友人の家まで電線を張って電信システムを構築したりしていた。高校時代には、ウエスタンユニオン社の電報配達のアルバイトや百貨店でのラジオ修理などをしていた。
シャノンは子供時代にトーマス・エジソンに憧れていたが、後に自身の遠縁に当たることを知った。どちらの家系も、植民地時代の指導者で多くの著名人の祖先であるジョン・オグデン(英語版)(1609-1682)の子孫である。
1932年にミシガン大学に入学し、そこでジョージ・ブールの研究に触れた。1936年、電気工学と数学の学士号を取得して卒業した。
ミシガン大学を卒業したシャノンは、マサチューセッツ工科大学の電気工学科に進んだ。そこでヴァネヴァー・ブッシュの下、微分解析機の保守に携わった。1937年の夏、ベル研究所でブール代数とスイッチング回路の融合を考えつき、同年、修士論文「リレーとスイッチ回路の記号論的解析」としてまとめた(詳細は#デジタル回路設計の創始者を参照)。翌年、この論文はアメリカ電気学会報に掲載され、1940年には、35歳未満の研究者による優れた工学論文に贈られるアルフレッド・ノーブル賞を受賞した。
1938年の末、ブッシュの助言によりMITの電気工学科から数学科に移籍した。そこで遺伝学の研究を行い、博士論文「理論遺伝学のための代数学」で博士号を取得した。
1940年の夏をベル研究所で過ごしたのち、学術研究会議の研究費を得てプリンストン高等研究所に1年間滞在し、ヘルマン・ワイルの下で研究した。その後再びベル研究所に戻り、数学研究部門の常勤専門職員となった。
1956年に電子工学研究所(RLE)の研究員としてMITの教員となった。1978年までMITの教員として務め続けた。
後年、シャノンはアルツハイマー病を発症し、晩年をナーシングホームで過ごした。2001年に、妻と息子と娘、そして2人の孫娘を遺して亡くなった。
1937年のマサチューセッツ工科大学での修士論文「リレーとスイッチ回路の記号論的解析」において、電気回路(ないし電子回路)が論理演算に対応することを示した。すなわち、スイッチのオン・オフを真理値に対応させると、スイッチの直列接続はANDに、並列接続はORに対応することを示し、論理演算がスイッチング回路で実行できることを示した。これは、デジタル回路・論理回路の概念の確立であり、それ以前の電話交換機などが職人の経験則によって設計されていたものを一掃し、数学的な理論に基づいて設計が行えるようになった。どんなに複雑な回路でも、理論に基づき扱えるということはコンピュータの実現に向けたとても大きなステップの一つだったと言える。
ハーバード大学教授のハワード・ガードナー(Howard Gardner)は、この論文について「たぶん今世紀で最も重要で、かつ最も有名な修士論文」と評した。ただし、わずかな時間差であるが、中嶋章による発表の方が先行しており(論理回路#歴史を参照)、独立な成果か否かは不明とされている。
1948年ベル研究所在勤中に論文「通信の数学的理論」を発表し、それまで曖昧な概念だった「情報」(information)について定量的に扱えるように定義し、情報についての理論(情報理論)という新たな数学的理論を創始した。
翌年ウォーレン・ウィーバーの解説を付けて出版された同名(ただし“A”が“The”に変わっている)の書籍『通信の数学的理論』で、シャノンは通信におけるさまざまな基本問題を取り扱うために、エントロピーの概念を導入した。情報の量(情報量)を事象の起こる確率(生起確率)によって定義し、エントロピー(平均情報量)を次のとおりに定義した。時間的に連続して起こる離散的な確率事象 X {\displaystyle X} の生起確率 Pr [ X = i ] {\displaystyle \Pr[X=i]} によって定まる情報量 ( − log Pr [ X = i ] {\displaystyle -\log \Pr[X=i]} ) の期待値が、エントロピー H ( X ) {\displaystyle H(X)} である(エントロピー#情報理論におけるエントロピーとの関係も参照)。
エントロピーの語を提案したのはフォン・ノイマンとも言われているが、シャノンは否定している。また、情報量の単位としてビットを初めて使用した。
そして、ノイズ(雑音)がない通信路で効率よく情報を伝送するための符号化(「情報源符号化定理」または「シャノンの第一基本定理」)と、ノイズがある通信路で正確に情報を伝送するための誤り訂正符号(「通信路符号化定理」または「シャノンの第二基本定理」)という現在のデータ伝送での最も重要な概念を導入した。これらはそれぞれデータ圧縮の分野と誤り訂正符号の分野の基礎理論となっている。通信路符号化定理は単一通信路あたりの伝送容量に上限があることを意味する。
これらの定理は現在、携帯電話などでの通信技術の基礎理論となっており、その後の情報革命と呼ばれる情報技術の急速な発展に結びついている。
アナログデータをデジタルデータへと変換する時、どの程度の間隔でサンプリングすればよいかを定量的に表す標本化定理を1949年の論文"Communication in the Presence of Noise"の中で証明した。標本化定理は1928年にハリー・ナイキストによって予想されており、またシャノンの証明発表の同時期に証明をした人物が複数存在するが、シャノンのものが最も有名であり、英語圏では「ナイキスト=シャノンの標本化定理」という名前で知られている(詳しくは標本化定理を参照)。標本化定理は、現在、コンパクトディスクを始めとしたあらゆるデジタイズ技術の基礎定理となっている。
1949年に論文「秘匿系の通信理論」を発表し、ワンタイムパッドを利用すると情報理論的に解読不可能な暗号が構成でき、情報理論的に解読不可能な暗号はワンタイムパッドの利用に限ることを数学的に証明した(現代の暗号研究で考察されている計算量的に安全な暗号ではなく、情報理論的に安全な暗号を考察している点に注意)。
シャノンはこの論文で、暗号のアルゴリズム(暗号化方法)が知られてもなお安全である暗号(ケルクホフスの原理参照)について考察しており、はじめて暗号について数学的分析を行った。
1949年にコンピュータチェスに関する画期的な論文「チェスのためのコンピュータプログラミング」を発表し、力ずくの総当たりでなくコンピュータがチェスをする方法を示した。コンピュータがどの駒をどう移動するかを決定するのにシャノンが用いた方法が、評価関数に基づいたミニマックス法だった。評価関数は、駒の価値や、駒の位置の価値、移動の価値などをすべて数値化して「局面」の価値を評価するものであり、シャノンはその後のゲーム展開を探索木(Search tree)に分類してどの着手がもっとも良いかを探索する方法について考察している。この論文はコンピュータゲームでのコンピュータの思考プログラム設計の原典となった。
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] | クロード・エルウッド・シャノンはアメリカ合衆国の電気工学者、数学者。20世紀科学史における、最も影響を与えた科学者の一人である。 情報理論の考案者であり、「情報理論の父」と呼ばれた。情報、通信、暗号、データ圧縮、符号化など今日の情報社会に必須の分野の先駆的研究を残した。アラン・チューリングやジョン・フォン・ノイマンらとともに今日のコンピュータ技術の基礎を作り上げた人物として、しばしば挙げられる。 | {{Infobox scientist
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}}
'''クロード・エルウッド・シャノン'''('''Claude Elwood Shannon''', [[1916年]][[4月30日]] - [[2001年]][[2月24日]])は[[アメリカ合衆国]]の[[電気工学]]者、[[数学者]]。20世紀[[科学]]史における、最も影響を与えた[[科学者]]の一人である。
[[情報理論]]の考案者であり、「情報理論の父」と呼ばれた。情報、通信、暗号、データ圧縮、符号化など今日の[[情報社会]]に必須の分野の先駆的研究を残した。[[アラン・チューリング]]や[[ジョン・フォン・ノイマン]]らとともに今日の[[コンピュータ]]技術の基礎を作り上げた人物として、しばしば挙げられる<ref group="※">コンピュータ「技術」の基礎を作り上げた人物として挙げられるのは事実である( "[[情報技術|IT]]" という[[バズワード]]の "T" が技術(technology)を意味するため)。だが、コンピュータの専門家や科学史家であれば、技術への貢献以上に、まず第一に'''「理論への貢献」をした'''と言うだろう([[アラン・チューリング|チューリング]]や[[ジョン・フォン・ノイマン|ノイマン]]も同様である)。</ref>。
== 生涯 ==
===若年期と教育===
シャノンが生まれたとき、家族は[[ミシガン州]]{{仮リンク|ゲイロード (ミシガン州)|label=ゲイロード|en|Gaylord, Michigan}}に住んでおり、クロードは近くの{{仮リンク|ペタスキー (ミシガン州)|label=ペタスキー|en|Petoskey, Michigan}}の病院で生まれた<ref name="bmfrs">{{Cite journal | last1 = James | first1 = Ioan | author-link = Ioan James | doi = 10.1098/rsbm.2009.0015 | title = Claude Elwood Shannon 30 April 1916 – 24 February 2001 | journal = [[Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society]] | volume = 55 | pages = 257–265 | year = 2009 | doi-access = free }}</ref>。 父のクロード・シニア(1862-1934)は実業家で、ゲイロードの{{仮リンク|検認判事|en|検認}}を務めたこともある。母のメイベル・ウルフ・シャノン(1890-1945)は語学の教師で、ゲイロード高校の校長も務めた{{sfnp|Sloane|Wyner|1993|p=xi}}。父方の祖先はニュージャージーへの入植者であり、母はドイツ系移民の子供だった<ref name="bmfrs"/>。
シャノンはゲイロードで育ち、1932年にゲイロード高校を卒業した。シャノンは機械や電気に興味を持っていた。得意科目は理科と数学だった。家では、飛行機の模型やラジコンボートを作ったり、半マイル離れた友人の家まで電線を張って電信システムを構築したりしていた<ref>{{Cite web|url=https://www.nytimes.com/2001/12/30/magazine/the-lives-they-lived-claude-shannon-b-1916-bit-player.html|title=THE LIVES THEY LIVED: CLAUDE SHANNON, B. 1916; Bit Player|first=James|last=Gleick|date=December 30, 2001|work=[[The New York Times]] |author-link=James Gleick|accessdate=2021-12-01}}</ref>。高校時代には、[[ウエスタンユニオン]]社の電報配達のアルバイトや百貨店でのラジオ修理などをしていた<ref name="0と1">{{Cite book |和書 |author= ポール・J・ナーイン|title=0と1の話 ブール代数とシャノン理論 |others= 松浦俊輔(訳)|publisher=青土社 |date=2013-10-15 |isbn=978-4-7917-6732-8}}</ref>。
シャノンは子供時代に[[トーマス・エジソン]]に憧れていたが、後に自身の遠縁に当たることを知った。どちらの家系も、植民地時代の指導者で多くの著名人の祖先である{{仮リンク|ジョン・オグデン|en|John Ogden (colonist)}}(1609-1682)の子孫である<ref name="MIT obituary">[http://web.mit.edu/newsoffice/2001/shannon.html MIT Professor Claude Shannon dies; was founder of digital communications], MIT — News office, Cambridge, Massachusetts, February 27, 2001</ref><ref name="sloane-wyner93">{{cite book| title=Claude Elwood Shannon: Collected Papers | editor1-first=N.J.A | editor1-last=Sloane | editor2-first=Aaron D. | editor2-last=Wyner | publisher=[[John Wiley & Sons|Wiley]]/[[IEEE Press]] | isbn=978-0-7803-0434-5 | date=1993 | url=http://eu.wiley.com/WileyCDA/WileyTitle/productCd-0780304349.html | access-date=December 9, 2016 }}</ref>。
1932年に[[ミシガン大学]]に入学し、そこで[[ジョージ・ブール]]の研究に触れた。1936年、[[電気工学]]と[[数学]]の学士号を取得して卒業した。
=== 研究生活 ===
[[ミシガン大学]]を卒業したシャノンは、[[マサチューセッツ工科大学]]の電気工学科に進んだ。そこで[[ヴァネヴァー・ブッシュ]]の下、[[微分解析機]]の保守に携わった。1937年の夏、[[ベル研究所]]でブール代数とスイッチング回路の融合を考えつき、同年、修士論文「リレーとスイッチ回路の記号論的解析」としてまとめた(詳細は[[#デジタル回路設計の創始者]]を参照)。翌年、この論文は[[アメリカ電気学会]]報に掲載され、1940年には、35歳未満の研究者による優れた工学論文に贈られる[[アルフレッド・ノーブル賞]]<ref group="※">[[ノーベル賞]]とは異なる</ref>を受賞した<ref name="0と1"/>。
1938年の末、ブッシュの助言によりMITの電気工学科から数学科に移籍した。そこで遺伝学の研究を行い、博士論文「理論遺伝学のための代数学」で博士号を取得した<ref name="0と1"/>。
1940年の夏をベル研究所で過ごしたのち、学術研究会議の研究費を得て[[プリンストン高等研究所]]に1年間滞在し、[[ヘルマン・ワイル]]の下で研究した。その後再びベル研究所に戻り、数学研究部門の常勤専門職員となった<ref name="0と1"/>。
1956年に電子工学研究所(RLE)の研究員としてMITの教員となった。1978年までMITの教員として務め続けた。
=== 晩年 ===
後年、シャノンは[[アルツハイマー病]]を発症し、晩年を[[ナーシングホーム]]で過ごした。2001年に、妻と息子と娘、そして2人の孫娘を遺して亡くなった<ref name =SW>{{cite web| url=http://scienceworld.wolfram.com/biography/Shannon.html | title=Shannon, Claude Elwood (1916–2001) | first=Eric | last=Weisstein | work=World of Scientific Biography | publisher=[[Wolfram Research]]| access-date=2023/06/18 }}</ref><ref>{{cite web | url=http://www.thocp.net/biographies/shannon_claude.htm | title=Claude Shannon – computer science theory | work=www.thocp.net | publisher=The History of Computing Project | access-date=December 9, 2016}}</ref>。
==功績==
=== デジタル回路設計の創始者 ===
1937年の[[マサチューセッツ工科大学]]での修士論文「リレーとスイッチ回路の記号論的解析」<ref>Claude Shannon, "A Symbolic Analysis of Relay and Switching Circuits", Massachusetts Institute of Technology, Dept. of Electrical Engineering, 1940.</ref>において、[[電気回路]](ないし[[電子回路]])が[[論理演算]]に対応することを示した。すなわち、[[開閉器|スイッチ]]のオン・オフを[[真理値]]に対応させると、スイッチの直列接続は[[論理積|AND]]に、並列接続は[[論理和|OR]]に対応することを示し、論理演算がスイッチング回路で実行できることを示した<ref>{{Cite web |publisher=日経クロステック|url=https://xtech.nikkei.com/it/free/NSW/ITBASIC/20040403/2/ |title=プログラミングの10大基礎知識(3) |language=ja |date=2004-04-07 |accessdate=2023-05-26}}</ref>。これは、[[デジタル回路]]・[[論理回路]]の概念の確立であり、それ以前の[[電話交換機]]などが職人の経験則によって設計されていたものを一掃し、数学的な理論に基づいて設計が行えるようになった。どんなに複雑な回路でも、理論に基づき扱えるということは[[コンピュータ]]の実現に向けたとても大きなステップの一つだったと言える。
ハーバード大学教授の[[ハワード・ガードナー]]([[:en:Howard Gardner|Howard Gardner]])は、この論文について「たぶん今世紀で最も重要で、かつ最も有名な修士論文」と評した。ただし、わずかな時間差であるが、[[中嶋章]]による発表の方が先行しており([[論理回路#歴史]]を参照)、独立な成果か否かは不明とされている。
=== 情報理論の考案 ===
1948年[[ベル研究所]]在勤中に論文「[[通信の数学的理論]]」<ref>Claude Shannon, "A Mathematical Theory of Communication", ''Bell System Technical Journal'', vol. 27, pp. 379–423 and 623–656, 1948. [http://cm.bell-labs.com/cm/ms/what/shannonday/paper.html オンライン版], [http://cm.bell-labs.com/cm/ms/what/shannonday/shannon1948.pdf PDF]</ref>を発表し、それまで曖昧な概念だった「[[情報]]」(information)について定量的に扱えるように定義し、情報についての理論([[情報理論]])という新たな数学的理論を創始した。
翌年[[ウォーレン・ウィーバー]]の解説を付けて出版された同名<small>(ただし“A”が“The”に変わっている)</small>の書籍『通信の数学的理論』<ref>Claude Shannon and Warren Weaver, ''The Mathematical Theory of Communication'', The University of Illinois Press, 1949. ISBN 0-252-72548-4.</ref>で、シャノンは[[通信]]におけるさまざまな基本問題を取り扱うために、[[エントロピー]]の概念を<!--[[統計力学]]から-->導入し<!--合理的に表現し-->た。情報の量([[情報量]])を[[事象 (確率論)|事象]]の起こる[[確率]](生起確率)によって定義し、エントロピー(平均情報量)を次のとおりに定義した。時間的に連続して起こる[[離散数学|離散的]]な確率事象 <math>X</math> の生起確率 <math>\Pr[X=i]</math> によって定まる情報量 (<math>-\log\Pr[X=i]</math>) の期待値が、エントロピー <math>H(X)</math> である([[エントロピー#情報理論におけるエントロピーとの関係]]も参照)。
:<math>H(X)= - \sum_i\Pr[X=i]\log\Pr[X=i] \quad</math>([[関数の台|台]]が有限の場合)
エントロピーの語を提案したのは[[ジョン・フォン・ノイマン|フォン・ノイマン]]とも言われているが、シャノンは否定している<ref group="※">出典は[[情報量#歴史]]を参照。</ref>。また、情報量の単位として[[ビット]]を初めて使用した<ref group="※">論文の中で、用語 "bit" を考案したのは[[ジョン・テューキー]]だとしている。[[国際標準化機構|ISO]]および[[日本工業規格|JIS]]では単位としてビットの代わりに[[情報量#単位|シャノン]](Sh)を使うことにしているが、現在のところあまり一般的ではない。</ref>。
そして、[[ノイズ]](雑音)がない[[通信路]]で効率よく情報を伝送するための[[符号化]](「[[シャノンの情報源符号化定理|情報源符号化定理]]」または「シャノンの第一基本定理」)と、ノイズがある通信路で正確に情報を伝送するための[[誤り訂正符号]](「[[シャノンの通信路符号化定理|通信路符号化定理]]」または「シャノンの第二基本定理」)という現在の[[データ伝送]]での最も重要な概念を導入した。これらはそれぞれ[[データ圧縮]]の分野と誤り訂正符号の分野の基礎理論となっている。通信路符号化定理は単一通信路あたりの伝送容量に上限があることを意味する。
これらの定理は現在、[[携帯電話]]などでの通信技術の基礎理論となっており、その後の[[情報革命]]と呼ばれる[[情報技術]]の急速な発展に結びついている。
==== シャノン=ハートレーの定理 ====
{{Main|シャノン=ハートレーの定理}}
:<math>C = W \log_{2}\left( 1 + \frac{S}{N} \right)</math>
:(ここでC:[[ビット毎秒]]、W:[[帯域幅]]、S:[[信号 (情報理論)|信号]]電力、N:[[ノイズ]]電力)
=== 標本化定理の証明 ===
アナログデータをデジタルデータへと変換する時、どの程度の間隔で[[サンプリング]]すればよいかを定量的に表す[[標本化定理]]を1949年の論文"Communication in the Presence of Noise"の中で証明した。標本化定理は1928年に[[ハリー・ナイキスト]]によって予想されており、またシャノンの証明発表の同時期に証明をした人物が複数存在するが、シャノンのものが最も有名であり、英語圏では「ナイキスト=シャノンの標本化定理」という名前で知られている(詳しくは[[標本化定理]]を参照)。標本化定理は、現在、[[コンパクトディスク]]を始めとしたあらゆる[[デジタイズ]]技術の基礎定理となっている。
=== 暗号理論に関する先駆的成果 ===
1949年に論文「秘匿系の通信理論」<ref>Claude Shannon, "Communication Theory of Secrecy Systems", ''Bell System Technical Journal'', vol. 28, pp. 656–715, 1949.</ref>を発表し、[[ワンタイムパッド]]を利用すると情報理論的に解読不可能な[[暗号]]が構成でき、情報理論的に解読不可能な暗号はワンタイムパッドの利用に限ることを数学的に証明した(現代の暗号研究で考察されている[[計算量的安全性を持つ暗号|計算量的に安全]]な暗号ではなく、[[情報理論的安全性|情報理論的に安全]]な暗号を考察している点に注意)。
シャノンはこの論文で、暗号の[[アルゴリズム]](暗号化方法)が知られてもなお安全である暗号([[ケルクホフスの原理]]参照)について考察しており、はじめて暗号について数学的分析を行った。
=== シャノンのチェスプログラム ===
1949年に[[コンピュータチェス]]に関する画期的な論文「チェスのためのコンピュータプログラミング」<ref>Claude Shannon, "Programming a Computer for Playing Chess", ''Philosophical Magazine'', ser. 7, vol. 41, no. 314, 1950.</ref>を発表し、力ずくの総当たりでなくコンピュータが[[チェス]]をする方法を示した。コンピュータがどの駒をどう移動するかを決定するのにシャノンが用いた方法が、[[評価関数]]に基づいた[[ミニマックス法]]だった。評価関数は、駒の価値や、駒の位置の価値、移動の価値などをすべて数値化して「局面」の価値を評価するものであり、シャノンはその後のゲーム展開を[[探索木]]([[:en:Tree traversal|Search tree]])に分類してどの着手がもっとも良いかを探索する方法について考察している。この論文はコンピュータゲームでのコンピュータの思考プログラム設計の原典となった。
== 受賞歴 ==
*[[1940年]] - [[アルフレッド・ノーブル賞]]
*[[1949年]] - [[:en:Institute of Radio Engineers|IRE]] [[IEEEダニエル・E・ノーブル賞|モーリス・N・リーブマン記念賞]]
*[[1955年]] - フランクリン・インスティテュート([[:en:Franklin Institute|Franklin Institute]]) [[スチュアート・バランタイン・メダル]]
*[[1956年]] - リサーチ・コーポレーション賞
*[[1962年]] - [[ライス大学]] 栄誉賞
*1962年 - マービン・J・ケリー賞
*[[1966年]] - [[IEEE栄誉賞]]
*[[1966年]] - [[アメリカ国家科学賞]]
*[[1967年]] - ゴールデンプレート賞
*[[1972年]] - [[ハーヴェイ賞]](イスラエル)
*[[1978年]] - ジョゼフ・ジャカール賞
*1978年 - [[ハロルド・ペンダー賞]]
*[[1985年]] - [[AES]] ゴールドメダル
*1985年 - [[京都賞基礎科学部門]](日本)
*[[1991年]] - [[エドゥアルト・ライン財団]]基礎研究賞
== 栄誉 ==
*1954 [[イェール大学]] 修士号(MS)
*1961 [[ミシガン大学]] 名誉博士号
*1962 [[プリンストン大学]] 名誉博士号
*1964 [[エディンバラ大学]] 名誉博士号
*1964 [[ピッツバーグ大学]] 名誉博士号
*1970 [[ノースウェスタン大学]] 名誉博士号
*1975 [[オランダ王立芸術科学アカデミー]] 外国会員
*1978 [[オックスフォード大学]] 名誉博士号
*1982 [[イースト・アングリア大学]] 名誉博士号
*1984 [[カーネギー・メロン大学]] 名誉博士号
*1987 [[タフツ大学]] 名誉博士号
*1991 [[ペンシルベニア大学]] 名誉博士号
*2004 [[全米発明家殿堂]]入り
== 著書 ==
* コミュニケーションの数学的理論、C.E.シャノン、W.ウィーヴァー、(The Mathematical theory of communication、E.Shannon、Warren Weaver、(C)1967 by [[:en:University of Illinois Press|University of Illinois Press]].)訳者:長谷川淳、井上光洋、[[明治図書出版]]([[1969年]])。
* 通信の数学的理論 、Warren Weaver, Claude Elwood Shannon, 植松 友彦 (翻訳) 、[[筑摩書房]] ([[2009年]][[8月10日]]) <ちくま学芸文庫>、ISBN 978-4480092229、価格1260円。
(上記の再翻訳、文庫版)。
== 注釈 ==
{{reflist|group="※"}}
== 出典 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[シャノン (単位)|シャノン]]:情報量の単位
*[[シャノン符号化]](シャノン-ファノ符号、Shannon-Fano code)
*[[情報理論]] (Information theory)
*[[標本化定理]] (Nyquist-Shannon sampling theorem)
*[[レート歪理論]] ([[:en:Rate distortion theory|Rate distortion theory]])
*[[シャノン=ハートレーの定理|シャノン=ハートレイの定理]] (Shannon-Hartley law)
*[[シャノン指数]] ([[:en:Shannon index|Shannon index]])
*[[シャノン線図]](Shannon diagram)
*[[シャノン数]] ([[:en:Shannon number|Shannon number]])
*[[クロード・E・シャノン賞]] ([[:en:Claude E. Shannon Award|Claude E. Shannon Award]])
*[[シャノンのスイッチングゲーム]] ([[:en:Shannon switching game|Shannon switching game]])
*[[ワンタイムパッド]] (One-time pad)
*[[拡散とかく乱]] ([[:en:Confusion and diffusion|Confusion and Diffusion]])
*[[デジタル回路]]
== 外部リンク ==
* [https://www.kyotoprize.org/laureates/claude_elwood_shannon/ クロード・エルウッド・シャノン | 京都賞](受賞ページ)
* [http://cm.bell-labs.com/cm/ms/what/shannonday/shannon1948.pdf A Mathematical Theory of Communication](全文)
* [https://hdl.handle.net/1721.1/11173 A Symbolic Analysis of Relay and Switching Circuits](修士論文)
* {{MathGenealogy|id=42920|title=Claude Elwood Shannon}}
{{クロード・E・シャノン賞の受賞者}}
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[[Category:クロード・シャノン|*]]
[[Category:アメリカ合衆国の数学者]]
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3,449 | アラン・チューリング | アラン・マシスン・チューリング(Alan Mathison Turing、英語発音: [tjúǝrɪŋ]〔音写の一例:テュァリング〕, OBE, FRS 1912年6月23日 - 1954年6月7日)は、イギリスの数学者、暗号研究者、計算機科学者、哲学者である。日本語において姓 Turing はテューリングとも表記される。
電子計算機の黎明期の研究に従事し、計算機械チューリングマシンとして計算を定式化して、その知性や思考に繋がりうる能力と限界の問題を議論するなど情報処理の基礎的・原理的分野において大きな貢献をした。また、偏微分方程式におけるパターン形成の研究などでも先駆的な業績がある。
経歴・業績の基盤となる出発点は数学であったが、第二次世界大戦中に暗号解読業務に従事した。また黎明期の電子計算機の開発に携わった事でコンピューター・情報処理の基礎理論である計算可能性等に関する仕事をすることとなった。
第二次世界大戦の間、ブレッチリー・パークにあるイギリスの暗号解読センターの政府暗号学校で、ドイツの暗号を解読するいくつかの手法を考案し、英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門 (Hut 8) の責任者となった。ドイツが使用していた、エニグマ暗号機を利用した通信の暗文を解読する(その通信における暗号機の設定を見つける)ための機械 bombe を開発した。
チューリングの業績を紹介する時、チャーチ=チューリングのテーゼと計算可能性理論への貢献がまず第一に挙げられる。特にアルゴリズムを実行するマシンを形式的に記述したものの一つである「チューリングマシン」にその名を残し、人によっては前述のテーゼを「チューリング=チャーチ」と呼称するべきであるとする者もいるほどである。また、任意のチューリングマシンを模倣(エミュレート)できる「万能チューリングマシン」は、同分野の基本的な定理のひとつである停止性問題の決定不能性定理と関係する。さらに、理論面だけではなく、実際面でもコンピュータの誕生に重要な役割を果たした。「コンピュータ科学の父」および(チューリング・テストなど)からは「人工知能(AI)の父」とも言われる。
がっしりした体形で、声は甲高く、話好きで機知に富み、多少学者ぶったところがあったといわれている。また、アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム障害・ASD)を示唆する特徴の多くを示しているとの指摘もある。
戦後は、イギリス国立物理学研究所 (NPL) に勤務し、プログラム内蔵式コンピュータの初期の設計のひとつACE (Automatic Computing Engine) に携わった(ただし、チューリング自身は、その完成を見ずに異動している)。1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータ Manchester Mark I のソフトウェア開発に従事し、数理生物学に興味を持つようになる。形態形成の化学的基礎についての論文を書き、1960年代に初めて観察されたベロウソフ・ジャボチンスキー反応のような発振する化学反応の存在を予言した。
1952年、同性愛の罪(風俗壊乱罪)で警察に逮捕され、保護観察の身となり、転向療法としてホルモン治療を受ける。1954年に41歳で死去。検死によると、青酸中毒による自殺と断定されたが、母親や一部の友人は事故だと信じていた。
2009年9月10日、インターネットでのキャンペーンに続いて、首相のゴードン・ブラウンが、戦後のイギリス政府によるチューリングへの扱いについて、公式に謝罪した。
母エセルは、イギリス領インド帝国オリッサ州チャトラプルでアラン・チューリングを妊娠した。父のジュリアス・チューリングは、当時インド高等文官であり、1911年に妻エセルの妊娠を知ると、イギリス本国での養育を考えて、ロンドンのメイダヴェールに戻った。1912年6月23日、アランが誕生した。現在、アランが生まれた病院(現在はホテル)には、それを記念したブルー・プラークがある。
父の任期が続いており、両親はインドとイギリスのヘイスティングスを行き来する生活を送っていた。そのため、アランと兄のジョンは、イギリスの友人に預けられる。文字を読むことは三週間で覚えたといわれる。また、数字に強くパズルが非常に得意だった。
6歳でセント・マイケルズ学校に入学した。担任教師に続き、校長もすぐに彼の才能に気づく。
1926年、14歳でシャーボーン・スクール(英語版)に入学。登校初日がゼネラル・ストライキ予定日と重なったため、前日から100kmの距離を一人で自転車で行くことにして、途中で宿をとって登校。このできごとは地元紙に掲載された。
シャーボーンは有名なパブリックスクールであり、その校風は古典を重視するものだったが、チューリングは、主に数学と科学に才能を発揮した。そのため、同校の校長は、アランの両親に「どっちつかずにならないと良いですが。パブリックスクールに留まるなら、教養を身に付けねばなりません。単に科学者になるのなら、パブリックスクールに通うのは、時間の無駄です」という手紙を書いた。
しかし、このようなことがあっても、アランは、学問に対する驚くべき能力を示し、初等微分積分学も習っていない1927年に、もっと難しい問題を解いていた。1928年、アルベルト・アインシュタインの書いた文章に触れ、16歳でその内容を理解しただけでなく、そこには明記されていなかったニュートン力学について、アインシュタインの疑問を外挿したという。
同性の親友であるクリストファー・モルコムに恋をしたが、シャーボーンの最終学期中、感染牛のミルクを小さいころに飲んでいたため牛結核症を患って、モルコムは死去した(1930年2月13日)。このことがきっかけとなり、チューリングは、無神論者になった。また、脳の働きなどの現象についても、唯物論的に解釈するようになったが、心のどこかで死後の生を信じていたという。
ケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学した。1931年から1934年まで学生として学び、数学で優秀な成績を修めて卒業した。1935年に、中心極限定理を証明した論文が認められ、キングス・カレッジのフェロー(特別研究員)に選ばれた。ただし、中心極限定理は1922年にJ・W・リンデベルグ(英語版)が証明済みだったが、チューリングはその業績を知らなかった。
1928年、ドイツの数学者ダフィット・ヒルベルトは、「決定問題」への注目を呼びかけた。チューリングは、重要な論文 "On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem"(「計算可能数、ならびにそのヒルベルトの決定問題への応用」、1936年5月28日提出、11月12日配布)で、この問題の解決に重要な役割を果たした。
この論文の重要な点を、現代の数学および数学基礎論およびコンピュータ科学の視点からまとめると次のようになる。(1)「チューリングマシン」という計算モデルを提示し、19世紀以前の数学では数理論理の視点からすると自然言語で記述されるなど曖昧な点があったアルゴリズムを形式的に表現する手法(のひとつ)を確立し、「何らかのチューリングマシンで計算可能な関数を計算可能関数とする」という計算可能性理論における重要なテーゼであるチャーチ=チューリングのテーゼを示した(チャーチの業績とは独立であり、チューリングのほうがよりわかりやすく直感的であった。人によってはチューリング=チャーチのテーゼ、の順とすることもある)。(2)どんなチューリングマシンの動作をも、現代の言葉で言えば「エミュレート」できる、「万能チューリングマシン」が可能であることを証明し、その構成法を示した。(注意: この(1)と(2)が表現していることを曖昧に理解しないように注意すること。「テーゼ」は証明ではない(証明できるような性質のものではない)。しばしば、万能チューリングマシンによりあらゆる計算が可能であることを証明した、というような誤解が見受けられる。)(3)「万能チューリングマシン」の概念を利用して、停止性問題を否定的に証明した(これはゲーデルの不完全性定理と同等の結果とも言えるものである。詳細は停止性問題の記事を参照)。
1936年9月から1938年7月にかけて、プリンストン大学においてアロンゾ・チャーチ(前述の「チャーチ=チューリングのテーゼ」のチャーチである)に師事した。1938年、プリンストンで博士号を得た。博士論文では、数の広がり(正の整数→負数→無理数→虚数)とその公理体系の進化に関して、それらすべてを包含する「順序数」という概念の体系を整理しようとした。その中で、チューリング還元の概念を提案している。純粋数学とは別に暗号理論もここで学び、電気機械式乗算器も試作している。また、この時期、ジョン・フォン・ノイマンも同じくプリンストンにおり、二人は親交があったと言われている。ノイマンは、チューリングにアメリカに残ることを勧めたという。
1939年にケンブリッジに戻ると、ウィトゲンシュタインとの講義に参加した。そこでは、ウィトゲンシュタインが「数学は絶対的真実を発見するのではなく、発明している」という立場を取ったのに対して、チューリングは形式主義を擁護する立場を取った。
ブレッチリー・パークでは変人で通っていた。同僚は彼を 'Prof' と呼び、 エニグマに関する論文は 'The Prof's Book' と呼ばれていた。同僚の暗号解読者ジャック・グッド(英語版)はチューリングについて次のように述べている。
6月の第1週には毎年花粉症に悩まされるので、彼は花粉を吸わないようガスマスクをして自転車でオフィスに通っていた。自転車は故障していて、定期的にチェーンが外れていた。それを修理してもらう代わりに、ペダルをこいだ回数を数えて、危なくなると一旦降りてチェーンを調整していた。もうひとつの変人ぶりとして、マグカップが盗まれるのを防ぐために、それをラジエータパイプに鎖で繋いでいた。
ブレッチリーで働いていたころ、ロンドンで重要な会議に出席しなければならないとき、長距離走が得意だったチューリングは、約 64km を走ったという。マラソンにおけるベストタイムは2時間46分3秒であり、1948年ロンドンオリンピックのマラソン代表選考にも参加して5位となっている。
第二次世界大戦中、チューリングは、ブレッチリー・パークでドイツの暗号を解読する仕事をしていた。歴史家で自らも戦時中に暗号解読に従事していたエイザ・ブリッグズ(英語版)は次のように述べている。
第二次世界大戦に先立つ1938年9月から、イギリスにおける暗号解読組織である政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き始める。そこで、ディリー・ノックス(英語版)と共にエニグマの解読に当たった。第二次世界大戦勃発の5週間前の1939年7月25日、ポーランド軍参謀本部第2部暗号局 (en)とイギリスおよびフランスの関係者がワルシャワで会合し、ポーランドが解明したエニグマのローター回路についての情報を得ていた。チューリングとノックスは、その情報を元に、問題にアプローチしようとしていた。ポーランドの解読法は不安定なもので、ドイツ側がいつでも変更可能だった。実際1940年5月に変更されている。チューリングの方法はもっと汎用的でクリブ式暗号解読全般に使えるもので、最初の bombe(ボンブ) の機能仕様に盛り込まれていた。
1939年9月4日、イギリスがドイツに宣戦布告した翌日、GCCSの戦時中の基地となっていたブレッチリー・パークに出頭した。bombe の仕様は戦時中の暗号解読でチューリングが成し遂げた5つの成果のうち最初の1つである。他には、ドイツ海軍が使っていたインジケーター手続きの推測、Banburismus と名付けた bombe の効率を上げる統計的手法の開発、Turingery と名付けた Lorenz SZ 40/42 (Tunny) のホイール群のカム設定を明らかにする手続きの開発、そして終戦間近に開発した音声信号スクランブラー Delilah である。
1945年、戦時中の功績によりOBEを授与されたが、その後1970年代までその業績は秘密にされ、近しい友人すらそのことを知らなかった。その功績の大きさにもかかわらず、暗号という重要な機密事項を扱う仕事柄ゆえに、ブレッチリー・パークから一歩外に出れば、チューリングの仕事を知る者は誰一人いなかった。それは、家族すら例外ではなく、母親に一度だけ「軍関係の研究をしている」と話した際には、政府の仕事に携わっていながら身なりに気を払わない息子に対し、母はかえって落胆するばかりであったという。戦後もブレッチリー・パークに関係する事柄は引き続き機密とされ、チューリングが同性愛者として罰せられてからは、その功績を知らない世間から、公然と辱めを受けることとなる(後述)。
ブレッチリー・パークに到着して数週間後、ポーランドの「ボンバ」 (bomba kryptologiczna) よりも効率的にエニグマの暗号を解読する電気機械式の装置の仕様を生み出し、ポーランドの bomba にちなんで bombe と名付けた。数学者ゴードン・ウェルチマン(英語版)の示唆によって改良した bombe は、エニグマの暗号解読の主要な自動化ツールとなった。
ジャック・グッドは次のように述べている。
チューリングの最も重要な貢献は、私が思うに暗号解読機 bombe の設計だ。彼はあなたも使えるアイデアを持っていた。要するに、やや不合理な訓練されていない耳でも聞き分けられる論理的理論で、すべてを推論できる。
bombe はエニグマの暗号文で使われたと考えられる正しい設定(ローターの順序、ローターの設定、プラグボードの設定など)を、適当なクリブ(平文中に含まれているであろうと思われる単語やフレーズ)を使って探索する。ローターの考えられる設定(組み合わせのオーダーは 10、4ローターのUボート版では 10)ごとに、bombe はクリブに基づいた一連の推論を電気的に行う。bombe は矛盾が生じるとそれを検出し、その設定を除外し、次の設定を調べる。ほとんどの設定は矛盾を生じるので除外でき、詳細に調べるべき少数の設定だけが残る。最初の bombe は1940年3月18日に実装された。終戦のころには200台以上の bombe が使われていた。
チューリングは「他の誰もそれに取り組まず、自分ならやれるかもしれない」と思い、ドイツ海軍のエニグマの解読というさらに難しい問題に取り組むことを決めた。1939年12月、海軍のエニグマのインジケーターシステムの基本部分を解明。海軍以外が使っているインジケーターシステムよりも複雑だった。そしてある夜、Banburismus のアイデアを思いつく。これは逐次的かつ統計的な技法で(後にエイブラハム・ウォールドは sequential analysis と呼んだ)、海軍版エニグマの暗号解読を助けるものだった。「私はそれが現場でうまく機能するか確信を持てず、何日かかけて具体化してやっと確信した」 このために彼は証拠を重み付けするための測度を考案し、それを Ban と呼んだ。Banburismus はエニグマの特定のローターの並びを除外することができ、bombe の設定をテストする時間を大幅に減らすことに寄与した。
1941年、チューリングは、 Hut 8 の同僚で数学者・暗号解読者のジョーン・クラークに結婚を申し込んだが、婚約期間は短かった。同性愛者であることをフィアンセに告白しても、彼女は動じなかったといわれているが、チューリングのほうがこのまま結婚はできないと別れることを決心した。
1942年11月には、暗号に関する情報交換の一環として、アメリカを訪れた。そこでは、ワシントンでアメリカ海軍の暗号解読者に海軍版エニグマと bombe の構造について伝授し、英米間の盗聴不可能な音声通信手段としてベル研究所で当時開発中だった秘話装置SIGSALYの情報提供を受け暗号化方式の安全性についての評価作業を行った。ベル研究所では同じようにSIGSALYの評価を行っていたシャノンにも会っている。1943年3月、ブレッチリー・パークに戻る。この間に Hut 8 の責任者がヒュー・アレグザンダーに変わり、チューリング自身は部門の日常業務の運営に興味を持たなくなっていたため、ブレッチリー・パークの暗号解読コンサルタントのような立場となった。
アレグザンダーは、次のように書いている。
チューリングの仕事が Hut 8 の成功の最大の要因であることは誰もがわかっていた。当初、暗号解読者としては、彼だけがこの問題に取り組む価値があると考え、彼1人ではないものの Hut における理論的成果の最大の功績者であり、彼に次いでウェルチマンとキーンが bombe の発明に貢献した。全員が不可欠だったというのは難しいが、Hut 8 で誰が一番不可欠だったかといえば、それはチューリングだ。経験と日常がすべてを簡単なように見せるので、先駆者の業績は忘れられがちだが、Hut 8 の多くの者がチューリングの功績の大きさが外の世界に完全に伝わることは決してないだろうと感じていた。
1942年、チューリングは Turingery(冗談で Turingismus とも)と名付けた技法を考案。ドイツが新たに開発した暗号生成ローターつきのテレタイプ端末で生成されるローレンツ暗号を解読するための技法である。この暗号機械をブレッチリー・パークでは Tunny と呼んでいた。Turingery は Tunny のホイール群のカム設定を解明する手続きである。彼は Tunny のチームにトミー・フラワーズを紹介し、フラワーズがマックス・ニューマンの指導下で世界初のプログラム可能な電子式デジタル計算機 Colossus を構築することになった。Colossus は当時としては極めて高性能で、総当り的な統計的暗号解読技法を適用しても十分な性能を発揮した。なお、チューリングがColossusの設計に重要な役割を果たしたと間違って主張している文献などがある。Turingery と Banburismus の統計的暗号解読法は間違いなくローレンツ暗号の解読技術に影響を与えているが、チューリング自身がColossus開発に直接関与した事実はない。
アメリカのベル研究所で提供を受けたSIGSALYの情報を元に、よりシンプルな形で電話の音声信号を電子的に暗号化するというアイデアを追求し、戦時中の後半はハンスロープ・パークにあるイギリス情報局秘密情報部のラジオセキュリティサービス(後のHMGCC)で働いた。そこで彼は技術者ドナルド・ベイリーの助けを得て、電子工学への造詣を深める。2人は携帯型の秘話装置 Delilah を設計・構築。Delilah は様々な応用が意図されていたが、長距離の無線通信ができず、いずれにしても完成したのは終戦間近で遅すぎた。それでも役人の前でウィンストン・チャーチルの演説を暗号化してさらにそれを元に戻すデモンストレーションを行ったが、実際には使われなかった。
1945年から1947年まで、チューリングはロンドンのリッチモンドに住み、イギリス国立物理学研究所 (NPL) にてACE (Automatic Computing Engine) の設計を行う。1946年2月の論文では、プログラム内蔵式コンピュータの英国初の完全なデザインを発表している。フォン・ノイマンの「EDVACに関する報告書の第一草稿」はチューリングの論文より先に存在したが、チューリングの論文の方が詳細であり、NPL数学部門の責任者だった John R. Womersley は「チューリング博士の独自のアイデアがいくつか含まれていた」と記している。また、フォン・ノイマンはさらに遡る1936年の時点でチューリングがプログラム内蔵式について先駆的な論文を発表していたことを認めていた。ACEは実現可能な設計だったが、ブレッチリー・パークで軍事機密に関わる仕事をしていたことが原因でプロジェクトは遅々として進まず、1947年、サバティカル休暇でケンブリッジに戻る。彼がケンブリッジにいる間にACEを縮小した パイロットACE が作られた。1950年5月10日に初めてプログラムの実行を達成している。
1948年にマックス・ニューマンの招きでマンチェスター大学に招かれ、チューリングは同大学で設立されていた王立協会計算機研究所の副所長に就任し、そこで初期のコンピュータ Manchester Mark I におけるソフトウェア開発に従事。この時期はより概念的な仕事にも取り組み、Computing Machinery and Intelligence(「計算する機械と知性」、1950年10月、「Mind」誌)という論文では人工知能の問題を提起、今日チューリングテストとして知られている実験を提案している。すなわち、機械を「知的」と呼ぶ際の基準を提案したもので、人間の質問者が機械と会話をして人間か機械か判別できない場合に、その機械が「思考」していると言えるというものである。その中で、最初から大人の精神をプログラムによって構築するよりも、子どもの精神をプログラムして教育によって育てていくのがよいと示唆している。
1948年、当時まだ存在していなかったコンピュータチェスのプログラムを書き始める。1952年、当時のコンピュータは性能が低くそのプログラム実行には適さなかったため、自分でコンピュータをシミュレートしてチェスの試合を行ったが、一手打つのに30分かかったという。その対戦の棋譜が残っている。同僚との対戦ではプログラムが負けているが、別の同僚の妻にはプログラムが勝利している。
チューリングテストは独特の挑発的特徴があり、人工知能に関する議論で半世紀にわたってよく引き合いにだされ続けた。
1948年には行列のLU分解も考案しており、今でも線形方程式の解法として使われている。
1952年から、亡くなる1954年まで数理生物学、特に多細胞生物の個体発生における形態形成に関する研究を行い、それがどのように生じるかについて仮説を提唱した。1952年に発表した “The Chemical Basis of Morphogenesis” (形態形成の化学的基礎)と題する論文において、反応拡散系と呼ばれる偏微分方程式系で反応を抑制する因子の拡散が活性化因子よりも速いとき、チューリング不安定性と呼ばれる不安定化を起こして形態形成の手がかりとなる空間構造を生み出しうることを指摘した。こうして生じる空間パターンはチューリング・パターンと呼ばれている。この論文の最終節においてチューリングは、容易に解析できないこの種のさらに複雑な問題への将来的なデジタルコンピューターの利用について触れている。実際、20世紀末よりコンピューターの計算能力の急速な発達によって、反応拡散系の研究の発展がもたらされた。
また同じ年、ヒマワリの種にみられる螺旋構造が隣接するフィボナッチ数に従っているらしいことを未発表の研究ノートに記していた。葉序構造など種々の植物に見られるこの関係は黄金角と呼ばれる角度で葉や種のもととなる原基が生ずればよいことがわかっている。 その後の論文は 1992年の Collected Works of A.M. Turing の出版まで未発表だった。近年再評価が著しい仕事である。
Anthony Cave Brown の著書 "C": The Secret Life of Sir Stewart Menzies, Spymaster to Winston Churchill には次のような記述がある。
1952年1月、チューリングはマンチェスターの映画館のそばでアーノルド・マレーと出会う。ランチデートの後、週末を一緒に過ごそうとマレーを自宅に招いたが、マレーはその誘いを断わっている。次の月曜日、2人は再びマンチェスターで会い、今度はチューリングの自宅を訪問している。数週間後、マレーは再びチューリング宅を訪れ、一夜を共にしたとみられている。
間もなく自宅に泥棒が入り、事件を警察に報告したが、捜査の過程で、泥棒の手引きをした19歳の青年(マレー)と同性愛関係にあったことが警察の知るところとなった。同性愛は当時のイギリスでは違法であり、2人とも逮捕された。
チューリングは有罪となり、入獄か化学的去勢を条件とした保護観察かの選択を与えられ、入獄を避けるため、同性愛の性向を矯正するために、性欲を抑えると当時考えられていた女性ホルモン注射の投与を受け入れた。
結果としてセキュリティ・クリアランスを剥奪され、GCHQで暗号コンサルタントを続けることができなくなった。当時、ケンブリッジ・ファイヴの最初の2名ガイ・バージェスとドナルド・マクリーンがKGBのスパイだと露見した事件があり、スパイについて大衆の不安が増大し、ソ連のエージェントが同性愛者を罠にかけるという噂があった。スパイ活動で告発されたわけではないが、ブレッチリー・パークで働いていた全員と同様、戦時下の業績について論じることは禁止された。
1954年6月8日、家政婦がチューリングが自宅で死んでいるのを発見した。検死の結果、死亡したのは前日で、青酸中毒による死であることが判明。ベッドの脇には齧りかけのリンゴが落ちていた。リンゴに青酸化合物が塗ってあったかの分析はなされなかったが、部屋には青酸の瓶が多数あった。
死因審問で自殺と断定され、1954年6月12日に火葬された。母は、実験用化学物質を不注意に扱ったために起こった事故であると主張している。あるいは、母に事故だと思わせるようにして自殺したという説もある。同僚によれば、映画『白雪姫』を見た直後の彼が「魔法の秘薬にリンゴを浸けよう、永遠なる眠りがしみこむように」と言っていたのを耳にしており、白雪姫のワンシーンを真似てこのような死に方をしたのだという。
チューリングの死後まもなく(戦時中の業績が機密扱いだったころ)、王立協会が伝記を出版しており、以下のように記されている。
3つの多様な数学的主題について、戦前に3つの特筆すべき論文を書いており、この重要な時期(戦時のこと)に何らかの大きな問題にとりかかっていたら重大な業績を残していただろうということがわかる。外務省での業績により、OBEが授与された。
国立物理学研究所の同僚で、後にチューリング賞を受賞したジェイムス・H・ウィルキンソンも、受賞講演で、外務省時代にチューリングが別の環境にいたならば、もっとも生産的な時期たりえた可能性が大きい、としている。しかし、問題やパズルといったものであれば種類を問わず大好きであったから、外務省での仕事にも興味をもって取り組んだであろうし、電子工学について知識を獲得したのもその時であった、と指摘している。
1966年から、コンピュータ科学者らによる国際的学会のACMは、同学会の守備範囲であるコンピュータ科学を中心とした分野の最高の賞として、チューリング賞を授与している。物理や化学といったようなかなり広い分野の最高の賞、という位置づけにあるものとして、コンピュータ科学分野におけるノーベル賞に相当するものと一般に扱われている。
1974年夏、ブレッチリー・パークの活動について書かれた「ウルトラ・シークレット」出版、チューリングらの功績について世間の知るところとなる。
1986年、ヒュー・ホワイトモアの戯曲「ブレイキング・ザ・コード」でチューリングが描かれた。1986年11月からロンドンのウェストエンドで公開され、1987年11月15日から1988年4月10日までブロードウェイで興行。1996年にはBBCでテレビドラマ化されている。いずれもチューリング役はデレク・ジャコビ。ブロードウェイでの公演はトニー賞3部門にノミネートされている。
1998年6月23日、86回目の誕生日に、伝記作者にして数学者のアンドリュー・ホッジスは公式の英国遺産としてブルー・プラーク(記念銘板)をチューリングの生まれた病院であったロンドンのウォーリントン・クレセントにあるコロネードホテルに掲げた。2004年6月7日には、死去50周年を記念して、ウィルムズロウ・ホリーミードの家にも記念のプラークが設置された。
1999年、タイム誌の「タイム100: 20世紀の最も影響力のある100人」で、コンピューター創造に果たした役割からチューリングを選んでいる。1999年のニール・スティーブンスンの小説『クリプトノミコン』にはチューリングが登場している。2000年3月13日、セントビンセント・グレナディーンにて20世紀の偉人を集めた切手セットが発行された。その中にチューリングの肖像が描かれた切手もあり、「1937: アラン・チューリングのデジタルコンピュータ理論」と記されている。2002年、BBCが行った「偉大な英国人」投票で第21位にランクインした。
晩年に働いていたマンチェスターでは、様々な方法でその栄誉を称えている。1994年、マンチェスターの環状道路が "Alan Turing Way" と名付けられている。またこの道路には Alan Turing Bridge という橋もある。2001年6月23日(誕生日)には、マンチェスター大学に隣接するサックビル・パークにベンチに座っている形の銅像が設置された。
この銅像はリンゴを持っている。リンゴは古来「禁じられた愛」の象徴であり、アイザック・ニュートンの万有引力の法則も思い起こさせるし、チューリングの死の状況も思い起こさせる。また、ブロンズ製のベンチにはレリーフで 'Alan Mathison Turing 1912–1954' と書かれていて、その下には 'Founder of Computer Science' をエニグマで暗号化した文字列が書かれている。台座には「計算機科学の父、数学者、論理学者、戦時中の暗号解読者、偏見の犠牲者」と記されている。バートランド・ラッセルの言葉も引用されていて「正しく見た数学は、真実だけでなく最高の美 - 彫刻のように冷たく厳しい美も有している」とある。台座の下には彫刻家が所有していた古いアムストラッド製パソコンが「あらゆる現代のコンピュータのゴッドファーザー」への捧げ物として埋められている。
没後50年を記念して、2004年10月28日には、幼少時に住んでいた町にあるサリー大のキャンパス内に銅像が置かれる。
プリンストン大学の発行する Princeton Alumni Weekly では、チューリングをジェームズ・マディソンに次ぐ偉大な卒業生だとしている。
2007年6月19日、ブレッチリー・パークに1.5トンの等身大の石像が立てられた。ウェールズの粘板岩を多数使用したもので、億万長者の Sidney Frank が彫刻家 Stephen Kettle に制作を依頼したものである。
2011年2月、チューリングの第二次世界大戦中の論文がオークションで買い取られ、ブレッチリー・パークに戻された。
2014年、グレアム・ムーアによる脚本、人気俳優ベネディクト・カンバーバッチがチューリングを演じる映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』が公開された。
2019年、アラン・チューリングが新50ポンド紙幣に採用される事となった。新紙幣は2021年末頃に一般に出回ることになる。
2009年8月、ジョン・グラハム=カミングがイギリス政府に対して、アラン・チューリングを同性愛で告発したことへ謝罪するよう請願活動をはじめた。これに対して数千の署名が集まった。
イギリス首相のゴードン・ブラウンはこの請願を認め、2009年9月10日に政府として正式な謝罪を表明し、当時のチューリングの扱いを「呆れたもの (appalling)」と表現して、次のように声明を発表した。
数千の人々がアラン・チューリングのための正義と彼がぞっとする扱われ方をしたという認識を求めて集まった。チューリングは当時の法律に則って扱われ、時計の針は戻すことはできないが、彼に対する処置はまったく不当であり、深い遺憾の意を表す機会を得たことを我々全てが満足に思っている... イギリス政府とアランのおかげで自由に生活している全ての人々を代表し、『すまない、あなたは賞賛に値する』と言えることを非常に誇りに思う。
2011年12月、William Jones はイギリス政府に対してアラン・チューリングの罪を免罪(名誉回復)してほしいという電子請願を申請した。この請願には21,000以上の署名が集まったが、法務大臣はチューリングが有罪宣告されたことは遺憾だが、当時の法律に則った正当な行為であったとしてこれを拒否した。
その後、2012年にイギリス貴族院に正式な恩赦の法案が提出され、2013年12月24日にエリザベス2世女王の名をもって正式に恩赦が発効した。キャメロン首相は、彼の業績をたたえる声明を発表した。
生涯と業績に関する催しが英国論理学会議と英国数学史学会主催で2004年6月5日にマンチェスター大学で行われた。
生誕100年を記念して、Turing Centenary Advisory Committee (TCAC) は2012年を Alan Turing Yearとし、一年を通して世界各地でチューリングの生涯およびその功績を称えるイベントを行った。TCACには、マンチェスター大学、ケンブリッジ大学、ブレッチリー・パークなどの関係者が協力しており、数学者のS・バリー・クーパー(英語版)が議長を務め、甥のジョン・ダーモット・チューリングが名誉会長を務めている。
2012年6月23日には、Google Doodle(Googleトップページのロゴ)がチューリングマシンを模したデザインに変更された。アルゴリズムを設定するミニゲームが遊べるようになっていた。
ブレッチリー・パーク・トラストは、Winning Moves社と共同で、モノポリーのアラン・チューリング版を発表した。このモノポリーのマスとカードは、メイダヴェールにある出生の地からブレッチリー・パークのHut 8に勤務するまでのアラン・チューリングの生涯をたどるような内容に改訂されている。また、このゲームには、チューリングを指導していたマックス・ニューマンの息子であるウィリアム・ニューマンが手書きで作成したモノポリーの原型のレプリカも同梱されている。この原型となったゲームを、1950年代にチューリングもプレイしていた。
フィリピンでは、デ・ラ・サール大学の哲学科が、2012年3月27日から28日にかけて、チューリングの生誕100周年を記念し、哲学、人工知能および認知科学に関する国際会議であるTuring 2012を開催した。インドでは、マドゥライにおいて、6,000人の学生が出席する記念式典が行われた。
ACMが6月にマンチェスターにおいて3日間のカンファレンスと、サンフランシスコにおいて2日間のカンファレンスをそれぞれ開催した。またケンブリッジでは、キングス・カレッジおよびケンブリッジ大学においてそれぞれチューリングの誕生日パーティとチューリング生誕100周年記念カンファレンスが開催された。ケンブリッジ大学でのものは、Computability in Europeにより開催された。
ロンドンのサイエンス・ミュージアムは、2012年6月から2013年7月にかけて、チューリングの生涯とその功績に特化した無料の展示を行った。2012年2月には、ロイヤルメールが「Britons of Distinction」シリーズの一環として、チューリングの切手を発行した。2012年ロンドンオリンピックの聖火リレーは、チューリングの100回目の誕生日である2012年6月23日に、サックヴィル・ガーデンズにあるチューリングの像の前で引き継がれた。
2012年6月22日、マンチェスター市議会は、Lesbian and Gay Foundationと共同で、Alan Turing Memorial Awardを創設し、マンチェスターにおいてホモフォビアに立ち向かうことに顕著な貢献のあった個人・団体を表彰することとした。
オックスフォード大学では、チューリングの生誕100周年を記念して、コンピュータサイエンスと哲学の新しい科目が開設された。
これ以前にも、2004年6月5日にマンチェスター大学において、British Logic ColloquiumおよびBritish Society for the History of Mathematicsの主催で行われた、チューリングの生涯とその功績を称えるイベントを含め、さまざまなイベントが行われている。 | [
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"text": "アラン・マシスン・チューリング(Alan Mathison Turing、英語発音: [tjúǝrɪŋ]〔音写の一例:テュァリング〕, OBE, FRS 1912年6月23日 - 1954年6月7日)は、イギリスの数学者、暗号研究者、計算機科学者、哲学者である。日本語において姓 Turing はテューリングとも表記される。",
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"text": "電子計算機の黎明期の研究に従事し、計算機械チューリングマシンとして計算を定式化して、その知性や思考に繋がりうる能力と限界の問題を議論するなど情報処理の基礎的・原理的分野において大きな貢献をした。また、偏微分方程式におけるパターン形成の研究などでも先駆的な業績がある。",
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"text": "経歴・業績の基盤となる出発点は数学であったが、第二次世界大戦中に暗号解読業務に従事した。また黎明期の電子計算機の開発に携わった事でコンピューター・情報処理の基礎理論である計算可能性等に関する仕事をすることとなった。",
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"text": "第二次世界大戦の間、ブレッチリー・パークにあるイギリスの暗号解読センターの政府暗号学校で、ドイツの暗号を解読するいくつかの手法を考案し、英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門 (Hut 8) の責任者となった。ドイツが使用していた、エニグマ暗号機を利用した通信の暗文を解読する(その通信における暗号機の設定を見つける)ための機械 bombe を開発した。",
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"text": "チューリングの業績を紹介する時、チャーチ=チューリングのテーゼと計算可能性理論への貢献がまず第一に挙げられる。特にアルゴリズムを実行するマシンを形式的に記述したものの一つである「チューリングマシン」にその名を残し、人によっては前述のテーゼを「チューリング=チャーチ」と呼称するべきであるとする者もいるほどである。また、任意のチューリングマシンを模倣(エミュレート)できる「万能チューリングマシン」は、同分野の基本的な定理のひとつである停止性問題の決定不能性定理と関係する。さらに、理論面だけではなく、実際面でもコンピュータの誕生に重要な役割を果たした。「コンピュータ科学の父」および(チューリング・テストなど)からは「人工知能(AI)の父」とも言われる。",
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"text": "がっしりした体形で、声は甲高く、話好きで機知に富み、多少学者ぶったところがあったといわれている。また、アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム障害・ASD)を示唆する特徴の多くを示しているとの指摘もある。",
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"text": "戦後は、イギリス国立物理学研究所 (NPL) に勤務し、プログラム内蔵式コンピュータの初期の設計のひとつACE (Automatic Computing Engine) に携わった(ただし、チューリング自身は、その完成を見ずに異動している)。1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータ Manchester Mark I のソフトウェア開発に従事し、数理生物学に興味を持つようになる。形態形成の化学的基礎についての論文を書き、1960年代に初めて観察されたベロウソフ・ジャボチンスキー反応のような発振する化学反応の存在を予言した。",
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"text": "1952年、同性愛の罪(風俗壊乱罪)で警察に逮捕され、保護観察の身となり、転向療法としてホルモン治療を受ける。1954年に41歳で死去。検死によると、青酸中毒による自殺と断定されたが、母親や一部の友人は事故だと信じていた。",
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"text": "2009年9月10日、インターネットでのキャンペーンに続いて、首相のゴードン・ブラウンが、戦後のイギリス政府によるチューリングへの扱いについて、公式に謝罪した。",
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"text": "母エセルは、イギリス領インド帝国オリッサ州チャトラプルでアラン・チューリングを妊娠した。父のジュリアス・チューリングは、当時インド高等文官であり、1911年に妻エセルの妊娠を知ると、イギリス本国での養育を考えて、ロンドンのメイダヴェールに戻った。1912年6月23日、アランが誕生した。現在、アランが生まれた病院(現在はホテル)には、それを記念したブルー・プラークがある。",
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"text": "父の任期が続いており、両親はインドとイギリスのヘイスティングスを行き来する生活を送っていた。そのため、アランと兄のジョンは、イギリスの友人に預けられる。文字を読むことは三週間で覚えたといわれる。また、数字に強くパズルが非常に得意だった。",
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"text": "6歳でセント・マイケルズ学校に入学した。担任教師に続き、校長もすぐに彼の才能に気づく。",
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"text": "1926年、14歳でシャーボーン・スクール(英語版)に入学。登校初日がゼネラル・ストライキ予定日と重なったため、前日から100kmの距離を一人で自転車で行くことにして、途中で宿をとって登校。このできごとは地元紙に掲載された。",
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"text": "シャーボーンは有名なパブリックスクールであり、その校風は古典を重視するものだったが、チューリングは、主に数学と科学に才能を発揮した。そのため、同校の校長は、アランの両親に「どっちつかずにならないと良いですが。パブリックスクールに留まるなら、教養を身に付けねばなりません。単に科学者になるのなら、パブリックスクールに通うのは、時間の無駄です」という手紙を書いた。",
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"text": "しかし、このようなことがあっても、アランは、学問に対する驚くべき能力を示し、初等微分積分学も習っていない1927年に、もっと難しい問題を解いていた。1928年、アルベルト・アインシュタインの書いた文章に触れ、16歳でその内容を理解しただけでなく、そこには明記されていなかったニュートン力学について、アインシュタインの疑問を外挿したという。",
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"text": "同性の親友であるクリストファー・モルコムに恋をしたが、シャーボーンの最終学期中、感染牛のミルクを小さいころに飲んでいたため牛結核症を患って、モルコムは死去した(1930年2月13日)。このことがきっかけとなり、チューリングは、無神論者になった。また、脳の働きなどの現象についても、唯物論的に解釈するようになったが、心のどこかで死後の生を信じていたという。",
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"text": "ケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学した。1931年から1934年まで学生として学び、数学で優秀な成績を修めて卒業した。1935年に、中心極限定理を証明した論文が認められ、キングス・カレッジのフェロー(特別研究員)に選ばれた。ただし、中心極限定理は1922年にJ・W・リンデベルグ(英語版)が証明済みだったが、チューリングはその業績を知らなかった。",
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"text": "1928年、ドイツの数学者ダフィット・ヒルベルトは、「決定問題」への注目を呼びかけた。チューリングは、重要な論文 \"On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem\"(「計算可能数、ならびにそのヒルベルトの決定問題への応用」、1936年5月28日提出、11月12日配布)で、この問題の解決に重要な役割を果たした。",
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"text": "この論文の重要な点を、現代の数学および数学基礎論およびコンピュータ科学の視点からまとめると次のようになる。(1)「チューリングマシン」という計算モデルを提示し、19世紀以前の数学では数理論理の視点からすると自然言語で記述されるなど曖昧な点があったアルゴリズムを形式的に表現する手法(のひとつ)を確立し、「何らかのチューリングマシンで計算可能な関数を計算可能関数とする」という計算可能性理論における重要なテーゼであるチャーチ=チューリングのテーゼを示した(チャーチの業績とは独立であり、チューリングのほうがよりわかりやすく直感的であった。人によってはチューリング=チャーチのテーゼ、の順とすることもある)。(2)どんなチューリングマシンの動作をも、現代の言葉で言えば「エミュレート」できる、「万能チューリングマシン」が可能であることを証明し、その構成法を示した。(注意: この(1)と(2)が表現していることを曖昧に理解しないように注意すること。「テーゼ」は証明ではない(証明できるような性質のものではない)。しばしば、万能チューリングマシンによりあらゆる計算が可能であることを証明した、というような誤解が見受けられる。)(3)「万能チューリングマシン」の概念を利用して、停止性問題を否定的に証明した(これはゲーデルの不完全性定理と同等の結果とも言えるものである。詳細は停止性問題の記事を参照)。",
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"text": "1936年9月から1938年7月にかけて、プリンストン大学においてアロンゾ・チャーチ(前述の「チャーチ=チューリングのテーゼ」のチャーチである)に師事した。1938年、プリンストンで博士号を得た。博士論文では、数の広がり(正の整数→負数→無理数→虚数)とその公理体系の進化に関して、それらすべてを包含する「順序数」という概念の体系を整理しようとした。その中で、チューリング還元の概念を提案している。純粋数学とは別に暗号理論もここで学び、電気機械式乗算器も試作している。また、この時期、ジョン・フォン・ノイマンも同じくプリンストンにおり、二人は親交があったと言われている。ノイマンは、チューリングにアメリカに残ることを勧めたという。",
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"text": "1939年にケンブリッジに戻ると、ウィトゲンシュタインとの講義に参加した。そこでは、ウィトゲンシュタインが「数学は絶対的真実を発見するのではなく、発明している」という立場を取ったのに対して、チューリングは形式主義を擁護する立場を取った。",
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"text": "ブレッチリー・パークでは変人で通っていた。同僚は彼を 'Prof' と呼び、 エニグマに関する論文は 'The Prof's Book' と呼ばれていた。同僚の暗号解読者ジャック・グッド(英語版)はチューリングについて次のように述べている。",
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"text": "6月の第1週には毎年花粉症に悩まされるので、彼は花粉を吸わないようガスマスクをして自転車でオフィスに通っていた。自転車は故障していて、定期的にチェーンが外れていた。それを修理してもらう代わりに、ペダルをこいだ回数を数えて、危なくなると一旦降りてチェーンを調整していた。もうひとつの変人ぶりとして、マグカップが盗まれるのを防ぐために、それをラジエータパイプに鎖で繋いでいた。",
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"text": "ブレッチリーで働いていたころ、ロンドンで重要な会議に出席しなければならないとき、長距離走が得意だったチューリングは、約 64km を走ったという。マラソンにおけるベストタイムは2時間46分3秒であり、1948年ロンドンオリンピックのマラソン代表選考にも参加して5位となっている。",
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"text": "第二次世界大戦中、チューリングは、ブレッチリー・パークでドイツの暗号を解読する仕事をしていた。歴史家で自らも戦時中に暗号解読に従事していたエイザ・ブリッグズ(英語版)は次のように述べている。",
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"text": "第二次世界大戦に先立つ1938年9月から、イギリスにおける暗号解読組織である政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き始める。そこで、ディリー・ノックス(英語版)と共にエニグマの解読に当たった。第二次世界大戦勃発の5週間前の1939年7月25日、ポーランド軍参謀本部第2部暗号局 (en)とイギリスおよびフランスの関係者がワルシャワで会合し、ポーランドが解明したエニグマのローター回路についての情報を得ていた。チューリングとノックスは、その情報を元に、問題にアプローチしようとしていた。ポーランドの解読法は不安定なもので、ドイツ側がいつでも変更可能だった。実際1940年5月に変更されている。チューリングの方法はもっと汎用的でクリブ式暗号解読全般に使えるもので、最初の bombe(ボンブ) の機能仕様に盛り込まれていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1939年9月4日、イギリスがドイツに宣戦布告した翌日、GCCSの戦時中の基地となっていたブレッチリー・パークに出頭した。bombe の仕様は戦時中の暗号解読でチューリングが成し遂げた5つの成果のうち最初の1つである。他には、ドイツ海軍が使っていたインジケーター手続きの推測、Banburismus と名付けた bombe の効率を上げる統計的手法の開発、Turingery と名付けた Lorenz SZ 40/42 (Tunny) のホイール群のカム設定を明らかにする手続きの開発、そして終戦間近に開発した音声信号スクランブラー Delilah である。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1945年、戦時中の功績によりOBEを授与されたが、その後1970年代までその業績は秘密にされ、近しい友人すらそのことを知らなかった。その功績の大きさにもかかわらず、暗号という重要な機密事項を扱う仕事柄ゆえに、ブレッチリー・パークから一歩外に出れば、チューリングの仕事を知る者は誰一人いなかった。それは、家族すら例外ではなく、母親に一度だけ「軍関係の研究をしている」と話した際には、政府の仕事に携わっていながら身なりに気を払わない息子に対し、母はかえって落胆するばかりであったという。戦後もブレッチリー・パークに関係する事柄は引き続き機密とされ、チューリングが同性愛者として罰せられてからは、その功績を知らない世間から、公然と辱めを受けることとなる(後述)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ブレッチリー・パークに到着して数週間後、ポーランドの「ボンバ」 (bomba kryptologiczna) よりも効率的にエニグマの暗号を解読する電気機械式の装置の仕様を生み出し、ポーランドの bomba にちなんで bombe と名付けた。数学者ゴードン・ウェルチマン(英語版)の示唆によって改良した bombe は、エニグマの暗号解読の主要な自動化ツールとなった。",
"title": "生涯"
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"text": "ジャック・グッドは次のように述べている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "チューリングの最も重要な貢献は、私が思うに暗号解読機 bombe の設計だ。彼はあなたも使えるアイデアを持っていた。要するに、やや不合理な訓練されていない耳でも聞き分けられる論理的理論で、すべてを推論できる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "bombe はエニグマの暗号文で使われたと考えられる正しい設定(ローターの順序、ローターの設定、プラグボードの設定など)を、適当なクリブ(平文中に含まれているであろうと思われる単語やフレーズ)を使って探索する。ローターの考えられる設定(組み合わせのオーダーは 10、4ローターのUボート版では 10)ごとに、bombe はクリブに基づいた一連の推論を電気的に行う。bombe は矛盾が生じるとそれを検出し、その設定を除外し、次の設定を調べる。ほとんどの設定は矛盾を生じるので除外でき、詳細に調べるべき少数の設定だけが残る。最初の bombe は1940年3月18日に実装された。終戦のころには200台以上の bombe が使われていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "チューリングは「他の誰もそれに取り組まず、自分ならやれるかもしれない」と思い、ドイツ海軍のエニグマの解読というさらに難しい問題に取り組むことを決めた。1939年12月、海軍のエニグマのインジケーターシステムの基本部分を解明。海軍以外が使っているインジケーターシステムよりも複雑だった。そしてある夜、Banburismus のアイデアを思いつく。これは逐次的かつ統計的な技法で(後にエイブラハム・ウォールドは sequential analysis と呼んだ)、海軍版エニグマの暗号解読を助けるものだった。「私はそれが現場でうまく機能するか確信を持てず、何日かかけて具体化してやっと確信した」 このために彼は証拠を重み付けするための測度を考案し、それを Ban と呼んだ。Banburismus はエニグマの特定のローターの並びを除外することができ、bombe の設定をテストする時間を大幅に減らすことに寄与した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1941年、チューリングは、 Hut 8 の同僚で数学者・暗号解読者のジョーン・クラークに結婚を申し込んだが、婚約期間は短かった。同性愛者であることをフィアンセに告白しても、彼女は動じなかったといわれているが、チューリングのほうがこのまま結婚はできないと別れることを決心した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1942年11月には、暗号に関する情報交換の一環として、アメリカを訪れた。そこでは、ワシントンでアメリカ海軍の暗号解読者に海軍版エニグマと bombe の構造について伝授し、英米間の盗聴不可能な音声通信手段としてベル研究所で当時開発中だった秘話装置SIGSALYの情報提供を受け暗号化方式の安全性についての評価作業を行った。ベル研究所では同じようにSIGSALYの評価を行っていたシャノンにも会っている。1943年3月、ブレッチリー・パークに戻る。この間に Hut 8 の責任者がヒュー・アレグザンダーに変わり、チューリング自身は部門の日常業務の運営に興味を持たなくなっていたため、ブレッチリー・パークの暗号解読コンサルタントのような立場となった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "アレグザンダーは、次のように書いている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "チューリングの仕事が Hut 8 の成功の最大の要因であることは誰もがわかっていた。当初、暗号解読者としては、彼だけがこの問題に取り組む価値があると考え、彼1人ではないものの Hut における理論的成果の最大の功績者であり、彼に次いでウェルチマンとキーンが bombe の発明に貢献した。全員が不可欠だったというのは難しいが、Hut 8 で誰が一番不可欠だったかといえば、それはチューリングだ。経験と日常がすべてを簡単なように見せるので、先駆者の業績は忘れられがちだが、Hut 8 の多くの者がチューリングの功績の大きさが外の世界に完全に伝わることは決してないだろうと感じていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1942年、チューリングは Turingery(冗談で Turingismus とも)と名付けた技法を考案。ドイツが新たに開発した暗号生成ローターつきのテレタイプ端末で生成されるローレンツ暗号を解読するための技法である。この暗号機械をブレッチリー・パークでは Tunny と呼んでいた。Turingery は Tunny のホイール群のカム設定を解明する手続きである。彼は Tunny のチームにトミー・フラワーズを紹介し、フラワーズがマックス・ニューマンの指導下で世界初のプログラム可能な電子式デジタル計算機 Colossus を構築することになった。Colossus は当時としては極めて高性能で、総当り的な統計的暗号解読技法を適用しても十分な性能を発揮した。なお、チューリングがColossusの設計に重要な役割を果たしたと間違って主張している文献などがある。Turingery と Banburismus の統計的暗号解読法は間違いなくローレンツ暗号の解読技術に影響を与えているが、チューリング自身がColossus開発に直接関与した事実はない。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "アメリカのベル研究所で提供を受けたSIGSALYの情報を元に、よりシンプルな形で電話の音声信号を電子的に暗号化するというアイデアを追求し、戦時中の後半はハンスロープ・パークにあるイギリス情報局秘密情報部のラジオセキュリティサービス(後のHMGCC)で働いた。そこで彼は技術者ドナルド・ベイリーの助けを得て、電子工学への造詣を深める。2人は携帯型の秘話装置 Delilah を設計・構築。Delilah は様々な応用が意図されていたが、長距離の無線通信ができず、いずれにしても完成したのは終戦間近で遅すぎた。それでも役人の前でウィンストン・チャーチルの演説を暗号化してさらにそれを元に戻すデモンストレーションを行ったが、実際には使われなかった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1945年から1947年まで、チューリングはロンドンのリッチモンドに住み、イギリス国立物理学研究所 (NPL) にてACE (Automatic Computing Engine) の設計を行う。1946年2月の論文では、プログラム内蔵式コンピュータの英国初の完全なデザインを発表している。フォン・ノイマンの「EDVACに関する報告書の第一草稿」はチューリングの論文より先に存在したが、チューリングの論文の方が詳細であり、NPL数学部門の責任者だった John R. Womersley は「チューリング博士の独自のアイデアがいくつか含まれていた」と記している。また、フォン・ノイマンはさらに遡る1936年の時点でチューリングがプログラム内蔵式について先駆的な論文を発表していたことを認めていた。ACEは実現可能な設計だったが、ブレッチリー・パークで軍事機密に関わる仕事をしていたことが原因でプロジェクトは遅々として進まず、1947年、サバティカル休暇でケンブリッジに戻る。彼がケンブリッジにいる間にACEを縮小した パイロットACE が作られた。1950年5月10日に初めてプログラムの実行を達成している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1948年にマックス・ニューマンの招きでマンチェスター大学に招かれ、チューリングは同大学で設立されていた王立協会計算機研究所の副所長に就任し、そこで初期のコンピュータ Manchester Mark I におけるソフトウェア開発に従事。この時期はより概念的な仕事にも取り組み、Computing Machinery and Intelligence(「計算する機械と知性」、1950年10月、「Mind」誌)という論文では人工知能の問題を提起、今日チューリングテストとして知られている実験を提案している。すなわち、機械を「知的」と呼ぶ際の基準を提案したもので、人間の質問者が機械と会話をして人間か機械か判別できない場合に、その機械が「思考」していると言えるというものである。その中で、最初から大人の精神をプログラムによって構築するよりも、子どもの精神をプログラムして教育によって育てていくのがよいと示唆している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1948年、当時まだ存在していなかったコンピュータチェスのプログラムを書き始める。1952年、当時のコンピュータは性能が低くそのプログラム実行には適さなかったため、自分でコンピュータをシミュレートしてチェスの試合を行ったが、一手打つのに30分かかったという。その対戦の棋譜が残っている。同僚との対戦ではプログラムが負けているが、別の同僚の妻にはプログラムが勝利している。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "チューリングテストは独特の挑発的特徴があり、人工知能に関する議論で半世紀にわたってよく引き合いにだされ続けた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1948年には行列のLU分解も考案しており、今でも線形方程式の解法として使われている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1952年から、亡くなる1954年まで数理生物学、特に多細胞生物の個体発生における形態形成に関する研究を行い、それがどのように生じるかについて仮説を提唱した。1952年に発表した “The Chemical Basis of Morphogenesis” (形態形成の化学的基礎)と題する論文において、反応拡散系と呼ばれる偏微分方程式系で反応を抑制する因子の拡散が活性化因子よりも速いとき、チューリング不安定性と呼ばれる不安定化を起こして形態形成の手がかりとなる空間構造を生み出しうることを指摘した。こうして生じる空間パターンはチューリング・パターンと呼ばれている。この論文の最終節においてチューリングは、容易に解析できないこの種のさらに複雑な問題への将来的なデジタルコンピューターの利用について触れている。実際、20世紀末よりコンピューターの計算能力の急速な発達によって、反応拡散系の研究の発展がもたらされた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "また同じ年、ヒマワリの種にみられる螺旋構造が隣接するフィボナッチ数に従っているらしいことを未発表の研究ノートに記していた。葉序構造など種々の植物に見られるこの関係は黄金角と呼ばれる角度で葉や種のもととなる原基が生ずればよいことがわかっている。 その後の論文は 1992年の Collected Works of A.M. Turing の出版まで未発表だった。近年再評価が著しい仕事である。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 46,
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"text": "Anthony Cave Brown の著書 \"C\": The Secret Life of Sir Stewart Menzies, Spymaster to Winston Churchill には次のような記述がある。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1952年1月、チューリングはマンチェスターの映画館のそばでアーノルド・マレーと出会う。ランチデートの後、週末を一緒に過ごそうとマレーを自宅に招いたが、マレーはその誘いを断わっている。次の月曜日、2人は再びマンチェスターで会い、今度はチューリングの自宅を訪問している。数週間後、マレーは再びチューリング宅を訪れ、一夜を共にしたとみられている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "間もなく自宅に泥棒が入り、事件を警察に報告したが、捜査の過程で、泥棒の手引きをした19歳の青年(マレー)と同性愛関係にあったことが警察の知るところとなった。同性愛は当時のイギリスでは違法であり、2人とも逮捕された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "チューリングは有罪となり、入獄か化学的去勢を条件とした保護観察かの選択を与えられ、入獄を避けるため、同性愛の性向を矯正するために、性欲を抑えると当時考えられていた女性ホルモン注射の投与を受け入れた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "結果としてセキュリティ・クリアランスを剥奪され、GCHQで暗号コンサルタントを続けることができなくなった。当時、ケンブリッジ・ファイヴの最初の2名ガイ・バージェスとドナルド・マクリーンがKGBのスパイだと露見した事件があり、スパイについて大衆の不安が増大し、ソ連のエージェントが同性愛者を罠にかけるという噂があった。スパイ活動で告発されたわけではないが、ブレッチリー・パークで働いていた全員と同様、戦時下の業績について論じることは禁止された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1954年6月8日、家政婦がチューリングが自宅で死んでいるのを発見した。検死の結果、死亡したのは前日で、青酸中毒による死であることが判明。ベッドの脇には齧りかけのリンゴが落ちていた。リンゴに青酸化合物が塗ってあったかの分析はなされなかったが、部屋には青酸の瓶が多数あった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "死因審問で自殺と断定され、1954年6月12日に火葬された。母は、実験用化学物質を不注意に扱ったために起こった事故であると主張している。あるいは、母に事故だと思わせるようにして自殺したという説もある。同僚によれば、映画『白雪姫』を見た直後の彼が「魔法の秘薬にリンゴを浸けよう、永遠なる眠りがしみこむように」と言っていたのを耳にしており、白雪姫のワンシーンを真似てこのような死に方をしたのだという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "チューリングの死後まもなく(戦時中の業績が機密扱いだったころ)、王立協会が伝記を出版しており、以下のように記されている。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "3つの多様な数学的主題について、戦前に3つの特筆すべき論文を書いており、この重要な時期(戦時のこと)に何らかの大きな問題にとりかかっていたら重大な業績を残していただろうということがわかる。外務省での業績により、OBEが授与された。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "国立物理学研究所の同僚で、後にチューリング賞を受賞したジェイムス・H・ウィルキンソンも、受賞講演で、外務省時代にチューリングが別の環境にいたならば、もっとも生産的な時期たりえた可能性が大きい、としている。しかし、問題やパズルといったものであれば種類を問わず大好きであったから、外務省での仕事にも興味をもって取り組んだであろうし、電子工学について知識を獲得したのもその時であった、と指摘している。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1966年から、コンピュータ科学者らによる国際的学会のACMは、同学会の守備範囲であるコンピュータ科学を中心とした分野の最高の賞として、チューリング賞を授与している。物理や化学といったようなかなり広い分野の最高の賞、という位置づけにあるものとして、コンピュータ科学分野におけるノーベル賞に相当するものと一般に扱われている。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1974年夏、ブレッチリー・パークの活動について書かれた「ウルトラ・シークレット」出版、チューリングらの功績について世間の知るところとなる。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1986年、ヒュー・ホワイトモアの戯曲「ブレイキング・ザ・コード」でチューリングが描かれた。1986年11月からロンドンのウェストエンドで公開され、1987年11月15日から1988年4月10日までブロードウェイで興行。1996年にはBBCでテレビドラマ化されている。いずれもチューリング役はデレク・ジャコビ。ブロードウェイでの公演はトニー賞3部門にノミネートされている。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1998年6月23日、86回目の誕生日に、伝記作者にして数学者のアンドリュー・ホッジスは公式の英国遺産としてブルー・プラーク(記念銘板)をチューリングの生まれた病院であったロンドンのウォーリントン・クレセントにあるコロネードホテルに掲げた。2004年6月7日には、死去50周年を記念して、ウィルムズロウ・ホリーミードの家にも記念のプラークが設置された。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1999年、タイム誌の「タイム100: 20世紀の最も影響力のある100人」で、コンピューター創造に果たした役割からチューリングを選んでいる。1999年のニール・スティーブンスンの小説『クリプトノミコン』にはチューリングが登場している。2000年3月13日、セントビンセント・グレナディーンにて20世紀の偉人を集めた切手セットが発行された。その中にチューリングの肖像が描かれた切手もあり、「1937: アラン・チューリングのデジタルコンピュータ理論」と記されている。2002年、BBCが行った「偉大な英国人」投票で第21位にランクインした。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "晩年に働いていたマンチェスターでは、様々な方法でその栄誉を称えている。1994年、マンチェスターの環状道路が \"Alan Turing Way\" と名付けられている。またこの道路には Alan Turing Bridge という橋もある。2001年6月23日(誕生日)には、マンチェスター大学に隣接するサックビル・パークにベンチに座っている形の銅像が設置された。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "この銅像はリンゴを持っている。リンゴは古来「禁じられた愛」の象徴であり、アイザック・ニュートンの万有引力の法則も思い起こさせるし、チューリングの死の状況も思い起こさせる。また、ブロンズ製のベンチにはレリーフで 'Alan Mathison Turing 1912–1954' と書かれていて、その下には 'Founder of Computer Science' をエニグマで暗号化した文字列が書かれている。台座には「計算機科学の父、数学者、論理学者、戦時中の暗号解読者、偏見の犠牲者」と記されている。バートランド・ラッセルの言葉も引用されていて「正しく見た数学は、真実だけでなく最高の美 - 彫刻のように冷たく厳しい美も有している」とある。台座の下には彫刻家が所有していた古いアムストラッド製パソコンが「あらゆる現代のコンピュータのゴッドファーザー」への捧げ物として埋められている。",
"title": "再評価"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "没後50年を記念して、2004年10月28日には、幼少時に住んでいた町にあるサリー大のキャンパス内に銅像が置かれる。",
"title": "再評価"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "プリンストン大学の発行する Princeton Alumni Weekly では、チューリングをジェームズ・マディソンに次ぐ偉大な卒業生だとしている。",
"title": "再評価"
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{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2007年6月19日、ブレッチリー・パークに1.5トンの等身大の石像が立てられた。ウェールズの粘板岩を多数使用したもので、億万長者の Sidney Frank が彫刻家 Stephen Kettle に制作を依頼したものである。",
"title": "再評価"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2011年2月、チューリングの第二次世界大戦中の論文がオークションで買い取られ、ブレッチリー・パークに戻された。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2014年、グレアム・ムーアによる脚本、人気俳優ベネディクト・カンバーバッチがチューリングを演じる映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』が公開された。",
"title": "再評価"
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{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2019年、アラン・チューリングが新50ポンド紙幣に採用される事となった。新紙幣は2021年末頃に一般に出回ることになる。",
"title": "再評価"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2009年8月、ジョン・グラハム=カミングがイギリス政府に対して、アラン・チューリングを同性愛で告発したことへ謝罪するよう請願活動をはじめた。これに対して数千の署名が集まった。",
"title": "再評価"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "イギリス首相のゴードン・ブラウンはこの請願を認め、2009年9月10日に政府として正式な謝罪を表明し、当時のチューリングの扱いを「呆れたもの (appalling)」と表現して、次のように声明を発表した。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "数千の人々がアラン・チューリングのための正義と彼がぞっとする扱われ方をしたという認識を求めて集まった。チューリングは当時の法律に則って扱われ、時計の針は戻すことはできないが、彼に対する処置はまったく不当であり、深い遺憾の意を表す機会を得たことを我々全てが満足に思っている... イギリス政府とアランのおかげで自由に生活している全ての人々を代表し、『すまない、あなたは賞賛に値する』と言えることを非常に誇りに思う。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2011年12月、William Jones はイギリス政府に対してアラン・チューリングの罪を免罪(名誉回復)してほしいという電子請願を申請した。この請願には21,000以上の署名が集まったが、法務大臣はチューリングが有罪宣告されたことは遺憾だが、当時の法律に則った正当な行為であったとしてこれを拒否した。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "その後、2012年にイギリス貴族院に正式な恩赦の法案が提出され、2013年12月24日にエリザベス2世女王の名をもって正式に恩赦が発効した。キャメロン首相は、彼の業績をたたえる声明を発表した。",
"title": "再評価"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "生涯と業績に関する催しが英国論理学会議と英国数学史学会主催で2004年6月5日にマンチェスター大学で行われた。",
"title": "再評価"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "生誕100年を記念して、Turing Centenary Advisory Committee (TCAC) は2012年を Alan Turing Yearとし、一年を通して世界各地でチューリングの生涯およびその功績を称えるイベントを行った。TCACには、マンチェスター大学、ケンブリッジ大学、ブレッチリー・パークなどの関係者が協力しており、数学者のS・バリー・クーパー(英語版)が議長を務め、甥のジョン・ダーモット・チューリングが名誉会長を務めている。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "2012年6月23日には、Google Doodle(Googleトップページのロゴ)がチューリングマシンを模したデザインに変更された。アルゴリズムを設定するミニゲームが遊べるようになっていた。",
"title": "再評価"
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "ブレッチリー・パーク・トラストは、Winning Moves社と共同で、モノポリーのアラン・チューリング版を発表した。このモノポリーのマスとカードは、メイダヴェールにある出生の地からブレッチリー・パークのHut 8に勤務するまでのアラン・チューリングの生涯をたどるような内容に改訂されている。また、このゲームには、チューリングを指導していたマックス・ニューマンの息子であるウィリアム・ニューマンが手書きで作成したモノポリーの原型のレプリカも同梱されている。この原型となったゲームを、1950年代にチューリングもプレイしていた。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "フィリピンでは、デ・ラ・サール大学の哲学科が、2012年3月27日から28日にかけて、チューリングの生誕100周年を記念し、哲学、人工知能および認知科学に関する国際会議であるTuring 2012を開催した。インドでは、マドゥライにおいて、6,000人の学生が出席する記念式典が行われた。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "ACMが6月にマンチェスターにおいて3日間のカンファレンスと、サンフランシスコにおいて2日間のカンファレンスをそれぞれ開催した。またケンブリッジでは、キングス・カレッジおよびケンブリッジ大学においてそれぞれチューリングの誕生日パーティとチューリング生誕100周年記念カンファレンスが開催された。ケンブリッジ大学でのものは、Computability in Europeにより開催された。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "ロンドンのサイエンス・ミュージアムは、2012年6月から2013年7月にかけて、チューリングの生涯とその功績に特化した無料の展示を行った。2012年2月には、ロイヤルメールが「Britons of Distinction」シリーズの一環として、チューリングの切手を発行した。2012年ロンドンオリンピックの聖火リレーは、チューリングの100回目の誕生日である2012年6月23日に、サックヴィル・ガーデンズにあるチューリングの像の前で引き継がれた。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "2012年6月22日、マンチェスター市議会は、Lesbian and Gay Foundationと共同で、Alan Turing Memorial Awardを創設し、マンチェスターにおいてホモフォビアに立ち向かうことに顕著な貢献のあった個人・団体を表彰することとした。",
"title": "再評価"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "オックスフォード大学では、チューリングの生誕100周年を記念して、コンピュータサイエンスと哲学の新しい科目が開設された。",
"title": "再評価"
},
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"text": "これ以前にも、2004年6月5日にマンチェスター大学において、British Logic ColloquiumおよびBritish Society for the History of Mathematicsの主催で行われた、チューリングの生涯とその功績を称えるイベントを含め、さまざまなイベントが行われている。",
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}
] | アラン・マシスン・チューリングは、イギリスの数学者、暗号研究者、計算機科学者、哲学者である。日本語において姓 Turing はテューリングとも表記される。 電子計算機の黎明期の研究に従事し、計算機械チューリングマシンとして計算を定式化して、その知性や思考に繋がりうる能力と限界の問題を議論するなど情報処理の基礎的・原理的分野において大きな貢献をした。また、偏微分方程式におけるパターン形成の研究などでも先駆的な業績がある。 | {{Infobox scientist
| birth_name = Alan Mathison Turing
| image = Alan Turing az 1930-as években.jpg
| image_size = 200px
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| birth_date = {{Birth date|1912|6|23|df=yes}}
| birth_place = {{GBR1801}}<br>{{ENG}}・ロンドン・<br />{{仮リンク|メイダヴェール|en|Maida Vale}}
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| death_place = {{GBR}}<br>{{ENG}}・チェシャー・<br />{{仮リンク|ウィルムズロー|en|Wilmslow}}
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| field = [[数学]]、[[暗号解読]]、[[計算機科学]]、[[数理生物学]]
| work_institutions = [[ケンブリッジ大学]]<br />[[政府通信本部]]<br />[[国立物理研究所 (イギリス)]]<br />[[マンチェスター大学]]
| alma_mater = [[キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学)]]<br />[[プリンストン大学]]
| doctoral_advisor = [[アロンゾ・チャーチ]]
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| known_for = [[停止性問題]]<br />[[チューリングマシーン]]<br />{{仮リンク|エニグマの暗号解読|en|Cryptanalysis of the Enigma}}<br />[[ACE (コンピュータ)]]<br />[[チューリング賞]]<br />[[チューリング・テスト]]<br />[[チューリング・パターン]]
| prizes = [[大英帝国勲章]]<br />[[王立協会フェロー]]<ref>{{FRS |code = NA1673 |title = Turing; Alan (1912 - 1954) |accessdate = 2011-12-11 }}</ref>
}}
[[File:Alan Turing Memorial Closer.jpg|thumb|マンチェスターの[[:en:Sackville Gardens|Sackville Gardens]]にあるアラン・チューリングの銅像]]
'''アラン・マシスン・チューリング'''(Alan Mathison Turing、{{IPA-en|tjúǝrɪŋ}}〔音写の一例:テュァリング〕, {{post-nominals|post-noms=[[大英帝国勲章|OBE]], [[王立協会フェロー|FRS]]}} [[1912年]][[6月23日]] - [[1954年]][[6月7日]])は、[[イギリス]]の[[数学者]]、[[暗号]]研究者、[[計算機科学]]者、[[哲学]]者である。日本語において姓 {{en|Turing}} は'''テューリング'''とも表記される<ref>{{Cite web|和書|title=テューリング|work=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|website=コトバンク|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0-101703|accessdate=2023-07-13}}</ref>。
[[電子計算機]]の黎明期の研究に従事し、計算機械[[チューリングマシン]]として計算を定式化して、その知性や思考に繋がりうる能力と限界の問題を議論するなど情報処理の基礎的・原理的分野において大きな貢献をした。また、[[偏微分方程式]]におけるパターン形成の研究などでも先駆的な業績がある。
== 人物 ==
経歴・業績の基盤となる出発点は数学であったが、[[第二次世界大戦]]中に[[暗号解読]]業務に従事した。また黎明期の[[電子計算機]]の開発に携わった事で[[コンピューター]]・[[情報処理]]の基礎理論である計算可能性等に関する仕事をすることとなった。
[[第二次世界大戦]]の間、[[ブレッチリー・パーク]]にあるイギリスの[[暗号解読]]センターの[[政府暗号学校]]で、ドイツの暗号を解読するいくつかの手法を考案し、英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍の[[Uボート]]の暗号通信を解読する部門 (Hut 8) の責任者となった。ドイツが使用していた、[[エニグマ (暗号機)|エニグマ]]暗号機を利用した通信の暗文を解読する(その通信における暗号機の設定を見つける)ための機械 bombe を開発した。
チューリングの業績を紹介する時、[[チャーチ=チューリングのテーゼ]]と[[計算可能性理論]]への貢献がまず第一に挙げられる。特に[[アルゴリズム]]を実行するマシンを形式的に記述したものの一つである'''「[[チューリングマシン]]」'''にその名を残し、人によっては前述のテーゼを「チューリング=チャーチ」と呼称するべきであるとする者もいるほどである。また、任意のチューリングマシンを模倣([[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレート]])できる「万能チューリングマシン」は、同分野の基本的な定理のひとつである[[停止性問題]]の決定不能性定理と関係する。さらに、理論面だけではなく、実際面でも[[コンピュータ]]の誕生に重要な役割を果たした<ref name="frs">{{cite journal|last1=Newman|first1=M. H. A.|title=Alan Mathison Turing. 1912-1954|journal=Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society|volume=1|issue=0|year=1955|pages=253–263|issn=0080-4606|doi=10.1098/rsbm.1955.0019}}</ref><ref name=AFP>{{Cite news| title =Alan Turing – Time 100 People of the Century |url= http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,990624,00.html |work=Time Magazine |quote=The fact remains that everyone who taps at a keyboard, opening a spreadsheet or a word-processing program, is working on an incarnation of a Turing machine. |first=Paul |last=Gray |date=29 March 1999}}</ref>。「[[コンピュータ科学]]の父」および([[チューリング・テスト]]など)からは「[[人工知能]](AI)の父」とも言われる<ref>{{Cite book|author=Homer, Steven and Alan L. |title=Computability and Complexity Theory|url= https://books.google.co.jp/books?id=r5kOgS1IB-8C&pg=PA35&redir_esc=y&hl=ja|publisher=Springer via Google Books limited view|page=35|isbn=0-387-95055-9|accessdate=13 May 2011|year=2001}}</ref>。
がっしりした体形で、声は甲高く、話好きで機知に富み、多少学者ぶったところがあったといわれている<ref>{{Citation| last = Garner | first = Alan | author-link = アラン・ガーナー | title = My Hero: Alan Turing | newspaper = Saturday Guardian Review | page = 5 | date = 12 November 2011 | url = http://www.guardian.co.uk/books/2011/nov/11/alan-turing-my-hero-alan-garner | accessdate = 2011-11-23 }}</ref>。また、[[アスペルガー症候群]]([[自閉症スペクトラム障害]]・ASD)を示唆する特徴の多くを示しているとの指摘もある<ref>{{Harvnb|O'Connell|Fitzgerald|2003|pp=28-31}}</ref>。
戦後は、[[イギリス国立物理学研究所]] (NPL) に勤務し、プログラム内蔵式コンピュータの初期の設計のひとつ[[ACE (コンピュータ)|ACE]] (Automatic Computing Engine) に携わった(ただし、チューリング自身は、その完成を見ずに異動している)。[[1947年]]、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータ [[Manchester Mark I]] のソフトウェア開発に従事し<ref>{{Harvnb|Leavitt|2007|pp=231-233}}</ref>、[[数理生物学]]に興味を持つようになる。[[形態形成]]の化学的基礎についての論文を書き<ref>{{Cite journal| last= Turing | first= A. M. | title = The Chemical Basis of Morphogenesis | journal=Philosophical Transactions of the Royal Society of London, series B | volume = 237 | pages = 37–72 | year = 1952 | doi=10.1098/rstb.1952.0012| issue= 641| ref= harv}}</ref>、1960年代に初めて観察された[[ベロウソフ・ジャボチンスキー反応]]のような発振する[[化学反応]]の存在を予言した。
[[1952年]]、同性愛の罪(風俗壊乱罪)で警察に逮捕され、保護観察の身となり、[[転向療法]]としてホルモン治療を受ける。[[1954年]]に41歳で死去。検死によると、[[シアン化水素|青酸中毒]]による自殺と断定されたが、母親や一部の友人は事故だと信じていた。
2009年9月10日、インターネットでのキャンペーンに続いて、[[イギリスの首相|首相]]の[[ゴードン・ブラウン]]が、戦後のイギリス政府によるチューリングへの扱いについて、公式に謝罪した<ref name = "PM-apology">{{Cite news| url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/8249792.stm | title = PM apology after Turing petition | date = 11 September 2009 |work=BBC News }}</ref>。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
母エセルは、[[イギリス領インド帝国]][[オリッサ州]]チャトラプルでアラン・チューリングを妊娠した<ref name = "Hodges1983P5">{{Harvnb|Hodges|1992|p=5}}</ref><ref> {{Cite web|url= http://www.turing.org.uk/turing/scrapbook/early.html |title=The Alan Turing Internet Scrapbook |publisher=Turing.org.uk |date= |accessdate=2012-01-02}} </ref>。父のジュリアス・チューリングは、当時[[インド高等文官]]であり、1911年に妻エセルの妊娠を知ると、[[イギリス]]本国での養育を考えて、[[ロンドン]]のメイダヴェールに戻った。<ref name="englishheritaget">{{Cite web| url = http://www.english-heritage.org.uk/server/show/nav.001002006005/chooseLetter/T | archiveurl = https://webcitation.org/5jkyjSdgY | archivedate = 2009-09-13 | title = London Blue Plaques | accessdate =2007-02-10 | work=English Heritage}}</ref>1912年6月23日、アランが誕生した。現在、アランが生まれた病院(現在はホテル<ref name="Hodges1983P5"/>)には、それを記念した[[ブルー・プラーク]]がある<ref>{{Openplaque|381}}</ref><ref name="turingorguk">{{Cite web| url= http://www.turing.org.uk/turing/scrapbook/memorial.html | title=The Alan Turing Internet Scrapbook | accessdate=2006-09-26}} </ref>。
父の任期が続いており、両親はインドとイギリスの[[ヘイスティングス]]<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=6}}</ref>を行き来する生活を送っていた。そのため、アランと兄のジョンは、イギリスの友人に預けられる。文字を読むことは三週間で覚えたといわれる。また、数字に強くパズルが非常に得意だった<ref name=toolbox>{{Cite web|title=Alan Turing – Towards a Digital Mind: Part 1 |first=G. James |last=Jones |date=11 December 2001 |url= http://www.systemtoolbox.com/article.php?history_id=3 |accessdate=2007-07-27 |work=System Toolbox}}</ref>。
6歳でセント・マイケルズ学校に入学した。担任教師に続き、校長もすぐに彼の才能に気づく。
===パブリックスクール時代===
[[1926年]]、14歳で{{仮リンク|シャーボーン・スクール|en|Sherborne School}}に入学。登校初日が[[ゼネラル・ストライキ]]予定日と重なったため、前日から100kmの距離を一人で自転車で行くことにして、途中で宿をとって登校。このできごとは[[地方紙|地元紙]]に掲載された<ref name=metamagical>{{Cite book|title=Metamagical Themas: Questing for the Essence of Mind and Pattern |first=Douglas R. |last=Hofstadter |year=1985 |publisher=Basic Books |isbn=0-465-04566-9 |oclc=230812136}}</ref>。
シャーボーンは有名な[[パブリックスクール]]であり、その校風は[[西洋古典学|古典]]を重視するものだったが、チューリングは、主に数学と科学に才能を発揮した。そのため、同校の校長は、アランの両親に「どっちつかずにならないと良いですが。パブリックスクールに留まるなら、教養を身に付けねばなりません。単に科学者になるのなら、パブリックスクールに通うのは、時間の無駄です」<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=26}}</ref>という手紙を書いた。
しかし、このようなことがあっても、アランは、学問に対する驚くべき能力を示し、初等[[微分積分学]]も習っていない[[1927年]]に、もっと難しい問題を解いていた。[[1928年]]、[[アルベルト・アインシュタイン]]の書いた文章に触れ、16歳でその内容を理解しただけでなく、そこには明記されていなかった[[ニュートン力学]]について、アインシュタインの疑問を外挿したという<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=34}}</ref>。
同性の親友であるクリストファー・モルコムに恋をしたが、シャーボーンの最終学期中、感染牛のミルクを小さいころに飲んでいたため<ref name=teuscher>{{Cite book|last=Teuscher |first=Christof (ed.) |title=Alan Turing: Life and Legacy of a Great Thinker |year=2004 |publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer-Verlag]] |isbn=3-540-20020-7 |oclc=53434737 62339998}}</ref>牛結核症を患って、モルコムは死去した(1930年2月13日)<ref>{{Cite web |url= http://www.gap-system.org/~history/Biographies/Turing.html |title=Turing biography |publisher=Gap-system.org |date= |accessdate=2012-01-02}}</ref>。このことがきっかけとなり、チューリングは、[[無神論]]者になった。また、脳の働きなどの[[現象]]についても、[[唯物論]]的に解釈するようになったが<ref>Paul Gray, [http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,990624,00.html Alan Turing] Time Magazine's Most Important People of the Century, p.2</ref>、心のどこかで死後の生を信じていたという<ref>[http://www.turing.org.uk/turing/scrapbook/spirit.html The Inspiration of Life and Death, 1928–1932] Alan Turing Scrapbook</ref>。
=== 大学時代と計算可能性についての研究 ===
[[File:KingsCollegeChapel.jpg|thumb|キングス・カレッジの計算機室はTuringと名づけられている]]
ケンブリッジ大学[[キングス・カレッジ_(ケンブリッジ大学)|キングス・カレッジ]]へ進学した。1931年から1934年まで学生として学び、[[数学]]で優秀な成績を修めて卒業した。1935年に、[[中心極限定理]]を証明した論文が認められ、キングス・カレッジの[[フェロー]](特別研究員)に選ばれた<ref>See Section 3 of John Aldrich, "England and Continental Probability in the Inter-War Years", Journal Electronique d'Histoire des Probabilités et de la Statistique, vol. 5/2 [http://www.jehps.net/decembre2009.html Decembre 2009] Journal Electronique d'Histoire des Probabilités et de la Statistique</ref>。ただし、中心極限定理は1922年に{{仮リンク|J・W・リンデベルグ|en|Jarl Waldemar Lindeberg}}が証明済みだったが、チューリングはその業績を知らなかった<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|pp=88,94}}</ref>。
1928年、ドイツの数学者[[ダフィット・ヒルベルト]]は、「[[決定問題]]」への注目を呼びかけた。チューリングは、重要な論文 "On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem"(「計算可能数、ならびにその[[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]の決定問題への応用」、1936年5月28日提出、11月12日配布)<ref>{{Cite journal| last= Turing | first= A. M. |year=1936 | publication-date = 1936–37 | title = On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem | periodical = Proceedings of the London Mathematical Society | series = 2 | volume = 42 | pages = 230–65 | doi= 10.1112/plms/s2-42.1.230 | url = http://www.comlab.ox.ac.uk/activities/ieg/e-library/sources/tp2-ie.pdf | ref= harv}}(および {{Cite news| last = Turing | first = A.M. | publication-date = 1937 | title = On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem: A correction | periodical = Proceedings of the London Mathematical Society | series = 2 | volume = 43 | pages = 544–6 | doi = 10.1112/plms/s2-43.6.544 | year = 1938 }})</ref>で、この問題の解決に重要な役割を果たした。
この論文の重要な点を、現代の数学および[[数学基礎論]]および[[コンピュータ科学]]の視点からまとめると次のようになる。(1)「[[チューリングマシン]]」という[[計算モデル]]を提示し、19世紀以前の数学では[[数理論理学|数理論理]]の視点からすると[[自然言語]]で記述されるなど曖昧な点があった[[アルゴリズム]]を形式的に表現する手法(のひとつ)を確立し、「何らかのチューリングマシンで計算可能な関数を[[計算可能関数]]とする」という[[計算可能性理論]]における重要なテーゼである[[チャーチ=チューリングのテーゼ]]を示した(チャーチの業績とは独立であり<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=111}}</ref>、チューリングのほうがよりわかりやすく直感的であった。人によってはチューリング=チャーチのテーゼ、の順とすることもある)。(2)どんなチューリングマシンの動作をも、現代の言葉で言えば「[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレート]]」できる、「万能チューリングマシン」が可能であることを証明し、その構成法を示した。('''注意:''' この(1)と(2)が表現していることを曖昧に理解しないように注意すること。「テーゼ」は証明ではない(証明できるような性質のものではない)。しばしば、万能チューリングマシンによりあらゆる計算が可能であることを証明した、というような誤解が見受けられる。)(3)「万能チューリングマシン」の概念を利用して、[[停止性問題]]を否定的に証明した(これは[[クルト・ゲーデル|ゲーデル]]の[[不完全性定理]]と同等の結果とも言えるものである。詳細は[[停止性問題]]の記事を参照)。
1936年9月から1938年7月にかけて、[[プリンストン大学]]において[[アロンゾ・チャーチ]](前述の「チャーチ=チューリングのテーゼ」のチャーチである)に師事した。1938年、プリンストンで[[博士号]]を得た。博士論文<ref> {{Citation| last = Turing | first = A. M. | title = Systems of Logic Based on Ordinals | year = 1938 | url = https://webspace.princeton.edu/users/jedwards/Turing%20Centennial%202012/Mudd%20Archive%20files/12285_AC100_Turing_1938.pdf }} </ref>では、数の広がり(正の整数→負数→無理数→虚数)とその公理体系の進化に関して、それらすべてを包含する「[[順序数]]」という概念の体系を整理しようとした。その中で、[[チューリング還元]]の概念を提案している。純粋数学とは別に暗号理論もここで学び、電気機械式乗算器も試作している<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=138}}</ref>。また、この時期、[[ジョン・フォン・ノイマン]]も同じくプリンストンにおり、二人は親交があったと言われている。ノイマンは、チューリングにアメリカに残ることを勧めたという。
1939年にケンブリッジに戻ると、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]との講義に参加した<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=152}}</ref>。そこでは、ウィトゲンシュタインが「数学は絶対的真実を発見するのではなく、発明している」という立場を取ったのに対して、チューリングは[[形式主義 (数学)|形式主義]]を擁護する立場を取った<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|pp=153–154}}</ref>。
=== 不思議な性格 ===
ブレッチリー・パークでは変人で通っていた。同僚は彼を 'Prof' と呼び、
エニグマに関する論文は 'The Prof's Book' と呼ばれていた<ref>[http://cryptocellar.org/Turing/ Turing's Treatise on Enigma]</ref><ref> {{Harvnb|Hodges|1992|p=208}}</ref>。同僚の暗号解読者{{仮リンク|I・J・グッド|en|I.J. Good|label=ジャック・グッド}}はチューリングについて次のように述べている。
<blockquote>
6月の第1週には毎年花粉症に悩まされるので、彼は花粉を吸わないようガスマスクをして自転車でオフィスに通っていた。自転車は故障していて、定期的にチェーンが外れていた。それを修理してもらう代わりに、ペダルをこいだ回数を数えて、危なくなると一旦降りてチェーンを調整していた。もうひとつの変人ぶりとして、マグカップが盗まれるのを防ぐために、それをラジエータパイプに鎖で繋いでいた。<ref>{{Harvnb|Lewin|1978|p=57}}</ref>
</blockquote>
=== チューリングとマラソン ===
ブレッチリーで働いていたころ、ロンドンで重要な会議に出席しなければならないとき、長距離走が得意だったチューリングは、約 64km を走ったという<ref> {{Citation| last = Brown | first = Anthony Cave | title = Bodyguard of Lies: The Extraordinary True Story Behind D-Day | publisher = The Lyons Press | year = 1975 | isbn = 978-1-59921-383-5}} </ref>。マラソンにおけるベストタイムは2時間46分3秒であり、1948年ロンドンオリンピックのマラソン代表選考にも参加して5位となっている<ref>{{Cite news|url= http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2010/mar/10/alan-turing-2012-olympics|title=An Olympic honour for Alan Turing|author=John Graham-Cumming|publisher= the Guardian|date=10 March 2010}}</ref>。
=== 暗号解読 ===
[[File:Turing flat.jpg|thumb|[[ブレッチリー・パーク]]内にあるこの建物で、チューリングは、1939年から1940年まで働き、その後 [[:en:Hut 8|Hut 8]] に移った。]]
第二次世界大戦中、チューリングは、[[ブレッチリー・パーク]]でドイツの[[暗号]]を解読する仕事をしていた。歴史家で自らも戦時中に暗号解読に従事していた{{仮リンク|エイザ・ブリッグズ|en|Asa Briggs, Baron Briggs}}は次のように述べている。
{{Quote|類まれな才能が必要で、ブレッチリーで天才が必要とされていた。チューリングは、まさにその天才だった。<ref>{{Citation| last = Briggs | first = Asa | work = Britain's Greatest Codebreaker | publisher = [[チャンネル4|UK Channel 4]] | format = TV programme broadcast 21 November 2011 }} </ref>}}
[[第二次世界大戦]]に先立つ[[1938年]]9月から、イギリスにおける暗号解読組織である[[政府暗号学校]] (GCCS) でパートタイムで働き始める。そこで、{{仮リンク|ディリー・ノックス|en|Dilly Knox}}と共に[[エニグマ (暗号機)|エニグマ]]の解読に当たった<ref>[[:en:Jack Copeland|Jack Copeland]], "Colossus and the Dawning of the Computer Age", p. 352 in ''Action This Day'', 2001</ref>。第二次世界大戦勃発の5週間前の1939年7月25日、[[ポーランド軍参謀本部]]第2部暗号局 ([[:en:Biuro Szyfrów|en]])とイギリスおよびフランスの関係者が[[ワルシャワ]]で会合し、ポーランドが解明したエニグマのローター回路についての情報を得ていた。チューリングとノックスは、その情報を元に、問題にアプローチしようとしていた<ref>{{Harvnb|Copeland|2004|p=217}}</ref>。ポーランドの解読法は不安定なもので、ドイツ側がいつでも変更可能だった。実際1940年5月に変更されている。チューリングの方法はもっと汎用的で[[クリブ]]式暗号解読全般に使えるもので、最初の [[:en:Bombe|bombe]](ボンブ) の機能仕様に盛り込まれていた。
{{Main|[[マリアン・レイェフスキ]]#ボンバ設計者}}
{{Main|[[ヘンリク・ジガルスキ]]#ボンバ制作者のひとり}}
{{Main|[[イェジ・ルジツキ]]#ボンバ制作者のひとり}}
{{Main|[[ボンバ (暗号解読機)]]#ポーランド軍参謀本部第2部暗号局#作成}}
1939年9月4日、イギリスがドイツに宣戦布告した翌日、GCCSの戦時中の基地となっていたブレッチリー・パークに出頭した<ref name=Copeland2006p378>{{Harvnb|Copeland|2006|p=378}}</ref>。bombe の仕様は戦時中の暗号解読でチューリングが成し遂げた5つの成果のうち最初の1つである。他には、ドイツ海軍が使っていたインジケーター手続きの推測、''[[:en:Banburismus|Banburismus]]'' と名付けた bombe の効率を上げる統計的手法の開発、''[[:en:Turingery|Turingery]]'' と名付けた [[:en:Lorenz SZ 40/42|Lorenz SZ 40/42]] (''Tunny'') のホイール群のカム設定を明らかにする手続きの開発、そして終戦間近に開発した音声信号スクランブラー ''Delilah'' である。
1945年、戦時中の功績により[[大英帝国勲章|OBE]]を授与されたが、その後[[1970年代]]までその業績は秘密にされ、近しい友人すらそのことを知らなかった。その功績の大きさにもかかわらず、暗号という重要な機密事項を扱う仕事柄ゆえに、ブレッチリー・パークから一歩外に出れば、チューリングの仕事を知る者は誰一人いなかった。それは、家族すら例外ではなく、母親に一度だけ「軍関係の研究をしている」と話した際には、政府の仕事に携わっていながら身なりに気を払わない息子に対し、母はかえって落胆するばかりであったという。戦後もブレッチリー・パークに関係する事柄は引き続き機密とされ、チューリングが同性愛者として罰せられてからは、その功績を知らない世間から、公然と辱めを受けることとなる(後述)。
==== チューリングとウェルチマンの bombe ====
[[File:Bombe-rebuild.jpg|thumbnail|ブレッチリー・パークに展示されている完全動作する bombe のレプリカ]]
ブレッチリー・パークに到着して数週間後<ref name=Copeland2006p378 />、ポーランドの「[[ボンバ (暗号解読機)|ボンバ]]」 ([[:en:bomba (cryptography)|bomba kryptologiczna]]) よりも効率的にエニグマの暗号を解読する電気機械式の装置の仕様を生み出し、ポーランドの bomba にちなんで bombe と名付けた。数学者{{仮リンク|ゴードン・ウェルチマン|en|Gordon Welchman}}の示唆によって改良した bombe は、エニグマの暗号解読の主要な自動化ツールとなった。
ジャック・グッドは次のように述べている。
<blockquote>
チューリングの最も重要な貢献は、私が思うに暗号解読機 bombe の設計だ。彼はあなたも使えるアイデアを持っていた。要するに、やや不合理な訓練されていない耳でも聞き分けられる論理的理論で、すべてを推論できる。<ref>[http://www.imdb.com/title/tt1155383/episodes "The Men Who Cracked Enigma"], Episode 4 in the UKTV History Channel documentary series [https://www.imdb.com/title/tt1157073/ "Heroes of World War II"]</ref>
</blockquote>
bombe はエニグマの暗号文で使われたと考えられる正しい設定(ローターの順序、ローターの設定、プラグボードの設定など)を、適当な[[クリブ]]([[平文]]中に含まれているであろうと思われる単語やフレーズ)を使って探索する。ローターの考えられる設定(組み合わせのオーダーは 10<sup>19</sup>、4ローターのUボート版では 10<sup>22</sup>)ごとに<ref>Professor Jack Good in "The Men Who Cracked Enigma", 2003: with his caveat: "if my memory is correct"</ref>、bombe はクリブに基づいた一連の推論を電気的に行う。bombe は矛盾が生じるとそれを検出し、その設定を除外し、次の設定を調べる。ほとんどの設定は矛盾を生じるので除外でき、詳細に調べるべき少数の設定だけが残る。最初の bombe は1940年3月18日に実装された<ref>{{Harvnb|Oakley|2006|p=40/03B}}</ref>。終戦のころには200台以上の bombe が使われていた<ref name=codebreaker>{{Cite web|title=Alan Turing, Codebreaker and Computer Pioneer |last=Copeland |first=Jack |coauthors=Diane Proudfoot |month=May | year=2004 |url= http://www.alanturing.net/turing_archive/pages/Reference%20Articles/codebreaker.html |accessdate=2007-07-27}} </ref>。
==== Hut 8 と海軍のエニグマ ====
[[File:AlanTuring-Bletchley.jpg|thumbnail|ブレッチリー・パークにあるチューリングの石像<ref>{{Cite web|title=Bletchley Park Unveils Statue Commemorating Alan Turing |url= http://www.bletchleypark.org.uk/news/docview.rhtm/454075 |accessdate=2007-06-30|deadlinkdate=2015-09-09}}</ref>]]
チューリングは「他の誰もそれに取り組まず、自分ならやれるかもしれない」と思い、ドイツ海軍のエニグマの解読というさらに難しい問題に取り組むことを決めた<ref name=MahonP14>{{Harvnb|Mahon|1945|p=14}}</ref>。1939年12月、海軍のエニグマのインジケーターシステムの基本部分を解明。海軍以外が使っているインジケーターシステムよりも複雑だった<ref name=MahonP14 /><ref>{{Harvnb|Leavitt|2007|pp=184–186}}</ref>。そしてある夜、''[[:en:Banburismus|Banburismus]]'' のアイデアを思いつく。これは逐次的かつ統計的な技法で(後に[[エイブラハム・ウォールド]]は [[:en:sequential analysis|sequential analysis]] と呼んだ)、海軍版エニグマの暗号解読を助けるものだった。「私はそれが現場でうまく機能するか確信を持てず、何日かかけて具体化してやっと確信した」<ref name=MahonP14 /> このために彼は証拠を重み付けするための測度を考案し、それを ''[[:en:Ban (information)|Ban]]'' と呼んだ。Banburismus はエニグマの特定のローターの並びを除外することができ、bombe の設定をテストする時間を大幅に減らすことに寄与した。
1941年、チューリングは、 [[:en:Hut 8|Hut 8]] の同僚で数学者・暗号解読者の[[ジョーン・クラーク]]に結婚を申し込んだが、婚約期間は短かった。同性愛者であることをフィアンセに告白しても、彼女は動じなかったといわれているが、チューリングのほうがこのまま結婚はできないと別れることを決心した<ref>{{Harvnb|Leavitt|2007|pp=176–178}}</ref>。
1942年11月には、暗号に関する情報交換の一環として、アメリカを訪れた<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|pp=242-245}}</ref>。そこでは、ワシントンでアメリカ海軍の暗号解読者に海軍版エニグマと bombe の構造について伝授し、英米間の盗聴不可能な音声通信手段として[[ベル研究所]]で当時開発中だった[[秘話|秘話装置]][[SIGSALY]]の情報提供を受け暗号化方式の安全性についての評価作業を行った<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|pp=245-253}}</ref>。ベル研究所では同じようにSIGSALYの評価を行っていた[[クロード・シャノン|シャノン]]にも会っている。1943年3月、ブレッチリー・パークに戻る。この間に Hut 8 の責任者が[[コーネル・ヒュー・オドネル・アレグザンダー|ヒュー・アレグザンダー]]に変わり、チューリング自身は部門の日常業務の運営に興味を持たなくなっていたため、ブレッチリー・パークの暗号解読コンサルタントのような立場となった。
アレグザンダーは、次のように書いている。
<blockquote>
チューリングの仕事が Hut 8 の成功の最大の要因であることは誰もがわかっていた。当初、暗号解読者としては、彼だけがこの問題に取り組む価値があると考え、彼1人ではないものの Hut における理論的成果の最大の功績者であり、彼に次いでウェルチマンとキーンが bombe の発明に貢献した。全員が不可欠だったというのは難しいが、Hut 8 で誰が一番不可欠だったかといえば、それはチューリングだ。経験と日常がすべてを簡単なように見せるので、先駆者の業績は忘れられがちだが、Hut 8 の多くの者がチューリングの功績の大きさが外の世界に完全に伝わることは決してないだろうと感じていた。<ref>{{Harvnb|Alexander|circa 1945|p=42}}</ref>
</blockquote>
==== Turingery ====
1942年、チューリングは ''[[:en:Turingery|Turingery]]''(冗談で ''Turingismus'' とも)と名付けた技法を考案<ref>{{Harvnb|Copeland|2006|p=380}}</ref>。ドイツが新たに開発した暗号生成ローターつきの[[テレタイプ端末]]で生成されるローレンツ暗号を解読するための技法である。この暗号機械をブレッチリー・パークでは ''Tunny'' と呼んでいた。Turingery は Tunny のホイール群のカム設定を解明する手続きである<ref>{{Harvnb|Copeland|2006|p=381}}</ref>。彼は Tunny のチームに[[トミー・フラワーズ]]を紹介し、フラワーズが[[マックス・ニューマン]]の指導下で世界初のプログラム可能な電子式デジタル計算機 [[Colossus]] を構築することになった。Colossus は当時としては極めて高性能で、総当り的な統計的暗号解読技法を適用しても十分な性能を発揮した<ref>{{Harvnb|Copeland|2006|p=72}}</ref>。なお、チューリングが[[Colossus]]の設計に重要な役割を果たしたと間違って主張している文献などがある。Turingery と Banburismus の統計的暗号解読法は間違いなくローレンツ暗号の解読技術に影響を与えているが<ref>{{Harvnb|Gannon|2007|p=230}}</ref>、チューリング自身がColossus開発に直接関与した事実はない<ref>{{Harvnb|Copeland|2006|pp=382,383}}</ref>。
==== 秘話装置 Delilah ====
アメリカのベル研究所で提供を受けた[[SIGSALY]]の情報を元に<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|pp=245-250}}</ref>、よりシンプルな形で電話の音声信号を電子的に暗号化するというアイデアを追求し、戦時中の後半はハンスロープ・パークにある[[イギリス情報局秘密情報部]]のラジオセキュリティサービス(後の[[:en:Her Majesty's Government Communications Centre|HMGCC]])で働いた。そこで彼は技術者ドナルド・ベイリーの助けを得て、電子工学への造詣を深める。2人は携帯型の[[秘話|秘話装置]] ''Delilah'' を設計・構築<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=273}}</ref>。Delilah は様々な応用が意図されていたが、長距離の無線通信ができず、いずれにしても完成したのは終戦間近で遅すぎた。それでも役人の前で[[ウィンストン・チャーチル]]の演説を暗号化してさらにそれを元に戻すデモンストレーションを行ったが、実際には使われなかった<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=346}}</ref>。
=== 初期のコンピュータに関する仕事とチューリングテスト ===
[[1945年]]から[[1947年]]まで、チューリングはロンドンのリッチモンドに住み<ref>{{Openplaque|1619}}</ref>、[[イギリス国立物理学研究所]] (NPL) にて[[ACE (コンピュータ)|ACE]] (Automatic Computing Engine) の設計を行う。1946年2月の論文では、[[ノイマン型|プログラム内蔵式コンピュータ]]の英国初の完全なデザインを発表している<ref>{{Harvnb|Copeland|2006|p=108}}</ref>。[[ジョン・フォン・ノイマン|フォン・ノイマン]]の「[[EDVACに関する報告書の第一草稿]]」はチューリングの論文より先に存在したが、チューリングの論文の方が詳細であり、NPL数学部門の責任者だった [[:en:John R. Womersley|John R. Womersley]] は「チューリング博士の独自のアイデアがいくつか含まれていた」と記している<ref> {{Citation| last = Randell | first = B | title = A History of Computing in the Twentieth Century: Colossus | year = 1980 | url = http://www.cs.ncl.ac.uk/research/pubs/books/papers/133.pdf | accessdate = 2012-01-27}} で以下を引用 {{Citation| last = Womersley | first = J. R. | title = 'ACE' Machine Project | journal = Executive Committee, National Physical Laboratory, Teddington, Middlesex | date = 13 February 1946 }}</ref>。また、フォン・ノイマンはさらに遡る[[1936年]]の時点でチューリングがプログラム内蔵式について先駆的な論文を発表していたことを認めていた<ref>Christof Teuscher (2004). Alan Turing: life and legacy of a great thinker. Springer. p. 321–322. ISBN 978-3-540-20020-8.</ref>。ACEは実現可能な設計だったが、ブレッチリー・パークで軍事機密に関わる仕事をしていたことが原因でプロジェクトは遅々として進まず、1947年、[[サバティカル]]休暇でケンブリッジに戻る。彼がケンブリッジにいる間にACEを縮小した [[パイロットACE]] が作られた。1950年5月10日に初めてプログラムの実行を達成している。
1948年にマックス・ニューマンの招きで[[マンチェスター大学]]に招かれ、チューリングは同大学で設立されていた王立協会計算機研究所の副所長に就任し<ref>Swinton, Jonathan (2019). Alan Turing's Manchester. Manchester: Infang Publishing. ISBN 978-0-9931789-2-4. Archived from the original on 17 February 2019. Retrieved 18 March 2019.</ref><ref>Copeland, Jack (2010). "9. Colossus and the Rise of the Modern Computer". In Copeland, B. Jack (ed.). Colossus The Secrets of Bletchley Park's Codebreaking Computers. Oxford University Press. pp. 91–100. ISBN 978-0-19-957814-6.</ref>、そこで初期のコンピュータ [[Manchester Mark I]] におけるソフトウェア開発に従事。この時期はより概念的な仕事にも取り組み、''Computing Machinery and Intelligence''(「計算する機械と知性」、1950年10月、「Mind」誌)という論文では[[人工知能]]の問題を提起、今日[[チューリングテスト]]として知られている実験を提案している。すなわち、機械を「知的」と呼ぶ際の基準を提案したもので、人間の質問者が機械と会話をして人間か機械か判別できない場合に、その機械が「思考」していると言えるというものである<ref>[[:en:Stevan Harnad|Harnad, Stevan]] (2008) [http://eprints.ecs.soton.ac.uk/7741 The Annotation Game: On Turing (1950) on Computing, Machinery and Intelligence]. In: Epstein, Robert & Peters, Grace (Eds.) ''Parsing the Turing Test: Philosophical and Methodological Issues in the Quest for the Thinking Computer''. Springer</ref>。その中で、最初から大人の精神をプログラムによって構築するよりも、子どもの精神をプログラムして教育によって育てていくのがよいと示唆している。
[[1948年]]、当時まだ存在していなかった[[コンピュータチェス]]のプログラムを書き始める。[[1952年]]、当時のコンピュータは性能が低くそのプログラム実行には適さなかったため、自分でコンピュータをシミュレートして[[チェス]]の試合を行ったが、一手打つのに30分かかったという。その対戦の棋譜が残っている<ref>[http://www.chessgames.com/perl/chessgame?gid=1356927 Alan Turing vs Alick Glennie (1952) "Turing Test"] Chessgames.com</ref>。同僚との対戦ではプログラムが負けているが、別の同僚の妻にはプログラムが勝利している。
[[チューリングテスト]]は独特の挑発的特徴があり、[[人工知能]]に関する議論で半世紀にわたってよく引き合いにだされ続けた<ref>Saygin, A.P., Cicekli, I., & Akman, V. (2000) Turing Test: 50 years later. Minds and Machines, Vol. 10, pp 463–518.</ref>。
1948年には行列の[[LU分解]]も考案しており、今でも線形方程式の解法として使われている<ref>{{Cite web|url= http://www.intusoft.com/nlhtm/nl71.htm |title=SPICE 1 2 3 and beyond ... Intusoft Newsletter, August 2003 |publisher=Intusoft.com |date=16 August 2001 |accessdate=2011-05-29}}</ref>。
=== 形態形成と数理生物学に関する仕事 ===
1952年から、亡くなる1954年まで[[数理生物学]]、特に[[多細胞生物]]の[[個体発生]]における[[形態形成]]に関する研究を行い、それがどのように生じるかについて仮説を提唱した。1952年に発表した “The Chemical Basis of Morphogenesis” (形態形成の化学的基礎)と題する論文において、[[反応拡散系]]と呼ばれる[[偏微分方程式]]系で反応を抑制する因子の拡散が活性化因子よりも速いとき、[[チューリング不安定性]]と呼ばれる不安定化を起こして形態形成の手がかりとなる空間構造を生み出しうることを指摘した<ref>"Control Mechanism For Biological Pattern Formation Decoded" ''ScienceDaily'', 30 November 2006</ref>。こうして生じる空間パターンは'''[[チューリング・パターン]]'''と呼ばれている。この論文の最終節においてチューリングは、容易に解析できないこの種のさらに複雑な問題への将来的なデジタルコンピューターの利用について触れている。実際、20世紀末よりコンピューターの計算能力の急速な発達によって、反応拡散系の研究の発展がもたらされた<ref>{{cite report|title=Turing から Ertl まで ―パターンダイナミクスの半世紀―|author=西浦廉政|series=現象数理学:冬の学校「パターンダイナミクス 1‒2‒3」報告集|year=2009}}</ref>。
また同じ年、[[ヒマワリ]]の種にみられる螺旋構造が隣接する[[フィボナッチ数]]に従っているらしいことを未発表の研究ノートに記していた。葉序構造など種々の植物に見られるこの関係は[[黄金角]]と呼ばれる角度で葉や種のもととなる[[原基]]が生ずればよいことがわかっている。
その後の論文は 1992年の ''Collected Works of A.M. Turing'' の出版まで未発表だった。近年再評価が著しい仕事である<ref>{{Wayback|url= http://www.swintons.net/deodands/archives/000087.html |title=Turing's Last, Lost work |date=20030823032620}}</ref>。
=== 同性愛の告発 ===
Anthony Cave Brown の著書 ''"C": The Secret Life of Sir Stewart Menzies, Spymaster to Winston Churchill'' には次のような記述がある。
{{Quote|ミンギス<ref>[[イギリス情報局秘密情報部|MI6]]長官</ref>は、チューリングをブレッチリーで雇用した直後から彼が長年の積極的な同性愛者だと知っていた。しかし、ブレッチリーの同僚にちょっかいを出すこともなく、ミンギスの部下の中では唯一「不可欠」と呼べる男だったので、そのまま雇っていた… 1944年初め、ブレッチリーに程近い大きな工業都市ルートンの公立図書館で男子生徒が性暴力を受けるという事件があり、チューリングが犯人ではないかと疑われた。全く記録には残っていないが、秩序と風紀を保つには彼を排除するしかないという決定がなされた。しかし、それも彼が素晴らしい仕事を完了してからのことである。<ref>{{Citation| last = Cave Brown | first = Anthony | title = C : The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies, Spymaster to Winston Churchill| place = New York | publisher = Macmillan | year = 1987 | isbn = 978-0-02-517390-3 }}</ref> }}
[[1952年]]1月、チューリングはマンチェスターの映画館のそばでアーノルド・マレーと出会う。ランチデートの後、週末を一緒に過ごそうとマレーを自宅に招いたが、マレーはその誘いを断わっている。次の月曜日、2人は再びマンチェスターで会い、今度はチューリングの自宅を訪問している。数週間後、マレーは再びチューリング宅を訪れ、一夜を共にしたとみられている<ref>{{Harvnb|Leavitt|2007|p=266}}</ref>。
間もなく自宅に[[泥棒]]が入り、事件を[[警察]]に報告したが、捜査の過程で、泥棒の手引きをした19歳の青年(マレー)と[[同性愛]]関係にあったことが警察の知るところとなった。同性愛は当時のイギリスでは違法であり<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=458}}</ref>、2人とも逮捕された<ref name=LeavittP268>{{Harvnb|Leavitt|2007|p=268}}</ref>。
チューリングは有罪となり、入獄か化学的去勢を条件とした保護観察かの選択を与えられ、入獄を避けるため、同性愛の性向を矯正するために、性欲を抑えると当時考えられていた[[エストロゲン|女性ホルモン]]注射の投与を受け入れた<ref>{{Cite web|url= http://www.glbtq.com/social-sciences/turing_a,2.html |title=Turing, Alan (1912–1954) |publisher=Glbtq.com |accessdate= 2011-05-29|deadlinkdate=2015-09-09}}</ref>。
結果として[[セキュリティ・クリアランス]]を剥奪され、[[政府通信本部|GCHQ]]で暗号コンサルタントを続けることができなくなった。当時、[[ケンブリッジ・ファイヴ]]の最初の2名ガイ・バージェスと[[ドナルド・マクリーン]]が[[ソ連国家保安委員会|KGB]]のスパイだと露見した事件があり、スパイについて大衆の不安が増大し、ソ連のエージェントが同性愛者を罠にかけるという噂があった<ref>{{Harvnb|Leavitt|2007|p=269}}</ref>。スパイ活動で告発されたわけではないが、ブレッチリー・パークで働いていた全員と同様、戦時下の業績について論じることは禁止された<ref>{{Harvnb|Copeland|2006|p=143}}</ref>。
=== 死 ===
[[1954年]]6月8日、家政婦がチューリングが自宅で死んでいるのを発見した。検死の結果、死亡したのは前日で、[[青酸中毒]]による死であることが判明。ベッドの脇には齧りかけの[[リンゴ]]が落ちていた。リンゴに[[青酸化合物]]が塗ってあったかの分析はなされなかったが<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=488}}</ref>、部屋には青酸の瓶が多数あった。
[[死因審問]]で自殺と断定され、1954年6月12日に火葬された<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=529}}</ref>。母は、実験用化学物質を不注意に扱ったために起こった事故であると主張している<ref group="注釈">食器を自身で金[[メッキ]]・銀メッキする趣味を持っており、メッキに使用する青酸が常時、家にあった。母はメッキ作業をした後は手を良く洗うようにと息子にいつもいっていたという。すなわち、作業後に手に残存していた青酸を誤って口にした事故とする。</ref>。あるいは、母に事故だと思わせるようにして自殺したという説もある<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|pp=488, 489}}</ref>。同僚によれば、映画『[[白雪姫]]』を見た直後の彼が「魔法の秘薬にリンゴを浸けよう、永遠なる眠りがしみこむように」と言っていたのを耳にしており、[[白雪姫]]のワンシーンを真似てこのような死に方をしたのだという<ref>{{Harvnb|Leavitt|2007|p=140}}</ref>。
== 再評価 ==
[[File:Turing Plaque.jpg|thumbnail|ウィルムズローのチューリング宅にある[[ブルー・プラーク]]]]
チューリングの死後まもなく(戦時中の業績が機密扱いだったころ)、[[王立協会]]が伝記を出版しており、以下のように記されている<ref name="frs"/>。
<blockquote>
3つの多様な数学的主題について、戦前に3つの特筆すべき論文を書いており、この重要な時期(戦時のこと)に何らかの大きな問題にとりかかっていたら重大な業績を残していただろうということがわかる。外務省での業績により、[[大英帝国勲章|OBE]]が授与された。
</blockquote>
国立物理学研究所の同僚で、後にチューリング賞を受賞したジェイムス・H・ウィルキンソンも、受賞講演で、外務省時代にチューリングが別の環境にいたならば、もっとも生産的な時期たりえた可能性が大きい、としている。しかし、問題やパズルといったものであれば種類を問わず大好きであったから、外務省での仕事にも興味をもって取り組んだであろうし、電子工学について知識を獲得したのもその時であった、と指摘している<ref>ジェイムス・H・ウィルキンソン「一数値解析研究者の回顧と展望」、『ACMチューリング賞講演集』 pp. 289-290</ref>。
1966年から、[[コンピュータ科学]]者らによる国際的学会の[[Association for Computing Machinery|ACM]]は、同学会の守備範囲であるコンピュータ科学を中心とした分野の最高の賞として、[[チューリング賞]]を授与している。物理や化学といったようなかなり広い分野の最高の賞、という位置づけにあるものとして、コンピュータ科学分野における[[ノーベル賞]]に相当するものと一般に扱われている<ref>{{Cite web|url= http://www.acm.org/press-room/news-releases-2007/turingaward/|title=ACM'S Turing Award Prize Raised To $250,000|publisher=[[Association for Computing Machinery|ACM]] press release|date=27 July 2007|accessdate=2008-10-16|author=Steven Geringer}}</ref>。
[[1974年]]夏、ブレッチリー・パークの活動について書かれた「ウルトラ・シークレット」出版<ref>{{ Citation | last = Winterbotham | first = F.W. | title = The Ultra secret: the inside story of Operation Ultra, Bletchley Park and Enigma | place = London | publisher = Orion Books Ltd | origyear = 1974 | year = 2000 | oclc = 222735270 | isbn = 978-0-7528-3751-2 }} 機密解除になる以前に関係者の記憶を元に書かれたノンフィクションで、若干正確性に欠ける。</ref>、チューリングらの功績について世間の知るところとなる。
1986年、[[ヒュー・ホワイトモア]]の戯曲「[[ブレイキング・ザ・コード]]」でチューリングが描かれた。1986年11月からロンドンのウェストエンドで公開され、1987年11月15日から1988年4月10日までブロードウェイで興行。1996年にはBBCでテレビドラマ化されている。いずれもチューリング役は[[デレク・ジャコビ]]。ブロードウェイでの公演は[[トニー賞]]3部門にノミネートされている。
[[1998年]]6月23日、86回目の誕生日に、伝記作者にして数学者のアンドリュー・ホッジスは公式の[[イングリッシュ・ヘリテッジ|英国遺産]]として[[ブルー・プラーク]](記念[[銘板]])をチューリングの生まれた病院であった[[ロンドン]]のウォーリントン・クレセントにあるコロネードホテルに掲げた<ref>{{Cite web| url= http://www.turing.org.uk/bio/oration.html | title=Unveiling the official Blue Plaque on Alan Turing's Birthplace | accessdate=2006-09-26}}</ref><ref>{{Cite web| url= http://www.blueplaque.com/detail.php?plaque_id=348 | archiveurl= https://web.archive.org/web/20071013143212/http://www.blueplaque.com/detail.php?plaque_id=348 | archivedate=13 October 2007 | title=About this Plaque – Alan Turing | accessdate=2006-09-25}}</ref>。[[2004年]]6月7日には、死去50周年を記念して、ウィルムズロウ・ホリーミードの家にも記念のプラークが設置された<ref>{{Openplaque|3276}}</ref>。
1999年、[[タイム (雑誌)|タイム誌]]の「[[タイム100]]: 20世紀の最も影響力のある100人」で、コンピューター創造に果たした役割からチューリングを選んでいる<ref name=AFP/>。1999年の[[ニール・スティーブンスン]]の小説『クリプトノミコン』にはチューリングが登場している。2000年3月13日、[[セントビンセント・グレナディーン]]にて20世紀の偉人を集めた[[切手]]セットが発行された。その中にチューリングの肖像が描かれた切手もあり、「1937: アラン・チューリングのデジタルコンピュータ理論」と記されている。2002年、[[BBC]]が行った「[[100名の最も偉大な英国人|偉大な英国人]]」投票で第21位にランクインした<ref>{{Cite news| url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/2208671.stm | title = 100 great British heroes | date = 21 August 2002 |work=BBC News }}</ref>。
晩年に働いていた[[マンチェスター]]では、様々な方法でその栄誉を称えている。1994年、マンチェスターの環状道路が ''"Alan Turing Way"'' と名付けられている。またこの道路には Alan Turing Bridge という橋もある。[[2001年]]6月23日(誕生日)には、[[マンチェスター大学]]に隣接するサックビル・パークにベンチに座っている形の銅像が設置された。
[[File:Sackville Park Turing plaque.jpg|left|thumb|サックビル・パークの銅像に付随する銘板]]
この銅像はリンゴを持っている。リンゴは古来「禁じられた愛」の象徴であり、[[アイザック・ニュートン]]の万有引力の法則も思い起こさせるし、チューリングの死の状況も思い起こさせる。また、ブロンズ製のベンチにはレリーフで 'Alan Mathison Turing 1912–1954' と書かれていて、その下には 'Founder of Computer Science' を[[エニグマ (暗号機)|エニグマ]]で暗号化した文字列が書かれている。台座には「計算機科学の父、数学者、論理学者、戦時中の暗号解読者、偏見の犠牲者」と記されている。[[バートランド・ラッセル]]の言葉も引用されていて「正しく見た数学は、真実だけでなく最高の美 - 彫刻のように冷たく厳しい美も有している」とある。台座の下には彫刻家が所有していた古い[[アムストラッド]]製パソコンが「あらゆる現代のコンピュータのゴッドファーザー」への捧げ物として埋められている<ref name="computerburied">{{Cite news| title = Computer buried in tribute to genius | publisher=Manchester Evening News| date = 15 June 2001 | url = http://www.manchestereveningnews.co.uk/news/s/27/27595_computer_buried_in_tribute_to_genius.html | accessdate =2009-06-23 }}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>。
没後50年を記念して、[[2004年]]10月28日には、幼少時に住んでいた町にあるサリー大のキャンパス内に銅像が置かれる<ref name="univsurrey">{{Cite web|url= http://portal.surrey.ac.uk/press/oct2004/281004a/ |title=The Earl of Wessex unveils statue of Alan Turing |accessdate= 2007-02-10 |deadlinkdate=2015-09-09}}</ref>。
[[プリンストン大学]]の発行する Princeton Alumni Weekly では、チューリングを[[ジェームズ・マディソン]]に次ぐ偉大な卒業生だとしている。
2007年6月19日、ブレッチリー・パークに1.5トンの等身大の石像が立てられた。[[ウェールズ]]の[[粘板岩]]を多数使用したもので、億万長者の [[:en:Sidney Frank|Sidney Frank]] が彫刻家 [[:en:Stephen Kettle|Stephen Kettle]] に制作を依頼したものである<ref>[http://www.bletchleypark.org.uk/news/docview.rhtm/454075/article.html Bletchley Park Unveils Statue Commemorating Alan Turing]{{リンク切れ|date=2015年9月}}, Bletchley Park press release, 20 June 2007</ref>。
2011年2月、チューリングの第二次世界大戦中の論文がオークションで買い取られ、ブレッチリー・パークに戻された<ref>{{Cite news|author=Josh Halliday |url= http://www.guardian.co.uk/science/2011/feb/25/turing-papers-auction-bid-bletchley |title=Turing papers to stay in UK after 11th-hour auction bid at |work=The Guardian |location=UK |accessdate= 2011-05-29 |date=25 February 2011}}</ref>。
[[2014年]]、グレアム・ムーアによる脚本<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=脚本家が明かす9つの秘密:アラン・チューリングとは何者か? 映画『イミテーション・ゲーム』徹底解読 « WIRED.jp|url=https://wired.jp/special/2015/imitationgame/02/|website=WIRED.jp|accessdate=2020-08-21|language=ja}}</ref>、人気俳優[[ベネディクト・カンバーバッチ]]がチューリングを演じる映画『[[イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密]]』が公開された。
2019年、アラン・チューリングが新50ポンド紙幣に採用される事となった。新紙幣は2021年末頃に一般に出回ることになる。<ref>[https://www.bbc.com/news/business-48962557?ns_source=twitter&ns_mchannel=social&ocid=socialflow_twitter&ns_campaign=bbcnews/ New face of the Bank of England's £50 note is revealed] - BBC News, July 15, 2019</ref><ref name=":0" />
=== 政府による謝罪 ===
2009年8月、[[ジョン・グラハム=カミング]]がイギリス政府に対して、アラン・チューリングを同性愛で告発したことへ謝罪するよう請願活動をはじめた<ref group="注釈">請願活動はイギリス市民のみを対象として行われた。</ref><ref>{{Cite news|title=Thousands call for Turing apology |url= http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/8226509.stm |publisher=BBC News |date=31 August 2009 |accessdate= 2009-08-31}}</ref><ref>{{Cite news| title = Petition seeks apology for Enigma code-breaker Turing | url = https://edition.cnn.com/2009/WORLD/europe/09/01/alan.turing.petition/index.html | publisher=CNN | date = 01 September 2009 | accessdate =2009-09-01}}</ref>。これに対して数千の署名が集まった<ref name="PMapology"/>。
イギリス首相の[[ゴードン・ブラウン]]はこの請願を認め、[[2009年]]9月10日に政府として正式な謝罪を表明し、当時のチューリングの扱いを「呆れたもの (appalling)」と表現して<ref name = "PM-apology" /><ref name="PMapology">{{Cite news| title = PM's apology to codebreaker Alan Turing: we were inhumane | url = http://www.guardian.co.uk/world/2009/sep/11/pm-apology-to-alan-turing |work=The Guardian |location=UK| date = 11 September 2009 | first=Caroline | last=Davies}}</ref>、次のように声明を発表した。
<blockquote>
数千の人々がアラン・チューリングのための正義と彼がぞっとする扱われ方をしたという認識を求めて集まった。チューリングは当時の法律に則って扱われ、時計の針は戻すことはできないが、彼に対する処置はまったく不当であり、深い遺憾の意を表す機会を得たことを我々全てが満足に思っている… イギリス政府とアランのおかげで自由に生活している全ての人々を代表し、『すまない、あなたは賞賛に値する』と言えることを非常に誇りに思う。<ref name="PMapology"/>
</blockquote>
2011年12月、William Jones はイギリス政府に対してアラン・チューリングの罪を免罪(名誉回復)してほしい<ref name="BBBCPardon">{{Cite news| title = Petition to pardon computer pioneer Alan Turing started | url = http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-manchester-16061279 | date = 6 December 2011 | work=BBC News}}</ref>という電子請願を申請した<ref name="PardonPetition">{{Cite web| title = Grant a pardon to Alan Turing | url = https://submissions.epetitions.direct.gov.uk/petitions/23526 | date = 6 December 2011 |accessdate=2012-02-22}}</ref>。この請願には21,000以上の署名が集まったが、法務大臣はチューリングが有罪宣告されたことは遺憾だが、当時の法律に則った正当な行為であったとしてこれを拒否した<ref group="注釈">同性愛行為 (gross indecency) に対する刑罰が削除されたのは1967年。 </ref><ref name="PardonPetitionDenied">{{Cite web| title = Widespread Celebrations But No Pardon For Turing | url = http://www.i-programmer.info/news/82-heritage/3735-widespread-celebrations-but-no-pardon-for-turing.html | date = 6 February 2012 |accessdate=2012-02-22}}</ref>。
その後、2012年に[[貴族院 (イギリス)|イギリス貴族院]]に正式な恩赦の法案が提出され、2013年12月24日に[[エリザベス2世|エリザベス2世女王]]の名をもって正式に恩赦<ref>Royal Prerogative of Mercy</ref>が発効した<ref>{{Cite news |title=英国政府、アラン・チューリングに没後59年目の恩赦。計算機科学の父 |newspaper=Engadget 日本版 |date=2013-12-24 |author=ittousai |url=http://japanese.engadget.com/2013/12/24/59/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190818203656/https://japanese.engadget.com/2013/12/24/59/|archivedate=2019-08-18|deadlinkdate=2022-05-01|accessdate=2013-12-28}}</ref>。キャメロン首相は、彼の業績をたたえる声明を発表した。
=== 各大学における顕彰 ===
[[File:Alan Turing Building 1.jpg|thumbnail|マンチェスター大学のアラン・チューリング・ビルディング]]
生涯と業績に関する催しが英国論理学会議と英国数学史学会主催で[[2004年]]6月5日にマンチェスター大学で行われた。
* [[エディンバラ大学]]情報学科には 'Turing Room' と呼ばれる部屋があり、[[エドゥアルド・パオロッツィ]]作の胸像がある。
* [[サリー大学]]の主広場には銅像がある。
* [[:en:Istanbul Bilgi University|Istanbul Bilgi University]] では計算理論の会議が毎年開催されており、その期間を "Turing Days" と呼んでいる<ref name="bilgiuniv">{{Cite web| url = http://cs.bilgi.edu.tr/pages/turing_days/ | title = Turing Days @ İstanbul Bilgi University | accessdate =2011-10-29 |deadlinkdate=2015-09-09}}</ref>。
* [[マンチェスター大学]]、[[オープン大学]]、[[オックスフォード・ブルックス大学]]、[[オーフス大学]]([[デンマーク]][[オーフス]])には、それぞれチューリングの名を冠した建物がある。
* [[オレゴン大学]]計算機科学科の建物のそばにはチューリングの胸像がある<ref name="Oregon">{{Cite web|url= http://www.mathcomp.leeds.ac.uk/turing2012/files/oregon.html|title=Turing at the University of Oregon|accessdate=2011-11-01 }}</ref>。
* [[スイス連邦工科大学ローザンヌ校]]にはチューリングの名を冠した道路と広場(Chemin de Alan Turing と Place de Alan Turing)がある<ref name="epfl">{{Cite web|url= http://plan.epfl.ch/?zoom=20&recenter_y=5863918.36573&recenter_x=730628.82407&layerNodes=fonds,batiments,labels,information,parkings_publics,arrets_metro|title=Turing at the EPFL|accessdate= 2012-01-06 }}</ref>。
=== 生誕100周年 ===
{{main article|en: Alan Turing Year}}
[[File:David Chalmers, delivering a talk at De La Salle University-Manila, March 27, 2012.jpg|thumb|left|デ・ラ・サール大学(マニラ)において開催されたAlan Turing Yearカンファレンスの壇上に立つデイヴィッド・チャーマーズ(2012年3月27日)]]
生誕100年を記念して、Turing Centenary Advisory Committee (TCAC) は2012年を [[:en:Alan Turing Year|Alan Turing Year]]とし、一年を通して世界各地でチューリングの生涯およびその功績を称えるイベントを行った。TCACには、[[マンチェスター大学]]、[[ケンブリッジ大学]]、[[ブレッチリー・パーク]]などの関係者が協力しており、数学者の{{仮リンク|S・バリー・クーパー|en|S. Barry Cooper}}が議長を務め、甥のジョン・ダーモット・チューリングが名誉会長を務めている。
2012年6月23日には、[[Google Doodle]]([[Google]]トップページのロゴ)がチューリングマシンを模したデザインに変更された。アルゴリズムを設定するミニゲームが遊べるようになっていた<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.mdn.co.jp/di/newstopics/24002/?rm=1|title=今日のGoogleホリデーロゴはアラン・チューリング生誕100周年|accessdate= 2012-06-23 }}</ref>。
ブレッチリー・パーク・トラストは、Winning Moves社と共同で、[[モノポリー]]のアラン・チューリング版を発表した。このモノポリーのマスとカードは、メイダヴェールにある出生の地からブレッチリー・パークのHut 8に勤務するまでのアラン・チューリングの生涯をたどるような内容に改訂されている<ref>{{cite news | url = http://www.bbc.co.uk/news/technology-19543039 | title = Special Monopoly edition celebrates Alan Turing's life | publisher=BBC News | accessdate =10 September 2012 | date=10 September 2012}}</ref>。また、このゲームには、チューリングを指導していた[[マックス・ニューマン]]の息子であるウィリアム・ニューマンが手書きで作成したモノポリーの原型のレプリカも同梱されている。この原型となったゲームを、1950年代にチューリングもプレイしていた<ref>{{cite web|url=http://www.bletchleypark.org.uk/news/docview.rhtm/668532 |title=Bletchley Park Launches Special Edition Alan Turing Monopoly Board|date= |accessdate=13 September 2012}}</ref>。
フィリピンでは、デ・ラ・サール大学の哲学科が、2012年3月27日から28日にかけて、チューリングの生誕100周年を記念し、哲学、人工知能および認知科学に関する国際会議であるTuring 2012を開催した<ref>{{cite news | url=http://www.abs-cbnnews.com/lifestyle/03/24/12/dlsu-host-intl-summit-philosophy | title=DLSU to host int'l summit on philosophy | work=ABS-CBN.com | date=24 March 2012 | accessdate=18 December 2013 }}</ref><ref>{{cite news | url=http://www.gmanetwork.com/news/story/255746/scitech/science/the-thinking-machine-a-philosophical-analysis-of-the-singularity | title=The Thinking Machine: A philosophical analysis of the Singularity | work=GMA News Online | date=21 April 2012 | accessdate=18 December 2013 | author=Layug-Rosero, Regina}}</ref>。インドでは、[[マドゥライ]]において、6,000人の学生が出席する記念式典が行われた<ref>{{cite news | url=http://www.thehindu.com/features/metroplus/making-themselves-heard/article3605820.ece | title=Making themselves heard | work=The Hindu | date=5 July 2012 | accessdate=31 October 2013 | author=Shankar, M. Gopi | location=Chennai, India}}</ref>。
==== 英国での記念イベント ====
ACMが6月にマンチェスターにおいて3日間のカンファレンスと、サンフランシスコにおいて2日間のカンファレンスをそれぞれ開催した。またケンブリッジでは、[[キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学)|キングス・カレッジ]]およびケンブリッジ大学においてそれぞれチューリングの誕生日パーティとチューリング生誕100周年記念カンファレンスが開催された。ケンブリッジ大学でのものは、Computability in Europeにより開催された<ref>{{cite web|url=http://m.guardian.co.uk/uk/2011/feb/23/northerner-alan-turing-centenary-celebrations?cat=uk&type=article |title=The Northerner: Alan Turing, computer pioneer, has centenary marked by a year of celebrations |newspaper=The Guardian |date=23 February 2011 |accessdate=29 May 2011}}</ref>。
ロンドンの[[サイエンス・ミュージアム]]は、2012年6月から2013年7月にかけて、チューリングの生涯とその功績に特化した無料の展示を行った<ref>{{cite news | date=18 June 2012 | accessdate=23 June 2012 | authorlink=Rory Cellan-Jones | first1=Rory | first2=David | last1=Cellan-Jones | url=http://www.bbc.co.uk/news/technology-18459979 | title=Enigma? First look at Alan Turing exhibition (report with video preview) | work=[[BBC News Online]] | last2=Rooney (curator)}}</ref>。2012年2月には、[[ロイヤルメール]]が「Britons of Distinction」シリーズの一環として、チューリングの切手を発行した<ref>{{cite news | url=http://www.gizmodo.co.uk/2012/01/alan-turing-to-feature-in-britons-of-distinction-stamp-series/ | title=Codebreaker Alan Turing gets stamp of approval | work=Gizmodo | date=2 January 2012 | accessdate=2 January 2012 | author=Cutlack, Gary}}</ref><ref>{{Cite news|author=Caroline Davies |url= http://www.guardian.co.uk/artanddesign/2012/jan/02/codebreaker-alan-turing-stamp-approval |title=Codebreaker Alan Turing gets stamp of approval | Art and design |publisher=The Guardian |date= 2 January 2012|accessdate=2012-01-02}}</ref>。[[2012年ロンドンオリンピックの聖火リレー]]は、チューリングの100回目の誕生日である2012年6月23日に、サックヴィル・ガーデンズにあるチューリングの像の前で引き継がれた。
2012年6月22日、マンチェスター市議会は、Lesbian and Gay Foundationと共同で、Alan Turing Memorial Awardを創設し、マンチェスターにおいて[[ホモフォビア]]に立ち向かうことに顕著な貢献のあった個人・団体を表彰することとした<ref>{{cite news|url=http://menmedia.co.uk/manchestereveningnews/news/s/1581770_centenary-award-tribute-to-enigma-codebreaker-alan-turing|title=Centenary award tribute to "enigma" codebreaker Alan Turing.|last=Anon|date=22 June 2012|work=Manchester Evening News|publisher=MEN media|accessdate=22 June 2012|location=Manchester}}</ref>。
[[オックスフォード大学]]では、チューリングの生誕100周年を記念して、[[計算機科学|コンピュータサイエンス]]と哲学の新しい科目が開設された<ref>{{ Cite journal | title = Computer Science and Philosophy | publisher = University of Oxford | url = http://www.cs.ox.ac.uk/admissions/ugrad/Computer_Science_and_Philosophy | accessdate = 23 June 2013 | ref = harv }}。学士課程における新しい科目の最初の学生は、チューリングの生誕100周年にあたる2012年から受け入れ開始となる</ref>。
これ以前にも、2004年6月5日にマンチェスター大学において、British Logic ColloquiumおよびBritish Society for the History of Mathematicsの主催で行われた、チューリングの生涯とその功績を称えるイベントを含め、さまざまなイベントが行われている<ref>{{cite web |url=http://www.dcs.warwick.ac.uk/bshm/archive/meetings.html |title=BSHM Meetings (1992–2007) |publisher=dcs.warwick.ac.uk |year= |accessdate=24 December 2013}}</ref>。
== 栄誉 ==
* 1946年に[[大英帝国勲章]]オフィサーを授与
;名前にちなむもの
{{main|en:List of things named after Alan Turing}}
*[[チューリングマシン]]
*[[チューリング・テスト]]
*[[チューリング賞]]
;その他
* 2021年6月23日に[[イングランド銀行]]から発効される、イギリスの50[[スターリング・ポンド|イギリス・ポンド]]紙幣の絵柄となった<ref>[https://www.bbc.com/news/business-56503741 New Alan Turing £50 note design is revealed] BBC 参照日・更新日 2021年3月25日</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
{{Refbegin}}
* {{Citation| last = Alexander | first = C. Hugh O'D. | year = circa 1945 | title = Cryptographic History of Work on the German Naval Enigma | url = http://www.ellsbury.com/gne/gne-000.htm | publisher=The National Archives, Kew, Reference HW 25/1}}
* {{Citation| last = Copeland | first = B. Jack | title = Colossus: Its Origins and Originators | journal=[[:en:IEEE Annals of the History of Computing|IEEE Annals of the History of Computing]] | volume = 26 | issue = 4 | pages = 38–45 | year = 2004 |doi = 10.1109/MAHC.2004.26}}
* {{Citation| last = Copeland | first = B. Jack | title = Colossus: The secrets of Bletchley Park's code-breaking computers | year = 2006 | publisher=Oxford University Press | isbn = 978-0-19-284055-4 }}
* {{Citation| last = Gannon | first = Paul | title = Colossus: Bletchley Park's Greatest Secret | place = London | publisher = Atlantic Books | origyear = 2006 | year = 2007 | isbn = 978-1-84354-331-2 }}
* {{Citation| last = Hodges | first = Andrew | origyear = 1983 | year = 1992 | title = Alan Turing: the enigma |location = London | publisher=Burnett Books | isbn = 0-04-510060-8 | ref = harv }}
* {{Citation| last = Leavitt | first = David | year = 2007 | title = The man who knew too much: Alan Turing and the invention of the computer | publisher=Phoenix | isbn = 978-0-7538-2200-5}}
* {{Citation| last = Lewin | first = Ronald | title = Ultra Goes to War: The Secret Story | edition = Classic Penguin | series = Classic Military History | year = 1978 | publication-date = 2001 | publisher=Hutchinson & Co | location = London, England | isbn = 978-1-56649-231-7 }}
* {{Citation| last = Mahon | first = A.P. | title = The History of Hut Eight 1939–1945 | publisher=UK National Archives Reference HW 25/2 | year = 1945 | url = http://www.ellsbury.com/hut8/hut8-000.htm | accessdate =2009-12-10 | ref = harv }}
* {{Citation| editor-last = Oakley | editor-first = Brian | title = The Bletchley Park War Diaries: July 1939 — August 1945 | publisher = Wynne Press | year = 2006 | edition = 2.6 }}
* {{Citation| last = O'Connell | first = H | last2 = Fitzgerald | first2 = M | title = Did Alan Turing have Asperger's syndrome? | journal = Irish Journal of Psychological Medicine | volume = 20 | pages = 28-31 | publisher = Irish Institute of Psychological Medicine | date = 2003 | issn = 0790-9667 }}
* {{Cite book|和書|author=星野力 |title=甦るチューリング -コンピュータ科学に残された夢 - |origdate= |origyear= |url= |format= |accessdate= |edition= |date= |year=2002 |publisher=[[NTT出版]] |isbn=4-7571-0079-5 |oclc=54637816|ref=harv}}
{{Refend}}
== 関連文献 ==
{{Refbegin|2}}
*{{Cite journal|title=The Mind and the Computing Machine: Alan Turing and others|journal=[[:en:The Rutherford Journal|The Rutherford Journal]]|url= http://www.rutherfordjournal.org/article010111.html |editor = Jack Copeland|ref=harv}}
*{{Cite encyclopedia|last=Hodges |first=Andrew |editor=Edward N. Zalta |encyclopedia=[[スタンフォード哲学百科事典|Stanford Encyclopedia of Philosophy]] |title=Alan Turing |url= http://plato.stanford.edu/entries/turing/ |accessdate=2011-01-10 |edition=Winter 2009 |date=27 August 2007 |publisher=[[スタンフォード大学|Stanford University]] |ref={{SfnRef|Hodges|1992}} }}
*{{Cite journal|last=Gray|first=Paul|date=29 March 1999|title=Computer Scientist: Alan Turing|journal=TIME|url= http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,990624,00.html|ref=harv}}
* Gleick, James, ''[[:en:The Information: A History, a Theory, a Flood|The Information: A History, A Theory, A Flood]]'', New York: Pantheon, 2011, ISBN 978-0-375-42372-7
* Leavitt, David, ''The Man Who Knew Too Much: Alan Turing and the Invention of the Computer'', W. W. Norton, 2006
* {{Cite book|和書 |author=藤原正彦|authorlink=藤原正彦|title=天才の栄光と挫折 数学者列伝|year=2002 |publisher=[[新潮社]]|series=[[新潮選書]] |isbn=4-10-603511-1 |oclc=54715289|ref=harv}}
* {{Cite book|和書 |author=藤原正彦|authorlink=藤原正彦|title=天才の栄光と挫折 数学者列伝|year=2008 |publisher=[[文芸春秋]]|series=[[文春文庫]] |isbn=978-4-16-774902-6 |oclc=247848683|ref=harv}}
* {{Cite journal |author= |date=2012-07 |title=特集I チューリング生誕100年 |journal=[[数学セミナー]] |volume=51 |issue=7 |pages= |publisher=[[日本評論社]] }}、(通巻609号、2012年7月号)
{{Refend}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|数学}}
{{ウィキプロジェクトリンク|LGBT}}
{{refbegin|2}}<!--段組み-->
* [[チューリング賞]]
* [[チューリングマシン]]
* [[チューリング・テスト]]
* [[チューリング次数]]
* [[チューリング・パターン]]
* [[計算機科学]]
* [[アナログ計算機]]
* [[ブレイキング・ザ・コード]]
* [[イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密]]
{{refend}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Alan Turing}}
{{Wikiquote|en:Alan Turing|アラン・チューリング}}
*[http://www.turingcentenary.eu/ Alan Turing Year]
*[http://cie2012.eu/ CiE 2012: Turing Centenary Conference]
*[http://www.turing.org.uk/ Alan Turing] {{仮リンク|アンドリュー・ホッジス|en|Andrew Hodges}}の運営するサイト。[http://www.turing.org.uk/bio/part1.html short biography] もある。
*[http://www.alanturing.net/ AlanTuring.net – Turing Archive for the History of Computing] {{仮リンク|ジャック・コープランド|en|Jack Copeland}}
*[http://www.turingarchive.org/ The Turing Digital Archive] – ケンブリッジ大学キングス・カレッジ所有の出版されていない資料のスキャンなどがある。
*{{Cite journal|last=Jones|first=G. James|date=11 December 2001|title=Alan Turing – Towards a Digital Mind: Part 1|journal=System Toolbox|publisher=The Binary Freedom Project|url= http://www.systemtoolbox.com/article.php?history_id=3|ref=harv}}
*[http://openplaques.org/people/368 Alan Turing plaques] on openplaques.org
* {{SEP|turing/|Alan Turing}}
=== 論文 ===
* [http://bibnetwiki.org/wiki/Category:Alan_M._Turing_Paper チューリングの論文、報告書、講義、翻訳版など] BibNetWiki
* {{AcademicSearch|2612734}}
* {{Citation| last = Turing| first = Alan| year=1950| title = Computing Machinery and Intelligence| journal=[[:en:Mind (journal)|Mind]] | issn=0026-4423 | volume = LIX | issue = 236 | date=October 1950 | pages= 433–460 | url = http://loebner.net/Prizef/TuringArticle.html | doi=10.1093/mind/LIX.236.433 |accessdate=2008-08-18}}
* [http://conservancy.umn.edu/handle/107241 Oral history interview with Donald W. Davies], [[チャールズ・バベッジ研究所|Charles Babbage Institute]], University of Minnesota
* [http://conservancy.umn.edu/handle/107493 Oral history interview with Nicholas C. Metropolis], [[チャールズ・バベッジ研究所|Charles Babbage Institute]], University of Minnesota
{{心の哲学}}
{{Logic}}
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{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ちゆうりんく あらん}}
[[Category:アラン・チューリング|*]]
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3,450 | マーク・アンドリーセン | マーク・ローウェル・アンドリーセン(Marc Lowell Andreessen, 1971年7月9日 - )は、アメリカ合衆国のソフトウェア開発者、投資家。ウェブブラウザのNCSA MosaicやNetscape Navigatorを開発した。世界的に有名なベンチャーキャピタル会社のアンドリーセン・ホロウィッツの共同創業者。
アイオワ州生まれ。イリノイ大学内のNCSA在籍中に、ウェブブラウザMosaicを開発した。当初はUNIXのX環境でのみ動作するものだったが、すぐにMacintoshやWindows向けが作られた。しかし、NCSAがMosaicの権利を主張したため、アンドリーセンはNCSAと決別した。
1993年、事業家ジム・クラークからメールをもらい、共同でモザイクコミュニケーションズを設立した(のちにネットスケープコミュニケーションズと社名変更)。そして、Mosaicのコード関連の書類を破棄した上で、新たに Netscape Navigatorブラウザを開発した。このソフトウェアは当時としては非常に成功し、1995年には会社は株式公開(IPO)を果たす。このときまだ23歳だったが一夜にしてアメリカを代表する富豪となり、「レンタカーを借りられる年齢になる前に億万長者になった」ともいわれた。
ところがその後、マイクロソフトのInternet Explorerの猛追により、Netscape Navigatorはシェアを徐々に下げ、会社の業績は下がり、1998年11月24日に会社はAOLに買収されることになる。このときAOLに移籍しCTOの地位に付くが、1999年9月にはその職を辞してAOLを退社する。
1999年、ラウドクラウドを設立。ホスティングやWebサイト管理サービスのアウトソーシングを提供。2001年にIPOを行う。2002年にホスティング事業をEDS社に売却してソフトウェアベンダーに事業転換し、Opsware というデータセンターなどの管理ソフトウェアの開発に専念する。2003年にOpswareに社名変更した。なお、同社は2007年9月にHPに16億ドルで買収されている。
2005年にはNingというプロジェクトを起こす。これはウェブアプリケーションを簡単に開発できるツールで、オープンな開発プロジェクトになっている。
2008年6月30日にFacebookの取締役就任が発表された。
2009年7月6日にベンチャーキャピタルのアンドリーセン・ホロウィッツをベン・ホロウィッツと共同で設立する。
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] | マーク・ローウェル・アンドリーセンは、アメリカ合衆国のソフトウェア開発者、投資家。ウェブブラウザのNCSA MosaicやNetscape Navigatorを開発した。世界的に有名なベンチャーキャピタル会社のアンドリーセン・ホロウィッツの共同創業者。 | {{Infobox Engineer
|氏名=マーク・アンドリーセン<br />Marc Andreessen
|画像=Marc Andreessen (1).jpg
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|画像の説明=マーク・アンドリーセン(2008年)
|別名=
|国籍={{USA}}
|生年月日={{生年月日と年齢|1971|7|9}}
|生誕地={{USA}}、[[アイオワ州]][[ブラックホーク郡 (アイオワ州)|ブラックホーク郡]]セダーフォールズ
|死没日=
|死没地=
|最終学歴=[[イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校]]
|職業=ソフトウェア開発者,投資家
|配偶者=ラウラ・アリラーガ
|両親=ローウェル・アンドリーセン(父)<br>パトリシア・アンドリーセン(母)
|子供=ジョン(2015年3月誕生)
|専門分野=
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|成果=[[NCSA Mosaic|Mosaic]]、[[Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)|Netscape Navigator]]の開発
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}}
'''マーク・ローウェル・アンドリーセン'''('''Marc Lowell Andreessen''', [[1971年]][[7月9日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[ソフトウェア]]開発者、[[投資家]]。[[ウェブブラウザ]]の[[NCSA Mosaic]]や[[Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)|Netscape Navigator]]を開発した。世界的に有名なベンチャーキャピタル会社の[[アンドリーセン・ホロウィッツ]]の共同創業者。
== 経歴 ==
[[アイオワ州]]生まれ。[[イリノイ大学]]内の[[米国立スーパーコンピュータ応用研究所|NCSA]]在籍中に、[[ウェブブラウザ]]Mosaicを開発した。当初は[[UNIX]]のX環境でのみ動作するものだったが、すぐに[[Macintosh]]や[[Microsoft Windows|Windows]]向けが作られた。しかし、NCSAがMosaicの権利を主張したため、アンドリーセンはNCSAと決別した。
[[1993年]]、事業家[[ジム・クラーク (事業家)|ジム・クラーク]]からメールをもらい、共同でモザイクコミュニケーションズを設立した(のちに[[ネットスケープコミュニケーションズ]]と社名変更)。そして、Mosaicのコード関連の書類を破棄した上で、新たに Netscape Navigatorブラウザを開発した。このソフトウェアは当時としては非常に成功し、[[1995年]]には会社は[[株式公開]](IPO)を果たす。このときまだ23歳だったが一夜にしてアメリカを代表する富豪となり、「レンタカーを借りられる年齢になる前に億万長者になった」ともいわれた。
ところがその後、[[マイクロソフト]]の[[Internet Explorer]]の猛追により、Netscape Navigatorはシェアを徐々に下げ、会社の業績は下がり、[[1998年]][[11月24日]]に会社は[[AOL]]に買収されることになる。このときAOLに移籍し[[最高技術責任者|CTO]]の地位に付くが、[[1999年]]9月にはその職を辞してAOLを退社する。
1999年、ラウドクラウドを設立。ホスティングやWebサイト管理サービスのアウトソーシングを提供。[[2001年]]にIPOを行う。[[2002年]]にホスティング事業を[[EDS]]社に売却してソフトウェアベンダーに事業転換し、[[Opsware]] というデータセンターなどの管理ソフトウェアの開発に専念する。[[2003年]]にOpswareに社名変更した。なお、同社は2007年9月に[[ヒューレット・パッカード|HP]]に16億ドルで買収されている。
[[2005年]]には[[Ning]]というプロジェクトを起こす。これはウェブアプリケーションを簡単に開発できるツールで、オープンな開発プロジェクトになっている。
[[2008年]][[6月30日]]に[[Facebook]]の取締役就任が発表された<ref>[http://newsroom.fb.com/News/Marc-Andreessen-Joins-Facebook-Board-of-Directors-f3.aspx Marc Andreessen Joins Facebook Board of Directors]</ref>。
[[2009年]][[7月6日]]に[[ベンチャーキャピタル]]の[[アンドリーセン・ホロウィッツ]]を[[ベン・ホロウィッツ]]と共同で設立する。
[[2009年]][[9月17日]]にHPの取締役に就任したと発表された<ref>{{Cite web|date=2009-09-19|url=https://japan.cnet.com/article/20400310/|title=マーク・アンドリーセン氏、ヒューレット・パッカードの取締役に|publisher=CNET Japan|accessdate=2011-10-29}}</ref>。[[2013年]][[エリザベス女王工学賞|クイーンエリザベス工学賞]]受賞<ref>{{Cite news|url=http://qeprize.org/winners-2013/|title=Winners 2013 - Queen Elizabeth Prize for Engineering|newspaper=Queen Elizabeth Prize for Engineering|language=en-GB|accessdate=2017-02-2}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[米国立スーパーコンピュータ応用研究所]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Marc Andreessen|マーク・アンドリーセン}}
{{wikiquotelang|en|Marc Andreessen|マーク・アンドリーセン}}
* [http://www.opsware.jp/index.php Opsware]
* [http://blog.pmarca.com/ pmarca(アンドリーセン氏の個人ブログ)]{{En icon}}
* {{Cite web|date=2002-12-30|url=https://japan.cnet.com/article/20051956/|title=マーク・アンドリーセンの提言「新たなIT危機を回避せよ」|publisher=CNET Japan|accessdate=2011-10-29}}
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[[Category:マーク・アンドリーセン|*]]
[[Category:アメリカ合衆国のプログラマ]]
[[Category:Netscape]]
[[Category:インターネット技術の開拓者]]
[[Category:ACMソフトウェアシステム賞の受賞者]]<!-- 1995年 -->
[[Category:エリザベス女王工学賞受賞者]]<!-- 2013年 -->
[[Category:アイオワ州ブラックホーク郡出身の人物]]
[[Category:1971年生]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%B3 |
3,451 | NCSA Mosaic | NCSA Mosaic(エヌシーエスエー・モザイク)は、米国立スーパーコンピュータ応用研究所 (NCSA) から、1993年にリリースされたウェブブラウザ。
欧州原子核研究機構 (CERN) が World Wide Web (WWW) の利用を解放した年である1993年に、イリノイ大学の米国立スーパーコンピュータ応用研究所 (NCSA) に所属するマーク・アンドリーセンらが、革新的な Webブラウザである NCSA Mosaic を開発・リリースした。NCSA Mosaic は、テキストと画像を同一のウインドウ内に混在して表示させることができる最初のウェブブラウザである。それ以前のウェブブラウザにおいては、テキストと画像は別ウインドウに表示されていた。
なお通信プロトコルとしてはHTTP以外にFTP、NNTP、Gopherにも対応している。従ってウェブブラウザ以外にFTPクライアントやネットニュースリーダーの機能も持っていた。
NCSA Mosaic は、新たな諸機能を実現し、また、同時期に全米科学財団ネットワーク (NSFnet) の商用利用が解禁されたことも追い風となり、一般社会におけるインターネット普及の基礎を築いた。NCSA Mosaic リリース直後の日本(インターネットが民間に先行して大学や国の研究機関などで普及)においては、ウェブを閲覧することを「Mosaic する」などと言っていた。
開発に携わったマーク・アンドリーセンらは、シリコングラフィックス社の創立者ジム・クラークとともにモザイク・コミュニケーションズ社(後のネットスケープコミュニケーションズ社)を立ち上げ、Netscape Navigator(Beta 版では Mosaic Navigator)を開発する。
その後、NCSA は Mosaic のマスターライセンスをスパイグラス(英語版)社に与え、さらにスパイグラス社からライセンスを受けたマイクロソフト社は、Mosaic のコードを元に Internet Explorer を開発した。 | [
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] | NCSA Mosaic(エヌシーエスエー・モザイク)は、米国立スーパーコンピュータ応用研究所 (NCSA) から、1993年にリリースされたウェブブラウザ。 | {{Redirect|Mosaic|その他|モザイク (曖昧さ回避)}}
[[File:NCSA Mosaic Browser Screenshot.png|thumb|NCSA Mosaicブラウザのスクリーンショット]]
'''NCSA Mosaic'''(エヌシーエスエー・モザイク)は、[[米国立スーパーコンピュータ応用研究所]] (NCSA) から、1993年にリリースされた[[ウェブブラウザ]]。
== 概要 ==
[[欧州原子核研究機構]] (CERN) が [[World Wide Web]] (WWW) の利用を解放した年である1993年に、[[イリノイ大学]]の[[米国立スーパーコンピュータ応用研究所]] (NCSA) に所属する[[マーク・アンドリーセン]]らが、革新的な Webブラウザである NCSA Mosaic を開発・リリースした。NCSA Mosaic は、テキストと画像を同一のウインドウ内に混在して表示させることができる最初のウェブブラウザである。それ以前のウェブブラウザにおいては、テキストと画像は別ウインドウに表示されていた。
なお[[通信プロトコル]]としては[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]以外に[[File Transfer Protocol|FTP]]、[[Network News Transfer Protocol|NNTP]]、[[Gopher]]にも対応している。従ってウェブブラウザ以外に[[FTPクライアント]]や[[ネットニュース]]リーダーの機能も持っていた。
NCSA Mosaic は、新たな諸機能を実現し、また、同時期に[[全米科学財団ネットワーク]] (NSFnet) の商用利用が解禁されたことも追い風となり、一般社会における[[インターネット]]普及の基礎を築いた。NCSA Mosaic リリース直後の日本(インターネットが民間に先行して大学や国の研究機関などで普及)においては<!--Rimnetは1994年10月、bekkoame は1994年12月設立。1994年末には Netscape Navigator ver.1 がリリースされており、日本でのインターネット普及期には Mosaic はほとんど利用されなくなっていた。-->、ウェブを閲覧することを「Mosaic する」などと言っていた{{r|技術用語と図表}}。
== NCSA Mosaic の系譜 ==
開発に携わった[[マーク・アンドリーセン]]らは、[[シリコングラフィックス]]社の創立者[[ジム・クラーク (事業家)|ジム・クラーク]]とともに'''モザイク・コミュニケーションズ社'''(後の[[ネットスケープコミュニケーションズ]]社)を立ち上げ、[[Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)|Netscape Navigator]](Beta 版では Mosaic Navigator)を開発する。
その後、NCSA は Mosaic のマスターライセンスを{{仮リンク|スパイグラス|en|Spyglass, Inc.}}社に与え、さらにスパイグラス社からライセンスを受けた[[マイクロソフト]]社は、Mosaic のコードを元に [[Internet Explorer]] を開発した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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<ref name="技術用語と図表">{{Cite web|和書
| url = http://yukimura.hep.osaka-cu.ac.jp/4MUE/joho/terms.html#Mosaic
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| archivedate = 2009-8-12
| deadlinkdate = 2020年9月1日 }}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[World Wide Web]]
* [[インターネット]]
* [[ViolaWWW]]
* [[NCSA HTTPd]] - 同じくNCSAによって開発された[[Webサーバ]]。
* [[Mozilla]] - '''Mosaic''' と '''Killer''' の略称である '''Moz''' と '''Killa''' に由来し、[[ネットスケープコミュニケーションズ]]<!-- 設立時の名称はモザイク・コミュニケーションズですが -->発足当時にシェア率トップであった NCSA Mosaic を追い抜く意味を込めて、また日本映画「[[ゴジラ]]」('''Godzilla''')の怪獣に引っ掛けて命名したとされている。
== 外部リンク ==
* {{Cite web
| url = http://www.ncsa.illinois.edu/enabling/mosaic
| title = NCSA MOSAIC™
| publisher = NCSA
| accessdate = 2020-9-1 }}
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[[Category:1993年のソフトウェア]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/NCSA_Mosaic |
3,453 | 原子爆弾 | 原子爆弾(げんしばくだん、英: atomic bomb)あるいは原爆は、ウランやプルトニウムなどの元素の原子核が起こす核分裂反応を使用した核爆弾であり、初めて戦争において攻撃用に実使用された核兵器である。原子爆弾は、核爆発装置に含まれる。水素爆弾を含めて「原水爆」とも呼ばれる。 核兵器は通常兵器と比較して威力が極めて大きいため、大量破壊兵器として核不拡散条約や部分的核実験禁止条約などで禁止されている。
第二次世界大戦下においてドイツ、日本、アメリカ合衆国、イギリスなどで開発が行われた。1945年にアメリカによって初めての核実験が行われて以降、冷戦期にアメリカ・ソ連・フランスを中心に約2,000回核実験が行われた。
アメリカによる日本への2発の原爆使用後、第二次世界大戦後の東西冷戦の激化とともに、アメリカ合衆国やソビエト連邦を中心に破壊力の大きな戦略兵器として原子爆弾の改良が進められた。核出力を100キロトン以上に強大化した大型原爆や、熱核反応も加えて300キロトン程度に増強した強化原爆が開発された。また戦略用だけでなく戦術用での使用を企図して小型化も進められ、当初は4-5トンほどの重量だった原子爆弾を、大砲より発射できる核砲弾や核無反動砲用に小型化したが、これらの戦術用原子爆弾が実戦で使用された事はない。
原子爆弾はドイツから亡命したユダヤ人やイタリア人によって開発が進んだアメリカ合衆国が最初に成功した。開発は1942年からマンハッタン計画で進められ、1945年7月16日にニューメキシコ州のアラモゴード軍事基地の近郊の砂漠で人類最初の原爆実験(トリニティ実験)が実行された。この原子爆弾のコードネームはガジェット (Gadget) と呼ばれた。
ソビエト連邦の原子爆弾開発は、1943年にソビエト連邦共産党書記長であるスターリンが原子力プログラムの開始を命じ、核物理学者イーゴリ・クルチャトフがプロジェクトの責任者となって、スパイにより盗まれたアメリカの情報(ヴェノナ文書も参照)を中心に開発が進められた。1949年8月29日、カザフ共和国(当時)のセミパラチンスク核実験場において最初の核実験(プルトニウム型原爆RDS-1)が成功した。
イギリスは、1952年10月3日にモンテベロ諸島と西オーストラリアの間の珊瑚礁で最初の核実験(ハリケーン作戦)を行った。使用された原子爆弾は、長崎に落とされたファットマンの改良型である。セラフィールドで生産したプルトニウムが足りなかったので、カナダから供給されたプルトニウムで補ったとされる。
フランスも第二次世界大戦勃発直後から核兵器開発を始めたが、ドイツ軍のフランス侵攻によりフランス本土はドイツの占領下におかれ、研究者達は亡命し計画は停滞した。戦後、亡命した科学者たちが帰国すると次世代エネルギーの開発という名目で、1948年から重水炉が稼動して原子力開発が始まった。その後、紆余曲折を経て1956年に原子爆弾実験と核融合研究の実施を決定した。
1959年には発電用原子炉で、年間40kgのプルトニウムを生産する能力を持つようになり、1960年2月13日にアルジェリア領のサハラ砂漠で核実験を成功させて、4番目の核保有国になった。フランスは1960年から1996年までの間に核実験をサハラ砂漠で17回実施、仏領ポリネシアで193回実施した(フランスの核兵器に関する詳細は「フランスの核兵器」を参照)。
中華人民共和国は、1960年代当初から第9学会と呼ばれる研究都市を海北チベット族自治州に設けて、核開発を推進してきた。1964年10月16日に初の原子爆弾実験に成功し、1967年6月17日に初の水素爆弾実験に成功した。
インドは1974年5月18日に初の核実験を行なっている。パキスタンは1998年5月28日に初の核実験を行なっている。北朝鮮は2006年10月9日に初の核実験を行なっている。
原子爆弾のエネルギーは、原子が核分裂反応するときに放出するエネルギーであり、原子核を構成する陽子・中性子間の核エネルギーとして取り出すものである。通常兵器がTNT火薬などの化学反応によって原子の結合エネルギー(原子を構成する電子軌道の位置エネルギー)を取り出すのとは原理的に異なる。
そのエネルギーの大きさは、通常は同量のエネルギーを生みだすTNT火薬の重量に換算(TNT換算)して評価する。しかし、これで評価できるのは爆発時の破壊力だけであり、核兵器の使用に伴う放射線障害や放射性物質による汚染は考慮されていない。
核分裂の際には通常数個の中性子が外部に放出される。そのため、核分裂を起こす物質が隣接して大量に存在する場合には、核分裂で放出された中性子を別の原子核が吸収してさらに分裂する、という反応が連鎖的に起こることがある。このような反応を核分裂の「連鎖反応」と呼ぶ。核分裂性物質の量が少ない場合には連鎖反応は短時間で終息するが、ある一定の量を超えると中性子の吸収数と放出数が釣り合って連鎖反応が持続することになる。この状態を「臨界状態(あるいは単に臨界)」といい、臨界状態となる核分裂性物質の量を臨界量と呼ぶ。発電等に用いられる原子炉ではこの臨界状態を維持する様に制御して一定のエネルギー出力を得ている。原子爆弾に用いられる場合は、核分裂性物質を制御された短時間で臨界状態にする必要がある。
核分裂性物質が臨界量を大幅に超えて存在する場合には、分裂反応を繰り返すごとに中性子の数が指数関数的に増加し、反応が暴走的に進む。この状態を「超臨界状態」(物性物理学における超臨界とは意味が異なることに注意)、または臨界超過と呼ぶ。極わずかな超臨界状態であれば制御可能な領域も存在する(そうでなければ原子炉の起動も出来ない)が、一定以上の超臨界状態の制御は不可能であり兵器としても実用にならない。
原子爆弾は起爆前の保管・運送中に核分裂連鎖反応が始まってしまうと暴発するか使用不能になる。如何に構造を工夫しようとも、暴発を避けて収容できる核分裂性物質の量には限界があり、そのため実現できる核出力には自ずと上限がある。後に水素爆弾が実用化されたことで、核分裂性物質の増量によって核出力を高める動機は失われた。
核分裂反応を起こす物質(核種)はいくつか存在するが、原子爆弾にはウラン235またはプルトニウム239が用いられる。
ウラン235は広島に投下された原子爆弾で用いられた。天然ウランは、核分裂を起こし易いウラン235と、核分裂を起こしにくいウラン238からなるが、ウラン235はわずか0.7%である。原爆に用いるためにはウラン235の濃度を通常90%以上に高めなければならず、辛うじて核爆発を引き起こす程度でも最低70%以上の濃縮ウランが必要となる。放射能の値が小さいために取り扱いは容易であるが、ウラン濃縮には大変高度な技術力と大規模な設備、大量のエネルギーが必要とされる。ウランは後述のガンバレル方式、爆縮方式のどちらでも使用可能である。
ウラン濃縮による原爆製造は初期設備投資は比較的安価だが、電力を大量に消費し運転経費がかかる上、同じ核物質の量でプルトニウムより少ない数の原爆しか作れないため、原爆1個あたりの製造コストはプルトニウム原爆より高価になる。一方で、ウラン濃縮施設はプルトニウム生産黒鉛炉と違って地下に設置しやすく大量の赤外線を放射しないので偵察衛星に位置を察知されにくい。また、ガンバレル方式は必要臨界量が多く製造効率が甚だ悪いものの、核実験なしでも核兵器を持てる。そのため核開発初期段階の国はウラン原爆と砲身方式の組み合わせを選択する場合が多い。イランの核開発もウラン原爆計画が主体である。
マンハッタン計画で、臨界質量以下のウラン235の2つの小片を合体させ、臨界質量以上にすることにより容易に核分裂連鎖反応を開始できることが明らかになったため、広島型原爆には後述のガンバレル方式が選択された。砲身方式においてウラン原爆の臨界量は100%ウラン235の金属で22kgとされている。広島型原爆ではウラン235が約60kg使用されたとされる(全ウランに対するウラン235の割合が80%の濃縮ウラン75kg)。
プルトニウム239は自然界にはほとんど存在しない重金属であるが、原子炉(燃料転換率の高い原子炉が望ましい)内でウラン238が中性子を吸収することで副産物として作られるため、ウラン235のような大量の電力を消費する濃縮過程を必要とせず、むしろ原子炉で電力が得られるという利点もある。また臨界量が5kgとウラン235に比べてかなり少量で済む利点がある。
プルトニウムは放射能の値が大きいため取り扱いが難しく、生産に黒鉛炉または重水炉、再処理工場の建設費がかかるが、副産物として電力が得られ、1発あたり生産コストがトータルではウラン原爆より安価に済み、量産に向くため、現在は五大国の核兵器生産はプルトニウムが主体である。
しかし通常の工程で生成されるプルトニウムには、高い確率で自発核分裂を起こすプルトニウム240が兵器として使用できる許容量を超えるレベルで含まれている。このため、ガンバレル方式ではプルトニウム全体が超臨界に達する前に一部で自発核分裂が起きて爆弾が四散(これを過早爆発という)してしまうなど、効率の良い爆発を起こすことが難しい。したがって密度の低いプルトニウムを球状にし、爆縮によって密度を高め核分裂連鎖反応を開始させる爆縮方式が用いられる。また核分裂連鎖反応が開始されてからプルトニウム239が飛散して終了するまでの反応効率がガンバレル方式よりも高いというメリットもある。長崎に投下された原子爆弾にはこのタイプが用いられた。
なお、爆縮方式を用いる場合でもプルトニウム240の含有量が7%を超えると過早爆発の原因になり、核兵器製造に向かない。日本の原子力発電で使われている軽水炉の使用済み燃料から抽出されるプルトニウムはプルトニウム240を22-30%前後含有し、プルトニウム240を分離しないと核兵器に使えない。核兵器製造にはプルトニウム240含有量が7%以下の兵器用プルトニウムが得られる黒鉛炉やCANDU炉もしくは高速増殖炉(日本には常陽ともんじゅがあったがどちらも廃炉)を使うのが普通で、北朝鮮の原爆計画の1つであるプルトニウム計画は黒鉛炉、イラン原爆計画において傍流であるプルトニウム原爆計画では重水炉が使用されている。
技術の進歩で使用目的に適した爆発力を持つよう小型化されたものをミニ・ニュークという。少ない核物質で多くの核弾頭を製造可能な反面、一発あたり威力もやや小さくなる。
米国の核物理学者トーマス・コクラン博士は爆縮方式の場合、より少量で超臨界が可能であることに着目して臨界量を分析しなおし、今日では従来より少量の核物質で超臨界が可能であり、プルトニウム原爆は現代の技術では1.5kg、途上国の技術でも2kgでの超臨界が可能であると発表した。またウラン原爆は爆縮方式なら3-5kgでの超臨界が可能と見られている。
北朝鮮が2006年に行った核実験では、長崎型原爆の爆発力が20キロトンを超えていたのに対し、中国への事前通知が4キロトン、実験結果が0.8キロトンだったことから、限界までプルトニウムを節約した小型核弾頭実験に挑んで、結果はやや過早爆発気味であったのではないか、という観測もあると考えられる。
原子爆弾の構造は単純である。本質的には、臨界量以下に分割した核分裂性物質の塊を瞬間的に集合させ、そこに中性子を照射して連鎖反応の超臨界状態を作り出し、莫大なエネルギーを放出させる、というものである。ただし実際には、爆弾に用いる物質の性質に応じて大きく2種類の構造が用いられる。
ガンバレル型(英:Gun barrel)または砲身方式はウランを臨界量に達しない2つの物体に分けて筒の両端に入れておき、投下時に起爆装置を使って片方を移動させ、もう一つと合体させることで超臨界に達するものである。合体の容易性から構造は凹型と凸型の組み合わせ、または筒型と柱型の組み合わせとなる。広島に投下されたリトルボーイがこの方式を採用した。しかしリトルボーイでは、60キログラムとされる搭載ウランのうち実際に核分裂反応を起こしたのは約1キログラムと推定されている。その他のウランは核分裂を起こさずに四散した。初期の核砲弾用弾頭などの量産例はあるが、必要な核物質の量に対して威力に劣ることから砲身方式を積極的に選択する意義は少ないため、核開発・製造において主流ではない。
インプロージョン型(英:Implosion)または爆縮方式は、英語のexplosion「爆発」という語のex-(外へ)という接頭辞をin-(内へ)に置き換えた造語で、「爆縮」はその和訳である。爆縮方式とはその名の通り、プルトニウムを球形に配置し、その外側に並べた火薬を同時に爆発させて位相の揃った衝撃波を与え、プルトニウムを一瞬で均等に圧縮し、高密度にすることで超臨界を達成させる方法である。長崎市に投下されたファットマンで採用された。 プルトニウムは自発核分裂の確率が高く、プルトニウム原爆は過早爆発防止の為にこの方式でのみ実用可能となるのに対し、ウラン原爆はインプロージョン型、ガンバレル型のどちらでも可能である。
しかしこの方式は衝撃波の調整や爆縮レンズの設計が非常に難しく、高度な計算に使用できるほど高性能なコンピュータがなかったマンハッタン計画時、数学者ジョン・フォン・ノイマン達の10か月にも及ぶ衝撃計算がなければ実現し得なかったと言われている。砲身方式の原爆は実地テストなしで広島に投下されたが、爆縮方式の爆弾はこのような高精度の動作が求められたため、ニューメキシコ州アラモゴードのトリニティ実験で設計通りに作動することを確認するテストが行なわれた。この方式は前述の砲身方式より効率が良い。核分裂連鎖反応が始まって核物質を四散させようとする圧力を、爆縮による内向きの圧縮力が押さえこみ、核分裂が継続するためである。そのため、第二次世界大戦以後製造された原子爆弾は、核開発の初期段階で製造されたものを除きプルトニウム型・ウラン型ともに爆縮方式である。
D-T強化方式の原子爆弾(Boosted fission weapon)は爆縮方式の性能向上型であり、基本となる核分裂反応を利用した原子爆弾の中に、核分裂反応での分裂効率を高める目的で核融合反応の要素を加えたものである。
原子爆弾は核反応を起こすべき核物質が全量エネルギーを開放するように作ることは21世紀現在も行えず、他の化学反応による爆発を利用した通常爆弾と異なり、多くの核物質は核分裂反応に寄与せずに飛散してしまう。飛散する前により多くの核分裂反応をプルトニウムに行わせることが出来ればそれだけ多量のエネルギーを生み出すことができる。
D-T強化方式ではプルトニウムを使用した爆縮方式での球状のコアの中央に空洞部を作って重水素(デューテリウム、D、H)と三重水素(トリチウム、T、H)のガスを50%ずつ、計5グラムほど注入しておく。爆縮によってプルトニウムが圧縮されながら核分裂を始め1億度近くになった時点でこれらのガスはD-T核融合反応を起こし、プルトニウムによる核分裂時に生じるものの7倍ほど高速の中性子を1つ放ってヘリウムに変化する。D-T反応による高速中性子は通常ならばプルトニウムの核分裂反応断面積が小さくなってしまって分裂効率が悪くなるが、爆縮によって密度が増したプルトニウムの原子核では核分裂反応断面積は充分に補われて、DT反応由来の高速中性子が効果的にプルトニウム原子核を分裂させる。また、中性子の速度が増すと核分裂で生じる中性子の数は増加し、プルトニウム自身の核分裂反応由来の中性子による核分裂では中性子が2-3個ほどしか生じないのに対し、DT反応由来の高速中性子による核分裂では平均5個ほどの中性子が生じる。これによって核分裂の効率が高まり短時間で核分裂反応が進む。長崎型ファットマンでは分裂効率が14%だったとされるが、D-T強化型では30%にできるとされる。
なお、核兵器についての民間の書籍などではこのD-T強化方式の説明や構造模式図が「水爆の構造」として記述されていることがある。しかし、D-T強化方式はあくまで原子爆弾の一種であり、これ自体は水素爆弾には分類されないが、D-T強化方式の原爆は水爆の起爆装置として水爆の構造には組み込まれている。
プルトニウム原爆において、反応材のプルトニウム240含有量が7%を超過、爆縮が不完全、軽量化のため爆縮火薬を削減しすぎた余裕のない設計、などの場合では、爆縮方式であってもプルトニウム240の自発核分裂の発生する外向きの爆風が、TNT爆縮火薬の内向きの圧力に打ち勝ってプルトニウム239の塊が充分に核分裂を完了する前に吹き飛ばしてしまう。この現象が過早爆発であり、プルトニウム239の一部しか核分裂しないため、爆発力が計画値を大幅に下回ってしまう。
実戦においては1945年8月に日本の二つの都市に原子爆弾が投下された。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、日本の広島市に、原子爆弾(リトルボーイ)が、マンハッタン計画の責任者であるレスリー・グローブスの「広島・小倉・長崎のいずれかの都市に8月3日以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下するべし」という投下指令書を受けたB-29(エノラ・ゲイ)によって投下された(一般的には大統領だったハリー・S・トルーマンが投下を許可したことになっているが、トルーマンが原爆投下を許可したという証拠が見つかっていない上に最近の研究でトルーマンは明確な決断をしていなかったことが明らかになっている)。
市内ほぼ中央に位置するT字形の相生橋が目標点とされ、投下された原爆は上空600メートルで炸裂した。
爆発に伴って熱線と放射線、周囲の大気が瞬間的に膨張して強烈な爆風と衝撃波を巻き起こし、その爆風の風速は音速を超えた。爆発の光線と衝撃波から広島などでは原子爆弾のことを「ピカドン」と呼ぶ。
爆心地付近は鉄やガラスも蒸発するほどの高熱に晒され、強烈な熱線により屋外にいた人は全身の皮膚が炭化し、内臓組織に至るまで高熱で水分が蒸発していった。苦悶の姿態の形状を示す「水気の無い黒焦げの遺骸」が道路などに大量に残された。
また、3.5km離れた場所でも素肌に直接熱線を浴びた人は火傷を負った。爆風と衝撃波も被害甚大で爆心地から2kmの範囲で(木造家屋を含む)建物のほとんど全てが吹き飛んだ。
爆発による直接的な放射線被曝のほかに、広島市の北西部に降った「黒い雨」などの放射性降下物(フォールアウト)による被曝被害も発生。また、投下後に救援や捜索活動のために市内に入った人に急性障害が多発した(二次被害)。当時の広島市の人口は約34万人であったが、爆心地から1.2kmの範囲では当日中に50%の人が死亡し、同年12月末までに更に14万人が死亡したと推定される。殺傷者としてまとめると20万人もの人間がいた。
その後も火傷の後遺症(ケロイド)による障害、胎内被曝した出生児の死亡率の上昇、白血病や甲状腺癌の増加など見られた。
広島の3日後の1945年8月9日午前11時2分、B-29(ボックスカー)が長崎市に原子爆弾ファットマンを投下した。投下地点は、当日の天候のため目標であった市街中心地から外れ、長崎市北部の松山町171番地(現、松山町5番地)テニスコートの上空であった。
当時、長崎市の人口は推定24万人、長崎市の同年12月末の集計によると被害は、死者7万3884人、負傷者7万4909人、罹災人員:12万820人、罹災戸数1万8409戸にのぼった。
原爆の投下後の8月14日に日本はポツダム宣言受諾を決定し通告した。このことにより特に欧米では原爆投下が日本に降伏を促したという論が既成事実として受け入れられている。しかし、中立条約を結んでいたソ連が対日参戦したことが重なることなどから、原爆投下と日本の降伏との関連はいまだに議論されている。なお玉音放送では、原爆投下をポツダム宣言受諾の理由の一つに挙げている。
日本の降伏により、1945年11月に予定されていた九州南部への上陸作戦、並びに翌年3月に予定されていた関東地方への一大上陸作戦が中止となった。この作戦が実行されていた場合、計107万人ものアメリカ軍が東京に上陸し、双方合わせて広島と長崎の原爆による死傷者をはるかに上回る戦死者を出しただろうと戦後に米軍当局はコメントしている。このコメントが後年、米国における原爆投下正当化の根拠となった(本土作戦に関する詳細は、米軍:ダウンフォール作戦、日本軍:本土決戦・決号作戦を参照)。
原子爆弾は、高温の熱線と強い爆風だけでなく、強い放射線を放出し、放射化した塵などを多量に排出したため、被害はTNT換算で推し量れる爆発の熱や爆風だけに留まらず、原爆症と呼ばれる放射線障害や白血病や癌などの病気を被曝者に引き起こし、その影響は現在も続いている。 | [
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"text": "原子爆弾(げんしばくだん、英: atomic bomb)あるいは原爆は、ウランやプルトニウムなどの元素の原子核が起こす核分裂反応を使用した核爆弾であり、初めて戦争において攻撃用に実使用された核兵器である。原子爆弾は、核爆発装置に含まれる。水素爆弾を含めて「原水爆」とも呼ばれる。 核兵器は通常兵器と比較して威力が極めて大きいため、大量破壊兵器として核不拡散条約や部分的核実験禁止条約などで禁止されている。",
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"text": "第二次世界大戦下においてドイツ、日本、アメリカ合衆国、イギリスなどで開発が行われた。1945年にアメリカによって初めての核実験が行われて以降、冷戦期にアメリカ・ソ連・フランスを中心に約2,000回核実験が行われた。",
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"text": "アメリカによる日本への2発の原爆使用後、第二次世界大戦後の東西冷戦の激化とともに、アメリカ合衆国やソビエト連邦を中心に破壊力の大きな戦略兵器として原子爆弾の改良が進められた。核出力を100キロトン以上に強大化した大型原爆や、熱核反応も加えて300キロトン程度に増強した強化原爆が開発された。また戦略用だけでなく戦術用での使用を企図して小型化も進められ、当初は4-5トンほどの重量だった原子爆弾を、大砲より発射できる核砲弾や核無反動砲用に小型化したが、これらの戦術用原子爆弾が実戦で使用された事はない。",
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"text": "原子爆弾はドイツから亡命したユダヤ人やイタリア人によって開発が進んだアメリカ合衆国が最初に成功した。開発は1942年からマンハッタン計画で進められ、1945年7月16日にニューメキシコ州のアラモゴード軍事基地の近郊の砂漠で人類最初の原爆実験(トリニティ実験)が実行された。この原子爆弾のコードネームはガジェット (Gadget) と呼ばれた。",
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"text": "ソビエト連邦の原子爆弾開発は、1943年にソビエト連邦共産党書記長であるスターリンが原子力プログラムの開始を命じ、核物理学者イーゴリ・クルチャトフがプロジェクトの責任者となって、スパイにより盗まれたアメリカの情報(ヴェノナ文書も参照)を中心に開発が進められた。1949年8月29日、カザフ共和国(当時)のセミパラチンスク核実験場において最初の核実験(プルトニウム型原爆RDS-1)が成功した。",
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"text": "イギリスは、1952年10月3日にモンテベロ諸島と西オーストラリアの間の珊瑚礁で最初の核実験(ハリケーン作戦)を行った。使用された原子爆弾は、長崎に落とされたファットマンの改良型である。セラフィールドで生産したプルトニウムが足りなかったので、カナダから供給されたプルトニウムで補ったとされる。",
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"text": "フランスも第二次世界大戦勃発直後から核兵器開発を始めたが、ドイツ軍のフランス侵攻によりフランス本土はドイツの占領下におかれ、研究者達は亡命し計画は停滞した。戦後、亡命した科学者たちが帰国すると次世代エネルギーの開発という名目で、1948年から重水炉が稼動して原子力開発が始まった。その後、紆余曲折を経て1956年に原子爆弾実験と核融合研究の実施を決定した。",
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"text": "1959年には発電用原子炉で、年間40kgのプルトニウムを生産する能力を持つようになり、1960年2月13日にアルジェリア領のサハラ砂漠で核実験を成功させて、4番目の核保有国になった。フランスは1960年から1996年までの間に核実験をサハラ砂漠で17回実施、仏領ポリネシアで193回実施した(フランスの核兵器に関する詳細は「フランスの核兵器」を参照)。",
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"text": "中華人民共和国は、1960年代当初から第9学会と呼ばれる研究都市を海北チベット族自治州に設けて、核開発を推進してきた。1964年10月16日に初の原子爆弾実験に成功し、1967年6月17日に初の水素爆弾実験に成功した。",
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"text": "インドは1974年5月18日に初の核実験を行なっている。パキスタンは1998年5月28日に初の核実験を行なっている。北朝鮮は2006年10月9日に初の核実験を行なっている。",
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"text": "原子爆弾のエネルギーは、原子が核分裂反応するときに放出するエネルギーであり、原子核を構成する陽子・中性子間の核エネルギーとして取り出すものである。通常兵器がTNT火薬などの化学反応によって原子の結合エネルギー(原子を構成する電子軌道の位置エネルギー)を取り出すのとは原理的に異なる。",
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"text": "そのエネルギーの大きさは、通常は同量のエネルギーを生みだすTNT火薬の重量に換算(TNT換算)して評価する。しかし、これで評価できるのは爆発時の破壊力だけであり、核兵器の使用に伴う放射線障害や放射性物質による汚染は考慮されていない。",
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"text": "核分裂の際には通常数個の中性子が外部に放出される。そのため、核分裂を起こす物質が隣接して大量に存在する場合には、核分裂で放出された中性子を別の原子核が吸収してさらに分裂する、という反応が連鎖的に起こることがある。このような反応を核分裂の「連鎖反応」と呼ぶ。核分裂性物質の量が少ない場合には連鎖反応は短時間で終息するが、ある一定の量を超えると中性子の吸収数と放出数が釣り合って連鎖反応が持続することになる。この状態を「臨界状態(あるいは単に臨界)」といい、臨界状態となる核分裂性物質の量を臨界量と呼ぶ。発電等に用いられる原子炉ではこの臨界状態を維持する様に制御して一定のエネルギー出力を得ている。原子爆弾に用いられる場合は、核分裂性物質を制御された短時間で臨界状態にする必要がある。",
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"text": "核分裂性物質が臨界量を大幅に超えて存在する場合には、分裂反応を繰り返すごとに中性子の数が指数関数的に増加し、反応が暴走的に進む。この状態を「超臨界状態」(物性物理学における超臨界とは意味が異なることに注意)、または臨界超過と呼ぶ。極わずかな超臨界状態であれば制御可能な領域も存在する(そうでなければ原子炉の起動も出来ない)が、一定以上の超臨界状態の制御は不可能であり兵器としても実用にならない。",
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"text": "原子爆弾は起爆前の保管・運送中に核分裂連鎖反応が始まってしまうと暴発するか使用不能になる。如何に構造を工夫しようとも、暴発を避けて収容できる核分裂性物質の量には限界があり、そのため実現できる核出力には自ずと上限がある。後に水素爆弾が実用化されたことで、核分裂性物質の増量によって核出力を高める動機は失われた。",
"title": "原子爆弾の理論と構造"
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"text": "核分裂反応を起こす物質(核種)はいくつか存在するが、原子爆弾にはウラン235またはプルトニウム239が用いられる。",
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"text": "ウラン235は広島に投下された原子爆弾で用いられた。天然ウランは、核分裂を起こし易いウラン235と、核分裂を起こしにくいウラン238からなるが、ウラン235はわずか0.7%である。原爆に用いるためにはウラン235の濃度を通常90%以上に高めなければならず、辛うじて核爆発を引き起こす程度でも最低70%以上の濃縮ウランが必要となる。放射能の値が小さいために取り扱いは容易であるが、ウラン濃縮には大変高度な技術力と大規模な設備、大量のエネルギーが必要とされる。ウランは後述のガンバレル方式、爆縮方式のどちらでも使用可能である。",
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"text": "ウラン濃縮による原爆製造は初期設備投資は比較的安価だが、電力を大量に消費し運転経費がかかる上、同じ核物質の量でプルトニウムより少ない数の原爆しか作れないため、原爆1個あたりの製造コストはプルトニウム原爆より高価になる。一方で、ウラン濃縮施設はプルトニウム生産黒鉛炉と違って地下に設置しやすく大量の赤外線を放射しないので偵察衛星に位置を察知されにくい。また、ガンバレル方式は必要臨界量が多く製造効率が甚だ悪いものの、核実験なしでも核兵器を持てる。そのため核開発初期段階の国はウラン原爆と砲身方式の組み合わせを選択する場合が多い。イランの核開発もウラン原爆計画が主体である。",
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"text": "マンハッタン計画で、臨界質量以下のウラン235の2つの小片を合体させ、臨界質量以上にすることにより容易に核分裂連鎖反応を開始できることが明らかになったため、広島型原爆には後述のガンバレル方式が選択された。砲身方式においてウラン原爆の臨界量は100%ウラン235の金属で22kgとされている。広島型原爆ではウラン235が約60kg使用されたとされる(全ウランに対するウラン235の割合が80%の濃縮ウラン75kg)。",
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"text": "プルトニウム239は自然界にはほとんど存在しない重金属であるが、原子炉(燃料転換率の高い原子炉が望ましい)内でウラン238が中性子を吸収することで副産物として作られるため、ウラン235のような大量の電力を消費する濃縮過程を必要とせず、むしろ原子炉で電力が得られるという利点もある。また臨界量が5kgとウラン235に比べてかなり少量で済む利点がある。",
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"text": "プルトニウムは放射能の値が大きいため取り扱いが難しく、生産に黒鉛炉または重水炉、再処理工場の建設費がかかるが、副産物として電力が得られ、1発あたり生産コストがトータルではウラン原爆より安価に済み、量産に向くため、現在は五大国の核兵器生産はプルトニウムが主体である。",
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"text": "しかし通常の工程で生成されるプルトニウムには、高い確率で自発核分裂を起こすプルトニウム240が兵器として使用できる許容量を超えるレベルで含まれている。このため、ガンバレル方式ではプルトニウム全体が超臨界に達する前に一部で自発核分裂が起きて爆弾が四散(これを過早爆発という)してしまうなど、効率の良い爆発を起こすことが難しい。したがって密度の低いプルトニウムを球状にし、爆縮によって密度を高め核分裂連鎖反応を開始させる爆縮方式が用いられる。また核分裂連鎖反応が開始されてからプルトニウム239が飛散して終了するまでの反応効率がガンバレル方式よりも高いというメリットもある。長崎に投下された原子爆弾にはこのタイプが用いられた。",
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"text": "なお、爆縮方式を用いる場合でもプルトニウム240の含有量が7%を超えると過早爆発の原因になり、核兵器製造に向かない。日本の原子力発電で使われている軽水炉の使用済み燃料から抽出されるプルトニウムはプルトニウム240を22-30%前後含有し、プルトニウム240を分離しないと核兵器に使えない。核兵器製造にはプルトニウム240含有量が7%以下の兵器用プルトニウムが得られる黒鉛炉やCANDU炉もしくは高速増殖炉(日本には常陽ともんじゅがあったがどちらも廃炉)を使うのが普通で、北朝鮮の原爆計画の1つであるプルトニウム計画は黒鉛炉、イラン原爆計画において傍流であるプルトニウム原爆計画では重水炉が使用されている。",
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"text": "技術の進歩で使用目的に適した爆発力を持つよう小型化されたものをミニ・ニュークという。少ない核物質で多くの核弾頭を製造可能な反面、一発あたり威力もやや小さくなる。",
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"text": "米国の核物理学者トーマス・コクラン博士は爆縮方式の場合、より少量で超臨界が可能であることに着目して臨界量を分析しなおし、今日では従来より少量の核物質で超臨界が可能であり、プルトニウム原爆は現代の技術では1.5kg、途上国の技術でも2kgでの超臨界が可能であると発表した。またウラン原爆は爆縮方式なら3-5kgでの超臨界が可能と見られている。",
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"text": "北朝鮮が2006年に行った核実験では、長崎型原爆の爆発力が20キロトンを超えていたのに対し、中国への事前通知が4キロトン、実験結果が0.8キロトンだったことから、限界までプルトニウムを節約した小型核弾頭実験に挑んで、結果はやや過早爆発気味であったのではないか、という観測もあると考えられる。",
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"text": "原子爆弾の構造は単純である。本質的には、臨界量以下に分割した核分裂性物質の塊を瞬間的に集合させ、そこに中性子を照射して連鎖反応の超臨界状態を作り出し、莫大なエネルギーを放出させる、というものである。ただし実際には、爆弾に用いる物質の性質に応じて大きく2種類の構造が用いられる。",
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"text": "ガンバレル型(英:Gun barrel)または砲身方式はウランを臨界量に達しない2つの物体に分けて筒の両端に入れておき、投下時に起爆装置を使って片方を移動させ、もう一つと合体させることで超臨界に達するものである。合体の容易性から構造は凹型と凸型の組み合わせ、または筒型と柱型の組み合わせとなる。広島に投下されたリトルボーイがこの方式を採用した。しかしリトルボーイでは、60キログラムとされる搭載ウランのうち実際に核分裂反応を起こしたのは約1キログラムと推定されている。その他のウランは核分裂を起こさずに四散した。初期の核砲弾用弾頭などの量産例はあるが、必要な核物質の量に対して威力に劣ることから砲身方式を積極的に選択する意義は少ないため、核開発・製造において主流ではない。",
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"text": "プルトニウム原爆において、反応材のプルトニウム240含有量が7%を超過、爆縮が不完全、軽量化のため爆縮火薬を削減しすぎた余裕のない設計、などの場合では、爆縮方式であってもプルトニウム240の自発核分裂の発生する外向きの爆風が、TNT爆縮火薬の内向きの圧力に打ち勝ってプルトニウム239の塊が充分に核分裂を完了する前に吹き飛ばしてしまう。この現象が過早爆発であり、プルトニウム239の一部しか核分裂しないため、爆発力が計画値を大幅に下回ってしまう。",
"title": "原子爆弾の理論と構造"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "実戦においては1945年8月に日本の二つの都市に原子爆弾が投下された。",
"title": "日本への原子爆弾投下"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、日本の広島市に、原子爆弾(リトルボーイ)が、マンハッタン計画の責任者であるレスリー・グローブスの「広島・小倉・長崎のいずれかの都市に8月3日以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下するべし」という投下指令書を受けたB-29(エノラ・ゲイ)によって投下された(一般的には大統領だったハリー・S・トルーマンが投下を許可したことになっているが、トルーマンが原爆投下を許可したという証拠が見つかっていない上に最近の研究でトルーマンは明確な決断をしていなかったことが明らかになっている)。",
"title": "日本への原子爆弾投下"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "市内ほぼ中央に位置するT字形の相生橋が目標点とされ、投下された原爆は上空600メートルで炸裂した。",
"title": "日本への原子爆弾投下"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "爆発に伴って熱線と放射線、周囲の大気が瞬間的に膨張して強烈な爆風と衝撃波を巻き起こし、その爆風の風速は音速を超えた。爆発の光線と衝撃波から広島などでは原子爆弾のことを「ピカドン」と呼ぶ。",
"title": "日本への原子爆弾投下"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "爆心地付近は鉄やガラスも蒸発するほどの高熱に晒され、強烈な熱線により屋外にいた人は全身の皮膚が炭化し、内臓組織に至るまで高熱で水分が蒸発していった。苦悶の姿態の形状を示す「水気の無い黒焦げの遺骸」が道路などに大量に残された。",
"title": "日本への原子爆弾投下"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、3.5km離れた場所でも素肌に直接熱線を浴びた人は火傷を負った。爆風と衝撃波も被害甚大で爆心地から2kmの範囲で(木造家屋を含む)建物のほとんど全てが吹き飛んだ。",
"title": "日本への原子爆弾投下"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "爆発による直接的な放射線被曝のほかに、広島市の北西部に降った「黒い雨」などの放射性降下物(フォールアウト)による被曝被害も発生。また、投下後に救援や捜索活動のために市内に入った人に急性障害が多発した(二次被害)。当時の広島市の人口は約34万人であったが、爆心地から1.2kmの範囲では当日中に50%の人が死亡し、同年12月末までに更に14万人が死亡したと推定される。殺傷者としてまとめると20万人もの人間がいた。",
"title": "日本への原子爆弾投下"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "その後も火傷の後遺症(ケロイド)による障害、胎内被曝した出生児の死亡率の上昇、白血病や甲状腺癌の増加など見られた。",
"title": "日本への原子爆弾投下"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "広島の3日後の1945年8月9日午前11時2分、B-29(ボックスカー)が長崎市に原子爆弾ファットマンを投下した。投下地点は、当日の天候のため目標であった市街中心地から外れ、長崎市北部の松山町171番地(現、松山町5番地)テニスコートの上空であった。",
"title": "日本への原子爆弾投下"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "当時、長崎市の人口は推定24万人、長崎市の同年12月末の集計によると被害は、死者7万3884人、負傷者7万4909人、罹災人員:12万820人、罹災戸数1万8409戸にのぼった。",
"title": "日本への原子爆弾投下"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "原爆の投下後の8月14日に日本はポツダム宣言受諾を決定し通告した。このことにより特に欧米では原爆投下が日本に降伏を促したという論が既成事実として受け入れられている。しかし、中立条約を結んでいたソ連が対日参戦したことが重なることなどから、原爆投下と日本の降伏との関連はいまだに議論されている。なお玉音放送では、原爆投下をポツダム宣言受諾の理由の一つに挙げている。",
"title": "日本への原子爆弾投下"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "日本の降伏により、1945年11月に予定されていた九州南部への上陸作戦、並びに翌年3月に予定されていた関東地方への一大上陸作戦が中止となった。この作戦が実行されていた場合、計107万人ものアメリカ軍が東京に上陸し、双方合わせて広島と長崎の原爆による死傷者をはるかに上回る戦死者を出しただろうと戦後に米軍当局はコメントしている。このコメントが後年、米国における原爆投下正当化の根拠となった(本土作戦に関する詳細は、米軍:ダウンフォール作戦、日本軍:本土決戦・決号作戦を参照)。",
"title": "日本への原子爆弾投下"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "原子爆弾は、高温の熱線と強い爆風だけでなく、強い放射線を放出し、放射化した塵などを多量に排出したため、被害はTNT換算で推し量れる爆発の熱や爆風だけに留まらず、原爆症と呼ばれる放射線障害や白血病や癌などの病気を被曝者に引き起こし、その影響は現在も続いている。",
"title": "原子爆弾の健康被害と影響"
}
] | 原子爆弾あるいは原爆は、ウランやプルトニウムなどの元素の原子核が起こす核分裂反応を使用した核爆弾であり、初めて戦争において攻撃用に実使用された核兵器である。原子爆弾は、核爆発装置に含まれる。水素爆弾を含めて「原水爆」とも呼ばれる。
核兵器は通常兵器と比較して威力が極めて大きいため、大量破壊兵器として核不拡散条約や部分的核実験禁止条約などで禁止されている。 | {{Pathnav|核兵器|核爆弾|frame=1}}
[[ファイル:Nagasakibomb.jpg|thumb|220px|[[長崎市への原子爆弾投下|長崎に投下された原子爆弾]]のキノコ雲<br/>1945年8月9日]]
[[ファイル:Victim of Atomic Bomb 003.jpg|thumb|right|220px|1945年8月6日に投下された[[リトルボーイ|広島型原爆(リトルボーイ)]]による被害者の一人。(1945年10月。日本赤十字病院において。)]]
'''原子爆弾'''(げんしばくだん、{{lang-en-short|atomic bomb}})あるいは'''原爆'''は、[[ウラン]]や[[プルトニウム]]などの[[元素]]の[[原子核]]が起こす[[核分裂反応]]を使用した[[核爆弾]]であり、初めて戦争において攻撃用に実使用された[[核兵器]]である。原子爆弾は、[[核爆発装置]]に含まれる<ref>{{Cite web|和書|accessdate=2020-06-29|title=核爆発装置 - ATOMICA -|url=https://atomica.jaea.go.jp/dic/detail/dic_detail_264.html|website=atomica.jaea.go.jp}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%AB-161608|title=知恵蔵の解説_フィズル|accessdate=2018-02-24|publisher=コトバンク_(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」}}</ref>。[[水素爆弾]]を含めて「原水爆」とも呼ばれる。
核兵器は[[通常兵器]]と比較して威力が極めて大きいため、[[大量破壊兵器]]に位置付けられ、[[核不拡散条約]]や[[部分的核実験禁止条約]]などで、実戦での使用が禁止されている。
== 原子爆弾の開発 ==
{{see also|核実験の一覧}}
[[File:Trinity_Detonation_T%26B.jpg|thumb|220px|[[トリニティ実験]]での核爆発 (1945)]]
[[File:Operation Upshot test.ogv|thumb|220px|Upshot–Knothole Grable test (ビデオ)(1953年5月25日)]]
[[第二次世界大戦]]下において[[ドイツ]]、[[日本]]、[[アメリカ合衆国]]、[[イギリス]]などで開発が行われた。[[1945年]]にアメリカによって初めての[[核実験]]が行われて以降、[[冷戦]]期に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ソ連]]・[[フランス]]を中心に約2,000回核実験が行われた。
アメリカによる日本への2発の原爆使用後、[[第二次世界大戦]]後の東西[[冷戦]]の激化とともに、[[アメリカ合衆国]]や[[ソビエト連邦]]を中心に破壊力の大きな戦略兵器として原子爆弾の改良が進められた。[[核出力]]を100キロトン以上に強大化した大型原爆や、[[熱核反応]]も加えて300キロトン程度に増強した強化原爆が開発された。また戦略用だけでなく戦術用での使用を企図して小型化も進められ、当初は4-5トンほどの重量だった原子爆弾を、[[大砲]]より発射できる[[核砲弾]]<ref group="注">[[原子砲]]によって発射される核砲弾の例には[[M65 280mmカノン砲|280mm砲]]の[[W9 (核砲弾)|W9]]がある。</ref>や核[[無反動砲]]<ref group="注">戦術核用無反動砲の例としては核出力0.02キロトンの[[デイビー・クロケット (戦術核兵器)|デイビー・クロケット]]がある。</ref>用に小型化したが、これらの[[戦術核兵器|戦術用原子爆弾]]が実戦で使用された事はない。
原子爆弾はドイツから亡命した[[ユダヤ人]]や[[イタリア]]人によって開発が進んだ[[アメリカ合衆国]]が最初に成功した。開発は[[1942年]]から[[マンハッタン計画]]で進められ、1945年[[7月16日]]に[[ニューメキシコ州]]の[[アラモゴード軍事基地]]の近郊の[[砂漠]]で人類最初の原爆実験([[トリニティ実験]])が実行された。この原子爆弾のコードネームは[[ガジェット (爆弾)|ガジェット]] (Gadget) と呼ばれた。
[[ソビエト連邦]]の原子爆弾開発は、[[1943年]]にソビエト連邦共産党書記長である[[スターリン]]が原子力プログラムの開始を命じ、核物理学者[[イーゴリ・クルチャトフ]]がプロジェクトの責任者となって、[[スパイ]]により盗まれたアメリカの情報([[ベノナ|ヴェノナ文書]]も参照)を中心に開発が進められた。[[1949年]][[8月29日]]、[[カザフ・ソビエト社会主義共和国|カザフ共和国]](当時)の[[セミパラチンスク核実験場]]において最初の核実験([[プルトニウム]]型原爆[[RDS-1]])が成功した。
[[イギリス]]は、[[1952年]][[10月3日]]に[[モンテベロ諸島]]と[[西オーストラリア]]の間の珊瑚礁で最初の核実験([[ハリケーン作戦]])を行った。使用された原子爆弾は、[[長崎市への原子爆弾投下|長崎]]に落とされた[[ファットマン]]の改良型である。[[セラフィールド]]で生産した[[プルトニウム]]が足りなかったので、[[カナダ]]から供給されたプルトニウムで補ったとされる。
[[フランス]]も[[第二次世界大戦]]勃発直後から核兵器開発を始めたが、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|ドイツ軍のフランス侵攻]]によりフランス本土は[[ドイツ]]の占領下におかれ、研究者達は亡命し計画は停滞した。戦後、亡命した科学者たちが帰国すると[[次世代エネルギーの開発]]という名目で、[[1948年]]から[[重水炉]]が稼動して原子力開発が始まった。その後、紆余曲折を経て[[1956年]]に原子爆弾実験と[[核融合]]研究の実施を決定した。
[[1958年|1959年]]には発電用原子炉で、年間40kgの[[プルトニウム]]を生産する能力を持つようになり、[[1960年]][[2月13日]]に[[アルジェリア]]領の[[サハラ砂漠]]で核実験を成功させて、4番目の核保有国になった。フランスは[[1960年]]から[[1996年]]までの間に核実験を[[サハラ砂漠]]で17回実施、[[仏領ポリネシア]]で193回実施した(フランスの核兵器に関する詳細は「[[フランスの核兵器]]」を参照)。
[[中華人民共和国]]は、[[1960年]]代当初から[[第9学会]]と呼ばれる研究都市を[[海北チベット族自治州]]に設けて、核開発を推進してきた。[[1964年]][[10月16日]]に初の原子爆弾実験に成功し、[[1967年]][[6月17日]]に初の[[水素爆弾]]実験に成功した。
[[インド]]は[[1974年]][[5月18日]]に初の核実験を行なっている。[[パキスタン]]は[[1998年]][[5月28日]]に初の核実験を行なっている。[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]は[[2006年]][[10月9日]]に初の核実験を行なっている。
== 原子爆弾の理論と構造 ==
=== 核分裂に関する理論 ===
==== エネルギー ====
原子爆弾のエネルギーは、[[原子]]が[[核分裂反応]]するときに放出する[[エネルギー]]であり、[[原子核]]を構成する[[陽子]]・[[中性子]]間の[[原子力|核エネルギー]]として取り出すものである。[[通常兵器]]が[[トリニトロトルエン|TNT]]火薬などの[[化学反応]]によって[[原子]]の[[結合エネルギー]](原子を構成する[[電子軌道]]の[[位置エネルギー#電気的な位置エネルギー|位置エネルギー]])を取り出すのとは原理的に異なる。
そのエネルギーの大きさは、通常は同量のエネルギーを生みだすTNT火薬の重量に換算([[TNT換算]])して評価する。しかし、これで評価できるのは爆発時の破壊力だけであり、[[核兵器]]の使用に伴う[[放射線障害]]や[[放射能汚染|放射性物質による汚染]]は考慮されていない。
==== 核分裂 ====
核分裂の際には通常数個の中性子が外部に放出される。そのため、核分裂を起こす物質が隣接して大量に存在する場合には、核分裂で放出された中性子を別の原子核が吸収してさらに分裂する、という反応が連鎖的に起こることがある。このような反応を核分裂の「連鎖反応」と呼ぶ。[[核分裂性物質]]の量が少ない場合には連鎖反応は短時間で終息するが、ある一定の量を超えると中性子の吸収数と放出数が釣り合って連鎖反応が持続することになる。この状態を「[[臨界状態]](あるいは単に臨界)」といい、臨界状態となる核分裂性物質の量を[[臨界量]]と呼ぶ。発電等に用いられる[[原子炉]]ではこの臨界状態を維持する様に制御して一定のエネルギー出力を得ている。原子爆弾に用いられる場合は、核分裂性物質を制御された短時間で臨界状態にする必要がある。
核分裂性物質が臨界量を大幅に超えて存在する場合には、分裂反応を繰り返すごとに中性子の数が[[指数関数的成長|指数関数的に増加]]し、反応が暴走的に進む。この状態を「超臨界状態」(物性物理学における[[超臨界]]とは意味が異なることに注意)、または臨界超過と呼ぶ。極わずかな超臨界状態であれば制御可能な領域も存在する(そうでなければ原子炉の起動も出来ない)が、一定以上の超臨界状態の制御は不可能であり兵器としても実用にならない。
原子爆弾は起爆前の保管・運送中に核分裂連鎖反応が始まってしまうと暴発するか使用不能になる。如何に構造を工夫しようとも、暴発を避けて収容できる核分裂性物質の量には限界があり、そのため実現できる核出力には自ずと上限がある。後に水素爆弾が実用化されたことで、核分裂性物質の増量によって核出力を高める動機は失われた。
=== ウランとプルトニウム ===
核分裂反応を起こす物質([[核種]])はいくつか存在するが、原子爆弾には[[ウラン235]]または[[プルトニウム|プルトニウム239]]が用いられる。
====ウラン原爆====
ウラン235は[[広島市|広島]]に投下された原子爆弾で用いられた。[[天然ウラン]]は、核分裂を起こし易い[[ウラン235]]と、核分裂を起こしにくい[[ウラン238]]からなるが、ウラン235はわずか0.7%である。原爆に用いるためにはウラン235の濃度を通常90%以上に高めなければならず、辛うじて核爆発を引き起こす程度でも最低70%以上の濃縮ウランが必要となる。放射能の値が小さいために取り扱いは容易であるが、[[ウラン濃縮]]には大変高度な技術力と大規模な設備、大量のエネルギーが必要とされる。ウランは後述のガンバレル方式、爆縮方式のどちらでも使用可能である。
ウラン濃縮による原爆製造は初期設備投資は比較的安価だが、電力を大量に消費し運転経費がかかる上、同じ核物質の量でプルトニウムより少ない数の原爆しか作れないため、原爆1個あたりの製造コストはプルトニウム原爆より高価になる。一方で、ウラン濃縮施設はプルトニウム生産黒鉛炉と違って地下に設置しやすく大量の赤外線を放射しないので偵察衛星に位置を察知されにくい。また、ガンバレル方式は必要臨界量が多く製造効率が甚だ悪いものの、核実験なしでも核兵器を持てる。そのため核開発初期段階の国はウラン原爆と砲身方式の組み合わせを選択する場合が多い。イランの核開発もウラン原爆計画が主体である。
[[マンハッタン計画]]で、臨界質量以下のウラン235の2つの小片を合体させ、臨界質量以上にすることにより容易に[[核分裂連鎖反応]]を開始できることが明らかになったため、広島型原爆には後述のガンバレル方式が選択された。砲身方式においてウラン原爆の臨界量は100%ウラン235の金属で22kgとされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_14-07-01-01.html|title=イランの原子力開発と原子力施設 |accessdate=2022-08-03}}</ref>。広島型原爆ではウラン235が約60kg使用されたとされる(全ウランに対するウラン235の割合が80%の濃縮ウラン75kg)<ref group="注">『原子力のすべて』−地球と共存する知恵− 内閣府「原子力のすべて」編集委員会編 第7章第4節より</ref>。
====プルトニウム原爆====
[[ファイル:Fat man.jpg|thumb|長崎に投下された原子爆弾<br/>(ファットマン)]]
プルトニウム239は自然界にはほとんど存在しない重金属であるが、原子炉([[燃料転換率]]の高い原子炉が望ましい)内でウラン238が中性子を吸収することで副産物として作られるため、ウラン235のような大量の電力を消費する濃縮過程を必要とせず、むしろ原子炉で電力が得られるという利点もある。また臨界量が5kgとウラン235に比べてかなり少量で済む利点がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_13-05-01-07.html|title=原爆用と産業用プルトニウムとの組成の比較 |accessdate=2022-08-03}}</ref>。
プルトニウムは[[放射能]]の値が大きいため取り扱いが難しく、生産に[[黒鉛炉]]または[[重水炉]]、[[再処理工場]]の建設費がかかるが、副産物として電力が得られ、1発あたり生産コストがトータルではウラン原爆より安価に済み、量産に向くため、現在は[[五大国]]の核兵器生産はプルトニウムが主体である。
しかし通常の工程で生成されるプルトニウムには、高い確率で[[自発核分裂]]を起こすプルトニウム240が兵器として使用できる許容量を超えるレベルで含まれている。このため、ガンバレル方式ではプルトニウム全体が超臨界に達する前に一部で自発核分裂が起きて爆弾が四散(これを過早爆発という)してしまうなど、効率の良い爆発を起こすことが難しい。したがって密度の低いプルトニウムを球状にし、爆縮によって密度を高め[[核分裂連鎖反応]]を開始させる爆縮方式が用いられる。また核分裂連鎖反応が開始されてからプルトニウム239が飛散して終了するまでの反応効率がガンバレル方式よりも高いというメリットもある。[[長崎市|長崎]]に投下された原子爆弾にはこのタイプが用いられた。
なお、爆縮方式を用いる場合でもプルトニウム240の含有量が7%を超えると過早爆発の原因になり、核兵器製造に向かない。日本の原子力発電で使われている軽水炉の使用済み燃料から抽出されるプルトニウムはプルトニウム240を22-30%前後含有し、プルトニウム240を分離しないと核兵器に使えない。核兵器製造にはプルトニウム240含有量が7%以下の兵器用プルトニウムが得られる[[黒鉛炉]]や[[CANDU炉]]もしくは[[高速増殖炉]](日本には[[常陽]]と[[もんじゅ]]があったがどちらも廃炉)を使うのが普通で、北朝鮮の原爆計画の1つであるプルトニウム計画は[[黒鉛炉]]、イラン原爆計画において傍流であるプルトニウム原爆計画では[[重水炉]]が使用されている。
====ミニ・ニューク====
技術の進歩で使用目的に適した爆発力を持つよう小型化されたものをミニ・ニュークという。少ない核物質で多くの核弾頭を製造可能な反面、一発あたり威力もやや小さくなる。
米国の核物理学者トーマス・コクラン博士<ref>[https://web.archive.org/web/20011227194101/http://www.nrdc.org/reference/profiles/prococh.asp NRDC Profile: Thomas B. Cochran] </ref>は爆縮方式の場合、より少量で超臨界が可能であることに着目して臨界量を分析しなおし、今日では従来より少量の核物質で超臨界が可能であり、プルトニウム原爆は現代の技術では1.5kg、途上国の技術でも2kgでの超臨界が可能であると発表した。またウラン原爆は爆縮方式なら3-5kgでの超臨界が可能と見られている。
北朝鮮が[[2006年]]に行った核実験では、長崎型原爆の爆発力が20キロトンを超えていたのに対し、[[中華人民共和国|中国]]への事前通知が4キロトン、実験結果が0.8キロトンだったことから、限界までプルトニウムを節約した小型核弾頭実験に挑んで、結果はやや過早爆発気味であったのではないか、という観測もあると考えられる。
=== 構造 ===
[[ファイル:Fission_bomb_assembly_methods(ja).svg|250px|thumb|原子爆弾の構造。上:砲身方式、下:爆縮方式]]
原子爆弾の構造は単純である。本質的には、[[臨界量]]以下に分割した核分裂性物質の塊を瞬間的に集合させ、そこに中性子を照射して連鎖反応の超臨界状態を作り出し、莫大なエネルギーを放出させる、というものである。ただし実際には、爆弾に用いる物質の性質に応じて大きく2種類の構造が用いられる。
==== ガンバレル型 ====
{{main|ガンバレル型}}
ガンバレル型(英:Gun barrel)または砲身方式は[[高濃縮ウラン|ウラン]]<ref group="注">[[プルトニウム]]はガンバレル型では選択されない。プルトニウムとガンバレル型については[[Mark 2 (核爆弾)]]を参照のこと</ref>を臨界量に達しない2つの物体に分けて筒の両端に入れておき、投下時に起爆装置を使って片方を移動させ、もう一つと合体させることで超臨界に達するものである。合体の容易性から構造は凹型と凸型の組み合わせ、または筒型と柱型の組み合わせとなる。広島に投下された[[リトルボーイ]]がこの方式を採用した。しかしリトルボーイでは、60キログラムとされる搭載ウランのうち実際に核分裂反応を起こしたのは約1キログラムと推定されている。その他のウランは核分裂を起こさずに四散した。初期の[[核砲弾]]用弾頭などの量産例はあるが、必要な核物質の量に対して威力に劣ることから砲身方式を積極的に選択する意義は少ないため、核開発・製造において主流ではない。
==== インプロージョン型 ====
{{main|爆縮レンズ}}
インプロージョン型(英:Implosion)または爆縮方式は、英語の''explosion''「爆発」という語の''ex-''(外へ)という接頭辞を''in-''(内へ)に置き換えた造語で、「爆縮」はその和訳である。爆縮方式とはその名の通り、プルトニウムを球形に配置し、その外側に並べた[[火薬]]を同時に爆発させて位相の揃った[[衝撃波]]を与え、プルトニウムを一瞬で均等に圧縮し、高密度にすることで超臨界を達成させる方法である。[[長崎市]]に投下された[[ファットマン]]で採用された。
プルトニウムは自発核分裂の確率が高く、プルトニウム原爆は過早爆発防止の為にこの方式でのみ実用可能となるのに対し、ウラン原爆はインプロージョン型、ガンバレル型のどちらでも可能である。
しかしこの方式は衝撃波の調整や爆縮レンズの設計が非常に難しく、高度な計算に使用できるほど高性能なコンピュータがなかった[[マンハッタン計画]]時、数学者[[ジョン・フォン・ノイマン]]達の10か月にも及ぶ衝撃計算がなければ実現し得なかったと言われている。砲身方式の原爆は実地テストなしで広島に投下されたが、爆縮方式の爆弾はこのような高精度の動作が求められたため、[[ニューメキシコ州]][[アラモゴード]]の[[トリニティ実験]]で設計通りに作動することを確認するテストが行なわれた。この方式は前述の砲身方式より効率が良い。核分裂連鎖反応が始まって核物質を四散させようとする圧力を、爆縮による内向きの圧縮力が押さえこみ、核分裂が継続するためである。そのため、[[第二次世界大戦]]以後製造された原子爆弾は、核開発の初期段階で製造されたものを除きプルトニウム型・ウラン型ともに爆縮方式である。
==== 改良型の原子爆弾 ====
; D-T強化方式
{{Main|ブースト型核分裂兵器}}
D-T強化方式の原子爆弾(Boosted fission weapon)は爆縮方式の性能向上型であり、基本となる核分裂反応を利用した原子爆弾の中に、核分裂反応での分裂効率を高める目的で核融合反応の要素を加えたものである。
原子爆弾は核反応を起こすべき核物質が全量エネルギーを開放するように作ることは21世紀現在も行えず、他の化学反応による爆発を利用した通常爆弾と異なり、多くの核物質は核分裂反応に寄与せずに飛散してしまう。飛散する前により多くの核分裂反応をプルトニウムに行わせることが出来ればそれだけ多量のエネルギーを生み出すことができる。
D-T強化方式ではプルトニウムを使用した爆縮方式での球状のコアの中央に空洞部を作って[[重水素]](デューテリウム、D、<sup>2</sup>H)と[[三重水素]](トリチウム、T、<sup>3</sup>H)のガスを50%ずつ、計5グラムほど注入しておく。爆縮によってプルトニウムが圧縮されながら核分裂を始め1億度近くになった時点でこれらのガスは[[原子核融合#D-T反応|D-T核融合反応]]を起こし、プルトニウムによる核分裂時に生じるものの7倍ほど高速の中性子を1つ放ってヘリウムに変化する。D-T反応による高速中性子は通常ならばプルトニウムの核分裂反応断面積が小さくなってしまって分裂効率が悪くなるが、爆縮によって密度が増したプルトニウムの原子核では核分裂反応断面積は充分に補われて、DT反応由来の高速中性子が効果的にプルトニウム原子核を分裂させる。また、中性子の速度が増すと核分裂で生じる中性子の数は増加し、プルトニウム自身の核分裂反応由来の中性子による核分裂では中性子が2-3個ほどしか生じないのに対し、DT反応由来の高速中性子による核分裂では平均5個ほどの中性子が生じる。これによって核分裂の効率が高まり短時間で核分裂反応が進む。長崎型ファットマンでは分裂効率が14%だったとされるが、D-T強化型では30%にできるとされる<ref group="注">D-T強化方式では核分裂による熱でコアが膨らむ前に核反応が進むため、コア部を慣性力で閉じ込めるためのウラン238製の分厚いタンパーに代わって[[ベリリウム]]製の薄い反射体としてのタンパーに変えられる。</ref><ref group="注">D-T強化方式の原爆の例として、1956年に米国が開発した「スワン」がある。「ファットマン」が長さ3.25m、直径1.52m、重量4,500kgだったのに対して、スワンは長さ58cm、直径29.5cm、重量45.6kgだったが、エネルギーは20キロトンに対して15キロトンであったとされる。</ref><ref>山田克哉著 『日本は原子爆弾を作れるのか』、PHP研究所、2009年1月30日第1版第1刷発行、ISBN 9784569706443</ref>。
なお、核兵器についての民間の書籍などではこのD-T強化方式の説明や構造模式図が「水爆の構造」として記述されていることがある。しかし、D-T強化方式はあくまで原子爆弾の一種であり、これ自体は水素爆弾には分類されないが、D-T強化方式の原爆は水爆の起爆装置として水爆の構造には組み込まれている。
==== 過早爆発 ====
{{main|不完全核爆発}}
プルトニウム原爆において、反応材のプルトニウム240含有量が7%を超過、爆縮が不完全、軽量化のため爆縮火薬を削減しすぎた余裕のない設計、などの場合では、爆縮方式であってもプルトニウム240の[[自発核分裂]]の発生する外向きの爆風が、TNT爆縮火薬の内向きの圧力に打ち勝ってプルトニウム239の塊が充分に核分裂を完了する前に吹き飛ばしてしまう。この現象が過早爆発であり、プルトニウム239の一部しか核分裂しないため、爆発力が計画値を大幅に下回ってしまう。
== 日本への原子爆弾投下 ==
{{Main|日本への原子爆弾投下}}実戦においては1945年8月に日本の二つの都市に原子爆弾が投下された。
=== 広島市 ===
{{main|広島市への原子爆弾投下}}
[[ファイル:Hiroshima - Extend Of Fire & Limits Of Blast Damage.jpg|thumb|広島被曝図]]
[[ファイル:Hiroshima aftermath.jpg|thumb|被爆直後の広島]]
[[ファイル:Hiroshima A-Bomb Tram 651.jpg|thumb|広島市への原爆投下により被爆して焼け焦げた[[広島電鉄650形電車]]651号車。<br />爆心地から僅か700mで被爆したが、その後修理され、冷房化される等の改修が行われつつ[[2019年]]現在でも現役で運用されており<ref>[https://www.hiroden.co.jp/train/train-list/index.html 広島電鉄公式サイト>電車情報>車両の紹介:単車 - 650形] ※2022年3月19日閲覧</ref>、「被爆電車」として著名である。]]
[[ファイル:ja-hiroshima-bakushinchi.jpg|thumb|240px|爆心地の島病院(現在は島外科)前にあるモニュメント]]
[[1945年]](昭和20年)[[8月6日]]午前8時15分、[[日本]]の[[広島市]]に、原子爆弾([[リトルボーイ]])が、[[マンハッタン計画]]の責任者である[[レスリー・グローブス]]の「[[広島市|広島]]・[[小倉市|小倉]]・[[長崎市|長崎]]のいずれかの都市に8月3日以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下するべし」という投下指令書を受けた[[B-29_(航空機)|B-29]]([[エノラ・ゲイ]])によって投下された(一般的には大統領だった[[ハリー・S・トルーマン]]が投下を許可したことになっているが、トルーマンが原爆投下を許可したという証拠が見つかっていない上に最近の研究でトルーマンは明確な決断をしていなかったことが明らかになっている)。
市内ほぼ中央に位置するT字形の[[相生橋]]が目標点とされ、投下された原爆は上空600メートルで炸裂した。
[[爆発]]に伴って熱線と放射線、周囲の大気が瞬間的に膨張して強烈な[[爆風]]と[[衝撃波]]を巻き起こし、その爆風の風速は音速を超えた。爆発の光線と衝撃波から広島などでは原子爆弾のことを「[[ピカドン]]」と呼ぶ。
[[爆心地]]付近は鉄やガラスも蒸発するほどの高熱に晒され、強烈な熱線により屋外にいた人は全身の皮膚が炭化し、内臓組織に至るまで高熱で水分が蒸発していった。苦悶の姿態の形状を示す「水気の無い黒焦げの遺骸」が道路などに大量に残された。
また、3.5km離れた場所でも素肌に直接熱線を浴びた人は火傷を負った。爆風と衝撃波も被害甚大で爆心地から2kmの範囲で(木造家屋を含む)建物のほとんど全てが吹き飛んだ。
爆発による直接的な放射線被曝のほかに、広島市の北西部に降った「[[黒い雨]]」などの[[放射性降下物]](フォールアウト)による被曝被害も発生。また、投下後に救援や捜索活動のために市内に入った人に急性障害が多発した(二次被害)。当時の広島市の人口は約34万人であったが、爆心地から1.2kmの範囲では当日中に50%の人が死亡し、同年12月末までに更に14万人が死亡したと推定される。殺傷者としてまとめると20万人もの人間がいた。
その後も火傷の後遺症([[ケロイド]])による障害、[[胎内]][[被曝]]した出生児の死亡率の上昇、[[白血病]]や[[甲状腺癌]]の増加など見られた。
=== 長崎市 ===
{{main|長崎市への原子爆弾投下}}
[[ファイル:NingenNoKage.jpg|thumb|長崎市で撮影された、熱線にさらされた外壁に残った人間と梯子の影]]
[[ファイル:長崎爆心公園・爆心碑.jpg|thumb|長崎の爆心地公園。レンガ造りの構造物(手前)は旧[[カトリック浦上教会|浦上天主堂]]の被爆遺構を建て替え時に移設したもの。黒色の構造物(奥)が原爆落下中心碑]]
広島の3日後の[[1945年]][[8月9日]]午前11時2分、[[B-29]]([[ボックスカー]])が[[長崎市]]に原子爆弾[[ファットマン]]を投下した。投下地点は、当日の天候のため目標であった市街中心地から外れ、長崎市北部の松山町171番地(現、松山町5番地)テニスコートの上空であった。
当時、長崎市の人口は推定24万人、長崎市の同年12月末の集計によると被害は、死者7万3884人、負傷者7万4909人、罹災人員:12万820人、罹災戸数1万8409戸にのぼった。
=== 本土上陸作戦の中止 ===
原爆の投下後の[[8月14日]]に日本は[[ポツダム宣言]]受諾を決定し通告した。このことにより特に欧米では原爆投下が日本に降伏を促したという論が既成事実として受け入れられている。しかし、[[中立条約]]を結んでいた[[ソ連対日参戦|ソ連が対日参戦]]したことが重なることなどから、原爆投下と[[日本の降伏]]との関連はいまだに議論されている。なお[[玉音放送]]では、原爆投下をポツダム宣言受諾の理由の一つに挙げている。
日本の降伏により、1945年11月に予定されていた九州南部への上陸作戦、並びに翌年3月に予定されていた関東地方への一大上陸作戦が中止となった。この作戦が実行されていた場合、計107万人もの[[アメリカ軍]]が[[東京]]に上陸し、双方合わせて広島と長崎の原爆による死傷者をはるかに上回る戦死者を出しただろうと戦後に米軍当局はコメントしている<ref>大西 比呂志「相模湾上陸作戦―第二次大戦終結への道」、ISBN 978-4896601329</ref>。このコメントが後年、米国における原爆投下正当化の根拠となった(本土作戦に関する詳細は、米軍:[[ダウンフォール作戦]]、日本軍:[[本土決戦]]・[[決号作戦]]を参照)。
<!-- //状態が改善されるまでコメントアウト措置。意見はノートで。
{{Notice|推測が多いため、この節をコメントアウトする提案がされています}}
(''この説は未確認情報が多いことを最初に注意喚起する'')
【編集者のみなさんへ】コメントアウトされた原稿のコピーは[[ノート:原子爆弾/原子爆弾を巡る論争]]にあり、編集作業をはじめました。ご参加ください。
== 原子爆弾を巡る論争 ==
=== 原子爆弾投下都市の選定理由 ===
=== 原子爆弾投下理由の論争 ===
==== アメリカの公式理由 ====
==== 対ソ戦略説 ====
==== 兵器実験説 ====
==== 人種差別説 ====
=== 原子爆弾投下の歴史認識 ===
==== 日本 ====
==== アメリカ ====
==== 中国・韓国 ====
== 英語版での議論 ==
-->
== 原子爆弾の健康被害と影響 ==
{{Main|被曝}}
原子爆弾は、高温の[[熱線]]と強い[[爆風]]だけでなく、強い[[放射線]]を放出し、放射化した塵などを多量に排出したため、被害は[[TNT換算]]で推し量れる爆発の熱や爆風だけに留まらず、[[原爆症]]と呼ばれる[[放射線障害]]や[[白血病]]や[[癌]]などの病気を[[被曝者]]に引き起こし、その影響は現在も続いている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連文献 ==
{{脚注の不足|date=2016年12月}}
* 有馬哲夫『原爆 私たちは何もしらなかった』(2019年新潮新書)
*『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』鳥居民、草思社、2005年、ISBN 9784794214089
== 関連項目 ==
* [[核兵器]] - [[水素爆弾]] - [[中性子爆弾]]
** [[相対性理論]] - [[コバルト]] - [[カリホルニウム]]
** [[爆縮レンズ]]
* [[被爆]]
** [[被爆者]]
** [[原爆傷害調査委員会]] (ABCC)
* [[グラウンド・ゼロ]]
* [[日本への原子爆弾投下]]
* [[戦争犯罪]]
* [[:Category:広島原爆]]
** [[広島市への原子爆弾投下]]
** [[原爆ドーム]](広島県物産陳列館跡地) - [[相生橋]]
** [[リトルボーイ]]
** [[はだしのゲン]]
** [[原爆の図丸木美術館]]
* [[:Category:長崎原爆]]
** [[長崎市への原子爆弾投下]]
** [[カトリック浦上教会|浦上天主堂]] - [[大浦天主堂]]
** [[ファットマン]]
* [[第二次世界大戦]]
** [[ベノナ|ヴェノナ・プロジェクト]]
** [[パンプキン爆弾|模擬原爆]]
** [[ナパーム弾]]
** [[日本の原子爆弾開発]]
* [[:Category:核実験]]
** [[核実験]]
** [[クロスロード作戦]]
** [[ジェルボアーズ・ブルー]]
* [[北朝鮮核問題]] - [[核武装論]]
== 外部リンク ==
* {{PDFlink|[http://www.aec.go.jp/jicst/NC/sonota/study/aecall/book/pdf/7syou.pdf 内閣府『原子力のすべて』第7章 核兵器は拡散させない]}}
* [https://hpmmuseum.jp/ 広島平和記念資料館]
* [https://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/ 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館]
* [https://www.hiroshima-med.jrc.or.jp/ 広島赤十字・原爆病院]
* [https://nabmuseum.jp/ 長崎原爆資料館]
* [https://www.peace-nagasaki.go.jp/ 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館]
* [https://web.archive.org/web/20090313140114/http://www.csi.ad.jp/ABOMB/index-j.html A-Bomb WWW Museum]{{ja icon}}{{en icon}}
* [https://nsarchive2.gwu.edu//NSAEBB/NSAEBB162/index.htm The National Security Archive]{{en icon}}
* {{Wayback|url=http://homepage1.nifty.com/koarashi/genbaku/genbaku-1.htm |title=原子爆弾の歴史-1 |date=20001217025200}}
* [http://s20hibaku.g3.xrea.com/ 被爆者の声](音声による被爆証言)
* [http://www43.tok2.com/home/tanaka8433jp/index.html 長崎、広島に投下された原爆はどのような被害があったのか](動画による原爆投下)
* [https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009040220_00000 NHK特集 爆心地・生と死の記録 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{核兵器}}
{{核技術}}
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[[Category:原子爆弾|*]]
[[Category:大量破壊兵器]]
[[Category:太平洋戦争]] | 2003-03-05T05:57:21Z | 2023-11-29T03:43:04Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE |
3,461 | パラグアイの国旗 | パラグアイの国旗は、赤白青の横三色旗。表面の中央部には国章が、裏面の中央部はライオンと自由の帽子、「平和と正義」(PAZ Y JUSTICIA)と記したリボンを配置した国庫証印がある。 | [
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] | パラグアイの国旗は、赤白青の横三色旗。表面の中央部には国章が、裏面の中央部はライオンと自由の帽子、「平和と正義」と記したリボンを配置した国庫証印がある。 | {{国旗
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* [[赤]]、[[白]]、[[青]]
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[[ファイル:Flag of Paraguay (reverse).svg|thumb|{{FIAV|111111|n}}{{FIAV|reverse}} 裏面。]]
'''[[パラグアイ]]の[[国旗]]'''は、赤白青の横三色旗。表面の中央部には[[パラグアイの国章|国章]]が、裏面の中央部は[[ライオン]]と自由の帽子、「平和と正義」({{lang|es|PAZ Y JUSTICIA}})と記したリボンを配置した国庫証印がある。
== 歴代の国旗 ==
<gallery>
ファイル:Flag of Cross of Burgundy.svg|{{FIAV|historical}}1785年までの旗
ファイル:Flag of Spain 1785.svg|{{FIAV|historical}}1785年の旗
ファイル:Flag of Spain (1785-1873 and 1875-1931).svg|{{FIAV|historical}}1785年 - 1811年
ファイル:Flag of Paraguay (1811).svg|{{FIAV|historical|}} [[1811年]]までの王党派の旗
Flag of Paraguay 1811.svg|{{FIAV|historical|}} [[1811年]]の国旗
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Flag of Paraguay (1812).svg|{{FIAV|historical|}} [[1812年]]の国旗
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Flag of Paraguay (1813-1840).svg|{{FIAV|historical}}[[1813年]]-[[1840年]]の国旗
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Flag of Paraguay 1842.svg|{{FIAV|historical|n}}{{FIAV|twosided}} [[1842年]]-[[1954年]]の国旗。縦横比2:3
Flag of Paraguay (reverse 1842-1954).svg|{{FIAV|historical|n}}{{FIAV|twosided}} [[1842年]]-[[1954年]]の国旗の裏面。縦横比2:3
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Flag of Paraguay 1954.svg|{{FIAV|historical|n}}{{FIAV|twosided}} [[1954年]]-[[1988年]]の国旗。縦横比1:2
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Flag of Paraguay 1988.svg|{{FIAV|historical|n}}{{FIAV|twosided}} [[1988年]]-[[1990年]]の国旗。縦横比3:5
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Flag of Paraguay (reverse 1990-2013).svg|{{FIAV|historical|n}}{{FIAV|reverse}} [[1990年]]-[[2013年]]の国旗の裏面。縦横比11:20
ファイル:Naval Jack of Paraguay.svg|海軍用国籍旗
ファイル:Flag of the President of Paraguay.svg|大統領旗
</gallery>
== 脚註 ==
<references/>
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Flags of Paraguay}}
* [[国旗の一覧]]
* [[パラグアイの国章]]
* [[表と裏が異なる旗]]
{{アメリカの題材|国旗}}
{{デフォルトソート:はらくあいのこつき}}
[[Category:国旗]]
[[Category:パラグアイの国の象徴|こつき]]
[[Category:水平三分旗]] | null | 2021-12-30T02:01:32Z | false | false | false | [
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"Template:国旗"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97 |
3,462 | 水素燃料エンジン | 水素燃料エンジン(すいそねんりょうエンジン hydrogen fueled internal combustion engine. HICE. 水素内燃機関)とは、水素を燃料とする内燃機関のこと。
水素ガスを燃料とするため燃料由来の二酸化炭素を発生させない。ただし、わずかにエンジンオイル(炭化水素)の燃焼分としての二酸化炭素などは排出する。
大気中に窒素が存在することから、燃焼時に窒素酸化物 (NOx) が発生することは避けられないものの、通常のガソリンエンジンに比べると発生量は少ない。またごく少量ながら、従来の燃料では発生しない過酸化水素類が発生するため、これの対処が必要となる。大気圧下の水素は体積当たりのエネルギー発生量で比較すると、炭素を含む軽油やガソリンに劣る。そのため、燃料となる水素を圧縮する・水素吸蔵合金に蓄える、などの手法を採る必要があるが、いずれも耐久性・安全性が十分でない。
水素供給を担う水素スタンドをはじめ、水素自体の生産・輸送・備蓄・供給のための社会インフラは普及の途上である。
公道車両としては、BMWが2006年に100台限定で発売した『ハイドロジェン7』がある。既存のガソリン用6リッターV型12気筒エンジンを流用し、出力はガソリンの半分程度、航続距離は200 km程度であった。
日本では1970年代頃より武蔵工業大学(現東京都市大学)の古濱庄一が日本で初めて水素を燃料としたレシプロエンジンの研究に取り組んだ。 マツダは1980年代末からロータリーエンジンとの組み合わせで研究をしており、2000年代には限定的な環境下だが公用車としてリース契約の下使用されていたこともあった。
トヨタ自動車も水素燃料レシプロエンジンを搭載した自動車の量産を目指しており、2021年にはその前段階として、車体は既存のカローラスポーツを使用し、エンジンは水素燃料仕様に改造した1.6 L・G16E-GTS型直列3気筒DOHC12バルブエンジンを搭載するレーシングカーでスーパー耐久の富士24時間レースに参戦し、完走を果たしている。本車両は以降もスーパー耐久に通年で参戦し、2022年途中からはベース車両をGRカローラに変更しつつ改良を重ねている。2023年シーズンからは、新開発した液体水素を燃料とするエンジンでスーパー耐久に参戦している。2023年にはハイブリッドシステムと組み合わせたスポーツプロトタイプ車両の「H2レーシングコンセプト」を公表している。
他にヤマハ発動機も、2018年にトヨタからの依頼でトヨタ・2UR-GSE(V型8気筒)をベースとした水素燃料エンジンを試作し、実車テストまで実施したことを明らかにしており、2021年11月に岡山国際サーキットで行われたスーパー耐久の際にその試作エンジンを公開している。
2023年のダカール・ラリーでは、軽油と液化水素を混合させて燃料とするエンジンを搭載したトラックがエントリーしている。
ロケットの推進剤に使用される水素を燃料とすることから、ロケットのタンクの加圧、発電などの用途のために、現在、アメリカ合衆国のユナイテッド・ローンチ・アライアンス(ULA)がNASCARに参戦するラウシュ・フェンウェイ・レーシング(Roush Fenway Racing)と共に開発を進めている。
ヴァルカンの上段ロケットである先進極低温発展ステージ(英語版) (ACES)と称する先進的な極低温上段ロケットでは、軌道上での寿命を1時間から1週間に延長する統合型流体(Integrated Vehicle Fluids)技術が含まれる予定。 | [
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] | 水素燃料エンジンとは、水素を燃料とする内燃機関のこと。 | '''水素燃料エンジン'''(すいそねんりょうエンジン、hydrogen fueled internal combustion engine、HICE、水素内燃機関)とは、[[水素]]を[[燃料]]とする[[内燃機関]]のこと。
== 概要 ==
[[File:Kawasaki Hydrogen Engine Vehicle and Engine 001.jpg|300 px|thumb|right|2022年[[FIA 世界耐久選手権|WEC富士]]の展示。水素エンジン化した[[カワサキ・ニンジャH2]]の1リッター[[直列4気筒]]エンジンと、それを搭載する[[サイド・バイ・サイド・ビークル]]。[[トヨタ]]と[[デンソー]]の協力のもと、日本の二輪メーカー4社([[ホンダ]]・[[ヤマハ]]・[[スズキ]]・[[カワサキ]])が共同開発した。]]
[[file:Toyota H2 Racing Concept + GR010 Hybrid 2023 Le Mans hypercar (53048553470).jpg|250px|thumb|トヨタが製作したH2レーシングコンセプト(左)]]
水素ガスを燃料とするため燃料由来の[[二酸化炭素]]を発生させない。ただし、わずかに[[エンジンオイル]]([[炭化水素]])の燃焼分としての二酸化炭素などは排出する。
大気中に[[窒素]]が存在することから、燃焼時に[[窒素酸化物]] (NOx) が発生することは避けられないものの、通常の[[ガソリンエンジン]]に比べると発生量は少ない。またごく少量ながら、従来の燃料では発生しない[[過酸化水素]]類が発生する<ref name="Das">[https://doi.org/10.1016/0360-3199(91)90075-T L.M. Das, Exhaust emission characterization of hydrogen-operated engine system: Nature of pollutants and their control techniques,International Journal of Hydrogen Energy, Volume 16, Issue 11, 1991, Pages 765-775]</ref>ため、これの対処が必要となる<!--主観が入っている。定量的な資料の提示が必要:(よって、水しか出ないクリーンなエンジンというのは誇張であり、ガソリンエンジン並の触媒による排気ガス処理が必要となる-->。大気圧下の水素は体積当たりのエネルギー発生量で比較すると、[[炭素]]を含む[[軽油]]や[[ガソリン]]に劣る。そのため、燃料となる水素を圧縮する・[[水素吸蔵合金]]に蓄える、などの手法を採る必要があるが、いずれも耐久性・安全性が十分でない。
水素供給を担う[[エコ・ステーション#水素ステーション|水素スタンド]]をはじめ、水素自体の生産・輸送・備蓄・供給のための社会インフラは普及の途上である。
公道車両としては、[[BMW]]が2006年に100台限定で発売した『ハイドロジェン7』がある。既存のガソリン用6リッター[[V型12気筒]]エンジンを流用し、出力はガソリンの半分程度、航続距離は200 km程度であった<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/92fe4176f0c0ee0f0bf747277775632405e4fa05]</ref>。
日本では[[1970年]]代頃より[[武蔵工業大学]](現[[東京都市大学]])の[[古濱庄一]]が日本で初めて水素を燃料とした[[レシプロエンジン]]の研究に取り組んだ。
[[マツダ]]は1980年代末から[[ロータリーエンジン]]との組み合わせで研究をしており、2000年代には限定的な環境下だが[[公用車]]としてリース契約の下使用されていたこともあった。
{{main|水素ロータリーエンジン}}
[[トヨタ自動車]]も水素燃料レシプロエンジンを搭載した自動車の量産を目指しており、[[2021年]]にはその前段階として、車体は既存の[[トヨタ・カローラスポーツ|カローラスポーツ]]を使用し、エンジンは水素燃料仕様に改造した1.6 L・[[トヨタ・G16E-GTS|G16E-GTS型]][[直列3気筒]][[DOHC]][[マルチバルブ|12バルブ]]エンジンを搭載する[[レーシングカー]]で[[スーパー耐久]]の[[富士24時間レース]]に参戦し、完走を果たしている<ref>[https://www.as-web.jp/domestic/690235?all トヨタ、水素エンジン搭載のカローラ・スポーツをORC ROOKIE RacingとともにS耐に投入!] - オートスポーツ・2021年4月22日</ref>。本車両は以降もスーパー耐久に通年で参戦し、2022年途中からはベース車両を[[トヨタ・GRカローラ|GRカローラ]]に変更しつつ改良を重ねている。2023年シーズンからは、新開発した[[液体水素]]を燃料とするエンジンでスーパー耐久に参戦している<ref>[https://global.toyota/jp/newsroom/corporate/38934532.html 液体水素を搭載した水素エンジンカローラ、スーパー耐久シリーズ第1戦鈴鹿大会は欠場も、富士24時間レースに向けて挑戦を継続] - トヨタ自動車・2023年3月18日</ref>。2023年には[[ハイブリッドシステム]]と組み合わせた[[スポーツカー (モータースポーツ)|スポーツプロトタイプ]]車両の「H2レーシングコンセプト」を公表している。
他に[[ヤマハ発動機]]も、[[2018年]]にトヨタからの依頼で[[トヨタ・URエンジン|トヨタ・2UR-GSE]]([[V型8気筒]])をベースとした水素燃料エンジンを試作し、実車テストまで実施したことを明らかにしており、2021年11月に[[岡山国際サーキット]]で行われたスーパー耐久の際にその試作エンジンを公開している<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=RzhbMR2romg 次期スーパースポーツに搭載か!? ヤマハ水素V8エンジンの話を ラブカーズTV 河口まなぶ が聞いた!] - LOVECARS!TV!・2021年11月24日</ref>。
2023年の[[ダカール・ラリー]]では、軽油と[[液化水素]]を混合させて燃料とするエンジンを搭載したトラックがエントリーしている<ref>[https://www.thecheckeredflag.co.uk/2022/12/kh-7-epsilon-truck-to-use-hydrogen-power-for-2023-dakar-rally/ KH-7 Epsilon truck to use hydrogen power for 2023 Dakar Rally]</ref>。
== 宇宙機での利用 ==
[[ロケットの推進剤]]に使用される[[水素]]を燃料とすることから、ロケットのタンクの加圧、発電などの用途のために、現在、アメリカ合衆国の[[ユナイテッド・ローンチ・アライアンス]](ULA)が[[NASCAR]]に参戦する[[:en:Roush Fenway Racing|ラウシュ・フェンウェイ・レーシング(Roush Fenway Racing)]]と共に開発を進めている。
[[ヴァルカン (ロケット)|ヴァルカン]]の[[上段ロケット]]である'''{{仮リンク|先進極低温発展ステージ|en|Advanced Cryogenic Evolved Stage}}''' (ACES)と称する先進的な極低温上段ロケットでは、軌道上での寿命を1時間から1週間に延長する[[:en:Integrated Vehicle Fluids|統合型流体(Integrated Vehicle Fluids)]]技術が含まれる予定<ref name=dp20150413>{{cite web |url=http://www.denverpost.com/business/ci_27905093/america-meet-vulcan-your-next-united-launch-alliance |title=America, meet Vulcan, your next United Launch Alliance rocket |work=Denver Post |date=2015-04-13 |accessdate=2017-02-11 }}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.ulalaunch.com/uploads/docs/Published_Papers/Supporting_Technologies/Space_Access_Society_2012.pdf |title=Integrated Vehicle Fluids A Combined Propulsion & Power System for Long Duration Spaceflight |work= |date= |format=PDF |accessdate=2017-02-11}}</ref><ref>{{cite web |url=http://jalopnik.com/a-nascar-team-is-building-the-first-internal-combustion-1783198912 |title=A NASCAR Team Is Building The First Internal Combustion Engine To Go Into Outer Space |work= |date= |accessdate=2017-02-11 }}</ref>。
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
* [[水素自動車]]
== 外部リンク ==
* [http://www.itcars.co.jp/information/20120925_001.html 世界初、「水素とガソリン混合」を実現した水素エンジン自動車を発表]
* [https://car.watch.impress.co.jp/docs/news/562240.html ITカーズ、水素とガソリンを併用できる自動車を開発]
* [http://www.herc.tcu.ac.jp/ 東京都市大学水素エネルギー研究センター]
* [http://www.tcu.ac.jp/topics/details/20090407003.html 東京都市大学水素燃料エンジンバスの公道走行を実現]
* {{YouTube|96UPUk-HHVU|東京都市大学水素燃料エンジンバスの開発に成功}}
* {{YouTube|rwczm9ScBzE|ULA Innovation: Integrated Vehicle Fluids (IVF)}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B4%A0%E7%87%83%E6%96%99%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3 |
3,463 | 脊椎動物 | 脊椎動物(せきついどうぶつ、Vertebrata)は、脊索動物に属する動物の一群である。
動物の分類のひとつで、後口動物の脊索動物門に属する単系統群である。脊椎動物以外の動物を便宜上に無脊椎動物という。
脊椎動物とは、哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類からなる系統群である。ただし爬虫類と魚類は側系統群であるので、単系統群のみを系統群として認める立場からは下記の表のように、四肢動物、羊膜類、双弓類といった単系統群を用語として用いることになる:
表に記載した種の数の見積もりは国際自然保護連合(IUCN)のレッドリスト(2014年3月のもの)から引用した。このリストでは現生の無脊椎動物の数を1,305,075と見積もっているので、脊椎動物の数は全動物中の5%以下ということになる。
動物界から脊椎動物に至る系統樹は下記のとおりである。なお、脊椎動物から遠い系統群の詳細は省略している。省略部分の詳細は「動物」の項目を参照されたい。
例外も多いが、基本的に下記のような特徴を持つ:
後口動物(新口動物)とは歴史的には胚にできた原口が口になる前口動物(旧口動物)に対し、原口が口にならず新たに口が開く動物として定義された分類群である。しかし1990年代に分子系統解析が始まると、この歴史的な意味での後口動物は単系統にならないことが示されたので、毛顎動物や有鬚動物などが後口動物から外され、上述の系統樹にあるもののみが後口動物として残された。
なお、珍無腸動物 (Xenacoelomorpha) を含むか否かは2016年現在未確定。
脊索動物は脊椎動物を含む動物門で、(一生のうち少なくとも一時期に)脊索を持つという特徴をもつ。詳細後述。
脊索動物における脊椎動物の特徴や進化した点を見るため、本節では脊索動物の特徴を簡単に述べる。脊索動物は下記のような特徴を持つ:
頭索動物(ナメクジウオ)は以下のような特徴を持つ:
尾索動物(ホヤ類)は次のような特徴を持つ:
ホヤ類はナメクジウオのもつ13のHox遺伝子のうち4つを失っており、幼生期のボディープランが他の脊索動物とは異なる機構で形成される。
またホヤ類は「他の脊索動物と分岐した後に、成体で脊索動物の特徴を失ったと考えられる」。
現生種の遺伝子の解析等から、以下のことが分かっている。
まず5億3,000万年前(カンブリア爆発の頃)には、ハイコウエラ(英語版)というナメクジウオのような全長3センチメートルほどの生物の化石が発見されているが、この生物は脊椎動物の特徴を一部持ち合わせている。具体的にはナメクジウオと同様、懸濁物食をしていたと思われる口を持ち合わせている一方、脊椎動物のようなよく発達した脳、小さな眼、魚類に似た筋節構造を持っている。
ミロクンミンギアは頭部を獲得した最古の脊索動物だと考えられており、脳や眼を備えた頭部の獲得により複雑な動きや摂餌行動ができるようになったが、まだ脊椎は獲得していない。
最古の脊椎動物は5億年ほど前に現れており、その一つであるコノドント類は、軟骨性の内骨格しか持っていない。
オルドビス紀からシルル紀の間に脊椎動物はさらに進化して、半規管を持つ内耳の獲得により平衡感覚を保ち、対鰭も獲得した。また筋肉質の咽頭を持ち、これにより海底に住む生物や有機堆積物を吸い込んで食べていたと考えられている。またこの頃には硬骨の甲皮で身を守る遊泳性の脊椎動物が数多くいたが、デボン紀末に全て絶滅した。
軟骨性の骨格が硬骨化したのは、4億7,000万年ほど前に甲皮が出現したのが始まりで、4億3,000万年前までには軟骨の内骨格を薄い硬骨が覆う種が現れ始め、その後、顎を獲得した脊椎動物で硬骨化が進んだ。
他の脊索動物では1つしかないHox遺伝子が脊椎動物では2つあるなど、脊椎動物ではシグナル分子や転写因子をコードする重要な遺伝子ファミリーに対して遺伝子重複が起きており、「このことが脊椎動物の骨格系や神経系の革新に結びついた可能性がある」。
脊椎動物においては、他の脊索動物が持つ特徴である脊索や咽頭裂は以下のように変化している:
多くの脊椎動物では脊椎骨が神経管を取り囲んでおり、また胚において神経管が閉じつつある際に神経管の背側に神経堤が形成されるという特徴がある。「神経堤は胚の中で移動し、歯、頭蓋骨の一部や軟骨、神経、眼などの感覚器官の原基など、さまざまな構造をつくり出す」。
脊椎動物の系統樹は以下の通りである。右下に太字で描いた「四肢動物」は「魚類以外の脊椎動物」を表し、脊椎動物以下で四肢動物を除いたものが「魚類」である。
ヌタウナギとヤツメウナギからなり、脊椎動物の中で顎を持たないという特徴を持つ。脊椎骨を持たないがその痕跡はある。なお、かつてヌタウナギには脊骨がないとされ、脊椎動物から外されていたが、その後分子系統解析が進み、脊椎骨の痕跡が見つかると脊椎動物に分類されるようになった。
顎口類は顎のある脊椎動物で、顎口類は顎とそこに生えている歯で餌を捕まえたり噛み砕いたりできる。顎は前方にある咽頭裂(顎口類では「鰓裂」と呼ばれる)を支えるための骨が進化したものだという仮説があり、残りの鰓裂は主にガス交換に用いられるようになった。
遺伝子レベルでは顎口類はHox遺伝子クラスターが重複しているという特徴があり、これが顎の進化などを可能にしたものと考えられる。なお前述のように初期の脊椎動物でもHox遺伝子クラスターの重複が起こっているので、顎口類ではHox遺伝子クラスターが2×2=4つに増えたことになる。
顎口類の初期の化石は4億4,000万年前に現れ、その後の2,000万年で急激に進化した。現在まで生き残っている系統である軟骨魚類、条鰭類、肉鰭類はいずれも4億2,000万年前までに登場している。
最古の顎口類の化石は板皮類という鎧を持つ系統であるが、この系統は3億5,900万年前頃に絶滅した。ほぼ同時期に棘魚類という系統も出現したが、板皮類の絶滅から7,000万年後には絶滅した。
軟骨を持つことに特徴があり、1,000種近い板鰓亜綱(サメ、エイ)と、数十種類の全頭亜綱(ギンザメ類)からなる。
すでに述べたように脊椎動物は甲皮を持った無顎類のような初期の段階ですでに硬骨化が始まっているが、軟骨魚類はそれが2次的に軟骨化した系統である(すなわち軟骨→硬骨→軟骨という進化史をたどっている)。実際、石炭紀のサメ類の鰭の骨格には硬骨に似た構造があり、現生のサメにも鱗や歯の基部に硬骨組織の痕跡が残っている。
硬骨「魚」類という名称であるが、2016年現在は系統樹を反映して四肢動物も硬骨魚類に含めている(四肢動物を含めない場合、硬骨魚類は側系統である)。
初期の硬骨魚類の系統には肺が存在し、鰓のガス交換の補助をしていた。しかし四肢動物を除く多くの現生の硬骨魚類では肺は鰾(うきぶくろ)へと進化している。鰾には空気が詰まっており、魚達は浮力の調整に鰾を使っている。また四肢動物を除くほとんどの現生の硬骨魚類の表皮は鱗で覆われている。表皮には分泌腺から粘液が分泌され、泳ぐときの抵抗を減らしている。
鰭を支える条鰭を持つことからその名が名付けられた。シルル紀に登場し、その後多様化して現生では27,000種以上もいる。
「肉鰭類の重要な派生形質は、胸鰭と腹鰭の間に筋肉層で囲まれた棒状の骨が存在することである」。条鰭類と同様シルル紀に登場した。デボン紀には沿岸の湿地帯のような汽水域に多くの肉鰭類が生息しており、肉鰭を泳ぐためのみならず歩くためにも使っていた(現生種も同様)。デボン紀の終わりまでには多様性が減少し、現生は3系統(シーラカンス類、ハイギョ類、四肢動物)のみが生き残っている。
胸鰭と腹鰭が指のある四肢に進化した肉鰭類。四肢によって歩行する。陸上生活に適応しており、頚(くび)が生じて頭部が分離されている。完全に水生の種以外は鰓を持たず、代わりに耳や腺性器官を胚発生の際に作り出す。
デボン紀に生じた肉鰭類の中には泥の上を「歩いた」ものがいたものと思われる。3億7,500万年前の肉鰭類であるティクタアリクは、鰭や鰓といった魚類の特徴を持つと同時に、肋骨(呼吸を助け、体を支える役目を担う)、頸・肩・肺があり、頭部を動かすことができるなど四肢動物の特徴も備えていた。3億6,500万年前頃最初の四肢類が生じ、その後の6,000万年間で著しい多様化が進んだ。
無尾目(カエル類、5420種ほど)、有尾目(サンショウウオ類、550種ほど)、無足目(アシナシイモリ目、170種ほど)からなる。 両生類は主に湿った表皮でガス交換しているため、その生息域は沼地や雨林など湿ったところにあり、乾燥に適応している種でも湿度の高い穴や湿った葉の下で過ごすことが多い。また両生類の卵は殻がなく、空気中では水分を急速に失ってしまう為、両生類は水中ないし湿った陸地に産卵する。多くの両生類は体外受精である。
両生類はカエルツボカビ症、気候変動、生息地の消失、環境汚染等が原因で、(2016年現在から見て)過去30年ほどの間に急速に減少している。
次に羊膜類の系統樹を載せる。下の系統樹は上のものと違い、絶滅種も含んでおり、絶滅種にはそれとわかるように「†」がつけられている。系統樹には「鳥類」と「哺乳類」を太字で書いた。この系統樹からこれら2つを除いたもののうち現生種が「爬虫類」となる。
陸上生活に適応した四肢動物で、卵に以下の4種類の膜を持つという共通派生形質を持ち、このような卵を羊膜卵という:
乾燥した陸地に適した羊膜卵を得たことで羊膜類は両生類と違い、幼生期を水中で過ごす必要がなくなった。
現生の両生類と羊膜類の最直近の共通祖先は3億5,000万年前には生存していた。初期の羊膜類は小型のトカゲのような動物で、捕食のためと思われる鋭い歯を備えていた。
双弓類は頭骨の側頭部に2つの穴を持つことを共通派生形質とする動物である(右図)。
鳥類以外の現生の双弓類はケラチンを主成分とする鱗に覆われているという共有派生形質を持ち、この鱗で乾燥や摩擦から皮膚を守っている。またほとんどの爬虫類の卵は殻で覆われている。多くの爬虫類は陽射しのような体外の熱で体温調整を行う外温性の動物であり、鳥類や哺乳類のような代謝により体温を維持する内温性の動物と区別される。
2億4,000万年前に腹側に甲状の骨を持っている種が現れ、2億2,000万年前には背側にも不完全ながら甲を持つものが現れる。
なお、カメ類には双弓類の共通派生形質であるはずの2つの穴がないものの、双弓類であることは系統解析の点からも、絶滅種の化石の頭骨に穴のあるものがあることからも支持される。
ワニ類の祖先は三畳紀後期まで遡る。最古のものは陸生で小さかったが、その後大型化して水生に適応。
羽ばたいて飛行できた最初の四肢動物。前肢の一本の指から胴または後肢にコラーゲンでできた膜が翼として伸びているが、これは前肢から翼が伸びる鳥類や手に翼が伸びているコウモリとは構造が異なる。
三畳紀後期に出現し、6600万年前までには絶滅した。
鳥盤類と竜盤類を含む。鳥盤類は草食で、多くの種では棍棒状の尾や頭の角などの防御機構を発達させていた。竜盤類には獣脚類(ティラノサウルス・レックス等)と首の長い草食の竜脚類とが含まれる。1970年代ごろの発見から機敏に動いていたことが示されている。群れを作るもの、巣作りや子育てを行うもの、内温性のものなどがいたことなども示されている。
鳥類以外の恐竜類は白亜紀の終わりである6600万年前に絶滅した。鳥類に関しては後述する。
鳥類は飛行のための翼を備え、飛行の為に様々な適応している。まず体を軽量化する為、膀胱がなく、卵巣が1つに減っており、雌雄とも生殖腺は繁殖期以外は小さく、嘴には歯もない。また飛行に十分なエネルギーを確保する為、伸縮性のある肺の気嚢を持つ呼吸系と二心室二心房の循環系で高い代謝率を達成している。飛行における必要性から視覚も発達しており、相対的に大きな脳を持ち、飛行に必要な視覚野と運動野が特に発達している。
鳥類は内温性で、羽毛や(種によっては)脂肪により代謝熱が外にもれないようになっている。羽毛は爬虫類の鱗と同様βケラチンというタンパク質からできている。交尾は総排出口の接触により行われる。
平胸類は例外的に飛べない鳥からなっており、ダチョウ、レア、キウイ、ヒクイドリ、エミュー等が属している。
1億6,000万年前までに羽毛を持つ獣脚類が誕生している。2016年現在知られている中では始祖鳥が最古の鳥類であり、始祖鳥は翼に羽毛を持つなど現生鳥類と同様の特徴を持つが、一方で翼には爪もあり、嘴に歯があるなど現生鳥類とは異なる特徴も残している。
新鳥類という現生28目を含むクレードは6600万年前より前から存在していた。
鱗竜類は、現生のものは有鱗類(トカゲとヘビ)とムカシトカゲ類からなり、有鱗類は爬虫類の中では最も種が多い系統である。有鱗類のうちヘビ類は、四肢のあるトカゲ類から進化したものである。
ムカシトカゲ類は遅くとも2億2,000万年前には出現し、白亜紀までは繁栄していたが、2016年現在はニュージーランドに近い島々に住んでいるのみである。寿命は100歳を超える。
単弓類は側頭窓が1つしかないという共通派生形質を持ち(右図参照)、現生の単弓類はすべて哺乳類に属する。なお側頭窓はヒトでは顎の筋肉と側頭部とを結ぶための穴に相当する。
乳腺を持ち、雌の乳腺から出る母乳により子を育てる。相対的に大きな脳を持つ種が多い。内温性で体表の毛により代謝熱を逃さないようにしている。腎臓の機能が発達している為、老廃物の排出の際の水分の損失が少ない。
初期の単弓類は体毛がなく卵生であった。単弓類はペルム紀にその多様性を広げ、四肢動物の中では優勢であったが、ペルム紀末の大量絶滅の際にその多様性が減少した。
哺乳類の起源は獣歯類に属するキノドン類であり、キノドン類は三畳紀後期の大量絶滅を乗り越え哺乳形類が誕生した。小型・夜行性・昆虫食であり、おそらく体毛があった。
ジュラ紀には哺乳類が登場。白亜紀までには現生哺乳類の3つの系統(単孔類、有袋類、真獣類)が登場。白亜紀後期における恐竜と爬虫類の多くが絶滅した後、哺乳類は適応放散した。哺乳類の適応放散は大陸の分裂と密接に関係しており、ゴンドワナ大陸がジュラ紀後期に分裂した際、南アメリカ大陸で異節類、アフリカ大陸でアフリカ獣類、ローラシア大陸で北方真獣類が進化した。 | [
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"text": "ヌタウナギとヤツメウナギからなり、脊椎動物の中で顎を持たないという特徴を持つ。脊椎骨を持たないがその痕跡はある。なお、かつてヌタウナギには脊骨がないとされ、脊椎動物から外されていたが、その後分子系統解析が進み、脊椎骨の痕跡が見つかると脊椎動物に分類されるようになった。",
"title": "脊椎動物から羊膜類に至る系統樹"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "顎口類は顎のある脊椎動物で、顎口類は顎とそこに生えている歯で餌を捕まえたり噛み砕いたりできる。顎は前方にある咽頭裂(顎口類では「鰓裂」と呼ばれる)を支えるための骨が進化したものだという仮説があり、残りの鰓裂は主にガス交換に用いられるようになった。",
"title": "脊椎動物から羊膜類に至る系統樹"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "遺伝子レベルでは顎口類はHox遺伝子クラスターが重複しているという特徴があり、これが顎の進化などを可能にしたものと考えられる。なお前述のように初期の脊椎動物でもHox遺伝子クラスターの重複が起こっているので、顎口類ではHox遺伝子クラスターが2×2=4つに増えたことになる。",
"title": "脊椎動物から羊膜類に至る系統樹"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "顎口類の初期の化石は4億4,000万年前に現れ、その後の2,000万年で急激に進化した。現在まで生き残っている系統である軟骨魚類、条鰭類、肉鰭類はいずれも4億2,000万年前までに登場している。",
"title": "脊椎動物から羊膜類に至る系統樹"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "最古の顎口類の化石は板皮類という鎧を持つ系統であるが、この系統は3億5,900万年前頃に絶滅した。ほぼ同時期に棘魚類という系統も出現したが、板皮類の絶滅から7,000万年後には絶滅した。",
"title": "脊椎動物から羊膜類に至る系統樹"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "軟骨を持つことに特徴があり、1,000種近い板鰓亜綱(サメ、エイ)と、数十種類の全頭亜綱(ギンザメ類)からなる。",
"title": "脊椎動物から羊膜類に至る系統樹"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "すでに述べたように脊椎動物は甲皮を持った無顎類のような初期の段階ですでに硬骨化が始まっているが、軟骨魚類はそれが2次的に軟骨化した系統である(すなわち軟骨→硬骨→軟骨という進化史をたどっている)。実際、石炭紀のサメ類の鰭の骨格には硬骨に似た構造があり、現生のサメにも鱗や歯の基部に硬骨組織の痕跡が残っている。",
"title": "脊椎動物から羊膜類に至る系統樹"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "硬骨「魚」類という名称であるが、2016年現在は系統樹を反映して四肢動物も硬骨魚類に含めている(四肢動物を含めない場合、硬骨魚類は側系統である)。",
"title": "脊椎動物から羊膜類に至る系統樹"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "初期の硬骨魚類の系統には肺が存在し、鰓のガス交換の補助をしていた。しかし四肢動物を除く多くの現生の硬骨魚類では肺は鰾(うきぶくろ)へと進化している。鰾には空気が詰まっており、魚達は浮力の調整に鰾を使っている。また四肢動物を除くほとんどの現生の硬骨魚類の表皮は鱗で覆われている。表皮には分泌腺から粘液が分泌され、泳ぐときの抵抗を減らしている。",
"title": "脊椎動物から羊膜類に至る系統樹"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "鰭を支える条鰭を持つことからその名が名付けられた。シルル紀に登場し、その後多様化して現生では27,000種以上もいる。",
"title": "脊椎動物から羊膜類に至る系統樹"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "「肉鰭類の重要な派生形質は、胸鰭と腹鰭の間に筋肉層で囲まれた棒状の骨が存在することである」。条鰭類と同様シルル紀に登場した。デボン紀には沿岸の湿地帯のような汽水域に多くの肉鰭類が生息しており、肉鰭を泳ぐためのみならず歩くためにも使っていた(現生種も同様)。デボン紀の終わりまでには多様性が減少し、現生は3系統(シーラカンス類、ハイギョ類、四肢動物)のみが生き残っている。",
"title": "脊椎動物から羊膜類に至る系統樹"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "胸鰭と腹鰭が指のある四肢に進化した肉鰭類。四肢によって歩行する。陸上生活に適応しており、頚(くび)が生じて頭部が分離されている。完全に水生の種以外は鰓を持たず、代わりに耳や腺性器官を胚発生の際に作り出す。",
"title": "脊椎動物から羊膜類に至る系統樹"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "デボン紀に生じた肉鰭類の中には泥の上を「歩いた」ものがいたものと思われる。3億7,500万年前の肉鰭類であるティクタアリクは、鰭や鰓といった魚類の特徴を持つと同時に、肋骨(呼吸を助け、体を支える役目を担う)、頸・肩・肺があり、頭部を動かすことができるなど四肢動物の特徴も備えていた。3億6,500万年前頃最初の四肢類が生じ、その後の6,000万年間で著しい多様化が進んだ。",
"title": "脊椎動物から羊膜類に至る系統樹"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "無尾目(カエル類、5420種ほど)、有尾目(サンショウウオ類、550種ほど)、無足目(アシナシイモリ目、170種ほど)からなる。 両生類は主に湿った表皮でガス交換しているため、その生息域は沼地や雨林など湿ったところにあり、乾燥に適応している種でも湿度の高い穴や湿った葉の下で過ごすことが多い。また両生類の卵は殻がなく、空気中では水分を急速に失ってしまう為、両生類は水中ないし湿った陸地に産卵する。多くの両生類は体外受精である。",
"title": "脊椎動物から羊膜類に至る系統樹"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "両生類はカエルツボカビ症、気候変動、生息地の消失、環境汚染等が原因で、(2016年現在から見て)過去30年ほどの間に急速に減少している。",
"title": "脊椎動物から羊膜類に至る系統樹"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "次に羊膜類の系統樹を載せる。下の系統樹は上のものと違い、絶滅種も含んでおり、絶滅種にはそれとわかるように「†」がつけられている。系統樹には「鳥類」と「哺乳類」を太字で書いた。この系統樹からこれら2つを除いたもののうち現生種が「爬虫類」となる。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "陸上生活に適応した四肢動物で、卵に以下の4種類の膜を持つという共通派生形質を持ち、このような卵を羊膜卵という:",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "乾燥した陸地に適した羊膜卵を得たことで羊膜類は両生類と違い、幼生期を水中で過ごす必要がなくなった。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "現生の両生類と羊膜類の最直近の共通祖先は3億5,000万年前には生存していた。初期の羊膜類は小型のトカゲのような動物で、捕食のためと思われる鋭い歯を備えていた。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "双弓類は頭骨の側頭部に2つの穴を持つことを共通派生形質とする動物である(右図)。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "鳥類以外の現生の双弓類はケラチンを主成分とする鱗に覆われているという共有派生形質を持ち、この鱗で乾燥や摩擦から皮膚を守っている。またほとんどの爬虫類の卵は殻で覆われている。多くの爬虫類は陽射しのような体外の熱で体温調整を行う外温性の動物であり、鳥類や哺乳類のような代謝により体温を維持する内温性の動物と区別される。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2億4,000万年前に腹側に甲状の骨を持っている種が現れ、2億2,000万年前には背側にも不完全ながら甲を持つものが現れる。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "なお、カメ類には双弓類の共通派生形質であるはずの2つの穴がないものの、双弓類であることは系統解析の点からも、絶滅種の化石の頭骨に穴のあるものがあることからも支持される。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ワニ類の祖先は三畳紀後期まで遡る。最古のものは陸生で小さかったが、その後大型化して水生に適応。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "羽ばたいて飛行できた最初の四肢動物。前肢の一本の指から胴または後肢にコラーゲンでできた膜が翼として伸びているが、これは前肢から翼が伸びる鳥類や手に翼が伸びているコウモリとは構造が異なる。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "三畳紀後期に出現し、6600万年前までには絶滅した。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "鳥盤類と竜盤類を含む。鳥盤類は草食で、多くの種では棍棒状の尾や頭の角などの防御機構を発達させていた。竜盤類には獣脚類(ティラノサウルス・レックス等)と首の長い草食の竜脚類とが含まれる。1970年代ごろの発見から機敏に動いていたことが示されている。群れを作るもの、巣作りや子育てを行うもの、内温性のものなどがいたことなども示されている。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "鳥類以外の恐竜類は白亜紀の終わりである6600万年前に絶滅した。鳥類に関しては後述する。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "鳥類は飛行のための翼を備え、飛行の為に様々な適応している。まず体を軽量化する為、膀胱がなく、卵巣が1つに減っており、雌雄とも生殖腺は繁殖期以外は小さく、嘴には歯もない。また飛行に十分なエネルギーを確保する為、伸縮性のある肺の気嚢を持つ呼吸系と二心室二心房の循環系で高い代謝率を達成している。飛行における必要性から視覚も発達しており、相対的に大きな脳を持ち、飛行に必要な視覚野と運動野が特に発達している。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "鳥類は内温性で、羽毛や(種によっては)脂肪により代謝熱が外にもれないようになっている。羽毛は爬虫類の鱗と同様βケラチンというタンパク質からできている。交尾は総排出口の接触により行われる。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "平胸類は例外的に飛べない鳥からなっており、ダチョウ、レア、キウイ、ヒクイドリ、エミュー等が属している。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1億6,000万年前までに羽毛を持つ獣脚類が誕生している。2016年現在知られている中では始祖鳥が最古の鳥類であり、始祖鳥は翼に羽毛を持つなど現生鳥類と同様の特徴を持つが、一方で翼には爪もあり、嘴に歯があるなど現生鳥類とは異なる特徴も残している。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "新鳥類という現生28目を含むクレードは6600万年前より前から存在していた。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "鱗竜類は、現生のものは有鱗類(トカゲとヘビ)とムカシトカゲ類からなり、有鱗類は爬虫類の中では最も種が多い系統である。有鱗類のうちヘビ類は、四肢のあるトカゲ類から進化したものである。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ムカシトカゲ類は遅くとも2億2,000万年前には出現し、白亜紀までは繁栄していたが、2016年現在はニュージーランドに近い島々に住んでいるのみである。寿命は100歳を超える。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "単弓類は側頭窓が1つしかないという共通派生形質を持ち(右図参照)、現生の単弓類はすべて哺乳類に属する。なお側頭窓はヒトでは顎の筋肉と側頭部とを結ぶための穴に相当する。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "乳腺を持ち、雌の乳腺から出る母乳により子を育てる。相対的に大きな脳を持つ種が多い。内温性で体表の毛により代謝熱を逃さないようにしている。腎臓の機能が発達している為、老廃物の排出の際の水分の損失が少ない。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "初期の単弓類は体毛がなく卵生であった。単弓類はペルム紀にその多様性を広げ、四肢動物の中では優勢であったが、ペルム紀末の大量絶滅の際にその多様性が減少した。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "哺乳類の起源は獣歯類に属するキノドン類であり、キノドン類は三畳紀後期の大量絶滅を乗り越え哺乳形類が誕生した。小型・夜行性・昆虫食であり、おそらく体毛があった。",
"title": "羊膜類の系統樹"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ジュラ紀には哺乳類が登場。白亜紀までには現生哺乳類の3つの系統(単孔類、有袋類、真獣類)が登場。白亜紀後期における恐竜と爬虫類の多くが絶滅した後、哺乳類は適応放散した。哺乳類の適応放散は大陸の分裂と密接に関係しており、ゴンドワナ大陸がジュラ紀後期に分裂した際、南アメリカ大陸で異節類、アフリカ大陸でアフリカ獣類、ローラシア大陸で北方真獣類が進化した。",
"title": "羊膜類の系統樹"
}
] | 脊椎動物(せきついどうぶつ、Vertebrata)は、脊索動物に属する動物の一群である。 | {{Pathnav|[[生物学]]、[[生物]]|[[生物の分類]]|frame=1}}{{生物分類表
|名称 = 脊椎動物<br>Vertebrata
|色 = 動物界
|fossil_range = [[カンブリア紀]]-現在, {{fossil range|525|0}}
|画像 = [[File:Vertebrata 002.png|250px]]
|画像キャプション =
|ドメイン = [[真核生物]] {{sname||Eukaryota}}
|界 = [[動物界]] [[w:Animal|Animalia]]
|門 = [[脊索動物|脊索動物門]] [[w:Chordate|Chordata]]
|亜門 = '''脊椎動物亜門''' [[w:Vertebrate|Vertebrata]]
|学名 = Vertebrata
|和名 = 脊椎動物 (せきついどうぶつ)
|下位分類名
|下位分類 =
* "[[無顎類]]"
* [[顎口類]]
}}
'''脊椎動物'''(せきついどうぶつ、{{lang|la|Vertebrata}})は、[[脊索動物]]に属する[[動物]]の一群である。
== 概要 ==
=== 分類 ===
[[動物]]の[[生物の分類|分類]]のひとつで、[[後口動物]]の[[脊索動物]]門に属する[[単系統群]]である<ref name="Fujita10-1132">[[#藤田(2010)|藤田(2010)]], p.113.</ref>。脊椎動物以外の動物を便宜上に'''[[無脊椎動物]]'''という。
脊椎動物とは、[[哺乳類]]、[[鳥類]]、[[爬虫類]]、[[両生類]]、[[魚類]]からなる系統群である。ただし[[爬虫類]]と[[魚類]]は[[側系統群]]であるので、[[単系統群]]のみを系統群として認める立場からは下記の表のように、[[四肢動物]]、[[羊膜類]]、[[双弓類]]といった単系統群を用語として用いることになる:
{| class="wikitable"
!
! colspan="4" |分類群
!イメージ
!種の数の見積もり<ref name="IUCN1014">The World Conservation Union. 2014. ''[[IUCN Red List of Threatened Species]]'', 2014.3. Summary Statistics for Globally Threatened Species. [http://cmsdocs.s3.amazonaws.com/summarystats/2014_3_Summary_Stats_Page_Documents/2014_3_RL_Stats_Table_1.pdf Table 1: Numbers of threatened species by major groups of organisms (1996–2014)].</ref>
|-
| rowspan="5" |脊椎動物
| rowspan="4" |[[四肢動物]]
| rowspan="3" |[[有羊膜類]]
| colspan="2" |[[哺乳類]]
|[[File:Squirrel_(PSF).png|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Squirrel_(PSF).png|140x140ピクセル]]
|5,513
|-
| rowspan="2" |[[双弓類]]
| align="center" |[[鳥類]]
|[[File:Secretary_bird_(Sagittarius_serpentarius)_2.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Secretary_bird_(Sagittarius_serpentarius)_2.jpg|140x140ピクセル]]
|10,425
|-
| align="center" |[[爬虫類]]<br />{{small|(鳥類以外の双弓類からなる側系統)}}
|[[File:Florida_Box_Turtle_Digon3.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Florida_Box_Turtle_Digon3.jpg|140x140ピクセル]]
|10,711
|-
| colspan="3" |[[両生類]]
|[[File:Lithobates_pipiens.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Lithobates_pipiens.jpg|140x140ピクセル]]
|7,302
|-
| colspan="4" |[[魚類]]<br />{{small|(四肢動物以外の脊椎動物からなる側系統)}}
|[[File:Carassius_wild_golden_fish_2013_G1.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Carassius_wild_golden_fish_2013_G1.jpg|140x140ピクセル]]
|32,900
|-
| colspan="6" |'''総計(種数)'''
|'''66,178'''
|}
表に記載した[[種 (分類学)|種]]の数の見積もりは[[国際自然保護連合]](IUCN)の[[レッドリスト]](2014年3月のもの)<ref name="IUCN1014" />から引用した。このリストでは現生の無脊椎動物の数を1,305,075と見積もっているので、脊椎動物の数は全動物中の5%以下ということになる。
=== 特徴 ===
* 多数の椎骨がつながった[[脊椎]](背骨)をもつ。
* [[脳]]と[[脊髄]](あわせて中枢神経と呼ぶ)をもち、それぞれは[[頭蓋骨]]と脊椎に守られている。
* いわゆる“赤い[[血]]”([[ヘモグロビン]]を含む[[血液]])を持つ([[ノトテニア亜目|極地に生息する魚]]などに一部例外あり)。
* 少なくとも一つの[[半規管]]を持つ。
* 大型の種が多い。魚類の幼生には1ミリメートル以下のものがあるが、成熟時の体長としては最小のものでも6 - 8ミリメートル程度になる。このため多くの動物門にある[[間隙性生物]]が存在しない。また、最大の水棲動物(現生種の[[シロナガスクジラ]]。ただし体長だけなら[[マヨイアイオイクラゲ]]が上回る)と最大の陸上動物(絶滅種では[[竜脚下目|竜脚類]]の一種。現生種では[[アフリカゾウ]])の両方を含む。
== 系統分類上の位置づけ ==
[[動物|動物界]]から脊椎動物に至る[[系統樹]]は下記のとおりである<ref name="Fujita10-113">[[#藤田(2010)|藤田(2010)]], p.113. pp.174-175.</ref><ref name=":馬渡2013-2">[[#馬渡2013-2|馬渡 (2013)]], p.2.</ref>。なお、脊椎動物から遠い系統群の詳細は省略している。省略部分の詳細は「[[動物]]」の項目を参照されたい。
{{clade|{{clade
|1=[[動物#前左右相称動物|前左右相称動物]]([[側系統群]]){{refnest|group="注釈"|name="Fujita10-113"|「前左右相称動物」というのは左右相称動物以外の動物門について述べるための便宜的な名称で、「前左右相称動物」という系統群があるわけではない<ref>[[#藤田(2010)|藤田(2010)]], p.113.</ref>。}}
|label2=[[左右相称動物]]
|2={{clade
|label1=[[前口動物]]
|1={{clade
|label1=[[冠輪動物]]
|1={{clade
|label1=[[扁平動物]]
|1=(略)
|label2=[[触手冠動物]]
|2=(略)
|label3=[[動物#螺旋動物|担輪動物]]
|3=(略)
}}
|label2=[[脱皮動物]]
|2={{clade
|label1=[[線形動物]]
|1=(略)
|label2=[[鰓曳動物]]
|2=(略)
|label3=[[汎節足動物]]
|3=(略)
}}
}}
|label2=[[後口動物]]
|2={{clade
|label1=水腔動物
|1={{clade
|1=[[棘皮動物]]
|2=[[半索動物]]
}}
|label2=[[脊索動物]]
|2={{clade
|1=[[頭索動物]]:一生、全体長に渡って脊索を持つ。ナメクジウオの仲間
|2={{clade
|1=[[尾索動物]]:一生ないし一時期に尾部に脊索を持つ。[[ホヤ綱]]、[[オタマボヤ綱]]、[[タリア綱]](ヒカリボヤ、ウミタル、サルパなど)からなる。
|2='''脊椎動物''':脊索の周囲に脊椎が形成される。
}}
}}
|3=[[珍無腸動物]]?
}}
}}
}}
|label1=[[動物]]
}}
=== 左右相称動物 ===
{{seealso|左右相称動物}}
例外も多いが<ref>[[動物#cite note-Minelli20092-135]]{{リンク切れ|date=2023年6月}}</ref><ref>[[動物#cite note-Brusca20162-136]]{{リンク切れ|date=2023年6月}}</ref>、基本的に下記のような特徴を持つ:
* 完全な三[[胚葉]]性で<ref name="名前なし-20231105130940">[[動物#cite note-Fujita10-122-132-131]]{{リンク切れ|date=2023年6月}}</ref>、体が左右相称(=左右対称)<ref name="名前なし-20231105130940"/>。
* [[口]]と[[肛門]]、およびこれらをつなぐ消化管をもち、体内に[[体腔]]ないし偽体腔(線形動物、輪形動物など)を持つ。
* ボディプランは、前方(運動のとき体の進む方向)と後方の区別、腹側と背側の区別がある傾向があり、したがって左側と右側の区別も可能である<ref name="Minelli20092">{{cite book|author=Minelli, Alessandro|title=Perspectives in Animal Phylogeny and Evolution|url=https://books.google.com/books?id=jIASDAAAQBAJ&pg=PA53|year=2009|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19-856620-5|page=53}}</ref><ref name="名前なし_2-20231105130940">[[動物#cite note-Brusca20162-136]]{{リンク切れ|date=2023年6月}}</ref>。運動のとき体の前方へと進むので、進行方向にあるものを識別する[[感覚器]]や餌を食べる口が前方に集まる傾向にある([[頭化]]という)。
* 多くの左右相称動物は[[環状筋]]と[[縦走筋]]のペアを持つので<ref name="名前なし_2-20231105130940"/>、ミミズのような体が柔らかい動物では水力学的骨格(英語版)の[[蠕動]]により動ける<ref>[[動物#cite note-Quillin2-137]]{{リンク切れ|date=2023年6月}}</ref>。
* 多くの左右相称動物には[[繊毛]]で泳ぐことができる[[幼生]]の時期がある。
=== 後口動物 ===
{{see also|後口動物}}後口動物(新口動物)とは歴史的には胚にできた原口が口になる[[前口動物]](旧口動物)に対し、原口が口にならず新たに口が開く動物として定義された分類群である<ref>[[#藤田(2010)|藤田(2010)]] p104</ref>。しかし1990年代に分子系統解析が始まると、この歴史的な意味での後口動物は[[単系統]]にならないことが示されたので、[[毛顎動物]]や[[シボグリヌム科|有鬚動物]]などが後口動物から外され、上述の系統樹にあるもののみが後口動物として残された<ref>[[#藤田(2010)|藤田(2010)]] p108</ref>。
なお、[[珍無腸動物]] ([[w:Xenacoelomorpha|Xenacoelomorpha]]) を含むか否かは2016年現在未確定<ref>{{Cite journal|last=Philippe|first=Hervé|last2=Brinkmann|first2=Henner|last3=Copley|first3=Richard R.|last4=Moroz|first4=Leonid L.|last5=Nakano|first5=Hiroaki|last6=Poustka|first6=Albert J.|last7=Wallberg|first7=Andreas|last8=Peterson|first8=Kevin J.|last9=Telford|first9=Maximilian J.|date=2011-02|title=Acoelomorph flatworms are deuterostomes related to Xenoturbella|url=http://www.nature.com/articles/nature09676|journal=Nature|volume=470|issue=7333|pages=255–258|language=En|doi=10.1038/nature09676|issn=0028-0836|pmid=21307940|pmc=4025995}}</ref><ref name=":馬渡2013-27-29">[[動物#馬渡 2013|馬渡 (2013)]], p27-p29</ref><ref>{{Cite journal|last=Rouse|first=Greg W.|last2=Wilson|first2=Nerida G.|last3=Carvajal|first3=Jose I.|last4=Vrijenhoek|first4=Robert C.|date=2016-02|title=New deep-sea species of Xenoturbella and the position of Xenacoelomorpha|url=http://www.nature.com/articles/nature16545|journal=Nature|volume=530|issue=7588|pages=94–97|language=En|doi=10.1038/nature16545|issn=0028-0836}}</ref><ref name=":Cannon2016">{{Cite journal|last=Cannon|first=Johanna Taylor|last2=Vellutini|first2=Bruno Cossermelli|last3=Smith|first3=Julian|last4=Ronquist|first4=Fredrik|last5=Jondelius|first5=Ulf|last6=Hejnol|first6=Andreas|date=2016-02|title=Xenacoelomorpha is the sister group to Nephrozoa|url=http://www.nature.com/articles/nature16520|journal=Nature|volume=530|issue=7588|pages=89–93|language=En|doi=10.1038/nature16520|issn=0028-0836}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.natureasia.com/ja-jp/nature/530/7588/nature16520/%E7%8F%8D%E7%84%A1%E8%85%B8%E5%8B%95%E7%89%A9%E9%96%80%E3%81%AFNephrozoa%E3%81%AE%E5%A7%89%E5%A6%B9%E7%BE%A4%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B|title=分類学:珍無腸動物門はNephrozoaの姉妹群である|accessdate=2018/07/20|date=2016/2/4|publisher=[[ネイチャー]]}}</ref>。
=== 脊索動物 ===
[[脊索動物]]は脊椎動物を含む動物門で、(一生のうち少なくとも一時期に)[[脊索]]を持つという特徴をもつ<ref name="Fujita10-174-17522">[[#藤田(2010)|藤田(2010)]], pp.174-175.</ref>。詳細後述。
== 脊索動物門における脊椎動物の特徴・進化 ==
=== 脊索動物の特徴 ===
脊索動物における脊椎動物の特徴や進化した点を見るため、本節では脊索動物の特徴を簡単に述べる。脊索動物は下記のような特徴を持つ:
* 消化管と神経管の間に'''脊索'''(大きな液胞で満たされた繊維質の組織)というしなやかな棒状の構造を胚の時期に持つ<ref name=":0">[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.826-827.</ref>。成体でも脊索を保持する種も存在する<ref name=":0" />。
* 他の動物門の胚では腹側に神経索ができるのに対し、脊索動物の胚では背側に環状の神経索('''[[神経管]]''')ができ<ref name=":0" />、脳と脊髄からなる中枢神経系に発達する<ref name=":0" />。
*'''消化管'''は口から肛門まで伸び<ref name=":0" />、胚の時期に咽頭(口のすぐ後ろの領域)の両側に溝のような構造('''咽頭溝''')ができ<ref name=":0" />、そこに'''咽頭裂'''という裂け目ができる<ref name=":0" />。脊椎動物以外の脊索動物の咽頭溝は多くの場合懸濁物食の器官として用いられる<ref name=":0" />。
* 他の動物門では消化管が体の後端まで伸びているものが多いのに対し、脊索動物では肛門の後ろに尾が伸びており<ref name=":0" />、水生の種では尾の骨格と筋肉を推進に用いる<ref name=":0" />。ただし胚発生の段階で尾が退化する種も多い<ref name=":0" />。
[[ファイル:Branchiostoma_lanceolatum.jpg|サムネイル|ナメクジウオ]]
'''頭索動物'''(ナメクジウオ)は以下のような特徴を持つ:
* '''ガス交換''':咽頭裂では殆ど行われず、体表を通して行われる<ref name=":0" />。
* '''採餌''':繊毛を使って口から海水を取り込み、咽頭裂の粘膜で海水中の餌を捉えて消化管に送り込む。その際海水は咽頭裂から体外に出る<ref name=":0" />。
* '''移動''':脊索の両側にある筋肉を収縮させることにより脊索をしならせ、体を左右に振って移動する<ref name=":0" />。
* '''体長''':成体では6センチメートル程度<ref name=":0" />
[[ファイル:Tunicate_komodo.jpg|サムネイル|ホヤの一種[[:en:Polycarpa aurata|Polycarpa aurata]]]]
'''尾索動物'''(ホヤ類)は次のような特徴を持つ:
* '''幼生期''':脊索動物の特徴が顕著であるが、幼生期が数分しかないものもいる<ref name=":0" />
* '''成体''':固着性で、幼生期とは著しく姿を変える<ref name=":0" />。尾と脊索は吸収され、神経系も退化<ref name=":0" />。
* '''採餌''':咽頭裂から海水を入れ、粘液で海水中の餌を捉える。それを繊毛で食道に運び、水と排泄物が肛門から出水管へと出ていく<ref name=":0" />。
ホヤ類はナメクジウオのもつ13のHox遺伝子のうち4つを失っており、幼生期のボディープランが他の脊索動物とは異なる機構で形成される<ref name=":0" />。
またホヤ類は「他の脊索動物と分岐した後に、成体で脊索動物の特徴を失ったと考えられる」<ref name=":0" />。
=== 初期の脊索動物からの進化 ===
==== 現生種の解析から分かる事実 ====
現生種の遺伝子の解析等から、以下のことが分かっている。
* 初期の脊索動物は頭索動物の[[ナメクジウオ]]のような動物であり、口、脊索、背側神経管、咽頭裂、肛門より後方の尾を持っていたと思われる<ref name=":1">[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.828-829.</ref>。
* 「ナメクジウオの脳は十分発達しておらず、単に神経管の先端部がいくらか膨らんでいるだけ」<ref name=":1" />だが、この先端部の構造が複雑性を増して脊椎動物の脳が進化したと考えられる<ref name=":1" />。その根拠は脊椎動物の[[前脳]]・中脳・後脳の主要部を制御するホメオボックス遺伝子がナメクジウオでも同じパターンで発現していること<ref name=":1" />。
* [[心臓]]や甲状腺のような脊椎動物特有の構造を制御する遺伝子が脊索動物の祖先にすでに備わっていたことがホヤの全ゲノム解析から示唆されている<ref name=":1" />。
* 脊椎動物特有の構造である神経堤に似た性質のある細胞がホヤから発見されているが、ナメクジウオにはこのような細胞がなく、ホヤは神経堤の進化の中間段階にある可能性がある<ref name=":1" />。
==== 進化史 ====
[[ファイル:Haikouella_lanceolata.jpg|サムネイル|ハイコウエラの復元図]]
まず5億3,000万年前([[カンブリア爆発]]の頃)には、{{仮リンク|ハイコウエラ|en|Haikouella}}というナメクジウオのような全長3センチメートルほどの生物の化石が発見されているが<ref name=":2">[[脊椎動物#%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB11%E7%89%88|キャンベル11版]] pp.831-832.</ref>、この生物は脊椎動物の特徴を一部持ち合わせている<ref name=":2" />。具体的にはナメクジウオと同様、懸濁物食をしていたと思われる口を持ち合わせている一方<ref name=":2" />、脊椎動物のようなよく発達した脳、小さな眼、魚類に似た筋節構造を持っている<ref name=":2" />。
[[ファイル:Myllokunmingia.png|サムネイル|ミクロンギアの復元図]]
[[ミロクンミンギア]]は頭部を獲得した最古の脊索動物だと考えられており<ref name=":2" />、脳や眼を備えた頭部の獲得により複雑な動きや摂餌行動ができるようになったが<ref name=":2" />、まだ脊椎は獲得していない<ref name=":2" />。
[[ファイル:Euconodonta.gif|サムネイル|コノドントの復元図(右)とその2種類の歯(左)]]
最古の脊椎動物は5億年ほど前に現れており、その一つである[[コノドント]]類は、軟骨性の内骨格しか持っていない<ref name=":2" />。
オルドビス紀からシルル紀の間に脊椎動物はさらに進化して、[[半規管]]を持つ内耳の獲得により平衡感覚を保ち<ref name=":2" />、[[対鰭]]も獲得した<ref name=":2" />。また筋肉質の咽頭を持ち<ref name=":2" />、これにより海底に住む生物や有機堆積物を吸い込んで食べていたと考えられている<ref name=":2" />。またこの頃には硬骨の甲皮で身を守る遊泳性の脊椎動物が数多くいたが、デボン紀末に全て絶滅した<ref name=":2" />。
軟骨性の骨格が硬骨化したのは、4億7,000万年ほど前に甲皮が出現したのが始まりで<ref name=":2" />、4億3,000万年前までには軟骨の内骨格を薄い硬骨が覆う種が現れ始め<ref name=":2" />、その後、顎を獲得した脊椎動物で硬骨化が進んだ<ref name=":2" />。
=== 脊椎動物の特徴 ===
他の脊索動物では1つしかないHox遺伝子が脊椎動物では2つあるなど<ref name=":3">[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.829-830.</ref>、脊椎動物ではシグナル分子や転写因子をコードする重要な遺伝子ファミリーに対して遺伝子重複が起きており<ref name=":3" />、「このことが脊椎動物の骨格系や神経系の革新に結びついた可能性がある」<ref name=":3" />。
==== 他の脊索動物との差異 ====
脊椎動物においては、他の脊索動物が持つ特徴である脊索や咽頭裂は以下のように変化している:
* ほとんどの脊椎動物では脊索の周囲に連結した骨格が発達し<ref name=":0" />、成体では脊椎の名残が残るのみ<ref name=":0" />。ヒトでは脊索は退化して椎間板の一部になる<ref name=":0" />。
* 咽頭裂とそれを支持する[[咽頭弓]]は四肢動物以外ではガス交換に用いられる<ref name=":0" />。四肢動物では「咽頭溝は咽頭裂として開口しないが、耳などの頭部や頸部の構造の発生において重要な役割を演じる」<ref name=":0" />。
==== 脊椎動物の派生形質 ====
多くの脊椎動物では'''脊椎骨'''が神経管を取り囲んでおり<ref name=":3" />、また胚において神経管が閉じつつある際に神経管の背側に'''[[神経堤]]'''が形成されるという特徴がある<ref name=":3" />。「神経堤は胚の中で移動し、歯、頭蓋骨の一部や軟骨、神経、眼などの感覚器官の原基など、さまざまな構造をつくり出す」<ref name=":3" />。
== 脊椎動物から羊膜類に至る系統樹 ==
脊椎動物の系統樹は以下の通りである<ref>[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] p.826.</ref>。右下に太字で描いた「[[四肢動物]]」は「魚類以外の脊椎動物」を表し、脊椎動物以下で四肢動物を除いたものが「[[魚類]]」である。
{{clade| style=font-size:100%; line-height:100%
|label1='''脊椎動物'''|sublabel1=<small>[[脊椎骨]]の獲得</small>
|1={{clade
|label1=[[円口類]]
|1={{clade
|1=[[ヌタウナギ類]]
|2=[[ヤツメウナギ類]]
}}
|label2=顎口類|sublabel2=<small>[[顎]]と[[硬骨]]の獲得</small>
|2={{clade
|1=[[軟骨魚類]]([[サメ]]、[[エイ]]、[[ギンザメ目]])
|label2=[[硬骨魚類]]|sublabel2=<small>[[肺]]またはその派生物の獲得</small>
|2={{clade
|1=[[条鰭類]]
|label2=[[肉鰭類]]|sublabel2=<small>肉鰭の獲得</small>
|2={{clade
|1=[[総鰭下綱|総鰭類]]([[シーラカンス目]])
|2={{clade
|1=[[肺魚亜綱|肺魚類]]
|label2='''[[四肢動物]]'''|sublabel2=<small>指のある肢の獲得</small>
|2={{clade
|1=[[両生類]]
|2=[[有羊膜類|羊膜類]]
}}
}}
}}
}}
}}
}}
}}
=== 円口類 ===
ヌタウナギとヤツメウナギからなり、脊椎動物の中で顎を持たないという特徴を持つ<ref name=":3" />。脊椎骨を持たないがその痕跡はある<ref name=":3" />。なお、かつてヌタウナギには脊骨がないとされ、脊椎動物から外されていたが、その後分子系統解析が進み、脊椎骨の痕跡が見つかると脊椎動物に分類されるようになった<ref name=":3" />。
{{Gallery|ファイル:Pacific_hagfish_Myxine.jpg|ヌタウナギの仲間 [[:en:Eptatretus stoutii|Eptatretus stoutii]]|ファイル:Eastern-brook-lamprey_L_reissneri-02.jpg|スナヤツメLethenteron reissneriの成体。|title=円口類|width=150|height=100|lines=1}}
=== 顎口類 ===
==== 特徴 ====
[[顎口類]]は顎のある脊椎動物で、顎口類は顎とそこに生えている歯で餌を捕まえたり噛み砕いたりできる<ref name=":4">[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.832-833</ref>。顎は前方にある咽頭裂(顎口類では「鰓裂」と呼ばれる)を支えるための骨が進化したものだという仮説があり<ref name=":4" />、残りの鰓裂は主にガス交換に用いられるようになった<ref name=":4" />。
遺伝子レベルでは顎口類はHox遺伝子クラスターが重複しているという特徴があり<ref name=":4" />、これが顎の進化などを可能にしたものと考えられる<ref name=":4" />。なお前述のように初期の脊椎動物でもHox遺伝子クラスターの重複が起こっているので、顎口類ではHox遺伝子クラスターが2×2=4つに増えたことになる<ref name=":4" />。
==== 進化史 ====
顎口類の初期の化石は4億4,000万年前に現れ<ref name=":4" />、その後の2,000万年で急激に進化した<ref name=":4" />。現在まで生き残っている系統である軟骨魚類、条鰭類、肉鰭類はいずれも4億2,000万年前までに登場している<ref name=":4" />。
最古の顎口類の化石は'''[[板皮類]]'''という鎧を持つ系統であるが<ref name=":4" />、この系統は3億5,900万年前頃に絶滅した<ref name=":4" />。ほぼ同時期に'''[[棘魚類]]'''という系統も出現したが<ref name=":4" />、板皮類の絶滅から7,000万年後には絶滅した<ref name=":4" />。
{{Gallery|File:Placoderm anatomy.png|板皮類Coccosteus decipiensの復元図|File:Mesacanthus Parexus Ischnacanthus.JPG|デボン紀の棘魚類の復元図|width=300|height=200}}
=== 軟骨魚類 ===
==== 特徴 ====
軟骨を持つことに特徴があり<ref name=":5">[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.833-834</ref>、1,000種近い[[板鰓亜綱]]([[サメ]]、[[エイ]])と、数十種類の[[全頭亜綱]]([[ギンザメ目|ギンザメ類]])からなる<ref name=":5" />。
==== 進化史 ====
すでに述べたように脊椎動物は甲皮を持った無顎類のような初期の段階ですでに硬骨化が始まっているが、軟骨魚類はそれが2次的に軟骨化した系統である<ref name=":5" />(すなわち軟骨→硬骨→軟骨という進化史をたどっている)。実際、[[石炭紀]]のサメ類の鰭の骨格には硬骨に似た構造があり、現生のサメにも鱗や歯の基部に硬骨組織の痕跡が残っている<ref name=":5" />。
{{Gallery|File:White_shark.jpg|サメ類の[[ホオジロザメ]]|File:Myliobatis_aquila_sasrája.jpg|エイ類のMyliobatis aquila|File:Elephant_shark_melb_aquarium.jpg|ギンザメ類のCallorhinchus milii|title=軟骨魚類|width=150|height=100|lines=1}}
=== 硬骨魚類 ===
硬骨「魚」類という名称であるが、2016年現在は系統樹を反映して[[四肢動物]]も硬骨魚類に含めている<ref name=":6">[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.834-836</ref>(四肢動物を含めない場合、硬骨魚類は側系統である<ref name=":6" />)。
==== 特徴・進化 ====
初期の硬骨魚類の系統には肺が存在し、鰓のガス交換の補助をしていた<ref name=":6" />。しかし四肢動物を除く多くの現生の硬骨魚類では肺は[[鰾]](うきぶくろ)へと進化している<ref name=":6" />。鰾には空気が詰まっており<ref name=":6" />、魚達は浮力の調整に鰾を使っている<ref name=":6" />。また四肢動物を除くほとんどの現生の硬骨魚類の表皮は鱗で覆われている<ref name=":6" />。表皮には分泌腺から粘液が分泌され、泳ぐときの抵抗を減らしている<ref name=":6" />。
==== 条鰭類 ====
鰭を支える条鰭を持つことからその名が名付けられた<ref name=":6" />。[[シルル紀]]に登場し<ref name=":6" />、その後多様化して現生では27,000種以上もいる<ref name=":6" />。
==== 肉鰭類 ====
「肉鰭類の重要な派生形質は、胸鰭と腹鰭の間に筋肉層で囲まれた棒状の骨が存在することである」<ref name=":6" />。条鰭類と同様シルル紀に登場した<ref name=":6" />。[[デボン紀]]には沿岸の湿地帯のような[[汽水域]]に多くの肉鰭類が生息しており、肉鰭を泳ぐためのみならず歩くためにも使っていた(現生種も同様)<ref name=":6" />。デボン紀の終わりまでには多様性が減少し、現生は3系統(シーラカンス類、ハイギョ類、四肢動物)のみが生き残っている<ref name=":6" />。{{Gallery|ファイル:Latimeria_chalumnae01.jpg|シーラカンスの唯一の現生属である[[ラティメリア]]|ファイル:Australian-Lungfish.jpg|[[オーストラリアハイギョ]] Neoceratodus forsteri|File:Extant_tetrapoda.jpg|四肢動物|title=肉鰭類|width=150|height=100|lines=1}}
=== 四肢動物 ===
==== 特徴 ====
胸鰭と腹鰭が指のある四肢に進化した肉鰭類<ref name=":7">[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.837-838</ref>。四肢によって歩行する<ref name=":7" />。陸上生活に適応しており、頚(くび)が生じて頭部が分離されている<ref name=":7" />。完全に水生の種以外は鰓を持たず、代わりに耳や腺性器官を胚発生の際に作り出す<ref name=":7" />。
==== 進化史 ====
デボン紀に生じた肉鰭類の中には泥の上を「歩いた」ものがいたものと思われる<ref name=":7" />。3億7,500万年前の肉鰭類である[[ティクターリク|ティクタアリク]]は、鰭や鰓といった魚類の特徴を持つと同時に、肋骨(呼吸を助け、体を支える役目を担う)、頸・肩・肺があり、頭部を動かすことができるなど四肢動物の特徴も備えていた<ref name=":7" />。3億6,500万年前頃最初の四肢類が生じ<ref name=":7" />、その後の6,000万年間で著しい多様化が進んだ<ref name=":7" />。
=== 両生類 ===
[[無尾目]]([[カエル]]類、5420種ほど<ref name=":8">[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.838-841</ref>)、[[有尾目]]([[サンショウウオ]]類、550種ほど<ref name=":8" />)、[[アシナシイモリ目|無足目]]([[アシナシイモリ目]]、170種ほど<ref name=":8" />)からなる<ref name=":8" />。 両生類は主に湿った表皮でガス交換しているため<ref name=":8" />、その生息域は沼地や雨林など湿ったところにあり<ref name=":8" />、乾燥に適応している種でも湿度の高い穴や湿った葉の下で過ごすことが多い<ref name=":8" />。また両生類の卵は殻がなく、空気中では水分を急速に失ってしまう為、両生類は水中ないし湿った陸地に産卵する<ref name=":8" />。多くの両生類は体外受精である<ref name=":8" />。
両生類は[[カエルツボカビ症]]、気候変動、生息地の消失、環境汚染等が原因で、(2016年現在から見て)過去30年ほどの間に急速に減少している<ref name=":8" />。
{{Gallery|File:Hyla_japonica_top_ja.jpg|無尾目の[[ニホンアマガエル]]|File:Hynobius_retardatus.jpg|有尾目の[[エゾサンショウウオ]]|File:Microcaecilia dermatophaga holotype - journal.pone.0057756.g002-right-crop.png|無足目のMicrocaecilia dermatophaga|title=両生類|width=150|height=100|lines=1}}
== 羊膜類の系統樹 ==
次に羊膜類の系統樹を載せる<ref>[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] p.841</ref><ref name=":16">[[脊椎動物#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8B%95%E7%89%A9%E5%AD%A6%E4%BC%9A2018|日本動物学会2018]] pp.98-99.</ref>。下の系統樹は上のものと違い、絶滅種も含んでおり、絶滅種にはそれとわかるように「†」がつけられている。系統樹には「鳥類」と「哺乳類」を太字で書いた。この系統樹からこれら2つを除いたもののうち現生種が「'''[[爬虫類]]'''」となる。{{clade
|label1=[[有羊膜類|羊膜類]]([[羊膜|羊膜卵]]の獲得)
|1={{clade
|label1=[[双弓類]]
|1={{clade
|label1=[[主竜類]]
|1={{clade
|1=[[カメ目]]
|2={{clade
|1=[[ワニ目]]
|2={{clade
|1=†[[翼竜類]]
|label2=[[恐竜類]]
|2={{clade
|1=†[[鳥盤類]]
|label2=[[竜盤類]]
|2={{clade
|1=†鳥類以外の竜盤類
|2='''[[鳥類]]'''
}}
}}
}}
}}
}}
|2={{clade
|1=[[魚竜類]]†
|2={{clade
|1=[[首長竜類]]†
|label2=[[鱗竜類]]
|2={{clade
|1=[[ムカシトカゲ目]]
|2=[[有鱗類]]([[トカゲ]]や[[ヘビ]])
}}
}}
}}
}}
|label2=[[単弓類]]
|2='''[[哺乳類]]'''
}}
}}
=== 羊膜類 ===
==== 特徴 ====
陸上生活に適応した四肢動物で、卵に以下の4種類の膜を持つという共通派生形質を持ち、このような卵を'''羊膜卵'''という<ref name=":9">[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.841-843</ref>:
[[ファイル:Chicken_egg_diagram.svg|代替文=|サムネイル|300x300ピクセル|[[ニワトリ]]の卵。羊膜(Amnion)、胚(Embryo)、尿膜(Allantois)、殻(Shell Albumen)、 卵殻(Chorion) 卵黄(Vitellus)が見える。]]
* [[羊膜]]:胚を保護する<ref name=":9" />
* [[漿膜]]:ガス交換を行う<ref name=":9" />
* [[卵黄嚢]]:内部に栄養を蓄積した卵黄を含む<ref name=":9" />
* [[尿膜]]:代謝老廃物を貯める<ref name=":9" />
乾燥した陸地に適した羊膜卵を得たことで羊膜類は両生類と違い、幼生期を水中で過ごす必要がなくなった<ref name=":16" />。
==== 進化史 ====
現生の両生類と羊膜類の最直近の共通祖先は3億5,000万年前には生存していた<ref name=":9" />。初期の羊膜類は小型のトカゲのような動物で、捕食のためと思われる鋭い歯を備えていた<ref name=":9" />。
=== 双弓類 ===
[[ファイル:Skull_diapsida.png|代替文=|サムネイル|双弓類の頭蓋骨]]
双弓類は頭骨の側頭部に2つの穴を持つことを共通派生形質とする動物である<ref name=":9" />(右図)。
鳥類以外の現生の双弓類は[[ケラチン]]を主成分とする鱗に覆われているという共有派生形質を持ち<ref name=":10">[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.842-845</ref>、この鱗で乾燥や摩擦から皮膚を守っている<ref name=":10" />。またほとんどの爬虫類の卵は殻で覆われている<ref name=":10" />。多くの爬虫類は陽射しのような体外の熱で体温調整を行う外温性の動物であり<ref name=":10" />、鳥類や哺乳類のような代謝により体温を維持する内温性の動物と区別される<ref name=":10" />。
=== 主竜類 ===
==== カメ類 ====
2億4,000万年前に腹側に甲状の骨を持っている種が現れ<ref name=":10" />、2億2,000万年前には背側にも不完全ながら甲を持つものが現れる<ref name=":10" />。
なお、カメ類には双弓類の共通派生形質であるはずの2つの穴がないものの<ref name=":10" />、双弓類であることは系統解析の点からも、絶滅種の化石の頭骨に穴のあるものがあることからも支持される<ref name=":10" />。
==== ワニ類 ====
ワニ類の祖先は三畳紀後期まで遡る<ref name=":10" />。最古のものは陸生で小さかったが、その後大型化して水生に適応<ref name=":10" />。
==== 翼竜類 ====
羽ばたいて飛行できた最初の[[四肢動物]]<ref name=":9" />。前肢の一本の指から胴または後肢にコラーゲンでできた膜が翼として伸びているが<ref name=":9" />、これは前肢から翼が伸びる鳥類や手に翼が伸びているコウモリとは構造が異なる。
三畳紀後期に出現し<ref name=":9" />、6600万年前までには絶滅した<ref name=":9" />。
==== 恐竜類 ====
鳥盤類と竜盤類を含む<ref name=":9" />。鳥盤類は草食で<ref name=":9" />、多くの種では棍棒状の尾や頭の角などの防御機構を発達させていた<ref name=":9" />。竜盤類には獣脚類(ティラノサウルス・レックス等)と首の長い草食の竜脚類とが含まれる<ref name=":9" />。1970年代ごろの発見から機敏に動いていたことが示されている<ref name=":9" />。群れを作るもの<ref name=":9" />、巣作りや子育てを行うもの<ref name=":9" />、内温性のものなどがいたこと<ref name=":9" />なども示されている。
鳥類以外の恐竜類は白亜紀の終わりである6600万年前に絶滅した<ref name=":9" />。鳥類に関しては後述する。{{Gallery|ファイル:Alligator.jpg|ワニ類の[[アメリカアリゲーター]]|File:Florida_Box_Turtle_Digon3_re-edited.jpg|カメ類の[[:en:Terrapene carolina|Terrapene carolina]]|ファイル:Pteranodon-sternbergi_jconway.jpg|翼竜の[[プテラノドン]]の復元図|title=主竜類|width=150|height=100|lines=1|File:Ornithischia_Diversity.jpg|鳥盤類の化石。左上から時計回りに[[ヘテロドントサウルス]]、[[ステゴサウルス]](Stegosaurus stenops)、[[スコロサウルス]]、[[エドモントサウルス]]、[[ステゴサウルス]](Stegoceras validum)、[[トリケラトプス]]|ファイル:TRex9.JPG|竜盤類の[[ティラノサウルス・レックス]]}}
=== 鳥類 ===
==== 特徴 ====
鳥類は飛行のための翼を備え、飛行の為に様々な適応している。まず体を軽量化する為、膀胱がなく<ref name=":12">[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.845-846</ref>、卵巣が1つに減っており<ref name=":12" />、雌雄とも生殖腺は繁殖期以外は小さく<ref name=":12" />、嘴には歯もない<ref name=":12" />。また飛行に十分なエネルギーを確保する為、伸縮性のある肺の気嚢を持つ呼吸系と二心室二心房の循環系で高い代謝率を達成している<ref name=":12" />。飛行における必要性から視覚も発達しており<ref name=":12" />、相対的に大きな脳を持ち<ref name=":12" />、飛行に必要な視覚野と運動野が特に発達している<ref name=":12" />。
鳥類は内温性で<ref name=":12" />、羽毛や(種によっては)脂肪により代謝熱が外にもれないようになっている<ref name=":12" />。羽毛は爬虫類の鱗と同様βケラチンというタンパク質からできている<ref name=":12" />。交尾は[[総排出口]]の接触により行われる<ref name=":12" />。
[[平胸類]]は例外的に飛べない鳥からなっており<ref name=":13">[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.846-847</ref>、ダチョウ、レア、キウイ、ヒクイドリ、エミュー等が属している<ref name=":13" />。
==== 進化史 ====
1億6,000万年前までに羽毛を持つ獣脚類が誕生している<ref name=":13" />。2016年現在知られている中では[[始祖鳥]]が最古の鳥類であり<ref name=":13" />、始祖鳥は翼に羽毛を持つ<ref name=":13" />など現生鳥類と同様の特徴を持つが、一方で翼には爪もあり<ref name=":13" />、嘴に歯がある<ref name=":13" />など現生鳥類とは異なる特徴も残している。
新鳥類という現生28目を含むクレードは6600万年前より前から存在していた<ref name=":13" />。
=== 鱗竜類 ===
鱗竜類は、現生のものは有鱗類(トカゲとヘビ)とムカシトカゲ類からなり<ref name=":11">[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.843-845</ref>、有鱗類は爬虫類の中では最も種が多い系統である<ref name=":16" />。有鱗類のうちヘビ類は、四肢のあるトカゲ類から進化したものである<ref name=":11" />。
ムカシトカゲ類は遅くとも2億2,000万年前には出現し<ref name=":11" />、白亜紀までは繁栄していたが<ref name=":11" />、2016年現在はニュージーランドに近い島々に住んでいるのみである<ref name=":11" />。寿命は100歳を超える<ref name=":11" />。
{{Gallery|ファイル:Pogona0.jpg|有鱗類のフトアゴヒゲトカゲ Pogona vitticeps|ファイル:Tuatara.jpg|ムカシトカゲ|title=主竜類|width=150|height=100|lines=1}}
=== 単弓類・哺乳類 ===
[[ファイル:Skull_synapsida_1.png|サムネイル|単弓類の頭蓋骨左から[[鼻孔]]、[[眼窩]]、[[側頭窓]]]]単弓類は側頭窓が1つしかないという共通派生形質を持ち(右図参照)<ref name=":15">[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.848-849.</ref>、現生の単弓類はすべて哺乳類に属する<ref name=":15" />。なお側頭窓はヒトでは顎の筋肉と側頭部とを結ぶための穴に相当する<ref name=":15" />。
==== 哺乳類の特徴 ====
乳腺を持ち、雌の乳腺から出る母乳により子を育てる<ref name=":14">[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] p.848.</ref>。相対的に大きな脳を持つ種が多い<ref name=":14" />。内温性で体表の毛により代謝熱を逃さないようにしている<ref name=":14" />。[[腎臓]]の機能が発達している為、老廃物の排出の際の水分の損失が少ない<ref name=":14" />。
==== 進化史 ====
初期の単弓類は体毛がなく卵生であった<ref name=":15" />。単弓類はペルム紀にその多様性を広げ<ref name=":15" />、四肢動物の中では優勢であったが<ref name=":15" />、ペルム紀末の大量絶滅の際にその多様性が減少した<ref name=":15" />。
哺乳類の起源は[[獣歯類]]に属する[[キノドン類]]であり<ref name=":17">[[脊椎動物#日本動物学会2018|日本動物学会2018]] pp.102-103.</ref>、キノドン類は三畳紀後期の大量絶滅を乗り越え[[哺乳形類]]が誕生した<ref name=":17" />。小型<ref name=":15" />・夜行性<ref name=":15" />・昆虫食<ref name=":15" />であり、おそらく体毛があった<ref name=":15" />。
ジュラ紀には哺乳類が登場<ref name=":15" />。白亜紀までには現生哺乳類の3つの系統([[単孔類]]、[[有袋類]]、[[真獣類]])が登場<ref name=":15" />。白亜紀後期における恐竜と爬虫類の多くが絶滅した後、哺乳類は適応放散した<ref name=":15" />。哺乳類の適応放散は大陸の分裂と密接に関係しており<ref name=":17" />、[[ゴンドワナ大陸]]がジュラ紀後期に分裂した際、南アメリカ大陸で[[異節上目|異節類]]、アフリカ大陸で[[アフリカ獣上目|アフリカ獣類]]、[[ローラシア大陸]]で[[北方真獣類]]が進化した<ref name=":17" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
{{Wikispecies|Vertebrata|脊椎動物亜門}}
{{Commonscat|Vertebrata}}
*{{Cite book|title=キャンベル生物学 原書11版|date=2018/3/20|publisher=[[丸善出版]]|ref=キャンベル11版|isbn=978-4621302767}}
**原著:{{Cite book|title=Campbell Biology (11th Edition)|date=2016/10/29|publisher=Pearson|author2=Michael L. Cain|author=Lisa A. Urry|author3=Steven A. Wasserman|author4=Peter V. Minorsky|author5=Jane B. Reece|author6=Neil A. Campbell|isbn=978-0134093413}}
*{{Cite book|和書||ref=藤田(2010)|author=藤田敏彦|editor=太田次郎、赤坂甲治、浅島誠、長田敏行|title=動物の系統分類と進化|series=新・生命科学シリーズ|date=2010/4/28|year=|accessdate=|publisher=裳華房|isbn=978-4785358426|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}
*{{Cite book|和書|title=動物学の百科事典|date=2018/9/28|year=|publisher=丸善出版|author=公益社団法人日本動物学会|isbn=978-4621303092|ref=日本動物学会2018}}
=== さらなる理解のために ===
系統分類の詳細:
*{{Cite web|和書|url=http://www.eps.nagoya-u.ac.jp/~seicoro/bio/osteich.html|title=硬骨魚類の系統分類|accessdate=2018/08/04|author=渡邊誠一郎|publisher=名古屋大学}}
*{{Cite book|title=Fishes of the World Fifth Edition|date=2016/3/28|publisher=Wiley|author=Joseph S. Nelson|author2=Terry C. Grande|著者3=Mark V. H. Wilson|isbn=978-1118342336|ASIN=111834233X}}
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3,464 | ニュースステーション | 『ニュースステーション』(英語: NEWS STATION)は、1985年(昭和60年)10月7日から2004年(平成16年)3月26日まで、テレビ朝日系列(ANN)で平日(祝日も含む)22時台に生放送されていた報道番組である。テレビ朝日とオフィス・トゥー・ワン(形としては企画・制作協力扱い)の共同制作。全4,795回の平均視聴率は、14.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。通称「Nステ(エヌステ)」、「NS(エヌエス)」、「Nステーション(エヌステーション、テレビ欄)」。
テレビ朝日が平日23時台に放送していた『ANNニュースファイナル』・『ANNスポーツニュース』に替わり、ドラマやバラエティ番組を放送していた平日22時台に新設したニュース番組である。テレビ朝日の本社移転(アークヒルズ)と同時に開始された。構想段階から広告代理店である電通が深く関与した。久米宏も構想の段階で起用が決まり会議に参加しており、番組の準備などのため、久米は1985年4月までに『おしゃれ』(日本テレビ系列)以外のレギュラー番組を降板した。
当時としてはこの時間帯のニュース番組は、独立U局である近畿放送(後に「KBS京都」との局愛称を使用。現・京都放送)で放送していたタイムリー10とその一時期にタイトルと放送時間を改変したザ・タイムリーがあった(1987年春頃に放送時間を再度繰り下げた際に番組タイトルを元に戻した)程度であり、近畿放送の放送区域であった京都府・滋賀県以外の45都道府県ではこの時間のニュース番組そのものが初の試みであったことから、番組の先行きに対して不安を持つ者も多かった。開始第一週目の週平均の視聴率は8.68%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム、以下断りのない限り略)と低視聴率に悩んだ。1986年2月のエドゥサ革命以降は、安定して20%前後の高い視聴率を誇り、テレビ朝日の看板番組となった。視聴率20%超えは、245回(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。関東地方より先に関西地方(朝日放送)で視聴率(ビデオリサーチ調べ、関西地区・世帯・リアルタイム)を獲得した。
「中学生でもわかるニュース」をコンセプトとして、政治や経済などのニュースにおける難解な用語や展開などを、フリップや地図、模型、実物、政治家人形、積木などを使い、わかりやすく伝える工夫を凝らした。これで徐々に視聴率を獲得した。初期には手書き・手作りといったアナログ感を重視していたが、コンピュータグラフィックスについても最新技術を積極的に導入している。安竹宮で争われた1987年自民党総裁選挙では全派閥を積木で表現し、積木を積み立てて今後を予測した。1990年代初めには民間気象情報会社のウェザーニューズの協力で天気予報に3DCGを使い、イラク戦争では地図に「CADシステム」を用い、後のGoogle Earthのように直感的な操作で地図の拡大・縮小を行った。2002年あたりからはクロマキー処理を行わないリアルタイムCGも多用された。この他、BGM・ナレーション・テロップなどをワイドショーのように使う表現・演出手法は、しばしばニュースを過度にセンセーショナルなものに見せた。また久米が「個人的意見」を言うことで従来の番組や新聞との差別化を図った。
従来、外部発注が常識となっていた民放テレビ局にあっても報道番組は聖域とされ、ごく一部の例外 を除いて番組制作が外部に委託されることがなかった中で、オフィス・トゥー・ワンという外部の制作プロダクション(久米の所属事務所でもある)を導入してニュース番組を制作した。
本番組開始以降、現在の『報道ステーション』に至るまでネットスポンサー各社は、スポーツコーナーを除いて30秒枠の企業も60秒扱いでクレジットされている。また、読み上げも既に『クイズタイムショック』で導入されていた全社読み上げ形式で(言い回しは「(ここまでは、)スポンサー会社名がお送りします(しました)」である)、これも『報ステ』に引き継がれている。
音声は当初モノラル放送であったが、1993年4月19日からステレオ放送になった。また、番組最末期はスタジオ映像のみハイビジョン制作(16:9サイズ)だった。しかし、実際に本番組をハイビジョンで放送していたのは当時地上デジタル放送が開始されたばかりだったテレビ朝日と朝日放送(ABCテレビ)・名古屋テレビ(メーテレ)だけだった。
当番組の原型となる企画を練る会議は、1984年夏ごろから『久米宏のTVスクランブル』(日本テレビ)の企画会議と並行して、久米とオフィス・トゥー・ワンのスタッフで水面下で進められていたという。久米は『TVスクランブル』を「未来のニュース番組につながるステップボードのような役割を果たしている」としており、そこで考えたのが当番組のコンセプトである「中学生でもわかるニュース」だった。彼らが常に意識していたのが当時、報道番組の王座に君臨していた『ニュースセンター9時』(NHK総合テレビ)だったが、久米は「裏で勝負するのは無謀極まりない」として、せいぜい午後11時からの30分枠を思い描いていた。しかし、話を進めるうちに平日帯のプライムタイム枠での1時間枠という構想に膨らんでいった。しかし1時間では採算が取れないため結果的には1時間15分となった。その後、この大胆にして無謀な構想に乗った電通の参入や、電通の支持を取り付けてオフィス・トゥー・ワンのスタッフが久米の古巣であるTBSを含む在京各局にこのニュース番組の企画書を持ち込んだところ特に敏感に反応したこと、そして当時の報道局次長である小田久栄門の「報道はテレビの本道です」という訴えに応じた朝日新聞の社会部出身で当時の社長・田代喜久雄の英断、さらに六本木六丁目の再開発に際してアークヒルズへの本社機能移転・最新鋭の放送設備を備えた放送センターの新設を行うにあたりその開設記念の大型の目玉企画を模索していた、という三点からテレビ朝日も参入が決まった。電通は企画開発段階から特別チームを編成して視聴者動向のマーケティングや視聴率のシミュレーションを実施。『ニュースセンター9時』のニュース項目を1週間に渡り分析するなどして基本構想をまとめていった。テレビ朝日の社内では「テレビ局でも最も神聖にして侵してはならない報道の分野に外部の制作会社が参入」「プライムタイム帯へ視聴率が望めない大型ニュース番組の投入」「報道の現場を全く知らない他局アナウンサー出身のタレントのキャスター起用」というそれまで厳然とあったタブーを侵す新たなニュース番組の立ち上げに非難・反発が上がったが小田がリーダーとなって同じく特別チームを編成。制作スタッフには局内から有能な人材が集められたが、その人事異動はトップダウン方式で召し上げられるものであり、社内で「赤紙」と揶揄されたという。こうして、電通の営業戦略会議、テレビ朝日の新放送センター開設に伴う番組会議、オフィス・トゥー・ワンの企画会議と3か所で別々の会議が、番組始動に向けて同時並行的に進む事となった。
1985年7月29日には番組の開始と久米のキャスター起用が正式に発表され、ティザー広告も放送を開始。久米はテレビ朝日とこの時点で2年の契約を結んだ。当時マスコミは契約金を2億円とも4億円とも報じたが、久米の希望で純粋な出演料のみになった。8月にはシミュレーションを行ったが、ニュースとバラエティが無秩序に混ざってしまい番組の体をなさなくなってしまったという。それまでのニュース番組は報道記者が書いた原稿をキャスターが読むだけであり、当然1時間以上の番組を制作経験が無い報道局だけでは作れないため、テレビ朝日の制作局とオフィス・トゥー・ワンのスタッフによる合体チームと報道局のスタッフが協力して番組を制作する形となった。テレビ朝日とオフィス・トゥー・ワンが別々に行っていた会議と並行して、3チームが顔を合わせての全体会議・準備が始まり、久米もシミュレーション以降の全会議に参加した。
全体会議では、会議室でそれまで制作会社の人間と口も聞いた事の無いエリート集団であるスーツ姿の報道スタッフと特にオフィス・トゥー・ワンのディレクター・作家は報道の事は全く知らない雑草集団である短パンにTシャツ、ゴム草履姿の制作スタッフが対峙すると、「事実を正確に伝えるという正統派のニュース番組」のあり方にこだわっては派手な演出や目新しい工夫を嫌う報道側と「ニュースをいかに分かりやすく面白く見せるかに重点を置き、セットやスタジオ演出に気を配る」という考えのオフィス・トゥー・ワン側が衝突し、言い合いばかりで話が全く噛み合わない状況が続いた。この衝突は番組開始後も続き、報道側は「ニュースの事を何も知らずに勝手な事を言うな」、オフィス・トゥー・ワン側は「なぜ原稿をもっと分かりやすく書けないのか」と大喧嘩になった。反省会は深夜2時まで及び連日連夜、時に殴り合いの喧嘩に発展する程の激しい討論を続けたという。
そのような準備期間を経て、1985年10月7日に民放初の平日プライムタイム帯での1時間超に及ぶワイド編成の報道番組として放送を開始。
「今までにない全く新しい形の報道番組を目指す」というコンセプトのもと、メインキャスターの久米宏、サブキャスターの小宮悦子(当時テレビ朝日アナウンサー、1991年からフリーアナウンサー)、コメンテーターの小林一喜(当時朝日新聞論説委員)を中心に、キャスター陣には小宮以外のテレビ朝日アナウンサー(スポーツキャスターの朝岡聡、リポーターの渡辺宜嗣)に加えて、一般公募による出演者オーディションから数名のキャスター・リポーターを起用した。一般公募組の中には、橋谷能理子(元テレビ静岡アナウンサー、スタジオアシスタント)、若林正人(元東京銀行調査役、コメンテーター兼リポーター)、杉本典子(元三菱商事勤務、スポーツ担当)、坪井貴久美(元つくば科学万博コンパニオン、ニュース担当)、内田誠(早稲田大学大学院院生、リポーター、後にジャーナリストへ転身)、松本侑子(筑波大学学生、天気キャスター、後に作家へ転身)などがいた。
第1回の放送で最初に取り上げたのは、石狩鍋に入れる鮭の話題。長谷川宏和(当時北海道テレビアナウンサー)の自宅、九州朝日放送・鹿児島放送のスタジオ、新潟テレビ21のサービスエリアにある新潟県村上市を結んでの生中継を実施した。本来は「鮭を切り口に環境問題について考える」という趣旨だったが、本番中に最新鋭のVTR再生機が故障し、結果的に上記の内容になったという。これが初日の惨敗を象徴する出来事になったとして、以後しばらくの間、スタッフ間で「鮭」は禁句となり、久米も1年間鮭を口にしなかったという。その直後には、同市出身の稲葉修(当時自民党衆議院議員)が、自宅からの生中継で久米とトークを繰り広げている。
初期は月曜日から木曜日は22:00 - 23:17(「大相撲ダイジェスト」放送時は23:15まで)、金曜日のみ22時台は『必殺シリーズ』など当時の朝日放送(現在の朝日放送テレビ)制作枠であり、スタート当初はこの枠について朝日放送との調整が付かなかったこともあって、1時間遅れの「金曜版」とし、23:00 - 翌0:00の放送となった(「大相撲ダイジェスト」放送時はネットスポンサー枠の23:45まで)。
開始当初は観客を入れての公開形式番組として放送されており、原則としてメインスタジオであるAスタジオからは一般ニュースを放送しない(一般ニュースは『ANNニュースファイナル』時代の名残から1コーナー扱いとされ、報道局のNスタジオから小宮・坪井(貴)が伝える形となっていた)構成が採られるなど、報道にバラエティ色を加味した内容となっていた。しかし、開始早々から阪神タイガースの21年ぶりのリーグ優勝・日本一、エドゥサ革命など、重大ニュースにより全編Nスタジオからの臨時編成となるケースが多く、その際に一般公募によるキャスター陣が対応に窮する場面が多々見られたこと、また開始早々の視聴率低迷の影響もあり、開始数回でAスタジオでの観客入れを廃止したのを皮切りに番組内容・キャスター配置の再整理が急ピッチで進められ、1986年4月からは全編を通じて久米・小宮・小林の3人体制で進行・ニュース読み・解説を担当する報道色の強い番組構成にリニューアルされた(この際、リポーターと並行して不定期で天気コーナーを兼務するようになった橋谷、同じく不定期でゲストコメンテーターを兼務することになった若林と天気キャスターの松本、リポーターの内田誠を除く公募によるキャスター陣は一旦リポーター専任となった後、開始1年以内で全員番組を降板している)。
放送するスタジオに関しても、1986年の久米・小宮・小林のトリオ体制になる前後から1990年代初頭まではオープニングから概ねスポーツコーナー開始前のCM枠までの前半部がNスタジオからの放送となり、Aスタジオはスポーツコーナー以後の後半部で使うように変更された(日によっては全編Aスタジオから放送の場合もあった)。ただし、重大ニュースがあった場合や後述するセット改装があった場合は全編Nスタジオから放送していた。
ただし、「金曜版」については上記の番組リニューアル後も引き続きバラエティ色の強い構成を継続(しばらくNスタジオ・Aスタジオ併用の構成も継続し、小宮はNスタパートのみ出演していたが、末期はAスタジオからニュースを読むこともあった)し、Aスタジオでの観客入れも継続していた。この「金曜版」は、当時週休二日制が定着していたことから、『TVスクランブル』など本番組開始までの久米のレギュラー番組を引き継いだような内容がメインとなっており、土曜に代わる「休日前夜」という位置づけでNスタジオからの通常のニュースに加えて、毎回ゲスト2名(男女1名ずつ)をブーメランテーブルに隣接するソファのセットに招いて、「金曜チェック」「奥様教養シリーズ」「ニュースミステリー」「カウントダウンJAPAN」「ニュース・ことわざ勉強室」「ニュース分水嶺」「ニュースのふるさと」「世直しエイド」といったコーナーを放送した。
1986年7月から選挙特別番組として『選挙ステーション』がスタートする。
1988年4月改編で朝日放送が金曜22時台撤退により月曜日から金曜日まで放送時刻が統一されることとなり、3月25日と4月1日の2週にわたって「金曜版」終了スペシャルを放送する予定だったが、3月25日は臨時ニュースのため放送できず、4月1日のみの放送となった。「金曜チェック」はこの影響で2本立てで放送された。なお、「金曜版」最終回の4月1日より22:00 - 23:17の放送となり(当初の予定通り)、放送開始時刻が統一されただけでなく放送時間も同じになった。
新体制となる1988年4月4日から全曜日統一して報道色の強い構成となったが、金曜は金曜版からの名残もあり、「金曜コンサート」などの企画を設けたり、1990年代に入ってからはテリー伊藤や笑福亭松之助など金曜のみ出演するレギュラーを起用するなど、月曜から木曜までとは違う雰囲気作りが図られるようになる(これは現在の『報道STATION』でも変わっていない)。金曜版を引き継ぐ形でミュージシャンやお笑い芸人がゲストとして登場することもしばしばあった。
1990年には久米が第27回ギャラクシー賞・テレビ部門個人賞を受賞。1993年には番組としてギャラクシー賞30周年記念賞を受賞。
1993年7月1日(木曜日)、久米が同年の下半期突入を期に眼鏡を着用するようになった。この頃のメガネはまだ報道キャスターらしいシンプルな枠が無いレンズのみのものであり、このメガネは1999年10月の一時降板までは一貫して変更せずに着用し続けた。
1995年4月からは新たにスタジオサブキャスターを金曜日のみに新設。この金曜日のみ久米・小宮・コメンテーターを加えた4人体制となる。
1996年10月3日からスポーツキャスターが坪井直樹から角澤照治に変わり、角澤は番組終了まで7年半にわたってスポーツを担当することとなった。翌週10月7日からテーマ曲と作曲者を約7年半ぶりに新しいものに変更した。
1997年4月から金曜のみに女性スポーツキャスターを設けた。初代はテレビ朝日スポーツ局記者の長島三奈が務めた。
1998年3月27日、小宮が石田純一の後任として『スーパーJチャンネル』のメインキャスター就任のため降板。但し、金曜日のみの出演に移行した(『Jチャンネル』も半年間は金曜日のみ出演せず)。小宮降板後の2代目サブキャスター就任までの間、同年5月8日までサブキャスター代理として月曜日から木曜日は堀越むつ子(3月30日 - 4月16日)・渡辺みなみ(4月20日 - 4月30日)・渡辺宜嗣(5月4日 - 7日)の3人で繋いだ。
1998年5月11日、改編期から約1か月遅れでリニューアル。久米に加え、後任のサブキャスターにTBS退社直後の渡辺真理、スタジオサブキャスターにテレビ朝日スポーツ局記者の白木清か、1997年11月から出演しているコメンテーターの菅沼栄一郎の4人体制となる。これまでは金曜のみスタジオサブキャスターを設けていたが、このリニューアルによってスタジオサブキャスターは月曜から木曜にも追加新設され、全曜日で設けられるようになった。なお、金曜日のみは引き続き小宮と丸川珠代が担当する。テーマ曲がゴスペラーズの曲に刷新されて、番組のタイトルロゴも若干アレンジしてリニューアル。オープニング映像もニュース映像に変わり(但しリニューアルした初回は久米、真理、白木がスタジオに向かう様子の映像を流したほか、ゴスペラーズがゲスト出演した際はスタジオでオープニングを生披露しているのを背景にするなどの例外あり)、最初から日付表示がなされるようになった(タイトルは映像の最後に表示)。但し大きなニュースが入った時はピアノ曲になりスタジオ背景で日付出てから直ぐにタイトル表示となる。
田代まさしの降板で金曜日も『Jチャンネル』に出演するため、番組開始から12年半出演後も1998年4月10日以降の金曜に限って出演を続けてきた小宮が1998年9月25日を以って完全降板、翌週の10月2日には丸川も降板した。翌週10月5日より、真理と白木は全曜日出演となる。1999年2月から月曜日と火曜日のみ上山千穂が担当し、白木は水曜日から金曜日の担当に縮小となった。
1999年8月、セットをリニューアル。ところがその約2か月後の10月6日放送を以て、契約切れを理由に久米が番組を一時降板するという異例の事態となった。これを受けて翌10月7日放送から約3か月間、年末まで宜嗣が代役を務めた。
2000年1月4日、前年12月23日に寿退社のため降板した白木清かと入れ替わる形で、久米が3か月ぶりの番組復帰を果たす。それに伴い番組もリニューアルした。スタジオサブキャスターも上山千穂が全曜日担当することになり、久米・真理・上山とコメンテーターの4人体制となる。また、コメンテーターも清水建宇・萩谷順・森永卓郎・船曳建夫の4人(2002年頃に船曳が降板し、以後は3人体制)に一新された(日替わりでいずれか1人が出演)。テーマ曲が福岡ユタカ作曲のものに刷新され、スタジオセットやタイトルロゴ・グラフィックデザインもリニューアルと同時にタイトルロゴがカタカナ表示の「ニュースステーション」から英語表記の「NEWS STATION」に変更。オープニング映像はその日の放送するニュース内容の告知を行うスタイルに変わった。リニューアル当初はトップニュースを合成したCGをバックにBGM付きで読み上げる演出もあったがすぐになくなった。
2000年3月27日、放送開始時間が6分繰り上がり、21:54開始のフライングスタートとなった。これにより終了時間も23:20→23:09と11分繰り上がった。同時に番組構成も若干変更が行われる。2000年4月14日、金曜日の女性スポーツキャスターの出演者のリニューアルが行われ、テレビ朝日を退社(後に嘱託社員として復帰)した長島三奈に代わり、『進ぬ!電波少年』(日本テレビ系列)で注目を集めたタレント・女優の真中瞳(現・東風万智子)を起用。
同日よりNHKが本番組に対抗する形で同時間帯で『NHKニュース10』を開始。
2002年4月1日から6月28日までは日韓共催の2002 FIFAワールドカップ開催に伴い、オープニングで毎日FIFAワールドカップの歴史を流す特別オープニングに変更(川平慈英のナレーション入り。タイトルと日付は紹介後まとめて上にタイトル下に日付という形で表示された)。テーマ曲はCharが担当した。
2002年7月1日からテーマ曲がサラ・ブライトマンの曲に変更。また、角澤のスポーツ担当曜日がこれまでは月曜日から木曜日だったのが、月曜日から水曜日に縮小され、空いた木曜日には河野明子が担当することになった。その後、2002年9月27日を以って真中が降板。これと同時に番組開始から17年(一時期降板していた時期あり)出演してきた宜嗣も前田吟に代わり『スーパーモーニング』のメインキャスターに就任するため降板した。翌週から河野が金曜日も担当するようになり、月曜日から水曜日は角澤、木曜日・金曜日は河野がスポーツを担当する。
2003年8月25日、翌年春を以って本番組の放送を終了する事が発表された。久米はこの週は夏季休暇中だったが、この日移転前のテレビ朝日六本木6丁目本社ビル(六本木ヒルズ)で番組終了発表会見(公式には「来年(2004年)3月で降板」と発表)を開き、「十分にやった、スタミナ切れ」「2000年復帰後3年という話だったこと」ということを終了理由に挙げていた。
テレビ朝日・広瀬道貞社長は2003年9月30日の定例会見で、久米が3年ほど前から降板の意向を度々申し出ており、これ以上の慰留は出来ないと判断したため出演契約を2004年春で満了とする事で合意したことを明らかにした。
2003年9月29日、テレビ朝日の本社移転に伴い、放送スタジオがテレビ朝日アーク放送センター(アークヒルズ)からテレビ朝日六本木6丁目本社ビル(六本木ヒルズ)へ移りスタジオセットとテーマ曲をリニューアル。タイトルロゴはそのままで、色がオレンジ/黄色を基調としたものから青/水色を基調としたものに変更された。テーマ曲はU2が担当した。
2004年3月26日の最終回ではその日のニュースに加え、過去19年間のニュースの振り返り、現代の久米(と当時50歳の久米)が番組開始の1985年の本番組へタイムスリップ(という設定の演出)し、スタジオ見学をするなどの内容で放送され19年間の歴史に幕を下ろした(最終回の詳細は後述)。
後継番組は『報道ステーション』である。なお、角澤と河野・スポーツコーナーのみ関わっている宮嶋泰子と栗山英樹は引き続き立ち上げ当初の『報ステ』にも出演することになった。
久米が会見で後継番組の初代メインキャスターを務める古舘伊知郎に関して記者に尋ねられた際、「いや、番組はなくなるって聞いていますから。存在しない番組に司会者が存在するわけないでしょ。」と発言した事に対し、雑誌のインタビューで古舘は「(久米を)冷たい男だなと思いましたけど。」「それから久米さん嫌いになったんですけど。」と述べた。その後には「半分は大先輩だと思って尊敬している。半分は嫌いっていうところに落ち着くんだけど。」と語った。ただし、その後久米は「いかにつらいか、大変さが手に取るように分かる。(最近は)見ていないけど、無意識のうちに避けているのかもしれない」「自分は家を土台から造った。自由に造って来た。でも、彼はその土台を壊す事をさせてもらえずに、建物を造る様にさせられている。その事に苦労していると思う」と古舘を気遣うコメントをしたことがある。
本番組の後継番組『報ステ』降板後もテレビ朝日への直接の出演を行う古舘伊知郎とは違い、久米は本番組終了後、テレビ朝日への直接の出演を一切行っていない。
なお、『報ステ』の初回放送は2004年4月5日であり、2004年3月29日 - 4月2日の当該時間帯は『ANN NEWS&SPORTS』をつなぎ番組として放送した。
すべて日本時間(JST)で記す。
大災害などの緊急ニュースの発生時には放送を21時からに前倒しあるいは放送終了時間の延長をすることがあった。
初めて放送終了時間の延長を行ったのは、1986年2月25日である。この日フィリピン政変が起こり、それに関連して、30分の時間延長がなされた(詳細は後述)。
初めて前倒し編成を行ったのは、1986年11月21日である。この日に発生した伊豆大島三原山の大噴火に関連して、22時から約2時間の拡大版として放送した(詳細は後述)。
この件をはじめとして、それ以後も湾岸戦争開戦、皇太子徳仁親王ご成婚、阪神・淡路大震災、アメリカ同時多発テロ事件などではほぼ同様の措置がとられ、特に三原山噴火の際には、当時クロスネット局で、テレ朝枠を持っていた山形放送が編成の都合上差し替えもできなかったことから、臨時ネットとして60分のみ放送したことがある。
全国高等学校野球選手権大会が行われる毎年8月中旬の2週間は、ハイライト『熱闘甲子園』(朝日放送制作)を放送するための特例編成となっていた。
大相撲期間中は『大相撲ダイジェスト(以下:ダイジェスト)』を放送するため、『Nステ』は3分短縮となっていたが、1995年4月改編を期に解消された。2000年4月のフライングスタート開始以後はネオバラエティ・金曜ナイトドラマの後に『ダイジェスト』を放送した。2003年9月の六本木ヒルズ新本社移転直前をもって『ダイジェスト』は終了する。なお、1988年3月までの金曜版は23:45までの45分間に短縮して放送していた(通常は途中までがネットセールスだが、45分枠へ短縮時に限り全編ネットセールスとなった)。
オープニングでは、番組開始と同じ1985年に植えられたアークヒルズの桜並木から夜桜中継を行い、スタジオに映像が切り替わるとアークヒルズの夜桜の映像をバックに久米が「こんばんは。最後の『ニュースステーション』です」と挨拶。その後、アークヒルズの桜並木への思い入れを語った。なお、後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター・古舘伊知郎時代最後の回(2016年3月31日放送)でも同様にオープニングでアークヒルズからの夜桜中継を行った。オープニングの後は、後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター・古舘伊知郎時代最後の回同様、この日で最後とは思えない程の通常通りの内容で放送した。番組中には、細川護煕元首相が久米に宛てたビデオメッセージや石原慎太郎東京都知事(当時)が当日の定例会見で当番組が終わることについて問われた際の様子なども流した。
一通りニュースを伝え終わった後の番組中盤では「ニュースが撒いた種」としてニュースステーションと縁のある一般視聴者への取材VTRを小西真奈美のナレーションで放送した後、久米は「『ニュースステーション』続ける中で一番苦労したというか、辛かったことっていうのは、いつ終わるか分からないこの番組は、ということでした。(中略)そこで、今日ようやく最終回を迎えたわけですが、「今日最終回を迎えるんだ。そういうことが将来にあるんだということを過去の自分に何とか教えてあげたい」とわたくしはふと思いつきました。そして、過去の自分に3日前(2004年3月23日)に会いに行ってきました」と切り出し、1995年10月16日の番組10周年の特別企画の際に、10年目を迎えた久米が、番組初回の自分を激励しに、当時のスタジオへ行った企画の映像を使い、最終回を迎える久米が、1年目の自分と10年目の自分に、番組終了を報告しに行くVTRが放送された(前述の日付に収録)。
VTRが一旦一区切りしてニュースを2本伝えた際、イラクでの陸上自衛隊の支援活動についてのニュースで久米は「発言の場が無くなってしまうのでもう一度申し上げておきますが、僕はイラクへ自衛隊を日本が派遣する事は反対です」とコメントした。その後天気予報では上山が、スポーツでは角澤と河野がそれぞれ視聴者へ一言挨拶した。
前述のVTRで番組終了を報告した部分は番組として最後となるCM明けに放送され、続けて歴代オープニング曲とその当時の久米の映像を交え、これまで19年間のニュースを振り返った。
その後、フラッシュニュースを挟んでエンディングではまず真理が視聴者への挨拶の一言を述べた。そして、久米が民間放送の在り方について、視聴者を始め、広告代理店の電通、歴代のスポンサー・スタッフなどへ感謝の言葉、小学生時代の自らの通知表の内容、番組や久米個人に対する批判者へのお礼などを述べた。その途中で「僕のご褒美」として久米はセットの中にあった冷蔵庫からビール瓶を取り出した。さらに、中国語によるパロディ予告編「久米的電視台」が放送された。
最後は、スタジオに集まった出演者・関係者からの大きな拍手の中、「じゃ、乾杯」と言って久米が一人手酌のビールを一気に飲み干して、「(降板し、一度「お別れ」していた時期があったためか)本当にお別れです。さようなら!」と挨拶し、番組は終了。60歳を目前にして19年間の歴史に幕を閉じた。
番組終了後、後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター・古舘伊知郎時代最後の回と同様、同日中に競合番組である『筑紫哲也 NEWS23』(TBSテレビ)内のコーナー「多事争論」で、筑紫哲也が久米宏への「労いの言葉」を述べたことを始め(その日のタイトルは「さようなら、NS」)、翌日以降の情報・バラエティ番組、新聞各紙等でも報道されるなど、報道番組としては極めて例外的な扱いを受けた。
最終回の視聴率は19.7%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。
本番組の終了によりプロダクションのオフィス・トゥー・ワンは、同時間帯の報道番組制作から撤退することになる。その後、後継番組『報道ステーション』についてはテレビ朝日と初代メインキャスター・古舘伊知郎の所属事務所でもある古舘プロジェクトの同時間帯の報道番組制作(形としては古舘プロジェクトは制作協力扱い)の引き続きでの体制を取っていたが、古舘が2016年3月31日をもって降板したのに伴い古舘プロジェクトも同時間帯の報道番組制作から撤退することになった為、本番組から31年間にわたって長く続いた平日22時台の報道番組の制作プロダクションは完全に廃止され、2016年4月11日の全面リニューアル以降はテレビ朝日の単独制作になった。
なお後継番組『報道ステーション』については内容の一言を述べておらず、初代メインキャスター・古舘伊知郎にエールを送っていなかったためか、本番組とは全く別の番組だった場面があったという位置付けがなされ、久米側の意向でテレビ朝日側が当初計画していた花束贈呈などの司会者の引き継ぎは一切行われなかった。なお、後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター・古舘伊知郎時代最後の回(2016年3月31日放送)でも同様に花束贈呈などの司会者の引き継ぎは一切行われなかったが、古舘が最後の挨拶の中で、後継番組『報道ステーション』とは全く別の番組だった本番組についての内容の一言を述べた事をはじめ、後任のメインキャスター・富川悠太(当時テレビ朝日アナウンサー)に「乱世の雄になってもらいたい」などとエールを送るという位置付けがなされた場面があった。
番組内で久米が番組の放送開始・主なコーナーの開始時間を一定にするようアピールしてきた。番組(または野球速報)を「日々の生活の一部」として観ている視聴者を尊重してのことで、放送時間の変更があれば、時には前週から丁寧に予告していた。10時開始だった2000年3月までの番組構成を例に挙げると、スポーツは22:30頃、天気予報は22:50頃に放送。
本番組では当初からスポーツニュースに力を入れ、番組後半の多くをスポーツコーナーに費やした。久米曰く「スポーツは僕たちの生活にとって考えている以上に重要な存在だ。ひいきのプロ野球チームの観戦をしたり、ファン同士で熱く語らい合ったり、試合結果に一喜一憂したり。いかにスポーツが自分たちの人生を豊かにしているか。ふさぎがちな日も「阪神が勝った!」で、ほとんどのウサが吹き飛ぶほどの力をスポーツは持っている」「映像技術によって、スポーツの魅力を多角的に伝えることができる。つまりテレビがその機能を最大限に発揮できるジャンルがスポーツなのだ」として、番組開始前からスポーツ担当のスタッフと「スポーツがなぜ重要か」「スポーツをいかに楽しく伝えられるか」を議論し、「スポーツの大切さを視聴者に伝えよう、そのための時間をたっぷり取ろう」という方針を共有した。。その方針から以下のような企画や伝え方がなされていた。
プロ野球に関しては当日の試合速報が番組の主力コンテンツとしてあり続けた。2月の「キャンプフラッシュ」、3月の「順位予想」、10月の「日本シリーズ予想&解説」が恒例。日本シリーズに関しては該当チーム以外の監督・選手が解説者として出演することもあった。
川平慈英が専属キャスターとして、Jリーグ開幕時から番組終了まで出演した。Jリーグも試合のある日は全試合の結果を放送、特集枠をJリーグ情報に充てることもしばしばあった。1998年サッカーW杯では川平がフランスから連日放送。2002年W杯ではテレビ朝日が担当した日本対チュニジア戦の放送を久米と川平の司会で放送した。
放送日にJリーグの試合がある場合、他のスポーツニュースでは試合映像の終わりのところでその試合のスコア結果を字幕出ししていたが、この番組はプロ野球と同じ要領で、試合映像を最初に映した後、映像が終わってから別のカットで詳細なスコアテーブルを全画面表示して、そこに川平が選手・監督談話や記録などの一口メモを述べる体裁をとっていた(一部の日、1 - 2試合程度しか行われなかった場合は除く)。
1999年2月1日に「汚染地の苦悩 農作物は安全か?」と題した特集で、民間の環境測定コンサルティング企業である株式会社環境総合研究所(1986年設立、本社・品川区、青山貞一社長)が1998年に独自に計測したデータから、『所沢市の“ホウレンソウをメインとする野菜”/“葉っぱものの野菜”から1グラム当たり3.8ピコグラムのダイオキシン濃度が検出された』と、青山社長がコメンテーターとして久米と対談のうえセンセーショナルに報道した。予てから埼玉県所沢市東部の関越自動車道沿いに広がる「くぬぎ山」と称する雑木林周辺で産業廃棄物の小型焼却炉や中間処分場が1990年以降多数立地するようになり、排煙や焼却灰に含まれるダイオキシンによる大気汚染・環境問題が懸念されていた。1997年に厚生省が全国の野菜に含まれるダイオキシン濃度を検査したことを受け、JA所沢(現:JAいるま野)は地元産のホウレンソウや白菜など野菜5品目を測定するも公表しなかった。そこで番組はこれら周辺の状況を絡めて報じたのである。
この結果、ホウレンソウを始めとする所沢産の野菜がダイオキシンに汚染されていると食品スーパーなど小売業各社が認識し、翌2日より所沢・入間郡産はもとより、一部で県北部の深谷ネギなど埼玉県産の農作物全般で自主的に販売停止措置を講じて締め出されるという騒動に発展。農作物の出荷は継続されるも青果市場で埼玉県産農作物の卸価格が半値以下に下落する被害が出た。
当時、全国朝日放送(通称:テレビ朝日)は『ザ・スクープ』で1995年から1998年にかけて所沢市の産業廃棄物処理場とダイオキシン汚染による健康被害など環境問題を7回取り上げており(判例より)、初回放送直後の放送回でコメンテーターの菅沼は「この報道をやめて(ダイオキシン問題を)救えるかってんだ!」と生放送の番組内で大声で啖呵を切るなどして誤りを認めなかった。
これを受け、同月5日に埼玉県が事実確認を行う旨公表し、テレビ朝日以外のキー局は番組名を伏せて情報番組などで騒動を取り上げるようになった。同月6日にJA所沢(現:JAいるま野)が検査結果を公表する動きを見せ、同月8日にJAと地元農家がテレビ朝日を訪問し抗議。同月9日にJAは野菜のダイオキシン濃度はきわめて低いとする詳細な検査結果を公表し、安全宣言。同月18日に埼玉県が報道の最高値は煎茶であったと発表し、全国朝日放送は番組内で不手際があった事を認めた。煎茶は乾燥しているため本体重量が軽く、生鮮野菜と同量のダイオキシンが見かけの上で多く計算されることによるもので、飲用では健康に悪影響はないものだった。なお、ホウレンソウも同時に計測されており、1グラム中最高0.75ピコグラムであったことが後日公表されており、青山や久米が“ホウレンソウをメインとする葉っぱものの野菜”と抽象的で曖昧な表現に歪曲して批評したことから報道被害を招いたとされている。
同月12日に中川昭一農水相が全国朝日放送(テレビ朝日)報道局長宛に調査を行うよう申し入れを行い、翌2月13日、久米が番組内で農家に謝罪。「検査対象が茶だとは知らなかった」と弁明したが、その後、批判対象は環境汚染の元凶である産廃施設とそれを管轄する行政(所沢市・埼玉県)にあるとする動きを見せた。
全国朝日放送は同年6月21日付で郵政省(現:総務省)から「農業生産者に迷惑をかけ、視聴者に混乱を生じさせる不正確な表現が行われたことは、放送法の趣旨に照らし遺憾」として厳重注意の行政指導を受けた。
所沢市周辺の食品スーパーでは徐々に野菜の販売が再開されたが、それ以外の埼玉県内を含む首都圏の食品スーパー・百貨店では農作物の販売再開に慎重な動きを示した。また逆に狭山茶など埼玉産の煎茶が販売自粛に追いやられ、鹿児島県や静岡県は煎茶のダイオキシン濃度を自主的に検査する動きを見せた。後に中川農水相や小渕恵三首相が所沢産野菜を食して安全宣言を出すパフォーマンスを行う事態になった。
農家側は同年に風評損害を受けたとして、同年9月に当初376人の原告団を結成して全国朝日放送(ANB)と環境総合研究所に対して謝罪広告の要求を兼ねた損害賠償請求の集団訴訟を提訴し(浦和地裁 平成11年(ワ)1647号)、民事事件へと発展した。この一連の騒動は販売停止の解消と提訴が行われるまで地元紙の埼玉新聞でほぼ連日報道されていたが、同時期に桶川ストーカー殺人事件や本庄保険金殺人事件など皮肉にも埼玉県を事件現場とする凶悪事件が立て続けに発生し、前者は日本におけるストーカー問題提起のきっかけとなる程社会に衝撃を与えた事件であり後者は被疑者が繰り返しメディアに会見を行うというその行動の特異性からこぞって各マスコミがこの2つの事件の取材に人員を回したことから各マスコミでの報道は急速に縮小した。
訴訟では2001年判決の1審と2002年判決の2審(東京高裁平成13年(ネ)第3301号)がテレビ朝日側が勝訴、最高裁で2審の判決を破棄し、東京高裁に差し戻された((一小)平成14年(受)第846号)。番組終了後の2004年6月16日に、テレビ朝日が農家側に謝罪して和解金1000万円を支払うことで和解が成立。原告団は900万円を三宅島噴火被害による農業振興に役立てて欲しいと三宅村に、100万円を食育活動へ役立てて欲しいと所沢市に寄付した。環境総合研究所に対しては測定内容が事実であったことから1審・2審ともに敗訴が確定している。
『ザ・スクープ』の報道後の1997年に所沢市は「ダイオキシンを少なくし所沢にきれいな空気を取り戻すための条例」など幾つかの条例を施行していたが、この騒動を受けて埼玉県は野焼きの自粛要請・産業廃棄物排出事業者の公表を、政府レベルでは「ダイオキシン類対策特別措置法」・「循環型社会形成推進基本法」が施行され、廃棄物や焼却炉に対する規制が強化された。また、くぬぎ山に所在する産業廃棄物の焼却炉は不燃物を粉砕する中間処理施設への転換が相次いだ。
久米はゲスト出演した2014年2月23日放送の『爆笑問題の日曜サンデー』(TBSラジオ系)の中で「地域的にも、所沢の方とか、いろんな所に迷惑をかけた。裁判所に呼ばれそうになるし」といった発言をしている。
それまでニュース番組のセットは、キャスターの背後にクロマキーなどの壁板を置き、横1列になって座るのが主流だった。当番組では後述するように「全国の都市生活者に向けて発信する」という理念から、従来の壁板というセットを廃し、都心の高級マンションの一室のような、都会的でおしゃれなオフィス空間をコンセプトに、「自宅で食べたりくつろいだりするような日常の気分を番組に持ち込みたかった」という。本物の質感とイメージを追求し、木組みの床を貼り、柱や梁、階段には建築用資材を使用。セット建て込みには美術スタッフだけではなく大工の手も借りたという。セットはすべて久米が提供したコンセプトとイメージが実現された。久米はスタッフに念のため予算を聞いたところ「考えなくていい」と言われたという。
スタジオセットは、テレビ朝日アーク放送センター地下3階にあったAスタジオ(テレビ朝日の本社移転後は、六本木ヒルズ新本社4階にある第4スタジオ)に常時建て込まれている状態で、2階(末期のセットでは3階)まで作られたほか、ゲストを招く部屋や家具までも仕込まれるなど大掛りで非常に手の込んだものになっている。コンセプトは「久米宏の部屋」で、放送終了までに5回改築された。
『ニュースステーション』ではキャスター席に特徴的な「ブーメランテーブル」が使われ、メールマガジンのタイトルを『NSブーメラン』とするなどこの番組の名物であった。番組開始当初は濃い色のものが使用されていたが、後に交換されたときには薄い色のものへ変更になった。テーブル自体は、大道具担当ではなく家具メーカーに発注し作られた。
それまでは前述のとおり、横一列に座るのが主流だったが、多くの出演者が座って話す際、横一列では平面的になり、互いの顔を正面から見ることができず、丸いテーブルだと視聴者不在の印象を与えてしまうことから、画面効果と機能面を突き詰めて余分な部分を突き詰めた結果、「湾曲したテーブルの形」になったという。磨きぬいたテーブルに傷がつかないように出演者もスタッフも細心の注意を払い、本番開始直前までテーブルは分厚い布製カバーで覆われ、本番終了後も直ちにカバーをかぶせていた。テーブルは食卓をイメージしているため、従来のように前を覆っておらず、出演者の脚や靴までがすべて見える。さらに、それまで出演者は一つの画面に収めるために肩と肩がぶつかるほど座っていたのを、十分な距離を置いて座らせ、空間を贅沢に使った。
ブーメランテーブルについては、「湾曲していたほうが出演者同士が話しやすい」「情報は一方的伝えるだけでなく、視聴者から帰ってくる反応を汲み取り、さらにまたニュースを伝える」との意図があった。キャスターの足が見えるテーブルは、ニュース番組では初めての試みであり、家具メーカーが製造した一般のテーブルのため、音声のカフボックスや確認用のモニターは設置されなかった。
本番組の放送が始まった頃のANN加盟フルネット局はキー局のテレビ朝日を含めて12局だった。クロスネット加盟である福井県の福井放送(放送開始後の1989年4月加盟)と、宮崎県のテレビ宮崎は、その関係上NNN(日本テレビ系)の夜の最終ニュース『NNNきょうの出来事(現:news zero)』などを放送していた。その他、ANNフルネット局が出現するまでANNに加盟していたクロスネット局に、ネットしていた局はなかった(報道特番等の臨時ネットは除く)。しかし、久米は系列局が都市部に限られていることから「NHKのように全国に配慮した全方位型ではなく、都市生活者に向けたニュース番組にできる」と前向きに捉えていた。
ANNは、テレビ放送ネットワークとしては他の放送系列よりも系列局の設置などにはばかるほどの起伏に当たるばかりになってしまい、その後、日本テレビとフジテレビの人気番組の勢いが優位的になると、各地のローカル局は人気ネット番組の整理に追われるようになる。1989年の熊本朝日放送(KAB)の開局を皮切りに、テレビ朝日はそれまで進んでいなかった全国ネットワーク構築を再展開。それまで他系列とのクロスネットを組んでたローカル局ともネット関係をほぼ断ち切るようになり、フルネット24局体制を『ニュースステーション』の放送期間中に完成させ、「ニュースステーション」は、北海道から沖縄までテレビ朝日の放送が視聴できる体制づくりにも貢献した。
なお、番組中に系列局発のローカルニュースを挿入する部分が一貫してなかったため、各系列局の最終版ローカルニュースは、本番組の放送終了後か、深夜枠に回されていた。この方針は『報道ステーション』でも同じである。
※1991年1月の湾岸戦争や1993年1月19日の皇太子妃雅子の婚約など、山形放送(YBC)が数回60分間のみネットしている。 | [
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"text": "『ニュースステーション』(英語: NEWS STATION)は、1985年(昭和60年)10月7日から2004年(平成16年)3月26日まで、テレビ朝日系列(ANN)で平日(祝日も含む)22時台に生放送されていた報道番組である。テレビ朝日とオフィス・トゥー・ワン(形としては企画・制作協力扱い)の共同制作。全4,795回の平均視聴率は、14.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。通称「Nステ(エヌステ)」、「NS(エヌエス)」、「Nステーション(エヌステーション、テレビ欄)」。",
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"text": "テレビ朝日が平日23時台に放送していた『ANNニュースファイナル』・『ANNスポーツニュース』に替わり、ドラマやバラエティ番組を放送していた平日22時台に新設したニュース番組である。テレビ朝日の本社移転(アークヒルズ)と同時に開始された。構想段階から広告代理店である電通が深く関与した。久米宏も構想の段階で起用が決まり会議に参加しており、番組の準備などのため、久米は1985年4月までに『おしゃれ』(日本テレビ系列)以外のレギュラー番組を降板した。",
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"text": "当時としてはこの時間帯のニュース番組は、独立U局である近畿放送(後に「KBS京都」との局愛称を使用。現・京都放送)で放送していたタイムリー10とその一時期にタイトルと放送時間を改変したザ・タイムリーがあった(1987年春頃に放送時間を再度繰り下げた際に番組タイトルを元に戻した)程度であり、近畿放送の放送区域であった京都府・滋賀県以外の45都道府県ではこの時間のニュース番組そのものが初の試みであったことから、番組の先行きに対して不安を持つ者も多かった。開始第一週目の週平均の視聴率は8.68%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム、以下断りのない限り略)と低視聴率に悩んだ。1986年2月のエドゥサ革命以降は、安定して20%前後の高い視聴率を誇り、テレビ朝日の看板番組となった。視聴率20%超えは、245回(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。関東地方より先に関西地方(朝日放送)で視聴率(ビデオリサーチ調べ、関西地区・世帯・リアルタイム)を獲得した。",
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"text": "「中学生でもわかるニュース」をコンセプトとして、政治や経済などのニュースにおける難解な用語や展開などを、フリップや地図、模型、実物、政治家人形、積木などを使い、わかりやすく伝える工夫を凝らした。これで徐々に視聴率を獲得した。初期には手書き・手作りといったアナログ感を重視していたが、コンピュータグラフィックスについても最新技術を積極的に導入している。安竹宮で争われた1987年自民党総裁選挙では全派閥を積木で表現し、積木を積み立てて今後を予測した。1990年代初めには民間気象情報会社のウェザーニューズの協力で天気予報に3DCGを使い、イラク戦争では地図に「CADシステム」を用い、後のGoogle Earthのように直感的な操作で地図の拡大・縮小を行った。2002年あたりからはクロマキー処理を行わないリアルタイムCGも多用された。この他、BGM・ナレーション・テロップなどをワイドショーのように使う表現・演出手法は、しばしばニュースを過度にセンセーショナルなものに見せた。また久米が「個人的意見」を言うことで従来の番組や新聞との差別化を図った。",
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"text": "従来、外部発注が常識となっていた民放テレビ局にあっても報道番組は聖域とされ、ごく一部の例外 を除いて番組制作が外部に委託されることがなかった中で、オフィス・トゥー・ワンという外部の制作プロダクション(久米の所属事務所でもある)を導入してニュース番組を制作した。",
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"text": "本番組開始以降、現在の『報道ステーション』に至るまでネットスポンサー各社は、スポーツコーナーを除いて30秒枠の企業も60秒扱いでクレジットされている。また、読み上げも既に『クイズタイムショック』で導入されていた全社読み上げ形式で(言い回しは「(ここまでは、)スポンサー会社名がお送りします(しました)」である)、これも『報ステ』に引き継がれている。",
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"text": "音声は当初モノラル放送であったが、1993年4月19日からステレオ放送になった。また、番組最末期はスタジオ映像のみハイビジョン制作(16:9サイズ)だった。しかし、実際に本番組をハイビジョンで放送していたのは当時地上デジタル放送が開始されたばかりだったテレビ朝日と朝日放送(ABCテレビ)・名古屋テレビ(メーテレ)だけだった。",
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"text": "当番組の原型となる企画を練る会議は、1984年夏ごろから『久米宏のTVスクランブル』(日本テレビ)の企画会議と並行して、久米とオフィス・トゥー・ワンのスタッフで水面下で進められていたという。久米は『TVスクランブル』を「未来のニュース番組につながるステップボードのような役割を果たしている」としており、そこで考えたのが当番組のコンセプトである「中学生でもわかるニュース」だった。彼らが常に意識していたのが当時、報道番組の王座に君臨していた『ニュースセンター9時』(NHK総合テレビ)だったが、久米は「裏で勝負するのは無謀極まりない」として、せいぜい午後11時からの30分枠を思い描いていた。しかし、話を進めるうちに平日帯のプライムタイム枠での1時間枠という構想に膨らんでいった。しかし1時間では採算が取れないため結果的には1時間15分となった。その後、この大胆にして無謀な構想に乗った電通の参入や、電通の支持を取り付けてオフィス・トゥー・ワンのスタッフが久米の古巣であるTBSを含む在京各局にこのニュース番組の企画書を持ち込んだところ特に敏感に反応したこと、そして当時の報道局次長である小田久栄門の「報道はテレビの本道です」という訴えに応じた朝日新聞の社会部出身で当時の社長・田代喜久雄の英断、さらに六本木六丁目の再開発に際してアークヒルズへの本社機能移転・最新鋭の放送設備を備えた放送センターの新設を行うにあたりその開設記念の大型の目玉企画を模索していた、という三点からテレビ朝日も参入が決まった。電通は企画開発段階から特別チームを編成して視聴者動向のマーケティングや視聴率のシミュレーションを実施。『ニュースセンター9時』のニュース項目を1週間に渡り分析するなどして基本構想をまとめていった。テレビ朝日の社内では「テレビ局でも最も神聖にして侵してはならない報道の分野に外部の制作会社が参入」「プライムタイム帯へ視聴率が望めない大型ニュース番組の投入」「報道の現場を全く知らない他局アナウンサー出身のタレントのキャスター起用」というそれまで厳然とあったタブーを侵す新たなニュース番組の立ち上げに非難・反発が上がったが小田がリーダーとなって同じく特別チームを編成。制作スタッフには局内から有能な人材が集められたが、その人事異動はトップダウン方式で召し上げられるものであり、社内で「赤紙」と揶揄されたという。こうして、電通の営業戦略会議、テレビ朝日の新放送センター開設に伴う番組会議、オフィス・トゥー・ワンの企画会議と3か所で別々の会議が、番組始動に向けて同時並行的に進む事となった。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1985年7月29日には番組の開始と久米のキャスター起用が正式に発表され、ティザー広告も放送を開始。久米はテレビ朝日とこの時点で2年の契約を結んだ。当時マスコミは契約金を2億円とも4億円とも報じたが、久米の希望で純粋な出演料のみになった。8月にはシミュレーションを行ったが、ニュースとバラエティが無秩序に混ざってしまい番組の体をなさなくなってしまったという。それまでのニュース番組は報道記者が書いた原稿をキャスターが読むだけであり、当然1時間以上の番組を制作経験が無い報道局だけでは作れないため、テレビ朝日の制作局とオフィス・トゥー・ワンのスタッフによる合体チームと報道局のスタッフが協力して番組を制作する形となった。テレビ朝日とオフィス・トゥー・ワンが別々に行っていた会議と並行して、3チームが顔を合わせての全体会議・準備が始まり、久米もシミュレーション以降の全会議に参加した。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 9,
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"text": "全体会議では、会議室でそれまで制作会社の人間と口も聞いた事の無いエリート集団であるスーツ姿の報道スタッフと特にオフィス・トゥー・ワンのディレクター・作家は報道の事は全く知らない雑草集団である短パンにTシャツ、ゴム草履姿の制作スタッフが対峙すると、「事実を正確に伝えるという正統派のニュース番組」のあり方にこだわっては派手な演出や目新しい工夫を嫌う報道側と「ニュースをいかに分かりやすく面白く見せるかに重点を置き、セットやスタジオ演出に気を配る」という考えのオフィス・トゥー・ワン側が衝突し、言い合いばかりで話が全く噛み合わない状況が続いた。この衝突は番組開始後も続き、報道側は「ニュースの事を何も知らずに勝手な事を言うな」、オフィス・トゥー・ワン側は「なぜ原稿をもっと分かりやすく書けないのか」と大喧嘩になった。反省会は深夜2時まで及び連日連夜、時に殴り合いの喧嘩に発展する程の激しい討論を続けたという。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 10,
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"text": "そのような準備期間を経て、1985年10月7日に民放初の平日プライムタイム帯での1時間超に及ぶワイド編成の報道番組として放送を開始。",
"title": "番組の歴史"
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"tag": "p",
"text": "「今までにない全く新しい形の報道番組を目指す」というコンセプトのもと、メインキャスターの久米宏、サブキャスターの小宮悦子(当時テレビ朝日アナウンサー、1991年からフリーアナウンサー)、コメンテーターの小林一喜(当時朝日新聞論説委員)を中心に、キャスター陣には小宮以外のテレビ朝日アナウンサー(スポーツキャスターの朝岡聡、リポーターの渡辺宜嗣)に加えて、一般公募による出演者オーディションから数名のキャスター・リポーターを起用した。一般公募組の中には、橋谷能理子(元テレビ静岡アナウンサー、スタジオアシスタント)、若林正人(元東京銀行調査役、コメンテーター兼リポーター)、杉本典子(元三菱商事勤務、スポーツ担当)、坪井貴久美(元つくば科学万博コンパニオン、ニュース担当)、内田誠(早稲田大学大学院院生、リポーター、後にジャーナリストへ転身)、松本侑子(筑波大学学生、天気キャスター、後に作家へ転身)などがいた。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "第1回の放送で最初に取り上げたのは、石狩鍋に入れる鮭の話題。長谷川宏和(当時北海道テレビアナウンサー)の自宅、九州朝日放送・鹿児島放送のスタジオ、新潟テレビ21のサービスエリアにある新潟県村上市を結んでの生中継を実施した。本来は「鮭を切り口に環境問題について考える」という趣旨だったが、本番中に最新鋭のVTR再生機が故障し、結果的に上記の内容になったという。これが初日の惨敗を象徴する出来事になったとして、以後しばらくの間、スタッフ間で「鮭」は禁句となり、久米も1年間鮭を口にしなかったという。その直後には、同市出身の稲葉修(当時自民党衆議院議員)が、自宅からの生中継で久米とトークを繰り広げている。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 13,
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"text": "初期は月曜日から木曜日は22:00 - 23:17(「大相撲ダイジェスト」放送時は23:15まで)、金曜日のみ22時台は『必殺シリーズ』など当時の朝日放送(現在の朝日放送テレビ)制作枠であり、スタート当初はこの枠について朝日放送との調整が付かなかったこともあって、1時間遅れの「金曜版」とし、23:00 - 翌0:00の放送となった(「大相撲ダイジェスト」放送時はネットスポンサー枠の23:45まで)。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "開始当初は観客を入れての公開形式番組として放送されており、原則としてメインスタジオであるAスタジオからは一般ニュースを放送しない(一般ニュースは『ANNニュースファイナル』時代の名残から1コーナー扱いとされ、報道局のNスタジオから小宮・坪井(貴)が伝える形となっていた)構成が採られるなど、報道にバラエティ色を加味した内容となっていた。しかし、開始早々から阪神タイガースの21年ぶりのリーグ優勝・日本一、エドゥサ革命など、重大ニュースにより全編Nスタジオからの臨時編成となるケースが多く、その際に一般公募によるキャスター陣が対応に窮する場面が多々見られたこと、また開始早々の視聴率低迷の影響もあり、開始数回でAスタジオでの観客入れを廃止したのを皮切りに番組内容・キャスター配置の再整理が急ピッチで進められ、1986年4月からは全編を通じて久米・小宮・小林の3人体制で進行・ニュース読み・解説を担当する報道色の強い番組構成にリニューアルされた(この際、リポーターと並行して不定期で天気コーナーを兼務するようになった橋谷、同じく不定期でゲストコメンテーターを兼務することになった若林と天気キャスターの松本、リポーターの内田誠を除く公募によるキャスター陣は一旦リポーター専任となった後、開始1年以内で全員番組を降板している)。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "放送するスタジオに関しても、1986年の久米・小宮・小林のトリオ体制になる前後から1990年代初頭まではオープニングから概ねスポーツコーナー開始前のCM枠までの前半部がNスタジオからの放送となり、Aスタジオはスポーツコーナー以後の後半部で使うように変更された(日によっては全編Aスタジオから放送の場合もあった)。ただし、重大ニュースがあった場合や後述するセット改装があった場合は全編Nスタジオから放送していた。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "ただし、「金曜版」については上記の番組リニューアル後も引き続きバラエティ色の強い構成を継続(しばらくNスタジオ・Aスタジオ併用の構成も継続し、小宮はNスタパートのみ出演していたが、末期はAスタジオからニュースを読むこともあった)し、Aスタジオでの観客入れも継続していた。この「金曜版」は、当時週休二日制が定着していたことから、『TVスクランブル』など本番組開始までの久米のレギュラー番組を引き継いだような内容がメインとなっており、土曜に代わる「休日前夜」という位置づけでNスタジオからの通常のニュースに加えて、毎回ゲスト2名(男女1名ずつ)をブーメランテーブルに隣接するソファのセットに招いて、「金曜チェック」「奥様教養シリーズ」「ニュースミステリー」「カウントダウンJAPAN」「ニュース・ことわざ勉強室」「ニュース分水嶺」「ニュースのふるさと」「世直しエイド」といったコーナーを放送した。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "1986年7月から選挙特別番組として『選挙ステーション』がスタートする。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "1988年4月改編で朝日放送が金曜22時台撤退により月曜日から金曜日まで放送時刻が統一されることとなり、3月25日と4月1日の2週にわたって「金曜版」終了スペシャルを放送する予定だったが、3月25日は臨時ニュースのため放送できず、4月1日のみの放送となった。「金曜チェック」はこの影響で2本立てで放送された。なお、「金曜版」最終回の4月1日より22:00 - 23:17の放送となり(当初の予定通り)、放送開始時刻が統一されただけでなく放送時間も同じになった。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "新体制となる1988年4月4日から全曜日統一して報道色の強い構成となったが、金曜は金曜版からの名残もあり、「金曜コンサート」などの企画を設けたり、1990年代に入ってからはテリー伊藤や笑福亭松之助など金曜のみ出演するレギュラーを起用するなど、月曜から木曜までとは違う雰囲気作りが図られるようになる(これは現在の『報道STATION』でも変わっていない)。金曜版を引き継ぐ形でミュージシャンやお笑い芸人がゲストとして登場することもしばしばあった。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "1990年には久米が第27回ギャラクシー賞・テレビ部門個人賞を受賞。1993年には番組としてギャラクシー賞30周年記念賞を受賞。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "1993年7月1日(木曜日)、久米が同年の下半期突入を期に眼鏡を着用するようになった。この頃のメガネはまだ報道キャスターらしいシンプルな枠が無いレンズのみのものであり、このメガネは1999年10月の一時降板までは一貫して変更せずに着用し続けた。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "1995年4月からは新たにスタジオサブキャスターを金曜日のみに新設。この金曜日のみ久米・小宮・コメンテーターを加えた4人体制となる。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1996年10月3日からスポーツキャスターが坪井直樹から角澤照治に変わり、角澤は番組終了まで7年半にわたってスポーツを担当することとなった。翌週10月7日からテーマ曲と作曲者を約7年半ぶりに新しいものに変更した。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "1997年4月から金曜のみに女性スポーツキャスターを設けた。初代はテレビ朝日スポーツ局記者の長島三奈が務めた。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "1998年3月27日、小宮が石田純一の後任として『スーパーJチャンネル』のメインキャスター就任のため降板。但し、金曜日のみの出演に移行した(『Jチャンネル』も半年間は金曜日のみ出演せず)。小宮降板後の2代目サブキャスター就任までの間、同年5月8日までサブキャスター代理として月曜日から木曜日は堀越むつ子(3月30日 - 4月16日)・渡辺みなみ(4月20日 - 4月30日)・渡辺宜嗣(5月4日 - 7日)の3人で繋いだ。",
"title": "番組の歴史"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1998年5月11日、改編期から約1か月遅れでリニューアル。久米に加え、後任のサブキャスターにTBS退社直後の渡辺真理、スタジオサブキャスターにテレビ朝日スポーツ局記者の白木清か、1997年11月から出演しているコメンテーターの菅沼栄一郎の4人体制となる。これまでは金曜のみスタジオサブキャスターを設けていたが、このリニューアルによってスタジオサブキャスターは月曜から木曜にも追加新設され、全曜日で設けられるようになった。なお、金曜日のみは引き続き小宮と丸川珠代が担当する。テーマ曲がゴスペラーズの曲に刷新されて、番組のタイトルロゴも若干アレンジしてリニューアル。オープニング映像もニュース映像に変わり(但しリニューアルした初回は久米、真理、白木がスタジオに向かう様子の映像を流したほか、ゴスペラーズがゲスト出演した際はスタジオでオープニングを生披露しているのを背景にするなどの例外あり)、最初から日付表示がなされるようになった(タイトルは映像の最後に表示)。但し大きなニュースが入った時はピアノ曲になりスタジオ背景で日付出てから直ぐにタイトル表示となる。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "田代まさしの降板で金曜日も『Jチャンネル』に出演するため、番組開始から12年半出演後も1998年4月10日以降の金曜に限って出演を続けてきた小宮が1998年9月25日を以って完全降板、翌週の10月2日には丸川も降板した。翌週10月5日より、真理と白木は全曜日出演となる。1999年2月から月曜日と火曜日のみ上山千穂が担当し、白木は水曜日から金曜日の担当に縮小となった。",
"title": "番組の歴史"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1999年8月、セットをリニューアル。ところがその約2か月後の10月6日放送を以て、契約切れを理由に久米が番組を一時降板するという異例の事態となった。これを受けて翌10月7日放送から約3か月間、年末まで宜嗣が代役を務めた。",
"title": "番組の歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2000年1月4日、前年12月23日に寿退社のため降板した白木清かと入れ替わる形で、久米が3か月ぶりの番組復帰を果たす。それに伴い番組もリニューアルした。スタジオサブキャスターも上山千穂が全曜日担当することになり、久米・真理・上山とコメンテーターの4人体制となる。また、コメンテーターも清水建宇・萩谷順・森永卓郎・船曳建夫の4人(2002年頃に船曳が降板し、以後は3人体制)に一新された(日替わりでいずれか1人が出演)。テーマ曲が福岡ユタカ作曲のものに刷新され、スタジオセットやタイトルロゴ・グラフィックデザインもリニューアルと同時にタイトルロゴがカタカナ表示の「ニュースステーション」から英語表記の「NEWS STATION」に変更。オープニング映像はその日の放送するニュース内容の告知を行うスタイルに変わった。リニューアル当初はトップニュースを合成したCGをバックにBGM付きで読み上げる演出もあったがすぐになくなった。",
"title": "番組の歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2000年3月27日、放送開始時間が6分繰り上がり、21:54開始のフライングスタートとなった。これにより終了時間も23:20→23:09と11分繰り上がった。同時に番組構成も若干変更が行われる。2000年4月14日、金曜日の女性スポーツキャスターの出演者のリニューアルが行われ、テレビ朝日を退社(後に嘱託社員として復帰)した長島三奈に代わり、『進ぬ!電波少年』(日本テレビ系列)で注目を集めたタレント・女優の真中瞳(現・東風万智子)を起用。",
"title": "番組の歴史"
},
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "同日よりNHKが本番組に対抗する形で同時間帯で『NHKニュース10』を開始。",
"title": "番組の歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2002年4月1日から6月28日までは日韓共催の2002 FIFAワールドカップ開催に伴い、オープニングで毎日FIFAワールドカップの歴史を流す特別オープニングに変更(川平慈英のナレーション入り。タイトルと日付は紹介後まとめて上にタイトル下に日付という形で表示された)。テーマ曲はCharが担当した。",
"title": "番組の歴史"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2002年7月1日からテーマ曲がサラ・ブライトマンの曲に変更。また、角澤のスポーツ担当曜日がこれまでは月曜日から木曜日だったのが、月曜日から水曜日に縮小され、空いた木曜日には河野明子が担当することになった。その後、2002年9月27日を以って真中が降板。これと同時に番組開始から17年(一時期降板していた時期あり)出演してきた宜嗣も前田吟に代わり『スーパーモーニング』のメインキャスターに就任するため降板した。翌週から河野が金曜日も担当するようになり、月曜日から水曜日は角澤、木曜日・金曜日は河野がスポーツを担当する。",
"title": "番組の歴史"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2003年8月25日、翌年春を以って本番組の放送を終了する事が発表された。久米はこの週は夏季休暇中だったが、この日移転前のテレビ朝日六本木6丁目本社ビル(六本木ヒルズ)で番組終了発表会見(公式には「来年(2004年)3月で降板」と発表)を開き、「十分にやった、スタミナ切れ」「2000年復帰後3年という話だったこと」ということを終了理由に挙げていた。",
"title": "番組の歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "テレビ朝日・広瀬道貞社長は2003年9月30日の定例会見で、久米が3年ほど前から降板の意向を度々申し出ており、これ以上の慰留は出来ないと判断したため出演契約を2004年春で満了とする事で合意したことを明らかにした。",
"title": "番組の歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2003年9月29日、テレビ朝日の本社移転に伴い、放送スタジオがテレビ朝日アーク放送センター(アークヒルズ)からテレビ朝日六本木6丁目本社ビル(六本木ヒルズ)へ移りスタジオセットとテーマ曲をリニューアル。タイトルロゴはそのままで、色がオレンジ/黄色を基調としたものから青/水色を基調としたものに変更された。テーマ曲はU2が担当した。",
"title": "番組の歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2004年3月26日の最終回ではその日のニュースに加え、過去19年間のニュースの振り返り、現代の久米(と当時50歳の久米)が番組開始の1985年の本番組へタイムスリップ(という設定の演出)し、スタジオ見学をするなどの内容で放送され19年間の歴史に幕を下ろした(最終回の詳細は後述)。",
"title": "番組の歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "後継番組は『報道ステーション』である。なお、角澤と河野・スポーツコーナーのみ関わっている宮嶋泰子と栗山英樹は引き続き立ち上げ当初の『報ステ』にも出演することになった。",
"title": "番組の歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "久米が会見で後継番組の初代メインキャスターを務める古舘伊知郎に関して記者に尋ねられた際、「いや、番組はなくなるって聞いていますから。存在しない番組に司会者が存在するわけないでしょ。」と発言した事に対し、雑誌のインタビューで古舘は「(久米を)冷たい男だなと思いましたけど。」「それから久米さん嫌いになったんですけど。」と述べた。その後には「半分は大先輩だと思って尊敬している。半分は嫌いっていうところに落ち着くんだけど。」と語った。ただし、その後久米は「いかにつらいか、大変さが手に取るように分かる。(最近は)見ていないけど、無意識のうちに避けているのかもしれない」「自分は家を土台から造った。自由に造って来た。でも、彼はその土台を壊す事をさせてもらえずに、建物を造る様にさせられている。その事に苦労していると思う」と古舘を気遣うコメントをしたことがある。",
"title": "番組の歴史"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "本番組の後継番組『報ステ』降板後もテレビ朝日への直接の出演を行う古舘伊知郎とは違い、久米は本番組終了後、テレビ朝日への直接の出演を一切行っていない。",
"title": "番組の歴史"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "なお、『報ステ』の初回放送は2004年4月5日であり、2004年3月29日 - 4月2日の当該時間帯は『ANN NEWS&SPORTS』をつなぎ番組として放送した。",
"title": "番組の歴史"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "すべて日本時間(JST)で記す。",
"title": "放送時間"
},
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "大災害などの緊急ニュースの発生時には放送を21時からに前倒しあるいは放送終了時間の延長をすることがあった。",
"title": "放送時間"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "初めて放送終了時間の延長を行ったのは、1986年2月25日である。この日フィリピン政変が起こり、それに関連して、30分の時間延長がなされた(詳細は後述)。",
"title": "放送時間"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "初めて前倒し編成を行ったのは、1986年11月21日である。この日に発生した伊豆大島三原山の大噴火に関連して、22時から約2時間の拡大版として放送した(詳細は後述)。",
"title": "放送時間"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "この件をはじめとして、それ以後も湾岸戦争開戦、皇太子徳仁親王ご成婚、阪神・淡路大震災、アメリカ同時多発テロ事件などではほぼ同様の措置がとられ、特に三原山噴火の際には、当時クロスネット局で、テレ朝枠を持っていた山形放送が編成の都合上差し替えもできなかったことから、臨時ネットとして60分のみ放送したことがある。",
"title": "放送時間"
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "全国高等学校野球選手権大会が行われる毎年8月中旬の2週間は、ハイライト『熱闘甲子園』(朝日放送制作)を放送するための特例編成となっていた。",
"title": "放送時間"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "大相撲期間中は『大相撲ダイジェスト(以下:ダイジェスト)』を放送するため、『Nステ』は3分短縮となっていたが、1995年4月改編を期に解消された。2000年4月のフライングスタート開始以後はネオバラエティ・金曜ナイトドラマの後に『ダイジェスト』を放送した。2003年9月の六本木ヒルズ新本社移転直前をもって『ダイジェスト』は終了する。なお、1988年3月までの金曜版は23:45までの45分間に短縮して放送していた(通常は途中までがネットセールスだが、45分枠へ短縮時に限り全編ネットセールスとなった)。",
"title": "放送時間"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "オープニングでは、番組開始と同じ1985年に植えられたアークヒルズの桜並木から夜桜中継を行い、スタジオに映像が切り替わるとアークヒルズの夜桜の映像をバックに久米が「こんばんは。最後の『ニュースステーション』です」と挨拶。その後、アークヒルズの桜並木への思い入れを語った。なお、後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター・古舘伊知郎時代最後の回(2016年3月31日放送)でも同様にオープニングでアークヒルズからの夜桜中継を行った。オープニングの後は、後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター・古舘伊知郎時代最後の回同様、この日で最後とは思えない程の通常通りの内容で放送した。番組中には、細川護煕元首相が久米に宛てたビデオメッセージや石原慎太郎東京都知事(当時)が当日の定例会見で当番組が終わることについて問われた際の様子なども流した。",
"title": "番組での出来事など"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "一通りニュースを伝え終わった後の番組中盤では「ニュースが撒いた種」としてニュースステーションと縁のある一般視聴者への取材VTRを小西真奈美のナレーションで放送した後、久米は「『ニュースステーション』続ける中で一番苦労したというか、辛かったことっていうのは、いつ終わるか分からないこの番組は、ということでした。(中略)そこで、今日ようやく最終回を迎えたわけですが、「今日最終回を迎えるんだ。そういうことが将来にあるんだということを過去の自分に何とか教えてあげたい」とわたくしはふと思いつきました。そして、過去の自分に3日前(2004年3月23日)に会いに行ってきました」と切り出し、1995年10月16日の番組10周年の特別企画の際に、10年目を迎えた久米が、番組初回の自分を激励しに、当時のスタジオへ行った企画の映像を使い、最終回を迎える久米が、1年目の自分と10年目の自分に、番組終了を報告しに行くVTRが放送された(前述の日付に収録)。",
"title": "番組での出来事など"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "VTRが一旦一区切りしてニュースを2本伝えた際、イラクでの陸上自衛隊の支援活動についてのニュースで久米は「発言の場が無くなってしまうのでもう一度申し上げておきますが、僕はイラクへ自衛隊を日本が派遣する事は反対です」とコメントした。その後天気予報では上山が、スポーツでは角澤と河野がそれぞれ視聴者へ一言挨拶した。",
"title": "番組での出来事など"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "前述のVTRで番組終了を報告した部分は番組として最後となるCM明けに放送され、続けて歴代オープニング曲とその当時の久米の映像を交え、これまで19年間のニュースを振り返った。",
"title": "番組での出来事など"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "その後、フラッシュニュースを挟んでエンディングではまず真理が視聴者への挨拶の一言を述べた。そして、久米が民間放送の在り方について、視聴者を始め、広告代理店の電通、歴代のスポンサー・スタッフなどへ感謝の言葉、小学生時代の自らの通知表の内容、番組や久米個人に対する批判者へのお礼などを述べた。その途中で「僕のご褒美」として久米はセットの中にあった冷蔵庫からビール瓶を取り出した。さらに、中国語によるパロディ予告編「久米的電視台」が放送された。",
"title": "番組での出来事など"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "最後は、スタジオに集まった出演者・関係者からの大きな拍手の中、「じゃ、乾杯」と言って久米が一人手酌のビールを一気に飲み干して、「(降板し、一度「お別れ」していた時期があったためか)本当にお別れです。さようなら!」と挨拶し、番組は終了。60歳を目前にして19年間の歴史に幕を閉じた。",
"title": "番組での出来事など"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "番組終了後、後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター・古舘伊知郎時代最後の回と同様、同日中に競合番組である『筑紫哲也 NEWS23』(TBSテレビ)内のコーナー「多事争論」で、筑紫哲也が久米宏への「労いの言葉」を述べたことを始め(その日のタイトルは「さようなら、NS」)、翌日以降の情報・バラエティ番組、新聞各紙等でも報道されるなど、報道番組としては極めて例外的な扱いを受けた。",
"title": "番組での出来事など"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "最終回の視聴率は19.7%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。",
"title": "番組での出来事など"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "本番組の終了によりプロダクションのオフィス・トゥー・ワンは、同時間帯の報道番組制作から撤退することになる。その後、後継番組『報道ステーション』についてはテレビ朝日と初代メインキャスター・古舘伊知郎の所属事務所でもある古舘プロジェクトの同時間帯の報道番組制作(形としては古舘プロジェクトは制作協力扱い)の引き続きでの体制を取っていたが、古舘が2016年3月31日をもって降板したのに伴い古舘プロジェクトも同時間帯の報道番組制作から撤退することになった為、本番組から31年間にわたって長く続いた平日22時台の報道番組の制作プロダクションは完全に廃止され、2016年4月11日の全面リニューアル以降はテレビ朝日の単独制作になった。",
"title": "番組での出来事など"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "なお後継番組『報道ステーション』については内容の一言を述べておらず、初代メインキャスター・古舘伊知郎にエールを送っていなかったためか、本番組とは全く別の番組だった場面があったという位置付けがなされ、久米側の意向でテレビ朝日側が当初計画していた花束贈呈などの司会者の引き継ぎは一切行われなかった。なお、後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター・古舘伊知郎時代最後の回(2016年3月31日放送)でも同様に花束贈呈などの司会者の引き継ぎは一切行われなかったが、古舘が最後の挨拶の中で、後継番組『報道ステーション』とは全く別の番組だった本番組についての内容の一言を述べた事をはじめ、後任のメインキャスター・富川悠太(当時テレビ朝日アナウンサー)に「乱世の雄になってもらいたい」などとエールを送るという位置付けがなされた場面があった。",
"title": "番組での出来事など"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "番組内で久米が番組の放送開始・主なコーナーの開始時間を一定にするようアピールしてきた。番組(または野球速報)を「日々の生活の一部」として観ている視聴者を尊重してのことで、放送時間の変更があれば、時には前週から丁寧に予告していた。10時開始だった2000年3月までの番組構成を例に挙げると、スポーツは22:30頃、天気予報は22:50頃に放送。",
"title": "番組構成"
},
{
"paragraph_id": 60,
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"text": "本番組では当初からスポーツニュースに力を入れ、番組後半の多くをスポーツコーナーに費やした。久米曰く「スポーツは僕たちの生活にとって考えている以上に重要な存在だ。ひいきのプロ野球チームの観戦をしたり、ファン同士で熱く語らい合ったり、試合結果に一喜一憂したり。いかにスポーツが自分たちの人生を豊かにしているか。ふさぎがちな日も「阪神が勝った!」で、ほとんどのウサが吹き飛ぶほどの力をスポーツは持っている」「映像技術によって、スポーツの魅力を多角的に伝えることができる。つまりテレビがその機能を最大限に発揮できるジャンルがスポーツなのだ」として、番組開始前からスポーツ担当のスタッフと「スポーツがなぜ重要か」「スポーツをいかに楽しく伝えられるか」を議論し、「スポーツの大切さを視聴者に伝えよう、そのための時間をたっぷり取ろう」という方針を共有した。。その方針から以下のような企画や伝え方がなされていた。",
"title": "スポーツ"
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"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "プロ野球に関しては当日の試合速報が番組の主力コンテンツとしてあり続けた。2月の「キャンプフラッシュ」、3月の「順位予想」、10月の「日本シリーズ予想&解説」が恒例。日本シリーズに関しては該当チーム以外の監督・選手が解説者として出演することもあった。",
"title": "スポーツ"
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"paragraph_id": 62,
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"text": "川平慈英が専属キャスターとして、Jリーグ開幕時から番組終了まで出演した。Jリーグも試合のある日は全試合の結果を放送、特集枠をJリーグ情報に充てることもしばしばあった。1998年サッカーW杯では川平がフランスから連日放送。2002年W杯ではテレビ朝日が担当した日本対チュニジア戦の放送を久米と川平の司会で放送した。",
"title": "スポーツ"
},
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"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "放送日にJリーグの試合がある場合、他のスポーツニュースでは試合映像の終わりのところでその試合のスコア結果を字幕出ししていたが、この番組はプロ野球と同じ要領で、試合映像を最初に映した後、映像が終わってから別のカットで詳細なスコアテーブルを全画面表示して、そこに川平が選手・監督談話や記録などの一口メモを述べる体裁をとっていた(一部の日、1 - 2試合程度しか行われなかった場合は除く)。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1999年2月1日に「汚染地の苦悩 農作物は安全か?」と題した特集で、民間の環境測定コンサルティング企業である株式会社環境総合研究所(1986年設立、本社・品川区、青山貞一社長)が1998年に独自に計測したデータから、『所沢市の“ホウレンソウをメインとする野菜”/“葉っぱものの野菜”から1グラム当たり3.8ピコグラムのダイオキシン濃度が検出された』と、青山社長がコメンテーターとして久米と対談のうえセンセーショナルに報道した。予てから埼玉県所沢市東部の関越自動車道沿いに広がる「くぬぎ山」と称する雑木林周辺で産業廃棄物の小型焼却炉や中間処分場が1990年以降多数立地するようになり、排煙や焼却灰に含まれるダイオキシンによる大気汚染・環境問題が懸念されていた。1997年に厚生省が全国の野菜に含まれるダイオキシン濃度を検査したことを受け、JA所沢(現:JAいるま野)は地元産のホウレンソウや白菜など野菜5品目を測定するも公表しなかった。そこで番組はこれら周辺の状況を絡めて報じたのである。",
"title": "所沢ダイオキシン問題"
},
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"paragraph_id": 65,
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"text": "この結果、ホウレンソウを始めとする所沢産の野菜がダイオキシンに汚染されていると食品スーパーなど小売業各社が認識し、翌2日より所沢・入間郡産はもとより、一部で県北部の深谷ネギなど埼玉県産の農作物全般で自主的に販売停止措置を講じて締め出されるという騒動に発展。農作物の出荷は継続されるも青果市場で埼玉県産農作物の卸価格が半値以下に下落する被害が出た。",
"title": "所沢ダイオキシン問題"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "当時、全国朝日放送(通称:テレビ朝日)は『ザ・スクープ』で1995年から1998年にかけて所沢市の産業廃棄物処理場とダイオキシン汚染による健康被害など環境問題を7回取り上げており(判例より)、初回放送直後の放送回でコメンテーターの菅沼は「この報道をやめて(ダイオキシン問題を)救えるかってんだ!」と生放送の番組内で大声で啖呵を切るなどして誤りを認めなかった。",
"title": "所沢ダイオキシン問題"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "これを受け、同月5日に埼玉県が事実確認を行う旨公表し、テレビ朝日以外のキー局は番組名を伏せて情報番組などで騒動を取り上げるようになった。同月6日にJA所沢(現:JAいるま野)が検査結果を公表する動きを見せ、同月8日にJAと地元農家がテレビ朝日を訪問し抗議。同月9日にJAは野菜のダイオキシン濃度はきわめて低いとする詳細な検査結果を公表し、安全宣言。同月18日に埼玉県が報道の最高値は煎茶であったと発表し、全国朝日放送は番組内で不手際があった事を認めた。煎茶は乾燥しているため本体重量が軽く、生鮮野菜と同量のダイオキシンが見かけの上で多く計算されることによるもので、飲用では健康に悪影響はないものだった。なお、ホウレンソウも同時に計測されており、1グラム中最高0.75ピコグラムであったことが後日公表されており、青山や久米が“ホウレンソウをメインとする葉っぱものの野菜”と抽象的で曖昧な表現に歪曲して批評したことから報道被害を招いたとされている。",
"title": "所沢ダイオキシン問題"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "同月12日に中川昭一農水相が全国朝日放送(テレビ朝日)報道局長宛に調査を行うよう申し入れを行い、翌2月13日、久米が番組内で農家に謝罪。「検査対象が茶だとは知らなかった」と弁明したが、その後、批判対象は環境汚染の元凶である産廃施設とそれを管轄する行政(所沢市・埼玉県)にあるとする動きを見せた。",
"title": "所沢ダイオキシン問題"
},
{
"paragraph_id": 69,
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"text": "全国朝日放送は同年6月21日付で郵政省(現:総務省)から「農業生産者に迷惑をかけ、視聴者に混乱を生じさせる不正確な表現が行われたことは、放送法の趣旨に照らし遺憾」として厳重注意の行政指導を受けた。",
"title": "所沢ダイオキシン問題"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "所沢市周辺の食品スーパーでは徐々に野菜の販売が再開されたが、それ以外の埼玉県内を含む首都圏の食品スーパー・百貨店では農作物の販売再開に慎重な動きを示した。また逆に狭山茶など埼玉産の煎茶が販売自粛に追いやられ、鹿児島県や静岡県は煎茶のダイオキシン濃度を自主的に検査する動きを見せた。後に中川農水相や小渕恵三首相が所沢産野菜を食して安全宣言を出すパフォーマンスを行う事態になった。",
"title": "所沢ダイオキシン問題"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "農家側は同年に風評損害を受けたとして、同年9月に当初376人の原告団を結成して全国朝日放送(ANB)と環境総合研究所に対して謝罪広告の要求を兼ねた損害賠償請求の集団訴訟を提訴し(浦和地裁 平成11年(ワ)1647号)、民事事件へと発展した。この一連の騒動は販売停止の解消と提訴が行われるまで地元紙の埼玉新聞でほぼ連日報道されていたが、同時期に桶川ストーカー殺人事件や本庄保険金殺人事件など皮肉にも埼玉県を事件現場とする凶悪事件が立て続けに発生し、前者は日本におけるストーカー問題提起のきっかけとなる程社会に衝撃を与えた事件であり後者は被疑者が繰り返しメディアに会見を行うというその行動の特異性からこぞって各マスコミがこの2つの事件の取材に人員を回したことから各マスコミでの報道は急速に縮小した。",
"title": "所沢ダイオキシン問題"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "訴訟では2001年判決の1審と2002年判決の2審(東京高裁平成13年(ネ)第3301号)がテレビ朝日側が勝訴、最高裁で2審の判決を破棄し、東京高裁に差し戻された((一小)平成14年(受)第846号)。番組終了後の2004年6月16日に、テレビ朝日が農家側に謝罪して和解金1000万円を支払うことで和解が成立。原告団は900万円を三宅島噴火被害による農業振興に役立てて欲しいと三宅村に、100万円を食育活動へ役立てて欲しいと所沢市に寄付した。環境総合研究所に対しては測定内容が事実であったことから1審・2審ともに敗訴が確定している。",
"title": "所沢ダイオキシン問題"
},
{
"paragraph_id": 73,
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"text": "『ザ・スクープ』の報道後の1997年に所沢市は「ダイオキシンを少なくし所沢にきれいな空気を取り戻すための条例」など幾つかの条例を施行していたが、この騒動を受けて埼玉県は野焼きの自粛要請・産業廃棄物排出事業者の公表を、政府レベルでは「ダイオキシン類対策特別措置法」・「循環型社会形成推進基本法」が施行され、廃棄物や焼却炉に対する規制が強化された。また、くぬぎ山に所在する産業廃棄物の焼却炉は不燃物を粉砕する中間処理施設への転換が相次いだ。",
"title": "所沢ダイオキシン問題"
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{
"paragraph_id": 74,
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"text": "久米はゲスト出演した2014年2月23日放送の『爆笑問題の日曜サンデー』(TBSラジオ系)の中で「地域的にも、所沢の方とか、いろんな所に迷惑をかけた。裁判所に呼ばれそうになるし」といった発言をしている。",
"title": "所沢ダイオキシン問題"
},
{
"paragraph_id": 75,
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"text": "それまでニュース番組のセットは、キャスターの背後にクロマキーなどの壁板を置き、横1列になって座るのが主流だった。当番組では後述するように「全国の都市生活者に向けて発信する」という理念から、従来の壁板というセットを廃し、都心の高級マンションの一室のような、都会的でおしゃれなオフィス空間をコンセプトに、「自宅で食べたりくつろいだりするような日常の気分を番組に持ち込みたかった」という。本物の質感とイメージを追求し、木組みの床を貼り、柱や梁、階段には建築用資材を使用。セット建て込みには美術スタッフだけではなく大工の手も借りたという。セットはすべて久米が提供したコンセプトとイメージが実現された。久米はスタッフに念のため予算を聞いたところ「考えなくていい」と言われたという。",
"title": "演出"
},
{
"paragraph_id": 76,
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"text": "スタジオセットは、テレビ朝日アーク放送センター地下3階にあったAスタジオ(テレビ朝日の本社移転後は、六本木ヒルズ新本社4階にある第4スタジオ)に常時建て込まれている状態で、2階(末期のセットでは3階)まで作られたほか、ゲストを招く部屋や家具までも仕込まれるなど大掛りで非常に手の込んだものになっている。コンセプトは「久米宏の部屋」で、放送終了までに5回改築された。",
"title": "演出"
},
{
"paragraph_id": 77,
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"text": "『ニュースステーション』ではキャスター席に特徴的な「ブーメランテーブル」が使われ、メールマガジンのタイトルを『NSブーメラン』とするなどこの番組の名物であった。番組開始当初は濃い色のものが使用されていたが、後に交換されたときには薄い色のものへ変更になった。テーブル自体は、大道具担当ではなく家具メーカーに発注し作られた。",
"title": "演出"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "それまでは前述のとおり、横一列に座るのが主流だったが、多くの出演者が座って話す際、横一列では平面的になり、互いの顔を正面から見ることができず、丸いテーブルだと視聴者不在の印象を与えてしまうことから、画面効果と機能面を突き詰めて余分な部分を突き詰めた結果、「湾曲したテーブルの形」になったという。磨きぬいたテーブルに傷がつかないように出演者もスタッフも細心の注意を払い、本番開始直前までテーブルは分厚い布製カバーで覆われ、本番終了後も直ちにカバーをかぶせていた。テーブルは食卓をイメージしているため、従来のように前を覆っておらず、出演者の脚や靴までがすべて見える。さらに、それまで出演者は一つの画面に収めるために肩と肩がぶつかるほど座っていたのを、十分な距離を置いて座らせ、空間を贅沢に使った。",
"title": "演出"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "ブーメランテーブルについては、「湾曲していたほうが出演者同士が話しやすい」「情報は一方的伝えるだけでなく、視聴者から帰ってくる反応を汲み取り、さらにまたニュースを伝える」との意図があった。キャスターの足が見えるテーブルは、ニュース番組では初めての試みであり、家具メーカーが製造した一般のテーブルのため、音声のカフボックスや確認用のモニターは設置されなかった。",
"title": "演出"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "本番組の放送が始まった頃のANN加盟フルネット局はキー局のテレビ朝日を含めて12局だった。クロスネット加盟である福井県の福井放送(放送開始後の1989年4月加盟)と、宮崎県のテレビ宮崎は、その関係上NNN(日本テレビ系)の夜の最終ニュース『NNNきょうの出来事(現:news zero)』などを放送していた。その他、ANNフルネット局が出現するまでANNに加盟していたクロスネット局に、ネットしていた局はなかった(報道特番等の臨時ネットは除く)。しかし、久米は系列局が都市部に限られていることから「NHKのように全国に配慮した全方位型ではなく、都市生活者に向けたニュース番組にできる」と前向きに捉えていた。",
"title": "ネット局"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ANNは、テレビ放送ネットワークとしては他の放送系列よりも系列局の設置などにはばかるほどの起伏に当たるばかりになってしまい、その後、日本テレビとフジテレビの人気番組の勢いが優位的になると、各地のローカル局は人気ネット番組の整理に追われるようになる。1989年の熊本朝日放送(KAB)の開局を皮切りに、テレビ朝日はそれまで進んでいなかった全国ネットワーク構築を再展開。それまで他系列とのクロスネットを組んでたローカル局ともネット関係をほぼ断ち切るようになり、フルネット24局体制を『ニュースステーション』の放送期間中に完成させ、「ニュースステーション」は、北海道から沖縄までテレビ朝日の放送が視聴できる体制づくりにも貢献した。",
"title": "ネット局"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "なお、番組中に系列局発のローカルニュースを挿入する部分が一貫してなかったため、各系列局の最終版ローカルニュースは、本番組の放送終了後か、深夜枠に回されていた。この方針は『報道ステーション』でも同じである。",
"title": "ネット局"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "※1991年1月の湾岸戦争や1993年1月19日の皇太子妃雅子の婚約など、山形放送(YBC)が数回60分間のみネットしている。",
"title": "ネット局"
}
] | 『ニュースステーション』は、1985年(昭和60年)10月7日から2004年(平成16年)3月26日まで、テレビ朝日系列(ANN)で平日(祝日も含む)22時台に生放送されていた報道番組である。テレビ朝日とオフィス・トゥー・ワン(形としては企画・制作協力扱い)の共同制作。全4,795回の平均視聴率は、14.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。通称「Nステ(エヌステ)」、「NS(エヌエス)」、「Nステーション(エヌステーション、テレビ欄)」。 | {{基礎情報 テレビ番組
|番組名=ニュースステーション<br /><small>NEWS STATION</small>
|画像 = [[ファイル:TV Asahi Headquarters 2010.jpg|250px]]
|画像説明 = 番組のスタジオがあった[[テレビ朝日本社ビル]]
|ジャンル=[[帯番組]] / [[報道番組]]
|放送時間=[[#放送時間|放送時間]]を参照
|放送分=
|放送枠=
|放送期間=[[1985年]][[10月7日]] - [[2004年]][[3月26日]]
|放送回数=全4795
|放送国={{JPN}}
|制作局=[[テレビ朝日]]
|企画=[[オフィス・トゥー・ワン]]<br />(企画・制作協力)
|製作総指揮=
|監督=
|演出=
|原作=
|脚本=
|プロデューサー=
|出演者=[[久米宏]]<br />[[小宮悦子]]<br />[[渡辺真理]]<br />[[小林一喜]] ほか<br />([[#出演者|出演者]]を参照)
|音声=[[ステレオ放送]]<ref group="注">[[1993年]][[4月19日]]から[[2004年]][[3月26日]]まで実施。それ以前は[[モノラル放送]]を実施していた。</ref>
|字幕=
|データ放送=
|OPテーマ=[[#テーマ曲・コーナー別使用音楽|こちらを参照]]
|EDテーマ=同上
|外部リンク= https://web.archive.org/web/20040202114657/http://www.tv-asahi.co.jp:80/n-station/index2.html
|外部リンク名=公式サイト(アーカイブ)
|特記事項=・[[金曜日]]は、放送開始から[[1988年]][[3月]]まで「'''[[#金曜版|金曜版]]'''」として23時台に放送。
}}
『'''ニュースステーション'''』({{lang-en|NEWS STATION}})は、[[1985年]]([[昭和]]60年)[[10月7日]]から[[2004年]]([[平成]]16年)[[3月26日]]まで、テレビ朝日系列([[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]])で[[平日]]([[国民の祝日|祝日]]も含む)22時台に[[生放送]]されていた[[報道番組]]である。[[テレビ朝日]]と[[オフィス・トゥー・ワン]](形としては企画・制作協力扱い)の共同制作。全4,795回の平均[[視聴率]]は、14.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)<ref name="a1">[[2007年]][[4月5日]][[スポーツニッポン]]「小宮悦子、2度目の離婚 10歳“姉さん婚”から12年--「[[女性セブン]]」報じる」</ref>。通称「'''Nステ'''(エヌステ)」、「'''NS'''(エヌエス)」、「'''Nステーション'''(エヌステーション、テレビ欄)」。
== 概要 ==
[[テレビ朝日]]が平日23時台に放送していた『[[ANNニュースファイナル]]』・『[[ANNスポーツニュース]]』に替わり、[[テレビドラマ|ドラマ]]や[[バラエティ番組]]を放送していた平日22時台に新設したニュース番組である。テレビ朝日の本社移転([[アークヒルズ]])と同時に開始された。構想段階から[[広告代理店]]である[[電通]]が深く関与した。[[久米宏]]も構想の段階で起用が決まり{{refnest|group="注"|表向きには、久米と[[筑紫哲也]]の2人がメインキャスターの有力候補と公表していたことがあった<ref name="tvguide850712">[[週刊TVガイド]] 1985年7月12日号 28頁「レポート・『[[特捜最前線]]』などテレビ朝日の人気番組が枠移動」</ref>。}}会議に参加しており、[[役作り|番組の準備]]などのため、久米は1985年4月までに『[[おしゃれ]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列)以外のレギュラー番組を降板した<ref>[[嶌信彦]]『メディア 影の権力者たち』1995年4月講談社 ISBN 4062076284{{要ページ番号|date=2016-02-09}}</ref><ref group="注">その『おしゃれ』も1987年4月に終了し、以後久米は最終回まで仕事はほぼ本番組に絞っていた。</ref>。
当時としてはこの時間帯のニュース番組は、独立U局である[[京都放送|近畿放送(後に「KBS京都」との局愛称を使用。現・京都放送)]]で放送していた[[タイムリー10]]とその一時期にタイトルと放送時間を改変した[[ザ・タイムリー]]があった(1987年春頃に放送時間を再度繰り下げた際に番組タイトルを元に戻した)程度であり、近畿放送の放送区域であった[[京都府]]・[[滋賀県]]以外の45都道府県ではこの時間のニュース番組そのものが初の試みであったことから、番組の先行きに対して不安を持つ者も多かった。開始第一週目の週平均の[[視聴率]]は8.68%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム、以下断りのない限り略)と低視聴率に悩んだ<ref>[[読売新聞]]夕刊 1985年10月16日。</ref>。[[1986年]][[2月]]の[[エドゥサ革命]]以降は、安定して20%前後の高い視聴率を誇り、テレビ朝日の看板番組となった<ref group="注">しかし、番組開始に伴う番組編成の改編で、平日夜22時台に放送されていた番組を中心に放送時間が変更され、これに伴う視聴者離れで『[[特捜最前線]]』、間接的だが番組編成上の問題で『[[必殺シリーズ]]』が終了に追い込まれた。これらの改編に加え、1980年代後半から1990年代はテレビ朝日ではヒット番組に恵まれず視聴率において、終始4位(民放キー局、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]除く)だった。</ref>。視聴率20%超えは、245回(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)<ref name="a1"/>。関東地方より先に関西地方([[朝日放送テレビ|朝日放送]])で視聴率(ビデオリサーチ調べ、関西地区・世帯・リアルタイム)を獲得した。
「'''中学生でもわかるニュース'''」をコンセプトとして、[[政治]]や[[経済]]などのニュースにおける難解な用語や展開などを、[[フリップボード|フリップ]]や[[地図]]、[[模型]]、実物、政治家人形、[[積木]]などを使い、わかりやすく伝える工夫を凝らした<ref group="注">これを見ていた当時[[日本放送協会|NHK]][[記者]]の[[池上彰]]がこれを応用し、[[1994年]][[4月]]に『[[週刊こどもニュース]]』をスタートさせた。</ref>。これで徐々に視聴率を獲得した。初期には手書き・手作りといったアナログ感を重視していたが、[[コンピュータグラフィックス]]についても最新技術を積極的に導入している。[[安竹宮]]で争われた[[中曽根裁定|1987年自民党総裁選挙]]では全[[自由民主党の派閥|派閥]]を積木で表現し、積木を積み立てて今後を予測した。1990年代初めには[[予報業務許可事業者|民間気象情報会社]]の[[ウェザーニューズ]]の協力で天気予報に[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]を使い<ref>{{PDFlink|『[http://weathernews.jp/solive24/files/graph.pdf ウェザーニューズ 報道気象の歴史]』 株式会社ウェザーニューズ}}</ref>、[[イラク戦争]]では[[地図]]に「[[CAD]]システム」を用い、後の[[Google Earth]]のように直感的な操作で地図の拡大・縮小を行った。[[2002年]]あたりからはクロマキー処理を行わないリアルタイムCGも多用された。この他、BGM・ナレーション・テロップなどを[[ワイドショー]]のように使う表現・演出手法は、しばしばニュースを過度にセンセーショナルなものに見せた。また久米が「'''個人的意見'''」を言うことで従来の番組や新聞との差別化を図った。
従来、外部発注が常識となっていた民放テレビ局にあっても報道番組は聖域とされ、ごく一部の例外{{efn2|テレビ朝日は1978年まで報道部門を自社ではなく[[テレビ朝日映像|朝日テレビニュース社]]に委託していた。}} を除いて番組制作が外部に委託されることがなかった中で、[[オフィス・トゥー・ワン]]という外部の制作プロダクション(久米の所属事務所でもある)を導入してニュース番組を制作した。
本番組開始以降、現在の『[[報道ステーション]]』に至るまでネットスポンサー各社は、スポーツコーナーを除いて30秒枠の企業も60秒扱いでクレジットされている。また、読み上げも既に『[[クイズタイムショック]]』で導入されていた全社読み上げ形式で(言い回しは「(ここまでは、)スポンサー会社名がお送りします(しました){{refnest|group="注"|但し初回の後クレは何故か「ここまでの放送は、スポンサー会社名の提供でお送りしました」だった。}}」である)、これも『報ステ』に引き継がれている。
音声は当初[[モノラル放送]]であったが、[[1993年]][[4月19日]]<ref>朝日新聞縮刷版の番組表を確認{{Full|date=2016-02-09}}。</ref>から[[ステレオ放送]]になった。また、番組最末期はスタジオ映像のみハイビジョン制作(16:9サイズ)だった。しかし、実際に本番組をハイビジョンで放送していたのは当時地上デジタル放送が開始されたばかりだったテレビ朝日と[[朝日放送テレビ|朝日放送]](ABCテレビ)・[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]](メーテレ)だけだった。
== 番組の歴史 ==
=== 番組の企画から開始まで ===
当番組の原型となる企画を練る会議は、1984年夏ごろから『[[久米宏のTVスクランブル]]』(日本テレビ)の企画会議と並行して、久米とオフィス・トゥー・ワンのスタッフで水面下で進められていたという。久米は『TVスクランブル』を「未来のニュース番組につながるステップボードのような役割を果たしている」としており、そこで考えたのが当番組のコンセプトである「中学生でもわかるニュース」だった<ref>久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、[[世界文化社]]、138頁。</ref>。彼らが常に意識していたのが当時、報道番組の王座に君臨していた『[[ニュースセンター9時]]』(NHK総合テレビ)だったが、久米は「裏で勝負するのは無謀極まりない」として、せいぜい午後11時からの30分枠を思い描いていた。しかし、話を進めるうちに平日帯のプライムタイム枠での1時間枠という構想に膨らんでいった。しかし1時間では採算が取れないため結果的には1時間15分となった<ref>久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、141・148頁。</ref>。その後、この大胆にして無謀な構想に乗った電通の参入や、電通の支持を取り付けてオフィス・トゥー・ワンのスタッフが久米の古巣である[[TBSテレビ|TBS]]を含む在京各局にこのニュース番組の企画書を持ち込んだところ特に敏感に反応したこと、そして当時の報道局次長である[[小田久栄門]]の「報道はテレビの本道です」という訴えに応じた[[朝日新聞]]の社会部出身で当時の社長・[[田代喜久雄]]の英断、さらに六本木六丁目の再開発に際して[[アークヒルズ]]への本社機能移転・最新鋭の放送設備を備えた[[テレビ朝日アーク放送センター|放送センター]]の新設を行うにあたりその開設記念の大型の目玉企画を模索していた、という三点からテレビ朝日も参入が決まった。電通は企画開発段階から特別チームを編成して視聴者動向のマーケティングや視聴率のシミュレーションを実施。『ニュースセンター9時』のニュース項目を1週間に渡り分析するなどして基本構想をまとめていった。テレビ朝日の社内では「テレビ局でも最も神聖にして侵してはならない報道の分野に外部の制作会社が参入」「プライムタイム帯へ視聴率が望めない大型ニュース番組の投入」「報道の現場を全く知らない他局アナウンサー出身のタレントのキャスター起用」というそれまで厳然とあったタブーを侵す新たなニュース番組の立ち上げに非難・反発が上がったが小田がリーダーとなって同じく特別チームを編成。制作スタッフには局内から有能な人材が集められたが、その人事異動はトップダウン方式で召し上げられるものであり、社内で「[[赤紙]]」と揶揄されたという。こうして、電通の営業戦略会議、テレビ朝日の新放送センター開設に伴う番組会議、オフィス・トゥー・ワンの企画会議と3か所で別々の会議が、番組始動に向けて同時並行的に進む事となった<ref>久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、[[世界文化社]]、141~149頁。</ref>。
1985年7月29日には番組の開始と久米のキャスター起用が正式に発表され、ティザー広告も放送を開始。久米はテレビ朝日とこの時点で2年の契約を結んだ。当時マスコミは契約金を2億円とも4億円とも報じたが、久米の希望で純粋な出演料のみになった。8月にはシミュレーションを行ったが、ニュースとバラエティが無秩序に混ざってしまい番組の体をなさなくなってしまったという。それまでのニュース番組は報道記者が書いた原稿をキャスターが読むだけであり、当然1時間以上の番組を制作経験が無い報道局だけでは作れないため、テレビ朝日の制作局とオフィス・トゥー・ワンのスタッフによる合体チームと報道局のスタッフが協力して番組を制作する形となった。テレビ朝日とオフィス・トゥー・ワンが別々に行っていた会議と並行して、3チームが顔を合わせての全体会議・準備が始まり、久米もシミュレーション以降の全会議に参加した<ref>久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、[[世界文化社]]、156・157頁。</ref>。
全体会議では、会議室でそれまで制作会社の人間と口も聞いた事の無いエリート集団であるスーツ姿の報道スタッフと特にオフィス・トゥー・ワンのディレクター・作家は報道の事は全く知らない雑草集団である短パンにTシャツ、ゴム草履姿の制作スタッフが対峙すると、「事実を正確に伝えるという正統派のニュース番組」のあり方にこだわっては派手な演出や目新しい工夫を嫌う報道側と「ニュースをいかに分かりやすく面白く見せるかに重点を置き、セットやスタジオ演出に気を配る」という考えのオフィス・トゥー・ワン側が衝突し、言い合いばかりで話が全く噛み合わない状況が続いた<ref>久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、[[世界文化社]]、157・158頁。</ref>。この衝突は番組開始後も続き、報道側は「ニュースの事を何も知らずに勝手な事を言うな」、オフィス・トゥー・ワン側は「なぜ原稿をもっと分かりやすく書けないのか」と大喧嘩になった。反省会は深夜2時まで及び連日連夜、時に殴り合いの喧嘩に発展する程の激しい討論を続けたという<ref>久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、[[世界文化社]]、162・163頁。</ref>。
そのような準備期間を経て、1985年10月7日に民放初の平日[[プライムタイム]]帯での1時間超に及ぶワイド編成の報道番組として放送を開始。
=== 初期(1985年10月 - 1988年4月) ===
「'''今までにない全く新しい形の報道番組を目指す'''」というコンセプトのもと、メインキャスターの久米宏、サブキャスターの[[小宮悦子]](当時テレビ朝日アナウンサー、1991年からフリーアナウンサー)、コメンテーターの[[小林一喜]](当時[[朝日新聞]]論説委員)を中心に、キャスター陣には小宮以外のテレビ朝日アナウンサー(スポーツキャスターの[[朝岡聡]]、リポーターの[[渡辺宜嗣]])に加えて、一般公募による出演者オーディション{{Refnest|group="注"|1985年6月14日の朝日新聞他4紙に掲載された全面広告ならびにテレビCMで番組名と久米のキャスター起用を伏せた上で募集広告を出したところ、問い合わせが1万件、5762名(内訳は、男性1811人、女性3547人、プロダクションなどの推薦404人。)の応募があった。半数は関東在住だが全都道府県から応募があり、海外からも5名の応募者がいた。中には夫婦で応募したものも3組いた。男性応募者の最高齢は当時79歳。女性応募者の最高齢は当時74歳だった<ref name="asahi19850728">『朝日新聞』、1985年7月28日朝刊、23面。</ref>。}}から数名のキャスター・リポーターを起用した。一般公募組の中には、[[橋谷能理子]](元[[テレビ静岡]]アナウンサー、スタジオアシスタント)、[[若林正人]](元[[東京銀行]]調査役、コメンテーター兼リポーター)、杉本典子(元[[三菱商事]]勤務、スポーツ担当)、坪井貴久美(元[[国際科学技術博覧会|つくば科学万博]]コンパニオン、ニュース担当)、[[内田誠]]([[早稲田大学|早稲田大学大学院]]院生、リポーター、後に[[ジャーナリスト]]へ転身)、[[松本侑子]]([[筑波大学]]学生、天気キャスター、後に[[作家]]へ転身)などがいた。
第1回の放送で最初に取り上げたのは、[[石狩鍋]]に入れる[[サケ|鮭]]の話題。[[長谷川宏和]](当時[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]アナウンサー)の自宅、[[九州朝日放送]]・[[鹿児島放送]]のスタジオ、[[新潟テレビ21]]のサービスエリアにある[[新潟県]][[村上市]]を結んでの生中継を実施した。本来は「鮭を切り口に環境問題について考える」という趣旨だったが、本番中に最新鋭のVTR再生機が故障し、結果的に上記の内容になったという。これが初日の惨敗を象徴する出来事になったとして、以後しばらくの間、スタッフ間で「鮭」は禁句となり、久米も1年間鮭を口にしなかったという<ref name="ReferenceA">久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、[[世界文化社]]、12・13頁。</ref>。その直後には、同市出身の[[稲葉修]](当時[[自由民主党 (日本)|自民党]][[衆議院|衆議院議員]])が、自宅からの生中継で久米とトークを繰り広げている。
初期は月曜日から木曜日は22:00 - 23:17(「[[大相撲ダイジェスト]]」放送時は23:15まで)、金曜日のみ22時台は『[[必殺シリーズ]]』<ref group="注">2009年1月 - 6月、[[朝日放送・テレビ朝日金曜9時枠の連続ドラマ|金曜21時]]に『[[必殺仕事人2009]]』として放送。</ref>など当時の[[朝日放送テレビ|朝日放送]](現在の朝日放送テレビ)制作枠であり、スタート当初はこの枠について朝日放送との調整が付かなかったこともあって<ref name="tvguide850712"/>、1時間遅れの「金曜版」とし、23:00 - 翌0:00の放送となった(「大相撲ダイジェスト」放送時はネットスポンサー枠の23:45まで)。
開始当初は観客を入れての公開形式番組として放送されており、原則としてメインスタジオであるAスタジオからは一般ニュースを放送しない(一般ニュースは『ANNニュースファイナル』時代の名残から1コーナー扱いとされ、報道局のNスタジオから小宮・坪井(貴)が伝える形となっていた)構成が採られるなど、報道にバラエティ色を加味した内容となっていた。しかし、開始早々から[[阪神タイガース]]の21年ぶりのリーグ優勝・日本一、[[エドゥサ革命]]など、重大ニュースにより全編Nスタジオからの臨時編成となるケースが多く、その際に一般公募によるキャスター陣が対応に窮する場面が多々見られたこと、また開始早々の視聴率低迷の影響もあり、開始数回でAスタジオでの観客入れを廃止したのを皮切りに番組内容・キャスター配置の再整理が急ピッチで進められ、1986年4月からは全編を通じて久米・小宮・小林の3人体制<ref group="注">久米曰く「3Kトリオ」。</ref><ref>久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、159頁。</ref>で進行・ニュース読み・解説を担当する報道色の強い番組構成にリニューアルされた(この際、リポーターと並行して不定期で天気コーナーを兼務するようになった橋谷、同じく不定期でゲストコメンテーターを兼務することになった若林と天気キャスターの松本、リポーターの内田誠を除く公募によるキャスター陣は一旦リポーター専任となった後、開始1年以内で全員番組を降板している)。
放送するスタジオに関しても、1986年の久米・小宮・小林のトリオ体制になる前後から1990年代初頭まではオープニングから概ねスポーツコーナー開始前のCM枠までの前半部がNスタジオからの放送となり、Aスタジオはスポーツコーナー以後の後半部で使うように変更された(日によっては全編Aスタジオから放送の場合もあった)。ただし、重大ニュースがあった場合や後述するセット改装があった場合は全編Nスタジオから放送していた。
ただし、「金曜版」については上記の番組リニューアル後も引き続きバラエティ色の強い構成を継続(しばらくNスタジオ・Aスタジオ併用の構成も継続し、小宮はNスタパートのみ出演していたが、末期はAスタジオからニュースを読むこともあった)し、Aスタジオでの観客入れも継続していた。この「金曜版」は、当時週休二日制が定着していたことから、『TVスクランブル』など本番組開始までの久米のレギュラー番組を引き継いだような内容がメインとなっており、土曜に代わる「休日前夜」という位置づけでNスタジオからの通常のニュースに加えて、毎回ゲスト2名(男女1名ずつ)をブーメランテーブルに隣接するソファのセットに招いて、「[[金曜チェック]]」「奥様教養シリーズ」「ニュースミステリー」「カウントダウンJAPAN」「ニュース・ことわざ勉強室」「ニュース分水嶺」「ニュースのふるさと」「世直しエイド」といったコーナーを放送した。
1986年7月から[[選挙特別番組]]として『[[選挙ステーション]]』がスタートする。
1988年4月改編で朝日放送が金曜22時台撤退により月曜日から金曜日まで放送時刻が統一されることとなり、[[3月25日]]と[[4月1日]]の2週にわたって「金曜版」終了スペシャルを放送する予定だったが、3月25日は臨時ニュース<ref group="注">[[中華人民共和国|中国]]で起きた[[高知学芸中学校・高等学校|高知学芸高等学校]]の修学旅行生を載せた[[上海列車事故|列車が脱線した事故]]に関するニュースが中心。この日はゲストは呼ばず、Nスタジオから久米・小宮のみ、さらに放送時間が繰り下げられて23:30 - 24:15の45分枠(当時大相撲春場所の開催期間・「大相撲ダイジェスト」の放送と重なったため)での放送になった。</ref>のため放送できず、4月1日のみの放送となった。「金曜チェック」はこの影響で2本立てで放送された。なお、「金曜版」最終回の4月1日より22:00 - 23:17の放送となり(当初の予定通り)、放送開始時刻が統一されただけでなく放送時間も同じになった。
=== 中期1(久米・小宮時代、1988年4月 - 1998年3月) ===
新体制となる1988年4月4日から全曜日統一して報道色の強い構成となったが、金曜は金曜版からの名残もあり、「金曜コンサート」などの企画を設けたり、1990年代に入ってからは[[テリー伊藤]]や[[笑福亭松之助]]など金曜のみ出演するレギュラーを起用するなど、月曜から木曜までとは違う雰囲気作りが図られるようになる(これは現在の『報道STATION』でも変わっていない)。金曜版を引き継ぐ形でミュージシャンやお笑い芸人がゲストとして登場することもしばしばあった。
1990年には久米が第27回[[ギャラクシー賞]]・テレビ部門個人賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.houkon.jp/galaxy-award/%E7%AC%AC27%E5%9B%9E%EF%BC%881989%E5%B9%B4%E5%BA%A6%EF%BC%89/|title=第27回ギャラクシー賞受賞作品|publisher=[[放送批評懇談会]]|date=|accessdate=2014-11-14}}</ref>。1993年には番組として[[ギャラクシー賞]]30周年記念賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.houkon.jp/galaxy-award/%E7%AC%AC30%E5%9B%9E%EF%BC%881992%E5%B9%B4%E5%BA%A6%EF%BC%89/|title=第30回ギャラクシー賞受賞作品|publisher=放送批評懇談会|date=|accessdate=2014-11-14}}</ref>。
1993年7月1日(木曜日)、久米が同年の下半期突入を期に眼鏡<ref group="注">正確には老眼鏡である(当時の久米は48歳)。</ref>を着用するようになった。この頃のメガネはまだ報道キャスターらしいシンプルな枠が無いレンズのみのものであり、このメガネは1999年10月の一時降板までは一貫して変更せずに着用し続けた。
1995年4月からは新たにスタジオサブキャスターを金曜日のみに新設。この金曜日のみ久米・小宮・コメンテーターを加えた4人体制となる。
1996年10月3日からスポーツキャスターが[[坪井直樹]]から[[角澤照治]]に変わり、角澤は番組終了まで7年半にわたってスポーツを担当することとなった。翌週10月7日からテーマ曲と作曲者を約7年半ぶりに新しいものに変更した。
1997年4月から金曜のみに女性スポーツキャスターを設けた。初代はテレビ朝日スポーツ局記者の[[長島三奈]]が務めた。
1998年3月27日、小宮が[[石田純一]]の後任として『[[スーパーJチャンネル]]』のメインキャスター就任のため降板<ref group="注">なお、小宮は降板後も当番組をベースとした国政選挙の開票特別番組『選挙ステーション』で、2003年11月の[[第43回衆議院議員総選挙]]の際まで久米と共に第1部のメインキャスターを務めた。</ref>。但し、金曜日のみの出演に移行した(『Jチャンネル』も半年間は金曜日のみ出演せず)。小宮降板後の2代目サブキャスター就任までの間、同年[[5月8日]]までサブキャスター代理として月曜日から木曜日は[[堀越むつ子]](3月30日 - 4月16日<ref group="注">1998年4月3日のみ、金曜にも出演。</ref>)・[[渡辺みなみ]](4月20日 - 4月30日)・渡辺宜嗣(5月4日 - 7日)の3人で繋いだ。
=== 中期2(久米・真理時代、1998年4月 - 1999年12月) ===
1998年5月11日、改編期から約1か月遅れでリニューアル。久米に加え、後任のサブキャスターにTBS退社直後の[[渡辺真理]]、スタジオサブキャスターにテレビ朝日スポーツ局記者の[[白木清か]]、1997年11月から出演しているコメンテーターの[[菅沼栄一郎]]の4人体制となる。これまでは金曜のみスタジオサブキャスターを設けていたが、このリニューアルによってスタジオサブキャスターは月曜から木曜にも追加新設され、全曜日で設けられるようになった。なお、金曜日のみは引き続き小宮と[[丸川珠代]]が担当する。テーマ曲が[[ゴスペラーズ]]の曲に刷新されて、番組のタイトルロゴも若干アレンジしてリニューアル。オープニング映像もニュース映像に変わり(但しリニューアルした初回は久米、真理、白木がスタジオに向かう様子の映像を流した<ref group="注">また、リニューアル初日の前座番組『[[ビートたけしのTVタックル]]』の本編終了直後に流れた[[クロスプログラム]]でも真理がテレビ朝日局内の廊下を歩く映像を流した。</ref>ほか、ゴスペラーズがゲスト出演した際はスタジオでオープニングを生披露しているのを背景にするなどの例外あり)、最初から日付表示がなされるようになった(タイトルは映像の最後に表示)。但し大きなニュースが入った時はピアノ曲になりスタジオ背景で日付出てから直ぐにタイトル表示となる。
[[田代まさし]]の降板で金曜日も『Jチャンネル』に出演するため、番組開始から12年半出演後も1998年4月10日以降の金曜に限って出演を続けてきた小宮が1998年9月25日を以って完全降板、翌週の10月2日には丸川も降板した。翌週10月5日より、真理と白木は全曜日出演となる。1999年2月から月曜日と火曜日のみ[[上山千穂]]が担当し、白木は水曜日から金曜日の担当に縮小となった。
1999年8月、セットをリニューアル。ところがその約2か月後の10月6日放送を以て、[[#1990年代|契約切れを理由に久米が番組を一時降板するという異例の事態]]となった。これを受けて翌10月7日放送から約3か月間、年末まで宜嗣が代役を務めた。
=== 後期(2000年1月 - 2003年7月) ===
[[2000年]][[1月4日]]、前年12月23日に寿退社のため降板した白木清かと入れ替わる形で、久米が3か月ぶりの番組復帰を果たす。それに伴い番組もリニューアルした。スタジオサブキャスターも上山千穂が全曜日担当することになり、久米・真理・上山とコメンテーターの4人体制となる。また、コメンテーターも[[清水建宇]]・[[萩谷順]]・[[森永卓郎]]・[[船曳建夫]]の4人(2002年頃に船曳が降板し、以後は3人体制)に一新された(日替わりでいずれか1人が出演)。テーマ曲が[[福岡ユタカ]]作曲のものに刷新され、スタジオセットやタイトルロゴ・グラフィックデザインもリニューアルと同時にタイトルロゴがカタカナ表示の「ニュースステーション」から英語表記の「NEWS STATION」に変更。オープニング映像はその日の放送するニュース内容の告知を行うスタイルに変わった。リニューアル当初はトップニュースを合成したCGをバックにBGM付きで読み上げる演出もあったがすぐになくなった。
2000年3月27日、放送開始時間が6分繰り上がり、21:54開始の[[フライングスタート (放送)|フライングスタート]]となった。これにより終了時間も23:20→23:09と11分繰り上がった。同時に番組構成も若干変更が行われる。2000年4月14日、金曜日の女性スポーツキャスターの出演者のリニューアルが行われ、テレビ朝日を退社(後に嘱託社員<ref group="注">2001年2月1日から2014年1月31日まで。</ref>として復帰)した長島三奈に代わり、『[[進ぬ!電波少年]]』(日本テレビ系列)で注目を集めたタレント・女優の[[東風万智子|真中瞳(現・東風万智子)]]を起用。
同日より[[日本放送協会|NHK]]が本番組に対抗する形で同時間帯で『[[NHKニュース10]]』を開始。
2002年4月1日から6月28日までは日韓共催の[[2002 FIFAワールドカップ]]開催に伴い、オープニングで毎日[[FIFAワールドカップ]]の歴史を流す特別オープニングに変更([[川平慈英]]のナレーション入り。タイトルと日付は紹介後まとめて上にタイトル下に日付という形で表示された)。テーマ曲は[[Char]]が担当した。
2002年7月1日からテーマ曲が[[サラ・ブライトマン]]の曲に変更。また、角澤のスポーツ担当曜日がこれまでは月曜日から木曜日だったのが、月曜日から水曜日に縮小され、空いた木曜日には[[河野明子]]が担当することになった。その後、2002年9月27日を以って真中が降板。これと同時に番組開始から17年(一時期降板していた時期あり)出演してきた宜嗣も[[前田吟]]に代わり『[[スーパーモーニング]]』のメインキャスターに就任するため降板した。翌週から河野が金曜日も担当するようになり、月曜日から水曜日は角澤、木曜日・金曜日は河野がスポーツを担当する。
=== 番組の終焉(2003年8月 - 2004年3月) ===
2003年8月25日、翌年春を以って本番組の放送を終了する事が発表された。久米はこの週は夏季休暇中だったが、この日移転前の[[テレビ朝日本社ビル|テレビ朝日六本木6丁目本社ビル(六本木ヒルズ)]]で番組終了発表会見(公式には「来年(2004年)3月で降板」と発表)を開き、「十分にやった、スタミナ切れ」「2000年復帰後3年という話だったこと」ということを終了理由に挙げていた。
テレビ朝日・広瀬道貞社長は2003年9月30日の定例会見で、久米が3年ほど前から降板の意向を度々申し出ており、これ以上の慰留は出来ないと判断したため出演契約を2004年春で満了とする事で合意したことを明らかにした<ref>[https://web.archive.org/web/20040405110305/http://company.tv-asahi.co.jp/corp/teirei/2003/0930.html 広瀬道貞社長 定例社長会見要旨(2003年9月30日)]</ref>。
2003年9月29日、テレビ朝日の本社移転に伴い、放送スタジオが[[アークヒルズ|テレビ朝日アーク放送センター(アークヒルズ)]]から[[テレビ朝日本社ビル|テレビ朝日六本木6丁目本社ビル(六本木ヒルズ)]]へ移りスタジオセットとテーマ曲をリニューアル。タイトルロゴはそのままで、色がオレンジ/黄色を基調としたものから青/水色を基調としたものに変更された。テーマ曲は[[U2]]が担当した。
2004年3月26日の最終回ではその日のニュースに加え、過去19年間のニュースの振り返り、現代の久米(と当時50歳の久米)が番組開始の1985年の本番組へタイムスリップ(という設定の演出)し、スタジオ見学をするなどの内容で放送され19年間の歴史に幕を下ろした(最終回の詳細は後述)。
後継番組は『'''[[報道ステーション]]'''』である。なお、角澤と河野・スポーツコーナーのみ関わっている[[宮嶋泰子]]と[[栗山英樹]]は引き続き立ち上げ当初の『報ステ』にも出演することになった。
久米が会見で後継番組の初代メインキャスターを務める[[古舘伊知郎]]に関して記者に尋ねられた際、「いや、番組はなくなるって聞いていますから。存在しない番組に司会者が存在するわけないでしょ。」と発言した事に対し、雑誌のインタビューで古舘は「(久米を)冷たい男だなと思いましたけど。」「それから久米さん嫌いになったんですけど。」と述べた。その後には「半分は大先輩だと思って尊敬している。半分は嫌いっていうところに落ち着くんだけど。」と語った<ref>[http://lite-ra.com/2014/07/post-238.html 古舘伊知郎が懺悔告白“テレビはウソしか伝えていない”],LITERA,2014年7月15日</ref>。ただし、その後久米は「いかにつらいか、大変さが手に取るように分かる。(最近は)見ていないけど、無意識のうちに避けているのかもしれない」「自分は家を土台から造った。自由に造って来た。でも、彼はその土台を壊す事をさせてもらえずに、建物を造る様にさせられている。その事に苦労していると思う」と古舘を気遣うコメントをしたことがある<ref>『久米宏と1日まるごと有楽町放送局』での公開記者会見にて発言</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20041208052804/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2004/09/21/01.html 久米宏過激に復帰 渡辺前オーナー口撃],Sponichi Annex,2004年9月21日</ref>。
* また、久米は「古舘君をはじめ、かなりの人が勘違いしている。僕が『ニュースステーション』でかなりしゃべったというイメージを持っている方が多いんですが、ほとんどのニュースに関して、リード原稿は僕が読んでいたんです。僕が原稿を読んでいる時間が結講あったのを、フリートークだと思い込んで見ていた人がかなり多かった。このぐらいの時間、しゃべらないといけないんじゃないかと、後任者が思い込んだ可能性はあるんです。僕が本当にフリートークで話した時間は、短い時は2秒ぐらいですからね」とも述べている<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/04/23/kiji/K20160423012456030.html],スポーツニッポン,2016年4月23日</ref>。
本番組の後継番組『報ステ』降板後もテレビ朝日への直接の出演を行う古舘伊知郎とは違い、久米は本番組終了後、テレビ朝日への直接の出演を一切行っていない<ref group="注">ただし、[[BS朝日]]・番組のネット局であった[[朝日放送テレビ]]へは出演歴あり。</ref>。
なお、『報ステ』の初回放送は2004年4月5日であり、2004年3月29日 - 4月2日の当該時間帯は『[[ANN NEWS&SPORTS]]』を[[つなぎ番組]]として放送した。
== 出演者 ==
; メインキャスター・サブキャスター・コメンテーター
{| class="wikitable" style="text-align: center; margin:0 auto;"
|-
!colspan="2" rowspan="2"|期間!!rowspan="2"|メインキャスター!! colspan="2" |サブキャスター!! rowspan="2" |コメンテーター
|-
!月曜 - 木曜!!金曜
|-
!1985.10.7!!1991.2.22
|rowspan="14"|[[久米宏]]<ref name="ad-channel199710">{{Cite journal|和書|journal=企業と広告|volume=23|issue=10|publisher=チャネル|date=1997-10-01|pages=42|id={{NDLJP|2853175/24}}}}</ref>||colspan="2" rowspan="6"|[[小宮悦子]]<ref name="ad-channel199710"/>||[[小林一喜]]
|-
!1991.2.25!!1991.5.17
|style="background:beige"|(不在)
|-
!1991.5.20!!1992.10.9
|[[田所竹彦]]
|-
!1992.10.12!!1996.3.29
|[[和田俊]]
|-
!1996.4.1!!1997.10.31
|[[高成田亨]]<ref name="ad-channel199710"/>
|-
!1997.11.3!!1998.3.27
|rowspan="8"|[[菅沼栄一郎]]
|-
!1998.3.30!!1998.4.3
|colspan="2"|[[堀越むつ子]]<sup>1</sup>
|-
!1998.4.6!!1998.4.17
|堀越むつ子<sup>1</sup>||rowspan="4"|小宮悦子
|-
!1998.4.20!!1998.5.1
|[[渡辺みなみ]]<sup>1</sup>
|-
!1998.5.4!!1998.5.8
|[[渡辺宜嗣]]<sup>1</sup>
|-
!1998.5.11!!1998.9.25
|rowspan="2"|[[渡辺真理]]
|-
!1998.9.28!!1998.10.2
|style="background:beige"|(不在)
|-
!1998.10.5!!1999.4.20
|colspan="2" rowspan="5"|渡辺真理
|-
!1999.4.23!!1999.10.6
|rowspan="2"|[[轡田隆史]]<sup>2</sup>
|-
!1999.10.7!!1999.12.23
|渡辺宜嗣<sup>3</sup>
|-
!2000.1.4!!2002.3.29
|rowspan=2|久米宏||[[清水建宇]]<sup>4</sup><br />[[萩谷順]]<sup>4</sup><br />[[森永卓郎]]<sup>4</sup><br />[[船曳建夫]]<sup>4</sup>
|-
!2002.4.1!!2004.3.26
|清水建宇<sup>4</sup><br />萩谷順<sup>4</sup><br />森永卓郎
|-
|colspan=13 style="text-align:left"|
<small>
* <sup>1</sup> 渡辺真理の着任延期に伴い、代理のキャスターが担当(前述)。
* <sup>2</sup> 『[[スーパーJチャンネル]]』コメンテーターを兼務。
* <sup>3</sup> 久米の降板に伴う事実上の代役。
* <sup>4</sup> 日替わりで出演(最終回の2004.3.26は項目ごとに交代で出演し、エンディングは全員が揃った)。
</small>
|}
* 小林を含めニュース解説者としてのコメンテーターは船曳・森永を除いて歴代、[[朝日新聞]]記者またはその経験者。開始にあたり人選を朝日新聞社に依頼し、小林が選ばれた。コメンテーターとしてだけではなく外からの中継リポートなども担当する事があり、1999年に放送された「ニュースステーション物語」では「キャスター」として紹介されている。
* 初代コメンテーターの小林は、久米・小宮と名トリオとして親しまれたが、[[1991年]][[2月19日]]に逝去。小林は、久米不在時に一度だけメインの代役を試みたことがある。
* 1990年代まで金曜は主にゲストコメンテーターが出演する場合あり。
* 渡辺真理は、久米と同じTBS出身であり、当番組とその競合番組「[[筑紫哲也 NEWS23]]」の両方でキャスターを務めた唯一の人物である。
; ゲストコメンテーター
* [[黒柳徹子]] - 久米の厚意もあって『Nステ』には自身のユニセフ親善大使としての活動報告や「ユニセフカード」などの告知のために度々ゲスト出演しており、『[[ザ・ベストテン]]』でのコンビネーションも見られた。主に金曜日の出演が多かった。
* [[福岡政行]] - 国政選挙時に出演し、選挙予想をことごとく当て有名になった。
* [[青木功]] - 特に全米・全英オープンゴルフ大会(彼が解説者として出演)のPRと現地中継リポートで出演することが多かった。
* [[笑福亭松之助]] - 金曜日にレギュラー格として出演していた(1996年)。
* [[テリー伊藤]] - 主に金曜日に準レギュラー格として出演していた(1997年 - 1998年頃)。
* [[糸井重里]] - 主に初期の金曜版に出演。巨人ファンということもあり、ジャイアンツエイドにも出演していた。
* [[栗山英樹]] - 本人による取材リポートが中心、後番組『報道ステーション』も引き続き出演。
* [[大橋巨泉]] - 本人曰く「出てやる」。
* [[黒鉄ヒロシ]] - 巨人ファン代表としてたびたび出演し、どんな状況でも巨人が優勝するとこじつける「安心理論」を展開した。
: など
; スタジオサブキャスター・スポーツキャスター・お天気キャスター
{| class="wikitable" style="text-align: center; margin:0 auto;"
|-
!colspan="2" rowspan="2"|期間!!colspan="3"|{{big|スタジオサブキャスター}}!! colspan="3" |{{big|スポーツキャスター}}!! colspan="2" |{{big|お天気キャスター}}
|-
!月曜・火曜!!水曜・木曜!!金曜!!月曜 - 水曜!!木曜!!金曜!!月曜 - 木曜!!金曜
|-
!1985.10.7!!1986.3.31
|colspan="3"|[[橋谷能理子]]<sup>1</sup><br/>[[坪井貴久美]]<sup>1</sup>||colspan="3"|[[朝岡聡]]<br />[[杉本典子]]||colspan="2" rowspan="3"|[[松本侑子|松本裕子]]
|-
!1986.4.1!!1987.9.18
|colspan="3" rowspan="9" style="background:beige"|なし||colspan="3"|朝岡聡
|-
!1987.9.21!!1988.3.25
|colspan="3"|[[松井康真]]<sup>2</sup>
|-
!1988.3.28!!1990.3.30
|colspan="2"|松井康真<sup>3</sup>||朝岡聡<sup>3・4</sup>||colspan="2" rowspan="3"|[[大谷千亜紀]]
|-
!1990.4.2!!1991.3.29
|colspan="3"|松井康真
|-
!1991.4.1!!1993.9.30
|rowspan=2 colspan="3"|[[飯村真一]]
|-
!colspan=2|1993.10.1
|rowspan=2 colspan=2|[[勝恵子]]<br />[[坪井直樹]]
|-
!1993.10.4!!1994.3.31
|colspan="3" rowspan="6"|坪井直樹
|-
!1994.4.1!!1994.12.29
|colspan="2"|[[大石恵]]
|-
!1995.1.4!!1995.3.31
|rowspan=2 colspan=2|大石恵<br/>[[内藤聡子]]
|-
!1995.4.3!!1995.12.28
|colspan="2" rowspan="6" style="background:beige"|なし||rowspan=2|[[岡田洋子]]<sup>5</sup>
|-
!1996.1.4!!1996.3.29
|colspan=2|大石恵
|-
!1996.4.1!!1996.10.2
|rowspan="2"|岡田洋子<sup>5</sup><br />[[小谷真生子]]||colspan="2" rowspan="7"|[[乾貴美子]]<br />[[河合薫]]
|-
!1996.10.3!!1997.3.28
|colspan="3"|[[角澤照治]]
|-
!1997.3.31!!1998.3.27
|小谷真生子<br />[[丸川珠代]]||colspan="2" rowspan="9"|角澤照治||rowspan="7"|[[長島三奈]]
|-
!1998.3.30!!1998.5.8
|rowspan="2"|丸川珠代
|-
!1998.5.11!!1998.10.2
|colspan="2"|[[白木清か]]
|-
!1998.10.5!!1999.1.29
|colspan="3"|白木清か
|-
!1999.2.1!!1999.10.1
|rowspan="2"|[[上山千穂]]||colspan="2" rowspan="2"|白木清か
|-
!1999.10.4!!1999.12.23
|colspan="2"|[[渡辺美奈子 (気象予報士)|渡辺美奈子]]
|-
!2000.1.4!!2000.4.7
|colspan="3" rowspan="5"|上山千穂||rowspan="2"|[[増田雅昭]]||rowspan="2"|[[斎藤義雄]]<br />[[宮部二朗]]<br />[[飯島真一]]<sup>6</sup>
|-
!2000.4.10!!2000.12.28
|rowspan="3"|[[東風万智子|真中瞳]]
|-
!2001.1.4!!2002.6.28
|colspan="2" rowspan="3"|上山千穂
|-
!2002.7.1!!2002.9.27
|rowspan="2"|角澤照治<sup>7</sup>||[[河野明子]]
|-
!2002.9.30!!2004.3.26
|colspan="2"|河野明子<sup>7</sup>
|-
|colspan=13 style="text-align:left"|
<small>
* <sup>1</sup> 橋谷はAスタジオからのスタジオアシスタント、坪井貴はNスタジオからのニュースコーナーを担当(前述)。
* <sup>2</sup> 金曜日は『[[ミュージックステーション]]』を兼務。
* <sup>3</sup> 松井の『ミュージックステーション』との兼ね合いによる。朝岡は金曜版最終回の1988年4月1日から出演。
* <sup>4</sup> 1989年3月まで『[[ニュースシャトル]]』、同年4月以降は『[[ナイトライン (ANN)|ナイトライン]]』と『[[はなきんデータランド]]』を兼務。
* <sup>5</sup> 1995年10月から1996年9月まで『[[ステーションEYE]]』を兼務。
* <sup>6</sup> 台風接近の際は随時出演。
* <sup>7</sup> 後継番組『[[報道ステーション]]』も続投(角澤はリポーターとして、河野はサブキャスターとして)。
</small>
|}
=== その他のキャスター ===
; スポーツキャスター(メイン以外)
* [[川平慈英]] - [[サッカー]]・[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]担当(1993.4 - 2004.3)
* [[宮嶋泰子]] - 朝岡不在時の代役
* [[石橋幸治]]
; スタジオサブキャスター(不定期出演、代役時)
* [[山本明美(1968年生のアナウンサー)|山本明美]]
* [[高橋真紀子]]
* [[萩野志保子]]
* [[吉元潤子]]
* [[川北桃子]]
* [[平石直之]](2002.1 - 2004.3)
=== リポーター ===
* [[渡辺宜嗣]] - 番組開始時から現場取材を中心に久米不在時にはメインキャスター代理も担当。途中、『[[なうNOWスタジオ]]』『[[モーニングショー]]』『[[ステーションEYE]]』担当のため一時降板していた時期はあったが17年間に渡り番組を支えた。
* [[若林正人]] - 第1回出演者のひとり。夜桜中継が有名、小林の療養中の代打など不定期でゲストコメンテーターとしても出演。共演者の久米や降板時点のテレビ朝日報道局長との不仲・確執で降板したとされている。<ref group="注">降板後に出演した『[[探偵!ナイトスクープ]]』(朝日放送テレビ、[[関西ローカル]])では「'''ニュースステーションで久米さんに嫌われた若林さん'''」とネタにされていた。</ref>
* [[渡辺みなみ]] - 『[[ANNニュースレーダー]]』を降板した1986年10月からニューヨークのキャスターなどで出演。小宮不在時にはサブキャスター代理も担当。
* 橋谷能理子 - 第1回出演者のひとり。初期のスタジオサブ・天気コーナーも担当。1987年9月まで出演し、平日朝の『[[おはよう!CNN]]』への異動を経て[[TBSテレビ|TBS]]に活躍の場を移す。
* [[内田忠男]] - 『モーニングショー』『ステーションEYE』担当のため帰国していた1988年10月から1993年4月の間を除いて、主に[[ニューヨーク]]支局から出演。
* 宮嶋泰子 - スポーツ特集担当兼ディレクター
* [[三反園訓]] - 主に国会記者会館から出演。
* [[立松和平]] - 「心と感動の旅」を担当。
* [[羽田健太郎]] - ピアノ演奏中継(天気コーナー)
* [[安藤優子]] - CNNコーナーを担当。テレビ朝日との契約が切れる1987年3月まで出演し、同年秋からは[[フジテレビジョン|フジテレビ]]へと活躍の場を移した。
* [[神田秀一 (ジャーナリスト)|神田秀一]] - 皇室関係担当、一時期天気予報も担当。
* [[西脇亨輔]](1998.9 - 2002.7) - ほぼ毎日リポートを担当。第47期司法修習を修了している事から司法関係の取材も担当した。
* 平石直之
* 長島三奈
* [[小林一枝]]
* [[下平さやか]]
* [[雪野智世]]
* [[松苗慎一郎]]
* 岡田洋子
* 小谷真生子 - 小宮不在時にはサブキャスターも担当。降板後は[[テレビ東京]]へ活躍の場を移した。
* [[佐藤紀子 (アナウンサー)|佐藤紀子]]
* [[木下智佳子]]
* [[田中真理子]]
* [[田丸美寿々]]
* [[木佐彩子]] - フジテレビ入社前に出演。
* [[山口容子]]
* [[内田誠]] - 第1回出演者のひとり。多くの一般公募枠が短期間で降板する中で若林・橋谷と共に公募枠としては長く残りリポートで活躍。降板後はジャーナリストに転身した。
; 補足
* 渡辺宜嗣は、休暇中の久米の代役の定番であり、当番組長寿化の功労者の一人。また、リポーター・スタジオサブキャスターを務めた小谷を始め、初期のCNNコーナーを担当した安藤や、スタジオサブやリポート、お天気コーナーまでマルチにこなした橋谷など、後に他局で活躍する女性キャスターたちがこの番組を足掛りとしている場合も多い。
=== 代役について ===
* 久米は例年8月から9月にかけて夏休みを取るのが恒例で、1990年代からは3週間に渡り夏休みを取るのが通例となっていた。しかし、その間に重大な出来事が起こる事もあり'''「久米が夏休みに入ると必ず重大なニュースが起こる」'''というジンクスにもなっていた。夏休みや取材等で不在の時は、初期から1990年は宜嗣、1991年から1994年までは朝岡が代理を務めていた。1995年から再び宜嗣が代理を務めたが、メインキャスターというよりはサブキャスター的ポジションであり、実質上の代理はいずれも小宮が務めた。真理がサブキャスターとして登場して以降は宜嗣が担当。2000年からは宜嗣は出演せず、真理が実質上の代理を務めていた。
* 小宮が不在の場合は渡辺みなみが代理を務め(後期は小谷が代理を務めることもあった)、真理が不在の場合は不定期出演のスタジオサブキャスターが代理を務めていた。
* 上山が不在の場合は久米と真理の2人体制で行うか、同局の若手女性アナウンサーが代理を務めていた。
* スポーツニュースの代役は、朝岡時代は宮嶋、それ以降は不明。2000年代は上山・河野(2002年より)が担当した(上山も不在場合は女性アナウンサーが担当)。
== 放送時間 ==
すべて[[日本標準時|日本時間(JST)]]で記す。
{| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0 auto"
|-
!colspan="2"|期間!!月曜 - 木曜!!金曜
|-
!1985.10.7!!1988.3.31
|22:00 - 23:17(77分)||23:00 - 翌0:00(60分)
|-
!1988.4.1!!1994.9.30
|colspan="2"|22:00 - 23:17(77分)
|-
!1994.10.3!!2000.3.24
|colspan="2"|22:00 - 23:20(80分)
|-
!2000.3.27!!2001.9.28
|colspan="2"|21:54 - 23:09(75分)
|-
!2001.10.1!!2004.3.26
|colspan="2"|21:54 - 23:10(76分)
|-
|}
; 備考
* [[プロ野球中継]]による繰り下げ、[[テレビドラマ|ドラマ]]・[[バラエティ番組]]の拡大・特番により、放送時間が変更される場合もあった。
* [[年末年始]]は年末・正月特番編成の関係上、放送休止。代わりに『[[ANNニュース]]』を10分が - 15分間放送している。
* 2000年3月27日から開始時刻を6分前倒し、[[フライングスタート (放送)|フライングスタート]]を実施。この間、平日20時以降の時間帯の番組は一斉に正時の6分前からのフライングスタートとしたが、視聴者の反応が鈍く、20時台の番組は2000年9月に、21時台の番組は2001年9月に廃止された。
** 21:54 - 22:00枠<ref name="a2">テレビ朝日では1985年10月7日から1987年5月29日までは『[[ニューヨーク情報]]』、1987年6月1日から2001年9月28日までは『[[世界の車窓から]]』。なお、『世界の車窓から』は2001年10月1日より23:10 - 23:15に移動。</ref>は廃止されたが、2000年3月27日から2001年9月までは21:48 - 21:54枠<ref name="a2"/>を充てて、2000年10月より19:54 - 20:00枠を新設した。
* 末期の放送時間は後継番組『報道ステーション』でも受け継いでいる<ref group="注">ただ、[[2018年]]10月1日から[[2019年]]9月26日までは月曜から木曜に限り5分拡大し23:15まで放送していた。</ref>。
=== 特別編成 ===
大災害などの緊急ニュースの発生時には放送を21時からに前倒しあるいは放送終了時間の延長をすることがあった。
初めて放送終了時間の延長を行ったのは、[[1986年]][[2月25日]]である。この日フィリピン政変が起こり、それに関連して、30分の時間延長がなされた(詳細は後述)。
初めて前倒し編成を行ったのは、1986年[[11月21日]]である。この日に発生した[[伊豆大島]][[三原山]]の大噴火に関連して、22時から約2時間の拡大版として放送した(詳細は後述)。
この件をはじめとして、それ以後も[[湾岸戦争]]開戦、[[皇太子徳仁親王]]ご成婚、[[阪神・淡路大震災]]、[[アメリカ同時多発テロ事件]]などではほぼ同様の措置がとられ、特に三原山噴火の際には、当時[[クロスネット局]]で、テレ朝枠を持っていた[[山形放送]]が編成の都合上差し替えもできなかったことから、臨時ネットとして60分のみ放送したことがある。
=== スポーツ番組による特例編成 ===
; 高校野球開催期間中
[[全国高等学校野球選手権大会]]が行われる毎年8月中旬の2週間は、ハイライト『[[熱闘甲子園]]』([[朝日放送テレビ|朝日放送]]制作)を放送するための特例編成となっていた。
* [[1989年]]までは平日の同番組の放送が22:00 - 22:30<ref group="注">[[1982年]]の第1回熱闘甲子園のみ21時開始。[[1983年]]の第2回以降[[1989年]]まで22時開始がずっと定着していた。</ref>であったので、[[1986年]]と[[1987年]]は番組の開始から終了まで全編30分ずらし(通常日は22:30 - 23:47、金曜版のみ23:30 - 翌0:30)としていた。[[1988年]]と[[1989年]]は1時間に短縮し22:30 - 23:30とした。
* [[1990年]]から[[1999年]]は終戦記念日([[8月15日]])前後を基点とし、大会前半は通常と同じ22:00 - 23:17→22:00 - 23:20、大会後半は1時間短縮版で22:00 - 23:00とした。同番組の放送は大会前半は23:20 - 23:50、大会後半は23:00 - 23:30であった。
* [[2000年]]のフライングスタート開始以後は全日程を通して通常と同様の時間帯(21:54 - 23:09→21:54 - 23:10)となった。同番組の放送も全日程を通して23:09 - 23:39となったが、[[2002年]]からは23:10 - 23:40となっている。
; 大相撲開催期間中
[[大相撲]]期間中は『[[大相撲ダイジェスト]](以下:ダイジェスト)』を放送するため、『Nステ』は3分短縮となっていたが、1995年4月改編を期に解消された。2000年4月のフライングスタート開始以後は[[ネオバラエティ]]・[[金曜ナイトドラマ]]の後に『ダイジェスト』を放送した。2003年9月の六本木ヒルズ新本社移転直前をもって『ダイジェスト』は終了する。なお、1988年3月までの金曜版は23:45までの45分間に短縮して放送していた(通常は途中までがネットセールスだが、45分枠へ短縮時に限り全編ネットセールスとなった)。
== 番組での出来事など ==
=== 1980年代 ===
; ニュースステーションスペシャル
: 初期には年内最後の放送を『ニュースステーションスペシャル』と題して、大掛かりな特集を中心として時間を通常より30分延長して放送していた。[[1985年]]は[[日本航空123便墜落事故]]を特集し、[[1986年]]は後述する[[フィリピン]]の[[エドゥサ革命]]、1987年は[[竹下登]]の[[自由民主党総裁|総裁]]就任、[[1988年]]は後述の[[10.19|10.19ロッテ-近鉄戦]]、1989年は[[東欧革命]]とその年に起こり、番組でも時間を割いて取り上げたニュースが特集された。その後も何度か、長時間特番を組むことがあった。
; [[1986年]][[2月25日]]
: [[フィリピン]]で「[[エドゥサ革命]]」が起こり、[[フィリピンの大統領|フィリピン共和国大統領]]が交代した。この日は、[[マニラ首都圏]]からの生中継を計画するも、[[通信衛星]]回線が各国のテレビ局に全部押さえられてしまい、現地からの[[生放送]]を断念。当時のテレビ朝日プロデューサー・[[早河洋]]が、番組前に30分の放送時間延長を決断した。「映像が無ければ最新情報で勝負しよう」と、報道局外報部・[[ワシントンD.C.|ワシントン]]支局・[[ニューヨーク]]支局・[[霞が関|霞ヶ関]]の[[外務省]]・[[築地]]の[[朝日新聞東京本社]]や[[成田国際空港|成田空港]]などを結んで、多元中継を実施した。
: 久米の責任で[[コラソン・アキノ]]を新しいフィリピン共和国大統領と断言。<!---2009年2月1日の開局50年特番から--->放送終了の1分30秒前に、[[CNN (アメリカの放送局)|CNNテレビ]]で[[生中継]]された[[アメリカ合衆国|米国]]・[[ジョージ・シュルツ]][[アメリカ合衆国国務省長官|国務長官]]の[[記者会見]]を[[日本語]]同時通訳付きで流し、[[フェルディナンド・マルコス|マルコス]]大統領の[[亡命]]および政権崩壊の一報を伝えた。
: 当時女子大生だった[[安藤優子]]が、[[マニラ]]から[[国際電話]]で中継を行った。安藤は、隣にいた[[NBCニュース]]の情報を聞き取っていたという。この日のニュースは、後に「ニュース番組を変えたニュース」として伝えられている。
: また、2009年(平成21年)2月1日に[[50時間テレビ|テレビ朝日開局50周年記念特別番組]]として放送された「“ニュースの記憶”〜あの頃あの時あなたは…報道50年映像全史〜」では、冒頭10数分に亘り、この日の放送の一部が放送された。この日放送の[[視聴率]]は、19.3%を記録した(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。
; [[1986年]][[11月21日]]
: [[東京都]]の[[伊豆大島]]にある[[三原山]]が、数日前から活発な火山活動を始め、この日の夕刻、新たな噴火口から大規模な[[噴火]]が始まった。これに伴い、[[大島町]]全町民に避難命令が出され、さらには島外への退避命令が出されるに至る。
: その動きに合わせ夕方から番組の休止や内容変更が続く中、朝日放送の責任枠であった当時の金曜21時枠および22時枠を内容変更し、この番組が急遽放送開始を前倒しし、21時台のANN[[報道特別番組]]に引き続き、22時から23時57分まで時間枠を拡大し放送された。なお23時までは番組自体はテレビ朝日から放送されたが、提供クレジット・および番組配信は朝日放送が行った。
; [[1988年]][[10月19日]]
: [[プロ野球]]・[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の優勝決定試合である[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]対[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]戦[[ダブルヘッダー]]([[川崎球場]]。いわゆる[[10.19]])を朝日放送が第1試合始めから生中継放送しており、一部ANN系列局でも生放送、テレビ朝日は放送こそしていなかったが中継制作協力を行っていた。だが、テレビ朝日でも夕方以降『[[パオパオチャンネル]]』と『[[ニュースシャトル]]』の中で朝日放送の中継映像を使い部分的ではあるものの生中継を行った。すると、視聴者から「もっと見たい」「中継を続けてほしい」などという要望電話がテレビ朝日に殺到。テレビ朝日局内でも朝日放送から裏送りで流れていた中継を見る人が大勢いる有様だったため、編成局で20時以降の中継について協議した結果、21時からの『[[さすらい刑事旅情編]]』を休止(当初は繰り下げの予定が結局飛ばされた)し<ref group="注">局内では、20時台の『[[ビートたけしのスポーツ大将]]』と『さすらい刑事 - 』の2番組を全面差し替えする案も出ていたという。</ref>、同時間から[[コマーシャルメッセージ|CM]]を一切入れない形で全国放送に踏み切った。その後、ニュースステーションでも放送予定の大半をやめて(さらには放送時間を10分延長した)、そのまま試合終了まで生中継を続けた。なお、視聴率は'''30.6%'''((ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム。関西地区は'''46.4%'''〈ビデオリサーチ調べ、関西地区・世帯・リアルタイム〉)で、初の30%台以上の記録だった。
: この日は、[[リクルート事件]]で[[東京地方検察庁|東京地検]][[特別捜査部#東京地方検察庁特別捜査部|特捜部]]による[[リクルートホールディングス|リクルート]]本社、[[コスモスイニシア|リクルートコスモス]]社、および同社社長室長自宅の[[捜索|家宅捜索]]が行われたり、プロ野球・[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]のオリエント・リース(現・[[オリックス (企業)|オリックス]])への身売り発表や、[[上越線]]の貨物列車脱線衝突事故など大きなニュースが相次ぎ、さらにこの日は前年に発生した[[ブラックマンデー]]からちょうど1年だったことを受け予定していたニューヨーク・[[ウォール街]]からの生中継を翌日の20日に延期した。
: 両球団の監督や選手などへのインタビュー取材を交え、前述の通り1988年12月30日の「ニュースステーション年末スペシャル」で特集を放送した。試合会場となった川崎球場からは当日実況を担当していた朝日放送アナウンサーの[[安部憲幸]]が中継を担当した。
; [[1989年]][[11月3日]]
: 当番組の企画「ジャイアンツエイド'89」において、[[読売ジャイアンツ]]が[[1989年の日本シリーズ|この年の日本シリーズ]]で優勝<ref group="注">この年、ジャイアンツは[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]に第1戦から3連敗しながらも、第4戦以降4連勝して日本一に輝いた。</ref>した場合、大のジャイアンツファンである[[徳光和夫]]が当時メインキャスターを務めていた[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の報道番組『[[NNNニュースプラス1]]』に生出演すると公約したのに従い、久米が同番組に生出演した。1987年春に『[[おしゃれ]]』が終了して以来2年半ぶりに日本テレビの番組に出演した久米は「読売ジャイアンツ、バンザイ!」と叫び「悔しいですね」と吐露した。さらに、当時フリーアナウンサーに転身したばかりだった徳光に「頑張ってください」とエールを送った。その後、久米は徳光からジャイアンツの選手陣のサインが書かれた帽子をプレゼントされた。なお、この模様は同月6日朝の日本テレビのワイドショー番組『[[ルックルックこんにちは]]』でも取り上げられた。
=== 1990年代 ===
; [[1991年]][[2月21日]]
: 番組開始から出演していた初代コメンテーターの[[小林一喜]]が1991年2月19日に死去。番組の冒頭で20分間にわたり追悼特集を組み、小林が座っていた場所には白百合の花がいけられた花瓶が置かれた。終盤では小林が[[湾岸戦争]]開戦に際し、番組宛に送った最後のFAXと小林夫人が記した手紙を小宮が読み、号泣した。
;[[1994年]][[4月15日]]
:「ラジオ版ニュースステーション」と題し、ラジオブースに見立てたセットから放送を行った。しかし、評判は芳しくなく、視聴者から厳しい批判の意見が殺到したこともあり2度と行われることは無かった。この模様は2000年元日に放送された後述の「ニュースステーション物語」でも10秒弱流され、ナレーションで「視聴者からは、お叱りの言葉をいただいた」と説明された。なお、ニュース部分はラジオ風に伝えられたがスポーツコーナーは映像がないとつまらないとの判断から通常通りの編成で放送された。なお、当初は4月1日に放送予定だったが、この日の午後に築地の朝日新聞東京本社で立てこもり事件が発生し、関連のニュースに差し替えられたためこの日に延期となった。
;[[1994年]][[4月26日]]
: この日、[[中華航空140便墜落事故]]を受け、放送時間を20分延長して放送。番組のほとんどを関連ニュースに充て、名古屋テレビの山崎昭がニューススタジオで受けるかたちで各地の中継などを入れながら詳報を伝えた。なお、搭乗者名簿の読み上げを行う際、テロップと小宮による読み上げがリンクせずずれて流れるトラブルが発生した。
;[[1995年]][[2月17日]]
:[[兵庫県南部地震]]([[阪神・淡路大震災]])の発生から1ヶ月後の1995年2月17日、[[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]の[[ポートアイランド]]にある[[サンテレビジョン]]本社スタジオから番組を放送<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202001/0013012501.shtml|title=8人埋まった現場で叫んだ商店主 取材したフリーアナ久米宏さんと再会|accessdate=2020年1月19日|publisher=神戸新聞(2020年1月6日作成)}}</ref>。サンテレビはテレビ朝日系列の朝日放送の放送区域である兵庫県をカバーしている系列外の[[全国独立UHF放送協議会|独立UHF放送局]]である(朝日放送とは業務提携関係にあった)。震災の主たる被災地の地元局であることから、この日のみサンテレビと共同で番組を制作・放送したものである(エンディングの制作協力で紹介。なおこの日は朝日放送、サンテレビだけでなく岡山・香川県域の系列局の[[瀬戸内海放送]]も制作協力している)。また当時のサンテレビの看板ニュース番組であった『[[ニュースEyeランド]]』の兵庫県内向けニュース・天気予報も全国のANN系列でそのまま流されるなど、報道番組としては極めて異例の取り組みが行われた{{Refnest|group="注"|それから25年後の2020年1月17日、サンテレビで放送された震災関連の特番に小宮がゲスト出演し、当番組放送以来の同局出演を果たした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2020/01/10/0013023910.shtml|title=小宮悦子がサンテレビの震災特番「バトン1.17~あなたへ~」に出演 17日放送|accessdate=2020年1月19日|publisher=デイリースポーツ(2020年1月10日作成)}}</ref>。また、久米も同日に朝日放送テレビのローカル報道番組『[[キャスト (テレビ番組)|キャスト]]』の特番『キャスト特別企画 久米宏が語る震災25年』にゲスト出演した。}}。なお、阪神大震災関連の政府の動きを伝えた部分やスポーツコーナー、全国の天気予報に関しては東京のスタジオから(朝岡聡と4月から金曜日のサブキャスターを担当することになる岡田洋子が担当)、阪神大震災関連のライフライン情報は朝日放送のスタジオからそれぞれ放送した(朝日放送アナウンサーの[[堀江政生]]が担当)。
;[[1995年]][[5月16日]]
: この日、[[オウム真理教]]の代表・[[麻原彰晃]](本名:松本智津夫)が逮捕されたことを受け、21時から拡大して放送。番組のほとんどを関連ニュースに充てたほか、当日夜に[[東京都庁舎|東京都庁]]で発生した[[東京都庁小包爆弾事件|爆発事件]]についても最新情報を伝えた。
;[[1998年]][[3月27日]]
: この日、番組開始以来サブキャスターを務めてきた小宮が降板。番組終盤で「ニュースステーション・小宮悦子メモリアル」として、久米が番組開始の1985年から1998年に至るまでの小宮との思い出の映像を久米が直筆で前略...から手紙に書き示しながらナレーションするVTRを放送し、エンディングでは金曜コメンテーターのテリー伊藤からの激励のメッセージの後、直近の歴代天気キャスターであり、この日スタジオに来ていた勝恵子と大石恵から小宮へ花束が贈呈された。ただし、久米はその際「えっちゃんは再来週から夕方(「Jチャンネル」)です」とだけ発言しており、小宮が4月10日以降金曜日のみ継続出演するという説明はされなかった。
;[[1999年]][[2月1日]]
: 同日の特集により[[#所沢ダイオキシン問題|所沢ダイオキシン騒動]](後に民事訴訟で提訴された)が発生<ref name="日経2003">{{Cite news |title=農家「ツケ負わされた」 産廃施設、報道後に激減 |newspaper=[[日本経済新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |page=18(夕刊・社会) |date=2003.10.16 }}</ref>。
; 久米の降板騒動
: 同年9月28日の放送中、久米は突然「来月の6日で丸14年を迎えますが、わたくしの出演は一区切りつけようと決心しました」「2000年になったらどうしようかという話は鬼が笑うんで今日はやめておこうと思います」と休演を発表した<ref>{{Wayback |url=http://www.zakzak.co.jp/geino/n_September99/nws4419.html |date=20000527172058 |title=久米宏Nステ休業「14年間に疲れ」}}</ref>。これはテレビ朝日との間で契約更新に合意できなかったためであり[[1999年]][[10月6日]]の放送中にも「14年続いたテレビ朝日とわたくしの契約が切れる、それ以上の理由はない」と説明している。発表通り久米はその10月6日放送分で「わたくしの出演は本日までです。どうも長い間ありがとうございました」という言葉を最後に姿を消し<ref>{{Wayback |url=http://www.zakzak.co.jp/geino/n_October99/nws4474.html |date=20000413170424 |title=やっぱり…久米宏Nステ降板の舞台裏}}</ref>、翌[[10月7日]]から年末まで番組を降板する<ref group="注">[[1995年]]頃から事ある毎に週刊誌で「久米降板」説が取り沙汰された。冒頭に述べた降板発表後にも「病気で目が見えなくなった」などという憶測の記事が書かれたが、久米はこの10月6日の放送できっぱりと否定した。</ref>。
: この期間は渡辺宜嗣と渡辺真理の2人で進行する。降板翌日の7日放送分では宜嗣が「久米宏はいません。しばらく私がキャスターを務めますが、『ニュースステーション』のキャスターは久米宏です」と異例の釈明をした<ref>久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、306頁</ref>。
: 久米は後に著書で「2年ごとの契約が1999年9月いっぱいで切れるため、再契約しない旨をテレビ朝日サイドに伝えた。20世紀が終わるので、きりがいいとも思った」「テレビ朝日は慰留してきたが、合意することは無かった」と述べている。その後もテレビ朝日側から続行を説得され、同局社長との一対一の話し合いも含めてオフィス・トゥー・ワンを挟んで交渉が続けられた結果、3か月間の休養と1年ごとの契約更新で収まったという。この期間の久米についてテレビ朝日は「'''休暇'''」としているのに対し、久米自身は「'''無職'''」と表現している。一時降板していた3か月間はニュージーランドや東京から九州を車で旅し、東京~九州の旅では前述した阪神・淡路大震災で被害の大きかった神戸市長田区や[[雲仙普賢岳]]の火砕流跡の復興の様子も見て回ったという<ref>久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、305 - 307頁</ref>。
;[[2000年]][[1月1日]]早朝(編成上は1999年[[12月31日]]深夜)
: すでに年内の放送そのものは終えているが、1999年12月31日から翌2000年1月1日にかけてテレビ朝日開局40周年記念として放送された年越し特番『[[24時間地球大騒ぎ!!カウントダウン2000]]』(小宮と『[[サンデープロジェクト]]』の[[島田紳助]]が総合司会を務めた)にて、年明け後に放送されたコーナー「20世紀テレビの殿堂」の中で、「ニュースステーション物語」として[[中井貴一]]のナレーションで歴代のオープニングや名物企画、歴史的なニュースや上記の出来事、番組の特徴でもある「政治家人形」や積み木を使った解説、歴代コメンテーター、大物ゲストとの対談の映像を「政治家人形」の作家や歴代お天気キャスターへのインタビューを織り交ぜながら紹介した。最後は1991年12月27日(その年最後の放送)のエンディングでの久米の挨拶を流してVTRが終わっている。真理・白木就任後の映像は取り上げられることは無かった。
=== 2000年代 ===
; [[2000年]][[1月4日]]
: 久米が「あけましておめでとうございます。わたくし、久米宏と申します。'''戻って来ちゃってどうもすいません。'''」と発した第一声と共に3か月ぶりの番組復帰を果たす<ref>{{Wayback |url=http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2000_01/g2000010504.html |date=20000302014702 |title=久米Nステ復帰も降板問題再燃?}}</ref>。同時に番組オープニング、タイトルロゴ、スタジオセットがリニューアルされた。その際に復帰した久米は口ひげを蓄えた上、髪染めをやめ白髪交じりとなり、眼鏡についてもそれまでの枠がないレンズのものから枠のあるシャレたデザイン、さらにそれまで金曜チェックなどごく一部の日しか着用していなかったノーネクタイスタイルという、第1期の出演時期とは全く違う大幅なイメージチェンジという出で立ちとなり、復帰翌日の[[スポーツ新聞|スポーツ紙]]各紙や[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[ザ・ワイド]]』、TBS『[[ジャスト (情報番組)|ジャスト]]』、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[2時のホント]]』をはじめとした他局での各[[ワイドショー]]で大きく取り上げられた。また、復帰当日の全国紙にはテレビ朝日のロゴと「'''今夜、ニュースステーションがニュースになる'''」という文字だけが描かれた広告が掲載された<ref>『朝日新聞』、2000年1月4日付朝刊、36面。</ref><ref>{{Wayback |url=http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2000_01/g2000010401.html |date=20000301052640 |title=久米宏、今晩Nステ復帰}}</ref>。
; [[2000年]][[5月3日]]
: ほぼ全編[[西鉄バスジャック事件]]の立てこもり現場の中継に終始。
; [[2001年]][[1月5日]]
: 「15周年ありがとうSP」と題し、放送時間も拡大・前倒しして20時 - 23時9分に放送。前半では久米と[[爆笑問題]]が出演し、前年末まで視聴者から久米宛に募集した年賀状から抽選で生電話し、[[二千円紙幣|二千円札]]など番組内でニュースとして取り上げたものをプレゼント。後半は普段通りのニュースやスポーツ、特集は15周年にちなんだ内容で放送した。
; [[2001年]][[7月23日]] - [[7月27日|27日]]
: [[福岡市]]で開催した[[世界水泳選手権|世界水泳]]の独占放送権をテレビ朝日が取得。世界水泳の中継が午後9時24分に終わってしまうため、ちょうど[[第19回参議院議員通常選挙]]が行われる直前ということもあって、この間「SPECIAL WEEK」とし、21時36分からの放送となった。
; [[2001年]][[9月11日]] - [[9月13日|13日]]
: 久米が遅めの[[夏休み]]をとり、真理と萩谷だけで放送していた11日。放送開始前の[[日本標準時|日本時間]]午後9時45分、ニューヨークの[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|世界貿易センタービル]]に[[旅客機]]が突入。[[平成13年台風第15号|台風15号]]のニュースを伝えた後、第一報を報じた([[アメリカ同時多発テロ事件]])。その後、台風15号のニュースの続報を伝えている最中に2機目が突入。この事態により、午前0時まで放送した。上山は直後のANN報道特別番組から宜嗣と共に担当。
: [[9月12日|12日]]、『[[はぐれ刑事純情派]]』を休止。21時から23時30分までの放送で、全編テロ報道となる。
: 13日、休暇中の久米が夏休みを切り上げて復帰<ref>{{Wayback |url=http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2001_09/g2001091402.html |date=20011031021516 |title=久米宏、Nステに緊急復帰}}</ref>。番組欄の最後に「久米宏」と書いてアピール。プロ野球速報も伝え、放送時間の拡大も無かったが、11日・12日より高い視聴率を記録した。
; 2001年[[9月26日]]
: この日の当番組の前座の時間帯で、プロ野球、パ・リーグの[[大阪近鉄バファローズ]]のリーグ優勝が懸かった対オリックス・ブルーウェーブ(現:[[オリックス・バファローズ]])戦を朝日放送(現:朝日放送テレビ)の制作で全国ネット生中継していた。試合は近鉄が3点リードされた状態で迎えた9回裏、ノーアウト満塁の状況から代打・[[北川博敏]]が逆転サヨナラ満塁ホームランを放ち優勝を決める劇的な結末を迎えた。中継終了後に始まった当番組でも、番組冒頭で北川が逆転サヨナラ満塁ホームランを打った瞬間を流し、スタジオの久米も「こんな漫画みたいなことが起こるんですね」と驚いた。その後、予定していた内容を一部変更し、試合が行われていた[[大阪ドーム]]からの中継を交えながら近鉄のパ・リーグ優勝関連のニュースを詳報した。
; [[2002年]][[1月18日]]
: この日、[[NHK京都放送局]]で立てこもり事件が発生。21時54分の番組冒頭からトップニュースで伝え、「犯人は現在も立てこもり中、動きがあり次第お伝えする」として次のニュースへ進行した。しかし、午後10時ちょうどに[[京都府警察]]が突入を開始。[[NHK総合テレビジョン|NHKテレビ]]の報道番組『[[NHKニュース10]]』がまさにその瞬間を生中継で伝え、ニュースステーションとしては遅れを取る格好となってしまった。その後、犯人確保の続報を伝えるも、久米が最後に「いやんなっちゃうなぁ~、(『 - ニュース10』が始まる)10時ちょうどに突入するんだもん」とぼやく始末だった。
; [[2002年]][[5月14日]]
: [[ミャンマー]]で、軍事政権により軟禁されている[[アウンサンスーチー]]と久米が5分間の電話対談を行い、録音した音声を放送した。なお、久米はミャンマーの軍事政権を嫌い、国名を旧国名の「ビルマ」と伝えていた。
; [[2002年]][[6月14日]]
: [[2002 FIFAワールドカップ]]で、[[サッカー日本代表|日本代表]]が初めての決勝トーナメント進出を決定したこの日は、この日[[サッカーチュニジア代表|チュニジア]]戦が行われた[[長居陸上競技場]]にほど近い、[[大阪市]]の[[朝日放送テレビ|ABCスタジオ]]から生放送が実現した。
; [[2003年]][[9月15日]]
: プロ野球・[[阪神タイガース]]が番組が始まった1985年以来18年ぶりのセ・リーグ優勝を決めたこの日は、冒頭からタイガース優勝関連のニュースを中心に放送し、大阪市内のホテルで行われた祝勝会ビールかけの模様も生中継で伝えた。さらに、大阪有数の繁華街・[[道頓堀]]でタイガースの優勝を祝う大阪市民たちの盛り上がりも現地から生中継で伝えたが、その際久米は道頓堀を「第2祝勝会会場」と表現していた。また、この日の番組中、2003年6月に福岡市で起きた[[福岡一家4人殺害事件|一家殺害事件]]の続報を報じた際、VTRの音声が出ないトラブルが発生し、エンディング前に久米がニュースの内容を簡潔にまとめた原稿を読み上げる場面があった。なお、久米は3週間の夏休みとその間の同年8月25日に開いた番組終了の発表会見を経て、この日から番組に復帰したがその事には最後まで一切触れずいつも通りに番組を進行した。
; 2003年[[12月19日]]
: 同じ[[六本木ヒルズ]]内に本社を置く[[J-WAVE]]([[六本木ヒルズ森タワー]])の『[[Jam the WORLD]]』と同時放送(午後9時から30分ほど。年内最後の放送という事もあり1時間早めて放送)、久米と[[パトリック・ハーラン]]がニュース原稿を読み、久米がJ-WAVE社内の様子をリポート、[[平井堅]]が六本木ヒルズ内から生中継で『[[見上げてごらん夜の星を (曲)|見上げてごらん夜の星を]]』を披露した。
=== 最終回(2004年3月26日放送) ===
オープニングでは、番組開始と同じ1985年に植えられた[[アークヒルズ]]の桜並木から夜桜中継を行い、スタジオに映像が切り替わるとアークヒルズの夜桜の映像をバックに久米が「こんばんは。最後の『ニュースステーション』です」と挨拶。その後、アークヒルズの桜並木への思い入れを語った。なお、後継番組『[[報道ステーション]]』の初代メインキャスター・[[古舘伊知郎]]時代最後の回(2016年3月31日放送)でも同様にオープニングでアークヒルズからの夜桜中継を行った。オープニングの後は、後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター・古舘伊知郎時代最後の回同様、この日で最後とは思えない程の通常通りの内容で放送した。番組中には、[[細川護煕]]元[[内閣総理大臣|首相]]が久米に宛てたビデオメッセージや[[石原慎太郎]][[東京都知事]](当時)が当日の定例会見で当番組が終わることについて問われた際の様子<ref group="注">この様子を収めたVTRの前に久米は「僕はあの、この人のことはそれほど苦手ではありません」とコメントした。また、このVTRが終わったところでCM入りしたため、CM前には画面右下に「最終回 快調に放送中!」とテロップを表示していた。</ref>なども流した。
一通りニュースを伝え終わった後の番組中盤では「ニュースが撒いた種」としてニュースステーションと縁のある一般視聴者への取材VTRを[[小西真奈美]]のナレーションで放送した後、久米は「『ニュースステーション』続ける中で一番苦労したというか、辛かったことっていうのは、いつ終わるか分からないこの番組は、ということでした。(中略)そこで、今日ようやく最終回を迎えたわけですが、「今日最終回を迎えるんだ。そういうことが将来にあるんだということを過去の自分に何とか教えてあげたい」とわたくしはふと思いつきました。そして、過去の自分に3日前(2004年3月23日)に会いに行ってきました」と切り出し、[[1995年]]10月16日の番組10周年の特別企画の際に、10年目を迎えた久米が、番組初回の自分を激励しに、当時のスタジオへ行った企画の映像を使い、最終回を迎える久米が、1年目の自分と10年目の自分に、番組終了を報告しに行くVTRが放送された(前述の日付に収録)。
VTRが一旦一区切りしてニュースを2本伝えた際、イラクでの[[陸上自衛隊]]の支援活動についてのニュースで久米は「発言の場が無くなってしまうのでもう一度申し上げておきますが、僕は[[イラク]]へ[[自衛隊]]を日本が派遣する事は反対です」とコメントした。その後天気予報では上山が、スポーツでは角澤と河野がそれぞれ視聴者へ一言挨拶した。
前述のVTRで番組終了を報告した部分は番組として最後となるCM明けに放送され、続けて歴代オープニング曲とその当時の久米の映像を交え、これまで19年間のニュースを振り返った。
その後、フラッシュニュースを挟んでエンディングではまず真理が視聴者への挨拶の一言を述べた。そして、久米が[[民間放送]]の在り方について、[[視聴者]]を始め、[[広告代理店]]の[[電通]]、歴代の[[スポンサー]]・スタッフなどへ感謝の言葉、小学生時代の自らの[[通知表]]の内容、番組や久米個人に対する批判者へのお礼などを述べた。その途中で「僕のご褒美」として久米はセットの中にあった[[冷蔵庫]]から[[ビール]]瓶<ref>放送では商品名が映らないようにラベルをカメラに見えない方に隠していたが、実際このときのビール瓶には美術スタッフに発注して用意した『NEWS STATION BEER 全4795回』というオリジナルラベルが貼られており、王冠にも番組ロゴが貼り付けられていたとされている。</ref>を取り出した。さらに、[[中国語]]による[[パロディ]]予告編「久米的電視台」が放送された。
最後は、スタジオに集まった出演者・関係者からの大きな拍手の中、「じゃ、乾杯」と言って久米が一人手酌のビールを一気に飲み干して、「(降板し、一度「お別れ」していた時期があったためか)本当にお別れです。さようなら!」と挨拶し、番組は終了。60歳を目前にして19年間の歴史に幕を閉じた。
番組終了後、後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター・古舘伊知郎時代最後の回と同様、同日中に競合番組である『[[筑紫哲也 NEWS23]]』([[TBSテレビ]])内のコーナー「多事争論」で、[[筑紫哲也]]が久米宏への「労いの言葉」を述べたことを始め(その日のタイトルは「さようなら、NS」)、翌日以降の情報・バラエティ番組、新聞各紙等でも報道されるなど、報道番組としては極めて例外的な扱いを受けた<ref>[https://web.archive.org/web/20090630135229/http://www.tbs.co.jp/news23/old/onair/taji/s40326.html 「さようならN.S」](アーカイブ)</ref>。
最終回の視聴率は19.7%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。
本番組の終了によりプロダクションの[[オフィス・トゥー・ワン]]は、同時間帯の報道番組制作から撤退することになる。その後、後継番組『報道ステーション』についてはテレビ朝日と初代メインキャスター・古舘伊知郎の所属事務所でもある[[古舘プロジェクト]]の同時間帯の報道番組制作(形としては古舘プロジェクトは制作協力扱い)の引き続きでの体制を取っていたが、古舘が2016年3月31日をもって降板したのに伴い古舘プロジェクトも同時間帯の報道番組制作から撤退することになった為、本番組から31年間にわたって長く続いた平日22時台の報道番組の制作プロダクションは完全に廃止され、2016年4月11日の全面リニューアル以降はテレビ朝日の単独制作になった。
なお後継番組『報道ステーション』については内容の一言を述べておらず、初代メインキャスター・古舘伊知郎にエールを送っていなかったためか、本番組とは全く別の番組だった場面があったという位置付けがなされ、久米側の意向でテレビ朝日側が当初計画していた花束贈呈などの司会者の引き継ぎは一切行われなかった。なお、後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター・古舘伊知郎時代最後の回(2016年3月31日放送)でも同様に花束贈呈などの司会者の引き継ぎは一切行われなかったが、古舘が最後の挨拶の中で、後継番組『報道ステーション』とは全く別の番組だった本番組についての内容の一言を述べた事をはじめ、後任のメインキャスター・[[富川悠太]](当時テレビ朝日アナウンサー)に「乱世の雄になってもらいたい」などとエールを送るという位置付けがなされた場面があった。
== 番組構成 ==
番組内で久米が番組の放送開始・主なコーナーの開始時間を一定にするようアピールしてきた。番組(または野球速報)を「日々の生活の一部」として観ている視聴者を尊重してのことで、放送時間の変更があれば、時には前週から丁寧に予告していた。10時開始だった2000年3月までの番組構成を例に挙げると、スポーツは22:30頃、天気予報は22:50頃に放送。
== 主なコーナー ==
; ニュースフラッシュ
: 番組終盤に放送。開始当初は「'''ニュースウォッチ'''」と題し、映像に乗せてNスタジオから小宮と坪井(貴)が交互に読み上げていた。後に久米・小宮・コメンテーターの3人体制が定着してから90年代までは久米単独、もしくは久米とサブキャスター(小宮→真理)の2人<ref group="注">1995年から1998年までの金曜版は、小宮とスタジオサブキャスターの2人で交互に伝えていた。</ref>で16項目表示可能な電光ボードを使いながらニュースを1項目20秒程度で一気に伝えていた<ref group="注">番組前半で伝えたものも含めてニュース項目は原則、時系列順に並べていた。また80年代は円相場もこの中で伝えていた(ニュース項目の一番下段に為替を表示)。</ref>。90年代半ばにボードを更新してからは、初めに「'''一枚の写真'''」と題してボードに映し出された写真にまつわるニュースを伝えた後、ボードのパネルを回転させてニュース項目を表示させる場面転換の演出を付加した。
: 2000年から番組終了までは初期以来、スタジオ演出を用いず映像のみで構成、BGMやアタック音も加わった(読みは主に真理が担当)。この時、久米が前振りで「'''できるだけニュース'''」<ref group="注">この台詞は最終回のエンディングで流れた予告編「久米的電視台」(前述)でも使われた(久米と中国人女性の2人でこの台詞をコール)。</ref>と言うのが通例だった。
; 天気予報
: 天気キャスターが読み上げる。2001年1月から番組終了までは上山がスタジオサブキャスターと兼任して読み上げる。中期になると季節の変わり目等の節目節目に有名な産地や名所へ行ったり、後述の夜桜中継や滝中継・紅葉中継と合わせて行うこともあった。
; 特集
: 様々なニュースやそのニュースに関連した内容など、多種多様にわたって取り上げる。この他、後述の企画、各月の行事や最新の流行もの、話題のものに関するものまで幅広く取り上げている。2000年代は気になる現代社会問題のニュースや最近のニュースに関連した内容を取り上げる「'''NEWS IN-DEPTH'''」というコーナーもあった。また、88年5月3日からは原発事故を想定したドラマを番組内で流していた(街にサイレンが鳴る日)。
== スポーツ ==
本番組では当初からスポーツニュースに力を入れ、番組後半の多くをスポーツコーナーに費やした。久米曰く「スポーツは僕たちの生活にとって考えている以上に重要な存在だ。ひいきのプロ野球チームの観戦をしたり、ファン同士で熱く語らい合ったり、試合結果に一喜一憂したり。いかにスポーツが自分たちの人生を豊かにしているか。ふさぎがちな日も「阪神が勝った!」で、ほとんどのウサが吹き飛ぶほどの力をスポーツは持っている」「映像技術によって、スポーツの魅力を多角的に伝えることができる。つまりテレビがその機能を最大限に発揮できるジャンルがスポーツなのだ」として、番組開始前からスポーツ担当のスタッフと「スポーツがなぜ重要か」「スポーツをいかに楽しく伝えられるか」を議論し、「スポーツの大切さを視聴者に伝えよう、そのための時間をたっぷり取ろう」という方針を共有した。<ref>久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、[[世界文化社]]、288頁。</ref>。その方針から以下のような企画や伝え方がなされていた。
=== 野球 ===
プロ野球に関しては当日の試合速報が番組の主力コンテンツとしてあり続けた。2月の「キャンプフラッシュ」、3月の「順位予想」、10月の「日本シリーズ予想&解説」が恒例。日本シリーズに関しては該当チーム以外の監督・選手が解説者として出演することもあった。
; プロ野球速報
: 番組初期、[[プロ野球]]のある日は「日本一速いプロ野球速報」をウリにしていた『[[スポーツTODAY]]』に対抗すべく22:25頃から「プロ野球速報」として放送していた。試合速報は取材した放送局が編集・ナレーションを行い、各リーグの順位表が初代セットの一部に組み込まれていた。
: 試合映像は各放送局から配信(ナレーションも原則各放送局アナウンサー。地方球場遠征の場合、系列局がない地域ではテレ朝か近隣系列局アナウンサーが行う場合あり)しており、試合の映像が終わってから、東京のスタジオから詳細なスコアテーブルを全画面表示して、選手・監督のコメント、記録などの一口メモを流すという体裁だった。
:番組では「マイナー路線」「判官びいき」として、当時のプロ野球では当たり前だったセ・リーグの巨人戦だけにスポットを当ててパ・リーグは見向きもしないという伝え方をせず、セ・パ両リーグを区別せずに全球団を平等に速報した<ref name="ns_baseaball">久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、[[世界文化社]]、286頁。</ref>。
: 当初から独自のコーナージングル<ref group="注">[[荻野目洋子]]『湾岸太陽族』、[[B'z]]『LOVE & CHAIN』など。</ref>を採用しており、アニメ番組の主題歌のイントロを加工したもの<ref group="注">「[[機甲戦記ドラグナー]]」OP『[[夢色チェイサー]]』、「[[からくり剣豪伝ムサシロード]]」ED『[[てなもんだ人生]]』など。</ref>も使用されたりした。
: また、[[1992年]]のシーズンからチームの呼称を報道番組としては初めて愛称名(「ジャイアンツ」「ライオンズ」など)のみとした。その後一時「親会社名+愛称名」のフル名称になった時期もあったが、「巨人」あるいは親会社名のみの呼び方は番組終了までされなかった。これは「球団はファンのものであり、スポンサー会社のものではない。スポーツを企業主体で商業化、広告塔化するべきではない」という考えによるもの<ref name="ns_baseaball" />。。ペナントレースの優勝チームの決定が近づくと[[くす玉]]がセットに吊り下げられ、優勝が決まるとそれを割って祝福するシーンもあった。
; 日刊スポーツとの中継
: 木曜の放送で、「まゆげのノーさん」こと[[日刊スポーツ]]の[[野崎靖博]]編集委員が出演。同社東京本社([[築地]])と中継回線をつないで、プロ野球解説や翌日の日刊スポーツ紙面の紹介を行っていた。
; プロ野球1分勝負
: ニュースフラッシュのあとに放送された名場面(珍プレー)を中心に、その日のプロ野球を1分でまとめたコーナー。1999年のシーズンまで放送された。BGMは[[真心ブラザーズ]]の「[[どか〜ん]]」、[[高原兄]]の「天下無敵の一発屋」等。
; クドちゃんナベちゃん キャンプフライデー
:[[1987年]]の春季キャンプにて、[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]に在籍していた[[工藤公康]]と[[渡辺久信]]によるキャンプ地リポートコーナー。
; ジャイアンツエイド
: [[広島東洋カープ|広島]]ファンの久米宏が、[[読売ジャイアンツ|巨人]]ファンの著名人([[糸井重里]]や[[黒鉄ヒロシ]]など)を招いて、巨人が優勝するための策などを主張させ合った。
; 宜嗣とドラゴンズ
: [[プロ野球]]キャンプ取材では、大の[[中日ドラゴンズ|中日]]ファンである[[渡辺宜嗣]]が毎年、中日の北谷キャンプを取材し、監督らにインタビューし、最後に「[[燃えよドラゴンズ!]]」を大熱唱することが恒例となっていた。
; 久米さん、始球式ですよ!
: [[2000年]]、久米宏が[[福岡ドーム]]で行われる[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエー]]対[[千葉ロッテ]]の開幕戦始球式を務めることになり、始球式用の練習の様子やキャッチボール、本番に至る様子が数回に渡って放送された。久米はファンであるダイエーのユニフォームで登場し、背番号はこの年、当番組がフライングスタート(9時54分)を開始したことにちなんだ「'''9:54'''」。
=== サッカー ===
[[川平慈英]]が専属キャスターとして、Jリーグ開幕時から番組終了まで出演した。Jリーグも試合のある日は全試合の結果を放送、特集枠をJリーグ情報に充てることもしばしばあった。[[1998年]][[1998 FIFAワールドカップ|サッカーW杯]]では川平がフランスから連日放送。[[2002年]][[2002 FIFAワールドカップ|W杯]]ではテレビ朝日が担当した日本対チュニジア戦の放送を久米と川平の司会で放送した。
放送日にJリーグの試合がある場合、他のスポーツニュースでは試合映像の終わりのところでその試合のスコア結果を字幕出ししていたが、この番組はプロ野球と同じ要領で、試合映像を最初に映した後、映像が終わってから別のカットで詳細なスコアテーブルを全画面表示して、そこに川平が選手・監督談話や記録などの一口メモを述べる体裁をとっていた(一部の日、1 - 2試合程度しか行われなかった場合は除く)。
; マンデーJ/MJ
: 水曜の常時開催が無くなると月曜日に名シーンを放送する「MJ(Monday J League)」を放送。日本人選手の海外進出や2002年W杯人気もあり、海外リーグの話題も伝えた。特に[[1999年]][[J2リーグ]]発足以後からは、週末に行われたJ2の試合を他のスポーツニュースよりも詳しく伝えた([[J1リーグ|J1]]は注目のカード数試合を抜粋して放送)。これには川平は登場しない。
:; 川平慈英のJ2めぐり
:: この「マンデーJ」との連動で、1999年のJ2発足当時に、「J2の[[オリジナル10]]」といわれるチームを川平が訪問し、そのチームのJリーグでの取り組みや試合の観戦レポートを紹介するコーナーがあった。
; 都並さんといっしょ
: 当時サッカー解説者であった[[都並敏史]]が登場し、川平とともに、サッカーについてのミニ知識などを解説したコーナー。
; レインボー
: [[虹の彼方に|Over The Rainbow]]のエレキギター演奏と共に、ゴールシーンの映像を振り返り、ボールの軌道を虹になぞらえて演出する。日本代表試合での日本代表選手のゴールシーンなどに使用。
; 「次はいつ?」
: 川平にはお馴染みのフレーズが多く存在した。「いいんですか?いいんです!」や心酔した時の「くぅーーー!」など。ハイテンション過ぎて、久米から「次はいつ来るの?」と冷やかし半分に訊かれ、未定だと「(呼ばれれば)いつでも!!」と締める事が多かった。
=== その他スポーツ ===
; 特集
: スポーツ特集は野球・サッカー以外の幅広い競技にも及ぶ。マイナースポーツの取材数では他のスポーツニュース番組より圧倒的に多く、さらに毎年継続して取り上げた([[パリ・ダカール・ラリー]]や[[アメリカスカップ]]など)。スポーツ特集には[[宮嶋泰子]]がディレクターとして取材。
; スポーツ中継告知
: テレビ朝日で放送されるスポーツ中継の告知は色々な形で行われた。[[ル・マン24時間レース]]や[[全英オープン (ゴルフ)|全英オープンゴルフ]]や[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープンゴルフ]](男女・シニア)のある時期は開催先から解説陣が最新の様子を伝えるなど、告知は怠らなかった。また、全英オープンの際の久米と[[青木功]]の掛け合いも名物であった。
; ネーミング
: なにかとダジャレや気の利いたフレーズを使うことが多かった。Jリーグ順位掲示板「回転くん」「かめすけ」や、[[2002 FIFAワールドカップ]]カウントダウンの「あと韓日くん」など。
; 角澤ポジション(角ポジ)
: 2000年1月4日の久米復帰に合わせたスタジオリニューアルに合わせ、ブーメランテーブルの手前に、当時のスポーツ担当であった[[角澤照治]]の専用席が設けられ、以降、角澤担当曜日のみその専用席に角澤が位置してスポーツコーナーを進行する形になった。これにより、角澤は久米・真理・上山の3人を背にして進行を行う形になり、各出演者の表情も一緒に覗うことができるようになった<ref group="注">コメンテーターは基本的に映ることはないが、3人のうち1人が不在の場合は、コメンテーターも背にして進行を行うこともある。</ref>。基本的にはコーナー全体を通して専用席で進行するが、最初は専用席で進行し、途中からブーメランテーブルに移動して進行を行うこともあり、状況に応じて専用席とブーメランテーブルを使い分けていた。この専用席は通称「角澤ポジション」と呼ばれた。
: なお、角澤以外の女性スポーツキャスターは従来通りブーメランテーブルで進行していたが、角澤不在時の代行担当者らが「角ポジ」を使用すると[[川平慈英|カビラーバ]]や[[上山千穂|上山地方]]といった名称がついた。
== 名物企画・シリーズなど ==
; 夜桜中継
: 「夜桜中継」は例年春に行われた大規模な中継である。初期に担当した[[若林正人]]は、久米の進行が気に食わないことが多く、契約が終わると久米批判で知られるようになった。夜桜中継は他系列の[[南海放送]]や[[四国放送]]なども中継に協力していた([[裏送り]])。正式なANNのネットワークニュースではないために協力が得やすかったと言われる。初回は1986年3月31日、最終回は2004年3月26日(番組自体も最終回)に放送、初回・最終回いずれも[[鹿児島市]]の[[仙巌園]](磯山)が中継先となった<ref>『鹿児島放送30年のあゆみ』鹿児島放送、2013年 p.15, p.36</ref>。このほかに夏の「滝中継」、秋の「紅葉中継」も行われた。久米によると「日本の美」を演出するために仮設やぐらを組み立てて、500ワットと1ワットのパーライトを10~20個ほどつけていたという<ref>久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、[[世界文化社]]、181頁。</ref>。本コーナは後継番組『[[報道ステーション]]』にも引き継がれており、初代メインキャスターを務める[[古舘伊知郎]]時代最後の回である2016年3月31日に放送されていた。
;立松和平こころと感動の旅
: 作家・[[立松和平]]が世界各地からの衛星生中継もしくはVTR(後者の場合、立松はスタジオ出演)で、自然の中を旅するリポート。[[須賀潮美]]による水中リポートも織り込まれることがあった。立松の独特の語り調子と、須賀の酸素ボンベでの呼吸音が話題を呼んだ。初期は、須賀の実父[[須賀次郎]]がカメラマンとして同行していた。<!-- 初期から1993年まで放送された。 -->
; 金曜コンサート
: 若林正人がクラシック音楽を紹介した企画。進行部分のロケ地はアーク放送センターに隣接している[[サントリーホール]]で、使用する演奏映像もサントリーホールで開催されたコンサートの映像も使われていた。1988年9月23日に、[[矢沢永吉]]が[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]から中継出演した際は、このタイトルで放送した。
; 最後の晩餐
: 『最後の晩餐』は、久米が著名人に「人生最後に食べたいもの」というテーマでインタビューするという企画。のちに単行本化された。なお、久米の夏季休暇が3週間で定着してから考え出された企画で、初期は休暇3週目に放送されていた。
; シリーズ日本の駅
: [[国鉄分割民営化]]が目前に迫っていた1986年当時、日本の様々な駅を紹介した。[[中島みゆき]]の「おだやかな時代」がテーマソング。国鉄民営化をもってコーナーも終了した。
; シリーズ新・日本の駅
: [[小林旭]]の「駅」がテーマソング。
; マンハッタン瓦版
: ニューヨーク支局の[[内田忠男]]が、地元紙の気になる記事を紹介するコーナー。[[渡辺みなみ]]が代役を務めることもあった。
; 絶滅危惧商品
: 忘れかけた頃に放送されるシリーズ。戦後復興期に使われ、その後使用されなくなった商品の今昔を、ナレーターがその商品に扮して伝える。
; 小泉武夫の○○の快楽
: 発酵食品の研究で知られる[[小泉武夫]]教授が、さまざまな地域の地元食を訪ねるもの。これを端に、発酵食品だけにとらわれず、いろいろな地元食を扱った。
; 業界新聞
: あまり目に触れることのない、業界内向けの新聞に着眼点を置き、その新聞の生い立ちや、取り扱う業界について探る。
; 登山シリーズ
: テレビ朝日のディレクター・[[大谷映芳]](『[[渡辺篤史の建もの探訪]]』プロデューサーなどを歴任)による登山紀行。[[ムスタン]]取材は何回かに分けて放送、これ以降は[[江守徹]]がナレーターを務める。後に日曜午後に放送される番組の先行ダイジェスト版という形式をとる。
; ビートルズ映像公開
: [[ビートルズ]]が『[[エド・サリヴァン・ショー]]』に出演した映像や、[[1995年]]に発表した「新曲」「[[フリー・アズ・ア・バード]]」のミュージック・ビデオの日本初公開、[[Apple|Apple Computer]]がリマスタリングした際に作成した日本で1回しか放送できないミュージックビデオなど貴重な映像を放送。
; チャンスの前髪
: 渡辺真理が、話題の人物にインタビューする企画。
; 轡田隆史のぶらり旅
: 朝日新聞の論説委員でかつてコメンテーターだった[[轡田隆史]]が各地を旅するという企画。
== 所沢ダイオキシン問題 ==
[[1999年]][[2月1日]]<ref name="日経2003"/>に「'''汚染地の苦悩 農作物は安全か?'''」と題した特集で、民間の環境測定コンサルティング企業である株式会社環境総合研究所(1986年設立、本社・[[品川区]]、青山貞一社長)が1998年に独自に計測したデータから、『所沢市の“[[ホウレンソウ]]をメインとする[[野菜]]”/“葉っぱものの野菜”から1グラム当たり3.8[[ピコグラム]]の[[ダイオキシン]]濃度が検出された』と、青山社長がコメンテーターとして久米と対談のうえセンセーショナルに報道した。予てから[[埼玉県]][[所沢市]]東部の[[関越自動車道]]沿いに広がる「くぬぎ山」と称する[[雑木林]]周辺で[[産業廃棄物]]の小型[[焼却炉]]や中間処分場が1990年以降多数立地するようになり、排煙や焼却[[灰]]に含まれる[[ダイオキシン]]による[[大気汚染]]・[[環境問題]]が懸念されていた<ref name="日経2003"/>。1997年に[[厚生省]]が全国の野菜に含まれるダイオキシン濃度を検査したことを受け、[[農業協同組合|JA]]所沢(現:JAいるま野)は地元産のホウレンソウや[[ハクサイ|白菜]]など野菜5品目を測定するも公表しなかった。そこで番組はこれら周辺の状況を絡めて報じたのである。
この結果、ホウレンソウを始めとする所沢産の野菜がダイオキシンに汚染されていると[[食品]][[スーパーマーケット|スーパー]]など小売業各社が認識し、翌2日より所沢・[[入間郡]]産はもとより、一部で[[児玉郡|県北部]]の[[深谷市|深谷]][[ネギ]]など埼玉県産の農作物全般で自主的に販売停止措置を講じて締め出されるという騒動に発展<ref name="日経2003"/>。農作物の出荷は継続されるも[[青果物|青果市場]]で埼玉県産農作物の卸価格が半値以下に下落する被害が出た。
当時、全国朝日放送(通称:テレビ朝日)は『[[ザ・スクープ]]』で1995年から1998年にかけて所沢市の産業廃棄物処理場とダイオキシン汚染による健康被害など環境問題を7回取り上げており(判例より)、初回放送直後の放送回でコメンテーターの菅沼は「'''この報道をやめて(ダイオキシン問題を)救えるかってんだ!'''」と生放送の番組内で大声で啖呵を切るなどして誤りを認めなかった。
これを受け、同月5日に埼玉県が事実確認を行う旨公表し、テレビ朝日以外のキー局は番組名を伏せて[[情報番組]]などで騒動を取り上げるようになった。同月6日にJA所沢(現:JAいるま野)が検査結果を公表する動きを見せ、同月8日にJAと地元農家がテレビ朝日を訪問し抗議。同月9日にJAは野菜のダイオキシン濃度はきわめて低いとする詳細な検査結果を公表し、安全宣言<ref name="日経2003"/>。同月18日に埼玉県が報道の最高値は'''[[煎茶]]'''であったと発表し、全国朝日放送は番組内で不手際があった事を認めた。煎茶は乾燥しているため本体重量が軽く、生鮮野菜と同量のダイオキシンが見かけの上で多く計算されることによるもので、飲用では健康に悪影響はないものだった。なお、ホウレンソウも同時に計測されており、1グラム中最高0.75ピコグラムであったことが後日公表されており、青山や久米が“ホウレンソウをメインとする葉っぱものの野菜”と抽象的で曖昧な表現に歪曲して批評したことから[[報道被害]]を招いたとされている。
同月12日に[[中川昭一]][[農林水産大臣|農水相]]が全国朝日放送(テレビ朝日)報道局長宛に調査を行うよう申し入れを行い、翌2月13日、久米が番組内で農家に謝罪。「検査対象が茶だとは知らなかった」と弁明したが、その後、批判対象は環境汚染の元凶である産廃施設とそれを管轄する行政(所沢市・埼玉県)にあるとする動きを見せた。
全国朝日放送は同年6月21日付で[[郵政省]](現:[[総務省]])から「農業生産者に迷惑をかけ、視聴者に混乱を生じさせる不正確な表現が行われたことは、放送法の趣旨に照らし遺憾」として厳重注意の[[行政指導]]を受けた<ref>鈴木秀美・山田健太・砂川浩慶 編『放送法を読みとく』p.86 2009年 商事法務</ref>。
所沢市周辺の食品スーパーでは徐々に野菜の販売が再開されたが、それ以外の埼玉県内を含む首都圏の食品スーパー・百貨店では農作物の販売再開に慎重な動きを示した。また逆に[[狭山茶]]など埼玉産の[[煎茶]]が販売自粛に追いやられ、鹿児島県や静岡県は煎茶のダイオキシン濃度を自主的に検査する動きを見せた。後に中川農水相や[[小渕恵三]]首相が所沢産野菜を食して安全宣言を出すパフォーマンスを行う事態になった。
農家側は同年に[[報道被害|風評損害]]を受けたとして、同年9月に当初376人の原告団を結成して全国朝日放送(ANB){{refnest|group="注"|1977年から2003年までのテレビ朝日の正式社名。}}と環境総合研究所に対して謝罪広告の要求を兼ねた損害賠償請求の[[集団訴訟]]を提訴し([[さいたま地方裁判所|浦和地裁]] 平成11年(ワ)1647号)、民事事件へと発展した。この一連の騒動は販売停止の解消と提訴が行われるまで地元紙の[[埼玉新聞]]でほぼ連日報道されていたが、同時期に[[桶川ストーカー殺人事件]]や[[本庄保険金殺人事件]]など皮肉にも埼玉県を事件現場とする凶悪事件が立て続けに発生し、前者は日本における[[ストーカー]]問題提起のきっかけとなる程社会に衝撃を与えた事件であり後者は被疑者が繰り返しメディアに会見を行うというその行動の特異性からこぞって各マスコミがこの2つの事件の取材に人員を回したことから各マスコミでの報道は急速に縮小した。
訴訟では2001年判決の1審と2002年判決の2審([[東京高等裁判所|東京高裁]]平成13年(ネ)第3301号)がテレビ朝日側が勝訴<ref name="日経2003"/>、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]で2審の判決を破棄し、東京高裁に差し戻された((一小)平成14年(受)第846号)<ref name="日経2003"/>。番組終了後の[[2004年]][[6月16日]]に、テレビ朝日が農家側に謝罪して和解金1000万円を支払うことで和解が成立。原告団は900万円を[[三宅島]]噴火被害による農業振興に役立てて欲しいと[[三宅村]]に、100万円を[[食育]]活動へ役立てて欲しいと所沢市に[[寄付]]した。環境総合研究所に対しては測定内容が事実であったことから1審・2審ともに敗訴が確定している<ref name="日経2003"/>。
『ザ・スクープ』の報道後の1997年に所沢市は「ダイオキシンを少なくし所沢にきれいな空気を取り戻すための条例」など幾つかの[[条例]]を施行していたが、この騒動を受けて埼玉県は[[野焼き]]の自粛要請・産業廃棄物排出事業者の公表を、政府レベルでは「[[ダイオキシン類対策特別措置法]]」・「[[循環型社会形成推進基本法]]」が施行され、[[廃棄物]]や焼却炉に対する規制が強化された。また、くぬぎ山に所在する産業廃棄物の焼却炉は不燃物を粉砕する中間処理施設への転換が相次いだ<ref group="注">具体的な事例としては[[石坂産業]]を参照のこと。</ref>。
久米はゲスト出演した2014年2月23日放送の『[[爆笑問題の日曜サンデー]]』([[TBSラジオ]]系)の中で「地域的にも、所沢の方とか、いろんな所に迷惑をかけた。裁判所に呼ばれそうになるし」といった発言をしている<ref>[https://www.j-cast.com/2014/02/25197663.html 「所沢の方には迷惑かけた(笑)」 久米宏が「ダイオキシン騒動」振り返る] J-castニュース</ref>。
== 演出 ==
=== スタジオセット ===
それまでニュース番組のセットは、キャスターの背後にクロマキーなどの壁板を置き、横1列になって座るのが主流だった。当番組では後述するように「全国の都市生活者に向けて発信する」という理念から、従来の壁板というセットを廃し、都心の高級マンションの一室のような、都会的でおしゃれなオフィス空間をコンセプトに、「自宅で食べたりくつろいだりするような日常の気分を番組に持ち込みたかった」という。本物の質感とイメージを追求し、木組みの床を貼り、柱や梁、階段には建築用資材を使用。セット建て込みには美術スタッフだけではなく大工の手も借りたという<ref>久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、[[世界文化社]]、186~188頁。</ref>。セットはすべて久米が提供したコンセプトとイメージが実現された。久米はスタッフに念のため予算を聞いたところ「考えなくていい」と言われたという<ref>久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、[[世界文化社]]、190・191頁。</ref>。
スタジオセットは、[[テレビ朝日アーク放送センター]]地下3階にあったAスタジオ(テレビ朝日の本社移転後は、[[六本木ヒルズ]]新本社4階にある第4スタジオ)に常時建て込まれている状態で、2階(末期のセットでは3階)まで作られたほか、ゲストを招く部屋や家具までも仕込まれるなど大掛りで非常に手の込んだものになっている。コンセプトは「'''久米宏の部屋'''」で、放送終了までに5回改築された。
; 初代:1985年10月7日 - 1990年9月
* ドラマ担当の美術デザイナーが担当。アメリカ・[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]の朝の報道・情報番組『[[グッド・モーニング・アメリカ]]』のスタジオセットで採用されていたリビングスタイルのイメージをもとに、「[[アークヒルズ]]敷地内のビルの最上階の久米宏のオフィス兼リビング」という設定で制作された<ref name="nhk-bunken2009110490-95set">『[https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/report/2009_11/091104.pdf テレビ美術から見る 「キャスターショー」の誕生と発展 ~『ニュースセンター9時』と『ニュースステーション』のスタジオセット分析を中心に~]』、[[NHK放送文化研究所]] 2009年11月4日(2017年2月19日閲覧)、p.8-9。</ref>。
* セット自体は白を基調とし、茶色・木目調の什器類がアクセントを添えている。質感や色は、久米の当時の自宅の部屋にそっくりだという。背景のホリゾント幕には、アークヒルズから見える東京都心部の[[高層ビル]]群を再現したミニチュアを配した。ビル上部の[[航空障害灯]]の明滅まで再現されたり、東京地方が雨の日には窓の外に雨を降らせ、窓にも雨水が垂れるといった精巧なものである<ref name="nhk-bunken20091104nste90-95set" />。正面奥には、スタッフルーム(後にゲスト用の客間)、右手にはソファのある応接セットがあり<ref name="nhk-bunken20091104nste90-95set" />、1988年3月までの金曜版は、応接セットの位置から放送した。応接セットの壁面は幾度か改装されている。左側の壁には巨大プロ野球順位表が設置されていたがこちらも改装が繰り返されていた。
; 2代目:1990年10月 - 1995年11月
* テーマは「無駄な豊かさ」<ref name="nhk-bunken20091104nste90-95set">『[https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/report/2009_11/091104.pdf テレビ美術から見る 「キャスターショー」の誕生と発展 ~『ニュースセンター9時』と『ニュースステーション』のスタジオセット分析を中心に~]』、[[NHK放送文化研究所]] 2009年11月4日(2017年2月19日閲覧)、p.11。</ref>。
* 先代と同じく白を基調とし、テーブルの中央奥には前述したJリーグ順位掲示板の「回転くん」「かめすけ」が、右奥にはゲストが待機するテーブルと椅子がある<ref>[https://web.archive.org/web/20030824054507/http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/kumes/rekidai.html 番組ホームページ内の初代~3代目の紹介ページ(アーカイブ)]</ref>。
; 3代目:1995年11月 - 1999年8月
* テーマは、「バブル期の華やかさ豪華さの次に来るもの」<ref name="nhk-bunken20091104nste90-95set" />。
* これまでの雰囲気を一新し、富山県や岐阜県[[飛騨国|飛騨地方]]にあった民家の木材を使用<ref name="nhk-bunken2009110490-95set" />。暖炉や初代よりは小規模ながら応接セットがあった。この代まではアークヒルズを左側に望む夜景のホリゾントとアーク森ビルのミニチュアが置かれていた<ref>[https://web.archive.org/web/20030804205119/http://www.tv-asahi.co.jp/art/SCENIC/NewsStation/index.html テレビ朝日ホームページ内の3代目セット紹介(アーカイブ)]</ref>。
; 4代目:1999年8月 - 1999年12月23日
* これまで部屋の改築(セット改装)が行われていた期間は1階のNスタジオから全編放送していたが、5代目へのセット改装はこれまでの代よりも長期に及ぶため、3代目の「バブル期の華やかさ豪華さの次に来るもの」というテーマ・使用材料が木材という部分を残したまま小規模なセットが作られた。3代目の2階にあるという設定の「[[書斎]]」がテーマで、蔵書は1500冊あるという。ブーメランテーブルの左側にはゲストが待機する客間、右側にはパソコンが2台ある<ref>[https://web.archive.org/web/20030824054254/http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/kumes/g4.html 番組ホームページ内の4代目セットの紹介(アーカイブ)]</ref>。そのセットからの最初の放送では3代目のセットで久米がセット改装の説明をして、2階へと上がり4代目のセットへと繋がるドアを開けようとするVTRを流した後、ドアから久米が出てくる部分以降が生放送の映像に切り替わる演出があった。このセット奥の窓には高層階からではないが夜景が見えていた。この時に久米の契約交渉がまとまらず、久米は3か月間不在となる。
; 5代目:2000年1月4日 - 2003年9月26日
* レンガがアクセントになったセットで、久米曰く「自動車修理工場としても使われた関東のとある倉庫を改装した」という設定。美術(大道具)搬入口付近まで建て込むなどアークAスタに組んでいたセットとしてはこれまでで最大の規模となった。1階左奥には囲炉裏を囲んだ板の間、その手前にはテラス。正面奥にはキッチンその右手前には書斎。2階左側に趣味の部屋、ここは「ビートルズ映像公開」企画で使用された。同じく2階右側は通路を兼ねた書棚が置かれている。ここは天気コーナーでしばらく使用していた。2002年4月に1階書斎部分を改装した。
; 6代目:2003年9月29日 - 2004年3月26日
* テレビ朝日の社屋移転に伴い、使用していたスタジオはアーク放送センターAスタジオから、六本木ヒルズ新本社の第4スタジオへ変更となった。
* 「[[東京湾]]に浮かぶ700tクラスの[[貨物船]]の船底をイメージした」という3階建ての作りで、40tもの鉄を使い、建て込みには数百人がかりで1ヶ月もかかった超豪華なセットであった<ref>[http://oosawa.net/result/tv/newsstation/newsstation.html 作品リストー舞台・他ーニュースステーション] - [[大澤製作所]]</ref>。同じスタジオ内には夕方のニュース番組『[[スーパーJチャンネル]]』のセットも作られ、『ニュースステーション』よりは小規模ながらも、共通のデザインコンセプトで設計されている。『ニュースステーション』側のセットは現社屋への移転時点で番組終了が決定していたためわずか半年で撤去されたが、『Jチャンネル』側のセットは残され、2017年12月27日まで幾度か手直しを加えたうえで継続使用された。
* 新セットを作るにあたり、テーブルなどほとんどのセット内のものは新調されたが、一部の家具や小物は前のセットから引き続き使用された。
* 番組終了後、この6代目セットと10代目オープニング映像、リアルタイムCGにより、スタッフが2003年度のテレビ美術を対象とする「第31回伊藤熹朔賞」を受けた。
==== ブーメランテーブル ====
『ニュースステーション』ではキャスター席に特徴的な「'''ブーメランテーブル'''」<ref name="nhk-bunken20091104boomerangtable">『[https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/report/2009_11/091104.pdf テレビ美術から見る 「キャスターショー」の誕生と発展 ~『ニュースセンター9時』と『ニュースステーション』のスタジオセット分析を中心に~]』、[[NHK放送文化研究所]] 2009年11月4日(2017年2月19日閲覧)、p.9。</ref>が使われ、[[メールマガジン]]のタイトルを『NSブーメラン』とするなどこの番組の名物であった。番組開始当初は濃い色のものが使用されていたが、後に交換されたときには薄い色のものへ変更になった。テーブル自体は、大道具担当ではなく家具メーカーに発注し作られた<ref name="nhk-bunken20091104boomerangtable" />。
それまでは前述のとおり、横一列に座るのが主流だったが、多くの出演者が座って話す際、横一列では平面的になり、互いの顔を正面から見ることができず、丸いテーブルだと視聴者不在の印象を与えてしまうことから、画面効果と機能面を突き詰めて余分な部分を突き詰めた結果、「湾曲したテーブルの形」になったという。磨きぬいたテーブルに傷がつかないように出演者もスタッフも細心の注意を払い、本番開始直前までテーブルは分厚い布製カバーで覆われ、本番終了後も直ちにカバーをかぶせていた。テーブルは食卓をイメージしているため、従来のように前を覆っておらず、出演者の脚や靴までがすべて見える。さらに、それまで出演者は一つの画面に収めるために肩と肩がぶつかるほど座っていたのを、十分な距離を置いて座らせ、空間を贅沢に使った<ref>久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、[[世界文化社]]、189・190頁。</ref>。
ブーメランテーブルについては、「湾曲していたほうが出演者同士が話しやすい」「情報は一方的伝えるだけでなく、視聴者から帰ってくる反応を汲み取り、さらにまたニュースを伝える」との意図があった<ref name="nhk-bunken20091104boomerangtable" />。キャスターの足が見えるテーブルは、ニュース番組では初めての試みであり、家具メーカーが製造した一般のテーブルのため、音声の[[カフボックス]]や確認用のモニターは設置されなかった<ref name="nhk-bunken20091104boomerangtable" />。
=== テーマ曲・コーナー別使用音楽 ===
# 1985年10月7日 - 1987年9月25日:「ANNニュースのテーマ」([[松岡直也]])
#* 他の『ANNニュース』でもこのテーマ曲に変更。ただし本番組とそれ以外では若干アレンジが異なる。
# 1987年9月28日 - 1989年1月27日:曲名なし([[前田憲男]])
#* 週末の『[[ナイトライン (ANN)|ナイトライン]]』や『[[チェック・ザ・ステーション]]』と共通でテレビの三原色を示す光線が放たれた(後者はテーマ音楽も同じ)のみスタジオ風景が細切れに現れたところでタイトルというCG混在映像が使われていた。
#* この代の途中からスタジオ挨拶のところで日付表示をするようになる。
# 1989年1月30日 - 1993年4月16日:「Good Evening」([[本多俊之]])
#* 本バージョンの使用を開始した頃から、オープニング曲・CM前ジングル以外に番組内で使われる音楽もトータルにコーディネートされ始めるようになり、天気予報のBGM<!-- 「あしたもきっといい天気」? -->、スポーツコーナーのテーマ(「JUMP UP」)なども本多が担当している。
#* 歴代のテーマ曲の中ではこの曲が長く使われている(約4年3か月、作曲者だけでも含めると約7年8か月)。
#* 本多はラジオクラブのメンバーと共に本番組に生出演し、本曲を生演奏している。
#* 1989年発売のベストアルバム「FOOT PRINTS」([[東芝EMI]]、CT32-5427、既に廃盤)収録。
# 1993年4月19日 - 1996年10月4日:「Harmony」(本多俊之)
#* 一部、同じ本多が作曲した「Good evening」をアレンジしたものであった。
#* 曜日毎にメロディーパートの楽器が変動する。[[オーケストラ]]([[アンサンブル]])演奏のフルバージョンは[[江黒真理衣|江黒真理]]の楽曲として1993年にCD化されている。
#* 曜日別メイン楽器は以下の通り。
#** 月曜:[[ピアノ]]
#** 火曜:[[パンパイプ|パンフルート]](シンセサイザーでの演奏)
#** 水曜:[[オーボエ]]
#** 木曜:[[ギター]]
#** 金曜:[[トランペット]]
#* オープニング映像はアニメーションで、25歳 - 35歳程度の青年が近未来の都会で寝転んだり自然と親しみ余暇を愉しむ様が春夏秋冬季節ごとに4パターン用意された。番組ロゴはアニメーションに含まれず、日付とともに小さく表示された。アニメーション画は[[吉田秋生]]。
#* なお提供クレジット、CM入り、エンディングはピアノ演奏バージョンが使われた。
# 1996年10月7日 - 1998年5月8日:「[[36度線 -1995夏-|36度線]]」([[ASKA]])
#*1995年に制作され、幾度かリリースが検討されることもあったが、結局リリースされることがなく、結果的に番組終了後の2004年8月に[[CHAGE and ASKA]]のシングル「[[36度線 -1995夏-]]」として再製作されてリリース。
#* ASKAは天気予報のBGM(違う曲)も提供。
#* オープニング映像は、世界の有名な絵画をアニメーション化したもの。数バージョン制作された。
# 1998年5月11日 - 1999年12月23日:「靴は履いたまま」([[ゴスペラーズ]])
#* オリジナルバージョンはアルバム『[[Vol.4]]』収録。本来歌詞ありの楽曲だが、ニュースステーションで用いられたバージョンは全編[[スキャット]]であった。
#* これ以降、オープニング映像の中で日付を表示。
#* オープニングではその日のニュース映像を流し(但し前述の1998年5月11日は久米、真理、白木がスタジオに向かう様子の映像、プロ野球[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]がリーグ優勝を決めた1998年10月8日は[[玉置宏]]のコメントからニュース映像になる、前述の1999年8月の4代目セットになった際の久米の説明VTRになるなどの例外あり)、最後にごく短くタイトルCGを表示するという簡素なものとなった。
#* 重大ニュース時(1998年5月28日のパキスタン核実験実施など)は定時開始であっても通常のスキャットバージョンを使用せず、ピアノをベースとしたインストアレンジ版が使われ、スタジオの引きの映像を背景に日付表示から直ぐにタイトルCGが表示された。
#* この曲がオープニングに起用されて3か月ほど経った1998年8月20日、ゴスペラーズがゲスト出演してオープニングで生歌唱。久米と対談も行った。さらに久米が降板していた期間にあたる1999年12月20日にもこの週でテーマ曲としての使用が終わる事から再びゲスト出演し宜嗣と共演。この時は歌詞付きのバージョンをワンコーラス披露し(タイトルの表示順序も異なり先にタイトルCGを表示してから日付を表示した)、エンディングでは「心の愛」も歌唱した。なお、ゴスペラーズはテーマ曲を担当する前の1997年12月25日放送分にも出演していたため、これは都合2・3度目の出演であった。
#* ゴスペラーズはスポーツの楽曲「イントロ'98」も担当しており、 同じくアルバム『Vol.4』に収録されている。
# 2000年1月4日 - 2002年3月29日: 「NS2000(NEW STREAM 2000)」([[福岡ユタカ]])
#* オープニングのCG映像は[[小島淳二]]が手がけた。[[サイバースペース]]を表現したようなフル[[3次元コンピューターグラフィックス|3DCG]]映像となり、その日の放送する複数のニュース映像素材をCG映像内の[[ウインドウ]]部分に[[デジタル合成]]しダイジェスト形式で短時間流すとともにカテゴリーや放送予定時間を英文表示するスタイルに変わった。
#* これ以降、オープニングCGの中で放送内容の告知を行う(Char演奏のW杯バージョンを除く)。
#* 2001年ではこの曲のニューバージョンとして「NS2001」が使われた時期もあった(アルバム『Calling -The Latest Best-』収録)。
#* 導入当初は30秒あったが、2000年3月27日のフライングスタート開始時から1フレーズカット(5秒ほど)。
#* [[第19回参議院議員通常選挙]]直前の「SPECIAL WEEK」期間中の午後9時36分からの放送となった2001年7月23日 - 7月27日の間は「STAND UP」([[川井憲次]])など『[[機動警察パトレイバー]]』や『[[逮捕しちゃうぞ]]』などのアニメ作品のサウンドトラックを使用した。
#* スポーツ「Trance Zone」 - アルバム『Calling -The Latest Best-』収録
#* ニュースフラッシュ「5scenes from a Dizzy day」 - シングル「NEW STREAM 2000」、アルバム『Y・Voices』収録
#* ニュースフラッシュのBGMに関してはテーマ曲が変わった2002年4月以降も引き続き使われていた。
# 2002年4月1日 - 2002年6月28日:「A FAIR WIND」([[Char]])
#* この期間内に、[[2002 FIFAワールドカップ|日韓ワールドカップ]]があり、このテーマ音楽に乗せ、[[川平慈英]]のナレーションで1回目からのW杯の歴史を振り返る特別バージョンで、決勝戦とともに終了。なおタイトルと日付はオープニングの最後に上にタイトル下に日付表示という形でまとめて表示された(「NS2000」と「サラバンド」の期間も、シドニーオリンピックの会期中や2003年10月の阪神優勝時などニュース映像から始める際にこのタイトル表示の方式が取られた)
# 2002年7月1日 - 2003年9月26日:「サラバンド」([[サラ・ブライトマン]])
#* アルバム『ハレム』、『輝けるディーヴァ 〜ベスト・オブ・サラ・ブライトマン〜』収録(共にフル・ヴァージョン)
#* スポーツ「ハレム」 - アルバム『ハレム』収録
#* オープニング映像は近未来風の世界を彩った映像を使用し、「NS2000」の時と同様にその日の放送する2項目のニュース映像素材を交えてダイジェスト形式で短時間流すものになった。
# 2003年9月29日 - 2004年3月26日:「[[ヨシュア・トゥリー|Where The Streets Have No Name (約束の地)]]」([[U2]])
#* スポーツ「[[ワン (U2の曲)|Lady With The Spring Head (スピニング・ヘッド)]]」、ニュースフラッシュ(「できるだけニュース」)「[[ポップ (アルバム)|Discotheque (ディスコティック)]]」、エンディング「[[ザ・ベスト・オブU2 1990-2000|Electrical Storm (エレクトリカル・ストーム)]]」もU2の楽曲が用いられた。
#* オープニングは[[東京港]]の夜景に浮かぶヴァーチャルスクリーンによりその日のニュースの一場面が表示されるというもの。この代ではタイトルが最初に表示され、その日の放送する2項目のニュース映像素材を交えてダイジェスト形式で短時間流してから日付表示される形になった。最後は船のドックに近づくとスタジオの映像に切り替わるが、オープニングに合わせて照明を消して暗い状態で、赤い照明だけが灯されたスタジオをクレーンカメラでパンさせてから他の照明を点灯させて本編へと移る。最終回が近づくと、船のドックに「◯◯times left」(「あと〇〇日」)とカウントダウンが表示されるようになり、最終回ではそれが「FINAL DAY」になっていた。
#* この代のみハイビジョン制作だった。
== 平均視聴率ベスト10 ==
*数字はビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム。
{| class="wikitable"
!位
!視聴率
!放送年月日
!備考・放送内容
|-
!1
|'''34.8%'''||[[1994年]][[10月26日]]||[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]「[[埼玉西武ライオンズ|西武]]対[[読売ジャイアンツ|巨人]]」戦終了後
|-
!2
|31.9%||[[1995年]][[10月24日]]||日本シリーズ「[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]対[[オリックス・バファローズ|オリックス]]」戦終了後
|-
!3
|30.6%||1988年10月19日||いわゆる'''「10.19」'''当日。上記を参照
|-
!4
|28.2%||1995年[[4月24日]]||[[オウム真理教]]・[[村井秀夫刺殺事件|村井(元)幹部刺殺事件]]発生など
|-
!5
|27.6%||1995年[[5月8日]]||オウム真理教幹部への単独インタビュー放送など
|-
!6
|26.7%||[[1989年]][[6月26日]]||[[歌手]]・[[美空ひばり]]死去など
|-
!rowspan="4"|7
|rowspan="4"|26.3%||1989年[[2月13日]]||[[リクルート事件]]で[[リクルートホールディングス|リクルート]]・[[江副浩正]]前会長逮捕など
|-
|1995年[[3月23日]]||[[地下鉄サリン事件]]発生など
|-
|1995年[[4月10日]]||オウム真理教幹部各地で逮捕など
|-
|1995年[[4月13日]]||オウム真理教施設一斉捜索など
|}
== ネット局 ==
本番組の放送が始まった頃のANN加盟フルネット局はキー局のテレビ朝日を含めて12局だった。クロスネット加盟である福井県の[[福井放送]](放送開始後の[[1989年]][[4月]]加盟)と、宮崎県の[[テレビ宮崎]]は、その関係上NNN(日本テレビ系)の夜の最終ニュース『[[NNNきょうの出来事]](現:[[news zero]])』などを放送していた。その他、ANNフルネット局が出現するまでANNに加盟していたクロスネット局に、ネットしていた局はなかった(報道特番等の臨時ネットは除く)。しかし、久米は系列局が都市部に限られていることから「NHKのように全国に配慮した全方位型ではなく、都市生活者に向けたニュース番組にできる」と前向きに捉えていた<ref name="ReferenceA"/>。
ANNは、テレビ放送ネットワークとしては他の放送系列よりも系列局の設置などにはばかるほどの起伏に当たるばかりになってしまい、その後、日本テレビとフジテレビの人気番組の勢いが優位的になると、各地のローカル局は人気ネット番組の整理に追われるようになる。1989年の[[熊本朝日放送]](KAB)の開局を皮切りに、テレビ朝日はそれまで進んでいなかった全国ネットワーク構築を再展開。それまで他系列とのクロスネットを組んでたローカル局ともネット関係をほぼ断ち切るようになり、フルネット24局体制を『ニュースステーション』の放送期間中に完成させ、「ニュースステーション」は、北海道から沖縄までテレビ朝日の放送が視聴できる体制づくりにも貢献した<ref group="注">但し、[[石川県]]以外の[[北陸地方|北陸]]・[[山陰地方|山陰]]・[[四国地方|四国]]・[[九州地方|九州]]などごく一部の地域ではフルネットを未だに開局できていない地域がある。また沖縄県の琉球朝日放送も、この番組の放送当時は[[沖縄本島]]と[[久米島]]にしか中継局がなく、[[先島諸島]]([[宮古島]]・[[石垣島]])と[[大東諸島]]([[北大東島]]・[[南大東島]])では[[ケーブルテレビ]]を含め視聴できなかった。</ref>。
なお、番組中に系列局発のローカルニュースを挿入する部分が一貫してなかったため、各系列局の最終版ローカルニュースは、本番組の放送終了後か、深夜枠に回されていた。この方針は『報道ステーション』でも同じである。
{| class="wikitable"
|+ '''「ニュースステーション」ネット局'''
!放送対象地域
!放送局名
!系列
!放送時間
!放送開始・備考
|-
|[[広域放送|関東広域圏]]
|[[テレビ朝日]](ANB→EX)
|rowspan="24"|[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]
|rowspan="24"|[[#放送時間|放送時間]]を参照
|'''制作局'''、 2003年9月まではANB
|-
|[[北海道]]
|[[北海道テレビ放送]](HTB)
|番組開始から
|-
|[[青森県]]
|[[青森朝日放送]](ABA)
|1991年10月1日開局<ref group="注">実際は9月24日のサービス放送開始日から(出典:1991年9月24日以降の東奥日報テレビ欄)</ref>から
|-
|[[岩手県]]
|[[岩手朝日テレビ]](IAT)
|1996年10月開局から
|-
|[[宮城県]]
|[[東日本放送]](KHB)
|番組開始から
|-
|[[秋田県]]
|[[秋田朝日放送]](AAB)
|1992年10月開局から
|-
|[[山形県]]
|[[山形テレビ]](YTS)
|ANNに再加盟しANNのフルネット局となった1993年4月1日から
|-
|[[福島県]]
|[[福島放送]](KFB)
|rowspan="2"|番組開始から
|-
|[[新潟県]]
|[[新潟テレビ21]](NT21)
|-
|[[長野県]]
|[[長野朝日放送]](abn)
|1991年4月1日開局から
|-
|[[静岡県]]
|[[静岡朝日テレビ]](SATV)
|番組開始から(1993年9月までは静岡県民放送(静岡けんみんテレビ・SKT))
|-
|[[石川県]]
|[[北陸朝日放送]](HAB)
|1991年10月開局から
|-
|[[広域放送|中京広域圏]]
|[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]](NBN)
|番組開始から
|-
|[[広域放送|近畿広域圏]]
|[[朝日放送テレビ|朝日放送]](ABC)
|番組開始から(現:朝日放送テレビ)<ref group="注">なお、翌日朝のローカル情報番組『[[おはようコールABC]]』や『[[おはよう朝日です]]』において、ニュースコーナーやスポーツコーナーで当番組の映像素材を流用することがあった。</ref>
|-
|[[広島県]]
|[[広島ホームテレビ]](HOME)
|番組開始から
|-
|[[山口県]]
|[[山口朝日放送]](yab)
|1993年10月開局から
|-
|[[香川県]]<br/>[[岡山県]]
|[[瀬戸内海放送]](KSB)
|番組開始から
|-
|[[愛媛県]]
|[[愛媛朝日テレビ]](eat)
|1995年4月開局から
|-
|[[福岡県]]
|[[九州朝日放送]](KBC)
|番組開始から
|-
|[[長崎県]]
|[[長崎文化放送]](NCC)
|1990年4月開局から
|-
|[[熊本県]]
|[[熊本朝日放送]](KAB)
|1989年10月開局から
|-
|[[大分県]]
|[[大分朝日放送]](OAB)
|1993年10月開局から
|-
|[[鹿児島県]]
|[[鹿児島放送]](KKB)
|番組開始から
|-
|[[沖縄県]]
|[[琉球朝日放送]](QAB)
|1995年10月開局から
|}
※1991年1月の[[湾岸戦争]]や1993年1月19日の[[皇太子妃雅子]]の婚約など、[[山形放送]](YBC)が数回60分間のみネットしている。
== 関連番組 ==
* [[ミュージックステーション]]
: 『Nステ』開始から1年後の1986年10月24日から毎週金曜20時台→21時台に放送されている[[関口宏]]→[[タモリ]]が司会を務める[[音楽番組]]。番組タイトルに「ステーション」を持つ『Nステ』の派生番組。初代のタイトルロゴは『Nステ』の初代のタイトルロゴと似たデザインだった。
* [[選挙ステーション]]
: 国政選挙の[[選挙特別番組|開票速報番組]]。1986年7月の衆参同日選挙から2003年11月の[[第43回衆議院議員総選挙]]まで『Nステ』の特別番組として放送された。
* [[チェック・ザ・ステーション]]
: 1987年10月4日から1988年4月3日まで、日曜午前11時台に放送された。渡辺みなみが司会を務め、若林正人が経済解説をした。テーマ曲も当時の『Nステ』と同じであり、「金曜チェック」の再放送が目玉の一つだった。<!-- ニュースステーションの特集を再構成?した番組 -->
* [[ニュースシャトル]]
: ニュースステーション=駅・根拠地に対して「シャトル=定期便」とした、かつて放送された平日夕方時間帯のニュース。週末ランキングコーナー(後に「[[はなきんデータランド]]」として独立)が有名。
* [[600ステーション]]・530ステーション・[[ステーションEYE]]
: 「ステーション」ブランドを採用した、かつて放送されていた夕方のニュース。600ステーションと530ステーションのロゴの「ステーション」の部分はニュースステーションと同じであった。
* [[久米宏のがん戦争|がん戦争]]
: 番組開始前の1983年より2004年まで『[[水曜スペシャル]]』等の特番枠で不定期放送してきた、久米宏司会による[[悪性腫瘍|癌]]患者とその周辺に密着したドキュメンタリーシリーズ。
* ドキュメント天皇崩御 昭和から平成へ
: 「平成」改元が行われた1989年1月8日(日曜)12時から2時間にわたって放送された[[報道特別番組]]。久米宏と小宮悦子が司会を務め、『Nステ』のスタジオセット(ただし背景は昼の風景)から放送した。
* ニュースチャレンジステーション
: 1996年と1997年に放送された『[[27時間チャレンジテレビ|熱血27時間!!炎のチャレンジ宣言]]』の番組内ニュースコーナー。通常編成における『[[ANNニュース]]』の代用的位置付けであり、1996年放映版は『Nステ』のタイトルロゴをアレンジしたものだった。キャスターはタレントの[[雛形あきこ]]と[[高井正憲]](当時テレビ朝日アナウンサー)。
* [[報道ステーション]]
: 本番組の後継番組。『Nステ』とは別番組の位置付けではあるが、『Nステ』の制作手法などの名残りを受け継いでいる。
* [[JNNニュース22プライムタイム]]・[[JNNニュースデスク'88・'89]]
: 『Nステ』に対抗して、[[TBSテレビ|TBS]]系列で1987年10月~1989年9月にかけて平日22時台に放送されていた報道番組。結果としてこの試みは失敗に終わり、2年で22時台のニュース番組から撤退。当番組には後述の[[筑紫哲也]]にもメインキャスター出演の打診をしていたが、この時は実現していない。
* [[筑紫哲也 NEWS23]]・[[NEWS23]]
: TBS系列で平日23時台に放送されている報道番組。上記番組終了後の1989年10月2日より放送開始。『Nステ』同様平日最終版のニュース番組の概念を大きく変えた番組。同時間帯で何かと比較された。また、久米宏と初代キャスターの筑紫哲也は双方とも[[早稲田大学]]の出身、かつ[[日本プロ野球|プロ野球]]「[[広島東洋カープ]]のファン」でもあった。ちなみに、双方の古巣は久米宏は[[TBSテレビ|TBS]]、筑紫哲也は[[朝日新聞社]]であった。また、渡辺真理も[[TBSのアナウンサー一覧|TBSアナウンサー]]時代、この番組に出演していた。
* [[NHKニュース10]]
: 『ニュースステーションに対抗する報道番組』を作ってほしい、という'''[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の意向を受けた[[日本放送協会|NHK]]幹部'''から声が挙がって、[[海老沢勝二]]会長時代に放送開始。視聴率では『Nステ』に負けていた。[[2006年]][[4月]]から『[[ニュースウオッチ9]]』に改題リニューアルの上、21時台に枠移動した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[テレビ朝日系列深夜ニュース枠]]
* [[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]
* [[ANNニュース]]
* [[スーパーJチャンネル]]
* [[電通]] - 番組開始に当たり大きな役割を果たした。
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/index2.html|title=公式サイト|date=20040202114657}}[https://web.archive.org/web/19991128100036/http://www.tv-asahi.co.jp/broadcast/n-station/index2.html]
* [https://www.oosawa.net/portfolio/view/61/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3_%E3%80%80%EF%BC%96%E4%BB%A3%E7%9B%AE%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88 作品リストー舞台・他ーニュースステーション - 大澤製作所]
{{前後番組
|放送局=[[テレビ朝日]]および[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN系列]]
|放送枠=[[平日]][[テレビ朝日系列深夜ニュース枠|最終版のニュース]]
|番組名=ニュースステーション<br />(1985年10月7日 - 2004年3月26日)
|前番組=[[ANNニュースファイナル]]<br />(1975年10月13日 - 1985年10月4日)
|次番組=[[報道ステーション]]<br />(2004年4月5日 - )
|2放送局=テレビ朝日およびANN系列
|2放送枠=平日[[テレビ朝日系列スポーツニュース枠|スポーツニュース枠]]
|2番組名=ニュースステーション<br />(1985年10月7日 - 2004年3月26日)
|2前番組=[[ANNスポーツニュース]](第2期)<br />(1982年4月 - 1985年9月)
|2次番組=報道ステーション<br />(2004年4月5日 - )
}}
=== 21時台 ===
{{前後番組
|放送局=テレビ朝日
|放送枠=[[平日]]21:54 - 22:00枠
|番組名=ニュースステーション<br />(2000年3月27日 - 2004年3月26日)
|前番組=[[世界の車窓から]]<br />【6分繰り上げて継続】
|次番組=報道ステーション<br />※21:54 - 23:10
}}
=== 22時台 ===
{{前後番組
|放送局=テレビ朝日系列
|放送枠=[[月曜日|月曜]]22:00 - 23:00枠
|番組名=ニュースステーション<br />(1985年10月7日 - 2004年3月22日)
|前番組=[[月曜ワイド劇場]]<br />※21:02 - 22:54<br />【1時間繰り上げて継続】
|次番組=報道ステーション<br />※21:54 - 23:10<br />(2004年4月5日 - )
|2放送局=テレビ朝日系列
|2放送枠=[[火曜日|火曜]]22:00 - 23:00枠
|2番組名=ニュースステーション<br />(1985年10月8日 - 2004年3月23日)<br />【ここからテレビ朝日制作枠】
|2前番組=[[パーティー野郎ぜ!]]<br />【ここまで[[朝日放送テレビ|朝日放送]]制作枠】
|2次番組=報道ステーション<br />※21:54 - 23:10<br />(2004年4月6日 - )
|3放送局=テレビ朝日系列
|3放送枠=[[水曜日|水曜]]22:00 - 23:00枠
|3番組名=ニュースステーション<br />(1985年10月9日 - 2004年3月24日)
|3前番組=[[特捜最前線]]<br />【木曜21:00 - 21:54枠に移動して継続】<br/>【ここまで[[テレビ朝日水曜22時枠刑事ドラマ|ドラマ]]枠】
|3次番組=報道ステーション<br />※21:54 - 23:10<br />(2004年4月7日 - )
|4放送局=テレビ朝日系列
|4放送枠=[[木曜日|木曜]]22:00 - 23:00枠
|4番組名=ニュースステーション<br />(1985年10月10日 - 2004年3月25日)
|4前番組=[[愛川欽也の探検レストラン]]<br />※22:00 - 22:30<br />【土曜19:30 - 20:00枠へ移動して継続】<hr>[[美女紀行!E湯!E味]]<br />※22:30 - 23:00<br />【日曜18:30 - 18:55枠へ移動して継続】
|4次番組=報道ステーション<br />※21:54 - 23:10<br />(2004年4月8日 - )
|5放送局=テレビ朝日系列
|5放送枠=[[金曜日|金曜]]22:00 - 23:00枠
|5番組名=ニュースステーション<br />(1988年4月1日 - 2004年3月26日)<br />【ここからテレビ朝日制作枠】
|5前番組=[[ダウンタウン探偵組]]<br />【ここまで朝日放送制作・[[朝日放送・テレビ朝日金曜9時枠の連続ドラマ#参考項目・朝日放送制作金曜10時枠の連続ドラマ|ドラマ]]枠】
|5次番組=報道ステーション<br />※21:54 - 23:10<br />(2004年4月9日 - )
}}
=== 23時台 ===
{{前後番組
|放送局=テレビ朝日系列
|放送枠=月曜 - 木曜23:00 - 23:09枠
|番組名=ニュースステーション<br />(1985年10月7日 - 2004年3月25日)
|前番組=ANNニュースファイナル<br />※23:00 - 23:15
|次番組=報道ステーション<br />※21:54 - 23:10
|2放送局=テレビ朝日
|2放送枠=月曜 - 木曜23:09 - 23:10枠
|2番組名=ニュースステーション<br />(1985年10月7日 - 2000年3月23日)
|2前番組=ANNニュースファイナル<br />※23:00 - 23:15
|2次番組=[[ネオバラエティ]]<br />※23:09 - 23:54
|3番組名=ニュースステーション<br />(2001年10月1日 - 2004年3月25日)
|3前番組=ネオバラエティ<br />【6分繰り下げて継続】
|3次番組=報道ステーション<br />※21:54 - 23:10
|4放送局=テレビ朝日
|4放送枠=月曜 - 木曜23:10 - 23:17枠
|4番組名=ニュースステーション<br />(1985年10月7日 - 2000年3月23日)
|4前番組=ANNニュースファイナル<br />※23:00 - 23:15<hr>ANNスポーツニュース<br />※23:15 - 23:25
|4次番組=ネオバラエティ<br />※23:09 - 23:54<br />【15分拡大】
|5放送局=テレビ朝日
|5放送枠=月曜 - 木曜23:17 - 23:20枠
|5番組名=ニュースステーション<br />(1994年10月3日 - 2000年3月23日)
|5前番組=ミニ番組<br />※23:17 - 23:25
|5次番組=ネオバラエティ<br />※23:09 - 23:54
}}
{{前後番組
|放送局=テレビ朝日系列
|放送枠=金曜23:00 - 23:09枠
|番組名=ニュースステーション<br />(1985年10月11日 - 2004年3月26日)
|前番組=[[TVスクープ]]<br />※23:00 - 23:50
|次番組=報道ステーション<br />※21:54 - 23:10
|2放送局=テレビ朝日
|2放送枠=金曜23:09 - 23:10枠
|2番組名=ニュースステーション<br />(1985年10月11日 - 2000年3月24日)
|2前番組=TVスクープ<br />※23:00 - 23:50
|2次番組=[[金曜ナイトドラマ]]<br />※23:09 - 翌0:04
|3番組名=ニュースステーション<br />(2001年10月5日 - 2004年3月26日)
|3前番組=金曜ナイトドラマ<br />【6分繰り下げて継続】
|3次番組=報道ステーション<br />※21:54 - 23:10
|4放送局=テレビ朝日
|4放送枠=金曜23:10 - 23:17枠
|4番組名=ニュースステーション<br />(1985年10月11日 - 2000年3月24日)
|4前番組=TVスクープ<br />※23:00 - 23:50
|4次番組=金曜ナイトドラマ<br />※23:09 - 翌0:04
|5放送局=テレビ朝日
|5放送枠=金曜23:17 - 23:20枠
|5番組名=ニュースステーション<br />(1985年10月11日 - 1988年3月25日)
|5前番組=TVスクープ<br />※23:00 - 23:50
|5次番組=ミニ番組<br />※23:17 - 23:25
|6番組名=ニュースステーション<br />(1994年10月7日 - 2000年3月24日)
|6前番組=ミニ番組<br />※23:17 - 23:25
|6次番組=金曜ナイトドラマ<br />※23:09 - 翌0:04
|7放送局=テレビ朝日
|7放送枠=金曜23:20 - 翌0:00枠
|7番組名=ニュースステーション<br />(1985年10月11日 - 1988年3月25日)
|7前番組=TVスクープ<br />※23:00 - 23:50<hr>
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3,465 | 旧約聖書 | 旧約聖書(きゅうやくせいしょ、英語: Old Testament)は、ユダヤ教およびキリスト教の正典である。「旧約聖書」は『新約聖書』も正典とするキリスト教による呼び方で、ユダヤ教では「旧約聖書」と呼ばず、正式の名は『律法(トーラー)、預言書(ネビイーム)と諸書(ケスビーム)』で、日常的にはその頭文字をとって『タナハ』あるいは読誦を意味する「ミクラー」と呼ぶ。『旧約聖書』は原則としてヘブライ語で記載され、一部にアラム語で記載されている。
イスラム教では「タウラー」(トーラー、律法)と「ザブール」(詩篇)を啓典としてその正統性を認めている。
『旧約聖書』とは、『新約聖書』の『コリントの信徒への手紙二』3章14節などの「旧い契約」という言葉をもとに、2世紀頃からキリスト教徒によって用いられ始めた呼称である。これは古い契約の書が旧約聖書であって、新しい契約が新約聖書という意味であり、『旧約聖書』という表現はサルディスのメリトン(190年)に見られ、アレクサンドリアのクレメンスがよく用いている。しかし、キリスト教側の観点でしかないために最近では『ユダヤ教聖書』、『ヘブライ語聖書』、『ヘブライ語聖典』などと呼ばれることもある。
ユダヤ教においては、トーラー、ネビイーム、ケトゥビームの頭文字、TNKに母音を付した『タナハ』と呼ばれる他、『ミクラー(Miqra):朗誦するもの』と呼ばれることもある。ミクラーはクルアーンと語源を同じくしている。
『旧約聖書』の内容は古代イスラエル人・ユダヤ人の思想活動すべてを網羅するごとく多岐に渡っている。以下に旧約聖書に含まれる文書の概略を記す。
旧約聖書の冒頭が創世記である。その冒頭では神が7日間で世界を創り、楽園に男と女(アダムとイブ)を住まわせたが、彼らが蛇の誘惑によって禁忌を犯したので楽園を追放されたという、神による天地創造と人間の堕落が語られる(創世記1-3)。以下、創世記には最初の殺人であるカインとアベルの兄弟の話(創世記4:1-16)、ノアの箱舟(創世記6:5-9:17)、バベルの塔(創世記11:1-9)などの物語が続いていく。
続いて創世記には、アブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長の物語が記されている(創世記12-36)。アブラハムはバビロニアから出発して、カナン(現在のイスラエル/パレスチナ)にやってきた遊牧民の族長であり、神から祝福を受け諸民族の父になるという約束を与えられた(創世記12:2)。イサクはアブラハムの息子であり、彼にも子孫が栄える旨が神から約束されている(創世記26:24)。さらにその息子がヤコブであり、彼と契約を結んだ神はヤコブとその子孫にカナンの土地を与えると約束している。ヤコブはこの契約でイスラエルと改名し、彼の子孫はイスラエル人と呼ばれるようになった(創世記32:29,35:10)。ヤコブは12人の男子および数人の女子をもうけたが、男子それぞれがイスラエル十二氏族の長とされている(創世記29-30)。つまりヤコブがイスラエル/ユダヤ人の始祖である。
創世記には、この族長の3代記に続けてヤコブの末子のヨセフの物語が記されている(創世記37-50)。兄たちに殺されかけてエジプトに奴隷として売り飛ばされながら、夢占いと実力で立身出世してエジプトの宰相にまで登りつめ、飢饉に苦しむようになった父と兄たちをエジプトに呼び寄せて救う話である。創世記では、これらの他に悪徳の町であるソドムとゴモラの滅亡(創世記18:20-19:28)、ヤコブと神の使者との格闘などの話(創世記32:23-33)が有名である。
また創世記には、多くの系図が含まれておりイスラエル周辺部族の縁起等も語られている。
創世記は以上で終わり、物語は出エジプト記につながっていく。前述のヨセフの時代にエジプトに移住していたイスラエル人達は、王朝が変ったために、やがて迫害されるようになる(出エジプト1:1-14)。そこに、エジプト人として教育を受けたモーセ(出エジプト2:1-10)が、神から召命を受けて立ち上がり(出エジプト3:1-4:17)イスラエル人たちを率いてエジプトを脱出し(出エジプト5:1-15:21)、神が族長ヤコブに約束した「乳と蜜の流れる」カナンの地を目指しながら40年間シナイ半島で放浪する(出エジプト15:22-40:38、民数記)。モーセが数々の奇跡でエジプト王を威嚇し(出エジプト7:8-11:10)、追跡するエジプト軍を逃れるために海を二つに割ってその間を通っていくシーン(出エジプト13:17-30)などは有名であり、映像化もされている。現在も続くユダヤ教の行事、たとえば過越祭/除酵祭、仮庵祭などはこの出エジプトおよび荒野流浪の故事にちなむものとされており、ユダヤ文化の中でも特別で象徴的な位置を占める物語である。
シナイ山でモーセとイスラエル人は神から十戒を授かり(出エジプト20:1-16)、他にも様々な祭儀規定や倫理規定、法律が言い渡される(出エジプト19:1-34:35)。十戒は多神教の禁止や偶像崇拝の禁止に始まり、殺人・姦淫・窃盗を禁止し、父母への敬愛や隣人愛などの倫理を規定するものであるが、この十戒を基にして神はイスラエル人全体と契約を結ぶ。このシナイ山での契約は、ユダヤ教の重要な原点のひとつとされている。「ヤーウェ(ヤハウェ)」という神の名はモーセの召命時に初めて明かされ(出エジプト3:13-15)、モーセ以前には「アブラハムの神」「イサクの神」「ヤコブの神」という呼ばれ方でしか知られていなかった部族の神が、名前を明かした状態で民衆全体と契約を結んだのである。
出エジプト記の他にもレビ記、民数記、申命記には、おびただしい量の法律、倫理規定、禁忌規定、祭祀規定が記されており、これらをまとめて律法(トーラー、原義は「教え」)と呼ぶ。たとえば法律としては「ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売って折半し、死んだほうの牛も折半する」など細かな規定に及んでいる(出エジプト21:35)。倫理規定としては「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)など、禁忌規定としては豚食や鱗のない魚を食べることの禁止(レビ記11章、申命記14章など)であるとか子ヤギの肉を乳で煮てはいけない(申命14:21)だとかの細かな食物規定であり、祭祀については祭壇の寸法までが細かに指示されている(出エジプト25-28章)。レビ記、民数記、申命記は物語よりは律法の記載がほとんどであり、ユダヤ教の伝統では創世記から申命記までの五書全体を律法と呼んでいる。また、これらの律法はモーセが神から伝えられたものであるし、五書自体もモーセ自身が執筆したという聖書自身の記述と伝承があったためにモーセ五書という呼ばれ方がなされていた。イエス・キリストも「モーセの律法」と呼んだとされる。
申命記の最後でヨルダン川東岸から約束の地であるカナンを遠く望んだモーセは、そこでヨシュアを後継者に指名して後、モアブの地で没する。
申命記から続けて、ヨシュア記ではヨシュアに率いられたイスラエル人たちによってカナンの諸都市が攻略され、そこに移住していく様子が描かれる。角笛を吹き鳴らすと城壁が崩れ落ちた(ヨシュア記6:20)とされるエリコへの攻略(ヨシュア記2-6)などが有名。
ヨシュアに続いて、デボラ(士師記4-5)、ギデオン(士師記6-8)、サムソン(士師記13-16)といった軍事指導者が続いていくのだが、彼らは士師と称され、部族連合体であったイスラエル人たちの裁判官と軍事指導者の役割を兼ねていた。また、軍事判断によって神の意向を民に伝えていたことから彼らは預言者でもある。これらの士師たちの活躍を描いたのが士師記であり、女性の間諜によって髪を切られて力を失って殺されるサムソンの話などが有名である。
最後の士師がサムエルである。ここで物語はサムエル記に移り、イスラエル部族連合体が王制国家に移行する様子が描かれている。民衆の要求に応えて渋々ながらではあるがサムエルはサウルを王に指名するのである(サムエル上9-10)。
サウルはアンモン人やペリシテ人との戦争に勝つなど功績をあげるが(サムエル上11-14)、アマレク人との戦いで神の意に背いたためにサムエルから遠ざけられた(サムエル上15)。サウルに次いでサムエルから王に指名されるのが羊飼いであったダビデである(サムエル上16:1-13)。サウルとダビデとの確執は詳細に描かれるが(サムエル上16-30)、最後にサウルは戦死して(サムエル上31)、ダビデが王国を継ぐことになる。
ダビデはまず南部のユダの王となり(サムエル下2:1-7)、次いで北部のイスラエルの王となった(サムエル下5:1-5)。そしてエルサレムに遷都し(サムエル下5:6-12)、外敵を破って(サムエル下5:17-25,8:1-14など)、王国を確立して旧約聖書中最大の賛辞を受けている王である。また、詩篇に収められた歌の多くはダビデの作になるものとされており、文武に秀で神に愛でられた王として描かれている。サムエル記はこのダビデ王の治世までを描いており、そこから先は列王記に渡される。なお、キリスト教の旧約聖書でサミュエル記の前に挿入されているルツ記は外国人であったルツがダビデの曽祖父ボアズに嫁ぐ話で、キリストの贖い(買い戻し)の型であるとされる。
王国はダビデの息子のソロモン王の時代に最盛期を迎える。彼はダビデがエルサレムに運び込んだ「契約の箱」を安置するための壮麗な神殿を建築してユダヤ教の中心地としてのエルサレムを確立し、次いで自らのために豪華な宮殿を造営した。旧約聖書ではその富の噂を聞きつけて遠国からの献納が絶えなかったとしている。その中ではシバの女王の来訪などが有名であろう(列王上10章、歴代下9章)。新約聖書の中でも「ソロモン王の栄華」といった言葉が登場する。またソロモンは知恵に優れた者とされており、格言集である箴言はソロモン王に帰せられている。しかし、ソロモンは神殿や宮殿の造営を過酷な課税で賄っていたために、ことに北部の反感を買った(列王上12:4など)。王の死後、北部のイスラエル王国と南部のユダ王国に分裂することになる。
列王記はこの後、南北の王朝史を綴っていくことになる。それによれば、北部のイスラエル王国は短命な王朝が相次ぎ最後にはアッシリアに滅ぼされてしまう。また南部ユダ王国ではダビデ王の血筋が続くものの最後にはバビロニアに滅ぼされ、神殿は破壊されて多数の国民が連行されてしまう(バビロン捕囚)。ユダ王国では、宗教改革が行われたことが伝えられており、ヨシア王の時代にモーセの律法が再発見されたという(列王下22章)。
歴代誌はサムエル記と列王記と内容的に重複する歴史書であるが、南王国の立場から書かれていて、北王国については何も書かれていない。
バビロン捕囚での様子は旧約聖書の歴史書には記されず、預言書の中から窺い知るしかない。イザヤ書やエレミヤ書、エゼキエル書、原ダニエル書がバビロン捕囚の時代に編纂されたと推定されており、流謫の嘆きが語られているし、詩篇の中にも捕囚時代が反映しているとされる歌が収められている(詩篇137:1-6)。また、哀歌はエルサレム陥落を嘆いたとされる歌をまとめたものである。
やがてバビロニアがペルシャに滅ぼされると、ユダヤへの帰還活動が始まる。エズラ記によれば第一次帰還がキュロス王の布告で実施されるのだが、他民族の抵抗により神殿復興は叶わなかった。ダレイオス1世の時代になって神殿建設が許可され、エルサレム神殿は復興する。その後、アルタクセルクセス王の時代に「モーセの律法に詳しい書記官」であるエズラがペルシャ帝国からエルサレムに派遣されて、ペルシャ王の「献酌官」ネヘミヤと共にモーセの律法の復興運動を起こしたことがエズラ記、ネヘミヤ記で描かれている。エズラは外国人との結婚を無効宣告し、ユダヤ人の純化運動を進めた。ここで復興された神殿がハスモン王朝時代に拡張され、イエスの時代に至っている。
キリスト教の旧約聖書にあるエステル記は、この時期にペルシャ王の后になったユダヤ人女性エステルについての挿話である。
以上、旧約聖書における歴史記述を概観したが、王国時代の歴史記述が最も詳しく、バビロン捕囚以後の歴史は断片的にしか語られていない。ヘロドトスの『歴史』で有名なペルシャ戦争も、ユダヤは軍隊の通行路に当たっていたと考えられるが、旧約聖書では全く言及されておらず、歴史記述が途切れている。
例外として、ヘレニズム時代のコヘレトの言葉、ダニエル書、マカバイ戦争とハスモン朝の勃興を描いたマカバイ記がある。ペルシャがアレクサンダー大王によって滅ぼされるとユダヤは大王の死後に成立したセレウコス朝の支配下に入るのだが、アンティオコス4世はエルサレム神殿を略奪し、ユダヤ教を迫害したためにハスモン家の主導で反乱が起こる。ユダヤ人はこの反乱によって再独立を果たし、ハスモン王朝が成立するのである。新約聖書に登場するヘロデ大王もハスモン王朝に連なっている。なお、このマカバイ記はユダヤ教やプロテスタントでは聖書正典とされておらず、カトリック教会や正教会が正典とする第二正典の一つである。
列王記では王朝史の他に、主に北部イスラエル王国で活躍した預言者たちの様子が描かれている。エリヤ、その弟子であるエリシャ、あるいはアモス、ホセアといった預言者たちは宮廷に属さず、在野にあって神からの言葉を吐き鋭く王政を批判した。預言者たちの批判とは、国家と民衆が神を忘れて偶像崇拝に陥っているとするものである。またミカは南部ユダ王国において神殿が破壊されることを予言した。
そもそも旧約聖書では出エジプト記の時代から、(1)民衆が神を忘れて偶像崇拝に走り、(2)それを神が見て怒るが、(3)義人が神と民衆の間をとりなす、というパターンが繰り返されてきたが、列王記以降の預言者たちの事跡もこれをなぞっている。
旧約聖書の中で三大預言者と呼ばれているのはイザヤ、エレミヤ、エゼキエルであり、ことにイザヤは大部のイザヤ書を残している。
旧約聖書にはこの他に12小預言書として、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書などが収められている。
預言書には、世界の終末と神による新時代の到来を、特異なビジョンで描き出すことがしばしば行われた。イザヤ書24-27章、34-35章、65-66章、ゼカリヤ書9-14章、ヨエル書などにそういった記述が認められるが、もっとも有名なものはダニエル書である。この黙示の記述は新約聖書の時代にも及んでおり、福音書の中にも終末予言が現れ(マルコ13章、マタイ24章、ルカ21:5-33)、ヨハネ黙示録なども書かれた。
箴言は教訓集・格言集であり、1章1節に「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」とあり、伝道者の書・雅歌と共にソロモンによって書かれたと伝統的に考えられている。
モーセ五書などには、古い歌に由来すると推定されるものが散見されるが(たとえば、ミリヤムの歌、デボラの歌など)、イスラエル王国時代になると詩篇、雅歌などに多くの詩歌がまとめて編集されるようになった。詩篇はその多くがダビデの作、雅歌はソロモンの作と伝えられているが、実際には様々な著者の作品が時間をかけて編纂されてきたものであろうと批判的な学者は推測している。ユダヤ教・キリスト教の典礼に今も用いられており、ヨーロッパの近代文学にも影響を与えた。なお、雅歌は恋愛歌であり「恋しい方はミルラの匂い袋/私の乳房のあいだで夜を過ごします」「あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ/右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに」「衣を脱いでしまったのに/どうしてまた着られましょう」「秘められたところは丸い杯/かぐわしい酒に満ちている。/腹はゆりに囲まれた小麦の山。/乳房は二匹の小鹿、双子のかもしか。」のように、開放的な描写も多い。しかし、ユダヤ教は伝統的にこれをユダヤ民族に対する神の愛と解釈し、キリスト教は教会に対するキリストの愛と解釈してきた。哀歌はエルサレム陥落と神殿破壊を嘆く歌であり、伝統的にエレミヤの作であるとされている。
ユダヤ教にとっては、『(旧約)聖書』は唯一の正典であり、現在も行動を律する文字通りの法である。民族の歴史を伝え、イスラエルの地を民族の故地とする精神的な基盤を与え、行為と歴史の両面において文化的な一体性を与える書でもある。
対して、将来にユダヤを復興するメシア王を約束する『旧約聖書』を、キリスト教徒はイエス・キリストの出現を約束する救済史として読む。『旧約聖書』の代名詞にも使われる「律法」はもはやキリスト教徒の戒律ではないが、キリスト教徒にとっては『旧約聖書』の完成がイエス・キリストとその使信であり依然として重要な意義をもっているとされている。
旧約聖書は「律法と預言者と諸書」、「律法と預言者と詩篇」(ルカ24:44)、「律法」(マタイ5:17-18、ヨハネ10:34)と呼ばれていた。旧約聖書と新約聖書を合わせて「律法と預言者および福音と使徒」(アレキサンドリアのクレメンス、テルトゥリアヌス)、「律法と福音」(クラウディウス、アポリナリウス、エイレナイオス)と呼ぶ表現があり、アウグスティヌスが引用したイグナティウスの「新約聖書は、旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は、新約聖書の中に現わされている。」ということばは有名である。
詩篇で祈る伝統は古くからあった。これは、正教会が聖詠と呼ぶものである。旧約時代に詩篇は歌われていたが、今日でも詩篇歌があり、改革派教会にはジュネーブ詩篇歌がある。
キリストを知るまでは神を知ることは出来ないので、旧約は不必要だとする見解に対し、日本キリスト改革派教会の創立者である岡田稔牧師は「キリスト教の宣教の最初は旧約聖書の知識がある人に福音が伝えられたため、イエス・キリストが救い主であると伝えればよかったが、真の神を知らない異教徒の日本人に福音伝道するためには、旧約聖書が必要である」と述べている。中央神学校のチャップマン教授は、旧約聖書には異教の偶像崇拝について書かれてあるが、戦前の教派はその旧約聖書の知識を欠いていたために、神社を参拝する偶像崇拝に対してもろかったと指摘する。チャップマン教授は日本で旧約聖書の大切さを早くに主張した。
宗教改革者、ピューリタンなどは旧約聖書から説教を行ったが、高等批評、自由主義神学の影響により、今日では旧約聖書から説教することが少なくなっていると言われる。これを反映して、日本の旧約聖書のみの一冊版聖書は新日本聖書刊行会による「聖書 新改訳2017」のKindle版と日本聖書協会による新共同訳のKindle版しかなく、紙媒体の旧約聖書のみの出版は途絶えている。かつては旧約聖書のみの関根訳や旧約聖書のみの新改訳第3版が一冊で出されていた。正教会は旧約聖書のみの分売を薦めていない。
『旧約聖書』は断続的かつ長い期間に渡り、立場の異なる多くの人々や学派のようなグループが関わり、何度も大きな増補・改訂・編纂が行われ、その過程はかなり複雑なものであったとも推測されるが、異論もあり、いまだに定説を見ないのが現状である。聖書の記述には誤りが無いと信じるプロテスタントの福音派は、旧約聖書は聖書記者によって書かれた時から正典としての権威を持っていたと認め、申命記4:2「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また減らしてはならない」という記述等から、増補・改訂はなかったとする。一方、自由主義神学(リベラル)では聖書は段階的に正典化されていったとする。
歴史的キリスト教会が、モーセを記者であるとしてきたモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)に関しては、それを否定する四資料仮説が19世紀より唱えられ、リベラル派の旧約聖書学の標準学説として知られている。ただし、この四資料仮説はあくまで仮説に過ぎず、細部に至るまで完全に合意されたものではない。近年においては、例えば日本基督教団出版による創世記注解がこの仮説に立たないと明言するなど、プロテスタント主流派(メインライン)においても退けられつつある。
ユダヤ教では、ユダヤ戦争後にユダヤ教を再編した1世紀の終わりごろのヤムニア会議で正典が確認された。このヘブライ語本文を、8世紀以降、マソラ学者が母音記号等を加えて編集したものがマソラ本文で、全24書である。現在のところ、これを印刷体で出版したBHS(Biblia Hebraica Stuttgartensia、1967/1977年の略)が最も標準的なテキストとして利用されている。
これとは別に、紀元前250年頃からギリシア語に翻訳された七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)があるが、現代残されている複数の写本はその数が一致しているわけではない。パウロを含めたキリスト教徒が日常的に用い、新約聖書に引用されているのも主としてこのギリシア語の七十人訳であり、キリスト教は伝統的にこれを正典として扱ってきた。マソラ本文と七十人訳聖書では構成と配列が異なる。
東方教会も西方教会も長らくこの七十人訳聖書を旧約聖書の正典と基本的にみなしてきたが、その配列や数え方には一部異なるものがある。また西方教会では、正教会が正典とみなす文書の一部を外典とした。
カトリック教会はトリエント公会議(1546年)でヴルガータがカトリック教会の公式聖書であると確認し、正典として旧約46巻、新約27巻をあげた。これは伝承によるとされる。カトリック教会は、プロテスタントが文書を取り除いたとする(後掲の一覧を参照のこと)。カトリック教会が聖書に対する外的権威を教会が付与したとするのに対し、プロテスタント教会は聖書の内的権威を教会が承認したと考えている。
その後、16世紀の宗教改革時にマルティン・ルターが聖書をドイツ語に翻訳するにあたり、それまで使われていたラテン語の聖書(ヴルガータ)からではなくヘブライ語原典から直接翻訳したため、ヘブライ語聖書に含まれる文書のみを内容とした聖書ができあがった。この「ヘブライ語聖書に含まれる文書のみを内容とした聖書」は、その後多くのプロテスタント諸派に受け継がれることになった。プロテスタント教会は、原語のヘブライ語で書かれた旧約聖書のみが聖書原典にあるとして認めている。
プロテスタントが「外典」として排除する書物の一部は、カトリック教会とエキュメニカル派の共同訳である『新共同訳聖書』では「旧約聖書続編」として掲載されている。
これに対して、ロシア正教会は、旧約50巻新約27巻の計77巻で聖書を構成している。
以下の区分に従い、分類また配列する。
マソラ本文と若干分類法が異なり、そのため配列も異なっている。「歴史書」はユダヤ教聖書の前の預言者・後の預言者・巻物に対応し、加えてユダヤ教で旧約外典とするものを含む。またユダヤ教で認める書でも「補遺」とされるユダヤ教にない部分を含むものがある。正教会とカトリック教会では、伝統的に七十人訳聖書の配列に基づいた聖書を使用してきた。詳しくは下記の表を参照。
『旧約聖書』の翻訳は紀元前から行われており、そのような古い翻訳を古代訳という。古代訳は、現存するどのヘブライ語写本よりも古く、当時の解釈だけでなく、テキストそのものを推察する上でも貴重な資料となる。
『旧約聖書』の翻訳で、現在知られている最も古いものはアラム語聖書である。これは捕囚期後、当時のパレスチナで日用語となったアラム語にヘブライ語聖書を翻訳したものである。ついで紀元前4世紀から2世紀までに、ギリシア語への翻訳がアレクサンドリアでなされた。これが「七十人訳聖書(セプトゥアギンタ 、LXX)」である。キリスト教成立後、七十人訳はキリスト教徒の聖書という印象がつよまると、ユダヤ教内部で新たなギリシア語翻訳を求める動きが起き、いくつかのギリシア語翻訳が作られた。またこの時期、シリア語訳の聖書も作られた。
またキリスト教の中で、主にラテン語を使うグループのためにラテン語訳が作られた。これを「古ラテン語訳」という。ヒエロニムスは、ヘブライ語から翻訳したラテン語翻訳聖書を作り、これがラテン教会では公式の翻訳として認められた。ヒエロニムスの翻訳を「ヴルガータ」という。また中世初期にはキュリロスとメトディオスによって教会スラブ語訳が作られた。
また中世盛期から末期にかけて、フランスやドイツなど西ヨーロッパでは近代語訳の『聖書』が作られたが、これは教会で公認されなかったこと、複製の難しさなどからあまり広まらなかった。中世末期から近世初期の主な翻訳者には、ウィクリフ、エラスムス、ルター、カルヴァンなどがある。その後、『聖書』の翻訳は主にプロテスタント圏で盛んになり、その必要に後押しされるように、本文批評の発展に伴う校訂版テキストの整備が進んだ。近代に入ると、カトリックでも『聖書』の読書が奨励されるようになったことに伴い、各国語で翻訳がなされるようになった。なお、『聖書』は世界で最も様々な言語に翻訳された書物であり、『新約聖書』に関してはアイヌ語やケセン語にも翻訳されている。
なおユダヤ人は、非キリスト教的な『聖書』翻訳の必要性から、上記とは系統を異にする独自の翻訳された『聖書』を持っている。
ユダヤ教における聖書とは、紀元前4世紀までに書かれたヘブライ語およびアラム語の文書群。全24巻から成り立つ。 紀元前4世紀ごろには、この文書群が、「聖書」つまり統一された1つの書物として認識されるようになった。現存する最古の写本は紀元前1世紀頃書かれたとされる死海写本に含まれている。
前6世紀後半~前4世紀後半、ペルシャ時代において第二神殿の建設と聖書成立の開始が為される。この時期にモーセ五書の律法の部分が成立し、聖書が神の言葉としての強い権威を持つに至ったとされる。また、この時代に律法が作成された理由としては、ペルシャ当局の統治政策により、ユダヤ民族が従うべき掟を文書として提出しなければならないという命令が下されたことがあげられるとされる。これによって、公式に提出された律法はもはや変更できないという状況となり、政治的な権威も加わって、モーセ五書が神の言葉としての絶対的権威を持つに至ったとされる。
ユダヤ教の聖典 をキリスト教は、名称を旧(ふるい)約束の意味に変えて用いている。しかし、ヘブライ聖書では、前十世紀ころのヤハウェ信仰が拝一神教であったのに対して、キリスト教が現在用いている旧約聖書では、前十世紀ころのヤハウェ信仰が唯一神教となっている翻訳の違いがある。前十世紀ころのヤハウェとの契約を意味する旧約とは、モーセの十戒を中心とした律法であると見た場合、違った風に訳された神の言葉をキリスト者自身の都合に合わせて旧い約束であるとしていると見ることも出来る。 | [
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"text": "イスラム教では「タウラー」(トーラー、律法)と「ザブール」(詩篇)を啓典としてその正統性を認めている。",
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"text": "『旧約聖書』とは、『新約聖書』の『コリントの信徒への手紙二』3章14節などの「旧い契約」という言葉をもとに、2世紀頃からキリスト教徒によって用いられ始めた呼称である。これは古い契約の書が旧約聖書であって、新しい契約が新約聖書という意味であり、『旧約聖書』という表現はサルディスのメリトン(190年)に見られ、アレクサンドリアのクレメンスがよく用いている。しかし、キリスト教側の観点でしかないために最近では『ユダヤ教聖書』、『ヘブライ語聖書』、『ヘブライ語聖典』などと呼ばれることもある。",
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"text": "ユダヤ教においては、トーラー、ネビイーム、ケトゥビームの頭文字、TNKに母音を付した『タナハ』と呼ばれる他、『ミクラー(Miqra):朗誦するもの』と呼ばれることもある。ミクラーはクルアーンと語源を同じくしている。",
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"text": "『旧約聖書』の内容は古代イスラエル人・ユダヤ人の思想活動すべてを網羅するごとく多岐に渡っている。以下に旧約聖書に含まれる文書の概略を記す。",
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"text": "旧約聖書の冒頭が創世記である。その冒頭では神が7日間で世界を創り、楽園に男と女(アダムとイブ)を住まわせたが、彼らが蛇の誘惑によって禁忌を犯したので楽園を追放されたという、神による天地創造と人間の堕落が語られる(創世記1-3)。以下、創世記には最初の殺人であるカインとアベルの兄弟の話(創世記4:1-16)、ノアの箱舟(創世記6:5-9:17)、バベルの塔(創世記11:1-9)などの物語が続いていく。",
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"text": "続いて創世記には、アブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長の物語が記されている(創世記12-36)。アブラハムはバビロニアから出発して、カナン(現在のイスラエル/パレスチナ)にやってきた遊牧民の族長であり、神から祝福を受け諸民族の父になるという約束を与えられた(創世記12:2)。イサクはアブラハムの息子であり、彼にも子孫が栄える旨が神から約束されている(創世記26:24)。さらにその息子がヤコブであり、彼と契約を結んだ神はヤコブとその子孫にカナンの土地を与えると約束している。ヤコブはこの契約でイスラエルと改名し、彼の子孫はイスラエル人と呼ばれるようになった(創世記32:29,35:10)。ヤコブは12人の男子および数人の女子をもうけたが、男子それぞれがイスラエル十二氏族の長とされている(創世記29-30)。つまりヤコブがイスラエル/ユダヤ人の始祖である。",
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"text": "創世記には、この族長の3代記に続けてヤコブの末子のヨセフの物語が記されている(創世記37-50)。兄たちに殺されかけてエジプトに奴隷として売り飛ばされながら、夢占いと実力で立身出世してエジプトの宰相にまで登りつめ、飢饉に苦しむようになった父と兄たちをエジプトに呼び寄せて救う話である。創世記では、これらの他に悪徳の町であるソドムとゴモラの滅亡(創世記18:20-19:28)、ヤコブと神の使者との格闘などの話(創世記32:23-33)が有名である。",
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"text": "また創世記には、多くの系図が含まれておりイスラエル周辺部族の縁起等も語られている。",
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"text": "創世記は以上で終わり、物語は出エジプト記につながっていく。前述のヨセフの時代にエジプトに移住していたイスラエル人達は、王朝が変ったために、やがて迫害されるようになる(出エジプト1:1-14)。そこに、エジプト人として教育を受けたモーセ(出エジプト2:1-10)が、神から召命を受けて立ち上がり(出エジプト3:1-4:17)イスラエル人たちを率いてエジプトを脱出し(出エジプト5:1-15:21)、神が族長ヤコブに約束した「乳と蜜の流れる」カナンの地を目指しながら40年間シナイ半島で放浪する(出エジプト15:22-40:38、民数記)。モーセが数々の奇跡でエジプト王を威嚇し(出エジプト7:8-11:10)、追跡するエジプト軍を逃れるために海を二つに割ってその間を通っていくシーン(出エジプト13:17-30)などは有名であり、映像化もされている。現在も続くユダヤ教の行事、たとえば過越祭/除酵祭、仮庵祭などはこの出エジプトおよび荒野流浪の故事にちなむものとされており、ユダヤ文化の中でも特別で象徴的な位置を占める物語である。",
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"text": "シナイ山でモーセとイスラエル人は神から十戒を授かり(出エジプト20:1-16)、他にも様々な祭儀規定や倫理規定、法律が言い渡される(出エジプト19:1-34:35)。十戒は多神教の禁止や偶像崇拝の禁止に始まり、殺人・姦淫・窃盗を禁止し、父母への敬愛や隣人愛などの倫理を規定するものであるが、この十戒を基にして神はイスラエル人全体と契約を結ぶ。このシナイ山での契約は、ユダヤ教の重要な原点のひとつとされている。「ヤーウェ(ヤハウェ)」という神の名はモーセの召命時に初めて明かされ(出エジプト3:13-15)、モーセ以前には「アブラハムの神」「イサクの神」「ヤコブの神」という呼ばれ方でしか知られていなかった部族の神が、名前を明かした状態で民衆全体と契約を結んだのである。",
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"text": "出エジプト記の他にもレビ記、民数記、申命記には、おびただしい量の法律、倫理規定、禁忌規定、祭祀規定が記されており、これらをまとめて律法(トーラー、原義は「教え」)と呼ぶ。たとえば法律としては「ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売って折半し、死んだほうの牛も折半する」など細かな規定に及んでいる(出エジプト21:35)。倫理規定としては「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)など、禁忌規定としては豚食や鱗のない魚を食べることの禁止(レビ記11章、申命記14章など)であるとか子ヤギの肉を乳で煮てはいけない(申命14:21)だとかの細かな食物規定であり、祭祀については祭壇の寸法までが細かに指示されている(出エジプト25-28章)。レビ記、民数記、申命記は物語よりは律法の記載がほとんどであり、ユダヤ教の伝統では創世記から申命記までの五書全体を律法と呼んでいる。また、これらの律法はモーセが神から伝えられたものであるし、五書自体もモーセ自身が執筆したという聖書自身の記述と伝承があったためにモーセ五書という呼ばれ方がなされていた。イエス・キリストも「モーセの律法」と呼んだとされる。",
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"text": "申命記の最後でヨルダン川東岸から約束の地であるカナンを遠く望んだモーセは、そこでヨシュアを後継者に指名して後、モアブの地で没する。",
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"text": "申命記から続けて、ヨシュア記ではヨシュアに率いられたイスラエル人たちによってカナンの諸都市が攻略され、そこに移住していく様子が描かれる。角笛を吹き鳴らすと城壁が崩れ落ちた(ヨシュア記6:20)とされるエリコへの攻略(ヨシュア記2-6)などが有名。",
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"text": "ヨシュアに続いて、デボラ(士師記4-5)、ギデオン(士師記6-8)、サムソン(士師記13-16)といった軍事指導者が続いていくのだが、彼らは士師と称され、部族連合体であったイスラエル人たちの裁判官と軍事指導者の役割を兼ねていた。また、軍事判断によって神の意向を民に伝えていたことから彼らは預言者でもある。これらの士師たちの活躍を描いたのが士師記であり、女性の間諜によって髪を切られて力を失って殺されるサムソンの話などが有名である。",
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"text": "最後の士師がサムエルである。ここで物語はサムエル記に移り、イスラエル部族連合体が王制国家に移行する様子が描かれている。民衆の要求に応えて渋々ながらではあるがサムエルはサウルを王に指名するのである(サムエル上9-10)。",
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"text": "サウルはアンモン人やペリシテ人との戦争に勝つなど功績をあげるが(サムエル上11-14)、アマレク人との戦いで神の意に背いたためにサムエルから遠ざけられた(サムエル上15)。サウルに次いでサムエルから王に指名されるのが羊飼いであったダビデである(サムエル上16:1-13)。サウルとダビデとの確執は詳細に描かれるが(サムエル上16-30)、最後にサウルは戦死して(サムエル上31)、ダビデが王国を継ぐことになる。",
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"text": "ダビデはまず南部のユダの王となり(サムエル下2:1-7)、次いで北部のイスラエルの王となった(サムエル下5:1-5)。そしてエルサレムに遷都し(サムエル下5:6-12)、外敵を破って(サムエル下5:17-25,8:1-14など)、王国を確立して旧約聖書中最大の賛辞を受けている王である。また、詩篇に収められた歌の多くはダビデの作になるものとされており、文武に秀で神に愛でられた王として描かれている。サムエル記はこのダビデ王の治世までを描いており、そこから先は列王記に渡される。なお、キリスト教の旧約聖書でサミュエル記の前に挿入されているルツ記は外国人であったルツがダビデの曽祖父ボアズに嫁ぐ話で、キリストの贖い(買い戻し)の型であるとされる。",
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"text": "王国はダビデの息子のソロモン王の時代に最盛期を迎える。彼はダビデがエルサレムに運び込んだ「契約の箱」を安置するための壮麗な神殿を建築してユダヤ教の中心地としてのエルサレムを確立し、次いで自らのために豪華な宮殿を造営した。旧約聖書ではその富の噂を聞きつけて遠国からの献納が絶えなかったとしている。その中ではシバの女王の来訪などが有名であろう(列王上10章、歴代下9章)。新約聖書の中でも「ソロモン王の栄華」といった言葉が登場する。またソロモンは知恵に優れた者とされており、格言集である箴言はソロモン王に帰せられている。しかし、ソロモンは神殿や宮殿の造営を過酷な課税で賄っていたために、ことに北部の反感を買った(列王上12:4など)。王の死後、北部のイスラエル王国と南部のユダ王国に分裂することになる。",
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"text": "列王記はこの後、南北の王朝史を綴っていくことになる。それによれば、北部のイスラエル王国は短命な王朝が相次ぎ最後にはアッシリアに滅ぼされてしまう。また南部ユダ王国ではダビデ王の血筋が続くものの最後にはバビロニアに滅ぼされ、神殿は破壊されて多数の国民が連行されてしまう(バビロン捕囚)。ユダ王国では、宗教改革が行われたことが伝えられており、ヨシア王の時代にモーセの律法が再発見されたという(列王下22章)。",
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"text": "歴代誌はサムエル記と列王記と内容的に重複する歴史書であるが、南王国の立場から書かれていて、北王国については何も書かれていない。",
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"text": "バビロン捕囚での様子は旧約聖書の歴史書には記されず、預言書の中から窺い知るしかない。イザヤ書やエレミヤ書、エゼキエル書、原ダニエル書がバビロン捕囚の時代に編纂されたと推定されており、流謫の嘆きが語られているし、詩篇の中にも捕囚時代が反映しているとされる歌が収められている(詩篇137:1-6)。また、哀歌はエルサレム陥落を嘆いたとされる歌をまとめたものである。",
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"text": "やがてバビロニアがペルシャに滅ぼされると、ユダヤへの帰還活動が始まる。エズラ記によれば第一次帰還がキュロス王の布告で実施されるのだが、他民族の抵抗により神殿復興は叶わなかった。ダレイオス1世の時代になって神殿建設が許可され、エルサレム神殿は復興する。その後、アルタクセルクセス王の時代に「モーセの律法に詳しい書記官」であるエズラがペルシャ帝国からエルサレムに派遣されて、ペルシャ王の「献酌官」ネヘミヤと共にモーセの律法の復興運動を起こしたことがエズラ記、ネヘミヤ記で描かれている。エズラは外国人との結婚を無効宣告し、ユダヤ人の純化運動を進めた。ここで復興された神殿がハスモン王朝時代に拡張され、イエスの時代に至っている。",
"title": "内容"
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"text": "キリスト教の旧約聖書にあるエステル記は、この時期にペルシャ王の后になったユダヤ人女性エステルについての挿話である。",
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"text": "以上、旧約聖書における歴史記述を概観したが、王国時代の歴史記述が最も詳しく、バビロン捕囚以後の歴史は断片的にしか語られていない。ヘロドトスの『歴史』で有名なペルシャ戦争も、ユダヤは軍隊の通行路に当たっていたと考えられるが、旧約聖書では全く言及されておらず、歴史記述が途切れている。",
"title": "内容"
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"text": "例外として、ヘレニズム時代のコヘレトの言葉、ダニエル書、マカバイ戦争とハスモン朝の勃興を描いたマカバイ記がある。ペルシャがアレクサンダー大王によって滅ぼされるとユダヤは大王の死後に成立したセレウコス朝の支配下に入るのだが、アンティオコス4世はエルサレム神殿を略奪し、ユダヤ教を迫害したためにハスモン家の主導で反乱が起こる。ユダヤ人はこの反乱によって再独立を果たし、ハスモン王朝が成立するのである。新約聖書に登場するヘロデ大王もハスモン王朝に連なっている。なお、このマカバイ記はユダヤ教やプロテスタントでは聖書正典とされておらず、カトリック教会や正教会が正典とする第二正典の一つである。",
"title": "内容"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "列王記では王朝史の他に、主に北部イスラエル王国で活躍した預言者たちの様子が描かれている。エリヤ、その弟子であるエリシャ、あるいはアモス、ホセアといった預言者たちは宮廷に属さず、在野にあって神からの言葉を吐き鋭く王政を批判した。預言者たちの批判とは、国家と民衆が神を忘れて偶像崇拝に陥っているとするものである。またミカは南部ユダ王国において神殿が破壊されることを予言した。",
"title": "内容"
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"text": "そもそも旧約聖書では出エジプト記の時代から、(1)民衆が神を忘れて偶像崇拝に走り、(2)それを神が見て怒るが、(3)義人が神と民衆の間をとりなす、というパターンが繰り返されてきたが、列王記以降の預言者たちの事跡もこれをなぞっている。",
"title": "内容"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "旧約聖書の中で三大預言者と呼ばれているのはイザヤ、エレミヤ、エゼキエルであり、ことにイザヤは大部のイザヤ書を残している。",
"title": "内容"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "旧約聖書にはこの他に12小預言書として、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書などが収められている。",
"title": "内容"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "預言書には、世界の終末と神による新時代の到来を、特異なビジョンで描き出すことがしばしば行われた。イザヤ書24-27章、34-35章、65-66章、ゼカリヤ書9-14章、ヨエル書などにそういった記述が認められるが、もっとも有名なものはダニエル書である。この黙示の記述は新約聖書の時代にも及んでおり、福音書の中にも終末予言が現れ(マルコ13章、マタイ24章、ルカ21:5-33)、ヨハネ黙示録なども書かれた。",
"title": "内容"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "箴言は教訓集・格言集であり、1章1節に「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」とあり、伝道者の書・雅歌と共にソロモンによって書かれたと伝統的に考えられている。",
"title": "内容"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "モーセ五書などには、古い歌に由来すると推定されるものが散見されるが(たとえば、ミリヤムの歌、デボラの歌など)、イスラエル王国時代になると詩篇、雅歌などに多くの詩歌がまとめて編集されるようになった。詩篇はその多くがダビデの作、雅歌はソロモンの作と伝えられているが、実際には様々な著者の作品が時間をかけて編纂されてきたものであろうと批判的な学者は推測している。ユダヤ教・キリスト教の典礼に今も用いられており、ヨーロッパの近代文学にも影響を与えた。なお、雅歌は恋愛歌であり「恋しい方はミルラの匂い袋/私の乳房のあいだで夜を過ごします」「あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ/右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに」「衣を脱いでしまったのに/どうしてまた着られましょう」「秘められたところは丸い杯/かぐわしい酒に満ちている。/腹はゆりに囲まれた小麦の山。/乳房は二匹の小鹿、双子のかもしか。」のように、開放的な描写も多い。しかし、ユダヤ教は伝統的にこれをユダヤ民族に対する神の愛と解釈し、キリスト教は教会に対するキリストの愛と解釈してきた。哀歌はエルサレム陥落と神殿破壊を嘆く歌であり、伝統的にエレミヤの作であるとされている。",
"title": "内容"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "ユダヤ教にとっては、『(旧約)聖書』は唯一の正典であり、現在も行動を律する文字通りの法である。民族の歴史を伝え、イスラエルの地を民族の故地とする精神的な基盤を与え、行為と歴史の両面において文化的な一体性を与える書でもある。",
"title": "内容に対する意義付け"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "対して、将来にユダヤを復興するメシア王を約束する『旧約聖書』を、キリスト教徒はイエス・キリストの出現を約束する救済史として読む。『旧約聖書』の代名詞にも使われる「律法」はもはやキリスト教徒の戒律ではないが、キリスト教徒にとっては『旧約聖書』の完成がイエス・キリストとその使信であり依然として重要な意義をもっているとされている。",
"title": "内容に対する意義付け"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "旧約聖書は「律法と預言者と諸書」、「律法と預言者と詩篇」(ルカ24:44)、「律法」(マタイ5:17-18、ヨハネ10:34)と呼ばれていた。旧約聖書と新約聖書を合わせて「律法と預言者および福音と使徒」(アレキサンドリアのクレメンス、テルトゥリアヌス)、「律法と福音」(クラウディウス、アポリナリウス、エイレナイオス)と呼ぶ表現があり、アウグスティヌスが引用したイグナティウスの「新約聖書は、旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は、新約聖書の中に現わされている。」ということばは有名である。",
"title": "内容に対する意義付け"
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{
"paragraph_id": 36,
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"text": "詩篇で祈る伝統は古くからあった。これは、正教会が聖詠と呼ぶものである。旧約時代に詩篇は歌われていたが、今日でも詩篇歌があり、改革派教会にはジュネーブ詩篇歌がある。",
"title": "内容に対する意義付け"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "キリストを知るまでは神を知ることは出来ないので、旧約は不必要だとする見解に対し、日本キリスト改革派教会の創立者である岡田稔牧師は「キリスト教の宣教の最初は旧約聖書の知識がある人に福音が伝えられたため、イエス・キリストが救い主であると伝えればよかったが、真の神を知らない異教徒の日本人に福音伝道するためには、旧約聖書が必要である」と述べている。中央神学校のチャップマン教授は、旧約聖書には異教の偶像崇拝について書かれてあるが、戦前の教派はその旧約聖書の知識を欠いていたために、神社を参拝する偶像崇拝に対してもろかったと指摘する。チャップマン教授は日本で旧約聖書の大切さを早くに主張した。",
"title": "内容に対する意義付け"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "宗教改革者、ピューリタンなどは旧約聖書から説教を行ったが、高等批評、自由主義神学の影響により、今日では旧約聖書から説教することが少なくなっていると言われる。これを反映して、日本の旧約聖書のみの一冊版聖書は新日本聖書刊行会による「聖書 新改訳2017」のKindle版と日本聖書協会による新共同訳のKindle版しかなく、紙媒体の旧約聖書のみの出版は途絶えている。かつては旧約聖書のみの関根訳や旧約聖書のみの新改訳第3版が一冊で出されていた。正教会は旧約聖書のみの分売を薦めていない。",
"title": "内容に対する意義付け"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "『旧約聖書』は断続的かつ長い期間に渡り、立場の異なる多くの人々や学派のようなグループが関わり、何度も大きな増補・改訂・編纂が行われ、その過程はかなり複雑なものであったとも推測されるが、異論もあり、いまだに定説を見ないのが現状である。聖書の記述には誤りが無いと信じるプロテスタントの福音派は、旧約聖書は聖書記者によって書かれた時から正典としての権威を持っていたと認め、申命記4:2「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また減らしてはならない」という記述等から、増補・改訂はなかったとする。一方、自由主義神学(リベラル)では聖書は段階的に正典化されていったとする。",
"title": "成立過程"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "歴史的キリスト教会が、モーセを記者であるとしてきたモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)に関しては、それを否定する四資料仮説が19世紀より唱えられ、リベラル派の旧約聖書学の標準学説として知られている。ただし、この四資料仮説はあくまで仮説に過ぎず、細部に至るまで完全に合意されたものではない。近年においては、例えば日本基督教団出版による創世記注解がこの仮説に立たないと明言するなど、プロテスタント主流派(メインライン)においても退けられつつある。",
"title": "成立過程"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ユダヤ教では、ユダヤ戦争後にユダヤ教を再編した1世紀の終わりごろのヤムニア会議で正典が確認された。このヘブライ語本文を、8世紀以降、マソラ学者が母音記号等を加えて編集したものがマソラ本文で、全24書である。現在のところ、これを印刷体で出版したBHS(Biblia Hebraica Stuttgartensia、1967/1977年の略)が最も標準的なテキストとして利用されている。",
"title": "成立過程"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "これとは別に、紀元前250年頃からギリシア語に翻訳された七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)があるが、現代残されている複数の写本はその数が一致しているわけではない。パウロを含めたキリスト教徒が日常的に用い、新約聖書に引用されているのも主としてこのギリシア語の七十人訳であり、キリスト教は伝統的にこれを正典として扱ってきた。マソラ本文と七十人訳聖書では構成と配列が異なる。",
"title": "成立過程"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "東方教会も西方教会も長らくこの七十人訳聖書を旧約聖書の正典と基本的にみなしてきたが、その配列や数え方には一部異なるものがある。また西方教会では、正教会が正典とみなす文書の一部を外典とした。",
"title": "成立過程"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "カトリック教会はトリエント公会議(1546年)でヴルガータがカトリック教会の公式聖書であると確認し、正典として旧約46巻、新約27巻をあげた。これは伝承によるとされる。カトリック教会は、プロテスタントが文書を取り除いたとする(後掲の一覧を参照のこと)。カトリック教会が聖書に対する外的権威を教会が付与したとするのに対し、プロテスタント教会は聖書の内的権威を教会が承認したと考えている。",
"title": "成立過程"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "その後、16世紀の宗教改革時にマルティン・ルターが聖書をドイツ語に翻訳するにあたり、それまで使われていたラテン語の聖書(ヴルガータ)からではなくヘブライ語原典から直接翻訳したため、ヘブライ語聖書に含まれる文書のみを内容とした聖書ができあがった。この「ヘブライ語聖書に含まれる文書のみを内容とした聖書」は、その後多くのプロテスタント諸派に受け継がれることになった。プロテスタント教会は、原語のヘブライ語で書かれた旧約聖書のみが聖書原典にあるとして認めている。",
"title": "成立過程"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "プロテスタントが「外典」として排除する書物の一部は、カトリック教会とエキュメニカル派の共同訳である『新共同訳聖書』では「旧約聖書続編」として掲載されている。",
"title": "成立過程"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "これに対して、ロシア正教会は、旧約50巻新約27巻の計77巻で聖書を構成している。",
"title": "成立過程"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "以下の区分に従い、分類また配列する。",
"title": "配列と一覧"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "マソラ本文と若干分類法が異なり、そのため配列も異なっている。「歴史書」はユダヤ教聖書の前の預言者・後の預言者・巻物に対応し、加えてユダヤ教で旧約外典とするものを含む。またユダヤ教で認める書でも「補遺」とされるユダヤ教にない部分を含むものがある。正教会とカトリック教会では、伝統的に七十人訳聖書の配列に基づいた聖書を使用してきた。詳しくは下記の表を参照。",
"title": "配列と一覧"
},
{
"paragraph_id": 50,
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"text": "『旧約聖書』の翻訳は紀元前から行われており、そのような古い翻訳を古代訳という。古代訳は、現存するどのヘブライ語写本よりも古く、当時の解釈だけでなく、テキストそのものを推察する上でも貴重な資料となる。",
"title": "翻訳"
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"text": "『旧約聖書』の翻訳で、現在知られている最も古いものはアラム語聖書である。これは捕囚期後、当時のパレスチナで日用語となったアラム語にヘブライ語聖書を翻訳したものである。ついで紀元前4世紀から2世紀までに、ギリシア語への翻訳がアレクサンドリアでなされた。これが「七十人訳聖書(セプトゥアギンタ 、LXX)」である。キリスト教成立後、七十人訳はキリスト教徒の聖書という印象がつよまると、ユダヤ教内部で新たなギリシア語翻訳を求める動きが起き、いくつかのギリシア語翻訳が作られた。またこの時期、シリア語訳の聖書も作られた。",
"title": "翻訳"
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"text": "またキリスト教の中で、主にラテン語を使うグループのためにラテン語訳が作られた。これを「古ラテン語訳」という。ヒエロニムスは、ヘブライ語から翻訳したラテン語翻訳聖書を作り、これがラテン教会では公式の翻訳として認められた。ヒエロニムスの翻訳を「ヴルガータ」という。また中世初期にはキュリロスとメトディオスによって教会スラブ語訳が作られた。",
"title": "翻訳"
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"text": "また中世盛期から末期にかけて、フランスやドイツなど西ヨーロッパでは近代語訳の『聖書』が作られたが、これは教会で公認されなかったこと、複製の難しさなどからあまり広まらなかった。中世末期から近世初期の主な翻訳者には、ウィクリフ、エラスムス、ルター、カルヴァンなどがある。その後、『聖書』の翻訳は主にプロテスタント圏で盛んになり、その必要に後押しされるように、本文批評の発展に伴う校訂版テキストの整備が進んだ。近代に入ると、カトリックでも『聖書』の読書が奨励されるようになったことに伴い、各国語で翻訳がなされるようになった。なお、『聖書』は世界で最も様々な言語に翻訳された書物であり、『新約聖書』に関してはアイヌ語やケセン語にも翻訳されている。",
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"text": "なおユダヤ人は、非キリスト教的な『聖書』翻訳の必要性から、上記とは系統を異にする独自の翻訳された『聖書』を持っている。",
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"text": "ユダヤ教における聖書とは、紀元前4世紀までに書かれたヘブライ語およびアラム語の文書群。全24巻から成り立つ。 紀元前4世紀ごろには、この文書群が、「聖書」つまり統一された1つの書物として認識されるようになった。現存する最古の写本は紀元前1世紀頃書かれたとされる死海写本に含まれている。",
"title": "歴史"
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"text": "前6世紀後半~前4世紀後半、ペルシャ時代において第二神殿の建設と聖書成立の開始が為される。この時期にモーセ五書の律法の部分が成立し、聖書が神の言葉としての強い権威を持つに至ったとされる。また、この時代に律法が作成された理由としては、ペルシャ当局の統治政策により、ユダヤ民族が従うべき掟を文書として提出しなければならないという命令が下されたことがあげられるとされる。これによって、公式に提出された律法はもはや変更できないという状況となり、政治的な権威も加わって、モーセ五書が神の言葉としての絶対的権威を持つに至ったとされる。",
"title": "歴史"
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"text": "ユダヤ教の聖典 をキリスト教は、名称を旧(ふるい)約束の意味に変えて用いている。しかし、ヘブライ聖書では、前十世紀ころのヤハウェ信仰が拝一神教であったのに対して、キリスト教が現在用いている旧約聖書では、前十世紀ころのヤハウェ信仰が唯一神教となっている翻訳の違いがある。前十世紀ころのヤハウェとの契約を意味する旧約とは、モーセの十戒を中心とした律法であると見た場合、違った風に訳された神の言葉をキリスト者自身の都合に合わせて旧い約束であるとしていると見ることも出来る。",
"title": "歴史"
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] | 旧約聖書は、ユダヤ教およびキリスト教の正典である。「旧約聖書」は『新約聖書』も正典とするキリスト教による呼び方で、ユダヤ教では「旧約聖書」と呼ばず、正式の名は『律法(トーラー)、預言書(ネビイーム)と諸書(ケスビーム)』で、日常的にはその頭文字をとって『タナハ』あるいは読誦を意味する「ミクラー」と呼ぶ。『旧約聖書』は原則としてヘブライ語で記載され、一部にアラム語で記載されている。 イスラム教では「タウラー」(トーラー、律法)と「ザブール」(詩篇)を啓典としてその正統性を認めている。 | {{キリスト教}}
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{{旧約聖書}}
'''旧約聖書'''(きゅうやくせいしょ、{{lang-en|Old Testament}})は、[[ユダヤ教]]および[[キリスト教]]の[[正典]]である。「旧約聖書」は『[[新約聖書]]』も正典とするキリスト教による呼び方で、ユダヤ教では「旧約聖書」と呼ばず、正式の名は『[[モーセ五書|律法]](トーラー)、[[預言書]](ネビイーム)と[[諸書]](ケスビーム)』で<ref>「[https://kotobank.jp/word/%E6%97%A7%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8-52219 旧約聖書]」『[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』[[ブリタニカ・ジャパン]]、[[コトバンク]]。2023年3月15日閲覧。</ref><ref group="注">「新約聖書」が無かった時代の[[イエス・キリスト|イエス]]の聖書に対する言及として『[[ルカ福音書]]』24章44節に「(前略)モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、(後略)」(『[[聖書 口語訳|口語訳聖書]]』)とある。</ref>、日常的にはその頭文字をとって『[[タナハ]]』あるいは読誦を意味する「[[ミクラー]]」と呼ぶ<ref>「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%BF%E3%83%8A%E3%83%8F-1362277 世界大百科事典内のタナハの言及]」『[[世界大百科事典]]』[[平凡社]]、コトバンク。2023年3月15日閲覧。</ref>。『旧約聖書』は原則として[[ヘブライ語]]で記載され、一部に[[アラム語]]で記載されている。
[[イスラム教]]では「タウラー」(トーラー、律法)と「ザブール」([[詩篇]])を[[啓典]]としてその正統性を認めている<ref name="諸啓典への信仰">{{Cite web|和書|url=https://www.islamreligion.com/jp/articles/36/ |title=諸啓典への信仰|website=IslamReligion.com|accessdate=2018-11-07}}</ref>{{refnest|group="注"|イスラム教は「タウラー」(トーラー)などについてユダヤ教徒などによる改竄を主張している<ref name="諸啓典への信仰" />。}}。
== 呼称 ==
『旧約聖書』とは、『[[新約聖書]]』の『[[コリントの信徒への手紙二]]』3章14節などの「'''旧い契約'''」という言葉をもとに、[[2世紀]]頃から[[キリスト教徒]]によって用いられ始めた呼称である。これは古い契約の書が旧約聖書であって、新しい契約が新約聖書という意味であり、『旧約聖書』という表現は[[サルディスのメリトン]](190年)に見られ、[[アレクサンドリアのクレメンス]]がよく用いている<ref>[[和田幹男]]『私たちにとって聖書とは何なのか-現代カトリック聖書霊感論序説』[[女子パウロ会]] p.137</ref>。しかし、キリスト教側の観点でしかないために最近では『'''ユダヤ教聖書'''』、『'''[[ヘブライ語聖書]]'''』、『'''ヘブライ語聖典'''』などと呼ばれることもある。
[[ユダヤ教]]においては、トーラー、ネビイーム、ケトゥビームの頭文字、TNKに母音を付した『'''[[タナハ]]'''』と呼ばれる他、『'''ミクラー'''('''Miqra'''):朗誦するもの』と呼ばれることもある。ミクラーは[[クルアーン]]と語源を同じくしている<ref>[[山我哲雄]]著 『聖書時代史 旧約篇』 [[岩波書店]]〈[[岩波現代文庫]]〉 [[2003年]]、ISBN 4-00-600098-7、pp.III-Vなど</ref>。
== 内容 ==
『旧約聖書』の内容は[[イスラエル (民族)|古代イスラエル人]]・[[ユダヤ人]]の思想活動すべてを網羅するごとく多岐に渡っている。以下に旧約聖書に含まれる文書の概略を記す。
=== 天地創造と部族長の物語 ===
旧約聖書の冒頭が[[創世記]]である。その冒頭では神が7日間で世界を創り、楽園に男と女([[アダムとイブ]])を住まわせたが、彼らが蛇の誘惑によって禁忌を犯したので楽園を追放されたという、神による[[天地創造]]と人間の堕落が語られる(創世記1-3)。以下、[[創世記]]には最初の殺人である[[カインとアベル]]の兄弟の話(創世記4:1-16)、[[ノアの箱舟]](創世記6:5-9:17)、[[バベルの塔]](創世記11:1-9)などの物語が続いていく。
続いて[[創世記]]には、[[アブラハム]]・[[イサク]]・[[ヤコブ (旧約聖書)|ヤコブ]]の3代の族長の物語が記されている(創世記12-36)。[[アブラハム]]は[[バビロニア]]から出発して、[[カナン]](現在のイスラエル/パレスチナ)にやってきた遊牧民の族長であり、神から祝福を受け諸民族の父になるという約束を与えられた(創世記12:2)。[[イサク]]はアブラハムの息子であり、彼にも子孫が栄える旨が神から約束されている(創世記26:24)。さらにその息子が[[ヤコブ (旧約聖書)|ヤコブ]]であり、彼と契約を結んだ神はヤコブとその子孫にカナンの土地を与えると約束している。ヤコブはこの契約で[[イスラエル]]と改名し、彼の子孫はイスラエル人と呼ばれるようになった(創世記32:29,35:10)。ヤコブは12人の男子および数人の女子をもうけたが、男子それぞれがイスラエル十二氏族の長とされている(創世記29-30)。つまりヤコブがイスラエル/ユダヤ人の始祖である。
創世記には、この族長の3代記に続けてヤコブの末子の[[ヨセフ (ヤコブの子)|ヨセフ]]の物語が記されている(創世記37-50)。兄たちに殺されかけて[[エジプト]]に奴隷として売り飛ばされながら、夢占いと実力で立身出世してエジプトの宰相にまで登りつめ、飢饉に苦しむようになった父と兄たちをエジプトに呼び寄せて救う話である。創世記では、これらの他に悪徳の町である[[ソドムとゴモラ]]の滅亡(創世記18:20-19:28)、ヤコブと神の使者との格闘などの話(創世記32:23-33)が有名である。
また創世記には、多くの系図が含まれておりイスラエル周辺部族の縁起等も語られている。
=== モーセと律法 ===
[[創世記]]は以上で終わり、物語は[[出エジプト記]]につながっていく。前述のヨセフの時代にエジプトに移住していたイスラエル人達は、王朝が変ったために、やがて迫害されるようになる(出エジプト1:1-14)。そこに、エジプト人として教育を受けた[[モーセ]](出エジプト2:1-10)が、神から召命を受けて立ち上がり(出エジプト3:1-4:17)イスラエル人たちを率いてエジプトを脱出し(出エジプト5:1-15:21)、神が族長ヤコブに約束した「乳と蜜の流れる」カナンの地を目指しながら40年間[[シナイ半島]]で放浪する(出エジプト15:22-40:38、民数記)。モーセが数々の奇跡でエジプト王を威嚇し(出エジプト7:8-11:10)、追跡するエジプト軍を逃れるために海を二つに割ってその間を通っていくシーン(出エジプト13:17-30)などは有名であり、映像化もされている。現在も続くユダヤ教の行事、たとえば[[過越し祭|過越祭]]/除酵祭、[[仮庵の祭|仮庵祭]]などはこの出エジプトおよび荒野流浪の故事にちなむものとされており、ユダヤ文化の中でも特別で象徴的な位置を占める物語である<ref>加藤隆著 『旧約聖書の誕生』 [[筑摩書房]]、[[2008年]]、ISBN 978-4-480-84717-1、pp.61-64</ref>。
[[シナイ山]]でモーセとイスラエル人は神から[[モーセの十戒|十戒]]を授かり(出エジプト20:1-16)、他にも様々な祭儀規定や倫理規定、法律が言い渡される(出エジプト19:1-34:35)。十戒は多神教の禁止や[[偶像崇拝]]の禁止に始まり、殺人・姦淫・窃盗を禁止し、父母への敬愛や隣人愛などの倫理を規定するものであるが、この十戒を基にして神はイスラエル人全体と契約を結ぶ。このシナイ山での契約は、ユダヤ教の重要な原点のひとつとされている。「ヤーウェ([[ヤハウェ]])」という神の名はモーセの召命時に初めて明かされ(出エジプト3:13-15)、モーセ以前には「アブラハムの神」「イサクの神」「ヤコブの神」という呼ばれ方でしか知られていなかった部族の神が、名前を明かした状態で民衆全体と契約を結んだのである。
[[出エジプト記]]の他にも[[レビ記]]、[[民数記]]、[[申命記]]には、おびただしい量の法律、倫理規定、禁忌規定、祭祀規定が記されており、これらをまとめて[[律法]](トーラー、原義は「教え」)と呼ぶ。たとえば法律としては「ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売って折半し、死んだほうの牛も折半する」など細かな規定に及んでいる(出エジプト21:35)。倫理規定としては「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)など、禁忌規定としては豚食や鱗のない魚を食べることの禁止(レビ記11章、申命記14章など)であるとか子ヤギの肉を乳で煮てはいけない(申命14:21)だとかの細かな食物規定であり、祭祀については祭壇の寸法までが細かに指示されている(出エジプト25-28章)。[[レビ記]]、[[民数記]]、[[申命記]]は物語よりは律法の記載がほとんどであり、ユダヤ教の伝統では創世記から申命記までの五書全体を律法と呼んでいる。また、これらの律法はモーセが神から伝えられたものであるし、五書自体もモーセ自身が執筆したという聖書自身の記述と伝承があったために[[モーセ五書]]という呼ばれ方がなされていた。イエス・キリストも「モーセの律法」と呼んだとされる<ref>新約聖書、ルカ24:44、ヨハネ7:23</ref>。
[[申命記]]の最後で[[ヨルダン川]]東岸から約束の地であるカナンを遠く望んだモーセは、そこでヨシュアを後継者に指名して後、モアブの地で没する。
=== 歴史記述 ===
[[申命記]]から続けて、[[ヨシュア記]]では[[ヨシュア]]に率いられたイスラエル人たちによってカナンの諸都市が攻略され、そこに移住していく様子が描かれる。角笛を吹き鳴らすと[[エリコの壁|城壁]]が崩れ落ちた(ヨシュア記6:20)とされる[[エリコの戦い|エリコへの攻略]](ヨシュア記2-6)などが有名。
ヨシュアに続いて、[[デボラ]](士師記4-5)、[[ギデオン]](士師記6-8)、[[サムソン]](士師記13-16)といった軍事指導者が続いていくのだが、彼らは[[士師]]と称され、部族連合体であったイスラエル人たちの裁判官と軍事指導者の役割を兼ねていた。また、軍事判断によって神の意向を民に伝えていたことから彼らは[[預言者]]でもある。これらの士師たちの活躍を描いたのが[[士師記]]であり、女性の間諜によって髪を切られて力を失って殺される[[サムソン]]の話などが有名である。
最後の[[士師]]が[[サムエル]]である。ここで物語は[[サムエル記]]に移り、イスラエル部族連合体が王制国家に移行する様子が描かれている。民衆の要求に応えて渋々ながらではあるがサムエルは[[サウル]]を王に指名するのである(サムエル上9-10)。
[[サウル]]は[[アンモン人]]や[[ペリシテ人]]との戦争に勝つなど功績をあげるが(サムエル上11-14)、[[アマレク人]]との戦いで神の意に背いたためにサムエルから遠ざけられた(サムエル上15)。[[サウル]]に次いでサムエルから王に指名されるのが羊飼いであった[[ダビデ]]である(サムエル上16:1-13)。サウルとダビデとの確執は詳細に描かれるが(サムエル上16-30)、最後にサウルは戦死して(サムエル上31)、ダビデが王国を継ぐことになる。
[[ダビデ]]はまず南部のユダの王となり(サムエル下2:1-7)、次いで北部のイスラエルの王となった(サムエル下5:1-5)。そして[[エルサレム]]に遷都し(サムエル下5:6-12)、外敵を破って(サムエル下5:17-25,8:1-14など)、王国を確立して旧約聖書中最大の賛辞を受けている王である。また、[[詩篇]]に収められた歌の多くはダビデの作になるものとされており、文武に秀で神に愛でられた王として描かれている。[[サムエル記]]はこのダビデ王の治世までを描いており、そこから先は[[列王記]]に渡される。なお、キリスト教の旧約聖書でサミュエル記の前に挿入されている[[ルツ記]]は外国人であったルツがダビデの曽祖父ボアズに嫁ぐ話で、キリストの贖い(買い戻し)の型であるとされる。
王国はダビデの息子の[[ソロモン]]王の時代に最盛期を迎える。彼はダビデがエルサレムに運び込んだ「契約の箱」を安置するための壮麗な神殿を建築してユダヤ教の中心地としてのエルサレムを確立し、次いで自らのために豪華な宮殿を造営した。旧約聖書ではその富の噂を聞きつけて遠国からの献納が絶えなかったとしている。その中では[[シバの女王]]の来訪などが有名であろう(列王上10章、歴代下9章)。新約聖書の中でも「ソロモン王の栄華」といった言葉が登場する。またソロモンは知恵に優れた者とされており、格言集である[[箴言]]はソロモン王に帰せられている。しかし、ソロモンは神殿や宮殿の造営を過酷な課税で賄っていたために、ことに北部の反感を買った(列王上12:4など)。王の死後、北部のイスラエル王国と南部のユダ王国に分裂することになる。
[[列王記]]はこの後、南北の王朝史を綴っていくことになる。それによれば、北部のイスラエル王国は短命な王朝が相次ぎ最後には[[アッシリア]]に滅ぼされてしまう。また南部ユダ王国ではダビデ王の血筋が続くものの最後には[[新バビロニア|バビロニア]]に滅ぼされ、神殿は破壊されて多数の国民が連行されてしまう([[バビロン捕囚]])。ユダ王国では、宗教改革が行われたことが伝えられており、ヨシア王の時代にモーセの律法が再発見されたという(列王下22章)。
[[歴代誌]]は[[サムエル記]]と[[列王記]]と内容的に重複する歴史書であるが、南王国の立場から書かれていて、北王国については何も書かれていない。
バビロン捕囚での様子は旧約聖書の歴史書には記されず、預言書の中から窺い知るしかない。[[イザヤ書]]や[[エレミヤ書]]、[[エゼキエル書]]、原[[ダニエル書]]がバビロン捕囚の時代に編纂されたと推定されており、流謫の嘆きが語られているし、[[詩篇]]の中にも捕囚時代が反映しているとされる歌が収められている([[詩篇137篇|詩篇137]]:1-6)。また、[[哀歌]]はエルサレム陥落を嘆いたとされる歌をまとめたものである。
やがてバビロニアが[[アケメネス朝|ペルシャ]]に滅ぼされると、ユダヤへの帰還活動が始まる。[[エズラ記]]によれば第一次帰還が[[キュロス大王|キュロス王]]の布告で実施されるのだが、他民族の抵抗により神殿復興は叶わなかった。[[ダレイオス1世]]の時代になって神殿建設が許可され、エルサレム神殿は復興する。その後、[[アルタクセルクセス1世|アルタクセルクセス王]]の時代に「モーセの律法に詳しい書記官」である[[エズラ]]がペルシャ帝国からエルサレムに派遣されて、ペルシャ王の「献酌官」[[ネヘミヤ]]と共にモーセの律法の復興運動を起こしたことが[[エズラ記]]、[[ネヘミヤ記]]で描かれている。エズラは外国人との結婚を無効宣告し、ユダヤ人の純化運動を進めた。ここで復興された神殿が[[ハスモン王朝]]時代に拡張され、イエスの時代に至っている。
キリスト教の旧約聖書にある[[エステル記]]は、この時期にペルシャ王の后になったユダヤ人女性エステルについての挿話である。
以上、旧約聖書における歴史記述を概観したが、王国時代の歴史記述が最も詳しく、バビロン捕囚以後の歴史は断片的にしか語られていない。[[ヘロドトス]]の『歴史』で有名な[[ペルシャ戦争]]も、ユダヤは軍隊の通行路に当たっていたと考えられるが、旧約聖書では全く言及されておらず、歴史記述が途切れている。
例外として、ヘレニズム時代の[[コヘレトの言葉]]、[[ダニエル書]]、[[マカバイ戦争]]とハスモン朝の勃興を描いた[[マカバイ記]]がある。ペルシャが[[アレクサンダー大王]]によって滅ぼされるとユダヤは大王の死後に成立した[[セレウコス朝]]の支配下に入るのだが、[[アンティオコス4世エピファネス|アンティオコス4世]]はエルサレム神殿を略奪し、ユダヤ教を迫害したためにハスモン家の主導で反乱が起こる。ユダヤ人はこの反乱によって再独立を果たし、ハスモン王朝が成立するのである。新約聖書に登場する[[ヘロデ大王]]もハスモン王朝に連なっている。なお、このマカバイ記はユダヤ教やプロテスタントでは[[聖書正典]]とされておらず、[[カトリック教会]]や[[正教会]]が正典とする[[第二正典]]の一つである。
=== 預言者たちの事跡と預言書 ===
{{節スタブ}}
[[列王記]]では王朝史の他に、主に北部イスラエル王国で活躍した預言者たちの様子が描かれている。[[エリヤ]]、その弟子である[[エリシャ]]、あるいは[[アモス]]、[[ホセア (預言者)|ホセア]]といった預言者たちは宮廷に属さず、在野にあって神からの言葉を吐き鋭く王政を批判した。預言者たちの批判とは、国家と民衆が神を忘れて偶像崇拝に陥っているとするものである。また[[ミカ (預言者)|ミカ]]は南部ユダ王国において神殿が破壊されることを予言した。
そもそも旧約聖書では出エジプト記の時代から、(1)民衆が神を忘れて偶像崇拝に走り、(2)それを神が見て怒るが、(3)義人が神と民衆の間をとりなす、というパターンが繰り返されてきたが、列王記以降の預言者たちの事跡もこれをなぞっている。
旧約聖書の中で三大預言者と呼ばれているのは[[イザヤ]]、[[エレミヤ]]、[[エゼキエル]]であり、ことにイザヤは大部の[[イザヤ書]]を残している。
旧約聖書にはこの他に12小預言書として、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書などが収められている。
==== 黙示 ====
預言書には、世界の終末と神による新時代の到来を、特異なビジョンで描き出すことがしばしば行われた。イザヤ書24-27章、34-35章、65-66章、ゼカリヤ書9-14章、ヨエル書などにそういった記述が認められるが、もっとも有名なものはダニエル書である。この黙示の記述は新約聖書の時代にも及んでおり、福音書の中にも終末予言が現れ(マルコ13章、マタイ24章、ルカ21:5-33)、[[ヨハネ黙示録]]なども書かれた。
=== 知恵文学 ===
[[箴言]]は教訓集・格言集であり、1章1節に「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」とあり、[[伝道者の書]]・[[雅歌]]と共に[[ソロモン]]によって書かれたと伝統的に考えられている。
=== 詩歌 ===
[[モーセ五書]]などには、古い歌に由来すると推定されるものが散見されるが(たとえば、ミリヤムの歌、デボラの歌など)、イスラエル王国時代になると[[詩篇]]、[[雅歌]]などに多くの詩歌がまとめて編集されるようになった。[[詩篇]]はその多くがダビデの作、[[雅歌]]はソロモンの作と伝えられているが、実際には様々な著者の作品が時間をかけて編纂されてきたものであろうと批判的な学者は推測している<ref group="注">詩篇は前300年頃にはおおよそ編纂されていたとされてきたが、今なお定説を見ない。『新版 総説 旧約聖書』 日本キリスト教団出版局、[[2007年]]、ISBN 978-4-8184-0637-7、p.427-428 などを参照。</ref>。ユダヤ教・キリスト教の典礼に今も用いられており、ヨーロッパの近代文学にも影響を与えた。なお、[[雅歌]]は恋愛歌であり「恋しい方はミルラの匂い袋/私の乳房のあいだで夜を過ごします」「あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ/右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに」「衣を脱いでしまったのに/どうしてまた着られましょう」「秘められたところは丸い杯/かぐわしい酒に満ちている。/腹はゆりに囲まれた小麦の山。/乳房は二匹の小鹿、双子のかもしか。」のように、開放的な描写も多い。しかし、ユダヤ教は伝統的にこれをユダヤ民族に対する神の愛と解釈し、キリスト教は教会に対するキリストの愛と解釈してきた。[[哀歌]]はエルサレム陥落と神殿破壊を嘆く歌であり、伝統的に[[エレミヤ]]の作であるとされている。
== 内容に対する意義付け ==
=== ユダヤ教 ===
[[ユダヤ教]]にとっては、『(旧約)聖書』は唯一の正典であり、現在も行動を律する文字通りの法である。民族の歴史を伝え、イスラエルの地を民族の故地とする精神的な基盤を与え、行為と歴史の両面において文化的な一体性を与える書でもある。
=== キリスト教 ===
対して、将来にユダヤを復興するメシア王を約束する『旧約聖書』を、キリスト教徒は[[イエス・キリスト]]の出現を約束する救済史として読む。『旧約聖書』の代名詞にも使われる「律法」はもはやキリスト教徒の戒律ではないが、キリスト教徒にとっては『旧約聖書』の完成がイエス・キリストとその使信であり依然として重要な意義をもっているとされている。
旧約聖書は「律法と預言者と諸書」、「律法と預言者と詩篇」([[ルカによる福音書|ルカ]]24:44)、「律法」([[マタイによる福音書|マタイ]]5:17-18、[[ヨハネによる福音書|ヨハネ]]10:34)と呼ばれていた。旧約聖書と[[新約聖書]]を合わせて「律法と預言者および福音と使徒」(アレキサンドリアのクレメンス、[[テルトゥリアヌス]])、「律法と福音」(クラウディウス、アポリナリウス、エイレナイオス)と呼ぶ表現があり、[[アウグスティヌス]]が引用した[[アンティオキアのイグナティオス|イグナティウス]]の「新約聖書は、旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は、新約聖書の中に現わされている。」ということばは有名である<ref>[[尾山令仁]]著『聖書の権威』[[日本プロテスタント聖書信仰同盟]] (再版:[[羊群社]]) p.100</ref>。
[[詩篇]]で祈る伝統は古くからあった。これは、[[正教会]]が[[聖詠]]と呼ぶものである。旧約時代に詩篇は歌われていたが、今日でも[[詩篇歌]]があり、[[改革派教会]]には[[ジュネーブ詩篇歌]]がある<ref>[[森川甫]]『フランス・プロテスタント-苦難と栄光の歩み』</ref>。
キリストを知るまでは神を知ることは出来ないので、旧約は不必要だとする見解に対し、[[日本キリスト改革派教会]]の創立者である[[岡田稔]][[牧師]]は「キリスト教の宣教の最初は旧約聖書の知識がある人に福音が伝えられたため、イエス・キリストが救い主であると伝えればよかったが、真の神を知らない異教徒の日本人に福音伝道するためには、旧約聖書が必要である」と述べている<ref>[[岡田稔]]『キリストの教会』小峯書店</ref>。[[中央神学校]]のチャップマン教授は、旧約聖書には異教の偶像崇拝について書かれてあるが、戦前の教派はその旧約聖書の知識を欠いていたために、神社を参拝する偶像崇拝に対してもろかったと指摘する<ref>中央神学校史編集委員会『中央神学校の回想-日本プロテスタント史の一資料として』</ref>。チャップマン教授は日本で旧約聖書の大切さを早くに主張した<ref>[[中村敏]] 『日本における福音派の歴史』いのちのことば社 p.41</ref>。
[[宗教改革]]者、[[ピューリタン]]<!--、[[チャールズ・スポルジョン]]、[[マーティン・ロイドジョンズ]]-->などは旧約聖書から説教を行ったが、[[高等批評]]、[[自由主義神学]]の影響により、今日では旧約聖書から説教することが少なくなっていると言われる<ref>[[マーティン・ロイドジョンズ]]『旧約聖書から福音を語る』[[いのちのことば社]]</ref>。これを反映して、日本の旧約聖書のみの一冊版聖書は新日本聖書刊行会による「聖書 新改訳2017」のKindle版と日本聖書協会による新共同訳のKindle版しかなく<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.seisho.or.jp/announcement/1896/|title = 旧約聖書と新約聖書に分かれており、価格はそれぞれ1,350円と756円になります。|website = www.seisho.or.jp|publisher = 新日本聖書刊行会|date = 2019-01-16|accessdate = 2020-07-11}}</ref>、紙媒体の旧約聖書のみの出版は途絶えている。かつては旧約聖書のみの関根訳や旧約聖書のみの新改訳第3版が一冊で出されていた。正教会は旧約聖書のみの分売を薦めていない。
== 成立過程 ==
{{main|正典化}}
『旧約聖書』は断続的かつ長い期間に渡り、立場の異なる多くの人々や学派のようなグループが関わり、何度も大きな増補・改訂・編纂が行われ、その過程はかなり複雑なものであったとも推測されるが、異論もあり、いまだに定説を見ないのが現状である。聖書の記述には誤りが無いと信じるプロテスタントの[[福音派]]は、旧約聖書は聖書記者によって書かれた時から正典としての権威を持っていたと認め<ref>[[尾山令仁]]著『聖書の権威』[[日本プロテスタント聖書信仰同盟]]</ref>、[[申命記]]4:2「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また減らしてはならない」という記述等から、増補・改訂はなかったとする。一方、[[自由主義神学]](リベラル)では聖書は段階的に正典化されていったとする<ref>『新聖書辞典』[[いのちのことば社]]</ref><ref>[[尾山令仁]]『キリスト者の和解と一致』地引網出版</ref>。
=== 四資料仮説 ===
{{main|文書仮説|高等批評}}
歴史的キリスト教会が、[[モーセ]]を記者であるとしてきた[[モーセ五書]]([[創世記]]・[[出エジプト記]]・[[レビ記]]・[[民数記]]・[[申命記]])に関しては、それを否定する[[文書仮説|四資料仮説]]が19世紀より唱えられ、リベラル派の旧約聖書学の標準学説として知られている<ref>R.E.フリードマン著(松本英昭訳) 『旧約聖書を推理する』 海青社、[[1989年]]、ISBN 4-906165-28-1、序章部で四資料仮説の要約史が読める</ref>。ただし、この四資料仮説はあくまで仮説に過ぎず、細部に至るまで完全に合意されたものではない。近年においては、例えば日本基督教団出版による創世記注解がこの仮説に立たないと明言するなど、[[メインライン・プロテスタント|プロテスタント主流派]](メインライン)においても退けられつつある<ref>月本昭男『創世記注解』日本基督教団出版</ref>。
=== ユダヤ教での正典化 ===
[[ユダヤ教]]では、[[ユダヤ戦争]]後にユダヤ教を再編した[[1世紀]]の終わりごろの[[ヤムニア会議]]で正典が確認された。この[[ヘブライ語]]本文を、[[8世紀]]以降、マソラ学者が母音記号等を加えて編集したものが'''[[マソラ本文]]'''で、全24書である。現在のところ、これを印刷体で出版したBHS(Biblia Hebraica Stuttgartensia、1967/1977年の略)が最も標準的なテキストとして利用されている。
=== キリスト教での正典化 ===
これとは別に、紀元前250年頃から[[ギリシア語]]に翻訳された'''[[七十人訳聖書]]'''(セプトゥアギンタ)があるが、現代残されている複数の写本はその数が一致しているわけではない<ref group="注">[[ヴァチカン写本]](AD350年)は[[マカバイ記]]1、2を含まず、[[エズラ記]](ギリシア語)を含んでいる。[[シナイ写本]](AD350年)は[[バルク書]]を含まず、マカバイ記4を含んでいる。[[アレクサンドリヤ写本]](AD450年)はエズラ記とマカバイ4を含んでいる。([[尾山令仁]]『聖書の権威』羊群社)</ref>。[[パウロ]]を含めたキリスト教徒が日常的に用い、新約聖書に引用されているのも主としてこのギリシア語の七十人訳であり、[[キリスト教]]は伝統的にこれを正典として扱ってきた<!--が、外典と正典は区別されていた-->。マソラ本文と七十人訳聖書では構成と配列が異なる。
[[東方教会]]も[[西方教会]]も長らくこの七十人訳聖書を旧約聖書の正典と基本的にみなしてきたが、その配列や数え方には一部異なるものがある。また西方教会では、正教会が正典とみなす文書の一部を[[外典]]とした。
==== 宗教改革における対立 ====
[[カトリック教会]]は[[トリエント公会議]]([[1546年]])で[[ヴルガータ]]がカトリック教会の公式聖書であると確認し、正典として旧約46巻、新約27巻をあげた。これは伝承によるとされる<ref>[[和田幹男]]著『私たちにとって聖書とは何なのか』p.189-190</ref><ref>[http://history.hanover.edu/early/TRENT.html The Council of Trent](英語)</ref>。カトリック教会は、プロテスタントが文書を取り除いたとする<ref>A.E.マクグラス著(高柳俊一訳) 『宗教改革の思想』 [[教文館]]、[[2000年]]、ISBN 4-7642-7194-X p.194</ref><ref>尾山令仁『聖書の権威』</ref>(後掲の一覧を参照のこと)。カトリック教会が聖書に対する外的権威を[[教会 (キリスト教)|教会]]が付与したとするのに対し、プロテスタント教会は聖書の内的権威を教会が承認したと考えている<ref>[[アリスター・マクグラス]]『キリスト教神学入門』p.224教文館</ref><ref>尾山令仁『聖書の権威』羊群社</ref>。
その後、[[16世紀]]の[[宗教改革]]時に[[マルティン・ルター]]が聖書を[[ドイツ語]]に翻訳するにあたり、それまで使われていた[[ラテン語]]の聖書([[ヴルガータ]])からではなく[[ヘブライ語]]原典から直接翻訳したため、ヘブライ語聖書に含まれる文書のみを内容とした聖書ができあがった。この「ヘブライ語聖書に含まれる文書のみを内容とした聖書」は、その後多くの[[プロテスタント]]諸派に受け継がれることになった。プロテスタント教会は、原語のヘブライ語で書かれた旧約聖書のみが[[聖書原典]]にあるとして認めている<ref>『[[ウェストミンスター信仰告白]]講解』[[新教出版社]]</ref><ref>[[宇田進]]『現代福音主義神学』[[いのちのことば社]]</ref>。
プロテスタントが「[[外典]]」として排除する書物の一部は、カトリック教会と[[エキュメニズム|エキュメニカル派]]の共同訳である『[[新共同訳聖書]]』では「[[旧約聖書続編]]」として掲載されている。
{{See also|[[聖書翻訳]]|[[日本語訳聖書]]}}
これに対して、ロシア正教会は、旧約50巻新約27巻の計77巻で聖書を構成している<ref>{{Cite web|和書|url =https://web.archive.org/web/20190110133042/http://www.nisso.net/shosai/201112/k7364.asp |title =正教会版ロシア語訳旧新約聖書 |publisher =www.nisso.net |date = |accessdate =2019-01-10 }}</ref>。
<!-- 文意がつながらないので、いったんコメントアウト--><!-- 今でも保守的なプロテスタントでは七十人訳の作成時から正典と外典の区別があったと考えられている<ref>-->
== 配列と一覧 ==
=== マソラ本文の配列 ===
以下の区分に従い、分類また配列する。
*律法([[モーセ五書]])(トーラー、原義は「教え」)
*預言者(ネビーイーム)
**前の預言者
**後の預言者
***小預言者
*諸書(ケスービーム)
**真理(エメス)
**巻物(メギロース)
=== 七十人訳聖書の配列 ===
[[マソラ本文]]と若干分類法が異なり、そのため配列も異なっている。「歴史書」は[[ユダヤ教]]聖書の前の預言者・後の預言者・巻物に対応し、加えてユダヤ教で旧約外典とするものを含む。またユダヤ教で認める書でも「補遺」とされるユダヤ教にない部分を含むものがある。[[正教会]]と[[カトリック教会]]では、伝統的に[[七十人訳聖書]]の配列に基づいた聖書を使用してきた。詳しくは下記の表を参照。
*モーセ五書
*歴史書
*教訓書(知恵書)
*預言書
**大預言書
**[[十二小預言書|小預言書]]
=== 諸教派の旧約聖書配列の一覧 ===
{|class="wikitable" style="text-align:center;" cellpadding="2" cellspacing="2"
!ユダヤ教!!正教会!!カトリック<ref group="表" name="hyou1">現在の日本のカトリック教会では[[新共同訳聖書]]を公式に[[典礼]]で使用しており、その配列は本表のプロテスタントと同じで、そこに含まれない[[第二正典]]部分は『[[旧約聖書続編]]』として旧約聖書正典の後ろに掲載されている。</ref>!!プロテスタント
|- style="background-color:white;"
|[[律法]](トーラー)||colspan="3"|[[モーセ五書]]
|- style="background-color:#ccf;"
|[[創世記]]||[[創世記]]||[[創世記]]||[[創世記]]
|- style="background-color:#ccf;"
|[[出エジプト記]]||[[出エジプト記|エギペトを出づる記]]||[[出エジプト記]]||[[出エジプト記]]</td>
|- style="background-color:#ccf;"
|[[レビ記]]||[[レビ記|レヴィト記]]||[[レビ記]]||[[レビ記]]
|- style="background-color:#ccf;"
|[[民数記]]||[[民数記]]||[[民数記]]||[[民数記]]
|- style="background-color:#ccf;"
|[[申命記]]||[[申命記|復傳律令]]||[[申命記]]||[[申命記]]
|- style="background-color:white;"
|預言者(ネビーイーム):<br/>前の預言者||colspan="3"|歴史書
|- style="background-color:#fc9;"
|[[ヨシュア記]]||[[ヨシュア記|イイスス・ナビン記]]||[[ヨシュア記]]||[[ヨシュア記]]
|- style="background-color:#fc9;"
|[[士師記]]||[[士師記]]||[[士師記]]||[[士師記]]
|- style="background-color:#fc9;"
|style="background-color:#555;"| ||[[ルツ記|ルフ記]]||[[ルツ記]]||[[ルツ記]]
|- style="background-color:#fc9;"
|rowspan="2"|[[サムエル記]]||[[サムエル記|列王記]]第一巻||[[サムエル記]]上||[[サムエル記]]上
|- style="background-color:#fc9;"
|[[サムエル記|列王記]]第二巻||[[サムエル記]]下||[[サムエル記]]下
|- style="background-color:#fc9;"
|rowspan="2"|[[列王記]]||[[列王記]]第三巻||[[列王記]]上||[[列王記]]上
|- style="background-color:#fc9;"
|[[列王記]]第四巻||[[列王記]]下||[[列王記]]下
|- style="background-color:#fc9;"
|rowspan="22" style="background-color:#555;"| ||[[歴代誌|歴代誌略]]第一巻||[[歴代誌]]上||[[歴代誌]]上
|- style="background-color:#fc9;"
|[[歴代誌|歴代誌略]]第二巻<ref group="表" name="hyou2">正教会の聖書では、カトリックとプロテスタントにはない「結び」がある。</ref>||[[歴代誌]]下||[[歴代誌]]下
|- style="background-color:#fc9;"
|[[第1エズラ書|エズドラ第一巻]]<ref group="表" name="hyou3">カトリックとプロテスタントでは正典に含まれていないが、新共同訳聖書には『[[エズラ記]]([[ギリシア語]])』として掲載されている。</ref>||style="background-color:#555;"| ||style="background-color:#555;"|
|- style="background-color:#fc9;"
|[[エズラ記|エズドラ第二巻]]||[[エズラ記]]||[[エズラ記]]
|- style="background-color:#fc9;"
|[[ネヘミヤ記|ネーミヤ書]]||[[ネヘミヤ記]]||[[ネヘミヤ記]]
|- style="background-color:#fc9;"
|[[トビト記|トビト書]]<ref group="表" name="hyou4">プロテスタントの旧約聖書には含まれない[[第二正典]]である。</ref>||[[トビト記]]<ref group="表" name="hyou4"/>||rowspan="2" style="background-color:#555;"|
|- style="background-color:#fc9;"
|[[ユディト記|イウヂヒ書]]<ref group="表" name="hyou4"/>||[[ユディト記]]<ref group="表" name="hyou4"/>
|- style="background-color:#fc9;"
|[[エステル記|エスフィル書]]<ref group="表" name="hyou5">正教会とカトリックの『エステル記』には、プロテスタント版では含めない103節がある。(『[[エステル記補遺]]』)</ref>||[[エステル記]]<ref group="表" name="hyou5"/>||[[エステル記]]
|- style="background-color:#fc9;"
| [[マカバイ記|マカウェイ記]]第一巻<ref group="表" name="hyou4"/>||[[マカバイ記]]1<ref group="表" name="hyou4"/>||rowspan="4" style="background-color:#555;"|
|- style="background-color:#fc9;"
|[[マカバイ記|マカウェイ記]]第二巻<ref group="表" name="hyou4"/>||[[マカバイ記]]2<ref group="表" name="hyou4"/>
|- style="background-color:#fc9;"
|[[マカバイ記|マカウェイ記]]第三巻<ref group="表" name="hyou6">カトリックとプロテスタントの聖書には含まれない。</ref>||rowspan="2" style="background-color:#555;"|
|- style="background-color:#fc9;"
|[[マカバイ記]]4<ref group="表" name="hyou6"/>
|- style="background-color:white;"
|colspan="3"|知恵文学
|- style="background-color:#9f9;"
|[[ヨブ記|イオフ書]]||[[ヨブ記]]||[[ヨブ記]]
|- style="background-color:#9f9;"
|[[聖詠]]<ref group="表" name="hyou7">正教会は詩篇が1つ多い。この1篇はダビデに帰され、カフィズマには含まれない。</ref>||[[詩篇|詩編]]||[[詩篇]]
|- style="background-color:#9f9;"
|[[オデス書]]<ref group="表" name="hyou6"/><ref group="表" name="hyou8">オデス書は『[[マナセの祈り]]』を含む。これはカトリックとプロテスタントでは正典としていない。</ref>||style="background-color:#555;"| ||style="background-color:#555"|
|- style="background-color:#9f9;"
|[[箴言]]||[[箴言]]||[[箴言]]
|- style="background-color:#9f9;"
|[[コヘレトの言葉|伝道書]]||[[コヘレトの言葉]]||[[コヘレトの言葉|伝道の書]]
|- style="background-color:#9f9;"
|[[雅歌|雅歌(諸歌の歌)]]||[[雅歌]]||[[雅歌]]
|- style="background-color:#9f9;"
|[[知恵の書|ソロモンの知恵書]]<ref group="表" name="hyou4"/>||[[知恵の書]]<ref group="表" name="hyou4"/>||rowspan="3" style="background-color:#555;"|
|- style="background-color:#9f9;"
|[[シラ書|シラフの子イイススの知恵書]]<ref group="表" name="hyou4"/>||[[シラ書]]<ref group="表" name="hyou4"/>
|- style="background-color:#9f9;"
|[[ソロモンの詩篇]]<ref group="表" name="hyou6"/>||style="background-color:#555;"|
|- style="background-color:white;"
|預言者(ネビーイーム):<br/>後の預言者||colspan="3"|大預言書''
|- style="background-color:#f9f;"
|[[イザヤ書]]||[[イザヤ書|イサイヤの預言書]]||[[イザヤ書]]||[[イザヤ書]]
|- style="background-color:#f9f;"
|[[エレミヤ書]]||[[エレミヤ書|イエレミヤの預言書]]||[[エレミヤ書]]||[[エレミヤ書]]
|- style="background-color:#f9f;"
|rowspan="3" style="background-color:#555;"| ||[[哀歌]]||[[哀歌]]||[[哀歌]]
|- style="background-color:#f9f;"
|[[バルク書|ワルフの預言書]]<ref group="表" name="hyou4"/>||rowspan="2" |[[バルク書]]<ref group="表" name="hyou4"/><ref group="表" name="hyou9">カトリックの聖書では、『[[バルク書]]』は第6章(『[[エレミヤの手紙]]』)を含む。正教会の聖書は、『イエレミヤの達書』(エレミヤの手紙)は『ワルフの預言書』(バルク書)と独立している。</ref>||rowspan="2" style="background-color:#555;"|
|- style="background-color:#f9f;"
|[[エレミヤの手紙|イエレミヤの達書]]<ref group="表" name="hyou4"/><ref group="表" name="hyou9"/>
|- style="background-color:#f9f;"
|[[エゼキエル書]]||[[エゼキエル書|イエゼキイリの預言]]||[[エゼキエル書]]||[[エゼキエル書]]
|- style="background-color:#f9f;"
|style="background-color:#555;"| ||[[ダニエル書|ダニイルの預言]]<ref group="表" name="hyou10">正教会とカトリックでは、『[[ダニエル書]]』はプロテスタント版にはない3つの章がある。それは『アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌』『スザンナ』『ベルと竜』で、[[新共同訳聖書]]ではこれらを『[[ダニエル書補遺]]』として掲載している。</ref>||[[ダニエル書]]<ref group="表" name="hyou10"/>||[[ダニエル書]]
|- style="background-color:white;"
|小預言者||colspan="3"|[[十二小預言書|小預言書]]
|- style="background-color:#f9f;"
|[[ホセア書]]||[[ホセア書|オシヤの預言書]]||[[ホセア書]]||[[ホセア書]]
|- style="background-color:#f9f;"
|[[ヨエル書]]||[[ヨエル書|イオイリの預言書]]||[[ヨエル書]]||[[ヨエル書]]
|- style="background-color:#f9f;"
|[[アモス書]]||[[アモス書|アモスの預言書]]||[[アモス書]]||[[アモス書]]
|- style="background-color:#f9f;"
|[[オバデヤ書]]||[[オバデヤ書|アウディヤの預言書]]||[[オバデヤ書]]||[[オバデヤ書]]
|- style="background-color:#f9f;"
|[[ヨナ書]]||[[ヨナ書|イオナの預言書]]||[[ヨナ書]]||[[ヨナ書]]
|- style="background-color:#f9f;"
|[[ミカ書]]||[[ミカ書|ミヘイの預言書]]||[[ミカ書]]||[[ミカ書]]
|- style="background-color:#f9f;"
|[[ナホム書]]||[[ナホム書|ナウムの預言書]]||[[ナホム書]]||[[ナホム書]]
|- style="background-color:#f9f;"
|[[ハバクク書]]||[[ハバクク書|アウワクムの預言書]]||[[ハバクク書]]||[[ハバクク書]]
|- style="background-color:#f9f;"
|[[ゼファニヤ書]]||[[ゼファニヤ書|ソフォニヤの預言書]]||[[ゼファニヤ書]]||[[ゼファニヤ書]]
|- style="background-color:#f9f;"
|[[ハガイ書]]||[[ハガイ書|アゲイの預言書]]||[[ハガイ書]]||[[ハガイ書]]
|- style="background-color:#f9f;"
|[[ゼカリヤ書]]||[[ゼカリヤ書|アゲイの預言書]]||[[ゼカリヤ書]]||[[ゼカリヤ書]]
|- style="background-color:#f9f;"
|[[マラキ書]]||[[マラキ書|マラヒヤの預言書]]||[[マラキ書]]||[[マラキ書]]
|- style="background-color:white;"
|[[諸書]]<br/>(ケスービーム)||rowspan="14" style="background-color:#555;"| ||rowspan="14" style="background-color:#555;"| ||rowspan="14" style="background-color:#555;"|
|- style="background-color:#ff9;"
|真理(エメス)
|- style="background-color:#ff9;"
|[[詩篇]]
|- style="background-color:#ff9;"
|[[箴言]]
|- style="background-color:#ff9;"
|[[ヨブ記]]
|- style="background-color:white;"
|巻物(メギロース)
|- style="background-color:#ff9;"
|[[雅歌]]
|- style="background-color:#ff9;"
|[[ルツ記]]
|- style="background-color:#ff9;"
|[[哀歌]]
|- style="background-color:#ff9;"
|[[コヘレトの言葉]]
|- style="background-color:#ff9;"
|[[エステル記]]
|- style="background-color:#ff9;"
|[[ダニエル書]]
|- style="background-color:#ff9;"
|[[エズラ記]]+[[ネヘミヤ記]]<ref group="表" name="hyou11">ユダヤ教([[マソラ本文]])では1書に数える。</ref>
|- style="background-color:#ff9;"
|[[歴代誌]]
|}
:表注
{{Reflist|group=表}}
== 翻訳 ==
{{main|聖書翻訳}}
『旧約聖書』の翻訳は紀元前から行われており、そのような古い翻訳を古代訳という。古代訳は、現存するどの[[ヘブライ語]]写本よりも古く、当時の解釈だけでなく、テキストそのものを推察する上でも貴重な資料となる。
『旧約聖書』の翻訳で、現在知られている最も古いものは[[アラム語]]聖書である。これは捕囚期後、当時のパレスチナで日用語となったアラム語にヘブライ語聖書を翻訳したものである。ついで紀元前4世紀から2世紀までに、[[ギリシア語]]への翻訳が[[アレクサンドリア]]でなされた。これが「[[七十人訳聖書]](セプトゥアギンタ 、LXX)」である。[[キリスト教]]成立後、七十人訳はキリスト教徒の聖書という印象がつよまると、ユダヤ教内部で新たなギリシア語翻訳を求める動きが起き、いくつかのギリシア語翻訳が作られた。またこの時期、[[シリア語]]訳の聖書も作られた。
またキリスト教の中で、主に[[ラテン語]]を使うグループのためにラテン語訳が作られた。これを「古ラテン語訳」という。[[ヒエロニムス]]は、ヘブライ語から翻訳したラテン語翻訳聖書を作り、これがラテン教会では公式の翻訳として認められた。ヒエロニムスの翻訳を「[[ヴルガータ]]」という。また中世初期には[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]]と[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]]によって[[古代教会スラヴ語|教会スラブ語]]訳が作られた。
また中世盛期から末期にかけて、[[フランス]]や[[ドイツ]]など西ヨーロッパでは近代語訳の『聖書』が作られたが、これは教会で公認されなかったこと、複製の難しさなどからあまり広まらなかった。中世末期から近世初期の主な翻訳者には、[[ウィクリフ]]、[[エラスムス]]、[[マルティン・ルター|ルター]]、[[カルヴァン]]などがある。その後、『聖書』の翻訳は主にプロテスタント圏で盛んになり、その必要に後押しされるように、本文批評の発展に伴う校訂版テキストの整備が進んだ。近代に入ると、カトリックでも『聖書』の読書が奨励されるようになったことに伴い、各国語で翻訳がなされるようになった。なお、『聖書』は世界で最も様々な言語に翻訳された書物であり、『新約聖書』に関しては[[アイヌ語]]や[[ケセン語]]にも翻訳されている。
なおユダヤ人は、非キリスト教的な『聖書』翻訳の必要性から、上記とは系統を異にする独自の翻訳された『聖書』を持っている。
== 歴史==
=== ユダヤ教における聖書 ===
ユダヤ教における聖書とは、[[紀元前4世紀]]までに書かれた[[ヘブライ語]]および[[アラム語]]の文書群。全24巻から成り立つ。
紀元前4世紀ごろには、この文書群が、「聖書」つまり統一された1つの[[書物]]として認識されるようになった。現存する最古の[[写本]]は紀元前1世紀頃書かれたとされる[[死海文書|死海写本]]に含まれている。
==== 拝一神教時代 ====
* 前11世紀後半、[[ダビデ王]]は[[イスラエル王国]]を築き統治する。<ref>講談社現代新書加藤隆著『一神教の誕生』P49</ref>[[カナン]]への定着によって、出[[エジプト]]を導いたヤハウェ神は、救済神として崇拝される。<ref group="注">ヘブライ聖書における神観念は、初期には拝一神教であった。(岩波キリスト教辞典P869 拝一神教の項目 山我哲雄)( サム上26:19、士11:24、出20:2)</ref><ref group="注">この段階ではまだ拝一神教として信仰されており、創造神(唯一神)には変わっていなかった。次の[[ソロモン|ソロモン王]]の時代になると、他の神々への崇拝が行われるようになった。講談社現代新書加藤隆著『一神教の誕生』P54~P57</ref><ref group="注">ダビデ王は[[モーセの十戒|十戒]]を刻んだ石板の入った[[契約の箱]]を[[エルサレム]]に安置したとされる。(岩波キリスト教辞典P158 エルサレムの項目 黒川知文)</ref>
* 前932年、ソロモン王の死後、部族間の統制を失った統一イスラエル王国は北王国として知られる[[イスラエル王国]]と南王国として知られる[[ユダ王国]]に分裂した。<ref>講談社現代新書加藤隆著『一神教の誕生』P50</ref>
* 前10世紀、ヤハウェの呼称を用いる文書については、古いものでは前10世紀に成立したと考えられている。<ref>岩波書店2000年旧約聖書〈Ⅱ〉出エジプト記 レビ記、(出エジプト記の解説、木幡藤子、P402)</ref>
==== 唯一神教時代 ====
* 前722年、北王国が滅ぼされる。<ref>講談社現代新書加藤隆著『一神教の誕生』P52</ref> 北王国の滅亡という現実から、南王国にて神の義や罪の概念が生まれ、ユダヤ教が唯一神教に変わっていったとされる。<ref>講談社現代新書加藤隆著『一神教の誕生』P72</ref>
* 前6世紀前半、南王国が[[バビロニア]]によって滅ぼされる。<ref>講談社現代新書加藤隆著『一神教の誕生』P60</ref> 神の唯一性が絶対的になったのは、前6世紀の[[バビロニア捕囚]]前後からとされる。<ref>岩波キリスト教辞典P869 拝一神教の項目 山我哲雄</ref>
* 前586年、[[バビロニア帝国]]は、[[ユダヤ人|ユダヤ民族]]のほとんどを捕囚とし、バビロニアに入植させた。<ref>岩波キリスト教辞典P1037 捕囚の項目 宮本久雄</ref> 捕囚時代において神殿は存在していなかったが、ヤハウェ崇拝は続けられていた。<ref group="注">このことから、後に聖書となる文書集と神殿との位置づけが変わっていったとされる。講談社現代新書加藤隆著『一神教の誕生』P86)</ref>
* 前539年、[[アケメネス朝ペルシア]]は、バビロンに無血入城し、支配下に置いた<ref>前田徹・川崎康司『歴史の現在 古代オリエント』山川出版社、2000年p.151-152</ref>。
* 前538年、多くの[[ユダヤ人]]が[[パレスチナ]]に戻る。<ref>講談社現代新書加藤隆著『一神教の誕生』P82</ref>
==== 聖書成立の開始 ====
前6世紀後半~前4世紀後半、ペルシャ時代において[[第二神殿]]の建設と聖書成立の開始が為される。この時期に[[モーセ五書]]の律法の部分が成立し、聖書が神の言葉としての強い権威を持つに至ったとされる。また、この時代に律法が作成された理由としては、ペルシャ当局の統治政策により、ユダヤ民族が従うべき掟を文書として提出しなければならないという命令が下されたことがあげられるとされる。これによって、公式に提出された律法はもはや変更できないという状況となり、政治的な権威も加わって、モーセ五書が神の言葉としての絶対的権威を持つに至ったとされる<ref>講談社現代新書加藤隆著『一神教の誕生』P88~P90</ref>。
*紀元前458年、[[エズラ]]はペルシア王の許可を得てバビロンからエルサレムに赴いた(「[[エズラ記]]」7:1、7:6、7:8、7:11-13。)エズラは、ユダヤ人社会の宗教と法の掟を統合した<ref>『旧約聖書人名事典』ジョアン・コメイ著、東洋書林、1996年、93-97項</ref>。
*エズラが作成した絶対に変えられない神の言葉としての律法は、掟集や律法集としてではなく、[[物語]]として書かれた<ref>講談社現代新書加藤隆著『一神教の誕生』P118</ref>。そのため、伝説を多く含んだ物語や、二つの物語を並べて編集した物語まで、神の言葉としての絶対的権威のもとに受け止められるようになった。<ref>[[創世記#ヘブライ語聖書における創世記の成立・編集について]]参照</ref>
==== ユダヤ戦争以後 ====
*1世紀後半までの[[ユダヤ教]]は、[[サドカイ派]]、[[ファリサイ派]]、[[エッセネ派]]などに分かれていた。
*70年、[[ユダヤ戦争]]に敗れ、[[エルサレム神殿]]が破壊された。このあとユダヤ教は律法主義に一元化してしまい、エッセネ派のように神との直接的な関係の実現を求める宗派は消滅してしまった。エッセネ派が消滅したことで、[[タナハ]]は絶対的権威を持つ神の言葉として成立した。その後2000年近く、聖書は神の言葉と考える律法主義が続いている。<ref>講談社現代新書加藤隆著『一神教の誕生』P160~P168</ref>
*一世紀の後半、[[福音書]]が作られた当時、[[聖霊]]は世の終わりに神から与えられると信じられていた救いの霊とされている <ref>岩波書店2004年新約聖書補注、用語解説P24</ref>。
*聖霊現象と深いかかわりのあるイエス派運動<ref>岩波書店2004年新約聖書補注、用語解説P41</ref> の指導者たちは、「聖霊」に満たされているとし<ref>使徒行伝7-55</ref>、指導者たちは神と直接的に繋がっていることを信者に説いていた。<ref>講談社現代新書加藤隆著『一神教の誕生』P222</ref>
*二世紀の初期、旧約聖書が作られる。<ref>岩波キリスト教辞典P274 旧約聖書の項目 関根清三</ref> 聖霊現象によって神の言葉とされた福音書等と合わせて、旧約聖書も絶対的権威を持つ神の言葉として信仰されるようになった。
==== ユダヤ教の聖典と旧約聖書の内容の違い ====
ユダヤ教の聖典<ref group="注">ユダヤ教にとっては、『聖書』は唯一の正典であり、現在も行動を律する文字通りの法である。民族の歴史を伝え、イスラエルの地を民族の故地とする精神的な基盤を与え、行為と歴史の両面において文化的な一体性を与える書でもある。</ref> をキリスト教は、名称を旧(ふるい)約束の意味に変えて用いている<ref>[https://www.bible.or.jp/know/know01.html 日本聖書協会、聖書を知る]</ref>。しかし、[[ヘブライ聖書]]では、前十世紀ころのヤハウェ信仰が拝一神教であったのに対して、キリスト教が現在用いている旧約聖書では、前十世紀ころのヤハウェ信仰が唯一神教となっている[[翻訳]]の違いがある。前十世紀ころのヤハウェとの契約を意味する旧約とは、モーセの十戒を中心とした律法であると見た場合、違った風に訳された神の言葉をキリスト者自身の都合に合わせて旧い約束であるとしていると見ることも出来る。<ref group="注">
・他の神々が、あなたのためにわたしの面前にあってはならない。〔岩波書店2000年旧約聖書(ヘブライ聖書訳)〈Ⅱ〉出エジプト記 20:3〕・あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。(聖書 [口語]日本聖書協会、1955年旧約聖書出エジプト記20:3。)</ref><ref group="注">また、カトリック教会において使用される十戒には、偶像崇拝の禁止の項目がない。[[モーセの十戒]]を参照</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 主な旧約聖書 ==
;旧新約聖書
*『聖書 聖書協会共同訳』日本聖書協会 訳、日本聖書協会、2018年
*『聖書 新改訳』新日本聖書刊行会 訳、いのちのことば社、2018年
*『聖書 口語訳』日本聖書協会 訳、日本聖書協会、2015年
*『聖書 文語訳』日本聖書協会 訳、日本聖書協会、1992年
*『聖書 原文校訂による口語訳』フランシスコ会聖書研究所 訳、サンパウロ、2011年
*『聖書 旧約・新約』フエデリコ・バルバロ 訳、講談社、1980年
;旧約聖書
*『聖詠経』ハリストス正教会本会 訳、ハリストス正教会本会、1901年
*『旧約聖書』全4巻、旧約聖書翻訳委員会 訳、岩波書店、2004年-
;英語日本語対訳旧新約聖書
*『ダイグロットバイブル』日本聖書協会、2016年(新共同訳+ESV:English Standard Version)
*『バイリンガル聖書』いのちのことば社、2015年(新改訳+ESV:English Standard Version)
;ヘブライ語日本語対訳旧約聖書
*『ヘブライ語聖書対訳シリーズ』全45巻、ミルトス・ヘブライ文化研究所 編、ミルトス、1990年-(逐語訳)
;ヘブライ語旧約聖書
*Biblia Hebraica Stuttgartensia, Deutsche Bibelstiftung, 1977([[ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア]])
;ラテン語訳旧新約聖書
*Biblia sacra : iuxta Vulgatam versionem, Deutsche Bibelgesellschaft, 2007([[ヴルガータ]])
;七十人訳旧約聖書
*『七十人訳ギリシア語聖書(第1期:モーセ五書)』全5巻、秦剛平 訳、河出書房新社、2002年-
*『七十人訳ギリシア語聖書(第2期:その他)』全9巻、秦剛平 訳、青土社、2016年-
;ギリシア語七十人訳旧約聖書
*Septuaginta : id est Vetus Testamentum Graece iuxta LXX interpretes, Deutsche Bibelgesellschaft, 2006([[セプトゥアギンタ]])
== 参考文献 ==
*石田友雄・木田献一・左近淑・西村俊昭・野本真也共著『総説旧約聖書』[[日本基督教団]]出版局、1984年、ISBN 4-8184-2025-5
*E.ヴュルトヴァイン著(鍋谷堯爾・本間敏雄訳)『旧約聖書の本文研究 「ビブリア・ヘブライカ」入門』 日本基督教団出版局、1997年、ISBN 4-8184-0192-7
*左近淑著『旧約聖書緒論講義』教文館、1998年、ISBN 4-7642-2607-3
*[[榊原康夫]]著『旧約聖書の写本と翻訳』[[いのちのことば社]]、[[1972年]]、ISBN 4-264-00023-8
*榊原康夫著『旧約聖書の生い立ちと成立 増補改訂版』いのちのことば社、1994年、ISBN 4-264-01501-4
*(特に正教会における聖書名につき)コストロマの主教プラトン著・(明治10年)堀江訳・[[伝教師]]パウェル松井編集『「正教会入門」 - [[正教会]]と[[機密 (正教会)|機密]] - 』[[ニコライ堂|東京復活大聖堂教会]]…※但し配列・内容には記事内容と相違がある。
*木幡藤子・山我哲雄翻訳『旧約聖書〈Ⅱ〉出エジプト記 レビ記』岩波書店、2000年(出エジプト記の解説、木幡藤子;レビ記の解説、山我哲雄)
== 関連項目 ==
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* [[聖書]]
* [[新約聖書]]
* [[外典]]
** [[偽典]]
** [[第二正典]]
** [[旧約聖書続編]]
* [[聖典]]
* [[トーラー]]
* [[ミツワー]]
** [[ミツワーの一覧]]
* [[ゲマトリア]]
* [[ユダヤの神話]]
* [[聖書の登場人物の一覧]]
* [[聖書学]]
* [[文語訳聖書]]
* [[口語訳聖書]]
* [[欽定訳聖書]]
* [[新改訳聖書]]
* [[新共同訳聖書]]
* [[岩波訳聖書]]
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== 外部リンク ==
{{wikisource|聖書|旧約聖書|3=日本語訳}}
{{Commonscat}}
*[https://www.bible.or.jp/read/vers_search.html 聖書本文検索] - [[日本聖書協会]]
*[https://www.seisho.or.jp/biblesearch/ 聖句検索] - [[新日本聖書刊行会]]
*[https://biblehub.com/ Bible Hub] - 多言語聖書検索
*[http://www.sacred-texts.com/bib/tan/index.htm レニングラード写本 ヘブライ語旧約原典]
*{{Wayback|url=http://yagitani.jpn.cx/kurihon/kurihon08.htm|title=邦訳聖書 書名対照表|date=20110308210743}} - くりホン
*[https://www.biblica.com/bible/jcb/%E5%89%B5%E4%B8%96%E8%A8%98/1/ 創世記 1 – Japanese Contemporary Bible (JCB)] | [[ビブリカ|Biblica]]
**{{Wayback|url=http://www.ibsstl.org/bibles/japanese/|title=Japanese Bible (c) International Bible Society|date=20090306234619}} - リビングバイブル日本語版 < 国際聖書協会 (International Bible Society: IBS)
*{{Wayback|url=http://dtime.jp/|title=聖書検索DTWorks - 新改訳・新共同訳・英語等対応|date=20161003084526}}
*{{kotobank}}
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3,467 | テキスト | テキスト(英語: text、ドイツ語: Text、フランス語: texte、テクスト)は、文章や文献のひとまとまりを指して呼ぶ呼称。 言葉によって編まれたもの、という含みを持つ語で、英語: textile(テキスタイル、「織物」)と同じくラテン語の「織る」が語源である。
日本独特の用法(カタカナ英語)として、教科書の意味で使われる。英語でも教科書を textという場合があるが、一般には textbook(テキストブック)である。学校の教科書はschoolbookとも呼ばれる。
通常は、序文、注釈、挿絵などと区別して、「本文」の意味で使われる。翻訳や要約と区別して、「原典、原文」の意味でも使われる。
コンピュータ用語では、通信や解析や表示の対象となる文字データ(文字列)を指す。文字の表示の仕方などについて何も付加情報がつけられていないものを特に「プレーンテキスト」、それをファイルに保存したものをテキストファイルと呼び、編集にはしばしばテキストエディタを使用する。
コンピュータ用語とはいえないが、ウェブサイトの内、特に文章によるコンテンツが充実しているものをテキスト系サイトなどと呼称することがある。
文芸批評、人文科学・社会科学などの文脈では分析や解釈の対象となる文芸作品、文書などを指す。「テクスト」と表記されることが多い。記号論、構造主義、ポスト構造主義などの隆盛と共に言語や文章の特性について様々な知見が提出され、テクスト分析、テクスト理論、間テクスト性などの用語が普及することにもなった。
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] | テキストは、文章や文献のひとまとまりを指して呼ぶ呼称。
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==教科書==
{{Main|教科書}}
[[日本]]独特の用法([[和製英語|カタカナ英語]])として、教科書の意味で使われる。[[英語]]でも教科書を textという場合があるが、一般には [[:en:Textbook|textbook]](テキストブック)である。[[学校]]の教科書はschoolbookとも呼ばれる<ref name=sakata1988>{{Cite book|和書|title=NHKカタカナ英語うそ・ほんと|author=坂田俊策|publisher=日本放送出版協会|date=1988-05-20|page=48}}</ref>。
==英語での"text"の主な用法==
通常は、序文、[[注釈]]、[[挿絵]]などと区別して、「本文」の意味で使われる。[[翻訳]]や要約と区別して、「原典、[[原文]]」の意味でも使われる<ref name=sakata1988 />。
== コンピュータ用語のテキスト ==
[[コンピュータ]]用語では、[[通信]]や[[解析]]や表示の対象となる[[文字]]データ([[文字列]])を指す。文字の表示の仕方などについて何も付加情報がつけられていないものを特に「[[プレーンテキスト]]」、それを[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]に保存したものを[[テキストファイル]]と呼び、[[編集]]にはしばしば[[テキストエディタ]]を使用する。
コンピュータ用語とはいえないが、[[ウェブサイト]]の内、特に文章による[[コンテンツ]]が充実しているものを[[テキスト系サイト]]などと呼称することがある。
== 文学のテキスト ==
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== 文献学のテキスト ==
[[文献学]]上、[[写本]]や[[版本]]の由来する原典・原文を指す。古くから伝来する文献では、現行の一つの本に複数のテキストが存在する場合が多い。
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
{{wiktionary}}
* [[文学]]
* [[哲学]]
* [[解釈学]]
* [[テキストファイル]]
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[[Category:文]]
[[Category:コンピュータのデータ]]
[[Category:ラテン語からの借用語]] | 2003-03-05T08:56:53Z | 2023-12-27T14:43:28Z | false | false | false | [
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"Template:Cite book"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%83%88 |
3,469 | DVDフォーラム | DVDフォーラム(DVD Forum)は、DVD規格の普及促進や新たな規格の策定を主な目的とする組織である。
高画質な映像が記録可能な次世代の光ディスクとして、ソニー及びフィリップスがMMCDを、東芝、パナソニックその他大手家電メーカーがSDをそれぞれ開発し、製品化を目指していたが、規格分裂を回避するため両者が歩み寄り、1995年にDVDコンソーシアムを発足させ、両規格を融合させる形で現在のDVD規格を策定した。1997年に、よりオープンな組織として『DVDフォーラム』に改組された。DVDの規格はデファクトとなった。
しかしながら、MMCDを考案していたソニーとフィリップスはDVD-RAMへの反発から後に『DVD+RWアライアンス』という団体を作り出している。
第3世代光ディスク(当時「次世代DVD」と呼ばれる)の一種であるHD DVDはDVDフォーラムにより制定されたが、これに対抗してソニー、フィリップス、パナソニックほか多数企業は「Blu-ray Disc Association」を構成しBlu-ray Discを推進した。規格争いの結果、Blu-ray Discがデファクトとなった。
(アルファベット順。2008年4月現在)
HD DVD規格は、DVDフォーラムに「次世代DVD」候補として提案、2002年11月26日に「HD DVD」の名称で正式承認したことにより誕生した。2008年2月19日、HD DVD陣営の中心である東芝が全面的な撤退を発表し、BDとの規格争いは事実上終結することとなった。 | [
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] | DVDフォーラム(DVD Forum)は、DVD規格の普及促進や新たな規格の策定を主な目的とする組織である。 | {{複数の問題|出典の明記=2020-02|更新=2020-02}}
'''DVDフォーラム'''('''DVD Forum''')は、[[DVD]]規格の普及促進や新たな[[規格]]の策定を主な目的とする組織である。
== 概要 ==
{{See also|規格争い}}
=== 経緯 ===
高画質な映像が記録可能な次世代の[[光ディスク]]として、[[ソニー]]及び[[フィリップス]]が[[MultiMedia Compact Disc|MMCD]]を、[[東芝]]、[[パナソニック]]その他大手家電メーカーが[[Super Density Disc|SD]]をそれぞれ開発し、製品化を目指していたが、規格分裂を回避するため両者が歩み寄り、[[1995年]]に'''DVDコンソーシアム'''を発足させ、両規格を融合させる形で現在のDVD規格を策定した。[[1997年]]に、よりオープンな組織として『DVDフォーラム』に改組された。DVDの規格はデファクトとなった。
=== 記録型DVDでの分裂 ===
しかしながら、MMCDを考案していたソニーとフィリップスはDVD-RAMへの反発から後に『[[DVD+RWアライアンス]]』という団体を作り出している。
=== 第3世代光ディスクへ ===
[[第3世代光ディスク]](当時「次世代DVD」と呼ばれる)の一種である[[HD DVD]]はDVDフォーラムにより制定されたが、これに対抗してソニー、フィリップス、パナソニックほか多数企業は「Blu-ray Disc Association」を構成し[[Blu-ray Disc]]を推進した。規格争いの結果、Blu-ray Discがデファクトとなった。
== 参加企業 ==
(アルファベット順。2008年4月現在)
* Hitachi, Ltd.([[日立製作所]])
* [[IBM|IBM Corporation]]
* Industrial Technology Research Institute
* [[インテル|Intel Corporation]]
* [[LG電子|LG Electronics Inc.]]
* Matsushita Electric Industrial Co. Ltd.(松下電器産業)(現 Panasonic Corporation([[パナソニック]]))
* Memory-Tech Corporation
* [[マイクロソフト|Microsoft Corporation]]
* Mitsubishi Electric Corporation([[三菱電機]])
* NEC Corporation([[日本電気]])
* [[パラマウント映画|Paramount Pictures Corporaton]]
* PIONEER CORPORATION([[パイオニア]])
* [[サムスン電子|SAMSUNG ELECTRONICS CO., LTD.]]
* SANYO Electric Co., Ltd.([[三洋電機]])
* SHARP CORPORATION([[シャープ]])
* Sony Corporation([[ソニー]])
* [[トムソン (企業)|THOMSON]]
* Toshiba Corporation([[東芝]])
* [[ウォルト・ディズニー・カンパニー|Walt Disney Pictures and Television]]
* [[ワーナー・ブラザース|Warner Bros. Entertainment Inc.]]
== 規格 ==
=== アプリケーションフォーマット ===
*[[DVD-VR]]
*[[DVD-Video]]
=== DVDディスクフォーマット ===
*[[DVD-R]]
*[[DVD#DVD-RW|DVD-RW]]
*[[DVD#DVD-R DL|DVD-R DL]]
*[[DVD#DVD-RW DL|DVD-RW DL]](発売中止)
*[[DVD-RAM]]
=== HD DVDディスクフォーマット ===
*[[HD DVD|HD DVD-R]]
*[[HD DVD|HD DVD-RW]]
*[[HD DVD|HD DVD-RAM]]
*[[HD DVD|HD DVD-ROM]]
HD DVD規格は、DVDフォーラムに「次世代DVD」候補として提案、2002年11月26日に「HD DVD」の名称で正式承認したことにより誕生した。2008年2月19日、HD DVD陣営の中心である東芝が全面的な撤退を発表し、BDとの規格争いは事実上終結することとなった。
== 関連項目 ==
*[[DVD+RWアライアンス]]
*[[HD DVD#支持企業一覧|HD DVDプロモーショングループ]]
*[[ブルーレイディスクアソシエーション|Blu-ray Disc Association]]
== 外部リンク ==
* [http://www.dvdforum.org/forum.shtml DVD Forum Official Website (英語)]
* [http://www.osta.org/technology/dvdqa/ Understanding Recordable & Rewritable DVD] by Hugh Bennett
* [http://www.emedialive.com/Articles/ReadArticle.aspx?ArticleID=11629 The Authoritative HD DVD FAQ] by Hugh Bennett
{{Computer-stub}}
[[Category:DVD]]
[[Category:テクノロジー・コンソーシアム]]
[[Category:業界団体]]
[[Category:専門技術団体]]
[[Category:企業連合]] | null | 2022-07-08T13:24:10Z | false | false | false | [
"Template:複数の問題",
"Template:See also",
"Template:Computer-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/DVD%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A0 |
3,471 | エレクトーン | エレクトーン (Electone) は、ヤマハ株式会社が製造発売する電子オルガンの商品名であり、同社の登録商標(登録番号0529966など)となっている。
電子オルガンは、コンボタイプ、チャーチモデルなど演奏される音楽や用途によって分類されているが、エレクトーンは、オールマイティな用途に対応するホームオルガンというタイプの電子オルガンに該当する。
黎明期の電子オルガンは、ハモンドオルガンが機械的にトーンを発生させていた。日本楽器(1987年にヤマハへ社名変更)は技術者をアメリカなどへ派遣させ、トランジスタを使用した純電子式、純半導体式のトーン・ジェネレータを採用した電子オルガンの開発に着手した。電子発信機ではパイプ・オルガンのように、いくつもの音を合成して多彩な音を出すことはコストとスペースの関係で無理があった。そこで電子オルガンメーカーは、初めから倍音を多く含んだ波形の音を発生させ、フィルターで音色を変化させるという手法を採用せざるを得なかった。しかし、外国製品との違いを打ち出すには独特の音色で印象付ける必要があり、さまざまな波形が試みられた。発生が容易な矩形波は奇数次の倍音しか含まなかったり、のこぎり波は特徴ある音にならなかったり、音響エンジニアの腕の見せ所であった。エレクトーンは奇数次の倍音しか含まないという矩形波の欠点を補うため、非対称矩形波を採用した。
日本電気・日本放送協会(NHK放送技術研究所)との共同開発を経て、1958年に「E-T」と名付けられた大型プロトタイプが完成した。このレコード吹込みに使われたE-T型は1台のコンソール、4架の発振器・音色形成部増巾器及び、3台のスピーカーより構成され、コンソールは演奏器で3段の鍵盤、32鍵のペダル鍵盤、171個のスイッチ (ストップ・カプラー・コントローラー等) からなっている。このエレクトーン「E-T」楽器は、道志郎が演奏する「クリスマスメロディーズ・イン・ヤマハエレクトーン」というアルバムにも収録されている。
1959年に初代機種「D-1」が発売された。ただし、当時の大卒初任給を大幅に上回る(当時の自家用車の価格に匹敵する程の)高価な製品であったため、日本楽器は道志郎(官僚から電子オルガン奏者に転向した)らをデモンストレーターに起用し、多彩な音色が一人で奏でられる性能をアピールした。高度経済成長期までは専ら劇伴などの収録を目的としたNHKや映画会社、レコード会社、高級志向の社交場(クラブ・サロン・ダンスホール・ホテルなど)が主に導入していた。また、当初より海外への輸出も行われている。なお、D-1発売に先駆けて日本ビクターが真空管主体による純電子式、部分半導体式の電気オルガン(→ビクトロン)を発売している。
1960年代以降はヤマハ音楽振興会が主宰するヤマハ音楽教室等でのレッスンと、日本楽器の月賦販売制度(現在は行われていない)の拡充により、一般消費者層の家庭にも徐々に浸透していく。これに伴い、ヤマハ音楽教室の在籍生を主な対象するヤマハ音楽能力検定(ヤマハグレード)の実施が始まる。
1970年に「宇宙船」と称された斬新なデザインのステージモデルEX-42を経て、1975年にエレクトーンとして発売されたポリフォニック・シンセサイザー GX-1は、プロユースとして世界的なアーティストによる楽曲制作に活かされた。
各地の結婚式場にも、結婚式における結婚行進曲をはじめとするBGM・余興でのカラオケ伴奏や即興曲の演奏用途として導入され、そこで場を盛り上げる臨機応変な演奏が奏者の稼業となっていた(ただし近年は通信カラオケによる音源再生が台頭しつつある)。
エレクトーンの機能を活かした作曲・アレンジや演奏テクニックを極めた「エレクトーン プレイヤー」と言われるプロミュージシャンも数多く登場し、音楽大学や音楽系専門学校・各種学校の一部に於いてはエレクトーンを用いる専攻課程が置かれている。
エレクトーンは、ピアノ等の高額楽器と同様に「ヤマハ特約店」となっている各地の楽器店等での販売に基本的に限定され、ポータトーン(電子キーボード)やクラビノーバといった他種のヤマハ電子楽器のように家電量販店では売られていない。中古品の売買・流通に関してはこの限りではないが、本体の製造番号部分が毀損されるなどして確認できないと修理受付対象外となる。
現在日本における電子オルガンはエレクトーンの他にローランドがミュージックアトリエという名称で販売しており、各社毎に音楽教室を擁してそれぞれ楽器の普及に努めている。
現行機種は2014年発売の「ELS-02シリーズ」および2016年発売の「ELB-02」「ELC-02」である。2019年にD-1の発売から60年を迎え、エレクトーンは2019年までに累計約500万台が販売された。
エレクトーンは上鍵盤、下鍵盤、ペダル鍵盤、エクスプレッションペダル、セカンドエクスプレッションペダルを備えている。1980年代前半までの機種ではアナログ音源(→アナログシンセサイザー)であり、音色の選択は現物の楽器音(音色:トーン / ボイス)を擬似的に再現した波形をトーンレバーという上げ下げ式のレバーに一つずつ割り当て、演奏時に任意の音色となるように調節する形態であった。1969年-1970年に発売された上級機種よりリズム機能(→ドラムマシン)が装備されることで、演奏者一人で伴奏も組む事が可能となり、更に和音に沿ってリズムとベースを刻むオート・ベース・コード等の登場で伴奏面が強化された。
鍵盤は基本的に上鍵盤+下鍵盤+ペダル鍵盤であり、現行モデルの「Electone STAGEA」では、ベーシックモデル、カジュアルモデル、スタンダードモデル・カスタムモデルで上鍵盤49鍵+下鍵盤49鍵+ペダル鍵盤20鍵、プロフェッショナルモデルでは上鍵盤61鍵+下鍵盤61鍵+ペダル鍵盤25鍵になっている。1970 - 80年代のEX-42, GX-1, D-90, D-800, EX-1, FX-1, FX-20, FX-3, FS-70など、当時の一部モデルに上鍵盤のさらに上に小型のソロ鍵盤も装備された4段鍵盤のものがあった。Hシリーズ以降、ソロ鍵盤を装備したモデルは発売されていない。
ELシリーズまでの機種は分解・組立ができないために本体重量が80~110kg程度と大型冷蔵庫並みでなおかつ精密機械であるため、設置や輸送には楽器搬送の専門業者に依頼して慎重な取扱を実践する必要があった。
ELS-01シリーズで分解・組立が出来、ユーザによる持ち運びも可能なユニット構造が採用されたが、分解後の一番重いキーボードユニットが38kg前後(カスタムモデル)と、大人2人でやっと持ち運べる重さであったため、演奏者自身が楽器を会場に持込み演奏する場合は、メインユニットが20kgを切るD-DECKやSTAGEA D-DECK PACKAGEが使われる事が多かった。
ELS-02シリーズではユーザによる分解・組立が再びできなくなり、コンパクトで持ち運びもできるカジュアルなエレクトーンとしてELC-02が発売され、ELSが基本的に据置型、ELCが可搬型という位置付けとなった。
エレクトーン ステージア (Electone STAGEA) は、2004年3月以降に展開された現行シリーズの商標である。「STAGEA」の名前の由来は、演奏する場としての「ステージ(stage)」と、勇気を与えてくれる女神「ガイア(gaea)」との造語になっており、いろいろな場で活躍し演奏者に勇気を与える楽器になるように名前をつけられている。メインシリーズは型番が「ELS」で始まることから、先代のELシリーズと同様に「ELSシリーズ」と呼ばれることもある。ELSシリーズは、現行モデルの「ELS-02シリーズ」と、旧モデルの「ELS-01シリーズ」に分けられる。
メインの外部記憶装置に関しては、ELS-01シリーズ発売当初はスマートメディアであり、曲集対応のプロテクトデータはスマートメディアに保存するようになっていた。しかし、2005年3月7日、スマートメディアの主な製造メーカーであった東芝がスマートメディアの生産・供給から撤退することを発表したことなどから、外部記憶装置はスマートメディアからUSBメモリへと移行した。また、2009年より発売された「typeU」シリーズではスマートメディアドライブが廃止され、代わりにUSBメモリの着脱を容易にするための専用アダプターが取り付けられた。
また、HS/ELシリーズの頃から「レジストデータに依存」してしまう演奏スタイルが増えてきた事への解決策として「ベーシックレジスト(初期化後にメモリーボタン1〜16にセットされたレジスト)」「レジストレーションメニュー」(通称レジメ)が充実した。これによって多様な音楽ジャンルに合わせた音色の組み合わせが予め準備され、レジストデータを準備していなくともその場で音色をセットして演奏できる機能が強化された。
なお、近年のヤマハエレクトーンフェスティバルのセミファイナルでは、小学校高学年以上の部において自由曲演奏の他にモチーフ即興演奏が規定されている。このモチーフ即興演奏ではレジストデータをUSBメモリでは準備せず、その場で音色をセットして演奏する規定になっている。
2014年よりSTAGEAの新ラインナップ「ELS-02シリーズ」が発売。音色数の増加、スーパーアーティキュレーションボイスの採用など、新技術も多数導入されている。ELS-01シリーズからもELS-02シリーズとほぼ同等の性能にできる「バイタライズユニット」も5月から併売された。
ELS-01シリーズでは六角レンチを用いてユーザ自身での分解と組み立てが可能な「ユニット構造」を採用し、乗用車での可搬が可能であったが、上述の通り分解しても各パーツがまだまだ重い事もあり、ELS-02シリーズでは分解・組立は不可となった。
また、インターネットダイレクトコネクションによりYAMAHAのサイトからレジストレーションを直接ダウンロード購入する機能があったが、2016年7月のバージョンアップ(ELS-02シリーズ)に伴い「ダイレクトコネクション」機能は廃止され、それに代わって「オーディオ」機能が搭載された。
2016年5月には「ELB-02」、2016年12月には「ELC-02」が発売された。ELB-02は対象を大人初心者にまで広げたベーシックモデルとして、ELC-02はELS-02と同等の演奏機能を備えながら、持ち運びができるカジュアルモデルとして発売された。同時にSTAGEA D-DECK PACKAGEをELC-02とほぼ同等の性能にできる「ELCU-M02」も発売された。
エレクトーンは登場からまだ60数年の電子楽器という事もあり、最新機能・技術の導入によるモデルチェンジが行われているが、それに伴い、奏者に買い替えの負担が掛かる、という問題を抱えていた。また、演奏者自身の初級→中級→上級という、上達に伴う買い替えの負担も決して軽くはなかった。STAGEAではその負担を解消すべく
という3種類の方法で、演奏者が楽器を買い替えなくとも、自らが所有する楽器をより新しく、高機能に出来る構造を採用した。
STAGEAでは、バージョンアップと呼ばれるプログラムのバグなどを修正するデータがMumaまたはネット上で無償で提供されており、いつでも最新の状態で演奏を楽しむことができる。
現在の最新バージョン(2022年7月時点)はELS-02シリーズでv2.23、ELB-02(Basic)でv2.03、ELC-02(カジュアル)でv2.13、ELS-01シリーズでv1.92、STAGEA ELB-01(mini)でv1.12、D-DECKでv1.22である。まれにバグの他、機能が追加されるバージョンアップもある。
STAGEAのメインシリーズであるELSシリーズには、「スタンダードモデル」「カスタムモデル」「プロフェッショナルモデル」という3種のモデルがあるが、演奏者の上達に伴い、
が存在する。またそれに付随してスピーカーや椅子も、上級モデルで採用しているタイプに買い替える事が出来る。中にはフルベースにする場合に椅子を上級モデル用のものに買い替える必要がある。
モデルチェンジに伴う新音色搭載、メモリ容量の増大、CPUの高性能化 等、ハードウェア的な進化への対応をパーツ交換で実現するキットで、それまでモデルチェンジの度に買い替えが必要だったのが、キットの交換取付で新機種とほぼ同等の機能を手に入れる事が出来るようになった。
01シリーズを02シリーズ同等にするバイタライズキットは、スタンダード&カスタム用とプロフェッショナル用の2種類がある。なお、バイタライズの場合、鍵盤、フレーム、エクスプレッションペダル、スピーカ等は交換されず、従来のままとなる。
カスタムモデル・プロフェッショナルモデルでは買い替えに比べてかなり安価で新機種とほぼ同等の機能を手に入れられるようになったが、スタンダードモデルでは新機種への買い替えと所有機種をバイタライズとの価格差が小さい上、バイタライズ(28万+取付費)とカスタムモデルへのグレードアップ(28万+取付費)を同時に行うと50万円以上の負担となる。
2004年発売。EL-500の後継として出た「スタンダードモデル」。2009年にはスマートメディアスロットを廃止しUSB端子を前面に出した「type-Uモデル(ELS-01U)」が発売となった。バイタライズユニット装着により、ELS-02相当にバイタライズ可能。
2004年発売。EL-900mの後継として出た「カスタムモデル」。スタンダードモデルに比べ、ペダル鍵盤にもアフタータッチ、セカンドエクスプレッションペダル、上下鍵盤にホリゾンタルタッチ、オルガンフルートが搭載され、椅子は大型に、スピーカーもリアスピーカを備えた大出力のものとなっている。また上下鍵盤のアフタータッチもスタンダードモデルより感度が高くなっており、繊細な表現が可能。2009年にはスマートメディアスロットを廃止しUSB端子を前面に出した「type-Uモデル(ELS-01CU)」が発売となった。
2014年のELS-02C登場まで約10年もの間メイン機種として使われ、2004年11月から2022年10月までヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。 さらにバイタライズユニット装着により、ELS-02C相当にバイタライズ可能なため、エレクトーン史上一番長くメイン機種として使える機種となっている。
2012年発売。本体はELS-01CUと同等だが、スピーカ、椅子をELS-01相当のものとし、価格を抑えた「カスタムモデル・ホームエディション」。ELS-01C同様、バイタライズユニット装着により、ELS-02C相当にバイタライズ可能。
2005年発売。ELX-1mの後継として出た「プロフェッショナルモデル」。カスタムモデルに比べ、スピーカーが別売りとなり、ペダル鍵盤が25鍵盤(2オクターブ)、上下鍵盤が61鍵盤(5オクターブ)となる。また、ペダル鍵盤の背面にキャノンとフォーンのAUX-OUT端子を搭載。ペダルユニットにエクスプレッションペダル、セカンドエクスプレッションペダル、底板が付いたため、ELX-1mまで(PKX-1mが約22kgであった)に比べ、約34.5kgと大幅に重くなり、可搬性が低下した。2009年にはスマートメディアスロットを廃止しUSB端子を前面に出した「type-Uモデル(ELS-01XU)」が発売となった。バイタライズユニット装着により、ELS-02X相当にバイタライズ可能。
ELS-01発売後も併売された「EL-100」の後継となる、音楽教室受講生(主に小児)を中心とするビギナー層を対象としたエントリーモデルである。ELSシリーズとは構造や機能面が若干異なり、演奏データなどはELSシリーズと一定の下位互換性を有する。
2006年2月発売。ELS-01と比べてやや小型の外見であり、上下鍵盤のアフタータッチ、大型カラータッチパネルやニーレバーは非搭載である。ELS-02CやELS-02Xなどへの分解・グレードアップは不可能であるが、その分希望小売価格はスタンダードモデルに比べて抑えられている。音楽教室用は型名末尾にK、レンタル提供用はRが付く。
2016年5月発売。ELB-01の主要対象であった音楽教室受講生(主に小児)から大人初心者層にも対象を広げ、名称も「mini」から「basic」となった。新設計したFSB鍵盤が採用され、上下鍵盤のアフタータッチが付き、表現力が大幅に向上した。ELB-01同様、音楽教室用は型名末尾にK、レンタル提供用はRが付く。
2020年1月より、このELB-02をペイントした「ストリートエレクトーン」を広場等に設置するプロジェクトが始まった。
D-DECKは、ヤマハのデュアルマニュアルキーボード(2段の鍵盤を搭載しているキーボード)の商品名である。STAGEAからペダル鍵盤をとったようなものであり、ELSシリーズ (STAGEA) との一部上位互換性があり、オルガンフルートなどを装備している。専用スタンドとペダル鍵盤を加える事で、ELSシリーズとほぼ同等の演奏環境が構築できる。ELC-02はその後継モデルとなり、D-DECKは生産完了となった。
2006年11月発売。音色ボタンが大幅に省略されているほか、自然な演奏ポジションを可能にした2段鍵盤になっており、ライブでの使用に特化した構成となっている。ELS-02CやELS-02Xなどへのグレードアップができないが、オルガンフルートを標準搭載している。本体にスピーカーはなく、外付けスピーカーも別売になる。ペダル鍵盤がなくともレジストシフトやロータリースピーカーのOn/Offが出来るよう、ユーティリティ画面でフットスイッチやニーレバーの設定をさせ、レジストとしてUSBメモリに記録しておける。
2006年11月発売。本体 (DDK-7) にDDKU-P7(ペダルユニット)、DDKU-L7(キーボードスタンド)、DDKU-B7(専用椅子)、DDKU-R7(譜面板)を足したものである。3段鍵盤の状態で、ELS-01(U)の演奏データを再現することが可能。STAGEA等に標準搭載のニーレバーはなく、オプションペダルにアサインして使うため、D-DECK用にレジストを修正し記録しておく必要がある。
2016年12月発売。STAGEA D-DECK PACKAGEの後継モデルとして、本体・ペダル・キーボード・イス・譜面板・スピーカーがパッケージとなっている。STAGEAシリーズの1機種という扱いとなり、「カジュアルモデル」という名称が与えられた。楽譜の対応機種にELC-02の表記が加わり、ELSシリーズに装備されているニーレバーの代用として使われるフットペダルの設定を別途行わなくともアサインされるようになった。半面、本体にボリュームペダルを繋いだり、フットペダルにレジストシフトやロータリースピーカー等の機能を割り振る事は出来ず(サスティン、ソロ、メロディーオンコード、リードスライドのみ)、本体とペダルをセットで使う事が前提の仕様となった。ELS-02よりも安価で、ニーレバーを搭載していないが、セカンドエクスプレッションペダルとオルガンフルートを標準搭載している。また、イスが折り畳める形状に変更され、可搬性が向上した。
2016年12月発売。既にSTAGEA D-DECK PACKAGEを所有しているユーザに対し、本体部分の買い替えのみでELC-02同様となるメインユニット。D-DECK(DDK-7)と違い、ペダルユニットとセットで使う事が前提(単体で使う事が想定されていない)のため、ボリュームペダルを接続して音量を変えたり、フットペダルにレジストシフトやロータリースピーカー等の機能を割り振る事は出来ない。
2022年9月に中国ヤマハで発表。上下鍵盤ともアフタータッチは非搭載、キーボードボイスが1だけ等、ELB以上にある機能の一部が削減されている一方、オルガンフルートやセカンドエクスプレッションペダルを搭載するなど、ELS-02にもない機能を標準搭載している。日本では2022年9月時点では未発表。
ELシリーズは、1991年3月から2004年3月までに展開されたエレクトーンのシリーズである。型番が「EL」で始まることからこう呼ばれた。Hシリーズで初めて採用されたAWM音源をフルートボイスを除く全音色に採用し、音色のリアル感が飛躍的に向上した。姉妹モデルとして、ステージモデルの「ELXシリーズ」と、音楽教室向けの「ELKシリーズ」がある(ともにSTAGEAでは「ELS」で始まる型番に統合)。
当初展開された「EL10番台(2桁)シリーズ」と、EL-900以降に展開された「EL100番台(3桁)シリーズ」に分けられる。
海外では以下で記載したモデル以外にも、EL-60、EL-40、EL-28、EL-25、EL-15、EL-7、EL-3というモデルが存在した。
参考
1987年発売。FM音源と初期のAWM音源を採用したステージモデル。初のユニット構造を採用したエレクトーン。ユニットごとにアップグレードすることで上位モデルになるものの、多くが全て最上位モデルで購入されることが多く、実際にはHX-1と名乗ることが多かった。AWM音源の音色は同時期に発売されたクラビノーバと同様に、サンプリングレートが低いため、音が暖かくこもり気味であるのが特徴。リズムパターンも自作で作ることが可能となった。MIDI端子及び一般向けのオーディオ端子もエレクトーンとしては初採用であった。当時のFM音源としては、HX-1のみ最高オペレータ数の8オペレータ及び16オペレータを採用していた。HX SYSTEMからソロ鍵盤がなくなり、液晶表示の採用、電動スライダーの廃止、詳細設定が可能な完全なデジタルなつまみが採用となった。ペダル鍵盤のイニシャルタッチとアフタータッチ、セカンドエクスプレッションペダル、ピッチベンド、モジュレーションホイールが初搭載された。FM音源の音色はコンピュータ等を介してユーザーボイスを作成できるようになった。1987年11月から1996年3月までHX-1がヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。
1987年発売。HX SYSTEMの技術や先行のMEシリーズの機能を使用した、FS/FEシリーズの後継機種。FM音源のエディットが可能となり、AWM音源が登場。HX SYSTEM同様、MIDIインターフェイスを積極的に採用し、外部記憶装置もMIDI規格に準拠したMDR-2P/MDR-3Pとなり、リズムパターンを自作出来るなど、ミュージックシーケンサー並の自動伴奏・演奏機能が確立された。
HS-4,5,6,7,8の5機種があり、HS-8が指導者向けの、HS-5が学習者向けのメイン機種であった。HX SYSTEMとの互換性はなし。翌1988年にFE/MEシリーズの後継となるHE-5、教室モデルのHK-10(一般発売はなし)、1989年にFC/MEシリーズの後継となるHCシリーズが発売された。1987年11月から1998年10月までHS-8がヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。
1985年発売。ME-600/400がまず発売され、マルチメニュー等、FX/FSシリーズにない新機能が追加された。翌年ME-55/35/15が発売され、それまでの機種にはなかったペパーミントグリーンやピンク等のカラーバリエーションが展開された。
1983年発売。FM音源とFWM音源(リズム音源)を搭載した、完全なコンピュータ制御による一般向けエレクトーン。開発時、ヤマハ目黒のスタジオ一面に回路図を敷いて、不具合修正をしたというエピソードがある。エフェクトも全てデジタル方式となり、リズム・ボイス等の設定を機器が記憶する「レジストレーションメモリー」機能や演奏データをフロッピーディスクやRAMパックで保存・読み出しが可能となる外部記憶装置MDR-1A/1Bが登場した。ボリュームつまみは、従来のレジストレーションつまみのようなアナログつまみをイメージしたスライダーで、つまみをいじると内部の抵抗から音源に対して直接音量調整がされるようになる。レジストレーション番号を変えることによって、内部のモーターが動作し、全てのつまみが物理的に動作する仕組み(電動スライダー、FS-50,70,FXシリーズのみ)になっている。また機能面だけでなく、打鍵の速さで音質/音量を変えるイニシャルタッチ、鍵盤を押し込んで音質を変えるアフタータッチ機能が上下鍵盤に初めて搭載される等、楽器としての表現力も大幅に向上した。
が発売された。また後にFS-30にRAMパックが付加されたFS-30Aが発売された。1984年11月から1992年10月までFX-20が、1994年3月までFS-30/FS-30Aがヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。
1981年発売。初のFM音源搭載のエレクトーン。F-70,F-50,F-30の3機種が発売される。パイプオルガン等の代替用として開発され、一般のエレクトーン教室等で見られることはなかった。 また1989年にはF-700が、1992年にはF-300,400が、1994年にはF-100,200が発売された。2000年に発売終了し、現在クラシックオルガン需要にはバイカウントオルガンの輸入取り扱いにて対応している。
1号機からFS/FXシリーズ登場までは、概ね鍵盤数によりシリーズ分けされていた。
ただ初期にはCシリーズでも上下鍵盤が49鍵ある等、違う鍵盤数のモデルもあった。
1977年に発売したE-70/50/30、D-90/60/40シリーズからはPASSystem(パルス・アナログ・シンセサイザーシステム)が採用され、持続・減衰以外の複雑な音の波形が生み出された。
1980年に発売したE-700/500、D-800/700/600/500シリーズでは、リズムのテンポがデジタル表示されたり、ブレークバリエーションボタン(現在のFill inボタン)が搭載され、徐々にデジタル技術が導入されていった。
1977年発売。パルス(デジタル)アナログシンセサイザー技術を使用して作られた楽器。従来は非常に多くのトランジスタや抵抗、コンデンサによって楽器が構成されていたが、LSI化することでコスト削減及び楽器としての安定性・クォリティーを高めることができた。
1975年発売。エレクトーンの中では一番値段が高い機種である。アナログシンセサイザーで構成された唯一のエレクトーンであり、長期に渡りステージモデルとして活躍した。音色はパネル上部にあるアナログシンセサイザーモジュールを取り外して、直接作成することができる。音色に自由度がある反面、本体の一部を開口する為に、音色の作成難易度は非常に高めであった。
1970年発売。ソロ鍵盤が初搭載され、ペダル鍵盤も2オクターブあった。
1959年発売。アンプ以外はすべてトランジスタ(281石)を採用した、販売されたエレクトーンとしての初代機種である。
1968年登場。上記 EX-42の試作機であった。
1958年完成。日本楽器 (ヤマハ) が開発したエレクトーンのプロトタイプ。このレコード吹込みに使われたE-T型は1台のコンソール、4架の発振器・音色形成部増巾器及び、3台のスピーカーより構成されている。コンソールは演奏器で3段の鍵盤、32鍵のペダル鍵盤、171個のスイッチ(ストップ・カプラー・コントローラー等)からなっていた。レコーディングは、1958年にリリースされ、道志郎が演奏した「クリスマスメロディーズ・イン・ヤマハエレクトーン」という名前のクリスマスアルバムにも掲載された。
楽譜はヤマハの関連会社ヤマハ・ミュージック・メディア (YMM) が独占的に提供している。情報雑誌の「月刊エレクトーン」には最新のヒット曲が(数ヶ月遅れで)数曲掲載されている。1990年代にはkmpも登録商標の許諾を得て発売していた。
楽譜の表記はペダル鍵盤がある分3段用意されている。基本的に譜面はピアノ譜と同等であるが、レジストリメモリーの移動タイミングの表記などヤマハ独自の仕様が数多く存在するため、別途知識が必要となる。
月刊エレクトーン掲載曲やYMM発売の一部曲集の音源に関しては、特約店に設置してある「Muma」を利用することで有償で入手可能である。ステージアではMumaの他、PCブラウザーやダイレクトコネクション機能を介して「Electone Station」のデータ販売(ダウンロード販売)サイトで購入し、USBメモリ・スマートメディアに保存(ムーブ)する手段も存在する。
先代のELシリーズ向け曲集には音源データの入ったフロッピーディスクが同梱されていることが多かったが、STAGEAシリーズが主流になってからの曲集は基本的には楽譜のみで、前述の手段を利用することでELシリーズまたはSTAGEAシリーズのレジストレーションデータを購入するように改められている。
また、曲集によりSTAGEAシリーズのみ対応のもの、STAGEAシリーズ・ELシリーズ両方に対応のものがある。
曲集付録・mumaやダウンロード販売で購入した各種メディアの楽曲データには独自のコピープロテクトがかけられており、これを改ざんする等してコピーを行った場合はバックアップ等の私的利用であっても著作権法に抵触する。スマートメディアではIDと関連づけされたSCMSによりファイルに手を加えると再生不能となる。PCで購入した楽曲は「Musicsoft Downloader」という専用ソフトを介して、PC内に一時保存されたデータをUSBメモリやスマートメディアへムーブする形態となっており、これ以外の手段(エクスプローラを用いてファイル操作を行う等)ではファイルが破損する仕組みとなっている。
曲集に付属のFDのデータが経年劣化などの理由で消失した場合、YMMでは発売から一定期間は現品送付と実費負担を条件にFDの交換に応じていた。但し発売から相当年数経過(概ね2000年以前)の作品では対応していないため注意が必要であった。
なお、現在はフロッピーディスクの生産終了に伴い、FD商品販売も2013年12月末に終了している。
ELシリーズ用のレジストレーションデータは、別売のMDR-5を接続し、FD→MDR-5変換を行ったり、MDR-5用データを購入する等して、USBメモリを用いるように改められたが、2016年6月をもってデータ制作が終了となった。
各機種ごとの固有の機能を使用する場合、以下の要因から、別の機種では同じ音が出せないという問題が、FS/FXシリーズからELシリーズまでは顕著であった。
STAGEAになってからは、ELS-02シリーズでELS-01シリーズの音色データは、ドラム/パーカッションのピッチを大幅に変更した場合を除き、ほぼ問題なく再生出来るように改善された。
エレクトーン奏者のこと。中には全国ネット番組のBGM制作を担当する者もいる。大別すると、株式会社ヤマハミュージックジャパンに所属しその傘下で活動している者、ヤマハ株式会社の支援を受けている独立系のエレクトーン・プレイヤー、メーカーの支援に依存せずに活動するフリーランスの電子オルガン奏者がいる。
2019年3月31日を以てヤマハ音楽振興会におけるエレクトーンプレイヤーマネジメント業務が終了した事に伴い、ヤマハ音楽振興会所属だったエレクトーンプレイヤーの大部分は「ヤマハエレクトーンプレイヤー」として、ヤマハミュージックジャパンと演奏契約を結んでいる。また、ヤマハでは主にヤマハエレクトーンシティがプレイヤーへの支援業務を行っている。なおヤマハエレクトーンシティ渋谷は、渋谷駅周辺再開発により2017年12月に閉館し、2018年3月にヤマハ音楽振興会ビルの1Fに移転し、名称も「ヤマハエレクトーンシティ」となった。
エレクトーンの演奏活動を行う団体のこと。2000年代に入り急速に発展した。主に大学に所属するサークルと社会人のサークルに大別される。ヤマハでは主に「ヤマハエレクトーンシティ」がエレクトーンサークルへの支援を行っている。
全国エレクトーンサークルネットワーク(通称「EC-net」)と呼ばれる、非営利の機構が存在し、毎年3月に全国エレクトーンサークルジョイントコンサートを開催している。2016年現在EC-netの加盟サークルは24である。全体的に東日本の大学に偏っており、中国・四国・九州地方では近畿大学工学部にエレクトーンサークルが存在するのみとなっている。 | [
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"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "日本電気・日本放送協会(NHK放送技術研究所)との共同開発を経て、1958年に「E-T」と名付けられた大型プロトタイプが完成した。このレコード吹込みに使われたE-T型は1台のコンソール、4架の発振器・音色形成部増巾器及び、3台のスピーカーより構成され、コンソールは演奏器で3段の鍵盤、32鍵のペダル鍵盤、171個のスイッチ (ストップ・カプラー・コントローラー等) からなっている。このエレクトーン「E-T」楽器は、道志郎が演奏する「クリスマスメロディーズ・イン・ヤマハエレクトーン」というアルバムにも収録されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "1959年に初代機種「D-1」が発売された。ただし、当時の大卒初任給を大幅に上回る(当時の自家用車の価格に匹敵する程の)高価な製品であったため、日本楽器は道志郎(官僚から電子オルガン奏者に転向した)らをデモンストレーターに起用し、多彩な音色が一人で奏でられる性能をアピールした。高度経済成長期までは専ら劇伴などの収録を目的としたNHKや映画会社、レコード会社、高級志向の社交場(クラブ・サロン・ダンスホール・ホテルなど)が主に導入していた。また、当初より海外への輸出も行われている。なお、D-1発売に先駆けて日本ビクターが真空管主体による純電子式、部分半導体式の電気オルガン(→ビクトロン)を発売している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "1960年代以降はヤマハ音楽振興会が主宰するヤマハ音楽教室等でのレッスンと、日本楽器の月賦販売制度(現在は行われていない)の拡充により、一般消費者層の家庭にも徐々に浸透していく。これに伴い、ヤマハ音楽教室の在籍生を主な対象するヤマハ音楽能力検定(ヤマハグレード)の実施が始まる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "1970年に「宇宙船」と称された斬新なデザインのステージモデルEX-42を経て、1975年にエレクトーンとして発売されたポリフォニック・シンセサイザー GX-1は、プロユースとして世界的なアーティストによる楽曲制作に活かされた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "各地の結婚式場にも、結婚式における結婚行進曲をはじめとするBGM・余興でのカラオケ伴奏や即興曲の演奏用途として導入され、そこで場を盛り上げる臨機応変な演奏が奏者の稼業となっていた(ただし近年は通信カラオケによる音源再生が台頭しつつある)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "エレクトーンの機能を活かした作曲・アレンジや演奏テクニックを極めた「エレクトーン プレイヤー」と言われるプロミュージシャンも数多く登場し、音楽大学や音楽系専門学校・各種学校の一部に於いてはエレクトーンを用いる専攻課程が置かれている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "エレクトーンは、ピアノ等の高額楽器と同様に「ヤマハ特約店」となっている各地の楽器店等での販売に基本的に限定され、ポータトーン(電子キーボード)やクラビノーバといった他種のヤマハ電子楽器のように家電量販店では売られていない。中古品の売買・流通に関してはこの限りではないが、本体の製造番号部分が毀損されるなどして確認できないと修理受付対象外となる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "現在日本における電子オルガンはエレクトーンの他にローランドがミュージックアトリエという名称で販売しており、各社毎に音楽教室を擁してそれぞれ楽器の普及に努めている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "現行機種は2014年発売の「ELS-02シリーズ」および2016年発売の「ELB-02」「ELC-02」である。2019年にD-1の発売から60年を迎え、エレクトーンは2019年までに累計約500万台が販売された。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "エレクトーンは上鍵盤、下鍵盤、ペダル鍵盤、エクスプレッションペダル、セカンドエクスプレッションペダルを備えている。1980年代前半までの機種ではアナログ音源(→アナログシンセサイザー)であり、音色の選択は現物の楽器音(音色:トーン / ボイス)を擬似的に再現した波形をトーンレバーという上げ下げ式のレバーに一つずつ割り当て、演奏時に任意の音色となるように調節する形態であった。1969年-1970年に発売された上級機種よりリズム機能(→ドラムマシン)が装備されることで、演奏者一人で伴奏も組む事が可能となり、更に和音に沿ってリズムとベースを刻むオート・ベース・コード等の登場で伴奏面が強化された。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "鍵盤は基本的に上鍵盤+下鍵盤+ペダル鍵盤であり、現行モデルの「Electone STAGEA」では、ベーシックモデル、カジュアルモデル、スタンダードモデル・カスタムモデルで上鍵盤49鍵+下鍵盤49鍵+ペダル鍵盤20鍵、プロフェッショナルモデルでは上鍵盤61鍵+下鍵盤61鍵+ペダル鍵盤25鍵になっている。1970 - 80年代のEX-42, GX-1, D-90, D-800, EX-1, FX-1, FX-20, FX-3, FS-70など、当時の一部モデルに上鍵盤のさらに上に小型のソロ鍵盤も装備された4段鍵盤のものがあった。Hシリーズ以降、ソロ鍵盤を装備したモデルは発売されていない。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "ELシリーズまでの機種は分解・組立ができないために本体重量が80~110kg程度と大型冷蔵庫並みでなおかつ精密機械であるため、設置や輸送には楽器搬送の専門業者に依頼して慎重な取扱を実践する必要があった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ELS-01シリーズで分解・組立が出来、ユーザによる持ち運びも可能なユニット構造が採用されたが、分解後の一番重いキーボードユニットが38kg前後(カスタムモデル)と、大人2人でやっと持ち運べる重さであったため、演奏者自身が楽器を会場に持込み演奏する場合は、メインユニットが20kgを切るD-DECKやSTAGEA D-DECK PACKAGEが使われる事が多かった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ELS-02シリーズではユーザによる分解・組立が再びできなくなり、コンパクトで持ち運びもできるカジュアルなエレクトーンとしてELC-02が発売され、ELSが基本的に据置型、ELCが可搬型という位置付けとなった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "エレクトーン ステージア (Electone STAGEA) は、2004年3月以降に展開された現行シリーズの商標である。「STAGEA」の名前の由来は、演奏する場としての「ステージ(stage)」と、勇気を与えてくれる女神「ガイア(gaea)」との造語になっており、いろいろな場で活躍し演奏者に勇気を与える楽器になるように名前をつけられている。メインシリーズは型番が「ELS」で始まることから、先代のELシリーズと同様に「ELSシリーズ」と呼ばれることもある。ELSシリーズは、現行モデルの「ELS-02シリーズ」と、旧モデルの「ELS-01シリーズ」に分けられる。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "メインの外部記憶装置に関しては、ELS-01シリーズ発売当初はスマートメディアであり、曲集対応のプロテクトデータはスマートメディアに保存するようになっていた。しかし、2005年3月7日、スマートメディアの主な製造メーカーであった東芝がスマートメディアの生産・供給から撤退することを発表したことなどから、外部記憶装置はスマートメディアからUSBメモリへと移行した。また、2009年より発売された「typeU」シリーズではスマートメディアドライブが廃止され、代わりにUSBメモリの着脱を容易にするための専用アダプターが取り付けられた。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また、HS/ELシリーズの頃から「レジストデータに依存」してしまう演奏スタイルが増えてきた事への解決策として「ベーシックレジスト(初期化後にメモリーボタン1〜16にセットされたレジスト)」「レジストレーションメニュー」(通称レジメ)が充実した。これによって多様な音楽ジャンルに合わせた音色の組み合わせが予め準備され、レジストデータを準備していなくともその場で音色をセットして演奏できる機能が強化された。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "なお、近年のヤマハエレクトーンフェスティバルのセミファイナルでは、小学校高学年以上の部において自由曲演奏の他にモチーフ即興演奏が規定されている。このモチーフ即興演奏ではレジストデータをUSBメモリでは準備せず、その場で音色をセットして演奏する規定になっている。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2014年よりSTAGEAの新ラインナップ「ELS-02シリーズ」が発売。音色数の増加、スーパーアーティキュレーションボイスの採用など、新技術も多数導入されている。ELS-01シリーズからもELS-02シリーズとほぼ同等の性能にできる「バイタライズユニット」も5月から併売された。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ELS-01シリーズでは六角レンチを用いてユーザ自身での分解と組み立てが可能な「ユニット構造」を採用し、乗用車での可搬が可能であったが、上述の通り分解しても各パーツがまだまだ重い事もあり、ELS-02シリーズでは分解・組立は不可となった。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "また、インターネットダイレクトコネクションによりYAMAHAのサイトからレジストレーションを直接ダウンロード購入する機能があったが、2016年7月のバージョンアップ(ELS-02シリーズ)に伴い「ダイレクトコネクション」機能は廃止され、それに代わって「オーディオ」機能が搭載された。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2016年5月には「ELB-02」、2016年12月には「ELC-02」が発売された。ELB-02は対象を大人初心者にまで広げたベーシックモデルとして、ELC-02はELS-02と同等の演奏機能を備えながら、持ち運びができるカジュアルモデルとして発売された。同時にSTAGEA D-DECK PACKAGEをELC-02とほぼ同等の性能にできる「ELCU-M02」も発売された。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "エレクトーンは登場からまだ60数年の電子楽器という事もあり、最新機能・技術の導入によるモデルチェンジが行われているが、それに伴い、奏者に買い替えの負担が掛かる、という問題を抱えていた。また、演奏者自身の初級→中級→上級という、上達に伴う買い替えの負担も決して軽くはなかった。STAGEAではその負担を解消すべく",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "という3種類の方法で、演奏者が楽器を買い替えなくとも、自らが所有する楽器をより新しく、高機能に出来る構造を採用した。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "STAGEAでは、バージョンアップと呼ばれるプログラムのバグなどを修正するデータがMumaまたはネット上で無償で提供されており、いつでも最新の状態で演奏を楽しむことができる。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "現在の最新バージョン(2022年7月時点)はELS-02シリーズでv2.23、ELB-02(Basic)でv2.03、ELC-02(カジュアル)でv2.13、ELS-01シリーズでv1.92、STAGEA ELB-01(mini)でv1.12、D-DECKでv1.22である。まれにバグの他、機能が追加されるバージョンアップもある。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "STAGEAのメインシリーズであるELSシリーズには、「スタンダードモデル」「カスタムモデル」「プロフェッショナルモデル」という3種のモデルがあるが、演奏者の上達に伴い、",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "が存在する。またそれに付随してスピーカーや椅子も、上級モデルで採用しているタイプに買い替える事が出来る。中にはフルベースにする場合に椅子を上級モデル用のものに買い替える必要がある。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "モデルチェンジに伴う新音色搭載、メモリ容量の増大、CPUの高性能化 等、ハードウェア的な進化への対応をパーツ交換で実現するキットで、それまでモデルチェンジの度に買い替えが必要だったのが、キットの交換取付で新機種とほぼ同等の機能を手に入れる事が出来るようになった。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "01シリーズを02シリーズ同等にするバイタライズキットは、スタンダード&カスタム用とプロフェッショナル用の2種類がある。なお、バイタライズの場合、鍵盤、フレーム、エクスプレッションペダル、スピーカ等は交換されず、従来のままとなる。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "カスタムモデル・プロフェッショナルモデルでは買い替えに比べてかなり安価で新機種とほぼ同等の機能を手に入れられるようになったが、スタンダードモデルでは新機種への買い替えと所有機種をバイタライズとの価格差が小さい上、バイタライズ(28万+取付費)とカスタムモデルへのグレードアップ(28万+取付費)を同時に行うと50万円以上の負担となる。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2004年発売。EL-500の後継として出た「スタンダードモデル」。2009年にはスマートメディアスロットを廃止しUSB端子を前面に出した「type-Uモデル(ELS-01U)」が発売となった。バイタライズユニット装着により、ELS-02相当にバイタライズ可能。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2004年発売。EL-900mの後継として出た「カスタムモデル」。スタンダードモデルに比べ、ペダル鍵盤にもアフタータッチ、セカンドエクスプレッションペダル、上下鍵盤にホリゾンタルタッチ、オルガンフルートが搭載され、椅子は大型に、スピーカーもリアスピーカを備えた大出力のものとなっている。また上下鍵盤のアフタータッチもスタンダードモデルより感度が高くなっており、繊細な表現が可能。2009年にはスマートメディアスロットを廃止しUSB端子を前面に出した「type-Uモデル(ELS-01CU)」が発売となった。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2014年のELS-02C登場まで約10年もの間メイン機種として使われ、2004年11月から2022年10月までヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。 さらにバイタライズユニット装着により、ELS-02C相当にバイタライズ可能なため、エレクトーン史上一番長くメイン機種として使える機種となっている。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2012年発売。本体はELS-01CUと同等だが、スピーカ、椅子をELS-01相当のものとし、価格を抑えた「カスタムモデル・ホームエディション」。ELS-01C同様、バイタライズユニット装着により、ELS-02C相当にバイタライズ可能。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2005年発売。ELX-1mの後継として出た「プロフェッショナルモデル」。カスタムモデルに比べ、スピーカーが別売りとなり、ペダル鍵盤が25鍵盤(2オクターブ)、上下鍵盤が61鍵盤(5オクターブ)となる。また、ペダル鍵盤の背面にキャノンとフォーンのAUX-OUT端子を搭載。ペダルユニットにエクスプレッションペダル、セカンドエクスプレッションペダル、底板が付いたため、ELX-1mまで(PKX-1mが約22kgであった)に比べ、約34.5kgと大幅に重くなり、可搬性が低下した。2009年にはスマートメディアスロットを廃止しUSB端子を前面に出した「type-Uモデル(ELS-01XU)」が発売となった。バイタライズユニット装着により、ELS-02X相当にバイタライズ可能。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ELS-01発売後も併売された「EL-100」の後継となる、音楽教室受講生(主に小児)を中心とするビギナー層を対象としたエントリーモデルである。ELSシリーズとは構造や機能面が若干異なり、演奏データなどはELSシリーズと一定の下位互換性を有する。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2006年2月発売。ELS-01と比べてやや小型の外見であり、上下鍵盤のアフタータッチ、大型カラータッチパネルやニーレバーは非搭載である。ELS-02CやELS-02Xなどへの分解・グレードアップは不可能であるが、その分希望小売価格はスタンダードモデルに比べて抑えられている。音楽教室用は型名末尾にK、レンタル提供用はRが付く。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2016年5月発売。ELB-01の主要対象であった音楽教室受講生(主に小児)から大人初心者層にも対象を広げ、名称も「mini」から「basic」となった。新設計したFSB鍵盤が採用され、上下鍵盤のアフタータッチが付き、表現力が大幅に向上した。ELB-01同様、音楽教室用は型名末尾にK、レンタル提供用はRが付く。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2020年1月より、このELB-02をペイントした「ストリートエレクトーン」を広場等に設置するプロジェクトが始まった。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "D-DECKは、ヤマハのデュアルマニュアルキーボード(2段の鍵盤を搭載しているキーボード)の商品名である。STAGEAからペダル鍵盤をとったようなものであり、ELSシリーズ (STAGEA) との一部上位互換性があり、オルガンフルートなどを装備している。専用スタンドとペダル鍵盤を加える事で、ELSシリーズとほぼ同等の演奏環境が構築できる。ELC-02はその後継モデルとなり、D-DECKは生産完了となった。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2006年11月発売。音色ボタンが大幅に省略されているほか、自然な演奏ポジションを可能にした2段鍵盤になっており、ライブでの使用に特化した構成となっている。ELS-02CやELS-02Xなどへのグレードアップができないが、オルガンフルートを標準搭載している。本体にスピーカーはなく、外付けスピーカーも別売になる。ペダル鍵盤がなくともレジストシフトやロータリースピーカーのOn/Offが出来るよう、ユーティリティ画面でフットスイッチやニーレバーの設定をさせ、レジストとしてUSBメモリに記録しておける。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2006年11月発売。本体 (DDK-7) にDDKU-P7(ペダルユニット)、DDKU-L7(キーボードスタンド)、DDKU-B7(専用椅子)、DDKU-R7(譜面板)を足したものである。3段鍵盤の状態で、ELS-01(U)の演奏データを再現することが可能。STAGEA等に標準搭載のニーレバーはなく、オプションペダルにアサインして使うため、D-DECK用にレジストを修正し記録しておく必要がある。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2016年12月発売。STAGEA D-DECK PACKAGEの後継モデルとして、本体・ペダル・キーボード・イス・譜面板・スピーカーがパッケージとなっている。STAGEAシリーズの1機種という扱いとなり、「カジュアルモデル」という名称が与えられた。楽譜の対応機種にELC-02の表記が加わり、ELSシリーズに装備されているニーレバーの代用として使われるフットペダルの設定を別途行わなくともアサインされるようになった。半面、本体にボリュームペダルを繋いだり、フットペダルにレジストシフトやロータリースピーカー等の機能を割り振る事は出来ず(サスティン、ソロ、メロディーオンコード、リードスライドのみ)、本体とペダルをセットで使う事が前提の仕様となった。ELS-02よりも安価で、ニーレバーを搭載していないが、セカンドエクスプレッションペダルとオルガンフルートを標準搭載している。また、イスが折り畳める形状に変更され、可搬性が向上した。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2016年12月発売。既にSTAGEA D-DECK PACKAGEを所有しているユーザに対し、本体部分の買い替えのみでELC-02同様となるメインユニット。D-DECK(DDK-7)と違い、ペダルユニットとセットで使う事が前提(単体で使う事が想定されていない)のため、ボリュームペダルを接続して音量を変えたり、フットペダルにレジストシフトやロータリースピーカー等の機能を割り振る事は出来ない。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2022年9月に中国ヤマハで発表。上下鍵盤ともアフタータッチは非搭載、キーボードボイスが1だけ等、ELB以上にある機能の一部が削減されている一方、オルガンフルートやセカンドエクスプレッションペダルを搭載するなど、ELS-02にもない機能を標準搭載している。日本では2022年9月時点では未発表。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ELシリーズは、1991年3月から2004年3月までに展開されたエレクトーンのシリーズである。型番が「EL」で始まることからこう呼ばれた。Hシリーズで初めて採用されたAWM音源をフルートボイスを除く全音色に採用し、音色のリアル感が飛躍的に向上した。姉妹モデルとして、ステージモデルの「ELXシリーズ」と、音楽教室向けの「ELKシリーズ」がある(ともにSTAGEAでは「ELS」で始まる型番に統合)。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "当初展開された「EL10番台(2桁)シリーズ」と、EL-900以降に展開された「EL100番台(3桁)シリーズ」に分けられる。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "海外では以下で記載したモデル以外にも、EL-60、EL-40、EL-28、EL-25、EL-15、EL-7、EL-3というモデルが存在した。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "参考",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1987年発売。FM音源と初期のAWM音源を採用したステージモデル。初のユニット構造を採用したエレクトーン。ユニットごとにアップグレードすることで上位モデルになるものの、多くが全て最上位モデルで購入されることが多く、実際にはHX-1と名乗ることが多かった。AWM音源の音色は同時期に発売されたクラビノーバと同様に、サンプリングレートが低いため、音が暖かくこもり気味であるのが特徴。リズムパターンも自作で作ることが可能となった。MIDI端子及び一般向けのオーディオ端子もエレクトーンとしては初採用であった。当時のFM音源としては、HX-1のみ最高オペレータ数の8オペレータ及び16オペレータを採用していた。HX SYSTEMからソロ鍵盤がなくなり、液晶表示の採用、電動スライダーの廃止、詳細設定が可能な完全なデジタルなつまみが採用となった。ペダル鍵盤のイニシャルタッチとアフタータッチ、セカンドエクスプレッションペダル、ピッチベンド、モジュレーションホイールが初搭載された。FM音源の音色はコンピュータ等を介してユーザーボイスを作成できるようになった。1987年11月から1996年3月までHX-1がヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1987年発売。HX SYSTEMの技術や先行のMEシリーズの機能を使用した、FS/FEシリーズの後継機種。FM音源のエディットが可能となり、AWM音源が登場。HX SYSTEM同様、MIDIインターフェイスを積極的に採用し、外部記憶装置もMIDI規格に準拠したMDR-2P/MDR-3Pとなり、リズムパターンを自作出来るなど、ミュージックシーケンサー並の自動伴奏・演奏機能が確立された。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "HS-4,5,6,7,8の5機種があり、HS-8が指導者向けの、HS-5が学習者向けのメイン機種であった。HX SYSTEMとの互換性はなし。翌1988年にFE/MEシリーズの後継となるHE-5、教室モデルのHK-10(一般発売はなし)、1989年にFC/MEシリーズの後継となるHCシリーズが発売された。1987年11月から1998年10月までHS-8がヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1985年発売。ME-600/400がまず発売され、マルチメニュー等、FX/FSシリーズにない新機能が追加された。翌年ME-55/35/15が発売され、それまでの機種にはなかったペパーミントグリーンやピンク等のカラーバリエーションが展開された。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1983年発売。FM音源とFWM音源(リズム音源)を搭載した、完全なコンピュータ制御による一般向けエレクトーン。開発時、ヤマハ目黒のスタジオ一面に回路図を敷いて、不具合修正をしたというエピソードがある。エフェクトも全てデジタル方式となり、リズム・ボイス等の設定を機器が記憶する「レジストレーションメモリー」機能や演奏データをフロッピーディスクやRAMパックで保存・読み出しが可能となる外部記憶装置MDR-1A/1Bが登場した。ボリュームつまみは、従来のレジストレーションつまみのようなアナログつまみをイメージしたスライダーで、つまみをいじると内部の抵抗から音源に対して直接音量調整がされるようになる。レジストレーション番号を変えることによって、内部のモーターが動作し、全てのつまみが物理的に動作する仕組み(電動スライダー、FS-50,70,FXシリーズのみ)になっている。また機能面だけでなく、打鍵の速さで音質/音量を変えるイニシャルタッチ、鍵盤を押し込んで音質を変えるアフタータッチ機能が上下鍵盤に初めて搭載される等、楽器としての表現力も大幅に向上した。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "が発売された。また後にFS-30にRAMパックが付加されたFS-30Aが発売された。1984年11月から1992年10月までFX-20が、1994年3月までFS-30/FS-30Aがヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1981年発売。初のFM音源搭載のエレクトーン。F-70,F-50,F-30の3機種が発売される。パイプオルガン等の代替用として開発され、一般のエレクトーン教室等で見られることはなかった。 また1989年にはF-700が、1992年にはF-300,400が、1994年にはF-100,200が発売された。2000年に発売終了し、現在クラシックオルガン需要にはバイカウントオルガンの輸入取り扱いにて対応している。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1号機からFS/FXシリーズ登場までは、概ね鍵盤数によりシリーズ分けされていた。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ただ初期にはCシリーズでも上下鍵盤が49鍵ある等、違う鍵盤数のモデルもあった。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "1977年に発売したE-70/50/30、D-90/60/40シリーズからはPASSystem(パルス・アナログ・シンセサイザーシステム)が採用され、持続・減衰以外の複雑な音の波形が生み出された。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "1980年に発売したE-700/500、D-800/700/600/500シリーズでは、リズムのテンポがデジタル表示されたり、ブレークバリエーションボタン(現在のFill inボタン)が搭載され、徐々にデジタル技術が導入されていった。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1977年発売。パルス(デジタル)アナログシンセサイザー技術を使用して作られた楽器。従来は非常に多くのトランジスタや抵抗、コンデンサによって楽器が構成されていたが、LSI化することでコスト削減及び楽器としての安定性・クォリティーを高めることができた。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "1975年発売。エレクトーンの中では一番値段が高い機種である。アナログシンセサイザーで構成された唯一のエレクトーンであり、長期に渡りステージモデルとして活躍した。音色はパネル上部にあるアナログシンセサイザーモジュールを取り外して、直接作成することができる。音色に自由度がある反面、本体の一部を開口する為に、音色の作成難易度は非常に高めであった。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "1970年発売。ソロ鍵盤が初搭載され、ペダル鍵盤も2オクターブあった。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "1959年発売。アンプ以外はすべてトランジスタ(281石)を採用した、販売されたエレクトーンとしての初代機種である。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1968年登場。上記 EX-42の試作機であった。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "1958年完成。日本楽器 (ヤマハ) が開発したエレクトーンのプロトタイプ。このレコード吹込みに使われたE-T型は1台のコンソール、4架の発振器・音色形成部増巾器及び、3台のスピーカーより構成されている。コンソールは演奏器で3段の鍵盤、32鍵のペダル鍵盤、171個のスイッチ(ストップ・カプラー・コントローラー等)からなっていた。レコーディングは、1958年にリリースされ、道志郎が演奏した「クリスマスメロディーズ・イン・ヤマハエレクトーン」という名前のクリスマスアルバムにも掲載された。",
"title": "機種"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "楽譜はヤマハの関連会社ヤマハ・ミュージック・メディア (YMM) が独占的に提供している。情報雑誌の「月刊エレクトーン」には最新のヒット曲が(数ヶ月遅れで)数曲掲載されている。1990年代にはkmpも登録商標の許諾を得て発売していた。",
"title": "楽譜・音源データ"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "楽譜の表記はペダル鍵盤がある分3段用意されている。基本的に譜面はピアノ譜と同等であるが、レジストリメモリーの移動タイミングの表記などヤマハ独自の仕様が数多く存在するため、別途知識が必要となる。",
"title": "楽譜・音源データ"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "月刊エレクトーン掲載曲やYMM発売の一部曲集の音源に関しては、特約店に設置してある「Muma」を利用することで有償で入手可能である。ステージアではMumaの他、PCブラウザーやダイレクトコネクション機能を介して「Electone Station」のデータ販売(ダウンロード販売)サイトで購入し、USBメモリ・スマートメディアに保存(ムーブ)する手段も存在する。",
"title": "楽譜・音源データ"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "先代のELシリーズ向け曲集には音源データの入ったフロッピーディスクが同梱されていることが多かったが、STAGEAシリーズが主流になってからの曲集は基本的には楽譜のみで、前述の手段を利用することでELシリーズまたはSTAGEAシリーズのレジストレーションデータを購入するように改められている。",
"title": "楽譜・音源データ"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "また、曲集によりSTAGEAシリーズのみ対応のもの、STAGEAシリーズ・ELシリーズ両方に対応のものがある。",
"title": "楽譜・音源データ"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "曲集付録・mumaやダウンロード販売で購入した各種メディアの楽曲データには独自のコピープロテクトがかけられており、これを改ざんする等してコピーを行った場合はバックアップ等の私的利用であっても著作権法に抵触する。スマートメディアではIDと関連づけされたSCMSによりファイルに手を加えると再生不能となる。PCで購入した楽曲は「Musicsoft Downloader」という専用ソフトを介して、PC内に一時保存されたデータをUSBメモリやスマートメディアへムーブする形態となっており、これ以外の手段(エクスプローラを用いてファイル操作を行う等)ではファイルが破損する仕組みとなっている。",
"title": "楽譜・音源データ"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "曲集に付属のFDのデータが経年劣化などの理由で消失した場合、YMMでは発売から一定期間は現品送付と実費負担を条件にFDの交換に応じていた。但し発売から相当年数経過(概ね2000年以前)の作品では対応していないため注意が必要であった。",
"title": "楽譜・音源データ"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "なお、現在はフロッピーディスクの生産終了に伴い、FD商品販売も2013年12月末に終了している。",
"title": "楽譜・音源データ"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ELシリーズ用のレジストレーションデータは、別売のMDR-5を接続し、FD→MDR-5変換を行ったり、MDR-5用データを購入する等して、USBメモリを用いるように改められたが、2016年6月をもってデータ制作が終了となった。",
"title": "楽譜・音源データ"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "各機種ごとの固有の機能を使用する場合、以下の要因から、別の機種では同じ音が出せないという問題が、FS/FXシリーズからELシリーズまでは顕著であった。",
"title": "各世代の互換性の問題"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "STAGEAになってからは、ELS-02シリーズでELS-01シリーズの音色データは、ドラム/パーカッションのピッチを大幅に変更した場合を除き、ほぼ問題なく再生出来るように改善された。",
"title": "各世代の互換性の問題"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "エレクトーン奏者のこと。中には全国ネット番組のBGM制作を担当する者もいる。大別すると、株式会社ヤマハミュージックジャパンに所属しその傘下で活動している者、ヤマハ株式会社の支援を受けている独立系のエレクトーン・プレイヤー、メーカーの支援に依存せずに活動するフリーランスの電子オルガン奏者がいる。",
"title": "エレクトーンプレイヤー"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "2019年3月31日を以てヤマハ音楽振興会におけるエレクトーンプレイヤーマネジメント業務が終了した事に伴い、ヤマハ音楽振興会所属だったエレクトーンプレイヤーの大部分は「ヤマハエレクトーンプレイヤー」として、ヤマハミュージックジャパンと演奏契約を結んでいる。また、ヤマハでは主にヤマハエレクトーンシティがプレイヤーへの支援業務を行っている。なおヤマハエレクトーンシティ渋谷は、渋谷駅周辺再開発により2017年12月に閉館し、2018年3月にヤマハ音楽振興会ビルの1Fに移転し、名称も「ヤマハエレクトーンシティ」となった。",
"title": "エレクトーンプレイヤー"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "エレクトーンの演奏活動を行う団体のこと。2000年代に入り急速に発展した。主に大学に所属するサークルと社会人のサークルに大別される。ヤマハでは主に「ヤマハエレクトーンシティ」がエレクトーンサークルへの支援を行っている。",
"title": "エレクトーンサークル"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "全国エレクトーンサークルネットワーク(通称「EC-net」)と呼ばれる、非営利の機構が存在し、毎年3月に全国エレクトーンサークルジョイントコンサートを開催している。2016年現在EC-netの加盟サークルは24である。全体的に東日本の大学に偏っており、中国・四国・九州地方では近畿大学工学部にエレクトーンサークルが存在するのみとなっている。",
"title": "エレクトーンサークル"
}
] | エレクトーン (Electone) は、ヤマハ株式会社が製造発売する電子オルガンの商品名であり、同社の登録商標(登録番号0529966など)となっている。 | {{出典の明記|date=2017年12月}}
'''エレクトーン''' ('''Electone''') は、[[ヤマハ]]株式会社が製造発売する[[電子オルガン]]の商品名であり、同社の[[登録商標]](登録番号0529966など)となっている。
== 概要 ==
=== 歴史 ===
電子オルガンは、コンボタイプ、チャーチモデルなど演奏される音楽や用途によって分類されているが、エレクトーンは、オールマイティな用途に対応するホームオルガンというタイプの電子オルガンに該当する。
黎明期の電子オルガンは、[[ハモンドオルガン]]が機械的にトーンを発生させていた。[[ヤマハ|日本楽器]](1987年にヤマハへ社名変更)は技術者をアメリカなどへ派遣させ、[[トランジスタ]]を使用した純電子式、純半導体式のトーン・ジェネレータを採用した電子オルガンの開発に着手した。電子発信機では[[オルガン|パイプ・オルガン]]のように、いくつもの音を合成して多彩な音を出すことはコストとスペースの関係で無理があった。そこで電子オルガンメーカーは、初めから[[倍音]]を多く含んだ波形の音を発生させ、フィルターで音色を変化させるという手法を採用せざるを得なかった。しかし、外国製品との違いを打ち出すには独特の音色で印象付ける必要があり、さまざまな波形が試みられた。発生が容易な[[矩形波]]は奇数次の倍音しか含まなかったり、[[のこぎり波]]は特徴ある音にならなかったり、音響エンジニアの腕の見せ所であった。エレクトーンは奇数次の倍音しか含まないという矩形波の欠点を補うため、非対称矩形波を採用した。
[[File:YAMAHA Electone D-1.jpg|thumb|200px|浜松市楽器博物館で展示されているYAMAHA Electone D-1]]
[[日本電気]]・[[日本放送協会]]([[NHK放送技術研究所]])との共同開発を経て、1958年に「E-T」と名付けられた大型プロトタイプが完成した。このレコード吹込みに使われたE-T型は1台のコンソール、4架の発振器・音色形成部増巾器及び、3台のスピーカーより構成され、コンソールは演奏器で3段の鍵盤、32鍵のペダル鍵盤、171個のスイッチ (ストップ・カプラー・コントローラー等) からなっている。このエレクトーン「E-T」楽器は、[[道志郎]]が演奏する「クリスマスメロディーズ・イン・ヤマハエレクトーン」というアルバムにも収録されている。
[[1959年]]に初代機種「D-1」が発売された。ただし、当時の[[大卒]][[初任給]]を大幅に上回る(当時の[[自家用車]]の価格に匹敵する程の)高価な製品{{efn|現在発売されているエレクトーン「ステージア」なども、家庭用の最上位モデルに関しては安価な自家用車もしくは[[軽自動車]]に匹敵する価格となっている。}}であったため、日本楽器は[[道志郎]]([[官僚]]から電子オルガン奏者に転向した)らを[[デモンストレーター]]に起用し、多彩な音色が一人で奏でられる性能をアピールした。[[高度経済成長期]]までは専ら[[劇伴]]などの収録を目的とした[[日本放送協会|NHK]]や[[映画会社]]、[[レコード会社]]、高級志向の[[社交場]]([[クラブ]]・[[サロン]]・[[ダンスホール]]・[[ホテル]]など)が主に導入していた。また、当初より海外への[[輸出]]も行われている。なお、D-1発売に先駆けて[[日本ビクター]]が真空管主体による純電子式、部分半導体式の電気オルガン(→[[ビクトロン]])を発売している。
1960年代以降は[[ヤマハ音楽振興会]]が主宰する[[ヤマハ音楽教室]]等でのレッスンと、日本楽器の[[信販|月賦販売]]制度(現在は行われていない)の拡充により、一般[[消費者]]層の家庭にも徐々に浸透していく。これに伴い、[[ヤマハ音楽教室]]の在籍生を主な対象する[[ヤマハ音楽能力検定]](ヤマハグレード)の実施が始まる。
1970年に「[[宇宙船]]」と称された斬新なデザインのステージモデルEX-42を経て、1975年にエレクトーンとして発売された[[ポリフォニック・シンセサイザー]] [[ヤマハ・GX-1|GX-1]]は、プロユースとして世界的なアーティストによる楽曲制作に活かされた。
[[File:Yamaha_Electone_D-700.jpg|thumb|200px|YAMAHA Electone D-700 (1980年発売)]]
各地の[[結婚式場]]にも、[[結婚式]]における[[結婚行進曲]]をはじめとする[[BGM]]・[[余興]]での[[カラオケ]]伴奏や[[即興演奏|即興曲]]の演奏用途として導入され、そこで場を盛り上げる臨機応変な演奏が奏者の稼業となっていた(ただし近年は[[通信カラオケ]]による音源再生が台頭しつつある)。
エレクトーンの機能を活かした[[作曲]]・[[編曲|アレンジ]]や演奏テクニックを極めた「[[#エレクトーンプレイヤー|エレクトーン プレイヤー]]」と言われるプロミュージシャンも数多く登場し、[[音楽大学]]や音楽系[[専門学校]]・[[各種学校]]の一部に於いてはエレクトーンを用いる専攻課程が置かれている。
エレクトーンは、[[ピアノ]]等の高額楽器と同様に「ヤマハ特約店」となっている各地の[[楽器店]]等での販売に基本的に限定され、[[ポータトーン]]([[キーボード (楽器)|電子キーボード]])や[[クラビノーバ]]といった他種のヤマハ電子楽器のように[[家電量販店]]では売られていない。[[中古品]]の売買・流通に関してはこの限りではないが、本体の製造番号部分が毀損されるなどして確認できないと修理受付対象外となる。
現在日本における電子オルガンはエレクトーンの他に[[ローランド]]が[[ミュージックアトリエ]]という名称で販売しており、各社毎に音楽教室を擁してそれぞれ楽器の普及に努めている。
現行機種は2014年発売の「ELS-02シリーズ」および2016年発売の「ELB-02」「ELC-02」である。2019年にD-1の発売から60年を迎え、エレクトーンは2019年までに累計約500万台が販売された<ref>2020,1,30 News Release「[https://download.yamaha.com/files/tcm:39-1321065 誰でも自由に弾ける「ストリートエレクトーン」のお披露目が決定]」の文中に
"1959年の誕生から60周年を迎えた昨年までの累計販売台数は世界で約500万台にのぼり" との表記あり。</ref>。
=== 構造 ===
エレクトーンは上[[鍵盤 (楽器)|鍵盤]]、下鍵盤、[[ペダル鍵盤]]、[[エクスプレッションペダル]]、セカンドエクスプレッションペダルを備えている。1980年代前半までの機種ではアナログ音源(→[[アナログシンセサイザー]])であり、音色の選択は現物の楽器音(音色:トーン / ボイス)を擬似的に再現した波形を'''トーンレバー'''という上げ下げ式のレバーに一つずつ割り当て、演奏時に任意の音色となるように調節する形態であった。1969年-1970年に発売された上級機種よりリズム機能(→[[ドラムマシン]])が装備されることで、演奏者一人で伴奏も組む事が可能となり、更に[[和音]]に沿ってリズムとベースを刻む[[オート・ベース・コード]]等の登場で伴奏面が強化された。
==== 鍵盤数 ====
鍵盤は基本的に上鍵盤+下鍵盤+ペダル鍵盤であり、現行モデルの「Electone STAGEA」では、ベーシックモデル、カジュアルモデル、スタンダードモデル・カスタムモデルで上鍵盤49鍵+下鍵盤49鍵+ペダル鍵盤20鍵、プロフェッショナルモデルでは上鍵盤61鍵+下鍵盤61鍵+ペダル鍵盤25鍵になっている。1970 - 80年代のEX-42, GX-1, D-90, D-800, EX-1, FX-1, FX-20, FX-3, FS-70など、当時の一部モデルに上鍵盤のさらに上に小型のソロ鍵盤も装備された4段鍵盤のものがあった。Hシリーズ以降、ソロ鍵盤を装備したモデルは発売されていない。
==== 運搬 ====
ELシリーズまでの機種は分解・組立ができないために本体重量が80~110kg程度と大型[[冷蔵庫]]並みでなおかつ[[精密機械]]であるため、設置や輸送には楽器搬送の専門業者に依頼して慎重な取扱を実践する必要があった。
ELS-01シリーズで分解・組立が出来、ユーザによる持ち運びも可能なユニット構造が採用されたが、分解後の一番重いキーボードユニットが38kg前後(カスタムモデル)と、大人2人でやっと持ち運べる重さであったため、演奏者自身が楽器を会場に持込み演奏する場合は、メインユニットが20kgを切るD-DECKやSTAGEA D-DECK PACKAGEが使われる事が多かった。
ELS-02シリーズではユーザによる分解・組立が再びできなくなり<ref name="bunkaifuka">[http://yamaha.custhelp.com/app/answers/detail/a_id/5737 【ELS】新しいSTAGEA ELS-02シリーズは分解ができないそうですが、それはなぜですか。また、バイタライズしたSTAGEAも分解できなくなりますか?]</ref>、コンパクトで持ち運びもできるカジュアルなエレクトーンとしてELC-02が発売され、ELSが基本的に据置型、ELCが可搬型という位置付けとなった。
== 機種 ==
=== STAGEA ===
エレクトーン '''ステージア''' (Electone '''STAGEA''') は、2004年3月以降に展開された現行シリーズの商標である。「STAGEA」の名前の由来は、演奏する場としての「ステージ(stage)」と、勇気を与えてくれる女神「[[ガイア]](gaea)」との造語になっており、いろいろな場で活躍し演奏者に勇気を与える楽器になるように名前をつけられている。メインシリーズは型番が「ELS」で始まることから、先代のELシリーズと同様に「'''ELSシリーズ'''」と呼ばれることもある。ELSシリーズは、現行モデルの「'''ELS-02シリーズ'''」と、旧モデルの「'''ELS-01シリーズ'''」に分けられる。
メインの[[補助記憶装置|外部記憶装置]]に関しては、ELS-01シリーズ発売当初は[[スマートメディア]]であり、曲集対応のプロテクトデータはスマートメディアに保存するようになっていた。しかし、2005年3月7日、スマートメディアの主な製造メーカーであった[[東芝]]がスマートメディアの生産・供給から撤退することを発表したことなどから、外部記憶装置はスマートメディアから[[USBフラッシュドライブ|USBメモリ]]へと移行した。また、2009年より発売された「typeU」シリーズではスマートメディアドライブが廃止され、代わりにUSBメモリの着脱を容易にするための専用アダプターが取り付けられた。
また、HS/ELシリーズの頃から「レジストデータに依存」してしまう演奏スタイルが増えてきた事への解決策として「ベーシックレジスト(初期化後にメモリーボタン1〜16にセットされたレジスト)」「レジストレーションメニュー」(通称レジメ)が充実した。これによって多様な音楽ジャンルに合わせた音色の組み合わせが予め準備され、レジストデータを準備していなくともその場で音色をセットして演奏できる機能が強化された。
なお、近年のヤマハエレクトーンフェスティバルのセミファイナルでは、小学校高学年以上の部において自由曲演奏の他にモチーフ即興演奏が規定されている。このモチーフ即興演奏ではレジストデータをUSBメモリでは準備せず、その場で音色をセットして演奏する規定になっている。
2014年よりSTAGEAの新ラインナップ「ELS-02シリーズ」が発売。音色数の増加、スーパーアーティキュレーションボイスの採用など、新技術も多数導入されている。ELS-01シリーズからもELS-02シリーズとほぼ同等の性能にできる「バイタライズユニット」も5月から併売された。
ELS-01シリーズでは六角[[レンチ]]を用いてユーザ自身での分解と組み立てが可能な「ユニット構造」を採用し、乗用車での可搬が可能であったが、上述の通り分解しても各パーツがまだまだ重い事もあり、ELS-02シリーズでは分解・組立は不可となった<ref name="bunkaifuka" />。
また、インターネットダイレクトコネクションによりYAMAHAのサイトからレジストレーションを直接[[ダウンロード]]購入する機能があったが、2016年7月のバージョンアップ(ELS-02シリーズ)に伴い「ダイレクトコネクション」機能は廃止され、それに代わって「オーディオ」機能が搭載された。
2016年5月には「ELB-02」、2016年12月には「ELC-02」が発売された。ELB-02は対象を大人初心者にまで広げたベーシックモデルとして、ELC-02はELS-02と同等の演奏機能を備えながら、持ち運びができるカジュアルモデルとして発売された。同時にSTAGEA D-DECK PACKAGEをELC-02とほぼ同等の性能にできる「ELCU-M02」も発売された。
==== 上達や最新技術取り入れへの対応 ====
エレクトーンは登場からまだ60数年の電子楽器という事もあり、最新機能・技術の導入によるモデルチェンジが行われているが、それに伴い、奏者に買い替えの負担が掛かる、という問題を抱えていた。また、演奏者自身の初級→中級→上級という、上達に伴う買い替えの負担も決して軽くはなかった。STAGEAではその負担を解消すべく
* バージョンアップ…楽器に搭載されたOSのプログラムを書換える事での不具合修正や、ソフトウェア的な機能追加。
* グレードアップ…上達に伴う2nd Exp.やペダル鍵盤のアフタータッチ、上下鍵盤のホリゾンタルタッチ等、より高度な演奏表現を可能にする上位機能追加。
* バイタライズ…モデルチェンジに伴う新音色搭載、メモリ容量の増大、CPUの高性能化 等、ハードウェア的な機能追加をパーツ交換で実現。
という3種類の方法で、演奏者が楽器を買い替えなくとも、自らが所有する楽器をより新しく、高機能に出来る構造を採用した。
===== バージョンアップ =====
STAGEAでは、バージョンアップと呼ばれるプログラムのバグなどを修正するデータが[[Muma]]またはネット上で無償で提供されており<ref>ヤマハ株式会社 エレクトーン [https://jp.yamaha.com/products/contents/keyboards/downloads/firmware_software/index.html?c=keyboards&k=Firmware スペシャルコンテンツページ] </ref>、いつでも最新の状態で演奏を楽しむことができる。
現在の最新バージョン(2022年7月時点)はELS-02シリーズでv2.23、ELB-02(Basic)でv2.03、ELC-02(カジュアル)でv2.13、ELS-01シリーズでv1.92、STAGEA ELB-01(mini)でv1.12、D-DECKでv1.22である。まれにバグの他、機能が追加されるバージョンアップもある。
===== グレードアップ =====
STAGEAのメインシリーズであるELSシリーズには、「スタンダードモデル」「カスタムモデル」「プロフェッショナルモデル」という3種のモデルがあるが、演奏者の上達に伴い、
* スタンダードモデルをカスタムモデルとほぼ同等に出来るキット(スピーカーはそのまま)
* カスタムモデルを上下鍵盤のみプロフェッショナルモデルと同等(フルスケール)に出来るキット
* カスタムモデルをペダル鍵盤のみプロフェッショナルモデルと同等(フルベース)に出来るキット
* スタンダードモデルをプロフェッショナルモデルとほぼ同等に出来るキット(01のみ)
が存在する。またそれに付随してスピーカーや椅子も、上級モデルで採用しているタイプに買い替える事が出来る。中にはフルベースにする場合に椅子を上級モデル用のものに買い替える必要がある。
===== バイタライズ =====
モデルチェンジに伴う新音色搭載、メモリ容量の増大、CPUの高性能化 等、ハードウェア的な進化への対応をパーツ交換で実現するキットで、それまでモデルチェンジの度に買い替えが必要だったのが、キットの交換取付で新機種とほぼ同等の機能を手に入れる事が出来るようになった。
01シリーズを02シリーズ同等にするバイタライズキットは、スタンダード&カスタム用とプロフェッショナル用の2種類がある。なお、バイタライズの場合、鍵盤、フレーム、エクスプレッションペダル、スピーカ等は交換されず、従来のままとなる。
カスタムモデル・プロフェッショナルモデルでは買い替えに比べてかなり安価<ref group="注釈">01C→02C買い替えの場合「02Cの購入価格98万円-01Cの下取り価格」の資金が必要となるが、01Cをバイタライズして02C同等にする場合は「バイタライズキット28万+取付費+出張費」で済む。</ref>で新機種とほぼ同等の機能を手に入れられるようになったが、スタンダードモデルでは新機種への買い替えと所有機種をバイタライズとの価格差が小さい上、バイタライズ(28万+取付費)とカスタムモデルへのグレードアップ(28万+取付費)を同時に行うと50万円以上の負担となる。
==== STAGEA 各モデルの主な違い ====
=====ELS-02シリーズ =====
====== ELS-02 ======
* 2014年4月に発売。ELS-01の後継として出た「スタンダードモデル」。専用イス付き。
* VA音源・オルガンフルート、2ndエクスプレッションペダルは未搭載。ペダルボイスでのアフタータッチは使用出来ない。
* カスタムモデル・プロフェッショナルモデルにアップグレード可能。
* 7インチTFTカラーのタッチパネル液晶搭載。
====== ELS-02C ======
* 2014年4月に発売。ELS-01Cの後継として出た「カスタムモデル」。専用イス付き。
* ELS-02の上位機種。VA音源・オルガンフルート・ホリゾンタルタッチを搭載。また、上下鍵盤のアフタータッチもスタンダードモデルより感度が高くなっており、繊細な表現が可能。
* プロフェッショナルモデルにアップグレード可能(鍵盤のみ、ペダル鍵盤のみのアップグレードも可能)。
* 7インチTFTカラーのタッチパネル液晶搭載。
*2014年11月よりヤマハグレード試験(5 - 3級)の受験機種に加わる。
====== ELS-02X ======
* [[2014年]]に発売。ELS-01Xの後継として出た「プロフェッショナルモデル 」。
* 本体用スピーカーユニットは別売、専用イス付。
* 従来のHX-1、ELX-1、ELS-01Xといったステージモデルの流れを汲む。ステージでのPA出力を想定し、ペダル鍵盤の背面にキャノンとフォーンを配置。
* 上・下鍵盤各61鍵、ペダル鍵盤25鍵を装備。
* 7インチTFTカラーのタッチパネル液晶搭載。
=====ELS-01シリーズ =====
====== ELS-01 ======
[[2004年]]発売。EL-500の後継として出た「スタンダードモデル」。[[2009年]]にはスマートメディアスロットを廃止しUSB端子を前面に出した「type-Uモデル(ELS-01U)」が発売となった。バイタライズユニット装着により、ELS-02相当にバイタライズ可能。
====== ELS-01C ======
[[2004年]]発売。EL-900mの後継として出た「カスタムモデル」。スタンダードモデルに比べ、ペダル鍵盤にもアフタータッチ、セカンドエクスプレッションペダル、上下鍵盤にホリゾンタルタッチ、オルガンフルートが搭載され、椅子は大型に、スピーカーもリアスピーカを備えた大出力のものとなっている。また上下鍵盤のアフタータッチもスタンダードモデルより感度が高くなっており、繊細な表現が可能。[[2009年]]にはスマートメディアスロットを廃止しUSB端子を前面に出した「type-Uモデル(ELS-01CU)」が発売となった。
2014年のELS-02C登場まで約10年もの間メイン機種として使われ、2004年11月から2022年10月までヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。
さらにバイタライズユニット装着により、ELS-02C相当にバイタライズ可能なため、エレクトーン史上一番長くメイン機種として使える機種となっている。
====== ELS-01CH ======
[[2012年]]発売。本体はELS-01CUと同等だが、スピーカ、椅子をELS-01相当のものとし、価格を抑えた「カスタムモデル・ホームエディション」。ELS-01C同様、バイタライズユニット装着により、ELS-02C相当にバイタライズ可能。
====== ELS-01X ======
[[2005年]]発売。ELX-1mの後継として出た「プロフェッショナルモデル」。カスタムモデルに比べ、スピーカーが別売りとなり、ペダル鍵盤が25鍵盤(2オクターブ)、上下鍵盤が61鍵盤(5オクターブ)となる。また、ペダル鍵盤の背面にキャノンとフォーンのAUX-OUT端子を搭載。ペダルユニットにエクスプレッションペダル、セカンドエクスプレッションペダル、底板が付いたため、ELX-1mまで(PKX-1mが約22kgであった)に比べ、約34.5kgと大幅に重くなり、可搬性が低下した。[[2009年]]にはスマートメディアスロットを廃止しUSB端子を前面に出した「type-Uモデル(ELS-01XU)」が発売となった。バイタライズユニット装着により、ELS-02X相当にバイタライズ可能。<br />
=====ELBシリーズ(STAGEA mini,Basic) =====
[[ファイル:ELB-01.jpg|thumb|200px|STAGEA mini]]
ELS-01発売後も併売された「EL-100」の後継となる、音楽教室受講生(主に小児)を中心とするビギナー層を対象としたエントリーモデルである。ELSシリーズとは構造や機能面が若干異なり、演奏データなどはELSシリーズと一定の[[下位互換]]性を有する。
====== ELB-01 ======
[[2006年]]2月発売。ELS-01と比べてやや小型の外見であり、上下鍵盤のアフタータッチ、大型カラータッチパネルやニーレバーは非搭載である。ELS-02CやELS-02Xなどへの分解・グレードアップは不可能であるが、その分[[希望小売価格]]はスタンダードモデルに比べて抑えられている。音楽教室用は型名末尾にK、レンタル提供用はRが付く。
====== ELB-02 ======
[[2016年]]5月発売。ELB-01の主要対象であった音楽教室受講生(主に小児)から大人初心者層にも対象を広げ、名称も「mini」から「basic」となった。新設計したFSB鍵盤が採用され、上下鍵盤のアフタータッチが付き、表現力が大幅に向上した。ELB-01同様、音楽教室用は型名末尾にK、レンタル提供用はRが付く。
2020年1月より、このELB-02をペイントした「ストリートエレクトーン」を広場等に設置するプロジェクトが始まった。
=====D-DECK , ELCシリーズ =====
'''D-DECK'''は、[[ヤマハ]]のデュアルマニュアルキーボード(2段の鍵盤を搭載しているキーボード)の商品名である。STAGEAからペダル鍵盤をとったようなものであり、ELSシリーズ (STAGEA) との一部[[上位互換]]性があり、オルガンフルートなどを装備している。専用スタンドとペダル鍵盤を加える事で、ELSシリーズとほぼ同等の演奏環境が構築できる。'''ELC-02'''はその後継モデルとなり、D-DECKは生産完了となった。
====== DDK-7 ======
[[2006年]]11月発売。音色ボタンが大幅に省略されているほか、自然な演奏ポジションを可能にした2段鍵盤になっており、ライブでの使用に特化した構成となっている。ELS-02CやELS-02Xなどへのグレードアップができないが、オルガンフルートを標準搭載している。本体にスピーカーはなく、外付けスピーカーも別売になる。ペダル鍵盤がなくともレジストシフトやロータリースピーカーのOn/Offが出来るよう、ユーティリティ画面でフットスイッチやニーレバーの設定をさせ、レジストとしてUSBメモリに記録しておける。
====== STAGEA D-DECK PACKAGE ======
[[2006年]]11月発売。本体 (DDK-7) にDDKU-P7(ペダルユニット)、DDKU-L7(キーボードスタンド)、DDKU-B7(専用椅子)、DDKU-R7(譜面板)を足したものである。3段鍵盤の状態で、ELS-01(U)の演奏データを再現することが可能。STAGEA等に標準搭載のニーレバーはなく、オプションペダルにアサインして使うため、D-DECK用にレジストを修正し記録しておく必要がある。
====== ELC-02 ======
[[2016年]]12月発売。STAGEA D-DECK PACKAGEの後継モデルとして、本体・ペダル・キーボード・イス・譜面板・スピーカーがパッケージとなっている。STAGEAシリーズの1機種という扱いとなり、「カジュアルモデル」という名称が与えられた。楽譜の対応機種にELC-02の表記が加わり、ELSシリーズに装備されているニーレバーの代用として使われるフットペダルの設定を別途行わなくともアサインされるようになった。半面、本体にボリュームペダルを繋いだり、フットペダルにレジストシフトやロータリースピーカー等の機能を割り振る事は出来ず(サスティン、ソロ、メロディーオンコード、リードスライドのみ)、本体とペダルをセットで使う事が前提の仕様となった。ELS-02よりも安価で、ニーレバーを搭載していないが、セカンドエクスプレッションペダルとオルガンフルートを標準搭載している。また、イスが折り畳める形状に変更され、可搬性が向上した。
====== ELCU-M02 ======
[[2016年]]12月発売。既にSTAGEA D-DECK PACKAGEを所有しているユーザに対し、本体部分の買い替えのみでELC-02同様となるメインユニット。D-DECK(DDK-7)と違い、ペダルユニットとセットで使う事が前提(単体で使う事が想定されていない)のため、ボリュームペダルを接続して音量を変えたり、フットペダルにレジストシフトやロータリースピーカー等の機能を割り振る事は出来ない。
==== ELAシリーズ ====
===== ELA-1 =====
2022年9月に中国ヤマハで発表<ref>中国ヤマハ ウェブサイト の「[https://www.yamaha.com.cn/products/show/2782/ エレクトーン]」ページより。</ref>。上下鍵盤ともアフタータッチは非搭載、キーボードボイスが1だけ等、ELB以上にある機能の一部が削減されている一方、オルガンフルートやセカンドエクスプレッションペダルを搭載するなど、ELS-02にもない機能を標準搭載している。日本では2022年9月時点では未発表。
=== ELシリーズ ===
[[ファイル:EL-900m.jpg|thumb|200px|EL-900m]]'''ELシリーズ'''は、1991年3月から2004年3月までに展開されたエレクトーンのシリーズである。型番が「EL」で始まることからこう呼ばれた。Hシリーズで初めて採用されたAWM音源をフルートボイスを除く全音色に採用し、音色のリアル感が飛躍的に向上した。姉妹モデルとして、ステージモデルの「'''ELXシリーズ'''」と、音楽教室向けの「'''ELKシリーズ'''」がある(ともにSTAGEAでは「ELS」で始まる型番に統合)。
当初展開された「'''EL10番台(2桁)シリーズ'''」と、EL-900以降に展開された「'''EL100番台(3桁)シリーズ'''」に分けられる。
海外では以下で記載したモデル以外にも、EL-60、EL-40、EL-28、EL-25、EL-15、EL-7、EL-3というモデルが存在した。
==== EL100番台(3桁)シリーズの機種 ====
===== ELX-1m =====
: [[2000年]]3月発売。EL100番台のステージモデル。EL-900をベースに新音色・新機能が追加された。鍵盤ごとのトランスポーズ、ペダル鍵盤のポリモードがこの機種で初搭載された。またこの機種のみ平均律以外の音律を選ぶ事が出来た。本体とペダル(PKX-1m)・椅子(BNX-1m)の3パーツに分けて販売され、ELX-1ユーザはフルセットで買うよりも定価ベースで50万円ほど安く入手する事が出来た。
===== EL-900 =====
: [[1998年]]3月発売。新たに'''ホリゾンタルタッチ・ネクストソングが搭載'''(ネクストソングとはFDに記憶されたレジストファイルの連続読み込み機能)。EL-900mへのグレードアップキットがある。1998年11月から2002年4月までヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。EL-900の上位互換であるEL-900mと合わせると、実に17年に亘りヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた事になる。
===== EL-900m =====
: EL-900に様々な機能を追加して2000年5月発売。mは[[ミレニアム]]の意味で、100番台の家庭向けでは最高機種。低音が強調される傾向がある。[[MIDI]]再生においては[[General MIDI|GM]]と[[XGフォーマット|XG]]の下位音源は正常に作動するが[[GSフォーマット|GS]]とは[[互換性]]が無い。メイン機種としての扱いは2000年から2004年春までであったが、ヤマハグレード5-3級受験機種としては、2001年5月から2015年10月まで…と、長期間使われていた。
===== EL-900B =====
: [[2002年]]5月発売。900と比較して若干アンプ出力が落とされ、側板の色はローズ木目から艶消しのクールブラックに変更された。EL-900mへのグレードアップキットにも対応していた。
===== EL-700 =====
: [[1999年]]3月発売。900との違いはホリゾンタルタッチとリード2が搭載されていないこと。リード2とは上鍵盤でソロを担当する楽器を割り当てる場所であり、それがないことによりVA音源、ソロ機能(上鍵盤でリード2とその他の音をニーレバーで切り替える機能)も搭載されていない。1999年11月から2002年4月までヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。
===== EL-500 =====
: 1999年3月、EL-700と同時に発売。700との違いはレジストレーションメモリーボタンが8(上位機種は16)個のみ(ただしFD再生時は16個に対応)で2ndエクスプレッションペダルが非搭載であること。特に後者は[[ヤマハグレード]]5級以上を目指す場合注意が必要だった。また普段はペダル鍵盤のみイニシャル・アフター両タッチがともに使用不可能である。
===== EL-400 =====
: [[2000年]]7月発売で500より若干性能が落ちる程度。日本語表示(カタカナ)が可能。
===== EL-200 =====
: 2000年7月、EL-400と同時に発売。FD再生時のみ500と同等の機能を発揮する。'''普段はイニシャル・アフター両タッチ共に使用不可能'''。EL100番台では唯一スピーカーがモノラルである。さらに、液晶ディスプレイがない。
===== EL-100 =====
: [[2002年]]4月発売のエントリーモデル。事実上EL-17の後継機種であるがアフタータッチが搭載されていない。
===== ELK-400 =====
: [[2001年]]発売の音楽教室向けモデル。
==== EL10番台(2桁)シリーズの機種 ====
===== ELX-1 =====
: [[1992年]]6月発売。EL-90をベースにしたステージモデル。リードボイス2(AWM・FM音源)やソロバーを搭載し、音色やパーカッションキットの拡張なども行われた。EL-90とはユーザボイスを含め上位互換が取れていた。このシリーズからフルベース/フルスケール機種はヤマハグレード5-3級受験機種としては使われなくなった。
===== EL-90 =====
: [[1991年]]3月発売。10番台の家庭用モデルでは最高機種で、7年間に渡ってメイン機種として扱われた。HS-8ではオプション品だったMDR、2ndエクスプレッションペダルを標準搭載した。1998年3月のEL-900発売に伴い生産終了。1991年11月から2005年4月まで14年に亘りヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。 2010年9月に、電源部に使われているコンデンサの液漏れ事故の可能性が報告され、EL-70と共に点検と対策部品への交換を無償にて実施する案内が告知された。
===== EL-87 =====
: [[1995年]]10月に発売。EL-90とほぼ同等の機能を持つが、2ndエクスプレッションペダルが別売となっている。木目調の「EL-87W」もある。EL-90とは異なり、EL-900発売後も1999年3月のEL-700/500発売まで生産が続けられた。1996年1月から1998年10月までヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。
===== EL-70 =====
: 1991年3月発売。当機種より下位のモデルはレジストレーションメモリー数が8個で、2ndエクスプレッションペダルは非搭載。同価格帯にEL-87が展開されることに伴い{{efn|EL-87は希望小売価格1,000,000円、EL-70は950,000円(いずれも税別)}}、1995年10月に販売終了した。1991年11月から1998年10月までヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。 EL-90同様、2010年9月に、電源部に使われているコンデンサの液漏れ事故の可能性が報告され、EL-70と共に点検と対策部品への交換を無償にて実施する案内が告知された。
===== EL-57/50 =====
: 1991年10月発売。[[1996年]]10月にマイナーチェンジ版としてEL-57が発売され、鍵盤がLC鍵盤(鍵盤の裏側におもりがない)から上位機種で採用されているFS鍵盤(鍵盤の裏側におもりがある)に改められた。1999年3月のEL-700/500発売まで生産が続けられた。
===== EL-37/30 =====
: 1991年12月発売。MDRはオプション品 (MDR11) であったが、[[1994年]]4月にMDR標準搭載のEL-37にリニューアルされた。
===== EL-27/20 =====
: 1993年3月発売。MDRはオプション品 (MDR4) であった。[[1993年]]10月にMDR標準搭載のEL-27が発売されたが、その後もEL-20は併売された。
===== EL-17 =====
: [[1995年]]10月発売。レジストレーションメモリーボタンが存在せず、MDRはオプション品 (MDR4) であった。EL100番台シリーズ発売後も2002年3月まで発売が続けられた。
===== ELK-10 =====
: 1994年発売の音楽教室向けモデル。
参考<ref>[https://web.archive.org/web/20021213172647/http://electone.yamaha.co.jp/product/legacy/spec.html えれすて](2002年12月13日アーカイブ分)</ref>
=== ELシリーズ以前の主な機種・シリーズ ===
==== HX SYSTEM ====
[[1987年]]発売。[[FM音源]]と初期の[[AWM音源]]を採用したステージモデル。初のユニット構造を採用したエレクトーン。ユニットごとにアップグレードすることで上位モデルになるものの、多くが全て最上位モデルで購入されることが多く、実際にはHX-1と名乗ることが多かった。AWM音源の音色は同時期に発売されたクラビノーバと同様に、サンプリングレートが低いため、音が暖かくこもり気味であるのが特徴。リズムパターンも自作で作ることが可能となった。MIDI端子及び一般向けの[[オーディオ端子]]もエレクトーンとしては初採用であった。当時の[[FM音源]]としては、HX-1のみ最高オペレータ数の8オペレータ及び16オペレータを採用していた。HX SYSTEMからソロ鍵盤がなくなり、液晶表示の採用、電動スライダーの廃止、詳細設定が可能な完全なデジタルなつまみが採用となった。ペダル鍵盤のイニシャルタッチとアフタータッチ、セカンドエクスプレッションペダル、ピッチベンド、モジュレーションホイールが初搭載された。FM音源の音色はコンピュータ等を介してユーザーボイスを作成できるようになった。1987年11月から1996年3月までHX-1がヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。
==== HSシリーズ ====
[[1987年]]発売。HX SYSTEMの技術や先行のMEシリーズの機能を使用した、FS/FEシリーズの後継機種。FM音源のエディットが可能となり、AWM音源が登場。HX SYSTEM同様、[[MIDI]]インターフェイスを積極的に採用し、外部記憶装置もMIDI規格に準拠したMDR-2P/MDR-3Pとなり、リズムパターンを自作出来るなど、[[ミュージックシーケンサー]]並の自動伴奏・演奏機能が確立された。
HS-4,5,6,7,8の5機種があり、HS-8が指導者向けの、HS-5が学習者向けのメイン機種であった。HX SYSTEMとの互換性はなし。翌1988年にFE/MEシリーズの後継となるHE-5、教室モデルのHK-10(一般発売はなし)、1989年にFC/MEシリーズの後継となるHCシリーズが発売された。1987年11月から1998年10月までHS-8がヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。
==== MEシリーズ ====
[[1985年]]発売。ME-600/400がまず発売され、マルチメニュー等、FX/FSシリーズにない新機能が追加された。翌年ME-55/35/15が発売され、それまでの機種にはなかったペパーミントグリーンやピンク等のカラーバリエーションが展開された。
==== FX/FS/FE/FCシリーズ ====
[[1983年]]発売。[[FM音源]]と[[FWM音源]](リズム音源)を搭載した、完全なコンピュータ制御による一般向けエレクトーン。開発時、ヤマハ目黒のスタジオ一面に回路図を敷いて、不具合修正をしたというエピソードがある。エフェクトも全てデジタル方式となり、リズム・ボイス等の設定を機器が記憶する「レジストレーションメモリー」機能や演奏データを[[フロッピーディスク]]や[[Random Access Memory|RAM]]パックで保存・読み出しが可能となる[[補助記憶装置|外部記憶装置]]MDR-1A/1Bが登場した。ボリュームつまみは、従来のレジストレーションつまみのようなアナログつまみをイメージしたスライダーで、つまみをいじると内部の抵抗から音源に対して直接音量調整がされるようになる。レジストレーション番号を変えることによって、内部のモーターが動作し、全てのつまみが物理的に動作する仕組み(電動スライダー、FS-50,70,FXシリーズのみ)になっている。また機能面だけでなく、打鍵の速さで音質/音量を変えるイニシャルタッチ、鍵盤を押し込んで音質を変えるアフタータッチ機能が上下鍵盤に初めて搭載される等、楽器としての表現力も大幅に向上した。
* ステージモデル(GX-1,EX-1,EX-2の後継)としてFX-1,FX-3,FS-30M
* フルベースの家庭用モデル(Eシリーズの後継)としてFX-20,FX-10
* スピネットタイプ(Dシリーズの後継)としてFS-70,50,30,20
* 普及タイプ(Cシリーズの後継)としてFE-70,60,50,40,30
* 入門タイプ(Bシリーズの後継)としてFC-20,10
が発売された。また後にFS-30にRAMパックが付加されたFS-30Aが発売された。1984年11月から1992年10月までFX-20が、1994年3月までFS-30/FS-30Aがヤマハグレード5-3級受験機種として使われていた。
==== Fシリーズ ====
[[1981年]]発売。初のFM音源搭載のエレクトーン。F-70,F-50,F-30の3機種が発売される。パイプオルガン等の代替用として開発され、一般のエレクトーン教室等で見られることはなかった。 また1989年にはF-700が、1992年にはF-300,400が、1994年にはF-100,200が発売された。2000年に発売終了し、現在クラシックオルガン需要にはバイカウントオルガンの輸入取り扱いにて対応している。
==== B/C/D/Eシリーズ ====
1号機からFS/FXシリーズ登場までは、概ね鍵盤数によりシリーズ分けされていた。
* Eシリーズ…指導者、演奏者向けフルスケールタイプ。上下鍵盤61鍵(5オクターブ),ペダル鍵盤25鍵(2オクターブ)
* Dシリーズ…指導者、演奏者向け。上下鍵盤49鍵(4オクターブ)、ペダル鍵盤13鍵(1オクターブ)
* Cシリーズ…普及タイプ。上下鍵盤44鍵(約3オクターブ半…最低音はF)、ペダル鍵盤13鍵
* Bシリーズ…入門タイプ。上下鍵盤37鍵(3オクターブ…最高・最低ともF)、ペダル鍵盤13鍵
ただ初期にはCシリーズでも上下鍵盤が49鍵ある等、違う鍵盤数のモデルもあった。
[[1977年]]に発売したE-70/50/30、D-90/60/40シリーズからはPASSystem(パルス・アナログ・シンセサイザーシステム)が採用され、持続・減衰以外の複雑な音の波形が生み出された。
[[1980年]]に発売したE-700/500、D-800/700/600/500シリーズでは、リズムのテンポがデジタル表示されたり、ブレークバリエーションボタン(現在のFill inボタン)が搭載され、徐々にデジタル技術が導入されていった。
==== EX-1 ====
[[1977年]]発売。[[パルス]](デジタル)アナログシンセサイザー技術を使用して作られた楽器。従来は非常に多くの[[トランジスタ]]や[[抵抗器|抵抗]]、[[コンデンサ]]によって楽器が構成されていたが、[[LSI]]化することでコスト削減及び楽器としての安定性・クォリティーを高めることができた。
==== GX-1 ====
[[1975年]]発売。エレクトーンの中では一番値段が高い機種である。[[アナログシンセサイザー]]で構成された唯一のエレクトーンであり、長期に渡りステージモデルとして活躍した。音色はパネル上部にあるアナログシンセサイザーモジュールを取り外して、直接作成することができる。音色に自由度がある反面、本体の一部を開口する為に、音色の作成難易度は非常に高めであった。{{See also| ヤマハ・GX-1}}
==== EX-42 ====
[[1970年]]発売。ソロ鍵盤が初搭載され、ペダル鍵盤も2オクターブあった。
==== D-1 ====
[[1959年]]発売。アンプ以外はすべてトランジスタ(281石)を採用した、販売されたエレクトーンとしての初代機種である。
=== その他 プロトタイプ ===
==== EX-21 ====
[[1968年]]登場。上記 EX-42の試作機であった。
==== E-T ====
[[1958年]]完成。日本楽器 (ヤマハ) が開発したエレクトーンのプロトタイプ。このレコード吹込みに使われたE-T型は1台のコンソール、4架の発振器・音色形成部増巾器及び、3台のスピーカーより構成されている。コンソールは演奏器で3段の鍵盤、32鍵のペダル鍵盤、171個のスイッチ(ストップ・カプラー・コントローラー等)からなっていた。レコーディングは、1958年にリリースされ、道志郎が演奏した「クリスマスメロディーズ・イン・ヤマハエレクトーン」という名前のクリスマスアルバムにも掲載された。
== 楽譜・音源データ ==
[[楽譜]]はヤマハの関連会社[[ヤマハ・ミュージック・メディア]] (YMM) が独占的に提供している。情報雑誌の「[[月刊エレクトーン]]」には最新のヒット曲が(数ヶ月遅れで)数曲掲載されている。1990年代には[[kmp]]も登録商標の許諾を得て発売していた。
楽譜の表記はペダル鍵盤がある分3段用意されている。基本的に譜面はピアノ譜と同等であるが、レジストリメモリーの移動タイミングの表記などヤマハ独自の仕様が数多く存在するため、別途知識が必要となる。
月刊エレクトーン掲載曲やYMM発売の一部曲集の音源に関しては、特約店に設置してある「[[Muma]]」を利用することで有償で入手可能である。ステージアではMumaの他、PC[[ブラウザー]]やダイレクトコネクション機能を介して「Electone Station」のデータ販売([[ダウンロード販売]])サイトで購入し、USBメモリ・スマートメディアに保存(ムーブ)する手段も存在する。
先代のELシリーズ向け曲集には音源データの入った[[フロッピーディスク]]が同梱されていることが多かったが、STAGEAシリーズが主流になってからの曲集は基本的には楽譜のみで、前述の手段を利用することでELシリーズまたはSTAGEAシリーズのレジストレーションデータを購入するように改められている。
また、曲集によりSTAGEAシリーズのみ対応のもの、STAGEAシリーズ・ELシリーズ両方に対応のものがある。
曲集付録・mumaやダウンロード販売で購入した各種メディアの楽曲データには独自の[[コピープロテクト]]がかけられており、これを改ざんする等してコピーを行った場合は[[バックアップ]]等の私的利用であっても[[著作権法]]に抵触する。スマートメディアではIDと関連づけされた[[SCMS]]によりファイルに手を加えると再生不能となる。PCで購入した楽曲は「Musicsoft Downloader」という専用ソフトを介して、PC内に一時保存されたデータをUSBメモリやスマートメディアへ[[ムーブ]]する形態となっており、これ以外の手段([[エクスプローラ]]を用いてファイル操作を行う等)ではファイルが破損する仕組みとなっている。
曲集に付属のFDのデータが経年劣化などの理由で消失した場合、YMMでは発売から一定期間は現品送付と実費負担を条件にFDの交換に応じていた。但し発売から相当年数経過(概ね2000年以前)の作品では対応していないため注意が必要であった。
なお、現在はフロッピーディスクの生産終了に伴い、FD商品販売も2013年12月末に終了している。
ELシリーズ用のレジストレーションデータは、別売のMDR-5を接続し、FD→MDR-5変換を行ったり、MDR-5用データを購入する等して、USBメモリを用いるように改められたが、2016年6月をもってデータ制作が終了となった。
== 各世代の互換性の問題 ==
各機種ごとの固有の機能を使用する場合、以下の要因から、別の機種では同じ音が出せないという問題が、FS/FXシリーズからELシリーズまでは顕著であった。
* ELシリーズはAWM音源+FM音源(+VA音源)だったのに対し、STAGEAでは、AWM音源(+VA音源)でFM音源が備わっていない。そのため、ELシリーズで作成された音色データをSTAGEAで使おうとすると、FM音源がない分違う音になる。特にELシリーズの機能で作成されたユーザーボイスは全てSTAGEAのプリセット音色に置き換えられる。
* ELシリーズ同士でもWAVEサンプリングに互換性が無いことがあり、機種によっては音質が異なることがある。
*ELシリーズ以降は、異なる世代のモデルであってもレジストレーションデータが(再現性に問題がありながらも)読み込めるようになった。それまで(HX/HSシリーズ、FX/FSシリーズ)はモデルチェンジ前後でのレジストレーションデータの互換性が一切なく、全て作り直しとなっていた。
* HXシリーズとHSシリーズ、FXシリーズとFSシリーズは、同世代のエレクトーンであってもレジストレーションデータの互換性が一切ない。またFX-3はFS-70のステージモデルであるため、FS-50/FS-70/FX-3間での読み書きと、FX-1/FX-20/FX-10間での読み書きには対応しているが、FX-3とFX-1/FX-20/FX-10との間には互換性はない。
*B/C/D/EシリーズやGX-1等、FX/FSシリーズ以前の機種では、全てその場でパネルを操作してレジストレーションを設定していたので、互換性という概念があまりなく、イベント時も「同じ機種が2台並べてあり、前の演奏者が演奏中に次の演奏者がレジストレーションを設定する」「司会が話している間にレジストレーションを設定する」「演奏者が曲間に話しながらレジストレーションを設定する」等の工夫をしながらレジストレーションの設定を行っていた。
STAGEAになってからは、ELS-02シリーズでELS-01シリーズの音色データは、ドラム/パーカッションのピッチを大幅に変更した場合を除き、ほぼ問題なく再生出来るように改善された。
== エレクトーンプレイヤー ==
[[File:YAMAHA Electone City Shibuya.jpg|thumb|180px|right|ヤマハ エレクトーンシティ渋谷([[東京都]][[渋谷区]][[桜丘町 (渋谷区)|桜丘町]]、2017年12月に閉館)]]
エレクトーン奏者のこと。中には全国ネット番組のBGM制作を担当する者もいる。大別すると、株式会社ヤマハミュージックジャパンに所属しその傘下で活動している者、[[ヤマハ|ヤマハ株式会社]]の支援を受けている独立系のエレクトーン・プレイヤー、メーカーの支援に依存せずに活動するフリーランスの電子オルガン奏者がいる。
2019年3月31日を以てヤマハ音楽振興会におけるエレクトーンプレイヤーマネジメント業務が終了した事に伴い、ヤマハ音楽振興会所属だったエレクトーンプレイヤーの大部分は「ヤマハエレクトーンプレイヤー」として、ヤマハミュージックジャパンと演奏契約を結んでいる。また、ヤマハでは主にヤマハエレクトーンシティがプレイヤーへの支援業務を行っている。なおヤマハエレクトーンシティ渋谷は、渋谷駅周辺再開発により2017年12月に閉館し、2018年3月にヤマハ音楽振興会ビルの1Fに移転し、名称も「ヤマハエレクトーンシティ」となった。
=== ヤマハエレクトーンプレイヤー ===
{{columns-list|colwidth=10em|
* [[尾野カオル]]
* [[加曽利康之]]
* [[窪田宏]]
* [[中野正英]]
* [[渡辺睦樹]]
* [[岩内佐織]]
* [[高田和泉]]
* [[廣田奈緒子]]
}}
=== ヤマハミュージックジャパン所属のデモンストレーター ===
{{columns-list|colwidth=10em|
* 青木美佐子
* 安達香織
* 有本香織
* 石川まゆみ
* 今村弥生
* 岩崎恵
* 岩間浩
* 榎本美那子
* 大西麻美
* 岡崎香奈
* おぎたひろゆき
* 奥津夕香
*[[小椋寛子 (ミュージシャン)|小椋寛子]]
* 小野由起子
* 加藤夢望
* 亀井絵里奈
* 菅野大地
* 小野由起子
* 木崎さかえ
* 清重浩子
* 久保仁美
* 倉沢大樹
* 黒崎美保
* 小仲真里
* 小林順子
* 小林利歌
* 坂本栞菜
* 坂本有正
* 佐野麻里子
* 柴田友輔
* 小豆敬子
* 白岡紗苗
* 杉山いくよ
* 高木佳子
* 田頭裕子
* 高橋督
* 鷹野雅史
* 田口奈穂美
* 竹野靖子
* 田中貴俶美
* 田村幹雄
* 玉田紗貴
* 寺島香
* 富岡ヤスヤ
* 冨田裕梨
* 友弘稚奈
* 中村久美
* 林真由
* 濱田有紀子
* 浜畑早織
* 浜宏幸
* 疋田詩織
* 広原かおり
* 福田祐太
* 星祥子
* 細川暁子
* 松井宏行
* 村山有希子
* 山岡恭子
* 山﨑雅也
* 山田千波
* 遊佐稲波
* 渡部薫
* 和田侑記
}}
=== 独立系およびフリーのプレイヤー ===
{{columns-list|colwidth=10em|
* [[赤﨑夏実]]
* 赤塚博美
* 天野裕子
* AYAKI
* [[安藤ヨシヒロ]]
* 内海源太
* 海津幸子
* 柏木玲子{{efn|NHKテレビ「[[ウルトラアイ]]」のテーマ曲を番組中で演奏。本人も奏者として出演。}}
* 川崎智永弥
* 川田祐子
* 神田将
* 菊地友夏
* 久米詔子
* 小寺久美子
* さいとうりょう
* 冴咲賢一
* 下村真有美
* 関藤繁生(セキトオ・シゲオ)
* [[中村幸代]]
* [[中村麻由]]
* 西岡奈津子
* 西山淑子
* 仁戸田江美子
* [[幅しげみ]]
* [[林アキラ]]
* 平沼有梨
* 平部やよい
* 前田絢葉
* [[松田昌]]
* 松本玲子
* [[三原善隆]]
* 森俊雄
* [[安井正規]]
* 宮内康生
* 道志郎
*[[826aska]]
* 川上天馬
}}
== エレクトーンサークル ==
エレクトーンの演奏活動を行う団体のこと。2000年代に入り急速に発展した。主に大学に所属するサークルと社会人のサークルに大別される。ヤマハでは主に「ヤマハエレクトーンシティ」がエレクトーンサークルへの支援を行っている。
=== 大学エレクトーンサークル ===
全国エレクトーンサークルネットワーク(通称「EC-net」)と呼ばれる、非営利の機構が存在し、毎年3月に全国エレクトーンサークルジョイントコンサートを開催している。2016年現在EC-netの加盟サークルは24である。全体的に東日本の大学に偏っており、中国・四国・九州地方では近畿大学工学部にエレクトーンサークルが存在するのみとなっている。
==== EC-net加盟サークル ====
* 北海道大学エレクトーンサークル「Sweet」
* 秋田大学エレクトーンサークル「響」
* 東北大学エレクトーンサークル「MUSICA」
* 茨城大学鍵盤サークル「Kandy!」
* 埼玉大学エレクトーンサークル「Affects」
* 東京大学エレクトーンクラブ
* 早稲田大学エレクトーンサークル「AUGMENT」
* 法政大学エレクトーンサークル「COSMOS」
* 中央大学エレクトーンサークル「Twinkle Notes」
* 専修大学エレクトーンサークル「OASIS」
* 桜美林大学エレクトーンサークル「Enchante」
* 慶應義塾大学エレクトーン研究会
* 東京農工大学エレクトーンサークル「音風」
* 国立音楽大学電子オルガンサークル「Melhaba」
* 東京都市大学エレクトーンサークル「sky tone」
* 千葉大学エレクトーンサークル「えれちば」
* 静岡文化芸術大学エレクトーンサークル「Tutti」
* 名古屋大学エレクトーンサークル「WHITE COLOR」
* 名古屋音楽大学エレクトーンサークル「piu〜harmony★M7〜」
* 岐阜大学エレクトーンサークル「Triangle」
* 三重大学エレクトーンサークル「23-two・three」
* 京都大学エレクトーンサークル「KUES」
* 立命館大学エレクトーンサークル「三弾鍵盤」
* 大阪大学エレクトーンサークル「HANON」
* 滋賀大学エレクトーンサークル「どどんぱ」
==== EC-net非加盟サークル ====
* 岩手県立大学エレクトーンサークル「Joyful」
* 群馬大学エレクトーン部
* 上智大学エレクトーン・ピアノ愛好会
* 関西学院大学・神戸大学エレクトーンサークル「electonton」
* 近畿大学工学部エレクトーン部「TOCaM」
* 信州大学 エレクトーンサークル
== 社会人エレクトーンサークル ==
* 社会人エレクトーンサークル「Piacere」 …東京・横浜を中心に活動。
* 社会人エレクトーンサークル「Soundscape」 …名古屋近辺を中心に活動。
* 社会人エレクトーンサークルPLUMONY …大阪を中心に関西で活動。
== エレクトーンが登場する番組 ==
* [[オリジナルコンサート]]([[テレビ朝日]]系列・1987年 - 1998年)
* [[パンチDEデート]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]]・1973年 - 1985年)
* [[ラブアタック!]]([[朝日放送テレビ|ABC]]・1975年 - 1984年・[[塚山エリコ]])
* [[ウルトラアイ]]([[日本放送協会|NHK]]・1978年 - 1986年・[[柏木玲子]])
* [[おはよう朝日です|おはよう朝日です・おはよう朝日土曜日です]](朝日放送テレビの[[関西ローカル]]番組・平日版は1979年、『〜土曜日です』は1982年 - どちらも現在も放送中)
* [[おはようテレビ朝日]]→[[やじうまワイド]]([[テレビ朝日]]・1981年 - 2002年、エレクトーンの使用及び演奏による時間告知は『やじうまワイド』時代の1993年まで)
* [[おかあさんといっしょ]](NHK・[[林アキラ]]時代-1995年まで画面に登場、それ以後も1996年3月放送分まで演奏に用いられていた)
* [[クボジュンのえいごっこ]]([[TBSテレビ|TBS]]・2004年 - 2006年)
* [[サンデーLIVE!!]]([[テレビ朝日]]・[[朝日放送テレビ|ABC]]・[[名古屋テレビ放送|メ〜テレ]]系列・2017年10月1日 - 現在も放送中、上記『おはよう朝日です』・『おはよう朝日土曜日です』での演出を参考にしたもの。但し、エレクトーンの使用及び演奏による時間告知は放送開始からの1年間のみ)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[クラビノーバ]] - ヤマハの[[電子ピアノ]]製品
== 外部リンク ==
* [https://jp.yamaha.com/products/contents/keyboards/electone/electone_city/index.html ヤマハエレクトーンシティ]
* [http://jp.yamaha.com/products/musical-instruments/keyboards/el-organs/electone_station/ エレクトーンステーション]
* [https://jp.yamaha.com/products/contents/keyboards/electone_station/el-player/index.html ヤマハエレクトーンプレイヤー]
* [http://jsekm.jp/ 日本電子キーボード音楽学会]
* [http://ec1net.web.fc2.com/ 全国エレクトーンサークルネットワーク「EC-net」]
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[[Category:ヤマハの電子楽器]]
[[Category:ヤマハの鍵盤楽器]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3 |
3,472 | FLAPW法 | FLAPW(英: Full-potential LAPW、FP-LAPW)は、フルポテンシャル化されたLAPW法のこと。全電子計算手法の中では、最も精度の高い結果を与えるバンド計算手法であるが、その分、必要な計算量も非常に多くなるのが難点。 | [
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] | FLAPWは、フルポテンシャル化されたLAPW法のこと。全電子計算手法の中では、最も精度の高い結果を与えるバンド計算手法であるが、その分、必要な計算量も非常に多くなるのが難点。 | {{出典の明記|date=2012年8月}}
'''FLAPW'''({{Lang-en-short|Full-potential LAPW}}、{{Lang|en|FP-LAPW}})は、[[フルポテンシャル]]化された[[LAPW]]法のこと。全電子計算手法の中では、最も精度の高い結果を与える[[バンド計算]]手法であるが、その分、必要な計算量も非常に多くなるのが難点。
<!-- == 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}} -->
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
<!-- {{Commonscat|Full-potential LAPW}} -->
* [[バンド計算]]
* [[LAPW]]
* [[フルポテンシャル]]
* [[第一原理バンド計算]]
<!-- == 外部リンク == -->
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{{デフォルトソート:FLAPW}}
[[Category:バンド計算]]
<!-- [[en:Full-potential LAPW]] --> | null | 2014-04-11T17:13:33Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/FLAPW%E6%B3%95 |
3,476 | アインシュタイン方程式 | 一般相対性理論におけるアインシュタイン方程式(アインシュタインほうていしき、英: Einstein's equations, Einstein Field Equations)は、万有引力・重力場を記述する場の方程式である。アルベルト・アインシュタインによって導入された。
アイザック・ニュートンが導いた万有引力の法則を、強い重力場に対して適用できるように拡張した方程式であり、中性子星やブラックホールなどの高密度・大質量天体や、宇宙全体の幾何学などを扱える。
一般相対性理論によれば、大質量の物体は周囲の時空を歪ませる。すなわち、重力とは時空の歪みであるとして説明される。その理論的な帰結・骨子となるのが、次のように表されるアインシュタイン方程式である。
左辺は時空がどのように曲がっているのか(時空の曲率)を表す幾何学量であり、右辺は物質場の分布を表す量である。
おおざっぱに言えば、星のような物質またはエネルギーを右辺に代入すれば、その物質の周りの時空がどういう風に曲がっているかを読みとることができる式である。空間の歪みが決まれば、その空間中を運動する物質の運動方程式(測地線方程式)が決まるので、物質分布も変動することになる。
左辺の Gμν = Rμν - 1/2Rgμν はアインシュタイン・テンソルと呼ばれる。Λ は宇宙定数であり、この項は宇宙項と呼ばれる。Rμν はリッチテンソル、R はスカラー曲率であり、どちらも時空の計量テンソル gμν の微分で書かれる幾何学量である。つまりアインシュタイン方程式は計量についての連立偏微分方程式の形をしている。
右辺の Tμν はエネルギー・運動量テンソルである。係数 κ はアインシュタインの重力定数と呼ばれ、ニュートンの重力定数 G と κ = 8π/c G の関係にある(π は円周率、c は光速)。
アインシュタイン方程式の両辺は4次元2階対称テンソルであるから、成分毎に分解すれば10本の独立な方程式が得られる。このうち、4本はエネルギー保存則と運動量保存則に対応するものであり、Gμν の空間成分に関係する残りの6本の方程式が時空の運動方程式に相当する。これらは時間微分2階の偏微分方程式6本(あるいは時間微分1階の偏微分方程式12本)であるが、座標の選択の自由度(ゲージの自由度)が4つ、保存則を満たしながら時間発展を行うための拘束条件が4つあると考えれば、たとえ真空中であっても1階の微分方程式4本(2階に直せば2本)の自由度が残る。この自由度は時空の歪みを周囲に波として伝える「重力波」のモードが2つあることを意味している。
ビアンキの第二恒等式
から、l = h = a とおいて縮約を行うと
この式に基本計量テンソル g を掛け合わせると、計量条件(またはリッチの補定理) ∇ h g j i = 0 {\displaystyle \nabla _{h}g^{ji}=0} から
となる。ここで上式の各項について
となることから、上式から
を得る。したがって、アインシュタインテンソルの添え字を一つ上にあげたものを
とすると、その発散 ∇ a G i a {\displaystyle \nabla _{a}G_{i}{}^{a}} について
が成り立つ。
アインシュタインの1916年のオリジナル論文には含まれておらず、アインシュタイン方程式は Gμν = κTμν の形で書かれていた。アインシュタインは、1917年の論文で方程式に「宇宙項」を加えて Gμν + Λgμν = κTμν の形に書き換えた。Λ は宇宙定数を表す。宇宙項は、正負の符号によっては、重力に対する反重力(万有斥力)として機能する。
アインシュタインがこの項を導入した理由については諸説あるが、一般に有名なのは、彼自身が信じる静止宇宙モデルを実現するためという説である。1917年論文の宇宙モデルは重力と宇宙項による反重力とが釣り合う静止宇宙だった。当時、宇宙膨張は発見されていなかった。しかしこのモデルは不安定であり、僅かな摂動で膨張または収縮に転じる(静止宇宙とならない)性質を持つことが後にアレクサンドル・フリードマンにより示された。
1929年にハッブルが宇宙の膨張を観測的に示した後、1931年にはアインシュタイン自身により「人生最大の過ち」として消去された。しかしながら、近年の宇宙のインフレーション理論や素粒子物理学との関連の中で、宇宙項(に相当する斥力)を再び導入して考えることが通常行われており、むしろ重要な意味を与えている場合がある。観測的宇宙論において、宇宙膨張を加速させている謎のエネルギーとして、ダークエネルギーが提案されている。ダークエネルギーは方程式上では宇宙項である。
エネルギー・運動量テンソル Tμν が自由空間中の電磁場のみに由来する場合、すなわち電磁テンソルを用いて以下のように表わせるとき
これを代入したアインシュタイン方程式はアインシュタイン・マクスウェル方程式と呼ばれ、(宇宙定数を含む形式では)以下のように書き下せる。
また、これに加えて電磁テンソルは自由空間における共変形式のマクスウェル方程式を満たすことも要求される。
ここで、セミコロン ; は共変微分を表わすものとし、角括弧は反対称化を表わすものとする。これらの式は2-形式 F について、一つ目は 4-発散が 0 であること、二つ目は外微分が 0 であることをそれぞれ示している。2つ目の方程式から、ポアンカレの補題によりある座標チャートにおいて電磁ポテンシャル Aα を以下のように導入できることが従う。
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"text": "ここで、セミコロン ; は共変微分を表わすものとし、角括弧は反対称化を表わすものとする。これらの式は2-形式 F について、一つ目は 4-発散が 0 であること、二つ目は外微分が 0 であることをそれぞれ示している。2つ目の方程式から、ポアンカレの補題によりある座標チャートにおいて電磁ポテンシャル Aα を以下のように導入できることが従う。",
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{
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"text": "ここで、コンマ , は偏微分を表わすものとする。これを用いた方程式を共変マクスウェル方程式と等価として扱うことも多い。しかし、電磁ポテンシャルを大域的に定義できない大域的な解も存在する。",
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] | 一般相対性理論におけるアインシュタイン方程式は、万有引力・重力場を記述する場の方程式である。アルベルト・アインシュタインによって導入された。 アイザック・ニュートンが導いた万有引力の法則を、強い重力場に対して適用できるように拡張した方程式であり、中性子星やブラックホールなどの高密度・大質量天体や、宇宙全体の幾何学などを扱える。 | {{Pathnav|物理学|相対性理論|一般相対性理論|frame=1}}
{{一般相対性理論}}
一般相対性理論における'''アインシュタイン方程式'''(アインシュタインほうていしき、{{Lang-en-short|Einstein's equations}}, Einstein Field Equations)<ref group="注">アインシュタインの'''重力場方程式'''(じゅうりょくばのほうていしき、{{lang-en-short|Einstein's field equations}};EFE)とも呼ばれる。</ref>は、[[万有引力]]・[[重力場]]を記述する場の方程式である。[[アルベルト・アインシュタイン]]によって導入された。
[[アイザック・ニュートン]]が導いた万有引力の法則を、強い重力場に対して適用できるように拡張した方程式であり、[[中性子星]]やブラックホールなどの高密度・大質量天体や、宇宙全体の幾何学などを扱える。
{{main2|概略や導出・応用などの詳しい説明|一般相対性理論}}
== 概要 ==
一般相対性理論によれば、大質量の物体は周囲の時空を歪ませる。すなわち、重力とは[[時空]]の歪みであるとして説明される。その理論的な帰結・骨子となるのが、次のように表されるアインシュタイン方程式である。
:<math>G_{\mu\nu}+\Lambda g_{\mu\nu}=\kappa T_{\mu\nu}</math>
左辺は時空がどのように曲がっているのか(時空の[[曲率]])を表す[[幾何学]]量であり、右辺は[[物質]]場の分布を表す量である。
おおざっぱに言えば、星のような[[物質]]または[[エネルギー]]を右辺に代入すれば、その物質の周りの[[時空]]がどういう風に曲がっているかを読みとることができる式である。空間の歪みが決まれば、その空間中を運動する物質の運動方程式([[測地線|測地線方程式]])が決まるので、物質分布も変動することになる。
左辺の {{math|''G{{Sub|μν}}'' {{=}} ''R{{Sub|μν}}'' - {{Sfrac|1|2}}''Rg{{Sub|μν}}''}} は[[アインシュタインテンソル|アインシュタイン・テンソル]]と呼ばれる。{{Math|Λ}} は[[宇宙定数]]であり、この項は宇宙項と呼ばれる。{{Mvar|R{{sub|μν}}}} は[[リッチテンソル]]、{{Mvar|R}} は[[スカラー曲率]]であり、どちらも時空の[[計量テンソル]] {{Mvar|g{{sub|μν}}}} の微分で書かれる[[幾何学]]量である。つまりアインシュタイン方程式は計量についての連立[[偏微分方程式]]の形をしている。
右辺の {{Mvar|T{{sub|μν}}}} は[[エネルギー・運動量テンソル]]である。係数 {{Mvar|κ}} は[[アインシュタインの定数|アインシュタインの重力定数]]と呼ばれ、[[万有引力定数|ニュートンの重力定数]] {{Mvar|G}} と {{math|''κ'' {{=}} {{Sfrac|8π|''c''{{Sup|4}}}} G}} の関係にある({{Mvar|π}} は[[円周率]]、{{Mvar|c}} は[[光速]])。
アインシュタイン方程式の両辺は4次元2階対称[[テンソル]]であるから、成分毎に分解すれば10本の独立な方程式が得られる<ref group="注">4次元2階対称テンソルの各成分は4つの対角成分と12の非対角成分にわけられるが、非対角成分は対称性 {{math|''G{{Sub|μν}}'' {{=}} ''G{{Sub|νμ}}'' (''μ'' ≠ ''ν'')}} により、独立な成分は12/2=6つとなるため、対角成分とあわせて10成分が独立である。</ref>。このうち、4本はエネルギー保存則と運動量保存則に対応するものであり、{{Mvar|G{{sub|μν}}}} の空間成分に関係する残りの6本の方程式が時空の運動方程式に相当する。これらは時間微分2階の偏微分方程式6本(あるいは時間微分1階の偏微分方程式12本)であるが、座標の選択の自由度(ゲージの自由度)が4つ、保存則を満たしながら時間発展を行うための拘束条件が4つあると考えれば、たとえ真空中であっても1階の[[微分方程式]]4本(2階に直せば2本)の自由度が残る。この自由度は時空の歪みを周囲に波として伝える「[[重力波 (相対論)|重力波]]」のモードが2つあることを意味している。
== 性質 ==
=== アインシュタインテンソルの発散は0 ===
ビアンキの第二恒等式
:<math>\nabla_l R_{k j i}{}^h + \nabla_j R_{l k i}{}^h + \nabla_k R_{j l i}{}^h = 0</math>
から、l = h = a とおいて縮約を行うと
:<math>\nabla_a R_{k j i}{}^a + \nabla_j R_{a k i}{}^a + \nabla_k R_{j a i}{}^a
= \nabla_a R_{k j i}{}^a + \nabla_j R_{k i} - \nabla_k R_{j i} = 0</math>
この式に基本計量テンソル g<sup>j i</sup> を掛け合わせると、計量条件(またはリッチの補定理)<math>\nabla_h g^{j i} = 0</math> から
:<math>g^{j i}\nabla_a R_{k j i}{}^a + g^{j i}\nabla_j R_{k i} - g^{j i}\nabla_k R_{j i} = \nabla_a \left( g^{j i} R_{k j i}{}^a \right) + \nabla_j \left( g^{j i} R_{k i} \right) - \nabla_k \left( g^{j i} R_{j i} \right) = 0</math>
となる。ここで上式の各項について
:<math> g^{j i} R_{k j i}{}^a = g^{j i} R_{k j i f} g^{f a} = g^{j i} R_{j k f i} g^{f a} = R_{k f} g^{f a} = R_k{}^a</math>
:<math> g^{j i} R_{j i} = R</math>
となることから、上式から
:<math>\nabla_a R_k{}^a + \nabla_j R_k{}^j - \nabla_k R = 2\nabla_a R_k{}^a - \nabla_k R = 0</math>
を得る。したがって、アインシュタインテンソルの添え字を一つ上にあげたものを
:<math>G_{i}{}^{j} = R_{i}{}^{j} - {1 \over 2} R g_{ik}g^{kj}</math>
とすると、その発散 <math>\nabla_a G_{i}{}^a</math> について
:<math>\nabla_a G_{i}{}^a = \nabla_a R_{i}{}^{a} - {1 \over 2}\nabla_a R \delta_i^a = \nabla_a R_{i}{}^{a} - {1 \over 2}\nabla_i R = 0 </math>
が成り立つ。
== 宇宙項 ==
アインシュタインの[[1916年]]のオリジナル論文には含まれておらず、アインシュタイン方程式は {{math|''G{{Sub|μν}}'' {{=}} ''κT{{Sub|μν}}''}} の形で書かれていた。アインシュタインは、[[1917年]]の論文で方程式に「宇宙項」を加えて {{math|''G{{Sub|μν}}'' + Λ''g{{Sub|μν}}'' {{=}} ''κT{{Sub|μν}}''}} の形に書き換えた。{{math|Λ}} は[[宇宙定数]]を表す。宇宙項は、正負の符号によっては、重力に対する反重力(万有斥力)として機能する。
アインシュタインがこの項を導入した理由については諸説あるが、一般に有名なのは、彼自身が信じる[[アインシュタインの静止宇宙モデル|静止宇宙モデル]]を実現するためという説である。1917年論文の宇宙モデルは重力と宇宙項による反重力とが釣り合う静止宇宙だった。当時、宇宙膨張は発見されていなかった。しかしこのモデルは不安定であり、僅かな摂動で膨張または収縮に転じる(静止宇宙とならない)性質を持つことが後に[[アレクサンドル・フリードマン]]により示された。
<!--(同じ内容の繰り返しになるのでコメントアウト)
:他に、境界条件の無い閉じた球面空間が解となるように方程式を変形した際、出発点としてたまたま静止解を想定したために、宇宙項が入り込んだとする説がある。つまり、考え方としては膨張・収縮解でも良かったところを、うっかり静止解を選んだがために、後に撤回する羽目に陥った。
-->
[[1929年]]に[[ハッブル]]が宇宙の膨張を観測的に示した後、[[1931年]]にはアインシュタイン自身により「人生最大の過ち」として消去された<ref group="注">「人生最大の過ち」という発言に関する諸説は、[[宇宙定数#否定]]を参照。</ref>。しかしながら、近年の[[宇宙のインフレーション]]理論や[[素粒子物理学]]との関連の中で、宇宙項(に相当する斥力)を再び導入して考えることが通常行われており、むしろ重要な意味を与えている場合がある。[[観測的宇宙論]]において、宇宙膨張を加速させている謎のエネルギーとして、[[ダークエネルギー]]が提案されている。ダークエネルギーは方程式上では宇宙項である。
{{Main|一般相対性理論}}
==アインシュタイン・マクスウェル方程式==
{{see also|en:Maxwell's equations in curved spacetime}}
エネルギー・運動量テンソル {{Mvar|T{{sub|μν}}}} が[[自由空間]]中の[[電磁場]]のみに由来する場合、すなわち[[電磁テンソル]]を用いて以下のように表わせるとき
:<math>T^{\alpha\beta}=-\frac{1}{\mu_0}\left(F^{\alpha}{}^{\psi}F_{\psi}{}^{\beta}+\frac{1}{4}g^{\alpha\beta}F_{\psi\tau}F^{\psi\tau}\right)</math>
これを代入したアインシュタイン方程式は'''アインシュタイン・マクスウェル方程式'''と呼ばれ、(宇宙定数を含む形式では)以下のように書き下せる。
:<math>R^{\alpha\beta}-\frac{1}{2}Rg^{\alpha\beta}+\Lambda g^{\alpha\beta}=\frac{8\pi G}{c^4\mu_0}\left(F^{\alpha}{}^{\psi}F_{\psi}{}^{\beta}+\frac{1}{4}g^{\alpha\beta}F_{\psi\tau}F^{\psi\tau}\right)</math>
また、これに加えて電磁テンソルは自由空間における[[マクスウェルの方程式#マクスウェルの方程式と特殊相対性理論|共変形式のマクスウェル方程式]]を満たすことも要求される。
:<math>F^{\alpha\beta}{}_{;\beta}=0</math>
:<math>F_{[\alpha\beta;\gamma]}=\frac{1}{3}\left(F_{\alpha\beta;\gamma}+F_{\beta\gamma;\alpha}+F_{\gamma\alpha;\beta}\right)=\frac{1}{3}\left(F_{\alpha\beta,\gamma}+F_{\beta\gamma,\alpha}+F_{\gamma\alpha,\beta}\right)= 0</math>
ここで、セミコロン ; は[[レヴィ・チヴィタ接続#擬リーマン多様体のレヴィ-チヴィタ接続|共変微分]]を表わすものとし、角括弧は[[反対称性|反対称化]]を表わすものとする。これらの式は[[微分形式|2-形式]] {{Mvar|F}} について、一つ目は 4-[[発散 (ベクトル解析)|発散]]が 0 であること、二つ目は[[外微分]]が 0 であることをそれぞれ示している。2つ目の方程式から、[[ポアンカレの補題]]によりある座標チャートにおいて電磁ポテンシャル {{Mvar|A<sub>α</sub>}} を以下のように導入できることが従う。
:<math>F_{\alpha\beta}=A_{\alpha;\beta}-A_{\beta;\alpha} =A_{\alpha,\beta}-A_{\beta,\alpha}\!</math>
ここで、コンマ , は偏微分を表わすものとする。これを用いた方程式を共変マクスウェル方程式と等価として扱うことも多い<ref>{{Cite book|last=Brown|first=Harvey|authorlink=:en:Harvey Brown (philosopher)|url=https://books.google.com/?id=T6IVyWiPQksC&pg=PA164&dq=Maxwell+and+potential+and+%22generally+covariant%22|title=Physical Relativity: space-time structure from a dynamical perspective|page=164|publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]|date=24 November 2005|asin=0199275831|oclc=762836855|ncid=BA74811910|isbn=978-0-19-927583-0|doi=10.1093/0199275831.001.0001}}</ref>。しかし、電磁ポテンシャルを大域的に定義できない大域的な解も存在する<ref>{{Cite journal|last1=Trautman|first1=Andrzej|authorlink=:en:Andrzej Trautman|title=Solutions of the Maxwell and Yang-Mills equations associated with hopf fibrings|date=3 May 1977|publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer Science+Business Media]]|journal={{enlink|International Journal of Theoretical Physics|p=off|s=off}}|volume=16|issue=8|pages=561–565|issn=0020-7748|oclc=972000091|doi=10.1007/BF01811088|bibcode=1977IJTP...16..561T }}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|section=1|date=2016年3月6日 (日) 01:41 (UTC)}}
* {{cite book|和書|author=リーマン|author2=リッチ|author3=レビ=チビタ|author4=アインシュタイン|author5=マイヤー|title=リーマン幾何とその応用|year=1971|publisher=[[共立出版]]|translator=[[矢野健太郎 (数学者)|矢野健太郎]]|ref=矢野 (1971)}}
* {{cite book|和書|author=アインシュタイン|title=相対論の意味 附:非対称場の相対論|year=1958|publisher=[[岩波書店]]|translator=[[矢野健太郎 (数学者)|矢野健太郎]]|ref=相対論の意味}}
* {{cite book|和書|author=矢野健太郎|authorlink=矢野健太郎 (数学者)|title=リーマン幾何学入門|publisher=[[森北出版]]|year=1971|ref=矢野(1971) }}
== 関連項目 ==
* [[一般相対性理論]]
* [[ブラックホール]] | [[シュヴァルツシルトの解]] | [[カー解]] | [[事象の地平面]] | [[見かけの地平面]]
* [[ワイル解]] | [[トミマツ・サトウ解]] | [[エルンスト方程式]]
* [[膨張宇宙]] | [[宇宙のインフレーション]] | [[フリードマン方程式]]
* [[特異点定理]] | [[宇宙検閲官仮説]]
* [[ワームホール]]
* [[ポアソン方程式]]
* [[ゲーデル解]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|2=法則の辞典}}
{{相対性理論}}
{{アルベルト・アインシュタイン}}
{{DEFAULTSORT:あいんしゆたいんほうていしき}}
[[Category:一般相対性理論]]
[[Category:自然科学の法則]]
[[Category:偏微分方程式]]
[[Category:物理学の方程式]]
[[Category:アルベルト・アインシュタイン]]
[[Category:人名を冠した数式]] | 2003-03-05T18:49:02Z | 2023-11-06T02:44:06Z | false | false | false | [
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"Template:一般相対性理論",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F |
3,480 | CD-DA | CD-DA(Compact Disc Digital Audio)は、コンパクトディスク (CD) に音楽などの音声データ(デジタルデータ)を記録する規格である。コンパクトディスク開発に伴って、1980年にフィリップスとソニーによって規格化され、1982年10月1日に世界初の商用ソフトとしてビリー・ジョエルのアルバム『ニューヨーク52番街』が発売された。これは一般消費者向けの音楽供給媒体として実用化されたデジタルオーディオとしても世界初である。なお「CD」と言う場合、ほとんどがこの項目で説明するCD-DAの規格に沿った光ディスク、またその光ディスクを媒体とする音楽ソフトそのものを指す。
従来のアナログオーディオと比較して、CD-DAはほとんどメンテナンスフリーかつディスクをプレーヤーに配置するだけで再生でき、ワウフラッターとノイズが無く、人間の可聴帯域(大体20Hz~20000Hzの帯域)の音声の記録と再生に対応したオーディオ規格となっている。ディスクの大きさが最大12cmで、プレーヤーに複雑な機構を設ける必要もないため、プレーヤーの小型化も容易になっている。このような利便性の高さから急速に普及し、アナログレコードに代わって世界標準の音楽供給媒体になり、後のデジタルオーディオシステムにも影響を与えた。
CD-DA規格制定当時はディスクに記録されたデジタルデータをコピー(リッピング)する手段がなかった。しかし1990年代後半のWindowsパソコン普及後にバックアップツールが登場したうえ、CD-DAにはSCMSフラグ以外の著作権保護機能が存在しないことから、コピーを無制限に行えることが問題視された。この対策としてコピーコントロールCD(CCCD)と呼ばれるコピーガードを搭載したディスクなどが登場するが、エラーが多発して音質が低下したり、一部のプレーヤーでは再生自体ができないか故障の原因になるなどの弊害がある。またコピーガードを搭載したことで、CD-DAの仕様から逸脱したディスクにはCD-DAのロゴマークを付与することができない。このような問題からCCCDは登場から2年半で市場から撤退し始めた。
一方で音質向上の観点から、CD-DAの仕様範囲内の「高音質CD」と呼ばれる製品が登場したり、ハイレゾなどの音質向上技術が採用された音楽CDも開発されている。高音質化処理が施されていない旧来のCDであっても、高タップ数有限インパルス応答フィルタ適用や倍音復元などの高度な計算処理を伴うアップサンプリングを行うことで再生時のDACにおける情報欠損を最小化し、本物のハイレゾ音源には及ばないものの生々しい再生音を得ることが可能となった。
こうしてCD-DAは登場以来、音声コンテンツを供給する規格として利用され続けている。しかし生産量は12 cmのCDアルバムに関しては、1998年の3億291万3千枚をピークに減少している。そしてインターネットを介して利用する音楽配信サービスが普及するに伴い、CDの市場は縮小し続けている。
規格書「レッドブック」によりライセンスされているが、これは表紙の色が赤であったことに由来する。レッドブックは機密文書のため契約者以外には公開されないが、IEC-60908 Audio recording - Compact disc digital audio systemで標準化されている。
コピーガードが掛けられていたり、DTS-CD等のサラウンドデータが収録されている場合を除いて、CD-DAの本体およびパッケージには、「compact disc digital audio」ロゴが付いている。
主な仕様は下記である。他にも詳細な規定がある。
CD-DAは最大99のトラックを納めることが可能であり、各トラックには最大99のインデックスを付与することが可能となっている。
各セクターには2352バイト(24×98)のオーディオ・データ、及び96バイトのサブチャンネル・データが配される。
各セクターの96バイトのサブチャンネル情報には各24バイトのパケットが4つ配される。内容は1バイトのコマンド、1バイトのインストラクション、2バイトのパリティQ、16バイトのデータ、4バイトのパリティPである。
96のサブチャンネル・データの各バイトは8ビットにわけて考えられる。その各ビットは、それぞれ別個のデータ・ストリームに対応している。これらのストリームは“チャンネル”と呼ばれ、Pから始まるラベルを付されている。
チャンネルP及びQは通常のオーディオCDではタイミング情報の為に用いられる。これらはCDプレーヤがディスク内での現在位置を追跡するのを補助し、同時にCDプレーヤの時間表示の為の情報にも供される。
チャンネルQは、より高性能なプレーヤの制御目的で使われる。MCNやISRCを含む。ISRCはメディア産業で用いられ、他に含まれる情報として、オリジナル盤の国、発売年、権利者、そしてシリアル・ナンバー、及び以下の様ないくつかの追加タグがある。
トラックのプリエンファシス有無を示す為に使用される。フラグはTOCと各トラックのサブコードで立てられる。再生機はプリエンファシスフラグを読み取ることでディエンファシス処理を施すかどうかを決定する。TOCかサブコードのどちらか片方のみにプリエンファシスフラグが立っているCDも存在するが、パソコン等の再生環境に依っては正しく判定できない問題が発生し得る。CD黎明期に多く用いられたが、段々と利用されなくなった。
チャンネルRからWはユーザーデータを格納する為の領域としている。曲名などを書き込むCD-TEXTや、画像を格納するCD+G、MIDIを格納するCD-MIDIなどの規格が存在する。
それまでのレコードでは一定回転(角速度一定)により外周から内周に向けて記録信号を読み出していたのに対し、CD-DAでは逆に内周から外周に向け回転速度は落ちて行き、線速度一定で読み出される(CLV)。線速度は規格により1.2から1.4 m/sと定められている。これにはデータの先頭位置である最内周で最低459 rpm、最外周で最低198 rpmの回転数が必要となる。
音楽CD(CD-DA形式)のデータの転送速度は等倍速で1倍速(1.2 Mbps=150 kiB/s)であり、この1倍を基準として、転送速度を表すのに「○倍速」という言い方をする。最大記録時間は640 MBのディスクで約72分、650 MBのディスクで約74分、700 MBのディスクで約80分となる。ただし規格上は97分まで可能。
規格策定当時に業務用途のデジタル録音で使われていたPCMプロセッサーと同等の記録性能を持つ。
16 bitというビット深度は計算上96 dBのダイナミックレンジを持つ。規格策定時、フィリップスが実現の容易な14 bit(計算上84 dBのダイナミックレンジ)を提示したが、ソニー(特に土井利忠)が21世紀においても通用するシステムとするべく少々無理をする必要がある16 bitを強く主張し続けて採用された経緯がある。但し、16 bitというビット深度が持つ96 dBのダイナミックレンジは、マイクが持つダイナミックレンジである100~130 dB程度と比較するとやや不足している。
概ね20 kHz前後の周波数まで記録出来る。これは標本化定理によるものである。リニアPCMは理論上サンプリング周波数の2分の1までの周波数の音を標本化可能であるため、CD-DAのサンプリング周波数44,100 Hzの半分の値である22,050 Hzが記録可能な周波数の上限値となる。この値を超える周波数帯は折り返し雑音となるため、通常は録音から音楽CDが作られるまでの間にフィルターが掛けられる。そのため22,050 Hzより高い周波数、フィルターのカットオフ周波数の領域はカット・減衰され記録されていない。ちなみにサンプリング周波数が44.1 kHzという一見中途半端な値であるのは初期のデジタル録音にVTRを流用していたことに起因する。CDの開発当時はリニアスキャン方式の音声用テープにデジタル記録することが記録密度の不足により不可能であったため、PCMプロセッサーで映像信号に変換してヘリカルスキャン方式のビデオテープに記録する事が多かった。
音楽CDとして流通するディスクの大部分はCD-DAであるが、一部例外もある。CD EXTRA (CD-DA+) はCD-DAに後方互換性があり、CD-DA用のプレーヤー(CDプレーヤー)やPCのCDドライブで再生可能である。また、リッピングを防ぐため独自規格としたコピーコントロールCD (CCCD) やセキュアCD(ライセンスを逸脱した製品のため、厳密には「CD」とは呼べない)は、オーディオメーカーやPCメーカーでは動作保証外としており、一部のCD-DA用プレーヤーやPCのCDドライブでは再生不可能である(最悪の場合は機器が破損することもある)。詳細はコピーコントロールCD#問題点を参照。
また、時代が進むにつれて、CD-DAの枠を超えた高音質がCD-DAの仕様を逸脱しない範囲で実現できるように、様々な量子化ノイズ整形技術やデータ圧縮技術が投入されている。最先端では、MQA-CDのハイレゾデータの隠しコード化技術がある。ただし、隠しコードのハイレゾデータを利用するためには専用デコーダーを通す必要がある。
かつてパソコン用や家庭用ゲーム機用ゲームソフトの媒体がCD-ROMであった時代には、BGMをCD-DAで収録している作品もあった。BGM演奏にCD-DAが採用された理由としては、当時のパソコンや家庭用ゲーム機に搭載されていた内蔵音源よりも高音質だったためである。
こうした作品は1980年代末期以降から登場するようになり、一時は広く用いられたものの、以下の理由などにより次第に少なくなった。
家庭用ゲーム機のソフト供給媒体がDVD-ROMに移行したこと、内蔵音源性能やプロテクト技術の向上、音楽データ圧縮規格の普及などにより、2000年代以降はゲームソフトのBGM演奏にCD-DAが使用されることは少なくなった。 | [
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"title": "ゲームソフトのBGM用途"
}
] | CD-DAは、コンパクトディスク (CD) に音楽などの音声データ(デジタルデータ)を記録する規格である。コンパクトディスク開発に伴って、1980年にフィリップスとソニーによって規格化され、1982年10月1日に世界初の商用ソフトとしてビリー・ジョエルのアルバム『ニューヨーク52番街』が発売された。これは一般消費者向けの音楽供給媒体として実用化されたデジタルオーディオとしても世界初である。なお「CD」と言う場合、ほとんどがこの項目で説明するCD-DAの規格に沿った光ディスク、またその光ディスクを媒体とする音楽ソフトそのものを指す。 従来のアナログオーディオと比較して、CD-DAはほとんどメンテナンスフリーかつディスクをプレーヤーに配置するだけで再生でき、ワウフラッターとノイズが無く、人間の可聴帯域(大体20Hz~20000Hzの帯域)の音声の記録と再生に対応したオーディオ規格となっている。ディスクの大きさが最大12cmで、プレーヤーに複雑な機構を設ける必要もないため、プレーヤーの小型化も容易になっている。このような利便性の高さから急速に普及し、アナログレコードに代わって世界標準の音楽供給媒体になり、後のデジタルオーディオシステムにも影響を与えた。 CD-DA規格制定当時はディスクに記録されたデジタルデータをコピー(リッピング)する手段がなかった。しかし1990年代後半のWindowsパソコン普及後にバックアップツールが登場したうえ、CD-DAにはSCMSフラグ以外の著作権保護機能が存在しないことから、コピーを無制限に行えることが問題視された。この対策としてコピーコントロールCD(CCCD)と呼ばれるコピーガードを搭載したディスクなどが登場するが、エラーが多発して音質が低下したり、一部のプレーヤーでは再生自体ができないか故障の原因になるなどの弊害がある。またコピーガードを搭載したことで、CD-DAの仕様から逸脱したディスクにはCD-DAのロゴマークを付与することができない。このような問題からCCCDは登場から2年半で市場から撤退し始めた。 一方で音質向上の観点から、CD-DAの仕様範囲内の「高音質CD」と呼ばれる製品が登場したり、ハイレゾなどの音質向上技術が採用された音楽CDも開発されている。高音質化処理が施されていない旧来のCDであっても、高タップ数有限インパルス応答フィルタ適用や倍音復元などの高度な計算処理を伴うアップサンプリングを行うことで再生時のDACにおける情報欠損を最小化し、本物のハイレゾ音源には及ばないものの生々しい再生音を得ることが可能となった。 こうしてCD-DAは登場以来、音声コンテンツを供給する規格として利用され続けている。しかし生産量は12 cmのCDアルバムに関しては、1998年の3億291万3千枚をピークに減少している。そしてインターネットを介して利用する音楽配信サービスが普及するに伴い、CDの市場は縮小し続けている。 | {{pathnav|メディア (媒体)|記録媒体|光ディスク|コンパクトディスク|frame=1}}
{{ディスクメディア
|名称=Compact Disc Digital Audio
|略称=CD-DA
|ロゴ= [[File:CDDAlogo.svg|200px]]
|画像=[[ファイル:CompactDisc.jpg|200px]]
|画像コメント=
|種類=光ディスク
|容量=74分(783MB相当)※規格上の容量<br />79分57秒(835MB相当)※最大限の容量
|フォーマット=
|コーデック=[[リニアPCM]] 16[[ビット|bit]] 44.1[[キロヘルツ|kHz]]<br />2.0chステレオ
|回転速度=200 - 530 rpm
|読み取り方法=780 [[ナノメートル|nm]]赤外線レーザー
|読み込み速度=1.2 Mbps<br />(150 kiB/s、1倍速)
|回転制御=
|策定=[[ソニー]]、[[フィリップス]]
|用途=音声
|ディスク径=12 [[センチメートル|cm]]
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|上位=
|下位=
|関連=[[コンパクトディスク]]
}}
'''CD-DA'''('''Compact Disc Digital Audio''')は、[[コンパクトディスク]] (CD) に[[音楽]]などの音声[[データ]]([[デジタル]]データ)を記録する[[規格]]である。コンパクトディスク開発に伴って、[[1980年]]に[[フィリップス]]と[[ソニー]]によって規格化され、[[1982年]][[10月1日]]に[[世界]]初の商用ソフトとして[[ビリー・ジョエル]]の[[アルバム]]『[[ニューヨーク52番街]]』が発売された<ref>{{Wayback|url=http://www.sony.net/Fun/SH/1-20/h5.html |title=Sony Global -Sony History- |date=20021030154459}}</ref>。これは一般消費者向けの音楽供給媒体として実用化された[[デジタルオーディオ]]としても世界初である。なお「CD」と言う場合、ほとんどがこの項目で説明するCD-DAの規格に沿った[[光ディスク]]、またその光ディスクを[[電子媒体|媒体]]とする音楽ソフトそのものを指す<ref>{{Cite Kotobank|word=CD |encyclopedia=ASCII.jpデジタル用語辞典 |access-date=2023-05-04}}</ref>。
従来のアナログオーディオと比較して、CD-DAはほとんどメンテナンスフリーかつディスクをプレーヤーに配置するだけで再生でき、[[ワウフラッター]]と[[ノイズ]]が無く、人間の[[聴覚|可聴帯域]](大体20Hz~20000Hzの帯域)の音声の記録と再生に対応したオーディオ規格となっている。ディスクの大きさが最大12cmで、プレーヤーに複雑な機構を設ける必要もないため、プレーヤーの小型化も容易になっている。このような利便性の高さから急速に普及し、[[レコード|アナログレコード]]に代わって世界標準の音楽供給媒体になり、後のデジタルオーディオシステムにも影響を与えた。
CD-DA規格制定当時はディスクに記録されたデジタルデータをコピー([[リッピング]])する手段がなかった。しかし[[1990年代]]後半の[[Microsoft Windows|Windows]][[パーソナルコンピュータ|パソコン]]普及後にバックアップツールが登場したうえ、CD-DAには[[SCMS]]フラグ以外の[[コピーガード|著作権保護機能]]が存在しないことから、コピーを無制限に行えることが問題視された<ref>{{Cite web |title=seminar1103-1.html |url=https://www.iajapan.org/enc/seminars/seminar1103-1.html |website=www.iajapan.org |access-date=2023-04-26}}</ref>。この対策として[[コピーコントロールCD]](CCCD)と呼ばれるコピーガードを搭載したディスクなどが登場するが、エラーが多発{{Efn|コピー防止のためにエラー訂正機能をわざと酷使させてCDプレーヤーに多大な負荷を掛ける}}して音質が低下したり、一部のプレーヤーでは再生自体ができないか故障の原因になるなどの弊害がある。またコピーガードを搭載したことで、CD-DAの仕様から逸脱したディスクにはCD-DAのロゴマークを付与することができない。このような問題からCCCDは登場から2年半で市場から撤退し始めた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/tech/apc/041130.html |title=コピーコントロールCDを徹底的に総括する ファンとアーティストを傷つけ、法制度面でも問題山積 |website=asahi.com |work=ネット最前線>ASAHIパソコンNEWS |publisher=朝日新聞 |date=2004-11-30 |accessdate=2023-05-04}}</ref>。
一方で音質向上の観点から、CD-DAの仕様範囲内の「高音質CD」と呼ばれる製品が登場したり、[[ハイレゾリューションオーディオ|ハイレゾ]]などの音質向上技術が採用された音楽CDも開発されている。高音質化処理が施されていない旧来のCDであっても、高タップ数[[有限インパルス応答]]フィルタ適用や倍音復元などの高度な計算処理を伴う[[サンプリング周波数変換|アップサンプリング]]を行うことで再生時の[[デジタル-アナログ変換回路|DAC]]における情報欠損を最小化し、本物の[[ハイレゾリューションオーディオ|ハイレゾ]]音源には及ばないものの生々しい再生音を得ることが可能となった。
こうしてCD-DAは登場以来、音声コンテンツを供給する規格として利用され続けている。しかし生産量は12 cmのCDアルバムに関しては、1998年の3億291万3千枚をピーク<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.riaj.or.jp/g/data/annual/ms_n.html |title=音楽ソフト 種類別生産数量推移 |publisher=一般社団法人 日本レコード協会 |access-date=2023-08-25}}</ref>に減少している。そして[[インターネット]]を介して利用する[[音楽配信]]サービス{{Efn|ダウンロード販売は2003年開始の[[iTunes Store|iTunes Music Store]]、ストリーミング配信は2008年開始の[[Spotify]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/tech/apc/041130.html |title=インターネットことはじめ 第6回 音楽配信への道~CDからストリーミングへ~ |work=ニュースレターNo.71 |publisher=日本ネットワークインフォメーションセンター |date=2019-03 |accessdate=2023-05-04}}</ref>}}が普及するに伴い、CDの市場は縮小し続けている<ref>{{Cite web|和書|title=CDが売れないサブスク時代に「CDレコ」がバカ売れしている「意外な理由」|url=https://gendai.media/articles/-/93059 |website=マネー現代 |access-date=2023-04-26 |author=竹内 謙礼}}</ref>。
{{See also|CD不況}}
== 仕様 ==
規格書「'''レッドブック'''」により[[ライセンス]]されているが、これは表紙の色が[[赤]]であったことに由来する<ref>{{Cite web |url=https://www.lscdweb.com/ordering/cd_products.html |title=CD Products |publisher=フィリップス |accessdate=2020-08-08}}</ref>。レッドブックは機密文書のため契約者以外には公開されないが、IEC-60908 ''Audio recording - Compact disc digital audio system''で標準化されている。
コピーガードが掛けられていたり、DTS-CD等のサラウンドデータが収録されている場合を除いて、CD-DAの本体およびパッケージには、「{{Large|{{Smallcaps|compact}} disc {{Smallcaps|digital audio}}}}」ロゴが付いている。
主な仕様は下記である。他にも詳細な規定がある。
*データ形式 - [[パルス符号変調|リニアPCM]]
*[[サンプリング周波数]] - 44.1 kHz
*[[ビットレート]] - 1411.2 kbps
*[[量子化]]ビット数([[ビット深度 (音響機器)|ビット深度]]) - 16 bit [[符号付数値表現|signed]] [[整数|integer]]
*チャンネル数 - 2.0 chステレオ
*スピンドル穴直径 - 15 mm
*プログラムエリア内周 - 25 mm
*プログラムエリア外周 - 58 mm
CD-DAは最大99の[[トラック (記録媒体)|トラック]]を納めることが可能であり、各トラックには最大99のインデックスを付与することが可能となっている。
=== サブチャンネル ===
各セクターには2352バイト(24×98)のオーディオ・データ、及び96バイトのサブチャンネル・データが配される。
各セクターの96バイトのサブチャンネル情報には各24バイトのパケットが4つ配される。内容は1バイトのコマンド、1バイトのインストラクション、2バイトのパリティQ、16バイトのデータ、4バイトのパリティPである。
96のサブチャンネル・データの各バイトは8ビットにわけて考えられる。その各ビットは、それぞれ別個のデータ・ストリームに対応している。これらのストリームは“チャンネル”と呼ばれ、Pから始まるラベルを付されている。
{| cellpadding=3
|-
!Channel
|P
|Q
|R
|S
|T
|U
|V
|W
|-
!Bit
|7
|6
|5
|4
|3
|2
|1
|0
|}
チャンネルP及びQは通常のオーディオCDではタイミング情報の為に用いられる。これらはCDプレーヤがディスク内での現在位置を追跡するのを補助し、同時にCDプレーヤの時間表示の為の情報にも供される。
チャンネルQは、より高性能なプレーヤの制御目的で使われる。[[メディア・カタログ・ナンバー|MCN]]や[[国際標準レコーディングコード|ISRC]]を含む。ISRCはメディア産業で用いられ、他に含まれる情報として、オリジナル盤の国、発売年、権利者、そしてシリアル・ナンバー、及び以下の様ないくつかの追加タグがある。
;データ:このトラックは(オーディオよりも)データを含む。オーディオCDプレーヤをミュートさせる為に用いる事が可能。
;[[SCMS]]フラグ:トラックのデジタル・コピーに関する権限を示すSCMSの為に使用される。但し、トラックが暗号化される訳ではないので、SCMSフラグの設定値を意図的に無視して[[リッピング]]を行う事も可能である(特に[[パーソナルコンピュータ|PC]]用の[[リッピング]]ツールの場合)。
;[[:en:Four-channel compact disc digital audio|4チャンネルCD]]:このトラックは4チャンネル・オーディオを用いる。CDに於いては使われる事が無かった。
==== プリエンファシス ====
トラックの[[プリエンファシス]]有無を示す為に使用される。フラグは[[目次|TOC]]と各トラックの[[サブコード]]で立てられる。再生機はプリエンファシス[[フラグ]]を読み取ることでディエンファシス処理を施すかどうかを決定する。TOCかサブコードのどちらか片方のみにプリエンファシスフラグが立っているCDも存在するが、パソコン等の再生環境に依っては正しく判定できない問題が発生し得る。CD黎明期に多く用いられたが、段々と利用されなくなった。
チャンネルRからWはユーザーデータを格納する為の領域としている。曲名などを書き込む[[CD-TEXT]]や、画像を格納する[[CD+G]]、[[MIDI]]を格納する[[CD-MIDI]]などの規格が存在する。
=== 回転速度 ===
それまでの[[レコード]]では一定回転([[角速度]]一定)により外周から内周に向けて記録信号を読み出していたのに対し、CD-DAでは逆に内周から外周に向け回転速度は落ちて行き、線速度一定で読み出される([[CLV]])。線速度は規格により1.2から1.4 m/sと定められている。これにはデータの先頭位置である最内周で最低459 rpm、最外周で最低198 rpmの回転数が必要となる。
=== データ転送速度 ===
音楽CD(CD-DA形式)のデータの転送速度は等倍速で1倍速(1.2 Mbps=150 kiB/s)であり、この1倍を基準として、転送速度を表すのに「○倍速」という言い方をする。最大記録時間は640 [[メガバイト|MB]]のディスクで約72分、650 MBのディスクで約74分、700 MBのディスクで約80分となる。ただし規格上は97分まで可能。
=== 記録性能 ===
規格策定当時に業務用途のデジタル録音で使われていた[[PCMプロセッサー]]と同等の記録性能を持つ。
==== ビット深度とダイナミックレンジ ====
16 bitという[[ビット深度 (音響機器)|ビット深度]]は計算上96 [[デシベル|dB]]のダイナミックレンジを持つ。規格策定時、[[フィリップス]]が実現の容易な14 bit(計算上84 dBのダイナミックレンジ)を提示したが、[[ソニー]](特に[[土井利忠 (技術者)|土井利忠]])が[[21世紀]]においても通用するシステムとするべく少々無理をする必要がある16 bitを強く主張し続けて採用された経緯がある<ref>{{Cite web |title=ソニーグループポータル {{!}} Sony History 第8章 「レコードに代わるものはこれだ」 |url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-08.html |website=www.sony.com |access-date=2023-11-06}}</ref>。但し、16 bitという[[ビット深度 (音響機器)|ビット深度]]が持つ96 dBの[[ダイナミックレンジ]]は、[[マイクロフォン|マイク]]が持つ[[ダイナミックレンジ]]である100~130 dB程度と比較するとやや不足している<ref>{{Cite web |title=一般社団法人 日本オーディオ協会 {{!}} PCMのビットとダイナミックレンジ |url=https://www.jas-audio.or.jp/glossary/post3063 |website=www.jas-audio.or.jp |access-date=2023-11-06}}</ref><ref>[[マイクロフォン|マイク]]の[[ダイナミックレンジ]]は24bitの[[ビット深度 (音響機器)|ビット深度]]で完全にカバー可能である。</ref>。
==== サンプリング周波数と音の周波数 ====
概ね20 kHz前後の周波数まで記録出来る。これは[[標本化定理]]によるものである。リニアPCMは理論上[[ナイキスト周波数|サンプリング周波数の2分の1]]までの周波数の音を標本化可能であるため、CD-DAのサンプリング周波数44,100 Hzの半分の値である22,050 Hzが記録可能な周波数の上限値となる。この値を超える周波数帯は[[折り返し雑音]]となるため、通常は録音から音楽CDが作られるまでの間に[[ローパスフィルタ|フィルター]]が掛けられる。そのため22,050 Hzより高い周波数、フィルターの[[遮断周波数|カットオフ周波数]]の領域はカット・減衰され記録されていない。ちなみにサンプリング周波数が44.1 kHzという一見中途半端な値であるのは初期のデジタル録音に[[ビデオテープレコーダ|VTR]]を流用していたことに起因する。CDの開発当時はリニアスキャン方式の音声用テープにデジタル記録することが記録密度の不足により不可能であったため、[[PCMプロセッサー]]で映像信号に変換して[[ヘリカルスキャン方式]]のビデオテープに記録する事が多かった。
== 音楽CDの種別 ==
{{Main2|CDの仕様|コンパクトディスク#仕様}}
音楽CDとして流通するディスクの大部分はCD-DAであるが、一部例外もある。[[CD EXTRA]] (CD-DA+) はCD-DAに[[互換性|後方互換性]]があり、CD-DA用のプレーヤー([[CDプレーヤー]])や[[パーソナルコンピュータ|PC]]の[[光学ドライブ|CDドライブ]]で再生可能である。また、[[リッピング]]を防ぐため独自規格とした[[コピーコントロールCD|コピーコントロールCD (CCCD) ]]や[[セキュアCD]](ライセンスを逸脱した製品のため、厳密には「CD」とは呼べない)は、オーディオメーカーやPCメーカーでは動作保証外としており、一部のCD-DA用プレーヤーや[[パーソナルコンピュータ|PC]]のCDドライブでは再生不可能である(最悪の場合は機器が破損することもある)。詳細は[[コピーコントロールCD#問題点]]を参照。
また、時代が進むにつれて、CD-DAの枠を超えた高音質がCD-DAの仕様を逸脱しない範囲で実現できるように、様々な量子化ノイズ整形技術やデータ圧縮技術が投入されている。最先端では、MQA-CDの[[ハイレゾリューションオーディオ|ハイレゾ]]データの隠しコード化技術{{Efn|隠しコード化とは、LSB(Least-Significant Bit,最下位ビット)側に音が聴き取れない程度の微小振幅のビット列を入れ込むということ。つまり隠しコードをデコードせずに通常のCD-DAとして再生する場合には下位数ビットが無意味なデータで破壊された状態(ノイズ)になる。音声データの一部を壊してまで隠しコード化を行う理由は、CD-DAの規格上、元々の音声データ領域の他に追加データを入れられる領域が無いためである。}}がある。ただし、隠しコードのハイレゾデータを利用するためには専用デコーダーを通す必要がある。
; 規格内
:; 通常のCD
:: '''SPARS(The Society of Professional Audio Recording Studios)コード'''
:: デジタル機器が高価で普及していない[[1980年代]]には[[費用|コスト]]の問題で[[レコード|アナログレコード]]用[[マスタリング|マスターテープ]]を流用するケースが多々あり、制作工程がデジタル処理かアナログ処理かという違いも散見された。制作工程を区別する手段として、{{仮リンク|Society of Professional Audio Recording Services|en|Society of Professional Audio Recording Services}}が定めた{{仮リンク|SPARSコード|en|SPARS code}}があり、デジタル処理は「D」、アナログ処理は「A」の表記で[[録音|レコーディング]],[[ミキシング]],[[マスタリング]]の順に「AAD」,「ADD」,「DAD」,「DDD」と音楽CDに明記される。デジタル環境への移行が完了した[[1990年代]]以降の音楽CDは新作の場合「DDD」で制作されることが普通で、SPARSコードが明記されていない音楽CDがほとんどであるが、フルデジタル処理が当たり前の時代にオーディオマニア向けとして敢えてアナログ処理の工程を採用して明記する場合もある<ref>{{Cite web |title=SPARS Code |url=https://positive-feedback.com/high-fidelity/spars-code/ |website=Positive Feedback |date=2020-07-01 |access-date=2023-04-26 |language=en |first=Wojciech |last=Pacuła}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ボベスコ、リヒター、渡邉暁雄のTOKYO FMライヴ録音をAADによりCD化! - TOWER RECORDS ONLINE |url=https://tower.jp/article/feature_item/2015/06/16/1101 |website=tower.jp |access-date=2023-04-27}}</ref>{{Efn|古い時代のレコーディングでマスターテープがアナログしか残されていない場合は、可能な限りデジタル処理に寄せたとしてもADDの工程を採用するしかない。またアナログマスターテープの音をそのままCDに記録するような企画の場合はAADの工程を採用する。DDDによる[[音圧]]が高く[[ワウフラッター]]のない安定した音が普及しきった時代には、高度な処理を施せるADDの採用が一般的であるが、逆にAADのマスターテープそのままの音が見直される場面も出てきている。}}。
:; 高音質CD
:: これらはいずれも既存のCDプレーヤー、PCのCDドライブで再生できる。PCではリッピングも可能。あくまでもCD-DAの規格内で主に[[ダイナミックレンジ]]の拡張に着目して微修正を加えただけであり、高音質という役割は後の[[ハイレゾリューションオーディオ]]に取って代わられている(下記一覧にあるMQA-CDはどちらかと言えばMQAという様々な流通形態を想定した[[ハイレゾリューションオーディオ|ハイレゾ]]規格の1形態である)。
::'''エンコードの改良'''
::CD-DAが持つ[[ビット深度 (音響機器)|ビット深度]]の16 bitから単純計算される96 dBより広い[[ダイナミックレンジ]]を、ノイズシェーピングや[[ディザ]]や[[コンパンディング|コンパンダ]]の原理を駆使して16 bitデータに落とし込み、標準的な[[CDプレーヤー|CDプレイヤー]]が搭載する44.1kHz/16bitの[[デジタル-アナログ変換回路|DAC]]に最適化して効果が得られるようにした方法が中心であったが、[[エンコード]]技術の進歩や[[CDプレーヤー|CDプレイヤー]]の[[デジタル-アナログ変換回路|DAC]]周りの機能拡張によって[[ハイレゾリューションオーディオ|ハイレゾ]]データ自体をCD-DAの枠内に[[互換性|下位互換性]]を持たせた形で記録/再生可能とした規格も現れている。
::* '''Super Bit Mapping''' - 1992年にソニーが開発。CD-DAなど16 bitデジタルオーディオの高音質化技術の先駆けとなった。20 bitのデジタル音源を16 bitに変換する際ディザを使わない代わりにノイズシェーピングを用い、中低域の量子化ノイズをエネルギー密度が低くなる高域に集中させることで聴感上のダイナミックレンジを拡張する。
::* '''20bit K2スーパーコーディング''' - [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント]]が開発。[[1993年]]に実用化され、20 bit相当の[[ダイナミックレンジ]]を[[ディザ]]によって16 bitデータに織り込んだCDにマークが記載された<ref>{{Cite web |title=「K2」沿革 |url=https://www.jvckenwood.com/jp/technology/k2/history.html |website=株式会社JVCケンウッド |access-date=2023-11-08 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=K2 TECHNOLOGY |url=https://www.jvcmusic.co.jp/k2technology/aboutk2/past_future.html |website=www.jvcmusic.co.jp |access-date=2023-11-08}}</ref>。
::* '''[[Extended Resolution Compact Disc]] (XRCD)''' - JVCケンウッド・ビクターエンタテインメントが開発。一時期を除いてあまり生産されなくなった。
::*'''[[HDCD]]''' - 音声データの最下位ビット(普通では聴き取れない最小振幅を表すビット)に隠しコードが埋め込まれており、対応プレーヤーでは隠しコードを読み取って適応型ローパスフィルターやディザ、プリエンファシスや波形のピーク拡張(ある種の[[コンパンディング]])のオプション機能を適用して音質が向上できる。HDCDはCD-DAの16bitデータに対して様々な処理を加えてダイナミックレンジや位相特性を改善する技術であって、20bit - 24bitのデータをCD-DAにエンコードする技術ではない。HDCDに対応しない一般的なプレーヤーでは隠しコードは聞き取れない程度の微小ノイズとして再生される。
::*'''MQA-CD''' - [[ハイレゾリューションオーディオ|ハイレゾ]]データの20 kHzを超える周波数成分をCD-DAの下位ビット(主にLSBを含む下位数ビット)に隠しコードとしてエンコードしたCD。CD-DAの改良というよりもMQAというハイレゾ規格の1形態であり、従来のCD-DAでは不可能な20 kHzを超える超高音域も専用のデコーダーを通すことで下位ビットの隠しコードから元通りに展開することが可能になった。公式にはCD-DAで記録可能な可聴帯域に超高音域を折り畳む圧縮技術を『オーディオ折り紙』<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=MQAおすすめ情報|url=http://www.hires-music.jp/mqa/|website=MERIDIAN AUDIO メリディアン・オーディオ|accessdate=2022-01-10|language=ja-JP}}</ref>と呼んでいる。20 kHzより高い周波数成分の振幅が小さく、CD-DAの下位ビットだけでも劣化させずに記録可能であることを仮定しており、従来のCD-DAと同じデータサイズで、352.8 kHz/24 bitのマスターからのデータも劣化させずに記録可能としている。データサイズを抑えて様々な環境への負荷を減らした上で、音のにじみを生むプリーエコーやポストエコーを人間の知覚限界に迫る水準まで抑えながら、ハイレゾマスターの音を消費者に届けるシステムとしてMQAが作られており、その一部として配信用のMQAエンコード済みファイルや、CD-DAにMQAエンコードを行ったMQA-CDという製品が想定されている<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=Home|url=https://mqa.jp/|website=MQA Japan|accessdate=2022-01-10|language=ja-JP}}</ref>。MQAデコーダー無しでCD-DAとして再生した場合にはハイレゾデータがエンコードされた下位ビットがノイズとして再生されるため、有効ビット深度が14 bit程度に落ちるというデメリットが生じる。
::'''素材の改良'''
::CDプレイヤーで読み取りやすい素材に変更することで、ジッターなどの性能を向上させて音質を向上させる。より良質な素材への変更となるため、販売価格は高くなる傾向にある。なお、[[リッピング]]してデータ化する場合はCDの読み取り精度は関係なくなるため、純粋にCDプレイヤーにおける再生を目的とした改良となる。
::* APO-CD - [[ポニーキャニオン]]が主導。アモルファス・[[ポリオレフィン]]を素材としたCD。
::* [[GOLD CD]] - [[アルミニウム]]の代わりに金を反射材として蒸着したCD。アルミニウムと比べて金は金属の粒子が細かいため、読み取りレーザーの反射時の波形歪が少なく、金自体も極めて腐食しにくいという特長がある。
::* [[スーパー・ハイ・マテリアルCD]] (SHM-CD) - [[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]が主導。[[液晶ディスプレイ|液晶パネル]]用の[[ポリカーボネート]]を素材として採用。
::* [[ハイ・クオリティCD]] (HQCD) - [[ポニーキャニオン]]が主導。SHM-CDに類似する。
::* [[ブルースペックCD]] (Blu-Spec CD、BSCD) - [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]]が主導。[[ブルーレイディスク]]の技術を応用。
:; 後方互換
::* [[CD EXTRA]] (CD-DA+) - CD-DA規格の音楽データと、PCで表示できるデータを1枚に収録できる。[[2000年代]]初頭まで製造され、音楽CDの付録として特典映像やコンピュータ・プログラムなどを収録することが多かったが、[[DVD]]を付けることが増えたため衰退した。
:; 互換のない別規格
::* [[Super Audio CD|Super Audio CD(SACD)]] -「次世代CD規格」と呼ばれるが、CD-DAが採用した[[パルス符号変調|PCM]]とは根本的に異なる記録原理である[[Direct Stream Digital|DSD]]を採用した規格であり、物理的な構造はDVDに近い。通常のCDと互換性はなく、[[コピーガード]]を採用している。[[パーソナルコンピュータ|PC]]では再生できない。但し、[[Super Audio CD|SACD]]層とCD-DA層を設けたハイブリッド盤は発売されている。同じくCD-DAの次世代と目された規格には[[DVD-Audio]]という規格が存在する。
; 規格外
: 下記は「レッドブック」の規格から逸脱した仕様を持つ製品のため、厳密には「CD」とは呼べない。
:* [[コピーコントロールCD]] (CCCD) - [[リッピング]]防止のため意図的にエラーを仕込んだ規格外の製品であり、様々な問題から[[2006年]]までに衰退した。
:* [[セキュアCD]] - [[2005年]]から2006年まで流通した新規格のコピーコントロールCD。[[東芝EMI]]が開発したが、短期間で消滅した。
== ゲームソフトのBGM用途 ==
かつてパソコン用や[[家庭用ゲーム機]]用[[ゲームソフト]]の媒体が[[CD-ROM]]であった時代には、[[背景音楽|BGM]]をCD-DAで収録している作品([[CD EXTRA#ミックスモードCD|ミックスモードCD]])もあった。BGM演奏にCD-DAが採用された理由としては、当時のパソコンや家庭用ゲーム機に搭載されていた[[内蔵音源]]よりも高音質だったためである{{Efn|例えば[[PCエンジン]]、[[メガドライブ]]でCD-ROMを使用するための周辺機器である[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]、[[メガCD]]が発売された際は、それまでのゲーム機よりも音質の高い音楽や効果音、人間の肉声などをゲーム内で多く用いることができる点が特長の1つとして大きく取り上げられた。}}。
こうした作品は[[1980年代]]末期以降から登場するようになり、一時は広く用いられたものの、以下の理由などにより次第に少なくなった。
* ゲーム中はゲームディスクが必要となる。
* 1枚のディスクにゲームプログラムとCD-DAデータの両方を入れる必要がある。ただしこれは利点でもあり、一種の[[コピープロテクト]]となりソフトの不正コピー対策として一定の効果があり、不正コピーを試みる悪質消費者から忌避された。
* 音楽データとして収録する場合よりもCDの容量を大きく取る。
* 仕様上の最大収録時間の関係から、比較的短時間しかBGMを収録できない{{Efn|一例として、[[PC-9800シリーズ|PC-98]]版『[[信長の野望・天翔記]]』ではBGMとして内蔵音源とCD-DA音源の2種類が選べるが、CD-DA音源は内蔵音源よりも曲数が少なくなっている。}}。
家庭用ゲーム機のソフト供給媒体が[[DVD-ROM]]に移行したこと、内蔵音源性能やプロテクト技術の向上、音楽データ圧縮規格の普及などにより、[[2000年代]]以降はゲームソフトのBGM演奏にCD-DAが使用されることは少なくなった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Compact discs|コンパクトディスク}}
* [[隠しトラック]]
* [[PCMプロセッサー]] - VTRを使ってデジタル録音をするための機械。CD-DAのサンプリング周波数はこれに由来する。
* [[音響機器]]
{{CD規格}}
{{光ディスク}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:CDDA}}
[[Category:コンパクトディスク]]
[[Category:オーディオストレージ]]
[[Category:日本の発明]] | 2003-03-05T23:34:35Z | 2023-12-28T18:01:50Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/CD-DA |
3,481 | ウラン | ウラン(独: Uran [uˈraːn], 新ラテン語: uranium 英語: [jʊˈreɪniəm])とは、原子番号92の元素。元素記号は U。ウラニウムともいう。アクチノイドに属する。
同時期に発見された天王星(Uranus、ウラヌス)の名に由来している。
「ウラニウム」は、金属元素を意味するラテン語の派生名詞中性語尾 -ium を付けた形である。
現在の地球上に天然に存在している元素のうち、大量に存在しているものとしては、ウランが最も原子番号が大きく、また最も原子量も大きい元素である。元々、ウランが地球上で天然に存在している元素としては、最も原子番号が大きいとされていたが、1951年にネプツニウムが、1952年にプルトニウムが、それぞれウラン鉱石中にごくごくわずかに含まれていることが発見された。既述の通りウランの原子番号は92であるが、ウランは原子半径も大きいため、その比重(密度)は、原子番号77番付近のオスミウムやイリジウムや白金などよりも小さい(室温付近で、ウランが1cm当り19g程度であるのに対し、オスミウムとイリジウムが22.5g程度、白金が21.5g程度である)。ウランには幾つもの同位体が知られているが、その全ての同位体が放射性核種である。半減期が特に長い(寿命が長い)同位体は、ウラン238(半減期は約44億6800万年)と、ウラン235(半減期は約7億380万年)である。ウランに限らず、半減期の長い放射性核種ほど残存しやすいため、放射性同位体の存在比は、少しずつ変化している。地球上に天然に現存するウランの同位体は主にウラン238(地球のウランの約99.274%を占めている)、ウラン235(地球のウランの約0.7204%を占めている)、ウラン234(地球のウランの約0.0054%を占めている)の3種である。
ウランは地球の地殻中に化合物や海水中に多原子陰イオンの形 [ U O 2 ( C O 3 ) 2 ] 2 − {\displaystyle \mathrm {[UO_{2}(CO_{3})_{2}]^{2-}} } や [ U O 2 ( O H ) 3 ] − {\displaystyle \mathrm {[UO_{2}(OH)_{3}]^{-}} } で微量ながら広く分布している元素として知られている。ただし、地球上でウランは安定して存在し続けられないため、その存在量は減り続けている。現在の地球の地殻におけるウランの濃度は、地殻1g中に2.4μg程度であると考えられている(異なる推定値もある)。同じく、現在の地球の海におけるウランの濃度は、海水1リットル中に3.2μg〜3.3μg程度である。海水中の場合、ウランは海の表層から深層まで、ほぼ一様な濃度で存在している。これに対して地中の場合、地球表層部(地殻中)のウランの濃度が高く、地球深部のウランの濃度は低いと考えられている。その根拠は、もし地中全体に1g中に2.4μgの濃度でウランが存在していた場合、ウランがα崩壊する時に放出される熱によって、地球は加熱されて温度が上昇していると見積もられているが、実際にそのような温度上昇は観測されていないことにある。地球におけるウランは、その存在量のほとんど(約10kg)が、地殻の表層付近(地表から20km以内)に存在していると言われている。このように地球では表層付近に濃縮されているのは、ウランが不適合元素であるためと説明される。なお、現在の太陽系におけるウランの原子の数の比は、ケイ素を1.00×10とした時、0.009であると推定されている。
他、一般的な重金属と同様に、ウランの場合も生体内に取り込まれると化学的な毒性を発揮するが、それに加えてウランは放射能を持つため内部被曝の原因ともなる。また、メカニズムは不明だが、ヒトの場合、特に腎臓がダメージを受けることで知られている。
ウランの単体は、銀白色の金属である。常温常圧での安定構造は斜方晶構造(α型、18.95g/cm3)であるが、668 °Cで正方晶構造(β型、18.11g/cm3)へ、775 °Cで立方晶構造(γ型、18.06g/cm3)へ相転移する。比重18.95(25 °C)、融点1132 °C、沸点3745 °C。ウラン単体は、反応性が高く、粉末を空気中に放置すると、空気中の酸素によって発火する。またウラン単体を水に投入すると、ウランは水から酸素を奪って、水素ガスが発生する。ウラン化合物の原子価は+2価から+6価をとり得る。このうち、一般に+6価が最も安定である。これに対し、+2価と+5価は特に不安定であり、特殊な条件でないと存在できない。+4価は硝酸水溶液および酸化物等では安定な価数であり、水溶液にしたときには緑色になる。+3価の水溶液は赤紫色となるが安定せずに、水を還元して水素を発生させながら+4価に変化するため、色も緑色に変化する。+6価は水溶液中でも安定であり、ウラニルイオン (UO2) となって、水溶液は黄色を呈する。水溶液に限らず、+6価のウランは一般に黄色を呈するため、イエローケーキと呼ばれる。なお、ウランのハロゲン化物は+3価から+6価までをとり得るが、これらは揮発性であることが知られており、その蒸気圧は、+3価が一番小さく、+4価、+5価、+6価と大きくなる傾向にある。
酸化ウランの利用は紀元後79年にさかのぼる。イタリアのナポリ付近のポジリッポで製造されていたガラスには1%程度の酸化ウランが着色剤として混合されており、黄色-緑色の美しい色彩を有していた。19世紀にこのガラス製品が再発見された時点ではウラン源としてはボヘミアのハプスブルク家直轄のヨアヒムスタールの銀鉱山に産するピッチブレンドのみが知られており、ローマ時代のガラス職人がどこからウラン鉱石を調達したのかは今もなお謎である。
元素としてのウランはドイツのマルティン・ハインリヒ・クラプロートが1789年に閃ウラン鉱から発見した。1781年にウィリアム・ハーシェルにより発見された天王星 (Uranus) が語源となっている。クラプロートは、閃ウラン鉱から分離した酸化物を炭素で還元して金属光沢を持つ黒色粉末を分離。この物質を金属ウランと発表したが、これは後に二酸化ウラン (UO2) だったと判明した。1841年にフランスのウジェーヌ=メルキオール・ペリゴー(フランス語版)が四塩化ウランをカリウムで還元することにより初めて金属単体として分離に成功し、1850年にはイギリスでもガラスの着色剤としての利用が始まった。
ウラン鉱物が放射線を発していることは、1896年にフランスのアンリ・ベクレルによって発見された。光が当らないようにした(黒い紙で包んだ)写真乾板を、ウラン鉱物のそばに置いておくと、その乾板が感光したのである。2年後の1898年、ピエール・キュリー、マリ・キュリー夫妻によってヨアヒムスタール鉱山(現在のチェコ共和国)で得たウラン鉱石(ピッチブレンド)からポロニウムとラジウムの抽出に成功し、自然に放射性壊変を起こす元素の存在が世界で初めて証明された。
ウランは発見当初は最も原子番号の大きな元素であった。原子番号のより大きなネプツニウムとプルトニウムは、1940年、ウランに中性子線を照射することで発見された。ウランより原子番号が大きい元素は超ウラン元素と呼ばれる。
当初、ウランは天然に存在する最も原子番号の大きな元素とされた。しかし、1951年にネプツニウム、1952年にプルトニウムが、ウラン鉱石の中から検出されたことで、ウランは地球上に天然に存在する最も原子番号の大きな元素の座を譲った。ただし、それらの元素は微量であり、半減期が短いため地球誕生時から存在し続けているわけではなく、ウランが宇宙線などが原因で発生する中性子線を吸収して一時的に生じたものと考えられている。したがって、天然に半永久的に存在する元素としてはウランが最も原子番号が大きい。
地殻や海水中に微量ながら広く分布している。存在量はスズと同程度である。
現在までに知られているウランの70%はオーストラリアに埋蔵されている。中でもオーストラリア南部のオリンピックダム鉱山(英語版)(南オーストラリア州)が世界最大とされる。
輸出量はカナダが世界最大である。サスカチュワン州とアルバータ州の北部にまたがるアサバスカ堆積盆地(英語版)で高品質のウランが産出されている。他、ウラン鉱山としては、ユーラシア大陸には、カザフスタンのハラサン鉱山(英語版)(南カザフスタン州)、Inkai鉱山(英語版)(クズロルダ州)、South Inkai鉱山(英語版)(南カザフスタン州)、Akdala鉱山(英語版)(アルマトイ州)、Akbastau鉱山(英語版)(南カザフスタン州)、Karatau鉱山(英語版)(南カザフスタン州)、Zarechnoye鉱山(英語版)(南カザフスタン州)、Irkol鉱山などがある。パキスタンにはQabul Khel(カイバル・パクトゥンクワ州ラッキ・マルワト地区(英語版))、デラ・ガージ・カーン(英語版)(パンジャーブ州デラ・ガージ・カーン県(英語版))などがある。インドにはジャドゥゴダ鉱山(英語版)(ジャールカンド州ジャドゥゴダ)、Tummalapalle鉱山(英語版)(アーンドラ・プラデーシュ州カダパ)。アフリカ大陸には、コンゴ民主共和国のシンコロブエ鉱山(カタンガ州)、ニジェールのアーリット及びアクータ鉱山(アガデス州)、中央アフリカ共和国のバコウマ(英語版)(ムボム州)などがある。
日本では、岡山県・鳥取県の人形峠の鉱床が古くから知られている。岐阜県土岐市の東濃鉱山も核燃料鉱床として採掘の対象となったことがある。しかし両者とも、採算の合う埋蔵量ではなかったため、稼動することのないまま閉山となった。
2011年におけるウランの国別の産出量は以下の通りである。
ウランは核燃料としても知られ、核兵器に使用できることでも知られている。これはウランに核分裂を起こさせることで、エネルギーを取り出しているのである。ただし、これらの用途に使用できるのは、現在の地球上に一番多く存在するウラン238ではなく、次に存在量が多いウラン235である。このウラン235は、唯一天然に産出する核分裂核種として知られ、原子力の分野では重要視されている。このため、しばしばウラン235を濃縮するという作業が行われている。なお、この作業の結果に生ずる、ほぼウラン238だけになった放射性廃棄物を、劣化ウランと呼ぶ。
ウランの化合物は、一般にウランの酸化数が+6価のものが安定であることが知られている。ただし、酸化物の場合は、ウランの酸化数が+4価(つまり二酸化ウラン)でも安定である。なお、ウランがこの他の酸化数である時の化合物は、一般に不安定である。
ウランの同位体は幾つも知られている。それらの中で最も寿命が長いのは、ウラン238である。次いで、ウラン235、ウラン236、ウラン234、ウラン233、ウラン232と続く。これら以外で半減期が1日以上なのは、ウラン230、ウラン231、ウラン237の3核種のみである。これら以外は、半減期が1日以内の非常に寿命の短い核種ばかりである。 | [
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] | ウランとは、原子番号92の元素。元素記号は U。ウラニウムともいう。アクチノイドに属する。 | {{otheruses|原子番号92の元素|その他のウラン|ウラン (曖昧さ回避)}}
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| dm1=[[自発核分裂|SF]] | de1=197.93<ref>[http://www.osti.gov/bridge//product.biblio.jsp?query_id=0&page=0&osti_id=5972980 ''BNL-NCS 51363, vol. II''] (1981), pages 835ff</ref> | pn1= | ps1=-
| dm2=[[アルファ崩壊|α]] | de2=4.909 | pn2=[[トリウム229|229]] | ps2=[[トリウム|Th]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ウラン234|234]] | sym=U
| na=0.0054 % | hl=[[1 E12 s|245,500 y]]
| dm1=[[自発核分裂|SF]] | de1=197.78 | pn1= | ps1=-
| dm2=[[アルファ崩壊|α]] | de2=4.859 | pn2=[[トリウム230|230]] | ps2=[[トリウム|Th]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ウラン235|235]] | sym=U
| na=0.7204 % | hl=[[1 E16 s|7.038×10<sup>8</sup> y]]
| dm1=[[自発核分裂|SF]] | de1=202.48 | pn1= | ps1=-
| dm2=α | de2=4.679 | pn2=[[トリウム231|231]] | ps2=[[トリウム|Th]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ウラン236|236]] | sym=U
| na=[[微量放射性同位体|trace]] | hl=[[1 E14 s|2.342×10<sup>7</sup> y]]
| dm1=[[自発核分裂|SF]] | de1=201.82 | pn1= | ps1=-
| dm2=[[アルファ崩壊|α]] | de2=4.572 | pn2=[[トリウム232|232]] | ps2=[[トリウム|Th]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay3 | mn=[[ウラン238|238]] | sym=U
| na=99.2742 % | hl=[[1 E17 s|4.468×10<sup>9</sup> y]]
| dm1=[[アルファ崩壊|α]] | de1=4.270 | pn1=[[トリウム234|234]] | ps1=[[トリウム|Th]]
| dm2=[[自発核分裂|SF]] | de2=205.87 | pn2= | ps2=-
| dm3=[[二重ベータ崩壊|β<sup>-</sup>β<sup>-</sup>]] | de3= | pn3= | ps3=
}}
}}
'''ウラン'''({{lang-de-short|Uran}} {{IPA-de|uˈraːn|}}, {{lang-lan-short|uranium}} {{IPA-en|jʊˈreɪniəm|lang}}<ref>http://www.thefreedictionary.com/uranium</ref>)とは、[[原子番号]]92の[[元素]]。[[元素記号]]は '''U'''。'''ウラニウム'''ともいう。[[アクチノイド]]に属する。
== 名称 ==
同時期に発見された[[天王星]](Uranus、ウラヌス)の名に由来している。
「ウラニウム」は、[[金属元素]]を意味するラテン語の派生名詞中性語尾 -ium を付けた形である。
== 概要 ==
[[File:紫外線を照射した燐灰ウラン石.jpg|left|thumb|紫外線を照射した燐灰ウラン石が緑色に燐光する様子]]
現在の地球上に天然に存在している元素のうち、大量に存在しているものとしては、ウランが最も[[原子番号]]が大きく{{Sfn|桜井|2009|p=379}}、また最も[[原子量]]も大きい元素である。元々、ウランが地球上で天然に存在している元素としては、最も原子番号が大きいとされていたが、1951年に[[ネプツニウム]]が、1952年に[[プルトニウム]]が、それぞれウラン鉱石中にごくごくわずかに含まれていることが発見された{{Sfn|桜井|2009|p=380}}。既述の通りウランの原子番号は92であるが、ウランは[[原子半径]]も大きいため、その[[比重]]([[密度]])は、原子番号77番付近の[[オスミウム]]や[[イリジウム]]や[[白金]]などよりも小さい(室温付近で、ウランが1cm<sup>3</sup>当り19g程度であるのに対し、オスミウムとイリジウムが22.5g程度、白金が21.5g程度である<ref group="注釈">1cm<sup>3</sup>当り0.5g刻みの値。
ここは「概要」の節であるため、感覚的に理解してもらうために概算値を示した。</ref>)。ウランには幾つもの同位体が知られているが、その全ての[[同位体]]が放射性核種である{{Sfn|桜井|2009|p=372}}。[[半減期]]が特に長い(寿命が長い)同位体は、[[ウラン238]](半減期は約44億6800万年)と、[[ウラン235]](半減期は約7億380万年)である{{Sfn|国立天文台|2008|p=466}}。ウランに限らず、半減期の長い放射性核種ほど残存しやすいため、放射性同位体の存在比は、少しずつ変化している。地球上に天然に現存するウランの同位体は主にウラン238(地球のウランの約99.274%を占めている)、ウラン235(地球のウランの約0.7204%を占めている)、[[ウラン234]](地球のウランの約0.0054%を占めている{{Sfn|国立天文台|2008|pp=456,460,466}})の3種である{{Sfn|国立天文台|2008|pp=456,460}}<ref group="注釈">安定核種と半減期の特に長い放射性核種を合わせて{{仮リンク|原生核種|en|Primordial nuclide}}と呼ばれるが、原生核種として数えられるのは、このうちウラン238とウラン235の2核種である。
ウラン234の半減期は約24万5500年であり、ウラン238及び235と比較すると極端に短いにもかかわらず、ウラン234が現存している理由は、ウラン238が[[鉛206]]に変化する過程([[ウラン系列]])に、ウラン234が関与しているからである。ウラン238が1回の[[α崩壊]]と2回の[[β崩壊]]をすることで、このウラン234になるため、ウラン238が存在する限り、ウラン234も無くならない(ウラン234が崩壊しても新たに補充される)のである。</ref>。
ウランは地球の地殻中に化合物や海水中に多原子陰イオンの形<math>\mathrm{[UO_2 (CO_3)_2]^{2-}}</math> や <math>\mathrm{[UO_2 (OH)_3]^{-}}</math><ref>丸山誠史、服部健太郎、平田岳史、[https://doi.org/10.14934/chikyukagaku.48.187 ミネラルウォーターのウラン・トリウム濃度] 地球化学 Vol.48 (2014) No.3 p.187-199, {{DOI|10.14934/chikyukagaku.48.187}}</ref>で微量ながら広く分布している元素として知られている。ただし、地球上でウランは安定して存在し続けられないため、その存在量は減り続けている。現在の地球の[[地殻]]におけるウランの濃度は、地殻1g中に2.4µg程度であると考えられている{{Sfn|桜井|2009|p=371}}(異なる推定値もある)。同じく、現在の地球の[[海]]におけるウランの濃度は、海水1リットル中に3.2µg{{Sfn|国立天文台|2008|p=944}}〜3.3µg{{Sfn|桜井|2009|p=371}}程度である。海水中の場合、ウランは海の表層から深層まで、ほぼ一様な濃度で存在している{{Sfn|国立天文台|2008|p=944}}。これに対して地中の場合、地球表層部(地殻中)のウランの濃度が高く、地球深部のウランの濃度は低いと考えられている。その根拠は、もし地中全体に1g中に2.4µgの濃度でウランが存在していた場合、ウランがα崩壊する時に放出される熱によって、地球は加熱されて温度が上昇していると見積もられているが、実際にそのような温度上昇は観測されていないことにある{{Sfn|桜井|2009|p=371}}。地球におけるウランは、その存在量のほとんど(約10<sup>17</sup>kg)が、地殻の表層付近(地表から20km以内)に存在していると言われている{{Sfn|桜井|2009|p=371}}。このように地球では表層付近に濃縮されているのは、ウランが[[不適合元素]]であるためと説明される。なお、現在の[[太陽系]]におけるウランの原子の数の比は、[[珪素|ケイ素]]を1.00×10<sup>6</sup>とした時、0.009であると推定されている{{Sfn|国立天文台|2008|p=137}}。
他、一般的な重金属と同様に、ウランの場合も生体内に取り込まれると化学的な毒性を発揮するが、それに加えてウランは放射能を持つため内部被曝の原因ともなる。また、メカニズムは不明だが、ヒトの場合、特に[[腎臓]]がダメージを受けることで知られている。
== 性質 ==
[[File:LEUPowder.jpg|200px|left|thumb|イエローケーキ]]
ウランの[[単体]]は、銀白色の[[金属]]である。常温常圧での安定構造は[[斜方晶]]構造(α型、18.95g/cm3)であるが、668 °Cで[[正方晶]]構造(β型、18.11g/cm3)へ、775 °Cで[[立方晶]]構造(γ型、18.06g/cm3)へ[[相転移]]する。[[比重]]18.95(25 °C)、[[融点]]1132 °C、[[沸点]]3745 °C。ウラン単体は、反応性が高く、粉末を空気中に放置すると、空気中の酸素によって発火する。またウラン単体を水に投入すると、ウランは水から酸素を奪って、水素ガスが発生する。ウラン化合物の原子価は+2価から+6価をとり得る。このうち、一般に+6価が最も安定である。これに対し、+2価と+5価は特に不安定であり、特殊な条件でないと存在できない。+4価は硝酸水溶液および酸化物等では安定な価数であり、水溶液にしたときには緑色になる。+3価の水溶液は赤紫色となるが安定せずに、水を還元して水素を発生させながら+4価に変化するため、色も緑色に変化する。+6価は水溶液中でも安定であり、[[ウラニルイオン]] (UO<sub>2</sub><sup>2+</sup>) となって、水溶液は黄色を呈する。水溶液に限らず、+6価のウランは一般に黄色を呈するため、'''イエローケーキ'''と呼ばれる。なお、ウランの[[ハロゲン]]化物は+3価から+6価までをとり得るが、これらは揮発性であることが知られており、その[[蒸気圧]]は、+3価が一番小さく、+4価、+5価、+6価と大きくなる傾向にある。
== 歴史 ==
酸化ウランの利用は紀元後[[79年]]にさかのぼる。[[イタリア]]の[[ナポリ]]付近の[[ポジリッポ]]で製造されていたガラスには1%程度の酸化ウランが着色剤として混合されており、黄色-緑色の美しい色彩を有していた。[[19世紀]]にこの[[ウランガラス|ガラス製品]]が再発見された時点ではウラン源としては[[ボヘミア]]の[[ハプスブルク家]]直轄の[[ヤーヒモフ|ヨアヒムスタール]]の銀鉱山に産する[[ピッチブレンド]]のみが知られており、ローマ時代のガラス職人がどこからウラン鉱石を調達したのかは今もなお謎である。
元素としてのウランは[[ドイツ]]の[[マルティン・ハインリヒ・クラプロート]]が[[1789年]]に[[閃ウラン鉱]]から発見した。[[1781年]]に[[ウィリアム・ハーシェル]]により発見された[[天王星]] (Uranus) が語源となっている。クラプロートは、閃ウラン鉱から分離した酸化物を炭素で還元して金属光沢を持つ黒色粉末を分離。この物質を金属ウランと発表したが、これは後に[[酸化ウラン(IV)|二酸化ウラン]] (UO<sub>2</sub>) だったと判明した{{Sfn|桜井|2009|p=370}}。[[1841年]]に[[フランス]]の{{仮リンク|ウジェーヌ=メルキオール・ペリゴー|fr|Eugène-Melchior Péligot}}が[[塩化ウラン(IV)|四塩化ウラン]]を[[カリウム]]で還元することにより初めて金属単体として分離に成功し、[[1850年]]には[[イギリス]]でもガラスの着色剤としての利用が始まった。
[[天然ウラン|ウラン鉱物]]が[[放射線]]を発していることは、1896年にフランスの[[アンリ・ベクレル]]によって発見された{{Sfn|桜井|2009|p=371}}。光が当らないようにした(黒い紙で包んだ)[[写真乾板]]を、ウラン鉱物のそばに置いておくと、その乾板が[[感光]]したのである。2年後の1898年、[[ピエール・キュリー]]、[[マリ・キュリー]]夫妻によってヨアヒムスタール鉱山(現在の[[チェコ共和国]])で得たウラン鉱石(ピッチブレンド)から[[ポロニウム]]と[[ラジウム]]の抽出に成功し、自然に放射性壊変を起こす元素の存在が世界で初めて証明された。
ウランは発見当初は最も原子番号の大きな元素であった。[[原子番号]]のより大きな[[ネプツニウム]]と[[プルトニウム]]は、1940年、ウランに[[中性子線]]を照射することで発見された。ウランより原子番号が大きい元素は[[超ウラン元素]]と呼ばれる。
当初、ウランは天然に存在する最も原子番号の大きな元素とされた。しかし、1951年にネプツニウム、1952年にプルトニウムが、ウラン鉱石の中から検出されたことで、ウランは地球上に天然に存在する最も原子番号の大きな元素の座を譲った。ただし、それらの元素は微量であり、半減期が短いため地球誕生時から存在し続けているわけではなく、ウランが[[宇宙線]]などが原因で発生する中性子線を吸収して一時的に生じたものと考えられている。したがって、天然に半永久的に存在する元素としてはウランが最も原子番号が大きい。
== 産出 ==
[[地殻]]や海水中に微量ながら広く分布している。存在量は[[スズ]]と同程度である<ref>http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/EV_D_G1.html</ref>。
現在までに知られているウランの70%は[[オーストラリア]]に埋蔵されている。中でもオーストラリア南部の{{仮リンク|オリンピックダム|en|Olympic Dam, South Australia|label=オリンピックダム鉱山}}([[南オーストラリア州]])が世界最大とされる。
輸出量は[[カナダ]]が世界最大である。[[サスカチュワン州]]と[[アルバータ州]]の北部にまたがる{{仮リンク|アサバスカ堆積盆地|en|Athabasca Basin}}で高品質のウランが産出されている。他、ウラン鉱山としては、[[ユーラシア大陸]]には、[[カザフスタン]]の{{仮リンク|ハラサン鉱山|en|Kharasan mine}}([[南カザフスタン州]])、{{仮リンク|Inkai鉱山|en|Inkai Uranium Project}}([[クズロルダ州]])、{{仮リンク|South Inkai鉱山|en|South Inkai mine}}([[南カザフスタン州]])、{{仮リンク|Akdala鉱山|en|Akdala mine}}([[アルマトイ州]])、{{仮リンク|Akbastau鉱山|en|Akbastau mine}}([[南カザフスタン州]])、{{仮リンク|Karatau鉱山|en|Karatau mine}}([[南カザフスタン州]])、{{仮リンク|Zarechnoye鉱山|en|Zarechnoye mine}}([[南カザフスタン州]])、[[Irkol鉱山]]などがある。[[パキスタン]]にはQabul Khel([[カイバル・パクトゥンクワ州]]{{仮リンク|ラッキ・マルワト地区|en|Lakki Marwat District}})、{{仮リンク|デーラー・ガーズィー・ハーン|en|Dera Ghazi Khan|label=デラ・ガージ・カーン}}([[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]]{{仮リンク|デーラー・ガーズィー・ハーン県|en|Dera Ghazi Khan District|label=デラ・ガージ・カーン県}})などがある<ref>[https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_14-02-12-01.html パキスタンの原子力開発と原子力施設 (14-02-12-01)]</ref>。[[インド]]には{{仮リンク|ジャドゥゴダ鉱山|en|Jaduguda Uranium Mine}}([[ジャールカンド州]][[ジャドゥゴダ]])、{{仮リンク|Tummalapalle鉱山|en|Tummalapalle uranium mine}}([[アーンドラ・プラデーシュ州]][[カダパ]])。[[アフリカ大陸]]には、[[コンゴ民主共和国]]の[[シンコロブエ鉱山]]([[カタンガ州]])、[[ニジェール]]の[[アーリット]]及び[[アクータ鉱山]]([[アガデス州]])、[[中央アフリカ共和国]]の{{仮リンク|バコウマ|en|Bakouma}}([[ムボム州]])などがある。
[[日本]]では、[[岡山県]]・[[鳥取県]]の[[人形峠]]の鉱床が古くから知られている。[[岐阜県]][[土岐市]]の[[東濃鉱山]]も核燃料[[鉱床]]として採掘の対象となったことがある。しかし両者とも、採算の合う埋蔵量ではなかったため、稼動することのないまま[[閉山]]となった。{{main|天然ウラン}}
=== 国別の産出量 ===
2011年におけるウランの国別の産出量は以下の通りである<ref>『地理 統計要覧』(2014年版)[[二宮書店]]、95頁、{{ISBN2|978-4-8176-0382-1}}。</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:right"
! 順位 !! 国名 !! ウラン鉱生産量<br>([[トン]])!! 全世界に占める割合<br>([[%]])
|-
| 1
| style="text-align:left" | {{KAZ}}
| 21,317
| 35.6
|-
| 2
| style="text-align:left" | {{CAN}}
| 8,999
| 15.4
|-
| 3
| style="text-align:left" | {{AUS}}
| 6,991
| 12.0
|-
| 4
| style="text-align:left" | {{NER}}
| 4,667
| 8.0
|-
| 5
| style="text-align:left" | {{NAM}}
| 4,495
| 7.7
|-
| 6
| style="text-align:left" | {{RUS}}
| 2,872
| 4.9
|-
| 7
| style="text-align:left" | {{UZB}}
| 2,400
| 4.1
|-
| 8
| style="text-align:left" | {{USA}}
| 1,596
| 2.7
|-
| 9
| style="text-align:left" | {{CHN}}
| 1,500
| 2.6
|-
| 10
| style="text-align:left" | {{MWI}}
| 1,101
| 1.9
|- style="font-weight:bold"
| colspan="2" style="text-align:center" | 世界計
| 58,394
| 100.0
|}
== 用途 ==
ウランは[[核燃料]]としても知られ、[[核兵器]]に使用できることでも知られている。これはウランに[[原子核分裂|核分裂]]を起こさせることで、[[エネルギー]]を取り出しているのである。ただし、これらの用途に使用できるのは、現在の地球上に一番多く存在するウラン238ではなく、次に存在量が多いウラン235である。このウラン235は、唯一天然に産出する核分裂核種として知られ、[[原子力]]の分野では重要視されている。このため、しばしば[[ウラン濃縮|ウラン235を濃縮する]]という作業が行われている。なお、この作業の結果に生ずる、ほぼウラン238だけになった[[放射性廃棄物]]を、[[劣化ウラン]]と呼ぶ。
;[[核分裂性物質]]としての利用:[[ウランの同位体]]のうち[[ウラン235]]は核分裂の連鎖反応を生じさせることができる。そのため[[核燃料]]として[[原子力発電]]に利用される他、[[核兵器]]への利用も可能である。ウラン235の割合が高い[[高濃縮ウラン]] (HEU) 等については核兵器への転用が容易であることから[[国際原子力機関]]によって流通等が制限されている。また、[[トリウム]]を原料として[[ウラン233]]を作成し、核燃料とする研究も進められている。{{main|ウラン濃縮}}
;金属資材としての利用:ウラン濃縮の過程で発生した[[劣化ウラン]]は、比重が高いために[[バラスト]]に用いられることが過去にあった。また戦車砲弾において、強度を増して徹甲弾の威力を増す[[劣化ウラン弾]]にも使用される。
;[[蛍光]]材としての利用:[[ルミネッセンス]]反応を示すために蛍光材として使用された。特にガラスに極微量のウランを着色材として加えた製品を[[ウランガラス]]と呼び、美しい蛍光緑色を呈する。ヨーロッパが発祥で、食器やさまざまな日常雑貨が作成された。現在では民間でウランを扱うことが難しいため、新たなものは極少量が生産されているに過ぎないが、骨董・アンティークとしてファンも多く、高値で取引されている。
;[[電子顕微鏡]]写真撮影用の染色剤としての利用:酢酸ウラニル溶液が最も良く使われ細胞内の[[核質]]や[[リボソーム]]などに対して染色効果がある。
;その他の用途:ウランの[[原子核崩壊]]により生じる[[核変換|核種変化]]を追跡することで、[[岩石]]等の生成年代を特定することが可能である。{{main|放射年代測定}}
== ウランの化合物 ==
{{See|Category:ウランの化合物}}
ウランの化合物は、一般にウランの[[酸化数]]が+6価のものが安定であることが知られている。ただし、[[酸化物]]の場合は、ウランの酸化数が+4価(つまり[[酸化ウラン(IV)|二酸化ウラン]])でも安定である。なお、ウランがこの他の酸化数である時の化合物は、一般に不安定である。
== 同位体 ==
{{main|ウランの同位体}}
ウランの同位体は幾つも知られている。それらの中で最も寿命が長いのは、[[ウラン238]]である。次いで、[[ウラン235]]、[[ウラン236]]、[[ウラン234]]、[[ウラン233]]、[[ウラン232]]と続く。これら以外で半減期が1日以上なのは、ウラン230、ウラン231、ウラン237の3核種のみである。これら以外は、半減期が1日以内の非常に寿命の短い核種ばかりである。
== その他 ==
* ウランの[[原子核]]の[[断面積]]は、およそ1[[バーン (単位)|バーン]]に等しい。
* 動物実験により体内に取り込まれたウランを排出するためのキレート剤としてエチドロン酸二ナトリウムが有効とする研究がある<ref NAME=toxpt.39.1.0.P-104.0>池田瑞代、大町康、宮河直人 ほか、[https://doi.org/10.14869/toxpt.39.1.0.P-104.0 ウラン体内除染剤スクリーニングモデルの基礎検討] 日本毒性学会学術年会 第39回日本毒性学会学術年会 セッションID:P-104 , {{DOI|10.14869/toxpt.39.1.0.P-104.0}}</ref>。重炭酸ナトリウムの効果は低い<ref NAME=toxpt.39.1.0.P-104.0 />。
*花崗岩分布地図と重ねてみると、ウラン地下水は、花崗岩があるところと正確に一致する。韓国の花崗岩が占める忠清と京畿南部地域ではウラン汚染されているとMBCに報道された。76ヵ所で基準値を超えるウラン地下水が確認された。基準値157倍のウランに汚染された水を村の人々は、数十年間綺麗だとして飲料水や米炊き水として使用していた。京畿道驪州市の村では五倍だった。韓国環境部(省)がウランを水質基準項目に含めたのは2019年からだったことも判明している<ref>{{Cite web|title=수십 년 밥했던 물이…기준치 157배 우라늄 '가득'|url=http://imnews.imbc.com/replay/2019/nwdesk/article/5526235_24634.html|website=MBC NEWS|date=2019-10-02|accessdate=2019-10-03|language=ko|last=김윤미}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
<references />
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |title=ブルーバックス1627 元素111の新知識 第2版 |author=桜井弘 |publisher=講談社 |date=2009-1-20 |isbn=978-4062576277 |ref={{SfnRef|桜井|2009}} }}
* {{Cite book |和書 |title=[[理科年表]](2008年版、文庫サイズ) |author=国立天文台編 |publisher=丸善 |date=2007-11-23 |isbn=978-4621079027 |ref={{SfnRef|国立天文台|2008}} }}
== 関連項目 ==
{{Commons|Uranium}}
* [[天然ウラン]](ウラン鉱石)
* [[濃縮ウラン]]
* [[劣化ウラン]]
* [[再処理ウラン]]
* [[ウラン235]]
* [[ウラン236]]
* [[ウラン238]]
* [[フィッショントラック法]]
* [[ウラン系列]]
* [[花崗岩]]
* [[原子爆弾]]
* [[原子力発電]]
{{元素周期表}}
{{ウランの化合物}}
{{核技術}}
{{発電の種類}}
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{{DEFAULTSORT:うらん}}
[[Category:ウラン|*]]
[[Category:元素]]
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[[Category:第7周期元素]]
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[[Category:核物質]] | 2003-03-05T23:36:37Z | 2023-12-17T15:16:34Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3 |
3,482 | 牛海綿状脳症 | 牛海綿状脳症(うしかいめんじょうのうしょう、英語: Bovine Spongiform Encephalopathy, 略語: BSE)は、牛の脳の中に空洞ができ、スポンジ(海綿)状になる感染症(プリオン病)である。「ぎゅうかいめんじょうのうしょう」とも読む。一般的には狂牛病(きょうぎゅうびょう, Mad Cow Disease)として知られ、1986年にイギリスで初めて発見された。
羊のスクレイピーや、鹿の慢性消耗病 (CWD)、他、ヒトのクロイツフェルト・ヤコブ病 (Creutzfeldt-Jakob disease, CJD) などを総称して伝達性(伝染性)海綿状脳症(Transmissible Spongiform Encephalopathy, TSE)と表記される場合もある。
家畜伝染病予防法によって指定されている監視伝染病の一つ。
この病気を発症した牛は、群れから離れたり痙攣を起こすなど異常な行動を取るようになり、その後、音や接触に対して過敏な反応をするようになる。病状がさらに進むと運動機能に関連する部位も冒されて立てなくなるなどの症状を示す。
イギリスで発生したのは、飼料として与えた汚染肉骨粉が感染源と考えられている。なお、日本での発生原因は完全には解明されていないが、肉骨粉と同時に牛用代用乳がその原因として疑われている。
ウイルスなど核酸を有した病原体による病気ではなく、プリオンと呼ばれるタンパク質のみで構成された物質が原因だとする見解が主流であるが、有力な異論・異説も少数ながらあり、プリオン原因説は完全な定説とはなっていない。健康体の牛などの体内には正常プリオン蛋白が発現しているが、BSEの原因となるプリオンは、正常プリオン蛋白とは立体構造が異なる異常プリオン蛋白から構成されている。
異常プリオン蛋白は、二次構造や細胞内局在において、正常プリオン蛋白とはかなり違った性質を示す。たとえば、正常なプリオンにはαヘリックス構造が多く含まれるのに対して、異常プリオンではβシート構造が多くなっている。この異常プリオン蛋白により構成されたプリオンが人工飼料などを介して、ウシやヒトの体内に入ると、徐々に正常プリオン蛋白が異常プリオン蛋白に変えられていってしまう。この仕組みについては未解明な部分も多い。
2008年9月11日、アメリカ合衆国農務省(英語略:USDA)動物病センター(英語:National Animal Disease Center/UADC)で研究を行った、カンザス州立大学のユルゲン・リヒト(Jurgen Richt)教授は、BSEの病原体である異常プリオンは、外部から感染しなくとも牛の体内での遺伝子の異変によって作られ、BSEを発症する例につながると発表した。この発表は2006年アラバマ州でBSEを発症した約10歳の雌牛の遺伝子の解析から、異常プリオンを作る異変が初めて見つかったことによる。ヒトでも同様の異変が知られ、クロイツフェルト・ヤコブ病を起こす。
本疾病に感染したウシは治療法が存在しない。日本で本疾病について検査により陽性が確認された場合、家畜伝染病予防法に基づいた殺処分命令が出され、当該患畜は速やかに殺処分される。殺処分にした後、焼却処分が行われる。
また、飼料を介した感染が疑われる疾病であるため、当該患畜と同一の飼料にて育成された可能性があるものについては、本疾病について陽性である可能性が考えられるため、本疾病についての調査が実施される。
狂牛病と変異型クロイツフェルト・ヤコブ病は、非常によく似ていることから、同一病原体によるものと現在のところ結論されている。イギリスにおいて1993年5月に15歳の少女の発症例が報告され、クロイツフェルト・ヤコブ病は中高年や感染された人から作られた医薬品が原因で発症する病気という従来の常識を覆して、医学界に衝撃を与えた。
変異型クロイツフェルト・ヤコブ病による死者は1995年を皮切りに、死因がこの病気であると確認された人数は117名。推定を含めると死者は169名に達している(生存者は4名、2010年7月5日現在)。
当初ヒトには、経口感染しないとされた。しかし、狂牛病に感染した獣肉で作られたキャットフードを食べたネコが死に、解剖したところ海綿状脳症であったことから、食物から感染した疑いが非常に高くなり、牛同士以外でも牛肉を通じての感染が疑われた。
1990年代前半までに、イギリスを中心に発生していた変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(異型クロイツフェルト・ヤコブ病とも呼ばれる)が、その後の調査で、牛海綿状脳症が食物を通して感染したことが疫学的に高い確率であることが証明された。
政治的には、1996年3月20日、イギリス保健省大臣がイギリス下院議会において「クロイツフェルト・ヤコブ病患者10人の発病の原因が、狂牛病に感染した牛肉であることを否定できない」と狂牛病は、ヒトに経口感染する見解を明らかにしたのが初めである。
ただ、どの様な経緯で感染し発病するのかは、現在でも病理学的には諸説あり、各国で研究が進められている。原因が明らかでなく、プリオンは熱に極めて強いため、広く規制する措置がとられている。牛の検査や特定の国からの輸入停止、飼料や加工過程についての規制と、感染した牛からの肉や牛乳など直接(肉など)、間接(原料として生産された加工品)に人間にわたらないように、世界各国で配慮がなされているが、畜産業界などの政治的圧力の高い国では、政治的な問題となり、必ずしも解明に積極的ではない。また、当事国内では解決されたとみなされても、国際的には汚染地域として輸出の制限を続けられる場合もある。
変異型クロイツフェルト・ヤコブ病は英語の "variant Creutzfeldt-Jakob disease" で vCJD と略記される。
特定危険部位は国によって違いがある。日本においては脊髄、背根神経節を含む脊柱、舌と頬肉を除く頭部(具体的には眼、脳、扁桃など)、回腸遠位部(小腸のうち盲腸との接続部から2メートルの所まで)が特定危険部位に指定されている。これらの部位を摂取するとvCJDを発症する危険が高くなる。
日本では、2001年9月10日に千葉県内で飼育されていた牛がBSE発症疑いであることが農林水産省から発表される。後にBSE発症が確定となり、日本においても狂牛病が発生した地域となった。
また、アメリカ合衆国においても2003年にBSE牛が発生した事に伴い、農林水産省は2005年末まで米国産牛肉の輸入を禁止した。
化粧品については、日本ではメーカーによる自主規制と回収が促されている。
牛を原料としたゼラチンについては、世界保健機関の専門委員会では安全であると認定されている。
BSE発生による食肉業界への農林水産省の救済策を悪用した牛肉偽装事件が、2002年以降相次いで発覚した。また、吉野家が米国産牛肉の輸入禁止により、牛丼を2004年から2008年まで長期間に渡り販売中止にする影響が出た。
牛肉を大量に使用している焼肉店や、焼肉文化に支えられている焼肉のたれといった焼肉関連産業も、大きなダメージを被った。
日本赤十字社は、1980年から1996年の間に、1日泊以上イギリスに滞在した事のある者からの献血を、輸血による感染の防止から禁止した(ヒースロー空港で再々乗り継ぎの有無は、条件になるかどうか不明)。制限は2005年6月1日から2010年1月26日までに行われる献血に適用された。2010年1月27日以後の献血については、献血禁止条件を「英国に1日(1泊)以上滞在歴」から「英国滞在歴通算31日以上」に緩和された。 | [
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"text": "牛海綿状脳症(うしかいめんじょうのうしょう、英語: Bovine Spongiform Encephalopathy, 略語: BSE)は、牛の脳の中に空洞ができ、スポンジ(海綿)状になる感染症(プリオン病)である。「ぎゅうかいめんじょうのうしょう」とも読む。一般的には狂牛病(きょうぎゅうびょう, Mad Cow Disease)として知られ、1986年にイギリスで初めて発見された。",
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"text": "イギリスで発生したのは、飼料として与えた汚染肉骨粉が感染源と考えられている。なお、日本での発生原因は完全には解明されていないが、肉骨粉と同時に牛用代用乳がその原因として疑われている。",
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"text": "ウイルスなど核酸を有した病原体による病気ではなく、プリオンと呼ばれるタンパク質のみで構成された物質が原因だとする見解が主流であるが、有力な異論・異説も少数ながらあり、プリオン原因説は完全な定説とはなっていない。健康体の牛などの体内には正常プリオン蛋白が発現しているが、BSEの原因となるプリオンは、正常プリオン蛋白とは立体構造が異なる異常プリオン蛋白から構成されている。",
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"text": "異常プリオン蛋白は、二次構造や細胞内局在において、正常プリオン蛋白とはかなり違った性質を示す。たとえば、正常なプリオンにはαヘリックス構造が多く含まれるのに対して、異常プリオンではβシート構造が多くなっている。この異常プリオン蛋白により構成されたプリオンが人工飼料などを介して、ウシやヒトの体内に入ると、徐々に正常プリオン蛋白が異常プリオン蛋白に変えられていってしまう。この仕組みについては未解明な部分も多い。",
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"title": "原因"
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"text": "本疾病に感染したウシは治療法が存在しない。日本で本疾病について検査により陽性が確認された場合、家畜伝染病予防法に基づいた殺処分命令が出され、当該患畜は速やかに殺処分される。殺処分にした後、焼却処分が行われる。",
"title": "対処"
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"text": "また、飼料を介した感染が疑われる疾病であるため、当該患畜と同一の飼料にて育成された可能性があるものについては、本疾病について陽性である可能性が考えられるため、本疾病についての調査が実施される。",
"title": "対処"
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"text": "狂牛病と変異型クロイツフェルト・ヤコブ病は、非常によく似ていることから、同一病原体によるものと現在のところ結論されている。イギリスにおいて1993年5月に15歳の少女の発症例が報告され、クロイツフェルト・ヤコブ病は中高年や感染された人から作られた医薬品が原因で発症する病気という従来の常識を覆して、医学界に衝撃を与えた。",
"title": "人への伝達"
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"text": "変異型クロイツフェルト・ヤコブ病による死者は1995年を皮切りに、死因がこの病気であると確認された人数は117名。推定を含めると死者は169名に達している(生存者は4名、2010年7月5日現在)。",
"title": "人への伝達"
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"text": "当初ヒトには、経口感染しないとされた。しかし、狂牛病に感染した獣肉で作られたキャットフードを食べたネコが死に、解剖したところ海綿状脳症であったことから、食物から感染した疑いが非常に高くなり、牛同士以外でも牛肉を通じての感染が疑われた。",
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"text": "1990年代前半までに、イギリスを中心に発生していた変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(異型クロイツフェルト・ヤコブ病とも呼ばれる)が、その後の調査で、牛海綿状脳症が食物を通して感染したことが疫学的に高い確率であることが証明された。",
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"text": "政治的には、1996年3月20日、イギリス保健省大臣がイギリス下院議会において「クロイツフェルト・ヤコブ病患者10人の発病の原因が、狂牛病に感染した牛肉であることを否定できない」と狂牛病は、ヒトに経口感染する見解を明らかにしたのが初めである。",
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"title": "人への伝達"
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"text": "特定危険部位は国によって違いがある。日本においては脊髄、背根神経節を含む脊柱、舌と頬肉を除く頭部(具体的には眼、脳、扁桃など)、回腸遠位部(小腸のうち盲腸との接続部から2メートルの所まで)が特定危険部位に指定されている。これらの部位を摂取するとvCJDを発症する危険が高くなる。",
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"text": "日本では、2001年9月10日に千葉県内で飼育されていた牛がBSE発症疑いであることが農林水産省から発表される。後にBSE発症が確定となり、日本においても狂牛病が発生した地域となった。",
"title": "各方面への影響"
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"text": "また、アメリカ合衆国においても2003年にBSE牛が発生した事に伴い、農林水産省は2005年末まで米国産牛肉の輸入を禁止した。",
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"title": "各方面への影響"
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"text": "牛肉を大量に使用している焼肉店や、焼肉文化に支えられている焼肉のたれといった焼肉関連産業も、大きなダメージを被った。",
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"text": "日本赤十字社は、1980年から1996年の間に、1日泊以上イギリスに滞在した事のある者からの献血を、輸血による感染の防止から禁止した(ヒースロー空港で再々乗り継ぎの有無は、条件になるかどうか不明)。制限は2005年6月1日から2010年1月26日までに行われる献血に適用された。2010年1月27日以後の献血については、献血禁止条件を「英国に1日(1泊)以上滞在歴」から「英国滞在歴通算31日以上」に緩和された。",
"title": "各方面への影響"
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] | 牛海綿状脳症は、牛の脳の中に空洞ができ、スポンジ(海綿)状になる感染症(プリオン病)である。「ぎゅうかいめんじょうのうしょう」とも読む。一般的には狂牛病として知られ、1986年にイギリスで初めて発見された。 羊のスクレイピーや、鹿の慢性消耗病 (CWD)、他、ヒトのクロイツフェルト・ヤコブ病 などを総称して伝達性(伝染性)海綿状脳症と表記される場合もある。 家畜伝染病予防法によって指定されている監視伝染病の一つ。 | {{Otheruseslist|ウシに発生する伝達性海綿状脳症|牛海綿状脳症による食肉に関係した社会問題|BSE問題|ヒトなど他の動物で起きる伝達性海綿状脳症|伝達性海綿状脳症}}
'''牛海綿状脳症'''(うしかいめんじょうのうしょう、{{lang-en|Bovine Spongiform Encephalopathy}}, [[略語]]: '''BSE''')は、[[ウシ|牛]]の[[脳]]の中に空洞ができ、[[スポンジ]](海綿)状になる[[感染症]]([[プリオン病]])である。「'''ぎゅう'''かいめんじょうのうしょう」とも読む。一般的には'''狂牛病'''(きょうぎゅうびょう, {{en|Mad Cow Disease}})として知られ、[[1986年]]に[[イギリス]]で初めて発見された<ref>『牛丼のひみつ』72頁。</ref>。
[[ヒツジ|羊]]の'''[[スクレイピー]]'''や、[[シカ|鹿]]の'''[[慢性消耗病]]''' (CWD)、他、[[ヒト]]の'''[[クロイツフェルト・ヤコブ病]]''' ({{en|Creutzfeldt-Jakob disease}}, CJD) などを総称して'''[[伝達性海綿状脳症|伝達性(伝染性)海綿状脳症]]'''({{en|Transmissible Spongiform Encephalopathy}}, TSE)と表記される場合もある。
[[家畜伝染病予防法]]によって指定されている[[法定伝染病|監視伝染病]]の一つ。
== 症状 ==
この病気を発症した牛は、群れから離れたり[[痙攣]]を起こすなど異常な行動を取るようになり、その後、音や接触に対して過敏な[[反射 (生物学)|反応]]をするようになる。病状がさらに進むと運動機能に関連する部位も冒されて立てなくなるなどの症状を示す。
== 原因 ==
イギリスで発生したのは、[[飼料]]として与えた汚染[[肉骨粉]]が感染源と考えられている。なお、日本での発生原因は完全には解明されていないが、肉骨粉と同時に牛用[[代用乳]]がその原因として疑われている<ref>[https://www.maff.go.jp/j/syouan/douei/bse/b_kansen/pdf/h150930.pdf 牛海綿状脳症(BSE)の感染源及び感染経路の調査について・厚生労働省BSE疫学検討チーム]</ref>。
[[ウイルス]]など核酸を有した病原体による病気ではなく、[[プリオン]]と呼ばれる[[タンパク質]]のみで構成された物質が原因だとする見解が主流であるが、有力な異論・異説も少数ながらあり、[[プリオン#プリオン病|プリオン原因説]]は完全な[[定説]]とはなっていない。健康体の牛などの体内には正常プリオン蛋白が発現しているが、BSEの原因となるプリオンは、正常プリオン蛋白とは[[立体構造]]が異なる異常プリオン蛋白から構成されている。
異常プリオン蛋白は、[[二次構造]]や細胞内局在において、正常プリオン蛋白とはかなり違った性質を示す。たとえば、正常なプリオンには[[αヘリックス]]構造が多く含まれるのに対して、異常プリオンでは[[βシート]]構造が多くなっている。この異常プリオン蛋白により構成されたプリオンが人工飼料などを介して、ウシやヒトの体内に入ると、徐々に正常プリオン蛋白が異常プリオン蛋白に変えられていってしまう。この仕組みについては未解明な部分も多い。
[[2008年]]9月11日、[[アメリカ合衆国農務省]](英語略:[[:en:United States Department of Agriculture|USDA]])動物病センター(英語:National Animal Disease Center/UADC)<ref>[http://ars.usda.gov/main/site_main.htm?modecode=36253000 米国農務省国立動物病センター]、(英文)</ref>で研究を行った、[[カンザス州立大学]]のユルゲン・リヒト(Jurgen Richt)教授は、BSEの病原体である異常プリオンは、外部から感染しなくとも[[ウシ|牛]]の体内での遺伝子の異変によって作られ、BSEを発症する例につながると発表した。この発表は[[2006年]][[アラバマ州]]でBSEを発症した約10歳の雌牛の遺伝子の解析から、異常プリオンを作る異変が初めて見つかったことによる。[[ヒト]]でも同様の異変が知られ、[[クロイツフェルト・ヤコブ病]]を起こす<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20080912-OYT1T00760.htm 未感染でもBSE発祥 遺伝子異変で異常プリオン、米農務省確認] [[読売新聞]] 2008年9月12日13S34面</ref>。
== 対処 ==
本疾病に感染したウシは治療法が存在しない。日本で本疾病について検査により陽性が確認された場合、[[家畜伝染病予防法]]に基づいた殺処分命令が出され、当該患畜は速やかに殺処分される。殺処分にした後、焼却処分が行われる。
また、飼料を介した感染が疑われる疾病であるため、当該患畜と同一の飼料にて育成された可能性があるものについては、本疾病について陽性である可能性が考えられるため、本疾病についての調査が実施される。
<!--{{要出典範囲|国家の対応としては、農林水産省と[[電通]]により、Jリーガーや[[菊川玲]]を使って牛肉消費拡大と狂牛病の国民への心配を取り除く試みが為された。}}-->
== 人への伝達 ==
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!国
!BSE事例
! 変異型<br>クロイツフェルト<br>・ヤコブ病
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| title = Variant Creutzfeld-Jakob Disease, Current Data (October 2009)
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| accessdate = 2000-10-14
| year = 2009
| month = October
| publisher = The National Creutzfeldt-Jakob Disease Surveillance Unit (NCJDSU), [[:en:University of Edinburgh]]
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|}
狂牛病と[[変異型クロイツフェルト・ヤコブ病]]は、非常によく似ていることから、同一病原体によるものと現在のところ結論されている[http://www.ishiguro-vet.com/article/bse.pdf]。イギリスにおいて1993年5月に15歳の少女の発症例が報告され、クロイツフェルト・ヤコブ病は中高年や感染された人から作られた医薬品が原因で発症する病気という従来の常識を覆して、医学界に衝撃を与えた。
変異型クロイツフェルト・ヤコブ病による死者は1995年を皮切りに、死因がこの病気であると確認された人数は117名。推定を含めると死者は169名に達している(生存者は4名[http://www.cjd.ed.ac.uk/figures.htm]、2010年7月5日現在)。
当初[[ヒト]]には、経口感染しないとされた。しかし、狂牛病に感染した獣肉で作られたキャットフードを食べた[[ネコ]]が死に、解剖したところ海綿状脳症であったことから、食物から感染した疑いが非常に高くなり、牛同士以外でも牛肉を通じての感染が疑われた。
1990年代前半までに、[[イギリス]]を中心に発生していた変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(異型クロイツフェルト・ヤコブ病とも呼ばれる)が、その後の調査で、牛海綿状脳症が食物を通して感染したことが疫学的に高い確率であることが証明された。
政治的には、1996年3月20日、イギリス保健省大臣がイギリス下院議会において「クロイツフェルト・ヤコブ病患者10人の発病の原因が、狂牛病に感染した牛肉であることを否定できない」と狂牛病は、ヒトに経口感染する見解を明らかにしたのが初めである。
ただ、どの様な経緯で感染し発病するのかは、現在でも病理学的には諸説あり、各国で研究が進められている。原因が明らかでなく、プリオンは熱に極めて強いため、広く規制する措置がとられている。牛の検査や特定の[[国]]からの輸入停止、飼料や加工過程についての規制と、感染した牛からの[[食肉|肉]]や[[牛乳]]など直接(肉など)、間接(原料として生産された加工品)に人間にわたらないように、世界各国で配慮がなされているが、畜産業界などの政治的圧力の高い国では、政治的な問題となり、必ずしも解明に積極的ではない。また、当事国内では解決されたとみなされても、国際的には汚染地域として輸出の制限を続けられる場合もある。
<p style="margin-left:2em;"><small>変異型クロイツフェルト・ヤコブ病は英語の "variant Creutzfeldt-Jakob disease" で '''vCJD''' と略記される。</small></p>
==特定危険部位==
特定危険部位は国によって違いがある。日本においては[[脊髄]]、背根神経節を含む脊柱、舌と頬肉を除く頭部(具体的には[[目|眼]]、[[脳]]、[[扁桃]]など)、回腸遠位部(小腸のうち盲腸との接続部から2メートルの所まで)が'''特定危険部位'''に指定されている。これらの部位を摂取するとvCJDを発症する[[危険]]が高くなる。
==各方面への影響==
日本では、[[2001年]][[9月10日]]に[[千葉県]]内で飼育されていた牛がBSE発症疑いであることが農林水産省から発表される。後にBSE発症が確定となり、日本においても狂牛病が発生した地域となった。
{{main|BSE問題#日本のBSE問題}}
また、アメリカ合衆国においても2003年にBSE牛が発生した事に伴い、農林水産省は2005年末まで[[米国産牛肉]]の輸入を禁止した。
===化粧品===
化粧品については、日本ではメーカーによる自主規制と回収が促されている。
===牛を原料としたゼラチン===
牛を原料とした[[ゼラチン]]については、[[世界保健機関]]の専門委員会では安全であると認定されている。
===外食産業===
BSE発生による食肉業界への[[農林水産省]]の救済策を悪用した[[牛肉偽装事件]]が、2002年以降相次いで発覚した。また、[[吉野家]]が[[米国産牛肉]]の輸入禁止により、[[牛丼]]を[[2004年]]から[[2008年]]まで長期間に渡り販売中止にする影響が出た。
牛肉を大量に使用している焼肉店や、[[焼肉]]文化に支えられている[[焼肉のたれ]]といった焼肉関連産業も、大きなダメージを被った。
=== 献血 ===
[[日本赤十字社]]は、1980年から1996年の間に、1日泊以上[[イギリス]]に滞在した事のある者からの[[献血]]を、[[輸血]]による感染の防止から禁止した([[ヒースロー空港]]で再々乗り継ぎの有無は、条件になるかどうか不明)。制限は2005年6月1日から2010年1月26日までに行われる献血に適用された。2010年1月27日以後の献血については、献血禁止条件を「英国に1日(1泊)以上滞在歴」から「英国滞在歴通算31日以上」に緩和された<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iyakuhin/kenketsugo/minaoshi.html|publisher=[[厚生労働省]]|title= 1980年から1996年の間に英国に1日以上滞在された方からの献血見合わせ措置に関するQ&A |date= |accessdate= 2020-3-18}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
<!--(すべての文献を挙げる意味はあまりないので、これまで読んだ経験から判断して定評のある/ありそうな文献、定評のある/ありそうな執筆者、入手しやすそうな文献に限定。また同じ趣旨で原著の紹介や、あまりに専門的なものも割愛。それならこれも、という書物があれば追加よろしく-->
* [[天笠啓祐]]著『「狂牛病」何が問題か! 恐るべき食肉汚染の実態』(かもがわブックレット)、かもがわ出版、2002年2月
* 天笠啓祐、[[安田節子]]著『肉はこう食べよう、畜産はこう変えよう BSEを乗り越える道』コモンズ、2002年3月
* [[池田正行]]著『牛肉を安心して食べるための狂牛病Q&A』主婦の友社、2001年12月
* 池田正行著『食のリスクを問いなおす BSEパニックの真実』(ちくま新書)、筑摩書房、2002年8月
* [[マンフレート・ヴァイセンバッハー]]''(Manfred Weissenbacher)''著、[[横瀬涼]]訳『狂牛病は警告する ヨーロッパの体験が教えるもの』筑摩書房、2002年2月
* [[金子清俊]]著『プリオン病の謎に挑む』(岩波科学ライブラリー93)、岩波書店、2003年5月
* [[唐木英明]]著『牛肉安全宣言――BSE問題は終わった』PHP研究所、2010年3月
* サイバーX編集部編『狂牛病 プリオン病因説は間違っている!』(CyberX bio)、工学社、2001年12月
* [[エリック・シュローサー]]''(Eric Schlosser)''著、楡井浩一訳『ファストフードと狂牛病』草思社、2002年10月
* [[滝川康治]]著『狂牛病を追う 「酪農王国」北海道から』七つ森書館、2002年7月
* [[中村靖彦]]著『狂牛病 人類への警鐘』(岩波新書)、岩波書店、2001年11月
* 日経レストラン編集部編『狂牛病〈BSE〉対策マニュアル』日経BP社、2002年1月
* [[平沢正夫]]著『牛乳・狂牛病問題と「雪印事件」 安心して飲める牛乳とは』(講談社プラスアルファ新書)、講談社、2002年5月
* [[福岡伸一]]著『もう牛を食べても安心か』(文春新書)、文藝春秋、2004年12月
* [[船瀬俊介]]著『早く肉をやめないか? 狂牛病と台所革命』三五館、2001年9月
* 船瀬俊介著『この食品だったらお金を出したい! 狂牛病と台所革命〈2〉』2001年12月
* [[矢吹寿秀]]、NHK「狂牛病」取材班著、『「狂牛病」どう立ち向かうか』(NHKスペシャルセレクション)、日本放送出版協会、2001年12月
* [[山内一也]]著『狂牛病と人間』([[岩波ブックレット]])、岩波書店、2002年1月
* 山内一也著『プリオン病の謎に迫る』(NHKブックス)、日本放送出版協会、2002年4月
* 山内一也、小野寺節著『プリオン病 BSE(牛海綿状脳症)のなぞ』(第2版)、近代出版(東京)、2002年8月
* フイリップ・ヤム''(Philip Yam)''著、長野敬、後藤貞夫訳『狂牛病とプリオン―BSE感染の恐怖』青土社、2006年3月
* リチャード・W・レーシー''(Richard W. Lacey)''著、渕脇耕一訳『狂牛病 イギリスにおける歴史』
* リチャード・ローズ''(Richard Rhodes)''著、桃井健司、網屋慎哉訳『死の病原体プリオン』草思社、1998年7月
* バイオテクノロジー・ジャパン著『狂牛病のすべて ファクト・ブック』日経BP社、1996年6月
== 関連項目 ==
* [[BSE問題]]
* [[クロイツフェルト・ヤコブ病]]
* [[プリオン]]
* [[肉骨粉]]
* [[神経学]]
* [[獣医学]]
* [[国際獣疫事務局]] (OIE)
* [[慢性消耗病]](倒牛病)
* [[伝達性海綿状脳症]]
* [[スクレイピー]]
* [[クールー病]]
== 外部リンク ==
{{wikinews|カナダのマニトバ州で、BSE感染牛を確認}}
* 小澤義博 牛海綿状脳症(BSE)の現状と問題点(1-4) J. Vet. Med. Sci. 63(4), 63(10), 64(2), 65(1)(日本獣医学会内)
** [http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsvs/05_byouki/ProfOzawa.html wwwsoc.nii.ac.jp]
* 国立精神・神経センター神経研究所疾病研究第七部(高次脳機能障害を呈する疾患としての「プリオン病」に関する基礎研究・治療法開発を目的とした研究、及び機能性疾患に関する研究)のページ
** [http://www.ncnp.go.jp/nin/guide/r7/ www.ncnp.go.jp]
* [[国立研究開発法人]][[農業・食品産業技術総合研究機構|農研機構]](農業・食品産業技術総合研究機構)牛海綿状脳症(BSE)のページ(リンク切れ)
** [https://web.archive.org/web/20100221171333/http://niah.naro.affrc.go.jp/disease/bse/bse-s.html niah.naro.affrc.go.jp]
* 「牛の個体識別情報検索サービス」 農水省の独立行政法人 [[家畜改良センター]]
** [http://www.id.nlbc.go.jp/top.html]
* 厚生労働省「牛海綿状脳症(BSE)関係」ホームページ
** [http://www.mhlw.go.jp/kinkyu/bse.html www.mhlw.go.jp]
* 英国の食品安全管理局 Food Standards Agency(FSA)の牛海綿状脳症対策関連の情報と最新ニュース(英語)
** [http://www.food.gov.uk/bse/ www.food.gov.uk]
* OIEとBSE関連の国際基準について(PDFファイル)
** [http://www.fsc.go.jp/iinkai/i-dai41/dai41kai-siryou1-1-1.pdf http://www.fsc.go.jp]
* [[EFSA]]によるGBR評価
** [http://www.efsa.europa.eu/en/science/tse_assessments/gbr_assessments.html EFSA Scientific Reports on GBR assessments]
* 牛海綿状脳症について
** http://www.zennoh.or.jp/bse/index.htm
{{家畜伝染病}}
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[[Category:伝達性海綿状脳症]]
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3,484 | 気象庁 | 気象庁(きしょうちょう、英: Japan Meteorological Agency、略称: JMA)は、日本の行政機関のひとつ。気象業務の健全な発達を図ることを任務とする国土交通省の外局である。
1875年(明治8年)6月1日に発足した内務省地理寮東京気象台(のちに中央気象台と改称)を前身とする。1895年(明治28年)の文部省への移管、1943年(昭和18年)の運輸通信省への移管を経て、1945年(昭和20年)に運輸省の所管となった。1956年(昭和31年)7月、運輸省の外局に昇格するとともに気象庁に改称した。2001年(平成13年)1月、中央省庁再編に伴い国土交通省の外局となった。
気象庁長官を長とし、内部部局として総務部、情報基盤部、大気海洋部、地震火山部の4部を本庁に置くほか、施設等機関として気象研究所、気象衛星センター、高層気象台、地磁気観測所、気象大学校を設置し、また、地方支分部局として、国土全域を分轄する形で5つの管区気象台を設置している。管区気象台の下には下部組織として地方気象台と測候所が各地に点在している。
かつて日本では、気象情報は軍事機密に関わるものと取り扱われて国家が独占するために、気象庁がその業務を管轄してきた。しかし近年は、1995年(平成7年)5月に民間気象事業者による局地天気予報の自由化がなされたように、気象情報業務の民間への開放が段階的に進み、気象庁の業務は次第に国民の生命・財産の保護にかかわる事項に限定されつつある。たとえば、1955年(昭和30年)以来、毎年3月から4月にかけて、気象庁では桜の開花予想の発表を行ってきたが、気象庁と同等の情報提供が民間気象事業者から行われているとして、2009年(平成21年)をもって桜の開花予想の発表を取りやめた。ただし、桜の開花の観測は、生物観測の一環として継続している。
気象業務の健全な発達を図るため、国土交通省設置法第47条は同法第4条に列記された所掌事務のうち、気象庁が分掌する事務として計9号を規定している。具体的には以下に関することなどがある。
気象庁が行う気象業務(上記所掌事務とほぼ一致)は、気象業務法のもとで行われており、同法第2条で「気象」「地象」「水象」「観測」「予報」などの概念の意味内容が定義されている。なお「気象、地象及び水象に関する情報」(同条第4項第3項)にあたるものとしては、具体的には、天気予報、地震情報、火山情報、津波情報などがある。
気象庁の組織は基本的に、法律の国土交通省設置法、政令の国土交通省組織令および省令の気象庁組織規則が階層的に規定している。
気象防災監は、長官を助け、重大な災害の予防に係る気象業務に関する事務を整理するとされ、次長と同じ、指定職3号俸の待遇である。設置目的は、専門的知見から官邸や関係府省の幹部等とハイレベルな調整を実施することで、災害時における政府全体の意思決定の迅速化を図るとともに、防災対策に係る省庁横断的な課題に的確に対応するため。
気象庁の地方支分部局には管区気象台および沖縄気象台の2区分があり、いずれも気象台である。管区気象台と沖縄気象台は「管区気象台等」と総称され(法律第49条第1項)、全国を分轄する。それらの下部組織として各道府県におおむね1か所以上置かれている地方気象台とこれを補助する測候所がある。地方気象台および測候所のうち、航空機の利用に供するための気象、地象及び水象の予報及び警報をつかさどり、空港とその周辺を管轄する類型は、とくに航空地方気象台および航空測候所と呼ばれる。
かつては地方支分部局の区分の一つとして海洋気象台があり、函館、舞鶴、神戸、長崎の4か所に置かれ、気象庁本庁とで5つに管轄を分けて海洋気象業務や海上警報の発表を行っていた。気象観測・予報の体制強化に資するためとして、2013年(平成25年)10月1日に地方気象台等に移行し、廃止された。
更に遡ると、各地の気象台は明治時代に府県などが設立した測候所が前身で、気象官署官制などにより1937年から1939年にかけて国営に移管し中央気象台(当時)の所属となっている。1930年代に札幌、大阪、福岡、名古屋、金沢、米子、沖縄に中央気象台支台が設立され、後に札幌、大阪、福岡は管区気象台に改組、ほかは地方気象台に改称した。1939年(昭和14年)には中央気象台および管区気象台3か所・地方気象台5か所・測候所76か所体制となる。1949年(昭和24年)11月から管区気象台5か所、1957年(昭和32年)9月から地方気象台44か所と現在とほぼ同じ名称・体制となり、1972年(昭和47年)5月に沖縄気象台と沖縄県の気象台3か所が、2013年に旧海洋気象台がそれぞれ加わっている。
気象庁 機動調査班(きしょうちょう きどうちょうさはん、英語: JMA Mobile Observation Team, JMA-MOT)とは、自然災害発生時に気象庁が、被災地域周辺の調査と現象の解説のために編成する職員派遣の統一的な名称。2008年(平成20年)10月17日に発足された。調査活動の事象として「竜巻等突風・地震・津波・火山・高潮・高波」が、解説活動の事象として「気象・地震・火山」が上げられている。設立にあたり気象庁長官は記者会見で『事前に研修をした要員を登録し、その中から業務に支障がないよう派遣する』としている。
これに対して、大規模な災害の発生(発生予想を含む)に際して、都道府県や市町村の災害対策本部等へ気象庁職員を派遣するために編成される「気象庁防災対応支援チーム(英語: JMA Emergency Task Team, JETT)」があり、2018年(平成30年)5月1日に創設されたものである。創設初年度の2018年に平成30年北海道胆振東部地震が起こった時には、JETTとJMA-MOTのいずれもが派遣出動している。
2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における気象庁所管の歳出予算は485億7239万2千円。科目内訳は気象官署共通費が349億1200万9千円、気象官署施設費が1億225万8千円、観測予報等業務費が111億9656万円、気象研究所が23億6156万5千円となっている。物件費および人件費で分けると、物件費は 143億91百万円で人件費が341億81百万円となる。
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、4,443人(男性3,914人、女性529人)である。定員は省令の国土交通省定員規則により5,025人。
職員の競争試験による採用は国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、同(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)および気象大学校学生採用試験の合格者の中から行われる。いずれも人事院が実施する。過去の採用実績では旧I種およびII種(現在の総合職および一般職に相当)およそ9割を理工系の試験区分からの合格者が占めている。気象大学校学生採用試験は気象大学校大学部学生を採用するための専門職試験であり、高卒程度を受験資格とする。1959年に気象庁研修所高等部学生採用試験としてはじまり、1962年度より研修所が気象大学校に移行したことに伴い、現在の名称に改められた(人事院2012、p. 251)。
気象庁の職員は一般職の国家公務員なので、給与に関しては一般職給与法が適用される。俸給表は行政職俸給表ないし指定職俸給表が適用される。ただし、気象大学校に勤務する教頭、教授、准教授、講師及び助教は教育職俸給表(一)の適用範囲となる(人事院規則九―二第8条)。人事院の指定により、特定の職務に対して特殊勤務手当(爆発物取扱等作業手当、航空手当、山上作業手当、夜間特殊業務手当)が支給される(人事院規則九―三〇)。
一般職の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。
現在、職員団体としては国土交通労働組合(略称:国交労組)と沖縄国家公務員労働組合(沖縄国公労)の支部が活動している。札幌管区気象台においては国交労組北海道気象支部、仙台管区気象台においては同東北気象支部、本庁においては同東京気象支部、東京管区気象台においては同関東中部気象支部、気象研究所においては同気象研究所支部、大阪管区気象台においては同関西気象支部、福岡管区気象台においては同九州気象支部、沖縄気象台においては同沖縄気象支部および沖縄国公労気象支部が現存する。加盟単産は国公労組は国公労連、沖縄国公労は国公連合となっている。以前は1957年に結成された全気象労働組合(全気象)が最大の組合であったが、2011年9月、第55回定期大会で発展的解散を決定し、国土交通省における国公労連傘下の他労組などと統合して国土交通労働組合を結成し、組織は国交労組の上記8つ支部として分割・再編された。
組織率、団体数は、国土交通省全体のもののみ公表されている。国土交通省の該当の項を参照。
国土交通省の該当の項を参照。
気象観測や地震観測など各種観測システムを導入し、24時間管理・運用している。
海洋気象観測を行う気象観測船を運用している。
気象庁が編集する白書には『気象業務はいま』(通称:気象白書)がある。ほかに暴風・豪雨・地震等の自然現象による災害が発生した場合に作成・公表される「災害時自然現象報告書」がある。災害を引き起こした現象や気象庁のとった措置などの概要をまとめた作成・公表しているものである。年度ごとに号数がふられる。
なお、気象庁のウェブサイト(ホームページ)におけるURLドメイン名は「www.jma.go.jp」で、国土交通省(mlit.go.jp)からは独立している。
定期刊行の広報誌として、2002年5月に創刊されたオンラインペーパーの『こんにちは!気象庁です!』が刊行されていたが、オンラインペーパーとしては、2018年1月の発刊が最後となっている。なお、2018年3月まで発刊されていた国土交通省の広報誌である『国土交通』においても情報を発信していた。
本庁舎は、2020年(令和2年)11月から東京都港区虎ノ門三丁目6番9号に所在する。
本庁舎内には一般人が利用できる施設として、気象庁の業務を説明する「気象科学館」、天気相談所および国立国会図書館支部気象庁図書館がある。いずれも入場無料。
1964年(昭和39年)から2020年までは東京都千代田区大手町一丁目3番4号に所在していた。2007年(平成19年)6月15日に開催された財務省の国有財産の有効活用に関する検討・フォローアップ有識者会議において、気象庁の庁舎を港区虎ノ門に移転し、跡地を売却することが提言され、大手町庁舎から虎ノ門庁舎への移転計画が進められた。庁舎移転後に関しては、現在地で観測業務を行っている東京管区気象台(大手町の本庁庁舎に入居していた)も庁舎移転(東京都清瀬市) することになり、地上気象観測施設(気温と風向風速の観測点「東京」)は2014年12月2日から近隣の北の丸公園内に移設して運用している。
旧庁舎には、気象資料の専門店である津村書店が入居していたが、虎ノ門への移転に伴い、2020年12月28日をもって店舗としての営業を終えた。
気象庁の幹部は以下のとおりである。 | [
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"tag": "p",
"text": "気象庁の地方支分部局には管区気象台および沖縄気象台の2区分があり、いずれも気象台である。管区気象台と沖縄気象台は「管区気象台等」と総称され(法律第49条第1項)、全国を分轄する。それらの下部組織として各道府県におおむね1か所以上置かれている地方気象台とこれを補助する測候所がある。地方気象台および測候所のうち、航空機の利用に供するための気象、地象及び水象の予報及び警報をつかさどり、空港とその周辺を管轄する類型は、とくに航空地方気象台および航空測候所と呼ばれる。",
"title": "組織"
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"text": "かつては地方支分部局の区分の一つとして海洋気象台があり、函館、舞鶴、神戸、長崎の4か所に置かれ、気象庁本庁とで5つに管轄を分けて海洋気象業務や海上警報の発表を行っていた。気象観測・予報の体制強化に資するためとして、2013年(平成25年)10月1日に地方気象台等に移行し、廃止された。",
"title": "組織"
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"text": "更に遡ると、各地の気象台は明治時代に府県などが設立した測候所が前身で、気象官署官制などにより1937年から1939年にかけて国営に移管し中央気象台(当時)の所属となっている。1930年代に札幌、大阪、福岡、名古屋、金沢、米子、沖縄に中央気象台支台が設立され、後に札幌、大阪、福岡は管区気象台に改組、ほかは地方気象台に改称した。1939年(昭和14年)には中央気象台および管区気象台3か所・地方気象台5か所・測候所76か所体制となる。1949年(昭和24年)11月から管区気象台5か所、1957年(昭和32年)9月から地方気象台44か所と現在とほぼ同じ名称・体制となり、1972年(昭和47年)5月に沖縄気象台と沖縄県の気象台3か所が、2013年に旧海洋気象台がそれぞれ加わっている。",
"title": "組織"
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"text": "気象庁 機動調査班(きしょうちょう きどうちょうさはん、英語: JMA Mobile Observation Team, JMA-MOT)とは、自然災害発生時に気象庁が、被災地域周辺の調査と現象の解説のために編成する職員派遣の統一的な名称。2008年(平成20年)10月17日に発足された。調査活動の事象として「竜巻等突風・地震・津波・火山・高潮・高波」が、解説活動の事象として「気象・地震・火山」が上げられている。設立にあたり気象庁長官は記者会見で『事前に研修をした要員を登録し、その中から業務に支障がないよう派遣する』としている。",
"title": "組織"
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"text": "これに対して、大規模な災害の発生(発生予想を含む)に際して、都道府県や市町村の災害対策本部等へ気象庁職員を派遣するために編成される「気象庁防災対応支援チーム(英語: JMA Emergency Task Team, JETT)」があり、2018年(平成30年)5月1日に創設されたものである。創設初年度の2018年に平成30年北海道胆振東部地震が起こった時には、JETTとJMA-MOTのいずれもが派遣出動している。",
"title": "組織"
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"text": "2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における気象庁所管の歳出予算は485億7239万2千円。科目内訳は気象官署共通費が349億1200万9千円、気象官署施設費が1億225万8千円、観測予報等業務費が111億9656万円、気象研究所が23億6156万5千円となっている。物件費および人件費で分けると、物件費は 143億91百万円で人件費が341億81百万円となる。",
"title": "財政"
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"tag": "p",
"text": "一般職の在職者数は2022年7月1日現在、4,443人(男性3,914人、女性529人)である。定員は省令の国土交通省定員規則により5,025人。",
"title": "職員"
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"tag": "p",
"text": "職員の競争試験による採用は国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、同(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)および気象大学校学生採用試験の合格者の中から行われる。いずれも人事院が実施する。過去の採用実績では旧I種およびII種(現在の総合職および一般職に相当)およそ9割を理工系の試験区分からの合格者が占めている。気象大学校学生採用試験は気象大学校大学部学生を採用するための専門職試験であり、高卒程度を受験資格とする。1959年に気象庁研修所高等部学生採用試験としてはじまり、1962年度より研修所が気象大学校に移行したことに伴い、現在の名称に改められた(人事院2012、p. 251)。",
"title": "職員"
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"tag": "p",
"text": "気象庁の職員は一般職の国家公務員なので、給与に関しては一般職給与法が適用される。俸給表は行政職俸給表ないし指定職俸給表が適用される。ただし、気象大学校に勤務する教頭、教授、准教授、講師及び助教は教育職俸給表(一)の適用範囲となる(人事院規則九―二第8条)。人事院の指定により、特定の職務に対して特殊勤務手当(爆発物取扱等作業手当、航空手当、山上作業手当、夜間特殊業務手当)が支給される(人事院規則九―三〇)。",
"title": "職員"
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"tag": "p",
"text": "一般職の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。",
"title": "職員"
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"text": "現在、職員団体としては国土交通労働組合(略称:国交労組)と沖縄国家公務員労働組合(沖縄国公労)の支部が活動している。札幌管区気象台においては国交労組北海道気象支部、仙台管区気象台においては同東北気象支部、本庁においては同東京気象支部、東京管区気象台においては同関東中部気象支部、気象研究所においては同気象研究所支部、大阪管区気象台においては同関西気象支部、福岡管区気象台においては同九州気象支部、沖縄気象台においては同沖縄気象支部および沖縄国公労気象支部が現存する。加盟単産は国公労組は国公労連、沖縄国公労は国公連合となっている。以前は1957年に結成された全気象労働組合(全気象)が最大の組合であったが、2011年9月、第55回定期大会で発展的解散を決定し、国土交通省における国公労連傘下の他労組などと統合して国土交通労働組合を結成し、組織は国交労組の上記8つ支部として分割・再編された。",
"title": "職員"
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"text": "組織率、団体数は、国土交通省全体のもののみ公表されている。国土交通省の該当の項を参照。",
"title": "職員"
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "国土交通省の該当の項を参照。",
"title": "所管法人"
},
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"text": "気象観測や地震観測など各種観測システムを導入し、24時間管理・運用している。",
"title": "システム"
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"text": "海洋気象観測を行う気象観測船を運用している。",
"title": "船舶"
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"text": "気象庁が編集する白書には『気象業務はいま』(通称:気象白書)がある。ほかに暴風・豪雨・地震等の自然現象による災害が発生した場合に作成・公表される「災害時自然現象報告書」がある。災害を引き起こした現象や気象庁のとった措置などの概要をまとめた作成・公表しているものである。年度ごとに号数がふられる。",
"title": "広報"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "なお、気象庁のウェブサイト(ホームページ)におけるURLドメイン名は「www.jma.go.jp」で、国土交通省(mlit.go.jp)からは独立している。",
"title": "広報"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "定期刊行の広報誌として、2002年5月に創刊されたオンラインペーパーの『こんにちは!気象庁です!』が刊行されていたが、オンラインペーパーとしては、2018年1月の発刊が最後となっている。なお、2018年3月まで発刊されていた国土交通省の広報誌である『国土交通』においても情報を発信していた。",
"title": "広報"
},
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"paragraph_id": 26,
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"text": "本庁舎は、2020年(令和2年)11月から東京都港区虎ノ門三丁目6番9号に所在する。",
"title": "庁舎"
},
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"text": "本庁舎内には一般人が利用できる施設として、気象庁の業務を説明する「気象科学館」、天気相談所および国立国会図書館支部気象庁図書館がある。いずれも入場無料。",
"title": "庁舎"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1964年(昭和39年)から2020年までは東京都千代田区大手町一丁目3番4号に所在していた。2007年(平成19年)6月15日に開催された財務省の国有財産の有効活用に関する検討・フォローアップ有識者会議において、気象庁の庁舎を港区虎ノ門に移転し、跡地を売却することが提言され、大手町庁舎から虎ノ門庁舎への移転計画が進められた。庁舎移転後に関しては、現在地で観測業務を行っている東京管区気象台(大手町の本庁庁舎に入居していた)も庁舎移転(東京都清瀬市) することになり、地上気象観測施設(気温と風向風速の観測点「東京」)は2014年12月2日から近隣の北の丸公園内に移設して運用している。",
"title": "庁舎"
},
{
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"text": "旧庁舎には、気象資料の専門店である津村書店が入居していたが、虎ノ門への移転に伴い、2020年12月28日をもって店舗としての営業を終えた。",
"title": "庁舎"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "気象庁の幹部は以下のとおりである。",
"title": "幹部職員"
}
] | 気象庁は、日本の行政機関のひとつ。気象業務の健全な発達を図ることを任務とする国土交通省の外局である。 | {{Otheruses|日本の気象庁|各国の気象庁|気象機関の一覧}}
{{行政官庁
|国名 = {{JPN}}
|正式名称 = 気象庁
|公用語名 = きしょうちょう
|英名=Japan Meteorological Agency|紋章 = 気象庁.svg
|紋章サイズ = 210px
|画像 = JMA Toranomon office 2020-11-24.jpg
|画像サイズ = 250px
|画像説明 =
|主席閣僚職名 = [[長官]]
|主席閣僚氏名 = [[大林正典]]
|次席閣僚職名 = [[次長]]
|次席閣僚氏名 = [[岩月理浩]]
|三席閣僚職名 = 気象防災監
|三席閣僚氏名 = [[森隆志]]
|補佐官職名 =
|補佐官氏名 =
|次官職名 =
|次官氏名 =
|上部組織 = 上部組織
|上部組織概要= [[国土交通省]]
|下部組織1 = [[内部部局]]
|下部組織概要1 = {{ublist|総務部|情報基盤部|大気海洋部|地震火山部}}
|下部組織2 = [[施設等機関]]
|下部組織概要2 = {{ublist|[[気象研究所]]|[[気象衛星センター]]|[[高層気象台]]|[[気象庁地磁気観測所|地磁気観測所]]|[[気象大学校]]}}
|下部組織3 = [[地方支分部局]]
|下部組織概要3 = {{ublist|[[札幌管区気象台]]|[[仙台管区気象台]]|[[東京管区気象台]]|[[大阪管区気象台]]|[[福岡管区気象台]]|[[沖縄気象台]]}}
|下部組織4 =
|下部組織概要4 =
|下部組織5 =
|下部組織概要5 =
|下部組織6 =
|下部組織概要6 =
|所在地 = {{〒}}105-8431<br/>[[東京都]]港区[[虎ノ門]]3丁目6番9号(気象庁・港区立教育センター合同庁舎)
|位置 = {{coord|35|39|57.45|N|139|44|44.97|E|scale:10000|}}
|定員 = 5,025人<ref name="定員規則">「[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=413M60000800028 国土交通省定員規則(平成13年国土交通省令第28号)]」</ref>
|年間予算 =485億7239万2千円<ref name="予算">[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202311001.pdf#page=929 令和5年度一般会計予算] 財務省</ref>
|会計年度 = 2023
|根拠法令=[[国土交通省設置法]]|設置年月日 = [[1956年]]([[昭和]]31年)[[7月1日]]
|改称年月日 =
|前身 = 東京気象台 → 中央気象台
|ウェブサイト = {{official website|name=気象庁 公式サイト}} {{ja icon}}
|その他 =
}}
'''気象庁'''(きしょうちょう、{{lang-en-short|Japan Meteorological Agency}}、[[略称]]: '''JMA''')は、[[日本]]の[[日本の行政機関|行政機関]]のひとつ。[[気象業務]]の健全な発達を図ることを任務とする[[国土交通省]]の[[外局]]である。
== 概要 ==
[[1875年]]([[明治]]8年)[[6月1日]]に発足した[[内務省 (日本)|内務省]]地理寮東京気象台(のちに中央気象台と改称)を前身とする<ref name="歴史"/>。[[1895年]](明治28年)の[[文部省]]への移管、[[1943年]]([[昭和]]18年)の[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]への移管を経て、[[1945年]](昭和20年)に[[運輸省]]の所管となった<ref name="歴史"/>。[[1956年]](昭和31年)7月、運輸省の外局に昇格するとともに'''気象庁'''に改称した<ref name="歴史"/>。[[2001年]]([[平成]]13年)1月、[[中央省庁再編]]に伴い[[国土交通省]]の外局となった<ref name="歴史"/>。
気象庁[[長官]]を長とし、[[内部部局]]として総務部、情報基盤部、大気海洋部、地震火山部の4部を本庁に置くほか、[[施設等機関]]として[[気象研究所]]、[[気象衛星センター]]、[[高層気象台]]、[[気象庁地磁気観測所|地磁気観測所]]、[[気象大学校]]を設置し、また、[[地方支分部局]]として、[[日本の地理#概略|国土]]全域を分轄する形で5つの[[管区気象台]]を設置している。管区気象台の下には下部組織として[[地方気象台]]と[[測候所]]が各地に点在している。
かつて日本では、気象情報は軍事機密に関わるものと取り扱われて国家が独占するために、気象庁がその業務を管轄してきた。しかし近年は、[[1995年]](平成7年)5月に[[予報業務許可事業者|民間気象事業者]]による局地天気予報の自由化がなされたように、気象情報業務の民間への開放が段階的に進み、気象庁の業務は次第に国民の生命・財産の保護にかかわる事項に限定されつつある。たとえば、[[1955年]](昭和30年)以来、毎年3月から4月にかけて、気象庁では桜の開花予想の発表を行ってきたが、気象庁と同等の情報提供が民間気象事業者から行われているとして、[[2009年]](平成21年)をもって[[桜前線|桜の開花予想]]の発表を取りやめた<ref name="sakura">気象庁観測部計画課 「[https://www.jma.go.jp/jma/press/0912/25a/091225sakura.html 気象庁におけるさくらの開花予想の発表終了について]」 気象庁、2009年12月25日 報道発表</ref>。ただし、桜の開花の観測は、生物観測の一環として継続している<ref name="sakura" />。
=== 所掌事務 ===
気象業務の健全な発達を図るため、[[国土交通省設置法]]第47条は同法第4条に列記された所掌事務のうち、気象庁が分掌する事務として計9号を規定している。具体的には以下に関することなどがある。
# [[宇宙開発|宇宙の開発]]に関する大規模な技術開発であって、気象業務に係るもの(第16号)
# 気象業務に関する基本的な計画の作成及び推進(第119号)
# [[気象]]、地象([[地震]]にあっては、発生した[[断層]]運動による[[地震動]]に限る。)及び水象の予報及び警報並びに気象通信(第120号)
# 気象、地象、地動、[[磁気圏#地球磁気圏|地球磁気]]、[[地電流|地球電気]]及び水象並びにこれらに関連する[[輻射]]に関する観測並びに気象、地象及び水象に関する情報(第121号)
# [[気象測器]]その他の測器(第122号)
# 気象業務に関連する技術に関する研究及び開発並びにこれらの助成並びに気象業務に関連する技術に関する指導及び普及(第124号)
気象庁が行う気象業務(上記所掌事務とほぼ一致)は、[[気象業務法]]のもとで行われており、同法第2条で「気象」「地象」「水象」「観測」「予報」などの概念の意味内容が定義されている。なお「気象、地象及び水象に関する情報」(同条第4項第3項)にあたるものとしては、具体的には、[[天気予報]]、[[地震情報]]、[[火山の状況に関する解説情報|火山情報]]、[[津波情報]]などがある。
== 沿革 ==
[[ファイル:Japan Central Meteorological Observatory circa 1930.JPG|thumb|right|200px|[[1930年]]頃の中央気象台(現・気象庁)]]
[[ファイル:Japan Meteorological Agency 2012.JPG|thumb|right|200px|大手町時代の庁舎]]
* [[1872年]]([[明治]]5年) - 鉱山寮が気象観測開始。[[開拓使]]が北海道[[函館市|函館]](現在の[[金森赤レンガ倉庫]]がある場所)の吏員宅に「気候測量所」を設置([[函館地方気象台]]の前身)<ref>[[#荒川(1941)|荒川(1941)]]、29頁。</ref>。
* [[1873年]](明治6年)、[[工部省]][[測量司]]において[[コリン・アレクサンダー・マクヴェイン]]の主導により一揃えの観測機器を購入、[[スコットランド気象協会]]と技術協力協定を結ぶ<ref>{{Cite book|Nature|title=The establishment of a system of meteorological observations in Japan|date=February 26, 1874|year=1874|publisher=The Nature|page=335}}</ref>。
* [[1874年]](明治7年)1月 - 測量司が[[工部省]]より[[内務省 (日本)|内務省]]に移管。同年2月、[[民部省]][[土木寮]]の一部が合流、同年8月、[[地理寮]](現在の[[国土地理院]])下の量地課に縮小改組。
* [[1875年]](明治8年)[[6月1日]] - 内務省地理寮構内(現在の港区虎ノ門)にて、公式の気象観測(毎日3回)および地震観測を開始。この日を東京気象台および後身の気象庁の創設とする([[気象記念日]])<ref name="歴史">{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/kishou/intro/gyomu/index2.html|title=気象庁の歴史|publisher=気象庁|accessdate=2023-02-17}}</ref><ref>気象庁総務部総務課広報室 「[https://www.jma.go.jp/jma/press/0605/26a/131st-anniversary.html 気象記念日について]」 気象庁、2006年5月26日</ref>。観測ははじめ[[ヘンリー・ジョイナー]]が[[チャールズ・ワイヴィル・トムソン|チャールズ・トムソン]]と{{仮リンク|トマス・ヘンリー・ティザード|label=トーマス・ティザード|en|Thomas Henry Tizard}}の指導を受けるなどして行い、日本人伝習生へと継承された。
* [[1883年]](明治16年)[[3月1日]] - 東京気象台、毎日の天気図作成と印刷配布を開始<ref name="arakawa">[[#荒川(1941)|荒川(1941)]]、8頁。</ref><ref name="歴史"/>、および暴風警報の業務を開始<ref name="市澤">市澤成介「防災気象情報の歴史」、日本災害情報学会、『災害情報』、12巻、pp.6-11、2014年 {{DOI|10.24709/jasdis.12.0_6}}</ref><ref name="饒村2015-70">饒村曜『最新図解 特別警報と自然災害がわかる本』、オーム社、2015年 {{ISBN2|9784274505614}} p.70-75</ref>。3月15日、東京気象台、万国共通極地遠征隊の請により臨時磁力観測を開始<ref name="arakawa" />。
* [[1884年]](明治17年)6月1日 - 東京気象台、全国の天気予報の発表(毎日3回)を開始<ref name="歴史"/>。
* [[1887年]](明治20年)[[1月1日]] - 東京気象台を'''中央気象台'''(ちゅうおうきしょうだい)に改称<ref name="歴史"/>。
* 1887年8月8日 - 気象台測候所条例(明治20年勅令第41号)を公布、東京に中央気象台、地方に地方測候所をおき、いずれも内務省所管とする。
* [[1890年]](明治23年)8月4日 - 中央気象台官制(明治23年勅令第156号)制定、地理局から分離独立して内務大臣直属となる。
* [[1895年]](明治28年)4月 - [[文部省]]に所轄が移された。
* [[1911年]](明治44年)8月 - 長野測候所(現・長野地方気象台)と文部省震災予防調査会が浅間火山観測所を開設。火山観測のはじまり<ref name="歴史"/>。
* [[1923年]]([[大正]]12年)1月1日 - [[麹町区]]元衛町(麹町区竹平町を経て現・[[千代田区]][[一ツ橋]]1、大手町の庁舎の西側でお濠寄りの位置)に移転<ref>気象庁観測部計画課・東京管区気象台 「[https://www.jma.go.jp/jma/press/0809/18a/rojo080918.html 東京の露場の移転先について]」 気象庁、2008年9月18日報道発表</ref>。
* [[1935年]](昭和10年)7月15日 - 暴風警報(後の警報)の下位に気象特報(現在の注意報)を設ける<ref name="市澤"/><ref name="饒村2015-70"/>。
* [[1943年]](昭和18年)11月1日 - [[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]に所轄が移された。
* [[1945年]](昭和20年)5月19日 - 運輸通信省が運輸省に改組されたことに伴い[[運輸省]]に所轄が移された。
* [[1949年]](昭和24年)6月1日 - 運輸省設置法(昭和24年法律第157号)の施行により[[運輸省]]の付属機関となる。
* [[1952年]](昭和27年)7月 - 中央気象台、IBM統計機械を設置、9月から実用化<ref>日本科学技術史大系 地球宇宙科学 日本科学史学会編{{要ページ番号|date=2020年11月}}</ref>。
* [[1956年]](昭和31年)7月1日 - 運輸省の外局となり、中央気象台から現在の名称である'''「気象庁」'''に改称<ref name="歴史"/>。
* [[1964年]](昭和39年)3月 - 竹平町(現・一ツ橋)1から大手町一丁目に移転(同月12日落成式開催)。
* [[1965年]](昭和40年)1月1日 - 火山情報の提供を正式に開始<ref name="歴史"/>。
* [[1974年]](昭和49年)6月20日 - [[火山噴火予知連絡会]]発足。
* [[1978年]](昭和53年)4月6日 - 静止気象衛星[[ひまわり1号]]の本格運用を開始<ref name="歴史"/>。
* [[2001年]]([[平成]]13年)1月6日 - [[中央省庁再編]]に伴って[[国土交通省]]の外局となる<ref name="歴史"/>。
* [[2004年]](平成16年)6月1日 - 公式マスコットキャラクターとして「'''はれるん'''」を制定する<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/info/harerun.html 気象庁マスコットキャラクター はれるん]</ref>。
* [[2007年]](平成19年)10月1日 - [[緊急地震速報]]の一般への提供を開始。[[噴火警報]]を開始(火山活動度レベルを[[噴火警戒レベル]]に移行)<ref name="歴史"/>。
* [[2013年]](平成25年)8月30日 - 警報の上位に[[特別警報]]を設ける<ref name="歴史"/><ref name="市澤"/><ref name="饒村2015-70"/>。
* 2013年10月1日 - [[海洋気象台]]を廃止。[[日本海海洋気象センター]]を設置。
* [[2020年]]([[令和]]2年)10月1日 - 組織改正により、予報部、観測部、地球環境・海洋部を情報基盤部、大気海洋部に再編。「気象防災監」ポストを新設。
* 2020年11月 - 港区虎ノ門の、港区立教育センターとの合同庁舎に移転。138年ぶりに内務省隷下の機関だった当時の地に帰る<ref>[https://web.archive.org/web/20201115070622/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020111500206 気象庁が虎ノ門に移転 明治の観測開始地] 時事通信2020年11月15日、2020年11月15日アーカイブ</ref>。
== 組織 ==
気象庁の組織は基本的に、法律の国土交通省設置法、政令の国土交通省組織令および省令の気象庁組織規則が階層的に規定している。
=== 幹部 ===
* 気象庁[[長官]](法律第45条)
* 気象庁[[次長]](政令第225条)
* 気象防災監(政令第226条)
気象防災監は、長官を助け、重大な災害の予防に係る気象業務に関する事務を整理するとされ、次長と同じ、指定職3号俸の待遇である<ref>{{Cite web|和書|title= 指定職俸給表の適用を受ける職員の号俸の定め並びに職務の級の定数の設定及び改定に関する意見(令和4年度)p50|url=https://www.jinji.go.jp/gaisannkyuubetu/R4teisuuhyou.pdf|website=[[人事院]]|date=|accessdate=2022-04-25|language=ja|format=PDF}}</ref>。設置目的は、専門的知見から官邸や関係府省の幹部等とハイレベルな調整を実施することで、災害時における政府全体の意思決定の迅速化を図るとともに、防災対策に係る省庁横断的な課題に的確に対応するため<ref name="kaisei202010">{{Cite web|和書|title=「国土交通省組織令の一部を改正する政令」が閣議決定|url=https://www.jma.go.jp/jma/press/2009/01d/20200901_soshiki.html|website=気象庁|date=2020-09-01|accessdate=2020-10-1|language=ja}}</ref>。
=== 内部部局 ===
* 総務部(政令第227条)
** [[参事官]](省令第1条)
** 総務課(省令第2条)
*** 広報室
*** 業務評価室
*** 施設物品管理室
** 人事課
*** 厚生管理室
** 企画課
*** 防災企画室(省令第28条)
*** 地域防災企画室
*** 技術開発推進室
*** 国際室
*** 航空気象管理室
*** 危機管理企画調整官
*** 海外気象プロジェクト推進官
** 経理管理官
** 国際・航空気象管理官
* 情報基盤部
** 情報政策課(省令第8条)
*** 情報技術推進室(省令第29条)
*** 情報通信システム企画官
*** 情報セキュリティ対策企画官
** 情報利用推進課
*** 気象ビジネス支援企画室(省令第30条)
*** 民間予報業務監理官
** 数値予報課
*** 数値予報モデル基盤技術開発室(省令第31条){{efn|以下3つの室は、[[茨城県]][[つくば市]]の[[高層気象台]]庁舎内に数値予報開発センターとして設置される<ref>{{WAP|pid=12767195|url=www.jma.go.jp/jma/kishou/know/whitep/1-3-20.html|title=数値予報開発センター|date=2023-03-01}}</ref>。}}
*** 数値予報モデル技術開発室
*** 地球システムモデル技術開発室
*** 数値予報技術開発連携調整官
*** データ同化技術開発推進官
** 情報通信基盤課
*** システム運用室(省令第32条)
*** データネットワーク管理室
*** 国際通信調整官
** 気象衛星課
::: 予測モデルの開発を担当する部門を集約し予測精度向上に向けた技術開発体制を構築するとともに、気象情報・データの流通・利活用を行う<ref name="kaisei202010" />。
::* 衛星整備計画官(省令第33条)
::* 衛星運用事業管理官
* 大気海洋部
** 業務課(省令第14条)
*** 気象技術開発室(省令第34条)
*** 気象情報企画官
*** 気象観測ビッグデータ連携調整官
*** 観測船運用管理官
** 気象リスク対策課
*** 気候変動対策推進室(省令第35条)
*** アジア太平洋気象防災センター
*** 地域気象防災推進官
*** 広域避難支援気象防災推進官
*** 沿岸防災情報調整官
*** 台風防災情報調整官
** 予報課
*** 航空予報室(省令第36条)
*** 気象監視・警報センター
*** 主任予報官
*** 航空予報技術開発推進官
** 観測整備計画課
*** 観測技術調整官(省令第37条)
*** 遠隔観測技術管理調整官
** 気候情報課
*** 異常気象情報センター(省令第38条)
*** 気候情報調整官
** 環境・海洋気象課
::: 台風や大雨、大雪、猛暑、高潮といった気象リスクへの対応に資するよう、短期的な台風や大雨等に関する防災気象情報から、長期的な季節予報や気候変動の予測、さらには、高潮や海面上昇などの海洋に関する情報まで、一体的に提供を行う<ref name="kaisei202010" />。従来の「予報部」はこの改編により廃止された。
::* 海洋気象情報室(省令第39条)
::* 全球大気監視調整官
* 地震火山部
** 管理課(省令第21条)
*** 地震情報企画官(省令第40条)
*** 火山対策官
** 地震津波監視課
*** 地震津波防災推進室(省令第41条)
*** 地震津波監視・警報センター
*** 国際地震津波情報調整官
** 火山監視課
*** 火山防災推進室(省令第42条)
*** 火山監視・警報センター
*** 火山機動観測管理官
*** 火山活動評価解析官
*** 国際火山灰情報調整官
** 地震火山技術・調査課
::: [[地震]]や[[津波]]、[[火山]]の観測を行い、[[地震情報]]などを発表する。地震津波監視課には[[気象庁松代地震観測所|松代地震観測所]](場所は気象庁本庁舎ではなく[[長野県]]の[[松代大本営跡]])、365日24時間全国の地震を観測し必要に応じて自動で[[緊急地震速報]]を発する「地震火山現業室」(1チーム8人で8時間3交代制)、北西太平洋での大津波を監視し必要に応じて周辺各国に警報を発する「北西太平洋津波情報センター」が置かれている。
::* 大規模地震調査室(省令第43条)
::* 地震動・津波予測モデル開発推進官
::* 地震火山観測企画調整官
::* 地震火山解析技術開発推進官
=== 施設等機関 ===
* [[気象研究所]](政令第234条)
{{main|気象研究所#組織}}
* [[気象衛星センター]]
{{main|気象衛星センター#組織}}
* [[高層気象台]]
{{main|高層気象台#組織}}
* [[地磁気観測所]]
{{main|地磁気観測所#組織}}
* [[気象大学校]]
{{main|気象大学校#組織}}
=== 地方支分部局 ===
{{Location map+|Japan|float=right|width=400|places=
<!--{{Location map~|Japan|label=|label_size=75|lat=|long=|position=top,right,left|mark=Blue pog.svg}}-->
{{Location map~|Japan|label=[[札幌管区気象台|札幌]]|label_size=70|lat=43.060|long=141.328}}
{{Location map~|Japan|label=[[仙台管区気象台|仙台]]|label_size=70|lat=38.262|long=140.897}}
{{Location map~|Japan|label=[[気象庁地磁気観測所|地磁気]]<br/>[[気象研究所|気象研]]/[[高層気象台|高層]]<br/>[[気象大学校|気象大]]|label_size=70|lat=36.5|long=140.2|marksize=1}}
{{Location map~|Japan|label=<!--気象庁地磁気観測所-->|label_size=70|lat=36.234|long=140.189|mark=Yellow pog.svg}}
{{Location map~|Japan|label=[[気象衛星センター|衛星C]]|label_size=70|lat=35.777|long=139.533|position=left|mark=Yellow pog.svg}}
{{Location map~|Japan|label=<!--気象研究所/高層気象台-->|label_size=70|lat=36.057|long=140.125|mark=Yellow pog.svg}}
{{Location map~|Japan|label=<!--気象大学校-->|label_size=70|lat=35.859|long=139.959|mark=Yellow pog.svg}}
{{Location map~|Japan|label=気象庁/[[東京管区気象台|東京]]|label_size=70|lat=35.690|long=139.760|position=bottom}}
{{Location map~|Japan|label=[[大阪管区気象台|大阪]]|label_size=70|lat=34.682|long=135.518}}
{{Location map~|Japan|label=[[福岡管区気象台|福岡]]|label_size=70|lat=33.582|long=130.375}}
{{Location map~|Japan|label=[[沖縄気象台|沖縄]]|label_size=70|lat=32.5<!--26.207-->|long=145.6<!--127.685-->}}
|caption=<small>[[image:Red pog.svg|8px]]:気象庁/管区気象台/沖縄気象台 [[image:Yellow pog.svg|8px]]:施設等機関</small>
}}
気象庁の地方支分部局には管区気象台および沖縄気象台の2区分があり、いずれも[[気象台]]である。管区気象台と沖縄気象台は「管区気象台等」と総称され(法律第49条第1項)、全国を分轄する。それらの下部組織として各道府県におおむね1か所以上置かれている[[地方気象台]]とこれを補助する[[測候所]]がある。地方気象台および測候所のうち、航空機の利用に供するための気象、地象及び水象の予報及び警報をつかさどり、空港とその周辺を管轄する類型は、とくに[[航空地方気象台]]および航空測候所と呼ばれる。
* [[管区気象台]](法律第48条第1項)(5)
** [[札幌管区気象台]](政令第240条)
** [[仙台管区気象台]]
** [[東京管区気象台]]
** [[大阪管区気象台]]
** [[福岡管区気象台]]
* [[沖縄気象台]](法律第48条第2項)
{{main|管区気象台#組織}}
かつては地方支分部局の区分の一つとして海洋気象台があり、[[函館市|函館]]、[[舞鶴市|舞鶴]]、[[神戸]]、[[長崎市|長崎]]の4か所に置かれ、気象庁本庁とで5つに管轄を分けて海洋気象業務や海上警報の発表を行っていた<ref>{{Cite kotobank|海洋気象台|encyclopedia=小学館「日本大百科全書(ニッポニカ)」|accessdate=2023-02-17}}</ref>。気象観測・予報の体制強化に資するためとして<ref>気象庁総務部企画課 「[https://www.jma.go.jp/jma/press/1303/08b/houritsuan.html 気象業務法及び国土交通省設置法の一部を改正する法律案について]」 平成25年3月8日</ref>、[[2013年]](平成25年)[[10月1日]]に地方気象台等に移行し、廃止された。
更に遡ると、各地の気象台は明治時代に[[都道府県|府県]]などが設立した[[測候所]]が前身で、気象官署官制などにより1937年から1939年にかけて国営に移管し中央気象台(当時)の所属となっている<ref>{{Cite kotobank|気象台|encyclopedia=小学館「日本大百科全書(ニッポニカ)」|accessdate=2023-02-17}}</ref><ref name="濱松81">{{Cite journal|author=濱松音藏|title=特集 日本の地震学百年の歩み 第2部 各研究機関の歴史 第3章 気象庁|journal=地震 第2輯|volume=34|issue=特別号|date=1981|doi=10.4294/zisin1948.34.special_143}}</ref>。[[1930年代]]に[[札幌市|札幌]]、[[大阪市|大阪]]、[[福岡市|福岡]]、[[名古屋市|名古屋]]、[[金沢市|金沢]]、[[米子市|米子]]、[[沖縄県|沖縄]]に中央気象台支台が設立され、後に札幌、大阪、福岡は管区気象台に改組、ほかは地方気象台に改称した。[[1939年]](昭和14年)には中央気象台および管区気象台3か所・地方気象台5か所・測候所76か所体制となる<ref name="濱松81"/>。[[1949年]](昭和24年)11月から管区気象台5か所、[[1957年]](昭和32年)9月から地方気象台44か所と現在とほぼ同じ名称・体制となり、[[1972年]](昭和47年)5月に[[沖縄気象台]]と沖縄県の気象台3か所が、2013年に旧海洋気象台がそれぞれ加わっている。
=== 機動調査班 ===
'''気象庁 機動調査班'''(きしょうちょう きどうちょうさはん、{{lang-en|JMA Mobile Observation Team, '''JMA-MOT'''}})とは、自然災害発生時に気象庁が、被災地域周辺の調査と現象の解説のために編成する職員派遣の統一的な名称{{efn|統一的な名称が付与される以前から2008年の時点において、国土交通省が発足させた[[緊急災害対策派遣隊]](TEC-FORCE)の一環として活動を行っていた<ref name="press_conference_20081016" />。}}。[[2008年]](平成20年)[[10月17日]]に発足された。調査活動の事象として「[[竜巻]]等突風・[[地震]]・[[津波]]・[[火山]]・[[高潮]]・[[高波]]」が、解説活動の事象として「気象・地震・火山」が上げられている<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/press/0810/16b/mobile_observation_team.pdf|format=PDF|title=「気象庁 機動調査班」の創設について|type=報道発表資料|date=2008-10-16|publisher=気象庁|accessdate=2016-04-21}}</ref>。設立にあたり気象庁長官は記者会見で『事前に研修をした要員を登録し、その中から業務に支障がないよう派遣する』としている<ref name="press_conference_20081016">{{Cite web|和書|title=長官記者会見要旨|url=https://www.jma.go.jp/jma/kishou/tyoukan/2008/dg_20081016.html|date=2008-10-16|accessdate=2016-04-21}}</ref>。
これに対して、大規模な災害の発生(発生予想を含む)に際して、都道府県や市町村の災害対策本部等へ気象庁職員を派遣するために編成される「気象庁防災対応支援チーム({{lang-en|JMA Emergency Task Team, '''JETT'''}})」があり、[[2018年]](平成30年)[[5月1日]]に創設されたものである<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/press/1803/15c/jett180315.html|title=JETT(気象庁防災対応支援チーム)の創設|date=2018-03-15|publisher=気象庁|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12767195/www.jma.go.jp/jma/press/1803/15c/jett180315.html|archivedate=2023-03-01|url-status=live}}</ref>。創設初年度の2018年に[[平成30年北海道胆振東部地震]]が起こった時には、'''JETT'''と'''JMA-MOT'''のいずれもが派遣出動している<ref>{{WAP|pid=12767664|url=www.gsi.go.jp/common/000208623.pdf#page=21l
|title=平成30年北海道胆振東部地震における気象庁の対応(札幌管区気象台)|date=2023-03-02}} 21頁</ref>。
== 財政 ==
2023年度(令和5年度)[[一般会計]]当初予算における気象庁所管の歳出予算は485億7239万2千円<ref name="予算"/>。科目内訳は気象官署共通費が349億1200万9千円、気象官署施設費が1億225万8千円、観測予報等業務費が111億9656万円、気象研究所が23億6156万5千円となっている。物件費および[[人件費]]で分けると、物件費は 143億91百万円{{efn|デジタル庁一括計上(政府情報システムに係る経費)分(56億53百万円)を含んだ場合の物件費総額は、200億44百万円。}}で人件費が341億81百万円となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/press/2212/23a/05kettei.html|title=令和5年度気象庁関係予算決定概要|date=2022-12-23|publisher=気象庁|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12767195/www.jma.go.jp/jma/press/2212/23a/05kettei.html|archivedate=2023-03-01|url-status=live}}[https://www.jma.go.jp/jma/press/2212/23a/05kettei.pdf#page=3 令和5年度気象庁関係予算決定概要]</ref>。
== 職員 ==
<!-- 職員数、任用(採用)、給与、職員団体の順番で記述しました -->
[[一般職]]の在職者数は2022年7月1日現在、4,443人(男性3,914人、女性529人)である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/jinji_toukei.html|title=人事統計報告|date=|publisher=内閣人事局|accessdate=2023-05-23|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12653771/www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/jinji_toukei.html|archivedate=2023-03-01|url-status=live}}{{Cite book|和書|url=https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/joukin_toukei.pdf#page=9|title=常勤職員在職状況統計表
|chapter=第4表 府省等別、俸給表別在職者数|page=9|date=2022|publisher=内閣人事局|format=PDF|accessdate=2023-05-23}}</ref>。定員は省令の国土交通省定員規則により5,025人<ref name="定員規則" />。
職員の[[公務員試験#国家公務員試験|競争試験]]による採用は国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、同(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)および気象大学校学生採用試験の合格者の中から行われる。いずれも[[人事院]]が実施する。過去の採用実績では旧I種およびII種(現在の総合職および一般職に相当)およそ9割を理工系の試験区分からの合格者が占めている<ref>気象庁 「[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/intro/recruit/index1.html 気象庁 | 気象庁職員募集案内]」</ref>。気象大学校学生採用試験は気象大学校大学部学生を採用するための専門職試験であり、高卒程度を受験資格とする。[[1959年]]に気象庁研修所高等部学生採用試験としてはじまり、1962年度より研修所が気象大学校に移行したことに伴い、現在の名称に改められた(人事院2012、p. 251)。
気象庁の職員は一般職の[[国家公務員]]なので、給与に関しては[[一般職給与法]]が適用される。俸給表は行政職俸給表ないし指定職俸給表が適用される。ただし、気象大学校に勤務する教頭、教授、准教授、講師及び助教は教育職俸給表(一)の適用範囲となる([[人事院規則]]九―二第8条)。人事院の指定により、特定の職務に対して[[特殊勤務手当]](爆発物取扱等作業手当、航空手当、山上作業手当、夜間特殊業務手当)が支給される(人事院規則九―三〇)。
一般職の国家公務員なので、[[労働基本権]]のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は[[労働組合]]として国公法の規定する「[[職員団体]]」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。
現在、職員団体としては[[国土交通労働組合]](略称:国交労組)と沖縄国家公務員労働組合(沖縄国公労)の支部が活動している。札幌管区気象台においては国交労組北海道気象支部、仙台管区気象台においては同東北気象支部、本庁においては同東京気象支部、東京管区気象台においては同関東中部気象支部、気象研究所においては同気象研究所支部、大阪管区気象台においては同関西気象支部、福岡管区気象台においては同九州気象支部、沖縄気象台においては同沖縄気象支部および沖縄国公労気象支部が現存する。加盟単産は国公労組は[[国公労連]]、沖縄国公労は[[国公連合]]となっている。以前は[[1957年]]に結成された[[全気象労働組合]](全気象)が最大の組合であったが、[[2011年]]9月、第55回定期大会で発展的解散を決定し、国土交通省における国公労連傘下の他労組などと統合して国土交通労働組合を結成し、組織は国交労組の上記8つ支部として分割・再編された。
組織率、団体数は、国土交通省全体のもののみ公表されている。[[国土交通省]]の該当の項を参照。
== 所管法人 ==
[[国土交通省]]の該当の項を参照。
== システム ==
気象観測や地震観測など各種観測システムを導入し、24時間管理・運用している。
*[[アメダス|地域気象観測システム(アメダス)]]
*[[COSMETS|気象資料総合システム(コスメッツ)]]
*[[地震活動等総合監視システム|地震活動等総合監視システム(エポス)]]
*地震津波監視システム(エトス)
*火山監視情報システム
*海洋データ同化システム
*予報作業支援システム
*[[雷監視システム]](ライデン)
*気象情報伝送処理システム(アデス)
*[[数値予報#気象庁における数値予報|アンサンブル予報システム]]
== 船舶 ==
海洋気象観測を行う[[気象観測船#日本|気象観測船]]を運用している。
*[[凌風丸 (気象観測船・3代)|凌風丸 (3代目)]]
*啓風丸 (2代目)
== 広報 ==
気象庁が編集する[[白書]]には『気象業務はいま』(通称:気象白書)がある<ref>{{WAP|pid=12767195|url=www.jma.go.jp/jma/kishou/books/index.html
|title=『気象業務はいま』|date=2023-03-01}}</ref>。ほかに[[暴風]]・[[豪雨]]・地震等の自然現象による災害が発生した場合に作成・公表される「災害時自然現象報告書」がある。災害を引き起こした現象や気象庁のとった措置などの概要をまとめた作成・公表しているものである。年度ごとに号数がふられる。
なお、気象庁の[[ウェブサイト]](ホームページ)における[[URL]][[ドメイン名]]は「www.jma.go.jp」で、国土交通省(mlit.go.jp)からは独立している。
定期刊行の広報誌として、[[2002年]]5月に創刊されたオンラインペーパーの『こんにちは!気象庁です!』が刊行されていたが<ref>気象庁 「[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/jma-magazine/ こんにちは!気象庁です!]{{リンク切れ|date=2023年5月}}」2019年2月23日閲覧。</ref>、オンラインペーパーとしては、[[2018年]]1月の発刊が最後となっている<ref>{{WAP|pid=11649384|url=www.jma.go.jp/jma/kishou/jma-magazine/index.html
|title=『こんにちは!気象庁です!』|date=2023-03-01}}</ref>{{efn|気象庁ホームページにおいて『こんにちは!気象庁です!』は[[2018年]](平成30年)3月1日にリニューアルされて、ウェブサイトの「トピックス ~こんにちは!気象庁です!~」に移行した旨の告知されたが<ref>{{WAP|pid=11649384|url=www.jma.go.jp/jma/kishou/books/index.html
|title=気象庁刊行物・レポート|date=2023-03-01}}</ref>、その後「トピックス ~こんにちは!気象庁です!~」の名称そのものは消えている。}}。なお、2018年3月まで発刊されていた[[国土交通省]]の広報誌である『国土交通』<ref>{{WAP|pid=12767664|url=www.mlit.go.jp/page/kouhoushi.html
|title=広報誌『国土交通』|date=2023-03-01}}</ref>においても情報を発信していた。
== 庁舎 ==
本庁舎は、[[2020年]](令和2年)11月から東京都[[港区 (東京都)|港区]][[虎ノ門]]三丁目6番9号に所在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/press/2010/12a/choshaiten2020.pdf|title=気象庁本庁舎の移転について|publisher=気象庁|date=2020-10-12|accessdate=2020-11-25|format=PDF}}</ref>。
本庁舎内には一般人が利用できる施設として、気象庁の業務を説明する「[[気象科学館]]」、天気相談所および[[国立国会図書館]]支部気象庁図書館がある。いずれも入場無料。
[[1964年]](昭和39年)から2020年までは東京都[[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]]一丁目3番4号に所在していた。[[2007年]]([[平成]]19年)[[6月15日]]に開催された[[財務省 (日本)|財務省]]の国有財産の有効活用に関する検討・フォローアップ有識者会議において、気象庁の庁舎を港区虎ノ門に移転し、跡地を売却することが提言され、大手町庁舎から虎ノ門庁舎への移転計画が進められた。庁舎移転後に関しては、現在地で観測業務を行っている[[東京管区気象台]](大手町の本庁庁舎に入居していた)も庁舎移転(東京都清瀬市)<ref name="yosan2019">気象庁 「{{PDFlink|[https://www.jma.go.jp/jma/press/1812/21b/31kettei.pdf 平成31年度気象庁関係予算決定概要]}}」 2018年12月21日報道発表{{要ページ番号|date=2020年11月}}</ref> することになり、地上気象観測施設(気温と風向風速の観測点「東京」)は[[2014年]][[12月2日]]から近隣の[[北の丸公園]]内に移設して運用している<ref>{{PDFlink|[https://www.jma.go.jp/jma/press/1410/03b/20141003_tokyo_rojo.pdf 地上観測地点「東京」の移転について]}} 気象庁(2014年10月3日)</ref><ref>東京管区気象台 「[https://www.jma-net.go.jp/tokyo/sub_index/tokyo/kitanomaru/kitanomaru.html 東京(北の丸公園)試験観測データ]」</ref>。
旧庁舎には、気象資料の専門店である[[津村書店]]が入居していたが、虎ノ門への移転に伴い、2020年12月28日<!-- (令和2年官公庁御用納めの日) -->をもって店舗としての営業を終えた<!-- https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201228/k10012788611000.html ※オンラインショップとして引き続き営業。--><ref>{{Cite news|和書|url=https://news.ntv.co.jp/category/society/767995|title=気象庁が新庁舎に“予報士の聖地”は閉店へ|newspaper=日テレNEWS24|date=2020-11-24|accessdate=2020-11-25}}</ref>。
== 歴代の中央気象台長・気象庁長官 ==
{|class="wikitable"
|-
!代
!氏名
!就任年月日
!備考
|-
|colspan="4"|'''中央気象台長'''
|-
!1
|[[荒井郁之助]]
|[[1890年]][[8月2日]]
|中央気象台官制の制定に基づく。
|-
!2
|[[小林一知]]
|[[1891年]][[8月16日]]
|
|-
!3
|[[中村精男]]
|[[1895年]][[8月30日]]
|
|-
!4
|[[岡田武松]]
|[[1923年]][[7月14日]]
|
|-
!5
|[[藤原咲平]]
|[[1941年]][[7月30日]]
|
|-
!6
|[[和達清夫]]
|[[1947年]][[3月31日]]
|
|-
|colspan="4"|'''気象庁長官'''
|-
!1
|[[和達清夫]]
|[[1956年]][[7月1日]]
|
|-
!2
|[[畠山久尚]]
|[[1963年]][[3月26日]]
|
|-
!3
|柴田淑次
|[[1965年]][[3月31日]]
|
|-
!4
|吉武素二
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|
|-
!5
|[[高橋浩一郎]]
|[[1971年]]3月31日
|
|-
!6
|毛利圭太郎
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|
|-
!7
|有住直介
|[[1976年]]4月1日
|
|-
!8
|窪田正八
|[[1978年]]4月1日
|
|-
!9
|[[増澤譲太郎]]
|[[1980年]]4月1日
|
|-
!10
|末廣重二
|[[1983年]]4月1日
|
|-
!11
|[[内田英治 (気象学者)|内田英治]]
|[[1985年]]4月1日
|
|-
!12
|菊地幸雄
|[[1987年]]4月1日
|
|-
!13
|[[立平良三]]
|[[1990年]]4月1日
|
|-
!14
|[[新田尚]]
|[[1992年]]4月1日
|
|-
!15
|[[二宮洸三]]
|[[1993年]]4月1日
|
|-
!16
|小野俊行
|[[1996年]]4月1日
|
|-
!17
|[[滝川雄壮|瀧川雄壮]]
|[[1998年]]4月1日
|
|-
!18
|山本孝二
|[[2000年]]4月18日
|[[有珠山]]噴火のため就任が延期となる。
|-
!19
|北出武夫
|[[2003年]]4月1日
|
|-
!20
|[[長坂昴一]]
|[[2004年]]4月1日
|
|-
!21
|平木哲
|[[2006年]]4月1日
|
|-
!22
|[[櫻井邦雄]]
|[[2009年]]4月1日
|
|-
!23
|[[羽鳥光彦]]
|[[2011年]]1月18日
|
|-
!24
|[[西出則武]]
|[[2014年]]4月1日
|
|-
!25
|[[橋田俊彦]]
|[[2016年]]4月1日
|
|-
!26
|[[関田康雄]]
|[[2019年]]4月1日
|
|-
!27
|[[長谷川直之]]
|[[2021年]]1月5日
|
|-
!28
|[[大林正典]]
|[[2023年]]1月5日
|
|}
== 幹部職員 ==
気象庁の幹部は以下のとおりである<ref>{{PDFlink|[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/intro/gyomu/kanbu_meibo.pdf 気象庁幹部名簿(令和5年7月4日現在) 気象庁]}}</ref>。
* 気象庁長官 : [[大林正典]]
* 気象庁次長 : 岩月理浩
* 気象防災監 : [[森隆志]]
* 総務部長 : [[藤田礼子]]
* 情報基盤部長 : 千葉剛輝
* 大気海洋部長 : 野村竜一
* 地震火山部長 : 青木元
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite journal|和書|author=荒川秀俊|date=1941|title=日本気象学史|url=|format=|journal=|number=|pages=|publisher=河出書房|oclc=|ref=荒川(1941)}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Japan Meteorological Agency}}
* [[気象庁が命名した自然現象の一覧]]
* [[気象庁震度階級]]
* [[気象庁マグニチュード]]
* [[緊急地震速報]]
* [[気象予報士]]
* [[日本気象協会]]
* [[気象業務支援センター]]
* [[日本気象学会]]
* [[海洋気象学会]]
* [[ひまわり (気象衛星)]]
* [[筑波山神社・筑波大学計算科学研究センター共同気象観測所]]
* [[広島市江波山気象館]]
* [[津村書店]] - 気象庁庁舎内に所在した気象資料の専門書店
* [[日本における地震対策と体制]]
* [[日本の行政機関]]
== 外部リンク ==
* {{official website}} {{ja icon}}
** [https://www.jma.go.jp/jma/kishou/link/link1.html 各地の気象台・施設等機関] {{ja icon}}
{{気象庁の組織}}
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[[Category:気象庁|*]]
[[Category:日本の防災]]
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[[Category:災害対策基本法指定行政機関]]
[[Category:1956年設立の政府機関]]
[[Category:自然災害]] | 2003-03-06T00:56:32Z | 2023-11-26T10:17:13Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E8%B1%A1%E5%BA%81 |
3,485 | 郵政事業庁 | 郵政事業庁(ゆうせいじぎょうちょう、英名: Postal Services Agency)は、かつて存在した総務省の外局の一つである。
郵便事業、郵便貯金事業、郵便為替事業、郵便振替事業、簡易保険事業を扱った。
郵政事業庁の発行する貯金証書、保険証書等は「総務省」名義で発行されていた。発行者は郵政事業庁長官ではなく総務大臣であった。 | [
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] | 郵政事業庁は、かつて存在した総務省の外局の一つである。 | {{出典の明記|date=2023年1月}}
{{行政官庁
|国名 = {{JPN}}
|正式名称 = <small>総務省</small> 郵政事業庁
|英名=<small>Postal Services Agency</small>
|紋章 = Postal Mark (Japan).svg
|紋章サイズ =
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|画像サイズ = 250px
|画像説明 = 郵政事業庁庁舎
|主席閣僚職名 = 郵政事業庁長官
|主席閣僚氏名 = 團宏明(廃止時)
|次席閣僚職名 =
|次席閣僚氏名 =
|三席閣僚職名 =
|三席閣僚氏名 =
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|前身 = [[郵政省]]
|後身 = [[日本郵政公社]]
|ウェブサイト =
|その他 =
}}
'''郵政事業庁'''(ゆうせいじぎょうちょう、[[英語|英名]]: Postal Services Agency)は、かつて存在した[[総務省]]の[[外局]]の一つである。
== 歴史 ==
*2001年(平成13年)1月6日 [[中央省庁再編]]に伴い旧[[郵政省]]の[[郵務局]]、[[貯金局]]および[[簡易保険局]]を統合し、[[郵政企画管理局]]と郵政事業庁を設置。
*2003年(平成15年)4月1日 郵政事業庁は[[日本郵政公社]]に[[公社]]化。尚、郵政企画管理局は[[郵政行政局]]に改組された。
== 業務 ==
[[郵便]]事業、[[郵便貯金]]事業、[[郵便為替]]事業、[[郵便振替]]事業、[[簡易保険]]事業を扱った。
== 組織 ==
* 長官
* 次長
=== 内部部局 ===
* 総務部 - 総務課、業務評価広報課、人事課、財務課
* 郵務部 - 管理課、業務課、営業課、運行課
* 貯金部 - 管理課、業務課、営業課、資金運用課
* 簡易保険部 - 管理課、業務課、営業課、資金運用課
* 施設情報部 - 管理課、建築課、情報システム課、設備計画官
* [[郵政監察制度|首席監察官]]
=== 施設等機関 ===
* 病院及び診療所
* [[郵政大学校|職員訓練所]]
=== 地方支分部局 ===
* [[郵政監察制度|地方郵政監察局]]、地区郵政監察室
* 地方郵政局、[[貯金事務センター]]、[[簡易保険事務センター]]
* 郵便局
== 証書類の発行名義 ==
郵政事業庁の発行する貯金証書、保険証書等は「総務省」名義で発行されていた。発行者は郵政事業庁長官ではなく[[総務大臣]]であった。
== 歴代長官 ==
{|class="wikitable"
|-
!代||氏名||出身省庁||前職||在任期間||後職
|-
|1||[[足立盛二郎]]||郵政省||郵政省簡易保険局長||2001年(平成13年)1月6日 -<br/>2002年(平成14年)1月8日||[[NTTドコモ]][[代表取締役]]副社長<br/>[[日本郵政]]取締役兼代表執行役副社長<br/>[[ゆうちょ銀行]]取締役兼代表執行役会長
|-
|2||[[松井浩]]||郵政省||総務省[[郵政行政局#歴代局長|郵政企画管理局長]]||2002年(平成14年)1月8日 -<br/>2003年(平成15年)1月17日||[[総務審議官#郵政・通信担当|総務審議官(郵政・通信担当)]]
|-
|3||[[團宏明]]||郵政省||総務省郵政企画管理局長||2003年(平成15年)1月17日 -<br/>2003年(平成15年)3月31日<!--官報掲載の辞令に3月31日限り辞職とあるので4月1日ではない。-->||[[日本郵政公社]]副総裁<br/>[[日本郵政]]取締役<br/>[[郵便事業]]代表取締役社長兼社長執行役員
|}
== 歴代次長 ==
{|class="wikitable"
|-
!代||氏名||出身省庁||前職||在任期間||後職
|-
|1||[[平井正夫]]||郵政省||郵政省東京郵政局長||2001年(平成13年)1月6日 -<br/>2002年(平成14年)1月8日||[[総務省大臣官房総括審議官]]
|-
|2||堀江正弘||[[行政管理庁]]||総務省[[審議官#大臣(長官)官房審議官|大臣官房審議官]]([[行政管理局]]担当)||2002年(平成14年)1月8日 -<br/>2002年(平成14年)8月2日||[[内閣官房]][[審議官#内閣審議官|内閣審議官]]([[内閣官房副長官補]]付)
|-
|3||[[有冨寛一郎]]||郵政省||総務省[[関東総合通信局|関東総合通信局長]]||2002年(平成14年)8月2日 -<br/>2003年(平成15年)1月17日||総務省[[総合通信基盤局#歴代局長|総合通信基盤局長]]
|-
|4||[[稲村公望]]||郵政省||総務省[[統括官|政策統括官]](情報通信担当)||2003年(平成15年)1月17日 -<br/>2003年(平成15年)3月31日||日本郵政公社理事
|}
==脚注==
<references />
==外部リンク==
*[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/284573/www.kantei.go.jp/jp/cyuo-syocho/gyousei-zu/gyoumu/yusei.html 郵政事業庁] - [[国立国会図書館]]のアーカイブ:2009年(平成21年)6月19日収集
*{{Wayback|url=https://www.kantei.go.jp/jp/cyuo-syocho/990427honbu/yusei-h.html |title=郵政事業庁設置法 |date=20001214003700}} 中央省庁等改革関連法律([[首相官邸]])
{{総務省}}
{{日本郵政グループ}}
{{authority control}}
{{DEFAULTSORT:ゆうせいしきようちよう}}
[[Category:廃止された外局]]
[[Category:総務省の歴史]]
[[Category:日本の郵便史]]
[[Category:2001年設立の政府機関]]
[[Category:2003年廃止の政府機関]] | 2003-03-06T01:32:03Z | 2023-08-16T00:09:57Z | false | false | false | [
"Template:総務省",
"Template:日本郵政グループ",
"Template:Authority control",
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"Template:行政官庁",
"Template:Wayback"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B5%E6%94%BF%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E5%BA%81 |
3,487 | 社会保険庁 | 社会保険庁(しゃかいほけんちょう、英語: Social Insurance Agency)とは、かつて存在した日本の中央官庁で、略称は社保庁(しゃほちょう)であった。厚生労働省の外局で、長は社会保険庁長官であった。社会保障担当の行政機関である。
その責務は、政府管掌健康保険事業、船員保険事業、厚生年金保険事業、国民年金事業等の運営である。地方支分部局として都道府県単位の社会保険事務局が設置され、その傘下として地域毎に社会保険事務所が置かれていた。
しかし、1979年(昭和54年)3月13日に取り交わされた「オンライン化計画の実施に伴う覚書」締結以降に更に強まった労働組合による腐敗が庁内・傘下地方組織に蔓延し、政治家の年金未納問題や国民年金不正免除問題、年金記録問題・ヤミ専従問題など粗雑な仕事による問題に繋がった。
2004年(平成16年)以降から社会保険庁の腐敗・不祥事が相次いで発覚し、一連の改革によって、2009年(平成21年)12月31日に廃止され、同庁の業務は翌日の2010年(平成22年)1月1日に、特殊法人の日本年金機構の設立とともに引き継がれた。職員の大半は新たに公務員身分から民間人身分になり、後継の日本年金機構などに採用されたが、懲戒処分歴などがある者は退職勧奨して採用せず、それにも応じなかった者らは分限免職した。
健康保険については、社会保険庁の廃止に先立つ2008年10月に全国健康保険協会(協会けんぽ)に移管されている。
社会保険庁の主な業務は国民年金、厚生年金保険及び政府管掌健康保険にかかる適用・徴収・給付でありその事務については国が保険者として最終的な責任を負い不断の経営努力を行うことが不可欠であることから、地方分権推進委員会第3次勧告(1997年9月2日)において国の直接執行事務として社会保険庁が一元的に実施することとして整理された。
これを受けて国民年金保険料の徴収については機関委任事務として市町村の窓口において行われてきたが原則として国が直接行うものとして整理され、地方分権一括法の施行に伴い2002年(平成14年)4月より国に移管された。また地方事務官制度も廃止されることとなり、2000年(平成12年)4月の地方分権一括法の施行に伴い都道府県において当該事務に従事していた職員の身分が厚生事務官となった。
これに伴い上記の沿革にある通り都道府県の年金主管部局を廃止してそれを母体として社会保険庁の地方支分部局たる「地方社会保険事務局」が新設され、また都道府県の社会保険事務所は社会保険庁の機関に移行した。
年金制度に関する企画・立案や積立金の管理は厚生労働省の年金局が行っている。
2004年(平成16年)3月、国民年金保険料未納情報に関する個人情報漏洩が疑われる事例(政治家の年金未納問題)が、マスメディアで報道されたのをきっかけに、社会保険庁のずさんな業務運営が次々と発覚した。同年7月、約300名の職員が、未納者情報等の個人情報を業務目的外閲覧を行っており、そこから情報漏洩していたことが判明し、社会保険庁職員の行為者及び管理監督者の合計513名が、懲戒処分された。同年9月には、社会保険庁の幹部職員が収賄罪で逮捕され、国民の信頼を著しく損ねる結果となった。
2007年(平成19年)5月、社会保険庁のオンライン化した時のコンピュータ入力にミスや不備が多いことや基礎年金番号へ未統合のままの年金番号が多いことが明らかになった。国会やマスコミにおいては、年金記録のずさんな管理が批判された。 また社会保険庁のオンライン化計画に対して労働組合が「中央集権化の支配機構を強め、独占資本のための合理化である」として反対していたことや、実施に伴い労働強化を生じさせないとの覚書を取り交わしていたことが問題視された (詳しくは全国社会保険職員労働組合へ)。
2006年(平成18年)5月、全国各地の社会保険事務所が国民年金保険料の不正免除(法令等に違反する事務処理)を行っていたのが発覚した。調査の度にその数は増え続け最終的に不正免除は22万2587件に達し、行政組織としての遵法意識やガバナンスが欠如していることを露呈させた。
2007年(平成19年)8月10日、愛知県内の8ヵ所の社会保険事務所が健康保険や厚生年金の保険料を滞納した事業所に対して課される延滞金を不正に減額していた。総額は少なくとも約6800万円にのぼるとされた。
通常国会における年金改正法案の審議やマスコミの報道等においては「利用者の立場や目線に立っていない」「個人情報保護の重要性について十分に認識していない」「国民が納めた保険料や税金を保険給付以外に安易に使っている」等が指摘され、社会保険庁の組織の体質や職員の倫理意識が問われた。
ただし、事務費に保険料を充てていたことに関しては、各年度の予算及びその根拠となる特例法で定められた仕組みであり、いわゆる「保険料の流用問題」といわれる「流用」が、社会保険庁の不祥事であるかのような報道は完全な誤りである。
「保険料の流用問題」と、社会保険庁の使途内容が適切か不適切かといった議論は、次元の異なる性質のものである点に留意する必要がある。
2003年(平成15年)、社会保険庁の複数の幹部職員が、監督下にある健康保険組合、東京都小型コンピュータソフトウェア産業健康保険組合(現:関東ITソフトウェア健康保険組合)から、たび重なる接待を受けていた不祥事について、自ら処分を下した。
社会保険庁は本庁のみ国家公務員であったため、地方公務員の労働組合労組である自治労又は国公労連傘下の組合に加盟していた。自治労の下部組織「国費評議会」は1970年代に年金手帳の統合、オンライン化、コンピューター化などを「合理化攻撃」として反対していた。公務員労組にあって、国家公務員労組よりも左派・反権力思想の組合幹部らが先導する地方公務員労組はより社会党・共産党支持の政治活動的な反労使協調の強硬組合であって、社会保険庁の労働組合内部でも同調する者は存在せず、社会保険庁には事務ミスやサボタージュ、犯罪、ヤミ専従が墓延した。
大下英治は社会保険庁労働組合について、「やりたい放題であり、労務管理がいい加減な身内に甘い組織になっていたため、年金の無駄遣いや消えた年金問題へと発展していった」と指摘している。
組織率
2004年(平成16年)4月時点、地方社会保険事務局及び社会保険事務所の職員15,463人のうち14,806人は労働組合に加入(組織率95.8%)している。 地方社会保険事務局及び社会保険事務所の職員の労働組合加盟者は社会党支持の社会保険庁職員の労組で全日本自治団体労働組合(自治労)の内部組織である自治労国費評議会か共産党支持の社会保険庁職員の労組で全日本自治団体労働組合(国公労連)の内部組織である全厚生労働組合のどちらかに所属していた。
内訳は自治労傘下の国費評議会が加入対象者12,949人のうち12,423人、国公労連の全厚生労働組合が加入対象者4,438人のうち2,383人である。本庁職員(社会保険業務センター、社会保険大学校含む)793人のうち、207人が全厚生労働組合に加入(組織率26.1%)している。
2000年(平成12年)の地方分権一括法施行により社会保険に関する業務と地方事務官たる職員の身分は国へと一元化されたが、労組に関しては経過措置で7年間に限って都道府県の職員団体への加入がその後も続いていた。2007年(平成19年)3月に移行措置の終了に伴い、自治労国費評議会は全国社会保険職員労働組合という単組に改名したが、自治労の傘下団体であることなど実態に変更はない。
覚書による遅延・サボタージュ
社会保険庁の組織改革を行うにあたり、社会保険庁長官と自治労中央執行委員長及び自治労国費評議会議長との間で1979年(昭和54年)3月13日に取り交わされた「オンライン化計画の実施に伴う覚書」が問題となった。この「覚書」はその後、社会保険庁の総務課長及び職員課長と国費評議会が取り交わした合計104件、108枚にのぼる覚書・確認事項の基本となるものであり、国家公務員法で規制されている管理運営事項、本来任命権者の専権事項である人事・勤務評定といったガバナンスの根幹事項、業務の指揮命令権に関する事項といったものが交渉の対象とされたと批判されている(詳細は年金記録問題#自治労国費協議会と社会保険庁との「覚書」「確認事項」について)。2004年(平成16年)11月、社会保険庁から自治労国費評議会へ、覚書・確認事項の破棄の申し入れがなされ、覚書・確認事項は全て破棄された。また、同様に全厚生労働組合と取り交わしていた覚書・確認事項も破棄された。2007年(平成19年)6月、全国社会保険職員労働組合は、日本国民の公的年金記録に対する不安(年金記録問題)を受け、労働組合への体質に批判が強まると、残業や休日出勤を容認する方針に転換した。
社会保険事業運営評議会は2004年(平成16年)8月に社会保険庁の事業内容や業務の実施方法等事業全般について保険料拠出者や利用者の意見を反映させ、その改善を図ることを目的として社会保険庁に設置された。メンバーは、有識者や保険料拠出者である労使代表等の7名である。 | [
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"text": "2004年(平成16年)3月、国民年金保険料未納情報に関する個人情報漏洩が疑われる事例(政治家の年金未納問題)が、マスメディアで報道されたのをきっかけに、社会保険庁のずさんな業務運営が次々と発覚した。同年7月、約300名の職員が、未納者情報等の個人情報を業務目的外閲覧を行っており、そこから情報漏洩していたことが判明し、社会保険庁職員の行為者及び管理監督者の合計513名が、懲戒処分された。同年9月には、社会保険庁の幹部職員が収賄罪で逮捕され、国民の信頼を著しく損ねる結果となった。",
"title": "不祥事"
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"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "2007年(平成19年)5月、社会保険庁のオンライン化した時のコンピュータ入力にミスや不備が多いことや基礎年金番号へ未統合のままの年金番号が多いことが明らかになった。国会やマスコミにおいては、年金記録のずさんな管理が批判された。 また社会保険庁のオンライン化計画に対して労働組合が「中央集権化の支配機構を強め、独占資本のための合理化である」として反対していたことや、実施に伴い労働強化を生じさせないとの覚書を取り交わしていたことが問題視された (詳しくは全国社会保険職員労働組合へ)。",
"title": "不祥事"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2006年(平成18年)5月、全国各地の社会保険事務所が国民年金保険料の不正免除(法令等に違反する事務処理)を行っていたのが発覚した。調査の度にその数は増え続け最終的に不正免除は22万2587件に達し、行政組織としての遵法意識やガバナンスが欠如していることを露呈させた。",
"title": "不祥事"
},
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"text": "2007年(平成19年)8月10日、愛知県内の8ヵ所の社会保険事務所が健康保険や厚生年金の保険料を滞納した事業所に対して課される延滞金を不正に減額していた。総額は少なくとも約6800万円にのぼるとされた。",
"title": "不祥事"
},
{
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"tag": "p",
"text": "通常国会における年金改正法案の審議やマスコミの報道等においては「利用者の立場や目線に立っていない」「個人情報保護の重要性について十分に認識していない」「国民が納めた保険料や税金を保険給付以外に安易に使っている」等が指摘され、社会保険庁の組織の体質や職員の倫理意識が問われた。",
"title": "不祥事"
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"text": "ただし、事務費に保険料を充てていたことに関しては、各年度の予算及びその根拠となる特例法で定められた仕組みであり、いわゆる「保険料の流用問題」といわれる「流用」が、社会保険庁の不祥事であるかのような報道は完全な誤りである。",
"title": "不祥事"
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"text": "「保険料の流用問題」と、社会保険庁の使途内容が適切か不適切かといった議論は、次元の異なる性質のものである点に留意する必要がある。",
"title": "不祥事"
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"text": "2003年(平成15年)、社会保険庁の複数の幹部職員が、監督下にある健康保険組合、東京都小型コンピュータソフトウェア産業健康保険組合(現:関東ITソフトウェア健康保険組合)から、たび重なる接待を受けていた不祥事について、自ら処分を下した。",
"title": "不祥事"
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"text": "社会保険庁は本庁のみ国家公務員であったため、地方公務員の労働組合労組である自治労又は国公労連傘下の組合に加盟していた。自治労の下部組織「国費評議会」は1970年代に年金手帳の統合、オンライン化、コンピューター化などを「合理化攻撃」として反対していた。公務員労組にあって、国家公務員労組よりも左派・反権力思想の組合幹部らが先導する地方公務員労組はより社会党・共産党支持の政治活動的な反労使協調の強硬組合であって、社会保険庁の労働組合内部でも同調する者は存在せず、社会保険庁には事務ミスやサボタージュ、犯罪、ヤミ専従が墓延した。",
"title": "労働組合の腐敗・ヤミ専従・消えた年金問題"
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"text": "大下英治は社会保険庁労働組合について、「やりたい放題であり、労務管理がいい加減な身内に甘い組織になっていたため、年金の無駄遣いや消えた年金問題へと発展していった」と指摘している。",
"title": "労働組合の腐敗・ヤミ専従・消えた年金問題"
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"text": "組織率",
"title": "労働組合の腐敗・ヤミ専従・消えた年金問題"
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{
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"tag": "p",
"text": "2004年(平成16年)4月時点、地方社会保険事務局及び社会保険事務所の職員15,463人のうち14,806人は労働組合に加入(組織率95.8%)している。 地方社会保険事務局及び社会保険事務所の職員の労働組合加盟者は社会党支持の社会保険庁職員の労組で全日本自治団体労働組合(自治労)の内部組織である自治労国費評議会か共産党支持の社会保険庁職員の労組で全日本自治団体労働組合(国公労連)の内部組織である全厚生労働組合のどちらかに所属していた。",
"title": "労働組合の腐敗・ヤミ専従・消えた年金問題"
},
{
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"text": "内訳は自治労傘下の国費評議会が加入対象者12,949人のうち12,423人、国公労連の全厚生労働組合が加入対象者4,438人のうち2,383人である。本庁職員(社会保険業務センター、社会保険大学校含む)793人のうち、207人が全厚生労働組合に加入(組織率26.1%)している。",
"title": "労働組合の腐敗・ヤミ専従・消えた年金問題"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2000年(平成12年)の地方分権一括法施行により社会保険に関する業務と地方事務官たる職員の身分は国へと一元化されたが、労組に関しては経過措置で7年間に限って都道府県の職員団体への加入がその後も続いていた。2007年(平成19年)3月に移行措置の終了に伴い、自治労国費評議会は全国社会保険職員労働組合という単組に改名したが、自治労の傘下団体であることなど実態に変更はない。",
"title": "労働組合の腐敗・ヤミ専従・消えた年金問題"
},
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"text": "覚書による遅延・サボタージュ",
"title": "労働組合の腐敗・ヤミ専従・消えた年金問題"
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"text": "社会保険庁の組織改革を行うにあたり、社会保険庁長官と自治労中央執行委員長及び自治労国費評議会議長との間で1979年(昭和54年)3月13日に取り交わされた「オンライン化計画の実施に伴う覚書」が問題となった。この「覚書」はその後、社会保険庁の総務課長及び職員課長と国費評議会が取り交わした合計104件、108枚にのぼる覚書・確認事項の基本となるものであり、国家公務員法で規制されている管理運営事項、本来任命権者の専権事項である人事・勤務評定といったガバナンスの根幹事項、業務の指揮命令権に関する事項といったものが交渉の対象とされたと批判されている(詳細は年金記録問題#自治労国費協議会と社会保険庁との「覚書」「確認事項」について)。2004年(平成16年)11月、社会保険庁から自治労国費評議会へ、覚書・確認事項の破棄の申し入れがなされ、覚書・確認事項は全て破棄された。また、同様に全厚生労働組合と取り交わしていた覚書・確認事項も破棄された。2007年(平成19年)6月、全国社会保険職員労働組合は、日本国民の公的年金記録に対する不安(年金記録問題)を受け、労働組合への体質に批判が強まると、残業や休日出勤を容認する方針に転換した。",
"title": "労働組合の腐敗・ヤミ専従・消えた年金問題"
},
{
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"tag": "p",
"text": "社会保険事業運営評議会は2004年(平成16年)8月に社会保険庁の事業内容や業務の実施方法等事業全般について保険料拠出者や利用者の意見を反映させ、その改善を図ることを目的として社会保険庁に設置された。メンバーは、有識者や保険料拠出者である労使代表等の7名である。",
"title": "社会保険事業運営評議会"
}
] | 社会保険庁とは、かつて存在した日本の中央官庁で、略称は社保庁(しゃほちょう)であった。厚生労働省の外局で、長は社会保険庁長官であった。社会保障担当の行政機関である。 その責務は、政府管掌健康保険事業、船員保険事業、厚生年金保険事業、国民年金事業等の運営である。地方支分部局として都道府県単位の社会保険事務局が設置され、その傘下として地域毎に社会保険事務所が置かれていた。 しかし、1979年(昭和54年)3月13日に取り交わされた「オンライン化計画の実施に伴う覚書」締結以降に更に強まった労働組合による腐敗が庁内・傘下地方組織に蔓延し、政治家の年金未納問題や国民年金不正免除問題、年金記録問題・ヤミ専従問題など粗雑な仕事による問題に繋がった。 2004年(平成16年)以降から社会保険庁の腐敗・不祥事が相次いで発覚し、一連の改革によって、2009年(平成21年)12月31日に廃止され、同庁の業務は翌日の2010年(平成22年)1月1日に、特殊法人の日本年金機構の設立とともに引き継がれた。職員の大半は新たに公務員身分から民間人身分になり、後継の日本年金機構などに採用されたが、懲戒処分歴などがある者は退職勧奨して採用せず、それにも応じなかった者らは分限免職した。 健康保険については、社会保険庁の廃止に先立つ2008年10月に全国健康保険協会(協会けんぽ)に移管されている。 | {{Otheruses|日本の官庁|琉球政府の官庁|社会保険庁 (琉球政府)}}
{{行政官庁
|国名 = {{JPN}}
|正式名称 = 社会保険庁
|公用語名 = しゃかいほけんちょう<br>Social Insurance Agency
|紋章 = Go-shichi no kiri crest.svg
|紋章サイズ = 100px
|画像 =
|画像サイズ = 180px
|画像説明 =
|主席閣僚職名 = [[社会保険庁長官|長官]]
|主席閣僚氏名 = [[高田浩運]](初代)<br />[[渡邉芳樹]](最後)
|次席閣僚職名 =
|次席閣僚氏名 =
|補佐官職名 =
|補佐官氏名 =
|次官職名 =
|次官氏名 =
|上部組織 = 上部組織
|上部組織概要 = [[厚生労働省]]
|下部組織1 = [[内部部局]]
|下部組織概要1 = 総務部、運営部
|下部組織2 = [[施設等機関]]
|下部組織概要2 = [[社会保険大学校]]、社会保険業務センター
|下部組織3 = [[地方支分部局]]
|下部組織概要3 = [[地方社会保険事務局]]、[[社会保険事務所]]
|所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[霞が関]]1-2-2 [[中央合同庁舎第5号館]]19・20階
|位置 =
|定員 = 16,822人<br />([[2007年]][[4月1日]]施行)
|年間予算 =
|会計年度 =
|設置年月日 = [[1962年]]([[昭和]]37年)[[7月1日]]
|改称年月日 =
|廃止年月日 = [[2009年]]([[平成]]21年)[[12月31日]]
|前身 =
|後身 = [[日本年金機構]]、[[全国健康保険協会]]
|その他 =
}}
<div class="floatright">
[[Image:Koseirodosho2.jpg|thumb|180px|none|社会保険庁は19・20階に設置されていた]]
</div>
'''社会保険庁'''(しゃかいほけんちょう、{{lang-en|Social Insurance Agency}})とは、かつて存在した日本の[[中央官庁]]で、略称は社保庁(しゃほちょう)であった。[[厚生労働省]]の[[外局]]で、長は[[社会保険庁長官]]であった。[[社会保障]]担当の[[行政機関]]である。
その責務は、[[政府]]管掌[[健康保険]]事業、[[船員保険]]事業、[[厚生年金保険]]事業、[[国民年金]]事業等の運営である。地方支分部局として都道府県単位の[[地方社会保険事務局|社会保険事務局]]が設置され、その傘下として地域毎に[[社会保険事務所]]が置かれていた。
しかし、1979年(昭和54年)3月13日に取り交わされた「オンライン化計画の実施に伴う覚書」締結以降に更に強まった労働組合による腐敗が庁内・傘下地方組織に蔓延し<ref name=":0">SAPIO第 19 巻第19~22号p91,2007年 · 小学館</ref>、[[政治家の年金未納問題]]や[[国民年金不正免除問題]]、[[年金記録問題]]・[[ヤミ専従#社会保険庁の労組による「ヤミ専従」問題|ヤミ専従問題]]など粗雑な仕事による問題に繋がった<ref name=":0" /><ref name=":1" /><ref name=":2" />。
[[2004年]]([[平成]]16年)以降から社会保険庁の腐敗・[[不祥事]]が相次いで発覚し、一連の改革によって、[[2009年]](平成21年)[[12月31日]]に廃止され、同庁の業務は翌日の[[2010年]](平成22年)[[1月1日]]に、[[特殊法人]]の[[日本年金機構]]の設立とともに引き継がれた。職員の大半は新たに公務員身分から民間人身分になり、後継の日本年金機構などに採用されたが、懲戒処分歴などがある者は退職勧奨して採用せず、それにも応じなかった者らは[[分限処分|分限免職]]した<ref>{{Cite web|和書|title=社保庁廃止で「解雇」 取り消し求めた元職員の敗訴確定:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASKCS5R99KCSUTIL04Q.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-10-06|language=ja}}</ref>。
健康保険については、社会保険庁の廃止に先立つ2008年10月に[[全国健康保険協会]](協会けんぽ)に移管されている。
{{Seealso|日本の福祉|日本の医療|日本の年金}}
== 沿革 ==
*[[1962年]][[7月1日]]、当時の[[厚生省#歴代大臣|厚生大臣]]・[[灘尾弘吉]]が増大する社会保険業務を捌くことと、業務部門と監督部門を分けるため厚生省の外局として'''社会保険庁'''設立<ref>{{Cite book|author=[[城山三郎]]|year=1990|title=賢人たちの世|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4163121609|pages=102–103}}</ref>。
**長官官房、医療保険部、年金保険部の1官房2部の構成とする。
**附属機関として、「社会保険研修所」を設置(本省の附属機関からの移管)。
*[[1971年]][[5月16日]]、社会保険研修所を[[社会保険大学校]]に改組。
*[[1980年]][[4月1日]]、長官官房に長官官房審議官を設置。
*[[1988年]][[10月1日]]、社会保険庁に社会保険庁次長を設置。
**長官官房、医療保険部、年金保険部を廃止し総務部、運営部の2部構成とする。
**総務部長は専任職とせず、社会保険庁次長の併任とする。
**施設等機関として、「社会保険業務センター」を設置。
*[[2000年]]4月1日、社会保険庁の地方支分部局として都道府県ごとに「地方社会保険事務局」を置き、その分掌機関として「社会保険事務所」を置く。
*[[2001年]][[1月6日]]、厚生省は[[労働省]]と統合して厚生労働省に移行。社会保険庁は厚生労働省の外局となる。
*[[2006年]][[9月1日]]、社会保険庁次長の職を廃止。社会保険庁次長が併任してきた総務部長は専任職となる。
*[[2009年]][[8月31日]]、[[第45回衆議院議員総選挙]]により、[[自公連立政権]]が野党に下り、[[民社国連立政権]]となった。
** [[12月31日]]、社会保険庁を廃止。[[懲戒処分]]を受けた社会保険庁職員525人を[[分限免職]]([[解雇]])した。
{{Main2|以後の詳細については[[日本年金機構]]を}}
=== 機関委任事務の廃止に伴う業務の移管 ===
社会保険庁の主な業務は国民年金、厚生年金保険及び政府管掌健康保険にかかる適用・徴収・給付でありその事務については国が保険者として最終的な責任を負い不断の経営努力を行うことが不可欠であることから、地方分権推進委員会第3次勧告([[1997年]][[9月2日]])において国の直接執行事務として社会保険庁が一元的に実施することとして整理された。
これを受けて国民年金保険料の徴収については[[機関委任事務]]として市町村の窓口において行われてきたが原則として国が直接行うものとして整理され、[[地方分権の推進を図るための関係法律の整備等に関する法律|地方分権一括法]]の施行に伴い[[2002年]](平成14年)4月より国に移管された。また[[地方事務官]]制度も廃止されることとなり、[[2000年]](平成12年)4月の地方分権一括法の施行に伴い都道府県において当該事務に従事していた職員の身分が厚生事務官となった。
これに伴い上記の沿革にある通り都道府県の年金主管部局を廃止してそれを母体として社会保険庁の[[地方支分部局]]たる「[[地方社会保険事務局]]」が新設され、また都道府県の社会保険事務所は社会保険庁の機関に移行した。
年金制度に関する企画・立案や積立金の管理は[[厚生労働省]]の[[年金局]]が行っている。
;地方分権推進委員会第3次勧告
:健康保険、厚生年金、国民年金等、地方事務官が従事する社会保険の事務は国が保険者として経営責任を負い不断の経営努力を行うことが不可欠であること、また全国規模の事業体として効率的な事業運営を確保するためには一体的な事務処理による運営が要請されていること等から国の直接執行事務と整理した。
;地方事務官
:地方事務官とは[[地方自治法]]制定([[1947年]])の際、都道府県に所属しながら官吏([[国家公務員]])として従事していた職員が当分の間、官吏のままとされていたもので主務大臣が人事権を有し都道府県知事が業務の指揮監督を行うこととされていた。
:[[1985年]]([[昭和]]60年)[[4月1日]]に各都道府県の陸運事務所が運輸省の運輸局陸運支局として移管され、当該事務に従事してきた地方事務官は運輸事務官に変更された。
:2000年(平成12年)4月1日には社会保険事務に従事する地方事務官は厚生事務官に、職業安定事務及び労働保険事務に従事する地方事務官は労働事務官に変更され地方事務官は全廃された。
== 組織・人事 ==
[[File:Nenkin-bukuro.jpg|thumb|年金袋]]
*[[社会保険庁長官]]
*首席統括管理官
*統括管理官(改革特命担当)
*管理官
*総務部 - 総務課・職員課・経理課
*運営部 - 企画課・サービス推進課・年金保険課
*社会保険業務センター - 総務部・情報管理部・業務部・記録管理部・中央年金相談室
*[[社会保険大学校]] - 庶務課・教務課
*地方社会保険事務局(2006年10月1日現在・全国47箇所) - 社会保険事務所(2006年10月1日現在・全国265箇所)
== 不祥事 ==
=== 汚職 ===
{{Main|公的年金流用問題#カワグチ技研を巡る汚職}}
=== 着服 ===
{{Main|年金横領問題}}
=== 個人情報漏洩 ===
[[2004年]](平成16年)[[3月]]、国民年金保険料未納情報に関する[[個人情報漏洩]]が疑われる事例([[政治家の年金未納問題]])が、マスメディアで報道されたのをきっかけに、社会保険庁のずさんな業務運営が次々と発覚した。同年7月、約300名の職員が、未納者情報等の[[個人情報]]を業務目的外閲覧を行っており、そこから[[情報漏洩]]していたことが判明し、社会保険庁職員の行為者及び管理監督者の合計513名が、[[懲戒処分]]された。同年9月には、社会保険庁の幹部職員が[[賄賂罪|収賄罪]]で[[逮捕]]され、国民の信頼を著しく損ねる結果となった。
=== 年金記録問題 ===
{{Main|年金記録問題|宙に浮いた年金記録}}
2007年(平成19年)5月、社会保険庁のオンライン化した時の[[コンピュータ]]入力にミスや不備が多いことや[[宙に浮いた年金記録|基礎年金番号へ未統合のままの年金番号]]が多いことが明らかになった。国会やマスコミにおいては、年金記録のずさんな管理が批判された。
また社会保険庁のオンライン化計画に対して[[労働組合]]が「中央集権化の支配機構を強め、独占資本のための合理化である」として反対していたことや、実施に伴い労働強化を生じさせないとの覚書<ref group="注釈">覚書においてコンピューター作業量を無意味に抑制したとする批判に対して[[全日本自治団体労働組合|自治労]]は「社会保険業務を全国でオンライン化するにあたって交わされたものですが、当時は[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]を扱うオンラインシステムなどがまだ一般社会に普及しておらず、頸肩腕障害の社会問題化などのコンピュータによる健康面への影響が懸念された時代であった」「連続作業時間ごとに『操作しない時間』を設けることなどは、現在の厚生労働省ガイドライン(VDT作業における労働衛生管理のためのガイドライン[https://web.archive.org/web/20171112005725/http://www.mhlw.go.jp/houdou/2002/04/h0405-4.html])にも盛り込まれている」と反論している([https://web.archive.org/web/20130728092656/http://www.jichiro.gr.jp/seimei/070611.htm 「年金記録問題」に対する基本的考え方](全日本自治団体労働組合の公式[[ウェブサイト]]))。</ref>を取り交わしていたことが問題視された<ref> [https://gendai.media/articles/-/48610] 不祥事続発の日本年金機構。その「母体組織」の驚きのルール~ 「文字入力は一日平均5000字まで」「50分働き15分休憩」 - 現代ビジネス</ref> (詳しくは[[全国社会保険職員労働組合]]へ)。
=== 不正手続 ===
{{Main|国民年金不正免除問題|年金改ざん問題}}
2006年(平成18年)5月、全国各地の社会保険事務所が国民年金保険料の不正免除(法令等に違反する事務処理)を行っていたのが発覚した。調査の度にその数は増え続け最終的に不正免除は22万2587件に達し、行政組織としての[[法令順守|遵法意識]]や[[コーポレートガバナンス|ガバナンス]]が欠如していることを露呈させた。
2007年(平成19年)[[8月10日]]、[[愛知県]]内の8ヵ所の[[社会保険事務所]]が[[健康保険]]や[[厚生年金]]の保険料を滞納した事業所に対して課される延滞金を不正に減額していた。総額は少なくとも約6800万円にのぼるとされた<ref>[[2007年]][[8月10日]] [[朝日新聞]]</ref>。
=== 年金流用 ===
{{Main|公的年金流用問題}}
[[通常国会]]における年金改正法案の審議や[[マスメディア|マスコミ]]の[[報道]]等においては「利用者の立場や目線に立っていない」「個人情報保護の重要性について十分に認識していない」「国民が納めた保険料や[[税金]]を保険給付以外に安易に使っている」等が指摘され、社会保険庁の組織の体質や職員の倫理意識が問われた。
ただし、事務費に保険料を充てていたことに関しては、各年度の予算及びその根拠となる特例法で定められた仕組みであり、いわゆる「保険料の流用問題」といわれる「流用」が、社会保険庁の不祥事であるかのような報道は完全な誤りである。
「保険料の流用問題」と、社会保険庁の使途内容が適切か不適切かといった議論は、次元の異なる性質のものである点に留意する必要がある。
=== 接待 ===
2003年(平成15年)、社会保険庁の複数の幹部職員が、監督下にある健康保険組合、東京都小型コンピュータソフトウェア産業健康保険組合(現:関東ITソフトウェア健康保険組合)から、たび重なる[[接待]]を受けていた不祥事について、自ら処分を下した<ref>[https://web.archive.org/web/20171228000636/http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/009715920040414011.htm 衆議院 会議録 第11号 平成16年4月14日(水曜日)]</ref>。
== 社会保険庁の改革と廃止 ==
{{See also|年金記録問題#社会保険庁改革と年金記録問題}}
=== 新組織 ===
*2008年10月、社会保険庁から分離
**健康保険の新たな保険者である「[[全国健康保険協会]]」([[特別の法律により設立される法人]])
**保険医療機関の指導監督等の部門([[地方厚生局]])
*2010年1月、社会保険庁を廃止し、当庁の業務を以下に全面移行
**公的年金の運営業務を担う「[[日本年金機構]]」([[特殊法人]])
**公的年金の財政責任・管理運営責任を担う部門([[厚生労働省]][[年金局]])
*[[船員保険]]を「全国健康保険協会」に移管し、社会保険庁は廃止
=== 経緯 ===
*[[2004年]][[7月23日]]、[[損害保険ジャパン|損保ジャパン]]の副社長であった[[村瀬清司]]が民間出身者としては初めて[[社会保険庁長官]]として就任した。
*2004年[[8月3日]]、[[日本国政府]]は年金制度改革の[[国会 (日本)|国会]]審議等を通じて、制度の実施庁である社会保険庁の事業運営の在り方について様々な指摘を受け「社会保険庁の在り方に関する有識者会議(内閣官房長官主宰)」を設置した。有識者会議は[[内閣官房長官]]及び[[厚生労働大臣]]と有識者で構成し2004年8月から[[2005年]]5月まで計10回開催、'''組織の在り方'''や'''緊急対応策'''が議論された。
*2004年8月、社会保険庁の業務の抜本的改革について、[[社会保険庁長官]]の下で組織を挙げて全ての職員が主体的に取り組み、改革を加速化するために社会保険庁改革推進本部を設置した。
*2004年[[11月26日]]、「社会保険庁の在り方に関する有識者会議(第5回)」は「緊急対応プログラム」をとりまとめた。
*[[2005年]][[5月31日]]、「社会保険庁の在り方に関する有識者会議」は「社会保険庁改革の在り方について」の最終とりまとめを行い、公的年金については政府が十分に運営責任を果たすことのできる新たな国の機関を設置し政府管掌の健康保険については国とは切り離された全国単位の公法人を設立するとした。
*2005年7月、上記最終取りまとめを受けて「社会保険新組織の実現に向けた有識者会議(厚生労働大臣主宰)」を設置し国の行政組織としての年金運営新組織の具体的な姿が議論された。
*2005年[[12月12日]]、「社会保険新組織の実現に向けた有識者会議」は「組織改革の在り方について」をとりまとめ、年金運営新組織を国の「特別の機関」と位置づけ、意思決定機能・監査機能・業務執行機能の具体的な在り方等について考え方を示した。
*[[2006年]]2月、「健康保険法等の一部を改正する法律案」を国会に提出し「全国健康保険協会」を2008年10月に新設して、[[政府管掌健康保険]]の扱いを社会保険庁から同協会に移管する法案は国会で可決成立し、2006年[[6月21日]]に公布された。
*2006年[[3月10日]]、「ねんきん事業機構法案」(2008年10月に厚生労働省の特別の機関を設立)が閣議決定され、[[国会 (日本)|国会]]に提出されたが同年5月、[[厚生労働委員会]]での審議中に[[国民年金不正免除問題]]が明らかになり、国会審議が停止した。[[第164回国会]]閉会時に、[[継続審議]]とする手続きが取られたが、[[第165回国会]]閉会時にはその手続きが取られず、廃案となった。
*2006年[[12月14日]]、自民党・[[公明党]]による「与党年金制度改革協議会」は、年金運営'''新組織の法人化'''、'''職員の[[非公務員化]]'''を図る新たな改革方針を示した。
*[[2007年]][[2月20日]]、[[柳沢伯夫]]厚生労働大臣との協議において[[安倍晋三]]内閣総理大臣は新法人の名称を「日本年金機構」と決定した。
*2007年[[3月13日]]、「[[日本年金機構法]]案」([[2010年]][[1月1日]]に非公務員型の[[特殊法人]]「日本年金機構」を設立し、公的年金に係る財政責任・管理責任は、引き続き[[日本国政府]]([[厚生労働省]])が担う)が[[第1次安倍内閣]]で閣議決定され、[[第166回国会]]に提出された。
*2007年[[6月30日]]、「日本年金機構法案」が成立。
*[[2009年]][[12月31日]]、[[懲戒|懲戒歴]]等の問題がある社会保険庁職員525人を[[分限免職]]。
*[[2010年]][[1月1日]]、社会保険庁が廃止、[[日本年金機構]]へ移行。
== 労働組合の腐敗・ヤミ専従・消えた年金問題 ==
社会保険庁は本庁のみ国家公務員であったため、[[地方公務員]]の労働組合労組である[[自治労]]又は[[国公労連]]傘下の組合に加盟していた<ref name=":1">だまされないための年金・医療・介護入門: 社会保障改革の正しい見方・考え方p12,鈴木亘 · 2009年</ref>。自治労の下部組織「[[自治労国費評議会|国費評議会]]」は1970年代に年金手帳の統合、オンライン化、コンピューター化などを「合理化攻撃」として反対していた<ref>[http://www.asahi.com/special/070529/TKY200706260477.html asahi.com:消えた年金の遠因? 社保庁労組、手帳統一など次々反対 - 5000万件の不明年金] 朝日新聞</ref>。公務員労組にあって、国家公務員労組よりも左派・反権力思想の組合幹部らが先導する地方公務員労組はより社会党・共産党支持の政治活動的な反労使協調の強硬組合であって、社会保険庁の労働組合内部でも同調する者は存在せず、社会保険庁には事務ミスやサボタージュ、犯罪、[[ヤミ専従]]が墓延した<ref name=":1"/>。
[[大下英治]]は社会保険庁労働組合について、「やりたい放題であり、労務管理がいい加減な身内に甘い組織になっていたため、年金の無駄遣いや消えた年金問題へと発展していった」と指摘している<ref name=":2">内閣官房長官秘録p38,大下英治 · 2014</ref>。
'''組織率'''
2004年(平成16年)4月時点、地方社会保険事務局及び社会保険事務所の職員15,463人のうち14,806人は[[労働組合]]に加入(組織率95.8%)している。
地方社会保険事務局及び社会保険事務所の職員の労働組合加盟者は[[日本社会党|社会党]]支持の社会保険庁職員の労組で[[全日本自治団体労働組合]](自治労)の内部組織である[[自治労国費評議会]]か[[日本共産党|共産党]]支持の社会保険庁職員の労組で[[全日本自治団体労働組合]](国公労連)の内部組織である[[全厚生労働組合]]のどちらかに所属していた。
内訳は[[全日本自治団体労働組合|自治労]]傘下の国費評議会が加入対象者12,949人のうち12,423人、[[日本国家公務員労働組合連合会|国公労連]]の全厚生労働組合が加入対象者4,438人のうち2,383人である。本庁職員(社会保険業務センター、社会保険大学校含む)793人のうち、207人が全厚生労働組合に加入(組織率26.1%)している。
2000年(平成12年)の地方分権一括法施行により社会保険に関する業務と地方事務官たる職員の身分は国へと一元化されたが、労組に関しては経過措置で7年間に限って都道府県の職員団体への加入がその後も続いていた。2007年(平成19年)3月に移行措置の終了に伴い、自治労国費評議会は[[全国社会保険職員労働組合]]という単組に改名したが、自治労の傘下団体であることなど実態に変更はない。
=== 腐敗 ===
'''覚書による遅延・サボタージュ'''
社会保険庁の組織改革を行うにあたり、社会保険庁長官と自治労中央執行委員長及び自治労国費評議会議長との間で[[1979年]](昭和54年)[[3月13日]]に取り交わされた「[[オンライン]]化計画の実施に伴う覚書」が問題となった。この「覚書」はその後、社会保険庁の総務課長及び職員課長と国費評議会が取り交わした合計104件、108枚にのぼる覚書・確認事項の基本となるものであり、[[国家公務員法]]で規制されている管理運営事項、本来任命権者の専権事項である人事・勤務評定といったガバナンスの根幹事項、業務の指揮命令権に関する事項といったものが交渉の対象とされたと批判されている(詳細は[[年金記録問題#自治労国費協議会と社会保険庁との「覚書」「確認事項」について]])。2004年(平成16年)11月、社会保険庁から自治労国費評議会へ、覚書・確認事項の破棄の申し入れがなされ、覚書・確認事項は全て破棄された。また、同様に全厚生労働組合と取り交わしていた覚書・確認事項も破棄された。2007年(平成19年)6月、[[自治労社会保険関係労働組合連合|全国社会保険職員労働組合]]は、日本国民の公的年金記録に対する不安([[年金記録問題]])を受け、労働組合への体質に批判が強まると、残業や休日出勤を容認する方針に転換した。
=== ヤミ専従問題 ===
{{Main|ヤミ専従#社会保険庁の労組による「ヤミ専従」問題}}
== 社会保険事業運営評議会 ==
社会保険事業運営評議会は2004年(平成16年)8月に社会保険庁の事業内容や業務の実施方法等事業全般について保険料拠出者や利用者の意見を反映させ、その改善を図ることを目的として社会保険庁に設置された。メンバーは、有識者や保険料拠出者である労使代表等の7名である。
*運営評議会における検討課題
#政府管掌健康保険、厚生年金保険、国民年金等の社会保険事業が適切に実施されているか
#被保険者の適用、保険料の徴収、医療・年金の給付等、社会保険事業に係る業務が適切に実施されているか
#その他利用者の視点から見た社会保険事業のあり方等
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[自治労国費評議会]] -[[日本社会党|社会党]]支持の社会保険庁職員の労組で[[全日本自治団体労働組合]](自治労)の内部組織。社会党内[[日本労働組合総評議会|総評]][[組織内議員]]の移動後は[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]系・社民党支持。2007年に'''自治労社会保険関係労働組合連合'''に改名。
*[[全厚生労働組合]] - [[日本共産党|共産党]]支持の社会保険庁職員の労組で[[全日本自治団体労働組合]](国公労連)の内部組織
*[[社会保険庁長官]]
*[[日本年金機構]]
**[[国民年金]]
**[[厚生年金]]
*[[全国健康保険協会]](協会けんぽ)
*[[独立行政法人]][[年金・健康保険福祉施設整理機構]] - [[年金福祉施設]]等の譲渡・廃止を行う独立行政法人
**[[グリーンピア]]
*[[地方社会保険事務局]]
**[[社会保険事務所]] (出先機関)
**[[健康保険組合連合会]] (所管団体)
**[[健康保険組合]] (所管団体)
**[[企業年金連合会]] (所管団体)
**[[厚生年金基金]] (所管団体)
**[[総合健康保険組合協議会]] (外郭団体)
*[[社会保険労務士]]
*[[年金未納問題]]
**[[政治家の年金未納問題]]
*[[年金記録問題]]
*[[年金改ざん問題]]
*[[年金横領問題]]
*[[公的年金流用問題]]
*[[国民年金不正免除問題]]
== 外部リンク ==
*[https://web.archive.org/web/20091121115934/http://www.sia.go.jp/ 社会保険庁ホームページ]
{{Commonscat|Social Insurance Agency (Japan)}}
*[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/syahotyou/ 社会保険庁の在り方に関する有識者会議]([https://www.kantei.go.jp/ 首相官邸])
{{厚生労働省|category=off}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しやかいほけんちよう}}
[[Category:社会保険庁|*]]
[[Category:廃止された外局]]
[[Category:1962年設立の政府機関]]
[[Category:2009年廃止の政府機関]] | 2003-03-06T01:49:29Z | 2023-11-29T10:01:05Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BF%9D%E9%99%BA%E5%BA%81 |
3,489 | 物理学者の一覧 | 物理学者の一覧(ぶつりがくしゃのいちらん)は、物理学の彩る、世界の有名な物理学者を一覧する。
主として物理学史において既に評価が定まった過去の物理学者を一覧し、近現代の物理学者についてはその「有名な」を保証するため、次の基準に基づいて選んである。
なお、日本の物理学者の一覧、Category:物理学者も参照。
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'''物理学者の一覧'''(ぶつりがくしゃのいちらん)は、物理学の彩る、世界の有名な[[物理学者]]を一覧する。
主として物理学史において既に評価が定まった過去の物理学者を一覧し、近現代の物理学者についてはその「有名な」を保証するため、次の基準に基づいて選んである。
: 1. 既に評価の定まった故人および年長者
:: 1.1 没後20年を経た者
:: 1.2 生誕90年を越えた者
: 2. 上記の条件に該当しないが、次の条件で「有名な」者。
:: 2.1 [[ノーベル賞]]受賞者
: 3. その他、特別な理由で採録を適当と考えられる者。
:: ただし、本項目によって採録する際は、その理由を「ノート」に充分丁寧に記載する。
なお、[[日本の物理学者の一覧]]、[[:Category:物理学者]]も参照。
== 初期の有名な物理学者 ==
=== 紀元前生まれの有名な物理学者 ===
* [[アルキメデス]] - イタリア(紀元前287年 - 紀元前212年)---[[アルキメデスの原理]]
=== 16世紀生まれの有名な物理学者 ===
* [[ヨハネス・ケプラー]] - ドイツ (1571 - 1630) ---[[ケプラーの法則]]、[[逆2乗の法則]]
* [[ガリレオ・ガリレイ]] - イタリア (1564 - 1642) ---[[落体の法則]]
* [[ルネ・デカルト]] - フランス (1596 - 1650) ---[[慣性の法則]]
=== 17世紀生まれの有名な物理学者 ===
* [[エヴァンジェリスタ・トリチェリ]] - イタリア (1608 - 1647) ---[[トリチェリの真空]]
* [[フランチェスコ・マリア・グリマルディ]] - イタリア (1618 - 1663)
* [[ブレーズ・パスカル]] - フランス (1623 - 1662) ---[[大気圧]]の実証実験、[[パスカルの原理]]
* [[ロバート・ボイル]] - イギリス (1627 - 1691) ---[[ボイルの法則]]
* [[ロバート・フック]] - イギリス (1635 - 1703) ---[[フックの法則]]
* [[クリスティアーン・ホイヘンス]] - オランダ (1629 - 1695) ---[[ホイヘンスの原理]]、[[土星の輪]]
* [[アイザック・ニュートン]] - イギリス (1642 - 1727) ---[[万有引力]]、[[ニュートン力学]]、微積分学、光学
* [[ドニ・パパン]] - フランス (1647 - 1712) ---[[蒸気機関]]
* [[エドモンド・ハリー]] - イギリス (1656 - 1742)
* [[ギヨーム・アモントン]] - フランス (1663 - 1705)
* [[ガブリエル・ファーレンハイト]] - ポーランド / オランダ (1686 - 1736) ---ファーレンハイト度([[華氏]])
* [[ダニエル・ベルヌーイ]] - フランス (1700 - 1782) ---[[流体力学]]、[[ベルヌーイの定理]]
* [[ジャン=アントワーヌ=ノレ]] - フランス (1700 - 1770)
== 18世紀生まれの有名な物理学者 ==
=== 1701年 - 1710年生まれの有名な物理学者 ===
* [[ベンジャミン・フランクリン]] - アメリカ (1706 - 1790) ---[[電気]]、[[避雷針]]
* [[レオンハルト・オイラー]] - スイス (1707 - 1783) ---[[解析学]]、[[流体]]および[[剛体]]の[[運動方程式]]
=== 1711年 - 1720年生まれの有名な物理学者 ===
* [[ラウラ・バッシ]] - イタリア (1711 - 1778) ---女性大学教授
* [[ジャン・ル・ロン・ダランベール]] - フランス (1717 - 1783) ---[[百科全書]]、[[波動方程式]]の解、[[ダランベールのパラドックス]]
=== 1721年 - 1730年生まれの有名な物理学者 ===
* [[トビアス・マイヤー]] - ドイツ (1723 - 1762)
=== 1731年 - 1740年生まれの有名な物理学者 ===
* [[ヘンリー・キャヴェンディッシュ]] - イギリス (1731 - 1810) ---[[水素]]の発見、[[キャヴェンディッシュの実験]]
* [[シャルル・ド・クーロン]] - フランス (1736 - 1806) ---[[クーロン力]]
* [[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]] - イタリア / フランス (1736 - 1813) ---[[ラグランジュ力学]]
* [[ルイージ・ガルヴァーニ]] - イタリア (1737 - 1798) ---起電現象の発見
=== 1741年 - 1750年生まれの有名な物理学者 ===
* [[アレッサンドロ・ボルタ]] - (1745 - 1827) ---[[ボルタ電池]]
* [[ジャック・シャルル]] - (1746 - 1823) ---[[ボイル=シャルルの法則]]
* [[ピエール=シモン・ラプラス]] - フランス (1749 - 1827) ---ポテンシャル論、[[ラプラス変換]]、天体力学、[[ラプラスの悪魔]]
=== 1761年 - 1770年生まれの有名な物理学者 ===
* [[ジョン・ドルトン]] - イギリス (1766 - 1844) ---[[倍数比例の法則]]、[[原子説]]の提唱
* [[ジョゼフ・フーリエ]] - フランス (1768 - 1830) ---[[熱伝導]]の理論、[[フーリエ変換]]
* [[トーマス・ゼーベック]] - ドイツ (1770 - 1831) ---[[ゼーベック効果]]
=== 1771年 - 1780年生まれの有名な物理学者 ===
* [[トマス・ヤング]] - イギリス (1773 - 1829) ---[[ヤングの実験]]、[[エネルギー]]
* [[アンドレ=マリ・アンペール]] - フランス (1775 - 1836) ---[[アンペールの法則]]、[[アンペア]]
* [[エティエンヌ・ルイ・マリュス]] - フランス (1775 - 1812) ---[[偏光]]のマリュスの法則
* [[ヨハン・ヴィルヘルム・リッター]] - ドイツ (1776 - 1810) ---[[紫外線]]の発見
* [[ハンス・クリスティアン・エルステッド]] - デンマーク (1777 - 1851)
* [[カール・フリードリヒ・ガウス]] - ドイツ (1777 - 1855) ---磁気の理論、天体力学
* [[ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック]] - (1778 - 1850) ---[[気体反応の法則]]
=== 1781年 - 1790年生まれの有名な物理学者 ===
* [[シメオン・ドニ・ポアソン]] - フランス (1781 - 1840) ---[[ポアソン比]]、[[ポアソン方程式]]
* [[レオポルド・ノビーリ]] - イタリア (1784 - 1835) ---[[電流計]]の発明
* [[アンリ・ナビエ]] - フランス (1785 - 1836) ---[[ナビエ-ストークスの式]]
* [[ヨゼフ・フォン・フラウンホーファー]] - ドイツ (1787 - 1826) ---[[フラウンホーファー線]]
* [[オーギュスタン・ジャン・フレネル]] - フランス (1788 - 1827) ---[[フレネルレンズ]]
* [[アントワーヌ・セザール・ベクレル]] - フランス (1788 - 1878) ---電気化学
=== 1791年 - 1800年生まれの有名な物理学者 ===
* [[マイケル・ファラデー]] - イギリス (1791 - 1867) ---[[ファラデーの電磁誘導の法則|電磁誘導の法則]]、[[ファラデーの電気分解の法則|電気分解の法則]]、[[ベンゼン]]の発見
* [[ガスパール=ギュスターヴ・コリオリ]] - フランス (1792 - 1843) ---[[コリオリの力]]
*[[ジョージ・グリーン]] - イギリス(1793-1841)---[[グリーンの定理]]
* [[ニコラ・レオナール・サディ・カルノー]] - フランス (1796 - 1832) ---熱力学、[[カルノーサイクル]]
* [[マセドニオ・メローニ]] - イタリア (1798 - 1854) ---熱の実験
* [[ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット]] - イギリス (1800 - 1877) ---写真の発明
== 19世紀生まれの有名な物理学者 ==
=== 1801年 - 1810年生まれの有名な物理学者 ===
* [[クリスチャン・ドップラー]] - オーストリア (1803 - 1853) ---[[ドップラー効果]]
* [[ハインリッヒ・レンツ]] - エストニア / ロシア (1804 - 1865) ---電磁気学、レンツの法則
* [[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]] - イギリス (1805 - 1865) ---解析力学、[[ハミルトニアン]]
=== 1811年 - 1820年生まれの有名な物理学者 ===
* [[カルロ・マテウッチ]] - イタリア (1811 - 1868) ---電気化学
* [[ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー]] - ドイツ (1814 - 1878) ---[[エネルギー保存の法則]]
* [[アンデルス・オングストローム]] - スウェーデン (1814 - 1874) ---分光学、単位[[オングストローム]]
* [[ジェームズ・プレスコット・ジュール]] - イギリス(1818 - 1889) ---[[ジュール]]、[[仕事 (物理学)|仕事]]
* [[レオン・フーコー]] - フランス (1819 - 1868) ---[[フーコーの振り子]]
* [[アルマン・フィゾー]] - フランス (1819 - 1896) ---[[光速度]]の測定
* [[ジョージ・ガブリエル・ストークス]] - アイルランド (1819 - 1903) ---[[ナビエ-ストークス方程式]]、[[ストークスの定理]]
* [[ジョン・ティンダル]] - アイルランド (1820 - 1893) ---[[チンダル現象]]
=== 1821年 - 1830年生まれの有名な物理学者 ===
* [[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ]] - ドイツ (1821 - 1894) ---熱力学
* [[ヨハン・ロシュミット]] - オーストリア (1821 - 1895) ---[[ロシュミット数]]
* [[ルドルフ・クラウジウス]] - ポーランド / ドイツ (1822 - 1888) ---熱力学、[[クラウジウス-クラペイロンの式]]
* [[グスタフ・キルヒホフ]] - プロシア (1824 - 1887) ---[[キルヒホッフの法則]]
* [[ウィリアム・トムソン]](ケルヴィン卿) - イギリス (1824 - 1907) ---[[絶対温度|絶対零度]]、[[熱力学]]
* [[ヴィルヘルム・ヒットルフ]] - ドイツ (1824 - 1914) ---[[陰極線]]の研究
* [[ロータル・マイヤー]] - ドイツ (1830 - 1895) ---元素の[[周期表]]
=== 1831年 - 1840年生まれの有名な物理学者 ===
* [[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]] - イギリス (1831 - 1879) ---[[マクスウェル方程式]]、[[電磁気学]]
* [[ウィリアム・クルックス]] - イギリス (1832 - 1919) ---[[クルックス管]]
* [[ドミトリ・メンデレーエフ]] - ロシア (1834 - 1907) ---[[周期律]]、[[周期表]]
* [[ヨハネス・ファン・デル・ワールス]] - オランダ (1837 - 1923) ---[[ファンデルワールス力]]、[[分子間力]]
* [[エルンスト・マッハ]] - オーストリア (1838 - 1916) ---[[衝撃波]]、[[音速]]
* [[エドワード・モーリー]] - アメリカ (1838 - 1923) ---[[マイケルソン・モーレーの実験]]
* [[ウィラード・ギブズ]] - アメリカ (1839 - 1903) ---[[ギブズ自由エネルギー]]
* [[エルンスト・アッベ]] - ドイツ (1840 - 1905) ---[[光学]]、[[アッベ数]]
=== 1841年 - 1850年生まれの有名な物理学者 ===
* [[アントニオ・パチノッティ]] - イタリア (1841 - 1912) ---直流発電機の発明
* [[ジェイムズ・デュワー]] - イギリス (1842 - 1923) ---[[デュワー瓶]]
* [[ジョン・ウィリアム・ストラット (第3代レイリー男爵)|ジョン・ウィリアム・ストラット]](レイリー卿) - イギリス (1842 - 1919)
* [[ルートヴィッヒ・ボルツマン]] - オーストリア (1844 - 1906) ---統計力学、[[ボルツマン定数]]
* [[ヴィルヘルム・レントゲン]] - ドイツ (1845 - 1923) ---[[X線]]の発見
* [[ガブリエル・リップマン]] - ルクセンブルク (1845 - 1921) ---天然色写真
* [[エトヴェシュ・ロラーンド]] - ハンガリー (1848 - 1919) ---重力と慣性力の等価性(エトベスの実験)
* [[ルネ・ブロンロ]] - フランス (1849 - 1930) ---実在しない放射線「[[N線]]」の「発見」
* [[フェルディナント・ブラウン]] - ドイツ (1850 - 1918) ---[[ブラウン管]]
* [[アウグスト・リーギ]] - イタリア (1850 - 1920) ---電磁気学
=== 1851年 - 1860年生まれの有名な物理学者 ===
* [[ジョージ・フィッツジェラルド]] - アイルランド (1851 - 1901) ---電磁気学の理論
* [[アンリ・ベクレル]] - フランス (1852 - 1908) ---[[放射線]]
* [[アルバート・マイケルソン]] - ポーランド / アメリカ合衆国 (1852 - 1931) ---[[マイケルソン・モーレーの実験]]
* [[ヘンドリック・ローレンツ]] - オランダ (1853 - 1928) ---[[ローレンツ変換]]
* [[ジョゼフ・ジョン・トムソン]] - イギリス (1856 - 1940) ---[[陰極線]]の研究
* [[田中館愛橘]] - 日本 (1856 - 1952) ---地球物理学者
* [[ハインリヒ・ヘルツ]] - ドイツ (1857 - 1894) ---[[電波]]、[[周波数]]
* [[クヌート・オングストローム]] - スウェーデン (1857 - 1910) ---太陽熱と地球大気吸収の研究
* [[ジョゼフ・ラーモア]] - アイルランド (1857 - 1942) ---磁場中の電子の歳差運動
* [[マックス・プランク]] - ドイツ (1858 - 1947) ---[[プランク定数]]、前期量子論
* [[ピエール・キュリー]] - フランス (1859 - 1906) ---[[ラジウム]]の発見
* [[ポール・ヴィラール]] - フランス (1860 - 1934) ---[[ガンマ線]]の発見
=== 1861年 - 1870年生まれの有名な物理学者 ===
* [[フィリップ・レーナルト]] - ドイツ (1862 - 1947) ---[[陰極線]]の研究
* [[ヴィルヘルム・ヴィーン]] - ドイツ (1864 - 1928) ---[[ウィーンの変位則]]
* [[長岡半太郎]] - 日本 (1865 - 1950) ---土星型[[原子模型]]
* [[フリードリッヒ・パッシェン]] - ドイツ (1865 - 1940) ---[[パッシェン系列]]
* [[ピーター・ゼーマン]] - オランダ (1865 - 1943) ---[[ゼーマン効果]]
* [[マリ・キュリー]] - ポーランド / フランス (1867 - 1934) ---[[ラジウム]]の発見
* [[ロバート・ウィリアム・ウッド]] - アメリカ合衆国 (1868 - 1955) ---[[紫外線]]の研究
* [[ジョン・タウンゼント (物理学者)|ジョン・タウンゼント]] - アイルランド (1868 - 1957) ---[[放電]]現象の研究
* [[ロバート・ミリカン]] - アメリカ (1868 - 1953) ---宇宙線物理学、[[電気素量]]の測定
* [[本多光太郎]] - 日本 (1870 - 1954) ---[[KS鋼]]の開発
* [[ジャン・ペラン]] - フランス (1870 - 1942) ---[[原子論]]の実験的証明
=== 1871年 - 1880年生まれの有名な物理学者 ===
* [[アーネスト・ラザフォード]](ネルソン卿) - ニュージーランド (1871 - 1937) ---[[原子核]]の発見
* [[ポール・ランジュバン]] - フランス (1872 - 1946) ---[[磁性]]の研究
* [[グリエルモ・マルコーニ]] - イタリア (1874 - 1937) ---無線通信の発明
* [[セオドア・ライマン]] - アメリカ合衆国 (1874 - 1954) ---[[ライマン系列]]
* [[ルートヴィヒ・プラントル]] - ドイツ (1875 - 1953) ---[[流体力学]]、[[境界層]]
* [[チャールズ・バークラ]] - イギリス (1877 - 1944) ---[[特性X線]]の発見
* [[寺田寅彦]] - 日本 (1878 - 1935) ---X線回折、「寺田物理学」、科学エッセイスト
* [[リーゼ・マイトナー]] - オーストリア (1878 - 1968) ---核分裂の発見、女性科学者
* [[オットー・ハーン]] - ドイツ (1879 - 1968) ---核分裂の発見
* [[アルベルト・アインシュタイン]] - スイス / アメリカ (1879 - 1955) ---[[相対性理論]]、[[光量子仮説]]、[[ブラウン運動]]の理論
* [[マックス・フォン・ラウエ]] - ドイツ (1879 - 1960) ---X線回折
* [[ポール・エーレンフェスト]] - オーストリア (1880 - 1933) ---量子力学
* [[アルフレート・ヴェーゲナー]] - ドイツ (1880 - 1930) ---[[大陸移動説]]
=== 1881年 - 1890年生まれの有名な物理学者 ===
* [[アーヴィング・ラングミュア]] - アメリカ (1881 - 1957) ---[[界面化学]]、[[プラズマ]]
* [[セオドア・カルマン]] - ハンガリー (1881 - 1963) ---空気力学、[[カルマン渦]]
* [[グンナー・ノルドシュトルム]] - フィンランド (1881 - 1923) ---重力理論
* [[石原純]] - 日本 (1881 - 1947) ---[[相対性理論]]、金属電子論、[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の紹介、歌人
* [[マックス・ボルン]] - ドイツ / イギリス (1882 - 1970) ---量子力学の確率解釈
* [[パーシー・ブリッジマン]] - アメリカ合衆国 (1882 - 1961) ---高圧の研究
* [[ジェイムス・フランク]] - ドイツ (1882 - 1964) ---[[フランク=ヘルツの実験]]、[[フランクレポート]]
* [[ピーター・デバイ]] - ドイツ (1884 - 1966) ---[[デバイの比熱式]]、[[デバイ模型]]
* [[松山基範]] - 日本 (1884 - 1958) ---[[地球物理学]]
* [[西川正治]] - 日本 (1884 - 1952) ---X線回折、結晶学
* [[ニールス・ボーア]] - デンマーク (1885 - 1962) ---原子模型、相補性原理
* [[マンネ・シーグバーン]] - スウェーデン (1886 - 1978) ---X線分光学
* [[八木秀次]] - 日本 (1886 - 1976) ---[[八木・宇田アンテナ]]
* [[グスタフ・ヘルツ]] - ドイツ (1887 - 1975) ---[[フランク=ヘルツの実験]]
* [[ヘンリー・モーズリー (物理学者)|ヘンリー・モーズリー]] - イギリス (1887 - 1915) ---特性X線
* [[エルヴィン・シュレーディンガー]] - オーストリア (1887 - 1961) ---[[シュレーディンガー方程式]]、[[量子力学]]
* [[パウル・ペーター・エバルト]] - ドイツ (1888 - 1985) ---[[エバルト球]]
* [[チャンドラセカール・ラマン]] - インド (1888 - 1970) ---[[ラマン効果]]
* [[アレクサンドル・フリードマン]] - ロシア (1888 - 1925) ---膨張宇宙のモデル
* [[フリッツ・ゼルニケ]] - オランダ (1888 - 1966) ---[[位相差顕微鏡]]の発明
* [[ポール・シェラー]] - スイス (1890 - 1969) ---デバイ-シェラー法
* [[仁科芳雄]] - 日本 (1890 - 1951) ---[[クライン=仁科の公式]]
* [[荒勝文策]] - 日本 (1890 - 1973) ---原子核物理学
=== 1891年 - 1900年生まれの有名な物理学者 ===
* [[ジェームズ・チャドウィック]] - イギリス (1891 - 1974) ---[[中性子]]の発見
* [[クリントン・デイヴィソン]] - アメリカ合衆国 (1881 - 1958) ---電子の波動性の証明
* [[ルイ・ド・ブロイ]] - フランス (1892 - 1987) ---[[物質波]]の提唱
* [[ジョージ・パジェット・トムソン]] - イギリス (1892 – 1975) ---電子の波動性の証明
* [[メグナード・サハ]] - インド (1893 - 1956) ---[[サハの電離式]]
* [[サティエンドラ・ボース]] - インド (1894 - 1974) ---[[ボース粒子]]
* [[オスカル・クライン]] - スウェーデン (1894 - 1977) ---[[カルツァ=クライン理論]]、[[クライン・ゴルドン方程式]]
* [[増本量]] - 日本 (1895 - 1987) ---[[センダスト]]の開発
* [[フレデリック・サムナー・ブラケット]] - アメリカ合衆国 (1885 - 1962) ---[[ブラケット系列]]
* [[イレーヌ・ジョリオ=キュリー]] - フランス (1897 - 1956) ---人工放射性元素の研究、女性科学者
* [[マックス・クノール]] - ドイツ (1897 - 1969) ---電子顕微鏡の発明
* [[ジョン・コッククロフト]] - イギリス (1897 - 1967) ---核反応
* [[茅誠司]] - 日本 (1898 - 1988) ---[[強磁性体]]
* [[ヴォルフガング・パウリ]] - オーストリア (1900 - 1958) ---[[パウリの排他原理]]、場の量子論
* [[フレデリック・ジョリオ=キュリー]] - フランス (1900 - 1958) ---人工放射性元素の研究
* [[中谷宇吉郎]] - 日本 (1900 - 1962) ---ウサギの毛を用いた[[雪]]の[[結晶]]の研究
* [[ジョン・クラーク・スレイター]] - アメリカ合衆国 (1900 - 1976) ---[[スレイター行列式]]
* [[ジョージ・ウーレンベック]] - オランダ (1900 - 1988) ---電子の[[スピン角運動量|スピン]]の発見
== 20世紀生まれの有名な物理学者 ==
=== 1901年 - 1910年生まれの有名な物理学者 ===
* [[ヴェルナー・ハイゼンベルク]] - ドイツ (1901 - 1976) ---[[行列力学]]、[[不確定性原理]]
* [[エンリコ・フェルミ]] - イタリア (1901 - 1954) ---フェルミ・ディラック統計、ベータ崩壊、原子炉
* [[フランコ・ラゼッティ]] - イタリア / アメリカ合衆国 (1901 - 2001) ---核分裂の研究
* [[ポール・ディラック]] - イギリス (1902 - 1984) ---[[ディラック方程式]]、[[ディラックの海]]
* [[菊池正士]] - 日本 (1902 - 1974) ---[[電子線]]回折に関する実験
* [[坪井忠二]] - 日本 (1902 - 1982)
* [[ユージン・ウィグナー]] - ハンガリー (1902 - 1995) ---[[ウィグナー結晶]]
* [[ウォルター・ブラッテン]] - アメリカ合衆国 (1902 - 1987) ---[[トランジスタ]]の発明
* [[パスクアル・ヨルダン]] - ドイツ (1902 - 1980) ---量子力学の研究
* [[アーネスト・ウォルトン]] - アイルランド (1903 - 1995) ---原子核変換
* [[ラルス・オンサーガー]] - ノルウェー / アメリカ (1903 - 1976) ---相反定理、2次元相転移の厳密解
* [[ヴァルター・ハイトラー]] - ドイツ (1904 - 1981) ---ハイトラー・ロンドン理論
* [[ロバート・オッペンハイマー]] - アメリカ (1904 - 1967) ---中性子星、原爆開発
* [[ジョージ・ガモフ]] - アメリカ (1904 - 1968) ---[[ビッグ・バン]]、[[不思議の国のトムキンス]]
* [[パーヴェル・チェレンコフ]] - ロシア (1904 - 1990) ---[[チェレンコフ放射]]
* [[エルンスト・シュテュッケルベルク]] - スイス (1905 - 1984)
* [[カール・デイヴィッド・アンダーソン]] - アメリカ (1905 - 1991) ---[[陽電子]]の発見
* [[嵯峨根遼吉]] - 日本 (1905 - 1969)
* [[ネヴィル・モット]] - イギリス (1905 - 1996) ---[[モット絶縁体]]
* [[エミリオ・セグレ]] - イタリア/アメリカ合衆国 (1905 - 1989) ---反陽子の発見
* [[小谷正雄]] - 日本 (1906 - 1993) ---分子物理、生物物理
* [[朝永振一郎]] - 日本 (1906 - 1979) ---[[繰り込み理論]]
* [[マリア・ゲッパート=メイヤー]] - ドイツ / アメリカ (1906 - 1972) ---原子核の殻構造、女性科学者
* [[エットーレ・マヨラナ]] - イタリア(1906 - 1938に行方不明)
* [[エルンスト・ルスカ]] - ドイツ (1906 - 1988) ---[[電子顕微鏡]]の開発
* [[湯川秀樹]] - 日本 (1907 - 1981) ---[[中間子]]の提唱
* [[ルドルフ・パイエルス]] - ドイツ / イギリス (1907 - 1995) ---パイエルス転移
* [[レフ・ランダウ]] - ロシア (1908 - 1968) ---液体He、「[[理論物理学教程]]」の著者
* [[ハンネス・アルベーン]] - スウェーデン (1908 - 1995) ---電磁流体力学
* [[エドワード・テラー]] - アメリカ (1908 - 2003) ---原爆開発、水爆開発
* [[イリヤ・フランク]] - ロシア (1908 - 1990) ---[[チェレンコフ効果]]の解明
* [[ジョン・バーディーン]] - アメリカ (1908 - 1991) ---[[トランジスタ]]の発明、[[BCS理論]]
* [[伏見康治]] - 日本 (1909 - 2008) ---統計力学、原子力
* [[マルグリット・ペレー]] - フランス (1909 - 1975) ---[[フランシウム]]の発見、女性科学者
* [[ホーミ・J・バーバー]] - インド (1909 - 1966) ---原子力
* [[永宮健夫]] - 日本 (1910 - 2006) ---固体物理学、反強磁性体
* [[ウィリアム・ショックレー]] - アメリカ (1910 - 1989) ---接合型[[トランジスタ]]の発明
* [[スブラマニアン・チャンドラセカール]] - アメリカ (1910 - 1995) ---[[チャンドラセカール限界]]
=== 1911年 - 1920年生まれの有名な物理学者 ===
* [[坂田昌一]] - 日本 (1911 - 1970) ---二中間子論、坂田模型
* [[ルイ・アルヴァレ]] - アメリカ (1911 - 1988)
* [[ニコラス・ケンマー]] - ロシア / ドイツ / イギリス (1911 - 1998) ---理論物理学者
* [[カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー]] - ドイツ (1912 - 2007)
* [[エドワード・ミルズ・パーセル]] - アメリカ合衆国 (1912 - 1997) ---[[核磁気共鳴]]、[[21cm線]]
* [[フィリップ・アベルソン]] - アメリカ合衆国 (1913 - 2004) ---[[ネプツニウム]]の作製
* [[今井功 (物理学者)|今井功]] - 日本 (1914 - 2004) ---[[流体力学]]
* [[フレッド・ホイル]] - イギリス (1915 - 2001) ---定常宇宙、"ビッグバン"の命名
* [[エフゲニー・リフシッツ]] - ロシア (1915 - 1985) ---「[[理論物理学教程]]」の著者の一人
* [[オレステ・ピッキオーニ]] - イタリア / アメリカ合衆国 (1915 - 2002) ---素粒子物理学
* [[ヴィタリー・ギンツブルク]] - ロシア (1916 - 2009)---[[ギンツブルグ-ランダウ理論]]
* [[アレクサンドル・プロホロフ]] - ロシア (1916 - 2002) ---[[レーザー]]と[[メーザー]]の研究
* [[内山龍雄]] - 日本 (1916 - 1990) ---[[ゲージ理論]]
* [[イリヤ・プリゴジン]] - ロシア / ベルギー (1917 - 2003) ---非平衡状態の[[熱力学]]
* [[ジュール・グレゴリー・チャーニー]] - アメリカ合衆国 (1917 - 1981) ---気象学者
* [[リチャード・P・ファインマン]] - アメリカ (1918 - 1988) ---[[ファインマンダイアグラム]]、量子コンピュータ
* [[ジュリアン・シュウィンガー]] - アメリカ合衆国 (1918 - 1994) ---[[繰り込み理論]]
* [[久保亮五]] - 日本 (1920 - 1995) ---統計物理学、[[線形応答理論]]
* [[ニコラス・ブルームバーゲン]] - アメリカ (1920 - 2017)
* [[林忠四郎]] - 日本 (1920 - 2010) ---α-β-γ-林の理論、林フェーズ
=== 1921年 - 1930年生まれの有名な物理学者 ===
* [[南部陽一郎]] - 日本 / アメリカ (1921 - 2015) ---素粒子論の研究
* [[アンドレイ・サハロフ]] - ロシア (1921 - 1989) ---ソ連の[[水素爆弾]]開発
* [[楊振寧]] - 中国 / アメリカ (1922 - ) ---[[パリティ対称性の破れ]]
* [[北垣敏男]] - 日本 (1922 - 2016) ---[[高エネルギー物理学]]、[[加速器]]研究
* [[小田稔]] - 日本 (1923 - 2001) ---[[X線天文学]]
* [[フィリップ・アンダーソン]] - アメリカ (1923 - 2020) ---[[アンダーソン局在]]
* [[江崎玲於奈]] - 日本 (1925 - ) ---[[ダイオード|江崎ダイオード]] 、超格子
* [[ロイ・グラウバー]] - アメリカ合衆国 (1925 - ) ---光のコヒーレンスの量子理論
* [[アブドゥッサラーム]] - パキスタン (1926 - 1996) ---[[ワインバーグ=サラム理論]]
* [[ベン・ロイ・モッテルソン]] - アメリカ (1926 - ) ---[[集団運動模型]]の構築
* [[小柴昌俊]] - 日本 (1926 - 2020) ---[[スーパーカミオカンデ]]
* [[西島和彦_(物理学者)|西島和彦]] - 日本 (1926 - 2009) ---素粒子物理学、「西島・[[マレー・ゲルマン|ゲルマン]]の規則」
* [[李政道]] - 中国 / アメリカ (1926 - ) ---[[パリティ対称性の破れ]]
* [[アレクセイ・アブリコソフ]] - ロシア (1928 - 2017) ---超伝導の研究
* [[赤﨑勇]] - 日本 (1929 - 2021) ---[[物性物理学]]、[[半導体]]、[[窒化ガリウム]]、[[発光ダイオード|LED]]
* [[マレー・ゲルマン]] - アメリカ (1929 - 2019) ---[[クォーク]]模型
* [[リチャード・E・テイラー]] - アメリカ合衆国 (1929 - 2018) ---[[ハドロン]]の内部構造の実験
* [[レオン・クーパー]] - アメリカ (1930 - ) ---[[クーパー対]]、[[BCS理論]]
=== 1931年 - 1940年生まれの有名な物理学者 ===
* [[マルティヌス・フェルトマン]] - オランダ (1931 - ) ---電弱相互作用の解明
* [[リカルド・ジャコーニ]] - イタリア / アメリカ合衆国 (1931 - 2018) ---[[X線天文学]]
* [[クロード・コーエン=タヌージ]] - フランス (1933 - ) ---[[レーザー冷却]]
* [[ピーター・マンスフィールド]] - イギリス (1933 - 2017)
* [[スティーヴン・ワインバーグ]] - アメリカ合衆国 (1933 - ) ---[[ワインバーグ=サラム理論]]
* [[カルロ・ルビア]] - イタリア (1934 - ) ---[[W粒子]]の生成
* [[ジョン・ホール (物理学者)|ジョン・ホール]] - アメリカ (1934 - ) ---レーザー分光法
* [[ケネス・ウィルソン]] - アメリカ (1936 - 2013)
* [[近藤淳]] - 日本 (1936 - 2022) ---[[近藤効果]]
* [[ブライアン・ジョゼフソン]] - イギリス (1940 - ) ---[[ジョセフソン効果]]
* [[益川敏英]] - 日本 (1940 - 2021) ---[[クォーク]]6種存在の予測([[小林・益川理論]])
=== 1941年 - 1950年生まれの有名な物理学者 ===
* [[テオドール・ヘンシュ]] - ドイツ (1941 - ) ---レーザー分光法
* [[スティーヴン・ホーキング]] - イギリス (1942 - 2018) ---[[特異点定理]]、[[ホーキング放射]]
* [[小林誠 (物理学者)|小林誠]] - 日本 (1944 - ) --- [[クォーク]]6種存在の予測([[小林・益川理論]])
* [[ヘーラルト・トホーフト]] - オランダ (1946 - ) ---電弱相互作用の解明
* [[ロバート・B・ラフリン]] - アメリカ合衆国 (1950 - ) ---[[量子ホール効果]]の理論
=== 1951年以降生まれの有名な物理学者 ===
* [[フランク・ウィルチェック]] - アメリカ合衆国 (1951 - ) ---漸近的自由性の発見
* [[ソール・パールマッター]] - アメリカ合衆国 (1959 - ) ---宇宙の加速膨張の観測
<!-- 生年順に並べましょう -->
== 関連項目 ==
*[[物理学者]]
*[[天文学者の一覧]]
**[[日本の天文学者の一覧]]
== 外部リンク ==
* 有名な物理学者の写真または絵が[https://photos.aip.org/ the Emilio Segre Visual Archives ]に収集されている。
[[Category:物理学者|*]]
[[Category:学者の人名一覧|ふつりかくしや]] | null | 2023-04-19T11:12:42Z | false | false | false | [
"Template:物理学"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
3,491 | 法律 | 法律(ほうりつ)とは、国家や連邦国家の構成単位の議会の議決を経て(英: statute)、あるいは、統治者ないし国家により制定される、主に国民の自由と財産を制限する実定法規範(英: law、独: Gesetz、仏: loi、羅: lex)。
近代以降における法律は、議会の議決を経て制定される。この点に着目して、法律を憲法・命令等の他の法形式と区別するとき、それを形式的意味の法律と呼ぶ。
実質的意味の法律の意義(法律の実質的意味)としては、主に以下の立場がある。
大日本帝国憲法下では、法律は、国民を縛る定めであり、帝国議会の議決を経て天皇の裁可によって成立する法形式であった(大日本帝国憲法第5条、第6条)。 大日本帝国憲法第5条の「立法権」が立法するのは、形式的意味の法律であるか、実質的意味の法律であるかが争われた。
天皇は、帝国議会が議決した法律を、場合によっては拒否することも可能であったため、裏を返せば、帝国憲法第6条は、帝国議会に対する拒否権でもあった。だが、実際のところ、帝国憲法の運用において、天皇が帝国議会が議決した法律を拒否することは全くなく、帝国憲法第6条で定められた、天皇の法律への裁可は、事実上、形式的・儀礼的な行為であった。
国家の行政機関に関する定め等は、国民の権利義務に関する法規範ではない(前述の「法規」概念にあてはまらない)という理解の下で、勅令により定められた(大日本帝国憲法第10条、内閣官制など)。
現行の日本国憲法下では、法律は『(社会)契約』であり、「この憲法に特別の定のある場合」を除き、「全国民を代表する選挙された議員」(憲法第43条)で組織された「国の唯一の立法機関」(憲法第41条)たる国会の「両議院で可決」(憲法第59条第1項)されることによって成立する法形式である。 「この憲法に特別の定のある場合」には、衆議院の優越が認められる場合(憲法第59条第2項)、参議院の緊急集会における可決の場合(憲法第54条第2項・第3項)がある。 また、地方特別法の場合には、住民投票による住民の同意が必要とされる(憲法第95条)。地方特別法の場合を除き、可決された時点で、法律は成立する(判例)。
法律の形式的効力は、「国の最高法規」たる憲法より下位であり(憲法第98条)、行政機関が出す政令、省令、司法機関が出す 最高裁判所規則、地方自治体の議会が定める条例、自治体の首長が出す規則より上位である。
裁判所に、法律が憲法に適合するか否か審査する権限が与えられている(違憲審査権、憲法第81条・判例)。
現行憲法下において法律を発案・提出する手続には、以下の三つがある。
1・2の場合のように、議員または委員会が提出した法律案によって行われる立法は、俗に議員立法と呼ばれる。そのようにして成立した法律が、議員立法と呼ばれることもある。 議員立法に資するため、両院に議院法制局(国会法第131条。衆議院法制局・参議院法制局)が置かれている。 他に、議員の調査研究・職務を助けるための制度として、国立国会図書館(国会法第130条、国立国会図書館法)、議員秘書(国会法第132条)、議員会館(国会法第132条の2)がある。
議員による法律案の提出について、国会法は、議員が法律案を「発議」するためには、賛成者を要するとしている。
両議院におかれた委員会が立案し、委員長名で提出される委員会提出法律案による場合。
内閣法第5条は、内閣の法律案提出権を認めている。ただし、内閣に法律案提出権が認められるか否かは、憲法上、明示的規定がないために問題となる。この問題については、以下の立場がある。
多くの法律は、内閣の発案によって成立している。その場合には、一般に以下のような過程を経る(以下では、内閣法制局の説明 を要約し、必要に応じて補足した)。その進行は「タコ部屋」と呼ばれる法案準備室が中心となる。
法律は、法律の成立後、後議院の議長から内閣を経由して奏上された日から30日以内に公布されなければならない。また、法律の公布に当たっては、公布のための閣議決定を経た上、官報に掲載されることによって行われる。公布は、法律が現実に発効(施行)するための要件であり、公布によって国民を拘束する力が生じるのではない。 公布された法律がいつから施行されるかについては、通常、公布される法律の附則に定められているが、定めがない場合は公布の日から起算して20日を経過した日から施行される(法の適用に関する通則法2条)。 公布・施行が同一日になされる場合は、官報が、独立行政法人国立印刷局官報課または東京都官報販売所(一般の希望者が官報を閲覧・購入しようとすればなしえた最初の場所)に到達した時点で公布があったとされる(判例)。
憲法・主な法律の条文は、e-Gov法令検索で、参照できる。
日本国憲法施行後に制定されたすべての法律(制定済みの法律を改正するための法律を含む。)は、衆議院のウェブサイトで、参照できる。
イギリス議会は貴族院と庶民院の両院で構成され、法律は原則として両院で可決されたのち国王の裁可を経て成立する。
ただし、1911年及び1949年の国会法により、庶民院議長が金銭法案(Money Bill)であると判断した法案については、庶民院の通過後から会期終了の1ヶ月前までに貴族院に送付されれば、貴族院が可決しなくても国王の裁可を経て法案は成立する。また、その他の一般法案(Public Bill)についても、貴族院は庶民院議員の任期延長に関する法案でない限り、庶民院の通過後1年間に限り法律の成立を遅らせることができるにすぎない。
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"text": "1・2の場合のように、議員または委員会が提出した法律案によって行われる立法は、俗に議員立法と呼ばれる。そのようにして成立した法律が、議員立法と呼ばれることもある。 議員立法に資するため、両院に議院法制局(国会法第131条。衆議院法制局・参議院法制局)が置かれている。 他に、議員の調査研究・職務を助けるための制度として、国立国会図書館(国会法第130条、国立国会図書館法)、議員秘書(国会法第132条)、議員会館(国会法第132条の2)がある。",
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"text": "イギリス議会は貴族院と庶民院の両院で構成され、法律は原則として両院で可決されたのち国王の裁可を経て成立する。",
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"text": "ただし、1911年及び1949年の国会法により、庶民院議長が金銭法案(Money Bill)であると判断した法案については、庶民院の通過後から会期終了の1ヶ月前までに貴族院に送付されれば、貴族院が可決しなくても国王の裁可を経て法案は成立する。また、その他の一般法案(Public Bill)についても、貴族院は庶民院議員の任期延長に関する法案でない限り、庶民院の通過後1年間に限り法律の成立を遅らせることができるにすぎない。",
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"text": "実際には、庶民院と貴族院の議決が異なる場合、国会法による手続ではなく両者の協議によって解決されることが慣例となっている。",
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] | 法律(ほうりつ)とは、国家や連邦国家の構成単位の議会の議決を経て、あるいは、統治者ないし国家により制定される、主に国民の自由と財産を制限する実定法規範。 | {{Otheruses|形式的意味の法律および実質的意味の法律|法規範一般|法 (法学)}}
{{出典の明記|date=2018-2}}
'''法律'''(ほうりつ)とは、国家や連邦国家の構成単位の[[議会]]の議決を経て({{lang-en-short|statute}})、あるいは、統治者ないし国家により制定される、主に国民の自由と財産を制限する実定法規範({{lang-en-short|law}}、{{lang-de-short|Gesetz}}、{{lang-fr-short|loi}}、{{lang-la-short|lex}})。
== 一般的意義 ==
=== 形式的意味の法律 ===
[[近代]]以降における法律は、議会の議決を経て制定される。この点に着目して、法律を[[憲法]]・[[命令 (法規)|命令]]等の他の法形式と区別するとき、それを'''形式的意味の法律'''と呼ぶ。
=== 実質的意味の法律 ===
'''実質的意味の法律'''の意義(法律の実質的意味)としては、主に以下の立場がある。
* 19世紀の立憲君主制の時代においては、君主が法律を制定する権限のうち、国民の「自由と財産」を制限する法律の制定権限のみを議会に移した事情から、「自由と財産に関する一般的・抽象的な法規範」と限定的に理解された([[法規]]の伝統的理解)。この立場は、ドイツ[[立憲君主制]]憲法下における君主と国民(議会)の間の妥協の産物であり、大日本帝国憲法下において主流の立場であった。
* 国民主権の観念が広く認められる現代においては、「自由と財産に関する」という限定を付さずに、一般的・抽象的な法規範とみなす立場が多く見られる。この立場はそのようにみなすことで、法律の一般性(不特定多数の個人・事件に対する、平等な法の適用)が担保され、[[法治主義]]に適うと考える([[法規]]の現代的理解の一つ)。たとえば[[日本国憲法]]下における実質的意味の法律は、一般的・抽象的な法規範を指すとされる。
* 実質的意味の法律の所管事項を憲法で規定している例もある。[[フランス]]第五共和国憲法下では、法律の所管事項が狭く限定されているため、議会の権限が狭く、政府が議会のコントロールを受けずに活動できる余地が大きい。
== 日本における立法過程 ==
=== 法形式 ===
==== 大日本帝国憲法下における法律 ====
[[大日本帝国憲法]]下では、法律は、国民を縛る定めであり、[[帝国議会]]の議決を経て[[天皇]]の裁可によって成立する法形式であった(大日本帝国憲法第5条、第6条)。
大日本帝国憲法第5条の「立法権」が立法するのは、形式的意味の法律であるか、実質的意味の法律であるかが争われた。
天皇は、帝国議会が議決した法律を、場合によっては拒否することも可能であったため、裏を返せば、帝国憲法第6条は、帝国議会に対する[[拒否権]]でもあった。だが、実際のところ、帝国憲法の運用において、天皇が帝国議会が議決した法律を拒否することは全くなく、帝国憲法第6条で定められた、天皇の法律への裁可は、事実上、形式的・儀礼的な行為であった。
国家の行政機関に関する定め等は、国民の権利義務に関する法規範ではない(前述の「法規」概念にあてはまらない)という理解の下で、[[勅令]]により定められた(大日本帝国憲法第10条、[[内閣官制]]など)。
==== 日本国憲法下における法律 ====
現行の[[日本国憲法]]下では、法律は『(社会)契約』であり、「この憲法に特別の定のある場合」を除き、「全国民を代表する選挙された議員」([[日本国憲法第43条|憲法第43条]])で組織された「国の唯一の立法機関」([[日本国憲法第41条|憲法第41条]])たる[[国会 (日本)|国会]]の「両議院で可決」([[日本国憲法第59条|憲法第59条]]第1項)されることによって成立する法形式である。
「この憲法に特別の定のある場合」には、[[衆議院の優越]]が認められる場合(憲法第59条第2項)、[[参議院の緊急集会]]における可決の場合([[日本国憲法第54条|憲法第54条]]第2項・第3項)がある。
また、地方特別法の場合には、住民投票による住民の同意が必要とされる([[日本国憲法第95条|憲法第95条]])。地方特別法の場合を除き、可決された時点で、法律は成立する(判例)。
法律の形式的効力は、「国の最高法規」たる憲法より下位であり([[日本国憲法第98条|憲法第98条]])、[[行政]]機関が出す[[政令]]、[[省令]]、[[司法機関]]が出す [[最高裁判所規則]]、[[地方公共団体|地方自治体]]の議会が定める[[条例]]、自治体の[[首長]]が出す規則より上位である。
[[裁判所]]に、法律が憲法に適合するか否か審査する権限が与えられている([[違憲審査制|違憲審査権]]、[[日本国憲法第81条|憲法第81条]]・判例)。
=== 法律を制定する手続 ===
==== 発案・提出による種類 ====
現行憲法下において法律を発案・提出する手続には、以下の三つがある。
# [[#議員による法律案|議員による法律案]]
# [[#委員会による法律案|委員会による法律案]]
# [[#内閣による法律案|内閣による法律案]]
1・2の場合のように、議員または委員会が提出した法律案によって行われる立法は、俗に[[議員立法]]と呼ばれる。そのようにして成立した法律が、議員立法と呼ばれることもある。
議員立法に資するため、両院に[[議院法制局]](国会法第131条。衆議院法制局・参議院法制局)が置かれている。
他に、議員の調査研究・職務を助けるための制度として、[[国立国会図書館]](国会法第130条、[[国立国会図書館法]])、[[議員秘書]](国会法第132条)、[[議員会館]](国会法第132条の2)がある。
===== 議員による法律案 =====
{{See also|議員立法}}
議員による法律案の提出について、[[国会法]]は、議員が法律案を「発議」するためには、賛成者を要するとしている。
===== 委員会による法律案 =====
両議院におかれた委員会が立案し、委員長名で提出される委員会提出法律案による場合。
===== 内閣による法律案 =====
====== 内閣の法律案提出権に対する認否 ======
[[内閣法]]第5条は、内閣の法律案提出権を認めている。ただし、内閣に法律案提出権が認められるか否かは、憲法上、明示的規定がないために問題となる。この問題については、以下の立場がある。
# 国会が「国の唯一の立法機関」であることを理由に、否定する立場。
#: これに対しては、「唯一の立法機関」とは、国会のみの判断で法律を制定することを意味し、判断過程において内閣が意見を述べることを禁止する趣旨ではない、という反論がある。
# 憲法第72条前段の「議案」に法律案が含まれると解釈して、肯定する立場。
#: これに対しては、憲法第72条前段は、内閣が提出する権限を持つ議案について、総理大臣が代表することを定めたものであり、内閣に議案提出権を認めた規定ではない、という反論がある。
# 日本国憲法は、[[議院内閣制]]を採用しており、国会と内閣の協働が予定されているとみなし、肯定する立場。
#: これに対しては、議院内閣制においては内閣が法律案を提出する権限を持つのが通例であるとは言えない、という反論がある。
# 内閣の法律案提出権を否定しても、議員たる国務大臣が、議員の資格で発議しうるから、実質的には肯定することと変わりがないとする立場。
#: これに対しては、国務大臣が議員の資格で提出する場合には、国会法第56条の制限があるため、国務大臣全員の署名があっても法律案を提出できない場合があるので、変わりがないとは言えない、という反論がある。
# 国会を拘束する意味での法律案提出権は、認められないが、国会が法律により自己拘束することは、議員による提案の制限と同様に、憲法は禁じていないと考える立場。
====== 発案から公布までの流れ ======
{{See also|タコ部屋 (日本の官僚)}}
多くの法律は、内閣の発案によって成立している。その場合には、一般に以下のような過程を経る(以下では、[[内閣法制局]]の説明 [http://www.clb.go.jp/law/11b.htm]を要約し、必要に応じて補足した)。その進行は「タコ部屋」と呼ばれる法案準備室が中心となる。
# 各主管官庁が、新たに法律を制定したり、既存の法律を改廃したりする、法律案の原案(第一次案)を作成する。
# 第一次案を基に、関係省庁や与党との意見調整が行われる。必要に応じて、審議会に対する諮問や、公聴会における意見聴取等を経る。
# 1・2 を経て、法律案提出の見通しがついた場合には、主管官庁が法文化の作業を行う(法律案の原案を作成する)。
# 3 で作成された法律案の原案について、内閣法制局による予備審査が行われる(本来は、内閣法制局での審査は、5 の手続を経た閣議請議案に対して行われるはずである。しかし、現状では「閣議請議案は、内閣法制局の予備審査を経た法律案に基づいて」行われる)。
# 4 を経た段階で、主任の国務大臣が内閣総理大臣に対し、法律案の国会提出について閣議請議の手続を行う。これを受け付けた内閣官房は、内閣法制局に対して閣議請議案を送付する。
# 内閣法制局は、予備審査の結果とも照らし合わせつつ、最終的な審査を行い、必要があれば修正をし、内閣官房に回付する。
# 6 の審査を経た法律案について、[[内閣法制局長官]]が、[[閣議]]の席上で概要の説明を行う。異議なく閣議決定が行われた場合には、内閣総理大臣は、その法律案を国会(衆議院または参議院)に提出する。
# 法律案を提出された議院の議長は、法律案を適当な委員会に付託する。委員会では、主として法律案に対する質疑・応答の形で審議が行われる。委員会での審議が終了すれば、本会議に審議が移行する。法律案が提出された議院において、委員会及び本会議の表決の手続を経て可決されると、その法律案は、他の議院に送付される。送付を受けた議院においても、委員会及び本会議の審議、表決の手続が行われる。
# 両院で可決すれば、提出された法律案は、「法律となる」(憲法第59条第1項。憲法に特別の規定がある場合(憲法第59条第2項、第95条)を除く)。
# 法律が成立した後議院の議長から内閣を経由して、奏上される。
# 奏上された日から30日以内に、天皇が内閣の助言と承認に基づいて公布する(憲法第7条第1号、国会法第66条)。公布は、(公布のための)閣議決定を経た上で、[[官報]]に掲載されることによって行われる。公布される法律には、[[法令番号|法律番号]]が付けられ、主任の国務大臣の署名及び内閣総理大臣の連署(憲法第74条)がなされる。
==== 法律の発効(施行) ====
法律は、法律の成立後、後議院の議長から内閣を経由して奏上された日から30日以内に公布されなければならない<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=法律ができるまで |url=https://www.clb.go.jp/recent-laws/process/ |website=内閣法制局 |access-date=2023-08-24 |language=ja}}</ref>。また、法律の公布に当たっては、公布のための閣議決定を経た上、官報に掲載されることによって行われる<ref name=":0" />。公布は、法律が現実に発効(施行)するための要件であり、公布によって国民を拘束する力が生じるのではない。
公布された法律がいつから施行されるかについては、通常、公布される法律の附則に定められているが、定めがない場合は公布の日から起算して20日を経過した日から施行される([[法の適用に関する通則法]]2条)。
公布・施行が同一日になされる場合は、官報が、独立行政法人国立印刷局官報課または東京都官報販売所(一般の希望者が官報を閲覧・購入しようとすればなしえた最初の場所)に到達した時点で公布があったとされる(判例)。
=== 日本の法律に関する個別の記事 ===
{{see also|日本の法律一覧}}
憲法・主な法律の条文は、[[e-Gov法令検索]][https://elaws.e-gov.go.jp/]で、参照できる。
日本国憲法施行後に制定されたすべての法律(制定済みの法律を改正するための法律を含む。)は、[[衆議院]]のウェブサイト[https://www.shugiin.go.jp/internet/index.nsf/html/index.htm]で、参照できる。
== 英国における立法過程 ==
[[イギリスの議会|イギリス議会]]は[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]と[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]の両院で構成され、法律は原則として両院で可決されたのち[[イギリスの君主|国王]]の裁可を経て成立する<ref name="rippou440">[[大森政輔]]・[[鎌田薫]]編『立法学講義』商事法務、2006年、440頁</ref>。
ただし、1911年及び1949年の国会法により、庶民院議長が金銭法案(Money Bill)であると判断した法案については、庶民院の通過後から会期終了の1ヶ月前までに貴族院に送付されれば、貴族院が可決しなくても国王の裁可を経て法案は成立する<ref name="rippou440" />。また、その他の一般法案(Public Bill)についても、貴族院は庶民院議員の任期延長に関する法案でない限り、庶民院の通過後1年間に限り法律の成立を遅らせることができるにすぎない<ref>[[大森政輔]]・[[鎌田薫]]編『立法学講義』商事法務、2006年、440-441頁</ref>。
実際には、庶民院と貴族院の議決が異なる場合、国会法による手続ではなく両者の協議によって解決されることが慣例となっている<ref>[[大森政輔]]・[[鎌田薫]]編『立法学講義』商事法務、2006年、441頁</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[法令]]
* [[法規]]
* [[立法]]
* [[法学]]([[法学者]])
* [[法用語一覧]]
* [[法律番組]]
{{法 (法学)}}
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[[Category:法令]] | 2003-03-06T02:48:05Z | 2023-12-20T16:08:43Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%BE%8B |
3,492 | インカ帝国 | インカ帝国(インカていこく、スペイン語:Imperio Inca、ケチュア語:タワンティン・スウユ(Tawantinsuyo, Tahuantinsuyo))は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が築いた帝国。文字を持たない社会・文明であった。首都はクスコ。
世界遺産である15世紀のインカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にクスコがある。1983年12月9日、クスコの市街地は世界遺産となった。
前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで約200年間続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていたことが遺跡および遺留品から判明している。
インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家である。メキシコ・グアテマラのアステカ文明、マヤ文明と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもある。その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、土器や織物などの遺物、生業、インカ道路網を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。なお、インカ帝国の版図に含まれる地域にはインカ帝国の成立以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれている。
インカ帝国は、被征服民族についてはインカ帝国を築いたケチュア族の方針により比較的自由に自治を認めていたため、一種の連邦国家のような体をなしていた。
ケチュア語で、「タワンティン」とは、「4」を意味し、「スウユ」とは、州、地方、文脈によっては国を表す。訳すと「四つの邦」という意味である。
「四つの邦(スウユ)」とは、
の4つを指す。4つのスウユへは全てクスコから伸びる街道が通じており、インカの宇宙観に基づいて4つの区分を象徴するよう首都のクスコも設計されていた。
なお、インカとはケチュア語で王(ないし皇帝)を意味する言葉だった。スペイン人はこの言葉を初めはケチュア族をさす言葉として使われ、次第に国をさす言葉として発音および使うようになった。
アンデス文明はおそらくBP約9,500年(約紀元前7500年)ころまでに始まったと考えられている。インカの祖先は、現在「プーナ」と呼ばれているペルーの高原地方を根拠に遊牧民族として暮らしていたと思われている。この地勢条件により、彼らの身体は低身長化、体型の頑健化という特徴をもって発達した。平均身長は、男性が1.57m、女性が1.45mであった。高地に適応するため、彼らは他地域の人々に比べ肺活量が30パーセントほど大きくなり、心拍数も少なく、血液の量も他地域の人々より多い2リットルとなり、ヘモグロビン量も2倍以上であったことが遺体から推測されている。
アンデスの研究者らは、約500年間にわたり偉大な国家権力の行政資本と儀式により栄えたチチカカ湖地方のティワナクをインカ帝国の最も重要なさきがけ(プレ・インカ)のひとつとして認識している。
ケチュア族は、12世紀頃にクスコへ移住し、インカ族として成立した。これを始めとして、以降インカは中央アンデスだけでなく、コロンビア南部からチリ中部に至るまで南北4000kmに達する大帝国となるのである。最初のインカ族の統治者(サパ・インカ)であるマンコ・カパックの指揮の下、彼らはクスコ(ケチュア語:Qusqu'Qosqo)に小規模の都市国家を築いた。彼と続く7人のサパ・インカの在位期間は明確でないが、1250年から1438年頃までと想定されている。インカ帝国が成立する前の当地の文明は文字による記録を全く残していないため、インカは、どこからともなく出現したように見えるが、あくまで当地の過去を踏まえて成立したものである。彼らは先行する文化(ワリ帝国(スペイン語版、英語版)、中期ホライズン)から、建築様式、陶器、統治機関などを借用していた。
インカは中央高原地帯のクスコで発生し、海岸部に広がっていった。考古学者は、標高5,300mに及ぶ高原の温帯で永久的な居住地の跡を発見した。彼らの高地における資産は、リャマ、アルパカ、ビクーニャに限定されていた。
インカによる征服の基盤は、彼らの組織であると信じられている。彼らの神の象徴は太陽神であり、官僚制度は11あった王のアイリュに所属する官僚による団体から成り立っており、家系は正皇后であるコヤとなった自らの姉妹との近親婚によって継続した。インカは平等の考えに基づいた社会であった。全ての人民が、生きるために働かねばならず、貴族ですら見本を示した。しかし数人の考古学者は、これが2つの階級からなる制度を支えるための建前にすぎなかったと信じている。その理由として官僚エリートが法を犯したときの刑罰は大して厳しくなく、このことは体制の維持のために上層階級が重要視されたことを意味した。
インカ帝国の拡張が始まった原因は、おそらくその気候条件の結果であろうと推定されている。パチャクテクは彼自身が選び抜いた家庭出身の指揮官を訓練した。兵卒は、木製の柄と石製又は青銅製の斧頭を備えた青銅製の戦斧、投石器、ランス、投げ槍、弓矢、皮革で覆った木製の盾、綿或いは竹製の兜、刺し子の鎧により武装した。攻略された属州においては、インカの官僚が従前の地方官僚の上に置かれた。これら官僚の子弟はクスコに人質に取られ、攻略された属州の忠誠の保証とされた。インカ帝国はケチュア語を公用語に、太陽崇拝を国教とした。また、急速な灌漑と台地栽培方式の開発により生産力を増強するために労働力を搾取し、肥料としては沿岸の島々で発見された堆積グアノを使用した。インカの社会制度は、儀式と神の名による強制により裏打ちされた厳格な権威主義政体を要したのだ。伝統的にインカの軍は皇子に統率されていた。
パチャクテクは彼の帝国に欲した地方に工作員を派遣し、政治組織、軍事力及び資源に関する報告を得た後、その地の指導者に宛て、彼らがインカに従属する指導者として富裕となることを約束すること、高品位の織物などの高級品を贈ること、そして彼の帝国に加わることの利を強調した手紙を送った。多くの場合彼らは、インカの統治を既成事実として受け入れ平和裡に従った。各指導者の子弟はインカの統治制度について学ぶためクスコに集められ、その後故郷に戻って指導者となった。これによりサパ・インカは、それまでの指導者の子弟にインカの高貴性を吹き込むとともに、運がよければ、帝国内の様々な地方の家族出身の彼らの娘と結婚することとなった。
1438年、彼らはサパ・インカ(最上位の王)パチャクテク・クシ・ユパンキ(パチャクテクとは世界を震撼させる者、世界を造り変える者の意)の命令下、壮大な遠征による拡大を始めた。パチャクテクという名は、現代のアプリマク県にいたチャンカ族を征服した後に与えられたものである。パチャクテクの在位中、彼と彼の息子トゥパック・インカ・ユパンキは、アンデス山脈のほぼ全て(おおよそ現代のペルーとエクアドルに当たる)を制圧した。
1445年、第9代パチャクテクは、チチカカ湖地方の征服を始めた。
パチャクテクの皇子であったトゥパック・インカ・ユパンキは1463年北征を始め、1471年パチャクテクが死亡してからはサパ・インカとして征服事業を継続した。彼の手になった征服中、最も重要であったのはペルー海岸を巡る唯一の真の敵であったチムー王国に対するそれであった。トゥパック・インカ・ユパンキの帝国は、現エクアドル、現コロンビアにまで及ぶほど北に伸長した。彼は既存の文化、特にチムー文化の様式を、発展させ取り入れた。
トゥパック・インカ・ユパンキの皇子であったワイナ・カパックは、現エクアドルとペルーの一部に当たる北部にわずかな領土を付け加えた。
帝国の南進は、マプチェ族による大規模な抵抗に遭ったマウレの戦い(スペイン語版、英語版)の後に停止した。最盛期のインカ帝国の領域は、ペルー、ボリビア、エクアドルの大部分、マウレ川以北のチリの広大な部分を含み、また、アルゼンチン、コロンビアの一角にまで及んでいた。しかし、帝国南部の大部分(コジャ・スウユと命名された地方)は砂漠(アタカマ砂漠、アタカマ塩原など)による不毛地帯であった。
パチャクテクは、クスコ王国を新帝国「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。タワンティンスウユは、中央政府及びその長であるサパ・インカと、強力な指導者に率いられる4つの属州(北西のチンチャイ・スウユ(スペイン語版、英語版)、北東のアンティ・スウユ(スペイン語版、英語版)、南西のクンティ・スウユ(スペイン語版、英語版)、南東のコジャ・スウユ(スペイン語版、英語版))とから成り立つ連邦制であった。
パチャクテクはまた、根拠地或いは避暑地としてマチュ・ピチュを建設したと考えられている。マチュ・ピチュについては一方で農業試験場として建設されたとする見解も存在する。
天然痘はスペイン人の侵略者たちが最初に帝国に達するより前にコロンビアから急速に伝染した。おそらくは効率的なインカ道により伝染(波及)が容易になったものである。天然痘はわずか数年間でインカ帝国人口の60パーセントから94パーセントを死に至らしめ、人口の大幅な減少を引き起こした。
スペインのコンキスタドール(征服者)たちは、フランシスコ・ピサロ兄弟に率いられパナマから南下し、1526年にインカ帝国の領土に達した。1527年、皇帝ワイナ・カパックが死去。彼らが大いなる財宝の可能性に満ちた富裕な土地に達したのは明確であったので、ピサロは1529年の遠征の後に一旦スペインに帰国し、その領域の征服と副王就任にかかわる国王の認可を当時のスペイン国王から得た。
ワイナ・カパックの二人の息子たちであるクスコのワスカルとキトの北インカ帝国皇帝アタワルパとの間で、内戦(スペイン語版、英語版)(1529年-1532年)が起こった。内戦が発生した原因は未だに分かっていない。
1532年にスペインのコンキスタドール(征服者)がペルーに戻ってきたとき、インカ帝国はかなり弱体化していた。その原因としては、インカ帝国内戦が勃発したことや新たに征服された領土内に不安が広がったことが挙げられるが、それ以上に中央アメリカから広まった天然痘の影響が大きかったと考えられる。コンキスタドールは身長こそ少し高かったものの、インカには確かに途方もない高地に順応しているという利点があった。ピサロ隊の兵力は、わずか168名の兵士と大砲1門、馬27頭と決して抜きんでたものではなかった。そのため、万一、自隊を簡単に壊滅できそうな敵に遭遇したら、その場をどのように切り抜けるかをピサロはいつも説いていた。完全に武装されたピサロの騎兵は、技術面ではインカ軍に大きく勝るものであった。アンデス山脈では、敵を圧倒するために大人数の兵士を敵地に送り込む攻城戦のような戦闘が伝統的な戦法であったが、兵士の多くは士気の低い徴集兵であった。一方、スペイン人はすでに近代以前に「鉄砲」(Arcabuz)などの優れた兵器を開発しており、イベリア半島で何世紀にもわたるムーア人との戦いを経験し、さまざまな戦術を身につけていた。このようにスペイン人は戦術的にも物質的にも優位であったうえに、インカによる自領の統治を断ち切ろうとする何万もの同盟者を現地で獲得していた。
最初の交戦は、現代のエクアドル、グアヤキル近郊の島で1531年4月に始まったプナの戦い(英語版)であった。その後ピサロは、1532年7月にピウラを建設した。エルナンド・デ・ソトは内陸部の探検のために送り出され、兄との内戦に勝利し8万人の兵とともにカハマルカで休息中の皇帝アタワルパとの会見への招待状を携え帰還した。
ピサロとビセンテ・デ・バルベルデ(スペイン語版、英語版)神父らの随行者は、少数の供しか連れていなかった皇帝アタワルパとの会見に臨んだ。バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と帝国のカルロス1世への服従とキリスト教への改宗とを要求した投降勧告状(requerimiento)を読み上げた。言語障壁と拙い通訳のため、アタワルパは神父によるキリスト教の説明に幾分困惑し、使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われている。アタワルパは、ピサロの使節が提供したキリスト教信仰の教義について更に質問を試みたが、スペイン人たちは苛立ち、皇帝の随行者を攻撃、皇帝アタワルパを人質として捕らえた(アタワルパの捕縛(スペイン語版、英語版)、1532年11月16日)。
人質として捕らえられた皇帝アタワルパはスペイン人たちに、彼が幽閉されていた大部屋1杯分の金と2杯分の銀を提供した。ピサロはこの身代金が実現しても約束を否定し釈放を拒否した。アタワルパの幽閉中に先の内戦でアタワルパに捕らえられていた兄のワスカルが他の場所で暗殺された。スペイン人たちはこれをアタワルパの命令であったと主張、1533年7月のアタワルパ処刑に際しては、これは告訴理由の一つとなった。
スペイン人たちはアタワルパの弟マンコ・インカ・ユパンキ(一説に弟ではなく、下級貴族出身とも)の擁立を強行し、スペイン人たちが北部の反乱を鎮圧する戦いの間は協力関係が続いた。その間、ピサロの仲間ディエゴ・デ・アルマグロはクスコを要求した。マンコ・インカはスペイン人同士の不和を利用することを試み、1536年にクスコを回復したが、スペイン人たちに奪還された。
マンコ・インカはビルカバンバに後退し、彼とその後継者たちはそこで新しい「ビルカバンバ(Vilcabamba)のインカ帝国(スペイン語版、英語版)」(1537年 - 1572年)を更に36年間統治し、スペイン人たちへの襲撃や反乱の扇動を続けた。 こうした状況の中、伝染病が壊滅的な打撃を与えた。さらに、ヨーロッパから到来した他の病気の波により更に人口は減少した。1546年(推定)のチフス、1558年のインフルエンザと天然痘、1589年の天然痘再流行、1614年のジフテリア、1618年の麻疹、こうしてインカ文化の残滓は破壊された。1572年、インカの最後の要塞が征服され、マンコ・インカの皇子で最後の皇帝トゥパック・アマルは捕らえられ、クスコで処刑された。ここにインカ帝国の政治的権威下でのスペインによる征服への抵抗は終結した。
インカ帝国が倒れた後、新たなスペイン人の統治者たちはインカ帝国に住む人々に厳しい苛政をしくとともに、インカ帝国の伝統を抑圧した。洗練された営農組織を含むインカ文化の多くの分野が組織的に破壊された。スペイン人たちは人民を死に至るまで酷使するためにインカのミタ制(労役)を利用した。各家族から1人が徴用され、ポトシの巨大な銀山に代表される金銀山で働かされた。
インカ帝国は滅ぼされた後も、様々な影響を後世に残した。インカ皇族とスペイン人のメスティーソだったインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガは17世紀に『インカ皇統記(スペイン語版、英語版)』(1609年)を著したが、この中で理想化されたインカのイメージは18世紀になってから「インカ・ナショナリズム」と呼ばれる運動の源泉となった。「インカ・ナショナリズム」はインディオのみならず、クリオージョ支配層にも共有されて様々な反乱の原動力となり、その中で最大のものとなったのが、1780年のトゥパク・アマルー2世の反乱(スペイン語版、英語版)(1780年 - 1782年)だった。
南アメリカがスペインから独立する19世紀初頭には、ベネズエラの独立指導者のフランシスコ・デ・ミランダやアルゼンチンの独立指導者のマヌエル・ベルグラーノらにはインカ帝国は新しい国家の立ち返るべき地点の一つと見なされた。特にベルグラーノが主要な役割を果たした1816年9月7日のトゥクマン議会(英語版)では、新たに独立する南アメリカ連合州でのインカ皇帝の復古、ケチュア語とアイマラ語の公用語化などがスペイン語とケチュア語で書かれた独立宣言に盛り込まれたが、実際にはこのような政策は実現には至らなかった。
独立後のペルーにおいても、現実に存在するインディオが様々な人種主義的被害を受けたのに対し、既に滅びたインカ帝国は理想視され、国民的なアイデンティティの基盤となった。インカは今でもペルーの国民的な飲料インカ・コーラなどにその名を留めている。
インカ帝国はケチュア語を公用語に、太陽崇拝(→インティ、五月の太陽)を国教とした。
公用語はケチュア語であり、積極的に普及がはかられた。しかし、文字文化を持たなかった(かつては文字を持っていたが、迷信的理由により廃止したという説もある)。そのため、口頭伝承がインカ帝国崩壊後に布教のために入ってきたスペイン人修道士による記録(年代記)の形でわずかに残されているにすぎず、不明確な部分もあり、今後の研究が待たれる所もある。文字の代わりとして、キープと呼ばれる結び縄による数字表記が存在し、これで暦法や納税などの記録を行った。近年になって、このキープが言語情報を含んでいる事が研究によって明らかにされている。
インカ帝国は、多言語、多文化、多民族の継ぎ接ぎによって成立していた。帝国の各構成要素は、均一であった訳ではなく、地方の各文化は、完全に統合されていたのでもなかった。政体は君主制であり、近親結婚によって生まれた一族による世襲政治である。これは彼らの宗教観から、広く交雑する事で、皇族の血筋が汚されると考えたためである。「サパ・インカ(皇帝)」は太陽神インティの化身としても考えられ、当時の官僚は、同時に神官でもあった。臣下が王に謁見するとき、王を直接見ることは禁じられていた。
インカ帝国は4つのスウユ(州)に区分されていた。各スウユはいくつかのワマン(県)に、ワマンは1万人の集団ウニュ(村)に分かれていた。ウニュ(村)の長にはインカ帝国が成立する前からの支配者階級が、スウユ(州)やワマン(県)の長にはインカの血をひく上級貴族が任命され、あわせてインカの貴族階級(クラカ)を形成した。
行政は入れ子状の階層構造になっており、王の側近には秘書、筆頭会計、出納係がいて財産を管理し、各地方にも会計係と出納係が置かれた。インカ帝国ではキープと呼ばれる縄の道具を記録や行政管理に用いていた。キープは色や太さが異なる紐を結んで作られ、色や結び目によって数を表現した。キープは10進法で位取りも行われており、帳簿に数字を記録することと同様の機能を持った。農産物・家畜・人口・納税記録などの情報はキープによって記録され、キープカマヨック(キープ保持者)と呼ばれる官僚が管理した。計算にはユパナ(英語版)と呼ばれる道具が使われ、ユパナで集計した結果をキープに保存した。
地方組織とは別に、男女の社会集団が存在した。男性には、ヤナコーナと呼ばれる集団があり、耕作や雑用のため世襲的にインカに仕えた。女性には、アクリャコーナやママコーナと呼ばれる集団があり、容貌の美しいものを徴用して作られた。アクリャコーナは各地の館にかこわれ、チチャや織物を作ることに従事した。ヤナコーナやアクリャコーナはアイリュに属さず、中央政府の監督を受けた。
それ以外に、鉱山労働や道路の建設などの労役が若干あった。この労役制度はミタ制と呼ばれる。この労役の成果の一つとして、チャスキと呼ばれる飛脚による通信網を確立させ、広大な領土を中央集権により統治していた。なお、この通信網の名残として、チャスキという言葉はアンデスのいくつかの場所の地名としていまも残っている。日本で言うところの「宿」のようなものである。
広漠とした平野は降雨量が少なく農耕に適さないために住む者も稀であったが、高原地帯は海から吹き上げる風によって雲が形成され霧雨が降るため、湿潤な環境となり農耕に適した。このような気候条件から、今日でも驚異的な高山都市を形成するに至った。標高差を利用して多様な物資を調達することはインカ帝国の成立以前から行われており、垂直統御とも呼ばれる。
海に面した急勾配の土地を利用して段々畑を作り、トマトやトウガラシは低い土地に、寒冷地を好むジャガイモは高地にと、高度に応じた農作物の多品種生産を行っていた。ジャガイモやトウモロコシを主な作物とする農耕と、リャマやアルパカによる牧畜が行われていた。また、“クイッ、クイッ”と鳴くことから「クイ」と呼ばれたテンジクネズミも食用として広く民衆によって飼育されていた。
土地・鉱山・家畜などすべての生産手段は共同体に帰属し、貴族ですら私有を認められなかった。この共同体をアイリュと呼ぶ。アイリュの土地はインカ皇帝・太陽神・人民の3つに分割され、インカ皇帝と太陽神の土地に対する労働を行わせ、その生産物を徴収する形態で徴税が行われた。こうして集められた生産物は再分配され、寡婦・老人・孤児などに支給されたり飢饉などの非常時に放出された。この体制は社会主義にも類似したものであった。また、アイリュの中にはアイニ(スペイン語版、英語版)(Ayni)と呼ばれる相互扶助的な仕組みもあった。
インカ帝国全体としては、高級品と労働力に対する課税と交換とに基づく経済が存在した。課税方法については、「周知の通り、高地においても平地においても、収税吏に課税された貢納物を支払うことに失敗した村はなかった。住民が貢納物の支払いを肯んじなかった場合、4か月毎に生きているシラミで満たされた大きな羽根を支払うべきであるとの命令をした州さえ存在した。これは貢納物の支払いに関し、教示し馴致させるインカの手法を示している。」という説明がなされている。
貨幣は用いられておらず、物々交換によって経済活動を行なっていた。北部のペルーやエクアドルにあたる地域では、ビーズ、ボタン状の金、銅製の斧の3種類の貨幣が用いられていたが、インカの正式な制度には採用されなかった。
インカには様々な創造神話が存在した。
ビラコチャ伝説では次のとおりである。ビラコチャは、村を建設するためにクスコに近いパカリ・タンプ (Paqariq Tanpu) という所で暮らしていた4人の息子(マンコ・カパック(Manqu Qhapaq:ケチュア語で素晴らしい基礎)、アヤ・アンカ(Ayar Anca)、アヤ・カチ(Ayar Kachi)、アヤ・ウチュ(Ayar Uchu))と4人の娘(ママ・オクリョ(Mama Ocllo)、ママ・ワコ(Mama Waqu)、ママ・ラウア(Mama Rawa)、ママ・クラ(Mama Cura))(彼らはアヤル兄弟として知られている)を送り出し、旅の途中にマンコとママ・オクリョの間に生まれたシンチ・ロカが、自分たちのクスコの谷に仲間を導き新しい村が開かれた。また、兄弟姉妹たちはクスコの谷へ遠征しながら近隣の10の部落を併合していったとも伝えられている。この時、支配者の象徴である金の杖が父ビラコチャによりマンコ・カパックに与えられたとされるが、一説にはマンコ・カパックは兄を嫉妬と裏切りで殺してクスコの支配者になり、マンコ・カパック(Manco Capac)として知られるようになったとされる。
別の起源神話であるインティ伝説では次のとおりとなる。太陽神インティがチチカカ湖の深みから出てくるよう命じると、湖の中からマンコ・カパックとママ・オクリョが生まれた。彼らは兄弟たちとともにパカリタンボ (Pacaritambo) という洞窟からこの世に遣わされたともいう。インティはタパク・ヤウリ (Tapac Yauri) と呼ばれる金の杖を与え、その杖が地面に沈む地に太陽の神殿を作るように指示した。マンコ・カパックはママ・オクリョたちとともにクスコの町を建設するために地下の道を通って北上し、クスコで父インティを讃える神殿を建設した。クスコへの旅の途中、何人かの兄弟は石になり、偶像(ワカ : Huaca)になった。彼らは、クスコ下王朝(クスコ王国第1王朝)を打ち立てた。
また、別の説では太陽神インティが地上の野蛮な生活ぶりを哀れんだために息子と娘を地上へ使わしたが、チチカカ湖に降り立った後、金の笏を投げるとクスコ盆地のワナカウリの丘で地中深くに沈んだ。そこで兄妹二人でインティの言葉に従い、クスコに都を築いて周辺の未開な人々に文化を与えてインカ帝国の礎を築く事になったとしており、兄の名前がマンコ・カパック、妹の名前がママ・オクリョ・ワコであった。
マンコ・カパックとママ・オクリョはチチカカ湖にある太陽の島(Isla del sol)に現れたとも、湖の彼方からやってきたとも、天から降り立ったともいわれる。さらにママ・オクリョは太陽の島ではなく隣の月の島(Isla de la luna)に現れたともいわれる。マンコ・カパックは天の神パチャカマック(Pachacamac)の兄弟ともされる。
複数の伝承の矛盾に気づかせないために、庶民はビラコチャの名を口にすることが禁じられていたといわれる。これらの神話は、スペイン人の植民者により記録されるまで口伝で継承されたと考えられているが、キープに記録していたのではないかと考える研究者もいる。
なお、伝承に残っているインカ帝国の王(皇帝)のうち、この初代のマンコ・カパックだけは実在しない人物であるという説もある。
インカ帝国が西海岸部の砂漠地帯を領土に取り込んだ際、現地にあったミイラ信仰をとりこんだ。歴代の皇帝はこれを人心掌握や権威の保持など、政治的に利用した。例えば、インカがアマゾンに接した地域を征服する際、その地域ではそれまでは崖の中腹にある穴に先祖の骨を置いて墓としていたが、インカはそれらの骨を打ち捨てて代わりに布を巻いたミイラを崖に安置するようにした。こうして半ば強引に征服地の民衆の心の拠り所をインカの中央政権に刷りかえさせたのだった。また、歴代皇帝は死後ミイラにされて権威が保たれ、皇帝に仕えていた者達はそのミイラを生前と同じように世話をすることで領土や財産を保持した。これは即ち、次の皇帝は前の皇帝から遺産を相続できないということであり、結果、即位した新しい皇帝は自分の財産を得るために領土拡張のための遠征を行わざるを得なかった。代を重ねるにつれ死者皇帝が現皇帝の権威を凌ぐようになり、必然的に各々のミイラに仕える者達の権力も増大。それに対抗するため12代目の皇帝が、それまでの全ての皇帝のミイラの埋葬と、そのミイラとそれに仕える者達の所領や財産の没収を企て、それが内乱へと発展。その混乱の最中にスペインの侵攻があり滅亡した。
「知識は庶民のためのものではない」という考えのもと、いわゆる文化活動は貴族階級だけに許された。一般庶民はそれぞれの役務に必要なことだけを教えられ、それ以上を知ろうとすることは禁止されていた。手工業などの技術も貴族によって独占されていた。すなわち貴族が職人として労働に従事していたことになる。
彼らは神殿、要塞、優れた道路を建設した。峻厳な山脈地帯に広がった国土を維持するため、王は国中の谷に吊り橋を掛け、道路を作った。その道路(インカ道路網)は北部のキトからチリ中部のタルカに至るまで5,230kmにも達した。急峻な地形であるために人力もしくは家畜(偶蹄目)によって物資を輸送するしかなく、車輪を用いた運搬手段は発明されなかった。また野生馬を飼いならし、人や物資の運搬に用いることはなかった。1トポ(約7km)毎に里程、約19km毎にタンボ(宿駅)が、サパ・インカと随行者のために設置されていた。チャスキ(飛脚)が約8km毎に設置され、1日あたり約240kmの割合で緊急連絡をリレーした。口頭による緊急連絡は、おそらく数に基づく符号を含むキープ(結縄)により補われた。これらはヨーロッパで古くに使用されていた割符と同等の物であった。この道路網は帝国の維持に必要であったが、皮肉なことにスペインによる征服をより容易にした。
道中のタンボには、食物の備蓄庫も置かれた。収穫された農作物は税として備蓄庫に徴収され、集められた備蓄食料は惜しみも無く民に放出された。この結果、インカはその豊満な食料を求めた人達の心を掴んで僅か3代50年で広大な国土を得ることが出来た。この平等な徴収及び分配活動も、スペイン人が食料の補給に困ることなくインカを侵略できてしまった結果を生んだ。
ヨーロッパの技術が伝わるよりも前から、プレ・インカ時代の伝統を受け継いで金やトゥンバガ(金と銀・銅あるいは錫の合金)を精錬する技術を持っていた。いわゆるインカ帝国の金製品は実は合金製であり、そのためヨーロッパ人の侵略により、その大部分が溶かされて純金の延べ板にされてしまった(ワッケーロも参照)。一方、鞴を用いた高温の炉を作れず、鉄の製錬技術は無かった。鉄器と火器を持たなかったことは、スペインによる征服を容易にした。
また、幾何学文様が描かれた長頸の尖底土器が特徴で、チャビン文化などプレ・インカ時代の土器や織物のように蛇、コンドル、ピューマなどの動物をモチーフにしたものは少ない。 | [
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"text": "インカ帝国(インカていこく、スペイン語:Imperio Inca、ケチュア語:タワンティン・スウユ(Tawantinsuyo, Tahuantinsuyo))は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が築いた帝国。文字を持たない社会・文明であった。首都はクスコ。",
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"text": "世界遺産である15世紀のインカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にクスコがある。1983年12月9日、クスコの市街地は世界遺産となった。",
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"text": "前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで約200年間続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていたことが遺跡および遺留品から判明している。",
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"text": "インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家である。メキシコ・グアテマラのアステカ文明、マヤ文明と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもある。その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、土器や織物などの遺物、生業、インカ道路網を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。なお、インカ帝国の版図に含まれる地域にはインカ帝国の成立以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれている。",
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"text": "ケチュア族は、12世紀頃にクスコへ移住し、インカ族として成立した。これを始めとして、以降インカは中央アンデスだけでなく、コロンビア南部からチリ中部に至るまで南北4000kmに達する大帝国となるのである。最初のインカ族の統治者(サパ・インカ)であるマンコ・カパックの指揮の下、彼らはクスコ(ケチュア語:Qusqu'Qosqo)に小規模の都市国家を築いた。彼と続く7人のサパ・インカの在位期間は明確でないが、1250年から1438年頃までと想定されている。インカ帝国が成立する前の当地の文明は文字による記録を全く残していないため、インカは、どこからともなく出現したように見えるが、あくまで当地の過去を踏まえて成立したものである。彼らは先行する文化(ワリ帝国(スペイン語版、英語版)、中期ホライズン)から、建築様式、陶器、統治機関などを借用していた。",
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"text": "インカは中央高原地帯のクスコで発生し、海岸部に広がっていった。考古学者は、標高5,300mに及ぶ高原の温帯で永久的な居住地の跡を発見した。彼らの高地における資産は、リャマ、アルパカ、ビクーニャに限定されていた。",
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"text": "インカによる征服の基盤は、彼らの組織であると信じられている。彼らの神の象徴は太陽神であり、官僚制度は11あった王のアイリュに所属する官僚による団体から成り立っており、家系は正皇后であるコヤとなった自らの姉妹との近親婚によって継続した。インカは平等の考えに基づいた社会であった。全ての人民が、生きるために働かねばならず、貴族ですら見本を示した。しかし数人の考古学者は、これが2つの階級からなる制度を支えるための建前にすぎなかったと信じている。その理由として官僚エリートが法を犯したときの刑罰は大して厳しくなく、このことは体制の維持のために上層階級が重要視されたことを意味した。",
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"text": "インカ帝国の拡張が始まった原因は、おそらくその気候条件の結果であろうと推定されている。パチャクテクは彼自身が選び抜いた家庭出身の指揮官を訓練した。兵卒は、木製の柄と石製又は青銅製の斧頭を備えた青銅製の戦斧、投石器、ランス、投げ槍、弓矢、皮革で覆った木製の盾、綿或いは竹製の兜、刺し子の鎧により武装した。攻略された属州においては、インカの官僚が従前の地方官僚の上に置かれた。これら官僚の子弟はクスコに人質に取られ、攻略された属州の忠誠の保証とされた。インカ帝国はケチュア語を公用語に、太陽崇拝を国教とした。また、急速な灌漑と台地栽培方式の開発により生産力を増強するために労働力を搾取し、肥料としては沿岸の島々で発見された堆積グアノを使用した。インカの社会制度は、儀式と神の名による強制により裏打ちされた厳格な権威主義政体を要したのだ。伝統的にインカの軍は皇子に統率されていた。",
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"text": "パチャクテクは彼の帝国に欲した地方に工作員を派遣し、政治組織、軍事力及び資源に関する報告を得た後、その地の指導者に宛て、彼らがインカに従属する指導者として富裕となることを約束すること、高品位の織物などの高級品を贈ること、そして彼の帝国に加わることの利を強調した手紙を送った。多くの場合彼らは、インカの統治を既成事実として受け入れ平和裡に従った。各指導者の子弟はインカの統治制度について学ぶためクスコに集められ、その後故郷に戻って指導者となった。これによりサパ・インカは、それまでの指導者の子弟にインカの高貴性を吹き込むとともに、運がよければ、帝国内の様々な地方の家族出身の彼らの娘と結婚することとなった。",
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"text": "1438年、彼らはサパ・インカ(最上位の王)パチャクテク・クシ・ユパンキ(パチャクテクとは世界を震撼させる者、世界を造り変える者の意)の命令下、壮大な遠征による拡大を始めた。パチャクテクという名は、現代のアプリマク県にいたチャンカ族を征服した後に与えられたものである。パチャクテクの在位中、彼と彼の息子トゥパック・インカ・ユパンキは、アンデス山脈のほぼ全て(おおよそ現代のペルーとエクアドルに当たる)を制圧した。",
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"text": "帝国の南進は、マプチェ族による大規模な抵抗に遭ったマウレの戦い(スペイン語版、英語版)の後に停止した。最盛期のインカ帝国の領域は、ペルー、ボリビア、エクアドルの大部分、マウレ川以北のチリの広大な部分を含み、また、アルゼンチン、コロンビアの一角にまで及んでいた。しかし、帝国南部の大部分(コジャ・スウユと命名された地方)は砂漠(アタカマ砂漠、アタカマ塩原など)による不毛地帯であった。",
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"text": "パチャクテクは、クスコ王国を新帝国「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。タワンティンスウユは、中央政府及びその長であるサパ・インカと、強力な指導者に率いられる4つの属州(北西のチンチャイ・スウユ(スペイン語版、英語版)、北東のアンティ・スウユ(スペイン語版、英語版)、南西のクンティ・スウユ(スペイン語版、英語版)、南東のコジャ・スウユ(スペイン語版、英語版))とから成り立つ連邦制であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "パチャクテクはまた、根拠地或いは避暑地としてマチュ・ピチュを建設したと考えられている。マチュ・ピチュについては一方で農業試験場として建設されたとする見解も存在する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "天然痘はスペイン人の侵略者たちが最初に帝国に達するより前にコロンビアから急速に伝染した。おそらくは効率的なインカ道により伝染(波及)が容易になったものである。天然痘はわずか数年間でインカ帝国人口の60パーセントから94パーセントを死に至らしめ、人口の大幅な減少を引き起こした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "スペインのコンキスタドール(征服者)たちは、フランシスコ・ピサロ兄弟に率いられパナマから南下し、1526年にインカ帝国の領土に達した。1527年、皇帝ワイナ・カパックが死去。彼らが大いなる財宝の可能性に満ちた富裕な土地に達したのは明確であったので、ピサロは1529年の遠征の後に一旦スペインに帰国し、その領域の征服と副王就任にかかわる国王の認可を当時のスペイン国王から得た。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 25,
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"text": "ワイナ・カパックの二人の息子たちであるクスコのワスカルとキトの北インカ帝国皇帝アタワルパとの間で、内戦(スペイン語版、英語版)(1529年-1532年)が起こった。内戦が発生した原因は未だに分かっていない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1532年にスペインのコンキスタドール(征服者)がペルーに戻ってきたとき、インカ帝国はかなり弱体化していた。その原因としては、インカ帝国内戦が勃発したことや新たに征服された領土内に不安が広がったことが挙げられるが、それ以上に中央アメリカから広まった天然痘の影響が大きかったと考えられる。コンキスタドールは身長こそ少し高かったものの、インカには確かに途方もない高地に順応しているという利点があった。ピサロ隊の兵力は、わずか168名の兵士と大砲1門、馬27頭と決して抜きんでたものではなかった。そのため、万一、自隊を簡単に壊滅できそうな敵に遭遇したら、その場をどのように切り抜けるかをピサロはいつも説いていた。完全に武装されたピサロの騎兵は、技術面ではインカ軍に大きく勝るものであった。アンデス山脈では、敵を圧倒するために大人数の兵士を敵地に送り込む攻城戦のような戦闘が伝統的な戦法であったが、兵士の多くは士気の低い徴集兵であった。一方、スペイン人はすでに近代以前に「鉄砲」(Arcabuz)などの優れた兵器を開発しており、イベリア半島で何世紀にもわたるムーア人との戦いを経験し、さまざまな戦術を身につけていた。このようにスペイン人は戦術的にも物質的にも優位であったうえに、インカによる自領の統治を断ち切ろうとする何万もの同盟者を現地で獲得していた。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "最初の交戦は、現代のエクアドル、グアヤキル近郊の島で1531年4月に始まったプナの戦い(英語版)であった。その後ピサロは、1532年7月にピウラを建設した。エルナンド・デ・ソトは内陸部の探検のために送り出され、兄との内戦に勝利し8万人の兵とともにカハマルカで休息中の皇帝アタワルパとの会見への招待状を携え帰還した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ピサロとビセンテ・デ・バルベルデ(スペイン語版、英語版)神父らの随行者は、少数の供しか連れていなかった皇帝アタワルパとの会見に臨んだ。バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と帝国のカルロス1世への服従とキリスト教への改宗とを要求した投降勧告状(requerimiento)を読み上げた。言語障壁と拙い通訳のため、アタワルパは神父によるキリスト教の説明に幾分困惑し、使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われている。アタワルパは、ピサロの使節が提供したキリスト教信仰の教義について更に質問を試みたが、スペイン人たちは苛立ち、皇帝の随行者を攻撃、皇帝アタワルパを人質として捕らえた(アタワルパの捕縛(スペイン語版、英語版)、1532年11月16日)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "人質として捕らえられた皇帝アタワルパはスペイン人たちに、彼が幽閉されていた大部屋1杯分の金と2杯分の銀を提供した。ピサロはこの身代金が実現しても約束を否定し釈放を拒否した。アタワルパの幽閉中に先の内戦でアタワルパに捕らえられていた兄のワスカルが他の場所で暗殺された。スペイン人たちはこれをアタワルパの命令であったと主張、1533年7月のアタワルパ処刑に際しては、これは告訴理由の一つとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "スペイン人たちはアタワルパの弟マンコ・インカ・ユパンキ(一説に弟ではなく、下級貴族出身とも)の擁立を強行し、スペイン人たちが北部の反乱を鎮圧する戦いの間は協力関係が続いた。その間、ピサロの仲間ディエゴ・デ・アルマグロはクスコを要求した。マンコ・インカはスペイン人同士の不和を利用することを試み、1536年にクスコを回復したが、スペイン人たちに奪還された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "マンコ・インカはビルカバンバに後退し、彼とその後継者たちはそこで新しい「ビルカバンバ(Vilcabamba)のインカ帝国(スペイン語版、英語版)」(1537年 - 1572年)を更に36年間統治し、スペイン人たちへの襲撃や反乱の扇動を続けた。 こうした状況の中、伝染病が壊滅的な打撃を与えた。さらに、ヨーロッパから到来した他の病気の波により更に人口は減少した。1546年(推定)のチフス、1558年のインフルエンザと天然痘、1589年の天然痘再流行、1614年のジフテリア、1618年の麻疹、こうしてインカ文化の残滓は破壊された。1572年、インカの最後の要塞が征服され、マンコ・インカの皇子で最後の皇帝トゥパック・アマルは捕らえられ、クスコで処刑された。ここにインカ帝国の政治的権威下でのスペインによる征服への抵抗は終結した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "インカ帝国が倒れた後、新たなスペイン人の統治者たちはインカ帝国に住む人々に厳しい苛政をしくとともに、インカ帝国の伝統を抑圧した。洗練された営農組織を含むインカ文化の多くの分野が組織的に破壊された。スペイン人たちは人民を死に至るまで酷使するためにインカのミタ制(労役)を利用した。各家族から1人が徴用され、ポトシの巨大な銀山に代表される金銀山で働かされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "インカ帝国は滅ぼされた後も、様々な影響を後世に残した。インカ皇族とスペイン人のメスティーソだったインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガは17世紀に『インカ皇統記(スペイン語版、英語版)』(1609年)を著したが、この中で理想化されたインカのイメージは18世紀になってから「インカ・ナショナリズム」と呼ばれる運動の源泉となった。「インカ・ナショナリズム」はインディオのみならず、クリオージョ支配層にも共有されて様々な反乱の原動力となり、その中で最大のものとなったのが、1780年のトゥパク・アマルー2世の反乱(スペイン語版、英語版)(1780年 - 1782年)だった。",
"title": "歴史"
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"text": "南アメリカがスペインから独立する19世紀初頭には、ベネズエラの独立指導者のフランシスコ・デ・ミランダやアルゼンチンの独立指導者のマヌエル・ベルグラーノらにはインカ帝国は新しい国家の立ち返るべき地点の一つと見なされた。特にベルグラーノが主要な役割を果たした1816年9月7日のトゥクマン議会(英語版)では、新たに独立する南アメリカ連合州でのインカ皇帝の復古、ケチュア語とアイマラ語の公用語化などがスペイン語とケチュア語で書かれた独立宣言に盛り込まれたが、実際にはこのような政策は実現には至らなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "独立後のペルーにおいても、現実に存在するインディオが様々な人種主義的被害を受けたのに対し、既に滅びたインカ帝国は理想視され、国民的なアイデンティティの基盤となった。インカは今でもペルーの国民的な飲料インカ・コーラなどにその名を留めている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "インカ帝国はケチュア語を公用語に、太陽崇拝(→インティ、五月の太陽)を国教とした。",
"title": "住民"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "公用語はケチュア語であり、積極的に普及がはかられた。しかし、文字文化を持たなかった(かつては文字を持っていたが、迷信的理由により廃止したという説もある)。そのため、口頭伝承がインカ帝国崩壊後に布教のために入ってきたスペイン人修道士による記録(年代記)の形でわずかに残されているにすぎず、不明確な部分もあり、今後の研究が待たれる所もある。文字の代わりとして、キープと呼ばれる結び縄による数字表記が存在し、これで暦法や納税などの記録を行った。近年になって、このキープが言語情報を含んでいる事が研究によって明らかにされている。",
"title": "民族"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "インカ帝国は、多言語、多文化、多民族の継ぎ接ぎによって成立していた。帝国の各構成要素は、均一であった訳ではなく、地方の各文化は、完全に統合されていたのでもなかった。政体は君主制であり、近親結婚によって生まれた一族による世襲政治である。これは彼らの宗教観から、広く交雑する事で、皇族の血筋が汚されると考えたためである。「サパ・インカ(皇帝)」は太陽神インティの化身としても考えられ、当時の官僚は、同時に神官でもあった。臣下が王に謁見するとき、王を直接見ることは禁じられていた。",
"title": "政治"
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"text": "インカ帝国は4つのスウユ(州)に区分されていた。各スウユはいくつかのワマン(県)に、ワマンは1万人の集団ウニュ(村)に分かれていた。ウニュ(村)の長にはインカ帝国が成立する前からの支配者階級が、スウユ(州)やワマン(県)の長にはインカの血をひく上級貴族が任命され、あわせてインカの貴族階級(クラカ)を形成した。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "行政は入れ子状の階層構造になっており、王の側近には秘書、筆頭会計、出納係がいて財産を管理し、各地方にも会計係と出納係が置かれた。インカ帝国ではキープと呼ばれる縄の道具を記録や行政管理に用いていた。キープは色や太さが異なる紐を結んで作られ、色や結び目によって数を表現した。キープは10進法で位取りも行われており、帳簿に数字を記録することと同様の機能を持った。農産物・家畜・人口・納税記録などの情報はキープによって記録され、キープカマヨック(キープ保持者)と呼ばれる官僚が管理した。計算にはユパナ(英語版)と呼ばれる道具が使われ、ユパナで集計した結果をキープに保存した。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "地方組織とは別に、男女の社会集団が存在した。男性には、ヤナコーナと呼ばれる集団があり、耕作や雑用のため世襲的にインカに仕えた。女性には、アクリャコーナやママコーナと呼ばれる集団があり、容貌の美しいものを徴用して作られた。アクリャコーナは各地の館にかこわれ、チチャや織物を作ることに従事した。ヤナコーナやアクリャコーナはアイリュに属さず、中央政府の監督を受けた。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 42,
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"text": "それ以外に、鉱山労働や道路の建設などの労役が若干あった。この労役制度はミタ制と呼ばれる。この労役の成果の一つとして、チャスキと呼ばれる飛脚による通信網を確立させ、広大な領土を中央集権により統治していた。なお、この通信網の名残として、チャスキという言葉はアンデスのいくつかの場所の地名としていまも残っている。日本で言うところの「宿」のようなものである。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "広漠とした平野は降雨量が少なく農耕に適さないために住む者も稀であったが、高原地帯は海から吹き上げる風によって雲が形成され霧雨が降るため、湿潤な環境となり農耕に適した。このような気候条件から、今日でも驚異的な高山都市を形成するに至った。標高差を利用して多様な物資を調達することはインカ帝国の成立以前から行われており、垂直統御とも呼ばれる。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "海に面した急勾配の土地を利用して段々畑を作り、トマトやトウガラシは低い土地に、寒冷地を好むジャガイモは高地にと、高度に応じた農作物の多品種生産を行っていた。ジャガイモやトウモロコシを主な作物とする農耕と、リャマやアルパカによる牧畜が行われていた。また、“クイッ、クイッ”と鳴くことから「クイ」と呼ばれたテンジクネズミも食用として広く民衆によって飼育されていた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 45,
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"text": "土地・鉱山・家畜などすべての生産手段は共同体に帰属し、貴族ですら私有を認められなかった。この共同体をアイリュと呼ぶ。アイリュの土地はインカ皇帝・太陽神・人民の3つに分割され、インカ皇帝と太陽神の土地に対する労働を行わせ、その生産物を徴収する形態で徴税が行われた。こうして集められた生産物は再分配され、寡婦・老人・孤児などに支給されたり飢饉などの非常時に放出された。この体制は社会主義にも類似したものであった。また、アイリュの中にはアイニ(スペイン語版、英語版)(Ayni)と呼ばれる相互扶助的な仕組みもあった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 46,
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"text": "インカ帝国全体としては、高級品と労働力に対する課税と交換とに基づく経済が存在した。課税方法については、「周知の通り、高地においても平地においても、収税吏に課税された貢納物を支払うことに失敗した村はなかった。住民が貢納物の支払いを肯んじなかった場合、4か月毎に生きているシラミで満たされた大きな羽根を支払うべきであるとの命令をした州さえ存在した。これは貢納物の支払いに関し、教示し馴致させるインカの手法を示している。」という説明がなされている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "貨幣は用いられておらず、物々交換によって経済活動を行なっていた。北部のペルーやエクアドルにあたる地域では、ビーズ、ボタン状の金、銅製の斧の3種類の貨幣が用いられていたが、インカの正式な制度には採用されなかった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "インカには様々な創造神話が存在した。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ビラコチャ伝説では次のとおりである。ビラコチャは、村を建設するためにクスコに近いパカリ・タンプ (Paqariq Tanpu) という所で暮らしていた4人の息子(マンコ・カパック(Manqu Qhapaq:ケチュア語で素晴らしい基礎)、アヤ・アンカ(Ayar Anca)、アヤ・カチ(Ayar Kachi)、アヤ・ウチュ(Ayar Uchu))と4人の娘(ママ・オクリョ(Mama Ocllo)、ママ・ワコ(Mama Waqu)、ママ・ラウア(Mama Rawa)、ママ・クラ(Mama Cura))(彼らはアヤル兄弟として知られている)を送り出し、旅の途中にマンコとママ・オクリョの間に生まれたシンチ・ロカが、自分たちのクスコの谷に仲間を導き新しい村が開かれた。また、兄弟姉妹たちはクスコの谷へ遠征しながら近隣の10の部落を併合していったとも伝えられている。この時、支配者の象徴である金の杖が父ビラコチャによりマンコ・カパックに与えられたとされるが、一説にはマンコ・カパックは兄を嫉妬と裏切りで殺してクスコの支配者になり、マンコ・カパック(Manco Capac)として知られるようになったとされる。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "別の起源神話であるインティ伝説では次のとおりとなる。太陽神インティがチチカカ湖の深みから出てくるよう命じると、湖の中からマンコ・カパックとママ・オクリョが生まれた。彼らは兄弟たちとともにパカリタンボ (Pacaritambo) という洞窟からこの世に遣わされたともいう。インティはタパク・ヤウリ (Tapac Yauri) と呼ばれる金の杖を与え、その杖が地面に沈む地に太陽の神殿を作るように指示した。マンコ・カパックはママ・オクリョたちとともにクスコの町を建設するために地下の道を通って北上し、クスコで父インティを讃える神殿を建設した。クスコへの旅の途中、何人かの兄弟は石になり、偶像(ワカ : Huaca)になった。彼らは、クスコ下王朝(クスコ王国第1王朝)を打ち立てた。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "また、別の説では太陽神インティが地上の野蛮な生活ぶりを哀れんだために息子と娘を地上へ使わしたが、チチカカ湖に降り立った後、金の笏を投げるとクスコ盆地のワナカウリの丘で地中深くに沈んだ。そこで兄妹二人でインティの言葉に従い、クスコに都を築いて周辺の未開な人々に文化を与えてインカ帝国の礎を築く事になったとしており、兄の名前がマンコ・カパック、妹の名前がママ・オクリョ・ワコであった。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "マンコ・カパックとママ・オクリョはチチカカ湖にある太陽の島(Isla del sol)に現れたとも、湖の彼方からやってきたとも、天から降り立ったともいわれる。さらにママ・オクリョは太陽の島ではなく隣の月の島(Isla de la luna)に現れたともいわれる。マンコ・カパックは天の神パチャカマック(Pachacamac)の兄弟ともされる。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "複数の伝承の矛盾に気づかせないために、庶民はビラコチャの名を口にすることが禁じられていたといわれる。これらの神話は、スペイン人の植民者により記録されるまで口伝で継承されたと考えられているが、キープに記録していたのではないかと考える研究者もいる。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "なお、伝承に残っているインカ帝国の王(皇帝)のうち、この初代のマンコ・カパックだけは実在しない人物であるという説もある。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "インカ帝国が西海岸部の砂漠地帯を領土に取り込んだ際、現地にあったミイラ信仰をとりこんだ。歴代の皇帝はこれを人心掌握や権威の保持など、政治的に利用した。例えば、インカがアマゾンに接した地域を征服する際、その地域ではそれまでは崖の中腹にある穴に先祖の骨を置いて墓としていたが、インカはそれらの骨を打ち捨てて代わりに布を巻いたミイラを崖に安置するようにした。こうして半ば強引に征服地の民衆の心の拠り所をインカの中央政権に刷りかえさせたのだった。また、歴代皇帝は死後ミイラにされて権威が保たれ、皇帝に仕えていた者達はそのミイラを生前と同じように世話をすることで領土や財産を保持した。これは即ち、次の皇帝は前の皇帝から遺産を相続できないということであり、結果、即位した新しい皇帝は自分の財産を得るために領土拡張のための遠征を行わざるを得なかった。代を重ねるにつれ死者皇帝が現皇帝の権威を凌ぐようになり、必然的に各々のミイラに仕える者達の権力も増大。それに対抗するため12代目の皇帝が、それまでの全ての皇帝のミイラの埋葬と、そのミイラとそれに仕える者達の所領や財産の没収を企て、それが内乱へと発展。その混乱の最中にスペインの侵攻があり滅亡した。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "「知識は庶民のためのものではない」という考えのもと、いわゆる文化活動は貴族階級だけに許された。一般庶民はそれぞれの役務に必要なことだけを教えられ、それ以上を知ろうとすることは禁止されていた。手工業などの技術も貴族によって独占されていた。すなわち貴族が職人として労働に従事していたことになる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "彼らは神殿、要塞、優れた道路を建設した。峻厳な山脈地帯に広がった国土を維持するため、王は国中の谷に吊り橋を掛け、道路を作った。その道路(インカ道路網)は北部のキトからチリ中部のタルカに至るまで5,230kmにも達した。急峻な地形であるために人力もしくは家畜(偶蹄目)によって物資を輸送するしかなく、車輪を用いた運搬手段は発明されなかった。また野生馬を飼いならし、人や物資の運搬に用いることはなかった。1トポ(約7km)毎に里程、約19km毎にタンボ(宿駅)が、サパ・インカと随行者のために設置されていた。チャスキ(飛脚)が約8km毎に設置され、1日あたり約240kmの割合で緊急連絡をリレーした。口頭による緊急連絡は、おそらく数に基づく符号を含むキープ(結縄)により補われた。これらはヨーロッパで古くに使用されていた割符と同等の物であった。この道路網は帝国の維持に必要であったが、皮肉なことにスペインによる征服をより容易にした。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "道中のタンボには、食物の備蓄庫も置かれた。収穫された農作物は税として備蓄庫に徴収され、集められた備蓄食料は惜しみも無く民に放出された。この結果、インカはその豊満な食料を求めた人達の心を掴んで僅か3代50年で広大な国土を得ることが出来た。この平等な徴収及び分配活動も、スペイン人が食料の補給に困ることなくインカを侵略できてしまった結果を生んだ。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパの技術が伝わるよりも前から、プレ・インカ時代の伝統を受け継いで金やトゥンバガ(金と銀・銅あるいは錫の合金)を精錬する技術を持っていた。いわゆるインカ帝国の金製品は実は合金製であり、そのためヨーロッパ人の侵略により、その大部分が溶かされて純金の延べ板にされてしまった(ワッケーロも参照)。一方、鞴を用いた高温の炉を作れず、鉄の製錬技術は無かった。鉄器と火器を持たなかったことは、スペインによる征服を容易にした。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "また、幾何学文様が描かれた長頸の尖底土器が特徴で、チャビン文化などプレ・インカ時代の土器や織物のように蛇、コンドル、ピューマなどの動物をモチーフにしたものは少ない。",
"title": "文化"
}
] | インカ帝国は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が築いた帝国。文字を持たない社会・文明であった。首都はクスコ。 世界遺産である15世紀のインカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にクスコがある。1983年12月9日、クスコの市街地は世界遺産となった。 前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで約200年間続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていたことが遺跡および遺留品から判明している。 インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家である。メキシコ・グアテマラのアステカ文明、マヤ文明と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもある。その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、土器や織物などの遺物、生業、インカ道路網を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。なお、インカ帝国の版図に含まれる地域にはインカ帝国の成立以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれている。 インカ帝国は、被征服民族についてはインカ帝国を築いたケチュア族の方針により比較的自由に自治を認めていたため、一種の連邦国家のような体をなしていた。 | {{Redirect|インカ|[[スペイン]]・[[バレアレス諸島州]]の[[ムニシピオ|ムニシピ]](基礎自治体)|インカ (スペイン)}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = インカ帝国
|日本語国名 = タワンティン・スウユ
|公式国名 = ''Tawantinsuyu''
|建国時期 = [[1438年]]
|亡国時期 = [[1533年]]
|先代1 = クスコ王国
|先旗1 =
|先代2 = チムー王国
|先旗2 =
|先代3 = コジャ王国
|先旗3 =
|先代4 = カニャーリ
|先旗4 =
|次代1 = 新インカ帝国
|次旗1 =
|次代2 = ビルカバンバ
|次旗2 =
|次代3 = ペルーの歴史#スペイン植民地時代(1542年-1824年)
|次旗3 = Flag of New Spain.svg
|次代4 = ヌエバ・カスティーリャ
|次旗4 = Flag of New Spain.svg
|次代5 = ヌエバ・トレド
|次旗5 = Flag of Cross of Burgundy.svg
|国旗画像 = Banner of the Inca Empire.svg
|国旗説明 = 国旗
|国旗幅 = 100
|国章リンク =
|国章幅 =
|標語 = {{lang|qu|Ama llulla. Ama suwa. Ama qella.}}<br />([[ケチュア語族|ケチュア語]]: 嘘をつくな。盗むな。怠けるな。)
|標語追記 =
|国歌 =
|国歌追記 =
|位置画像 = Tawantinsuyu (orthographic projection).svg
|位置画像説明 =
|位置画像幅 =
|公用語 = [[ケチュア語]]
|首都 = [[クスコ]]
|元首等肩書 = [[サパ・インカ|皇帝]]
|元首等年代始1 = [[1438年]]
|元首等年代終1 = [[1471年]]
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|元首等氏名2 = [[トゥパク・インカ・ユパンキ]]
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|元首等氏名3 = [[ワイナ・カパック]]
|元首等年代始4 = [[1527年]]
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|元首等氏名4 = [[ワスカル]]
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|元首等年代終5 = [[1533年]]
|元首等氏名5 = [[アタワルパ]]
|首相等肩書 =
|首相等年代始1 =
|首相等年代終1 =
|首相等氏名1 =
|面積測定時期1 = 1527年
|面積値1 = 2,000,000
|人口測定時期1 = 1527年
|人口値1 = 20,000,000
|変遷1 = [[パチャクテク]]の即位
|変遷年月日1 = {{Start date and age|1438|br=yes}}
|変遷2 = [[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|スペイン人による征服]]
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'''インカ帝国'''(インカていこく、{{lang-es|Imperio Inca}}、{{lang-qu|Tawantinsuyu}}(''タワンティン・スウユ''))は、[[南アメリカ]]の[[ペルー]]、[[ボリビア]]([[チチカカ湖]]周辺)、[[エクアドル]]を中心に[[ケチュア|ケチュア族]]が築いた帝国。[[文字]]を持たない社会・文明であった。首都は[[クスコ]]。
[[世界遺産]]である[[15世紀]]のインカ帝国の[[遺跡]]「[[マチュ・ピチュ]]」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にクスコがある。[[1983年]]12月9日、クスコの市街地は[[世界遺産]]となった。
前身となる[[クスコ王国]]は[[13世紀]]に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、[[1533年]]に[[スペイン|スペイン人]]の[[コンキスタドール]]に滅ぼされるまで<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/d36f710410dd6338fa23266b388d666101885a60|title=大航海の時代、日本では大地震が頻発する中、3英傑が天下統一を果たす|publisher=ヤフーニュース|date=2020-07-13|accessdate=2020-10-20}}</ref>約200年間続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在の[[チリ]]北部から中部、[[アルゼンチン]]北西部、[[コロンビア]]南部にまで広がっていたことが遺跡および遺留品から判明している。
インカ帝国は、[[アンデス文明]]の系統における最後の先住民国家である。[[メキシコ]]・[[グアテマラ]]の[[アステカ文明]]、[[マヤ文明]]と対比する南米の原アメリカの文明として、'''インカ文明'''と呼ばれることもある。その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、[[土器]]や織物などの遺物、生業、[[インカ道路網]]を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。なお、インカ帝国の版図に含まれる地域にはインカ帝国の成立以前にも文明は存在し、[[プレ・インカ]]と呼ばれている。
インカ帝国は、被征服民族についてはインカ帝国を築いたケチュア族の方針により比較的自由に自治を認めていたため、一種の[[連邦制|連邦国家]]のような体をなしていた。
== 国名 ==
[[ケチュア語]]で、「タワンティン」とは、「4」を意味し、「スウユ」とは、州、地方、文脈によっては国を表す。訳すと「四つの邦」という意味である。
「四つの邦(スウユ)」とは、
# [[クスコ]]の北方の旧[[チムー王国]]領や[[エクアドル]]を含む北海岸地方の'''{{仮リンク|チンチャイ・スウユ|es|Chinchaysuyo|en|Chinchay Suyu}}'''({{lang-qu|Chinchay Suyo}}、「北州」)
# クスコの南側から[[チチカカ湖]]周辺、[[ボリビア]]、[[チリ]]、[[アルゼンチン]]の一部を含む'''{{仮リンク|コジャ・スウユ|es|Collasuyo|en|Qullasuyu}}'''({{lang-qu|Colla Suyo}}、「南州」)
# クスコの東側の[[アマゾン川]]へ向かって降る[[アンデス山脈]]東側斜面の'''{{仮リンク|アンティ・スウユ|es|Antisuyo|en|Antisuyu}}'''({{lang-qu|Anti Suyo}}「東州」- [[アマゾン熱帯雨林|アマゾン]]のジャングル)
# クスコの西側へ広がる太平洋岸までの地域の'''{{仮リンク|クンティ・スウユ|es|Contisuyo|en|Kuntisuyu}}'''({{lang-qu|Conti Suyo}}、「西州」)
の4つを指す。4つのスウユへは全てクスコから伸びる街道が通じており、インカの[[宇宙観]]に基づいて4つの区分を象徴するよう首都のクスコも設計されていた。
なお、[[サパ・インカ|インカ]]とはケチュア語で[[王]](ないし[[皇帝]])を意味する言葉だった。スペイン人はこの言葉を初めはケチュア族をさす言葉として使われ、次第に国をさす言葉として発音および使うようになった。
== 歴史 ==
=== 考古学期 ・ アンデス文明 ===
[[ファイル:LocMap of WH Tiwanaku.png|thumb|right|[[ティワナク|ティワナク文化]]の位置]]
{{See also|[[ワリ|ワリ文化]]|[[ティワナク|ティワナク文化]]|{{仮リンク|ワリ帝国|es|Imperio Wari|en|Wari Empire}}}}
[[アンデス文明]]はおそらく[[BP (年代測定)|BP]]約9,500年(約[[紀元前7500年]])ころまでに始まったと考えられている。インカの祖先は、現在「プーナ」と呼ばれているペルーの高原地方を根拠に遊牧民族として暮らしていたと思われている。この地勢条件により、彼らの身体は低身長化、体型の頑健化という特徴をもって発達した。平均身長は、男性が1.57m、女性が1.45mであった。高地に適応するため、彼らは他地域の人々に比べ肺活量が30パーセントほど大きくなり、心拍数も少なく、血液の量も他地域の人々より多い2リットルとなり、ヘモグロビン量も2倍以上であったことが遺体から推測されている。
アンデスの研究者らは、約500年間にわたり偉大な国家権力の行政資本と儀式により栄えたチチカカ湖地方の[[ティワナク]]をインカ帝国の最も重要なさきがけ([[プレ・インカ]])のひとつとして認識している{{Sfn|島田, 篠田編|2012|loc=第5章}}。
=== クスコ王国(12世紀頃-1438年) ===
[[ファイル:Location of the city of Cusco in Peru.png|thumb|right|[[クスコ]]の位置]]
{{Main|インカ神話|クスコ王国}}
[[ケチュア|ケチュア族]]は、[[12世紀]]頃に[[クスコ]]へ移住し、インカ族として成立した。これを始めとして、以降インカは中央アンデスだけでなく、コロンビア南部からチリ中部に至るまで南北4000㎞に達する大帝国となるのである。最初のインカ族の統治者(サパ・インカ)であるマンコ・カパックの指揮の下、彼らはクスコ([[ケチュア|ケチュア語]]:''Qusqu'Qosqo'')に小規模の都市国家を築いた。彼と続く7人のサパ・インカの在位期間は明確でないが、[[1250年]]から[[1438年]]頃までと想定されている。インカ帝国が成立する前の当地の文明は文字による記録を全く残していないため、インカは、どこからともなく出現したように見えるが、あくまで当地の過去を踏まえて成立したものである。彼らは先行する文化({{仮リンク|ワリ帝国|es|Imperio Wari|en|Wari Empire}}、中期ホライズン)から、建築様式、陶器、統治機関などを借用していた。
=== タワンティンスウユ(1438年-1527年) ===
[[File:Sacsayhuaman (pixinn.net).jpg|thumb|left|[[クスコ]]の要塞[[サクサイワマン]]]]
インカは中央高原地帯のクスコで発生し、海岸部に広がっていった。考古学者は、標高5,300mに及ぶ高原の温帯で永久的な居住地の跡を発見した{{いつ|date=2018年1月}}。彼らの高地における資産は、[[リャマ]]、[[アルパカ]]、[[ビクーニャ]]に限定されていた。
インカによる征服の基盤は、彼らの組織であると信じられている。彼らの神の象徴は太陽神であり、官僚制度は11あった王の[[アイリュ]]に所属する官僚による団体から成り立っており、家系は正皇后である'''コヤ'''となった自らの姉妹との[[近親婚]]によって継続した。インカは平等の考えに基づいた社会であった。全ての人民が、生きるために働かねばならず、貴族ですら見本を示した。しかし数人の考古学者は、これが2つの階級からなる制度を支えるための建前にすぎなかったと信じている。その理由として官僚エリートが法を犯したときの刑罰は大して厳しくなく、このことは体制の維持のために上層階級が重要視されたことを意味した。
[[File:Inca-expansion.png|thumb|right|インカの拡大(1438年-1527年)]]
インカ帝国の拡張が始まった原因は、おそらくその気候条件の結果であろうと推定されている。パチャクテクは彼自身が選び抜いた家庭出身の指揮官を訓練した。兵卒は、木製の柄と石製又は青銅製の斧頭を備えた青銅製の[[戦斧]]、[[投石器]]、[[ランス (槍)|ランス]]、[[投擲|投げ]][[槍]]、[[弓矢]]、皮革で覆った木製の[[盾]]、綿或いは竹製の[[兜]]、[[刺し子]]の[[鎧]]により武装した。攻略された属州においては、インカの官僚が従前の地方官僚の上に置かれた。これら官僚の子弟はクスコに人質に取られ、攻略された属州の忠誠の保証とされた。インカ帝国は[[ケチュア|ケチュア語]]を公用語に、太陽崇拝を国教とした。また、急速な灌漑と[[棚田|台地栽培方式]]の開発により生産力を増強するために労働力を搾取し、肥料としては沿岸の島々で発見された堆積[[グアノ]]を使用した。インカの社会制度は、儀式と神の名による強制により裏打ちされた厳格な権威主義政体を要したのだ。伝統的にインカの軍は皇子に統率されていた。
パチャクテクは彼の帝国に欲した地方に工作員を派遣し、政治組織、軍事力及び資源に関する報告を得た後、その地の指導者に宛て、彼らがインカに従属する指導者として富裕となることを約束すること、高品位の織物などの高級品を贈ること、そして彼の帝国に加わることの利を強調した手紙を送った。多くの場合彼らは、インカの統治を既成事実として受け入れ平和裡に従った。各指導者の子弟はインカの統治制度について学ぶためクスコに集められ、その後故郷に戻って指導者となった。これによりサパ・インカは、それまでの指導者の子弟にインカの高貴性を吹き込むとともに、運がよければ、帝国内の様々な地方の家族出身の彼らの娘と結婚することとなった。
==== チチカカ湖地方の征服・アイマラ諸王国とコジャ王国 ====
{{main|アイマラ|{{仮リンク|アイマラ諸王国|es|Reinos aimaras}}|{{仮リンク|コジャ王国|es|Reino colla}}}}
[[1438年]]、彼らは[[サパ・インカ]](最上位の王)[[パチャクテク|パチャクテク・クシ・ユパンキ]](パチャクテクとは世界を震撼させる者、世界を造り変える者の意)の命令下、壮大な遠征による拡大を始めた。パチャクテクという名は、現代の[[アプリマク県]]にいたチャンカ族を征服した後に与えられたものである。パチャクテクの在位中、彼と彼の息子[[トゥパック・インカ・ユパンキ]]は、[[アンデス山脈]]のほぼ全て(おおよそ現代のペルーとエクアドルに当たる)を制圧した。
[[1445年]]、第9代[[パチャクテク]]は、チチカカ湖地方の征服を始めた。
==== 北征・チムー王国の征服 ====
[[Image:Huayna_Capac.jpg|thumb|180px|ワイナ・カパック]]
{{main|チムー王国|{{仮リンク|カニャーリ|en|Cañari}}}}
{{See also|[[パチャカマック遺跡|パチャカマ神殿]]|チャン・チャン|カハマルカ|キト}}
パチャクテクの皇子であったトゥパック・インカ・ユパンキは[[1463年]]北征を始め、[[1471年]]パチャクテクが死亡してからはサパ・インカとして征服事業を継続した。彼の手になった征服中、最も重要であったのはペルー海岸を巡る唯一の真の敵であった[[チムー王国]]に対するそれであった。トゥパック・インカ・ユパンキの帝国は、現エクアドル、現コロンビアにまで及ぶほど北に伸長した。彼は既存の文化、特に[[チムー王国|チムー]]文化の様式を、発展させ取り入れた。
トゥパック・インカ・ユパンキの皇子であった[[ワイナ・カパック]]は、現エクアドルとペルーの一部に当たる北部にわずかな領土を付け加えた。
==== 南征・マプチェ族の抵抗 ====
帝国の南進は、[[マプチェ族]]による大規模な抵抗に遭った{{仮リンク|マウレの戦い|es|Batalla del Maule|en|Battle of the Maule}}の後に停止した。最盛期のインカ帝国の領域は、ペルー、ボリビア、エクアドルの大部分、[[マウレ川]]以北のチリの広大な部分を含み、また、アルゼンチン、コロンビアの一角にまで及んでいた。しかし、帝国南部の大部分(コジャ・スウユと命名された地方)は砂漠([[アタカマ砂漠]]、[[アタカマ塩原]]など)による不毛地帯であった。
==== 国家の再編とその構成・四つの邦 ====
[[Image:80 - Machu Picchu - Juin 2009 - edit.jpg|thumb|right|『インカの失われた都』[[マチュ・ピチュ]]の風景]]
パチャクテクは、クスコ王国を新帝国「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。タワンティンスウユは、中央政府及びその長であるサパ・インカと、強力な指導者に率いられる4つの属州(北西の{{仮リンク|チンチャイ・スウユ|es|Chinchaysuyo|en|Chinchay Suyu}}、北東の{{仮リンク|アンティ・スウユ|es|Antisuyo|en|Antisuyu}}、南西の{{仮リンク|クンティ・スウユ|es|Contisuyo|en|Kuntisuyu}}、南東の{{仮リンク|コジャ・スウユ|es|Collasuyo|en|Qullasuyu}})とから成り立つ[[連邦|連邦制]]であった<ref name="FRT87-8">[[#ピース・増田 (インカ帝国)|ピース (1988)、pp.87-88]].</ref>。
パチャクテクはまた、根拠地或いは避暑地として[[マチュ・ピチュ]]を建設したと考えられている。マチュ・ピチュについては一方で農業試験場として建設されたとする見解も存在する。
=== 内戦とスペインによる征服 ===
{{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化}}
{{rquote|right|''我々は、そこがとても美しく、スペインにおいても注目されるであろうほど素晴らしい建築物が存在することを陛下に得心させうる。''|[[フランシスコ・ピサロ]]}}
[[天然痘]]はスペイン人の[[コンキスタドール|侵略者]]たちが最初に帝国に達するより前に[[コロンビア]]から急速に伝染した{{要出典|date=2016年5月|}}。おそらくは効率的な[[インカ道]]により伝染(波及)が容易になったものである。天然痘はわずか数年間でインカ帝国人口の60パーセントから94パーセントを死に至らしめ、人口の大幅な減少を引き起こした。
==== コンキスタドールの到来 ====
スペインのコンキスタドール(征服者)たちは、[[フランシスコ・ピサロ]]兄弟に率いられ[[パナマ]]から南下し、[[1526年]]にインカ帝国の領土に達した。[[1527年]]、皇帝[[ワイナ・カパック]]が死去。彼らが大いなる財宝の可能性に満ちた富裕な土地に達したのは明確であったので、ピサロは[[1529年]]の遠征の後に一旦スペインに帰国し、その領域の征服と副王就任にかかわる国王の認可を当時のスペイン国王から得た。
==== インカ帝国内戦(1529年-1532年) ====
[[Image:Atahualpa-1533.jpg|thumb|170px|皇帝アタワルパの像<br />(マドリード)]]
[[Image:Tawantinsuyo.gif|thumb|180px|インカ帝国の拡張]]
ワイナ・カパックの二人の息子たちである[[クスコ]]の[[ワスカル]]と[[キト]]の'''北インカ帝国'''皇帝[[アタワルパ]]との間で、{{仮リンク|インカ帝国内戦|es|Guerra civil incaica|en|Inca Civil War|label=内戦}}(1529年-1532年)が起こった。内戦が発生した原因は未だに分かっていない。
==== スペインによる征服 ====
[[Image:Funeralesdeatahualpa luismontero.png|thumb|left|340px|インカの帝国の征服における主要な出来事の一つ、[[1533年]][[8月29日]]、最後の[[サパ・インカ]][[アタワルパ]]の死。]]
{{Main|{{仮リンク|スペインによるインカ帝国の征服|es|Conquista del Perú|en|Spanish conquest of the Inca Empire|label=スペインによる征服}}}}
[[1532年]]にスペインのコンキスタドール(征服者)がペルーに戻ってきたとき、インカ帝国はかなり弱体化していた。その原因としては、インカ帝国内戦が勃発したことや新たに征服された領土内に不安が広がったことが挙げられるが、それ以上に[[中央アメリカ]]から広まった[[天然痘]]の影響が大きかったと考えられる。コンキスタドールは身長こそ少し高かったものの、インカには確かに途方もない高地に順応しているという利点があった。ピサロ隊の兵力は、わずか168名の兵士と大砲1門、馬27頭と決して抜きんでたものではなかった。そのため、万一、自隊を簡単に壊滅できそうな敵に遭遇したら、その場をどのように切り抜けるかをピサロはいつも説いていた。完全に武装されたピサロの騎兵は、技術面ではインカ軍に大きく勝るものであった。アンデス山脈では、敵を圧倒するために大人数の兵士を敵地に送り込む[[攻城戦]]のような戦闘が伝統的な戦法であったが、兵士の多くは士気の低い徴集兵であった。一方、スペイン人はすでに近代以前に「[[鉄砲]]」([[:es:Arcabuz|Arcabuz]])などの優れた兵器を開発しており、[[イベリア半島]]で何世紀にもわたる[[ムーア人]]との戦いを経験し、さまざまな戦術を身につけていた。このようにスペイン人は戦術的にも物質的にも優位であったうえに、インカによる自領の統治を断ち切ろうとする何万もの同盟者を現地で獲得していた。
最初の交戦は、現代の[[エクアドル]]、[[グアヤキル]]近郊の島で[[1531年]]4月に始まった{{仮リンク|プナの戦い|en|Battle of Puná}}であった。その後ピサロは、[[1532年]]7月に[[ピウラ]]を建設した。[[エルナンド・デ・ソト]]は内陸部の探検のために送り出され、兄との内戦に勝利し8万人の兵とともに[[カハマルカ]]で休息中の皇帝アタワルパとの会見への招待状を携え帰還した。
ピサロと{{仮リンク|ビセンテ・デ・バルベルデ|es|Vicente de Valverde|en|Vicente de Valverde}}神父らの随行者は、少数の供しか連れていなかった皇帝アタワルパとの会見に臨んだ。バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と帝国の[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]]への服従と[[キリスト教]]への改宗とを要求した投降勧告状(requerimiento)を読み上げた。言語障壁と拙い通訳のため、アタワルパは神父によるキリスト教の説明に幾分困惑し、使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われている。アタワルパは、ピサロの使節が提供したキリスト教信仰の教義について更に質問を試みたが、スペイン人たちは苛立ち、皇帝の随行者を攻撃、皇帝アタワルパを人質として捕らえた({{仮リンク|アタワルパの捕縛|es|Captura de Atahualpa|en|Battle of Cajamarca}}、[[1532年]][[11月16日]])。
人質として捕らえられた皇帝アタワルパはスペイン人たちに、彼が幽閉されていた大部屋1杯分の金と2杯分の銀を提供した。ピサロはこの身代金が実現しても約束を否定し釈放を拒否した。アタワルパの幽閉中に先の内戦でアタワルパに捕らえられていた兄のワスカルが他の場所で暗殺された。スペイン人たちはこれをアタワルパの命令であったと主張、[[1533年]]7月のアタワルパ処刑に際しては、これは告訴理由の一つとなった。
=== 最後のインカたち ===
{{Main|{{仮リンク|ヌエバ・カスティーリャ|es|Gobernación de Nueva Castilla|en|Governorate of New Castile}}|{{仮リンク|ヌエバ・トレド|es|Gobernación de Nueva Toledo|en|Governorate of New Toledo}}|ペルー副王領}}
{{Seealso|en:Governorate of New Andalusia|es:Gobernación de Nueva León}}
スペイン人たちはアタワルパの弟[[マンコ・インカ・ユパンキ]](一説に弟ではなく、下級貴族出身とも)の擁立を強行し、スペイン人たちが北部の反乱を鎮圧する戦いの間は協力関係が続いた。その間、ピサロの仲間[[ディエゴ・デ・アルマグロ]]はクスコを要求した。マンコ・インカはスペイン人同士の不和を利用することを試み、[[1536年]]にクスコを回復したが、スペイン人たちに奪還された。
マンコ・インカは[[ビルカバンバ]]に後退し、彼とその後継者たちはそこで新しい「{{仮リンク|ビルカバンバのインカ帝国|es|Incas de Vilcabamba|en|Vilcabamba, Peru#Inca Government in Vilcabamba|label=ビルカバンバ(''Vilcabamba'')のインカ帝国}}」([[1537年]] - [[1572年]])を更に36年間統治し、スペイン人たちへの襲撃や反乱の扇動を続けた。
こうした状況の中、[[伝染病]]が壊滅的な打撃を与えた。さらに、ヨーロッパから到来した他の病気の波により更に人口は減少した<ref>[http://muweb.millersville.edu/~columbus/papers/orlow-e.html Millersville University ''Silent Killers of the New World'']</ref>。[[1546年]](推定)の[[チフス]]、[[1558年]]の[[インフルエンザ]]と[[天然痘]]、[[1589年]]の天然痘再流行、[[1614年]]の[[ジフテリア]]、[[1618年]]の[[麻疹]]、こうしてインカ文化の残滓は破壊された。[[1572年]]、インカの最後の要塞が征服され、マンコ・インカの皇子で最後の皇帝[[トゥパク・アマル (初代)|トゥパック・アマル]]は捕らえられ、クスコで処刑された。ここにインカ帝国の政治的権威下でのスペインによる征服への抵抗は終結した。
=== 後世への影響 ===
[[ファイル:Acta Independencia argentina quechua.jpg|thumb|1816年7月9日に公布された[[リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合|南アメリカ連合州]]([[アルゼンチン]])の独立宣言は、[[スペイン語]]と[[ケチュア語]]で記されている。]]
{{Seealso|マプチェ族|アラウコ戦争|アラウカニア制圧作戦|{{仮リンク|荒野の征服作戦|en|Desert Campaign (1833-34)}}|{{仮リンク|砂漠の征服作戦|en|Conquest of the Desert}}}}
インカ帝国が倒れた後、新たなスペイン人の統治者たちはインカ帝国に住む人々に厳しい苛政をしくとともに、インカ帝国の伝統を抑圧した。洗練された営農組織を含むインカ文化の多くの分野が組織的に破壊された。スペイン人たちは人民を死に至るまで酷使するためにインカの[[ミタ制]](労役)を利用した。各家族から1人が徴用され、[[ポトシ]]の巨大な銀山に代表される金銀山で働かされた。<!--(翻訳元で要出典)1、2年以内に訪れる親族の死亡時に各家族は補充を提出せねばならなかった。-->
インカ帝国は滅ぼされた後も、様々な影響を後世に残した。インカ皇族とスペイン人の[[メスティーソ]]だった[[インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ]]は17世紀に『{{仮リンク|インカ皇統記|es|Comentarios reales de los incas|en|Comentarios Reales de los Incas}}』([[1609年]])を著したが、この中で理想化されたインカのイメージは18世紀になってから「インカ・ナショナリズム」と呼ばれる運動の源泉となった<ref>増田編 (2000) p.125</ref>。「インカ・ナショナリズム」はインディオのみならず、[[クリオージョ]]支配層にも共有されて様々な反乱の原動力となり、その中で最大のものとなったのが、1780年の[[トゥパク・アマルー2世]]の{{仮リンク|トゥパク・アマルー2世の反乱|es|Rebelión de Túpac Amaru II|en|Rebellion of Túpac Amaru II|label=反乱}}([[1780年]] - [[1782年]])だった。
南アメリカがスペインから独立する19世紀初頭には、[[ベネズエラ]]の独立指導者の[[フランシスコ・デ・ミランダ]]や[[アルゼンチン]]の独立指導者の[[マヌエル・ベルグラーノ]]らにはインカ帝国は新しい国家の立ち返るべき地点の一つと見なされた。特にベルグラーノが主要な役割を果たした1816年9月7日の{{仮リンク|トゥクマンの議会|en|Congress of Tucumán|label=トゥクマン議会}}では、新たに独立する[[リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合|南アメリカ連合州]]でのインカ皇帝の復古、[[ケチュア語]]と[[アイマラ語]]の公用語化などがスペイン語とケチュア語で書かれた独立宣言に盛り込まれたが、実際にはこのような政策は実現には至らなかった。
独立後の[[ペルー]]においても、現実に存在する[[インディオ]]が様々な人種主義的被害を受けたのに対し、既に滅びたインカ帝国は理想視され、国民的なアイデンティティの基盤となった<ref>イナミネ/山脇 (1995)</ref>。インカは今でもペルーの国民的な飲料[[インカ・コーラ]]などにその名を留めている。
== 住民 ==
[[画像:Wool spinning family Peru..jpg|thumb|ケチュアの女性と娘達]]
インカ帝国は[[ケチュア語族|ケチュア語]]を公用語に、太陽崇拝(→[[インティ]]、[[五月の太陽]])を国教とした。
== 民族 ==
{{Main|ケチュア|アイマラ}}
{{節スタブ}}
=== 言語 ===
{{Main|ケチュア語|アイマラ語}}
公用語は[[ケチュア語]]であり、積極的に普及がはかられた。しかし、[[文字]]文化を持たなかった{{efn|現在、[[ペルー]]と[[ボリビア]]においてはインカ帝国[[ケチュア語]]と[[アイマラ語]]は[[公用語]]として認められ、[[エクアドル]]においても公用語にこそなっていないものの、[[ケチュア語]]は初等教育機関で教えられている。この場合[[アルファベット]]により文字化されている。}}(かつては文字を持っていたが、迷信的理由により廃止したという説もある{{誰2|date=2023年7月}})。そのため、口頭伝承がインカ帝国崩壊後に[[布教]]のために入ってきたスペイン人[[修道士]]による[[記録]]([[年代記]])の形でわずかに残されているにすぎず、不明確な部分もあり、今後の研究が待たれる所もある{{Sfn|島田, 篠田編|2012|loc=第2章、第3章}}。文字の代わりとして、[[キープ (インカ)|キープ]]と呼ばれる結び縄による数字表記が存在し、これで暦法や納税などの記録を行った。近年になって、このキープが[[言語]]情報を含んでいる事が研究によって明らかにされている{{Sfn|島田, 篠田編|2012|loc=第9章}}。
== 歴代皇帝 ==
{{See|インカ皇帝}}
== 政治 ==
[[Image:2Wiener-Tintin-Dieu Soleil.jpg|thumb|right|150px|ビラコチャはインカ神話に出現する創造神]]
インカ帝国は、多言語、多文化、多民族の継ぎ接ぎによって成立していた。帝国の各構成要素は、均一であった訳ではなく、地方の各文化は、完全に統合されていたのでもなかった。政体は[[君主制]]であり、近親結婚によって生まれた一族による[[世襲]][[政治]]である。これは彼らの宗教観から、広く[[交雑]]する事で、皇族の血筋が汚されると考えたためである。「[[サパ・インカ]]([[皇帝]])」は[[太陽神]][[インティ]]の化身としても考えられ、当時の[[官僚]]は、同時に[[神官]]でもあった。臣下が王に謁見するとき、王を直接見ることは禁じられていた。
インカ帝国は4つのスウユ(州)に区分されていた。各スウユはいくつかのワマン(県)に、ワマンは1万人の集団ウニュ(村)に分かれていた。ウニュ(村)の長にはインカ帝国が成立する前からの支配者階級が、スウユ(州)やワマン(県)の長にはインカの血をひく上級貴族が任命され、あわせてインカの貴族階級(クラカ)を形成した。
行政は入れ子状の階層構造になっており、王の側近には秘書、筆頭会計、出納係がいて財産を管理し、各地方にも会計係と出納係が置かれた{{Sfn|島田, 篠田編|2012|pp=192-193}}。インカ帝国では[[キープ (インカ)|キープ]]と呼ばれる縄の道具を記録や行政管理に用いていた。キープは色や太さが異なる紐を結んで作られ、色や結び目によって数を表現した{{efn|キープの会計は階層構造をもち、上方向は合計、下方向は分割となる{{Sfn|島田, 篠田編|2012|pp=194-195}}。}}。キープは10進法で位取りも行われており、帳簿に数字を記録することと同様の機能を持った。農産物・家畜・人口・納税記録などの情報はキープによって記録され、キープカマヨック(キープ保持者)と呼ばれる官僚が管理した。計算には{{仮リンク|ユパナ|en|yupana}}と呼ばれる道具が使われ、ユパナで集計した結果をキープに保存した{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=56-66}}。
地方組織とは別に、男女の社会集団が存在した。男性には、ヤナコーナと呼ばれる集団があり、耕作や雑用のため世襲的にインカに仕えた。女性には、アクリャコーナやママコーナと呼ばれる集団があり、容貌の美しいものを徴用して作られた。アクリャコーナは各地の館にかこわれ、[[チチャ]]や織物を作ることに従事した。ヤナコーナやアクリャコーナはアイリュに属さず、中央政府の監督を受けた。
それ以外に、鉱山労働や道路の建設などの労役が若干あった。この労役制度は'''[[ミタ制]]'''と呼ばれる<ref name="FRT134">[[#ピース・増田 (インカ帝国)|ピース (1988)、p.134]].</ref>。この労役の成果の一つとして、[[チャスキ]]と呼ばれる[[飛脚]]による通信網を確立させ、広大な領土を中央集権により統治していた。なお、この通信網の名残として、チャスキという言葉はアンデスのいくつかの場所の地名としていまも残っている。日本で言うところの「宿」のようなものである。
== 経済 ==
[[Image:Trabajo-inca8.jpg|thumb|right|150px|インカ帝国の農業風景]]
広漠とした平野は降雨量が少なく農耕に適さないために住む者も稀であったが、高原地帯は海から吹き上げる風によって雲が形成され霧雨が降るため、湿潤な環境となり農耕に適した。このような気候条件から、今日でも驚異的な高山都市を形成するに至った。標高差を利用して多様な物資を調達することはインカ帝国の成立以前から行われており、垂直統御とも呼ばれる<ref>大貫 (1995)</ref>。
海に面した急勾配の土地を利用して段々畑を作り、[[トマト]]や[[トウガラシ]]は低い土地に、寒冷地を好む[[ジャガイモ]]は高地にと、高度に応じた農作物の多品種生産を行っていた。ジャガイモや[[トウモロコシ]]を主な作物とする[[農耕]]と、[[リャマ]]や[[アルパカ]]による[[牧畜]]が行われていた。また、“クイッ、クイッ”と鳴くことから「クイ」と呼ばれた[[テンジクネズミ]]も食用として広く民衆によって飼育されていた。
土地・鉱山・家畜などすべての生産手段は共同体に帰属し、貴族ですら私有を認められなかった<ref name="FRT137-8">[[#ピース・増田 (インカ帝国)|ピース (1988)、pp.137-138]].</ref>。この共同体を[[アイリュ]]と呼ぶ。アイリュの土地はインカ皇帝・太陽神・人民の3つに分割され、インカ皇帝と太陽神の土地に対する労働を行わせ、その生産物を徴収する形態で徴税が行われた。こうして集められた生産物は[[再分配]]され、寡婦・老人・孤児などに支給されたり飢饉などの非常時に放出された。この体制は[[社会主義]]にも類似したものであった。また、アイリュの中には{{仮リンク|アイニ (インカ帝国)|es|Ayni|en|Ayni|label=アイニ}}([[w:Ayni|Ayni]])と呼ばれる[[互酬|相互扶助]]的な仕組みもあった。
インカ帝国全体としては、高級品と労働力に対する課税と交換とに基づく経済が存在した。課税方法については、「周知の通り、高地においても平地においても、収税吏に課税された貢納物を支払うことに失敗した村はなかった。住民が貢納物の支払いを肯んじなかった場合、4か月毎に生きているシラミで満たされた大きな羽根を支払うべきであるとの命令をした州さえ存在した。これは貢納物の支払いに関し、教示し馴致させるインカの手法を示している。」という説明がなされている<ref>Starn, Degregori, Kirk (1995)</ref>。
[[貨幣]]は用いられておらず、[[物々交換]]によって経済活動を行なっていた。北部のペルーやエクアドルにあたる地域では、ビーズ、ボタン状の金、銅製の斧の3種類の貨幣が用いられていたが、インカの正式な制度には採用されなかった{{Sfn|島田, 篠田編|2012|loc=第7章}}。
== 宗教 ==
{{Main|{{仮リンク|インカの宗教|es|Religión incaica|en|Religion in the Inca Empire}}}}
{{節スタブ}}
=== インカ神話 ===
{{Main|インカ神話|インティ|パチャママ}}
{{節スタブ}}
=== 創造神話 ===
[[ファイル:Capitulo-XXXVIII.jpg|thumb|right|180px|ヨーロッパにおける最初のインカのイメージ(1553年)]]
[[ファイル:Manqu Qhapaqwan Mama Uqllu.gif|thumb|マンコ・カパック、ママ・オクリョとインティの息子]]
インカには様々な[[創造神話]]が存在した。
; [[ビラコチャ]]伝説
[[ビラコチャ]]伝説では次のとおりである。ビラコチャは、村を建設するためにクスコに近いパカリ・タンプ (Paqariq Tanpu) という所で暮らしていた4人の息子([[マンコ・カパック]](Manqu Qhapaq:ケチュア語で素晴らしい基礎)、アヤ・アンカ(Ayar Anca)、アヤ・カチ(Ayar Kachi)、アヤ・ウチュ(Ayar Uchu))と4人の娘([[ママ・オクリョ]](Mama Ocllo)、ママ・ワコ(Mama Waqu)、ママ・ラウア(Mama Rawa)、ママ・クラ(Mama Cura))(彼らは'''アヤル兄弟'''として知られている)を送り出し、旅の途中にマンコとママ・オクリョの間に生まれた[[シンチ・ロカ]]が、自分たちのクスコの谷に仲間を導き新しい村が開かれた。また、兄弟姉妹たちはクスコの谷へ遠征しながら近隣の10の部落を併合していったとも伝えられている。この時、支配者の象徴である金の杖が父ビラコチャによりマンコ・カパックに与えられたとされるが、一説にはマンコ・カパックは兄を嫉妬と裏切りで殺してクスコの支配者になり、[[マンコ・カパック]](Manco Capac)として知られるようになったとされる{{efn|上記説はエルインカ・ガルシラソによるもの。その他にもホアン・デ・ベタンソスによれば四組の夫妻とされており、アヤル・カチとママ・グァコ、アヤル・オチェとクラ、アヤル・アウカとラグア・オクリョ、アヤル・マンコとママ・オクリョ。シエサ・デ・レオンによれば三組の夫妻とされている<ref name="FRT46">[[#ピース・増田 (インカ帝国)|ピース (1988)、p.46]].</ref>。<!--他にも違う部分が多々あるようですが、いずれまた加筆予定-->}}<ref>Urton (1990)</ref>。
; [[インティ]]伝説
別の起源神話であるインティ伝説では次のとおりとなる。太陽神インティが[[チチカカ湖]]の深みから出てくるよう命じると、湖の中からマンコ・カパックとママ・オクリョが生まれた。彼らは兄弟たちとともにパカリタンボ (Pacaritambo) という洞窟からこの世に遣わされたともいう。インティはタパク・ヤウリ (Tapac Yauri) と呼ばれる金の杖を与え、その杖が地面に沈む地に太陽の神殿を作るように指示した。マンコ・カパックはママ・オクリョたちとともにクスコの町を建設するために地下の道を通って北上し、クスコで父インティを讃える神殿を建設した。クスコへの旅の途中、何人かの兄弟は石になり、偶像(ワカ : Huaca)になった。彼らは、[[サパ・インカ|クスコ下王朝]]([[クスコ王国]]第1王朝)を打ち立てた。
; その他伝説
また、別の説では太陽神インティが地上の野蛮な生活ぶりを哀れんだために息子と娘を地上へ使わしたが、チチカカ湖に降り立った後、金の笏を投げるとクスコ盆地のワナカウリの丘で地中深くに沈んだ。そこで兄妹二人でインティの言葉に従い、クスコに都を築いて周辺の未開な人々に文化を与えてインカ帝国の礎を築く事になったとしており、兄の名前がマンコ・カパック、妹の名前がママ・オクリョ・ワコであった<ref name="FRT45-6">[[#ピース・増田 (インカ帝国)|ピース (1988)、pp.45-46]].</ref>。
マンコ・カパックとママ・オクリョはチチカカ湖にある太陽の島(Isla del sol)に現れたとも、湖の彼方からやってきたとも、天から降り立ったともいわれる。さらにママ・オクリョは太陽の島ではなく隣の月の島(Isla de la luna)に現れたともいわれる。マンコ・カパックは天の神[[パチャカマック (神話)|パチャカマック]](Pachacamac)の兄弟ともされる。
複数の伝承の矛盾に気づかせないために、庶民はビラコチャの名を口にすることが禁じられていたといわれる。これらの神話は、スペイン人の植民者により記録されるまで口伝で継承されたと考えられているが<ref name="FRT51">[[#ピース・増田 (インカ帝国)|ピース (1988)、p.51]].</ref>、[[キープ (インカ)|キープ]]に記録していたのではないかと考える研究者もいる<ref>Gary Urton, Signs of the Inka Khipu: Binary Coding in the Andean Knotted-String Records (Austin: University of Texas Press, 2003).</ref>。
なお、伝承に残っているインカ帝国の王(皇帝)のうち、この初代のマンコ・カパックだけは実在しない人物であるという説もある<ref name="FRT50-1">[[#ピース・増田 (インカ帝国)|ピース (1988)、pp.50-51]].</ref>。
=== ミイラ信仰 ===
インカ帝国が西海岸部の砂漠地帯を領土に取り込んだ際、現地にあった[[ミイラ]]信仰をとりこんだ。歴代の皇帝はこれを人心掌握や権威の保持など、政治的に利用した。例えば、インカがアマゾンに接した地域を征服する際、その地域ではそれまでは崖の中腹にある穴に先祖の骨を置いて墓としていたが、インカはそれらの骨を打ち捨てて代わりに布を巻いたミイラを崖に安置するようにした。こうして半ば強引に征服地の民衆の心の拠り所をインカの中央政権に刷りかえさせたのだった。また、歴代皇帝は死後ミイラにされて権威が保たれ、皇帝に仕えていた者達はそのミイラを生前と同じように世話をすることで領土や財産を保持した。これは即ち、次の皇帝は前の皇帝から遺産を相続できないということであり、結果、即位した新しい皇帝は自分の財産を得るために領土拡張のための遠征を行わざるを得なかった。代を重ねるにつれ死者皇帝が現皇帝の権威を凌ぐようになり、必然的に各々のミイラに仕える者達の権力も増大。それに対抗するため12代目の皇帝が、それまでの全ての皇帝のミイラの埋葬と、そのミイラとそれに仕える者達の所領や財産の没収を企て、それが内乱へと発展。その混乱の最中にスペインの侵攻があり滅亡した{{Sfn|島田, 篠田編|2012|loc=第14章}}。
== 文化 ==
[[Image:Quipu.png|thumb|right|180px|キープ]]
[[Image:Tupa-inca-tunic.png|thumb|right|150px|インカの上着]]
「知識は庶民のためのものではない」という考えのもと、いわゆる文化活動は貴族階級だけに許された。一般庶民はそれぞれの役務に必要なことだけを教えられ、それ以上を知ろうとすることは禁止されていた。手工業などの技術も貴族によって独占されていた。すなわち貴族が職人として労働に従事していたことになる。
=== 建築 ===
[[ファイル:Inca road system map-en.svg|thumb|インカ道路網。最大勢力時は北端がキト、南端がサンディエゴまで通じていた。黒線が山側の主要路線、
赤線がCOST SIDE。<!--どなたか最適な意訳をお願いします。-->]]
彼らは神殿、要塞、優れた道路を建設した{{誰|date=2018年1月}}。峻厳な山脈地帯に広がった国土を維持するため、王は国中の谷に吊り橋を掛け、道路を作った。その道路([[インカ道路網]])は北部の[[キト]]からチリ中部の[[タルカ]]に至るまで5,230kmにも達した。急峻な地形であるために人力もしくは家畜([[偶蹄目]])によって物資を輸送するしかなく、[[車輪]]を用いた運搬手段は発明されなかった。また野生馬を飼いならし、人や物資の運搬に用いることはなかった。1トポ(約7km)毎に里程、約19km毎にタンボ(宿駅)が、サパ・インカと随行者のために設置されていた。[[チャスキ]](飛脚)が約8km毎に設置され、1日あたり約240kmの割合で緊急連絡をリレーした。口頭による緊急連絡は、おそらく数に基づく符号を含む[[キープ]](結縄)により補われた。これらはヨーロッパで古くに使用されていた割符と同等の物であった。この道路網は帝国の維持に必要であったが、皮肉なことに[[コンキスタドール|スペインによる征服]]をより容易にした{{Sfn|島田, 篠田編|2012|loc=第12章}}。
道中のタンボには、食物の備蓄庫も置かれた。収穫された農作物は税として備蓄庫に徴収され、集められた備蓄食料は惜しみも無く民に放出された。この結果、インカはその豊満な食料を求めた人達の心を掴んで僅か3代50年で広大な国土を得ることが出来た。この平等な徴収及び分配活動も、スペイン人が食料の補給に困ることなくインカを侵略できてしまった結果を生んだ。
=== 美術・工芸 ===
; 金属加工
[[ヨーロッパ]]の技術が伝わるよりも前から、プレ・インカ時代の伝統を受け継いで[[金]]や[[トゥンバガ]](金と[[銀]]・[[銅]]あるいは[[錫]]の[[合金]])を精錬する技術を持っていた。いわゆるインカ帝国の金製品は実は合金製であり、そのためヨーロッパ人の侵略により、その大部分が溶かされて純金の延べ板にされてしまった([[ワッケーロ]]も参照)。一方、[[鞴]]を用いた高温の炉を作れず、[[鉄]]の製錬技術は無かった。[[鉄器]]と[[火器]]を持たなかったことは、スペインによる征服を容易にした{{Sfn|島田, 篠田編|2012|loc=第10章}}。
; 陶芸
また、[[幾何学]]文様が描かれた長頸の尖底土器が特徴で、[[チャビン文化]]など[[プレ・インカ]]時代の[[土器]]や[[織物]]のように[[ヘビ|蛇]]、[[コンドル]]、[[ピューマ]]などの動物をモチーフにしたものは少ない{{Sfn|島田, 篠田編|2012|pp=}}。
=== 食文化 ===
[[File:Zea mays.jpg|thumb|170px|アンデスのトウモロコシ]]
{{Main|{{仮リンク|インカ料理|en|Inca cuisine}}|チチャ|キヌア}}
{{節スタブ}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
[[ファイル:TupacAmaruII.jpg|thumb|right|170px|トゥパク・アマル2世<br />最後の皇帝トゥパク・アマルの末裔と自称した]]
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=''†''|}}
{{Notelist|2|}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3|}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=網野徹哉|authorlink=網野徹哉|year=2008|title=インカとスペイン帝国の交錯|publisher=講談社|isbn=|ref=I)}}
* [[フアン・ハルオ・イナミネ]]・[[山脇千賀子]]|「ペルー人とは何か その起源・アイデンティティ・国民性」中川文雄/三田千代子編『ラテンアメリカ人と社会』、[[新評論]]、1995年。
* {{Cite journal|和書|author=[[大貫良夫]] |title=アンデス高地の環境利用--垂直統御をめぐる問題 |url=https://doi.org/10.15021/00004567 |journal=国立民族学博物館研究報告 |publisher=国立民族学博物館 |year=1978 |month=dec |volume=3 |issue=4 |pages=p709-733 |naid=110004692917 |doi=10.15021/00004567 |issn=0385180X}}
* {{Cite book|和書|editor1-first=泉|editor1-last=島田|editor1-link=島田泉 (考古学者)|editor2-first=謙一|editor2-last=篠田|editor2-link=篠田謙一|year=2012|title=インカ帝国 - 研究のフロンティア|publisher=東海大学出版会〈国立科学博物館叢書〉|ref= {{sfnref|島田, 篠田編|2012}}}}
* {{Citation| 和書
| author = [[ジョージ・G・ジョーゼフ]]
| year = 1996
| title = 非ヨーロッパ起源の数学 - もう一つの数学史
| publisher = 講談社
| series = ブルーバックス
| isbn =
| translator = [[垣田高夫]], [[大町比佐栄]]
| ref = {{sfnref|ジョーゼフ|1996}}
}}(原書 {{Citation| 洋書
| last = Joseph
| first = George Gheverghese
| author-link =
| year = 1990
| title = The Crest of the Peacock: Non-European Roots of Mathematics
| publisher =
| isbn =
}})
* {{Cite book|和書|author1=フランクリン・ピース|authorlink1=フランクリン・ピース|author2=増田義郎|authorlink=増田義郎|year=1988|title=<small>図説</small>インカ帝国|publisher=小学館|isbn=4-09-680451-7|ref=ピース・増田 (インカ帝国)}}
* {{Cite book|和書|author=増田義郎|year=2000|title=<small>世界各国史26</small>新版 ラテンアメリカ史II|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-41560-7|ref=増田 (ラテンアメリカII)}}
* Starn, Degregori, Kirk, ''The Peru Reader: History, Culture, Politics; Quote by Pedro de Cieza de Leon'', Duke University Press, 1995.
* Gary Urton, ''The History of a Myth: Pacariqtambo and the Origin of the Inkas'' , Austin: University of Texas Press, 1990.
== 論文 ==
* {{Cite journal|和書|author=山本紀夫 |title=第5章 インカ帝国の農耕文化 : 主としてクロニカ史料の分析から |journal=国立民族学博物館調査報告 |issn=1340-6787 |publisher=国立民族学博物館 |year=2014 |month=mar |issue=117 |pages=159-207 |naid=120006414811 |doi=10.15021/00008939}}
* {{Cite journal|和書|author=加藤克知 |title=形質人類学からみた古代アンデスの頭部に関する3つの風習--人工頭蓋変形,頭蓋穿孔(開頭術),戦勝首級 |journal=保健学研究 |issn=18814441 |publisher=長崎大学 |year=2009 |volume=21 |issue=2 |pages=1-17 |naid=110007130236}}
* {{Cite journal|和書|author=坂井正人 |title=景観の創造と神話・儀礼の創作 : インカ帝国の首都クスコをめぐって |journal=国立民族学博物館調査報告 |issn=1340-6787 |publisher=国立民族学博物館 |year=2005 |month=may |issue=55 |pages=49-63 |naid=110004472950 |doi=10.15021/00001659}}
* {{Cite journal|和書|author=中平真理子 |title=アンデス医学学術調査における薬剤利用の傾向 |journal=ヒマラヤ学誌 : Himalayan Study Monographs |issn=0914-8620 |publisher=京都大学ヒマラヤ研究会 |year=1993 |month=oct |issue=4 |pages=62-66 |naid=120005466010 |doi=10.14989/HSM.4.62}}
* {{Cite journal|和書|author=諸橋毅 |title=幽玄なるインカ帝国と高山病 |journal=土と基礎 |publisher=土質工学会 |year=1990 |volume=38 |issue=2 |pages=77-78 |naid=110003967232}}
* {{Cite journal|和書|author=亀田隆之 |title=インカ帝国における潅漑用水 |journal=人文論究 |issn=02866773 |publisher=関西学院大学 |year=1974 |month=nov |volume=24 |issue=3 |pages=p90-107 |naid=110001068577}}
* {{Cite journal|和書|author=賀川俊彦 |title=インカ帝国の政治と法律 |journal=法学研究 |issn=03890538 |publisher=慶應義塾大学法学研究会 |year=1960 |month=feb |volume=33 |issue=2 |pages=449-472 |naid=120006795791}}
* {{Cite journal|和書|author=楠田哲也 |title=インカ帝国と水道 : マチュピチュの例 |journal=EICA |issn=13423983 |publisher=EICA環境システム計測制御学会 |year=2001 |month=sep |volume=6 |issue=1 |pages=1-9 |naid=10010082922}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Inca|Inca}}
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{{ウィキプロジェクトリンク|歴史|[[画像:P history icon fire.png|34px|Project:歴史]]}}
* {{仮リンク|ヌエバ・カスティーリャ|es|Gobernación de Nueva Castilla|en|Governorate of New Castile}}
* {{仮リンク|ヌエバ・トレド|es|Gobernación de Nueva Toledo|en|Governorate of New Toledo}}
<!--皇帝など-->
* [[サパ・インカ|インカ皇帝]]
* [[ワマン・ポマ]]
<!--地名など-->
* [[サクサイワマン]]
* [[オリャンタイタンボ]]
<!--民族など-->
* {{仮リンク|ミティマエ|es|Mitimae|en|Mitma}}<!--民族の移住-->
<!--インカ以前、神話伝承-->
* [[穿頭]]
== 外部リンク ==
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3,494 | クスコ | クスコ(Cusco;Qusqu)は、ペルー南東にあるクスコ県の県都。アンデス山脈中の標高3,400mにある。人口は47万9808人(2021年)。
クスコとは、ケチュア語で「へそ」という意味であり、インカ帝国(正式名称はタワンティン・スウユ、Tawantinsuyu)の首都で、文化の中心だった。現在もペルーで有数の都市の一つである。
1200年代にインカ人が移住して来る前、900年から1200年にかけてキルケ人がこの地域を支配していた。クスコ郊外のサクサイワマン要塞の遺跡を炭素14法(放射性炭素年代測定)で分析したところ、1100年頃のキルケ文化による要塞であることが判明した。その後、1200年代以降にインカ人勢力がここを占拠した。2008年3月13日、考古学者により古代の寺院、道路、導水設備の遺跡がサクサイウアマンで発見された。2007年の発掘調査の結果、寺院が要塞の脇で発見され、要塞には軍事的な機能だけでなく、宗教的な機能があったことが示された。
1200年代から1532年までの間、クスコはインカ帝国の首都であった。クスコの町並みは、聖なる動物であるピューマをかたどったものとの説があるが、証明はされていない。インカ人の統治下で、町はUrinとHananの2街区に分かれ、それぞれが更に2つに分けられていた。4つの街区は、北西のChinchasuyu、北東のAntisuyu、南西のQontisuyu、南東のCollasuyuであった。道路はそれぞれの街区から、対応する帝国の州邦(suyu、スウユ)に伸びていた。それぞれの州邦の指導者は対応する街区に家を建て、毎年、一定期間クスコに住まなければならなかった。
パチャクテクの治世以降、皇帝が亡くなると、帝位は息子のひとりが引き継ぐ一方で、その財産は残る一族の者に分け与えられた(分割相続)。したがって帝位継承者は自ら一家を興し、自分が死んだ後の子孫を扶養するために、新しい領地を帝国に加える必要があった。
インカの伝説によると、クスコはサパ・インカのパチャクテクによって建設された。彼はクスコ王国を、活気のない町から巨大なタワンティン・スウユ帝国へと変えた。しかし、考古学的な証拠によると、パチャクテクの統治以前から町は徐々に有機的に発展していた。町は決められた計画によって建設され、2つの川は町を取り囲むように注ぎ変えられた。クスコの都市計画は、帝国の他の町に模倣された。
1527年のワイナ・カパックの死後、クスコはアタワルパの支配領域となった。1532年4月、町はアタワルパ軍に占領された。 (w:Battle of Quipaipan) その19ヵ月後、町はスペイン人征服者に侵略された(クスコの戦い (w:Battle of Cuzco) )
1533年11月15日、最初のスペイン人がクスコに到着した。征服者のフランシスコ・ピサロが公式に到着したのは、1534年3月23日であった。
植民地化の結果は都市の建築を通してみえる。侵略の後、スペイン人植民者は数多くのインカ帝国の建造物、寺院、宮殿を破壊した。彼らは破壊で残った壁を、新都市建設の土台として使用した。そして数多くの教会、女子修道院、大聖堂、大学、司教区を建設した。インカ帝国古来の建築方法に、スペインの影響が融合した建造物であった。スペイン人は土着の寺院をカトリック教会に、宮殿を彼ら侵略者の住居に変え、キルケ構造のターワンティンスーユ (w:Tawantinsuyu) を伴うなど、クスコの建造物は重厚な文化が融合していた。インカ人がキルケ構造の上に建造物を建てたように、スペイン人はインカ人によって建てられた巨大な石の上に建造物を建てた。スペインの建物は、インカによって建設された巨大な石の壁の上に作られている。これらインカ時代の石積みは、石と石の間に「カミソリの刃一枚通さない」と言われる巧緻さである。また、周囲にはサクサイワマン遺跡やケンコー遺跡など、数多くの遺跡が点在する。
クスコはアンデス地域において、スペイン植民地とキリスト教布教の中心であった。農業、牧畜、鉱山やスペインとの貿易のおかげで、クスコはおおいに繁栄した。
クスコの市街は、1983年、世界遺産(文化遺産)に登録された。
この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
インカ時代「戦士の広場」として知られたアルマス広場は、フランシスコ・ピサロによるクスコ征圧宣言など、たびたびクスコの歴史における重要な事件の舞台となってきた。また、植民地時代ペルーで起きた反乱の指導者とされるホセ・ガブリエル・コンドルカンキの処刑もここで行われた。
スペイン人は、広場の周囲に今日まで残るアーケードを建設した。大聖堂とラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会はどちらも広場に面している。
ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会(「イエズス会の教会」の意)は、インカの皇帝、ワイナ・カパックのアマルカンチャ宮殿のあった場所に、1576年にイエズス会によって着工され、アメリカ大陸におけるコロニアル・バロック建築の代表例とされる。ファサードは石の彫刻、祭壇は金箔で覆われた木の彫刻でできている。教会は、植民地時代のクスコ学校の貴重な絵画が残る地下礼拝堂の上に建つ。
18世紀後半まで、クスコは大陸最大の人口を抱え、リマよりも多かった。INEIによれば、2015年現在の人口は、434,654人である。
アレハンドロ・ベラスコ・アステテ国際空港が市街地東部に立地している。LATAM ペルーなどが就航している。また、マチュ・ピチュ遺跡との間、およびチチカカ湖のほとりのプーノとの間にペルー南部鉄道が走っている。バスも各地との間に運行されているが、高い標高のせいもあって道路状態が悪く、特に雨期は空路・鉄道と比べて確実ではない。 | [
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"text": "1200年代にインカ人が移住して来る前、900年から1200年にかけてキルケ人がこの地域を支配していた。クスコ郊外のサクサイワマン要塞の遺跡を炭素14法(放射性炭素年代測定)で分析したところ、1100年頃のキルケ文化による要塞であることが判明した。その後、1200年代以降にインカ人勢力がここを占拠した。2008年3月13日、考古学者により古代の寺院、道路、導水設備の遺跡がサクサイウアマンで発見された。2007年の発掘調査の結果、寺院が要塞の脇で発見され、要塞には軍事的な機能だけでなく、宗教的な機能があったことが示された。",
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"text": "ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会(「イエズス会の教会」の意)は、インカの皇帝、ワイナ・カパックのアマルカンチャ宮殿のあった場所に、1576年にイエズス会によって着工され、アメリカ大陸におけるコロニアル・バロック建築の代表例とされる。ファサードは石の彫刻、祭壇は金箔で覆われた木の彫刻でできている。教会は、植民地時代のクスコ学校の貴重な絵画が残る地下礼拝堂の上に建つ。",
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"text": "アレハンドロ・ベラスコ・アステテ国際空港が市街地東部に立地している。LATAM ペルーなどが就航している。また、マチュ・ピチュ遺跡との間、およびチチカカ湖のほとりのプーノとの間にペルー南部鉄道が走っている。バスも各地との間に運行されているが、高い標高のせいもあって道路状態が悪く、特に雨期は空路・鉄道と比べて確実ではない。",
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] | クスコ(Cusco;Qusqu)は、ペルー南東にあるクスコ県の県都。アンデス山脈中の標高3,400mにある。人口は47万9808人(2021年)。 クスコとは、ケチュア語で「へそ」という意味であり、インカ帝国(正式名称はタワンティン・スウユ、Tawantinsuyu)の首都で、文化の中心だった。現在もペルーで有数の都市の一つである。 | {{Otheruses|ペルーの都市|その他}}
{{出典の明記|date=2020-02-14}}
{{世界の市
|正式名称 = クスコ<!--必須-->
|公用語名称 = Cusco<br/>{{flagicon|Peru}}<!--必須-->
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|位置図の見出し = ペルー国内におけるクスコの位置
|位置図B = {{Location map | Peru
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|緯度度= 13|緯度分= 30|緯度秒= |N(北緯)及びS(南緯)= S
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|人口の時点 = 2021年
|人口に関する備考 = <ref>{{citeweb|url=https://m.statisticstimes.com/demographics/country/peru-cities-population.php/|title=peru cities population.php|accessdate=18 May 2023}}</ref>
|総人口 = 479,808
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|人口密度(平方マイル当たり) =
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|市街地人口密度(平方マイル) =
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|都市圏人口密度(平方マイル) =
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|夏時間の協定世界時との時差 =
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|郵便番号 =
|市外局番 =
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|ISOコード =
|公式ウェブサイト = [https://cusco.gob.pe/ https://cusco.gob.pe/]
|備考 =
}}
'''クスコ'''(Cusco;Qusqu)は、[[ペルー]]南東にある[[クスコ県]]の県都。[[アンデス山脈]]中の標高3,400mにある。人口は47万9808人(2021年)。
クスコとは、[[ケチュア語]]で「へそ」という意味であり、[[インカ帝国]](正式名称はタワンティン・スウユ、Tawantinsuyu)の[[首都]]で、文化の中心だった。現在もペルーで有数の都市の1つである。
== 歴史 ==
=== キルケ文化 ===
[[File:Sacsaywaman.JPG|thumb|275px|サクサイワマン遺跡(1989年10月撮影)]]
1200年代に[[インカ人]]が移住して来る前、900年から1200年にかけて[[キルケ人]]がこの地域を支配していた。クスコ郊外の[[サクサイワマン]]要塞の遺跡を[[炭素14法]](放射性炭素年代測定)で分析したところ、1100年頃のキルケ文化による要塞であることが判明した。その後、1200年代以降にインカ人勢力がここを占拠した。2008年3月13日、考古学者により古代の寺院、道路、導水設備の遺跡がサクサイウアマンで発見された。2007年の発掘調査の結果、寺院が要塞の脇で発見され、要塞には軍事的な機能だけでなく、宗教的な機能があったことが示された。
=== インカ時代 ===
1200年代から1532年までの間、クスコは[[インカ帝国]]の首都であった。クスコの町並みは、聖なる動物である[[ピューマ]]をかたどったものとの説があるが、証明はされていない。インカ人の統治下で、町は''Urin''と''Hanan''の2街区に分かれ、それぞれが更に2つに分けられていた。4つの街区は、北西の''Chinchasuyu''、北東の''Antisuyu''、南西の''Qontisuyu''、南東の''Collasuyu''であった。道路はそれぞれの街区から、対応する帝国の州邦(suyu、スウユ)に伸びていた。それぞれの州邦の指導者は対応する街区に家を建て、毎年、一定期間クスコに住まなければならなかった。
[[パチャクテク]]の治世以降、皇帝が亡くなると、帝位は息子のひとりが引き継ぐ一方で、その財産は残る一族の者に分け与えられた(分割相続)。したがって帝位継承者は自ら一家を興し、自分が死んだ後の子孫を扶養するために、新しい領地を帝国に加える必要があった。
インカの伝説によると、クスコは[[サパ・インカ]]の[[パチャクテク]]によって建設された。彼は[[クスコ王国]]を、活気のない町から巨大な[[タワンティン・スウユ]]帝国へと変えた。しかし、考古学的な証拠によると、パチャクテクの統治以前から町は徐々に有機的に発展していた。町は決められた計画によって建設され、2つの川は町を取り囲むように注ぎ変えられた。クスコの都市計画は、帝国の他の町に模倣された。
1527年の[[ワイナ・カパック]]の死後、クスコは[[アタワルパ]]の支配領域となった。1532年4月、町はアタワルパ軍に占領された。 ([[w:Battle of Quipaipan]]) その19ヵ月後、町はスペイン人征服者に侵略された([[クスコの戦い]] ([[w:Battle of Cuzco]]) )
=== スペイン人による征服 ===
1533年11月15日、最初のスペイン人がクスコに到着した。征服者の[[フランシスコ・ピサロ]]が公式に到着したのは、1534年3月23日であった。
植民地化の結果は都市の建築を通してみえる。侵略の後、スペイン人植民者は数多くのインカ帝国の建造物、寺院、宮殿を破壊した。彼らは破壊で残った壁を、新都市建設の土台として使用した。そして数多くの教会、女子修道院、大聖堂、大学、司教区を建設した。インカ帝国古来の建築方法に、スペインの影響が融合した建造物であった。スペイン人は土着の寺院をカトリック教会に、宮殿を彼ら侵略者の住居に変え、[[キルケ文化|キルケ]]構造の[[ターワンティンスーユ]] ([[w:Tawantinsuyu]]) を伴うなど、クスコの建造物は重厚な文化が融合していた。インカ人がキルケ構造の上に建造物を建てたように、スペイン人はインカ人によって建てられた巨大な石の上に建造物を建てた。スペインの建物は、インカによって建設された巨大な石の壁の上に作られている。これらインカ時代の石積みは、石と石の間に「カミソリの刃一枚通さない」と言われる巧緻さである。また、周囲には[[サクサイワマン]]遺跡やケンコー遺跡など、数多くの遺跡が点在する。
クスコは[[アンデス山脈|アンデス地域]]において、スペイン植民地とキリスト教布教の中心であった。農業、牧畜、鉱山やスペインとの貿易のおかげで、クスコはおおいに繁栄した。
==気候==
{{Weather box
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|single line = y
|Jan record high C = 27.8
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|Jan high C = 18.8
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|year high C =
|Jan low C = 6.6
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|year record low C = -8.9
|Jan precipitation mm = 145.3
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|unit precipitation days = 0.1 mm
|Jan precipitation days = 18
|Feb precipitation days = 13
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|Jan sun = 143
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|Oct sun = 198
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|source 1 = [[世界気象機関]] (UN),<ref name= WMO >{{cite web
| url = http://worldweather.wmo.int/029/c00110.htm
| title = World Weather Information Service – Cuzco
| accessdate = December 18, 2012
| publisher = UN }}</ref> BBC Weather<ref name= BBC >{{cite web
| url = http://www.bbc.co.uk/weather/3941584
| title = Average Conditions Cusco, Peru
| accessdate = December 18, 2012
| publisher = BBC Weather }}</ref>
|source 2 = Danish Meteorological Institute (日照・湿度),<ref name=DMI>{{cite web
| last1 = Cappelen
| first1 = John
| last2 = Jensen
| first2 = Jens
| url = http://www.dmi.dk/dmi/tr01-17.pdf
| work = Climate Data for Selected Stations (1931-1960)
| title = Peru - Cuzco (pg 209)
| publisher = Danish Meteorological Institute
| language = Danish
| accessdate = December 18, 2012 }}</ref> Sistema de Clasificación Bioclimática Mundial (extremes)<ref name=extremes>{{cite web
|url = http://www.ucm.es/info/cif/station/pe-cuzco.htm
|title = Peru - Cuzco
|publisher = Centro de Investigaciones Fitosociológicas
|language = Spanish
|accessdate = December 18, 2012}}</ref>
|date=August 2012}}
== 世界遺産 ==
{{世界遺産概要表
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|site_img_width = 275px
|site_img_capt = クスコの街並み
|ja_name = クスコ市街
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クスコの市街は、[[1983年]]、[[世界遺産]]([[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]])に登録された。
=== 登録基準 ===
{{世界遺産基準|3|4}}
== 観光 ==
=== 大聖堂 ===
{{main|{{仮リンク|クスコ大聖堂|en|Cusco Cathedral|es|Catedral del Cuzco}}}}
=== アルマス広場 ===
インカ時代「戦士の広場」として知られたアルマス広場は、フランシスコ・ピサロによるクスコ征圧宣言など、たびたびクスコの歴史における重要な事件の舞台となってきた。また、植民地時代ペルーで起きた反乱の指導者とされる[[ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ]]の処刑もここで行われた。
スペイン人は、広場の周囲に今日まで残るアーケードを建設した。大聖堂とラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会はどちらも広場に面している。
=== ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会 ===
[[File:Church of la Compañía, Cuzco.jpg|thumb|ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会]]
[[File:Calle Mantas - Cuzco.jpg|alt=|thumb|鐘楼のある通り]]
[[File:Hatunrumiyoc (7640968366).jpg|thumb|石壁のある通り]]
ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会(「イエズス会の教会」の意)は、インカの皇帝、[[ワイナ・カパック]]のアマルカンチャ宮殿のあった場所に、1576年に[[イエズス会]]によって着工され、アメリカ大陸におけるコロニアル・バロック建築の代表例とされる。ファサードは石の彫刻、祭壇は金箔で覆われた木の彫刻でできている。教会は、植民地時代のクスコ学校の貴重な絵画が残る地下礼拝堂の上に建つ。
=== 太陽神殿 ===
{{main|太陽神殿}}
=== 博物館 ===
* {{仮リンク|旧コロンビア美術館|en|Museo de Arte Precolombino (Peru)}}
* マチュピチュ博物館
* インカ博物館
* クスコ歴史地区博物館
* クスコ伝統織物センター
* カカオ・チョコレート博物館
{{Wide image|Cusco, Peru -panorama 15-07-2009.jpg|1200px|クスコの町並}}
{{wide image|82 - Cuzco - Juin 2009.jpg|815px|align-cap=center|夜のアルマス広場}}
{{wide image|Plaza de Armas de Cuzco.jpg|815px|align-cap=center|アルマス広場}}
== 人口 ==
{{historical populations
| 1614| 5000
| 1761| 6600
| 1812| 6900
| 1820| 9000
| 1827| 15000
| 1850| 16000
| 1861| 15000
| 1877| 17000
| 1890| 18900
| 1896| 20000
| 1900| 25000
| 1908| 33900
| 1920| 30500
| 1925| 32000
| 1927| 33000
| 1931| 35900
| 1940| 40600
| 1945| 45600
| 1951| 50000
| 1953| 54000
| 1961| 80100
| 1969| 115300
| 1981| 180227
| 1993| 250270
| 1997| 275318
| 2000| 295530
| 2005| 375066
| 2006| 382577
| 2007| 390059
| 2008| 397526
| 2009| 405000
| 2010| 412495
| 2011| 420030
| 2012| 427580
| 2013| 435114
| 2015| 434654
}}
18世紀後半まで、クスコは南米大陸最多の人口を抱え、リマよりも多かった。INEIによれば、2015年現在の人口は、434,654人である。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|+ 地区別の人口
|-
! 地区
! 面積 <br/>(km<sup>2</sup>)
! 人口<br/>(2007年)
! 世帯数<br/>(2007年)
! 人口密度<br/>(hab/km<sup>2</sup>)
! 標高<br/>([[海抜]])
|-
| '''クスコ'''
| 116.22 km<sup>2</sup>
| 108,798*
| 28,476
| 936.1
| 3,399 m
|-
| '''サン・ヘロニモ'''
| 103.34 km<sup>2</sup>
| 28,856*
| 8,942
| 279.2
| 3,244 m
|-
| '''サン・セバスチャン'''
| 89.44 km<sup>2</sup>
| 85,472*
| 18,109
| 955.6
| 3,244 m
|-
| '''サンチアゴ'''
| 69.72 km<sup>2</sup>
| 66,277*
| 21,168
| 950.6
| 3,400 m
|-
| '''ワンチャク'''
| 6.38 km<sup>2</sup>
| 54,524*
| 14,690
| 8,546.1
| 3,366 m
|-
| '''総計'''
| '''385.1 km<sup>2</sup>'''
| '''358,052*'''
| '''91,385 '''
| '''929.76'''
| —
|-
! colspan="7" |{{big|*}}<small>国勢調査 ([[:en:Instituto Nacional de Estadística e Informática|INEI]])<ref name=autogenerated2>[http://desa.inei.gob.pe/mapas/bid/ Censo 2005 INEI]</ref>
|}
== 交通 ==
[[アレハンドロ・ベラスコ・アステテ国際空港]]が市街地東部に立地している。[[LATAM ペルー]]などが就航している。また、[[マチュ・ピチュ]]遺跡との間、および[[チチカカ湖]]のほとりの[[プーノ]]との間に[[ペルー南部鉄道]]が走っている。バスも各地との間に運行されているが、高い標高のせいもあって道路状態が悪く、特に雨期は空路・鉄道と比べて確実ではない。
== 姉妹都市 ==
{| class=wikitable border=1
! 都市
! 国
! 姉妹都市になった年
|-
|[[ラパス]]
|{{BOL}}
|[[1984年]][[1月3日]]
|-
|[[バギオ]]
|{{PHL}}
|1984年[[8月23日]]
|-
|[[サマルカンド]]
|{{UZB}}
|[[1986年]][[8月4日]]
|-
|[[メキシコシティ]]
|{{MEX}}
|[[1987年]][[6月17日]]
|-
|[[京都市]]
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3,496 | タイタニック (客船) | 座標: 北緯41度43分57秒 西経49度56分49秒 / 北緯41.73250度 西経49.94694度 / 41.73250; -49.94694
タイタニック(英語: RMS Titanic、ロイヤルメールシップ・タイタニック)は、20世紀初頭に建造されたイギリス船籍のオーシャン・ライナー。
ホワイト・スター・ライン社が保有するオリンピック級客船の2番船であったが、処女航海中の1912年4月14日深夜に氷山に衝突し、その際の損傷による浸水が原因となって翌15日未明に沈没した。
タイタニックは、イギリスのホワイト・スター・ライン社が北大西洋航路用に計画し、造船家のアレクサンダー・カーライル(英語版)とトーマス・アンドリューズによって設計され、北アイルランドのベルファストにあるハーランド・アンド・ウルフ造船所で建造された豪華客船である。タイタニックの正式名称「RMS Titanic」のRMS(Royal Mail ShipまたはSteamer)は遠洋郵便船(英国郵便汽船)を意味する艦船接頭辞であり、船上でステーショナリーの購入、手紙の投函も可能だった。タイタニックはホワイト・スター・ラインが保有する3隻のオリンピック級客船の2番船であり、姉妹船にオリンピックとブリタニックがある。
処女航海中の1912年4月14日深夜、北大西洋上で氷山に接触、翌日未明にかけて沈没した。犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人(ほかに1,490人、1,517人、1,522または1,523人、1,609人などさまざまな説がある)であり、戦時中に沈没した船舶を除くと20世紀最大の海難事故であった。生還者数は710人だった。タイタニックとその事故は、しばしば映画化されるなどして、世界的にその名を知られている。
タイタニックの造船計画は、20世紀初頭に造船業としての勢力を保っていたハーランド・アンド・ウルフの会長ウィリアム・ピリー卿が、1907年、ロンドンのメイフェアの夕食会でホワイト・スター・ラインの社長ジョセフ・ブルース・イズメイ (J. Bruce Ismay) に大型客船3隻の造船を提案したことに始まる。
ホワイト・スター・ラインは当時白熱していた北大西洋航路における「ブルーリボン賞」と呼ばれるスピード競争にはあまり興味を示さず、ゆとりのある快適な船旅を売りにしており、タイタニックもスピードよりも設備の豪華さに重点を置いて設計されていた。もっとも、特等および一等船室は贅沢な造りではあるものの、船体下層ではレシプロ蒸気機関の振動が響くなど、快適とは言いがたい船室もあった。
船室は一等、二等、三等に分かれていた。一等船室はボートデッキからEデッキ、二等船室と三等船室はDデッキからGデッキにあり、三等船室は主としてFデッキやGデッキにあった。一等船室にはスイートルームも存在した。
煙突は4本あるが、4番目は厨房や蒸気タービンの換気用で、煙が排出されないダミー的なものであった。これは船の美観を重視したためで、実際「4本目の煙突はダミー、伊達であり、乗客が持ち込んだペットを預かるスペースとして使用されていた」という調査・証言もある。
ボイラー室は6つあり、合計29基の石炭ボイラーが設置されていた。その後方には2基の3段膨張4気筒レシプロ蒸気機関があり、左右の直径7mのスクリューを駆動していた。中央にある直径5mのスクリューは蒸気機関を通過したあとの低圧蒸気でタービンを回して駆動するもので、燃費を改善する目的があった。
一等客専用の階段である。タイタニックの室内装飾の目玉であり、精巧なウィリアム&メアリー様式(英語版)を基調とし、ルイ14世様式(英語版)風の手すりに縁どられている。この階段でDデッキまで下りてくると一等のダイニングルームの大広間に直接入れるようになっていた。
一等船室やスイートルームには贅の限りが尽くされた。お金があれば、三部屋、四部屋、五部屋といったように続き部屋をそっくり借り切ることもできた。部屋の装飾様式はルイ様式(ルイ14世様式(英語版)、ルイ15世紀様式(英語版)、ルイ16世様式(英語版))、帝国様式、ジャコビアン様式(英語版)、ジョージアン様式、アン女王様式、レジャンス(フランス摂政時代)様式、旧式・現代式のオランダ様式など部屋ごとに異なった。一番高級なのはBデッキのパーラースイートであり、リビングルーム、2つのベッドルーム、専用のバスルームに加え専用のプロムナードデッキ(遊歩道)も付いている。その金額は片道で4350ドル、ほぼ1000ポンドに近い額で、これは1997年時の換算で8万ドルに相当する金額である。当時最も高額な「海上不動産」だったといわれる。
Dデッキの一等客のダイニングルームは、500席あり、白いリンネルのテーブルクロス、きらめくクリスタルグラスや銀器類スコットランドアザミやイングリッシュローズ、フランス王室のユリ紋章などで飾られた椅子などで趣味よく飾られていた。
一等客の喫煙室はプロムナードデッキ(Aデッキ)にあったが、特に手が込んでおり、マホガニーのパネルを丹念に組み入れた壁、鉛入りのガラスパネルと食刻模様が入った鏡のはめ込み、リノリウムの床に美しい彫刻が広がり、天板に大理石を使ったテーブルの横には巨大な革張りのアームチェアが置かれていた。
ボートデッキにあるジムには固定自転車や機械木馬や機械ラクダなどが置かれていた。固定自転車は壁面に取り付けられた大型文字盤上の大きな赤と青の針に接続されており、漕いだ距離が分かるようになっていた。
スカッシュコートやスイミングプール、トルコ風呂なども存在した。
一等客用には三基のエレベーターが存在した。
二等船室も職人技と精巧な作りが目立ち、他の船の一等船室に劣らぬレベルだった。二等の階段は一等の大階段ほど豪華ではなかったものの、十分に美しい階段だった。二等客用には1基のエレベーターが存在した。また一等と二等はダイニングルームこそ違えど、厨房は同じだったので二等客は一流の料理人による料理を楽しむことができた。
三等船室は船首と船尾に分かれており、独身男性と夫婦には船首側、独身女性と家族には船尾側が当てがわれた。これはホワイトスターライン社のピューリタン的思想に基づくもので、独身男性と独身女性を遠く離す意図からそうなっていた。三等船室は質素な作りであり、独身者は3~5人の同性者との相部屋だったが、夫婦や家族には個室が与えられた。三等の宿泊施設は船首と船尾にある常設部屋の他、移動式の木製間仕切りがある区画が存在し、船室の数や乗員数に合わせて調整を行った。使われなかったスペースは三等客の共用スペースとなった。三等客には楽器を演奏する人々がかなりいたことから、この共用スペースでは毎晩ダンスが催された。食事は豪華とは言えないまでも、それなりの物がたっぷりと支給された。貧しいアイルランド人移民などは船での食事の方がこれまで家で食べてきた食事よりずっと御馳走だと述べる者もあった。当時の基準で言えば、三等客でも乗船料に比してかなり待遇が良かったといえる。ただし、三等客(約700人)には2つのバスしか与えられなかった。しかもそのバスタブは2つとも船尾側にあるため、船首側の部屋を割り当てられた者は船尾側までの長い距離を歩かねばならなかった。
タイタニックには姉妹船の「オリンピック」と「ブリタニック」が存在した。3隻体制は、当時ドル箱航路であった北大西洋航海において、他社との競争に打ち勝つためには実に合理的なものであった。タイタニックは1番船オリンピックの造船とほぼ時期を同じくして起工された。
ブリタニックはタイタニック沈没の影響による設計の見直しを迫られ、大幅に遅れて起工されたが、第一次世界大戦勃発によって病院船として徴用され、商船としては一度も使われないまま触雷により沈没した。オリンピックは輸送船として徴用されたが、戦火をくぐり抜けたのち客船として復帰し、1935年に引退するまで使用された。
タイタニックとオリンピックはほぼ同時期に竣工されたこともあり、外観や内装、サービス面においても瓜二つであった。1997年の映画『タイタニック』では、タイタニックのみが巨大な船であるかのように演出されていたが、当時はオリンピックが筆頭格であり、タイタニックの紹介記事にもしばしばオリンピックの写真が使われるなど、事実上オリンピックの陰に隠れた存在であった。その知名度が上がるのは皮肉にも沈没事故のあとであった。
先立って運航されていた1番船オリンピックの改善点の指摘を受けてタイタニックの設計は多少変更され、外観もオリンピックと異同がみられる。特に目立つ部分はAデッキで、一等船客専用プロムナードデッキ(遊歩道)が、オリンピックでは全体が海に面したベランダ状の吹きさらしとなっていたが、タイタニックでは中央部分から船首側の前半部分にガラス窓を取りつけてサンルーム状の半室内とされた。これは北大西洋の強風や波しぶきから乗客を守るためであり、オリンピックよりもすっきりとしたタイタニックの外観は、2隻を区別するうえでの重要な要素となった。
ほかにも、オリンピックにはAデッキ同様Bデッキにも海に面して全体にわたってプロムナードデッキが設けられていたが、タイタニックでは船尾側の一部分を除き廃され、代わりに船首側から中央部にかけて一等客室が増設された(オリンピックのBデッキの一等客室はすべてプロムナードデッキの内側にあり、直接海を展望できなかった)。そのうえ、プライベートプロムナードデッキのついた特等室(スイートルーム、1997年の映画『タイタニック』ではヒロインの婚約者の部屋)が2部屋設けられた。また、船尾側の一等船客専用の絢爛豪華なレストラン「アラカルト」も規模が拡張され、パリのカフェをイメージした華やかな「カフェ・パリジャン」が新設された。ただその反面、オリンピックはBデッキプロムナードデッキの後部3分の1程度が二等専用として確保されていたが、タイタニックは先述したとおり、一等専用レストランの拡張、及びカフェの新設により、その規模が大きく縮小された。
当初両姉妹船の総トン数は同じになるはずであったが、一等客室の数が増えたために最終的にタイタニックはオリンピック(4万5,324総トン)よりも1,004総トン増え、4万6,328総トンになった。
タイタニックには当時としては高度な安全対策が施されていた。船底は二重になっており、船体も喫水線(水面)上までの高さがある防水隔壁で16の区画に区分され、そのうちの2区画(船首部では4区画)に浸水しても沈没しない構造になっていた。隔壁は、Gデッキより上の壁は手動であったが、下層デッキのものは船橋 (ブリッジ)からの遠隔操作で即時閉鎖できた。各区画にも手動スイッチが設置され、15センチ以上の浸水で自動閉鎖される機能も備わっていた。そのため「不沈船」として喧伝され、(安全を度外視した運用方法の場合を除いて)21世紀の技術水準から見ても本船はきわめて安全であると言われている。
1912年4月10日に、タイタニックはエドワード・ジョン・スミス船長の指揮のもと、イギリス・サウサンプトン港の専用埠頭「オーシャンドック」からニューヨーク行きの処女航海に出発した。乗客乗員は合わせて2,200人以上で、一等特別室の航海費用は6日間で4,350ドルだったと伝えられている。
サウサンプトン港の出航後、タイタニックのスクリューから発生した水流に近くを航行していた客船ニューヨークが引き寄せられたが、衝突は間一髪で回避され、予定通りフランスのシェルブールとアイルランドのクイーンズタウン(現・コーヴ) に寄港し、アメリカのニューヨークに向かった。
サウサンプトン港出航の直前に人事異動があり、ブレア二等航海士が双眼鏡を二等航海士キャビンにしまったことを(降格されたあとに二等航海士になる)ライトラー一等航海士に申し送りせずに下船したため、双眼鏡が所在不明になり、海上の監視を肉眼で行うことになっていた。
4月14日は午前中から当該海域を航行していた船舶間で、流氷群についての情報が無線通知されていた。その日、タイタニックも6通の無線通信を受信していたが、この季節の北大西洋の航海においてはよくある現象だと見過ごされてしまい、クルー間の情報共有も徹底されなかった。さらに混信が発生し、衝突の40分前に近隣を航行するリーランド社の貨物船「カリフォルニアン(英語版)」から受けた警告も雑音とみなされてしまった。タイタニックの通信士たちは、前日の無線機故障のために山積していた旅客電報の発信業務に忙殺されていた。スミス船長は氷山の危険性を認識しており、航路を通常より少なくとも18キロ南寄りに変更していた。
4月14日23時40分、タイタニックが北大西洋のニューファンドランド沖にさしかかったとき、見張りが450メートル前方に高さ20メートル弱の氷山を肉眼で捕捉した。この海域は暖流と寒流がぶつかる境界面に位置するため、国際的にも海霧が発生しやすい海域として知られており、当直見張員だったフレデリック・フリートの証言によれば、そのときも海面には靄が漂っていた。また、双眼鏡なしでは月のない星月夜の静まり返った海の氷山の縁に立つ白波を見分けることも容易でなく、発見したときにはすでに手遅れだった。更に、氷山は全体の10パーセント程度しか水上に姿を現さないため、見えた氷山を直前で回避しても水面下で衝突する危険があった。
フリートはただちに鐘を3回鳴らし、ブリッジへの電話をつかんだ。応答したのはジェームズ・ポール・ムーディ六等航海士だった。
ムーディはただちに指揮をとる次席一等航海士のウィリアム・マクマスター・マードックに報告した。マードックは即座に「Hard starboard!(取舵一杯)」と操舵員のロバート・ヒッチェンスに叫び、それからエンジン・テレグラフ(機関伝令器)に走ると、「Full Astern(後進一杯)」の指令を送り、喫水線下の防水扉を閉めるボタンを押した。しかし、この時点で回避するにはあまりにも時間と距離が足りなかった。氷山まではおよそ400 - 450メートルであったが、22.5ノット(およそ秒速11.6メートル)で航行している船が停止するには1,200メートルもの距離を必要とした。結果、船首部分は衝突を避けられたものの、右舷は氷山に接触し、同船は停止した。
このとき、左へ舵を切ると同時に機関後進を掛け、衝突の数秒前に船舶の操縦特性である「キック」を使うため右いっぱいに舵を切った。舵は速力が高い方が効きやすく、「速力を落としたために、ただでさえ効きのよくない舵が余計に効力を発揮しなくなった。速力を落とさずにいれば氷山への衝突は回避できた」とする説もあるが、あくまで結果から見た推論に過ぎない。そもそも、衝突時にはかなりのスピードが出ていたと推測されるうえに、氷山発見から衝突までの時間はせいぜい30秒程度しかなかった(説によっては氷山を前方100 - 200メートルほどまで発見できなかったため10秒しかなかったとも言われる)ため、速度はほとんど変化せず、舵効きにも影響しなかったようである。
なお、回避行動の定説となっている「Full Astern(後進一杯)」の発令は生還したボックスホール四等航海士の証言を根拠としているが、その証言は衝突後にブリッジに到着しマードックとスミス船長の会話の中で発令を聞いたというものである。当時ブリッジ付近および機関室に勤務していた他の生還者もエンジン・テレグラフの操作音がしたことについての証言はあるものの、実際に何が発令されたかについて明言されているものはない。このことから、マードック、ムーディ両航海士や機関長といった当事者が生還しておらず直接の証言がないこともあり、マードック航海士が前述の操舵特性低下について把握していなかったとは考えづらいとして機関室への指示が「Full Astern(後進一杯)」であったかを疑問視する声もある。
映画などでは、防水扉の閉鎖は衝突後であり、缶部員(ボイラー員)はすぐ逃げ出したように描かれているものもあるが、実際に即時放棄されたのは浸水量の多い第六缶室のみであり、缶部・機関部員はその後も船内照明や無線電信への電力供給、汽缶(ボイラー)稼働、排水作業を続けた。ジョセフ・ベル機関長は浸水状況が悪化したあとに職務からの解放を命じたが、機関部員・電気技師の全員をはじめ多くの者が最下甲板に留まり沈没間際まで照明を点灯させ続けた。
受けた衝撃は船橋(ブリッジ)では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。船と氷山との接触は10秒間ほどで、船体の破孔は数インチ、総面積も1平方メートル程度であったことが海底探査によって判明している。
しかし、右舷船首のおよそ90メートルにわたって断続的に生じた損傷が船首の5区画にもたらした浸水は防水隔壁の上限を超えており、隔壁を乗り越えた海水が次々と防水区画から溢れたことで船首から船尾へと浸水が拡大していった。また、損傷は第六区画内にある第五缶室にも達していたが、被害は右舷船首側石炭庫への浸水のみであり、一時はポンプによる排水も成功したかに見えた。しかし、1時10分頃に突如第五区画側から水が流れ込んできたため放棄された。これは事故前に発生していた船内火災の影響とも、水密隔壁に比べて強度が劣る石炭庫壁の損壊によって庫内の水が流入してきたものとも言われている。かつてはボイラーに冷水が触れて水蒸気爆発が起き、船体側面にできた破孔から大量に浸水したとする説が有力だったが、船体調査の結果ではボイラー付近にそのような破孔は確認されなかった。
沈没にいたるほどの損壊を生んだ原因として「側面をかすめるように氷山に衝突したため」とする説もある。船体に使われていた鋼鉄には当時の低い精練技術のために不純物の硫化マンガン(II)が多く含まれており、寒冷時には特に脆くなる性質だったことが最近のサンプル調査で判明した。現在もっとも有力視されているのは、ティム・フェイキやジェニファー・ホーバー・マッカーシーらが唱えた、衝突の衝撃によって広い範囲のリベットが抜け落ち、その結果生じた鋼板の隙間から浸水したとする説である。ハーランド・アンド・ウルフの資料によると、設計上のタイタニックは300万本ものリベットで船体の金属板をつなぐ構造だったが、姉妹船オリンピックと同時注文のためレベル4の鋼鉄製リベットが不足し、船首と船尾にはワンランク劣る鉄製のレベル3が使われたうえ、リベットの直径も規定の25ミリ未満だった。また、リベットの本数が間引きされ、熟練工の不足のために不完全な打たれ方をしたものも少なくなかったという。2005年の海底探査で剥離した船底が発見されたことで、衝突の際にタイタニックは水面下に広がる氷山の突起に乗り上げるかたちで船底にも損傷を受け、沈没時に船体が折れる原因になったとするロジャー・ロムの説も生まれている。
スミス船長は海水の排水を試みようとしたが、ごくわずかな時間稼ぎに留まった。日付が変わった4月15日0時15分、マルコーニ社規定の遭難信号『CQD』を発信し、周辺の船舶に救助を求めた。しかし、現場からわずか10 - 17海里(約18 - 30キロ)ほどの距離に碇泊していた「カリフォルニアン」は、たった1人の通信士が就寝中で無線を受信できなかった。事故後の査問委員会にて同船船長のロード船長は、もし事故を知っていたら、最大船速13.5ノットにて2時間程度でたどり着けただろうと述べるとともに、同日0時頃に発光弾を放つ船が4マイル先を通過しているのを船長並びに複数の船員が目撃したが、発光信号を送っても無視されたと述べている(目撃の件については、タイタニックの生存者が船影らしき影を見ていることや、スミス船長が通信室にて水平線上に灯が見えていたと話していることから、同船が目と鼻の先にいたとする説もあるが、目撃されたのは後述の「マウント・テンプル(英語版)」だとする説もあり、真相は不明である)。カナディアン・パシフィックの「マウント・テンプル」も遭難信号を受けて救助に向かったが、タイタニックから20キロ未満の距離の海域に到着したあとに、船長のヘンリー・ムーアが氷山を恐れるあまり消灯して停船し、雲隠れしてしまった(査問委員会に提出された航海日誌では48海里(約88キロ)と記録されている)。乗客の何名かは、タイタニックの船体が折れる音を聞いたと証言している。
ほかにも、「バーマ」(距離70海里(130キロ))、「フランクフルト」(距離153海里(283キロ))、「バージニア」(距離170海里(315キロ))、「バルチック」(距離243海里(450キロ))、姉妹船「オリンピック」(距離500海里(約930キロ))など様々な船が遭難信号を傍受しているが、いずれもタイタニックから遠く離れた場所を航行しており、すぐには救助に向かえない状況であった。
結局、58海里(約107キロ)離れた地点にいた客船「カルパチア」が応答し、ボイラー破損のリスクを負いながら高速(通常14ノットのところを17ノット)で救助に向かったが、船足の鈍いカルパチアが現場に到着したのは沈没から2時間40分後の午前4時であった。
遭難信号については1906年11月3日にベルリンで調印された国際無線電信条約附属業務規則の第16条で遭難信号『SOS』が定められ、1908年7月1日より発効していたが、事故直後はマルコーニ国際海洋通信会社規定の遭難信号『CQD』を使っており、途中から国際条約による遭難信号『SOS』を併用している。
沈没が差し迫ったタイタニックでは、左舷はライトラー二等航海士が、右舷はマードック次席一等航海士が救命ボートへの移乗を指揮し、ライトラーは一等船客の「女性と子供を優先する」ことを遵守したが、マードックは比較的男性にも寛大な対応をした。
しかし、当時のイギリス商務省の規定はタイタニックに比してはるかに乗客の少ない1万トン級船舶が主流だったころに作成されたものだったため、定員分の救命ボートを備える義務がなく(規定では978人分。規定が改定されたのはタイタニックの沈没後)、もとより短時間で沈没するような事態を想定していなかったこともあり、(旅客定員2,453、乗組員899、計3,352名に対し)1,178人分のボートしか用意されていなかった。これにはタイタニック起工直前の1909年1月に起こった大型客船「リパブリック号」沈没事故の影響も指摘される。この事故では、他船との衝突から沈没まで38時間もの余裕があり、その間に乗客乗員のほとんどが無事救出されたことから、大型客船は短時間で沈没しないものであり、救命ボートは救援船への移乗手段であれば足りるという見方が支配的になったことも、後述するように犠牲者を増やす結果につながった。
また、乗員が定員に満たぬうちに船から離れた救命ボートも多い。ライトラーをはじめとする多くのクルーがボートをダビット(救命ボートの昇降装置)に吊るした状態で船が沈んでしまうことを最大の恥辱としていたため、できるだけ早く海面にボートを降ろし、舷側にある乗船用扉を開いて、乗客を乗せようと考えていたこと、クルーの多くがボートフォール(救命ボートを吊るロープ)の扱いに不慣れであり、乗員の重さでダビットが曲がることを恐れたためともいわれる(事前に行われたテストで定員65人のボートに70人を乗せて充分な成果を得ていたが、周知されていなかった)。事実、降ろされたボートには乗員が定員の半数にも満たないものもあり、結果として1,500人もの乗員乗客が船に取り残される状況となってしまった。
浸水の影響でタイタニックの船首は海没していき、反対に船尾が海面から高く持ち上がっていった。その結果、設計時の想定をはるかに超える負荷が船体にかかり、衝突から2時間40分後の2時20分、轟音とともに船体は2つに折れてしまった。検証によれば、折れた個所は構造上比較的弱かった後部大階段付近(第三煙突前方)であり、引きちぎられるように折れた。デッキが多い客船は、沈没の際早期に転覆するのが常であり、タイタニックのように最後まで転覆せず、船尾が空中高く持ち上がり、あまつさえその負荷により船体が折れる事例はきわめて珍しい。電気系統は船体が折れる直前まで稼働していた。
2つに折れたタイタニックは、船首側がまず沈没し、残った船尾側はやや遅れて沈んだ。混乱の中で救命ボートの転覆を恐れたクルーの逡巡の末、救助に向かったボートはわずか1艘だった(左舷14号ボート)。このボートはハロルド・ロウ五等航海士が艇長を務めていたが、準備を整えて救助に向かったとき、沈没からすでに30分が経過していた。4月の大西洋はまだ水温が低く、人々が投げ出された海は零下2度の冷たさで、乗客の大半は低体温症などで十数分 - 20分程度で死亡したか、または心臓麻痺で数分のうちに死亡したと考えられている。その中には赤ん坊を抱いた母親もいたという。
2時間半後、到着した客船カルパチアが救助挺を出し、海に浮かんでいた2人の生存者を救出した。そのうちの1人は、浮遊していたドアによじ登り、水に浸かっていなかったため体温低下の進行が遅かったものと見られている。驚くべき事例はもう1人の者(チャールズ・ジョーキン、パン職人)で、全身が水に浸かっていたにもかかわらず生存していた。医学的検査の結果、内臓や血管などに特殊な所見はなく、唯一の違いは「酒に酔っていた」ことであった。しかし、今日の医学ではアルコールはむしろ低体温症のリスクを高めるとされているが、救助されたあとに亡くなった犠牲者の中にも、同じように酔っていてアルコール血中濃度の高い者がいた。この生存者は、平均して20分程度で死亡した遭難者の中で2時間も生存した稀有な例である。
最新の科学技術の粋を集めた新鋭船の大事故は、当時の欧米社会に大きな衝撃を与えた。事故の犠牲者数はさまざまな説があるが、イギリス商務省の調査によると、犠牲者数は1,513人にも達し、当時世界最大の海難事故といわれた。
この事故をきっかけに船舶・航海の安全性確保について、条約の形で国際的に取り決めようという動きが起こり、1914年1月「海上における人命の安全のための国際会議」が行われ、欧米13か国が参加した。「1914年の海上における人命の安全のための国際条約(The International Convention for the Safety of Life at Sea,1914)」として採択された。アメリカでは船舶への無線装置配備の義務づけが強化され、無線通信が普及するきっかけになったとされる。
また「ジョセフ・ベルら機関員の勇敢な行動に感銘を受けたジョージ5世は英国王室のロイヤルカラーであるロイヤルパープルの使用許可を与え、機関員の肩章に紫色が使われるようになった」という逸話が語られることがあるが、これについては事故以前の1865年に英海軍が機関士に紫色の色分けの階級章を使用することを決定、以降に商船会社もそれに倣ったものである。
1985年9月1日、海洋地質学者ロバート・バラード率いるウッズホール海洋研究所およびフランス国立海洋開発研究所の調査団は、海底3,650メートルに沈没したタイタニックの残骸(英語版)を発見した。2004年6月、バラードとアメリカ海洋大気庁(NOAA)はタイタニックの損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行った。その後、バラードの呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまり、同年6月18日、アメリカ合衆国が条約に署名した。この条約はタイタニックを保存対象に指定し、遺物の劣化と違法な遺品回収行為を防ぐこととしている。
海底のタイタニックは横転などはしておらず、船底を下にして沈んでいる。第3煙突の真下あたりで引きちぎれており、海上で船体が2つに折れたという説が初めて立証された。深海では通常バクテリアの活動が弱いために船体の保存状況はよく、多くの内装部分が残っていると思われていたが、この地点はほかの深海に比べ水温が高いためにバクテリアの活動が活発で船の傷みは予想以上であった。船体は分解され、ラスティクル(rusticle)と呼ばれるつらら状の物体が成長している。
当初船体は叩きつけられるように海底に衝突し、船内の備品はもとより甲板の小さな部品や窓ガラスすべてが粉々に吹き飛んだと思われていたが、船首部分にはいまだ手すりが残り、航海士室の窓ガラスも完璧な状態で残っている。船内にはシャンデリアや鏡、暖炉といった多くの備品が存在し、Dデッキのダイニングルームには豪華な装飾で飾られた大窓も割れておらず、ほぼ当時のままの状態で残存している。客室の洗面台に備えつけられていた水差しとコップ、食器棚に収められた皿、ストラウス夫妻の客室の暖炉に置かれていた金の置時計は沈没時の衝撃に耐え、現在でも沈没前とまったく同じ場所に置かれている。このことから船首部分は海底に叩きつけられたのではなく、船首の先端から滑るように海底に接地したと思われる。一方、船尾部分は大きく吹き飛び、見る影もない。
現在のタイタニックは鉄を消費するバクテリアによりすでに鉄材の20パーセントが酸化し、2100年ごろまでに自重に耐え切れず崩壊する見込みである。それらのバクテリアのうち、新種が2010年になって発見され、タイタニックにちなんでハロモナス・ティタニカエ(Halomonas titanicae)と命名された。
海底のタイタニックにはたびたび潜水探査船による調査が行われた。特にタイタニック (1997年の映画)では、2台の潜水調査船やリモートコントロール探査機が使用され、詳細な画像が収録された。無断で海底の遺品を回収する行為も広く行われ、一部の遺品は利益目的に販売されるなどされ、非難を集めている。
事故原因をめぐっては、石炭火災による隔壁の鋼材強度の大幅低下説、上記のリベットの強度不足をおもな原因とする説、鋼板の脆弱性をおもな原因とする説のほかにもさまざまな説がある。
1912年の事故調査・査問委員会(英語版)で石炭火災が取り上げられたが、沈没事故とは無関係とされ、大した火災ではなかったというのが定説だった。
しかし、タイタニックの専門家であるセナン・モロニー(英語版)によると「タイタニックの出港前の写真で船体側面(第6ボイラーの石炭倉庫のあたり)に約9メートルほどの焦げ跡が確認できる」とされており、実際、タイタニックの石炭庫では、ベルファストの造船所の港を離れる前から自然発火による石炭火災が起きていた。石炭を積んだのは出港する3週間前である。また、当時はイギリス国内の炭鉱でストライキが起こっており、十分な石炭が確保できなかった。
1912年4月10日、サウサンプトン港で乗客を乗せた時点で、火災は消火できておらず、その結果、加熱された部分の鋼材の強度は最大で75パーセント低下し、船体の構造の一部がすでに脆くなっていたことが沈没のおもな原因で、4月14日深夜の氷山との衝突は沈没のトリガーになったに過ぎないと主張し、2010年代後半には注目される有力説となった。
沈没事故の数日後のニューヨークの新聞に掲載された、ジョン・ディリーというボイラーマンが波止場で記者に話したことによると、
という。
石炭火災の専門家によると、
ボイラー作業員160人のうち、アメリカまで向かったのはわずか8人だけである。このように作業員が入れ替わったことは前例がない。また、当時英国でタイタニック号事故調査・査問委員会を指揮した委員長のジョン・ビンガム(初代マージー子爵)(英語版)は、不自然なまでに石炭火災の影響を無視し、却下する審判指揮をしている。
2010年9月に、二等航海士のチャールズ・ハーバート・ライトラーの孫、ルイーズ・パッテンは、イギリスのデーリー・テレグラフに対し、「ミスがなければ、氷山への衝突を避けることは簡単だった。氷山が近くにあるのを見てパニックに陥った操舵手が、間違った方向に舵を切った」と語り、基本的な操舵ミスが原因だったとしている。
記事によるとマードックが氷山を発見したのは衝突の4分前、衝突時に減速がほとんど効いていなかったとされることから氷山との距離は約2,700メートルであったと算出される。これは十分に停止可能な距離であるが、マードックは操舵のみで回避できると判断し、ロバート・ヒッチェンズ操舵手に「Hard Starboard!」の号令をかけた。この号令は帆船時代からの名残で「舵輪を左に回して“舵柄を右に動かし”左へ急速回頭する」の意味で使用されており(Tiller Orders・間接法)、タイタニックでも採用されていた。しかし蒸気船式の号令(Rudder Orders・直接法)では「舵輪を右に回して舵柄を左へ動かし“右へ急速回頭する”」を意味するため、直接法で訓練されていたヒッチェンズ操舵手はパニックに陥り、舵輪を右に回してしまう。操舵手のミスに気づいたマードックは左回頭に修正したが手遅れであった。「後進一杯」が発せられたのはこの修正時と思われる。
同記事には「ブルース・イズメイ社長が船長に微速前進での航行を命令したことにより、船首に水圧がかかり浸水が早まった。前進していなければカルパチアが到着するまで沈むことはなかった」との証言も記載されている。実際に、衝突直後に計測された現在位置と沈没現場には数海里の誤差がある。
事故後、ライトラーは海運会社の倒産を恐れ、調査でもミスを隠したと説明している。
事故後、南アフリカのケープ・タウンの港湾長に任じられたヒッチェンズ操舵手は知人のヘンリー・ブラムらに「タイタニックの事故に関して秘密を守るためにケープ・タウンまで送られた」と告白しているが、関連は不明である。
生存した船員が「船長はいつもと違い、氷山の警告を無視した。性格も変貌し、船のスピードアップに躍起だった」と、スミス船長に異常があったことを証言しているが、スミス船長の態度がいつもとは違ったのは、「処女航海で大西洋横断のスピード記録(ブルーリボン賞)を出すためであった」という説がある。
タイタニックが氷山に衝突したのは、大西洋最速横断記録(ブルーリボン賞)を獲得しようと無理な航行を強行したことが事故の遠因になったという説があり、根強く支持されている。しかし、1912年当時のブルーリボン賞を保持していたのは西回り・東回りともにモーリタニアであり、その平均速度は26ノット近いものであった。両船の要目を比較すると、
であり、機関の性能から見て、タイタニックはブルーリボン賞を獲得できるような能力を持っていない。
当時、ブルーリボン賞の獲得を目指したモーリタニアのような高速船は、その莫大な運航費用(燃料費)を輸送する人員や貨物だけでは賄えず、政府からの補助金によって運航が維持されていた。しかし、タイタニックを含めたオリンピッククラス客船は豪華さを売りにし、総トン数を上げ輸送力増大や機関出力を抑えての燃料費の低減など、補助金なしで採算が取れる運航ができるように設計された船であった。このことから、ブルーリボン賞を獲得しようとして事故を起こしたという説の根拠は薄い。
タイタニックが高速で航行した理由として、スミス船長をはじめ多くの船乗りが高速で氷山を突破した方が安全だと考えていたこと、石炭火災を止めるために燃えている石炭をボイラーに投げ込んだため自然と船足が早くなったこと、当時イギリスの炭鉱がストライキをしていたためニューヨークに着けるだけの石炭しか手に入らなかったことが理由であると考えられている。
事故年の初頭は大潮にあたり、大量の浮氷、氷山がラブラドル海流に乗り南下したという新たな学説が立てられた。ドナルド・オルソン研究チームによる調査では、月が過去1400年で、最も地球に接近し、氷山を南の航路まで漂ったためとした。
「船を所有していたホワイト・スター・ライン社が財政難になっており、タイタニックの保険金を得るために故意に沈めた」という陰謀説がある。
根拠として、タイタニックを管理していたのはホワイト・スター・ラインであったが、その事実上の所有者は同社に出資していた国際海運商事の社長であるジョン・モルガンであった。モルガンはタイタニックに乗る予定だったが、直前に病気を理由にキャンセルし、代わりに別の大富豪の夫妻が乗船することになったが、この夫妻もキャンセルし、結局ホワイト・スター・ライン社の社長であるブルース・イズメイがこの部屋に泊まった。しかし、病気だったはずのモルガンが同時期に北アフリカからフランスにかけて旅行をしていたことがのちに判明しており、イタリアでは愛人にも会っている。しかも、キャンセルした客の中にモルガンと非常に深いつながりがある人々が数名いることも判明しているため、「モルガンはこの処女航海中に何か起こることを知っていたのではないか」とするものである。しかし、衝突し沈没に至る大きさの氷山に出くわし、目的通りに沈没する確率は限りなく低く、この説は単なる憶測の域を出ないものである。
また、モルガンはタイタニックで運ぶはずだった私的な貨物も直前にキャンセルしている。さらに、リパブリック沈没事件で名を馳せたジャック・ビンズという通信士も乗船をキャンセルしており、降格処分で下船した航海士が、双眼鏡をしまったロッカーの鍵を持っていた。乗船をキャンセルした者が自分の貨物をキャンセルするのは自然であるという意見もあるものの、乗船キャンセルの原因となった「旅行」の目的が何であったかは明らかになっていない。しかしこの事故は不注意な運航による予知しにくいもので、仮に航海士たちが巨額の資金で買収され、わざと氷山に衝突させたのなら航海士に死人は出ないはずであり、やはりこの説も憶測の域を出ないものである。
なお、「タイタニック号への乗船を直前にキャンセルしたのは50人を越す」にその他、火夫などを含めてと記されている。
タイタニックには、姉妹船として「オリンピック」がタイタニックより1年ほど早く北米航路に投入されていた。オリンピックは、タイタニックが就航する前に2回事故を起こしている。
この2つの事故を鑑みて、「オリンピックは近い将来廃船される予定だったのではないか」というのが、船すり替え説の論拠となっている。つまり、廃棄寸前だったオリンピックを、内装や若干の仕様を変更させて「タイタニック」に仕立て上げて、故意に氷山にぶつかったというのである。
これら一連の陰謀説が唱えられる状況証拠として、
などが挙げられている。
同型船とはいえ、オリンピックとタイタニックには構造上の相違点がいくつかあり、そのもっとも大きな違いはボート甲板直下のAデッキ(プロムナードデッキ)の差である。またBデッキの一等船室の配置も数も異なり、オリンピックに比べてタイタニックでは一等客の定員が大幅に増加している。
オリンピックとタイタニックをすり替えるためには、オリンピックが座礁した2月24日から4月10日のタイタニックの処女航海までにこれらの工事を終える必要があり、両船の船員全員を配置転換しなければならないこと、改修に関与する造船所の工員の数などを考えると、すり替えが成立する根拠はほぼない。
タイタニック沈没事故の14年前の1898年に発表されていた、アメリカ人の元船員モーガン・ロバートソン(英語版)(1861年 - 1915年)の短編小説『タイタン号の遭難,または愚行 The Wreck of the Titan』(初版では『愚行』"Futility")の内容がタイタニック沈没事故に酷似していたため、事故後「事故を予言した小説」として話題になった。小説中の「タイタン号」とタイタニック号は、船名、大きさ、構造、航路、沈没原因などが類似・一致しており、同書は事件後に欧米で大きな売り上げを記録したという。しかし、事故後の改訂時に初版から「タイタン号」の重量と馬力が変更されている。 スラヴォイ・ジジェクはこの一致を「ある時代が終わりつつあるという感覚」が当時の時代精神の一部となっていたことが理由と主張している。
「運んでいたミイラによる呪い説」の書籍も出版されており、この中でミイラの呪いかという点に言及されている。
このミイラ(実際にはミイラの上に載せる人型のふた〈ミイラボード 〉)は、1990年と2007年に海外に貸し出された以外に大英博物館を出たことはなく、1912年にタイタニックに積まれた事実はない。なぜタイタニックに載せられたという伝説が生まれたのかについては定かではないが、乗船客の中にこのミイラを知る者がいて長旅の暇つぶしにほかの客たちに話したのが、話を聞いた者が生き残って尾ひれをつけて広めたのではないかとされる。
購入者はイギリス人の旅行者で、購入後にさまざまな不幸を体験したとされる。人手を渡り大英博物館に収められることになったのだが、大英博物館の公式記録では最終的な寄贈者しか記録されておらず、それ以前の経緯はツタンカーメンの呪いと同じく噂の域を出ない。なお、「不幸のミイラ」は現在も大英博物館に収蔵されており、詳細なデータについては大英博物館のサイトで確認することができる。
タイタニックのおもな乗員は、次のとおりである。
タイタニックの著名な乗客は、次のとおりである。
最後の生存者が2009年に死去しており、以下の人物は全員故人である。
1912年4月21日、メジャーリーグベースボール(MLB)のニューヨーク・ハイランダーズとボストン・レッドソックスは、亡くなった乗客の遺族たちのためにポロ・グラウンズで慈善試合を開催した。
タイタニックをめぐって、多くの作品が発表されている。おもな作品は、次のとおりである。
吹奏楽の名曲でありフルートソロなどで知られている。 玉名女子高等学校の演奏により特別版や2021年版などが作られている。
バーチャルゲーミングプラットフォームRoblox上で公開されているタイタニック号の探索,脱出ゲーム。アルカディア号や沈没したあとのタイタニック号を探索する潜水艦なども登場することがある。ほかにもRoblox上では多くのタイタニック号に関係するゲームが存在する。 | [
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"text": "座標: 北緯41度43分57秒 西経49度56分49秒 / 北緯41.73250度 西経49.94694度 / 41.73250; -49.94694",
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"text": "タイタニック(英語: RMS Titanic、ロイヤルメールシップ・タイタニック)は、20世紀初頭に建造されたイギリス船籍のオーシャン・ライナー。",
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"text": "ホワイト・スター・ライン社が保有するオリンピック級客船の2番船であったが、処女航海中の1912年4月14日深夜に氷山に衝突し、その際の損傷による浸水が原因となって翌15日未明に沈没した。",
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"text": "タイタニックは、イギリスのホワイト・スター・ライン社が北大西洋航路用に計画し、造船家のアレクサンダー・カーライル(英語版)とトーマス・アンドリューズによって設計され、北アイルランドのベルファストにあるハーランド・アンド・ウルフ造船所で建造された豪華客船である。タイタニックの正式名称「RMS Titanic」のRMS(Royal Mail ShipまたはSteamer)は遠洋郵便船(英国郵便汽船)を意味する艦船接頭辞であり、船上でステーショナリーの購入、手紙の投函も可能だった。タイタニックはホワイト・スター・ラインが保有する3隻のオリンピック級客船の2番船であり、姉妹船にオリンピックとブリタニックがある。",
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"text": "処女航海中の1912年4月14日深夜、北大西洋上で氷山に接触、翌日未明にかけて沈没した。犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人(ほかに1,490人、1,517人、1,522または1,523人、1,609人などさまざまな説がある)であり、戦時中に沈没した船舶を除くと20世紀最大の海難事故であった。生還者数は710人だった。タイタニックとその事故は、しばしば映画化されるなどして、世界的にその名を知られている。",
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"text": "タイタニックの造船計画は、20世紀初頭に造船業としての勢力を保っていたハーランド・アンド・ウルフの会長ウィリアム・ピリー卿が、1907年、ロンドンのメイフェアの夕食会でホワイト・スター・ラインの社長ジョセフ・ブルース・イズメイ (J. Bruce Ismay) に大型客船3隻の造船を提案したことに始まる。",
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"text": "ホワイト・スター・ラインは当時白熱していた北大西洋航路における「ブルーリボン賞」と呼ばれるスピード競争にはあまり興味を示さず、ゆとりのある快適な船旅を売りにしており、タイタニックもスピードよりも設備の豪華さに重点を置いて設計されていた。もっとも、特等および一等船室は贅沢な造りではあるものの、船体下層ではレシプロ蒸気機関の振動が響くなど、快適とは言いがたい船室もあった。",
"title": "設備"
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"text": "船室は一等、二等、三等に分かれていた。一等船室はボートデッキからEデッキ、二等船室と三等船室はDデッキからGデッキにあり、三等船室は主としてFデッキやGデッキにあった。一等船室にはスイートルームも存在した。",
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"text": "煙突は4本あるが、4番目は厨房や蒸気タービンの換気用で、煙が排出されないダミー的なものであった。これは船の美観を重視したためで、実際「4本目の煙突はダミー、伊達であり、乗客が持ち込んだペットを預かるスペースとして使用されていた」という調査・証言もある。",
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"text": "ボイラー室は6つあり、合計29基の石炭ボイラーが設置されていた。その後方には2基の3段膨張4気筒レシプロ蒸気機関があり、左右の直径7mのスクリューを駆動していた。中央にある直径5mのスクリューは蒸気機関を通過したあとの低圧蒸気でタービンを回して駆動するもので、燃費を改善する目的があった。",
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"text": "一等客専用の階段である。タイタニックの室内装飾の目玉であり、精巧なウィリアム&メアリー様式(英語版)を基調とし、ルイ14世様式(英語版)風の手すりに縁どられている。この階段でDデッキまで下りてくると一等のダイニングルームの大広間に直接入れるようになっていた。",
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"text": "一等船室やスイートルームには贅の限りが尽くされた。お金があれば、三部屋、四部屋、五部屋といったように続き部屋をそっくり借り切ることもできた。部屋の装飾様式はルイ様式(ルイ14世様式(英語版)、ルイ15世紀様式(英語版)、ルイ16世様式(英語版))、帝国様式、ジャコビアン様式(英語版)、ジョージアン様式、アン女王様式、レジャンス(フランス摂政時代)様式、旧式・現代式のオランダ様式など部屋ごとに異なった。一番高級なのはBデッキのパーラースイートであり、リビングルーム、2つのベッドルーム、専用のバスルームに加え専用のプロムナードデッキ(遊歩道)も付いている。その金額は片道で4350ドル、ほぼ1000ポンドに近い額で、これは1997年時の換算で8万ドルに相当する金額である。当時最も高額な「海上不動産」だったといわれる。",
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"text": "Dデッキの一等客のダイニングルームは、500席あり、白いリンネルのテーブルクロス、きらめくクリスタルグラスや銀器類スコットランドアザミやイングリッシュローズ、フランス王室のユリ紋章などで飾られた椅子などで趣味よく飾られていた。",
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"text": "一等客の喫煙室はプロムナードデッキ(Aデッキ)にあったが、特に手が込んでおり、マホガニーのパネルを丹念に組み入れた壁、鉛入りのガラスパネルと食刻模様が入った鏡のはめ込み、リノリウムの床に美しい彫刻が広がり、天板に大理石を使ったテーブルの横には巨大な革張りのアームチェアが置かれていた。",
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"text": "ボートデッキにあるジムには固定自転車や機械木馬や機械ラクダなどが置かれていた。固定自転車は壁面に取り付けられた大型文字盤上の大きな赤と青の針に接続されており、漕いだ距離が分かるようになっていた。",
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"text": "スカッシュコートやスイミングプール、トルコ風呂なども存在した。",
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"text": "一等客用には三基のエレベーターが存在した。",
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"text": "二等船室も職人技と精巧な作りが目立ち、他の船の一等船室に劣らぬレベルだった。二等の階段は一等の大階段ほど豪華ではなかったものの、十分に美しい階段だった。二等客用には1基のエレベーターが存在した。また一等と二等はダイニングルームこそ違えど、厨房は同じだったので二等客は一流の料理人による料理を楽しむことができた。",
"title": "設備"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "三等船室は船首と船尾に分かれており、独身男性と夫婦には船首側、独身女性と家族には船尾側が当てがわれた。これはホワイトスターライン社のピューリタン的思想に基づくもので、独身男性と独身女性を遠く離す意図からそうなっていた。三等船室は質素な作りであり、独身者は3~5人の同性者との相部屋だったが、夫婦や家族には個室が与えられた。三等の宿泊施設は船首と船尾にある常設部屋の他、移動式の木製間仕切りがある区画が存在し、船室の数や乗員数に合わせて調整を行った。使われなかったスペースは三等客の共用スペースとなった。三等客には楽器を演奏する人々がかなりいたことから、この共用スペースでは毎晩ダンスが催された。食事は豪華とは言えないまでも、それなりの物がたっぷりと支給された。貧しいアイルランド人移民などは船での食事の方がこれまで家で食べてきた食事よりずっと御馳走だと述べる者もあった。当時の基準で言えば、三等客でも乗船料に比してかなり待遇が良かったといえる。ただし、三等客(約700人)には2つのバスしか与えられなかった。しかもそのバスタブは2つとも船尾側にあるため、船首側の部屋を割り当てられた者は船尾側までの長い距離を歩かねばならなかった。",
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"text": "タイタニックには姉妹船の「オリンピック」と「ブリタニック」が存在した。3隻体制は、当時ドル箱航路であった北大西洋航海において、他社との競争に打ち勝つためには実に合理的なものであった。タイタニックは1番船オリンピックの造船とほぼ時期を同じくして起工された。",
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"text": "ブリタニックはタイタニック沈没の影響による設計の見直しを迫られ、大幅に遅れて起工されたが、第一次世界大戦勃発によって病院船として徴用され、商船としては一度も使われないまま触雷により沈没した。オリンピックは輸送船として徴用されたが、戦火をくぐり抜けたのち客船として復帰し、1935年に引退するまで使用された。",
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"text": "タイタニックとオリンピックはほぼ同時期に竣工されたこともあり、外観や内装、サービス面においても瓜二つであった。1997年の映画『タイタニック』では、タイタニックのみが巨大な船であるかのように演出されていたが、当時はオリンピックが筆頭格であり、タイタニックの紹介記事にもしばしばオリンピックの写真が使われるなど、事実上オリンピックの陰に隠れた存在であった。その知名度が上がるのは皮肉にも沈没事故のあとであった。",
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"text": "先立って運航されていた1番船オリンピックの改善点の指摘を受けてタイタニックの設計は多少変更され、外観もオリンピックと異同がみられる。特に目立つ部分はAデッキで、一等船客専用プロムナードデッキ(遊歩道)が、オリンピックでは全体が海に面したベランダ状の吹きさらしとなっていたが、タイタニックでは中央部分から船首側の前半部分にガラス窓を取りつけてサンルーム状の半室内とされた。これは北大西洋の強風や波しぶきから乗客を守るためであり、オリンピックよりもすっきりとしたタイタニックの外観は、2隻を区別するうえでの重要な要素となった。",
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"text": "ほかにも、オリンピックにはAデッキ同様Bデッキにも海に面して全体にわたってプロムナードデッキが設けられていたが、タイタニックでは船尾側の一部分を除き廃され、代わりに船首側から中央部にかけて一等客室が増設された(オリンピックのBデッキの一等客室はすべてプロムナードデッキの内側にあり、直接海を展望できなかった)。そのうえ、プライベートプロムナードデッキのついた特等室(スイートルーム、1997年の映画『タイタニック』ではヒロインの婚約者の部屋)が2部屋設けられた。また、船尾側の一等船客専用の絢爛豪華なレストラン「アラカルト」も規模が拡張され、パリのカフェをイメージした華やかな「カフェ・パリジャン」が新設された。ただその反面、オリンピックはBデッキプロムナードデッキの後部3分の1程度が二等専用として確保されていたが、タイタニックは先述したとおり、一等専用レストランの拡張、及びカフェの新設により、その規模が大きく縮小された。",
"title": "オリンピッククラス"
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"text": "当初両姉妹船の総トン数は同じになるはずであったが、一等客室の数が増えたために最終的にタイタニックはオリンピック(4万5,324総トン)よりも1,004総トン増え、4万6,328総トンになった。",
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"text": "タイタニックには当時としては高度な安全対策が施されていた。船底は二重になっており、船体も喫水線(水面)上までの高さがある防水隔壁で16の区画に区分され、そのうちの2区画(船首部では4区画)に浸水しても沈没しない構造になっていた。隔壁は、Gデッキより上の壁は手動であったが、下層デッキのものは船橋 (ブリッジ)からの遠隔操作で即時閉鎖できた。各区画にも手動スイッチが設置され、15センチ以上の浸水で自動閉鎖される機能も備わっていた。そのため「不沈船」として喧伝され、(安全を度外視した運用方法の場合を除いて)21世紀の技術水準から見ても本船はきわめて安全であると言われている。",
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"text": "1912年4月10日に、タイタニックはエドワード・ジョン・スミス船長の指揮のもと、イギリス・サウサンプトン港の専用埠頭「オーシャンドック」からニューヨーク行きの処女航海に出発した。乗客乗員は合わせて2,200人以上で、一等特別室の航海費用は6日間で4,350ドルだったと伝えられている。",
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"text": "サウサンプトン港の出航後、タイタニックのスクリューから発生した水流に近くを航行していた客船ニューヨークが引き寄せられたが、衝突は間一髪で回避され、予定通りフランスのシェルブールとアイルランドのクイーンズタウン(現・コーヴ) に寄港し、アメリカのニューヨークに向かった。",
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"text": "サウサンプトン港出航の直前に人事異動があり、ブレア二等航海士が双眼鏡を二等航海士キャビンにしまったことを(降格されたあとに二等航海士になる)ライトラー一等航海士に申し送りせずに下船したため、双眼鏡が所在不明になり、海上の監視を肉眼で行うことになっていた。",
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"paragraph_id": 29,
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"text": "4月14日は午前中から当該海域を航行していた船舶間で、流氷群についての情報が無線通知されていた。その日、タイタニックも6通の無線通信を受信していたが、この季節の北大西洋の航海においてはよくある現象だと見過ごされてしまい、クルー間の情報共有も徹底されなかった。さらに混信が発生し、衝突の40分前に近隣を航行するリーランド社の貨物船「カリフォルニアン(英語版)」から受けた警告も雑音とみなされてしまった。タイタニックの通信士たちは、前日の無線機故障のために山積していた旅客電報の発信業務に忙殺されていた。スミス船長は氷山の危険性を認識しており、航路を通常より少なくとも18キロ南寄りに変更していた。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "4月14日23時40分、タイタニックが北大西洋のニューファンドランド沖にさしかかったとき、見張りが450メートル前方に高さ20メートル弱の氷山を肉眼で捕捉した。この海域は暖流と寒流がぶつかる境界面に位置するため、国際的にも海霧が発生しやすい海域として知られており、当直見張員だったフレデリック・フリートの証言によれば、そのときも海面には靄が漂っていた。また、双眼鏡なしでは月のない星月夜の静まり返った海の氷山の縁に立つ白波を見分けることも容易でなく、発見したときにはすでに手遅れだった。更に、氷山は全体の10パーセント程度しか水上に姿を現さないため、見えた氷山を直前で回避しても水面下で衝突する危険があった。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "フリートはただちに鐘を3回鳴らし、ブリッジへの電話をつかんだ。応答したのはジェームズ・ポール・ムーディ六等航海士だった。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ムーディはただちに指揮をとる次席一等航海士のウィリアム・マクマスター・マードックに報告した。マードックは即座に「Hard starboard!(取舵一杯)」と操舵員のロバート・ヒッチェンスに叫び、それからエンジン・テレグラフ(機関伝令器)に走ると、「Full Astern(後進一杯)」の指令を送り、喫水線下の防水扉を閉めるボタンを押した。しかし、この時点で回避するにはあまりにも時間と距離が足りなかった。氷山まではおよそ400 - 450メートルであったが、22.5ノット(およそ秒速11.6メートル)で航行している船が停止するには1,200メートルもの距離を必要とした。結果、船首部分は衝突を避けられたものの、右舷は氷山に接触し、同船は停止した。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "このとき、左へ舵を切ると同時に機関後進を掛け、衝突の数秒前に船舶の操縦特性である「キック」を使うため右いっぱいに舵を切った。舵は速力が高い方が効きやすく、「速力を落としたために、ただでさえ効きのよくない舵が余計に効力を発揮しなくなった。速力を落とさずにいれば氷山への衝突は回避できた」とする説もあるが、あくまで結果から見た推論に過ぎない。そもそも、衝突時にはかなりのスピードが出ていたと推測されるうえに、氷山発見から衝突までの時間はせいぜい30秒程度しかなかった(説によっては氷山を前方100 - 200メートルほどまで発見できなかったため10秒しかなかったとも言われる)ため、速度はほとんど変化せず、舵効きにも影響しなかったようである。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "なお、回避行動の定説となっている「Full Astern(後進一杯)」の発令は生還したボックスホール四等航海士の証言を根拠としているが、その証言は衝突後にブリッジに到着しマードックとスミス船長の会話の中で発令を聞いたというものである。当時ブリッジ付近および機関室に勤務していた他の生還者もエンジン・テレグラフの操作音がしたことについての証言はあるものの、実際に何が発令されたかについて明言されているものはない。このことから、マードック、ムーディ両航海士や機関長といった当事者が生還しておらず直接の証言がないこともあり、マードック航海士が前述の操舵特性低下について把握していなかったとは考えづらいとして機関室への指示が「Full Astern(後進一杯)」であったかを疑問視する声もある。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "映画などでは、防水扉の閉鎖は衝突後であり、缶部員(ボイラー員)はすぐ逃げ出したように描かれているものもあるが、実際に即時放棄されたのは浸水量の多い第六缶室のみであり、缶部・機関部員はその後も船内照明や無線電信への電力供給、汽缶(ボイラー)稼働、排水作業を続けた。ジョセフ・ベル機関長は浸水状況が悪化したあとに職務からの解放を命じたが、機関部員・電気技師の全員をはじめ多くの者が最下甲板に留まり沈没間際まで照明を点灯させ続けた。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "受けた衝撃は船橋(ブリッジ)では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。船と氷山との接触は10秒間ほどで、船体の破孔は数インチ、総面積も1平方メートル程度であったことが海底探査によって判明している。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "しかし、右舷船首のおよそ90メートルにわたって断続的に生じた損傷が船首の5区画にもたらした浸水は防水隔壁の上限を超えており、隔壁を乗り越えた海水が次々と防水区画から溢れたことで船首から船尾へと浸水が拡大していった。また、損傷は第六区画内にある第五缶室にも達していたが、被害は右舷船首側石炭庫への浸水のみであり、一時はポンプによる排水も成功したかに見えた。しかし、1時10分頃に突如第五区画側から水が流れ込んできたため放棄された。これは事故前に発生していた船内火災の影響とも、水密隔壁に比べて強度が劣る石炭庫壁の損壊によって庫内の水が流入してきたものとも言われている。かつてはボイラーに冷水が触れて水蒸気爆発が起き、船体側面にできた破孔から大量に浸水したとする説が有力だったが、船体調査の結果ではボイラー付近にそのような破孔は確認されなかった。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "沈没にいたるほどの損壊を生んだ原因として「側面をかすめるように氷山に衝突したため」とする説もある。船体に使われていた鋼鉄には当時の低い精練技術のために不純物の硫化マンガン(II)が多く含まれており、寒冷時には特に脆くなる性質だったことが最近のサンプル調査で判明した。現在もっとも有力視されているのは、ティム・フェイキやジェニファー・ホーバー・マッカーシーらが唱えた、衝突の衝撃によって広い範囲のリベットが抜け落ち、その結果生じた鋼板の隙間から浸水したとする説である。ハーランド・アンド・ウルフの資料によると、設計上のタイタニックは300万本ものリベットで船体の金属板をつなぐ構造だったが、姉妹船オリンピックと同時注文のためレベル4の鋼鉄製リベットが不足し、船首と船尾にはワンランク劣る鉄製のレベル3が使われたうえ、リベットの直径も規定の25ミリ未満だった。また、リベットの本数が間引きされ、熟練工の不足のために不完全な打たれ方をしたものも少なくなかったという。2005年の海底探査で剥離した船底が発見されたことで、衝突の際にタイタニックは水面下に広がる氷山の突起に乗り上げるかたちで船底にも損傷を受け、沈没時に船体が折れる原因になったとするロジャー・ロムの説も生まれている。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "スミス船長は海水の排水を試みようとしたが、ごくわずかな時間稼ぎに留まった。日付が変わった4月15日0時15分、マルコーニ社規定の遭難信号『CQD』を発信し、周辺の船舶に救助を求めた。しかし、現場からわずか10 - 17海里(約18 - 30キロ)ほどの距離に碇泊していた「カリフォルニアン」は、たった1人の通信士が就寝中で無線を受信できなかった。事故後の査問委員会にて同船船長のロード船長は、もし事故を知っていたら、最大船速13.5ノットにて2時間程度でたどり着けただろうと述べるとともに、同日0時頃に発光弾を放つ船が4マイル先を通過しているのを船長並びに複数の船員が目撃したが、発光信号を送っても無視されたと述べている(目撃の件については、タイタニックの生存者が船影らしき影を見ていることや、スミス船長が通信室にて水平線上に灯が見えていたと話していることから、同船が目と鼻の先にいたとする説もあるが、目撃されたのは後述の「マウント・テンプル(英語版)」だとする説もあり、真相は不明である)。カナディアン・パシフィックの「マウント・テンプル」も遭難信号を受けて救助に向かったが、タイタニックから20キロ未満の距離の海域に到着したあとに、船長のヘンリー・ムーアが氷山を恐れるあまり消灯して停船し、雲隠れしてしまった(査問委員会に提出された航海日誌では48海里(約88キロ)と記録されている)。乗客の何名かは、タイタニックの船体が折れる音を聞いたと証言している。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ほかにも、「バーマ」(距離70海里(130キロ))、「フランクフルト」(距離153海里(283キロ))、「バージニア」(距離170海里(315キロ))、「バルチック」(距離243海里(450キロ))、姉妹船「オリンピック」(距離500海里(約930キロ))など様々な船が遭難信号を傍受しているが、いずれもタイタニックから遠く離れた場所を航行しており、すぐには救助に向かえない状況であった。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "結局、58海里(約107キロ)離れた地点にいた客船「カルパチア」が応答し、ボイラー破損のリスクを負いながら高速(通常14ノットのところを17ノット)で救助に向かったが、船足の鈍いカルパチアが現場に到着したのは沈没から2時間40分後の午前4時であった。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "遭難信号については1906年11月3日にベルリンで調印された国際無線電信条約附属業務規則の第16条で遭難信号『SOS』が定められ、1908年7月1日より発効していたが、事故直後はマルコーニ国際海洋通信会社規定の遭難信号『CQD』を使っており、途中から国際条約による遭難信号『SOS』を併用している。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "沈没が差し迫ったタイタニックでは、左舷はライトラー二等航海士が、右舷はマードック次席一等航海士が救命ボートへの移乗を指揮し、ライトラーは一等船客の「女性と子供を優先する」ことを遵守したが、マードックは比較的男性にも寛大な対応をした。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "しかし、当時のイギリス商務省の規定はタイタニックに比してはるかに乗客の少ない1万トン級船舶が主流だったころに作成されたものだったため、定員分の救命ボートを備える義務がなく(規定では978人分。規定が改定されたのはタイタニックの沈没後)、もとより短時間で沈没するような事態を想定していなかったこともあり、(旅客定員2,453、乗組員899、計3,352名に対し)1,178人分のボートしか用意されていなかった。これにはタイタニック起工直前の1909年1月に起こった大型客船「リパブリック号」沈没事故の影響も指摘される。この事故では、他船との衝突から沈没まで38時間もの余裕があり、その間に乗客乗員のほとんどが無事救出されたことから、大型客船は短時間で沈没しないものであり、救命ボートは救援船への移乗手段であれば足りるという見方が支配的になったことも、後述するように犠牲者を増やす結果につながった。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "また、乗員が定員に満たぬうちに船から離れた救命ボートも多い。ライトラーをはじめとする多くのクルーがボートをダビット(救命ボートの昇降装置)に吊るした状態で船が沈んでしまうことを最大の恥辱としていたため、できるだけ早く海面にボートを降ろし、舷側にある乗船用扉を開いて、乗客を乗せようと考えていたこと、クルーの多くがボートフォール(救命ボートを吊るロープ)の扱いに不慣れであり、乗員の重さでダビットが曲がることを恐れたためともいわれる(事前に行われたテストで定員65人のボートに70人を乗せて充分な成果を得ていたが、周知されていなかった)。事実、降ろされたボートには乗員が定員の半数にも満たないものもあり、結果として1,500人もの乗員乗客が船に取り残される状況となってしまった。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "浸水の影響でタイタニックの船首は海没していき、反対に船尾が海面から高く持ち上がっていった。その結果、設計時の想定をはるかに超える負荷が船体にかかり、衝突から2時間40分後の2時20分、轟音とともに船体は2つに折れてしまった。検証によれば、折れた個所は構造上比較的弱かった後部大階段付近(第三煙突前方)であり、引きちぎられるように折れた。デッキが多い客船は、沈没の際早期に転覆するのが常であり、タイタニックのように最後まで転覆せず、船尾が空中高く持ち上がり、あまつさえその負荷により船体が折れる事例はきわめて珍しい。電気系統は船体が折れる直前まで稼働していた。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2つに折れたタイタニックは、船首側がまず沈没し、残った船尾側はやや遅れて沈んだ。混乱の中で救命ボートの転覆を恐れたクルーの逡巡の末、救助に向かったボートはわずか1艘だった(左舷14号ボート)。このボートはハロルド・ロウ五等航海士が艇長を務めていたが、準備を整えて救助に向かったとき、沈没からすでに30分が経過していた。4月の大西洋はまだ水温が低く、人々が投げ出された海は零下2度の冷たさで、乗客の大半は低体温症などで十数分 - 20分程度で死亡したか、または心臓麻痺で数分のうちに死亡したと考えられている。その中には赤ん坊を抱いた母親もいたという。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2時間半後、到着した客船カルパチアが救助挺を出し、海に浮かんでいた2人の生存者を救出した。そのうちの1人は、浮遊していたドアによじ登り、水に浸かっていなかったため体温低下の進行が遅かったものと見られている。驚くべき事例はもう1人の者(チャールズ・ジョーキン、パン職人)で、全身が水に浸かっていたにもかかわらず生存していた。医学的検査の結果、内臓や血管などに特殊な所見はなく、唯一の違いは「酒に酔っていた」ことであった。しかし、今日の医学ではアルコールはむしろ低体温症のリスクを高めるとされているが、救助されたあとに亡くなった犠牲者の中にも、同じように酔っていてアルコール血中濃度の高い者がいた。この生存者は、平均して20分程度で死亡した遭難者の中で2時間も生存した稀有な例である。",
"title": "沈没事故"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "最新の科学技術の粋を集めた新鋭船の大事故は、当時の欧米社会に大きな衝撃を与えた。事故の犠牲者数はさまざまな説があるが、イギリス商務省の調査によると、犠牲者数は1,513人にも達し、当時世界最大の海難事故といわれた。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "この事故をきっかけに船舶・航海の安全性確保について、条約の形で国際的に取り決めようという動きが起こり、1914年1月「海上における人命の安全のための国際会議」が行われ、欧米13か国が参加した。「1914年の海上における人命の安全のための国際条約(The International Convention for the Safety of Life at Sea,1914)」として採択された。アメリカでは船舶への無線装置配備の義務づけが強化され、無線通信が普及するきっかけになったとされる。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "また「ジョセフ・ベルら機関員の勇敢な行動に感銘を受けたジョージ5世は英国王室のロイヤルカラーであるロイヤルパープルの使用許可を与え、機関員の肩章に紫色が使われるようになった」という逸話が語られることがあるが、これについては事故以前の1865年に英海軍が機関士に紫色の色分けの階級章を使用することを決定、以降に商船会社もそれに倣ったものである。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1985年9月1日、海洋地質学者ロバート・バラード率いるウッズホール海洋研究所およびフランス国立海洋開発研究所の調査団は、海底3,650メートルに沈没したタイタニックの残骸(英語版)を発見した。2004年6月、バラードとアメリカ海洋大気庁(NOAA)はタイタニックの損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行った。その後、バラードの呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまり、同年6月18日、アメリカ合衆国が条約に署名した。この条約はタイタニックを保存対象に指定し、遺物の劣化と違法な遺品回収行為を防ぐこととしている。",
"title": "沈没後のタイタニック"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "海底のタイタニックは横転などはしておらず、船底を下にして沈んでいる。第3煙突の真下あたりで引きちぎれており、海上で船体が2つに折れたという説が初めて立証された。深海では通常バクテリアの活動が弱いために船体の保存状況はよく、多くの内装部分が残っていると思われていたが、この地点はほかの深海に比べ水温が高いためにバクテリアの活動が活発で船の傷みは予想以上であった。船体は分解され、ラスティクル(rusticle)と呼ばれるつらら状の物体が成長している。",
"title": "沈没後のタイタニック"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "当初船体は叩きつけられるように海底に衝突し、船内の備品はもとより甲板の小さな部品や窓ガラスすべてが粉々に吹き飛んだと思われていたが、船首部分にはいまだ手すりが残り、航海士室の窓ガラスも完璧な状態で残っている。船内にはシャンデリアや鏡、暖炉といった多くの備品が存在し、Dデッキのダイニングルームには豪華な装飾で飾られた大窓も割れておらず、ほぼ当時のままの状態で残存している。客室の洗面台に備えつけられていた水差しとコップ、食器棚に収められた皿、ストラウス夫妻の客室の暖炉に置かれていた金の置時計は沈没時の衝撃に耐え、現在でも沈没前とまったく同じ場所に置かれている。このことから船首部分は海底に叩きつけられたのではなく、船首の先端から滑るように海底に接地したと思われる。一方、船尾部分は大きく吹き飛び、見る影もない。",
"title": "沈没後のタイタニック"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "現在のタイタニックは鉄を消費するバクテリアによりすでに鉄材の20パーセントが酸化し、2100年ごろまでに自重に耐え切れず崩壊する見込みである。それらのバクテリアのうち、新種が2010年になって発見され、タイタニックにちなんでハロモナス・ティタニカエ(Halomonas titanicae)と命名された。",
"title": "沈没後のタイタニック"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "海底のタイタニックにはたびたび潜水探査船による調査が行われた。特にタイタニック (1997年の映画)では、2台の潜水調査船やリモートコントロール探査機が使用され、詳細な画像が収録された。無断で海底の遺品を回収する行為も広く行われ、一部の遺品は利益目的に販売されるなどされ、非難を集めている。",
"title": "沈没後のタイタニック"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "事故原因をめぐっては、石炭火災による隔壁の鋼材強度の大幅低下説、上記のリベットの強度不足をおもな原因とする説、鋼板の脆弱性をおもな原因とする説のほかにもさまざまな説がある。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1912年の事故調査・査問委員会(英語版)で石炭火災が取り上げられたが、沈没事故とは無関係とされ、大した火災ではなかったというのが定説だった。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "しかし、タイタニックの専門家であるセナン・モロニー(英語版)によると「タイタニックの出港前の写真で船体側面(第6ボイラーの石炭倉庫のあたり)に約9メートルほどの焦げ跡が確認できる」とされており、実際、タイタニックの石炭庫では、ベルファストの造船所の港を離れる前から自然発火による石炭火災が起きていた。石炭を積んだのは出港する3週間前である。また、当時はイギリス国内の炭鉱でストライキが起こっており、十分な石炭が確保できなかった。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1912年4月10日、サウサンプトン港で乗客を乗せた時点で、火災は消火できておらず、その結果、加熱された部分の鋼材の強度は最大で75パーセント低下し、船体の構造の一部がすでに脆くなっていたことが沈没のおもな原因で、4月14日深夜の氷山との衝突は沈没のトリガーになったに過ぎないと主張し、2010年代後半には注目される有力説となった。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "沈没事故の数日後のニューヨークの新聞に掲載された、ジョン・ディリーというボイラーマンが波止場で記者に話したことによると、",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "という。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "石炭火災の専門家によると、",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ボイラー作業員160人のうち、アメリカまで向かったのはわずか8人だけである。このように作業員が入れ替わったことは前例がない。また、当時英国でタイタニック号事故調査・査問委員会を指揮した委員長のジョン・ビンガム(初代マージー子爵)(英語版)は、不自然なまでに石炭火災の影響を無視し、却下する審判指揮をしている。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2010年9月に、二等航海士のチャールズ・ハーバート・ライトラーの孫、ルイーズ・パッテンは、イギリスのデーリー・テレグラフに対し、「ミスがなければ、氷山への衝突を避けることは簡単だった。氷山が近くにあるのを見てパニックに陥った操舵手が、間違った方向に舵を切った」と語り、基本的な操舵ミスが原因だったとしている。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "記事によるとマードックが氷山を発見したのは衝突の4分前、衝突時に減速がほとんど効いていなかったとされることから氷山との距離は約2,700メートルであったと算出される。これは十分に停止可能な距離であるが、マードックは操舵のみで回避できると判断し、ロバート・ヒッチェンズ操舵手に「Hard Starboard!」の号令をかけた。この号令は帆船時代からの名残で「舵輪を左に回して“舵柄を右に動かし”左へ急速回頭する」の意味で使用されており(Tiller Orders・間接法)、タイタニックでも採用されていた。しかし蒸気船式の号令(Rudder Orders・直接法)では「舵輪を右に回して舵柄を左へ動かし“右へ急速回頭する”」を意味するため、直接法で訓練されていたヒッチェンズ操舵手はパニックに陥り、舵輪を右に回してしまう。操舵手のミスに気づいたマードックは左回頭に修正したが手遅れであった。「後進一杯」が発せられたのはこの修正時と思われる。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "同記事には「ブルース・イズメイ社長が船長に微速前進での航行を命令したことにより、船首に水圧がかかり浸水が早まった。前進していなければカルパチアが到着するまで沈むことはなかった」との証言も記載されている。実際に、衝突直後に計測された現在位置と沈没現場には数海里の誤差がある。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "事故後、ライトラーは海運会社の倒産を恐れ、調査でもミスを隠したと説明している。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "事故後、南アフリカのケープ・タウンの港湾長に任じられたヒッチェンズ操舵手は知人のヘンリー・ブラムらに「タイタニックの事故に関して秘密を守るためにケープ・タウンまで送られた」と告白しているが、関連は不明である。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "生存した船員が「船長はいつもと違い、氷山の警告を無視した。性格も変貌し、船のスピードアップに躍起だった」と、スミス船長に異常があったことを証言しているが、スミス船長の態度がいつもとは違ったのは、「処女航海で大西洋横断のスピード記録(ブルーリボン賞)を出すためであった」という説がある。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "タイタニックが氷山に衝突したのは、大西洋最速横断記録(ブルーリボン賞)を獲得しようと無理な航行を強行したことが事故の遠因になったという説があり、根強く支持されている。しかし、1912年当時のブルーリボン賞を保持していたのは西回り・東回りともにモーリタニアであり、その平均速度は26ノット近いものであった。両船の要目を比較すると、",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "であり、機関の性能から見て、タイタニックはブルーリボン賞を獲得できるような能力を持っていない。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "当時、ブルーリボン賞の獲得を目指したモーリタニアのような高速船は、その莫大な運航費用(燃料費)を輸送する人員や貨物だけでは賄えず、政府からの補助金によって運航が維持されていた。しかし、タイタニックを含めたオリンピッククラス客船は豪華さを売りにし、総トン数を上げ輸送力増大や機関出力を抑えての燃料費の低減など、補助金なしで採算が取れる運航ができるように設計された船であった。このことから、ブルーリボン賞を獲得しようとして事故を起こしたという説の根拠は薄い。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "タイタニックが高速で航行した理由として、スミス船長をはじめ多くの船乗りが高速で氷山を突破した方が安全だと考えていたこと、石炭火災を止めるために燃えている石炭をボイラーに投げ込んだため自然と船足が早くなったこと、当時イギリスの炭鉱がストライキをしていたためニューヨークに着けるだけの石炭しか手に入らなかったことが理由であると考えられている。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "事故年の初頭は大潮にあたり、大量の浮氷、氷山がラブラドル海流に乗り南下したという新たな学説が立てられた。ドナルド・オルソン研究チームによる調査では、月が過去1400年で、最も地球に接近し、氷山を南の航路まで漂ったためとした。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "「船を所有していたホワイト・スター・ライン社が財政難になっており、タイタニックの保険金を得るために故意に沈めた」という陰謀説がある。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "根拠として、タイタニックを管理していたのはホワイト・スター・ラインであったが、その事実上の所有者は同社に出資していた国際海運商事の社長であるジョン・モルガンであった。モルガンはタイタニックに乗る予定だったが、直前に病気を理由にキャンセルし、代わりに別の大富豪の夫妻が乗船することになったが、この夫妻もキャンセルし、結局ホワイト・スター・ライン社の社長であるブルース・イズメイがこの部屋に泊まった。しかし、病気だったはずのモルガンが同時期に北アフリカからフランスにかけて旅行をしていたことがのちに判明しており、イタリアでは愛人にも会っている。しかも、キャンセルした客の中にモルガンと非常に深いつながりがある人々が数名いることも判明しているため、「モルガンはこの処女航海中に何か起こることを知っていたのではないか」とするものである。しかし、衝突し沈没に至る大きさの氷山に出くわし、目的通りに沈没する確率は限りなく低く、この説は単なる憶測の域を出ないものである。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "また、モルガンはタイタニックで運ぶはずだった私的な貨物も直前にキャンセルしている。さらに、リパブリック沈没事件で名を馳せたジャック・ビンズという通信士も乗船をキャンセルしており、降格処分で下船した航海士が、双眼鏡をしまったロッカーの鍵を持っていた。乗船をキャンセルした者が自分の貨物をキャンセルするのは自然であるという意見もあるものの、乗船キャンセルの原因となった「旅行」の目的が何であったかは明らかになっていない。しかしこの事故は不注意な運航による予知しにくいもので、仮に航海士たちが巨額の資金で買収され、わざと氷山に衝突させたのなら航海士に死人は出ないはずであり、やはりこの説も憶測の域を出ないものである。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "なお、「タイタニック号への乗船を直前にキャンセルしたのは50人を越す」にその他、火夫などを含めてと記されている。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "タイタニックには、姉妹船として「オリンピック」がタイタニックより1年ほど早く北米航路に投入されていた。オリンピックは、タイタニックが就航する前に2回事故を起こしている。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "この2つの事故を鑑みて、「オリンピックは近い将来廃船される予定だったのではないか」というのが、船すり替え説の論拠となっている。つまり、廃棄寸前だったオリンピックを、内装や若干の仕様を変更させて「タイタニック」に仕立て上げて、故意に氷山にぶつかったというのである。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "これら一連の陰謀説が唱えられる状況証拠として、",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "などが挙げられている。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "同型船とはいえ、オリンピックとタイタニックには構造上の相違点がいくつかあり、そのもっとも大きな違いはボート甲板直下のAデッキ(プロムナードデッキ)の差である。またBデッキの一等船室の配置も数も異なり、オリンピックに比べてタイタニックでは一等客の定員が大幅に増加している。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "オリンピックとタイタニックをすり替えるためには、オリンピックが座礁した2月24日から4月10日のタイタニックの処女航海までにこれらの工事を終える必要があり、両船の船員全員を配置転換しなければならないこと、改修に関与する造船所の工員の数などを考えると、すり替えが成立する根拠はほぼない。",
"title": "事故原因"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "タイタニック沈没事故の14年前の1898年に発表されていた、アメリカ人の元船員モーガン・ロバートソン(英語版)(1861年 - 1915年)の短編小説『タイタン号の遭難,または愚行 The Wreck of the Titan』(初版では『愚行』\"Futility\")の内容がタイタニック沈没事故に酷似していたため、事故後「事故を予言した小説」として話題になった。小説中の「タイタン号」とタイタニック号は、船名、大きさ、構造、航路、沈没原因などが類似・一致しており、同書は事件後に欧米で大きな売り上げを記録したという。しかし、事故後の改訂時に初版から「タイタン号」の重量と馬力が変更されている。 スラヴォイ・ジジェクはこの一致を「ある時代が終わりつつあるという感覚」が当時の時代精神の一部となっていたことが理由と主張している。",
"title": "オカルトでの扱い"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "「運んでいたミイラによる呪い説」の書籍も出版されており、この中でミイラの呪いかという点に言及されている。",
"title": "オカルトでの扱い"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "このミイラ(実際にはミイラの上に載せる人型のふた〈ミイラボード 〉)は、1990年と2007年に海外に貸し出された以外に大英博物館を出たことはなく、1912年にタイタニックに積まれた事実はない。なぜタイタニックに載せられたという伝説が生まれたのかについては定かではないが、乗船客の中にこのミイラを知る者がいて長旅の暇つぶしにほかの客たちに話したのが、話を聞いた者が生き残って尾ひれをつけて広めたのではないかとされる。",
"title": "オカルトでの扱い"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "購入者はイギリス人の旅行者で、購入後にさまざまな不幸を体験したとされる。人手を渡り大英博物館に収められることになったのだが、大英博物館の公式記録では最終的な寄贈者しか記録されておらず、それ以前の経緯はツタンカーメンの呪いと同じく噂の域を出ない。なお、「不幸のミイラ」は現在も大英博物館に収蔵されており、詳細なデータについては大英博物館のサイトで確認することができる。",
"title": "オカルトでの扱い"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "タイタニックのおもな乗員は、次のとおりである。",
"title": "乗員"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "タイタニックの著名な乗客は、次のとおりである。",
"title": "乗客"
},
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"tag": "p",
"text": "最後の生存者が2009年に死去しており、以下の人物は全員故人である。",
"title": "乗客"
},
{
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"text": "1912年4月21日、メジャーリーグベースボール(MLB)のニューヨーク・ハイランダーズとボストン・レッドソックスは、亡くなった乗客の遺族たちのためにポロ・グラウンズで慈善試合を開催した。",
"title": "各界の反応"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "タイタニックをめぐって、多くの作品が発表されている。おもな作品は、次のとおりである。",
"title": "タイタニックを題材にした作品"
},
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"tag": "p",
"text": "吹奏楽の名曲でありフルートソロなどで知られている。 玉名女子高等学校の演奏により特別版や2021年版などが作られている。",
"title": "タイタニックを題材にした作品"
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"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "バーチャルゲーミングプラットフォームRoblox上で公開されているタイタニック号の探索,脱出ゲーム。アルカディア号や沈没したあとのタイタニック号を探索する潜水艦なども登場することがある。ほかにもRoblox上では多くのタイタニック号に関係するゲームが存在する。",
"title": "タイタニックを題材にした作品"
}
] | タイタニックは、20世紀初頭に建造されたイギリス船籍のオーシャン・ライナー。 ホワイト・スター・ライン社が保有するオリンピック級客船の2番船であったが、処女航海中の1912年4月14日深夜に氷山に衝突し、その際の損傷による浸水が原因となって翌15日未明に沈没した。 | {{coord|41|43|57|N|49|56|49|W|display=title|scale:20000000}}
{{Infobox 船
|名称 = タイタニック
|画像 = RMS_Titanic_3.jpg
|画像説明 = タイタニック号
|船種 = [[客船]]([[オーシャン・ライナー]])
|クラス = [[オリンピック級客船]]
|船籍 = {{GBR}}
|運用者 = [[ホワイト・スター・ライン]]
|母港 = [[リヴァプール]]
|起工 = 1909年3月31日
|進水 = 1911年5月31日
|竣工 = 1912年3月31日
|処女航海 = 1912年4月10日
|最後 = 1912年4月15日に沈没
|総トン数 = 46,328トン
|全長 = 269.1 m
|全幅 = 28.2 m
|高さ = 53 m
|喫水 = 10.5 m
|ボイラー = [[スコッチボイラー|スコッチ式ボイラー]] 24基 / 補助 5基
|主機 = レシプロ4気筒エンジン2基<br />[[蒸気タービン]]1基、<br>計 {{cvt|50000|hp|MW|lk=on}}
|推進器 = 混成3軸、3枚羽スクリュー推進
|速力 = 23[[ノット]] (42.6 km/h)
|旅客定員 = 1等旅客 833人<br />2等旅客 614人<br />3等旅客1006人
|乗組員 = 899人
}}
'''タイタニック'''({{Lang-en|RMS Titanic}}、ロイヤルメールシップ・タイタニック)は、[[20世紀]]初頭に建造された[[イギリス]]船籍の[[オーシャン・ライナー]]。
[[ホワイト・スター・ライン]]社が保有する[[オリンピック級客船]]の2番船であったが、処女[[航海]]中の[[1912年]][[4月14日]]深夜に[[氷山]]に衝突し、その際の損傷による浸水が原因となって翌15日未明に[[沈没]]した。
== 概要 ==
タイタニックは、イギリスのホワイト・スター・ライン社が北[[大西洋]]航路用に計画し、造船家の{{仮リンク|アレクサンダー・カーライル|en|Alexander Carlisle}}と[[トーマス・アンドリューズ (造船家)|トーマス・アンドリューズ]]によって設計され、[[北アイルランド]]の[[ベルファスト]]にある[[ハーランド・アンド・ウルフ]]造船所で建造された[[豪華客船]]である。タイタニックの正式名称「RMS Titanic」のRMS([[:en:Royal Mail Ship|Royal Mail Ship]]またはSteamer)は遠洋[[郵便船]](英国郵便汽船)を意味する[[艦船接頭辞]]であり、船上で[[ステーショナリー]]の購入、手紙の投函も可能だった<ref>[https://web.archive.org/web/20200108033602/https://postalmuseum.si.edu/collections/object-spotlight/titanic-picture-postcards Titanic Picture Postcards] - National Postal Museum</ref>。タイタニックはホワイト・スター・ラインが保有する3隻のオリンピック級客船の2番船であり、姉妹船に[[オリンピック (客船)|オリンピック]]と[[ブリタニック (客船・2代)|ブリタニック]]がある。
[[:en:Maiden voyage|処女航海]]中の[[1912年]][[4月14日]]深夜、北大西洋上で氷山に接触、翌日未明にかけて沈没した。犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人(ほかに1,490人、1,517人、1,522または1,523人、1,609人などさまざまな説がある)であり、戦時中に沈没した船舶を除くと20世紀最大の[[海難事故]]であった<ref group="注">2017年時点では[[ドニャ・パス号]](異説あり)、[[ジョラ号]](戦時中に沈没した船舶では[[ヴィルヘルム・グストロフ (客船)|ヴィルヘルム・グストロフ]]、[[ゴヤ (貨物船)|ゴヤ]])などの犠牲者数が上回っている。</ref>。生還者数は710人だった。タイタニックとその事故は、しばしば[[タイタニック_(映画)|映画化]]されるなどして、世界的にその名を知られている。
{{Main|タイタニック号沈没事故}}
== 造船 ==
<gallery mode="packed" heights="170">
File:RMS Titanic 1.jpg|vinolia otto toilet soapの看板に描かれたタイタニック
File:Titanic plans.jpg|タイタニックの設計図(その後B甲板が大幅に変更される)
</gallery>
<gallery mode="packed" heights="130">
File:RMS Titanic ready for launch, 1911.jpg|建造中のタイタニック
File:Titanic rudder before launch.jpg|建造中のタイタニック(船尾スクリュー)
File:Lord-Pirrie-and-Bruce-Ismay-inspecting-Titanic.jpg|タイタニックの進水式でのピリー卿とイズメイ、1911年5月31日
</gallery>
タイタニックの造船計画は、20世紀初頭に造船業としての勢力を保っていたハーランド・アンド・ウルフの会長[[:en:William Pirrie, 1st Viscount Pirrie|ウィリアム・ピリー卿]]が、[[1907年]]、[[ロンドン]]のメイフェアの夕食会でホワイト・スター・ラインの社長[[ジョセフ・ブルース・イズメイ]] ([[:en:J. Bruce Ismay|J. Bruce Ismay]]) に大型客船3隻の造船を提案したことに始まる。
== 設備 ==
ホワイト・スター・ラインは当時白熱していた北大西洋航路における「[[ブルーリボン賞 (船舶)|ブルーリボン賞]]」と呼ばれるスピード競争にはあまり興味を示さず、ゆとりのある快適な船旅を売りにしており、タイタニックもスピードよりも設備の豪華さに重点を置いて設計されていた。もっとも、特等および一等船室は贅沢な造りではあるものの、船体下層では[[レシプロエンジン|レシプロ]]蒸気機関の振動が響くなど、快適とは言いがたい船室もあった。
船室は一等、二等、三等に分かれていた。一等船室はボートデッキからEデッキ、二等船室と三等船室はDデッキからGデッキにあり、三等船室は主としてFデッキやGデッキにあった。一等船室には[[スイートルーム]]も存在した{{sfn|バトラー|1998|p=40}}。
煙突は4本あるが、4番目は厨房や蒸気[[タービン]]の換気用で、煙が排出されないダミー的なものであった。これは船の美観を重視したためで、実際「4本目の煙突はダミー、伊達であり、乗客が持ち込んだ[[ペット]]を預かるスペースとして使用されていた」という調査・証言もある<ref group="注">NHK BS世界のドキュメンタリー『タイタニック事故100年「タイタニックの呪い」』 BS1にて、2012年4月4日(正確には4月5日深夜24時〜24時50分)に放送。</ref>。
[[ボイラー室]]は6つあり、合計29基の石炭ボイラーが設置されていた。その後方には2基の3段膨張4気筒レシプロ蒸気機関があり、左右の直径7mの[[スクリュー]]を駆動していた。中央にある直径5mのスクリューは蒸気機関を通過したあとの低圧蒸気でタービンを回して駆動するもので、燃費を改善する目的があった<ref group="注">タービンは減速ギヤを持たぬ直結タービンで、回転数は毎分170。軸出力は3軸ともほぼ同等であった。</ref>。
=== 大階段 ===
一等客専用の階段である{{sfn|バトラー|1998|p=41}}。タイタニックの室内装飾の目玉であり、精巧な{{仮リンク|ウィリアム&メアリー様式|en|William and Mary style}}を基調とし、{{仮リンク|ルイ14世様式|en|Louis XIV style}}風の手すりに縁どられている{{sfn|バトラー|1998|p=40}}。この階段でDデッキまで下りてくると一等のダイニングルームの大広間に直接入れるようになっていた{{sfn|バトラー|1998|p=40}}。
<gallery mode="packed" heights="120">
File:Photograph of Olympic's Grand Staircase with the crystal dome and the clock. Photograph taken at the boat deck level.jpg|大階段最上部(画像は姉妹船オリンピック号の物)
File:05 staircase1.jpg|再現された大階段([[テネシー州]]{{仮リンク|ピジョン・フォージ (テネシー州)|label=ピジョン・フォージ|en|Pigeon Forge, Tennessee}}にある{{仮リンク|タイタニック博物館 (ピジョン・フォージ)|label=タイタニック博物館|en|Titanic Museum (Pigeon Forge, Tennessee)}})
File:The Grand Staircase.jpg|再現された大階段(同前)
File:Titanic's cherub.jpg|大階段の[[智天使]]像(同前)
File:Grand Staircase Titanic computer model.jpg|大階段の構造
</gallery>
=== 一等客室 ===
一等船室やスイートルームには贅の限りが尽くされた{{sfn|バトラー|1998|p=40}}。お金があれば、三部屋、四部屋、五部屋といったように続き部屋をそっくり借り切ることもできた{{sfn|バトラー|1998|p=40}}。部屋の装飾様式はルイ様式({{仮リンク|ルイ14世様式|en|Louis XIV style}}、{{仮リンク|ルイ15世紀様式|en|Louis XV style}}、{{仮リンク|ルイ16世様式|en|Louis XVI style}})、帝国様式、{{仮リンク|ジャコビアン様式|en|Jacobean architecture}}、[[ジョージアン様式]]、アン女王様式、レジャンス(フランス摂政時代)様式、旧式・現代式のオランダ様式など部屋ごとに異なった。一番高級なのはBデッキのパーラースイートであり、リビングルーム、2つのベッドルーム、専用のバスルームに加え専用のプロムナードデッキ(遊歩道)も付いている。その金額は片道で4350ドル、ほぼ1000ポンドに近い額で、これは1997年時の換算で8万ドルに相当する金額である。当時最も高額な「海上不動産」だったといわれる{{sfn|バトラー|1998|p=41}}。
<gallery mode="packed" heights="120">
File:B-51.jpg|{{仮リンク|アダム様式|en|Adam style}}のB-51
File:B-57 Titanic suite.jpg|オランダ様式のB-57
File:B-58.jpg|{{仮リンク|ルイ16世様式|en|Louis XVI style}}のB-58
File:Titanic's B 59 stateroom.jpg|古オランダ様式のB-59
</gallery>
<gallery mode="packed" heights="130">
File:Titanic's stateroom B-60.jpg|B-60
File:Titanic B-64 suite.jpg|インペリアル様式のB-64
File:Titanic's first class stateroom.jpg|再現された一等客室([[ミズーリ州]][[ブランソン]]にある{{仮リンク|タイタニック博物館 (ブランソン)|label=タイタニック博物館|en|Titanic Museum (Branson, Missouri)}})
File:Titanic - zrekonstruovana chodba.jpg|再現された廊下(同前)
</gallery>
=== 一等客専用施設 ===
Dデッキの一等客のダイニングルームは、500席あり、白いリンネルのテーブルクロス、きらめくクリスタルグラスや銀器類スコットランドアザミやイングリッシュローズ、フランス王室の[[フルール・ド・リス|ユリ紋章]]などで飾られた椅子などで趣味よく飾られていた{{sfn|バトラー|1998|p=40}}。
一等客の喫煙室はプロムナードデッキ(Aデッキ)にあったが、特に手が込んでおり、[[マホガニー]]のパネルを丹念に組み入れた壁、鉛入りのガラスパネルと食刻模様が入った鏡のはめ込み、リノリウムの床に美しい彫刻が広がり、天板に[[大理石]]を使ったテーブルの横には巨大な革張りのアームチェアが置かれていた{{sfn|バトラー|1998|p=40}}。
ボートデッキにあるジムには固定自転車や機械木馬や機械ラクダなどが置かれていた。固定自転車は壁面に取り付けられた大型文字盤上の大きな赤と青の針に接続されており、漕いだ距離が分かるようになっていた{{sfn|バトラー|1998|p=102}}。
[[スカッシュ (スポーツ)|スカッシュ]]コートや[[プール|スイミングプール]]、[[ハンマーム|トルコ風呂]]なども存在した{{sfn|バトラー|1998|p=102/104}}。
一等客用には三基のエレベーターが存在した{{sfn|バトラー|1998|p=41}}。
<gallery mode="packed" heights="120">
File:Titanic's A Deck promenade on portside.png|Aデッキのプロムナードデッキ
File:Titanic Smoking Room Reconstruction.jpg|Aデッキの喫煙室(画像は姉妹船オリンピック号の物)
File:1stClassLounge.jpg|Aデッキのルイ16世紀様式のラウンジ(同前)
File:Cafe verandah titanic.png|Aデッキのカフェ・ベランダ
</gallery>
<gallery mode="packed" heights="100">
File:Titanic (13603623123).jpg|Bデッキのプライベートプロムナードデッキ
File:First Class Restaurant Reception Room on the 'Titanic' (1912) RMG G10671.tiff|Bデッキのレストラン前にある大広間(ホワイトスターラインの宣伝イラスト)
File:Ca. 1911 Period Illustration of Titanic 1st Class Restaurant.jpg|Bデッキのアラカルト・レストラン(同前)
File:1st Class Main Dining Room.jpg|Dデッキのメインダイニングルーム(画像は姉妹船オリンピック号の物)
</gallery>
<gallery mode="packed" heights="120">
File:Titanic's first class gymnasium.jpg|ボートデッキのジム
File:Titanic Swimming pool.png|Fデッキの[[プール|スイミングプール]]
File:Titanic's Turkish Baths.jpg|Fデッキの[[ハンマーム|トルコ風呂]]
File:Olympic and Titanic Squash Court Artistic Conception.jpg|Gデッキの[[スカッシュ (スポーツ)|スカッシュ]]コート(ホワイトスターラインの宣伝イラスト)
</gallery>
=== 二等客室と専用施設 ===
二等船室も職人技と精巧な作りが目立ち、他の船の一等船室に劣らぬレベルだった{{sfn|バトラー|1998|p=41}}。二等の階段は一等の大階段ほど豪華ではなかったものの、十分に美しい階段だった{{sfn|バトラー|1998|p=41}}。二等客用には1基のエレベーターが存在した{{sfn|バトラー|1998|p=41}}。また一等と二等はダイニングルームこそ違えど、厨房は同じだったので二等客は一流の料理人による料理を楽しむことができた{{sfn|バトラー|1998|p=41}}。
<gallery mode="packed" heights="130">
File:Period Illustration of 2nd Class Stateroom aboard Olympic Class Ships.jpg|オリンピックとタイタニックの二等客室(ホワイトスターラインの宣伝イラスト)
File:Titanic & Olympic 2nd Class Library.jpg|オリンピックとタイタニックの二等客用のライブラリー(同前)
File:Ca. 1910 Illustration of 2nd Class Dining Room on Titanic & Olympic.jpg|オリンピックとタイタニックのDデッキにある二等客用のダイニングルーム(同前)
</gallery>
=== 三等客室と専用施設 ===
三等船室は船首と船尾に分かれており、独身男性と夫婦には船首側、独身女性と家族には船尾側が当てがわれた{{sfn|バトラー|1998|p=42}}。これはホワイトスターライン社の[[ピューリタン]]的思想に基づくもので、独身男性と独身女性を遠く離す意図からそうなっていた{{sfn|バトラー|1998|p=42}}。三等船室は質素な作りであり、独身者は3~5人の同性者との相部屋だったが、夫婦や家族には個室が与えられた{{sfn|バトラー|1998|p=42}}。三等の宿泊施設は船首と船尾にある常設部屋の他、移動式の木製間仕切りがある区画が存在し、船室の数や乗員数に合わせて調整を行った。使われなかったスペースは三等客の共用スペースとなった{{sfn|バトラー|1998|p=43}}。三等客には楽器を演奏する人々がかなりいたことから、この共用スペースでは毎晩ダンスが催された{{sfn|バトラー|1998|p=104}}。食事は豪華とは言えないまでも、それなりの物がたっぷりと支給された。貧しい[[アイルランド人]]移民などは船での食事の方がこれまで家で食べてきた食事よりずっと御馳走だと述べる者もあった{{sfn|バトラー|1998|p=43}}。当時の基準で言えば、三等客でも乗船料に比してかなり待遇が良かったといえる{{sfn|バトラー|1998|p=43}}。ただし、三等客(約700人)には2つのバスしか与えられなかった。しかもそのバスタブは2つとも船尾側にあるため、船首側の部屋を割り当てられた者は船尾側までの長い距離を歩かねばならなかった{{sfn|バトラー|1998|p=104}}。
<gallery mode="packed" heights="150">
File:3rd Class Cabin.jpg|三等船室(画像は姉妹船オリンピック号の物)
File:Contemporary Drawing of Olympic & Titanic 3rd Class Dining Room.jpg|オリンピックとタイタニックの三等客用ダイニングルーム(ホワイトスターラインの宣伝イラスト)
File:Period Illustration of Olympic and Titanic 3rd Class General Room.jpg|オリンピックとタイタニックの三等客用ジェネラルルーム(同前)
</gallery>
== オリンピッククラス ==
{{Main|オリンピック (客船)|ブリタニック (客船・2代)}}
<gallery widths="240px" heights="190px">
ファイル:Olympic sea trials.jpg|オリンピック
ファイル:Titanic Sn1912.jpg|タイタニック
ファイル:HMHS Britannic.jpg|ブリタニック
</gallery>
タイタニックには姉妹船の「オリンピック」と「ブリタニック」が存在した。3隻体制は、当時ドル箱航路であった北大西洋航海において、他社との競争に打ち勝つためには実に合理的なものであった。タイタニックは1番船オリンピックの造船とほぼ時期を同じくして起工された。
ブリタニックはタイタニック沈没の影響による設計の見直しを迫られ、大幅に遅れて起工されたが、[[第一次世界大戦]]勃発によって[[病院船]]として[[徴用]]され、商船としては一度も使われないまま[[機雷|触雷]]により沈没した。オリンピックは[[輸送船]]として徴用されたが、戦火をくぐり抜けたのち客船として復帰し、[[1935年]]に引退するまで使用された。
[[ファイル:Olympic and Titanic.jpg|250 px|right|thumb|姉妹船オリンピックと並ぶタイタニック (右)]]
タイタニックとオリンピックはほぼ同時期に竣工されたこともあり、外観や内装、サービス面においても瓜二つであった。1997年の映画『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』では、タイタニックのみが巨大な船であるかのように演出されていたが、当時はオリンピックが筆頭格であり、タイタニックの紹介記事にもしばしばオリンピックの写真が使われるなど、事実上オリンピックの陰に隠れた存在であった。その知名度が上がるのは皮肉にも沈没事故のあとであった。
=== オリンピックとの相違点 ===
先立って運航されていた1番船オリンピックの改善点の指摘を受けてタイタニックの設計は多少変更され、外観もオリンピックと異同がみられる。特に目立つ部分はA[[甲板 (船)|デッキ]]で、一等船客専用[[プロムナード]][[デッキ]](遊歩道)が、オリンピックでは全体が海に面した[[ベランダ]]状の吹きさらしとなっていたが、タイタニックでは中央部分から船首側の前半部分にガラス窓を取りつけて[[サンルーム]]状の半室内とされた。これは北大西洋の強風や波しぶきから乗客を守るためであり、オリンピックよりもすっきりとしたタイタニックの外観は、2隻を区別するうえでの重要な要素となった。
[[File:Cafe Parisien, Titanic (13603621933).jpg|250 px|right|thumb|Bデッキのカフェ・パリジャン]]
ほかにも、オリンピックにはAデッキ同様Bデッキにも海に面して全体にわたってプロムナードデッキが設けられていたが、タイタニックでは船尾側の一部分を除き廃され、代わりに船首側から中央部にかけて一等客室が増設された(オリンピックのBデッキの一等客室はすべてプロムナードデッキの内側にあり、直接海を展望できなかった)。そのうえ、プライベートプロムナードデッキのついた特等室([[スイートルーム]]、1997年の映画『タイタニック』ではヒロインの婚約者の部屋)が2部屋設けられた。また、船尾側の一等船客専用の絢爛豪華なレストラン「アラカルト」も規模が拡張され、[[パリ]]の[[カフェ]]をイメージした華やかな「カフェ・パリジャン」が新設された。ただその反面、オリンピックはBデッキプロムナードデッキの後部3分の1程度が二等専用として確保されていたが、タイタニックは先述したとおり、一等専用レストランの拡張、及びカフェの新設により、その規模が大きく縮小された。
== 特色 ==
=== 世界最大の客船 ===
[[File:En mary titanic.svg|right|300px|thumb|'''タイタニック(青地)の大きさの比較'''<br>薄青は[[クイーン・メリー2]]<br>白い飛行機は[[エアバスA380]]]]
当初両姉妹船の総トン数は同じになるはずであったが、一等客室の数が増えたために最終的にタイタニックはオリンピック(4万5,324総トン)よりも1,004総トン増え、4万6,328総トンになった。
=== 不沈船 ===
タイタニックには当時としては高度な安全対策が施されていた。船底は二重になっており、船体も[[喫水線]](水面)上までの高さがある防水隔壁で16の区画に区分され、そのうちの2区画(船首部では4区画)に浸水しても沈没しない構造になっていた。隔壁は、Gデッキより上の壁は手動であったが、下層デッキのものは[[船橋 (船)|船橋 (ブリッジ)]]からの遠隔操作で即時閉鎖できた。各区画にも手動スイッチが設置され、15センチ以上の浸水で自動閉鎖される機能も備わっていた。そのため「不沈船」として喧伝され、(安全を度外視した運用方法の場合を除いて)21世紀の技術水準から見ても本船はきわめて安全であると言われている。
== 沈没事故 ==
=== 航行 ===
[[ファイル:Titanicmap.png|300px|right|thumb|'''タイタニックの遭難地点''' 1912年4月15日]]
[[1912年]][[4月10日]]に、タイタニックは[[エドワード・スミス|エドワード・ジョン・スミス]][[船長]]の指揮のもと、イギリス・[[サウサンプトン]]港の専用埠頭「オーシャンドック」から[[ニューヨーク]]行きの処女航海に出発した。乗客乗員は合わせて2,200人以上で、一等特別室の航海費用は6日間で4,350ドルだったと伝えられている。
サウサンプトン港の出航後、タイタニックの[[スクリュー]]から発生した水流に近くを航行していた客船[[シティ・オブ・ニューヨーク (客船)|ニューヨーク]]が引き寄せられたが、衝突は間一髪で回避され、予定通りフランスの[[シェルブール]]とアイルランドの[[コーヴ|クイーンズタウン(現・コーヴ)]] に寄港し、アメリカのニューヨークに向かった。
サウサンプトン港出航の直前に人事異動があり、ブレア二等航海士が双眼鏡を二等航海士キャビンにしまったことを(降格されたあとに二等航海士になる)[[チャールズ・ライトラー|ライトラー]]一等航海士に申し送りせずに下船したため、双眼鏡が所在不明になり、海上の監視を肉眼で行うことになっていた。
[[File:Titanic's Marconi room.jpg|right|thumb|再現された無線室(ミズーリ州タイタニック博物館)]]
4月14日は午前中から当該海域を航行していた船舶間で、流氷群についての情報が無線通知されていた。その日、タイタニックも6通の無線通信を受信していたが、この季節の北大西洋の航海においてはよくある現象だと見過ごされてしまい、クルー間の情報共有も徹底されなかった。さらに[[混信]]が発生し、衝突の40分前に近隣を航行するリーランド社の貨物船「{{仮リンク|カリフォルニアン (貨物船)|label=カリフォルニアン|en|SS Californian}}」から受けた警告も雑音とみなされてしまった。タイタニックの通信士たちは、前日の無線機故障のために山積していた旅客電報の発信業務に忙殺されていた。スミス船長は氷山の危険性を認識しており、航路を通常より少なくとも18キロ南寄りに変更していた。
[[ファイル:Titanic iceberg.jpg|right|250px|thumb|タイタニックと接触して沈没の原因になったと考えられている氷山だが、大きさは不明。タイタニックの破片と同じ赤い塗料のようなものがこびりついていた。]]
[[4月14日]]23時40分、タイタニックが北大西洋の[[ニューファンドランド島|ニューファンドランド]]沖にさしかかったとき、見張りが450メートル前方に高さ20メートル弱の氷山を肉眼で捕捉した。この海域は暖流と寒流がぶつかる境界面に位置するため、国際的にも[[海霧]]が発生しやすい海域として知られており、当直見張員だった[[フレデリック・フリート]]の証言によれば、そのときも海面には[[靄]]が漂っていた。また、双眼鏡なしでは月のない星月夜の静まり返った海の氷山の縁に立つ白波を見分けることも容易でなく、発見したときにはすでに手遅れだった。更に、氷山は全体の10パーセント程度しか水上に姿を現さないため、見えた氷山を直前で回避しても水面下で衝突する危険があった。
=== 回避行動 ===
[[File:Titanic porting around English.svg|center|500px|thumb|タイタニックが氷山と衝突する際の航路を示した図。青が船首の経路、赤が船尾の経路である]]
フリートはただちに鐘を3回鳴らし、ブリッジへの電話をつかんだ。応答したのは[[ジェームズ・ポール・ムーディ]]六等航海士だった。
* フリート「Is anyone there?(訳:誰かそこに居ないのか!)」
* ムーディ「Yes, what do you see?(ああ、何が見える?)」
* フリート「Iceberg rightahead!(まっすぐ前方に氷山!)」
* ムーディ「Thank you. (ありがとう)」
ムーディはただちに指揮をとる次席一等航海士の[[ウィリアム・マクマスター・マードック]]に報告した。マードックは即座に「Hard starboard!(取舵一杯)<ref group="注">現代では「Hard starboard」で「面舵一杯」を意味するが、事故当時は「取舵一杯」の意味であった。同様に、現代では「Hard (a) port」で「取舵一杯」だが、事故当時は「面舵一杯」を意味した。</ref>」と操舵員の[[ロバート・ヒッチェンス]]に叫び、それから[[エンジン・テレグラフ]](機関伝令器)に走ると、「Full Astern(後進一杯)」の指令を送り、喫水線下の防水扉を閉めるボタンを押した。しかし、この時点で回避するにはあまりにも時間と距離が足りなかった。氷山まではおよそ400 - 450メートルであったが、22.5[[ノット]](およそ秒速11.6メートル)で航行している船が停止するには1,200メートルもの距離を必要とした。結果、船首部分は衝突を避けられたものの、右舷は氷山に接触し、同船は停止した。
このとき、左へ舵を切ると同時に機関後進を掛け、衝突の数秒前に船舶の操縦特性である「キック<ref group="注">舵とスクリューが船尾にあることにより発生する尻振り現象のことをいう。この場合、船の損傷を避けるため右に舵を切ることにより、氷山から船体を遠のけようとするために行う。</ref>」を使うため右いっぱいに舵を切った。舵は速力が高い方が効きやすく、「速力を落としたために、ただでさえ効きのよくない舵が余計に効力を発揮しなくなった。速力を落とさずにいれば氷山への衝突は回避できた」とする説もあるが、あくまで結果から見た推論に過ぎない。そもそも、衝突時にはかなりのスピードが出ていたと推測されるうえに、氷山発見から衝突までの時間はせいぜい30秒程度しかなかった(説によっては氷山を前方100 - 200メートルほどまで発見できなかったため10秒しかなかったとも言われる)ため、速度はほとんど変化せず、舵効きにも影響しなかったようである。
なお、回避行動の定説となっている「Full Astern(後進一杯)」の発令は生還したボックスホール四等航海士の証言を根拠としているが、その証言は衝突後にブリッジに到着しマードックとスミス船長の会話の中で発令を聞いたというものである。当時ブリッジ付近および機関室に勤務していた他の生還者もエンジン・テレグラフの操作音がしたことについての証言はあるものの、実際に何が発令されたかについて明言されているものはない。このことから、マードック、ムーディ両航海士や機関長といった当事者が生還しておらず直接の証言がないこともあり、マードック航海士が前述の操舵特性低下について把握していなかったとは考えづらいとして機関室への指示が「Full Astern(後進一杯)」であったかを疑問視する声もある<ref name="名前なし-1">{{Cite book|title=The loss of the SS Titanic : a centennial reappraisal|url=https://www.worldcat.org/oclc/755071971|publisher=History|date=2012|location=Stroud|isbn=978-0-7524-6210-3|oclc=755071971|others=Sam Halpern}}</ref>。
映画などでは、防水扉の閉鎖は衝突後であり、缶部員(ボイラー員)はすぐ逃げ出したように描かれているものもあるが、実際に即時放棄されたのは浸水量の多い第六缶室のみであり、缶部・機関部員はその後も船内照明や無線電信への電力供給、汽缶(ボイラー)稼働、排水作業を続けた。ジョセフ・ベル機関長は浸水状況が悪化したあとに職務からの解放を命じたが、機関部員・電気技師の全員をはじめ多くの者が最下甲板に留まり沈没間際まで照明を点灯させ続けた。
=== 船体の損傷と浸水 ===
[[File:Titanic side plan annotated English.png|center|thumb|700px|解説つきのタイタニックの図面。緑が損傷を受けた箇所、船底の機関エリアは青で色分けされている。最小ユニットは10フィート(3.0メートル)、全長は400フィート(120メートル)である|alt=A line diagram showing Titanic from the side.]]
受けた衝撃は船橋(ブリッジ)では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。船と氷山との接触は10秒間ほどで、船体の破孔は数インチ、総面積も1平方メートル程度であったことが海底探査によって判明している。
しかし、右舷船首のおよそ90メートルにわたって断続的に生じた損傷が船首の5区画にもたらした浸水は防水隔壁の上限を超えており、隔壁を乗り越えた海水が次々と防水区画から溢れたことで船首から船尾へと浸水が拡大していった。また、損傷は第六区画内にある第五缶室にも達していたが、被害は右舷船首側石炭庫への浸水のみであり、一時はポンプによる排水も成功したかに見えた。しかし、1時10分頃に突如第五区画側から水が流れ込んできたため放棄された。これは事故前に発生していた船内火災の影響とも、水密隔壁に比べて強度が劣る石炭庫壁の損壊によって庫内の水が流入してきたものとも言われている<ref name="名前なし-1"/>。かつてはボイラーに冷水が触れて[[水蒸気爆発]]が起き、船体側面にできた破孔から大量に浸水したとする説が有力だったが、船体調査の結果ではボイラー付近にそのような破孔は確認されなかった。
[[ファイル:Iceberg and titanic (ja).svg|250px|right|thumb|船体と氷山の衝突状況]]
沈没にいたるほどの損壊を生んだ原因として「側面をかすめるように氷山に衝突したため」とする説もある。船体に使われていた[[鋼鉄]]には当時の低い精練技術のために不純物の[[硫化マンガン(II)]]が多く含まれており、寒冷時には特に脆くなる性質だったことが最近のサンプル調査で判明した。現在もっとも有力視されているのは、ティム・フェイキやジェニファー・ホーバー・マッカーシーらが唱えた、衝突の衝撃によって広い範囲の[[リベット]]が抜け落ち、その結果生じた鋼板の隙間から浸水したとする説である。ハーランド・アンド・ウルフの資料によると、設計上のタイタニックは300万本ものリベットで船体の金属板をつなぐ構造だったが、姉妹船オリンピックと同時注文のためレベル4の鋼鉄製リベットが不足し、船首と船尾にはワンランク劣る鉄製のレベル3が使われたうえ、リベットの直径も規定の25ミリ未満だった。また、リベットの本数が間引きされ、熟練工の不足のために不完全な打たれ方をしたものも少なくなかったという。2005年の海底探査で剥離した船底が発見されたことで、衝突の際にタイタニックは水面下に広がる氷山の突起に乗り上げるかたちで船底にも損傷を受け、沈没時に船体が折れる原因になったとするロジャー・ロムの説も生まれている<ref>ヒストリーチャンネル制作「タイタニック―知られざる最後―」。</ref>。
スミス船長は海水の排水を試みようとしたが、ごくわずかな時間稼ぎに留まった。日付が変わった4月15日0時15分、マルコーニ社規定の遭難信号『CQD』を発信し、周辺の船舶に救助を求めた。しかし、現場からわずか10 - 17海里(約18 - 30キロ)ほどの距離に碇泊していた「カリフォルニアン」は、たった1人の通信士が就寝中で無線を受信できなかった。事故後の査問委員会にて同船船長のロード船長は、もし事故を知っていたら、最大船速13.5ノットにて2時間程度でたどり着けただろうと述べるとともに、同日0時頃に発光弾を放つ船が4マイル先を通過しているのを船長並びに複数の船員が目撃したが、発光信号を送っても無視されたと述べている<ref>{{Cite web|title=U.S. Senate: Titanic Disaster Hearings: The Official Transcripts of the 1912 Senate Investigation|url=https://www.senate.gov/reference/reference_item/titanic.htm|website=www.senate.gov|accessdate=2020-10-10}}</ref>(目撃の件については、タイタニックの生存者が船影らしき影を見ていることや、スミス船長が通信室にて水平線上に灯が見えていたと話していることから、同船が目と鼻の先にいたとする説もあるが、目撃されたのは後述の「{{仮リンク|マウント・テンプル (客船)|label=マウント・テンプル|en|SS Mount Temple}}」だとする説もあり、真相は不明である)。[[カナダ太平洋鉄道|カナディアン・パシフィック]]の「マウント・テンプル」も遭難信号を受けて救助に向かったが、タイタニックから20キロ未満の距離の海域に到着したあとに、船長のヘンリー・ムーアが氷山を恐れるあまり消灯して停船し、雲隠れしてしまった(査問委員会に提出された航海日誌では48海里(約88キロ)と記録されている)。乗客の何名かは、タイタニックの船体が折れる音を聞いたと証言している。
ほかにも、「バーマ」(距離70海里(130キロ))、「フランクフルト」(距離153海里(283キロ))、「バージニア」(距離170海里(315キロ))、「バルチック」(距離243海里(450キロ))、姉妹船「オリンピック」(距離500海里(約930キロ))など様々な船が遭難信号を傍受しているが、いずれもタイタニックから遠く離れた場所を航行しており、すぐには救助に向かえない状況であった。
[[File:RMS Carpathia.jpg|250px|right|thumb|客船「カルパチア」]]
結局、58海里(約107キロ)離れた地点にいた客船「[[カルパチア (客船)|カルパチア]]」が応答し、ボイラー破損のリスクを負いながら高速(通常14ノットのところを17ノット)で救助に向かったが、船足の鈍いカルパチアが現場に到着したのは沈没から2時間40分後の午前4時であった。
遭難信号については1906年11月3日にベルリンで調印された国際無線電信条約附属業務規則の第16条で遭難信号『[[SOS]]』が定められ、1908年7月1日より発効していたが、事故直後はマルコーニ国際海洋通信会社規定の遭難信号『CQD』を使っており、途中から国際条約による遭難信号『SOS』を併用している<ref group="注">国際無線電信条約附属業務規則で定められた遭難信号『SOS』が初めて用いられたのは、1909年8月11日、ニューヨークからフロリダに向かっていたクライド・ラインの「アラパホ号(SS Arapahoe)」がハッテラス岬沖でプロペラシャフトの破損事故を起こした際である。</ref>。
=== 脱出・救命 ===
[[File:Women And Children First The Sphere.jpg|250 px|right|thumb|「女性と子供を優先」製作者不明の壁画]]
[[File:Titanic sinking(postcard).jpg |250 px|right|thumb|タイタニックの沈没(絵葉書)]]
沈没が差し迫ったタイタニックでは、左舷はライトラー二等航海士が、右舷はマードック次席一等航海士が[[救命ボート]]への移乗を指揮し、ライトラーは一等船客の「[[ウィメン・アンド・チルドレン・ファースト|女性と子供を優先する]]」ことを遵守したが、マードックは比較的男性にも寛大な対応をした。
しかし、当時のイギリス商務省の規定はタイタニックに比してはるかに乗客の少ない1万トン級船舶が主流だったころに作成されたものだったため、定員分の救命ボートを備える義務がなく(規定では978人分。規定が改定されたのはタイタニックの沈没後)、もとより短時間で沈没するような事態を想定していなかったこともあり、(旅客定員2,453、乗組員899、計3,352名に対し)1,178人分のボートしか用意されていなかった。これにはタイタニック起工直前の1909年1月に起こった大型客船「[[リパブリック号]]」沈没事故の影響も指摘される。この事故では、他船との衝突から沈没まで38時間もの余裕があり、その間に乗客乗員のほとんどが無事救出されたことから、大型客船は短時間で沈没しないものであり、救命ボートは救援船への移乗手段であれば足りるという見方が支配的になったことも、後述するように犠牲者を増やす結果につながった。
また、乗員が定員に満たぬうちに船から離れた救命ボートも多い。ライトラーをはじめとする多くのクルーがボートをダビット(救命ボートの昇降装置)に吊るした状態で船が沈んでしまうことを最大の恥辱としていたため、できるだけ早く海面にボートを降ろし、舷側にある乗船用扉を開いて、乗客を乗せようと考えていたこと、クルーの多くがボートフォール(救命ボートを吊るロープ)の扱いに不慣れであり、乗員の重さでダビットが曲がることを恐れたためともいわれる(事前に行われたテストで定員65人のボートに70人を乗せて充分な成果を得ていたが、周知されていなかった)。事実、降ろされたボートには乗員が定員の半数にも満たないものもあり、結果として1,500人もの乗員乗客が船に取り残される状況となってしまった。
=== 沈没 ===
[[File:Titanic sinking gif.gif|thumb|right|250px|沈没のアニメーション。]]
[[ファイル:Stöwer Titanic.jpg|250px|right|thumb|「沈没するタイタニック」Willy Stöwer 画]]
[[File:Titanic-lifeboat.gif|thumb|right|250px|折り畳み式の救命ボート(備え付けの救命ボートとは別タイプ)に乗るタイタニックの生存者]]
浸水の影響でタイタニックの船首は海没していき、反対に船尾が海面から高く持ち上がっていった。その結果、設計時の想定をはるかに超える負荷が船体にかかり、衝突から2時間40分後の2時20分、轟音とともに船体は2つに折れてしまった。検証によれば、折れた個所は構造上比較的弱かった後部大階段付近(第三煙突前方)であり、引きちぎられるように折れた。デッキが多い客船は、沈没の際早期に転覆するのが常であり、タイタニックのように最後まで転覆せず、船尾が空中高く持ち上がり、あまつさえその負荷により船体が折れる事例はきわめて珍しい。電気系統は船体が折れる直前まで稼働していた。
2つに折れたタイタニックは、船首側がまず沈没し、残った船尾側はやや遅れて沈んだ。混乱の中で救命ボートの転覆を恐れたクルーの逡巡の末、救助に向かったボートはわずか1艘だった(左舷14号ボート)。このボートは[[ハロルド・ロウ]]五等航海士が艇長を務めていたが、準備を整えて救助に向かったとき、沈没からすでに30分が経過していた。4月の大西洋はまだ水温が低く、人々が投げ出された海は零下2度の冷たさで、乗客の大半は[[低体温症]]などで十数分 - 20分程度で死亡したか、または[[心臓麻痺]]で数分のうちに死亡したと考えられている。その中には赤ん坊を抱いた母親もいたという。
2時間半後、到着した客船カルパチアが救助挺を出し、海に浮かんでいた2人の生存者を救出した。そのうちの1人は、浮遊していたドアによじ登り、水に浸かっていなかったため体温低下の進行が遅かったものと見られている。驚くべき事例はもう1人の者([[チャールズ・ジョーキン]]、パン職人)で、全身が水に浸かっていたにもかかわらず生存していた<ref name="最期184-188">ロード、pp.184-188.</ref>。医学的検査の結果、内臓や血管などに特殊な所見はなく、唯一の違いは「酒に酔っていた」ことであった。しかし、今日の医学ではアルコールはむしろ低体温症のリスクを高めるとされている<ref>https://shonan-mc.org/images/zsmcc/jimukyoku/doc/teitaionsyou_2018.pdf</ref>が、救助されたあとに亡くなった犠牲者の中にも、同じように酔っていてアルコール血中濃度の高い者がいた。この生存者は、平均して20分程度で死亡した遭難者の中で2時間も生存した稀有な例である。
== 影響 ==
最新の科学技術の粋を集めた新鋭船の大事故は、当時の欧米社会に大きな衝撃を与えた。事故の犠牲者数はさまざまな説があるが、イギリス商務省の調査によると、犠牲者数は'''1,513人'''にも達し、当時'''世界最大の海難事故'''といわれた。
この事故をきっかけに船舶・航海の安全性確保について、条約の形で国際的に取り決めようという動きが起こり、[[1914年]]1月「海上における人命の安全のための国際会議」が行われ、欧米13か国が参加した。「[[1914年の海上における人命の安全のための国際条約]](The International Convention for the Safety of Life at Sea,1914)」として採択された。アメリカでは船舶への無線装置配備の義務づけが強化され、無線通信が普及するきっかけになったとされる。
また「[[ジョセフ・ベル (機関士)|ジョセフ・ベル]]ら機関員の勇敢な行動に感銘を受けた[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]は英国王室のロイヤルカラーである[[貝紫色|ロイヤルパープル]]の使用許可を与え、機関員の[[肩章]]に紫色が使われるようになった<ref>{{Cite web|和書|title=肩章のはなし {{!}} 中国地方海運組合連合会|url=http://www.chukairen.jp/?cn=100004&bgc=10000025|website=活動報告 {{!}} 中国地方海運組合連合会|accessdate=2021-01-15|language=ja}}</ref>」という逸話が語られることがあるが、これについては事故以前の[[1865年]]に[[イギリス海軍|英海軍]]が機関士に紫色の色分けの[[階級章]]を使用することを決定、以降に商船会社もそれに倣ったものである<ref>{{Cite web |url=http://www.uco.es/~ff1mumuj/titanic1.htm |title=Titanic Engineers |access-date=2023.8.12 |publisher=[[コルドバ大学]]}}</ref>。
{{-}}
<gallery widths="240px" heights="190px">
File:Titanic paperboy crop.jpg|タイタニック沈没を報じる新聞を配布する新聞配達員の少年(1912年4月16日ロンドンのホワイト・スター・ライン社前)
File:Titanic-New York Herald front page.jpeg|1912年4月15日付『[[ニューヨーク・ヘラルド]]』の一面記事
File:Titanic on Taiwan Nichi Nichi Shimpo 02.jpg|『[[台湾日日新報]]』に報じられたタイタニック沈没の記事。
</gallery>
== 沈没後のタイタニック ==
[[File:Titanic wreck bow.jpg|thumb|250px|タイタニックの船首(2004年6月)]]
[[1985年]][[9月1日]]、海洋地質学者[[ロバート・バラード]]率いる[[ウッズホール海洋研究所]]および[[フランス国立海洋開発研究所]]の調査団は、海底3,650メートルに沈没した{{仮リンク|タイタニックの残骸|en|Wreck of the Titanic}}を発見した<ref>{{Cite book|和書 |author= 井上たかひこ|authorlink=井上たかひこ |year = 2015 |title = 水中考古学 クレオパトラ宮殿から元寇船、タイタニックまで |publisher = [[中央公論新社]] |page = 145 |isbn = 978-4-12-102344-5}}</ref><ref group="注">この発見には裏話があり、バラードは海軍に探索の条件として原子力潜水艦の[[スレッシャー (原子力潜水艦)|スレッシャー]]と[[スコーピオン (原子力潜水艦)|スコーピオン]]の探索を極秘に行うことを要求した。</ref>。[[2004年]]6月、バラードと[[アメリカ海洋大気庁]](NOAA)はタイタニックの損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行った。その後、バラードの呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまり、同年[[6月18日]]、アメリカ合衆国が条約に署名した。この条約はタイタニックを保存対象に指定し、遺物の劣化と違法な遺品回収行為を防ぐこととしている。
海底のタイタニックは横転などはしておらず、船底を下にして沈んでいる。第3煙突の真下あたりで引きちぎれており、海上で船体が2つに折れたという説が初めて立証された。深海では通常バクテリアの活動が弱いために船体の保存状況はよく、多くの内装部分が残っていると思われていたが、この地点はほかの深海に比べ水温が高いためにバクテリアの活動が活発で船の傷みは予想以上であった。船体は分解され、ラスティクル(rusticle)と呼ばれるつらら状の物体が成長している<ref>{{Cite web|和書|title=SBN038_海に沈むタイタニックの新しい乗客 {{!}} ティーチア : 教育応援プロジェクト |url=https://ed.lne.st/2010/12/21/sbn038/ |website=教育応援プロジェクト by リバネス |date=2010-12-21 |access-date=2023-02-12}}</ref>。
当初船体は叩きつけられるように海底に衝突し、船内の備品はもとより甲板の小さな部品や窓ガラスすべてが粉々に吹き飛んだと思われていたが、船首部分にはいまだ手すりが残り、航海士室の窓ガラスも完璧な状態で残っている。船内にはシャンデリアや鏡、暖炉といった多くの備品が存在し、Dデッキのダイニングルームには豪華な装飾で飾られた大窓も割れておらず、ほぼ当時のままの状態で残存している。客室の洗面台に備えつけられていた水差しとコップ、食器棚に収められた皿、[[イジドー・ストラウス|ストラウス夫妻]]の客室の暖炉に置かれていた金の置時計は沈没時の衝撃に耐え、現在でも沈没前とまったく同じ場所に置かれている。このことから船首部分は海底に叩きつけられたのではなく、船首の先端から滑るように海底に接地したと思われる。一方、船尾部分は大きく吹き飛び、見る影もない<ref group="注">[[ナショナルジオグラフィックチャンネル]]で放送された『仮想現実で暴く!タイタニック号沈没の謎』によると、船尾部分は、海上で船首部分から折れたのではなく、海中で船首部分と切断され、切断箇所より船尾部分へ急激に浸水した為、船体内側から破壊されていったのと、海中を沈下してゆく速度が、船首部分と比べて速かった事から、激しく損傷したとの説を採っている。</ref>。
現在のタイタニックは鉄を消費する[[バクテリア]]によりすでに鉄材の20パーセントが酸化し、[[2100年]]ごろまでに自重に耐え切れず崩壊する見込みである。それらのバクテリアのうち、新種が[[2010年]]になって発見され、タイタニックにちなんで[[ハロモナス・ティタニカエ]](''Halomonas titanicae'')と命名された<ref>[http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/4314/ 深海のバクテリア、2010年の新種] ナショナルジオグラフィックニュース</ref><ref>[http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/3521/ 海底のタイタニックに新種のバクテリア] ナショナルジオグラフィックニュース</ref>。
海底のタイタニックにはたびたび潜水探査船による調査が行われた。特に[[タイタニック (1997年の映画)]]では、2台の潜水調査船やリモートコントロール探査機が使用され、詳細な画像が収録された。無断で海底の遺品を回収する行為も広く行われ、一部の遺品は利益目的に販売されるなどされ、非難を集めている。
== 事故原因 ==
事故原因をめぐっては、石炭火災による隔壁の鋼材強度の大幅低下説、[[#船体の損傷と浸水|上記]]のリベットの強度不足をおもな原因とする説、鋼板の脆弱性をおもな原因とする説のほかにもさまざまな説がある。
=== 石炭火災による隔壁強度低下説 ===
1912年の{{仮リンク|タイタニック号沈没事故に対するイギリス難破調査委員会の調査|en|British Wreck Commissioner's inquiry into the sinking of the RMS Titanic|label=事故調査・査問委員会}}で石炭火災が取り上げられたが、沈没事故とは無関係とされ、大した火災ではなかったというのが定説だった。
しかし、タイタニックの専門家である{{仮リンク|セナン・モロニー|en|Senan Molony}}によると「タイタニックの出港前の写真で船体側面(第6ボイラーの石炭倉庫のあたり)に約9メートルほどの焦げ跡が確認できる」とされており、実際、タイタニックの石炭庫では、ベルファストの造船所の港を離れる前から自然発火による石炭火災が起きていた。石炭を積んだのは出港する3週間前である。また、当時はイギリス国内の炭鉱で[[ストライキ]]が起こっており、十分な石炭が確保できなかった。
1912年4月10日、サウサンプトン港で乗客を乗せた時点で、火災は消火できておらず、その結果、加熱された部分の鋼材の強度は最大で75パーセント低下し、船体の構造の一部がすでに脆くなっていたことが沈没のおもな原因で、4月14日深夜の氷山との衝突は沈没のトリガーになったに過ぎないと主張し、[[2010年代]]後半には注目される有力説となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/2017/01/07/titanic_n_14017674.html|title=タイタニック号沈没の原因は火災? 新説が浮上|publisher=Huffington Post Japan|accessdate=2018-04-05|date=2017-01-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://natgeotv.jp/tv/lineup/prgmtop/index/prgm_cd/2312|title=タイタニック号 隠された火災|publisher=ナショナル ジオグラフィック (TV)|accessdate=2018-04-05}}</ref>。
沈没事故の数日後のニューヨークの新聞に掲載された、ジョン・ディリーというボイラーマンが波止場で記者に話したことによると、
*火災はベルファストの造船所を離れた日に発見された。
*石炭はデッキ3層分の高さの量だった。
*ディリーは、11人の作業員とともに消火にあたったが鎮火できなかった(それだけの人数で対応したにもかかわらず、簡単に消火できなかったとすれば、非常に大きな火災だったと考えられる)。
*石炭倉庫には、何百トンもの石炭があった。我々は全く無力だった。
*出港した日からタイタニックは燃えていた。
という。
石炭火災の専門家によると、
*自然発火した石炭は、石炭の中心部の温度が徐々に上昇し、摂氏500 - 1000度になる。
*臭いなどで気がついたときには、すでに手遅れである。
*石炭倉庫は隔壁と接しているため、船体の強度に影響する。
*消火するにはボイラーにくべて燃やすしかなくスピードを落とせない。加えて横断にギリギリの石炭しか確保できなかったため、一度スピードを落とすと燃料切れの危険があった。
ボイラー作業員160人のうち、アメリカまで向かったのはわずか8人だけである。このように作業員が入れ替わったことは前例がない。また、当時英国でタイタニック号事故調査・査問委員会を指揮した委員長の{{仮リンク|ジョン・ビンガム_(初代マージ―子爵)|label=ジョン・ビンガム(初代マージー子爵)|en|John_Bigham,_1st_Viscount_Mersey}}は、不自然なまでに石炭火災の影響を無視し、却下する審判指揮をしている<ref>NHKBS1、[[BS世界のドキュメンタリー]]「タイタニック 新たな真実」2018年12月10日23時放送</ref><ref>NHKEテレ、ドキュランドへようこそ!「タイタニック 新たな真実」2018年12月28日23時放送</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://sputniknews.jp/20170105/3210894.html|title=英インデペンデント紙、「タイタニック号」沈没の新説を語る|publisher=Sputnik 日本|accessdate=2018-04-05|date=2017-01-05}}</ref>。
=== 操船ミス説 ===
[[2010年]][[9月]]に、二等航海士のチャールズ・ハーバート・ライトラーの孫、ルイーズ・パッテンは、イギリスの[[デーリー・テレグラフ]]に対し、「ミスがなければ、氷山への衝突を避けることは簡単だった。氷山が近くにあるのを見てパニックに陥った操舵手が、間違った方向に舵を切った」と語り、基本的な操舵ミスが原因だったとしている。
{{See also|面舵}}
記事によるとマードックが氷山を発見したのは衝突の4分前、衝突時に減速がほとんど効いていなかったとされることから氷山との距離は約2,700メートルであったと算出される。これは十分に停止可能な距離であるが、マードックは操舵のみで回避できると判断し、ロバート・ヒッチェンズ操舵手に「Hard Starboard!」の号令をかけた。この号令は帆船時代からの名残で「舵輪を左に回して“舵柄を右に動かし”左へ急速回頭する」の意味で使用されており(Tiller Orders・間接法)、タイタニックでも採用されていた。しかし蒸気船式の号令(Rudder Orders・直接法)では「舵輪を右に回して舵柄を左へ動かし“右へ急速回頭する”」を意味するため<ref group="注">直接法が船の進行方向を指示するのに対して、間接法は帆船で舵柄を押す方向を指示するため逆の号令となる。また、「Starboard」は右舷「Port」は左舷を意味する。</ref>、直接法で訓練されていたヒッチェンズ操舵手はパニックに陥り、舵輪を右に回してしまう<ref group="注">この混乱は1928年にロンドンで行われた「国際海上衝突予防規則の改正に関する国際会議」で修正され、現在では直接法が採用されている。</ref>。操舵手のミスに気づいたマードックは左回頭に修正したが手遅れであった。「後進一杯」が発せられたのはこの修正時と思われる。
同記事には「ブルース・イズメイ社長が船長に微速前進での航行を命令したことにより、船首に水圧がかかり浸水が早まった。前進していなければ[[カルパチア (客船)|カルパチア]]が到着するまで沈むことはなかった」との証言も記載されている。実際に、衝突直後に計測された現在位置と沈没現場には数海里の誤差がある。
事故後、ライトラーは海運会社の倒産を恐れ、調査でもミスを隠したと説明している<ref>タイタニック沈没は「操舵ミス」、航海士の孫が明らかに[https://megalodon.jp/2010-0924-1558-46/www.excite.co.jp/News/odd/E1285297943705.html]</ref><ref>Human error really sank the Titanic, not an iceberg, granddaughter of ship's second officer claims[https://megalodon.jp/2010-0924-1627-50/www.nydailynews.com/news/world/2010/09/22/2010-09-22_human_error_sank_the_titanic_not_iceberg_granddaughter_of_ships_second_officer_c.html]<br />デーリー・テレグラフ原文[http://www.telegraph.co.uk/culture/books/booknews/8016751/The-truth-about-the-sinking-of-the-Titanic.html]</ref>。
事故後、南アフリカのケープ・タウンの港湾長に任じられたヒッチェンズ操舵手は知人のヘンリー・ブラムらに「タイタニックの事故に関して秘密を守るためにケープ・タウンまで送られた」と告白しているが、関連は不明である。
=== ブルーリボン賞説 ===
{{出典の明記|date= 2015-10-15|section=1}}
生存した船員が「船長はいつもと違い、氷山の警告を無視した。性格も変貌し、船のスピードアップに躍起だった」と、スミス船長に異常があったことを証言しているが、スミス船長の態度がいつもとは違ったのは、「処女航海で大西洋横断のスピード記録([[ブルーリボン賞 (船舶)|ブルーリボン賞]])を出すためであった」という説がある。
タイタニックが氷山に衝突したのは、大西洋最速横断記録(ブルーリボン賞)を獲得しようと無理な航行を強行したことが事故の遠因になったという説があり、根強く支持されている。しかし、1912年当時のブルーリボン賞を保持していたのは西回り・東回りともに[[モーリタニア (客船・初代)|モーリタニア]]であり、その平均速度は26ノット近いものであった。両船の要目を比較すると、
*モーリタニア:総トン数3万1,938トン、機関蒸気タービン4基/4軸、機関出力6万8,000馬力、巡航速力26ノット(最高速力28ノット)
*タイタニック:総トン数4万6,328トン、機関蒸気レシプロ2基、蒸気タービン1基/3軸、機関出力4万6,000馬力、巡航速力22ノット(最高速力24ノット)
であり、機関の性能から見て、タイタニックはブルーリボン賞を獲得できるような能力を持っていない。
当時、ブルーリボン賞の獲得を目指したモーリタニアのような高速船は、その莫大な運航費用(燃料費)を輸送する人員や貨物だけでは賄えず、政府からの補助金によって運航が維持されていた。しかし、タイタニックを含めたオリンピッククラス客船は豪華さを売りにし、総トン数を上げ輸送力増大や機関出力を抑えての燃料費の低減など、補助金なしで採算が取れる運航ができるように設計された船であった。このことから、ブルーリボン賞を獲得しようとして事故を起こしたという説の根拠は薄い。
タイタニックが高速で航行した理由として、スミス船長をはじめ多くの船乗りが高速で氷山を突破した方が安全だと考えていたこと、石炭火災を止めるために燃えている石炭をボイラーに投げ込んだため自然と船足が早くなったこと、当時イギリスの炭鉱がストライキをしていたためニューヨークに着けるだけの石炭しか手に入らなかったことが理由であると考えられている。
=== 潮汐力説 ===
事故年の初頭は[[大潮]]にあたり、大量の浮氷、氷山が[[ラブラドル海流]]に乗り南下したという新たな学説が立てられた<ref>[http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPTYE82604D20120308 タイタニック号沈没の「真犯人は月」、米研究者が新説] -[[ロイター]]: 2012年3月8日</ref>。ドナルド・オルソン研究チームによる調査では、月が過去1400年で、最も地球に接近し、氷山を南の航路まで漂ったためとした。<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/tk0750716-titanic-moon-new-theory-idJPTYE82604D20120308 |title=訂正:タイタニック号沈没の「真犯人は月」、米研究者が新説 |access-date=2023/7/7}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/5732/ |title=National geographic タイタニック沈没は天文現象のせい? |access-date=2023/7/7}}</ref>
=== 陰謀説 ===
{{出典の明記|date= 2015-10-15|section=1}}
「船を所有していたホワイト・スター・ライン社が財政難になっており、タイタニックの保険金を得るために故意に沈めた」という[[陰謀説]]がある。
{{See also|en:Titanic conspiracy theories}}
根拠として、タイタニックを管理していたのはホワイト・スター・ラインであったが、その事実上の所有者は同社に出資していた国際海運商事の社長である[[ジョン・モルガン]]であった。モルガンはタイタニックに乗る予定だったが、直前に病気を理由にキャンセルし、代わりに別の大富豪の夫妻が乗船することになったが、この夫妻もキャンセルし、結局ホワイト・スター・ライン社の社長であるブルース・イズメイがこの部屋に泊まった。しかし、病気だったはずのモルガンが同時期に北[[アフリカ]]から[[フランス]]にかけて旅行をしていたことがのちに判明しており、[[イタリア]]では愛人にも会っている。しかも、キャンセルした客の中にモルガンと非常に深いつながりがある人々が数名いることも判明しているため、「モルガンはこの処女航海中に何か起こることを知っていたのではないか」とするものである。しかし、衝突し沈没に至る大きさの氷山に出くわし、目的通りに沈没する確率は限りなく低く、この説は単なる憶測の域を出ないものである。
また、モルガンはタイタニックで運ぶはずだった私的な貨物も直前にキャンセルしている。さらに、リパブリック沈没事件で名を馳せたジャック・ビンズという通信士も乗船をキャンセルしており、降格処分で下船した航海士が、双眼鏡をしまったロッカーの鍵を持っていた<ref name="陰謀">『タイタニック号は沈められた』</ref>。乗船をキャンセルした者が自分の貨物をキャンセルするのは自然であるという意見もあるものの、乗船キャンセルの原因となった「旅行」の目的が何であったかは明らかになっていない。しかしこの事故は不注意な運航による予知しにくいもので、仮に航海士たちが巨額の資金で買収され、わざと氷山に衝突させたのなら航海士に死人は出ないはずであり、やはりこの説も憶測の域を出ないものである。
なお、「タイタニック号への乗船を直前にキャンセルしたのは50人を越す」<ref name="陰謀"/>にその他、火夫などを含めてと記されている。
=== 船体すり替え説 ===
{{出典の明記|date= 2015-10-15|section=1}}
タイタニックには、姉妹船として「オリンピック」がタイタニックより1年ほど早く北米航路に投入されていた。オリンピックは、タイタニックが就航する前に2回事故を起こしている。
*[[1911年]][[9月30日]]、サウサンプトン沖合いで[[イギリス海軍]][[防護巡洋艦]]「[[ホーク (防護巡洋艦)|ホーク]]」と接触、船尾が大破した。この事故はイギリス海軍査問会にて審理され、オリンピック側のミスと認定、海難保険は一切降りなかった。
*1912年[[2月24日]]、大西洋を航海中に海中の障害物に乗り上げてスクリューブレード1枚を欠損したうえ、船体の[[竜骨 (船)|キール]]に歪みが出るほどの損傷を受け、長期間の修理を余儀なくされる。
この2つの事故を鑑みて、「オリンピックは近い将来廃船される予定だったのではないか」というのが、船すり替え説の論拠となっている。つまり、廃棄寸前だったオリンピックを、内装や若干の仕様を変更させて「タイタニック」に仕立て上げて、故意に氷山にぶつかったというのである。
これら一連の陰謀説が唱えられる状況証拠として、
{| class="wikitable" style="background:white; margin:10px 0px;"
|-
! {{nowrap|疑問 (1)}}
!style="text-align:left;"| 同船船長が航海直前になってエドワード・スミスに変更になった(彼はオリンピックでの事故時に同船の船長を拝命していた)。
|-
| 回答 (1) || 通例、ある船会社で首席の船長は、その会社で最高の客船である[[フラグシップ]](いわば新造船)を指揮する特権があった。オリンピックはタイタニックが完成するまでホワイト・スター・ラインのフラグシップであり、その船長だったスミスはホワイト・スター・ラインの最も誉ある立場におり、船乗りとしての最後の海上生活の華を飾る航海に、当時建造されたばかりのタイタニックが付与されたのは全くもって普通のことだった。
|-
! 疑問 (2)
!style="text-align:left;"| 石炭庫の火災が氷山との接触事故前日まで鎮火しなかった(わざと延焼させて船体を弱体化させていた)。
|-
| 回答 (2) || 石炭の自然発火は汽船の歴史の中でよくあることで、とくに気密性の高い船は石炭の粉塵に引火したことが原因で火災になることがあった。一方でこれらの火災は石炭庫の酸素がなくなれば自然と鎮火するもので、大事に至るようなことはまずなかったとみられる。高い気密性のゆえに引火(小規模な粉じん爆発)するのだが、その気密性のゆえに自然に鎮火するので、船体まで延焼する事はほぼ否定できる。また、ボイラー室でも消火作業は行われていたが、下手に火災箇所に近づくことは逆にクルーの命を奪う可能性もあり危険(当時は酸素ボンベやマスクはまだ開発途中で、存在しない)。炎もくすぶるというほうが表現は正しく、実際にはボヤだった。
|-
! 疑問 (3)
!style="text-align:left;"| 大西洋を航海中の船から7回「氷山警報」が送られており、その中には航路上に存在する可能性もある氷山もあったが、ことごとく無視された(カリフォルニアンに至っては「氷に囲まれて身動きが取れない」と意味深いメッセージが送られている)。
|-
| 回答 (3) || しかしタイタニックの通信士はレース岬と通信を取るのに必死で他からの通信を邪魔だと思っていた。また、カリフォルニアンからの通信は当時の通信規則を破っていたために単なる雑音としか聞こえず、軽視されたという事情がある([[衝撃の瞬間]]より)。また当時は炭鉱労働者[[ストライキ]]中で、タイタニックのニューヨーク到達が辛うじて可能と見込まれる程度の石炭しかかき集められず、しかも前述の石炭庫火災で減少し、加えてその延焼もあって該当石炭庫から可能な限り早急に優先してボイラーに投じられており、最早遠回りを可能とするだけの石炭の余裕はなかった。当時左前だった船主のホワイト・スター・ライン社にはタイタニックを洋上で立ち往生させて汚名を被る訳にはいかなかった。
|-
! 疑問 (4)
!style="text-align:left;"| サウサンプトン出港後に、見張り用[[双眼鏡]]が一切使用不能になっていた(引継ぎ不備にしてもロッカーをこじ開ける等の方法はあった筈である)。
|-
| 回答 (4) || [[双眼鏡]]はベルファストからサウサンプトンまで随伴した航海士が自室のロッカーに仕舞いこみそのまま下船してしまった事が紛失の原因である。つまり他の乗組員はロッカー内に[[双眼鏡]]が存在するということを全く知らなかった、または見落としていた可能性が大きい。ここからはその後どの様な捜索が行われたか?と言う問題になるが、しかし新造船のロッカーを壊すかまたはこじ開けてしてまであちこちを探すような方法を、いくら航海士官と言えどもそこまでして探そうとするか?には疑問が残る。たしかに[[双眼鏡]]・[[望遠鏡]]の役割として、遠くを細かく見るだけでなく光量の少ない夜間に対象や景色を明るく見るためと言うものはある(明るさの値の大きい[[双眼鏡]]・[[望遠鏡]]は第一世代の[[暗視装置]]より明瞭であり、[[軍]]でも昼夜問わず用いられる)が、処女航海のあわただしさの中で、双眼鏡の重要性が見落とされていたという可能性も否定できない。
|-
! 疑問 (5)
!style="text-align:left;"| 航海中の巡航速度は、常に22ノット以上であった(見張りが不備な状況では非常識な速度であるという意見もある)。
|-
| 回答 (5) || これは当時の航海に関する人々の見識と深くかかわっている問題である。港湾や入江、暗礁などの点在する岸辺を運航する船舶を除き、大西洋の広大な海原を進む客船は、一定の運航スケジュールにのっとって航海しており、ほぼ船の巡航速力(タイタニックの場合22ノット〜23ノット、ちなみに最高速力は24ノットである)を維持するのが普通であった。また現代のクルーズ客船と異なり、当時の船は飛行機や鉄道に等しい一つの移動手段であり、ブルーリボン賞とは関係なく、それなりの速力と正確な運航が求められていたことは言うまでもない。そしてタイタニック遭難時の気象状況も事故を深刻にした大きな理由の1つであった。波一つなく月も出ない大西洋は、氷山が発見しにくいという点を除き、非常にまれながら安定した航海のできる状態にあった。また前述の石炭庫火災及びその延焼もあって、該当石炭庫から可能な限り早急に優先してボイラーに投じられているのも、速度を落とせなかった要因の一つであった。
|-
! 疑問 (6)
!style="text-align:left;"| 氷山激突当日、近海に貨物船カリフォルニアンがいた(同船は、普段は別海域を航海していた)。
|-
| 回答 (6) || カリフォルニアンが普段は別海域のみを航海していたという証拠は存在しない上、船舶会社に所属する貨物船である以上、世界中の海域を航海することに何の不思議もない。さらに、カリフォルニアンが近海にいたこととタイタニックの沈没の因果関係は全くない。しかも、上記のようにカリフォルニアンは氷山を含む流氷の警告をタイタニックに行っていた。
|-
! 疑問 (7)
!style="text-align:left;"| 沈没時に、氷山と激突した箇所とは別に船体が自重で折れてしまった(船体が自重で折れるという事は、設計上普通に有り得ない)。
|-
| 回答 (7) || 通常の航行状態であればその通りと言える。しかし、タイタニックの船体が第三煙突付近で折れたのは、船体前部の浸水で後部が大きく水上に持ち上げられた沈没直前のことであり、通常このような異常な状態において船体を保証する設計は行われていない。
|-
! 疑問 (8)
!style="text-align:left;"| タイタニックが沈没した際、100万ポンドの保険金が降りた(当時としては異例の金額であり、建造費用50万ポンドを大きく上回る)。
|-
| 回答 (8) || 遺族への慰安費、賠償金も含まれている。
|}
などが挙げられている。
同型船とはいえ、オリンピックとタイタニックには構造上の[[#オリンピックとの相違点|相違点]]がいくつかあり、そのもっとも大きな違いはボート甲板直下のAデッキ(プロムナードデッキ)の差である。またBデッキの一等船室の配置も数も異なり、オリンピックに比べてタイタニックでは一等客の定員が大幅に増加している。
オリンピックとタイタニックをすり替えるためには、オリンピックが座礁した2月24日から4月10日のタイタニックの処女航海までにこれらの工事を終える必要があり、両船の船員全員を配置転換しなければならないこと、改修に関与する造船所の工員の数などを考えると、すり替えが成立する根拠はほぼない。
== その他 ==
*不沈艦伝説(大内建二、光人社)より
**オリンピックが建造されたとき、造船界の権威である技術雑誌のShipbuilderが特別号を出したが、オリンピックの数々の充実した設備から「事実上不沈」と書いてしまった。権威が太鼓判を押してしまったことから、いつしか「事実上」の文句は忘れ去られてしまい、「不沈」だけが一人歩きするようになってしまった。
**当時、無線は旅行客が船上から地上にいる家族知人に連絡を送るサービスとしてだけ受け取られており、事実、タイタニックでも運航部門の直轄ではなく、サービス部門の下に置かれていた。こういったことが沈没に影響した可能性もある。
**生存者と死者の割合のうち、三等船室を利用していた客の死者が多い。三等船室が下部の前方と後方に分断されて配置されており、沈没の際、前方の客室にいた客が脱出するためにはそのまま真上に上がるか、もしくはそのまま船体を突っ切って後方に移動してから真上に上がる2つの方法があった。ところが前者はその真上に一等船室があったためドアが施錠されており、後者の方法だけしかなかったのが、死者が増えた原因だという説もある。
*[[2012年]]3月、建造地である[[アイルランド]]の[[ベルファスト]]に{{仮リンク|タイタニック・ベルファスト|en|Titanic Belfast}}博物館が開館した<ref>[http://on-the-road.co/?p=6831 北アイルランドの首都ベルファストにあるタイタニック博物館]</ref><ref>[https://www.visitbritain.com/jp/ja/taitanitukuberuhuasutotitanic-belfast タイタニック・ベルファスト(Titanic Belfast)]</ref><ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG31025_R30C12A3CR8000/ タイタニック博物館、北アイルランドに開館 沈没事故100年]</ref>。
*2013年、オーストラリアの資産家クライブ・パーマーによりタイタニックのレプリカ、[[タイタニック2号]]の建造計画が公表された<ref>[http://jp.reuters.com/article/tk0622521-usa-titanic-replica-idJPTYE91Q00U20130227 「タイタニック2号」が2016年就航へ、建造は中国企業]</ref>。しかしその後の業界団体の調査で、発注していた[[中国]]の造船所に豪華客船を建造する技術も能力もないことが判明し、建造計画はスタート時点から頓挫状態となっている<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20121214163219/http://sankei.jp.msn.com/world/news/120815/chn12081508140001-n2.htm|title=「利益なき繁忙」中国造船業界が“危険水域”に 500社前後が操業停止も|work=産経ニュース|publisher=産経新聞社|date=2012-08-15|accessdate=2014-02-08}}</ref>。2018年9月にクライブ・パーマーが率いる海運会社「ブルースターライン」は[[2022年]]を目標に計画を再開させる方針であると話した<ref>{{Cite web|和書|date=2018-10-24|url=https://news.livedoor.com/article/detail/15489011/|title=「タイタニック号」が復元され2022年に出航へ 安全設備を搭載|publisher=ライブドアニュース|accessdate=2018-11-17}}</ref>。
*2014年、中華人民共和国のテーマパークでタイタニックのレプリカ「[[:en:Romandisea Titanic|Romandisea Titanic]]」の建造計画が発表されたが、事故の犠牲者と生存者の家族から抗議を受け頓挫した<ref>[https://www.recordchina.co.jp/b174851-s0-c70-d0000.html 中国テーマパークの「タイタニック号」レプリカ建造計画に生存者の家族らが怒り―英メディア]</ref>。
* タイタニック号の乗員・乗客に関する情報は、[[データサイエンス]]における標準的なデータセットとして広く公開されており、[[R言語]]などに標準で組み込まれている。[[Kaggle]]の入門的なコンペや、各種の書籍、講座におけるチュートリアルとして、[[機械学習]]などの手法を用いて、ひとりひとりの生存あるいは死亡を予測する統計モデルの作成方法や精度評価の手法、また精度向上のためのチューニング手法を学習する目的で利用されている。
* [[2023年]]6月、{{仮リンク|オーシャンゲート|en|OceanGate|label=オーシャンゲート社}}が運航する[[潜水艇]]''タイタン号が''、北大西洋の[[ニューファンドランド島]]沖で行方不明になる事故が発生した。''この潜水艇は5人が乗れるように設計されており、タイタニック号''の残骸を見るための観光客を乗せていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN22DXL0S3A620C2000000/ |title=潜水艇「タイタン」の破片発見 乗組員5人全員死亡か |publisher=日本経済新聞 |date=2023-06-23 |accessdate=2023-06-22}}</ref>。
{{Main|潜水艇タイタン沈没事故}}
== オカルトでの扱い ==
=== 事故の「予言」 ===
{{出典の明記|date=2011年7月}}
タイタニック沈没事故の14年前の[[1898年]]に発表されていた、アメリカ人の元船員{{仮リンク|モーガン・ロバートソン|en|Morgan Robertson}}([[1861年]] - [[1915年]])の短編小説『タイタン号の遭難,または愚行 [[:en:The Wreck of the Titan: Or, Futility|The Wreck of the Titan]]』(初版では『愚行』"Futility")の内容がタイタニック沈没事故に酷似していたため、事故後「事故を予言した小説」として話題になった。小説中の「タイタン号」とタイタニック号は、船名、大きさ、構造、航路、沈没原因などが類似・一致しており、同書は事件後に欧米で大きな売り上げを記録したという。しかし、事故後の改訂時に初版から「タイタン号」の重量と馬力が変更されている<ref>https://web.archive.org/web/20190306212313/https://inumimi.papy.co.jp/inmm/sc/kiji/1-1108533-84/</ref><ref>[https://www.historyonthenet.com/the-titanic-futility The Titanic - Futility]、History On The Net。 - 2019年6月2日閲覧。</ref>。
[[スラヴォイ・ジジェク]]はこの一致を「ある時代が終わりつつあるという感覚」が当時の[[時代精神]]の一部となっていたことが理由と主張している<ref name="ジジェク">{{Cite book |author=[[スラヴォイ・ジジェク]] |year=2015 |title=イデオロギーの崇高な対象 |page=51 |publisher=[[河出書房新社]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=5Lw_DwAAQBAJ&pg=PT51#v=onepage&q&f=false |others=[[鈴木晶]]}}</ref>。
{{wikisourcelang|en|The_Wreck_of_the_Titan:_Or,_Futility|{{Lang|en|The Wreck of the Titan: Or, Futility}}}}
=== ミイラの呪い説 ===
「運んでいた[[ミイラ]]による呪い説」の書籍も出版されており、この中でミイラの呪いかという点に言及されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-ISBN=4569573266|title=世界史・呪われた怪奇ミステリー 内容詳細|publisher=[[紀伊國屋書店|紀伊國屋書店BookWeb]]|accessdate=2008-11-27}}</ref>。
このミイラ(実際にはミイラの上に載せる人型のふた〈ミイラボード 〉)は、1990年と2007年に海外に貸し出された以外に大英博物館を出たことはなく、1912年にタイタニックに積まれた事実はない。なぜタイタニックに載せられたという伝説が生まれたのかについては定かではないが、乗船客の中にこのミイラを知る者がいて長旅の暇つぶしにほかの客たちに話したのが、話を聞いた者が生き残って尾ひれをつけて広めたのではないかとされる<ref>[http://www.unmuseum.org/mummyth.htm The Myth of the Titanic Mummy(英文)]</ref>。
購入者はイギリス人の旅行者で、購入後にさまざまな不幸を体験したとされる。人手を渡り大英博物館に収められることになったのだが、大英博物館の公式記録では最終的な寄贈者しか記録されておらず、それ以前の経緯は[[ツタンカーメンの呪い]]と同じく噂の域を出ない。なお、「不幸のミイラ」は現在も大英博物館に収蔵されており、詳細なデータについては大英博物館のサイトで確認することができる<ref>{{Cite web|url=http://www.britishmuseum.org/research/search_the_collection_database/search_object_details.aspx?objectid=117233&partid=1|title=The Buritish Museum collection database/The Unlucky Mummy|accessdate=2011-09-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120414145735/http://www.britishmuseum.org/research/search_the_collection_database/search_object_details.aspx?objectid=117233&partid=1|archivedate=2012-04-14}}</ref>。
== 乗員 ==
{{seealso|en:Crew of the RMS Titanic}}
タイタニックのおもな乗員は、次のとおりである。
{| class="wikitable sortable mw-collapsible mw-collapsed"
!分野
!役職
!氏名
!年齢
!乗船
!救命ボート
|-
| rowspan="8" |甲板部
|船長
|エドワード・ジョン・スミス
|62
| rowspan="2" |サウサンプトン港
| rowspan="3" |死亡
|-
|航海士長
|ヘンリー・ティングル・ワイルド
| rowspan="2" |39
|-
|一等航海士
|ウィリアム・マクマスター・マードック
| rowspan="7" |ベルファスト港
|-
|二等航海士
|チャールズ・ハーバート・ライトラー
|38
|B
|-
|三等航海士
|ハーバート・ジョン・ピットマン
|34
|5
|-
|四等航海士
|ジョセフ・グローヴス・ボックスホール
|28
|2
|-
|五等航海士
|ハロルド・ゴッドフリー・ロウ
|29
|14
|-
|六等航海士
|ジェームズ・ポール・ムーディ
|24
| rowspan="27" |死亡
|-
| rowspan="21" |機関部
|機関長
|ジョセフ・ベル
|50
|-
|一等機関士
|ウィリアム・エドワード・ファークハーソン
|39
|サウサンプトン港
|-
|二等機関士
|ジョン・ヘンリー・ヘスケス
|33
|ベルファスト港
|-
|主席三等機関士
|ジョージ・フォックス・ホスキング
|36
|サウサンプトン港
|-
|次席三等機関士
|エドワード・チャールズ・ドッド
|38
|ベルファスト港
|-
|次席四等機関士
|ジェームズ・ムイル・スミス
|35
|サウサンプトン港
|-
|主席五等機関士
|フランク・アルフレッド・パーソンズ
|27
| rowspan="2" |ベルファスト港
|-
|次席五等機関士
|ウィリアム・デッキンソン・マッキー
|32
|-
|予備五等機関士
|ロバート・ミラー
|27
|サウサンプトン港
|-
|主席六等機関士
|ウィリアム・ヤング・モイーズ
|23
| rowspan="2" |ベルファスト港
|-
|次席六等機関士
|ウィリアム・マクレイノルズ
|22
|-
|一等機関助士
|バーティ・ウィルソン
|28
|サウサンプトン港
|-
|二等機関助士
|ノーマン・ハリソン
|39
| rowspan="2" |ベルファスト港
|-
|次席二等機関助士
|ハーバート・ギフォード・ハーヴィー
|34
|-
|次席二等機関助士
|ジョナサン・シェパード
|32
|サウサンプトン港
|-
|次席三等機関助士
|ジェームズ・フレーザー
|29
|ベルファスト港
|-
|次席三等機関助士
|フランシス・アーネスト・ジョージ・コイ
|26
| rowspan="5" |サウサンプトン港
|-
|主席四等機関助士
|ヘンリー・ライランド・ダイアー
|24
|-
|四等機関助士
|トーマス・ハルマン・ケンプ
|43
|-
|次席四等機関助士
|ヘンリー・ワトソン・ドッズ
|27
|-
|次席四等機関助士
|アーサー・ワード
|24
|-
| rowspan="2" |医務部
|船医
|ウィリアム・フランシス・ノーマン・オロックリン
|62
|ベルファスト港
|-
|船医助手
|ジョン・エドワード・シンプソン
| rowspan="2" |37
| rowspan="2" |サウサンプトン港
|-
| rowspan="2" |事務部
|事務員
|ヒュー・ウォルター・マッケルロイ
|-
|事務補助員
|レジナルド・ローモンド・バーカー
|40
| rowspan="3" |ベルファスト港
|-
| rowspan="2" |無線部
|通信長
|ジョン・ジョージ・"ジャック"・フィリップス
|25
|-
|一等通信士
|ハロルド・シドニー・ブライド
|22
|B
|}
[[ファイル:CaptianEdwardSmith.jpg|thumb|150px|船長[[エドワード・スミス|エドワード・ジョン・スミス]]]]
* 船長:[[エドワード・スミス|エドワード・ジョン・スミス]]
** この事故により死去の可能性が高い(自らの意思により船と運命をともにすると言われているが、真相は謎である)が、生存していたとの目撃証言もある。
* 主席一等航海士(航海長、副船長):[[ヘンリー・ティングル・ワイルド]]
** この事故により死去。当初、主席一等航海士の役職はマードックが務めていたが、スミス船長がワイルドを呼び寄せたために、出港直前に人事異動が起きた。これによりマードックは次席一等航海士に、その階級に選ばれていたライトラーは二等航海士にそれぞれ降格され、前任の二等航海士デイヴィッド・ブレアは下船することになった。このことが前述の双眼鏡紛失を招いた。衝突後はおもに左舷側のボートによる避難誘導を担当した。(ロウ以外の<ref group="注">ロウは自前の銃を持っていた。実際に押し寄せる乗客に対して威嚇射撃などをしていた。</ref>)上級士官の拳銃携帯を指示したのは彼とされる。
[[ファイル:William McMaster Murdoch, photograph taken before 1911.jpg|thumb|150px|次席一等航海士[[ウィリアム・マクマスター・マードック]]]]
* 次席一等航海士(元首席一等航海士):[[ウィリアム・マクマスター・マードック]]
** この事故により死去。オリンピック号一等航海士からの異動であったが、大型船での経験不足を理由に航海士長から降格となった。衝突時の上級当直士官であり、氷山からの回避運動を指揮した。衝突後は右舷側のボートによる避難誘導を指揮した。彼は比較的男性の避難にも寛容で、左舷より多くの男性をボートに乗せて送り出した。1997年の映画『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』などにおいては乗客を撃ち殺して自殺するという不名誉な人物として描かれたが、実際は最期まで職務を遂行して亡くなったと言われる。長らく彼の判断ミスから事故が起きたと考えられてきたが、前述のように操舵手の操船ミス説も浮上している。航海士免許取得の際に優秀な人物であった<ref group="注">ボックスホールと同じく船長資格を取らずに特別船長資格を取ってはいるが、彼のみ免許取得の際に一度も不合格を言い渡されなかった。</ref>。
* 二等航海士(元次席一等航海士):[[チャールズ・ライトラー|チャールズ・ハーバート・ライトラー]]
** 転覆したB号ボート→12号ボートにより生還。生還した乗員の中では最高位の上、唯一生還した上級士官。衝突後は左舷側のボートによる避難誘導を指揮した。彼はスミス船長の「婦女子優先」([[ウィメン・アンド・チルドレン・ファースト]])という命令を「婦女子のみ」と解釈し、男性をほとんどボートに乗せなかった。沈没後は転覆していたB号ボート上で乗員乗客を指揮し、同ボートの沈没を防いだ。[[1952年]]没。
* 元二等航海士(下船のため、役職はなし):[[デイヴィッド・ブレア]]
** ベルファスト港からサウサンプトン港まで乗船。前述の上級航海士の降格により双眼鏡の場所を申告せずに下船。
* 三等航海士:[[ハーバート・ピットマン|ハーバート・ジョン・ピットマン]]
** 5号ボートにより生還。右舷側のボートによる避難誘導を担当した。[[1961年]]没。
* 四等航海士:[[ジョセフ・ボックスホール|ジョセフ・グローヴス・ボックスホール]]
** 2号ボートにより生還。衝突時の下級当直士官であり、衝突後にタイタニックの推定位置を算出した。下級士官の中で唯一特別船長資格を持っていた。その後はロケット信号弾の打ち上げを指揮、合計8発を打ち上げた。彼は2号ボートにも信号弾を持ち込み、それを打ち上げることで乗客を励ました。この信号にカルパチア号が気づき、ボートの船団を発見することになった。[[1967年]]没。
* 五等航海士:[[ハロルド・ロウ|ハロルド・ゴッドフリー・ロウ]]
** 14号ボートにより生還。避難開始当初は右舷側、のちに左舷側の誘導を担当した。14号ボートが降ろされるとき、飛び乗ろうとした乗客を威嚇するために本船とは反対側の外に向けて発砲している。本船沈没後、自分のボートの乗客をほかのボートに移して救助に戻った。[[1944年]]没。
* 六等航海士:[[ジェームズ・ポール・ムーディ]]<ref>[http://www.titanicjp.com/rmoody.htm ジェームス・ポール・ムーディー六等航海士]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20150903024510/http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/070300016/082400006/ タイタニック、100年後の邂逅]</ref>
** この事故により死去。衝突時のもう1人の下級当直士官であり、見張り台からの電話を受けた。一度はボートを受け持つ話をロウとしたが、三等船客に自分の救命具を渡し、自らの意思で船上に残り殉職した可能性がある。
* 機関長:[[ジョセフ・ベル (機関士)|ジョセフ・ベル]]
** この事故により死去。彼を含む34人の機関部員は脱出せず、沈没まで電力を供給し続けた。ベルたち機関員の勇敢な行動に感銘を受けた[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]は英国王室のロイヤルカラーであるロイヤルブルーを機関員に許可した。これ以降は機関員の[[肩章]]の色に紫が使われるようになった。
* 事務員(パーサー):[[ヒュー・ウォルター・マッケロイ]]
** 事務補助員[[レジナルド・ローモンド・バーカー]]と共に、この事故により死去。
* 通信長:[[ジャック・フィリップス (通信士)|ジャック・フィリップス]]
** この事故により死去。衝突後は、電力供給が途絶えるまで遭難信号を送信し続けた。ブライドとともにB号ボートに辿り着いたが、ボート上で力尽きた。他船舶からの氷山の警告のいくつかを乗客の私信処理で忙しいことを理由に無視したが、当時はこのような警告の処理手順が定められておらず、船員への報告義務もなかった。
* 一等通信士:{{仮リンク|ハロルド・ブライド|en|Harold Bride}}
** 転覆したB号ボート→12号ボートにより生還。フィリップスとともに脱出、漂流中はボート上に立って過ごした。[[1956年]]没。
* 船医:[[ウィリアム・フランシス・ノーマン・オロックリン]]
** 船医助手の[[ジョン・エドワード・シンプソン]]と共に、この事故により死去。
[[File:Titanic orchetra.jpg|150px|thumb|[[ウォレス・ハートリー]]らバンドメンバー]]
* バンドマスター:[[ウォレス・ハートリー]]
** この事故により死去。バンドのクルーの全員が外部企業の所属であり、二等船室の乗客扱いであった。しかし船会社とはほかの船員と同じような契約を交わしており、正規の乗組員ではないにもかかわらず、高級船員から指示を受けなければならないというあいまいな立場にあった。衝突後はバンドメンバーとともに甲板上で音楽を奏で、最後の瞬間まで乗客の不安を和らげようと尽力した。
* バンドメンバー:ジョック・ヒューム<!-- 同じカナ書きだと、すでに英語版にあるフットボール選手の[[:en:Jock Hume]]の方が優先して翻訳されるとうかがえるため、同じ英語版でもバンド記事へ転送されているこちらは記事化される見込みは限りなく薄いと判断し、リンクを切っておきます。 -->
** この事故により死去。家庭を持つためこの航海をもって下船を決めており、婚約者は娘を身ごもっていた。沈没後、船内でしたためたハガキが婚約者の元に届けられた。
* 操舵員:[[ロバート・ヒッチェンス]]
** 6号ボートにより生還。衝突時、操舵を握っていた。[[1940年]]没。
* 見張り番:[[フレデリック・フリート]]
** 6号ボートにより生還。衝突時、リーとともに見張り台に立っていた。「真正面に氷山(Iceberg, right ahead!)」と電話でブリッジに報告した。[[1965年]]自死。
* 見張り番:[[レジナルド・リー]]
** 13号ボートにより生還。衝突時、フリートとともに見張り台に立っていた。[[1913年]]没。
* 客室係:{{仮リンク|シド・ダニエルズ|en|Sid Daniels}}
** 転覆したB号ボートの上に乗って生還。[[1983年]]没。乗員として最後まで存命だった人物。
* 女性客室係:[[バイオレット・ジェソップ]]
** 生還。のち、タイタニック号の同型船[[ブリタニック (客船・2代)|ブリタニック]](戦時徴用により病院船として行動中)に救急看護隊看護婦として勤務していたときに同船の触雷沈没に遭遇。脱出の際に救命ボート2艘が沈没する船のスクリューに巻き込まれて21人が死亡したが、その際に重傷を負うも唯一生還した。[[1971年]]没。
* 主任パン焼き職人:[[チャールズ・ジョーキン]]
** 生還。部下とともに備蓄分のパンをボートに運んだり、女性客を救命ボートに乗船させたりした。部下の職人を救命ボートに乗せたあとも船に残り、船体沈没時に海に投げ出されたものの救助され、生還している。沈没前から[[ウイスキー]]を飲んでおり、体内にアルコールが残っていたために凍死を免れたという<ref name="最期184-188">ロード、pp.184-188.</ref>。事故時の証言を残している。[[1956年]]没。
== 乗客 ==
{{seealso|en:Passengers of the RMS Titanic}}
タイタニックの著名な乗客は、次のとおりである。<!-- 姓名五十音順 -->
=== 犠牲者 ===
[[File:JJAstorIV.jpg|thumb|150px|アメリカの財閥[[アスター家]]の一族で犠牲となった[[ジョン・ジェイコブ・アスター4世]]と、生還したその後妻{{仮リンク|マデリン・アスター|label=マデリン|en|Madeleine Astor}}。新婚旅行の帰りだった。]]
* [[ジョン・ジェイコブ・アスター4世]](一等客。アメリカの実業家。全乗客の中でもっとも富裕だった)
* {{仮リンク|ヘレン・ローレン・アリソン|en|Helen Loraine Allison}}(一等客の子供で唯一犠牲になった)
* [[トーマス・アンドリューズ (造船家)|トーマス・アンドリューズ]](一等客。タイタニックの設計者)
* [[エディス・C・エヴァンズ|エディス・エヴァンズ]](一等の女性客。犠牲となった一等船客の5人の女性のうちの1人。ほかの女性に救命艇の座席を譲り船と運命をともにした)
* [[ベンジャミン・グッゲンハイム]](一等客。ユダヤ系アメリカ人の実業家。鉱山精練王。正装で最期を迎えた)
* [[シドニー・レスリー・グッドウィン]](三等客。遭難当時生後19か月、[[2007年]]に身元が確認された)
* [[ウィリアム・トーマス・ステッド]](一等客。イギリスのジャーナリスト。[[唯心論|スピリチュアリズム]]の開拓者で沈没を予言していたといわれる)
* [[イジドー・ストラウス]](一等客。アメリカの実業家。百貨店[[メイシーズ]]所有者。夫を残して救命ボートに乗ることを拒否した妻[[アイダ・ストラウス|アイダ]]とともに最期を迎えた)
* [[アイダ・ストラウス]](一等客。イジドーの妻。犠牲となった一等船客の5人の女性のうちの1人。夫を残して救命ボートに乗ることを拒否し、夫とともに最期を迎えた)
* {{仮リンク|ジョン・セイヤー (クリケット選手)|label=ジョン・セイヤー|en|John Thayer (cricketer)}}(一等客。[[ペンシルバニア鉄道]]副社長。クリケット選手)
* [[ミシェル・ナヴラティル (1880-1912)|ミシェル・ナヴラティル]](二等客。偽名を使って2児とともに乗り込んだが、2児を残して死亡した)
* [[トーマス・バイルズ]](二等客。イギリスの神父、沈没の寸前まで乗客に聖書を読み上げた)
*[[ジョゼフ・フィリップ・ルメルシェ・ラロッシュ]](二等客。[[ハイチ]]の[[工学者]]。唯一のアフリカ系乗客)
* {{仮リンク|アーチボルド・バット|en|Archibald Butt}}(一等客。アメリカの軍人。[[ウィリアム・タフト|タフト大統領]]付き武官、休暇中に事故に遭遇した)
* [[エイノ・パヌラ]](三等客。遭難当時生後13か月、一時期誤って身元が判明したと報じられていた)
* {{仮リンク|ヘンリー・B・ハリス|en|Henry B. Harris}}(一等客。アメリカの劇場所有者、演劇プロデューサー)
* [[ジャック・フットレル]](一等客。アメリカの小説家)
* {{仮リンク|チャールズ・メルヴィル・ヘイズ|en|Charles Melville Hays}}(一等客。アメリカの実業家。{{仮リンク|グランド・トランク鉄道|en|Grand Trunk Railway}}社長)
* [[ワシントン・オーガストス・ローブリング二世]](一等客。アメリカの土木技術者・[[ワシントン・ローブリング]]の甥)
* [[ジョージ・ダントン・ワイドナー]](一等客。アメリカの実業家。[[フィラデルフィア]]の路面電車王)
* [[ハリー・エルキンズ・ワイドナー]](一等客。ジョージの息子。図書収集家)
*[[アン・エリザベス・アイシャム]](一等客。犠牲となった一等船客の5人の女性のうちの1人。愛犬を見捨てることが出来ず、沈みゆく船内に留まり亡くなったと伝えられている)
*[[フランシス・デーヴィス・ミレー]](一等客。アメリカの画家)
*[[デュアン・ウィリアムズ]](一等客。リチャード・ノリス・ウィリアムズの父親。アメリカの弁護士)
*[[エドワード・オースティン・ケント]](一等客。アメリカの建築家。女性や子供が救命ボートに乗るのを助け、犠牲となった)
*[[ジョージ・ヘンリー・ライト]](一等客。カナダの実業家)
=== 生存者 ===
最後の生存者が2009年に死去しており、以下の人物は全員故人である。
[[File:Mollybrown.jpg|thumb|150px|“不沈の女”[[マーガレット・ブラウン|モリー・ブラウン]]]]
[[ファイル:J. Bruce Ismay.jpeg|thumb|150px|[[ホワイト・スター・ライン]]社長[[ジョセフ・ブルース・イズメイ|ブルース・イズメイ]]]]
* [[リリアン・アスプランド]](三等客。当時5歳。事故の記憶のある最後の生存者で、最後のアメリカ人生存者。[[2006年]]没)
* [[ローザ・アボット]](三等客。海中に転落したが、生還を果たした。[[1946年]]没)
* [[ジョセフ・ブルース・イズメイ]](一等客。[[ホワイト・スター・ライン]]社長。ほかの乗客を差し置いて自らは生き延びたことから、のちに非難を浴びて社長を辞任した。[[1937年]]没)
* [[カール・ベア]](一等客。テニスプレーヤー。この事件後、試合で下記のウィリアムズと対戦して勝利している。のち、弁護士や銀行員として働いた。[[1949年]]没)
* [[リチャード・ノリス・ウィリアムズ]](一等客。テニスプレーヤー。事故後の1924年のパリオリンピックで混合ダブルスの金メダルを獲得した。[[1968年]]没)
* [[ドロシー・ギブソン]](一等客。アメリカの映画女優。事故から1か月後に公開された『[[Saved from the Titanic]]』に、自ら脚本を執筆して主演した。1946年没)
* [[ミニー・クーツ]](三等客。ジェームズ・ムーディの行為により2人の息子とともに生還した)
* [[アーチボルド・グレーシー4世]](一等客。アメリカのアマチュア戦史研究家、資産家。[[1912年]]没)
* [[フレデリック・キンバー・スワード]](一等客。アメリカの弁護士。[[1943年]]没)
* {{仮リンク|ジャック・セイヤー|en|Jack Thayer}}(一等客。ジョン・セイヤーの息子。当時16歳、救命艇で母と弟の2人と再会を果たした。[[1945年]]没)
* {{仮リンク|バーバラ・ウェスト|label=バーバラ・ウェスト・ダニントン|en|Barbara West}}(二等客。当時11か月。最後から2番目の生存者。[[2007年]]没)
* 第5代[[ダフ=ゴードン準男爵|準男爵]][[コズモ・ダフ=ゴードン (第5代準男爵)|コズモ・ダフ=ゴードン]](一等客。スコットランドの地主。[[1931年]]没)
* [[ルーシー・ダフ=ゴードン]](コズモ・ダフ=ゴードンの妻。上流階級向けファッションクラブ「ルシール」オーナー。「マダム・ルシール」と呼ばれた。[[1935年]]没)
* [[ミルヴィナ・ディーン]](三等客。当時生後9週間。最年少の乗船者。最後の生存者。[[2009年]]没)
* [[ミシェル・ナヴラティル]](二等客。当時3歳。彼と弟のエドモンは「タイタニックの孤児」と呼ばれて広く知られた。最後の男性生存者。[[2001年]]没)
* {{仮リンク|エヴァ・ハート|en|Eva Hart}}(二等客。当時7歳。[[1996年]]没)
* [[マーガレット・ブラウン|マーガレット・ブラウン(モリー・ブラウン)]](一等客。コロラド州の実業家の妻。1997年の映画『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』では[[キャシー・ベイツ]]が、『[[:en:The Unsinkable Molly Brown (film)|不沈のモリー・ブラウン(1964年の映画)]]』では[[デビー・レイノルズ]]が同夫人を演じた。[[1932年]]没)
* {{仮リンク|ダニエル・バックリー|en|Daniel Buckley}}(三等客。女物の[[ショール]]をかぶってボートに乗り込み生還した。[[1918年]]没)
* [[ルース・ベッカー]](二等客。当時13歳。[[1990年]]没)
* [[細野正文]](二等客。唯一の[[日本人]]乗客。[[鉄道院]]副参事。鉄道院副参事はおおむね現在の[[国土交通省]][[大臣官房]][[技術参事官]]にあたる役職。音楽家・[[細野晴臣]]の祖父である。[[1939年]]没)
* [[マウリッツ・ホーカン・ビョルンストロム=ステファンソン]](一等客。[[スウェーデン]]の[[実業家]]。[[1913年]]初頭、タイタニック号を運用していた[[ホワイト・スター・ライン]]社に対して巨額の賠償請求をした。[[1962年]]没)
* [[ロシズ伯爵|ロシズ伯爵夫人]][[ノエル・レズリー (ロシズ伯爵夫人)|ノエル・レズリー]](一等客。第19代[[ロシズ伯爵]]{{仮リンク|ノーマン・レズリー (第19代ロシズ伯爵)|label=ノーマン・レズリー|en|Norman Leslie, 19th Earl of Rothes}}の夫人。1956年没)
== 各界の反応 ==
=== メジャーリーグベースボール ===
1912年4月21日、[[メジャーリーグベースボール]](MLB)の[[ニューヨーク・ヤンキース|ニューヨーク・ハイランダーズ]]と[[ボストン・レッドソックス]]は、亡くなった乗客の遺族たちのために[[ポロ・グラウンズ]]で慈善試合を開催した<ref>{{Cite book|author=[[佐山和夫]]|title=野球の英語A to Z:佐山和夫が語るアメリカ野球用語|publisher=[[三修社]]|page=40|isbn=978-4384051773}}</ref>。
== タイタニックを題材にした作品 ==
タイタニックをめぐって、多くの作品が発表されている。おもな作品は、次のとおりである。
=== ドキュメンタリー ===
* [[衝撃の瞬間]]4 第2回 『タイタニック沈没事故 "TITANIC" (タイタニック)』([[ナショナルジオグラフィック (テレビチャンネル)|ナショナル・ジオグラフィック]]) : 結論に至るまでの過程で、陰謀論に関して反証を行っている。
* [[失われた世界の謎]] 第11回 『タイタニック建造の謎』([[ヒストリーチャンネル]])
* [[ジェームズ・キャメロンのタイタニックの秘密]]
* タイタニック 新たな真実 (原題:[[TITANIC:THE NEW EVIDENCE]])
=== タイタニック沈没事故が主題の作品 ===
* [[タイタニック (映画)]]
: タイタニック号をモチーフにした複数の映画の項目
* 運命のSOS([http://www.aozora.gr.jp/cards/000304/card46473.html 青空文庫])
: [[牧逸馬]]([[長谷川海太郎]])のノンフィクションで、船体や無線、危機対応などの問題点も述べられているが、創作めいた面も多い。
* [[タイタニック沈没]]
: [[ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー]]の長編詩。
* [[レイズ・ザ・タイタニック]]
: [[クライブ・カッスラー]]の[[ダーク・ピット]]シリーズの小説。邦題は「タイタニックを引き揚げろ」で、沈んだタイタニックに積まれた[[希少金属]]をめぐって暗闘するという話。ただし、海底調査以前の作品のため、同作中におけるタイタニックの描写は実際の状態とは異なる。
: のちに映画化されたが、[[第1回ゴールデンラズベリー賞|第1回]][[ゴールデンラズベリー賞]]の最低映画賞にノミネートされ、原作者や批評家から酷評されるなどその評価は高いものではない。
* [[タイタニック号の殺人]]
: [[マックス・アラン・コリンズ]]による[[推理小説]]。タイタニック号に乗船していた実在の[[推理作家]][[ジャック・フットレル]]を主人公に、タイタニック号で発生した密室殺人と、タイタニック沈没にまつわる謎が、並行して描かれている。
* [[吹奏楽曲]][[マードックからの最後の手紙]](作曲:[[樽屋雅徳]])
: タイタニック号の出港から沈没までをマードック一等航海士からの手紙という設定で作曲。
* [[タイタニック (ミュージカル)]]
=== タイタニック沈没事故を伏線・モデルとして扱った作品 ===
* [[ゴーストバスターズ2]]
: 幽霊船として1シーンだけ登場。港で乗客の幽霊が下船してくる。
* [[タイムトンネル]]
: アメリカのSFテレビドラマシリーズ。第1話で主人公が過去に移動したところ沈没寸前のタイタニック号の甲板であった。
* 時の旅人 -
: [[ジャック・フィニー]]の小説。1995年出版。
* [[マジック・ツリーハウス]]
: アメリカの児童向け小説。日本語版第9巻で、「タイムトンネル」同様、過去に移動して沈没に遭遇。
* [[ルパン三世 燃えよ斬鉄剣]]
: 『[[ルパン三世]]』のTVスペシャル第6作。作中では[[ルパン三世 (架空の人物)|ルパン三世]]の祖父、[[アルセーヌ・ルパン|ルパン一世]]がタイタニック号に積まれた龍の置物を盗もうとしていたが、沈没事故で置物がタイタニック号とともに海底に沈んでおり、作中中盤でルパンと[[次元大介]]が潜水艇で沈没したタイタニック号に向かう。この作品の歴史では龍の置物をアメリカに売り込もうとした黒幕の曽祖父が犠牲者、その龍の置物を狙って乗船していたルパン一世が生還者の一人に含まれている設定となっている。
* [[ドクター・フー]]
: イギリスのBBCのSFドラマ。シリーズ4のクリスマススペシャルで、実際のタイタニック号の事件を題材として宇宙船タイタニック号(名称の由来は「地球で一番有名な豪華客船」であることから)が舞台となっている。陰謀説やブルーリボン説をほのめかす描写や、衝突当時船長は休息をとっていたことなどが再現されている。あくまでパロディである。シリーズ1では主人公である[[9代目ドクター]]がタイタニック号に搭乗する予定だった家族と写真撮影をし、その家族が出航に遅れたため氷山衝突を回避したという話がある。シリーズ6では[[エイミー・ポンド]]の友人メルスが「タイタニックが沈んだのはドクターのせい」と発言している。
* [[銀河ヒッチハイク・ガイド]]
: [[ダグラス・アダムス]]の[[SF小説]]および[[ラジオドラマ]]。第3巻「宇宙クリケット大戦争」で、かつて巨大宇宙船タイタニック号が、搭載した[[銀河ヒッチハイク・ガイド#無限不可能性ドライブ|不可能性フィールド]]の作用で理由のない遭難を遂げたことが語られている。しかし、このエピソードは話の大筋には一切関係しない。
* [[ドラキュラ城の血闘]]
: [[ハービー・ブレナン|J・H・ブレナン]]の[[ゲームブック]]。吸血鬼ドラキュラを倒した主人公が、エンディングで乗船の招待状を受け取る。招待主は「Dr.Acura」(つまりドラキュラ)となっており、その後の主人公の運命は定かではない。
* [[曲った蝶番]]
: [[ディクスン・カー]]の[[推理小説]]。作品中、この沈没事故の際に入れ替わったとされる人物に対し、自分こそが本物と名乗る人物が現れ、その真偽を争うなか、偽者と糾弾された人物が何者かに殺害される。
* [[黒執事]]
: [[枢やな]]の漫画(『月刊Gファンタジー』・スクウェア・エニック刊)。11巻から14巻の豪華客船編で主人公たちが乗った豪華客船・カンパニア号のモデル。前半は『[[バイオハザード (ゲーム)|バイオハザード]]』のような展開だが、後半の氷山に激突して沈没する展開はタイタニック事故そのものであり、処女航海の時期も類似している。一方で沈没の過程はタイタニックとは異なり、船尾から船首の順に沈没している。
* [[銀河鉄道の夜]]
:[[宮沢賢治]]の童話。銀河鉄道に乗ってくる乗客のうち、家庭教師と二人の少女が「乗っていた客船が氷山にぶつかって沈んだ」と説明している。ただし、この客船が航行していたのはタイタニック号が沈んだ大西洋ではなく、太平洋である。
* [[タイタニック2012]]
: [[アサイラム (映画会社)|アサイラム]]による映画。タイタニック遭難から100年後の2012年に就役した豪華客船タイタニック2号が、再び大西洋上で巨大氷山に衝突し沈没する。
* [[天を見つめて地の底で]]
: [[高橋美由紀 (漫画家)|高橋美由紀]]による漫画。番外編「果てしなき航海」という副題がつけられ、堕天使・本條聖が英国にいたころ、魔王ルシフェルから匿ってくれたウィルカックス男爵が殺されたことを知って復讐に時間を浪費したため、男爵が可愛がっていた少年ウィリアムがルシフェルにより殺人犯に仕立て上げられてしまう。聖はそんなウィリアムをアメリカに行かせようとするが、手配した船はタイタニック号だったことでウィリアムは男爵の知人であるチャールズ・ロングフォード侯爵とともに氷海に沈み亡くなる。
* [[ビットワールド]]
: 子ども向けのバラエティ番組。ビットワールドからジャッキーホールを通ってリアルワールド(現実世界)へ到達した生物をビーボと呼称するが、その中に鯛タニックという巨大なビーボが登場する。[[鯛]]の上に客船が乗ったような姿をしている。全長は300メートル、体重は5万トンに及ぶ。
* [[ザ・ドラえもんズ スペシャル]]
: [[宮崎まさる]]・[[三谷幸広]]の漫画作品。単行本第7巻収録「伝説の豪華客船」のエピソードがタイタニック号の沈没を題材とした内容となっている。
* [[名探偵コナン 水平線上の陰謀]]
: 『[[名探偵コナン (アニメ)#劇場版シリーズ|名探偵コナン]]』の劇場版第9作。冒頭で15年前に起きた、[[貨物船]]の氷山衝突事故が描かれた。氷山にぶつかった貨物船内のエンジンルームなどが大爆発し、船長とクルーのひとりが犠牲になってしまったという事件の幕開けとなる重要なシーンとなった。
* [[週刊ストーリーランド|天使の輪がみえる]]
: 『[[週刊ストーリーランド]]』内で放映されたアニメ。寿命が近い人間の頭上に天使の輪が見えるようになったギャングの青年。ある日自分の頭上にも天使の輪が見えるようになり必死に生き延びようと逃げて船に乗り込む。しかしその船の乗客ほぼ全員に天使の輪があり、実はその船はタイタニック号だったという結末。
=== 音楽 ===
* タイタニック(ファルコの曲)
: [[ファルコ (ミュージシャン)|ファルコ]]
* [[RAINBOW RAINBOW]]
: [[TM NETWORK]]の1stアルバム。5曲目「クリストファー」の歌詞にタイタニック号にちなんだ歌詞がある。
* [[テンペスト (アルバム)]]
: [[ボブ・ディラン]]の曲、同名のアルバムの表題曲。タイタニック号の沈没を描いている。
*『[[タイタニック号の沈没]](The Sinking of the Titanic)』
: 別題『タイタニック号(The Titanic)』。[[1924年]]に[[カントリー・ミュージック|カントリー]]歌手の{{仮リンク|アーネスト・ストーンマン|en|Ernest Stoneman}}の歌で吹き込まれ、その後ヒットした曲。
*『タイタニック号の沈没(The Sinking of the Titanic)
: [[ギャヴィン・ブライヤーズ]]作曲。一番初頭は[[1969年]]に[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]の[[美術]][[学生]]のために書かれたもの。ブライヤーズにとっての[[ライフワーク]]("Work in Progress"、常に進行中の作品)ともなり、今まで少なくとも 3回[[録音]]されている(最初の録音は[[1975年]]に[[オブスキュア・レーベル]]の[[シリーズ (作品)|シリーズ]]第一作として発表された)。
* [[マードックからの最後の手紙]] [[樽屋雅徳]]作曲
[[吹奏楽]]の名曲でありフルートソロなどで知られている。
[[玉名女子高等学校]]の演奏により特別版や2021年版などが作られている。
=== ゲーム ===
* [[タイタニックミステリー|タイタニックミステリー 蒼の戦慄]]
: [[学研ホールディングス|学研]] 1987年発売、架空のタイタニック号引き上げプロジェクトをテーマにした[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]]用[[アドベンチャーゲーム]]。
* [[サイレントメビウス]] CASE:TITANIC
: 東京上空に出現したタイタニック号を舞台にした[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]用アドベンチャーゲーム。
* [[Titanic VR]]
:VRデバイスを用いたタイタニック号の探索ゲーム。[[Steam]]で配信されている。
* '''Roblox Titanic'''
バーチャルゲーミングプラットフォーム[[Roblox]]上で公開されているタイタニック号の探索,脱出ゲーム。アルカディア号や沈没したあとのタイタニック号を探索する潜水艦なども登場することがある。ほかにもRoblox上では多くのタイタニック号に関係するゲームが存在する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*『タイタニック号の最期(原題:{{仮リンク|忘れえぬ夜 (本)|label=忘れえぬ夜|en|A Night to Remember (book)}} (A Night to Remember) )』{{仮リンク|ウォルター・ロード|en|Walter Lord}}著 [[佐藤亮一 (翻訳家)|佐藤亮一]]訳 タイタニックに関する決定的なノンフィクションであるとされる。
*{{Cite book|和書|last=バトラー| first=ダニエル・アレン|translator=[[大地舜]]|year=1998|title=不沈 タイタニック 悲劇までの全記録|publisher=[[実業之日本社]]|isbn=978-4408320687|ref=harv}} 悲劇の詳細を膨大な資料をもとに再現したノンフィクション
*『タイタニックは沈められた』(ロビン・ガーディナー、ダン・ヴァンダー・ヴァット)
*『なぜタイタニックは沈められたのか』(ロビン・ガーディナー)
*『タイタニック発見([[The Discovery of The Titanic]])』(ロバート・バラード)
*『海の奇談』([[庄司浅水]]) この中の巨船「タイタニック」号の遭難の項で、細野正文のことにも言及しさらに船の乗組員が助かったことに関し、ロビン・ガーディナーと似通った指摘と考察を述べている。
* [[広瀬隆]]は『赤い楯』をはじめ、タイタニックと[[ロスチャイルド家]]、モルガン[[財閥]]との関係の書籍を多く出している。
== 関連項目 ==
{{Portal クルーズ}}
* [[タイタニック号沈没事故]]
* [[海難事故]]
* [[カルパチア (客船)]]
* [[オリンピック級客船]]([[オリンピック (客船)|オリンピック]]・[[ブリタニック (客船・2代)|ブリタニック]])
* [[蒸気船]][[:en:SS Great Britain|SS Great Britain|グレート・ブリテン号]]
* [[エンサイクロペディア・タイタニカ]]
* [[ハロモナス・ティタニカエ]] - タイタニック号の残骸から発見された新種の真正細菌。
* [[ルノー]]35CV - 積み荷として1台だけ乗っていた自動車。
* [[河口湖オルゴールの森|河口湖音楽と森の美術館]] - 本船用に製造されたが搭載されず難を逃れた[[オーケストリオン]]が収蔵されている。
* [[水中文化遺産保護条約]]
* [[潜水艇タイタン沈没事故]]
== 外部リンク ==
{{Commons|RMS Titanic}}
{{Wikisourcelang|en|Portal:RMS Titanic|タイタニック (客船)}}
* [https://www.nationalarchives.gov.uk/titanic/ Titanic]{{en icon}} - [[英国国立公文書館]]
* {{失敗知識データベース|CA0000216|タイタニック号沈没事故}}
* [http://www.titanic.com/ Titanic.com]{{en icon}}
* [http://www.encyclopedia-titanica.org/ Encyclopedia Titanica]{{en icon}}
* [http://www.titanicjp.com/ タイタニックのクルーたち]
* [https://www.cleandenpa.net/museum/gaku/cont/vol3/vol3_2.htm 第1回万国無線電信会議] - 復元されたタイタニックの遭難モールス信号
{{タイタニック}}
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[[Category:タイタニック|*]]
[[Category:大西洋の歴史]] | 2003-03-06T06:41:58Z | 2023-12-23T15:28:39Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF_(%E5%AE%A2%E8%88%B9) |
3,497 | 菊池寛 | 菊地 寛(きくち ひろし、旧字体: 菊地 寬、1888年〈明治21年〉12月26日 - 1948年〈昭和23年〉3月6日)は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリスト。本名:菊地 寛(きくち かん)。実業家としても文藝春秋社を興し、芥川賞、直木賞、菊池寛賞の創設に携わった。帝国芸術院会員。
生家は高松藩の儒学者の家柄。幼少期より旺盛な読書家であった。京大英文科卒。芥川龍之介などの『新思潮』に参加。
著作に『屋上の狂人』(1916年)、『父帰る』(1917年)などの戯曲のほか、『忠直卿行状記』(1918年)、『藤十郎の恋』(1919年)(のち脚色)などの小説がある。人生観や思想を基盤とした明快な主題を打ち出した、いわゆるテーマ小説が特徴である。『真珠夫人』(1920年)のヒット後は通俗小説で健筆を揮った。
香川県香川郡高松七番丁六番戸の一(現・高松市天神前4番地)で7人兄弟の四男として生まれる。菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄で、日本漢詩壇に名をはせた菊池五山は、寛の縁戚に当たる。しかし、寛の生まれたころ家は没落し、父親は小学校の庶務係をしていた。高松市四番丁尋常小学校を経て高松市高松高等小学校に進学。しかし家が貧しかったため、高等小学3年生の時は教科書を買ってもらえず、友人から教科書を借りて書き写したりもした。このころ、「文芸俱楽部」を愛読し、幸田露伴、尾崎紅葉、泉鏡花の作品に親しむ。
1903年(明治36年)高松中学校に入学。寛は記憶力が良く、特に英語が得意で、外国人教師と対等に英会話ができるほどだった。図画や習字は苦手だったが一念発起して勉強に取り組み4年の時に全校で首席になった。中学3年の時、高松に初めて図書館ができるとここに通って本を読み耽り、2万冊の蔵書のうち、歴史や文学関係など興味のあるものはすべて借りたという。
中学を卒業した後、成績優秀により学費免除で東京高等師範学校へ進んだものの本人は教師になる気がなく、授業を受けずテニスや芝居見物をしていたのが原因で除籍処分を受けた。地元の素封家の高橋清六から将来を見込まれて養子縁組をして経済支援を受け、明治大学法科に入学するも3か月で退学。徴兵逃れを目的として早稲田大学に籍のみ置く。文学の道を志し第一高等学校受験の準備をする。これが養父に発覚し、縁組は解消。進学が危ぶまれたが、実家の父親が借金してでも学費を送金すると言ってきたことで道が開ける。
1910年(明治43年)、第一高等学校第一部乙類に22歳で入学。同期入学には後に親友となり彼が創設する文学賞に名を冠する芥川龍之介、久米正雄、井川恭(後の法学者恒藤恭)がいた。しかし卒業直前に、盗品と知らずマントを質入れする「マント事件」が原因となり退学。その後、友人・成瀬正一の実家から援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず選科に学ぶことを余儀なくされた。本来は一高の友人ら同じく東京帝国大学に進みたかったが、上田萬年の拒絶のため叶うことはなかった。京大選科の時に『萬朝報』の懸賞に応募した短編小説「禁断の木の実」が当選。翌年旧制高等学校の卒業資格検定試験に合格し本科に移る。
この京大時代では文科大学(文学部)教授となっていた上田敏に師事した。当時の失意の日々については(フィクションを交えているが)「無名作家の日記」に詳しい。1人京都の地で孤独や焦燥の日々の中、ジョン・ミリントン・シングなどのアイルランド戯曲を読破する。東京にいる芥川、久米らの好意により第三次『新思潮』創刊同人となり、菊池比呂士、草田杜太郎の筆名で戯曲を発表する。卒業を間近にひかえた1916年(大正5年)5月、第四次『新思潮』では本名の菊池寛の名で「屋上の狂人」を発表。
1916年(大正5年)7月、京大卒業。卒業論文は「英国及愛蘭土の近代劇」。上京して、芥川、久米と夏目漱石の木曜会に出席する。成瀬家の縁故で時事新報社会部記者となり、月給25円のうち10円を毎月実家に送金する。また第四次『新思潮』に「父帰る」を発表するも、特に反響はなかった。
寛は生活のため資産家の娘と結婚することを考え、郷里に相談。1917年(大正6年)、高松藩の旧・藩士奥村家出身の奥村包子(かねこ)と結婚。1918年(大正7年)、『中央公論』に発表した「無名作家の日記」や「忠直卿行状記」が高評価され文壇での地歩を築いた。1919年(大正8年)、『中央公論』に「恩讐の彼方に」を発表。時事新報を退社し、執筆活動に専念する。翌年大阪毎日新聞・東京毎日新聞に連載した大衆小説「真珠夫人」が大評判となり、一躍人気作家となった。
1923年(大正12年)1月、人気作家となった寛は若い作家のために雑誌『文藝春秋』を創刊する。発行編集兼印刷人は菊地寛、発売元は春陽堂、定価は10銭で、『中央公論』が特価1円、『新潮』が80銭の時代に破格の安さだった。巻頭を飾ったのは芥川龍之介のエッセイコラム「侏儒の言葉」。創刊号3000部はまたたくまに売り切れ、次号も売り上げを伸ばし、「特別創作号」を銘打った5号は1万1千部の売り上げとなった。1926年(大正15年、昭和元年)から春陽堂を離れて「文藝春秋社」として独立し『文藝春秋』は総合雑誌となる。初期の編集部に石井桃子、桔梗利一らがいる。また大衆作家として、婦人雑誌や新聞に多くの小説を発表していたが、1927年(昭和2年)7月25日、芥川龍之介が自殺。葬儀では友人代表として弔辞を読み上げたが、読む半ばから涙が止まらなかった。 1935年(昭和10年)、新人作家を顕彰する「芥川龍之介賞」「直木三十五賞」を創設した際には11人の選考委員の1人となった。1926年(大正15年)日本文藝家協会を設立。
1925年(大正14年)、文化学院文学部長就任。1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。しかし1937年(昭和12年)には、東京市会議員に当選した。
言論の自由を何よりも重んじた菊池は、「左傾にしろ、右傾にしろ、独裁主義の国家は、我々人類のために、決して住みよい国ではない」と主張し、政治家として、「反資本、反共産、反ファッショの三反主義」を掲げる穏健派の社会主義の社会民衆党で活動した。
1938年(昭和13年)、内閣情報部は日本文藝家協会会長の寛に作家を動員して従軍(ペン部隊)するよう命令。寛は希望者を募り、吉川英治、小島政二郎、浜本浩、北村小松、吉屋信子、久米正雄、佐藤春夫、富沢有為男、尾崎士郎、滝井孝作、長谷川伸、土師清二、甲賀三郎、関口次郎、丹羽文雄、岸田國士、湊邦三、中谷孝雄、浅野彬、中村武羅夫、佐藤惣之助総勢22人で大陸へ渡り、揚子江作戦を視察。翌年は南京、徐州方面を視察。帰国した寛は「事変中は国家から頼まれたことはなんでもやる」と宣言し、「文芸銃後運動」をはじめる。これは作家たちが昼間は全国各地の陸海軍病院に慰問し、夜は講演会を開くというもので、好評を博し、北は樺太、南は台湾まで各地を回った。1942年(昭和17年)、日本文学報国会が設立されると議長となり、文芸家協会を解散。翌年、映画会社「大映」の社長に就任、国策映画作りにも奮迅する。
終戦後の1947年(昭和22年)、GHQから寛に公職追放の指令が下される。日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由だった。寛は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤った。その年の暮れには横光利一が死去。翌年1948年(昭和23年)1月、苦難を共にした、元文藝春秋社専務の鈴木氏亨が急逝。気力の衰えた寛は、2月に胃腸障害で寝込む。回復すると3月6日に近親者や主治医を雑司が谷の自宅に集め、全快祝いを行ったが、好物の寿司などを食べたあと、2階へ上がったとたん狭心症を起こし、午後9時15分、急死。享年59歳。息子を呼ぶ「英樹、英樹」が最期の言葉だった。その際、夫人の手を握りしめていたという。
告別式は音羽の護国寺で行われた。葬儀委員長は久米正雄。参列者7千人の中には当時首相だった芦田均もいた。家族が発見した寛の遺書が当日公表された。
高松市菊池寛記念館から『菊地寛全集』(全24巻、1993年-1995年)が、また、武蔵野書房から『菊地寛全集補巻』(全5巻、1999年-2003年)が刊行されており、ほぼすべての作品を比較的容易に鑑賞することが可能である。文春文庫と岩波文庫で諸作品が刊行されている。また、未知谷から『歴史随想』と『剣聖武蔵伝』が刊行されている。
※「少女倶楽部」連載の長編小説について扱う。
「珠を争う」が、「ふたりの女王」永見七郎作/ 江川みさお絵というタイトルの再話で、雑誌「少女」昭和29年11月号の付録書籍「少女小説名作全集」に収録 「輝ける道」が、「父かえる日まで」永見七郎作/糸賀君子絵というタイトルの再話で、雑誌「少女」昭和30年新年号の付録書籍「少女小説名作全集」に収録
「きくちかん」をアナグラムにすると「くちきかん」(口利かん)となる。このアナグラムは菊池の生前から、彼の交友の内外で同時多発的に話された記録がある。
永井荷風は人の好悪の激しい作家だが、とりわけ菊池寛のことを非常に嫌悪し、自身が38歳から79歳の死の前日まで42年間にわたり付けていた日記『断腸亭日乗』の中には、菊池への罵詈雑言の叙述がところどころに見受けられる。荷風は菊池の噂を聞くと必ずといっていいほど罵倒の言葉を綴っては、出版界のほか社会の世相悪化の原因までも菊池のせいにして書き殴っていた。
荷風が菊地を嫌うようになった原因については、はっきりしたことは判明してはいないが、菊地が自身の先祖の菊地五山の名を、荷風から悉く菊池五山と書き間違えられた不快感を1924年(大正13年)3月の『文藝春秋』誌上で表明して以降、荷風の日記上に菊池への罵詈雑言が始まっているため、それがきっかけでないかと言われている。
菊地はその随筆「自分の名前」の中で、常に博識を自認し現代人の無学無文を嘲っている荷風先生にして「肝心の人の姓名を誤書するに至つては、沙汰の限り」と述べ、「難しさうな詩句などを引用するのも、非常に結構だが、それよりも前に、人の名前位は、正確に書いてもいいだらう」と忠言していた。
荷風はそれ以降、菊池が面会を希望しても断って「交を訂すべき人物にあらず」(交流するような人物ではない)と記したり、また別の日の日記では、他の雑誌社の人物が荷風に寄稿を依頼する際しきりに「礼金」のことを話して荷風が固持しても机の上に金を置いていったことを、文人に向ってあたかも材木屋に材木を注文するような「悪風」だと書き連ねながら、その編集者は「敢て咎むべきにはあらず」、「悪むべきは菊池寛の如き売文専業の徒のなす所なり」と、いきなり菊池批判に繋げたり、1930年(昭和5年)の正月には、菊池と文藝春秋から来た年賀状を受け取らずにわざわざ返送したりもしていた。
麻雀、競馬、将棋に熱中していたことで知られた。
しかし、勝敗の数は別として、その一手一手について最善なる打牌を行う人は結局名手と云はなければならない、公算を基礎とし、最もプロバビリティの多い道を撰んで定牌に達し得る人は名手上手と云へよう、しかしさうした公算に九分まで、準據ししかも最後の一部に於て運気を洞算し、公算を無視し、大役を成就するところは麻雀道の玄妙が存在してゐるのかも知れない。 | [
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"text": "終戦後の1947年(昭和22年)、GHQから寛に公職追放の指令が下される。日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由だった。寛は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤った。その年の暮れには横光利一が死去。翌年1948年(昭和23年)1月、苦難を共にした、元文藝春秋社専務の鈴木氏亨が急逝。気力の衰えた寛は、2月に胃腸障害で寝込む。回復すると3月6日に近親者や主治医を雑司が谷の自宅に集め、全快祝いを行ったが、好物の寿司などを食べたあと、2階へ上がったとたん狭心症を起こし、午後9時15分、急死。享年59歳。息子を呼ぶ「英樹、英樹」が最期の言葉だった。その際、夫人の手を握りしめていたという。",
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"text": "告別式は音羽の護国寺で行われた。葬儀委員長は久米正雄。参列者7千人の中には当時首相だった芦田均もいた。家族が発見した寛の遺書が当日公表された。",
"title": "経歴"
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"text": "高松市菊池寛記念館から『菊地寛全集』(全24巻、1993年-1995年)が、また、武蔵野書房から『菊地寛全集補巻』(全5巻、1999年-2003年)が刊行されており、ほぼすべての作品を比較的容易に鑑賞することが可能である。文春文庫と岩波文庫で諸作品が刊行されている。また、未知谷から『歴史随想』と『剣聖武蔵伝』が刊行されている。",
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"text": "※「少女倶楽部」連載の長編小説について扱う。",
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"text": "「珠を争う」が、「ふたりの女王」永見七郎作/ 江川みさお絵というタイトルの再話で、雑誌「少女」昭和29年11月号の付録書籍「少女小説名作全集」に収録 「輝ける道」が、「父かえる日まで」永見七郎作/糸賀君子絵というタイトルの再話で、雑誌「少女」昭和30年新年号の付録書籍「少女小説名作全集」に収録",
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"text": "「きくちかん」をアナグラムにすると「くちきかん」(口利かん)となる。このアナグラムは菊池の生前から、彼の交友の内外で同時多発的に話された記録がある。",
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"text": "永井荷風は人の好悪の激しい作家だが、とりわけ菊池寛のことを非常に嫌悪し、自身が38歳から79歳の死の前日まで42年間にわたり付けていた日記『断腸亭日乗』の中には、菊池への罵詈雑言の叙述がところどころに見受けられる。荷風は菊池の噂を聞くと必ずといっていいほど罵倒の言葉を綴っては、出版界のほか社会の世相悪化の原因までも菊池のせいにして書き殴っていた。",
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"text": "荷風が菊地を嫌うようになった原因については、はっきりしたことは判明してはいないが、菊地が自身の先祖の菊地五山の名を、荷風から悉く菊池五山と書き間違えられた不快感を1924年(大正13年)3月の『文藝春秋』誌上で表明して以降、荷風の日記上に菊池への罵詈雑言が始まっているため、それがきっかけでないかと言われている。",
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"text": "菊地はその随筆「自分の名前」の中で、常に博識を自認し現代人の無学無文を嘲っている荷風先生にして「肝心の人の姓名を誤書するに至つては、沙汰の限り」と述べ、「難しさうな詩句などを引用するのも、非常に結構だが、それよりも前に、人の名前位は、正確に書いてもいいだらう」と忠言していた。",
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"text": "荷風はそれ以降、菊池が面会を希望しても断って「交を訂すべき人物にあらず」(交流するような人物ではない)と記したり、また別の日の日記では、他の雑誌社の人物が荷風に寄稿を依頼する際しきりに「礼金」のことを話して荷風が固持しても机の上に金を置いていったことを、文人に向ってあたかも材木屋に材木を注文するような「悪風」だと書き連ねながら、その編集者は「敢て咎むべきにはあらず」、「悪むべきは菊池寛の如き売文専業の徒のなす所なり」と、いきなり菊池批判に繋げたり、1930年(昭和5年)の正月には、菊池と文藝春秋から来た年賀状を受け取らずにわざわざ返送したりもしていた。",
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"text": "麻雀、競馬、将棋に熱中していたことで知られた。",
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"text": "しかし、勝敗の数は別として、その一手一手について最善なる打牌を行う人は結局名手と云はなければならない、公算を基礎とし、最もプロバビリティの多い道を撰んで定牌に達し得る人は名手上手と云へよう、しかしさうした公算に九分まで、準據ししかも最後の一部に於て運気を洞算し、公算を無視し、大役を成就するところは麻雀道の玄妙が存在してゐるのかも知れない。",
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] | 菊地 寛は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリスト。本名:菊地 寛。実業家としても文藝春秋社を興し、芥川賞、直木賞、菊池寛賞の創設に携わった。帝国芸術院会員。 生家は高松藩の儒学者の家柄。幼少期より旺盛な読書家であった。京大英文科卒。芥川龍之介などの『新思潮』に参加。 著作に『屋上の狂人』(1916年)、『父帰る』(1917年)などの戯曲のほか、『忠直卿行状記』(1918年)、『藤十郎の恋』(1919年)(のち脚色)などの小説がある。人生観や思想を基盤とした明快な主題を打ち出した、いわゆるテーマ小説が特徴である。『真珠夫人』(1920年)のヒット後は通俗小説で健筆を揮った。 | {{参照方法|date=2013年3月12日 (火) 21:20 (UTC)|ソートキー=人1948年没}}
{{Infobox 作家
| name = 菊池 寛<br />(きくち かん)
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| birth_name = 菊池 寛(きくち ひろし)
| birth_date = [[1888年]][[12月26日]]
| birth_place = {{JPN}}・[[香川県]][[香川郡]]高松七番丁六番戸の一(現・[[高松市]][[天神前]]4番地)
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| influenced = [[久米正雄]]、[[横光利一]]、[[川端康成]]<br />[[井上ひさし]]
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<!--| footnotes =-->
}}
'''菊池 寛'''(きくち かん、{{旧字体|'''菊池 寬'''}}、[[1888年]]〈[[明治]]21年〉[[12月26日]] - [[1948年]]〈[[昭和]]23年〉[[3月6日]])は、[[日本]]の[[小説家]]、[[劇作家]]、[[ジャーナリスト]]。本名:'''菊池 寛'''(きくち ひろし)。[[実業家]]としても[[文藝春秋|文藝春秋社]]を興し、[[芥川龍之介賞|芥川賞]]、[[直木三十五賞|直木賞]]、[[菊池寛賞]]の創設に携わった。[[帝国芸術院]]会員。
生家は[[高松藩]]の儒学者の家柄。幼少期より旺盛な読書家であった。京大英文科卒。芥川龍之介などの『[[新思潮]]』に参加。
著作に『[[屋上の狂人]]』(1916年)、『[[父帰る]]』(1917年)などの戯曲のほか、『忠直卿行状記』(1918年)、『藤十郎の恋』(1919年)(のち脚色)などの小説がある。人生観や思想を基盤とした明快な主題を打ち出した、いわゆるテーマ小説が特徴である。『[[真珠夫人]]』(1920年)のヒット後は通俗小説で健筆を揮った。
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[画像:Kikuchi Kan 1903.JPG|100px|thumb|15歳の菊池]]
[[香川県]][[香川郡]]高松七番丁六番戸の一(現・[[高松市]][[天神前]]4番地)で7人兄弟の四男として生まれる。菊池家は[[江戸時代]]、[[高松藩]]の[[儒学]]者の家柄で、日本漢詩壇に名をはせた[[菊池五山]]は、寛の縁戚に当たる。しかし、寛の生まれたころ家は没落し、父親は小学校の庶務係をしていた{{sfn|井上|1999|p=23}}。高松市四番丁尋常小学校を経て高松市高松高等小学校に進学。しかし家が貧しかったため、高等小学3年生の時は教科書を買ってもらえず、友人から教科書を借りて書き写したりもした。このころ、「[[文芸倶楽部|文芸俱楽部]]」を愛読し、[[幸田露伴]]、[[尾崎紅葉]]、[[泉鏡花]]の作品に親しむ{{sfn|井上|1999|p=24}}。
=== 学生時代 ===
1903年(明治36年)[[香川県立高松高等学校|高松中学校]]に入学。寛は記憶力が良く、特に英語が得意で、外国人教師と対等に英会話ができるほどだった。図画や習字は苦手だったが一念発起して勉強に取り組み4年の時に全校で首席になった。中学3年の時、高松に初めて図書館ができるとここに通って本を読み耽り、2万冊の蔵書のうち、歴史や文学関係など興味のあるものはすべて借りたという{{sfn|井上|1999|p=26-27}}。
中学を卒業した後、成績優秀により学費免除で[[東京高等師範学校]]へ進んだものの本人は教師になる気がなく、授業を受けずテニスや芝居見物をしていたのが原因で除籍処分を受けた{{sfn|井上|1999|p=28}}。地元の素封家の高橋清六から将来を見込まれて養子縁組をして経済支援を受け、[[明治大学]]法科に入学するも3か月で退学。[[兵役逃れ|徴兵逃れ]]を目的として[[早稲田大学]]に籍のみ置く。文学の道を志し[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]受験の準備をする。これが養父に発覚し、縁組は解消。進学が危ぶまれたが、実家の父親が借金してでも学費を送金すると言ってきたことで道が開ける{{sfn|井上|1999|p=7}}。
[[1910年]](明治43年)、第一高等学校第一部乙類に22歳で入学。同期入学には後に親友となり彼が創設する文学賞に名を冠する[[芥川龍之介]]、[[久米正雄]]、井川恭(後の法学者[[恒藤恭]])がいた。しかし卒業直前に、盗品と知らずマントを質入れする「[[マント事件]]」が原因となり退学<ref>{{Cite journal|和書|author=[[関口安義]] |year=2006 |title=反骨の教育家 : 評伝 長崎太郎 II |journal=都留文科大学研究紀要= 都留文科大学研究紀要 |publisher=都留文科大学 |volume=64 |pages=118-101 |doi=10.34356/00000185 |naid=110007055966 |url=https://doi.org/10.34356/00000185}}</ref><ref name="tojo">東條文規「菊池寛と図書館と佐野文夫」、『図書館という軌跡[https://books.google.co.jp/books?id=8S2btgqloHoC&pg=PA42&hl=ja&source=gbs_selected_pages&cad=2#v=onepage&q&f=false]』ポット出版、2009年、pp.335 - 354(初出は『香川県図書館学会会報』)</ref>。その後、友人・[[成瀬正一 (フランス文学者)|成瀬正一]]の実家から援助を受けて[[京都大学大学院文学研究科・文学部|京都帝国大学文学部]]英文学科に入学したものの、[[旧制高等学校|旧制高校]]卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず選科に学ぶことを余儀なくされた。本来は一高の友人ら同じく[[東京大学|東京帝国大学]]に進みたかったが、[[上田萬年]]の拒絶のため叶うことはなかった。京大選科の時に『[[萬朝報]]』の懸賞に応募した短編小説「禁断の木の実」が当選。翌年[[旧制高等学校]]の卒業資格検定試験に合格し本科に移る。
この京大時代では文科大学(文学部)教授となっていた[[上田敏]]に師事した。当時の失意の日々については(フィクションを交えているが)「無名作家の日記」に詳しい。1人京都の地で孤独や焦燥の日々の中、[[ジョン・ミリントン・シング]]などのアイルランド戯曲を読破する。東京にいる芥川、久米らの好意により第三次『[[新思潮]]』創刊同人となり、菊池比呂士、草田杜太郎の筆名で戯曲を発表する。卒業を間近にひかえた1916年(大正5年)5月、第四次『新思潮』では本名の菊池寛の名で「[[屋上の狂人]]」を発表。
=== 人気作家への道 ===
[[画像:Kikuchi Kan, Akutagawa Ryunosuke, and so on.jpg|240px|thumb|[[1919年]]、長崎にて。左から菊池、[[芥川龍之介]]、[[武藤長蔵]]、[[永見徳太郎]]]]
[[1916年]](大正5年)7月、京大卒業。卒業論文は「英国及愛蘭土の近代劇」。上京して、芥川、久米と[[夏目漱石]]の木曜会に出席する<ref>「漱石先生と我等」(「新思潮」漱石先生追慕号、大正6年3月)でその時の様子を好意的に記している。そこで彼も漱石門下と見られることもあるが、「半自叙伝(続)」では「私は昔から激石の作品は嫌いではないまでも、尊敬は出来なかった。同僚の芥川や久米が崇拝するのが、不思議でならなかった。芥川などは、本気であんなに認めていたのか訊いて見たかったくらいである」と述べており、師事していたとは言い難い。</ref>。成瀬家の縁故で[[時事新報]]社会部記者となり、月給25円のうち10円を毎月実家に送金する。また第四次『新思潮』に「[[父帰る]]」を発表するも、特に反響はなかった。
寛は生活のため資産家の娘と結婚することを考え、郷里に相談。[[1917年]]([[大正]]6年)、[[高松藩]]の旧・[[藩士]]奥村家出身の奥村包子(かねこ)と結婚。[[1918年]](大正7年)、『[[中央公論]]』に発表した「無名作家の日記」や「忠直卿行状記」が高評価され文壇での地歩を築いた。[[1919年]](大正8年)、『中央公論』に「[[恩讐の彼方に]]」を発表。時事新報を退社し、執筆活動に専念する。翌年大阪毎日新聞・東京毎日新聞に連載した大衆小説「[[真珠夫人]]」が大評判となり、一躍人気作家となった{{sfn|井上|1999|p=32-33}}。
=== 『文藝春秋』創刊 ===
[[1923年]](大正12年)1月、人気作家となった寛は若い作家のために雑誌『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』を創刊する。発行編集兼印刷人は菊池寛、発売元は春陽堂、定価は10銭で、『中央公論』が特価1円、『[[新潮]]』が80銭の時代に破格の安さだった。巻頭を飾ったのは芥川龍之介のエッセイコラム「[[侏儒の言葉]]」{{sfn|井上|1999|pp=38-40}}。創刊号3000部はまたたくまに売り切れ、次号も売り上げを伸ばし、「特別創作号」を銘打った5号は1万1千部の売り上げとなった{{sfn|井上|1999|pp=42-43}}。[[1926年]](大正15年、昭和元年)から春陽堂を離れて「文藝春秋社」として独立し『文藝春秋』は総合雑誌となる{{sfn|井上|1999|p=242}}。初期の編集部に[[石井桃子]]、[[桔梗利一]]らがいる。また大衆作家として、婦人雑誌や新聞に多くの小説を発表していたが、[[1927年]](昭和2年)7月25日、芥川龍之介が自殺。葬儀では友人代表として弔辞を読み上げたが、読む半ばから涙が止まらなかった{{sfn|井上|1999|pp=52-53}}<ref>谷中斎場で葬儀、霊前で慟哭した菊池寛『東京日日新聞』昭和2年7月28日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和元年-昭和3年』本編p5 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
[[1935年]](昭和10年)、新人作家を顕彰する「[[芥川龍之介賞]]」「[[直木三十五賞]]」を創設した際には11人の選考委員の1人となった{{refnest|group="注釈"|芥川龍之介賞の第一回は無名作家・石川達三の「蒼眠」『中外商業新報』1935年(昭和10年)8月11日。}}。[[1926年]](大正15年)[[日本文藝家協会]]を設立。
[[1925年]](大正14年)、[[文化学院]]文学部長就任。[[1928年]]([[昭和]]3年)、[[第16回衆議院議員総選挙]]に、[[東京]]1区から[[社会民衆党]]公認で立候補したが、落選した。しかし[[1937年]](昭和12年)には、[[東京都議会|東京市会]]議員に当選した。
言論の自由を何よりも重んじた菊池は、「左傾にしろ、右傾にしろ、独裁主義の国家は、我々人類のために、決して住みよい国ではない」と主張し<ref name="kuzu12">「話の屑籠」(文藝春秋 1937年3月号)。{{Harvnb|菊池・感想24|1995|pp=349-350}}に所収</ref>、政治家として、「反資本、反共産、反ファッショの三反主義」を掲げる穏健派の社会主義の社会民衆党で活動した<ref name="hayaken"> [[林健太郎]]「解説――時代の体現者・菊池寛」({{Harvnb|菊池・感想24|1995|pp=671-683}})</ref>。
{{Quotation|日本が数年来、反動的な右傾時代になつたに就いては、政党政治の堕落も、その一つの原因であるが、もう一つは共産主義者の妄動である。彼等は、日本に対する正当なる認識を欠き、自己の力量をも知らず、実現不可能な理想をふりかざして、社会不安を醸成したゝめに、却つて反動的勢力の擡頭に、口実を与へてしまつたのである。彼等の妄動のために、合理的な労働運動や、正当なプロレタリヤ解放運動までが、オヂヤンになつてしまつた。十年前までは、あんなに盛んであつた改造とか解放とか云ふ言葉が、今ではどこにも聞こえなくなつた。日本の社会改革運動は、合法的な社会民衆党的な主張に依つて、穏健に確実に行はるべきであつたのである。|菊池寛「話の屑籠」(昭和10年5月)<ref name="kuzu10">「話の屑籠」(文藝春秋 1935年5月号)。{{Harvnb|菊池・感想24|1995|pp=306-308}}に所収</ref>}}
=== 文士部隊 ===
[[File:Kan Kikuchi at China.jpg|thumb|300px|1939年、中国大陸で取材中の菊池(右から二人目)。翌年、菊池は[[西住小次郎]]の評伝を発表する。]]
[[1938年]](昭和13年)、内閣情報部は[[日本文藝家協会]]会長の寛に作家を動員して従軍(ペン部隊)するよう命令。寛は希望者を募り、[[吉川英治]]、[[小島政二郎]]、[[浜本浩]]、[[北村小松]]、[[吉屋信子]]、[[久米正雄]]、[[佐藤春夫]]、[[富沢有為男]]、[[尾崎士郎]]、[[滝井孝作]]、[[長谷川伸]]、[[土師清二]]、[[甲賀三郎 (作家)|甲賀三郎]]、[[関口次郎]]、[[丹羽文雄]]、[[岸田國士]]、[[湊邦三]]、[[中谷孝雄]]、[[浅野彬]]、[[中村武羅夫]]、[[佐藤惣之助]]総勢22人で大陸へ渡り、揚子江作戦を視察{{sfn|井上|1999|p=69}}。翌年は南京、徐州方面を視察。帰国した寛は「事変中は国家から頼まれたことはなんでもやる」と宣言し、「[[文芸銃後運動]]」をはじめる。これは作家たちが昼間は全国各地の陸海軍病院に慰問し、夜は講演会を開くというもので、好評を博し、北は樺太、南は台湾まで各地を回った{{sfn|井上|1999|p=70}}。[[1942年]](昭和17年)、[[日本文学報国会]]が設立されると議長となり、文芸家協会を解散。翌年、映画会社「[[大映]]」の社長に就任{{sfn|井上|1999|p=247}}、国策映画作りにも奮迅する{{sfn|井上|1999|p=76}}。
=== 公職追放、急死 ===
終戦後の[[1947年]](昭和22年)、[[GHQ]]から寛に[[公職追放]]の指令が下される。日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由だった。寛は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤った{{sfn|井上|1999|p=80}}。その年の暮れには[[横光利一]]が[[死亡|死去]]。翌年[[1948年]](昭和23年)1月、苦難を共にした、元文藝春秋社専務の[[鈴木氏亨]]が急逝。気力の衰えた寛は、2月に胃腸障害で寝込む。回復すると3月6日に近親者や主治医を[[雑司が谷]]の自宅に集め、全快祝いを行ったが、好物の[[寿司]]などを食べたあと、2階へ上がったとたん[[狭心症]]を起こし、午後9時15分、[[死亡|急死]]。[[享年]]59歳。息子を呼ぶ「英樹、英樹」が最期の言葉だった{{sfn|井上|1999|pp=82-84}}<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)9頁</ref><ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)114頁</ref>。その際、夫人の手を握りしめていたという<ref>『20世紀全記録 クロニック』[[小松左京]]、[[堺屋太一]]、[[立花隆]]企画委員。[[講談社]]、1987年9月21日、p.700</ref>。
告別式は音羽の[[護国寺]]で行われた。葬儀委員長は久米正雄。参列者7千人の中には当時首相だった[[芦田均]]もいた。家族が発見した寛の遺書が当日公表された。
{{Quotation|私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮しました。多幸だつたと思ひます。死去に際し、知友及び多年の読者各位にあつくお礼を申します。ただ国家の隆昌を祈るのみ。
|吉月吉日 菊池寛}}
== 栄典 ==
* [[1940年]](昭和15年)[[8月15日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|紀元二千六百年祝典記念章]]<ref>『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。</ref>
== 家族 ==
=== 両親・兄弟 ===
* 父親・武脩(たけなが)
* 母親・カツ
* 長姉・アイ
* 長兄・武吉
* 次姉・ナミ
* 次兄・良平
* 三兄・三八
* 妹・久仁
=== 妻子 ===
* 妻・包子(かねこ)
* 長女・瑠美子
* 長男・英樹
* 次女・ナナ子
== 主要作品 ==
[[高松市菊池寛記念館]]から『菊池寛全集』(全24巻、[[1993年]]-[[1995年]])が、また、[[武蔵野書房]]から『菊池寛全集補巻』(全5巻、[[1999年]]-[[2003年]])が刊行されており、ほぼすべての作品を比較的容易に鑑賞することが可能である。[[文春文庫]]と[[岩波文庫]]で諸作品が刊行されている。また、[[未知谷]]から『歴史随想』と『剣聖武蔵伝』が刊行されている。
=== 大衆小説・戯曲 ===
* [[屋上の狂人]]
* [[父帰る]]
* 無名作家の日記
* [[恩讐の彼方に]]
* [[藤十郎の恋]]
* [[真珠夫人]]
* [[受難華]]
* [[無憂華夫人]]
* [[貞操問答]]
* [[三人兄弟]]
* 葬式に行かぬ訳
* 下足番
* [[形 (小説)|形]] - 1966年より中学二年生、中学三年生の国語の教科書(光村出版)に採用されている。
* 入れ札
* [[慈悲心鳥]]
* 第二の接吻
* 火華
* 袈裟の良人 - 映画『[[地獄門]]』原作。
=== 伝記 ===
* [[松平忠直|忠直卿]]行状記
* 蘭学事始
* [[菊池千本槍]]シドニー特別攻撃隊
* 昭和の軍神 [[西住小次郎|西住戦車長]]伝
=== 少女小説 ===
※「[[少女クラブ|少女倶楽部]]」連載の長編小説について扱う。
* 心の王冠(1938年1月-1939年12月)
* 珠を争う(1940年1月-12月)
* 輝ける道(1941年1月-1942年3月)
「珠を争う」が、「ふたりの女王」永見七郎作/ 江川みさお絵というタイトルの再話で、雑誌「少女」昭和29年11月号の付録書籍「少女小説名作全集」に収録
「輝ける道」が、「父かえる日まで」永見七郎作/糸賀君子絵というタイトルの再話で、雑誌「少女」昭和30年新年号の付録書籍「少女小説名作全集」に収録
=== 随筆・評論 ===
* 半自叙伝
=== その他 ===
* [[フランダースの犬]](翻訳)
* [[日本競馬読本]]
* [[大衆明治史]](1943年)
== 人物 ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date= 2013年3月12日 (火) 21:18 (UTC)|ソートキー= 人1948年没}}
=== 作風 ===
* 人生経験や人生観を創作に生かすことを重視していた。「小説家たらんとする青年に与う」という文章の中で、「二十五歳未満の者、小説を書くべからず」と述べている。
*『我鬼』のモデルは[[芥川龍之介]]、『友と友の間』『神の如く弱し』は[[久米正雄]]がモデル。
=== 名について ===
* 「寛」は旧字では「寬」と最後に点を打つが、寛はこの点を省いていた。菊池の墓碑銘を揮毫した川端康成も新字の「寛」を用いた。
* 名の「寛」は「ひろし」と読めば本名、「カン」と読めば筆名だったが、本人はどちらで呼ばれても特に気にせずに返答していた。ただし「菊池」を誤って「菊'''地'''」と書かれるとすこぶる機嫌を損ねたという。
* 大映社長就任時の宴席で、[[稲垣浩]]は菊池から開口一番「君の名はコウかね、ヒロシかね」と訊かれ、「ヒロシ」だと答えたところ、「ぼくもホントはヒロシなんだけどネ、いつの間にかカンになってしまった。面白いものだね。カンと呼ばれているうちに自分でもカンの方がいいと思うようになったよ」と話し、その屈託ない話しぶりに稲垣も「とても話しやすかった」と述懐している<ref name="inagaki">『ひげとちょんまげ』([[稲垣浩]]、毎日新聞社刊)</ref>。
==== 「くちきかん」 ====
「きくちかん」を[[アナグラム]]にすると「くちきかん」(口利かん)となる。このアナグラムは菊池の生前から、彼の交友の内外で同時多発的に話された記録がある。
* 菊池が麻雀で負けると、ムッとして黙り込んでしまい、対戦者が「くちきかん」と陰口を言ったという。
* [[木津川計]]によれば、菊池没時、大阪では巷で「ああ、ついにクチキカン」と不謹慎な哀悼を捧げたという<ref>木津川計『上方の笑い』 [[講談社現代新書]]、1984年 p.24</ref>。
* [[矢崎泰久]]の評伝に『口きかん わが心の菊池寛』(2003年、[[飛鳥新社]])がある。
* タレントの[[タモリ]]が第62回[[菊池寛賞]]を受賞した際、授賞式の席上で、出演する[[テレビ番組]]のゲストについて「年間で一番無口だった人に“くちきかん賞”をあげようとしたこともあった」と語った<ref>[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/12/06/kiji/K20141206009410680.html タモリ「まさか本物を…」いいとも“くちきかん賞”は幻に] [[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]、2014年12月6日</ref>。
=== パトロンとして ===
* [[馬海松]]を可愛がり、『文藝春秋』の創刊の際、編集部に入れ、後も交遊を続けた。
* [[文藝春秋]]社の映画雑誌の編集をしていた古川郁郎という青年が、余興に演じる芸が上手いので喜劇役者になるように勧めた。この青年は後に喜劇俳優・[[古川ロッパ]]として成功した<ref>『昭和モダニズムを牽引した男 <small>菊池寛の文芸・演劇・映画エッセイ集</small>』[[清流出版]]、[[2009年]](平成21年)。</ref>。
* [[長谷川町子]]の自伝『[[サザエさんうちあけ話]]』によると、長谷川家が上京後に生活費に窮した際、知人の紹介で[[長谷川毬子|長谷川の姉]]の絵を見た菊池は、長谷川の姉を自作の挿絵画家に採用した。その後、長谷川の母が長谷川の姉を通じて、[[長谷川洋子 (実業家)|長谷川の妹]](当時[[東京女子大学]]在学)の作文を見せると、菊池は「(大学を)やめさせなさい。ボクが育ててあげる」と答え、妹は大学を退学して菊池家に日参し、古典文学などの講義を受けた。のちに妹は文藝春秋に入社するものの、[[胸膜炎|肋膜炎]]を患い退社した。
* [[1977年]](昭和52年)9月の座談会「戦争と人と文学」([[平凡社]]『太陽』第174号)における[[巖谷大四]]や[[井伏鱒二]]の発言によると、菊池は着衣のあらゆるポケットにクシャクシャの[[紙幣]]を入れており、貧乏な文士に金を無心されるとそれを無造作に出して、1円当たる人もいれば5円当たる人もいたという。菊池と旅先で出会った井伏と[[尾崎士郎]]は、「金ならあります」と言っているのに「金がないんだろう、金やろう」と紙幣を押しつけられそうになった。
=== 永井荷風から嫌われる ===
[[永井荷風]]は人の好悪の激しい作家だが、とりわけ菊池寛のことを非常に嫌悪し、自身が38歳から79歳の死の前日まで42年間にわたり付けていた日記『[[断腸亭日乗]]』の中には、菊池への罵詈雑言の叙述がところどころに見受けられる<ref name="waruguchi">「六、永井荷風×菊池寛の章」({{Harvnb|悪口本|2019|pp=155-171}})</ref>。荷風は菊池の噂を聞くと必ずといっていいほど罵倒の言葉を綴っては、出版界のほか社会の世相悪化の原因までも菊池のせいにして書き殴っていた<ref name="waruguchi"/>。
荷風が菊池を嫌うようになった原因については、はっきりしたことは判明してはいないが、菊池が自身の先祖の[[菊池五山]]の名を、荷風から悉く'''菊地'''五山と書き間違えられた不快感を1924年(大正13年)3月の『文藝春秋』誌上で表明して以降、荷風の日記上に菊池への罵詈雑言が始まっているため、それがきっかけでないかと言われている<ref name="waruguchi"/>。
菊池はその随筆「自分の名前」の中で、常に博識を自認し現代人の無学無文を嘲っている荷風先生にして「肝心の人の姓名を誤書するに至つては、沙汰の限り」と述べ、「難しさうな詩句などを引用するのも、非常に結構だが、それよりも前に、人の名前位は、正確に書いてもいいだらう」と忠言していた<ref name="namae">菊池寛「文芸当座帖――自分の名前」(文藝春秋 1924年3月号)。{{Harvnb|悪口本|2019|pp=158-159}}に掲載</ref><ref name="waruguchi"/>。
荷風はそれ以降、菊池が面会を希望しても断って「交を訂すべき人物にあらず」(交流するような人物ではない)と記したり<ref name="waruguchi"/>、また別の日の日記では、他の雑誌社の人物が荷風に寄稿を依頼する際しきりに「礼金」のことを話して荷風が固持しても机の上に金を置いていったことを、文人に向ってあたかも材木屋に材木を注文するような「悪風」だと書き連ねながら、その編集者は「敢て咎むべきにはあらず」、「{{ruby|悪|にく}}むべきは菊池寛の如き売文専業の徒のなす所なり」と、いきなり菊池批判に繋げたり<ref name="waruguchi"/>、1930年(昭和5年)の正月には、菊池と文藝春秋から来た年賀状を受け取らずにわざわざ返送したりもしていた<ref name="waruguchi"/>。
=== 大映社長として ===
* 大映社長就任の挨拶で菊池は「ぼくは社長としての値打ちは何もないが、製作する全作品のシナリオを読んでくれればいいということなので、それならぼくにもできそうだと思ったから社長を引き受けた」と話し、稲垣浩らはその淡々とした話しぶりや飾らない様子に、大きな拍手を送ったという<ref name="inagaki" />。
* なお、その際、卓上にハンカチを忘れ、一同の眼が集まったが、その白いハンカチは生き物のように菊池の後を追って動き、壇上から滑り落ちた。事務の者が慌てて走り寄って拾い上げようとすると、菊池はそれに気づき、服から垂れた糸を引っ張って[[記述|手品]]のようにハンカチを手元に引き上げた。短時間だがそのユーモラスな光景に対し、会場の聴衆はどっと好感の笑いを巻き起こしたが、菊池はニタリともせずに無造作にハンカチをポケットにねじ込み静かに席に戻って行った。これは、菊池がよくハンカチを落としたり忘れたりし、[[戦時体制|戦時]]下で衣料品が[[配給 (物資)|切符制]]だった事情から新調が困難だったので、夫人が紐を付けてポケットに縫い付けたものであった<ref name="inagaki" />。
* 稲垣が『お馬三十三万石』というシナリオを書いたとき、[[競馬]]愛好家だった(後述)菊池は「馬の話だ」ということでとくに念入りに読んで、いろいろと意見を出し、「君これは[[佐賀藩|鍋島藩]]になってるけどネ、[[佐賀藩|佐賀]]は馬産地ではないから駄目だね、[[福島藩|福島]]か[[盛岡藩|南部]]に改めてはどうだ」と言った。稲垣が「[[オランダ人|阿蘭陀人]]が出ますからどうしても[[九州]]でないと困るのですが」と答えると、「それなら[[薩摩藩|島津]]がいいだろう」、「でも(鍋島の)三十三万石という題名がいいと思うのですが」とさらに答えると菊池は「なに、島津なら七十七万石だから、そのほうがずっと大きくていいよキミ」と返した。稲垣は「やはり役者が何枚かうわてだった」と語っている<ref name="inagaki" />。
=== 趣味 ===
[[麻雀]]、[[競馬]]、[[将棋]]に熱中していたことで知られた。
* 麻雀は[[大正]]時代の中期から始めたとされる。のちに[[日本麻雀連盟|日本麻雀聯盟]]初代総裁を務めた。菊池は愛好家団体に対し、「麻雀讃」と題する以下のような書状を送っている。
{{Quotation|とにかく勝つ人は強い人である、多く勝つ人は結局上手な人、強い人と云はなければならないだらう。しかし、一局一局の勝負となると、強い人必ず勝つとは云へない。定牌を覚えたばかりの素人に負けるかも知れない。そこが麻雀の面白みであらう。
しかし、勝敗の数は別として、その一手一手について最善なる打牌を行う人は結局名手と云はなければならない、公算を基礎とし、最もプロバビリティの多い道を撰んで定牌に達し得る人は名手上手と云へよう、しかしさうした公算に九分まで、準據ししかも最後の一部に於て運気を洞算し、公算を無視し、大役を成就するところは麻雀道の玄妙が存在してゐるのかも知れない。
最善の技術には、努力次第で誰でも達し得る。それ以上の勝敗は、その人の性格、心術、覚悟、度胸に依ることが多いだらう。あらゆるゲーム、スポーツ、がさうであるが如く、麻雀、も技術より出で、究極するところは、人格全体の競技になると思ふ。そこに、麻雀道が単なるゲームに非る天地が開けると思ふ。|菊池寛|『麻雀讃』}}
*1933年(昭和8年)11月、文士や出版関係者らが麻雀賭博容疑で摘発された際には、菊池が[[身元引受人]]になるべく警視庁の課長宛に一筆を入れることもあった<ref>菊池寛が一札を入れ、全員一晩で釈放『中外商業新聞』昭和8年11月19日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p613-614 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>が、菊池自身も翌1934年(昭和9年)3月に麻雀賭博容疑で検挙されている<ref>大御所菊池寛や花形女優ら次々と検挙『東京朝日新聞』昭和9年3月18日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p615)</ref>。
* 競馬については、入門本『日本競馬読本』を上梓したほか、戦前は[[馬主]]として多くの有力な[[競走馬]]を所有した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-28 |url=https://www.zakzak.co.jp/article/20200428-TSH3HRWVJZJYDLFGLEHAZ3E7UI/ |title=【あの人も愛した 京ぎをん浜作】菊池寛、志賀直哉らと同じく…谷崎潤一郎も「浜作文人」の1人だった |publisher=[[夕刊フジ#ネット事業|zakzak]] |accessdate=2021-05-30}}</ref>。
**[[1940年]](昭和15年)の春の[[帝室御賞典]]を所有馬・トキノチカラで制し、[[能力検定競走]]として軍人や関係者約200名のみが観戦した[[1944年]](昭和19年)の[[東京優駿]]も、所有馬・トキノチカヒを出走させた。
* 将棋については、「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」というフレーズを作ったといわれる。
: 大映社内において、将棋好きの社長・菊池の影響で将棋が流行し始め、重役連も急に将棋の勉強を始めなければならなくなった。稲垣浩は「ヘボ以下」を自認していたが、重役連とはいい勝負だった。菊池はそんなヘボ将棋でも熱心にのぞき込んで観戦し、「シロウト将棋はあとさきも考えないから、見ていてとても面白いネ」と言ってタバコの灰をポロポロ膝に落とし、愉快そうに目を細めていたという<ref name="inagaki" />。
* 秘書矢崎寧之の息子である[[矢崎泰久]]少年と将棋を指した時、泰久に[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]14世名人が助言をしたため菊池寛が負けた。怒った菊池は名人のいない所でもう一局指したが、泰久が指し手を記憶していたので返り討ちにあった<ref>矢崎泰久『口きかん―わが心の菊池寛』(2003年、飛鳥新社)</ref>。
=== その他 ===
* 喫煙者であったが、灰皿を使う習慣がなかったらしく、畳や椅子の肘掛けで揉み消していたため、家中焼け焦げだらけであったという。当然ながら灰をまき散らすことにも頓着しなかった。
* 長谷川町子は菊池の書生だった自身の妹から菊池は「時には帯を引きずりながら出てくる」「時計を二つもはめていることがある」「汗かきで汗疹をかくと胸元がはだけ、厚い札束が顔を覗かせている」という3つの話だけを聞いたという<ref>『サザエさんうちあけ話』</ref>。
* [[両性愛|両性愛者]]の傾向があった。
: 旧制中学時代に4級下の下級生の渋谷彰に[[同性愛]]的思慕を持っていた。この渋谷に宛てた愛の手紙が多数現存する<ref name="sugi1">「恋文」({{Harvnb|杉森|1987|pp=7-49}})</ref>。2人の文通はその後も続き、菊池が京大卒業後も文通はあるが、この頃は渋谷へ翻訳の仕事を与えようとするなど通常の手紙になってきている<ref name="sugi3">「京洛」({{Harvnb|杉森|1987|pp=86-111}})</ref>。
: また、正妻以外に多数の愛人を持ち、その内の1人に[[小森和子]]がいた。小森はあまりに易々と菊池に体を許そうとしため、菊池から「女性的な慎みがない」と非難されたという。
* 元・文藝春秋社編集者で、出版社・ジュリアンの代表取締役である[[菊池夏樹]]は、菊池寛の孫に当たる。2009年(平成21年)4月に『菊池寛急逝の夜』([[白水社]])を刊行。
== 菊池寛の登場する作品 ==
; [[小説]]
* [[こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生]](2002年 - 2003年)
: 菊池寛と周囲の人々の人間模様を描く[[猪瀬直樹]]の小説。
; [[映画]]
* [[末は博士か大臣か]]([[1963年]]、大映)
: 若き日の菊池寛を親友の[[綾部健太郎]](後に衆議院議員)との友情を軸に描いた作品。[[フランキー堺]]が菊池を演じた。
* [[丘を越えて (映画)|丘を越えて]]([[2008年]])
: 上記『こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生』の映画化。[[西田敏行]]が菊池を演じた。
* [[この道 (映画)|この道]]([[2019年]])
: [[北原白秋]]と[[山田耕筰]]の人生を描いた作品。[[津田寛治]]が菊池を演じた。
; テレビドラマ
* [[マー姉ちゃん]](NHK[[連続テレビ小説]])
: [[フランキー堺]]が菊池を演じた。
; [[漫画]]
* [[サザエさん]]([[長谷川町子]])
: 戦後初期のエピソードに、菊池自身が登場するものがある。
== 菊池寛に由来する名称 ==
; [[市道]]
* [[菊池寛通り]]
: [[高松市]]にある市内道路のひとつ。菊池の生家跡(ここには[[2006年]](平成18年)まで[[第一法規]]四国支社があった)はこの道路の沿線にある。この通りは元々「県庁通り」と呼ばれていたが、[[1988年]](昭和63年)に[[香川県庁舎]]に面する[[香川県道173号高松停車場栗林公園線|県道173号線]]を「県庁前通り」としたことに伴い改称された。
; 賞
* [[菊池寛賞]]
* 香川菊池寛賞<ref>[http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kosodate/bunka/kikuchikan/sho.html 香川菊池寛賞] - 高松市</ref>
== ギャラリー==
<gallery>
File:Tenjinmae, Takamatsu, Kagawa Prefecture 760-0018, Japan - panoramio.jpg|高松市 菊池寛通り<br />[[2011年]]撮影
ファイル:ChichiKaeru.jpg|『父帰る』の銅像<br />菊池寛通りにて
ファイル:Kikuchi-Kan statue Takamatsu.jpg|[[高松市立中央公園]]の銅像
ファイル:菊池寛肖像.jpg|『恩讐の彼方に』の舞台「[[青の洞門]]」にて
</gallery>
== 関連文献 ==
=== 評伝・随想 ===
* 『新潮日本文学アルバム 菊池寛』(1994年、新潮社)
* [[松本清張]]『[[形影 菊池寛と佐佐木茂索]]』(1982年、文藝春秋)
* [[菊池夏樹]]『菊池寛急逝の夜』(2009年、[[白水社]])、2012年8月、[[中公文庫]]で再刊
* 『逸話に生きる菊池寛 生誕百年記念』(1987年、文藝春秋、非売品)
* 『天才・菊池寛ー逸話でつづる作家の素顔ー』(2013年10月、文藝春秋)
* [[矢崎泰久]]『口きかん わが心の菊池寛』(2003年、[[飛鳥新社]])
* 菊池夏樹『菊池寛と大映』(2011年2月、白水社)
=== 研究 ===
* [[片山宏行]]『菊池寛の航跡 初期文学精神の展開』(1997年9月、和泉書院) ISBN 4-87088-873-4 C3395
* 片山宏行『菊池寛のうしろ影』(2000年11月、[[未知谷]])ISBN 4-89642-022-5 C0095
* 菊池寛研究会『真珠夫人 本文編/注解・考説編』(2003年8月、翰林書房)ISBN 4-87737-172-9 C0093
* 小林和子『菊池寛 人と文学 (日本の作家100人) 』(2007年11月、勉誠出版)
* 志村三代子『映画人・菊池寛』(2013年8月)藤原書店
* [[日高昭二]]『菊池寛を読む』(2003年、[[岩波書店]])
* 片山宏行・山口政幸・若松伸哉・掛野剛史『菊池寛現代通俗小説事典』(2016年7月、八木書店)ISBN 978-4840697613 C0593
* 片山宏行『菊池寛随想』(2017年8月、未知谷)ISBN 978-4-89642-534-5 C0095
=== 小説 ===
* [[佐藤碧子]]『人間・菊池寛 その女秘書が綴る実録小説』(1961年、新潮社、2003年、[[新風舎]])
* [[杉森久英]]『小説 菊池寛』(1987年、中央公論社)
* [[猪瀬直樹]]『[[こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生]]』(2004年、文藝春秋)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|32em}}
== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|author=菊池寛|date=1995-11|title=菊池寛全集第22巻 評論集|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4166205202|ref={{Harvid|菊池・評論22|1995}}}}
*{{Citation|和書|author=菊池寛|date=1995-12|title=菊池寛全集第23巻 随想集|publisher=文藝春秋|isbn=978-4166205301 |ref={{Harvid|菊池・随想23|1995}}}}
*{{Citation|和書|author=菊池寛|date=1995-08|title=菊池寛全集第24巻 感想集|publisher=文藝春秋|isbn=978-4166205400 |ref={{Harvid|菊池・感想24|1995}}}}
*{{Citation|和書|author=菊池寛|date=2008-11|title=ちくま日本文学027 菊池寛 1888-1948|publisher=[[筑摩書房]]|series=[[ちくま文庫]]|isbn=978-4480425270|ref={{Harvid|ちくま027|2008}}}}
*{{Citation|和書|author=菊池寛|date=2008-01|title=半自叙伝 無名作家の日記 他四篇 |publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波文庫]]|isbn=978-4003106334|ref={{Harvid|半自叙伝|2008}}}}
*{{Citation|和書|author=菊池寛|date=2016-10|title=[[父帰る]]・[[藤十郎の恋]]――菊池寛戯曲集|publisher=岩波書店|series=岩波文庫|isbn=978-4003106341|ref={{Harvid|父帰る|2016}}}}
*{{Citation|和書|author=菊池寛|date=2002-08|title=[[真珠夫人]]|publisher=文藝春秋 |series=[[文春文庫]]|isbn=978-4167410049|ref={{Harvid|真珠|2002}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[浅井清]]|date=1994-01|title=新潮日本文学アルバム39 菊池寛|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4106206436|ref={{Harvid|アルバム菊池|1994}}}}
* {{Citation |和書 |author1=[[井上ひさし]] |author2=[[こまつ座]] |date=1999 |title=菊池寛の仕事―文藝春秋、大映、競馬、麻雀…時代を編んだ面白がり屋の素顔 |publisher=[[ネスコ]] |ref={{sfnref|井上|1999 }}|isbn=4890369902}}
*{{Citation|和書|author=[[江口渙]] |date=1995-01 |title=わが文学半生紀 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社文芸文庫]] |isbn=978-4061963061 |ref={{Harvid|江口|1995}}}} 原本(青木書店)は1953年-1968年 {{NCID|BN08276124}}
*{{Citation|和書|author=[[小久保武]]|editor=[[福田清人]]|date=2018-04|title=菊池寛|publisher=[[清水書院]]|series=Century Books 人と作品32|edition=新装|isbn=978-4389401276|ref={{Harvid|小久保|2018}}}} 初版は1979年6月 ISBN 978-4389400323
*{{Citation|和書|author=[[川西政明]]|date=2010-07|title=新・日本文壇史第3巻 昭和文壇の形成|publisher=岩波書店|isbn=978-4000283632|ref={{Harvid|文壇史|2010}}}}
*{{Citation|和書|author=[[川端康成]]|date=2013-12|title=川端康成随筆集|publisher=岩波書店|series=岩波文庫|isbn=978-4003108154|ref={{Harvid|川端随筆集|2013}}}}
*{{Citation|和書|author=[[杉森久英]] |date=1987-10 |title=小説菊池寛 |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4120016196 |ref={{Harvid|杉森|1987}}}}
*{{Citation|和書|editor=彩図社文芸部|date=2019-06|title=文豪たちの悪口本 |publisher=[[彩図社]]|isbn=978-4801303720|ref={{Harvid|悪口本|2019}}}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Kan Kikuchi}}
* [[朝鮮藝術賞]]
* [[永田雅一]]
* [[無事之名馬]]
* [[文藝時代]]
== 外部リンク ==
* [https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kosodate/bunka/kikuchikan/index.html 高松市菊池寛記念館]
* {{青空文庫著作者|83}}
* {{青空文庫|000879|43376|新字新仮名|合理的、同時に多量の人間味 ――相互印象・菊池寛氏――}}([[芥川龍之介]]著)
* [https://web.archive.org/web/20160531132751/http://work.honya.co.jp/contents/archive/kkikuchi/ 菊池寛アーカイブ] {{リンク切れ|date= 2020年10月13日 (火) 03:51 (UTC)}}(アーカイブ)
** [https://web.archive.org/web/20160530140837/http://work.honya.co.jp/contents/archive/kkikuchi/hanashi/ 話の屑籠(文藝春秋エッセイ)] {{リンク切れ|date= 2020年10月13日 (火) 03:51 (UTC)}}(アーカイブ)
* [https://web.archive.org/web/20160325091757/http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/naiyou/kodomo/gozan/gozan/keizu.htm 菊池家系図] {{リンク切れ|date= 2020年10月13日 (火) 03:51 (UTC)}}(アーカイブ)文字化けあり
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きくち かん}}
[[Category:菊池寛|*]]
[[Category:19世紀日本の小説家]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E5%AF%9B |
3,498 | 流体力学 | 流体力学(りゅうたいりきがく、英: fluid dynamics / fluid mechanics)とは、流体の静止状態や運動状態での性質、また流体中での物体の運動を研究する、力学の一分野。
力学の一分野であり、連続体力学の一部と見なされる。
下位分類としては、大きく分けると、静止状態を扱う流体静力学(fluid statics)と、運動状態を扱う流体動力学 (fluid dynamics) に分かれる。(ただし、日本では両者をはっきり区別していない人もいる。)工学分野では、水を対象とする水力学(水理学)や空気を対象とする空気力学という分野に分けて扱われることがある。
また、流体力学では電気的に中性で電離していない流体のみを扱い、一部ないし全部が電離した流体はプラズマ物理学や磁気流体力学で扱われる。ただし、磁場がない場合のレイリー・テイラー不安定性など、本質的に流体と変わりない部分も存在する。
流体静力学のほうは古くから発展した歴史があり、古代ギリシャのアルキメデスがアルキメデスの原理を発見。ブレーズ・パスカルが1653年にパスカルの原理を発見。ボイルらが同じく17世紀後半にボイルの法則(ボイル・マリオットの法則)を見いだした。
流体動力学は、静力学より後に登場している。こちらはアイザック・ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』の刊行後に徐々に広まったニュートン力学を流体に適用してその運動を論じるという形で興った分野であり、18世紀の段階ではベルヌーイ、オイラー、ラグランジュらによって、まずは粘性の無い流体(=完全流体)の運動が研究された。完全流体よりも複雑で理解が難しい粘性流体については、19世紀にアンリ・ナビエ、ジョージ・ガブリエル・ストークスらによって研究が行われた(ナビエ・ストークス方程式)。さらに複雑な乱流についてはオズボーン・レイノルズによって19世紀末に研究が進んだ。 | [
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] | 流体力学とは、流体の静止状態や運動状態での性質、また流体中での物体の運動を研究する、力学の一分野。 | {{Pathnav|[[物理学]]|[[力学]]|[[連続体力学]]|frame=1}}
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'''流体力学'''(りゅうたいりきがく、{{lang-en-short|fluid dynamics / fluid mechanics}})とは、[[流体]]の[[静止]]状態や[[運動 (物理学)|運動]]状態での性質、また流体中での[[物体]]の運動を研究する、[[力学]]の一分野<ref>大辞泉「流体力学」</ref>。
== 概説 ==
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力学の一分野であり、[[連続体力学]]の一部と見なされる{{Sfn|巽|2021|p=1-2}}。
下位分類としては、大きく分けると、静止状態を扱う[[流体静力学]](fluid statics)と、運動状態を扱う流体動力学 (fluid dynamics<ref>Batchelor, C. K., & Batchelor, G. K. (2000). An introduction to fluid dynamics. Cambridge University Press.</ref>) に分かれる。(ただし、日本では両者をはっきり区別していない人もいる。)工学分野では、[[水]]を対象とする[[水力学]]([[水理学]]<ref>Abbott, M. B., & Minns, A. W. (2017). Computational hydraulics. Routledge.</ref><ref>Bear, J. (2012). Hydraulics of groundwater. Courier Corporation.</ref>)や[[空気]]を対象とする[[空気力学]]<ref>Bertin, J. J., & Smith, M. L. (1998). Aerodynamics for engineers (Vol. 5). Upper Saddle River, NJ: Prentice Hall.</ref><ref>Anderson Jr, J. D. (2010). Fundamentals of aerodynamics. Tata McGraw-Hill Education.</ref><ref>Houghton, E. L., & Carpenter, P. W. (2003). Aerodynamics for engineering students. Elsevier.</ref><ref>Milne-Thomson, L. M. (1973). Theoretical aerodynamics. Courier Corporation.</ref>という分野に分けて扱われることがある。
また、流体力学では電気的に中性で[[電離]]していない流体のみを扱い、一部ないし全部が電離した流体は[[プラズマ物理|プラズマ物理学]]<ref>Goldston, R. J., & Rutherford, P. H. (1995). Introduction to plasma physics. CRC Press.</ref><ref>Fridman, A., & Kennedy, L. A. (2004). Plasma physics and engineering. CRC Press.</ref>や[[磁気流体力学]]で扱われる。ただし、磁場がない場合のレイリー・テイラー不安定性など、本質的に流体と変わりない部分も存在する。
== 流体力学の歴史と貢献者 ==
流体静力学のほうは古くから発展した歴史があり、古代ギリシャの[[アルキメデス]]が[[アルキメデスの原理]]を発見。[[ブレーズ・パスカル]]が[[1653年]]に[[パスカルの原理]]を発見。ボイルらが同じく17世紀後半に[[ボイルの法則]](ボイル・マリオットの法則)を見いだした。<ref name="名前なし-1">『ブリタニカ国際百科事典』</ref>
流体動力学は、静力学より後に登場している。こちらはアイザック・ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』の刊行後に徐々に広まった[[ニュートン力学]]を流体に適用してその運動を論じるという形で興った分野であり、[[18世紀]]の段階では[[ダニエル・ベルヌーイ|ベルヌーイ]]、[[オイラー]]、[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ|ラグランジュ]]らによって、まずは粘性の無い流体(=[[完全流体]])の運動が研究された。完全流体よりも複雑で理解が難しい[[粘性流体]]については、[[19世紀]]に[[アンリ・ナビエ]]、[[ジョージ・ガブリエル・ストークス]]らによって研究が行われた([[ナビエ・ストークス方程式]]<ref>Constantin, P., & Foias, C. (1988). Navier-stokes equations. University of Chicago Press.</ref><ref>Temam, R. (2001). Navier-Stokes equations: theory and numerical analysis (Vol. 343). [[American Mathematical Society]].</ref><ref>Foias, C., Manley, O., Rosa, R., & Temam, R. (2001). Navier-Stokes equations and turbulence (Vol. 83). Cambridge University Press.</ref><ref>Girault, V., & Raviart, P. A. (2012). Finite element methods for Navier-Stokes equations: theory and algorithms (Vol. 5). Springer Science & Business Media.</ref>)。さらに複雑な[[乱流]]については[[オズボーン・レイノルズ]]によって19世紀末に研究が進んだ。
<ref name="名前なし-1"/>
== 関連分野 ==
* [[連続体力学]]
* [[流体静力学]]
* [[レオロジー]]
* [[磁気流体力学]]
* [[数値流体力学]]<ref>矢川元基. (2001). パソコンで見る流れの科学: 数値流体力学入門. 講談社.</ref><ref>Anderson, J. D., & Wendt, J. (1995). Computational fluid dynamics (Vol. 206). New York: McGraw-Hill.</ref><ref>Chung, T. J. (2010). Computational fluid dynamics. Cambridge University Press.</ref><ref>Blazek, J. (2015). Computational fluid dynamics: principles and applications. Butterworth-Heinemann.</ref><ref>Wesseling, P. (2009). Principles of computational fluid dynamics (Vol. 29). Springer Science & Business Media.</ref>
== 流体力学の用語・概念 ==
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* [[流体]]
* [[パスカルの原理]]
* [[圧力]]
* [[圧力勾配]]
* [[静水圧平衡]]
* [[浮力]]
* [[粘度]]
* [[ニュートン流体]]
* [[レイノルズ数]]
* [[流線]]
* [[定常流]]
* [[移流]]
* [[対流]]
* [[渦]]
* [[渦度]]
* [[渦なしの流れ]]
* [[循環 (流体力学)]]
* [[ケルビンの渦定理]]
* [[ヘリシティー (流体)]]
* [[湧き出し]]
* [[非圧縮性]]
* [[非圧縮性流体]]
* [[圧縮性流体]]
* [[バロトロピック流体]]
* [[流体粒子]]
* [[物質微分]]
* [[流束]]
* [[連続の式]]
* [[オイラー方程式 (流体力学)]]
* [[ナビエ-ストークスの式]]
* [[ベルヌーイの定理]]
* [[流線曲率の定理]]
* [[クッタ・ジュコーフスキーの定理]]
* [[クッタ条件]]
* [[コアンダ効果]]
* [[マグヌス効果]]
* [[揚力]]
* [[ダランベールのパラドックス]]
* [[ケルビン・ヘルムホルツ不安定性]]
* [[レイリー・テイラー不安定性]]
* [[ハーゲン・ポアズイユ流れ]]
* [[境界層]]
* [[層流]]
* [[乱流]]
* [[重力波 (流体力学)]]
* [[表面張力波]]
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== 応用 ==
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* [[風洞]]
* [[サイフォン]]
* [[キャブレター]]
* [[ピトー管]]
* [[ベンチュリ効果]]
* [[オリフィス板]]
* [[ブンゼンバーナー]]
* [[チョーク流れ]]
* [[インジェクタ]]
* [[アスピレーター]]
* [[流体素子]]
* [[非接触型流速計]]
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== 応用分野 ==
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* [[工学]]
** [[機械工学]]
** [[船舶工学]]
** [[航空工学]]
** [[宇宙工学]]
** [[化学工学]]
** [[水理学]]
** [[河川工学]]
** [[海岸工学]]
** [[応用力学]]
** [[環境工学]]
** [[建築環境工学]]
** [[流体素子]]
** [[マイクロ流体力学]]
** 医用工学
* [[理学]]
** [[プラズマ物理学]]
** [[地球流体力学]]
*** [[大気力学]]
*** [[海洋物理学]]
*** [[宇宙空間物理学]]
** [[天文学]](宇宙流体力学)
*** [[降着円盤]]
*** [[恒星]]の内部構造
** 生物流体力学
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==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
==参考文献==
===和書===
* {{Citation|和書|author=日本機械学会|date=2005-04-01|title=流体力学|publisher=日本機械学会|series=JSMEテキストシリーズ|isbn=978-4-88898-333-4|ref={{SfnRef|日本機械学会|2005}} }}
* {{Citation|和書|author=西海 孝夫, 一柳 隆義|date=2013-09-27|title=演習で学ぶ「流体の力学」入門|publisher=秀和システム|isbn=978-4798039503|ref={{SfnRef|西海|2013}} }}
* {{Citation|和書|author=日野 幹雄|date=1992-12-01|title=流体力学|publisher=朝倉書店|isbn=978-4-254-20066-9|ref={{SfnRef|日野|1992}} }}
* {{Citation|和書|author=巽 友正|date=2021-11-12|title=連続体の力学|publisher=岩波書店|series=岩波基礎物理シリーズ 新装版|isbn=978-4000299046|ref={{SfnRef|巽|2021}} }}
* {{Citation|和書|author=松尾 一泰|date=2013-12-01|title=圧縮性流体力学―内部流れの理論と解析|publisher=オーム社|isbn=978-4274069697|ref={{SfnRef|松尾|2013}} }}
===洋書===
* {{citation | last=Falkovich | first=Gregory | year=2011 | title=Fluid Mechanics (A short course for physicists)
| publisher=Cambridge University Press
| isbn=978-1-107-00575-4
|url=http://www.weizmann.ac.il/complex/falkovich/sites/weizmann.ac.il.complex.falkovich/files/FluidShort.pdf}}
* {{citation | last2=Cohen | first2=Ira M. | last1=Kundu | first1=Pijush K. | year=2008 | title=Fluid Mechanics | edition=4th revised | publisher=Academic Press | isbn=978-0-12-373735-9 }}
*{{Citation
| last = Currie
| first = I. G.
| title = Fundamental Mechanics of Fluids
| publisher = [[:en:McGraw-Hill, Inc.]]
| year = 1974
| isbn = 0-07-015000-1 }}
* {{citation | last1=Massey | first1=B. | last2=Ward-Smith | first2=J. | year=2005 | title=Mechanics of Fluids | edition=8th | publisher=Taylor & Francis | isbn=978-0-415-36206-1 }}
* {{citation | last=White | first=Frank M. | authorlink=:en:Frank M. White | year=2003 | title=Fluid Mechanics | publisher=McGraw–Hill | isbn=0-07-240217-2 }}
* {{citation | last1=Nazarenko | first1=Sergey | year=2014 | title=Fluid Dynamics via Examples and Solutions | publisher=CRC Press (Taylor & Francis group) | isbn=978-1-43-988882-7 }}
== 外部リンク ==
* {{機械工学事典|id=09:1013449}}
* [http://www.nagare.or.jp 日本流体力学会]
* [https://www.vsj.jp/ 可視化情報学会]
* [https://jrecin.jst.go.jp/html/compass/e-learning/31-747/index.html 流体力学の基礎知識コース] - 研究人材のためのe-learning([[科学技術振興機構]])
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3,499 | 連続体力学 | 連続体力学(れんぞくたいりきがく、英語: Continuum mechanics)とは、物理的対象を連続体という空間的広がりを持った物体として理想化してその力学的挙動を解析する物理学の一分野である。
連続体力学では対象である連続体を巨視的に捉え、分子構造のような内部の微視的な構造が無視できるなめらかなものであり、力を加えることで変形するものとみなす。
主な連続体として弾性体と流体がある。
直観的には弾性体とは圧力を取り除くと元の状態に復帰する固体であり、流体は気体、液体、プラズマを記述するものである。
連続体力学は物体を空間上の一点に近似して扱う質点の力学とは区別され、物体の変形を許容しない剛体の力学とも区別される。剛体は、変形しにくさを表す量である弾性係数が無限大である(すなわち一切変形しない)連続体であるとみなすこともできる。
連続体の力学は材料力学、水力学、土質力学といった応用力学、およびそれらの応用分野である材料工学、化学工学、機械工学、航空宇宙工学などで用いられる。
連続体を数学的に記述する方法として二つの表示が知られている。
第一の表示は、視点を空間上の各点に固定して連続体を記述する方法で、時刻 t に空間上の点 x における物理量 Q を
として記述する方法である。この表示は連続体の空間表示(spatial description)、あるいはオイラー表示(オイラー記述、Eulerian description)と呼ばれる。空間表示では連続体の各部分に付随する物理量は場として記述される。
第二の表示は、連続体上の各部分を時間的に追跡する方法で、時刻 t = 0 に初期位置 x = X0 にあった連続体の部分が時刻 t において移動している位置を x = X(t) として、この部分に付随する物理量 Q を
により記述する方法である。この表示は連続体の物質表示(material description)、あるいはラグランジュ表示(ラグランジュ表記、Lagrangian description)と呼ばれる。物質表示では連続体の各部分に付随する物理量は時刻 t の関数として記述される。各部分の初期位置 X0 は補助変数である。特に物質表示において速度は
を満たす。
連続体を記述する二つの表示と対応して、二種類の時間微分が定義される。 空間表示と対応する時間微分は
で定義される。空間表示では物理量が場として記述されるため、対応する時間微分は偏微分である。この微分はオイラー微分(Eularian derivative)、空間微分(spatial derivative)、空間時間微分(spatial time derivative)と呼ばれる。
一方、物質表示と対応する時間微分は
で定義される。物質表示では物理量は時間の関数として記述されるため、対応する時間微分は常微分である。この微分は物質微分(material derivative)、物質時間微分(material time derivative)、流れに乗って移動するときの微分、実質微分、 ラグランジュ微分(Lagrangian derivative)などと呼ばれる。 これら二つの時間微分は連鎖律から
となる。ここで右辺の括弧の中はオイラー表示で表されているので、オイラー表示におけるラグランジュ微分は
で表される。
ラグランジュ微分はオイラー微分と違いガリレイ変換に対して不変であるなどの利点がある。
重力のように体積要素dVを使って
のように表記できる力を体積力という。それに対して連続体の断面の面積要素dSを使って表現できる力を 面積力といい、位置xと面の法線nを用いて面積力を
と表記したとき、積分内のpx(n)を連続体に働く応力という。
応力px(n)は面の法線nに平行であるとは限らない。例えばゴムでできた柱が重力に負けて横に歪むのは重力に垂直な方向に応力が生じている為である。
応力のうち法線方向の成分を法線応力、法線と垂直な成分を接線応力という。法線応力が法線と同じ方向の時の法線応力を張力、反対方向の時の法線応力を圧力という。
応力を具体的に書き表すため、連続体内に一点xを取り、微小な四面体を図のように定義する(本文と図の記号の違いに注意)と、xの周りの面積力の総和は
となる。
四面体に働く体積力をKVとすると、力の釣り合いから
であるが、四面体の大きさを小さくしていくと、面積力KSが四面体の一辺の長さの2乗に比例して小さくなっていくのに対し、体積力 KVはそれより速く一辺の長さの3乗に比例して小さくなっていくので、KS/dSは0でなければならない。よって
が成立する。 p x ( e j ) {\displaystyle {\boldsymbol {p}}_{\boldsymbol {x}}({\boldsymbol {e}}_{j})} のei方向成分をσxijとすれば、
が成立する。ここでniはnの ei方向成分である。
行列 (σxij)i,jを連続体の応力テンソルという。
力をかけるなどして 連続体が変形し、最初点xにあった粒子がt秒後にφt(x)に移動したとする。このとき
をこの変形の変位ベクトルと呼び、ヤコビ行列
をこの変形の変形テンソル(deformation tensor)と呼ぶ 。
変形テンソルを対称部分と非対称部分に
とわけ、対称部分にあたる(Eij)i,jを歪みテンソル(strain tensor)という。
歪みテンソルの対角成分Eiiを伸縮歪み(elongation-contraction)、反対角成分をずれ歪み(shear strain)といい、伸縮歪みの総和
を体積歪み(volume dilatation)という。
一方、反対称部分である(Fij)i,jは定義より明らかに
である。
と定義すると、
である。 Ωをこの変形の回転もしくは回転ベクトルという。
これらのテンソルは、変形を開始した時刻t0における位置xと現在の時刻tの関数であるので時間微分した量を計算できる:
が成立する。ここで v = ( v 1 , v 2 , v 3 ) {\displaystyle {\boldsymbol {v}}=(v_{1},v_{2},v_{3})} は速度ベクトルである。
∂ v i ∂ x j {\displaystyle {\partial v_{i} \over \partial x_{j}}} を変形速度テンソル(deformation rate tensor)、 1 2 ( ∂ v i ∂ x j + ∂ v j ∂ x i ) {\displaystyle {1 \over 2}\left({\partial v_{i} \over \partial x_{j}}+{\partial v_{j} \over \partial x_{i}}\right)} を歪み速度テンソル(stain rate tensor)、 ∇ × v {\displaystyle \nabla \times {\boldsymbol {v}}} を渦度(vorticity)という。
さらに歪み速度テンソルの対角成分を伸縮歪み速度(elongation-contraction rate)、非対角成分をずれ歪み速度(shear stain rate)という。
連続体の挙動は基礎方程式と呼ばれる微分方程式で記述される。
基礎方程式は全ての連続体が満たす保存則と研究対象である物質固有の構成式からなる。
本節では連続体が満たす保存則を紹介する。
連続体を空間表記したとき、時刻tにおける空間上の点xでの連続体の密度をρ=ρ(x,t)とする。
空間内の領域Vを考え、 Vの境界∂V上の微小な面dSとその法線ベクトルnに対し、微小時間ΔtにdSからVの外へ流出する粒子の総質量は ρ v ⋅ n Δ t d S {\displaystyle \rho {\boldsymbol {v}}\cdot {\boldsymbol {n}}\Delta t\mathrm {d} S} であるので、空間内の領域Vの質量のΔt秒間での増加量は 質量保存の法則より、
である。ここで第二の等号はガウスの発散定理より従う。Vの任意性により、連続体は以下の連続の方程式を満たさねばならないことが結論づけられる:
(B1)式より、物質微分を使えば連続の方程式は
とも書ける。
Vを連続体上の(時間変化しない)任意の領域とするとき、運動量保存の法則から以下が成立する:
上の式を具体的に書き下すことで、連続体の運動方程式を導出できる。
連続体の点xにおける時刻tでの密度をρ=ρ(x,t)とし、速度ベクトルをv=v(x,t)とするとき、
であり、
である。最後の等式はガウスの発散定理による。ここでv=(v1,v2,v3)である。 体積力をK=(K1,K2,K3)とすると、
であり、さらに σ i = ( σ i , 1 , σ i , 2 , σ i , 3 ) {\displaystyle {\boldsymbol {\sigma }}_{i}=(\sigma _{i,1},\sigma _{i,2},\sigma _{i,3})} とすると、
である。最後の等式は再びガウスの発散定理による。
Vの任意性より、最終的に連続体の運動方程式は以下のようになる:
なお、テンソル ε=(εij)ijに対し
と定義すると、上の方程式は
と書くこともできる。
上の運動方程式と連続の方程式(C1)を用いる事で、運動方程式の物質微分による以下の表現を得ることができる:
角運動量が保存する場合、弾性体の各点xで応力テンソルは対称性
を満たす。
弾性体(elastic body)とは、各時刻において応力と変形に一意的な関係がある連続体の事を指す。それに対し塑性体(plastic body)とは、応力がある一定の限界を越えると変形が不可逆となり、応力を取り去った後も変形が残る(永久変形)連続体の事を指す。
弾性体の中で特に、応力テンソルと歪みテンソルが線形な関係式
を満たすものを線形弾性体といい、上述の関係式を線形弾性体上のフックの法則という。
このようなCijklが存在するとき、Cijklを弾性係数(elastic constant)といい、弾性係数を並べたテンソルを弾性係数テンソルという。
また弾性体の中で、その物理的特性が方向性に依存しないものを等方弾性体(isotropic elastic body)という。
等方かつ線形な弾性体の弾性係数テンソルは
という形で書き表せる事が知られている。定数λとμをラメの弾性定数(Lame's elastic constant)という。
このとき、(E1)、 (E2)より
一方、塑性体は弾性体と違い、応力を加えるときと取り除くときで変形の関係式が異なる弾性履歴という現象が観測される。
また複雑な分子構造の高分子で物質では応力と変形に時間的なズレが生じ、遅延弾性や応力緩和といった現象が起こる事がある。
弾性体の場合、弾性体上の各点の運動速度vが小さい。従って連続体の運動方程式(C2)
の左辺は物質微分の定義(B1) より
であるが、第二項はvに関する二次の微小量であるので無視できる。
さらにρの時間変化が無視できるほど小さいとすれば、
弾性体が等方かつ線形であれば(B3)、 (E3)より 各iに対し、
よって等方かつ線形な弾性体の運動方程式は以下のようになる
静止状態で任意の点の全ての断面において接線応力が0になる連続体を流体という 。
静止状態にある流体の任意の点xに対し、 xにおける法線n方向の法線応力は-pnの形に書け、しかもpは xのみに依存し、法線nに依存しない事が簡単に証明できる。 応力-pnを静水圧という。
pが正のとき静水圧は圧力であり、負のとき静水圧は張力である。流体が気体もしくは熱平衡状態にある液体であれば pは常に正である事が知られているが、準熱平衡状態にある液体ではpが負になる事もありうる。これを負圧といい、樹木による樹液の吸い上げや地面の凍上で観測される現象である。
運動状態においても接線応力が生じない流体を完全流体という。オイラーの時代には流体はどれも完全流体としてモデル化されていたが、接線応力が無いという事は、運動している流体の中に棒をさしても一切抵抗を受けないという事なので直観に反する(ダランベールのパラドックス)。
こうした事情から、流体であっても運動している際には抵抗を受けるものとしてモデル化されるようになった。運動している流体の応力が
と歪み速度テンソルの一次式で記述できる流体をニュートン流体、そうでない流体を非ニュートン流体という。
流体の定義から静止状態では接線応力が0なので、Gijは静水圧pを用いて
と書ける。さらに流体が等方性を満たせば、弾性体の時と同様の議論により
が成立する。
(F1)、 (F2)、 (F3)より、
である。ηをずれ粘性率(shear viscousity)あるいは単に粘性率といい、ζを第二粘性率という。
定義より体積歪み速度 ∑ i E ̇ i i {\displaystyle \sum _{i}{\dot {E}}_{ii}} は
を満たす。 χを体積粘性率(bulk viscousity)という。
η=ζ=0であれば、運動している場合でも接線応力が0である事になるので、これは流体が完全流体である事を意味する。このため完全流体の事を非粘性流体ともいう。
等方なニュートン流体であれば (F4)より、 各iに対し、
であるので、これを連続体の運動方程式(C2)
に代入する事で、等方なニュートン流体の運動方程式が得られる。
ηやζは流体の圧力や温度に依存するが、こうした影響が小さいとすれば ηやζは定数だと見なせるので、(F6)の式の右辺は(B3)より
となる。ここでΔはラプラシアンである。 よって(F5)よりナビエ・ストークス方程式
が従う。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "連続体力学(れんぞくたいりきがく、英語: Continuum mechanics)とは、物理的対象を連続体という空間的広がりを持った物体として理想化してその力学的挙動を解析する物理学の一分野である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "連続体力学では対象である連続体を巨視的に捉え、分子構造のような内部の微視的な構造が無視できるなめらかなものであり、力を加えることで変形するものとみなす。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
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"text": "主な連続体として弾性体と流体がある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "直観的には弾性体とは圧力を取り除くと元の状態に復帰する固体であり、流体は気体、液体、プラズマを記述するものである。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "連続体力学は物体を空間上の一点に近似して扱う質点の力学とは区別され、物体の変形を許容しない剛体の力学とも区別される。剛体は、変形しにくさを表す量である弾性係数が無限大である(すなわち一切変形しない)連続体であるとみなすこともできる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "連続体の力学は材料力学、水力学、土質力学といった応用力学、およびそれらの応用分野である材料工学、化学工学、機械工学、航空宇宙工学などで用いられる。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "連続体を数学的に記述する方法として二つの表示が知られている。",
"title": "基礎概念"
},
{
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"text": "第一の表示は、視点を空間上の各点に固定して連続体を記述する方法で、時刻 t に空間上の点 x における物理量 Q を",
"title": "基礎概念"
},
{
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"tag": "p",
"text": "として記述する方法である。この表示は連続体の空間表示(spatial description)、あるいはオイラー表示(オイラー記述、Eulerian description)と呼ばれる。空間表示では連続体の各部分に付随する物理量は場として記述される。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "第二の表示は、連続体上の各部分を時間的に追跡する方法で、時刻 t = 0 に初期位置 x = X0 にあった連続体の部分が時刻 t において移動している位置を x = X(t) として、この部分に付随する物理量 Q を",
"title": "基礎概念"
},
{
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"tag": "p",
"text": "により記述する方法である。この表示は連続体の物質表示(material description)、あるいはラグランジュ表示(ラグランジュ表記、Lagrangian description)と呼ばれる。物質表示では連続体の各部分に付随する物理量は時刻 t の関数として記述される。各部分の初期位置 X0 は補助変数である。特に物質表示において速度は",
"title": "基礎概念"
},
{
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"tag": "p",
"text": "を満たす。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "連続体を記述する二つの表示と対応して、二種類の時間微分が定義される。 空間表示と対応する時間微分は",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "で定義される。空間表示では物理量が場として記述されるため、対応する時間微分は偏微分である。この微分はオイラー微分(Eularian derivative)、空間微分(spatial derivative)、空間時間微分(spatial time derivative)と呼ばれる。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "一方、物質表示と対応する時間微分は",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "で定義される。物質表示では物理量は時間の関数として記述されるため、対応する時間微分は常微分である。この微分は物質微分(material derivative)、物質時間微分(material time derivative)、流れに乗って移動するときの微分、実質微分、 ラグランジュ微分(Lagrangian derivative)などと呼ばれる。 これら二つの時間微分は連鎖律から",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "となる。ここで右辺の括弧の中はオイラー表示で表されているので、オイラー表示におけるラグランジュ微分は",
"title": "基礎概念"
},
{
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"tag": "p",
"text": "で表される。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "ラグランジュ微分はオイラー微分と違いガリレイ変換に対して不変であるなどの利点がある。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "重力のように体積要素dVを使って",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "のように表記できる力を体積力という。それに対して連続体の断面の面積要素dSを使って表現できる力を 面積力といい、位置xと面の法線nを用いて面積力を",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "と表記したとき、積分内のpx(n)を連続体に働く応力という。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "応力px(n)は面の法線nに平行であるとは限らない。例えばゴムでできた柱が重力に負けて横に歪むのは重力に垂直な方向に応力が生じている為である。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "応力のうち法線方向の成分を法線応力、法線と垂直な成分を接線応力という。法線応力が法線と同じ方向の時の法線応力を張力、反対方向の時の法線応力を圧力という。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "応力を具体的に書き表すため、連続体内に一点xを取り、微小な四面体を図のように定義する(本文と図の記号の違いに注意)と、xの周りの面積力の総和は",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "四面体に働く体積力をKVとすると、力の釣り合いから",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "であるが、四面体の大きさを小さくしていくと、面積力KSが四面体の一辺の長さの2乗に比例して小さくなっていくのに対し、体積力 KVはそれより速く一辺の長さの3乗に比例して小さくなっていくので、KS/dSは0でなければならない。よって",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "が成立する。 p x ( e j ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {p}}_{\\boldsymbol {x}}({\\boldsymbol {e}}_{j})} のei方向成分をσxijとすれば、",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "が成立する。ここでniはnの ei方向成分である。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "行列 (σxij)i,jを連続体の応力テンソルという。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "力をかけるなどして 連続体が変形し、最初点xにあった粒子がt秒後にφt(x)に移動したとする。このとき",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "をこの変形の変位ベクトルと呼び、ヤコビ行列",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "をこの変形の変形テンソル(deformation tensor)と呼ぶ 。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "変形テンソルを対称部分と非対称部分に",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "とわけ、対称部分にあたる(Eij)i,jを歪みテンソル(strain tensor)という。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "歪みテンソルの対角成分Eiiを伸縮歪み(elongation-contraction)、反対角成分をずれ歪み(shear strain)といい、伸縮歪みの総和",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "を体積歪み(volume dilatation)という。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "一方、反対称部分である(Fij)i,jは定義より明らかに",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "である。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "と定義すると、",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "である。 Ωをこの変形の回転もしくは回転ベクトルという。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "これらのテンソルは、変形を開始した時刻t0における位置xと現在の時刻tの関数であるので時間微分した量を計算できる:",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "が成立する。ここで v = ( v 1 , v 2 , v 3 ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {v}}=(v_{1},v_{2},v_{3})} は速度ベクトルである。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "∂ v i ∂ x j {\\displaystyle {\\partial v_{i} \\over \\partial x_{j}}} を変形速度テンソル(deformation rate tensor)、 1 2 ( ∂ v i ∂ x j + ∂ v j ∂ x i ) {\\displaystyle {1 \\over 2}\\left({\\partial v_{i} \\over \\partial x_{j}}+{\\partial v_{j} \\over \\partial x_{i}}\\right)} を歪み速度テンソル(stain rate tensor)、 ∇ × v {\\displaystyle \\nabla \\times {\\boldsymbol {v}}} を渦度(vorticity)という。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "さらに歪み速度テンソルの対角成分を伸縮歪み速度(elongation-contraction rate)、非対角成分をずれ歪み速度(shear stain rate)という。",
"title": "基礎概念"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "連続体の挙動は基礎方程式と呼ばれる微分方程式で記述される。",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "基礎方程式は全ての連続体が満たす保存則と研究対象である物質固有の構成式からなる。",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "本節では連続体が満たす保存則を紹介する。",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "連続体を空間表記したとき、時刻tにおける空間上の点xでの連続体の密度をρ=ρ(x,t)とする。",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "空間内の領域Vを考え、 Vの境界∂V上の微小な面dSとその法線ベクトルnに対し、微小時間ΔtにdSからVの外へ流出する粒子の総質量は ρ v ⋅ n Δ t d S {\\displaystyle \\rho {\\boldsymbol {v}}\\cdot {\\boldsymbol {n}}\\Delta t\\mathrm {d} S} であるので、空間内の領域Vの質量のΔt秒間での増加量は 質量保存の法則より、",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "である。ここで第二の等号はガウスの発散定理より従う。Vの任意性により、連続体は以下の連続の方程式を満たさねばならないことが結論づけられる:",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "(B1)式より、物質微分を使えば連続の方程式は",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "とも書ける。",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "Vを連続体上の(時間変化しない)任意の領域とするとき、運動量保存の法則から以下が成立する:",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "上の式を具体的に書き下すことで、連続体の運動方程式を導出できる。",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "連続体の点xにおける時刻tでの密度をρ=ρ(x,t)とし、速度ベクトルをv=v(x,t)とするとき、",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "であり、",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "である。最後の等式はガウスの発散定理による。ここでv=(v1,v2,v3)である。 体積力をK=(K1,K2,K3)とすると、",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "であり、さらに σ i = ( σ i , 1 , σ i , 2 , σ i , 3 ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {\\sigma }}_{i}=(\\sigma _{i,1},\\sigma _{i,2},\\sigma _{i,3})} とすると、",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "である。最後の等式は再びガウスの発散定理による。",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "Vの任意性より、最終的に連続体の運動方程式は以下のようになる:",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "なお、テンソル ε=(εij)ijに対し",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "と定義すると、上の方程式は",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "と書くこともできる。",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "上の運動方程式と連続の方程式(C1)を用いる事で、運動方程式の物質微分による以下の表現を得ることができる:",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "角運動量が保存する場合、弾性体の各点xで応力テンソルは対称性",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "を満たす。",
"title": "連続体が満たす方程式"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "弾性体(elastic body)とは、各時刻において応力と変形に一意的な関係がある連続体の事を指す。それに対し塑性体(plastic body)とは、応力がある一定の限界を越えると変形が不可逆となり、応力を取り去った後も変形が残る(永久変形)連続体の事を指す。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "弾性体の中で特に、応力テンソルと歪みテンソルが線形な関係式",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "を満たすものを線形弾性体といい、上述の関係式を線形弾性体上のフックの法則という。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "このようなCijklが存在するとき、Cijklを弾性係数(elastic constant)といい、弾性係数を並べたテンソルを弾性係数テンソルという。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "また弾性体の中で、その物理的特性が方向性に依存しないものを等方弾性体(isotropic elastic body)という。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "等方かつ線形な弾性体の弾性係数テンソルは",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "という形で書き表せる事が知られている。定数λとμをラメの弾性定数(Lame's elastic constant)という。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "このとき、(E1)、 (E2)より",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "一方、塑性体は弾性体と違い、応力を加えるときと取り除くときで変形の関係式が異なる弾性履歴という現象が観測される。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "また複雑な分子構造の高分子で物質では応力と変形に時間的なズレが生じ、遅延弾性や応力緩和といった現象が起こる事がある。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "弾性体の場合、弾性体上の各点の運動速度vが小さい。従って連続体の運動方程式(C2)",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "の左辺は物質微分の定義(B1) より",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "であるが、第二項はvに関する二次の微小量であるので無視できる。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "さらにρの時間変化が無視できるほど小さいとすれば、",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "弾性体が等方かつ線形であれば(B3)、 (E3)より 各iに対し、",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "よって等方かつ線形な弾性体の運動方程式は以下のようになる",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "静止状態で任意の点の全ての断面において接線応力が0になる連続体を流体という 。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "静止状態にある流体の任意の点xに対し、 xにおける法線n方向の法線応力は-pnの形に書け、しかもpは xのみに依存し、法線nに依存しない事が簡単に証明できる。 応力-pnを静水圧という。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "pが正のとき静水圧は圧力であり、負のとき静水圧は張力である。流体が気体もしくは熱平衡状態にある液体であれば pは常に正である事が知られているが、準熱平衡状態にある液体ではpが負になる事もありうる。これを負圧といい、樹木による樹液の吸い上げや地面の凍上で観測される現象である。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "運動状態においても接線応力が生じない流体を完全流体という。オイラーの時代には流体はどれも完全流体としてモデル化されていたが、接線応力が無いという事は、運動している流体の中に棒をさしても一切抵抗を受けないという事なので直観に反する(ダランベールのパラドックス)。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "こうした事情から、流体であっても運動している際には抵抗を受けるものとしてモデル化されるようになった。運動している流体の応力が",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "と歪み速度テンソルの一次式で記述できる流体をニュートン流体、そうでない流体を非ニュートン流体という。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "流体の定義から静止状態では接線応力が0なので、Gijは静水圧pを用いて",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "と書ける。さらに流体が等方性を満たせば、弾性体の時と同様の議論により",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "が成立する。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "(F1)、 (F2)、 (F3)より、",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "である。ηをずれ粘性率(shear viscousity)あるいは単に粘性率といい、ζを第二粘性率という。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "定義より体積歪み速度 ∑ i E ̇ i i {\\displaystyle \\sum _{i}{\\dot {E}}_{ii}} は",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "を満たす。 χを体積粘性率(bulk viscousity)という。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "η=ζ=0であれば、運動している場合でも接線応力が0である事になるので、これは流体が完全流体である事を意味する。このため完全流体の事を非粘性流体ともいう。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "等方なニュートン流体であれば (F4)より、 各iに対し、",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "であるので、これを連続体の運動方程式(C2)",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "に代入する事で、等方なニュートン流体の運動方程式が得られる。",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "ηやζは流体の圧力や温度に依存するが、こうした影響が小さいとすれば ηやζは定数だと見なせるので、(F6)の式の右辺は(B3)より",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "となる。ここでΔはラプラシアンである。 よって(F5)よりナビエ・ストークス方程式",
"title": "連続体の分類"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "が従う。",
"title": "連続体の分類"
}
] | 連続体力学とは、物理的対象を連続体という空間的広がりを持った物体として理想化してその力学的挙動を解析する物理学の一分野である。 連続体力学では対象である連続体を巨視的に捉え、分子構造のような内部の微視的な構造が無視できるなめらかなものであり、力を加えることで変形するものとみなす。 | {{Pathnav|[[物理学]]|[[力学]]|frame=1}}
{{古典力学}}
{{連続体力学}}
'''連続体力学'''(れんぞくたいりきがく、{{lang-en|Continuum mechanics}})とは、物理的対象を'''連続体'''という空間的広がりを持った物体として理想化してその力学的挙動を解析する[[物理学]]の一分野である。
連続体力学では対象である連続体を巨視的に捉え、分子構造のような内部の[[微視的]]な構造が無視できる[[微分可能|なめらか]]なものであり、力を加えることで'''変形'''するものとみなす。
==概要==
主な連続体として'''[[弾性体]]'''と'''[[流体]]'''がある{{sfn|巽|1995|p=49}}。
直観的には弾性体とは圧力を取り除くと元の状態に復帰する[[固体]]であり、流体は[[気体]]、[[液体]]、[[プラズマ]]を記述するものである。
連続体力学は物体を空間上の一点に近似して扱う'''[[質点]]の力学'''とは区別され、物体の変形を許容しない'''[[剛体]]の力学'''とも区別される。剛体は、変形しにくさを表す量である[[弾性係数]]が無限大である(すなわち一切変形しない)連続体であるとみなすこともできる{{sfn|巽|1995|p=52}}。
連続体の力学は[[材料力学]]、[[水力学]]、[[土質力学]]といった[[応用力学]]、およびそれらの応用分野である[[材料工学]]、[[化学工学]]、[[機械工学]]、[[航空宇宙工学]]などで用いられる。
==基礎概念==
===連続体の記述方法===
連続体を数学的に記述する方法として二つの表示が知られている。
第一の表示は、視点を空間上の各点に固定して連続体を記述する方法で、時刻 {{Mvar|t}} に空間上の点 {{Mvar|'''x'''}} における物理量 {{mvar|Q}} を
:<math>Q =F(\boldsymbol{x},t)</math>
として記述する方法である。この表示は連続体の'''空間表示'''({{en|spatial description}})、あるいは'''オイラー表示'''('''オイラー記述'''、{{en|Eulerian description}})と呼ばれる。空間表示では連続体の各部分に付随する物理量は[[場]]として記述される。
第二の表示は、連続体上の各部分を時間的に追跡する方法で、時刻 {{math|1=''t'' = 0}} に初期位置 {{math|1='''''x''''' = '''''X'''''{{sub|0}}}} にあった連続体の部分が時刻 {{mvar|t}} において移動している位置を {{math|1='''''x''''' = '''''X'''''(''t'')}} として、この部分に付随する物理量 {{mvar|Q}} を
: <math>Q =F_\text{m}(t; \boldsymbol{X}_0) =F(\boldsymbol{X}(t),t)</math>
により記述する方法である。この表示は連続体の'''物質表示'''({{en|material description}})、あるいは'''ラグランジュ表示'''('''ラグランジュ表記'''、{{en|Lagrangian description}})と呼ばれる。物質表示では連続体の各部分に付随する物理量は時刻 {{mvar|t}} の関数として記述される。各部分の初期位置 {{math|'''''X'''''{{sub|0}}}} は[[媒介変数|補助変数]]である。特に物質表示において速度は
: <math>\boldsymbol{v} =\boldsymbol{v}_\text{m}(t; \boldsymbol{X}_0) =\boldsymbol{v}(\boldsymbol{X}(t), t) =\frac{\mathrm{d}\boldsymbol{X}}{\mathrm{d}t}</math>
を満たす。
連続体を記述する二つの表示と対応して、二種類の時間微分が定義される。
空間表示と対応する時間微分は
:<math>\frac{\partial Q}{\partial t} =\frac{\partial F}{\partial t}</math>
で定義される。空間表示では物理量が場として記述されるため、対応する時間微分は[[偏微分]]である。この微分は'''オイラー微分'''({{en|Eularian derivative}})、{{要出典|'''空間微分'''({{en|spatial derivative}})、'''空間時間微分'''({{en|spatial time derivative}})|date=2019-12}}と呼ばれる。
一方、物質表示と対応する時間微分は
:<math>\frac{\mathrm{D}Q}{\mathrm{D}t} =\frac{\mathrm{d}F_\mathrm{m}}{\mathrm{d}t}</math>
で定義される。物質表示では物理量は時間の関数として記述されるため、対応する時間微分は[[常微分]]である。この微分は'''[[物質微分]]'''({{en|material derivative}})、'''物質時間微分'''({{en|material time derivative}})<ref name="連続体力学">田村武『連続体力学入門』朝倉書店、2000年2月20日初版1刷発行、ISBN 4254201028</ref>、流れに乗って移動するときの微分<ref name="日野流体">日野幹雄『流体力学』朝倉書店、1992年12月10日初版1刷発行、ISBN 4254200668</ref>、'''実質微分'''<ref name="ハンドブック">中村育雄『流体解析ハンドブック』共立出版、1998年3月20日初版1刷発行、ISBN 4320081188</ref>、 '''ラグランジュ微分'''({{en|Lagrangian derivative}})<ref name="巽流体">巽友正 『新物理学シリーズ21 流体力学』 培風館、1982年 4月15日初版発行、ISBN 4-563-02421-X</ref>などと呼ばれる。
これら二つの時間微分は[[連鎖律]]から
:<math>\frac{\mathrm{d}F_\text{m}}{\mathrm{d}t}
=\left[ \frac{\mathrm{d}\boldsymbol{X}}{\mathrm{d}t}\cdot \operatorname{grad} F
+\frac{\partial F}{\partial t} \right]_{\boldsymbol{x}=\boldsymbol{X}(t)}
=\left[ \boldsymbol{v}(\boldsymbol{x},t)\cdot \operatorname{grad} F
+\frac{\partial F}{\partial t} \right]_{\boldsymbol{x}=\boldsymbol{X}(t)}</math>
となる。ここで右辺の括弧の中はオイラー表示で表されているので、オイラー表示におけるラグランジュ微分は
<!--NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1
|indent =:
|equation =<math> \frac{\mathrm{D}Q}{\mathrm{D}t} = \boldsymbol{v}\cdot\operatorname{grad} Q
+ \frac{\partial Q}{\partial t} </math>
{{EquationRef|B1|(B1)}}}}
で表される。
ラグランジュ微分はオイラー微分と違い[[ガリレイ変換]]に対して不変である<ref name="吉澤流体">吉澤徴『流体力学』東京大学出版、2001年9月6日初版発行、ISBN 4130626035</ref>などの利点がある。
===連続体に働く力===
重力のように体積要素{{Math|d''V''}}を使って
: <math>\int_V\rho \mathrm{d}V</math>
のように表記できる力を'''[[体積力]]'''という。それに対して連続体の断面の面積要素{{Math|d''S''}}を使って表現できる力を '''[[面積力]]'''といい、位置{{Mvar|'''x'''}}と面の法線{{Mvar|'''n'''}}を用いて面積力を
: <math>\int_S\boldsymbol{p}_{\boldsymbol{x}}(\boldsymbol{n})\mathrm{d}S</math>
と表記したとき、積分内の{{Mvar|'''p'''{{sub|'''x'''}}('''n''')}}を連続体に働く'''[[応力]]'''という。
応力{{Mvar|'''p'''{{sub|'''x'''}}('''n''')}}は面の法線{{Mvar|'''n'''}}に平行であるとは限らない。例えばゴムでできた柱が重力に負けて横に歪むのは重力に垂直な方向に応力が生じている為である。
応力のうち法線方向の成分を'''法線応力'''、法線と垂直な成分を'''接線応力'''という{{sfn|巽|1995|p=23}}。法線応力が法線と同じ方向の時の法線応力を'''張力'''、反対方向の時の法線応力を'''圧力'''という。
応力を具体的に書き表すため、連続体内に一点{{Mvar|'''x'''}}を取り、微小な[[四面体]]を図のように定義する(本文と図の記号の違いに注意)と、{{Mvar|'''x'''}}の周りの面積力の総和は
: <math>K_S</math><!--mathを分けたのは携帯での表示を改善するため--><math>=\boldsymbol{p}_{\boldsymbol{x}}(\boldsymbol{n})\mathrm{d}S-\boldsymbol{p}_{\boldsymbol{x}}(\boldsymbol{e}_1)\mathrm{d}S_1 -\boldsymbol{p}_{\boldsymbol{x}}(\boldsymbol{e}_2)\mathrm{d}S_2 -\boldsymbol{p}_{\boldsymbol{x}}(\boldsymbol{e}_3)\mathrm{d}S_3 </math> <!--mathを分けたのは携帯での表示を改善するため--><math>=( \boldsymbol{p}_{\boldsymbol{x}}(\boldsymbol{n})-\boldsymbol{p}_{\boldsymbol{x}}(\boldsymbol{e}_1) \cdot \boldsymbol{e}_1 -\boldsymbol{p}_{\boldsymbol{x}}(\boldsymbol{e}_2) \cdot \boldsymbol{e}_2 -\boldsymbol{p}_{\boldsymbol{x}}(\boldsymbol{e}_3) \cdot \boldsymbol{e}_3 )\mathrm{d}S</math>
となる。
[[File:Cauchy tetrahedron.svg|280px|right|thumb|応力の釣り合いを示す四面体。本文とは記号が異なり、図の{{Mvar|O}}、{{Math|d''A''}}、 {{Math|d''A''{{sub|1}}}}、 {{Math|d''A''{{sub|2}}}}、 {{Math|d''A''{{sub|3}}}}はそれぞれ本文の{{Mvar|'''x'''}}、{{Math|d''S''}}、 {{Math|d''S''{{sub|1}}}}、 {{Math|d''S''{{sub|2}}}}、 {{Math|d''S''{{sub|3}}}}に対応している。また図と本文の双方において{{Math|'''e'''{{sub|1}}}}、{{Math|'''e'''{{sub|2}}}}、{{Math|'''e'''{{sub|3}}}}はそれぞれ{{Mvar|x{{sub|1}}}}軸、{{Mvar|x{{sub|2}}}}軸、{{Mvar|x{{sub|3}}}}軸方向の単位ベクトルである。]]
四面体に働く体積力を{{Mvar|K{{sub|V}}}}とすると、力の釣り合いから
:<math>K_S+K_V=0</math>
であるが、四面体の大きさを小さくしていくと、面積力{{Mvar|K{{sub|S}}}}が四面体の一辺の長さの2乗に比例して小さくなっていくのに対し、体積力 {{Mvar|K{{sub|V}}}}はそれより速く一辺の長さの3乗に比例して小さくなっていくので、{{Math|''K''{{sub|''S''}}/d''S''}}は0でなければならない。よって
:<math>\boldsymbol{p}_{\boldsymbol{x}}(\boldsymbol{n})=\boldsymbol{p}_{\boldsymbol{x}}(\boldsymbol{e}_1) \cdot \boldsymbol{e}_1 +\boldsymbol{p}_{\boldsymbol{x}}(\boldsymbol{e}_2) \cdot \boldsymbol{e}_2 +\boldsymbol{p}_{\boldsymbol{x}}(\boldsymbol{e}_3) \cdot \boldsymbol{e}_3 </math>
が成立する。
<math>\boldsymbol{p}_{\boldsymbol{x}}(\boldsymbol{e}_j)</math>の{{Mvar|'''e'''{{sub|i}}}}方向成分を{{Mvar|σ{{sub|'''x'''}}{{sub|ij}}}}とすれば、
<!--NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1
|indent =:
|equation =<math> \boldsymbol{p}_{\boldsymbol{x}}(\boldsymbol{n})=
\begin{pmatrix}
\boldsymbol{e}_1&\boldsymbol{e}_2 & \boldsymbol{e}_3
\end{pmatrix}
\begin{pmatrix}
\sigma_{\boldsymbol{x}}{}_{11}& \sigma_{\boldsymbol{x}}{}_{21} & \sigma_{\boldsymbol{x}}{}_{31} \\
\sigma_{\boldsymbol{x}}{}_{21}& \sigma_{\boldsymbol{x}}{}_{22} & \sigma_{\boldsymbol{x}}{}_{23}\\
\sigma_{\boldsymbol{x}}{}_{13}& \sigma_{\boldsymbol{x}}{}_{23} & \sigma_{\boldsymbol{x}}{}_{33}
\end{pmatrix}
\begin{pmatrix}
n_1\\
n_2\\
n_3
\end{pmatrix}
</math>
{{EquationRef|B2|(B2)}}}}
が成立する。ここで{{Mvar|n{{sub|i}}}}は{{Mvar|'''n'''}}の {{Mvar|'''e'''{{sub|i}}}}方向成分である。
行列 {{Mvar|(σ{{sub|'''x'''}}{{sub|ij}}){{sub|i,j}}}}を連続体の'''[[応力|応力テンソル]]'''という。
===変形と歪み===
力をかけるなどして
連続体が変形し、最初点{{Mvar|'''x'''}}にあった粒子が{{Mvar|t}}秒後に{{Mvar|φ{{sub|t}}('''x''')}}に移動したとする。このとき
:<math> \boldsymbol{r}= \boldsymbol{r}(\boldsymbol{x},t):=\phi_t(\boldsymbol{x})-\boldsymbol{x}</math>
をこの変形の'''[[変位|変位ベクトル]]'''と呼び、[[ヤコビ行列]]
<!--NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1
|indent =:
|equation =<math> D=\left({\partial r_i\over\partial x_j}\right)_{i,j}
</math>
}}
をこの変形の'''変形テンソル'''(deformation tensor)と呼ぶ {{sfn|巽|1995|p=37-43}}。
変形テンソルを対称部分と非対称部分に
<!--NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1
|indent =:
|equation =<math>
\begin{array}{ll}
E_{ij}&={1\over 2}(D_{ij}+D_{ji})\\
F_{ij}&={1\over 2}(D_{ij}-D_{ji})
\end{array}</math>
}}
とわけ、対称部分にあたる{{Mvar|(E{{sub|ij}}){{sub|i,j}}}}を'''[[歪み|歪みテンソル]]'''(strain tensor)という{{sfn|巽|1995|p=37-43}}。
歪みテンソルの対角成分{{Mvar|E{{sub|ii}}}}を'''伸縮歪み'''(elongation-contraction)、反対角成分を'''ずれ歪み'''(shear strain)といい、伸縮歪みの総和
: <math>\sum_iE_{ii}=\nabla\cdot \boldsymbol{r}</math>
を'''体積歪み'''(volume dilatation)という{{sfn|巽|1995|p=37-43}}。
一方、反対称部分である{{Mvar|(F{{sub|ij}}){{sub|i,j}}}}は定義より明らかに
: <math>F_{ij}=-F_{ji}</math>、<math>F_{ii}=0</math>
である。
: <math>\Omega=(\Omega_1, \Omega_2, \Omega_3):=(2F_{23},2F_{31},2F_{12})</math>
と定義すると、
: <math>\Omega=\nabla\times\boldsymbol{r}</math>
である。 {{Mvar|Ω}}をこの変形の'''回転'''もしくは'''回転ベクトル'''という{{sfn|巽|1995|p=37-43}}。
これらのテンソルは、変形を開始した時刻{{Mvar|t{{sub|0}}}}における位置{{Mvar|'''x'''}}と現在の時刻{{Mvar|t}}の関数であるので時間微分した量を計算できる:
<!--NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1
|indent =:
|equation =<math>
\begin{array}{ll}
\left.{ \partial D_{ij}\over \partial t}\right|_{t=t_0}= \left.{\partial\over\partial t}{\partial r_i\over\partial x_j}\right|_{t=t_0}= {\partial v_i\over\partial x_j} \\
\left.{ \partial E_{ij}\over \partial t}\right|_{t=t_0}={1\over 2} \left({\partial v_i\over\partial x_j}+ {\partial v_j\over\partial x_i}\right)\\
\left.{ \partial \Omega\over \partial t}\right|_{t=t_0}=\nabla\times \boldsymbol{v}
\end{array}</math>
{{EquationRef|B3|(B3)}}}}
が成立する。ここで<math>\boldsymbol{v}=(v_1,v_2,v_3)</math>は速度ベクトルである。
<math>{\partial v_i\over\partial x_j} </math>を'''変形速度テンソル'''(deformation rate tensor)、 <math>{1\over 2} \left({\partial v_i\over\partial x_j}+ {\partial v_j\over\partial x_i}\right) </math>を'''歪み速度テンソル'''(stain rate tensor)、 <math>\nabla\times \boldsymbol{v}</math>を'''渦度'''(vorticity)という{{sfn|巽|1995|p=45-46}}。
さらに歪み速度テンソルの対角成分を'''伸縮歪み速度'''(elongation-contraction rate)、非対角成分を'''ずれ歪み速度'''(shear stain rate)という{{sfn|巽|1995|p=45-46}}。
==連続体が満たす方程式==
連続体の挙動は'''[[基礎方程式]]'''と呼ばれる[[微分方程式]]で記述される。
基礎方程式は全ての連続体が満たす'''[[保存則]]'''と研究対象である物質固有の'''[[構成式]]'''からなる。
本節では連続体が満たす保存則を紹介する。
===連続の方程式===
連続体を空間表記したとき、時刻{{Mvar|t}}における空間上の点{{Mvar|'''x'''}}での連続体の密度を{{Math|''ρ''{{=}}''ρ''('''x''',t)}}とする。
空間内の領域{{Mvar|V}}を考え、 {{Mvar|V}}の境界{{Mvar|∂V}}上の微小な面{{Math|d''S''}}とその法線ベクトル{{Mvar|'''n'''}}に対し、微小時間{{Mvar|Δt}}に{{Math|d''S''}}から{{Mvar|V}}の外へ流出する粒子の総質量は<math>\rho\boldsymbol{v}\cdot\boldsymbol{n}\Delta t\mathrm{d}S</math>であるので、空間内の領域{{Mvar|V}}の質量の{{Mvar|Δt}}秒間での増加量は
[[質量保存の法則]]より、
:<math>\int_V {\partial \rho \over {\partial t}}\Delta t \mathrm{d}V=-\int_{\partial V} \rho\boldsymbol{v}\cdot\boldsymbol{n}\Delta t\mathrm{d}S= -\int_V \nabla \cdot( \rho\boldsymbol{v}) \Delta t \mathrm{d}V </math>
である。ここで第二の等号は[[発散定理|ガウスの発散定理]]より従う。{{Mvar|V}}の任意性により、連続体は以下の'''[[連続の方程式]]'''を満たさねばならないことが結論づけられる:
<!--NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1
|indent =:
|equation =<math> {\partial \rho \over {\partial t}} + \nabla \cdot (\rho \boldsymbol{v}) = 0
</math>
}}
{{EquationNote|B1|(B1)}}式より、物質微分を使えば連続の方程式は
<!--NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1
|indent =:
|equation = <math> {\mathrm{D} \rho \over {\mathrm{D} t}} + \rho\nabla \cdot \boldsymbol{v} = 0 </math>
{{EquationRef|C1|(C1)}}}}
とも書ける。
===運動方程式===
{{Mvar|V}}を連続体上の(時間変化しない)任意の領域とするとき、[[運動量保存の法則]]から以下が成立する:
:(単位時間に{{Mvar|V}}に働く[[力積]]の総和)
: = (単位時間に{{Mvar|V}}に流出する運動量の総和)
: + (単位時間に{{Mvar|V}}に働く体積力による力積)
: + (単位時間に{{Mvar|V}}の境界に働く面積力による力積)
上の式を具体的に書き下すことで、連続体の運動方程式を導出できる。
連続体の点{{Mvar|'''x'''}}における時刻{{Mvar|t}}での密度を{{Math|''ρ''{{=}}''ρ('''x''',t)''}}とし、速度ベクトルを{{Math|'''''v'''''{{=}}'''''v'''''('''x''',''t'')}}とするとき、
: (単位時間に{{Mvar|V}}に働く[[力積]]の総和) <math>={\mathrm{d}\over \mathrm{d}t}\int_V \rho \boldsymbol{v}\mathrm{d}V= \int_V {\partial(\rho \boldsymbol{v})\over\partial t}\mathrm{d}V, </math>
であり、
: (単位時間に{{Mvar|V}}に流出する運動量の総和) = {{Mvar|∫{{sub|∂V}}}}(微小面積{{Math|d''S''}}を通って流入した粒子の総質量)・({{Math|d''S''}}の法線方向の粒子の速さ){{Math|d''S''}} <math>=\int_{\partial V}(\rho\boldsymbol{v})\cdot (\boldsymbol{v}\cdot\boldsymbol{n})\mathrm{d}S</math> <!--mathを分けたのは携帯での表示を改善するため--><math>= \int_{\partial V} {}^t(\rho v_1 \boldsymbol{v}\cdot\boldsymbol{n}, \rho v_2 \boldsymbol{v}\cdot\boldsymbol{n},
\rho v_3 \boldsymbol{v}\cdot\boldsymbol{n}) \mathrm{d}S </math> <math>= \int_{V} {}^t(\nabla\cdot(\rho v_1 \boldsymbol{v}), \nabla\cdot(\rho v_2 \boldsymbol{v}), \nabla\cdot(\rho v_3 \boldsymbol{v})) \mathrm{d}V </math>
である。最後の等式はガウスの発散定理による。ここで{{Math|'''''v'''''{{=}}(''v{{sub|1}},v{{sub|2}},v{{sub|3}}'')}}である。
体積力を{{Math|'''''K'''''{{=}}(''K{{sub|1}},K{{sub|2}},K{{sub|3}}'')}}とすると、
: (単位時間に{{Mvar|V}}に働く体積力による力積) = <math>\int_V \rho \boldsymbol{K} \mathrm{d}V </math>
であり、さらに<math>\boldsymbol{\sigma}_i=(\sigma_{i,1}, \sigma_{i,2}, \sigma_{i,3})</math>とすると、
: (単位時間に{{Mvar|V}}の境界に働く面積力による力積) = <math>\int_{\partial V}\sum_{i,j}\sigma_{i,j}n_j\boldsymbol{e}_j \mathrm{d} S </math> <!--mathを分けたのは携帯での表示を改善するため--> <math>=\int_{\partial V}{}^t(\boldsymbol{\sigma}_1\cdot\boldsymbol{n},\boldsymbol{\sigma}_2\cdot\boldsymbol{n},\boldsymbol{\sigma}_3\cdot\boldsymbol{n})\mathrm{d} S </math> <math>= \int_{V}{}^t(\nabla\cdot\boldsymbol{\sigma}_1,\nabla\cdot\boldsymbol{\sigma}_2,\nabla\cdot\boldsymbol{\sigma}_3)\mathrm{d} V</math>
である。最後の等式は再びガウスの発散定理による。
{{Mvar|V}}の任意性より、最終的に'''連続体の運動方程式'''は以下のようになる{{sfn|巽|1995|p=37-43}}:
: {{Math|''i''{{=}}1, 2, 3}}に対し、 <math> {\partial(\rho v_i)\over\partial t} = \nabla\cdot(\rho v_i \boldsymbol{v}) + \rho K_i + \nabla\cdot\boldsymbol{\sigma}_i </math>
なお、テンソル{{Mvar| ε{{=}}(ε{{sub|ij}}){{sub|ij}}}}に対し
: <math>\overrightarrow{\operatorname{div}}\varepsilon=(\sum_j{\partial \varepsilon_{ij}\over \partial x_j})_i</math>
と定義すると、上の方程式は
: <math> {\partial(\rho \boldsymbol{v})\over\partial t} = \overrightarrow{\operatorname{div}}(\rho \boldsymbol{v}\otimes \boldsymbol{v}) + \rho \boldsymbol{K} + \overrightarrow{\operatorname{div}} \sigma</math>
と書くこともできる。
上の運動方程式と連続の方程式{{EquationNote|C1|(C1)}}を用いる事で、運動方程式の物質微分による以下の表現を得ることができる{{sfn|巽|1995|p=35}}:
<!--NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1
|indent =:
|equation = <math> {\mathrm{D} \boldsymbol{v}\over\mathrm{D} t} = \boldsymbol{K} + {1\over \rho} \overrightarrow{\operatorname{div}} \sigma </math>
{{EquationRef|C2|(C2)}}}}
===応力テンソルの対称性===
角運動量が保存する場合、弾性体の各点{{Mvar|'''x'''}}で応力テンソルは対称性
<!--NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1
|indent =:
|equation =任意の{{Mvar|i}}、{{Mvar|j}}∈{1,2,3}に対し<math>\sigma_{\boldsymbol{x},ij}= \sigma_{\boldsymbol{x},ji} </math>
}}
を満たす。
==連続体の分類==
{| class="wikitable"
|rowspan=4|'''連続体力学'''<br/><small>連続体の研究</small>
|rowspan=2|[[固体力学]]<br/><small>外力がない状態で形状を保てる連続体に関する研究<!--←rest shapeをうまく訳せなかったので意訳The study of the physics of continuous materials with a defined rest shape.--></small>
|colspan=2|[[弾性]]<br/><small>圧力を取り除くと元の状態に復帰する性質</small>
|-
|[[塑性]]<br/><small>圧力をかけると永久変形する性質</small>
|rowspan=2|[[レオロジー]]<br/><small>静的[[力学的平衡|平衡]]において[[せん断応力]]に耐えられない物体の研究</small>
|-
|rowspan=2|[[流体力学]]<br/><small>静止状態において[[せん断応力]]が発生しない[[連続体]]([[流体]])<ref name ="今井流体力学">{{cite|和書|author=今井功|title=流体力学(前編)|publisher=裳華房|date=1973年11月25日発行|ISBN=4-7853-2314-0}}</ref>を研究する分野</small>
| style="background-color:white" |[[非ニュートン流体]]:ニュートン流体以外の流体
|-
|colspan=2|[[ニュートン流体]]:[[流れ]]の[[剪断応力]](接線応力)と流れの速度勾配(ずり速度、[[剪断速度]])の関係が線形である[[粘性]]の性質を持つ[[流体]]のこと
|}
===弾性体と塑性体===
'''[[弾性体]]'''(elastic body)とは、各時刻において応力と変形に一意的な関係がある連続体の事を指す{{sfn|巽|1995|p=49-52}}。それに対し'''[[塑性体]]'''(plastic body)とは、応力がある一定の限界を越えると変形が不可逆となり、応力を取り去った後も変形が残る('''永久変形''')連続体の事を指す{{sfn|巽|1995|p=49-52}}。
弾性体の中で特に、応力テンソルと歪みテンソルが線形な関係式
<!--NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1
|indent =:
|equation = <math>\sigma_{ij}=\sum_{kl}C_{ijkl}E_{kl}</math>
{{EquationRef|E1|(E1)}}}}
を満たすものを'''[[線形弾性体]]'''といい{{sfn|巽|1995|p=49-52}}、上述の関係式を線形弾性体上の'''[[フックの法則]]'''という。
このような{{Mvar|C{{sub|ijkl}}}}が存在するとき、{{Mvar|C{{sub|ijkl}}}}を'''[[弾性係数]]'''(elastic constant)といい、弾性係数を並べたテンソルを'''弾性係数テンソル'''という{{sfn|巽|1995|p=49-52}}。
また弾性体の中で、その物理的特性が方向性に依存しないものを'''等方弾性体'''(isotropic elastic body)という{{sfn|巽|1995|p=49-52}}。
等方かつ線形な弾性体の弾性係数テンソルは
<!--NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1
|indent =:
|equation = <math> C_{ijkl} = \lambda\delta_{ij}\delta_{kl}+\mu(\delta_{ik}\delta_{jl}+\delta_{il}\delta_{jk}) </math>
{{EquationRef|E2|(E2)}}}}
という形で書き表せる事が知られている。定数λとμを'''[[ラメ定数|ラメの弾性定数]]'''(Lame's elastic constant)という{{sfn|巽|1995|p=49-52}}。
このとき、{{EquationNote|E1|(E1)}}、 {{EquationNote|E2|(E2)}}より
<!--NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1
|indent =:
|equation = <math> \sigma_{ij}=\lambda\sum_k E_{kk}\delta_{ij}+ 2\mu E_{ij} </math>
{{EquationRef|E3|(E3)}}}}
一方、塑性体は弾性体と違い、応力を加えるときと取り除くときで変形の関係式が異なる'''[[ヒステリシス|弾性履歴]]'''という現象が観測される{{sfn|巽|1995|p=49-52}}。
また複雑な分子構造の高分子で物質では応力と変形に時間的なズレが生じ、'''遅延弾性'''や'''応力緩和'''といった現象が起こる事がある{{sfn|巽|1995|p=49-52}}。
====等方かつ線形な弾性体の運動方程式====
弾性体の場合、弾性体上の各点の運動速度{{Mvar|'''v'''}}が小さい。従って連続体の運動方程式{{EquationNote|C2|(C2)}}
: <math> {\mathrm{D} \boldsymbol{v}\over\mathrm{D} t} = \boldsymbol{K} + {1\over \rho} \overrightarrow{\operatorname{div}} \sigma </math>
の左辺は物質微分の定義{{EquationNote|B1|(B1)}} より
: <math> {\mathrm{D} \boldsymbol{v}\over\mathrm{D} t} = {\partial \boldsymbol{v}\over\partial t} + \boldsymbol{v}\cdot\nabla \boldsymbol{v} </math>
であるが、第二項は{{Mvar|'''v'''}}に関する二次の微小量であるので無視できる。
さらに{{Mvar|ρ}}の時間変化が無視できるほど小さいとすれば、
: <math> {\partial^2 \boldsymbol{v}\over\partial t^2}= {\partial \boldsymbol{K}\over\partial t} + {1\over \rho} \overrightarrow{\operatorname{div}} {\partial \sigma\over\partial t}</math>
弾性体が等方かつ線形であれば{{EquationNote|B3|(B3)}}、 {{EquationNote|E3|(E3)}}より 各{{Mvar|i}}に対し、
: <math> \operatorname{div}(\partial_t \sigma_{ij})_j =\nabla\cdot(\lambda\sum_{k} \partial_t E_{kk} \delta_{ij}+ 2\mu\partial_t E_{ij})_j</math><!--mathを2つに分けたのは携帯での表示を改善するため--> <math>=\nabla\cdot(\lambda \delta_{ij} \nabla\cdot\boldsymbol{v}+\mu (\partial_i v_j+ \partial_j v_i))_j </math> <math>= (\lambda+\mu)\partial_i \nabla\cdot\boldsymbol{v} + \mu \Delta v_j </math>
よって等方かつ線形な'''弾性体の運動方程式'''は以下のようになる{{sfn|巽|1995|p=96}}
<!--NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1
|indent =:
|equation = <math> {\partial^2 \boldsymbol{v}\over\partial t^2}= {\partial \boldsymbol{K}\over\partial t} + {1\over \rho} ((\lambda+\mu)\nabla(\nabla\cdot \boldsymbol{v})+\mu\Delta \boldsymbol{v}) </math>
}}
===流体===
静止状態で任意の点の全ての断面において接線応力が0になる連続体を'''[[流体]]'''という {{sfn|巽|1995|p=52-58}}。
静止状態にある流体の任意の点{{Mvar|'''x'''}}に対し、 {{Mvar|'''x'''}}における法線{{Mvar|'''n'''}}方向の法線応力は{{Mvar|-p'''n'''}}の形に書け、しかも{{Mvar|p}}は
{{Mvar|'''x'''}}のみに依存し、法線{{Mvar|'''n'''}}に依存しない事が簡単に証明できる。
応力{{Mvar|-p'''n'''}}を'''[[静水圧]]'''という{{sfn|巽|1995|p=52-58}}。
{{Mvar|p}}が正のとき静水圧は圧力であり、負のとき静水圧は張力である。流体が気体もしくは熱平衡状態にある液体であれば {{Mvar|p}}は常に正である事が知られているが、準熱平衡状態にある液体では{{Mvar|p}}が負になる事もありうる{{sfn|巽|1995|p=52-58}}。これを'''負圧'''といい、樹木による樹液の吸い上げや地面の凍上で観測される現象である{{sfn|巽|1995|p=52-58}}。
運動状態においても接線応力が生じない流体を'''[[完全流体]]'''という{{sfn|巽|1995|p=52-58}}{{efn2|ここに載せた完全流体の定義は{{sfn|巽|1995|p=52-58}}によるが、定義は分野や書籍によって異なる場合がある。詳細は完全流体の項目を参照されたい。}}。オイラーの時代には流体はどれも完全流体としてモデル化されていたが、接線応力が無いという事は、運動している流体の中に棒をさしても一切抵抗を受けないという事なので直観に反する('''[[ダランベールのパラドックス]]''')。
こうした事情から、流体であっても運動している際には抵抗を受けるものとしてモデル化されるようになった。運動している流体の応力が
<!--NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1
|indent =:
|equation = <math>\sigma_{ij}=G_{ij}+\sum_{kl}G'_{ijkl}\dot{E}_{kl}</math>
{{EquationRef|F1|(F1)}}}}
と歪み速度テンソルの一次式で記述できる流体を'''[[ニュートン流体]]'''、そうでない流体を'''[[非ニュートン流体]]'''という{{sfn|巽|1995|p=52-58}}。
流体の定義から静止状態では接線応力が0なので、{{Mvar|G{{sub|ij}}}}は静水圧{{Mvar|p}}を用いて
{{Equation box 1
|indent =:
|equation = <math>G_{ij}=-p\delta_{ij}</math>
{{EquationRef|F2|(F2)}}}}
と書ける。さらに流体が等方性を満たせば、弾性体の時と同様の議論により
{{Equation box 1
|indent =:
|equation = <math>G_{ijkl}= \zeta\delta_{ij}\delta_{kl} +\eta(\delta_{ik}\delta_{jl}+\delta_{il}\delta_{jk})</math>
{{EquationRef|F3|(F3)}}}}
が成立する{{sfn|巽|1995|p=52-58}}。
{{EquationNote|F1|(F1)}}、 {{EquationNote|F2|(F2)}}、 {{EquationNote|F3|(F3)}}より、
{{Equation box 1
|indent =:
|equation = <math> \sigma_{ij}= (-p+\zeta\sum_{k} \dot{E}_{kk})\delta_{ij}+2\eta \dot{E}_{ij} </math>
{{EquationRef|F4|(F4)}}}}
である。{{Mvar|η}}を'''ずれ粘性率'''(shear viscousity)あるいは単に'''粘性率'''といい、{{Mvar|ζ}}を'''第二粘性率'''という{{sfn|巽|1995|p=52-58}}。
定義より体積歪み速度<math>\sum_i \dot{E}_{ii}</math>は
{{Equation box 1
|indent =:
|equation = <math>
\begin{array}{ll} \sum_i\sigma_{ii} &=3(-p+\chi\sum_i \dot{E}_{ii})\\
\chi&:=\zeta+{2\over 3}\eta
\end{array}</math>
{{EquationRef|F5|(F5)}}}}
を満たす。 {{Mvar|χ}}を'''体積粘性率'''(bulk viscousity)という。
{{Math|''η''{{=}}''ζ''{{=}}0}}であれば、運動している場合でも接線応力が0である事になるので、これは流体が完全流体である事を意味する。このため完全流体の事を'''非粘性流体'''ともいう{{sfn|巽|1995|p=52-58}}。
====流体の運動方程式====
等方なニュートン流体であれば {{EquationNote|F4|(F4)}}より、 各{{Mvar|i}}に対し、
{{Equation box 1
|indent =:
|equation = <math> \operatorname{div}(\sigma_{ij})_j</math> <math> = \nabla\cdot( (-p+\zeta\sum_{k} \dot{E}_{kk})\delta_{ij}+2\eta \dot{E}_{ij} )_j
</math>
{{EquationRef|F6|(F6)}}}}
であるので、これを連続体の運動方程式{{EquationNote|C2|(C2)}}
: <math> {\mathrm{D} \boldsymbol{v}\over\mathrm{D} t} = \boldsymbol{K} + {1\over \rho} \overrightarrow{\operatorname{div}} \sigma </math>
に代入する事で、等方なニュートン流体の運動方程式が得られる。
{{Mvar|η}}や{{Mvar|ζ}}は流体の[[圧力]]や[[温度]]に依存するが、こうした影響が小さいとすれば {{Mvar|η}}や{{Mvar|ζ}}は定数だと見なせるので、{{EquationNote|F6|(F6)}}の式の右辺は{{EquationNote|B3|(B3)}}より
:<math>-\partial_i p +\partial_i(\zeta\nabla\cdot\boldsymbol{v})+\sum_j\partial_j(\eta\partial_jv_i)+ \partial_j(\eta\partial_iv_j) </math> <math>=-\partial_i p + (\zeta+\eta)\partial_i\nabla\cdot\boldsymbol{v} + \eta\Delta v_j</math>
となる。ここで{{Math|Δ}}は[[ラプラシアン]]である。
よって{{EquationNote|F5|(F5)}}より'''[[ナビエ・ストークス方程式]]'''
{{Equation box 1
|indent =:
|equation = <math> {\mathrm{D} \boldsymbol{v}\over\mathrm{D} t} = \boldsymbol{K} - {1\over \rho}\nabla p + (\chi+{\eta\over 3}) {1\over \rho}\nabla(\nabla\cdot\boldsymbol{v}) + {\eta \over \rho} \Delta \boldsymbol{v} </math>
}}
が従う。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|2|group="注"}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
==参考文献==
* {{Cite book|和書
|author=巽友正
|title=連続体の力学
|series=岩波基礎物理シリーズ
|publisher=[[岩波書店]]
|year=1995
|isbn=4-00-007922-0
|ref={{SfnRef|巽|1995}}
}}
*{{Cite book
|first = W. Michael
|last = Lai
|coauthors = David Rubin, Erhard Krempl
|publisher = Elsevier, Inc.
|year = 1996
|title = Introduction to Continuum Mechanics
|edition = 3rd edition
|url = http://www.elsevierdirect.com/product.jsp?isbn=9780750628945
|isbn = 978-0-7506-2894-5}}
*{{Cite book
| first = Y. C.
| last = Fung
| publisher = Prentice-Hall, Inc.
| year = 1977
| title = A First Course in Continuum Mechanics
| edition = 2nd edition
| isbn = 0133183114}}
*{{cite book
| last = Dill | first = Ellis Harold
| title =Continuum Mechanics: Elasticity, Plasticity, Viscoelasticity
| publisher = CRC Press
| date = 2006
| location = Germany
| url = https://books.google.ca/books?id=Nn4kztfbR3AC&rview=1&hl=en
| isbn = 0849397790}}
*{{cite book
| last = Hutter | first = Kolumban
| coauthors = Klaus Jöhnk
| title = Continuum Methods of Physical Modeling
| publisher = Springer
| date = 2004
| location = Germany
| url = https://books.google.ca/books?id=B-dxx724YD4C&hl=en
| isbn = 3540206191}}
*{{cite book
| last = Lubarda
| first = Vlado A.
| title = Elastoplasticity Theory
| publisher = CRC Press
| date = 2001
| url = https://books.google.ca/books?id=1P0LybL4oAgC&hl=en
| isbn = 0849311381 }}
*{{cite book
| last = Lubliner
| first = Jacob
| title = Plasticity Theory (Revised Edition)
| publisher = Dover Publications
| date = 2008
| url = http://www.ce.berkeley.edu/~coby/plas/pdf/book.pdf
| isbn = 0486462900}}
*{{cite book
| last = Mase
| first = George E.
| title = Continuum Mechanics
| publisher = McGraw-Hill Professional
| date = 1970
| url = https://books.google.ca/books?id=bAdg6yxC0xUC&rview=1&hl=en
| isbn = 0070406634 }}
*{{cite book
| last = Mase
| first = G. Thomas
| coauthors = George E. Mase
| title = Continuum Mechanics for Engineers
| publisher = CRC Press
| date = 1999
|edition= Second Edition
| url = https://books.google.ca/books?id=uI1ll0A8B_UC&rview=1&hl=en
| isbn = 0-8493-1855-6 }}
*{{cite book
| last = Nemat-Nasser
| first = Sia
| title = Plasticity: A Treatise on Finite Deformation of Heterogeneous Inelastic Materials
| publisher = Cambridge University Press
| date = 2006
| location = Cambridge
| url = https://books.google.ca/books?id=5nO78Rt0BtMC&hl=en
| isbn = 0521839793}}
*{{cite book
| last = Rees
| first = David
| title = Basic Engineering Plasticity - An Introduction with Engineering and Manufacturing Applications
| publisher = Butterworth-Heinemann
| year = 2006
| url = https://books.google.ca/books?id=4KWbmn_1hcYC&hl=en
| isbn = 0750680253}}
<references/>
==関連項目==
*[[シェイクダウン (連続体力学) ]]
*[[ニュートン力学]]
*[[テンソル]]
*[[非圧縮性]]
*[[クヌーセン数]]
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[[Category:力学]] | null | 2022-07-17T06:33:29Z | false | false | false | [
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3,504 | 黄金の風 | 『ジョジョの奇妙な冒険 Parte5 黄金の風』(ジョジョのきみょうなぼうけん おうごんのかぜ、LE BIZZARRE AVVENTURE DI GIOGIO Parte5 VENTO AUREO)は、荒木飛呂彦による日本の漫画作品『ジョジョの奇妙な冒険』のPart5(第5部)のサブタイトル。イタリアが舞台であるため、本部のみ特別に『Parte5』と表記される。スタンド(幽波紋)シリーズ第3弾。
『黄金の風』は後年に付けられた副題で、連載当時の副題は「第5部 ジョルノ・ジョバァーナ【黄金なる遺産】」となっていた。なお、英語圏での副題は『Golden Wind』として発表されている。以下、本項では第5部の概要について詳述する。
『ジョジョの奇妙な冒険』のジャンプ・コミックス単行本47巻 - 63巻に収録。
舞台は2001年のイタリア、DIOの息子「ジョルノ・ジョバァーナ」(ジョジョ)が、ギャング団「パッショーネ」で憧れのギャングスターへと登りつめて行く姿と、彼の仲間との逃避行を描いた群像劇。
Part4の2年後であり、冒頭で広瀬康一が空条承太郎に仕事を依頼されてイタリアを訪れ、矢やスタンド現象を体験するという形で前シリーズから繋がっている。康一と承太郎は序盤でフェードアウトし、主人公の父親であるDIOも回想シーンや肖像写真で登場するのみで、以後のストーリー展開には影響しない。終盤ではPart3からジャン=ピエール・ポルナレフが再登場する。
この部では「ジョジョ」「JOJO」が「GIOGIO」と表記されている。作者はイタリア語は外来語以外に「J」の用法がないためとしている。イタリアで発売されている翻訳版タイトルは「Le bizzarre avventure di JoJo」となり、ジョジョを外来語扱いで「JoJo」にしている。テレビアニメ版では「JOJO」「Golden Wind」である。
ギャング組織内での抗争であり、前半はボスの命令で主役が行動するが中盤にて離反し、数量面での圧倒的劣勢へとひっくり返る。一縷の望みが、ボスの素顔を暴いて暗殺することである。
本Partにて「スタンドパラメータ」(数値化+解説文)が導入された。完結後に出版された画集『JOJO A-GO!GO!』にて、遡ってPart3・4のスタンドにも設定されるようになった。
荒木によると、Parte5は新しいものへの挑戦として集団劇として描いていると言い、後半の展開からジョルノ個人ではなくチームが主人公にならざるを得なかったと語っている。また本部はそれまでと異なり「哀しみ」をテーマに描いているため、明らかに作風が変わったという。印象に残っている場面としてブチャラティがボスを裏切ることを仲間たちに告げるシーン、アバッキオが死ぬシーン、エピローグの「眠れる奴隷」を挙げており、「眠れる奴隷」は『ジョジョ』の25年間の歴史の中でもシリーズの神髄が表れている印象的なエピソードと語っている。
イタリアのネアポリスに住む少年ジョルノ・ジョバァーナは、ジョースター家の宿敵・DIOの血を継ぐ息子であった。ジョルノは周囲から迫害され、悲惨な少年時代を送っていたが、名前も知らないギャングの男性との出会いを経て「ギャングスター」になるという夢を抱くようになる。
西暦2001年。15歳に成長したジョルノは、イタリアの裏社会を牛耳るギャング組織パッショーネとトラブルになり、組織のブローノ・ブチャラティに襲撃される。2人は同じ能力者、スタンド使いであった。勝利したジョルノは、ブチャラティに「パッショーネのボスを倒し、組織を乗っ取る」という自らの野望を告白し、その想いに共鳴した彼はジョルノを自身のチームに引き入れる。パッショーネは「スタンドの矢」を所持し、多数のスタンド使いを抱えるギャング団であった。
パッショーネに入団したジョルノだったが、正体不明の存在である「ボス」に近づくには組織の中でのし上がっていくことが必要不可欠であった。ジョルノはチームの仲間たちと信頼関係を築いていき、ブチャラティは組織の幹部へと昇格するが、その直後にボスの隠し子である少女・トリッシュ・ウナの護衛任務を命じられる。トリッシュは組織を裏切った暗殺チームに狙われており、ボスはブチャラティに「娘を守れ」と、組織に「裏切者を狩れ」と命令する。ジョルノたちはトリッシュを守りながらボスの待つヴェネツィアを目指す。
だが、ボスのもとに到着したブチャラティはボスの真意が「娘を守ること」ではなく、「娘を自らの手で確実に始末すること」だったと知る。トリッシュを庇ったことから組織を追われる身となったブチャラティは、「ボスを倒す」という意志に賛同した者だけを連れてその場を後にし、ボスは裏切った彼らに追手を差し向ける。
組織を裏切ったジョルノたちが生き残るためには、無数の追手をかわしつつ、ボスの素性を暴き、殺して成り代わるという、無理難題を成し遂げなければならない。追手を退けながらボスを倒す手段を探る過程で、かつて空条承太郎と共にDIOと戦ったスタンド使いジャン=ピエール・ポルナレフから通信が入り、スタンドを進化させることのできる「矢」の存在を知らされたジョルノら一行は、ポルナレフから矢を入手するべく合流地点であるローマのコロッセオへ急ぐ。
しかし、正体を現したボス・ディアボロは先に矢を奪おうと、ポルナレフを急襲する。矢の争奪戦の末、命を落とした仲間たちの遺志を継いで矢を手にすることに成功したジョルノは、矢の力でスタンドを「レクイエム」に進化させ、ディアボロを撃破する。
エピローグでは、生き残った者たちに見守られつつ、ジョルノがパッショーネの新たなボスとして君臨し、第5部の物語は幕を閉じる。この第5部の幕引きを以って、一旦は次の第6部まで休載期間に入る。
スタンドのデータは各単行本より。声の項は黄金の旋風版 / ASB版・EoH版 / テレビアニメ版の順。1つしか記載されていないものは特記ない限りテレビアニメ版でのキャスト。なお、テレビアニメ版以降に発表されたゲーム作品では、テレビアニメ版に準じたキャストが起用されている。
登場人物の名称はイタリア語の料理や食材、スタンドの名称は洋楽のバンド名や曲名、アルバム名などをアレンジしたものが多い。アニメ版の身長は『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風 meets TOWER RECORDS』にて公開された設定資料より。
一部のスタンド名は、『オールスターバトル』以降のゲーム作品とCrunchyrollで配信されているテレビアニメ版の北米版では名前が変更されている。以下では総称して北米版とする。
チーム全員が美形キャラクターである点について、荒木は「SMAPやジャニーズなどを意識していたのだと思う」と回想して語っている。初期メンバーの5人に新入りのジョルノが加わった6人のチームであり、後に護衛対象のトリッシュが加わる。
ギャング組織「パッショーネ」の暗殺専門部隊。人数は9名。仕事の性質上、ボスから「信頼」が得られず、仕事上の命の危険性に反して報酬・地位などの面で冷遇されていたため、ボスの暗殺と組織の麻薬ルート乗っ取りを目論む。ボスの正体を暴くために、娘であるトリッシュを拉致しようとした。テレビアニメ版では序盤で全員が姿を見せた他、ボスから直接報酬が支払われていることが説明されている。また、賭場などの経営が認められず、暗殺の報酬しかもらえないうえに、その報酬が安いことに不満を募らせていた。
いずれもジャンプ ジェイ ブックスから。どちらもフーゴにフォーカスが当たるが、相互ノータッチである。
著者は宮昌太朗、大塚ギチの二名の共作。2001年5月31日初版刊行。
本書は『ジョジョの奇妙な冒険』第5部の時点(2001年)のイタリア・ヴェネツィアを舞台に、ブチャラティチームがギャング組織「パッショーネ」から離反した直後(原作の時間軸では4月2日前後)の物語を描く、オリジナルインサイド・ストーリーである。
主人公は本作オリジナルキャラクターのスタンド使いの少女・コニーリオと、ヴェネツィアからの脱出を試みるブチャラティーチームの面々であり、二者の動向が交互に描かれる形式である。また、チームで唯一組織に残ったパンナコッタ・フーゴも、彼らを狙う刺客の1人として登場する。
イタリアでも2004年に出版された。
括弧内はイタリア語の表記。
『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風』のタイトルで2018年10月から2019年7月まで放送された。
カプコンから2002年7月25日にPlayStation 2用ゲームソフト『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の旋風』が発売されている。 | [
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"text": "西暦2001年。15歳に成長したジョルノは、イタリアの裏社会を牛耳るギャング組織パッショーネとトラブルになり、組織のブローノ・ブチャラティに襲撃される。2人は同じ能力者、スタンド使いであった。勝利したジョルノは、ブチャラティに「パッショーネのボスを倒し、組織を乗っ取る」という自らの野望を告白し、その想いに共鳴した彼はジョルノを自身のチームに引き入れる。パッショーネは「スタンドの矢」を所持し、多数のスタンド使いを抱えるギャング団であった。",
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"text": "パッショーネに入団したジョルノだったが、正体不明の存在である「ボス」に近づくには組織の中でのし上がっていくことが必要不可欠であった。ジョルノはチームの仲間たちと信頼関係を築いていき、ブチャラティは組織の幹部へと昇格するが、その直後にボスの隠し子である少女・トリッシュ・ウナの護衛任務を命じられる。トリッシュは組織を裏切った暗殺チームに狙われており、ボスはブチャラティに「娘を守れ」と、組織に「裏切者を狩れ」と命令する。ジョルノたちはトリッシュを守りながらボスの待つヴェネツィアを目指す。",
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"title": "あらすじ"
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"text": "スタンドのデータは各単行本より。声の項は黄金の旋風版 / ASB版・EoH版 / テレビアニメ版の順。1つしか記載されていないものは特記ない限りテレビアニメ版でのキャスト。なお、テレビアニメ版以降に発表されたゲーム作品では、テレビアニメ版に準じたキャストが起用されている。",
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"text": "登場人物の名称はイタリア語の料理や食材、スタンドの名称は洋楽のバンド名や曲名、アルバム名などをアレンジしたものが多い。アニメ版の身長は『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風 meets TOWER RECORDS』にて公開された設定資料より。",
"title": "登場人物"
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"text": "一部のスタンド名は、『オールスターバトル』以降のゲーム作品とCrunchyrollで配信されているテレビアニメ版の北米版では名前が変更されている。以下では総称して北米版とする。",
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},
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"tag": "p",
"text": "チーム全員が美形キャラクターである点について、荒木は「SMAPやジャニーズなどを意識していたのだと思う」と回想して語っている。初期メンバーの5人に新入りのジョルノが加わった6人のチームであり、後に護衛対象のトリッシュが加わる。",
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"text": "ギャング組織「パッショーネ」の暗殺専門部隊。人数は9名。仕事の性質上、ボスから「信頼」が得られず、仕事上の命の危険性に反して報酬・地位などの面で冷遇されていたため、ボスの暗殺と組織の麻薬ルート乗っ取りを目論む。ボスの正体を暴くために、娘であるトリッシュを拉致しようとした。テレビアニメ版では序盤で全員が姿を見せた他、ボスから直接報酬が支払われていることが説明されている。また、賭場などの経営が認められず、暗殺の報酬しかもらえないうえに、その報酬が安いことに不満を募らせていた。",
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] | 『ジョジョの奇妙な冒険 Parte5 黄金の風』は、荒木飛呂彦による日本の漫画作品『ジョジョの奇妙な冒険』のPart5(第5部)のサブタイトル。イタリアが舞台であるため、本部のみ特別に『Parte5』と表記される。スタンド(幽波紋)シリーズ第3弾。 『黄金の風』は後年に付けられた副題で、連載当時の副題は「第5部 ジョルノ・ジョバァーナ【黄金なる遺産】」となっていた。なお、英語圏での副題は『Golden Wind』として発表されている。以下、本項では第5部の概要について詳述する。 | {{複数の問題
|出典の明記=2019年4月
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{{Otheruses|漫画作品|本作を原作とする[[アクションゲーム]]|ジョジョの奇妙な冒険 黄金の旋風}}
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| タイトル= 黄金の風
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{{Infobox animanga/Manga
| タイトル= ジョジョの奇妙な冒険 Parte5<!--本作のみParte5とイタリア語表示です。「パルテ」と読みます。--><br />黄金の風
| 作者= [[荒木飛呂彦]]
| 出版社= [[集英社]]
| 掲載誌= [[週刊少年ジャンプ]]
| レーベル= [[ジャンプ・コミックス]]
| 開始= 1995年52号
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| 巻数= 全17巻(47 - 63巻)
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『'''ジョジョの奇妙な冒険 Parte5 黄金の風'''』(ジョジョのきみょうなぼうけん おうごんのかぜ、''LE BIZZARRE AVVENTURE DI GIOGIO Parte5 VENTO AUREO'')は、[[荒木飛呂彦]]による[[日本]]の[[漫画]]作品『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』のPart5(第5部)のサブタイトル。[[イタリア]]が舞台であるため、本部のみ特別に『Parte5』と表記される。[[スタンド (ジョジョの奇妙な冒険)|スタンド]](幽波紋)シリーズ第3弾。
『黄金の風』は後年に付けられた副題で、連載当時の副題は「'''第5部 ジョルノ・ジョバァーナ【黄金なる遺産】'''」となっていた。なお、英語圏での副題は『'''Golden Wind'''』として発表されている。以下、本項では第5部の概要について詳述する。
== 概要 ==
『ジョジョの奇妙な冒険』の[[ジャンプ・コミックス]]単行本47巻 - 63巻に収録。
舞台は2001年の[[イタリア]]、[[ディオ・ブランドー|DIO]]の息子「[[ジョルノ・ジョバァーナ]]」('''ジョジョ''')が、[[ギャング]]団「パッショーネ」で憧れのギャングスターへと登りつめて行く姿と、彼の仲間との逃避行を描いた群像劇。
Part4の2年後であり、冒頭で[[ダイヤモンドは砕けない#登場人物|広瀬康一]]が[[空条承太郎]]に仕事を依頼されてイタリアを訪れ、矢やスタンド現象を体験するという形で前シリーズから繋がっている。康一と承太郎は序盤でフェードアウトし、主人公の父親であるDIOも回想シーンや肖像写真で登場するのみで、以後のストーリー展開には影響しない。終盤ではPart3から[[ジャン=ピエール・ポルナレフ]]が再登場する。
この部では「ジョジョ」「JOJO」が「GIOGIO」と表記されている。作者は[[イタリア語]]は[[外来語]]以外に「J」の用法がないためとしている。イタリアで発売されている翻訳版タイトルは「Le bizzarre avventure di JoJo」となり、ジョジョを外来語扱いで「JoJo」にしている。テレビアニメ版では「JOJO」「Golden Wind」である。
ギャング組織内での抗争であり、前半はボスの命令で主役が行動するが中盤にて離反し、数量面での圧倒的劣勢へとひっくり返る。一縷の望みが、ボスの素顔を暴いて暗殺することである。
本Partにて「スタンドパラメータ」(数値化+解説文)が導入された。完結後に出版された画集『JOJO A-GO!GO!』にて、遡ってPart3・4のスタンドにも設定されるようになった。
荒木によると、Parte5は新しいものへの挑戦として集団劇として描いていると言い、後半の展開からジョルノ個人ではなくチームが主人公にならざるを得なかったと語っている<ref>『JOJO A-GO!GO! DISC.3 ARAKI-HIROHIKO』p51</ref>。また本部はそれまでと異なり「哀しみ」をテーマに描いているため、明らかに作風が変わったという。印象に残っている場面としてブチャラティがボスを裏切ることを仲間たちに告げるシーン、アバッキオが死ぬシーン、エピローグの「眠れる奴隷」を挙げており、「眠れる奴隷」は『ジョジョ』の25年間の歴史の中でもシリーズの神髄が表れている印象的なエピソードと語っている<ref>[[SPUR (雑誌)|SPUR]]ムック『JOJOmenon』より。</ref>。
== あらすじ ==
イタリアのネアポリスに住む少年'''ジョルノ・ジョバァーナ'''は、ジョースター家の宿敵・'''DIO'''の血を継ぐ息子であった。ジョルノは周囲から迫害され、悲惨な少年時代を送っていたが、名前も知らないギャングの男性との出会いを経て「[[ギャング|ギャングスター]]」になるという夢を抱くようになる。
西暦2001年。15歳に成長したジョルノは、イタリアの裏社会を牛耳るギャング組織'''パッショーネ'''とトラブルになり、組織の'''ブローノ・ブチャラティ'''に襲撃される。2人は同じ能力者、スタンド使いであった。勝利したジョルノは、ブチャラティに「パッショーネのボスを倒し、組織を乗っ取る」という自らの野望を告白し、その想いに共鳴した彼はジョルノを自身のチームに引き入れる。パッショーネは「スタンドの矢」を所持し、多数のスタンド使いを抱えるギャング団であった。
パッショーネに入団したジョルノだったが、正体不明の存在である「'''ボス'''」に近づくには組織の中でのし上がっていくことが必要不可欠であった。ジョルノはチームの仲間たちと信頼関係を築いていき、ブチャラティは組織の幹部へと昇格するが、その直後にボスの隠し子である少女・'''トリッシュ・ウナ'''の護衛任務を命じられる。トリッシュは組織を裏切った'''暗殺チーム'''に狙われており、ボスはブチャラティに「娘を守れ」と、組織に「裏切者を狩れ」と命令する。ジョルノたちはトリッシュを守りながらボスの待つ[[ヴェネツィア]]を目指す。
だが、ボスのもとに到着したブチャラティはボスの真意が「娘を守ること」ではなく、「娘を自らの手で確実に始末すること」だったと知る。トリッシュを庇ったことから組織を追われる身となったブチャラティは、「ボスを倒す」という意志に賛同した者だけを連れてその場を後にし、ボスは裏切った彼らに追手を差し向ける。
組織を裏切ったジョルノたちが生き残るためには、無数の追手をかわしつつ、ボスの素性を暴き、殺して成り代わるという、無理難題を成し遂げなければならない。追手を退けながらボスを倒す手段を探る過程で、かつて空条承太郎と共にDIOと戦ったスタンド使い'''ジャン=ピエール・ポルナレフ'''から通信が入り、スタンドを進化させることのできる「矢」の存在を知らされたジョルノら一行は、ポルナレフから矢を入手するべく合流地点である[[ローマ]]の[[コロッセオ]]へ急ぐ。
しかし、正体を現したボス・'''ディアボロ'''は先に矢を奪おうと、ポルナレフを急襲する。矢の争奪戦の末、命を落とした仲間たちの遺志を継いで矢を手にすることに成功したジョルノは、矢の力でスタンドを「レクイエム」に進化させ、ディアボロを撃破する。
エピローグでは、生き残った者たちに見守られつつ、ジョルノがパッショーネの新たなボスとして君臨し、第5部の物語は幕を閉じる。この第5部の幕引きを以って、一旦は次の第6部まで休載期間に入る。
== 登場人物 ==
スタンドのデータは各単行本より。[[声優|声]]の項は[[ジョジョの奇妙な冒険 黄金の旋風|黄金の旋風版]] / [[ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル|ASB版]]・[[ジョジョの奇妙な冒険 アイズオブヘブン|EoH版]] / [[ジョジョの奇妙な冒険 (テレビアニメ)|テレビアニメ版]]の順。1つしか記載されていないものは特記ない限りテレビアニメ版でのキャスト。なお、テレビアニメ版以降に発表されたゲーム作品では、テレビアニメ版に準じたキャストが起用されている。
登場人物の名称はイタリア語の料理や食材、スタンドの名称は洋楽のバンド名や曲名、アルバム名などをアレンジしたものが多い。アニメ版の身長は『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風 meets TOWER RECORDS』にて公開された設定資料より{{信頼性要検証|date=2023年8月}}。
一部のスタンド名は、『[[ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル|オールスターバトル]]』以降のゲーム作品と[[Crunchyroll]]で配信されているテレビアニメ版の北米版では名前が変更されている。以下では総称して北米版とする{{Efn2|原作および『黄金の旋風』は北米にて翻訳されていないため。}}。
=== ブチャラティチーム ===
チーム全員が美形キャラクターである点について、荒木は「[[SMAP]]や[[ジャニーズ事務所|ジャニーズ]]などを意識していたのだと思う」と回想して語っている<ref name="yuriika2007_001">{{Cite book|和書 |chapter = 男たちの奇妙な愛情!?『ジョジョの奇妙な冒険の平行世界』 | title = [[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 11月臨時増刊号 総特集☆荒木飛呂彦 -- 鋼鉄の魂は走りつづける |publisher = [[青土社]] |date = 2007-11-25 | page = 32 |isbn = 978-4-7917-0170-4}}</ref>。初期メンバーの5人に新入りのジョルノが加わった6人のチームであり、後に護衛対象のトリッシュが加わる。
; ジョルノ・ジョバァーナ
: 声 - [[朴璐美]] / [[浪川大輔]] / [[小野賢章]]<ref name="ナタリー0705">{{Cite web|和書|date=2018-07-05|url=https://natalie.mu/comic/news/289895|title=「ジョジョ」第5部キャストに榎木淳弥、山下大輝、鳥海浩輔、諏訪部順一|work=[[コミックナタリー]]|publisher=株式会社ナターシャ|accessdate=2018-07-05}}</ref>(少年時代 - [[藤原夏海]])
: 第5部の主人公。父親はジョースター家の宿敵・[[ディオ・ブランドー|DIO]]。
: 街を浄化するために、ギャングスターになる決意を抱いてギャング組織「パッショーネ」に入団する。目的は、組織のボスを倒して地位を奪い取ることである。任務で出会ったボスの娘、トリッシュをめぐる組織の内部抗争が勃発し、己の目的に繋がる戦いに身を投じることとなる。中盤において、ボスに反旗を翻し、仲間と共に組織に追われる身となる。
: スタンドは物体に生命を与える能力を持つ「'''ゴールド・エクスペリエンス'''」。スタンド名は北米版では"Golden Wind"(ゴールデン・ウィンド)と改名されている。
{{main|ジョルノ・ジョバァーナ}}
; {{Anchors|ブローノ・ブチャラティ}}ブローノ・ブチャラティ
: 声 - [[櫻井孝宏]] / [[杉山紀彰]] / [[中村悠一]]<ref name="ナタリー0705" />(少年時代 - [[石上静香]])
: ギャング組織「パッショーネ」のチームリーダーの一人で、ポルポの部下。20歳。身長178センチメートル(アニメでは185センチメートル)・血液型A型。[[おかっぱ]]のように切り揃えた髪に、白地に点が入り多数のジッパーが付いたスーツを着用している。
: 組織に忠実で、チーム内でも厳しく徹しているが実際は強い正義感の持ち主。内に秘めた優しさから周囲の人間からは厚い信頼を得ているが、敵に対しては非情で容赦のない一面もある。
: 7歳の頃に両親が離婚したため漁師の父親と暮らしていたが、あるとき父親が麻薬を巡るトラブルに巻き込まれたことでやむをえずギャングを殺害。12歳という年齢で自らもギャングとなるが、後に所属する組織が麻薬の密売に手を染めていたことを知り、葛藤を抱くようになる。
: 初登場時はジョルノに対して組織が送り込んだ刺客として出逢ったが、彼の「パッショーネのボスを倒し、組織を乗っ取る」という夢に賛同しチームに引き入れた。ポルポの死後、彼が遺した隠し財産を組織に納めて幹部へと昇進。ボスの娘であるトリッシュの護衛を任される。物語中盤、組織を裏切り、ボスに直接対決を挑むが敗北して致命傷を負う。その後、ジョルノが与えた生命力によって奇跡的に肉体は死んでいるが魂だけは生きているという状態のまま行動し続け、最期はボスの手から「矢」を守り、ジョルノに全てを託して天へと昇って行った。エピローグでは、ジョルノと出会う直前の行動が描かれており、その頃からすでにブチャラティの死は運命として決定づけられていたことが明かされている。
: 拳によるラッシュ攻撃時の掛け声と決め台詞は「アリアリアリアリ……アリーヴェデルチ(さよならだ / Arrivederci)」。
: 綴りは "Bruno Bucciarati" であるが、北米展開時の初期には "Bruno Buccellati" (ブローノ・ブチェラッティ)と表記されていたことがある。
:; スティッキィ・フィンガーズ
:: 【破壊力 - A / スピード - A / 射程距離 - E(2m)(アニメ版ではC) / 持続力 - D / 精密動作性 - C / 成長性 - D】
:: ブチャラティのスーツと同じ[[ジッパー]]が体に付いた人型のスタンド。殴った物体にジッパーを取り付け、物体を切断・接着したり、開いたジッパーの中に空間を作ることができる。他人の体にジッパーを付けて内部に隠れる、肉体にジッパーを取り付けて止血や縫合を行ったりパンチの飛距離を伸ばしたりできるほか、ジッパーの開閉を利用して高速で移動したりするなど多数の応用技を見せた。
:: スタンド名の由来は[[ローリング・ストーンズ]]のアルバム「''[[スティッキー・フィンガーズ]]''」<ref name=" Comnavi " >『Comnavi』Vol.3「Interview&Graph」 </ref>。このアルバムのオリジナルLP版には、開閉できる本物のジッパーが付いているという変形ジャケットで、これが能力のモチーフになっている<ref name=" Comnavi "/>。
:: スタンド名は北米版では"Zipper Man"(ジッパー・マン)と改名されている。
; レオーネ・アバッキオ
: 声 - [[稲田徹]] / [[楠大典]] / [[諏訪部順一]]<ref name="ナタリー0705" />
: ブチャラティの部下。21歳。身長188センチメートル・血液型A型。銀色の長髪で唇に薄紫色のルージュを引いている。人をあまり信用しない性格だが、一度認めた人間にはとことん忠義を尽くす。腕っ節はチーム内で1番強いとのこと<ref name="Q&A">コラム「気分はJOJO 最終回SPECIAL!!〜5部Q&A〜」(『週刊少年ジャンプ』、1998年9号)</ref>。
: 元は正義感溢れる[[イタリアの警察|警察官]]だったが、腐敗した社会に失望し、自らも収賄などの悪事に手を染めるようになるが、後に自身の悪事の発覚を恐れて犯人の逮捕を躊躇した結果、アバッキオを庇った同僚を死なせてしまう。この件で汚職が発覚し、何より同僚を死なせてしまった罪悪感から身も心も暗黒に落ち「巨大で絶対的なものの命令」に従うだけのギャングとなった。
: 物語中盤、サルディニア島でボスの正体を探っていた時に、ドッピオの姿で近づいて来たボスの一撃によって胸に大穴が開く致命傷を負う。最期の力でボスの姿を再生したムーディー・ブルースの顔と指紋を石碑に刻み、走馬灯の中で再会した同僚から認められたことでようやく魂が赦され、共に旅立っていった。
: テレビアニメ版では過去エピソードの披露が前倒しされる。警察官時代の新たなシーンも追加され、ブチャラティに出会うまでの様子も描かれる。
:; ムーディー・ブルース
:: 【破壊力 - C / スピード - C / 射程距離 - A(再生中に限る) / 持続力 - A / 精密動作性 - C / 成長性 - C】
:: 人型のスタンド。額にデジタル表示のタイマーがついている。過去の時間を指定することで、そこにいた人間やスタンドに姿を変えて行動をビデオ映像のように再生(リプレイ)できる。再生中は完全に無防備状態になるが、通常時は本体譲りの肉弾戦を得意とする。また、スタンドに対しては特殊能力まではコピーできず、再生が困難になった場合は追跡が途絶え、タイマーがフリーズする。
::アニメ版では電話の発信音のような音を発しながら行動する。
:: デザインはビニールを頭からかぶっているイメージ<ref name="STANDS">『JOJOVELLER完全限定版 STANDS』の荒木飛呂彦によるコメントより。</ref>。
:: スタンド名は北米版では"Moody Jazz"(ムーディー・ジャズ)と改名されている。
; グイード・ミスタ
: 声 - [[伊藤健太郎 (声優)|伊藤健太郎]] / [[赤羽根健治]] / [[鳥海浩輔]]<ref name="ナタリー0705" />
: ブチャラティの部下でチームのムードメーカー。18歳。身長179センチメートル(アニメでは182センチメートル)・体重68キログラム・血液型B型。ファッションは網模様の服と縞のズボン、網と丸点模様の帽子。
: 「単純に生きる」を信条にしており、あるとき暴行されていた女性を助けようとしてチンピラを射殺してしまい投獄されるが、しかしこの手の事件や出来事には常に目を光らせていた、ミスタの正当防衛性と銃の才能を見抜いたブチャラティによって助けられ、「弓と矢の試練」を突破し組織に入団した。性格は常に快活で直情的だが、数字の「[[4]]」を不吉と信じて極度に嫌っており「4」が絡むと途端に弱気になる一面も持つ{{Efn2|過去に「4」にまつわる不幸があり、チンピラを射殺した際も「4発」発砲し、冒険の最中にも「4」がらみで悪いことが起こった。『オールスターバトル』などでもこの「4」のジンクスが特殊仕様として反映されている。}}。
: 撃鉄を覆った六連発式の[[リボルバー]]式拳銃([[S&W M36|M49ボディガード]]五連発拳銃に似た六連発拳銃)を愛用しており、帽子や袖などいたるところに予備の弾丸を隠し持っている。なお、使用している銃自体はスタンド能力ではなくただの道具である{{Efn2|終盤の戦いで愛用のリボルバーが壊れた時には、[[イタリアの警察|警察官]]から奪った[[ベレッタ 92]]自動拳銃を使用した。}}。
:ジョルノがアバッキオの新人いびりを上手くかわして以来、彼のことを気に入っており、ブチャラティを除けばチーム内で一番早くジョルノのカリスマ性に気づき、協力する姿勢を見せた。
: 最終決戦では「ピストルズ」でジョルノたちを援護し、最後まで生き残る。ジョルノがボスとなったシーンでは側近として控えている。
:; セックス・ピストルズ
:: 声 - 伊藤健太郎<ref>[http://amuleto.jp/talents/ItoKentaro.html アミュレートのプロフィールページ]より。</ref> / [[今井麻美]] / 鳥海浩輔<ref>『[[アニメディア]]』2018年12月号、[[学研プラス]]、2018年11月、31頁。</ref>
:: 【破壊力 - E / スピード - C / 射程距離 - 弾丸の届く距離まで(アニメ版ではBに設定されている) / 持続力 - A / 精密動作性 - A / 成長性 - B】
:: 頭が尖っている小人のような群体型スタンドで、空中を飛び回りながら弾丸の操作を行う。発射された弾丸に取り付いて軌道を制御したり、弾丸を弾き飛ばして反射や拡散したりすることも可能となっているが、スタンド自体のパワーは非常に弱く、弾丸よりも重いものを動かすのは苦手。
:: 「ピストルズ」は6人で1チームとなっており普段は弾倉内で待機しているが、スタンドながら食事や睡眠を行うなど人間臭い個性を持っている{{Efn2|「〜匹」と呼ばれるとペット扱いされたと感じて機嫌を損ねる他、食事や昼寝をさせないと働いてくれないとミスタは語っている。}}。No.1はリーダー格、No.2は明るいお調子者、No.3は短気な暴れん坊、No.5は気弱な泣き虫、No.6はクールで冷静、No.7はサブリーダー(指揮をとったのはNo.1の不在時のみ)。ミスタ自身のジンクスから「No.4」はいない。
:: 本体であるミスタとの緻密な連携プレーや、ミスタから離れても自主行動でジョルノたちの援護に回るなどの活躍を見せている。また自立タイプの群体型スタンドである故に本体であるミスタがダメージを負ってもピストルズには反映されない。故にミスタが重傷を負って意識を失っても無傷のまま自らの意志で行動することが可能。
:: 連載時の企画において、読者からの「ミスタの持っている銃でないとスタンドを使用できないのか?」という質問に対し、荒木は「ミスタが撃った銃弾であればどんな銃でもスタンドを使用できるが、ミスタは一発撃てば絶対に命中させられるので、機関銃の類は必要ない」と回答している<ref name="Q&A" />。Part5終了時点の全スタンド88種中、登場回数1位。「意外な1位」とコメントされている<ref>「スタンドギネス」『JOJO A-GO!GO! DISC.2 STANDS』50頁。</ref>。
:: スタンド名は「シックス・ピストルズ」という語呂合わせから来ている<ref name="STANDS" />。
:: スタンド名は北米版では"Six Bullets"(シックス・バレッツ)と改名されている。
; ナランチャ・ギルガ
: 声 - [[瀧本富士子]] / [[三瓶由布子]] / [[山下大輝]]<ref name="ナタリー0705" />
: ブチャラティの部下。17歳。身長164センチメートル(アニメでは170センチメートル)・血液型AB型。小柄な少年で、ヘアバンドのような髪留めを使って髪型を簡易に作っている。
: 幼い頃に母親が病死し、父親には疎まれて育ったため、町の不良仲間とともに日々を過ごしていたが、14歳の頃に友人に罪を擦り付けられて少年院へ収監される。出所後は社会に孤立し浮浪者となっていたが、フーゴとブチャラティによって助けられ、その恩に報いるため密かに「試験」を受け組織に入団した。
: 無邪気で子供っぽい性格だが、満足な教育を受けていないことに劣等感を持っており、教養・知識の無いことを馬鹿にされると、キレて[[ナイフ]]を振り回す。ジョルノより二つ年上で先輩風を吹かすことがあるが、内心ジョルノの才能を認めている。
: ローマの最終決戦では、レクイエムの影響を受けて、魂がジョルノの肉体に入る。戦いが終わったらネアポリスに帰って学校へ行くという決意を話した直後、ボスの「キング・クリムゾン」で隙を突かれ、鉄柵に串刺しにされて殺害された。
: ラッシュ攻撃時の掛け声と決め台詞は「ボラボラボラボラ……ボラーレ・ヴィーア(飛んでいきな / Volare Via)」。
: テレビアニメによると、母の名はメーラ。
: 『[[JORGE JOESTAR]]』では主役の相棒を務める重要人物。パラレルワールドのそっくりさんという位置づけで、スタンドは潜水艦隊になっている。
:; エアロスミス
:: 【破壊力 - B / スピード - B / 射程距離 - 数10m(アニメ版ではB) / 持続力 - C / 精密動作性 - E / 成長性 - C】
:: ラジコンサイズのプロペラ[[戦闘機]]型のスタンド。ナランチャの横に伸ばした両腕を滑走路に見立てて出し入れする。
:: 実在の戦闘機をそのまま小型化したような能力を持ち、プロペラによる飛行や、機銃や爆弾による攻撃、二酸化炭素を探知するレーダーによる索敵などが可能。搭載されている兵器は殺傷力が高く、二酸化炭素のレーダーは生物の呼吸にも反応するため幅広い運用が可能となっているが、スタンド自体の精密動作性が低いため正確な射撃や、生物の分析は苦手としている。ただし二酸化炭素レーダーの分解能は高く、センチ以下で測定できる。
:: スタンドの戦闘機にはパイロットが搭乗しており、名前は「スミス」<ref name="Q&A" />とされている。
:: スタンド名は北米版では"Li'l Bomber"(リル・ボマー)と改名されている。
; パンナコッタ・フーゴ
: 声 - [[三浦祥朗]] / [[小田久史]] / [[榎木淳弥]]<ref name="ナタリー0705" />
: ブチャラティの部下でチームのブレーン。1985年生まれの16歳。アニメ版での身長は178センチメートル。血液型O型。無数の大穴の空いた服と、イチゴ柄のネクタイを着用している。
: 裕福な家に生まれ[[知能指数|IQ]]152相当の頭脳を持っており、13歳で大学に行っていたが、大学教授に対する暴行事件をきっかけに道を外れ、ギャングとなる。チーム内では古株。普段は紳士的だが恐ろしく短気で、些細なことで激昂する暴力的な一面も持つ。ナランチャがチームに入るきっかけを作り、チームでは仕事の傍ら彼の教育係をしている。
: 物語の中盤、組織を裏切ったブチャラティに他のチームメンバーが付いていく中、「理想だけでこの世界を生き抜くことはできない」と主張し、一人チームを離脱した。
: 派生して、『ゴールデンハート/ゴールデンリング』(2001年)、『[[恥知らずのパープルヘイズ]]』(2011年)、テレビアニメ(2018年)があるが、彼の掘り下げられたバックボーンがすべて異なる。原作では過去に起こした暴行事件を起こした理由の詳細は説明されていないが、小説『恥知らずのパープルヘイズ』では教授から亡くなった祖母を罵倒されたことに激怒し、暴行したことになっている。
: テレビアニメ版ではイルーゾォ戦で彼の過去について詳細に掘り下げられている。名門のフーゴ家に生まれるが、幼少期より両親からの過剰な期待と重圧を受け続けたことで、次第に暴力的な感情を溜め込んでいくようになる。大学で師事していた教授が男色家だった上、テスト問題をリークしてやるなどと言いながら性的関係を迫ったため、自分の努力や才覚を否定されたと感じたフーゴは逆上し持っていた辞書で教授を暴行してしまう。一族を勘当されてストリートチルドレンとなってからブチャラティと出会い、ちょうど自分のチームを作りたいと思っていた彼に誘われる。フーゴは自分の性格や境遇を話したうえで固辞したが、それらすべてを受け入れてくれたブチャラティの人柄に感銘を受け、パッショーネへと入団した。離脱のシーンについては「正しい馬鹿にはなれない」と、ブチャラティの行動は正しいと理解しながらも組織に忠誠を誓うことを決断。自身の判断を悔やみながらに仲間を見送るという内容に変更された。
:; パープル・ヘイズ
:: 声 - なし / [[江川央生]] / 榎木淳弥
:: 【破壊力 - A / スピード - B / 射程距離 - C / 持続力 - E / 精密動作性 - E / 成長性 - B】
:: 人型のスタンド。ローマの甲冑を着ており<ref name="STANDS" />、半透明のバイザーで顔を覆い、口は糸で縫われ常に涎を垂らしている。拳に搭載された数個のカプセルから「殺人ウイルス」を周囲にばら撒く。このウイルスに感染するとあらゆる生物はおよそ30秒ほどで全身が腐り死んでしまう。本体であるフーゴでさえもウイルスに感染すれば死亡し、解除することもできない<ref name="Q&A" />。ウイルスは光に弱く、夜でも[[懐中電灯|ライト]]の光程度の強さで数十秒ほどの照射で殺菌される。解説によればウイルスは成長もする。
:: アバッキオからは「本体の凶暴さを具現化したような能力」と評される。スタンド自身も自我を持ち、知性は低く凶暴性が高いが、体についた自分の涎を拭き取るなど綺麗好きな一面もある。本体であるフーゴ自身にも制御しきれないため、作中で登場したのはイルーゾォの「マン・イン・ザ・ミラー」戦の一度きりである。
:: スタンド名は北米版では"Purple Smoke"(パープル・スモーク)と改名されている。
; トリッシュ・ウナ
: 声 - [[夏樹リオ]] / [[東山奈央]] / [[千本木彩花]]
: パッショーネのボスの娘。1986年4月19日生まれ。15歳。身長163センチメートル・血液型A型。[[四則演算]]の記号がプリントされたパレオのような服を着ている。ボスが組織に君臨する以前に出来た子供で、ボス自身も存在を知らなかった。両親の馴れ初めの地であるサルディニア島で{{Efn2|「カーラ・ディ・ヴォルペ(Cala di Volpe)」という実在の観光地。}}、母と2人で暮らしていたが、母が病死する前に父親(ボス)探しを組織に依頼したことでボスにその存在を知られることとなる。ボスに不満を持っていた者からは謎の多いボスを倒すための鍵と認識され、組織内の抗争に巻き込まれたがボスの指示でペリーコロに保護され、ブチャラティチームに護衛されることとなる。
: [[潔癖|潔癖症]]かつ高飛車な性格で当初はわがままな振る舞いが多かったが、内心では父親との関係に戸惑いを覚える繊細な一面もある。父親であるボスが己の保身のため、自分を殺害しようとしていることを知り、ショックを受けるが、ブチャラティたちと共に父親を打倒することを決意、旅に同行する。当初はスタンド使いではなかったが、旅の中で精神的に成長していったことで後にスタンド能力に目覚める。
: チームリーダーであるブチャラティや、境遇の近いナランチャと会話をする機会が多い。
: 『恥知らずのパープルヘイズ』では名前だけ登場しており、職業が歌手でデビュー仕立てだった頃に騒動に巻き込まれたこと、物語終盤でラジオ出演していた時に「心の整理のために長期間イタリア中を旅していた」と誤魔化していたことが語られている。
: 名前の由来はスーパーモデルの[[トリッシュ・ゴフ]]<ref name="Q&A" />。本誌および単行本では、一部トリッシュ・ウノと誤記されているページも存在した。
:; スパイス・ガール
:: 【破壊力 - A / スピード - A / 射程距離 - C / 持続力 - B / 精密動作性 - D / 成長性 - C】
:: どんな物質も柔らかくできる女性型スタンド。ボスのキング・クリムゾンと似た模様が体表にある。柔らかくできる範囲は弾性のあるゴム状から不定形に近いレベルまで自在で、柔らかくなった物はスパイスガール以外決して切断や破壊をする事ができない。曰く「柔らかいという事はダイヤモンドよりも壊れない」。
:: 自我のあるタイプのスタンドで、本体であるトリッシュとは対等の友人のような関係である。生まれつきスタンドの才能があったトリッシュは他のスタンドが見え、スパイスガールもずっと存在していたが、精神的に未熟だったため発現しておらず、トリッシュが刺客たちとの戦いを通して成長したことによってスタンドとして現れた。普段は敬語で喋るが、戦闘になるとガラが悪くなり、本体譲りの激しい気性が露呈してくる。拳でのラッシュ攻撃時は「WAANNABEEEEE(ワァァナビィィィー)」と叫ぶ。
:: デザインには[[ネコ|猫]]と四則演算が取り入れられている<ref name="STANDS" />。
:: スタンド名は北米版では"Spicy Lady"(スパイシー・レディ)と改名されている。
=== 暗殺チーム ===
ギャング組織「パッショーネ」の暗殺専門部隊。人数は9名。仕事の性質上、ボスから「信頼」が得られず、仕事上の命の危険性に反して報酬・地位などの面で冷遇されていたため、ボスの暗殺と組織の麻薬ルート乗っ取りを目論む。ボスの正体を暴くために、娘であるトリッシュを拉致しようとした。テレビアニメ版では序盤で全員が姿を見せた他、ボスから直接報酬が支払われていることが説明されている。また、賭場などの経営が認められず、暗殺の報酬しかもらえないうえに、その報酬が安い{{Efn2|アニメ版で追加されたホルマジオによる暗殺の際に、ギアッチョが報酬がいくらかを聞いた際にメローネが2,000万[[イタリア・リラ|リラ]]と答えている。なお2001年時点での為替レート(1リラ=0.05 - 0.06円程度)で2,000万リラを日本円に換算すると、100万 - 120万円程度にしかならない。}}ことに不満を募らせていた。
; リゾット・ネエロ
: 声 - [[根岸朗]] / [[黒田崇矢]] / [[藤真秀]]
: 暗殺チームのリーダー。28歳。アニメ版では身長195センチメートル。シチリア出身。白目と黒目が逆転したような目をしている。18歳の頃に飲酒運転でいとこを殺した犯人を殺害し、それが切っ掛けで裏の世界に身を投じた経緯がある。
: 盗難飛行機の墜落情報から、ブチャラティたちの目的地が[[サルディニア島]]であると悟る。既に仲間全員を失っており、復讐に燃える。そこでドッピオと遭遇し、さらに彼がスタンド使いでありボスに近しい人物と気付き、攻撃を仕掛ける。死闘の末、片足を斬り飛ばされながらも彼を追い詰めるが、ドッピオの主人格であるディアボロの策略でエアロスミスに攻撃されて致命傷を負う。今際の際に一矢報いようとしたものの、キング・クリムゾンの能力には敵わず死亡した。しかし最後の最後まで諦めず、結果的に敵の手にかかることを拒んだその生き様・死に様には、ディアボロも敬意を表した。
: 原作では、仲間が全員死んだ後に最後の一人として登場する。テレビアニメ版では登場が前倒しされ、チームリーダーとしての描写が増える。また、作中の出来事の裏で、いつ何をしていたのかという足取りもはっきりとわかっている。
:; メタリカ
:: 【破壊力 - C / スピード - C / 射程距離 - 5〜10m / 持続力 - A / 精密動作性 - C / 成長性 - C】
:: 鉄分を磁力により操作する群体のスタンド。非常に小さく、本体の体内に潜んでいるという珍しいタイプ。「ロォォド」という鳴き声を上げる。鉱石などに含まれている砂鉄などを刃物に作り変えて攻撃する他、射程距離内の相手の血液中の鉄分を刃物などに作り変えることで、体内から攻撃することができる。目視できないが効果は標的までの直線状に発動し、リゾット自身から近い順に効果が現れ、発動の際には僅かな磁力が発生する。標的は攻撃を受けるうちに体を内から裂かれたための多量の出血と、体内の鉄分を減らされることで結果的に酸素欠乏症となり、行動不能に陥る。また、砂鉄を身に纏うことで周囲の風景に溶け込むこともでき、高い攻撃力と隠密性を兼ね備えた、暗殺向けの能力といえる。切断された部位を、血液中の鉄分を利用し接着することもできる。
:: デザインのイメージは[[細胞]]や[[赤血球]]および『[[ムーミン]]』に登場する[[ムーミンの登場人物#生物|ニョロニョロ]]<ref name="STANDS" />。
:: スタンド名は北米版では最後の「a」が省略され、"Metallic"(メタリック)に改名されている。
; ホルマジオ
: 声 - [[岸祐二]] / なし / [[福島潤]]
: 暗殺チームの一人。アニメ版では身長178センチメートル。口癖は「しょうがねえなあ」。坊主頭に剃り込みを入れた粗野な出で立ちや気だるげな口調とは裏腹に勘が鋭く、知略にも長けた人物<ref name=animation>{{Cite web|和書|url= http://jojo-animation.com/character/|title= CHARACTER|TVアニメ『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風』公式サイト|publisher= |date= |accessdate= 2020-05-30}}</ref>。「スタンド能力の「くだる」「くだらない」とは知恵の使い様」という持論を持つ。
:買い出しに出たナランチャを襲撃、拷問して隠れ家の場所を吐かせようとする。自身のスタンド能力を「知恵の使い様」で最大限に活かし、ナランチャやエアロスミスの行動から能力を推察して見破るなど、知略家ぶりを見せたが、キレたナランチャの後先考えない激しい攻撃によって返り討ちにあい敗北、ブチャラティチームのこれからの過酷な未来を暗示するかのような捨て台詞を残して死亡。
: アニメ版では暗殺シーンが追加されており、スタンド能力で小さくした車をターゲットの飲み物の中に仕込んで飲み込ませ、その後縮めた車を元の大きさに戻して腹を破裂させるという方法で暗殺の任務を実行している。また、ソルベとジェラートが行方不明になり、チーム全員で捜索している中で、その推察力で二人が監禁された場所に辿り着き、ジェラートの死体を発見する。[[ホルマリン]]漬けの額縁を並べてそれが輪切りにされたソルベだと分かると、余りの凄惨さに恐怖して絶叫していた。
:; リトル・フィート
:: 【破壊力 - D / スピード - B / 射程距離 - E / 持続力 - A / 精密動作性 - D / 成長性 - C】
:: 人型のスタンド。人差し指の刃で切りつけた相手の身体と身に付けている物をどんどん縮小させていくスタンド。一度この能力にかかると相手がどこに逃げようと、スタンドの射程距離にかかわらず無限に縮んでいく。身につけている物に関しては対象から離れた時点で縮小は止まる。縮小させるのには時間がかかるが、能力が解除されたときには一瞬で元の大きさに戻る。また、自分自身を一瞬で自由に縮小させることも可能。
:: スタンド自体の破壊力は低いが、エアロスミスの機銃掃射を捌ききるだけのスピードは備えている。また人差し指の刃は対象を縮小させずに斬りつけることも可能である。
:: デザインは[[エンキ・ビラル]]の作品に登場するロボットをイメージしている<ref name="STANDS" />。
:: スタンド名は北米版では"Tiny Feet"(タイニー・フィート)と改名されている。
; イルーゾォ
: 声 - 根岸朗 / [[中井和哉]] / [[成田剣]]
: 暗殺チームの一人。アニメ版では身長188センチメートル。通称・鏡のイルーゾォ。鱗のような模様の服と連ねたおさげ髪が特徴的な男。
: 高慢かつ狡猾な性格で<ref name=animation/>、常に自分が相手より優位な立場で物事を進めることを好む。自身のスタンド能力には絶対の自信を持っている一方で、それが原因で相手を侮り不測の事態を招くこともある。
: [[ポンペイ]]の遺跡を訪れたジョルノらを待ち受け、1人ずつ順番に襲撃し、鏡の中へ引きずり込んでいく。しかし、ジョルノが自らパープル・ヘイズの殺人ウイルスに感染しながら鏡の中へ入ってきたことで自身もウイルス感染し、感染した腕部分を切り離して鏡の外へ脱出するも、現実世界で待ち受けていたパープル・ヘイズに捕まり死亡した。その身体はウイルスによって消滅し、同時にスタンド能力も解除された。
: テレビアニメ版では、オリジナルシーンとして、ホルマジオの能力を「くだらねースタンド」と軽口を叩いて見下す一方で自身の能力を「ここぞという時のためのもの」と評すなど高慢さが強調されている。
: 小説『恥知らずのパープルヘイズ』では、過去にシーラEの姉を殺害していたことが明らかになっている。
:; マン・イン・ザ・ミラー
:: 【破壊力 - C / スピード - C / 射程距離 - C(「鏡の中」の世界では数百m(B)) / 持続力 - D / 精密動作性 - C / 成長性 - E】
:: 顔にゴーグルを着けた人型のスタンド。「鏡の中の世界」を作り出し、あらゆる鏡を出入り口としてその中に出入りする。「鏡の中の世界」は全ての物が左右反対になっている「死の世界」であり、イルーゾォが「許可」したもの以外は出ることも入ることもできず、物を動かしたりすることもできない{{Efn2|ただし、鏡の外で周囲の物体に何らかの変化があると、「鏡の中の世界」でも連動して変化が起こる。また、イルーゾォ以外の人物が衣服を着たまま動けているのは、「生命エネルギーのイメージ」として本人の一部と見做されているため。}}。
:: 「鏡の中の世界」の構築とそこに標的を引き込むことにエネルギーを集中させているためスタンド自身の戦闘力はあまり高くなく、スタンド同士での肉弾戦は不得手。必要に応じて鏡の破片を凶器として使用することもある。「鏡の中の世界」で丸腰の人間を相手にすることが前提であるため力負けすることはほとんどないが、総じて殺傷力の高いスタンドを持つ暗殺チームの中では直接的な殺傷効果を持たず、また敵を閉じ込めるための持続力も弱いスタンドでもある。
:: スタンド名の由来は[[マイケル・ジャクソン]]の楽曲「''[[マン・イン・ザ・ミラー]]''」<ref name="STANDS" />。デザインのイメージはヴェネツィアの仮面<ref name="STANDS" />。
:: スタンド名は北米版では"Mirror Man"(ミラーマン)と改名されている。
; プロシュート
: 声 - [[うすいたかやす]] / [[寺島拓篤]] / [[鈴木達央]]
: 暗殺チームの一人。アニメ版では身長178センチメートル。通称・プロシュート兄貴{{Efn2|単行本にあるスタンド紹介の本体名には「プロシュート兄貴」と書かれている}}。スーツに身を包み、髪を撫でつけた短髪の男性。
: 目的のためなら一瞬も惑わない覚悟をもち、無関係の人間をも躊躇なくスタンド攻撃に巻き込む冷徹さを持つ。その一方で、弟分のペッシに対しては「[[マモーニ|マンモーニ]](ママっ子)」と叱り付けつつも、精神的な成長の大切さを説くなど兄貴肌の面倒見の良い性格<ref name=animation/>。
: [[フィレンツェ]]行きの[[特急列車]]内で、ブチャラティチームを列車の乗客ごと始末しようとするが、ブチャラティとの交戦の末に車外に転落。しかし、瀕死の重傷を負いながらも列車にしがみつき、スタンド能力を解除せずにペッシにその「覚悟」を見せつけ、彼を成長させた後に死亡。
: テレビアニメ版では仲間の面子を考えずミルクを飲むペッシに「だからお前はマンモーニだってんだ」と窘めたり、輪切りにされたソルベが収められた額縁を並べる際に強く拒否反応を示したペッシに平静を保ちながら「黙ってろ!」と叱りつけるシーンが追加されている。
:; ザ・グレイトフル・デッド(偉大なる死)
:: 【破壊力 - B / スピード - E / 射程距離 - 列車一本程度は十分(アニメ版ではBに設定されている) / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - C】
:: 全身に無数の目玉を持った姿のスタンド。人型に近いが上半身のみで下半身はなく、脚のように太い二本の腕で歩行する。胴体の断面からはケーブル状の触手が垂れ下がっている。能力が発動している間、周囲の生物や触れた相手を急激に[[老化]]させることができる。老化は本体であるプロシュートを除き敵味方問わず無差別に効果が発揮され、やがて老衰死させる。老化の速度は対象の体温が低いほど遅くなり、氷などで体を冷やせば老化を防ぐこともできる。なお、老化にエネルギーを集中させているため、スタンド自体は素早い動きは苦手としている。
:: デザインのイメージは全身に目がある妖怪<ref name="STANDS" />。
:: スタンド名は『オールスターバトル』以降のゲーム作品の北米版では"Thankful Dead"(サンクフル・デッド)、テレビアニメ版の北米版では"The Thankful Death"(ザ・サンクフル・デス)と改名されている。
; ペッシ
: 声 - [[西村朋紘]] / [[ふくまつ進紗]] / [[木村昴]]
: プロシュートと行動を共にする弟分。アニメ版では身長165センチメートル。頭頂部だけ逆立てた髪が特徴の若い男で、服には釣り針を左右に2個並べたような独自のマークがいくつもついている。気が弱く臆病な性格で<ref name=animation/>、暗殺チームであるにもかかわらず、今まで一度も人を殺したことがなかったとのこと。プロシュートからは、その精神的な弱さを度々叱咤されている一方で、五感の鋭さや潜在能力の面においては高く評価されている。
: 初めは臆病で自信の無いしがないチンピラだったが、瀕死の状態でもなお攻撃を止めないプロシュートの「覚悟」を見て未熟から脱し、冷酷な暗殺者へと成長、そして自分のことを「マンモーニ」と馬鹿にした乗客を殺害した。その後、五感の鋭さと暗殺者としての「覚悟」を駆使しながらブチャラティを追い詰めるが、死闘の末に僅差で首を折られて敗北する。致命傷を負いながらも、老化したジョルノたちを道連れにしようとしたが、スティッキィ・フィンガーズのラッシュで全身をバラバラにされて死亡した。
: テレビアニメ版ではホルマジオが暗殺するビジネスに同行しており、[[エスプレッソ]]が胃に合わずミルクを飲んでいることをプロシュートから「格好がつかなくなる」と窘められていた。ホルマリン漬けの額縁に収められた指についていたのがソルベがいつもしている[[ペディキュア]]と同じ色であることを見抜いた。
:; ビーチ・ボーイ
:: 【破壊力 - C / スピード - B / 射程距離 - 糸の距離{{Efn2|『JOJO A-GO!GO!』ではC<ref>『JOJO A-GO!GO! DISC.2 STANDS』98頁。</ref>、『JOJOVELLER』<ref>『JOJOVELLER完全限定版 STANDS』172頁。</ref>およびアニメ版ではBに設定されている。}} / 持続力 - C / 精密動作性 - C / 成長性 - A】
:: 髑髏形のリールがついた釣竿状のスタンド。その釣り糸や釣り針は、標的以外の全てを水のように透過し、釣り上げた標的を内側から切り裂く。また、釣り針を通して周囲の状況や食い込んだ標的の身体的特徴を細かく察知できる。一度釣られてしまうと、釣り糸を切ろうとしても糸を伝って衝撃が釣られた者に跳ね返ってきてしまうため容易に逃れることはできなくなる。
:: スタンド自体に自立性はなく、パワーや精密動作性はペッシ自身の腕力や操作技術に大きく依存するが、釣られた相手は竿の弾性によって極度に体力を消耗するため、よほど地力に差がない限り力比べで負けることは稀である。
:: スタンド名は北米版では"Fisher Man"(フィッシャー・マン)と改名されている。
; メローネ
: 声 - [[木内秀信]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=木内秀信の公式サイト|url=http://www.bee-nice.com/profile/past.html|title=過去の作品|accessdate=2012-09-30}}</ref> / [[野島健児 (声優)|野島健児]] / [[間島淳司]]
: 暗殺チームの一人。アニメ版では身長174センチメートル。片目が隠れた半透明のマスクに露出度の高い服、薄紫{{Efn2|ゲーム版などでは金髪。}}の髪が特徴の男。口癖は「ディ・モールト{{Efn2|本来の[[イタリア語]]では会話の際にこの言い方はしない(話し言葉としては不自然な表現)ので、本作がイタリア語に訳された際は、自然な言葉に差し替えられている。}}(非常に)!」。一見すると紳士的で物腰も柔らかいが、実際はかなり屈折した性格と歪んだ性癖の持ち主であり、女性に対して異常な執着を見せる{{Efn2|いきなり女性に近づいて生年月日・血液型・健康状態・性的嗜好を偏執的に調べようとする、近づいた女性から平手打ちを食らっても悦び手を舐めるなど。}}。これらの言動には、後述のスタンド能力のためという理由付けがある。
: 列車で採取したブチャラティの血を組み込んだスタンドに一行を追跡させ、ブチャラティとトリッシュを捕らえて一度はジョルノを瀕死にまで追い込んだが、ジョルノが自らのスタンド能力を応用して「破損した肉体を修復する」能力に目覚めたことで形勢が逆転し、追跡に使用したバイクでベイビィ・フェイスを撃破されてしまう。直後にメローネ自身もジョルノが放った「スタンドの残骸から生まれた毒蛇」に噛まれ、死亡する。
: テレビアニメ版では屈折した性格が強調され、普段は博識で落ち着いた言動を取りながらも、女性を見ると一変して舌舐めずりしながら生唾を飲み込み、他のメンバーから唖然とされている。
: キャラクターのイメージはヴェネツィアの仮面<ref name="STANDS" />。
:; ベイビィ・フェイス
:: 【破壊力 - A / スピード - B / 射程距離 - A / 持続力 - A / 精密動作性 - 教育次第 / 成長性 - 教育次第】
:: 【破壊力 - 教育次第 / スピード - 教育次第 / 射程距離 - 教育次第 / 持続力 - 教育次第/ 精密動作性 - 教育次第 / 成長性 - 教育次第】(テレビアニメ)
:: ノートパソコンから手足が生えたような『親』と、母体となる女性の体を分解、再構成して「出産<ref>『JOJOVELLER完全限定版 STANDS』175頁。</ref>」される『息子』で構成されるスタンド。『息子』はスタンド自体が知能を持った遠隔自動操縦型でパワーと射程距離に優れるが、さらにメローネが育成・教育することで標的の追跡や精密な動作も可能となる。『息子』は母体となる女性の肉体を媒体にして実体化しているため、倒されてもメローネ本体にダメージは無く、母体を調達すれば何度でも新たに生み直すことが可能となる。
:: 「息子」は物体をブロック状に分解させ、組み替えることで別の物体に作り変える能力を持つ。これにより周囲の物への擬態や、敵の身体の一部を奪い取り、欠損させてダメージを与えることが可能となる。『親』を介して本体であるメローネが行動を指示できるが、「[[チャット]]のように交信を行うため、メローネからは戦況が分かりづらい」「教育を間違えると暴走する危険がある」といった弱点がある。
:: 今回の個体はブチャラティと相性の悪い血液型がO型(と勝手に推測された)の女性・'''アニータ'''(声 - [[杉山里穂]]){{Efn2|原作では無名であったが、テレビアニメ版ではエンディングクレジットにて名前が付けられた。}}を母体とした、[[非行少年]]的な性格で誕生した。初期こそ従順だったものの、ジョルノとの戦闘で劣勢に追い込まれるごとに、メローネの指示に従わなくなっていく。最終的に「キレた」ことで急成長を果たし、完全にメローネの指示を無視して戦うも、自らが追跡に使ったバイクの部品と融合させられて体内から爆破され、消滅した。
:: デザインのイメージは広瀬康一のスタンド「エコーズACT3」の悪い版および悪魔少年<ref name="STANDS" />。
:: スタンド名は北米版では"Babyhead"(ベイビィヘッド)と改名されている。
; ギアッチョ
: 声 - 西村朋紘 / 鈴木達央 / [[岡本信彦]]
: 暗殺チームの一人で眼鏡が特徴。アニメ版では身長171センチメートル。些細な疑問や不満に対して異常に反応し、唐突に怒り狂う凶暴かつ神経質な性格。任務においては機転が利く上に執念深く<ref name=animation/>、何度も追跡を振り切られそうになりながらもミスタやジョルノを追い詰めている。
: 自殺したペリーコロのそばに落ちていた写真の燃えカスを復元し、ブチャラティチームの行き先が[[ヴェネツィア]]だと特定。ボスからの指令により、[[ヴェネツィア・サンタ・ルチーア駅|サンタ・ルチア駅]]前に隠された[[光磁気ディスク|OA-DISC]]の回収に向かうジョルノとミスタの自動車を襲撃する。2人を追い詰め、ジョルノたちよりも先にDISCを奪うことに成功するが、ミスタの捨て身の覚悟で尖った鉄柱に首を撃ち込まれ、最後は復活したジョルノのラッシュで完全にのどを貫かれ絶命した。
: テレビアニメ版ではキレやすい性格が描写され、事あるごとに周囲に当たり散らしていた。自分たちのチームが組織内でナンバー1だと自負しており、そのため相応に値する報酬額をもらえないことに対し、「もっといい目を見て当然」と誰よりも不満を露わにしていた。
:; ホワイト・アルバム
:: 【破壊力 - A / スピード - C / 射程距離 - C / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - E】
:: 極低温を操る能力を持ち、水分を凝固させた[[スピードスケート]]用スーツのような装甲で本体を覆うという珍しいタイプのスタンド。極低温は敵やスタンドすらも瞬時に凍結させ破砕するが、能力を解除すれば一瞬で融ける。スーツ内部は周囲の温度と無関係に適温が保たれているが強度は高く、ゴールド・エクスペリエンスのラッシュや拳銃の弾丸程度は軽く防ぎ、破損もすぐに再生する。通気口の役目を果たす首の後ろの穴が唯一の死角となっているが、空気を凍らせて内部に取り込んでから溶かす、という方法により通気口をなくすことも可能。さらに、空気を凍らせて自身の周囲に無数の氷の壁を作り、弾丸などの攻撃を反射する防御技「ジェントリー・ウィープス(静かに泣く)」を使うこともできる。
:: スタンド名は北米版では"White Ice"(ホワイト・アイス)と改名されている。
; ソルベ
: 声 - [[佐々木義人 (声優)|佐々木義人]]
: 暗殺チームの一人。ジェラートと気味が悪いくらい仲が良い。2人でボスの正体を探ろうとしたが、それがボスの逆鱗に触れてしまい、体を生きたまま足元から輪切りにされて殺された上{{Efn2|テレビアニメ版ではシルエットで隠れた2人組の内の一人によって輪切りにされている。}}、[[ホルマリン]]漬けにされて36枚の額縁に収められる「処刑」を受けた。彼の死は他の暗殺チームメンバーに「自分への反逆が何を意味するのか」をまざまざと知らしめることとなり、トリッシュの存在が浮上するまでは事実上首輪をつけられた状態となっていた。スタンド能力についての言及は無く詳細不明{{Efn2|name="SOLJE"|『JOJO A-GO!GO! STANDS』120ページにて、スタンド使いだと断定はできないが、他状況を見ると彼らもおそらくスタンド使いと推測できる、と分析されている。}}。
: テレビアニメ版ではチームの中で1番金にがめつく、仕事報酬の席には必ず参加するという設定が追加され、また他のメンバーからは彼とジェラートが参加しなかったことからボスの正体を暴こうとして逆に拉致されたと推測された。ジェラートと揃いのペディキュアをしていた。
; ジェラート
: 暗殺チームの一人。ソルベと共にボスの正体を探ろうとしたため一緒にボスに捕まる。ソルベが惨殺される光景を目にし、余りのショックと絶望から猿轡を飲み込んでしまい窒息死した。彼の遺体にはただ一言「罰」とだけ書かれた張り紙を貼られ、ボスからの「自分の正体を探る者はこうなる」というメッセージとされた。
: スタンド能力についての言及は無く詳細不明{{Efn2|name="SOLJE"}}。
=== ボスの親衛隊 ===
; スクアーロ
: 声 - 木内秀信 / [[森訓久]] / [[前野智昭]]
: パッショーネの「ボス」の親衛隊の一人。ティッツァーノと共にヴェネツィア市内でブチャラティチームを襲撃する。二人組で攻撃役を担当。やや感情的な性格で冷静さを失いやすく、その度にティッツァーノに諭される。敵の言動や戦況から油断や動揺をする場面が多く描かれていたが同時に粘り強くもあり、エアロスミスの攻撃によってかなりのダメージを負いながらも最期までブチャラティチームの始末を諦めなかった。
: 「トーキング・ヘッド」に取り憑かれたナランチャを利用して、他のメンバーを順次始末しようと計画するが、ナランチャに正体を見破られる。クラッシュが攻撃できるようにティッツァーノが身を挺してエアロスミスの機銃を受けて死んだことに激昂、ボスではなくティッツァーノのためにブチャラティチームを壊滅させることを決意する。しかし、それでも怯まなかったナランチャのエアロスミスのラッシュを受け敗北、ブチャラティチームの精神力の強さを理解できないまま死亡した。
:; クラッシュ
:: 【破壊力 - D / スピード - A / 射程距離 - B / 持続力 - A / 精密動作性 - A / 成長性 - C】
:: 魚類の姿をした遠隔操作のスタンド。鋭い歯を持ち、水から水へ瞬間移動して相手を攻撃する。水以外でもスープや血液などの液体であれば移動が可能。サイズとパワーは可変で、転移先の水の量に相関して縮小拡大する。劇中では最小で涙、最大でヴェネツィアの運河に移動していた。密閉された水へは移動できず一回で移動できる距離も数メートル程度なのが弱点で、近くに水がない場所では一気に不利になる。
:: 作中では「[[サメ]]のような」と称されているが、デザインのイメージは古代の[[甲冑魚]]であるという<ref name="STANDS" />。
:: スタンド名は北米版では綴りが"Clash"から"Crush"に変更されている。
; ティッツァーノ
: 声 - [[石野竜三]] / なし / [[津田健次郎]]
: 親衛隊の一人。スクアーロと共にヴェネツィア市内でブチャラティチームを襲撃する。二人組で支援役を担当。冷静沈着な頭脳派で、感情的なスクアーロのブレーキ役も担う。
: ナランチャにスタンドを取り付かせてブチャラティチームを攪乱するが、自分の舌を切り落としたナランチャを見て動揺したせいで正体を見破られ、エアロスミスの弾丸からスクアーロを庇って死亡する。スクアーロを庇ったのは、自分の返り血をナランチャに浴びせることで、スクアーロのスタンドが瞬間移動してナランチャを殺せるようにするという覚悟の行動であった。
:; トーキング・ヘッド
:: 【破壊力 - E / スピード - E / 射程距離 - B / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - E】
:: 対象の舌に取り付き、その者が発しようとするあらゆる言葉の正反対のことを表現させるスタンド。能力は口述だけでなく記述にも及ぶが、この場合は正反対ではなく意味不明なものに変換されていた。スタンドを一時的に解除して言動を正常に戻すことも可能で、これを巧みに織り交ぜながら相手を撹乱する。また、対象の舌を操って物を掴んだりすることも可能。
:: 完全な非戦闘型のスタンドであり自由に移動させることもできないため、これを相手の舌に貼り付けることができて、かつ攻撃に特化したスタンドと組むことが前提の能力である。
:: デザインのイメージは[[タコ]]の吸盤と[[エイリアン (架空の生物)|エイリアン]]の幼生<ref name="STANDS" />。
:: スタンド名は北米版では"Talking Mouth"(トーキング・マウス)に改名されている。
; カルネ
: 声 - [[阪口大助]]
: ボス親衛隊の一人。不気味な風貌の太った男で、作中ではセリフを発していない。サルディニア島に向かおうと空港を訪れたブチャラティたちの前に正面切って現れるもミスタにあっけなく射殺される。その後、自身のスタンド「ノトーリアス・B・I・G」が死に際の恨みのエネルギーによって無敵の怨霊と化す。サルディニア島行きの飛行機内でジョルノ、ナランチャ、ミスタなど次々に襲って戦闘不能にするが、スタンド能力に目覚めたトリッシュの機転で飛行機の墜落に巻き込まれた。その後、ティレニア海に投棄されたことで、永遠に海面の波飛沫や通りかかった船を攻撃するだけの存在となった。
:; ノトーリアス・B・I・G{{Efn2|「B・I・G」は当初「ビー・アイ・ジー」や「ビッグ」と混同にルビが振らされていたが、文庫版では「ビッグ」に統一されている。}}
:: 【破壊力 - A / スピード - ∞ / 射程距離 - ∞ / 持続力 - ∞ / 精密動作性 - E / 成長性 - A】
:: 近くにあるもののうち「最も速く」動いているものを、それを上回る速さで優先的に追尾し攻撃する自動追尾型スタンド。人間やスタンド、飛行機の燃料など様々なエネルギーを吸収し、肥大化する。また、既に本体が存在しないために、航行中の飛行機にさえ追いつくほどの無限大のスピードと射程距離を持つ。
:: 「最も速く」動いているものよりも遅い速度で攻撃することでダメージを与えることは可能だが、動いているものを恐ろしい勢いで次々取り込むこのスタンド相手にその条件を満たすのが難しいうえに、僅かな欠片とエネルギーがあれば即座に再生するため、完全に消滅させることは極めて困難。また止まっているものに当たった場合もダメージを負う。
:: このスタンドは、本体であるカルネ自身が死亡したことで発動したと説明されているが、カルネはミスタに射殺される直前に人型のノトーリアス・B・I・Gを出しかけており、生前にスタンドが使えたのかについてははっきりしていない。
:: スタンドと同名のアメリカのラッパー「[[ノトーリアス・B.I.G.]]」も本作連載中の1997年にカルネと同じく射殺されており、作者が『週刊少年ジャンプ』巻末のコメント欄でそのことについて触れている<ref>『週刊少年ジャンプ』1997年36号</ref>。
:: スタンド名は北米版では"Notorious Chase"(ノトーリアス・チェイス)に改名されている。
; チョコラータ{{Efn2|登場話の後期では名前が「チョコラート」と表記されていた。文庫版以降は「チョコラータ」に統一されている。}}
: 声 - 石野竜三 / [[内田直哉]] / [[宮内敦士]]
: ディアボロの切り札の一人。34歳で元医者。菌類を思わせる形状をした緑色の髪と、不気味なメイクを施した顔が特徴。暴走しがちな能力と本人の性格が危険視されて、行動を制限されていた。
: 本編の2年前に医療ミスで患者を死なせ病院を解雇になった所を組織に拾われたが、実態は人の死や痛みを観察するのを楽しみとする好奇心旺盛で猟奇的な殺人鬼であり、患者も意図的に死に追いやっていた極悪非道そのものの男{{Efn2|無差別に他者を殺傷する能力を見たジョルノは「悪の限界のない男」と評し、ボスにすら「最低のゲス」、「本来は生かしておきたくはなかった」といわれた。}}。医者を志したのも合法かつ効率的に死や痛みを観察できるからに過ぎず、人間が本来持っているはずの良心や道徳、倫理や罪悪感が完全に欠落している。その一方、医療の知識と技術は常軌を逸しており、人体実験での経験はジョルノとの戦いで活用され、医療器具と薬物とスタンド能力を駆使しながら自身の身体を解体・分離して攻撃し、その後は形だけ再接合するという奇策に用いている。
: 歪んだ性格は少年時代からの生来のものであり、表向きは頭脳明晰な優等生として老人介護のボランティアに参加するなどしていたが、その裏で寝たきりの老人たちを人体実験に利用した挙句心身共に虐待して自殺に追い込んでおり、愉悦のために医者になることを決めた。
: 他者を一切信用しておらず、唯一セッコだけに多大な信頼を寄せている。また野心が強く、ジョルノたちを始末した後は、そのままボスも殺して成り代わろうとした{{Efn2|一方で、ボスも用が済めばセッコも一緒に始末するつもりでいた。}}。アバッキオによって顔を暴かれたボスが、ハイリスクを承知しつつ解き放つ。手始めに漁村の市民を全滅させ、ローマに甚大な被害を出しながらもブチャラティチームを死の一歩手前まで追い詰めるが、過剰な慢心さが仇となってしまい、ピストルズNo.5の活躍とジョルノの機転により敗北。最期はジョルノによって、7ページ半(雑誌掲載時では、掲載ページによる影響で5ページ半のみの掲載だった)に渡る「無駄無駄」ラッシュを打ち込まれ、[[ゴミ収集車]]の中まで吹き飛ばされ死亡した。
: この時のシーンが、類例の[[スターダストクルセイダース|Part3]]での空条承太郎などと共に、[[ジョジョの奇妙な冒険 (テレビアニメ)|テレビアニメ版Part1]]のオープニング「ジョジョ〜その血の運命〜」の映像に盛り込まれている。
: テレビアニメ版ではシルエットだけ先行登場しており、ソルベとジェラート処刑の実行犯が彼だということが示唆されている。また彼の過去についても詳細に描かれ、麻酔を弱くして手術中に目覚めた患者の体から腸を取り出して見せつけたり、自殺した老人の姿を邪悪な笑みを浮かべながらビデオで撮影していた。
: またテレビアニメ版31話で描かれた最後の「無駄無駄」ラッシュのシーンは、上記の承太郎が放った約20秒のオラオララッシュを上回る約30秒に渡る描写となったが、「無駄無駄原画」とクレジットされた原画担当者6名を配して制作された(6名とも、31話全体の原画担当としてもクレジットされている)。総作画監督の石本峻一によれば、31話の制作に入る前に、アクションを得意とするアニメーターを配したほうがよいという流れで配置が決まったという<ref>{{Cite web|和書|title=今回、31話入る前に…|url=https://twitter.com/shunishimoto/status/1131990690714415104|website=@shunishimoto|date=2019-05-24|accessdate=2019-05-28|language=ja|first=|publisher=|author=石本峻一}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アニメ『ジョジョ』の「無駄無駄―」話題 “無駄”だけの該当シーンは原画スタッフ別動員&小野賢章30秒連呼|url=https://www.oricon.co.jp/news/2136249/full/|website=ORICON NEWS|accessdate=2019-05-28}}</ref>。
:; グリーン・ディ
:: 【破壊力 - A / スピード - C / 射程距離 - A / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - A】
:: サボテンのような姿をした人型のスタンド。頭部や頚部に無数のパイプのようなものがあり、そこからスタンドカビを散布する。このカビには、現在の位置より少しでも低い所に降りると急激に繁殖して、痛みも無いまま肉を腐らせる性質がある。現在の位置から高い所へ移動し続けることで繁殖を食い止めることはできるが、カビ自体が生きているためゴールド・エクスペリエンスによる治療も難しく、根絶するには本体のチョコラータを叩くしかない。スタンド自体の属性は近距離パワー型であり、ゴールド・エクスペリエンスを圧倒するなど接近戦にも強い。劇中ではカビを用いて無関係の人間をも巻き込んで無差別攻撃を行っていたが、チョコラータに同行していたセッコはカビの浸食を受けず、チョコラータ自身は傷口の止血に利用している。攻撃に用いた場合のカビの繁殖速度は凄まじく、早ければほんの数秒で人間を殺すことも出来る上、犠牲者の死体を媒体として無制限に攻撃範囲が広がって行くという、チョコラータの一点の良心も持たない残忍非道な性格が反映されている。カビは生物であれば何でも朽ちさせることができるが、死んでいるものや元から生きていない物質にはカビは生えず、カビに侵された生物も死亡した時点で侵食が止まる。そのため、既に死体になっていたブチャラティにはカビは生えなかった。加えてあくまで生物であるため、スタンドは浸食できない。
:: 原作中ではスタンドの上半身しか映るシーンがなかったが、[[PlayStation 2]]用のゲーム『黄金の旋風』での登場に際して、原作者が下半身部分を描き下ろしており、キノコの傘を上下逆にしたような形状で這って移動する。アニメではアイキャッチのスタンド紹介で、人間と同じ2本の足が描かれた。
:: スタンド名は北米版では"Green Tea"(グリーン・ティ)と改名されている。
; セッコ
: 声 - うすいたかやす / [[下野紘]] / [[KENN]]
: ディアボロの切り札の一人。チョコラータの元患者ということ以外の素性は一切不明。ディアボロ曰く「考えの読めない男」で、チョコラータ共々にゲス呼ばわりされている。
: チョコラータの言うことしか聞かず、彼の投げた角砂糖を口でキャッチし、留守録の声にすら泣いて喜ぶなど、ペットのように振舞っているが、実は饒舌で計算高い性格の持ち主。チョコラータに従っていたのは彼の下につけば安心できるという思惑からであり、彼が敗れたことを知ると掌を返して罵倒を始めた。また、常人離れした五感の持ち主で、数十メートル以上も離れた場所からポルナレフが双眼鏡を持ったり車椅子に乗る姿を肉眼で捉えたり、ブチャラティとの戦闘では距離を正確に図りながら追い詰めるなど、知的な場面も目立つ。しかし、頼みの綱である五感を破壊されると激しく動揺する。
: チョコラータの遺言からブチャラティたちの目標の「コロッセオにいる男」(ポルナレフ)の存在を知り、彼から秘密(矢の力。後にレクイエムと判明する)を奪い、ボスを倒してトップになりかわろうと暴走する。地下を泳げる能力と優れた聴力でブチャラティを苦戦させるも、逆利用されて大ダメージを受け、さらにジッパーで自らの手とノドとを繋がれ、自分のノドを液状化して自滅。チョコラータと共にゴミ収集車送りとなった。
: テレビアニメ版ではシルエットだけ先行登場する。ソルベがチョコラータに輪切りにされていく様子をビデオカメラで撮影していた。
:; オアシス
:: 【破壊力 - A / スピード - A / 射程距離 - B / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - C】
:: 身に纏う形のスタンド。周囲のあらゆるものを泥化させる。これを利用して地中にダイブし、自身の進行上の全ての物を液状化した地面に飲み込む。敵や物質を液状化した地中に引きずり込んだり、液状化させて破壊することもできる、また、ある程度距離が離れれば、液状化した物も再び固体化するため、液状化した石を口に含み雨のように吹き付けることで即興の遠距離攻撃も可能である。セッコ自身の「原始的な才能」がそのまま発現したものであるとされ、セッコ自身の恐ろしく鋭い聴力がソナーとなって、地中でも方向を誤ることがない。ヒジで地面を打ってドロ化し、その反動を利用してパンチを繰り出すことで、ブチャラティの「スティッキィ・フィンガーズ」をもしのぐパワーとスピードでラッシュを繰り出すこともできる。真価はチョコラータ自身の能力との組み合わせによって発揮される。
:: スタンド名は北米版では"Sanctuary"(サンクチュアリ)と改名されている。
=== パッショーネの重要人物 ===
; ディアボロ
: 声 - [[宮本充]] / [[森川智之]] / [[小西克幸]]
: イタリアの裏社会を牛耳るギャング組織「パッショーネ」の「'''ボス'''」として頂点に君臨する男。その人物像は組織内ですら徹底的に秘匿されている謎の人物。スタンドは時間を消し飛ばす能力を持つ「キング・クリムゾン」。二重人格で「ドッピオ」という別の魂と姿を持っており、隠れ蓑に暗躍する。
: スタンド名は北米版では"Emperor Crimson"(エンペラー・クリムゾン)と改名されている。
{{main|ディアボロ (ジョジョの奇妙な冒険)}}
:; ヴィネガー・ドッピオ
:: 声 - 宮本充 / [[石田彰]] / [[斉藤壮馬]]
:: 十代の少年。性格は小心者で、キレると凶暴さが見えるものの、ギャングにはまったく見えない。
:: その正体は、「ボス」ディアボロが持つ、もう一つの人格・魂。ドッピオは己の二重人格を知らず、自分はボス最大の腹心であると思いこんでいる。魂が肉体に作用して、ディアボロのときとドッピオのときで外見上の顔や体格がまるで別人に切り替わる。ディアボロの隠れ蓑であり、ドッピオはボスから(妄想の)電話で指示を受けて行動する。
:: ボスのスタンド能力「キング・クリムゾン」を借りて、限定的に使用することができる。最大の真価たる、時を飛ばして回避するという能力を使うことができない。
:: テレビアニメ21話では、役名が「電話の声」になっている。
{{main|ディアボロ (ジョジョの奇妙な冒険)}}
; ポルポ
: 声 - 岸祐二 / なし / [[石川英郎]]
: 組織「パッショーネ」のネアポリス地区幹部。とてつもない肥満体の巨漢。身動きできない自分の身を護るため、ワザとネアポリス刑務所に入っており、そこから外部に指示を出している。刑務所の刑務官にも影響力があり、独房は高級食材や著名作家の絵画、果ては爆弾や銃器の所有までも許されるなど、完全に[[スイートルーム]]と化している。ボス直々の命令を受けることがあり、それも「スタンド使いに関する任務のみ」という特別な立場にあった。
: 普段は知的でユーモアを交えた話し口をしているが、その本性は冷酷かつ他人を完全に見下したもの。
: パッショーネへの入団希望者の試験官も務めている。課題の内容は一定ではないそうだが、ジョルノのときは「ポルポより点火状態で渡されたライターの炎を24時間消火しないよう守る」という信頼試験であった。遂行中に発現したスタンド「ブラック・サバス」が無関係の老人の命を奪ったことで、ジョルノの怒りを買う。ジョルノの入団を認めた際に、独房内の拳銃一丁がゴールド・エクスペリエンスの手で密かにバナナに変化されられており、翌日にそのバナナを食べようとして自ら拳銃の引き金を引いて死亡。
: 検視捜査では完全に自殺とされ、組織内でも自殺を疑われなかった。ブチャラティだけはジョルノが何かをしたと察しているようではあったが「ポルポは死んで当然のことをしていた男だからな」と詮索しなかった。
: 6億円(テレビアニメ版では100億リラ)の隠し財産を持っており、ブチャラティに命じて安全な所に隠させていた。
: テレビアニメ版ではギアッチョの台詞からネアポリス地区を主とする賭場の運営を一任されていたことが語られており、莫大な資産を持っていた模様。
:; ブラック・サバス
:: 【破壊力 - E(押さえつける力はA) / スピード - A / 射程距離 - A / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - E】
:: 影の中を自在に移動し、捕えた人間の魂またはスタンドを引きずり出して、口内に内蔵されたスタンドの才能を引き出す「矢」で突き刺すスタンド。才能が無い人間の魂は「矢」に貫かれると死亡する。上述のポルポのライターの炎が消えた後に「再点火」した際に発生する影から出現し、再点火を見たものを無差別に攻撃するように設定されている。完全な自動操縦タイプで、発動そのものがポルポの意思とは無関係であり、たとえ破壊されようとポルポには一切ダメージは伝わらないどころか、スタンドが戦っていることにすら気づくことはない。日光が弱点であり、日光に曝されると蒸発するように消えるが、たとえ倒したとしても一時的に姿を消すだけであり、ライターを再点火すると何度でも現れる。
:: デザインのイメージは映画『[[カサノバ (1976年の映画)|カサノバ]]』に登場するような[[ヴェネツィア・カーニバル|ヴェネツィアの仮装カーニバル]]の衣装と[[死神]]<ref name="STANDS" />。
:: スタンド名は北米版では"Shadow Sabbath"(シャドウ・サバス)と改名されている。
; ペリーコロ
: 声 - 伊藤健太郎 / なし / [[辻親八]]
: 組織「パッショーネ」の老幹部。ブチャラティの上納金(ポルポの遺産)を受け取りにカプリ島に現れ、彼の幹部への昇進を告げると共に、ボスからの指令「娘の警護」の任務を与えた。スタンド能力はない。
: 組織に忠実で、最後はミスター・プレジデントの中で秘密保持のために自殺した。なお彼の自殺は命令によるものだが、組織(ボス)のおかげで余生を謳歌できた彼に迷いはなく、笑顔のまま死んでいった。本人のメッセージによると、後始末は何も知らない部下に任せたようである。
: ブチャラティに心底慕われる幹部であったようで、ムーディ・ブルースで自殺の様子が「再生」された時は哀しみと苦悩の表情を見せていた。
: 小説『恥知らずのパープルヘイズ』ではフルネームがヌンツィオ・ペリーコロとされており、ジャンルッカという名の息子がいたことも明らかになっている。
=== その他の構成員 ===
; ルカ
: 声 - 西村朋紘<ref>{{Cite book|和書|year=2002-09-04|title=ジョジョの奇妙な冒険 黄金の旋風のすべて|page=292|publisher=[[集英社]]|isbn=978-4087791884}}</ref> / なし / [[濱野大輝]]
: ネアポリス地区のメンバー。かつて喧嘩の際にナイフを深く刺された後遺症で常に右目に涙が滲むようになったため、「涙目のルカ」の異名を持つ。凶器として[[シャベル|スコップ]]を常に持ち歩き、チューリップが描かれた服を着ている。恨みを持たれるタイプの性格であり、チンピラ同然のことを繰り返しているため、ミスタたちからも快く思われていなかった{{Efn2|ナランチャがルカのことを嫌いだと言った際、誰もそれを否定せず、ブチャラティもそのことを肯定しつつも同じパッショーネの組員なので、そのようなことを言わないようにとたしなめている。}}。空港でジョルノからショバ代を奪おうとするも逆らわれて激昂し、彼の生みだしたカエルごとスコップで殴りつけた直後、その衝撃を脳天に反射されたことで再起不能となり、ポルポによってブチャラティに犯人捜索の命が下される。
: その後に死亡したことが明らかになり、遺体の眼球や指はブチャラティが犯人を目撃したと睨んだジョルノへの尋問に使われる。死亡の経緯について、ブチャラティは重体で見つかった後に組織によって始末されたとジョルノに語っているが、ミスタたちにルカのことを話した際には変死体で見つかったと語っている。
; マリオ・ズッケェロ
: 声 - 石野竜三 / なし / [[高橋伸也 (声優)|高橋伸也]]
: ローマ地区のメンバー。はれぼったい唇と巻貝のような髪型が特徴。ポルポの遺産を狙い、相棒サーレーと共にブチャラティチームを追跡する。
: ブチャラティチームが乗船したヨットに、自らの能力で萎ませたもう一隻のヨットを被せ、自身はその隙間に潜む。一人ずつ倒して人質にとっていくも、最後のブチャラティにからくりを見抜かれて船を沈められそうになったことで、姿を現す。人質を用いた脅迫に出るも、ブチャラティは屈さず、逆に倒され捕らえられる。ミスタに拷問を受けるも、仲間のことは口を割らなかった(アバッキオの能力により仲間の存在がバレるが、ズッケェロ自身はサーレーを売っていない)。その後は気絶したままヨットに放置された。
: Parte5のその後を書いた小説『恥知らずのパープルヘイズ』では生存していたことが明らかになっているが、麻薬チームの討伐任務中に死亡する。
: アニメ版では運転免許証が映るシーンがあり、生年月日が1976年6月21日であることが判明している。
:; ソフト・マシーン
:: 【破壊力 - A / スピード - C / 射程距離 - E / 持続力 - A / 精密動作性 - D / 成長性 - E】
:: 手にしたレイピアで刺した物体を、空気を抜かれた風船のように萎ませる人型のスタンド。生物の場合は萎んでも生存可能だが、意識を失い行動不能になる。本体自身を萎ませることも可能で、この場合は萎んだままでも行動が可能。姿を隠しながら相手を戦闘不能にすることには最適だが、スティッキー・フィンガーズのジッパー攻撃をまったく避けられないなど、正面きっての格闘戦は苦手であるとブチャラティに見破られる。
:: スタンド名は北米版では"Tender Machine"(テンダー・マシーン)と改名されている。
; サーレー
: 声 - 木内秀信 / なし / [[石川界人]]
: パッショーネの組員。ズッケェロの相棒。
: 船で人質をとったズッケェロと合流する予定だったが、ズッケェロが敗れたことで存在がばれてしまい、先手を打って上陸したジョルノとミスタのうちミスタと交戦する。戦闘はお互いの能力を駆使した銃弾の撃ち返し合いとなるが、ピストルズの連携プレーによって頭部表面に残った弾丸を別の弾丸で押し込まれ、能力のおかげで死には至らなかったものの気絶してしまい、敗北する。その後はズッケェロ共々ヨットに放置される。
: 小説『恥知らずのパープルヘイズ』では生存していたことが明らかになっているが、麻薬チームの討伐任務中に死亡する。
: 連載時には名前は出てこず、ブチャラティからは「ミスタにやられた奴」と呼ばれていた。名前はその後、単行本のスタンドパラメータや『JOJO A-GO!GO!』で明かされている。
:; クラフト・ワーク
:: 【破壊力 - A / スピード - A / 射程距離 - E / 持続力 - C / 精密動作性 - E / 成長性 - E】
:: 本体やスタンドが触れた物体をその場に固定する人型のスタンド。岩の破片を空中に固定して足場にできるほか、敵の飛び道具を無効化できる。固定中でも衝撃は物体に蓄積され、固定が解除されると溜まった衝撃は一度に開放されるため、向きを相手に変えて反撃できる。欠点は固定の解除をあまり精密にできず、解放による反撃は動いている標的に当たらないこと。車上などで固定すると、[[慣性の法則]]に則り固定されたまま移動する。
:: スタンド名は北米版では"Arts & Crafts"(アーツ・アンド・クラフツ)と改名されている。
=== その他の人物 ===
; 広瀬 康一(ひろせ こういち)
: 声 - 夏樹リオ / 朴璐美 / [[梶裕貴]]
: Part4『[[ダイヤモンドは砕けない]]』の登場人物。Part4から引き続き、語り部としてPart5序盤に登場。スタンドは音を操る「エコーズ」。
: ヨーロッパ旅行のついでとして、空条承太郎に依頼されて汐華初流乃(ジョルノ・ジョバァーナ)の皮膚を採取するためにイタリアへやってくる(承太郎が、初流乃が本当にDIOの子供なのかを科学調査するため)。イタリア語を流暢に喋っているが、これは[[岸辺露伴]]のスタンド「ヘブンズ・ドアー」で話せるようにしてもらったためである。
: 物語冒頭でジョルノにパスポートの入った荷物一式を奪われ、奪回しようと彼の部屋を訪れた際にジョルノの「入団試験」に関わってしまう。そのため、ブラック・サバスに対してジョルノと共闘したが、その後は彼と別れて承太郎への報告をしたのを最後に登場しない。
: 『黄金の旋風』では出番がカットされているが、サウンドトラックに音声が収録されている。
: スタンド名は北米版では"Reverb"(リバーブ)と改名されている。
{{main|ダイヤモンドは砕けない#主要人物}}
; 空条 承太郎(くうじょうじょうたろう)
: 声 - 稲田徹 / [[小野大輔]] / 小野大輔
: Part3『[[スターダストクルセイダース]]』の主人公。Part3、Part4に続いて登場。スタンドは時を止める「スタープラチナ」。Part3にてDIOを倒した(殺した)当人。
: SPW財団の調査でDIOに息子がいる可能性を知り、汐華初流乃の体細胞を採取するよう康一に依頼する(エコーズの能力が適しているのと、心情的にDIOの息子に会いたくないという理由から)。康一からの報告で初流乃=ジョルノがスタンド能力に目覚めていることを知り、調査を打ち切る。その後は終盤にて、ポルナレフの走馬燈の中にPart3時の姿で登場する。
: 連載時の企画において、読者から「承太郎はジョルノをどうするつもりなんでしょう?」との質問が出ていたが、荒木はそれに「まだ考えてません。ひょっとしたら単なる好奇心なのかも…?」と答えている<ref name="Q&A" />。
: 『黄金の旋風』では出番がカットされているが、サウンドトラックに音声が収録されている。
{{main|空条承太郎}}
; ジャン=ピエール・ポルナレフ
: 声 - 根岸朗 / [[小松史法]] / 小松史法
: Part3『スターダストクルセイダース』の登場人物。スタンドは剣士の姿をした「シルバーチャリオッツ」。
: ディアボロに敗れて死にかけ、一命をとりとめるも後遺症は大きく、車椅子に乗っている。第一線で戦えなくなった自分の代わりに、ブチャラティチームにディアボロ撃退を託すべく「矢」の秘密を教えるためにローマのコロッセオで待ち続ける。
: テレビアニメ29話では、役名が「謎の男」になっている。
{{main|ジャン=ピエール・ポルナレフ}}
; [[カメ|亀]](ココ・ジャンボ)
: ボスが娘の保護のために用意したスタンド能力を持つ亀。背中のくぼみに「鍵」を取り付けた時のみ、スタンドを発生させるように訓練されている。名前は劇中においては「ない」ということだったが<ref name="Q&A" />、画集『JOJO A GO!GO!』にて、ココ・ジャンボと正式に発表された。物語終盤、チャリオッツレクイエムによってポルナレフと魂が入れ替わり、能力解除後は元に戻るも彼の魂を部屋に留めることとなった。
: ジョルノの能力により、細胞から「もう一匹」がスタンド能力ごと複製され、ディアボロ戦でのブチャラティを支援したが、戦闘の攻防に巻き込まれるかたちで消息を絶った。
: 『アイズオブヘブン』では、[[スティール・ボール・ラン|Part7]]に登場した「聖なる遺体」と共に、ストーリーモードの重要アイテムとして位置付けられている。
: 本体名はテレビアニメ版の北米版では"Coco Large"(ココ・ラージ)と改名されている。
:; ミスター・プレジデント
:: 【破壊力 - E / スピード - E / 射程距離 - E / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - E】
:: 小さな部屋を生成するスタンド。生み出される部屋自体がひとつのスタンドであり、後述の性質を除き自立性はない。スタンド発現のスイッチとなっている鍵の宝石部を介し、自由に出入りできる。鍵が外れてスタンドが解除されると、内部の空間にいる生物は強制的に外へ放り出される。ボスの計らいにより冷蔵庫やテレビ(『[[キャプテン翼 (アニメ)|キャプテン翼]]』が見られる)などが持ち込まれているが、トイレは無い。スタンド名は後に発表されたものであり、劇中においては「カメのスタンド」と表記されていた。『週刊少年ジャンプ』の企画時のインタビューでは「T-レックス」という仮称だった<ref name="Q&A" />。
; ドナテラ・ウナ
: 声 - [[早水リサ]]
: トリッシュの母親。サルディニア島で観光旅行に訪れた際にソリッド・ナーゾと名乗っていた若い頃のボスと知り合い、娘を出産した。それまでナーゾを捜索しようとはせずシングルマザーとして[[カラブリア]]で娘と共に生活していたが、重い病にかかって自分の死期を悟り、娘のために父親に逢わせようとナーゾの捜索を依頼したことから娘の存在が明らかになる。トリッシュがブチャラティらと会う2か月前に病気で死亡している。
; スコリッピ
: 声 - 木内秀信 / なし / 野島健児
: エピローグ「眠れる奴隷」に登場する彫刻家。茨の冠を模した[[ティアラ]]を着けている。モンテサント広場にある花屋の娘のボーイフレンドで、彼女が不可解な自殺を遂げたため、その父親(声 - [[小形満]])がブチャラティ(たち)に調査を依頼する。ミスタに尋問されるとブチャラティが近く死ぬ運命にあり、自分のスタンドがその前に安楽死させようとしていることを語る。
: 能力という理由から、人は皆運命の奴隷であるという真理を知る。運命は絶対に覆らないということを誰よりも理解する。
: ミスタに打開策を尋ねられると「石を破壊できれば運命を変えられるかもしれない」と伝え、ミスタが「ブチャラティの石」を破壊したが、追跡は止まったものの砕けて「ブチャラティ、アバッキオ、ナランチャの3人の石」に形が変わっただけであった。去る彼らを見送りながら、「安楽な死を迎えるのではなくあえて苦難の道を歩む」彼らの意味を考える。皆奴隷であるが、彼らは眠れる奴隷=目覚める者たちであることを祈ろうと言いながら、エピローグを締めくくる。
:; ローリング・ストーンズ
:: 【破壊力 - なし / スピード - B / 射程距離 - A / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - なし】
:: 「凶」と彫られた石球の姿をしたスタンド。自動的に近く死ぬ運命にある者の姿(彫刻)となって追跡し、その人物が石に触れると安楽死させる。スタンドだが、石や銃弾との衝突でも壊れる。抗えない「運命」をエネルギー源としており、本体のスコリッピにも制御できない。対象者以外の者が石を破壊すればローリング・ストーンズによる安楽死からは免れられるが、そもそも死が迫っている相手しか対象にしない性質上、安楽死から逃れたからといって生きながらえられるわけではなく、安楽死ではない過酷な方法で死ぬことになる。
:: 能力は[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]のエピソードから影響を受けている<ref name="STANDS" />。
:: スタンド名は北米版では"Prophecy Stones"(プロフェシー・ストーンズ)に改名されている。
; ギャングの男(ジョルノの恩人)
: 声 - [[白熊寛嗣]]
: パッショーネとは違うギャング団の幹部だったらしく、かつて別のギャング団との抗争で負傷して身を潜めていたところを下校途中だった小学生当時のジョルノに助けてもらったことがきっかけで、彼の近辺を調べて義父による虐待や近所の不良少年たちによる嫌がらせやいじめを解決し、その後も陰からジョルノを見守り続けた。「1人の友人」として対等の立場で接することを通し、ジョルノに「人を信じるまっすぐな心」を教えた「人生の恩人」である。
: この男は、ジョルノを「ギャングの世界に巻き込まない」という厳しい姿勢を取っていたらしいが、犯罪が悪質化して警察も役に立たない社会においてそれは叶わず、ジョルノはこの男のような[[ギャングスター]]になろうと憧れ、ギャング団に入団することを夢見るようになる。
: テレビアニメ版では「'''男X'''」とクレジット。彼が担当する地域の住民から慕われ、また部下と同伴しても汚れ仕事は自身の手で執行するほか、粛清した麻薬売人の息子から銃を向けられても、臆することなく息子に事情を説明し諭すなど度量の大きい一面が描写されている。
; ジョルノの母親
: 声 - [[東内マリ子]]
: 日本人で、名前は不明。なんらかの経緯でDIOと出会い、ジョルノを妊娠して1985年に出産する。美人ではあったが遊び人気質で母親としての愛情に乏しく、幼いジョルノを家に放置しては夜な夜な繁華街へと遊び歩くなど、育児放棄をしていた。ジョルノが4歳のときにイタリア人男性と結婚してイタリアへ移住したため、ジョルノもイタリアへ移住することになる。
; ジョルノの義父
: 声 - [[田所陽向]]
: イタリア人で、名前は不明。ジョルノが4歳のときにジョルノの母と結婚した。猜疑心が強く、自分を見る幼いジョルノの視線が自分を馬鹿にしていると思い込み、ジョルノにたびたび暴力や罵声などの虐待行為をしていたが、ジョルノが助けたギャングの男から何かしらの警告を受けたのを機にジョルノに対する虐待はしなくなる。しかしその後も二人の折り合いは悪く、ジョルノは両親とは同居せずに寮で暮らすことになる。
: テレビアニメ版では、人前では好人物を装っているが、ジョルノと二人きりになった時に暴力や罵声を浴びせるなど、より陰湿さが強調されている。
; DIO(ディオ)
: ジョルノの実父。[[ファントムブラッド|Part1]]と[[スターダストクルセイダース|Part3]]に登場した。ジョースター一族の宿敵と呼べる人物であり、吸血鬼となり[[ジョナサン・ジョースター]]の胴体を奪い取り、空条承太郎と戦って敗死した。
: ジョルノは父の写真を持ち歩いている(左後方からの角度で撮影されたもの)が、どのような思いを抱いているのかは描写は存在せず不明である。「エジプトで死んだ」ということは把握している{{Efn2|ゲーム『アイズオブヘブン』では「あの男」と呼び、父親とは思っていない模様だが、タッグ戦でジョルノとチームを組んだ場合の特殊セリフが発生する。}}。
{{main|ディオ・ブランドー}}
; ブチャラティの父
: 声 - [[拝真之介]]
: ネアポリスの村の漁師。ブローノが7歳のときに離婚し、息子を男手一つで育てていた。息子の学費を稼ぐために副業をしていたが、偶然麻薬取引の現場を目撃してしまい、撃たれて重体に陥る。ブローノが父を守るためにギャング入りしたことで他組織の口封じからは逃れられるが、最終的には後遺症を残したまま死亡する。
: テレビアニメ版では、パオロ・ブチャラティというフルネームが設定されている。『恥知らずのパープルヘイズ』併録の短編ではブチャラティの母が登場。
; アバッキオの同僚
: 声 - [[野瀬育二]]
: 警察官。アバッキオが汚職をネタにゆすられかけていたときに、銃撃からアバッキオを身を呈してかばい、殉職する。アバッキオの走馬灯に登場し、彼の生前の行為を誇りに思うと評価した。
; [[ジョセフ・ジョースター]]、[[東方仗助]]
: Part2『[[戦闘潮流]]』とPart4『ダイヤモンドは砕けない』の主人公。回想シーンなどでのみ登場。
; エンヤ婆
: Part3『スターダストクルセイダース』の登場人物。1986年にエジプトでディアボロから「矢」を5本買い取る。
; 占い師
: サルディニアの道端で手相見などの占いを生業としていた男。たまたま見かけたドッピオに自身も理解できないまま異常に興味を惹かれ、彼のズボンに付いた泥はねの形から強引に占いを施す。しかし「15年前に別れた娘を探しに来た」と占いの結果を口にしたことでディアボロの禁忌に触れてしまい、現れたディアボロに捕まり抹殺を宣告される。脅迫されてリゾットの場所を占った後、ディアボロの手を見て「『光と影』『表と裏』『二つの人生』、その秘密を利用し決して諦める事ない性格で常に勝利をおさめてきている」「この秘密があるかぎり人の死がどんどんあなたを幸福にし、その栄華はすたれることがない」と、その手相を絶賛し恍惚とする。だが、気が付くと切断された自身の腕を見ており、その手には生命線が全くなく、己の命運を知って狂ったように笑いながらキング・クリムゾンの攻撃を食らって即死した。占いの腕前は超一流で、皮肉にもそのことが命取りとなったが、ディアボロも彼の占い師としての能力には敬意を表した。
=== 小説版オリジナルの登場人物 ===
==== 『ゴールデンハート/ゴールデンリング』の登場人物 ====
; コニーリオ
: [[ヴェネツィア]]の[[ホテル]]「モンド・アーリア」で働く17歳の少女で、愛称は「コニー」。12月生まれ。生まれつきスタンド能力があるが、周囲から気味悪がれることを恐れ、人前では使わずに封印している。元は父母・兄と4人家族であったが、小学生の頃両親が離婚し、以来父と兄とは別居している。
: 母親と[[ローマ]]に住んでいたところを、4ヶ月前、[[ヴェネツィア]]でホテルに勤めていた祖母が突然失踪したという知らせを受け、ホテル側からの依頼で代役として客室係の仕事を始める。2ヶ月後に祖母の遺体が発見されてからは正式な引き継ぎとなった。
: ある日、ホテルに現れたパンナコッタ・フーゴの無差別テロを受け、パープル・ヘイズのウイルスにより友人ウィノナや大勢の人間が死んだ中、スタンド「ザ・キュアー」の能力により唯一彼女だけが生存した。病院への搬送後、自らの能力でこれを治療できると知って以降は封印を解き、能力を使って積極的に人々を助けるようになる。
: しかし度重なるパープル・ヘイズの襲撃と短期間の過剰な治療数により、精神的な限界を迎えると同時にスタンドが暴走、高濃度の殺人ウイルスを無差別にばら撒く危険な存在となってしまう。その後、ジョルノとブチャラティの説得と強い意志により奇跡的に制御し、事態を収拾した。
: 事件後は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[イリノイ州]]に旅立ち、各地を転々としながら自身の能力で人々を癒し、一生をかけて自分が救えなかった人たちへの償いをしていくことを決意する。その姿はいつしか[[都市伝説]]として語られるようになった。
: 彼女もジョースター家の血が流れていることが示唆されているが、詳細は語られておらず不明である。
:; ザ・キュアー
:: 白い[[ウサギ]]のような姿のスタンドで、自分や他人の怪我や病気・悩みなどを吸収して癒すことができる。吸収された「痛み」や「悩み」はスタンドの体内に溜めこまれ、その分スタンドの体が少しだけ大きくなる。通常、吸収したそれらは時間をかけて徐々に発散されていく(=スタンドの大きさも元に戻る)が、許容量を超えると暴走してしまう。また、スタンド自身の痛みも吸収し、ダメージを与えた分だけ巨大化してしまうため、直接攻撃で倒すことは不可能である。
:: ソリョラの策略により、ごく短期間のうちにパープル・ヘイズのウイルスを吸い込み続けたことで巨大化し、暴走。街を破壊しながら体内に溜めた高濃度のウイルスを撒き散らし、パープル・ヘイズを超える被害をもたらしてしまう。
:: 対峙したゴールド・エクスペリエンスとスティッキー・フィンガーズの攻撃によるダメージさえも吸収し暴走を続けたが、最後はコニーリオの叫びに応える形で暴走を止め、綿毛を散らして元の姿に戻った。
; ソリョラ・ロペス(セッピア老人)
: ヴェネツィアの[[ギャング]]たちを取り仕切っているパッショーネの幹部。[[サン・マルコ広場]]裏の一角に根城を置く。ただし、表向きは[[カンナレージョ地区]]のアパートに隠れ住む、武器を扱う組織の幹部'''「セッピア」'''を名乗り、密かに部下たちの行動を監視している。
: 子供の頃に両親と死別し、[[万引き]]や[[いかさま]][[賭博]]で生計を立ててきた過去がある。かつて自分を見下し蔑んだ人間を見返すためにギャングとなり、組織の幹部にまで上り詰めた。自分が現在牛耳っている辺境のヴェネツィアにはあまり愛着はなく、今回の一件で手柄を立てて出世し、別の支部へ移転させて貰おうと考えている。
: 外見は禿げ頭で口髭を生やした小柄な老人で、口調は丁寧だが知略に長けた狡猾な性格。強力な兵器に喜ぶ様は、フーゴから「新しいおもちゃをもらった子供のようだ」と形容されている。
: ボスからの指令により、組織を裏切ったブチャラティたちの命を狙う刺客となり、その際、町に住むスタンド使いの少女・コニーリオや新たに自分の部下となったフーゴを利用する作戦を思いつく。まずセッピア老人として自ら失踪することで、アバッキオのムーディー・ブルースによる「リプレイ」の追跡を予測して逆手に取り、スタンド能力を利用した[[機雷]]のトラップやヒットマンのリガトニをけしかけ、彼らを圧倒する。さらにコニーリオのザ・キュアーにフーゴのパープル・ヘイズのウイルスを取り込ませることによって「覚醒」させ、それによって彼らを倒そうと目論んでいた。
: しかし最終的にはフーゴの裏切りにより、「ジョルノにはパープル・ヘイズのウイルスが効かない」という情報を知らされていなかったために計画は失敗、その後逃亡するも、ミスタ・ブチャラティ・ジョルノの連携プレーによって捕えられ、ブチャラティからの怒りのラッシュを叩き込まれて死亡する。
: 挿絵にはスーツを着た姿が描かれているが、最終決戦時にはパープル・ヘイズのウイルスを無効化させる特殊な[[ラバースーツ]]を不本意ながら着用していた。
:; ジョイ・ディヴィジョン
:: 左右それぞれの手で触れた物を瞬時に入れ替えることができる。入れ替えは時間差も可能なため、あらかじめ触れていた物を爆弾などと入れ替えることでトラップとすることができる他、壁や床と自身の位置を入れ替えることで壁の向こう側や階下へと移動することもできる。
<!-- 「物語終盤まではスタンド像を持たず、ジョルノ一行に捕らえられ窮地に陥った時には助かりたい一心でスタンド像を発現させたものの、抵抗する隙を与えられず倒されている。挿絵や外見に関する描写が一切無いため、どのような姿だったのかは不明である。」
この記述は独自研究の可能性があります。本文中の表記では「スタンド像を出した」のかどうかは曖昧です。 -->
; リガトニ
: パッショーネに属する凄腕の[[ヒットマン]]。[[狙撃]]を得意とするスタンド使い専門の殺し屋「スタンド・キラー」であり、その存在は組織内でも機密扱いとなっている。
: 組織に入りたてだった頃のミスタの先輩であり、一時期タッグを組んで殺し屋の仕事をしていた。しかし「標的を仕留められないヒットマンは、死んだも同然」という持論から意見の相違があり、ある女殺しの任務失敗をきっかけに決別した過去がある。現在は第一線を退いた身だが、人生の刺激を求め、ミスタとの対決を条件にソリョラからの依頼を引き受ける。
: サン・マルコ広場の[[鐘楼 (サンマルコ広場)|鐘楼]]からの長距離狙撃でナランチャのエアロスミスを封じ、アバッキオを負傷させた上でミスタと対決、セックス・ピストルズの攻撃をものともせずミスタにスタンドを放つが、ゴールド・エクスペリエンスの能力によってコウモリに変化したミスタの銃弾を打ち抜いたことでダメージが自分に返り自滅する。しかし、それでもなおスタンドを命中させ、ミスタを戦闘不能に追い込んだ。
: なお、ミスタに止めを刺そうとするときの台詞の一部「ロックは死んだ」は、スタンドと同名のバンド[[パブリック・イメージ・リミテッド]] を結成した[[ジョン・ライドン]]が[[セックス・ピストルズ]]の脱退表明時に言った言葉でもある。
:; パブリック・イメージ・リミテッド
:: ライフルの[[弾丸]]に棲むスタンド。[[サメ]]のような頭を持った[[銃弾]]型で色は[[青]]。愛用のライフルから全スタンドパワーを込めて発射することで、通常の銃弾の4倍のスピードと軌道上の全てを貫通する破壊力、標的を決して外さない精密性を持つ。
:: 反面、発射から着弾までの間にスタンドパワーを著しく消費するという弱点があり、パワーをゼロまで使い切れば本体(リガトニ)が死んでしまう。しかし、標的がスタンド使いの場合に限り着弾時にスタンドパワーを吸い取ることができ、それにより死のリスクを回避できる。つまり弾を当てれば確実に相手は死に、外せば自分が死ぬ。
:: これらの能力はある程度の力加減ができ、少量の力で撃つことでスタンドパワーを一部吸収して相手のスタンド能力を封じ、生かしたまま無力化するといった芸当もできる。スタンド使いでない者には事実上使用できない。
; コニーリオの祖母
: ヴェネツィアの実家に住んでいたコニーリオの祖母。数年前に夫を亡くし、以来ホテル「モンド・アーリア」の従業員として働いていた。
: 年齢は60歳超で、小太りだが豊満な体つきで色気があり、近所からは「新しい男を引っ張り込んでいる」などといった噂も立っていたという。
: 物語開始時点から4か月前に突然失踪、その2か月後に[[リド|リド島]]で交通事故に遭い、遺体となって発見された。警察の捜査によるとそのとき男(宿泊台帳によると「ミスター・ブラウン」)と一緒にいたらしいが、男の行方は分かっていない。
; コニーリオの母
: [[ローマ]]に住んでいるコニーリオの母。娘が幼い時に離婚し、夫・長男と別居している。生物テロ事件で病院送りとなった娘を心配してヴェネツィアの実家にまで来ていたが、その後の事件でもウイルスの被害には遭わずに済んだ。娘がアメリカに発った後も変わらずローマで暮らしているという。
; レオーニ
: 「モンド・アーリア」に10年来勤めている[[コック (職業)|コック]]で、コニーリオの同僚。コニーリオが気になっているらしく何かにつけて誘いをかけデートの約束もしているが、彼女はあまり乗り気ではない。ウィノナによれば他にガールフレンドがいるらしい。事件後の消息は不明。
; ウィノナ
: コニーリオの同僚で友人の女性。21歳。[[ヴェネツィア大学]]の二年生(アメリカからの[[交換留学生]])で文学専攻。父親が「モンド・アーリア」ホテルの重役であるらしく、立場上はアルバイトのようなものだが実質清掃員のマネージャーのような仕事もしている。
: 黒縁の分厚いメガネをかけており、素顔は[[ハリウッド]][[俳優#性別での分類|女優]]のように整っている。「仕事で一番大切なのは人間関係だ」という持論を持ち、周囲の人間の情報集めを怠らないが、周囲からは「頭がいいのが取り柄の口うるさい女」といった印象を受けがちで、評判はあまりよくない。
: 挿絵によれば長い黒髪を持つ色黒の女性で、私服はチューブトップに「VENEZIA」と書かれたローライズパンツを履いている。またこのときは裸眼であった。
: コニーリオとカフェで待ち合わせたところを散布されたパープル・ヘイズの毒にかかり、悶え苦しんだ末に死亡する。
; ピーター・フォーク(仮名)
: 本名は不明。トレンチコートを着た[[ピーター・フォーク]]にそっくりの中年刑事。生物テロ事件の捜査にあたっていた。
; 若い警官
: ピーター・フォークと一緒にいた警官。コニーリオは「以前にどこかであったことがある」ような感覚を覚えたが、真相はわからなかった。
; マリオ・セガーリ
: ネアポリスにいる倉庫の警備員。口髭を生やした男で、ナランチャによれば『[[スーパーマリオシリーズ|スーパーマリオ]]』の[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]によく似ているらしい。本作では直接的には登場しない。
==== 『恥知らずのパープルヘイズ』の登場人物 ====
{{main|恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-}}
== 用語 ==
; パッショーネ
: ジョルノが入団している[[ギャング]]団で、[[イタリア]]語で「情熱」という意。創立者はディアボロ。登場人物のほとんどがパッショーネ内部のメンバーであるため、作中で'''組織'''と言えばそれはパッショーネのことを指す。
: ブチャラティが公開情報として知る限り構成員は756人で、ボスを筆頭に参謀、ボス親衛隊、複数の幹部とチームで構成されている。ボスの正体は幹部や親衛隊すら知らないシークレットで、もしボスの正体を探ろうとすればその者には死の制裁が待っている。建前上は、ボスは信頼する右腕(参謀)とのみ連絡を取るとされている。実際はボスのディアボロは二重人格者であり、第二人格のドッピオは自分がボスの右腕と信じ、ディアボロに誘導される形で行動している<ref>公開情報はJC48・49巻、ドッピオについては58巻。</ref>。
: 主にイタリア各地で活動しており、ホテル・港の運送会社・建築会社・葬儀屋・レストラン・賭博場での収益で稼いでいて、賭博や麻薬での収益が大半を占めている。麻薬は禁じ手としていたが手を出している。創設してからヨーロッパ全土の麻薬犯罪件数と死者数は約20倍に拡大した。
: 入団方法の一つは幹部の1人であるポルポに会い、試験に合格することである。しかしそれは同時に矢の試練によるスタンド能力者を増やす策略であり、スタンド能力者になればそれでよし、真面目に試験の内容を守ればそれなりに利用価値があり、もし失格してすんなり入団をあきらめたり、矢で命を落としても関係なしと非情なものである。入団の際には団員の証としてバッジが手渡される。
: 組織に多額の上納金を納めた組員は貢献を評価されて幹部になることができる。作中、幹部のポルポが死んで空席ができ、ブチャラティが幹部ペリーコロに6億円相当の宝飾品(=ポルポの隠し財産)を上納したため、ブチャラティがネアポリス地区の新たな幹部になった。
: ジョルノ入団時は「暗殺チーム」が仕事に不相応な報酬額に不満を持っていて、仲間のソルベとジェラート2人がボスの近辺を調べようとしたばかりに最も残虐な手段で殺害されたこともあり反旗を翻していた他、チョコラータやセッコも虎視眈々とボスの座を狙っていた。最終決戦でディアボロが倒された後は、ジョルノが新たなボスとなった。
: 『[[恥知らずのパープルヘイズ]]』では、台頭の過程が掘り下げられ、まずは既存組織に対する「義賊」として支持を得、組織拡大で組織基盤が確立したと同時に麻薬を開拓したとされている。この麻薬はスタンドで創り出した特殊な麻薬である。
; レクイエム(鎮魂歌)
: スタンド能力を覚醒させる「矢」でさらにスタンドを射抜くことで、覚醒したスタンドの姿。
: ポルナレフはウイルス進化説を紹介して、「矢」で引き出されたスタンド能力は、ウイルスによる淘汰の副産物であるとしている。また強靭なスタンド使いでなければ、レクイエムの真の力には到達できないと推測している。事実、今や戦闘者として再起不能状態のポルナレフが使用した際には、その強大な力を制御しきれずレクイエムは暴走してしまった。
: ポルナレフのシルバーチャリオッツと、ジョルノのゴールド・エクスペリエンスが、それぞれ異なるレクイエムへと進化している。
== 備考 ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2014年7月21日}}
* 『週刊少年ジャンプ』連載時には「気分はJOJO」というおまけ・広告的なコーナーがあった。また誌上で連載当時、キャラクター人気投票を募ったことがあるが、結果は発表されなかった。
* 物語冒頭で、康一がタクシーの料金を尋ねる際やジョルノが康一を[[白タク]]に勧誘する際の通貨単位が本誌では「[[イタリア・リラ|リラ]]」となっていたが、単行本以降は「円」に変更され、ほかのシーンでも通貨単位は円で表記されている。テレビアニメ版では通貨単位が「リラ」になる。
* 舞台がイタリアであるため、「Part5・JOJO」が『Parte5・GIOGIO』と表記されるなど、イタリア語を用いた表現が多く用いられる。他方では、イタリアでありながら日本語的な表現が散見する(例:ルカの用いた「友情に必要な3つのU・嘘をつかない・恨まない・敬う」、ギアッチョの用いた「根掘り葉掘り」、など)逆にイタリア語を用いたセリフ表現が、本来のイタリア語としては不自然な言い回しになっているものもある(例:メローネのディ・モールト=非常に)。これらは翻訳イタリア語版では調整がされている。
* ポルポの隠し財産を回収するための目的地は、雑誌掲載時の最初のセリフでは[[タオルミーナ]]であった。これが連載中の設定変更により[[カプリ島]]に行くように変わった。単行本では最初からカプリ島に向かうよう修正されている。
* 単行本62・63巻のおまけページにはキャラクターのプロフィールなどがある。ただしこれらの設定には劇中の実際の描写と食い違う部分もある。
* 単行本49巻で、フーゴが勉強のできないナランチャに対する罵倒のセリフの「ド低能」の部分が[[差別用語]]に接触するとされ、文庫版31巻において別のセリフ「クサレ脳ミソ」に変更されている(単行本も後に変更された){{Efn2|テレビアニメ版もナランチャのセリフを含め変更後のものが使用されている。}}。作者は文庫版30巻のあとがきでこの件について触れ、直接的な表現こそ避けながらも編集部に対する不満ともとれる文を書き連ね、「もめ事を起こしても疲れるだけだから、とりあえず従っておく」とコメントしている。
* 初期構想ではミスタ、ナランチャ、フーゴ、アバッキオの内、誰かがチームを裏切る予定だったがカットされた。フーゴが物語の途中で退場するのはこの構想の名残である<ref>文庫本39巻より。</ref>。
*本作の連載中に、『ドルチ』が『[[MANGAオールマン|オールマン]]』に、『[[岸辺露伴は動かない]]』の第一作「エピソード16懺悔室」が『週刊少年ジャンプ』誌上に発表されている。要素に連載との共通点がみられるのは、短編は長編連載から漏れたアイデアを使っているため。
== 書誌情報 ==
=== 漫画 ===
{{main|ジョジョの奇妙な冒険#書誌情報}}
* 『ジョジョの奇妙な冒険』47 - 63、[[ジャンプ・コミックス]]、1996年 - 1999年、全17巻
* 『ジョジョの奇妙な冒険』30 - 39、[[集英社文庫]]、2005年、全10巻
* 『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風』、[[集英社ジャンプリミックス]]、2007年、全10巻
=== 小説 ===
* 『ジョジョの奇妙な冒険II ゴールデンハート/ゴールデンリング』(宮昌太朗、[[大塚ギチ]]、2001年)
** Parte5<!--Parte5はイタリア語表示です。「パルテ」と読みます。-->を題材にした小説作品。詳しくは下記を参照。
* 『[[恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-]]』([[上遠野浩平]]、2011年)
いずれも[[ジャンプ ジェイ ブックス]]から。どちらもフーゴにフォーカスが当たるが、相互ノータッチである。
=== 『ジョジョの奇妙な冒険II ゴールデンハート/ゴールデンリング』 ===
==== 概要(ゴールデンハート/ゴールデンリング) ====
著者は宮昌太朗、大塚ギチの二名の共作。2001年5月31日初版刊行。
本書は『ジョジョの奇妙な冒険』第5部の時点(2001年)のイタリア・ヴェネツィアを舞台に、ブチャラティチームがギャング組織「パッショーネ」から離反した直後(原作の時間軸では4月2日前後)の物語を描く、オリジナルインサイド・ストーリーである。
主人公は本作オリジナルキャラクターのスタンド使いの少女・コニーリオと、ヴェネツィアからの脱出を試みるブチャラティーチームの面々であり、二者の動向が交互に描かれる形式である。また、チームで唯一組織に残ったパンナコッタ・フーゴも、彼らを狙う刺客の1人として登場する。
イタリアでも2004年に出版された。
=== 本作独自の解釈・設定 ===
* サン・ジョルジョ・マジョーレ島のキング・クリムゾンとの戦いの後、ブチャラティ一行は数日間(トリッシュの発言からして3日間)ヴェネツィアに滞在・潜伏している。「ヴェネツィアからの脱出」を当面の目標としているが、その具体的な方法や次なる進路については示されていない。
** 原作の時間軸では4月2日早朝にヴェネツィア入りし、当日中にサルディニアへ発っている。
* 「トーキング・ヘッド」のスタンド使い(ティッツアーノ)が、ブチャラティたちのヴェネツィア入りを阻む「裏切者グループ」のひとりとしてカウントされている。
* キング・クリムゾンの能力が「世界から数十秒だけ時間を消し去る能力」と説明されている(原作では「十数秒」)。
* 各キャラクターのファッションについては多くは否定的であり、ブチャラティチーム全員を「おかしな恰好をした集団」と説明している。
* 原作では不明であった各キャラクターの色彩が明確に指定されている。例えばジョルノの服は緑、ブチャラティの服は白、ナランチャの服は黒、フーゴの服はモスグリーンである。
* フーゴについて
** 彼は件の教師暴行事件後もなにかにつけて暴れており、ネアポリスのギャンググループと付き合い始めてからも、その凶暴な性分から仲間内でも煙たがられ、組織の厄介者になりかかっていたところをブチャラティに拾われた、という過去がある。
** 彼はよく[[ミント]]の葉を口にしており 、作中においては「ミントの香り」が彼の[[トレードマーク]]となっている。なお原作にはそのような描写はなく、特段好きだという設定も無い。
** パープル・ヘイズのウイルスは本体の彼には影響がない。また同様に、ウイルスを溜めこみ散布するようになったザ・キュアーも本体のコニーリオには何ら影響がなかった(ここで「癒し」の能力が使われていたのかは不明)。
=== 本作における用語 ===
; モンド・アーリア
: ヴェネツィアのスキアヴォーニ河岸沿い、[[サン・マルコ寺院]]のすぐ側に建つホテル。元は16世紀に建てられた名家の別荘で、100年ほど前に買い取られ、ホテルに造り替えられた。
: エントランスロビーは3階まで吹き抜けで、1階はホテルのフロントと曲がって右がイタリアンレストラン、左には小さなカフェがある。客室は何度も改装された跡があるが、どこか落ち着いた雰囲気がある。
; 生物テロ事件(1)
:ヴェネツィアの「モンド・アーリア」ホテルで起きた正体不明の生物兵器(警察は「新種のウイルス」と推測)によるテロ事件。建物周辺が停電した後、ロビーにいた多くの観光客や従業員の身体が腐って死亡、唯一コニーリオのみが生存し、病院に搬送された。
: 事件翌日には新聞の一面に掲載され、それを見たブチャラティたちはフーゴのパープル・ヘイズのウイルスによるものと推測している。
; 生物テロ事件(2)
: コニーリオから数えて3度目のパープル・ヘイズのウイルスによる無差別テロ事件。彼女もザ・キュアーで治癒に奔走するも間に合わず、100人を超える犠牲者を生み出した。前回と同様に周囲の建物は停電しており、二次的に火災も発生している。翌日に新聞で報じられた。
;「荒野に建つ教会」
: 上述の事件後、口伝えに広まった新しい[[都市伝説]](どの場所で広まったのかは不明)。
: 一人の少年が友人の家から帰る途中、荒野を遭難していたところ、そこに美しい女性が現れ、彼女の住むあばら家に招待される。そこで食事を供され、彼女や白いウサギに心身の傷を癒されて、ベッドで横になるが、目を覚ますと彼の家の側にあるベンチで寝ていた、といった内容の物語である。
: 話によっては舞台が砂漠や海の孤島であったり、主人公の設定もまちまちであるが、大筋のストーリーは同じであるという。これは作り話や流言ではなく、その後のコニーリオをモデルとした実話である。
=== 登場した実在の地名・施設など ===
括弧内はイタリア語の表記。
* [[サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂 (ヴェネツィア)|サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂]] (Basilica di San Giorgio Maggiore)
* [[リアルト橋]] (Ponte di Rialto)
* [[サン・マルクオーラ教会]] ([[:it:Chiesa di San Marcuola|Chiesa di San Marcuola]])
* [[サン・ジェレミア教会]] ([[:it:Chiesa di San Geremia|Chiesa di San Geremia]])
* [[サント・ステファーノ教会]] ([[:it:Chiesa di Santo Stefano (Venezia)|Chiesa di Santo Stefano]])
* [[サン・マルコ広場]] (Piazza San Marco)
** [[鐘楼 (サンマルコ広場)|鐘楼]] (Campanile di San Marco)
* [[サン・マルコ寺院]] (Basilica di San Marco)
=== その他 ===
* リストランテ (ristorante) - イタリア語で「[[レストラン]] (英:restaurant)」の意。
* 救急ボート/救急船 - ヴェネツィアにおける[[救急車]]。
* [[ゲットー]] (ghetto) - ユダヤ人街。
* [[アクア・アルタ]] (acqua alta) - [[アドリア海]]北部特有の異常潮位現象([[高潮]])。
== テレビアニメ ==
{{main|ジョジョの奇妙な冒険 (テレビアニメ)}}
『'''ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風'''』のタイトルで2018年10月から2019年7月まで放送された。
== ゲーム ==
{{main|ジョジョの奇妙な冒険 黄金の旋風}}
[[カプコン]]から2002年7月25日に[[PlayStation 2]]用ゲームソフト『'''ジョジョの奇妙な冒険 黄金の旋風'''』が発売されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[徐倫、GUCCIで飛ぶ]] - ブチャラティとアバッキオが登場。キャラクターの設定は異なっている。
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20141009040131/http://www.capcom.co.jp/giogio/ ジョジョの奇妙な冒険 黄金の旋風(カプコン)] - 公式サイト(閉鎖。2014年10月9日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])
{{Jojo}}
{{DEFAULTSORT:おうこんのかせ}}
[[Category:ジョジョの奇妙な冒険の漫画作品]]
[[Category:1995年の漫画]]
[[Category:週刊少年ジャンプの漫画作品]]
[[Category:不良少年・不良少女を主人公とした漫画作品]]
[[Category:イタリアを舞台とした漫画作品]]
[[Category:マフィアを題材とした漫画作品]]
[[Category:薬物を題材とした漫画作品]]
[[Category:平成時代を舞台とした漫画作品]]
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3,505 | セルビア・モンテネグロ | セルビア・モンテネグロ(セルビア語: Србија и Црна Гора (СЦГ) / Srbija i Crna Gora (SCG))は、東南ヨーロッパに存在した連邦国家(国家連合)。
ユーゴスラビア国家の事実上の最後の体制であり、2003年にユーゴスラビア連邦共和国から改組・改称して発足した。2006年にモンテネグロ側が独立を宣言したことに伴い、セルビア側も独立宣言と継承国宣言をしたことで消滅した。
セルビア人の人口が多いセルビア共和国と、モンテネグロ共和国、およびセルビア共和国内のヴォイヴォディナ自治州とコソボ・メトヒヤ自治州で構成されていた。
ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニア、マケドニアと国境を接していた。
上記の2つの共和国と2つの自治州は民族構成がかなり異なり、またユーゴスラビア連邦政府はセルビアの主導で運営されていたため、これを不満としたモンテネグロ側から独立要求が起こり、その不安定要因を回避するため2003年に国名を「セルビア・モンテネグロ」と改称すると共に、共和国の独立性が高い緩やかな共同国家とした。
しかし、憲法には3年後から連邦離脱を可能とする規定があり、2006年5月21日にモンテネグロで行われた住民投票では独立賛成が55.5%を占め、独立を可決するに必要とされた55%を超えた。これを受けて2006年6月3日(現地時間)にモンテネグロ議会が独立を宣言した。
これにより、事実上存続意義を失ったセルビア・モンテネグロ連邦政府は6月4日に大統領のスベトザル・マロヴィッチが退任。6月5日、セルビア議会も独立を宣言、同時にセルビアをセルビア・モンテネグロの継承国家とすることを宣言した。これをもって、1918年の発足以来88年間に渡って続いたユーゴスラビア国家の枠組みは名実ともに終止符を打つこととなった。
なお、国家としては解体した後も、一部のスポーツ競技では引き続き「セルビア・モンテネグロ」として統一チームを組んでいた時期がある。
正式名称はセルビア語で、Србија и Црна Гора(Srbija i Crna Gora; スルビヤ・イ・ツルナ・ゴーラ)。スルビヤがセルビア、ツルナ・ゴーラがモンテネグロのセルビア語名で「黒い山」を意味している(モンテネグロはイタリア語ヴェネツィア方言(ヴェネト語))。イはセルビア語で英語の and にあたる接続詞。 また、 Државна Заједница Србија и Црна Гора / Državna Zajednica Srbija i Crna Goraと呼ぶこともある。
公式の英語表記は、Serbia and Montenegro。日本語の表記は、セルビア・モンテネグロ。誤ってセルビア・モンテネグロ連邦と呼ばれることもある(連邦制ではあるが名称に「連邦」とはつかない)。
セルビア及びモンテネグロの2共和国から成る連合国家。
議会は1院制で定数は126名。うち91名はセルビア、35名はモンテネグロから選出された。セルビアの人口が約7,500,000人、モンテネグロの人口が約600,000人であるので、実際の人口比(約12:1)よりも多くの議席がモンテネグロ側に配分されていたことになる。
国家の元首としてセルビア・モンテネグロ大統領が存在した。2003年までのユーゴスラビア大統領が国民の直接投票によって選出されていたのに対して、セルビア・モンテネグロ大統領は議会により選出された。ユーゴスラビア時代に存在した首相は存在せず、大統領が閣議を主催した。セルビア・モンテネグロ大統領には殆ど実権が存在せず、セルビア・モンテネグロを構成する2国家セルビアとモンテネグロの大統領の方がより権限が大きかった。元々セルビアに対応するものとしてのシステムを有していたモンテネグロ大統領の方は比較的安定していたが、セルビアではユーゴスラビア連邦共和国の最後の大統領であるヴォイスラヴ・コシュトニツァがセルビア大統領への鞍替えを狙って出馬するなどいくらかの波乱があった。
セルビアとモンテネグロが共同で所有する国家機関として、国防軍、外務省、および経済や人権に関する省庁の計5つが存在した。これらに関しては、モンテネグロが負担金の支払いを行っていないため、ほとんど機能していないのが実態であった。一方で軍に関しては、連合国家設立の頃からセルビア、モンテネグロの双方が別系統の指揮系統を有していた。外務省に関してもモンテネグロが独自の外交機関を有していた。モンテネグロはセルビアからの独立以前からセルビアとモンテネグロとの国境において入国審査と税関を実施していた。
セルビア・モンテネグロは以下の二つの自治共和国で形成されている。セルビアには2つの自治州がある。
大部分が山地で、南西部はアドリア海に面し、南部は山がちで北部は平野が広がらない。気候は内陸部で大陸性気候、海沿いでは地中海性気候。
主要産業は食品加工、金属、電気、化学、繊維などの工業。
1990年代、国際社会は一連のユーゴスラビア紛争の主たる責任がミロシェヴィッチ政権にあるとして、ユーゴに対して国連による経済制裁措置を課したため、国内経済は疲弊した。1994年には一か月で300万倍の物価上昇という途轍もないインフレに見舞われた。更に1999年のNATOの空爆でインフラを破壊され、経済の悪化に拍車をかけた。その後経済制裁は解除され、経済は上向いてきているが、いまだに多くの対外債務を抱えていた。
通貨に関してはセルビアとヴォイヴォディナに関してはディナールが流通しているが、コソボ、モンテネグロでは1999年からドイツマルクの流通が公式に認められ、2002年にドイツマルクが流通が完全に停止されてからはユーロが流通している。
住民は、セルビア人が62.6%、アルバニア人が16.5%、モンテネグロ人が5%、マジャル人が3.3%、その他が12.6%(1991年調査)。
言語は、セルビア語が公用語で、かつ最も使われている (95%)。その他は、アルバニア語が5%。
宗教は、セルビア正教会が65%、イスラム教が19%、ローマ・カトリックが4%、プロテスタントが1%、その他11%である。
社会主義時代のユーゴスラビアはサッカーの強豪国のうちの一つで、東欧のブラジルの異名をとっていた。ワールドカップには1930年の第1回大会から出場していた。ワールドカップでは1930年大会の3位(ただし3位決定戦は無し)、1962年大会の4位等、ヨーロッパ選手権では1960年大会、1968年大会での準優勝、年齢別の大会では1987年のワールドユースでの優勝がある。近年は2002年大会や2004年のヨーロッパ選手権などの出場を逃していたが、国名変更後初の予選となる2006年のドイツ大会の予選では堅守などで予選を勝ち抜き10度目の本大会出場を決めた。 1974年第10回西ドイツ大会から2006年第18回のドイツ大会まで、偶数の大会(全てヨーロッパ開催)は全て出場、奇数の大会(全てヨーロッパ以外)は全て出場を逃している。
2006 FIFAワールドカップはセルビア・モンテネグロ代表として最初で最後のFIFAワールドカップとなったが、1次リーグで敗退した。
なお、セルビア・モンテネグロの代表チームはセルビア代表に受け継がれ、モンテネグロ代表は新たに作られることとなった。新チームは2006年秋から始まるサッカー欧州選手権2008予選から発足した。 | [
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] | セルビア・モンテネグロは、東南ヨーロッパに存在した連邦国家(国家連合)。 ユーゴスラビア国家の事実上の最後の体制であり、2003年にユーゴスラビア連邦共和国から改組・改称して発足した。2006年にモンテネグロ側が独立を宣言したことに伴い、セルビア側も独立宣言と継承国宣言をしたことで消滅した。 | {{出典の明記| date = 2021年6月}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = セルビア・モンテネグロ
|日本語国名 = セルビア・モンテネグロ国家連合
|公式国名 = Државна Заједница Србија и Црна Гора<br /> Državna Zajednica Srbija i Crna Gora
|建国時期 = [[2003年]]
|亡国時期 = [[2006年]]
|先代1 = ユーゴスラビア連邦共和国
|先旗1 = Flag of FR Yugoslavia.svg
|次代1 = セルビア
|次旗1 = Flag of Serbia (2004-2010).svg
|次代2 = モンテネグロ
|次旗2 = Flag of Montenegro.svg
|国旗画像 = Flag_of_Yugoslavia_(1992–2003);_Flag_of_Serbia_and_Montenegro_(2003–2006).svg
|国章画像 = Coat of arms of Serbia and Montenegro.svg
|国章リンク = [[セルビア・モンテネグロの国章|国章]]
|標語 =
|国歌 = [[スラヴ人よ|Хеј, Словени]]{{sr icon}}<br>''スラヴ人よ''<br>{{center|[[File:United States Navy Band - Hey, Slavs.ogg]]}}
|位置画像 = Serbia and Montenegro.svg
|位置画像説明 = セルビア・モンテネグロの位置
|公用語 = [[セルビア語]]<ref>地方レベルでは、セルビア語以外の言語を公用語とする自治体もある</ref>
|首都 = [[ベオグラード]]<ref>最高裁判所の所在地は[[ポドゴリツァ]]</ref>
|元首等肩書 = [[大統領]]
|元首等年代始1 = 2003年
|元首等年代終1 = 2006年
|元首等氏名1 = [[スベトザル・マロヴィッチ]]
|首相等肩書 =
|首相等年代始1 =
|首相等年代終1 =
|首相等氏名1 =
|面積測定時期1 = 2006年
|面積値1 = 102,350
|人口測定時期1 = 2006年
|人口値1 = 10,832,545
|変遷1 = [[ユーゴスラビア連邦共和国]]より改組
|変遷年月日1 = 2003年2月4日
|変遷2 = [[モンテネグロ]]の独立
|変遷年月日2 = 2006年6月3日
|変遷3 = [[セルビア]]の独立・[[継承国]]宣言により解体
|変遷年月日3 = 2006年6月5日
|通貨 = [[セルビア・ディナール]]<ref>コソボとモンテネグロでは[[ユーロ]]</ref>
|ccTLD =[[.yu]]([[ユーゴスラビア]]時代から)
|ccTLD追記 =
|国際電話番号 =
|国際電話番号追記 =
|注記 = {{reflist}}
}}
'''セルビア・モンテネグロ'''({{lang-sr| Србија и Црна Гора (СЦГ) / Srbija i Crna Gora (SCG)}})は、[[東南ヨーロッパ]]に存在した[[連邦|連邦国家]]([[国家連合]])。
[[ユーゴスラビア]]国家の事実上の最後の体制であり、[[2003年]]に[[ユーゴスラビア連邦共和国]]から改組・改称して発足した。2006年にモンテネグロ側が独立を宣言したことに伴い、セルビア側も独立宣言と[[継承国]]宣言をしたことで消滅した。
== 概要 ==
[[セルビア人]]の人口が多い[[セルビア共和国 (1990年-2006年)|セルビア共和国]]と、[[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]]、およびセルビア共和国内の[[ヴォイヴォディナ自治州]]と[[コソボ・メトヒヤ自治州 (1990年-1999年)|コソボ・メトヒヤ自治州]]で構成されていた。
[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[クロアチア]]、[[ハンガリー]]、[[ルーマニア]]、[[ブルガリア]]、[[ギリシャ]]、[[アルバニア]]、[[マケドニア共和国|マケドニア]]と国境を接していた。
上記の2つの共和国と2つの自治州は民族構成がかなり異なり、またユーゴスラビア連邦政府はセルビアの主導で運営されていたため、これを不満としたモンテネグロ側から独立要求が起こり、その不安定要因を回避するため[[2003年]]に国名を「セルビア・モンテネグロ」と改称すると共に、共和国の独立性が高い緩やかな共同国家とした。
しかし、憲法には3年後から連邦離脱を可能とする規定があり、[[2006年]][[5月21日]]に[[2006年モンテネグロ独立住民投票|モンテネグロで行われた住民投票]]では独立賛成が55.5%を占め、独立を可決するに必要とされた55%を超えた。これを受けて[[2006年]][[6月3日]](現地時間)に[[モンテネグロ]]議会が独立を宣言した。
これにより、事実上存続意義を失ったセルビア・モンテネグロ連邦政府は[[6月4日]]に大統領の[[スベトザル・マロヴィッチ]]が退任。[[6月5日]]、[[セルビア]]議会も独立を宣言、同時にセルビアをセルビア・モンテネグロの[[継承国|継承国家]]とすることを宣言した。これをもって、[[1918年]]の発足以来88年間に渡って続いた[[ユーゴスラビア]]国家の枠組みは名実ともに終止符を打つこととなった。
なお、国家としては解体した後も、一部のスポーツ競技では引き続き「セルビア・モンテネグロ」として統一チームを組んでいた時期がある。
== 国名 ==
正式名称はセルビア語で、''{{lang|sr|Србија и Црна Гора}}''({{lang|sr|Srbija i Crna Gora}}; スルビヤ・イ・ツルナ・ゴーラ)。スルビヤがセルビア、ツルナ・ゴーラがモンテネグロのセルビア語名で「黒い山」を意味している(モンテネグロは[[イタリア語]][[ヴェネツィア]]方言([[ヴェネト語]]))。イは[[セルビア語]]で英語の and にあたる接続詞。
<br /> また、''{{lang|sr| Државна Заједница Србија и Црна Гора / Državna Zajednica Srbija i Crna Gora}}''<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/3170416.stm|title=Profile: Serbia and Montenegro|publisher=BBC News|date=5 June 2006|first=Matthew|last=Price}}</ref>と呼ぶこともある。
公式の英語表記は、''{{lang|en|Serbia and Montenegro}}''。日本語の表記は、'''セルビア・モンテネグロ'''。誤って'''セルビア・モンテネグロ連邦'''と呼ばれることもある(連邦制ではあるが名称に「連邦」とはつかない)。
== 歴史 ==
{{main|セルビア・モンテネグロの歴史|セルビアの歴史}}
* [[1918年]] - セルブ・クロアート・スロヴェーン王国が成立する。
* [[1929年]] - [[ユーゴスラビア王国]]に国名変更
* [[1943年]] - [[ユーゴスラビア民主連邦]]成立
* [[1945年]] - [[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦人民共和国]] (NFRJ)
* [[1963年]] - [[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]](SFRJ : [[マケドニア社会主義共和国|マケドニア人民共和国]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国|ボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国]]、[[クロアチア社会主義共和国|クロアチア共和国]]、[[スロベニア社会主義共和国|スロベニア人民共和国]]、[[モンテネグロ社会主義共和国|モンテネグロ人民共和国]]で構成される連邦国家)
* [[1980年]][[5月4日]] - [[ヨシップ・ブロズ・チトー]]死去
* [[1991年]][[6月21日]] - [[スロベニア]]、[[クロアチア]]が独立宣言
* [[1991年]][[9月8日]] - [[マケドニア共和国|マケドニア]]が独立宣言
* [[1992年]][[4月5日]] - [[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]が独立宣言
* [[1992年]][[4月28日]] - [[セルビア共和国 (1990年-2006年)|セルビア共和国]]と[[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]]からなる[[ユーゴスラビア連邦共和国]](FRJ、いわゆる新ユーゴ)
* [[1995年]][[11月21日]] - [[デイトン合意|デイトン和平合意]]成立
* [[1996年]] - [[コソボ解放軍]]の活動が活発化([[コソボ紛争]]の本格化)
* [[1997年]] - [[ネズミ講]]破綻を契機として国内が混乱状況に陥った[[アルバニア]]でコソボ解放軍の拠点作りが始まる。アルバニアから大量の武器がコソボに流出したと見られる。
* [[1997年]][[10月]] - モンテネグロ独立を掲げる[[ミロ・ジュカノヴィッチ]]がモンテネグロ大統領に就任。
* [[1998年]] - セルビア警察、ユーゴスラビア軍によるコソボ解放軍の掃討作戦が始まる。コソボにおける戦闘が激化。国際世論からはアルバニア人に対する不当弾圧との非難を受ける。
* [[1999年]][[1月27日]] - マケドニアが台湾と外交関係樹立。中国がマケドニアの国連軍駐留延長を安保理で拒否。アルバニア系武装勢力がユーゴ・コソボ側から侵入。
* [[1999年]][[3月22日]] - セルビアとロシア及び[[アメリカ合衆国]]の対話が不成立に終わる。
* [[1999年]][[3月24日]] - [[北大西洋条約機構]](NATO)がユーゴスラビア全土に対する空爆を開始。
* [[1999年]][[6月10日]] - ユーゴスラビアは[[ロシア]]による調停案を受け入れ空爆停止。コソボに[[国際連合]]による[[国際連合コソボ暫定行政ミッション|コソボ暫定行政ミッション]](UNMIK)が始まる。ユーゴスラビア軍コソボ撤退開始(翌2000年までに終了)。コソボはユーゴスラビアの統治権から切り離される。
* [[1999年]][[11月3日]] - モンテネグロでの[[ドイツマルク]]の流通が合法化される。
* [[2000年]][[9月24日]] - ユーゴスラビア連邦共和国大統領選挙実施。[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]が一方的に勝利を宣言。
* [[2000年]][[10月5日]] - [[ヴォイスラヴ・コシュトニツァ]]を支持する野党勢力が、連邦議会、国営放送、警察署に突入。革命となりミロシェヴィッチはコシュトニツァに政権を移譲する。
* [[2001年]][[3月31日]] - スロボダン・ミロシェヴィッチ逮捕。
* [[2001年]][[6月28日]] - スロボダン・ミロシェヴィッチを[[デン・ハーグ|ハーグ]]の[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]]に移送。
* [[2002年]][[4月22日]] - モンテネグロ議会選挙でモンテネグロ独立派が勝利。
* [[2003年]][[2月4日]] - セルビア・モンテネグロに国名変更。政体も緩やかな連邦制となる。
* [[2003年]][[3月21日]] - セルビア首相[[ゾラン・ジンジッチ]]が{{仮リンク|ゾラン・ジンジッチ暗殺事件|en|Assassination of Zoran Đinđić|label=暗殺}}される。政府はマフィアの一斉検挙をもって対応。1000人以上が逮捕された。
* [[2005年]] - セルビア外相が、モンテネグロの連邦からの分離独立を容認。
* [[2006年]][[3月11日]] - ミロシェヴィッチ元大統領が獄中で死亡
* [[2006年]][[5月21日]] - [[モンテネグロ]]で独立の可否を問う国民投票。投票率86.3%、賛成55.4%。
* [[2006年]][[6月3日]] - モンテネグロが独立を宣言。
* [[2006年]][[6月5日]] - セルビアがセルビア・モンテネグロの継承国家であることを宣言。
== 政治 ==
セルビア及びモンテネグロの2共和国から成る連合国家。
議会は1院制で定数は126名。うち91名はセルビア、35名はモンテネグロから選出された。セルビアの人口が約7,500,000人、モンテネグロの人口が約600,000人であるので、実際の人口比(約12:1)よりも多くの議席がモンテネグロ側に配分されていたことになる。
国家の元首としてセルビア・モンテネグロ大統領が存在した。2003年までのユーゴスラビア大統領が国民の直接投票によって選出されていたのに対して、セルビア・モンテネグロ大統領は議会により選出された。ユーゴスラビア時代に存在した首相は存在せず、大統領が閣議を主催した。セルビア・モンテネグロ大統領には殆ど実権が存在せず、セルビア・モンテネグロを構成する2国家セルビアとモンテネグロの大統領の方がより権限が大きかった。元々セルビアに対応するものとしてのシステムを有していたモンテネグロ大統領の方は比較的安定していたが、セルビアではユーゴスラビア連邦共和国の最後の大統領である[[ヴォイスラヴ・コシュトニツァ]]がセルビア大統領への鞍替えを狙って出馬するなどいくらかの波乱があった。
セルビアとモンテネグロが共同で所有する国家機関として、国防軍、外務省、および経済や人権に関する省庁の計5つが存在した。これらに関しては、モンテネグロが負担金の支払いを行っていないため、ほとんど機能していないのが実態であった。一方で軍に関しては、連合国家設立の頃からセルビア、モンテネグロの双方が別系統の指揮系統を有していた。外務省に関してもモンテネグロが独自の外交機関を有していた。モンテネグロはセルビアからの独立以前からセルビアとモンテネグロとの国境において[[出入国管理|入国審査]]と[[税関]]を実施していた。
== 地方行政区分 ==
セルビア・モンテネグロは以下の二つの自治共和国で形成されている。セルビアには2つの自治州がある。
* [[セルビア共和国 (1990年-2006年)|セルビア共和国]]
** [[コソボ・メトヒヤ自治州 (1990年-1999年)|コソボ・メトヒヤ自治州]]
** [[ヴォイヴォディナ|ヴォイヴォディナ自治州]]
* [[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]]
[[画像:SCG-map-HU.png|セルビア・モンテネグロの地図]]
== 地理 ==
大部分が山地で、南西部は[[アドリア海]]に面し、南部は山がちで北部は平野が広がらない。気候は内陸部で[[大陸性気候]]、海沿いでは[[地中海性気候]]。
== 経済 ==
主要産業は食品加工、金属、電気、化学、繊維などの工業。
1990年代、国際社会は一連の[[ユーゴスラビア紛争]]の主たる責任がミロシェヴィッチ政権にあるとして、ユーゴに対して国連による経済制裁措置を課したため、国内経済は疲弊した。1994年には一か月で300万倍の物価上昇という途轍もない[[インフレーション|インフレ]]に見舞われた。更に1999年の[[北大西洋条約機構|NATO]]の空爆でインフラを破壊され、経済の悪化に拍車をかけた。その後経済制裁は解除され、経済は上向いてきているが、いまだに多くの対外債務を抱えていた。
通貨に関してはセルビアとヴォイヴォディナに関してはディナールが流通しているが、コソボ、モンテネグロでは1999年から[[ドイツマルク]]の流通が公式に認められ、2002年にドイツマルクが流通が完全に停止されてからは[[ユーロ]]が流通している。
== 国民 ==
住民は、[[セルビア人]]が62.6%、[[アルバニア人]]が16.5%、[[モンテネグロ人]]が5%、[[マジャル人]]が3.3%、その他が12.6%(1991年調査)。
言語は、[[セルビア語]]が公用語で、かつ最も使われている (95%)。その他は、[[アルバニア語]]が5%。
宗教は、[[セルビア正教会]]が65%、[[イスラム教]]が19%、[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]が4%、[[プロテスタント]]が1%、その他11%である。
== 文化 ==
{{main|セルビア・モンテネグロの文化}}
=== スポーツ ===
{{Main|セルビア・モンテネグロのスポーツ}}
[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|社会主義時代のユーゴスラビア]]はサッカーの強豪国のうちの一つで、東欧の[[ブラジル]]の異名をとっていた。[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]には1930年の[[1930 FIFAワールドカップ|第1回大会]]から出場していた。ワールドカップでは1930年大会の3位(ただし3位決定戦は無し)、[[1962 FIFAワールドカップ|1962年大会]]の4位等、[[UEFA欧州選手権|ヨーロッパ選手権]]では[[1960 欧州ネイションズカップ|1960年大会]]、[[UEFA欧州選手権1968|1968年大会]]での準優勝、年齢別の大会では1987年の[[FIFA U-20ワールドカップ|ワールドユース]]での優勝がある。近年は2002年大会や2004年のヨーロッパ選手権などの出場を逃していたが、国名変更後初の予選となる2006年のドイツ大会の予選では堅守などで予選を勝ち抜き10度目の本大会出場を決めた。
1974年第10回西ドイツ大会から2006年第18回のドイツ大会まで、偶数の大会(全てヨーロッパ開催)は全て出場、奇数の大会(全てヨーロッパ以外)は全て出場を逃している。
[[2006 FIFAワールドカップ]]はセルビア・モンテネグロ代表として最初で最後の[[FIFAワールドカップ]]となったが、1次リーグで敗退した。
なお、セルビア・モンテネグロの[[サッカーセルビア・モンテネグロ代表|代表チーム]]は[[サッカーセルビア代表|セルビア代表]]に受け継がれ、[[サッカーモンテネグロ代表|モンテネグロ代表]]は新たに作られることとなった。新チームは[[2006年]]秋から始まる[[UEFA欧州選手権2008|サッカー欧州選手権2008]]予選から発足した。
=== 祝祭日 ===
{| border="1" frame="box" rules="all" align="center" cellpadding="2" cellspacing="0"
!style="background:#efefef"|日付
!style="background:#efefef"|日本語表記
!style="background:#efefef"|現地語表記
!style="background:#efefef"|備考
|-
|[[1月1日]]、[[1月2日|2日]]||[[元日]]|| ||
|-
|[[1月7日]]||正教[[クリスマス]]|| ||
|-
|[[4月27日]]||国家の日|| ||
|-
|[[5月1日]]||[[メーデー]]|| ||
|-
|移動祝日||[[聖金曜日]]|| ||
|-
|移動祝日||復活祭月曜日|| ||
|-
|[[5月9日]]||戦勝記念日||||
|-
|[[11月29日]]||共和国施行記念日||||
|}
== 出身者 ==
* [[ヴォイスラヴ・コシュトニツァ]]
* [[ヴィェコスラフ・シュテイ]] - 指揮者
* [[ドラガン・ストイコビッチ]]
* [[ディオクレティアヌス]]([[ポドゴリツァ]]出身)
* [[エレナ・ドキッチ]]
* [[ドラグーティン・ディミトリエヴィチ]]
* [[イーヴォ・ポゴレリチ]]
* [[ドゥシャン・マカヴェイエフ]]
* [[スロボダン・ミロシェヴィッチ]](ポジャレヴァツ生まれの[[モンテネグロ人]])
* [[トマス・ネーゲル]]
* [[ヴラディミル・ユーゴヴィッチ]]
* [[リュボミィル・リュボエビッチ]] - チェスプレーヤー
* [[ミロラド・パヴィチ]] - 小説家、翻訳者、文学史研究家
=== ヴォイヴォディナ自治州、ゼムン他 ===
* [[モニカ・セレシュ]]([[ハンガリー人]])
* [[アルベルト・ナジ]](ハンガリー人?)
* [[ミカエル・ピューピン]]
=== 在外 ===
* [[ガブリロ・プリンチプ]]
* [[ミラ・ジョヴォヴィッチ]]
=== 同地で活躍 ===
* [[ジョージ・ケナン]]
* [[マデリーン・オルブライト]]
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
{{commons|Category:Serbia and Montenegro}}
{{Wikinews|Category:セルビア・モンテネグロ}}
=== 公式 ===
* [http://www.gov.yu/ セルビア・モンテネグロ政府]
=== その他 ===
* [http://www.b92.net B92] 最も普及したニュース、[[B92]]
* [http://www.burek.co.yu Burek のフォーラム] セルビアと Montenegro の最も大きいフォーラム
* [https://web.archive.org/web/20070520231927/http://www.rts.co.yu/ RTS] 国民のテレビの Webpage
* [http://www.krstarica.com Krstarica] 最も普及したローカルサーチエンジン
* [http://www.pluto.dti.ne.jp/katu-jun/yugo/backnumb/index.html 旧ユーゴ便り]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せるひあもんてねくろ}}
[[Category:セルビア・モンテネグロ|*]]
[[Category:かつてバルカンに存在した国家]]
[[Category:過去の国際連合加盟国]]
[[Category:連邦制国家]]
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== できごと ==
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[[ファイル:Saruwaka-za%2C_the_Birthplace_of_Edo_Kabuki_02.JPG|thumb|180px|初代[[中村勘三郎 (初代)|中村勘三郎 ]]、猿若座を開設(1624)。画像は江戸歌舞伎発祥の地碑]]
* [[1000年]]([[長保]]2年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) - 女御[[藤原彰子]]が新たに[[一条天皇]]の皇后に冊立されて「中宮」を号し、中宮を号していた皇后[[藤原定子]]が「皇后宮」となる。
* [[1332年]]([[元弘]]2年/[[正慶]]元年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]) - [[鎌倉幕府]]が、[[元弘の乱]]で挙兵した[[後醍醐天皇]]の隠岐への[[流罪]]を決定。
* [[1453年]] - [[メフメト2世]]による[[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノープル攻防戦]]が始まる。
* [[1513年]] - [[フアン・ポンセ・デ・レオン]]が処女航海で[[フロリダ州|フロリダ]]に到達する。
* [[1624年]]([[寛永]]元年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - 猿若勘三郎([[中村勘三郎 (初代)|初代中村勘三郎]])が江戸[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]に猿若座(後の[[中村座]])を開く。江戸[[歌舞伎]]の始まり。
* [[1783年]] - [[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公)|ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク]]がイギリスの第15代首相に就任。
* [[1792年]] - [[アメリカ合衆国造幣局]]設立。
* [[1801年]] - [[ナポレオン戦争]]: [[コペンハーゲンの海戦]]
* [[1890年]] - [[皇紀]]2550年を記念して官幣大社として[[橿原神宮]]を創建。初代天皇とされている[[神武天皇]]を祀るため、神武天皇の宮廷があったとされる畝傍橿原宮の地に創建された<ref>{{Cite web|和書|url=https://kashiharajingu.or.jp/about#:~:text=%E5%BE%A1%E7%94%B1%E7%B7%92 |title=橿原神宮について 御由緒 |access-date=7 Aug 2023 |publisher=橿原神宮}}</ref>。
* [[1904年]] - [[小泉八雲]]がアメリカで『[[怪談 (小泉八雲)|怪談]] (Kwaidan)』を刊行。
* [[1905年]] - 瀬戸自動鉄道(現在の[[名鉄瀬戸線]])で蒸気動車の運行が開始される。日本初の[[気動車]]運行。
* [[1922年]] - 『[[週刊朝日]]』『[[サンデー毎日]]』が創刊。
* [[1951年]] - [[岩倉具視]]の肖像の新[[五百円紙幣|500円札]]が発行される。
* [[1963年]] - ソ連が無人月探査機「[[ルナ4号]]」を打上げ。
* [[1979年]] - [[テレビ朝日]]系アニメ『[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]]』が放送開始。
* [[1982年]] - [[フォークランド紛争]]: [[アルゼンチン軍]]が英領[[フォークランド諸島]](マルビナス諸島)を占領。[[イギリス]]は[[アルゼンチン]]との国交を断絶。
* [[1988年]] - [[北神急行電鉄北神線]](現在の[[神戸市営地下鉄北神線]])が開通。
* [[1989年]] - [[NHKスペシャル#NHK特集|NHK特集]]を改めた[[NHKスペシャル]]が[[日本放送協会|NHK]]で放送開始。
* 1989年 - [[ヤーセル・アラファート]]が[[パレスチナ自治政府]]初代大統領に選任。
* [[1994年]] - [[兵庫県]][[神戸市]]の[[神戸港|東神戸港]]に架かる[[阪神高速5号湾岸線]]の[[東神戸大橋]]が開通。[[斜張橋]]としては日本第5位の長大橋で、関西では1番の長大橋。
* [[1995年]] - 232日間に及ぶ[[メジャーリーグベースボール]]の[[メジャーリーグベースボール選手会|選手会]]が決行したプロスポーツ史上最長[[ストライキ]]が終結。(→[[1994年から1995年のMLBストライキ]])
* [[1997年]] - [[愛媛県靖国神社玉串料訴訟]]で、最高裁が、愛媛県知事が[[靖国神社]]に玉串料を公費支出したのは違憲と判決。
* [[2000年]] - [[小渕恵三]][[内閣総理大臣]]が体調不良を訴えて緊急入院、意識不明になる([[5月14日]]に死去)。
* [[2005年]] - [[仙台アーケード街トラック暴走事件]]。3名が死亡。
* [[2007年]] - [[ソロモン諸島]]付近で、[[マグニチュード]]8.0の大[[地震]]発生({{仮リンク|ソロモン諸島沖地震 (2007年)|label=ソロモン諸島沖地震|en|2007 Solomon Islands earthquake}})。周辺海域で[[津波]]による被害が発生し、20名以上死亡。
* [[2015年]] - [[ガリッサ大学襲撃事件]]: [[ケニア]]・[[ガリッサ]]の[[ガリッサ大学]]を銃を持った男が襲撃し、147名が死亡、79名が負傷を負った<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/kenya-idJPKBN0MT0DY20150402 |title=ケニア大学をイスラム過激派襲撃、147人死亡 キリスト教徒人質に |access-date=25 Apr 2023 |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |date=2 Apr 2015}}</ref>。
* [[2018年]] - [[中華人民共和国|中国]]の[[宇宙ステーション]]、[[天宮1号]]が太平洋上空で[[大気圏]]に再突入<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3169609|title=中国の宇宙施設、太平洋上空で大気圏再突入 「大部分」燃え尽きる|work=AFP BB NEWS|date=2 Apr 2018|accessdate=25 Apr 2013}}</ref>。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[ファイル:Karl_der_gro%C3%9Fe.jpg|thumb|180px|[[フランク王国]]国王、[[カール大帝]](742-814)誕生。独仏双方に重要な王で、フランス名「シャルルマーニュ」としても知られる]]
[[ファイル:OrteliusWorldMap1570.jpg|thumb|180px|近代的地図の創始者[[アブラハム・オルテリウス]](1527-1598)誕生。画像はオルテリウスが作成した世界地図(1570)]]
[[ファイル:Fulgora.jpg|thumb|242x242px|[[博物画]]家、[[マリア・ジビーラ・メーリアン]](1647-1717)]]
[[ファイル:Metamorphosis_of_a_Butterfly_Merrian_1705.jpg|thumb|239x239px|[[昆虫学者]]、[[博物画]]家、[[マリア・ジビーラ・メーリアン]](1647-1717)。画像は『スリナム産昆虫変態図譜』(1705)より蛾の一生。]]
[[ファイル:Casanova_ritratto.jpg|thumb|232x232px|西洋稀代の猟色家[[ジャコモ・カサノヴァ]](1725-1798)。自伝『[[我が生涯の物語]]』では1000人もの女性遍歴が綴られている]]
[[ファイル:General Santander.jpg|thumb|236x236px|[[コロンビア]]初代[[大統領]][[フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル]](1792-1840)]]
[[ファイル:HCAndersen.jpeg|thumb|180px|[[童話]]作家・詩人、[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン]](1805-1875)]]
[[ファイル:William_Holman_Hunt_001.jpg|thumb|[[ラファエル前派]]の画家[[ウィリアム・ホルマン・ハント]](1827-1910)。画像は『雇われ羊飼い』(1852)|180x180ピクセル]]
[[ファイル:Edouard_Manet_049.jpg|thumb|237x237px|[[自然主義]]の提唱者、作家[[エミール・ゾラ]](1840-1902)。画像は[[エドゥアール・マネ|マネ]]による肖像(1866)]]
[[ファイル:Tokyo_Institute_of_Technology_Centennial_Hall_2009.jpg|thumb|建築家[[篠原一男]](1925-2006)。画像は[[東京工業大学]]百年記念館(1987)|180x180ピクセル]]
[[ファイル:StLite1.jpg|thumb|日本競馬初の[[中央競馬クラシック三冠|三冠馬]][[セントライト]](1938-1965)|180x180ピクセル]]
[[ファイル:Shinzan statue.jpg|thumb|戦後初の三冠馬[[シンザン]](1961-1996)<br />([[京都競馬場]]に立つ銅像)|271x271ピクセル]]
* [[747年]] - [[カール大帝]]、[[カロリング朝]][[フランク王国]]国王(+ [[814年]])
* [[1511年]]([[永正]]8年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]) - [[足利義晴]]、室町幕府12代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1550年]])
* [[1545年]] - [[エリザベート・ド・ヴァロワ]]、スペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]の妃(+ [[1568年]])
* [[1618年]] - [[フランチェスコ・マリア・グリマルディ]]、[[数学者]]、[[物理学者]](+ [[1663年]])
* [[1647年]] - [[マリア・ジビーラ・メーリアン]]、[[生物学者の一覧|生物学者]]、[[画家]](+ [[1717年]])
* [[1725年]] - [[ジャコモ・カサノヴァ]]、[[探検家]]、[[作家]](+ [[1798年]])
* [[1770年]] - [[アレクサンドル・ペション]]、[[ハイチ]]大統領(+ [[1818年]])
* [[1792年]] - [[フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル]]、[[コロンビア]]の[[政治家]] (+ [[1840年]])
* [[1798年]] - [[アウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン]]、[[詩人]](+ [[1874年]])
* [[1805年]] - [[ハンス・クリスチャン・アンデルセン]]、作家(+ [[1875年]])
* [[1807年]] - [[アレクサンダー・ヒュー・ホームズ・スチュアート]]、第3代[[アメリカ合衆国内務長官]](+ [[1891年]])
* [[1827年]] - [[ウィリアム・ホルマン・ハント]]、画家(+ [[1910年]])
* [[1840年]] - [[エミール・ゾラ]]、[[小説家]](+ [[1902年]])
* [[1841年]] - [[クレマン・アデール]]、[[発明家]](+ [[1925年]])
* [[1848年]]([[嘉永]]2年[[2月29日 (旧暦)|2月29日]]) - [[松平直哉]]、[[母里藩]]主・[[子爵]](+ [[1900年]])
* 1848年(嘉永2年2月29日) - [[黒田長徳]]、[[秋月藩]]主・子爵(+ [[1892年]])
* [[1856年]] - [[トミー・ボンド]]、[[プロ野球選手]](+ [[1941年]])
* [[1862年]] - [[ニコラス・バトラー]]、教育家、[[平和運動|平和運動家]](+ [[1947年]])
* [[1869年]] - [[ヒューイー・ジェニングス]]、元プロ野球選手(+ [[1928年]])
* [[1872年]]([[明治]]5年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) - [[津軽英麿]]、[[伯爵]](+ [[1919年]])
* [[1875年]] - [[ウォルター・クライスラー]]、[[クライスラー]]社創業者(+ [[1940年]])
* [[1879年]] - [[西山翠嶂]]、[[日本画家]](+ [[1958年]])
* [[1880年]] - [[熊谷守一]]、[[洋画家]](+ [[1977年]])
* [[1888年]] - [[マリエッタ・シャギニャン]]、[[作家]]、[[社会運動家一覧|社会運動家]](+ [[1982年]])
* [[1890年]]([[光緒]]16年2月13日) - [[何応欽]]、[[中華民国]]の[[軍人]](+ [[1987年]])
* [[1891年]] - [[マックス・エルンスト]]、画家(+ [[1976年]])
* [[1897年]] - [[相賀武夫]]、[[出版]]人、[[小学館]]および[[集英社]]創業者(+ [[1938年]])
* [[1903年]] - [[羽仁説子]]、[[婦人運動|婦人運動家]](+ [[1987年]])
* [[1905年]] - [[セルジュ・リファール]]、[[舞踏家]]、[[振付師]]、[[バレエ]]教師(+ [[1986年]])
* [[1906年]] - [[弥永昌吉]]、[[数学者]](+ [[2006年]])
* [[1907年]] - [[ルーク・アップリング]]、プロ野球選手(+ [[1991年]])
* [[1912年]] - [[徳永康元]]、言語学者(+[[2003年]])
* [[1913年]] - [[猪野謙二]]、[[文芸評論家]](+ [[1997年]])
* [[1914年]] - [[アレック・ギネス]]、[[俳優]](+ [[2000年]])
* [[1915年]] - [[飛鳥田一雄]]、[[政治家]](+ [[1990年]])
* 1915年 - [[アル・バーリック]]、[[メジャーリーグ]]審判(+ [[1995年]])
* [[1916年]] - [[藤田房子]]、女優(没年不明)
* [[1917年]] - [[加藤信夫 (野球)|加藤信夫]]、プロ野球選手(+ 没年不詳)
* [[1920年]] - [[安倍治夫]]、[[検事]]、[[弁護士]](+ [[1999年]])
* [[1923年]] - [[小栗一也]]、俳優(+ [[2001年]])
* [[1925年]] - [[篠原一男]]、[[建築家]](+ [[2006年]])
* [[1926年]] - [[ジャック・ブラバム]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(+ [[2014年]])
* 1926年 - [[田中啓一 (蕨市長)|田中啓一]]、前[[蕨市]]長(+ [[2021年]])
* [[1927年]] - [[フェレンツ・プスカシュ]]、元[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]、指導者(+ [[2006年]])
* 1927年 - [[カーメン・バシリオ]]、[[プロボクサー]](+ [[2012年]])
* 1927年 - [[勝田久]]、[[声優]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|title=声優の勝田久さん死去 鉄腕アトムの「お茶の水博士」|url=https://www.asahi.com/articles/ASN2Q570QN2QUTFL002.html|publisher=[[朝日新聞デジタル]]|date=22 Feb 2023|accessdate=25 Apr 2023}}</ref>)
* [[1928年]] - [[セルジュ・ゲンスブール]]、[[シンガーソングライター]]、[[俳優]]、[[映画監督]](+ [[1991年]])
* [[1930年]] - [[笹原恵通郎]]、元プロ野球選手
* [[1931年]] - [[倉多爽平]]、元俳優
* 1931年 - [[福原黎三]]、元サッカー選手、指導者(+[[1970年]])
* [[1932年]] - [[溝上泰]]、教育学者
* 1932年 - [[手沢庄司]]、元プロ野球選手
* [[1933年]] - [[長谷川待子]]、[[俳優|女優]]
* [[1934年]] - [[諏訪純人]]、銀行家(+[[2011年]])
* 1934年 - [[松田光弘]]、[[ファッションデザイナー]](+ [[2008年]])
* 1934年 - [[ポール・コーエン (数学者)|ポール・コーエン]]、数学者(+ [[2007年]])
* 1934年 - [[山岸静馬]]、元プロ野球選手(+ [[1990年]])
* [[1935年]] - [[戸田昌男]]、実業家、元[[スズキ (企業)|スズキ]]社長(+[[2007年]])
* 1935年 - [[戸川一郎]]、元プロ野球選手(+ [[2018年]])
* [[1937年]] - [[バリー・ヒルズ]]、[[調教師]]、元[[騎手]]
* [[1938年]] - [[菊地武和]]、元プロ野球選手
* 1938年 - [[ブッカー・リトル]]、[[ジャズ]][[トランペット#著名な奏者|トランペッター]](+ [[1961年]])
* [[1939年]] - [[マーヴィン・ゲイ]]、[[歌手]](+ [[1984年]])
* [[1940年]] - [[久保征弘]]、元プロ野球選手
* 1940年 - [[ドナルド・ジャクソン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1940年 - [[マイク・ヘイルウッド]]、[[オートバイ競技|レーサー]](+ [[1981年]])
* [[1942年]] - [[レオン・ラッセル]]、[[音楽家|ミュージシャン]](+ [[2016年]])
* 1942年 - [[坂井宏行]]、[[シェフ]]
* [[1945年]] - [[大石久和]]、[[官僚]]
* 1945年 - [[レジー・スミス]]、元プロ野球選手
* 1945年 - [[ドン・サットン]]、元プロ野球選手(+ [[2021年]])
* 1945年 - [[マイク・ケキッチ]]、元プロ野球選手
* 1945年 - [[リンダ・ハント]] 、女優
* [[1947年]] - [[エミルー・ハリス]]、歌手
* 1947年 - [[カミール・パーリア]]、[[社会学者の一覧|社会学者]]、社会批評家、作家、[[フェミニスト]]
* [[1948年]] - [[エミリー・ロッダ]]、[[小説家]]
* 1948年 - [[村山明 (声優)|村山明]]、声優、ナレーター
* [[1949年]] - [[鷲羽山佳和]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄15代[[高崎 (相撲)|高崎]]
* 1949年 - [[富田たかし]]、[[心理学者]]
* 1949年 - [[パメラ・リード]]、女優
* 1949年 - [[岡田光雄 (野球)|岡田光雄]]、元プロ野球選手
* [[1950年]] - [[張芸謀]]、映画監督、俳優
* [[1951年]] - [[浅茅陽子]]、女優
* 1951年 - [[有澤孝紀]]、作曲家(+ [[2005年]])
* 1951年 - [[忌野清志郎]]、ミュージシャン(+ [[2009年]])
* 1951年 - [[岡本綾子]]、[[プロゴルファー]]
* [[1952年]] - [[加藤英美]]、元プロ野球選手
* [[1953年]] - [[吹石徳一]]、元プロ野球選手
* 1953年 - [[ヘクター・クルーズ]]、元プロ野球選手
* [[1955年]] - [[宮田鈴子]]、キャスター、実業家
* 1955年 - [[青柳文太郎]]、俳優
* 1955年 - [[龍飛雲]]、武道家(+[[2007年]])
* [[1956年]] - [[加山麗子]]、女優
* [[1957年]] - [[井上卓也]]、元プロ野球選手
* [[1958年]] - [[松沢成文]]、政治家
* 1958年 - [[伊藤咲子]]、[[歌手]]
* 1958年 - [[有馬晴海]]、[[評論家]]
* [[1959年]] - [[近藤和久]]、[[漫画家]]
* 1959年 - [[深雪さなえ]]、声優
* 1959年 - [[ユハ・カンクネン]]、[[ラリー]]ドライバー
* 1959年 - [[ジェリンド・ボルディン]]、[[陸上競技選手]]([[マラソン]])
* 1959年 - [[松本正志]]、元プロ野球選手
* [[1960年]] - [[松山鷹志]]、声優、歌手、作詞家
* 1960年 - [[篠塚正典]]、グラフィックデザイナー
* 1960年 - [[リンフォード・クリスティ]]、陸上競技選手
* [[1961年]] - {{仮リンク|カレン・ウッドワード|en|Keren Woodward|redirect=1}}、歌手([[バナナラマ]])
* [[1962年]] - [[井上貴博 (政治家)|井上貴博]]、政治家
* 1962年 - [[小川博]]、元プロ野球選手
* [[1963年]] - [[伊東昭光]]、元プロ野球選手
* 1963年 - [[入江雅人]]、俳優
* 1963年 - [[田中浩二 (俳優)|田中浩二]]、元俳優
* 1963年 - 鬼頭徐美、ボウリング選手
* 1963年 - [[淡谷三治]]、ミュージシャン
* 1963年 - [[マイク・ガスコイン]]、[[モータースポーツ|レース]][[エンジニア]]
* [[1964年]] - [[ピート・インカビリア]]、元プロ野球選手
* 1964年 - [[小田勝幸]]、空手家
* [[1965年]] - [[高橋昌志]]、映画プロデューサー
* 1965年 - [[金月真美]]、声優
* [[1966年]] - [[坂本ちゃん]]、[[お笑いタレント]](元[[アルカリ三世]])
* 1966年 - [[鋤柄昌宏]]、元サッカー選手・指導者
* 1966年 - [[山蔭徳法]]、元プロ野球選手
* 1966年 - [[テディ・シェリンガム]]、元サッカー選手
* [[1967年]] - [[竹内志保]]、[[アニメーター]]、特技監督
* [[1968年]] - [[峠恵子]]、歌手
* 1968年 - [[宇沙美ゆかり]]、元歌手、女優
* 1968年 - [[森絵都]]、小説家
* 1968年 - [[小林貴子 (柔道)|小林貴子]]、柔道家
* [[1969年]] - [[五十嵐大介]]、漫画家
* 1969年 - [[小川敦史]]、俳優
* 1969年 - [[飯塚祐紀]]、将棋棋士
* 1969年 - [[堀幸一]]、元プロ野球選手
* [[1970年]] - [[鮎川義文]]、元プロ野球選手
* [[1971年]] - [[カンニング竹山]]<ref group="注釈">戸籍上の誕生日であり、実際の誕生日は[[3月30日]]</ref>、お笑いタレント(元[[カンニング (お笑いコンビ)|カンニング]])
* 1971年 - [[長谷川誠]]、[[バスケットボール]]選手
* 1971年 - [[Zeebra]]、ミュージシャン([[キングギドラ (ヒップホップグループ)|キングギドラ]])
* 1971年 - [[影島香代子]]、フリーアナウンサー
* 1971年 - [[エジムンド]]、サッカー選手
* 1971年 - [[トッド・ウッドブリッジ]]、[[テニス選手一覧 (男子)|テニス選手]]
* [[1972年]] - [[大塚ちか]]、元女優
* 1972年 - [[御法川修]]、映画監督
* 1972年 - [[安藤正裕]]、元サッカー選手
* 1972年 - [[北川久仁子]]、パーソナリティ
* [[1973年]] - [[細見和史]]、元プロ野球選手
* 1973年 - [[マーク・クルーン]]、プロ野球選手
* 1973年 - [[武藤真一]]、元サッカー選手、指導者
* 1973年 - [[角令子]]、元アナウンサー
* [[1974年]] - [[西尾まり]]、女優
* 1974年 - [[遠藤雅]]、俳優
* 1974年 - [[ジョーナカムラ]]、モデル、俳優
* 1974年 - [[村上ゆみ子]]、漫画家
* [[1975年]] - [[高橋尚成]]、元プロ野球選手
* [[1976年]] - [[尾崎勇気]]、[[タレント]]、元大相撲力士
* 1976年 - [[浪川大輔]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://stay-luck.com/talent/namikawa-daisuke/ |title=浪川 大輔 |accessdate=25 Apr 2023 |publisher=ステイラック}}</ref><ref group="注釈">戸籍上の誕生日であり、実際の誕生日は[[3月29日]]</ref>、声優
* 1976年 - [[桃生亜希子]]、女優
* 1976年 - [[山西尊裕]]、元サッカー選手、指導者
* [[1977年]] - [[サシャ・ゲルストナー]]、ミュージシャン([[ハロウィン (ドイツのバンド)|ハロウィン]])
* 1977年 - [[マイケル・ファスベンダー]]、俳優
* [[1978年]] - 森本英樹、[[お笑い芸人]]([[ニブンノゴ!]])
* [[1979年]] - [[ジェシー・カーマイケル]] 、ミュージシャン([[マルーン5]])
* 1979年 - [[波多野和俊]]、俳優、声優
* 1979年 - [[網秀一郎]]、 NHKアナウンサー
* 1979年 - [[エジナウド・バチスタ・リバノ|グラフィッチ]]、サッカー選手
* [[1980年]] - [[楠城華子]]、タレント
* 1980年 - [[友井雄亮]]、俳優
* 1980年 - [[船本孝宏]]、[[作曲家]]
* 1980年 - [[カルロス・サルシド]]、サッカー選手
* [[1981年]] - [[荘智淵]]、卓球選手
* 1981年 - [[マルクス・ヴァンハラ]]、ミュージシャン([[インソムニウム]])
* 1981年 - [[ブライアン・バーデン]]、元プロ野球選手
* 1981年 - コーエン・ジャンセン、ミュージシャン([[エピカ]])
* [[1982年]] - [[中村一生]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[金守智哉]]、元サッカー選手・指導者
* 1982年 - [[マルコ・アメリア]]、サッカー選手
* 1982年 - [[尾上綾華]]、ファッションモデル
* [[1983年]] - [[カルカヤマコト]]、ミュージシャン
* 1983年 - [[荘田由紀]]、舞台女優
* 1983年 - [[又吉愛]]、声優
* 1983年 - [[坂田篤彦]]、元[[野球選手]]
* [[1984年]] - [[水上剣星]]、俳優
* 1984年 - [[若井尚子]]、女優
* 1984年 - [[鈴木茜]]、元グラビアアイドル
* 1984年 - [[遠山深]]、サッカー選手
* 1984年 - [[今井正人]]、陸上競技選手
* 1984年 - [[西川明 (野球)|西川明]]、元プロ野球選手
* [[1985年]] - 宇乃徹、俳優、ミュージシャン([[HIROZ]]、[[HIROZ SEVEN+]])
* 1985年 - [[畑谷明日香]]、声優
* 1985年 - [[ゆん (声優)|ゆん]]、声優
* 1985年 - [[吉廣広征]]、元ラグビー選手・指導者
* 1985年 - [[篠藤淳]]、陸上選手
* 1985年 - [[ステファン・ランビエール]]、フィギュアスケート選手
* 1985年 - [[はんざわかおり]]、漫画家
* [[1986年]] - [[イブラヒム・アフェレイ]]、サッカー選手
* [[1987年]] - [[豊満貴之]]、サッカー選手
* 1987年 - [[寺田哲也]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[あべけん太]]、タレント
* [[1988年]] - [[大久保翔]]、サッカー選手
* [[1989年]] - [[水谷直人]]、プロボクサー
* [[1990年]] - [[石田法嗣]]、タレント
* 1990年 - [[鈴木健人]]、俳優
* 1990年 - [[君山舞夕奈]]、バスケットボール選手
* 1990年 - [[山田哲也 (格闘家)|山田哲也]]、[[総合格闘家]]
* 1990年 - [[イリマ=レイ・マクファーレン]]、総合格闘家
* 1990年 - [[エフゲニア・カナエワ]]、新体操選手
* 1990年 - [[ミラレム・ピャニッチ]]、サッカー選手
* [[1991年]] - [[中村亘佑]]、元プロ野球選手
* 1991年 - [[琴勇輝一巖]]、元大相撲力士、年寄18代[[荒磯_(相撲)|荒磯]]
* 1991年 - [[シボーン・マッコール]]、フィギュアスケート選手
* 1991年 - [[松波優輝]]、俳優
* [[1992年]] - [[立花綾香]]、シンガーソングライター
* 1992年 - [[本川紗奈生]]、バスケットボール選手
* 1992年 - [[田中英祐]]、元プロ野球選手
* 1992年 - [[ウィルマー・ディフォ]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[矢萩春菜]]、アイドル([[美少女クラブ31]])
* 1992年 - [[北村まりこ]]、タレント
* [[1993年]] - [[伊藤拓郎 (野球)|伊藤拓郎]]、元プロ野球選手
* 1993年 - [[ラファエル・ポロ]]、プロ野球選手
* 1993年 - [[石内裕貴]]、柔道家
* 1993年 - [[犬塚志乃]]、タレント
* 1993年 - [[瀬戸麻沙美]]、声優
* 1993年 - [[広瀬ゆうき]]、女優、声優、歌手、アイドル(元[[A応P]])
* 1993年 - [[嘉大雅]]、琉球放送アナウンサー
* [[1996年]] - [[高良光莉]]、元タレント
* 1996年 - [[儀保幸英]]、サッカー選手
* 1996年 - [[正隨優弥]]、プロ野球選手
* 1996年 - [[ブランドン・ビーラック]] プロ野球選手
* 1996年 - [[ポリーナ・アガフォノワ]]、フィギュアスケート選手
* [[1997年]] - [[高橋智香]]、競輪選手
* 1997年 - [[姫野優也]]、プロ野球選手
* 1997年 - [[オースティン・ライリー]] プロ野球選手
* 1997年 - [[桜井日奈子]]、モデル、女優
* 1997年 - [[中村嶺亜]]、タレント([[ジャニーズJr.]]、7 MEN 侍)
* [[1998年]] - 島袋、([[エスポワールトライブ|エスポワール・トライブ]])
* [[1998年]] - 下野由貴、アイドル(元[[HKT48]])
* 1998年 - [[堀田真由]]、女優
* 1998年 - [[夢屋まさる]]、元お笑いタレント
* [[2000年]] - [[熊谷彩春]]、女優
* 2000年 - [[土居豪人]]、プロ野球選手
* 2000年 - [[石井快征]]、サッカー選手
* 2001年 - [[伊藤海斗]]、元プロ野球選手
* [[2001年]] - 南羽諒、アイドル(元[[NMB48]])
* [[2002年]] - [[小原唯和]]、俳優
* [[2003年]] - [[小浜桃奈]]、ファッションモデル、タレント([[Shibu3 project]])
* [[2004年]] - 永田詩央里、アイドル([[≠ME]])
* 2004年 - 本城珠莉亜、元アイドル(元[[ラストアイドル]])
* 2004年 - [[本間菜穂]]、女優、アイドル([[FAVO|FAVO♡]])
* 2004年 - [[小川桜花]]、女優、歌手、パフォーマー([[Girls²]])
* 2004年 - [[吉岡千波]]、女優
* [[2005年]] - [[橋本陸斗]]、サッカー選手
* 2005年 - [[原田都愛]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ldh.co.jp/management/harada_t/ |title=原田都愛 |accessdate=25 Apr 2023 |publisher=LDH JAPAN Inc.}}</ref>、女優、歌手、パフォーマー(Girls2)
* 生年不明 - [[秋葉佑]]、声優
* 生年不明 - [[坂東孝一]]、声優
* 生年不明 - [[岸倫仔]]、バイオリニスト
* 生年不明 - 七瀬快、女優
* 生年不明 - 愛野りほ、女優
* 生年不明 - 帆風成海、女優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1938年]] - [[セントライト]]、[[競走馬]]、[[三冠 (競馬)|三冠]]馬(+ [[1965年]])
* [[1947年]] - [[ウイザート]]、競走馬(+ 不明)
* [[1956年]] - [[インテンショナリー]]、競走馬(+ [[1970年]])
* [[1961年]] - [[シンザン]]、競走馬、三冠馬(+ [[1996年]])
* [[1975年]] - [[グレートタイタン]]、競走馬(+ [[1981年]])
* [[1985年]] - [[カヤージ]]、競走馬(+ [[2008年]])
* [[1987年]] - [[ホワイトストーン]]、競走馬(+ [[1998年]])
* [[1993年]] - [[ダイワテキサス]]、競走馬(+ [[2021年]])
* 1996年 - [[マチカネキンノホシ]]、競走馬
* 1998年 - [[サイドワインダー (競走馬)|サイドワインダー]]、競走馬
* [[1999年]] - [[タムロチェリー]]、競走馬(+ [[2007年]])
* 1999年 - [[メガスターダム]]、競走馬
* [[2000年]] - [[オースミハルカ]]、競走馬
* [[2005年]] - [[ウーヴェルドーズ]]、競走馬(+ [[2015年]])
== 忌日 ==
[[ファイル:Samuel_Morse.jpg|thumb|[[モールス符号]]の発明者[[サミュエル・モールス]](1791-1872)没|240x240ピクセル]]
[[ファイル:Georges_Pompidou_-_Bundesarchiv_B_145_Bild-F020538-0006.jpg|thumb|[[ジョルジュ・ポンピドゥ]](1911-1974)、フランス大統領在任中に白血病で没す。|202x202ピクセル]]
[[ファイル:YoungAlfven.jpg|thumb|[[磁気流体力学]]の基礎を築いた物理学者[[ハンス・アルヴェーン]](1908-1995)没|250x250ピクセル]]
[[ファイル:JPII_on_bier.jpg|thumb|180x180px|ローマ教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]](1920-2005)没。葬儀には世界中の要人が集結した。]]
=== 人物 ===
* [[1118年]] - [[ボードゥアン1世 (エルサレム王)|ボードゥアン1世]]、[[エルサレム王国|エルサレム]]王
* [[1272年]] - [[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]]、[[コーンウォール]]伯(* [[1209年]])
* [[1335年]] - [[ハインリヒ6世 (ケルンテン公)|ハインリヒ6世]]、[[ボヘミア王]](* [[1265年]]頃)
* [[1416年]] - [[フェルナンド1世 (アラゴン王)|フェルナンド1世]]、[[アラゴン王国|アラゴン]]・[[シチリア王国|シチリア王]](* [[1380年]])
* [[1502年]] - [[アーサー・テューダー]]、[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ公]](* [[1486年]])
* [[1639年]]([[寛永]]16年[[2月29日 (旧暦)|2月29日]]) - [[大久保忠教]](大久保彦左衛門)、[[武将|戦国武将]]、[[旗本]](* [[1560年]])
* [[1657年]] - [[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント3世]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1608年]])
* [[1742年]]([[寛保]]2年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]]) - [[市川團十郎 (3代目)]]、[[歌舞伎役者]](* [[1721年]])
* [[1791年]] - [[オノーレ・ミラボー]]、[[フランス革命]]指導者(* [[1749年]])
* [[1822年]]([[文政]]5年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]) - [[上杉治憲|上杉鷹山]]、第9代[[米沢藩|米沢藩主]](* [[1751年]])
* [[1872年]] - [[サミュエル・モールス]]、[[画家]]、[[発明家]](* [[1791年]])
* [[1874年]] - 初代[[桂文枝]]、[[落語家]](* [[1819年]])
* [[1877年]] - [[古川正雄]]、[[教育者]](* [[1837年]])
* [[1887年]] - [[中島登]]、[[新選組]]隊士(* [[1838年]])
* [[1891年]] - [[アルバート・パイク]]、[[弁護士]](* [[1809年]])
* [[1914年]] - [[パウル・フォン・ハイゼ]]、作家(* [[1830年]])
* [[1922年]] - [[ヘルマン・ロールシャッハ]]、[[精神病理学|精神病理学者]](* [[1884年]])
* 1928年 - [[セオドア・リチャーズ]]、[[物理化学|物理化学者]](* [[1868年]])
* [[1929年]] - [[松井千枝子]]、[[俳優|女優]](* [[1899年]])
* [[1931年]] - [[浅川巧]]、[[陶芸]]、[[工芸]]評論家(* [[1891年]])
* [[1937年]] - [[ナータン・ビルンバウム]]、[[シオニズム]]指導者、[[思想家]](* [[1864年]])
* 1937年 - [[十一谷義三郎]]、[[小説家]]、[[翻訳|翻訳家]](* [[1897年]])
* [[1946年]] - [[大島伯鶴|大島伯鶴(2代目)]]、[[講談師]](* [[1879年]])
* [[1949年]] - [[森山松之助]]、[[建築家]](* [[1869年]])
* 1949年 - [[カルロ・ガレッティ]]、[[自転車競技]]選手(* [[1882年]])
* [[1950年]] - [[ジャン=ジョルジュ・オリオール]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]・[[映画評論|評論家]](* [[1907年]])
* [[1951年]] - [[シモン・バレル]]、[[ピアニスト]](* [[1896年]])
* [[1952年]] - [[ベルナール・リヨ]]、[[天文学者]](* [[1897年]])
* [[1953年]] - [[アブラハム・レイゼン]]、[[イディッシュ語]]作家(* [[1876年]])
* 1953年 - [[フーゴ・シュペルレ]]、[[ドイツ空軍]][[元帥]](* [[1885年]])
* [[1954年]] - [[モード・バーガー=ウォラック]]、[[テニス]]選手(* [[1870年]])
* 1954年 - [[ホイト・ヴァンデンバーグ]]、第2代[[アメリカ中央情報局]]長官(* [[1899年]])
* [[1956年]] - [[高村光太郎]]、[[芸術家]]、[[詩人]](* [[1883年]])
* [[1958年]] - [[戸田城聖]]、[[創価学会]]創設者(* [[1900年]])
* [[1966年]] - [[セシル・スコット・フォレスター]]、[[小説家]](* [[1899年]])
* [[1972年]] - [[フランツ・ハルダー]]、ドイツ[[陸軍総司令部]][[プロイセン参謀本部|参謀総長]](* [[1884年]])
* 1972年 - [[ギル・ホッジス]]、[[プロ野球選手]](* [[1924年]])
* [[1973年]] - [[ヤッシャ・ホーレンシュタイン]]、[[指揮者]](* [[1898年]])
* [[1974年]] - [[ジョルジュ・ポンピドゥ]]、[[フランス第五共和政]]第2代[[フランス大統領の一覧|フランス大統領]](* [[1911年]])
* [[1975年]] - [[董必武]]、[[中華人民共和国主席]]代理(* [[1886年]])
* [[1983年]] - [[張大千]]、[[画家]](* [[1899年]])
* 1983年 - [[高垣眸]]、[[作家]](* [[1898年]])
* [[1984年]] - [[園田直]]、[[政治家]](* [[1913年]])
* [[1987年]] - [[中垣國男]]、政治家(* [[1911年]])
* 1987年 - [[バディ・リッチ]]、[[ジャズ]][[ドラマー]](* [[1917年]])
* 1987年 - [[山本悍右]]、詩人、[[写真家]](* [[1914年]])
* [[1988年]] - [[菅原明朗]]、[[作曲家]]、啓蒙家(* [[1897年]])
* [[1991年]] - [[越後正一]]、[[実業家]](* [[1901年]])
* [[1992年]] - [[若山富三郎]]、[[俳優|映画俳優]](* [[1929年]])
* [[1995年]] - [[ハンス・アルヴェーン]]、[[物理学者]](* [[1908年]])
* [[1997年]] - [[香川綾]]、[[女子栄養大学]]創始者、[[医学博士]](* [[1899年]])
* [[1998年]] - [[小堀杏奴]]、[[随筆家]](* [[1909年]])
* [[1999年]] - [[加藤新平]]、[[法学者]](* [[1912年]])
* 1999年 - [[矢島輝夫]]、[[小説家]](* [[1939年]])
* 1999年 - [[祝一平]]、テクニカルライター
* [[2002年]] - [[ヘンリー・スレッサー]]、[[小説家]](* [[1927年]])
* [[2003年]] - [[村田敬次郎]]、政治家(* [[1924年]])
* [[2004年]] - [[竹本貴志]]、[[騎手]](* [[1983年]])
* [[2005年]] - [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]、[[教皇|ローマ教皇]](* [[1920年]])
* 2005年 - [[浦口鉄男]]、[[政治家]](* [[1906年]])
* [[2007年]] - [[ヘンリー・リー・ギクラス]]、[[天文学者]](* [[1910年]])
* [[2008年]] - [[石井桃子]]、[[児童文学|児童文学作家]](* [[1907年]])
* [[2010年]] - [[山内鉄也]]、[[映画監督]](* [[1934年]])
* 2010年 - [[マイク・クェイヤー]]、元プロ野球選手(* [[1937年]])
* [[2013年]] - [[マリーア・レダエッリ=グラノーリ]]、ヨーロッパ最高齢だった人物(* [[1899年]])
* 2013年 - [[ロバート・ウォード]]、作曲家(* [[1917年]])
* 2013年 - [[平田英之]]<ref>{{Cite web|和書|title=さらば球界の名士…“怪童”尾崎行雄氏 長嶋さんも驚いた剛速球|publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex|date=30 Dec 2013|author=|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/12/30/kiji/K20131230007293800.html|accessdate=25 Apr 2023}}</ref>、元プロ野球選手(* [[1954年]])
* [[2015年]] - [[マノエル・ド・オリヴェイラ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG02HEX_T00C15A4000000/ |title=マノエル・ド・オリベイラ氏が死去 ポルトガルの映画監督 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=3 Apr 2015 |accessdate=25 Apr 2023}}</ref>、[[映画監督]](* [[1908年]])
* 2015年 - [[西村俊二]]、元プロ野球選手(* [[1947年]])
* [[2020年]] - [[山田敬蔵]]<ref>{{Cite web|和書| title = 山田敬蔵さんが92歳で死去…53年の米ボストン・マラソンで優勝| publisher = [[スポーツ報知]]| date = 23 Apr 2020| url = https://hochi.news/articles/20200423-OHT1T50190.html|accessdate=25 Apr 2023}}</ref>、[[マラソン]]選手(* [[1927年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1908年]] - [[セントサイモン]]、[[競走馬]]、[[種牡馬]](* [[1881年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[国際子どもの本の日]]({{World}})
*: [[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]の誕生日にちなみ、[[国際児童図書評議会]] (IBBY) が[[1967年]]に制定<ref>{{Cite web|和書|url=https://jbby.org/news/post-10565 |title=4月2日は、国際子どもの本の日です。 |access-date=25 Apr 2023 |publisher=JBBY(国際児童図書評議会) |date=19 Feb 2021}}</ref>。
* [[世界自閉症啓発デー]]({{World}})
*: [[2007年]]12月の国連総会で制定された[[国際デー]]。
* {{仮リンク|マルビナスの日|en|Malvinas Day}}({{ARG}})
*: [[1982年]]のこの日、アルゼンチン軍が英領[[フォークランド諸島]](マルビナス諸島)を占領し、[[フォークランド紛争]]が始まったことに由来。
* 日光山輪王寺「強飯式」({{JPN}})
*: [[栃木県]]の[[輪王寺|日光山輪王寺]]にだけ伝わる儀式で、始まりは[[奈良時代]]、[[勝道|勝道上人]]の日光開山に遡る。「三天合行供・採灯大護摩供」、「強飯頂戴の儀」、「がらまき」の3部構成で、別名「日光責め」とも呼ばれる。修験者の姿をした強飯僧が、裃姿の頂戴人に三升もの山盛り飯を差し出し「喰え喰え」と強要する「強飯頂戴の儀」がよく知られており、この儀式を頂戴すれば七難即滅・七福即生、運が開けるといわれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tochigiji.or.jp/event/e15046 |title=強飯式(ごうはんしき) |access-date=7 Aug 2023 |publisher=栃木県観光物産協会 |website=とちぎ旅ネット}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.rinnoji.or.jp/event/389-2/ |title=強飯式 ごうはんしき |access-date=7 Aug 2023 |publisher=日光山輪王寺}}</ref>。
* 図書館開設記念日({{JPN}})
*: 明治5年[[4月2日 (旧暦)|旧暦4月2日]](新暦[[1872年]][[5月8日]])に、東京・湯島に日本初の官立公共[[図書館]]・東京書籍館が開設されたことに由来。
* [[週刊誌]]の日({{JPN}})
*:[[1922年]]のこの日に、日本初の新聞社が発刊した週刊誌である『週刊朝日』と『サンデー毎日』が創刊されたことにちなむ。
* 歯列矯正の日({{JPN}})
*:「し(4)れ(0)つ(2)」の語呂合わせ。
* 連翹忌(光太郎忌)
*: [[高村光太郎]]の忌日。高村光太郎が、アトリエの庭に咲く[[レンギョウ|連翹]]の花を好んでいたことから連翹忌と呼ばれる。
* シャンプーの日({{JPN}})
*:「シャン(4)プー(2)」の語呂合わせ。髪と毛髪のことを考え、良いシャンプーをしてもらう大切さを理解してもらうことを目的に、[[リーブ21]]が制定<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=106|isbn=978-4422021140 }}</ref>。
* CO2削減の日({{JPN}})
*: CO2の削減に取り組もうと、[[静岡県]][[浜松市]]の富士金属興業株式会社が制定。自動車修理に、中古品やリビルドパーツを使用してCO2の排出削減をすることが目的。日付は4月2日(402)を「シーオーツー」と読む語呂合わせから<ref>{{Cite web|和書|url=https://dragonparts.com/402-co2-save-day-2017/#:~:text=4月2日(402,語呂合わせから考えました%E3%80%82 |title=402「CO2削減の日」とは? |access-date=25 Apr 2023 |publisher=ドラゴンパーツ}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0402|date=Apr 2023}}
* [[1989年]] - 警視庁捜査一課に、既存の7つの捜査班のいずれにも属さない刑事部長直轄の機関となる第8班が創設される。(『[[ゴリラ・警視庁捜査第8班]]』)
* [[1994年]] - ゴルゴ13から[[国際連合|国連]]宛に「すべてを捨てし者」名義で200億ドルが寄付される([[ゴルゴ13]]『潮流激る南沙~G資金異聞~』)。
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1917年]] - リカリッタ・アリエス、ゲーム・アニメ『[[サクラ大戦V 〜さらば愛しき人よ〜|サクラ大戦Ⅴ~さらば愛しき人よ~]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://sakura-taisen.com/archives/game/ds/chara_rikaritta.html |title=リカリッタ・アリエス |access-date=25 Apr 2023 |publisher= [[セガ|SEGA]] |work= 『サクラ大戦V 〜さらば愛しき人よ〜』}}</ref>
* [[1943年]] - [[チップとデール]]、Disneyアニメに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.disney.co.jp/store/news/new/chip-n-dale-birthday_220321.html |title=4月2日はチップとデールのお誕生日! |access-date= 25 Apr 2023 |publisher=DISNEY STORE}}</ref><ref group="注釈">鼻の色が黒いのがチップで、茶色のがデール。ディズニーキャストは、「チョコチップ(を食べて)鼻血がデール。」と覚える。</ref>
* [[1982年]] - 和平なごみ、アニメ『[[アキバ冥途戦争]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://akibamaidwar.com/character/detail/?character=nagomi |title=和平 なごみ |access-date= 25 Apr 2023 |publisher=「アキバ冥途戦争」製作委員会 |work=TVアニメ『アキバ冥途戦争』}}</ref>
* [[1991年]] - 源さくら、アニメ『[[ゾンビランドサガ]]』、『[[ゾンビランドサガ リベンジ]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書
|url=https://zombielandsaga.com/character/2.php |title=源 さくら |accessdate= 23 Jul 2023
|publisher=ゾンビランドサガ リベンジ製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 宮川あつみ、漫画・アニメ『[[リコーダーとランドセル]]』の主人公
* 生年不明 - 関谷なる、漫画・アニメ『[[ハナヤマタ]]』の主人公<ref>{{Twitter status|hanayamata_pr|980521033756164096}}</ref>
* 生年不明 - 佐々木琲世、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール|東京喰種トーキョーグール:re]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marv.jp/special/tokyoghoul/chara_01.html |title=佐々木琲世 CV:花江夏樹 |work=『東京喰種:re』 |accessdate= 25 Apr 2023 |publisher=[[石田スイ]]/[[集英社]]・東京喰種:re製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 野坂悠馬、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』の主人公のひとり<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=1 |accessdate= 25 Apr 2023 }}</ref>
* 生年不明 - [[ガチャピン]]、子供番組『[[ポンキッキシリーズ]]』のキャラクター<ref name="with">{{Cite web|和書|url=https://withnews.jp/article/f0170403004qq000000000000000W06d10701qq000014956A |title=ガチャピン・ムック、45年目の「5歳」 フォロワー1位だったことも |work=withnews |date=3 Apr 2017 |accessdate= 25 Apr 2023 }}</ref>
* 生年不明 - [[ムック (キャラクター)|ムック]]、子供番組『ポンキッキシリーズ』のキャラクター<ref name="with" />
* 生年不明 - ジンベエ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Jinbe.html |title=ジンベエ |work=『ONE PIECE』 |accessdate= 25 Apr 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - ゼフ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Zeff.html |title=ゼフ |work=『ONE PIECE』 |accessdate= 25 Apr 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - 飛弾、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1377636887863562240}}</ref>
* 生年不明 - 雲の国の忍頭、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|date=2002-07-04|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=67|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088732886}}</ref>
* 生年不明 - [[史上最強の弟子ケンイチの登場人物#九弦院響|九弦院響]]、漫画・アニメ『[[史上最強の弟子ケンイチ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=松江名俊|authorlink=松江名俊|title=史上最強の弟子ケンイチ 公式ガイドブック 史上最強の秘伝書series=少年サンデーコミックススペシャル|page=100|publisher= [[小学館]]|date=2014-05-16|isbn=978-4091250162}}</ref>
* 生年不明 - 竜恩寺泉、漫画・ドラマ『[[メイちゃんの執事]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 藤川歌夜、漫画・アニメ『[[ステラのまほう]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= http://magicofstella.com/chara/kayo.html |title= 藤川 歌夜 ふじかわかよ|publisher= くろば・U・[[芳文社]]/ステラのまほう製作委員会 |work=『ステラのまほう』|accessdate= 25 Apr 2023 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20180701134506/http://magicofstella.com/chara/kayo.html |archivedate=2018-07-01}}</ref>
* 生年不明 - 竹早静弥、小説・アニメ『[[ツルネ -風舞高校弓道部-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tsurune_anime|1377818065950240775}}</ref>
* 生年不明 - 白鳥アカリ、テレビドラマ『[[アイドル×戦士ミラクルちゅーんず!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|date=2017-07-12|title=アイドル×戦士ミラクルちゅーんず!ヒロインずかん|page=23|publisher=[[小学館]]|series=テレビ超ひゃっか|author=佐藤春華|isbn=978-4097504214}}</ref>
* 生年不明 - 紫月ヨツバ、特撮『[[ひみつ×戦士 ファントミラージュ!]]』の登場人物
* 生年不明 - [[デジモンセイバーズの登場キャラクター#主要人物|大門大]]、アニメ『[[デジモンセイバーズ]]』に登場するキャラクター<ref>『デジモンセイバーズ』第1話「俺が大だ!コカトリモン襲来」(本放送:2006年4月2日)</ref>
* 生年不明 - 青葉初芽、アニメ『[[RELEASE THE SPYCE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|rts_sf|1112731345787211778}}</ref>
* 生年不明 - 天塚・弥生、アニメ『[[戦翼のシグルドリーヴァ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sigururi|1377636875058307083}}</ref>
* 生年不明 - [[不知火フレア]]、[[ホロライブプロダクション]]所属のVTuber<ref>{{Cite web|和書|url=https://hololive.hololivepro.com/talents/shiranui-flare/ |title=不知火フレア |access-date= 25 Apr 2023 |publisher=COVER Corp.}}</ref>
* 生年不明 - 佐藤良美、ゲーム・アニメ『[[つよきす]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.candysoft.jp/ohp/01_products/tuyokiss/chara/character.html#yoshimi |title=佐藤 良美 |access-date= 25 Apr 2023 |publisher=[[きゃんでぃそふと|CandySoft]] |work=『つよきす』}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |date = 2007-08-29 |title = ヤンデレ大全 (INFOREST MOOK Animeted Angels MANIA) |page = 36 |publisher = [[インフォレスト]] |isbn = 978-4861902604 }}</ref>
* 生年不明 - マコト・ナナヤ、ゲーム『[[BLAZBLUE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.blazblue.jp/cf/ac/character/makoto.html |title=マコト=ナナヤ |publisher=「[[アークシステムワークス|ARC SYSTEM WORKS]] |accessdate=25 Apr 2023 |work=『BLAZBLUE CENTRALFICTION AC版』}}</ref>
* 生年不明 - 春寺由梨亜、ゲーム・アニメ『[[グリザイアの果実]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|grisaia_fw|1509908449701732356}}</ref>
* 生年不明 - 八束由紀恵、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://app.famitsu.com/20130327_145326/ |title=【ガールフレンド(仮)通信05】マジメな優等生 八束由紀恵ちゃん(CV:今井麻美) |access-date=25 Apr 2023 |publisher=ファミ通App |date=27 Mar 2013}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター SideM#都築圭|都築圭]]、ゲーム『[[アイドルマスター SideM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/40033 |title=都築 圭(つづき けい) |access-date= 25 Apr 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 杏橋天音、ゲーム・アニメ『[[スクールガールストライカーズ|スクールガールストライカーズ2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://schoolgirlstrikers.jp/member/amane.html |title=杏橋 天音 |publisher=[[スクウェア・エニックス|SQUARE ENIX CO.]] |work=『スクールガールストライカーズ2』 |accessdate=7 Aug 2023}}</ref>
* 生年不明 - フリュス、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=136&cate=name&cont=Fruys |title=フリュス |access-date= 25 Apr 2023 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 柴香華、ゲーム『[[ソウルキャリバーVI]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://sc6.soularchive.jp/character/chai.php |title=Chai Xianghua 柴 香華(チャイシャンファ) |work=『SOULCALIBUR Ⅵ』 |accessdate= 25 Apr 2023 |publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント|BANDAI NAMCO Entertainment Inc.]]}}</ref>
* 生年不明 - 和泉香、メディアミックス『[[極上生徒会]]』に登場するキャラクター
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
== 関連項目 ==
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%882%E6%97%A5 |
3,507 | シャーロック・ホームズ | シャーロック・ホームズ(Sherlock Holmes)は、19世紀後半に活躍したイギリスの小説家・アーサー・コナン・ドイルの創作した、シャーロック・ホームズシリーズの主人公である、架空の探偵。
彼の活躍する一連の作品は大ヒットして、推理小説の分野に一つの頂点を築いた。その魅力は今なお衰えず、世界中で読み継がれている。シャーロック・ホームズシリーズは「聖書に次ぐベストセラー」ともいう。
生年や出身地は明確な記述がなく、はっきりしていない。
大学時代に友人の父親にまつわる事件(「グロリア・スコット号事件」)を解決したことで、探偵業を志すようになり、大学卒業後に大英博物館近くのモンタギュー街(Montague Street, 現在のカムデン区)で開業した。1881年、ルームシェアの相手として元軍医のジョン・H・ワトスン博士と初めて出会う(『緋色の研究』)。ホームズはその風采を見ただけでアフガン戦争の復員兵だと見抜き、驚かせた。
ワトスンと共にベーカー街の下宿(ベーカー街221B)で共同生活を始めた頃から名声が高まり、海外からも事件解決の依頼が寄せられるようになった。1891年に犯罪組織の頭目であるジェームズ・モリアーティ教授との対決(「最後の事件」)で、モリアーティ教授と共にスイスのライヘンバッハ滝にて失踪。モリアーティ教授と滝壺に落ちて死亡したと思われた。だが、落ちたのはモリアーティだけであったと後にわかる(「空き家の冒険」)。ホームズは生きていたが、モリアーティ一味の残党から逃れるために姿を消していたと発言している。また日本を発祥とする東洋武術のバリツを体得していたおかげで、モリアーティ教授との戦いから生き永らえたという(「空き家の冒険」)。
モリアーティ一味の残党から逃れるために姿をくらましてからの行動ははっきりしない(チベットなどアジアにまで足を運んでいたという示唆もある。「空き家の冒険」の項を参照)。ホームズ自身の説明によると、兄のマイクロフト・ホームズに資金を援助してもらいながらモリアーティ一味の残党を倒そうとしたが上手くいかなかったという。
失踪から3年後、モリアーティの腹心の部下であるセバスチャン・モラン大佐を捕まえるため、ホームズはロンドンに戻った。老人に変装してワトソン宅を訪れ、ワトソンが背中を向けた隙に変装を解いて正体を明かすという茶目っ気のある方法で再会したためにワトソンを気絶させるほど驚かせた(「空き家の冒険」)。モラン大佐の逮捕後は、失踪する前と変わらず探偵業を続けた。晩年のホームズは探偵業を引退して田舎で養蜂の研究をしていたが、第一次世界大戦の直前には政府の依頼でドイツのスパイ逮捕に協力した(「最後の挨拶」)。
優れた観察眼と推理力を有し、自らを世界で唯一の「民間諮問探偵」(consulting detective) と称する。ロンドンのベイカー街221Bにあるハドスン夫人所有のアパートで、相棒のジョン・H・ワトスン医師と共同生活をしている。
容姿は『緋色の研究』で詳しく描かれている。体格は痩身で身長は少なくとも6フィート(約183センチメートル)以上の長身、鷲鼻で角張った顎が目立つ。作者のドイル自身はとがった鼻のインディアンの様な風貌を想像していたという。
性格は極めて冷静沈着。行動力に富み、いざ現場に行けば地面を這ってでも事件の一端を逃すまいと血気盛んになる活動家。反対に兄のマイクロフト・ホームズは、シャーロックよりも鋭敏な頭脳を持つが、精力的な捜査に興味がない為に探偵にはならなかった(「ギリシャ語通訳」)。
ヴァイオリンの演奏にも長けており、ストラディヴァリ製のヴァイオリンを所有している。ボクシングはプロ級(当時はベアナックルの「ロンドン・プライズリング・ルールズ」から「クインズベリー・ルール」へ変更した直後)の腕前。拳銃射撃も弾痕でアルファベットを描けるほどの腕前(「マスグレーヴ家の儀式」)。化学実験を趣味とする。ヘビースモーカーであり、ペルシャスリッパの中にタバコをしまう奇妙な性癖があった。事件がなく退屈すると、アヘンやコカインやモルヒネを使う薬物依存があった(当時は合法であった)。薬物に手を出すのはワトソンが何年もかけて止めさせた(但し完全に止めたわけではなく、いずれ再発する可能性があったようだ)。後年になるとこういったディレッタント風の退廃的な生活態度をやめ、野山や草木に親しむ保守的な英国紳士風の様子を見せるようになる。
生年月日や家族など私的な事柄については、本編中にはっきりした記述はない。「最後の挨拶」で"the man of sixty"とあるのがホームズの年齢に関するほとんど唯一の記述である。ただ、生年月日は1854年1月6日とする説が有力である。また、出身はイングランドのヨークシャー州北ライディングという説が有力である。
家族については、兄のマイクロフト以外はほとんど言及がない。本人は、先祖は地方の地主で、祖母がフランスの画家オラース・ヴェルネの姉妹だと述べている(「ギリシャ語通訳」)。また、ワトソンが開業していた病院を買い取ったヴァーナーという若い医者が、ホームズの遠縁に当たるという記述が見られる(「ノーウッドの建築業者」)。父と母に関する記述は正典中には無い。
出身大学についても本編中にはっきりした記述はない。「グロリア・スコット号事件」ではトレヴァーをカレッジで唯一の友人と記述し、「マスグレーヴ家の儀式」ではレジナルド・マスグレーヴを学寮が同じでちょっとした知り合いと述べている。この2人は同じ大学であるとすると矛盾が生じるため、ホームズは2つの事件の間に大学を変わったのではないかと考えるシャーロキアンもいる。その2校の大学は、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学であり、ホームズが1つの大学の学生であったと考えている研究者も、彼が通った大学はこの内のいずれかだろうとみなしている。
ホームズはワトソンが書く自分の物語に関してはその書き方を特に批判している(だが、後にワトソンに「そこまで言うなら自分でやるように」と怒られて、自分で書く羽目になった「白面の兵士」では読者を喜ばせるためにワトソンと同じ書き方をしてしまい、反省する一幕がある)。また、ワトソンはホームズの許可をもらわなければその事件に関する物語を書くことはできない。基本的に自分の名を世間に知られるのは好ましくないと考えている(その割には、ワトソンを自分の「伝記作家」と呼ぶこともあるが)ため、中々許可を出さないが(他にも依頼人の立場などを考慮していることもある)、稀にいきなりワトソンに連絡を取って一方的に許可を出すこともある。
人物評においては辛辣であり、後にその発言を覆しているものの先輩格であるC・オーギュスト・デュパンやルコックを批判したりしている(『緋色の研究』)。
ホームズは女性嫌いとしても知られており、基本的に女性を信用していないようである(「どんなに立派な女性でも100%は信用できない」と言ってワトソンの機嫌を損ねたことがある)。ただし、女性の勘については一目置いており、また、女性には紳士的に接する。ワトソンがメアリー・モースタンと結婚した際にも「お祝いは言わないよ」と言っている。もっとも、メアリーに悪い感情を持っていたわけではないようで結婚後、開業医になったワトソンを事件の捜査において協力を求める際にもメアリー(あるいはそれ以外のワトソンの妻)を気遣うような発言もしている(「株式仲買店員」)。ごくごく稀にだが、女性に惹かれることもあり、「ライオンのたてがみ」で出会ったモード・ベラミー嬢には「彼女に出会っては、どんな青年も無関心ではいられまい」「最も完成された非凡な女性」と感銘を受け、数瞬であるが目を奪われている。
彼の多才な能力はそのまま犯罪に使うこともできるため、ホームズ自身、自分が犯罪者になれば大変なことになっていたであろうという旨の発言をし、また、犯罪紛いの行動を取った際にはレストレード警部にも釘を刺されている。
再三にわたってナイトの地位を辞退している。本人は肩書きが無いのを好むためと言っているが、その一方でフランス政府からのレジオンドヌール勲章は受章しており(「金縁の鼻眼鏡」)、この矛盾については正典内で明確な説明はない。
作者は「シャーロック・ホームズ」と正式に名付ける前に「シェリングフォード」(Sherringford)ないしは「シェリンフォード」(Sherrinford)という仮称を設定しており、後世のパスティーシュ作品にその設定が引用される事がある。日本国内においては「Shellingford」や「Shellinford」と誤って表記される事も多い。
第1作『緋色の研究』の序盤で、ワトソンはホームズに以下の評価を下している。
しかし、『緋色の研究』の事件においてホームズはワトソンの判断を覆すような引用・発言をし、後の作品でも多方面にわたる見識と知識を見せている。ワトソンは「後で騙されていたと気付いた」と述べている。『緋色の研究』の時点でこのような評価になった理由は、二人が知り合って間もないうえ、教養の必要性を主張するワトソンをホームズがからかったためだとされる。
他にも、シェイクスピアを引用したり「ボスコム渓谷の惨劇」のなかでホームズが現場に向かう時、「ポケット版 ペトラルカ詩集」を読んでいたりと、文学の知識がなしとするのは言い過ぎだろうと、北原尚彦は述べている。
ホームズのモデルは、作者の医学部時代の恩師で外科医であるジョセフ・ベルとされている。ドイルは1877年にベルに出会い、エジンバラ王立病院 (Royal Infirmary of Edinburgh) でベルの下で働いた。ベルは、病気の診断には観察力が重要だと学生に説き、訪れる患者の外見から病名だけでなく、職業や住所、家族構成までを鋭い観察眼で言い当てて、学生らを驚かせた。コナン・ドイルは、学生時代にベルの助手を務め、その行動を日頃から目の当たりにしていた。アーヴィング・ウォーレスは、著書『The Fabulous Originals』で初出し、後に加筆されて『The Sunday Gentleman』に収録されたエッセイで、ベルがおもにスコットランドで警察の捜査に何回も関与しており、1893年のアードラモント殺人事件 (Ardlamont murder) などにもたずさわり、多くの場合は法医学を専門としたヘンリー・リトルジョイ (Henry Littlejohn) 教授とともに働いていたと述べている。
一方で、ドイルの息子であるエイドリアン・コナン・ドイルは、実際にいくつかの事件で冤罪を晴らしたことのあるアーサー・コナン・ドイル自身が、ホームズのモデルであると主張していた。
以下はシャーロック・ホームズシリーズの記述から推測されるホームズの経歴である。これとは異なる経歴を支持するシャーロキアンも多いことを付け加えておく。
シャーロック・ホームズはよくアブダクションを使う。徹底した現場観察によって得た手掛かりを、過去の犯罪事例に関する膨大な知識、物的証拠に関する化学的知見、犯罪界の事情通から得た情報などと照らし合わせて分析し、事件現場で何が起きたかを推測する。しばしば消去法を用い、「不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる」(When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.)と述べている(「四つの署名」)。彼の観察力の鋭さは「白銀号事件」で犬が吠えなかったことを指摘したように、現場で起きた出来事だけでなく、現場で発生すべきなのに起きなかった出来事にも注目した点に表される。この事例は、ミステリ小説界に留まらず広く学問の世界においても、注意力と観察力は如何にあるべきかを示す事例として頻繁に引用される。エジプトの警察は過去、研修にシャーロック・ホームズを教科書として採用していた。
彼は音楽とタバコと有毒植物と過去の犯罪に特に詳しく、前例とタバコで解決した例も少なくない。タバコの灰の見分け方に関しては論文も書いている。
また、彼は、ベイカー街遊撃隊(ベイカーストリートイレギュラーズ)と呼ばれる貧しい少年達に小遣いを与えて、情報収集させることもある。
ドイルに敬意を持った小説家や脚本家らによって、これまで数々のホームズの経歴に秘められたエピソードや裏話(外伝)が新たに与えられてきた。
最も古い作品の一つとして、モーリス・ルブランによって発表された一連の小説『遅かりしシャーロック・ホームズ』(190X年)『ルパン対ホームズ』(1906年)『奇巌城』(1909年)が知られる。これらの作品は、19世紀末あるいは20世紀初頭のフランス・パリを舞台に、大怪盗アルセーヌ・ルパンとホームズが対峙する物語である。
日本に関連する作品としては、1891年の「最後の事件」を終えた後にホームズが消息不明となっていた謎の3年間(大空白時代。チベットなどのアジアを旅していたとされる)から着想を得て生まれたものなどがある。以下に挙げる。
「最後の事件」以降の謎に秘められていた期間、ホームズは実は密かに軽井沢に滞在していた。その小さな村でホームズが医師の”Dr.ワタナベ”とともに数々の事件を解決していく物語。欧米のシャーロキアンに人気の作品。
「最後の事件」以降の謎に秘められていた期間、ホームズは実は密かに来日していた。ホームズが「大津事件」の解決に挑むなかで、政界の重鎮伊藤博文伯爵と逢着する物語。日本で人気を博し、アメリカで翻訳版『A Scandal in Japan』も出版された。
1943年以降の現役を引退しているホームズ(93歳-)をめぐる物語。日本人のホームズファン”ウメザキ”に誘われ、敗戦直後の広島を訪れた。また日本人の外交官であったウメザキの父が、ホームズとイギリスで交流があったことも明かされている。のちにイアン・マッケラン主演で映画化され、ウメザキ役を真田広之が演じた。
あまりにも人気があるため、実在の人物と見なして(ただし、本当に実在していると信じているという訳ではない)、数多くの人達がホームズを研究している。彼らは、イギリスではホームジアン、アメリカや日本ではシャーロキアンと呼ばれる。シャーロキアンの組織は世界中にあるが、1934年にアメリカのニューヨークで設立されたベイカー・ストリート・イレギュラーズが最も古い。イギリスのロンドンにはシャーロック・ホームズ協会が、日本には日本シャーロック・ホームズ・クラブがある。
ホームズはまた、多くの俳優に演じられた架空人物の一人に数えられる。ギネスブックによれば、「最も多く映画化された主人公」として記録されている。
ホームズ映画は映画そのものとほぼ同じ歴史を持つとも言える。最初期の無声映画時代には、ドイルの許可も得ないホームズ映画が相当数創られたと考えられている。
アメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) が企画した「AFIアメリカ映画100年シリーズ」では、『アメリカ映画の名セリフベスト100』で彼のセリフ「Elementary, my dear Watson」(「初歩的なことだよ、ワトソン君」)が65位にランク入りしている。
他にロジャー・ムーア、ジェームズ・ダーシーなどもホームズを演じている。なお従来の推理物と違うものや、一風変わったホームズを演じた人物には以下のようなものがある。
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"text": "大学時代に友人の父親にまつわる事件(「グロリア・スコット号事件」)を解決したことで、探偵業を志すようになり、大学卒業後に大英博物館近くのモンタギュー街(Montague Street, 現在のカムデン区)で開業した。1881年、ルームシェアの相手として元軍医のジョン・H・ワトスン博士と初めて出会う(『緋色の研究』)。ホームズはその風采を見ただけでアフガン戦争の復員兵だと見抜き、驚かせた。",
"title": "生涯"
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"text": "ワトスンと共にベーカー街の下宿(ベーカー街221B)で共同生活を始めた頃から名声が高まり、海外からも事件解決の依頼が寄せられるようになった。1891年に犯罪組織の頭目であるジェームズ・モリアーティ教授との対決(「最後の事件」)で、モリアーティ教授と共にスイスのライヘンバッハ滝にて失踪。モリアーティ教授と滝壺に落ちて死亡したと思われた。だが、落ちたのはモリアーティだけであったと後にわかる(「空き家の冒険」)。ホームズは生きていたが、モリアーティ一味の残党から逃れるために姿を消していたと発言している。また日本を発祥とする東洋武術のバリツを体得していたおかげで、モリアーティ教授との戦いから生き永らえたという(「空き家の冒険」)。",
"title": "生涯"
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"text": "モリアーティ一味の残党から逃れるために姿をくらましてからの行動ははっきりしない(チベットなどアジアにまで足を運んでいたという示唆もある。「空き家の冒険」の項を参照)。ホームズ自身の説明によると、兄のマイクロフト・ホームズに資金を援助してもらいながらモリアーティ一味の残党を倒そうとしたが上手くいかなかったという。",
"title": "生涯"
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"text": "失踪から3年後、モリアーティの腹心の部下であるセバスチャン・モラン大佐を捕まえるため、ホームズはロンドンに戻った。老人に変装してワトソン宅を訪れ、ワトソンが背中を向けた隙に変装を解いて正体を明かすという茶目っ気のある方法で再会したためにワトソンを気絶させるほど驚かせた(「空き家の冒険」)。モラン大佐の逮捕後は、失踪する前と変わらず探偵業を続けた。晩年のホームズは探偵業を引退して田舎で養蜂の研究をしていたが、第一次世界大戦の直前には政府の依頼でドイツのスパイ逮捕に協力した(「最後の挨拶」)。",
"title": "生涯"
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"text": "優れた観察眼と推理力を有し、自らを世界で唯一の「民間諮問探偵」(consulting detective) と称する。ロンドンのベイカー街221Bにあるハドスン夫人所有のアパートで、相棒のジョン・H・ワトスン医師と共同生活をしている。",
"title": "人物像"
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"text": "容姿は『緋色の研究』で詳しく描かれている。体格は痩身で身長は少なくとも6フィート(約183センチメートル)以上の長身、鷲鼻で角張った顎が目立つ。作者のドイル自身はとがった鼻のインディアンの様な風貌を想像していたという。",
"title": "人物像"
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"text": "性格は極めて冷静沈着。行動力に富み、いざ現場に行けば地面を這ってでも事件の一端を逃すまいと血気盛んになる活動家。反対に兄のマイクロフト・ホームズは、シャーロックよりも鋭敏な頭脳を持つが、精力的な捜査に興味がない為に探偵にはならなかった(「ギリシャ語通訳」)。",
"title": "人物像"
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"text": "ヴァイオリンの演奏にも長けており、ストラディヴァリ製のヴァイオリンを所有している。ボクシングはプロ級(当時はベアナックルの「ロンドン・プライズリング・ルールズ」から「クインズベリー・ルール」へ変更した直後)の腕前。拳銃射撃も弾痕でアルファベットを描けるほどの腕前(「マスグレーヴ家の儀式」)。化学実験を趣味とする。ヘビースモーカーであり、ペルシャスリッパの中にタバコをしまう奇妙な性癖があった。事件がなく退屈すると、アヘンやコカインやモルヒネを使う薬物依存があった(当時は合法であった)。薬物に手を出すのはワトソンが何年もかけて止めさせた(但し完全に止めたわけではなく、いずれ再発する可能性があったようだ)。後年になるとこういったディレッタント風の退廃的な生活態度をやめ、野山や草木に親しむ保守的な英国紳士風の様子を見せるようになる。",
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"text": "生年月日や家族など私的な事柄については、本編中にはっきりした記述はない。「最後の挨拶」で\"the man of sixty\"とあるのがホームズの年齢に関するほとんど唯一の記述である。ただ、生年月日は1854年1月6日とする説が有力である。また、出身はイングランドのヨークシャー州北ライディングという説が有力である。",
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"text": "家族については、兄のマイクロフト以外はほとんど言及がない。本人は、先祖は地方の地主で、祖母がフランスの画家オラース・ヴェルネの姉妹だと述べている(「ギリシャ語通訳」)。また、ワトソンが開業していた病院を買い取ったヴァーナーという若い医者が、ホームズの遠縁に当たるという記述が見られる(「ノーウッドの建築業者」)。父と母に関する記述は正典中には無い。",
"title": "人物像"
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"text": "出身大学についても本編中にはっきりした記述はない。「グロリア・スコット号事件」ではトレヴァーをカレッジで唯一の友人と記述し、「マスグレーヴ家の儀式」ではレジナルド・マスグレーヴを学寮が同じでちょっとした知り合いと述べている。この2人は同じ大学であるとすると矛盾が生じるため、ホームズは2つの事件の間に大学を変わったのではないかと考えるシャーロキアンもいる。その2校の大学は、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学であり、ホームズが1つの大学の学生であったと考えている研究者も、彼が通った大学はこの内のいずれかだろうとみなしている。",
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"text": "ホームズはワトソンが書く自分の物語に関してはその書き方を特に批判している(だが、後にワトソンに「そこまで言うなら自分でやるように」と怒られて、自分で書く羽目になった「白面の兵士」では読者を喜ばせるためにワトソンと同じ書き方をしてしまい、反省する一幕がある)。また、ワトソンはホームズの許可をもらわなければその事件に関する物語を書くことはできない。基本的に自分の名を世間に知られるのは好ましくないと考えている(その割には、ワトソンを自分の「伝記作家」と呼ぶこともあるが)ため、中々許可を出さないが(他にも依頼人の立場などを考慮していることもある)、稀にいきなりワトソンに連絡を取って一方的に許可を出すこともある。",
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"text": "人物評においては辛辣であり、後にその発言を覆しているものの先輩格であるC・オーギュスト・デュパンやルコックを批判したりしている(『緋色の研究』)。",
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"text": "ホームズは女性嫌いとしても知られており、基本的に女性を信用していないようである(「どんなに立派な女性でも100%は信用できない」と言ってワトソンの機嫌を損ねたことがある)。ただし、女性の勘については一目置いており、また、女性には紳士的に接する。ワトソンがメアリー・モースタンと結婚した際にも「お祝いは言わないよ」と言っている。もっとも、メアリーに悪い感情を持っていたわけではないようで結婚後、開業医になったワトソンを事件の捜査において協力を求める際にもメアリー(あるいはそれ以外のワトソンの妻)を気遣うような発言もしている(「株式仲買店員」)。ごくごく稀にだが、女性に惹かれることもあり、「ライオンのたてがみ」で出会ったモード・ベラミー嬢には「彼女に出会っては、どんな青年も無関心ではいられまい」「最も完成された非凡な女性」と感銘を受け、数瞬であるが目を奪われている。",
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"text": "彼の多才な能力はそのまま犯罪に使うこともできるため、ホームズ自身、自分が犯罪者になれば大変なことになっていたであろうという旨の発言をし、また、犯罪紛いの行動を取った際にはレストレード警部にも釘を刺されている。",
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"text": "再三にわたってナイトの地位を辞退している。本人は肩書きが無いのを好むためと言っているが、その一方でフランス政府からのレジオンドヌール勲章は受章しており(「金縁の鼻眼鏡」)、この矛盾については正典内で明確な説明はない。",
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"text": "作者は「シャーロック・ホームズ」と正式に名付ける前に「シェリングフォード」(Sherringford)ないしは「シェリンフォード」(Sherrinford)という仮称を設定しており、後世のパスティーシュ作品にその設定が引用される事がある。日本国内においては「Shellingford」や「Shellinford」と誤って表記される事も多い。",
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"text": "第1作『緋色の研究』の序盤で、ワトソンはホームズに以下の評価を下している。",
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"text": "しかし、『緋色の研究』の事件においてホームズはワトソンの判断を覆すような引用・発言をし、後の作品でも多方面にわたる見識と知識を見せている。ワトソンは「後で騙されていたと気付いた」と述べている。『緋色の研究』の時点でこのような評価になった理由は、二人が知り合って間もないうえ、教養の必要性を主張するワトソンをホームズがからかったためだとされる。",
"title": "緋色の研究における人物評"
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"text": "他にも、シェイクスピアを引用したり「ボスコム渓谷の惨劇」のなかでホームズが現場に向かう時、「ポケット版 ペトラルカ詩集」を読んでいたりと、文学の知識がなしとするのは言い過ぎだろうと、北原尚彦は述べている。",
"title": "緋色の研究における人物評"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "ホームズのモデルは、作者の医学部時代の恩師で外科医であるジョセフ・ベルとされている。ドイルは1877年にベルに出会い、エジンバラ王立病院 (Royal Infirmary of Edinburgh) でベルの下で働いた。ベルは、病気の診断には観察力が重要だと学生に説き、訪れる患者の外見から病名だけでなく、職業や住所、家族構成までを鋭い観察眼で言い当てて、学生らを驚かせた。コナン・ドイルは、学生時代にベルの助手を務め、その行動を日頃から目の当たりにしていた。アーヴィング・ウォーレスは、著書『The Fabulous Originals』で初出し、後に加筆されて『The Sunday Gentleman』に収録されたエッセイで、ベルがおもにスコットランドで警察の捜査に何回も関与しており、1893年のアードラモント殺人事件 (Ardlamont murder) などにもたずさわり、多くの場合は法医学を専門としたヘンリー・リトルジョイ (Henry Littlejohn) 教授とともに働いていたと述べている。",
"title": "モデル"
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"text": "一方で、ドイルの息子であるエイドリアン・コナン・ドイルは、実際にいくつかの事件で冤罪を晴らしたことのあるアーサー・コナン・ドイル自身が、ホームズのモデルであると主張していた。",
"title": "モデル"
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"text": "以下はシャーロック・ホームズシリーズの記述から推測されるホームズの経歴である。これとは異なる経歴を支持するシャーロキアンも多いことを付け加えておく。",
"title": "経歴"
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{
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"text": "シャーロック・ホームズはよくアブダクションを使う。徹底した現場観察によって得た手掛かりを、過去の犯罪事例に関する膨大な知識、物的証拠に関する化学的知見、犯罪界の事情通から得た情報などと照らし合わせて分析し、事件現場で何が起きたかを推測する。しばしば消去法を用い、「不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる」(When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.)と述べている(「四つの署名」)。彼の観察力の鋭さは「白銀号事件」で犬が吠えなかったことを指摘したように、現場で起きた出来事だけでなく、現場で発生すべきなのに起きなかった出来事にも注目した点に表される。この事例は、ミステリ小説界に留まらず広く学問の世界においても、注意力と観察力は如何にあるべきかを示す事例として頻繁に引用される。エジプトの警察は過去、研修にシャーロック・ホームズを教科書として採用していた。",
"title": "推理法"
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"text": "彼は音楽とタバコと有毒植物と過去の犯罪に特に詳しく、前例とタバコで解決した例も少なくない。タバコの灰の見分け方に関しては論文も書いている。",
"title": "推理法"
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"text": "また、彼は、ベイカー街遊撃隊(ベイカーストリートイレギュラーズ)と呼ばれる貧しい少年達に小遣いを与えて、情報収集させることもある。",
"title": "推理法"
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"text": "ドイルに敬意を持った小説家や脚本家らによって、これまで数々のホームズの経歴に秘められたエピソードや裏話(外伝)が新たに与えられてきた。",
"title": "新たな物語"
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"text": "最も古い作品の一つとして、モーリス・ルブランによって発表された一連の小説『遅かりしシャーロック・ホームズ』(190X年)『ルパン対ホームズ』(1906年)『奇巌城』(1909年)が知られる。これらの作品は、19世紀末あるいは20世紀初頭のフランス・パリを舞台に、大怪盗アルセーヌ・ルパンとホームズが対峙する物語である。",
"title": "新たな物語"
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"text": "日本に関連する作品としては、1891年の「最後の事件」を終えた後にホームズが消息不明となっていた謎の3年間(大空白時代。チベットなどのアジアを旅していたとされる)から着想を得て生まれたものなどがある。以下に挙げる。",
"title": "新たな物語"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "「最後の事件」以降の謎に秘められていた期間、ホームズは実は密かに軽井沢に滞在していた。その小さな村でホームズが医師の”Dr.ワタナベ”とともに数々の事件を解決していく物語。欧米のシャーロキアンに人気の作品。",
"title": "新たな物語"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "「最後の事件」以降の謎に秘められていた期間、ホームズは実は密かに来日していた。ホームズが「大津事件」の解決に挑むなかで、政界の重鎮伊藤博文伯爵と逢着する物語。日本で人気を博し、アメリカで翻訳版『A Scandal in Japan』も出版された。",
"title": "新たな物語"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "1943年以降の現役を引退しているホームズ(93歳-)をめぐる物語。日本人のホームズファン”ウメザキ”に誘われ、敗戦直後の広島を訪れた。また日本人の外交官であったウメザキの父が、ホームズとイギリスで交流があったことも明かされている。のちにイアン・マッケラン主演で映画化され、ウメザキ役を真田広之が演じた。",
"title": "新たな物語"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "あまりにも人気があるため、実在の人物と見なして(ただし、本当に実在していると信じているという訳ではない)、数多くの人達がホームズを研究している。彼らは、イギリスではホームジアン、アメリカや日本ではシャーロキアンと呼ばれる。シャーロキアンの組織は世界中にあるが、1934年にアメリカのニューヨークで設立されたベイカー・ストリート・イレギュラーズが最も古い。イギリスのロンドンにはシャーロック・ホームズ協会が、日本には日本シャーロック・ホームズ・クラブがある。",
"title": "ホームズ愛好家"
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"text": "ホームズはまた、多くの俳優に演じられた架空人物の一人に数えられる。ギネスブックによれば、「最も多く映画化された主人公」として記録されている。",
"title": "シャーロック・ホームズを演じた俳優たち"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ホームズ映画は映画そのものとほぼ同じ歴史を持つとも言える。最初期の無声映画時代には、ドイルの許可も得ないホームズ映画が相当数創られたと考えられている。",
"title": "シャーロック・ホームズを演じた俳優たち"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "アメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) が企画した「AFIアメリカ映画100年シリーズ」では、『アメリカ映画の名セリフベスト100』で彼のセリフ「Elementary, my dear Watson」(「初歩的なことだよ、ワトソン君」)が65位にランク入りしている。",
"title": "シャーロック・ホームズを演じた俳優たち"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "他にロジャー・ムーア、ジェームズ・ダーシーなどもホームズを演じている。なお従来の推理物と違うものや、一風変わったホームズを演じた人物には以下のようなものがある。",
"title": "シャーロック・ホームズを演じた俳優たち"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "シャーロック・ホームズを演じた俳優たち"
}
] | シャーロック・ホームズは、19世紀後半に活躍したイギリスの小説家・アーサー・コナン・ドイルの創作した、シャーロック・ホームズシリーズの主人公である、架空の探偵。 彼の活躍する一連の作品は大ヒットして、推理小説の分野に一つの頂点を築いた。その魅力は今なお衰えず、世界中で読み継がれている。シャーロック・ホームズシリーズは「聖書に次ぐベストセラー」ともいう。 | {{Otheruses}}
{{Infobox character
| name = シャーロック・ホームズ
| series = [[シャーロック・ホームズシリーズ]]
| image = [[ファイル:Sherlock Holmes Portrait Paget.jpg|260px]]
| caption = [[シドニー・パジェット]]の描いたホームズの肖像([[1904年]])
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| creator = [[アーサー・コナン・ドイル]]
| portrayer = 「[[#シャーロック・ホームズを演じた俳優たち|シャーロック・ホームズを演じた俳優たち]]」節参照
| gender = 男性
| occupation = 顧問[[探偵]]
| relatives = [[マイクロフト・ホームズ]](兄)
| nationality = {{GBR}}
}}
'''シャーロック・ホームズ'''(Sherlock Holmes)は、19世紀後半に活躍した[[イギリス]]の[[小説家]]・[[アーサー・コナン・ドイル]]の創作した<ref>{{Cite web|和書|url=https://president.jp/articles/-/40561|title=130年前から「名探偵といえばホームズ」と言われる本当の理由 現代にも通用するキャラクター造形|publisher=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2020-11-20|accessdate=2020-11-24}}</ref>、[[シャーロック・ホームズシリーズ]]の[[主人公]]である、架空の[[探偵]]。
彼の活躍する一連の作品は大ヒットして、[[推理小説]]の分野に一つの頂点を築いた。その魅力は今なお衰えず、世界中で読み継がれている。シャーロック・ホームズシリーズは「聖書に次ぐベストセラー」ともいう<ref>{{Cite web|和書|url=http://kgujesus.kanto-gakuin.ac.jp/pdf/8%8D%86/%B7%D8%BD%C4%8B%B3%82%C6%95%B6%8Aw(%B7%95%B6%8C%A4%89%EF%95%F1%97p).TXT|title=文学に表れたキリスト教-コナン・ドイルの場合|accessdate=2019/09/03|publisher=田中喜芳}}</ref>。
== 生涯 ==
[[画像:Sherlock Holmes statue at Meiringen2.jpg|252x252px|thumb|[[スイス]]のマイリンゲンにあるホームズ像。[[インバネスコート]]に[[鹿撃ち帽]]という服装は作中になく、挿絵や演劇によって作られたイメージである]]
[[ファイル:221B Baker Street.JPEG|thumb|180x180px|[[ベーカー街221B]]の見取り図]]
生年や出身地は明確な記述がなく、はっきりしていない。
大学時代に友人の父親にまつわる事件(「[[グロリア・スコット号事件]]」)を解決したことで、探偵業を志すようになり、大学卒業後に[[大英博物館]]近くのモンタギュー街(Montague Street, 現在の[[カムデン区]]<ref group="注釈">モンタギュー街ないし通り界隈は、[[ベッドフォード公爵]]家の不動産 ([[:en:Bedford Estate|Bedford Estate]]) になる。</ref>)で開業した。[[1881年]]、ルームシェアの相手として元軍医の[[ジョン・H・ワトスン]]博士と初めて出会う(『[[緋色の研究]]』)。ホームズはその風采を見ただけで[[アフガン戦争]]の復員兵だと見抜き、驚かせた。
ワトスンと共にベーカー街の下宿([[ベーカー街221B]])で共同生活を始めた頃から名声が高まり、海外からも事件解決の依頼が寄せられるようになった。[[1891年]]に犯罪組織の頭目である[[ジェームズ・モリアーティ]]教授との対決(「[[最後の事件]]」)で、モリアーティ教授と共に[[スイス]]の[[ライヘンバッハの滝|ライヘンバッハ滝]]にて失踪。モリアーティ教授と[[滝|滝壺]]に落ちて死亡したと思われた。だが、落ちたのはモリアーティだけであったと後にわかる(「[[空き家の冒険]]」)。ホームズは生きていたが、モリアーティ一味の残党から逃れるために姿を消していたと発言している。また日本を発祥とする東洋武術の[[バリツ]]<ref group="注釈">これはホームズが死ななかった理由を必要としたドイルが考案した後付け設定である。</ref>を体得していたおかげで、モリアーティ教授との戦いから生き永らえたという(「空き家の冒険」)。
[[ファイル:Sherlock Holmes sign.jpg|thumb|180x180px|[[スイス]]の[[ライヘンバッハの滝|ライヘンバッハ]]にある、ホームズとモリアーティ教授の追跡行の道標]]
モリアーティ一味の残党から逃れるために姿をくらましてからの行動ははっきりしない([[チベット]]など[[アジア]]にまで足を運んでいたという示唆もある。「空き家の冒険」の項を参照)。ホームズ自身の説明によると、兄の[[マイクロフト・ホームズ]]に資金を援助してもらいながらモリアーティ一味の残党を倒そうとしたが上手くいかなかったという。
失踪から3年後、モリアーティの腹心の部下である[[セバスチャン・モラン]]大佐を捕まえるため、ホームズはロンドンに戻った。老人に変装してワトソン宅を訪れ、ワトソンが背中を向けた隙に変装を解いて正体を明かすという茶目っ気のある方法で再会したためにワトソンを気絶させるほど驚かせた(「空き家の冒険」)。モラン大佐の逮捕後は、失踪する前と変わらず探偵業を続けた。晩年のホームズは探偵業を引退して田舎で養蜂の研究をしていたが、[[第一次世界大戦]]の直前には政府の依頼で[[ドイツ]]の[[スパイ]]逮捕に協力した(「[[最後の挨拶]]」)。
== 人物像 ==
優れた観察眼と推理力を有し、自らを世界で唯一の「民間諮問探偵<ref group="注釈">「民間顧問探偵」などの訳もある。岩波少年文庫版、[[林克己]]。</ref>」(consulting detective) と称する。[[ロンドン]]の[[ベーカー街221B|ベイカー街221B]]にある[[ハドスン夫人]]所有のアパートで、相棒の[[ジョン・H・ワトスン]]医師と共同生活をしている。
容姿は『[[緋色の研究]]』で詳しく描かれている。体格は痩身で身長は少なくとも6フィート(約183センチメートル)以上の長身、鷲鼻で角張った顎が目立つ。作者のドイル自身はとがった鼻の[[インディアン]]の様な風貌を想像していたという<ref>アーサー・コナン・ドイル 『シャーロック・ホームズの冒険』東山あかね・小林司・高田寛共訳、[[河出書房新社]]〈シャーロック・ホームズ全集〉、1998年、678-679頁、ISBN 4-309-61043-9。</ref>。
性格は極めて冷静沈着。行動力に富み、いざ現場に行けば地面を這ってでも事件の一端を逃すまいと血気盛んになる活動家。反対に兄の[[マイクロフト・ホームズ]]は、シャーロックよりも鋭敏な頭脳を持つが、精力的な捜査に興味がない為に探偵にはならなかった(「[[ギリシャ語通訳]]」)。
[[ヴァイオリン]]の演奏にも長けており、[[アントニオ・ストラディバリ|ストラディヴァリ]]製のヴァイオリンを所有している。[[ボクシング]]はプロ級(当時はベアナックルの「ロンドン・プライズリング・ルールズ」から「[[クインズベリー・ルール]]」へ変更した直後)の腕前。拳銃射撃も弾痕でアルファベットを描けるほどの腕前(「[[マスグレーヴ家の儀式]]」)。化学[[実験]]を趣味とする。ヘビースモーカーであり、ペルシャスリッパの中にタバコをしまう奇妙な性癖があった。事件がなく退屈すると、[[アヘン]]<ref>{{Cite news|url=https://eiga.com/news/20090414/2/|title=ロバート・ダウニー・Jr.が「シャーロック・ホームズ」の続編も期待|newspaper=映画.com|date=2009-04-14|accessdate=2023-04271}}</ref>や[[コカイン]]や[[モルヒネ]]を使う[[薬物依存]]があった(当時は合法であった)。薬物に手を出すのはワトソンが何年もかけて止めさせた(但し完全に止めたわけではなく、いずれ再発する可能性があったようだ)。後年になるとこういったディレッタント風の退廃的な生活態度をやめ、野山や草木に親しむ保守的な英国紳士風の様子を見せるようになる。
生年月日や家族など私的な事柄については、本編中にはっきりした記述はない。「[[最後の挨拶]]」で"the man of sixty"<ref group="注釈">日本語版では「60歳ばかりの男」「60がらみの男」などと訳されることが多いが、直訳すれば「60歳の男」である(『シャーロック・ホームズの大冒険』序論及び訳者あとがき)。</ref>とあるのがホームズの年齢に関するほとんど唯一の記述である。ただ、生年月日は[[1854年]]<ref group="注釈">[[1852年]]、あるいは[[1853年]]生まれの説も有力であるが、[[シャーロキアン]]の集まりで最も大きなグループの一つであるベーカー街不正規連隊では、1854年生まれであると結論づけている(『詳注版シャーロック・ホームズ全集』1巻、203頁)。</ref>[[1月6日]]とする説が有力である。また、出身は[[イングランド]]の[[ヨークシャー|ヨークシャー州]]北ライディングという説が有力である<ref group="注釈">本編中にははっきりとした記述はないが、有力な説の一つである。この地域には「クロフト」(古サクソン語で「囲われた広野」の意味)あるいは「ホルム」(古サクソン語で「小島」の意味)から転じた地名が多く、ホームズやマイクロフトの名前の由来であるという主張がある。ただし異論もあり、作者のドイルは、本編中でホームズが[[サリー (イングランド)|サリー]]をひいきする発言をしていることから、サリー出身の可能性に言及している(『詳注版シャーロック・ホームズ全集』1巻、207頁)。</ref>。
[[ファイル:Paget holmes.png|thumb|197x197px|ワトソン博士とホームズ(シドニー・パジェット画)]]
家族については、兄のマイクロフト以外はほとんど言及がない。本人は、先祖は地方の地主で、祖母がフランスの画家[[オラース・ヴェルネ]]の姉妹だと述べている(「ギリシャ語通訳」)。また、ワトソンが開業していた病院を買い取ったヴァーナーという若い医者が、ホームズの遠縁に当たるという記述が見られる(「[[ノーウッドの建築業者]]」)。父と母に関する記述は正典中には無い。
出身大学についても本編中にはっきりした記述はない。「グロリア・スコット号事件」ではトレヴァーをカレッジで唯一の友人と記述し、「[[マスグレーヴ家の儀式]]」ではレジナルド・マスグレーヴを学寮が同じでちょっとした知り合いと述べている。この2人は同じ大学であるとすると矛盾が生じるため、ホームズは2つの事件の間に大学を変わったのではないかと考える[[シャーロキアン]]もいる<ref group="注釈">ホームズの通った大学については、「ベーカー・ストリート・ジャーナル」[[1956年]]クリスマス号に発表されたN.P.メトカーフの論文「オックスフォードかケンブリッジか両方か?」(N.P.Metcalre, "Oxford or Cambrige or Both?", ''The Baker Street Journal Christmas Annual'', 1956) に詳しい。</ref>。その2校の大学は、[[ケンブリッジ大学]]と[[オックスフォード大学]]であり、ホームズが1つの大学の学生であったと考えている研究者も、彼が通った大学はこの内のいずれかだろうとみなしている<ref group="注釈">E.デービズによる『[[シャーロック・ホームズの帰還]]』の序文 (''The Later Adventures of Shaerlock Holmes, vol.1 (The Return of Sherlock Holmes)''; New York: The Limited Editions Club, 1952) でこの点について取り上げられており、オックスフォード大学出身である[[ドロシー・L・セイヤーズ|ドロシー・セイヤーズ]]と[[ロナルド・ノックス|ノックス]]がホームズをケンブリッジ大学出身と主張し、ケンブリッジ大学出身で同大学の副総長を([[1952年]]当時)務めているS.C.ロバーツがホームズをオックスフォード大出身であると主張しているのは興味深い、としている(『詳注版シャーロック・ホームズ全集』1巻、243頁)。</ref>。
[[ファイル:221bg ext.jpg|thumb|273x273px|ベイカー通り221Bの玄関]]
ホームズはワトソンが書く自分の物語に関してはその書き方を特に批判している(だが、後にワトソンに「そこまで言うなら自分でやるように」と怒られて、自分で書く羽目になった「[[白面の兵士]]」では読者を喜ばせるためにワトソンと同じ書き方をしてしまい、反省する一幕がある)。また、ワトソンはホームズの許可をもらわなければその事件に関する物語を書くことはできない。基本的に自分の名を世間に知られるのは好ましくないと考えている(その割には、ワトソンを自分の「伝記作家」と呼ぶこともあるが)ため、中々許可を出さないが(他にも依頼人の立場などを考慮していることもある)、稀にいきなりワトソンに連絡を取って一方的に許可を出すこともある<ref group="注釈">ただし、ホームズが自分から許可を出したのは「[[悪魔の足]]」と「[[這う男]]」の2回だけで、どちらも特異な事件である。</ref>。
人物評においては辛辣であり、後にその発言を覆しているものの先輩格である[[C・オーギュスト・デュパン]]や[[エミール・ガボリオ|ルコック]]を批判したりしている(『緋色の研究』)。
ホームズは女性嫌いとしても知られており、基本的に女性を信用していないようである(「どんなに立派な女性でも100%は信用できない」と言ってワトソンの機嫌を損ねたことがある)。ただし、女性の勘については一目置いており、また、女性には紳士的に接する。ワトソンがメアリー・モースタンと結婚した際にも「お祝いは言わないよ」と言っている。もっとも、メアリーに悪い感情を持っていたわけではないようで結婚後、開業医になったワトソンを事件の捜査において協力を求める際にもメアリー(あるいはそれ以外のワトソンの妻)を気遣うような発言もしている(「[[株式仲買店員]]」)。ごくごく稀にだが、女性に惹かれることもあり、「[[ライオンのたてがみ]]」で出会ったモード・ベラミー嬢には「彼女に出会っては、どんな青年も無関心ではいられまい」「最も完成された非凡な女性」と感銘を受け、数瞬であるが目を奪われている。
彼の多才な能力はそのまま犯罪に使うこともできるため、ホームズ自身、自分が犯罪者になれば大変なことになっていたであろうという旨の発言をし、また、犯罪紛いの行動を取った際には[[レストレード]]警部にも釘を刺されている。
再三にわたって[[ナイト]]の地位を辞退している。本人は肩書きが無いのを好むためと言っているが、その一方でフランス政府からの[[レジオンドヌール勲章]]は受章しており(「[[金縁の鼻眼鏡]]」)、この矛盾については正典内で明確な説明はない。
作者は「シャーロック・ホームズ」と正式に名付ける前に「シェリングフォード」(Sherringford)ないしは「シェリンフォード」(Sherrinford)という仮称を設定しており、後世のパスティーシュ作品にその設定が引用される事がある<ref group="注釈">『コナン・ドイル自叙伝――回想と冒険』 (C. Doyle, ''Memories and Adventures: The Autobiography of Sir Author Conan Doyle'', London, Hodder & Stoughton, 1924) では、最初は Sherringford にしていたとしているが、ヴィンセント・スターレットによる『シャーロック・ホームズの私生活』 (Vincent Starrett, ''The Private Life of Sherlock Holmes'', New York, The Macmillan Company, 1933) で発表されたドイルの古いノートには、Sherrinford という名前が残されている(いずれも『詳注版シャーロック・ホームズ全集』1巻、45-46頁より)。</ref><ref group="注釈">コナン・ドイルとは別の著者によるパスティーシュ作品には、シャーロックやマイクロフトの更に年長の兄として[[:en:Minor_Sherlock_Holmes_characters#Sherrinford_Holmes|シェリンフォード・ホームズ]](Sherrinford Holmes)という名のキャラクターとして登場する場合も。</ref>。日本国内においては「She'''ll'''ingford」や「She'''ll'''inford」と誤って表記される事も多い<ref group="注釈">『コナン・ドイル自叙伝――回想と冒険』および『シャーロック・ホームズの私生活』の原著における表記は「She'''rr'''ingford Holmes」ないし「She'''rr'''inford Holmes」であるが、日本の読者にこれらの設定を紹介した『詳注版シャーロック・ホームズ全集』では単に「シェリングフォード」「シェリンフォード」とカタカナで表記されており、正確な綴りが分からないようになっていた。「She'''ll'''ingford」「She'''ll'''inford」という表記はイングランド南東部に実在する地名の「シェリングフォード」([[:en:Shellingford]])との混同と思われる。</ref>。
== 緋色の研究における人物評 ==
第1作『緋色の研究』の序盤で、ワトソンはホームズに以下の評価を下している。
# [[文学]]の知識:なし。
# [[ギリシア哲学|哲学]]の知識:なし。
# [[天文学]]の知識:なし。地球が太陽のまわりを公転していることを知らない。
# [[政治学]]の知識:わずか。
# [[植物学]]の知識:多様。[[ベラドンナ]]や[[アヘン|阿片]]、[[毒]]薬に特に詳しい。[[園芸]]の知識はない。
# [[地質学]]の知識:限られているが実用的。ワトソンのズボンについた土の撥ね返りを見て、色と粘度からロンドンのどこで付いたか言いあてた。
# [[化学]]の知識:造詣深い。
# [[解剖学]]の知識:正確であるが体系的ではない。
# 通俗文学の知識:計り知れない。今世紀(19世紀)に起こったほとんどの凶悪事件の詳細を知る。
# [[ヴァイオリン]]の演奏が、かなり上手い。
# 日本[[武術]]、[[フェンシング]]、[[ボクシング]]ができる。拳銃や、ステッキ、乗馬鞭など武器を駆使して悪党を制圧する。
# イギリスの刑事法に実用的な知識を持つ。
しかし、『緋色の研究』の事件においてホームズはワトソンの判断を覆すような引用・発言をし<ref group="注釈">ホームズは[[トーマス・カーライル]]を知らないと言い、これが文学の知識がないとの評価の一因になった。しかし、事件の調査中にカーライルの発言「They say that genius is an infinite capacity for taking pains(天才とは無限に苦労できる能力だという)」を引用している。 - 曽根晴明「ワトスンによるホームズ研究」『ホームズなんでも事典』平賀三郎編著、青弓社、2010年、250-252頁</ref>、後の作品でも多方面にわたる見識と知識を見せている。ワトソンは「後で騙されていたと気付いた」と述べている。『緋色の研究』の時点でこのような評価になった理由は、二人が知り合って間もないうえ、教養の必要性を主張するワトソンをホームズがからかったためだとされる<ref>、小池滋「教養」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、193-194頁</ref>。
他にも、シェイクスピアを引用したり「[[ボスコム渓谷の惨劇]]」のなかでホームズが現場に向かう時、「ポケット版 [[ペトラルカ]]詩集」を読んでいたりと、文学の知識がなしとするのは言い過ぎだろうと、[[北原尚彦]]は述べている<ref>{{Cite book|和書|title=初歩からのシャーロック・ホームズ|date=2020年|publisher=中公新書ラクレ|page=35|author=北原尚彦|authorlink=北原尚彦|isbn=978-4121507068}}</ref>。
== モデル ==
[[image:Joseph Bell.jpg|thumb|253x253px|ジョセフ・ベル博士]]
ホームズのモデルは、作者の[[医学部]]時代の恩師で外科医である[[ジョセフ・ベル]]とされている<ref group="注釈">『コナン・ドイル自叙伝――回想と冒険』では、[[ジョセフ・ベル]]をモデルにしたとしている。また、[[1892年]]に書かれた、ドイルからベルへの感謝の手紙が残されている。ただし、ベルはホームズの天才的な才能はドイル自身が作りだしたものであるといっている(『詳注版シャーロック・ホームズ全集』1巻、37-40頁)。</ref>。ドイルは[[1877年]]にベルに出会い、[[エジンバラ王立病院]] ([[:en:Royal Infirmary of Edinburgh|Royal Infirmary of Edinburgh]]) でベルの下で働いた。ベルは、病気の診断には観察力が重要だと学生に説き、訪れる患者の外見から病名だけでなく、職業や住所、家族構成までを鋭い観察眼で言い当てて、学生らを驚かせた。コナン・ドイルは、学生時代にベルの助手を務め、その行動を日頃から目の当たりにしていた<ref group="注釈">これをさらにフィクションとしてドラマ化したのが[[英国放送協会|BBC]]制作のドラマ「コナン・ドイルの事件簿 ベル博士の推理講義」である。なお、「[[糖尿病]]を見分けるために学生に尿をなめさせる」という[[都市伝説]]も、最古のものとして「ベル教授がそういう授業をした、とコナン・ドイルが述べている」。糖尿病の存在を、実際に尿をなめて確認したのは、17世紀イギリスの臨床医学者トーマス・ウィリス。</ref>。[[アーヴィング・ウォーレス]]は、著書『''The Fabulous Originals''』で初出し、後に加筆されて『''The Sunday Gentleman''』に収録されたエッセイで、ベルがおもにスコットランドで警察の捜査に何回も関与しており、[[1893年]]の[[アードラモント殺人事件]] ([[:en:Ardlamont murder|Ardlamont murder]]) などにもたずさわり、多くの場合は[[法医学]]を専門とした[[ヘンリー・リトルジョイ (1826年生)|ヘンリー・リトルジョイ]] ([[:en:Henry Littlejohn (surgeon born 1826)|Henry Littlejohn]]) 教授とともに働いていたと述べている。
一方で、ドイルの息子であるエイドリアン・コナン・ドイルは、実際にいくつかの事件で冤罪を晴らしたことのあるアーサー・コナン・ドイル自身が、ホームズのモデルであると主張していた<ref>ダグラス・G・グリーン 『ジョン・ディクスン・カー : 奇蹟を解く男』 森英俊・高田朔・西村真裕美共訳、[[国書刊行会]]、1996年、ISBN 4-336-03884-8。</ref>。
== 経歴 ==
以下は[[シャーロック・ホームズシリーズ]]の記述から推測されるホームズの経歴である。これとは異なる経歴を支持するシャーロキアンも多いことを付け加えておく。
* [[1854年]](諸説あり<ref group="注釈">ホームズの年齢・誕生年は基本的に明記されてないが、「最後の挨拶」内(1914年)で「60(歳)の痩せた男(gaunt man of sixty)」という記述が、地の文にある。(ただし変装中の場面なので実年齢と等号するかは不明)</ref>)、イングランドで生まれる。
[[image:SH STUDY-02.png|thumb|300x300px|化学生時代のホームズ(1887年、リヒャルト・グッツシュミット画)]]
* [[1872年]]、シャーロック、大学に入学。化学実験にのめり込み、余暇は[[ヴァイオリン]]を演奏して過ごす。スポーツには、あまり興味を示さなかったものの、自己鍛錬のためにフェンシング、ボクシング、武術([[バリツ]])を習得。
* [[1874年]]の夏、学友のヴィクター・トレヴァーの父親の勧めで私立探偵を志す(「[[グロリア・スコット号事件]]」)。大学生活でシャーロックの推理方法([[アブダクション]])は洗練され、大学内でも知れた存在になる。
* [[1877年]]、23歳のシャーロックはモンタギュー街の大英博物館付近に部屋を借り、私立探偵を開業。しかし捜査・調査依頼は皆無だったため、暇な時間を将来役立ちそうな研究に費やす。
* 学友からの依頼が数件あり、全て解決する(「[[マスグレーヴ家の儀式]]」)。[[聖バーソロミュー病院]]解剖学教室入局。独自に血痕判定の新薬を開発(『緋色の研究』)。他にもユニークな研究論文を多数発表。
* [[1881年]]、27歳の頃、ベーカー街221Bに転居。医師ジョン・H・ワトスンとの同居生活を始める。仕事の依頼も増え始める。『緋色の研究』事件を解決。脳の活性化を図り、モルヒネ及びコカインの吸引も積極的に行う。
* [[1887年]]、『緋色の研究』の事件調査報告が[[ビートンのクリスマス年鑑]]に発表され、広く世の人々がシャーロック・ホームズという探偵の存在を知る。
* [[1888年]]、ボヘミア国王の依頼で[[アイリーン・アドラー]]から写真を奪い返そうとして失敗(「[[ボヘミアの醜聞]]」)。この頃、ワトソンが『[[四つの署名]]』に登場した[[メアリー・モースタン]]嬢と結婚し、診療所を持ち、ベーカー街221Bを去る。
* シャーロックは、ビリーという少年を雇い、身の回りの雑事をさせる(『[[恐怖の谷]]』)。
* [[1891年]]、ジェームズ・モリアーティ教授の犯罪組織を粉砕。モリアーティ教授に襲われるもバリツを使い滝壷に叩き落とす。そのまま身を隠したため、世間では死亡説が流れる(「[[最後の事件]]」)。
* この後、2年間[[チベット]]を旅して回り、[[チベット仏教|ラマ僧]](もしくはリャマのかしら)と会見。シーゲルソンという偽名を使い探検記を発表。[[メッカ]]を経てフランスに戻り、[[コールタール]][[誘導体]]の研究に数ヶ月を費やす。
* [[1894年]]、ベーカー街に帰還、探偵活動を再開(「[[空き家の冒険]]」)。妻メアリーに不幸があった(と考えられている)ワトソンもベーカー街へ戻る。その際、診療所をヴァーナーという医者に高値で売却。後にヴァーナー(フランス読みでヴェルネ)とは、シャーロックの親類の名で、代金を支払ったのはシャーロック本人であることが分かる(「[[ノーウッドの建築業者]]」)。
* [[1895年]]、ワトソンによればホームズが最も精力的だった年。「[[ブルースパーティントン設計書|ブルースパーティントン設計図]]」事件の解決によって、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]に謁見する。
* [[1899年]]、シャーロックはエスコットという偽名を使い、ミルバートン家の女中と婚約(「[[犯人は二人]]」)。
* [[1900年]]、サーの称号を辞退。
* [[1902年]]、ワトソンが再びベーカー街を去る。シャーロックはシンウェル・ジョンソンという情報屋を使うようになる(「[[高名な依頼人]]」)。
* [[1903年]]、49歳で探偵業を引退。風光明媚なサセックスの丘で隠遁生活に入る。
* [[1909年]]、サセックス近辺で起きた教師変死事件を調査(「[[ライオンのたてがみ]]」)。
* [[1912年]]、英国政府からの[[調査]]依頼で探偵業を再開。アルタモントという偽名を使ってアメリカに渡り、ドイツ諜報機関に侵入。ドイツ人に[[偽情報]]をリーク(「[[最後の挨拶]]」)。2年かけて[[1914年]]、ドイツ諜報機関の英国内におけるネットワークを壊滅させ、再引退。サセックスの丘へ帰る。
* [[1926年]]、ワトソンの文章を批判し過ぎて怒られてしまったため、養蜂業を営みつつ、「[[白面の兵士]]」、「[[ライオンのたてがみ]]」を執筆、発表(「白面の兵士」冒頭)。
== 推理法 ==
{{出典の明記| date = 2022年12月| section = 1}}
シャーロック・ホームズはよく[[アブダクション]]を使う。徹底した現場[[観察]]によって得た手掛かりを、過去の犯罪事例に関する膨大な[[知識]]、物的証拠に関する化学的知見、犯罪界の事情通から得た情報などと照らし合わせて[[分析]]し、事件現場で何が起きたかを推測する。しばしば[[消去法]]を用い、「不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる」(''When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.'')と述べている(「[[四つの署名]]」<ref group="注釈">「緑柱石の宝冠」「ブルース・パーティントン設計書」「白面の兵士」でも類似の台詞がある</ref>)。彼の観察力の鋭さは「[[白銀号事件]]」で犬が吠えなかったことを指摘したように、現場で起きた出来事だけでなく、現場で発生すべきなのに起きなかった出来事にも注目した点に表される。この事例は、ミステリ小説界に留まらず広く学問の世界においても、注意力と観察力は如何にあるべきかを示す事例として頻繁に引用される。[[エジプト]]の警察は過去、研修にシャーロック・ホームズを教科書として採用していた<ref>田中喜芳『シャーロッキアンの優雅な週末 ホームズ学はやめられない』中央公論社、1998年、7-8頁</ref>。
彼は[[音楽]]と[[タバコ]]と[[有毒植物]]と過去の[[犯罪]]に特に詳しく、前例とタバコで解決した例も少なくない。タバコの灰の見分け方に関しては論文も書いている。
また、彼は、[[ベイカー街遊撃隊]](ベイカーストリートイレギュラーズ)と呼ばれる貧しい少年達に小遣いを与えて、情報収集させることもある。
== 新たな物語 ==
[[File:Arsène Lupin contre Herlock Sholmès.jpg|thumb|280x280px|『ルパン対ホームズ』]]
ドイルに敬意を持った[[小説家]]や[[脚本家]]らによって、これまで数々のホームズの経歴に秘められたエピソードや裏話([[外伝]])が新たに与えられてきた。
最も古い作品の一つとして、[[モーリス・ルブラン]]によって発表された一連の小説『遅かりしシャーロック・ホームズ』(190X年)『[[ルパン対ホームズ]]』(1906年)『[[奇巌城]]』(1909年)が知られる。これらの作品は、19世紀末あるいは20世紀初頭<ref group="注釈">正確な時期については小説内で明かされていない。小説を発表した1906年では、ドイルの描くホームズは既に引退している。</ref>の[[フランス]]・[[パリ]]を舞台に、大怪盗[[アルセーヌ・ルパン]]とホームズ<ref group="注釈">ただしドイルが存命していたことから、ルブランはホームズを、名前をもじったキャラクター「エルロック・ショルメ(Herlock Sholmès)」としている。</ref>が対峙する物語である。
[[日本]]に関連する作品としては、1891年の「[[最後の事件]]」を終えた後にホームズが消息不明となっていた謎の3年間([[空き家の冒険#大空白時代|大空白時代]]。[[チベット]]などの[[アジア]]を旅していたとされる)から着想を得て生まれたものなどがある。以下に挙げる。
* [[:en:Dale Furutani|Dale Furutani]]『The Curious Adventures of Sherlock Holmes in Japan』(2011年の小説)
「最後の事件」以降の謎に秘められていた期間、ホームズは実は密かに[[軽井沢町|軽井沢]]に滞在していた。その小さな村でホームズが医師の”Dr.ワタナベ”とともに数々の事件を解決していく物語。欧米の[[シャーロキアン]]に人気の作品。
* [[松岡圭祐]]『シャーロック・ホームズ対伊藤博文』(2017年の小説)
「最後の事件」以降の謎に秘められていた期間、ホームズは実は密かに来日していた。ホームズが「[[大津事件]]」の解決に挑むなかで、政界の重鎮[[伊藤博文]]伯爵と逢着する物語。日本で人気を博し、アメリカで翻訳版『A Scandal in Japan』も出版された。
* [[:en:Mitch Cullin|Mitch Cullin]]『[[:en:A Slight Trick of the Mind|A Slight Trick of the Mind]]』(2005年の小説)
1943年以降の現役を引退しているホームズ(93歳-)をめぐる物語。日本人のホームズファン”ウメザキ”に誘われ、敗戦直後の[[広島市|広島]]を訪れた。また日本人の外交官であったウメザキの父が、ホームズとイギリスで交流があったことも明かされている。のちに[[イアン・マッケラン]]主演で[[Mr.ホームズ 名探偵最後の事件|映画化]]され、ウメザキ役を[[真田広之]]が演じた。
== ホームズ愛好家 ==
{{出典の明記| date = 2022年12月| section = 1}}
あまりにも人気があるため、実在の人物と見なして(ただし、本当に実在していると信じているという訳ではない)、数多くの人達がホームズを研究している。彼らは、イギリスでは'''ホームジアン'''、アメリカや日本では'''[[シャーロキアン]]'''と呼ばれる。シャーロキアンの組織は世界中にあるが、[[1934年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ニューヨーク]]で設立された'''[[ベイカー・ストリート・イレギュラーズ]]'''が最も古い。[[イギリス]]の[[ロンドン]]には'''[[シャーロック・ホームズ協会]]'''が、日本には'''[[日本シャーロック・ホームズ・クラブ]]'''がある。
== シャーロック・ホームズを演じた俳優たち ==
{{出典の明記| date = 2022年12月| section = 1}}
ホームズはまた、多くの俳優に演じられた架空人物の一人に数えられる。ギネスブックによれば、「最も多く映画化された主人公」として記録されている。
=== 映画・テレビ ===
ホームズ映画は映画そのものとほぼ同じ歴史を持つとも言える。最初期の無声映画時代には、ドイルの許可も得ないホームズ映画が相当数創られたと考えられている。
[[アメリカン・フィルム・インスティチュート]] (AFI) が企画した「[[AFIアメリカ映画100年シリーズ]]」では、『[[アメリカ映画の名セリフベスト100]]』で彼のセリフ「''Elementary, my dear Watson''」(「初歩的なことだよ、ワトソン君」)が65位にランク入りしている<ref>{{cite web|url=http://www.afi.com/100years/quotes.aspx|title=AFI'S 100 GREATEST MOVIE QUOTES OF ALL TIME|publisher=AFI.com|language=英語|accessdate=2014年7月15日}}</ref>。
; [[モーリス・コステロ]]
: [[1905年]]の映画『[[:en:Adventures of Sherlock Holmes; or, Held for Ransom]]』に出演。ドイルの原作に忠実な映画化が試みられた最初の例とされ、出演者の名前が判明している範囲で最も古い映画でもあって、ホームズを演じた映画俳優リストの最初に記載されることが多い。
; {{仮リンク|エイル・ノーウッド|en|Eille_Norwood}}
: 1921年から1923年まで、47本の無声映画(45本の短編と2本の長編)[[:en:Sherlock_Holmes_(Stoll_film_series)]]でホームズを演じた。
; {{仮リンク|クライブ・ブルック|en|Clive_Brook}}
: 1929年に[[トーキー]]で初めてホームズを演じる栄誉を担い、その後も1930年と1932年の映画でホームズを演じたが、その評判は芳しくはなかった。なお、当時まだ全ての映画館がトーキーの設備を備えてはいなかったので、彼の主演作はサイレント版とトーキー版の両方が製作され、厳密を期するならサイレント映画における最後のホームズ俳優でもあったことになる。ブルックが出演した作品でワトソンを演じたレジナルド・オウエンは、後にホームズも演じたが、どちらの役でも不評だった。
; {{仮リンク|アーサー・ウォントナー|en|Arthur_Wontner}}
: 1931年から1937年まで5本の映画[[:en:Sherlock_Holmes_(1931_film_series)]]でホームズを演じた。その一部は日本でもDVDが発売されている。
; [[ベイジル・ラスボーン]]
: ワトソン役の[[ナイジェル・ブルース]](Nigel Bruce)とのコンビで、1939年から1946年にかけての14本のシリーズ[[:en:Sherlock_Holmes_(1939_film_series)]]など、映画やラジオで人気を博した。「Elementary, my dear Watson」は[[ウィリアム・ジレット]]が考案した台詞であるが、ラスボーンが映画で多用したことで定着した。現在でもアメリカでは「最高のホームズ」に推すファンが多い。しかし、当人はホームズの人気が先行し、ラスボーンでなく「シャーロック・ホームズ」のサインを求められるような扱いに耐えかねて、[[ワーナー・ブラザース]]社との契約が切れたのを機に降板したが、後にファンの強い要望に応える形で、幾つかのラジオドラマにホームズ役で出演している。
; [[ロナルド・ハワード]]
: 1954年から1955年にかけて製作、放映されたアメリカのテレビ映画シリーズ「シャーロック・ホームズ」([[:en:Sherlock_Holmes_(1954_TV_series)]])(全39話)でホームズを演じた。ワトソン役は[[ハワード・マリオン=クロフォード]](Howard Marion-Crawford)。現在、廉価版 DVD が数社から販売されていて人気も高い。
; [[ピーター・カッシング]]
: 怪奇映画界の名優として知られるが、英国映画『[[バスカヴィル家の犬 (1959年の映画)|バスカヴィル家の犬]]』([[1959年]])でホームズを演じ、米[[ニューズウィーク]]誌に「生きて呼吸する過去最高のホームズ」と称賛された。[[1968年]]には [[英国放送協会|BBC]] のTVシリーズ、[[1984年]]には単発のオリジナル TV ムービーでホームズを演じた。英国のホームズファン協会が唯一公認するホームズ俳優であったともいわれる。
;{{仮リンク|ロバート・スティーブンス|en|Robert_Stephens}}
:1970年の『[[シャーロック・ホームズの冒険_(1970年の映画)|シャーロック・ホームズの冒険]](The Private Life of Sherlock Holms)』でホームズを演じた。監督はビリー・ワイルダー、制作、脚本は
:ビリー・ワイルダーとI.A.L.ダイアモンドの二人。ドクター・ワトスンはコリン・ブレークリー、そして兄マイクロフトはクリストファー・リーが演じた。
:音楽は『ベンハ―』のミクロス・ローザ。
; [[クリストファー・プラマー]]
: 1977年のテレビドラマ「{{仮リンク|Silver Blaze|en|Silver_Blaze_(1977_film)}}」と1979年の映画『{{仮リンク|黒馬車の影|en|Murder_by_Decree}}』でホームズを演じた。『黒馬車の影』は日本でもDVDが発売されている。
; [[ワシーリー・リヴァーノフ]]
: ソ連のレンフィルム映画スタジオ制作のテレビ放映用劇映画『[[ロシア版ホームズ|シャーロック・ホームズとワトソン博士]]』計5本 (1979-86年)でホームズを演じた。元々舞台俳優だったが、人形アニメ『チェブラーシカ』でワニのゲーナの声を担当したり、後には映画も監督する等、多彩な活動を行っている。ワトソン役のヴィターリー・ソローミンとのコンビは、その後も続き、90年代前半にはモスクワで「ディテクティーフ(探偵)」という劇場を数年間主宰した。リヴァーノフは2006年に[[大英帝国勲章|大英帝国名誉勲章]]を授与されている(授与の理由は、一説では「スクリーンにおける最高のホームズ像」により、また別の説では「英国とロシアとの友好に貢献したこと」による)。2007年にニュージーランドで発行されたホームズ記念ミント銀貨では、ソローミンと共に肖像のモデルとなったり、同年モスクワの英国大使館の脇に彼とソローミンをモデルとするブロンズのホームズ・ワトソン像が建立されるなど、近年特に英語圏での再評価が進んでいる。
; [[ジェレミー・ブレット]]
: [[ITV (イギリス)|グラナダテレビ]]の5シーズンにわたるシリーズ『[[シャーロック・ホームズの冒険 (テレビドラマ)|シャーロック・ホームズの冒険]]』に主演した。その姿はシドニー・パジェットが描いた挿絵から抜き出て来た程とまで言われ、奇抜かつ繊細な演技でホームズを演じた。ブレットの演じたホームズは現在でも史上最高と幅広く評価されており、ウィリアム・ジレット、ピーター・カッシング、ベイジル・ラスボーンをも凌ぐとされている。また、彼がホームズを演じている間、彼には世界中から毎週3000通ものファンレターが届いていたという。同シリーズの制作理念が、コナン・ドイルの描いた世界の忠実な映像化であったこともあり、[[ジェレミー・ブレット]]のホームズは、ロンドン市内で[[鹿撃ち帽|ディアストーカー(鹿撃ち帽)]]や[[インバネスコート]]を着用することほとんどなかった。TV版に出演する前であるが舞台版のホームズ作品ではワトソンを演じていることから、ホームズ、ワトソンを媒体は異なるが両人共に演じた珍しい役者となっている。ブレットは、1984年から1994年までホームズを演じ続け、20世紀後半を代表するホームズ役者となったが、全集を完成する前に心臓病のため短編集を含む18作品を残して他界した。本作は2022年現在でも人気が衰える事がなく、[[デジタル放送|地上デジタルテレビ放送]]に合わせて高画質にリマスター化され、NHKだけでなくCATVのチャンネルでも数多く再放送されており、いまだ多くの人々に愛されている。
: なお、同シリーズがNHKで放映された際には、一貫して[[露口茂]]が吹き替えを担当し、ファンから好評を博している。しかし、NHKで放映された際には1時間枠にカットされていた。DVD収録時には露口は芸能界から引退状態にあり、放映時カットされた部分のみを[[諸角憲一]]が露口に代わって追加収録している。
; [[クリストファー・リー]]
: ホームズと兄[[マイクロフト・ホームズ|マイクロフト]]を両方演じた唯一の俳優とされる。他に『[[バスカヴィル家の犬]]』のヘンリー・バスカヴィルも演じている。
: ホームズを演じる際に吹き替え版で声をあてたのは[[大木民夫]]。
:1962年の『{{仮リンク|Sherlock Holms und das Halsband des Todes|en|Sherlock_Holmes_and_the_Deadly_Necklace}}』(日本未公開)でホームズを演じる。ドクター・ワトスンはトーリー・ウォルターズ。1991年『{{仮リンク|Sherlock Holms and the Leading Lady|en|Sherlock_Holmes_and_the_Leading_Lady}}』と1992年『{{仮リンク|Sherlock Holms:Incident at Victoria Falls|en|Incident_at_Victoria_Falls}}』(いずれもテレビ映画、「Lady」は日本未公開、「Victoria Falls」は1996年に公開された模様。「Lady」は邦題「ホームズとプリマドンナ」、「Victoria Falls」は邦題「ヴィクトリア瀑布の冒険」で『新シャーロック・ホームズの冒険』として2005年にDVD発売)でもホームズを演じる。ドクター・ワトスンは二作ともパトリック・マクニ―。また「Lady」にはジークムント・フロイトやエリオット・ネスが、「Victoria Falls」ではセオドア・ルーズベルトが登場している。
; {{仮リンク|ニコラス・ロウ|en|Nicholas_Rowe_(actor)}}
: 映画『[[ヤング・シャーロック/ピラミッドの謎]]』(1985年)に主演。ホームズの学生時代を描いたオリジナルストーリーで、当時18歳のロウは史上最も若くしてホームズを演じた俳優となった。2015年の映画『[[Mr.ホームズ 名探偵最後の事件]]』では劇中劇のシャーロック・ホームズ役の俳優を演じた。
; {{仮リンク|マイケル・ペニントン|en|Michael_Pennington}}
: 1987年のテレビ映画「{{仮リンク|帰ってきたシャーロック・ホームズ|en|The_Return_of_Sherlock_Holmes_(1987_film)}}」でホームズを演じた。日本でもテレビ放送されVHSも発売されたがDVDは未発売。
; [[マット・フリューワー]]
: テレビ映画「{{仮リンク|バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)|en|The_Hound_of_the_Baskervilles_(2000_film)}}」(2000年)、「{{仮リンク|四つの署名(The Sign of Four)|en|The_Sign_of_Four_(2001_film)}}」(2001年)、「{{仮リンク|ボヘミアの醜聞(The Royal Scandal)|en|The_Royal_Scandal}}」(2001年)、「{{仮リンク|シャーロック・ホームズ vs ヴァンパイア(The Case of the Whitechapel Vampire)|en|The_Case_of_the_Whitechapel_Vampire}}」(2002年)でホームズを演じた。いずれも日本でもDVDが発売されている。
; [[リチャード・ロクスバーグ]]
: 「{{仮リンク|バスカヴィル家の獣犬(The Hound of the Baskervilles)|en|The_Hound_of_the_Baskervilles_(2002_film)}}」(2002年)では彼がホームズを演じた。ちなみにロクスバーグは舞台では[[ジョン・H・ワトスン|ドクター・ワトソン]]を演じており、また『[[リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い]]』ではホームズの宿敵の[[ジェームズ・モリアーティ]]、また『[[コナン・ドイルの事件簿]]』にも出演するなどホームズ関連の作品には関わりが深い俳優である。
: なお、ホームズとモリアーティを両方演じた俳優は映画・テレビでは他に{{仮リンク|アンソニー・ヒギンズ|en|Anthony_Higgins_(actor)}}が、ラジオドラマでは[[オーソン・ウェルズ]]がいる。
: ソフト制作で吹き替えを務めたのは[[津嘉山正種]]である。
; [[ルパート・エヴェレット]]
: テレビ映画「{{仮リンク|シャーロック・ホームズ 淑女殺人事件|en|Sherlock_Holmes_and_the_Case_of_the_Silk_Stocking}}」(2004年)でホームズを演じた。日本でもDVDが発売されている。
; [[ロバート・ダウニー・Jr]]
: [[ガイ・リッチー]]監督のハリウッド映画『[[シャーロック・ホームズ (2009年の映画)|シャーロック・ホームズ]]』(2009年)、『[[シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム]]』(2011年)でホームズを演じた。アクション満載の娯楽大作で、従来の紳士的なイメージを覆す異色のホームズ像は、公開当時は賛否が割れたが、生粋のアメリカ人ながらキングスイングリッシュを見事に操る高い演技力が評価され、[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)]]を受賞した。
: 一方で、[[植物学]]・[[薬学]]・[[化学]]の知識が深い、[[フェンシング]]・[[ボクシング]]・[[杖術|ステッキ術]]の達人である(原作では設定のみで披露されることが少ない)、薬物中毒を患っている、ディアストーカーは着用しないなどといった原作に近い部分も多い。ダウニー自身も、かつて薬物問題を抱えていたことで知られるが、インタビューでは「7%の溶解液(原作でホームズが常用している[[コカイン]])は僕に言わせると薄すぎる」とジョークにしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20100317190720/http://eiga.com/movie/54174/special/|title=ロバート・ダウニー・Jr.&ジュード・ロウが語る新生「シャーロック・ホームズ」|date=2010年3月10日|accessdate=2010年5月5日|author=[[eiga.com]]}}</ref>。
: 劇場公開された際に吹き替えを務めたのはダウニー・Jrの吹き替えを専任で務めていた[[藤原啓治]]。日曜洋画劇場では[[大塚芳忠]]が務めている。
:ダウニー・Jrが主演した『[[アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー]]』(2018年)では後述の[[ベネディクト・カンバーバッチ]]も出演しており、2人のホームズ俳優が共演した。また、『[[アベンジャーズ/エンドゲーム]]』(2019年)ではダウニー・Jrとカンバーバッチに加えてテレビ映画『ヤング・シャーロック・ホームズ 〜対決!モリアーティ教授〜』(2002年)でホームズを演じた[[ジェームズ・ダーシー]]も出演しており、1本の映画に3人のホームズ俳優が出演するという非常に珍しい例となった(ただし、3人が共演するシーンはない)。
; [[ベネディクト・カンバーバッチ]]
: BBC制作で2010年から放送のテレビドラマ『[[SHERLOCK(シャーロック)]]』でホームズを演じた。舞台が21世紀という異色の作品であるが、頭脳だけでなくスマートフォンやGPSといった現代科学を駆使して推理するホームズを熱演した。本作は時代背景こそ異なるものの、高身長、女嫌い、地質学や解剖学等に詳しい反面、政治やゴシップに関心が無い等、ホームズの基本スタイルは変わっていない。ただし、原作が持つホームズのエキセントリックさが強調されており、一般常識や他者に対する配慮に欠ける描写が多い。しかし推理や頭脳明晰さを示す描写は最新技術も相まって非常に緻密かつ鋭いものになっている。本作は非常に高い評価を受け、英国アカデミー賞最優秀テレビドラマ賞、エミー賞ミニ・シリーズ部門脚本賞を受賞している。またジェレミー・ブレット以来、TVドラマでは久々のシリーズ化された作品ともなった。日本で放送された際の吹き替えは[[三上哲]]が担当。
; [[ジョニー・リー・ミラー]]
: [[CBS]]制作で2013年10月から放送のテレビドラマ『[[エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY]]』でホームズを演じた。舞台が21世紀のニューヨークという、イギリス以外を舞台にした作品。ロンドン警視庁の顧問だったが薬物依存症になり、恋人の死によってそれが悪化。リハビリ後に父親の住むニューヨークで生活することになったという設定。BBCのホームズ同様エキセントリックさが強調されており、頭脳明晰でありながら、尊大で社会的常識や他者に対する配慮に欠けるキャラクターとして描かれている。ピッキングやスリも得意であり、家には錠前のコレクションを飾っている。また、この作品では[[ルーシー・リュー]]がワトソンを演じており、当初はホームズの薬物依存の再発を監視するために同居していた。上記の薬物依存が原因で酒は飲めず、またパイプを使うどころかタバコも吸わなくなっている。それでもタバコの吸い殻だけでどこの銘柄か当てることはできるという。
:日本で放送された際の吹き替えは[[三木眞一郎]]が担当。
; [[イゴール・ペトレンコ]]
: ロシアの{{仮リンク|国営テレビ放送チャンネル1 |en|Russia-1}}で2013年11月に放送されたテレビドラマ『[[名探偵シャーロック・ホームズ (テレビドラマ)|名探偵シャーロック・ホームズ]]』(全8回)でホームズを演じた(日本では[[AXNミステリー]]で字幕版のみ放送)。本作の設定は異色であり、よく知られる名探偵ホームズ像は、ワトソンが実際のホームズをヒロイックに誇張し探偵小説の主人公として作り上げたもので、27歳のホームズより15歳ほど年上のワトソンとは、親子のような独特の信頼関係を築いている。頭脳明晰さや行動力、豊富な犯罪知識は原作通りだが、眼鏡をかけた書生のような風貌、恋に溺れる情熱的な性格、拳闘も射撃も苦手といった原作とはかけ離れた特徴を備えている。なお[[パイプ (たばこ)|パイプ]]ではなく煙草派など原作の設定を取り込んだ要素もある。
; [[イアン・マッケラン]]
: 2015年の映画『[[Mr.ホームズ 名探偵最後の事件]]』にて、現役を引退し1947年に93歳となった老齢のホームズを演じた。
; [[ヘンリー・カヴィル]]
: 2020年の映画『[[エノーラ・ホームズの事件簿]]』シリーズ(原作には登場しないシャーロックの妹エノーラを主人公にしたオリジナルストーリー)でシャーロック・ホームズを演じた。
; {{仮リンク|マクシム・マトヴェーエフ|en|Maksim_Matveyev}}
: 2020年のロシアのテレビドラマ『{{仮リンク|シャーロック・ホームズ ロシア外伝|en|Sherlock_in_Russia}}』でホームズを演じた。
; {{仮リンク|ヘンリー・ロイド=ヒューズ|en|Henry_Lloyd-Hughes}}
: 2021年配信のNetflixオリジナルシリーズ『{{仮リンク|ベイカー街探偵団|en|The_Irregulars}}』でホームズを演じた。
他に[[ロジャー・ムーア]]、[[ジェームズ・ダーシー]]などもホームズを演じている。なお従来の推理物と違うものや、一風変わったホームズを演じた人物には以下のようなものがある。
; [[バスター・キートン]]
: 喜劇俳優として有名な彼もサイレント時代にホームズ{{要出典範囲|(厳密にはその弟)|date=2022年12月}}を演じた一人である。ただ彼の主演作『[[キートンの探偵学入門|キートンの探偵学入門(忍術キートン)]]』 ([[1924年]]、原題はSherlock Jr.)の邦題にはシャーロックの名前が含まれていないので、ホームズを演じた俳優の一人としてはあまり認識されていない。
; [[マイケル・ケイン]]
: 映画『[[迷探偵シャーロック・ホームズ/最後の冒険]]』(1988年)に主演。ホームズが実はただの飲んだくれで、助手のワトスンこそが真の名探偵だったとする奇抜な設定で描いたミステリ・コメディ。
; [[岸田森]]
: [[日本放送協会|NHK]]の『文化シリーズ・シャーロック・ホームズの世界』(1979年)でホームズを演じた。こちらのホームズは金髪(カツラ)である。『赤毛組合』などをドラマ化。
; [[竹内結子]]
: 2018年に[[Hulu]]で配信されたテレビドラマ『[[ミス・シャーロック/Miss Sherlock]]』でシャーロック(本名は双葉・シェリー・さら)という名のホームズを演じた。こちらのホームズは女性である。『SHERLOCK(シャーロック)』や『エレメンタリー』と同様に舞台は現代の世界。
; [[ウィル・フェレル]]
: 2018年のコメディ映画『[[俺たちホームズ&ワトソン]]』でホームズを演じた。第39回[[ゴールデンラズベリー賞]]において最低主演男優賞にノミネートされ<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20190122/18/|title=ラジー賞ノミネート発表 トランプ大統領がワースト主演男優賞に|date=2019-01-22|work=映画.com|accessdate=2019-05-03}}</ref>、作品自体はワースト作品賞を含む4部門を受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20190225/8/|title=最低映画の祭典ラジー賞発表!トランプ米大統領が前人未到の快挙達成|date=2019-02-25|work=映画.com|accessdate=2019-05-03}}</ref>。
; [[ディーン・フジオカ]]
: 2019年に[[フジテレビ]]で放送されたテレビドラマ『[[シャーロック (テレビドラマ)|シャーロック]]』で原作のシャーロックに相当する誉獅子雄を演じた。舞台は現代の[[東京]]。
=== 舞台 ===
; [[ウィリアム・ジレット]]
: ジレットは舞台で最も成功したと言われるホームズ俳優である。米国の俳優であったジレットはドイルの許可を得て自ら脚色した2本の舞台で、インバネス・コート、鹿撃ち帽、吸い口の大きく曲がったパイプなど、現在まで広く浸透しているホームズ像を形作った。[[1899年]]の初演から米国でロングランを続けたこの劇はついに大西洋を渡り英国でも上演された。英国でのビリー少年役は[[チャールズ・チャップリン]]が演じたこともある。ジレットは後年ラジオ番組でもホームズを演じている。ドイルはジレットに対し「舞台の中のあなたと比べると本の中のホームズは見劣りがする」と最大級の賛辞を送った。
; {{仮リンク|H.A.セインツベリー|en|Harry_Arthur_Saintsbury}}
: [[1910年]]にコナン・ドイル自身が「[[まだらの紐]]」を劇化した作品でホームズを演じた。のちに映画「恐怖の谷」でもホームズ役を演じている。第二の主役とも言える蛇は初めのうちは生きた本物の蛇を使用したが思い通りに「演技」をしないため評判が悪く途中から模造品が使用されたが皮肉にもこちらの方が好評であった。
; [[レナード・ニモイ]]
: [[1976年]]のジレット版リバイバルの舞台でホームズを演じた。ちなみに「[[スタートレック]]」で、彼の演じる[[ミスター・スポック]]がホームズの言葉を引用する場面があり、実際に劇中で事件捜査を指揮する([[スタートレックVI 未知の世界]]より)。
; [[柿澤勇人]]
: [[2019年]]、[[三谷幸喜]]演出の舞台「愛と哀しみのシャーロック・ホームズ」でホームズを演じた。
;[[平野良]]
:[[2019年]]ミュージカル「憂国のモリアーティ、2020年「憂国のモリアーティ Op.2 大英帝国の醜聞」、2021年 「憂国のモリアーティ Op.3 ホワイトチャペルの亡霊」でホームズを演じた。
;[[北村諒]]
: [[2019年|2020年]]、 『舞台 憂国のモリアーティ』のタイトルでホームズを演じた。
; [[真風涼帆]]
: [[2021年]]、[[宝塚歌劇団]] [[宙組]]公演[[ミュージカル]]「[[宝塚歌劇団によって舞台化された作品の一覧#シャーロック・ホームズ-The Game Is Afoot!-|シャーロック・ホームズ -The Game Is Afoot-]]」でホームズを演じた。
=== 劇場アニメ ===
* 『[[オリビアちゃんの大冒険]]』(1986年)
*: 声:[[:en:Barrie Ingham|バリー・インガム]](原語版)/[[青野武]]・[[安西正弘]](日本語吹き替え版)
*:: ネズミ界のホームズ(バジル)の声を担当した。
* 『[[名探偵コナン ベイカー街の亡霊]]』([[2002年]])では[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]]が声を担当した。同作では田中が声を当てている[[名探偵コナンの登場人物|工藤優作]](主人公・[[江戸川コナン|江戸川コナン/工藤新一]]の実父)をモデルにしている。
*『[[屍者の帝国]]』(2015年)では[[高杉義充]]が声を担当した。
=== テレビアニメ ===
* 『[[ルパン対ホームズ]]』([[1981年]])では、[[山城新伍]]が声を担当した。
* 『[[名探偵ホームズ]]』(1984年)
: 声:テレビ版 [[広川太一郎]]、劇場版 [[柴田侊彦]]
:: [[宮崎駿]]を中心に制作された通称「犬のホームズ」。ほぼ一貫してディアストーカーとインバネスコートを着用している。パイプは吸うがタバコやコカインなどには手を出さない紳士的なヒーロー探偵として描かれた。推理要素は薄く、アクションもこなすアクティブなキャラクターとなっている。
::
* 『[[歌舞伎町シャーロック]]』(2019年)
: 声:[[小西克幸]]
* 『[[憂国のモリアーティ]]』(2020年)
: 声:[[古川慎]]
:: タイトルロールである[[ジェームズ・モリアーティ|モリアーティ教授]]と相対するもう1人の主人公として登場する。20代ぐらいの青年で、本作ではモリアーティとほぼ同年代。他のアニメ作品と比べてかなりワイルドでエキセントリックな性格をしており、正義感などはほとんどない。事件が起きることを喜び、自らの手で謎を解くことを最高の快楽としている。
:: 一人称は「俺」。ディアストーカーやインバネスコートは着用せず、基本的にノーネクタイのスーツ姿。喫煙はパイプではなく紙巻きタバコのみ。劇中でワトソンが実際の事件をもとに執筆した小説の中では脚色され、一般的なホームズのイメージに近いキャラクターとなっている。
* 『[[ルパン三世 PART6]]』(2021年)
: 声:[[小原雅人]]
:: なお『ルパン三世』シリーズにはメディアミックス通してホームズをモチーフにしたキャラクターが複数登場する。
=== コンピューターゲーム ===
* [[PCエンジン]]CD-ROM^2用ソフト『シャーロック・ホームズの探偵講座』(1991年)では、[[若本規夫]]が声を担当した。制作は[[ビクターエンタテインメント株式会社]]。
* PSP用ゲームソフト『[[英国探偵ミステリア]]』(2013年)では、シャーロックホームズの息子、エルロック・ホームズJrとして登場。[[鈴木千尋 (声優)|鈴木千尋]]が声を担当した。制作は[[花梨エンターテイメント]]。
* 任天堂 3DS用ゲームソフト『[[大逆転裁判]]』(2015年)では、主人公成歩堂龍之介のサポート役として登場。[[川田紳司]]が声を担当した。制作は[[カプコン]]。続編となる『大逆転裁判2 -成歩堂龍ノ介の覺悟-』にも、引き続きサポート役として登場している。
=== 人形劇 ===
* 『[[シャーロック ホームズ (人形劇)|シャーロック ホームズ]]』([[2014年]])では、[[山寺宏一]]が声を担当した。この番組のホームズは15歳の少年であり、既に50代の山寺は当初渋ったが、オーディションを行って、脚本担当の[[三谷幸喜]]のOKが出たため、この役を引き受けることになった。山寺は映画『ヤング・シャーロック』のニコラス・ロウも吹き替えた事があり、原作以外接点の無い複数の作品に登場する学生時代のホームズ役で、声の出演を果たした稀有な例となる。また、2021年には『[[ルパン三世 PART6]]』で「銭形警部に変装したホームズ」を演じる機会も生じた<ref group="注釈">さらに山寺は2021年から毎年ノサカラボ主催の音楽朗読劇でホームズを演じ、2023年9月にはNHKEテレ『[[100分de名著]]』でもホームズシリーズ作品の朗読を担当。断片的には五度目のホームズ役となる。</ref>。
=== ラジオドラマ ===
* [[TBSブリタニカ]]のカセットブック「SOUNDミステリー」シリーズ([[1987年]])では、[[黒沢良]]が声を担当した。ワトソンの声は[[羽佐間道夫]]が担当。
* [[新潮]]で発売されたホームズシリーズのCDでは[[小川真司]]が声を担当した。またその際ワトソンの声は[[永井一郎]]が担当してるが、[[オリビアちゃんの大冒険]]でも永井はワトソン(ドーソン)を担当している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
* [[シャーロック_(小惑星)]] - シャーロックに因んで命名された
== 外部リンク ==
{{Commons|Sherlock_Holmes|シャーロック・ホームズ}}
{{Wikiquote|en:Sherlock Holmes}}
{{Wikisourcelang|en|Author:Arthur Conan Doyle/Sherlock Holmes|シャーロック・ホームズ}}
* [http://camdenhouse.ignisart.com/ The Complete Sherlock Holmes]{{En icon}} - 全作品が当時のイラスト入りで読むことができる。
* [https://221b.jp/ コンプリート・シャーロック・ホームズ] - 全作品の日本語訳が当時のイラスト入りで読める
{{シャーロック・ホームズシリーズ}}
{{三木眞一郎}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ほおむすしやあろつく}}
[[Category:シャーロック・ホームズ登場人物]]
[[Category:架空の私立探偵]]
[[Category:ヴィクトリア朝]]
[[Category:フィクションにおける無性愛]] | 2003-03-06T09:43:54Z | 2023-10-17T02:46:50Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA |
3,509 | スタイルシート | スタイルシート (英語: style sheet) とは、構造化文書などにおける表示形式を制御するしくみ。見栄えと構造を分離するという目的で提唱された。HTML、XML、SGMLといったマークアップ文書や、officeソフトにおいて広く使用されている。
Web上で広く使われているHTML文書にスタイルシートを適用する場合には、一般的にCascading Style Sheets(CSS)が利用される。CSSが圧倒的に普及しているので、単にスタイルシートといえばCSSを指すことがある。
スタイルシート言語(英語: style sheet language)とは、構造化文書の見た目を記述するコンピュータ言語。構造化文書とは、節や段落が明確に定義・分類された文書である。内容が明確に分類されているので、その文書を表示するプログラムは任意の表示スタイルを設定できる。広く使われているスタイルシート言語としてはCSSがあり、HTML、XHTML、SVG、XUL、その他のマークアップ言語で書かれた文書のスタイルを指定するのに使われる。構造化文書の利点の一つとして、内容を様々な状況で再利用でき、様々な方法で表示可能という点が挙げられる。構造化文書の論理構造に異なるスタイルシートを付与することで、異なる表示が得られる。
構造化文書の内容を表示するには、スタイル的規則、例えば色やフォントやレイアウトなどの規則が適用されなければならない。このスタイル的規則を集めたものがスタイルシートである。編集者や印刷業者は昔から、文書の形でスタイルシートのような情報(見た目、スペリング、句読点の一貫性などの規則)を扱ってきた。電子出版においては、スタイルシート言語はスペリングや句読点よりも見た目に関する規則を扱うものとして使われる。
構造化文書を表示するには、スタイルシート言語の表現能力を必要とする。スタイルシート言語には以下のような機能要素がある。
スタイルシートにはコンピュータ言語によって記述されるものがある。そのような言語をスタイルシート言語と呼ぶ。
現状市場に出回っているほとんどのオフィスソフトには「スタイル機能」と呼ばれるスタイルシートが実装されている。この、スタイル機能は通常オフィスソフトにおいて非常に重要な機能であり、Microsoft Wordのようにスタイル機能が使いこなせないとレイアウトをとることが極めて難しくなるソフトも存在する。
なお、現在ではスタイルシートと言えばスタイルシート言語をさすことが多いが、スタイルシートはそもそも英文ワードプロセッサのレイアウト方法として提唱された方式であり、オフィスソフトにおけるスタイルシートのほうが歴史は古い。
ウェブデザインにおいては、HTMLやXHTMLといったマークアップ言語で意味論的内容と構造を記述し、表示形式(スタイル)はスタイルシートに記述する。スタイルシートはマークアップ言語で書かれたファイルとは別ファイルであり、CSSやXSLといったスタイルシート言語で書かれる。
スタイルと中身を分離することで、様々な利点が生じるが、それが現実的となったのはウェブブラウザでのCSS実装が強化された最近のことである。
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"title": "オフィスソフトにおけるスタイルシート"
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"text": "なお、現在ではスタイルシートと言えばスタイルシート言語をさすことが多いが、スタイルシートはそもそも英文ワードプロセッサのレイアウト方法として提唱された方式であり、オフィスソフトにおけるスタイルシートのほうが歴史は古い。",
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"title": "スタイルシートの特徴"
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] | スタイルシート とは、構造化文書などにおける表示形式を制御するしくみ。見栄えと構造を分離するという目的で提唱された。HTML、XML、SGMLといったマークアップ文書や、officeソフトにおいて広く使用されている。 Web上で広く使われているHTML文書にスタイルシートを適用する場合には、一般的にCascading Style Sheets(CSS)が利用される。CSSが圧倒的に普及しているので、単にスタイルシートといえばCSSを指すことがある。 | {{HTML}}
'''スタイルシート''' ({{lang-en|style sheet}}) とは、構造化文書などにおける表示形式を制御するしくみ。[[関心の分離|見栄えと構造を分離する]]という目的で提唱された。[[HyperText Markup Language|HTML]]、[[Extensible Markup Language|XML]]、[[Standard Generalized Markup Language|SGML]]といったマークアップ文書や、[[オフィススイート|officeソフト]]において広く使用されている。
[[World Wide Web|Web]]上で広く使われているHTML文書にスタイルシートを適用する場合には、一般的に[[Cascading Style Sheets]](CSS)が利用される。CSSが圧倒的に普及しているので、単にスタイルシートといえば'''CSS'''を指すことがある。
== スタイルシート言語 ==
'''スタイルシート言語'''({{lang-en|'''style sheet language'''}})とは、構造化文書の見た目を記述する[[コンピュータ言語]]。構造化文書とは、節や段落が明確に定義・分類された文書である。内容が明確に分類されているので、その文書を表示するプログラムは任意の表示スタイルを設定できる。広く使われているスタイルシート言語としてはCSSがあり、HTML、XHTML、[[Scalable Vector Graphics|SVG]]、[[XUL]]、その他の[[マークアップ言語]]で書かれた文書のスタイルを指定するのに使われる。構造化文書の利点の一つとして、内容を様々な状況で再利用でき、様々な方法で表示可能という点が挙げられる。構造化文書の論理構造に異なるスタイルシートを付与することで、異なる表示が得られる。
構造化文書の内容を表示するには、スタイル的規則、例えば色やフォントやレイアウトなどの規則が適用されなければならない。このスタイル的規則を集めたものがスタイルシートである。編集者や印刷業者は昔から、文書の形でスタイルシートのような情報(見た目、スペリング、句読点の一貫性などの規則)を扱ってきた。電子出版においては、スタイルシート言語はスペリングや句読点よりも見た目に関する規則を扱うものとして使われる。
=== 構成要素 ===
構造化文書を表示するには、スタイルシート言語の表現能力を必要とする。スタイルシート言語には以下のような機能要素がある。
; 文法
: 機械が理解できる形で表現しなければならないため、厳密な文法が必要とされる。例えば、<pre>h1 { font-size: 1.5em; }</pre> はCSSの文法で書かれた単純なスタイルシートである。
; セレクタ
: セレクタとは、どの要素がそのスタイル規則によって影響されるかを指定するものである。文書の構造とスタイルシート内のスタイル規則の[[写像|接着剤]]の役割を担う。上記の例では、<code>h1</code> セレクタによって <code>h1</code> 要素が指定されている。文脈やプロパティや内容を考慮した複雑な要素選択を行うセレクタもある。
; プロパティ
: スタイルシート言語には、要素を表示する際の変化を与えるプロパティの概念が備わっている。上記の例ではCSSの <code>font-size</code> プロパティが使われている。一般的なスタイルシート言語には約50のプロパティがある。
; 値と単位
: プロパティに対してある値を指定することで要素の表示を変化させる。値には、文字列、キーワード、数、数と単位識別子の組合せなどがある。また、値としてリストや既出の値を使った式も指定できる。スタイルシートでの典型的な値の例として「長さ」の値 <code>1.5em</code> は、数 (<code>1.5</code>) と単位 (<code>em</code>) から構成されている。<code>em</code> はCSSでは周辺のテキストのフォントサイズを意味する。典型的なスタイルシート言語には約10種類の単位が使える。
; 値伝播機構
: 全要素について、全プロパティの値を明示的に指定しなくて済むように、スタイルシート言語には値を自動的に伝播させる機構が備わっている。値伝播によってスタイルシートが冗長でなくなり、短くなる。上記の例では、フォントサイズだけが指定されている。他の属性の値は値伝播機構によってそれ以前の設定がそのまま使われる。
; 書式モデル
: 全てのスタイルシート言語には何らかの書式モデルがサポートされている。多くのスタイルシート言語には視覚的書式モデルがあり、最終的な表示がどのようなレイアウトになるかを指定できる。例えば、CSS書式モデルはブロックレベル要素(例えば <code>h1</code>)が親要素の幅を満たすよう拡張することを指定する。スタイルシート言語によっては、音声的書式モデルを持つものもある。
== スタイルシート言語の一覧 ==
スタイルシートにはコンピュータ言語によって記述されるものがある。そのような言語を'''スタイルシート言語'''と呼ぶ。
=== 標準 ===
* [[Cascading Style Sheets|CSS]] ({{lang|en|cascading style sheets}})
* [[Document Style Semantics and Specification Language|DSSSL]] ({{lang|en|document style semantics and specification language}}; 文書スタイル意味指定言語)
* [[Extensible Stylesheet Language|XSL]] ({{lang|en|extensible stylesheet language}}; 拡張可能スタイルシート言語)
** [[XSL Transformations|XSLT]] ({{lang|en|XSL transformations}})
** [[XSL-FO]] ({{lang|en|extensible stylesheet language formatting objects}})
=== 非標準 ===
* [[JavaScript Style Sheets|JSS]]({{lang|en|JavaScript style sheets}}、{{lang|en|Netscape Navigator}} 4.x系列のみ対応)
== オフィスソフトにおけるスタイルシート ==
現状市場に出回っているほとんどのオフィスソフトには「スタイル機能」と呼ばれるスタイルシートが実装されている。この、スタイル機能は通常オフィスソフトにおいて非常に重要な機能であり、{{lang|en|[[Microsoft Word]]}}のようにスタイル機能が使いこなせないとレイアウトをとることが極めて難しくなるソフトも存在する。
なお、現在ではスタイルシートと言えばスタイルシート言語をさすことが多いが、スタイルシートはそもそも英文[[ワードプロセッサ]]のレイアウト方法として提唱された方式であり、オフィスソフトにおけるスタイルシートのほうが歴史は古い。
== Webにおけるスタイルシート ==
[[ウェブデザイン]]においては、HTMLやXHTMLといったマークアップ言語で意味論的内容と構造を記述し、表示形式(スタイル)はスタイルシートに記述する。スタイルシートはマークアップ言語で書かれたファイルとは別ファイルであり、CSSやXSLといったスタイルシート言語で書かれる。
== スタイルシートの特徴 ==
=== 利点 ===
スタイルと中身を分離することで、様々な利点が生じるが、それが現実的となったのは[[ウェブブラウザ]]でのCSS実装が強化された最近のことである{{要出典|date=2012年5月|}}{{いつ|date=2012年5月}}。
; 性能
: 一般にスタイルシートを使ったサイトの方がそうでないサイトよりも表示が速い。ブラウザの実装にもよるが、HTMLの仕様として更新のないファイルはブラウザの[[キャッシュメモリ|キャッシュ]]を使用することになっているので、スタイルシートがファイルに分離されている場合は各ページの読み込みは高速化される。
; 保守性
: 全ての表示スタイルを1つのファイルに保持することで、保守時間が大幅に削減され、保守時に[[ヒューマンエラー|人間が間違う]]可能性も削減される。例えば、あるサイトのコンテンツを作成した後でフォントの色を #3667CA (ウェブセーフカラーでない色)にしなければならなくなったとする。スタイルシートを使っていない場合、その面倒な修正作業を全ページについて行わなければならず、間違いが混入しやすくなる。CSSを正しく使っていれば、1つのCSSファイルのたった6文字を修正するだけで済む。また、HTML・XHTMLページの[[可読性]]がよくなり、表示の一貫性が保たれるという利点もある。
; アクセス容易性
: CSSを使ったサイトは、異なるブラウザ({{lang|en|[[Internet Explorer]]}}、{{lang|en|[[Mozilla Firefox]]}}、{{lang|en|[[Opera]]}}、{{lang|en|[[Safari]]}}など)で同じ表示になるよう調整することが容易である。
: CSSを使ったサイトのブラウザでの表示は、例えば{{lang|en|[[Lynx (ウェブブラウザ)|Lynx]]}}のようなグラフィックスを表示できない古い(CSSを解釈できない)ブラウザでも可能である(CSSを無視して可能な範囲で表示される)。古いバージョンのCSSしか解釈できない場合も、その範囲でのみ表示可能である。このため、様々な機能レベルの[[ユーザーエージェント]]がサイトのコンテンツにアクセス可能となっている。例えば[[点字ディスプレイ]]を使ったブラウザは、ほとんどのレイアウト情報を無視するが、それでもユーザーは全ページのコンテンツにアクセス可能である。
; カスタマイズ
: ページのレイアウト情報がコンテンツと分離されることで、そのレイアウト情報を無視して表示させても、内容を読むことができる。また、サイト側が複数のスタイルシートを提供し、コンテンツに影響を与えずに見た目を完全に変えることも可能である。
: 最近のWebブラウザはユーザーが独自のスタイルシートを定義できるようになっており、サイト作成者のレイアウト規則を上書きすることもできる。例えば、アクセスした全てのページでハイパーリンクを太字で表示させるといったことが可能である。
; 一貫性
: マークアップ言語で書かれたファイルは、著者が伝えようとしている意味だけを含んでいるため、その様々な要素のスタイルは非常に一貫している。例えば、見出し、強調テキスト、リスト、数式などといった要素は外部のスタイルシートによって、一貫したスタイルが適用される。著者は合成時のスタイルプロパティを気にする必要はない。見た目の詳細は実際に表示されるときに決定される。
; 移植性
: 見た目の詳細が実際に表示されるときに決定されるということは、新たな媒体に新たなスタイルシートを用意すれば、同じコンテンツを修正することなくその新しい媒体でも再利用できることを意味する。注意深く制作されたウェブページは、新たなスタイルシートを適用することで、ヘッダやフッタ、ページ番号、目次などを備えた容易に印刷可能な本にすることもできる。
=== 実用上の問題 ===
XHTML、XSL、CSS といった現状の仕様とその[[ソフトウェアツール]]での実装は、やっと成熟段階に至ったレベルである{{要出典|date=2012年5月|}}。従って、このような内容とスタイルの分離をしようとしたときに、いくつかの実用的問題が生じることがある。
; 意味論的語彙の欠如
: HTML には意味論的要素の語彙(例えば、段落、引用、強調など)が限られている。HTMLから拡張可能なXHTMLへの移行により、より豊富な意味論的語彙の採用が促進され、スタイルシートでの対応も促進されると考えられる。例えば、[[ルビ#HTMLとCSSでのルビ|振り仮名の表記]]<ref>振り仮名の表記の詳細な仕様については外部リンク[http://www.w3.org/TR/ruby/ {{lang|en|Ruby Annotation}}]も併せて参照。</ref>、[[Mathematical Markup Language|MathML]]、[[XForms]]、[[XFrames]] といった拡張によって新たな要素が文書に使われるようになれば、それらのスタイルを指定できるようスタイルシート言語も拡張されるだろう。しかし、現状ではスタイルシート言語がサポートしていない要素については、作者が場当たり的にセレクタを追加生成しなくてはならない。
; 複雑な配置
: 複雑な配置をスタイルシート側で制御しようとしても、ブラウザが対応していない場合がある。
; 解析/生成ツール以外での採用が少ない
: スタイルシートの仕様は完成されつつあるが、ソフトウェアツール側での対応は遅い。主なウェブ開発ツールはいまだに表示とコンテンツの混合型モデルを採用している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
* [[関心の分離]]
== 外部リンク ==
* [http://people.opera.com/howcome/2006/phd Cascading Style Sheets] {{lang|en|PhD thesis, by Håkon Wium Lie}}
* [http://www.sitepoint.com/article/simply-javascript {{lang|en|Simply JavaScript: The Three Layers of the Web}}]
* [http://www.csszengarden.com {{lang|en|CSS Zen Garden}}]: XHTMLソースを変えずに新たなページレイアウトを生成しようとしているサイト。様々なレイアウトとそのCSSソースが参照できる。
* [http://www.cameraontheroad.com/?p=189 {{lang|en|Revealed - Our HTML and CSS Codes - cameraontheroad.com}}]: 新たにスタイルシートを使おうとしているサイトに有効な例を提示。各種リソースへのリンクもある。
{{DEFAULTSORT:すたいるしと}}
[[Category:スタイルシート言語|*]]
[[Category:コンピュータ言語]]
[[Category:ウェブデザイン]]
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3,510 | CSS | CSS | [
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{{TOC right}}
'''CSS'''
== 一般名詞 ==
* Carrier Security Surchargeの略。「[[海上運賃一覧]]」を参照。
* Container Security Surchargeの略。「[[海上運賃一覧]]」を参照。
=== テクノロジー ===
* [[Cascading Style Sheets|{{lang|en|Cascading Style Sheets}}]](カスケーディング・スタイル・シート、段階スタイルシート) - HTML、XMLの表示レイアウトなどの修飾を指定するのための仕様。
* コンタクトスタートストップ<!--
http://yougo.ascii.jp/caltar/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97
-->({{lang|en|Contact Start Stop}}) - ハードディスクドライブの形式のひとっつ。「[[ハードディスクドライブ#プラッタ]]」を参照。
* [[Content Scramble System|{{lang|en|Content Scramble System}}]](コンテンツ・スクランブル・システム) - DVD-Videoのアクセスコントロール技術。
* コアシステムソフトウェア({{lang|en|Core System Software}}) - 次世代[[Basic Input/Output System|BIOS]]。
* [[クロスサイトスクリプティング]]({{lang|en|Cross Site Scripting}})- World Wide Webにおける脆弱性のひとつ、CSSではなくXSSとの表記が推奨される。
== 固有名詞 ==
* {{ill|中央保安部|en|Central Security Service}}({{Lang|en|Central Security Service}})- アメリカ合衆国[[アメリカ国防総省|国防総省]]に属する[[情報機関]]。
* {{lang|en|Computer Security Symposium}} - [[情報処理学会]]主催の[[情報セキュリティ]]をテーマとする[[シンポジウム]]。
* [[CSS (バンド)]]({{lang|pt-BR|Cansei de Ser Sexy}}、カンセイ・ジ・セール・セクシー)- ブラジルのバンド。
* [[カタリナ・スカイサーベイ]]({{lang|en|Catalina Sky Survey}})- 地球近傍天体の捜索を主目的とする掃天観測プロジェクト。
* [[CSS (企業)]] - 北海道の風力発電所・太陽光発電所の開発・事業運営会社。
* {{仮リンク|商用宇宙ステーション|en|Commercial space station}}({{lang|en|Commercial Space Station}})
* [[中国宇宙ステーション]]({{lang|en|Chinese Space Station}})
== 商品名 ==
* [[Content Services Switch|{{lang|en|Content Services Switch}}]] - [[シスコシステムズ]]社が販売する情報ネットワークサーバ用負荷分散装置の商品名。
* 『カウンターストライク ソース』({{lang|en|''Counter-Strike: Source''}}、''CS:S'') - ファーストパーソン・シューティングゲーム(FPS)のひとつ。「[[カウンターストライク#Counter-Strike: Source]]」を参照。
* {{仮リンク|既存店売上高|en|Same-store sales}}({{lang|en|comparable store sales}})
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3,511 | フローズンコア近似 | フローズンコア近似(フローズンコアきんじ、Frozen core approximation)は、凍結核近似とも言い、物性物理学で用いられる近似法である。通常、物性物理学では内殻電子の効果が、物性量に影響することはない。そこで内殻電子を凍結(Frozen)したものと考えて、価電子部分の寄与のみを考えればよいとして近似する。
内殻電子の効果が求めるべき物性量に影響する場合は、この近似は適用できない。 | [
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'''フローズンコア近似'''(フローズンコアきんじ、Frozen core approximation)は、'''凍結核近似'''とも言い、[[物性物理学]]で用いられる近似法である。通常、[[物性物理学]]では[[内殻電子]]の効果が、物性量に影響することはない。そこで内殻電子を凍結(Frozen)したものと考えて、[[価電子]]部分の寄与のみを考えればよいとして近似する。
内殻電子の効果が求めるべき物性量に影響する場合は、この近似は適用できない。
== 関連項目 ==
*[[擬ポテンシャル]]
*[[第一原理バンド計算]]
{{DEFAULTSORT:ふろおすんこあきんし}}
[[Category:計算物理学]] | null | 2021-04-06T11:07:55Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%82%A2%E8%BF%91%E4%BC%BC |
3,513 | 関東地方 | 関東地方(かんとうちほう)は、日本の地域区分(七地方区分)の1つであり、本州の東部に位置している。
その範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県を指して関東地方と呼ぶ。
首都・東京都を擁する関東地方は日本の政治・経済の中心となっており、日本の総人口の35%、GDPの38%が集中している。特に南関東(東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県)の1都3県は通勤・通学などで東京との結びつきが大きい。関東地方の1都6県に山梨県を加えて首都圏を構成している。
日本最大の平野「関東平野」が中央に広がり、北西側は山岳地帯、東南側は太平洋に面する。関東の東部には房総半島(千葉県)、南部には三浦半島(神奈川県)が太平洋に突き出しており、房総半島と三浦半島の間に東京湾、三浦半島と真鶴半島の間に相模湾を形成する。また、旧伊豆国である東京都島嶼部も東京都の管轄下にあるため、行政的には関東地方である。なお関東地方に山梨県を含むケースもあるが、ここでは取り上げない。
沖ノ鳥島(無人島)は日本の最南端であるため、関東地方は日本の最東・最南端とも言える。
関東平野の表層地質は第四紀の沖積層や洪積層であり、平野部やその周辺の標高約500〜900mの低山の植生は常緑広葉樹林帯。箱根で約900m、丹沢や高尾で約800m、奥多摩、奥武蔵や奥秩父で約700m、西上州や赤城山、足尾山地や筑波山で約600m、北毛や那須の山地で約500mが、照葉樹林の分布限界である。
常緑広葉樹林の上にはブナやシラカバ、ミズナラなどの落葉広葉樹林が広がる。また、落葉広葉樹林の上にはシラビソやダケカンバなどの針葉樹林が落葉広葉樹林の下限から約1100m高い標高から広がる。
北端には帝釈山脈、高原山、那須連山、八溝山、三国山脈、西端には関東山地(奥秩父山塊もこの一部)などの山地がそびえて、各隣接地方へ繋がる。日本最大の平野である関東平野が広がり、塩那丘陵をはさんでその直ぐ北には那須岳山麓に広がる日本最大級の扇状地那須野が原、東側には上総台地を挟んで千葉県の海岸沿いには九十九里平野が広がる。千葉県南部は房総丘陵で、茨城県の霞ヶ浦周辺は常総台地や常陸台地になっている。群馬県や埼玉県秩父地方などは盆地になっている。荒川、江戸川などの各河川は東京湾へ注ぎ、鬼怒川、利根川(「坂東太郎」の異名を持つ)は犬吠埼で太平洋へ注ぐ。
東京湾は、房総半島と三浦半島に囲まれ、千葉県の西側、東京都の一部と神奈川県の東側に面して、浦賀水道から太平洋に接する。沿岸部は工業地帯になっている。神奈川県の南側は相模湾・相模灘に、茨城県南部の沿岸は鹿島灘に面する。また、相模湾には、二回の関東地震の震源地となった相模トラフが通っているために、各地で地震対策にも力が入れられている。
最高地点は、栃木県日光市と群馬県片品村との境にある日光白根山(奥白根山)山頂。日本の都道府県の最高地点としては、八番目に高い。また、関東以北(関東・東北・北海道)の最高地点でもある。都道府県の最高地点は埼玉県が三宝山 (2483m)、東京都が雲取山(2017m)、神奈川県が蛭ヶ岳 (1673m)、茨城県が八溝山 (1022m)、千葉県が愛宕山(408m)である。千葉県の愛宕山は、各都道府県の最高峰の中では最も低い。
ヤマトの最東方に位置するフロンティアから武士の王国、そして日本の中心地へと、関東地方は変遷した。
関東地方に人が住みはじめたのは旧石器時代であった。群馬県の岩宿遺跡からは、関東ローム層から旧石器時代の物とされるナイフ形石器が発見されているが、関東ローム層の酸性土壌のために、人骨などは見つかっていない。
縄文時代の関東地方は温暖な環境に恵まれ、縄文人は関東各地に大型集落を営んだ。当時の環境では西日本より東日本の方が漁労採集には適しており、縄文時代の南関東は日本列島で最も人口密度の高い地域であったと推測されている。縄文海進の時期には、現在の茨城県中南部の低地、千葉県北部のうち下総台地以外の地域、東京23区の東部、埼玉県の東南部は海であった。内陸に入り込んだ遠浅の海はよい漁場となり、現在海岸から離れている地域にも加曽利貝塚を筆頭に巨大貝塚が形成された。
弥生時代になると埼玉県全土が陸地化し、東京23区東部でも一部が陸地化した。関東でも水田稲作が行われるようになり、多摩川流域や相模平野を中心に農耕が行われていたと思われる。海面の後退と土砂の堆積により、まだ東京湾に流れ込んでいた利根川の下流域に広大な沖積平野が生まれるが、当時の幼稚な灌漑技術では耕地化できなかった。関東ローム層に覆われた台地は水源に恵まれないため、まだ深い森であった。
古代、4世紀頃には既にヤマト王権が関東地方を勢力下に置いていたとされるが、その根拠の一つが、関東にも存在する前方後円墳で、これはヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆくなかで、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。関東南部の旧入間川(荒川) - 旧荒川(元荒川) - 旧利根川(古利根川) - 旧渡良瀬川(江戸川) - 毛野川(鬼怒川)に至る地域は、古代は低湿地帯であり、香取海の水は現在の千葉県北西部・茨城県南西部にまで広がっており、現在では関東平野の中央部にあたるこれらの地域と外洋は香取海を通じてつながっていた。したがって、概して当時の関東はこの低湿地帯の北部にあたる毛野川流域地域(毛野国)とその南部地域(无射志国)に分かれていたと考えられる。毛野国は、筑紫国や吉備国に比肩する大国であったといわれる。ただし毛野国は記紀に上毛野国造(上毛野氏)と下毛野国造(下毛野氏)に分かれた形で登場している。上毛野氏は現在の群馬県中部から南部、下毛野氏は那須地方を除く栃木県中南部に勢力を持ったとみられている。この毛野氏一族は天武天皇から朝臣姓を賜るなどヤマト王権と関係が深く、毛野一族は蝦夷対策や朝鮮半島政策での将軍に任命されており、律令制以前に軍事を司った豪族だったとみられる。また奈良時代、下毛野朝臣古麻呂が登場し、大宝律令の作成に関与している。古麻呂が創建したと伝える下毛野氏氏寺・下野薬師寺は、奈良の東大寺・大宰府の観世音寺と並ぶ三戒壇に指定されている。一方、上総国・下総国・安房国の房総半島は総(ふさ)と呼ばれ、『古語拾遺』によると、四国から渡来した忌部氏が開拓したという。これらの諸国を一括する語が「吾妻」である。記紀神話では、日本武尊の説話が起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、元々は当地の神話であった物を取り込んだ可能性がある。その傍証として、天武10年(681年)に詔を受けて史書編纂に従事した群臣のうち、王族を除くトップは上毛野君三千であった。なお、上総国・下総国・常陸国には、阿波忌部氏に続き神八井耳命の血を引く多氏が上総国に上陸、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばし、仲国造、印波国造、長狭国造を輩出した。その他、神聞勝命、国摩大鹿島命、臣狭山命など中臣氏の祖先が進出し、後裔の中臣鹿島連が鹿島神宮を建立し氏神とした。また多氏によって創祀されたという鹿島の元本宮伝承などが存在する。また、香取神宮もこの際に出雲系の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが起源だとする伝承がある。
『宋書倭国伝』の武(雄略天皇に比定する説が有力)の上表文に「祖先が東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を征すること六十六国」と記されていることから、5世紀頃の関東地方には国と認識されるものが複数存在したことが記されている。『梁書』などの「扶桑國」「女國」、『旧唐書』に登場する「毛人國」、唐代の漢詩に見える「扶桑東更東」といった地域を関東に比定する説がある。稲荷山古墳金錯銘鉄剣銘文中の「大王」も、畿内ではなく関東にいた首長を指すとする立場(古田武彦、井上秀雄、鶴岡静夫ら)もある。太田天神山古墳のような巨大古墳や、金鈴塚古墳のような豪華な副葬品を持つ古墳が築造された。このように、関東地方は、古墳時代には、畿内に比肩しうる王権を確立していたとも考えられている。
律令制の五畿七道の交通網について、関東には畿内から陸奥国に伸びる東山道と、同じく畿内から伸びて三浦半島から海路房総半島に出て香取・鹿島に向かう東海道が整備されたと言われる。「関東」は、京の防備のために設けられた東海道の伊勢国の鈴鹿関(鈴鹿峠)、東山道の美濃国の不破関(関ケ原)、北陸道の越前国の愛発関(愛発山、あらちやま)の三関から東の全域を指した。その中でもとりわけ、「東海道の足柄関(箱根峠)から東の国」と「東山道の碓氷関(碓氷峠)から東の国」が、関東地方に当たる。陸奥国(東北地方太平洋側)との境には、白河関と勿来関が設置された。関東地方には、西から順に相模国、武蔵国、下総国、上総国、安房国、常陸国、上野国、下野国の8つの令制国が設置され、分割統治された。古くは坂東(ばんどう)といわれた。坂東は信濃国と上野国の界にあたる碓日嶺と、駿河国と相模国の界にあたる足柄坂の東の意味である。
大陸に目を向けると、7世紀の東アジアでは唐と新羅が権勢を揮い、663年には百済・倭国(日本)連合軍を白村江の戦いにて破り、高句麗も668年に同様に滅された。また、10世紀にはその新羅も、後高句麗により滅ぼされた。こうした大陸と朝鮮半島の騒乱期に前後して、朝鮮半島方面から多くの人間が渡来人として日本各地に流れてきており、ヤマト王権は彼らに関東の未開発地を与えて住まわせ、関連する地域の名が今でも残る(例:武蔵国高麗郡・新羅郡→新座郡)。
律令時代の関東は配流の地でもあり、斑鳩や奈良に本拠地を置く畿内政権からは、「都からは遠く、自力で帰るのが難しい地方」と見られており、特に安房国と常陸国は、「遠流」の地ともいわれ、北九州へ向かう防人も関東から多く徴用され、それを象徴する語に「鹿島立ち」があるとされる。
平安時代には、親王任国には、常陸国、上総国、上野国が親王任国に設定された。11世紀頃に成立した『更級日記』などに、松戸、幕張、利根川、武蔵野等の情景が描かれている。
平安時代中期には都から渡ってきた下級貴族が武士化し、開発領主として関東各地で開拓を進める流れが生まれる。10世紀には親王任国が半制度化し、下総国、常陸国、上野国には桓武系平氏を中心に平家武士が増加、その一人である平将門は自ら新皇と称し、関東の独立を目指して蜂起すると、下野国押領使で藤原北家魚名流・藤原秀郷は朝廷の意向をもってこれを討伐した。概ね北関東以北は藤原北家や清和源氏(河内源氏)を出自とする領主、南関東は平氏を出自とする領主が支配した。
この頃、関東は「あづま」(畿内から見て東なので「東」の字が充てられる)と呼ばれ、関東の武将たちは、その勇猛さから「あづまえびす」(東夷)と侮蔑的に呼ばれた。将門の独立志向が、その後の関東の武士政権への道を開いたことを、網野善彦は指摘している。
平安末期の関東地方は、中小の武士団が割拠した。北関東は藤原北家流諸氏(那須諸氏、宇都宮氏、小田氏、小山氏、結城氏等)や清和源氏流諸氏(足利氏、新田氏、佐竹氏)、南関東は桓武平氏流諸氏(鎌倉党、三浦党、秩父党、千葉党など)や武蔵七党(小野姓横山党など)が領有した。彼らは相馬御厨など土地の支配権をめぐって相互に争った。源頼朝が鎌倉幕府を樹立する際に中核となったのは、このような関東武士団であった。頼朝の死後は、伊豆に拠点を有する北条氏が執権となり、鎌倉幕府の実権を掌握した。
関東の武士は承久の乱の後、地頭として西日本各地に移住する。三浦、千葉、渋谷、二階堂、葛西など、関東地方の地名に由来する苗字が九州のような遠方にも多数分布するのはこのためである。
南北朝時代には、室町幕府(源氏政権)の出仕機関である鎌倉府が同じく鎌倉に置かれ、鎌倉公方(源氏)を関東管領(主に藤原勧修寺家流)が補佐、さらに関東八屋形(藤原北家流6氏・源氏流1氏・平氏流1氏の計8氏)が各領土内での実権を有した。事実上、東国武家政権の伝統を引き継ぎ、現在の関東地方に伊豆と甲斐の両国を加えた地域を当初は管轄し、後に奥羽(東北地方)を加えて東日本を広く管轄した。
室町時代には、鎌倉公方は室町幕府(源氏)と対立し、これに、関東管領の上杉氏(藤原勧修寺家流)も加わった。その結果、大きな戦いだけでも、
と相次ぎ、小規模なものも含めれば、関東地方は連年続くことになった戦争によって荒廃した。一連の戦いによって関東管領・鎌倉公方(古河公方)・堀越公方をはじめ、関東の各氏は勢力が衰え、戦国時代にはこれに乗じた小田原北条氏(後北条氏=伊勢平氏を称す)が台頭し、伊豆・相模を皮切りに関東各地を次々と支配下に置いた。対抗勢力としての上杉氏は河越夜戦に敗れた。
16世紀後期には小田原北条氏の勢力圏は関東地方の西半分をはじめ広範な地域におよび、それに対して東部地域では里見氏、佐竹氏、宇都宮氏がこれに抗し領土を守った。最終的に朝廷を奉じる豊臣秀吉が鎮圧に乗り出し、小田原征伐によって小田原北条氏は滅亡、同氏に従っていた千葉氏・小山氏などの旧家も運命をともにした。小田原北条氏の旧領には徳川氏が入り、後にそれがそのまま江戸幕府の勢力基盤として継承されたこと、小田原征伐で中央政権に服属した安房の里見氏、常陸の佐竹氏、下野の宇都宮氏などもその後の中央政権の動向に巻き込まれてその後20年余りのうちに関東の領有権を没収されていったことから、この変動が生じた天正18年(1590年)を関東地方における中世と近世の画期として捉えられている。ただし、従来の支配体系が全否定された訳ではなく、小田原北条氏の拠点になった城の動向を見ても徳川氏の本拠となった江戸城や小田原城、川越城などのように近世以後も継承されたもの、箕輪城(→高崎城)、唐沢山城(→佐野城)、本佐倉城(→佐倉城)のように領国支配の安定に伴う新城築城まで用いられ続けたもの、八王子城、鉢形城、栗橋城のように廃城になったものなど様々であり、単純に天正18年を中世と近世の「断絶」とみなす考え方は、継承したものと断絶したものが混在していた地域の実情を見誤る危険性をはらんでいる。
豊臣秀吉の命令で関東へ国替となった徳川家康は、本拠地をそれまでの駿府から江戸に移した。
この時期には測量技術の発達を背景に、それまで考えられなかったような大規模な干拓や灌漑ができるようになった。家康は江戸湾に注ぐ利根川・渡良瀬川水系を毛野川水系にまとめ、現在の利根川水系の原型を形造る利根川東遷事業を進めた。この事業によって江戸付近の雨期の河川氾濫を治め、旧利根川・旧渡良瀬川の下流から河口地帯を整地して江戸の町の基盤を作った。そして参勤交代制度による人口の飛躍的増加とともに、江戸は水路を巡らす世界屈指の大都市となっていった。
その後は椿海の干拓や三富新田開拓などの新田開発が進み、荒川や利根川下流の低湿地や武蔵野の大半が耕地化され、関東地方の農業生産力は激増した。幕府は畿内からの先進技術や人材の導入に努め、当初は大坂からの移入に頼っていた酒・木綿・醤油など産物の多くも、江戸時代中期頃には関東の地場生産品で賄えるようになり、江戸地廻り経済圏が確立した。こうして江戸には商人や町人による天明文化や化政文化の華が開いた。
江戸時代の関東地方は徳川氏の一大勢力圏だった。徳川御三家の一つ水戸徳川家が治める水戸藩をはじめ、関東各地には徳川氏の一門や連枝・譜代大名・大身旗本が数多く封じられたほか、幕府が直轄する公儀御料も各地に設けられた。また日光(東照宮)・鹿嶋(鹿島神宮)・成田(新勝寺)といった門前町も盛えた。江戸時代の関東地方は関八州(かんはっしゅう)と呼ばれ、8州は武蔵国・相模国・上総国・下総国・安房国・上野国・下野国・常陸国を指したが、これは現在の関東地方と重なる。文化2年(1805年) には、俗に八州廻りと呼ばれた関東取締出役が設置され、水戸藩領ほか一部地域を除く関八州一円を巡回して治安維持にあたった。
嘉永6年(1853年)にアメリカのペリーが率いる黒船4隻が来航したのを機に幕末の不穏な時代が始まり、天狗党の乱や上野戦争・船橋の戦い・宇都宮城の戦いなどの戊辰戦争の舞台となった。
江戸幕府が倒されて明治政府が誕生すると、天皇を初めとする皇室が京都御所から江戸城に移り、江戸は東京府(とうけいふ)と改名されて、東京は明治政府の本拠地となった。これ以後、東京は実質上の首都、政治・経済・文化の中心となった。関東は、畿内以外で初めて、中央集権型政権の本拠地が置かれる地方となった。
東京には軍事以外の全ての国家の中枢機関が置かれた。そして、東京と横浜は、文明開化の中心地となり、近代化を主導した。 、明治5年9月12日(1872年10月14日)には新橋 - 横浜間で日本初の鉄道が開通し、以降は官民を挙げて鉄道が建設され、関東地方には東京を中心とする鉄道網が築かれた。
慶応4年(1868年)に伊豆・相模・武蔵などにまたがった韮山代官所の管轄地域は、明治政府が新設した韮山県になったものの、明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県を経て、1876年8月以降の関東地方は、南西から時計回り順に神奈川県、東京府(1943年7月以後は東京都)、埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県、千葉県の7つの県に分割され、従来鎌倉や東京との繋がりが深かった伊豆は静岡県へ編入された。また近世には伊豆国の一部とされ、1876年4月に静岡県域となった伊豆諸島が、1878年1月11日に東京府に編入され、現在に至っている。
太平洋戦争後に在日米軍は旧陸海軍の軍事施設を接収し、関東地方各地に軍事基地を置いた。アメリカ合衆国の世界戦略のもと、戦略爆撃で焼け野原になった東京は急速に復興し、戦後10年に満たない間に戦前同様の繁栄を謳歌した。東京には各地から「金の卵」と呼ばれる労働者が集まった。内陸には、民需に転じた軍需工場を中核に関東内陸工業地域が成立した。東京湾岸には京浜工業地帯や京葉工業地帯が造成され、東京湾の干潟の多くが消滅していった。
高度経済成長期以降、特にオイルショック後の産業構造の転換を背景に、第二次産業から第三次産業までの大手企業の本社が次々と東京に移転し、経済面で東京への一極集中が進行した。これに伴って東京都区部周辺のベッドタウン化が顕著になり、東京を中心とする都市圏は大幅に拡大、農地や山林を侵食してスプロール化し、東京の30km圏内は市街地が一面に広がる状態となった(東京都市圏)。しかし、東京への一極集中は、政治・行政・経済・文化など、多方面の問題にもなっている。
近畿地方との間には東海道新幹線(1964年10月開通)と東名高速道路(1969年4月開通)が、東北地方太平洋側(旧陸奥国)との間には東北新幹線(1982年6月開通)と東北自動車道(1987年9月全通)が建設された。これにより、本州太平洋側の地方は、高速交通網での縦断が可能な時代になった。
首都圏整備法が定義する「首都圏」には、山梨県を加えた1都7県が含まれる。また、「関東地方知事会」には、首都圏1都7県に加えて、中部圏知事会議にも加わっている静岡県、長野県の両県知事が参加している。
関東地方は人口・面積が多数・広大なので、北関東地方、南関東地方に分割することもある。
関東地方は主に「南関東」、「北関東」で分けるため、「東関東」、「西関東」の範囲は統一されていない。
中央省庁や企業・団体のエリア区分による「関東」の範囲は、必ずしも「箱根関・小仏関・碓氷関から東」とは定義されておらず、統一されていない。
平成29年度の関東のGDPは218兆2962億円である。これは大韓民国やロシアのGDPよりも大きく、巨大な経済圏を形成している。
地域別特徴を見ると、本社の大半は、東京都区部に集中している。一方で、東京都区部を除く地域には、工場や物流拠点が集中しており、特定企業の工場が集まる「企業城下町」や、営業所や小売業が多く立地する都市が多く見られる。
「大手」「超大手」といわれる製造業の本社(工場とは限らない)は、東京都区部に所在するものが多い。しかし、関東地方に工場を置く企業(親会社)の本社が、必ずしも関東地方に所在するとも限らない。
多くの大手ゼネコンの本社が、東京都区部に集中している。東京都区部では、大規模なオフィスビルやマンション・道路・鉄道(地下鉄)などの建設が行なわれている。
東京には中央銀行である日本銀行や多くの都市銀行が本店を置いているほか、各地の地方銀行や主要な海外金融機関も情報収集を兼ねて東京支店を置いている。また、東京証券取引所、各種商品市場も置かれている。
基本的には東京都区内に集積するものが多い。
関東地方の幹線交通網は、東海道ルート、甲州街道ルート、中山道・三国街道ルート、日光街道・奥州街道ルート、水戸街道ルート、佐倉街道ルート、房総往還ルート、房総東往還ルートに大きく分けられる。
連絡線としては、例幣使街道ルートなどがある。兵士街道古道鎌倉街道・大山街道や、その他関東各地域中核都市から周辺部に伸びる路線群が整備されている。
関東地方の鉄道網は東京から放射状に伸びており、路線相互の接続駅間を結ぶ鉄道路線が高度に整備され、世界最大の輸送力を誇っている。
鶴見線、根岸線、相模線、川越線、信越本線、吾妻線、上越線、両毛線、日光線、烏山線、水戸線、水郡線、成田線、鹿島線、内房線、外房線、久留里線
御殿場線
つくばエクスプレス、ひたちなか海浜鉄道湊線、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線、関東鉄道常総線、関東鉄道竜ヶ崎線
東武佐野線、東武日光線、東武宇都宮線、真岡鐵道真岡線、上信線、上毛線、東武桐生線、東武小泉線、わたらせ渓谷鐵道線、宇都宮ライトレール線
東武越生線、西武狭山線、西武秩父線、秩父鉄道線、東武野田線、埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)、つくばエクスプレス、埼玉高速鉄道線
東武野田線、流鉄流山線、つくばエクスプレス、新京成線、東葉高速線、京成千葉線、京成千原線、千葉都市モノレール1号線・2号線、芝山鉄道線、銚子電気鉄道線、いすみ鉄道いすみ線、小湊鉄道線、舞浜リゾートライン、山万ユーカリが丘線
京急大師線、京急久里浜線、京急逗子線、東急こどもの国線、横浜高速鉄道みなとみらい線、相鉄本線、相鉄いずみ野線、相鉄新横浜線、横浜市営地下鉄、金沢シーサイドライン、小田急江ノ島線、江ノ島電鉄線、湘南モノレール線、伊豆箱根鉄道大雄山線、箱根登山鉄道線
各県庁所在地(市代表駅)周辺の鉄道路線。東京都は除く。
詳細の路線については「関東地方の道路一覧」も参照されたい。
江戸時代に五街道が整備されて以後、日本橋を始点にして幹線国道が放射状に整備され、連絡線国道が環状(弧状)に整備されている。高速道路は、首都高都心環状線を中心に、各方面へ放射状に延びている。
また、国道16号沿線や両毛デルタ地帯では、モータリゼーションの進展が著しい。
東京都区部や周辺都市に、東北・中部・近畿など各地方からの高速バスが多数発着している。
一方、郊外や中小都市での一般路線バスは、モータリゼーションの進展で経営が苦しくなっている。
空港としては、主に東京国際空港(羽田空港)と成田国際空港(成田空港)が立地する。羽田空港は国内線、国際線の拠点として、成田空港は国際線、貨物の拠点として機能している。この他、茨城空港・調布飛行場・大島空港・新島空港・神津島空港・三宅島空港・八丈島空港が立地し、伊豆諸島ではそれに加えて東京愛らんどシャトルが就航している。
羽田と成田の両空港はIATA公認により、マルチエアポートとしての対応がなされている。
東京湾岸の横浜港、東京港、千葉港を中心に、世界各地を結ぶ貨物船が東京湾に出入りしている。また、日本の大手海運会社である日本郵船や商船三井、川崎汽船が東京に本社を置いている。
東京港・横浜港・千葉港など - 伊豆諸島間には東海汽船・神新汽船・伊豆七島海運などが、東京港 - 小笠原諸島間には小笠原海運・共勝丸が就航している。
この他、茨城港、鹿島港が工業製品・原材料の輸出入等の拠点となっている。茨城港大洗港区 - 苫小牧港にはカーフェリー(商船三井フェリー)が就航している。
関東地方の中心都市となっている東京から、主な都市や峠への「Nkm圏」を以下に掲載する。km数は国道の距離標を基準にして測る。
放送局のキー局が東京23区に集中しているため、多くの芸能事務所や番組制作会社が東京23区に拠点を置いている。
商業公演は交通の利便性が良い東京23区や横浜、幕張、さいたまなどで多く開催されている。
関東1都6県(関東広域圏)を放送対象地域とする広域放送と、各都県を放送対象地域とする県域放送(ローカル局)がある。
広域放送は5局存在するが、いずれも東京都区部に本社を置くキー局であり、関東平野のほぼ全域で東京スカイツリーおよび東京タワーからの電波が受信可能。また、山間部や東京都島嶼部(小笠原諸島は小笠原村ケーブルテレビ)でも、中継施設を通じて静岡県の熱海や伊東などでも小田原テレビ中継局や新島中継局を通じて受信可能となっている。県域放送は、茨城県を除く全ての都県に1局ずつ存在する。
日本放送協会(NHK)は、総合テレビは広域放送、Eテレは全国放送を行っているが、地上デジタル放送における総合テレビにおいて、茨城県・栃木県・群馬県で県域放送を行っている。他の都県では、従来通り東京都区部を親局とする広域放送が当面は維持されるが、3県(埼玉県・千葉県・神奈川県)内にある中継局は、東京都内と同様の、27chではなく各県ごとに、異なったチャンネルを使用している。詳細としては、埼玉県内が13ch、千葉県内が34ch、神奈川県内が19chを使用する。
関東地方の日本語の方言は、東関東方言と西関東方言の二種類に大きく分けられる。西関東方言のうち、東京方言(特に山の手言葉)は標準語(全国共通語)の母体となった。
現在の東京周辺では、1.東京の通勤圏化、2.他地方出身者(移住)の増加、3.テレビ・ラジオの影響などによって、標準語かそれに近い新方言(首都圏方言)が多用され、伝統的な在来の方言は衰退している。
伊豆諸島の八丈島や青ヶ島で話される八丈方言は、古代東国方言の特徴を色濃く残す方言であり、本土の方言とは差異が大きい。伊豆大島などの北部伊豆諸島方言は、伊豆半島などが属する東海東山方言に類似する。
小笠原諸島は、欧米人とハワイ先住民が移民・開拓し、遅れて日本人が入植した土地であるため、欧米系入植者(太平洋系の人々を含む)の英語と日本人入植者の日本語(八丈方言および標準語)が混合して、独特の「小笠原方言」と呼べるものが生まれた。ただし、日本返還後は急速に共通語化が進んでいる。
平野が広く、首都である東京特別区を抱える地方であり、日本の人口の30%以上が集中する。
年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 総計 [単位 千人]
年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 男女別 [単位 千人]
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"text": "関東地方(かんとうちほう)は、日本の地域区分(七地方区分)の1つであり、本州の東部に位置している。",
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"text": "その範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県を指して関東地方と呼ぶ。",
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"text": "首都・東京都を擁する関東地方は日本の政治・経済の中心となっており、日本の総人口の35%、GDPの38%が集中している。特に南関東(東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県)の1都3県は通勤・通学などで東京との結びつきが大きい。関東地方の1都6県に山梨県を加えて首都圏を構成している。",
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"text": "日本最大の平野「関東平野」が中央に広がり、北西側は山岳地帯、東南側は太平洋に面する。関東の東部には房総半島(千葉県)、南部には三浦半島(神奈川県)が太平洋に突き出しており、房総半島と三浦半島の間に東京湾、三浦半島と真鶴半島の間に相模湾を形成する。また、旧伊豆国である東京都島嶼部も東京都の管轄下にあるため、行政的には関東地方である。なお関東地方に山梨県を含むケースもあるが、ここでは取り上げない。",
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"text": "沖ノ鳥島(無人島)は日本の最南端であるため、関東地方は日本の最東・最南端とも言える。",
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"text": "関東平野の表層地質は第四紀の沖積層や洪積層であり、平野部やその周辺の標高約500〜900mの低山の植生は常緑広葉樹林帯。箱根で約900m、丹沢や高尾で約800m、奥多摩、奥武蔵や奥秩父で約700m、西上州や赤城山、足尾山地や筑波山で約600m、北毛や那須の山地で約500mが、照葉樹林の分布限界である。",
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"text": "常緑広葉樹林の上にはブナやシラカバ、ミズナラなどの落葉広葉樹林が広がる。また、落葉広葉樹林の上にはシラビソやダケカンバなどの針葉樹林が落葉広葉樹林の下限から約1100m高い標高から広がる。",
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"text": "北端には帝釈山脈、高原山、那須連山、八溝山、三国山脈、西端には関東山地(奥秩父山塊もこの一部)などの山地がそびえて、各隣接地方へ繋がる。日本最大の平野である関東平野が広がり、塩那丘陵をはさんでその直ぐ北には那須岳山麓に広がる日本最大級の扇状地那須野が原、東側には上総台地を挟んで千葉県の海岸沿いには九十九里平野が広がる。千葉県南部は房総丘陵で、茨城県の霞ヶ浦周辺は常総台地や常陸台地になっている。群馬県や埼玉県秩父地方などは盆地になっている。荒川、江戸川などの各河川は東京湾へ注ぎ、鬼怒川、利根川(「坂東太郎」の異名を持つ)は犬吠埼で太平洋へ注ぐ。",
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"text": "東京湾は、房総半島と三浦半島に囲まれ、千葉県の西側、東京都の一部と神奈川県の東側に面して、浦賀水道から太平洋に接する。沿岸部は工業地帯になっている。神奈川県の南側は相模湾・相模灘に、茨城県南部の沿岸は鹿島灘に面する。また、相模湾には、二回の関東地震の震源地となった相模トラフが通っているために、各地で地震対策にも力が入れられている。",
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"text": "最高地点は、栃木県日光市と群馬県片品村との境にある日光白根山(奥白根山)山頂。日本の都道府県の最高地点としては、八番目に高い。また、関東以北(関東・東北・北海道)の最高地点でもある。都道府県の最高地点は埼玉県が三宝山 (2483m)、東京都が雲取山(2017m)、神奈川県が蛭ヶ岳 (1673m)、茨城県が八溝山 (1022m)、千葉県が愛宕山(408m)である。千葉県の愛宕山は、各都道府県の最高峰の中では最も低い。",
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"text": "ヤマトの最東方に位置するフロンティアから武士の王国、そして日本の中心地へと、関東地方は変遷した。",
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"text": "関東地方に人が住みはじめたのは旧石器時代であった。群馬県の岩宿遺跡からは、関東ローム層から旧石器時代の物とされるナイフ形石器が発見されているが、関東ローム層の酸性土壌のために、人骨などは見つかっていない。",
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"text": "縄文時代の関東地方は温暖な環境に恵まれ、縄文人は関東各地に大型集落を営んだ。当時の環境では西日本より東日本の方が漁労採集には適しており、縄文時代の南関東は日本列島で最も人口密度の高い地域であったと推測されている。縄文海進の時期には、現在の茨城県中南部の低地、千葉県北部のうち下総台地以外の地域、東京23区の東部、埼玉県の東南部は海であった。内陸に入り込んだ遠浅の海はよい漁場となり、現在海岸から離れている地域にも加曽利貝塚を筆頭に巨大貝塚が形成された。",
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"text": "弥生時代になると埼玉県全土が陸地化し、東京23区東部でも一部が陸地化した。関東でも水田稲作が行われるようになり、多摩川流域や相模平野を中心に農耕が行われていたと思われる。海面の後退と土砂の堆積により、まだ東京湾に流れ込んでいた利根川の下流域に広大な沖積平野が生まれるが、当時の幼稚な灌漑技術では耕地化できなかった。関東ローム層に覆われた台地は水源に恵まれないため、まだ深い森であった。",
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"text": "古代、4世紀頃には既にヤマト王権が関東地方を勢力下に置いていたとされるが、その根拠の一つが、関東にも存在する前方後円墳で、これはヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆくなかで、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。関東南部の旧入間川(荒川) - 旧荒川(元荒川) - 旧利根川(古利根川) - 旧渡良瀬川(江戸川) - 毛野川(鬼怒川)に至る地域は、古代は低湿地帯であり、香取海の水は現在の千葉県北西部・茨城県南西部にまで広がっており、現在では関東平野の中央部にあたるこれらの地域と外洋は香取海を通じてつながっていた。したがって、概して当時の関東はこの低湿地帯の北部にあたる毛野川流域地域(毛野国)とその南部地域(无射志国)に分かれていたと考えられる。毛野国は、筑紫国や吉備国に比肩する大国であったといわれる。ただし毛野国は記紀に上毛野国造(上毛野氏)と下毛野国造(下毛野氏)に分かれた形で登場している。上毛野氏は現在の群馬県中部から南部、下毛野氏は那須地方を除く栃木県中南部に勢力を持ったとみられている。この毛野氏一族は天武天皇から朝臣姓を賜るなどヤマト王権と関係が深く、毛野一族は蝦夷対策や朝鮮半島政策での将軍に任命されており、律令制以前に軍事を司った豪族だったとみられる。また奈良時代、下毛野朝臣古麻呂が登場し、大宝律令の作成に関与している。古麻呂が創建したと伝える下毛野氏氏寺・下野薬師寺は、奈良の東大寺・大宰府の観世音寺と並ぶ三戒壇に指定されている。一方、上総国・下総国・安房国の房総半島は総(ふさ)と呼ばれ、『古語拾遺』によると、四国から渡来した忌部氏が開拓したという。これらの諸国を一括する語が「吾妻」である。記紀神話では、日本武尊の説話が起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、元々は当地の神話であった物を取り込んだ可能性がある。その傍証として、天武10年(681年)に詔を受けて史書編纂に従事した群臣のうち、王族を除くトップは上毛野君三千であった。なお、上総国・下総国・常陸国には、阿波忌部氏に続き神八井耳命の血を引く多氏が上総国に上陸、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばし、仲国造、印波国造、長狭国造を輩出した。その他、神聞勝命、国摩大鹿島命、臣狭山命など中臣氏の祖先が進出し、後裔の中臣鹿島連が鹿島神宮を建立し氏神とした。また多氏によって創祀されたという鹿島の元本宮伝承などが存在する。また、香取神宮もこの際に出雲系の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが起源だとする伝承がある。",
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"text": "『宋書倭国伝』の武(雄略天皇に比定する説が有力)の上表文に「祖先が東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を征すること六十六国」と記されていることから、5世紀頃の関東地方には国と認識されるものが複数存在したことが記されている。『梁書』などの「扶桑國」「女國」、『旧唐書』に登場する「毛人國」、唐代の漢詩に見える「扶桑東更東」といった地域を関東に比定する説がある。稲荷山古墳金錯銘鉄剣銘文中の「大王」も、畿内ではなく関東にいた首長を指すとする立場(古田武彦、井上秀雄、鶴岡静夫ら)もある。太田天神山古墳のような巨大古墳や、金鈴塚古墳のような豪華な副葬品を持つ古墳が築造された。このように、関東地方は、古墳時代には、畿内に比肩しうる王権を確立していたとも考えられている。",
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"text": "律令制の五畿七道の交通網について、関東には畿内から陸奥国に伸びる東山道と、同じく畿内から伸びて三浦半島から海路房総半島に出て香取・鹿島に向かう東海道が整備されたと言われる。「関東」は、京の防備のために設けられた東海道の伊勢国の鈴鹿関(鈴鹿峠)、東山道の美濃国の不破関(関ケ原)、北陸道の越前国の愛発関(愛発山、あらちやま)の三関から東の全域を指した。その中でもとりわけ、「東海道の足柄関(箱根峠)から東の国」と「東山道の碓氷関(碓氷峠)から東の国」が、関東地方に当たる。陸奥国(東北地方太平洋側)との境には、白河関と勿来関が設置された。関東地方には、西から順に相模国、武蔵国、下総国、上総国、安房国、常陸国、上野国、下野国の8つの令制国が設置され、分割統治された。古くは坂東(ばんどう)といわれた。坂東は信濃国と上野国の界にあたる碓日嶺と、駿河国と相模国の界にあたる足柄坂の東の意味である。",
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"text": "大陸に目を向けると、7世紀の東アジアでは唐と新羅が権勢を揮い、663年には百済・倭国(日本)連合軍を白村江の戦いにて破り、高句麗も668年に同様に滅された。また、10世紀にはその新羅も、後高句麗により滅ぼされた。こうした大陸と朝鮮半島の騒乱期に前後して、朝鮮半島方面から多くの人間が渡来人として日本各地に流れてきており、ヤマト王権は彼らに関東の未開発地を与えて住まわせ、関連する地域の名が今でも残る(例:武蔵国高麗郡・新羅郡→新座郡)。",
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"text": "律令時代の関東は配流の地でもあり、斑鳩や奈良に本拠地を置く畿内政権からは、「都からは遠く、自力で帰るのが難しい地方」と見られており、特に安房国と常陸国は、「遠流」の地ともいわれ、北九州へ向かう防人も関東から多く徴用され、それを象徴する語に「鹿島立ち」があるとされる。",
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"text": "平安時代には、親王任国には、常陸国、上総国、上野国が親王任国に設定された。11世紀頃に成立した『更級日記』などに、松戸、幕張、利根川、武蔵野等の情景が描かれている。",
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"paragraph_id": 20,
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"text": "平安時代中期には都から渡ってきた下級貴族が武士化し、開発領主として関東各地で開拓を進める流れが生まれる。10世紀には親王任国が半制度化し、下総国、常陸国、上野国には桓武系平氏を中心に平家武士が増加、その一人である平将門は自ら新皇と称し、関東の独立を目指して蜂起すると、下野国押領使で藤原北家魚名流・藤原秀郷は朝廷の意向をもってこれを討伐した。概ね北関東以北は藤原北家や清和源氏(河内源氏)を出自とする領主、南関東は平氏を出自とする領主が支配した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "この頃、関東は「あづま」(畿内から見て東なので「東」の字が充てられる)と呼ばれ、関東の武将たちは、その勇猛さから「あづまえびす」(東夷)と侮蔑的に呼ばれた。将門の独立志向が、その後の関東の武士政権への道を開いたことを、網野善彦は指摘している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "平安末期の関東地方は、中小の武士団が割拠した。北関東は藤原北家流諸氏(那須諸氏、宇都宮氏、小田氏、小山氏、結城氏等)や清和源氏流諸氏(足利氏、新田氏、佐竹氏)、南関東は桓武平氏流諸氏(鎌倉党、三浦党、秩父党、千葉党など)や武蔵七党(小野姓横山党など)が領有した。彼らは相馬御厨など土地の支配権をめぐって相互に争った。源頼朝が鎌倉幕府を樹立する際に中核となったのは、このような関東武士団であった。頼朝の死後は、伊豆に拠点を有する北条氏が執権となり、鎌倉幕府の実権を掌握した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "関東の武士は承久の乱の後、地頭として西日本各地に移住する。三浦、千葉、渋谷、二階堂、葛西など、関東地方の地名に由来する苗字が九州のような遠方にも多数分布するのはこのためである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "南北朝時代には、室町幕府(源氏政権)の出仕機関である鎌倉府が同じく鎌倉に置かれ、鎌倉公方(源氏)を関東管領(主に藤原勧修寺家流)が補佐、さらに関東八屋形(藤原北家流6氏・源氏流1氏・平氏流1氏の計8氏)が各領土内での実権を有した。事実上、東国武家政権の伝統を引き継ぎ、現在の関東地方に伊豆と甲斐の両国を加えた地域を当初は管轄し、後に奥羽(東北地方)を加えて東日本を広く管轄した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "室町時代には、鎌倉公方は室町幕府(源氏)と対立し、これに、関東管領の上杉氏(藤原勧修寺家流)も加わった。その結果、大きな戦いだけでも、",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "と相次ぎ、小規模なものも含めれば、関東地方は連年続くことになった戦争によって荒廃した。一連の戦いによって関東管領・鎌倉公方(古河公方)・堀越公方をはじめ、関東の各氏は勢力が衰え、戦国時代にはこれに乗じた小田原北条氏(後北条氏=伊勢平氏を称す)が台頭し、伊豆・相模を皮切りに関東各地を次々と支配下に置いた。対抗勢力としての上杉氏は河越夜戦に敗れた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "16世紀後期には小田原北条氏の勢力圏は関東地方の西半分をはじめ広範な地域におよび、それに対して東部地域では里見氏、佐竹氏、宇都宮氏がこれに抗し領土を守った。最終的に朝廷を奉じる豊臣秀吉が鎮圧に乗り出し、小田原征伐によって小田原北条氏は滅亡、同氏に従っていた千葉氏・小山氏などの旧家も運命をともにした。小田原北条氏の旧領には徳川氏が入り、後にそれがそのまま江戸幕府の勢力基盤として継承されたこと、小田原征伐で中央政権に服属した安房の里見氏、常陸の佐竹氏、下野の宇都宮氏などもその後の中央政権の動向に巻き込まれてその後20年余りのうちに関東の領有権を没収されていったことから、この変動が生じた天正18年(1590年)を関東地方における中世と近世の画期として捉えられている。ただし、従来の支配体系が全否定された訳ではなく、小田原北条氏の拠点になった城の動向を見ても徳川氏の本拠となった江戸城や小田原城、川越城などのように近世以後も継承されたもの、箕輪城(→高崎城)、唐沢山城(→佐野城)、本佐倉城(→佐倉城)のように領国支配の安定に伴う新城築城まで用いられ続けたもの、八王子城、鉢形城、栗橋城のように廃城になったものなど様々であり、単純に天正18年を中世と近世の「断絶」とみなす考え方は、継承したものと断絶したものが混在していた地域の実情を見誤る危険性をはらんでいる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "豊臣秀吉の命令で関東へ国替となった徳川家康は、本拠地をそれまでの駿府から江戸に移した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "この時期には測量技術の発達を背景に、それまで考えられなかったような大規模な干拓や灌漑ができるようになった。家康は江戸湾に注ぐ利根川・渡良瀬川水系を毛野川水系にまとめ、現在の利根川水系の原型を形造る利根川東遷事業を進めた。この事業によって江戸付近の雨期の河川氾濫を治め、旧利根川・旧渡良瀬川の下流から河口地帯を整地して江戸の町の基盤を作った。そして参勤交代制度による人口の飛躍的増加とともに、江戸は水路を巡らす世界屈指の大都市となっていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "その後は椿海の干拓や三富新田開拓などの新田開発が進み、荒川や利根川下流の低湿地や武蔵野の大半が耕地化され、関東地方の農業生産力は激増した。幕府は畿内からの先進技術や人材の導入に努め、当初は大坂からの移入に頼っていた酒・木綿・醤油など産物の多くも、江戸時代中期頃には関東の地場生産品で賄えるようになり、江戸地廻り経済圏が確立した。こうして江戸には商人や町人による天明文化や化政文化の華が開いた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "江戸時代の関東地方は徳川氏の一大勢力圏だった。徳川御三家の一つ水戸徳川家が治める水戸藩をはじめ、関東各地には徳川氏の一門や連枝・譜代大名・大身旗本が数多く封じられたほか、幕府が直轄する公儀御料も各地に設けられた。また日光(東照宮)・鹿嶋(鹿島神宮)・成田(新勝寺)といった門前町も盛えた。江戸時代の関東地方は関八州(かんはっしゅう)と呼ばれ、8州は武蔵国・相模国・上総国・下総国・安房国・上野国・下野国・常陸国を指したが、これは現在の関東地方と重なる。文化2年(1805年) には、俗に八州廻りと呼ばれた関東取締出役が設置され、水戸藩領ほか一部地域を除く関八州一円を巡回して治安維持にあたった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "嘉永6年(1853年)にアメリカのペリーが率いる黒船4隻が来航したのを機に幕末の不穏な時代が始まり、天狗党の乱や上野戦争・船橋の戦い・宇都宮城の戦いなどの戊辰戦争の舞台となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "江戸幕府が倒されて明治政府が誕生すると、天皇を初めとする皇室が京都御所から江戸城に移り、江戸は東京府(とうけいふ)と改名されて、東京は明治政府の本拠地となった。これ以後、東京は実質上の首都、政治・経済・文化の中心となった。関東は、畿内以外で初めて、中央集権型政権の本拠地が置かれる地方となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "東京には軍事以外の全ての国家の中枢機関が置かれた。そして、東京と横浜は、文明開化の中心地となり、近代化を主導した。 、明治5年9月12日(1872年10月14日)には新橋 - 横浜間で日本初の鉄道が開通し、以降は官民を挙げて鉄道が建設され、関東地方には東京を中心とする鉄道網が築かれた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "慶応4年(1868年)に伊豆・相模・武蔵などにまたがった韮山代官所の管轄地域は、明治政府が新設した韮山県になったものの、明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県を経て、1876年8月以降の関東地方は、南西から時計回り順に神奈川県、東京府(1943年7月以後は東京都)、埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県、千葉県の7つの県に分割され、従来鎌倉や東京との繋がりが深かった伊豆は静岡県へ編入された。また近世には伊豆国の一部とされ、1876年4月に静岡県域となった伊豆諸島が、1878年1月11日に東京府に編入され、現在に至っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "太平洋戦争後に在日米軍は旧陸海軍の軍事施設を接収し、関東地方各地に軍事基地を置いた。アメリカ合衆国の世界戦略のもと、戦略爆撃で焼け野原になった東京は急速に復興し、戦後10年に満たない間に戦前同様の繁栄を謳歌した。東京には各地から「金の卵」と呼ばれる労働者が集まった。内陸には、民需に転じた軍需工場を中核に関東内陸工業地域が成立した。東京湾岸には京浜工業地帯や京葉工業地帯が造成され、東京湾の干潟の多くが消滅していった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "高度経済成長期以降、特にオイルショック後の産業構造の転換を背景に、第二次産業から第三次産業までの大手企業の本社が次々と東京に移転し、経済面で東京への一極集中が進行した。これに伴って東京都区部周辺のベッドタウン化が顕著になり、東京を中心とする都市圏は大幅に拡大、農地や山林を侵食してスプロール化し、東京の30km圏内は市街地が一面に広がる状態となった(東京都市圏)。しかし、東京への一極集中は、政治・行政・経済・文化など、多方面の問題にもなっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "近畿地方との間には東海道新幹線(1964年10月開通)と東名高速道路(1969年4月開通)が、東北地方太平洋側(旧陸奥国)との間には東北新幹線(1982年6月開通)と東北自動車道(1987年9月全通)が建設された。これにより、本州太平洋側の地方は、高速交通網での縦断が可能な時代になった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "首都圏整備法が定義する「首都圏」には、山梨県を加えた1都7県が含まれる。また、「関東地方知事会」には、首都圏1都7県に加えて、中部圏知事会議にも加わっている静岡県、長野県の両県知事が参加している。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "関東地方は人口・面積が多数・広大なので、北関東地方、南関東地方に分割することもある。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "関東地方は主に「南関東」、「北関東」で分けるため、「東関東」、「西関東」の範囲は統一されていない。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "中央省庁や企業・団体のエリア区分による「関東」の範囲は、必ずしも「箱根関・小仏関・碓氷関から東」とは定義されておらず、統一されていない。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "平成29年度の関東のGDPは218兆2962億円である。これは大韓民国やロシアのGDPよりも大きく、巨大な経済圏を形成している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "地域別特徴を見ると、本社の大半は、東京都区部に集中している。一方で、東京都区部を除く地域には、工場や物流拠点が集中しており、特定企業の工場が集まる「企業城下町」や、営業所や小売業が多く立地する都市が多く見られる。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "「大手」「超大手」といわれる製造業の本社(工場とは限らない)は、東京都区部に所在するものが多い。しかし、関東地方に工場を置く企業(親会社)の本社が、必ずしも関東地方に所在するとも限らない。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "多くの大手ゼネコンの本社が、東京都区部に集中している。東京都区部では、大規模なオフィスビルやマンション・道路・鉄道(地下鉄)などの建設が行なわれている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "東京には中央銀行である日本銀行や多くの都市銀行が本店を置いているほか、各地の地方銀行や主要な海外金融機関も情報収集を兼ねて東京支店を置いている。また、東京証券取引所、各種商品市場も置かれている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "基本的には東京都区内に集積するものが多い。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "関東地方の幹線交通網は、東海道ルート、甲州街道ルート、中山道・三国街道ルート、日光街道・奥州街道ルート、水戸街道ルート、佐倉街道ルート、房総往還ルート、房総東往還ルートに大きく分けられる。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "連絡線としては、例幣使街道ルートなどがある。兵士街道古道鎌倉街道・大山街道や、その他関東各地域中核都市から周辺部に伸びる路線群が整備されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "関東地方の鉄道網は東京から放射状に伸びており、路線相互の接続駅間を結ぶ鉄道路線が高度に整備され、世界最大の輸送力を誇っている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "鶴見線、根岸線、相模線、川越線、信越本線、吾妻線、上越線、両毛線、日光線、烏山線、水戸線、水郡線、成田線、鹿島線、内房線、外房線、久留里線",
"title": "交通"
},
{
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"text": "御殿場線",
"title": "交通"
},
{
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"tag": "p",
"text": "つくばエクスプレス、ひたちなか海浜鉄道湊線、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線、関東鉄道常総線、関東鉄道竜ヶ崎線",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "東武佐野線、東武日光線、東武宇都宮線、真岡鐵道真岡線、上信線、上毛線、東武桐生線、東武小泉線、わたらせ渓谷鐵道線、宇都宮ライトレール線",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "東武越生線、西武狭山線、西武秩父線、秩父鉄道線、東武野田線、埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)、つくばエクスプレス、埼玉高速鉄道線",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "東武野田線、流鉄流山線、つくばエクスプレス、新京成線、東葉高速線、京成千葉線、京成千原線、千葉都市モノレール1号線・2号線、芝山鉄道線、銚子電気鉄道線、いすみ鉄道いすみ線、小湊鉄道線、舞浜リゾートライン、山万ユーカリが丘線",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "京急大師線、京急久里浜線、京急逗子線、東急こどもの国線、横浜高速鉄道みなとみらい線、相鉄本線、相鉄いずみ野線、相鉄新横浜線、横浜市営地下鉄、金沢シーサイドライン、小田急江ノ島線、江ノ島電鉄線、湘南モノレール線、伊豆箱根鉄道大雄山線、箱根登山鉄道線",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "各県庁所在地(市代表駅)周辺の鉄道路線。東京都は除く。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "詳細の路線については「関東地方の道路一覧」も参照されたい。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "江戸時代に五街道が整備されて以後、日本橋を始点にして幹線国道が放射状に整備され、連絡線国道が環状(弧状)に整備されている。高速道路は、首都高都心環状線を中心に、各方面へ放射状に延びている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "また、国道16号沿線や両毛デルタ地帯では、モータリゼーションの進展が著しい。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "東京都区部や周辺都市に、東北・中部・近畿など各地方からの高速バスが多数発着している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "一方、郊外や中小都市での一般路線バスは、モータリゼーションの進展で経営が苦しくなっている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "空港としては、主に東京国際空港(羽田空港)と成田国際空港(成田空港)が立地する。羽田空港は国内線、国際線の拠点として、成田空港は国際線、貨物の拠点として機能している。この他、茨城空港・調布飛行場・大島空港・新島空港・神津島空港・三宅島空港・八丈島空港が立地し、伊豆諸島ではそれに加えて東京愛らんどシャトルが就航している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "羽田と成田の両空港はIATA公認により、マルチエアポートとしての対応がなされている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "東京湾岸の横浜港、東京港、千葉港を中心に、世界各地を結ぶ貨物船が東京湾に出入りしている。また、日本の大手海運会社である日本郵船や商船三井、川崎汽船が東京に本社を置いている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "東京港・横浜港・千葉港など - 伊豆諸島間には東海汽船・神新汽船・伊豆七島海運などが、東京港 - 小笠原諸島間には小笠原海運・共勝丸が就航している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "この他、茨城港、鹿島港が工業製品・原材料の輸出入等の拠点となっている。茨城港大洗港区 - 苫小牧港にはカーフェリー(商船三井フェリー)が就航している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "関東地方の中心都市となっている東京から、主な都市や峠への「Nkm圏」を以下に掲載する。km数は国道の距離標を基準にして測る。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "放送局のキー局が東京23区に集中しているため、多くの芸能事務所や番組制作会社が東京23区に拠点を置いている。",
"title": "娯楽"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "商業公演は交通の利便性が良い東京23区や横浜、幕張、さいたまなどで多く開催されている。",
"title": "娯楽"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "関東1都6県(関東広域圏)を放送対象地域とする広域放送と、各都県を放送対象地域とする県域放送(ローカル局)がある。",
"title": "テレビジョン放送"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "広域放送は5局存在するが、いずれも東京都区部に本社を置くキー局であり、関東平野のほぼ全域で東京スカイツリーおよび東京タワーからの電波が受信可能。また、山間部や東京都島嶼部(小笠原諸島は小笠原村ケーブルテレビ)でも、中継施設を通じて静岡県の熱海や伊東などでも小田原テレビ中継局や新島中継局を通じて受信可能となっている。県域放送は、茨城県を除く全ての都県に1局ずつ存在する。",
"title": "テレビジョン放送"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "日本放送協会(NHK)は、総合テレビは広域放送、Eテレは全国放送を行っているが、地上デジタル放送における総合テレビにおいて、茨城県・栃木県・群馬県で県域放送を行っている。他の都県では、従来通り東京都区部を親局とする広域放送が当面は維持されるが、3県(埼玉県・千葉県・神奈川県)内にある中継局は、東京都内と同様の、27chではなく各県ごとに、異なったチャンネルを使用している。詳細としては、埼玉県内が13ch、千葉県内が34ch、神奈川県内が19chを使用する。",
"title": "テレビジョン放送"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "関東地方の日本語の方言は、東関東方言と西関東方言の二種類に大きく分けられる。西関東方言のうち、東京方言(特に山の手言葉)は標準語(全国共通語)の母体となった。",
"title": "言語・方言"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "現在の東京周辺では、1.東京の通勤圏化、2.他地方出身者(移住)の増加、3.テレビ・ラジオの影響などによって、標準語かそれに近い新方言(首都圏方言)が多用され、伝統的な在来の方言は衰退している。",
"title": "言語・方言"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "伊豆諸島の八丈島や青ヶ島で話される八丈方言は、古代東国方言の特徴を色濃く残す方言であり、本土の方言とは差異が大きい。伊豆大島などの北部伊豆諸島方言は、伊豆半島などが属する東海東山方言に類似する。",
"title": "言語・方言"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "小笠原諸島は、欧米人とハワイ先住民が移民・開拓し、遅れて日本人が入植した土地であるため、欧米系入植者(太平洋系の人々を含む)の英語と日本人入植者の日本語(八丈方言および標準語)が混合して、独特の「小笠原方言」と呼べるものが生まれた。ただし、日本返還後は急速に共通語化が進んでいる。",
"title": "言語・方言"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "平野が広く、首都である東京特別区を抱える地方であり、日本の人口の30%以上が集中する。",
"title": "人口・面積"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 総計 [単位 千人]",
"title": "人口・面積"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 男女別 [単位 千人]",
"title": "人口・面積"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "人口・面積"
}
] | 関東地方(かんとうちほう)は、日本の地域区分(七地方区分)の1つであり、本州の東部に位置している。 その範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県を指して関東地方と呼ぶ。 首都・東京都を擁する関東地方は日本の政治・経済の中心となっており、日本の総人口の35%、GDPの38%が集中している。特に南関東(東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県)の1都3県は通勤・通学などで東京との結びつきが大きい。関東地方の1都6県に山梨県を加えて首都圏を構成している。 | {{混同|関東州}}
{{Otheruseslist|現代日本の地方区分|日本における概念的地域|関東|放送局における区分(関東広域圏)|広域放送|[[ポケットモンスター]]シリーズの世界における地域区分|カントー地方|[[ベトナム]]の都市|カントー|その他|関東 (曖昧さ回避)}}
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}}
'''関東地方'''(かんとうちほう)は、[[日本]]の[[地域区分]]([[日本の地域|七地方区分]])の1つであり、[[本州]]の東部に位置している。
その範囲について法律上の明確な定義はないが{{refnest|group=注釈|そもそも「〜地方」といわれる範囲に、法律上の明確な定義はない(総務省)<ref name="nikkei">「首都圏と関東地方・山梨県を含むか含まないか」『日本経済新聞』(2012年6月16日付、S3面)</ref>。}}、一般的には[[茨城県]]、[[栃木県]]、[[群馬県]]、[[埼玉県]]、[[千葉県]]、[[東京都]]、[[神奈川県]]の1[[都]]6[[県]]を指して関東地方と呼ぶ<ref name="daihyakka">『[[#日本地名大百科|日本地名大百科]]』p.350。</ref>。
[[首都]]・東京都を擁する関東地方は日本の政治・経済の中心となっており、日本の総人口の35%、GDPの38%が集中している<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/main_2019.html 県民経済計算(平成23年度 - 令和元年度)(2008SNA、平成27年基準計数)<47都道府県、4政令指定都市分> 内閣府]</ref>。特に[[南関東]](東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県)の1都3県は通勤・通学などで東京との結びつきが大きい。関東地方の1都6県に[[山梨県]]を加えて[[首都圏]]を構成している。
{{main2|現代の関東地方が「関東」と呼称されるに至った経緯|関東}}
== 地理 ==
[[ファイル:Kantomap-jp.png|thumb|right|関東地方]]
[[ファイル:Geofeatures map of Kanto Japan ja.svg|thumb|280px|関東地方の主要地形]]
=== 位置 ===
日本最大の平野「[[関東平野]]」が中央に広がり、北西側は山岳地帯、東南側は[[太平洋]]に面する。関東の東部には[[房総半島]](千葉県)、南部には[[三浦半島]](神奈川県)が太平洋に突き出しており、房総半島と三浦半島の間に[[東京湾]]、三浦半島と[[真鶴半島]]の間に[[相模湾]]を形成する。また、旧伊豆国である[[東京都島嶼部]]も東京都の管轄下にあるため、行政的には関東地方である。なお関東地方に[[山梨県]]を含むケースもあるが、ここでは取り上げない。
{|class="wikitable"
!位置!!市区町村(本州島内)!!市区町村(離島を含む)
|-
|最東端||[[銚子市]](千葉県)||[[小笠原村]]([[南鳥島]]、東京都)
|-
|最西端||[[嬬恋村]](群馬県)||嬬恋村(群馬県)
|-
|最南端||[[南房総市]](千葉県)||小笠原村(沖ノ鳥島、東京都)
|-
|最北端||[[那須塩原市]](栃木県)||那須塩原市(栃木県)
|}
沖ノ鳥島(無人島)は日本の最南端であるため、関東地方は日本の最東・最南端とも言える。
=== 自然地理 ===
[[File:Kanto Region Japan 2003.png|thumb|関東地方、衛星画像]]{{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}}
関東平野の表層[[地質]]は[[第四紀]]の[[沖積層]]や[[洪積層]]であり、平野部やその周辺の標高約500〜900[[メートル|m]]の低山の植生は[[常緑広葉樹林]]帯。[[箱根]]で約900m、[[丹沢山地|丹沢]]や[[高尾山|高尾]]で約800m、[[奥多摩]]、[[奥武蔵]]や[[奥秩父]]で約700m、[[上野国|西上州]]や[[赤城山]]、[[足尾山地]]や[[筑波山]]で約600m、[[北毛]]や[[那須]]の山地で約500mが、[[照葉樹林]]の分布限界である。
常緑広葉樹林の上には[[ブナ]]や[[シラカバ]]、[[ミズナラ]]などの[[落葉広葉樹林]]が広がる。また、落葉広葉樹林の上には[[シラビソ]]や[[ダケカンバ]]などの[[亜高山帯針葉樹林|針葉樹林]]が落葉広葉樹林の下限から約1100m高い標高から広がる。
北端には[[帝釈山脈]]、[[高原山]]、[[那須岳|那須連山]]、[[八溝山]]、[[越後山脈|三国山脈]]、西端には[[関東山地]]([[奥秩父山塊]]もこの一部)などの[[山地]]がそびえて、各隣接地方へ繋がる。日本最大の[[平野]]である関東平野が広がり、[[塩那丘陵]]をはさんでその直ぐ北には那須岳山麓に広がる日本最大級の[[扇状地]][[那須野が原]]、東側には[[上総台地]]を挟んで千葉県の海岸沿いには[[九十九里平野]]が広がる。千葉県南部は[[房総丘陵]]で、茨城県の[[霞ヶ浦]]周辺は[[常総台地]]や[[常陸台地]]になっている。群馬県や埼玉県[[秩父郡|秩父地方]]などは[[盆地]]になっている。[[荒川 (関東)|荒川]]、[[江戸川]]などの各河川は東京湾へ注ぎ、[[鬼怒川]]、[[利根川]](「坂東太郎」の異名を持つ)は[[犬吠埼]]で太平洋へ注ぐ。
東京湾は、房総半島と三浦半島に囲まれ、千葉県の西側、東京都の一部と神奈川県の東側に面して、[[浦賀水道]]から太平洋に接する。沿岸部は工業地帯になっている。神奈川県の南側は相模湾・[[相模灘]]に、茨城県南部の沿岸は[[鹿島灘]]に面する。また、相模湾には、二回の[[関東地震]]の震源地となった[[相模トラフ]]が通っているために、各地で[[地震]]対策にも力が入れられている。
最高地点は、栃木県[[日光市]]と群馬県[[片品村]]との境にある[[日光白根山]](奥白根山)山頂。日本の都道府県の最高地点としては、八番目に高い。また、関東以北(関東・東北・北海道)の最高地点でもある。都道府県の最高地点は埼玉県が[[三宝山]] (2483m)、東京都が[[雲取山]](2017m)、神奈川県が[[蛭ヶ岳]] (1673m)、茨城県が[[八溝山]] (1022m)、千葉県が[[愛宕山 (南房総市)|愛宕山]](408m)である。千葉県の愛宕山は、各都道府県の最高峰の中では最も低い。
{{Navbox
|name=関東地方の自然
|state=uncollapsed
|title=関東地方の自然
|listclass=hlist hlist-hyphen
|group1=山地|list1=<ul><li>三国山脈<li>足尾山地<li>帝釈山脈<li>[[大佐飛山地]]<li>[[八溝山地]]<li>関東山地<li>丹沢山地<li>房総丘陵</ul>
|group2=山|list2=<ul><li>那須岳<li>[[大佐飛山]]<li>高原山<li>[[男体山]]<li>[[女峰山]]<li>日光白根山<li>[[榛名山]]<li>[[妙義山]]<li>赤城山<li>[[谷川岳]]<li>八溝山<li>[[加波山]]<li>筑波山<li>雲取山<li>[[甲武信ヶ岳]]<li>三宝山<li>高尾山<li>蛭ヶ岳<li>[[丹沢山]]<li>[[三原山]]<li>[[神引山]]<li>[[天上山 (東京都)|天上山]]</ul>
|group3=島|list3=<ul><li>[[江の島]]<li>[[伊豆諸島]]<li>[[小笠原諸島]]</ul>
|group4=川|list4=<ul><li>鬼怒川<li>[[小貝川]]<li>[[那珂川]]<li>[[箒川]]<li>[[久慈川]]<li>利根川<li>荒川<li>[[中川]]<li>[[多摩川]]<li>江戸川<li>[[酒匂川]]<li>[[相模川]]</ul>
|group5=[[瀑]]|list5=<ul><li>[[湯滝]]<li>[[竜頭滝]]<li>[[華厳滝]]<li>[[袋田の滝|袋田滝]]</ul>
|group6=[[湖|湖沼]]|list6=<ul><li>[[中禅寺湖]]<li>[[五十里ダム#観光|五十里湖]]<li>西浦(霞ヶ浦)<li>北浦(霞ヶ浦)<li>[[印旛沼]]<li>[[芦ノ湖]]</ul>
|group7=[[海岸|海浜]]|list7=<ul><li>鹿島灘<li>[[九十九里浜]]<li>東京湾<li>相模湾([[湘南]])</ul>
|group8=[[国立公園]]|list8=<ul><li>[[日光国立公園]]<li>[[尾瀬国立公園]]<li>[[秩父多摩甲斐国立公園]]<li>[[富士箱根伊豆国立公園]]<li>[[小笠原国立公園]]</ul>
|group9=[[国定公園]]|list9=<ul><li>[[水郷筑波国定公園]]<li>[[南房総国定公園]]</ul>
}}
=== 気候 ===
{{seealso|気候}}{{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}}
* 太平洋沿岸に位置するため、[[夏]]に[[雨]]が多く、[[冬]]に乾燥する[[太平洋側気候]]が見られる。沖合いは[[黒潮]]の通路となっている。ただし、群馬県北部の一部は[[日本海側気候]]、小笠原諸島は[[南日本気候]]となっている。それに併せて、茨城県(北部、鹿行地域)、千葉県(印旛を除く)、東京都(多摩地域を除く)、神奈川県(横浜・川崎、三浦半島、[[湘南]]、西湘)では[[海洋性気候]]、それ以外の地域は[[内陸性気候]]となっており、群馬県の山間部、埼玉県秩父地方、東京都の多摩西部では[[中央高地式気候]]の特徴もみられる。
* 茨城県、千葉県の沿岸部は[[やませ]](北東気流)により、東海地方以西に比べて気温が大幅に下回ることがある。
* 一方、群馬県、埼玉県の平野部は北東気流の影響を受けることは少なく、赤城山からの[[フェーン現象]]と東京都心の[[ヒートアイランド現象]]によって生じる熱風の影響で夏は非常に暑くなりやすい。[[猛暑日]]になることが多く、特に埼玉県では40℃前後の気温も記録したこともあるなど、日本で最も暑い地域のひとつとなっている。
* 栃木県、群馬県、埼玉県北部には、[[夕立]]による雷の発生が多い。
* 群馬県・栃木県の[[豪雪地帯]]では、[[日本海]]からの雪雲により、冬に降雪が多い。特に、群馬県片品村は関東地方唯一の特別豪雪地帯で冬の降雪が非常に多い。
* 冬は、[[低気圧|南岸低気圧]]が通過する時に、雨や[[雪]]が降り易い。東京や[[横浜市|横浜]]など沿岸部の降雪は、[[湿り雪]](ドカ雪)か粉雪かの二つのパターンが多い。特徴として、南岸低気圧の時は湿り雪で、冬型の時は粉雪となる日が多い。ただし、冬型で大雪となる地域は那須岳と[[三国山脈]]に近い北側の山間部に多く、南側にはない。例外的に[[低気圧#寒冷低気圧|寒冷低気圧]]の降雪や、強い冬型の時に房総半島から相模湾にかけての地域で発生する局地的な[[不連続線]]に伴う降雪もある。もっとも南岸低気圧接近時も、千葉県・茨城県は北東からの比較的暖かい風が流入する影響で、東京や横浜で積雪があっても雨のまま通過することが多い。
* [[ケッペンの気候区分]]では大半が[[温帯]]([[温暖湿潤気候]]、ただし山間部の一部では[[西岸海洋性気候]])、標高の高い山は[[亜寒帯]]、[[火山列島]]・南鳥島・沖ノ鳥島は[[熱帯]]と3種類の気候が存在する。
* 冬の平野部、特に西回り寒波の場合、南関東や沿岸地方は周囲の山脈が寒気の流入を阻むことから、大陸からの寒気の影響を受けにくく極端な低温に見舞われることは少ない。特に日中は、寒気に覆われても晴れるために、平野部では北部も含めて比較的高くなる。関東平野では南岸低気圧の降雪時の方が寒さを感じやすい。一方、南関東を含めた太平洋・東京湾沿岸部を除いた内陸部は冬の冷え込みが厳しく、日較差が非常に大きくなる。特に、真岡、那須烏山、大子、鳩山など栃木県や茨城県を中心とした内陸部は朝の気温が-10度を下回って[[北海道]][[道南|南部]]並みになることもあり、日中との気温差が20度近くになることも珍しくない。東京大手町(気象台)、横浜(気象台)、千葉(旧測候所)は例外的にヒートアイランド現象により、冬の最低気温が極めて高く、島嶼部や岬などを除くと、全国で最も高い日も多い。しかしながら、周囲の冷え込みは厳しく、上記観測地点から数キロ程度内陸の地点に行くだけで、朝の気温差が5度以上になることもある。千葉と佐倉や成田、東京大手町と練馬や府中、横浜と海老名はその代名詞である。また、関東内陸部でも宇都宮(ヒートアイランド)、所沢(湖に隣接)は特に冬場の最低気温が周囲よりも高い場所となっている。[[北関東]]でも群馬県の前橋、伊勢崎から埼玉県の熊谷にかけての[[高崎線]]沿線いの[[上武]]地域は最低気温が高く、南関東内陸部の地点(府中、八王子、佐倉など)よりも高いことが多い。これは、[[からっ風]]によるフェーン現象とヒートアイランド現象の影響である。
== 歴史 ==
[[ヤマト王権|ヤマト]]の最東方に位置する[[フロンティア]]から[[武士]]の王国、そして日本の中心地へと、関東地方は変遷した。
=== 先史時代 ===
{{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}}
関東地方に人が住みはじめたのは旧石器時代であった。群馬県の[[岩宿遺跡]]からは、[[関東ローム層]]から[[旧石器時代 (日本)|旧石器時代]]の物とされるナイフ形[[石器]]が発見されているが、関東ローム層の酸性土壌のために、人骨などは見つかっていない。
[[縄文時代]]の関東地方は温暖な環境に恵まれ、縄文人は関東各地に大型集落を営んだ。当時の環境では西日本より東日本の方が漁労採集には適しており、縄文時代の南関東は日本列島で最も人口密度の高い地域であったと推測されている。[[縄文海進]]の時期には、現在の茨城県中南部の低地、千葉県北部のうち[[下総台地]]以外の地域、東京23区の東部、埼玉県の東南部は海であった。内陸に入り込んだ遠浅の海はよい漁場となり、現在海岸から離れている地域にも[[加曽利貝塚]]を筆頭に巨大貝塚が形成された。
[[弥生時代]]になると埼玉県全土が陸地化し、東京23区東部でも一部が陸地化した。関東でも水田稲作が行われるようになり、多摩川流域や[[相模平野]]を中心に農耕が行われていたと思われる。海面の後退と土砂の堆積により、まだ東京湾に流れ込んでいた利根川の下流域に広大な沖積平野が生まれるが、当時の幼稚な灌漑技術では耕地化できなかった。関東ローム層に覆われた台地は水源に恵まれないため、まだ深い森であった。
=== 古代 ===
{{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}}
古代、[[4世紀]]頃には既に[[ヤマト王権]]が関東地方を勢力下に置いていたとされるが、その根拠の一つが、関東にも存在する[[前方後円墳]]で、これはヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆくなかで、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。関東南部の旧入間川(荒川) - 旧荒川([[元荒川]]) - 旧利根川([[古利根川]]) - 旧渡良瀬川(江戸川) - 毛野川(鬼怒川)に至る地域は、古代は低湿地帯であり、[[香取海]]の水は現在の千葉県北西部・茨城県南西部にまで広がっており、現在では関東平野の中央部にあたるこれらの地域と外洋は香取海を通じてつながっていた。したがって、概して当時の関東はこの低湿地帯の北部にあたる毛野川流域地域('''[[毛野国]]''')とその南部地域('''[[武蔵国造|无射志国]]''')に分かれていたと考えられる。毛野国は、[[筑紫国]]や[[吉備国]]に比肩する大国であったといわれる。ただし毛野国は記紀に[[上毛野国造]](上毛野氏)と[[下毛野国造]](下毛野氏)に分かれた形で登場している。上毛野氏は現在の群馬県中部から南部、下毛野氏は那須地方を除く栃木県中南部に勢力を持ったとみられている。この毛野氏一族は天武天皇から朝臣姓を賜るなどヤマト王権と関係が深く、毛野一族は蝦夷対策や朝鮮半島政策での将軍に任命されており、律令制以前に軍事を司った豪族だったとみられる。また[[奈良時代]]、[[下毛野古麻呂|下毛野朝臣古麻呂]]が登場し、[[大宝律令]]の作成に関与している。古麻呂が創建したと伝える[[下毛野氏]]氏寺・[[薬師寺 (下野市)|下野薬師寺]]は、[[奈良]]の[[東大寺]]・[[大宰府]]の[[観世音寺]]と並ぶ[[戒壇|三戒壇]]に指定されている。一方、[[上総国]]・[[下総国]]・[[安房国]]の房総半島は[[総国|総]](ふさ)と呼ばれ、『[[古語拾遺]]』によると、[[四国]]から渡来した[[忌部氏]]が開拓したという。これらの諸国を一括する語が「'''吾妻'''」である。[[記紀]]神話では、[[日本武尊]]の説話が起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、元々は当地の神話であった物を取り込んだ可能性がある。その傍証として、[[天武天皇|天武]]10年(681年)に詔を受けて史書編纂に従事した群臣のうち、王族を除くトップは[[上毛野三千|上毛野君三千]]であった。なお、上総国・下総国・[[常陸国]]には、阿波忌部氏に続き[[神八井耳命]]の血を引く[[多氏]]が上総国に上陸、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばし、[[仲国造]]、[[印波国造]]、[[長狭国造]]を輩出した。その他、[[神聞勝命]]、[[国摩大鹿島命]]、[[臣狭山命]]など[[中臣氏]]の祖先が進出し、後裔の中臣鹿島連が[[鹿島神宮]]を建立し氏神とした。また多氏によって創祀されたという[[大生神社|鹿島の元本宮]]伝承などが存在する。また、[[香取神宮]]もこの際に出雲系の[[拓殖]]氏族によって[[農耕神]]として祀られたのが起源だとする伝承がある。
『[[宋書|宋書倭国伝]]』の武([[雄略天皇]]に比定する説が有力<ref>{{Cite web|和書|title=倭王武(わおうぶ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%80%AD%E7%8E%8B%E6%AD%A6-1121325 |website=コトバンク |access-date=2023-09-04 |language=ja |first=朝日日本歴史人物事典,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,旺文社日本史事典 |last=三訂版,世界大百科事典内言及}}</ref>)の上表文に「祖先が東は[[毛人]]を征すること五十五国、西は[[衆夷]]を征すること六十六国」と記されていることから、5世紀頃の関東地方には国と認識されるものが複数存在したことが記されている。『[[梁書]]』などの「[[扶桑]]國」「女國」、『[[旧唐書]]』に登場する「毛人國」、唐代の漢詩に見える「扶桑東更東」といった地域を関東に比定する説がある。[[稲荷山古墳 (行田市)|稲荷山古墳]][[金錯銘鉄剣]]銘文中の「[[大王]]」も、畿内ではなく関東にいた首長を指すとする立場([[古田武彦]]、[[井上秀雄]]、[[鶴岡静夫]]ら)もある。[[太田天神山古墳]]のような巨大古墳や、[[金鈴塚古墳]]のような豪華な[[副葬品]]を持つ古墳が築造された。このように、関東地方は、古墳時代には、畿内に比肩しうる王権を確立していたとも考えられている。
[[律令制]]の[[五畿七道]]の交通網について、関東には[[畿内]]から[[陸奥国]]に伸びる[[東山道]]と、同じく畿内から伸びて三浦半島から海路房総半島に出て[[香取市|香取]]・[[鹿嶋市|鹿島]]に向かう[[東海道]]が整備されたと言われる。「[[関東]]」は、京の防備のために設けられた東海道の[[伊勢国]]の[[鈴鹿関]]([[鈴鹿峠]])、東山道の[[美濃国]]の[[不破関]]([[関ケ原町|関ケ原]])、[[北陸道]]の[[越前国]]の[[愛発関]](愛発山、あらちやま)の三関から東の全域を指した。その中でもとりわけ、「''東海道の[[足柄関]]([[箱根峠]])から東の国''」と「''東山道の碓氷関([[碓氷峠]])から東の国''」が、関東地方に当たる。陸奥国([[東北地方]]太平洋側)との境には、[[白河関]]と[[勿来|勿来関]]が設置された。関東地方には、西から順に[[相模国]]、[[武蔵国]]、下総国、上総国、安房国、常陸国、上野国、[[下野国]]の8つの[[令制国]]が設置され、分割統治された。古くは[[坂東]](ばんどう)といわれた。坂東は[[信濃国]]と上野国の界にあたる[[碓日嶺]]と、[[駿河国]]と相模国の界にあたる[[足柄坂]]の東の意味である。
大陸に目を向けると、7世紀の[[東アジア]]では[[唐]]と[[新羅]]が権勢を揮い、663年には[[百済]]・倭国(日本)連合軍を[[白村江の戦い]]にて破り、[[高句麗]]も668年に同様に滅された。また、10世紀にはその新羅も、[[後高句麗]]により滅ぼされた。こうした大陸と[[朝鮮半島]]の騒乱期に前後して、朝鮮半島方面から多くの人間が[[渡来人]]として日本各地に流れてきており、ヤマト王権は彼らに関東の未開発地を与えて住まわせ、関連する地域の名が今でも残る(例:武蔵国[[高麗郡]]・[[新羅郡]]→[[新座郡]])。
律令時代の関東は[[配流]]の地でもあり、[[斑鳩]]や奈良に本拠地を置く畿内政権からは、「都からは遠く、自力で帰るのが難しい地方」と見られており、特に安房国と常陸国は、「遠流」の地ともいわれ、[[北部九州|北九州]]へ向かう[[防人]]も関東から多く徴用され、それを象徴する語に「鹿島立ち」があるとされる。
[[平安時代]]には、[[親王任国]]には、常陸国、上総国、上野国が親王任国に設定された。[[11世紀]]頃に成立した『[[更級日記]]』などに、[[松戸]]、[[幕張]]、利根川、[[武蔵野]]等の情景が描かれている。
平安時代中期には都から渡ってきた下級貴族が武士化し、[[開発領主]]として関東各地で開拓を進める流れが生まれる。10世紀には親王任国が半制度化し、下総国、常陸国、上野国には桓武系[[平氏]]を中心に平家武士が増加、その一人である[[平将門]]は自ら[[新皇]]<ref>{{Cite web|和書|title=平将門(たいらのまさかど)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%96%80-92230 |website=コトバンク |access-date=2023-09-04 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),朝日日本歴史人物事典,デジタル大辞泉,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,百科事典マイペディア,精選版 日本国語大辞典,旺文社日本史事典 三訂版,デジタル大辞泉プラス,世界大百科事典 第2版,山川 日本史小辞典 |last=改訂新版,世界大百科事典内言及}}</ref>と称し、関東の独立を目指して蜂起すると、下野国[[押領使]]で[[藤原北家]][[藤原魚名|魚名流]]・[[藤原秀郷]]は朝廷の意向をもってこれを討伐した。概ね北関東以北は藤原北家や[[清和源氏]]([[河内源氏]])を出自とする領主、[[南関東]]は平氏を出自とする領主が支配した。
この頃、関東は「'''あづま'''」(畿内から見て東なので「東」の字が充てられる)と呼ばれ、関東の武将たちは、その勇猛さから「あづまえびす」(東夷)と[[侮蔑]]的に呼ばれた。将門の独立志向が、その後の関東の武士政権への道を開いたことを、[[網野善彦]]は指摘している。
=== 中世 ===
{{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}}
平安末期の関東地方は、中小の[[武士団]]が割拠した。北関東は藤原北家流諸氏([[那須七騎|那須諸氏]]、[[宇都宮氏]]、[[小田氏]]、[[小山氏]]、[[結城氏]]等)や清和源氏流諸氏([[足利氏]]、[[新田氏]]、[[佐竹氏]])、南関東は[[桓武平氏]]流諸氏([[鎌倉氏|鎌倉党]]、[[三浦氏|三浦党]]、[[秩父氏|秩父党]]、[[千葉氏|千葉党]]など)や[[武蔵七党]](小野姓[[横山党]]など)が領有した。彼らは[[相馬御厨]]など土地の支配権をめぐって相互に争った。[[源頼朝]]が[[鎌倉幕府]]を樹立する際に中核となったのは、このような関東武士団であった。頼朝の死後は、伊豆に拠点を有する[[北条氏]]が[[執権]]となり、鎌倉幕府の実権を掌握した。
関東の武士は[[承久の乱]]の後、[[地頭]]として西日本各地に移住する。[[三浦]]、千葉、[[渋谷]]、[[二階堂]]、[[葛西]]など、関東地方の地名に由来する苗字が九州のような遠方にも多数分布するのはこのためである。
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には、[[室町幕府]](源氏政権)の出仕機関である[[鎌倉府]]が同じく[[鎌倉]]に置かれ、[[鎌倉公方]](源氏)を[[関東管領]](主に藤原勧修寺家流)が補佐、さらに[[関東八屋形]](藤原北家流6氏・源氏流1氏・平氏流1氏の計8氏)が各領土内での実権を有した。事実上、東国武家政権の伝統を引き継ぎ、現在の関東地方に[[伊豆]]と[[甲斐]]の両国を加えた地域を当初は管轄し、後に[[奥羽]]([[東北地方]])を加えて東日本を広く管轄した。
[[室町時代]]には、鎌倉公方は室町幕府(源氏)と対立し、これに、関東管領の[[上杉氏]](藤原勧修寺家流)も加わった。その結果、大きな戦いだけでも、
* [[上杉禅秀の乱]]:[[応永]]23年(1416年) - 応永24年(1417年)
* [[永享の乱]]:[[永享]]10年(1438年) - 永享11年(1439年)
* [[結城合戦]]:永享12年1440年 - 永享13年/[[嘉吉]]元年(1441年)
* [[享徳の乱]]:[[享徳]]3年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]](1455年1月15日) - [[文明 (日本)|文明]]14年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]](1483年1月6日)
* [[長享の乱]]:[[長享]]元年(1487年) - [[永正]]2年(1505年)
と相次ぎ、小規模なものも含めれば、関東地方は連年続くことになった戦争によって荒廃した。一連の戦いによって関東管領・鎌倉公方(古河公方)・[[堀越公方]]をはじめ、関東の各氏は勢力が衰え、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]にはこれに乗じた小田原北条氏([[後北条氏]]=[[伊勢平氏]]を称す)が台頭し、伊豆・相模を皮切りに関東各地を次々と支配下に置いた。対抗勢力としての上杉氏は[[河越城の戦い|河越夜戦]]に敗れた。
[[16世紀]]後期には小田原北条氏の勢力圏は関東地方の西半分をはじめ広範な地域におよび、それに対して東部地域では[[里見氏]]、佐竹氏、宇都宮氏がこれに抗し領土を守った。最終的に[[朝廷 (日本)|朝廷]]を奉じる[[豊臣秀吉]]が鎮圧に乗り出し、[[小田原征伐]]によって小田原北条氏は滅亡、同氏に従っていた千葉氏・小山氏などの旧家も運命をともにした。小田原北条氏の旧領には[[徳川氏]]が入り、後にそれがそのまま江戸幕府の勢力基盤として継承されたこと、小田原征伐で中央政権に服属した安房の里見氏、常陸の佐竹氏、下野の宇都宮氏などもその後の中央政権の動向に巻き込まれてその後20年余りのうちに関東の領有権を没収されていったことから、この変動が生じた[[天正]]18年(1590年)を関東地方における中世と近世の画期として捉えられている。ただし、従来の支配体系が全否定された訳ではなく、小田原北条氏の拠点になった城の動向を見ても徳川氏の本拠となった[[江戸城]]や[[小田原城]]、[[川越城]]などのように近世以後も継承されたもの、[[箕輪城]](→[[高崎城]])、[[唐沢山城]](→[[佐野城]])、[[本佐倉城]](→[[佐倉城]])のように領国支配の安定に伴う新城築城まで用いられ続けたもの、[[八王子城]]、[[鉢形城]]、[[栗橋城]]のように廃城になったものなど様々であり、単純に天正18年を中世と近世の「断絶」とみなす考え方は、継承したものと断絶したものが混在していた地域の実情を見誤る危険性をはらんでいる<ref> 齋藤慎一「中近世移行期の断絶と継承」(『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)第10章(論文初出2003年))</ref>。
=== 近世 ===
{{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}}
[[豊臣秀吉]]の命令で関東へ[[転封|国替]]となった[[徳川家康]]は、本拠地をそれまでの[[駿府]]<!--(現[[静岡市]][[駿河区]]と[[葵区]]の一部、市制施行時の静岡市)--><!--冗長蛇足-->から[[江戸]]<!--(現[[東京特別区|東京都区部]]の一部、のちに[[東京市]]となる[[東京府]]区部にほぼ相当)--><!--冗蛇-->に移した。
この時期には測量技術の発達を背景に、それまで考えられなかったような大規模な干拓や灌漑ができるようになった。家康は[[江戸湾]]に注ぐ利根川・[[渡良瀬川]]水系を毛野川水系にまとめ、現在の利根川水系の原型を形造る[[利根川東遷事業]]を進めた。この事業によって江戸付近の雨期の河川氾濫を治め、旧利根川・旧渡良瀬川の下流から河口地帯を整地して江戸の町の基盤を作った。そして[[参勤交代]]制度による人口の飛躍的増加とともに、江戸は水路を巡らす世界屈指の大都市となっていった。
その後は[[椿海]]の干拓や[[三富新田]]開拓などの[[新田]]開発が進み、荒川や利根川下流の低湿地や武蔵野の大半が耕地化され、関東地方の農業生産力は激増した。幕府は畿内からの先進技術や人材の導入に努め、当初は大坂からの移入に頼っていた酒・木綿・醤油など産物の多くも、江戸時代中期頃には関東の地場生産品で賄えるようになり、[[江戸地廻り経済圏]]が確立した。こうして江戸には商人や町人による[[天明文化]]や[[化政文化]]の華が開いた。
江戸時代の関東地方は徳川氏の一大勢力圏だった。[[徳川御三家]]の一つ[[水戸徳川家]]が治める[[水戸藩]]をはじめ、<!--徳川氏の側近が治める[[川越藩]]など、--><!-- ? -->関東各地には徳川氏の[[御家門|一門]]や[[御連枝|連枝]]・[[譜代大名]]・[[大身旗本]]が数多く封じられたほか、<!--[[日光神領]]などの-->幕府が直轄する[[天領|公儀御料]]も各地に設けられた。また日光([[日光東照宮|東照宮]])・鹿嶋([[鹿島神宮]])・[[成田市|成田]]([[成田山新勝寺|新勝寺]])といった[[門前町]]も盛えた。[[江戸時代]]の関東地方は'''関八州'''(かんはっしゅう)と呼ばれ、8州は[[武蔵国]]・[[相模国]]・[[上総国]]・[[下総国]]・[[安房国]]・[[上野国]]・[[下野国]]・[[常陸国]]を指したが、これは現在の関東地方と重なる。[[文化]]2年(1805年) には、俗に八州廻りと呼ばれた[[関東取締出役]]が設置され、水戸藩領ほか一部地域を除く関八州一円を巡回して治安維持にあたった。<!--ただし関八州に含まれていない伊豆の[[韮山代官所]]の管轄は相模や武蔵にも及んでいる所はあった。--><!--重箱の隅をつつく記述(かえって混乱)-->
[[嘉永]]6年(1853年)に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[マシュー・ペリー|ペリー]]が率いる[[黒船来航|黒船4隻が来航]]したのを機に[[幕末]]の不穏な時代が始まり、[[天狗党の乱]]や[[上野戦争]]・[[船橋の戦い]]・[[宇都宮城の戦い]]などの[[戊辰戦争]]の舞台となった。
=== 近代 ===
{{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}}
江戸幕府が倒されて[[明治政府]]が誕生すると、[[天皇]]を初めとする[[皇室]]が[[京都御所]]から江戸城に移り、江戸は東京府(とうけいふ)と改名されて、東京は明治政府の本拠地となった。これ以後、東京は実質上の[[首都]]、政治・経済・文化の中心となった。関東は、畿内以外で初めて、[[中央集権]]型政権の本拠地が置かれる地方となった。
東京には[[軍事]]以外の全ての国家の中枢機関が置かれた。そして、東京と[[横浜市|横浜]]は、[[文明開化]]の中心地となり、近代化を主導した。 、[[明治]]5年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]](1872年10月14日)には[[新橋駅|新橋]] - 横浜間で[[日本初の一覧|日本初]]の[[日本の鉄道開業|鉄道]]が開通し、以降は官民を挙げて[[鉄道]]が建設され、関東地方には東京を中心とする鉄道網が築かれた。
慶応4年(1868年)に伊豆・相模・武蔵などにまたがった[[韮山代官所]]の管轄地域は、明治政府が新設した[[韮山県]]になったものの、明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年8月29日)の[[廃藩置県]]を経て、1876年8月以降の関東地方は、南西から時計回り順に神奈川県、東京府(1943年7月以後は東京都)、埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県、千葉県の7つの県に分割され、従来[[鎌倉市|鎌倉]]や東京との繋がりが深かった[[伊豆]]は静岡県へ編入された。また近世には[[伊豆国]]の一部とされ、1876年4月に静岡県域となった[[伊豆諸島]]が、1878年1月11日に東京府に編入され、現在に至っている。
=== 現代 ===
{{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}}
[[太平洋戦争]]後に[[在日米軍]]は旧陸海軍の軍事施設を接収し、関東地方各地に軍事基地を置いた。アメリカ合衆国の世界戦略のもと、[[戦略爆撃]]で焼け野原になった東京は急速に復興し、戦後10年に満たない間に戦前同様の繁栄を謳歌した。東京には各地から「[[金の卵 (労働者)|金の卵]]」と呼ばれる労働者が集まった。内陸には、民需に転じた軍需工場を中核に[[関東内陸工業地域]]が成立した。東京湾岸には[[京浜工業地帯]]や[[京葉工業地帯]]が造成され、東京湾の[[干潟]]の多くが消滅していった。
[[高度経済成長]]期以降、特に[[オイルショック]]後の[[産業構造の転換]]を背景に、[[第二次産業]]から[[第三次産業]]までの大手企業の本社が次々と東京に移転し、経済面で東京への一極集中が進行した。これに伴って東京都区部周辺の[[ベッドタウン]]化が顕著になり、東京を中心とする都市圏は大幅に拡大、農地や山林を侵食して[[スプロール現象|スプロール化]]し、[[首都圏 (日本)#東京都心30km圏内|東京の30km圏内]]は市街地が一面に広がる状態となった(東京都市圏)。しかし、[[東京一極集中|東京への一極集中]]は、政治・行政・経済・文化など、多方面の問題にもなっている。
[[近畿地方]]との間には[[東海道新幹線]](1964年10月開通)と[[東名高速道路]](1969年4月開通)が、東北地方太平洋側(旧陸奥国)との間には[[東北新幹線]](1982年6月開通)と[[東北自動車道]](1987年9月全通)が建設された。これにより、本州太平洋側の地方は、高速交通網での縦断が可能な時代になった。
== 地域 ==
{{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}}
=== 関東地方内の区分 ===
; {{読み仮名|南関東|みなみかんとう}}
: 利根川以南の千葉県と東京都と神奈川県と埼玉県の1都3県を指す。埼玉県を除いて1都2県とする場合もある。[[衆議院議員総選挙|衆議院]][[比例代表制|比例代表]]の'''南関東ブロック'''は千葉県と神奈川県と山梨県である。
; {{読み仮名|北関東|きたかんとう}}
: <!-- 利根川以北 利根川以南の地域が一部存在するので不適切の-->茨城県と栃木県と群馬県の3県を指すことが多いが、埼玉県を含めた4県を指しても使われる。衆議院比例代表の'''北関東ブロック'''は茨城県と栃木県と群馬県と埼玉県である。
; {{読み仮名|一都五県|いっとごけん}}
: 神奈川県を除いた関東地方を指し、利根川水系の水を使用する範囲を示す場合などに用いられる。
; {{読み仮名|首都圏|しゅとけん}}
: 首都圏整備法及び関連法では、「東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、茨城県、栃木県、群馬県、山梨県を首都圏とする。」と定められている。
; {{読み仮名|[[東京圏]]|とうきょうけん}}
: 東京の都市圏が拡大しているため、時期により範囲は異なる。[[総務省]]の基準では、新宿移転前の東京都庁(東京都[[千代田区]]。現在の[[東京国際フォーラム]])から70km圏内を指し、東京都、千葉県、茨城県、埼玉県、神奈川県に及ぶ(2000年[[国勢調査]]時)。一般的には、「東京都心から<var>~~</var>km圏」のように用いる。
; [[首都圏 (日本)#関東大都市圏|東京都市圏]]
: 東京都区部(旧東京市)の[[都市雇用圏]](10%通勤圏)。おおよそ[[首都圏中央連絡自動車道]](圏央道)の範囲に相当する。[[東京23区]]、[[横浜市]]、[[川崎市]]、[[千葉市]]、[[立川市]]、[[武蔵野市]]、[[さいたま市]]、[[厚木市]]を中心とし、東京都、千葉県北西部、茨城県南西部、埼玉県東部・中南部・西南部、神奈川県の大部分を含む。
; [[京浜葉大都市圏|'''東京大都市圏''']]
: 京浜葉大都市圏。[[2000年]](平成12年)以前の東京都区部(旧東京市)の[[都市雇用圏]](10%通勤圏)。東京23区、横浜市、川崎市、千葉市、立川市、武蔵野市、[[相模原市]]、[[府中市 (東京都)|府中市]]を中心とし、東京都区部、千葉県北西部、神奈川県北東部を含む。
; [[東京を中心とする地域の定義一覧|関東大都市圏]]
: 中心地である東京都区部・横浜市・川崎市・千葉市・さいたま市への通勤通学人口が常住人口の1.5%以上である市町村を指す。2005年国勢調査では、東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の大部分と、茨城県・栃木県・群馬県の一部、山梨県の[[上野原市]]・[[大月市]]、静岡県の[[熱海市]]。
; {{読み仮名|[[常総]]|じょうそう}}
: 茨城県と千葉県北部と東京都東辺と埼玉県東辺<!-- 常陸国、下総国の範囲 -->。狭義では、利根川に近い茨城県南部(旧[[葛飾県]]・旧[[新治県]])と千葉県北部(旧葛飾県)の一帯を指す。
; {{読み仮名|[[常武]]|じょうぶ}}
: 茨城県と千葉県と東京都。[[城東 (東京都)|城東]]地区と常総を指す。
; {{読み仮名|[[北総]]|ほくそう}}
: 茨城県西部及び千葉県北部地域。
; {{読み仮名|[[東上]]|とうじょう}}
: 東京都と埼玉県と群馬県。
; {{読み仮名|[[両毛]]|りょうもう}}
: 群馬県南東部と栃木県南西部。
; {{読み仮名|上武|じょうぶ}}
: 群馬県と埼玉県。
; {{読み仮名|[[毛武]]|もうぶ}}
: 群馬県と栃木県([[毛野]])と埼玉県。
; {{読み仮名|[[葛飾]]|かつしか}}
: 東京都城東地区と千葉県西部と埼玉県東部と茨城県西部の一部。
; {{読み仮名|[[総武]]|そうぶ}}
: 千葉県と東京都(と埼玉県)。千葉県北部のみを指す場合もある。
; {{読み仮名|[[多摩地域|多摩]]|たま}}
: 東京都から区部と島嶼部を除いた地域。ただし、明治時代[[多摩郡]]に属していた[[中野区]]、[[杉並区]]と[[世田谷区]]の一部を含む場合もある。
; {{読み仮名|武蔵|むさし}}
: 昔は、埼玉県と東京都と神奈川県の一部だったが、現在は埼玉県[[秩父地方]]・[[入間郡]]と東京都西部の多摩地域。奥武蔵は、秩父地方の奥の旧大滝村などが合併した秩父市辺りのこと 飯能も加わることもある。
; {{読み仮名|[[相武|武相・相武]]|ぶそう、そうぶ}}
: 東京都と神奈川県(と埼玉県)。多摩市・町田市・相模原市・横浜市北部を中心とした地域のみを指す場合もある。
; {{読み仮名|[[八高]]|はちこう}}
: 八王子市 - 高崎市の縦断区間。
; {{読み仮名|[[埼京]]|さいきょう}}
: 東京23区 - さいたま市の縦断区間。
; {{読み仮名|[[京成]]|けいせい}}
: 東京23区 - 成田市の横断区間。
; {{読み仮名|[[京葉]]|けいよう}}
: 東京23区 - 千葉市の横断区間。
; {{読み仮名|[[京浜]]|けいひん}}・{{読み仮名|[[東横]]|とうよこ}}
: 東京23区 - 横浜市の縦断区間。
==== 山梨県などの扱い ====
[[首都圏整備法]]が定義する「[[首都圏 (日本)|首都圏]]」には、[[山梨県]]を加えた1都7県が含まれる。また、「[[関東地方知事会]]」には、首都圏1都7県に加えて、[[中部圏知事会議]]にも加わっている[[静岡県]]、[[長野県]]の両県知事が参加している。
=== 地域別の特徴 ===
関東地方は人口・面積が多数・広大なので、[[北関東]]地方、[[南関東]]地方に分割することもある<!-- リンク先を参照 -->。
==== 南北に分けた場合 ====
<!-- 明治以前に[[下総国]]となっていた茨城県南西部は、歴史上現在の千葉県内を中心とした地域であり、東京大都市圏内としてベッドタウン的な経緯を経ているのでその旨を記載する-->{{See|南関東|北関東}}
{|class="wikitable"
!style="white-space:nowrap"|分野
!南関東
!北関東
|-
|style="white-space:nowrap"|政治
|(茨城県南西部を含む)[[桓武天皇]]の子孫が多く領地として有した歴史から、桓武平氏諸氏の影響力が強い地域。平氏の支配下の地に河内源氏が鎌倉の領有権を得て以来、鎌倉幕府([[源氏]])、室町幕府時代の鎌倉府(源氏)、江戸幕府(徳川氏)、明治政府といった政権の本拠地が置かれて来た。第二次大戦後には東京60km圏内はベッドタウン化し、「''○○都民''」(例:[[神奈川都民]]、[[千葉都民]]、[[埼玉都民]]、[[茨城都民]]<!-- 60km圏内を記載 -->)と呼ばれる居住地の[[地方政治]]に対し積極的なかかわりを持とうとはしない住民が増加している。
|古代には毛野国に代表される地方王国が存在したが、次第に清和源氏諸氏や藤原北家諸氏が領主として土着した。室町幕府の[[足利尊氏]]は清和源氏で下野国[[御家人]]([[足利市]])の出身、江戸幕府の徳川家康は清和源氏・新田氏流の末裔という風に、政権を樹立した武将には北関東(毛野国)に縁を持つ者が多い。なお、源頼朝も徳川家康も、[[宇都宮二荒山神社|宇都宮大明神(宇都宮二荒山神社)]]を参詣し寄進を行っている。第二次大戦後は、[[高崎市|高崎]]に象徴されるように「''[[自由民主党 (日本)|自民党]]王国''」として有名であり、衆議院議長や大臣級の政治家を多く輩出している。
|-
|style="white-space:nowrap"|経済
|(茨城県南西部を含む)政権の所在地(鎌倉、江戸〈明治以後の東京〉)が大消費地として経済の中心地になり、それを中心に経済圏が形成されている。本社の東京一極集中が凄まじく、東京が「[[プライメイトシティ]]」と化している。[[国道16号]]圏内の私鉄沿線は、鉄道駅周辺に店鋪が集まっており、[[自家用車]]の所有率が低い。
|[[中心市街地]]における購買力が顕著であり、宇都宮での[[日本の年間商品販売額一覧|年間商品販売額]]は、栃木県全県の約半数に迫る勢いである。[[モータリゼーション]]が発達しており、[[郊外]]型[[ロードサイドショップ]]が多く、[[前橋市]]の中心市街地衰退は問題となっている。
|-
|style="white-space:nowrap"|交通
|大型幹線には東海道新幹線や東名高速道路など。連絡線は国道16号など。[[東海地方]]との境:箱根峠。[[中央高地]]との境:[[相模湖]]。
|東海道と東山道の東端。大型幹線には東北新幹線や東北自動車道、[[北関東自動車道]]など。連絡線は[[国道50号]]など。東北地方との境:勿来関、白河関<!--、[[高久丘陵]]、[[白河丘陵]]-->。長野県・[[新潟県]]との境:三国山脈。中央高地との境:碓氷峠、[[雁坂峠]]。
|}
==== 東西に分けた場合 ====
関東地方は主に「南関東」、「北関東」で分けるため、「東関東」、「西関東」の範囲は統一されていない。
{| class="wikitable"
!東関東
!西関東
|-
| style="width:50%;vertical-align:top" |東関東の使用例
* [[東関東方言]](茨城県、栃木県)
* 東関東吹奏楽連盟<ref>{{Cite web|和書|title=東関東吹奏楽連盟|url=http://www.hksuiren.gr.jp/|website=www.hksuiren.gr.jp|accessdate=2019-08-05}}</ref>(神奈川県、千葉県、茨城県、栃木県)
* [[東関東自動車道]](東京都、千葉県、茨城県)
* 常総(東京都東辺、千葉県北部、埼玉県東辺、茨城県)
* 常武(東京都、千葉県、茨城県)
| style="width:50%;vertical-align:top" |西関東の使用例
* [[西関東方言]](東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、群馬県、栃木県南西部、山梨県郡内地方)
* 西関東吹奏楽連盟<ref>{{Cite web|和書|title=西関東吹奏楽連盟|url=http://www.ajba.or.jp/nksuiren/index.html|website=www.ajba.or.jp|accessdate=2019-08-05}}</ref>(埼玉県、群馬県、山梨県、新潟県)
* [[西関東連絡道路]](埼玉県、山梨県)
* 毛武(埼玉県、栃木県、群馬県)
* 武相(東京都、神奈川県)
|}
=== 隣接する県を編入する例 ===
中央省庁や企業・団体のエリア区分による「関東」の範囲は、必ずしも「箱根関・[[小仏関所|小仏関]]・碓氷関から東」とは定義されておらず、統一されていない。
<!--法律上の範囲から法律上以外の範囲の順に。県は太平洋側から日本海側への順に-->
{|class="wikitable"
!対象地域
!使用している組織
|-
|関東1都6県と山梨県(首都圏)
|
* 首都圏整備法と[[政令]]([[首都圏整備法施行令]])による定義
* [[関東高等学校体育大会]]
* [[関東地区高等学校野球大会]](春季のみ)
* [[関東学生陸上競技連盟]]
* [[関東大学ラグビーリーグ戦グループ]]
* 総務省 [[総合通信局|関東総合通信局]]
* [[国土交通省]] [[関東運輸局]]
* [[東京電力]]営業地域(この場合は静岡県の富士川以東なども含まれる)
* [[中央労働金庫]]営業地域
* 宅配便事業([[宅急便]]、[[ゆうパック]]、[[佐川急便]])営業地域
|-
|関東1都6県と新潟県([[関越]])
|
* [[関越自動車道]]
|-
|関東1都6県と山梨県と長野県 (関東[[甲信地方|甲信]])
|
* 国土交通省 [[関東地方整備局]]
* [[気象庁]]地方予報区
* [[SoftBank (携帯電話)|SoftBank]]営業地域
|-
|関東1都6県と山梨県と新潟県(関東[[甲信越地方|甲越]])
|
* [[日本赤十字社]]血液センター
* [[日本高等学校教職員組合]]ブロック協議会
* [[NHK文化センター]]
* [[JTB]]関東(千葉、東京、神奈川を除く)
* [[日本原子力学会]]
* 大学英語教育学会
* 全日本外壁ピンネット工事業協同組合
* [[日本自治体労働組合総連合|自治労連]]ブロック青年部
* [[日本眼科学会]]
* 全鍼師会ブロック協議会
* [[関東学生アメリカンフットボール連盟]]
* [[au (携帯電話)|au]]営業地域
|-
|関東1都6県と山梨県と長野県と新潟県(関東甲信越)
|
* [[財務省]] [[関東財務局]]
* 総務省 [[管区行政評価局|関東管区行政評価局]]
* [[厚生労働省]] [[関東信越厚生局]]
* [[リクルートホールディングス|リクルート]]社の大学進学情報誌
* [[日本自動車連盟|JAF]]関東本部(ただし、この場合は[[沖縄県]]も間接的に管轄に含まれる)
* [[NHK放送センター]](一部の首都圏ローカル番組やニュースを甲信越でもネット)
* [[NTTドコモ]]営業地域
|-
|関東1都6県と静岡県と山梨県と長野県と新潟県([[広域関東圏]])
|
* [[経済産業省]] [[関東経済産業局]]
* [[東京高等裁判所]]
* [[東京高等検察庁]]
* [[警察庁]] [[関東管区警察局]](ただしこの場合、東京都 = 警視庁は含まれない)
* [[法務省]] [[東京矯正管区]]
* [[公正取引委員会]]
* [[陸上自衛隊]] [[東部方面隊 (陸上自衛隊)|東部方面隊]]
|-
|関東1都6県と静岡県と山梨県
|
* [[海上保安庁]] [[第三管区海上保安本部]]
* [[全国紙]]東京本社発行版に掲載される[[映画]][[広告]]
|-
|関東1都6県と静岡県と山梨県と長野県
|
* 関東地方知事会
* [[農林水産省]] [[関東農政局]]
|-
|関東1都6県と静岡県と山梨県と新潟県
|
* [[環境省]] [http://kanto.env.go.jp/ 関東地方環境事務所]
|-
|関東1都6県と静岡県と山梨県と新潟県と福島県
|
* [[林野庁]] [[関東森林管理局]]
|-
|関東1都6県と静岡県、愛知県、三重県、山梨県、長野県、新潟県、岐阜県、富山県、石川県、福井県
|
* 気象庁 [[東京管区気象台]]
|}
=== その他の例 ===
* 21世紀FIT構想<ref>[http://21fit.jp/kyogikai/top.html]</ref>(福島県+茨城県+栃木県の頭文字)
** 首都移転候補地を域内に含む3県の観光、地域連携などの地域推進協議会。
== 経済 ==
{{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}}
=== 経済の全体的傾向 ===
平成29年度の関東の[[国内総生産|GDP]]は218兆2962億円である<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/files_kenmin.html 統計表(県民経済計算) 内閣府経済社会総合研究所国民経済計算部]</ref>。これは[[大韓民国]]や[[ロシア]]のGDPよりも大きく、巨大な経済圏を形成している<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2010/02/weodata/index.aspx World Economic Outlook Database]</ref>。
地域別特徴を見ると、本社の大半は、東京都区部に集中している。一方で、東京都区部を除く地域には、工場や物流拠点が集中しており、特定企業の工場が集まる「[[企業城下町]]」や、営業所や小売業が多く立地する都市が多く見られる。
=== 第一次産業 ===
{{seealso|第一次産業}}
==== 農業 ====
* 茨城県と千葉県は、全国でも上位の農業粗生産額を誇り、群馬県と埼玉県と栃木県でも農業生産が多い。特に千葉県は、農業生産額が北海道に次いで第二位であり、[[野菜]]の生産額は日本第一位である。だが、近年では住宅や工業地帯の開発、後継者問題により衰退しており、耕作放棄地が増加している。また、南西部の東京都と神奈川県では大きく衰えており、ほぼ自給が不可能な状況である。
* 東京都と神奈川県では、農業の占める割合が極めて低く、第三次産業の占める割合が極めて高い。{{独自研究範囲|これも、交易によって勢力を維持した平氏流諸氏の支配地域と、農業によって勢力を維持した源氏流諸氏の支配地域の特徴がよく表れている現象の一つと言えよう|date=2023年9月}}。しかしながら、近年の農業衰退は激しく、群馬県の[[耕作放棄地]]率は全国3位の高比率である<ref>[http://www.pref.ehime.jp/h36180/khtaisaku/genjo.html 耕作放棄地の現状]</ref>。
* 東京周辺では、典型的な都市[[近郊農業]]として、野菜や[[花卉]]の栽培が多い。
* 関東地方各市町村における年間農業産出額(2006年)は、多い順に以下の通り。
{|class="wikitable"
!市区町村!!年間農業産出額
|-
|[[鉾田市]](茨城県)||style="text-align:right"|539億円
|-
|[[旭市]](千葉県)||style="text-align:right"|418億円
|-
|前橋市(群馬県)||style="text-align:right"|387億円
|-
|[[深谷市]](埼玉県)||style="text-align:right"|356億円
|-
|香取市(千葉県)||style="text-align:right"|321億円
|-
|那須塩原市(栃木県)||style="text-align:right"|264億円
|-
|[[大田原市]](栃木県)||style="text-align:right"|247億円
|-
|[[行方市]](茨城県)||style="text-align:right"|235億円
|-
|銚子市(千葉県)||style="text-align:right"|228億円
|-
|[[筑西市]](茨城県)||style="text-align:right"|228億円
|-
|[[坂東市]](茨城県)||style="text-align:right"|219億円
|-
|[[真岡市]](栃木県)||style="text-align:right"|218億円
|-
|[[宇都宮市]](栃木県)||style="text-align:right"|198億円
|-
|[[小美玉市]](茨城県)||style="text-align:right"|197億円
|-
|[[太田市]](群馬県)||style="text-align:right"|190億円
|}
<!--上の統計表は当局の公開データを引用したもので正確。数値は表示桁の小数点1桁を四捨五入している。--><!--正しいかではなく、引用したデータから閲覧者が検証できるように-->
==== 畜産業 ====
* 大消費地である東京を控え、茨城県や栃木県、千葉県を中心に養豚、養鶏、酪農が多い。生乳生産量では、北海道に続いて、栃木県が第二位、千葉県が第三位に位置する。
==== 漁業(水産業) ====
* 太平洋側を中心に水揚げが多い。特に[[銚子漁港]]は、国内有数の水揚げ高である。
* [[成田国際空港]]は、[[水産物]]の[[輸入]]金額が日本一であるため、「成田漁港」とも呼ばれる。
=== 第二次産業 ===
{{seealso|第二次産業}}
==== 鉱業 ====
{{seealso|鉱業}}
* 昭和半ばまで、茨城県[[日立市]]や栃木県日光市(旧[[足尾町]])など一部の鉱山が操業していたが、1975年頃に閉鎖された。
* 埼玉県の[[秩父市]]、栃木県[[佐野市]](旧[[葛生町]])付近では、[[セメント]]原料の[[石灰岩]]、[[ドロマイト]]の採掘が行われている。
* 関東地方の地下には日本最大のガス田である[[南関東ガス田]]があり、千葉県では[[天然ガス]]の採掘が行われている。大半は東京向けに供給される。また、副産物である[[鹹水|かん水]]からは[[ヨウ素|ヨード]]が精製されており、[[医薬品]]向けに日本から[[輸出]]される数少ない鉱物資源となっている。南関東ガス田の埋蔵量が多いのに採掘が比較的少ないのは、天然ガス採掘が[[地盤沈下]]をもたらすためである。
==== 工業 ====
* 南部:東京湾沿岸に、大規模な'''臨海型'''工場地帯が広がり、それぞれ京浜工業地帯(東京-神奈川)や[[京葉工業地域]](東京-千葉)と称される。なお、京葉工業地域も、京浜工業地帯に含めることがある。
* 北部:太田や宇都宮、[[伊勢崎市|伊勢崎]]、[[上三川町|上三川]]などを初めとする地域では、'''内陸型'''の[[北関東工業地域]]が形成され、[[輸送機器]]や[[ゴム]]製品の生産額が大きい。
* 東部:茨城県の北部(日立、[[ひたちなか市|ひたちなか]])や千葉県北西部([[我孫子市|我孫子]]、[[柏市|柏]]、[[習志野市|習志野]]など)<!-- 津田沼は地域名で市名は習志野、旧東葛飾郡ではなく全域が旧千葉郡 -->には、[[日立製作所]]の関連工場が多い。また、茨城県の[[鹿行|鹿行地域]](鹿嶋、[[神栖市|神栖]])には[[鹿島臨海工業地帯]]が形成されている。
* 関東地方における主要工業都市は、各市町村別の年間製造品出荷額(2008年)の多い順に以下のようになっている。
{|class="wikitable"
!市区町村!!年間製造品出荷額
|-
|[[市原市]](千葉県)||style="text-align:right"|5.70兆円
|-
|東京特別区(東京都)||style="text-align:right"|4.65兆円
|-
|[[川崎市]](神奈川県)||style="text-align:right"|4.61兆円
|-
|横浜市(神奈川県)||style="text-align:right"|3.90兆円
|-
|太田市(群馬県)||style="text-align:right"|2.19兆円
|-
|宇都宮市(栃木県)||style="text-align:right"|1.69兆円
|-
|[[相模原市]](神奈川県)||style="text-align:right"|1.61兆円
|-
|[[狭山市]](埼玉県)||style="text-align:right"|1.49兆円
|-
|神栖市(茨城県)||style="text-align:right"|1.49兆円
|-
|日立市(茨城県)||style="text-align:right"|1.45兆円
|-
|[[千葉市]](千葉県)||style="text-align:right"|1.36兆円
|-
|[[袖ケ浦市]](千葉県)||style="text-align:right"|1.35兆円
|-
|[[藤沢市]](神奈川県)||style="text-align:right"|1.34兆円
|-
|[[平塚市]](神奈川県)||style="text-align:right"|1.28兆円
|-
|伊勢崎市(群馬県)||style="text-align:right"|1.23兆円
|-
|[[君津市]](千葉県)||style="text-align:right"|1.02兆円
|-
|鹿嶋市(茨城県)||style="text-align:right"|1.02兆円
|-
|ひたちなか市(茨城県)||style="text-align:right"|1.00兆円
|-
|[[日野市]](東京都)||style="text-align:right"|0.94兆円
|-
|河内郡上三川町(栃木県)||style="text-align:right"|0.93兆円
|}
「大手」「超大手」といわれる製造業の本社(工場とは限らない)は、東京都区部に所在するものが多い。しかし、関東地方に工場を置く企業(親会社)の本社が、必ずしも関東地方に所在するとも限らない。
==== 建設業 ====
多くの大手[[ゼネコン]]の本社が、東京都区部に集中している。東京都区部では、大規模なオフィスビルやマンション・道路・鉄道(地下鉄)などの建設が行なわれている。
=== 第三次産業 ===
==== 商業 ====
* 東京では、[[新宿]]・[[池袋]]・渋谷・[[銀座]]・[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]・[[秋葉原]]・[[上野 (台東区)|上野]]を中心に[[百貨店]]や専門店、高級[[ブランド]]店、大規模商業施設、飲食店などがあり、集積度は高い。
* [[国道16号]]圏内の鉄道沿線、特に東京と横浜には、[[鉄道駅]]の利用者に便利な駅周辺を地盤とする「カメラ系[[家電量販店]]」などの駅前ショップが多い。
* 宇都宮、高崎、水戸では、[[ターミナル駅]]の周辺や中心市街地における購買力が強い。そのため[[路線バス|バス]]の路線は必ず都心を通過するように設定されていることが多いほか、都心では低運賃で利用できる循環バスが設定されている。
* 両毛デルタ地帯や国道16号沿線などでは、[[バイパス道路|バイパス]]や郊外を地盤とする「北関東系家電量販店」や郊外型[[ショッピングセンター]]([[ロードサイド店舗]])が多い。
* 関東地方の主な商業集積地は、各市町村における年間商品販売額(2007年、含卸売業)の多い順に以下のようになっている。
{|class="wikitable"
!市区町村!!年間商品販売額
|-
|東京特別区(東京都)||style="text-align:right"|175兆円
|-
|横浜市(神奈川県)||style="text-align:right"|9.79兆円
|-
|[[さいたま市]](埼玉県)||style="text-align:right"|4.73兆円
|-
|千葉市(千葉県)||style="text-align:right"|3.72兆円
|-
|川崎市(神奈川県)||style="text-align:right"|3.64兆円
|-
|宇都宮市(栃木県)||style="text-align:right"|2.84兆円
|-
|前橋市(群馬県)||style="text-align:right"|2.38兆円
|-
|高崎市(群馬県)||style="text-align:right"|1.75兆円
|-
|水戸市(茨城県)||style="text-align:right"|1.52兆円
|-
|相模原市(神奈川県)||style="text-align:right"|1.31兆円
|-
|[[船橋市]](千葉県)||style="text-align:right"|1.16兆円
|-
|[[八王子市]](東京都)||style="text-align:right"|1.14兆円
|-
|[[厚木市]](神奈川県)||style="text-align:right"|1.12兆円
|-
|[[川口市]](埼玉県)||style="text-align:right"|0.96兆円
|-
|柏市(千葉県)||style="text-align:right"|0.89兆円
|-
|[[立川市]](東京都)||style="text-align:right"|0.88兆円
|-
|[[町田市]](東京都)||style="text-align:right"|0.81兆円
|-
|[[熊谷市]](埼玉県)||style="text-align:right"|0.78兆円
|-
|[[つくば市]](茨城県)||style="text-align:right"|0.78兆円
|-
|[[松戸市]](千葉県)||style="text-align:right"|0.77兆円
|}
==== 金融 ====
東京には[[中央銀行]]である[[日本銀行]]や多くの[[都市銀行]]が本店を置いているほか、各地の[[地方銀行]]や主要な海外金融機関も情報収集を兼ねて東京支店を置いている。また、[[東京証券取引所]]、各種[[商品市場]]も置かれている。
==== サービス ====
基本的には東京都区内に集積するものが多い。
* [[情報技術|IT]]関係などの集積が多い。
* 各放送局の[[キー局]](親局)が東京都区内に所在する。東京には各地方局の支社もあり、東京に本社のある企業や出演者などへの営業活動や、一部の番組製作も行われている。
* 大手通信会社([[電気通信事業者]])の本社が東京都区内に所在する。
== 交通 ==
=== 幹線交通網 ===
関東地方の幹線交通網は、'''[[東海道]]ルート'''、'''[[甲州街道]]ルート'''、'''[[中山道]]・[[三国街道]]ルート'''、'''[[日光街道]]・[[奥州街道]]ルート'''、'''[[水戸街道]]ルート'''、'''[[佐倉街道]]ルート'''、'''[[房総]]往還ルート、房総東往還ルート'''<ref>{{Cite web|和書|title=坂東巡礼歩きの道: f.房総の街道アーカイブ|url=http://bandoaruki.net/6/f/|website=bandoaruki.net|accessdate=2019-03-02}}</ref>に大きく分けられる。
連絡線としては、'''[[日光例幣使街道|例幣使街道]]ルート'''などがある。兵士街道古道[[鎌倉街道]]・[[大山道|大山街道]]や、その他関東各地域中核都市から周辺部に伸びる路線群が整備されている。
<dl>
<dt>東海道ルート<dd>[[東海道新幹線]]、[[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]]、[[京急本線]]、[[小田急小田原線]]、[[東名高速道路]][[、]][[新東名高速道路]]、[[国道15号]]、[[国道1号]]、[[国道246号]]
<dt>甲州街道ルート<dd>[[中央本線]]、[[京王線]]、[[西武新宿線]]、[[中央自動車道]]、[[国道20号]]
<dt>中山道・三国街道ルート<dd>[[上越新幹線]]、[[北陸新幹線]]、[[高崎線]]、[[上越線]]、[[信越本線]]、[[東武東上本線|東武東上線]]、[[関越自動車道]]、[[上信越自動車道]]、[[国道17号]]、[[国道18号]]、[[国道254号]]
<dt>日光街道・奥州街道ルート<dd><!--('''奥州街道'''は宇都宮以北)←日光街道と奥州街道は、江戸日本橋を起点として千住から宇都宮までの17宿を「共有」しているのであって、宇都宮以南が奥州街道ではない、というのは誤り。-->:東北新幹線、[[東北本線]]([[宇都宮線]])、[[日光線]]、[[東武伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)、[[東武日光線]]、東北自動車道、[[日光宇都宮道路]]、[[国道4号]]、[[国道119号]]
<dt>水戸街道ルート<dd>(水戸以北は'''[[陸前浜街道]]''')[[常磐線]]、[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]、常磐自動車道、国道6号
<dt>佐倉街道ルート<dd>[[総武本線]]、[[成田線]]([[鹿島線]]・[[大洗鹿島線]])、[[京成本線]]、[[京葉道路]]、東関東自動車道、[[国道14号]]、[[国道51号]]
<dt>'''房総往還ルート'''<dd>[[内房線]]、[[東京湾アクアライン]]、[[館山自動車道]]、[[国道127号]]
<dt>'''房総東往還'''ルート
<dd>[[外房線]]、[[千葉東金道路]]、[[国道128号]]
</dl>
=== 鉄道 ===
関東地方の鉄道網は東京から放射状に伸びており、路線相互の接続駅間を結ぶ鉄道路線が高度に整備され、世界最大の輸送力を誇っている。
: ※ケーブルカーやロープウェイ、貨物専用路線は割愛。
==== 東京都 ====
* 新幹線
** JR東海東海道新幹線、JR東日本東北新幹線、[[山形新幹線]]、[[秋田新幹線]]、上越新幹線、北陸新幹線
* 地下鉄
** [[東京地下鉄|東京メトロ]]、[[都営地下鉄]]
* 放射線
** JR東日本中央本線([[中央線快速]]・[[中央・総武緩行線]])、JR東日本総武本線(中央・総武緩行線・[[総武快速線]])、JR東日本東海道本線、JR東日本[[京浜東北線]]、JR東日本常磐線([[常磐緩行線]]・[[常磐快速線]])、JR東日本[[京葉線]]、JR東日本[[横須賀線]]、JR東日本[[埼京線]]、JR東日本高崎線、JR東日本宇都宮線([[東北本線]])、JR東日本[[湘南新宿ライン]]、JR東日本[[上野東京ライン]]、[[東急東横線]]、[[東急田園都市線]]、[[東急目黒線]]、[[東急大井町線]]、小田急小田原線、京王線、[[京王井の頭線]]、東武伊勢崎線、東武東上線、[[西武池袋線]]、西武新宿線、京急本線、京成本線、[[京成成田空港線]]、[[北総鉄道北総線|北総線]]、つくばエクスプレス、[[埼玉高速鉄道線]]
** [[東京メトロ東西線|メトロ東西線]]、[[東京メトロ有楽町線|メトロ有楽町線]]、[[東京メトロ副都心線|メトロ副都心線]]、[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]
* 23区内を結ぶ路線
** JR東日本[[山手線]]、[[東急池上線]]、[[東急多摩川線]]、[[東急世田谷線]]、[[東武亀戸線]]、[[東武大師線]]、[[西武有楽町線]]、[[西武豊島線]]、[[京成押上線]]、[[京成金町線]]、[[京王新線]]、[[京急空港線]]、[[東京モノレール羽田空港線]]、[[東京臨海高速鉄道りんかい線]]、[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]]、[[都電荒川線]]、[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]
** [[東京メトロ銀座線|メトロ銀座線]]、[[東京メトロ丸ノ内線|メトロ丸ノ内線]]、[[東京メトロ日比谷線|メトロ日比谷線]]、[[東京メトロ千代田線|メトロ千代田線]]、[[東京メトロ半蔵門線|メトロ半蔵門線]]、[[東京メトロ南北線|メトロ南北線]]、[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]、[[都営地下鉄三田線|都営三田線]]、[[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]]
* 郊外地区同士を結ぶ路線
** JR東日本[[南武線]]、JR東日本[[横浜線]]、JR東日本[[武蔵野線]]、JR東日本[[八高線]]、JR東日本[[青梅線]]、JR東日本[[五日市線]]、[[京王相模原線]]、[[京王高尾線]]、[[京王動物園線]]、[[京王競馬場線]]、[[小田急多摩線]]、[[西武多摩川線]]、[[西武拝島線]]、[[西武多摩湖線]]、[[西武西武園線]]、[[西武山口線]]、[[多摩都市モノレール線]]
==== その他 ====
* 概ね南西(横浜方面)から順に時計回りに列挙する
* 東京都内にかかるものは除く
===== JR東日本 =====
[[鶴見線]]、[[根岸線]]、[[相模線]]、[[川越線]]、信越本線、[[吾妻線]]、上越線、[[両毛線]]、日光線、[[烏山線]]、[[水戸線]]、[[水郡線]]、成田線、鹿島線、内房線、外房線、[[久留里線]]
===== JR東海 =====
[[御殿場線]]
===== 私鉄・第三セクター =====
; 茨城
つくばエクスプレス、[[ひたちなか海浜鉄道湊線]]、[[鹿島臨海鉄道大洗鹿島線]]、[[関東鉄道常総線]]、[[関東鉄道竜ヶ崎線]]
; 両毛(栃木・群馬)
[[東武佐野線]]、[[東武日光線]]、[[東武宇都宮線]]、[[真岡鐵道真岡線]]、[[上信電鉄上信線|上信線]]、[[上毛電気鉄道上毛線|上毛線]]、[[東武桐生線]]、[[東武小泉線]]、[[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線|わたらせ渓谷鐵道線]]、[[宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線|宇都宮ライトレール線]]
; 埼玉
[[東武越生線]]、[[西武狭山線]]、[[西武秩父線]]、[[秩父鉄道線]]、[[東武野田線]]、[[埼玉新都市交通伊奈線]](ニューシャトル)、つくばエクスプレス、埼玉高速鉄道線
; 千葉
東武野田線、[[流鉄流山線]]、つくばエクスプレス、[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]、[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]、[[京成千葉線]]、[[京成千原線]]、[[千葉都市モノレール1号線]]・[[千葉都市モノレール2号線|2号線]]、[[芝山鉄道線]]、[[銚子電気鉄道線]]、[[いすみ鉄道いすみ線]]、[[小湊鉄道線]]、[[舞浜リゾートライン]]、[[山万ユーカリが丘線]]
; 神奈川
[[京急大師線]]、[[京急久里浜線]]、[[京急逗子線]]、[[東急こどもの国線]]、[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]、[[相鉄本線]]、[[相鉄いずみ野線]]、[[相鉄新横浜線]]、[[横浜市営地下鉄]]、[[横浜シーサイドライン金沢シーサイドライン|金沢シーサイドライン]]、[[小田急江ノ島線]]、[[江ノ島電鉄線]]、[[湘南モノレール江の島線|湘南モノレール線]]、[[伊豆箱根鉄道大雄山線]]、[[箱根登山鉄道線]]
==== 県庁所在地の近郊路線 ====
各[[都道府県庁所在地|県庁所在地]](市代表駅)周辺の鉄道路線。東京都は除く。
* 茨城県:水戸市([[水戸駅]])
** JR常磐線、JR水戸線、JR水郡線、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線、ひたちなか海浜鉄道湊線
* 群馬県:前橋市([[前橋駅]])
**JR高崎線、JR上越線、JR信越本線、JR両毛線、JR八高線、JR吾妻線、上信電鉄上信線、東武伊勢崎線、東武桐生線、わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線
* 栃木県:宇都宮市([[宇都宮駅]])
**JR宇都宮線、JR日光線、JR烏山線、東武宇都宮線、東武佐野線、東武日光線、[[東武鬼怒川線]]、宇都宮ライトレール線
* 埼玉県:さいたま市([[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]])
** JR埼京線、JR武蔵野線、JR京浜東北線、JR宇都宮線、JR高崎線、JR湘南新宿ライン、JR川越線、東武野田線、[[東武東上線]]、東武伊勢崎線、埼玉高速鉄道線、埼玉新都市交通伊奈線
* 千葉県:千葉市([[千葉駅]])
** JR中央・総武線、JR総武快速線、JR総武本線、JR成田線、JR内房線、JR外房線、京成千葉線、京成千原線、千葉都市モノレール1号線・2号線
* 神奈川県:横浜市([[横浜駅]])
** JR東海道本線、JR横須賀線、JR湘南新宿ライン、JR上野東京ライン、JR京浜東北線・根岸線、JR横浜線、JR鶴見線、京急本線、東急東横線、横浜高速鉄道みなとみらい線、相鉄本線、相鉄いずみ野線、相鉄新横浜線、[[横浜市営地下鉄ブルーライン|ブルーライン]]、[[横浜市営地下鉄グリーンライン|グリーンライン]]、金沢シーサイドライン
=== 道路 ===
詳細の路線については「[[関東地方の道路一覧]]」も参照されたい。
江戸時代に[[五街道]]が整備されて以後、日本橋を始点にして幹線国道が放射状に整備され、連絡線国道が環状(弧状)に整備されている。[[高速道路]]は、[[首都高速都心環状線|首都高都心環状線]]を中心に、各方面へ放射状に延びている。
また、国道16号沿線や両毛デルタ地帯では、モータリゼーションの進展が著しい。
; 主な幹線国道と高速道路
<!--南西から時計回りに-->
* 国道1号(国道246号)・東名高速道路
* 国道20号・中央自動車道
* 国道17号(国道254号)・関越自動車道
* 国道18号・上信越自動車道
* 国道119号・日光宇都宮道路
* 国道4号・東北自動車道
* 国道6号・常磐自動車道
* 国道14号・国道51号・東関東自動車道
* 国道127号・館山自動車道
; 主な連絡線国道と高速道路
* 国道16号・横浜横須賀道路
* 国道50号・北関東自動車道
=== バス ===
東京都区部や周辺都市に、東北・中部・近畿など各地方からの[[高速バス]]が多数発着している。
一方、郊外や[[中小都市]]での一般路線バスは、モータリゼーションの進展で経営が苦しくなっている。
=== 航空 ===
[[空港]]としては、主に[[東京国際空港]](羽田空港)と[[成田国際空港]](成田空港)が立地する。羽田空港は国内線、国際線の拠点として、成田空港は国際線、貨物の拠点として機能している。この他、[[茨城空港]]・[[調布飛行場]]・[[大島空港]]・[[新島空港]]・[[神津島空港]]・[[三宅島空港]]・[[八丈島空港]]が立地し、伊豆諸島ではそれに加えて[[東京愛らんどシャトル]]が就航している。
羽田と成田の両空港は[[IATA]]公認により、[[マルチエアポート]]としての対応がなされている。
=== 海運 ===
東京湾岸の[[横浜港]]、[[東京港]]、[[千葉港]]を中心に、世界各地を結ぶ貨物船が東京湾に出入りしている。また、日本の大手[[海運]]会社である[[日本郵船]]や[[商船三井]]、[[川崎汽船]]が東京に本社を置いている。<!--商船三井は登記上の本店が大阪だが、本社機能は東京。川崎汽船も登記上の本店は神戸だが、本社機能は東京-->
東京港・横浜港・千葉港など - 伊豆諸島間には[[東海汽船]]・[[神新汽船]]・[[伊豆七島海運]]などが、東京港 - 小笠原諸島間には[[小笠原海運]]・[[共勝丸]]が就航している。
この他、[[茨城港]]、[[鹿島港]]が工業製品・原材料の輸出入等の拠点となっている。茨城港大洗港区 - [[苫小牧港]]には[[カーフェリー]]([[商船三井さんふらわあ]])が就航している。
=== 東京から主な都市への道のり ===
関東地方の中心都市となっている東京から、主な都市や峠への「Nkm圏」を以下に掲載する。km数は国道の[[距離標]]を基準にして測る。
{|class="wikitable"
|-
!ルート(国道)!!30km圏!!60km圏!!100km圏!!150km圏
|-
|東海道(R1)||横浜||藤沢||箱根峠||[[富士市]]
|-
|[[矢倉沢往還]](R246)||町田||厚木||[[御殿場市|御殿場]]||[[沼津市|沼津]]
|-
|甲州街道(R20)||八王子||[[緑区 (相模原市)|相模湖]]||大月||[[韮崎市|韮崎]]
|-
|中山道(R17・R18)<br>三国街道(R17)||さいたま||熊谷||高崎||碓氷峠(R18)<br>[[みなかみ町|月夜野]](R17)
|-
|[[東武]]・[[東毛]](R122)||[[岩槻区|さいたま]]||[[加須市|加須]]||[[桐生市|桐生]]||足尾
|-
|日光街道(R4・R119)<br>奥州街道(R4)||[[春日部市|春日部]]||[[古河市|古河]]||宇都宮||日光(R119)<br>那須塩原(R4)
|-
|常総・[[東野]](R6・R294)||柏||[[下妻市|下妻]]||真岡||大田原
|-
|水戸街道(R6)||柏||[[土浦市|土浦]]||水戸||日立
|-
|佐倉街道(R14・R51)||千葉||成田||銚子、鹿嶋||[[大洗町|大洗]]
|-
|[[外房]](R14・R128)||千葉||[[東金市|東金]]||[[いすみ市|大原]]||[[鴨川市|鴨川]]
|-
|[[内房]](R14・R16・R127)||千葉||[[木更津市|木更津]]||富浦||[[館山市|館山]]
|}
== 娯楽 ==
=== スポーツ ===
; 関東地方に本拠地を置く[[日本プロ野球|プロ野球]]チーム
* [[埼玉西武ライオンズ]]
* [[千葉ロッテマリーンズ]]
* [[読売ジャイアンツ]]
* [[東京ヤクルトスワローズ]]
* [[横浜DeNAベイスターズ]]
* [[群馬ダイヤモンドペガサス]]
* [[埼玉武蔵ヒートベアーズ]]
* [[栃木ゴールデンブレーブス]]
* [[神奈川フューチャードリームス]]
* [[茨城アストロプラネッツ]]
* [[千葉スカイセイラーズ]]
* [[YKSホワイトキングス]]
; 関東地方に本拠地を置く[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]チーム
{{col-begin}}
{{col-break}}
* [[鹿島アントラーズ]]
* [[水戸ホーリーホック]]
* [[栃木SC]]
* [[ザスパクサツ群馬]]
* [[浦和レッドダイヤモンズ]]
* [[大宮アルディージャ]]
{{col-break}}
* [[ジェフユナイテッド市原・千葉]]
* [[柏レイソル]]
* [[FC東京]]
* [[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]]
* [[FC町田ゼルビア]]
* [[川崎フロンターレ]]
{{col-break}}
* [[横浜F・マリノス]]
* [[横浜FC]]
* [[湘南ベルマーレ]]
* [[横浜スポーツ&カルチャークラブ]]
* [[SC相模原]]
{{col-end}}
=== 芸能 ===
{{seealso|芸能}}
[[放送局]]のキー局が[[特別区|東京23区]]に集中しているため、多くの[[芸能事務所]]や[[:Category:テレビ制作会社|番組制作会社]]が東京23区に拠点を置いている。
商業公演は交通の利便性が良い東京23区や横浜、[[海浜幕張|幕張]]、さいたまなどで多く開催されている。
== テレビジョン放送 ==
{{seealso|テレビジョン放送}}
関東1都6県(関東広域圏)を[[放送対象地域]]とする[[広域放送]]と、各都県を放送対象地域とする[[県域放送]]([[ローカル局]])がある。
広域放送は5局存在するが、いずれも東京都区部に本社を置くキー局であり、関東平野のほぼ全域で[[東京スカイツリー]]および[[東京タワー]]からの[[電波]]が受信可能。また、山間部や東京都島嶼部(小笠原諸島は[[小笠原村ケーブルテレビ]])でも、中継施設を通じて静岡県の熱海や[[伊東市|伊東]]などでも[[小田原テレビ中継局]]や[[新島中継局]]を通じて受信可能となっている。県域放送は、茨城県を除く全ての都県に1局ずつ存在する。
; 広域放送
* [[日本テレビ放送網]](AX、日本テレビ、日テレ、NTV)
* [[テレビ朝日]](EX、tv asahi、テレビ朝日、テレ朝)
* [[TBSテレビ]](RX、TBS)
* [[テレビ東京]](TX、TV TOKYO、テレビ東京、テレ東)
* [[フジテレビジョン]](CXL、フジテレビ)
* NHK放送センター(NHK G、総合)(NHK E、Eテレ)
; 地上波では放送終了 (BSに完全移行)
* [[放送大学学園]](UD、U-AIR) - 関東広域圏のうち授業実施予定地域
; 県域放送
* 栃木県 - GYT [[とちぎテレビ]](とちテレ)
* 群馬県 - GTV [[群馬テレビ]](群テレ)
* 埼玉県 - TVS [[テレビ埼玉]](テレ玉)
* 千葉県 - CTC [[千葉テレビ放送]](チバテレ)
* 東京都 - MX [[東京メトロポリタンテレビジョン]](TOKYO MX)
* 神奈川県 - tvk [[テレビ神奈川]]
[[日本放送協会]](NHK)は、総合テレビは広域放送、Eテレは[[全国放送]]を行っているが、[[地上デジタルテレビジョン放送|地上デジタル放送]]における総合テレビにおいて、茨城県・栃木県・群馬県で県域放送を行っている。他の都県では、従来通り東京都区部を親局とする広域放送が当面は維持されるが、3県(埼玉県・千葉県・神奈川県)内にある中継局は、東京都内と同様の、27chではなく各県ごとに、異なったチャンネルを使用している。詳細としては、埼玉県内が13ch、千葉県内が34ch、神奈川県内が19chを使用する。
== 言語・方言 ==
{{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}}
関東地方の[[日本語の方言]]は、'''[[東関東方言]]'''と'''[[西関東方言]]'''の二種類に大きく分けられる。西関東方言のうち、[[東京方言]](特に[[山の手言葉]])は[[標準語]](全国共通語)の母体となった。
* '''東関東方言''':茨城県、栃木県のほぼ全域で用いられている方言。[[福島県]][[中通り]]・[[浜通り]]などの[[東北方言]]との類似性が高い。埼玉県東部や千葉県の方言もやや近い。
* '''西関東方言''':島嶼部を除く東京都、埼玉県、千葉県、群馬県、神奈川県のほぼ全域、栃木県南西部、山梨県郡内地方で用いられている方言。
現在の東京周辺では、1.東京の通勤圏化、2.他地方出身者(移住)の増加、3.テレビ・ラジオの影響などによって、標準語かそれに近い[[新方言]]([[首都圏方言]])が多用され、伝統的な在来の方言は衰退している。
伊豆諸島の[[八丈島]]や[[青ヶ島]]で話される'''[[八丈方言]]'''は、[[古代東国方言]]の特徴を色濃く残す方言であり、本土の方言とは差異が大きい。[[伊豆大島]]などの'''[[北部伊豆諸島方言]]'''は、伊豆半島などが属する[[東海東山方言]]に類似する。
小笠原諸島は、[[欧米]]人と[[ハワイ先住民]]が移民・開拓し、遅れて日本人が入植した土地であるため、[[欧米系島民|欧米系入植者]](太平洋系の人々を含む)の[[英語]]と日本人入植者の日本語(八丈方言および標準語)が混合して、独特の「[[小笠原方言]]」と呼べるものが生まれた。ただし、日本返還後は急速に共通語化が進んでいる。
== 人口・面積 ==
{{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}}
平野が広く、首都である東京特別区を抱える地方であり、日本の人口の30%以上が集中する。
{|class="wikitable"
|-
!—|ISO 3166-2
!—|都道府県名
!—|全国順位
!—|人口
!—|割合
!—|面積
!—|人口密度
|-
|style="text-align:center;"|JP-08
|style="text-align:center;"|茨城県
|style="text-align:right;"|11
|style="text-align:right;"|2,992,152
|style="text-align:right;"|2.30%
|style="text-align:right;"|6,095.69km<sup>2</sup>
|style="text-align:right;"|486人/km<sup>2</sup>
|-
|style="text-align:center;"|JP-09
|style="text-align:center;"|栃木県
|style="text-align:right;"|18
|style="text-align:right;"|1,934,016
|style="text-align:right;"|1.60%
|style="text-align:right;"|6,408.28km<sup>2</sup>
|style="text-align:right;"|302人/km<sup>2</sup>
|-
|style="text-align:center;"|JP-10
|style="text-align:center;"|群馬県
|style="text-align:right;"|19
|style="text-align:right;"|1,930,232
|style="text-align:right;"|1.60%
|style="text-align:right;"|6,363.16km<sup>2</sup>
|style="text-align:right;"|303人/km<sup>2</sup>
|-
|style="text-align:center;"|JP-11
|style="text-align:center;"|埼玉県
|style="text-align:right;"|5
|style="text-align:right;"|7,037,849
|style="text-align:right;"|5.50%
|style="text-align:right;"|3,797.25km<sup>2</sup>
|style="text-align:right;"|1,890人/km<sup>2</sup>
|-
|style="text-align:center;"|JP-12
|style="text-align:center;"|千葉県
|style="text-align:right;"|6
|style="text-align:right;"|6,028,315
|style="text-align:right;"|4.70%
|style="text-align:right;"|5,156.60km<sup>2</sup>
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|style="text-align:center;"|JP-13
|style="text-align:center;"|東京都
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|style="text-align:center;"|JP-14
|style="text-align:center;"|神奈川県
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|-
|
|
|
|style="text-align:right;"|40,979,171
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=== 年齢構成 ===
{{関東地方/5歳階級別人口}}
=== 主要都市 ===
{| class="infobox" style="text-align:center; width:100%; margin-right:10px; font-size:100%"
! colspan="10" style="background:#e9e9e9; padding:0.3em; line-height:1.2em;"| '''関東地方の主要都市'''
|-
!rowspan=30|
[[File:Rainbow Bridge (Tokyo) at night 7.jpg|150px]]<br /><small>[[東京特別区|東京都区部]]</small><br />[[File:横浜みなとみらい地区.jpg|150px]]<br /><small>[[横浜市]]</small><br />
! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| <small>#</small>
! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 都市名
! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 都県名
! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 人口
! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| <small>#</small>
! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 都市名
! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 都県名
! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 人口
!rowspan=21|
[[File:武蔵小杉高層ビル群 - panoramio.jpg|150px]]<br /><small>[[川崎市]]</small><br />[[File:SaitamaShintoshin night view.jpg|150px]]<br /><small>[[さいたま市]]</small><br />
|-
| style="background:#f0f0f0"| 1 ||align=left | '''[[東京特別区|東京都区部]]''' || {{Flagicon|東京都}}[[東京都]] || {{自治体人口/東京都|23区計}}人 || 11 ||align=left | '''[[市川市]]''' || {{Flagicon|千葉県}}[[千葉県]] || {{自治体人口/千葉県|市川市}}人
|-
| style="background:#f0f0f0"| 2 ||align=left | '''[[横浜市]]''' || {{Flagicon|神奈川県}}[[神奈川県]] || {{自治体人口/神奈川県|横浜市}}人 || 12 ||align=left | '''[[松戸市]]''' || {{Flagicon|千葉県}}[[千葉県]] || {{自治体人口/千葉県|松戸市}}人
|-
| style="background:#f0f0f0"| 3 ||align=left | '''[[川崎市]]''' || {{Flagicon|神奈川県}}[[神奈川県]] || {{自治体人口/神奈川県|川崎市}}人 || 13 ||align=left | '''[[藤沢市]]''' || {{Flagicon|神奈川県}}[[神奈川県]] || {{自治体人口/神奈川県|藤沢市}}人
|-
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|-
| style="background:#f0f0f0"| 5 ||align=left | '''[[千葉市]]''' || {{Flagicon|千葉県}}[[千葉県]] || {{自治体人口/千葉県|千葉市}}人 || 15 ||align=left | '''[[柏市]]''' || {{Flagicon|千葉県}}[[千葉県]] || {{自治体人口/千葉県|柏市}}人
|-
| style="background:#f0f0f0"| 6 ||align=left | '''[[相模原市]]''' || {{Flagicon|神奈川県}}[[神奈川県]] || {{自治体人口/神奈川県|相模原市}}人 || 16 ||align=left | '''[[横須賀市]]''' || {{Flagicon|神奈川県}}[[神奈川県]] || {{自治体人口/神奈川県|横須賀市}}人
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| style="background:#f0f0f0"| 8 ||align=left | '''[[川口市]]''' || {{Flagicon|埼玉県}}[[埼玉県]] || {{自治体人口/埼玉県|川口市}}人 || 18 ||align=left | '''[[川越市]]''' || {{Flagicon|埼玉県}}[[埼玉県]] || {{自治体人口/埼玉県|川越市}}人
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| style="background:#f0f0f0"| 10 ||align=left | '''[[宇都宮市]]''' || {{Flagicon|栃木県}}[[栃木県]] || {{自治体人口/栃木県|宇都宮市}}人 || 20 ||align=left | '''[[所沢市]]''' || {{Flagicon|埼玉県}}[[埼玉県]] || {{自治体人口/埼玉県|所沢市}}人
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;[[政令指定都市]]
:横浜市({{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|横浜市}}}}人)・川崎市({{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|川崎市}}}}人)・さいたま市({{formatnum:{{自治体人口/埼玉県|さいたま市}}}}人)・千葉市({{formatnum:{{自治体人口/千葉県|千葉市}}}}人)・相模原市({{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|相模原市}}}}人)
;[[中核市]]
: 船橋市({{formatnum:{{自治体人口/千葉県|船橋市}}}}人)・八王子市({{formatnum:{{自治体人口/東京都|八王子市}}}}人)・宇都宮市({{formatnum:{{自治体人口/栃木県|宇都宮市}}}}人)・柏市({{formatnum:{{自治体人口/千葉県|柏市}}}}人)・横須賀市({{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|横須賀市}}}}人)・高崎市({{formatnum:{{自治体人口/群馬県|高崎市}}}}人)・[[川越市]]({{formatnum:{{自治体人口/埼玉県|川越市}}}}人)・[[越谷市]]({{formatnum:{{自治体人口/埼玉県|越谷市}}}}人)・前橋市({{formatnum:{{自治体人口/群馬県|前橋市}}}}人)・[[水戸市]]({{formatnum:{{自治体人口/茨城県|水戸市}}}}人)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
<!-- 文献、参照ページ -->
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!-- 実際に参考にした文献一覧一覧 -->
* {{Cite |和書 |author=|title=日本地名大百科 |date=1996 |publisher=小学館 |isbn=4-09-523101-7 |ref=日本地名大百科 }}
== 関連項目 ==
{{Sisterlinks
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}}
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* [[関東]]
* [[関東ローム層]]
* [[関東ローカル]]
* [[東国]]
* [[坂東]]
* [[日本の地域]]
* [[首都圏 (日本)]]
* [[広域関東圏]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%9C%B0%E6%96%B9 |
3,514 | キーボード | キーボード(英: keyboard)は、鍵盤を意味する語。 | [
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] | キーボードは、鍵盤を意味する語。 キーボード (楽器) - 鍵盤楽器の鍵盤のことだが、もっぱらシンセサイザーと一体化されているそれを指すことが多い。MIDI信号を送信するだけのMIDIキーボードといったものもある。
キーボード (コンピュータ) - コンピュータへの入力機器、鍵盤。 | '''キーボード'''({{lang-en-short|keyboard}})は、[[鍵盤 (曖昧さ回避)|鍵盤]]を意味する語。
{{wiktionary}}
* [[キーボード (楽器)]] - [[鍵盤楽器]]の[[鍵盤 (楽器)|鍵盤]]のことだが、もっぱら[[シンセサイザー]]と一体化されているそれを指すことが多い。[[MIDI]]信号を送信するだけのMIDIキーボードといったものもある。
* [[キーボード (コンピュータ)]] - [[コンピュータ]]への[[入力機器]]、[[鍵盤 (入力装置)|鍵盤]]。
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{{デフォルトソート:きいほおと}}
[[Category:英語の語句]] | null | 2022-04-03T10:11:53Z | true | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89 |
3,519 | 6月1日 | 6月1日(ろくがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から152日目(閏年では153日目)にあたり、年末まであと213日ある。
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] | 6月1日(ろくがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から152日目(閏年では153日目)にあたり、年末まであと213日ある。 | {{カレンダー 6月}}
'''6月1日'''(ろくがつついたち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から152日目([[閏年]]では153日目)にあたり、年末まであと213日ある。
== できごと ==
[[Image:Loutherbourg%2C_The_Glorious_First_of_June.jpg|thumb|200x200px|[[フランス革命戦争]]最大の海戦、[[栄光の6月1日]](1794)]]
[[Image:BosqueRedondoByPhilKonstantin.jpg|thumb|200x200px|[[ロング・ウォーク・オブ・ナバホ#ボスケ・レドンド条約|ボスケ・レドンド条約]]締結(1868)、[[ナバホ族]]は元の土地へ。画像は署名の地]]
[[Image:Hibiya_Park_Map_1907.jpg|thumb|180px|[[日比谷公園]]開園(1903)。画像は1907年の『東京案内』より]]
[[Image:Herbert_Ponting_Scott%27s_ship_Terra_Nova_1910.jpg|thumb|180px|[[ロバート・スコット]]の[[南極]]探検隊が出発(1910)。画像は隊の船テラ・ノヴァ号]]
[[Image:Rikken_Minseito_Headquaters.JPG|thumb|200x200px|[[立憲民政党]]結成(1927)。戦前の二大政党制の片翼となる。画像は本部]]
[[Image:USS_Washington_%28BB-56%29_launching_ceremony%2C_1_June_1940.jpg|thumb|200x200px|米海軍の[[ワシントン (BB-56)|戦艦ワシントン]]進水(1940)]]
[[Image:Bundesarchiv_Bild_183-L19113%2C_Kreta%2C_kriegsgefangene_britische_Soldaten.jpg|thumb|200x200px|[[クレタ島の戦い]]終結(1941)。画像は降伏するイギリス兵]]
[[Image:Jnr_mainoffice_plate.jpg|thumb|200x200px|[[日本国有鉄道]]発足(1949)]]
[[Image:1JPY.JPG|thumb|200px|現行の[[一円硬貨]]発行(1955)]]
[[Image:Kurobe_dam_01.jpg|thumb|200x200px|[[立山黒部アルペンルート]]全通(1971)。画像はルート上にある[[黒部ダム]]]]
[[Image:Cnncenter.jpg|thumb|200x200px|アメリカ合衆国のニュース専門放送局[[CNN]]開局(1980)]]
[[Image:Kourei_mark.svg|thumb|100px|[[高齢運転者標識]]義務化(2008)]]
[[Image:Voo_Air_France_447-2006-06-14.jpg|thumb|200x200px|[[エールフランス447便墜落事故]](2009)]]
* [[193年]] - [[ローマ皇帝]][[ディディウス・ユリアヌス]]が[[元老院 (ローマ)|元老院]]の決定により処刑される。
* [[907年]]([[天祐 (唐)|天祐]]4年/[[開平 (五代後梁)|開平]]元年[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]) - [[朱全忠]]が[[唐]]の[[哀帝 (唐)|哀帝]]に[[禅譲]]させて皇帝に即位。唐の滅亡。
* [[1533年]] - [[アン・ブーリン]]がイングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の正式な王妃となる。
* 1533年 - {{仮リンク|ペドロ・デ・エレディア|en|Pedro de Heredia}}が[[カルタヘナ・デ・インディアス]]を建設。
* [[1569年]]([[永禄]]12年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]) - [[今川氏真]]が[[掛川城]]を開城して[[伊豆国|伊豆]]へと落ち延びる。[[戦国大名]]としての[[今川氏]]の滅亡。
* [[1615年]]([[慶長]]20年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]: 徳川家康が京都・[[二条城]]を出陣。
* [[1660年]] - [[メアリ・ダイアー]]が[[クエーカー|クエーカー教]]禁止令により[[ボストン]]で絞首刑。北米大陸最後の[[殉教]]者。
* [[1670年]]([[ユリウス暦]][[5月22日]]) - イングランド王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]とフランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が[[ドーヴァーの密約]]を締結。
* [[1792年]] - [[バージニア州]]の旧ケンタッキー郡がバージニア州から分離して、[[アメリカ合衆国]]15番目の州・[[ケンタッキー州]]となる。
* [[1794年]] - [[栄光の6月1日]]。[[フランス革命戦争]]における最初にして最大の海戦。
* [[1796年]] - [[南西部領土 (アメリカ合衆国)|南西部領土]]が州に昇格して、アメリカ合衆国16番目の州・[[テネシー州]]となる。
* [[1812年]] - [[米英戦争]]: [[ジェームズ・マディソン]]米大統領の演説の後、議会でイギリスへの宣戦布告の可否を問う投票が行われ、上下院ともに可決。18日に開戦<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/event/War-of-1812 |title=War of 1812 United Kingdom-United States history |accessdate=21 May 2023 |publisher=Britannica}}</ref>。([[米英戦争の原因]])
* [[1823年]]([[文政]]6年[[4月22日 (旧暦)|4月22日]]) - [[千代田の刃傷]]。
* [[1831年]] - イギリスの探検家[[ジェイムズ・クラーク・ロス]]が[[北磁極]]に到達。
* [[1855年]] - [[ウィリアム・ウォーカー]]が57人の部下を従えて[[ニカラグア]]に上陸。
* [[1857年]] - [[シャルル・ボードレール]]の詩集『[[悪の華]]』が月刊誌『[[両世界評論]]』に掲載開始。
* [[1868年]] - [[アメリカ合衆国]]と[[ナバホ族]]指導者が[[ロング・ウォーク・オブ・ナバホ#ボスケ・レドンド条約|ボスケ・レドンド条約]]を締結。アリゾナとニューメキシコに移住させられていたナバホ族が元の土地に戻る。
* [[1870年]] - メアリー・E・キダーが、横浜の宗興寺にあるヘボン施療所で私塾を開講。[[フェリス女学院]]の前身となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://magazine.ferris.ac.jp/20200601/6684/ |title=フェリス女学院創設者メアリー・E. キダーについて~6月1日は創立記念日です~ |access-date=21 May 2023 |publisher=[[フェリス女学院]] |date=1 Jun 2020}}</ref>。
* [[1875年]] - [[東京気象台]]が設置される。
* [[1878年]] - [[東京証券取引所]]の前身である[[東京株式取引所]]が営業を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jpx.co.jp/corporate/about-jpx/history/01-02.html |title=沿革 |accessdate=21 May 2023 |publisher=JPX 日本証券取引所グループ}}</ref>。
* [[1879年]] - [[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト]](ナポレオン4世)が[[ズールー戦争]]で戦死。[[ナポレオン3世]]の直系が途絶える。
* [[1884年]] - 日本初の[[天気予報]]が出され警察署・派出所に掲示。
* [[1886年]] - [[アメリカ合衆国南部]]の鉄道線路11,000マイルが、2日間の工事で5[[フィート]](1,524mm)軌間から[[標準軌]](4フィート8.5インチ=1,435mm)に[[改軌]]。
* [[1888年]] - 帝大気象台と海軍観象台の天文部門を合併して東京大学に移管し、麻布飯倉に[[東京天文台]]を創設。
* [[1890年]] - [[アメリカ合衆国国勢調査局]]が[[国勢調査]]の集計に[[ハーマン・ホレリス]]の[[タビュレーティングマシン]](パンチカードシステム)を使用開始。
* [[1897年]] - 福岡県八幡村に[[官営八幡製鐵所|官営製鐵所]]が開庁。
* [[1903年]] - [[日比谷公園]]が開園。
* [[1910年]] - [[幸徳事件]]([[大逆事件]]): [[幸徳秋水]]が逮捕される。
* 1910年 - [[ロバート・スコット]]を隊長とするイギリスの[[南極]]探検隊が[[南極点]]を目指し出発。
* [[1918年]] - [[第一次世界大戦]]: {{仮リンク|ベロー・ウッドの戦い|en|Battle of Belleau Wood}}が始まる。
* 1918年 - [[板東俘虜収容所]]にて[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]が日本初演<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.freude.or.jp/?page_id=681 |title=第8回 日本で初めて「第九」が演奏された場所 板東俘虜収容所 |work=フロイデ豆知識 |accessdate=2020-07-13 |publisher=特定非営利活動法人 浜松フロイデ合唱団 |date=4 Oct 2015}}</ref>。
* [[1927年]] - [[憲政会]]と[[政友本党]]が合同し、[[立憲民政党]]が成立する。
* [[1935年]] - [[日本放送協会]](NHK)が海外向けラジオ放送(後の[[NHKワールド・ラジオ日本]])を開始。
* [[1936年]] - NHKで[[国民歌謡]]の放送開始。
* [[1940年]] - [[アメリカ海軍]]の[[戦艦]]「[[ワシントン (BB-56)|ワシントン]]」が進水。
* 1940年 - 日本で[[配給 (物資)|配給]]切符制度が本格化。以降、[[米]]、[[味噌]]、[[醤油]]、[[塩]]、[[マッチ]]、[[砂糖]]、[[木炭]]など[[生活必需品]]10品目について自由な売買に制限が加えられた<ref>香田徹也「昭和15年(1940年)林政・民有林」『日本近代林政年表 1867-2009』p420 日本林業調査会 2011年 {{全国書誌番号|22018608}}</ref>。
* [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[クレタ島の戦い]](メルクール作戦)が、ドイツ軍の[[クレタ島]]全島占拠により終結。
* [[1943年]] - [[英国海外航空|BOAC]]777便がドイツ軍の[[Ju 88 (航空機)|Ju 88]]爆撃機により撃墜([[:en:BOAC Flight 777]])。当該便に搭乗していると思われたイギリス首相[[ウィンストン・チャーチル]]暗殺のためだったが、実際に搭乗していた映画俳優の[[レスリー・ハワード]]が犠牲となる。
* [[1944年]] - 関西急行鉄道と南海鉄道が合併して[[近畿日本鉄道]](近鉄)を設立。
* [[1946年]] - 第二次世界大戦中に[[ルーマニア]]の[[総統#ルーマニア|Conducător(指導者)]]であった[[イオン・アントネスク]]が、ルーマニア共産政権により戦犯として銃殺刑に処せられる。
* 1946年 - [[ベトナム]]に日本軍将兵を教官とする[[クァンガイ陸軍士官学校]]が設立。
* [[1947年]] - 近畿日本鉄道から旧南海鉄道の路線を分離、高野山電気鉄道に譲渡して[[南海電気鉄道]]に改称。
* [[1948年]] - [[東京急行電鉄]](通称:[[大東急]])が解体され、[[小田急電鉄]](2代目)・京王帝都電鉄(後の[[京王電鉄]])・[[京浜急行電鉄]]が設立。
* [[1949年]] - [[日本国有鉄道]]が[[運輸省]]から独立し、公社化。
* 1949年 - [[日本専売公社]]が公社化。
* 1949年 - [[総理府]]・[[郵政省]]・[[電気通信省]]・[[地方自治庁]]・特別調達庁・[[経済安定本部]]などが設置される。
* 1949年 - 前日に施行された国立学校設置法に基づき、新制[[国立大学]]14校が開学<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shinshu-u.ac.jp/institution/library/archives/news/upload/afb587df8fdb3dd9b9b9a64ad0c5c47e.pdf |title=6月1日は信州大学の誕生日:開学記念日です |access-date=21 May 2023 |publisher=[[信州大学]] |format=[[PDF]] |page=1/4}}</ref>。
* [[1950年]] - [[電波三法]]施行。無線通信が一般に開放される。
* 1950年 - [[北海道開発庁]]設置。
* 1950年 - [[秋田県]][[鷹巣町]]で大火。約650戸を焼失。
* [[1952年]] - [[ヴォルガ・ドン運河]]が開通。
* [[1953年]] - [[日本国有鉄道]]が車両形式称号規程改正を実施。
* [[1955年]] - 現行の[[一円硬貨]]発行<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000184155 |title=現行硬貨(1円,5円,10円,50円,100円,500円)が流通した年月日を知りたい。 |work=レファレンス協同データベース |accessdate=21 May 2023 |publisher=[[国立国会図書館]]}}</ref>。日本初のアルミ硬貨。
* 1955年 - 有限会社中村製作所(後の[[ナムコ]]、後の[[バンダイナムコゲームス]])創業。
* [[1958年]] - [[アルジェリア戦争]]に端を発する[[フランス第四共和政]]政府の混乱収拾のため、政府の要請により[[シャルル・ド・ゴール]]が首相に就任。
* 1958年 - 大阪のラジオ局・新日本放送が社名を[[毎日放送]](MBS)に変更。
* 1958年 - [[RSK山陽放送|ラジオ山陽(当時)]]のテレビ部門、[[RSKテレビ|ラジオ山陽テレビ(後のRSKテレビ)]]開局。
* [[1959年]] - [[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]]と[[大阪テレビ放送]]が合併、[[朝日放送テレビ|朝日放送テレビ(ABCテレビ)]]として放送開始。
* 1959年 - 『[[ヤン坊マー坊天気予報]]』放送開始。
* [[1960年]] - [[福井放送]]・[[琉球放送]]、両局のテレビジョン放送開始。
* [[1962年]] - [[アドルフ・アイヒマン]]が[[テルアビブ]]のラムレ刑務所で処刑。
* [[1963年]] - イギリス領[[ケニア]]が自治権を獲得。([[マダラカデー]])
* [[1965年]] - 福岡県の[[三井山野炭鉱]]でガス爆発。237人が死亡、38人が負傷した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishinippon.co.jp/wordbox/4423/ |title=山野炭鉱ガス爆発 |access-date=21 May 2023 |publisher=[[西日本新聞]]}}</ref>。
* [[1970年]] - [[エフエム福岡]](当時・福岡エフエム音楽放送)開局<ref>{{Cite web|和書|url=https://fmfukuoka.co.jp/company/ |title=会社案内 |accessdate=21 May 2023 |publisher=FM FUKUOKA(エフエム福岡)}}</ref>。
* 1970年 - [[小作浄水場]]通水。
* [[1971年]] - [[立山黒部アルペンルート]]が全通。
* [[1979年]] - [[ローデシア|ローデシア共和国]]が[[ジンバブエ・ローデシア]]に改称し、{{仮リンク|アベル・ムゾレワ|en|Abel Muzorewa}}を首班とする建国以来初の黒人政権が発足。
* [[1980年]] - 24時間[[ニュース]]専門チャンネル[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]が開局。
* [[1983年]] - [[東武熊谷線]]が廃止。
* [[1984年]] - [[京セラ]]など25社が第二電電企画(後の[[第二電電]](DDI)、現在の[[KDDI]])を設立。
* [[1986年]] - [[上野動物園]]の[[ジャイアントパンダ|パンダ]]・[[トントン (ジャイアントパンダ)|トントン]]が誕生。日本で初めてパンダの人工受精による出産に成功。
* [[1988年]] - [[中距離核戦力全廃条約]]が発効。
* 1988年 - [[自衛官護国神社合祀事件|自衛官護国神社合祀裁判]]で、最高裁が上告を棄却し合憲判断が確定。
* [[1989年]] - [[日本放送協会|NHK]]が[[NHK BS1|衛星第1テレビ]]及び[[NHK衛星第2テレビジョン|衛星第2テレビ]]の本放送を開始。
* 1989年 - [[FM802]]が開局。
* [[1990年]] - [[大阪モノレール本線]]の[[千里中央駅]] - [[南茨木駅]]間が開業。
* [[1993年]] - [[サラエヴォ包囲]]: [[サラエボ]]西方のドブリニャで、[[砲弾]]2発が試合中のサッカー場に着弾。11人が死亡し100名が負傷<ref>{{Cite web |url=http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/june/1/newsid_2493000/2493441.stm |title=BBC ON THIS DAY 1 June 1993: Serb attack on football match kills 11 |accessdate=21 May 2023 |publisher=BBC}}</ref>。
* [[1999年]] - [[アメリカン航空1420便オーバーラン事故]]。11人死亡。
* 1999年 - [[ソニー]]、子犬型の[[ペット]][[ロボット]]・[[AIBO]]をインターネット限定発売。わずか20分で完売。
* [[2000年]] - [[特許法条約]]調印。
* [[2001年]] - [[ネパール王族殺害事件]]。
* [[2003年]] - [[中華人民共和国]]が[[三峡ダム]]の湛水を開始<ref>{{Cite web|和書|url=http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/WAll.cgi?db3=019 |title=Sanxia[三峡ダム、Three Gorges] |work=ダム便覧 |accessdate=21 May 2023 |publisher=一般財団法人日本ダム協会}}</ref>。
* [[2004年]] - [[佐世保小6女児同級生殺害事件]]。
* [[2005年]] - [[唐]]の第6代[[玄宗 (唐)|玄宗]]皇帝の壁画が発見される。[[元 (王朝)|元]](1271-1368年)の製作といわれる。
* 2005年 - 日本で[[自動二輪車]]における[[オートマチック限定免許]]制度が始まる。
* [[2006年]] - 日本で改正[[道路交通法]]が施行され「駐禁取締りの民間委託」が開始され、[[駐車監視員]]による放置駐車の確認業務が始まった<ref>{{Cite web|和書|url=https://response.jp/article/2006/06/01/82553.html |title=駐禁取締りの民間委託、始まる |date=1 Jun 2006 |accessdate=21 May 2023 |publisher=[[Response.]]}}</ref>。
* [[2007年]] - [[安楽死]]のための自殺装置を作動させ殺人罪で収監されていた医師[[ジャック・ケヴォーキアン]]が、健康状態悪化のため仮釈放。
* [[2008年]] - 日本で改正道路交通法が施行され、後部座席の[[シートベルト]]の着用と75歳以上のドライバーに対し[[高齢運転者標識|もみじマーク]]の貼付が義務化。
* [[2009年]] - [[ゼネラルモーターズ]](GM)が、[[アメリカ合衆国|米]][[連邦倒産法第11章]](日本の[[民事再生法]])の適用を申請。
* [[2010年]] - 日本で[[子ども手当]]の支給開始。
* [[2012年]] - 日本円と中国人民元の直接取引が開始される。
* [[2016年]] - [[2017年]][[4月1日]]に予定されていた[[消費税]]10%への増税を[[2019年]][[10月]]に再延期することを発表。
* [[2018年]] - [[スペイン下院]]議会にて[[マリアーノ・ラホイ・ブレイ|マリアーノ・ラホイ]][[スペインの首相|首相]]への不信任決議が可決。翌日、[[ペドロ・サンチェス]]が新首相に就任<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3176906|title=スペイン議会、ラホイ首相の不信任案可決 新首相誕生へ|work=AFP BB NEWS|date=1 Jun 2018|accessdate=21 May 2023}}</ref>。
* [[2019年]] - [[金沢シーサイドライン新杉田駅逆走事故]]が発生<ref>{{Cite web|和書|title=シーサイドライン時速20キロ以上で衝突か 全車両モーター動く |publisher=[[毎日新聞]] |date=3 Jun 2019 |url=https://mainichi.jp/articles/20190603/k00/00m/040/247000c |accessdate=21 May 2023}}</ref>。[[自動案内軌条式旅客輸送システム|自動運転列車]]による逆走衝突事故。
* [[2023年]] - 将棋の藤井聡太が名人戦に勝利し、史上最年少でタイトル7冠を達成<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/701295 |title=藤井聡太竜王が最年少で7冠達成 20歳10カ月…名人戦で渡辺明名人を破る |access-date=4 Jun 2023 |publisher=[[東京中日スポーツ]] |date=1 Jun 2023}}</ref>。
<!--
=== 日本の自治体改編 ===
* [[1889年]] - [[岡山県]][[岡山市]]が市制施行。
* [[1902年]] - [[山口県]]赤間関市が[[下関市]]に改称。
* [[1937年]] - 福島県[[平市]](後の[[いわき市]])が市制施行。
* [[1942年]] - 静岡県[[富士宮市]]が市制施行。
* [[1943年]] - 愛知県[[豊川市]]・[[春日井市]]が市制施行。
* [[1951年]] - 徳島県[[小松島市]]が市制施行。
* [[1953年]] - 宮城県[[気仙沼市]]が市制施行。
* [[1954年]] - 茨城県[[下妻市]]、新潟県[[糸魚川市]]、[[栃尾市]](後の[[長岡市]])、[[直江津市]](後の[[上越市]])、愛知県[[江南市]]・[[守山市 (愛知県)|守山市]](後の[[名古屋市]][[守山区]])、京都府[[宮津市]]、兵庫県[[三木市]]、岡山県[[新見市]]が市制施行。
* [[1959年]] - 新潟県[[白根市]](後の[[新潟市]])、長野県[[更埴市]](後の[[千曲市]])が市制施行。
* [[1986年]] - 茨城県[[牛久市]]が市制施行。-->
== 予定 ==
* [[2030年]] - [[アフリカ]]、[[ヨーロッパ]]、[[アジア]]の広い地域で[[日食]]が発生。金環日食も観測され、日本では[[北海道]]の大部分が中心食帯に入る。詳しくは「[[2030年6月1日の日食]]」を参照。
== 誕生日 ==
[[Image:CarlvonClausewitz.jpg|thumb|upright|[[軍事学]]者[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ]](1780-1831)]]
{{multiple image
| footer = 物理学者[[ニコラ・レオナール・サディ・カルノー]](1796-1832)誕生。[[カルノーサイクル]]を研究。
| image1 = Sadi_Carnot.jpeg
| width1 = 80
| alt1 = ニコラ・レオナール・サディ・カルノー
| image2 = Carnot cycle p-V diagram.svg
| width2 = 120
| alt2 = カルノーサイクル
}}
[[Image:Mikhail_Glinka_by_Ilya_Repin.jpg|thumb|100px|作曲家[[ミハイル・グリンカ]](1804-1857)]]
[[Image:Otto_of_Greece.jpg|thumb|100px|[[ギリシャ王国]]初代国王[[オソン1世]](1815-1867)]]
[[Image:John_Masefield_1913.jpg|thumb|upright|作家[[ジョン・メイスフィールド]](1878-1967)]]
[[Image:Mejiro-ga-oka_Church.jpg|thumb|180x180px|建築家、[[遠藤新]](1889-1951)。画像は目白ヶ丘教会(1950)]]
[[Image:30 St Mary Axe - The Gherkin from Leadenhall St - Nov 2006.jpg|thumb|upright|建築家[[ノーマン・フォスター]](1935-)。画像は[[30セント・メリー・アクス]](2004)]]
[[Image:Kokonoe.jpg|thumb|200px|upright|第58代横綱、[[千代の富士貢]](1955-2016)。画像は2010年1月(54歳)の九重親方]]
[[Image:Yasuhiro_Yamashita_2.jpg|thumb|200px|柔道家、[[山下泰裕]](1957-)]]
* [[1563年]] - [[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシル]]<ref>{{Cite web |title=Robert Cecil, 1st earl of Salisbury {{!}} English statesman |url=https://www.britannica.com/biography/Robert-Cecil-1st-earl-of-Salisbury |access-date=21 May 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[イングランド王国|イングランド]]の政治家(+ [[1612年]])
* [[1633年]] - [[ジェミニアーノ・モンタナリ]]、[[天文学者]](+ [[1687年]])
* [[1642年]]([[寛永]]19年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]) - [[一柳直治]]、第2代[[小松藩|小松藩主]]、(+ [[1716年]])
* [[1744年]] - [[クリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマン]]、[[牧師]]、[[教育関係人物一覧|教育者]](+ [[1811年]])
* [[1752年]]([[宝暦]]2年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]) - [[松平康哉]]、第5代[[津山藩|津山藩主]]、(+ [[1794年]])
* [[1778年]]([[安永]]7年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[土方義苗]]、第9代[[菰野藩|菰野藩主]]、(+ [[1845年]])
* [[1780年]] - [[カール・フォン・クラウゼヴィッツ]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]の軍事思想家(+ [[1831年]])
* [[1791年]] - [[ジョン・ネルソン (司法長官)|ジョン・ネルソン]]、[[アメリカ合衆国司法長官]](+ [[1860年]])
* [[1796年]] - [[ニコラ・レオナール・サディ・カルノー]]、[[物理学者]]、[[数学者]](+ [[1832年]])
* [[1804年]]([[ユリウス暦]]5月20日) - [[ミハイル・グリンカ]]、[[作曲家]](+ [[1857年]])
* [[1806年]] - [[ジョン・ブキャナン・フロイド]]、第24代[[アメリカ合衆国陸軍長官]](+ [[1863年]])
* [[1815年]] - [[オソン1世]]、[[ギリシャ王国|ギリシャ王]](+ [[1867年]])
* [[1832年]]([[天保]]3年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[徳川慶篤]]、第10代[[水戸藩|水戸藩主]]、[[徳川慶喜]]の兄(+ [[1868年]])
* [[1843年]](天保14年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]) - [[西郷従道]]、[[軍人]]、[[西郷隆盛]]の弟(+ [[1902年]])
* [[1865年]] - [[近藤虎五郎]]、土木技術者(+[[1922年]])
* [[1878年]] - [[ジョン・メイスフィールド]]、[[詩人]]、[[作家]](+ [[1967年]])
* [[1879年]] - [[F・W・クロフツ]]、[[推理作家]](+ [[1957年]])
* [[1889年]] - [[遠藤新]]、[[建築家]](+ [[1951年]])
* 1889年 - [[チャールズ・ケイ・オグデン]]、[[ベーシック英語]]創案者(+ [[1957年]])
* [[1892年]] - [[大塚博紀]]、空手家(+[[1982年]])
* [[1896年]] - [[宇田新太郎]]、[[工学者]](+ [[1976年]])
* [[1904年]] - [[佐多稲子]]、小説家(+ [[1998年]])
* [[1905年]] - [[澤村國太郎 (4代目)]]、歌舞伎役者(+[[1974年]])
* [[1906年]] - [[ウォルター・レッグ]]、レコーディングプロデューサー(+ [[1979年]])
* [[1907年]] - [[フランク・ホイットル]]、技術者(+ [[1996年]])
* 1907年 - [[ヤン・パトチカ]]、哲学者 (+ [[1977年]])
* [[1909年]] - [[シモン・ゴールドベルク]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[指揮者]](+ [[1993年]])
* [[1923年]] - [[鮎川弥一]]、実業家(+[[1991年]])
* [[1926年]] - [[マリリン・モンロー]]、女優(+ [[1962年]])
* 1926年 - [[アンディ・グリフィス]]、[[俳優]](+ [[2013年]])
* [[1929年]] - [[豊田達郎]]、実業家(+[[2017年]])
* 1929年 - [[ナルギス]]、女優(+ [[1981年]])
* [[1930年]] - [[ジョン・レモン]]、[[論理学|論理学者]](+ [[1966年]])
* [[1931年]] - [[有本義明]]、スポーツライター、プロ野球監督
* 1931年 - [[飯塚幸三]]、元[[経済産業省|通商産業省]][[技官]]、[[計量学|計量学者]]、[[計測工学|計測工学者]]
* [[1933年]] - [[横山光次]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1934年]] - [[徳南晴一郎]]、[[漫画家]](+ [[2009年]])
* 1934年 - [[パット・ブーン]]、[[歌手]]
* [[1935年]] - [[ノーマン・フォスター]]、建築家
* [[1937年]] - [[初瀬龍平]]、政治学者、[[神戸大学]][[名誉教授]]
* 1937年 - [[福地泡介]]、漫画家(+ [[1995年]])
* 1937年 - [[モーガン・フリーマン]]、[[俳優]]
* [[1938年]] - [[菅生浩]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]]
* [[1941年]] - [[ディーン・チャンス]]、元プロ野球選手(+ [[2015年]])
* [[1942年]] - [[石田正範]]、実業家(+[[2011年]])
* [[1943年]] - [[リチャード・グード]]、[[ピアニスト]]
* [[1945年]] - [[外木場義郎]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1946年]] - [[増田和俊]]、政治家
* 1946年 - [[富沢英彦]]、元陸上選手(+[[2018年]])
* [[1947年]] - [[ロン・ウッド]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[フェイセズ]]、[[ローリング・ストーンズ]])
* 1947年 - [[ジョナサン・プライス]]、俳優
* [[1951年]] - [[浅野孝已]]、ミュージシャン([[ゴダイゴ]])(+ [[2020年]])
* 1951年 - [[吉川元 (政治学者)|吉川元]]、[[政治学者|国際政治学者]]
* [[1952年]] - [[池辺忠則]]、元プロ野球選手
* [[1953年]] - [[工藤三郎]]、アナウンサー
* [[1955年]] - [[千代の富士貢]]、元[[大相撲]][[力士]]、第58代[[横綱]]、年寄13代[[九重 (相撲)|九重]](+ [[2016年]])
* [[1956年]] - [[稲吉紘実]]、[[コーポレートアイデンティティ|CI]]デザイナー、[[グラフィックデザイナー]]、[[芸術家]]
* 1956年 - [[荒木清寛]]、政治家
* [[1957年]] - [[山下泰裕]]、[[柔道家]]
* 1957年 - [[リチャード・オルセン]]、元プロ野球選手
* [[1958年]] - [[つまみ枝豆]]、タレント
* 1958年 - [[酒井圭一]]、元プロ野球選手
* 1958年 - [[伊藤正之]]、俳優
* [[1959年]] - [[中原朝日]]、元プロ野球選手
* 1959年 - [[アラン・ワイルダー]]、ミュージシャン([[デペッシュ・モード]]、[[リコイル (バンド)|リコイル]])
* 1959年 - [[マーティン・ブランドル]]、レーサー
* 1959年 - [[松本大 (声優)|松本大]]、声優
* [[1961年]] - [[佐藤誠一]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[エフゲニー・プリゴジン]]、ロシアの民間軍事会社「[[ワグネル・グループ]]」創設者(+ [[2023年]])
* [[1962年]] - [[横井司]]、[[文芸評論家]]
* 1962年 - [[冨田恵一]]、音楽家
* 1962年 - [[ジェシー・リード]]、元プロ野球選手
* [[1963年]] - [[堀江政生]]、[[アナウンサー]]
* 1963年 - [[斎藤智也]]、高校野球指導者
* [[1965年]] - [[三浦わたる]]、演歌歌手
* 1965年 - [[山田武史]]、元プロ野球選手
* 1965年 - {{仮リンク|ナイジェル・ショート|en|Nigel Short}}、チェスプレイヤー
* [[1967年]] - [[坂上忍]]、俳優
* 1967年 - [[中島陽子]]、女優
* 1967年 - [[長田江身子]]、元女優
* [[1968年]] - [[橋本恵子]]、女優
* 1968年 - [[夏川結衣]]、女優
* 1968年 - [[星安出寿保世]]、元大相撲力士
* 1968年 - [[ジェイソン・ドノヴァン]]、歌手
* [[1969年]] - [[奥村智洋]]、ヴァイオリニスト
* 1969年 - [[EXILE HIRO]]、プロデューサー、元ダンサー([[EXILE]])
* 1969年 - [[劉若英]]、歌手
* 1969年 - [[堀込高樹]]、ミュージシャン([[KIRINJI]])
* [[1970年]] - [[藤村大介 (写真家)|藤村大介]]、写真家
* 1970年 - [[神野卓哉]]、元[[サッカー選手]]
* 1970年 - [[カレン・マルダー]]、[[ファッションモデル]]、歌手
* [[1971年]] - 恒岡章、ミュージシャン([[Hi-STANDARD]])(+ [[2023年]])
* [[1973年]] - [[五十嵐隆]]、ミュージシャン([[syrup16g]])
* 1973年 - [[林孝哉]]、元プロ野球選手
* 1973年 - [[ハイジ・クラム]]、[[スーパーモデル]]
* 1973年 - [[アダム・ガルシア]]、ダンサー
* [[1974年]] - [[アラニス・モリセット]]、[[歌手]]
* [[1976年]] - [[サブロー|大村三郎]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[村上幸平]]、俳優
* [[1977年]] - [[横山道哉]]、元プロ野球選手
* 1977年 - [[稲塚貴一]]、アナウンサー
* [[1978年]] - [[池田綾子]]、[[シンガーソングライター]]
* 1978年 - [[玉野宏昌]]、元プロ野球選手
* [[1979年]] - [[高橋セナ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/高橋セナ/ |title=高橋セナ |access-date=23 May 2023 |publisher=[[NTTレゾナント|NTT Resonant Inc.]] |website=goo人名辞典}}</ref>、女優
* 1979年 - [[尾玉なみえ]]、[[漫画家]]
* 1979年 - [[マルクス・ペルソン|マルクス・アレクセイ・ペルソン]]、[[ゲームデザイナー]]、[[Minecraft]]制作者
* [[1980年]] - [[桐田英樹]]、元サッカー選手、指導者
* 1980年 - [[黄川田雅哉]]、俳優
* [[1981年]] - [[蓮見孝之]]、アナウンサー<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/anatsu/who/hasumi.html |title=蓮見孝之 |publisher=[[TBSテレビ]] |language=日本語 |accessdate=21 May 2023 |work=TBS Announcers}}</ref>
* 1981年 - [[石川賢 (1981年生の投手)|石川賢]]、元プロ野球選手
* 1981年 - [[カルロス・ザンブラーノ]]、元プロ野球選手
* [[1982年]] - [[石井あす香]]、女優
* 1982年 - [[攝津正]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[東和政]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[上本大海]]、サッカー選手
* 1982年 - [[ジュスティーヌ・エナン]]、[[テニス]]選手
* 1982年 - [[フィリップ・スティラー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1983年]] - [[中澤さえ]]、柔道選手
* 1983年 - [[平田実音]]、元タレント(+ [[2016年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://m.huffingtonpost.jp/2016/08/31/obituary-mio-hirata_n_11810154.html |title=平田実音さん死去、33歳 元子役・NHK「ひとりでできるもん!」初代舞ちゃん役 |publisher=[[ハフポスト]] |date=2 Sep 2016 |accessdate=21 May 2023}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=元子役・平田実音さん死去、33歳「ひとりでできるもん!」初代・舞ちゃん役 |publisher=[[スポーツニッポン]]|website=Sponichi Annex |date=1 Sep 2016 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/09/01/kiji/K20160901013273020.html |accessdate=21 May 2023}}</ref>)
* 1983年 - [[ムスタファ・サリフ]]、サッカー選手
* [[1984年]] - [[ステファン・セセニョン]]、サッカー選手
* [[1985年]] - [[佐野夢加]]、陸上選手
* 1985年 - [[アレッサンドロ・マエストリ]]、プロ野球選手
* 1985年 - [[山本脩斗]]、サッカー選手
* [[1986年]] - [[吉田亜咲]]、元グラビアアイドル
* 1986年 - [[ザルコ・マルコビッチ]]、ハンドボール選手
* [[1987年]] - [[北尾亘]]、俳優
* 1987年 - [[富田麻帆]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mahoch.fun/profile.html |title=富田麻帆 |publisher=SUNS ENTERAINMENT. |accessdate=21 May 2023 |website=MAHO TOMITA OFFICIAL WEBSITE}}</ref>、女優、歌手
* 1987年 - [[葉那子]]、タレント、ファッションモデル
* 1987年 - [[田中碧 (野球)|田中碧]]、元[[野球選手]]
* [[1988年]] - [[フランシスコ・ペゲロ]]、野球選手
* 1988年 - [[ハビエル・エルナンデス]]、サッカー選手
* 1988年 - [[玉置成実]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tamaki-nami.net/profile/index_jp.html |title=玉置 成実 PROFILE |access-date=21 May 2023 |publisher=HIGHWAY STAR, Inc. |website=玉置成実オフィシャルWEBサイト}}</ref>、歌手
* 1988年 - [[三橋淳 (テニス選手)|三橋淳]]、元テニス選手
* 1988年 - [[中村太地 (棋士)|中村太地]]、[[将棋棋士]]
* 1988年 - [[谷口杏奈]]、元グラビアアイドル
* [[1990年]] - [[深津英臣]]、[[バレーボール選手一覧|バレーボール選手]]
* 1990年 - [[髙木伴]]、元プロ野球選手
* [[1991年]] - 酒井貴士、お笑い芸人([[ザ・マミィ]])
* [[1992年]] - [[高橋伯明]]、俳優
* 1992年 - [[替地桃子]]、女優
* 1992年 - [[谷口雄也]]、元プロ野球選手
* [[1993年]] - [[西村洋平]]、サッカー選手
* [[1994年]] - [[輝大士]]、大相撲力士
* 1994年 - [[水野滉也]]、元プロ野球選手
* 1994年 - [[植万由香]]、アナウンサー
* [[1995年]] - [[前田亜美]]、アイドル(元[[AKB48]])
* 1995年 - [[中山絵梨奈]]、元モデル
* [[1996年]] - [[トム・ホランド (俳優)|トム・ホランド]]、俳優
* 1996年 - [[れじぇくん]]、[[YouTuber]]
* [[1997年]] - 森香穂、タレント、元アイドル(元[[STU48]])
* 1997年 - [[西洸人]]、アイドル([[INI]])、元ダンサー
* [[1998年]] - [[くがことみ]]、タレント、モデル
* 1998年 - [[桜あいり]]、元[[ジュニアアイドル]]
* 1998年 - 芹奈、歌手(元[[Little Glee Monster]])
* [[1999年]] - [[宮武祭]]、元女優、元歌手(元[[bump.y]])
* 1999年 - [[佐々木麻緒]]、女優
* [[2000年]] - 磯貝花音、アイドル(元STU48)
* 2000年 - [[羽野瑠華]]、タレント
* [[2003年]] - 新倉愛海、アイドル([[アップアップガールズ(2)]])
* 2003年 - [[松谷綺]]、キックボクサー
* 2003年 - [[三木つばき]]、スノーボード選手
* [[2004年]] - [[本田望結]]、女優、フィギュアスケート選手<ref>{{Cite web|和書|url=https://beamie.jp/t/miyu_honda.html |title=本田 望結 プロフィール |publisher=[[オスカープロモーション]] |accessdate=21 May 2023}}</ref>
* [[2005年]] - [[稲葉菜月]]、女優
* 生年不明 - [[あらいきよこ]]、漫画家
* 生年不明 - 緒形まふゆ、漫画家<ref>{{Cite web|和書|url=https://mangaseek.net/person/353.html |title=緒方まふゆ |accessdate=21 May 2023 |publisher=まんがseek}}</ref>
* 生年不明 - [[村川梨衣]]、声優<ref>{{Cite web|和書|url=https://columbia.jp/murakawarie/prof.html |title=村川梨衣 Profile |publisher=[[日本コロムビア]] |accessdate=21 May 2023}}</ref>
* 生年不明 - [[Lynn]]、声優<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.artsvision.co.jp/talent/506/ |title=Lynn |publisher=[[アーツビジョン]] |accessdate=21 May 2023 |language=日本語}}</ref>
* 生年不明 - [[島田岳洋]]、声優
* 生年不明 - [[新田英人]]、声優
* 生年不明 - MAHO EMPiRE、アイドル([[EMPiRE]])
* 生年不明 - [[藤村悠樹]]、声優
* 生年不明 - [[石田大祐]]、声優
== 忌日 ==
[[Image:Nikko-toshogu_okusha.jpg|thumb|200px|[[江戸幕府]]を開いた[[徳川家康]](1543-1616)没]]
[[Image:Mary_dyer_being_led.jpg|thumb|150px|[[メアリ・ダイアー]](1611-1660)処刑]]
[[Image:First Japanese treatise on Western anatomy.jpg|thumb|150px|蘭学者[[杉田玄白]](1733-1817)没。画像は『[[解体新書]]』(1774)]]
[[Image:HongXiuQuan_TianWangFu_Nanjing.jpg|thumb|150px|[[太平天国の乱]]を起こした[[洪秀全]](1812-1864)、包囲の中で没]]
[[Image:Napoléon IV on his deathbed (photomontage).jpg|thumb|150px|[[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト]](1856-1879)戦死]]
[[Image:Timbre_USA_John_Dewey_oblW_21101968.jpg|thumb|upright|哲学者[[ジョン・デューイ]](1859-1952)没]]
[[Image:Alabama_quarter%2C_reverse_side%2C_2003.jpg|thumb|upright|社会福祉事業家[[ヘレン・ケラー]](1880-1968)没]]
* [[1434年]] - [[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]、[[ポーランド王国|ポーランド王]](* [[1351年]])
* [[1439年]]([[正統 (明)|正統]]4年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]) - [[尚巴志王]]、[[琉球国王]](* [[1372年]])
* [[1609年]]([[慶長]]14年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]) - [[天野元政]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将、[[毛利元就]]の七男(* [[1559年]])
* [[1616年]]([[元和 (日本)|元和]]2年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]) - [[徳川家康]]、[[江戸幕府]]初代[[征夷大将軍|将軍]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/3791 |title=天下は天下の天下なり…徳川家康の遺言 今日は何の日 元和2年4月17日 |work=WEB 歴史街道 |date=15 Mar 2017 |accessdate=21 May 2023 |publisher=[[PHP研究所]]}}</ref>(* [[1543年]])
* [[1639年]] - [[メルキオル・フランク]]、[[作曲家]](* [[1579年]]頃)
* [[1660年]] - [[メアリ・ダイアー]]、[[クエーカー|クエーカー教徒]](* [[1611年]]?)
* [[1680年]]([[延宝]]8年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[林鵞峰]]、[[儒学者]](* [[1618年]])
* [[1815年]] - [[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]]、[[フランス軍]][[元帥]](* [[1753年]])
* [[1817年]]([[文化 (元号)|文化]]14年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]) - [[杉田玄白]]、蘭方医(* [[1733年]])
* [[1823年]] - [[ルイ=ニコラ・ダヴー]]、フランス軍元帥(* [[1770年]])
* [[1833年]] - [[オリヴァー・ウォルコット (財務長官)|オリヴァー・ウォルコット]]、第2代[[アメリカ合衆国財務長官]]、[[コネチカット州]]知事(* [[1760年]])
* [[1846年]] - [[グレゴリウス16世 (ローマ教皇)|グレゴリウス16世]]、第254代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1765年]])
* 1846年([[弘化]]3年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[徳川斉順]]、[[清水徳川家]]第3代当主、第11代[[紀州徳川家]]当主([[紀州藩|紀州藩主]])(* [[1801年]])
* [[1864年]]([[同治]]3年[[4月27日 (旧暦)|4月27日]]) - [[洪秀全]]、[[中国]]の[[宗教家]]、[[太平天国の乱|太平天国]]の指導者(* [[1812年]])
* [[1868年]] - [[ジェームズ・ブキャナン]]、第15代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1791年]])
* [[1879年]] - [[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト]]、[[フランス第二帝政|フランス]]皇太子(* [[1856年]])
* [[1907年]] - [[リヒャルト・ミュールフェルト]]、[[音楽家]](* [[1856年]])
* [[1909年]] - [[ジュゼッペ・マルトゥッチ]]、作曲家(* [[1856年]])
* [[1925年]] - [[トーマス・R・マーシャル]]、第28代[[アメリカ合衆国副大統領]](* [[1854年]])
* [[1933年]] - [[邦芳王]]、[[皇族]](* [[1880年]])
* [[1939年]] - [[デイヴィッド・ペック・トッド]]、[[天文学者]](* [[1855年]])
* [[1942年]] - [[エルネスト・パングー]]、作曲家(* [[1887年]])
* [[1943年]] - [[レスリー・ハワード]]、[[俳優]](* [[1893年]])
* [[1946年]] - [[イオン・アントネスク]]、[[ルーマニア王国|ルーマニア]]首相(* [[1882年]])
* 1946年 - [[ミハイ・アントネスク]]、ルーマニア外相(* [[1907年]])
* [[1948年]] - [[ジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタ]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](* [[1868年]])
* [[1952年]] - [[ジョン・デューイ]]、[[哲学|哲学者]](* [[1859年]])
* [[1961年]] - [[牧野良三]]、[[政治家]](* [[1885年]])
* [[1962年]] - [[アドルフ・アイヒマン]]、[[ナチス・ドイツ]]の高官および[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]のメンバー(* [[1906年]])
* [[1965年]] - [[カーリー・ランボー]]、[[アメリカンフットボール]]選手、コーチ(* [[1898年]])
* [[1968年]] - [[ヘレン・ケラー]]、教育家、社会福祉事業家(* [[1880年]])
* [[1969年]] - [[小島利男]]、元[[プロ野球選手]](* [[1913年]])
* [[1971年]] - [[ラインホルド・ニーバー]]、[[神学者]](* [[1892年]])
* [[1979年]] - [[ヤン・カダール]]、[[映画監督]](* [[1918年]])
* [[1981年]] - [[カール・ヴィンソン]]<ref>{{Cite web |title=Rep. Carl Vinson dies, June 1, 1981 |url=https://www.politico.com/story/2010/06/rep-carl-vinson-dies-june-1-1981-037973?_amp=true |access-date=21 May 2023 |publisher=POLITICO |date=1 Jun 2010}}</ref>、アメリカ合衆国下院議員(* [[1883年]])
* [[1984年]] - [[柳兼子]]、[[アルト]]歌手(* [[1892年]])
* 1984年 - [[アルヒープ・リューリカ]]、航空エンジニア(* [[1908年]])
* [[1988年]] - [[岩村忍]]、[[歴史学者]](* [[1905年]])
* [[1994年]] - [[ジャン=ジョエル・バルビエ]]、[[ピアニスト]](* [[1920年]])
* [[1997年]] - [[ニコライ・チーホノフ]]、[[ソビエト連邦]]首相(* 1905年)
* [[1998年]] - [[松田道雄]]、[[医師]][[育児]]評論家(* [[1908年]])
* [[2001年]] - [[ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ビレンドラ]]、[[ネパール]]国王(* [[1946年]])
* [[2003年]] - [[ジークフリート・フライターク]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](* [[1917年]])
* [[2005年]] - [[ジョージ・マイカン]]、[[バスケットボール]]選手(* [[1924年]])
* [[2006年]] - [[弥永昌吉]]、[[数学者]](* 1906年)
* [[2007年]] - [[石立鉄男]]、[[俳優]](* [[1942年]])
* [[2008年]] - [[イヴ・サン=ローラン]]、[[ファッションデザイナー]](* [[1936年]])
* [[2009年]] - [[伊香輝男]]、元プロ野球選手(* [[1934年]])
* [[2010年]] - [[大野一雄]]、[[舞踏家]](* [[1906年]])
* [[2015年]] - [[町村信孝]]、政治家(* [[1944年]])
* [[2019年]] - [[横山たかし]]、[[漫才師]]([[横山たかし・ひろし]])(* [[1948年]])
* [[2022年]] - [[田沼武能]]、[[写真家]](*[[1929年]])
{{-}}
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Shimazu Nariakira 1857.jpg|thumb|[[写真]]の日。画像は1857年に撮影された[[島津斉彬]]の写真([[ダゲレオタイプ]])|270x270ピクセル]]
[[Image:9-alimenti%2C_formaggi%2CTaccuino_Sanitatis%2C_Casanatense_4182..jpg|thumb|215x215px|世界[[牛乳]]の日、[[チーズ]]の日。画像は14世紀のもの]]
[[Image:Screws.jpg|thumb|[[ねじ]]の日。[[工業標準化法]]の公布(1949)を記念|200x200ピクセル]]
[[Image:Samoa_Familie.JPG|thumb|[[サモア]]の独立記念日。画像はサモアの1家族|200x200ピクセル]]
* [[子供の日|国際子供の日]]({{World}})
*: 1925年の「子どもの福祉世界会議」で、6月1日が「国際子どもの日(International Children’s Day)」と定められたことに由来する。およそ40ヶ国が子どもの日と定めている。国連が国際デーに定めた「世界子どもの日」は[[11月20日]]。しかし、国連は加盟国や地域の事情にあわせて、子どもの日を制定するよう勧告しているため、国によって日付は異なる。例えば日本では、端午の節句に由来した5月5日が子どもの日だが、アメリカやイギリス、フランスなどでは、特に子どもの日を制定していない<ref>{{Cite web|和書|url=https://hugkum.sho.jp/258841 |title=「世界子どもの日」と日本の「子どもの日」は違う? その目的・歴史・由来、取り組みを徹底解説! |access-date=23 May 2023 |publisher=[[小学館]] |website=HugKum}}</ref>。
* [[独立記念日]]({{WSM}})
* 大統領の日({{PLW}})
* [[氷]]の日({{JPN}})
*: 1985年(昭和60年)3月28日に日本冷凍事業協会の小野田正美副会長(当時)の発案により制定。江戸時代、旧暦の[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]に[[加賀藩]]が将軍家に氷を献上し「氷室の日」として祝っていたことから。
* [[気象記念日]]({{JPN}})
*: [[1875年]]([[明治]]8年)6月1日に東京気象台(現在の[[気象庁]])が気象観測を始めたことを記念して、東京気象台が[[1884年]](明治17年)に制定。
* NHK[[国際放送]]記念日({{JPN}})
*: [[1935年]](昭和10年)6月1日に、社団法人日本放送協会が[[短波]]による海外向けラジオ放送[[NHKワールド・ラジオ日本|ラジオ日本]]の本放送を開始した。
* [[電波の日]]({{JPN}})
*: [[1950年]]([[昭和]]25年)6月1日に[[電波三法]]が施行されたことを記念して、[[1951年]](昭和26年)に制定。
* [[写真の日]]({{JPN}})
*: [[日本写真協会]]が[[1951年]]に制定。[[1841年]](天保12年)6月1日に上野俊之丞が薩摩藩主[[島津斉彬]]を撮影し、俊之丞の息子・[[上野彦馬]]の口述による記事「日本写真の起源」を元に、これが日本初の写真撮影であるとしてこの日が記念日とされた。後の研究で、それより以前にも写真撮影が行われていたことがわかっている。
* [[マダラカデー]]({{KEN}})
*: [[1963年]]のこの日に自治権を獲得したことを記念。同年12月にイギリスから独立。
* [[善意の日]]({{JPN}} {{flag|兵庫県}})
*: 1964年(昭和39年)6月1日に兵庫県善意銀行の設立1周年を記念して制定した。
* [[ねじ]]の日({{JPN}})
*: ねじ商工連盟が[[1976年]](昭和51年)に制定。[[1949年]](昭和24年)6月1日に[[日本産業規格|JIS規格]]の基本法である工業標準化法(現:[[産業標準化法]])が公布されたことを記念。
* [[人権擁護委員]]の日({{JPN}})
*: [[全国人権擁護委員連合会]]が[[1982年]](昭和62年)に制定。[[1981年]](昭和56年)6月1日に[[人権擁護委員法]]が施行されたことを記念。
* [[麦茶]]の日({{JPN}})
*: 日本麦茶工業協同組合が[[1986年]](昭和61年)に制定。6月は麦茶の原料である[[大麦]]の収穫始めであり、その1日目を記念日とした。
* 梅肉エキスの日({{JPN}})
*: [[大阪府]][[摂津市]]の[[梅研究会]]が[[1987年]](昭和62年)に制定。梅の実が熟す最初の日と言われていることから。これとは別に[[6月6日]]が[[ウメ|梅]]の日となっている<ref>{{Cite book|和書 |editor=加瀬清志 |title=366日記念日事典 上 |publisher=[[創元社]] |year=2020 |page=185 |isbn=978-4422021140}}</ref>。
* [[マリリン・モンロー]]の日({{USA}})
*: [[ロサンゼルス]]市と[[ハリウッド]]商工会議所が[[1992年]]に制定。[[1926年]]のマリリン・モンローの誕生日を記念。
* [[チューインガム]]の日({{JPN}})
*: 日本チューインガム協会が[[1994年]]([[平成]]6年)に制定。[[平安時代]]、元日と6月1日に餅などの固いものを食べて健康を祈る[[歯固め]]の儀式があったことから。
* [[景観の日]]({{JPN}})
*: 日本の景観を良くする国民大会で6月1日を景観の日とすると決議されたことを踏まえ、[[2005年]]国土交通省、農林水産省、環境省が制定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/toshi/townscape/toshi_townscape_tk_000019.html |title=景観:6月1日は景観の日 |publisher=[[国土交通省]] |accessdate=21 May 2023}}</ref>。
* 世界牛乳の日 (World Milk Day)({{World}})、[[牛乳]]の日({{JPN}})
*: [[国際連合食糧農業機関]]が[[2001年]]にWorld Milk Dayを制定したのを受け、[[社団法人]][[日本酪農乳業協会]]が[[2007年]]に牛乳の日を定めた。なお、[[那須塩原市]]畜産振興会は2007年より、[[9月2日]]を牛乳の日としている。
* 鮎の日({{JPN}})
*: [[2014年]][[全国鮎養殖漁業組合連合会]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.zen-ayu.jp/ |title=笑顔(きち)を呼ぶ魚。「鮎」。全鮎|全国鮎養殖漁業組合連合会 |publisher=全国鮎養殖漁業協同組合連合会 |accessdate=21 May 2023}}</ref>が制定。日本古来の和食文化を代表する鮎の火を消さないために、多くの消費者の方に呼びかけることが目的。また、上品で淡泊な味わいから「清流の女王」とも呼ばれている日本固有の魚で、独特な香りがすることから「香魚」とも呼ばれる鮎の美味しさをより多くの人に知ってもらうことも目的のひとつ。日付は、昔から鮎の本格的な旬を迎えるのが6月とされていることから。また、全国的に鮎漁の解禁日が6月1日とされていることから<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.zen-ayu.jp/activity/ |title=私たちの取り組み。 2015 6月1日『鮎の日』制定 |publisher=全国鮎養殖漁業協同組合連合会 |accessdate=21 May 2023}}</ref>。
* [[鮎]]釣解禁日({{JPN}})
* [[バッジ]]の日({{JPN}})
*: 「気象記念日」の「気象」を「徽章」にかけたもの。
* [[チーズ]]の日({{JPN}})
*: 「写真の日」であることから、写真を撮る時の掛け声「はいチーズ」にかけたもの。
* [[真珠]]の日({{JPN}})
*: 日本真珠振興会が制定。6月の[[誕生石]]が真珠であることからその1日目を記念日とした。
* 探偵業の日 ({{JPN}})
*: 探偵業の日制定委員会が令和3年に制定。探偵業の業務の適正化に関する法律の施行日を探偵業の日と定めた。
* [[衣替え]]({{JPN}})
* [[TUBE#概要|TUBE DAY]]({{USA}} [[ハワイ]])
* [[水道週間]]({{JPN}})[[6月7日]]まで
* [[がけ崩れ防災週間]]({{JPN}})[[6月7日]]まで
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0601|date=2023年5月}}
* [[1953年]] - ローズと[[10代目ドクター]]がマグパイテレビ店に関わる異常に感づく。調査をするうちドクターは警察に確保され、ローズはワイヤーにより脳の電気信号を奪われる。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
* [[1997年]] - ジークの契約者、鷹山栞の[[結婚式]]の日。消滅しかけたジークは実体化してこの日に残った。(特撮『[[仮面ライダー電王]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1951年]] - 神敬介(仮面ライダーX)、特撮『[[仮面ライダーX]]』の主人公
* [[1906年]] - メル・レゾン、ゲーム・アニメ『[[サクラ大戦シリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://sakura-taisen.com/archives/game/ds/chara_mell.html |title=メル・レゾン |access-date=21 May 2023 |publisher=[[セガ|SEGA]] |work=『サクラ大戦3~巴里は燃えているか~』}}</ref>
* [[1949年]] - ラキスト・ラッソ、漫画・アニメ『[[シャーマンキング]]』に登場するキャラクター
* [[1956年]] - [[ザンギエフ]] 、ゲーム『[[ストリートファイターII|ストリートファイター]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/130248 |title=キャラ図鑑105:ザンギエフ |access-date=21 May 2023 |publisher=[[カプコン|CAPCOM]] |website=シャドルー格闘家研究所}}</ref>
* [[1971年]] - 浦島はるか、漫画・アニメ『[[ラブひな]]』に登場するキャラクター
* [[1979年]] - 隠岐之島和也、ドラマ『[[天国に一番近い男#教師編|天国に一番近い男 教師編]]』に登場するキャラクター
* [[1987年]] - [[知多みるく]]、[[愛知県]][[知多半島]]「知多娘。」イメージキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chita-musume.com/character/ |title=知多娘。 キャラクター紹介 |publisher=一般社団法人知多娘地域活性プロジェクト |accessdate=21 May 2023}}</ref>
* [[1988年]] - 朝比奈涼風、漫画・アニメ『[[涼風]]』のヒロイン<ref>{{Twitter status|seokouji|1531817248046055424}}</ref>
* [[1993年]] - 星川真希 、ゲーム『[[ときめきメモリアル4]]』に登場するキャラクター
* [[1995年]] - 久慈川りせ、ゲーム・アニメ『[[ペルソナ4]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|p_kouhou|1475300411561193475}}</ref>
* [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]323年 - イリア・シルベストリ、ゲーム『[[スターオーシャン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=35|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref>
* 生年不明 - 綾瀬千早、漫画・アニメ・映画『[[ちはやふる]]』の主人公<ref>{{Twitter status|yuyu2000_0908|1531927724360859648}}</ref><ref>{{Twitter status|chihaya_koshiki|870169787078295552}}</ref>
* 生年不明 - マフムート、漫画・アニメ『[[将国のアルタイル]]』に登場する主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://project-altair.com/special/01_twitter.html |title=6/1 マフムート バースデー壁紙&SNS用アイコンプレゼント |publisher=[[カトウコトノ]]・[[講談社]]/将国のアルタイル製作委員会 |accessdate=21 May 2023 |work=『将国のアルタイル』}}</ref>
* 生年不明 - 木ノ下和也、漫画・アニメ・ドラマ 『[[彼女、お借りします]]』の主人公<ref>{{Twitter status|kanokari_anime|1267108573135302658}}</ref>
* 生年不明 - 指宿絵璃菜、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/ibusuki_erina |title=鹿児島 指宿 絵璃菜 |access-date=21 May 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - オスカー、『[[セサミストリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sesamejapan|605156353816981505}}</ref>
* 生年不明 - 春日部しあ、キャラクターコンテンツ『[[鉄道むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tateishi_aoba|1531772517706354688}}</ref>
* 生年不明 - モーダ 、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Moda.html |title=モーダ |work=『ONE PIECE』 |accessdate=21 May 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - チャルロス聖、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Saint_Charlos.html |title=チャルロス聖 |work=『ONE PIECE』 |accessdate=21 May 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - うちはミコト 、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|date=2005-04-04|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=53|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-873734-8}}</ref>
* 生年不明 - 四代目雷影、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 小金井修平、漫画『[[ロケットでつきぬけろ!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 神威、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|Hino_Satoshi_84|1399603127133761536}}</ref>
* 生年不明 - 阿音、漫画・アニメ『銀魂』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 百音、漫画・アニメ『銀魂』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 神崎一、漫画・アニメ『[[べるぜバブ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[鬼滅の刃#甘露寺蜜璃|甘露寺蜜璃]]、漫画・アニメ『[[鬼滅の刃]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://kimetsu.com/anime/news/?id=54230 |title=2020.06.01 蜜璃バースデーイラストを公開! |accessdate=21 May 2023 |publisher=[[吾峠呼世晴]]/[[集英社]]・[[アニプレックス]]・[[ufotable]] |work=『鬼滅の刃』}}</ref>
* 生年不明 - [[キッドとナゾナゾ博士#ナゾナゾ博士|ナゾナゾ博士]]、漫画・アニメ『[[金色のガッシュ!!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[史上最強の弟子ケンイチの登場人物#南條キサラ|南條キサラ]]、漫画・アニメ『[[史上最強の弟子ケンイチ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=松江名俊|authorlink=松江名俊|year = 2014 |title = 史上最強の弟子ケンイチ 公式ガイドブック 史上最強の秘伝書|page = 104 |publisher = [[小学館]] |series = [[少年サンデーコミックス]] |isbn = 978-4-09-125016-2 }}</ref>
* 生年不明 - 村上先生 、漫画・アニメ『[[あたしンち]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[ブルー (ポケットモンスターSPECIAL)|ブルー]]、漫画『[[ポケットモンスターSPECIAL]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|pokesp_special|1399554921888837632}}</ref>
* 生年不明 - 曹操孟徳、漫画・アニメ『[[一騎当千 (漫画)|一騎当千]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marv.jp/product/ikki_eb/character/sousou/ |title=曹操孟徳 |work=『一騎当千エクストラバースト』 |accessdate=21 May 2023 |publisher=[[塩崎雄二]]・[[少年画報社]]/一騎当千WWパートナーズ [[マーベラス (企業)|Marvelous Inc.]]}}</ref>
* 生年不明 - 吉田千鶴、漫画・アニメ・映画『[[君に届け]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[咲-Saki-の登場人物#善野一美|善野一美]]、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://sciasta.com/characters.html |title=善野 一美(ぜんの かずみ) |work=『咲-Saki-』 |accessdate=21 May 2023 |publisher=[[小林立]]}}</ref>
* 生年不明 - 木下苑子、漫画・アニメ『[[会長はメイド様]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 深見誠司、漫画・アニメ『[[ナナマル サンバツ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://7o3x.com/char/profiles.html#20 |title=深見誠司 |access-date=21 May 2023 |publisher=[[杉基イクラ]]/[[KADOKAWA]] 7○3×クイズ研究会 |work=『ナナマル サンバツ』}}</ref>
* 生年不明 - 笹目ヤヤ、漫画・アニメ『[[ハナヤマタ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=浜弓場双 |authorlink=浜弓場双 |year=2013 |title=ハナヤマタ |volume=第3巻 |publisher=[[芳文社]] |isbn=978-4-8322-4285-2}}</ref>
* 生年不明 - 乾紗寿叶、漫画・アニメ『[[その着せ替え人形は恋をする]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kisekoi_anime|1531651728923275264}}</ref>
* 生年不明 - シャロン・エイム、小説・漫画・アニメ・ゲーム『[[トータル・イクリプス]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 高城レイラ、アニメ『[[リルぷりっ|ひめチェン!おとぎちっくアイドル リルぷりっ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 宇田慧、アニメ『[[ハイスクール・フリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|work=『ハイスクール・フリート』 |url=https://www.hai-furi.com/character/03_05/ |title=宇田 慧 |accessdate=21 May 2023 |publisher=AAS/海上安全整備局 AAS/新海上安全整備局}}</ref>
* 生年不明 - 青木百々、アニメ『ハイスクール・フリート』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|work=『ハイスクール・フリート』 |url=https://www.hai-furi.com/character/04_08/ |title=青木 百々 |accessdate=21 May 2023 |publisher=AAS/海上安全整備局 AAS/新海上安全整備局}}</ref>
* 生年不明 - 海腹のりか、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=1 |accessdate=21 May 2023}}</ref>
* 生年不明 - なちゅらっち、ゲーム・アニメ『[[たまごっち]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |editor=講談社 |editor-link=講談社 |title=Tamagotchi iD L ぴかぴか育て方ガイド |year=2011 |page=84 |isbn=978-4-06-364876-8}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |others=[[ウィズ (玩具)|ウィズ]]、[[バンダイ]](監修) |title=テレビ超ひゃっか たまごっち!たまともプロフずかん |publisher=[[小学館]] |year=2011 |page=22 |isbn=978-4-09-751048-2}}</ref>
* 生年不明 - ひびき蘭、ゲーム『[[ジャスティス学園]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 椎名ゆうひ、ゲーム『[[とらいあんぐるハート2 さざなみ女子寮]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sp-janis.com/janis/triangleheart2/index.html#character |title=Characcter 椎名ゆうひ |access-date=21 May 2023 |publisher=SPACE PROJECT |work=『とらいあんぐるハート2 〜さざなみ女子寮〜』}}</ref>
* 生年不明 - シオン・エルトナム・アトラシア、ゲーム『[[月姫 (ゲーム)|月姫]]』『[[MELTY BLOOD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite|和書|title=月姫読本PlusPeriod|author=[[武内崇]]、[[奈須きのこ]]|year=2004|publisher=宙出版|page=93|isbn=4-7767-9037-8}}</ref>
* 生年不明 - 東雲こもも、ゲーム『[[タイムリープ (ゲーム)|タイムリープ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - レリウス=クローバー、ゲーム『[[BLAZBLUE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.blazblue.jp/cf/ac/character/relius.html |title=レリウス=クローバー |publisher=[[アークシステムワークス|ARC SYSTEM WORKS]] |accessdate=21 May 2023 |work=『BLAZBLUE CENTRALFICTION AC版』}}</ref>
* 生年不明 - 倉永梢、ゲーム『[[ヨスガノソラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cuffs.co.jp/products/yosuga/character/koz_01.html |title=倉永 梢 |access-date=21 May 2023 |publisher=[[Sphere]] |work=『ヨスガノソラ』}}</ref>
* 生年不明 - 由井孝太郎、ゲーム・アニメ『[[スタンドマイヒーローズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.standmyheroes.tv/character/detail_matori.html |title=マトリ - 由井孝太郎 |accessdate=21 May 2023 |publisher=coly/SMHP |work=『スタンドマイヒーローズ PIECE OF TRUTH』}}</ref>
* 生年不明 - 松山ダリア、メディアミックス『[[D4DJ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|D4DJ_pj|1399380145895575553}}</ref>
=== 忌日(フィクション) ===
* 宇宙暦800年/新帝国暦2年 - [[ヤン・ウェンリー]]、小説・アニメ『[[銀河英雄伝説]]』に登場するキャラクター<ref>本編中での描写から。[[銀河英雄伝説の戦役#ヤン・ウェンリー暗殺事件|ヤン・ウェンリー暗殺事件]]の項目も参照。</ref>(+ 宇宙暦767年/帝国暦458年[[4月4日]])
* 宇宙歴801年/新帝国歴3年 - [[ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ]]、小説・アニメ『銀河英雄伝説』に登場するキャラクター<ref name="LegendofGH">本編中での描写から。[[銀河英雄伝説の戦役#シヴァ星域会戦|シヴァ星域会戦]]の項目も参照。</ref>
* 宇宙歴801年/新帝国歴3年 - [[ワルター・フォン・シェーンコップ]]、小説・アニメ『銀河英雄伝説』に登場するキャラクター<ref name="LegendofGH"/>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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== できごと ==
[[Image:The_1st_Labor_Day_in_Japan.JPG|thumb|upright|日本の第1回[[メーデー]]開催(1920)]]
[[Image:DH106_Comet_3_G-ANLO_FAR_1954.jpg|thumb|200px|世界初のジェット旅客機[[デ・ハビランド DH.106 コメット|コメット]]、イギリスで就航(1952)]]
* [[1164年]]([[長寛]]2年[[4月10日 (旧暦)|4月10日]]) - [[平清盛]]の三女[[平盛子]]が関白[[藤原基実]]の妻となり、[[北政所]]を称する。
* [[1536年]] - [[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の2番目の王妃[[アン・ブーリン]]が反逆罪・不義密通の容疑で逮捕。同月19日に処刑。
* [[1808年]] - [[半島戦争|スペイン独立戦争]]:[[スペイン]]の[[マドリード]]で市民が[[フランス]]の占領に対し暴動。[[フランス]]軍が1,500人の市民を射殺。
* [[1864年]]([[元治]]元年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]) - [[天狗党の乱]]。[[筑波山]]で[[藤田小四郎]]ら62名が蜂起。
* [[1875年]] - [[東京都|東京]]と[[横浜市|横浜]]で[[郵便貯金]]業務を開始。
* [[1885年]] - [[ベルギー]]国王[[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]]が[[コンゴ自由国]]を設立。
* [[1889年]] - [[イタリア]]と[[エチオピア帝国]]が、エチオピアを事実上保護国化する内容の[[ウッチャリ条約]]([[:en:Treaty of Wuchale|Treaty of Wuchale]])に調印。
* [[1896年]] - [[ブダペスト地下鉄]]初の区間が開通。
* [[1906年]] - 「[[医師法]]」改正。[[医師]]の開業許可制が免許制となる。
* [[1906年]] - 「[[歯科医師法]]」公布。
* [[1916年]] - アメリカ海軍の戦艦「[[オクラホマ (戦艦)|オクラホマ]]」が就役。
* [[1920年]] - [[上野恩賜公園|上野公園]]で第1回[[メーデー]]開催、5,000人が参加。
* [[1933年]] - [[強制的同一化]]: ナチスが[[労働組合]]を禁止。
* [[1945年]] - [[第二次世界大戦]]・[[ベルリンの戦い]]: [[赤軍]]が[[総統官邸]]を占領。
* 1945年 - 第二次世界大戦: [[イタリア戦線 (第二次世界大戦)|イタリア戦線]]の枢軸軍が連合軍に降伏。
* [[1947年]] - 翌日の[[日本国憲法]]施行に伴い、この日限りで[[枢密院 (日本)|枢密院]]が廃止される。
* 1947年 - [[外国人登録令]]公布・施行。[[大日本帝国憲法]]下で公布された最後の[[勅令]]。
* [[1948年]] - 同年[[4月28日]]施行の[[夏時刻法]]に基づき、日本で初めてのサマータイム([[夏時間]])を実施。
* 1948年 - [[講道館]]で第1回[[全日本柔道選手権大会]]開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.judo.or.jp/aboutus/history/ |title=全柔連の歴史 1948年 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=公益財団法人 全日本柔道連盟}}</ref>。
* [[1949年]] - 「[[国民生活金融公庫|国民金融公庫]]法」公布。
* [[1950年]] - 「[[放送法]]」「[[電波法]]」「[[電波監理委員会設置法]]」の[[電波三法]]を公布。
* [[1952年]] - [[イギリス]]で世界初のジェット旅客機「[[デ・ハビランド DH.106 コメット|コメット]]」が就航。
* [[1953年]] - [[英国海外航空783便墜落事故]]起こる。
* [[1956年]] - [[毛沢東]]が[[百花斉放百家争鳴]]を提唱。
* [[1958年]] - [[長崎国旗事件]]が起こる。
* [[1964年]] - 世界14番目の高峰・[[シシャパンマ]]が中国の許競により初登頂。
* [[1969年]] - [[クルーズ客船]]「[[クイーン・エリザベス2]]」が処女航海。
* [[1975年]] - [[高知県]][[土佐清水市]]に[[高知県立足摺海洋館]]が開業。
* [[1986年]] - [[世界ラリー選手権]]ツール・ド・コルスにおいて、[[ヘンリ・トイヴォネン]]/{{仮リンク|セルジオ・クレスト|en|Sergio Cresto}}組が事故死。これにより同選手権における[[グループB]]規格が廃止になる。
* [[1989年]] - [[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]が[[オーストリア]]との国境の鉄条網の撤去を開始。「[[鉄のカーテン]]」に穴が開けられる。
* [[1991年]] - [[地価税法]]公布。[[1992年]]1月施行。
* [[1995年]] - [[野茂英雄]]が[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]初登板。
* [[1997年]] - [[労働党 (イギリス)|労働党]]の[[トニー・ブレア]]がイギリスの73代首相に就任。
* [[2007年]] - [[読売ジャイアンツ]]が日本プロ野球球団初の通算5,000勝達成。
* [[2008年]] - [[サイクロン・ナルギス]]が[[ミャンマー]]に上陸。死者・行方不明者約14万人の甚大な被害をもたらす。
* [[2010年]] - [[石川遼]]が[[中日クラウンズ]]最終日に主要世界男子プロゴルフツアー18ホール最少となる58ストロークを達成。
* [[2011年]] - [[パキスタン]]郊外のアボッタバードにて米軍が銃撃戦を展開。国際テロ組織[[アルカイダ]]の指導者[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]が死亡。([[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害]])
* [[2014年]] - [[アフガニスタン]]で[[アフガニスタン地滑り災害|大規模な地滑りが発生]]し、12万人が被災<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.japanplatform.org/info/2014/05/161548.html |title=「アフガニスタン北部水害緊急支援2014」への出動を決定 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=特定非営利活動法人 ジャパン・プラットフォーム |date=16 May 2014}}</ref>。
* 2014年 - 5月2日から4日にかけて「SP-1」が試験飛行を行い、日本初となる有人[[ソーラープレーン]]の飛行に成功した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.salesio-sp.ac.jp/main/topics/2014/0626_solarplane_manned/index.html |title=日本初の快挙!有人ソーラープレーンの飛行に成功 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=サレジオ工業高等専門学校 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140708131659/https://www.salesio-sp.ac.jp/main/topics/2014/0626_solarplane_manned/index.html |archive-date=Jul 8 2014 |date=26 Jun 2014}}</ref>。
* [[2015年]] - アメリカでボクシングの一戦、[[フロイド・メイウェザー・ジュニア 対 マニー・パッキャオ戦|フロイド・メイウェザー・ジュニア 対 マニー・パッキャオ]]の試合が行われる<ref>{{Cite web|和書|date=3 May 2015 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3047249 |title=メイウェザーが「世紀の一戦」でパッキャオに判定勝ち |work=AFP BB News |publisher=[[フランス通信社]] |accessdate=21 Feb 2023}}</ref>。
* [[2018年]] - 「[[バスク祖国と自由]]」が解散を宣言<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3173340 |title=バスク独立派、解散を宣言 西仏で武装闘争40年以上 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=[[フランス通信社]] |date=3 May 2018 |website=AFP BB News}}</ref>。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[Image:Grand Duchess Catherine Alexeevna by L.Caravaque (1745, Gatchina museum).jpg|thumb|100px|[[ロシア皇帝]]、[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]](1729-1796)誕生。夫[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル3世]]をクーデターで追放し女帝となる]]
[[Image:Franz_Gareis_-_Novalis.jpg|thumb|upright|[[ロマン主義]]詩人[[ノヴァーリス]](1772-1801)誕生。{{Squote|我々はあらゆる場所で絶対を探すが、見付かるのはいつも事物だけ。――『[[青い花 (小説)|青い花]]』}}]]
[[Image:Theodor Herzl retouched.jpg|thumb|100px|[[シオニズム]]運動を起こした一人、[[テオドール・ヘルツル]](1860-1904)]]
[[Image:Portrait-of-Ichiyo-Higuchi.png|thumb|upright|小説家、[[樋口一葉]](1872-1896)。{{Squote|恐ろしきは涙の後の女子心なり。――『やみ夜』(1894)}}]]
[[Image:Manfred von Richthofen.jpeg|thumb|100px|[[第一次世界大戦]]時のドイツの[[エース・パイロット]]、「レッドバロン」こと[[マンフレート・フォン・リヒトホーフェン]](1892-1918)]]
[[Image:Iijima.jpg|thumb|100px|[[カーボンナノチューブ]]を発見した物理学者・化学者、[[飯島澄男]](1939-)]]
[[Image:David Beckham Nov 11 2007.jpg|thumb|100px|[[サッカー]]選手、[[デビッド・ベッカム]](1975-)]]
* [[1360年]]([[至正]]20年4月17日) - [[永楽帝]]、[[明]]の第3代[[皇帝]](+ [[1424年]])
* [[1601年]] - [[アタナシウス・キルヒャー]]、[[学者]]、[[イエズス会]][[司祭]](+ [[1680年]])
* [[1660年]] - [[アレッサンドロ・スカルラッティ]]、[[作曲家]](+ [[1725年]])
* [[1661年]]([[万治]]4年[[4月4日 (旧暦)|4月4日]]) - [[上島鬼貫]]、[[俳諧|俳諧師]](+ [[1738年]])
* [[1708年]]([[宝永]]5年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]) - [[湯浅常山]]、[[儒学者]](+ [[1781年]])
* [[1710年]](宝永7年[[4月4日 (旧暦)|4月4日]]) - [[三宅康高]]、[[田原藩|田原藩主]](+ [[1791年]])
* [[1729年]] - [[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]、第8代[[ロシア皇帝]](+ [[1796年]])
* [[1737年]] - [[第2代シェルバーン伯ウィリアム・ペティ|ウィリアム・ペティ]]、政治家、[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[1805年]])
* [[1738年]]([[元文]]3年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]) - [[松平朝矩]]、[[姫路藩|姫路藩主]]・[[前橋藩|前橋藩主]]・[[川越藩|川越藩主]](+ [[1768年]])
* [[1754年]] - [[ビセンテ・マルティーン・イ・ソレル]]、作曲家(+ [[1806年]])
* [[1772年]] - [[ノヴァーリス]]、[[小説家]](+ [[1801年]])
* [[1843年]] - [[カール・ミヒャエル・ツィーラー]]、作曲家(+ [[1922年]])
* [[1859年]] - [[ジェローム・K・ジェローム]]、[[作家]](+ [[1927年]])
* [[1860年]] - [[テオドール・ヘルツル]]、[[シオニスト]](+ [[1904年]])
* [[1868年]] - [[ロバート・ウィリアム・ウッド]]、[[物理学者]](+ [[1955年]])
* [[1872年]]([[明治]]5年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]) - [[樋口一葉]]、[[小説家]]、[[歌人]](+ [[1896年]])
* [[1881年]] - [[アレクサンドル・ケレンスキー]]、[[革命家]]、[[政治家]](+ [[1970年]])
* [[1886年]] - [[ゴットフリート・ベン]]、[[詩人]](+ [[1956年]])
* [[1887年]] - [[エディ・コリンズ]]、元プロ野球選手(+ [[1951年]])
* [[1890年]] - [[E・E・スミス]]、[[SF作家]](+ [[1965年]])
* [[1892年]] - [[マンフレート・フォン・リヒトホーフェン]]、[[軍人]](+ [[1918年]])
* 1892年 - [[下川凹天]]、[[漫画家]](+ [[1973年]])
* [[1895年]] - [[ヴィルム・ホーゼンフェルト]]、[[教育者]]、軍人(+ [[1952年]])
* [[1896年]] - [[松浦周太郎]]、[[政治家]](+ [[1980年]])
* [[1901年]] - [[都千代]]、世界最高齢の[[長寿]]の女性(+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33451750W8A720C1CC1000/|title=都千代さんが死去 国内最高齢|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2018-07-26|accessdate=21 Feb 2023}}</ref>)
* [[1903年]] - [[ベンジャミン・スポック]]、[[小児科医]](+ [[1998年]])
* [[1907年]] - [[鹿島俊雄]]、政治家(+ [[1995年]])
* [[1912年]] - [[細田吉蔵]]、政治家(+ [[2007年]])
* [[1918年]] - [[矢内原伊作]]、[[哲学者]]、[[評論家]](+ [[1989年]])
* [[1920年]] - [[山下肇]]、[[ドイツ文学者]](+ [[2008年]])
* [[1921年]] - [[サタジット・レイ]]、[[映画監督]]、小説家(+ [[1992年]])
* [[1922年]] - [[久慈あさみ]]、[[俳優|女優]]、[[歌手]](+ [[1996年]])
* [[1923年]] - [[パトリック・ヒラリー]]、政治家、[[アイルランドの大統領|アイルランド大統領]](+ 2008年)
* [[1925年]] - [[加藤一郎 (ロボット研究者)|加藤一郎]]、[[ロボット工学|ロボット工学者]](+ [[1994年]])
* 1925年 - [[松井淳 (捕手)|松井淳]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1928年]] - [[ホルスト・シュタイン]]、[[指揮者]](+ [[2008年]])
* 1928年 - [[ジグミ・ドルジ・ワンチュク]]、[[ブータンの国王一覧|ブータン国王]](+ [[1972年]])
* [[1930年]] - [[寺川昭二]]、元プロ野球選手
* [[1934年]] - [[伊藤忠治]]、政治家(+ [[2013年]])
* [[1935年]] - [[拝藤宣雄]]、元プロ野球選手
* 1935年 - [[ルイス・スアレス・ミラモンテス]]、[[サッカー選手一覧|サッカー選手]](+ [[2023年]])
* 1935年 - [[ファイサル2世 (イラク王)|ファイサル2世]]、最後の[[イラク王国|イラク国王]](+ [[1958年]])
* [[1936年]] - [[マイケル・レービン]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1972年]])
* [[1937年]] - 大倉舜二、[[写真家]](+ [[2015年]])
* 1937年 - [[井洋雄]]、元プロ野球選手
* [[1939年]] - [[飯島澄男]]、[[物理学者]]、[[化学者]]
* 1939年 - [[なべおさみ]]、[[コメディアン]]
* 1939年 - [[野村万之介]]、[[狂言師]](+ [[2010年]])
* 1939年 - [[横地由松]]、元プロ野球選手(+ [[2007年]])
* 1939年 - [[伊藤守 (野球)|伊藤守]]、元プロ野球選手
* [[1940年]] - [[伯壬旭]]、[[ザイン (団体)|株式会社シリウス]]代表取締役会長
* 1940年 - [[出口典雄]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14775038.html |title=(惜別)出口典雄さん 演出家・劇団シェイクスピアシアター主宰 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=[[朝日新聞]] |date=23 Jan 2021}}</ref>、[[演出家]](+ [[2020年]])
* [[1942年]] - [[ジャック・ロゲ]]、[[国際オリンピック委員会]]会長(+ [[2021年]])
* [[1943年]] - [[祖父江義明]]、[[天文学者]]
* 1943年 - [[マンフレート・シュネルドルファー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1945年]] - [[佐藤玖光]]、元プロ野球選手
* [[1946年]] - [[デヴィッド・スーシェ]]、[[俳優]]
* [[1947年]] - [[ジェームズ・ダイソン]]、[[工学]][[デザイナー]]、[[ダイソン (企業)|ダイソン]]社創業者
* 1947年 - [[岸勝之]]、元プロ野球選手
* [[1948年]] - [[鮎川誠]]、[[音楽家|ミュージシャン]](+ [[2023年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20230204-M7G25WUF7VPU5CXTNEVKL37TVE/ |title=鮎川誠さん〝ロック葬〟喪主で長女の陽子は「お父さんありがとう」 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=[[サンケイスポーツ]] |date=4 Feb 2023}}</ref>)
* [[1949年]] - [[ズデンコ・ベルデニック]]、[[サッカー]]コーチ、監督
* [[1950年]] - [[永尾泰憲]]、元プロ野球選手
* 1950年 - [[藤本房子]]、歌手
* 1950年 - [[ルー・グラム]]、ミュージシャン([[フォリナー|フォーリナー]])
* [[1951年]] - [[麻田マモル]]、[[歌手]]、[[ミュージカル]]俳優
* 1951年 - [[峰あつ子]]、[[声優]]
* 1951年 - [[鍛治舎巧]]、[[野球選手]]、高校野球指導者
* [[1952年]] - [[夏木マリ]]、[[俳優|女優]]、[[歌手]]
* 1952年 - [[平原まこと]]、ミュージシャン(+[[2021年]])
* 1952年 - [[クリストファー・ドイル]]、[[映画]][[撮影監督]]
* [[1953年]] - [[ヴァレリー・ゲルギエフ]]、[[指揮者]]
* 1953年 - [[佐々木信行]]、元プロ野球選手
* [[1954年]] - [[新田一郎 (ミュージシャン)|新田一郎]]、ミュージシャン
* 1954年 - [[平野達男]]、政治家
* [[1955年]] - [[ドナテラ・ヴェルサーチ]]、[[ファッションデザイナー]]
* [[1958年]] - [[秋元康]]、[[放送作家]]、[[作詞家]]、[[タレント]]
* [[1959年]] - [[関口誠人]]、ミュージシャン
* 1959年 - [[末宗徹郎]]、[[自治省|自治]]・[[総務省|総務]][[官僚]]
* [[1960年]] - [[笑福亭鶴笑]]、[[落語家]]
* [[1961年]] - [[スティーブン・ダルドリー]]、映画監督
* 1961年 - [[橋本昌哉]]、[[ゲームクリエイター]]
* 1961年 - [[山崎章弘]]、元プロ野球選手
* [[1963年]] - [[レイ・トレイラー]](ビッグ・ブーバー)、[[プロレスラー]](+ [[2004年]])
* 1963年 - [[保坂伸]]、[[経済産業省|経済産業]][[官僚]]
* [[1964年]] - [[河合克敏]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/artist/1833 |title=河合克敏 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=コミックナタリー}}</ref>、漫画家
* [[1965年]] - [[ディック・フライ]]、[[総合格闘家]]
* 1965年 - [[本田恭章]]、ミュージシャン、俳優
* 1965年 - [[フェリックス・ホセ]]、元プロ野球選手
* [[1967年]] - [[小牧雄一]]、元プロ野球選手
* 1967年 - [[影山正美]]、レーサー
* 1967年 - [[右門青寿]]、俳優
* 1967年 - [[鈴木望 (野球)|鈴木望]]、元プロ野球選手
* 1967年 - 大川七瀬、漫画家、脚本家([[CLAMP]])
* [[1968年]] - [[笛吹雅子]]、[[ニュースキャスター]]、[[アナウンサー]]
* 1968年 - [[菊田洋之]]、漫画家
* 1968年 - [[種浦マサオ]]、歌手
* 1968年 - [[水尾嘉孝]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[緑川光]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aoni.co.jp/search/midorikawa-hikaru.html |title=緑川 光 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=[[青二プロダクション]]}}</ref>、声優
* 1968年 - [[松本夏実]]、漫画家
* 1968年 - [[西川哲]]、[[ゴルファー]]
* [[1970年]] - [[佐藤直紀]]、[[作曲家]]
* 1970年 - [[ジョー・クロフォード]]、元プロ野球選手
* 1970年 - [[グレン・ユングストローム]]、ミュージシャン
* [[1971年]] - [[武蔵丸光洋]]、元[[大相撲]][[力士]]、第67代[[横綱]]、年寄15代[[武蔵川]]
* [[1972年]] - [[野村祐人]]、俳優
* 1972年 - [[堀込泰行]]、ミュージシャン([[キリンジ]])
* 1972年 - [[寺前正雄]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[岩本輝雄]]、元サッカー選手
* 1972年 - [[ドウェイン・ジョンソン]]、[[プロレスラー]]、俳優
* [[1973年]] - [[高須賀由枝]]、漫画家
* 1973年 - [[フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク]]、映画監督
* [[1974年]] - [[イオリッツ・メンディザバル]]、[[騎手]]
* 1974年 - [[張震嶽]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1975年]] - [[デビッド・ベッカム]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=90575 |title=「キュートすぎる」ベッカム46歳の誕生日を祝し、長男が若き日の貴重なツーショットを公開! |access-date=21 Feb 2023 |publisher=SOCCER DIGEST Web |date=3 May 2021}}</ref>、サッカー選手
* [[1976年]] - [[山村宏樹]]、元プロ野球選手
* [[1977年]] - [[大楠雄蔵]]、ミュージシャン
* 1977年 - [[黒部三奈]]、総合格闘家
* [[1978年]] - [[宇野雅美]]、元プロ野球選手
* [[1980年]] - [[上重聡]]、アナウンサー
* 1980年 - [[城山未帆]]、[[タレント]]
* 1980年 - [[押谷芽衣]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/0000075363/ |title=押谷芽衣 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=WEBザテレビジョン}}</ref>、[[声優]]
* 1980年 - [[佐々木信治]]、総合格闘家
* 1980年 - [[エリー・ケンパー]]、女優
* 1980年 - [[和田雄三]]、元サッカー選手
* 1980年 - [[ティム・ボロウスキ]]、元サッカー選手
* 1980年 - [[ザット・ナイト]]、サッカー選手
* 1980年 - [[トロイ・マーフィー]]、バスケットボール選手
* 1980年 - [[クリス・パボーネ]]、プロレスラー
* 1980年 - [[ピエール・ルク・ギャノン]]、プロスケートボーダー
* [[1981年]] - [[斉藤舞子]]、アナウンサー
* 1981年 - [[佐藤利奈]]、声優
* 1981年 - [[ティアゴ・メンデス]]、元サッカー選手
* 1981年 - [[クリス・カークランド]]、元サッカー選手
* [[1982年]] - [[森絵里香]]、ファッションモデル
* [[1983年]] - [[ToMix]]、タレント、ミュージシャン
* 1983年 - [[榎本哲也]]、元サッカー選手
* 1983年 - [[相田周二]]、お笑いタレント([[三四郎 (お笑いコンビ)|三四郎]])
* [[1984年]] - KSK、ミュージシャン([[Agitato]])
* 1984年 - [[福井慶仁]]、アナウンサー
* [[1985年]] - [[リリー・アレン]]、歌手
* 1985年 - [[サラ・ヒューズ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1986年]] - [[相川将]]、自転車選手
* 1986年 - [[リュウジ]]、料理研究家
* 1986年 - [[内山眞人]]、俳優
* 1986年 - [[クリスティン・ヴィツォレク]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1987年]] - [[北出菜奈]]、[[ロック (音楽)|ロック]]歌手
* 1987年 - [[上原美優]]、[[グラビアアイドル]]、タレント(+ [[2011年]])
* 1987年 - [[酒主義久]]、アナウンサー
* 1987年 - [[マイケル・オルムステッド]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[岡本果奈美]]、タレント、元グラビアアイドル
* 1988年 - [[Pile]]、声優、歌手
* 1988年 - [[高島知美]]、野球選手
* [[1989年]] - [[いろは (アイドル)|いろは]]、グラビアアイドル
* 1989年 - [[大竹洋平]]、サッカー選手
* 1989年 - [[フレデリク・アンヴィ]]、元プロ野球選手
* [[1990年]] - [[藤本大]]、元サッカー選手
* 1990年 - [[重廣礼香]]、女優
* 1990年 - [[林美沙希]]、アナウンサー
* 1990年 - [[三瓶将廣]]、[[自転車競技]]選手
* 1990年 - [[伊藤友美 (レースクイーン)|伊藤友美]]、タレント、元レースクイーン
* 1990年 - [[藍原ことみ]]、声優
* 1990年 - [[ポール・ジョージ]]、バスケットボール選手
* 1990年 - [[ケイ・パナベイカー]]、女優
* 1990年 - [[エラスモ・ラミレス (右投手)|エラスモ・ラミレス]]、元プロ野球選手
* 1990年 - [[クレーベ・ラウベ・ピニェイロ]]、サッカー選手
* [[1991年]] - [[加藤みづき]]、女優
* 1991年 - ユジョン、アイドル、ミュージシャン([[Brave Girls]])
* 1991年 - チョン・ジンウン、アイドル([[2AM]])
* [[1992年]] - [[綾瀬みなみ]]、[[AV女優]]
* 1992年 - [[ソンミ (歌手)|ソンミ]]、歌手(元[[Wonder Girls]])
* [[1993年]] - [[黄子韜]]、アイドル、俳優(元[[EXO]])
* [[1994年]] - [[森山恵佑]]、元プロ野球選手
* 1994年 - [[秋山雄飛]]、元陸上選手
* [[1995年]] - [[金子翔太]]、サッカー選手
* 1995年 - [[ユク・ソンジェ]]、アイドル、俳優、タレント([[BTOB]])
* [[1996年]] - [[ユリアン・ブラント]]、サッカー選手
* 1996年 - [[チャープラン・アーリークン|チャープラン]]、アイドル([[BNK48]])
* [[1997年]] - [[大西亜玖璃]]、女優、声優
* 1997年 - [[小松美月]]、女優
* 1997年 - [[浜崎香帆]]、女優、歌手(元[[東京パフォーマンスドール]])
* 1997年 - [[ベンベン (GOT7)|ベンベン]]、アイドル([[GOT7]])
* [[1999年]] - [[松下玲緒菜]]、アイドル(元[[まねきケチャ]])
* [[2001年]] - [[河村勇輝]]、バスケットボール選手
* [[2003年]] - [[相川くるみ]]、女優、アイドル([[FAVO|FAVO♡]])
* [[2015年]] - [[シャーロット・オブ・ウェールズ]]、[[イギリス]]王族、[[ウィリアム (プリンス・オブ・ウェールズ)|プリンス・オブ・ウェールズ・ウィリアム]]夫妻の長女
* 生年不明 - アヤ・エイトプリンス、アイドル(元[[BiS]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1948年]] - [[トキノミノル]]、[[競走馬]](+ [[1951年]])
* [[1984年]] - [[サクラスターオー]]、競走馬(+ [[1988年]])
* [[1995年]] - [[スペシャルウィーク]]、競走馬、[[種牡馬]] (+ [[2018年]])
* [[2000年]] - [[スティルインラブ]]、競走馬、[[繁殖牝馬]](+ [[2007年]])
{{-}}
== 忌日 ==
[[Image:IngresDeathOfDaVinci.jpg|thumb|200px|[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]](1452-1519)没。生涯独身であった。]]
[[Image:Leonardo_da_Vinci_%281452-1519%29_-_The_Last_Supper_%281495-1498%29.jpg|thumb|300px|[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]](1452-1519)没。『[[最後の晩餐]]』(1495-97)。]]
[[Image:Perelachaise-Musset-p1000344.jpg|thumb|upright|[[ロマン主義]]の劇作家[[アルフレッド・ド・ミュッセ]](1810-1857)没。{{Squote|君は愛することも憎むこともできない、まるでベンガルの薔薇のようだねマリアンヌ、棘がなくて、香りもない。――『マリアンヌの気紛れ』(1833)}}]]
[[Image:VernyPark.JPG|thumb|upright|[[横須賀造船所|横須賀造兵廠]]の建設など日本の近代化を支援したフランス人技術者[[レオンス・ヴェルニー]](1837-1908)。画像は彼を記念した[[ヴェルニー公園]]。]]
[[Image:Paulo Freire 1977.jpg|thumb|100px|[[ブラジル]]の教育者、[[パウロ・フレイレ]](1921-1997)。[[ブラジル人]]の大多数を占めた[[非識字]]者の生活改善のため[[識字]]教育を行ったが、1964年の[[ブラジル・クーデター|クーデター]]によって成立した[[軍事政権]]によって国外追放された。]]
* [[373年]] - [[アレクサンドリアのアタナシオス]](聖アタナシウス)、[[神学者]](* [[298年]])
* [[1162年]]([[応保]]2年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]) - [[平基盛]]、[[武将]](* [[1139年]])
* [[1519年]] - [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]<ref>{{Cite web |title=Leonardo da Vinci {{!}} Biography, Art, Paintings, Mona Lisa, Drawings, Inventions, Achievements, & Facts |url=https://www.britannica.com/biography/Leonardo-da-Vinci |website=Britannica |access-date=2023-02-21 |language=en}}</ref>、[[画家]]、[[科学者]](* [[1452年]])
* [[1627年]] - [[ロドヴィコ・ヴィアダーナ]]、[[作曲家]](* [[1560年]]頃)
* [[1634年]] - [[ヤーコプ・バセヴィ]]、[[宮廷ユダヤ人]](* [[1580年]])
* [[1813年]] - [[フェルディナント・フォン・プロイセン]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]の王族(* [[1730年]])
* [[1844年]] - [[ウィリアム・トマス・ベックフォード]]、[[作家]](* [[1760年]])
* [[1857年]] - [[アルフレッド・ド・ミュッセ]]、作家(* [[1810年]])
* [[1864年]] - [[ジャコモ・マイアベーア]]、作曲家(* [[1791年]])
* [[1908年]] - [[レオンス・ヴェルニー]]、[[建築]]技術者(* [[1837年]])
* [[1919年]] - [[イーヴリン・ド・モーガン]]、[[画家]](* [[1855年]])
* [[1925年]] - [[ヨハン・パリサ]]、[[天文学者]](* [[1848年]])
* [[1936年]] - [[ロベルト・ミヒェルス]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](* [[1876年]])
* [[1937年]] - [[岩崎卓爾]]、[[民俗学|民俗学者]]、[[気象]]観測技術者(* [[1869年]])
* [[1945年]] - [[マルティン・ボルマン]]、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]官房長(* [[1900年]])
* 1945年 - [[ヴァルター・ヘーヴェル]]、外交官(* [[1904年]])
* 1945年 - [[ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー]]、[[親衛隊 (ナチス)|ナチス親衛隊]]医師(* [[1910年]])
* [[1946年]] - [[サイモン・フレクスナー]]、[[医学|医学者]](* [[1863年]])
* [[1957年]] - [[ジョセフ・マッカーシー]]、[[政治家]](* [[1908年]])
* [[1958年]] - [[アルフレッド・ヴェーバー]]、[[経済学者]]、社会学者(* [[1868年]])
* [[1969年]] - [[フランツ・フォン・パーペン]]、政治家(* [[1879年]])
* [[1972年]] - [[ジョン・エドガー・フーヴァー]]、米[[連邦捜査局]]長官(* [[1895年]])
* [[1973年]] - [[赤間文三]]、元[[大阪府知事]](* [[1889年]])
* [[1979年]] - [[ジュリオ・ナッタ]]、[[化学者]](* [[1903年]])
* [[1980年]] - [[ジョージ・パル]]、[[アニメーター]]、[[映画]]製作者(* [[1908年]])
* [[1981年]] - [[デビッド・ウェクスラー]]、[[心理学者]](* [[1896年]])
* [[1986年]] - [[ヘンリ・トイヴォネン]]、[[ラリー]]ドライバー(* [[1957年]])
* [[1989年]] - [[春日一幸]]、[[政治家]](* [[1910年]])
* [[1996年]] - [[長南恒夫]]、元[[プロ野球選手]](* [[1939年]])
* [[1997年]] - [[ジョン・C・エックルス]]、医学者(* [[1903年]])
* 1997年 - [[パウロ・フレイレ]]、[[教育者]](* [[1921年]])
* [[1998年]] - [[hide]]、[[ギタリスト]]、[[アーティスト]]([[X JAPAN]])(* [[1964年]])
* [[1999年]] - [[オリヴァー・リード]]、[[俳優]](* [[1938年]])
* 1999年 - [[青木達之]]、[[ドラマー]]([[東京スカパラダイスオーケストラ]])(* [[1966年]])
* [[2002年]] - [[鈴木英夫]]、[[映画監督]](* [[1916年]])
* [[2006年]] - [[坂東文夫]]、[[彫刻家]](* [[1915年]])
* [[2009年]] - [[ジャック・ケンプ]]、政治家(* [[1935年]])
* 2009年 - [[忌野清志郎]]、[[音楽家|ミュージシャン]](* [[1951年]])
* [[2010年]] - [[佐藤慶]]、俳優、[[ナレーター]](* [[1928年]])
* [[2011年]] - [[ウサーマ・ビン・ラーディン]]、[[アルカーイダ]]指導者(* [[1957年]])
* [[2012年]] - [[長良じゅん]]、[[長良プロダクション]]会長(* [[1938年]])
* 2012年 - [[外村彰]]、[[物理学者]](* [[1942年]])
* [[2013年]] - [[ジェフ・ハンネマン]]、ギタリスト([[スレイヤー]])(* [[1964年]])
* [[2015年]] - [[マイヤ・プリセツカヤ]]、[[バレエ]]ダンサー(* [[1925年]])
* 2015年 - [[ルース・レンデル]]、推理作家(* [[1930年]])
* 2015年 - [[柳生真吾]]、タレント、園芸家(* [[1968年]])
* [[2016年]] - [[松智洋]]、 [[ライトノベル]]作家、脚本家、[[ゲームシナリオライター]](* [[1972年]])
* [[2017年]] - [[土門正夫]]、[[アナウンサー]]、[[スポーツキャスター]](* [[1930年]])
* [[2018年]] - [[井上堯之]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/05/05/kiji/20180504s00041000425000c.html |title=井上堯之さん死去 「ザ・スパイダース」で活躍 マッチ「愚か者」作曲 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex |date=5 May 2018}}</ref>、ギタリスト、作曲家、歌手、音楽プロデューサー(元[[ザ・スパイダース]])(* [[1941年]])
* [[2020年]] - [[野間美由紀]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2162109/full/ |title=漫画家の野間美由紀さん、虚血性心疾患のため2日に死去 59歳 『パズルゲーム』シリーズ連載中 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]] |date=14 May 2020}}</ref>、[[漫画家]] (* [[1960年]])
* [[2021年]] - [[立川らく朝]]、落語家、[[博士(医学)|医学博士]](* [[1954年]])
{{clear}}
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Tea picking 01.jpg|thumb|240px|[[八十八夜]](2日頃){{Squote|夏も近づく八十八夜/野にも山にも若葉が茂る/「あれに見えるは茶摘みぢやないか/あかねだすきに菅の笠」(唱歌『[[茶摘み]]』}}]]
* [[八十八夜]]({{JPN}} 2009年・2010年・2011年・2013年)
* [[緑茶]]の日({{JPN}})(平年のみ。閏年は[[5月1日]]。)
*: [[日本茶業中央会]]が制定。八十八夜にちなむものであるが、八十八夜は年によって日が変わるので、平年は5月2日、閏年は[[5月1日]]に固定して実施している。
* 第3代国王誕生日・[[教師の日]]({{BTN}})
*:[[ブータン]]の第3代国王で「近代ブータンの父」と呼ばれる[[ジグミ・ドルジ・ワンチュク]]の誕生日。
* 教師の日({{IRN}})
*: イランの聖職者・教育者である{{仮リンク|モルテザ・モタハーリ|en|Morteza Motahhari}}が1979年に亡くなった日。
* 郵便貯金の日(郵便貯金創業記念日)({{JPN}})
*: [[1875年]]のこの日に[[郵便貯金]]の業務が開始されたことを記念して、[[郵政省]]が[[1950年]]に制定。
* [[交通広告]]の日({{JPN}})
*:「こう(5)つう(2)」(交通)の語呂合せで関東交通広告協議会が[[1993年]]に制定。
* [[歯科医師]]記念日({{JPN}})
*:[[1906年]]のこの日に[[歯科医師法]]が施行されたことを記念して[[日本歯科医師会]]が[[1957年]]に制定<ref>{{Cite web|和書|title=歯科医師記念日 |url=https://www.jda.or.jp/jda/about/memorial.html |website=日本歯科医師会 |access-date=2023-02-21}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0502|date=2023年2月}}
* [[1998年]] - ホグワーツの戦いが起こる。(小説『[[ハリー・ポッターシリーズ]]』)
* [[2016年]] - 霧崎外科医院にて、14人の患者が死亡する[[医療過誤|医療ミス]]。(ゲーム『[[逆転裁判|逆転裁判2]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1993年]] - ネギ・スプリングフィールド、漫画・アニメ『[[魔法先生ネギま!]]』の主人公
* [[1834年]] - ジャン=リュック・ジルノルマン・ポンメルシー、小説『[[コゼット (小説)|コゼット]]』に登場するキャラクター
* [[1983年]] - サム・ウィンチェスター、ドラマ『[[スーパーナチュラル]]』に登場するキャラクター
* [[1987年]] - 大門寺優、コラボレーションプロジェクト『[[絶対衝激 〜PLATONIC HEART〜]]』に登場するキャラクター
* [[1988年]] - 岸田智、ゲーム・アニメ『[[W〜ウィッシュ〜]]』に登場するキャラクター
* [[1988年]] - 岸田智一、ゲーム・アニメ『[[W〜ウィッシュ〜]]』に登場するキャラクター
* [[1999年]] - [[ベガッ太]]、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]・[[ベガルタ仙台]]および[[日本女子サッカーリーグ]]・[[ベガルタ仙台レディース|マイナビベガルタ仙台レディース]]の[[マスコット]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vegalta.co.jp/club/profile.html |title=クラブマスコット ベガッ太 |accessdate=2022-10-22 |work=ベガルタ仙台オフィシャルサイト}}</ref>
* 2171年 - 緋紅アンヘル、ゲーム・漫画『[[はーとふる彼氏]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=高橋和希|authorlink=高橋和希|date=2012-09-27|title =はーとふる彼氏 公式ファンブック|publisher =[[一迅社]] |isbn = 978-4758012805 }}</ref>
* 生年不明 - [[御坂美琴]]、小説・漫画・アニメ『[[とある魔術の禁書目録]]』『[[とある科学の超電磁砲]]』の主人公<ref>{{Twitter status|toaru_project|1256206501430964227}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|journal=[[電撃大王]]2013年10月号増刊 とある科学の超電磁砲 御坂美琴マニアックス|publisher=[[アスキー・メディアワークス]]|date=2013-08-27}}</ref>
* 生年不明 - ようこ、小説・アニメ『[[いぬかみっ!]]』のヒロイン
* 生年不明 - 龍神晴、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/ryuzin_sei |title=和歌山 龍神晴 |access-date=2022-10-22 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - [[コニーちゃん]]、『[[ポンキッキシリーズ]]』のキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=000000959.000000084&g=prt |title=【フジテレビ】令和版ジャカジャカジャンケン!!が遂に完成!25周年記念「ゴー!ゴー!コニーちゃん!」新作公開 |publisher=[[時事通信社]] |accessdate=21 Feb 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200426025312/https://www.jiji.com/jc/article?k=000000959.000000084&g=prt |archive-date=26 Apr 2020}}</ref>
* 生年不明 - リョク、『[[お茶犬]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://ascii.jp/elem/000/000/328/328695/ |author=桑本美鈴 |title=セガトイズとホリプロ、共同でキャラクター事業を開始――新キャラクター“お茶犬”登場 |publisher=KADOKAWA ASCII Research Laboratories, Inc. |date=2002-01-22 |accessdate=2022-10-22}}</ref>
* 生年不明 - モンキー・D・ガープ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Monkey_D_Garp.html |title=モンキー・D・ガープ |work=『ONE PIECE』 |accessdate=2022-10-22 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - コリブー、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Coribou.html |title=コリブー |work=『ONE PIECE』 |accessdate=2022-10-22 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - Mr.クワットロ、漫画『[[Mr.FULLSWING]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 茶木正弘、漫画・アニメ『[[あひるの空]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[進撃の巨人の登場人物#コニー|コニー・スプリンガー]]、漫画・アニメ『[[進撃の巨人]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shingeki-sp.net/shindb/index/c_ka_005 |title=進撃データベース |publisher=進撃の巨人for auスマートパス |accessdate=2020-07-16}}{{リンク切れ|date=2022年10月}}</ref>
* 生年不明 - 高原歩美、漫画・アニメ『[[神のみぞ知るセカイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=若木民喜|authorlink=若木民喜|editor=キャラメル・ママ|date=2013-09-18|title=神のみぞ知るセカイ公式ガイドブック|series=少年サンデーコミックススペシャル|page=22|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4091244512}}</ref>
* 生年不明 - ぽんぽこりー・ふらもんと・え・かてリーナ、漫画『[[いつわりびと◆空◆]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - クスチアン=アルディルナ、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD -蒼空の戦旗-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=東まゆみ|authorlink=東まゆみ|date=2009-03-10|title=EREMENTAR GERADアルティメットガイド|series=BLADE COMICS|page=105|publisher=[[マッグガーデン]]|isbn=978-4861276163}}</ref>
* 生年不明 - 小田切双葉、漫画・アニメ『[[三者三葉]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sansya_anime|726788312854200320}}</ref>
* 生年不明 - [[きらりん☆レボリューションの登場キャラクター|カメさん]]、漫画・アニメ『[[きらりん☆レボリューション]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 一条寺メイ、漫画『[[東京★イノセント]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=鳴見なる|authorlink=鳴見なる|date=2007-11-27 |title=東京★イノセント |volume=3巻 |page=68 |publisher=[[スクウェア・エニックス]] |series=[[月刊ガンガンWING#ガンガンウイングコミックス|ガンガンWINGコミックス]] |isbn= 978-4-7575-2166-7 }}</ref>
* 生年不明 - 柴田勝、漫画・アニメ『[[ナナマル サンバツ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://7o3x.com/char/profiles.html#22 |title=柴田勝 |publisher=[[杉基イクラ]]/[[KADOKAWA]] 7○3×クイズ研究会 |work=アニメ『ナナマル サンバツ』公式サイト |accessdate=2022-10-22}}</ref>
* 生年不明 - ハナ・N・フォンテーンスタンド、漫画・アニメ『[[ハナヤマタ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 -|author=浜弓場双|authorlink=浜弓場双|date=2012-09-12|title=ハナヤマタ|series=まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ|volume=第2巻|publisher=[[芳文社]]|isbn=978-4832241671}}</ref>
* 生年不明 - 姫野アリス、小説・アニメ『[[無彩限のファントム・ワールド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://phantom-world.com/sp/character/arisu/ |title=姫野 アリス |access-date=2022-10-22 |publisher=[[秦野宗一郎]]・[[京都アニメーション]]/無彩限の製作委員会 |work=『無彩限のファントム・ワールド』}}</ref>
* 生年不明 - 武田ナオキ、アニメ『[[ファイ・ブレイン 神のパズル]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ロイ・ブロムウェル、ゲーム『[[ジャスティス学園]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 花園雅美、ゲーム『[[ダブルキャスト (ゲーム)|ダブルキャスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author1=ザ・プレイステーション編集部 |author2=アミューズメント書籍編集部 |title=「やるドラ」攻略シリーズ ダブルキャスト 公式ガイド |series=The PlayStation BOOKS |publisher=[[SBクリエイティブ|ソフトバンク 出版事業部]] |language=ja |date=1998-07-15 |page=25 |isbn=4-7973-0678-5}}</ref>
* 生年不明 - アンティノ・マノン、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[どうぶつの森の登場キャラクター一覧|ミント]]、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m05.html |title=住民名簿 5月 ミント |access-date=2022-10-22 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - 紅丸、ゲーム『[[ファンタスティックフォーチュン2]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 長瀬湊、ゲーム『[[あかね色に染まる坂]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 三ツ峰楓、ゲーム・アニメ『[[ホームメイド -Homemaid-|ホームメイドスイーツ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://circus-co.jp/product/hmsweets/character/kaede.html |title=三ツ峰 楓 |access-date=2022-10-22 |publisher=CIRCUS |work=ホームメイドスイーツ}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズ|土屋亜子]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20107 |title=土屋 亜子(つちや あこ) |access-date=2022-10-22 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 上条るい、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://app.famitsu.com/20130401_146444/ |title=【ガールフレンド(仮)通信08】ツンデレ幼なじみ 上条るいちゃん(CV:渡部優衣) |access-date=2022-10-22 |publisher=ファミ通App |date=2013-04-01}}</ref>
* 生年不明 - レナ、ゲーム・アニメ『[[消滅都市]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|shoumetsutoshi|1256463430615207940}}</ref>
* 生年不明 - 倉科明日香、ゲーム・アニメ『[[蒼の彼方のフォーリズム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aokana_tvanime|1520900108279508992}}</ref>
* 生年不明 - スペシャルウィーク、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=specialweek |title=スペシャルウィーク |publisher=[[Cygames]] |accessdate=21 Feb 2023 |website=『ウマ娘 プリティーダービー』}}</ref>
* 生年不明 - 翠石依織、メディアミックス『[[Paradox Live]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://paradoxlive.jp/character/akanyatsura/iori.php|work=『Paradox Live』 |title=翠石 依織 |access-date=2022-10-22 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]]}}</ref>
=== 忌日(フィクション) ===
* [[1998年]] - [[リーマス・ルーピン]]、小説・映画「[[ハリー・ポッターシリーズ]]」に登場するキャラクター
* 1998年 - [[ニンファドーラ・トンクス]]、小説・映画「ハリー・ポッターシリーズ」に登場するキャラクター
* 1998年 - [[フレッド・ウィーズリー]]、小説・映画「ハリー・ポッターシリーズ」に登場するキャラクター
* 1998年 - [[コリン・クリービー]]、小説・映画「ハリー・ポッターシリーズ」に登場するキャラクター
* 1998年 - [[セブルス・スネイプ]]、小説・映画「ハリー・ポッターシリーズ」に登場するキャラクター
* 1998年 - [[ベラトリックス・レストレンジ]]、小説・映画「ハリー・ポッターシリーズ」に登場するキャラクター
* 1998年 - [[ヴォルデモート]]、小説・映画「ハリー・ポッターシリーズ」に登場するキャラクター
* 1998年 - [[ビンセント・クラッブ]](原作のみ)、小説・映画「ハリー・ポッターシリーズ」に登場するキャラクター<ref group="注">映画ではゴイルに代わっている。</ref>
* 1998年 - [[グレゴリー・ゴイル]]、小説・映画「ハリー・ポッターシリーズ」に登場するキャラクター<ref group="注" name="映画版ハリー・ポッター">映画版のみで、原作では生存。</ref>
* 1998年 - [[ラベンダー・ブラウン]]、小説・映画「ハリー・ポッターシリーズ」に登場するキャラクター<ref group="注" name="映画版ハリー・ポッター" />
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|May 2|2 May}}
{{新暦365日|5|1|5|3|[[4月2日]]|[[6月2日]]|[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]|0502|5|02}}
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'''7月1日'''(しちがつついたち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から182日目([[閏年]]では183日目)にあたり、年末まであと183日ある。
== できごと ==
[[ファイル:Dorylee2.jpg|thumb|180x180px|[[1097年]]、[[第1回十字軍]]、[[ドリュラエウムの戦い]]]]
[[ファイル:Lublin Union 1569.PNG|thumb|180x180px|[[1569年]][[ルブリン合同]]、[[ポーランド・リトアニア共和国]]成立。]]
[[ファイル:Battle of Gettysburg, by Currier and Ives.png|thumb|180x180px|[[1863年]]、[[南北戦争]]:[[ゲティスバーグの戦い]]]]
[[ファイル:Hawthorn Ridge Redoubt mine (1 July 1916) 2.jpg|thumb|180x180px|[[1916年]]、第一次世界大戦:[[ソンムの戦い]]]]
[[ファイル:Akai-Tori first issue.jpg|thumb|280x280px|[[1918年]]、「[[赤い鳥]]」創刊]]
[[ファイル:Able crossroads.jpg|thumb|180x180px|[[1946年]]、[[クロスロード作戦]]]]
[[ファイル:International Geophysical Year in 1957.Japanese sttamp of 10yen.jpg|thumb|213x213px|[[1957年]]、[[国際地球観測年]]記念切手]]
[[ファイル:UseZipCode.JPG|thumb|180x180px|[[1963年]]、アメリカ、[[ZIPコード]]導入]]
[[ファイル:Firstwalkman.JPG|thumb|248x248px|[[1979年]]、[[ウォークマン]]第1号機発売]]
[[ファイル:Oeresund Bridge.jpg|thumb|180x180px|[[2000年]]、[[デンマーク]]と[[スウェーデン]]を結ぶ[[オーレスン・リンク]]開通]]
[[ファイル:Cassini Saturn Orbit Insertion.jpg|thumb|180x180px|[[2004年]]、[[土星]]探査機[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]、土星の軌道に投入]]
[[ファイル:Leap Second - June 30, 2012.png|thumb|180x180px|[[2012年]]、閏秒挿入]]
* [[1097年]] - [[第1回十字軍]]: [[ドリュラエウムの戦い]]。
* [[1569年]] - [[ルブリン合同]]が成立し、[[同君連合]]であった[[ポーランド王国]]と[[リトアニア大公国]]が合邦して[[ポーランド・リトアニア共和国]]になる。
* [[1770年]] - [[レクセル彗星]]が地球から0.0146[[天文単位]]まで接近。地球に最も接近した[[彗星]]。
* [[1859年]]([[安政]]6年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[日米修好通商条約]]に基づき、神奈川([[横浜港]])、長崎([[長崎港]])、箱館([[函館港]])が開港される。
* [[1862年]] - [[南北戦争]]: [[マルバーンヒルの戦い]]。
* [[1863年]] - 南北戦争: [[ゲティスバーグの戦い]]が始まる。
* 1863年 - オランダの植民地[[スリナム]]で[[奴隷制]]が廃止。(スリナムの祝日 [[:en:Keti Koti|Keti Koti]])
* [[1867年]] - [[イギリス]]議会で[[英領北アメリカ法]]が制定され、[[カナダ]]が連邦自治を開始する。(カナダの[[建国記念日]]:[[カナダ・デー]])
* 1867年 - [[北ドイツ連邦]]で首相に[[オットー・フォン・ビスマルク]]が就任する。
* [[1871年]]([[明治]]4年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]]) - 明治政府が[[神道]]を[[国家神道|国家の宗祀]]と定める。
* [[1873年]] - [[プリンスエドワード島]]がカナダ連邦政府に加入。
* [[1878年]] - カナダが[[万国郵便連合]] (UPU) に加盟<ref>{{Cite web |title=Member Countries Canada |url=https://www.upu.int/en/Universal-Postal-Union/About-UPU/Member-Countries?csid=-1&cid=11 |accessdate=3 Dec 2023 |publisher=UNIVERSAL POSTAL UNION}}</ref>。
* [[1881年]] - 世界初の[[国際電話]]がカナダ(St. Stephen in New Brunswick)とアメリカ合衆国(Calais, Maine)の間で行われる。
* [[1885年]] - 専売特許条例施行<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.jpaa.or.jp/shacho-chizai/episode/episode001/ |title=中世のベニスで誕生した特許制度。その発達の歴史とは? |work=社長の知財 |accessdate=3 Dec 2023 |publisher=日本弁理士会}}</ref>。
* [[1889年]] - [[東海道本線]]が全線開通。
* [[1890年]] - [[第1回衆議院議員総選挙]]が行われる。
* 1890年 - イギリスとドイツが[[ヘルゴランド=ザンジバル条約]]を締結。
* [[1898年]] - [[米西戦争]]: {{仮リンク|サンファン・ヒルの戦い|en|Battle of San Juan Hill}}。
* [[1903年]] - [[ツール・ド・フランス]]第1回大会が開幕。[[7月19日]]まで。
* [[1904年]] - [[1904年セントルイスオリンピック|第3回夏季オリンピック・セントルイス大会]]が開幕。[[11月23日]]まで。
* [[1908年]] - [[SOS]]が国際的な[[遭難信号]]として採用される。
* [[1909年]] - [[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[代々木公園|代々木練兵場]]が完成。
* [[1911年]] - [[第二次モロッコ事件]]: [[モロッコ]]の権益を巡り、[[ドイツ]]と[[フランス]]が衝突。
* [[1916年]] - [[第一次世界大戦]]: [[ソンムの戦い]]。初日だけでイギリス軍に2万人の死者、4万人の負傷者が出る。
* [[1917年]] - [[安徽省 (中華民国)|安徽]]督軍[[張勲 (清末民初)|張勲]]の後ろ盾により[[清]]の元皇帝[[愛新覚羅溥儀]]が復辟を宣言。([[張勲復辟]])
* [[1918年]] - 子供向け文芸雑誌『[[赤い鳥]]』が創刊。
* [[1924年]] - 日本で、[[尺貫法]]を廃止し[[メートル法]]に一本化する[[度量衡法]]改正法<(大正10年4月11日法律第71号)が施行<ref>{{Cite web |url=http://www.town.oiso.kanagawa.jp/oisomuseum/kyodoshiryokan/res/100yearsago_oiso/1921/192103/13309.html |title=大正10年3月30日 |access-date=3 Dec 2023 |publisher=[[大磯町]] |date=30 Mar 2021}}</ref>。移行まで20年の猶予が設けられるが、後に[[1959年]][[1月1日]]まで延期に。
* [[1925年]] - 中国の[[広州市|広州]]に[[中国国民党]]の[[国民政府]](広州国民政府)が成立。
* [[1926年]] - 広東国民政府が「[[北伐 (中国国民党)|北伐]]宣言」を発表。
* [[1927年]] - ボーイング・エアー・トランスポート(現在の[[ユナイテッド航空]])が[[シカゴ]]-[[サンフランシスコ]]間で商業航空サービスを開始<ref>{{Cite web |url=https://www.dispatcher.org/dispatcher/early-dispatch-history |title=Early Dispatch History |access-date=3 Dec 2023 |publisher=The Airline Dispatchers Federation}}</ref>。
* [[1931年]] - アメリカの飛行士[[ウィリー・ポスト]]が[[世界一周飛行|世界一周]]速度記録を達成。
* [[1932年]] - [[富士山測候所|中央気象台臨時富士山頂観測所]]設置。富士山頂での気象観測を開始。
* 1932年 - [[総武本線]]・[[御茶ノ水駅|御茶ノ水]] - [[両国駅|両国]]が開業し、御茶ノ水で中央本線と連絡。
* [[1939年]] - [[日ソ国境紛争]]: 日本軍がノモンハンで総攻撃を開始。[[ノモンハン事件|第二次ノモンハン事件]]が始まる。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]・[[北アフリカ戦線]]: 第一次[[エル・アラメインの戦い]]が始まる。
* 1942年 - [[関門トンネル (山陽本線)|関門鉄道トンネル]]で貨物営業開始。
* [[1946年]] - アメリカが[[マーシャル諸島]]で最初の[[核実験]]([[クロスロード作戦]])を実施。
* [[1947年]] - [[公正取引委員会]]設置。
* 1947年 - [[フィリピン空軍]]創設。
* [[1948年]] - [[1948年7月1日国鉄ダイヤ改正|国鉄白紙ダイヤ改正]]。
* [[1950年]] - [[青森県]][[弘前市]]と[[黒石市]]を結ぶ[[弘南鉄道弘南線]]が開業。
* [[1952年]] - 戦後、駐留米軍の管理下に置かれていた[[東京国際空港|羽田空港]]が日本に返還。
* 1952年 - [[四国放送]](JR、現・JRT)、[[北日本放送]]、ラジオ開局。
* [[1954年]] - [[防衛省設置法|防衛庁設置法]]・[[自衛隊法]]施行により、[[保安庁]]が[[防衛庁]]に、[[保安隊]]・[[警備隊 (保安庁)|警備隊]]が[[自衛隊]]に改組される。
* 1954年 - [[国家地方警察]]と[[自治体警察 (旧警察法)|自治体警察]]を統合して[[警察本部|都道府県警察]]に移行。
* 1954年 - ラジオ山梨(現・[[山梨放送]])、ラジオ宮崎(現・[[宮崎放送]])開局。
* [[1957年]] - [[国際地球観測年]] (IGY) が開始される。[[1958年]][[12月31日]]まで。
* 1957年 - [[日本専売公社]]が日本初のフィルター付たばこ「[[ホープ (たばこ)|ホープ]]」を発売。
* [[1958年]] - [[大阪放送]](ラジオ大阪、OBC)、[[西日本放送テレビ|西日本放送(RNC)テレビ]]開局。
* 1958年 - 現在の[[大沼国定公園]]が認定。
* [[1959年]] - アメリカとイギリスの間で、[[ヤード]]・[[ポンド (質量)|ポンド]]およびそれらの派生単位の値を共通化する協定を締結<ref>{{Kotobank|ポンド}}</ref>。
* [[1960年]] - イタリア領ソマリアが独立、5日前に独立した旧イギリス領[[ソマリランド]]と合併して[[ソマリア|ソマリア共和国]]が成立。
* 1960年 - [[ガーナ]]が英連邦王国から共和制へ移行し、[[クワメ・ンクルマ]]が初代大統領に就任。
* 1960年 - 自治庁が[[自治省]]に昇格。
* 1960年 - [[ラジオ沖縄]](ROK)開局。
* [[1962年]] - [[ルワンダ]]と[[ブルンジ]]が[[ベルギー]]から独立。
* 1962年 - [[第6回参議院議員通常選挙]]。
* [[1963年]] - [[アメリカ合衆国郵便公社]]が[[ZIPコード]]を導入。
* [[1965年]] - [[名神高速道路]]が全線(小牧-西宮間)開通。
* [[1967年]] - [[欧州共同体]] (EC) が発足<ref>{{Cite web|和書 |url=http://eumag.jp/feature/b0317/ |title=調印60周年を迎えるローマ条約――回顧と未来 |work=EU MAG |accessdate=3 Dec 2023 |date=14 Mar 2017}}</ref>。
* [[1968年]] - [[スイス]]の[[ジュネーヴ]]でアメリカ・[[ソビエト連邦|ソ連]]など62カ国が[[核拡散防止条約]](NPT)に調印。
* 1968年 - 日本で[[日本の郵便番号|郵便番号]]が導入。
* 1968年 - [[日本電信電話公社|電電公社]]が[[東京都区部|東京23区]]で[[無線呼び出し|ポケットベル]]のサービスを開始<ref name=":0">{{Cite web |url=https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/616/2616453/ |title=今日は何の日? ソニー ウォークマン発売(1979)、NTTドコモ ポケットベルサービス開始(1968) |accessdate=3 Dec 2023 |publisher=KADOKAWA ASCII Research Laboratories, Inc. |date=1 Jul 2013 |website=週刊アスキー}}</ref>。
* [[1969年]] - [[東京証券取引所]]が[[東証株価指数]]の公表を開始。
* [[1970年]] - [[本州四国連絡橋公団]]が発足。
* 1970年 - 韓国で[[郵便番号]]導入。
* [[1971年]] - [[環境庁]]発足。
* [[1973年]] - 内閣放射能対策本部が4日前の中国の[[水素爆弾|水爆]]実験の影響で[[石川県]]内の[[雨]]から平常値の70 - 80倍の[[放射能]]検出と発表。
* [[1978年]] - 静岡県民放送(通称:静岡けんみんテレビ(SKT)、現:[[静岡朝日テレビ]](SATV))開局。
* 1978年 - [[東京都交通局]](都営交通)の[[都営地下鉄|地下鉄]]1号線を「[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]」に、6号線を「[[都営地下鉄三田線|三田線]]」に、10号線を「[[都営地下鉄新宿線|新宿線]]」に改称。
* [[1979年]] - [[ソニー]]が[[ウォークマン]]の1号機TPS-L2を発売<ref name=":0" />。
* 1979年 - [[静岡第一テレビ]](SDT)開局。
* [[1980年]] - 「[[オー・カナダ]]」が正式にカナダの国歌になる。{{audio|O Canada French lyrics 1918.ogg|『オー・カナダ』原詞版を聴く}}
* [[1981年]] - マルチメディア機器メーカー「[[クリエイティブテクノロジー]]」が設立された。
* [[1982年]] - トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併して[[トヨタ自動車]]が発足<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/leaping_forward_as_a_global_corporation/chapter1/section2/item2.html |title=第2項 新生トヨタ自動車の誕生 |work=トヨタ自動車75年史 |accessdate=3 Dec 2023 |publisher=[[トヨタ自動車|TOYOTA MOTOR CORPORATION]]}}</ref>。
* [[1984年]] - [[総理府]]の外局として[[総務庁]]が発足。
* [[1985年]] - 青森県の国鉄[[下北交通大畑線|大畑線]]が私鉄・[[下北交通]]に譲渡。
* 1985年 - [[豊田商事]]が[[破産]]。
* [[1986年]] - [[内閣 (日本)|内閣]]が[[現代仮名遣い]]を告示。
* 1986年 - 福島県の国鉄[[阿武隈急行線|丸森線]]が第三セクター・[[阿武隈急行]]に転換。
* [[1990年]] - [[ドイツ再統一]]: 通貨・経済・社会同盟の創設に関する国家条約が発効。[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]に[[西ドイツ]]の通貨・[[ドイツマルク]]が導入される。
* [[1991年]] - [[ワルシャワ条約機構]]が正式に解散。
* 1991年 - [[エフエム京都]](α-station)開局。
* [[1992年]] - [[山形新幹線]]開業。
* [[1993年]] - [[にっかつ]](現、日活)が[[東京地方裁判所|東京地裁]]に[[会社更生法]]の適用を申請。
* [[1995年]] - [[製造物責任法]](PL法)が施行。
* 1995年 - [[NTTパーソナル]]が首都圏と札幌で[[PHS]]のサービスを開始。
* [[1996年]] - 女流棋士の[[清水市代]]が[[女流王将戦|女流王将]]を奪還し、[[女流名人位戦|女流名人]]・[[女流王位戦|女流王位]]・[[大山名人杯倉敷藤花戦|倉敷藤花]]と合わせて史上初の女流四冠独占を達成。
* [[1997年]] - [[香港]]が[[イギリス]]から[[中華人民共和国]]へ[[香港返還|返還]]される。[[香港特別行政区行政長官|香港特別行政区初代行政長官]]に[[董建華]]が就任。
* [[1998年]] - 京王帝都電鉄が社名を[[京王電鉄]]に変更。
* [[1999年]] - [[日本電信電話|NTT]]が持株会社化、[[西日本電信電話|NTT西日本]]、[[東日本電信電話|NTT東日本]]、[[NTTコミュニケーションズ]]に分割。
* [[2000年]] - 金融監督庁を[[金融庁]]に改組。
* 2000年 - [[デンマーク]]と[[スウェーデン]]とを結ぶ[[オーレスン・リンク]](オーレスン橋)が開通。
* [[2002年]] - [[読売新聞社]]がグループ再編、持株会社として[[読売新聞グループ本社]]発足。
* 2002年 - [[国際刑事裁判所規程|ローマ規程]]発効により、[[国際刑事裁判所]]が設置される。
* 2002年 - [[ユーバーリンゲン空中衝突事故]]発生。
* [[2003年]] - [[長崎男児誘拐殺人事件]]発生。
* 2003年 - [[食糧庁]]廃止。
* 2003年 - [[大阪証券取引所]]が[[ヘラクレス指数]]の公表を開始。
* [[2004年]] - アメリカの土星探査機[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]が[[土星]]の軌道に投入<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.astroarts.co.jp/news/2004/07/02cassini/index-j.shtml |title=土星探査機カッシーニ、無事に土星の周回軌道へ、初画像を送信 |date=2 Jul 2004 |accessdate=3 Dec 2023 |publisher=AstroArts Inc. |work=AstroArts}}</ref>。
* 2004年 - ドイツの[[連邦大統領 (ドイツ)|連邦大統領]]に[[ホルスト・ケーラー]]が就任。
* [[2006年]] - [[青蔵鉄道]](青海チベット鉄道)が全通。
* [[2008年]] - [[山梨県]]を含めた[[関東地方]]全都県及び[[沖縄県]]を最後に、日本全国一斉に[[タバコ|たばこ]][[自動販売機]]の識別[[ICカード]]「[[taspo]]」の導入を開始。
* 2008年 - [[NTTドコモ]]が8地域会社を本部へ統合。
* [[2009年]] - [[俳優|女優]]の[[森光子]]に[[国民栄誉賞]]が贈られる。
* [[2010年]] - 運輸多目的衛星[[MTSAT#運輸多目的衛星新2号(ひまわり7号)|MTSAT-2]]([[ひまわり (気象衛星)|ひまわり]]7号)での気象観測を開始。
* [[2012年]] - [[閏秒]]が導入。6月30日23時59分59秒と7月1日0時0分0秒 ([[協定世界時|UTC]]) の間に23時59分60秒が挿入された。
* [[2013年]] - [[クロアチア]]が[[欧州連合]]に加盟。
* [[2014年]] - [[日本の集団的自衛権]]の行使容認が閣議決定される。
* 2014年 - 大阪府都市開発が[[南海電気鉄道|南海電鉄]]の子会社となり社名を[[泉北高速鉄道]]に改称。
* [[2015年]] - [[閏秒]]が導入。6月30日23時59分59秒と7月1日0時0分0秒 ([[協定世界時|UTC]]) の間に23時59分60秒が挿入された。
* [[2016年]] - [[バングラデシュ]]の[[首都]][[ダッカ]]の飲食店に武装集団が襲撃。邦人7名を含む20人が死亡した。
* [[2019年]] - [[日本]]において、31年ぶりに[[捕鯨|商業捕鯨]]が再開される。
* [[2022年]] - [[ロシアのウクライナ侵攻]]: [[セルヒイフカへのミサイル攻撃]]。
* 2022年 - [[イスラエル]]の第19代[[イスラエルの首相|首相]]に[[ヤイル・ラピド]]が就任。
<!--
=== 日本の自治体改編 ===
* [[1889年]] - 山梨県[[甲府市]]・岐阜県[[岐阜市]]が市制施行。
* [[1911年]] - 静岡県[[浜松市]]が市制施行。
* [[1916年]] - 愛知県[[岡崎市]]・広島県[[福山市]]が市制施行。
* [[1923年]] - 静岡県[[沼津市]]が市制施行。
* [[1924年]] - 神奈川県[[川崎市]]が市制施行。
* [[1932年]] - 山口県[[萩市]]が市制施行。
* [[1940年]] - 新潟県[[柏崎市]]が市制施行。
* [[1942年]] - 香川県[[坂出市]]が市制施行。
* [[1943年]] - [[東京府]]・[[東京市]]が廃止されて[[東京都]]が設置される。
* [[1946年]] - 鹿児島県[[名瀬市]]が市制施行。
* [[1954年]] - 北海道[[江別市]]・[[士別市]]・[[赤平市]]・[[紋別市]]、青森県[[黒石市]]、埼玉県[[岩槻市]]・[[狭山市]]・[[東松山市]]・[[本庄市]]、千葉県[[旭市]]・[[八日市場市]]が市制施行、山梨県[[山梨市]]、長野県[[駒ヶ根市]]・[[大町市]]・[[中野市]]、福井県[[大野市]]、兵庫県[[高砂市]]、熊本県[[牛深市]]が市制施行。
* [[1956年]] - 沖縄県[[コザ市]](現 [[沖縄市]])が市制施行。
* [[1958年]] - 北海道[[歌志内市]]・[[砂川市]]・[[千歳市]]・[[滝川市]]、石川県[[羽咋市]]、兵庫県[[三田市]]が市制施行。
* [[1962年]] - 沖縄県[[宜野湾市]]が市制施行。
* [[1963年]] - 静岡県[[浜北市]]が市制施行。
* [[1968年]] - 沖縄県[[具志川市]]が市制施行。
* [[1970年]] - 千葉県[[我孫子市]]、東京都[[福生市]]、滋賀県[[守山市]]、大阪府[[四條畷市]]・[[泉南市]]、沖縄県[[浦添市]]が市制施行。
* [[2005年]] - [[静岡県]][[浜松市]]が[[市町村合併|合併]]。当時は国内2番目、静岡県内で最も広い市となった。
* 2005年 - 鹿児島県[[曽於市]]が市制施行。
-->
== 誕生日 ==
[[Image:Gottfried Wilhelm von Leibniz.jpg|thumb|228x228px|[[ゴットフリート・ライプニッツ]](1646-1716)]]
[[File:George Sand by Nadar, 1864.jpg|thumb|228x228px|[[ジョルジュ・サンド]](1804-1876)]]
[[File:Louis Bleriot.jpg|thumb|293x293px|[[ルイ・ブレリオ]](1872-1936)]]
[[File:William Wyler portrait.jpg|thumb|234x234px|[[ウィリアム・ワイラー]](1902-1981)]]
[[Image:Princess diana bristol 1987 01.jpg|thumb|321x321px|[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ]](1961-1997)]]
[[File:Save The World Awards 2009 press conference - Carl Lewis 2.jpg|thumb|256x256px|[[カール・ルイス]](1961-)]]
[[File:LivTylerLOTR03.jpg|thumb|282x282px|[[リヴ・タイラー]](1977-)]]
* [[1481年]] - [[クリスチャン2世 (デンマーク王)|クリスチャン2世]]、デンマーク王(+ [[1559年]])
* [[1506年]] - [[ラヨシュ2世 (ハンガリー王)|ラヨシュ2世]]、ハンガリー王(+ [[1526年]])
* [[1610年]]([[慶長]]15年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - [[秋月種春]]、[[高鍋藩]]主(+ [[1659年]])
* [[1646年]] - [[ゴットフリート・ライプニッツ]]、[[哲学者]]、[[数学者]](+ [[1716年]])
* [[1653年]]([[承応]]2年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]) - [[木下公定]]、[[足守藩]]主(+ [[1731年]])
* [[1741年]]([[寛保]]元年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[内藤政苗]]、[[挙母藩]]主(+ [[1802年]])
* [[1746年]]([[延享]]3年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - [[吉川経倫]]、[[岩国領]]7代領主(+ [[1803年]])
* [[1780年]] - [[カール・フォン・クラウゼヴィッツ]]、[[軍人]]、[[軍事学者]](+ [[1831年]])
* [[1784年]]([[天明]]4年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]]) - [[細川立之]]、[[宇土藩]]主(+ [[1818年]])
*[[1788年]] - [[ジャン=ヴィクトル・ポンスレ]]、[[数学者]](+ [[1867年]])
* 1788年([[天明]]8年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]) - [[土岐頼潤]]、[[沼田藩]]主(+ [[1826年]])
* [[1804年]] - [[ジョルジュ・サンド]]、[[作家]](+ [[1876年]])
* [[1807年]]([[文化 (元号)|文化]]8年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]) - [[松平勝権]]、[[多古藩]]主(+ [[1868年]])
* [[1823年]]([[文政]]6年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]) - [[松前良広]]、[[松前藩]]主(+ [[1839年]])
* [[1831年]] - [[ヴォイチェフ・ゲルソン]]、[[画家]](+ [[1901年]])
* [[1857年]] - [[ロジャー・コナー]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1931年]])
* [[1861年]] - [[ジョン・クラークソン]]、元プロ野球選手(+ [[1909年]])
* [[1870年]]([[明治]]3年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[坂田三吉]]、[[将棋棋士]](+ [[1946年]])
* [[1872年]] - [[ルイ・ブレリオ]]、航空技術者(+ [[1936年]])
* [[1875年]] - [[二反長音蔵]]、[[日本]]の農民・農業技術者。[[アヘン|阿片]]の材料となる[[ケシ]]の日本国内栽培に尽力(+ [[1951年]])
* [[1881年]] - [[エドワード・ベイリー]]、[[地質学者]](+ [[1965年]])
* [[1888年]] - [[ベン・テイラー (1888年生の内野手)|ベン・テイラー]]、元プロ野球選手(+ [[1953年]])
* [[1890年]] - [[多田等観]]、僧侶、仏教学者(+ [[1967年]])
* 1890年 - [[高村豊周]]、鋳金家(+ [[1972年]])
* [[1893年]] - [[獅子文六]]、[[小説家]](+ [[1969年]])
* [[1896年]] - [[高良とみ]]、[[婦人運動|婦人運動家]]、[[政治家]](+ [[1993年]])
* [[1898年]] - [[田中勝雄]]、[[野球選手]](+ [[1995年]])
* [[1899年]] - [[チャールズ・ロートン]]、[[俳優]](+ [[1962年]])
* [[1902年]] - [[ウィリアム・ワイラー]]、[[映画監督]](+ [[1981年]])
* [[1903年]] - [[エミー・ジョンソン]]、[[パイロット (航空)|パイロット]](+ [[1941年]])
* 1903年 - [[江口夜詩]]、[[作曲家]](+ [[1978年]])
* [[1906年]] - [[エスティ・ローダー]]、[[エスティローダー]]創業者(+ [[2004年]])
* 1906年 - [[ジャン・デュドネ]]、数学者(+ [[1992年]])
* [[1911年]] - [[セルゲイ・ソコロフ]]、陸軍軍人、国防大臣(+ [[2012年]])
* [[1913年]] - [[横井英樹]]、[[実業家]](+ [[1998年]])
* [[1916年]] - [[オリヴィア・デ・ハヴィランド]]、[[俳優|女優]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61933130X20C20A7000000/ |title=オリビア・デ・ハビランドさんが死去 女優 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=27 Jul 2020 |accessdate=3 Dec 2023}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.bbc.com/japanese/53549335 |title=女優オリヴィア・デ・ハヴィランドさん104歳で死去 「風と共に去りぬ」のメラニー |publisher=[[BBC]] NEWS JAPAN |date=27 Jul 2020 |accessdate=3 Dec 2023}}</ref>)
* [[1918年]] - [[西河克己]]、[[映画監督]](+ [[2010年]])
* [[1920年]] - [[ハロルド坂田]]、俳優、レスラー、重量挙げ選手(+ [[1982年]])
* [[1921年]] - [[セレツェ・カーマ]]、政治家、[[ボツワナ]]初代[[ボツワナの大統領一覧|大統領]](+ [[1980年]])
* [[1924年]] - [[杉田庄一]]、海軍軍人(+ [[1945年]])
* [[1925年]] - [[荒木茂 (野球)|荒木茂]]、元プロ野球選手
* [[1929年]] - [[ジェラルド・モーリス・エデルマン]]、[[生物学者]](+ [[2014年]])
* [[1930年]] - [[ゴンサロ・サンチェス・デ・ロサダ]]、政治家、元[[ボリビアの大統領|ボリビア大統領]]
* 1930年 - [[西田亨]]、元プロ野球選手(+ [[2003年]])
* 1930年 - [[キャロル・チョムスキー]]、[[言語学者]](+ [[2008年]])
* [[1931年]] - [[椙本勝]]、元プロ野球選手
* [[1933年]] - [[川崎敬三]]、俳優(+ [[2015年]])
* 1933年 - [[瀬能礼子]]、女優、[[声優]](+ [[2017年]])
* 1933年 - [[黒岩弘]]、元プロ野球選手
* [[1934年]] - [[シドニー・ポラック]]、映画監督、俳優、[[映画プロデューサー]](+ [[2008年]])
* 1934年 - [[クロード・ベリ]]、映画監督、俳優、映画プロデューサー(+ [[2009年]])
* [[1935年]] - [[大矢根博臣]]、元プロ野球選手
* 1935年 - [[デヴィッド・プラウズ]]、俳優(+ [[2020年]])
* [[1937年]] - [[浅井慎平]]、[[写真家]]
* [[1939年]] - [[馬場章夫]]、[[ラジオパーソナリティ]]、[[冒険家]]、タレント
* [[1940年]] - [[山本圭]]、俳優(+ [[2022年]])
* [[1941年]] - [[マイロン・ショールズ]]、経済学者
* 1941年 - [[横内正]]、俳優
* 1941年 - [[石黒和弘]]、元プロ野球選手(+ [[2015年]])
* [[1942年]] - [[大下八郎]]、歌手
* 1942年 - [[ジュヌヴィエーヴ・ビュジョルド]]、女優
* [[1944年]] - [[大倉英貴]]、元プロ野球選手
* [[1945年]] - [[車谷長吉]]、[[作家]]、[[俳人]](+ [[2015年]])
* [[1946年]] - [[佐藤正治 (声優)|佐藤正治]]、声優
* [[1947年]] - [[星野一義]]、レーサー
* [[1948年]] - [[アルナ・シャンバグ]]、看護師(+ [[2015年]])
* [[1951年]] - [[テレンス・マン]]、ミュージカル俳優
* [[1952年]] - [[田丸美寿々]]、[[ニュースキャスター]]
* 1952年 - [[橋本一子]]、[[音楽家]]
* 1952年 - [[ダン・エイクロイド]]、[[コメディアン]]、俳優
* [[1953年]] - [[ながいのりあき]]、[[漫画家]]
* [[1955年]] - [[明石家さんま]]、[[日本のお笑いタレント|お笑いタレント]]
* 1955年 - [[ニコライ・デミジェンコ]]、[[ピアニスト]]
* 1955年 - [[李克強]]、[[中華人民共和国]]第7代[[国務院総理]](+ [[2023年]])
* [[1956年]] - [[五代高之]]、俳優
* [[1958年]] - [[岡田斗司夫]]、作家
* [[1959年]] - [[逆木圭一郎]]、声優、俳優
* 1959年 - [[伊藤直司]]、元サッカー選手
* [[1960年]] - [[石井康嗣]]<ref>{{Cite web |url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=1375 |title=石井康嗣|アニメキャラ・プロフィール・出演情報・最新情報まとめ |access-date=3 Dec 2023 |publisher=[[アニメイト|ANIMATE CORPORATION]] |website=animate Times}}</ref>、声優、[[ナレーター]]
* 1960年 - [[香山リカ (精神科医)|香山リカ]]、精神科医
* 1960年 - [[藤田恭一]]、[[ファッションデザイナー]]
* 1960年 - [[まついなつき]]、漫画家、[[エッセイスト]]
* [[1961年]] - [[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ・スペンサー]]、[[イギリス]]王太子妃(+ [[1997年]])
* 1961年 - [[カール・ルイス]]、元[[陸上選手]]
* [[1962年]] - [[鷹西美佳]]、元[[日本のアナウンサー|アナウンサー]]
* 1962年 - [[三杉里公似]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄17代[[濱風]]
* [[1964年]] - [[佐藤智恵]]、声優
* 1964年 - [[藤田秀世]]、俳優([[ナイロン100℃]])
* [[1965年]] - [[石橋通宏]]、政治家
* 1965年 - [[江頭2:50]]、お笑いタレント
* 1965年 - [[TOKIE]]、[[ベーシスト]]、
* 1965年 - [[ハラルド・ズワルト]]、映画監督
* 1965年 - [[山口祥義]]、政治家
* [[1966年]] - [[中川緑]]、アナウンサー
* [[1967年]] - [[パメラ・アンダーソン]]、モデル、女優
* [[1968年]] - [[今泉清保]]、アナウンサー
* 1968年 - [[村岡弘之]]、俳優
* 1968年 - [[森田樹優]]、声優
* 1968年 - [[小島圭市]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[榊原勝也]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[青木定治]]、[[パティシエ]]
* [[1969年]] - [[桧山進次郎]]、元プロ野球選手
* [[1970年]] - [[幸田正広]]、元プロ野球選手
* 1970年 - [[ケリー・サイモン|ケリーサイモン]]、ギタリスト、シンガーソングライター
* [[1971年]] - [[鳥越裕介]]、元プロ野球選手
* 1971年 - [[イゴール・パシケビッチ]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2016年]])
* [[1972年]] - [[関口知宏]]、俳優
* 1972年 - [[稲田徹]]<ref name="prof">{{Cite web|和書 |url=https://www.aoni.co.jp/search/inada-tetsu.html |title=稲田 徹 |accessdate=3 Dec 2023 |publisher=[[青二プロダクション|株式会社青二プロダクション]]}}</ref>、声優
* 1972年 - [[柴田ヨクサル]]、漫画家
* [[1974年]] - [[ジェファーソン・ペレス]]、陸上選手
* [[1975年]] - [[スフィアン・スティーヴンス]]、[[ソングライター]]
* [[1976年]] - [[ルート・ファン・ニステルローイ]]、元サッカー選手
* 1976年 - [[パトリック・クライファート]]、元サッカー選手
* 1976年 - [[ジャスティン・ロー]](側田)、歌手
* [[1977年]] - [[リヴ・タイラー]]、女優
* 1977年 - [[春日王克昌]]、元大相撲力士
* 1977年 - [[谷浩弥]]、元プロ野球選手
* 1977年 - [[浦田理恵]]、パラリンピックゴールボール選手
* [[1978年]] - [[Akeboshi]]、[[シンガーソングライター]]
* 1978年 - [[北沢直樹]]、[[キャラクターデザイナー]]
* [[1979年]] - 玉城俊幸、お笑いタレント([[キャン×キャン]])
* [[1980年]] - [[ネルソン・クルーズ (外野手)|ネルソン・クルーズ]]、プロ野球選手
* [[1981年]] - [[ジョナソン・ハント]]、[[フィギュアスケート選手]]
* [[1982年]] - [[ヨアキム・ヨハンソン]]、テニス選手
* 1982年 - [[藤井孝太郎]]、[[札幌テレビ放送|STV]]アナウンサー
* [[1983年]] - [[桜井広大]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[十川雄二]]、元プロ野球選手
* [[1984年]] - [[モルガン・デュブレ]]、[[スーパーモデル]]
* [[1985年]] - [[桜井のりお]]、漫画家
* 1985年 - [[平岡政樹]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[山内壮馬]]、元プロ野球選手
* [[1986年]] - [[岩崎諒太]]、声優
* 1986年 - [[福澤達哉]]、元[[バレーボール]]選手
* 1986年 - [[チャーリー・ブラックモン]]、プロ野球選手
* [[1987年]] - [[青木梓]]、陸上選手
* 1987年 - [[林宥嘉]]、歌手
* 1987年 - [[奥田実里]]、元プロ野球選手
* [[1990年]] - [[佐藤夏希]]、元アイドル(元[[AKB48]])
* 1990年 - [[ルーカス・ゲニューシャス]]、ピアニスト
* [[1992年]] - [[野崎夏帆]]、[[ファッションモデル]]
* 1992年 - [[アーロン・サンチェス]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[松澤裕介]]、元プロ野球選手
* 1992年 - [[アウスゲイル]]、シンガーソングライター
* [[1993年]] - [[神山智洋]]、アイドル([[WEST.]])
* 1993年 - [[前田誠二]]、声優、歌手、舞台俳優
* [[1994年]] - [[岡本杏理]]、ファッションモデル、女優
* 1994年 - [[宗田淑]]、ファッションモデル
* [[1995年]] - [[宮台康平]]、元プロ野球選手
* 1995年 - [[テヨン (NCT)|テヨン]]、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]])
* [[1996年]] - [[アデリナ・ソトニコワ]]、元フィギュアスケート選手
* 1996年 - [[若林有子]]、アナウンサー
* [[1997年]] - [[金子りえ]]、元アイドル(元[[ハロプロ研修生]])
* 1997年 - [[新田ひより]]、声優
* 1997年 - [[竹石尚人]]、元陸上選手
* [[1998年]] - [[岡本夏美]]、ファッションモデル、女優
* 1998年 - [[アレキサンドラ・ゴロフキナ]]、フィギュアスケート選手
* 1998年 - [[森山みなみ]]、アナウンサー
* [[1999年]] - [[上月せれな]]、アイドル
* [[2003年]] - [[ペイトン尚未]]、声優、アイドル([[Liella!]]、元[[アイドルING!!!〜ネクスト育成ング!!!|アイドルING!!!]])
* 2003年 - [[松浦慶斗]]、プロ野球選手
* 2003年 - [[テイト・マクレー]]、シンガーソングライター
* [[2004年]] - [[桑島海空]]、グラビアアイドル
* [[2008年]] - [[吉岡優奈]]、ファッションモデル
* 生年不明 - [[竹岡美穂]]、イラストレーター
* 生年不明 - [[勝田晶子]]、声優
== 忌日 ==
{{multiple image
| caption1 = [[モクテスマ2世]](1466-1520)
| image1 = Moctezuma Xocoyotzin Newberry.jpg
| width1 = 90
| alt1 = モクテスマ2世
| image2 = Beecher-Stowe.jpg
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| caption2 = [[ハリエット・ビーチャー・ストウ|ストウ夫人]](1811-1896)
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}}
{{multiple image
| caption1 = [[フアン・ペロン]](1895-1974)
| image1 = Juan Peron con banda de presidente.jpg
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| alt1 = フアン・ペロン
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| caption2 = [[マーロン・ブランド]](1924-2004)
| alt2 = マーロン・ブランド
}}
[[Image:Hashimoto Ryūtarō.jpg|thumb|180px|[[橋本龍太郎]](1937-2006)]]
* [[868年]] - [[アリー・ハーディー]]、[[イスラム教]][[シーア派]][[十二イマーム派]]の第10代[[イマーム]](* [[828年]])
* [[1109年]] - [[アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ6世]]、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ王]](* [[1040年]])
* [[1224年]]([[元仁]]元年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[北条義時]]、[[鎌倉幕府]]第2代[[執権]](* [[1163年]])
* [[1277年]] - [[バイバルス]]、[[マムルーク朝]]第5代[[スルターン]](* [[1223年]]頃)
* [[1520年]] - [[モクテスマ2世]]、[[アステカ]]帝国皇帝(* [[1466年]])
* [[1583年]]([[天正]]11年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[佐久間盛政]]、[[織田氏]]の家臣(* [[1554年]])
* [[1592年]] - [[マルカントニオ・インジェニェーリ]]、[[作曲家]](* [[1547年]])
* [[1625年]]([[寛永]]2年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]])- [[亀姫 (徳川家康長女)|亀姫]]、[[徳川家康]]の長女、[[奥平信昌]]の[[正室]](* [[1560年]])
* [[1699年]]([[元禄]]12年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]])- [[徳川綱誠]]、第3代[[尾張藩|尾張藩主]](* [[1652年]])
* [[1736年]] - [[アフメト3世]]、[[オスマン帝国]][[スルタン]](* [[1673年]])
* [[1782年]] - ロッキンガム侯[[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|チャールズ・ワトソン=ウェントワース]]、[[イギリスの首相]](* [[1730年]])
* [[1784年]] - [[ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ]]、作曲家(* [[1710年]])
* [[1839年]] - [[マフムト2世]]、オスマン帝国第30代皇帝(* [[1785年]])
* [[1860年]] - [[チャールズ・グッドイヤー]]、[[発明家]](* [[1800年]])
* [[1884年]] - [[アラン・ピンカートン]]、私立[[探偵]]、[[ピンカートン探偵社]]創業者(* [[1819年]])
* [[1896年]] - [[ハリエット・ビーチャー・ストウ]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[奴隷制]]廃止論者、作家(* [[1811年]])
* [[1904年]] - [[ジョージ・フレデリック・ワッツ]]、[[画家]]、[[彫刻家]](* [[1817年]])
* [[1908年]] - [[児島惟謙]]、政治家、[[大審院]]判事(* [[1837年]])
* [[1915年]] - [[ヨハン・エイクマン]]、[[薬学者]]、[[化学者]](* [[1851年]])
* [[1925年]] - [[エリック・サティ]]、作曲家(* [[1866年]])
* [[1934年]] - [[三岸好太郎]]、[[画家]](* [[1903年]])
* 1934年 - [[エルンスト・レーム]]、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]][[突撃隊]]創始者(* [[1887年]])
* [[1944年]] - [[ターニャ・サヴィチェワ]]、『[[ターニャ・サヴィチェワ#ターニャの日記|ターニャの日記]]』の著作者(* [[1930年]])
* [[1950年]] - [[エミール・ジャック=ダルクローズ]]、作曲家、[[音楽教育|音楽教育家]](* [[1865年]])
* 1950年 - [[エリエル・サーリネン]]、[[建築家]](* [[1873年]])
* [[1961年]] - [[ルイ=フェルディナン・セリーヌ]]、[[小説家]](* [[1894年]])
* [[1964年]] - [[ピエール・モントゥー]]、[[指揮者]](* [[1875年]])
* [[1967年]] - [[清瀬川敬之助]]、元[[大相撲]][[力士]](* [[1893年]])
* [[1971年]] - [[ローレンス・ブラッグ]]、[[物理学者]](* [[1890年]])
* [[1974年]] - [[フアン・ペロン]]、政治家、[[アルゼンチンの大統領|アルゼンチン大統領]](* [[1895年]])
* [[1978年]] - [[クルト・シュトゥデント]]、[[ドイツ空軍]]軍人(* [[1890年]])
* [[1981年]] - [[マルセル・ブロイヤー]]、建築家、[[家具]][[デザイナー]](* [[1902年]])
* [[1983年]] - [[バックミンスター・フラー]]、建築家、[[数学者]](* 1895年)
* [[1991年]] - [[マイケル・ランドン]]、[[映画監督]]、[[俳優]]、[[脚本家]](* [[1936年]])
* [[1992年]] - [[松本照夫]]、元[[プロ野球選手]](* [[1943年]])
* [[1993年]] - [[村上泰亮]]、[[経済学者]]、[[評論家]](* [[1931年]])
* [[1995年]] - [[ウルフマン・ジャック]]、[[ラジオ]][[ディスクジョッキー|DJ]](* [[1938年]])
* [[1996年]] - [[マーゴ・ヘミングウェイ]]、女優(* [[1955年]])
* [[1997年]] - [[ロバート・ミッチャム]]、俳優(* [[1917年]])
* [[1998年]] - [[豊登道春]]、[[プロレスラー]](* [[1931年]])
* [[1999年]] - [[シルヴィア・シドニー]]、女優(* [[1910年]])
* 1999年 - [[エドワード・ドミトリク]]、映画監督(* [[1908年]])
* [[2000年]] - [[ウォルター・マッソー]]、俳優(* [[1920年]])
* [[2001年]] - [[ニコライ・バソフ]]、物理学者(* [[1922年]])
* 2001年 - [[ハリーナ・チェルニー=ステファンスカ]]、[[ピアニスト]](* 1922年)
* [[2003年]] - [[ニカウ]]、俳優(* [[1943年]]?)
* [[2004年]] - [[マーロン・ブランド]]、俳優(* [[1924年]])
* 2004年 - [[高畠導宏]]、元プロ野球選手(* [[1944年]])
* [[2005年]] - [[萩原葉子]]、小説家(* [[1920年]])
* 2005年 - [[ルーサー・ヴァンドロス]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]][[歌手]](* [[1951年]])
* 2005年 - [[天野滋]]、[[ミュージシャン]](* [[1953年]])
* [[2006年]] - [[橋本龍太郎]]、政治家、第82・83代[[内閣総理大臣]](* [[1937年]])
* [[2008年]] - [[佐竹昭広]]、[[日本文学研究者|国文学者]](* [[1928年]])
* [[2013年]] - [[武智文雄]]、元プロ野球選手(* [[1926年]])
* [[2016年]] - [[巴里夫]]、[[漫画家]](* [[1932年]])
* [[2017年]] - [[上田利治]]、元プロ野球選手、監督(* [[1937年]])
* [[2022年]] - [[野村昭子]]<ref>{{Cite web|和書 |title=野村昭子さん、死因は熱中症か 都心での猛暑日続き影響…1日に親族が倒れている所を発見 |url=https://www.sanspo.com/article/20220704-ZV53IO2QLJLTBEZ5B7C2CQS3JU/ |website=[[サンケイスポーツ]] |date=4 Jul 2022 |access-date=3 Dec 2023 |language=ja |publisher=[[産経デジタル|SANKEI DIGITAL INC.]]}}</ref>、女優(*[[1927年]])
* 2022年 - [[熊谷美広]]、[[音楽評論家|音楽ライター]](* [[1958年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[ファイル:MoWestCanadaDay.JPG|thumb|180x180px|[[カナダ]]の建国記念日、[[カナダ・デー]]]]
{{multiple image
| footer = [[1997年]]の[[香港返還]]を記念する特別行政府設立記念日。民主化を求める抗議集会「{{仮リンク|香港七一遊行|zh|香港七一遊行}}」が例年この日に行われる。
| image1 = HKSAR_PRC_table_flags.jpg
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| alt1 = 香港特別行政区と中華人民共和国の卓上旗
| image2 = Article23Marchdemo.jpg
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| alt2 = 七一遊行
}}
[[ファイル:Lake biwa.jpg|thumb|246x246px|[[琵琶湖]]の日]]
* [[カナダ・デー]]({{CAN}})
*: カナダの[[建国記念日]]。[[1867年]]のこの日、カナダ憲法の一部をなす[[1867年憲法法]]が施行され、カナダがイギリスから独立した。
* [[中国共産党]]創立記念日({{PRC}})
*: [[1921年]]のこの日、中華民国の上海で第一回中国共産党大会が開催され、中国共産党が成立した。
* {{仮リンク|香港特別行政府設立記念日|zh|香港特別行政區成立紀念日}}({{HKG}})
*: [[1997年]]この日の中華人民共和国への[[香港返還]]を記念。
* {{仮リンク|Keti Koti|en|Keti Koti}}({{SUR}})
*: [[1863年]]のこの日、オランダの植民地だったスリナムで奴隷制が廃止されたことを記念。
* [[独立記念日]]({{RWA}}・{{BDI}})
*: [[1962年]]のこの日、[[ベルギー]]信託統治領[[ルアンダ=ウルンディ]]が[[ルワンダ|ルワンダ共和国]]と[[ブルンジ王国]]として独立した。
* 共和国記念日({{SOM}})
*: [[1960年]]のこの日、[[イタリア信託統治領ソマリア]]が独立し、5日前に独立した旧[[イギリス領ソマリランド]]と合併してソマリア共和国が発足した。
* 共和国記念日({{GHA}})
*: ガーナは[[1957年]][[3月6日]]にイギリスから独立したが、イギリス国王を元首とする英連邦王国であった。3年後の1960年7月1日に英連邦王国を脱し、大統領を国家元首とする共和国が宣言された。
* サー・セレツェ・カーマの日({{BWA}})
*: 初代大統領[[セレツェ・カーマ]]の誕生日。
* [[国民安全の日]]({{JPN}})
*: [[1960年]]5月の閣議決定で制定。[[全国安全週間]]の初日。
* [[更生保護の日]]({{JPN}})
*: [[法務省]]が[[1962年]]に制定。[[1949年]]のこの日に[[犯罪者予防更生法]]が施行されたことを記念。
* こころの看護の日({{JPN}})
*: [[日本精神科看護技術協会]]が[[1999年]]に制定。[[1987年]]のこの日に「精神衛生法」が「精神保健法」に改正されたことを記念(現在は[[精神保健及び精神障害者福祉に関する法律]])。
* [[童謡]]の日({{JPN}})
*: [[日本童謡協会]]が[[1984年]]に制定。[[1918年]]のこの日、日本初の児童文芸誌『[[赤い鳥]]』が創刊されたことを記念。
* [[信用販売|クレジット]]の日({{JPN}})
*: [[日本クレジット産業協会]]が[[1977年]]に制定。[[1961年]]のこの日に[[割賦販売法]]が公布されたことを記念。
* [[銀行]]の日({{JPN}})
*: 日本金融通信社が[[1991年]]1月に制定。[[1893年]]のこの日、普通銀行に関する法規の基礎となる銀行条例が施行されたことを記念。
* [[弁理士]]の日({{JPN}})
*: [[1899年]]のこの日に「特許代理業者登録規則」が制定され、弁理士制度が発足したことを記念。
* [[建築士]]の日({{JPN}})
*: [[日本建築士連合会]]が[[1987年]]に制定。[[1950年]]のこの日に[[建築士法]]が公布されたことを記念。
* [[郵便番号]]記念日({{JPN}})
*: [[1968年]]のこの日、日本で郵便番号制度がスタートしたことを記念。
* [[東海道本線]]全通記念日({{JPN}})
*: [[1889年]]のこの日に東海道本線が全線開通したことを記念。
* [[名神高速道路]]全通記念日({{JPN}})
*: [[1965年]]のこの日に名神高速道路が全線開通したことを記念。
* ウォークマンの日({{JPN}})
*: [[1979年]]のこの日、[[ソニー]]が携帯式ヘッドホンステレオ「[[ウォークマン]]」の第1号を発売したことを記念。
* 鉄スクラップの日({{JPN}})
*: 日本鉄リサイクル工業会が制定。[[1975年]]の同会の設立日。
* [[あずきバー|井村屋あずきバー]]の日({{JPN}})
*: 本格的な暑さを迎える7月1日には「あずきバー」を食べて暑い夏を乗り切っていただきたいという思いから、[[井村屋グループ]]が制定<ref>{{Cite web |url=https://www.imuraya.co.jp/outline/azukibar-day/ |title=井村屋あずきバーの日 |access-date=3 Dec 2023 |publisher=井村屋}}</ref>。
*[[航空自衛隊安全の日]]({{JPN}})
*: 1999年から2000年にかけて連続的に発生した自衛隊機墜落事故を受けて制定。
* [[JUNET#JUNET記念日|JUNET記念日]]({{JPN}})
* 山開き({{JPN}})- [[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]など
* [[海開き]]({{JPN}})- [[沖縄県|沖縄]]など一部地域を除く
* 新[[醸造年度]]({{JPN}})
* [[函館港]]開港記念日({{JPN}})
*: [[1859年]]7月1日([[安政]]6年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]])、函館港が横浜・長崎とともに日本初の貿易港として開港したことを記念。
*じゅんさいの日({{JPN}})
*:[[秋田県]][[三種町]]の「三種町森岳じゅんさいの里活性化協議会」が制定。じゅんさいとは、古くからある貴重な水生植物で「幻の農産物」とも言われる。日付は、英語で6月を意味する「ジューン」と、31で「さい」と読む語呂合わせだが、6月31日が存在しない「幻の日」なので、6月30日の次の日の7月1日とした<ref>{{Cite book|和書 |editor=加瀬清志 |title=366日記念日事典 下 |publisher=[[創元社]] |year=2020 |page=7 |isbn=978-4422021157}}</ref>。
*[[氷室]]の日({{JPN}})
*:昭和61年より湯涌温泉観光協会が、[[石川県]][[金沢市]]の協力を得て氷室を復元。毎年一月の最終日曜に地元住民らで雪を仕込み、6月末に氷室から切り出され、[[石川県知事一覧|石川県知事]]、金沢市長、加賀藩下屋敷があった[[東京都]][[板橋区]]、[[目黒区]]に贈呈される。
*:かつて夏場の氷は大変貴重であり、加賀藩政時代旧暦6月1日を「氷室の朔日」と呼び、白山山系に降った雪を氷室に貯蔵しておき、当日になるとこの雪を「白山氷」と名付けて、江戸の徳川将軍へ献上していたことに由来する<ref>{{Cite web |url=https://yuwaku.gr.jp/himuro/ |title=氷室 |access-date=3 Dec 2023 |publisher=湯涌温泉観光協会}}</ref>。
* 東京都政記念日({{JPN}})
*: [[1943年]]のこの日、東京都制が施行され、[[東京市]]と[[東京府]]を廃止して[[東京都]]が設置されたことを記念。
*[[琵琶湖|びわ湖]]の日({{JPN}})
*: [[1980年]]7月1日施行の「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例(琵琶湖条例)」1周年を記念し、[[滋賀県]]が[[1981年]]に制定。[[1996年]]7月1日施行の「滋賀県環境基本条例」で正式に定められ、[[1997年]]から実施<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.pref.shiga.lg.jp/biwakatsu/quiz/index.html |title=「びわ湖の日」について |work=[[滋賀県]] |accessdate=3 Dec 2023}}</ref>。
*[[祇園祭]]({{JPN}})
*: [[京都]][[八坂神社]]の祭礼で、千年以上の歴史を持つ。7月1日(吉符入)から[[7月31日]](疫神社夏越祭)まで、1か月にわたって多彩な祭事が行われる<ref>{{Cite web |url=https://ja.kyoto.travel/event/major/gion/ |title=祇園祭「どんな祭?」 |access-date=3 Dec 2023 |publisher=京都市観光協会 |website=京都観光Navi}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0701|date=Dec 2023}}
* [[1992年]] - 東京上空に[[未確認飛行物体|UFO]]が飛来。多くの人々に目撃される<ref>{{Cite book |和書 |author=川北紘一(監修)|authorlink=川北紘一|date=2012-02-01|title=平成ゴジラパーフェクション |pages=136-137|publisher=[[アスキー・メディアワークス]]|series=DENGEKI HOBBY BOOKS |isbn=978-4048861199 }}</ref>。(映画『[[ゴジラvsキングギドラ]]』)
* [[1999年]] - ニューヨークにてモータースポーツ大会「REAL RACING ROOTS'99」(RRR'99)の2次予選が開催される<ref>ゲーム内のレース開始前より</ref>。(ゲーム『[[R4 -RIDGE RACER TYPE 4-]]』)
* AC399年 - 探査船イグドラジールが銀河系中心の超巨大[[ブラックホール]]「ギンヌンガ・ガップ」へ出発する。(漫画『[[コスモス・エンド]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1998年]] - 逢沢夏海、アニメ・漫画『[[夏色キセキ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author =たつひこ、「夏色キセキ」製作委員会|date=2012-05-25|title =夏色キセキ|page =148 |publisher = [[スクウェア・エニックス]]|volume=(1)|series=[[ヤングガンガン#ヤングガンガンコミックス|ヤングガンガンコミックス]]|isbn =978-4757536074 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |date=2012-08-31|title =夏色キセキ OFFICIAL MUSIC GUIDE|page=5 |publisher = [[エムオン・エンタテインメント]]|isbn =978-4789735438}}</ref>
* 生年不明 - 夏目貴志、漫画・アニメ『[[夏目友人帳]]』の主人公<ref>{{Twitter status|natsumeyujincho|1013348346142982145}}</ref><ref>設定年齢は、15歳となっている。</ref>
* 生年不明 - 渡辺さらさ、漫画・アニメ『[[かげきしょうじょ!!|かげきしょうじょ‼︎]]』の主人公<ref>{{Twitter status|psy93|1278310729481719809}}</ref>
* 生年不明 - 新海ハル、アニメ・ゲーム・漫画『[[デジモンユニバース アプリモンスターズ]]』の主人公
* 生年不明 - ジュリエット・ペルシア、漫画・アニメ『[[寄宿学校のジュリエット]]』のヒロイン<ref>{{Twitter status|yousukekaneda|1410434559196295170}}</ref>
* 生年不明 - 菊池洋子、アニメ『[[セイレン (アニメ)|セイレン]]』に登場するヒロインの一人<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tbs.co.jp/anime/seiren/chara/kikuchi_yoko.html |title=菊池洋子(きくちようこ) |work=『セイレン』 |publisher=[[高山箕犀]]/セイレン製作委員会 [[TBSテレビ|Tokyo Broadcasting System Television, Inc.]] |accessdate=3 Dec 2023}}</ref>
* 生年不明 - 雲仙伊乃里、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/unzen_inori |title=長崎 雲仙伊乃里 |access-date=3 Dec 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - ロウル、[[川崎ブレイブサンダース]]のマスコットキャラクター (※地球に落ちてきた日)<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kawasaki-bravethunders.com/news/detail/id=12425 |access-date=3 Dec 2023 |title=新マスコット決定のお知らせ |publisher=川崎ブレイブサンダース}}</ref>
* 生年不明 - 杉本良、漫画・アニメ『[[シャーマンキング]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - カブ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/kab.html |title=カブ |work=『ONE PIECE』 |accessdate=3 Dec 2023|publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - Dr.ナコー、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/DrNako.html |title=Dr.ナコー |work=『ONE PIECE』 |accessdate=3 Dec 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - ティモテ・モロー、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1542524621294936069}}</ref>
* 生年不明 - マオサ、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|date=2008-06-04|title=D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃 |page=109|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088742489}}</ref>
* 生年不明 - 中馬錫、漫画・アニメ『[[SKET DANCE]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 大将優、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|date=2016-07-04|title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]||isbn=978-4088807447|volume=22巻|page=168}}</ref>
* 生年不明 - 佐鳥賢、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1542524609873866753}}</ref>
* 生年不明 - 心操人使、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heroaca.com/character/chara_group03/03-02/ |title=心操人使 |access-date=3 Dec 2023 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 轟夏雄、漫画・アニメ『僕のヒーローアカデミア』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heroaca.com/character/chara_group12/12-06/ |title=轟夏雄 |access-date=3 Dec 2023 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 霧嶋董香、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.marv.jp/special/tokyoghoul/first/chara_02.html |title=霧嶋薫香 |work=『東京喰種トーキョーグール√A』 |accessdate=3 Dec 2023 |publisher=[[石田スイ]]/[[集英社]]・東京喰種製作委員会}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|date=2012-03-19|title=東京喰種トーキョーグール|publisher=[[集英社]]|isbn=978-4088792910|volume=2巻|series=[[ヤングジャンプ・コミックス]]|page=}}</ref>
* 生年不明 - 真尋、漫画・アニメ『[[SAMURAI DEEPER KYO]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 降谷暁、漫画・アニメ『[[ダイヤのA]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|diaace_anime|748765409684303872}}</ref>
* 生年不明 - 椎名杏子、漫画・アニメ『[[ふらいんぐうぃっち]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - エスカノール、漫画・アニメ『[[七つの大罪 (漫画)|七つの大罪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|7_taizai|1277980212790046724}}</ref>
* 生年不明 - プルル、漫画・アニメ『[[ケロロ軍曹]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 紅・アカツキ、漫画『[[わたしの狼さん。]]』『わたしの狼さん。 THE OTHER SIDE OF LYCANTHROPE』『[[dear (漫画)|dear]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=藤原ここあ|authorlink=藤原ここあ|date=2011-09-22|title =dear 新装版|page =359 |publisher = [[スクウェア・エニックス]]|volume=(3)|series=[[月刊ガンガンJOKER#ガンガンコミックスJOKER|ガンガンコミックスJOKER]]|isbn =978-4757533721}}</ref>
* 生年不明 - プッフェ=ルンダー、漫画・アニメ『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD -蒼空の戦旗-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=東まゆみ|authorlink=東まゆみ|date=2009-03-10|title=EREMENTAR GERADアルティメットガイド|series=BLADE COMICS|page=96|publisher=[[マッグガーデン]]|isbn=978-4861276163}}</ref>
* 生年不明 - カナダ、漫画・アニメ『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=AXIS POWERS ヘタリア |date=2008-12-31 |publisher=[[幻冬舎]] |page=20 |author=[[日丸屋秀和]] |volume=2}}</ref>
* 生年不明 - 藤宮志穂、漫画・アニメ『[[一週間フレンズ。]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 陣繁華、漫画・アニメ『[[八十亀ちゃんかんさつにっき]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aichidoughnut|1145588163009630208}}</ref>
* 生年不明 - 永塚紗季、小説・アニメ『[[ロウきゅーぶ!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 西住まほ、アニメ・漫画・ゲーム『[[ガールズ&パンツァー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|garupan_app|880990322200805377}}</ref>
* 生年不明 - ノエル・シルヴァ、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - アイコ、ゲーム『[[クイズマジックアカデミー|クイズマジックアカデミー 夢幻の鏡界]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://p.eagate.573.jp/game/qma/17/world/detail.html?c=108 |title=アイコ |access-date=3 Dec 2023 |publisher=[[コナミアミューズメント|Konami Amusement]] |work=『クイズマジックアカデミー 夢幻の鏡界』}}</ref>
* 生年不明 - レオ=ホワイトファング、ゲーム『[[GUILTY GEAR Xrd -SIGN-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.ggxrd.com/rev/ac/character/leo.html |title=レオ=ホワイトファング |access-date=3 Dec 2023 |publisher=[[アークシステムワークス|ARC SYSTEM WORKS]] |work=『GUILTY GEAR Xrd -SIGN』}}</ref>
* 生年不明 - 斑目瑞希、ゲーム『[[VitaminX]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|vitamin_d3p|880984361495142401}}</ref>
* 生年不明 - アイリ、ゲーム『[[ドリームクラブ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author =エンタテインメント書籍編集部|date=2009-11-04 |title =ドリームクラブ ビジュアルファンブック |page =100 |publisher = [[SBクリエイティブ|ソフトバンククリエイティブ]] |series = ゲーマガBOOKS |isbn = 978-4797356526 }}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#速水奏|速水奏]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20128 |title=速水 奏(はやみ かなで) |access-date=3 Dec 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 藤居朋、ゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20137 |title=藤居 朋(ふじい とも) |access-date=3 Dec 2023|publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 加賀美茉莉、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|girlfriend_kari|1013074948028555264}}</ref>
* 生年不明 - ネロ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=116&cate=name&cont=Nero |title=ネロ |access-date=3 Dec 2023 |publisher=[[ジークレスト|GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 春川宙、ゲーム・漫画・アニメ『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://ensemble-stars.jp/characters/harukawa_sora/ |title=春川 宙 |accessdate=3 Dec 2023 |publisher=[[Happy Elements]] |work=『あんさんぶるスターズ!!』}}</ref>
* 生年不明 - 覇瞳皇帝、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1674961022392889346}}</ref>
* 生年不明 - 北郷章香、メディアミックス『[[ストライクウィッチーズ]]』に登場するキャラクター
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
{{Commons&cat|July 1|1 July}}
{{新暦365日|6|30|7|2|[[6月1日]]|[[8月1日]]|[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]|0701|7|01}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%881%E6%97%A5 |
3,523 | 7月2日 | 7月2日(しちがつふつか)は、グレゴリオ暦で年始から183日目(閏年では184日目)にあたり、年末まではあと182日ある。平年では1年のちょうど真ん中にあたる日である。 | [
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'''7月2日'''(しちがつふつか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から183日目([[閏年]]では184日目)にあたり、年末まではあと182日ある。[[平年]]では1年のちょうど真ん中にあたる日である。
== できごと ==
[[Image:Battle of Marston Moor 1644 by John Barker.png|thumb|[[清教徒革命]]、[[マーストン・ムーアの戦い]](1644)。[[オリバー・クロムウェル|クロムウェル]]が名を上げた]]
[[Image:Savery-engine.jpg|thumb|140px|[[トーマス・セイヴァリ]]、[[蒸気機関]]の特許を取得(1698)]]
[[Image:Amistad revolt.jpg|thumb|280px|[[奴隷]]船のアフリカ人奴隷による反乱、[[アミスタッド号事件]](1839)]]
[[Image:Garfield assassination engraving cropped.jpg|thumb|[[ガーフィールド大統領暗殺事件]]:大統領が狙撃された瞬間を描いた絵(1881)]]
[[Image:First Zeppelin ascent.jpg|thumb|[[飛行船]][[ツェッペリン|ツェッペリン号]]初飛行(1900)]]
[[Image:%E4%B8%87%E5%AE%9D%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E7%9A%84%E5%86%B2%E7%AA%81%E7%8E%B0%E5%9C%BA.jpg|thumb|[[満州]]で中国人と朝鮮人の農民が水利を巡り衝突した[[万宝山事件]](1931)]]
[[Image:Kwantung Army Special Maneuvers1.JPG|thumb|[[関東軍特種演習]](1941)]]
[[Image:Burned Kinkaku.jpg|thumb|[[金閣寺放火事件]](1950)]]
{{multiple image
| footer = アメリカ合衆国で、各種の差別を撤廃する[[市民権法|公民権法]]([[:en:Civil Rights Act of 1964]])施行。{{audio|LBJ Civil Rights signing 1964 edited.ogg|リンドン・ジョンソンによる同日の演説を聴く}}
| image1 = LBJ_Civil_Rights_Act_crowd.jpg
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| alt1 = リンドン・ジョンソンの署名とスピーチ
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| alt2 = 第1ページ
}}
[[Image:Giotto spacecraft.jpg|thumb|[[ハレー彗星]]探査機[[ジオット (探査機)|ジオット]]打ち上げ(1985)]]
[[Image:Live8 London.jpg|thumb|[[Live 8]](2005)]]
* [[626年]]([[武徳]]9年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - [[唐]]の初代皇帝[[李淵]]の次男[[太宗 (唐)|李世民]]が宮中に乱入、長兄の皇太子[[李建成]]と弟[[李元吉]]を暗殺、実権を掌握。([[玄武門の変]])
* [[1582年]]([[天正]]10年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[山崎の戦い]]。[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[明智光秀]]を破り、光秀は敗走中に雑兵に刺殺される。
* [[1644年]] - [[イングランド内戦]]: [[マーストン・ムーアの戦い]]。[[オリバー・クロムウェル|クロムウェル]]率いる[[鉄騎隊]]が[[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]の騎兵を潰走させて武名をあげる。
* [[1698年]] - [[トーマス・セイヴァリ]]が[[蒸気機関]]の特許を取得。
* [[1757年]] - ニューカッスル公[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|トマス・ペラム=ホールズ]]がイギリスの6代首相に就任。
* [[1777年]] - [[バーモント州]]が[[アメリカ合衆国]]で初めて[[奴隷制]]を廃止<ref>{{Cite web|url=https://www.zinnedproject.org/news/tdih/vermont-abolished-slavery/|title=July 2, 1777: Vermont Officially Abolished Slavery|work=Zinn Education Project|accessdate=2020-07-02}}</ref>。
* [[1839年]] - [[アミスタッド号事件]]。奴隷船に収容されていた[[アフリカ]]人奴隷53名が[[キューバ]]沖で反乱を起こし、船を乗っ取る。
* [[1860年]]([[ユリウス暦]]6月20日) - [[ロシア帝国]]の輸送船「マンジュール号」が[[金角湾 (ウラジオストク)|金角湾]]に到達、湾の北岸に砦の建設を開始、[[ウラジオストク]]開基の日とされる。
* [[1871年]] - [[イタリア王国]]による[[教皇領]]の占領後初めて、イタリア国王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]が[[ローマ]]に入城。首都を[[フィレンツェ]]からローマに移す。
* [[1881年]] - [[ガーフィールド大統領暗殺事件]]:[[チャールズ・J・ギトー]]が[[ワシントンD.C.]]で[[ジェームス・ガーフィールド]][[大統領]]を銃撃し、重傷を負わせる。
* [[1883年]] - 日本の[[官報]]が創刊される。
* [[1900年]] - [[ドイツ]]のフリードリッヒシャフェンで[[飛行船]][[ツェッペリン]]号が初飛行。
* [[1916年]] - [[サッカー南米選手権1916|第1回サッカー南米選手権]]([[コパ・アメリカ]])開催。(〜7月17日)
* [[1929年]] - 日本で、[[田中義一内閣]]が[[内閣総辞職|総辞職]]。同日、[[濱口雄幸]]が第27代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[濱口内閣]]が発足。
* [[1931年]] - [[万宝山事件]]が起こる<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.yna.co.kr/view/AJP20200629000200882|title=今日の歴史(7月2日)|work=聯合ニュース|date=2020-07-02|accessdate=2020-07-02}}</ref>。
* [[1937年]] - [[世界一周飛行]]中の女性飛行士[[アメリア・イアハート]]が南太平洋で消息を絶つ。
* [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[御前会議]]で対ソ戦準備・[[フランス領インドシナ]]侵攻に伴う対米英戦準備を明記した「[[情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱]]」を決定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/C12120183800|title=情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱 昭和16年7月2日|work=国立公文書館アジア 歴史資料センター|accessdate=2020-07-02}}</ref>。
* 1941年 - 第二次世界大戦: [[大本営]]が[[関東軍特種演習]]を発動。
* [[1950年]] - [[金閣寺放火事件]]が起こる。
* [[1959年]] - [[大躍進政策]]: [[廬山会議]]が始まる。
* [[1962年]] - [[ウォルマート]]第1号店が米[[アーカンソー州]][[ベントンビル (アーカンソー州)|ベントンビル]]で開店。
* 1962年 - [[茨城県]]で[[竜巻]]が発生。[[牛堀町]]立八代小学校の木造校舎が破壊されて児童と教諭が下敷きとなり2人が死亡、77人が重軽傷などの被害<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=161 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1963年]] - [[日清食品]]が世界初の即席焼そば「[[日清焼そば]]」の発売を開始。
* [[1964年]] - [[公民権運動]]: [[リンドン・ジョンソン]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が[[1964年公民権法|公民権法]]に署名し、法律が施行。
* [[1966年]] - [[フランス]]が核実験を初めて[[ムルロア環礁]]で実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM03H1U_T00C16A7000000/|title=仏の核実験から50年、補償求めデモ行進 南太平洋タヒチ|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2016-07-03|accessdate=2020-07-02}}</ref>。
* [[1967年]] - 初めての[[ガンマ線バースト]]である[[GRB 670702]]がアメリカの[[核実験]]監視衛星[[ヴェラ (人工衛星)|ヴェラ3およびヴェラ4]]によって発見される。
* [[1968年]] - [[東大安田講堂事件]]: 学生が[[安田講堂]]を再びバリケード封鎖。
* [[1973年]] - [[ジェームズ・R・シュレージンガー|ジェームズ・シュレジンガー]]が[[アメリカ合衆国国防長官|アメリカ国防長官]]に就任<ref>{{Cite web|url=https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/books-and-monographs/directors-and-deputy-directors-of-central-intelligence/schles.html|title=James Rodney Schlesinger|work=CENTRAL INTELLIGENCE AGENCY|accessdate=2020-07-02}}</ref>。
* [[1976年]] - 北ベトナムと南ベトナムが統一し、国名を[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]に改称。
* [[1977年]] - 第1回[[鳥人間コンテスト選手権大会]]が開催される。
* [[1985年]] - [[ハレー艦隊]]: [[欧州宇宙機関]] (ESA) が[[ハレー彗星]]探査機[[ジオット (探査機)|ジオット]]を打ち上げ。
* [[1990年]] - [[メッカ]]で巡礼者が将棋倒しになり1426人が死亡。
* [[1994年]] - [[1994 FIFAワールドカップ|サッカーワールドカップ・アメリカ大会]]でオウンゴールをした[[サッカーコロンビア代表|コロンビア代表]]選手[[アンドレス・エスコバル]]が射殺される。
* [[1995年]] - [[都営地下鉄浅草線]]・[[東京都交通局5000形電車 (鉄道)|5000形車両]]がこの日の運用を最後に現役を引退する。
* [[1997年]] - [[タイ王国|タイ]]政府がタイ[[バーツ]]の[[変動相場制]]を導入。これを契機として[[アジア通貨危機]]が始まる。
* [[1998年]] - [[富士銀行行員顧客殺人事件]]。
* [[2000年]] - [[ビセンテ・フォックス・ケサーダ]]が[[メキシコの大統領]]に選出、66年にわたる[[制度的革命党]]政権から政権交代。
* 2000年 - [[小林雅英]](当時・[[千葉ロッテマリーンズ]])がプロ野球史上初の打者0人で勝利投手となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://yakyutaro.jp/r.php?hash=SVZwY|title=【2000】まさかの珍事!小林雅英(ロッテ)がプロ野球初の対戦打者0人勝利投手に|work=週刊野球太郎|date=2015-06-25|accessdate=2020-07-02}}</ref>。
* [[2002年]] - [[スティーヴ・フォセット]]が世界初の[[気球]]による単独[[世界一周飛行]]を達成。
* [[2003年]] - [[プラハ]]で開かれた第115回[[国際オリンピック委員会|IOC]]総会で2010年の[[冬季オリンピック]]の開催地が[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]に決定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.canadainternational.gc.ca/japan-japon/highlights-faits/media-20030702_1.aspx?lang=jpn|title=2010年冬季オリンピックとパラリンピック|work=Government of Canada|accessdate=2020-07-02}}</ref>。
* [[2004年]] - [[東南アジア諸国連合地域フォーラム|ASEAN地域フォーラム]]に[[パキスタン]]の参加が認められる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-07-03/07_01.html|title=非核の朝鮮半島着実に ASEAN地域フォーラム閣僚会議 パキスタン新規参加|work=しんぶん赤旗|date=2004-07-03|author=北原俊文|accessdate=2020-07-02}}</ref>。
* [[2005年]] - アフリカ救済のチャリティ・コンサート「[[Live 8]]」を[[幕張メッセ]]など世界10都市で公演。
* [[2008年]] - [[コロンビア]]で[[誘拐]]された[[イングリッド・ベタンクール]]が6年ぶりに救出<ref>{{Cite web|和書|date=2008年7月3日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2413088 |title=コロンビア政府、ベタンクール氏らFARCの人質15人を救出 |work=AFPBB News |publisher=AFP |accessdate=2020-07-02}}</ref>。
* [[2010年]] - [[クリスティアン・ヴルフ]]が[[連邦大統領 (ドイツ)|ドイツ大統領]]に就任<ref>{{Cite web|url=https://kids.kiddle.co/Christian_Wulff|title=Christian Wulff facts for kids|work=Kiddle encyclopedia|accessdate=2020-07-02}}</ref>。
* [[2016年]] - [[オーストラリア]]下院議会選挙。保守連合([[オーストラリア自由党]]、[[オーストラリア国民党]])が勝利<ref>{{Cite web|和書|date=2016-07-10 |url=http://www.sankei.com/world/news/160710/wor1607100021-n1.html |title=【豪州総選挙】「われわれが勝った」マルコム・ターンブル首相が勝利宣言 野党も敗北認め…投票9日目にようやく決着? |work=産経ニュース |publisher=[[産経新聞|産経デジタル]] |accessdate=2020-07-02}}</ref>。
* [[2017年]] - [[2017年東京都議会議員選挙|東京都議会議員選挙]]で[[小池百合子]]東京都知事率いる地域政党[[都民ファーストの会]]が公認候補50人中49人が当選する大勝利を収め、都議会第一党となった。一方、これまで第一党だった[[自由民主党 (日本)|自民党]]は、過去最低の23議席に終わり、大惨敗を喫した<ref>{{Cite web|和書|date=2017年7月2日 |url=https://jp.reuters.com/article/tokyo-assembly-election-idJPKBN19N0GB |title=都議選で都民ファースト大躍進、自民は半減以下 党内から首相批判も |publisher=ロイター |accessdate=2018-07-02}}</ref>。
* 2017年 - 第30期竜王戦決勝トーナメント、佐々木勇気五段−藤井聡太四段戦が東京・将棋会館で行われた。藤井聡太四段はプロデビュー以来負けなしで、前人未到の30連勝をかけた対局だったが佐々木勇気五段に敗れ、公式戦で初の敗北を喫した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/1849249.html|title=藤井聡太四段ついに初黒星 連勝記録29でストップ|work=[[日刊スポーツ]]|date=2017-07-02|accessdate=2020-07-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/2017/07/01/souta-0702-lunch_n_17364206.html|title=【藤井聡太四段】30連勝をかけた大一番の昼食は、さっぱりした「アレ」だった|work=[[ハフポスト|HUFFPSOST]]|date=2017-07-02|accessdate=2020-07-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/column/2017/07/29_3.html|title=中学生棋士・藤井聡太四段。デビューから負けなし29連勝の大記録はどのように達成されたか(後編)|work=[[日本将棋連盟]]|author=渡部弥生女流初段|date=2017-07-24|accessdate=2020-07-02}}</ref>。
* [[2018年]] - [[羽生結弦]]に[[国民栄誉賞]]が授与<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL723363L72UTFK002.html|title=羽生結弦選手に国民栄誉賞 個人最年少、フィギュアで初|newspaper=朝日新聞社|date=2018-07-02|accessdate=2018-07-08}}</ref>。
* [[2020年]] - [[千葉県]][[習志野市]]に隕石が落下した([[習志野隕石]])。
* [[2023年]] - [[中野サンプラザ]]がこの日を以て閉館。1973年から続いた50年の歴史に幕を下ろす。
== 誕生日 ==
{{multiple image
| footer = 作家[[ヘルマン・ヘッセ]](1877-1962)誕生。右画像は[[カルフ]]にあるヘッセの生家。{{Squote|あなたが[[情熱]]と呼ぶものは精神的な力ではなく、魂と外部世界との摩擦なのです。――『知と愛』(1930)}} {{Squote|君たち学生が、自分がどれほどの贅沢と豊饒の中で過ごしているかに充分に気付いていないのは残念なことです。――『[[ガラス玉演戯]]』(1943)}}
| image1 = Hermann Hesse 1927 Photo Gret Widmann.jpg
| width1 = 140
| alt1 =
| image2 = Hermann Hesse House.JPG
| width2 = 120
| alt2 = ヘッセの生家
}}
[[Image:Hans Bethe.jpg|thumb|100px|物理学者[[ハンス・ベーテ]](1906-2005)]]
[[Image:Vicente Fox.jpg|thumb|100px|[[メキシコ]]第63代大統領[[ビセンテ・フォックス・ケサーダ]](1942-)。[[2000年]]の誕生日に大統領に当選]]
* [[419年]] - [[ウァレンティニアヌス3世]]、[[西ローマ皇帝]](+ [[455年]])
* [[1661年]]([[寛文]]元年[[6月6日 (旧暦)|6月6日]]) - [[遠山友春]]、[[苗木藩|苗木藩主]](+ [[1714年]])
* [[1698年]] - [[フランチェスコ3世・デステ]]、[[フェラーラとモデナの君主一覧|モデナ公]](+ [[1780年]])
* [[1705年]]([[天保]]10年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[小笠原信成]]、[[越前勝山藩|越前勝山藩主]](+ [[1730年]])
* [[1714年]] - [[クリストフ・ヴィリバルト・グルック]]、[[作曲家]](+ [[1787年]])
* [[1745年]]([[延享]]2年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[脇坂安実]]、[[龍野藩|龍野藩主]](+ [[1759年]])
* [[1750年]] - [[フランソワ・ユーベル]]、[[博物学者]](+ [[1831年]])
* [[1819年]] - {{仮リンク|トーマス・アンダーソン|en|Thomas Anderson (chemist)|Thomas Anderson}}、[[化学者]](+ [[1874年]])
* 1819年 - [[シャルル=ルイ・アノン]]、[[作曲家]]、ピアノ教師、[[オルガニスト]](+ [[1900年]])
* [[1824年]]([[天保]]5年[[6月6日 (旧暦)|6月6日]]) - [[山内豊惇]]、[[土佐藩|土佐藩主]](+ [[1848年]])
* [[1830年]](文政13年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[稲垣長明]]、[[鳥羽藩|鳥羽藩主]](+ [[1866年]])
* [[1834年]]([[天保]]5年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]) - [[稲葉正邦]]、[[淀藩|淀藩主]]・[[子爵]](+ [[1898年]])
* [[1839年]](天保10年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[佐竹義睦]]、[[久保田藩|久保田藩主]](+ [[1857年]])
* [[1844年]](天保15年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]) - [[本多忠直 (三河国岡崎藩主)|本多忠直]]、[[岡崎藩|岡崎藩主]](+ [[1880年]])
* [[1877年]] - [[ヘルマン・ヘッセ]]、[[小説家]](+ [[1962年]])
* [[1878年]] - [[三島海雲]]、[[実業家]]、[[カルピス]]創業者(+ [[1974年]])
* [[1891年]] - [[恩地孝四郎]]、[[版画家]](+ [[1955年]])
* [[1894年]] - [[ケルテース・アンドル]]、[[写真家]](+ [[1985年]])
* [[1898年]] - [[岡鹿之助]]、[[洋画家]](+ [[1978年]])
* [[1903年]] - [[アレック・ダグラス=ヒューム]]、第66代[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[1995年]])
* 1903年 - [[三角寛]]、作家(+ [[1971年]])
* [[1904年]] - [[ルネ・ラコステ]]、[[テニス]]選手(+ [[1996年]])
* [[1905年]] - [[石川達三]]、作家(+ [[1985年]])
* [[1906年]] - [[ハンス・ベーテ]]、[[物理学者]](+ [[2005年]])
* [[1910年]] - [[真藤恒]]、[[経営者]](+ [[2003年]])
* [[1911年]] - [[ディエゴ・ファッブリ]]、[[作家]]、[[脚本家]](+ [[1980年]])
* [[1916年]] - [[ハンス・ウルリッヒ・ルーデル]]、軍人(+ [[1982年]])
* [[1918年]] - [[堀文子]]、[[日本画家]](+ [[2019年]])
* [[1920年]] - [[竹内均]]、[[地球物理学]]者(+ [[2004年]])
* [[1922年]] - [[藤原彰]]、[[歴史家|歴史学者]](+ [[2003年]])
* [[1923年]] - [[野崎泰一]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2009年]])
* [[1929年]] - [[イメルダ・マルコス]]、[[政治家]]、フィリピン第10代大統領夫人
* [[1930年]] - [[ピーター・バーンサイド]]、元プロ野球選手(+ [[2022年]])
* [[1937年]] - [[オレグ・シェーニン]]、政治家(+ [[2009年]])
* 1937年 - [[志田房子]]、琉球舞踊家
* [[1940年]] - [[浅丘ルリ子]]、[[俳優|女優]]
* [[1942年]] - [[大山泰彦]]、[[空手道|空手家]]
* 1942年 - [[ビセンテ・フォックス・ケサーダ]]、政治家、第63代[[メキシコ大統領]]
* [[1946年]] - [[リチャード・アクセル]]、[[科学者]]、[[医学博士]]
* 1946年 - [[田坂正明]]、元プロ野球選手(+ [[1993年]])
* [[1947年]] - [[三原昌平]]、[[プロダクトデザイナー]]、[[大学教授]]
* 1946年 - [[西川きよし]]、[[お笑いタレント]]、元政治家
* [[1950年]] - [[鍵谷康司]]、元プロ野球選手
* 1950年 - [[松村恵司]]、考古学者
* [[1952年]] - [[小柳ルミ子]]、[[歌手]]、女優
* 1952年 - [[永田哲也]]、元プロ野球選手
* [[1953年]] - [[藤瀬史朗]]、元プロ野球選手
* 1953年 - [[トニー・アーマス・シニア]]、元プロ野球選手
* [[1954年]] - [[南沙織]]、元歌手
* 1954年 - [[タイロン橋本]]、[[シンガーソングライター]]、[[音楽プロデューサー]]
* 1954年 - [[たつみや章]]、[[児童文学作家]]
* [[1955年]] - [[スティーヴン・ウォルト]]、大学教授
* [[1958年]] - [[ミルスワミー・アナドゥライ]]、宇宙工学者
* [[1958年]] - ダン・タイ・ソン、ピアニスト
* [[1959年]] - [[原口一博]]、政治家
* [[1960年]] - [[竹内薫]]、サイエンスライター
* [[1962年]] - [[偉関晴光]]、元[[卓球]]選手
* 1962年 - [[煙山光紀]]、アナウンサー
* 1962年 - [[小川良介]]、[[農林水産省|農林水産]][[官僚]]
* [[1964年]] - [[鴨志田穣]]、[[ジャーナリスト]]、[[カメラマン]]、[[エッセイスト]](+ [[2007年]])
* 1964年 - [[カンケ]]、[[音楽家|ミュージシャン]]
* 1964年 - [[ホセ・カンセコ]]、元プロ野球選手
* 1964年 - [[オジー・カンセコ]]、元プロ野球選手
* [[1965年]] - [[水江慎一郎]]、ミュージシャン
* [[1967年]] - [[アーサー・ビナード]]、詩人、俳人、随筆家、翻訳家
* [[1968年]] - [[夏田昌和]]、作曲家、指揮者
* [[1969年]] - [[亀山努|亀山つとむ]]、タレント、元プロ野球選手
* 1969年 - [[亀山忍]]、タレント、俳優
* 1969年 - [[田口壮]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[山田勝彦]]、元プロ野球選手
* [[1970年]] - [[ヤンシー・バトラー]]、女優
* [[1971年]] - [[大西崇之]]、元プロ野球選手
* 1971年 - [[高橋功一 (1971年生の投手)|高橋功一]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[ダレン・シャン]]、小説家
* 1972年 - [[伴義太郎]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[皆本勝弘]]、元[[サッカー選手]]
* [[1973年]] - [[小坂誠]]、元プロ野球選手
* [[1974年]] - [[渋川清彦]]、俳優
* 1974年 - [[片石貴子]]、元タレント、元[[レースクイーン]]
* 1974年 - [[ショーン・ケイシー]]、元プロ野球選手
* [[1976年]] - [[關穎]]、女優
* 1976年 - [[有村昆]]、[[ラジオパーソナリティ]]
* [[1978年]] - [[加藤康介]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[リボニール・ルッシェル|トゥット]]、サッカー選手
* [[1979年]] - [[三宅健]]、歌手、タレント(元[[V6 (グループ)|V6]])
* 1979年 - [[相川みさお]]、元[[グラビアアイドル]]
* [[1980年]] - [[マシュー・ケント]]、プロ野球選手
* 1980年 - [[ナイジャー・モーガン]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[有賀光一]]、ミュージカル俳優
* [[1981年]] - [[HEY!たくちゃん]]、ものまねタレント
* [[1982年]] - [[米田兼一郎]]、元サッカー選手
* 1982年 - [[上松美香]]、[[アルパ]]奏者
* [[1983年]] - [[ミシェル・ブランチ]]、シンガーソングライター
* 1983年 - [[サミュエル・デドゥーノ]]、プロ野球選手
* [[1984年]] - [[藤井リナ]]、モデル
* 1984年 - [[ジョニー・ウィアー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1984年 - [[持田あき]]、漫画家
* 1984年 - [[長島☆自演乙☆雄一郎]]、コスプレイヤー、キックボクサー
* 1984年 - [[ウラディミール・バレンティン]]、プロ野球選手
* [[1986年]] - [[ブレット・セシル]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[nangi]]、[[シンガーソングライター]]
* 1986年 - [[リンジー・ローハン]]、女優
* 1986年 - [[レイナルド・ロドリゲス]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[レーン・トソニ]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[藤原ライオン]]、プロレスラー
* [[1987年]] - [[山内明日]]、女優
* 1987年 - [[ルスラナ・コルシュノワ]]、モデル(+ [[2008年]])
* 1987年 - [[エステバン・グラネロ・モリナ|エステバン・グラネロ]]、サッカー選手
* [[1988年]] - [[大抜亮祐]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[クリス・マレーロ]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[李菁龍|イ・チョンヨン]]、サッカー選手
* 1988年 - [[曽我部慶太]]、サッカー選手
* 1988年 - [[小泉麻耶]]、タレント、元グラビアアイドル
* 1988年 - [[ゆゆうた]]、[[YouTuber]]
* 1988年 - [[野口拓也]]、陸上選手
* [[1989年]] - [[アレックス・モーガン]]、サッカー選手
* 1989年 - [[太田徹郎]]、サッカー選手
* [[1990年]] - [[松本夏空]]、ファッションモデル、タレント
* 1990年 - [[新里亮]]、サッカー選手
* 1990年 - [[安致弘]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[ケイラ・ハリソン]]、柔道選手
* 1990年 - [[マーゴット・ロビー]]、女優
* 1990年 - [[早川翼]]、元陸上選手
* [[1991年]] - [[鈴木悠介 (陸上選手)|鈴木悠介]]、元陸上選手
* [[1992年]] - [[髙木菜那]]、元スピードスケート選手
* [[1993年]] - [[小川真奈]]、タレント、声優
* 1993年 - [[岸洋佑]]、歌手、俳優
* 1993年 - [[ゆめちゃん]]、お笑い芸人
* [[1995年]] - [[大野いと]]、ファッションモデル、女優
* 1995年 - [[金澤朋子]]、元[[アイドル]](元[[Juice=Juice]])
* [[1997年]] - [[庄司芽生]]、アイドル([[東京女子流]])
* 1997年 - [[林輝幸]]、クイズプレイヤー
* [[1999年]] - [[髙松渡]]、プロ野球選手
* 1999年 - [[岩佐勇研]]、スキージャンプ選手
* 1999年 - [[赤星優志]]、プロ野球選手
* [[2002年]] - [[北村燦來]]、元子役
* 2002年 - [[尾澤るな]]、タレント、アイドル(元[[SUPER☆GiRLS]])
* 2002年 - [[熊澤風花]]、アイドル([[Task have Fun]])
* 生年不明 - [[萩道彦]]、声優
== 忌日 ==
[[Image:Tod Adolf von Nassau.jpg|thumb|upright|神聖ローマ皇帝[[アドルフ (神聖ローマ皇帝)|アドルフ]](1250-1298)、廃位の後[[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]]と戦い戦死]]
{{multiple image
| footer = 『[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集|予言集]]』で知られる医師・占星術師・詩人、[[ノストラダムス]](1503-1566)没。
| image1 = Nostradamus by Cesar.jpg
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| alt1 = ノストラダムス
| image2 = Nostradamus Centuries 1555.jpg
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| alt2 = 『予言集』初版
}}
{{multiple image
| footer = [[山崎の戦い]]で[[明智光秀]](1528?-1582)戦死
| image1 = Akechi Mitsuhide2.jpg
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| alt1 = 明智光秀
| image2 = Yamazaki04.jpg
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| alt2 = 石碑
}}
{{multiple image
| footer = 哲学者[[ジャン=ジャック・ルソー]](1712-1778)没。
| image1 = Rousseau Geneve.JPG
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| alt1 = ジャン=ジャック・ルソー
| image2 = Jean-Jacques ROUSSEAU au Panthéon (Lunon).jpg
| width2 = 100
| alt2 = パンテオンにある墓
}}
[[Image:Robert Richard Scanlan02.jpg|thumb|180px|イギリス首相[[ロバート・ピール]](1788-1850)没。]]
{{multiple image
| footer = 第4・6代日本国内閣総理大臣、[[松方正義]](1835-1924)没。
| image1 = Masayoshi Matsukata posing.jpg
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| alt1 = 松方正義
| image2 = Grave of Masayoshi Matsukata%2C in the Aoyama Cemetery.jpg
| width2 = 100
| alt2 = 墓
}}
[[Image:Grave markers of Ernest Hemingway & wife.JPG|thumb|200px|作家[[アーネスト・ヘミングウェイ]](1899-1961)没。]]
* [[936年]] - [[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]]、[[東フランク王国|東フランク王]](* [[876年]])
* [[1298年]] - [[アドルフ (神聖ローマ皇帝)|アドルフ]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1250年]])
* [[1504年]] - [[シュテファン3世 (モルドヴァ公)|シュテファン3世]]、[[モルダヴィア|モルドヴァ公]](* [[1437年]]頃)
* [[1566年]] - [[ノストラダムス]]、[[医師]]、[[占星術|占星術師]](* [[1503年]])
* [[1580年]]([[天正]]8年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - [[山名祐豊]]、[[但馬国]]の[[戦国大名]](* [[1511年]])
* [[1582年]](天正10年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[明智光秀]]、[[武将|戦国武将]](* [[1528年]]?)
* [[1591年]] - [[ヴィンチェンツォ・ガリレイ]]、[[作曲家]](* [[1520年]]頃)
* [[1621年]] - [[トーマス・ハリオット]]、[[数学者]]、[[天文学者]](* [[1560年]]頃)
* [[1700年]]([[元禄]]13年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[鍋島光茂]]、第2代[[佐賀藩|佐賀藩主]](* [[1632年]])
* [[1733年]] - [[クリスティアン・ペツォールト]]、作曲家(* [[1677年]])
* 1733年([[享保]]18年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - [[松平定英]]、第5代[[伊予松山藩|伊予松山藩主]](* [[1696年]])
* [[1743年]] - [[スペンサー・コンプトン (初代ウィルミントン伯)]]、[[イギリスの首相]](* [[1674年]])
* [[1778年]] - [[ジャン=ジャック・ルソー]]、[[哲学|哲学者]]、[[思想家]](* [[1712年]])
* [[1786年]]([[天明]]6年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]) - [[中川淳庵]]、[[蘭学|蘭方医]]、[[博物学|本草学者]](* [[1739年]])
* [[1829年]]([[文政]]12年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[徳川重倫]]、第8代[[紀州藩|紀州藩主]](* [[1746年]])
* [[1833年]]([[天保]]4年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - [[青木木米]]、[[絵師]]、[[陶芸家|陶工]](* [[1767年]])
* [[1850年]] - [[ロバート・ピール]]、政治家、イギリス首相(* [[1788年]])
* 1850年([[嘉永]]3年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]) - [[池田慶栄]]、第11代[[鳥取藩|鳥取藩主]](* [[1834年]])
* [[1903年]] - [[エド・デラハンティ]]、元[[プロ野球選手]](* [[1867年]])
* [[1914年]] - [[ジョゼフ・チェンバレン]]、イギリス植民地相(* [[1836年]])
* [[1915年]] - [[ポルフィリオ・ディアス]]、政治家、第34・36代[[メキシコの大統領|メキシコ大統領]](* [[1830年]])
* [[1917年]] - [[ウィリアム・ヘンリー・ムーディ]]、[[アメリカ合衆国司法長官]](* [[1853年]])
* [[1923年]] - 2世[[曽呂利新左衛門]]、[[落語家]](* [[1842年]])
* [[1924年]] - [[松方正義]]、政治家、第4代・6代[[内閣総理大臣]](* [[1835年]])
* 1924年 - [[ジェスロ・ティール]]、[[地質学者]](* [[1849年]])
* [[1932年]] - [[マヌエル2世 (ポルトガル王)|マヌエル2世]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル王]](* [[1889年]])
* [[1934年]] - [[エルンスト・レーム]]、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]][[突撃隊]]創始者(* [[1887年]])
* [[1935年]] - [[ハンク・オーデイ]]、元プロ野球選手(* [[1862年]])
* [[1944年]] - [[山梨半造]]、[[陸軍大臣]](* [[1864年]])
* [[1945年]] - [[大阪圭吉]]、[[推理作家]](* [[1912年]])
* [[1949年]] - [[ゲオルギ・ディミトロフ]]、[[ブルガリア]]の指導者(* [[1882年]])
* [[1959年]] - [[深井史郎]]、作曲家(* [[1907年]])
* [[1961年]] - [[アーネスト・ヘミングウェイ]]、作家(* [[1899年]])
* [[1969年]] - [[成瀬巳喜男]]、[[映画監督]](* [[1905年]])
* [[1973年]] - [[フェルディナント・シェルナー]]、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]][[元帥]](* [[1892年]])
* 1973年 - [[チック・ヘイフィー]]、元プロ野球選手(* [[1903年]])
* 1973年 - [[ベティ・グレイブル]]、女優(* [[1916年]])
* [[1977年]] - [[ウラジーミル・ナボコフ]]、作家(* [[1899年]])
* [[1988年]] - [[荻昌弘]]、[[映画評論家]](* [[1925年]])
* [[1989年]] - [[アンドレイ・グロムイコ]]、[[ソビエト連邦]]外相、[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]](* [[1909年]])
* [[1991年]] - [[リー・レミック]]、女優(* [[1935年]])
* [[1994年]] - [[アンドレス・エスコバル]]、[[サッカー]]選手(* [[1967年]])
* [[1995年]] - [[ズデニェク・コシュラー]]、[[指揮者]](* [[1928年]])
* [[1997年]] - [[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・ステュアート]]、[[俳優]](* [[1908年]])
* [[1999年]] - [[マリオ・プーゾ]]、小説家、[[脚本家]](* [[1920年]])
* [[2000年]] - [[青江三奈]]、[[歌手]](* [[1941年]])
* 2000年 - [[ジェームズ・グローガン]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1931年]])
* [[2002年]] - [[レイ・ブラウン]]、[[ジャズ]][[ベーシスト]](* [[1926年]])
* 2002年 - [[アール・ブラウン]]、作曲家(* 1926年)
* [[2005年]] - {{仮リンク|古月|zh|古月|en|Gu Yue}}、俳優(* [[1937年]])
* [[2006年]] - [[趙南哲]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1923年]])
* 2006年 - [[原田昇左右]]、[[政治家]](* [[1923年]])
* 2006年 - [[七尾伶子]]、女優、[[声優]](* [[1925年]])
* [[2007年]] - [[日比野丈夫]]、歴史学者(* [[1914年]])
* 2007年 - [[ビヴァリー・シルズ]]、[[ソプラノ]]歌手(* [[1929年]])
* [[2013年]] - [[ダグラス・エンゲルバート]]、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]発明者(* [[1925年]])
* 2013年 - [[加賀八郎]]、ベーシスト([[THE GOOD-BYE]])(* [[1958年]])
* [[2015年]] - [[大竹省二]]、[[写真家]](* [[1920年]])
* 2015年 - [[田邊誠]]、政治家(* [[1922年]])
* [[2016年]] - [[エリ・ヴィーゼル]]、作家(* [[1928年]])
* [[2018年]] - [[桂歌丸]]、落語家(* [[1936年]])
* [[2020年]] - [[桑田二郎]]、[[漫画家]](* [[1935年]])
* 2020年 - [[ニコライ・カプースチン]]、作曲家、[[ピアニスト]](* [[1937年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1644年]] - [[ボーイ (犬)|ボーイ]]、[[プードル]]犬(* 生年不詳)
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Hangesyo 06c1213cv.jpg|thumb|200px|[[半夏生]](2日頃)]]
{{Double image aside|right|Flag of UNESCO.svg|100|Tawashi Japanese scourer.jpg|80|[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]加盟記念日|[[たわし]]の日}}
* [[半夏生]]({{JPN}} 2010年・2011年・2013年)
*: [[雑節]]の一つ。
* ユネスコ加盟記念日({{JPN}})
*: [[1951年]]のこの日、日本が[[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ)に加盟したことを記念。
* [[たわし]]の日({{JPN}})
*: [[1915年]]のこの日、西尾商店(現在の[[亀の子束子西尾商店]])の西尾正左衛門が「亀の子束子」の特許を取得した。
* [[うどん]]の日({{JPN}})
*: 香川県生麺事業組合が制定。讃岐地方の農業を営む家庭では、半夏生のころの田植えが終わった労をねぎらう為に、うどんを打って食べる風習があり、それにちなんだことから。
* [[タコ|蛸]]の日({{JPN}})
*: 蛸研究会が制定。関西地方では7月2日頃の半夏生に蛸を食べる人が多いことから。
* [[救世軍]]創立記念日
*: [[1878年]]のこの日、イギリスで[[ウィリアム・ブース]]によりプロテスタント系のキリスト教の一派・[[救世軍]]が創立された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.christianpress.jp/july-2-the-salvation-army-anniversary/|title=7月2日は救世軍の創立記念日|work=クリスチャンプレス |date=2020-07-02|accessdate=2020-07-02}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.mysticstamp.com/Products/United-States/1267/USA/|title=The Salvation Army |work=Mystic's This Day in History|accessdate=2020-07-02}}</ref>。
* [[月経布|布ナプキン]]の日({{JPN}})
*: [[千趣会]]が制定。「ナ(7)プ(2)キン」の語呂合せと、同社が布ナプキン(布製の[[ナプキン (生理用)|生理用ナプキン]])の発売を始めた日から<ref>{{Cite web|和書|url=https://fi-fi.facebook.com/1000ideas.forwoman/photos/%E4%BB%8A%E6%97%A57%E6%9C%882%E6%97%A5%E3%81%AF%E5%B8%83%E3%83%8A%E3%83%97%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%9B%B8%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%81%9F%E3%82%8F%E3%81%97%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%83%A6%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%82%B3%E5%8A%A0%E7%9B%9F%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5%E4%B8%80%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%8A%98%E3%82%8A%E8%BF%94%E3%81%97%E3%81%AE%E6%97%A5%E5%B8%83%E3%83%8A%E3%83%97%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A8%E5%BD%93%E7%A4%BE%E3%81%8C%E5%88%B6%E5%AE%9A%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E4%B8%83%E3%81%AA%E4%BA%8C%E3%81%B5%E3%81%A7%E3%83%8A%E3%83%97%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%81%AE%E8%AA%9E%E5%91%82%E5%90%88%E3%81%9B%E3%81%A8%E5%BD%93%E7%A4%BE%E3%81%8C%E5%B8%83%E3%83%8A/1123257067814197/|title=今日7月2日は「布ナプキンの日」|work=株式会社 千趣会|date=2018-07-02|accessdate=2020-07-02}}</ref>。
* [[谷川岳]]の日({{JPN}})
*: [[群馬県]][[みなかみ町]]が制定。[[1920年]]の7月1日からこの日にかけて、谷川岳連峰縦走を記念して制定。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0702|date=2011-06}}
* 3026年 - 1966年(本放送当時)に続いて再び周回してきた彗星ツイフォンが、同日午前8時5分に極めて高い確率で地球に衝突すると予測されている(特撮テレビドラマ『[[ウルトラマン]]』)<ref>{{Cite news|url=https://gendai.media/articles/-/119023?page=2|title=『ウルトラマン』の神回…死闘に敗れた怪獣「ドラコ」が人類にもたらした「本当の恐怖」…地球消滅の「大ピンチ」へ|newspaper=現代ビジネス|publisher=講談社|page=2|date=2023-12-01|accessdate=2023-12-03}}</ref>。
* 西暦不明 - 和泉マサムネが自作小説『世界で一番可愛い妹』のアニメ化決定を知らされる。同日、同作の公式サイトでもアニメ化が発表される<ref>{{Cite book |和書|author1=伏見つかさ|authorlink1=伏見つかさ|author2=かんざきひろ(イラスト)|authorlink2=かんざきひろ|date=2016-08-10|title=エロマンガ先生(7) アニメで始まる同棲生活|publisher =[[KADOKAWA]]|series=[[電撃文庫]]|isbn=978-4048922494}}</ref>。
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1955年]] - [[サガット]]、ゲーム『[[ストリートファイターシリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/100886 |title=キャラ図鑑019:サガット |work=[[カプコン|CAPCOM]] |accessdate=2022-08-30 |publisher=シャドルー格闘家研究所}}</ref>
* [[1967年]] - 黒澤蝶子、[[テレビ朝日]][[土曜ナイトドラマ (テレビ朝日)|土曜ナイトドラマ]]『[[おっさんずラブ#連続版|おっさんずラブ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=テレビ朝日(監修)|authorlink=テレビ朝日|year=2018-08-07|title =土曜ナイトドラマ「おっさんずラブ」公式ブック|page = 27|publisher =[[文藝春秋]]|isbn = 978-4163908809}}</ref>
* 生年不明 - [[ルビー (ポケットモンスターSPECIAL)|ルビー]]、漫画『[[ポケットモンスターSPECIAL]]』の主人公のひとり<ref>{{Twitter status|pokesp_special|1410840680453197825}}</ref>
* 生年不明 - 左大臣、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Minister_Of_The_Left.html |title=左大臣 |work=[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |accessdate=2022-08-30 |publisher=ONE PIECE.com}}</ref>
* 生年不明 - 中吉、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1013437306869633024}}</ref>
* 生年不明 - マーモン、漫画・アニメ『[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 木崎レイジ、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1145709114330423296}}</ref>
* 生年不明 - ジョニー・ギル、漫画『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|date=2008-06-04|title=D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃|page=97|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088742489}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|date=2011-07-04|title=D.Gray-manキャラクターランキングブック キャラグレ!|page=89|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088702681}}</ref>
* 生年不明 - リオネット、漫画・アニメ『[[RAVE (漫画)|RAVE]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 影山律、漫画・アニメ『[[モブサイコ100]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|mobpsycho_anime|1410855762730041347}}</ref>
* 生年不明 - 笠間正宗、漫画・アニメ『[[マイガール (漫画)|マイガール]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 渋谷亜希、漫画・ドラマCD『[[俺様ティーチャー]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 夏目あさ子、漫画・アニメ『[[となりの怪物くん]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 龍崎乙姫、漫画・アニメ『[[犬神さんと猫山さん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=くずしろ|authorlink=くずしろ|date=2013-01-18|title=犬神さんと猫山さん|volume=(3)|page=66|publisher=[[一迅社]]|series=[[百合姫コミックス]]|isbn=978-4758072991}}</ref>
* 生年不明 - 桜井小春、漫画・アニメ『[[お酒は夫婦になってから]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vap.co.jp/osakefufu-anime/character/koharu.html |title=桜井小春 |access-date=2022-08-30 |publisher=クリスタルな洋介・小学館/「お酒は夫婦になってから」製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 三沢真帆、小説・アニメ『[[ロウきゅーぶ!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 鎧塚みぞれ、小説・アニメ『[[響け! ユーフォニアム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://tv2nd.anime-eupho.com/sp/character/mizore/ |title=鎧塚みぞれ CV:種﨑敦美 |publisher=[[武田綾乃]]・[[宝島社]]/『響け!』製作委員会 |work=響け! ユーフォニアム2 [[京都アニメーション]] |accessdate=2022-08-30}}</ref>
* 生年不明 - キャラ・スーン、アニメ『[[機動戦士ガンダムΖΖ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 池田れいこ、アニメ『[[絶対無敵ライジンオー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.eldran.net/raijin-oh/chara/index.html |title=キャラ 5年3組地球防衛組 池田 れいこ |access-date=2022-08-30 |publisher=絶対無敵ライジンオー|エルドラン公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - ミーア・キャンベル、アニメ『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ハンナ・ウルリーケ・ルーデル、メディアミックス『[[ストライクウィッチーズ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 琴吹紬、メディアミックス『[[けいおん!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/anime/k-on/k-on_tv/news/news1704.html |title=琴吹紬バースデー当日お祝い用グッズ&ケーキが登場! 7月2日は琴吹紬のお誕生日! |access-date=2022-08-30 |publisher=かきふらい・[[芳文社]]/桜高軽音部 |website=けいおん公式サイト・[[TBSテレビ|TBS]]}}</ref>
* 生年不明 - 綾井しらゆき、メディアミックス『[[アイドル事変]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://idoljihen.jp/character/ayai-shirayuki/ |title=香川県 綾井 しらゆき |access-date=2022-08-30 |publisher=アイドル事変 公式ポータルサイト}}</ref>
* 生年不明 - タチアナ・ボヤールスキー、メディアミックス『[[メルヘン・メドヘン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://maerchen-anime.com/chara/tatiana.html |title=タチアナ・ボヤールスキー |access-date=2022-08-30 |publisher=アニメ「メルヘン・メドヘン」公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - 雨紋雷人、ゲーム・アニメ『[[東京魔人學園剣風帖]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 不死川心、ゲーム・アニメ『[[真剣で私に恋しなさい!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://www.minatosoft.com/majikoi-s/chara-kokoro.html |title=人物紹介 不死川 心 |access-date=2022-08-30 |publisher=真剣で私に恋しなさい!S}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター SideM#山村賢|山村賢]]、ゲーム『[[アイドルマスター SideM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sidem_gs|1542885744053739520}}</ref>
* 生年不明 - 菅野夏樹、ゲーム・アニメ『[[スタンドマイヒーローズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.standmyheroes.tv/character/detail_police.html |title=警視庁|菅野夏樹 |accessdate=2022-08-30 |work=coly/SMHP |website=TVアニメ『スタンドマイヒーローズ PIECE OF TRUTH』公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - [[ピーナッツくん]]、[[バーチャルYouTuber|バーチャルユーチューバー]]
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|July 2|2 July}}
{{新暦365日|7|1|7|3|[[6月2日]]|[[8月2日]]|[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]|0702|7|02}}
{{1年の月と日}} | 2003-03-06T13:07:17Z | 2023-12-30T23:19:22Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%882%E6%97%A5 |
3,524 | 8月1日 | 8月1日(はちがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から213日目(閏年では214日目)にあたり、年末まではあと152日ある。
画像は人民解放軍。
この日を表す「八月朔日」と書いて「ほずみ」或いは「ほづみ」或いは「ほうずみ」或いは「ほぞみ」と読む苗字、「八月一日」と書いて「ほずみ」と読む苗字、「八朔日」と書いて「ほずみ」と読む苗字が日本に存在する。旧暦8月1日頃に実る早稲(わせ)は当然その年最初の稲穂、即ち初穂である。その穂を摘み、これを恩人などに贈る風習が古くから農民の間にあった。これにちなむものである。なお、風習の詳細は八朔の項を参照。 | [
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"title": "難読姓"
}
] | 8月1日(はちがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から213日目(閏年では214日目)にあたり、年末まではあと152日ある。 | {{カレンダー 8月}}
'''8月1日'''(はちがつついたち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から213日目([[閏年]]では214日目)にあたり、年末まではあと152日ある。
== できごと ==
{{multiple image
| footer = [[ユスティヌス1世]](435-527)没、[[ユスティニアヌス1世]]即位
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| alt2 = ユスティニアヌス1世
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{{Imageframe|width=220|content=|caption=
[[遣隋使#第二回(607年)|第2回遣隋使]]派遣(607)。
{{Squote|秋七月戊申朔庚戌(推古15年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]])、大礼[[小野妹子|小野臣妹子]]遣於大唐――『[[日本書紀]]』}}
{{Squote|日出處天子致書日沒處天子無恙――『[[隋書]]』}}
{{Squote|日出づる処の天子、日没す処の天子に書を致す。恙無しや――『[[隋書]]』}}}}
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| footer = [[ジョゼフ・プリーストリー]](1733-1804)、[[酸素]]を発見(1774)
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| alt1 = ジョゼフ・プリーストリー
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| alt2 = プリーストリーが[[酸素]]を発見した研究室
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[[Image:Luny_Thomas_Battle_Of_The_Nile_August_1st_1798_At_10pm.jpg|thumb|300px|[[エジプト・シリア戦役]]、[[ナイルの海戦]](1798)。フランス艦隊は壊滅し[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の中東征服は頓挫]]
{{multiple image
| footer = イギリス全領土で[[奴隷廃止法]]発効(1834)。左画像は18世紀の奴隷船、右は[[ジョサイア・ウェッジウッド]]「私は人間、同胞ではないのか?」(1787)
| image1 = Slaveshipplan.jpg
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| alt1 = 18世紀の奴隷船
| image2 = Official medallion of the British Anti-Slavery Society (1795).jpg
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| alt2 = ウェッジウッド「私は人間、同胞ではないのか?」1787
}}
[[Image:Koshien_Baseball_Championship_opening_ceremony_1935_cropped.jpg|thumb|300px|[[阪神甲子園球場]]竣工(1924)。画像は1935年の[[日本の高校野球|高校野球]]]]
{{multiple image
| footer = [[1936年ベルリンオリンピック|ベルリンオリンピック]]開幕(1936)。左画像は[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の入場、右はこの大会で初めて導入された[[聖火リレー]]
| image1 = Bundesarchiv_Bild_146-1976-033-17%2C_Berlin%2C_Olympische_Spiele.jpg
| width1 = 160
| alt1 = ヒトラーの入場
| image2 = Bundesarchiv_Bild_146-1976-116-08A%2C_Olympische_Spiele%2C_Fackell%C3%A4ufer.jpg
| width2 = 160
| alt2 = 聖火リレー
}}
{{multiple image
| footer = 日本軍の支援を受けた[[バー・モウ]]、[[ビルマ国]]の建国を宣言(1943)。右画像は同年の記念切手
| image1 =
| width1 = 100
| alt1 = バー・モウ
| image2 = Burma_independence_day_of_1cent_stamp_in_1943.JPG
| width2 = 100
| alt2 = 記念切手
}}
{{multiple image
| footer = [[ワルシャワ蜂起]]はじまる(1944)。ソ連軍が呼応せず失敗に終わり、終結後ドイツ軍は[[ワルシャワ]]を破壊(右画像)。{{audio|Warsaw Uprising broadcast.ogg|戦況を伝えるワルシャワのラジオを聴く}}
| image1 = Lokajski_-_Powstancy_w_%C5%9Ar%C3%B3dmie%C5%9Bciu_%281944%29.jpg
| width1 = 100
| alt1 = ワルシャワ蜂起
| image2 = German_Brennkommando-firing_Warsaw_1944.jpg
| width2 = 160
| alt2 = ワルシャワを破壊するドイツ軍
}}
{{multiple image
| footer = [[ハイパーインフレ]]に見舞われた[[ハンガリー]]で新通貨[[フォリント]]導入(1946)。画像は廃止された旧通貨[[ペンゲー]]
| image1 = HUP 10Mmil 1946 obverse.jpg
| width1 = 120
| caption1 = 10兆ペンゲー(1946年)
| alt1 = 10兆ペンゲー紙幣
| image2 = HAP 10M obverse.jpg
| width2 = 100
| caption2 = 1000万アドーペンゲー(1946年)
| alt2 = 1000万アドーペンゲー紙幣
| image3 = HUP 2coin 1936 reverse.jpg
| width3 = 70
| caption3 = 2ペンゲー(1936年)
| alt3 = 2ペンゲー硬貨
}}
{{multiple image
| image1 = Establishment_of_Nippon_Telegraph_and_Telephone_Public_Corporation.JPG
| width1 = 100
| caption1 = [[日本電信電話公社]]発足(1952)
| image2 = CSF_Ships.JPG
| width2 = 200
| caption2 = [[保安庁]]および[[警備隊 (保安庁)|警備隊]]発足(1952)
}}
[[ファイル:C571-SL Yamaguchi 2006 08200011.JPG|thumb|国鉄初のSL[[動態保存]]、[[SLやまぐち号|やまぐち号]]運転開始(1979)]]
{{multiple image
| image1 = Hassanal_Bolkiah.jpg
| width1 = 100
| caption1 = [[ブルネイ]]で[[ハサナル・ボルキア]]国王戴冠(1968)
| image2 = Fahd_bin_Abdul_Aziz.jpg
| width2 = 100
| caption2 = [[サウジアラビア]]国王[[ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ]](1923-2005)没
| image3 = Abdullah_of_Saudi_Arabia.jpg
| width3 = 100
| caption3 = サウジアラビア同日、[[アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ|アブドゥッラー]]国王即位(2005)
}}
[[ファイル:Datsun Bluebird (310) 001.JPG|thumb|[[日産自動車]]がダットサン・[[日産・ブルーバード|ブルーバード]]を発売(1959)。]]
[[ファイル:500JPY.JPG|thumb|500円硬貨(2代目)発行(2000)]]
[[ファイル:I-35W bridge collapse TLR1.jpg|thumb|ミネアポリスで高速道路崩落事故(2007)。9人が死亡。]]
* [[527年]] - [[ユスティニアヌス1世]]が[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]]に即位。
* [[607年]]([[推古天皇]]15年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]])- [[小野妹子]]を使者として[[遣隋使#第二回(607年)|第2回遣隋使]]が派遣される。
* [[1291年]] - [[ウーリ州|ウーリ]]・[[シュヴィーツ州|シュヴィーツ]]・[[ウンターヴァルデン]]の3[[スイスの地方行政区画|州]]が[[盟約者同盟]]結成を宣言 。[[スイス]]建国の日とされる。
* [[1610年]]([[慶長]]15年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - 徳川家康の命で京都の商人・[[田中勝介]]らが鉱山技師を招くために[[メキシコ]]へ向けて出航。翌年帰国。
* [[1774年]] - イギリスの化学者[[ジョゼフ・プリーストリー]]が[[酸素]]を[[酸素#発見|発見]]。
* [[1798年]] - [[エジプト・シリア戦役]]: [[ナイルの海戦]]が行われイギリスが勝利、地中海の制海権を掌握。
* [[1828年]] - [[マダガスカル島]]の[[メリナ王国]]で、前王[[ラダマ1世]]の第一夫人{{仮リンク|ラナヴァルナ|en|Ranavalona I}}が、自分より王位継承順位が上の夫の親族を皆殺しにした上で国王に即位。
* [[1834年]] - 植民地を含む[[イギリス]]の全領土において[[奴隷制]]を廃止する[[奴隷廃止法]]が発効。[[1840年]]の同日に奴隷が解放される。
* [[1855年]] - [[アルプス山脈]]2番目の高峰[[モンテ・ローザ]]・[[プンタ・デュフール|デュフール峰]]が初登頂<ref>{{Cite web|url=https://www.zermatt.ch/en/Media/Attractions/Dufourspitze|title=Dufourspitze|work= Zermatt Tourismus|accessdate=2020-08-01}}</ref>。
* [[1876年]] - [[コロラド準州]]が州に昇格し、[[アメリカ合衆国]]38番目の州・[[コロラド州]]となる。
* [[1879年]] - 日本初の[[海上保険]]会社・東京海上保険会社(現在の[[東京海上日動火災保険]])が営業開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokiomarine-nichido.co.jp/company/rashisa/story/history/|title=東京海上日動の歴史|work=東京海上日動|accessdate=2020-08-01}}</ref>。
* [[1881年]] - 華族などが参加して日本初の私立鉄道会社[[日本鉄道]]の創立が決定。
* [[1894年]] - [[日清戦争]]: [[日本]]と[[清]]が相互に[[宣戦布告]]。
* [[1898年]] - [[豊田佐吉]]が[[動力織機]]の[[特許]]を取得<ref name=toyota>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/san-kagi/aichi-hatsumei.html|title=8月1日は「愛知の発明の日」|work=[[愛知県]]|accessdate=2020-08-01}}</ref>。
* [[1907年]] - [[第三次日韓協約]]により[[大韓帝国軍]]が解体。
* [[1911年]] - [[東京市]]が東京鉄道会社を買収して電気局を設置。東京市電(現在の[[東京都電車|都電]])となる。
* [[1912年]] - [[鈴木文治]]らが[[労働者]]の相互扶助を目的として[[友愛会]]を結成。
* [[1913年]] - [[東海道本線]]の全線[[複線]]化が完成。
* [[1914年]] - [[第一次世界大戦]]: [[ドイツ帝国]]が[[ロシア帝国]]に宣戦布告。
* [[1921年]] - 東海道本線の[[大津駅|大津]] - [[京都駅|京都]]間が現在の[[新逢坂山トンネル]]経由のルートに変更。
* [[1924年]] - [[全国高等学校野球選手権大会|全国中等学校優勝野球大会]]の開催を主目的として建設された、日本初の大規模多目的野球場・[[阪神甲子園球場]](当時の球場名は[[阪神電気鉄道|阪神電車]]甲子園大運動場)が竣工。
* [[1927年]] - [[中国共産党]]が[[江西省]][[南昌]]で武装蜂起、3日まで占拠し続ける([[南昌起義]])。
* [[1935年]] - 中国共産党が、内戦を停止し[[中華ソビエト共和国]]と共同で抗日民族統一戦線を結成するという内容の「[[八・一宣言]](抗日救国のために全国同胞に告ぐる書)」を発表。
* [[1936年]] - 第11回[[夏季オリンピック]]・[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリンオリンピック]]大会が開幕。[[8月16日]]まで。[[聖火リレー]]はこの大会で初めて行われた。
* [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[フランクリン・ルーズベルト]]米大統領が、日本の[[仏印進駐]]への制裁として対日石油輸出を全面禁止。
* [[1943年]] - 日本統治下にあった[[朝鮮]]に[[徴兵制]]がしかれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.yna.co.kr/view/AJP20200728001400882|title=今日の歴史(8月1日)|publisher=聯合ニュース|accessdate=2020-08-01}}</ref>。
* 1943年 - 第二次世界大戦: 日本占領下の[[ミャンマー|ビルマ]]で[[バー・モウ]]が[[ビルマ国]]の独立を宣言。「日本ビルマ同盟条約」に調印し、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に宣戦布告。
* [[1944年]] - 第二次世界大戦・[[独ソ戦]]: [[ワルシャワ蜂起]]勃発。
* 1944年 - [[アンネ・フランク]]が最後の[[アンネの日記|日記]]を書く。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦・[[日本本土空襲]]: [[長岡空襲]]。
* [[1946年]] - [[日本労働組合総同盟]]結成<ref>{{Cite web|和書|url=http://yuairodorekishikan.com/?page_id=6|title=企画展「総同盟・産別会議から新産別・総評へ―1946~1950年の労働運動―」(2020.7.6~12.8)|work=友愛労働歴史館|accessdate=2020-08-01}}</ref>。
* 1946年 - [[インフレーション|ハイパーインフレ]]中の[[ハンガリー]]で新通貨[[フォリント]]を導入。1フォリント=40[[穣]]({{val|4e29}})[[ペンゲー]]とする。
* [[1947年]] - インドネシアでの武力衝突問題に関する[[国際連合安全保障理事会決議27]]が採択される。
* [[1951年]] - 日本で第二次大戦後初の国内民間航空会社・[[日本航空の歴史|日本航空]]設立。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jal.com/ja/outline/history.html|title=About|JALの沿革|website=[[日本航空|Japan Airlines.]]|accessdate=2020-06-26}}</ref>
* 1951年 - [[日本放送協会]](NHK)の支援を受けるようになった日本交響楽団が名称を[[NHK交響楽団]]に改称。
* [[1952年]] - [[電気通信省]]を廃止して[[日本電信電話公社]]が発足。
* 1952年 - [[保安庁]]([[防衛省]]の前身)および[[警備隊 (保安庁)|警備隊]]([[海上自衛隊]]の前身)が発足。
* [[1953年]] - [[衆議院]]の予算審議で[[右派社会党]]の[[堤ツルヨ]]議員が「断末魔の[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]」と野次ったのに対し、自由党の[[有田二郎]]議員が「だまれパン助」と応酬。女性蔑視として問題化。
* [[1955年]] - [[墨田区]][[厩橋]]近辺の[[花火]]問屋で爆発事故。住民18人が犠牲となり、80名以上が負傷<ref>{{Cite web|和書|url=http://yaminave.blogspot.com/2014/01/1955_3.html|title=◆墨田区花火工場爆発事故(1955年)|work=文藝yaminave|accessdate=2020-08-01}}</ref>。
* [[1956年]] - [[道路交通法]]改正により、[[第二種運転免許]]導入。
* [[1959年]] - [[日産自動車]]より初代[[ダットサン]]・[[日産・ブルーバード|ブルーバード]]が発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.carsensor.net/contents/editor/category_1585/_30576.html|title=8月1日はダットサン ブルーバードの誕生日!7月下旬から8月上旬の車の記念日、まとめてみた|publisher=[[カーセンサー]]|accessdate=2020-06-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nissan-global.com/JP/HERITAGE/LEGENDS/LEGEND_01/index.html|title=先見の明を宿した近代人 鮎川義介|publisher=[[日産自動車]]|accessdate=2020-06-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://car-repo.jp/blog-entry-183.html|title=日産 インフィニティに続く第三のブランド 「ダットサンブランド」の販売開始|publisher=最新自動車情報|accessdate=2020-06-26}}</ref>。
* [[1960年]] - ダホメ(後に[[ベナン]]に改称)が[[フランス]]から独立。
* [[1961年]] - [[第1次西成暴動]]勃発。
* [[1962年]] - 昭和37年台風第9号が[[沖縄県]]に接近。その後、九州西方の海上を北上して[[宮崎県]]、[[鹿児島県]]に豪雨をもたらし、死者・行方不明37人などの被害<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=163 |isbn=9784816922749}}</ref>。
*1964年 - [[由木村]]が[[東京都]][[八王子市]]に編入される。
* [[1966年]] - [[プリンス自動車工業]]が[[日産自動車]]に吸収合併。
* 1966年 - [[テキサスタワー乱射事件]]。
* [[1967年]] - [[西穂高岳落雷遭難事故]]発生。登山中の高校生11人が落雷を受け死亡。
* [[1968年]] - [[ブルネイ]]国王[[ハサナル・ボルキア]]が戴冠。
* [[1972年]] - [[郷ひろみ]]が「[[男の子女の子]]」で歌手デビュー。
* [[1976年]] - [[イギリス]]女王[[エリザベス2世]]を国家元首としていた[[トリニダード・トバゴ]]が[[共和制]]に移行、エリス・クラークが初代大統領に就任。
* [[1978年]] - 営団地下鉄半蔵門線(現 [[東京メトロ半蔵門線]])・[[渋谷駅|渋谷]] - [[青山一丁目駅|青山一丁目]]が開業。[[東急田園都市線|東急新玉川線・田園都市線]]と相互直通運転を開始。
* [[1979年]] - [[日本国有鉄道|国鉄]][[山口線]]で、国鉄初の[[蒸気機関車|SL]]の[[静態保存|動態保存]]運転となる[[SLやまぐち号|やまぐち号]]の運行を開始。
* [[1980年]] - [[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の[[野村克也]]が前人未到の3,000試合出場達成。
* [[1989年]] - [[神奈川県]][[川崎市]][[高津区]]の住宅地で、[[集中豪雨]]による[[土砂崩れ]]が発生<ref>{{Cite web|和書|title=川崎市高津区で土砂災害(1989年8月1日) | 災害カレンダー |url=https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/237/ |website=Yahoo!天気・災害 |access-date=2022-08-09 |language=ja}}</ref>。死者6人<ref>{{Cite web|和書|title=殉職もう出すまい 高津崖崩れ30年、川崎消防思い新た |url=https://www.kanaloco.jp/tag/%E6%B8%9B%E7%81%BD%E6%96%B0%E8%81%9E/entry-186678.html |website=カナロコ by 神奈川新聞 |access-date=2022-08-09 |language=ja}}</ref>。
* [[1993年]] - [[鹿児島県]][[霧島市]]、[[姶良郡]]で記録的豪雨([[平成5年8月豪雨|8.1豪雨]])。死者23人。
* 1993年 - [[FM NORTH WAVE]](NORTH WAVE)開局。
* [[2000年]] - 日本で2代目の[[五百円硬貨]]が発行開始。素材を[[白銅]]から[[洋白|ニッケル黄銅]]へと変更するとともに、偽造防止技術として、縁に斜めギザ、裏面にある500の00部分に潜像が施された。
* [[2002年]] - [[中日ドラゴンズ]]の[[川上憲伸]]が[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦で[[ノーヒットノーラン]]を達成。
* [[2003年]] - [[広島平和記念公園]]で[[折り鶴放火事件]]が起こる。
* [[2004年]] - [[阪神タイガース]]の[[金本知憲]]が701試合連続フルイニング出場の日本新記録を達成。
* 2004年 - [[パラグアイ]]の大型スーパー「イクア・ボラーニョス」で大火災が発生。400人以上が死亡。
* [[2005年]] - [[サウジアラビア]]で[[アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ|アブドゥッラー]]国王が即位。
* [[2007年]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ミネソタ州]]の[[ミネアポリス]]で[[ミシシッピ川]]に架かる[[高速道路]]の橋が崩落、多数の死傷者が出る。([[ミネアポリス高速道路崩落事故]])
* [[2009年]] - [[そごう]]が親会社の[[ミレニアムリテイリング]]及び同社子会社の[[西武百貨店]]を吸収合併、商号を[[そごう・西武]]と改める。
* [[2010年]] - [[クラスター弾に関する条約|クラスター爆弾禁止条約]]が発効。
* [[2012年]] - [[2012年ロンドンオリンピックの体操競技|ロンドンオリンピック体操競技]]、男子個人総合で[[内村航平]]が日本選手として28年振りの[[金メダル]]を獲得<ref>[https://jp.reuters.com/article/tk0864022-oly-gymn-gamiaa-idJPTYE87101020120802 五輪=「ようやく内村航平を証明」、苦手克服し雪辱の金メダル] ロイター (2012年8月2日) 2020年12月12日閲覧。</ref>。
* [[2016年]] - [[日本放送協会|NHK]]が超高精細映像[[4K 8Kテレビ放送|4K・8Kの試験放送]]を[[放送衛星|BS]]で始めた<ref>[https://web.archive.org/web/20160808023608/http://www.sankeibiz.jp/macro/news/160802/mca1608020500005-n1.htm 五輪など対象にNHKが世界初の8K試験放送を開始 BS使い4Kも] SankeiBiz(サンケイビズ) (2016年8月2日) 2020年12月12日閲覧。</ref>。
* [[2017年]] - アメリカから日本へ輸入される冷凍[[牛肉]]に対して[[緊急輸入制限]]が発動<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jacom.or.jp/nousei/news/2017/07/170731-33331.php|title=牛肉セーフガード 14年ぶり発動-農水省|work=時事ドットコム |publisher=農業協同組合新聞|date=2017-07-31|accessdate=2020-08-01}}</ref>。2018年3月末まで、[[関税]]率38.5%から50%へ引き上げ<ref>{{Cite web|和書|date=2017-07-28 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS28H17_Y7A720C1EAF000/ |title=冷凍牛肉の緊急輸入制限を発表 財務相、8月から |work=日本経済新聞 |publisher=[[日本経済新聞社]] |accessdate=2020-08-01}}</ref>。
* [[2017年]] - 日本時間21時20分に[[ビットコイン]]の[[ブロックチェーン]]が分岐し、新たに[[ビットコインキャッシュ]]が誕生<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/dm/atcl/feature/15/083100127/00001/?P=2|title=反対派を動かした、ビットコイン流ストライキ|publisher=[[日経BP|日経XTECH]]|date=2017-09-04|accessdate=2020-06-26}}</ref>。
=== 日本の自治体改編 ===
* [[1897年]] - [[三重県]][[四日市市]]が市制施行。
* [[1906年]] - [[愛知県]][[豊橋市]]が市制施行。
* [[1921年]] - [[愛媛県]][[宇和島市]]が市制施行。
* [[1922年]] - [[北海道]]に[[市制]]が適用され、[[札幌市]]・[[函館市]]・[[小樽市]]・[[室蘭市]]・[[旭川市]]・[[釧路市]]が発足。
* [[1938年]] - [[京都府]][[舞鶴市]]・[[東舞鶴市]](現 舞鶴市の一部)が市制施行。
* [[1940年]] - [[岐阜県]][[多治見市]]が市制施行。
* [[1947年]] - [[大阪府]][[枚方市]]が市制施行。
* 1947年 - [[板橋区]]から[[練馬区]]が分離し、[[東京都特別区]]が23区になる。
* [[1950年]] - [[茨城県]][[古河市]]、京都府[[綾部市]]が市制施行。
* [[1952年]] - [[富山県]][[氷見市]]、[[島根県]][[益田市]]が市制施行。愛知県[[丹羽郡]][[扶桑町]]が町制施行。
* [[1954年]] - [[山形県]][[寒河江市]]、[[長野県]][[飯山市]]、[[千葉県]][[習志野市]]、[[兵庫県]][[川西市]]、[[高知県]][[土佐清水市]]・[[安芸市]]が市制施行。
* [[1957年]] - 北海道[[根室市]]が市制施行。
* [[1958年]] - 茨城県[[笠間市]]、長野県[[茅野市]]、[[熊本県]][[菊池市]]が市制施行。
* [[1962年]] - 富山県[[小矢部市]]が市制施行。
* [[1963年]] - 大阪府[[門真市]]が市制施行。
* [[1970年]] - 北海道[[登別市]]、三重県[[久居市]]、[[沖縄県]][[名護市]]が市制施行。
* [[1972年]] - 愛知県[[豊明市]]が市制施行。
* [[2004年]] - [[長崎県]][[福江市]]ほか5町が合併して[[五島市]]となる。
* [[2005年]] - 茨城県[[神栖市]]が市制施行。
== 誕生日 ==
{{右|[[Image:1D line.svg|260px]]}}
{{multiple image
| image1 = Claudius_Pio-Clementino_Inv243.jpg
| width1 = 100
| caption1 = [[ローマ皇帝]][[クラウディウス]](BC10-54)誕生
| image2 = Alba Iulia National Museum of the Union 2011 - Possible Statue of Roman Emperor Pertinax Close Up, Apulum.JPG
| width2 = 100
| caption2 = [[ローマ皇帝]][[ペルティナクス]](126-193)誕生
}}
{{multiple image
| image1 = Sugawara_Michizane.jpg
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| caption1 = [[菅原道真]](845-903)誕生。{{Squote|此の度は幣も取り敢へず手向山紅葉の錦神の随に}}
| alt1 = 菅原道真
| image2 = Emperor_K%C5%8Dgon.jpg
| width2 = 120
| caption2 = 北朝初代天皇[[光厳天皇]](1313-1364)誕生。{{Squote|さ夜ふくる窓の灯つくづくとかげもしづけし我もしづけし}}
| alt2 = 光厳天皇
| image3 = Emperor_Go-Komatsu.jpg
| width3 = 90
| caption3 = 第100代天皇[[後小松天皇]](1377-1433)誕生。{{Squote|又むすぶ契りもしらで消えかへる野上の露のしののめの空}}
| alt3 = 後小松天皇
}}
[[Image:Anonymous_Sigismund_Augustus.jpg|thumb|100px|[[ポーランド]]王、[[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント2世]](1520-1572)]]
[[Image:Lamarckat35.PNG|thumb|100px|博物学者[[ジャン=バティスト・ラマルク]](1744-1829)。初期の[[進化論]]提唱者。[[用不用説]]を唱えた]]
{{multiple image
| footer = 絵師、[[酒井抱一]](1761-1829)誕生。左画像は『[[夏秋草図屏風|風雨草花図]]』、右は『月に秋草図』
| image1 = Natu-aki_kusa_zu_byoubu.jpg
| width1 = 160
| alt1 = 『風雨草花図』
| image2 = SakaiHoitsuAutumnFlowersandMoon.JPG
| width2 = 140
| alt2 = 『月に秋草図』
}}
{{multiple image
| footer = 画家[[リチャード・ダッド]](1817-1886)誕生。右画像は『お伽の樵の入神の一撃』(1855-64)
| image1 = Richard-Dadd-1817-1886.jpg
| width1 = 100
| alt1 = リチャード・ダッド
| image2 = Image-Dadd_-_Fairy_Feller%27s.jpg
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| alt2 = 『お伽の樵の入神の一撃』
}}
[[Image:Herman_melville.jpg|thumb|100px|作家[[ハーマン・メルヴィル]](1819-1891)誕生。{{Squote|力強い本を書くためには、力強い主題を選ばねばならぬ。――『[[白鯨]]』(1851)}}]]
[[Image:Mother_Jones_1902-11-04.jpg|thumb|100px|労働活動家[[マザー・ジョーンズ]](1830-1930)]]
{{multiple image
| image1 = Masao_Ohta1934.jpg
| width1 = 100
| caption1 = 医学者・詩人[[木下杢太郎]](1885-1945)
| alt1 = 木下杢太郎
}}
{{multiple image
| image1 = George_de_Hevesy.jpg
| width1 = 100
| caption1 = 化学者[[ゲオルク・ド・ヘヴェシー]](1885-1966)。放射性トレーサーを研究
| alt1 = ゲオルク・ド・ヘヴェシー
| image2 = Douglas_Osheroff.jpg
| width2 = 100
| caption2 = 物理学者[[ダグラス・D・オシェロフ]](1945-)。[[ヘリウム]]3の[[超流動]]を発見
| alt2 = ダグラス・D・オシェロフ
}}
[[Image:AntonioNegri_SeminarioInternacionalMundo.jpg|thumb|120px|政治哲学者[[アントニオ・ネグリ]](1933-)。{{Squote|今日、[[地球]]規模での[[民主主義]]の可能性が歴史上初めて浮上しつつある。――『マルチチュード』(2005)}}]]
{{multiple image
| footer = 物理学者[[ダグラス・D・オシェロフ]](1945-)。[[ヘリウム]]3の[[超流動]](右図)を発見
| image1 = Douglas_Osheroff.jpg
| width1 = 100
| alt1 = ダグラス・D・オシェロフ
| image2 = Helium-II-creep.svg
| width2 = 100
| alt2 = 超流動
}}
* [[紀元前10年]] - [[クラウディウス]]、第4代[[ローマ皇帝]](+ [[54年]])
* [[126年]] - [[ペルティナクス]]、第18代ローマ皇帝(+ [[193年]])
* [[845年]]([[承和 (日本)|承和]]12年[[6月25日]]) - [[菅原道真]]、学者、[[政治家]](+ [[903年]])
* [[1313年]]([[正和]]2年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]) - [[光厳天皇]]、[[北朝 (日本)|北朝]]初代[[天皇]](+ [[1364年]])
* [[1377年]]([[永和 (日本)|永和]]3年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]) - [[後小松天皇]]、第100代天皇(+ [[1433年]])
* [[1520年]] - [[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント2世]]、[[ポーランド王]](+ [[1572年]])
* [[1625年]]([[寛永]]2年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]) - [[水野勝貞]]、[[備後福山藩|福山藩]]主(+ [[1662年]])
* [[1661年]]([[寛文]]元年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]) - [[相馬昌胤]]、[[相馬中村藩]]主(+ [[1728年]])
* [[1665年]](寛文5年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]) - [[松平輝貞]]、[[高崎藩]]主(+ [[1747年]])
* [[1687年]]([[貞享]]4年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]) - [[池田吉泰]]、[[鳥取藩]]主(+ [[1739年]])
* [[1709年]]([[宝永]]6年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]) - [[成瀬正泰]]、[[犬山藩]]主(+ [[1785年]])
* [[1730年]]([[享保]]15年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]) - [[鍋島直興]]、[[蓮池藩]]主(+ [[1757年]])
* [[1744年]] - [[ジャン=バティスト・ラマルク]]、[[博物学者]](+ [[1829年]])
* [[1761年]]([[宝暦]]11年[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]) - [[酒井抱一]]、[[画家]](+ [[1829年]])
* [[1765年]]([[明和]]2年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - [[南部信房]]、[[八戸藩]]主(+ [[1835年]])
* [[1770年]] - [[ウィリアム・クラーク (探検家)|ウィリアム・クラーク]]、[[探検家]](+ [[1838年]])
* [[1779年]] - [[フランシス・スコット・キー]]、[[弁護士]]、[[詩人]](+ [[1843年]])
* [[1807年]] - [[ロバート・マクレランド (内務長官)|ロバート・マクレランド]]、第4代[[アメリカ合衆国内務長官]](+ [[1880年]])
* [[1817年]] - [[リチャード・ダッド]]、画家(+ [[1886年]])
* [[1818年]] - [[マリア・ミッチェル]]、[[天文学者]](+ [[1889年]])
* 1818年([[文政]]元年[[6月30日 (旧暦)|6月30日]]) - [[竹腰正富]]、[[今尾藩]]主(+ [[1884年]])
* [[1819年]] - [[ハーマン・メルヴィル]]、[[小説家]](+ [[1891年]])
* [[1830年]](文政]13年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[川田甕江]]、[[漢学者]](+ [[1896年]])
* 1830年(文政13年6月13日) - [[内藤政文]]、[[挙母藩]]主(+ [[1858年]])
* [[1837年]] - [[マザー・ジョーンズ]]、[[労働運動家]](+ [[1930年]])
* [[1843年]] - [[ロバート・トッド・リンカーン]]、[[アメリカ合衆国陸軍長官]](+ [[1926年]])
* [[1849年]] - [[ジョージ・マーサー・ドーソン]]、[[科学者]]、[[探検家]](+ [[1901年]])
* [[1858年]] - [[ハンス・ロット]]、[[作曲家]](+ [[1884年]])
* [[1860年]]([[万延]]元年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - [[根津嘉一郎 (初代)]]、[[実業家]]、[[東武鉄道]]オーナー(+ [[1940年]])
* [[1863年]] - [[ガストン・ドゥメルグ]]、[[政治家]]、[[フランス第三共和政]]第12代[[フランスの大統領|大統領]](+ [[1937年]])
* [[1865年]] - [[エウシェン (ネルケ公)|エウシェン]]、[[スウェーデン]]の王族(+ [[1947年]])
* [[1881年]] - [[会津八一]]、[[歌人]]、[[美術史|美術史家]](+ [[1956年]])
* [[1882年]] - [[石原謙]]、[[宗教史]]学者(+ [[1976年]])
* [[1885年]] - [[木下杢太郎]]、[[詩人]]、小説家、[[医学者]](+ [[1945年]])
* 1885年 - [[ゲオルク・ド・ヘヴェシー]]、[[化学者]](+ [[1943年]])
* [[1886年]] - [[宮島資夫]]、小説家(+ [[1951年]])
* [[1889年]] - [[室生犀星]]、詩人(+ [[1962年]])
* [[1892年]] - 成田きん、[[きんさんぎんさん]]の姉(+ [[2000年]])
* 1892年 - 蟹江ぎん、きんさんぎんさんの妹(+ [[2001年]])
* [[1899年]] - [[松方三郎]]、[[登山家]]、[[ジャーナリスト]]、実業家(+ [[1973年]])
* 1899年 - [[伊藤熹朔]]、[[舞台美術家]](+ [[1967年]])
* 1899年 - [[ジミー・エンジェル]]、[[飛行家]](+ [[1956年]])
* [[1905年]] - [[水谷八重子 (初代)]]、[[俳優|女優]](+ [[1979年]])
* [[1906年]] - [[耕治人]]、小説家(+ [[1988年]])
* [[1907年]] - [[大澤壽人]]、[[作曲家]](+ [[1953年]])
* 1907年 - [[宮本常一]]、[[民俗学者]](+ [[1981年]])
* 1907年 - [[マルガ・フォン・エッツドルフ]]、パイロット(+ [[1933年]])
* [[1908年]] - [[窪田章一郎]]、[[歌人]](+ [[2001年]])
* [[1915年]] - [[小平忠]]、政治家(+ [[2000年]])
* [[1918年]] - [[周璇]]、[[歌手]]、女優(+ [[1957年]])
* [[1920年]] - [[内田朝雄]]、[[俳優]](+ [[1996年]])
* [[1921年]] - [[大森荘蔵]]、[[哲学者]](+ [[1997年]])
* [[1922年]] - [[スティーヴン・ワーム]]、[[言語学者]](+ [[2001年]])
* [[1923年]] - [[中田喜直]]、作曲家(+ 2000年)
* [[1924年]] - [[村沢牧]]、政治家(+ 1999年)
* 1924年 - [[ジョルジュ・シャルパク]]、[[物理学者]](+ [[2010年]])
* [[1927年]] - [[三塚博]]、政治家(+ [[2004年]])
* 1927年 - [[小沢潔]]、政治家(+ [[2014年]])
* 1927年 - [[河野俊二]]、実業家(+ [[2012年]])
* [[1929年]] - [[E・H・エリック]]、[[タレント]](+ 2000年)
* [[1930年]] - [[ピエール・ブルデュー]]、[[社会学者]](+ [[2002年]])
* [[1931年]] - [[若原一郎]]、歌手(+ [[1990年]])
* [[1932年]] - [[田畑彦右衛門]]、社会評論家
* [[1933年]] - [[金田正一]]、元[[プロ野球選手]]、元[[プロ野球監督]](+ [[2019年]])
* 1933年 - [[アントニオ・ネグリ]]、政治哲学者(+ [[2023年]])
* 1933年 - [[ドム・デルイーズ]]、俳優、[[コメディアン]](+ [[2009年]])
* 1933年 - [[高銀]]、詩人
* 1933年 - [[鈴木秀幸]]、元プロ野球選手
* 1933年 - 武下和平、[[唄者]](+ [[2021年]])
* [[1935年]] - [[田中信夫]]、[[声優]](+ [[2018年]])
* 1935年 - [[宮崎逸人]]、元プロ野球選手
* [[1936年]] - [[イヴ・サン=ローラン]]、[[ファッションデザイナー]](+ [[2008年]])
* 1936年 - [[三ツ矢歌子]]、女優(+ 2004年)
* 1936年 - [[ウィリアム・ドナルド・ハミルトン]]、[[生物学者]](+ [[2000年]])
* [[1937年]] - [[泉信也]]、政治家
* 1937年 - [[鎌田敏夫]]、[[脚本家]]
* [[1938年]] - [[ジャッキー吉川]]、[[ミュージシャン|音楽家]](+ [[2020年]])
* 1938年 - [[太田勝]]、元プロ野球選手(+ 没年不詳)
* [[1941年]] - [[堀勝之祐]]、声優
* 1941年 - [[ジョルディ・サバール]]、[[ヴィオラ・ダ・ガンバ]]奏者、[[指揮者]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/artist/102269/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AB|title=ジョルディ・サヴァール|website=[[タワーレコード|Tower Records Japan]]|accessdate=2020-06-26}}</ref>
* 1941年 - [[ナタリー・ドロン]]、女優(+ [[2021年]])
* [[1942年]] - [[小野武彦]]、俳優
* 1942年 - [[ジェリー・ガルシア]]、ミュージシャン([[グレイトフル・デッド]])(+ [[1995年]])
* 1942年 - [[アンドレ・ギャニオン]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]]
* 1942年 - [[ジャンカルロ・ジャンニーニ]]、俳優
* [[1943年]] - [[田村正和]]、俳優(+ [[2021年]])
* [[1944年]] - [[アンドリュー・G・ヴァイナ]]、[[映画プロデューサー]]
* [[1945年]] - [[小川亨]]、元プロ野球選手
* 1945年 - [[東田正義]]、元プロ野球選手(+ [[2016年]])
* 1945年 - [[ダグラス・D・オシェロフ ]]、物理学者
* [[1946年]] - [[桑原秀範]]、高校野球指導者
* 1946年 - [[ボズ・バレル]]、ミュージシャン(+ [[2006年]])
* [[1947年]] - [[あだち勉]]、[[漫画家]](+ [[2004年]])
* 1947年 - [[高屋敷英夫]]、[[脚本家]]
* 1947年 - [[トニー・ミューサー]]、元プロ野球選手
* 1947年 - [[豊田憲司]]、元プロ野球選手
* 1947年 - [[豊永隆盛]]、元プロ野球選手
* [[1948年]] - [[吉川潮]]、[[演芸]][[評論家]]、[[小説家]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/0000074145/|title= 吉川潮 よしかわうしお |website=[[ザテレビジョン]]|accessdate=2020-06-26}}</ref>
* 1948年 - [[浜口末男]]、[[カトリック教会]][[聖職者]](+ [[2020年]])
* [[1949年]] - [[つのだ☆ひろ]]、ミュージシャン
* 1949年 - [[クルマンベク・バキエフ]]、政治家、第2代[[キルギスの大統領|キルギス大統領]]
* [[1951年]] - [[トミー・ボーリン]]、ミュージシャン(+ [[1976年]])
* 1951年 - [[田中真理]]、女優
* [[1952年]] - [[永野一男]]、会社経営者(+ [[1985年]])
* 1952年 - [[魚住裕一郎]]、政治家
* 1952年 - [[ゾラン・ジンジッチ]]、政治家(+ [[2003年]])
* 1952年 - [[菅生隆之]]、声優
* [[1953年]] - [[ロバート・クレイ]]、ミュージシャン
* [[1954年]] - [[トレバー・バービック]]、[[プロボクサー]]
* 1954年 - [[森田順平]]、俳優、声優
* [[1955年]] - [[頼近美津子]]、[[アナウンサー]]、[[司会|司会者]](+ [[2009年]])
* 1955年 - [[古屋英夫]]、元プロ野球選手
* [[1956年]] - [[竹本由紀夫]]、元プロ野球選手
* [[1957年]] - [[上柳昌彦]]、アナウンサー
* [[1959年]] - [[ジョー・エリオット]]、ミュージシャン([[デフ・レパード]])
* 1959年 - [[大友良英]]、ミュージシャン
* [[1960年]] - [[津田恒実]]、元プロ野球選手(+ [[1993年]])
* 1960年 - [[獸木野生]]、[[漫画家]]
* [[1962年]] - [[門馬良]]、[[演歌歌手]]
* 1962年 - 丸山正剛、[[ギタリスト]]、音楽ライター(元[[BEE PUBLIC]])<ref>{{Twitter status|marubeck|486479535060176897}}丸山正剛blog: 英丸(渡辺英樹+丸山正剛)『丸ちゃんバースデーライブ !!!』</ref>
* 1962年 - [[スコット・アンダーソン]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[坂口卓]]、[[厚生労働省|厚生労働]][[官僚]]
* [[1963年]] - [[近藤誠一 (プロ雀士)|近藤誠一]]、[[プロ雀士]]
* 1963年 - [[津村潔]]、元プロ野球選手
* 1963年 - [[若田光一]]、宇宙飛行士
* 1963年 - [[デミアン・ビチル]]、俳優
* [[1964年]] - [[永野彰子]]、元アナウンサー
* 1964年 - [[ナタリア・シコレンコ]]、[[陸上競技]]選手
* [[1965年]] - [[サム・メンデス]]、[[舞台監督]]、[[映画監督]]
* [[1967年]] - [[グレッグ・ジェフリーズ]]、元プロ野球選手
* [[1968年]] - [[長谷川滋利]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[成田昭次]]、シンガーソングライター([[男闘呼組]])
* 1968年 - [[ジル・トレナリー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1969年]] - [[ケビン・ジャービス]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[相澤一成]]、俳優
* 1969年 - [[大庭美夏]]、将棋棋士
* [[1970年]] - [[小野次郎 (競馬)|小野次郎]]、元[[騎手]]
* 1970年 - [[ディビッド・ジェームス]]、元[[サッカー選手]]
* [[1971年]] - [[トラビス・ドリスキル]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[森洋子 (タレント)|森洋子]]、タレント(元[[C.C.ガールズ]])
* 1972年 - [[フレッディ・ガルシア]]、元プロ野球選手
* [[1973年]] - [[MCU (ラッパー)|MCU]]、歌手([[KICK THE CAN CREW]])
* 1973年 - [[エドゥアルド・ノリエガ]]、俳優
* 1973年 - [[エドゥルネ・パサバン]]、登山家
* [[1974年]] - [[阿部敏之]]、元サッカー選手
* 1974年 - [[山崎紗也夏|山崎さやか]]、漫画家
* 1974年 - [[森脇和成]]、[[タレント]](元[[猿岩石]])
* [[1975年]] - [[米倉涼子]]、女優
* 1975年 - [[川上優子]]、元[[陸上競技選手]]
* [[1976年]] - [[ヌワンコ・カヌ]]、サッカー選手
* 1976年 - [[山本剛史]]、俳優
* 1976年 - [[イバン・ドゥケ]]、政治家、[[コロンビア]][[大統領]]
* [[1977年]] - [[尾上菊之助 (5代目)]]、[[歌舞伎|歌舞伎俳優]]
* [[1978年]] - [[荒金久雄]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[ダーニ・ハリスン]]、ミュージシャン
* 1978年 - [[長坂秀樹]]、元プロ野球選手
* [[1979年]] - [[郭政新]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1980年]] - [[小暮卓史]]、[[レーシングドライバー]]
* 1980年 - [[小椋真介]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[中野滋樹]]、元野球選手
* 1980年 - [[アレッサンドロ・マンシーニ]]、サッカー選手
* 1980年 - [[ダリア・ティモシェンコ]]、フィギュアスケート選手
* 1980年 - [[猿渡ゆか]]、女優、[[リポーター]](+ [[2015年]])
* 1980年 - [[直瀬遥歩]]、元タレント、元女優
* 1980年 - [[平松隆円]]、[[化粧]]研究者
* [[1981年]] - [[三田光]]、元サッカー選手
* [[1982年]] - [[西崎聡]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[鈴木達也 (1982年生のサッカー選手)|鈴木達也]]、元サッカー選手
* 1982年 - [[冨永愛]]、[[ファッションモデル]]
* 1982年 - [[トリスタン・カズンズ]]、フィギュアスケート選手
* 1982年 - [[深谷友基]]、元サッカー選手
* [[1983年]] - [[EXILE NESMITH]]、ミュージシャン([[EXILE]])
* 1983年 - [[片桐淳至]]、元サッカー選手
* [[1984年]] - [[坂本雅幸]]、[[和太鼓]]奏者
* 1984年 - [[渡辺大]]、俳優
* 1984年 - [[バスティアン・シュバインシュタイガー]]、元サッカー選手
* [[1985年]] - [[入山法子]]、ファッションモデル
* 1985年 - [[アダム・ジョーンズ]]、プロ野球選手
* [[1986年]] - [[リ・ソンチョル]]、フィギュアスケート選手
* 1986年 - [[エレーナ・ベスニナ]]、テニス選手
* [[1987年]] - [[柊瑠美]]、女優
* 1987年 - [[瀧口友里奈]]、タレント
* 1987年 - 平井まさあき、お笑いタレント([[男性ブランコ]])
* [[1988年]] - [[タチアナ・ココレワ]]、フィギュアスケート選手
* 1988年 - [[ロイド・ジョーンズ (フィギュアスケート選手)|ロイド・ジョーンズ]]、元フィギュアスケート選手
* 1988年 - [[アリス=紗良・オット]]、ピアニスト
* [[1989年]] - [[黒川智花]]、女優
* 1989年 - [[ティファニー (少女時代)|ティファニー]]、アイドル([[少女時代 (音楽グループ)|少女時代]])
* 1989年 - [[マディソン・バンガーナー]]、プロ野球選手
* 1989年 - [[松岡卓弥]]、歌手
* [[1990年]] - 奥村うどん、お笑いタレント([[スタンダップコーギー]])
* 1990年 - [[麻海りあ]]、グラビアアイドル
* 1990年 - [[元山夏菜]]、バスケットボール選手
* 1990年 - [[木村拓也 (アナウンサー)|木村拓也]]、アナウンサー
* 1990年 - [[ケニス・バルガス]]、プロ野球選手
* [[1991年]] - [[工藤阿須加]]、俳優
* [[1992年]] - 西野、お笑いタレント([[ハイツ友の会]])
* [[1994年]] - [[和田彩花]]、歌手、アイドル(元[[アンジュルム]])
* 1994年 - [[サラ・ヘンドリクソン]]、[[スキージャンプ]]選手
* 1994年 - [[國島直希]]、俳優
* 1994年 - [[門山葉子]]、歌手、女優
* [[1995年]] - [[上林誠知]]、プロ野球選手
* 1995年 - [[渡名喜風南]]、[[柔道家]]
* 1995年 - [[二木康太]]、プロ野球選手
* [[1996年]] - [[東野有紗]]、バドミントン選手
* 1996年 - ヨンウ、元アイドル、女優(元[[MOMOLAND]])
* [[1997年]] - [[加藤夕夏]]、アイドル([[NMB48]])
* 1997年 - [[ケヴィン・エイモズ]]、フィギュアスケート選手
* [[1998年]] - [[平内龍太]]、プロ野球選手
* [[1999年]] - [[薛八一]]、俳優
* [[2000年]] - [[キム・チェウォン]]、アイドル([[LE SSERAFIM]]、元[[IZ*ONE]])
* 2000年 - [[福岡聖菜]]、アイドル([[AKB48]])
* [[2001年]] - [[パク・シウン]]、アイドル、女優([[STAYC]])
* [[2002年]] - [[飛田愛斗]]、騎手
* [[2003年]] - [[清宮レイ]]、アイドル([[乃木坂46]])
* 2003年 - [[江口紗耶]]、アイドル([[BEYOOOOONDS]])
* 2003年 - ソンミン、アイドル([[CRAVITY]])
* [[2005年]] - フィヨン、アイドル([[LIGHTSUM]])
* [[2006年]] - [[トンプソン・アイミ]]、モデル
* 生年不明 - [[MELL]]、歌手(元[[I've]])
== 忌日 ==
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| image1 = Epitaph_of_Louis_VI_after_1137_Saint_Denis_church_today_at_Cluny_Museum.jpg
| width1 = 100
| caption1 = フランス王[[ルイ6世 (フランス王)|ルイ6世]](1081-1137)没
| image2 = San_Lorenzo%2C_tomba_di_Cosimo_il_Vecchio.JPG
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| caption2 = 銀行家[[コジモ・デ・メディチ]](1389-1464)没
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| caption3 = イギリス女王[[アン (イギリス女王)|アン]](1665-1714)
}}
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| caption1 = 公卿[[藤原頼長]](1120-1156)、[[保元の乱]]で敗死
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| caption2 = 武将[[細川政元]](1466-1507)、[[永正の錯乱]]で家臣に暗殺される
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[[Image:Kitchen_Scene-Joachim_Wtewael.jpg|thumb|300px|画家[[ヨアヒム・ウテワール]](1566-1638)没。画像は『台所の情景』(1604)]]
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| caption1 = 生化学者[[リヒャルト・クーン]](1900-1967)。[[ビタミン]]を研究
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| caption2 = 生理学者[[オットー・ワールブルク]](1883-1970)。[[悪性腫瘍|癌細胞]]の[[呼吸]]を研究
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[[Image:%D0%A1%D0%B2%D1%8F%D1%82%D0%BE%D1%81%D0%BB%D0%B0%D0%B2_%D0%A0%D0%B8%D1%85%D1%82%D0%B5%D1%80.jpg|thumb|200px|ピアニスト、[[スヴャトスラフ・リヒテル]](1915-1997)]]
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| caption1 = [[フィリピン]]の独立準備政府大統領[[マニュエル・ケソン]](1878-1944)、亡命先のニューヨークで没
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| caption2 = [[ドイツ民主共和国]]初代国家評議会議長[[ヴァルター・ウルブリヒト]](1893-1973)
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| caption3 = [[フィリピン]]第11代大統領、[[コラソン・アキノ]](1933-2009)没
}}
* [[527年]] - [[ユスティヌス1世]]、[[東ローマ帝国|東ローマ]]皇帝(* [[435年]])
* [[1137年]] - [[ルイ6世 (フランス王)|ルイ6世]]、[[フランス王国|フランス]]国王(* [[1081年]])
* [[1156年]]([[保元]]元年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]) - [[藤原頼長]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[1120年]])
* [[1203年]]([[建仁]]3年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]) - [[阿野全成]]、平安時代・[[鎌倉時代]]の[[僧]](* [[1153年]])
* [[1227年]]([[安貞]]元年[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]) - [[島津忠久]]、[[鎌倉幕府]][[御家人]](* [[1179年]])
* [[1402年]] - [[エドマンド・オブ・ラングリー (初代ヨーク公)|エドマンド・オブ・ラングリー]]、初代[[ヨーク公]](* [[1341年]])
* [[1457年]] - [[ロレンツォ・ヴァッラ]]、[[人文主義者]](* [[1407年]])
* [[1464年]] - [[コジモ・デ・メディチ]]、銀行家(* [[1389年]])
* [[1507年]]([[永正]]4年6月23日) - [[細川政元]]、[[室町幕府]][[管領]](* [[1466年]])
* [[1526年]]([[大永]]6年6月23日) - [[今川氏親]]、[[駿河国]]の[[戦国大名]](* [[1473年]])
* [[1589年]] - [[ジャック・クレマン]]、[[ドミニコ会]][[修道士]](* [[1567年]])
* [[1610年]]([[慶長]]15年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[伊奈忠次]]、[[関東郡代]]、[[武蔵小室藩|武蔵小室藩主]](* [[1550年]])
* [[1638年]] - [[ヨアヒム・ウテワール]]、[[画家]]、[[版画家]](* [[1566年]])
* [[1653年]]([[承応]]2年[[閏]][[6月8日 (旧暦)|6月8日]]) - [[加藤忠広]]、[[熊本藩|熊本藩主]](* [[1601年]])
* [[1714年]] - [[アン (イギリス女王)|アン]]、[[イギリス]]女王(* [[1665年]])
* [[1720年]]([[享保]]5年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]])- [[久世重之]]、[[江戸幕府]][[老中]]、[[関宿藩|関宿藩主]](* [[1659年]])
* [[1769年]] - [[ジャン・シャップ・ドートロシュ]]、[[天文学者]](* [[1722年]])
* [[1769年]] ([[明和]]6年6月29日)[[丹羽高寛]]、第8代[[二本松藩|二本松藩主]] (* [[1707年]]or[[1708年]])
* [[1794年]]([[寛政]]6年[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]) - [[閑院宮典仁親王]]、[[江戸時代]]の[[皇族]](* [[1733年]])
* [[1857年]] - [[エミーリエ・ツムシュテーク]]、[[音楽家]](* [[1796年]])
* [[1863年]]([[文久]]3年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]) - [[箕作阮甫]]、[[蘭学|蘭学者]](* [[1799年]])
* [[1883年]] - [[徳川慶勝]]、第14代[[尾張藩|尾張藩主]](* [[1824年]])
* [[1894年]] - [[ジョセフ・ホルト (政治家)|ジョセフ・ホルト]]、[[アメリカ合衆国郵政長官]]・[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]](* [[1807年]])
* [[1894年]] - [[ヒューゴ・サルムソン]]、[[画家]](* [[1843年]])
* [[1903年]] - [[カラミティ・ジェーン]]、[[西部開拓時代]]の[[ガンマン]](* [[1856年]])
* [[1913年]] - [[レーシャ・ウクライーンカ]]、 [[詩人]]、[[作家]]、[[翻訳者]] (* [[1871年]])
* [[1914年]] - [[ガブリエル・デュポン]]、[[作曲家]](* [[1878年]])
* [[1919年]] - [[オスカー・ハマースタイン1世]]、[[実業家]](* [[1847年]])
* [[1926年]] - [[イズレイル・ザングウィル]]、作家(* [[1864年]])
* [[1938年]] - [[新城新蔵]]、[[天文学者]](* [[1873年]])
* [[1939年]] - [[佐伯喜三郎]]、[[野球選手]](* [[1908年]])
* [[1944年]] - [[マニュエル・ケソン]]、[[フィリピン]]独立準備政府大統領(* [[1878年]])
* [[1945年]] - [[新富卯三郎]]、[[プロ野球選手]](* [[1915年]])
* [[1952年]] - [[田辺七六]]、[[政治家]]、実業家(* [[1879年]])
* [[1965年]] - [[信時潔]]、[[作曲家]]、[[音楽学者]]、[[チェロ]]奏者(* [[1887年]])
* [[1966年]] - [[チャールズ・ホイットマン]]、[[連続殺人犯]](* [[1941年]])
* [[1967年]] - [[リヒャルト・クーン]]、[[生化学|生化学者]](* [[1900年]])
* [[1970年]] - [[オットー・ワールブルク]]、[[医学者]](* [[1883年]])
* [[1971年]] - [[徳川夢声]]、[[講談師]](* [[1894年]])
* [[1973年]] - [[ジャン・フランチェスコ・マリピエロ]]、作曲家(* [[1882年]])
* 1973年 - [[ヴァルター・ウルブリヒト]]、[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)の指導者(* [[1893年]])
* [[1975年]] - [[岡崎令治]]、[[分子生物学|分子生物学者]](* [[1930年]])
* [[1977年]] - [[熊谷守一]]、[[画家]](* [[1880年]])
* 1977年 - [[フランシス・ゲーリー・パワーズ]]、[[アメリカ合衆国空軍|アメリカ空軍]][[大尉]]、[[偵察機]][[パイロット (航空)|パイロット]](* [[1929年]])
* [[1978年]] - [[ルドルフ・コーリッシュ]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1896年]])
* 1978年 - [[植村甲午郎]]、[[官僚]]、[[財界人]]、第3代[[経済団体連合会|経団連]]会長(* [[1894年]])
* [[1980年]] - [[パトリック・デパイユ]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー(* [[1944年]])
* [[1981年]] - [[神近市子]]、[[政治家]]、[[国会議員|衆議院議員]](* [[1888年]])
* 1981年 - [[パディ・チャイエフスキー]]、[[作家]]、[[脚本家]](* [[1923年]])
* [[1985年]] - [[ヘレーネ・エンゲルマン]]、[[フィギュアスケート選手]](* [[1898年]])
* [[1987年]] - [[ポーラ・ネグリ]]、[[俳優|女優]](* [[1897年]])
* [[1988年]] - [[吉本伊信]]、[[内観|内観療法]]創始者(* [[1916年]])
* [[1989年]] - [[松井潤子]]、女優(* [[1906年]])
* 1989年 - [[ジョン・オグドン]]、[[ピアニスト]](* [[1937年]])
* [[1990年]] - [[グレアム・ヤング]]、[[連続殺人|連続殺人犯]](* [[1947年]])
* 1990年 - [[ノルベルト・エリアス]]、[[社会学者]]、[[哲学者]]、[[詩人]](* [[1897年]])
* [[1995年]] - [[マルタ・ゲネンゲル]]、[[競泳]]選手(* [[1911年]])
* [[1996年]] - [[タデウシュ・ライヒスタイン]]、[[化学者]](* [[1897年]])
* 1996年 - [[モハメッド・ファッラ・アイディード]]、[[ソマリアの大統領一覧|ソマリア大統領]](* [[1934年]])
* [[1997年]] - [[スヴャトスラフ・リヒテル]]、ピアニスト(* [[1915年]])
* 1997年 - [[永山則夫]]、作家(* [[1949年]])
* [[2002年]] - [[伊藤義博]]、[[東北福祉大学]]助教授、アマチュア野球指導者(* [[1945年]])
* 2002年 - [[日高澄子]]、女優(* [[1923年]])
* [[2003年]] - [[マリー・トランティニャン]]、女優(* [[1962年]])
* [[2004年]] - [[フィリップ・アベルソン]]、[[物理学者]](* [[1913年]])
* [[2005年]] - [[ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ]]、第5代[[サウジアラビア]]王(* [[1922年]])
* 2005年 - [[永岡洋治]]、[[衆議院議員]](* [[1950年]])
* [[2007年]] - [[阿久悠]]、[[作家]]、[[作詞家]](* [[1937年]])
* [[2009年]] - [[コラソン・アキノ]]、政治家、[[フィリピンの大統領|フィリピン大統領]](* [[1933年]])
* [[2012年]] - [[津島恵子]]<ref>{{Cite news |title=女優の津島恵子さんが死去 「ひめゆりの塔」などで知られる |newspaper=[[スポニチ Sponichi Annex]] |date=2012-08-03 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/08/03/kiji/K20120803003827250.html |accessdate=2020-10-31}}</ref>、女優(* [[1926年]])
* 2012年 - [[駒田桂二]]、元プロ野球選手(* 1926年)
* [[2015年]] - [[玉城栄一]]、政治家(* [[1934年]])
* 2015年 - [[シラ・ブラック]]、歌手(* [[1943年]])<ref>{{Cite news |last1=Kassam |first1=Ashifa |last2=Gayle |first2=Damien |url=https://www.theguardian.com/tv-and-radio/2015/aug/03/cilla-black-may-have-died-as-result-of-an-accident-say-spanish-police|title=Cilla Black may have died as result of an accident, say Spanish police |work=[[ガーディアン|The Guardian]] |location=London |date=2015-08-03 |accessdate=2021-10-11 }}</ref>
* [[2017年]] - [[西村昭五郎]]、[[映画監督]](* [[1930年]])
* [[2019年]] - [[大給湛子]]<ref>[http://www.kubokyu.com/?p=8883 報告の儀] 久保九工房</ref>、元[[皇族]](* [[1919年]])
* [[2020年]] - [[ウィルフォード・ブリムリー]]<ref>{{Cite news|first=William|last=Grimes|date=2020-08-01|url=https://www.nytimes.com/2020/08/01/obituaries/wilford-brimley-dead.html|title=Wilford Brimley, ‘Cocoon’ Star and Quaker Oats Pitchman, Is Dead at 85|newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]]|language=en|agency=The New York Times|accessdate=2020-11-27}}</ref>、[[俳優]](* [[1934年]])
*[[2022年]] - [[市田ひろみ]]、女優、服飾評論家(*[[1932年]])
*2022年 - [[大竹宏]]、俳優、声優(*[[1932年]])
{{-}}
== 記念日・年中行事 ==
{{multiple image
| footer = [[スイス]]の建国記念日。{{audio|Swiss_Psalm.ogg|国歌『スイスの賛歌』を聴く}}
| image1 = Bundesbrief.jpg
| width1 = 160
| caption1 = [[盟約者同盟]]結成(1291)
| image2 = Alphorngruppe.jpeg
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| caption2 = 建国記念日の[[アルペンホルン]]演奏
}}
{{multiple image
| footer = ダホメ(現・[[ベナン]])がフランスから独立(1960)
| image1 = Benin in its region.svg
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| caption1 = ベナンの位置
| image2 = Templevaudou.jpg
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| caption2 = [[ヴォドゥン]]の教会
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| caption3 = 小学校
}}
{{multiple image
| footer = 世界[[母乳]]の日
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| caption1 = [[シエラレオネ]]の母子
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| caption2 = [[スタニスワフ・ヴィスピャンスキ]]『母性』(1902)
}}
{{multiple image
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| caption1 = [[弘前ねぷた]](7日まで)
| alt1 = 弘前ねぷた
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| caption2 = [[盛岡さんさ踊り]](3日もしくは4日まで)
| alt2 = 盛岡さんさ踊り
}}
[[File:PLA_soldiers.jpg|thumb|{{仮リンク|中国人民解放軍建軍記念日|zh|中国人民解放军建军纪念日}}(八一建軍節)]] 画像は人民解放軍。
* 世界[[母乳]]の日({{World}})
*: [[世界保健機関]](WHO)と[[国際連合児童基金]](ユニセフ)の援助の元に世界母乳育児行動連盟(WABA)が[[1992年]]に制定。
* 連邦記念日、建国記念日({{CHE}})
*: [[1291年]]のこの日、[[ウーリ州|ウーリ]]・[[シュヴィーツ州|シュヴィーツ]]・[[ウンターヴァルデン]]の3[[スイスの地方行政区画|州]]が[[ハプスブルク家]]に反抗して[[盟約者同盟]]結成を宣言したことに由来。
* 建国記念日({{BEN}})
*: [[1960年]]のこの日、ダホメが[[フランス]]から独立。1975年に[[ベナン]]に改称。
* 八一建軍節({{PRC}})
*: [[1927年]]の[[南昌起義]]を記念する日で、[[中国人民解放軍|人民解放軍]]関係者のみ休み。[[1933年]]の制定当時は中国工農紅軍紀念日と称した。
* 原住民族正名紀念日({{ROC}})
*: [[1994年]]に台湾政府が「山胞」という呼び方を「原住民族」と改め、地位向上に考慮したことの記念日。
* [[水]]の日({{JPN}})
*: [[国土庁]]が[[1977年]]に制定。一年で最も水の利用が多くなるこの時期に、国民ひとりひとりが水の有限性、水の貴重さを理解し、併せてダム等の水資源開発の必要性を啓蒙するために制定されている。([[国連水の日]]は[[3月22日]])
* [[洗濯機]]の日(日本)
*: 水の日から、水と関連のある物として<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dempa.co.jp/electronics_06.php|title=今日は何の日?電機業界記念日カレンダー|publisher=[[電波新聞社]]|accessdate=2020-06-26}}</ref>。
* [[観光]]の日({{JPN}}、[[1966年]] - [[2008年]])
*: [[1965年]]5月の閣議で制定。その年の7月が国連の定めた「観光の月」だったことから[[7月7日]]からの一週間を観光週間としたが、翌年から、観光客が多い8月の1日 - [[8月7日|7日]]を観光週間とし、その1日目の8月1日を観光の日とした。2008年に[[観光庁]]が発足したことなどから、[[2009年]]からは観光施策の推進は年間を通じて行うとして観光週間・観光の日は廃止された。
* [[花火]]の日({{JPN}})
*: [[第二次世界大戦]]後、花火が解禁された1948年8月1日と、東京の花火問屋で[[墨田区花火問屋爆発事故|大規模な爆発事故]]があった1955年8月1日と、世界一とも言われる花火大会、[[教祖祭PL花火芸術]]の開催日(毎年8月1日)を記念して制定された。
* 愛知発明の日({{JPN}})
*: [[愛知県]]と[[発明協会]]愛知県支部が[[2004年]]に制定。[[1897年]]のこの日、[[豊田佐吉]]が日本初の動力織機である木鉄混製動力織機の特許を取得したことを記念<ref name=toyota/>。
* [[食べ放題|バイキング]]の日({{JPN}})<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/cea79dead9b8ab0ba472bb8f336ae2d72b4b8c26|title=8月1日は生誕60周年を迎える「バイキングの日」 あなたのブッフェは時代遅れではないか?|publisher=[[Yahoo! JAPAN]]|date=2018-08-01|accessdate=2020-06-26}}</ref>
*: [[1958年]]のこの日、[[帝国ホテル]]に、北欧の食べ放題料理「スモーガスボード」をモデルとしたレストラン「インペリアルバイキング」がオープンし、ここから、日本では食べ放題のことを「バイキング」と呼ぶようになった。これを記念して帝国ホテルが[[2008年]]に制定。
* [[麻雀]]の日({{JPN}})
*: 麻雀牌の「パ(8)イ(1)」の語呂合わせ。全国麻雀業組合総連合会が制定。
* [[肺]]の日({{JPN}})
*: 「は(8)い(1)」の語呂合わせ。[[日本呼吸器学会]]が[[1999年]]に制定。
* [[パイナップル|パイン]]の日({{JPN}})
*: 「パ(8)イ(1)ン」の語呂合わせ。[[沖縄県]]・[[農林水産省]]などが制定。
* [[歯]]が命の日({{JPN}})
*: 「歯(8)が命(1)」の語呂合わせ。練り歯磨き粉「アパガード」のキャッチコピーにちなみ、[[サンギ]]が[[2015年]]に制定。
* [[八朔]]({{JPN}})
*: 初穂などを恩人に贈る日。[[8月1日 (旧暦)|旧暦の8月1日]]のことであるが、改暦以降は新暦8月1日もしくは[[月遅れ]]の[[9月1日]]に行われるようになった。
* [[弘前ねぷた]]({{JPN}} 青森県弘前市、 - [[8月7日|7日]])
* [[盛岡さんさ踊り]]({{JPN}} 岩手県盛岡市、 - [[8月4日|4日]])
{{-}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0801|date=2011年6月}}
* [[1998年]] - アクアポリスがオープンする。(アニメ『[[ルパン三世 炎の記憶〜TOKYO CRISIS〜]]』)
* [[1999年]] - 八神太一ら選ばれし子供たちが初めてデジタルワールドへ行った日。後にその日は8/1(8月1日)計画と呼ばれることとなる。(アニメ『[[デジモンアドベンチャー]]』)。
* 年不明 - 島田典道と及川なずなが暮らす茂下(もしも)町で花火大会が開かれる。なずなが拾った不思議な玉をきっかけに、典道はこの日を何度も繰り返す。(アニメ映画『[[打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?]]』)
* 年不明 - 主人公の記憶が喪失。(ゲーム『[[AMNESIA]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1920年]] - 陣内栄、映画『[[サマーウォーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|studio_chizu|1024474091112128512}}</ref>
* [[2000年]] - 九頭竜八一、小説・漫画・アニメ『[[りゅうおうのおしごと!]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|title=[[りゅうおうのおしごと!]]|volume=1|author=白鳥士郎|authorlink=白鳥士郎|publisher=[[SBクリエイティブ]]|page=9|isbn=978-4-7973-8484-0}}</ref><ref>{{Twitter status|nankagun|1024309088765661184}}</ref>
* 生年不明 - 上ノ山立夏、漫画・アニメ『[[ギヴン]]』の主人公のひとり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.noitamina-shop.com/event/id/901 |title=『映画 ギヴン』上ノ山立夏 バースデーキャンペーン |access-date=2022-09-03 |publisher=ノイタミナショップ}}</ref>
* 生年不明 - アクア、小説・アニメ『[[この素晴らしい世界に祝福を!]]』のメインヒロイン<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekionline.com/articles/142173/ |title=【このすば】8/1は我らがアクア様の誕生日♪ 描き下ろしのオンラインくじが登場 |access-date=2022-09-03 |publisher=DENGEKI ONLINE |date=2022-07-25}}</ref>
* 生年不明 - 榛名優、漫画・アニメ『[[風夏]]』の主人公<ref name=":0">{{Twitter status|seokouji|1554049358970368001}}</ref>
* 生年不明 - 秋月風夏、漫画・アニメ『風夏』のヒロイン<ref name=":0" />
* 生年不明 - [[ラブライブ!サンシャイン!!#高海千歌|高海千歌]]、メディアミックス『[[ラブライブ!サンシャイン!!]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lovelive-anime.jp/uranohoshi/member.php |title=高海千歌 |access-date=2022-09-03 |publisher=ラブライブ!サンシャイン‼︎}}</ref>
* 生年不明 - チカ、漫画・アニメ・ゲーム『[[幻日のヨハネ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://yohane.net/character/#06 |title=幻日のヨハネ:キャラクター一覧の「チカ」の項目 |access-date=2023-07-31 |publisher=幻日のヨハネ}}</ref>
* 生年不明 - 夏海まなつ / キュアサマー、アニメ『[[トロピカル〜ジュ!プリキュア]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/tropical-rouge_precure/character/ |title=キュアサマー/夏海まなつ |work=トロピカル〜ジュ!プリキュア |publisher=東映アニメーション |accessdate=2022-09-03}}</ref>
* 生年不明 - 早乙女リカ、漫画・アニメ『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』に登場するキャラクター<ref>『[[Kamedas]]2』([[集英社]]、2001年)78頁</ref>
* 生年不明 - 飛鷹左京、漫画・アニメ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』に登場するキャラクター<ref>『Kamedas2』(集英社、2001年)76頁</ref>
* 生年不明 - アフェランドラ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Aphelandra.html |title=アフェランドラ |work=ONE PIECE.com |accessdate=2022-09-03 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - ウルージ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Urouge.html |title=ウルージ |work=ONE PIECE.com |accessdate=2022-09-03 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - 三代目雷影(エー)、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1421485844733435904}}</ref>
* 生年不明 - 青、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1421485847052918795}}</ref>
* 生年不明 - 猿柿ひよ里、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-bleach.com/chara/03/hiyori.html |title=猿柿ひより |access-date=2022-09-03 |publisher=BLEACH.com}}</ref>
* 生年不明 - 道宮結 、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|date=2013-03-04|title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-870631-3|volume=5巻|pages=46}}</ref>
* 生年不明 - 猯望、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|date=2019-06-04|title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]|[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-881863-4|volume=38巻|page=66}}</ref>
* 生年不明 - 耳郎響香(イヤホン=ジャック)、漫画『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=堀越耕平|authorlink=堀越耕平|date=2015-04-03|title=[[僕のヒーローアカデミア]]|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|ISBN=978-4-08-880335-7|volume=3巻|pages=46}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group01/01-13/ |title=耳郎響香 |access-date=2022-12-12 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - [[ゆらぎ荘の幽奈さん#魔境院逢牙|魔境院逢牙]]、漫画『[[ゆらぎ荘の幽奈さん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=ミウラタダヒロ|authorlink=ミウラタダヒロ|year=2020|title=ゆらぎ荘の幽奈さん|volume=24巻|page=164|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-882496-3}}</ref>
* 生年不明 - 星崎理香、漫画・アニメ『[[カノジョも彼女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=ヒロユキ|authorlink=ヒロユキ|date=2021|title=カノジョも彼女|volume=4巻|page=2|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社コミックス]]|isbn=978-4-06-521960-7}}</ref>
* 生年不明 - ハギ、漫画・アニメ『[[くノ一ツバキの胸の内]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://gekkansunday.net/tsubaki-character/ |title=キャラクター紹介 子班 ハギ |access-date=2022-09-03 |publisher=ゲッサン 月刊少年サンデー}}</ref>
* 生年不明 - スイス、漫画・アニメ『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=Axis powers ヘタリア|date=2008-12-31|publisher=[[幻冬舎]]|page=18|author=日丸屋秀和}}</ref>
* 生年不明 - ヤヌア・アイン 、漫画・アニメ『[[戦勇。]]』に登場する キャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im2998883?manga_user |title=戦勇キャラの誕生日 |accessdate=2022-10-03 |author=[[春原ロビンソン]] |date=2013-04-06 |work=[[ニコニコ静画]] |publisher=ニワンゴ}}</ref>
* 生年不明 - ザ・マザー、漫画・アニメ『[[SERVAMP-サーヴァンプ-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ts_servamp|1024308779645652993}}</ref>
* 生年不明 - 色井佐久、漫画・アニメ『[[うらら迷路帖]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/anime/urara/chara/saku.html |title=佐久(さく) CV:諏訪彩花 |publisher=[[TBSテレビ]] |work=うらら迷路帖 公式ホームページ |accessdate=2022-10-03}}</ref>
* 生年不明 - 神戸霧乃、漫画『きもちわるいから君がすき』に登場するキャラクター<ref>『きもちわるいから君がすき』2巻 [[ゲーマーズ]] 限定描き下ろし4Pブックレット</ref>
* 生年不明 - [[ハイスクールD×Dの登場人物#サイラオーグ・バアル|サイラオーグ・バアル]]、小説・アニメ『[[ハイスクールD×D]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ishibumi_ddd|939147011802009600}}</ref>
* 生年不明 - 西城レオンハルト、小説・アニメ・ゲーム『[[魔法科高校の劣等生]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|mahouka_rm|1553863071256510465}}</ref>
* 生年不明 - 朝日奈光、小説・ゲーム・アニメ『[[BROTHERS CONFLICT]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bc-anime.com/contents/hp0005/index00040000.html |title=CHARACTER 四男・光 |access-date=2022-09-03 |publisher=TVアニメ『BROTHERS CONFLICT』公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - 山下研太郎、アニメ『[[多田くんは恋をしない]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://tadakoi.tv/chara07.html |title=山下研太郎|キャラクター |accessdate=2022-09-03 |work=TADAKOI PARTNERS |publisher=多田くんは恋をしない 公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - 葉月渚、アニメ『[[Free! (アニメ)|Free!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://1st.iwatobi-sc.com/character/nagisa.html |title=葉月 渚 |access-date=2022-09-03 |publisher=おおじこうじ・[[京都アニメーション]] / 岩鳶高校水泳部 |work=Free!}}</ref>
* 生年不明 - セス、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.snk-corp.co.jp/official/kof-mi-ra/character/chara_seth.html |title=セス |access-date=2022-09-03 |publisher=SNK |website=KOF MAXIMUM IMPACT REGULATION "A"}}</ref>
* 生年不明 - ガルーダ、ゲーム『[[クイズマジックアカデミー]] 』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://p.eagate.573.jp/game/qma/17/world/detail.html?c=202 |title=ガルーダ |access-date=2022-09-03 |publisher=[[KONAMI]] |work=『クイズマジックアカデミー 夢幻の鏡界』}}</ref>
* 生年不明 - 楊豆花、ゲーム・アニメ『[[つよきす]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.candysoft.jp/ohp/01_products/tuyokiss3/main_chj.html |title=揚 豆花 |access-date=2022-09-03 |publisher=CandySoft |work=つよきす3学期}}</ref>
* 生年不明 - 天地祭、ゲーム・アニメ『[[よつのは]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.iam-hiquality.com/soft/02leaf/char.html#03maturi |title=天地 祭 |access-date=2022-09-03 |publisher=ハイクオソフト |work=よつのは}}</ref>
* 生年不明 - ディラン・キース、ゲーム・アニメ『[[イナズマイレブン]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/2/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=2 |accessdate=2022-10-03}}</ref>
* 生年不明 - 棚町薫、ゲーム・アニメ『[[アマガミ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.amagami.info/chara03.html |title=メインキャラクター 棚町薫 |publisher=エンターブレイン |accessdate=2022-09-03 |work=アマガミ}}</ref>
* 生年不明 - 島津岳人、ゲーム・アニメ『[[真剣で私に恋しなさい!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://www.minatosoft.com/majikoi-s/chara-gakuto.html |title=人物紹介 島津岳人 |access-date=2022-09-03 |publisher=真剣で私に恋しなさい!S}}</ref>
* 生年不明 - 蒼龍レオン、ゲーム・アニメ『[[カードファイト!! ヴァンガード]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|cfvanguard_PR|1289214242521067526}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#棟方愛海|棟方愛海]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20165 |title=棟方 愛海(むなかた あつみ) |access-date=2022-12-12 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 愛野渚、ゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20002 |title=愛野 渚(あいの なぎさ) |access-date=2022-12-12 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 掛井園美、ゲーム『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://app.famitsu.com/20130410_150104/ |title=【ガールフレンド(仮)通信15】マンガ大好きオタクっ娘 掛井園美ちゃん(CV:大坪由佳) |access-date=2022-09-03 |publisher=ファミ通App |date=2013-04-10}}</ref>
* 生年不明 - 八朔つゆり、ゲーム『[[あんさんぶるガールズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ensemble_girls|892211743111356417}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター SideM#ピエール|ピエール]]、ゲーム『[[アイドルマスター SideM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/40038 |title=ピエール |access-date=2022-09-03 |publisher=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 香月華、ゲーム・アニメ『[[CHAOS;CHILD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kagakuadv|892210125783523330}}</ref>
* 生年不明 - アケディア、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=3&cate=name&cont=Acedia |title=アケディア |access-date=2022-09-03 |publisher=G CREST |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - シャオ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『夢王国と眠れる100人の王子様』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=75&cate=name&cont=Shao |title=シャオ |access-date=2022-09-03 |publisher=G CREST |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - エルザ・フォルテ、ゲーム・アニメ『[[アイカツスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aikatsu.net/aikatsustars_02/character/chara_elza.html |title=エルザ フォルテ |access-date=2022-09-03 |publisher=アイカツスターズ!}}</ref>
* 生年不明 - クレオ、ゲーム『[[キングスレイド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://kings-raid.com/characters/#character-102 |title=クレオ|publisher= 【公式】キングスレイド|超本格リアルタイム3DバトルRPG |accessdate=2022-10-03|archiveurl= https://web.archive.org/web/20211104163712/https://kings-raid.com/characters/detail.php?cid=102|archivedate=2022-07-24}}</ref>
* 生年不明 - パンシローネ、ゲーム『キングスレイド』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://kings-raid.com/characters/#character-2654 |title=パンシローネ|publisher= 【公式】キングスレイド|超本格リアルタイム3DバトルRPG |accessdate=2022-10-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104154654/https://kings-raid.com/characters/detail.php?cid=2654 |archivedate=2022-07-24}}</ref>
* 生年不明 - 蘇我入鹿、ゲーム『茜さすセカイでキミと詠う』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aka_seka|1421666998870630533}}</ref>
* 生年不明 - 三好一成、ゲーム・アニメ『[[A3!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.a3-liber.jp/character/ |title=夏組 三好一成 |accessdate=2023-01-19 |publisher=LIBER |website=『A3!』}}</ref>
* 生年不明 - [[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#西條クロディーヌ|西條クロディーヌ]]、メディアミックス『[[少女☆歌劇 レヴュースタァライト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|starlightrelive|1156580525932335104}}</ref>
* 生年不明 - 鷲峰ラン、メディアミックス『[[PROJECT SCARD|PROJECT SCARDプレイタの傷]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|pj_scard|1289214236577628160}}</ref>
* 生年不明 - 碧棺合歓、音楽プロジェクト『[[ヒプノシスマイク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hypnosismic.com/character/others/nemu_aohitsugi/ |title=碧棺 合歓 NEMU AOHITSUGI |access-date=2022-09-03 |publisher=[[キングレコード]] |work=ヒプノシスマイク}}</ref>
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* 生年不明 - 飛鷹月光、漫画『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 飛鷹日光、漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 飛鷹右京、漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』に登場するキャラクター
* 生年不明 - デルデ、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 矢田桃花、漫画・アニメ『[[暗殺教室]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 葵、漫画・アニメ『[[はなまる幼稚園]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 篝月雷火、漫画『チョコレート・ヴァンパイア』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 虹次(こうじ)、漫画・アニメ『[[CODE:BREAKER]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 江戸川すず、漫画・アニメ『[[tactics (漫画)|tactics]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 八重垣和葉、漫画『[[バガタウェイ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 香津美・リキュール、漫画・アニメ『[[サイレントメビウス]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 梅花(鋼鉄重装女子学生梅花)、漫画『[[突撃!パッパラ隊]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ジェット、ゲーム・漫画・アニメ『[[ネオ アンジェリーク]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ジェイド、ゲーム・漫画・アニメ『[[ネオ アンジェリーク]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 星馬豪、漫画・アニメ『[[爆走兄弟レッツ&ゴー!!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 鬼頭紀美子、漫画・アニメ『[[Aチャンネル]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 神倉冬音、漫画・アニメ『[[南鎌倉高校女子自転車部]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 亀井堂静、漫画・アニメ『[[それでも町は廻っている]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[悪の組織・勢力 (ポケットモンスターSPECIAL)|サカキ]]、漫画・アニメ『[[ポケットモンスターSPECIAL]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[進撃の巨人の登場人物#ライナー|ライナー・ブラウン]]、漫画・アニメ『[[進撃の巨人]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ジーク、漫画・ゲーム・アニメ『[[進撃の巨人]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - コンミ、アニメ『[[おねがいマイメロディ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 菜波・K・ブレードフィールド、小説・アニメ『[[彼女がフラグをおられたら]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 羽入、ゲーム・アニメ『[[ひぐらしのなく頃に]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ショウ・シンジョウ、ゲーム・アニメ『[[闘神伝]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 水島英男、ゲーム『[[サンパギータ]]』に登場するキャラクター
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== 難読姓 ==
この日を表す「八月[[朔|朔日]]」と書いて「ほずみ」或いは「ほづみ」或いは「ほうずみ」或いは「ほぞみ」と読む[[名字|苗字]]、「八月一日」と書いて「ほずみ」と読む苗字、「八朔日」と書いて「ほずみ」と読む苗字が日本に存在する。旧暦8月1日頃に実る[[早期栽培|早稲(わせ)]]は当然その年最初の稲穂、即ち[[初穂]]である。その'''穂を摘み'''、これを恩人などに贈る風習が古くから農民の間にあった。これにちなむものである。なお、風習の詳細は[[八朔]]の項を参照。
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
{{Commons&cat|August 1|1 August}}
{{新暦365日|7|31|8|2|[[7月1日]]|[[9月1日]]|[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]|0801|8|01}}
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3,525 | 8月2日 | 8月2日(はちがつふつか)は、グレゴリオ暦で年始から214日目(閏年では215日目)にあたり、年末まではあと151日ある。 | [
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== できごと ==
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| footer = [[カンナエの戦い]](BC216)。右画像は[[ハンニバル]]像(1704)
| image1 = The_battle_of_Cannae.jpg
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| alt1 = カンナエの戦い
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| alt2 = ハンニバル像
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[[Image:Gros - First Consul Bonaparte (Detail).png|thumb|223x223px|[[ナポレオン・ボナパルト]]が憲法を改定して自らを終身統領(終身執政)と規定]]
{{multiple image
| footer = [[織田幹雄]]、日本人初のオリンピック金メダルを三段跳で獲得。右画像[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]のポールは、この時の記録15m21cmの高さ「織田ポール」
| image1 = Mikio_Oda.jpg
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| alt1 = 織田幹雄
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| alt2 = 織田ポール
}}
{{multiple image
| footer = [[カール・デイヴィッド・アンダーソン]](左画像)、[[陽電子]]を発見。右画像は世界初の陽電子の画像
| image1 = Carl_anderson.1937.jpg
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| alt1 = カール・デイヴィッド・アンダーソン
| image2 = PositronDiscovery.jpg
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| alt2 = 陽電子の画像
}}
[[Image:Bundesarchiv_Bild_102-14569%2C_Berlin%2C_Mai-Feier%2C_Hindenburg_und_Hitler.jpg|thumb|180px|ドイツ大統領[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]](左画像左; 1847-1934)没、[[アドルフ・ヒトラー]](左画像右)が[[総統]]となる。]]
{{multiple image
| footer = [[レオ・シラード]](左画像)、[[アルベルト・アインシュタイン]](右画像)の署名を借り[[フランクリン・ルーズベルト]]へ[[核兵器]]開発を促す書簡(中央画像)を送る(1939)。
| image1 = Szil%C3%A1rd_Le%C3%B3_1916.jpg
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| alt1 = レオ・シラード
| image2 = Einstein-Roosevelt-letter.png
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| alt2 = アインシュタイン=シラードの手紙
| image3 = Einstein1921_by_F_Schmutzer_4.jpg
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| alt3 = アルベルト・アインシュタイン
}}
{{multiple image
| caption1 = [[トレブリンカ強制収容所]]で反乱・脱走が発生(1943)。画像は跡地の記念碑。
| image1 = Treblinka%27s_Memorial_in_Winter.JPG
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| alt1 = トレブリンカ強制収容所跡地の記念碑
| caption2 = [[テニアンの戦い]](1944)。翌3日夜明け前に終結。
| image2 = Tinian_usmc_column_town_600.jpg
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| alt2 = テニアンの戦い
}}
{{multiple image
| caption1 = [[トンキン湾事件]](1964)
| image1 = USS Maddox (DD-731) underway at sea, circa the early 1960s (NH 97900).jpg
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| alt1 = トンキン湾事件
| caption2 = [[ボローニャ駅爆破テロ事件]](1980)
| image2 = Stragedibologna-2.jpg
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| alt2 = ボローニャ駅爆破テロ事件
}}
{{multiple image
| caption1 = [[湾岸戦争]]勃発(1990)
| image1 = Gulf_War_Photobox.jpg
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| alt1 = 湾岸戦争
| caption2 = [[エールフランス358便事故]](2005)画像は、2004年撮影の事故機
| image2 = 316co - Air France Airbus A340, F-GLZQ@CDG,06.09.2004 - Flickr - Aero Icarus.jpg
| width2 = 90
| alt2 = エールフランス358便事故
}}
* [[紀元前338年]] - [[マケドニア王国|マケドニア]]王[[ピリッポス2世 (マケドニア王)|フィリッポス2世]]が[[カイロネイアの戦い]]で[[アテネ]]と[[テーバイ]]の連合を破る。
* [[紀元前216年]] - [[第二次ポエニ戦争]]: [[カンナエの戦い]]。[[ハンニバル]]率いる[[カルタゴ]]軍が、[[共和政ローマ]]軍を包囲殲滅する。
* [[紀元前47年]] - [[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]: [[ゼラの戦い]]。[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]率いる共和政ローマ軍が[[ポントス]]軍を破る。カエサルは「[[来た、見た、勝った]]」と戦勝を[[元老院 (ローマ)|元老院]]に報告。
* [[1221年]]([[承久]]3年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]) - [[承久の乱]]: 幕府に敗れた[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]が隠岐に流される。
* [[1802年]] - [[フランス]]で[[ナポレオン・ボナパルト]]が憲法を改定して自らを終身統領(終身執政)と規定。
* [[1854年]]([[嘉永]]7年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]) - [[江戸幕府]]が[[日章旗]]を日本国惣船印とすることを決定。
* [[1869年]]([[明治]]2年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]) - 明治政府が行政官達576号で「一門以下平士ニ至ル迄總テ士族ト可稱事」とし、士族身分を定めた<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000087172 |title=明治維新後、版籍奉還があり「士族」という身分ができた。この士族は名古屋藩の場合、何石以上の者がなれたのか。 |work=レファレンス協同データベース |accessdate=12 Sep 2023 |publisher=[[国立国会図書館]]}}</ref>。
* [[1897年]] - [[日本勧業銀行]](後の[[第一勧業銀行]]、現[[みずほ銀行]])が永代橋畔旧日本銀行跡に仮営業所を設けて営業開始。
* [[1903年]] - [[内部マケドニア革命組織]]が[[オスマン帝国]]に対する{{仮リンク|イリンデン蜂起|en|Ilinden-Preobrazhenie Uprising}}を扇動。
* 1906年 - [[ロシア帝国海軍]]の[[装甲巡洋艦|一等巡洋艦]]「[[パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)|パーミャチ・アゾーヴァ]]」で水兵らによる叛乱が発生(現地で使用していた[[ユリウス暦]]では[[7月20日]])。[[ロシア帝国]]・[[バルチック艦隊|バルト艦隊]]で初めての叛乱事件。
* [[1914年]] - [[第一次世界大戦]]・[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]: [[ドイツ]]軍が[[ルクセンブルク]]に侵攻。
* [[1918年]] - [[ロシア内戦]]: [[日本]]軍が英米仏軍とともに[[シベリア出兵|シベリアに出兵]]することを閣議決定。
* [[1928年]] - [[アムステルダムオリンピック]]で、[[織田幹雄]]が三段跳びで[[日本人]]初の[[金メダル]]を、[[人見絹枝]]が[[1928年アムステルダムオリンピックの陸上競技・女子800m|陸上800m走]]で日本女子初の[[銀メダル]]を獲得。
* [[1932年]] - [[カール・デイヴィッド・アンダーソン]]が、[[霧箱]]による[[宇宙線]]の軌跡の観測で[[陽電子]]を発見<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/56403 |title=8月2日 陽電子の発見(1932年) |access-date=12 Sep 2023 |publisher=[[講談社]] |website=サイエンス365days}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://physicstoday.scitation.org/do/10.1063/PT.5.031277/full/ |title=Positron discovered |work=PHYSICS TODAY |date=2 Aug 2016 |accessdate=12 Sep 2023 |publisher=American Institute of Physics}}</ref>。
* [[1934年]] - [[強制的同一化]]: [[ドイツ国大統領|ドイツ大統領]][[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]の死去により、「指導者兼首相」の[[アドルフ・ヒトラー]]に大統領の権限が移譲され、[[総統]]となる。
* [[1939年]] - [[第二次世界大戦]]: [[レオ・シラード]]らが[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]に核開発を促す[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の署名入りの[[マンハッタン計画#着手|書簡]]を送る。これが[[マンハッタン計画]]のきっかけとなる。
* [[1943年]] - [[ホロコースト]]: ユダヤ人の[[絶滅収容所]]の一つ、[[トレブリンカ強制収容所]]で収容者の反乱が起こり多くの収容者が脱走。これを機に同収容所は廃止。
* [[1944年]] - 第二次世界大戦: [[テニアン島]]の[[日本軍]]が[[玉砕]]し、[[テニアンの戦い]]が終結。
* 1944年 - [[マケドニア人民解放反ファシスト会議]] (ASNOM) の第1回総会開催。([[マケドニア共和国]]の[[革命記念日]])
* [[1945年]] - 第二次世界大戦: [[ポツダム会談]]が終了。
* 1945年 - 第二次世界大戦・[[日本本土空襲]]: [[富山大空襲]]。
* [[1948年]] - [[神奈川県]][[川崎市]]で[[竜巻]]が発生。戦災跡地に建てられていた[[バラック]]住宅が被害に遭い、死者3人、重軽傷者106人。38戸が全壊、50戸が半壊<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=70 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1950年]] - [[茨城県]][[高須村 (茨城県)|高須村]]高須地先で[[小貝川]]の堤防が決壊。同村ほか[[相馬町]]、[[小文間村]]、[[山王村 (茨城県)|山王村]]、[[寺原村]]、[[六郷村 (茨城県)|六郷村]]が水没。被災者25000人<ref>「小貝川決壊 七町村湖と化す」『日本経済新聞』1950年(昭和25年)8月8日3面</ref>。
* [[1955年]] - [[神奈川県]][[横浜市]]に存在した[[日本カーリット]]保土ケ谷工場で爆発事故。従業員ら21人が死亡、19人が重軽傷<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=108 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1964年]] - [[ベトナム戦争]]: [[トンキン湾事件]]。[[アメリカ合衆国]]は、駆逐艦[[マドックス (DD-731)|マドックス]]が[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]軍の魚雷艇から攻撃を受けたとして報復攻撃を行う。しかし[[1971年]]になって、これがアメリカの謀略であったことが明らかに。
* [[1969年]] - [[美濃部亮吉]]知事の提唱で、銀座や新宿、池袋、浅草で歩行者天国が実施される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0002160605_00000 |title=初の歩行者天国の日 東京空撮 素材 |access-date=12 Sep 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]]アーカイブス}}</ref>。
* [[1970年]] - [[東京都]]内ではじめての[[歩行者天国]]が[[銀座]]、[[新宿]]、[[池袋]]、[[浅草]]で実施される。
* [[1972年]] - [[カシオ計算機]]がパーソナル[[電卓]]「[[カシオミニ]]」を発売。サイズは当時主流の4分の1、価格は3分の1の1万2,800円を実現し、発売後10カ月で100万台を販売する大ヒットになる。のちにニューヨーク近代美術館(MOMA)の永久所蔵品になり「重要科学技術史資料(未来技術遺産)に選定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.casio.co.jp/company/history/chapter01/ |title=カシオの歴史 1970年代 |publisher=CASIO COMPUTER CO., LTD. |accessdate=12 Sep 2023}}</ref>。
* 1972年 - [[近鉄奈良線]]の車内で、座席下にしかけられたアルミ缶爆弾が爆発。乗客2人重傷、19人軽傷<ref>「電車内に「かん」爆弾 近鉄線爆発」『朝日新聞』昭和47年(1972年)8月3日、13版、1面</ref>。
* [[1980年]] - [[ボローニャ駅爆破テロ事件]]が起こる。
* 1980年 - [[司ちゃん誘拐殺人事件]]: [[山梨県]][[東八代郡]][[一宮町 (山梨県)|一宮町]](現:[[笛吹市]])在住の男児(当時5歳:保育園児)が[[身代金]]目的で[[誘拐]]され、2日後(8月4日)に殺害される<ref>『[[読売新聞]]』1982年3月30日東京夕刊第4版第二社会面14頁「【甲府】司ちゃん誘拐殺人 求刑通り死刑判決」([[読売新聞東京本社]]) - 『読売新聞』[[新聞縮刷版|縮刷版]] 1982年(昭和57年)3月号1188頁</ref>。同月15日に犯人が逮捕され、自供通り男児の遺体が発見された<ref>『読売新聞』1980年8月16日東京朝刊第14版一面1頁「山梨 誘かい園児、遺体で発見 犯人、13日ぶり逮捕 身代金1000万円を要求 脅迫電話30回 昇仙峡近くに埋める」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1980年(昭和55年)8月号509頁</ref>。
* [[1985年]] - [[デルタ航空191便墜落事故]]。
* [[1986年]] - 映画『[[天空の城ラピュタ]]』が日本で公開<ref>{{Cite web|和書|url=https://transit.ne.jp/2023/08/002359.html |title=#今日は何の日? 映画『天空の城ラピュタ』が日本で公開された日 8月2日 |access-date=12 Sep 2023 |publisher=euphoria-factory |website=TRANSIT}}</ref>。
* [[1990年]] - [[湾岸戦争]]: [[イラク]]が[[クウェート]]に[[クウェート侵攻|侵攻]]。同日、[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]は即時無条件撤退を求める[[国際連合安全保障理事会決議660|決議660]]を採択。
* [[1994年]] - [[ビートたけし]]([[北野武]])が[[原動機付自転車|原付]]で[[事故|転倒事故]]を起こし重傷。
* [[2003年]] - [[1970年]]に打ち上げられた[[日本]]初の[[人工衛星]]「[[おおすみ]]」が大気圏に再突入し消滅。
* [[2005年]] - [[エールフランス358便事故]]。
* [[2007年]] - [[関西国際空港]]の第二滑走路(B滑走路)オープン。国内初の完全24時間空港に。
* [[2008年]] - [[福田康夫内閣 (改造)|福田康夫内閣改造内閣]]が発足<ref>{{Cite web|和書|date=2008-08-02|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2424910 |title=福田改造内閣がスタート|work=AFPBB News |publisher=フランス通信社 |accessdate=2020-08-02}}</ref>。
* [[2019年]] - 日本政府が、貿易管理上の優遇措置を受けられる「ホワイト国」のリストから、[[大韓民国|韓国]]を除外する政令改正を閣議決定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/49201820 |title=日本政府、韓国を「ホワイト国」から除外 28日から輸出規制を強化 |access-date=12 Sep 2023 |publisher=[[BBC]] NEWS JAPAN |date=2 Aug 2019}}</ref>。
* [[2022年]] - アメリカが国際テロ組織[[アルカーイダ|アルカイダ]]の指導者[[アイマン・ザワーヒリー|アイマン・ザワヒリ]]容疑者を殺害したと発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3417298 |title=米、アルカイダ指導者を殺害 バイデン氏「正義は果たされた」 |access-date=12 Sep 2023 |publisher=[[フランス通信社|AFP]] BB News |date=2 Aug 2022}}</ref>。
* 2022年 - [[プロ野球]]・[[東京ヤクルトスワローズ]]の[[村上宗隆]]が、プロ野球新記録となる5打席連続[[本塁打]]を達成<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/08/02/kiji/20220802s00001173512000c.html |title=ヤクルト・村上 5打席連続本塁打の日本新記録達成!38号&39号連発で歴史に名を刻んだ |access-date=12 Sep 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex |date=2 Aug 2022}}</ref>。
== 誕生日 ==
{{右|[[Image:1D line.svg|220px]]}}
{{multiple image
| footer = オルレアン公[[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]](1674-1723)誕生。[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の摂政を務めた(右画像)
| image1 = Philippe d'Orléans, Duke of Chartres by Nicolas de Largillière.jpg
| width1 = 70
| alt1 = フィリップ2世
| image2 = LouisXV_DucOrl%C3%A9ans.jpg
| width2 = 110
| alt2 = ルイ15世とフィリップ
}}
{{multiple image
| footer = 彫刻家[[フレデリク・バルトルディ]](1834-1904)誕生。右画像は代表作『[[自由の女神像]]』(1886)
| image1 = Frederic_Auguste_Bartholdi1898.jpg
| width1 = 90
| alt1 = フレデリク・バルトルディ
| image2 = Statue-de-la-liberte-new-york.jpg
| width2 = 90
| alt2 = 自由の女神
}}
{{multiple image
| image1 = Constantineiofgreece.jpg
| width1 = 90
| caption1 = ギリシャ王[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]](1868-1923)誕生
| alt1 = ギリシャ王コンスタンティノス1世
| image2 = Shimon_Peres_at_2009_WEF.jpg
| width2 = 90
| caption2 = [[イスラエル]]の政治家、[[シモン・ペレス]](1923-2016)
| alt2 = 政治家シモン・ペレス
}}
{{multiple image
| footer = 日本画家[[速水御舟]](1894-1935)誕生。右画像は『炎舞』(1925)
| image1 = Hayami_Gyoshu.jpg
| width1 = 110
| alt1 = 速水御舟
| image2 = Enbu_by_Hayami_Gyoshu.jpg
| width2 = 70
| alt2 = 炎舞
}}
{{multiple image
| image1 = Jamesbaldwin.jpg
| width1 = 90
| caption1 = 作家[[ジェイムズ・ボールドウィン]](1924-1987)誕生
| alt1 = 作家ジェイムズ・ボールドウィン
| image2 = Isabel_allende.jpg
| width2 = 90
| caption2 = [[バスク系チリ人]]の小説家、[[イサベル・アジェンデ]](1942-)
| alt2 = 小説家イサベル・アジェンデ
}}
* [[1550年]]([[天文 (元号)|天文]]19年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]) - [[島津以久]]、[[日向国|日向]][[佐土原藩]]の初代藩主(+ [[1610年]])
* [[1594年]]([[文禄]]3年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]) - [[五郎八姫]]、[[松平忠輝]]の正室、[[伊達政宗]]の娘(+ [[1661年]])
* [[1612年]] - [[サスキア・ファン・オイレンブルフ]]、[[画家]]、[[レンブラント・ファン・レイン]]の妻(+ [[1642年]])
* [[1644年]]([[正保]]元年[[6月30日 (旧暦)|6月30日]]) - [[柳原資廉]]、[[公卿]](+ [[1712年]])
* [[1648年]]([[慶安]]元年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]) - [[醍醐冬基]]、[[江戸時代]]前期の[[公卿]](+ [[1697年]])
* [[1674年]] - [[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]]、[[オルレアン公]]、[[フランス]][[摂政]](+ [[1723年]])
* [[1696年]] - [[マフムト1世]]、[[オスマン帝国]]第24代[[皇帝]](+ [[1754年]])
* [[1710年]]([[宝永]]7年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]) - [[本多正珍]]、[[駿河国|駿河]][[田中藩]]の第2代藩主(+ [[1786年]])
* [[1788年]] - [[レオポルト・グメリン]]、化学者 (+ [[1853年]])
* [[1815年]]([[文化 (元号)|文化]]12年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]) - [[青山幸哉]]、[[美濃国|美濃]][[郡上藩]]の第6代藩主(+ [[1863年]])
* [[1829年]]([[文政]]12年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]) - [[永井直幹]]、[[大和国|大和]][[大和新庄藩|新庄藩]]の第7代藩主(+ [[1882年]])
* [[1834年]] - [[フレデリク・バルトルディ]]、[[彫刻家]](+ [[1904年]])
* [[1835年]] - [[イライシャ・グレイ]]、[[発明家]]、[[技術者]](+ [[1901年]])
* [[1856年]]([[慶応元年]])- [[ドミンゴス中村長八]]、カトリック司祭、海外に渡った初日本人宣教師、ブラジル日本移民の使徒(+ [[1940年]])
* [[1858年]] - [[エンマ・フォン・ヴァルデック=ピルモント]]、オランダ[[王妃]]、摂政(+ [[1934年]])
* 1858年([[安政]]5年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]) - [[成瀬仁蔵]]、[[教育者]]、[[日本女子大学]]の創設者(+ [[1919年]])
* [[1868年]] - [[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]、[[ギリシャ王国|ギリシャ]]国王(+ [[1923年]])
* [[1873年]] - [[河上清]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1949年]])
* [[1880年]] - [[アーサー・ダヴ]]、画家(+ [[1946年]])
* [[1882年]] - [[アルベルト・ブロッホ]]、画家、[[翻訳家]](+ [[1961年]])
* [[1894年]] - [[速水御舟]]、画家(+ [[1935年]])
* [[1903年]] - [[中野好夫]]、[[イギリス文学者|英文学者]]、[[評論家]](+ [[1985年]])
* [[1905年]] - [[カール・アマデウス・ハルトマン]]、[[作曲家]](+ [[1963年]])
* 1905年 - [[マーナ・ロイ]]、[[俳優|女優]](+ [[1993年]])
* [[1914年]] - [[塚田正夫]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]] (+ [[1977年]])
* 1914年 - [[木下順二]]、[[劇作家]](+ [[2006年]])
* 1914年 - [[大江季雄]]、[[陸上競技選手]](+ [[1941年]])
* [[1915年]] - [[蓮田修吾郎]]、[[鋳金]]家(+ [[2010年]])
* [[1921年]] - [[高橋国一郎]]、[[土木工学|土木工学者]]、建設官僚、元[[日本道路公団]]総裁(+ [[2013年]])
* [[1922年]] - [[中内㓛]]、[[実業家]]、[[ダイエー]]創業者(+ [[2005年]])
* [[1923年]] - [[シモン・ペレス]]、[[政治家]]、第9代[[イスラエルの大統領|イスラエル大統領]](+ [[2016年]])
* 1923年 - [[長沢勝俊]]、作曲家(+ [[2008年]])
* [[1924年]] - [[ジェイムズ・ボールドウィン]]、[[小説家]]、劇作家(+ [[1987年]])
* [[1929年]] - [[中坊公平]]、元[[弁護士]]、元[[日本弁護士連合会|日弁連]]会長(+ [[2013年]])
* 1929年 - [[カテブ・ヤシーン]]、[[作家]](+ [[1989年]])
* [[1931年]] - [[栗山尚一]]、[[外交官]](+ [[2015年]])
* 1931年 - {{仮リンク|ピエール・デュメール|en|Pierre DuMaine}}、司教(+ [[2019年]])
* 1931年 - {{仮リンク|カール・ミラー|en|Karl Miller}}、ジャーナリスト(+ [[2014年]])
* 1931年 - [[フィリッパ・スカイラー]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[1967年]])
* [[1932年]] - [[ピーター・オトゥール]]、[[俳優]](+ [[2013年]])
* [[1934年]] - [[佐々木秀典]]、政治家 (+[[2020年]])
* [[1935年]] - [[片山虎之助]]、政治家
* 1935年 - [[高橋悦史]]、俳優、[[声優]](+ [[1996年]])
* [[1936年]] - [[山上路夫]]、[[作詞家]]
* 1936年 - [[アンドレ・ギャニオン]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]]、[[指揮者]]、[[編曲家]](+ [[2020年]])
* [[1937年]] - [[ガース・ハドソン]]、ミュージシャン
* [[1938年]] - [[須田開代子]]、プロ[[ボウリング]]選手 (+ [[1995年]])
* [[1939年]] - [[ウェス・クレイヴン]]、[[映画監督]] (+ [[2015年]])
* [[1940年]] - [[西田孝之]]、元プロ野球選手
* [[1941年]] - [[ポール牧]]、[[タレント]](+ [[2005年]])
* 1941年 - [[ギー・レベル]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1981年]])
* 1941年 - [[ジュール・ホフマン]]、[[生物学者]]
* [[1942年]] - [[イサベル・アジェンデ]]、小説家
* [[1943年]] - [[パトリック・アディアート]]、[[ダンサー]]、俳優
* 1943年 - [[マックス・ライト]]、俳優(+ [[2019年]])
* 1943年 - [[鈴木邦男]]、[[新右翼]]活動家、[[一水会 (思想団体)|一水会]]顧問(+ [[2023年]])
* [[1944年]] - [[畠山重則]]、[[騎手]]、[[調教師]]
* [[1945年]] - [[ジョアンナ・キャシディ]]、女優
* [[1946年]] - [[中上健次]]、[[小説家]]、[[詩人]]、[[評論家]](+ [[1992年]])
* 1946年 - [[中村梅玉 (4代目)|中村梅玉]]、[[歌舞伎役者]]
* 1946年 - [[アンディ・フェアウェザー・ロウ]]、ミュージシャン
* [[1948年]] - [[矢沢正]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1950年]] - [[久夛良木健]]、[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]][[社長]]
* 1950年 - [[グラハム・ハンコック]]、[[作家]]
* [[1951年]] - [[ジョー・リン・ターナー]]、[[ミュージシャン]]([[レインボー (バンド)|レインボー]])
* 1951年 - [[中本直樹]]、音楽家
* [[1952年]] - [[中野聖子]]、元[[声優]]
* 1952年 - [[新美敏]]、元プロ野球選手
* 1952年 - [[バンボ・リベラ]]、元プロ野球選手
* 1952年 - [[細川安雄]]、元プロ野球選手
* [[1953年]] - [[中嶋愛和]]、元プロ野球選手
* [[1955年]] - [[山根和夫]]、元プロ野球選手
* [[1956年]] - [[ジム・ナイドハート]]、[[プロレスラー]]
* [[1957年]] - [[島田芳明]]、元プロ野球選手
* [[1958年]] - [[鴻上尚史]]、[[劇作家]]、[[演出家]]
* 1958年 - [[速水奨]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=889 |title=速水 奨 |publisher=ANIMATE CORPORATION. |accessdate=12 Sep 2023 |date=31 Jul 2023 |website=animate Times}}</ref>、声優
* [[1960年]] - [[リンダ・フラチアニ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1960年 - [[セス・ロイド]]、[[機械工学]]研究者
* [[1961年]] - [[崔健]]、[[ミュージシャン]]
* [[1962年]] - [[ジェフ・ベネット]]、声優
* [[1963年]] - [[山野さと子]]、[[歌手]]
* [[1964年]] - [[紡木たく]]、[[漫画家]]
* 1964年 - [[メアリー=ルイーズ・パーカー]]、女優
* [[1965年]] - [[渡辺久信]]、元プロ野球選手、監督
* 1965年 - [[坂口裕之]]、元[[野球選手]]
* [[1966年]] - [[飯塚高史]]、元プロレスラー
* 1966年 - [[ティム・ウェイクフィールド]]、元プロ野球選手(+ [[2023年]])
* 1966年 - [[白井正勝]]、元プロ野球選手
* [[1967年]] - [[大田紳一郎]]、[[ギタリスト]]
* 1967年 - [[大川隆]]、元プロ野球選手
* [[1968年]] - [[シュテファン・エッフェンベルク]]、元[[サッカー選手]]
* 1968年 - [[真璃子]]、歌手
* [[1969年]] - [[フェルナンド・コウト]]、元サッカー選手
* 1969年 - [[具臺晟]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[加藤有生子]]、[[声優]]
* 1969年 - [[ヤン・アクセル・ブロンベルク]](ヘルハマー)、ミュージシャン
* [[1970年]] - [[ケヴィン・スミス]]、映画監督、[[脚本家]]
* 1970年 - [[瀬上純]]、[[ギタリスト]]、作曲家
* [[1971年]] - [[柳家花緑]]、[[落語家]]
* 1971年 - [[柳沢裕一]]、元プロ野球選手
* 1971年 - [[皆葉英夫]]、キャラクターデザイナー
* [[1973年]] - [[友近]]、[[お笑いタレント]]
* 1973年 - [[後藤裕之]]、[[ゲームクリエイター]]
* 1973年 - [[安居良基]]、[[随筆家]]、旅行家
* 1973年 - [[スーザン・オニール]]、[[水泳選手]]
* [[1975年]] - [[寺部智英]]、俳優
* 1975年 - [[酒井直樹 (サッカー選手)|酒井直樹]]、元サッカー選手、指導者
* 1975年 - [[ジョー・ディロン]]、元プロ野球選手
* [[1976年]] - [[マイケル・ワイス]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1976年 - [[サム・ワーシントン]]、[[俳優]]
* [[1977年]] - [[常石勝義]]、[[騎手]]
* 1977年 - [[エドワード・ファーロング]]、俳優
* 1977年 - [[ファビオ・ミラノ]]、プロ野球選手
* [[1978年]] - [[波岡一喜]]、俳優
* [[1979年]] - 下池輝明、お笑いタレント([[ななめ45°]])
* 1979年 - [[ケー・スンヒ]]、[[柔道]]選手
* 1979年 - [[高塚信幸]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[コルビー・ルイス]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[曽ヶ端準]]、元サッカー選手
* 1979年 - [[播戸竜二]]、元サッカー選手
* [[1981年]] - [[エメリヤーエンコ・アレキサンダー]]、[[総合格闘家]]
* 1981年 - [[朱尉銘]]、プロ野球選手
* [[1982年]] - [[グレイディ・サイズモア]]、プロ野球選手
* 1982年 - [[エルデル・ポスティガ]]、サッカー選手
* [[1983年]] - [[ヒューストン・ストリート]]、プロ野球選手
* [[1984年]] - [[石渡奈緒美]]、[[タレント]]
* 1984年 - [[ジャンパオロ・パッツィーニ]]、サッカー選手
* [[1985年]] - [[アントワネット・ナナ・ジムー]]<ref>{{cite web |url=https://worldathletics.org/athletes/france/antoinette-nana-djimou-14273285 |title=Antoinette Nana Djimou |publisher=WORLD ATHLETICS |accessdate=12 Sep 2023}}</ref>、陸上競技選手
* [[1986年]] - [[髙萩洋次郎]]、サッカー選手
* 1986年 - [[逢坂良太]]<ref name="アニメハック声優情報">{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/person/10160/ |title=逢坂 良太 |accessdate=12 Sep 2023 |publisher=eiga.com inc. |website=アニメハック}}</ref>、声優
* [[1987年]] - [[小山田弘子]]、タレント
* 1987年 - [[フアン・ハイメ]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[比嘉将太]]、元プロ野球選手
* [[1988年]] - [[丸毛謙一]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[ジュスティン・シャーマー]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[三原雅俊]]、サッカー選手
* 1988年 - [[遊佐克美]]、サッカー選手
* 1988年 - [[小林由希子]]、ミュージカル俳優
* [[1989年]] - [[渡辺まあり]]、アイドル
* [[1990年]] - NAGI、歌手([[BRIGHT (ダンスボーカルグループ)|BRIGHT]])
* 1990年 - [[勝乗恵美]]、[[グラビアアイドル]]
* 1990年 - [[西野真弘]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[アリ・デミルボア]]、フィギュアスケート選手
* 1990年 - [[新田早規]]、声優(+ [[2022年]])
* 1990年 - [[上野渉]]、元陸上選手
* [[1991年]] - [[守永真彩]]、[[グラビアモデル]]
* 1991年 - [[パーカー・ブリッドウェル]]、プロ野球選手
* [[1992年]] - [[チャーリー・エックス・シー・エックス]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1993年]] - [[川崎貴弘]]、元プロ野球選手
* 1993年 - [[丸山夏鈴]]、アイドル(+ [[2015年]])
* [[1994年]] - [[ブルーノ・ペレイラ・メンデス|ブルーノ・メンデス]]、サッカー選手
* [[1995年]] - [[富田健太郎]]、俳優
* 1995年 - [[久保田梨沙]]、元声優
* [[1997年]] - 清水香奈芽、お笑いタレント([[ハイツ友の会]])
* 1997年 - [[望月惇志]]、プロ野球選手
* 1997年 - [[トリストン・マッケンジー]]、プロ野球選手
* [[1998年]] - 新澤菜央、アイドル([[NMB48]])
* [[1999年]] - [[池谷蒼大]]、プロ野球選手
* 1999年 - [[マーク (NCT)|マーク・リー]]、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]])
* 1999年 - [[松田美里]]、アイドル([[わーすた]])
* [[2000年]] - [[鈴木みな・まりあ|鈴木みな]]、タレント、歌手
* 2000年 - [[鈴木みな・まりあ|鈴木まりあ]]、タレント、歌手
* 2000年 - [[矢澤宏太]]、プロ野球選手
* [[2001年]] - [[山下美夢有]]、プロゴルファー
* [[2003年]] - グレス、アイドル([[BNK48]])
* [[2006年]] - [[田牧そら]]、女優
* 生年不明 - [[押上美猫]]、[[漫画家]]
* 生年不明 - [[赤城はるな]]、元プロレスラー
* 生年不明 - [[相沢梨紗]]、アイドル([[でんぱ組.inc]])
* 生年不明 - [[壹岐紹未]]、声優
* 生年不明 - [[竹内想]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jtbnextcreation.com/jtb-ent-voice/107/ |title=竹内想 |publisher=JTB Next Creation. |accessdate=12 Sep 2023}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.talent-databank.co.jp/search/profile/2000074829 |title=竹内想 |publisher=Talent-Databank Co.,Ltd. |accessdate=12 Sep 2023 |website=タレントデータバンク}}</ref>、声優
== 忌日 ==
[[Image:Stephen_I.jpg|thumb|180px|ローマ教皇[[ステファヌス1世 (ローマ教皇)|ステファヌス1世]](-257)没]]
{{multiple image
| image1 = Death_of_William_Rufus.JPG
| width1 = 90
| caption1 = イングランド王[[ウィリアム2世 (イングランド王)|ウィリアム2世]](-1100)没
| alt1 = ウィリアム2世
| image2 = Anjou_1570louvre.jpg
| width2 = 90
| caption2 = フランス王[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]](1551-1589)暗殺(事件は前日)
| alt2 = アンリ3世
}}
{{multiple image
| caption1 = 戦国大名[[加藤清正]](1562-1611)没
| image1 = Katō Kiyomasa.jpg
| width1 = 110
| alt1 = 加藤清正
| caption2 = 戦国大名[[筒井順昭]](1523-1550)没
| image2 = Tutuijs.jpg
| width2 = 70
| alt2 = 筒井順昭
}}
{{multiple image
| footer = 画家[[トマス・ゲインズバラ]](1727-1788)没。左画像は自画像(1759)、右は『アンドルーズ夫妻像』(1748-49頃)
| image1 = Thomas_Gainsborough_by_Thomas_Gainsborough.jpg
| width1 = 50
| alt1 = トマス・ゲインズバラ
| image2 = Mr_and_Mrs_Andrews_1748-49.jpg
| width2 = 130
| alt2 = アンドルーズ夫妻像
}}
{{multiple image
| footer = エジプトを近代化した[[オスマン帝国]]総督、[[ムハンマド・アリー]](1769-1849)没。右はムハンマド・アリー・モスク
| image1 = ModernEgypt%2C_Muhammad_Ali_by_Auguste_Couder%2C_BAP_17996.jpg
| width1 = 80
| alt1 = ムハンマド・アリー
| image2 = Mosquee_mehemet_ali_le_caire.jpg
| width2 = 100
| alt2 = ムハンマド・アリー・モスク
}}
{{multiple image
| image1 = CarusoSmall.JPG
| width1 = 80
| caption1 = [[テノール]]歌手、[[エンリコ・カルーソー]](1873-1921)没
| alt1 = テノール歌手エンリコ・カルーソー
| image2 = Pietro_Mascagni_2.jpg
| width2 = 100
| caption2 = 作曲家[[ピエトロ・マスカーニ]](1863-1945)没
| alt2 = 作曲家ピエトロ・マスカーニ
}}
[[Image:Actor_portraying_Alexander_Graham_Bell_in_an_AT&T_promotional_film_(1926).jpg|thumb|180px|[[電話機]]の特許取得者、[[アレクサンダー・グラハム・ベル]](1847-1922)没]]
{{multiple image
| image1 = Warren_G_Harding_portrait_as_senator_June_1920.jpg
| width1 = 90
| alt1 = ウオレン・G・ハーディング
| caption1 = 第29代アメリカ合衆国大統領[[ウオレン・G・ハーディング]](1865-1923)
| image2 = Burroughs1983_cropped.jpg
| width2 = 90
| alt2 = ウオレン・G・ハーディング
| caption2 = 作家[[ウィリアム・S・バロウズ]](1914-1997)没。
}}
* [[257年]] - [[ステファヌス1世 (ローマ教皇)|ステファヌス1世]]、第23代[[教皇|ローマ教皇]]
* [[683年]]([[天武天皇]]12年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]) - [[鏡王女]]、[[藤原鎌足]]の正妻、[[歌人]]
* [[830年]]([[天長]]7年[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]) - [[良岑安世]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[785年]])
* [[1100年]] - [[ウィリアム2世 (イングランド王)|ウィリアム2世]]、[[イングランド王国|イングランド]]王(* [[1060年]]?)
* [[1323年]]([[元亨]]3年[[6月30日 (旧暦)|6月30日]]) - [[北条宣時]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]](* [[1238年]])
* [[1530年]]([[享禄]]3年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]) - [[狩野正信]]、[[絵師]]、[[狩野派]]の祖(* [[1434年]]?)
* [[1550年]]([[天文 (元号)|天文]]19年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]) - [[筒井順昭]]、[[大和国]]の[[戦国大名]](* [[1523年]])
* [[1589年]] - [[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]、[[ヴァロア朝|ヴァロワ朝]]最後の[[フランス王国|フランス]]王(* [[1551年]])
* [[1611年]]([[慶長]]16年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]) - [[加藤清正]]、[[安土桃山時代]]の武将、[[熊本藩|熊本藩主]](* [[1562年]])
* [[1637年]]([[寛永]]14年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]) - [[京極忠高]]、[[松江藩|松江藩主]](* [[1593年]])
* [[1678年]]([[延宝]]6年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - [[徳川和子]]、[[後水尾天皇]]中宮、[[明正天皇]]生母(* [[1607年]])
* [[1680年]](延宝8年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]) - [[明子女王]]、[[後西天皇]]の[[女御]](* [[1638年]])
* [[1698年]] ([[元禄]]11年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]) - [[丹羽長次]]、[[二本松藩]]第5代藩主 (+ [[1643年]])
* [[1711年]]([[正徳 (日本)|正徳]]元年[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]) - [[黒田綱政]]、第4代[[福岡藩|福岡藩主]](* [[1659年]])
* [[1739年]]([[元文]]4年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - [[水野忠恒 (大名)]]、[[松本藩|松本藩主]](* [[1701年]])
* [[1788年]] - [[トマス・ゲインズバラ]]、[[画家]](* [[1727年]])
* [[1799年]] - [[モンゴルフィエ兄弟|ジャック・エティエンヌ・モンゴルフィエ]]<ref>{{Cite web |title=Joseph-Michel and Jacques-Étienne Montgolfier|French aviators |url=https://www.britannica.com/biography/Montgolfier-brothers |website=Britannica |access-date=12 Sep 2023}}</ref>、[[熱気球]]技術者、[[発明家]](* [[1745年]])
* [[1809年]]([[文化 (元号)|文化]]6年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]) - 4代[[桂川甫周]]、[[蘭学|蘭学者]](* [[1751年]])
* [[1815年]] - [[ギヨーム=マリ=アン・ブリューヌ]]、[[フランス帝国]][[元帥]](* [[1763年]])
* [[1823年]] - [[ラザール・カルノー]](大カルノー)、フランスの[[軍人]]、[[政治家]]、[[数学者]](* [[1753年]])
* [[1827年]]([[文政]]10年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]) - [[徳川斉明]]、[[清水徳川家]]第4代当主(* [[1810年]])
* [[1830年]](文政13年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]) - [[徳川斉礼]]、[[一橋徳川家]]第4代当主(* [[1803年]])
* [[1849年]] - [[ムハンマド・アリー]]、[[ムハンマド・アリー朝]]創始者(* [[1769年]]?)
* [[1859年]] - [[ホーレス・マン]]、[[教育者]](* [[1796年]])
* [[1869年]]([[明治]]2年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]) - [[鳥居三十郎]]、[[村上藩]][[家老]](* [[1841年]])
* [[1870年]](明治3年7月6日) - [[松平乗全]]、[[江戸幕府]][[老中]]、[[西尾藩|西尾藩主]](* [[1795年]])
* [[1876年]] - [[ワイルド・ビル・ヒコック]]、アメリカ[[西部開拓時代]]の[[ガンマン]](* [[1837年]])
* [[1877年]] - [[池田慶徳]]、第12代[[鳥取藩|鳥取藩主]](* 1837年)
* [[1907年]] - [[市川荒次郎 (初代)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1850年]])
* [[1910年]] - [[井上勝]]、[[鉄道省|鉄道庁長官]](* [[1843年]])
* 1910年 - [[柴田承桂]]、初版[[薬局方#日本薬局方 Pharmacopoea Japonica|日本薬局方]]編纂に関与した[[薬学者]](* [[1850年]])
* [[1917年]] - [[今井白楊]]、[[詩人]](* [[1889年]])
* 1917年 - [[三富朽葉]]、詩人(* 1889年)
* [[1921年]] - [[エンリコ・カルーソー]]、[[テノール]][[歌手]](* [[1873年]])
* [[1922年]] - [[アレクサンダー・グラハム・ベル|グラハム・ベル]]、電話の発明者(* [[1847年]])
* [[1923年]] - [[ウオレン・G・ハーディング]]、第29代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1865年]])
* [[1931年]] - [[人見絹枝]]、[[陸上競技]]選手、[[ジャーナリスト]](* [[1907年]])
* [[1932年]] - [[ダン・ブローザース]]、プロ野球選手(* [[1858年]])
* [[1934年]] - [[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]、[[ドイツ国大統領|ドイツ大統領]](* [[1847年]])
* [[1936年]] - [[ルイ・ブレリオ]]、フランスの飛行家(* [[1872年]])
* [[1938年]] - [[ヤコフ・ユロフスキー]]、[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]殺害の銃殺隊を指揮(* [[1878年]])
* [[1945年]] - [[エミール・フォン・レズニチェク]]、[[作曲家]](* [[1860年]])
* 1945年 - [[ピエトロ・マスカーニ]]、作曲家(* [[1863年]])
* [[1946年]] - [[千野敏子]]、[[小学校教員|小学校教諭]]、『葦折れぬ』著者(* [[1924年]])
* [[1948年]] - [[安達謙蔵]]、[[逓信省|逓信大臣]]、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]](* [[1864年]])
* [[1955年]] - [[ループレヒト (バイエルン王太子)|ループレヒト]]、[[バイエルン王国|バイエルン王太子]](* [[1869年]])
* [[1958年]] - [[弓館小鰐]]、[[ジャーナリスト]](* [[1883年]])
* [[1961年]] - 4代目[[古今亭志ん馬]]、[[落語家]](* [[1889年]])
* [[1966年]] - [[牟田口廉也]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[中将]](* [[1888年]])
* [[1972年]] - [[ルドルフ・ガンツ]]、[[指揮者]](* [[1877年]])
* [[1973年]] - [[ジャン=ピエール・メルヴィル]]、[[映画監督]](* [[1917年]])
* 1973年 - [[ベルトラメリ能子]]、[[声楽家]]、[[ソプラノ歌手]](* [[1903年]])
* [[1976年]] - [[フリッツ・ラング]]、映画監督(* [[1890年]])
* [[1978年]] - [[カルロス・チャベス]]、作曲家(* [[1899年]])
* [[1979年]] - [[サーマン・マンソン]]、プロ野球選手(* [[1947年]])
* [[1980年]] - [[石戸四六]]、[[プロ野球選手]](* [[1941年]])
* 1980年 - [[寺本勇 (1945年生の外野手)|寺本勇]]、プロ野球選手(* [[1945年]])
* [[1981年]] - [[デルフォ・カブレラ]]、陸上競技選手(* [[1919年]])
* [[1986年]] - [[ロイ・コーン]]、[[法律家]](* [[1927年]])
* [[1988年]] - [[レイモンド・カーヴァー]]、[[小説家]]、[[詩人]](* [[1939年]])
* [[1990年]] - [[ノーマン・マクリーン]]、小説家(* [[1902年]])
* [[1992年]] - [[渡辺和三]]、[[クレー射撃]]選手(* [[1947年]])
* [[1993年]] - [[藤沢朋斎]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1919年]])
* 1993年 - [[ヤヌス・シドウォ]]、陸上競技選手(* [[1933年]])
* [[1996年]] - [[ミシェル・ドブレ]]、[[フランスの首相|フランス首相]](* [[1912年]])
* [[1997年]] - [[ウィリアム・S・バロウズ]]、小説家(* [[1914年]])
* 1997年 - [[フェラ・クティ]]、[[アフロビート]][[音楽家|ミュージシャン]](* [[1938年]])
* [[1999年]] - [[後藤明生]]、小説家(* [[1932年]])
* [[2001年]] - [[宝とも子]]、[[ラテン音楽|ラテン]][[歌手]](* [[1921年]])
* [[2005年]] - [[村上信夫 (シェフ)|村上信夫]]、[[シェフ]](* 1921年)
* [[2006年]] - [[ルイゼル・ラモス]]、[[ファッションモデル]](* [[1984年]])
* [[2007年]] - [[ホールデン・ロベルト]]、[[民族主義|民族主義者]]、[[アンゴラ民族解放戦線]]創設者(* [[1923年]])
* [[2008年]] - [[服部正]]、作曲家(* [[1908年]])
* 2008年 - [[赤塚不二夫]]、[[漫画家]](* [[1935年]])
* [[2009年]] - [[古橋廣之進]]、水泳選手、[[国際水泳連盟]]副会長(* [[1928年]])
* [[2014年]] - [[笑福亭小松]]、[[落語家]](* [[1957年]])
* 2014年 - [[長田あつし]]、[[演歌]][[歌手]]([[殿さまキングス]]、[[オヨネーズ]])(* [[1940年]])
* [[2015年]] - [[出口裕弘]]、作家、[[フランス文学者]](* [[1928年]])
* [[2016年]] - [[アハメッド・ズウェイル]]、化学者(* [[1946年]])
* [[2019年]] - [[森永あい]]、漫画家(生年非公開)
* [[2020年]] - [[立石涼子]]、[[俳優#性別での分類|女優]]、[[声優]](* [[1951年]])
* 2020年 - [[轟二郎]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/jiro-todoroki/entry-12616014658.html |title=永遠のチャレンジボーイ |accessdate=12 Sep 2023 |publisher=轟二郎 |date=6 Aug 2020}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202008060000674.html |title=「チャレンジボーイ」轟二郎さん死去 大腸がん |access-date=12 Sep 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=6 Aug 2020}}</ref>、[[コメディアン]]、[[タレント]]、[[殺陣師]](* [[1954年]])
* [[2021年]] - [[本郷直樹]]、俳優、歌手(*[[1950年]])
* 2021年 - [[保坂秀樹]]、プロレスラー(*[[1971年]])
* [[2022年]] - [[秋月謙吾]]、政治学者(*[[1962年]])
== 記念日・年中行事 ==
{{multiple image
| footer = [[マケドニア共和国]]の革命記念日([[:mk:Илинден]])。左画像は1903年のVMROの革命家たち、右はモニュメント
| image1 = Dzole-i-tane-lerinsko.jpg
| width1 = 100
| alt1 = VMROの革命家たち
| image2 = Makedonija140.jpg
| width2 = 80
| alt2 = モニュメント
}}
[[Image:武者人形.jpg|thumb|191x191px|[[博多人形]]の日]]
[[File:K%C3%BCchenkr%C3%A4uter-1.jpg|thumb|180x180px|ハーブの日。画像はタイムなどのハーブ]]
[[File:Harp.svg|thumb|180x180px|ハープの日。画像は現代のコンサートハープの基本的な構成要素と用語(英語)]]
[[File:Beadedcrochet.jpg|thumb|201x201px|ビーズの日。画像はビーズクロッシェのネックレス]]
[[File:車のホイール.jpg|thumb|180x180px|オートパーツの日。画像は自動車用ホイール]]
[[Image:Nebuta_denryoku.jpg|thumb|180x180px|[[青森ねぶた]]の初日(7日まで)]]
* [[革命記念日]]({{MKD}})
*: [[1903年]]に[[内部マケドニア革命組織]]がオスマン帝国に対する蜂起を起こした日であり、[[1944年]]に[[マケドニア人民解放反ファシスト会議]](ASNOM)の第1回総会が開催された日。{{仮リンク|イリンデン蜂起|en|Ilinden-Preobrazhenie Uprising}}(1903)を記念。
* [[ロシア空挺軍]]の日({{RUS}})
* [[アゼルバイジャンの映画|映画]]製作者たちの日({{AZE}})
* 金銀の日({{JPN}})
*: [[1928年]]のこの日、[[アムステルダムオリンピック]]で[[三段跳]]の[[織田幹雄]]が日本人初の金メダル、陸上800mで[[人見絹枝]]が日本人女性初のメダルとなる銀メダルを獲得したことによる。商業デザインなどを手がける有限会社環境デザイン研究所の塩田芳郎氏が制定。
* [[カレーうどん]]の日({{JPN}})
*: 1910年(明治43年)に東京目黒の蕎麦屋「朝松庵」が提供し、全国にカレーうどんが浸透してから100年目になる[[2010年]]、カレーうどん100年革新プロジェクトが制定。[[6月2日]]がかつて「横浜・カレー記念日」、[[7月2日]]が「うどんの日」であることから。
* [[博多人形]]の日({{JPN}})
*: 博多人形商工業協同組合が博多人形誕生400年を記念して[[2000年]]に制定。「は(8)かたに(2)んぎょう」の語呂合せ。
* 学制発布記念日({{JPN}})
*: [[1872年]](明治5年)のこの日、学制の趣旨を明記した太政官布告と共に学制(明治5年8月2日太政官第214号)が公布され、日本の近代学校制度が成立した。
* [[パンツ]]の日({{JPN}})
*:「パン(8)ツ(2)」の語呂合せ。複数の下着メーカーが記念日としてパンツの販売促進を行っている<ref>{{Cite news|url=https://oggi.jp/7024938|title=パンツの日(8月2日)とは? 由来や意味・プレゼントで気をつけるべきポイント|work=[[Oggi|Oggi.jp]]|publisher=[[小学館]]|date=2023-07-16|accessdate=2023-10-11}}</ref>。
* [[ハーブ]]の日({{JPN}})
*: 「ハ(8)ーブ(2)」の語呂合せ。バジル、ミント、パクチーなど、さまざまなフレッシュハーブを販売する事業を手がけるエスビー食品株式会社が制定。
* [[パプリカ]]の日({{JPN}})
*: 「パ(8)プ(2)」の語呂合せ。北海道[[釧路市]]の「地産地消くしろネットワーク」(事務局・釧路市産業推進室)が、8月2日を「パプリカの日」として制定。釧路産パプリカの消費拡大をアピールしている。
* [[ハープ]]の日({{JPN}})
*: 「ハ(8)ープ(2)」の語呂合せ。日本ハープ協会が制定。ハープという楽器をより多くの人に理解してもらい、その魅力を知ってもらいたいとの願いが込められている。
* [[ビーズ]]の日({{JPN}})
*: ビーズアクセサリーキットメーカー株式会社Lifeit(ライフイット)が制定。ビーズやビーズアクセサリーの素晴らしさ、手作りアクセサリーの楽しさを多くの人に知ってもらうことが目的。日付は8と2がB2(ビーツー=ビーズ)と見えることから。
* オートパーツの日({{JPN}})
*: 日本自動車用品・部品アフターマーケット振興会(NAPAC)が制定。オートパーツを点検し、消耗したパーツを取り替え、車の安全走行に寄与することが目的。日付は8月(August)を「オート」、8月2日を「パーツ」と読む語呂合わせから。
* 帆布の日({{JPN}})
*: 「高島帆布」などで知られる滋賀県の駒田織布株式会社が制定。帆船の帆を起源とする帆布の魅力をより多くの人に知ってもらうことが目的。日付は帆布には10番糸(8+2)を使うことと、8と2で「はん(8)ふ(2)」と読む語呂合わせから。
* ハラスメントフリーの日({{JPN}})
*: パワーハラスメントという言葉を創った株式会社クオレ・シー・キューブが制定。企業・組織と従業員の双方にメリットをもたらす「ハラスメントフリー」な職場づくりを啓発、推進していくことが目的。日付は8と2で「ハ(8)ラスメント フ(2)リー」の語呂合わせから。なお、ハラスメントフリーは株式会社クオレ・シー・キューブの登録商標。
* [[ハブ (動物)|ハブ]]の日({{JPN}})
*: 「ハ(8)ブ(2)」の語呂合せ。[[沖縄県]]の「おきなわワールド」の運営会社である[[南都 (沖縄県の企業)|南都]]が制定。
* [[蜂蜜|ハニー]]の日({{JPN}})
*: 「は(8)にー(2)」の語呂合せ。全日本はちみつ協同組合と日本養蜂はちみつ協会が制定した「蜂蜜の日」は[[8月3日]]。
* [[ベビースター]]の日({{JPN}})
*: [[おやつカンパニー]]が製造販売する[[ベビースターラーメン]]の記念日。お(0)や(8)つ(2)で八月二日を記念日に設定。
* [[青森ねぶた]]({{JPN}} [[青森県]][[青森市]]、 - [[8月7日]])
* 湯河原やっさ祭り({{JPN}} [[神奈川県]][[足柄下郡]][[湯河原町]] - [[8月3日]])
*:起源は、[[源頼朝]]の源氏復興の一翼を担った湯河原(土肥郷)の領主土肥次郎實平が始めた「實平踊り」といわれている。鎌倉幕府成立後、その手腕を買われた實平は、瀬戸内海の治安確保のため、安芸国(広島県)に派遣され数々の事績を残す。實平没後、領民がその遺徳を偲んで生まれたのが現在[[広島県]][[三原市]]で行われている「三原やっさ」である。湯河原の「實平踊り」は久しく途絶えていたが、「三原やっさ」を取り入れ「湯河原やっさ」として復活した。
* [[長岡まつり]]({{JPN}} [[新潟県]][[長岡市]]) 8月1~3日)
* ハッピーパーツデー({{JPN}} ) 大阪府大阪市に本社を置き、日用品、輸送機器、アパレル商品に使用されるパーツなどを扱う商社のモリト株式会社が制定。普段気が付かないところにあるさまざまなパーツが私たちの暮らしを支えている。その小さなパーツに誇りを持ち、新商品の開発を手がける企業、研究者の存在とともに、日本のパーツの素晴らしさを多くの人に知ってもらうのが目的。日付は8と2で「パー(8)ツ(2)」の語呂合わせから8月2日としたもの。いつも脇役のパーツを主役にする日という意味で「ハッピーバースデー」に掛けた記念日名になっている。
{{Clear}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0802|date=Sep 2023}}
* 1985年(昭和60年)- [[七曲署|七曲警察署]]の竹本淳二[[刑事]]が[[射殺]]される。(『[[太陽にほえろ!]]』第658話「ラガーよ、俺たちはおまえがなぜ死んだか知っている」)
* 2010年 - アルバトロス計画が阻止される。(ゲーム『[[トップシークレット (ゲーム)|ヒットラーの復活]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* 生年不明 - おごと寧々、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/ogoto_nene |title=滋賀 おごと寧々 |access-date=12 Sep 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 ‐ 久保渚咲、漫画・アニメ『[[久保さんは僕を許さない]]』の主人公<ref>{{Twitter status|c4991|1421848243185414146}}</ref>
* 生年不明 - 白鯨星座のモーゼス、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=17 |title=白鯨星座(ホエール)のモーゼス |access-date=12 Sep 2023 |publisher=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』 |website=MUSEUM聖闘士博物館}}</ref>
* 生年不明 - [[海賊 (ONE PIECE)#ヤソップ|ヤソップ]]、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Yasopp.html |title=ヤソップ |work=『ONE PIECE』 |accessdate=12 Sep 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=尾田栄一郎|authorlink=尾田栄一郎|date=2012-03-02|title=ONE PIECE BLUE DEEP CHARACTERS WORLD|page=194|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088704456}}</ref>
* 生年不明 - エポニー、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Epony.html |title=エポニー |work=『ONE PIECE』 |accessdate=12 Sep 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - [[綱手 (NARUTO)|綱手]]、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|date=2005-04-04|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=105|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088737348}}</ref>
* 生年不明 - アツイ、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1421485846931197953}}</ref>
* 生年不明 - 虎徹勇音、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=久保帯人|authorlink=久保帯人|date=2006-02-03|title=BLEACH―ブリーチ― OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs.|page=192|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088740799}}</ref>
* 生年不明 - 猿杙大和、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|date=2014-06-04|title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088800714|volume=11巻|page=108}}</ref>
* 生年不明 - 星乃雲母、漫画・アニメ『[[ド級編隊エグゼロス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hxeros.com/special/kirara_birth/ |title=SPECIAL 8/2 星乃雲母バースデー壁紙プレゼント |access-date=12 Sep 2023 |publisher=きただりょうま/[[集英社]]・ド級編隊エグゼロス製作委員会 |date=2020-08-02}}</ref>
* 生年不明 - 八神コウ、漫画・アニメ『[[NEW GAME!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|work=『NEW GAME!』 |url=http://newgame-anime.com/character/ |title=八神コウ |accessdate=12 Sep 2023 |publisher=[[得能正太郎]]・[[芳文社]]/NEW GAME!!製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - ジェレミア・ゴットバルト、アニメ『[[コードギアス 反逆のルルーシュ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|geass_gr|1554240561799958528}}</ref>
* 生年不明 - 橘清音、アニメ『[[ガッチャマン クラウズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekionline.com/elem/000/001/049/1049526/ |title=アニメ『ガッチャマンクラウズインサイト』キャスト公開。石原夏織さん演じる新キャラ・三栖立つばさの姿も |access-date=12 Sep 2023 |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage|KADOKAWA Game Linkage Inc.]] |date=9 May 2015 |website=電撃オンライン}}</ref>
* 生年不明 - 姫路果代子、アニメ『[[ハイスクール・フリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|hai_furi|1156964440379551749}}</ref>
* 生年不明 ‐ 深澤千草、アニメ『[[色づく世界の明日から]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|iroduku_anime|1156942669064671233}}</ref>
* 生年不明 ‐ ローズマリー、アニメ『[[デリシャスパーティ♡プリキュア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/delicious-party_precure/character/cooking1.php |title=ローズマリー |publisher=[[朝日放送グループホールディングス|ABC]]-A・[[東映アニメーション]] |accessdate=12 Sep 2023 |work=『デリシャスパーティ♡プリキュア』}}</ref>
* 生年不明 - 井ノ上たきな、アニメ『[[リコリス・リコイル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|work=『リコリス・リコイル』 |url=https://lycoris-recoil.com/character/?chara=takina |title=井ノ上たきな |accessdate=12 Sep 2023 |publisher=Spider Lily/[[アニプレックス]]・[[朝日放送グループホールディングス|ABC]]アニメーション・[[日本BS放送|BS11]]}}</ref>
* 生年不明 - バレット、ゲーム『[[BLAZBLUE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.blazblue.jp/cf/ac/character/bullet.html |title=バレット |publisher=[[アークシステムワークス|ARC SYSTEM WORKS]] |work=『BLAZBLUE CENTRALFICTION AC版』 |accessdate=12 Sep 2023}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シャイニーカラーズ#和泉愛依|和泉愛依]]、ゲーム『[[アイドルマスター シャイニーカラーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://shinycolors.idolmaster.jp/idol/unit5/mei.html |title=和泉愛依 (いずみ めい) |work=『アイドルマスター シャイニーカラーズ』 |accessdate=12 Sep 2023 |publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント]]}}</ref>
*生年不明 - 中野綾香、ゲーム・アニメ『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hachinai.com/character/nakano |publisher=[[アカツキ (企業)|Akatsuki Inc.]] |title=中野 綾香 |accessdate=12 Sep 2023 |work=『八月のシンデレラナイン』}}</ref>
* 生年不明 - キャロル・リーパー、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heaven-burns-red.com/character/31x/carole-reaper/ |title=キャロル・リーパー |website=『ヘブンバーンズレッド 』 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=12 Sep 2023}}</ref>
* 生年不明 - おぱんちゅうさぎ、[[クリエイター]]の可哀想に❗が制作した同氏のオリジナルキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000398.000024007.html |title=8月2日は「おぱんちゅうさぎ」の誕生日!お祝いができる特設ページ公開と82名にプレゼントが当たるキャンペーンを実施 |work=prtimes |accessdate=12 Sep 2023 |publisher=PR TIMES Corporation.}}</ref>
=== 記念日・年中行事 (フィクション)===
* 羽入の日(漫画・アニメ・小説『[[ひぐらしのなく頃に]]』)
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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3,526 | GD-ROM | GD-ROM(Gigabyte Disc ROM)は、セガ・エンタープライゼスとヤマハが共同で開発した光ディスク。直径はCDと同じ12 cmであるが、記録密度を高めることにより約1 GBの容量を持つ。セガの家庭用テレビゲーム機ドリームキャストや、後のセガ・インタラクティブにあたる部門の業務用システム基板NAOMI / NAOMI2 / chihiro / Triforceに採用された。
GD-ROMでは、1 GBの容量を実現するために、CD-ROMとは異なる独自のフォーマットを採用している。その実体は、マルチセッションにしたCD-ROMの 2セッション目を高密度フォーマットで記録したものであり、物理フォーマットとしては大別して3つの領域に分けることができる。
GD-ROMでは読み出しの効率を高めるため、ディスクのピックアップ上の通過速度が速くなる最外周部から順にゲームデータを記録している。つまり、ゲームデータ自体のサイズが小さい場合でもデータは最外周まで記録されていることになる。第2セッション(高密度記録部)の内周側は通常「0」が延々と続くダミートラックで埋められており、実際のゲームデータはその後に続いている。
このような独自のフォーマットを採用した理由には、大容量化の他に不正コピー対策という側面もあった。しかし、ドリームキャストのシステムにプロテクトがかけられていないCD-Rで任意コード実行が可能となるセキュリティホールが発見され、シリアルポートやブロードバンドアダプタを経由したデータ転送を使用してGD-ROMからCD-Rへメディア変換を行う不正コピーが横行した。 | [
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] | GD-ROMは、セガ・エンタープライゼスとヤマハが共同で開発した光ディスク。直径はCDと同じ12 cmであるが、記録密度を高めることにより約1 GBの容量を持つ。セガの家庭用テレビゲーム機ドリームキャストや、後のセガ・インタラクティブにあたる部門の業務用システム基板NAOMI / NAOMI2 / chihiro / Triforceに採用された。 | {{出典の明記|date=2020年6月23日 (火) 00:01 (UTC)}}
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'''GD-ROM'''({{En|Gigabyte Disc ROM}})は、[[セガ|セガ・エンタープライゼス]]と[[ヤマハ]]が共同で開発した[[光ディスク]]。直径は[[コンパクトディスク|CD]]と同じ12 [[センチメートル|cm]]であるが、記録密度を高めることにより約1 [[ギガバイト|GB]]の容量を持つ。セガの家庭用[[テレビゲーム]]機[[ドリームキャスト]]や、後の[[セガ・インタラクティブ]]にあたる部門の業務用システム基板[[NAOMI]] / [[NAOMI2]] / [[chihiro]] / [[Triforce]]に採用された。
== フォーマット ==
[[ファイル:Gdrom.jpg|thumb|200px|GD-ROMの記録面:3種類の領域に分かれているのが確認できる]]
GD-ROMでは、1 GBの容量を実現するために、[[CD-ROM]]とは異なる独自のフォーマットを採用している。その実体は、[[マルチセッション]]にした[[CD-ROM]]の 2セッション目を高密度フォーマットで記録したものであり、物理フォーマットとしては大別して3つの領域に分けることができる。
* 内周の領域は音楽CD/CD-ROMと同じフォーマット([[ISO 9660]])であり、ドリームキャスト用ソフトの場合であればここにソフトの概要などを記述したテキストファイルが3つと、一般のCDプレイヤーで再生しないよう注意を喚起する音声が収録されている。内周部の容量は35 [[メガバイト|MB]]程度、[[CD-DA]]で約4分である。標準の警告メッセージは以下の通り。
** ドリームキャスト向けのGD-ROMは「これは、ドリームキャスト用のゲームディスクです。1トラック目に、ゲームのデータが入っていますので、再生しないでください。」であるが、ゲームキャラによる専用の警告メッセージを用意している場合もある。またPC向けのおまけデータが入っている場合もある。
** NAOMI向けのGD-ROMは「これはNAOMI用のGD-ROMゲームディスクです。ドリームキャストでは動作しません。1トラック目に、ゲームのデーターが入っていますので、再生しないでください。」と流れる。
** Triforce向けのGD-ROMは「これは、GD-ROMゲームディスクです。1トラック目に、ゲームのデータが入っていますので、再生しないでください。」と流れる。
* 外周部はGD-ROM独自の高密度フォーマットとなっており、一般のCD-ROMドライブで読むことはできない。外周部はCDでいう10分の位置から開始し、約984 MB(112分)の容量を持つ。<!-- この辺enの訳 -->この領域のフォーマットについては、<!--2つの説がある。一つは-->[[エラー訂正]]情報を減らしてその分データ量を増やしたという説<!--であり、もう一つは[[レーザーディスク]]と同じCLV/CAVフォーマットを採用しているという説である。--><!-- enの訳・終わり -->がある。
* その間にある領域にはデータは格納されておらず、記録面には代わりに権利関係の2つの英文が書かれている。なおこの英文は[[セガサターン]]用のCD-ROMでも使われていた。
GD-ROMでは読み出しの効率を高めるため、ディスクのピックアップ上の通過速度が速くなる最外周部から順にゲームデータを記録している。つまり、ゲームデータ自体のサイズが小さい場合でもデータは最外周まで記録されていることになる。第2セッション(高密度記録部)の内周側は通常「0」が延々と続くダミートラックで埋められており、実際のゲームデータはその後に続いている。
== 違法コピー ==
このような独自のフォーマットを採用した理由には、大容量化の他に不正コピー対策という側面もあった<ref>{{Cite magazine|和書|magazine=改造王 |volume=3 |year=2000 |publisher=大洋図書 |isbn=4813003907 |title=噂のDCISOSを徹底検証! |pages=12-27}}</ref>。しかし、ドリームキャストのシステムにプロテクトがかけられていない[[CD-R]]で[[任意コード実行]]が可能となる[[セキュリティホール]]が発見され、[[シリアルポート]]やブロードバンドアダプタを経由したデータ転送を使用してGD-ROMからCD-Rへメディア変換を行う不正コピーが横行した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
* [[LINDBERGH]] - chihiroの次世代基板。こちらは[[DVD-ROM]]を採用した。
{{光ディスク}}
{{DEFAULTSORT:GDROM}}
[[Category:光ディスク]]
[[Category:セガのハードウェア]]
[[Category:ドリームキャスト]]
[[Category:コンピュータゲーム流通]] | 2003-03-06T13:35:58Z | 2023-12-06T01:00:18Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/GD-ROM |
3,531 | VTR (曖昧さ回避) | VTR(ブイティーアール) | [
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] | VTR(ブイティーアール) ビデオテープレコーダの略。磁気テープにビデオ信号を記録するための装置のこと。
転じて、テレビ番組で、一旦録画した動画のこと。録画映像。「まずはこちらのVTRをご覧ください」などと用いる。この場合記録媒体が何であっても問わない。現在では記憶媒体の影響を受けないVという用語が使われている。動画編集も参照。
本田技研工業のオートバイの車種の一つ。単にVTRとされるのはVTR250のことを指す。VTRの車名を持つ車種としては他に、VTR1000F、VTR1000SP-1/2がある。→ホンダ・VTR
シトロエンのグレード名。クサラ、C2などに設定。
ゆでたまごの漫画『キン肉マン』に登場する架空のキャラクター。→ミスター・VTR 辻村深月の小説。 | '''VTR'''(ブイティーアール)
* [[ビデオテープレコーダ]]の略。磁気テープにビデオ信号を記録するための装置のこと。
** <!--[[VTR (放送用語)]]-->転じて、テレビ番組で、一旦録画した[[動画]]のこと<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nhk.or.jp/kininaru-blog/145867.html |title=「VTRをご覧ください」 |work=ことばの宝船 |publisher=NHK アナウンスルーム |date=2013-02-06 |accessdate=2013-02-07}}</ref>。録画映像。「まずはこちらのVTRをご覧ください」などと用いる。この場合記録媒体が何であっても問わない。現在では記憶媒体の影響を受けない'''V'''という用語が使われている。[[動画編集]]も参照。
* 本田技研工業のオートバイの車種の一つ。単にVTRとされるのはVTR250のことを指す。VTRの車名を持つ車種としては他に、[[ホンダ・VTR1000F|VTR1000F]]、[[ホンダ・VTR1000 SP-1/2|VTR1000SP-1/2]]がある。→[[ホンダ・VTR]]
* [[シトロエン]]のグレード名。[[シトロエン・クサラ|クサラ]]、[[シトロエン・C2|C2]]などに設定。
* ゆでたまごの漫画『キン肉マン』に登場する架空のキャラクター。→[[ミスター・VTR]]
;V.T.R.
* [[辻村深月]]の小説([[講談社ノベルス]]、2010年2月刊、ISBN 9784061827042)。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[ビデオ (曖昧さ回避)]]
* [[ムービー (曖昧さ回避)]]
{{aimai}} | 2003-03-06T14:17:52Z | 2023-12-19T03:55:31Z | true | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/VTR_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF) |
3,533 | モノレール | モノレール(英: monorail)は、1本の軌条により進路を誘導されて走る軌道系交通機関。語源は、ギリシア語で「ただ一つの」を意味する語に由来する接頭辞「mono-」と、英語で「軌道」を意味する「rail」である。単軌鉄道(たんきてつどう)とも言われ、跨座式(こざしき)と、懸垂式(けんすいしき)の2つに大別できる(後述)。
ただし、厳密には「1本のレール(走路)」ではないものも混ざっており、「一般の二条式鉄道とは異なるものの総称」として機能している。日本の営業路線については日本のモノレールを参照 。 モノレールは日本では高速交通網にはなっていない。
二条の鉄製レールを持つ「鉄道」が最初に商用化されたのは1825年だった。それとほぼ同時期の1824年に、最初のモノレールであるパーマー式モノレールが登場している。
二条式鉄道が一般化する中で「モノレール」は、軌道系交通機関の多大な予算と労力を必要とする用地買収、線路の設置、および保守点検の簡素化をメリットとして軌道系交通機関の発展の中で生き延びてきた。21世紀初頭では、モノレールは、毎時9,000 - 28,000人程度の輸送力を持つ、新交通システムやミニ地下鉄と同レベルの中量輸送システムとして位置付けられ、都市での営業路線コース構築の柔軟性や低騒音という側面からも注目されている。他の軌道系交通機関とはさまざまな利害得失があることから、主流とはなっていないものの継続的に新規路線が建設されている。
モノレールと一般の二条式鉄道との利害得失は以下の通り。
モノレールが開発されたのは19世紀初頭である。たとえばヘンリー・ロビンソン・パーマー (Henry Robinson Palmer) が1821年にイギリスで特許を取得しており、このあたりがごく初期のものであると考えられている。このモノレールは、高い位置に一本のレールを通し、そこに両フランジ式の車輪をひっかけ、左右に荷台を振り分けてやじろべえのようにバランスを取るというものだった。
パーマー式は、荷物の量によって左右のバランスが変わるという欠点があった。その問題を解決するためにさまざまな模索が行われた。
一方で、「レールの真下に車体を持ってくることによって、左右バランスの影響を少なくする」というスタイルが考案された。初期のものである程度知られている実例は1886年にアメリカ合衆国ニュージャージー州に実験線が作られた「エノス電気鉄道」や、ドイツにて1901年に開通したヴッパータール空中鉄道に採用されたランゲン式モノレールなどである。これらはレールの真下に車体を配置することで、左右のバランスという問題を回避した。この「レールの真下に車体を配置する」という方法は懸垂式モノレールの定石となった。
もう一方で「振れ止めとして下方に別のレールを設け、1点支持から3点支持にする」方式が考案された。初期のものに、1876年にアメリカ合衆国フィラデルフィアで開催された「アメリカ合衆国建国百年博覧会」で発表されたリロイ・ストーン式モノレールや、1882年に開発されたラルティーグ式モノレールがある。3点支持化によって左右のバランスは厳密さを要求せず、車体を上方に伸ばすことができるようになった。このレールにまたがり3点で車体を支持するという様式は、マイグス式モノレールと逆T字方式モノレールを除く跨座式モノレールの基本形となった。1880年に開業したヴェズヴィアナ鋼索線(ケーブルカー)の軌道は開業当初モノレール方式であった。(のちに通常の方式に変更。)
他に、一本のレールをガイドウェイとして使う方式のものもあり、それらも「モノレール」と呼ばれている。ユーイング式モノレールとラルマンジャ式モノレールである。前者についてはその後類例が出ていないが、後者はゴムタイヤ式トラムのTVRと似ているということもできる。
他に、レールは2本以上あるが一般の二条式鉄道とは明らかに異なることから、漫然とモノレールに分類されているものも数多くあり、古典的な方式の節に記す。
モノレールの基本的なコンセプトは、20世紀初頭におおむね出尽くしている。20世紀中盤になってからはアルヴェーグ式・スカイウェイ・上野式などを契機としてゴムタイヤが導入されたことが一番大きな変化であると言える。その後は規格の統一化や細かい改善が続けられたりしながら現在に至っている。なお、一世紀以上にわたって忘れられていたコンセプトを採用した「逆T字方式」を採用した新しいタイプの跨座式モノレールが20世紀末以降に登場している。
方式として、懸垂式 (Suspended System) と跨座式 (Straddle-beam System) の、大きく二つに分類できる。ただし、過去に懸垂式にも跨座式にも分類できないものも存在した。今後も、たとえばレールから横に車両を突き出して支持する方法(カンチレバー式・片持ち式)など、この分類では区分できないものが登場してくる可能性はある。
電車線で使用される電力は、設置される電車線のスペースや輸送力の関係から直流の1500Vが標準となっている。
懸垂式(けんすいしき)とは、車両を吊るように上にレールがある(レールに車両がぶら下がっている)形態のモノレールである。歴史的に跨座式より古く、商業的に成功したのも懸垂式の方が先である。吊り下げ式、ぶら下がり式とも呼ばれる。
懸垂式は、車輪と軌道が車体の上にあり車体が屋根の上を支点に振り子のように揺れるため、横風に対して左右の揺れが大きくなるが、車両の重心が軌条面からかなり下に位置しており、最も安定した方式である。そのため、カーブでは遠心力による重心の移動にあわせて自動的に車体が傾く自然振り子式となり、速度制限が厳しくないという利点もある。積雪にも強い。
日本国内に現存する懸垂式モノレールは、東京都交通局と日本車輌製造による上野式(上野動物園)・三菱重工業がフランスから導入したサフェージュ式(湘南モノレール、千葉都市モノレール)・神戸製鋼所と三菱重工業によるスカイレール、の3方式がある。
ランゲン式モノレールは、民間のドイツ人技師カール・オイゲン・ランゲン (Carl Eugen Langen) が開発した。彼は、1880年代から、懸垂式モノレールシステムについての研究開発を行っていた。1885年に、アルベール・シャルリエ (Albert Charlier) が同様の発想による「空中自転車」を開発したため、ランゲンは念のためにこの方式についてのパテントを取得した。
1898年に、ヴッパータールでの建設計画が着工に移され、ヴッパータール空中鉄道が1901年に開通している。その後100年以上にわたってこの路線は実用的交通手段として運行され続けており、そのためランゲン式は世界で最初に実用化したモノレールシステムとされる。
ランゲン式では、レール・車輪ともに鉄製である。車輪は両側にフランジを持つもので、間のみぞにレールがはまりこむことにより、支持・案内が行われる。
車輪は2輪のボギー台車に取り付けられており、片側から下ろしたアームによって車体は懸荷される。レールも、車体を支えるアームとは逆側から、片持ちで支持されている。従って、走行システムは左右非対称である。走行装置・車体は、カーブなどでは左右に15度の範囲で振り子状に揺れることができる。
東京都交通局では太平洋戦争後の東京都内の交通渋滞を緩和するため、路面電車や路線バスに代わる近距離交通手段として日本車輌と共同で独自にモノレールの研究を行い、1957年12月17日に上野動物園内の輸送施設である東京都交通局上野懸垂線として開業した。
前記のランゲン式と類似した方式ではあるが、軌道がレールではなく軌道桁となっており、走行輪が鋼製の車輪からゴムタイヤ方式になっている。ランゲン式とは逆に、軌道桁の上部の窪みにゴムタイヤがはまりこんでいる。軌道桁の両側面を案内用タイヤが台車から挟んで車両を案内する。上野懸垂線はその設置目的から極めて短い営業区間のピストン輸送をしているため、線路に分岐機を持たず交換設備なども設置されていない。非対称型懸垂式モノレールへのゴムタイヤの導入は、前年にアメリカ合衆国ヒューストンに作られた「スカイウェイ」が先鞭を付けており、上野式が最初ではない。
上野式は結果として当初の目的である都電や路線バスの置き換えとはならず、上野懸垂線が唯一の導入事例となった。しかし、経年劣化に伴う更新に多額の費用がかかることから、2019年11月1日をもって運行休止となり、2023年12月27日付で廃止される予定である。
サフェージュ (SAFEGE) 式は、フランスのリュシアン・シャーデンソン (Lucien Chadenson) を中心とする設計チームが1957年に開発した方式である。サフェージュ式という名称は、この方式を開発するためフランス国内の25の企業が集まって結成された企業連合であるフランス語: Société Anonyme Française d'Étude de Gestion et d'Entreprises(「フランス経営経済研究株式会社」の意)の頭字語である。
Iビーム式は、I型断面を持つ軌道桁をレールとして使い下側のフランジに車輪を乗せて車体をぶら下げる方式で、車両の支持・案内はI型断面を持つ軌道桁と車輪で行う。小規模なものは吊り下げ式の荷物輸送用設備や遊戯施設などに多用されている。
実用的な乗り物としては、1964年から1965年にかけて開催されたニューヨーク万国博覧会の会場内輸送に使われたAMFタイプモノレールを挙げることができる。他に、タイタン社がリニアモーター駆動のシステムを提案しているが、これは実用化されていない。
スカイレールは、神戸製鋼所・三菱重工業が急傾斜地の頂上にある住宅街スカイレールタウンみどり坂と谷側の鉄道駅を結ぶために1990年代に開発した小規模交通システムで、概念としてはIビーム式による懸垂式モノレールシステムに含まれる。
一見したところロープウェイに類似した乗り物だが、ロープではなく高架構造の軌道桁にゴンドラがぶら下がっている。そのためロープウェイと比べて風に強いが、支持体の鋼桁を設置する必要があるためロープウェイよりかなりコストが高くなる。車体の支持・案内方法はIビーム式を採用している。
駆動系に特徴があり、軌道桁に沿ってロープを通し、それが一定の速度で回っており、駅間では車輌はそのロープをつかんで駆動され、駅では、車両はロープから離れて、地上一次式のリニア誘導モーターで駆動される。そのため、基本的に線路は「複線でループ構造」となる。最小回転半径は30m、最大勾配は270パーミル(27%)、最大距離は3.2km、想定輸送力は2,200人/時間。一般の軌道系交通機関とはかなり様相が異なる小規模短距離システムではあるが、概念としてはモノレールに含まれ、見方によっては懸垂式ケーブルカーとの解釈もできる個性的な運送機関である。
広島県広島市のスカイレールサービス広島短距離交通瀬野線が唯一の導入事例であるが、2024年4月末での廃止が予定されている。
跨座式(こざしき)とは、車両の下にレールがありレールに車両がまたがっている形態のモノレールである。跨がり式とも呼ばれる。
跨座式はその多くが、軌道桁の上にある走行路を走行輪が接して車両重量を支えて車両を走行させ、軌道桁の左右に接する案内輪と安定輪で車両を案内するという方法を取る。この方法では、車両の床下と軌道桁上部の間に車輪があり、さらにその下に案内車輪が存在するため、車両の高さが通常の鉄道車両よりはるかに大きくなるという欠点がある。他に、軌道桁の下部左右に車両重量を支える車輪を設け、上部を左右方向に抑えて案内をする、マイグス式や逆T字方式もある。この方式では、車輌の高さをおさえることができるが、一般化はしていない。日本では、日立製作所によってドイツから導入された、コンクリート製の軌道上をゴムタイヤで走行する「アルヴェーグ式(アルウェーグ式)」あるいはこれを基に規格を統一した「日本跨座式」と呼ばれる方式が主流である。過去に川崎重工業が導入した、コンクリート軌道上に設置された鉄製レール上を鉄車輪で走行する「ロッキード式」や、東芝がアルウェーグ式を参考に独自に開発した「東芝式」もあった。電車線は軌道桁の両側面に2つ設置しており(直流のプラスとマイナスの線)、車両側の集電装置で電力が供給される。
日本国内では東京モノレール・大阪モノレール・沖縄都市モノレール(ゆいレール)などで採用されている。
アルヴェーグ (ALWEG) 式は、スウェーデンの実業家であるアクセル・レンナルト・ヴェナー=グレンが特許を取得し、事業化した方式である。アルヴェーグ式という名称は、ヴェナー=グレンの頭文字であるAxel Lennart Wenner-Grenの頭字語である。日本では日立製作所が事業展開していることから日立アルヴェーグ式とも呼ばれる。
日本国内においては東京モノレール羽田空港線、名鉄モンキーパークモノレール線(2008年廃止)、よみうりランドモノレール(1978年廃止)で採用された。
アルヴェーグ式を参考にして東京芝浦電気(現:東芝)が開発。連接台車や自動ステアリングを採用したことが特徴。
本方式はかつて、松尾國三の肝いりで奈良ドリームランドモノレールとして採用後、横浜ドリームランドへのアクセスとして1966年5月開業のドリーム交通モノレール大船線で採用された。
しかし後者は経路に急勾配が多く、連結器や台車などの駆動系部品を中心に設計変更が生じ、車両重量の設計値超過のため故障が頻発するとともに橋脚のコンクリートに亀裂が発生する事態となり、陸運局からの勧告を受けて1967年9月に休止となった。結果、ドリーム交通と設計した東芝との間で長期に及ぶ訴訟となり、その間に設備劣化が進行したこともあり、訴訟終結後も運行再開されないまま車両などの解体撤去が行われた(その後紆余曲折を経て2003年に正式廃止)。このことから奈良ドリームランドでは、車両更新の際は日本輸送機にて新車両が製作された。
1967年度に運輸省が、交通渋滞が悪化した環境でより優れた輸送手段として、モノレールを対象とする「都市交通に適したモノレールの開発研究」を日本モノレール協会に委託した。研究結果として懸垂式と一緒にまとめられたものが、日本跨座式である。
日本跨座式はアルヴェーグ式をベースに、軌道桁を太くし、台車を東京モノレール500形電車で採用された2軸ボギーの空気ばね台車とし、ゴムタイヤを使用する。アルヴェーグ式よりも床面高さを高くすることで、室内の床を平面にした。しかし、「重心が高くなるために曲線の通過速度が遅くなる」「プラットホームと線路床面の落差が2メートル以上となり、転落の際の安全性に問題があり、ホームに転落防止柵設置が必須となる」「車両断面が大きくなるためトンネルを設けるコストが大きくなる」などの欠点が生じた。
この方式は、日本万国博覧会(大阪万博)で会場内の交通機関として採用された。以後に跨座式を採用して開業した路線はすべてこの方式である。
日本国外にも輸出されており、中華人民共和国の重慶軌道交通2号線、3号線、大韓民国の大邱都市鉄道公社3号線は日本跨座式が採用されている。
日本国内のモノレールは多くの路線が休廃止しているが、本方式を採用した路線は2020年時点でも、大阪万博でのモノレールを除いた全路線が運行を継続している。
ロッキード式は、アメリカ合衆国の航空機メーカーであるロッキード社が開発した方式である。コンクリート製の軌道の上に鉄のレール(主レール)を敷き、その上を鉄の車輪を使って走行する。鉄製の車輪のため、小径の車輪でも車両の重量を負担することができ、室内の床は平面ですむ。また車体を安定させるために、主レールの頭部側面を左右から上部安定輪でおさえている。さらにコンクリート桁の左右下部にも鉄レール(サイドレール)が設けられており、そのレールを左右から下部安定輪でおさえている。
日本では、ロッキード社から技術を導入するため、川崎航空機工業、川崎車両、日本電気、西松建設、北海道炭礦汽船、丸紅飯田などが出資した日本ロッキード・モノレールが1961年5月に設立された。当初は時速160km/hでの高速営業運転が可能である、乗り心地が良い、といった点をアピールポイントとしていた。姫路 - 鳥取間を高速ロッキード式モノレールで繋ぐという計画もあった。しかし、鉄路であるため騒音が激しく、メンテナンス自体も鉄道並みに煩雑で、経年変化により揺れも激しくなるなど、デメリットが目立ち(当時の記録映像でも車内で揺れが激しいことが見て取れる)、日本以外での導入事例はなく、ロッキード社自体もこのモノレール事業からは早々に撤退した。
この方式は、姫路市交通局(当時、のち姫路市企業局交通事業部を経て廃止)の姫路市営モノレール(1966年開業 - 1974年休止・1979年廃止)と、小田急電鉄の向ヶ丘遊園モノレール線(1966年開業 - 2000年休止・2001年廃止)の2路線で採用された。いずれも既に廃止されており、現存路線は存在しない。
逆T字方式は、中央案内軌条式の新交通システムと類似した構造を持つ。実用的な交通システムとしては、スペインで開発されたユーロトレン (Eurotren) とアメリカ合衆国で開発されたアーバノート (Urbanaut) がある。逆T字方式は、アルヴェーグ式と異なり、レール上面にタイヤが乗らないために、高さを抑えることができるというメリットがある。
日本の法律上はモノレールに分類されないが、案内軌条式鉄道の一部に、一本の案内用軌条を中央に有し重量は別に設けられた走路が負担する逆T字方式モノレールに近い形態の、VONA方式を採用した桃花台新交通桃花台線と山万ユーカリが丘線がある。札幌市営地下鉄も類似する札幌方式が用いられている。
産業用の簡易輸送施設としてモノレールを使うという発想は古くからあり、起源は不明である。モノレールの嚆矢とされるPalmer式モノレールも産業用モノレールとして始まっており、その後も多くの同様の趣旨で作られた路線があった。ここでは、もっぱら産業用として限定的に開発されたモノレールの系譜についてまとめる。
遅くとも1949年に、交通機関としてではなく不整地での工事用・工場内での物資輸送などを主な目的とする産業用モノレールが開発され商品として販売された。同年に、イギリスのレール・マシンズ・リミテッド (Rail Machines Ltd.) から発売されていたという記録がある。この産業用モノレールは、特許取得の記録が残されており、それなりに商業的にも成功をおさめたようである。
日本では、1966年に、当初は主にみかんを初めとする果樹栽培の、急傾斜地での労働軽減を目的とした農業用モノレールがニッカリと米山工業株式会社によって開発・販売された。これらは摩擦ではなくラック・アンド・ピニオンで車両を駆動するようになっている。速度が遅いという欠点はあったものの、勾配に強く、最大45度まで許容できた。
この農業用モノレールは、基本的に物資輸送用であり人間が乗ることは想定されていなかった。しかし、その物資輸送用モノレールに無理やり乗車する者が後を絶たず、しばしば死傷事故を引き起こした。そのため、「乗車することを止められないのならば、安全に乗車できるシステムを」という方向で、農林水産省・厚生労働省・経済産業省なども参加して安全基準などを定める方向に至った。
その後、人員輸送用にも使えるものや、急傾斜地の工事現場で作業用道路が不要となることが注目されてコンクリートなどの資材や小型重機などの運搬ができるものなど、高性能で安全なものが開発されるようになり、多くの会社で製品化されている。
物資運搬用以外にも、長崎市の斜面移送システムのような自動車道路の建設が困難な地域での生活の足や、老齢者の福祉介護用、山岳地帯の送電塔などの保守用、急傾斜を登らなければならない展望観光地の観客輸送・バリアフリー施設用などにも用途が広がっている。日本国外でも農業用、パイプラインの敷設など産業用モノレールとして使用実績もある。
これらの中には、重量物輸送用の高性能タイプなど主軌条のほかにバランスを取るための副軌条を持つシステムもあり、厳密には「モノレール」とは呼べないものも含まれている。しかし副軌条を持つものを含めて、おおむね「産業用モノレール」としてまとめられている。
産業用モノレールの主な銘柄としては、以下のものがある。
遊園地のアトラクションや博覧会場内の移動用としての簡易なモノレールもさまざまな会社で製造されている。
横浜市保土ケ谷区狩場町にある育生会横浜病院のモノレールは、国道1号(権太坂上バス停付近)と高台にある病院を結ぶ。病院が高台へ移転した際に、鉄道ファンの理事長の発案で設置された。ちよだ製作所(香川県高松市)の製造である。病院公式サイトでは、名物モノレール「ごんたん」として紹介されている。当初の塗色はクリーム色と黄緑色のツートンカラーであったが、2016年に湘南電車の色に変更され、下り側に「急行 東海」のヘッドマークシールが貼付され、上り側は病院グループのマークシールが貼付されている。
つくばで行われた国際科学技術博覧会の会場内交通機関として使われた「ビスタライナー」を製造した泉陽興業は、同システムを発展させた「ニュービスタライナー」をローコストで軽量級の交通機関として提案している。同様に、スイスを拠点とする遊戯施設メーカー・インタミンも実用モノレールをラインナップしており、モスクワや中国深圳での採用実績がある。イギリスに本拠を置く遊戯施設メーカー・セヴァーン・ラムもSLシリーズという実用モノレールを製造しており、アミューズメントパークの交通機関だが、イタリアのサヴォイで採用実績がある。
モノレールあるいはモノレールに類似した交通システムには、考案されたが実現しなかったもの、ごくわずかな実例しか存在しなかったもの、一時期はある程度普及したがその後廃れたもの、などがたくさん存在する。一部を歴史順に記す。
高い位置にレールを通し、そこから車両をぶら下げる懸垂式モノレール。荷台・客室は左右に振り分けられ、バランスを取っていた。ヘンリー・ロビンソン・パーマー(Henry Robinson Palmer)(英語版)が開発したもので、1821年11月22日にイギリスで特許が登録されている。1824年にロンドンのデプトフォード造船所に荷物輸送用のものが作られ、翌1825年にハートフォードシャーに旅客輸送用モノレールが開設された。のちにランゲン式を採用したヴッパータール空中鉄道を建設することになるヴッパータールでもパーマー式モノレールの導入が検討されたが、実現はしなかった。当初の動力は馬・人・ラクダ(北アフリカ産)などだったが、詳細不明ながら遅くとも1878年頃までに蒸気動力が導入されていたことがわかっている。
本方式が一般的に「世界最初のモノレール」とされている。
1本のレールに車体が乗り、車体の片側に取り付けられた幅広の車輪で支持して転倒しないようにして走行する方式。19世紀後半(1868年頃?)にイギリス人発明家のチャールズ・ユーイング (Charles Ewing) により考案されたものと考えられている。ユーイング式は、線路に全重量の95%程度がかかるように設計されており、走行抵抗は通常の鉄道と大差ない程度におさえられている。レールを1本しか必要としないため敷設コストが節約できるほか、線路が占有する幅員が狭いために道路と同居しやすいという利点があった。案内は一本の軌条が行うが、全重量をその軌条が負担するわけではなく、厳密には案内軌条式鉄道に分類される。
本方式はイギリス人のウィリアム・サロルド (William Thorold) が具体化し、インドのパティアーラ州立鉄道 (PSMT) に導入された。PSMTは1910年に開通した路線で、馬力鉄道として開通したのちにオーレンシュタイン・ウント・コッペル社製造の蒸気機関車が導入され、全盛期は2路線で80kmの行程であった。
PSMTは道路の改良と自動車の出現によって1927年に廃止され、長らく存在が忘れられていたが、1962年に再発見された。後年に車両は保管されてインドのニューデリー鉄道博物館で動態保存されている。
1876年に行われたアメリカ合衆国建国百年記念博覧会の会場にセンテニアル・モノレールとして設置されたものであり、極初期、あるいは最初の跨座式モノレール。リロイ・ストーン将軍(General Leroy Stone)により考案された。A字型の橋脚の上に一条、下に左右に二条のレールを持ち、上の車輪で車重を支え下の車輪でバランスを取る方式である。3点で車体を支える方法は跨座式モノレールのひとつの様式となり、その後のラルティーグ式・アルヴェーグ式・ロッキード式などにも踏襲されている。
本方式は、すべての車輪は両フランジで、動力は蒸気である。その後の「跨座式」と類似のレイアウトであり、すでに全高が高くなる欠点が顕在化していた。下側車輪の左右に垂れ下がった車体の部分を機関車では水槽や炭庫として使い、客車ではそこにも客席を設けてダブルデッカー構造としてスペースを有効に活用すべく努力した形跡が認められる。
中央の一本のレールを誘導用として使用し、両側に取り付けられたフランジの無い幅広の車輪で駆動・支持して走行する方式。両側の車輪は木製の板の上を走行する。フランスのジャン・ラルマンジャ (Jean Larmanjat) により考案された。案内は一本の軌条が行うが、全重量をその軌条が負担するわけではないため、厳密には案内軌条式鉄道に分類される。
類似した発想に基づくユーイング式では一条の鉄軌道が大半の重量を負担したが、ラルマンジャ式はそうはなっていない。鉄軌条は、全車両の案内と機関車など重量車両の重量の大半の負担を受け持っていたが、客車などの軽量車両はその重量の大半を側車輪が負担するようになっていた。客車は、馬車などに中央の鉄軌条による案内を付け加えたような構造となっていた。
1868年8月にフランスでイベント用交通機関として実用化され15か月間使用されたという記録が残っているが、詳細は解明されていない。
その後、1870年代にリスボンの市街鉄道で使用された。両側の走行用の板が早く傷んでしまい、乗り心地も悪かったため普及に至らなかった。
上下に1本ずつ計2本全4面を持つレールを設置し、下部のレールを外側に傾いて設置された車輪で両側から挟み込んで車重を支え、上部のレールを水平に設置された車輪で両側から挟み込んでバランスを取る方式の跨座式モノレール。アメリカのジョー・V・マイグス (Joe V. Meigs) により考案されたもので、1886年にマサチューセッツ州のケンブリッジで試験的に使用された。これは都市での高架鉄道の試行のひとつであり、ルート28の上に敷設された。
一般に跨座式モノレールの場合、軌道桁の上面で車両重量を支えるが、マイグス式では軌道桁の下部で支えている。そのため軌道桁から床面までの距離を詰められるという特徴があった。この考え方は、のちの「逆T字方式」と呼ばれる方式のモノレールにも共通するものである。
A字型の支柱の上と支柱の下の左右に合計3条のレールが設けられており、上のレールで車輌重量を支え下のレールで車体を安定させるという方式。アルジェリアなどでパーマー式懸垂式モノレールの建設に携わっていたシャルル・ラルティーグ (Charles Lartigue) が開発したもので、これは跨座式モノレールとしてはポピュラーな様式であり、アメリカ合衆国建国百年博覧会で披露されたリロイ・ストーン式モノレールなどの先例がある。
1888年3月1日にリストウェル・パリブニオン鉄道(アイルランド・ケリー県)の14.4kmの路線が開通した。動力は蒸気で、3軸式の機関車が用意された。この路線は1924年にアイルランド内戦によって破壊されたことから廃線となった。2002年は短い区間ではあるが観光目的で復元され、レプリカの車両で運転されている。機関車は蒸気機関車風の外装になっているが、ディーゼル機関車である。
他に営業に使われた路線としてはフランスのフュール=パニシエル鉄道がある。開通は1893年で、延長は16.9キロだった。この路線は1902年に廃止された。蒸気機関車が1両、保存されている。
最後のラルティーグ式モノレールは、1924年にアメリカ合衆国カリフォルニア州のマグネシウム鉱山・クリスタルヒルとトローナの鉄道駅との間を結んだものだったと考えられている。こちらでは内燃機関を積んだ機関車が使われた。これは20世紀後半になって開発された産業用モノレールに酷似していた。
ラルティーグ式の欠点は踏切が作れないことで、踏切を設けざるを得ない場所では必要に応じて線路を取り外すという方法が採用されていた。分岐器は最後まで開発されず、やや湾曲したレールを持つターンテーブルによって代替されていた。
アメリカのイーベン・ムーディー・ボイントン (Eben Moody Boynton) により考案された方式で、上下に1本ずつ計2本のレールを設置し、下部のレールに車重がかかり、上部のレールで車体を支持する方式である。跨座式にも懸垂式にも分類できない。レールを2本有し厳密にはモノレールではないが、一般的に黎明期のモノレールの一種と理解されている。
1890年にコニーアイランド付近の廃止された線路を流用した路線でボイントン自転車鉄道 (Boynton Bicycle Railway) がこの方式のデモンストレーションを行った。
1910年から1914年にかけて、ニューヨーク市ブロンクスのペラム公園 & シティアイランド鉄道 (Pelham Park and City Island Railroad) で採用されたが、脱線事故を起したことから短命に終わった。右写真はこの時期の電車。
後にイギリスのエルフリック・カーニー (Elflic Kearney) が改良型を考案し、ロンドンの地下鉄用に提案した。
オーストリアのルイス・ブレナン (Louis Brennan)、ドイツのアウグスト・シェールル (August Scherl)、ロシアのピョートル・シロフスキー (Piotr Schilovski) によってそれぞれ1900年頃考案された。1本の通常のレールの上を無支持で走行する。レールを1本に減らせば摩擦力が半減し、その分速度を倍増でき、高速走行時の蛇行動もなくなるという理論の元で考案された方式である。大型のジャイロスコープが車体に搭載され、車体の傾きに応じてジャイロスコープの軸が傾き、ジャイロ効果による復元力でバランスを取る仕組みになっている。シロフスキー式は1921年にソ連のレニングラードからツァールスコエ・セローまでの建設が、ブレナン式はインドの北西部での建設がそれぞれ検討されたが、資金難により実現しなかった。
ジャイロその他の装置に多くの費用が掛かることが欠点である。鉄道車両の走行抵抗は転がり抵抗と空気抵抗からなり、後者は速度の2乗に比例する(すなわち速度が2倍になると空気抵抗は4倍になる)。そのため、レールを1本に減らしたところで速度を倍増するほどの効果はない。反動トルクを打ち消すために複数のジャイロを使用する場合、ジャイロごとの大きさや回転数が異なればそれによってモーメントが発生し、姿勢制御にも影響する。逆にジャイロの回転数を積極的に加減することで曲線通過時に車体を内傾させるなど、能動的に姿勢を変える方法もある。
ランゲン式と同じような発想の非対称型懸垂式構造のモノレールだが、推進装置を台車に組み込まずプロペラで推進するというもの。フランスで1919年頃試験線が建設されたが、詳細な記録は残されていない。
1930年にジョージ・ベニー (George Bennie) が改良型の試験線をグラスゴー近郊のミルンギャヴィー (Milngavie) に建設した。こちらの方はレールプレーン (Railplane) と呼ばれ、最高時速120マイルを目指して計画された。レールプレーンは、安定性を確保するために下部にもう1本振れ止めのレールを追加しており、厳密にはモノレールではない(下部レールは車体重量は負担しない)。当時、日本にも「軌道飛行機」として紹介された。第二次世界大戦の金属供出のため、試験線は1941年に撤去された(1950年代という説もある)。
のちに、フランスでプロペラ(のちジェットエンジン)を推進装置として使用したアエロトランが開発され実験された。こちらは懸垂式ではなく、走路の上に車体が乗る案内軌条式鉄道に類似していた。アエロトランも実用化はされなかった。
ランゲン式と類似した発想の非対称型懸垂式構造のモノレールだが、ゴムタイヤを使っている。1956年にアメリカ合衆国のヒューストンに試験線が作られ、8か月のテストののちに解体されダラスに移転、しばらく使われた。
動力は310馬力の内燃機関を2台搭載しており、案内はレール上面に設けられた板状のガイドレールによって行われた。運転士はレール下のキャビンではなくレール上の台車に搭乗して運転した。想定での最高速度は160km/hであり、都市近郊(インターアーバン)や都市間の高速交通機関として使うことを想定して作られたが、実用化されることはなかった。
ロープモノレールは、軌条に金属レールではなくワイヤー状の鋼索を用いた日本の東京索道が開発したものである。形状からロープウェイとどちらに分類されるかは議論が残るが、動力を車両に持つという点でモノレールに分類される。
動力は電気ではなく、唯一の実例である五台山ロープモノレールはディーゼルエンジンであるように内燃機関を採用して車両となるゴンドラに装備し、鋼索軌道にかかるローラーを駆動することで走行する。このためゴンドラは、一般的な鋼索ロープウェイと異なり気動車に分類される。スカイレールとは逆で軌条はロープであるが動力は各車に搭載しているため、通常のロープウェイと異なり状況に応じて各ゴンドラの走行速度を調整することができる。安全な運行には信号設備が不可欠であるが、他種のモノレールより敷設コストが安く、電化も不要である。
1969年に高知市の五台山に観光用として五台山ロープモノレールが敷設されたが、当時の定期観光バスのルートから外れていたため集客に苦慮し、1978年に廃止となった。
東京索道は五台山ロープモノレールの開発と建設に約50件の特許を取得したと言われるが、以降、この種の鉄道・軌道線は海外も含め建設されていない。 | [
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"text": "モノレール(英: monorail)は、1本の軌条により進路を誘導されて走る軌道系交通機関。語源は、ギリシア語で「ただ一つの」を意味する語に由来する接頭辞「mono-」と、英語で「軌道」を意味する「rail」である。単軌鉄道(たんきてつどう)とも言われ、跨座式(こざしき)と、懸垂式(けんすいしき)の2つに大別できる(後述)。",
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"text": "ただし、厳密には「1本のレール(走路)」ではないものも混ざっており、「一般の二条式鉄道とは異なるものの総称」として機能している。日本の営業路線については日本のモノレールを参照 。 モノレールは日本では高速交通網にはなっていない。",
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"text": "二条の鉄製レールを持つ「鉄道」が最初に商用化されたのは1825年だった。それとほぼ同時期の1824年に、最初のモノレールであるパーマー式モノレールが登場している。",
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"text": "二条式鉄道が一般化する中で「モノレール」は、軌道系交通機関の多大な予算と労力を必要とする用地買収、線路の設置、および保守点検の簡素化をメリットとして軌道系交通機関の発展の中で生き延びてきた。21世紀初頭では、モノレールは、毎時9,000 - 28,000人程度の輸送力を持つ、新交通システムやミニ地下鉄と同レベルの中量輸送システムとして位置付けられ、都市での営業路線コース構築の柔軟性や低騒音という側面からも注目されている。他の軌道系交通機関とはさまざまな利害得失があることから、主流とはなっていないものの継続的に新規路線が建設されている。",
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"text": "モノレールと一般の二条式鉄道との利害得失は以下の通り。",
"title": "二条式鉄道との比較"
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"text": "モノレールが開発されたのは19世紀初頭である。たとえばヘンリー・ロビンソン・パーマー (Henry Robinson Palmer) が1821年にイギリスで特許を取得しており、このあたりがごく初期のものであると考えられている。このモノレールは、高い位置に一本のレールを通し、そこに両フランジ式の車輪をひっかけ、左右に荷台を振り分けてやじろべえのようにバランスを取るというものだった。",
"title": "歴史"
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"text": "パーマー式は、荷物の量によって左右のバランスが変わるという欠点があった。その問題を解決するためにさまざまな模索が行われた。",
"title": "歴史"
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"text": "一方で、「レールの真下に車体を持ってくることによって、左右バランスの影響を少なくする」というスタイルが考案された。初期のものである程度知られている実例は1886年にアメリカ合衆国ニュージャージー州に実験線が作られた「エノス電気鉄道」や、ドイツにて1901年に開通したヴッパータール空中鉄道に採用されたランゲン式モノレールなどである。これらはレールの真下に車体を配置することで、左右のバランスという問題を回避した。この「レールの真下に車体を配置する」という方法は懸垂式モノレールの定石となった。",
"title": "歴史"
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"text": "もう一方で「振れ止めとして下方に別のレールを設け、1点支持から3点支持にする」方式が考案された。初期のものに、1876年にアメリカ合衆国フィラデルフィアで開催された「アメリカ合衆国建国百年博覧会」で発表されたリロイ・ストーン式モノレールや、1882年に開発されたラルティーグ式モノレールがある。3点支持化によって左右のバランスは厳密さを要求せず、車体を上方に伸ばすことができるようになった。このレールにまたがり3点で車体を支持するという様式は、マイグス式モノレールと逆T字方式モノレールを除く跨座式モノレールの基本形となった。1880年に開業したヴェズヴィアナ鋼索線(ケーブルカー)の軌道は開業当初モノレール方式であった。(のちに通常の方式に変更。)",
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"text": "他に、一本のレールをガイドウェイとして使う方式のものもあり、それらも「モノレール」と呼ばれている。ユーイング式モノレールとラルマンジャ式モノレールである。前者についてはその後類例が出ていないが、後者はゴムタイヤ式トラムのTVRと似ているということもできる。",
"title": "歴史"
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"text": "他に、レールは2本以上あるが一般の二条式鉄道とは明らかに異なることから、漫然とモノレールに分類されているものも数多くあり、古典的な方式の節に記す。",
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"text": "モノレールの基本的なコンセプトは、20世紀初頭におおむね出尽くしている。20世紀中盤になってからはアルヴェーグ式・スカイウェイ・上野式などを契機としてゴムタイヤが導入されたことが一番大きな変化であると言える。その後は規格の統一化や細かい改善が続けられたりしながら現在に至っている。なお、一世紀以上にわたって忘れられていたコンセプトを採用した「逆T字方式」を採用した新しいタイプの跨座式モノレールが20世紀末以降に登場している。",
"title": "歴史"
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"text": "方式として、懸垂式 (Suspended System) と跨座式 (Straddle-beam System) の、大きく二つに分類できる。ただし、過去に懸垂式にも跨座式にも分類できないものも存在した。今後も、たとえばレールから横に車両を突き出して支持する方法(カンチレバー式・片持ち式)など、この分類では区分できないものが登場してくる可能性はある。",
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"text": "電車線で使用される電力は、設置される電車線のスペースや輸送力の関係から直流の1500Vが標準となっている。",
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"text": "懸垂式(けんすいしき)とは、車両を吊るように上にレールがある(レールに車両がぶら下がっている)形態のモノレールである。歴史的に跨座式より古く、商業的に成功したのも懸垂式の方が先である。吊り下げ式、ぶら下がり式とも呼ばれる。",
"title": "方式"
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"text": "懸垂式は、車輪と軌道が車体の上にあり車体が屋根の上を支点に振り子のように揺れるため、横風に対して左右の揺れが大きくなるが、車両の重心が軌条面からかなり下に位置しており、最も安定した方式である。そのため、カーブでは遠心力による重心の移動にあわせて自動的に車体が傾く自然振り子式となり、速度制限が厳しくないという利点もある。積雪にも強い。",
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"text": "日本国内に現存する懸垂式モノレールは、東京都交通局と日本車輌製造による上野式(上野動物園)・三菱重工業がフランスから導入したサフェージュ式(湘南モノレール、千葉都市モノレール)・神戸製鋼所と三菱重工業によるスカイレール、の3方式がある。",
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"text": "ランゲン式モノレールは、民間のドイツ人技師カール・オイゲン・ランゲン (Carl Eugen Langen) が開発した。彼は、1880年代から、懸垂式モノレールシステムについての研究開発を行っていた。1885年に、アルベール・シャルリエ (Albert Charlier) が同様の発想による「空中自転車」を開発したため、ランゲンは念のためにこの方式についてのパテントを取得した。",
"title": "方式"
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"text": "1898年に、ヴッパータールでの建設計画が着工に移され、ヴッパータール空中鉄道が1901年に開通している。その後100年以上にわたってこの路線は実用的交通手段として運行され続けており、そのためランゲン式は世界で最初に実用化したモノレールシステムとされる。",
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"text": "ランゲン式では、レール・車輪ともに鉄製である。車輪は両側にフランジを持つもので、間のみぞにレールがはまりこむことにより、支持・案内が行われる。",
"title": "方式"
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"text": "車輪は2輪のボギー台車に取り付けられており、片側から下ろしたアームによって車体は懸荷される。レールも、車体を支えるアームとは逆側から、片持ちで支持されている。従って、走行システムは左右非対称である。走行装置・車体は、カーブなどでは左右に15度の範囲で振り子状に揺れることができる。",
"title": "方式"
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"text": "東京都交通局では太平洋戦争後の東京都内の交通渋滞を緩和するため、路面電車や路線バスに代わる近距離交通手段として日本車輌と共同で独自にモノレールの研究を行い、1957年12月17日に上野動物園内の輸送施設である東京都交通局上野懸垂線として開業した。",
"title": "方式"
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"text": "前記のランゲン式と類似した方式ではあるが、軌道がレールではなく軌道桁となっており、走行輪が鋼製の車輪からゴムタイヤ方式になっている。ランゲン式とは逆に、軌道桁の上部の窪みにゴムタイヤがはまりこんでいる。軌道桁の両側面を案内用タイヤが台車から挟んで車両を案内する。上野懸垂線はその設置目的から極めて短い営業区間のピストン輸送をしているため、線路に分岐機を持たず交換設備なども設置されていない。非対称型懸垂式モノレールへのゴムタイヤの導入は、前年にアメリカ合衆国ヒューストンに作られた「スカイウェイ」が先鞭を付けており、上野式が最初ではない。",
"title": "方式"
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"text": "上野式は結果として当初の目的である都電や路線バスの置き換えとはならず、上野懸垂線が唯一の導入事例となった。しかし、経年劣化に伴う更新に多額の費用がかかることから、2019年11月1日をもって運行休止となり、2023年12月27日付で廃止される予定である。",
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"text": "サフェージュ (SAFEGE) 式は、フランスのリュシアン・シャーデンソン (Lucien Chadenson) を中心とする設計チームが1957年に開発した方式である。サフェージュ式という名称は、この方式を開発するためフランス国内の25の企業が集まって結成された企業連合であるフランス語: Société Anonyme Française d'Étude de Gestion et d'Entreprises(「フランス経営経済研究株式会社」の意)の頭字語である。",
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"text": "Iビーム式は、I型断面を持つ軌道桁をレールとして使い下側のフランジに車輪を乗せて車体をぶら下げる方式で、車両の支持・案内はI型断面を持つ軌道桁と車輪で行う。小規模なものは吊り下げ式の荷物輸送用設備や遊戯施設などに多用されている。",
"title": "方式"
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"text": "実用的な乗り物としては、1964年から1965年にかけて開催されたニューヨーク万国博覧会の会場内輸送に使われたAMFタイプモノレールを挙げることができる。他に、タイタン社がリニアモーター駆動のシステムを提案しているが、これは実用化されていない。",
"title": "方式"
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"text": "スカイレールは、神戸製鋼所・三菱重工業が急傾斜地の頂上にある住宅街スカイレールタウンみどり坂と谷側の鉄道駅を結ぶために1990年代に開発した小規模交通システムで、概念としてはIビーム式による懸垂式モノレールシステムに含まれる。",
"title": "方式"
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "一見したところロープウェイに類似した乗り物だが、ロープではなく高架構造の軌道桁にゴンドラがぶら下がっている。そのためロープウェイと比べて風に強いが、支持体の鋼桁を設置する必要があるためロープウェイよりかなりコストが高くなる。車体の支持・案内方法はIビーム式を採用している。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "駆動系に特徴があり、軌道桁に沿ってロープを通し、それが一定の速度で回っており、駅間では車輌はそのロープをつかんで駆動され、駅では、車両はロープから離れて、地上一次式のリニア誘導モーターで駆動される。そのため、基本的に線路は「複線でループ構造」となる。最小回転半径は30m、最大勾配は270パーミル(27%)、最大距離は3.2km、想定輸送力は2,200人/時間。一般の軌道系交通機関とはかなり様相が異なる小規模短距離システムではあるが、概念としてはモノレールに含まれ、見方によっては懸垂式ケーブルカーとの解釈もできる個性的な運送機関である。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "広島県広島市のスカイレールサービス広島短距離交通瀬野線が唯一の導入事例であるが、2024年4月末での廃止が予定されている。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "跨座式(こざしき)とは、車両の下にレールがありレールに車両がまたがっている形態のモノレールである。跨がり式とも呼ばれる。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "跨座式はその多くが、軌道桁の上にある走行路を走行輪が接して車両重量を支えて車両を走行させ、軌道桁の左右に接する案内輪と安定輪で車両を案内するという方法を取る。この方法では、車両の床下と軌道桁上部の間に車輪があり、さらにその下に案内車輪が存在するため、車両の高さが通常の鉄道車両よりはるかに大きくなるという欠点がある。他に、軌道桁の下部左右に車両重量を支える車輪を設け、上部を左右方向に抑えて案内をする、マイグス式や逆T字方式もある。この方式では、車輌の高さをおさえることができるが、一般化はしていない。日本では、日立製作所によってドイツから導入された、コンクリート製の軌道上をゴムタイヤで走行する「アルヴェーグ式(アルウェーグ式)」あるいはこれを基に規格を統一した「日本跨座式」と呼ばれる方式が主流である。過去に川崎重工業が導入した、コンクリート軌道上に設置された鉄製レール上を鉄車輪で走行する「ロッキード式」や、東芝がアルウェーグ式を参考に独自に開発した「東芝式」もあった。電車線は軌道桁の両側面に2つ設置しており(直流のプラスとマイナスの線)、車両側の集電装置で電力が供給される。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "日本国内では東京モノレール・大阪モノレール・沖縄都市モノレール(ゆいレール)などで採用されている。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "アルヴェーグ (ALWEG) 式は、スウェーデンの実業家であるアクセル・レンナルト・ヴェナー=グレンが特許を取得し、事業化した方式である。アルヴェーグ式という名称は、ヴェナー=グレンの頭文字であるAxel Lennart Wenner-Grenの頭字語である。日本では日立製作所が事業展開していることから日立アルヴェーグ式とも呼ばれる。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "日本国内においては東京モノレール羽田空港線、名鉄モンキーパークモノレール線(2008年廃止)、よみうりランドモノレール(1978年廃止)で採用された。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "アルヴェーグ式を参考にして東京芝浦電気(現:東芝)が開発。連接台車や自動ステアリングを採用したことが特徴。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "本方式はかつて、松尾國三の肝いりで奈良ドリームランドモノレールとして採用後、横浜ドリームランドへのアクセスとして1966年5月開業のドリーム交通モノレール大船線で採用された。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "しかし後者は経路に急勾配が多く、連結器や台車などの駆動系部品を中心に設計変更が生じ、車両重量の設計値超過のため故障が頻発するとともに橋脚のコンクリートに亀裂が発生する事態となり、陸運局からの勧告を受けて1967年9月に休止となった。結果、ドリーム交通と設計した東芝との間で長期に及ぶ訴訟となり、その間に設備劣化が進行したこともあり、訴訟終結後も運行再開されないまま車両などの解体撤去が行われた(その後紆余曲折を経て2003年に正式廃止)。このことから奈良ドリームランドでは、車両更新の際は日本輸送機にて新車両が製作された。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1967年度に運輸省が、交通渋滞が悪化した環境でより優れた輸送手段として、モノレールを対象とする「都市交通に適したモノレールの開発研究」を日本モノレール協会に委託した。研究結果として懸垂式と一緒にまとめられたものが、日本跨座式である。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "日本跨座式はアルヴェーグ式をベースに、軌道桁を太くし、台車を東京モノレール500形電車で採用された2軸ボギーの空気ばね台車とし、ゴムタイヤを使用する。アルヴェーグ式よりも床面高さを高くすることで、室内の床を平面にした。しかし、「重心が高くなるために曲線の通過速度が遅くなる」「プラットホームと線路床面の落差が2メートル以上となり、転落の際の安全性に問題があり、ホームに転落防止柵設置が必須となる」「車両断面が大きくなるためトンネルを設けるコストが大きくなる」などの欠点が生じた。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "この方式は、日本万国博覧会(大阪万博)で会場内の交通機関として採用された。以後に跨座式を採用して開業した路線はすべてこの方式である。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "日本国外にも輸出されており、中華人民共和国の重慶軌道交通2号線、3号線、大韓民国の大邱都市鉄道公社3号線は日本跨座式が採用されている。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "日本国内のモノレールは多くの路線が休廃止しているが、本方式を採用した路線は2020年時点でも、大阪万博でのモノレールを除いた全路線が運行を継続している。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ロッキード式は、アメリカ合衆国の航空機メーカーであるロッキード社が開発した方式である。コンクリート製の軌道の上に鉄のレール(主レール)を敷き、その上を鉄の車輪を使って走行する。鉄製の車輪のため、小径の車輪でも車両の重量を負担することができ、室内の床は平面ですむ。また車体を安定させるために、主レールの頭部側面を左右から上部安定輪でおさえている。さらにコンクリート桁の左右下部にも鉄レール(サイドレール)が設けられており、そのレールを左右から下部安定輪でおさえている。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "日本では、ロッキード社から技術を導入するため、川崎航空機工業、川崎車両、日本電気、西松建設、北海道炭礦汽船、丸紅飯田などが出資した日本ロッキード・モノレールが1961年5月に設立された。当初は時速160km/hでの高速営業運転が可能である、乗り心地が良い、といった点をアピールポイントとしていた。姫路 - 鳥取間を高速ロッキード式モノレールで繋ぐという計画もあった。しかし、鉄路であるため騒音が激しく、メンテナンス自体も鉄道並みに煩雑で、経年変化により揺れも激しくなるなど、デメリットが目立ち(当時の記録映像でも車内で揺れが激しいことが見て取れる)、日本以外での導入事例はなく、ロッキード社自体もこのモノレール事業からは早々に撤退した。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "この方式は、姫路市交通局(当時、のち姫路市企業局交通事業部を経て廃止)の姫路市営モノレール(1966年開業 - 1974年休止・1979年廃止)と、小田急電鉄の向ヶ丘遊園モノレール線(1966年開業 - 2000年休止・2001年廃止)の2路線で採用された。いずれも既に廃止されており、現存路線は存在しない。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "逆T字方式は、中央案内軌条式の新交通システムと類似した構造を持つ。実用的な交通システムとしては、スペインで開発されたユーロトレン (Eurotren) とアメリカ合衆国で開発されたアーバノート (Urbanaut) がある。逆T字方式は、アルヴェーグ式と異なり、レール上面にタイヤが乗らないために、高さを抑えることができるというメリットがある。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "日本の法律上はモノレールに分類されないが、案内軌条式鉄道の一部に、一本の案内用軌条を中央に有し重量は別に設けられた走路が負担する逆T字方式モノレールに近い形態の、VONA方式を採用した桃花台新交通桃花台線と山万ユーカリが丘線がある。札幌市営地下鉄も類似する札幌方式が用いられている。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "産業用の簡易輸送施設としてモノレールを使うという発想は古くからあり、起源は不明である。モノレールの嚆矢とされるPalmer式モノレールも産業用モノレールとして始まっており、その後も多くの同様の趣旨で作られた路線があった。ここでは、もっぱら産業用として限定的に開発されたモノレールの系譜についてまとめる。",
"title": "産業用モノレール"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "遅くとも1949年に、交通機関としてではなく不整地での工事用・工場内での物資輸送などを主な目的とする産業用モノレールが開発され商品として販売された。同年に、イギリスのレール・マシンズ・リミテッド (Rail Machines Ltd.) から発売されていたという記録がある。この産業用モノレールは、特許取得の記録が残されており、それなりに商業的にも成功をおさめたようである。",
"title": "産業用モノレール"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "日本では、1966年に、当初は主にみかんを初めとする果樹栽培の、急傾斜地での労働軽減を目的とした農業用モノレールがニッカリと米山工業株式会社によって開発・販売された。これらは摩擦ではなくラック・アンド・ピニオンで車両を駆動するようになっている。速度が遅いという欠点はあったものの、勾配に強く、最大45度まで許容できた。",
"title": "産業用モノレール"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "この農業用モノレールは、基本的に物資輸送用であり人間が乗ることは想定されていなかった。しかし、その物資輸送用モノレールに無理やり乗車する者が後を絶たず、しばしば死傷事故を引き起こした。そのため、「乗車することを止められないのならば、安全に乗車できるシステムを」という方向で、農林水産省・厚生労働省・経済産業省なども参加して安全基準などを定める方向に至った。",
"title": "産業用モノレール"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "その後、人員輸送用にも使えるものや、急傾斜地の工事現場で作業用道路が不要となることが注目されてコンクリートなどの資材や小型重機などの運搬ができるものなど、高性能で安全なものが開発されるようになり、多くの会社で製品化されている。",
"title": "産業用モノレール"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "物資運搬用以外にも、長崎市の斜面移送システムのような自動車道路の建設が困難な地域での生活の足や、老齢者の福祉介護用、山岳地帯の送電塔などの保守用、急傾斜を登らなければならない展望観光地の観客輸送・バリアフリー施設用などにも用途が広がっている。日本国外でも農業用、パイプラインの敷設など産業用モノレールとして使用実績もある。",
"title": "産業用モノレール"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "これらの中には、重量物輸送用の高性能タイプなど主軌条のほかにバランスを取るための副軌条を持つシステムもあり、厳密には「モノレール」とは呼べないものも含まれている。しかし副軌条を持つものを含めて、おおむね「産業用モノレール」としてまとめられている。",
"title": "産業用モノレール"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "産業用モノレールの主な銘柄としては、以下のものがある。",
"title": "産業用モノレール"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "遊園地のアトラクションや博覧会場内の移動用としての簡易なモノレールもさまざまな会社で製造されている。",
"title": "簡易型モノレール"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "横浜市保土ケ谷区狩場町にある育生会横浜病院のモノレールは、国道1号(権太坂上バス停付近)と高台にある病院を結ぶ。病院が高台へ移転した際に、鉄道ファンの理事長の発案で設置された。ちよだ製作所(香川県高松市)の製造である。病院公式サイトでは、名物モノレール「ごんたん」として紹介されている。当初の塗色はクリーム色と黄緑色のツートンカラーであったが、2016年に湘南電車の色に変更され、下り側に「急行 東海」のヘッドマークシールが貼付され、上り側は病院グループのマークシールが貼付されている。",
"title": "簡易型モノレール"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "つくばで行われた国際科学技術博覧会の会場内交通機関として使われた「ビスタライナー」を製造した泉陽興業は、同システムを発展させた「ニュービスタライナー」をローコストで軽量級の交通機関として提案している。同様に、スイスを拠点とする遊戯施設メーカー・インタミンも実用モノレールをラインナップしており、モスクワや中国深圳での採用実績がある。イギリスに本拠を置く遊戯施設メーカー・セヴァーン・ラムもSLシリーズという実用モノレールを製造しており、アミューズメントパークの交通機関だが、イタリアのサヴォイで採用実績がある。",
"title": "簡易型モノレール"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "モノレールあるいはモノレールに類似した交通システムには、考案されたが実現しなかったもの、ごくわずかな実例しか存在しなかったもの、一時期はある程度普及したがその後廃れたもの、などがたくさん存在する。一部を歴史順に記す。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "高い位置にレールを通し、そこから車両をぶら下げる懸垂式モノレール。荷台・客室は左右に振り分けられ、バランスを取っていた。ヘンリー・ロビンソン・パーマー(Henry Robinson Palmer)(英語版)が開発したもので、1821年11月22日にイギリスで特許が登録されている。1824年にロンドンのデプトフォード造船所に荷物輸送用のものが作られ、翌1825年にハートフォードシャーに旅客輸送用モノレールが開設された。のちにランゲン式を採用したヴッパータール空中鉄道を建設することになるヴッパータールでもパーマー式モノレールの導入が検討されたが、実現はしなかった。当初の動力は馬・人・ラクダ(北アフリカ産)などだったが、詳細不明ながら遅くとも1878年頃までに蒸気動力が導入されていたことがわかっている。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "本方式が一般的に「世界最初のモノレール」とされている。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "1本のレールに車体が乗り、車体の片側に取り付けられた幅広の車輪で支持して転倒しないようにして走行する方式。19世紀後半(1868年頃?)にイギリス人発明家のチャールズ・ユーイング (Charles Ewing) により考案されたものと考えられている。ユーイング式は、線路に全重量の95%程度がかかるように設計されており、走行抵抗は通常の鉄道と大差ない程度におさえられている。レールを1本しか必要としないため敷設コストが節約できるほか、線路が占有する幅員が狭いために道路と同居しやすいという利点があった。案内は一本の軌条が行うが、全重量をその軌条が負担するわけではなく、厳密には案内軌条式鉄道に分類される。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "本方式はイギリス人のウィリアム・サロルド (William Thorold) が具体化し、インドのパティアーラ州立鉄道 (PSMT) に導入された。PSMTは1910年に開通した路線で、馬力鉄道として開通したのちにオーレンシュタイン・ウント・コッペル社製造の蒸気機関車が導入され、全盛期は2路線で80kmの行程であった。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "PSMTは道路の改良と自動車の出現によって1927年に廃止され、長らく存在が忘れられていたが、1962年に再発見された。後年に車両は保管されてインドのニューデリー鉄道博物館で動態保存されている。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "1876年に行われたアメリカ合衆国建国百年記念博覧会の会場にセンテニアル・モノレールとして設置されたものであり、極初期、あるいは最初の跨座式モノレール。リロイ・ストーン将軍(General Leroy Stone)により考案された。A字型の橋脚の上に一条、下に左右に二条のレールを持ち、上の車輪で車重を支え下の車輪でバランスを取る方式である。3点で車体を支える方法は跨座式モノレールのひとつの様式となり、その後のラルティーグ式・アルヴェーグ式・ロッキード式などにも踏襲されている。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "本方式は、すべての車輪は両フランジで、動力は蒸気である。その後の「跨座式」と類似のレイアウトであり、すでに全高が高くなる欠点が顕在化していた。下側車輪の左右に垂れ下がった車体の部分を機関車では水槽や炭庫として使い、客車ではそこにも客席を設けてダブルデッカー構造としてスペースを有効に活用すべく努力した形跡が認められる。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "中央の一本のレールを誘導用として使用し、両側に取り付けられたフランジの無い幅広の車輪で駆動・支持して走行する方式。両側の車輪は木製の板の上を走行する。フランスのジャン・ラルマンジャ (Jean Larmanjat) により考案された。案内は一本の軌条が行うが、全重量をその軌条が負担するわけではないため、厳密には案内軌条式鉄道に分類される。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "類似した発想に基づくユーイング式では一条の鉄軌道が大半の重量を負担したが、ラルマンジャ式はそうはなっていない。鉄軌条は、全車両の案内と機関車など重量車両の重量の大半の負担を受け持っていたが、客車などの軽量車両はその重量の大半を側車輪が負担するようになっていた。客車は、馬車などに中央の鉄軌条による案内を付け加えたような構造となっていた。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "1868年8月にフランスでイベント用交通機関として実用化され15か月間使用されたという記録が残っているが、詳細は解明されていない。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "その後、1870年代にリスボンの市街鉄道で使用された。両側の走行用の板が早く傷んでしまい、乗り心地も悪かったため普及に至らなかった。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "上下に1本ずつ計2本全4面を持つレールを設置し、下部のレールを外側に傾いて設置された車輪で両側から挟み込んで車重を支え、上部のレールを水平に設置された車輪で両側から挟み込んでバランスを取る方式の跨座式モノレール。アメリカのジョー・V・マイグス (Joe V. Meigs) により考案されたもので、1886年にマサチューセッツ州のケンブリッジで試験的に使用された。これは都市での高架鉄道の試行のひとつであり、ルート28の上に敷設された。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "一般に跨座式モノレールの場合、軌道桁の上面で車両重量を支えるが、マイグス式では軌道桁の下部で支えている。そのため軌道桁から床面までの距離を詰められるという特徴があった。この考え方は、のちの「逆T字方式」と呼ばれる方式のモノレールにも共通するものである。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "A字型の支柱の上と支柱の下の左右に合計3条のレールが設けられており、上のレールで車輌重量を支え下のレールで車体を安定させるという方式。アルジェリアなどでパーマー式懸垂式モノレールの建設に携わっていたシャルル・ラルティーグ (Charles Lartigue) が開発したもので、これは跨座式モノレールとしてはポピュラーな様式であり、アメリカ合衆国建国百年博覧会で披露されたリロイ・ストーン式モノレールなどの先例がある。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "1888年3月1日にリストウェル・パリブニオン鉄道(アイルランド・ケリー県)の14.4kmの路線が開通した。動力は蒸気で、3軸式の機関車が用意された。この路線は1924年にアイルランド内戦によって破壊されたことから廃線となった。2002年は短い区間ではあるが観光目的で復元され、レプリカの車両で運転されている。機関車は蒸気機関車風の外装になっているが、ディーゼル機関車である。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "他に営業に使われた路線としてはフランスのフュール=パニシエル鉄道がある。開通は1893年で、延長は16.9キロだった。この路線は1902年に廃止された。蒸気機関車が1両、保存されている。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "最後のラルティーグ式モノレールは、1924年にアメリカ合衆国カリフォルニア州のマグネシウム鉱山・クリスタルヒルとトローナの鉄道駅との間を結んだものだったと考えられている。こちらでは内燃機関を積んだ機関車が使われた。これは20世紀後半になって開発された産業用モノレールに酷似していた。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ラルティーグ式の欠点は踏切が作れないことで、踏切を設けざるを得ない場所では必要に応じて線路を取り外すという方法が採用されていた。分岐器は最後まで開発されず、やや湾曲したレールを持つターンテーブルによって代替されていた。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "アメリカのイーベン・ムーディー・ボイントン (Eben Moody Boynton) により考案された方式で、上下に1本ずつ計2本のレールを設置し、下部のレールに車重がかかり、上部のレールで車体を支持する方式である。跨座式にも懸垂式にも分類できない。レールを2本有し厳密にはモノレールではないが、一般的に黎明期のモノレールの一種と理解されている。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "1890年にコニーアイランド付近の廃止された線路を流用した路線でボイントン自転車鉄道 (Boynton Bicycle Railway) がこの方式のデモンストレーションを行った。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "1910年から1914年にかけて、ニューヨーク市ブロンクスのペラム公園 & シティアイランド鉄道 (Pelham Park and City Island Railroad) で採用されたが、脱線事故を起したことから短命に終わった。右写真はこの時期の電車。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "後にイギリスのエルフリック・カーニー (Elflic Kearney) が改良型を考案し、ロンドンの地下鉄用に提案した。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "オーストリアのルイス・ブレナン (Louis Brennan)、ドイツのアウグスト・シェールル (August Scherl)、ロシアのピョートル・シロフスキー (Piotr Schilovski) によってそれぞれ1900年頃考案された。1本の通常のレールの上を無支持で走行する。レールを1本に減らせば摩擦力が半減し、その分速度を倍増でき、高速走行時の蛇行動もなくなるという理論の元で考案された方式である。大型のジャイロスコープが車体に搭載され、車体の傾きに応じてジャイロスコープの軸が傾き、ジャイロ効果による復元力でバランスを取る仕組みになっている。シロフスキー式は1921年にソ連のレニングラードからツァールスコエ・セローまでの建設が、ブレナン式はインドの北西部での建設がそれぞれ検討されたが、資金難により実現しなかった。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "ジャイロその他の装置に多くの費用が掛かることが欠点である。鉄道車両の走行抵抗は転がり抵抗と空気抵抗からなり、後者は速度の2乗に比例する(すなわち速度が2倍になると空気抵抗は4倍になる)。そのため、レールを1本に減らしたところで速度を倍増するほどの効果はない。反動トルクを打ち消すために複数のジャイロを使用する場合、ジャイロごとの大きさや回転数が異なればそれによってモーメントが発生し、姿勢制御にも影響する。逆にジャイロの回転数を積極的に加減することで曲線通過時に車体を内傾させるなど、能動的に姿勢を変える方法もある。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "ランゲン式と同じような発想の非対称型懸垂式構造のモノレールだが、推進装置を台車に組み込まずプロペラで推進するというもの。フランスで1919年頃試験線が建設されたが、詳細な記録は残されていない。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "1930年にジョージ・ベニー (George Bennie) が改良型の試験線をグラスゴー近郊のミルンギャヴィー (Milngavie) に建設した。こちらの方はレールプレーン (Railplane) と呼ばれ、最高時速120マイルを目指して計画された。レールプレーンは、安定性を確保するために下部にもう1本振れ止めのレールを追加しており、厳密にはモノレールではない(下部レールは車体重量は負担しない)。当時、日本にも「軌道飛行機」として紹介された。第二次世界大戦の金属供出のため、試験線は1941年に撤去された(1950年代という説もある)。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "のちに、フランスでプロペラ(のちジェットエンジン)を推進装置として使用したアエロトランが開発され実験された。こちらは懸垂式ではなく、走路の上に車体が乗る案内軌条式鉄道に類似していた。アエロトランも実用化はされなかった。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ランゲン式と類似した発想の非対称型懸垂式構造のモノレールだが、ゴムタイヤを使っている。1956年にアメリカ合衆国のヒューストンに試験線が作られ、8か月のテストののちに解体されダラスに移転、しばらく使われた。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "動力は310馬力の内燃機関を2台搭載しており、案内はレール上面に設けられた板状のガイドレールによって行われた。運転士はレール下のキャビンではなくレール上の台車に搭乗して運転した。想定での最高速度は160km/hであり、都市近郊(インターアーバン)や都市間の高速交通機関として使うことを想定して作られたが、実用化されることはなかった。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
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"text": "ロープモノレールは、軌条に金属レールではなくワイヤー状の鋼索を用いた日本の東京索道が開発したものである。形状からロープウェイとどちらに分類されるかは議論が残るが、動力を車両に持つという点でモノレールに分類される。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
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"text": "動力は電気ではなく、唯一の実例である五台山ロープモノレールはディーゼルエンジンであるように内燃機関を採用して車両となるゴンドラに装備し、鋼索軌道にかかるローラーを駆動することで走行する。このためゴンドラは、一般的な鋼索ロープウェイと異なり気動車に分類される。スカイレールとは逆で軌条はロープであるが動力は各車に搭載しているため、通常のロープウェイと異なり状況に応じて各ゴンドラの走行速度を調整することができる。安全な運行には信号設備が不可欠であるが、他種のモノレールより敷設コストが安く、電化も不要である。",
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"text": "1969年に高知市の五台山に観光用として五台山ロープモノレールが敷設されたが、当時の定期観光バスのルートから外れていたため集客に苦慮し、1978年に廃止となった。",
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"text": "東京索道は五台山ロープモノレールの開発と建設に約50件の特許を取得したと言われるが、以降、この種の鉄道・軌道線は海外も含め建設されていない。",
"title": "かつて考案された古典的な方式"
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] | モノレールは、1本の軌条により進路を誘導されて走る軌道系交通機関。語源は、ギリシア語で「ただ一つの」を意味する語に由来する接頭辞「mono-」と、英語で「軌道」を意味する「rail」である。単軌鉄道(たんきてつどう)とも言われ、跨座式(こざしき)と、懸垂式(けんすいしき)の2つに大別できる(後述)。 ただし、厳密には「1本のレール(走路)」ではないものも混ざっており、「一般の二条式鉄道とは異なるものの総称」として機能している。日本の営業路線については日本のモノレールを参照。
モノレールは日本では高速交通網にはなっていない。 | [[File:Wuppertal-100522-13449-Sonnborn.jpg|thumb|300px|世界最古の電動懸垂式モノレールである[[ヴッパータール空中鉄道]]]]
'''モノレール'''({{lang-en-short|monorail}})は、1本の[[軌条]]により進路を誘導されて走る軌道系[[交通機関]]。語源は、ギリシア語で「ただ一つの」を意味する語に由来する接頭辞「mono-」と、英語で「[[軌条|軌道]]」を意味する「rail」である。'''単軌鉄道'''(たんきてつどう)とも言われ<ref>[https://kotobank.jp/word/単軌鉄道-563787 単軌鉄道(タンキテツドウ)とは - コトバンク]</ref>、'''跨座式'''(こざしき)と、'''懸垂式'''(けんすいしき)の2つに大別できる(後述)。
ただし、厳密には「1本のレール(走路)」ではないものも混ざっており、「一般の二条式鉄道とは異なるものの総称」として機能している。[[日本]]の営業路線については[[日本のモノレール]]を参照
。
モノレールは日本では[[高速交通]]網にはなっていない。
== 概要 ==
[[ファイル:方式別輸送量.png|right|400px]]<!-- 表組みにできないかな -->
二条の[[鉄]]製[[レール]]を持つ「[[鉄道]]」が最初に[[商用]]化されたのは[[1825年]]だった。それとほぼ同時期の[[1824年]]に、最初のモノレールである[[#パーマー式|パーマー式モノレール]]が登場している。
二条式鉄道が一般化する中で「モノレール」は、軌道系交通機関の多大な予算と労力を必要とする用地買収、線路の設置、および保守点検の簡素化をメリットとして軌道系交通機関の発展の中で生き延びてきた。21世紀初頭では、モノレールは、毎時9,000 - 28,000人程度の輸送力を持つ、[[新交通システム]]や[[ミニ地下鉄]]と同レベルの中量輸送システムとして位置付けられ、都市での営業路線コース構築の柔軟性や低騒音という側面からも注目されている。他の軌道系交通機関とはさまざまな利害得失があることから、主流とはなっていないものの継続的に新規路線が建設されている。
== 二条式鉄道との比較 ==
モノレールと一般の二条式鉄道との利害得失は以下の通り。
=== モノレールの長所 ===
* 高架化が容易であり(すなわち三次元構造が作りやすい)、占有する敷地面積が狭い。この点は、市街地が形成された後に軌道系交通機関を作るときに、大きなメリットとなる。
* 高架化する際の構造物の規模が小さくなり、建設費が安く済む。
* ゴムタイヤを使用するものについては、鉄道の二条式レールを使うものと比べ、騒音公害が少なく、急勾配にも支障がない<ref>跨座式の場合、降雪時を考慮して最大で50‰程度。</ref>。
* 走行輪に幅の狭いダブルタイヤを使用するため、鉄道より曲線半径の小さい曲線も走行が可能となり、線形の自由度が高い。
* [[SAFEGE|サフェージュ式]]は雨や雪に強い、ラックレールを採用した産業用モノレールは45度(1000[[パーミル]])程度まで登れるなど勾配に強い、簡易型は極めて敷設費用が安いなど、形式によっては突出した長所を持つものがあり、要求と合致した場合は適切な選択肢となる。
=== モノレールの短所 ===
* 走行路が軌道桁の1本であるため、走行装置である台車は走行車輪の他に案内車輪や安定車輪を必要とし、1つの台車にゴムタイヤを10個程度を装備して車両の機構がやや複雑となり、車両の価格も高価となる。
* 鉄道の二条式レールを使うものに比べて高速性能が劣り、ゴムタイヤを使用する場合は[[転がり抵抗]]が鉄車輪よりも大きく、そのため動力費が嵩む。
* ゴムタイヤを使用する場合は、鉄車輪式よりも単位走行距離毎の磨耗が早いので交換間隔が短く、交換費用がかかり、稼働率が下がり、維持費を押し上げる一因となる。
* ゴムタイヤを使用する場合は、鉄道の鋼車輪より負担荷重が小さく、車両の収容力は普通鉄道より小さい。
* 跨座式モノレールでは[[踏切]]を作ることができない。高架化する場合は欠点にならないが、初期の地表近くに設けられる跨座式モノレールには重大な欠点となった。
* 高架路線の場合、車両故障などが起きた際に、乗客を避難させるのが難しい。避難路を設けることもできるが、その場合、構造物の規模が大きくなってしまう。
* [[分岐器]]は重い軌道桁を移動させる方式であり、規模が大きく構造が複雑で転換に若干の時間を要する。分岐器への列車の[[冒進]]は大事故となり、その後の復旧も容易ではない。初期のモノレールに分岐器問題がついてまわったことは大きなイメージダウンを生んでおり、モノレール・ソサエティは反論のページ<ref>[http://www.monorails.org/tMspages/switch.html The Switch Myth]</ref>を設けている。
* 多数の方法が乱立しており、相互に互換性がない。多少の改造で車両の譲渡が可能な場合が多い二条式鉄道とは異なり、設備類の流用可能性がほとんどない。
== 歴史 ==
{{See also|#年表}}
[[ファイル:Palmer-monorail.png|right|300px|thumb|パーマー式モノレールの模式図。]]
モノレールが開発されたのは[[19世紀]]初頭である。たとえばヘンリー・ロビンソン・パーマー (Henry Robinson Palmer) が[[1821年]]に[[イギリス]]で[[特許]]を取得しており、このあたりがごく初期のものであると考えられている。このモノレールは、高い位置に一本の[[レール]]を通し、そこに両[[フランジ#車輪のフランジ|フランジ]]式の車輪をひっかけ、左右に荷台を振り分けて[[ヤジロベエ|やじろべえ]]のようにバランスを取るというものだった<ref>57p - "A practical treatise on rail-roads and locomotive engines ..." by Luke Hebert</ref>。
パーマー式は、荷物の量によって左右のバランスが変わるという欠点があった。その問題を解決するためにさまざまな模索が行われた。
一方で、「レールの真下に車体を持ってくることによって、左右バランスの影響を少なくする」というスタイルが考案された。初期のものである程度知られている実例は[[1886年]]に[[アメリカ合衆国]][[ニュージャージー州]]に実験線が作られた「エノス電気鉄道」<ref>[https://web.archive.org/web/20110929060102/http://www.hksconsultants.com/skytrain/history.html History - Zoo Design and Consultancy: HKS Designer and Consulants Co. Ltd.]</ref><ref>"Images of America - Winthrop", page 38, Winthrop Historical Commission, Charleston SC, 2002, {{ISBN2|978-0-7385-0952-5}}</ref><ref>[http://collections.mnhs.org/cms/largerimage?irn=10109810&catirn=10732168&return= Enos Electric Railway on sixteenth curve onto Bryant, South St. Paul?] - MINNESOTA HISTORICAL SOCIETY</ref>や、ドイツにて[[1901年]]に開通した[[ヴッパータール空中鉄道]]に採用された[[#ランゲン式|ランゲン式モノレール]]などである。これらはレールの真下に車体を配置することで、左右のバランスという問題を回避した。この「レールの真下に車体を配置する」という方法は[[#懸垂式|懸垂式モノレール]]の定石となった。
もう一方で「振れ止めとして下方に別のレールを設け、1点支持から3点支持にする」方式が考案された。初期のものに、[[1876年]]にアメリカ合衆国[[フィラデルフィア]]で開催された「アメリカ合衆国建国百年博覧会」で発表された[[#リロイ・ストーン式|リロイ・ストーン式モノレール]]や、[[1882年]]に開発された[[#ラルティーグ式|ラルティーグ式モノレール]]<ref>721p - "Biog Dict Hist Technology" by Lance Day, Ian McNeil</ref>がある。3点支持化によって左右のバランスは厳密さを要求せず、車体を上方に伸ばすことができるようになった。このレールにまたがり3点で車体を支持するという様式は、[[#マイグス式|マイグス式モノレール]]と[[#逆T字方式|逆T字方式モノレール]]を除く[[#跨座式|跨座式モノレール]]の基本形となった。1880年に開業した[[ヴェズヴィアナ鋼索線]](ケーブルカー)の軌道は開業当初モノレール方式であった。(のちに通常の方式に変更。)
他に、一本のレールをガイドウェイとして使う方式のものもあり、それらも「モノレール」と呼ばれている。[[#ユーイング式|ユーイング式モノレール]]と[[#ラルマンジャ式|ラルマンジャ式モノレール]]である。前者についてはその後類例が出ていないが、後者は[[ゴムタイヤトラム#TVR|ゴムタイヤ式トラムのTVR]]と似ているということもできる。
他に、レールは2本以上あるが一般の二条式鉄道とは明らかに異なることから、漫然とモノレールに分類されているものも数多くあり、[[#古典的な方式|古典的な方式]]の節に記す。
モノレールの基本的なコンセプトは、20世紀初頭におおむね出尽くしている。20世紀中盤になってからは[[#アルヴェーグ式|アルヴェーグ式]]・[[#スカイウェイ|スカイウェイ]]・[[#上野式|上野式]]などを契機としてゴムタイヤが導入されたことが一番大きな変化であると言える。その後は規格の統一化や細かい改善が続けられたりしながら現在に至っている。なお、一世紀以上にわたって忘れられていたコンセプトを採用した「[[#逆T字方式|逆T字方式]]」を採用した新しいタイプの跨座式モノレールが20世紀末以降に登場している。
== 方式 ==
方式として、懸垂式 (Suspended System) と跨座式 (Straddle-beam System) の、大きく二つに分類できる。ただし、過去に懸垂式にも跨座式にも分類できないものも存在した。今後も、たとえばレールから横に車両を突き出して支持する方法([[カンチレバー]]式・片持ち式)など、この分類では区分できないものが登場してくる可能性はある。
[[電車線]]で使用される電力は、設置される電車線のスペースや輸送力の関係から直流の1500Vが標準となっている。
=== 懸垂式 ===
[[ファイル:Monorail-suspended.png|right|350px|thumb|懸垂式モノレール3種の模式図。左から「[[#ランゲン式|ランゲン式]]」「[[#サフェージュ式|サフェージュ式]]」「[[#Iビーム式|Iビーム式]]」。]]
'''懸垂式'''(けんすいしき)とは、車両を吊るように上にレールがある(レールに車両がぶら下がっている)形態のモノレールである。歴史的に跨座式より古く、商業的に成功したのも懸垂式の方が先である。'''吊り下げ式'''、'''ぶら下がり式'''とも呼ばれる。
懸垂式は、車輪と軌道が車体の上にあり車体が屋根の上を支点に振り子のように揺れる<ref>[http://www.monorails.org/tMspages/TPdoub.html The Monorail Society / Technical Page /Double Flanged]</ref><ref>[[山と渓谷]]社・[[吉川文夫]]『日本の私鉄2』湘南モノレールの解説記事</ref>ため、横風に対して左右の揺れが大きくなるが、車両の重心が軌条面からかなり下に位置しており、最も安定した方式である。そのため、カーブでは遠心力による重心の移動にあわせて自動的に車体が傾く自然[[振り子式車両|振り子式]]となり、速度制限が厳しくないという利点もある。積雪にも強い。
日本国内に現存する懸垂式モノレールは、[[東京都交通局]]と[[日本車輌製造]]による上野式(上野動物園)・[[三菱重工業]]が[[フランス]]から導入したサフェージュ式([[湘南モノレール]]、[[千葉都市モノレール]])・[[神戸製鋼所]]と三菱重工業による[[スカイレールサービス#スカイレール|スカイレール]]、の3方式がある。
==== ランゲン式 ====
[[ファイル:Wuppertal1900.jpg|right|250px|thumb|試運転中の1900年に描かれたヴッパータール空中鉄道の雑誌挿絵]]
''{{main|ヴッパータール空中鉄道}}''
ランゲン式モノレールは、民間のドイツ人技師[[オイゲン・ランゲン|カール・オイゲン・ランゲン]] (Carl Eugen Langen) が開発した。彼は、1880年代から、懸垂式モノレールシステムについての研究開発を行っていた。[[1885年]]に、アルベール・シャルリエ (Albert Charlier) が同様の発想による「空中自転車」を開発したため、ランゲンは念のためにこの方式についてのパテントを取得した。
[[1898年]]に、[[ヴッパータール]]での建設計画が着工に移され、[[ヴッパータール空中鉄道]]が[[1901年]]に開通している。その後100年以上にわたってこの路線は実用的交通手段として運行され続けており、そのためランゲン式は世界で最初に実用化したモノレールシステムとされる。
ランゲン式では、レール・車輪ともに鉄製である。車輪は両側に[[フランジ#鉄道車輪|フランジ]]を持つもので、間のみぞにレールがはまりこむことにより、支持・案内が行われる。
車輪は2輪のボギー台車に取り付けられており、片側から下ろしたアームによって車体は懸荷される。レールも、車体を支えるアームとは逆側から、片持ちで支持されている。従って、走行システムは左右非対称である。走行装置・車体は、カーブなどでは左右に15度の範囲で振り子状に揺れることができる。
==== 上野式 ====
[[ファイル:UenoZooMonorail40-2008.jpg|right|200px|thumb|上野式の上野懸垂線]]
[[東京都交通局]]では[[太平洋戦争]]後の[[東京都]]内の交通渋滞を緩和するため、[[路面電車]]や[[路線バス]]に代わる近距離交通手段として[[日本車輌製造|日本車輌]]と共同で独自にモノレールの研究を行い、[[1957年]]12月17日に[[上野動物園]]内の輸送施設である[[東京都交通局上野懸垂線]]として開業した。
前記のランゲン式と類似した方式ではあるが、軌道がレールではなく軌道桁となっており、走行輪が鋼製の車輪からゴムタイヤ方式になっている。ランゲン式とは逆に、軌道桁の上部の窪みにゴムタイヤがはまりこんでいる。軌道桁の両側面を案内用タイヤが台車から挟んで車両を案内する。上野懸垂線はその設置目的から極めて短い営業区間のピストン輸送をしていたため、線路に分岐機を持たず交換設備なども設置されていなかった。非対称型懸垂式モノレールへのゴムタイヤの導入は、前年にアメリカ合衆国[[ヒューストン]]に作られた「[[#スカイウェイ|スカイウェイ]]」が先鞭を付けており、上野式が最初ではない。
上野式は結果として当初の目的である[[都電]]や路線バスの置き換えとはならず、上野懸垂線が唯一の導入事例となった。しかし、経年劣化に伴う更新に多額の費用がかかることから、[[2019年]]11月1日をもって運行休止となり<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/others/2019/otr_p_201901238394_h.html |title = 恩賜上野動物園モノレール休止のお知らせ |publisher = 東京都 |accessdate = 2019-10-31 }}</ref>、2023年12月27日付で廃止された<ref>{{Cite press release |title=鉄道事業の廃止の日を繰り上げる届出について |publisher=国土交通省関東運輸局 |date=2023-11-13 |url=https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/content/000306127.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-11-13 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
==== サフェージュ式 ====
[[ファイル:Shonanmonorail5000.jpg|right|250 px|thumb|サフェージュ式の湘南モノレール]]
{{main|SAFEGE}}
サフェージュ ([[SAFEGE]]) 式は、フランスのリュシアン・シャーデンソン (Lucien Chadenson) を中心とする設計チームが[[1957年]]に開発した方式である。サフェージュ式という名称は、この方式を開発するためフランス国内の25の企業が集まって結成された企業連合である{{lang-fr|'''S'''ociété '''A'''nonyme '''F'''rançaise d''''É'''tude de '''G'''estion et d''''E'''ntreprises}}(「フランス経営経済研究株式会社」の意)の[[頭字語]]である。
==== Iビーム式 ====
Iビーム式は、I型断面を持つ軌道桁をレールとして使い下側の[[フランジ#はり部材におけるフランジ|フランジ]]に車輪を乗せて車体をぶら下げる方式で、車両の支持・案内はI型断面を持つ軌道桁と車輪で行う。小規模なものは吊り下げ式の荷物輸送用設備や遊戯施設などに多用されている。
実用的な乗り物としては、[[1964年]]から[[1965年]]にかけて開催された[[ニューヨーク万国博覧会 (1964年)|ニューヨーク万国博覧会]]の会場内輸送に使われたAMFタイプモノレールを挙げることができる<ref>[http://www.worldsfairphotos.com/nywf64/monorail.htm 同イベントの記録ページ(英語)]</ref>。他に、タイタン社がリニアモーター駆動のシステムを提案しているが、これは実用化されていない<ref>[http://www.monorails.org/tMspages/TPIbeam.html モノレール・ソサエティの解説(英語)]</ref>。
===== スカイレール =====
[[ファイル:Skyrail-car.jpg|right|150px|thumb|スカイレールみどり坂線]]
[[スカイレールサービス|スカイレール]]は、[[神戸製鋼所]]・[[三菱重工業]]が急傾斜地の頂上にある住宅街[[スカイレールタウンみどり坂]]と谷側の鉄道駅を結ぶために1990年代に開発した小規模交通システムで、概念としてはIビーム式による懸垂式モノレールシステムに含まれる。
一見したところ[[ロープウェイ]]に類似した乗り物だが、ロープではなく高架構造の軌道桁にゴンドラがぶら下がっている。そのためロープウェイと比べて風に強いが、支持体の鋼桁を設置する必要があるためロープウェイよりかなりコストが高くなる。車体の支持・案内方法はIビーム式を採用している。
駆動系に特徴があり、軌道桁に沿ってロープを通し、それが一定の速度で回っており、駅間では車輌はそのロープをつかんで駆動され、駅では、車両はロープから離れて、地上一次式のリニア誘導モーターで駆動される。そのため、基本的に線路は「複線でループ構造<ref>索道における自動循環式とほぼ同形式である。</ref>」となる。最小回転半径は30m、最大勾配は270パーミル(27%)、最大距離は3.2km、想定輸送力は2,200人/時間。一般の軌道系交通機関とはかなり様相が異なる小規模短距離システムではあるが、概念としてはモノレールに含まれ、見方によっては懸垂式[[ケーブルカー]]との解釈もできる個性的な運送機関である。
[[広島県]][[広島市]]の[[スカイレールサービス広島短距離交通瀬野線]]が唯一の導入事例であるが、2024年4月末での廃止が予定されている<ref>{{Cite web|和書|url= https://toyokeizai.net/articles/-/696688?page=3 |title= 異形の鉄道「スカイレール」なぜ2024年春に廃止? |publisher=東洋経済新報社 |website=東洋経済ONLINE |date=2023-08-29 |author=[[渡部史絵]] |accessdate= 2023-10-22}}</ref>。
=== 跨座式 ===
[[ファイル:Monorail-straddle.png|right|350px|thumb|跨座式モノレールの模式図。左から「[[#リロイ・ストーン式|リロイ・ストーン式]]・[[#ラルティーグ式|ラルティーグ式]]」「[[#アルヴェーグ式|アルヴェーグ式]]」「[[#逆T字方式|逆T字方式]]」。]]
'''跨座式'''(こざしき)とは、車両の下にレールがありレールに車両がまたがっている形態のモノレールである。'''跨がり式'''とも呼ばれる。
跨座式はその多くが、軌道桁の上にある走行路を走行輪が接して車両重量を支えて車両を走行させ、軌道桁の左右に接する案内輪と安定輪で車両を案内するという方法を取る。この方法では、車両の床下と軌道桁上部の間に車輪があり、さらにその下に案内車輪が存在するため、車両の高さが通常の鉄道車両よりはるかに大きくなるという欠点がある。他に、軌道桁の下部左右に車両重量を支える車輪を設け、上部を左右方向に抑えて案内をする、[[#マイグス式|マイグス式]]や逆T字方式<ref>[http://www.monorails.org/tMspages/TPInverT.html 逆T字方式]</ref>もある。この方式では、車輌の高さをおさえることができるが、一般化はしていない。日本では、[[日立製作所]]によって[[ドイツ]]から導入された、コンクリート製の軌道上をゴムタイヤで走行する「[[#アルヴェーグ式|アルヴェーグ式]](アルウェーグ式)」あるいはこれを基に規格を統一した「[[#日本跨座式|日本跨座式]]」と呼ばれる方式が主流である。過去に[[川崎重工業]]が導入した、コンクリート軌道上に設置された鉄製レール上を鉄車輪で走行する「[[#ロッキード式|ロッキード式]]」や、[[東芝]]がアルウェーグ式を参考に独自に開発した「[[#東芝式|東芝式]]」もあった。電車線は軌道桁の両側面に2つ設置しており(直流のプラスとマイナスの線)、車両側の集電装置で電力が供給される。
日本国内では[[東京モノレール]]・[[大阪モノレール]]・[[沖縄都市モノレール]](ゆいレール)などで採用されている。
==== アルヴェーグ式 ====
[[ファイル:Tokyo-Monorail-Type1000-1043F.jpg|right|250 px|thumb|アルヴェーグ式の東京モノレール]]
{{main|ALWEG}}
アルヴェーグ ([[ALWEG]]) 式は、[[スウェーデン]]の[[実業家]]である[[アクセル・ヴェナー=グレン|アクセル・レンナルト・ヴェナー=グレン]]が特許を取得し、事業化した方式である。アルヴェーグ式という名称は、ヴェナー=グレンの頭文字である'''A'''xel '''L'''ennart '''We'''nner-'''G'''renの[[頭字語]]である。日本では[[日立製作所]]が事業展開していることから'''日立アルヴェーグ式'''とも呼ばれる。
日本国内においては[[東京モノレール羽田空港線]]、[[名鉄モンキーパークモノレール線]](2008年廃止)、[[よみうりランド]]モノレール(1978年廃止)で採用された。
==== 東芝式 ====
アルヴェーグ式を参考にして東京芝浦電気(現:[[東芝]])が開発。連接台車や自動ステアリングを採用したことが特徴。
本方式はかつて、[[松尾國三]]の肝いりで[[奈良ドリームランド]]モノレールとして採用後、[[横浜ドリームランド]]へのアクセスとして1966年5月開業の[[ドリーム開発ドリームランド線|ドリーム交通モノレール大船線]]で採用された。
しかし後者は経路に急勾配が多く、連結器や台車などの駆動系部品を中心に設計変更が生じ、車両重量の設計値超過のため故障が頻発するとともに橋脚のコンクリートに亀裂が発生する事態となり、陸運局からの勧告を受けて1967年9月に休止となった。結果、ドリーム交通と設計した東芝との間で長期に及ぶ訴訟となり、その間に設備劣化が進行したこともあり、訴訟終結後も運行再開されないまま車両などの解体撤去が行われた(その後紆余曲折を経て2003年に正式廃止)。このことから奈良ドリームランドでは、車両更新の際は[[三菱ロジスネクスト|日本輸送機]]にて新車両が製作された。
==== 日本跨座式 ====
{{see also|日立モノレール}}
1967年度に[[運輸省]]が、交通渋滞が悪化した環境でより優れた輸送手段として、モノレールを対象とする「都市交通に適したモノレールの開発研究」を日本モノレール協会に委託した。研究結果として懸垂式と一緒にまとめられたものが、日本跨座式である。
日本跨座式はアルヴェーグ式をベースに、軌道桁を太くし、台車を[[東京モノレール500形電車]]で採用された2軸ボギーの空気ばね台車とし、ゴムタイヤを使用する。アルヴェーグ式よりも床面高さを高くすることで、室内の床を平面にした。しかし、「重心が高くなるために曲線の通過速度が遅くなる」「[[プラットホーム]]と線路床面の落差が2メートル以上となり、転落の際の安全性に問題があり、ホームに転落防止柵設置が必須となる」「車両断面が大きくなるためトンネルを設けるコストが大きくなる」などの欠点が生じた。
この方式は、[[日本万国博覧会]](大阪万博)で[[大阪万博の交通#万博会場内の交通機関|会場内の交通機関]]として採用された。以後に跨座式を採用して開業した路線はすべてこの方式である。
日本国外にも輸出されており、[[中華人民共和国]]の[[重慶軌道交通]]2号線、3号線、[[大韓民国]]の[[大邱都市鉄道公社3号線]]は日本跨座式が採用されている。
日本国内のモノレールは多くの路線が休廃止しているが、本方式を採用した路線は2020年時点でも、大阪万博でのモノレールを除いた全路線が運行を継続している。
<gallery widths="300" style="font-size:90%;">
ファイル:TamaToshiMonorail6061.jpg|日本跨座式の多摩モノレール
ファイル:Tama toshimonorail 1000kei truck.JPG|多摩都市モノレール1000系電車の日本跨座式の動力台車。A空油変換器(ブレーキ用)・Bライニング制輪子・C駆動装置・Dブレーキディスク・E走行輪・F空気ばね・Gモーター・H安定輪に伸びる台車枠のアーム(下に安定輪がある)・I案内輪。
</gallery>
==== ロッキード式 ====
{{see also|日本ロッキード・モノレール}}
ロッキード式は、アメリカ合衆国の航空機メーカーである[[ロッキード]]社が開発した方式である。コンクリート製の軌道の上に鉄のレール(主レール)を敷き、その上を鉄の車輪を使って走行する。鉄製の車輪のため、小径の車輪でも車両の重量を負担することができ、室内の床は平面ですむ。また車体を安定させるために、主レールの頭部側面を左右から上部安定輪でおさえている。さらにコンクリート桁の左右下部にも鉄レール(サイドレール)が設けられており、そのレールを左右から下部安定輪でおさえている<ref name="kouzou">松本豊彦「ロッキード式モノレールの構造概要」『JREA』1964年8月号、[[日本鉄道技術協会]]、21 - 24頁</ref>。
日本では、ロッキード社から技術を導入するため、川崎航空機工業、川崎車両、日本電気、西松建設、[[北海道炭礦汽船]]、[[丸紅飯田]]などが出資した[[日本ロッキード・モノレール]]が1961年5月に設立された<ref name="kouzou"/>。当初は時速160km/hでの高速営業運転が可能である、乗り心地が良い、といった点をアピールポイントとしていた。姫路 - 鳥取間を高速ロッキード式モノレールで繋ぐという計画もあった<ref>[http://himejimonorail.web.fc2.com/index.htm 麗しの姫路モノレール]</ref>。しかし、鉄路であるため騒音が激しく、メンテナンス自体も鉄道並みに煩雑で、経年変化により揺れも激しくなるなど、デメリットが目立ち(当時の記録映像でも車内で揺れが激しいことが見て取れる)、日本以外での導入事例はなく、ロッキード社自体もこのモノレール事業からは早々に撤退した。
この方式は、姫路市交通局(当時、のち[[姫路市企業局交通事業部]]を経て廃止)の[[姫路市交通局モノレール線|姫路市営モノレール]]([[1966年]]開業 - [[1974年]]休止・[[1979年]]廃止)と、[[小田急電鉄]]の[[小田急向ヶ丘遊園モノレール線|向ヶ丘遊園モノレール線]]([[1966年]]開業 - [[2000年]]休止・[[2001年]]廃止)の2路線で採用された。いずれも既に廃止されており、現存路線は存在しない。
<gallery widths="250" style="font-size:90%;">
File:Lockheed monorail.gif|ロッキード式モノレールの軌道と車輪の配置図
ファイル:Odakyu-500.jpg|ロッキード式を採用した[[小田急向ヶ丘遊園モノレール線]]。軌道上に鉄のレールが見える
File:Himeji monorail 202.JPG|ロッキード式を採用した[[姫路市交通局モノレール線|姫路市営モノレール]]の保存車両
</gallery>
==== 逆T字方式 ====
逆T字方式は、中央案内軌条式の[[新交通システム]]と類似した構造を持つ。実用的な交通システムとしては、スペインで開発されたユーロトレン (Eurotren) <ref>[http://members.fortunecity.es/eurotren/index-3.html ユーロトレン]</ref>とアメリカ合衆国で開発された[[アーバノート]] (Urbanaut) がある。逆T字方式は、アルヴェーグ式と異なり、レール上面にタイヤが乗らないために、高さを抑えることができるというメリットがある。
; ユーロトレン
: ユーロトレンは1980年から開発がはじめられた。2.4kmの試験線が作られ、1989年で開発が一段落したとされる。この方式は21世紀初頭現在実用化されていないが、断念されたわけではないらしい。{{要出典|date=2022年10月}}
; アーバノート
: ''{{main|アーバノート}}''
: アーバノートは、アルヴェーグ式の開発にも携わった技術者のエイナー・スヴェンソンがより進んだ跨座式モノレールとして開発した方式である。「タイヤハウスが室内に突出している」「車高が非常に大きい」「[[分岐器]]が大規模なものとならざるを得ない」などの、アルヴェーグ式の重大な欠点を解消することを目的としてデザインされた。[[大韓民国]]で初めてのモノレール「[[月尾海列車|月尾銀河レール]]」路線が2009年に[[仁川広域市|仁川]][[月尾島]]で開通予定だったが、手抜き工事や試運転中の事故多発により安全が保証できずに計画が全面白紙化され、小型の観光用モノレールへ転用された。
=== 案内軌条式鉄道 ===
日本の法律上はモノレールに分類されないが、[[案内軌条式鉄道]]の一部に、一本の案内用軌条を中央に有し重量は別に設けられた走路が負担する[[#逆T字方式|逆T字方式]]モノレールに近い形態の、[[VONA|VONA方式]]を採用した[[桃花台新交通桃花台線]]と[[山万ユーカリが丘線]]がある。[[札幌市営地下鉄]]も類似する札幌方式が用いられている。
== 産業用モノレール ==
{{右|<gallery caption="みかん運搬用モノレール" widths="120px" heights="120px">
File:ミカン用リフトIMGP1578.JPG|車両
File:Monorail for mandarin orange transportation,Shizuoka-city,Japan.jpg|軌条<!--みかん畑のみかん運搬用のモノレール(静岡市由比)-->
</gallery>}}
[[File:たけのこ3008.jpg|thumb|人が乗った、[[タケノコ]]搬出用モノレール<!--登山道に併設された[[タケノコ]]搬出用モノレール([[京都府]][[乙訓郡]][[大山崎町]][[天王山]])-->]]
産業用の簡易輸送施設としてモノレールを使うという発想は古くからあり、起源は不明である。モノレールの嚆矢とされるPalmer式モノレールも産業用モノレールとして始まっており、その後も多くの同様の趣旨で作られた路線があった。ここでは、もっぱら産業用として限定的に開発されたモノレールの系譜についてまとめる。
遅くとも1949年に、交通機関としてではなく不整地での工事用・工場内での物資輸送などを主な目的とする産業用モノレールが開発され商品として販売された。同年に、イギリスのレール・マシンズ・リミテッド (Rail Machines Ltd.) から発売されていたという記録がある<ref>[http://www.irsociety.co.uk/Archives/16/Monorail.htm The Industrial Railway Record : an Industrial Monorail.]</ref><ref>[http://www.freewebs.com/railmachinesltd/ Rail Machines Ltd.]</ref>。この産業用モノレールは、特許取得の記録が残されており、それなりに商業的にも成功をおさめたようである。
日本では、1966年に、当初は主に[[ウンシュウミカン|みかん]]を初めとする果樹栽培の、急傾斜地での労働軽減を目的とした[[農業]]用モノレールが[[ニッカリ]]と米山工業株式会社<!--[http://www.yonekou.jp/ 米山工業株式会社]-->によって開発・販売された。これらは摩擦ではなく[[ラック・アンド・ピニオン]]で車両を駆動するようになっている。速度が遅いという欠点はあったものの、勾配に強く、最大45度まで許容できた。
この農業用モノレールは、基本的に物資輸送用であり人間が乗ることは想定されていなかった。しかし、その物資輸送用モノレールに無理やり乗車する者が後を絶たず、しばしば死傷事故を引き起こした。そのため、「乗車することを止められないのならば、安全に乗車できるシステムを」という方向で、農林水産省・厚生労働省・経済産業省なども参加して安全基準などを定める方向に至った。
その後、人員輸送用にも使えるものや、急傾斜地の工事現場で作業用道路が不要となることが注目されて[[コンクリート]]などの資材や小型重機などの運搬ができるものなど、高性能で安全なものが開発されるようになり、多くの会社で製品化されている。
物資運搬用以外にも、[[長崎市]]の[[斜面移送システム]]のような自動車道路の建設が困難な地域での生活の足や、老齢者の福祉介護用、山岳地帯の送電塔などの保守用、急傾斜を登らなければならない展望観光地の観客輸送・バリアフリー施設用などにも用途が広がっている。日本国外でも農業用<ref>[http://www.clemens-online.com/index.DE.php?cnt=p4110&nav=m203 ドイツにおける米山工業・ニッカリモノラックの使用事例とレールの敷設風景(ドイツ語)]</ref>、パイプラインの敷設<ref>[http://www.nikkari.co.jp/support/pdf/ecuador.pdf エクアドルにおけるパイプラインの敷設]</ref>など産業用モノレールとして使用実績もある。
これらの中には、重量物輸送用の高性能タイプなど主軌条のほかにバランスを取るための副軌条を持つシステムもあり、厳密には「モノレール」とは呼べないものも含まれている。しかし副軌条を持つものを含めて、おおむね「産業用モノレール」としてまとめられている<ref>[http://www.iida-uniper.co.jp/dm/products11.html 例1]・[http://www.nikkari.co.jp/product/monorack/type_08.html 例2]</ref>。
産業用モノレールの主な銘柄としては、以下のものがある。
* モノラック([[ニッカリ|株式会社ニッカリ]]/[http://www.yonekou.jp/ 米山工業株式会社]) - 日本国内農業・産業用モノレールトップシェア{{いつ|date=2014年6月}}
* エルタラインキャリア([http://elta.jp/ 株式会社エルタ])
* オートワゴン([http://www.monorail-masatomi.com/ 株式会社 正富])
* ハイラック([http://iida-uniper.co.jp/ 飯田ユニパー株式会社])
* ゴーリキ([http://www.koei-m.co.jp/ 光永産業株式会社])
== 簡易型モノレール ==
[[File:Mini monorail Gontan at Ikuseikai Hospital.jpg|250px|thumb|横浜病院の「ごんたん」(横浜市[[保土ケ谷区]])]]
[[遊園地]]のアトラクションや[[博覧会]]場内の移動用としての簡易なモノレールもさまざまな会社で製造されている。
横浜市[[保土ケ谷区]][[狩場町]]にある育生会横浜病院のモノレールは、[[国道1号]]([[権太坂]]上[[バス停]]付近)と高台にある病院を結ぶ。病院が高台へ移転した際に、[[鉄道ファン]]の理事長の発案で設置された。ちよだ製作所(香川県高松市)の製造である。病院公式サイトでは、名物モノレール「ごんたん」として紹介されている。当初の塗色はクリーム色と黄緑色のツートンカラーであったが、2016年に[[湘南電車]]の色に変更され、下り側に「[[急行列車|急行]] [[東海 (列車)|東海]]」の[[ヘッドマーク]]シールが貼付され、上り側は病院グループのマークシールが貼付されている。<ref>[http://ikuseikai-yokohama.com/monorail 名物モノレール「ごんたん」] 育生会横浜病院</ref>
つくばで行われた[[国際科学技術博覧会]]の会場内交通機関として使われた「[[つくば科学万博の交通#ビスタライナー|ビスタライナー]]」を製造した[[泉陽興業]]は、同システムを発展させた「ニュービスタライナー」をローコストで軽量級の交通機関として提案している<ref>[http://www.senyo.co.jp/products/1724/ 輸送施設 ビスタライナー] - 泉陽興業、2018年5月16日</ref>。同様に、スイスを拠点とする遊戯施設メーカー・[[インタミン]]も実用モノレールをラインナップしており<ref>[http://www.intamintransportation.com/itl/index.php?option=com_content&task=blogcategory&id=25&Itemid=43]</ref>、[[モスクワ]]や中国[[深圳市|深圳]]での採用実績がある。イギリスに本拠を置く遊戯施設メーカー・[[セヴァーン・ラム]]もSLシリーズという実用モノレールを製造しており、アミューズメントパークの交通機関だが、[[イタリア]]のサヴォイで採用実績がある。
{{-}}
== かつて考案された古典的な方式 ==
モノレールあるいはモノレールに類似した交通システムには、考案されたが実現しなかったもの、ごくわずかな実例しか存在しなかったもの、一時期はある程度普及したがその後廃れたもの、などがたくさん存在する。一部を歴史順に記す。
=== パーマー式 ===
[[ファイル:PalmersSchienenweg.JPG|right|250px|thumb|{{仮リンク|フリードリッヒ・ハーコート|de|Friedrich Harkort}}によるパーマー式モノレールの図解]]
高い位置にレールを通し、そこから車両をぶら下げる懸垂式モノレール。荷台・客室は左右に振り分けられ、バランスを取っていた。{{仮リンク|ヘンリー・ロビンソン・パーマー|en|Henry Robinson Palmer|label=ヘンリー・ロビンソン・パーマー(Henry Robinson Palmer)}}が開発したもので、[[1821年]]11月22日にイギリスで特許が登録されている。[[1824年]]にロンドンのデプトフォード造船所に荷物輸送用のものが作られ、翌[[1825年]]に[[ハートフォードシャー]]に旅客輸送用モノレールが開設された。のちにランゲン式を採用した[[ヴッパータール空中鉄道]]を建設することになるヴッパータールでもパーマー式モノレールの導入が検討されたが、実現はしなかった。当初の動力は馬・人・ラクダ(北アフリカ産)などだったが、詳細不明ながら遅くとも[[1878年]]頃までに蒸気動力が導入されていたことがわかっている<ref>[http://www.aqpl43.dsl.pipex.com/MUSEUM/LOCOLOCO/bradford/bradford.htm The Bradford monorail]{{リンク切れ|date=2020年4月2日}}</ref>。
本方式が一般的に「世界最初のモノレール」とされている。
=== ユーイング式 ===
[[ファイル:Monorail steam train.jpg|right|150px|thumb|ユーイング式]]
1本のレールに車体が乗り、車体の片側に取り付けられた幅広の車輪で支持して転倒しないようにして走行する方式。19世紀後半(1868年頃?)にイギリス人発明家のチャールズ・ユーイング (Charles Ewing) により考案されたものと考えられている。ユーイング式は、線路に全重量の95%程度がかかるように設計されており、走行抵抗は通常の鉄道と大差ない程度におさえられている。レールを1本しか必要としないため敷設コストが節約できるほか、線路が占有する幅員が狭いために道路と同居しやすいという利点があった。案内は一本の軌条が行うが、全重量をその軌条が負担するわけではなく、厳密には案内軌条式鉄道に分類される。
本方式はイギリス人のウィリアム・サロルド (William Thorold) が具体化し、[[インド]]の[[パティアーラ州]]立鉄道 (PSMT) に導入された。PSMTは1910年に開通した路線で、馬力鉄道として開通したのちに[[オーレンシュタイン・ウント・コッペル]]社製造の蒸気機関車が導入され、全盛期は2路線で80kmの行程であった。
PSMTは道路の改良と自動車の出現によって1927年に廃止され、長らく存在が忘れられていたが、1962年に再発見された。後年に車両は保管されてインドの[[国立鉄道博物館 (ニューデリー)|ニューデリー鉄道博物館]]で動態保存されている。
=== リロイ・ストーン式 ===
[[ファイル:Rstone-mono2.jpg|right|150px|thumb|リロイ・ストーンのセンテニアル・モノレール]]
[[1876年]]に行われたアメリカ合衆国建国百年記念博覧会の会場に[[センテニアル・モノレール]]として設置されたものであり、極初期、あるいは最初の跨座式モノレール。リロイ・ストーン将軍(General Leroy Stone)により考案された。A字型の橋脚の上に一条、下に左右に二条のレールを持ち、上の車輪で車重を支え下の車輪でバランスを取る方式である。3点で車体を支える方法は跨座式モノレールのひとつの様式となり、その後の[[#ラルティーグ式|ラルティーグ式]]・[[#アルヴェーグ式|アルヴェーグ式]]・[[#ロッキード式|ロッキード式]]などにも踏襲されている。
本方式は、すべての車輪は両フランジで、動力は蒸気である。その後の「跨座式」と類似のレイアウトであり、すでに全高が高くなる欠点が顕在化していた。下側車輪の左右に垂れ下がった車体の部分を機関車では水槽や炭庫として使い、客車ではそこにも客席を設けてダブルデッカー構造としてスペースを有効に活用すべく努力した形跡が認められる。{{clear|right}}
=== ラルマンジャ式 ===
[[ファイル:MonorailLarmanjat-Raincy Montfermeil-1868.jpg|right|250px|thumb|ラルマンジャ式]]
中央の一本のレールを誘導用として使用し、両側に取り付けられた[[フランジ]]の無い幅広の車輪で駆動・支持して走行する方式。両側の車輪は木製の板の上を走行する。フランスのジャン・ラルマンジャ (Jean Larmanjat) により考案された。案内は一本の軌条が行うが、全重量をその軌条が負担するわけではないため、厳密には案内軌条式鉄道に分類される。
類似した発想に基づくユーイング式では一条の鉄軌道が大半の重量を負担したが、ラルマンジャ式はそうはなっていない。鉄軌条は、全車両の案内と機関車など重量車両の重量の大半の負担を受け持っていたが、客車などの軽量車両はその重量の大半を側車輪が負担するようになっていた。客車は、馬車などに中央の鉄軌条による案内を付け加えたような構造となっていた。
[[1868年]]8月にフランスでイベント用交通機関として実用化され15か月間使用されたという記録が残っているが、詳細は解明されていない。
その後、1870年代に[[リスボン]]の市街鉄道で使用された。両側の走行用の板が早く傷んでしまい、乗り心地も悪かったため普及に至らなかった。
=== マイグス式 ===
[[ファイル:Meigs Elevated train.jpg|right|200px|thumb|マイグス式]]
上下に1本ずつ計2本全4面を持つレールを設置し、下部のレールを外側に傾いて設置された車輪で両側から挟み込んで車重を支え、上部のレールを水平に設置された車輪で両側から挟み込んでバランスを取る方式の跨座式モノレール。アメリカのジョー・V・マイグス (Joe V. Meigs) により考案されたもので、[[1886年]]に[[マサチューセッツ州]]の[[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]で試験的に使用された。これは都市での高架鉄道の試行のひとつであり、ルート28の上に敷設された<ref>[http://www.catskillarchive.com/rrextra/odmeig.Html サイエンティフィックアメリカン誌 (July 10, 1886) の解説記事アーカイヴ]</ref>。
一般に跨座式モノレールの場合、軌道桁の上面で車両重量を支えるが、マイグス式では軌道桁の下部で支えている。そのため軌道桁から床面までの距離を詰められるという特徴があった。この考え方は、のちの「[[#逆T字方式|逆T字方式]]」と呼ばれる方式のモノレールにも共通するものである。
=== ラルティーグ式 ===
[[ファイル:Lartigue Lokomotive.png|right|200px|thumb|ラルティーグ式]]
A字型の支柱の上と支柱の下の左右に合計3条のレールが設けられており、上のレールで車輌重量を支え下のレールで車体を安定させるという方式。アルジェリアなどでパーマー式懸垂式モノレールの建設に携わっていたシャルル・ラルティーグ (Charles Lartigue) が開発したもので、これは跨座式モノレールとしてはポピュラーな様式であり、アメリカ合衆国建国百年博覧会で披露された[[#リロイ・ストーン式|リロイ・ストーン式モノレール]]などの先例がある。
1888年3月1日にリストウェル・パリブニオン鉄道([[アイルランド]]・[[ケリー県]])の14.4kmの路線が開通した。動力は蒸気で、3軸式の機関車が用意された。この路線は1924年に[[アイルランド内戦]]によって破壊されたことから廃線となった。2002年は短い区間ではあるが観光目的で復元され、レプリカの車両で運転されている<ref>[http://www.monorails.org/tMspages/Listowel.html リストアされたラルティーグ式モノレール]</ref>。機関車は蒸気機関車風の外装になっているが、ディーゼル機関車である。
他に営業に使われた路線としてはフランスのフュール=パニシエル鉄道がある。開通は[[1893年]]で、延長は16.9キロだった。この路線は[[1902年]]に廃止された。蒸気機関車が1両、保存されている。
最後のラルティーグ式モノレールは、1924年にアメリカ合衆国[[カリフォルニア州]]のマグネシウム鉱山・クリスタルヒルとトローナの鉄道駅との間を結んだものだったと考えられている。こちらでは内燃機関を積んだ機関車が使われた。これは20世紀後半になって開発された産業用モノレールに酷似していた。
ラルティーグ式の欠点は踏切が作れないことで、踏切を設けざるを得ない場所では必要に応じて線路を取り外すという方法が採用されていた。[[分岐器]]は最後まで開発されず、やや湾曲したレールを持つターンテーブルによって代替されていた。
=== ボイントン式 ===
[[ファイル:City Island monorail car.JPG|right|200px|thumb|ボイントン式]]
アメリカのイーベン・ムーディー・ボイントン (Eben Moody Boynton) により考案された方式で、上下に1本ずつ計2本のレールを設置し、下部のレールに車重がかかり、上部のレールで車体を支持する方式である。跨座式にも懸垂式にも分類できない。レールを2本有し厳密にはモノレールではないが、一般的に黎明期のモノレールの一種と理解されている。
1890年に[[コニーアイランド]]付近の廃止された線路を流用した路線でボイントン自転車鉄道 (Boynton Bicycle Railway) がこの方式のデモンストレーションを行った<ref>[http://www.catskillarchive.com/rrextra/odboyn.Html サイエンティフィック・アメリカン誌 (March 28,1891) のアーカイヴ]</ref>。
1910年から1914年にかけて、[[ニューヨーク|ニューヨーク市]][[ブロンクス区|ブロンクス]]のペラム公園 & シティアイランド鉄道 (Pelham Park and City Island Railroad) で採用されたが、脱線事故を起したことから短命に終わった。右写真はこの時期の電車。
後にイギリスのエルフリック・カーニー (Elflic Kearney) が改良型を考案し、ロンドンの地下鉄用に提案した。
=== ジャイロスコープ式 ===
[[ファイル:Einschienerp.jpg|right|150px|thumb|ブレナン式]]
''{{main|ジャイロモノレール}}''
オーストリアのルイス・ブレナン (Louis Brennan)、ドイツのアウグスト・シェールル (August Scherl)、ロシアのピョートル・シロフスキー (Piotr Schilovski) によってそれぞれ[[1900年]]頃考案された。1本の通常のレールの上を無支持で走行する。レールを1本に減らせば摩擦力が半減し、その分速度を倍増でき、高速走行時の[[蛇行動]]もなくなるという理論の元で考案された方式である。大型の[[ジャイロスコープ]]が車体に搭載され、車体の傾きに応じてジャイロスコープの軸が傾き、[[ジャイロ効果]]による復元力でバランスを取る仕組みになっている。シロフスキー式は[[1921年]]にソ連の[[サンクトペテルブルク|レニングラード]]から[[ツァールスコエ・セロー]]までの建設が、ブレナン式はインドの北西部での建設がそれぞれ検討されたが、資金難により実現しなかった。
ジャイロその他の装置に多くの費用が掛かることが欠点である。鉄道車両の走行抵抗は[[転がり抵抗]]と[[空気抵抗]]からなり、後者は速度の2乗に比例する(すなわち速度が2倍になると空気抵抗は4倍になる)。そのため、レールを1本に減らしたところで速度を倍増するほどの効果はない。反動トルクを打ち消すために複数のジャイロを使用する場合、ジャイロごとの大きさや回転数が異なればそれによってモーメントが発生し、姿勢制御にも影響する。逆にジャイロの回転数を積極的に加減することで曲線通過時に車体を内傾させるなど、能動的に姿勢を変える方法もある。
=== ラウル式 ===
ランゲン式と同じような発想の非対称型懸垂式構造のモノレールだが、推進装置を台車に組み込まずプロペラで推進するというもの。フランスで[[1919年]]頃試験線が建設されたが、詳細な記録は残されていない。
1930年にジョージ・ベニー (George Bennie) が改良型の試験線を[[グラスゴー]]近郊のミルンギャヴィー (Milngavie) に建設した。こちらの方は[[ベニー・レールプレーン|レールプレーン]] (Railplane) と呼ばれ、最高時速120マイルを目指して計画された。レールプレーンは、安定性を確保するために下部にもう1本振れ止めのレールを追加しており、厳密にはモノレールではない(下部レールは車体重量は負担しない)。当時、日本にも「軌道飛行機」として紹介された。[[第二次世界大戦]]の金属供出のため、試験線は[[1941年]]に撤去された([[1950年代]]という説もある)<ref>[https://web.archive.org/web/20070814062218/http://www.baldernock.btinternet.co.uk/images/Bennie/ グラスゴー試験線の画像がある外部サイト]</ref>。
のちに、フランスでプロペラ(のちジェットエンジン)を推進装置として使用した[[アエロトラン]]が開発され実験された。こちらは懸垂式ではなく、走路の上に車体が乗る[[案内軌条式鉄道]]に類似していた。アエロトランも実用化はされなかった。
=== スカイウェイ ===
[[ファイル:Skyway-mono.jpg|right|150px|thumb|スカイウェイ]]
ランゲン式と類似した発想の非対称型懸垂式構造のモノレールだが、ゴムタイヤを使っている。[[1956年]]にアメリカ合衆国のヒューストンに試験線が作られ<ref>[http://blogs.chron.com/bayoucityhistory/2008/10/when_monorail_came_to_houston.html Bayou City History]</ref>、8か月のテストののちに解体されダラスに移転<ref>[http://blogs.dallasobserver.com/unfairpark/2008/12/to_be_honest_im_not.php Dallas Observer blog]</ref><ref>[https://books.google.co.jp/books?id=L8px7TLGwB4C&pg=PA86&lpg=PA86&dq=Houston+skyway+monorail+1956+-%22Skyway+Travel%22&source=bl&ots=_2uy48TNU1&sig=4bv5gXfJB9qPl7FWCe0btL2pLHY&hl=ja&ei=TpkrSsX_O8yfkQXw663xCg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=17 86p of Dallas Landmarks]</ref>、しばらく使われた。
動力は310馬力の内燃機関を2台搭載しており、案内はレール上面に設けられた板状のガイドレールによって行われた<ref>[https://images.google.com/hosted/life/l?imgurl=596f8770af5e4a2f&q=Monorail-Houston%20source:life&prev=/images%3Fq%3DMonorail-Houston%2Bsource:life%26ndsp%3D20%26hl%3Dja%26sa%3DN%26start%3D120 Photograph of LIFE archive]</ref>。運転士はレール下のキャビンではなくレール上の台車に搭乗して運転した<ref>[https://images.google.com/hosted/life/l?imgurl=04f194cd0a6a09b8&q=Monorail-Houston%20source:life&prev=/images%3Fq%3DMonorail-Houston%2Bsource:life%26ndsp%3D20%26hl%3Dja%26sa%3DN%26start%3D100 Photograph of LIFE archive]</ref>。想定での最高速度は160km/hであり、都市近郊([[インターアーバン]])や都市間の高速交通機関として使うことを想定して作られたが、実用化されることはなかった。
{{clear|right}}
=== ロープモノレール ===
ロープモノレールは、軌条に金属レールではなくワイヤー状の鋼索を用いた日本の[[東京索道]]が開発したものである。形状から[[ロープウェイ]]とどちらに分類されるかは議論が残るが、動力を車両に持つという点でモノレールに分類される。
動力は電気ではなく、唯一の実例である五台山ロープモノレールは[[ディーゼルエンジン]]であるように[[内燃機関]]を採用して車両となるゴンドラに装備し、鋼索軌道にかかるローラーを駆動することで走行する。このためゴンドラは、一般的な鋼索ロープウェイと異なり[[気動車]]に分類される。スカイレールとは逆で軌条はロープであるが動力は各車に搭載しているため、通常のロープウェイと異なり状況に応じて各ゴンドラの走行速度を調整することができる。安全な運行には信号設備が不可欠であるが、他種のモノレールより敷設コストが安く、電化も不要である。
[[1969年]]に[[高知市]]の[[五台山_(高知市)|五台山]]に観光用として[[五台山ロープモノレール]]が敷設されたが、当時の定期観光バスのルートから外れていたため集客に苦慮し、[[1978年]]に廃止となった。
東京索道は五台山ロープモノレールの開発と建設に約50件の特許を取得したと言われるが、以降、この種の鉄道・軌道線は海外も含め建設されていない。
== 年表 ==
{{main2|日本のモノレール|日本のモノレール#歴史}}
* [[1820年]]頃、ロシアのモスクワ近郊の村Mychkovoでロシア人技術者イワン・エリマノフ({{lang|ru|Иван Кириллович Эльманов}}; Ivan Kirillovich Elmanov)が馬に引かせるタイプのモノレールを発案したとする記録がある。ただし、それが実用化されたのか、どのような構造のものかなどは、不明<ref name="rus">[http://izmerov.narod.ru/monor/ The unknown russian monorail.]/[http://www.darkroastedblend.com/2009/04/one-track-wonders-early-monorails.html Early Monorails.]</ref>。
* [[1821年]]11月22日にイギリスのヘンリー・ロビンソン・パーマーが[[#パーマー式|パーマー式モノレール]]の特許を申請。これは懸垂式のもので、動力は馬である。[[1824年]]に貨物用として実用化、[[1825年]]に旅客用が開通した。
* [[1829年]]にマクセル・ディックが軌道レールの下にレールを付加して転落を防止するように改良し、特許を申請。
* [[1868年]]にバラクロウフ・フェルが跨座式と懸垂式をミックスしたような方式のモノレールを考案、バロー・イン・ファーネス近郊で、鉄道駅との間で利用開始。動力は馬であった。
* [[1868年]]、フランスで[[#ラルマンジャ式|ラルマンジャ式モノレール]](案内軌条式鉄道)が15か月にわたって試用された。この方式は[[1870年]]頃にリスボンにも導入された。
* [[1869年]]にJ・L・ハッドンが、[[シリア]]でモノレールを建設。これは、通常の鉄道だと[[砂漠]]の砂で線路が埋まってしまうためである。
* [[1872年]]に[[リヨン]]の[[リヨン国際博覧会]]で会場内で利用される。
* [[1876年]]、アメリカ合衆国フィラデルフィアで開催されたアメリカ合衆国建国百年博覧会に[[#リロイ・ストーン式|リロイ・ストーン式モノレール]]が登場しデモンストレーションが行われた。跨座式で動力は蒸気。
* [[1878年]]、アメリカ合衆国[[ペンシルベニア州]]に6.4キロ長の工事用モノレールが作られたとの記録が残されている。1本の上にまたがり左右の重量バランスを取って走る方式で、蒸気を動力とする。機関車のボイラーが爆発事故を起こしたことから早々に廃線となった。
* [[1886年]]、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ケンブリッジで[[#マイグス式|マイグス式モノレール]]が建設された。独特の構造を持つ跨座式で、動力は蒸気。
* [[1887年]]、アメリカ合衆国ニュージャージー州で懸垂式モノレールが建設された。後に実用化される[[#ランゲン式|ランゲン式モノレール]]に類似したもので、電化された最初のモノレールでもあった。
* [[1888年]]、アイルランド・[[ケリー県]]で跨座式の一種[[#ラルティーグ式|ラルティーグ式]]を採用したリストウェル・パリブニオン鉄道が開業。1924年に内戦によって被災し廃線になるまで実用的交通機関として機能した。動力は蒸気。
* [[1890年]]、アメリカ合衆国で[[#ボイントン式|ボイントン式モノレール]]が提案され、デモンストレーションが行われた<ref>[{{NDLDC|2945420/4}} 「外報」『官報』1890年9月17日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。動力は蒸気。
* [[1900年]]頃、[[#ジャイロスコープ式|ジャイロスコープ式モノレール]]が提案された。これは1本のレールの上に自立するもので、懸垂式にも跨座式にも分類できない。提案されたにとどまり、実用化はなされなかった。
* [[1900年]]、ロシアの発明家イッポリト・ロマノフ({{lang|ru|Ипполита Владимировича Романов}} Ippolit Vladimirovich Romanov)が開発した懸垂式モノレールが、現在のレニングラード州に属する[[ガトチナ]]市に作られたという記録がある<ref name="rus" />。延長は0.2キロの試験的なもので、電気動力を採用していた。
* [[1901年]]、ドイツで懸垂式の[[#ランゲン式|ランゲン式]]を採用した[[ヴッパータール空中鉄道]]が開業した。電気動力を採用。この路線は、世界最古の実用モノレールとして21世紀初頭現在も盛業中である。
* [[1910年]]、アメリカ合衆国ニューヨーク市ブロンクスで[[#ボイントン式|ボイントン式]]を採用した路線が開通した。動力は電気。この路線は1914年に廃止された。
* [[1910年]]、インドのパティアーラ州に[[#ユーイング式|ユーイング式モノレール]](案内軌条式鉄道)が開業した。州立鉄道のシステムとして採用されたもので、1927年まで実用的な交通機関として使われた。動力は蒸気。
* [[1911年]]、アメリカ合衆国[[ワシントン州]]シアトルでウィリアム・ボイエスがモノレールを試作している。木製の軌道を採用して大胆に建設費用の低減をはかったが、実用化しなかった。
* [[1914年]]、イタリアの[[ジェノヴァ]]で博覧会向け交通システムとして跨座式モノレールが作られた。これはのちの[[#アルヴェーグ式|アルヴェーグ式]]に類似していた。
* [[1919年]]、フランスで[[#ラウル式|ラウル式モノレール]]の試験線が建設された。これはランゲン式と類似の支持方式を持つ懸垂式モノレールで、駆動方法はプロペラだった。
* [[1924年]]、アメリカ合衆国カリフォルニア州で最後のラルティーグ式モノレールが開業。マグネシウム鉱山の産業用軌道である。
* [[1930年]]、イギリスで[[#ラウル式|ラウル式モノレール]]を改善した形式のモノレールの試験線が建設された。「ジョージ・ベニーのレールプレーン」と呼ばれたが、実用化しなかった。
* [[1952年]]、[[#アルヴェーグ式|アルヴェーグ式モノレール]]の試験線が建設された。アルヴェーグ式はその後の跨座式モノレールの基本となったもの。
* [[1956年]]、アメリカ合衆国テキサス州ヒューストンに懸垂式の「スカイウェイ」と呼ばれるモノレールの試験線が建設された。ランゲン式をアレンジしたような様式のもので動力は内燃機関。8か月のテストののち、このモノレールはダラスに払い下げられ、「[[トレイルブレイザー (モノレール)|トレイルブレイザー]]」として1964年まで使われた。
* [[1957年]]、日本で懸垂式の[[#上野式|上野式]]モノレールが開業した。
* [[1957年]]、アルヴェーグ式モノレールの開発が一段落し、発表された。
* [[1959年]]、アメリカ合衆国のディズニーランドがアルヴェーグ式モノレールを実用的交通機関として開業した。
* [[1960年]]、フランスに[[#サフェージュ式|サフェージュ式モノレール]]の試験線が建設された。この試験はその後7年にわたって行われた。
* [[1961年]]、イタリアのトゥーリンでアルヴェーグ式モノレールが開業。
* [[1962年]]、アメリカ合衆国のシアトルでアルヴェーグ式モノレールが開業。
* [[1964年]]、日本の[[東京都|東京]]でアルヴェーグ式の東京モノレールが開業。
* [[1964年]]、アメリカ合衆国ニューヨークの万国博覧会でIビーム懸垂式のモノレールが使われた。
* [[1966年]]、日本の[[川崎市|川崎]]と[[姫路市|姫路]]で跨座式の[[#ロッキード式|ロッキード式モノレール]]が開業。
== 世界のモノレール ==
{{Main|モノレールの一覧}}
=== 世界記録 ===
* 乗降客数世界最多の路線: [[重慶軌道交通3号線]]、乗降客数1日当り682,800人 (2014年平均)<ref name=record>{{cite web|url=http://cq.cri.cn/115/2014/11/21/5s720.htm|title=重庆轨道3号线成世界上最繁忙的单轨线|publisher=国际在线|accessdate=2014-11-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141205072828/http://cq.cri.cn/115/2014/11/21/5s720.htm|archivedate=2014年12月5日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>
* 世界最大の路線網:[[重慶軌道交通]](2・3号線)、80.0km<ref>http://news.163.com/13/1012/21/9B12OUDB00014AEE.html</ref>
* 世界最長の跨座式モノレール路線:[[重慶軌道交通3号線]]、55.5km<ref>http://www.cqmetro.cn/wwwroot_release/crtweb/ztbd/shx/index.shtml</ref>
* 世界最長の懸垂式モノレール路線:[[千葉都市モノレール2号線]]、12.0km
* 現在営業中の世界最古の路線: [[ヴッパータール空中鉄道]]、1901年開業
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 『モノレールと新交通システム』[[佐藤信之]]著 ISBN 4-87687-266-X
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Monorail|Monorails}}
{{div col|2}}
* [[モノレールの一覧]]
* [[日本のモノレール]]
* [[w:3D Express Coach|3D Express Coach]]
* [[ベニー・レールプレーン]]
* [[ホッチキス自転車鉄道]]
* [[w:Jim Wilson (Los Angeles)#Public transit|Monorail plan for the Los Angeles River, California]]
* [[w:Rail transport in Disney Parks|Rail transport in Disney Parks]]
* [[w:SkyTran|SkyTran]]
* [[スロープカー]]
* [[w:Suspension railway|Suspension railway]]
{{div col end}}
* {{ill2|モノラック|en|Monorackbahn}} - モノレール・[[ラック式鉄道]]。歯車式のラック式鉄道型のモノレールで山などでも使えるため産業用として利用される。
{{公共交通}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ものれえる}}
[[Category:モノレール|*]]
[[Category:公共交通]]
[[Category:名数1|れえる]] | 2003-03-06T14:54:50Z | 2023-12-26T22:27:18Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB |
3,534 | 占星術 | 占星術(せんせいじゅつ)または占星学(せんせいがく)は、太陽系内の太陽・月・惑星・小惑星などの天体の位置や動きなどと人間・社会のあり方を経験的に結びつけて占う(占い)。古代バビロニアを発祥とするとされ、ギリシア・インド・アラブ・ヨーロッパで発展した西洋占星術・インド占星術と、中国など東アジアで発展した東洋占星術に大別することができる。占星術が非科学的である主な理由としては反証可能性がないためである。
古代バビロニアで行われた大規模な天体観測が起源であり、ギリシア・インド・アラブ・ヨーロッパ・中国へ伝わったといわれている。おもに国家や王家の吉凶判断に使われた。バビロニア占星術は紀元前3世紀頃にギリシアに伝わり、個人の運勢を占うホロスコープ占星術に発展した。占星術を指す単語は、古典ギリシア語のアストロロギア(astrologia)に由来する。アストロロギア(astrologia)のアストロ(astro)という接頭辞は古典ギリシア語の astron 星でありastrologiaとは星について考えたことという意味になる。アストロノミア(astronomia、英語のastronomy)天文学とはastrologiaのなかで星の動きなどについての学問であった(nomos は秩序の意味)。ちなみに、astrologistは占星術者である。
西洋占星術の起源はバビロニアにあった。バビロニアでは、紀元前2千年紀に天の星々と神々を結びつけることが行われ、天の徴が地上の出来事の前兆を示すという考えも生まれた。『エヌーマ・アヌ・エンリル』(Enuma anu enlil, 紀元前1000年頃)はそうした前兆をまとめたものである。ただし、当時前兆と結び付けられていた出来事は、専ら君主や国家に関わる物事ばかりで、その読み取りも星位を描いて占うものではなく、星にこめた象徴的な意味(火星は軍神ネルガルに対応していたから凶兆とするなど)を読み取るものに過ぎなかった。 前332年にアレキサンダー大王によって占領された後、エジプトはギリシャの支配下にあった。そして、ヘレニズム文化が栄える中で、初めて本格的にホロスコープを用いる占星術が現れた。出生時における星々の位置から個人の星位図をトレースする試みが普及したことは、西洋占星術へのギリシャ人の最大の貢献である。このシステムは「ホロスコープ占星術」と名付けられた。アセンダント(後述)はギリシャ語で「ホロスコポス」とも呼ばれていたからである(星位図そのものを「ホロスコープ」と呼ぶようになったのは、これが語源である)。ギリシャで大いに発展したとはいえ、その大部分はバビロニアからもたらされたものであった。
インド占星術は、ナクシャトラを用いたインド固有の占星術で、白道上の月の位置に着目し、天の黄道を27分割に分けた物で占う占星術だったが、ヘレニズム時代に太陽と月、5惑星とラーフ、ケートゥといった九曜、十二宮と十二室に基づくホロスコープ方式の占星術を取り入れて、現在のナクシャトラ(白道二十七宿)と黄道十二宮を併用した形になったと言われているが、古い時代のことなのではっきりしたことはわかっていない。 また仏教に取り入れられたものは、簡略化(月の厳密な度数で決めず、1日に1つというように割り当てる)・仏教化し 『宿曜経』 にまとめられ、密教の一部として中国に伝えられた。さらに、平安時代には日本にも伝えられて宿曜道となった。
古代中国において「天文」とは、古代世界の他の文明でもそうであったように、狭義の天文学と観測される天象による占いとが渾然一体となったものであった。バビロニア占星術とは異なり、天体の配置ではなく日食、月食、流星、彗星、新星や超新星の出現、そして星の見え方など天変現象に注目したものであった。これは天変は天が与える警告であるという「災異説」の思想に則ったものである。これは現代で天変占星術とよぶ人もいる。
ただしバビロニア起源と考えられる黄道十二宮を使った占星術の影響を受けて成立したと考えられる六壬神課の基本構造が戦国-秦-漢の時代には確立していた。六壬神課の式盤はサインとハウスで構成されたホロスコープに中国独自の十二天将を配布したものを表現している。この後、唐の時代にインド占星術を漢訳した『宿曜経』が伝来し、七政四餘となった。『宿曜経』は当時の日本でも受容され宿曜道となった。しかしその後は実際の天文観測情報が国家に独占されたこともあり、煩雑な天文計算の必要がない暦をベースとした占術が主流となって行く。
現代では主に自身の性格やそれに基づいた相性を知るために利用する人がいる。現代心理学にはビッグファイブといったものがあるが、占星術の本は天文学の本よりもよく売れていて、1997年12月27日にはイギリス最大の発行部数を誇る新聞の『デイリー・メイル』は、一面トップで占星術の記事を載せたことがある。
あるアンケート調査によれば、新聞の星占いを読んでも実際には信じていない人が大多数で、星占いは単なる楽しみであるという。しかし、信頼のできそうな報告によると、これとは異なる結果を示し、かなりの数の人々が本当に星占いを信じ、それに従って行動をしているという。
また、占星術師は新聞や雑誌で仕事を行うことがあるが、その仕事内容は、ほとんど訓練や技術を必要としないため、暇を持て余した若い記者に回されることが多い。
似たような話に合理主義者の手品師であるジェームズ・ランディの若い頃のものがある。ランディはゾランというペンネームで、モントリオールで発行されている新聞の占星術師の職を得た。ランディは、昔の星占いの雑誌を持ってきて、その予言をはさみで切り取り、適当にかき混ぜて、12の星座のもとにランダムに貼り付け、予言として紙面に載せていた。ランディはあるとき、2人組のサラリーマンが昼休みにカフェで、「ゾラン」の占いを熱心に読みつつ会話をしているところを耳にした。
もともと、占星術(astrology)と天文学(astronomy)は深い関係があった。さまざまな経緯を経て、長い長い時代を経て、徐々に距離ができ、現代では占星術と天文学は別のものになっている。天文学は、途中まで占星術とともに、プトレマイオス以来の地球中心説(天動説)の宇宙観のもとに発展した。途中からコペルニクスの『地動説』が登場し、そのあたりから分化が始まったのである。やがて伝統的占星術は廃れ、現代占星術として復活することとなる。
占星術は天文学の母胎でもあった。ケプラーの法則で有名なヨハネス・ケプラーは天文学者・数学者であると同時に、占星術師でもあった。ドイツ観念論を代表する哲学者ヘーゲルは、大学教師の職に就くための就職論文Dissertatio philosophica de Orbitis Planetarum. (『惑星の軌道に関する哲学的論考』通称『惑星軌道論』)において、惑星の運動を本質的に解明したのは、物理学的に解析したニュートンよりもむしろケプラーであると評した。
そしてケプラーは「このおろかな娘、占星術は、一般からは評判のよくない職業に従事して、その利益によって賢いが貧しい母、天文学を養っている」と書いた。権力者は、自分の運命や選択の良し悪しに興味があるので、それについて答えてくれると考えられた占星術のほうに金銭を出し、その金銭が結果として、星を観察・観測する天文学を支えるという効果があった、という意味である。
星がどのような周期的な動きをするものであるかに関心があった時代では、占星術と天文学は未分化で混然一体の状態であった。現代のような自然科学は19世紀になってようやく誕生したものである。それ以前は、自然についての考察は自然哲学という体系で行われていた。アイザック・ニュートンによる1687年の著作『自然哲学の数学的諸原理』によって分離がすすみ、決して一足飛びにではなく、徐々に、占星術と自然科学の距離が離れていったのである。現代の天文学者は、一般に、天体の配置や動きを用いて予想しようとするのは、あくまで天体の位置や動きであり、決して人間の性格・運勢、国家の未来などではない。
現代の多くの占星術専門家が、惑星の位置を用いて予想しようとするのは、あくまで人の運命などであって、彼らは現代自然科学を用いて、より正確な惑星の位置などを予測することには興味が無い。このように、占星術と天文学は、現代では、目的も手法も、原則的に別のものになっているのである。
ただし、若干の例外はあり、占星術と自然科学が重なるような、微妙な領域での研究がいくつかある。
心理学の歴史をたどると、カール・ユングなど、心理学者の一部は、占星術に積極的に取り組んだ。ユングは「シンクロニシティ」あるいは「意味のある偶然の一致」という考え方を示そうとして、占星術を援用した。この事情もあり、現代の占星術師の中でもイギリスを中心として占星術研究家と称する人々の中には、心理学を援用しようと試みている人もいる。
1970年代に欧米で、心理療法の分野の研究をしながら占星術を学ぶ人が増えたことにより心理占星学が発達したといわれている。人間の心を扱う研究は古代の占星術が扱うテーマのひとつであったともいわれている。先駆者としてディーン・ルディア、リズ・グリーンなどがあげられている。
西欧中世のスコラ哲学者トマス・アクィナスは「星は誘えど、強制せず」と含蓄ある表現で指摘した。占星術はいくつもの意味づけ・解釈を提供するもので、複数の意味づけ・解釈のどれを採用すべきなのか決められないような形で提供するようなものである(ものにすぎない)、ということを述べている。
パリで一人の科学者が無料占星術の広告を新聞に掲載。応募要綱には出生地と出生時間を条件に付記、この応募に150通の手紙が寄せられた。“条件”とはフランスの連続殺人犯と同一のものであるが、それは差出人には伏せて占星術の結果をアンケート用紙を同封して報告。応募者の94%が「占いは当たっている」と返答した。
惑星の定義見直しによる影響は、西洋占星術の項を参照。 | [
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] | 占星術(せんせいじゅつ)または占星学(せんせいがく)は、太陽系内の太陽・月・惑星・小惑星などの天体の位置や動きなどと人間・社会のあり方を経験的に結びつけて占う(占い)。古代バビロニアを発祥とするとされ、ギリシア・インド・アラブ・ヨーロッパで発展した西洋占星術・インド占星術と、中国など東アジアで発展した東洋占星術に大別することができる。占星術が非科学的である主な理由としては反証可能性がないためである。 | {{脚注の不足|date=2019年6月}}
<!--【全体的に、記述が西洋占星術に偏っており、東洋占星術の記述がきわめて少ない。西洋占星術に限定される記述は「西洋占星術」の記事に移植されるべきと思います。】-->
'''占星術'''(せんせいじゅつ)または'''占星学'''(せんせいがく)は、[[太陽系]]内の[[太陽]]・[[月]]・[[惑星]]・[[小惑星]]などの[[天体]]の位置や動きなどと[[人間]]・[[社会]]のあり方を経験的に結びつけて占う([[占い]])。古代[[バビロニア]]を発祥とするとされ、[[ギリシア]]・[[インド]]・[[アラブ]]・[[ヨーロッパ]]で発展した[[西洋占星術]]・[[インド占星術]]と、[[中国]]など[[東アジア]]で発展した東洋占星術に大別することができる。占星術が非科学的である主な理由としては反証可能性がないためである<ref>{{Cite web|和書|title=Philosophy of Science - Philosophy of Science & Theory |url=https://www.coursera.org/lecture/statistical-inferences/philosophy-of-science-m05QD |website=Coursera |access-date=2023-07-25 |language=ja}}</ref>。
== 概要 ==
=== 発祥 ===
古代バビロニアで行われた大規模な[[天体観測]]が起源であり、ギリシア・インド・アラブ・ヨーロッパ・中国へ伝わったといわれている。おもに国家や王家の吉凶判断に使われた。バビロニア占星術は[[紀元前3世紀]]頃にギリシアに伝わり、個人の運勢を占う[[ホロスコープ]]占星術に発展した。占星術を指す単語は、[[古典ギリシア語]]のアストロロギア(astrologia)に由来する。アストロロギア(astrologia)のアストロ(astro)という接頭辞は古典ギリシア語の astron 星でありastrologiaとは星について考えたことという意味になる。アストロノミア(astronomia、英語のastronomy)[[天文学]]とはastrologiaのなかで星の動きなどについての学問であった(nomos は秩序の意味)。ちなみに、astrologistは占星術者である。
===中東・ヨーロッパ ===
[[西洋占星術]]の起源は[[バビロニア]]にあった。バビロニアでは、[[紀元前2千年紀]]に天の星々と神々を結びつけることが行われ、天の徴が地上の出来事の前兆を示すという考えも生まれた。『エヌーマ・アヌ・エンリル』([[:en:Enuma anu enlil|Enuma anu enlil]], 紀元前1000年頃)はそうした前兆をまとめたものである。ただし、当時前兆と結び付けられていた出来事は、専ら君主や国家に関わる物事ばかりで、その読み取りも星位を描いて占うものではなく、星にこめた象徴的な意味(火星は軍神[[ネルガル]]に対応していたから凶兆とするなど)を読み取るものに過ぎなかった。
前332年にアレキサンダー大王によって占領された後、エジプトはギリシャの支配下にあった。そして、ヘレニズム文化が栄える中で、初めて本格的にホロスコープを用いる占星術が現れた。出生時における星々の位置から個人の星位図をトレースする試みが普及したことは、西洋占星術へのギリシャ人の最大の貢献である。このシステムは「ホロスコープ占星術」と名付けられた。アセンダント(後述)は[[ギリシャ語]]で「ホロスコポス」とも呼ばれていたからである(星位図そのものを「ホロスコープ」と呼ぶようになったのは、これが語源である)。ギリシャで大いに発展したとはいえ、その大部分はバビロニアからもたらされたものであった。
===インド===
[[インド占星術]]は、[[ナクシャトラ]]を用いたインド固有の占星術で、[[白道]]上の[[月]]の位置に着目し、天の黄道を27分割に分けた物で占う占星術だったが、[[ヘレニズム]]時代に太陽と月、5惑星とラーフ、ケートゥといった[[九曜]]、[[サイン (占星術)|十二宮]]と[[ハウス (占星術)|十二室]]に基づく[[ホロスコープ]]方式の占星術を取り入れて、現在の[[ナクシャトラ]]([[白道]][[二十七宿]])と黄道十二宮を併用した形になったと言われているが、古い時代のことなのではっきりしたことはわかっていない。
また[[仏教]]に取り入れられたものは、簡略化(月の厳密な度数で決めず、1日に1つというように割り当てる)・仏教化し 『[[文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経|宿曜経]]』 にまとめられ、[[密教]]の一部として[[中国]]に伝えられた。さらに、[[平安時代]]には[[日本]]にも伝えられて'''[[宿曜道]]'''となった。
=== 中国 ===
古代中国において「[[天文]]{{要曖昧さ回避|date=2023年5月}}」とは、古代世界の他の文明でもそうであったように、狭義の天文学と観測される天象による占いとが渾然一体となったものであった。バビロニア占星術とは異なり、天体の配置ではなく[[日食]]、[[月食]]、[[流星]]、[[彗星]]、[[新星]]や[[超新星]]の出現、そして星の見え方など天変現象に注目したものであった。これは天変は天が与える警告であるという「[[災異説]]」の思想に則ったものである。これは現代で[[天変占星術]]とよぶ人もいる。
ただしバビロニア起源と考えられる[[黄道十二宮]]を使った占星術の影響を受けて成立したと考えられる[[六壬神課]]の基本構造が戦国-秦-漢の時代には確立していた。六壬神課の式盤は[[サイン (占星術)|サイン]]と[[ハウス (占星術)|ハウス]]で構成されたホロスコープに中国独自の[[十二天将]]を配布したものを表現している。この後、唐の時代にインド占星術を漢訳した『[[宿曜経]]』が伝来し、[[七政四餘]]となった。『宿曜経』は当時の日本でも受容され[[宿曜道]]となった。しかしその後は実際の天文観測情報が国家に独占されたこともあり、煩雑な天文計算の必要がない暦をベースとした占術が主流となって行く。
=== 現代 ===
現代では主に自身の性格やそれに基づいた相性を知るために利用する人がいる。現代心理学にはビッグファイブといったものがあるが、占星術の本は天文学の本よりもよく売れていて、1997年12月27日にはイギリス最大の発行部数を誇る新聞の『[[デイリー・メイル]]』は、一面トップで占星術の記事を載せたことがある{{Sfn| リチャード・ドーキンス| 2001| p=161-162}}。
あるアンケート調査によれば、新聞の星占いを読んでも実際には信じていない人が大多数で、星占いは単なる楽しみであるという{{Sfn| リチャード・ドーキンス| 2001| p=172}}。しかし、信頼のできそうな報告によると、これとは異なる結果を示し、かなりの数の人々が本当に星占いを信じ、それに従って行動をしているという{{Sfn| リチャード・ドーキンス| 2001| p=172}}。
また、占星術師は新聞や雑誌で仕事を行うことがあるが、その仕事内容は、ほとんど訓練や技術を必要としないため、暇を持て余した若い記者に回されることが多い{{Sfn| リチャード・ドーキンス| 2001| p=171}}。
{{Quotation|ジャーナリストとして初めてやった仕事は、くだらない女性誌に星占いを書くことでした。あの作業は決まって新入社員がやらされます。つまらなくて簡単で、当時の私みたいなケツの青いやつにもできる仕事なんですよ。|ジャン・モワール|ガーディアン紙(1994年10月06日)}}
似たような話に合理主義者の手品師であるジェームズ・ランディの若い頃のものがある。ランディはゾランというペンネームで、モントリオールで発行されている新聞の占星術師の職を得た。ランディは、昔の星占いの雑誌を持ってきて、その予言をはさみで切り取り、適当にかき混ぜて、12の星座のもとにランダムに貼り付け、予言として紙面に載せていた。ランディはあるとき、2人組のサラリーマンが昼休みにカフェで、「ゾラン」の占いを熱心に読みつつ会話をしているところを耳にした{{Sfn| リチャード・ドーキンス| 2001| p=171}}。
{{Quotation|その二人連れは、良い運勢が並んでいるのを見て嬉しい悲鳴を上げていた。私はどうしたことかと彼らに尋ねたが、こんな答えが返ってきた。「ゾランは先週、本当にぴたっと当てたんです。」私は、自分がそのゾランであるなどとは思えなかった。……手紙での反響も実に面白いものだった。おかげで私は確信した。神秘の力を持つと信じている人物の言葉であれば、どんな内容であっても、人はそれを受け入れる。そして都合よく解釈してくれるものなのだ、と。この時ゾランはハサミとのりをしまい込み、仕事を後にしたのだった。|ジェームズ・ランディ|『ぺてん』1992年}}
==代表的な書物==
* {{ill2|テトラビブロス|en|Tetrabiblos}}(原題:アポテレスマティカ、「占星術上の意味付け」の意) - 天文学者[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の占星術書。占星術の原典とされる<ref>[https://kotobank.jp/word/《テトラビブロス》-1372844 テトラビブロス](コトバンク 参照日:2018.6.4.)</ref>。
* Kitāb al‐mudkhal al‐kabīr(英題:Introduction)- イスラムの占星術師{{ill2|アブー・マーシャル|en|Abu Maʿshar}}の著書で、多くの国で翻訳され影響を与えた。
* {{ill2|ヤヴァナジャータカ|en|Yavanajataka}}(「ギリシャ式出生占術」の意) - ギリシャの占星術をまとめてサンスクリット語に翻訳した[[インド占星術]]の本。
* [[文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経]] - インド占星術の入門書として中国に伝わった。
== 占星術と科学 ==
もともと、占星術(astrology)と[[天文学]](astronomy)は深い関係があった。さまざまな経緯を経て、長い長い時代を経て、徐々に距離ができ、現代では占星術と天文学は別のものになっている。天文学は、途中まで占星術とともに、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]以来の[[地球]]中心説([[天動説]])の[[宇宙|宇宙観]]のもとに発展した。途中から[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]の『[[地動説]]』が登場し、そのあたりから分化が始まったのである。やがて[[伝統的占星術]]は廃れ、現代占星術として復活することとなる。
=== 天文学との関連 ===
占星術は天文学の母胎でもあった。[[ケプラーの法則]]で有名な[[ヨハネス・ケプラー]]は天文学者・数学者であると同時に、占星術師でもあった<ref>{{Cite book|和書|author=クリストファー・ヒル|authorlink=クリストファー・ヒル (歴史学者)|translator=小野功生、箭川修、圓月勝博|title=十七世紀イギリスの民衆と思想 {{Lang|en|''People and Ideas in 17th Century England''}}|origyear=1986|year=1998|month=11|publisher=法政大学出版局|series=ウニベルシタス|language=日本語|isbn=4-588-00620-7|volume=クリストファー・ヒル評論集 3}} ,{{Cite journal|和書|author=正塚晴康 |title=啓蒙と自然(4) |url=https://opac-ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/webopac/TD00002696 |journal=大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学
|publisher=大阪教育大学 |year=2000 |month=aug |volume=49 |issue=1 |pages=1-19 |naid=110000119130 |issn=03893448}}の引用注による </ref>。[[ドイツ観念論]]を代表する[[哲学]]者[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]は、大学教師の職に就くための就職論文{{Lang|de|''Dissertatio philosophica de Orbitis Planetarum.''}}
(『惑星の軌道に関する哲学的論考』[[通称]]『惑星軌道論』<ref>{{Cite book|和書|author=ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|translator=村上恭一|title= 惑星軌道論 {{Lang|de|''Dissertatio philosophica de Orbitis Planetarum.''}} |origyear=1801|year=1991|month=1|publisher=法政大学出版局|series=ウニベルシタス|language=日本語|isbn=9784588003240}}</ref>)において、惑星の運動を本質的に解明したのは、[[物理学]]的に解析した[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]よりもむしろケプラーであると評した<ref>{{Cite web|和書|author=Nishikawa |url=http://www.eva.hi-ho.ne.jp/nishikawasan/ad/star.htm|title=定年後の読書ノート 惑星軌道論|language=日本語|accessdate=2009-07-25}}</ref>。
そしてケプラーは「このおろかな娘、占星術は、一般からは評判のよくない職業に従事して、その利益によって賢いが貧しい母、天文学を養っている」と書いた<ref>{{Cite book|和書|author=ケネス・J・デラノ|translator=市場泰男|title= エピソード占星術 嘘かまことか ''Astrology-fact or fiction ?''|origyear=1973|year=1980|month=8|publisher=[[社会思想社]]|series=現代教養文庫|language=日本語|isbn=4-390-11024-1|page=94}}における、ウォルター・W・ブライアント『ケプラー』1920年からの引用による。</ref>。権力者は、自分の運命や選択の良し悪しに興味があるので、それについて答えてくれると考えられた占星術のほうに金銭を出し、その金銭が結果として、星を観察・観測する天文学を支えるという効果があった、という意味である<ref group="注釈">ケプラーは、アスペクトを[[サイン (占星術)|サイン]]間の角度から惑星間の角度に再定義するなど、占星術に対しても後世に残る貢献を果たしている。</ref>。
=== 占星術と自然科学 ===
[[天体|星]]がどのような[[周期]]的な動きをするものであるかに関心があった時代では、占星術と天文学は未分化で混然一体の状態であった。現代のような[[自然科学]]は19世紀になってようやく誕生したものである<ref group="注釈">「scientist 科学者」という言葉が造語されたのは、あくまで19世紀になってからである。</ref>。それ以前は、自然についての考察は[[自然哲学]]という体系で行われていた。[[アイザック・ニュートン]]による[[1687年]]の著作『[[自然哲学の数学的諸原理]]』によって分離がすすみ、決して一足飛びにではなく、徐々に、占星術と[[自然科学]]の距離が離れていったのである。現代の天文学者は、一般に、[[天体]]の配置や動きを用いて予想しようとするのは、あくまで天体の位置や動きであり、決して[[人間]]の[[性格]]・[[運勢]]、[[国家]]の未来などではない。
現代の多くの占星術専門家が、[[惑星]]の位置を用いて予想しようとするのは、あくまで人の運命などであって、彼らは[[自然科学|現代自然科学]]を用いて、より正確な惑星の位置などを予測することには興味が無い。このように、占星術と天文学は、現代では、目的も手法も、原則的に別のものになっているのである。
ただし、若干の例外はあり、占星術と自然科学が重なるような、微妙な領域での研究がいくつかある。
*[[ソルボンヌ大学]]の心理学者・[[統計学]]者{{仮リンク|ミッシェル・ゴークラン|fr|Michel Gauquelin}}は、誕生時の火星の位置と人の職業の膨大な[[統計]]をとり、両者には[[相関関係]]がある、と結論づける論文を発表(SCICOP [[サイコップ]]の初期メンバーはこの論文を否定できると決めつけて活動したものの、調査して得た結果は、彼らの予想に反して、この論文を不本意ながら追認せざるを得ない結果になり、サイコップ内で紛糾が生じ、サイコップの歴史の汚点ともなった)。
** これは、当時のドイツの異常な社会状態と関係があり、政治的な圧力が学問の世界にまでひずみを与えていた、という事例である。
* ソルボンヌ大学のディーン・ルディアは[[ユング占星術]]、すなわち「占星術の心理学的アプローチ」に対し、「心理学の占星術的アプローチ」を行い、後の西洋占星術における「サビアン占星術」に貢献した{{要出典|date=2014年12月}}。
<!--【本文を書き換えたので、以下の文をコメントアウト。ノートで議論が必要と思われます。】;未来予測の客観的な信頼性に対して、そもそも[[地軸]]の傾きは[[歳差運動]]などに伴って長年のうちに変化するものであるため、地球から観測する惑星の位置に意味を読みとろうとすること自体に無理があるという指摘がしばしばされるが、占星術では歳差運動に伴う[[春分点]]などの移動を時代の移り変わりや歴史的[[パラダイム]]の転換を表すもの(例えば春分点が[[水瓶座]]に移動することは「水瓶座の時代」の到来)とされており、それをもって占星術への批判とすることは的を射ていない。-->
=== 占星術と心理学 ===
[[心理学]]の歴史をたどると、[[カール・グスタフ・ユング|カール・ユング]]など、[[心理学者]]の一部は、占星術に積極的に取り組んだ{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=240}}。ユングは「[[シンクロニシティ]]」あるいは「意味のある偶然の一致」という考え方を示そうとして、占星術を援用した。この事情もあり、現代の[[占星術師]]の中でも[[イギリス]]を中心として占星術研究家と称する人々の中には、[[心理学]]を援用しようと試みている人もいる。
1970年代に欧米で、[[心理療法]]の分野の研究をしながら占星術を学ぶ人が増えたことにより心理占星学が発達したといわれている。人間の心を扱う研究は古代の占星術が扱うテーマのひとつであったともいわれている。先駆者として[[ディーン・ルディア]]、[[リズ・グリーン]]などがあげられている。
=== 占星術と未来予測の関係 ===
西欧中世のスコラ哲学者[[トマス・アクィナス]]は「星は誘えど、強制せず」と含蓄ある表現で指摘した。占星術はいくつもの意味づけ・解釈を提供するもので、複数の意味づけ・解釈のどれを採用すべきなのか決められないような形で提供するようなものである(ものにすぎない)、ということを述べている。
<!--【以下の文は百科事典的でない論考を多く含むので、とりあえずコメントアウトします。ノートで議論が必要と思われます。】;
しかし、占星術は客観的な実証性や再現性が求められる「自然科学」とは異なるもの(?)(現在の学問は神学などのような、ある種の先験的判断がなされる場合を除き、多かれ少なかれ客観性や実証性を求められる。この状況が人文学ならぬ人文「科学」という学問領域を「自明の前提」にする現在の学問(論文の執筆や口頭説明など)の常識であり、理想である。しかし占星術は、元々「自然科学としての天文学」以前に存在し、現在もユング心理学のように、自然科学と人文学(人文「科学」ではない)のような「科学と数千年続く人類の叡智(というか、文科系的な意味での現代科学に対する批判」)の橋渡しをする領域として存在しているわけで、一概に科学知の客観性のノルム(法則)を否定しているわけではない。(ユング心理学自身も、占星術や錬金術に関する専門的な概念が、フロイトの精神分析と大きく袂を分かつ原因となった)
例えば、同じ星図(西洋占星術に用いられる星図はしばしばホロスコープと呼ばれるが、正確にはバースチャートあるいはチャートである)を用いたとしても、占う者によってその解釈や結果は様々になる。だが、占星術を学問の一種として占星「学」と捉えるならば、ある命題(この場合は星図の解釈)への批判が異なる観点からなされることはむしろ必要なことで、その結果として占星術の未来予測に多様性があり、未来の出来事を「正確に予言できるものではない」(?)(すべての学問は新たな概念の創出(発見)を前提としており、予言そのものの定義によるが、天気「予報」は勿論、占星術と関係の深い、数学における様々な「予想(ポアンカレ予想)など」や、天文学での冥王星外惑星「説」(これが昨今の第十番惑星論議に火をつける結果となった)などのように、「ある予測」(この場合、ある措定された概念の定義における新たな再定義の「可能性」)を考慮することは、「予言」であるかはどうかは別として、学術研究として「予言」ならぬ「予測(推測)」をするのはむしろ当然のことである。
-->
=== 学者による検証 ===
パリで一人の科学者が無料占星術の広告を新聞に掲載。応募要綱には出生地と出生時間を条件に付記、この応募に150通の手紙が寄せられた。“条件”とはフランスの連続殺人犯と同一のものであるが、それは差出人には伏せて占星術の結果をアンケート用紙を同封して報告。応募者の94%が「占いは当たっている」と返答した。<ref>{{cite book|和書|title=カール・セーガン 科学と悪霊を語る|author=[[カール・セーガン]]|publisher=新潮社|date=1997年(平成9年)9月|isbn=4105192035|translator=青木薫|page=247}}</ref>
=== 惑星の定義見直しによる影響 ===
[[惑星の定義]]見直しによる影響は、[[西洋占星術]]の項を参照。
<!--【西洋占星術に限定される話題なので、とりあえず以下の文をコメントアウトしました。】;
[[2006年]](平成18年)8月、[[国際天文学連合]](IAU)において[[太陽系]]の[[惑星]]の定義について再検討が行われた。新定義に基づいて惑星と呼ぶ対象の天体を増やす当初案を叩き台に議論した結果、以前からその軌道や推測される起源から他の惑星と同等に見なすには無理があると言われていた[[冥王星]]を惑星から外すことが議決され、2006年9月、IAU小惑星センターは冥王星に[[小惑星]]番号134340を付与した。
占星術への影響が話題になったが、この変更の影響について占星術師達は「冥王星自体が無くなった訳では無いので別に影響はない」と語っている。冥王星の惑星からの降格は占星術的には「新たな星(象徴)の再定義の発見」であり、冥王星の存在意義が失われるということではない。
今回の定義見直しの議論の中で第10番惑星となる可能性もあった[[エリス (小惑星)|矮惑星{{mp|2003 UB|313}}]]には、新たに不和と争いの神「[[エリス (小惑星)|エリス]]」という名前が与えられた。この命名によって新たな解釈を加えることも可能であり、今回の太陽系の再編は占星術的にも「進歩」とする考え方もある。
冥王星やエリスに限らず、現代の占星術では殆ど無数ともいえる小惑星―今回の再定義での「矮惑星」を含む―や今回の議論で新たな惑星候補となっていた[[ケレス (小惑星)|ケレス]]や[[カロン (衛星)|カロン]]の様に、惑星クラスの存在でありながらこれまで惑星とされなかった天体も使用してきた。しかし、古代から知られている惑星(水金火木土)に始まり、これまでに発見されているどこまでの天体を[[ホロスコープ]]に組み込んで占うかは、占星術師の流派や個々の考えによって様々である。
そもそも占星術における「惑星」とは天空にあってその位置を通じて地にあるものの運命を示すもので、天文学では恒星とされる太陽、そして地球の衛星である月までも「惑星」と定義されている。それは自然科学としての天文学の惑星の定義とは異なった概念であり、それに天文学上の惑星の定義の変更をどのように反映させるかも、個々の占星術師によって異なる。
-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
<references />
== 参考文献 ==
*中山茂『占星術』 紀伊国屋書店 ISBN 4-314-00985-3
*バートン,タムシン [[豊田彰 (物理学者)|豊田彰]] 訳『古代占星術―その歴史と社会的機能』法政大学出版局 ISBN 4-588-35602-X
*H.J.アイゼンク、D.K.B.ナイアス 岩脇三良 訳『占星術―科学か迷信か』誠信書房 ISBN 4-414-30408-3
*{{Cite book|title=虹の解体 |url=https://www.worldcat.org/oclc/674595724| publisher=[[早川書房]]|date=2001|isbn=4152083417|oclc=674595724|others=|year=|translator=[[福岡伸一]]|author=[[リチャード・ドーキンス]]}}
*{{Cite |和書 | author = [[ピーター・バーク]] | translator = [[井山弘幸]] | title = 知識の社会史 2 -百科全書からウィキペディアまで | date = 2015 | publisher = 新曜社 | isbn = 9784788514331 | ref = harv }}
== 関連項目 ==
* [[占い]]
* [[西洋占星術]]
** [[星占い]]([[星座占い]])
* [[インド占星術]]
* 東洋占星術
** [[宿曜道]]
** [[六星占術]]
* [[疑似科学]]
* [[バーナム効果]]
* [[コールド・リーディング]]
* [[アウグスティヌス]]の[[神の国 (アウグスティヌス)|神の国]] - 占星術がキリスト教に非合理的と非難されたことが記載されている。5世紀以降のヨーロッパでは、占星術は姿を消した。
== 外部リンク ==
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{{normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せんせいしゆつ}}
[[Category:占星術|*]]
[[Category:ヘルメス主義]]
[[Category:占い]]
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[[Category:疑似科学]]
[[Category:科学史]]
[[Category:天文学史]] | 2003-03-06T15:08:47Z | 2023-11-15T12:40:27Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A0%E6%98%9F%E8%A1%93 |
3,535 | 西洋占星術 | 西洋占星術(せいようせんせいじゅつ)では、アラブ世界や西洋諸国で発達してきた、天体が地球に及ぼす効果を研究し予言を行おうとする占星術の体系について述べる。西洋の占星術(羅:astrologia、星々の研究)は、天体は一定の影響を地上にもたらすというマクロコスモスとミクロコスモスの照応という考えに基づいており、一般的に、占う対象に影響を及ぼすとされる諸天体が、出生時などの年月日と時刻にどの位置にあるかをホロスコープに描き出し、それを解釈する形で占う。用いられる黄道十二宮の概念は、初期メソポタミア文明に起源を持ち、ヘレニズム時代にギリシャ人が採用し、ローマ人に受け継がれた。占星術は古代から、天体の位置を測定して計算し宇宙の体系の仮説を作る天文学(羅:astronomia、星々の法則)とともに行われ、惑星の位置の精緻な計算を必要とする占星術という実践が、天文学を推進する最大の力だった。
古代・中世・初期近代のたいていの占星術(伝統的占星術)は、真面目で洗練された研究・実践であり、当時においては超自然的でも非合理的でもなかった。潮汐など、天体の地球への影響は明らかに存在し、惑星の光に何らかの影響が伴っていることは疑う余地もなく思われたため、占星術の真偽が論点になることはなく、天の影響の範囲とその影響をいかに正確に予言するかということがもっぱら論争された。
占星術一般がそうであるように、西洋占星術もまた、近代的な科学の発展に伴って「科学」としての地位から転落した。神智学協会の神智学の影響を受けてオカルト的な色合いを帯びて復興し、超物理(メタフィジカル)サブカルチャー運動であるニューエイジを経て心理学化・セラピー化の流れも生じた。神智学協会以降広まったサン・サイン占星術では、太陽のあるサインをもとにして占う。日本の雑誌などでよく見かける十二星座を基にした「マジック的」な星座占いは、これを矮小化・通俗化したもので、初期近代までの占星術の慣行とはまったく異なる。
科学史などでは疑似科学に分類されるのが一般的であり、科学的な議論の枠組みをすでに外れているともいえる。科学的な実証研究はほとんど存在しない。人間の理性を重んじる現代の西洋社会において、中世の迷信と嘲笑されながらも人気を保ち続け、現代日本で浸透している占いの中でもポピュラーであり、生活の中に幅広く用いられ一定の社会的存在感を得ている。英語圏には1万人以上の占星術師がおり、2,000万人以上の顧客がいる。現代の占星術では、ホロスコープを作るための計算にコンピュータが用いられている。
西洋占星術の起源はバビロニアにあった。バビロニアでは、紀元前2千年紀に天の星々と神々を結びつけることが行われ、天の徴(しるし)が地上の出来事の前兆を示すという考えも生まれた。『エヌーマ・アヌ・エンリル(英語版)』(Enuma Anu Enlil、紀元前1000年ごろ)はそうした前兆をまとめたものである。ただし、当時前兆と結びつけられていた出来事は、君主や国家に関わる物事ばかりで、その読み取りも星位を描いて占うものではなく、星にこめた象徴的な意味(火星は軍神ネルガルに対応していたから凶兆とするなど)を読み取るものに過ぎなかった。
現代にも引き継がれている星位図を描く占星術は、天文学が発達し、惑星の運行に関する知識が蓄積していった紀元前1千年紀半ば以降になって興った(このころも含め、古来、「天文学」と「占星術」の境界の曖昧な時代は長く続いた)。もともとは暦のために整備された獣帯を占星術と結びつけることも、そのころに行われた。現存最古の星位図は、楔形文字の記録に残る紀元前410年の出生星位図(ある貴族の子弟の星位を描いたもの)である。ただし、この時点では、のちのホロスコープ占星術に見られる諸概念はほとんど現れていなかった。
古代ギリシャやローマの著述家たちは、占星術をしばしばカルデア人とエジプト人がもたらしたものとして叙述している。
確かに、紀元前4200年の星図をともなうエジプトの占星術の歴史は古い。エジプト人の占星術は、太陽とシリウスの組み合わせが主役になっている。それが、エジプトに肥沃さと活力をもたらしてくれるナイル川の氾濫を予言するものとされた。
しかし、西洋占星術に直接関わるような概念の発達には、エジプト占星術はほとんど寄与していない。「エジプト起源」がかつて語られたのは、アレクサンドロス3世(大王)の征服以後、ヘレニズム文化圏に組み込まれていたエジプト(特にアレキサンドリア)で、占星術が発達したことによって生じた誤伝らしく、正しくはヘレニズム時代における寄与と位置づけられるべきである。
332年にアレキサンダー大王によって占領されたあと、エジプトはギリシャの支配下にあった。そして、ヘレニズム文化が栄える中で、初めて本格的にホロスコープを用いる占星術が現れた。出生時における星々の位置から個人の星位図をトレースする試みが普及した。このシステムは「ホロスコープ占星術」と名付けられた。アセンダント(後述)はギリシャ語で「ホロスコポス」とも呼ばれていたからである(星位図そのものを「ホロスコープ」と呼ぶようになったのは、これが語源である)。ギリシャで大いに発展したとはいえ、その大部分はバビロニアからもたらされたものであった。
ホロスコープの普及は、春分点歳差の発見者とされるヒッパルコス(紀元前2世紀)以降のことである。かつて彼は占星術を生み出した人物であるかのごとく位置づけられたが、実際にはバビロニアで天文学と並行して発達した占星術の知識を、ヘレニズム世界にもたらした人物であったといえる。そのバビロニアからもたらされたシステムは、後世作り上げられた完成の域にある程度達したものではあったが、ギリシャ人占星術師たちによっても、個人のホロスコープを描く上での重要な追加がなされた。
ギリシャがローマ帝国の支配下に入った後も、ギリシャ人たちによって占星術は発達を遂げた。ローマでもマルクス・マニリウスの『アストロノミカ(英語版)』(西暦1世紀)などが現れたが、西洋のホロスコープ占星術の発展において特に重要だったのは、天文学者・占星術師クラウディオス・プトレマイオスの貢献である。天文学と占星術が未分化だった時代にあって、彼の天文学書『アルマゲスト』とともに、占星術書『テトラビブロス(英語版)』(四つの書)は、その後の西洋占星術の伝統における基盤となった。『テトラビブロス』では第一の書で惑星の冷熱乾湿などの一般的原理が講じられ、第二の書で社会変化を占う占星術が、第三の書と第四の書で個人のホロスコープ占星術が論じられている。
プトレマイオスは、古代より天文学界を支配してきた地球を宇宙の中心ととらえ、太陽や惑星が地球の周りを回る「天動説」を集大成して、「プトレマイオス体系」として確立し、天文学や占星術の「世界観」に大きな影響を与えた。
ギリシャ人(特にプトレマイオス)のもとで、惑星(太陽、月も含む。後述)、ハウス、十二宮などが合理化され、それらの機能も策定された(今日のものは若干の修正が施されている。以下では必要に応じて古典的な解釈にも触れている)。
バビロニアでも部分的には見られたことだが、ヘレニズム時代以降に占星術の適用範囲は、自然哲学、現代では「科学」と位置づけられるものすべてに広がった。すなわち、植物学、化学(錬金術)、動物学、鉱物学、解剖学、医学などである。
天上の星々は、地上の諸々の物質との照応関係を持つものとされ、星々に対応する金属(太陽と金、水星と水銀など)、鉱石(これが誕生石の起源になったという説もある)などが定められた。また、人体との照応関係をもとに「占星医学(英語版)」(Iatromathematica、イアトロマテマティカ。星辰医学、医療占星術)も発達し、その治療に用いる薬草類の研究が天体植物学として体系化された。さらに、前出のマニリウスは全5巻の『アストロノミカ』の第4巻で、占星地理学(世界の地域を十二宮に対応させる)を論じている。
ミクロコスモスとマクロコスモスに照応関係を認め、人間と星位と結びつける観点は、人体の各部位を、星々と結びつけることにつながった。『テトラビブロス』の第三の書でも、占星医学が論じられている。学派によって、その照応関係は異なるが、おおむね頭部を第1のサインである白羊宮に、足先を第12のサインである双魚宮にそれぞれ対応させ、その間に残るサインを当てはめていく。
外科医学でもこうした照応関係は重視され、のちには瀉血で切る部位や時期を決める際にも、占星術的な判断が用いられた。
ローマ帝国では、すでに見たように理論面ではギリシャ人に多くを負い、独自の発展はほとんど見られなかった。
歴代ローマ皇帝には占星術を重視する者も見られ、占星術師トラシュルスを重用したティベリウス、占星術で最期を予言されたことに怯え、実際に暗殺されたドミティアヌスなどがいたが、キリスト教の広まりとともに衰えた。西ローマ帝国滅亡後にも迷信的とされた通俗占星術は命脈を保ったが、当時「科学」の一端を担っていた占星術の理論体系は、ヨーロッパ社会からは失われた。中世のヨーロッパ社会では、ヴェズレーの大聖堂の彫刻など、獣帯を描いたものも見られたが、それらは主として暦を表していたに過ぎず、占星術との関連を論じるのは適切ではない。
ローマ帝国がキリスト教化していくと、キリスト教会の権力が大きくなり、教会の反占星術の姿勢が強まっていった。なかでもアウグスティヌスの占星術に対する攻撃は、キリスト教会の占星術に対する態度を決定づけた。キリスト教会は、占星術は人間の自由な意志を宿命論的な側面から脅かすとして問題視した。そして、キリスト教にとっての異端の宗教であるグノーシス派やマニ教などが占星術と結びつけて考えられたことも大きかった。
東ローマ帝国では、レトリオスの『フロールイト』(500年ごろ)が、火、水、風、土のグランドトラインを論じるなど、『テトラビブロス』をいくらか発展させた研究も見られたものの、基本的には東ローマ帝国滅亡(1453年)まで古代ギリシャ占星術を教条化し、固持し続けた。
ヘレニズム時代に体系化されたシステムは、ほとんどそのままアラブ・ペルシャなどのイスラム世界の占星術師たちに引き継がれた。ダマスカスとバグダードにあった彼らの研究拠点では、ヨーロッパが忘れていた天文学、占星術、数学、医学などのギリシャ語の古典がアラビア語に翻訳され、大いに発展を遂げた。彼らの知識はヨーロッパに逆輸入され、ルネサンスの開始を助けた。
アラブの占星術師たちのなかでは、占星術以外の翻訳でも大いに功があったアル=キンディー(アルキンドゥス)と、その弟子筋にあたるアブー=マーシャル(英語版)(アルブマサル)が特に重要である。後述するように、アブー=マーシャルの著書『大序説』(ラテン語名:Introductorium in Astronomiam)は、のちのヨーロッパに絶大な影響を及ぼした。もう一人重要なのが、ペルシャの数学者、天文学者、占星術師、地理学者アル=フワーリズミーである。彼の名前は「アルゴリズム」の語源としても知られる。
アラブ人たちは、天文学の知識も大いに増大させた。アルデバラン、アルタイル、ベテルギウス、リゲル、ヴェガなどの星々を最初に命名したのも彼らである。
占星術においては、彼らは「アラビック・パーツ(英語版)」として知られる、擬似的な天体を多数作成ないし再発見した。アラビック・パーツは実在天体ではないが、実天体の位置やハウスの境界であるハウスカスプの位置から計算されるポイントとそれに付加された名称、象意の総体である。もっとも有名なアラビック・パーツであるPart of FortuneはASC + Moon - Sunという式で計算される。
中世ヨーロッパでは、11世紀ごろまではアラブの占星術理論を受け入れられるだけの知的基盤自体がなかったが、いわゆる「12世紀ルネサンス」の中で、ほかの科学書とともに多くの占星術書がアラビア語からラテン語に翻訳され、占星術知識が再興・発展した。ヨーロッパの占星術師達はイスラム世界の占星術の技法を吸収し、またそこから新たな技法を見出すこととなった。たとえば、ハウス分割において、現在主流であるプラシーダスの技法はイスラム起源であり、プラシーダスがヨーロッパで広まる500年前にアブラハム・イブン・エズラがこのハウスシステムの計算方法を述べている。
1130年ごろから1150年ごろまでに、クレモナのジェラルドらによって、プトレマイオスの『アルマゲスト』『テトラビブロス』、アブー=マーシャル『大序説』、偽プトレマイオス『ケンティロクイウム』(百の警句)などが訳され、特にアブー=マーシャルはその後1世紀あまり占星術の権威と見なされた。占星術書を特に多く翻訳したのは、セビーリャのフアンである。彼はアブー=マシャール、マーシャーアッラー、アル=カビーシーらの複数の著作、『ケンティロクイウム』などの翻訳を手がけたほか、自身でも『全占星術綱要』を執筆した(これは16世紀に出版された)。
また、古代ギリシャに存在していたとされるアストロラーベも、イスラム世界を経由してヨーロッパ人たちに再認識された。
しかし、イスラム世界の占星術の権威は長続きしなかった。西洋の占星術師たちが独自の技法を発展させていったことや、キリスト教神学者の間での議論の影響を受けたためである。神学者ではないが、ダンテもイスラム科学をキリスト教徒が使うことには批判的で、その影響を強く受けた占星術にも同様に批判的だった(彼は『神曲』の中で13世紀の代表的な占星術師グイド・ボナッティとマイケル・スコットを地獄に落としている)。ただし、こうした動きはイスラム世界起源の占星術書がまったく省みられなくなったことを意味しない。特に15世紀以降の印刷革命に波に乗って、ルネサンス期には多くのアラブ系の占星術書が出版されており、近世の著名な占星術師の一人ウィリアム・リリー(英語版)は、否定的な見解を示しつつも、アラブの占星術も研究したと語っている。
占星術には、翌年の気象を予想しようとする「気象占星術」があり、しばしば「数学者」と呼ばれた実践者たちは、カレンダー、月齢、日食、月食などと共に占星術による天気予想、重要な事件や動向の予知が含まれる暦を作って生計を立てていた。出生時の惑星の位置から新生児に「刷り込まれた」影響を知ろうとする「出生占星術」は、四体液説と結びつき、惑星による人間の気質・健康への影響が認められていた。西洋中世においては、天文学も占星術も astrologia という用語が用いられていた。
13世紀以降は、キリスト教神学者たちの間で、占星術に関して大きく議論が戦わされた。スコラ哲学者の中では、アルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスが占星術に好意的な見解を示したが、他方でニコル・オレームは『判断占星術師論駁』のなかで、多面的な批判を繰り広げた。当時、出生占星術を強めた判断占星術に対する評価はさまざまであった。チェッコ・ダスコリ(英語版)などは、キリストの誕生や最後の審判に関するホロスコープを作成したことを咎められて、1327年に火刑に処されている。
他方で、やや時代が後になるオレームの弟子ピエール・ダイイは、晩年判断占星術に強く傾倒し、歴史上の重大事件と天体の合の関連を研究した。彼はそれを未来にも適用し、1789年に反キリストが出現すると予言した(この予言はルネサンス期に持てはやされ、チュレル、ルーサ、ノストラダムスらが直接・間接的に踏襲する)。
このように、「判断占星術」が毀誉褒貶だったのに対し、「占星医学」はむしろ高級占星術として評価されることが多く、大学などでも受け入れられていた。このため、当時医学研究で主導的地位にあったサレルノ大学、ボローニャ大学、モンペリエ大学などの医学部でも、占星医学は講じられていた。当時の医療は患者それぞれに合わせて調整したオーダーメイド医療であり、医者は患者の気質を知るために患者の出生天宮図を調べ、治療の好機を見極めるなど治療に活用した。
また、1347年から1350年にペストが流行した際には、パリ大学医学部が、その原因は1345年3月20日に宝瓶宮で起こった木星、火星、土星の三重合にあったとする公式声明を出している。伝染病の流行と星位を結びつけるこうした言説は、現在でも「(星の)影響」を語源に持つ「インフルエンザ」などにその痕跡を見出すことができる。ギリシャ・アラビア医学(ユナニ医学)は18世紀までほとんどそのまま続いたが、医学における占星術的判断は17世紀には衰退し始めた。
中世後期には、王侯貴族の中にも占星術を重用する者は少なくなかった。たとえば、フランス王シャルル5世の場合、蔵書の2割(180冊)を占星術書が占めていたとされる。これは当時のほかの王族の蔵書と比べても、突出して高い比率であった。こうして中世には、しばしば重要な政治的・軍事的決定には、占星術師の判断が仰がれることもあったのである。
ルネサンス期には、神秘主義的傾向も持つ新プラトン主義が流行したが、その中心人物たちは必ずしも占星術に好意的ではなかった。マルシリオ・フィチーノは占星医学などには理解を示していたが、判断占星術には批判的だった。ピコ・デラ・ミランドラは、人間の自由意志を否定するものとして、『予言占星術論駁』で占星術への強い批判を展開した。神学者たちはおおむね自由意思を侵害するとして判断占星術を批判し、星々は人間に影響を与えても無理強いすることはないと考えられていた。他方で、16世紀のイタリアでは、数学者としても活躍した占星術師ジェロラモ・カルダーノが現れた。彼は『誕生占星術の実例集』では、自身の過去の占星術判断の誤りなども提示している。
ルネサンス期には、コペルニクスの『天球の回転について』(1543年)が死後発表された。しかし、彼が心配していたような批判は起こらず、本は読まれたが、彼の理論は地球の公転や自転、物体の落下や星の視差などに関する答えられない疑問を抱えており、ほとんどの読者は説得されず、支持者はほぼいなかった。占星術において最大の関心事は地球に対する惑星の位置、惑星の位置を分単位で過去未来にわたって計算することであり、地球中心説(天動説)か太陽中心説(地動説)かということは問題にならず、多くの人はどちらかはっきりさせることが可能とも思っていなかった。惑星の位置を決定するための表は太陽中心説の方が簡単だったため、楽に計算するための仮定としてコペルニクスの理論を使う人もいた。
17世紀に入ると、天文学者でもあったヨハネス・ケプラーが、この問題に取り組んだ。ケプラーは『へびつかい座の新星』では、「賢いけれども貧しい母」(天文学)と「その生活費を稼ぐ愚かな娘」(占星術)の対比によって、占星術があくまでも日々の糧を稼ぐための道具であると述べていたが、『占星術の確実な基礎について』(1602年)、『第三に介入するもの』(1610年)、『世界の調和』(1619年)などでは、新たな占星術理論の構築を試みている。しかし、太陽中心説(地動説)を軸とする刷新はうまくいかず、当時はむしろジャン=バチスト・モラン(モリヌス、1591 - 1659)の『ガリアの占星術』(1661年)のように、プトレマイオス的宇宙観を墨守することを表明するものもあった。他方で、ケプラーは占星術を数学的に純化しようとしたことをはじめ、さまざまな改革を試みており、アスペクトなどでは重要な貢献を行っている。ケプラー以前のアスペクトは、第1にサインとサインの関係であったが、ケプラーは星と星の間の角度として再定義し、この新たなアスペクト概念は多くの占星術師に受け入れられ、現代に至っている。
16世紀の占星術の「先進国」はフランスであったが、17世紀半ばにはそれはイギリスになった。イギリスでは、一時期占星術が「公認」されていた時期があった。これは占星術の正しさを認めたわけではなく、占星術に対する禁止令をたびたび出していたローマ・カトリックへの「対抗意識」をイギリス国教会が持ったことや、御用占星術師を使った大衆宣撫を視野に入れていた政府の意向などによるものである。17世紀半ばに御用占星術師として名を馳せたのは、ウィリアム・リリー(英語版)である。彼は議会派の有利になるような予言を多く行った。また、暦の発行も手がけ、暦書『天使的なるマーリン』は、1646年に1万3,500部、その3年後には3万部が発行された。彼は御用占星術師としてのパンフレットを多く執筆した一方で理論書も手がけており、『キリスト教占星術』(Christian Astrology, 1647年)は、その後長らく当時の占星術の技法を網羅した解説書として影響力を持った。
中山茂によると、占星術と天文学の「分離」が明確になったのは、アイザック・ニュートンの登場によって、天文学に力学が導入されてからである。ただしニュートンは、キリストの神性を含まない原始の神学の復興を目指し、神が創造し内在する宇宙の体系の完全な知識の復活を試みて研究を行っており、今日の科学者の方法・姿勢とは明らかに異なっている。彼は、ヘルメス文書の解読を試み、古代の知識の復活を目指しており、万有引力の法則も古代の知識の再発見に過ぎないと考えていた。彼の万有引力の法則のアイデアは、自然魔術の「共感」、アリストテレス主義者の「隠された性質」という、ものを引きつける見えない力という概念への逆戻りのようにとらえられ、批判も浴びた。
ニュートン以前は、遠い未来に起こる天体現象を正確に予想できることから、天体の運動は地上における現象とは別の原理によって説明される、より神秘的で完全なものであり、地上における現象にもなんらかの影響を及ぼしているという考え方には、一定の根拠があった。ニュートンによって、惑星運動と地上における落下現象が同じ万有引力の法則によって説明されることが示されたことで、これと矛盾する占星術は「自然科学」の体系から離れていった。
1781年に天王星が発見されたとき、占星術師にはこれを組み込んで「より正確な」占いを行おうとする者たちが現れた。占星術が真に「科学」と呼べるものならば、ここで占いの正確さのためにまだ足りない要素があることに気付くべきであったが、そのような見解はなかった。他方、天文学は天王星の摂動によって、未発見の惑星(海王星)の存在を正しく予見した。科学史家の中山茂は、この海王星の発見が、占星術と天文学の「科学性」を考察する重要なものであったとしている。
17世紀後半、理性の啓発によって人間の進歩や改善を図り、超自然的な偏見を取り除いて、人間の持つ理性の自立を促すことを重視する、啓蒙思想がイギリスで興ると、天文学や自然科学の発展と同じく、占星術に対する「逆風」となった。天文学と分離した占星術は、科学の台頭で時代遅れの物笑いの種になっており、古代からの名声を完全に失っていた。しかし消滅することはなく、占星術による天気予報や予知が含まれる生活暦(アルマナック)は、相変わらず多数の支持が寄せられていた。「学問」としての占星術は否定されたが、一般大衆においては生き延びていった。
19世紀後半に、近代オカルティズムが勃興すると、占星術もその潮流に乗ることになった。近代オカルティズムの盛り上がりとともに、秘教的な衣をまとうことで、それまでとは別のものに変化した。なかでも、神秘的直感、幻視、啓示などを通じて、神と結びつく神聖な叡智を獲得することで、高度な認識に達することを標榜する近代神智学(以下「神智学」)の影響が大きかった。神智学は、馬鹿にされたり無視されていたさまざまなオカルトをその体系に取り組み、後期ヴィクトリア朝の教養人たちの注目を集めた
神智学協会の神智学運動は、19世紀末を代表する文化運動のひとつであり、その衝撃は、さらに20世紀初頭のモダニズム誕生から、1960年代のカウンターカルチャー、20世紀末に始まるニューエイジと精神世界(現在のスピリチュアル)を理解していくうえで、「鍵」となる存在である。欧米文化の秘教主義、神秘主義、オカルト主義の趨勢が一群となったこの運動を、秘教的音楽史家ジョスリン・ゴドウィン(英語版)は「神智学的啓蒙」と表現した。
神智学協会の宇宙論における使命とは、世界の隠された真実の性質を明らかにし、物質主義的な科学観に反旗をひるがえすことであるという。神智学の創始者ヘレナ・P・ブラヴァツキーは、占星術は科学であり天文学のように正しいが、これは占星術と解釈する術師の双方が完全に正しい場合に限ると発言し、占星術と心理学においては、これを乗り越えるために「物質的世界」を離れて「霊的世界」に足を踏み入れなければならないと主張した。
19世紀イギリスの神智学協会会員でブラヴァツキーの腹心の一人アラン・レオ(英語版)は、西洋占星術を体系化して、現代まで続く形式に構築したことから「近代占星学の父」と呼ばれる。レオと、神智学協会会員の占星術師W・R・オールドが復興の立役者と評価されている。彼らは、占星術を古臭い陳腐な予言の手段から神智学の関連要素に引き上げ、秘教的関心における有用なツールとして提示し、神智学と占星術を融合させた。レオによって神智学が取り入れられ、「霊的な進化」の概念が占星術に初めて見られるようになり、新プラトン主義の系譜から神智学協会が導入した「霊的な太陽」の信仰を取り入れ、「太陽星座」(サン・サイン)を採用した。また、神智学を基礎にして占星術に心理学的な要素を加えた。これが現在にも影響が続いている「占星術の心理学化」の始まりである。レオは占星術をそれまでの歴史から分断し、伝統的なルールや法則をかなり簡略化したため、占星術を「改悪」したという否定的意見もある。
レオは、初めてのオカルト本の出版社とされる「モダン・アストロロジー・パブリッシング」社を創設し、大衆向けの占星術の書籍を出版し、1890年に雑誌「The Astrologer's Magazine」(1891年に Astrologers' Magazine、1895年に Modern Astrology(『現代占星術』) に改名)を始め、占星術の普及に貢献した。レオは、20世紀初の占星術の広告塔になり、雑誌を利用して自らの占星術を広め、大衆化した。雑誌では、定期購読者に無料でホロスコープを作成しチャート診断するサービスを行って多くの読者を獲得し、十分な収益を上げ、著作もよく売れた。占星術をもうかる商売に仕立てたのも、レオとオールドであると評されている。レオの教本は、近代占星術の初期の研究家ほとんどすべてが学んでおり、後世に大きな影響を与えた。
19世紀末には、一部の占星術師たちは、自分たちの仕事を専門職として確立するため、課題を現代的なものに置きかえ、科学的なものにしようと試みた。1895年にはロンドンで『現代占星術』という表題を掲げた専門誌が刊行され、第一号の論説では「いまや古代の占星術体系を現代化するときが来た」と宣言した。リチャード・モリソンという退役海軍士官は(当時、航海士は恒星の位置に頼って航海していた)自分のことを「ザドキエル」と称し、水晶玉を用いて未来予言を行った。また、W・R・オールドは、客のために株式取引所の株価の動きを予言したり、競馬の結果を教えたりしていた。1902年になるとロンドンに占星術研究協会が設立され、1910年には占星術研究所、さらに毎週主催して講義を行なう占星術会館も誕生した。1915年には、レオと妻のベシイがイギリスの神智学協会に「占星術ロッジ」を設立しており、これがイギリスに現存する主要な占星術団体のもとになっている。鏡リュウジは、占星術にコミュニティがあるとすれば、レオがその源であると述べている。
フランスでは、ジャン=バチスト・モランの『ガリア占星術』(1661年)以降衰退し、19世紀のオカルティストのエリファス・レヴィに触発されオカルティズム探求の動きが現れ、ロマン派がカバラ主義・黒魔術・デカダン・古代エジプト・異端カタリ派などに興味を寄せたことで復興したが、目立つ動きではなかった。アンリ・セルヴァ(Henri Selva、1861 - ?)がモランを再発見し、1920年には実践者も増加した。
ドイツでは、ルネサンス以降の伝統はエランゲル大学のジュリウス・プファフ(ドイツ語版)(1774 - 1835)とともに途絶えていたが、神智学とフランス魔術の合流で1984年に復興した。84年に神智学協会ドイツ支部が設立されて、仏教やヒンドゥー教にも詳しい神智学徒フランツ・ハルトマン(ドイツ語版)が占星術の研究を行うようになった。ハルトマンの助手フーゴ・フォルラート(Hugo Vollrath)は、神智学やオカルトの出版社を設立し、ドイツではこの時期、占星術の定期大会や旺盛な出版活動がなされた。フォルラートは、神智学協会・占星術界で幾度か面倒なトラブルを起こし、ルドルフ・シュタイナーが神智学協会を離れて人智学協会を作ることにもなり、ドイツの占星術界はこうした騒動の影響で混乱したままナチスの時代に突入した。フォルラートは1933年にナチスに入党し、ナチスが主張する北方人種アーリア人の優位性を理論的に証明し正当化するために占星術を利用し、反ユダヤの流れに加担した。
20世紀に入ると、アメリカでオカルティズムとメタフィジカル(超物質)思想によって、経験や感覚から超越した神秘的な技術へ進化させようとする動向が出てきた。その代表的存在が、神智学徒で「アーケイン・スクール(不朽の知恵・秘教占星学)」の創設者のアリス・ベイリーである。ベイリーはジュワル・クールという高次の存在と交信して教えを受けたと主張し、神智学の7つの周期による歴史観と占星術を融合させ、近い将来「魚座」の時代から「水瓶座(アクエリアス)」の新時代(アクエリアン・エイジ)への大規模なパラダイムシフトが起こると語り、ニューエイジ思想の源のひとつとなった。ベイリーの『ヒューマニスティック占星術』と弟子のディーン・ルディア(英語版)の『サビアン・シンボル』は、こうした秘教化の動向の基本となっている。ルディアはベイリーから学んだ神智学と秘教占星学にユング心理学を導入して「トランスパーソナル占星術」を作り、1936年の代表的著書『パーソナリティーの占星術』では、占星術は深層心理学の術語によって再定義する必要があると述べた。またニーチェの超人思想に心酔していたルディアは、新たな文明の中心となる「シード・グループ(種となる集団)」を作らなければならないと主張した。こうした思想は、ホゼ・アグエイアス等の時代の霊的な転換を唱えたニューエイジのオカルティストに影響を与えている。アラン・レオに始まる神智学の世界観を基礎にした占星術は、ベイリーとルディアの秘教占星術に受け継がれ、「占星術の心理学化」という流れも生んだ。レオの系譜の占星術のオカルト色、神智学色から脱しようとさまざまな団体も生まれ、20世紀前半には西洋占星術は多様化していくことになった。
こうして復活した、あるいは改革された占星術と、伝統的な占星術との違いは、その意識的な混合主義にあることが指摘されている。
実践者の間でも、占星術の方向性については多様な意見がある。「科学的学問」にしたいと望む占星術師は、オカルト要素の強いレオらの占星術を、占星術を呪術やオカルトにとどめていると批判している。彼らのなかには19世紀科学の言語を取り入れたり、統計学の言い回しを使って、自分たちの分野と魔術の分野の違いを強調し、「精神科学」「占星術の科学的基礎」あるいは「星座と人間行動とが関係していることの科学的証拠」などについて書いた者もいた。彼らは反対に、その考えに賛同しない占星術師たちから、占星術を疑似科学にしていると批判されており、思想の異なる占星術師同士で批判し合っている。
自分たちの思想が、薔薇十字団、フリーメイソンあるいはエジプトの神秘主義とつながっていると主張する占星術師もおり、彼らの多くは、たとえばヒンドゥー教や仏教などの東洋の宗致から知恵を拝借している。
占星術を科学という場合、星についての研究が自然科学であるいう主張と、惑星から放出される不可視の神秘的な力に言及し、マクロコスモスとミクロコスモスの照応の概念をシンクロニシティ(ユング)の結果とし、さまざまな偶然の一致を研究するようなオカルト科学的な主張がある。
西洋占星術は疑似科学とも見なされるようになり、1940年にはアメリカ社会心理学会が、未来予知のツールとしての占星術の有効性を否定する公式声明を発表した。また、1975年には前アメリカ天文学会会長バート・ボックらが文責を負い、ノーベル賞受賞学者18名を含む計186人の科学者らが連署した占星術批判の声明が出されている(『ヒューマニスト』誌1975年9月号)。ただし、これには、占星術に懐疑的な論者からも、権威主義との批判が寄せられた。
科学者らの声明の一方で、国際的に知られたジーン・ディクソンや、ロナルド・レーガン大統領(当時)の夫人ナンシーに重用され、大統領の日程へも関与したジョーン・キグリー(英語版)のように、社会的に影響力を持った占星術師は存在した。
1970年代に入ると、ヒューマンポテンシャル運動や人間性心理学、神智学や心霊主義といった超物理(メタフィジカル)が混ざり合ってニューエイジ運動が生まれ、その影響を受けて、占星術やタロットといったオカルトの実践は、「自己成長」や「自己探求」、「自己変容」のツールとも見なされるようになり(心理占星術(英語版))、出来事を予知したり運勢を判断する占星術の側面は薄まってきている。現代の占星術師には、顧客に将来起きる出来事を予言して行動のアドバイスをするタイプと、顧客の自己探求を導く疑似セラピストタイプがあり、占星術師たちは皆この2つのタイプの間に存在している。
こうした状況を踏まえて、1990年代あたりから、占星術がかつて持っていたとされる機能を復活させようという動きが出てきた。イギリスのオリビア・バークレイは、1996年9月にエクセターで開かれたアストロロジカル・アソシエーションの「カーター・メモリアル・レクチャー」において「伝統的占星術の必要性」と題した講演を行い、伝統的占星術への回帰を宣言している。
伝統的占星術への回帰はホラリー占星術(英語版)への再評価へとつながり、ホラリーの技法が多数記されている中世や古代の占星術文献の掘り起こしへと至った。中世文献の掘り起こしプロジェクトの代表的なものに、Project Hindsight がある。Project Hindsightでは非英語で記述された占星術の古典が、おもにボランティアの手で英語に翻訳された。古典的な占星術を復活させたものは、古典派や伝統派と呼ばれているが、2007年の時点ですでに古典的な技法の上に独自の解釈を組み込もうとする方向性も見えており、古典派とひとくくりにできない状況となっている。
予測不可能で複雑な現代産業社会において、占星術は、生の意味を見失った一般市民に出来事が制御可能であると感じさせ、予測可能で意味のある体系、大きな物語の中に己が存在するという感覚を与え、生活に宇宙的な意義を感じさせるという側面がある。特にアメリカでは、新聞、雑誌の占星術コーナーをはじめ、メディアで多く取り上げられ、「学術理論」としての有効性を失った代わりに、人気のあるサブカルチャーのひとつとなっている。世論調査では、占星術の人気は衰えるどころか増しているが、一般には、個人のパーソナリティに関する十二星座と、占い目的での占星術の使用という、西洋占星術のごくわずかな面だけが知られている。ホロスコープを作るのにコンピューターが利用され、これが人気に拍車をかけている。コンピュータを使ってホロスコープを作成する理由は、時間節約だけではなく、自分の予言にハイテクの威光を与えるためでもあると指摘されている。
フランスの国立科学統計センターの統計学者・心理学者のミシェル・ゴークラン(Michel Gauquelin)と妻のフランソワーズ・ゴークランは、出生時の惑星の配置と性格を分類する統計研究を行い、『人間の行動に対する宇宙の影響』(1973年)を発表した。彼の研究は太陽宮占星術の裏付けにはあまりなっていないが、親の誕生図の星位が子供の図でも予想以上に繰り返されるなどの見解を示した。
これがほとんど唯一の実証主義的なアプローチによる研究報告であるが、明治大学コミュニケーション研究所は、「その報告においてさえ、職業選択における他の社会的要因と比べて惑星による影響は(有意水準ではあったものの)あまりにも小さすぎ実際に使用するには再現性に乏しい」ことが指摘されており、過去の逸話の累積にゴークラン夫妻の研究を加味したとしても、再現性を保証することはできず、データの再現性は低いと述べている。
このほか、心理学者ハンス・アイゼンクや天文学者ピエール・クーデールらは、様々な観点からの統計学的調査に基づき、西洋占星術の妥当性に疑問を投げかけている(参考文献欄掲出の各文献を参照のこと)。
西洋社会では、古来占星術に対してさまざまな批判が寄せられてきた。古典的なものは、アウグスティヌスが『告白』で展開したものである。ほぼ同じ場所で同じ時刻に生まれた人は同じホロスコープを持つが、身分が異なることで裕福な家督を継いだ者と召使になった者がいたことなどを取り上げたのである。アウグスティヌスの批判は、中世にダンテが援用したほか、現代でも占星術批判で引用されることがある。逆に占星術師の中には、同じ時間に生まれた者(いわゆる「アストロ・ツイン」「宇宙双子」)がよく似た人生を歩むと主張する者もいるが、その根拠の不透明さも指摘されている。
1990年代に入ると、占星術のコーナーを持つアメリカの新聞には、科学的根拠のないゲームに過ぎないと断り書きを入れるものも現れた。
占星術コミュニティは、「たとえ疑似科学、オカルト的言説であっても社会的な需要に応えている」と主張している。
部分的にでも当たったように感じられるのは、バーナム効果、確証バイアス、予言の自己成就などの心理効果や、コールドリーディングやホットリーディングのテクニックが使われているという批判があり、占星術師側も部分的にだが、こうしたごまかしがあることを認めている。
高額なお布施などには、個人のレベルで注意する必要がある。
十二宮は黄道を12に分割して得られた区画である。占星術師たちは、それぞれの宮と、それが持つ意味について注記している。一般的な西洋占星術では、天の赤道と黄道の東側の交点である春分点から、十二宮の起点である白羊宮を始めるトロピカル方式を採用している。ゆっくりとした地軸の味噌擂り運動である、歳差運動によって、それぞれの宮(サイン)の天の配置はすでにギリシア時代にサインの指標とされた星座に一致しなくなっている。西洋占星術師の中にも、サイデリアル方式を採用することで占星術創成期のサインと指標の星座との一致を試みる動きもある。
近代の西洋占星術では、十二宮のサインは、12の基本的な個性を表すものと信じられている。12のサインは、火、水、空気、土の古典的な四大元素に分類されている。同時に、活動宮(英語版)、不動宮(英語版)、柔軟宮(英語版)という三分類もされている。
このようにサインと季節には対応関係があり、たとえば春の最初のサインである白羊宮は、春分から穀雨直前まで太陽が位置するサインである。「暑さ寒さも彼岸まで」というように、通常は白羊宮に太陽が位置する期間から気温が上昇したということが実感できる。そのため白羊宮は、火つまり熱く乾燥したサインであり活動宮としてとらえられており、またその性質が牡羊の持つ突進力になぞらえられている。続く金牛宮は地のサインの不動宮であり、気温の上昇が緩やかになってきていることに対応している。そして春のサインの最後である双児宮が変動宮であり、夏への転換点となっている。
サイデリアル方式を採用する場合、季節とサインの対応が壊れてしまう。
12宮の性質はおおよそ以下のようなものとされる。あくまでも一例であり、かつ、統計学をはじめとする各種学術研究に裏打ちされたものではない。2区分・3区分・4区分も参照のこと。
生年月日と出生時刻でホロスコープを作成すると月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星のすべての天体のほか、ハウスなどが以下のサインに対応している(月のサインが双魚宮で、水星のサインが人馬宮、第1ハウスが天秤宮など)。
個人にとってあるサインの重要度は、そのサインの中での惑星の位置とアセンダントに依存する。もしも任意のサインの中に何の星もなかったなら、そのサインはパーソナリティの中での役割は弱くなる。他方、たとえばある星が太陽や月とともに巨蟹宮にあったなら、そのサインの特質は組み合わせの中で強く表れることになる。
新聞や雑誌などには、しばしば星座占いのコーナーがある。それらのコーナーでは、生まれたときに太陽があった黄道十二宮に対応させて、その日に起こるかもしれない出来事の案内を提供していると主張している。しかし、これらの占いは非常に曖昧で一般的なものであるため、占星術師たちの中にもほとんど価値がないと見なしている者もいる。そうであってもKim Farnellによるとサン・サイン占星術の起源はホロスコープ占星術を同じくらい古いとされる。サン・サイン占星術の曖昧さに対して、プロの占星術師たちはより完璧な、個人に特化したホロスコープを使えば的中精度が上がると主張するが、懐疑派は事実でないと批判している。
20世紀末には、へびつかい座を加えた13星座占いとすべきだというものも現れた。詳しくは、13星座占いを参照のこと。
月は人間の感情や情緒的気分などの心理的傾向を示すといわれている。
木星の位置でその年の運勢と傾向を占い、約12年周期で運勢のバイオリズムを読み解く。
西洋占星術では、白羊宮の始点に関して2通りの見解がある。サイデリアル方式では、始点を固定的なものであると考えるが、西洋占星術の主流であるトロピカル方式では春分点を白羊宮の始点とする。
春分点は歳差運動にともなって移動するため、西洋占星術の主流では、黄道十二宮(サイン)と黄道十二星座の結びつきが損なわれている。一方、サイデリアル方式では始点が固定的なため、その結びつきは保持されている。しかし黄道十二宮と季節の対応は損なわれているため、どちらの方式を採用するかは術者の判断による。なお地球の歳差運動は、「宝瓶宮の時代」の概念的基盤を与えている(詳しくは春分点#春分点と星座を参照のこと)。
近代の西洋占星術では、「惑星」は人間の精神の中の基底的な原動力ないし衝動を表す。これらの「惑星」は天文学の定義と異なり、太陽、月、そして2006年に惑星から降格された冥王星なども包含する概念である。それぞれの惑星は、サインと惑星の類似性ないし共感性を基盤として、十二宮のうちの1つないし2つのサインの守護星であるとされる。逆に言えば、占星術において惑星とはサインの守護星としての性質を持つものであり、ほかは天体ないし星ではあっても惑星ではない(とはいえ、サインの守護星とは何であるかと問うならば、惑星に対するこの定義は循環論法の可能性がある)。近代以降に発見された3つの惑星も、占星術師たちによって支配するサインを割り当てられている。
現代主流の占星術で惑星とされている、トランス・サタニアンの天王星・海王星・冥王星は、望遠鏡による観測によって確認されたものであり、18 - 20世紀に発見された天体である。そのため近年のリリーの再評価から始まりラテン語やさらにはイスラム圏の文献を英語に翻訳し、過去の技法を蘇らせようとする、ある意味伝統的占星術では使用しない。ただ天王星や海王星を受け入れた現代的な占星術師においても、冥王星については、2006年に準惑星となった際に、チャートから外す占い師もみられた。
もっとも欧米では、冥王星はおろかさらに小さな小惑星までも使用することが多く、その中でも代表的なものは、ケレス、パラス、ジュノー、ベスタ、キロンである。また、今後エリスが占星術に取り入れられる可能性がある。冥王星から惑星の地位を奪い、人類に対して少なからざる影響力を持ったからである。すでにエリスを表示できるホロスコープ作成ソフトウェアも存在する。
各惑星は、どのサインに入っているか等の条件から品位(ディグニティ)とよばれるパラメータが割り振られる。あるホロスコープにおいて相対的に品位が高い惑星は凶星(マレフィック)であってもいい作用があり、品位が低いと吉星(ベネフィック)であっても悪い作用を持つとされる。古典的な7惑星についての品位の計算方法は厳密で細かく規定されているが、新しい惑星では品位の計算方法が確立していない。伝統的占星術では、近代になって発見された惑星を使用しないことの理由づけのひとつに、品位が計算方法が不完全であることを挙げている。他方、新しい惑星を組み込んだ近代占星術において、品位は忘れられかけた技法のひとつとなった。
占星術で使われる11の惑星は以下の通りである。
これらの7つの「惑星」(ここでは、太陽と月も「惑星」に含む)は古代には知られていたものであり、各個人の7つの基礎的原動力を表していると信じられている。このため占星術師たちは、これらの星を「パーソナル・プラネット」と呼ぶ。
これらの惑星は近代になって発見され、それ以降、西洋占星術でも重要な意味を持つ星として取り入れられた。これらの惑星を使用する場合、それぞれ対応する宮の守護星であった古典的な惑星を副守護星として扱う。
エリス (準惑星):射手座の守護星。意味するものは、運命、全能、退化、不和、信仰、絶対者(神)など。
占星術では月の交点(ルナー・ノード、ノード)も重要である。ノードとは、黄道と白道の交差点する点であり、蝕が発生する点である。北のノードは、月が南から北へと横切る点で、昇交点(Caput Draconis, ドラゴン・ヘッド)と呼ばれる。南のノードは月が北から南へと横切る点で、降交点(Cauda Draconis, ドラゴン・テイル)と呼ばれる。龍が出てくるこれらの名称は、バビロニア占星術で龍に変じたティアマトの姿に由来しており、インド占星術に導入された後、中世イスラム世界を経由して、西洋占星術にも取り入れられた。
西洋占星術ではそれぞれの惑星ほどには、重要な要因とは考えられていないが、考慮に値する繊細なエリアと見なされている。
西洋占星術は、おもにホロスコープの作成に基礎を置いている。ホロスコープは、ある特定時点の天の「チャート」を表した図である。選ばれる「時」は、ホロスコープの主題となる存在の始点(人物であれば生まれたとき)である。これは、主題となる存在は、その生涯を通じて、始点における天のパターンを引きずると考えられているからである。
理論上、ホロスコープは企業の創設から国家の樹立に至るまで分析の対象としうるが、もっとも一般的なのは、個人の誕生時を基礎とする出生図(natal chart)である。
西洋占星術でのホロスコープの解釈は、以下のものに支配される。
占星術師の中には、Arabian partsのようなさまざまな数学的なポイントの位置を用いる者もいる。
ホロスコープには、基礎的なアングルが存在する。以下に挙げるもの以外にも、占星術師の中によっては、ハウスのカスプがしばしば重要なアングルとして含められることもある。
ホロスコープは占星術師たちによって12に分割され、ハウスと呼ばれる。黄道をハウスに分割する方法は多様である。日本では室、舎、位などと訳される。ホロスコープにおけるハウスは、人生や活動の12の異なる範囲として解釈されている。ホロスコープにおけるハウス分割法にはさまざまな方法があり、古来アル=カビーシー、カンパヌス、レギオモンタヌス、プラキドゥス・デ・ティティ(プラシーダス)らがさまざまな分割法を試みてきたが、確定的なものはない。しかし、その意味するところはおおむね以下のように解釈されている。
第1室:個人の外観や身体特質。自我。物事の始まり。
第2室:金銭と財産、価値と優先事項。物事の成長。
第3室:コミュニケーション、兄弟姉妹、隣人関係、ローカルな旅行や輸送、教育、日常的な問題。
第4室:家庭と家族、父親。不動産とその性質。相続、保持。人生の始まりと終わり。死後の名声。
第5室:悦楽と余暇、休日、遊戯と賭博。子供たち。創造性。深い関係とまではいえない恋愛沙汰。
第6室:召使、メイド。労働、職務と雑役。被雇用者とその業務。健康。小型の家畜。
第7室:対人関係。配偶者、結婚、ビジネス・パートナー。合意や協定。敵対者と戦争。
第8室:誕生と死、始まりと終わり。性的な関係やあらゆる種類の深くコミットした関係。税金、遺産、企業金融。オカルトや心霊的な事柄。
第9室:航海をともなう遠距離の旅行、移住。外国旅行、外国とその文化。宗教、法制、高等教育。見聞を広めるために求めるすべてのもの。自由。
第10室:意思と野望、人生の方向。社会における地位や経歴。有名人のハウス。4室からみた7室であり、父親の配偶者、つまり母親を意味する。
第11室:友人・知人などの限られた関係。グループ、クラブ、結社、それらの中でも特に慈善的なもの。
第12室:神秘主義、オカルト、心霊的なもの。病院や監獄のような隔離された場所。後退、反射、自己犠牲。大型の家畜。
多くの近代的な占星術師たちは、ハウスは対応するサインと共感すると考えている。つまり、第1室は第1のサイン(白羊宮)と自然な親和性を持つなどであるが、古典的な占星術ではそうでもない。たとえば第1室に対応する惑星は水星であって、白羊宮の守護星の火星とは異なっている。
アスペクトとは、ホロスコープにおいてそれぞれの惑星やアセンダント、デセンダント、中天、天底などが形作る角度のことである。アスペクトは、地球から見た2点間の黄道上の離角を黄経上の度数で測定したものである。それらは、ホロスコープを読むうえでの焦点となる。角度がより正確であればあるほど、アスペクトは影響力が強くなるが、オーブ(orb)と呼ばれる数度の許容範囲が解釈においては認められている。以下のアスペクトは、重要度の順に並べたものである。
アスペクトの中には、3つ以上の惑星が関与するものもある。おもなグループ・アスペクトには以下のものがある。
このような3個以上の占星点で形成されるグループアスペクトにおいては、単独のアスペクトより広いオーブ、あるいは狭いオーブを採用する場合がある。
上記のような複数の惑星ないしASCやMCが特徴的な図形を構成するグループアスペクトの概念を緩くした、複合アスペクトの概念が存在する。たとえば、3つの惑星A、B、CがあるときにAとB、BとC、そしてCとAの間にそれぞれアスペクトが存在するとき、3つの惑星A、B、Cが複合アスペクトを構成するという。そして複合アスペクトから吉凶象意を読みとっていく技法がある。
ただし、調停の説明にあるとおり複合アスペクトの考え方は古くから存在する。実際、ほとんどのホロスコープに複合アスペクトが形成される。 | [
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"text": "西洋占星術(せいようせんせいじゅつ)では、アラブ世界や西洋諸国で発達してきた、天体が地球に及ぼす効果を研究し予言を行おうとする占星術の体系について述べる。西洋の占星術(羅:astrologia、星々の研究)は、天体は一定の影響を地上にもたらすというマクロコスモスとミクロコスモスの照応という考えに基づいており、一般的に、占う対象に影響を及ぼすとされる諸天体が、出生時などの年月日と時刻にどの位置にあるかをホロスコープに描き出し、それを解釈する形で占う。用いられる黄道十二宮の概念は、初期メソポタミア文明に起源を持ち、ヘレニズム時代にギリシャ人が採用し、ローマ人に受け継がれた。占星術は古代から、天体の位置を測定して計算し宇宙の体系の仮説を作る天文学(羅:astronomia、星々の法則)とともに行われ、惑星の位置の精緻な計算を必要とする占星術という実践が、天文学を推進する最大の力だった。",
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"text": "古代・中世・初期近代のたいていの占星術(伝統的占星術)は、真面目で洗練された研究・実践であり、当時においては超自然的でも非合理的でもなかった。潮汐など、天体の地球への影響は明らかに存在し、惑星の光に何らかの影響が伴っていることは疑う余地もなく思われたため、占星術の真偽が論点になることはなく、天の影響の範囲とその影響をいかに正確に予言するかということがもっぱら論争された。",
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"text": "占星術一般がそうであるように、西洋占星術もまた、近代的な科学の発展に伴って「科学」としての地位から転落した。神智学協会の神智学の影響を受けてオカルト的な色合いを帯びて復興し、超物理(メタフィジカル)サブカルチャー運動であるニューエイジを経て心理学化・セラピー化の流れも生じた。神智学協会以降広まったサン・サイン占星術では、太陽のあるサインをもとにして占う。日本の雑誌などでよく見かける十二星座を基にした「マジック的」な星座占いは、これを矮小化・通俗化したもので、初期近代までの占星術の慣行とはまったく異なる。",
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"text": "科学史などでは疑似科学に分類されるのが一般的であり、科学的な議論の枠組みをすでに外れているともいえる。科学的な実証研究はほとんど存在しない。人間の理性を重んじる現代の西洋社会において、中世の迷信と嘲笑されながらも人気を保ち続け、現代日本で浸透している占いの中でもポピュラーであり、生活の中に幅広く用いられ一定の社会的存在感を得ている。英語圏には1万人以上の占星術師がおり、2,000万人以上の顧客がいる。現代の占星術では、ホロスコープを作るための計算にコンピュータが用いられている。",
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"text": "西洋占星術の起源はバビロニアにあった。バビロニアでは、紀元前2千年紀に天の星々と神々を結びつけることが行われ、天の徴(しるし)が地上の出来事の前兆を示すという考えも生まれた。『エヌーマ・アヌ・エンリル(英語版)』(Enuma Anu Enlil、紀元前1000年ごろ)はそうした前兆をまとめたものである。ただし、当時前兆と結びつけられていた出来事は、君主や国家に関わる物事ばかりで、その読み取りも星位を描いて占うものではなく、星にこめた象徴的な意味(火星は軍神ネルガルに対応していたから凶兆とするなど)を読み取るものに過ぎなかった。",
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"text": "現代にも引き継がれている星位図を描く占星術は、天文学が発達し、惑星の運行に関する知識が蓄積していった紀元前1千年紀半ば以降になって興った(このころも含め、古来、「天文学」と「占星術」の境界の曖昧な時代は長く続いた)。もともとは暦のために整備された獣帯を占星術と結びつけることも、そのころに行われた。現存最古の星位図は、楔形文字の記録に残る紀元前410年の出生星位図(ある貴族の子弟の星位を描いたもの)である。ただし、この時点では、のちのホロスコープ占星術に見られる諸概念はほとんど現れていなかった。",
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"text": "古代ギリシャやローマの著述家たちは、占星術をしばしばカルデア人とエジプト人がもたらしたものとして叙述している。",
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"text": "確かに、紀元前4200年の星図をともなうエジプトの占星術の歴史は古い。エジプト人の占星術は、太陽とシリウスの組み合わせが主役になっている。それが、エジプトに肥沃さと活力をもたらしてくれるナイル川の氾濫を予言するものとされた。",
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"text": "しかし、西洋占星術に直接関わるような概念の発達には、エジプト占星術はほとんど寄与していない。「エジプト起源」がかつて語られたのは、アレクサンドロス3世(大王)の征服以後、ヘレニズム文化圏に組み込まれていたエジプト(特にアレキサンドリア)で、占星術が発達したことによって生じた誤伝らしく、正しくはヘレニズム時代における寄与と位置づけられるべきである。",
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"text": "332年にアレキサンダー大王によって占領されたあと、エジプトはギリシャの支配下にあった。そして、ヘレニズム文化が栄える中で、初めて本格的にホロスコープを用いる占星術が現れた。出生時における星々の位置から個人の星位図をトレースする試みが普及した。このシステムは「ホロスコープ占星術」と名付けられた。アセンダント(後述)はギリシャ語で「ホロスコポス」とも呼ばれていたからである(星位図そのものを「ホロスコープ」と呼ぶようになったのは、これが語源である)。ギリシャで大いに発展したとはいえ、その大部分はバビロニアからもたらされたものであった。",
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"text": "ホロスコープの普及は、春分点歳差の発見者とされるヒッパルコス(紀元前2世紀)以降のことである。かつて彼は占星術を生み出した人物であるかのごとく位置づけられたが、実際にはバビロニアで天文学と並行して発達した占星術の知識を、ヘレニズム世界にもたらした人物であったといえる。そのバビロニアからもたらされたシステムは、後世作り上げられた完成の域にある程度達したものではあったが、ギリシャ人占星術師たちによっても、個人のホロスコープを描く上での重要な追加がなされた。",
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"text": "ギリシャがローマ帝国の支配下に入った後も、ギリシャ人たちによって占星術は発達を遂げた。ローマでもマルクス・マニリウスの『アストロノミカ(英語版)』(西暦1世紀)などが現れたが、西洋のホロスコープ占星術の発展において特に重要だったのは、天文学者・占星術師クラウディオス・プトレマイオスの貢献である。天文学と占星術が未分化だった時代にあって、彼の天文学書『アルマゲスト』とともに、占星術書『テトラビブロス(英語版)』(四つの書)は、その後の西洋占星術の伝統における基盤となった。『テトラビブロス』では第一の書で惑星の冷熱乾湿などの一般的原理が講じられ、第二の書で社会変化を占う占星術が、第三の書と第四の書で個人のホロスコープ占星術が論じられている。",
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"text": "プトレマイオスは、古代より天文学界を支配してきた地球を宇宙の中心ととらえ、太陽や惑星が地球の周りを回る「天動説」を集大成して、「プトレマイオス体系」として確立し、天文学や占星術の「世界観」に大きな影響を与えた。",
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"text": "ギリシャ人(特にプトレマイオス)のもとで、惑星(太陽、月も含む。後述)、ハウス、十二宮などが合理化され、それらの機能も策定された(今日のものは若干の修正が施されている。以下では必要に応じて古典的な解釈にも触れている)。",
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"text": "バビロニアでも部分的には見られたことだが、ヘレニズム時代以降に占星術の適用範囲は、自然哲学、現代では「科学」と位置づけられるものすべてに広がった。すなわち、植物学、化学(錬金術)、動物学、鉱物学、解剖学、医学などである。",
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"text": "天上の星々は、地上の諸々の物質との照応関係を持つものとされ、星々に対応する金属(太陽と金、水星と水銀など)、鉱石(これが誕生石の起源になったという説もある)などが定められた。また、人体との照応関係をもとに「占星医学(英語版)」(Iatromathematica、イアトロマテマティカ。星辰医学、医療占星術)も発達し、その治療に用いる薬草類の研究が天体植物学として体系化された。さらに、前出のマニリウスは全5巻の『アストロノミカ』の第4巻で、占星地理学(世界の地域を十二宮に対応させる)を論じている。",
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"text": "ミクロコスモスとマクロコスモスに照応関係を認め、人間と星位と結びつける観点は、人体の各部位を、星々と結びつけることにつながった。『テトラビブロス』の第三の書でも、占星医学が論じられている。学派によって、その照応関係は異なるが、おおむね頭部を第1のサインである白羊宮に、足先を第12のサインである双魚宮にそれぞれ対応させ、その間に残るサインを当てはめていく。",
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"text": "外科医学でもこうした照応関係は重視され、のちには瀉血で切る部位や時期を決める際にも、占星術的な判断が用いられた。",
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"text": "ローマ帝国では、すでに見たように理論面ではギリシャ人に多くを負い、独自の発展はほとんど見られなかった。",
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"text": "歴代ローマ皇帝には占星術を重視する者も見られ、占星術師トラシュルスを重用したティベリウス、占星術で最期を予言されたことに怯え、実際に暗殺されたドミティアヌスなどがいたが、キリスト教の広まりとともに衰えた。西ローマ帝国滅亡後にも迷信的とされた通俗占星術は命脈を保ったが、当時「科学」の一端を担っていた占星術の理論体系は、ヨーロッパ社会からは失われた。中世のヨーロッパ社会では、ヴェズレーの大聖堂の彫刻など、獣帯を描いたものも見られたが、それらは主として暦を表していたに過ぎず、占星術との関連を論じるのは適切ではない。",
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"text": "ローマ帝国がキリスト教化していくと、キリスト教会の権力が大きくなり、教会の反占星術の姿勢が強まっていった。なかでもアウグスティヌスの占星術に対する攻撃は、キリスト教会の占星術に対する態度を決定づけた。キリスト教会は、占星術は人間の自由な意志を宿命論的な側面から脅かすとして問題視した。そして、キリスト教にとっての異端の宗教であるグノーシス派やマニ教などが占星術と結びつけて考えられたことも大きかった。",
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"text": "東ローマ帝国では、レトリオスの『フロールイト』(500年ごろ)が、火、水、風、土のグランドトラインを論じるなど、『テトラビブロス』をいくらか発展させた研究も見られたものの、基本的には東ローマ帝国滅亡(1453年)まで古代ギリシャ占星術を教条化し、固持し続けた。",
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"text": "ヘレニズム時代に体系化されたシステムは、ほとんどそのままアラブ・ペルシャなどのイスラム世界の占星術師たちに引き継がれた。ダマスカスとバグダードにあった彼らの研究拠点では、ヨーロッパが忘れていた天文学、占星術、数学、医学などのギリシャ語の古典がアラビア語に翻訳され、大いに発展を遂げた。彼らの知識はヨーロッパに逆輸入され、ルネサンスの開始を助けた。",
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"text": "アラブの占星術師たちのなかでは、占星術以外の翻訳でも大いに功があったアル=キンディー(アルキンドゥス)と、その弟子筋にあたるアブー=マーシャル(英語版)(アルブマサル)が特に重要である。後述するように、アブー=マーシャルの著書『大序説』(ラテン語名:Introductorium in Astronomiam)は、のちのヨーロッパに絶大な影響を及ぼした。もう一人重要なのが、ペルシャの数学者、天文学者、占星術師、地理学者アル=フワーリズミーである。彼の名前は「アルゴリズム」の語源としても知られる。",
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"text": "アラブ人たちは、天文学の知識も大いに増大させた。アルデバラン、アルタイル、ベテルギウス、リゲル、ヴェガなどの星々を最初に命名したのも彼らである。",
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"text": "占星術においては、彼らは「アラビック・パーツ(英語版)」として知られる、擬似的な天体を多数作成ないし再発見した。アラビック・パーツは実在天体ではないが、実天体の位置やハウスの境界であるハウスカスプの位置から計算されるポイントとそれに付加された名称、象意の総体である。もっとも有名なアラビック・パーツであるPart of FortuneはASC + Moon - Sunという式で計算される。",
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"text": "中世ヨーロッパでは、11世紀ごろまではアラブの占星術理論を受け入れられるだけの知的基盤自体がなかったが、いわゆる「12世紀ルネサンス」の中で、ほかの科学書とともに多くの占星術書がアラビア語からラテン語に翻訳され、占星術知識が再興・発展した。ヨーロッパの占星術師達はイスラム世界の占星術の技法を吸収し、またそこから新たな技法を見出すこととなった。たとえば、ハウス分割において、現在主流であるプラシーダスの技法はイスラム起源であり、プラシーダスがヨーロッパで広まる500年前にアブラハム・イブン・エズラがこのハウスシステムの計算方法を述べている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "1130年ごろから1150年ごろまでに、クレモナのジェラルドらによって、プトレマイオスの『アルマゲスト』『テトラビブロス』、アブー=マーシャル『大序説』、偽プトレマイオス『ケンティロクイウム』(百の警句)などが訳され、特にアブー=マーシャルはその後1世紀あまり占星術の権威と見なされた。占星術書を特に多く翻訳したのは、セビーリャのフアンである。彼はアブー=マシャール、マーシャーアッラー、アル=カビーシーらの複数の著作、『ケンティロクイウム』などの翻訳を手がけたほか、自身でも『全占星術綱要』を執筆した(これは16世紀に出版された)。",
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"text": "また、古代ギリシャに存在していたとされるアストロラーベも、イスラム世界を経由してヨーロッパ人たちに再認識された。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、イスラム世界の占星術の権威は長続きしなかった。西洋の占星術師たちが独自の技法を発展させていったことや、キリスト教神学者の間での議論の影響を受けたためである。神学者ではないが、ダンテもイスラム科学をキリスト教徒が使うことには批判的で、その影響を強く受けた占星術にも同様に批判的だった(彼は『神曲』の中で13世紀の代表的な占星術師グイド・ボナッティとマイケル・スコットを地獄に落としている)。ただし、こうした動きはイスラム世界起源の占星術書がまったく省みられなくなったことを意味しない。特に15世紀以降の印刷革命に波に乗って、ルネサンス期には多くのアラブ系の占星術書が出版されており、近世の著名な占星術師の一人ウィリアム・リリー(英語版)は、否定的な見解を示しつつも、アラブの占星術も研究したと語っている。",
"title": "歴史"
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"text": "占星術には、翌年の気象を予想しようとする「気象占星術」があり、しばしば「数学者」と呼ばれた実践者たちは、カレンダー、月齢、日食、月食などと共に占星術による天気予想、重要な事件や動向の予知が含まれる暦を作って生計を立てていた。出生時の惑星の位置から新生児に「刷り込まれた」影響を知ろうとする「出生占星術」は、四体液説と結びつき、惑星による人間の気質・健康への影響が認められていた。西洋中世においては、天文学も占星術も astrologia という用語が用いられていた。",
"title": "歴史"
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"text": "13世紀以降は、キリスト教神学者たちの間で、占星術に関して大きく議論が戦わされた。スコラ哲学者の中では、アルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスが占星術に好意的な見解を示したが、他方でニコル・オレームは『判断占星術師論駁』のなかで、多面的な批判を繰り広げた。当時、出生占星術を強めた判断占星術に対する評価はさまざまであった。チェッコ・ダスコリ(英語版)などは、キリストの誕生や最後の審判に関するホロスコープを作成したことを咎められて、1327年に火刑に処されている。",
"title": "歴史"
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"text": "他方で、やや時代が後になるオレームの弟子ピエール・ダイイは、晩年判断占星術に強く傾倒し、歴史上の重大事件と天体の合の関連を研究した。彼はそれを未来にも適用し、1789年に反キリストが出現すると予言した(この予言はルネサンス期に持てはやされ、チュレル、ルーサ、ノストラダムスらが直接・間接的に踏襲する)。",
"title": "歴史"
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"text": "このように、「判断占星術」が毀誉褒貶だったのに対し、「占星医学」はむしろ高級占星術として評価されることが多く、大学などでも受け入れられていた。このため、当時医学研究で主導的地位にあったサレルノ大学、ボローニャ大学、モンペリエ大学などの医学部でも、占星医学は講じられていた。当時の医療は患者それぞれに合わせて調整したオーダーメイド医療であり、医者は患者の気質を知るために患者の出生天宮図を調べ、治療の好機を見極めるなど治療に活用した。",
"title": "歴史"
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"text": "また、1347年から1350年にペストが流行した際には、パリ大学医学部が、その原因は1345年3月20日に宝瓶宮で起こった木星、火星、土星の三重合にあったとする公式声明を出している。伝染病の流行と星位を結びつけるこうした言説は、現在でも「(星の)影響」を語源に持つ「インフルエンザ」などにその痕跡を見出すことができる。ギリシャ・アラビア医学(ユナニ医学)は18世紀までほとんどそのまま続いたが、医学における占星術的判断は17世紀には衰退し始めた。",
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"text": "中世後期には、王侯貴族の中にも占星術を重用する者は少なくなかった。たとえば、フランス王シャルル5世の場合、蔵書の2割(180冊)を占星術書が占めていたとされる。これは当時のほかの王族の蔵書と比べても、突出して高い比率であった。こうして中世には、しばしば重要な政治的・軍事的決定には、占星術師の判断が仰がれることもあったのである。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "ルネサンス期には、神秘主義的傾向も持つ新プラトン主義が流行したが、その中心人物たちは必ずしも占星術に好意的ではなかった。マルシリオ・フィチーノは占星医学などには理解を示していたが、判断占星術には批判的だった。ピコ・デラ・ミランドラは、人間の自由意志を否定するものとして、『予言占星術論駁』で占星術への強い批判を展開した。神学者たちはおおむね自由意思を侵害するとして判断占星術を批判し、星々は人間に影響を与えても無理強いすることはないと考えられていた。他方で、16世紀のイタリアでは、数学者としても活躍した占星術師ジェロラモ・カルダーノが現れた。彼は『誕生占星術の実例集』では、自身の過去の占星術判断の誤りなども提示している。",
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"paragraph_id": 37,
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"text": "ルネサンス期には、コペルニクスの『天球の回転について』(1543年)が死後発表された。しかし、彼が心配していたような批判は起こらず、本は読まれたが、彼の理論は地球の公転や自転、物体の落下や星の視差などに関する答えられない疑問を抱えており、ほとんどの読者は説得されず、支持者はほぼいなかった。占星術において最大の関心事は地球に対する惑星の位置、惑星の位置を分単位で過去未来にわたって計算することであり、地球中心説(天動説)か太陽中心説(地動説)かということは問題にならず、多くの人はどちらかはっきりさせることが可能とも思っていなかった。惑星の位置を決定するための表は太陽中心説の方が簡単だったため、楽に計算するための仮定としてコペルニクスの理論を使う人もいた。",
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"text": "17世紀に入ると、天文学者でもあったヨハネス・ケプラーが、この問題に取り組んだ。ケプラーは『へびつかい座の新星』では、「賢いけれども貧しい母」(天文学)と「その生活費を稼ぐ愚かな娘」(占星術)の対比によって、占星術があくまでも日々の糧を稼ぐための道具であると述べていたが、『占星術の確実な基礎について』(1602年)、『第三に介入するもの』(1610年)、『世界の調和』(1619年)などでは、新たな占星術理論の構築を試みている。しかし、太陽中心説(地動説)を軸とする刷新はうまくいかず、当時はむしろジャン=バチスト・モラン(モリヌス、1591 - 1659)の『ガリアの占星術』(1661年)のように、プトレマイオス的宇宙観を墨守することを表明するものもあった。他方で、ケプラーは占星術を数学的に純化しようとしたことをはじめ、さまざまな改革を試みており、アスペクトなどでは重要な貢献を行っている。ケプラー以前のアスペクトは、第1にサインとサインの関係であったが、ケプラーは星と星の間の角度として再定義し、この新たなアスペクト概念は多くの占星術師に受け入れられ、現代に至っている。",
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"text": "16世紀の占星術の「先進国」はフランスであったが、17世紀半ばにはそれはイギリスになった。イギリスでは、一時期占星術が「公認」されていた時期があった。これは占星術の正しさを認めたわけではなく、占星術に対する禁止令をたびたび出していたローマ・カトリックへの「対抗意識」をイギリス国教会が持ったことや、御用占星術師を使った大衆宣撫を視野に入れていた政府の意向などによるものである。17世紀半ばに御用占星術師として名を馳せたのは、ウィリアム・リリー(英語版)である。彼は議会派の有利になるような予言を多く行った。また、暦の発行も手がけ、暦書『天使的なるマーリン』は、1646年に1万3,500部、その3年後には3万部が発行された。彼は御用占星術師としてのパンフレットを多く執筆した一方で理論書も手がけており、『キリスト教占星術』(Christian Astrology, 1647年)は、その後長らく当時の占星術の技法を網羅した解説書として影響力を持った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 40,
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"text": "中山茂によると、占星術と天文学の「分離」が明確になったのは、アイザック・ニュートンの登場によって、天文学に力学が導入されてからである。ただしニュートンは、キリストの神性を含まない原始の神学の復興を目指し、神が創造し内在する宇宙の体系の完全な知識の復活を試みて研究を行っており、今日の科学者の方法・姿勢とは明らかに異なっている。彼は、ヘルメス文書の解読を試み、古代の知識の復活を目指しており、万有引力の法則も古代の知識の再発見に過ぎないと考えていた。彼の万有引力の法則のアイデアは、自然魔術の「共感」、アリストテレス主義者の「隠された性質」という、ものを引きつける見えない力という概念への逆戻りのようにとらえられ、批判も浴びた。",
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"text": "ニュートン以前は、遠い未来に起こる天体現象を正確に予想できることから、天体の運動は地上における現象とは別の原理によって説明される、より神秘的で完全なものであり、地上における現象にもなんらかの影響を及ぼしているという考え方には、一定の根拠があった。ニュートンによって、惑星運動と地上における落下現象が同じ万有引力の法則によって説明されることが示されたことで、これと矛盾する占星術は「自然科学」の体系から離れていった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "1781年に天王星が発見されたとき、占星術師にはこれを組み込んで「より正確な」占いを行おうとする者たちが現れた。占星術が真に「科学」と呼べるものならば、ここで占いの正確さのためにまだ足りない要素があることに気付くべきであったが、そのような見解はなかった。他方、天文学は天王星の摂動によって、未発見の惑星(海王星)の存在を正しく予見した。科学史家の中山茂は、この海王星の発見が、占星術と天文学の「科学性」を考察する重要なものであったとしている。",
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"text": "17世紀後半、理性の啓発によって人間の進歩や改善を図り、超自然的な偏見を取り除いて、人間の持つ理性の自立を促すことを重視する、啓蒙思想がイギリスで興ると、天文学や自然科学の発展と同じく、占星術に対する「逆風」となった。天文学と分離した占星術は、科学の台頭で時代遅れの物笑いの種になっており、古代からの名声を完全に失っていた。しかし消滅することはなく、占星術による天気予報や予知が含まれる生活暦(アルマナック)は、相変わらず多数の支持が寄せられていた。「学問」としての占星術は否定されたが、一般大衆においては生き延びていった。",
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"text": "19世紀後半に、近代オカルティズムが勃興すると、占星術もその潮流に乗ることになった。近代オカルティズムの盛り上がりとともに、秘教的な衣をまとうことで、それまでとは別のものに変化した。なかでも、神秘的直感、幻視、啓示などを通じて、神と結びつく神聖な叡智を獲得することで、高度な認識に達することを標榜する近代神智学(以下「神智学」)の影響が大きかった。神智学は、馬鹿にされたり無視されていたさまざまなオカルトをその体系に取り組み、後期ヴィクトリア朝の教養人たちの注目を集めた",
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"text": "神智学協会の神智学運動は、19世紀末を代表する文化運動のひとつであり、その衝撃は、さらに20世紀初頭のモダニズム誕生から、1960年代のカウンターカルチャー、20世紀末に始まるニューエイジと精神世界(現在のスピリチュアル)を理解していくうえで、「鍵」となる存在である。欧米文化の秘教主義、神秘主義、オカルト主義の趨勢が一群となったこの運動を、秘教的音楽史家ジョスリン・ゴドウィン(英語版)は「神智学的啓蒙」と表現した。",
"title": "歴史"
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"text": "神智学協会の宇宙論における使命とは、世界の隠された真実の性質を明らかにし、物質主義的な科学観に反旗をひるがえすことであるという。神智学の創始者ヘレナ・P・ブラヴァツキーは、占星術は科学であり天文学のように正しいが、これは占星術と解釈する術師の双方が完全に正しい場合に限ると発言し、占星術と心理学においては、これを乗り越えるために「物質的世界」を離れて「霊的世界」に足を踏み入れなければならないと主張した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "19世紀イギリスの神智学協会会員でブラヴァツキーの腹心の一人アラン・レオ(英語版)は、西洋占星術を体系化して、現代まで続く形式に構築したことから「近代占星学の父」と呼ばれる。レオと、神智学協会会員の占星術師W・R・オールドが復興の立役者と評価されている。彼らは、占星術を古臭い陳腐な予言の手段から神智学の関連要素に引き上げ、秘教的関心における有用なツールとして提示し、神智学と占星術を融合させた。レオによって神智学が取り入れられ、「霊的な進化」の概念が占星術に初めて見られるようになり、新プラトン主義の系譜から神智学協会が導入した「霊的な太陽」の信仰を取り入れ、「太陽星座」(サン・サイン)を採用した。また、神智学を基礎にして占星術に心理学的な要素を加えた。これが現在にも影響が続いている「占星術の心理学化」の始まりである。レオは占星術をそれまでの歴史から分断し、伝統的なルールや法則をかなり簡略化したため、占星術を「改悪」したという否定的意見もある。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 48,
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"text": "レオは、初めてのオカルト本の出版社とされる「モダン・アストロロジー・パブリッシング」社を創設し、大衆向けの占星術の書籍を出版し、1890年に雑誌「The Astrologer's Magazine」(1891年に Astrologers' Magazine、1895年に Modern Astrology(『現代占星術』) に改名)を始め、占星術の普及に貢献した。レオは、20世紀初の占星術の広告塔になり、雑誌を利用して自らの占星術を広め、大衆化した。雑誌では、定期購読者に無料でホロスコープを作成しチャート診断するサービスを行って多くの読者を獲得し、十分な収益を上げ、著作もよく売れた。占星術をもうかる商売に仕立てたのも、レオとオールドであると評されている。レオの教本は、近代占星術の初期の研究家ほとんどすべてが学んでおり、後世に大きな影響を与えた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 49,
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"text": "19世紀末には、一部の占星術師たちは、自分たちの仕事を専門職として確立するため、課題を現代的なものに置きかえ、科学的なものにしようと試みた。1895年にはロンドンで『現代占星術』という表題を掲げた専門誌が刊行され、第一号の論説では「いまや古代の占星術体系を現代化するときが来た」と宣言した。リチャード・モリソンという退役海軍士官は(当時、航海士は恒星の位置に頼って航海していた)自分のことを「ザドキエル」と称し、水晶玉を用いて未来予言を行った。また、W・R・オールドは、客のために株式取引所の株価の動きを予言したり、競馬の結果を教えたりしていた。1902年になるとロンドンに占星術研究協会が設立され、1910年には占星術研究所、さらに毎週主催して講義を行なう占星術会館も誕生した。1915年には、レオと妻のベシイがイギリスの神智学協会に「占星術ロッジ」を設立しており、これがイギリスに現存する主要な占星術団体のもとになっている。鏡リュウジは、占星術にコミュニティがあるとすれば、レオがその源であると述べている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "フランスでは、ジャン=バチスト・モランの『ガリア占星術』(1661年)以降衰退し、19世紀のオカルティストのエリファス・レヴィに触発されオカルティズム探求の動きが現れ、ロマン派がカバラ主義・黒魔術・デカダン・古代エジプト・異端カタリ派などに興味を寄せたことで復興したが、目立つ動きではなかった。アンリ・セルヴァ(Henri Selva、1861 - ?)がモランを再発見し、1920年には実践者も増加した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ドイツでは、ルネサンス以降の伝統はエランゲル大学のジュリウス・プファフ(ドイツ語版)(1774 - 1835)とともに途絶えていたが、神智学とフランス魔術の合流で1984年に復興した。84年に神智学協会ドイツ支部が設立されて、仏教やヒンドゥー教にも詳しい神智学徒フランツ・ハルトマン(ドイツ語版)が占星術の研究を行うようになった。ハルトマンの助手フーゴ・フォルラート(Hugo Vollrath)は、神智学やオカルトの出版社を設立し、ドイツではこの時期、占星術の定期大会や旺盛な出版活動がなされた。フォルラートは、神智学協会・占星術界で幾度か面倒なトラブルを起こし、ルドルフ・シュタイナーが神智学協会を離れて人智学協会を作ることにもなり、ドイツの占星術界はこうした騒動の影響で混乱したままナチスの時代に突入した。フォルラートは1933年にナチスに入党し、ナチスが主張する北方人種アーリア人の優位性を理論的に証明し正当化するために占星術を利用し、反ユダヤの流れに加担した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "20世紀に入ると、アメリカでオカルティズムとメタフィジカル(超物質)思想によって、経験や感覚から超越した神秘的な技術へ進化させようとする動向が出てきた。その代表的存在が、神智学徒で「アーケイン・スクール(不朽の知恵・秘教占星学)」の創設者のアリス・ベイリーである。ベイリーはジュワル・クールという高次の存在と交信して教えを受けたと主張し、神智学の7つの周期による歴史観と占星術を融合させ、近い将来「魚座」の時代から「水瓶座(アクエリアス)」の新時代(アクエリアン・エイジ)への大規模なパラダイムシフトが起こると語り、ニューエイジ思想の源のひとつとなった。ベイリーの『ヒューマニスティック占星術』と弟子のディーン・ルディア(英語版)の『サビアン・シンボル』は、こうした秘教化の動向の基本となっている。ルディアはベイリーから学んだ神智学と秘教占星学にユング心理学を導入して「トランスパーソナル占星術」を作り、1936年の代表的著書『パーソナリティーの占星術』では、占星術は深層心理学の術語によって再定義する必要があると述べた。またニーチェの超人思想に心酔していたルディアは、新たな文明の中心となる「シード・グループ(種となる集団)」を作らなければならないと主張した。こうした思想は、ホゼ・アグエイアス等の時代の霊的な転換を唱えたニューエイジのオカルティストに影響を与えている。アラン・レオに始まる神智学の世界観を基礎にした占星術は、ベイリーとルディアの秘教占星術に受け継がれ、「占星術の心理学化」という流れも生んだ。レオの系譜の占星術のオカルト色、神智学色から脱しようとさまざまな団体も生まれ、20世紀前半には西洋占星術は多様化していくことになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 53,
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"text": "こうして復活した、あるいは改革された占星術と、伝統的な占星術との違いは、その意識的な混合主義にあることが指摘されている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "実践者の間でも、占星術の方向性については多様な意見がある。「科学的学問」にしたいと望む占星術師は、オカルト要素の強いレオらの占星術を、占星術を呪術やオカルトにとどめていると批判している。彼らのなかには19世紀科学の言語を取り入れたり、統計学の言い回しを使って、自分たちの分野と魔術の分野の違いを強調し、「精神科学」「占星術の科学的基礎」あるいは「星座と人間行動とが関係していることの科学的証拠」などについて書いた者もいた。彼らは反対に、その考えに賛同しない占星術師たちから、占星術を疑似科学にしていると批判されており、思想の異なる占星術師同士で批判し合っている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "自分たちの思想が、薔薇十字団、フリーメイソンあるいはエジプトの神秘主義とつながっていると主張する占星術師もおり、彼らの多くは、たとえばヒンドゥー教や仏教などの東洋の宗致から知恵を拝借している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 56,
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"text": "占星術を科学という場合、星についての研究が自然科学であるいう主張と、惑星から放出される不可視の神秘的な力に言及し、マクロコスモスとミクロコスモスの照応の概念をシンクロニシティ(ユング)の結果とし、さまざまな偶然の一致を研究するようなオカルト科学的な主張がある。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "西洋占星術は疑似科学とも見なされるようになり、1940年にはアメリカ社会心理学会が、未来予知のツールとしての占星術の有効性を否定する公式声明を発表した。また、1975年には前アメリカ天文学会会長バート・ボックらが文責を負い、ノーベル賞受賞学者18名を含む計186人の科学者らが連署した占星術批判の声明が出されている(『ヒューマニスト』誌1975年9月号)。ただし、これには、占星術に懐疑的な論者からも、権威主義との批判が寄せられた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "科学者らの声明の一方で、国際的に知られたジーン・ディクソンや、ロナルド・レーガン大統領(当時)の夫人ナンシーに重用され、大統領の日程へも関与したジョーン・キグリー(英語版)のように、社会的に影響力を持った占星術師は存在した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1970年代に入ると、ヒューマンポテンシャル運動や人間性心理学、神智学や心霊主義といった超物理(メタフィジカル)が混ざり合ってニューエイジ運動が生まれ、その影響を受けて、占星術やタロットといったオカルトの実践は、「自己成長」や「自己探求」、「自己変容」のツールとも見なされるようになり(心理占星術(英語版))、出来事を予知したり運勢を判断する占星術の側面は薄まってきている。現代の占星術師には、顧客に将来起きる出来事を予言して行動のアドバイスをするタイプと、顧客の自己探求を導く疑似セラピストタイプがあり、占星術師たちは皆この2つのタイプの間に存在している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 60,
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"text": "こうした状況を踏まえて、1990年代あたりから、占星術がかつて持っていたとされる機能を復活させようという動きが出てきた。イギリスのオリビア・バークレイは、1996年9月にエクセターで開かれたアストロロジカル・アソシエーションの「カーター・メモリアル・レクチャー」において「伝統的占星術の必要性」と題した講演を行い、伝統的占星術への回帰を宣言している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "伝統的占星術への回帰はホラリー占星術(英語版)への再評価へとつながり、ホラリーの技法が多数記されている中世や古代の占星術文献の掘り起こしへと至った。中世文献の掘り起こしプロジェクトの代表的なものに、Project Hindsight がある。Project Hindsightでは非英語で記述された占星術の古典が、おもにボランティアの手で英語に翻訳された。古典的な占星術を復活させたものは、古典派や伝統派と呼ばれているが、2007年の時点ですでに古典的な技法の上に独自の解釈を組み込もうとする方向性も見えており、古典派とひとくくりにできない状況となっている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "予測不可能で複雑な現代産業社会において、占星術は、生の意味を見失った一般市民に出来事が制御可能であると感じさせ、予測可能で意味のある体系、大きな物語の中に己が存在するという感覚を与え、生活に宇宙的な意義を感じさせるという側面がある。特にアメリカでは、新聞、雑誌の占星術コーナーをはじめ、メディアで多く取り上げられ、「学術理論」としての有効性を失った代わりに、人気のあるサブカルチャーのひとつとなっている。世論調査では、占星術の人気は衰えるどころか増しているが、一般には、個人のパーソナリティに関する十二星座と、占い目的での占星術の使用という、西洋占星術のごくわずかな面だけが知られている。ホロスコープを作るのにコンピューターが利用され、これが人気に拍車をかけている。コンピュータを使ってホロスコープを作成する理由は、時間節約だけではなく、自分の予言にハイテクの威光を与えるためでもあると指摘されている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "フランスの国立科学統計センターの統計学者・心理学者のミシェル・ゴークラン(Michel Gauquelin)と妻のフランソワーズ・ゴークランは、出生時の惑星の配置と性格を分類する統計研究を行い、『人間の行動に対する宇宙の影響』(1973年)を発表した。彼の研究は太陽宮占星術の裏付けにはあまりなっていないが、親の誕生図の星位が子供の図でも予想以上に繰り返されるなどの見解を示した。",
"title": "科学的研究"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "これがほとんど唯一の実証主義的なアプローチによる研究報告であるが、明治大学コミュニケーション研究所は、「その報告においてさえ、職業選択における他の社会的要因と比べて惑星による影響は(有意水準ではあったものの)あまりにも小さすぎ実際に使用するには再現性に乏しい」ことが指摘されており、過去の逸話の累積にゴークラン夫妻の研究を加味したとしても、再現性を保証することはできず、データの再現性は低いと述べている。",
"title": "科学的研究"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "このほか、心理学者ハンス・アイゼンクや天文学者ピエール・クーデールらは、様々な観点からの統計学的調査に基づき、西洋占星術の妥当性に疑問を投げかけている(参考文献欄掲出の各文献を参照のこと)。",
"title": "科学的研究"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "西洋社会では、古来占星術に対してさまざまな批判が寄せられてきた。古典的なものは、アウグスティヌスが『告白』で展開したものである。ほぼ同じ場所で同じ時刻に生まれた人は同じホロスコープを持つが、身分が異なることで裕福な家督を継いだ者と召使になった者がいたことなどを取り上げたのである。アウグスティヌスの批判は、中世にダンテが援用したほか、現代でも占星術批判で引用されることがある。逆に占星術師の中には、同じ時間に生まれた者(いわゆる「アストロ・ツイン」「宇宙双子」)がよく似た人生を歩むと主張する者もいるが、その根拠の不透明さも指摘されている。",
"title": "懐疑論・批判"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "1990年代に入ると、占星術のコーナーを持つアメリカの新聞には、科学的根拠のないゲームに過ぎないと断り書きを入れるものも現れた。",
"title": "懐疑論・批判"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "占星術コミュニティは、「たとえ疑似科学、オカルト的言説であっても社会的な需要に応えている」と主張している。",
"title": "懐疑論・批判"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "部分的にでも当たったように感じられるのは、バーナム効果、確証バイアス、予言の自己成就などの心理効果や、コールドリーディングやホットリーディングのテクニックが使われているという批判があり、占星術師側も部分的にだが、こうしたごまかしがあることを認めている。",
"title": "懐疑論・批判"
},
{
"paragraph_id": 70,
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"text": "高額なお布施などには、個人のレベルで注意する必要がある。",
"title": "懐疑論・批判"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "十二宮は黄道を12に分割して得られた区画である。占星術師たちは、それぞれの宮と、それが持つ意味について注記している。一般的な西洋占星術では、天の赤道と黄道の東側の交点である春分点から、十二宮の起点である白羊宮を始めるトロピカル方式を採用している。ゆっくりとした地軸の味噌擂り運動である、歳差運動によって、それぞれの宮(サイン)の天の配置はすでにギリシア時代にサインの指標とされた星座に一致しなくなっている。西洋占星術師の中にも、サイデリアル方式を採用することで占星術創成期のサインと指標の星座との一致を試みる動きもある。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 72,
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"text": "近代の西洋占星術では、十二宮のサインは、12の基本的な個性を表すものと信じられている。12のサインは、火、水、空気、土の古典的な四大元素に分類されている。同時に、活動宮(英語版)、不動宮(英語版)、柔軟宮(英語版)という三分類もされている。",
"title": "理論"
},
{
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"text": "このようにサインと季節には対応関係があり、たとえば春の最初のサインである白羊宮は、春分から穀雨直前まで太陽が位置するサインである。「暑さ寒さも彼岸まで」というように、通常は白羊宮に太陽が位置する期間から気温が上昇したということが実感できる。そのため白羊宮は、火つまり熱く乾燥したサインであり活動宮としてとらえられており、またその性質が牡羊の持つ突進力になぞらえられている。続く金牛宮は地のサインの不動宮であり、気温の上昇が緩やかになってきていることに対応している。そして春のサインの最後である双児宮が変動宮であり、夏への転換点となっている。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 74,
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"text": "サイデリアル方式を採用する場合、季節とサインの対応が壊れてしまう。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "12宮の性質はおおよそ以下のようなものとされる。あくまでも一例であり、かつ、統計学をはじめとする各種学術研究に裏打ちされたものではない。2区分・3区分・4区分も参照のこと。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "生年月日と出生時刻でホロスコープを作成すると月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星のすべての天体のほか、ハウスなどが以下のサインに対応している(月のサインが双魚宮で、水星のサインが人馬宮、第1ハウスが天秤宮など)。",
"title": "理論"
},
{
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"tag": "p",
"text": "個人にとってあるサインの重要度は、そのサインの中での惑星の位置とアセンダントに依存する。もしも任意のサインの中に何の星もなかったなら、そのサインはパーソナリティの中での役割は弱くなる。他方、たとえばある星が太陽や月とともに巨蟹宮にあったなら、そのサインの特質は組み合わせの中で強く表れることになる。",
"title": "理論"
},
{
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"tag": "p",
"text": "新聞や雑誌などには、しばしば星座占いのコーナーがある。それらのコーナーでは、生まれたときに太陽があった黄道十二宮に対応させて、その日に起こるかもしれない出来事の案内を提供していると主張している。しかし、これらの占いは非常に曖昧で一般的なものであるため、占星術師たちの中にもほとんど価値がないと見なしている者もいる。そうであってもKim Farnellによるとサン・サイン占星術の起源はホロスコープ占星術を同じくらい古いとされる。サン・サイン占星術の曖昧さに対して、プロの占星術師たちはより完璧な、個人に特化したホロスコープを使えば的中精度が上がると主張するが、懐疑派は事実でないと批判している。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 79,
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"text": "20世紀末には、へびつかい座を加えた13星座占いとすべきだというものも現れた。詳しくは、13星座占いを参照のこと。",
"title": "理論"
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{
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"text": "月は人間の感情や情緒的気分などの心理的傾向を示すといわれている。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 81,
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"text": "木星の位置でその年の運勢と傾向を占い、約12年周期で運勢のバイオリズムを読み解く。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 82,
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"text": "西洋占星術では、白羊宮の始点に関して2通りの見解がある。サイデリアル方式では、始点を固定的なものであると考えるが、西洋占星術の主流であるトロピカル方式では春分点を白羊宮の始点とする。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 83,
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"text": "春分点は歳差運動にともなって移動するため、西洋占星術の主流では、黄道十二宮(サイン)と黄道十二星座の結びつきが損なわれている。一方、サイデリアル方式では始点が固定的なため、その結びつきは保持されている。しかし黄道十二宮と季節の対応は損なわれているため、どちらの方式を採用するかは術者の判断による。なお地球の歳差運動は、「宝瓶宮の時代」の概念的基盤を与えている(詳しくは春分点#春分点と星座を参照のこと)。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 84,
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"text": "近代の西洋占星術では、「惑星」は人間の精神の中の基底的な原動力ないし衝動を表す。これらの「惑星」は天文学の定義と異なり、太陽、月、そして2006年に惑星から降格された冥王星なども包含する概念である。それぞれの惑星は、サインと惑星の類似性ないし共感性を基盤として、十二宮のうちの1つないし2つのサインの守護星であるとされる。逆に言えば、占星術において惑星とはサインの守護星としての性質を持つものであり、ほかは天体ないし星ではあっても惑星ではない(とはいえ、サインの守護星とは何であるかと問うならば、惑星に対するこの定義は循環論法の可能性がある)。近代以降に発見された3つの惑星も、占星術師たちによって支配するサインを割り当てられている。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 85,
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"text": "現代主流の占星術で惑星とされている、トランス・サタニアンの天王星・海王星・冥王星は、望遠鏡による観測によって確認されたものであり、18 - 20世紀に発見された天体である。そのため近年のリリーの再評価から始まりラテン語やさらにはイスラム圏の文献を英語に翻訳し、過去の技法を蘇らせようとする、ある意味伝統的占星術では使用しない。ただ天王星や海王星を受け入れた現代的な占星術師においても、冥王星については、2006年に準惑星となった際に、チャートから外す占い師もみられた。",
"title": "理論"
},
{
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"text": "もっとも欧米では、冥王星はおろかさらに小さな小惑星までも使用することが多く、その中でも代表的なものは、ケレス、パラス、ジュノー、ベスタ、キロンである。また、今後エリスが占星術に取り入れられる可能性がある。冥王星から惑星の地位を奪い、人類に対して少なからざる影響力を持ったからである。すでにエリスを表示できるホロスコープ作成ソフトウェアも存在する。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "各惑星は、どのサインに入っているか等の条件から品位(ディグニティ)とよばれるパラメータが割り振られる。あるホロスコープにおいて相対的に品位が高い惑星は凶星(マレフィック)であってもいい作用があり、品位が低いと吉星(ベネフィック)であっても悪い作用を持つとされる。古典的な7惑星についての品位の計算方法は厳密で細かく規定されているが、新しい惑星では品位の計算方法が確立していない。伝統的占星術では、近代になって発見された惑星を使用しないことの理由づけのひとつに、品位が計算方法が不完全であることを挙げている。他方、新しい惑星を組み込んだ近代占星術において、品位は忘れられかけた技法のひとつとなった。",
"title": "理論"
},
{
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"text": "占星術で使われる11の惑星は以下の通りである。",
"title": "理論"
},
{
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"text": "これらの7つの「惑星」(ここでは、太陽と月も「惑星」に含む)は古代には知られていたものであり、各個人の7つの基礎的原動力を表していると信じられている。このため占星術師たちは、これらの星を「パーソナル・プラネット」と呼ぶ。",
"title": "理論"
},
{
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"text": "これらの惑星は近代になって発見され、それ以降、西洋占星術でも重要な意味を持つ星として取り入れられた。これらの惑星を使用する場合、それぞれ対応する宮の守護星であった古典的な惑星を副守護星として扱う。",
"title": "理論"
},
{
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"text": "エリス (準惑星):射手座の守護星。意味するものは、運命、全能、退化、不和、信仰、絶対者(神)など。",
"title": "理論"
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{
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"text": "占星術では月の交点(ルナー・ノード、ノード)も重要である。ノードとは、黄道と白道の交差点する点であり、蝕が発生する点である。北のノードは、月が南から北へと横切る点で、昇交点(Caput Draconis, ドラゴン・ヘッド)と呼ばれる。南のノードは月が北から南へと横切る点で、降交点(Cauda Draconis, ドラゴン・テイル)と呼ばれる。龍が出てくるこれらの名称は、バビロニア占星術で龍に変じたティアマトの姿に由来しており、インド占星術に導入された後、中世イスラム世界を経由して、西洋占星術にも取り入れられた。",
"title": "理論"
},
{
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"text": "西洋占星術ではそれぞれの惑星ほどには、重要な要因とは考えられていないが、考慮に値する繊細なエリアと見なされている。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 94,
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"text": "西洋占星術は、おもにホロスコープの作成に基礎を置いている。ホロスコープは、ある特定時点の天の「チャート」を表した図である。選ばれる「時」は、ホロスコープの主題となる存在の始点(人物であれば生まれたとき)である。これは、主題となる存在は、その生涯を通じて、始点における天のパターンを引きずると考えられているからである。",
"title": "理論"
},
{
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"text": "理論上、ホロスコープは企業の創設から国家の樹立に至るまで分析の対象としうるが、もっとも一般的なのは、個人の誕生時を基礎とする出生図(natal chart)である。",
"title": "理論"
},
{
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"tag": "p",
"text": "西洋占星術でのホロスコープの解釈は、以下のものに支配される。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "占星術師の中には、Arabian partsのようなさまざまな数学的なポイントの位置を用いる者もいる。",
"title": "理論"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ホロスコープには、基礎的なアングルが存在する。以下に挙げるもの以外にも、占星術師の中によっては、ハウスのカスプがしばしば重要なアングルとして含められることもある。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "ホロスコープは占星術師たちによって12に分割され、ハウスと呼ばれる。黄道をハウスに分割する方法は多様である。日本では室、舎、位などと訳される。ホロスコープにおけるハウスは、人生や活動の12の異なる範囲として解釈されている。ホロスコープにおけるハウス分割法にはさまざまな方法があり、古来アル=カビーシー、カンパヌス、レギオモンタヌス、プラキドゥス・デ・ティティ(プラシーダス)らがさまざまな分割法を試みてきたが、確定的なものはない。しかし、その意味するところはおおむね以下のように解釈されている。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "第1室:個人の外観や身体特質。自我。物事の始まり。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "第2室:金銭と財産、価値と優先事項。物事の成長。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "第3室:コミュニケーション、兄弟姉妹、隣人関係、ローカルな旅行や輸送、教育、日常的な問題。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "第4室:家庭と家族、父親。不動産とその性質。相続、保持。人生の始まりと終わり。死後の名声。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "第5室:悦楽と余暇、休日、遊戯と賭博。子供たち。創造性。深い関係とまではいえない恋愛沙汰。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "第6室:召使、メイド。労働、職務と雑役。被雇用者とその業務。健康。小型の家畜。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "第7室:対人関係。配偶者、結婚、ビジネス・パートナー。合意や協定。敵対者と戦争。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "第8室:誕生と死、始まりと終わり。性的な関係やあらゆる種類の深くコミットした関係。税金、遺産、企業金融。オカルトや心霊的な事柄。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "第9室:航海をともなう遠距離の旅行、移住。外国旅行、外国とその文化。宗教、法制、高等教育。見聞を広めるために求めるすべてのもの。自由。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "第10室:意思と野望、人生の方向。社会における地位や経歴。有名人のハウス。4室からみた7室であり、父親の配偶者、つまり母親を意味する。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "第11室:友人・知人などの限られた関係。グループ、クラブ、結社、それらの中でも特に慈善的なもの。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "第12室:神秘主義、オカルト、心霊的なもの。病院や監獄のような隔離された場所。後退、反射、自己犠牲。大型の家畜。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "多くの近代的な占星術師たちは、ハウスは対応するサインと共感すると考えている。つまり、第1室は第1のサイン(白羊宮)と自然な親和性を持つなどであるが、古典的な占星術ではそうでもない。たとえば第1室に対応する惑星は水星であって、白羊宮の守護星の火星とは異なっている。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "アスペクトとは、ホロスコープにおいてそれぞれの惑星やアセンダント、デセンダント、中天、天底などが形作る角度のことである。アスペクトは、地球から見た2点間の黄道上の離角を黄経上の度数で測定したものである。それらは、ホロスコープを読むうえでの焦点となる。角度がより正確であればあるほど、アスペクトは影響力が強くなるが、オーブ(orb)と呼ばれる数度の許容範囲が解釈においては認められている。以下のアスペクトは、重要度の順に並べたものである。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "アスペクトの中には、3つ以上の惑星が関与するものもある。おもなグループ・アスペクトには以下のものがある。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "このような3個以上の占星点で形成されるグループアスペクトにおいては、単独のアスペクトより広いオーブ、あるいは狭いオーブを採用する場合がある。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "上記のような複数の惑星ないしASCやMCが特徴的な図形を構成するグループアスペクトの概念を緩くした、複合アスペクトの概念が存在する。たとえば、3つの惑星A、B、CがあるときにAとB、BとC、そしてCとAの間にそれぞれアスペクトが存在するとき、3つの惑星A、B、Cが複合アスペクトを構成するという。そして複合アスペクトから吉凶象意を読みとっていく技法がある。",
"title": "理論"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "ただし、調停の説明にあるとおり複合アスペクトの考え方は古くから存在する。実際、ほとんどのホロスコープに複合アスペクトが形成される。",
"title": "理論"
}
] | 西洋占星術(せいようせんせいじゅつ)では、アラブ世界や西洋諸国で発達してきた、天体が地球に及ぼす効果を研究し予言を行おうとする占星術の体系について述べる。西洋の占星術は、天体は一定の影響を地上にもたらすというマクロコスモスとミクロコスモスの照応という考えに基づいており、一般的に、占う対象に影響を及ぼすとされる諸天体が、出生時などの年月日と時刻にどの位置にあるかをホロスコープに描き出し、それを解釈する形で占う。用いられる黄道十二宮の概念は、初期メソポタミア文明に起源を持ち、ヘレニズム時代にギリシャ人が採用し、ローマ人に受け継がれた。占星術は古代から、天体の位置を測定して計算し宇宙の体系の仮説を作る天文学とともに行われ、惑星の位置の精緻な計算を必要とする占星術という実践が、天文学を推進する最大の力だった。 古代・中世・初期近代のたいていの占星術(伝統的占星術)は、真面目で洗練された研究・実践であり、当時においては超自然的でも非合理的でもなかった。潮汐など、天体の地球への影響は明らかに存在し、惑星の光に何らかの影響が伴っていることは疑う余地もなく思われたため、占星術の真偽が論点になることはなく、天の影響の範囲とその影響をいかに正確に予言するかということがもっぱら論争された。 占星術一般がそうであるように、西洋占星術もまた、近代的な科学の発展に伴って「科学」としての地位から転落した。神智学協会の神智学の影響を受けてオカルト的な色合いを帯びて復興し、超物理(メタフィジカル)サブカルチャー運動であるニューエイジを経て心理学化・セラピー化の流れも生じた。神智学協会以降広まったサン・サイン占星術では、太陽のあるサインをもとにして占う。日本の雑誌などでよく見かける十二星座を基にした「マジック的」な星座占いは、これを矮小化・通俗化したもので、初期近代までの占星術の慣行とはまったく異なる。 科学史などでは疑似科学に分類されるのが一般的であり、科学的な議論の枠組みをすでに外れているともいえる。科学的な実証研究はほとんど存在しない。人間の理性を重んじる現代の西洋社会において、中世の迷信と嘲笑されながらも人気を保ち続け、現代日本で浸透している占いの中でもポピュラーであり、生活の中に幅広く用いられ一定の社会的存在感を得ている。英語圏には1万人以上の占星術師がおり、2,000万人以上の顧客がいる。現代の占星術では、ホロスコープを作るための計算にコンピュータが用いられている。 | [[Image:Anatomical_Man.jpg|thumb|200px|人体と十二宮の[[マクロコスモスとミクロコスモス|照応]]関係を示した{{仮リンク|獣帯人間|en|Zodiac Man}}の図([[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]より)]]
'''西洋占星術'''(せいようせんせいじゅつ)では、[[アラブ世界]]や[[西洋]]諸国で発達してきた、[[天体]]が地球に及ぼす効果を研究し[[予言]]を行おうとする[[占星術]]の体系{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|pp=75-76}}について述べる。西洋の占星術(羅:astrologia、星々の研究)は、天体は一定の影響を地上にもたらすという[[マクロコスモスとミクロコスモス]]の照応という考えに基づいており{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|pp=75-76}}、一般的に、占う対象に影響を及ぼすとされる諸天体が、出生時などの年月日と時刻にどの位置にあるかを[[ホロスコープ]]に描き出し、それを解釈する形で占う。用いられる[[黄道十二宮]]の概念は、初期[[メソポタミア文明]]に起源を持ち、[[ヘレニズム時代]]にギリシャ人が採用し、ローマ人に受け継がれた{{sfn|Lewis, 宮坂訳|2009|pp=472-273}}。占星術は古代から、天体の位置を測定して計算し宇宙の体系の[[仮説]]を作る[[天文学]](羅:astronomia、星々の法則)とともに行われ、惑星の位置の精緻な計算を必要とする占星術という実践が、天文学を推進する最大の力だった{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|p=74}}。
[[Image:Gottfried Geburtsbild.jpg|thumb|250px|現代のホロスコープの一例]]
古代・中世・初期近代のたいていの占星術([[伝統的占星術]])は、真面目で洗練された研究・実践であり、当時においては[[超自然]]的でも非合理的でもなかった{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|pp=75-76}}。[[潮汐]]など、天体の地球への影響は明らかに存在し、惑星の光に何らかの影響が伴っていることは疑う余地もなく思われたため、占星術の真偽が論点になることはなく、天の影響の範囲とその影響をいかに正確に予言するかということがもっぱら論争された{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|pp=75-76}}。
占星術一般がそうであるように、西洋占星術もまた、近代的な[[科学]]の発展に伴って「科学」としての地位から転落した。[[神智学協会]]の[[神智学]]の影響を受けて[[オカルト]]的な色合いを帯びて復興し、超物理(メタフィジカル)[[サブカルチャー]]運動である[[ニューエイジ]]を経て[[心理学]]化・セラピー化の流れも生じた{{sfn|Lewis, 宮坂訳|2009|pp=474-275}}。神智学協会以降広まった[[サン・サイン]]占星術<ref group="注釈">太陽占星術とも呼ばれる。</ref>では、太陽のある[[サイン (占星術)|サイン]]をもとにして占う。日本の雑誌などでよく見かける十二星座を基にした「マジック的」な[[星座占い]]は、これを矮小化・通俗化したもので、初期近代までの占星術の慣行とはまったく異なる{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|pp=75-76}}。
[[科学史]]などでは[[疑似科学]]に分類されるのが一般的であり、科学的な議論の枠組みをすでに外れているともいえる<ref name=meizi/>。科学的な[[実証研究]]はほとんど存在しない<ref name=meizi/>。人間の理性を重んじる現代の西洋社会において、中世の迷信と嘲笑されながらも人気を保ち続け、現代日本で浸透している占いの中でもポピュラーであり、生活の中に幅広く用いられ一定の社会的存在感を得ている<ref name=meizi/>。英語圏には1万人以上の占星術師がおり、2,000万人以上の顧客がいる{{sfn|Lewis, 宮坂訳|2009|pp=472-273}}。現代の占星術では、ホロスコープを作るための計算にコンピュータが用いられている{{sfn|Lewis, 宮坂訳|2009|pp=472-273}}。
== 歴史 ==
=== 起源 ===
[[Image:Venus Tablet of Ammisaduqa.jpg|thumb|占星術的予兆を記したタブレット([[:en:Venus tablet of Ammisaduqa|Venus tablet of Ammisaduqa]]、Enuma Anu Enlil Tablet 63)]]
{{main|en:Babylonian astrology}}
西洋占星術の起源は[[バビロニア]]にあった。バビロニアでは、[[紀元前2千年紀]]に天の星々と神々を結びつけることが行われ、天の徴(しるし)が地上の出来事の前兆を示すという考えも生まれた。『{{仮リンク|エヌーマ・アヌ・エンリル|en|Enuma Anu Enlil}}』(Enuma Anu Enlil、紀元前1000年ごろ)はそうした前兆をまとめたものである。ただし、当時前兆と結びつけられていた出来事は、君主や国家に関わる物事ばかりで、その読み取りも星位を描いて占うものではなく、星にこめた象徴的な意味(火星は軍神[[ネルガル]]に対応していたから凶兆とするなど)を読み取るものに過ぎなかった。
現代にも引き継がれている星位図を描く占星術は、[[天文学]]が発達し、惑星の運行に関する知識が蓄積していった[[紀元前1千年紀]]半ば以降になって興った(このころも含め、古来、「天文学」と「占星術」の境界の曖昧な時代は長く続いた)。もともとは暦のために整備された[[黄道十二宮|獣帯]]を占星術と結びつけることも、そのころに行われた。現存最古の星位図は、[[楔形文字]]の記録に残る紀元前410年の出生星位図(ある貴族の子弟の星位を描いたもの)である。ただし、この時点では、のちのホロスコープ占星術に見られる諸概念はほとんど現れていなかった<ref>以上、この節は中山 [1992] pp.13-38, テスター [1997] pp.18-22</ref>。
===エジプト占星術===
{{main|en:Egyptian astrology}}
古代ギリシャやローマの著述家たちは、占星術をしばしば[[カルデア人]]と[[エジプト人]]がもたらしたものとして叙述している。
[[Image:Senenmut-Grab.JPG|thumb|古代エジプトの墓から出土したチャート]]
確かに、紀元前4200年の星図をともなうエジプトの占星術の歴史は古い<ref>Derek and Julia Parker, "The New Compleat Astrologer", Crescent Books, New York, 1990</ref>。エジプト人の占星術は、太陽と[[シリウス]]の組み合わせが主役になっている。それが、エジプトに肥沃さと活力をもたらしてくれる[[ナイル川]]の氾濫を予言するものとされた。
しかし、西洋占星術に直接関わるような概念の発達には、エジプト占星術はほとんど寄与していない。「エジプト起源」がかつて語られたのは、[[アレクサンドロス3世]](大王)の征服以後、[[ヘレニズム文化]]圏に組み込まれていたエジプト(特に[[アレキサンドリア]])で、占星術が発達したことによって生じた誤伝らしく、正しくは[[ヘレニズム時代]]における寄与と位置づけられるべきである<ref>この段落は中山 [1992] pp.42-44, 48-50, テスター [1997] pp.16-18による</ref>。
===ギリシャ人の占星術===
[[Image:Claudius_Ptolemaeus.jpg|thumb|left|プトレマイオス]]
{{main|en:Hellenistic astrology}}
[[332年]]にアレキサンダー大王によって占領されたあと、エジプトはギリシャの支配下にあった。そして、ヘレニズム文化が栄える中で、初めて本格的にホロスコープを用いる占星術が現れた。出生時における星々の位置から個人の星位図をトレースする試みが普及した。このシステムは「ホロスコープ占星術」と名付けられた。アセンダント(後述)は[[ギリシャ語]]で「ホロスコポス」とも呼ばれていたからである(星位図そのものを「ホロスコープ」と呼ぶようになったのは、これが語源である){{要出典|date=2018年4月|}}。ギリシャで大いに発展したとはいえ、その大部分はバビロニアからもたらされたものであった{{要出典|date=2018年4月|}}。
[[Image:Cellarius ptolemaic system.jpg|thumb|280px|プトレマイオスの[[天動説]]にもとづく天球図(1660年)]]
ホロスコープの普及は、[[春分点]][[歳差]]の発見者とされる[[ヒッパルコス]]([[紀元前2世紀]])以降のことである。かつて彼は占星術を生み出した人物であるかのごとく位置づけられたが、実際にはバビロニアで天文学と並行して発達した占星術の知識を、ヘレニズム世界にもたらした人物であったといえる<ref name=nakayama>中山 [1992] pp.54-67</ref>。そのバビロニアからもたらされたシステムは、後世作り上げられた完成の域にある程度達したものではあったが、ギリシャ人占星術師たちによっても、個人のホロスコープを描く上での重要な追加がなされた{{要出典|date=2018年4月|}}。
[[Image:Quadritpartitum.jpg|thumb|left|テトラビブロス(1484年)]]
ギリシャが[[ローマ帝国]]の支配下に入った後も、ギリシャ人たちによって占星術は発達を遂げた。ローマでも[[マルクス・マニリウス]]の『{{仮リンク|アストロノミカ|en|Astronomica (Manilius)}}』(西暦1世紀)などが現れたが、西洋のホロスコープ占星術の発展において特に重要だったのは、天文学者・占星術師[[クラウディオス・プトレマイオス]]の貢献である。天文学と占星術が未分化だった時代にあって、彼の天文学書『[[アルマゲスト]]』とともに、占星術書『{{仮リンク|テトラビブロス|en|Tetrabiblos}}』(四つの書)は、その後の西洋占星術の伝統における基盤となった。『テトラビブロス』では第一の書で惑星の冷熱乾湿などの一般的原理が講じられ、第二の書で社会変化を占う占星術が、第三の書と第四の書で個人のホロスコープ占星術が論じられている<ref name=nakayama />。
プトレマイオスは、古代より天文学界を支配してきた地球を宇宙の中心ととらえ、太陽や惑星が地球の周りを回る「[[天動説]]」を集大成して、「プトレマイオス体系」として確立し、天文学や占星術の「世界観」に大きな影響を与えた<ref name="野田87">野田 [2018] p.87</ref>。
ギリシャ人(特にプトレマイオス)のもとで、惑星(太陽、月も含む。後述)、[[ハウス (占星術)|ハウス]]、[[十二宮]]などが合理化され、それらの機能も策定された(今日のものは若干の修正が施されている。以下では必要に応じて古典的な解釈にも触れている)<ref>Derek and Julia Parker, Ibid, p16, 1990</ref>。
====占星術と科学====
{{出典の明記|date=2018年4月|section=1}}
バビロニアでも部分的には見られたことだが、ヘレニズム時代以降に占星術の適用範囲は、[[自然哲学]]、現代では「[[科学]]」と位置づけられるものすべてに広がった。すなわち、[[植物学]]、[[化学]]([[錬金術]])、[[動物学]]、[[鉱物学]]、[[解剖学]]、[[医学]]などである。
天上の星々は、地上の諸々の物質との照応関係を持つものとされ、星々に対応する金属(太陽と[[金]]、水星と[[水銀]]など)、鉱石(これが[[誕生石]]の起源になったという説もある<ref>中山 [1992] p.99</ref>)などが定められた。また、人体との照応関係をもとに「{{仮リンク|占星医学|en|Medical astrology}}」(Iatromathematica、イアトロマテマティカ。星辰医学、医療占星術)も発達し、その治療に用いる[[薬草]]類の研究が天体植物学として体系化された。さらに、前出のマニリウスは全5巻の『アストロノミカ』の第4巻で、占星地理学(世界の地域を十二宮に対応させる)を論じている。
====占星医学====
{{出典の明記|date=2018年4月|section=1}}
{{see also|四体液説#医療占星術|ユナニ医学}}
[[Image:Zodiac_man_1702.png|thumb|1702年の暦書に掲載された獣帯人間の図]]
ミクロコスモスとマクロコスモスに照応関係を認め、人間と星位と結びつける観点は、人体の各部位を、星々と結びつけることにつながった。『テトラビブロス』の第三の書でも、占星医学が論じられている。学派によって、その[[マクロコスモスとミクロコスモス|照応]]関係は異なるが、おおむね頭部を第1のサインである[[白羊宮]]に、足先を第12のサインである[[双魚宮]]にそれぞれ対応させ、その間に残るサインを当てはめていく。
外科医学でもこうした照応関係は重視され、のちには[[瀉血]]で切る部位や時期を決める際にも、占星術的な判断が用いられた。
=== ローマの占星術 ===
ローマ帝国では、すでに見たように理論面ではギリシャ人に多くを負い、独自の発展はほとんど見られなかった{{要出典|date=2018年4月|}}。
歴代[[ローマ皇帝]]には占星術を重視する者も見られ、占星術師トラシュルスを重用した[[ティベリウス]]、占星術で最期を予言されたことに怯え、実際に暗殺された[[ドミティアヌス]]などがいたが、[[キリスト教]]の広まりとともに衰えた。[[西ローマ帝国]]滅亡後にも迷信的とされた通俗占星術は命脈を保ったが、当時「科学」の一端を担っていた占星術の理論体系は、ヨーロッパ社会からは失われた<ref>中山 [1992] pp.151-152</ref>。中世のヨーロッパ社会では、[[サント=マドレーヌ大聖堂 (ヴェズレー)|ヴェズレーの大聖堂]]の彫刻など、獣帯を描いたものも見られたが、それらは主として暦を表していたに過ぎず、占星術との関連を論じるのは適切ではない<ref>テスター [1997] pp.141-143, 172</ref>。
[[Image:Sandro_Botticelli_050.jpg|thumb|150px|アウグスティヌス]]
ローマ帝国がキリスト教化していくと、キリスト教会の権力が大きくなり、教会の反占星術の姿勢が強まっていった。なかでも[[アウグスティヌス]]の占星術に対する攻撃は、キリスト教会の占星術に対する態度を決定づけた。キリスト教会は、占星術は人間の自由な意志を宿命論的な側面から脅かすとして問題視した。そして、キリスト教にとっての異端の宗教である[[グノーシス派]]や[[マニ教]]などが占星術と結びつけて考えられたことも大きかった<ref>野田 [2018] pp.84-85</ref>。
[[東ローマ帝国]]では、レトリオスの『フロールイト』(500年ごろ)が、火、水、風、土のグランドトラインを論じるなど、『テトラビブロス』をいくらか発展させた研究も見られたものの、基本的には東ローマ帝国滅亡(1453年)まで古代ギリシャ占星術を教条化し、固持し続けた<ref>テスター [1997] pp.126-131</ref>。
===イスラム世界の占星術===
{{出典の明記|date=2018年4月|section=1}}
{{Main|en:Arab and Persian astrology}}
[[File:Celestial map, signs of the Zodiac and lunar mansions..JPG|thumb|left|15世紀のスルタン・[[ムラト3世]]に捧げられた、黄道と月の満ち欠けが描かれた天体図]]
ヘレニズム時代に体系化されたシステムは、ほとんどそのまま[[アラブ]]・[[ペルシャ]]などの[[イスラム世界]]の占星術師たちに引き継がれた。[[ダマスカス]]と[[バグダード]]にあった彼らの研究拠点では、ヨーロッパが忘れていた天文学、占星術、数学、医学などのギリシャ語の古典が[[アラビア語]]に翻訳され、大いに発展を遂げた。彼らの知識はヨーロッパに逆輸入され、[[ルネサンス]]の開始を助けた。
アラブの占星術師たちのなかでは、占星術以外の翻訳でも大いに功があった[[キンディー|アル=キンディー]](アルキンドゥス)と、その弟子筋にあたる{{仮リンク|アブー=マーシャル|en|Ja'far ibn Muhammad Abu Ma'shar al-Balkhi}}(アルブマサル)が特に重要である。後述するように、アブー=マーシャルの著書『大序説』(ラテン語名:Introductorium in Astronomiam)は、のちのヨーロッパに絶大な影響を及ぼした。もう一人重要なのが、ペルシャの数学者、天文学者、占星術師、地理学者[[フワーリズミー|アル=フワーリズミー]]である。彼の名前は「[[アルゴリズム]]」の語源としても知られる。
[[Image:Al-kindi.jpeg|thumb|アル=キンディー]]
[[Image:Persian Khwarazmi.jpg|thumb|150px|アル=フワーリズミー]]
アラブ人たちは、天文学の知識も大いに増大させた。[[アルデバラン]]、[[アルタイル]]、[[ベテルギウス]]、[[リゲル]]、[[ヴェガ]]などの星々を最初に命名したのも彼らである。
占星術においては、彼らは「{{仮リンク|アラビック・パーツ|en|Arabic parts}}」として知られる、擬似的な天体を多数作成ないし再発見した。アラビック・パーツは実在天体ではないが、実天体の位置やハウスの境界であるハウスカスプの位置から計算されるポイントとそれに付加された名称、象意の総体である。もっとも有名なアラビック・パーツであるPart of FortuneはASC + Moon - Sun<ref group="注釈">昼と夜で算出方法が異なるという説も根強いが{{要出典|date=2018年4月}}、ここでは最も単純なものをしめしておく。ASCについては後述のアングルの項を参照のこと。</ref>という式で計算される。
===中世ヨーロッパ===
[[Image:Alkabitius.PNG|thumb|left|アル=カビーシーの占星術書(1520年ごろ)]]
中世ヨーロッパでは、[[11世紀]]ごろまではアラブの占星術理論を受け入れられるだけの知的基盤自体がなかったが<ref>中山 [1992] p.130</ref>、いわゆる「[[12世紀ルネサンス]]」の中で、ほかの科学書とともに多くの占星術書がアラビア語から[[ラテン語]]に翻訳され、占星術知識が再興・発展した。ヨーロッパの占星術師達は[[イスラム世界]]の占星術の技法を吸収し、またそこから新たな技法を見出すこととなった。たとえば、ハウス分割において、現在主流であるプラシーダスの技法はイスラム起源であり、プラシーダスがヨーロッパで広まる500年前に[[アブラハム・イブン・エズラ]]がこのハウスシステムの計算方法を述べている<ref>http://www.kokubu.com/astrology/houses2.htm</ref>。
[[Image:Houghton Typ 520.04.561 - De scientia motvs orbis.jpg|thumb|200px|マーシャーアッラー([[アルブレヒト・デューラー]]による彫板画, 1504年)]]
1130年ごろから1150年ごろまでに、[[クレモナのジェラルド]]らによって、プトレマイオスの『アルマゲスト』『テトラビブロス』、アブー=マーシャル『大序説』、偽プトレマイオス『ケンティロクイウム』(百の警句)<ref group="注釈">かつて誤ってプトレマイオスに帰せられていた。10世紀にアラブで成立したとも言われる。{{要出典|date=2018年4月}}</ref>などが訳され、特にアブー=マーシャルはその後1世紀あまり占星術の権威と見なされた<ref>中山 [1992] pp.131-132, テスター [1997] p.213</ref>。占星術書を特に多く翻訳したのは、セビーリャのフアンである。彼はアブー=マシャール、[[マーシャーアッラー]]、[[アル=カビーシー]]らの複数の著作、『ケンティロクイウム』などの翻訳を手がけたほか、自身でも『全占星術綱要』を執筆した(これは16世紀に出版された)<ref>テスター [1997] p.204</ref>。
[[Image:Astrolabium.jpg|thumb|left|1208年のペルシアのアストロラーベ]]
また、古代ギリシャに存在していたとされる[[アストロラーベ]]も、イスラム世界を経由してヨーロッパ人たちに再認識された。
しかし、イスラム世界の占星術の権威は長続きしなかった<ref>中山、同上。テスター [1997] p.209</ref>。西洋の占星術師たちが独自の技法を発展させていったことや、キリスト教[[神学者]]の間での議論の影響を受けたためである。神学者ではないが、[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]も[[イスラム科学]]をキリスト教徒が使うことには批判的で、その影響を強く受けた占星術にも同様に批判的だった(彼は『[[神曲]]』の中で13世紀の代表的な占星術師[[グイド・ボナッティ]]と[[マイケル・スコット (占星術師)|マイケル・スコット]]を地獄に落としている)。ただし、こうした動きはイスラム世界起源の占星術書がまったく省みられなくなったことを意味しない。特に15世紀以降の印刷革命に波に乗って、ルネサンス期には多くのアラブ系の占星術書が出版されており、[[近世]]の著名な占星術師の一人{{仮リンク|ウィリアム・リリー|en|William Lilly}}は、否定的な見解を示しつつも、アラブの占星術も研究したと語っている{{要出典|date=2018年4月|}}。
[[Image:Zodiaque arabo-musulman.jpg|thumb|13世紀イスラムの12のサインと惑星]]
[[File:Richard of Wallingford.jpg|thumb|left|[[天文時計]]の発明者である修道士ウォリンフォードのリチャード(1292 - 1336)がコンパスを使う姿]]
占星術には、翌年の気象を予想しようとする「気象占星術」があり、しばしば「数学者」と呼ばれた実践者たちは、カレンダー、月齢、日食、月食などと共に占星術による天気予想、重要な事件や動向の予知が含まれる暦を作って生計を立てていた{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|pp=76-77}}。出生時の惑星の位置から新生児に「刷り込まれた」影響を知ろうとする「出生占星術」は、[[四体液説]]と結びつき、惑星による人間の気質・健康への影響が認められていた{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|pp=76-77}}。西洋中世においては、天文学も占星術も astrologia という用語が用いられていた<ref name=meizi/>。
[[13世紀]]以降は、キリスト教神学者たちの間で、占星術に関して大きく議論が戦わされた。[[スコラ哲学]]者の中では、[[アルベルトゥス・マグヌス]]や[[トマス・アクィナス]]が占星術に好意的な見解を示したが、他方で[[ニコル・オレーム]]は『判断占星術師論駁』のなかで、多面的な批判を繰り広げた。当時、出生占星術を強めた判断占星術に対する評価はさまざまであった{{要出典|date=2018年4月|}}。{{仮リンク|チェッコ・ダスコリ|en|Cecco d'Ascoli}}などは、キリストの誕生や[[最後の審判]]に関するホロスコープを作成したことを咎められて、1327年に火刑に処されている{{要出典|date=2018年4月|}}。
[[Image:Nostradamus by Lemud.jpg|thumb|150px|ノストラダムス]]
他方で、やや時代が後になるオレームの弟子[[ピエール・ダイイ]]は、晩年[[判断占星術]]に強く傾倒し、歴史上の重大事件と[[合 (天文)|天体の合]]の関連を研究した。彼はそれを未来にも適用し、[[1789年]]に[[反キリスト]]が出現すると予言した<ref>ミノワ [2000] pp.292-299</ref>(この予言はルネサンス期に持てはやされ、[[ピエール・チュレル|チュレル]]、[[リシャール・ルーサ|ルーサ]]、[[ノストラダムス]]らが直接・間接的に踏襲する){{要出典|date=2018年4月|}}。
[[File:Hausbuch Wolfegg 11r Saturn.jpg|thumb|240px|15 - 16世紀に流行した、出生時の星の位置がその人の体液の偏りや気質を決定するという思想「惑星とその子供たち」の「土星とその子供たち」の図(15世紀)]]
このように、「判断占星術」が毀誉褒貶だったのに対し、「占星医学」はむしろ高級占星術として評価されることが多く、大学などでも受け入れられていた。このため、当時医学研究で主導的地位にあった[[サレルノ大学]]、[[ボローニャ大学]]、[[モンペリエ大学]]などの[[医学部]]でも、占星医学は講じられていた<ref>中山 [1992] pp.143-144、テスター [1997] pp.251-252</ref>。当時の医療は患者それぞれに合わせて調整したオーダーメイド医療であり、医者は患者の気質を知るために患者の出生天宮図を調べ、治療の好機を見極めるなど治療に活用した{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|p=137}}。
また、1347年から1350年に[[ペスト]]が流行した際には、[[パリ大学]]医学部が、その原因は1345年3月20日に[[宝瓶宮]]で起こった木星、火星、土星の三重合にあったとする公式声明を出している<ref>テスター [1997] pp.249-250</ref>。伝染病の流行と星位を結びつけるこうした言説は、現在でも「(星の)影響」を語源に持つ「[[インフルエンザ]]」などにその痕跡を見出すことができる{{要出典|date=2018年4月|}}。ギリシャ・アラビア医学([[ユナニ医学]])は18世紀までほとんどそのまま続いたが、医学における占星術的判断は17世紀には衰退し始めた{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|p=138}}。
中世後期には、王侯貴族の中にも占星術を重用する者は少なくなかった。たとえば、フランス王[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]の場合、蔵書の2割(180冊)を占星術書が占めていたとされる。これは当時のほかの王族の蔵書と比べても、突出して高い比率であった<ref>ミノワ [2000] pp.369-370</ref>。こうして中世には、しばしば重要な政治的・軍事的決定には、占星術師の判断が仰がれることもあったのである{{要出典|date=2018年4月|}}。
=== ルネサンス ===
[[ルネサンス]]期には、[[神秘主義]]的傾向も持つ[[新プラトン主義]]が流行したが、その中心人物たちは必ずしも占星術に好意的ではなかった。[[マルシリオ・フィチーノ]]は占星医学などには理解を示していたが、判断占星術には批判的だった。[[ピコ・デラ・ミランドラ]]は、人間の[[自由意志]]を否定するものとして、『予言占星術論駁』で占星術への強い批判を展開した。神学者たちはおおむね自由意思を侵害するとして判断占星術を批判し、星々は人間に影響を与えても無理強いすることはないと考えられていた{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|pp=77-78}}。他方で、16世紀のイタリアでは、数学者としても活躍した占星術師[[ジェロラモ・カルダーノ]]が現れた。彼は『誕生占星術の実例集』では、自身の過去の占星術判断の誤りなども提示している<ref>クーデール [1986] p.140-142</ref>。
[[Image:Jan Matejko-Astronomer Copernicus-Conversation with God.jpg|thumb|300px|『コペルニクス: 神との対話』[[ヤン・マテイコ]](1872年)]]
ルネサンス期には、[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]の『[[天球の回転について]]』(1543年)が死後発表された。しかし、彼が心配していたような批判は起こらず、本は読まれたが、彼の理論は地球の[[公転]]や[[自転]]、物体の落下や星の[[視差]]などに関する答えられない疑問を抱えており、ほとんどの読者は説得されず、支持者はほぼいなかった{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|pp=70-74}}。占星術において最大の関心事は地球に対する惑星の位置、惑星の位置を分単位で過去未来にわたって計算することであり、[[天動説|地球中心説]](天動説)か[[地動説|太陽中心説]](地動説)かということは問題にならず、多くの人はどちらかはっきりさせることが可能とも思っていなかった{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|p=74}}。惑星の位置を決定するための表は太陽中心説の方が簡単だったため、楽に計算するための仮定としてコペルニクスの理論を使う人もいた{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|pp=70-74}}。
[[Image:Kepler-Wallenstein-Horoskop.jpg|thumb|left|ケプラーが[[アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン|ヴァレンシュタイン]]のために作成したホロスコープ。当時のホロスコープはまだ正方形であった。]]
[[17世紀]]に入ると、天文学者でもあった[[ヨハネス・ケプラー]]が、この問題に取り組んだ。ケプラーは『[[へびつかい座]]の新星』では、「賢いけれども貧しい母」(天文学)と「その生活費を稼ぐ愚かな娘」(占星術)の対比によって、占星術があくまでも日々の糧を稼ぐための道具であると述べていたが<ref>クーデール [1986] p.143</ref>、『占星術の確実な基礎について』(1602年)、『第三に介入するもの』(1610年)、『世界の調和』(1619年)などでは、新たな占星術理論の構築を試みている<ref>ミノワ [2000] p.414</ref>。しかし、[[地動説|太陽中心説]](地動説)を軸とする刷新はうまくいかず、当時はむしろ[[ジャン=バチスト・モラン]](モリヌス、1591 - 1659)の『ガリアの占星術』(1661年)のように、プトレマイオス的宇宙観を墨守することを表明するものもあった。他方で、ケプラーは占星術を数学的に純化しようとしたことをはじめ、さまざまな改革を試みており、アスペクトなどでは重要な貢献を行っている。ケプラー以前のアスペクトは、第1にサインとサインの関係であったが<ref group="注釈">例えば白羊宮の29度に太陽があり、月が処女宮の0度にあったとする。太陽と月の間の角度は121度であり、現代的な占星術ではトラインのアスペクトを持つと解釈するが、ケプラー以前は白羊宮と処女宮間にはアスペクトがないため太陽と月の間にトラインの関係があるとは見なされていなかった。{{要出典|date=2018年4月}}</ref>、ケプラーは星と星の間の角度として再定義し、この新たなアスペクト概念は多くの占星術師に受け入れられ、現代に至っている{{要出典|date=2018年4月|}}。
[[Image:William_Lilly.jpg|thumb|ウィリアム・リリー]]
16世紀の占星術の「先進国」はフランスであったが、17世紀半ばにはそれは[[イギリス]]になった。イギリスでは、一時期占星術が「公認」されていた時期があった。これは占星術の正しさを認めたわけではなく、占星術に対する禁止令をたびたび出していた[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]への「対抗意識」を[[イギリス国教会]]が持ったことや、御用占星術師を使った大衆宣撫を視野に入れていた政府の意向などによるものである<ref>中山 [1992] pp.162-164</ref>。17世紀半ばに御用占星術師として名を馳せたのは、{{仮リンク|ウィリアム・リリー|en|William Lilly}}である。彼は議会派の有利になるような予言を多く行った。また、暦の発行も手がけ、暦書『天使的なるマーリン』は、1646年に1万3,500部、その3年後には3万部が発行された<ref>ミノワ [2000] p.430</ref>。彼は御用占星術師としてのパンフレットを多く執筆した一方で理論書も手がけており、『キリスト教占星術』(Christian Astrology, 1647年)は、その後長らく当時の占星術の技法を網羅した解説書として影響力を持った<ref>[http://www.skyscript.co.uk/index.html 占星術師であるDeborah Houlding のサイト]{{出典無効|date=2018-04-27}}</ref>。
=== 天文学の分離 ===
[[中山茂]]によると、占星術と天文学の「分離」が明確になったのは、[[アイザック・ニュートン]]の登場によって、天文学に[[力学]]が導入されてからである<ref>中山 [1992] p.175</ref>。ただしニュートンは、キリストの神性を含まない原始の神学の復興を目指し、神が創造し内在する宇宙の体系の完全な知識の復活を試みて研究を行っており、今日の科学者の方法・姿勢とは明らかに異なっている{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|pp=93-96}}。彼は、[[ヘルメス文書]]の解読を試み、古代の知識の復活を目指しており、[[万有引力|万有引力の法則]]も古代の知識の再発見に過ぎないと考えていた{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|pp=93-96}}。彼の万有引力の法則のアイデアは、自然[[魔術]]の「共感」、[[アリストテレス]]主義者の「隠された性質」という、ものを引きつける見えない力という概念への逆戻りのようにとらえられ、批判も浴びた{{sfn|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014|pp=93-96}}。
ニュートン以前は、遠い未来に起こる天体現象を正確に予想できることから、天体の運動は地上における現象とは別の原理によって説明される、より神秘的で完全なものであり、地上における現象にもなんらかの影響を及ぼしているという考え方には、一定の根拠があった。ニュートンによって、惑星運動と地上における落下現象が同じ万有引力の法則によって説明されることが示されたことで、これと矛盾する占星術は「自然科学」の体系から離れていった{{要出典|date=2018年4月|}}。
[[Image:StatueOfIsaacNewton.jpg|thumb|140px|[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティカレッジ]]のニュートン像]]
[[1781年]]に[[天王星]]が発見されたとき、占星術師にはこれを組み込んで「より正確な」占いを行おうとする者たちが現れた。{{要校閲範囲|占星術が真に「科学」と呼べるものならば、ここで占いの正確さのためにまだ足りない要素があることに気付くべきであったが、そのような見解はなかった。|date=2018年4月}}他方、天文学は天王星の[[摂動 (天文学)|摂動]]によって、未発見の惑星([[海王星]])の存在を正しく予見した。[[科学史]]家の[[中山茂]]は、この海王星の発見が、占星術と天文学の「科学性」を考察する重要なものであったとしている<ref>中山 [1992] pp.178-179</ref>。
=== 近代における知的地位の失墜 ===
[[Image:Alman14.jpg|thumb|left|200px|[[:en:Ames Almanack|Ames Almanack]]のカバー(アメリカ、1761年)]]
17世紀後半、理性の啓発によって人間の進歩や改善を図り、超自然的な偏見を取り除いて、人間の持つ[[理性]]の自立を促すことを重視する、[[啓蒙思想]]がイギリスで興ると、天文学や自然科学の発展と同じく、占星術に対する「逆風」となった。[[天文学]]と分離した占星術は、科学の台頭で時代遅れの物笑いの種になっており、古代からの名声を完全に失っていた{{sfn|カレルズ, 阿部訳|1996|pp=76-77}}。しかし消滅することはなく、占星術による天気予報や予知が含まれる[[生活暦]](アルマナック)は、相変わらず多数の支持が寄せられていた。「学問」としての占星術は否定されたが、一般大衆においては生き延びていった<ref name="野田94">野田 [2018] p.94</ref>。
[[Image:Astrologer-ad.jpg|thumb|200px|占星術師の広告(アメリカ、1863年)]]
[[19世紀]]後半に、近代[[神秘学|オカルティズム]]が勃興すると、占星術もその潮流に乗ることになった。近代オカルティズムの盛り上がりとともに、[[秘教]]的な衣をまとうことで、それまでとは別のものに変化した。なかでも、神秘的直感、幻視、啓示などを通じて、神と結びつく神聖な叡智を獲得することで、高度な認識に達することを標榜する近代[[神智学]](以下「神智学」)の影響が大きかった<ref name="野田94"/>。神智学は、馬鹿にされたり無視されていたさまざまなオカルトをその体系に取り組み、後期[[ヴィクトリア朝]]の教養人たちの注目を集めた{{sfn|カレルズ, 阿部訳|1996|pp=76-77}}
[[神智学協会]]の神智学運動は、19世紀末を代表する文化運動のひとつであり、その衝撃は、さらに20世紀初頭の[[モダニズム]]誕生から、1960年代の[[カウンターカルチャー]]、20世紀末に始まる[[ニューエイジ]]と[[精神世界]](現在の[[スピリチュアル]])を理解していくうえで、「鍵」となる存在である。欧米文化の秘教主義、神秘主義、オカルト主義の趨勢が一群となったこの運動を、秘教的音楽史家{{仮リンク|ジョスリン・ゴドウィン|en|Joscelyn Godwin}}は「神智学的啓蒙」と表現した<ref name="キャンピオン395">キャンピオン [2012] p.395</ref>。
[[Image:Helena Petrovna Blavatsky.jpg|thumb|left|150px|ブラヴァツキー]]
神智学協会の宇宙論における使命とは、世界の隠された真実の性質を明らかにし、物質主義的な科学観に反旗をひるがえすことであるという<ref name="キャンピオン395"/>。神智学の創始者[[ヘレナ・P・ブラヴァツキー]]は、占星術は科学であり天文学のように正しいが、これは占星術と解釈する術師の双方が完全に正しい場合に限ると発言し、占星術と心理学においては、これを乗り越えるために「物質的世界」を離れて「霊的世界」に足を踏み入れなければならないと主張した<ref name="キャンピオン396・7">キャンピオン [2012] pp.396-397</ref>。
[[Image:AlanLeo.jpg|thumb|left|150px|アラン・レオ]]
19世紀イギリスの神智学協会会員でブラヴァツキーの腹心の一人{{仮リンク|アラン・レオ|en|Alan Leo}}は、西洋占星術を体系化して、現代まで続く形式に構築したことから「近代占星学の父」と呼ばれる。レオと、神智学協会会員の占星術師W・R・オールド<ref group="注釈">ウォルター・オールド、Walter Richard Old、のちWalter Gorn Old。ペンネームはセファリアル。(カレルズ 1996)</ref>が復興の立役者と評価されている{{sfn|カレルズ, 阿部訳|1996|pp=76-77}}。彼らは、占星術を古臭い陳腐な予言の手段から神智学の関連要素に引き上げ、秘教的関心における有用なツールとして提示し、神智学と占星術を融合させた{{sfn|カレルズ, 阿部訳|1996|pp=76-77}}<ref name="アラン・レオ"/>。レオによって神智学が取り入れられ、「霊的な進化」の概念が占星術に初めて見られるようになり、[[新プラトン主義]]の系譜から神智学協会が導入した「霊的な太陽」の信仰を取り入れ、「太陽星座」([[サン・サイン]])を採用した<ref name="鏡"/>。また、神智学を基礎にして占星術に[[心理学]]的な要素を加えた。これが現在にも影響が続いている「占星術の心理学化」の始まりである<ref name="野田94・6">野田 [2018] pp.94-96</ref>。レオは占星術をそれまでの歴史から分断し、伝統的なルールや法則をかなり簡略化したため、占星術を「改悪」したという否定的意見もある<ref name="鏡"/>。
レオは、初めてのオカルト本の出版社とされる「モダン・アストロロジー・パブリッシング」社を創設し、大衆向けの占星術の書籍を出版し、1890年に雑誌「The Astrologer's Magazine」(1891年に Astrologers' Magazine、1895年に Modern Astrology(『現代占星術』) に改名<ref>[http://iapsop.com/archive/materials/astrologers_magazine_leo/ The Astrologers' Magazine [Alan Leo]] オカルト歴史資料アーカイブIAPSOP</ref>)を始め、占星術の普及に貢献した。レオは、20世紀初の占星術の[[広告塔]]になり、雑誌を利用して自らの占星術を広め、大衆化した{{sfn|カレルズ, 阿部訳|1996|pp=76-77}}。雑誌では、定期購読者に無料でホロスコープを作成しチャート診断するサービスを行って多くの読者を獲得し、十分な収益を上げ、著作もよく売れた<ref name="アラン・レオ"/>。占星術をもうかる商売に仕立てたのも、レオとオールドであると評されている{{sfn|カレルズ, 阿部訳|1996|pp=76-77}}<ref name="アラン・レオ">[http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/uranai/reo.htm アラン・レオ] オカルトの部屋</ref>。レオの教本は、近代占星術の初期の研究家ほとんどすべてが学んでおり、後世に大きな影響を与えた{{sfn|カレルズ, 阿部訳|1996|pp=76-77}}<ref name="アラン・レオ"/>。
19世紀末には、一部の占星術師たちは、自分たちの仕事を専門職として確立するため、課題を現代的なものに置きかえ、科学的なものにしようと試みた{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=238}}。1895年にはロンドンで『現代占星術』という表題を掲げた専門誌が刊行され、第一号の論説では「いまや古代の占星術体系を現代化するときが来た」と宣言した{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=238}}。リチャード・モリソンという[[退役海軍士官]]は(当時、航海士は恒星の位置に頼って航海していた)自分のことを「ザドキエル」と称し、水晶玉を用いて未来予言を行った{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=238-239}}。また、W・R・オールドは、客のために株式取引所の株価の動きを予言したり、競馬の結果を教えたりしていた{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=239}}。[[1902年]]になるとロンドンに占星術研究協会が設立され、1910年には占星術研究所、さらに毎週主催して講義を行なう占星術会館も誕生した{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=239}}。1915年には、レオと妻のベシイがイギリスの神智学協会に「占星術ロッジ」を設立しており、これがイギリスに現存する主要な占星術団体のもとになっている。[[鏡リュウジ]]は、占星術にコミュニティがあるとすれば、レオがその源であると述べている<ref name="鏡">[http://ryuji.tv/okaken/?id=43 オカ研File No.23 「心理占星術」見直し 1] 鏡リュウジ公式サイト BETWEEN THE WORLDS</ref>。
フランスでは、ジャン=バチスト・モランの『ガリア占星術』(1661年)以降衰退し、19世紀のオカルティストの[[エリファス・レヴィ]]に触発されオカルティズム探求の動きが現れ、[[ロマン派]]が[[カバラ]]主義・黒魔術・[[デカダン]]・古代エジプト・異端[[カタリ派]]などに興味を寄せたことで復興したが、目立つ動きではなかった。アンリ・セルヴァ(Henri Selva、1861 - ?)がモランを再発見し、1920年には実践者も増加した{{sfn|カレルズ, 阿部訳|1996|pp=77-78}}。
ドイツでは、ルネサンス以降の伝統はエランゲル大学の{{仮リンク|ジュリウス・プファフ|de|Johann Wilhelm Andreas Pfaff}}(1774 - 1835)とともに途絶えていたが、神智学とフランス[[魔術]]の合流で1984年に復興した{{sfn|カレルズ, 阿部訳|1996|pp=78-80}}。84年に神智学協会ドイツ支部が設立されて、仏教やヒンドゥー教にも詳しい神智学徒{{仮リンク|フランツ・ハルトマン|de|Franz Hartmann}}が占星術の研究を行うようになった{{sfn|カレルズ, 阿部訳|1996|pp=78-80}}。ハルトマンの助手フーゴ・フォルラート(Hugo Vollrath)は、神智学やオカルトの出版社を設立し、ドイツではこの時期、占星術の定期大会や旺盛な出版活動がなされた{{sfn|カレルズ, 阿部訳|1996|pp=78-80}}<ref name=Vollrath/>。フォルラートは、神智学協会・占星術界で幾度か面倒なトラブルを起こし、[[ルドルフ・シュタイナー]]が神智学協会を離れて[[人智学協会]]を作ることにもなり、ドイツの占星術界はこうした騒動の影響で混乱したまま[[ナチス]]の時代に突入した{{sfn|カレルズ, 阿部訳|1996|pp=78-80}}<ref name=Vollrath/>。フォルラートは1933年にナチスに入党し、ナチスが主張する北方人種[[アーリアン学説|アーリア人]]の優位性を理論的に証明し正当化するために占星術を利用し、[[反ユダヤ主義|反ユダヤ]]の流れに加担した<ref name=Vollrath>[https://www.astro.com/astrowiki/de/Hugo_Vollrath Hugo Vollrath] astro.com</ref><ref>[http://www.iapsop.com/archive/materials/prana_leipzig/ Prana Leipzig (IAPSOP)]</ref>。
=== 現代の新たな動向 ===
[[Image:Алиса Анна Бейли.jpeg|thumb|150px|アリス・ベイリー]]
[[20世紀]]に入ると、アメリカでオカルティズムとメタフィジカル(超物質)思想によって、経験や感覚から超越した神秘的な技術へ進化させようとする動向が出てきた。その代表的存在が、[[神智学|神智学徒]]で「アーケイン・スクール(不朽の知恵・秘教占星学)」の創設者の[[アリス・ベイリー]]である。ベイリーはジュワル・クールという高次の存在と交信して教えを受けたと主張し、神智学の7つの周期による歴史観と占星術を融合させ、近い将来「魚座」の時代から「水瓶座(アクエリアス)」の新時代(アクエリアン・エイジ)への大規模なパラダイムシフトが起こると語り、ニューエイジ思想の源のひとつとなった<ref name=oota>[[#oota|大田 2013. 位置No.1463/2698]]</ref>。ベイリーの『ヒューマニスティック占星術』と弟子の{{仮リンク|ディーン・ルディア|en|Dane Rudhyar}}の『サビアン・シンボル』は、こうした秘教化の動向の基本となっている。ルディアはベイリーから学んだ神智学と秘教占星学に[[ユング心理学]]を導入して「トランスパーソナル占星術」を作り<ref name=oota/>、1936年の代表的著書『パーソナリティーの占星術』では、占星術は深層心理学の術語によって再定義する必要があると述べた。また[[ニーチェ]]の[[超人]]思想に心酔していたルディアは、新たな文明の中心となる「シード・グループ(種となる集団)」を作らなければならないと主張した<ref name=oota/>。こうした思想は、[[ホゼ・アグエイアス]]等の時代の霊的な転換を唱えたニューエイジのオカルティストに影響を与えている<ref name=oota/>。アラン・レオに始まる神智学の世界観を基礎にした占星術は、ベイリーとルディアの秘教占星術に受け継がれ、「占星術の心理学化」という流れも生んだ<ref name="野田94・6"/>。レオの系譜の占星術のオカルト色、神智学色から脱しようとさまざまな団体も生まれ<ref name="鏡"/>、20世紀前半には西洋占星術は多様化していくことになった<ref name="野田94・6"/>。
こうして復活した、あるいは改革された占星術と、伝統的な占星術との違いは、その意識的な混合主義にあることが指摘されている{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=239}}。
実践者の間でも、占星術の方向性については多様な意見がある。「科学的学問」にしたいと望む占星術師は、オカルト要素の強いレオらの占星術を、占星術を呪術やオカルトにとどめていると批判している<ref name="鏡"/>。彼らのなかには19世紀科学の言語を取り入れたり、統計学の言い回しを使って、自分たちの分野と魔術の分野の違いを強調し、「精神科学」「占星術の科学的基礎」あるいは「星座と人間行動とが関係していることの科学的証拠」などについて書いた者もいた{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=239}}。彼らは反対に、その考えに賛同しない占星術師たちから、占星術を疑似科学にしていると批判されており、思想の異なる占星術師同士で批判し合っている<ref name="鏡"/>。
自分たちの思想が、[[薔薇十字団]]、[[フリーメイソン]]あるいはエジプトの[[神秘主義]]とつながっていると主張する占星術師もおり、彼らの多くは、たとえば[[ヒンドゥー教]]や[[仏教]]などの東洋の宗致から知恵を拝借している{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=239}}。
占星術を科学という場合、星についての研究が自然科学であるいう主張と、惑星から放出される不可視の神秘的な力に言及し、マクロコスモスとミクロコスモスの照応の概念を[[シンクロニシティ]]([[ユング]])の結果とし、さまざまな偶然の一致を研究するようなオカルト科学的な主張がある{{sfn|Lewis, 宮坂訳|2009|pp=472-273}}。
西洋占星術は[[疑似科学]]とも見なされるようになり、1940年には[[アメリカ社会心理学会]]が、未来予知のツールとしての占星術の有効性を否定する公式声明を発表した<ref>クーデール [1986] pp.151-152</ref>。また、1975年には前[[アメリカ天文学会]]会長バート・ボックらが文責を負い、[[ノーベル賞]]受賞学者18名を含む計186人の科学者らが連署した占星術批判の声明が出されている(『ヒューマニスト』誌1975年9月号)。ただし、これには、占星術に懐疑的な論者からも、権威主義との批判が寄せられた<ref>中山 [1992] pp.191-197, アイゼンク&ナイアス [1986] pp.1-7</ref>。
科学者らの声明の一方で、国際的に知られた[[ジーン・ディクソン]]や、[[ロナルド・レーガン]]大統領(当時)の夫人[[ナンシー・レーガン|ナンシー]]に重用され、大統領の日程へも関与した{{仮リンク|ジョーン・キグリー|en|Joan Quigley}}のように、社会的に影響力を持った占星術師は存在した。
1970年代に入ると、[[ヒューマンポテンシャル運動]]や[[人間性心理学]]、[[神智学]]や[[心霊主義]]といった超物理(メタフィジカル)が混ざり合って[[ニューエイジ]]運動が生まれ、その影響を受けて、占星術や[[タロット]]といったオカルトの実践は、「自己成長」や「自己探求」、「自己変容」のツールとも見なされるようになり({{仮リンク|心理占星術|en|Psychological astrology}})、出来事を予知したり運勢を判断する占星術の側面は薄まってきている。現代の占星術師には、顧客に将来起きる出来事を予言して行動のアドバイスをするタイプと、顧客の自己探求を導く疑似セラピストタイプがあり、占星術師たちは皆この2つのタイプの間に存在している{{sfn|Lewis, 宮坂訳|2009|pp=474-275}}。
こうした状況を踏まえて、1990年代あたりから、占星術がかつて持っていたとされる機能を復活させようという動きが出てきた。イギリスのオリビア・バークレイは、1996年9月にエクセターで開かれたアストロロジカル・アソシエーションの「カーター・メモリアル・レクチャー」において「[[伝統的占星術]]の必要性」と題した講演を行い、[[伝統的占星術]]への回帰を宣言している<ref>オリビア・バークレイ [http://www.kokubu.com/astrology/exeter.htm 伝統的占星術の必要性] FOL office</ref>。
[[伝統的占星術]]への回帰は{{仮リンク|ホラリー占星術|en|Horary astrology}}への再評価へとつながり、ホラリーの技法が多数記されている中世や古代の占星術文献の掘り起こしへと至った{{要出典|date=2018年4月|}}。中世文献の掘り起こしプロジェクトの代表的なものに、[http://www.projecthindsight.com/ Project Hindsight] がある。Project Hindsightでは非英語で記述された占星術の古典が、おもにボランティアの手で英語に翻訳された{{要出典|date=2018年4月|}}。古典的な占星術を復活させたものは、古典派や伝統派と呼ばれているが、2007年の時点ですでに古典的な技法の上に独自の解釈を組み込もうとする方向性も見えており<ref>[http://www.hoshitani.com/festinalente/2007/05/22/what-johnfrawley-calls-as-reception/ John Frawleyが言うところのレセプション]{{リンク切れ|date=2018年4月}}</ref>、古典派とひとくくりにできない状況となっている{{要出典|date=2018年4月|}}。
予測不可能で複雑な現代産業社会において、占星術は、生の意味を見失った一般市民に出来事が制御可能であると感じさせ、予測可能で意味のある体系、大きな物語の中に己が存在するという感覚を与え、生活に宇宙的な意義を感じさせるという側面がある{{sfn|Lewis, 宮坂訳|2009|pp=472-273}}。特にアメリカでは、新聞、雑誌の占星術コーナーをはじめ、メディアで多く取り上げられ、「学術理論」としての有効性を失った代わりに、人気のある[[サブカルチャー]]のひとつとなっている<ref>中山 [1993] pp.204-208, クーデール [1986] pp.148-151</ref>。世論調査では、占星術の人気は衰えるどころか増しているが、一般には、個人のパーソナリティに関する十二星座と、占い目的での占星術の使用という、西洋占星術のごくわずかな面だけが知られている{{sfn|Lewis, 宮坂訳|2009|pp=472-273}}。ホロスコープを作るのにコンピューターが利用され、これが人気に拍車をかけている{{sfn|Lewis, 宮坂訳|2009|pp=472-273}}。コンピュータを使ってホロスコープを作成する理由は、時間節約だけではなく、自分の予言にハイテクの威光を与えるためでもあると指摘されている{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=239}}。
==科学的研究==
フランスの国立科学統計センターの統計学者・心理学者のミシェル・ゴークラン(Michel Gauquelin)と妻のフランソワーズ・ゴークランは、出生時の惑星の配置と性格を分類する統計研究を行い、『人間の行動に対する宇宙の影響』(1973年)を発表した。彼の研究は太陽宮占星術の裏付けにはあまりなっていないが、親の誕生図の星位が子供の図でも予想以上に繰り返されるなどの見解を示した{{sfn|カレルズ, 阿部訳|1996|pp=77-78}}。
これがほとんど唯一の実証主義的なアプローチによる研究報告であるが、[[明治大学]]コミュニケーション研究所は、「その報告においてさえ、職業選択における他の社会的要因と比べて惑星による影響は(有意水準ではあったものの)あまりにも小さすぎ実際に使用するには再現性に乏しい」ことが指摘されており、過去の逸話の累積にゴークラン夫妻の研究を加味したとしても、再現性を保証することはできず、データの再現性は低いと述べている<ref name=meizi/>。
このほか、心理学者[[ハンス・アイゼンク]]や天文学者ピエール・クーデールらは、様々な観点からの[[統計学]]的調査に基づき、西洋占星術の妥当性に疑問を投げかけている{{要出典|date=2018年4月|}}(参考文献欄掲出の各文献を参照のこと)。
== 懐疑論・批判 ==
西洋社会では、古来占星術に対してさまざまな批判が寄せられてきた。古典的なものは、[[アウグスティヌス]]が『告白』で展開したものである。ほぼ同じ場所で同じ時刻に生まれた人は同じホロスコープを持つが、身分が異なることで裕福な家督を継いだ者と召使になった者がいたことなどを取り上げたのである{{要出典|date=2018年4月|}}。アウグスティヌスの批判は、中世にダンテが援用したほか、現代でも占星術批判で引用されることがある<ref>テスター [1997] pp.143-149</ref><ref>クーデール [1986] pp.92-93, 179-182</ref>。逆に占星術師の中には、同じ時間に生まれた者(いわゆる「アストロ・ツイン」「宇宙双子」)がよく似た人生を歩むと主張する者もいるが、その根拠の不透明さも指摘されている<ref>志水 [1997] pp.85-87</ref>。
1990年代に入ると、占星術のコーナーを持つアメリカの新聞には、科学的根拠のないゲームに過ぎないと断り書きを入れるものも現れた<ref>志水 [1997] p.94</ref>。
占星術コミュニティは、「たとえ疑似科学、オカルト的言説であっても社会的な需要に応えている」と主張している<ref name=meizi/>。
部分的にでも当たったように感じられるのは、[[バーナム効果]]、[[確証バイアス]]、[[予言の自己成就]]などの心理効果や、[[コールドリーディング]]やホットリーディングのテクニックが使われているという批判があり、占星術師側も部分的にだが、こうしたごまかしがあることを認めている<ref name=meizi>[http://www.sciencecomlabo.jp/fortune-telling/astrology.html 占星術] {{リンク切れ|date=2021年10月}}疑似科学とされるものの科学性評定サイト 明治大学科学コミュニケーション研究所</ref>。
高額なお布施などには、個人のレベルで注意する必要がある<ref name=meizi/>。
==理論==
{{出典の明記|date=2018年4月|section=1}}
=== 十二宮 ===
{{main|十二宮}}
[[十二宮]]は黄道を12に分割して得られた区画である。占星術師たちは、それぞれの[[サイン (占星術)|宮]]と、それが持つ意味について注記している。一般的な西洋占星術では、天の赤道と黄道の東側の交点である[[春分点]]から、十二宮の起点である[[白羊宮]]を始める[[サイン (占星術)|トロピカル方式]]を採用している。ゆっくりとした地軸の味噌擂り運動である、[[歳差運動]]によって、それぞれの宮(サイン)の天の配置はすでにギリシア時代にサインの指標とされた星座に一致しなくなっている。西洋占星術師の中にも、[[サイン (占星術)|サイデリアル方式]]を採用することで占星術創成期のサインと指標の星座との一致を試みる動きもある。
===サイン===
{{main|サイン_(占星術)}}
近代の西洋占星術では、十二宮の[[サイン (占星術)|サイン]]は、12の基本的な個性を表すものと信じられている。12のサインは、火、水、空気、土の古典的な[[四大元素]]に分類されている。同時に、{{仮リンク|活動宮|en|Cardinal sign (astrology)}}、{{仮リンク|不動宮|en|Fixed sign}}、{{仮リンク|柔軟宮|en|Mutable sign}}という三分類もされている。
*活動宮は四季の各季節の最初に太陽が位置するサインであり、大きく季節が変化するため活動宮の名称を持つ。
*不動宮は季節の中間で太陽が位置するサインであり、季節が安定したものになることに対応している。
*柔軟宮は季節の終わりに太陽が位置するサインであり、季節が変わり始めることに対応している。
このようにサインと季節には対応関係があり、たとえば春の最初のサインである白羊宮は、[[春分]]から[[穀雨]]直前まで太陽が位置するサインである。「暑さ寒さも[[彼岸]]まで」というように、通常は白羊宮に太陽が位置する期間から気温が上昇したということが実感できる。そのため白羊宮は、火つまり熱く乾燥したサインであり活動宮としてとらえられており、またその性質が牡羊の持つ突進力になぞらえられている。続く[[金牛宮]]は地のサインの不動宮であり、気温の上昇が緩やかになってきていることに対応している。そして春のサインの最後である[[双児宮]]が変動宮であり、夏への転換点となっている。
[[サイン (占星術)|サイデリアル方式]]を採用する場合、季節とサインの対応が壊れてしまう。
12宮の性質はおおよそ以下のようなものとされる<ref>Robert Pelletier & Leonard Cataldo ''Be Your Own Astrologer'' pp 24 - 33, Pan Books Ltd, London 1984; Maritha Pottenger, ''Astro Essentials'', pp 31 - 36, ACS Publications San Diego, 1991</ref>。あくまでも一例であり、かつ、統計学をはじめとする各種学術研究に裏打ちされたものではない。[[2区分・3区分・4区分]]も参照のこと。
[[生年月日]]と出生時刻でホロスコープを作成すると[[月]]、[[水星]]、[[金星]]、[[太陽]]、[[火星]]、[[木星]]、[[土星]]、[[天王星]]、[[海王星]]、[[冥王星]]のすべての天体のほか、ハウスなどが以下のサインに対応している(月のサインが[[双魚宮]]で、[[水星]]のサインが[[人馬宮]]、第1ハウスが[[天秤宮]]など)。
*[[Image:Aries.svg|25px]] - [[白羊宮]](Aries、アリエス)
** 火の宮(ホット、ドライ)、活動宮、男性格
** キーワードは「我あり」。性質は個人主義的、知的、情熱的、先駆者的、激情的、直情的など。場合によっては我儘や尊大や粗野、プライドの強さに結びつく。おもに「自分」や「自己意志」を司るサイン。
*[[Image:Taurus.svg|25px]] - [[金牛宮]](Taurus、タウルス)
** 地の宮(クール、ドライ)、不動宮、女性格
** キーワードは「我は持つ」。性質は、機知に富むこと、周到さ、我慢強さ、頑強さ、芸術的など。場合によっては緩慢さ、頑固さ、欲深さ、主観的などに結びつく。おもに「所有物」や「貯蓄」を司るサイン。
*[[Image:Gemini.svg|25px]] - [[双児宮]](Gemini、ゲミニ)
** 空気(風)の宮(ホット、モイスト)、柔軟宮、男性格
** キーワードは「我思う」。性質は論理的、活動的、二重性、好奇心の強さ、移ろいやすさ、社交的など。場合によっては二面性、落ち着きのなさ、言語に厳密などに結びつく。おもに「知識」や「能力の拡大」を司るサイン。
*[[Image:Cancer.svg|25px]] - [[巨蟹宮]](Cancer、カンケル)
** 水の宮(クール、モイスト)、活動宮、女性格
** キーワードは「我は感じる」。性質は、保護的、敏感さ、粘り強さ、愛情深さなど。場合によっては、カニ的な(crabby ; 意地悪な、不機嫌な)性質や厭世観に結びつく。おもに「家庭」や「ローカル」を司るサイン。
*[[Image:Leo.svg|25px]] - [[獅子宮]](Leo、レオ)
** 火の宮(ホット、ドライ)、不動宮、男性格
** キーワードは「我は決意する」。性質は、気前のよさ、誇り高さ、快活さ、力強さ、独創的、高貴さなど。場合によっては 傲岸さ、横柄さ、利己主義などに結びつく。おもに「遊び」や「自慰」を司るサイン。
*[[Image:Virgo.svg|25px]] - [[処女宮]](Virgo、ウィルゴ)
** 地の宮(クール、ドライ)、変動宮、女性格
** キーワードは「我は分析する」。性質は、実践的、批評的、謙虚さ、精神的な活動、有能さ、柔軟性など。場合によっては、衒学的、批判過剰、気難しさなどに結びつく。おもに「整理整頓」や「実務に有能」を司るサイン。
*[[Image:Libra.svg|25px]] - [[天秤宮]](Libra、リブラ)
** 空気(風)の宮(ホット、モイスト)、活動宮、男性格
** キーワードは「我は均衡させる」。性質は、交渉上手、公正さ、開明的、魅力的、必要に応じたパートナー関係など。場合によっては優柔不断さ、屁理屈屋に結びつく。おもに「相対関係の均衡」や「バランス」を司るサイン。
*[[Image:Scorpio.svg|25px]] - [[天蠍宮]](Scorpio、スコルピオ)
** 水の宮(クール、モイスト)、不動宮、女性格
** キーワードは「我は欲する」。性質は、知覚の鋭さ、秘密主義、複雑さ、分析的、魅惑的、野心的など。場合によっては、嫉妬深さ、狡猾さ、残酷さなどに結びつく。おもに「応用性」や「死」を司るサイン。
*[[Image:Sagittarius.svg|25px]] - [[人馬宮]](Sagittarius、サギッタリウス)
** 火の宮(ホット、ドライ)、柔軟宮、男性格
** キーワードは「我は感知する」。性質は、率直さ、外向的、発展的、楽観的、哲学的、知的など。場合によっては、無頓着さ、大失態、デリカシーのなさ、心変わりの激しさなどに結びつく。おもに「万能性」や「哲学」を司るサイン。
*[[Image:Capricorn.svg|25px]] - [[磨羯宮]](Capricorn、カプリコルン)
** 地の宮(クール、ドライ)、活動宮、女性格
** キーワードは「我は使う」。性質は、思慮深さ、用心深さ、我慢強さ、几帳面さ、控え目など。場合によっては、憂鬱さ、悲観的、融通の利かなさなどに結びつく。おもに「社会」や「現実面」を司るサイン。
*[[Image:Aquarius.svg|25px]] - [[宝瓶宮]](Aquarius、アクワリウス)
** 空気(風)の宮(ホット、モイスト)、不動宮、男性格
** キーワードは「我は知る」。性質は、客観的、因習にとらわれないこと、人道主義的、賢明さなど。場合によっては、独善的、冷淡さ、気変わり、エリート主義的などに結びつく。おもに「友人」や「更新」を司るサイン。
*[[Image:Pisces.svg|25px]] - [[双魚宮]](Pisces、ピスケス)
** 水の宮(クール、モイスト)、変動宮、女性格
** キーワードは「我は信ずる」。性質は、創造力の豊かさ、多面性、情け深さ、理想主義的、スピリチュアルなど。場合によっては、現実逃避、腹黒さ、注意散漫、主体性のなさなどに結びつく。おもに「幻惑」や「潜在意識」を司るサイン。
個人にとってあるサインの重要度は、そのサインの中での惑星の位置とアセンダントに依存する。もしも任意のサインの中に何の星もなかったなら、そのサインはパーソナリティの中での役割は弱くなる<ref group="注釈">占う上ではそのサインの守護星とその状態を使用するので、何らかの判断を導き出すことはできる。{{要出典|date=2018年4月|}}</ref>。他方、たとえばある星が太陽や月とともに巨蟹宮にあったなら、そのサインの特質は組み合わせの中で強く表れることになる。
====サン・サイン占星術====
{{main|en:Sun sign astrology}}
新聞や雑誌などには、しばしば[[星座占い]]のコーナーがある。それらのコーナーでは、生まれたときに太陽があった[[黄道十二宮]]に対応させて、その日に起こるかもしれない出来事の案内を提供していると主張している。しかし、これらの占いは非常に曖昧で一般的なものであるため、占星術師たちの中にもほとんど価値がないと見なしている者もいる。そうであってもKim Farnellによるとサン・サイン占星術の起源はホロスコープ占星術を同じくらい古いとされる<ref>Flirting With the Zodiac: A True History of Sun Sign Astrology (ISBN 1902405234)</ref>。サン・サイン占星術の曖昧さに対して、プロの占星術師たちはより完璧な、個人に特化したホロスコープを使えば的中精度が上がると主張するが、懐疑派は事実でないと批判している<ref>[http://home.wxs.nl/~skepsis/astrot.html The AstroTest] を参照のこと。</ref>。
[[20世紀]]末には、[[へびつかい座]]を加えた13星座占いとすべきだというものも現れた。詳しくは、[[13星座占い]]を参照のこと。
====ムーン・サイン占星術====
月は人間の感情や情緒的気分などの心理的傾向を示すといわれている。
====木星サイン占星術====
木星の位置でその年の運勢と傾向を占い、約12年周期で運勢のバイオリズムを読み解く。
====サイデリアル方式の西洋占星術====
西洋占星術では、白羊宮の始点に関して2通りの見解がある。サイデリアル方式では、始点を固定的なものであると考えるが、西洋占星術の主流であるトロピカル方式では[[春分点]]を白羊宮の始点とする。
春分点は歳差運動にともなって移動するため、西洋占星術の主流では、[[十二宮|黄道十二宮]](サイン)と[[黄道十二星座]]の結びつきが損なわれている。一方、サイデリアル方式では始点が固定的なため、その結びつきは保持されている。しかし黄道十二宮と季節の対応は損なわれているため、どちらの方式を採用するかは術者の判断による。なお地球の[[歳差運動]]は、「宝瓶宮の時代」の概念的基盤を与えている(詳しくは[[春分点#春分点と星座]]を参照のこと)。
===惑星===
{{main|en:Planets in astrology}}
近代の西洋占星術では、「惑星」は人間の精神の中の基底的な原動力ないし衝動を表す。これらの「惑星」は天文学の定義と異なり、[[太陽]]、[[月]]、そして2006年に惑星から降格された[[冥王星]]なども包含する概念である。それぞれの惑星は、サインと惑星の類似性ないし共感性を基盤として、十二宮のうちの1つないし2つのサインの[[守護惑星|守護星]]であるとされる。逆に言えば、占星術において惑星とはサインの守護星としての性質を持つものであり、ほかは天体ないし星ではあっても惑星ではない<ref group="注釈">実在天体や[[月の交点|昇交点・降交点]]、そしてアラビック・パーツなども含む概念を表す用語として感受点が使用されることもある{{要出典|date=2018年4月|}}。</ref>(とはいえ、サインの守護星とは何であるかと問うならば、惑星に対するこの定義は循環論法の可能性がある)。近代以降に発見された3つの惑星<ref group="注釈">当時は3つの惑星であったが、既に述べたように冥王星は2006年に天文学上は準惑星に分類されることになった。{{要出典|date=2018年4月|}}</ref>も、占星術師たちによって支配するサインを割り当てられている。
現代主流の占星術で惑星とされている、トランス・サタニアンの[[天王星]]・[[海王星]]・冥王星は、望遠鏡による観測によって確認されたものであり、18 - 20世紀に発見された天体である。そのため近年のリリーの再評価から始まりラテン語やさらにはイスラム圏の文献を英語に翻訳し、過去の技法を蘇らせようとする、ある意味[[伝統的占星術]]では使用しない。ただ天王星や海王星を受け入れた現代的な占星術師においても、冥王星については、2006年に[[準惑星]]となった際に、チャートから外す占い師もみられた。
もっとも欧米では、冥王星はおろかさらに小さな[[小惑星]]までも使用することが多く、その中でも代表的なものは、[[ケレス (準惑星)|ケレス]]、[[パラス (小惑星)|パラス]]、[[ジュノー (小惑星)|ジュノー]]、[[ベスタ (小惑星)|ベスタ]]、[[キロン (小惑星)|キロン]]である。また、今後[[エリス (準惑星)|エリス]]が占星術に取り入れられる可能性がある。冥王星から惑星の地位を奪い、人類に対して少なからざる影響力を持ったからである。すでにエリスを表示できるホロスコープ作成ソフトウェアも存在する。
各惑星は、どのサインに入っているか等の条件から品位([[品位 (占星術)|ディグニティ]])とよばれるパラメータが割り振られる。あるホロスコープにおいて相対的に品位が高い惑星は凶星(マレフィック)であってもいい作用があり、品位が低いと吉星(ベネフィック)であっても悪い作用を持つとされる。古典的な7惑星についての品位の計算方法は厳密で細かく規定されているが、新しい惑星では品位の計算方法が確立していない。[[伝統的占星術]]では、近代になって発見された惑星を使用しないことの理由づけのひとつに、品位が計算方法が不完全であることを挙げている。他方、新しい惑星を組み込んだ近代占星術において、品位は忘れられかけた技法のひとつとなった。
占星術で使われる11の惑星は以下の通りである<ref>Sasha Fenton ''Understanding Astrology'', pp106 - 115, Aquarian Press, London, 1991 ; Maritha Pottinger, ''Ibid'', pp11 - 17, 1991</ref>。
====古典的な惑星====
これらの7つの「惑星」(ここでは、太陽と月も「惑星」に含む)は古代には知られていたものであり、各個人の7つの基礎的原動力を表していると信じられている。このため占星術師たちは、これらの星を「パーソナル・プラネット」と呼ぶ。
*[[Image:Sun_symbol (fixed width).svg|24px|☉]] - [[太陽 (占星術)|太陽]] : 獅子宮の守護星。意味するものは、個人的な力、活力と成功、指導力、権威、父性、創造性など。
*[[Image:Moon_decrescent symbol (fixed width).svg|24px|☾]] - [[月 (占星術)|月]]: 巨蟹宮の守護星。意味するものは、内的な感覚、雰囲気、習慣、無意識、母性、一般的な生活の家と家族など。
*[[Image:Mercury_symbol (fixed width).svg|24px|☿]] - [[水星 (占星術)|水星]] : 双児宮と処女宮の守護星。意味するものは、心性、共同体、基礎教育、文筆業、隣人など。
*[[Image:Venus_symbol (fixed width).svg|24px|♀]] - [[金星 (占星術)|金星]] : 金牛宮と天秤宮の守護星。意味するものは、あらゆる種類の関係やパートナーシップ、ロマンティックな愛、美への欲求、調和、芸術、社会的生活など。
*[[Image:Earth_symbol (fixed width).svg|24px|🜨]] - [[地球]] : 金牛宮の守護星。意味するものは、あらゆる種類の関係やパートナーシップ、個人的な力、活力と成功、指導力、権威、父性、創造性、責任感、権威と [[ヒエラルキー]]、難事への対処能力、自分と他人を律すること、信頼性など。
*[[Image:Mars_symbol (fixed width).svg|24px|♂]] - [[火星 (占星術)|火星]] : 白羊宮と天蠍宮の守護星。意味するものは、行動への衝動、個人的な活力、攻撃性、情熱、スポーツなど。
*[[Image:Jupiter_symbol (fixed width).svg|24px|♃]] - [[木星 (占星術)|木星]] : 人馬宮と双魚宮の守護星。意味するものは、個人的な成長、大志、自由への欲求、正義感と道徳性、宗教、哲学、高等教育など。
*[[Image:Saturn_symbol (fixed width).svg|24px|♄]] - [[土星 (占星術)|土星]] : 磨羯宮と宝瓶宮の守護星。意味するものは、個人的な制約、責任感、権威と[[ヒエラルキー]]、難事への対処能力、自分と他人を律すること、信頼性など。
====近代的な惑星====
これらの惑星は近代になって発見され、それ以降、西洋占星術でも重要な意味を持つ星として取り入れられた。これらの惑星を使用する場合、それぞれ対応する宮の守護星であった古典的な惑星を副守護星として扱う。
*[[Image:Uranus monogram (fixed width).svg|24px|♅]] - [[天王星 (占星術)|天王星]] : 宝瓶宮の守護星。意味するものは、反乱や型破り、旧体制の破壊、革新と創意、理想主義と発展的な思考など。
*[[Image:Neptune_symbol (fixed width).svg|24px|♆]] - [[海王星 (占星術)|海王星]] : 双魚宮の守護星。意味するものは、[[神秘主義]]、卓越性、共感、慈善、心霊的、社会からの後退、芸術的閃きなど。
*[[Image:Pluto_symbol (fixed width).svg|24px|⯓]] - [[冥王星 (占星術)|冥王星]] : 天蠍宮と白羊宮の守護星。意味するものは、生活の局面の始点と終点、死、秘密の暴露、ビッグビジネスなど。
*[[Image:Ceres symbol (fixed width).svg|24px|⚳]] - [[ケレス (準惑星)|ケレス]] : 処女宮または金牛宮の守護星。意味するものは、農業、母性、献身、愛情、創作意欲、滋養、健康など。
*[[Image:Chiron symbol (fixed width).svg|24px|⚷]] - [[キロン (小惑星)|キロン]] : 魂の傷を癒す者。
[[エリス (準惑星)]]:{{要出典|範囲=射手座の守護星。意味するものは、運命、全能、退化、不和、信仰、絶対者(神)など。|date=2020年12月}}
====ノード====
占星術では[[月の交点]](ルナー・ノード、ノード)も重要である<ref>Derek and Julia Parker, ''The New Compleat Astrologer'', p149, Crescent Books, New York, 1990</ref>。ノードとは、[[黄道]]と[[白道]]の交差点する点であり、[[食 (天文)|蝕]]が発生する点である。北のノードは、月が南から北へと横切る点で、昇交点(Caput Draconis, ドラゴン・ヘッド)と呼ばれる。南のノードは月が北から南へと横切る点で、降交点(Cauda Draconis, ドラゴン・テイル)と呼ばれる。[[ドラゴン|龍]]が出てくるこれらの名称は、バビロニア占星術で龍に変じた[[ティアマト]]の姿に由来しており、インド占星術に導入された後、中世イスラム世界を経由して、西洋占星術にも取り入れられた<ref>テスター [1997] pp.161-163</ref>。
西洋占星術ではそれぞれの惑星ほどには、重要な要因とは考えられていないが、考慮に値する繊細なエリアと見なされている。
*[[Image:ascending node (fixed width).svg|25px]] - 昇交点 : 昇交点は木星とあまり変わらない有益な効果をもたらす傾向があり、そこからいくらかのアドバンテージを引き出せる可能性もあるとされている。
*[[Image:descending node (fixed width).svg|25px]] - 降交点 : 降交点は土星とあまり変わらないような悪影響をもたらす傾向があり、個人からエネルギーを流出させる可能性があるとされる。
===ホロスコープ===
{{main|ホロスコープ}}
西洋占星術は、おもにホロスコープの作成に基礎を置いている。ホロスコープは、ある特定時点の天の「チャート」を表した図である。選ばれる「時」は、ホロスコープの主題となる存在の始点(人物であれば生まれたとき)である。これは、主題となる存在は、その生涯を通じて、始点における天のパターンを引きずると考えられているからである。
理論上、ホロスコープは企業の創設から国家の樹立に至るまで分析の対象としうるが、もっとも一般的なのは、個人の誕生時を基礎とする出生図([[:en:Natal chart|natal chart]])である。
[[Image:Thema Mundi.svg|thumb|200px|right|テーマ・ムンディ(天地創造第4日目の星位)]]
====解釈====
西洋占星術でのホロスコープの解釈は、以下のものに支配される。
*十二宮における各「惑星」の位置。
*ホロスコープの[[ハウス (占星術)|ハウス]]における各「惑星」の位置と状態(品位)、ハウスが空の場合はハウスの境界であるハウス・カスプのあるサインの守護星を使用する。
* ホロスコープの基礎的なアングル(アセンダントとデセンダントを結ぶ軸と、天頂と天底を結ぶ軸)の位置。
* 天体や基礎的なアングルが形成する角度、いわゆる[[アスペクト (占星術)|アスペクト]]。
* 昇交点、降交点のような想定上の存在。
占星術師の中には、[[:en:Arabian parts|Arabian parts]]のようなさまざまな数学的なポイントの位置を用いる者もいる。
====基礎的なアングル====
ホロスコープには、基礎的なアングルが存在する。以下に挙げるもの以外にも、占星術師の中によっては、ハウスの[[カスプ]]がしばしば重要なアングルとして含められることもある。
*Aˢᶜ - アセンダント(上昇点、ASC)
*:これは黄道と地平線が交差する東の点である。地球が回転するために、一日を通してその地点にある[[サイン (占星術)|サイン]]が一回りするのである。ここから「上昇サイン」という概念が生まれる。それは、ホロスコープもしくは出生図で算定された正確な時間において、東の空に上ったサインを指している。ホロスコープの作成にあたっては、アセンダントは慣例的に図面の左側に書かれる。ほとんどのハウス・システムでは、アセンダントは第1室のカスプに結びつけられている。
*:アセンダントは、圧倒的多数の占星術師から、もっとも重要で個別化されたアングルと見なされている。それは、東の空に昇る太陽の姿が夜明けを表すのと同じように、個人の覚醒している意識を意味している<ref>Jeff Mayo, ''Teach Yourself Astrology'', p71, Hodder & Stoughton, London, 1991</ref>。アセンダントは特定の時間と場所に固有なものなので、その個人の生い立ちにおける個人的な境遇や状態、あるいは幼年期の環境などを意味する。この理由で、アセンダントは、その個人がどのようにして公的・非個人的な場などの世界へ現れてくるのかにも関わってくる<ref>Sasha Fenton, ''Rising Signs'', pp 13-14, The Aquarian Press, London, 1989</ref>。
*:アセンダントと正反対の西にある点がデセンダント(下降点)である。これは個人が他者との関係の中でどのような反応を示すのかを表している。それは同時に我々がひきつけられる種類の人間や、我々のロマンティックな愛着を形成する能力をも示してくれる。ほとんどのハウス・システムでは、デセンダントは第7室のカスプに結びつけられている。
*Mᶜ - 中天(medium coeli、MC)
*:これは「[[天頂]]」(zenith)とも言われる、地平線上からもっとも遠い黄道の地点である。占星術師たちにとっては、中天は伝統的に個人の経歴、地位、生涯の目標、大志、世評、人生の到達点を示すとされる。四分円のハウス・システムでは、中天は第10室のカスプに結びつけられている。
*:中天の反対に位置する点は、天底([[:en:Imum Coeli|imum coeli]]、IC)である。占星術師たちにとって、天底は伝統的に生まれたときと死ぬときの状況や、両親、生家、家庭生活などを示すとされる。四分円のハウス・システムでは、天底は第4室のカスプに結びつけられている。
====ハウス====
{{main|ハウス (占星術)}}
ホロスコープは占星術師たちによって12に分割され、ハウスと呼ばれる。黄道をハウスに分割する方法は多様である。日本では室、舎、位などと訳される。ホロスコープにおけるハウスは、人生や活動の12の異なる範囲として解釈されている。ホロスコープにおけるハウス分割法にはさまざまな方法があり、古来アル=カビーシー、[[カンパヌス]]、[[レギオモンタヌス]]、プラキドゥス・デ・ティティ(プラシーダス)らがさまざまな分割法を試みてきたが、確定的なものはない<ref>テスター [1997] pp.321-323</ref>。しかし、その意味するところはおおむね以下のように解釈されている<ref>Sasha Fenton, ''Ibid'', pp117-8, 1991およびWilliam Lilly, ''Christian Astrology'', Chapter VII</ref>。
'''第1室''':個人の外観や身体特質。自我。物事の始まり。
'''第2室''':金銭と財産、価値と優先事項。物事の成長。
'''第3室''':コミュニケーション、兄弟姉妹、隣人関係、ローカルな旅行や輸送、教育、日常的な問題。
'''第4室''':家庭と家族、父親。不動産とその性質。相続、保持。人生の始まりと終わり。死後の名声。<!--ここでは古典的な解釈で書き直させて頂きました。-->
'''第5室''':悦楽と余暇、休日、遊戯と賭博。子供たち。創造性。深い関係とまではいえない恋愛沙汰。
'''第6室''':召使、メイド。労働、職務と雑役。被雇用者とその業務。健康。小型の家畜。
'''第7室''':対人関係。配偶者、結婚、ビジネス・パートナー。合意や協定。敵対者と戦争。
'''第8室''':誕生と死、始まりと終わり。性的な関係やあらゆる種類の深くコミットした関係。税金、遺産、企業金融。[[オカルト]]や[[心霊]]的な事柄。
'''第9室''':航海をともなう遠距離の旅行、移住。外国旅行、外国とその文化。宗教、法制、[[高等教育]]。見聞を広めるために求めるすべてのもの。自由。
'''第10室''':意思と野望、人生の方向。社会における地位や経歴。有名人のハウス。4室からみた7室であり、父親の配偶者、つまり母親を意味する。
'''第11室''':友人・知人などの限られた関係。グループ、クラブ、結社、それらの中でも特に慈善的なもの。
'''第12室''':神秘主義、オカルト、心霊的なもの。病院や監獄のような隔離された場所。後退、反射、自己犠牲。大型の家畜。
多くの近代的な占星術師たちは、ハウスは対応するサインと共感すると考えている。つまり、第1室は第1のサイン(白羊宮)と自然な親和性を持つなどであるが、古典的な占星術ではそうでもない。たとえば第1室に対応する惑星は水星であって、白羊宮の守護星の火星とは異なっている。
====アスペクト====
{{main|アスペクト_(占星術)}}
アスペクトとは、ホロスコープにおいてそれぞれの惑星やアセンダント、デセンダント、中天、天底などが形作る角度のことである。アスペクトは、地球から見た2点間の黄道上の[[離角]]を[[黄経]]上の度数で測定したものである<ref>Jeff Mayo, ''Ibid'', p97, 1991</ref>。それらは、ホロスコープを読むうえでの焦点となる。角度がより正確であればあるほど、アスペクトは影響力が強くなるが、オーブ(orb)と呼ばれる数度の許容範囲が解釈においては認められている。以下のアスペクトは、重要度の順に並べたものである<ref>Robert Pelletier and Leonard Cataldo, ''Ibid'', pp 57 - 60, 1984 ; Sasha Fenton, ''Ibid'', pp137-9, 1991</ref>。
*[[Image:Conjunction-symbol.svg|25px]] - コンジャンクション([[合 (天文)|合]])0°(orb +-8°)。コンジャンクションはチャートの中でも重要なアスペクトで、お互いに惑星の影響を強め合う。土星と木星の合は、特にグレートコンジャンクションと呼ばれ、大きな変事を示すとされる。歴史上有名な合については、[[合 (天文)#歴史上の合]]を参照のこと。
*[[Image:Opposition-symbol.svg|25px]] - オポジション([[衝]])180°(orb +-8°)。オポジションは、関係ある2要素が正反対に位置するアスペクトで、緊張、衝突、対立などを示している。ただし、このアスペクトの2つの部分が相互補完的になるなら、いい方向に作用する。
*[[Image:Trine-symbol.svg|25px]] - トライン(三分)120°(orb +-8°)。トラインはお互いが強めあっている2要素で、調和的な関係を表している。トラインは芸術的・創造的才能の源であるが、他方で気弱な性質にも結びつく。
*[[Image:Square-symbol.svg|25px]] - スクエア(矩)90°(orb +-8°)。スクエアはフラストレーション、抑圧、内心の葛藤などを表している。ただし、限界を超えようとしている人の活力の源になりうるアスペクトでもある。
*[[Image:Sextile-symbol.svg|25px]] - セクスタイル(六分)60°(orb +-6°)。セクスタイルはトラインに似ているが、重要性では劣る。関係ある2要素の間での親和性や調和性とともに、コミュニケーションの容易さを表している。
*[[Image:Quincunx symbol.svg|25px]] - クウィンカンクス 150°(orb +-3°)。クウィンカンクスは相性の合わない要素が無理に近づけられているために、困難さやストレスを表す。同時に、その人の人生における自己への無頓着さなども表している。
*[[Image:Semisextile-symbol.svg|25px]] - セミセクスタイル 30°(orb +-2°)。影響はわずかなものである。積極的であろうとする意識的な努力が生まれなければならない人生のエリアを表している。
*[[Image:Semisquare-symbol.svg|25px]] - セミスクエア(半矩) 45°(orb +-2°)。幾分の困難な状況を表している。効力の点でセミセクスタイルに似ている。
*[[Image:Sesquisquare-symbol.svg|25px]] - セスキコードレイト 135°(orb +-2°)。幾分かのストレスのある状況を表している。セミセクスタイルに似ている。
*Q - キンタイル 72°(orb +-2°)。影響はわずかである。天分や、漠然とした幸福な状況を表している。
*bQ - バイキンタイル 144°(orb +-2°)。影響はわずかで、キンタイルに似ている。
*'''<span style="font-size:25px">P</span>''' - パラレル : ほかのアスペクトとは異なり、赤道座標における赤緯が同じ値となる天体間で発生する。合に類似した作用を持つとされる。2天体が天の赤道に対して同じ側にある通常のParallelと赤道を挟んで反対側にあるContraparallelがある。
*℞ - 逆行 : 地球から見たときに地球との相対的な速度から、ある天体が逆方向に動いているように見えることがある。これが逆行である。逆行はアスペクトではないが、占星術師には、星位図の中での考察に含めるものがある。彼らによれば、出生図において逆行している惑星は、潜在的な弱点であるとされる。
*'''<span style="font-size:25px">S</span>''' - 留 : 地球から見たときに地球との相対的な速度から、ある天体が静止しているように見えることがある。これが留で順行と逆行の間で発生する。留はアスペクトではないが、占星術師には、星位図の中での考察に含めるものがある。彼らによれば、留の状態にある惑星は吉凶ともに強い影響力があるとされる。
===== グループ・アスペクト =====
アスペクトの中には、3つ以上の惑星が関与するものもある。おもなグループ・アスペクトには以下のものがある。
* グランドトライン(大三角)- 3つの惑星がそれぞれトライン(120度)の関係にあるアスペクト。この場合、3惑星が入っているサインの4大元素が必ず一致するため、それに応じて「火のグランドトライン」「地のグランドトライン」「風のグランドトライン」「水のグランドトライン」に分けられる。
* ハーモニック・コンコーダンス - 2組の大三角が組み合わさって[[六芒星]]の形となるもの。当然のようにきわめて稀にしか出現しない。
* [[グランドクロス]](大十字)- 4つの天体がお互いにスクエア(90度)の関係にあり、十字を形成しているアスペクト。この場合、各惑星が入っているサインの性質(不動宮、活動宮、柔軟宮)が必ず一致するため、「不動のグランドクロス」「活動のグランドクロス」「柔軟のグランドクロス」に分けられる。
* トリプルコンジャンクション(三重合)- 3つの天体が合にある星位。
* Tスクエア(T字型十字)- 3惑星A、B、CがあるときにAとBがオポジション(180度)を形成し、AとC、BとCがそれぞれスクエア(90度)を形成するアスペクト。その名の通り、T字型になる。
* カイト(凧)- 4惑星A、B、C、Dがあるとき、∠DAB=120度、∠ABC=∠CDA=90度、∠BCD=60度となるもの。形が西洋凧に似ていることからこうよばれる。
* ヨード - 3惑星が構成する3つのアスペクトが、セクスタイル1、クウィンカンクス2の構成となってY字型の配置となっているものをいう。スクエア1、セスキコードレイト2の構成のY字型の配置もヨードとされることがある。
* 調停 - 3個以上の惑星が構成するハードアスペクトである180度とソフトアスペクトである120度と60度の複合したもの、あるいは90度と120度の複合したものは古くから「調停」と呼ばれている。これをグループアスペクトに含める場合もある<ref>{{Cite book |author=[[石川源晃]] |year=1981 |title=占星学教科書|page=394 |publisher=石川事務所 }}</ref>。
このような3個以上の占星点で形成されるグループアスペクトにおいては、単独のアスペクトより広いオーブ、あるいは狭いオーブを採用する場合がある<ref>{{Cite book |author=[[石川源晃]] |year=1981 |title=アストロサークルの集い (国立国会図書館逐次刊行物Z 9-567)ホロスコープ誌上解説|page=20 |publisher=石川事務所 }}</ref>。
上記のような複数の惑星ないしASCやMCが特徴的な図形を構成するグループアスペクトの概念を緩くした、複合アスペクトの概念が存在する。たとえば、3つの惑星A、B、CがあるときにAとB、BとC、そしてCとAの間にそれぞれアスペクトが存在するとき、3つの惑星A、B、Cが複合アスペクトを構成するという。そして複合アスペクトから吉凶象意を読みとっていく技法がある。
ただし、調停の説明にあるとおり複合アスペクトの考え方は古くから存在する。実際、ほとんどのホロスコープに複合アスペクトが形成される。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* H.J.アイゼンク、D.K.B.ナイアス著 岩脇三良 訳 [1986] 『占星術 - 科学か迷信か』[[誠信書房]]
* ポール・クーデール著 [[有田忠郎]] 菅原孝雄 訳 [1986] 『占星術』[[白水社]]([[文庫クセジュ]])
* [[中山茂]] [1992] 『西洋占星術』 [[講談社現代新書]]
* 中山茂 [1993] 『占星術 その科学史上の位置』[[朝日新聞社]](朝日文庫)
*{{Cite book|和書|ref={{SfnRef|カレルズ, 阿部訳|1996}} |author=ジャン・カレルズ |others=阿部秀典訳 |year=1996 |title=占星術大全 |publisher=青土社}}
* ジム・テスター著 山本啓二 訳 [1997] 『西洋占星術の歴史』[[恒星社厚生閣]]
* [[志水一夫 (作家)|志水一夫]] [1997] 『改訂版・大予言の嘘 - 占いからノストラダムスまで』[[データハウス]]
<!-- *バートン,タムシン 豊田彰 訳『古代占星術―その歴史と社会的機能』法政大学出版局 ISBN 458835602X-->
* ジョルジュ・ミノワ著 [[菅野賢治]] [[平野隆文]]訳 [2000] 『未来の歴史―古代の預言から未来研究まで』[[筑摩書房]]
*{{Cite book|和書 |others={{仮リンク|クリストファー・パートリッジ|en|Christopher Partridge}} 編、[[井上順孝]] 監訳、井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清 訳 |title=現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ|publisher=[[悠書館]]|date=2009}}
**{{Cite journal|和書|ref={{SfnRef|Lewis, 宮坂訳|2009}} |author=James R.Lewis 執筆|others=宮坂清 訳|title = 占星術}}
* ニコラス・キャンピオン著 [[鏡リュウジ]] 監訳 [2012] 『世界史と西洋占星術』[[柏書房]]
* {{Cite book |和書 |ref=oota |author=大田俊寛|authorlink=大田俊寛 |title=現代オカルトの根源 - 霊性進化論の光と闇 |series=ちくま新書 |publisher=筑摩書房 |year=2013 |isbn=978-4-480-06725-8 }}
* {{Cite book |和書 |ref={{SfnRef|プリンチペ, 菅谷・山田訳|2014}} |author=ローレンス・M・プリンチペ |others=菅谷暁・山田俊弘 訳|title=科学革命 |series=サイエンスパレット |publisher=丸善出版 |year=2014 }}
* 野田伊豆守 [2018] 『時空旅人 - 占いの歴史と運命の謎に迫る』Vol.42 [[三栄書房]]
*{{Cite |和書 | author = [[ピーター・バーク]] | translator = [[井山弘幸]] | title = 知識の社会史 2 -百科全書からウィキペディアまで | date = 2015 | publisher = 新曜社 | isbn = 9784788514331 | ref = harv }}
== 関連項目 ==
*[[西洋占星術の用語一覧]]
*[[判断占星術]]
*[[インド占星術]]
*[[天文学史]]
*[[ボイド時間]]
*[[四元素]]
*[[疑似科学]]
{{星座占い}}
{{Portal bar|ヨーロッパ|スピリチュアリティ|天文学}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せいようせんせいしゆつ}}
[[Category:西洋占星術|*]]
[[Category:科学史]]
[[Category:神智学]]
[[Category:ニューエイジ]] | 2003-03-06T15:10:58Z | 2023-08-07T21:01:27Z | false | false | false | [
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"Template:See also",
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"Template:リンク切れ",
"Template:Cite book",
"Template:Cite",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E5%8D%A0%E6%98%9F%E8%A1%93 |
3,538 | 東日本旅客鉄道 |
東日本旅客鉄道株式会社(ひがしにほんりょかくてつどう、英: East Japan Railway Company)は、東日本を中心として旅客鉄道等を運営する日本の鉄道事業者。1987年4月1日に、国鉄分割民営化に伴い日本国有鉄道(国鉄)から長野鉄道管理局、新潟鉄道管理局及び東北・関東地方の各鉄道管理局が管理していた鉄道事業を引き継いで発足した、JRグループの旅客鉄道会社の一つ。通称はJR東日本(ジェイアールひがしにほん)、英語略称はJR East。コーポレートカラーは緑色。切符の地紋には「E」と記されている。
本社は、東京都渋谷区。東京証券取引所プライム市場上場企業。日経平均株価およびTOPIX Large70の構成銘柄の一つ。
日本国内では東北地方、関東地方、甲信越地方を中心とした地域に鉄道路線を保有して運営しているほか、多様な関連事業を手掛けている。また、国際業務部が他社やグループ企業と連携して、海外事業も展開している。鉄道を運営する会社としては輸送人数×距離で世界最大、運輸収入ではドイツ鉄道と比肩する規模である。
2012年に発表した『グループ経営構想V 〜限りなき前進〜』で経営の方向性として定めたJR東日本グループのコンセプトワードは「地域に生きる。世界に伸びる。」。また、2016年10月に「今後の重点取組み事項」を更新し、コミュニケーションスローガンとして「TICKET TO TOMORROW 未来のキップを、すべての人に。」を制定。以後、CM等で頻繁に使用している。
日本の人口の3割強が住む首都圏に多くの在来線の営業路線を持ち、通勤・通学など東京とその周辺での旅客輸送を主力とする。首都圏の在来線以外にも東北新幹線・上越新幹線・北陸新幹線(上越妙高駅以東)及びミニ新幹線の秋田新幹線・山形新幹線などの複数の新幹線を運営しており、首都圏と東日本各地の長距離輸送を担っている。
1日の平均輸送人員は約1,659万人(2010年度実績)、年間の売り上げは2兆7,000億円近く(連結)に上り、そのうち1兆1,153億円が関東圏の通勤・通学路線の運輸収入、4,909億円が新幹線の運輸収入である(2007年度)。
2019年4月1日時点の路線の営業キロは計7,401.7 km(BRT区間含む) で、JRグループ各社の中で営業路線は最長であり、2015年4月1日時点の社員数は58,550人とJRグループの中では最も多く、日本最大の鉄道事業者である。JRグループで完全民営化した西日本旅客鉄道(JR西日本)、東海旅客鉄道(JR東海)、九州旅客鉄道(JR九州)との4社中では最も早い、2002年に完全民営化を果たした。
ドル箱路線である山手線の駅を筆頭に、新宿駅や渋谷駅などの世界的な乗降客数を有する駅を多数運営しているうえ、国鉄分割民営化時に国鉄が所有していた不動産などの優良資産や国鉄関連会社株を多く引き継いだ。2018年時点での土地保有額では鉄道会社の中でJR東海に次いで2位、全産業中5位である。一方で、人口の少ない東北地方を中心に、多数の赤字ローカル線を抱えている。
JRグループ各社の中では早くから大手私鉄のように鉄道事業以外の事業に進出する多角化を積極的に行っている。JR東日本は鉄道以外の事業を「生活サービス事業」と分類しており、その内容は駅の構内売店や近接するショッピングセンター、オフィスビル運営、ホテル、広告、住宅など多岐にわたる。詳細は「関連会社」や「住宅事業」の節も参照。
2000年代後半における事業の柱は以下の3つである。
クレジットカードについては、2010年1月31日まで自社で直接、「ビューカード」を発行していた。このため、JR東日本自体が貸金業登録をしている(関東財務局長(5)第00945号)。同年2月1日にビューカード事業はJR東日本子会社の株式会社ビューカードに移管された。
生活サービス事業のオフィス事業としてオフィスビル運営のほか、シェアオフィス事業「STATION WORK」を全47都道府県で展開している。
また鉄道沿線の振興とCSRを兼ねた取り組みとして、地方の物産や観光資源を首都圏などに紹介する「地域再発見プロジェクト」と、子育て支援事業「HAPPY CHILD PROJECT」を展開している。
東日本大震災後に大船渡線と気仙沼線で導入されたBRT事業ではJR東日本が事業主体となり、運行に関する業務を地元のバス事業者に委託する形で運営している。JR東日本が乗合バスを運行する事業者となったのは1988年にジェイアールバス関東、ジェイアールバス東北にバス事業を分離して以来である。
2022年10月1日現在
2017年10月1日に本社附属機関から、本社国際事業本部内の組織に変更。
2023年10月1日現在
前身の鉄道省・国鉄時代から、首都圏の路線へ電力供給をするため神奈川県川崎市川崎区に建設した川崎火力発電所および新潟県小千谷市周辺にある信濃川発電所(千手発電所、小千谷発電所、新小千谷発電所の総称)を所有しているため、他の鉄道事業者とは異なり、沿線の送配電事業者からの電力供給が停止しても影響をほとんど受けない。実際に、2006年8月14日に発生した首都圏大規模停電の際にも、京葉線の一部区間を除いて影響はなかった。
ただし、2004年10月23日に発生した新潟県中越地震では小千谷市の水力発電所が破損し、自社発電の供給能力では電力を賄えなくなったため東京電力から電力を購入したり、他発電所の発電量を増やしたりして対応し、2006年春に復旧工事が終了して全面的に稼動を再開した。だが、水利権の乱用の不祥事により信濃川発電所の宮中取水ダムが使用停止処分を受けたため、電力不足の対策として傘下の火力発電所の増強と東京電力の購入量の増加で補う方針となった。そして信濃川発電所は2010年6月10日に稼働が再開された。
2011年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の際は、東京電力の発電所の停止・被災により電力不足となり輪番停電(計画停電)が実施された。その際、宮中取水ダムがある新潟県十日町市の市長の提案と国土交通省の指示により信濃川発電所の取水量を増して発電量を増やし、東京電力への電力の融通を行った。また、JR東日本も節電のために駅での照明の減灯や電車の運行本数削減などを行った。
2020年5月には、2050年度にCO2排出量「実質ゼロ」を目指すことが発表された。目標では、風力、太陽光、地熱などの再生可能エネルギーの開発を推進し、2050年度には水力発電と合わせ鉄道事業で使用するエネルギーの50 - 60%を賄うとしている。
国土交通省の調査によると、在来線部分における平成20年度(2008年度)の走行距離百万kmあたりの運転事故、輸送障害の発生件数は、それぞれ0.60件、4.96件(うち部内原因によるもの1.40件)であった。一方、同年度のJR鉄道事業者の平均値はそれぞれ0.60件、4.92件(うち部内原因によるもの1.45件)であった。平成14 - 19年度にも同様の傾向が見られることから、JR東日本では輸送障害の発生頻度がやや高い。またJR東日本は、首都圏における大規模な輸送障害発生時に、国土交通省や同省鉄道局長などによる業務改善命令や警告を度々受けている。
これに対し、平成18年度(2006年度)首都圏輸送障害低減に向けた対策の強化に関する公式発表 (PDF) において設備・車両の改良や新車の導入などに総額3,000億円の投資を行い輸送障害の低減を目指すことを表明し、2009年度からの第5次安全5ヵ年計画『安全ビジョン2013』において、2009年度から2013年度の5年間で総額約7,500億円の安全投資を行うことを計画していたと表明していた。
平成18年度(2006年度)においては、部内原因による輸送障害が2.41件から1.93件へ減少した。平成19年度(2007年度)においては1.70件、平成20年度(2008年度)においては1.40件と減少傾向にはある。
また、人身事故対策として、JR東日本では山手線へのホームドア設置やホーム端に精神を落ち着かせる効果があると言われる青色照明の導入、「いのちの電話」などを紹介したパンフレットを制作して配布するなどの啓蒙活動を行っている。
最新1年度分については、『安全報告書2014』の中の、JR東日本の安全の現状 (PDF) を参照。また、過去2年間の業務改善命令・警告は国土交通省「国土交通省ネガティブ情報等検索システム<鉄道事業者>」を参照。
2014年度までの分は『2014年度版 安全報告書』中、JR東日本の安全の現状 (PDF) を、過去の概略については『社会環境報告書』を参照。
青森県(海峡線及び北海道新幹線の同県内区間を除く)、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県、茨城県、千葉県、栃木県、群馬県、埼玉県、東京都、神奈川県(御殿場線を除く)、新潟県(大糸線を除く)、山梨県(身延線を除く)、長野県(飯田線、中央本線塩尻駅以西と大糸線南小谷駅以北を除く)、静岡県(東海道本線熱海駅以東と伊東線のみ)の各都県の旧国鉄の在来線、ならびに東北新幹線・上越新幹線・北陸新幹線の新幹線、および山形新幹線・秋田新幹線の通称を持つ新幹線直行特急が運営基盤である。
2021年4月1日現在のJR東日本が運営している路線を以下に示す。各路線の運行形態は当該路線の記事を参照。
データは2019年4月1日時点
他社路線との直通運転は以下のとおり。自社線の路線名や並び順は上表での通称・愛称欄に従う。
JR6社の中で唯一、全てのJR他社分界駅の在来線部分が自社管理となっている。
本節内において、自社線と他社線との間で直通定期列車のある路線同士を●で示している。
すべて東海道新幹線との共同使用駅である。
私鉄や第三セクターとの境界駅では自社で管轄していない駅もある。
直通運転そのものの詳細については#他事業者との直通運転を参照。
JR東日本管内全域に及ぶダイヤ改正は、JR発足後から1993年までは他のJR各社に合わせて毎年3月にダイヤ改正を行っていたが、1994年は全国的なダイヤ改正がこの年に限り12月に実施され、1993年と1995年から2005年は12月にダイヤ改正を独自に実施していた(1997年・2003年・2004年は10月に実施)。2006年以降は一部(特に北海道旅客鉄道〈JR北海道〉、四国旅客鉄道〈JR四国〉)を除くJR各社に合わせる形で毎年3月に実施している(ただし2011年は東日本大震災の影響で4月9日に延期した。また2010年12月4日や2012年9月29日など、3月以外にもダイヤ改正を行った年がある)。
JR東日本発足以降に同社の路線で運行されている、もしくはかつて運行されていた愛称付きの列車を挙げる(2023年6月12日時点、廃止列車は廃止時点)。種別が変更された列車は変更後のもので記載し、他社の車両による運行のものはその会社名も記載する。詳細は各列車の記事を参照。
2023年10月時点で、以下の列車において車内販売の営業を行っている。
車内販売では、電子マネー「Suica」「PASMO」「Kitaca」「TOICA」「manaca」「ICOCA」「SUGOCA」「nimoca」「はやかけん」が使用可能。従来普通列車のグリーン車では利用できなかったが、2018年2月3日より常磐線で、2019年5月29日より横須賀線(湘南新宿ライン除く)・総武快速線で、同年6月5日より東海道本線、宇都宮線(東北本線)、高崎線、上越線、両毛線、上野東京ライン、湘南新宿ラインで利用可能となった。
JR東日本の車内販売は、長らく完全子会社の「株式会社日本レストランエンタプライズ」により運営されていたが、2019年7月1日より同じく東日本旅客鉄道の完全子会社である「株式会社JR東日本サービスクリエーション」が担当している。なお、以前は「聚楽ティ・エス・エス株式会社」や「株式会社エヌアールイー越川」、「北陸トラベルサービス」なども参画していたが、吸収合併や事業継承などにより、2014年10月の北陸トラベルサービスからの事業継承後から2019年7月のJR東日本サービスクリエーションへの事業譲渡までは日本レストランエンタプライズが単独で車内販売を行っていた。
2015年以降、JR東日本では車内販売の利用減少を理由に車内販売を縮小させている。2015年3月13日をもって「なすの」「たにがわ」「Maxたにがわ」「つばさ」の山形駅以北・「フレッシュひたち」「成田エクスプレス」での車内販売を取りやめた。次いで、2019年3月15日をもって「踊り子」「日光」「きぬがわ」「スペーシアきぬがわ」「草津」「いなほ」の酒田駅以北での営業、ならびに「かがやき」「はくたか」を除く全ての車内販売がある新幹線列車と「あずさ」「かいじ」「ひたち」「スーパービュー踊り子」「いなほ」の酒田駅以南での弁当・軽食類(サンドウィッチ類)やデザート類、お土産類、雑貨類の販売を取りやめた。さらに、同年6月30日をもって「かがやき」「はくたか」でも弁当・軽食類(サンドウィッチ類)やデザート類、お土産類、雑貨類の販売を取りやめたほか、新幹線・特急の車内販売がある全列車でホットコーヒーの販売を取りやめた。
一方、乗客からの要望があることから、2022年7月8日より上越新幹線で、2022年10月7日より北陸新幹線で、2022年11月1日より東北新幹線で、ホットコーヒーの販売を再開している。アイスクリーム等の要望の多い商品の販売線区の拡大も検討していくとしている。
1994年10月より自社で新津車両製作所という車両製作部門を保有し、2012年4月2日には東京急行電鉄傘下の東急車輛製造から鉄道車両製造事業を組み入れ、総合車両製作所とするなど、車両製造には力を入れており、国鉄からの承継車両および分割民営化直後に製造され経年の進んだ車両の置き換えが進められている。2014年4月1日には会社分割により、新津車両製作所を総合車両製作所新津事業所とした。
総合車両製作所発足後は、JR東日本の在来線通勤・近郊形電車は日立製作所製のEV-E801系蓄電池駆動電車を除き総合車両製作所で製造されているが、新幹線車両は川崎車両・日立製作所での製造が継続している。また在来線特急形車両ではデザインを主体に携わっていたことから近畿車輌でもE657系まで製造を担当していた。なお、東京モノレールのモノレール車両はJR東日本傘下入り後も日立製作所のみで製造している。
新型の車両群はコンピュータによる集中管理・制御装置(TIMS)などを装備し、動作状況や運行管理の常時集中監視を可能としている。またこれらの車両群のうち、在来線用電車の主制御装置は一部を除き通勤型車両では三菱電機製、近郊形・特急形車両では日立製作所製を採用している。
気動車用のエンジンでは、当初は新潟鐵工所(DMF13HZ)、小松製作所(コマツ、DMF11HZ)、カミンズ(DMF14HZ)の3社が採用され、その後はカミンズ製のみとなっていたが、2007年のキハE130系以降の車両はキヤE195系を除き、すべてコマツ製(ただし、DMF11HZではなく、DMF15HZが採用されている)を搭載している。また、1988年3月のサロンエクスプレスアルカディアの車両火災事故を受けて、当時所有していたキハ58系などDMH17系エンジンを搭載していた車両に対して新型エンジンへの換装も実施されている。
なお、JR東日本は2022年時点でJR旅客6社では唯一転換クロスシートを有した車両を保有していない。過去には特急形車両である185系電車や急行形車両において転換クロスシート車を保有していたが座席交換や廃車などにより消滅した。なお、一般形(近郊形)車両においては転換クロスシート車を保有した実績がない。ただし、JR東日本の路線には、JR東海保有の213系電車や313系電車といった他社の転換クロスシート装備車が乗り入れている。過去には転換クロスシートを装備したJR北海道保有の50系客車が快速「海峡」で乗り入れていたことがある。
JR旅客他社への乗り入れは、新幹線車両はJR西日本、JR北海道に、在来線車両はJR東海に乗り入れている。自社エリア以外の都道府県では、新幹線が富山県、石川県、北海道に、在来線が岐阜県に乗り入れている。JR旅客6社で自社車両が乗り入れる自社エリア以外の都道府県の数はJR四国に次いで少ない。ただし定期運行を行わない在来線車両はE001形(TRAIN SUITE 四季島)がJR北海道に乗り入れる。
旧国鉄から大量に引き継いだ103系は2009年10月に最後まで残った仙石線を含めすべての運用を終了し、他の旧国鉄型車両を中心とする老朽車両も首都圏では順次E231系、E233系、E531系などを導入して淘汰を進めている一方で、程度の良い車両は他地域の経年車両の置き換えに充てている(209系、211系など)。これは、国鉄時代には車両置き換えに際して東京・大阪の大都市圏を優先し、経年車両の置き換えに際しては比較的程度がよい車両を地方に転用させていて、JR発足後もこの体制を維持しているためである。
電車では、1990年代まで普通列車用車両の用途別の区分は通勤形と近郊形に二分されていたが、2000年に営業運用を始めたE231系で初めて通勤形と近郊形の形式上の区別を廃止し、「一般形」に統一している。詳細は「一般形車両 (鉄道)#一般形電車の登場とその後」を参照。
同社の都市圏内輸送用の一般形車両は、従来の車両から設計や製作手法を大幅に見直し、製造コストの低減を図った経済車をベースにしたものである。これは時代の趨勢をサービス提供に即座に反映する目的から、車両置き換えサイクルを短く設定するための手法で、1992年(平成4年)の京浜東北線901系(後の209系)を嚆矢とする。この設計指向は同社のみならず一部の関東地区他社局車両にも取り入れられ、E231系やE233系の基本設計などは他社局の複数の車両に採用例があり、車両の製作コストの削減にも寄与している。
通勤圏の拡大に伴い、近郊路線にも混雑緩和のためロングシート車を投入し、1列車あたりの収容力向上を図った。この方針は地方路線にも波及し、収容力向上とあわせ車両所要数の適正化を図っている。一方、非電化線区では輸送量が小さいこともあり、気動車ではキハ40系の一部がロングシート化されたほかは左沢線用のキハ101形と久留里線用のキハE130系100番台のみにとどまっている。ただ、地方路線にまで投入するという極端なロングシート化は行き過ぎであったこともあってか、2000年代後半以降、地方路線においてはセミクロスシート車主体に再び回帰しつつある(701系→E721系の流れがその一例。209系の房総地区転用時も一部をセミクロスシートに改造している)。
特急形車両は、使用路線ごとに仕様を特化した車両を導入する当初の方針から、設計を共通化し汎用的な使用を可能とする方針に転換しつつある。これは新幹線車両も同様で、線区によって使用車両を統一するという方針のもと、1990年代後半以降はフル規格のE2系・E7系、ミニ新幹線のE3系を中心に導入している。また2023年時点では、定期運転の気動車特急を設定していないため、JR旅客6社で唯一特急形気動車を保有していない。
なお、特急形車両の車体は普通鋼またはアルミ合金を使用することが多く、JR他社と比べて特急形へのステンレス車体の使用例が少ないため、形式全車での採用はE26系客車のみとなっている。
特急形車両のグリーン車は、JR発足後の車両では2+1人掛けの3列配置とし、他のJR各社も追随したが、255系電車以降の車両では一部を除いて2+2人掛けの4列配置となっている。これは首都圏ではグリーン車の利用が多いことから定員確保を重視したものとされる。
BRT区間用の大型路線バス車両は、日野自動車・いすゞ自動車から購入したハイブリッドノンステップバスに統一されている。
BRTの運行開始時には首都圏事業者から購入した中古バスも使用されていたが、2019年に全廃された。
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満の端数切り下げ)。2019年(令和元年)10月1日改定。山手線内・電車特定区間は2023年(令和5年)3月18日改定(鉄道駅バリアフリー料金を加算)。
上記以外にも設定区間がある。公式サイトを参照。
2020年5月1日着用開始の接客制服は4代目である。4代目制服より女性社員のスカートを廃止するとともに、LGBTに配慮して男女とも官帽・チロリアンのどちらの制帽も選択できるようになった。また、他の鉄道会社では駅輸送職(駅長業務を行う者)は助役でなくとも赤帯表示の制帽を被るところが多いが、JR東日本では駅輸送職の赤帯表示を廃止し、管理職・管理者の表示に変更した。乗務員区所等の管理者が赤帯表示の制帽を被ることになり、これは全国的に見ても珍しい。
その他の特徴として、他の鉄道会社では非現業の役職者(部長や課長など)や役員などが制服を着用する場合は、専用の制服・制帽や駅長等と同じ制服・制帽を着用することが多いが、JR東日本では一般社員と同じ制服・制帽を着用する(仮に社長が制服を着用する場合でも、一般の平社員と同じ制服・制帽である)。お召列車での天皇の先導などを、JR東日本の社長はスーツ姿で行っている。
社歌は『明け行く空に』。1988年4月制定。歌詞は社内公募で選ばれたものに伊藤アキラが補作詞した。作曲は森田公一による。歌手はサーカス(非売品のカセットテープやCDが存在する)。
公式サイト より。一日平均。は、右欄の乗車人員と比較して増()、減()を表す。
2000年度から2011年度までは、1位 - 8位の順位はほとんど変動がなかった(一部年度で新橋駅と大宮駅が入れ替わっている)。特に2011年度は前年度と比べて1位の新宿駅から27位の町田駅まで全く順位変動がなかった。
しかし、2012年度は(公開されている)1999年度から一貫して5位となっていた東京駅が再開発事業に伴い乗車人員が増加し、横浜駅を追い抜いて4位になった。2013年度は、渋谷駅が東急東横線・東京メトロ副都心線の直通により乗車人員が3万人以上減少して25年ぶりに40万人を下回り、19年間保持してきた3位の座から一気に2ランクも下げ5位まで転落し、東京駅と横浜駅の後塵を拝することになった。また、同年度は新たに北千住駅が高田馬場駅を追い抜き、初のベスト10入りを果たした。
品川駅は堅調に利用者数を伸ばしており、長らく6位の位置にいたが、2016年度で5位になった。
渋谷駅は利用者減に歯止めがかかっておらず、先述の通り、2013年度は3位から5位へ転落し、2016年度は品川駅にも追い抜かれ6位に転落した。2008年度の東京メトロ副都心線開通時は池袋駅とともに減少傾向にあり、2013年度の副都心線と東急東横線の直通運転開始後は、池袋駅は持ち直しつつある一方、渋谷駅はその傾向がない。
上野駅は、2015年度の上野東京ライン開通の影響で(上野駅で乗降しない)通過客が増えることから利用者減が危惧されていたが、東海道線方面からのアクセスが容易になったこともあり、利用者は増加している。
大崎駅は2000年度は山手線単独駅であり、乗車人員も5万人台だったが、2002年12月の埼京線、湘南新宿ライン、りんかい線の開業後は徐々に利用者数が増え、2018年度には有楽町駅、立川駅の2駅を抜いて14位に躍り出た。
秋葉原駅は2000年度時点で17位であったが、つくばエクスプレスの開業もあり、2006年度に上野駅を抜いてベスト10に入った。さらに2007年度に高田馬場駅を追い抜き、その後も順調に利用者数を増加させている。その一方、上野駅は2005年度まではベスト10にランクインしていたが、2006年度に高田馬場駅に追い抜かされた。2007年度から北千住駅・川崎駅に次いで13位に落ちた。
東北地方の駅では、東日本大震災の影響で、仙台駅の乗車人員が1万人以上減少するなどの大幅な減少を記録したほか、一部の駅がデータ無しとなった。しかし、2012年度に入り大半の駅で増加を記録し、特に仙台駅は仙石線あおば通駅開業後では最も多い乗車人員となった。
2020年度はコロナ禍の影響により多くの駅で2割以上の減少率を記録し、前年と比べて半分以上少なくなった駅もあった。また、この影響で横浜駅は9年ぶりに東京駅を追い抜き3位に入った。
1日平均。数字は2018年度。
以下の関連会社等によりJR東日本グループを形成する。業種は鉄道関連に限らず多岐に渡る。詳細はJR東日本公式サイト内「本社・支社・グループ会社一覧」を参照。各会社の業務内容については当該記事を参照。
分類・掲載順はJR東日本公式サイトに準拠。
2021年4月1日現在、JR東日本には12の労働組合がある。カッコ内は略称。
組合員数が最大の労働組合は東日本旅客鉄道労働組合である。会社設立以来、労使共同宣言を締結し、協調路線を取っていたが、2018年の春闘において、「一律定額ベア」を要求、争議行為を予告した。そのため、会社から「労使共同宣言の失効」を通知され、以後、組合員の脱退が相次ぎ、わずか4か月の間に組織の3分の2にあたる約3万2千人が脱退し、定期大会で異例の「敗北宣言」を採択する事態となった。
脱退により大半の事業所で過半数の労組がない状況となり、労働基準法第三十六条に基づく協定(いわゆる三六協定)の締結を行うための代表者の選出として親睦団体「社友会」が設立されたが、社友会は労働組合ではない。
各労働組合のうち、東日本旅客鉄道労働組合、国鉄労働組合東日本本部、JR東日本労働組合、JR東日本新鉄道労働組合、JR東労働組合、ジェイアール・イーストユニオン、JR東日本新潟労働組合および全日本建設交運一般労働組合全国鉄道東日本本部は、会社との間で労働協約を締結している。JR東日本輸送サービス労働組合とは2020年5月15日に労働協約を締結した。
宅地・マンションの分譲などを行っている。宅建業の免許番号は国土交通大臣(5)第5287号。
バブル期の地価高騰を反映して栃木県喜連川町(現・さくら市)に開発したフィオーレ喜連川を皮切りに、東京駅から90km圏外の郊外地に新興住宅地(住宅分譲地〈団地〉)を開発している。喜連川と桂台については分譲開始から20年以上経過しているが新規売出中であり、首都圏本部・大宮支社・八王子支社を中心とする駅や電車内に交通広告を掲出している。
このほか、ジェイアール東日本都市開発の住宅部門による「びゅう陽花里 前橋大島」がある。
1997年から2004年にかけて、完全子会社のジェイアール東日本住宅開発(現:ジェイアール東日本都市開発)と共同で「びゅうパルク」ブランドのマンション開発していた。社宅跡地や事業遊休地などに建築しており、ほとんどの物件で販売は三菱地所リアルエステートサービス、分譲時のマンション管理は三菱地所コミュニティへ委託していた。
また、駅前や線路沿いの再開発によって、幕張ベイタウン(一部住戸)、ラムザタワー、びゅうサイトタワーなどの開発に参画している。
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"text": "ドル箱路線である山手線の駅を筆頭に、新宿駅や渋谷駅などの世界的な乗降客数を有する駅を多数運営しているうえ、国鉄分割民営化時に国鉄が所有していた不動産などの優良資産や国鉄関連会社株を多く引き継いだ。2018年時点での土地保有額では鉄道会社の中でJR東海に次いで2位、全産業中5位である。一方で、人口の少ない東北地方を中心に、多数の赤字ローカル線を抱えている。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "JRグループ各社の中では早くから大手私鉄のように鉄道事業以外の事業に進出する多角化を積極的に行っている。JR東日本は鉄道以外の事業を「生活サービス事業」と分類しており、その内容は駅の構内売店や近接するショッピングセンター、オフィスビル運営、ホテル、広告、住宅など多岐にわたる。詳細は「関連会社」や「住宅事業」の節も参照。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "2000年代後半における事業の柱は以下の3つである。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "クレジットカードについては、2010年1月31日まで自社で直接、「ビューカード」を発行していた。このため、JR東日本自体が貸金業登録をしている(関東財務局長(5)第00945号)。同年2月1日にビューカード事業はJR東日本子会社の株式会社ビューカードに移管された。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "生活サービス事業のオフィス事業としてオフィスビル運営のほか、シェアオフィス事業「STATION WORK」を全47都道府県で展開している。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "また鉄道沿線の振興とCSRを兼ねた取り組みとして、地方の物産や観光資源を首都圏などに紹介する「地域再発見プロジェクト」と、子育て支援事業「HAPPY CHILD PROJECT」を展開している。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "東日本大震災後に大船渡線と気仙沼線で導入されたBRT事業ではJR東日本が事業主体となり、運行に関する業務を地元のバス事業者に委託する形で運営している。JR東日本が乗合バスを運行する事業者となったのは1988年にジェイアールバス関東、ジェイアールバス東北にバス事業を分離して以来である。",
"title": "概況"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2022年10月1日現在",
"title": "事業所"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2017年10月1日に本社附属機関から、本社国際事業本部内の組織に変更。",
"title": "事業所"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2023年10月1日現在",
"title": "本社組織"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "前身の鉄道省・国鉄時代から、首都圏の路線へ電力供給をするため神奈川県川崎市川崎区に建設した川崎火力発電所および新潟県小千谷市周辺にある信濃川発電所(千手発電所、小千谷発電所、新小千谷発電所の総称)を所有しているため、他の鉄道事業者とは異なり、沿線の送配電事業者からの電力供給が停止しても影響をほとんど受けない。実際に、2006年8月14日に発生した首都圏大規模停電の際にも、京葉線の一部区間を除いて影響はなかった。",
"title": "自社発電設備"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "ただし、2004年10月23日に発生した新潟県中越地震では小千谷市の水力発電所が破損し、自社発電の供給能力では電力を賄えなくなったため東京電力から電力を購入したり、他発電所の発電量を増やしたりして対応し、2006年春に復旧工事が終了して全面的に稼動を再開した。だが、水利権の乱用の不祥事により信濃川発電所の宮中取水ダムが使用停止処分を受けたため、電力不足の対策として傘下の火力発電所の増強と東京電力の購入量の増加で補う方針となった。そして信濃川発電所は2010年6月10日に稼働が再開された。",
"title": "自社発電設備"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2011年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の際は、東京電力の発電所の停止・被災により電力不足となり輪番停電(計画停電)が実施された。その際、宮中取水ダムがある新潟県十日町市の市長の提案と国土交通省の指示により信濃川発電所の取水量を増して発電量を増やし、東京電力への電力の融通を行った。また、JR東日本も節電のために駅での照明の減灯や電車の運行本数削減などを行った。",
"title": "自社発電設備"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2020年5月には、2050年度にCO2排出量「実質ゼロ」を目指すことが発表された。目標では、風力、太陽光、地熱などの再生可能エネルギーの開発を推進し、2050年度には水力発電と合わせ鉄道事業で使用するエネルギーの50 - 60%を賄うとしている。",
"title": "自社発電設備"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "国土交通省の調査によると、在来線部分における平成20年度(2008年度)の走行距離百万kmあたりの運転事故、輸送障害の発生件数は、それぞれ0.60件、4.96件(うち部内原因によるもの1.40件)であった。一方、同年度のJR鉄道事業者の平均値はそれぞれ0.60件、4.92件(うち部内原因によるもの1.45件)であった。平成14 - 19年度にも同様の傾向が見られることから、JR東日本では輸送障害の発生頻度がやや高い。またJR東日本は、首都圏における大規模な輸送障害発生時に、国土交通省や同省鉄道局長などによる業務改善命令や警告を度々受けている。",
"title": "運転事故と輸送障害"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "これに対し、平成18年度(2006年度)首都圏輸送障害低減に向けた対策の強化に関する公式発表 (PDF) において設備・車両の改良や新車の導入などに総額3,000億円の投資を行い輸送障害の低減を目指すことを表明し、2009年度からの第5次安全5ヵ年計画『安全ビジョン2013』において、2009年度から2013年度の5年間で総額約7,500億円の安全投資を行うことを計画していたと表明していた。",
"title": "運転事故と輸送障害"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "平成18年度(2006年度)においては、部内原因による輸送障害が2.41件から1.93件へ減少した。平成19年度(2007年度)においては1.70件、平成20年度(2008年度)においては1.40件と減少傾向にはある。",
"title": "運転事故と輸送障害"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "また、人身事故対策として、JR東日本では山手線へのホームドア設置やホーム端に精神を落ち着かせる効果があると言われる青色照明の導入、「いのちの電話」などを紹介したパンフレットを制作して配布するなどの啓蒙活動を行っている。",
"title": "運転事故と輸送障害"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "最新1年度分については、『安全報告書2014』の中の、JR東日本の安全の現状 (PDF) を参照。また、過去2年間の業務改善命令・警告は国土交通省「国土交通省ネガティブ情報等検索システム<鉄道事業者>」を参照。",
"title": "運転事故と輸送障害"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2014年度までの分は『2014年度版 安全報告書』中、JR東日本の安全の現状 (PDF) を、過去の概略については『社会環境報告書』を参照。",
"title": "運転事故と輸送障害"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "青森県(海峡線及び北海道新幹線の同県内区間を除く)、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県、茨城県、千葉県、栃木県、群馬県、埼玉県、東京都、神奈川県(御殿場線を除く)、新潟県(大糸線を除く)、山梨県(身延線を除く)、長野県(飯田線、中央本線塩尻駅以西と大糸線南小谷駅以北を除く)、静岡県(東海道本線熱海駅以東と伊東線のみ)の各都県の旧国鉄の在来線、ならびに東北新幹線・上越新幹線・北陸新幹線の新幹線、および山形新幹線・秋田新幹線の通称を持つ新幹線直行特急が運営基盤である。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2021年4月1日現在のJR東日本が運営している路線を以下に示す。各路線の運行形態は当該路線の記事を参照。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "データは2019年4月1日時点",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "他社路線との直通運転は以下のとおり。自社線の路線名や並び順は上表での通称・愛称欄に従う。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "JR6社の中で唯一、全てのJR他社分界駅の在来線部分が自社管理となっている。",
"title": "他社分界駅"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "本節内において、自社線と他社線との間で直通定期列車のある路線同士を●で示している。",
"title": "他社分界駅"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "すべて東海道新幹線との共同使用駅である。",
"title": "他社分界駅"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "私鉄や第三セクターとの境界駅では自社で管轄していない駅もある。",
"title": "他社分界駅"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "直通運転そのものの詳細については#他事業者との直通運転を参照。",
"title": "他社分界駅"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "JR東日本管内全域に及ぶダイヤ改正は、JR発足後から1993年までは他のJR各社に合わせて毎年3月にダイヤ改正を行っていたが、1994年は全国的なダイヤ改正がこの年に限り12月に実施され、1993年と1995年から2005年は12月にダイヤ改正を独自に実施していた(1997年・2003年・2004年は10月に実施)。2006年以降は一部(特に北海道旅客鉄道〈JR北海道〉、四国旅客鉄道〈JR四国〉)を除くJR各社に合わせる形で毎年3月に実施している(ただし2011年は東日本大震災の影響で4月9日に延期した。また2010年12月4日や2012年9月29日など、3月以外にもダイヤ改正を行った年がある)。",
"title": "ダイヤ改正"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "JR東日本発足以降に同社の路線で運行されている、もしくはかつて運行されていた愛称付きの列車を挙げる(2023年6月12日時点、廃止列車は廃止時点)。種別が変更された列車は変更後のもので記載し、他社の車両による運行のものはその会社名も記載する。詳細は各列車の記事を参照。",
"title": "列車"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2023年10月時点で、以下の列車において車内販売の営業を行っている。",
"title": "列車"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "車内販売では、電子マネー「Suica」「PASMO」「Kitaca」「TOICA」「manaca」「ICOCA」「SUGOCA」「nimoca」「はやかけん」が使用可能。従来普通列車のグリーン車では利用できなかったが、2018年2月3日より常磐線で、2019年5月29日より横須賀線(湘南新宿ライン除く)・総武快速線で、同年6月5日より東海道本線、宇都宮線(東北本線)、高崎線、上越線、両毛線、上野東京ライン、湘南新宿ラインで利用可能となった。",
"title": "列車"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "JR東日本の車内販売は、長らく完全子会社の「株式会社日本レストランエンタプライズ」により運営されていたが、2019年7月1日より同じく東日本旅客鉄道の完全子会社である「株式会社JR東日本サービスクリエーション」が担当している。なお、以前は「聚楽ティ・エス・エス株式会社」や「株式会社エヌアールイー越川」、「北陸トラベルサービス」なども参画していたが、吸収合併や事業継承などにより、2014年10月の北陸トラベルサービスからの事業継承後から2019年7月のJR東日本サービスクリエーションへの事業譲渡までは日本レストランエンタプライズが単独で車内販売を行っていた。",
"title": "列車"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2015年以降、JR東日本では車内販売の利用減少を理由に車内販売を縮小させている。2015年3月13日をもって「なすの」「たにがわ」「Maxたにがわ」「つばさ」の山形駅以北・「フレッシュひたち」「成田エクスプレス」での車内販売を取りやめた。次いで、2019年3月15日をもって「踊り子」「日光」「きぬがわ」「スペーシアきぬがわ」「草津」「いなほ」の酒田駅以北での営業、ならびに「かがやき」「はくたか」を除く全ての車内販売がある新幹線列車と「あずさ」「かいじ」「ひたち」「スーパービュー踊り子」「いなほ」の酒田駅以南での弁当・軽食類(サンドウィッチ類)やデザート類、お土産類、雑貨類の販売を取りやめた。さらに、同年6月30日をもって「かがやき」「はくたか」でも弁当・軽食類(サンドウィッチ類)やデザート類、お土産類、雑貨類の販売を取りやめたほか、新幹線・特急の車内販売がある全列車でホットコーヒーの販売を取りやめた。",
"title": "列車"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "一方、乗客からの要望があることから、2022年7月8日より上越新幹線で、2022年10月7日より北陸新幹線で、2022年11月1日より東北新幹線で、ホットコーヒーの販売を再開している。アイスクリーム等の要望の多い商品の販売線区の拡大も検討していくとしている。",
"title": "列車"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1994年10月より自社で新津車両製作所という車両製作部門を保有し、2012年4月2日には東京急行電鉄傘下の東急車輛製造から鉄道車両製造事業を組み入れ、総合車両製作所とするなど、車両製造には力を入れており、国鉄からの承継車両および分割民営化直後に製造され経年の進んだ車両の置き換えが進められている。2014年4月1日には会社分割により、新津車両製作所を総合車両製作所新津事業所とした。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "総合車両製作所発足後は、JR東日本の在来線通勤・近郊形電車は日立製作所製のEV-E801系蓄電池駆動電車を除き総合車両製作所で製造されているが、新幹線車両は川崎車両・日立製作所での製造が継続している。また在来線特急形車両ではデザインを主体に携わっていたことから近畿車輌でもE657系まで製造を担当していた。なお、東京モノレールのモノレール車両はJR東日本傘下入り後も日立製作所のみで製造している。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "新型の車両群はコンピュータによる集中管理・制御装置(TIMS)などを装備し、動作状況や運行管理の常時集中監視を可能としている。またこれらの車両群のうち、在来線用電車の主制御装置は一部を除き通勤型車両では三菱電機製、近郊形・特急形車両では日立製作所製を採用している。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "気動車用のエンジンでは、当初は新潟鐵工所(DMF13HZ)、小松製作所(コマツ、DMF11HZ)、カミンズ(DMF14HZ)の3社が採用され、その後はカミンズ製のみとなっていたが、2007年のキハE130系以降の車両はキヤE195系を除き、すべてコマツ製(ただし、DMF11HZではなく、DMF15HZが採用されている)を搭載している。また、1988年3月のサロンエクスプレスアルカディアの車両火災事故を受けて、当時所有していたキハ58系などDMH17系エンジンを搭載していた車両に対して新型エンジンへの換装も実施されている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "なお、JR東日本は2022年時点でJR旅客6社では唯一転換クロスシートを有した車両を保有していない。過去には特急形車両である185系電車や急行形車両において転換クロスシート車を保有していたが座席交換や廃車などにより消滅した。なお、一般形(近郊形)車両においては転換クロスシート車を保有した実績がない。ただし、JR東日本の路線には、JR東海保有の213系電車や313系電車といった他社の転換クロスシート装備車が乗り入れている。過去には転換クロスシートを装備したJR北海道保有の50系客車が快速「海峡」で乗り入れていたことがある。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "JR旅客他社への乗り入れは、新幹線車両はJR西日本、JR北海道に、在来線車両はJR東海に乗り入れている。自社エリア以外の都道府県では、新幹線が富山県、石川県、北海道に、在来線が岐阜県に乗り入れている。JR旅客6社で自社車両が乗り入れる自社エリア以外の都道府県の数はJR四国に次いで少ない。ただし定期運行を行わない在来線車両はE001形(TRAIN SUITE 四季島)がJR北海道に乗り入れる。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "旧国鉄から大量に引き継いだ103系は2009年10月に最後まで残った仙石線を含めすべての運用を終了し、他の旧国鉄型車両を中心とする老朽車両も首都圏では順次E231系、E233系、E531系などを導入して淘汰を進めている一方で、程度の良い車両は他地域の経年車両の置き換えに充てている(209系、211系など)。これは、国鉄時代には車両置き換えに際して東京・大阪の大都市圏を優先し、経年車両の置き換えに際しては比較的程度がよい車両を地方に転用させていて、JR発足後もこの体制を維持しているためである。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "電車では、1990年代まで普通列車用車両の用途別の区分は通勤形と近郊形に二分されていたが、2000年に営業運用を始めたE231系で初めて通勤形と近郊形の形式上の区別を廃止し、「一般形」に統一している。詳細は「一般形車両 (鉄道)#一般形電車の登場とその後」を参照。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "同社の都市圏内輸送用の一般形車両は、従来の車両から設計や製作手法を大幅に見直し、製造コストの低減を図った経済車をベースにしたものである。これは時代の趨勢をサービス提供に即座に反映する目的から、車両置き換えサイクルを短く設定するための手法で、1992年(平成4年)の京浜東北線901系(後の209系)を嚆矢とする。この設計指向は同社のみならず一部の関東地区他社局車両にも取り入れられ、E231系やE233系の基本設計などは他社局の複数の車両に採用例があり、車両の製作コストの削減にも寄与している。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "通勤圏の拡大に伴い、近郊路線にも混雑緩和のためロングシート車を投入し、1列車あたりの収容力向上を図った。この方針は地方路線にも波及し、収容力向上とあわせ車両所要数の適正化を図っている。一方、非電化線区では輸送量が小さいこともあり、気動車ではキハ40系の一部がロングシート化されたほかは左沢線用のキハ101形と久留里線用のキハE130系100番台のみにとどまっている。ただ、地方路線にまで投入するという極端なロングシート化は行き過ぎであったこともあってか、2000年代後半以降、地方路線においてはセミクロスシート車主体に再び回帰しつつある(701系→E721系の流れがその一例。209系の房総地区転用時も一部をセミクロスシートに改造している)。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "特急形車両は、使用路線ごとに仕様を特化した車両を導入する当初の方針から、設計を共通化し汎用的な使用を可能とする方針に転換しつつある。これは新幹線車両も同様で、線区によって使用車両を統一するという方針のもと、1990年代後半以降はフル規格のE2系・E7系、ミニ新幹線のE3系を中心に導入している。また2023年時点では、定期運転の気動車特急を設定していないため、JR旅客6社で唯一特急形気動車を保有していない。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "なお、特急形車両の車体は普通鋼またはアルミ合金を使用することが多く、JR他社と比べて特急形へのステンレス車体の使用例が少ないため、形式全車での採用はE26系客車のみとなっている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "特急形車両のグリーン車は、JR発足後の車両では2+1人掛けの3列配置とし、他のJR各社も追随したが、255系電車以降の車両では一部を除いて2+2人掛けの4列配置となっている。これは首都圏ではグリーン車の利用が多いことから定員確保を重視したものとされる。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "BRT区間用の大型路線バス車両は、日野自動車・いすゞ自動車から購入したハイブリッドノンステップバスに統一されている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "BRTの運行開始時には首都圏事業者から購入した中古バスも使用されていたが、2019年に全廃された。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満の端数切り下げ)。2019年(令和元年)10月1日改定。山手線内・電車特定区間は2023年(令和5年)3月18日改定(鉄道駅バリアフリー料金を加算)。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "上記以外にも設定区間がある。公式サイトを参照。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2020年5月1日着用開始の接客制服は4代目である。4代目制服より女性社員のスカートを廃止するとともに、LGBTに配慮して男女とも官帽・チロリアンのどちらの制帽も選択できるようになった。また、他の鉄道会社では駅輸送職(駅長業務を行う者)は助役でなくとも赤帯表示の制帽を被るところが多いが、JR東日本では駅輸送職の赤帯表示を廃止し、管理職・管理者の表示に変更した。乗務員区所等の管理者が赤帯表示の制帽を被ることになり、これは全国的に見ても珍しい。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "その他の特徴として、他の鉄道会社では非現業の役職者(部長や課長など)や役員などが制服を着用する場合は、専用の制服・制帽や駅長等と同じ制服・制帽を着用することが多いが、JR東日本では一般社員と同じ制服・制帽を着用する(仮に社長が制服を着用する場合でも、一般の平社員と同じ制服・制帽である)。お召列車での天皇の先導などを、JR東日本の社長はスーツ姿で行っている。",
"title": "制服"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "社歌は『明け行く空に』。1988年4月制定。歌詞は社内公募で選ばれたものに伊藤アキラが補作詞した。作曲は森田公一による。歌手はサーカス(非売品のカセットテープやCDが存在する)。",
"title": "社歌"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "公式サイト より。一日平均。は、右欄の乗車人員と比較して増()、減()を表す。",
"title": "社内乗車人員上位50位"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2000年度から2011年度までは、1位 - 8位の順位はほとんど変動がなかった(一部年度で新橋駅と大宮駅が入れ替わっている)。特に2011年度は前年度と比べて1位の新宿駅から27位の町田駅まで全く順位変動がなかった。",
"title": "社内乗車人員上位50位"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "しかし、2012年度は(公開されている)1999年度から一貫して5位となっていた東京駅が再開発事業に伴い乗車人員が増加し、横浜駅を追い抜いて4位になった。2013年度は、渋谷駅が東急東横線・東京メトロ副都心線の直通により乗車人員が3万人以上減少して25年ぶりに40万人を下回り、19年間保持してきた3位の座から一気に2ランクも下げ5位まで転落し、東京駅と横浜駅の後塵を拝することになった。また、同年度は新たに北千住駅が高田馬場駅を追い抜き、初のベスト10入りを果たした。",
"title": "社内乗車人員上位50位"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "品川駅は堅調に利用者数を伸ばしており、長らく6位の位置にいたが、2016年度で5位になった。",
"title": "社内乗車人員上位50位"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "渋谷駅は利用者減に歯止めがかかっておらず、先述の通り、2013年度は3位から5位へ転落し、2016年度は品川駅にも追い抜かれ6位に転落した。2008年度の東京メトロ副都心線開通時は池袋駅とともに減少傾向にあり、2013年度の副都心線と東急東横線の直通運転開始後は、池袋駅は持ち直しつつある一方、渋谷駅はその傾向がない。",
"title": "社内乗車人員上位50位"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "上野駅は、2015年度の上野東京ライン開通の影響で(上野駅で乗降しない)通過客が増えることから利用者減が危惧されていたが、東海道線方面からのアクセスが容易になったこともあり、利用者は増加している。",
"title": "社内乗車人員上位50位"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "大崎駅は2000年度は山手線単独駅であり、乗車人員も5万人台だったが、2002年12月の埼京線、湘南新宿ライン、りんかい線の開業後は徐々に利用者数が増え、2018年度には有楽町駅、立川駅の2駅を抜いて14位に躍り出た。",
"title": "社内乗車人員上位50位"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "秋葉原駅は2000年度時点で17位であったが、つくばエクスプレスの開業もあり、2006年度に上野駅を抜いてベスト10に入った。さらに2007年度に高田馬場駅を追い抜き、その後も順調に利用者数を増加させている。その一方、上野駅は2005年度まではベスト10にランクインしていたが、2006年度に高田馬場駅に追い抜かされた。2007年度から北千住駅・川崎駅に次いで13位に落ちた。",
"title": "社内乗車人員上位50位"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "東北地方の駅では、東日本大震災の影響で、仙台駅の乗車人員が1万人以上減少するなどの大幅な減少を記録したほか、一部の駅がデータ無しとなった。しかし、2012年度に入り大半の駅で増加を記録し、特に仙台駅は仙石線あおば通駅開業後では最も多い乗車人員となった。",
"title": "社内乗車人員上位50位"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2020年度はコロナ禍の影響により多くの駅で2割以上の減少率を記録し、前年と比べて半分以上少なくなった駅もあった。また、この影響で横浜駅は9年ぶりに東京駅を追い抜き3位に入った。",
"title": "社内乗車人員上位50位"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1日平均。数字は2018年度。",
"title": "取扱収入上位10位"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "以下の関連会社等によりJR東日本グループを形成する。業種は鉄道関連に限らず多岐に渡る。詳細はJR東日本公式サイト内「本社・支社・グループ会社一覧」を参照。各会社の業務内容については当該記事を参照。",
"title": "関連会社"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "分類・掲載順はJR東日本公式サイトに準拠。",
"title": "関連会社"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2021年4月1日現在、JR東日本には12の労働組合がある。カッコ内は略称。",
"title": "労働組合"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "組合員数が最大の労働組合は東日本旅客鉄道労働組合である。会社設立以来、労使共同宣言を締結し、協調路線を取っていたが、2018年の春闘において、「一律定額ベア」を要求、争議行為を予告した。そのため、会社から「労使共同宣言の失効」を通知され、以後、組合員の脱退が相次ぎ、わずか4か月の間に組織の3分の2にあたる約3万2千人が脱退し、定期大会で異例の「敗北宣言」を採択する事態となった。",
"title": "労働組合"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "脱退により大半の事業所で過半数の労組がない状況となり、労働基準法第三十六条に基づく協定(いわゆる三六協定)の締結を行うための代表者の選出として親睦団体「社友会」が設立されたが、社友会は労働組合ではない。",
"title": "労働組合"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "各労働組合のうち、東日本旅客鉄道労働組合、国鉄労働組合東日本本部、JR東日本労働組合、JR東日本新鉄道労働組合、JR東労働組合、ジェイアール・イーストユニオン、JR東日本新潟労働組合および全日本建設交運一般労働組合全国鉄道東日本本部は、会社との間で労働協約を締結している。JR東日本輸送サービス労働組合とは2020年5月15日に労働協約を締結した。",
"title": "労働組合"
},
{
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"tag": "p",
"text": "宅地・マンションの分譲などを行っている。宅建業の免許番号は国土交通大臣(5)第5287号。",
"title": "住宅事業"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "バブル期の地価高騰を反映して栃木県喜連川町(現・さくら市)に開発したフィオーレ喜連川を皮切りに、東京駅から90km圏外の郊外地に新興住宅地(住宅分譲地〈団地〉)を開発している。喜連川と桂台については分譲開始から20年以上経過しているが新規売出中であり、首都圏本部・大宮支社・八王子支社を中心とする駅や電車内に交通広告を掲出している。",
"title": "住宅事業"
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"text": "このほか、ジェイアール東日本都市開発の住宅部門による「びゅう陽花里 前橋大島」がある。",
"title": "住宅事業"
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{
"paragraph_id": 84,
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"text": "1997年から2004年にかけて、完全子会社のジェイアール東日本住宅開発(現:ジェイアール東日本都市開発)と共同で「びゅうパルク」ブランドのマンション開発していた。社宅跡地や事業遊休地などに建築しており、ほとんどの物件で販売は三菱地所リアルエステートサービス、分譲時のマンション管理は三菱地所コミュニティへ委託していた。",
"title": "住宅事業"
},
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"text": "また、駅前や線路沿いの再開発によって、幕張ベイタウン(一部住戸)、ラムザタワー、びゅうサイトタワーなどの開発に参画している。",
"title": "住宅事業"
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{
"paragraph_id": 86,
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"text": "正社員の減少により余剰となった社宅をジェイアール東日本都市開発がリノベーションを行い、賃貸マンションとして運用されている。",
"title": "住宅事業"
}
] | 東日本旅客鉄道株式会社は、東日本を中心として旅客鉄道等を運営する日本の鉄道事業者。1987年4月1日に、国鉄分割民営化に伴い日本国有鉄道(国鉄)から長野鉄道管理局、新潟鉄道管理局及び東北・関東地方の各鉄道管理局が管理していた鉄道事業を引き継いで発足した、JRグループの旅客鉄道会社の一つ。通称はJR東日本(ジェイアールひがしにほん)、英語略称はJR East。コーポレートカラーは緑色。切符の地紋には「E」と記されている。 本社は、東京都渋谷区。東京証券取引所プライム市場上場企業。日経平均株価およびTOPIX Large70の構成銘柄の一つ。 日本国内では東北地方、関東地方、甲信越地方を中心とした地域に鉄道路線を保有して運営しているほか、多様な関連事業を手掛けている。また、国際業務部が他社やグループ企業と連携して、海外事業も展開している。鉄道を運営する会社としては輸送人数×距離で世界最大、運輸収入ではドイツ鉄道と比肩する規模である。 2012年に発表した『グループ経営構想V 〜限りなき前進〜』で経営の方向性として定めたJR東日本グループのコンセプトワードは「地域に生きる。世界に伸びる。」。また、2016年10月に「今後の重点取組み事項」を更新し、コミュニケーションスローガンとして「TICKET TO TOMORROW 未来のキップを、すべての人に。」を制定。以後、CM等で頻繁に使用している。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2023年12月23日 (土) 15:10 (UTC)
| 更新 = 2023年12月23日 (土) 15:10 (UTC)
}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 東日本旅客鉄道株式会社
| 英文社名 = East Japan Railway Company
| ロゴ = [[File:JR logo (east).svg|150px]]
| 画像 = [[File:JR-East-HQ-Building-00.jpg|220px]]
| 画像説明 = [[JR東日本本社ビル]]
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 機関設計 = [[監査等委員会設置会社]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.jpx.co.jp/disc/90200/100920230525583312.html |title=コーポレート・ガバナンスの状況 |publisher=東日本旅客鉄道株式会社(東京証券取引所 東証上場会社情報サービス) |accessdate=2023-06-23}}</ref>
| 市場情報 = {{上場情報 | 東証プライム | 9020 | 1993年10月26日}}
| 略称 = JR東日本{{Refnest|group="注釈"|その他、JR東、JR East、JRE等と表記される場合がある}}
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 151-8578
| 本社所在地 = [[東京都]][[渋谷区]][[代々木]]二丁目2番2号<br />[[JR東日本本社ビル]]
| 本社緯度度 = 35
| 本社緯度分 = 41
| 本社緯度秒 = 14.2
| 本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 139
| 本社経度分 = 42
| 本社経度秒 = 0.1
| 本社E(東経)及びW(西経) = E
| 本社地図国コード = JP
| 設立 = [[1987年]]([[昭和]]62年)[[4月1日]]
| 業種 = 陸運業
| 事業内容 = {{Plainlist|
* 旅客鉄道事業
* 貨物鉄道事業
* 旅客自動車運送事業 他
}}
| 代表者 = {{Plainlist|
* [[深澤祐二]]([[代表取締役]][[社長]])
* [[喜㔟陽一]](代表取締役[[副社長]])
* [[伊勢勝巳]](代表取締役副社長)
* [[渡利千春]](代表取締役副社長)
}}
| 資本金 =
* 2000億円
(2023年3月31日現在)<ref name="yuho36">{{Cite report |和書 |author=東日本旅客鉄道株式会社 |date=2023-06-22 |title=第36期(2022年4月1日 - 2023年3月31日)有価証券報告書}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 発行済株式総数 =
* 3億7793万2400株
(2023年3月31日現在)<ref name="yuho36" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 売上高 =
* 連結: 2兆4055億3800万円
* 単独: 1兆7655億1200万円
(2023年3月期)<ref name="yuho36" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 営業利益 =
* 連結: 1406億2800万円
* 単独: 909億3200万円
(2023年3月期)<ref name="yuho36" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 経常利益 =
* 連結: 1109億1000万円
* 単独: 460億0100万円
(2023年3月期)<ref name="yuho36" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純利益 =
* 連結: 1005億4500万円
* 単独: 524億2300万円
(2023年3月期)<ref name="yuho36" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純資産 =
* 連結: 2兆4977億1300万円
* 単独: 1兆8804億0300万円
(2023年3月31日現在)<ref name="yuho36" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 総資産 =
* 連結: 9兆3518億9900万円
* 単独: 8兆5273億8100万円
(2023年3月31日現在)<ref name="yuho36" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 従業員数 =
* 連結: 69,235人
* 単独: 41,147人
(2023年3月31日現在)<ref name="yuho36" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 決算期 = 3月31日
| 会計監査人 = [[有限責任あずさ監査法人]]<ref name="yuho36" />
| 主要株主 = {{Plainlist|
* [[日本マスタートラスト信託銀行]](信託口) 13.32%
* [[日本カストディ銀行]](信託口) 4.06%
* JR東日本社員持株会 3.51%
* [[みずほ銀行]] 3.44%
* [[三菱UFJ銀行]] 2.16%
* [[日本生命保険]] 2.12%
* [[三井住友銀行]] 1.81%
* STATE STREET BANK WEST CLIENT - TREATY 505234 1.67%
* [[三菱UFJ信託銀行]] 1.32%
* [[JPモルガン・チェース|JP MORGAN CHASE BANK 385781]] 1.28%
* (2023年3月31日現在)<ref name="yuho36" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --><!-- 有価証券報告書提出会社は上位10名の株主を記載してください --><!-- 常任代理人、再信託受託者の記載は不要 -->
}}
| 主要子会社 = 「[[#関連会社|関連会社]]」節を参照
| 関係する人物 = {{Plainlist|
* [[松田昌士]]
* [[山之内秀一郎]]
}}
| 外部リンク = {{Official URL}}
| 特記事項 =
}}
'''東日本旅客鉄道株式会社'''(ひがしにほんりょかくてつどう、{{Lang-en-short|East Japan Railway Company}}<ref>東日本旅客鉄道株式会社 定款 第1章第1条2項</ref>){{Refnest|group="注釈"|東日本旅客鉄道の社名の「鉄」の字は“金を失う”という意味を避けるため、[[ロゴタイプ|ロゴ]]文字では「'''鉃'''」(金偏に弓矢の矢)という字を採用し、「東日本旅客'''鉃'''道株式会社」となっているが、正式[[商号]]は「'''鉄'''」である([[四国旅客鉄道]]以外のJR他社も同様)。}}は、[[東日本]]を中心として[[旅客]]鉄道等を運営する[[日本]]の[[鉄道事業者]]。[[1987年]][[4月1日]]に、[[国鉄分割民営化]]に伴い[[日本国有鉄道]](国鉄)から[[長野鉄道管理局]]、[[新潟鉄道管理局]]及び[[鉄道管理局#東北地方|東北]]・[[鉄道管理局#関東・新潟地方|関東地方]]の各[[鉄道管理局]]<ref group="注釈">民営化後、各鉄道管理局は東京支社(旧東京鉄道管理局)、新潟支社(旧新潟鉄道管理局)などのように「支社」となっている。</ref>が管理していた[[鉄道]]事業を引き継いで発足した、[[JR|JRグループ]]の旅客鉄道会社の一つ。通称は'''JR東日本'''(ジェイアールひがしにほん)、[[英語]]略称は'''JR East'''。[[コーポレートカラー]]は[[緑]]色。切符の地紋には「E」と記されている。
[[本社]]は、[[東京都]][[渋谷区]]。[[東京証券取引所]]プライム市場上場企業。[[日経平均株価]]および[[TOPIX Large70]]の構成銘柄の一つ<ref>[https://indexes.nikkei.co.jp/nkave/index/component?idx=nk225 構成銘柄一覧:日経平均株価] Nikkei Inc. 2021年10月8日閲覧。</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.jpx.co.jp/news/1044/nlsgeu0000050uqm-att/mei_12_size.pdf 「TOPIXニューインデックスシリーズ」の定期選定結果及び構成銘柄一覧]}} jpx.co.jp 2020年10月7日公表 2021年10月8日閲覧。</ref>。
日本国内では[[東北地方]]、[[関東地方]]、[[甲信越地方]]を中心とした地域に鉄道路線を保有して運営しているほか、多様な関連事業を手掛けている。また、国際業務部が他社やグループ企業と連携して、海外事業も展開している。鉄道を運営する会社としては輸送人数×距離で世界最大、運輸収入では[[ドイツ鉄道]]と比肩する規模である<ref>「JR東、手堅い海外出発/英で鉄道運行/儲けより実績作り」『[[日経産業新聞]]』2017年12月12日(総合面)</ref>。
[[2012年]]に発表した『グループ経営構想V {{〜}}限りなき前進{{〜}}』で経営の方向性として定めたJR東日本グループのコンセプトワードは「'''地域に生きる。世界に伸びる。'''」<ref>{{PDFlink|1=[https://www.jreast.co.jp/eco/pdf/pdf_2017/all.pdf#page=6 『JR東日本グループCSR報告書2017』]}} - 東日本旅客鉄道</ref>。また、[[2016年]]10月に「今後の重点取組み事項」を更新し、コミュニケーションスローガンとして「'''TICKET TO TOMORROW 未来のキップを、すべての人に。'''」を制定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/20161017.pdf|format=PDF|title=グループ経営構想V(ファイブ)「今後の重点取組み事項」の更新等について|date=2016年10月18日|accessdate=2018年8月8日|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。以後、[[コマーシャルメッセージ|CM]]等で頻繁に使用している。
== 概況 ==
日本の[[人口]]の3割強が住む[[首都圏 (日本)|首都圏]]に多くの[[在来線]]の営業路線を持ち、[[通勤]]・[[通学]]など[[東京]]とその周辺での旅客輸送を主力とする。首都圏の在来線以外にも[[東北新幹線]]・[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]([[上越妙高駅]]以東)及び[[ミニ新幹線]]の[[秋田新幹線]]・[[山形新幹線]]などの複数の[[新幹線]]を運営しており<ref>{{Cite web|和書|title=会社概要 |url=https://www.jreast.co.jp/company/outline/ |website=企業サイト:JR東日本 |access-date=2022-12-25 |publisher=東日本旅客鉄道 |language=ja}}</ref>、首都圏と東日本各地の長距離輸送を担っている。
1日の平均輸送人員は約1,659万人(2010年度実績)、年間の売り上げは2兆7,000億円近く([[連結財務諸表|連結]])に上り、そのうち1兆1,153億円が[[関東地方|関東圏]]の通勤・通学路線{{Refnest|group="注釈"|関東圏の路線とは、東京・八王子・横浜・大宮・千葉・高崎・水戸各支社の在来線を指す{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/investor/financial/2008/pdf/kessan_02.pdf]}}参照。}}の運輸収入、4,909億円が新幹線の運輸収入である(2007年度)。
2023年3月1日時点の路線の[[営業キロ]]は計7,302.2 [[キロメートル|km]]([[バス・ラピッド・トランジット|BRT]]区間除く)<ref name="rosenkyori2023">{{PDFlink|1=[https://www.jreast.co.jp/investor/securitiesreport/2023/pdf/securitiesreport.pdf#page=47 「主要な設備の状況」『有価証券報告書』第36期(自2022年4月1日 至2023年3月31日)]}} - 東日本旅客鉄道</ref> で、[[JR|JRグループ]]各社の中で営業路線は最長であり、2023年3月1日時点の社員数は41,147人<ref name="yuho36" />とJRグループの中では最も多く、日本最大の鉄道事業者である。JRグループで完全[[民営化]]した[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)、[[東海旅客鉄道]](JR東海)、[[九州旅客鉄道]](JR九州)との4社中では最も早い、[[2002年]]に完全民営化を果たした。
[[ドル箱]]路線である[[山手線]]の駅を筆頭に、[[新宿駅]]や[[渋谷駅]]などの世界的な乗降客数を有する駅を多数運営しているうえ、[[国鉄分割民営化]]時に国鉄が所有していた不動産などの優良[[資産]]や国鉄関連会社[[株式|株]]を多く引き継いだ。[[2018年]]時点での土地保有額では鉄道会社の中でJR東海に次いで2位、全産業中5位である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.riskmonster.co.jp/study/research/pdf/20190128_02.pdf |title=第1回「不動産王ランキング」調査 |access-date=2023/04/01 |publisher=リスクモンスター}}</ref>。一方で、人口の少ない東北地方を中心に、多数の赤字ローカル線を抱えている<ref>{{Cite web|和書|title=線区別収支:JR東日本 |url=https://www.jreast.co.jp/company/corporate/balanceofpayments/ |website=JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社 |access-date=2023-10-24 |language=ja}}</ref>。
JRグループ各社の中では早くから[[大手私鉄]]のように鉄道事業以外の事業に進出する[[多角化]]を積極的に行っている。JR東日本は鉄道以外の事業を「生活サービス事業」と分類しており、その内容は駅の構内売店や近接するショッピングセンター、[[オフィスビル]]運営、[[ホテル]]、広告、住宅など多岐にわたる<ref>[https://www.jreast.co.jp/life_service/ 生活サービス事業] JR東日本ホームページ(2018年1月3日閲覧)</ref>。詳細は「[[#関連会社|関連会社]]」や「[[#住宅事業|住宅事業]]」の節も参照。
2000年代後半における事業の柱は以下の3つである<ref name="20080118nikkeibo">「JR東日本 成長性が味つけされたディフェンシブ銘柄」[[日経ビジネス]]オンライン(2008年1月18日付配信)</ref>。
* 鉄道事業
* 生活サービス事業 - [[エキュート]]、[[Dila]]といった駅構内([[駅ナカ]])の商業施設の開発・営業や、[[不動産業]]など。
* Suica事業 - 交通系[[ICカード]]「[[Suica]]」を[[Suica電子マネー|電子マネー]]化し、これを媒介とした他業種との連携など。これによって手数料の徴収や、[[クレジットカード]]との提携によるSuicaの利用機会の拡大が見込め、Suicaの利用機会が乗車券としてなど駅という限られた範囲から小売店などへ広がることになる<ref name="20080118nikkeibo"/>。[[2013年]]の[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス]]により利用可能範囲も拡大。Suicaカードの発行枚数は8000万枚を超え<ref>{{Cite web|和書|title=Suica20周年 JR東日本、新型カードを地方バス会社へ - 日本経済新聞 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC073RR0X00C22A1000000/ |website=www.nikkei.com |access-date=2023-04-01}}</ref>、[[モバイルSuica]]の利用者数も2000万人を突破した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/20230314_ho01.pdf |title=モバイル Suica の発行数がおかげさまで 2,000 万枚を突破しました! |access-date=2023/04/01 |publisher=JR東日本}}</ref>。
クレジットカードについては、2010年1月31日まで自社で直接、「[[ビューカード]]」を発行していた。このため、JR東日本自体が[[貸金業]]登録をしている([[関東財務局]]長(5)第00945号)。同年2月1日にビューカード事業はJR東日本子会社の株式会社ビューカードに移管された。
生活サービス事業のオフィス事業としてオフィスビル運営のほか、[[シェアオフィス]]事業「STATION WORK」を全47都道府県で展開している<ref>[https://www.jreast.co.jp/press/2023/20230615_ho01.pdf STATION WORKが47都道府県及びJR東日本エリアの全ての新幹線停車駅に拡大します] JR東日本ニュースリリース(2023年6月15日)2023年7月11日閲覧</ref>。
また鉄道沿線の振興と[[企業の社会的責任|CSR]]を兼ねた取り組みとして、地方の物産や観光資源を首都圏などに紹介する「地域再発見プロジェクト」<ref>[https://www.jreast.co.jp/saihakken/index.html 地域再発見プロジェクト] JR東日本ホームページ(2018年1月3日閲覧)</ref>と、子育て支援事業「HAPPY CHILD PROJECT」<ref>[https://www.jreast.co.jp/kosodate/index.html/ 子育て支援事業「HAPPY CHILD PROJECT」] JR東日本ホームページ(2018年1月3日閲覧)</ref>を展開している。
[[東日本大震災]]後に[[大船渡線]]と[[気仙沼線]]で導入されたBRT事業ではJR東日本が事業主体となり、運行に関する業務を地元のバス事業者に委託する形で運営している。JR東日本が[[乗合バス]]を運行する事業者となったのは[[1988年]]に[[ジェイアールバス関東]]、[[ジェイアールバス東北]]にバス事業を分離して以来である。
== 事業所 ==
2022年10月1日現在<ref name=":1" />
{{Location map+|Japan|float=right|width=250|places=
{{Location map~|Japan|label=<!-- 東京 --> |lat_deg=35|lat_min=44|lat_sec=24|lon_deg=139|lon_min=45|lon_sec=38|mark=Blue pog.svg |position=right}}
{{Location map~|Japan|label=<!-- 横浜 --> |lat_deg=35|lat_min=27|lat_sec=45|lon_deg=139|lon_min=37|lon_sec=10|mark=Blue pog.svg |position=bottom}}
{{Location map~|Japan|label=<!-- 大宮 --> |lat_deg=35|lat_min=54|lat_sec=12|lon_deg=139|lon_min=37|lon_sec=27|mark=Blue pog.svg |position=right}}
{{Location map~|Japan|label=<!-- 高崎 --> |lat_deg=36|lat_min=19|lat_sec=22|lon_deg=139|lon_min=01|lon_sec=01|mark=Blue pog.svg |position=right}}
{{Location map~|Japan|label=水戸 |lat_deg=36|lat_min=20|lat_sec=30|lon_deg=140|lon_min=26|lon_sec=48|mark=Blue pog.svg |position=right}}
{{Location map~|Japan|label=<!-- 千葉 --> |lat_deg=35|lat_min=36|lat_sec=44|lon_deg=140|lon_min=06|lon_sec=47|mark=Blue pog.svg |position=bottom}}
{{Location map~|Japan|label=東北本部 |lat_deg=38|lat_min=15|lat_sec=22|lon_deg=140|lon_min=52|lon_sec=01|mark=Blue pog.svg |position=right}}
{{Location map~|Japan|label=盛岡 |lat_deg=39|lat_min=42|lat_sec=18|lon_deg=141|lon_min=08|lon_sec=00|mark=Blue pog.svg |position=right}}
{{Location map~|Japan|label=秋田 |lat_deg=39|lat_min=42|lat_sec=54|lon_deg=140|lon_min=07|lon_sec=45|mark=Blue pog.svg |position=left}}
{{Location map~|Japan|label=新潟 |lat_deg=37|lat_min=54|lat_sec=45|lon_deg=139|lon_min=03|lon_sec=37|mark=Blue pog.svg |position=left}}
{{Location map~|Japan|label=長野 |lat_deg=36|lat_min=38|lat_sec=32|lon_deg=138|lon_min=11|lon_sec=19|mark=Blue pog.svg |position=left}}
{{Location map~|Japan|label=<!-- 本社 --> |lat_deg=35|lat_min=41|lat_sec=20|lon_deg=139|lon_min=41|lon_sec=59|position=left}}
|caption=JR東日本の本社([[ファイル:Red pog.svg|8px]])と支社([[ファイル:Blue pog.svg|8px]])
}}
=== 本社および本社附属機関 ===
{|class="wikitable" style="font-size:80%"
!名称!!所在地
|-
|本社||[[東京都]][[渋谷区]][[代々木]]二丁目2番2号 [[JR東日本本社ビル]](最寄り駅は[[新宿駅]])
|-
|[[JR東日本研究開発センター]]||埼玉県さいたま市[[北区 (さいたま市)|北区]][[日進町 (さいたま市)|日進町]]二丁目479番地([[日進駅 (埼玉県)|日進駅]]から徒歩15分)
|-
|[[JR東日本総合研修センター]]||福島県[[白河市]]十三原道下1番1号([[新白河駅]]からバスで15分)
|-
|[[JR東京総合病院]]||東京都渋谷区代々木二丁目1番3号
|-
|JR東日本健康推進センター||東京都[[品川区]][[広町 (品川区)|広町]]一丁目1番19号([[大井町駅]]から徒歩10分)
|}
==== 海外事務所 ====
2017年10月1日に本社附属機関から、本社国際事業本部内の組織に変更<ref>{{Cite press release|title=組織の変更について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2017-09-29|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/20170917.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-07-18}}</ref>。
{|class="wikitable" style="font-size:80%"
!名称!!所在地!!備考
|-
|JR東日本ロサンゼルス事務所
|21250 Hawthorne Blvd., Suite 500, Torrance, CA 90503 United States of America <ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20220126_ho02.pdf |title=ロサンゼルス事務所開設について |publisher=東日本旅客鉄道株式会社 |access-date=2023-07-17}}</ref>
|
|-
|JR東日本ロンドン事務所
|4th Floor, 30-31 Furnival Street, London EC4A 1JQ, United Kingdom <ref name="ir2022">{{Cite web |url=https://www.jreast.co.jp/e/environment/pdf_2022/all.pdf |title=JR East Group Report INTEGRATED REPORT 2022 |publisher=東日本旅客鉄道株式会社 |access-date=2023-07-18}}</ref>
|
|-
|JR東日本シンガポール事務所
|20 Anson Road, #11-01, Twenty Anson, Singapore 079912 <ref name="ir2022" />
|
|-
|JR東日本パリ事務所
|3, rue de Faubourg St. Honoré, 75008 Paris, France <ref name="ir2022" />
|
|-
|JR東日本ブリュッセル事務所
|Square de Meeûs 23, 1000 Brussels BELGIUM <ref name="yoran2017">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/youran/pdf/2017-2018/jre_youran_shogen_p94.pdf |title=事業所 |work=会社要覧 2017-2018|publisher=東日本旅客鉄道株式会社 |access-date=2023-07-17}}</ref>
|2018年9月30日業務終了<ref>[https://www.jreast.co.jp/company/outline/history.html#y2012 JR東日本発足からのあゆみ] - 東日本旅客鉄道、2023年7月18日閲覧</ref>
|-
|JR東日本ニューヨーク事務所
|Empire State Building, Suite 4220, 350 Fifth Avenue New York, NY 10118 U.S.A. <ref name="yoran2017" />
|ロサンゼルス事務所開設に伴い、2022年2月28日に業務終了<ref name=":2" />
|}
=== 支社および支社附属機関 ===
{|class="wikitable" style="font-size:80%"
!colspan="2"|名称!!所在地
|-
|colspan="2"|[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部(旧・東京支社、東京地域本社)]]||東京都[[北区 (東京都)|北区]][[東田端]]二丁目20番68号([[田端駅]])
|-
|colspan="2"|[[東日本旅客鉄道横浜支社|横浜支社]]||[[神奈川県]][[横浜市]][[西区 (横浜市)|西区]][[平沼 (横浜市)|平沼]]一丁目40番26号([[横浜駅]])
|-
|colspan="2"|[[東日本旅客鉄道八王子支社|八王子支社]]||東京都[[八王子市]][[旭町 (八王子市)|旭町]]1番8号([[八王子駅]])
|-
|colspan="2"|[[東日本旅客鉄道大宮支社|大宮支社]]||[[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]][[錦町 (さいたま市)|錦町]]434番地4([[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]])
|-
|colspan="2"|[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎支社]]||[[群馬県]][[高崎市]][[栄町 (高崎市)|栄町]]6番26号([[高崎駅]])
|-
|colspan="2"|[[東日本旅客鉄道水戸支社|水戸支社]]||[[茨城県]][[水戸市]]三の丸一丁目4番47号([[水戸駅]])
|-
|colspan="2"|[[東日本旅客鉄道千葉支社|千葉支社]]||[[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]弁天二丁目23番3号([[千葉駅]])
|-
|colspan="2"|[[東日本旅客鉄道長野支社|長野支社]]||[[長野県]][[長野市]][[栗田 (長野市)|栗田]]源田窪992番地6([[長野駅]])
|-
|style="border-bottom:none" colspan="2"|[[東日本旅客鉄道東北本部|東北本部(旧・仙台支社、東北地域本社)]]||[[宮城県]][[仙台市]][[青葉区 (仙台市)|青葉区]][[五橋]]一丁目1番1号([[仙台駅]])
|-
|style="border-top:none; border-bottom:none"| ||[[JR仙台病院]]||宮城県仙台市青葉区五橋一丁目1番5号([[仙台駅]]・[[五橋駅]])
|-
|style="border-top:none; border-bottom:none"| ||山形支店||[[山形県]][[山形市]]香澄町一丁目1番1号([[山形駅]])
|-
|style="border-top:none"| ||福島支店||[[福島県]][[福島市]][[栄町 (福島市)|栄町]]1番1号([[福島駅 (福島県)|福島駅]])
|-
|style="border-bottom:none" colspan="2"|[[東日本旅客鉄道盛岡支社|盛岡支社]]||[[岩手県]][[盛岡市]]盛岡駅前通1番41号([[盛岡駅]])
|-
|style="border-top:none"| ||青森支店||[[青森県]][[青森市]][[柳川 (青森市)|柳川]]一丁目1番1号([[青森駅]])
|-
|colspan="2"|[[東日本旅客鉄道秋田支社|秋田支社]]||[[秋田県]][[秋田市]][[中通 (秋田市)|中通]]七丁目1番1号([[秋田駅]])
|-
|colspan="2"|[[東日本旅客鉄道新潟支社|新潟支社]]||[[新潟県]][[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]][[花園 (新潟市)|花園]]一丁目1番5号([[新潟駅]])
|-
|style="border-bottom:none" colspan="2"|東京建設プロジェクトマネジメントオフィス||東京都品川区西五反田三丁目5番8号
|-
|style="border-top:none"| ||上信越建設プロジェクトマネジメントオフィス||群馬県高崎市栄町6番26号
|-
|style="border-bottom:none" colspan="2"| 電気システムインテグレーションオフィス||東京都品川区西五反田三丁目5番8号
|-
|style="border-top:none; border-bottom:none"| ||電力技術管理センター||
|-
|style="border-top:none; border-bottom:none"| ||信号技術管理センター||
|-
|style="border-top:none"| ||通信技術管理センター||
|-
|colspan="2"|東北建設プロジェクトマネジメントオフィス||宮城県仙台市青葉区五橋一丁目1番1号
|-
|colspan="2"|[[東日本旅客鉄道新幹線統括本部|新幹線統括本部]]||{{Refnest|group="注釈"|所在地は非公表とされている。}}<!--新幹線統括本部の所在地は諸説あるが東京駅とするものは見当たらない-->
|}
== 本社組織 ==
2023年10月1日現在<ref>{{Cite web|和書|title=組織図|企業サイト:JR東日本 |url=https://www.jreast.co.jp/organization/ |website=JR東日本 企業サイト |access-date=2023-10-04 |language=ja |publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>
* マネジメント監査部
* グループ経営戦略本部
** 経営企画部門
*** 政策調査室
*** 復興企画室
** 財務・投資計画部門
** [[品川開発プロジェクト|品川]]・大規模開発部門
** コーポレート・コミュニケーション部門
* マーケティング本部
** 戦略・プラットフォーム部門
** くらしづくり・地方創生部門
*** [[観光]]戦略室
*** [[北陸地方|北陸]]営業センター
** まちづくり部門
* イノベーション戦略本部
** [[知的財産権|知的財産]]センター
** Digital & Data イノベーションセンター
* 鉄道事業本部
** 安全企画部門
** サービス品質改革室
** モビリティ・サービス部門
*** 車両技術センター
** 設備部門
*** 保線技術管理センター
*** 機械技術管理センター
** 電気ネットワーク部門
* 国際事業本部
** 企画・国際交流部門
** 標準化戦略・推進部門
** 海外鉄道事業部門
** インド高速鉄道部門
** 海外事務所([[ロサンゼルス]]、[[パリ]]、[[ロンドン]]、[[シンガポール]])
* 建設工事部
* エネルギー企画部
** [[信濃川発電所|信濃川]]地域共創統括室
*** 信濃川地域共創事務所
* 人財戦略部
* 総務・法務戦略部
== 自社発電設備 ==
{{Double image aside|right|JR East Kawasaki thermal power plant 20101110.jpg|225|Ojiya power station.JPG|200|川崎火力発電所|新小千谷発電所(左)と小千谷発電所(右)}}
前身の[[鉄道省]]・国鉄時代から、首都圏の路線へ電力供給をするため神奈川県[[川崎市]][[川崎区]]に建設した[[JR東日本川崎火力発電所|川崎火力発電所]]および新潟県[[小千谷市]]周辺にある[[信濃川発電所]](千手発電所、小千谷発電所、新小千谷発電所の総称){{Refnest|group="注釈"|[[信濃川]]中流に設置された[[宮中取水ダム]]から取水。}}を所有しているため、他の鉄道事業者とは異なり、沿線の[[一般送配電事業者|送配電事業者]]{{Refnest|group="注釈"|[[東京電力パワーグリッド]]・[[東北電力ネットワーク]]・[[中部電力パワーグリッド]]}}からの電力供給が停止しても影響をほとんど受けない。実際に、2006年8月14日に発生した[[2006年8月14日首都圏停電|首都圏大規模停電]]の際にも、[[京葉線]]の一部区間を除いて影響はなかった。
ただし、2004年10月23日に発生した[[新潟県中越地震]]では小千谷市の水力発電所が破損し、自社発電の供給能力では電力を賄えなくなったため[[東京電力]]から電力を購入したり、他発電所の発電量を増やしたりして対応し、2006年春に復旧工事が終了して全面的に稼動を再開した。だが、[[水利権]]の[[JR東日本信濃川発電所の不正取水問題|乱用の不祥事]]により信濃川発電所の[[宮中取水ダム]]が使用停止処分を受けたため、電力不足の対策として傘下の火力発電所の増強と東京電力の購入量の増加で補う方針となった。そして信濃川発電所は2010年6月10日に稼働が再開された<ref>{{Cite press release |title=信濃川発電所に関するプレスリリース |publisher=東日本旅客鉄道(JR東日本) |url=https://www.jreast.co.jp/shinanogawa/press/index.html |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=信濃川発電所関連の広報 |publisher=十日町市 |url=https://www.google.com/custom?hl=ja&client=google-coop-np&cof=FORID%3A13%3BAH%3Aleft%3BS%3Ahttp%3A%2F%2Fwww.city.tokamachi.niigata.jp%2F%3BCX%3A%25E5%258D%2581%25E6%2597%25A5%25E7%2594%25BA%25E5%25B8%2582%25E5%2585%25AC%25E5%25BC%258F%25E3%2583%259B%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25A0%25E3%2583%259A%25E3%2583%25BC%25E3%2582%25B8%3BL%3Ahttp%3A%2F%2Fwww.city.tokamachi.niigata.jp%2Fpage%2F000001890.gif%3BLH%3A72%3BLP%3A1%3BKMBOC%3A%23336699%3B&adkw=AELymgWVvqtlOiVlAgxAsgYupBPw0XrZc5F0RZFJTdgLZSWXYCflYtO9mVKlsFzojjA4W3huWfigtVA0ALRGvfw8Rxs22BVao8XxsSuAMK4Ry1PhN_awOBY&boostcse=0&q=%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%B7%9D%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&cx=014254265971692946707%3A5gsir4beopy |accessdate=2011-05-11}}</ref>。
2011年3月11日に起きた[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])の際は、東京電力の発電所の停止・被災により[[東日本大震災による電力危機|電力不足]]となり[[輪番停電]](計画停電)が実施された。その際、宮中取水ダムがある新潟県[[十日町市]]の市長の提案と国土交通省の指示により信濃川発電所の取水量を増して発電量を増やし、東京電力への電力の融通<ref>{{Cite press release |title=JR東日本における自営電力の最大活用と電力使用量の節減について |publisher=東日本旅客鉄道(JR東日本) |language=ja |date=2011-03-18 |format=PDF |url=https://www.jreast.co.jp/press/2010/20110312.pdf |accessdate=2011-03-22}}</ref>を行った。また、JR東日本も節電のために駅での照明の減灯や電車の運行本数削減などを行った。
2020年5月には、2050年度に[[二酸化炭素|CO<sub>2</sub>]]排出量「実質ゼロ」を目指すことが発表された<ref>{{Cite press release|title=2050年度のCO2排出量「ゼロ」を目指します|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200512_ho02.pdf|publisher=東日本旅客鉄道 |language=ja |date=2020-05-12|accessdate=2020-05-13}}</ref>。目標では、[[風力発電|風力]]、[[太陽光発電|太陽光]]、[[地熱発電|地熱]]などの[[再生可能エネルギー]]の開発を推進し、2050年度には水力発電と合わせ鉄道事業で使用するエネルギーの50 - 60%を賄うとしている。
== 歴史 ==
* 1987年([[昭和]]62年)
** 4月1日:[[日本国有鉄道]]が[[国鉄分割民営化|分割民営化]]され、東日本旅客鉄道株式会社が発足<ref name="交通2001">{{Cite news |和書|title=JR7社14年のあゆみ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2001-04-02 |page=9 }}</ref>。
** 6月:東日本キヨスク株式会社(後の株式会社[[JR東日本リテールネット]])の株式を取得、子会社化。
** 7月16日:[[会津鉄道会津線|会津線]]を廃止([[会津鉄道]]に転換)。
* 1988年(昭和63年)
** 3月24日:[[いすみ鉄道いすみ線|木原線]]を廃止([[いすみ鉄道]]に転換)。
** 4月1日:東北自動車事業部および関東自動車事業部を分離し、[[ジェイアールバス東北]]株式会社と[[ジェイアールバス関東]]株式会社が営業開始。東京圏運行本部傘下の[[東日本旅客鉄道水戸支社|水戸]]・[[東日本旅客鉄道千葉支社|千葉]]・[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎]]の3運行部を支社に昇格。
** 4月11日:[[真岡鐵道真岡線|真岡線]]を廃止([[真岡鐵道]]に転換)。
** 9月:株式会社ジェイアール東日本商事の株式取得、子会社化。
** 10月24日:[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[日立製作所]]との共同企画「[[オリエント・エクスプレス '88]]」日本一周ツアー列車が[[上野駅]]を出発。
** 10月25日:[[山形鉄道フラワー長井線|長井線]]を廃止([[山形鉄道]]に転換)。
** 12月5日:中央本線[[東中野駅]]で[[東中野駅列車追突事故|列車追突事故]]発生。
* 1989年([[平成]]元年)
** 3月29日:[[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線|足尾線]]を廃止([[わたらせ渓谷鐵道]]に転換{{Refnest|group="注釈"|転換にあたり、わたらせ渓谷鐵道は[[間藤駅]] - [[足尾本山駅]]間を含む桐生駅 - 足尾本山駅間全線の鉄道事業免許を1988年12月2日に受けていた<ref>運輸省鉄道局監修『[[鉄道要覧]]』平成9年度版([[電気車研究会]]・鉄道図書刊行会)p.85</ref>が、1989年3月29日に[[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線|わたらせ渓谷線]]として開業したのは桐生駅 - 間藤駅間だけで、間藤駅 - 足尾本山駅間は未開業のまま1998年に免許失効<ref name="moriguchi-p">森口誠之『鉄道未成線を歩く 〈私鉄編〉』([[JTB]]、2001年)p.188</ref>。}})。
** 4月:レストラン事業展開の中核会社として、全額出資によりジェイアール東日本レストラン株式会社(後の[[ジェイアール東日本フードビジネス]]株式会社)を設立<ref name=JRR1990>{{Cite book|和書 |date=1990-08-01 |title=JR気動車客車編成表 90年版 |chapter=JR年表 |pages=169-171 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-111-2}}</ref>。
* 1990年(平成2年)
** 3月:日本食堂株式会社(後の株式会社[[JR東日本フーズ]])の株式取得、子会社化。
** 4月1日:東北地域本社傘下の[[東日本旅客鉄道盛岡支社|盛岡]]・[[東日本旅客鉄道秋田支社|秋田]]の両支店を支社に改称{{R|JRR1990}}。
** 9月1日:東京圏運行本部と東京圏営業本部を統合し、東京地域本社発足。
* 1991年(平成3年)
** 3月1日:[[山手線]]などを皮切りに「[[イオカード]]」導入開始<ref name="交通2001"/>。
** 6月20日:[[東北新幹線]] [[東京駅]] - 上野駅間を開業<ref name="交通2001"/>(東京駅への延伸)。
* 1992年(平成4年)
** 7月1日:[[山形新幹線]]開業<ref name="交通2001"/>。
** 8月1日:山手線で喫煙コーナー以外での終日[[禁煙]]を実施<ref name="kotsu19930204">{{Cite news |和書 |title=駅の終日禁煙拡大 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1993-02-04 |page=2 }}</ref>。
** 9月14日:[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#成田線大菅踏切事故|成田線久住駅 - 滑河駅間で踏切事故]]発生。
* 1993年(平成5年)
** 3月1日:東京駅から70キロメートル圏内の382駅で喫煙コーナーを除き終日禁煙を実施<ref name="kotsu19930204"/>。
** 10月26日:[[東京証券取引所]]に上場<ref name="交通2001"/>。
* 1994年(平成6年)10月:直営の車両新造工場「新津車両製作所」(現・[[総合車両製作所新津事業所]])操業開始。
* 1996年(平成8年)
** 3月13日:[[ウェブサイト]]開設<ref name="交通2001"/>。
** 10月1日:東京地域本社の一部を分離して[[東日本旅客鉄道横浜支社|横浜支社]]発足<ref name="交通2001"/>。
* 1997年(平成9年)
** 3月22日:[[秋田新幹線]]開業<ref name="交通2001"/>。管内の[[快速列車|快速]]・[[普通列車]]が全面禁煙化<ref>{{Cite book|和書 |date=1997-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '97年版 |chapter=JR年表 |page=184 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-118-X}}</ref>。
** 9月29日:本社を東京都[[千代田区]][[丸の内]]一丁目6番5号の旧・国鉄本社ビルから、東京都渋谷区代々木へ移転<ref name="交通2001"/><ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/youran/pdf/jre_youran_shogen_p88_91.pdf 「JR東日本発足からのあゆみ」『会社要覧2012-2013』]}} - 東日本旅客鉄道</ref>。
** 10月1日:[[北陸新幹線]] [[高崎駅]] - [[長野駅]]間([[長野新幹線]])開業<ref name="mlit kaigyo">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/content/001482057.pdf |title=鉄軌道開業一覧(平成5年度以降) |publisher=国土交通省 |accessdate=2022-08-06}}</ref>。[[並行在来線]]である[[信越本線]] [[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - [[篠ノ井駅]]間のうち、横川駅 - [[軽井沢駅]]間を廃止<ref name="mlit haishi">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/content/001482062.pdf |title=鉄軌道の廃止実績(平成5年度以降) |publisher=国土交通省 |accessdate=2022-08-06}}</ref>、軽井沢駅 - 篠ノ井駅間を経営分離して[[しなの鉄道]]に移管。
** 10月12日:中央本線[[大月駅列車衝突事故|大月駅で列車衝突事故]]発生。
* 1998年(平成10年)
** 3月31日:この日までに自社直営の駅構内飲食店を全店閉鎖。一部は日本食堂などグループ他社に移管。
** 4月1日:東京地域本社の一部を分離して[[東日本旅客鉄道八王子支社|八王子支社]]発足<ref name="交通2001"/>。東北地域本社を[[東日本旅客鉄道仙台支社|仙台支社]]に名称変更し、盛岡・秋田の両支社を本社直轄下とする。
** 10月1日:東京地域本社を[[東日本旅客鉄道東京支社|東京支社]]に名称変更。
* 1999年(平成11年)
** 6月1日:[[大都市近郊区間 (JR)|東京近郊区間]]を拡大。
** 9月:弘済整備株式会社(現・株式会社[[JR東日本環境アクセス]])の株式取得、子会社化。
* 2000年(平成12年)11月29日:中期経営構想『ニューフロンティア21』発表<ref name="交通2001"/>。
* 2001年(平成13年)
** 1月26日:[[新大久保駅乗客転落事故|山手線新大久保駅で転落死亡事故]]発生。
** 4月1日:東京支社の一部を分離。[[東日本旅客鉄道大宮支社|大宮支社]]発足。
** 6月22日:改正[[旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律|JR会社法]]が公布(成立は2001年6月15日)。本州3社が本法の適用から除外され、JR東日本の純粋民間会社(非特殊会社)化が実現。
** 11月18日:[[乗車カード#ICカード乗車券|ICカード乗車券]]「[[Suica]]」のサービスを開始。
** 12月1日:[[湘南新宿ライン]]運行開始。
* 2002年(平成14年)
** [[ロジスティード|日立物流]]より、[[東京モノレール]]を買収して傘下に収め、[[モノレール]]事業も行なうこととなる(ただし運営は同社のままで運賃体系も従来のまま)。
** 1月21日:日本国外向けインターネット指定席予約サービス[[えきねっと|world eki-net]]開始(2005年12月22日終了)。
** 6月21日:[[日本鉄道建設公団]](現・[[独立行政法人]][[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])が保有していた[[株式]]50万株がすべて売却され、完全[[民営化]]<ref>{{Cite journal|和書 |title=鉄道記録帳 |journal=RAIL FAN |date=2002年9月号 |issue=9 |volume=49 |publisher=鉄道友の会 |page=22 }}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=JR東が完全民営化達成 |newspaper=[[日本経済新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=2002-06-22 |page=夕刊5}}</ref>。
** 12月1日:東北新幹線 [[盛岡駅]] - [[八戸駅]]間開業<ref name="mlit kaigyo" />。[[東北本線]] 盛岡駅 - 八戸駅間を経営分離し、盛岡駅 - [[目時駅]]間を[[IGRいわて銀河鉄道]]に、目時駅 - 八戸駅間を[[青い森鉄道]](運行)・[[青森県]](保有)に移管。男性社員の[[制服]]変更。
* 2003年(平成15年)
** 9月1日:男性運転士の制服変更。
** 10月28日:女性社員の制服変更。
* 2004年(平成16年)
** 8月1日:Suicaと[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)のICカード乗車券「[[ICOCA]]」との相互利用開始。初めて他社のICカード乗車券の相互利用が可能となる<ref group="注釈">[[ICOCA#こどもICOCA|こどもICOCA]]は当初は相互利用の対象外だったが、2007年3月18日より相互利用の対象となった。</ref>。
** 10月16日:東京近郊区間を拡大。
** 10月23日:[[新潟県中越地震]]により鉄道施設に甚大な被害が発生、[[上越新幹線脱線事故|上越新幹線が脱線]]。
** 11月27日:[[大都市近郊区間 (JR)|新潟近郊区間]]を新設。
* 2005年(平成17年)
** 1月24日:中期経営構想『ニューフロンティア2008 ― 新たな創造と発展』発表。
** 3月31日:磁気式イオカード販売終了。
** 12月25日:[[JR羽越本線脱線事故]]発生。
* 2006年(平成18年)2月10日:磁気式イオカードの[[自動改札機]]での取り扱い停止。
* 2007年(平成19年)
** 3月18日:春のダイヤ改正で、管内のすべての新幹線および在来線特急を禁煙にする(喫煙車両の全面廃止)。関東地方を中心とする非JR系交通事業者のICカード乗車券「[[PASMO]]」の発売開始に合わせ、SuicaとPASMOの相互利用も開始。
** 3月25日:JR東日本外国語版サイトをリニューアルし、海外向けインターネット指定席予約サービスサイト「[[JR-EAST Shinkansen-Reservation]]」を開設。かつてのworld eki-netの後継サービスで、新サービスではJR東日本エリアに限定されている。旧サービスで提供していた[[東海道・山陽新幹線]]は含まれない。また、同日に全国で初めて外国語(英語、中国語、韓国語)による列車運行情報を提供開始。
* 2008年(平成20年)
** 3月15日:東京近郊区間を拡大。
** 3月29日:Suicaと[[東海旅客鉄道]](JR東海)のICカード乗車券「[[TOICA]]」との相互利用開始。
** 4月1日:『グループ経営ビジョン2020-挑む-』発表。
* 2009年(平成21年)
** 2月13日:JR東日本所有の[[信濃川発電所]]での悪質な不正取水を受け、[[国土交通省]][[地方整備局#北陸地方整備局|北陸地方整備局]]が同発電所の[[水利権]]を取り消す行政処分を発表。
** 3月14日:Suicaと[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)のICカード乗車券「[[Kitaca]]」との相互利用開始。同日、東京近郊区間を拡大。
* 2010年(平成22年)
** 2月1日:クレジットカード事業を株式会社[[ビューカード]]に分割。
** 3月13日:Suicaと[[九州旅客鉄道]](JR九州)のICカード乗車券「[[SUGOCA]]」、[[西日本鉄道]](西鉄)のICカード乗車券「[[nimoca]]」、[[福岡市交通局]](福岡地下鉄)のICカード乗車券「[[はやかけん]]」との相互利用を開始した。PASMO以外の非JR系交通事業者のICカード乗車券で初めて相互利用が開始。
** 4月1日:[[紀ノ国屋]]の全株式を取得し、完全子会社化。
** 12月4日:東北新幹線 八戸駅 - [[新青森駅]]間開業<ref name="mlit kaigyo" />。東北本線 八戸駅 - 青森駅間を経営分離し、青い森鉄道(運行)・青森県(保有)に移管。
* 2011年(平成23年)
** 3月11日:[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])により、[[東北地方|東北方面]]の路線を中心に甚大な被害を受ける。これにより、東北新幹線などの運転停止や、[[輪番停電|計画停電]]に伴う首都圏の近距離路線の運行制限、旅行客減少などの影響により、過去最大の減収を記録。
** 4月29日:東北新幹線(東京駅 - 新青森駅間)全線で運転を再開(9月22日まで暫定ダイヤで運転)。
* 2012年(平成24年)
** 4月2日:[[東急|東京急行電鉄]]の子会社[[東急車輛製造]](後の横浜金沢プロパティーズ、2016年10月に東京急行電鉄に吸収合併され消滅)の鉄道車両事業を取得し、[[総合車両製作所]]とする。
** 8月20日:東日本大震災で被災した[[気仙沼線]]の[[柳津駅 (宮城県)|柳津駅]] - [[気仙沼駅]]間を[[バス・ラピッド・トランジット|BRT]]で仮復旧(2013年には[[大船渡線]]気仙沼駅 - [[盛駅]]間もBRTで仮復旧)。これにより、1988年以来24年ぶりにバス事業を再開<ref group="注釈">当初は暫定的であったが、後に両線とも恒常的にBRTで運営することを決定し、JRグループの鉄道事業者で初めて本格的に路線バス事業者に復帰した。</ref>。「[[気仙沼線・大船渡線BRT]]」も参照。
* 2013年(平成25年)3月23日:[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]が開始され、Suicaと「[[manaca]]」「[[PiTaPa]]」との間で相互利用が開始。
* 2014年(平成26年)
** 4月1日:[[岩泉線]]廃止<ref name="mlit haishi" />。東京・新潟近郊区間を拡大、[[大都市近郊区間 (JR)|仙台近郊区間]]を新設。新津車両製作所の車両製造事業等を会社分割により総合車両製作所に譲渡し、同社の[[総合車両製作所新津事業所|新津事業所]]とする。
** 10月1日:東京近郊区間を拡大。
** 10月28日:[[世界貿易機関]](WTO)政府調達協定の対象から除外<ref>{{Cite press release|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20141020.pdf|format=PDF|title=世界貿易機関(WTO)政府調達協定の対象からの除外にあたって|language=ja|date=2014-10-28|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* 2015年(平成27年)
** 3月14日:北陸新幹線 長野駅 - [[上越妙高駅]] - [[金沢駅]]間開業<ref name="mlit kaigyo" /><ref name="jreast20140814">{{Cite press release|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20140814.pdf|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|title=北陸新幹線 長野〜金沢間開業に伴う運行計画の概要について|language=ja|date=2014-08-27|accessdate=2014-08-27}}</ref>、JR東日本は長野駅 - 上越妙高駅間の営業主体となる。信越本線 長野駅 - [[直江津駅]]間を経営分離し、長野駅 - [[妙高高原駅]]間をしなの鉄道に、妙高高原駅 - 直江津駅間を[[えちごトキめき鉄道]]に移管。 同時に、[[上野東京ライン]](東京駅 - 上野駅間)が開業。
** 5月30日:東日本大震災で被災した[[仙石線]]の全線復旧に合わせ、東北本線支線<ref name="youran201421">電気車研究会『平成二十六年度 鉄道要覧』p.21</ref>の[[松島駅]] - [[高城町駅]]間([[仙石東北ライン]])が開業<ref name="mlit kaigyo" /><ref name="JRsendai1407">{{PDFlink|[https://jr-sendai.com/upload-images/2014/07/sensekisen.pdf 仙石線の運転再開等について]}} 東日本旅客鉄道仙台支社(2014年7月30日)</ref><ref>{{PDFlink|[https://jr-sendai.com/upload-images/2015/01/senseki.pdf 仙石線全線運転再開ならびに仙石東北ライン運転開始日の決定について]}} 東日本旅客鉄道 仙台支社(2015年1月29日)</ref><ref name="JReast1502">{{PDFlink|[https://jr-sendai.com/upload-images/2015/02/201505daiyakaisei.pdf 2015年5月 ダイヤ改正について]}} 東日本旅客鉄道 仙台支社(2015年2月26日)</ref>。
** 8月-9月:東京都内の[[JR東日本連続放火事件|JR東日本の施設で連続放火事件]]が発生。
* 2016年(平成28年)
** 2月23日:JR東日本共通[[ポイントサービス]]である「JRE POINT」を開始<ref>{{Cite press release |title= 〜 JR東日本グループ共通ポイント 〜「JRE POINT(ジェイアールイー・ポイント)」を開始します |publisher=東日本旅客鉄道株式会社 |language=ja |date=2015-07-14 |format=PDF |url=https://www.jreast.co.jp/press/2015/20150710.pdf |accessdate=2016-03-23 }}</ref><ref>{{Cite press release|title= 〜 JR 東日本グループ共通ポイント 〜 「JRE POINT」2月23日スタート 「JRE POINT スタートキャンペーン」を開催します! |publisher=東日本旅客鉄道株式会社 |language=ja |date=2016-02-09 |format=PDF |url=https://www.jreast.co.jp/press/2015/20160205.pdf |accessdate=2016-03-23 }}</ref>{{Refnest|group="注釈"|数年以内に他の駅ビルにも広げ、[[ビューカード#VIEWサンクス|VIEWサンクスポイント]]や[[Suicaショッピングサービス#Suicaポイントクラブ|Suicaポイント]]も統合する<ref>{{Cite news |和書 |title=JR東日本 「JREPOINT」スタート |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=2016-02-25 }}</ref>。そのうち、Suicaポイントは2017年12月5日をもって統合され、VIEWサンクスポイントも2018年に統合された。}}。
** 3月26日:東北新幹線がこの日開業した[[北海道新幹線]] 新青森駅 - [[新函館北斗駅]]間と直通運転開始<ref>[https://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20170803011680001.html あなたと選ぶ北海道重大ニュース【決選投票は12月20日まで〜候補はこちら】2016年 北海道新幹線が開業] [[朝日新聞デジタル]](2017年8月3日)2020年1月9日閲覧</ref>。Suicaと[[icsca]]との間で仙台エリア相互利用サービス開始。
* 2017年(平成29年)
** 5月1日:クルーズトレイン「[[TRAIN SUITE 四季島]]」が運行開始。
** 12月11日:[[アベリオ (交通事業者)|アベリオ]]、[[三井物産]]との[[合弁事業]]でイギリスの列車運行会社である[[ウェスト・ミッドランズ・トレインズ]]が運行を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zaikei.co.jp/article/20171215/416478.html|title=JR東日本と三井物産、英国で旅客鉄道事業を開始 2026年まで運営権|publisher=[[財経新聞]]|date=2017-12-15|accessdate=2020-01-09}}</ref>。
* 2018年(平成30年)7月3日:グループ経営ビジョン『変革2027』発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/20180702.pdf|format=PDF|title=グループ経営ビジョン「変革2027」について|date=2018年7月3日|accessdate=2018年8月8日|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* 2019年(平成31年・[[令和]]元年)
** 3月23日:[[山田線]] [[宮古駅]] - [[釜石駅]]間を廃止し、[[三陸鉄道]]に移管。
** 7月29日:社外向け広報誌『JR EAST』を2019年7月号で休刊すると発表(同年6月号の特集記事で過去の号に掲載された記事を無断改変するなどの捏造があったとの外部からの指摘を受けた措置)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190719.pdf|title=社外向け広報誌「JR EAST」掲載記事に関する不正および休刊について|accessdate=2019年7月29日|publisher=東日本旅客鉄道株式会社(2019年7月29日作成)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://response.jp/article/2019/07/29/324981.html|title=JR東日本が発足以来続いた社外向け広報誌を休刊へ---6月号の記事に無断改変|accessdate=2019年7月29日|publisher=[[Response.|レスポンス]](2019年7月29日作成)}}</ref><ref>{{Cite news|title=JR東広報誌で捏造=取材断られ、過去記事加工|newspaper=[[時事通信]]|date=2019-7-29|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2019072900706&g=soc|archive-url=https://web.archive.org/web/20200608184636/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019072900706&g=soc|archive-date=2020-6-8|access-date=2019-7-29}}</ref>。
** 8月1日:東京都内4駅(東京・新宿・[[池袋駅|池袋]]・[[立川駅]])で[[シェアオフィス]]事業を開始<ref>{{Cite news|title=JR東、駅にシェアオフィス 8月から東京や新宿など|newspaper=日本経済新聞|date=2019-7-10|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47157530Z00C19A7L83000/|access-date=2022-9-1}}</ref>。
** 10月12日:[[令和元年東日本台風]](台風19号)で多くの路線が被災し、特に北陸新幹線では[[長野新幹線車両センター]]が浸水して10[[編成 (鉄道)|編成]](うち2編成はJR西日本所有)が水没した<ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20191028-OYT1T50198/|title=台風で浸水の北陸新幹線車両、損失148億円か|newspaper=[[読売新聞]]|date=2019-10-28|accessdate=2019-10-28|archive-url=https://web.archive.org/web/20200921125054/https://www.yomiuri.co.jp/economy/20191028-OYT1T50198/|archive-date=2020-9-21}}</ref>。
** 11月30日:[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通]]として、[[相模鉄道]]との相互直通運転を開始<ref>{{Cite web|和書|date=2020-11-30 |url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1221721.html |title=相鉄・JR直通線開業。相鉄が都心と相互直通運行。相鉄社長「相鉄沿線を知っていただく大きな機会」 |website=トラベルWatch |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2020-02-01}}</ref>。東海道本線 鶴見駅 - [[羽沢横浜国大駅]]間開業<ref group="注釈">厳密には鶴見駅 - [[横浜羽沢駅]]間[[東海道貨物線]]旅客営業開始。横浜羽沢駅 - 羽沢横浜国大駅間新規開業。</ref>。
* 2020年(令和2年)
** 1月:東北・上越両新幹線の高架柱367本で[[耐震]]補強工事漏れが発覚。在来線についても調査開始<ref name="読売20200827"/>。
** 3月14日:[[常磐線]] 富岡駅 - 浪江駅間の運転再開により、東日本大震災の影響による不通区間が全て復旧(BRT転換を含む)。東京近郊区間・仙台近郊区間を拡大。
** 4月1日:気仙沼線 柳津駅 - 気仙沼駅間、大船渡線 気仙沼駅 - 盛駅間の鉄道事業廃止<ref name="mlit haishi" />。
** 5月1日:新しい接客制服の着用を開始。この制服より、駅運転取扱者の制帽の赤帯表示を取りやめ、赤帯は管理者・管理職([[助役 (鉄道)|助役]]以上)の職制表示に変更。
** 7月:神奈川・宮城・福島・秋田県などの駅に設けられている多機能トイレが列車運行時間帯に施錠されていたことが取材により判明。JRは「不便をお掛けした」として、神奈川の10駅と秋田県内の2駅は解除するが、他の駅は「駅員の対応が困難」としている<ref>{{Cite news|title=JR多機能トイレ施錠、19駅に 秋田2駅と神奈川開放へ|newspaper=[[共同通信]]|date=2020-7-6|url=https://web.archive.org/web/20200707062956/https://this.kiji.is/652832819311232097|access-date=2020-7-7|archive-url=https://web.archive.org/web/20211001000000*/https://this.kiji.is/652832819311232097|archive-date=2021-10-1}}</ref>。
** 8月26日:[[京葉線]]、[[武蔵野線]]など在来線6路線の高架橋柱276本で耐震工事の優先度判断を誤って補強漏れがあり、2022年度末までに工事を行うと発表<ref name="読売20200827">「高架の柱276本 耐震工事漏れ JR東」『読売新聞』朝刊2020年8月27日(社会面)</ref>。
** 9月3日:2021年春の[[ダイヤ改正]]で東京100キロメートル圏内の[[終電]]時刻を繰り上げる計画を発表([[保線]]作業員の労働環境改善のため)<ref>{{Cite news|title=JR東日本の終電繰り上げ 東京駅から100キロ圏内対象 「スイカ」を使った回数券サービスも|newspaper=日本経済新聞|date=2020-9-3|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63399870T00C20A9916M00/|access-date=2020-9-17}}</ref>。
** 9月16日:民営化後初めて2021年3月期の連結業績が最終赤字になる見通しとの業績予想を公表(主因は[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルス感染症]]による鉄道利用減)<ref>「JR東 初の赤字予想4180億円/西も赤字最大 21年3月期」『読売新聞』朝刊2020年9月17日(経済面)</ref>。
* 2021年(令和3年)
** 4月1日:[[エキナカ]]で事業運営を行ういずれも[[連結子会社]]の株式会社JR東日本リテールネット、株式会社JR東日本フーズ、株式会社[[JR東日本ウォータービジネス]]、および株式会社鉄道会館の4社を合併し、株式会社JR東日本クロスステーションを新設<ref group="注釈">株式会社JR東日本リテールネットを存続会社とし、他3社を吸収合併する。また、存続会社のJR東日本リテールネットは新社名に変更する形をとる。</ref>、さらに統合新会社に「リテールカンパニー」「フーズカンパニー」「ウォータービジネスカンパニー」「デベロップメントカンパニー」の4つの[[社内カンパニー]]を設置<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho03.pdf|title=JR東日本グループ事業の再編についてのお知らせ|date=2020-11-12|accessdate=2020-11-12|publisher=東日本旅客鉄道株式会社}}</ref><ref>{{Cite news|title=JR東日本グループ4社再編、新会社 JR東日本クロスステーション が来春誕生|date=2020-11-12|url=https://tetsudo-ch.com/10900887.html|accessdate=2022-9-1|newspaper=[[鉄道チャンネル]] ニュース}}</ref>。
** 6月30日:JR北海道、JR東海、JR西日本、JR九州とともに、新幹線の[[列車電話|列車公衆電話]]サービスをこの日をもって終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210318_ho03.pdf|title=新幹線における列車公衆電話サービスの終了について|accessdate=2021年4月|publisher=JR東日本}}</ref>。
** 6月30日:[[ニューヨーク]]事務所を休業<ref>{{Cite news|title=JR東、NY事務所が休業 旧国鉄から半世紀活動|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2021073000966|newspaper=時事通信|date=2021-7-31|accessdate=2022-3-10|archive-url=https://web.archive.org/web/20220127044630/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021073000966|archive-date=2022-1-27}}</ref>。
* 2022年(令和4年)
** 3月1日:ロサンゼルス事務所を設置、ニューヨーク事務所の業務を終了<ref>{{Cite web|和書|title=ロサンゼルス事務所の開設について|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20220126_ho02.pdf|format=PDF|date=2022-1-26|publisher=東日本旅客鉄道株式会社|accessdate=2022-3-10}}</ref>。
** 3月12日:一部の支社で現業機関を再編し、複数の駅を一体で運営する「営業統括センター」および複数駅と乗務員区所を一体で運営する「統括センター」が発足。社員の担務領域が拡大し、現業機関の社員の職名から従来の担務表記(「営業」や「乗務」など)が消える。また、従来の「[[助役 (鉄道)|助役]]」は「副長」に職名が変更となった。
** 3月16日:[[福島県沖地震 (2022年)|福島県沖地震]]により鉄道施設に甚大な被害が発生、[[東北新幹線脱線事故|東北新幹線が脱線]]。
** 4月19日:グループ経営ビジョン『変革2027』の実現を目指し、2022年6月以降、組織(本社・支社等)を再編することを発表<ref name="jreastnews20220419"> {{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/20220419_ho02.pdf|title=サステナブルなJR東日本グループを創るための組織の改正について|date=2022-04-19|publisher=東日本旅客鉄道|format=pdf|accessdate=2022-04-28}}</ref>。
** 9月20日:[[音楽館]]開発の「JR EAST Train Simulator」発売<ref>{{Cite web|和書|title=Steam:JR EAST Train Simulator |url=https://store.steampowered.com/app/2111630/JR_EAST_Train_Simulator/ |website=store.steampowered.com |access-date=2022-09-02 |language=ja}}</ref>。
** 9月30日:この日をもって、JR東日本管内完結およびJR東海・JR西日本と跨る区間の普通[[回数乗車券]]の販売を終了(身体・知的障害者用および通学用の普通回数乗車券は引き続き販売継続・手持ちの回数乗車券は有効期限まで引き続き使用可能)<ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2022/20220426_ho01.pdf 普通回数乗車券の発売終了について]}} - 東日本旅客鉄道、2022年4月26日</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2022/20220610_ho02.pdf JR東海とJR東日本にまたがる普通回数乗車券の発売終了について]}} - 東日本旅客鉄道、2022年6月10日</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2022/20220629_ho01.pdf JR西日本とJR東日本にまたがる普通回数乗車券の発売終了について]}} - 東日本旅客鉄道、2022年6月29日</ref>。
** 10月1日:[[平成23年7月新潟・福島豪雨]]で被害を受け、2011年7月から不通となっていた[[只見線]] 会津川口駅 - 只見駅間の運転を再開<ref name="jreast20220518">{{Cite press release|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/sendai/20220518_s02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220518060738/https://www.jreast.co.jp/press/2021/sendai/20220518_s02.pdf|format=PDF|language=ja|title=只見線全線運転再開について|publisher=福島県/東日本旅客鉄道仙台支社|date=2022-05-18|accessdate=2022-05-28|archivedate=2022-05-18}}</ref>。同区間を[[福島県]]との[[上下分離方式]]に移行<ref name="milt20211129">{{Cite press release|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001443377.pdf|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12312236/www.mlit.go.jp/report/press/content/001443377.pdf|format=PDF|language=ja|title= JR只見線(只見〜会津川口)の鉄道事業許可 〜豪雨被害からの運転再開に向けて、運行と施設保有を分離します〜|publisher=国土交通省鉄道局鉄道事業課|date=2021-11-29|accessdate=2022-09-14|archivedate=2021-12-02}}</ref>。同区間の第一種鉄道事業を廃止し<ref name="milt20210712">{{Cite press release|url=https://wwwtb.mlit.go.jp/tohoku/content/000240888.pdf|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12312236/wwwtb.mlit.go.jp/tohoku/content/000240888.pdf|format=PDF|language=ja|title=鉄道事業の廃止の届出に係る公衆の利便の確保に関する意見の聴取について(公示のお知らせ)|publisher=国土交通省東北運輸局|date=2021-07-12|accessdate=2022-09-13|archivedate=2021-10-03}}</ref>、第二種鉄道事業者となる<ref name="milt20211129" />。
** 11月30日:この日をもって、JR北海道と跨る区間の普通回数乗車券の販売を終了(身体・知的障害者用および通学用の普通回数乗車券は引き続き販売継続・手持ちの回数乗車券は有効期限まで引き続き使用可能)<ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2022/20220719_ho01.pdf JR北海道とJR東日本にまたがる普通回数乗車券の発売終了について]}} - 東日本旅客鉄道、2022年7月19日</ref>。
=== 歴代社長 ===
{|class=wikitable
|+歴代の東日本旅客鉄道社長
|-
!代数||氏名||在任期間||出身校
|-
|初代||[[住田正二]]||1987年 - 1993年||[[東京大学]]法学部
|-
|第2代||[[松田昌士]]||1993年 - 2000年||[[北海道大学]]大学院法学研究科
|-
|第3代||[[大塚陸毅]]||2000年 - 2006年||東京大学法学部
|-
|第4代||[[清野智]]||2006年 - 2012年||[[東北大学]]法学部
|-
|第5代||[[冨田哲郎]]||2012年 - 2018年||東京大学法学部
|-
|第6代||[[深澤祐二]]||2018年 - 現職||東京大学法学部
|}
== 運転事故と輸送障害 ==
{{更新|date=2016年1月23日 (土) 07:36 (UTC)|section=1}}
[[国土交通省]]の調査によると、在来線部分における平成20年度(2008年度)の走行距離百万kmあたりの[[鉄道事故等報告規則#「事故」の分類|運転事故、輸送障害]]の発生件数は、それぞれ0.60件、4.96件(うち部内原因によるもの1.40件)であった。一方、同年度のJR鉄道事業者の平均値はそれぞれ0.60件、4.92件(うち部内原因によるもの1.45件)であった。平成14 - 19年度にも同様の傾向が見られることから、JR東日本では輸送障害の発生頻度がやや高い。またJR東日本は、首都圏における大規模な輸送障害発生時に、国土交通省や同省鉄道局長などによる業務改善命令や警告を度々受けている。
これに対し、平成18年度(2006年度){{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2006_2/20061206.pdf 首都圏輸送障害低減に向けた対策の強化に関する公式発表]}}において設備・車両の改良や新車の導入などに総額3,000億円の投資を行い輸送障害の低減を目指すことを表明し、2009年度からの第5次安全5ヵ年計画『安全ビジョン2013』において、2009年度から2013年度の5年間で総額約7,500億円の安全投資を行うことを計画していた<ref name="pdf_2010">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/eco/report/pdf_2010/p57_61.pdf 安全設備の整備]}}</ref>と表明していた。
平成18年度(2006年度)においては、部内原因による輸送障害が2.41件から1.93件へ減少した。平成19年度(2007年度)においては1.70件、平成20年度(2008年度)においては1.40件と減少傾向にはある。
また、人身事故対策として、JR東日本では山手線への[[ホームドア]]設置やホーム端に精神を落ち着かせる効果があると言われる青色照明の導入、「[[いのちの電話]]」などを紹介したパンフレットを制作して配布するなどの啓蒙活動を行っている。
=== 業務改善命令・警告 ===
最新1年度分については、『[https://web.archive.org/web/20110323070514/https://www.jreast.co.jp/safe/report.html 安全報告書2014]』の中の、{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/safe/pdf/report2014/report2014_07.pdf JR東日本の安全の現状]}}を参照。また、過去2年間の業務改善命令・警告は国土交通省「[https://www.mlit.go.jp/nega-inf/cgi-bin/searchmenu.cgi?jigyoubunya=tetudou 国土交通省ネガティブ情報等検索システム<鉄道事業者>]」を参照。
{|class=wikitable style="font-size:small"
!命令・警告!!style="width:8em"|日付!!概要
|-
|工事の実施方法に関する事業改善の命令<!-- [https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha03/08/081219_.html 工事の実施方法に関する事業改善の命令] -->―国土交通大臣||2003年12月19日||中央線高架切換工事における輸送障害(9月28日)、京浜東北線軌道工事における輸送障害(10月6日)に対応したもの
|-
|鉄道輸送の安全確保について(警告)<!-- [https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha05/08/081226_2_.html 鉄道輸送の安全確保について(警告)] -->―国土交通省鉄道局長||2005年12月26日||羽越線の脱線死亡事故に対応したもの <!---警告書内では「羽越線において…」のように「羽越線」の表現-->
|-
|鉄道の安全・安定輸送の確保について(警告)<!--[https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha06/08/080425_.html 鉄道の安全・安定輸送の確保について(警告)]--> ―国土交通省鉄道局長||2006年4月25日||山手線軌道下工事に伴う輸送障害(2月20日、4月24日)に対応したもの
|-
|鉄道の安全・安定輸送の確保について(警告)<!--[https://www.ktt.mlit.go.jp/press/0607/r1_p060719.pdf 鉄道の安全・安定輸送の確保について(警告)]--> ―関東運輸局鉄道部長||2006年7月19日||山手貨物線(埼京線)線路陥没による輸送障害(7月18日)に対応したもの
|-
|京浜東北線及び山手線の輸送障害について(警告)<!--[https://www.ktt.mlit.go.jp/press/0703/r2_p070306.pdf 京浜東北線及び山手線の輸送障害について(警告)] -->―関東運輸局鉄道部長||2007年3月6日||田町駅構内の信号保安設備の不具合による輸送障害(3月5 - 6日)に対応したもの
|-
|東北線の輸送障害について(警告)<!--[https://www.ktt.mlit.go.jp/press/0706/rs_070622.pdf 東北線の輸送障害について(警告)]--> ―関東運輸局長||2007年6月22日||東北線大宮駅 - さいたま新都心駅間の架線断線による輸送障害(6月22日)に対応したもの
|-
|鉄道の安全輸送の確保について<!--[https://www.ktt.mlit.go.jp/press/0802/rs_p080225_002.pdf 鉄道の安全輸送の確保について] -->―関東運輸局鉄道部長||2008年2月25日||東北線尾久駅構内における列車脱線事故(2月23日)に対応したもの
|-
|鉄道の安全・安定輸送の確保について(警告) <!--[https://www.ktt.mlit.go.jp/press/0804/rs_p080410.pdf 鉄道の安全・安定輸送の確保について(警告)] -->―関東運輸局長||2008年4月10日||国分寺変電所火災による中央線の輸送障害(4月10日)に対応したもの
|-
|警告書 <!--[http://www.tht.mlit.go.jp/puresu/td080606.pdf 警告書] -->―東北運輸局鉄道部長||2008年6月6日||大船渡線における列車と運搬用手押し車との衝突とそれに伴う輸送障害(6月6日)に対応したもの
|-
|鉄道の輸送障害について<!--[https://www.ktt.mlit.go.jp/press/0809/rs_p080918.pdf 鉄道の輸送障害について] -->―関東運輸局長||2008年9月18日||信号トラブルによる中央線の輸送障害(9月17日)、我孫子駅構内の架線切断による輸送障害(9月18日)に対応したもの
|-
|新幹線の輸送障害について(警告)<!-- [https://www.ktt.mlit.go.jp/press/0809/rs_p080929.pdf 新幹線の輸送障害について(警告)]--> ―関東運輸局長||2008年9月28日||東北新幹線東京駅 - 大宮駅間の信号トラブルによる東北・上越・長野新幹線の輸送障害(9月28日)に対応したもの
|-
|新幹線の輸送障害について(警告)<!--[https://www.ktt.mlit.go.jp/press/0812/rs_p081230.pdf 新幹線の輸送障害について(警告)] -->―関東運輸局長||2008年12月30日||新幹線総合システムのトラブルによる東北・上越・長野新幹線の輸送障害(12月29日)に対応したもの
|-
|鉄道の安全・安定輸送の確保について(警告)―関東運輸局鉄道部長||2009年7月31日||変電施設の火災に伴う京葉線の輸送障害(7月30日)に対応したもの
|-
|鉄道の安全・安定輸送の確保について(警告)―関東運輸局鉄道部長||2023年8月7日||東海道線(東海道本線)大船駅構内で発生した電化柱衝突による鉄道人身傷害事故とそれに伴う東海道線・横須賀線・根岸線等の輸送障害(8月5日)に対応したもの
|}
=== 対策に関する公式発表 ===
2014年度までの分は『[https://www.jreast.co.jp/safe/report.html 2014年度版 安全報告書]{{リンク切れ|date=2018年11月}}』中、{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/safe/pdf/report2010/report2014_07.pdf JR東日本の安全の現状]}}{{リンク切れ|date=2018年11月}}を、過去の概略については『[https://www.jreast.co.jp/eco/pdf/index.html 社会環境報告書]』を参照。
* {{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2006_1/20060602.pdf 線路下道路トンネル工事に伴う輸送トラブルの原因と再発防止対策について]}} ―2006年6月2日
** 鉄道の安全・安定輸送の確保について(警告)(2006年4月25日)および(2006年7月19日)を受けたもの
* {{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2006_2/20061206.pdf 首都圏輸送障害低減に向けた対策の強化に関する公式発表]}} ―2006年12月5日
* {{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2007_1/20070609.pdf エアセクション箇所の架線断線対策について]}} ―2007年6月29日
** 東北線の輸送障害について(2007年6月22日)を受けたもの
== 路線 ==
<!--[[ファイル:LineMap GreaterTokyo jp.png|300px|thumb|right|東京周辺の路線網]]大崎 - 羽沢横浜国大経由の相鉄線直通が載っておらず古いのでコメントアウト-->
[[青森県]]([[海峡線]]及び[[北海道新幹線]]の同県内区間を除く)、[[岩手県]]、[[宮城県]]、[[秋田県]]、[[山形県]]、[[福島県]]、[[茨城県]]、[[千葉県]]、[[栃木県]]、[[群馬県]]、[[埼玉県]]、[[東京都]]、[[神奈川県]]([[御殿場線]]を除く)、[[新潟県]]([[大糸線]]を除く)、[[山梨県]]([[身延線]]を除く)、[[長野県]]([[飯田線]]、[[中央本線]][[塩尻駅]]以西と大糸線[[南小谷駅]]以北を除く)、[[静岡県]]([[東海道本線]][[熱海駅]]以東と[[伊東線]]のみ)の各都県の[[日本国有鉄道|旧国鉄]]の[[在来線]]、ならびに[[東北新幹線]]・[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]の[[新幹線]]、および[[山形新幹線]]・[[秋田新幹線]]の通称を持つ[[新幹線直行特急]]が運営基盤である。
2021年4月1日現在のJR東日本が運営している路線を以下に示す。各路線の運行形態は当該路線の記事を参照。
{{-}}
=== 現有路線 ===
データは2023年3月31日時点<ref name="rosenkyori2023" />。
==== 鉄道 ====
{|class="wikitable" style="width:100%;font-size:85%;" rules="all"
|-style="text-align:left;"
!style="width:1em;"|分類
!style="width:6em;"|路線名
!style="width:16em;"|区間
!style="width:5em;"|[[営業キロ]]
!style="width:20em;"|愛称・通称
!備考
|-
!style="width:1em;" rowspan="3"|[[新幹線]]
![[東北新幹線]]
|[[東京駅]] - [[新青森駅]]
|style="text-align:right;"|713.7 km
|上越新幹線(東京駅 - 大宮駅)<br>北陸新幹線(東京駅 - 大宮駅)<br>[[山形新幹線]](東京駅 - 福島駅)<ref group="注釈" name="yamagata-akita">山形新幹線は奥羽本線(福島駅 - 新庄駅間)、秋田新幹線は田沢湖線・奥羽本線(大曲駅 - 秋田駅間)の各在来線と東北新幹線を直通する運行系統の名称であり、全区間で正式な路線名称ではない。</ref><br>[[秋田新幹線]](東京駅 - 盛岡駅)<ref group="注釈" name="yamagata-akita" />
|実キロは674.9km<br>盛岡駅 - 新青森駅間の鉄道施設は[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構|鉄道・運輸機構]]が保有
|-
![[上越新幹線]]
|[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[新潟駅]]
|style="text-align:right;"|303.6 km
|北陸新幹線(大宮駅 - 高崎駅)
|実キロは 269.5 km
|-
![[北陸新幹線]]
|[[高崎駅]] - [[上越妙高駅]]
|style="text-align:right;"|176.9 km
|
|上越妙高駅 - [[金沢駅]]間はJR西日本の管轄<br>鉄道施設は鉄道・運輸機構が保有
|-
!style="width:1em;" rowspan="62"|[[幹線]]
![[山手線]]
|[[品川駅]] - [[新宿駅]] - [[田端駅]]
|style="text-align:right;"|20.6 km
|[[湘南新宿ライン]](品川駅<ref group="注釈" name="経由">運賃計算上は経由する扱いとなっているが、ホームが設置されておらず列車は停車しない。</ref> - 田端駅)<br>[[埼京線]]([[大崎駅]] - [[池袋駅]])<br>[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通]](品川駅<ref group="注釈" name="経由" /> - 新宿駅)
|
|-
![[根岸線]]
|[[横浜駅]] - [[磯子駅]] - [[大船駅]]
|style="text-align:right;"|22.1 km
|
|
|-
![[横浜線]]
|[[東神奈川駅]] - [[八王子駅]]
|style="text-align:right;"|42.6 km
|
|
|-
!rowspan="3"|[[南武線]]
|[[川崎駅]] - [[立川駅]]
|style="text-align:right;"|35.5 km
|
|
|-
|[[尻手駅]] - [[浜川崎駅]]
|style="text-align:right;"|4.1 km
|南武支線<br />浜川崎支線
|
|-
|尻手駅 - [[新鶴見信号場]] - [[鶴見駅]]
|style="text-align:right;"|5.4 km
|
|新鶴見信号場 - 鶴見駅間3.9 kmは東海道本線支線と重複<br>尻手駅 - 新鶴見信号場間は旅客営業なし
|-
!rowspan="2"|[[武蔵野線]]
|鶴見駅 - [[西船橋駅]]
|style="text-align:right;"|100.6 km
|武蔵野南線(鶴見駅 - [[府中本町駅]])
|鶴見駅 - 新鶴見信号場間3.9 kmは東海道本線支線と重複<br>新鶴見信号場 - 府中本町駅間は旅客営業なし
|-
|[[西浦和駅]] - [[別所信号場]] - [[与野駅]]
|style="text-align:right;"|4.9 km
|大宮支線
|貨物線だが定期旅客列車あり<br>運賃は武蔵浦和駅または[[南浦和駅]]経由で計算
|-
!rowspan="3"|[[京葉線]]
|東京駅 - [[蘇我駅]]
|style="text-align:right;"|43.0 km
|
|rowspan="3"|鉄道施設は鉄道・運輸機構が保有
|-
|[[市川塩浜駅]] - 西船橋駅
|style="text-align:right;"|5.9 km
|高谷支線
|-
|西船橋駅 - [[南船橋駅]]
|style="text-align:right;"|5.4 km
|二俣支線
|-
![[赤羽線]]
|池袋駅 - [[赤羽駅]]
|style="text-align:right;"|5.5 km
|埼京線
|
|-
![[川越線]]
|大宮駅 - [[高麗川駅]]
|style="text-align:right;"|30.6 km
|
|
|-
!rowspan="2"|[[中央本線]]
|東京駅 - [[塩尻駅]]
|style="text-align:right;"|222.1 km
|中央東線<br>[[中央線快速]](東京駅 - [[高尾駅 (東京都)|高尾駅]])<br>[[中央・総武緩行線|中央緩行線]](御茶ノ水駅 - [[三鷹駅]])<br>
|東京駅 - [[神田駅 (東京都)|神田駅]]間1.3 kmは東北本線と重複<br>[[代々木駅]] - 新宿駅間0.7 kmは山手線と重複<br>[[名古屋駅]] - 塩尻駅間はJR東海の管轄
|-
|[[岡谷駅]] - [[辰野駅]] - 塩尻駅
|style="text-align:right;"|27.7 km
|辰野支線
|
|-
![[青梅線]]
|立川駅 - [[奥多摩駅]]
|style="text-align:right;"|37.2 km
|東京アドベンチャーライン([[青梅駅]] - 奥多摩駅)
|
|-
![[五日市線]]
|[[拝島駅]] - [[武蔵五日市駅]]
|style="text-align:right;"|11.1 km
|
|
|-
!rowspan="4"|[[総武本線]]
|東京駅 - [[銚子駅]]
|style="text-align:right;"|120.5 km
|[[横須賀・総武快速線|総武快速線]](東京駅 - 千葉駅)<br>[[中央・総武緩行線|総武緩行線]](錦糸町駅 - 千葉駅)
|
|-
|[[錦糸町駅]] - [[御茶ノ水駅]]
|style="text-align:right;"|4.3 km
|総武緩行線
|
|-
|[[小岩駅]] - [[金町駅]]
|style="text-align:right;"|8.9 km
|[[新金貨物線]]
|小岩駅 - [[新小岩信号場駅]]間2.3 kmは本線と重複<br>旅客営業なし
|-
|小岩駅 - [[越中島貨物駅]]
|style="text-align:right;"|11.7 km
|[[越中島支線]]
|小岩駅 - 新小岩信号場駅間2.3 kmは本線と重複<br>旅客営業なし
|-
![[横須賀線]]
|大船駅 - [[久里浜駅]]
|style="text-align:right;"|23.9 km
|湘南新宿ライン(大船駅 - 逗子駅)
|
|-
!rowspan="3"|[[鶴見線]]
|鶴見駅 - [[扇町駅 (神奈川県)|扇町駅]]
|style="text-align:right;"|7.0 km
|
|
|-
|[[浅野駅]] - [[海芝浦駅]]
|style="text-align:right;"|1.7 km
|海芝浦支線
|
|-
|[[武蔵白石駅]] - [[大川駅]]
|style="text-align:right;"|1.0 km
|大川支線
|
|-
![[相模線]]
|[[茅ケ崎駅]] - [[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]
|style="text-align:right;"|33.3 km
|
|
|-
!rowspan="6"|[[東海道本線]]
|東京駅 - [[熱海駅]]
|style="text-align:right;"|104.6 km
|山手線(東京駅 - 品川駅)<br>[[京浜東北線]](東京駅 - 横浜駅)<br>[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]](東京駅 - 熱海駅)<br>[[横須賀・総武快速線|横須賀線]](東京駅 - 品川駅および鶴見駅 - 大船駅)<br>湘南新宿ライン(鶴見駅 - 小田原駅)<br>[[上野東京ライン]](東京駅 - 大船駅)
|JR東海との境界は[[丹那トンネル]]東口付近<br>熱海駅 - [[米原駅]]間はJR東海の管轄<br>米原駅 - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]間はJR西日本の管轄
|-
|品川駅 - [[武蔵小杉駅]] - 鶴見駅
|style="text-align:right;"|17.8 km
|[[品鶴線]]<br>横須賀線<br>湘南新宿ライン(品川駅<ref group="注釈" name="経由" /> - 鶴見駅)<br>相鉄線直通(品川駅<ref group="注釈" name="経由" /> - 鶴見駅)
|
|-
|[[浜松町駅]] - [[東京貨物ターミナル駅]] - [[川崎貨物駅]] - 浜川崎駅
|style="text-align:right;"|20.0 km <ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成29年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.23</ref>
|rowspan="2"|[[東海道貨物線]]
|旅客営業なし<br>浜松町駅 - 東京貨物ターミナル駅間は営業休止中(2031年度、[[羽田空港アクセス線]]として再開業予定<ref>{{Cite press release |title=2023年4月4日羽田空港アクセス線(仮称)の本格的な工事に着手します |publisher=東日本旅客鉄道 |language=ja |date=2023年4月4日 |url= https://www.jreast.co.jp/press/2023/20230404_ho03.pdf |format=PDF |accessdate=2023-7-10}}</ref>)
|-
|鶴見駅 - [[八丁畷駅]]
|style="text-align:right;"|2.3 km
|旅客営業なし
|-
|鶴見駅 - [[横浜羽沢駅]]・[[羽沢横浜国大駅]] - [[東戸塚駅]]
|style="text-align:right;"|16.0 km
|東海道貨物線<br>相鉄線直通(鶴見駅 - 羽沢横浜国大駅)
|貨物線だが旅客営業あり<br>横浜羽沢駅・羽沢横浜国大駅は鶴見駅からのキロ程上は同一地点に設置<ref group="注釈">実際は鶴見駅 - 横浜羽沢駅間で羽沢横浜国大駅方面への支線が分岐</ref>
|-
|鶴見駅 - [[東高島駅]] - [[桜木町駅]]
|style="text-align:right;"|8.5 km
|[[高島線]]
|旅客営業なし(貨物線)
|-
!rowspan="6"|[[東北本線]]
|東京駅 - [[盛岡駅]]
|style="text-align:right;"|535.3 km
|山手線(東京駅 - 田端駅)<br>京浜東北線(東京駅 - 大宮駅)<br>[[宇都宮線]](東京駅 - 日暮里駅および赤羽駅 - [[黒磯駅]])<br>湘南新宿ライン(田端駅 - 大宮駅)<br>上野東京ライン(東京駅 - 日暮里駅および赤羽駅 - 大宮駅)<br>[[仙台空港アクセス線]]([[名取駅]] - 仙台駅)<br>[[仙石東北ライン]](仙台駅 - 松島駅<ref group="注釈" name="経由" />)
|
|-
|[[日暮里駅]] - [[尾久駅]] - 赤羽駅
|style="text-align:right;"|7.6 km
|宇都宮線<br>上野東京ライン
|
|-
|赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅
|style="text-align:right;"|18.0 km
|埼京線
|
|-
|[[長町駅]] - [[仙台貨物ターミナル駅]] - [[東仙台駅]]
|style="text-align:right;"|6.6 km
|宮城野貨物線
|旅客営業なし
|-
|[[岩切駅]] - [[利府駅]]
|style="text-align:right;"|4.2 km
|[[利府線]]
|
|-
|[[松島駅]]<ref group="注釈" name="経由" /> - [[高城町駅]]
|style="text-align:right;"|0.3 km
|仙石東北ライン
|
|-
![[高崎線]]
|大宮駅 - 高崎駅
|style="text-align:right;"|74.7 km
|
|
|-
!rowspan="3"|[[常磐線]]
|日暮里駅 - [[原ノ町駅]] - [[岩沼駅]]
|style="text-align:right;"|343.7 km
|[[常磐快速線]](日暮里駅 - [[取手駅]])<br>[[常磐緩行線]]([[綾瀬駅]] - 取手駅)
|
|-
|[[三河島駅]] - [[隅田川駅]] - [[南千住駅]]
|style="text-align:right;"|5.7 km
|隅田川貨物線
|旅客営業なし
|-
|三河島駅 - 田端駅
|style="text-align:right;"|1.6 km
|田端貨物線
|旅客営業なし
|-
!rowspan="2"|[[上越線]]
|高崎駅 - [[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]]
|style="text-align:right;"|162.6 km
|
|
|-
|[[越後湯沢駅]] - [[ガーラ湯沢駅]]
|style="text-align:right;"|1.8 km
|上越新幹線
|新幹線車両で運行<br>旅客営業は冬季のスキーシーズンのみ
|-
![[両毛線]]
|[[小山駅]] - [[新前橋駅]]
|style="text-align:right;"|84.4 km
|
|
|-
![[水戸線]]
|小山駅 - [[友部駅]]
|style="text-align:right;"|50.2 km
|
|
|-
![[外房線]]
|[[千葉駅]] - [[安房鴨川駅]]
|style="text-align:right;"|93.3 km
|内房線(千葉駅 - 蘇我駅)
|
|-
![[内房線]]
|蘇我駅 - [[木更津駅]] - 安房鴨川駅
|style="text-align:right;"|119.4 km
|
|
|-
!rowspan="3"|[[成田線]]
|[[佐倉駅]] - [[成田駅]] - [[松岸駅]]
|style="text-align:right;"|75.4 km
|
|
|-
|[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]] - 成田駅
|style="text-align:right;"|32.9 km
|我孫子支線
|
|-
|成田駅 - [[成田空港駅]]
|style="text-align:right;"|10.8 km
|空港支線
|成田線分岐点 - 成田空港駅間 8.7 km は第二種鉄道事業者(施設保有は[[成田空港高速鉄道]])
|-
![[伊東線]]
|熱海駅 - [[伊東駅]]
|style="text-align:right;"|16.9 km
|
|
|-
!rowspan="3"|[[信越本線]]
|高崎駅 - [[横川駅 (群馬県)|横川駅]]
|style="text-align:right;"|29.7 km
|
|
|-
|[[篠ノ井駅]] - [[長野駅]]
|style="text-align:right;"|9.3 km
|
|
|-
|[[直江津駅]] - 新潟駅
|style="text-align:right;"|136.3 km
|
|
|-
![[篠ノ井線]]
|篠ノ井駅 - 塩尻駅
|style="text-align:right;"|66.7 km
|
|線路名称公告では起終点が逆転
|-
![[羽越本線]]
|[[新津駅]] - [[秋田駅]]
|style="text-align:right;"|271.7 km
|
|
|-
![[白新線]]
|新潟駅 - [[新発田駅]]
|style="text-align:right;"|27.3 km
|
|新潟駅 - [[上沼垂信号場]]間1.9 kmは信越本線と重複<br>線路名称上は起終点が逆転
|-
![[磐越西線]]
|[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]] - 新津駅
|style="text-align:right;"|175.6 km
|森と水とロマンの鉄道(会津若松駅 - 新津駅)
|
|-
![[仙山線]]
|[[仙台駅]] - [[羽前千歳駅]]
|style="text-align:right;"|58.0 km
|
|
|-
![[仙石線]]
|[[あおば通駅]] - [[石巻駅]]
|style="text-align:right;"|49.0 km
|仙石東北ライン(高城町駅 - 石巻駅)
|
|-
![[奥羽本線]]
|[[福島駅 (福島県)|福島駅]] - [[青森駅]]
|style="text-align:right;"|484.5 km
|[[山形線]](福島駅 - 新庄駅)<br>山形新幹線(福島駅 - 新庄駅)<br>秋田新幹線(大曲駅 - 秋田駅)<br>男鹿なまはげライン(秋田駅 - 追分駅)
|
|-
!style="width:1em;" rowspan="33"|[[地方交通線]]
![[八高線]]
|八王子駅 - [[倉賀野駅]]
|style="text-align:right;"|92.0 km
|
|
|-
![[吾妻線]]
|[[渋川駅]] - [[大前駅]]
|style="text-align:right;"|55.3 km
|
|
|-
![[烏山線]]
|[[宝積寺駅]] - [[烏山駅]]
|style="text-align:right;"|20.4 km
|
|
|-
![[日光線]]
|[[宇都宮駅]] - [[日光駅]]
|style="text-align:right;"|40.5 km
|
|
|-
!rowspan="2"|[[水郡線]]
|[[水戸駅]] - [[安積永盛駅]]
|style="text-align:right;"|137.5 km
|
|
|-
|[[上菅谷駅]] - [[常陸太田駅]]
|style="text-align:right;"|9.5 km
|
|
|-
![[鹿島線]]
|[[香取駅]] - [[鹿島サッカースタジアム駅]]
|style="text-align:right;"|17.4 km
|
|通常のJR東日本の旅客列車の運行区間は香取駅 - [[鹿島神宮駅]]間のみ<br>鹿島サッカースタジアム駅はサッカー開催日のみ旅客営業
|-
![[久留里線]]
|木更津駅 - [[上総亀山駅]]
|style="text-align:right;"|32.2 km
|
|
|-
![[東金線]]
|[[大網駅]] - [[成東駅]]
|style="text-align:right;"|13.8 km
|
|
|-
![[小海線]]
|[[小淵沢駅]] - [[小諸駅]]
|style="text-align:right;"|78.9 km
|八ヶ岳高原線
|
|-
![[飯山線]]
|[[豊野駅]] - [[越後川口駅]]
|style="text-align:right;"|96.7 km
|
|
|-
![[大糸線]]
|[[松本駅]] - [[南小谷駅]]
|style="text-align:right;"|70.1 km
|
|南小谷駅 - [[糸魚川駅]]間はJR西日本の管轄
|-
![[越後線]]
|[[柏崎駅]] - [[吉田駅 (新潟県)|吉田駅]] - 新潟駅
|style="text-align:right;"|83.8 km
|
|
|-
![[弥彦線]]
|[[東三条駅]] - [[弥彦駅]]
|style="text-align:right;"|17.4 km
|
|線路名称上は起終点が逆転
|-
![[米坂線]]
|[[米沢駅]] - [[坂町駅]]
|style="text-align:right;"|90.7 km
|
|
|-
![[只見線]]
|[[会津若松駅]] - [[小出駅]]
|style="text-align:right;"|135.2 km
|
|[[会津川口駅]] - [[只見駅]]間 27.6 km は第二種鉄道事業者(施設保有は[[福島県]])<br>基本計画上は起点と終点が逆転
|-
![[磐越東線]]
|[[いわき駅]] - 郡山駅
|style="text-align:right;"|85.6 km
|ゆうゆうあぶくまライン
|
|-
![[石巻線]]
|[[小牛田駅]] - [[女川駅]]
|style="text-align:right;"|44.9 km
|
|
|-
![[気仙沼線]]
|[[前谷地駅]] - [[柳津駅 (宮城県)|柳津駅]]
|style="text-align:right;"|17.5 km
|
|
|-
![[大船渡線]]
|[[一ノ関駅]] - [[気仙沼駅]]
|style="text-align:right;"|62.0 km
|ドラゴンレール大船渡線
|
|-
![[陸羽東線]]
|小牛田駅 - [[新庄駅]]
|style="text-align:right;"|94.1 km
|奥の細道湯けむりライン
|
|-
![[陸羽西線]]
|新庄駅 - [[余目駅]]
|style="text-align:right;"|43.0 km
|奥の細道最上川ライン
|
|-
![[北上線]]
|[[北上駅]] - [[横手駅]]
|style="text-align:right;"|61.1 km
|
|
|-
![[釜石線]]
|[[花巻駅]] - [[釜石駅]]
|style="text-align:right;"|90.2 km
|銀河ドリームライン釜石線
|
|-
![[山田線]]
|盛岡駅 - 宮古駅
|style="text-align:right;"|102.1 km
|
|
|-
![[花輪線]]
|[[好摩駅]] - [[大館駅]]
|style="text-align:right;"|106.9 km
|十和田八幡平四季彩ライン
|
|-
![[八戸線]]
|[[八戸駅]] - [[久慈駅]]
|style="text-align:right;"|64.9 km
|うみねこレール八戸市内線(八戸駅 - [[鮫駅]])
|
|-
![[大湊線]]
|[[野辺地駅]] - [[大湊駅]]
|style="text-align:right;"|58.4 km
|はまなすベイライン大湊線
|
|-
![[津軽線]]
|青森駅 - [[三厩駅]]
|style="text-align:right;"|55.8 km
|
|[[中小国駅]] - [[新中小国信号場]]間 2.3 km はJR北海道[[海峡線]]と重複
|-
![[左沢線]]
|[[北山形駅]] - [[左沢駅]]
|style="text-align:right;"|24.3 km
|フルーツライン左沢線
|
|-
![[田沢湖線]]
|盛岡駅 - [[大曲駅 (秋田県)|大曲駅]]
|style="text-align:right;"|75.6 km
|秋田新幹線
|
|-
![[男鹿線]]
|[[追分駅 (秋田県)|追分駅]] - [[男鹿駅]]
|style="text-align:right;"|26.4 km
|男鹿なまはげライン
|
|-
![[五能線]]
|[[東能代駅]] - [[川部駅]]
|style="text-align:right;"|147.2 km
|
|
|-
|}
; [[運行系統]]上の名称
:* 「上越新幹線」は東北新幹線(東京駅 - 大宮駅)と上越線(越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅)との総称。
:* 「北陸新幹線」は東北新幹線(東京駅 - 大宮駅)と上越新幹線(大宮駅 - 高崎駅)との総称。
:* 「山形新幹線」は東北新幹線(東京駅 - 福島駅)と奥羽本線(福島駅 - 新庄駅)の総称。
:* 「秋田新幹線」は東北新幹線(東京駅 - 盛岡駅)と田沢湖線(全線)と奥羽本線(大曲駅 - 秋田駅)の総称。
:* 「山手線」は東北本線(田端駅 - 東京駅)と東海道本線(東京駅 - 品川駅)との総称。
:* 「横須賀線」は東海道本線(東京駅 - 品川駅 - 武蔵小杉駅 - 鶴見駅 - 大船駅)との総称。
:* 「高崎線」は東北本線(東京駅 - 大宮駅)との総称。
:* 「常磐線」は東北本線(東京駅 - 日暮里駅、岩沼駅 - 仙台駅)との総称。
:* 「内房線」は外房線(千葉駅 - 蘇我駅)との総称。
:* 「湘南新宿ライン」は東北本線(大宮駅 - 田端駅)と山手線(田端駅 - 蛇窪信号場)と東海道本線(蛇窪信号場 - 大船駅)の総称。
:* 「埼京線」は山手線(大崎駅 - 池袋駅)と赤羽線(全線)と東北本線(赤羽駅 - 大宮駅)の総称。
:* 「京浜東北線」は東北本線(大宮駅 - 東京駅)と東海道本線(東京駅 - 横浜駅)の総称。
:* 「相鉄線直通」<ref name="JRE 路線図2">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/map/pdf/map_tokyo.pdf |title=JR東日本:東京近郊路線図(車内掲出版) |accessdate=2020-05-08 |publisher=東日本旅客鉄道株式会社}}</ref><ref name="RF 7192">{{Cite journal|和書|author=佐藤利夫|date=2021-03-01|title=特集:東京近郊JR路線別ガイド ⑪埼京・川越・相鉄直通線|journal=鉄道ファン2021年3月号|volume=61|issue=第3号(通巻719号)|pages=34 - 35|publisher=交友社}}</ref>は山手線(新宿駅 - 大崎駅)と東海道本線貨物支線(大崎駅 - 鶴見駅 - 羽沢横浜国大駅)の総称。
:* 「仙台空港アクセス線」は東北本線(名取駅 - 仙台駅)と、[[仙台空港鉄道]]の[[仙台空港鉄道仙台空港線|仙台空港線]](全線)の総称。
:* 「仙石東北ライン」は東北本線(仙台駅 - 松島駅 - 高城町駅)と仙石線(高城町駅 - 石巻駅)の総称。
:* 「男鹿なまはげライン」は奥羽本線(秋田駅 - 追分駅)と男鹿線(全線)の総称。
==== BRT ====
{|class="wikitable" style="width:100%;font-size:85%;" rules="all"
|-style="text-align:left;"
!style="width:10em;"|路線名
!style="width:16em;"|区間
!style="width:5em;"|営業キロ
!備考
|-
![[気仙沼線BRT]]
|[[前谷地駅]] - [[気仙沼駅]]
|style="text-align:right;"|72.8 km
|前谷地駅 - [[柳津駅 (宮城県)|柳津駅]]間は[[気仙沼線]](鉄道)と並行して運行。ただし途中駅には停車しない。<br>営業キロ設定は廃線となった鉄道路線に基づき、実際の運行経路とは異なる。
|-
![[大船渡線BRT]]
|気仙沼駅 - [[盛駅]]
|style="text-align:right;"|43.7 km
|[[上鹿折駅]]へは[[ミヤコーバス]]の路線バスをBRTとして運行。<br>営業キロ設定は廃線となった鉄道路線に基づき、実際の運行経路とは異なる。
|-
|}
==== 他事業者との直通運転 ====
他社路線との[[直通運転]]は以下のとおり。自社線の路線名や並び順は[[#鉄道|上表]]での通称・愛称欄に従う。
* 東北新幹線 : 新青森駅より[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]([[北海道新幹線]])と相互直通運転
* 北陸新幹線 : 上越妙高駅よりJR西日本(北陸新幹線)と相互直通運転
* 埼京線 : 大崎駅より[[東京臨海高速鉄道]]([[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]])と相互直通運転
* 中央緩行線 : [[中野駅 (東京都)|中野駅]]より[[東京地下鉄]]([[東京メトロ東西線|東西線]])・[[東葉高速鉄道]]([[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]])と直通運転<ref group="注釈" name="東西線">JR東日本(中央緩行線) - 東京地下鉄(東西線) - JR東日本(総武緩行線)、ならびに東京地下鉄(東西線) - 東葉高速鉄道(東葉高速線)は相互直通運転。JR東日本(中央緩行線) - 東京地下鉄(東西線) - 東葉高速鉄道(東葉高速線)は東京地下鉄が直通運転。</ref>
* 中央東線 : [[大月駅]]より[[富士山麓電気鉄道]]([[富士山麓電気鉄道富士急行線|大月線・河口湖線]])に直通運転
* 辰野支線 : 辰野駅よりJR東海([[飯田線]])と相互直通運転
* 総武緩行線 : [[西船橋駅]]より東京地下鉄(東西線)と相互直通運転<ref group="注釈" name="東西線" />
* 東海道線 : 熱海駅よりJR東海(東海道本線)・[[伊豆箱根鉄道]]([[伊豆箱根鉄道駿豆線|駿豆線]])に直通運転
* 相鉄線直通 : 羽沢横浜国大駅より[[相模鉄道]]([[相鉄新横浜線]]・[[相鉄本線|本線]])と相互直通運転
* 東北本線 : 盛岡駅より[[IGRいわて銀河鉄道]]([[いわて銀河鉄道線]])と相互直通運転
* 東北本線 : [[槻木駅]]より[[阿武隈急行]]([[阿武隈急行線]])が直通運転
* 仙台空港アクセス線 : 名取駅より[[仙台空港鉄道]]([[仙台空港鉄道仙台空港線|仙台空港線]])と相互直通運転
* 宇都宮線 : [[栗橋駅]]より[[東武鉄道]]([[東武日光線|日光線]]・[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]])と相互直通運転
* 常磐緩行線 : 綾瀬駅より東京地下鉄([[東京メトロ千代田線|千代田線]])・[[小田急電鉄]]([[小田急小田原線|小田原線]])と相互直通運転
* 上越線 : [[六日町駅]]より[[北越急行]]([[北越急行ほくほく線|ほくほく線]])が直通運転
* 伊東線 : 伊東駅より[[伊豆急行]]([[伊豆急行線]])と相互直通運転
* 信越本線 : 篠ノ井駅より[[しなの鉄道]]([[しなの鉄道線]])が直通運転
* 信越本線 : 長野駅よりしなの鉄道([[しなの鉄道北しなの線|北しなの線]])が直通運転
* 信越本線 : 直江津駅より[[えちごトキめき鉄道]]([[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン|妙高はねうまライン]])と相互直通運転
* 信越本線 : [[犀潟駅]]より北越急行(ほくほく線)が直通運転
* 篠ノ井線 : 塩尻駅よりJR東海(中央西線)と相互直通運転
* 鹿島線 : 鹿島サッカースタジアム駅より[[鹿島臨海鉄道]]([[鹿島臨海鉄道大洗鹿島線|大洗鹿島線]])が直通運転
* 飯山線 : 豊野駅よりしなの鉄道(北しなの線)に直通運転
* 只見線 : [[西若松駅]]より[[会津鉄道]]が[[会津鉄道会津線|会津線]]・[[野岩鉄道]]([[野岩鉄道会津鬼怒川線|会津鬼怒川線]])・東武鉄道(鬼怒川線・日光線)に直通運転
* 花輪線 : 好摩駅よりIGRいわて銀河鉄道(いわて銀河鉄道線)に直通運転
* 八戸線 : 八戸駅より[[青い森鉄道]]([[青い森鉄道線]])に直通運転
* 大湊線 : 野辺地駅より青い森鉄道(青い森鉄道線)に直通運転
=== 廃止路線 ===
{|class="wikitable" style="width:100%;font-size:85%;" rules="all"
|-style="text-align:left;"
!style="width:1em;"|分類
!style="width:9em;"|路線名
!style="width:15em;"|区間
!style="width:5em;"|営業キロ
!style="width:10em;"|廃止年月日
!備考
|-
!style="width:1em;" rowspan="9"|幹線
!rowspan="2"|[[東海道本線]]
|[[品川駅]] - [[浜松町駅]]
|style="text-align:right;"|3.7 km
|1996年10月1日<ref name="mlit haishi" />
|[[東海道貨物線]]の一部
|-
|[[入江駅|入江信号場]] - [[新興駅 (神奈川県)|新興駅]]
|style="text-align:center;"|なし
|不明(2019年中)
|通称:新興線。|旅客営業なし(貨物線)。旅客鉄道会社の営業キロ設定なし<br>2010年時点で新興駅が廃止され事実上廃線。日本貨物鉄道においても2019年中に営業キロ設定廃止<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』令和元年度版(電気車研究会・鉄道図書刊行会)p.61</ref>
|-
!rowspan="4"|[[信越本線]]
|横川駅 - [[軽井沢駅]]
|style="text-align:right;"|11.2 km
|rowspan="2"|1997年10月1日<ref name="mlit haishi" />
|北陸新幹線 高崎駅 - 長野駅間開業に伴い廃止<br>[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]に転換
|-
|軽井沢駅 - 篠ノ井駅
|style="text-align:right;"|65.6 km
|北陸新幹線 高崎駅 - 長野駅間開業に伴い経営分離<br>[[しなの鉄道]]に移管
|-
|長野駅 - [[妙高高原駅]]
|style="text-align:right;"|37.3 km
|rowspan="2"|2015年3月14日
|北陸新幹線 長野駅 - 金沢駅間開業に伴い経営分離<br>しなの鉄道に移管
|-
|妙高高原駅 - 直江津駅
|style="text-align:right;"|37.7 km
|北陸新幹線 長野駅 - 金沢駅間開業に伴い経営分離<br>[[えちごトキめき鉄道]]に移管
|-
!rowspan="3"|[[東北本線]]
|盛岡駅 - [[目時駅]]
|style="text-align:right;"|82.0 km
|rowspan="2"|2002年12月1日
|東北新幹線 盛岡駅 - 八戸駅間開業に伴い経営分離<br>[[IGRいわて銀河鉄道]]に移管
|-
|目時駅 - 八戸駅
|style="text-align:right;"|25.9 km
|東北新幹線 盛岡駅 - 八戸駅間開業に伴い経営分離<br>[[青い森鉄道]]・[[青森県]]に移管
|-
|八戸駅 - 青森駅
|style="text-align:right;"|96.0 km
|2010年12月4日
|東北新幹線 八戸駅 - 新青森駅間開業に伴い経営分離<br>青い森鉄道・青森県に移管
|-
!style="width:1em;" rowspan="10"|地方交通線
![[会津鉄道会津線|会津線]]
|[[西若松駅]] - [[会津高原尾瀬口駅|会津高原駅]]
|style="text-align:right;"|57.4 km
|1987年7月16日
|[[特定地方交通線#第2次廃止対象路線|第2次特定地方交通線]]の指定を受けて廃止<br>[[会津鉄道]]に転換
|-
![[いすみ鉄道いすみ線|木原線]]
|[[大原駅 (千葉県)|大原駅]] - [[上総中野駅]]
|style="text-align:right;"|26.9 km
|1988年3月24日
|[[特定地方交通線#第1次廃止対象路線|第1次特定地方交通線]]の指定を受けて廃止<br>[[いすみ鉄道]]に転換
|-
![[真岡鐵道真岡線|真岡線]]
|[[下館駅]] - [[茂木駅]]
|style="text-align:right;"|42.0 km
|1988年4月11日
|第2次特定地方交通線の指定を受けて廃止<br>[[真岡鐵道]]に転換
|-
![[山形鉄道フラワー長井線|長井線]]
|[[赤湯駅]] - [[荒砥駅]]
|style="text-align:right;"|30.6 km
|1988年10月25日
|[[特定地方交通線#第3次廃止対象路線|第3次特定地方交通線]]の指定を受けて廃止<br>[[山形鉄道]]に転換
|-
!rowspan="2"|[[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線|足尾線]]
|[[桐生駅]] - [[間藤駅]]
|style="text-align:right;"|44.1 km
|rowspan="2"|1989年3月29日
|第2次特定地方交通線の指定を受けて廃止<br>[[わたらせ渓谷鐵道]]に転換
|-
|間藤駅 - [[足尾本山駅]]
|style="text-align:right;"|1.9 km
|貨物線。第2次特定地方交通線の指定を受けて廃止<br>わたらせ渓谷鐵道が鉄道事業免許を取得するも1998年6月2日失効
|-
![[岩泉線]]
|[[茂市駅]] - [[岩泉駅]]
|style="text-align:right;"|38.4 km
|2014年4月1日<ref name="mlit haishi" />
|土砂災害による脱線事故に伴い、2010年7月31日から不通<br>[[東日本交通 (岩手県)|東日本交通]](バス)に転換
|-
![[山田線]]
|[[宮古駅]] - [[釜石駅]]
|style="text-align:right;"|55.4 km
|2019年3月23日
|東日本大震災による被災に伴い、2011年3月11日から不通<br>JR東日本が復旧工事を行い、[[三陸鉄道]]に移管の上で運行再開
|-
![[気仙沼線]]
|[[柳津駅 (宮城県)|柳津駅]] - [[気仙沼駅]]
|style="text-align:right;"|55.3 km
|2020年4月1日<ref name="mlit haishi" />
|東日本大震災による被災に伴い、2011年3月11日から不通<br>2012年から運行している[[気仙沼線・大船渡線BRT|気仙沼線BRT]]で代替
|-
![[大船渡線]]
|気仙沼駅 - [[盛駅]]
|style="text-align:right;"|43.7 km
|2020年4月1日<ref name="mlit haishi" />
|東日本大震災による被災に伴い、2011年3月11日から不通<br>2013年から運行している[[気仙沼線・大船渡線BRT|大船渡線BRT]]で代替
|-
|}
== 他社分界駅 ==
=== JR他社 ===
JR6社の中で唯一、全てのJR他社分界駅の在来線部分が自社管理となっている。
本節内において、自社線と他社線との間で直通定期列車のある路線同士を●で示している。
==== 新幹線 ====
; JR北海道
:* [[新青森駅]](●東北新幹線) - ●[[北海道新幹線]]
; JR西日本
:* [[上越妙高駅]](●北陸新幹線)- ●[[北陸新幹線]]
; JR東海
:* [[東京駅]](東北新幹線) - [[東海道新幹線]]<ref group="注釈">東京駅は東北新幹線(および在来線)は自社で、東海道新幹線のホームと改札口はJR東海が管轄しており、共同使用駅における一方のみの管轄駅というわけではない。</ref>
==== 在来線 ====
; JR北海道
:* [[中小国駅]](津軽線)- [[海峡線]]
; JR西日本
:* [[南小谷駅]](大糸線)- [[大糸線]]
; JR東海
:* [[国府津駅]](東海道線)- [[御殿場線]]
:* [[熱海駅]](●東海道線、伊東線)- ●[[東海道線 (静岡地区)|東海道本線]]
:* [[甲府駅]](中央東線)- [[身延線]]
:* [[辰野駅]](●中央東線)- ●[[飯田線]]
:* [[塩尻駅]](中央東線、●篠ノ井線)- ●[[中央本線|中央西線]]
==== 他社新幹線との共同使用駅 ====
すべて[[東海道新幹線]]との共同使用駅である。
; JR東海
:* [[東京駅]](東海道線ほか)
:* [[品川駅]](東海道線ほか)
:* [[新横浜駅]](横浜線)
:* [[小田原駅]](東海道線)
:* [[熱海駅]](東海道線、伊東線)
=== 私鉄・第三セクター ===
私鉄や第三セクターとの境界駅では自社で管轄していない駅もある。
==== 直通運転における分界駅 ====
直通運転そのものの詳細については[[#他事業者との直通運転]]を参照。
; 自社が管理する駅
:* 大崎駅(東京臨海高速鉄道)
:* 中野駅(東京地下鉄)
:* 槻木駅(阿武隈急行)
:* 名取駅(仙台空港鉄道)
:* 六日町駅(北越急行)
:* 伊東駅(伊豆急行)
:* 篠ノ井駅(しなの鉄道)
:* 長野駅(しなの鉄道)
:* 犀潟駅(北越急行)
:* 鹿島サッカースタジアム駅(鹿島臨海鉄道)
; 直通先他社が管理する駅
:* 羽沢横浜国大駅(相模鉄道)
:* 綾瀬駅(東京地下鉄)
:* 直江津駅(えちごトキめき鉄道)
:* 豊野駅(しなの鉄道)
:* 西若松駅(会津鉄道)
:* 好摩駅(IGRいわて銀河鉄道)
:* 八戸駅(青い森鉄道)
:* 野辺地駅(青い森鉄道)
; その他
:* 大月駅(富士山麓電気鉄道)
:*: 改札が別れており、各社が自社部分を管理。直通列車はJR東日本のホームを発着。
:* 西船橋駅(東京地下鉄)
:*: 改札が別れており、各社が自社部分を管理。直通列車は東京地下鉄のホームを発着。
:* 盛岡駅(IGRいわて銀河鉄道)
:*: 改札が別れており、各社が自社部分を管理。直通列車はJR東日本のホームを発着。
:* 栗橋駅(東武鉄道)
:*: 改札が別れており、各社が自社部分を管理。直通列車は乗務員交代をともなう運転停車のみであり、専用の連絡線に停車する。この連絡線の[[き電区間]]はJR東日本に属している。
==== 直通運転を行わない共同使用駅 ====
* 青森駅
*: 青い森鉄道と共用。JR東日本が管轄している。
* [[大鰐温泉駅]]
*: [[弘南鉄道]]([[大鰐駅]])と改札内を共用している。改札口は別れており、各社が管轄している。
* [[五所川原駅]]
*: [[津軽鉄道]]([[津軽五所川原駅]])と改札内を共用している。改札口は別れており、各社が管轄している。
* 釜石駅
*: [[三陸鉄道]]と改札内を共用している。改札口は別れており、各社が管轄している。
* 久慈駅
*: 三陸鉄道と改札内を共用している。改札口は別れており、各社が管轄している。
* 宮古駅
*: 三陸鉄道と共用。三陸鉄道が管轄している。
* [[羽後本荘駅]]
*: [[由利高原鉄道]]と改札内を共用している。改札口は別れており、各社が管轄している。
* [[鷹ノ巣駅]]
*: [[秋田内陸縦貫鉄道]]([[鷹巣駅]])と改札内を共用している。改札口は別れており、各社が管轄している。
* 赤湯駅
*: [[山形鉄道]]と共用。改札口ごとに各社が管轄している。
* [[今泉駅]]
*: 山形鉄道と共用。JR東日本が管轄している。
* 勝田駅
*: [[ひたちなか海浜鉄道]]と共用。JR東日本が管轄している。
* 下館駅
*: [[関東鉄道]]・[[真岡鐵道]]と共用。改札口ごとにJR東日本と関東鉄道が管轄している。
* 水戸駅
*: 鹿島臨海鉄道と共用。JR東日本が管轄している。
* 桐生駅
*: [[わたらせ渓谷鐵道]]と共用。JR東日本が管轄している。
* [[寄居駅]]
*: [[秩父鉄道]]・[[東武鉄道]]と共用。秩父鉄道が管轄している。
* 大原駅
*: [[いすみ鉄道]]と共用。JR東日本が管轄している。
* [[五井駅]]
*: [[小湊鐵道]]と共用。ただし構内は中間改札で別れている。JR東日本が管轄している。
* 銚子駅
*: [[銚子電気鉄道]]と共用。JR東日本が管轄している。
* [[北千住駅]]
*: 東武鉄道・東京地下鉄と共用。改札口ごとに各社が管轄している<ref group="注釈">東京地下鉄のうち[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]部分に関しては東武鉄道が管轄。</ref>。
* 高尾駅
*: [[京王電鉄]]と共用。ただし構内は中間改札で別れている。改札口ごとに各社が管轄している。
* [[厚木駅]]
*: [[小田急電鉄]]と共用。ただし構内は中間改札で別れている。小田急電鉄が管轄。
* [[鎌倉駅]]
*: [[江ノ島電鉄]]と共用。ただし構内は中間改札で別れている。改札口ごとに各社が管轄している。
* 八丁畷駅
*: [[京浜急行電鉄]]と共用。京浜急行電鉄が管轄。
* [[十日町駅]]
*: 北越急行と共用。ただし構内は中間改札で別れている。改札口ごとに各社が管轄している。
* 小諸駅
*: しなの鉄道と共用。しなの鉄道が管轄。
* 松本駅
*: [[アルピコ交通]]と共用。JR東日本が管轄。
== ダイヤ改正 ==
{{Main|JRダイヤ改正}}
JR東日本管内全域に及ぶダイヤ改正は、JR発足後から1993年までは他のJR各社に合わせて毎年3月にダイヤ改正を行っていたが、1994年は全国的なダイヤ改正がこの年に限り12月に実施され、1993年と1995年から2005年は12月にダイヤ改正を独自に実施していた(1997年・2003年・2004年は10月に実施)<ref>寺本光照『JR特急の四半世紀』([[イカロス出版]])p.42</ref>。2006年以降は一部(特に[[北海道旅客鉄道]]〈JR北海道〉、[[四国旅客鉄道]]〈JR四国〉)を除く{{Refnest|group="注釈"|JR北海道は10月にダイヤ改正を実施することが多かったが(2009年は3月、2010年は12月に実施)、2014年以降はほかのJR各社と同様に3月に実施している。JR四国は3月にダイヤ改正を実施することが多いが、年によっては実施しない場合もある。}}JR各社に合わせる形で毎年3月に実施している(ただし2011年は[[東日本大震災]]の影響で4月9日に延期した{{Refnest|group="注釈"|ただし東北新幹線は3月5日にJR他社に先駆けてダイヤ改正を行っていたため、これにはあたらない。}}。また2010年12月4日や2012年9月29日など、3月以外にもダイヤ改正を行った年がある)。
== 列車 ==
{{See also|Category:東日本旅客鉄道の列車}}
<!-- 記述を修正・変更された場合は、JR他社の記事の「列車」節も確認・修正してください。-->
JR東日本発足以降に同社の路線で運行されている、もしくはかつて運行されていた愛称付きの列車を挙げる(2023年6月12日時点、廃止列車は廃止時点)。種別が変更された列車は変更後のもので記載し、他社の車両による運行のものはその会社名も記載する。詳細は各列車の記事を参照。
<div style="float:left;width:50%">
=== 現行列車 ===
==== 新幹線 ====
* [[東北新幹線|東北]]・[[山形新幹線|山形]]・[[秋田新幹線]]
** [[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]](一部はJR北海道の車両)
** [[はやて (列車)|はやて]]
** [[やまびこ (列車)|やまびこ]](一部はJR北海道の車両を使用するが自社線内のみの運行)
** [[こまち (列車)|こまち]]
** [[つばさ (列車)|つばさ]]
** [[なすの (列車)|なすの]]
* [[上越新幹線]]
** [[とき (列車)|とき]]
** [[たにがわ (列車)|たにがわ]]
* [[北陸新幹線]]
** [[かがやき (列車)|かがやき]](一部はJR西日本の車両)
** [[はくたか]](一部はJR西日本の車両)
** [[あさま]](一部はJR西日本の車両を使用するが自社線内のみの運行)
==== 在来線 ====
* [[特別急行列車|特急列車]]
** [[つがる (列車)|つがる]](2010年 - 、秋田駅 - 青森駅間)
** [[いなほ (列車)|いなほ]]
** [[しらゆき (列車)|しらゆき]]
** [[日光 (列車)|日光]](臨時)
** [[日光 (列車)|スペーシア日光]](東武鉄道の車両)
** [[日光 (列車)|きぬがわ]]
** [[草津・四万]]
** [[あかぎ (列車)|あかぎ]]
** [[水上 (列車)|水上]](臨時)
** [[ひたち (列車)|ひたち]]
** [[ひたち (列車)|ときわ]]
** [[成田エクスプレス]]
** [[わかしお (列車)|わかしお]]
** [[さざなみ (列車)|さざなみ]]
** [[しおさい (列車)|しおさい]]
** [[あずさ (列車)|あずさ]]
** [[かいじ (列車)|かいじ]]
** [[富士回遊]]
** [[はちおうじ・おうめ|はちおうじ]]
** [[はちおうじ・おうめ|おうめ]]
** [[湘南 (列車)|湘南]]
** [[鎌倉 (列車)|鎌倉]](臨時)
** [[踊り子 (列車)|踊り子、サフィール踊り子]]
** [[おはようライナー (長野)|信州]](臨時)
** [[しなの (列車)|しなの]](JR東海の車両)
** [[サンライズ出雲]](JR東海・JR西日本)
** [[サンライズ瀬戸]](JR東海・JR西日本)
* (愛称付き)[[快速列車]]・[[普通列車]]
** [[高崎線#快速「アーバン」|アーバン]]
** [[宇都宮線#快速「ラビット」|ラビット]]
** [[むさしの号]]
** [[しもうさ号]]
** [[みすず (列車)|みすず]]
** [[あいづ]](2020年 - )
** [[べにばな (列車)|べにばな]]
** [[陸羽西線#快速「最上川」|最上川]]
** [[はまゆり (列車)|はまゆり]]
** [[リアス (列車)|リアス]]
** [[しもきた (列車)|しもきた]]
** [[ホリデー快速おくたま]]
** [[AIZUマウントエクスプレス]](会津鉄道の車両)
* [[観光列車]](のってたのしい列車)
** [[リゾートしらかみ]]
** [[リゾートビューふるさと]]
** [[SLぐんま よこかわ]]
** [[SLぐんま みなかみ]]
** [[SLばんえつ物語]]
** [[POKÉMON with YOU トレイン#ポケモントレイン気仙沼号|ポケモントレイン気仙沼号]]
** [[TOHOKU EMOTION]]
** [[おいこっと]]
** [[越乃Shu*Kura|越乃Shu*Kura、ゆざわShu*Kura、柳都Shu*Kura]]
** [[HIGH RAIL 1375|HIGH RAIL、HIGH RAIL 星空]]
** [[海里 (列車)|海里]]
** [[BOSO BICYCLE BASE|B.B.BASE内房、B.B.BASE外房、B.B.BASE銚子、B.B.BASE佐原]]
* [[団体専用列車]]・[[クルーズトレイン]]
** [[カシオペア (列車)#団体専用列車「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」|カシオペア紀行、カシオペアクルーズ]](臨時)
** [[TRAIN SUITE 四季島]]
** [[THE ROYAL EXPRESS]](伊豆急行の車両)
</div><div style="float:left;width:50%">
=== 廃止列車 ===
==== 新幹線 ====
* 東北・秋田新幹線
** [[やまびこ (列車)|あおば、Maxあおば]]
** [[やまびこ (列車)|Maxやまびこ]]
** [[なすの (列車)|Maxなすの]]
** [[こまち (列車)|スーパーこまち]]
* 上越・[[長野新幹線|長野]](現在は北陸新幹線に統一)新幹線
** [[とき (列車)|あさひ、Maxあさひ]]
** [[とき (列車)|Maxとき]]
** [[たにがわ (列車)|Maxたにがわ]]
** [[あさま|Maxあさま]](臨時)
** [[現美新幹線]]
==== 在来線 ====
* 特急列車
** [[スーパー白鳥|白鳥・スーパー白鳥]](「スーパー白鳥」はJR北海道、2002年 - 2010年は八戸駅 - [[函館駅]]間、2010年 - 2016年は新青森駅 - 函館駅間)
** [[はつかり (列車)|はつかり、スーパーはつかり]]
** [[たざわ (列車)|たざわ]](1982年 - 1996年は盛岡駅 - 秋田駅・青森駅間、1996年 - 1997年は秋田駅 - 青森駅間)
** [[たざわ (列車)|秋田リレー号]]
** [[つがる (列車)#特急「かもしか」|かもしか]]
** [[つがる (列車)#特急「つがる」(2010年12月3日以前)|つがる]](八戸駅 - 弘前駅・青森駅間、2002年 - 2010年)
** [[白鳥 (列車)|白鳥]](大阪駅 - 青森駅間、1961年 - 2001年)
** [[北越 (列車)|かがやき]](JR西日本)
** [[北越 (列車)|北越]]
** [[はくたか]](JR西日本・[[北越急行]])
** [[くびき野 (列車)|みのり]]
** [[あいづ|あいづ、ホリデーあいづ]]( - 2003年)
** [[あいづ|ビバあいづ、ホリデービバあいづ]]
** [[つばさ (列車)#在来線特急「つばさ」|つばさ]]
** [[成田エクスプレス|ウィングエクスプレス]]
** [[わかしお (列車)|ビューわかしお]]
** [[わかしお (列車)|おはようわかしお、ホームタウンわかしお]]
** [[さざなみ (列車)|ビューさざなみ]]
** [[さざなみ (列車)|おはようさざなみ、ホームタウンさざなみ]]
** [[しおさい (列車)|おはようしおさい、ホームタウンしおさい]]
** [[あやめ (列車)|すいごう]]
** [[あやめ (列車)|あやめ]]
** [[あやめ (列車)|ホームタウン佐倉]]
** [[あやめ (列車)|ホームタウン成田]]
** [[ひたち (列車)|スーパーひたち、フレッシュひたち]]
** [[ひたち (列車)|さわやかひたち、ホームタウンひたち]]
** [[ひたち (列車)|おはようフレッシュひたち、ウィークエンドフレッシュひたち]]
** [[おはようとちぎ・ホームタウンとちぎ|新特急なすの]]
** [[おはようとちぎ・ホームタウンとちぎ|おはようとちぎ、ホームタウンとちぎ]]
** [[日光 (列車)|スペーシアきぬがわ]](東武鉄道の車両)
** [[水上 (列車)|新特急谷川]]
** [[草津・四万|草津]]
** [[あかぎ (列車)|スワローあかぎ]]
** [[あかぎ (列車)|ウィークエンドあかぎ]]
** [[あさま]](一部はJR西日本の車両)
** [[あさま|そよかぜ]]
** [[あさま|白山]](JR西日本の車両)
** [[あずさ (列車)|スーパーあずさ]]
** [[かいじ (列車)#はまかいじ|はまかいじ]](臨時)
** [[踊り子 (列車)#リゾート踊り子|リゾート踊り子]](臨時・伊豆急行の車両)
** [[踊り子 (列車)#マリンエクスプレス踊り子|マリンエクスプレス踊り子]](臨時)
** [[踊り子 (列車)|スーパービュー踊り子]]
** [[東海 (列車)|(ワイドビュー)東海]](JR東海の車両)
** [[富士 (列車)|富士]]([[九州旅客鉄道|JR九州]]の車両)
** [[はやぶさ (列車)|はやぶさ]](JR九州の車両)
** [[はやぶさ (列車)#東京対鹿児島本線優等列車沿革|みずほ]](JR九州の車両)
** [[さくら (列車)|さくら]](JR九州の車両)
** [[あさかぜ (列車)|あさかぜ]](JR西日本の車両)
** [[サンライズ出雲|出雲]]
** [[サンライズ瀬戸|瀬戸]](JR西日本の車両)
** [[きたぐに (列車)#つるぎ|つるぎ]](JR西日本の車両)
** [[トワイライトエクスプレス]](臨時・JR西日本の車両)
** [[日本海 (列車)|日本海]]
** [[北陸 (列車)|北陸]]
** [[あけぼの (列車)|あけぼの]](1970年 - 1990年は奥羽本線経由、1990年 - 1997年は東北本線・陸羽東線・奥羽本線経由、1997年 - 2014年は高崎線・上越線・信越本線・羽越本線経由)
** [[あけぼの (列車)|出羽]]
** [[あけぼの (列車)|鳥海]]
** [[北斗星 (列車)|北斗星]](一部はJR北海道の車両)
** [[東北本線優等列車沿革|ゆうづる]]
** [[東北本線優等列車沿革|はくつる]]
** [[北斗星 (列車)|エルム]](臨時)
** [[カシオペア (列車)|カシオペア]](臨時)
* 急行列車
** [[只見線#冬季運休急行「奥只見」|奥只見]]
** [[くびき野 (列車)|とがくし]]
** [[くびき野 (列車)|南越後]]
** [[くびき野 (列車)|赤倉]]
** [[みすず (列車)|かもしか]]
** [[あさま|妙高]]
** [[ちくま (列車)|ちくま]](JR東海の車両)
** [[東北本線優等列車沿革|八甲田]]
** [[つがる (列車)|津軽]]
** [[あずさ (列車)|アルプス]]
** [[つばさ (列車)#奥羽本線昼行優等列車沿革|月山]]
** [[八幡平 (列車)|よねしろ]]
** [[はまゆり (列車)|陸中]]
** [[銀河 (列車)|銀河]](JR西日本の車両)
** [[能登 (列車)|能登]](JR西日本の車両)
** [[きたぐに (列車)|きたぐに]](JR西日本の車両)
** [[はまなす (列車)|はまなす]](JR北海道の車両)
* (愛称付き)快速列車・普通列車・[[ホームライナー]]
** [[東海道線 (JR東日本)#快速「アクティー」|アクティー]]
** [[湘南 (列車)|湘南ライナー]]
** [[湘南 (列車)|湘南新宿ライナー、おはようライナー新宿、ホームライナー小田原]]
** [[宇都宮線#通勤快速(旧称:快速「スイフト」)|スイフト]]
** [[ホームライナー古河・ホームライナー鴻巣]]
** [[高崎線#通勤快速(旧称:「タウン」)|タウン]]
** [[SLぐんま みなかみ|SLみなかみ]]
** [[SLぐんま よこかわ|SL碓氷]]
** [[フェアーウェイ (列車)|フェアーウェイ]](臨時)
** [[マリンブルーくじらなみ号]](臨時)
** [[ムーンライトえちご]](臨時)
** [[ムーンライトながら]](臨時)
** [[ムーンライト信州]](臨時)
** [[北越急行ほくほく線#超快速「スノーラビット」|スノーラビット]](北越急行の車両)
** [[信越 (列車)|おはよう信越、らくらくトレイン信越]]
** [[信越 (列車)|らくらくトレイン村上]]
** [[信越 (列車)|信越]]
** [[おはようライナー (長野)|おはようライナー]]
** [[くびき野 (列車)|信越リレー妙高]]
** [[くびき野 (列車)|妙高]]
** [[くびき野 (列車)|くびき野]]
** [[くびき野 (列車)|やひこ]]
** [[いなほ (列車)|せなみ]]
** [[むさしの号|こまちリレー号]]
** [[はちおうじ・おうめ|おはようライナー高尾、ホームライナー高尾]]
** [[はちおうじ・おうめ|おはようライナー青梅、ホームライナー青梅]]
** [[はちおうじ・おうめ|中央ライナー、青梅ライナー]]
** [[富士回遊|ホリデー快速富士山]](臨時)
** [[ホリデー快速ビューやまなし]](臨時)
** [[ホリデー快速おくたま|ホリデー快速あきがわ]]
** [[ぶらり横浜・鎌倉号]](臨時)
** [[ホリデー快速鎌倉]](臨時)
** [[ホームライナー|おはようライナー土浦、ホームライナー土浦]]
** [[エアポート常磐]](臨時)
** [[横須賀・総武快速線#エアポート成田|エアポート成田]]
** [[横須賀・総武快速線#ホームライナー|ホームライナー千葉]]
** [[横須賀・総武快速線#ホームライナー|おはようライナー津田沼、ホームライナー津田沼]]
** [[横須賀・総武快速線#ホームライナー|おはようライナー逗子、ホームライナー逗子]]
** [[京葉線#停車駅の変遷|マリンドリーム]]
** [[磐越東線|あぶくま]]
** [[磐越東線|いわき]](磐越東線)
** [[あがの (列車)|あがの]]
** [[あいづ|あいづライナー]]
** [[AIZUマウントエクスプレス|AIZU尾瀬エクスプレス]](会津鉄道の車両)
** [[仙台シティラビット]]
** [[仙石線#快速列車|うみかぜ]]
** [[仙山 (列車)|仙山・ホリデー仙山]]
** [[つばさ (列車)#奥羽本線昼行優等列車沿革|ざおう]]
** [[つばさ (列車)#奥羽本線昼行優等列車沿革|こまくさ]]
** [[羽越本線#地域輸送|こよし]]
** [[奥羽本線#運行形態|かまくら]]
** [[南三陸 (列車)|南三陸]]
** [[スーパードラゴン (列車)|むろね]]
** [[スーパードラゴン (列車)|スーパードラゴン]]
** [[陸羽東線|いでゆ]]
** [[陸羽東線|湯けむり]]
** [[北上線|きたかみ]]
** [[東北本線#快速「アテルイ」|アテルイ]]
** [[八幡平 (列車)|八幡平]]
** [[しもきた (列車)|うそり]]
** [[しもきた (列車)|なつどまり]]
** [[しもきた (列車)|うみねこ]]
** [[八戸線|こはく]]
** [[つがる (列車)#奥羽本線秋田駅 - 青森駅間昼行優等列車沿革|しらかみ]]
** [[つがる (列車)#奥羽本線秋田駅 - 青森駅間昼行優等列車沿革|しらゆき]](奥羽本線)
** [[つがる (列車)#奥羽本線秋田駅 - 青森駅間昼行優等列車沿革|いわき]](奥羽本線)
** [[深浦 (列車)|深浦]]
** [[海峡 (列車)|海峡]](JR北海道の車両)
* 観光列車
** [[きらきらうえつ]]
** [[きらきらみちのく]]
** [[リゾートみのり]]
** [[リゾートやまどり]]
** [[リゾートうみねこ]]
** [[伊豆クレイル]]
** [[とれいゆ つばさ]]
** [[SL銀河]]
** [[リゾートあすなろ]]
** [[フルーティアふくしま]]
</div>{{Clear}} <!--このclearを消すと表示が乱れます。-->
=== 車内販売 ===
2023年10月時点で、以下の列車において[[車内販売]]の営業を行っている<ref group="注釈">以下に例示する列車も一部で営業しない場合がある。</ref><ref name="jrescabout">{{Cite web|和書|url=https://www.jresc.co.jp/service.html#train |title=私たちのサービス |publisher=株式会社JR東日本サービスクリエーション |accessdate=2022-04-06}}</ref><ref name="jre20150116">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150110.pdf|format=PDF |title=一部の新幹線・在来線特急列車の車内販売サービスと新幹線「グリーンアテンダント」によるサービスの終了について|publisher=東日本旅客鉄道株式会社|date=2019-01-16 |accessdate=2019-12-26}}</ref><ref name="hokurikutrainsale">{{Cite web|和書|url=https://www.jr-odekake.net/railroad/service/train-sale.html#hokuriku |title=車内販売のご案内:JRおでかけネット |publisher=西日本旅客鉄道株式会社 |accessdate=2019-12-26}}</ref>。
車内販売では、[[電子マネー]]「[[Suica]]」「[[PASMO]]」「[[Kitaca]]」「[[TOICA]]」「[[manaca]]」「[[ICOCA]]」「[[SUGOCA]]」「[[nimoca]]」「[[はやかけん]]」が使用可能。従来普通列車のグリーン車では利用できなかったが、2018年2月3日より[[常磐線]]で、2019年5月29日より[[横須賀・総武快速線|横須賀線(湘南新宿ライン除く)・総武快速線]]で、同年6月5日より[[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]]、[[宇都宮線]]([[東北本線]])、[[高崎線]]、[[上越線]]、[[両毛線]]、[[上野東京ライン]]、[[湘南新宿ライン]]で利用可能となった<ref name="jrenre20190528">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190528_ho02.pdf|format=PDF |title=首都圏の普通列車グリーン車全線の車内販売に交通系電子マネー決済サービスを導入!|publisher=東日本旅客鉄道株式会社・株式会社日本レストランエンタプライズ|date=2019-05-28 |accessdate=2019-12-26}}</ref>。
* [[新幹線]] - シートサービスのみ営業する一部の列車を除き、[[グランクラス]]車両を連結した列車にはグランクラスアテンダントが乗務する<ref name="jrescabout" />。
** [[東北新幹線]](「[[やまびこ (列車)|やまびこ]]」「[[なすの (列車)|なすの]]」除く)<ref group="注釈">「[[こまち (列車)|こまち]]」は東京駅 - 盛岡駅間のみ営業。</ref>
** [[山形新幹線]]([[山形駅]] - [[新庄駅]]間除く)
** [[上越新幹線]]「[[とき (列車)|とき]]」
** [[北陸新幹線]]「[[かがやき (列車)|かがやき]]」「[[はくたか]]」:東京駅 - 金沢駅間
* [[特別急行列車|特急]]
** 「[[あずさ (列車)|あずさ]]」
** 「[[ひたち (列車)|ひたち]]」
** 「[[踊り子 (列車)|サフィール踊り子]]」
* “のってたのしい列車”(観光列車)
** 「[[POKÉMON with YOU トレイン|ポケモントレイン気仙沼号]]」
** 「[[リゾートビューふるさと]]」
** 「[[おいこっと]]」
** 「[[TOHOKU EMOTION]]」
** 「[[越乃Shu*Kura]]」
** 「[[SLばんえつ物語]]」
** 「[[フルーティアふくしま]]」
** 「[[海里 (列車)|海里]]」
** 「[[HIGH RAIL 1375|HIGH RAIL・HIGH RAIL 星空]]」
* [[普通列車]]グリーン車 - グリーンアテンダントのみが乗務する。このため、下記線区であってもグリーン車がついていない列車(常磐線快速でE231系充当の列車、千葉地区の普通列車など)では営業がない。
** 東海道本線、[[伊東線]]、宇都宮線(東北本線)、高崎線、上越線、両毛線、常磐線、上野東京ライン、湘南新宿ライン
** [[横須賀・総武快速線|横須賀線・総武快速線]]、[[総武本線]]、[[成田線]]、[[内房線]]、[[外房線]]
==== 車内販売の受託業者 ====
{{Main|日本レストランエンタプライズ}}
JR東日本の車内販売は、長らく完全子会社の「株式会社[[日本レストランエンタプライズ]]」により運営されていた<ref name="nreabout">[https://www.nre.co.jp/company/tabid/322/Default.aspx 会社概要|会社案内|NRE 株式会社日本レストランエンタプライズ]</ref>が、2019年7月1日より同じく東日本旅客鉄道の完全子会社である<ref group="注釈">ただし設立された2019年4月1日から同年6月30日までは株式会社日本レストランエンタプライズの完全子会社だった。</ref>「株式会社[[JR東日本サービスクリエーション]]」<ref name="jrescabout" /><ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190506.pdf|title=「移動空間の価値向上」を実現する新会社の事業開始について |date=2019-05-08|accessdate=2019-05-08}}</ref>が担当している。なお、以前は「[[聚楽ティ・エス・エス]]株式会社」<ref name="聚楽" group="注釈">日本レストランエンタプライズと[[聚楽]]の合弁会社。</ref>や「株式会社[[エヌアールイー越川]]」<ref name="越川" group="注釈">設立当初より日本レストランエンタプライズが出資している。</ref>、「[[北陸トラベルサービス]]」なども参画していた<ref name="nreabout" /><ref>{{Cite news|url=https://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20140925305.htm|title=JR東子会社が金沢営業支店 「はくたか」の車内販売|newspaper=北國・富山新聞ホームページ|publisher=北國新聞社|date=2014-09-25|accessdate=2015-11-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150402122151/http://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20140925305.htm |archivedate=2015-04-02 |deadlinkdate=2015年11月 }}</ref>が、吸収合併や事業継承などにより、2014年10月の北陸トラベルサービスからの事業継承後から2019年7月のJR東日本サービスクリエーションへの事業譲渡までは日本レストランエンタプライズが単独で車内販売を行っていた<ref name="nreabout" />。
==== 車内販売の縮小 ====
2015年以降、JR東日本では車内販売の利用減少を理由に車内販売を縮小させている<ref name="jre20150116" />。2015年3月13日をもって「なすの」「たにがわ」「Maxたにがわ」「つばさ」の山形駅以北・「フレッシュひたち」「成田エクスプレス」での車内販売を取りやめた<ref name="jre20150116" />。次いで、2019年3月15日をもって「踊り子」「日光」「きぬがわ」「スペーシアきぬがわ」「草津」「いなほ」の酒田駅以北での営業、ならびに「かがやき」「はくたか」を除く全ての車内販売がある新幹線列車と「あずさ」「かいじ」「ひたち」「スーパービュー踊り子」「いなほ」の酒田駅以南での弁当・軽食類(サンドウィッチ類)やデザート類、お土産類、雑貨類の販売を取りやめた<ref name="jre20190218">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/20190222.pdf|format=PDF |title=新幹線・在来線特急列車の車内販売サービスの一部列車の終了と取扱品目の見直しについて|publisher=東日本旅客鉄道株式会社|date=2019-02-18 |accessdate=2019-12-26}}</ref>。さらに、同年6月30日をもって「かがやき」「はくたか」でも弁当・軽食類(サンドウィッチ類)やデザート類、お土産類、雑貨類の販売を取りやめたほか、新幹線・特急の車内販売がある全列車でホットコーヒーの販売を取りやめた<ref name="jre20190524">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190528_ho04.pdf |format=PDF |title=新幹線・在来線特急列車の車内販売サービスの取扱品目の見直しについて|publisher=東日本旅客鉄道株式会社|date=2019-05-24 |accessdate=2019-12-26}}</ref>。
一方、乗客からの要望があることから、2022年7月8日より上越新幹線で、2022年10月7日より北陸新幹線で、2022年11月1日より東北新幹線で、ホットコーヒーの販売を再開している<ref name="jresc20220701">{{Cite web|和書|url=https://www.jresc.co.jp/pdf/20220701.pdf |format=PDF |title=上越新幹線におけるホットコーヒーの試行販売について|publisher=東日本旅客鉄道株式会社|date=2022-07-01 |accessdate=2023-02-16}}</ref><ref name="jresc20221005">{{Cite web|和書|url=https://www.jresc.co.jp/pdf/20221005.pdf |format=PDF |title=東北新幹線・上越新幹線・北陸新幹線でホットコーヒーを販売します|publisher=東日本旅客鉄道株式会社|date=2022-10-05 |accessdate=2023-02-16}}</ref>。アイスクリーム等の要望の多い商品の販売線区の拡大も検討していくとしている。
== 車両 ==
{{See also|JR東日本の車両形式}}
[[ファイル:JR東日本在来線.jpg|thumb|首都圏の在来線に導入された[[JR東日本E235系電車|E235系]]・[[JR東日本E231系電車|E231系]]・[[JR東日本E233系電車|E233系]]等の車両群。]]
[[ファイル:JR East Shinkansen lineup at Niigata Depot 201210.jpg|thumb|JR東日本の新幹線車両。]]
=== 特徴 ===
1994年10月より自社で新津車両製作所<!--(のちの総合車両製作所新津事業所)直後でも解説しており過剰-->という車両製作部門を保有し、2012年4月2日には[[東京急行電鉄]]傘下の[[東急車輛製造]]から鉄道車両製造事業を組み入れ、[[総合車両製作所]]とするなど、車両製造には力を入れており、国鉄からの承継車両および分割民営化直後に製造され経年の進んだ車両の置き換えが進められている。2014年4月1日には会社分割により、新津車両製作所を[[総合車両製作所新津事業所]]とした。
総合車両製作所発足後は、JR東日本の[[在来線]][[通勤形車両 (鉄道)|通勤]]・[[近郊形車両|近郊形]][[電車]]は[[日立製作所笠戸事業所|日立製作所]]製の[[JR東日本EV-E801系電車|EV-E801系]]蓄電池駆動電車を除き総合車両製作所<ref group="注釈">ただし、総合車両製作所新津事業所は2014年3月まではJR東日本新津車両製作所。</ref>で製造されているが、[[新幹線車両]]は[[川崎車両]]・日立製作所での製造が継続している。また在来線[[特急形車両]]ではデザインを主体に携わっていたことから[[近畿車輌]]でも[[JR東日本E657系|E657系]]まで製造を担当していた。なお、[[東京モノレール]]の[[モノレール]]車両はJR東日本傘下入り後も日立製作所のみで製造している。
新型の車両群は[[コンピュータ]]による集中管理・制御装置([[TIMS]])などを装備し、動作状況や運行管理の常時集中監視を可能としている。またこれらの車両群のうち、[[電気車の速度制御#VVVF|在来線用電車の主制御装置]]は一部を除き[[通勤形車両 (鉄道)|通勤型車両]]では[[三菱電機]]製、近郊形・特急形車両では[[日立製作所]]製を採用している<ref group="注釈">機器更新車はすべて三菱電機製を採用している。</ref>。
[[気動車]]用のエンジンでは、当初は[[新潟鐵工所]](DMF13HZ)、[[小松製作所]](コマツ、DMF11HZ)、[[カミンズ]](DMF14HZ)の3社が採用され、その後はカミンズ製のみとなっていたが、2007年のキハE130系以降の車両は[[JR東海キヤ97系気動車#キヤE195系気動車|キヤE195系]]を除き、すべてコマツ製(ただし、DMF11HZではなく、DMF15HZが採用されている)を搭載している。また、1988年3月の[[サロンエクスプレスアルカディア]]の車両火災事故を受けて、当時所有していた[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]など[[DMH17系エンジン]]を搭載していた車両に対して新型エンジンへの換装も実施されている。
なお、JR東日本は2022年時点でJR旅客6社では唯一[[鉄道車両の座席#転換式クロスシート(転換腰掛)|転換クロスシート]]を有した車両を保有していない。過去には特急形車両である[[国鉄185系電車|185系電車]]や[[急行形車両]]{{Refnest|group="注釈"|165・169系電車やキハ58系気動車の一部で転換クロスシートに交換した車両が存在した。}}において転換クロスシート車を保有していたが座席交換や廃車などにより消滅した。なお、一般形(近郊形)車両においては転換クロスシート車を保有した実績がない{{Refnest|group="注釈"|この理由としては、混雑緩和を優先したこと、着席定員の増加にはボックスシートの方が有利なこと、混雑の少ない地方線区における快適性向上には回転リクライニングシートを備えた快速列車を導入する方針をとっていること、回転リクライニングシートを備えた普通列車グリーン車が首都圏では充実していることが挙げられている<ref>[https://merkmal-biz.jp/post/10308 快適なのになぜ? JR東日本が「転換クロスシート」の車両を導入しない理由] - Merkmal(2022年5月8日)、2022年5月13日閲覧</ref>。}}。ただし、JR東日本の路線には、JR東海保有の[[国鉄213系電車|213系電車]]や[[JR東海313系電車|313系電車]]といった他社の転換クロスシート装備車が乗り入れている。過去には転換クロスシートを装備したJR北海道保有の[[国鉄50系客車|50系客車]]が快速「[[海峡 (列車)|海峡]]」で乗り入れていたことがある。
JR旅客他社への乗り入れは、新幹線車両はJR西日本、JR北海道に、在来線車両はJR東海に乗り入れている。自社エリア以外の都道府県では、新幹線が[[富山県]]、[[石川県]]、[[北海道]]に、在来線が[[岐阜県]]に乗り入れている<!--在来線は静岡県に自社線区(伊東線)あり-->。JR旅客6社で自社車両が乗り入れる自社エリア以外の都道府県の数はJR四国に次いで少ない。ただし定期運行を行わない在来線車両は[[TRAIN SUITE 四季島|E001形]](TRAIN SUITE 四季島)がJR北海道に乗り入れる。
=== 普通列車用 ===
旧国鉄から大量に引き継いだ[[国鉄103系電車|103系]]は2009年10月に最後まで残った[[仙石線]]を含めすべての運用を終了し、他の旧国鉄型車両を中心とする老朽車両も首都圏では順次[[JR東日本E231系電車|E231系]]、[[JR東日本E233系電車|E233系]]、[[JR東日本E531系電車|E531系]]などを導入して淘汰を進めている一方で、程度の良い車両は他地域の経年車両の置き換えに充てている([[JR東日本209系電車|209系]]、[[国鉄211系電車|211系]]など)。これは、国鉄時代には車両置き換えに際して東京・大阪の大都市圏を優先し、経年車両の置き換えに際しては比較的程度がよい車両を地方に転用させていて、JR発足後もこの体制を維持しているためである。
電車では、1990年代まで普通列車用車両の用途別の区分は[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形]]と[[近郊形車両|近郊形]]に二分されていたが、2000年に営業運用を始めたE231系で初めて通勤形と近郊形の形式上の区別を廃止し<ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/development/tech/pdf_8/Tech-no.8-11-17.pdf JR東日本の通勤電車の開発経緯]}} - 東日本旅客鉄道</ref>、「[[一般形車両 (鉄道)|一般形]]」に統一している<ref>イカロス出版『E231/E233 Hyper Detail』p. 108</ref><ref>交友社『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』No.539 p.36</ref><ref>鉄道ジャーナル社『[[鉄道ジャーナル]]』No.403 p.72</ref><ref>鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』No.492 p.33</ref><ref>鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』No.517 p.46</ref><ref>鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』No.547 p.22</ref>{{Refnest|group="注釈"|元来「一般形」の区分は普通列車での使用が主目的となる気動車と客車に対して使われた区分であり、国鉄の定義では客室に出入口を有し、横型(ロングシート)及び縦型腰掛(クロスシート)を備え、通勤輸送に適した性能を有する車両形式のものと規程されている。気動車については名目上、通勤形や近郊形と称した車両も製作されているが、実際の運用では使用の区別が明確でなく(国鉄時代の液体式気動車は特急形を除いて互換性が重視されていた)、通勤形・近郊形も含まれる概念となり、慣例的に一般形に区分していた<ref>石井幸孝『キハ47物語』(JTBパブリッシング)p.36 - 37</ref>。客車では[[国鉄50系客車|50系]]客車は名目上は通勤用であるが、地方での需要に反映してセミクロスシートにしたため、「通勤形でも近郊形でもない」(国鉄時代は通勤形はロングシートと規程されていた)ことからこちらも一般形に区分されている<ref>岡田直明・谷雅夫『新版 国鉄客車・貨車ガイドブック』(誠文堂新光社)p.28、p.48</ref>。なお、[[旧型客車]]のことを国鉄の現場では「一般形客車」(「在来形客車」とも)と呼称していたが、旧型客車が製造された時代の時点での規程では存在しないため、正式に分類したものではない <ref>[[岡田誠一 (鉄道研究家)|岡田誠一]]『国鉄鋼製客車I』(JTBパブリッシング)p.239</ref><ref>[[ネコ・パブリッシング]]『Rail Magazine』No.336 p.9</ref>。詳細は「[[一般形車両 (鉄道)]]」「[[普通列車#使用車両]]」を参照。}}。詳細は「[[一般形車両 (鉄道)#一般形電車の登場とその後]]」を参照。
同社の都市圏内輸送用の一般形車両は、従来の車両から設計や製作手法を大幅に見直し、製造コストの低減を図った経済車をベースにしたものである。これは時代の趨勢をサービス提供に即座に反映する目的から、車両置き換えサイクルを短く設定するための手法で、1992年(平成4年)の京浜東北線[[JR東日本209系電車|901系(後の209系)]]を嚆矢とする。この設計指向は同社のみならず一部の関東地区他社局車両にも取り入れられ、E231系やE233系の基本設計などは他社局の複数の車両に採用例があり、車両の製作コストの削減にも寄与している。
通勤圏の拡大に伴い、近郊路線にも混雑緩和のためロングシート車を投入し、1列車あたりの収容力向上を図った。この方針は地方路線にも波及し、収容力向上とあわせ車両所要数の適正化を図っている。一方、非電化線区では輸送量が小さいこともあり、気動車では[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40系]]の一部がロングシート化されたほかは左沢線用の[[JR東日本100系気動車|キハ101形]]と久留里線用の[[JR東日本キハE130系気動車|キハE130系]]100番台のみにとどまっている。ただ、地方路線にまで投入するという極端なロングシート化は行き過ぎであったこともあってか、2000年代後半以降、地方路線においてはセミクロスシート車主体に再び回帰しつつある(701系→[[JR東日本E721系電車|E721系]]の流れがその一例。209系の房総地区転用時も一部をセミクロスシートに改造している)。
=== 優等列車・新幹線用 ===
特急形車両は、使用路線ごとに仕様を特化した車両を導入する当初の方針から、設計を共通化し汎用的な使用を可能とする方針に転換しつつある。これは[[新幹線車両]]も同様で、線区によって使用車両を統一するという方針のもと、1990年代後半以降はフル規格の[[新幹線E2系電車|E2系]]・[[新幹線E7系電車|E7系]]、ミニ新幹線の[[新幹線E3系電車|E3系]]を中心に導入している。また2023年時点では、定期運転の気動車特急を設定していないため、JR旅客6社で唯一特急形気動車を保有していない{{Refnest|group="注釈"|発足当初は[[九州旅客鉄道|JR九州]]も未保有であった。気動車特急車両は田沢湖線改軌工事による特急「たざわ」の代替用として設定された特急「秋田リレー」用として[[JR東日本キハ100系気動車|キハ110形]]300番台を製造したのが唯一の例である。なおこの車両は当該列車運用終了後、改造工事を受けたのち一般車として同系式200番台に改番されて現在も使用されている。}}。
なお、特急形車両の車体は普通鋼または[[アルミニウム合金製の鉄道車両|アルミ合金]]を使用することが多く、JR他社と比べて特急形への[[ステンレス鋼|ステンレス]]車体の使用例が少ないため、形式全車での採用は[[JR東日本E26系客車|E26系客車]]のみとなっている{{Refnest|group="注釈"|形式の一部車両での使用は「[[TRAIN SUITE 四季島]]」のE001形の5-7号車の例がある。}}。
特急形車両の[[グリーン車]]は、JR発足後の車両では2+1人掛けの3列配置とし、他のJR各社も追随したが、[[JR東日本255系電車|255系電車]]以降の車両では一部を除いて2+2人掛けの4列配置となっている。これは首都圏ではグリーン車の利用が多いことから定員確保を重視したものとされる<ref>電気車研究会『[[鉄道ピクトリアル]]』No.879 p.18</ref>。
=== バス ===
BRT区間用の大型路線バス車両は、[[日野自動車]]・[[いすゞ自動車]]から購入した[[ハイブリッドカー|ハイブリッド]][[ノンステップバス]]に統一されている。
BRTの運行開始時には首都圏事業者から購入した中古バスも使用されていたが、2019年に全廃された。
== 現業機関 ==
=== 車両基地 ===
{{Main|日本の車両基地一覧#東日本旅客鉄道}}
=== 車両工場 ===
* 在来線工場
** [[秋田総合車両センター]]「AT」(東北本部・旧土崎工場「TZ」)
** [[郡山総合車両センター]]「KY」(東北本部・旧郡山工場)
** [[大宮総合車両センター]]「OM」(首都圏本部・旧大宮工場)
** [[東京総合車両センター]]「TK」(首都圏本部・旧大井工場「OY」)
** [[長野総合車両センター]]「NN」(首都圏本部・旧長野工場)
* 新幹線工場
** [[新幹線総合車両センター]]「SD」(新幹線統括本部・旧仙台工場)
== 運賃 ==
大人普通旅客[[運賃]](小児半額・10円未満の端数切り下げ)。2019年(令和元年)10月1日改定<ref name="fare">{{Cite press release |title=2019年10月1日消費税率引上げに伴う運賃・料金改定のご案内 |publisher=東日本旅客鉄道 |language=ja |date=2019年10月1日 |url=https://www.jreast.co.jp/consumption-tax2019/pdf/consumptiontax2019.pdf |format=PDF |accessdate=2021-3-12}}</ref>。山手線内・電車特定区間は2023年(令和5年)3月18日改定(鉄道駅バリアフリー料金を加算)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/unchin-kaitei/ |title=「普通乗車券」と「通勤定期券」の運賃改定のお知らせ |access-date=2023-08-06 |publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* 山手線内及び電車特定区間の運賃額は[[鉄道駅バリアフリー料金制度|鉄道駅バリアフリー料金]]10円を含む。
* [[幹線]]と[[地方交通線]]を跨ぐ場合、10kmまでは地方交通線の運賃を適用する。11kmからは幹線の営業キロと地方交通線の換算キロを合算し、幹線の運賃を適用する。
* 山手線内と[[電車特定区間]]を跨ぐ場合、電車特定区間の運賃を適用する。電車特定区間と幹線を跨ぐ場合、幹線の運賃を適用する。
* [[特定都区市内]]である[[特定都区市内#設定区域一覧|仙台市内、東京都区内、横浜市内]]にある駅と、中心駅から片道の営業キロが200kmを超える駅との相互間の片道普通旅客運賃は、中心駅を起点または終点とした営業キロまたは運賃計算キロによって計算する。
** 仙台市内の中心駅は[[仙台駅]]である。
** 東京都区内の中心駅は[[東京駅]]である。
** 横浜市内の中心駅は[[横浜駅]]である。[[川崎駅]]、[[尻手駅]]は[[川崎市]][[幸区]]に、[[八丁畷駅]]、[[川崎新町駅]]、[[小田栄駅]]、[[浜川崎駅]]、[[武蔵白石駅]]、[[昭和駅]]、[[扇町駅 (神奈川県)|扇町駅]]、[[大川駅]]は川崎市[[川崎区]]にあるが、「横浜市内」として扱う。
* [[東京山手線内]]にある駅と、東京駅から片道の営業キロが100kmを超え200km以下となる駅との相互間の片道普通旅客運賃は、東京駅を起点または終点とした営業キロまたは運賃計算キロによって計算する。
* 100キロ以下の運賃はきっぷ利用時の運賃(きっぷ運賃)と[[ICカード]]利用時の運賃(IC運賃)と分けられている。
** 山手線内及び電車特定区間のきっぷ運賃は、IC運賃を10円単位で切り上げた運賃としている。
** 幹線及び地方交通線のきっぷ運賃は、IC運賃を10円単位で四捨五入した運賃としている。
* 401km以上の幹線運賃は公式サイトを参照のこと。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;margin-left:3em;font-size:70%;"
|-
! colspan="3" rowspan="2" style="text-align:center;" | 山手線内
! colspan="5" style="text-align:center;" | 電車特定区間
! colspan="5" style="text-align:center;" | 幹線
! colspan="5" style="text-align:center;" | 地方交通線
|-
! colspan="3" |100キロ以下
! colspan="2" |101キロ以上
! colspan="3" |100キロ以下
! colspan="2" |101キロ以上
! colspan="3" |100キロ以下
! colspan="2" |101キロ以上
|-
! rowspan="2" | キロ程 !! colspan="2" | 運賃(円) !! rowspan="2" | キロ程 !! colspan="2" | 運賃(円) !! rowspan="2" | キロ程 !! rowspan="2" | 運賃<br/>(円)
! rowspan="2" | キロ程 !! colspan="2" | 運賃(円) !! rowspan="2" | キロ程 !! rowspan="2" | 運賃<br/>(円)
! rowspan="2" | キロ程 !! colspan="2" | 運賃(円) !! rowspan="2" | キロ程 !! rowspan="2" | 運賃<br/>(円)
|-
!きっぷ
!IC
!きっぷ
!IC
!きっぷ
!IC
!きっぷ
!IC
|-
|初乗り3km|| style="text-align:right;" |150
| style="text-align:right;" |146
|初乗り3km|| style="text-align:right;" |150
| style="text-align:right;" |146||101 - 120|| style="text-align:right;" |1,880
|初乗り3km|| style="text-align:right;" |150
| style="text-align:right;" |147||101 - 120|| style="text-align:right;" |1,980
|初乗り3km|| style="text-align:right;" |150
| style="text-align:right;" |147||101 - 110|| style="text-align:right;" |1,980
|-
|4 - 6|| style="text-align:right;" |170
| style="text-align:right;" |167
|4 - 6|| style="text-align:right;" |170
| style="text-align:right;" |167||121 - 140|| style="text-align:right;" |2,210
|4 - 6|| style="text-align:right;" |190
| style="text-align:right;" |189||121 - 140|| style="text-align:right;" |2,310
|4 - 6|| style="text-align:right;" |190
| style="text-align:right;" |189||111 - 128|| style="text-align:right;" |2,310
|-
|7 - 10|| style="text-align:right;" |180
| style="text-align:right;" |178
|7 - 10|| style="text-align:right;" |180
| style="text-align:right;" |178||141 - 160|| style="text-align:right;" |2,540
|7 - 10|| style="text-align:right;" |200
| style="text-align:right;" |199||141 - 160|| style="text-align:right;" |2,640
|7 - 10|| style="text-align:right;" |210
| style="text-align:right;" |210||129 - 146|| style="text-align:right;" |2,640
|-
|11 - 15|| style="text-align:right;" |210
| style="text-align:right;" |208
|11 - 15|| style="text-align:right;" |230
| style="text-align:right;" |230||161 - 180|| style="text-align:right;" |2,870
|11 - 15|| style="text-align:right;" |240
| style="text-align:right;" |242||161 - 180|| style="text-align:right;" |3,080
|11 - 15|| style="text-align:right;" |240
| style="text-align:right;" |242||147 - 164|| style="text-align:right;" |3,080
|-
|16 - 20|| style="text-align:right;" |280
| style="text-align:right;" |274
|16 - 20|| style="text-align:right;" |320
| style="text-align:right;" |318||181 - 200|| style="text-align:right;" |3,200
|16 - 20|| style="text-align:right;" |330
| style="text-align:right;" |330||181 - 200|| style="text-align:right;" |3,410
|16 - 20|| style="text-align:right;" |330
| style="text-align:right;" |330||165 - 182|| style="text-align:right;" |3,410
|-
|21 - 25|| style="text-align:right;" |360
| style="text-align:right;" |351
|21 - 25|| style="text-align:right;" |410
| style="text-align:right;" |406||201 - 220|| style="text-align:right;" |3,530
|21 - 25|| style="text-align:right;" |420
| style="text-align:right;" |418||201 - 220|| style="text-align:right;" |3,740
|21 - 23|| style="text-align:right;" |420
| style="text-align:right;" |418||183 - 200|| style="text-align:right;" |3,740
|-
|26 - 30|| style="text-align:right;" |430
| style="text-align:right;" |428
|26 - 30|| style="text-align:right;" |490
| style="text-align:right;" |483||221 - 240|| style="text-align:right;" |3,860
|26 - 30|| style="text-align:right;" |510
| style="text-align:right;" |506||221 - 240|| style="text-align:right;" |4,070
|24 - 28|| style="text-align:right;" |510
| style="text-align:right;" |506||201 - 219|| style="text-align:right;" |4,070
|-
|31 - 35|| style="text-align:right;" |500
| style="text-align:right;" |494
|31 - 35|| style="text-align:right;" |580
| style="text-align:right;" |571||241 - 260|| style="text-align:right;" |4,190
|31 - 35|| style="text-align:right;" |590
| style="text-align:right;" |594||241 - 260|| style="text-align:right;" |4,510
|29 - 32|| style="text-align:right;" |590
| style="text-align:right;" |594||220 - 237|| style="text-align:right;" |4,510
|-
| colspan="3" rowspan="9" |
|36 - 40|| style="text-align:right;" |660
| style="text-align:right;" |659||261 - 280|| style="text-align:right;" |4,520
|36 - 40|| style="text-align:right;" |680
| style="text-align:right;" |682||261 - 280|| style="text-align:right;" |4,840
|33 - 37|| style="text-align:right;" |680
| style="text-align:right;" |682||238 - 255|| style="text-align:right;" |4,840
|-
|41 - 45|| style="text-align:right;" |740
| style="text-align:right;" |736||281 - 300|| style="text-align:right;" |4,850
|41 - 45|| style="text-align:right;" |770
| style="text-align:right;" |770||281 - 300|| style="text-align:right;" |5,170
|38 - 41|| style="text-align:right;" |770
| style="text-align:right;" |770||256 - 273|| style="text-align:right;" |5,170
|-
|46 - 50|| style="text-align:right;" |830
| style="text-align:right;" |824||301 - 320|| style="text-align:right;" |5,180
|46 - 50|| style="text-align:right;" |860
| style="text-align:right;" |858||301 - 320|| style="text-align:right;" |5,500
|42 - 46|| style="text-align:right;" |860
| style="text-align:right;" |858||274 - 291|| style="text-align:right;" |5,500
|-
|51 - 60|| style="text-align:right;" |950
| style="text-align:right;" |945||321 - 340|| style="text-align:right;" |5,510
|51 - 60|| style="text-align:right;" |990
| style="text-align:right;" |990||321 - 340|| style="text-align:right;" |5,720
|47 - 55|| style="text-align:right;" |990
| style="text-align:right;" |990||292 - 310|| style="text-align:right;" |5,720
|-
|61 - 70|| style="text-align:right;" |1,110
| style="text-align:right;" |1,110||341 - 360|| style="text-align:right;" |5,730
|61 - 70|| style="text-align:right;" |1,170
| style="text-align:right;" |1,166||341 - 360|| style="text-align:right;" |6,050
|56 - 64|| style="text-align:right;" |1,170
| style="text-align:right;" |1,166|| colspan="2" rowspan="5" |
|-
|71 - 80|| style="text-align:right;" |1,280
| style="text-align:right;" |1,275||361 - 380|| style="text-align:right;" |5,950
|71 - 80|| style="text-align:right;" |1,340
| style="text-align:right;" |1,342||361 - 380|| style="text-align:right;" |6,380
|65 - 73|| style="text-align:right;" |1,340
| style="text-align:right;" |1,342
|-
|81 - 90|| style="text-align:right;" |1,460
| style="text-align:right;" |1,451||381 - 400|| style="text-align:right;" |6,280
|81 - 90|| style="text-align:right;" |1,520
| style="text-align:right;" |1,518||381 - 400|| style="text-align:right;" |6,600
|74 - 82|| style="text-align:right;" |1,520
| style="text-align:right;" |1,518
|-
|91 - 100|| style="text-align:right;" |1,620
| style="text-align:right;" |1,616|| colspan="2" rowspan="2" |
|91 - 100|| style="text-align:right;" |1,690
| style="text-align:right;" |1,694|| colspan="2" rowspan="2" |
|83 - 91|| style="text-align:right;" |1,690
| style="text-align:right;" |1,694
|-
| colspan="3" | || colspan="3" | ||92 - 100|| style="text-align:right;" |1,880
| style="text-align:right;" |1,881
|}
=== 特定区間運賃 ===
* 東海道本線、横須賀線、中央線、青梅線、総武線、常磐線及び成田線の一部区間は、私鉄路線と競合するため、幹線運賃より低廉な特定区間運賃が設定されている。
** 特定運賃区間内にある任意の2駅間を利用する場合で、乗降する区間の通常運賃(幹線運賃など)が特定区間運賃より高くなった場合にも、特定区間運賃が採用される。
** ()内はICカード利用時の運賃である。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;margin-left:3em;"
|-
! 区間 !! 営業距離 !! 正規運賃 !! 特定区間運賃
|-
|[[東京駅]] - [[西船橋駅]]
|20.6km
|410円(406円)
|'''320円(318円)'''
|-
|[[上野駅]] - [[成田駅]]
|66.4km
|1,170円(1,166円)
|'''940円(935円)'''
|-
|[[新宿駅]] - [[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]
|42.8km
|740円(736円)
|'''580円(571円)'''
|-
|新宿駅 - [[八王子駅]]
|37.1km
|660円(659円)
|'''500円(492円)'''
|-
|新宿駅 - [[拝島駅]]
|34.1km
|580円(571円)
|'''490円(483円)'''
|-
|[[渋谷駅]] - [[吉祥寺駅]]
|15.6km
|320円(318円)
|'''230円(230円)'''
|-
|渋谷駅 - [[桜木町駅]]
|31.2km
|580円(571円)
|'''490円(483円)'''
|-
|渋谷駅 - [[横浜駅]]
|29.2km
|490円(483円)
|'''410円(406円)'''
|-
|[[新橋駅]] - [[久里浜駅]]
|68.5km
|1,110円(1,110円)
|'''950円(945円)'''
|-
|新橋駅 - [[田浦駅]]
|58.4km
|950円(945円)
|'''820円(814円)'''
|-
|[[浜松町駅]] - [[横須賀駅]]
|59.3km
|940円(935円)
|'''830円(824円)'''
|-
|[[品川駅]] - [[衣笠駅]]
|59.0km
|950円(945円)
|'''830円(824円)'''
|-
|品川駅 - [[逗子駅]]
|48.1km
|830円(824円)
|'''740円(736円)'''
|-
|品川駅 - 横浜駅
|22.0km
|410円(406円)
|'''310円(303円)'''
|-
|横浜駅 - 田浦駅
|31.5km
|580円(571円)
|'''490円(483円)'''
|-
|横浜駅 - 逗子駅
|26.1km
|490円(483円)
|'''360円(356円)'''
|}
上記以外にも設定区間がある。公式サイトを参照。
=== 入場料金 ===
<!--
* 東京の電車特定区間内
** 150円(小児は70円)<ref name="fare"/>-->
* 東京の電車特定区間内含むJR東日本エリア内各駅
** 150円(小児は70円)
== 制服 ==
2020年5月1日着用開始の接客[[制服]]は4代目である。4代目制服より女性社員のスカートを廃止するとともに、[[LGBT]]に配慮して男女とも[[官帽]]・[[チロリアンハット|チロリアン]]のどちらの制帽も選択できるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191008_ho04.pdf|title=接客制服のリニューアルについて|date=2019-10-08|accessdate=2021年1月31日|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。また、他の鉄道会社では駅輸送職(駅長業務を行う者)は[[助役 (鉄道)|助役]]でなくとも赤帯表示の制帽を被るところが多いが、JR東日本では駅輸送職の赤帯表示を廃止し、管理職・管理者の表示に変更した。乗務員区所等の管理者が赤帯表示の制帽を被ることになり、これは全国的に見ても珍しい。
その他の特徴として、他の鉄道会社では非現業の役職者(部長や課長など)や役員などが制服を着用する場合は、専用の制服・制帽や駅長等と同じ制服・制帽を着用することが多いが、JR東日本では一般社員と同じ制服・制帽を着用する(仮に社長が制服を着用する場合でも、一般の平社員と同じ制服・制帽である)。[[お召列車]]での[[天皇]]の先導などを、JR東日本の社長はスーツ姿で行っている。
== 社歌 ==
[[社歌]]は『明け行く空に』。1988年4月制定<ref name="ns910220">「ニュー社歌はやる」『[[日経産業新聞]]』1991年2月20日(17頁)</ref>。[[歌詞]]は社内公募で選ばれた<ref name=ns910220 />ものに[[伊藤アキラ]]が補作詞した。作曲は[[森田公一]]による<ref>[https://www.jreast.co.jp/baseball/about/song/ JR東日本野球部|JR東日本野球部について] - 2021年6月20日閲覧。</ref>。歌手は[[サーカス (コーラスグループ)|サーカス]]<ref name=ns910220 />(非売品のカセットテープやCDが存在する)。
== 社内乗車人員上位50位 ==
[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 公式サイト] より。一日平均。{{↑}}{{↓}}は、右欄の乗車人員と比較して増({{↑}})、減({{↓}})を表す。
{|class="wikitable" style="font-size:90%;text-align:right;"
|-
!style="width:1em;"|順位
!style="width:6em;"|駅名
!style="width:11em;"|所在地
!style="width:6em;"|2020年度
!style="width:6em;"|2018年度
!style="width:6em;"|2015年度
!style="width:6em;"|2010年度
!style="width:6em;"|2005年度
!style="width:6em;"|2000年度
!特記事項
|-
!1
|style="text-align:left;"|[[新宿駅]]
|style="text-align:left;"|[[東京都]][[新宿区]]
|{{↓}} 477,073
|{{↑}} 789,366
|{{↑}} 760,043
|{{↓}} 736,715
|{{↓}} 747,930
|753,791
|style="text-align:left;"|日本の鉄道事業者の駅として第1位。<br>(各社局線総合では世界第1位)
|-
!2
|style="text-align:left;"|[[池袋駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[豊島区]]
|{{↓}} 376,350
|{{↑}} 566,994
|{{↑}} 556,780
|{{↓}} 544,222
|{{↓}} 564,669
|570,255
|style="text-align:left;"|(各社局線総合では世界第3位)
|-
!3
|style="text-align:left;"|[[横浜駅]]
|style="text-align:left;"|[[神奈川県]][[横浜市]][[西区 (横浜市)|西区]]
|{{↓}} 290,376
|{{↑}} 423,651
|{{↑}} 411,383
|{{↑}} 398,052
|{{↓}} 384,594
|385,023
|style="text-align:left;"|神奈川県内の駅として第1位。<br>(各社局線総合では世界第5位)
|-
!4
|style="text-align:left;"|[[東京駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[千代田区]]
|{{↓}} 271,108
|{{↑}} 467,165
|{{↑}} 434,633
|{{↑}} 381,704
|{{↑}} 379,350
|372,611
|style="text-align:left;"|[[東海旅客鉄道]](JR東海)の乗車人員を含まない。<br>(各社局線総合では世界第7位)
|-
!5
|style="text-align:left;"|[[渋谷駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[渋谷区]]
|{{↓}} 222,150
|{{↓}} 370,856
|{{↓}} 372,234
|{{↓}} 403,277
|{{↓}} 423,884
|428,165
|style="text-align:left;"|(各社局線総合では世界第2位)
|-
!6
|style="text-align:left;"|[[品川駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[港区 (東京都)|港区]]
|{{↓}} 220,930
|{{↑}} 383,442
|{{↑}} 361,466
|{{↑}} 321,711
|{{↑}} 302,862
|253,575
|style="text-align:left;"|東海旅客鉄道の乗車人員を含まない。<br>(各社局線総合では世界第9位)
|-
!7
|style="text-align:left;"|[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]
|style="text-align:left;"|[[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]]
|{{↓}} 188,576
|{{↑}} 258,108
|{{↑}} 250,479
|{{↑}} 235,151
|{{↑}} 231,599
|228,219
|style="text-align:left;"|埼玉県内の駅として第1位。
|-
!8
|style="text-align:left;"|[[新橋駅]]
|style="text-align:left;"|東京都港区
|{{↓}} 175,368
|{{↑}} 281,971
|{{↑}} 265,955
|{{↑}} 244,916
|{{↑}} 236,116
|230,393
|style="text-align:left;"|
|-
!9
|style="text-align:left;"|[[北千住駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[足立区]]
|{{↓}} 161,271
|{{↑}} 220,903
|{{↑}} 209,994
|{{↑}} 195,260
|{{↓}} 177,104
|183,611
|style="text-align:left;"|(各社局線総合では世界第6位)
|-
!10
|style="text-align:left;"|[[川崎駅]]
|style="text-align:left;"|神奈川県[[川崎市]][[川崎区]]
|{{↓}} 159,802
|{{↑}} 214,601
|{{↑}} 207,725
|{{↑}} 185,300
|{{↑}} 163,495
|156,291
|style="text-align:left;"|神奈川県内の駅として第2位。
|-
!11
|style="text-align:left;"|[[秋葉原駅]]
|style="text-align:left;"|東京都千代田区
|{{↓}} 156,102
|{{↑}} 252,267
|{{↑}} 243,921
|{{↑}} 226,646
|{{↑}} 171,166
|137,736
|style="text-align:left;"|
|-
!12
|style="text-align:left;"|[[高田馬場駅]]
|style="text-align:left;"|東京都新宿区
|{{↓}} 139,544
|{{↑}} 211,687
|{{↑}} 202,554
|{{↑}} 202,396
|{{↓}} 201,936
|211,761
|style="text-align:left;"|
|-
!13
|style="text-align:left;"|[[立川駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[立川市]]
|{{↓}} 122,033
|{{↑}} 168,512
|{{↑}} 163,903
|{{↑}} 157,517
|{{↑}} 150,009
|132,672
|style="text-align:left;"|[[特別区]]以外の東京都内の駅として第1位。
|-
!14
|style="text-align:left;"|[[上野駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[台東区]]
|{{↓}} 114,064
|{{↑}} 188,170
|{{↑}} 181,588
|{{↓}} 172,306
|{{↓}} 179,978
|189,388
|style="text-align:left;"|
|-
!15
|style="text-align:left;"|[[大崎駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[品川区]]
|{{↓}} 108,842
|{{↑}} 173,136
|{{↑}} 154,544
|{{↑}} 126,436
|{{↑}} {{0}}93,709
|{{0}}57,101
|style="text-align:left;"|
|-
!16
|style="text-align:left;"|[[西船橋駅]]
|style="text-align:left;"|[[千葉県]][[船橋市]]
|{{↓}} 103,947
|{{↑}} 139,347
|{{↑}} 134,362
|{{↑}} 125,855
|{{↓}} 105,892
|106,048
|style="text-align:left;"|千葉県内の駅として第1位。
|-
!17
|style="text-align:left;"|[[船橋駅]]
|style="text-align:left;"|千葉県船橋市
|{{↓}} 103,879
|{{↑}} 138,950
|{{↑}} 137,173
|{{↑}} 134,705
|{{↓}} 131,579
|131,611
|style="text-align:left;"|千葉県内の駅として第2位。
|-
!18
|style="text-align:left;"|[[有楽町駅]]
|style="text-align:left;"|東京都千代田区
|{{↓}} 103,759
|{{↑}} 173,003
|{{↑}} 167,424
|{{↑}} 162,445
|{{↓}} 153,113
|156,273
|style="text-align:left;"|
|-
!19
|style="text-align:left;"|[[蒲田駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[大田区]]
|{{↓}} 103,465
|{{↑}} 146,337
|{{↑}} 143,272
|{{↑}} 133,748
|{{↑}} 131,947
|129,724
|style="text-align:left;"|
|-
!20
|style="text-align:left;"|[[中野駅 (東京都)|中野駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[中野区]]
|{{↓}} 103,284
|{{↑}} 150,886
|{{↑}} 144,916
|{{↑}} 123,968
|{{↓}} 113,569
|117,090
|style="text-align:left;"|
|-
!21
|style="text-align:left;"|[[田町駅]]
|style="text-align:left;"|東京都港区
|{{↓}} 102,704
|{{↑}} 156,364
|{{↓}} 148,834
|{{↑}} 149,477
|{{↓}} 142,778
|154,714
|style="text-align:left;"|
|-
!22
|style="text-align:left;"|[[浜松町駅]]
|style="text-align:left;"|東京都港区
|{{↓}} 102,663
|{{↑}} 162,143
|{{↑}} 155,334
|{{↑}} 153,594
|{{↓}} 144,085
|152,620
|style="text-align:left;"|
|-
!23
|style="text-align:left;"|[[吉祥寺駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[武蔵野市]]
|{{↓}} {{0}}99,319
|{{↑}} 143,685
|{{↑}} 141,306
|{{↓}} 138,420
|{{↑}} 139,245
|136,927
|style="text-align:left;"|特別区以外の東京都内の駅として第2位。
|-
!24
|style="text-align:left;"|[[柏駅]]
|style="text-align:left;"|千葉県[[柏市]]
|{{↓}} {{0}}94,607
|{{↑}} 126,276
|{{↑}} 123,104
|{{↓}} 119,825
|{{↓}} 135,074
|149,376
|style="text-align:left;"|千葉県内の駅として第3位。
|-
!25
|style="text-align:left;"|[[恵比寿駅]]
|style="text-align:left;"|東京都渋谷区
|{{↓}} {{0}}94,002
|{{↑}} 147,699
|{{↑}} 139,882
|{{↓}} 130,245
|{{↑}} 131,507
|127,967
|style="text-align:left;"|
|-
!26
|style="text-align:left;"|[[五反田駅]]
|style="text-align:left;"|東京都品川区
|{{↓}} {{0}}92,254
|{{↑}} 141,351
|{{↑}} 133,814
|{{↑}} 129,154
|{{↓}} 126,137
|132,411
|style="text-align:left;"|
|-
!27
|style="text-align:left;"|[[武蔵小杉駅]]
|style="text-align:left;"|神奈川県川崎市[[中原区]]
|{{↓}} {{0}}88,994
|{{↑}} 130,752
|{{↑}} 124,325
|{{↑}} {{0}}99,617
|{{↑}} {{0}}70,685
|{{0}}64,336
|style="text-align:left;"|神奈川県内の駅として第3位。
|-
!28
|style="text-align:left;"|[[戸塚駅]]
|style="text-align:left;"|神奈川県横浜市[[戸塚区]]
|{{↓}} {{0}}82,817
|{{↑}} 112,606
|{{↑}} 110,797
|{{↑}} 105,662
|{{↑}} 101,458
|{{0}}97,391
|style="text-align:left;"|神奈川県内の駅として第4位。
|-
!29
|style="text-align:left;"|[[千葉駅]]
|style="text-align:left;"|千葉県[[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]
|{{↓}} {{0}}81,445
|{{↑}} 108,121
|{{↓}} 104,503
|{{↑}} 105,777
|{{↓}} 103,401
|103,723
|style="text-align:left;"|千葉県内の駅として第4位。
|-
!30
|style="text-align:left;"|[[藤沢駅]]
|style="text-align:left;"|神奈川県[[藤沢市]]
|{{↓}} {{0}}81,065
|{{↑}} 109,617
|{{↑}} 107,447
|{{↑}} 102,284
|{{↑}} {{0}}95,436
|{{0}}92,640
|style="text-align:left;"|神奈川県内の駅として第5位、電車特定区間外の駅として第1位。
|-
!31
|style="text-align:left;"|[[国分寺駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[国分寺市]]
|{{↓}} {{0}}78,422
|{{↑}} 113,368
|{{↑}} 111,325
|{{↑}} 105,883
|{{↑}} 103,862
|100,815
|style="text-align:left;"|特別区以外の東京都内の駅として第3位。
|-
!32
|style="text-align:left;"|[[町田駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[町田市]]
|{{↓}} {{0}}77,722
|{{↑}} 112,540
|{{↑}} 112,161
|{{↑}} 109,077
|{{↑}} 104,452
|100,602
|style="text-align:left;"|特別区以外の東京都内の駅として第4位。
|-
!33
|style="text-align:left;"|[[日暮里駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[荒川区]]
|{{↓}} {{0}}77,308
|{{↑}} 115,092
|{{↑}} 107,399
|{{↑}} {{0}}96,633
|{{↑}} {{0}}78,921
|{{0}}77,469
|style="text-align:left;"|
|-
!34
|style="text-align:left;"|[[津田沼駅]]
|style="text-align:left;"|千葉県[[習志野市]]
|{{↓}} {{0}}76,886
|{{↑}} 103,912
|{{↑}} 103,404
|{{↓}} 101,247
|{{↓}} 103,922
|105,205
|style="text-align:left;"|千葉県内の駅として第5位。
|-
!35
|style="text-align:left;"|[[松戸駅]]
|style="text-align:left;"|千葉県[[松戸市]]
|{{↓}} {{0}}74,813
|{{↓}} {{0}}99,909
|{{↑}} 100,079
|{{↓}} {{0}}99,468
|{{↓}} 101,602
|104,051
|style="text-align:left;"|
|-
!36
|style="text-align:left;"|[[錦糸町駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[墨田区]]
|{{↓}} {{0}}74,343
|{{↑}} 105,669
|{{↑}} 105,191
|{{↑}} {{0}}99,032
|{{↑}} {{0}}89,700
|{{0}}85,652
|style="text-align:left;"|
|-
!37
|style="text-align:left;"|[[浦和駅]]
|style="text-align:left;"|埼玉県さいたま市[[浦和区]]
|{{↓}} {{0}}74,053
|{{↑}} {{0}}95,064
|{{↑}} {{0}}87,650
|{{↑}} {{0}}79,113
|{{↓}} {{0}}73,633
|{{0}}73,995
|style="text-align:left;"|埼玉県内の駅として第2位。
|-
!38
|style="text-align:left;"|[[赤羽駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[北区 (東京都)|北区]]
|{{↓}} {{0}}73,842
|{{↑}} {{0}}97,249
|{{↑}} {{0}}92,146
|{{↑}} {{0}}86,869
|{{↑}} {{0}}86,459
|{{0}}82,041
|style="text-align:left;"|
|-
!39
|style="text-align:left;"|[[大船駅]]
|style="text-align:left;"|神奈川県[[鎌倉市]]
|{{↓}} {{0}}73,636
|{{↑}} {{0}}99,944
|{{↑}} {{0}}98,803
|{{↑}} {{0}}93,679
|{{↑}} {{0}}87,333
|{{0}}83,660
|style="text-align:left;"|
|-
!40
|style="text-align:left;"|[[目黒駅]]
|style="text-align:left;"|東京都品川区
|{{↓}} {{0}}72,657
|{{↑}} 115,560
|{{↑}} 108,163
|{{↑}} 102,310
|{{↓}} {{0}}98,344
|106,820
|style="text-align:left;"|
|-
!41
|style="text-align:left;"|[[西日暮里駅]]
|style="text-align:left;"|東京都荒川区
|{{↓}} {{0}}72,214
|{{↑}} 100,940
|{{↑}} {{0}}98,681
|{{↑}} {{0}}94,059
|{{↓}} {{0}}87,392
|{{0}}96,355
|style="text-align:left;"|
|-
!42
|style="text-align:left;"|[[神田駅 (東京都)|神田駅]]
|style="text-align:left;"|東京都千代田区
|{{↓}} {{0}}71,872
|{{↑}} 106,091
|{{↓}} {{0}}98,917
|{{↓}} 101,075
|{{↓}} 105,782
|111,311
|style="text-align:left;"|
|-
!43
|style="text-align:left;"|[[三鷹駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[三鷹市]]
|{{↓}} {{0}}71,399
|{{↑}} {{0}}98,707
|{{↑}} {{0}}94,805
|{{↑}} {{0}}90,214
|{{↑}} {{0}}85,602
|{{0}}82,335
|style="text-align:left;"|特別区以外の東京都内の駅として第5位。
|-
!44
|style="text-align:left;"|[[大井町駅]]
|style="text-align:left;"|東京都品川区
|{{↓}} {{0}}70,429
|{{↑}} 105,838
|{{↑}} 103,139
|{{↑}} {{0}}94,715
|{{↑}} {{0}}86,298
|{{0}}78,996
|style="text-align:left;"|
|-
!45
|style="text-align:left;"|[[大森駅 (東京都)|大森駅]]
|style="text-align:left;"|東京都大田区
|{{↓}} {{0}}69,857
|{{↑}} {{0}}96,972
|{{↑}} {{0}}94,949
|{{↑}} {{0}}91,601
|{{↓}} {{0}}88,049
|{{0}}90,159
|style="text-align:left;"|
|-
!46
|style="text-align:left;"|[[荻窪駅]]
|style="text-align:left;"|東京都[[杉並区]]
|{{↓}} {{0}}67,231
|{{↑}} {{0}}90,715
|{{↑}} {{0}}87,473
|{{↑}} {{0}}85,093
|{{↑}} {{0}}83,095
|{{0}}82,768
|style="text-align:left;"|
|-
!47
|style="text-align:left;"|[[御茶ノ水駅]]
|style="text-align:left;"|東京都千代田区
|{{↓}} {{0}}66,530
|{{↑}} 105,890
|{{↑}} 104,890
|{{↓}} 101,617
|{{↓}} 106,967
|116,955
|style="text-align:left;"|
|-
!48
|style="text-align:left;"|[[四ツ谷駅]]
|style="text-align:left;"|東京都新宿区
|{{↓}} {{0}}65,040
|{{↑}} {{0}}98,631
|{{↑}} {{0}}94,079
|{{↑}} {{0}}89,295
|{{↑}} {{0}}88,976
|{{0}}86,886
|style="text-align:left;"|
|-
!49
|style="text-align:left;"|[[川口駅]]
|style="text-align:left;"|埼玉県[[川口市]]
|{{↓}} {{0}}64,428
|{{↑}} {{0}}84,531
|{{↑}} {{0}}82,325
|{{↑}} {{0}}78,759
|{{↓}} {{0}}76,610
|{{0}}78,675
|style="text-align:left;"|埼玉県内の駅として第3位。
|-
!50
|style="text-align:left;"|[[武蔵溝ノ口駅]]
|style="text-align:left;"|神奈川県川崎市[[高津区]]
|{{↓}} {{0}}63,796
|{{↑}} {{0}}86,346
|{{↑}} {{0}}83,756
|{{↑}} {{0}}75,653
|{{↑}} {{0}}69,175
|{{0}}68,339
|style="text-align:left;"|
|}
2000年度から2011年度までは、1位 - 8位の順位はほとんど変動がなかった(一部年度で新橋駅と大宮駅が入れ替わっている)。特に2011年度は前年度と比べて1位の新宿駅から27位の町田駅まで全く順位変動がなかった。
しかし、2012年度は(公開されている)1999年度から一貫して5位となっていた東京駅が再開発事業に伴い乗車人員が増加し、横浜駅を追い抜いて4位になった。2013年度は、渋谷駅が[[東急東横線]]・[[東京メトロ副都心線]]の直通により乗車人員が3万人以上減少して25年ぶりに40万人を下回り、19年間保持してきた3位の座から一気に2ランクも下げ5位まで転落し、東京駅と横浜駅の後塵を拝することになった。また、同年度は新たに北千住駅が高田馬場駅を追い抜き、初のベスト10入りを果たした。
品川駅は堅調に利用者数を伸ばしており、長らく6位の位置にいたが、2016年度で5位になった。
渋谷駅は利用者減に歯止めがかかっておらず、先述の通り、2013年度は3位から5位へ転落し、2016年度は品川駅にも追い抜かれ6位に転落した。2008年度の東京メトロ副都心線開通時は池袋駅とともに減少傾向にあり、2013年度の副都心線と東急東横線の直通運転開始後は、池袋駅は持ち直しつつある一方、渋谷駅はその傾向がない。
上野駅は、2015年度の[[上野東京ライン]]開通の影響で(上野駅で乗降しない)通過客が増えることから利用者減が危惧されていたが、[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]方面からのアクセスが容易になったこともあり、利用者は増加している。
大崎駅は2000年度は山手線単独駅であり、乗車人員も5万人台だったが、2002年12月の埼京線、湘南新宿ライン、りんかい線の開業後は徐々に利用者数が増え、2018年度には有楽町駅、立川駅の2駅を抜いて14位に躍り出た。
秋葉原駅は2000年度時点で17位であったが、[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]の開業もあり、2006年度に上野駅を抜いてベスト10に入った。さらに2007年度に高田馬場駅を追い抜き、その後も順調に利用者数を増加させている。その一方、上野駅は2005年度まではベスト10にランクインしていたが、2006年度に高田馬場駅に追い抜かされた。2007年度から北千住駅・川崎駅に次いで13位に落ちた。
東北地方の駅では、東日本大震災の影響で、仙台駅の乗車人員が1万人以上減少するなどの大幅な減少を記録したほか、一部の駅がデータ無しとなった。しかし、2012年度に入り大半の駅で増加を記録し、特に仙台駅は[[仙石線]][[あおば通駅]]開業後では最も多い乗車人員となった。
2020年度は[[コロナ禍]]の影響により多くの駅で2割以上の減少率を記録し、前年と比べて半分以上少なくなった駅もあった。また、この影響で横浜駅は9年ぶりに東京駅を追い抜き3位に入った。
== 取扱収入上位10位 ==
1日平均。数字は2018年度<ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/youran/pdf/2019-2020/jre_youran_shogen_p87.pdf 『JR東日本 会社要覧 2019-2020』「JR東日本ア・ラ・カルト」]}}</ref>。
* 1位 [[東京駅]] - 3億2586万5000円。
* 2位 [[新宿駅]] - 1億9569万6000円。
* 3位 [[仙台駅]] - 1億5420万7000円。
* 4位 [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - 1億3909万4000円。
* 5位 [[池袋駅]] - 1億2931万4000円。
* 6位 [[横浜駅]] - 1億2329万8000円。
* 7位 [[上野駅]] - 1億1163万7000円。
* 8位 [[品川駅]] - 9771万4000円。
* 9位 [[渋谷駅]] - 8641万4000円。
* 10位 [[新橋駅]] - 7879万円。
== 関連会社 ==
以下の関連会社等により'''JR東日本グループ'''を形成する。業種は鉄道関連に限らず多岐に渡る。詳細はJR東日本公式サイト内「[https://www.jreast.co.jp/group/ 本社・支社・グループ会社一覧]」を参照。各会社の業務内容については当該記事を参照。
=== グループ会社 ===
分類・掲載順はJR東日本公式サイト<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=本社・支社・グループ会社一覧|企業サイト:JR東日本 |url=https://www.jreast.co.jp/group/ |website=JR東日本 企業サイト |access-date=2022-12-03 |language=ja |publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>に準拠。
; 運輸
:* [[ジェイアールバス関東]]
:* [[ジェイアールバス東北]]
:* [[東京モノレール]]
; ショッピングセンター
:* [[アトレ]]
:* [[ルミネ]]
:* [[横浜ステーシヨンビル]]
:* [[湘南ステーションビル]]
:* [[JR中央線コミュニティデザイン]](旧・[[JR中央ラインモール]])
:* [[ジェイアール東日本商業開発]]
:* [[グランデュオ]]
:* [[錦糸町ステーションビル]]
:* [[千葉ステーションビル]]
:* [[JR東日本青森商業開発]]
:* [[JR東日本新潟シティクリエイト]]
:* [[ステーションビルMIDORI]]
; オフィス
:* [[JR東日本ビルディング]](略称:JEBL)
; ホテル
:* [[日本ホテル]]
:* [[仙台ターミナルビル]]
:* [[盛岡ターミナルビル]]
:* [[秋田ステーションビル]]
; エキナカ・小売・飲食
:* [[JR東日本クロスステーション]](略称:JR-Cross)
:** 2021年4月1日、[[JR東日本リテールネット]](旧:東日本[[キヨスク]])が、[[JR東日本フーズ]]([[日本レストランエンタプライズ]]と[[ジェイアール東日本フードビジネス]]が合併)、[[JR東日本ウォータービジネス]]<ref group="注釈">[[ジェイアール高崎商事]]の飲料ブランド「大清水」や各地区の飲料事業を継承し、主に[[清涼飲料水]]の製造販売を行っていた。</ref>、[[鉄道会館]]の3社を吸収合併。
:** リテールカンパニー - JR東日本リテールネット(旧:東日本キヨスク)から継承
:*: [[キヨスク|キオスク]]、[[NewDays]]などを運営。
:** フーズカンパニー - JR東日本フーズ(旧:日本レストランエンタプライズ・ジェイアール東日本フードビジネス)から継承
:*: [[Becker's]]、[[BECK'S COFFEE SHOP]]、[[いろり庵きらく]]、[[駅弁]]屋などを運営。
:** ウォータービジネスカンパニー - [[JR東日本ウォータービジネス]]<ref group="注釈">ジェイアール高崎商事の飲料ブランド「大清水」や各地区の飲料事業を継承し、主に清涼飲料水の製造販売を行っていた。</ref>から継承。[[From AQUA]](旧「大清水」)等の販売
:** デベロップメントカンパニー
:*: エキュート、グランスタなどを運営。
:* [[紀ノ国屋|紀ノ國屋]]
:* [[JR東日本東北総合サービス]]
; 商事・物流
:* [[JR東日本商事]]
:** [[JR東日本ライフサービス]]<ref>[https://www.jels.co.jp/index.html 株式会社JR東日本ライフサービス]</ref>
:* [[ジェイアール東日本物流]]
; 旅行・レンタカー
:* [[JR東日本びゅうツーリズム&セールス]]
:* [[JR東日本レンタリース]]
<!--:* JR東日本創造旅遊(創造旅行社股份有限公司)- [[ジャルパック]]とJR東日本グループによる共同運営。-->
; スポーツ・レジャー
:* [[JR東日本スポーツ]]
:* [[ガーラ湯沢スキー場|ガーラ湯沢]]
; 不動産管理・不動産アセットマネジメント
:* [[ジェイアール東日本都市開発]](略称:JRTK)
:* [[JR東日本不動産投資顧問]]
; 情報・財務・人材サービス
:* [[JR東日本情報システム]](略称:JEiS)
:* [[ジェイアール東日本ネットステーション]]<ref>[https://www.jrnets.com/ 株式会社ジェイアール東日本ネットステーション]</ref> - [[えきねっと]]の運営など。
:* [[JR東日本マネジメントサービス]]
:* [[JR東日本パーソネルサービス]]<ref>[https://www.jreps.jp/ 株式会社JR東日本パーソネルサービス]</ref>
:** 首都圏の主要駅に設置されている[[自動券売機#指定券自動券売機|指定席券売機]]の案内係や、[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]のスタッフ等の[[労働者派遣事業|人材派遣]]業務を手掛ける。
:* [[JR東日本グリーンパートナーズ]]
; クレジットカード
:* [[ビューカード]]
; 広告・出版
:* [[ジェイアール東日本企画]](略称:jeki)
:* [[JR東日本メディア]]
:* [[オレンジページ]] - 主婦向け雑誌『オレンジページ』の出版。
; 駅・車内サービス・清掃整備・リネンサプライ
:* [[JR東日本テクノハートTESSEI]]
:* [[JR東日本運輸サービス]]
:* [[JR東日本環境アクセス]]
:* [[JR東日本ステーションサービス]]
:* [[JR高崎鉄道サービス]]
:* [[JR水戸鉄道サービス]]
:* [[JR千葉鉄道サービス]]
:* [[JR東日本テクノサービス]]
:* [[JR盛岡鉄道サービス]]
:* [[JR秋田鉄道サービス]]
:* [[JR新潟鉄道サービス]]
:* [[JR長野鉄道サービス]]
:* [[JR東日本リネン]]
:* [[JR東日本サービスクリエーション]](略称:J-Creation)<ref name="J-Creation">[https://www.jresc.co.jp/company/profile.html 会社概要] 株式会社JR東日本サービスクリエーション</ref> - [[車内販売]]・[[乗務員#鉄道の客室乗務員|アテンダント]]業務など。
:** 2019年4月1日、日本レストランエンタプライズ(現:JR東日本クロスステーション)の100%子会社として設立<ref name="J-Creation" />。同年7月1日、JR東日本の100%子会社となり営業開始<ref name="J-Creation" />。
; 建設コンサルタント・設備保守
:* [[JR東日本コンサルタンツ]]
:* [[JR東日本建築設計]]
:** 駅等の鉄道関連施設をはじめ、[[駅ビル]]等の商業施設の新築やリニューアル、ホテル、オフィスビル、集合住宅や文化施設等の設計や監理、デザインワークを行う。
:* [[JR東日本ビルテック]]
:* [[JR東日本メカトロニクス]](略称:JREM)
:* [[ユニオン建設]]
:* [[日本線路技術]]<ref>[https://www.kk-nsg.co.jp/ 株式会社日本線路技術]</ref>
; 車両製造・保全
:* [[総合車両製作所]](略称:J-TREC)
:** 2011年4月に[[東急車輛製造]]から鉄道車両事業を継承し設立した子会社。2014年4月にはJR東日本直営だった新津車両製作所を譲渡し、[[総合車両製作所新津事業所]]とした。
:* [[JR東日本テクノロジー]](略称:JRTM)
; 海外鉄道コンサルタント
:* [[日本コンサルタンツ]]
; 海外生活サービス
:* 台灣捷爾東事業開發股份有限公司
:* 捷福旅館管理顧問股份有限公司
:* JR East Business Development SEA Pte. Ltd.
; 発電・地域冷暖房
:* [[JR東日本エネルギー開発]]
:* [[新宿南エネルギーサービス]]
:* [[えきまちエナジークリエイト]]
; コーポレートベンチャーキャピタル
:* [[JR東日本スタートアップ]]<ref>[https://jrestartup.co.jp/ JR東日本スタートアップ株式会社]</ref> - 新興企業に出資するコーポレート[[ベンチャーキャピタル]](CVC)。2018年設立。投資収益でなく、業務効率化や新規事業に役立つ企業を発掘し、実証実験を経て投資する<ref>「JR東日本、変革の知・技募る」『日経産業新聞』2021年8月12日1面</ref>。
=== 関連団体 ===
* [[東日本鉄道文化財団]] - [[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]、[[青梅鉄道公園]]等を運営。
* [[交通博物館]] - 2006年5月14日閉館。
=== 持分法適用関連会社 ===
* [[JTB]]
* [[セントラル警備保障]]
* [[日本電設工業]]
=== その他の出資会社 ===
* [[埼玉新都市交通]] - [[埼玉新都市交通伊奈線|ニューシャトル]]を運営。約35%を出資。
* [[東京臨海高速鉄道]] - [[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]を運営。
* [[交通新聞社]] - 旧・弘済出版社。
* [[ジェフユナイテッド]] - JR東日本と古河電気工業が出資するJリーグチーム「ジェフユナイテッド市原・千葉」。
* [[ケーブルテレビ品川]]
* [[メディアさいたま]]
* [[UQコミュニケーションズ]]
* [[成田空港高速鉄道]]
* [[仙台空港鉄道]]
* [[日本旅行]] - 2002年からはJR西日本の[[連結子会社]]。
* JR東日本台湾事業開発({{Lang-zh|台灣捷爾東事業開發股份有限公司}}、{{Lang-en|JRE Business Development Taiwan, Inc.}}) - 駅弁を含む飲食業や駅、ホテル業、ビルなどの不動産業を運営のため、[[台湾]]・[[台北市]]に2018年4月3日設立<ref>{{Zh-tw icon}}{{Cite web|url=https://www.twfile.com//50755426 |title=台灣捷爾東事業開發股份有限公司 |accessdate=2019-02-09}} 台灣公司情報網</ref>。2019年、現地で日本の旅行商品販売やインバウンド情報を発信する「JAPAN RAIL CAFE」を市内([[台北南山広場]]内「[[ブリーズ・センター|微風南山]]アトレ」)に開設<ref>{{Zh-tw icon}} 一部{{Ja icon}}{{Cite web|url=https://www.104.com.tw/jobbank/custjob/index.php?r=cust&j=465048713a3c446d363840693e443c1f22f2f2f2e474c382624j54 |title=JR東日本台灣事業開發_ 台灣捷爾東事業開發股份有限公司 |accessdate=2019-02-09}} 104人力銀行</ref>。2021年8月、JR東日本グループとしてホテルの海外初出店となる「ホテルメトロポリタン プレミア 台北」に台湾台北市で開業。
* [[ウェスト・ミッドランズ・トレインズ]] - イギリスの列車運行会社。
== 労働組合 ==
<!--組合が解散あるいは他の組合と統合した場合は、単に消すのではなくその旨注記や、解散・統合に至った経緯を記述してください。-->
2021年4月1日現在、JR東日本には12の[[労働組合]]がある<ref>{{Cite report |和書 |author=東日本旅客鉄道株式会社 |date=2021-06-22 |title=第34期(2020年4月1日 - 2021年3月31日)有価証券報告書 従業員の状況}}</ref>。カッコ内は略称。
{| class="wikitable" style="font-size:small;" border="1"
|-
!名称
!上部組織
|-
|[[東日本旅客鉄道労働組合]](JR東労組)
|[[全日本鉄道労働組合総連合会]](JR総連)
|-
|[[JR東日本輸送サービス労働組合]](JTSU-E)
|日本輸送サービス労働組合連合会(JTSU)
|-
|[[国鉄労働組合]]東日本本部(国労東日本)
|国鉄労働組合(国労)
|-
|[[JR東日本労働組合]](東日本ユニオン)
|
|-
|[[JR東労働組合]](JRひがし労)
|
|-
|[[JR東日本新鉄道労働組合]](新鉄労組)
|-
|[[ジェイアール・イーストユニオン]](JREユニオン)
|[[日本鉄道労働組合連合会]](JR連合)
|-
|[[JR東日本新潟労働組合]](JR新潟労組)
|
|-
|[[国鉄動力車労働組合総連合]](動労総連合)
|
|-
|[[全日本建設交運一般労働組合]]全国鉄道東日本本部(建交労鉄道東日本本部)
|全日本建設交運一般労働組合(建交労)
|-
|[[動力車労働組合]](動労)
|
|-
|[[鉄道産業労働組合]](鉄産労)
|
|-
|}
組合員数が最大の労働組合は東日本旅客鉄道労働組合である。会社設立以来、労使共同宣言を締結し、協調路線を取っていたが、2018年の[[春闘]]において、「一律定額[[ベースアップ|ベア]]」を要求、[[争議行為]]を予告した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudouseisaku/sougikoui/dl/180302_01.pdf|format=PDF|title=通知を受けた争議行為の実施内容を公表します|date=2018年2月20日|accessdate=2018年8月8日|publisher=厚生労働省}}</ref>。そのため、会社から「労使共同宣言の失効」を通知され<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jreu.or.jp/wp-content/uploads/2018/03/GyoumuNo63.pdf|format=PDF|title=会社の一方的な労使共同宣言の「失効通知」は不当な破棄だ!!|work=業務部速報|date=2018年3月1日|accessdate=2018年8月8日|publisher=東日本旅客鉄道労働組合}}</ref>、以後、組合員の脱退が相次ぎ、わずか4か月の間に組織の3分の2にあたる約3万2千人が脱退し、定期大会で異例の「敗北宣言」を採択する事態となった<ref>{{Cite news|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20180630-TMWP67K27FN7HF6KFRTXQ5P6IQ/|title=JR東労組が「敗北宣言」 スト計画の顛末…3万人脱退、立て直し前途多難|newspaper=[[産経新聞]]|date=2018年6月30日|accessdate=2018年8月8日|publisher=産経新聞社}}</ref>。
脱退により大半の事業所で過半数の労組がない状況となり、[[労働基準法]]第三十六条に基づく協定(いわゆる[[三六協定]])の締結を行うための代表者の選出として親睦団体「社友会」が設立されたが、社友会は労働組合ではない<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/219323?page=2|title=JR東労組「3万人脱退」で問われる労組の意義|date=2018年5月8日|accessdate=2019年7月9日|publisher=[[東洋経済新報社|東洋経済]]オンライン}}</ref>。
各労働組合のうち、東日本旅客鉄道労働組合、国鉄労働組合東日本本部、JR東日本労働組合、JR東日本新鉄道労働組合、JR東労働組合、ジェイアール・イーストユニオン、JR東日本新潟労働組合および全日本建設交運一般労働組合全国鉄道東日本本部は、会社との間で労働協約を締結している。JR東日本輸送サービス労働組合とは2020年5月15日に労働協約を締結した。
== 住宅事業 ==
宅地・マンションの分譲などを行っている。[[宅地建物取引業法#宅地建物取引業免許|宅建業の免許]]番号は国土交通大臣(5)第5287号。
=== 宅地分譲 ===
[[バブル期]]の地価高騰を反映して[[栃木県]][[喜連川町]](現・[[さくら市]])に開発した[[フィオーレ喜連川]]を皮切りに、東京駅から90km圏外の郊外地に[[新興住宅地]]([[団地#戸建団地|住宅分譲地〈団地〉]])を開発している。喜連川と桂台については分譲開始から20年以上経過しているが新規売出中であり、首都圏本部・大宮支社・八王子支社を中心とする駅や電車内に[[交通広告]]を掲出している。
* [[フィオーレ喜連川]]([[鉄道弘済会|弘済建物]]と共同)
* [[シャトル桂台|パストラルびゅう桂台]]([[猿橋駅]]前、[[清水建設]]と共同)
* [[びゅうヴェルジェ安中榛名]]([[安中榛名駅]]前、[[ジェイアール東日本都市開発]]・[[鉄建建設]]・[[西松建設]]と共同)
* びゅうフォレスト喜連川(栃木県さくら市、フィオーレ喜連川の北隣)
このほか、ジェイアール東日本都市開発の住宅部門による「びゅう陽花里 [[前橋大島駅|前橋大島]]」がある。
=== 分譲マンション ===
1997年から2004年にかけて、完全子会社の[[ジェイアール東日本住宅開発]](現:[[ジェイアール東日本都市開発]])と共同で「'''びゅうパルク'''」ブランドのマンション開発していた。社宅跡地や事業遊休地などに建築しており、ほとんどの物件で販売は[[三菱地所リアルエステートサービス]]、分譲時のマンション管理は[[三菱地所コミュニティ]]へ委託していた。
また、駅前や線路沿いの再開発によって、[[幕張ベイタウン]](一部住戸)、[[ラムザタワー]]、[[びゅうサイトタワー]]などの開発に参画している。
=== 賃貸マンション ===
正社員の減少により余剰となった社宅を[[ジェイアール東日本都市開発]]が[[リノベーション]]を行い、[[賃貸住宅|賃貸]]マンションとして運用されている。
{{Main|ジェイアール東日本都市開発#オフィス・住宅事業}}
== 関連人物 ==
* 駅放送や車内放送の担当アナウンサー
** [[堺正幸]]([[日本語]])- 新幹線や在来線特急列車の[[車内放送|車内自動放送]]<ref name="mynavi-trivia105">{{Cite news|title=鉄道トリビア 第105回 車内放送に意外な有名人が関わっている|newspaper=マイナビニュース|date=2011-7-2|author=杉山淳一|url=https://news.mynavi.jp/article/trivia-105/|access-date=2022-9-1}}</ref>。
** [[ジーン・ウィルソン]] - 新幹線<ref name="mynavi-trivia105" />の英語放送。
** [[三浦七緒子]](日本語)、[[クリステル・チアリ]](英語) - 首都圏の通勤電車の車内自動放送<ref name="mynavi-trivia105" />。
** 向山佳比子、[[田中一永]]、[[津田英治]] - [[東京圏輸送管理システム]]を導入している主な駅の自動放送。津田は順次引退し、田中に交代中。
** [[村山明 (声優)|村山明]] - [[埼京線]]と[[京葉線]]の駅放送<ref>[https://haikyo.co.jp/profile/profile.php?ActorID=10091 村山明] - 俳協、2016年10月7日閲覧</ref>。
** [[よしいけいこ]] - 関東近郊の一部駅の駅放送<ref>[https://sigma7.co.jp/actors/yoshii_keiko プロフィール/シグマ・セブン]</ref>。
** [[ルミコ・バーンズ]] - [[成田エクスプレス]]や駅英語放送<ref>[http://www.rumikovarnes.com/ Rumiko Varnes:Bilingual Narrator]</ref>。
* 従業員
** [[井上あかり]] - 柔道選手。
** [[烏帽子美久]] - 柔道選手。
** [[大住有加]] - 柔道選手。
** [[五味奈津実]] - 柔道選手。
** [[佐藤拓也 (野球)|佐藤拓也]] - 野球部に所属。
** [[柴田理帆]] - 柔道選手。
** [[白石のどか]] - 柔道選手。
** [[田中志歩]] - 柔道選手。
** [[土井雅子]] - 柔道選手。
** [[柳樂祐里]] - 柔道選手。
** [[西村亮]] - 東北野球部監督。
** [[濵岡武明]] - 野球部監督。前[[新橋駅]]副駅長。
** [[福見友子]] - 柔道選手。
** [[ヘンプヒル恵]] - 陸上競技選手。[[アトレ]]に所属。
** [[前田奈恵子]] - 柔道選手。
** [[宮沢大志]] - クロスカントリースキー選手。スポーツスキー部所属。
** [[蓬田智佳]] - 柔道選手。
** [[吉永健太朗]] - [[JR東日本硬式野球部]]に所属していた。[[第93回全国高等学校野球選手権大会]]({{by|2011年}}夏)優勝投手。
** [[山口裕次郎]] - 野球部に所属。
** [[山本浩司 (野球)|山本浩司]] - 野球部コーチ。
* 元従業員
** [[赤星憲広]] - [[阪神タイガース]]入団前、社会人野球で活躍。[[車掌]]の資格も取得。
** [[天津いちは]] - モデル、コスプレイヤー、YouTuber、TikToker。JR東日本在籍時には、設備管理部署や研修時にはターミナル駅に駅員として勤務。
** [[小坂誠]] - プロ野球入団前は[[JR東日本東北硬式野球部]]に所属。
** [[小林正明 (日本貨物鉄道)|小林正明]] - [[日本貨物鉄道|JR貨物]]社長、会長。JR貨物勤務以前にJR東日本に在籍。
** [[須田鷹雄]] - 競馬評論家。2年間勤務。
** [[関大地]] - 『乗務員室から見たJR』の著者。高崎支社の保線→車掌をしており、語学に堪能なことから肉声英語放送を始めた人物とされている。2019年退社。
** [[高森奈津美]] - [[声優]]デビュー前に地上勤務。
** [[田嶋大樹]] - プロ野球入団前は野球部に所属。
** [[田城郁]] - 元[[参議院議員]]。労働運動家。元運転士。
** [[田中広輔]] - プロ野球入団前は野球部に所属。
** [[新延拳]] - 詩人。[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎支社]]総務部長、厚生部長などを歴任。
** [[羽生英之]] - [[東京ヴェルディ1969]]代表取締役社長、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]元事務局長。
** [[藤原新]] - [[東日本旅客鉄道八王子支社|八王子支社]]勤務時にランニングチーム創設者に名を連ね、[[全日本実業団対抗駅伝競走大会|ニューイヤー駅伝]]への初出場に貢献した。
** [[堀井哲也]] - 野球部元監督。
** [[松崎明]] - 労働運動家。
** [[渡辺華奈]] - 総合格闘家。柔道部に所属。
* 幹部
** [[新井良亮]] - ルミネ相談役。
** [[石井圭]] - JR東日本[[東日本旅客鉄道仙台支社|仙台支社]]事業部長、[[JR中央線コミュニティデザイン#JR中央ラインモール|JR中央ラインモール]]社長。
** [[石田義雄]] - JR東日本代表取締役副社長、取締役副会長、[[国際鉄道連合]]会長、[[日本鉄道運転協会]]会長。
** [[小縣方樹]] - JR東日本代表取締役副社長、取締役副会長。
** [[稲生武]] - JR東日本取締役。
** [[金築誠志]] - JR東日本監査役。
** [[川上尚貴]] - JR東日本顧問。
** [[佐々木毅]] - JR東日本[[社外取締役]]。
** [[澤本尚志]] - JR東日本常務取締役鉄道事業本部長。
** [[椎橋章夫]] - [[JR東日本メカトロニクス]]代表取締役社長。
** [[白川保友]] - JR東日本取締役、常務。
** [[ジェイ・ウォーリー・ヒギンズ]] - 企画本部国際部顧問。
** [[末松安晴]] - JR東日本社外取締役。
** [[鈴木基行 (工学者)|鈴木基行]] - JR東日本JR東北技術研究会会長。
** [[須田征男]] - JR東日本[[東日本旅客鉄道東京支社|東京支社]]支社長、取締役、常務。
** [[谷哲二郎]] - JR東日本代表取締役副社長、[[ルミネ]]代表取締役社長。
** [[仁志田昇司]] - [[JR東日本レンタリース]]代表取締役社長。退職後に[[福島県]][[保原町]]町長、[[伊達市 (福島県)|伊達市]]市長を歴任。
** [[原恒雄]] - JR東日本[[東日本旅客鉄道長野支社|長野支社]]取締役支社長。
** [[細谷英二]] - 国鉄時代から取締役を務め、副社長を歴任。
** [[山本卓朗]] - [[鉄建建設]]代表取締役社長兼執行役員社長。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[JR]]
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[日本の鉄道事業者一覧]]
* [[日本の鉄道]]
* [[日本鉄道]]
* 鉄道事業関連
** [[Suica]]
** [[えきねっと]]
** [[JR東日本パス]]
** [[東京圏輸送管理システム]](ATOS)
** [[ADトレイン]]
* 社会人スポーツ
** [[JR東日本硬式野球部]]
** [[JR東日本東北硬式野球部]]
** [[JR東日本ラグビー部]]
* その他の項目 <!-- 人物は上部の別の節に分けました -->
** [[ビューカード]]
** [[フィリップ・グラス]] - 彼が1983年に作曲した『フォトグラファー アクト Ⅲ』を基に、JR東日本の一部駅の発車ベルが作られた。
** [[NewDays]]
** [[JR SKISKI]]
** [[国土交通省]] - [[鉄道局]]
** [[ポケットモンスター]] - JR東日本本体が[[夏休み]]に首都圏で[[スタンプラリー]]やポケモン新幹線の運行や[[ポケットモンスター (劇場版)|劇場版]]の制作協力を行っているほか、子会社のジェイアール東日本企画が[[ポケットモンスター (アニメ)|アニメ版]]の[[広告代理店]]を担当している。
** [[新幹線変形ロボ シンカリオン]] - JR東日本本体が企画の監修とアニメの提供スポンサーを務めているほか、子会社のジェイアール東日本企画がアニメの広告代理店を担当している。
** [[千葉商科大学]] - サービス創造学部の公式サポーター企業がJR東日本。
== 外部リンク ==
{{Multimedia|東日本旅客鉄道の画像}}
{{Commons|Category:JR East}}
* [https://www.jreast.co.jp/ JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社](公式サイト)
* [https://www.eki-net.com/ えきねっと]
* [https://www.ekipara.com/ 駅ビルポータルサイト「駅パラ」]
* {{Facebook|jreast.jp|JR東日本}}
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* {{Twitter|JREast_official|JR東日本(公式)}}
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* {{YouTube|c=UCioFlMsGwVfA-uWnn0ZWo_Q|JR東日本公式チャンネル}}
{{JR}}
{{JR東日本}}
{{Suica}}
{{TOPIX 100}}
{{日本の電力会社}}
{{JOCオフィシャルスポンサー(2015-2020)}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ひかしにほんりよかくてつとう}}
[[Category:日本の鉄道事業者]]
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[[Category:1987年設立の企業]]
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3,540 | 国会 (日本) | 国会(こっかい、英: National Diet)は、日本の立法府。衆議院(しゅうぎいん)および参議院(さんぎいん)から構成される二院制の議会である。国権の最高機関とされる(日本国憲法第41条、第42条)。
日本国憲法において、国会は「国権の最高機関」であって、「国の唯一の立法機関」と位置づけられている(憲法41条)。また、「国民の代表機関」としての性格も有する(憲法43条1項)。
国会の議事が行われる国会議事堂の所在地は、東京都千代田区永田町1丁目7番1号。俗に国会ないし国会議員(衆議院議員・参議院議員)を指して「永田町」と呼ぶ。
国会は、衆議院(下院)及び参議院(上院)の両議院でこれを構成し(憲法42条)、両議院は「全国民を代表する選挙された議員」(国会議員。総選挙で選出される衆議院議員及び通常選挙で選出される参議院議員)でこれを組織する(憲法43条1項)。
日本国憲法は、国会を「国権の最高機関」と定める(憲法41条)。
ここで、「最高機関」の意味が問題となる。この点、憲法学説上は、政治的美称説が通説的見解と目されている。政治的美称説とは、国会が諸々の国家機関の中で主権者たる国民に次いで高い地位にあり、国民に代わって、国政全般にわたり、強い発言力をもつべきであることから、「最高機関」とは、国民を代表し、国政の中心に位置する重要な機関であるという点に着目して国会に付した政治的美称であるとする見解である。この見解は、憲法が権力分立制を採用していること、内閣による衆議院解散、違憲立法審査権の存在、司法権の独立などから、「最高機関」に特段の法的意味を認めない。この点について、より積極的な意味づけをなす見解もある。
日本国憲法は、国会を「国の唯一の立法機関」と定める(憲法41条)。
これは、明治憲法下における帝国議会(1890年-1947年)が、天皇の立法権に協賛する地位(協賛機関)にとどまったのに対して、国会は立法権を独占する機関(立法機関)であることを意味する(ただし明治憲法下で立法権が天皇にあったのは名目的なことで実際には帝国議会の協賛がなければ天皇は立法権を行使できなかった。ただ、天皇は「緊急勅令」という、法律と同等の効力があるものを発することができた。この勅令には、後日、議会の承認が必要ではあった)。
さらに、この規定を詳細に見ると、「唯一」と「立法」の意味が問題となる。
国会が国の「唯一」の立法機関であるとは、次の2つの意味を持つ。
日本国憲法第41条「国の唯一の立法機関」にいう「立法」とは、形式的意義の立法(国会が制定する「法律」という国法の一形式の法規範の定立)ではなく実質的意義の立法(一般的・抽象的法規範の定立)を指すものと解されている。
その理由は憲法41条の「立法」を形式的意味の立法を指すものと解釈してしまうと、「国会が制定する法律という法形式の法規範を制定する権限は国会のみにある」という意味を持たない規定になってしまうためである。したがって、実質的意味の立法であると理解されているが、実質的意味の立法の内容については一般的・抽象的法規範の定立の範囲を巡って見解が分かれている。
国会は、衆議院(しゅうぎいん)と参議院(さんぎいん)によって構成される。両議院とも、主権者である国民の選挙(衆議院議員総選挙・参議院議員通常選挙)によって選ばれた国会議員(衆議院議員465人、参議院議員248人)により組織される、民選議院型の両院制である(衆議院は下院、参議院は上院に相当する)。
両議院を補佐する機関として、各議院に事務局と法制局が設置され、また議院に直属しない補佐機関として国立国会図書館がある。このほか、日本国憲法に定める国会による裁判官の弾劾を行うため、裁判官訴追委員会と裁判官弾劾裁判所が設置されている。
衆議院と参議院で議決が一致しなかった場合は、その調整を行うため、両院協議会(りょういんきょうぎかい)が開催される。予算、条約の承認、内閣総理大臣の指名について議決が異なった場合には必ず開催され、法律案について議決が異なった場合には衆議院が協議会を請求したとき及び参議院が協議会を請求しこれに衆議院が同意したときに開催される。
衆議院と参議院はそれぞれ国会の一院として対等な地位を占めるが、憲法上あるいは法律上において衆議院の議決が優先する場合(衆議院の優越)がある。
ただし、参議院の緊急集会では衆院予算先議権の例外として、衆議院より先に参議院で予算を審議して採決をすることができるが、内閣に提出権がない憲法改正を議題にできないとされている。
各議院には国会法により以下のような役員が設置される(国会法第16条・第26条等)。
帝国議会時代の議案審議が本会議中心であったのに対して、戦後国会はアメリカ連邦議会に範をとって国会審議は、委員会を中心に行われている。
各議院の委員会には、国会法に名称が明記された常設の常任委員会と、案件ごとに各議院が必要に応じて設けることが可能な特別委員会の2種類がある(国会法第40条)。すべての議案は本会議での趣旨説明および必要に応じて代表質問の後にどこかしらの常任委員会に付託される(国会法第56条の2)が、所掌するべき常任委員会がなく、かつ特別委員会を設けて審議するまでもないと議長が判断した場合は、本会議の議決に基づき「他の常任委員会に属しない内閣府に関する事項」として内閣委員会、もしくは「議長の諮問に関する事項」として議院運営委員会に付託される。
なお、特に緊急を要する議案は委員会への付託を省略することもできる(衆議院規則111条、参議院規則26条)とされており、内閣ないしは国務大臣・両院役職者に対する不信任決議案がこの例に当たる。
委員会は単独で開催するほかに、同一院内の複数の委員会による連合審査会として(衆議院規則第60条、参議院規則第36条)、あるいは衆議院と参議院の両院の常任委員会による合同審査会として(国会法第44条)、開催することも可能である。
また、具体的な議案の付託の有無にかかわらず、長期的な調査を行うための委員会的な組織として参議院にのみ「調査会」を設けることができ(国会法第54条の2)、慣例により3以内の調査会を置くこととなっている。これは、解散がなく任期が安定している参議院の特色を生かした制度である。
第167回国会から国会法改正法が施行され、衆議院と参議院の両院に、日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議又は国民投票に関する法律案等を審査するため、各議院に憲法審査会を置き(国会法第102条の6)、国会法第68条の2に基づく両院の議員による改正の発議に加えて、同審査会も改正の発議又は国民投票に関する法案の提出が可能となった(国会法第102条の7)。実際の憲法改正原案についての審議は2010年(平成22年)5月18日以降可能となった。
法的には第167回国会の召集日である2007年(平成19年)8月7日から各議院に憲法審査会が存在していることになる。同審査会の組織・手続の詳細を定める「憲法審査会規程」は、衆議院では2009年(平成21年)6月11日に自民・公明の与党の賛成多数で制定され、参議院では2011年(平成23年)5月18日に民主・自民・公明・みんななどの賛成多数で制定されたが、その後も両院とも審査会の会長・委員が選出されない休眠状態が続いた。
2009年(平成21年)の民主党への政権交代以降、鳩山政権・菅政権時代の国会では憲法審査会の始動に向けた進展はなく、2010年(平成22年)5月18日の完全施行に至っても事実上存在しない状況が続いたが、野田政権発足後の2011年(平成23年)10月21日に会長・幹事・委員が選任されて始動した。
2011年(平成23年)11月17日、衆院憲法審査会が開催された。参考人として元衆院憲法調査会会長・中山太郎は改憲論議の推進を表明し、各党が意見表明をした。同年11月28日、参院憲法審査会が開催された。参考人として元参院憲法調査会会長・関谷勝嗣は改憲手続法の制定経緯などを説明し、各党が意見表明をした。
憲法審査会は、憲法改正原案及び日本国憲法に係る改正の発議又は国民投票に関する法律案を提出することができる(第102条の7)。
憲法改正の発議があったときに、当該発議に係る憲法改正案の国民に対する広報に関する事務を行うため、各議院においてその議員の中から選任された同数の委員で組織される臨時の機関。2010年(平成22年)5月18日以降発効。
行政における特定秘密の保護に関する制度の運用を常時監視するため、各議院に情報監視審査会が設けられており(国会法第102条の13)、特定秘密や不開示情報の提供を受けることができる一方で、会議や会議録は原則非公開となっている。特定秘密保護法とともに施行した国会法改正法で規定されたが、しばらく委員の選任は見送られ、2015年(平成27年)2月26日に委員が選任されて始動した。
政治倫理の確立のため、各議院に政治倫理審査会が設けられており(国会法第124条の3)、行為規範等に違反するとされた場合に法的拘束力のない勧告を行う。審査例は存在するが、実際に勧告まで至った実例はない。報道では「政倫審」と略されることが多い。
日本の国会は「会期」と呼ばれる一定期間にのみ活動を行う会期制を採用している。会期は国会の召集により始まる。国会の召集は憲法第7条第2号により天皇の国事行為とされており、国会の召集詔書は集会の期日を定めて公布される(国会法第1条1項)。議員は召集詔書に指定された期日に各議院に集会しなければならない(国会法第5条)。集会する時刻は議院規則で午前10時となっている(衆議院規則第1条及び参議院規則第1条)。
会期延長および臨時会と特別会の会期設定は両議院一致の議決で行うとされているが(国会法第11条・第12条1項)、両院不一致の場合は衆議院の議決に従う(国会法第13条)。
会期終了と同時に審議中の議案は原則として廃案となる。ただし閉会前に手続をとることにより、委員会は閉会中も審査を行うことができる。これにより次の会期においても審議の進捗を引き継ぐことが可能になる(継続審議)。
会期中に議決に至らなかった案件は、後会に継続しない(国会法第68条)。
国会は、召集後の早い時期に参議院本会議場において、天皇臨席のもとで、衆議院議長が主催して開会式を行う。開会式の日時及び場所は衆議院議長と参議院議長の協議で定める(衆議院規則第19条及び参議院規則第21条)。開会式では、衆議院議長の式辞と天皇のおことばが述べられる。開会式には衆議院議員と参議院議員が参議院本会議場に一様に集まるが、席が足りないため、入りきらない議員は2階席に集められる。開会式前には、衆議院議員と参議院議員が正門前に整列し、天皇の出迎えをするのが恒例となっている。
会期と会期の間を閉会(中)と呼ぶのに対し、会期中において国会あるいは議院がその意思によって自律的にその活動を一時的に休止することを休会といい、法規上「国会の休会」と「議院の休会」の2種類が定められている。会期中、国の行事、年末年始その他議案の都合等の理由により両院の議事を一斉に休止するのが相当である場合は、両院議長の協議を経て、衆議院と参議院の両院一致の議決をもって、あらかじめ日数を定めて休会することができる(国会の休会)。この場合、衆議院の優越はなく両院の議決が必要となる(国会法第15条1項)。各議院は単独で10日以内において自院のみの休会を議決することも可能で、この場合は他院との事前協議は不要である(議院の休会)(国会法第15条4項)。
なお、明治憲法下では政府の意思により他律的にその活動を休止する停会の制度があったが(同憲法第7条・第44条、旧議院法第33条・第34条)、日本国憲法下では停会の制度はない。
衆議院が解散された場合、参議院も同時に閉会となる(両院同時活動の原則)。この衆議院解散から特別会の開会までの閉会中、「国に緊急の必要があるとき」に、内閣は参議院の緊急集会の開催を求めることができる。緊急集会は国会の会期ではなく(詳細は「参議院の緊急集会」の項目参照)、緊急集会においてとられた措置は「臨時のもの」とされる。このため、緊急集会でとられた措置は、次の国会開会の後10日以内に衆議院の同意が求められ、同意がない場合には、その効力を失う。
参議院規則では会議は原則として午前10時に始めることとされている(参議院規則第81条)。また、衆議院規則では会議は原則として午後1時に始めることとされている(衆議院規則第103条)。
開議の時刻となったときは、議長は議長席に着いて諸般の事項を報告後に会議を開くことを宣告するが、この宣告までは何人も議事について発言することが許されない(衆議院規則第104条、参議院規則第83条)。
議事日程に記載した案件の議事を終わったときは議長は散会する(衆議院規則第105条、参議院規則第82条)。
議事が終わらない場合でも、衆議院においては午後6時を過ぎたとき、参議院においては午後4時を過ぎたときは、議長は議院に諮らないで延会することができる(衆議院規則第105条、参議院規則第82条)。ただし、参議院規則では議事を終わらない場合でも、議長が必要と認めたときは議院に諮って延会することができるとしている(参議院規則第82条)。
定足数とは、審議・議決に必要な出席者数をいう。
表決数とは、意思決定に必要な賛成者数をいう。
国会としての権能には以下のようなものがある。
国会は国の唯一の立法機関である(憲法第41条)。法律案の議決については憲法第59条に定めがある。
国の唯一の立法機関であるため、憲法上の人権に関する条文などで見られる「法律の定めるところにより」「法律の定める手続によらなければ」とある場合には、国会のみが具体的な条件・詳細な規定等を定めることができる。なお、立法府としての国会がその判断において、実施細則、具体的な基準等についての決定を行政府たる内閣等に委任することはできる。ただし、この場合でも一定の制約を付することが必要とされる。
憲法は、所定の憲法改正手続を経なければ、国会だけの判断により改正することはできないが、その憲法の範囲内において、立法をなすことができるのは国会だけであり、行政府の活動については法律に従ってなされる必要があるから、行政の活動は、当然に国会の意思に縛られることになる。日本では議院内閣制をとっていることから、通常は、国会の意思と行政府を指揮する内閣の意思とは一致する傾向にある。
裁判官は法律に拘束される(憲法第76条第3項)。憲法に違反する場合には、裁判所が違憲立法審査権を行使して当該法律の無効と判断することはあるものの、法律を制定する国会の意思は、裁判を通して日本国の全てに及ぶものといえる。
議院の権能には主に議院自律権と国政調査権の二つがあり、これら議院の権能については衆議院と参議院の各院が独立して行使することができる。
各院には国政調査権が認められている。必ずしも行政機関のみに限らず、公私の諸団体・個人にも及ぶ。
(松澤浩一 1987, pp. 25–26)
国会の本会議では第1回から速記録の「衆議院会議録」と「参議院会議録」が作成されている。また、第1回国会から第13回国会まで「英文衆議院会議録」と「英文参議院会議録」が作成された。
委員会記録については両院で性格が異なり、衆議院では委員の会議録として「衆議院委員会議録」が作成され、参議院では委員会の会議録として「参議院委員会会議録」が作成されている。
議事は速記によって記録される(衆議院規則第201条、参議院規則第156条)。初期の国会では議事録の作成は速記のみで行われ、各院に速記者の養成所があったが、1951年(昭和26年)2月8日に参議院労働委員会でテープレコーダーが導入され採用テストが行われた。なお、各院独自に設けられていた速記者の養成所は2006年に廃止された。手書き速記は本会議や予算委員会などでは行われているが、それ以外の会議においては参議院では2008年から担当職員がモニターで音声と映像を確認してパソコン入力する方式、衆議院では2011年から音声認識システムが導入されている。 | [
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"text": "2011年(平成23年)11月17日、衆院憲法審査会が開催された。参考人として元衆院憲法調査会会長・中山太郎は改憲論議の推進を表明し、各党が意見表明をした。同年11月28日、参院憲法審査会が開催された。参考人として元参院憲法調査会会長・関谷勝嗣は改憲手続法の制定経緯などを説明し、各党が意見表明をした。",
"title": "構成と組織"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "憲法審査会は、憲法改正原案及び日本国憲法に係る改正の発議又は国民投票に関する法律案を提出することができる(第102条の7)。",
"title": "構成と組織"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "憲法改正の発議があったときに、当該発議に係る憲法改正案の国民に対する広報に関する事務を行うため、各議院においてその議員の中から選任された同数の委員で組織される臨時の機関。2010年(平成22年)5月18日以降発効。",
"title": "構成と組織"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "行政における特定秘密の保護に関する制度の運用を常時監視するため、各議院に情報監視審査会が設けられており(国会法第102条の13)、特定秘密や不開示情報の提供を受けることができる一方で、会議や会議録は原則非公開となっている。特定秘密保護法とともに施行した国会法改正法で規定されたが、しばらく委員の選任は見送られ、2015年(平成27年)2月26日に委員が選任されて始動した。",
"title": "構成と組織"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "政治倫理の確立のため、各議院に政治倫理審査会が設けられており(国会法第124条の3)、行為規範等に違反するとされた場合に法的拘束力のない勧告を行う。審査例は存在するが、実際に勧告まで至った実例はない。報道では「政倫審」と略されることが多い。",
"title": "構成と組織"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "日本の国会は「会期」と呼ばれる一定期間にのみ活動を行う会期制を採用している。会期は国会の召集により始まる。国会の召集は憲法第7条第2号により天皇の国事行為とされており、国会の召集詔書は集会の期日を定めて公布される(国会法第1条1項)。議員は召集詔書に指定された期日に各議院に集会しなければならない(国会法第5条)。集会する時刻は議院規則で午前10時となっている(衆議院規則第1条及び参議院規則第1条)。",
"title": "運営"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "会期延長および臨時会と特別会の会期設定は両議院一致の議決で行うとされているが(国会法第11条・第12条1項)、両院不一致の場合は衆議院の議決に従う(国会法第13条)。",
"title": "運営"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "会期終了と同時に審議中の議案は原則として廃案となる。ただし閉会前に手続をとることにより、委員会は閉会中も審査を行うことができる。これにより次の会期においても審議の進捗を引き継ぐことが可能になる(継続審議)。",
"title": "運営"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "会期中に議決に至らなかった案件は、後会に継続しない(国会法第68条)。",
"title": "運営"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "国会は、召集後の早い時期に参議院本会議場において、天皇臨席のもとで、衆議院議長が主催して開会式を行う。開会式の日時及び場所は衆議院議長と参議院議長の協議で定める(衆議院規則第19条及び参議院規則第21条)。開会式では、衆議院議長の式辞と天皇のおことばが述べられる。開会式には衆議院議員と参議院議員が参議院本会議場に一様に集まるが、席が足りないため、入りきらない議員は2階席に集められる。開会式前には、衆議院議員と参議院議員が正門前に整列し、天皇の出迎えをするのが恒例となっている。",
"title": "運営"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "会期と会期の間を閉会(中)と呼ぶのに対し、会期中において国会あるいは議院がその意思によって自律的にその活動を一時的に休止することを休会といい、法規上「国会の休会」と「議院の休会」の2種類が定められている。会期中、国の行事、年末年始その他議案の都合等の理由により両院の議事を一斉に休止するのが相当である場合は、両院議長の協議を経て、衆議院と参議院の両院一致の議決をもって、あらかじめ日数を定めて休会することができる(国会の休会)。この場合、衆議院の優越はなく両院の議決が必要となる(国会法第15条1項)。各議院は単独で10日以内において自院のみの休会を議決することも可能で、この場合は他院との事前協議は不要である(議院の休会)(国会法第15条4項)。",
"title": "運営"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "なお、明治憲法下では政府の意思により他律的にその活動を休止する停会の制度があったが(同憲法第7条・第44条、旧議院法第33条・第34条)、日本国憲法下では停会の制度はない。",
"title": "運営"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "衆議院が解散された場合、参議院も同時に閉会となる(両院同時活動の原則)。この衆議院解散から特別会の開会までの閉会中、「国に緊急の必要があるとき」に、内閣は参議院の緊急集会の開催を求めることができる。緊急集会は国会の会期ではなく(詳細は「参議院の緊急集会」の項目参照)、緊急集会においてとられた措置は「臨時のもの」とされる。このため、緊急集会でとられた措置は、次の国会開会の後10日以内に衆議院の同意が求められ、同意がない場合には、その効力を失う。",
"title": "運営"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "参議院規則では会議は原則として午前10時に始めることとされている(参議院規則第81条)。また、衆議院規則では会議は原則として午後1時に始めることとされている(衆議院規則第103条)。",
"title": "議事手続"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "開議の時刻となったときは、議長は議長席に着いて諸般の事項を報告後に会議を開くことを宣告するが、この宣告までは何人も議事について発言することが許されない(衆議院規則第104条、参議院規則第83条)。",
"title": "議事手続"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "議事日程に記載した案件の議事を終わったときは議長は散会する(衆議院規則第105条、参議院規則第82条)。",
"title": "議事手続"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "議事が終わらない場合でも、衆議院においては午後6時を過ぎたとき、参議院においては午後4時を過ぎたときは、議長は議院に諮らないで延会することができる(衆議院規則第105条、参議院規則第82条)。ただし、参議院規則では議事を終わらない場合でも、議長が必要と認めたときは議院に諮って延会することができるとしている(参議院規則第82条)。",
"title": "議事手続"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "定足数とは、審議・議決に必要な出席者数をいう。",
"title": "議事手続"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "表決数とは、意思決定に必要な賛成者数をいう。",
"title": "議事手続"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "国会としての権能には以下のようなものがある。",
"title": "国会の権能"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "国会は国の唯一の立法機関である(憲法第41条)。法律案の議決については憲法第59条に定めがある。",
"title": "国会の権能"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "国の唯一の立法機関であるため、憲法上の人権に関する条文などで見られる「法律の定めるところにより」「法律の定める手続によらなければ」とある場合には、国会のみが具体的な条件・詳細な規定等を定めることができる。なお、立法府としての国会がその判断において、実施細則、具体的な基準等についての決定を行政府たる内閣等に委任することはできる。ただし、この場合でも一定の制約を付することが必要とされる。",
"title": "国会の権能"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "憲法は、所定の憲法改正手続を経なければ、国会だけの判断により改正することはできないが、その憲法の範囲内において、立法をなすことができるのは国会だけであり、行政府の活動については法律に従ってなされる必要があるから、行政の活動は、当然に国会の意思に縛られることになる。日本では議院内閣制をとっていることから、通常は、国会の意思と行政府を指揮する内閣の意思とは一致する傾向にある。",
"title": "国会の権能"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "裁判官は法律に拘束される(憲法第76条第3項)。憲法に違反する場合には、裁判所が違憲立法審査権を行使して当該法律の無効と判断することはあるものの、法律を制定する国会の意思は、裁判を通して日本国の全てに及ぶものといえる。",
"title": "国会の権能"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "議院の権能には主に議院自律権と国政調査権の二つがあり、これら議院の権能については衆議院と参議院の各院が独立して行使することができる。",
"title": "議院の権能"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "各院には国政調査権が認められている。必ずしも行政機関のみに限らず、公私の諸団体・個人にも及ぶ。",
"title": "議院の権能"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "(松澤浩一 1987, pp. 25–26)",
"title": "国会の会期一覧"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "国会の本会議では第1回から速記録の「衆議院会議録」と「参議院会議録」が作成されている。また、第1回国会から第13回国会まで「英文衆議院会議録」と「英文参議院会議録」が作成された。",
"title": "会議録"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "委員会記録については両院で性格が異なり、衆議院では委員の会議録として「衆議院委員会議録」が作成され、参議院では委員会の会議録として「参議院委員会会議録」が作成されている。",
"title": "会議録"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "議事は速記によって記録される(衆議院規則第201条、参議院規則第156条)。初期の国会では議事録の作成は速記のみで行われ、各院に速記者の養成所があったが、1951年(昭和26年)2月8日に参議院労働委員会でテープレコーダーが導入され採用テストが行われた。なお、各院独自に設けられていた速記者の養成所は2006年に廃止された。手書き速記は本会議や予算委員会などでは行われているが、それ以外の会議においては参議院では2008年から担当職員がモニターで音声と映像を確認してパソコン入力する方式、衆議院では2011年から音声認識システムが導入されている。",
"title": "会議録"
}
] | 国会は、日本の立法府。衆議院(しゅうぎいん)および参議院(さんぎいん)から構成される二院制の議会である。国権の最高機関とされる(日本国憲法第41条、第42条)。 | {{Infobox Legislature
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|name = 国会<br/><small>National Diet</small>
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{{small|2023年(令和5年)12月14日時点<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/kaiha_m.htm|title=会派名及び会派別所属議員数|publisher=衆議院|accessdate=2023-12-14}}</ref>}}
|committees1 = {{Collapsible list |title= 常任委員会|内閣委員会<br />総務委員会<br />法務委員会<br />[[外交防衛委員会]]<br />[[財政金融委員会]]<br />[[文教科学委員会]]<br />厚生労働委員会<br />農林水産委員会<br />経済産業委員会<br />国土交通委員会<br />環境委員会<br />国家基本政策委員会<br />予算委員会<br />[[決算委員会]]<br />[[行政監視委員会]]<br />議院運営委員会<br />懲罰委員会}}
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|session_room = Diet of Japan Kokkai 2009.jpg
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|meeting_place = {{JPN}}[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]1丁目7番1号[[国会議事堂]]
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|constitution = [[日本国憲法]]
|native_name_lang=}}
{{日本の統治機構}}
'''国会'''(こっかい、{{Lang-en-short|National Diet}})は、[[日本]]の[[立法府]]。'''[[衆議院]]'''(しゅうぎいん)および'''[[参議院]]'''(さんぎいん)から構成される[[両院制|二院制]]の[[議会]]である。[[国家権力|国権]]の[[機関 (法)#公法上の機関|最高機関]]とされる([[日本国憲法第41条]]、[[日本国憲法第42条|第42条]])。
== 概要 ==
[[File:National_Diet_Building_P5030133.jpg|thumb|right|250px|[[国会議事堂]](2017年)]]
[[日本国憲法]]において、国会は「'''国権の最高機関'''」であって、「'''国の唯一の立法機関'''」と位置づけられている([[日本国憲法第41条|憲法41条]])。また、「'''国民の代表機関'''」としての性格も有する([[日本国憲法第43条|憲法43条1項]])。
国会の[[議事]]が行われる[[国会議事堂]]の所在地は、[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]1丁目7番1号。俗に国会ないし[[日本の国会議員|国会議員]](衆議院議員・参議院議員)を指して「'''永田町'''」と呼ぶ。
=== 国民の代表機関 ===
国会は、[[衆議院]]([[下院]])及び[[参議院]]([[上院]])の両議院でこれを構成し([[日本国憲法第42条|憲法42条]])、両議院は「全国民を代表する[[選挙]]された議員」([[日本の国会議員|国会議員]]。[[衆議院議員総選挙|総選挙]]で選出される[[衆議院議員]]及び[[参議院議員通常選挙|通常選挙]]で選出される[[参議院議員]])でこれを組織する([[日本国憲法第43条|憲法43条1項]])。
=== 国権の最高機関 ===
日本国憲法は、国会を「国権の最高機関」と定める([[日本国憲法第41条|憲法41条]])。
ここで、「最高機関」の意味が問題となる。この点、憲法学説上は、政治的美称説が通説的見解と目されている。政治的美称説とは、国会が諸々の国家機関の中で主権者たる国民に次いで高い地位にあり、国民に代わって、国政全般にわたり、強い発言力をもつべきであることから、「最高機関」とは、国民を代表し、国政の中心に位置する重要な機関であるという点に着目して国会に付した'''政治的美称'''であるとする見解である。この見解は、憲法が権力分立制を採用していること、内閣による衆議院解散、違憲立法審査権の存在、司法権の独立などから、「最高機関」に特段の法的意味を認めない。この点について、より積極的な意味づけをなす見解もある。
*統括機関説 - 国会は、国権の最高機関として内閣、裁判所の上位に君臨し、国政全般にわたって最終的な決定権を有する。
*最高責任地位説 - 国会は、国権の最高機関として国民に対して国政全般の責任を負い、行政、司法作用を調整する。
=== 国の唯一の立法機関 ===
日本国憲法は、国会を「国の唯一の立法機関」と定める([[日本国憲法第41条|憲法41条]])。
これは、[[大日本帝国憲法|明治憲法]]下における[[帝国議会]](1890年-1947年)が、[[天皇]]の立法権に協賛する地位(協賛機関)にとどまったのに対して、国会は立法権を独占する機関(立法機関)であることを意味する(ただし明治憲法下で立法権が天皇にあったのは名目的なことで実際には帝国議会の協賛がなければ天皇は立法権を行使できなかった{{sfn|百瀬孝|1990|p=36}}。ただ、天皇は「[[緊急勅令]]」という、法律と同等の効力があるものを発することができた。この勅令には、後日、議会の承認が必要ではあった)。
さらに、この規定を詳細に見ると、「唯一」と「立法」の意味が問題となる。
====「唯一」の意味====
国会が国の「唯一」の立法機関であるとは、次の2つの意味を持つ。
*'''国会中心立法の原則'''(国会中心立法主義)
*:国の行う立法は、憲法に特別の定めがある場合を除いて、常に、国会を通して為されなくてはならないとする原則。この原則の例外となる「特別の定め」としては、衆議院と参議院の各議院がその自律権に基づいて定める[[議院規則]]([[日本国憲法第58条|憲法58条]]2項)、および、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]が定める[[最高裁判所規則]]([[日本国憲法第77条|憲法77条]]1項)が挙げられる<ref group="注">この点、[[条例]]が国会中心立法の原則の例外となるか問題となる。通説的見解によれば、条例の制定は、国会の法律制定と同じ性質の行為であり、また、地方議会もまた、国会と同様に、住民により選挙された議員で組織されるものであること等を理由に、例外と見る必要はないとする。</ref>。
*::この原則は、(1)行政権が緊急命令や独立命令の形式で、議会を通すことなく、独自に立法を行う立法二元制(明治憲法における緊急勅令や独立命令など)の廃止、および、(2)行政権が行う立法を、法律の執行に必要な細則を定める執行命令と法律の委任に基づく委任命令に限定する立法一元制の採用([[日本国憲法第73条|憲法73条]]6号参照)に示される。
*'''国会単独立法の原則'''(国会単独立法主義)
*:国会による立法は、国会以外の機関の関与がなくとも、国会の議決のみで成立するとする原則。この原則に対する例外として、憲法は、地方自治特別法の制度を定める([[日本国憲法第95条|憲法95条]])。
*::この原則は、明治憲法下での天皇の立法に対する関与の廃止(ただし前述のとおり明治憲法下で立法権が天皇にあったのは形式的なことであり、実質的には帝国議会の議決によってのみ立法された{{sfn|百瀬孝|1990|p=36}})<ref group="注">この点、日本国憲法7条1号に定められる天皇による法律の「公布」は、法律の成立後、国民に広く知らせて効力を発生させる行為であることから、国会単独立法の原則に抵触しない。</ref>、国会の議決のみによる法律の成立(憲法59条1項)に示される。
==== 「立法」の意味 ====
[[日本国憲法第41条]]「国の唯一の立法機関」にいう「立法」とは、形式的意義の立法(国会が制定する「法律」という国法の一形式の法規範の定立)ではなく実質的意義の立法(一般的・抽象的法規範の定立)を指すものと解されている。
その理由は憲法41条の「立法」を形式的意味の立法を指すものと解釈してしまうと、「国会が制定する法律という法形式の法規範を制定する権限は国会のみにある」という意味を持たない規定になってしまうためである。したがって、実質的意味の立法であると理解されているが、実質的意味の立法の内容については一般的・抽象的法規範の定立の範囲を巡って見解が分かれている。
== 沿革 ==
=== 前史 ===
* [[1868年]]([[慶応]]4年/[[明治]]元年)[[1月27日 (旧暦)|1月27日]] - [[三職]]分課を制定し、各藩から派遣された[[貢士]]による[[議事所|下ノ議事所]]が設置される。
* 同年6月11日([[4月21日 (旧暦)|旧暦閏4月21日]]) - [[政体書]]により、[[太政官]]の下に置かれる立法機関として[[議政官]]が定められる。
* [[1869年]](明治2年)[[3月7日 (旧暦)|3月7日]] - 各藩から選ばれた代表などからなる議事機関として、[[公議所]]が開院される。
* 同年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]] - 公議所を[[集議院]]に改組する。
* [[1870年]](明治3年)[[5月28日 (旧暦)|5月28日]] - 集議院開会。
* [[1871年]](明治4年)[[9月13日 (旧暦)|9月13日]] - [[太政官]]を三院に分かち、立法機関は[[左院]]となる(集議院は左院の所属となり、その後、[[1873年]][[6月]]廃止)。
* [[1874年]](明治7年)[[4月14日]] - [[板垣退助]]らが、[[民選議院設立建白書]]を提出。以降、[[地方官会議]]が開かれるなど、[[議会]]の開設・[[言論の自由]]・[[集会の自由]]の保障などを求める[[自由民権運動]]が活発となる。
* [[1875年]](明治8年)[[4月25日]] - [[大阪会議]]での合意により[[立憲政体の詔書]]が発せられる。これにより、左院を廃止して、立法諮問機関である[[元老院 (日本)|元老院]]を設置する。
* [[1881年]](明治14年)[[10月12日]] - [[明治天皇]]が[[国会開設の詔]]を発する。政府が10年後の議会設立を約束。
=== 帝国議会時代 ===
* [[1889年]](明治22年)[[2月11日]] - 明治憲法[[公布|発布]]。立法の協賛機関(事実上の立法機関)として、下院の役割を持つ民選議員により組織される'''[[衆議院]]'''(しゅうぎいん)と上院の役割を持つ華族議員・勅任議員などにより組織される'''[[貴族院 (日本)|貴族院]]'''(きぞくいん)の両院で構成する'''[[帝国議会]]'''(ていこくぎかい)を規定する。
* [[1890年]](明治23年)[[6月10日]] - 第1回貴族院多額納税者議員選挙実施。
* 同年[[7月1日]] - '''[[第1回衆議院議員総選挙]]実施'''。
* 同年[[7月10日]] - 第1回貴族院伯爵・子爵・男爵議員選挙実施。
* 同年[[9月29日]] - 初の貴族院勅選議員の任命。
* 同年[[11月25日]] - 第1回帝国議会召集。
* 同年[[11月29日]] - '''第1回帝国議会開院式'''。明治憲法施行。
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[2月20日]] - '''[[第16回衆議院議員総選挙|最初の普通選挙]]実施'''。納税額による[[制限選挙]]を撤廃し、満25歳以上の成年男性が選ぶ普通選挙が実現。
* [[1936年]](昭和11年)[[11月7日]] - [[東京市]][[麹町|麹町区]][[永田町]]に帝国議会議事堂(現[[国会議事堂]])が竣工。
* [[1946年]](昭和21年)[[4月10日]] - 帝国議会[[第22回衆議院議員総選挙|最後の衆議院総選挙]]が実施される。満20歳以上の男女普通選挙が実現。
* 同年[[12月27日]] - 最後の帝国議会([[帝国議会|第92議会]])が召集され、翌年[[3月31日]]に閉会、解散する。
=== 国会時代 ===
* [[1946年]](昭和21年)[[11月3日]] - 日本国憲法が公布。立法機関として、いずれも民選議員により組織される'''衆議院'''(帝国議会より維持・引継された下院)及び'''[[参議院]]'''(さんぎいん、廃止された貴族院に代わる上院)の両院で構成する'''国会'''(こっかい)を規定する。
* [[1947年]](昭和22年)[[4月20日]] - '''[[第1回参議院議員通常選挙]]実施'''。
* 同年[[4月25日]] - [[第23回衆議院議員総選挙]]実施。
* 同年[[5月3日]] - 日本国憲法が施行。
* 同年[[5月20日]] - 日本国憲法に基づき、'''第1回国会召集'''。
* [[1960年]](昭和35年) - [[国会前庭]]に、[[尾崎行雄]]を記念して尾崎記念会館が開館する。
* [[1972年]](昭和45年)3月 - 議会開設80周年の記念事業の一環として[[憲政記念館]]を開館する(尾崎記念会館を吸収)。
* [[1990年]]([[平成]]2年)11月29日 - 参議院本会議場において「議会開設百年記念式典」を挙行。
* [[2000年]](平成12年)11月29日 - 参議院本会議場において「議会開設百十年記念式典」を挙行。
* [[2010年]](平成22年)11月29日 - 参議院本会議場において「議会開設百二十年記念式典」を挙行。
* [[2020年]]([[令和]]2年)11月29日 - 参議院本会議場において「議会開設百三十年記念式典」を挙行。
== 構成と組織 ==
=== 両院制(衆議院・参議院) ===
国会は、'''[[衆議院]]'''(しゅうぎいん)と'''[[参議院]]'''(さんぎいん)によって構成される。両議院とも、主権者である[[国民]]の[[選挙]]([[衆議院議員総選挙]]・[[参議院議員通常選挙]])によって選ばれた'''[[日本の国会議員|国会議員]]'''('''衆議院議員465人'''、'''参議院議員248人''')により組織される、民選議院型の'''[[両院制]]'''である(衆議院は[[下院]]、参議院は[[上院]]に相当する)。
両議院を補佐する機関として、各議院に[[議院事務局|事務局]]と[[議院法制局|法制局]]が設置され、また議院に直属しない補佐機関として[[国立国会図書館]]がある。このほか、[[日本国憲法]]に定める国会による[[裁判官]]の[[弾劾]]を行うため、[[裁判官訴追委員会]]と[[裁判官弾劾裁判所]]が設置されている。
* [[衆議院]]
** [[衆議院事務局]]
** [[衆議院法制局]]
** [[憲政記念館]]
* [[参議院]]
** [[参議院事務局]]
** [[参議院法制局]]
* [[国立国会図書館]]
* [[裁判官訴追委員会]]
* [[裁判官弾劾裁判所]]
{{see|両院制}}
==== 両院協議会 ====
衆議院と参議院で議決が一致しなかった場合は、その調整を行うため、'''[[両院協議会]]'''(りょういんきょうぎかい)が開催される。予算、条約の承認、[[内閣総理大臣指名選挙|内閣総理大臣の指名]]について議決が異なった場合には必ず開催され、法律案について議決が異なった場合には衆議院が協議会を請求したとき及び参議院が協議会を請求しこれに衆議院が同意したときに開催される。
{{see|両院協議会}}
==== 衆議院の優越 ====
衆議院と参議院はそれぞれ国会の一院として対等な地位を占めるが、憲法上あるいは法律上において衆議院の議決が優先する場合([[衆議院の優越]])がある。
ただし、[[参議院の緊急集会]]では衆院予算先議権の例外として、衆議院より先に参議院で予算を審議して採決をすることができるが、内閣に提出権がない憲法改正を議題にできないとされている。
{{see|衆議院の優越}}
=== 各議院の役員 ===
各議院には国会法により以下のような役員が設置される([[s:国会法#16|国会法第16条]]・[[s:国会法#26|第26条]]等)。
* [[衆議院議長]]・[[参議院議長]]
: 議院の秩序を保持し、議事を整理し、議院の事務を監督し、議院を代表する([[s:国会法#19|国会法第19条]])。
* 衆議院副議長・参議院副議長
: 議長に事故があるときまたは議長が欠けたときに議長の職務を行う([[s:国会法#21|国会法第21条]])。
* 衆議院[[仮議長]]・参議院仮議長
: 議長及び副議長に共に事故があるときに議長の職務を行う([[s:国会法#22|国会法第22条]]1項)。
* 衆議院常任委員長・参議院常任委員長([[s:国会法#22|国会法第22条]]1項)
: 各議院において各々その常任委員の中から選挙される。([[s:国会法#25|国会法第25条]])
* 衆議院[[事務総長 (国会)|事務総長]]・参議院事務総長
: 議長の監督の下に、議院の事務を統理し、公文に署名する([[s:国会法#28|国会法第28条]])。
* 衆議院参事・参議院参事
: 事務総長の命を受け事務を掌理する([[s:国会法#28|国会法第28条]]2項)。
=== 委員会及び参議院の調査会 ===
帝国議会時代の議案審議が本会議中心であったのに対して、戦後国会は[[アメリカ合衆国連邦議会|アメリカ連邦議会]]に範をとって国会審議は、'''[[委員会]]'''を中心に行われている。{{see also|帝国議会#特徴|読会制#概要}}
各議院の委員会には、国会法に名称が明記された常設の'''[[常任委員会]]'''と、案件ごとに各議院が必要に応じて設けることが可能な'''[[特別委員会]]'''の2種類がある([[s:国会法#40|国会法第40条]])。すべての議案は本会議での趣旨説明および必要に応じて[[代表質問]]の後にどこかしらの常任委員会に付託される([[s:国会法#56|国会法第56条の2]])が、所掌するべき常任委員会がなく、かつ特別委員会を設けて審議するまでもないと議長が判断した場合は、本会議の議決に基づき'''「他の常任委員会に属しない[[内閣府]]に関する事項」'''として内閣委員会、もしくは'''「議長の諮問に関する事項」'''として議院運営委員会に付託される。{{see also|議院運営委員会#所管事項|内閣委員会#概要}}
なお、特に緊急を要する議案は委員会への付託を省略することもできる(衆議院規則111条、参議院規則26条)とされており、内閣ないしは国務大臣・両院役職者に対する[[不信任決議|不信任決議案]]がこの例に当たる。{{main|不信任決議#国会での不信任決議|内閣不信任決議#内閣不信任決議}}
委員会は単独で開催するほかに、同一院内の複数の委員会による'''連合審査会'''として(衆議院規則第60条、参議院規則第36条)、あるいは衆議院と参議院の両院の常任委員会による'''合同審査会'''として([[s:国会法#44|国会法第44条]])、'''開催する'''ことも可能である。
また、具体的な議案の付託の有無にかかわらず、長期的な調査を行うための委員会的な組織として参議院にのみ「'''調査会'''」を設けることができ([[s:国会法#54.E3.81.AE2|国会法第54条の2]])、慣例により3以内の調査会を置くこととなっている。これは、解散がなく任期が安定している参議院の特色を生かした制度である。
* 常任委員会の例 - 予算委員会
* 特別委員会の例 - 災害対策特別委員会
* 参議院の調査会の例 - 共生社会に関する調査会
==== 常任委員会 ====
[[ファイル:衆議院第1委員室.jpg|thumb|250px|国会議事堂 衆議院第1委員室]]
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* [[内閣委員会]]
* [[総務委員会]]
* [[法務委員会]]
* [[外務委員会]](衆院のみ)
* [[安全保障委員会]](衆院のみ)
* [[外交防衛委員会]](参院のみ)
* [[財務金融委員会]](衆院のみ)
* [[財政金融委員会]](参院のみ)
* [[文部科学委員会]](衆院のみ)
* [[文教科学委員会]](参院のみ)
* [[厚生労働委員会]]
* [[農林水産委員会]]
* [[経済産業委員会]]
* [[国土交通委員会]]
* [[環境委員会]]
* [[国家基本政策委員会]]
* [[予算委員会]]
* [[決算行政監視委員会]](衆院のみ)
* [[決算委員会]](参院のみ)
* [[行政監視委員会]](参院のみ)
* [[議院運営委員会]]
* [[懲罰委員会]]
{{div col end}}
=== 憲法審査会 ===
[[第167回国会]]から国会法改正法が施行され、衆議院と参議院の両院に、日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議又は国民投票に関する法律案等を審査するため、各議院に憲法審査会を置き(国会法第102条の6)、国会法第68条の2に基づく両院の議員による改正の発議に加えて、同審査会も改正の発議又は国民投票に関する法案の提出が可能となった(国会法第102条の7)。実際の憲法改正原案についての審議は[[2010年]](平成22年)[[5月18日]]以降可能となった。
法的には第167回国会の召集日である[[2007年]](平成19年)[[8月7日]]から各議院に憲法審査会が存在していることになる。同審査会の組織・手続の詳細を定める「憲法審査会規程」は、衆議院では[[2009年]](平成21年)[[6月11日]]に自民・公明の[[与党]]の賛成多数で制定され、参議院では[[2011年]](平成23年)[[5月18日]]に民主・自民・公明・みんななどの賛成多数で制定されたが、その後も両院とも審査会の会長・委員が選出されない休眠状態が続いた。
[[2009年]](平成21年)の民主党への[[政権交代]]以降、[[鳩山由紀夫内閣|鳩山政権]]・[[菅直人内閣|菅政権]]時代の国会では憲法審査会の始動に向けた進展はなく、[[2010年]](平成22年)[[5月18日]]の完全施行に至っても事実上存在しない状況が続いたが<ref>{{Wayback|url=http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010050201000284.html|title=国民投票法が18日施行 政権揺らぎ、審査会は「休眠」 - 47NEWS(よんななニュース)|date=20130511122409}}</ref>、[[野田内閣|野田政権]]発足後の2011年(平成23年)10月21日に会長・幹事・委員が選任されて始動した。
[[2011年]](平成23年)11月17日、衆院憲法審査会が開催された。[[参考人]]として元衆院憲法調査会会長・[[中山太郎]]は[[憲法改正論議|改憲論議]]の推進を表明し、各党が意見表明をした。同年11月28日、参院憲法審査会が開催された{{Refnest|group="注"|2007年(平成19年)8月の設置後初の審査会を開催した<ref>[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20111129ddm005010146000c.html 参院憲法審査会:「国と地方の関係議論を」]{{リンク切れ|date=2020年1月}} 毎日新聞 2011年11月29日</ref>。}}。参考人として元参院憲法調査会会長・[[関谷勝嗣]]は[[日本国憲法の改正手続に関する法律|改憲手続法]]の制定経緯などを説明し、各党が意見表明をした。
憲法審査会は、憲法改正原案及び日本国憲法に係る改正の発議又は国民投票に関する法律案を提出することができる(第102条の7)。
=== 国民投票広報協議会 ===
憲法改正の発議があったときに、当該発議に係る憲法改正案の国民に対する広報に関する事務を行うため、各議院においてその議員の中から選任された同数の委員で組織される臨時の機関。2010年(平成22年)5月18日以降発効。
=== 情報監視審査会 ===
行政における特定秘密の保護に関する制度の運用を常時監視するため、各議院に情報監視審査会が設けられており(国会法第102条の13)、特定秘密や不開示情報の提供を受けることができる一方で、会議や会議録は原則非公開となっている。[[特定秘密の保護に関する法律|特定秘密保護法]]とともに施行した国会法改正法で規定されたが、しばらく委員の選任は見送られ、2015年(平成27年)2月26日に委員が選任されて始動した。
=== 政治倫理審査会 ===
政治倫理の確立のため、各議院に政治倫理審査会が設けられており(国会法第124条の3)、行為規範等に違反するとされた場合に法的拘束力のない勧告を行う。審査例は存在するが、実際に勧告まで至った実例はない。報道では「政倫審」と略されることが多い。
{{see|政治倫理審査会}}
== 運営 ==
=== 会期制 ===
==== 概要 ====
日本の国会は「'''会期'''」と呼ばれる一定期間にのみ活動を行う'''会期制'''を採用している<ref group="注">会期制に関連する項目として[[通年国会]]の項目も参照。</ref>。会期は国会の[[召集]]により始まる。国会の召集は[[日本国憲法第7条|憲法第7条第2号]]により天皇の[[国事行為]]とされており、国会の召集詔書は集会の期日を定めて公布される([[s:国会法#1|国会法第1条]]1項)。議員は召集詔書に指定された期日に各議院に集会しなければならない([[s:国会法#5|国会法第5条]])。集会する時刻は議院規則で午前10時となっている(衆議院規則第1条及び参議院規則第1条)。
[[会期延長]]および臨時会と特別会の会期設定は両議院一致の議決で行うとされているが([[s:国会法#11|国会法第11条]]・[[s:国会法#12|第12条]]1項)、両院不一致の場合は衆議院の議決に従う([[s:国会法#13|国会法第13条]])。
会期終了と同時に審議中の議案は原則として廃案となる。ただし閉会前に手続をとることにより、委員会は閉会中も審査を行うことができる。これにより次の会期においても審議の進捗を引き継ぐことが可能になる([[継続審議]])。
会期中に議決に至らなかった案件は、後会に継続しない([[s:国会法#68|国会法第68条]])。
{{see|会期}}
==== 開会式 ====
[[ファイル:Emperor Akihito and Bunmei Ibuki 201301.jpg|thumb|330px|[[第183回国会]]開会式で天皇[[明仁]]の臨席の下、式辞を述べる衆議院議長[[伊吹文明]]]]
国会は、召集後の早い時期に参議院本会議場において、天皇臨席のもとで、衆議院議長が主催して開会式を行う。開会式の日時及び場所は衆議院議長と参議院議長の協議で定める(衆議院規則第19条及び参議院規則第21条)。開会式では、衆議院議長の式辞と天皇のおことばが述べられる。開会式には衆議院議員と参議院議員が参議院本会議場に一様に集まるが、席が足りないため、入りきらない議員は2階席に集められる。開会式前には、衆議院議員と参議院議員が正門前に整列し、天皇の出迎えをするのが恒例となっている。
{{see|国会開会式}}
==== 会期の種類 ====
; [[常会]](通常国会)
:常会は毎年1回、1月中に[[召集]]される国会である([[日本国憲法第52条|52条]]・[[s:国会法#2|国会法第2条]])。憲法上は「常会」というが、一般には「通常国会」と呼ばれることが多い。会期は150日であるが、会期中に議員の任期が満限に達する場合には満限の日をもって終了する([[s:国会法#10|国会法第10条]])。延長は1回のみ可能([[s:国会法#12|国会法第12条]]1項・2項)。
; [[臨時会]](臨時国会)
:臨時会は憲法あるいは国会法の規定に基づいて内閣が臨時に召集する国会で、内閣は必要に応じて臨時会の[[召集]]を決定できるが([[日本国憲法第53条|憲法第53条]]前段)、いずれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば内閣は臨時会の召集を決定しなければならない(憲法第53条後段)。このほか国会法の規定により衆議院議員の任期満了による総選挙が行われたとき及び参議院議員の通常選挙が行われたときにも内閣は原則として臨時会を召集しなければならない([[s:国会法#2の3|国会法第2条の3]])。憲法上は「臨時会」というが、一般には「臨時国会」と呼ばれることが多い。延長は2回まで可能([[s:国会法#12|国会法第12条]]1項・2項)。
; [[特別会]](特別国会)
:特別会は[[衆議院解散|衆議院の解散]]による総選挙の後に召集される国会である([[日本国憲法第54条|憲法第54条]]1項)。憲法上は呼称の規定がなく国会法において「特別会」と定められているが、一般には「特別国会」と呼ばれることが多い。延長は2回まで可能(国会法第12条1項・2項)。常会と併せて召集することもできる([[s:国会法#2の2|国会法第2条の2]])。
{{see|常会|臨時会|特別会}}
==== 休会 ====
会期と会期の間を'''閉会(中)'''と呼ぶのに対し、会期中において国会あるいは議院がその意思によって自律的にその活動を一時的に休止することを'''[[休会]]'''といい、法規上「国会の休会」と「議院の休会」の2種類が定められている。会期中、国の行事、年末年始その他議案の都合等の理由により両院の議事を一斉に休止するのが相当である場合は、両院議長の協議を経て、衆議院と参議院の両院一致の議決をもって、あらかじめ日数を定めて休会することができる('''国会の休会''')。この場合、衆議院の優越はなく両院の議決が必要となる(国会法第15条1項)。各議院は単独で10日以内において自院のみの休会を議決することも可能で、この場合は他院との事前協議は不要である('''議院の休会''')([[s:国会法#15|国会法第15条]]4項)。
なお、明治憲法下では政府の意思により他律的にその活動を休止する[[停会]]の制度があったが(同憲法第7条・第44条、旧[[議院法]]第33条・第34条)、日本国憲法下では停会の制度はない。
=== 参議院の緊急集会 ===
衆議院が解散された場合、参議院も同時に閉会となる(両院同時活動の原則)。この衆議院解散から特別会の開会までの閉会中、「国に緊急の必要があるとき」に、内閣は'''[[参議院の緊急集会]]'''の開催を求めることができる。緊急集会は国会の会期ではなく(詳細は「参議院の緊急集会」の項目参照)、緊急集会においてとられた措置は「臨時のもの」とされる。このため、緊急集会でとられた措置は、次の国会開会の後10日以内に衆議院の同意が求められ、同意がない場合には、その効力を失う。
{{see|参議院の緊急集会}}
== 議事手続 ==
[[File:衆議院会派別勢力図(2013.2.27).png|thumb|right|300px|2013年3月3日時点の衆議院会派別勢力図]]
[[File:Sangiin seiryoku.png|thumb|right|300px|2016年7月14日時点の参議院会派別勢力図]]
=== 開議 ===
参議院規則では会議は原則として午前10時に始めることとされている(参議院規則第81条)。また、衆議院規則では会議は原則として午後1時に始めることとされている(衆議院規則第103条)。
開議の時刻となったときは、議長は議長席に着いて諸般の事項を報告後に会議を開くことを宣告するが、この宣告までは何人も議事について発言することが許されない(衆議院規則第104条、参議院規則第83条)。
=== 散会 ===
議事日程に記載した案件の議事を終わったときは議長は散会する(衆議院規則第105条、参議院規則第82条)。
=== 延会 ===
議事が終わらない場合でも、衆議院においては午後6時を過ぎたとき、参議院においては午後4時を過ぎたときは、議長は議院に諮らないで延会することができる(衆議院規則第105条、参議院規則第82条)。ただし、参議院規則では議事を終わらない場合でも、議長が必要と認めたときは議院に諮って延会することができるとしている(参議院規則第82条)。
=== 定足数 ===
[[定足数]]とは、審議・議決に必要な出席者数をいう。
* 本会議 - [[日本国憲法第56条|憲法第56条]]1項により、両議院とも、総議員の3分の1以上。
* 委員会 - [[s:国会法#49|国会法第49条]]により、委員の半数以上。
{{see|定足数}}
=== 表決数 ===
[[表決数]]とは、意思決定に必要な賛成者数をいう。
* 本会議
** [[日本国憲法第56条|憲法第56条]]2項により、両議院とも、原則出席議員の過半数(半数+1以上)。可否同数の場合は[[議長決裁]]。
** 議員の議席喪失([[日本国憲法第55条|憲法第55条]])、秘密会開催([[日本国憲法第57条|憲法第57条]]1項ただし書)、除名([[日本国憲法第58条|憲法第58条]]2項ただし書)、[[衆議院の再議決|衆議院の法律案再可決]]([[日本国憲法第59条|憲法第59条]]2項)については、出席議員の3分の2以上。
** 憲法改正の発議([[日本国憲法第96条|憲法第96条]]1項)は、総議員の3分の2以上。
* 委員会 - [[s:国会法#50|国会法第50条]]により、出席委員の過半数。可否同数のときは、[[委員長決裁]]。
{{see|表決数|議長決裁|委員長決裁}}
=== 表決の手続 ===
[[ファイル:30syu san3.jpg|サムネイル|起立採決(衆議院本会議)]]
[[ファイル:20180228shu03.jpg|サムネイル|記名投票(衆議院本会議)]]
* 議長は[[表決]]を採ろうとするときは表決に付する問題を宣告することとなっており、宣告後、議員は表決に付された問題について発言できない(衆議院規則第150条、参議院規則第136条)。議員が表決に加わるには現に議場にいなければならない(衆議院規則第148条、参議院規則第135条)。表決には条件を付けることができない(衆議院規則第149条、参議院規則第134条)。
* 表決方法
** 起立採決 - 表決方法は議長が問題について可とする者を起立させて起立者の多少を認定して決する起立採決を原則とする(衆議院規則151条、参議院規則第137条)。
** 記名投票 - 議長が起立者の多少を認定しがたいとき、議長の宣告に対し出席議員の5分の1以上から異議を申し立てられたとき、議長が必要と認めたときは記名投票となる(衆議院規則第151条・第152条、参議院規則第138条・第139条)。記名投票は問題を可とする議員が白色の票(衆議院規則では白票、参議院規則では白色票という)を、問題を否とする議員は青色の票(衆議院規則では青票、参議院規則では青色票という)を投票する(衆議院規則第153条、参議院規則第139条)。それぞれの色の木札は各議席に用意されており、白票(白色票)には黒い字で、青票(青色票)には赤い字であらかじめ議員の氏名が記されている。記名投票の際には議長は「議場閉鎖」を宣告し(衆議院規則第154条、参議院規則第140条)、その後、参事に点呼を命じる(議席番号順)。各議員は登壇して投票を行うが、先例により衆議院では時計回りに、参議院では反時計回りに投票が進められる。投票が終わったときは、議長は投票漏れがないか確認する。その後、議長は「投票箱閉鎖」と「開票」、「議場開鎖」を宣告する。そして、理事が票の点検と集計を行い、集計後、議長は投票の結果を宣告する(衆議院規則第155条、参議院規則第141条)。衆議院では議長は事務総長に結果報告を命じるのが先例となっている。
** 押しボタン式投票 - 2015年(平成27年)現在、参議院でのみ導入されている方法。議席に設置された投票機を用いて問題を可とする議員は賛成ボタン、問題を否とする議員は反対ボタンを押すことにより投票する(参議院規則第140条の3)。議長が必要と認めたときに押しボタン式投票となる(参議院規則第140条の2)。参議院の各議員席には投票機が設置されており、賛成の白色ボタン、反対の青色ボタン(緑色に近い)、そして、取消の赤色ボタンが並んでいる。押しボタン式投票の際には議長は「本案の賛否について、投票ボタンをお押し願います」と宣告して投票が開始される。各議員が賛成や反対のボタンを押すと、投票機の上部に付けられている小型の白ランプや青ランプ(緑色に近い)が点灯して自らの押した内容を確認できるようになっている。議長は時期を見計らって「間もなく投票を終了いたします」「これにて投票を終了いたします」と告げる。そして、投票結果を議長が報告すると同時に投票結果(投票総数、賛成、反対)が参議院議場内3か所に設けられている表示盤に表示される。
** 異議なし採決 - 議長は問題について異議の有無を議院に諮るという形で表決をとることができる(衆議院規則第157条、参議院規則第143条)。この場合、議長は異議がないと認めたときは可決の旨を宣告する。ただし、議長の宣告に対して議員が異議(衆議院の場合は出席議員20人以上の異議)を申し立てたときは、議長は異議なし採決をとることができない。
=== 公開の原則・記録の公表 ===
* 本会議([[日本国憲法第57条|憲法第57条]])
** 両議院の会議は、公開とする。ただし、出席議員の3分の2以上の多数で議決したときは、秘密会を開くことができる。
** 両議院は、各々その会議の記録を保存し、秘密会の記録の中で特に秘密を要すると認められるもの以外は、これを公表し、かつ一般に頒布しなければならない。
** 出席議員の5分の1以上の要求があれば、各議員の表決は、これを会議録に記載しなければならない。
* 委員会は原則非公開。議員のみが傍聴可能。ただし、報道関係者などで委員長の許可を受けた者は傍聴可能([[s:国会法#52|国会法第52条]])。
== 行政府との関係 ==
[[ファイル:The minister room at the National Diet Building.jpg|thumb|250px|国会議事堂 大臣室]]
: 日本国憲法は[[議院内閣制]]を採用している。
: 議院内閣制とは、議会と内閣が一応分立しつつ、議会の信任(特に、両院制をとる場合には、下院の信任。日本では衆議院の信任)を内閣存立のための必要条件とする制度である。多くの場合、議会の多数派が与党を形成し、与党の中から内閣総理大臣を指名するため、議会と内閣は一体的に協働することになる。日本国憲法では、以下の諸規定により、議院内閣制を定める。
:*内閣による行政権の行使について、国会に対し、連帯して責任を負うこと([[日本国憲法第66条|憲法第66条]]3項)。
:*内閣総理大臣は、国会の議決により指名されること([[日本国憲法第67条|憲法第67条]]1項前段)。
:*内閣総理大臣は、国会議員の中から指名されること([[日本国憲法第67条|憲法第67条]]1項前段)。また、国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばれなければならないこと([[日本国憲法第68条|憲法第68条]]1項ただし書)。
:*衆議院の内閣不信任決議を定めたこと。また、内閣不信任決議を受けて、内閣が衆議院を解散しうる権限を定めたこと([[日本国憲法第69条|憲法第69条]])。なお、内閣は国会に対し連帯して責任を負うこととされ([[日本国憲法第66条|憲法第66条]]3項)、国会を構成する一院である参議院も内閣がその果たすべき責任を充分に果たしていないと考える場合には内閣の責任を問うことができるが{{Sfn|松澤浩一|1987|p=122}}、憲法第69条のような法的効果を生ずることはなく政治的な効果を生じるにとどまると解されている{{Sfn|松澤浩一|1987|pp=122-123}}。
: これらの規定のうち、内閣の国会にする連帯責任に関する規定を議院内閣制の本質的要素と見る考え方は、責任本質説と呼ばれ、通説とされる。これに対して、責任規定のほか、内閣の衆議院解散権に関する規定をも議院内閣制の本質的要素と見る考え方は、均衡本質説と呼ばれる。
{{see|内閣総理大臣指名選挙|内閣不信任決議|衆議院解散}}
== 国会の権能 ==
国会としての権能には以下のようなものがある。
[[File:Chamber of the House of Representatives of Japan.jpg|thumb|250px|[[衆議院]]本会議場]]
[[File:Japanese_diet_inside.jpg|thumb|250px|[[参議院]]本会議場]]
=== 立法権 ===
国会は国の唯一の[[立法]]機関である([[日本国憲法第41条|憲法第41条]])。法律案の議決については[[日本国憲法第59条|憲法第59条]]に定めがある。
国の唯一の立法機関であるため、憲法上の人権に関する条文などで見られる「法律の定めるところにより」「法律の定める手続によらなければ」とある場合には、国会のみが具体的な条件・詳細な規定等を定めることができる。なお、立法府としての国会がその判断において、実施細則、具体的な基準等についての決定を行政府たる内閣等に委任することはできる。ただし、この場合でも一定の制約を付することが必要とされる。
憲法は、所定の[[憲法改正]]手続を経なければ、国会だけの判断により改正することはできないが、その憲法の範囲内において、立法をなすことができるのは国会だけであり、行政府の活動については法律に従ってなされる必要があるから、行政の活動は、当然に国会の意思に縛られることになる。日本では[[議院内閣制]]をとっていることから、通常は、国会の意思と行政府を指揮する内閣の意思とは一致する傾向にある。
裁判官は法律に拘束される([[日本国憲法第76条|憲法第76条]]第3項)。憲法に違反する場合には、裁判所が違憲立法審査権を行使して当該法律の無効と判断することはあるものの、法律を制定する国会の意思は、裁判を通して日本国の全てに及ぶものといえる。
=== その他の国会の主な権能 ===
* [[条約]]承認権([[日本国憲法第61条|憲法第61条]])
: [[条約]]の国内法の性質を巡っても諸説あるが、これまた少なくとも行政に対する国会からの統制となることは疑いない。条約否決という強権は、憲法では事実上[[衆議院]]のみに認めている。
* [[弾劾裁判所]]の設置権([[日本国憲法第64条|憲法第64条]])
: 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する[[裁判官弾劾裁判所]]を設ける([[日本国憲法第64条|憲法第64条]])。非行のあった裁判官を裁判官弾劾裁判所に訴追するのは、同じく国会議員で組織する[[裁判官訴追委員会]]である。裁判官弾劾裁判所と裁判官訴追委員会は、ともに国会から独立して職権を行使する。
* [[内閣総理大臣]]の指名権([[日本国憲法第67条|憲法第67条]])
* [[財政]]監督権([[日本国憲法第83条|憲法第83条]])
: 財政については予算承認権([[日本国憲法第86条|憲法第86条]])や[[予備費]]の承諾([[日本国憲法第87条|憲法第87条]])などの権限を有する。[[予算]]の法的性質を巡っては諸説あるが、少なくとも行政に対する国会からの統制となることは疑いない。日本の憲法上は、法律制定による行政統制と見る必要は特になく、行政過程への介入による統制と見ても、国会の予算修正権等、一向に問題はない。予算否決という強権は、[[日本国憲法]]では事実上[[衆議院]]のみに認めているが、参議院の[[自然成立]]前に予算が執行される場合は、[[暫定予算]]を衆議院と参議院で議決する必要がある。
* [[憲法改正]]発議権([[日本国憲法第96条|憲法第96条]])
== 議院の権能 ==
議院の権能には主に議院自律権と[[国政調査権]]の二つがあり、これら議院の権能については衆議院と参議院の各院が独立して行使することができる。
=== 議院自律権 ===
* 自主組織権
** 役員選任権([[日本国憲法第58条|憲法第58条]]1項)
** 議員釈放請求権・議員逮捕許諾権([[日本国憲法第50条|憲法第50条]])
** 議員の資格争訟の裁判権([[日本国憲法第55条|憲法第55条]])
*: 出席議員の3分の2以上の多数による議決で議員の議席を失わせることができる。議員に就任した後に議員資格を有するか否かを判断する権限が各議院に付与されている。
* 自律的運営権
** 規則制定権(憲法第58条2項本文前段)
** 議員に対する懲罰権(憲法第58条2項本文後段及びただし書)
*: 院内の事項に限られ、院外については及ばない。議員を除名するには出席議員の3分の2以上の多数による賛成が必要
{{see|議院規則|懲罰事犯}}
=== 国政調査権 ===
各院には[[国政調査権]]が認められている。必ずしも行政機関のみに限らず、公私の諸団体・個人にも及ぶ。
{{see|国政調査権|証人喚問}}
== 国会の会期一覧 ==
<div style="height: 500px; overflow: auto; padding: 3px; border:1px solid #AAAAAA;" >
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
|-
!style="white-space: nowrap;"|回次!!種類!!詔書公布日!!国会召集日!!開会式!! nowrap="nowrap" |延長<br />回数!!会期終了日!!審議内容・備考
|-style="text-align: center;"
|1
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1947年]](昭和22年)[[5月6日]]
|style="text-align: left;"|同年[[5月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[6月23日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月9日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|2
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1947年]](昭和22年)[[11月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月10日]]
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"|[[1948年]](昭和23年)[[1月21日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[7月5日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|3
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1948年]](昭和23年)[[9月30日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月11日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月8日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[11月30日]]
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|-style="text-align: center;"
|4
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1948年]](昭和23年)[[11月9日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月1日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月2日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月23日]]
|style="text-align: left;"|[[1948年]](昭和23年)[[12月23日]][[衆議院解散]]([[馴れ合い解散]])
|-style="text-align: center;"
|5
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1949年]](昭和24年)[[1月28日]]
|style="text-align: left;"|同年[[2月11日]]
|style="text-align: left;"|同年[[3月19日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[5月31日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|6
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1949年]](昭和24年)[[10月10日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月25日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月1日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月3日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|7
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"|[[1949年]](昭和24年)[[11月12日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月4日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月15日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|[[1950年]](昭和25年)[[5月2日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|8
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1950年]](昭和25年)[[7月5日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月12日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月13日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[7月31日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|9
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1950年]](昭和25年)[[11月14日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月21日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月22日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月9日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|10
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1950年]](昭和25年)[[11月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月10日]]
|style="text-align: left;"|[[1951年]](昭和26年)[[1月25日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[6月5日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|11
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1951年]](昭和26年)[[8月6日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月16日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月16日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[8月18日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|12
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1951年]](昭和26年)[[10月2日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月10日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月11日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[11月30日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|13
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1951年]](昭和26年)[[11月17日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月10日]]
|style="text-align: left;"|[[1952年]](昭和27年)[[1月22日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[7月31日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|14
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1952年]](昭和27年)[[8月5日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月26日]]
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[8月28日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第14回国会]]参照。[[1952年]](昭和27年)[[8月28日]]衆議院解散([[抜き打ち解散]])
|-style="text-align: center;"
|
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"|(緊急集会)
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"|([[1952年]](昭和27年)[[8月28日]])
|style="text-align: left;"|(同年[[8月31日]])
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: left;"|(同年[[8月31日]])
|style="text-align: left;"|[[中央選挙管理会]]委員・予備委員任命。会期外であり天皇による召集はない。括弧内の日付は緊急集会請求日、集会日及び終了日。詳細は[[参議院の緊急集会]]参照。
|-style="text-align: center;"
|15
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1952年]](昭和27年)[[10月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月24日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月8日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"|[[1953年]](昭和27年)[[3月14日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第15回国会]]参照。[[1953年]](昭和28年)[[3月14日]]衆議院解散([[バカヤロー解散]])
|-style="text-align: center;"
|
|style="text-align: left;"|(緊急集会)
|style="text-align: left;"|([[1953年]](昭和28年)[[3月14日]])
|style="text-align: left;"|(同年[[3月18日]])
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: left;"|(同年[[3月20日]])
|style="text-align: left;"|暫定予算等。会期外であり天皇による召集はない。括弧内の日付は緊急集会請求日、集会日及び終了日。詳細は[[参議院の緊急集会]]参照。
|-style="text-align: center;"
|16
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1953年]](昭和28年)[[5月3日]]
|style="text-align: left;"|同年[[5月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[6月16日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[8月10日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|17
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1953年]](昭和28年)[[10月23日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月29日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月29日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[11月7日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|18
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1953年]](昭和28年)[[11月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月30日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月30日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月8日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|19
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1953年]](昭和28年)[[11月19日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月10日]]
|style="text-align: left;"|[[1954年]](昭和29年)[[1月25日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[6月15日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|20
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1954年]](昭和29年)[[11月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月30日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月30日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月9日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|21
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1954年]](昭和29年)[[11月19日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月10日]]
|style="text-align: left;"|[[1955年]](昭和30年)[[1月21日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[1月24日]]
|style="text-align: left;"|[[1955年]](昭和30年)[[1月24日]]衆議院解散([[天の声解散]])
|-style="text-align: center;"
|22
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1955年]](昭和30年)[[3月4日]]
|style="text-align: left;"|同年[[3月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[4月25日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[7月30日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|23
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1955年]](昭和30年)[[11月15日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月21日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月2日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月16日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|24
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1955年]](昭和30年)[[11月29日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月20日]]
|style="text-align: left;"|[[1956年]](昭和31年)[[1月25日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[6月3日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|25
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1956年]](昭和31年)[[11月2日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月12日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月15日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月13日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|26
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1956年]](昭和31年)[[11月27日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月20日]]
|style="text-align: left;"|[[1957年]](昭和32年)[[1月30日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[5月19日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|27
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1957年]](昭和32年)[[10月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月1日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月1日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[11月14日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|28
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1957年]](昭和32年)[[11月29日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月20日]]
|style="text-align: left;"|[[1958年]](昭和33年)[[1月25日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[4月25日]]
|style="text-align: left;"|[[1958年]](昭和33年)[[4月25日]]衆議院解散([[話し合い解散]])
|-style="text-align: center;"
|29
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1958年]](昭和33年)[[5月28日]]
|style="text-align: left;"|同年[[6月10日]]
|style="text-align: left;"|同年[[6月17日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[7月8日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|30
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1958年]](昭和33年)[[9月19日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月29日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月30日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月7日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|31
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1958年]](昭和33年)[[11月19日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月10日]]
|style="text-align: left;"|[[1959年]](昭和34年)[[1月26日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[5月2日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|32
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1959年]](昭和34年)[[6月12日]]
|style="text-align: left;"|同年[[6月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[6月25日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[7月3日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|33
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1959年]](昭和34年)[[10月7日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月26日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月27日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[12月27日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|34
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1959年]](昭和34年)[[12月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月29日]]
|style="text-align: left;"|[[1960年]](昭和35年)[[1月30日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[7月15日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|35
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1960年]](昭和35年)[[7月15日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月18日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[7月22日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|36
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1960年]](昭和35年)[[10月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月17日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月18日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[10月24日]]
|style="text-align: left;"|[[1960年]](昭和35年)[[10月24日]]衆議院解散([[安保解散]])
|-style="text-align: center;"
|37
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1960年]](昭和35年)[[11月24日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月5日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月10日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月22日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|38
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1960年]](昭和35年)[[12月5日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月26日]]
|style="text-align: left;"|[[1961年]](昭和36年)[[1月28日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[6月8日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|39
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1961年]](昭和36年)[[9月16日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月25日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月27日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[10月31日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|40
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1961年]](昭和36年)[[11月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月9日]]
|style="text-align: left;"|[[1962年]](昭和37年)[[1月17日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[5月7日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|41
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1962年]](昭和37年)[[7月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月4日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月8日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[9月2日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|42
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1962年]](昭和37年)[[11月28日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月10日]]
|style="text-align: right;"|2
|style="text-align: left;"|同年[[12月23日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|43
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1962年]](昭和37年)[[12月3日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月24日]]
|style="text-align: left;"|[[1963年]](昭和38年)[[1月23日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[7月6日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|44
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1963年]](昭和38年)[[10月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月15日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月17日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[10月23日]]
|style="text-align: left;"|[[1963年]](昭和38年)[[10月23日]]衆議院解散([[所得倍増解散]])
|-style="text-align: center;"
|45
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1963年]](昭和38年)[[11月25日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月4日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月10日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月18日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|46
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1963年]](昭和38年)[[11月29日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月20日]]
|style="text-align: left;"|[[1964年]](昭和39年)[[1月20日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[6月26日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|47
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1964年]](昭和39年)[[11月2日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月9日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月20日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月18日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|48
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1964年]](昭和39年)[[11月28日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月21日]]
|style="text-align: left;"|[[1965年]](昭和40年)[[1月21日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[6月1日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|49
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1965年]](昭和40年)[[7月15日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月30日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[8月11日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|50
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1965年]](昭和40年)[[9月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月5日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月11日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月13日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|51
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1965年]](昭和40年)[[11月29日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月20日]]
|style="text-align: left;"|[[1966年]](昭和41年)[[1月27日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[6月27日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|52
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1966年]](昭和41年)[[7月2日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月11日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月12日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[7月30日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|53
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1966年]](昭和41年)[[11月25日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月30日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月3日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月20日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|54
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1966年]](昭和41年)[[12月6日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月27日]]
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[12月27日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第54回国会]]参照。[[1966年]](昭和41年)[[12月27日]]衆議院解散([[黒い霧解散]])
|-style="text-align: center;"
|55
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1967年]](昭和42年)[[2月4日]]
|style="text-align: left;"|同年[[2月15日]]
|style="text-align: left;"|同年[[3月14日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[7月21日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|56
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1967年]](昭和42年)[[7月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月27日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月27日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[8月18日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|57
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1967年]](昭和42年)[[11月25日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月4日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月5日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月23日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|58
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1967年]](昭和42年)[[12月6日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月27日]]
|style="text-align: left;"|[[1968年]](昭和43年)[[1月27日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[6月3日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|59
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1968年]](昭和43年)[[7月26日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月1日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月3日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[8月10日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|60
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1968年]](昭和43年)[[12月3日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月10日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月11日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月21日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|61
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1968年]](昭和43年)[[12月6日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月27日]]
|style="text-align: left;"|[[1969年]](昭和44年)[[1月27日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[8月5日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|62
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1969年]](昭和44年)[[11月15日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月29日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月1日]]
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[12月2日]]
|style="text-align: left;"|[[1969年]](昭和44年)[[12月2日]]衆議院解散([[沖縄解散]])
|-style="text-align: center;"
| -
|style="text-align: left;"|(常会)
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"|[[1969年]](昭和44年)[[11月29日]]
|style="text-align: left;"|(同年[[12月27日]])
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: left;"|[[s:昭和四十四年十二月二十七日に、国会の常会を東京に召集する詔書|召集詔書]]公布後の12月2日に衆議院が解散されたため実現せず。
|-style="text-align: center;"
|63
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1969年]](昭和44年)[[12月30日]]
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"|[[1970年]](昭和45年)[[1月14日]]
|style="text-align: left;"|同年[[2月14日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[5月13日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|64
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1970年]](昭和45年)[[11月14日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月24日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月25日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月18日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第64回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|65
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1970年]](昭和45年)[[12月2日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月26日]]
|style="text-align: left;"|[[1971年]](昭和46年)[[1月22日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[5月24日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|66
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1971年]](昭和46年)[[7月5日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月14日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月17日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[7月24日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|67
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1971年]](昭和46年)[[9月23日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月16日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月18日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[12月27日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|68
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1971年]](昭和46年)[[12月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月29日]]
|style="text-align: left;"|[[1972年]](昭和47年)[[1月29日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[6月16日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|69
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1972年]](昭和47年)[[6月27日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月6日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月6日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[7月12日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|70
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1972年]](昭和47年)[[10月9日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月27日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月28日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[11月13日]]
|style="text-align: left;"|[[1972年]](昭和47年)[[11月13日]]衆議院解散([[日中解散]])
|-style="text-align: center;"
| -
|style="text-align: left;"|(常会)
|style="text-align: left;"|[[1972年]](昭和47年)[[11月11日]]
|style="text-align: left;"|(同年[[12月9日]])
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: left;"|[[s:昭和四十七年十二月九日に、国会の常会を東京に召集する詔書|召集詔書]]公布後の11月13日に衆議院が解散されたため実現せず。
|-style="text-align: center;"
|71
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1972年]](昭和47年)[[12月14日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月22日]]
|style="text-align: left;"|[[1973年]](昭和48年)[[1月27日]]
|style="text-align: right;"|2
|style="text-align: left;"|同年[[9月27日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第71回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|72
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1973年]](昭和48年)[[11月10日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月1日]]
|style="text-align: left;"|[[1974年]](昭和49年)[[1月21日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[6月3日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|73
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1974年]](昭和49年)[[7月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月24日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月29日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[7月31日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|74
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1974年]](昭和49年)[[12月3日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月9日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月14日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月25日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|75
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1974年]](昭和49年)[[12月6日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月27日]]
|style="text-align: left;"|[[1975年]](昭和50年)[[1月24日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[7月4日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|76
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1975年]](昭和50年)[[9月3日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月11日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月12日]]
|style="text-align: right;"|2
|style="text-align: left;"|同年[[12月25日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|77
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1975年]](昭和50年)[[12月6日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月27日]]
|style="text-align: left;"|[[1976年]](昭和51年)[[1月23日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[5月24日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|78
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1976年]](昭和51年)[[9月11日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月16日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月21日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[11月4日]]
|style="text-align: left;"|[[1976年]](昭和51年)[[12月9日]]衆議院議員任期満了
|-style="text-align: center;"
|79
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1976年]](昭和51年)[[12月17日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月24日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月27日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月28日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|80
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1976年]](昭和51年)[[12月10日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月30日]]
|style="text-align: left;"|[[1977年]](昭和52年)[[1月31日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[6月9日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|81
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1977年]](昭和52年)[[7月23日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月27日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月30日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[8月3日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|82
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1977年]](昭和52年)[[9月24日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月29日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月29日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[11月25日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|83
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1977年]](昭和52年)[[12月3日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月7日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月7日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月10日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|84
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1977年]](昭和52年)[[11月28日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月19日]]
|style="text-align: left;"|[[1978年]](昭和53年)[[1月21日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[6月16日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|85
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1978年]](昭和53年)[[9月14日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月18日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[10月21日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|86
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1978年]](昭和53年)[[12月2日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月6日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月6日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月12日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|87
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1978年]](昭和53年)[[12月2日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月22日]]
|style="text-align: left;"|[[1979年]](昭和54年)[[1月25日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[6月14日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|88
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1979年]](昭和54年)[[8月25日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月30日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月3日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[9月7日]]
|style="text-align: left;"|[[1979年]](昭和54年)[[9月7日]]衆議院解散([[増税解散]])
|-style="text-align: center;"
|89
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1979年]](昭和54年)[[10月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月30日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月14日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[11月16日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|90
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1979年]](昭和54年)[[11月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月26日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月27日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月11日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|91
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1979年]](昭和54年)[[11月30日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月21日]]
|style="text-align: left;"|[[1980年]](昭和55年)[[1月25日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[5月19日]]
|style="text-align: left;"|[[1980年]](昭和55年)[[5月19日]]衆議院解散([[ハプニング解散]])
|-style="text-align: center;"
|92
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1980年]](昭和55年)[[7月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月17日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月22日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[7月26日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|93
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1980年]](昭和55年)[[9月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月29日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月3日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[11月29日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|94
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1980年]](昭和55年)[[12月1日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月22日]]
|style="text-align: left;"|[[1981年]](昭和56年)[[1月26日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[6月6日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|95
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1981年]](昭和56年)[[9月19日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月24日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月25日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[11月28日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|96
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1981年]](昭和56年)[[12月1日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月21日]]
|style="text-align: left;"|[[1982年]](昭和57年)[[1月25日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[8月21日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第96回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|97
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1982年]](昭和57年)[[11月19日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月26日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月3日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[12月25日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|98
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1982年]](昭和57年)[[12月7日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月28日]]
|style="text-align: left;"|[[1983年]](昭和58年)[[1月24日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[5月26日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|99
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1983年]](昭和58年)[[7月12日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月19日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[7月23日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|100
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1983年]](昭和58年)[[9月2日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月9日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[11月28日]]
|style="text-align: left;"|[[1983年]](昭和58年)[[11月28日]]衆議院解散([[田中判決解散]])
|-style="text-align: center;"
| -
|style="text-align: left;"|(常会)
|style="text-align: left;"|[[1983年]](昭和58年)[[11月24日]]
|style="text-align: left;"|(同年[[12月15日]])
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: left;"|[[s:昭和五十八年十二月十五日に、国会の常会を東京に召集する詔書|召集詔書]]公布後の11月28日に衆議院が解散されたため実現せず。
|-style="text-align: center;"
|101
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1983年]](昭和58年)[[12月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月26日]]
|style="text-align: left;"|[[1984年]](昭和59年)[[2月6日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[8月8日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|102
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1984年]](昭和59年)[[11月10日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月1日]]
|style="text-align: left;"|[[1985年]](昭和60年)[[1月25日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[6月25日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|103
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1985年]](昭和60年)[[10月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月14日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月14日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[12月21日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|104
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1985年]](昭和60年)[[12月3日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月24日]]
|style="text-align: left;"|[[1986年]](昭和61年)[[1月27日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[5月22日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|105
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1986年]](昭和61年)[[5月27日]]
|style="text-align: left;"|同年[[6月2日]]
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[6月2日]]
|style="text-align: left;"|[[1986年]](昭和61年)[[6月2日]]衆議院解散([[死んだふり解散]])
|-style="text-align: center;"
|106
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1986年]](昭和61年)[[7月15日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月24日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[7月25日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|107
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1986年]](昭和61年)[[9月5日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月11日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月11日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[12月20日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|108
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1986年]](昭和61年)[[12月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月29日]]
|style="text-align: left;"|[[1987年]](昭和62年)[[1月26日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[5月27日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|109
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1987年]](昭和62年)[[7月1日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月6日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月6日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[9月19日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|110
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1987年]](昭和62年)[[10月30日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月6日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月6日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[11月11日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|111
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1987年]](昭和62年)[[11月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月27日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月27日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月12日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|112
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1987年]](昭和62年)[[12月5日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月28日]]
|style="text-align: left;"|[[1988年]](昭和63年)[[1月25日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[5月25日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|113
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1988年]](昭和63年)[[7月15日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月19日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月19日]]
|style="text-align: right;"|2
|style="text-align: left;"|同年[[12月28日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|114
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1988年]](昭和63年)[[12月9日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月30日]]
|style="text-align: left;"|[[1989年]](平成元年)[[2月10日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[6月22日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|115
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1989年]](平成元年)[[8月1日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月7日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月8日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[8月12日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|116
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1989年]](平成元年)[[9月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月28日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月28日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月16日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|117
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1989年]](平成元年)[[12月5日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月25日]]
|style="text-align: left;"|[[1990年]](平成2年)[[1月22日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[1月24日]]
|style="text-align: left;"|[[1990年]](平成2年)[[1月24日]]衆議院解散([[消費税解散]])
|-style="text-align: center;"
|118
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1990年]](平成2年)[[2月23日]]
|style="text-align: left;"|同年[[2月27日]]
|style="text-align: left;"|同年[[3月2日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[6月26日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|119
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1990年]](平成2年)[[10月9日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月12日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月12日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[11月10日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|120
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1990年]](平成2年)[[11月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月10日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月10日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|[[1991年]](平成3年)[[5月8日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|121
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1991年]](平成3年)[[8月1日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月5日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月5日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[10月4日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|122
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1991年]](平成3年)[[11月1日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月5日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月8日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[12月21日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|123
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1992年]](平成4年)[[1月10日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月24日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月24日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[6月21日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|124
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1992年]](平成4年)[[8月3日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月7日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月10日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[8月11日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|125
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1992年]](平成4年)[[10月23日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月30日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月30日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[12月10日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|126
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1993年]](平成5年)[[1月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月22日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[6月18日]]
|style="text-align: left;"|[[1993年]](平成5年)[[6月18日]]衆議院解散([[嘘つき解散]])
|-style="text-align: center;"
|127
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1993年]](平成5年)[[8月2日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月5日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月12日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[8月28日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|128
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1993年]](平成5年)[[9月13日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月17日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月21日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|[[1994年]](平成6年)[[1月29日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|129
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1994年]](平成6年)[[1月21日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月31日]]
|style="text-align: left;"|同年[[2月8日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[6月29日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|130
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1994年]](平成6年)[[7月12日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月18日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[7月22日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|131
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1994年]](平成6年)[[9月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月30日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月30日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[12月9日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|132
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1995年]](平成7年)[[1月10日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月20日]]
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[6月18日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|133
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1995年]](平成7年)[[7月31日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月4日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月4日]]
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[8月8日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|134
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1995年]](平成7年)[[9月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月29日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月29日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[12月15日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|135
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1996年]](平成8年)[[1月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月11日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月11日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[1月13日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|136
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1996年]](平成8年)[[1月12日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月22日]]
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[6月19日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第136回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|137
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1996年]](平成8年)[[9月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月27日]]
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[9月27日]]
|style="text-align: left;"|[[1996年]](平成8年)[[9月27日]]衆議院解散([[小選挙区解散]])
|-style="text-align: center;"
|138
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[1996年]](平成8年)[[11月1日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月7日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月11日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[11月12日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|139
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1996年]](平成8年)[[11月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月29日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月29日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月18日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|140
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1997年]](平成9年)[[1月10日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月20日]]
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[6月18日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|141
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1997年]](平成9年)[[9月24日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月29日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月29日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月12日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|142
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1997年]](平成9年)[[12月26日]]
|style="text-align: left;"|[[1998年]](平成10年)[[1月12日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月12日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[6月18日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|143
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1998年]](平成10年)[[7月27日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月30日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月7日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[10月16日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第143回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|144
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1998年]](平成10年)[[11月24日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月27日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月27日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月14日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|145
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[1999年]](平成11年)[[1月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月19日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月19日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[8月13日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|146
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[1999年]](平成11年)[[10月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月29日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月29日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月15日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|147
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2000年]](平成12年)[[1月7日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月20日]]
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[6月2日]]
|style="text-align: left;"|[[2000年]](平成12年)[[6月2日]]衆議院解散([[神の国解散]])
|-style="text-align: center;"
|148
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[2000年]](平成12年)[[7月1日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月4日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月4日]]
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[7月6日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第148回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|149
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2000年]](平成12年)[[7月24日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月28日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月28日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[8月9日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|150
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2000年]](平成12年)[[9月14日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月21日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月21日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月1日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|151
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2001年]](平成13年)[[1月19日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月31日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月31日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[6月29日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|152
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2001年]](平成13年)[[8月3日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月7日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月7日]]
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[8月10日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|153
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2001年]](平成13年)[[9月21日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月27日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月27日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月7日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|154
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2002年]](平成14年)[[1月11日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月21日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月21日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[7月31日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|155
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2002年]](平成14年)[[10月11日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月18日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月13日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|156
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2003年]](平成15年)[[1月10日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月20日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[7月28日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|157
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2003年]](平成15年)[[9月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月26日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月26日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[10月10日]]
|style="text-align: left;"|[[2003年]](平成15年)[[10月10日]]衆議院解散([[マニフェスト解散]])
|-style="text-align: center;"
|158
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[2003年]](平成15年)[[11月15日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月19日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月21日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[11月21日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|159
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2004年]](平成16年)[[1月9日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月19日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月19日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[6月15日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|160
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2004年]](平成16年)[[7月27日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月30日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月30日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[8月6日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|161
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2004年]](平成16年)[[10月5日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月12日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月12日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月3日]]
|style="text-align: left;"|
|-style="text-align: center;"
|162
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2005年]](平成17年)[[1月11日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月21日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月21日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[8月8日]]
|style="text-align: left;"|[[2005年]](平成17年)[[8月8日]]衆議院解散([[郵政解散]])
|-style="text-align: center;"
|163
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[2005年]](平成17年)[[9月17日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月21日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月26日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[11月1日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第163回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|164
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2006年]](平成18年)[[1月10日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月20日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[6月18日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第164回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|165
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2006年]](平成18年)[[9月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月26日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月28日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[12月15日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第165回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|166
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2007年]](平成19年)[[1月15日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月25日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月25日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[7月5日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第166回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|167
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2007年]](平成19年)[[8月3日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月7日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月7日]]
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[8月10日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第167回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|168
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2007年]](平成19年)[[9月6日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月10日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月10日]]
|style="text-align: right;"|2
|style="text-align: left;"|[[2008年]](平成20年)[[1月15日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第168回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|169
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2008年]](平成20年)[[1月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月18日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[6月21日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第169回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|170
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2008年]](平成20年)[[9月19日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月24日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月29日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[12月25日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第170回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|171
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2008年]](平成20年)[[12月16日]]
|style="text-align: left;"|[[2009年]](平成21年)[[1月5日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月5日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[7月21日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第171回国会]]参照、[[2009年]](平成21年)7月21日衆議院解散
|-style="text-align: center;"
|172
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[2009年]](平成21年)[[9月11日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月16日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月18日]]
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[9月19日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第172回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|173
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2009年]](平成21年)[[10月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月26日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月26日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[12月4日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第173回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|174
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2010年の日本|2010年]](平成22年)[[1月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月18日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[6月16日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第174回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|175
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2010年]](平成22年)[[7月27日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月30日]]
|style="text-align: left;"|同年[[7月30日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[8月6日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第175回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|176
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2010年]](平成22年)[[9月28日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月1日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月1日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月3日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第176回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|177
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2011年]](平成23年)[[1月14日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月24日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月24日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[8月31日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第177回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|178
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2011年]](平成23年)[[9月9日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月13日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月13日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[9月30日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第178回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|179
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2011年]](平成23年)[[10月17日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月21日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[12月9日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第179回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|180
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2012年]](平成24年)[[1月13日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月24日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月24日]]
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[9月8日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第180回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|181
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2012年]](平成24年)[[10月25日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月29日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月29日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[11月16日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第181回国会]]参照、2012年(平成24年)11月16日衆議院解散
|-style="text-align: center;"
|182
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[2012年]](平成24年)[[12月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月26日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月28日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年12月28日
|style="text-align: left;"|詳細は[[第182回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|-style="text-align: center;"
|183
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2013年]](平成25年)[[1月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月28日]]
|style="text-align: left;"|同年1月28日
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[6月26日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第183回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|184
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2013年]](平成25年)[[7月30日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月2日]]
|style="text-align: left;"|同年8月2日
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[8月7日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第184回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|185
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2013年]](平成25年)[[10月8日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月15日]]
|style="text-align: left;"|同年10月15日
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[12月8日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第185回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|186
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2014年]](平成26年)[[1月14日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月24日]]
|style="text-align: left;"|同年1月24日
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[6月22日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第186回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|187
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2014年]](平成26年)[[9月19日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月29日]]
|style="text-align: left;"|同年9月29日
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年[[11月21日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第187回国会]]参照、2014年(平成26年)11月21日衆議院解散
|-style="text-align: center;"
|188
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[2014年]](平成26年)[[12月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月24日]]
|style="text-align: left;"|同年[[12月26日]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: left;"|同年12月26日
|style="text-align: left;"|詳細は[[第188回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|189
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2015年]](平成27年)[[1月16日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月26日]]
|style="text-align: left;"|同年1月26日
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[9月27日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第189回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|190
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2015年]](平成27年)[[12月15日]]
|style="text-align: left;"|[[2016年]](平成28年)[[1月4日]]
|style="text-align: left;"|同年1月4日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[6月1日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第190回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|191
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2016年]](平成28年)[[7月26日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月1日]]
|style="text-align: left;"|同年8月1日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[8月3日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第191回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|192
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2016年]](平成28年)[[9月16日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月26日]]
|style="text-align: left;"|同年9月26日
|style="text-align: right;"|2
|style="text-align: left;"|同年[[12月17日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第192回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|193
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2017年]](平成29年)[[1月10日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月20日]]
|style="text-align: left;"|同年1月20日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[6月18日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第193回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|194
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2017年]](平成29年)[[9月22日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月28日]]
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年9月28日
|style="text-align: left;"|詳細は[[第194回国会]]参照、2017年(平成29年)9月28日衆議院解散
|-style="text-align: center;"
|195
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[2017年]](平成29年)[[10月28日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月1日]]
|style="text-align: left;"|同年[[11月8日]]
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[12月9日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第195回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|196
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2018年]](平成30年)[[1月12日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月22日]]
|style="text-align: left;"|同年1月22日
|style="text-align: right;"|1
|style="text-align: left;"|同年[[7月22日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第196回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|197
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2018年]](平成30年)[[10月17日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月24日]]
|style="text-align: left;"|同年10月24日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[12月10日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第197回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|198
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2019年]](平成31年)[[1月18日]]
|style="text-align: left;"|同年[[1月28日]]
|style="text-align: left;"|同年1月28日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年(令和元年)[[6月26日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第198回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|199
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2019年]](令和元年)[[7月29日]]
|style="text-align: left;"|同年[[8月1日]]
|style="text-align: left;"|同年8月1日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[8月5日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第199回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|200
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2019年]](令和元年)[[9月27日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月4日]]
|style="text-align: left;"|同年10月4日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[12月9日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第200回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|201
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2020年]](令和2年)1月10日
|style="text-align: left;"|同年1月20日
|style="text-align: left;"|同年1月20日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[6月17日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第201回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|202
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2020年]](令和2年)[[9月11日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月16日]]
|style="text-align: left;"|同年[[9月17日]]
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[9月18日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第202回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|203
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2020年]](令和2年)[[10月20日]]
|style="text-align: left;"|同年[[10月26日]]
|style="text-align: left;"|同年10月26日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年[[12月5日]]
|style="text-align: left;"|詳細は[[第203回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|204
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2021年]](令和3年)1月8日
|style="text-align: left;"|同年1月18日
|style="text-align: left;"|同年1月18日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年6月16日
|style="text-align: left;"|詳細は[[第204回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|205
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2021年]](令和3年)9月21日
|style="text-align: left;"|同年10月4日
|style="text-align: left;"|同年10月8日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年10月14日
|style="text-align: left;"|詳細は[[第205回国会]]参照、2021年(令和3年)10月14日衆議院解散
|-style="text-align: center;"
|206
|style="text-align: left;"|特別会
|style="text-align: left;"|[[2021年]](令和3年)11月6日
|style="text-align: left;"|同年11月10日
|style="text-align: left;"|同年11月12日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年11月12日
|style="text-align: left;"|詳細は[[第206回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|207
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2021年]](令和3年)11月26日
|style="text-align: left;"|同年12月6日
|style="text-align: left;"|同年12月6日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年12月21日
|style="text-align: left;"|詳細は[[第207回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|208
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2022年]](令和4年)1月7日
|style="text-align: left;"|同年1月17日
|style="text-align: left;"|同年1月17日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年6月15日
|style="text-align: left;"|詳細は[[第208回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|209
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2022年]](令和4年)7月26日
|style="text-align: left;"|同年8月3日
|style="text-align: left;"|同年8月3日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年8月5日
|style="text-align: left;"|詳細は[[第209回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|210
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2022年]](令和4年)9月28日
|style="text-align: left;"|同年10月3日
|style="text-align: left;"|同年10月3日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年12月10日
|style="text-align: left;"|詳細は[[第210回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|211
|style="text-align: left;"|常会
|style="text-align: left;"|[[2023年]](令和5年)1月13日
|style="text-align: left;"|同年1月23日
|style="text-align: left;"|同年1月23日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年6月21日
|style="text-align: left;"|詳細は[[第211回国会]]参照
|-style="text-align: center;"
|212
|style="text-align: left;"|臨時会
|style="text-align: left;"|[[2023年]](令和5年)10月13日
|style="text-align: left;"|同年10月20日
|style="text-align: left;"|同年10月20日
|style="text-align: right;"|0
|style="text-align: left;"|同年12月13日
|style="text-align: left;"|詳細は[[第212回国会]]参照
|}
</div>
* 開会式欄の「-」は、会期の冒頭で衆議院が解散され開会式が行われなかったことを表す。なお、参議院の緊急集会については、開会式自体が行われない。
* 延長回数欄の数字は、会期の延長に関する議決が行われた回数とし、両院で議決が行われた場合も衆院のみで議決が行われた場合もともに1回とする(各院をそれぞれ1回とは数えない)。延長議決後、当初の会期中に衆議院解散等のため国会が終了となり、実際に延長の期間が効力を発しなかった場合もこの欄では延長回数に含める。
* 第110回から第112回まで、第114回、第125回及び第128回の6国会の詔書は、[[国事行為臨時代行]]によるもの。
* 第110回から第113回までの4国会の開会式には、病気療養中の[[昭和天皇]]の名代として[[皇太子]][[明仁]][[親王]](当時)が臨席し「おことば」を代読している。
{{Harv|松澤浩一|1987|pp=25-26}}
== 会議録 ==
[[ファイル:20231023shu honkaigi7 (cropped).jpg|サムネイル|速記の様子(衆議院本会議)]]
国会の本会議では第1回から速記録の「衆議院会議録」と「参議院会議録」が作成されている<ref name="石倉">石倉賢一, 「[https://doi.org/10.20722/jcul.769 国会会議録について]」『大学図書館研究』 1984年 25巻 p.39-44, {{doi|10.20722/jcul.769}} 、2021年5月19日閲覧。</ref>。また、第1回国会から第13回国会まで「英文衆議院会議録」と「英文参議院会議録」が作成された<ref name="石倉" />。
委員会記録については両院で性格が異なり、衆議院では委員の会議録として「衆議院委員会議録」が作成され、参議院では委員会の会議録として「参議院委員会会議録」が作成されている<ref name="石倉" />。
議事は[[速記]]によって記録される(衆議院規則第201条、参議院規則第156条)<ref name="石倉" />。初期の国会では議事録の作成は速記のみで行われ、各院に速記者の養成所があったが、1951年(昭和26年)2月8日に参議院労働委員会でテープレコーダーが導入され採用テストが行われた<ref name="共同20210208">[https://this.kiji.is/731284018519408640 <あのころ>国会に初の録音機] 共同通信、2021年2月9日閲覧。</ref>。なお、各院独自に設けられていた速記者の養成所は2006年に廃止された<ref name="共同20210208" />。手書き速記は本会議や予算委員会などでは行われているが、それ以外の会議においては参議院では[[2008年]]から担当職員がモニターで音声と映像を確認してパソコン入力する方式、衆議院では[[2011年]]から音声認識システムが導入されている<ref>{{Wayback|url=https://www.sankei.com/west/news/130620/wst1306200059-n1.html|title=手書き速記、国会や地方議会でも廃止の波 - 産経WEST|date=20150920012756}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite |和書
|author = 松澤浩一
|title = 議会法
|date = 1987
|publisher = [[ぎょうせい]]
|series = 現代行政法学全集
|isbn = 4324007403
|ref = harv }}
* {{Cite book|和書|author= 百瀬孝|authorlink= 百瀬孝|others= [[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]監修|title= 事典 昭和戦前期の日本…制度と実態|year= 1990|edition= 初版|publisher= [[吉川弘文館]]|isbn= 9784642036191|ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{関連項目過剰|date=2019年9月|section=1}}
* [[国会 (曖昧さ回避)]]
* 議会:[[帝国議会]]/[[日本の地方議会]]/[[立法府の一覧]]
* 憲法:[[日本国憲法]]/[[大日本帝国憲法]]/[[違憲判決]]/[[会議原則]]
* 議院:[[両院制]]/[[衆議院]]/[[参議院]]/[[衆議院の優越]]/[[議院規則]]
* 会議:[[本会議]]/[[常会]]/[[特別会]]/[[臨時会]]/[[参議院の緊急集会]]/[[通年国会]]([[会期延長]]/[[継続審議]]/[[休会]]/[[閉会]]/[[継続審議|閉会中審査]])
* 演説:[[所信表明演説]]/[[施政方針演説]]/[[政府四演説]]/[[代表質問]]
* 決議:[[国会決議]]/[[問責決議]]/[[辞職勧告決議]]/[[内閣不信任決議]]/[[衆議院解散]]/[[内閣総辞職]]
* 議員:[[国会議員]]/[[日本の国会議員]]/[[衆議院議長]]/[[参議院議長]]
* 政党:[[政党#日本|日本の政党]]/[[日本の政党一覧]]/[[院内会派]]
* 内閣:[[内閣 (日本)|日本の内閣]]/[[日本国歴代内閣]]
* 施設:[[国会議事堂]]/[[内閣総理大臣官邸|総理大臣官邸]]/[[内閣総理大臣官邸|総理大臣公邸]]/[[衆議院議長公邸]]/[[参議院議長公邸]]/[[議員会館]]・[[議員宿舎]]
* [[国会中継]]:[[国会インターネット審議中継]]
* [[国会審議の活性化及び政治主導の政策決定システムの確立に関する法律]]
<!--* [[子供国会]]-->
== 外部リンク ==
{{commonscat|Diet of Japan}}
{{wikiquote|国会答弁}}
* [https://www.shugiin.go.jp/internet/index.nsf/html/index.htm 衆議院]
* [https://www.sangiin.go.jp/ 参議院]
* [https://kokkai.ndl.go.jp/ 国会会議録検索システム]
* {{NHK for School clip|D0005402921_00000|国会}}
{{日本関連の項目}}
{{日本の国会}}
{{アジアの立法府}}
{{両院制の立法府}}
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[[Category:日本の国会|*]]
[[Category:1947年設立の政府機関]]
[[Category:日本国憲法]] | 2003-03-06T17:09:21Z | 2023-12-28T08:14:20Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BC%9A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) |
3,541 | 9月1日 | 9月1日(くがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から244日目(閏年では245日目)にあたり、年末まではあと121日ある。 | [
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] | 9月1日(くがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から244日目(閏年では245日目)にあたり、年末まではあと121日ある。 | {{カレンダー 9月}}
'''9月1日'''(くがつついたち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から244日目([[閏年]]では245日目)にあたり、年末まではあと121日ある。
== できごと ==
{{multiple image
| footer = 天文学者[[カール・ハーディング]]、3番目の小惑星「[[ジュノー (小惑星)|ジュノー]]」を発見(1804年)
| image1 = Karl_Ludwig_Harding.jpg
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| alt1 = カール・ハーディング
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| alt2 = ジュノーの軌道
}}
[[Image:Kearny%27s_Charge%2C_Battle_of_Chantilly.jpg|thumb|[[南北戦争]]、[[シャンティリーの戦い]](1862年)]]
[[Image:Dt-FrzKriegUebergabeNapeleonIII.jpg|thumb|[[普仏戦争]]、[[セダンの戦い]](1870年)。[[ナポレオン3世]]が捕虜となる。]]
[[Image:1st_Issue_of_Seito.jpg|thumb|upright|文芸雑誌『[[青鞜]]』創刊(1911年)。{{Squote|元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。――[[平塚らいてう]]の巻頭言}}]]
[[Image:Passenger_Pigeons_-_Vanderbilt.jpg|thumb|[[リョコウバト]]絶滅(1914年)。18世紀には北米に50億羽が生息していた。]]
{{multiple image
| footer = [[関東大震災]](1923年)。死者10-15万人。朝鮮人が暴徒化したというデマが流され(右画像)、朝鮮人への暴行も横行した。
| image1 = Kanto-daishinsai.jpg
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| alt1 = 罹災した横浜市
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| alt2 = 朝鮮人が暴徒化したというデマを伝える9月3日の新聞
}}
[[Image:Mon_Paris-Takarazuka1928.jpg|thumb|[[宝塚歌劇団]]、日本初の[[レヴュー (演芸)|レヴュー]]『[[モン・パリ]]』上演(1927年)。画像は1928年のもの]]
[[Image:Schleswig_Holstein_firing_Gdynia_13.09.1939.jpg|thumb|300px|ドイツが[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]](1939年)、[[第二次世界大戦]]勃発]]
[[Image:CBC 1951-1956.JPG|thumb|日本で初めて[[民間放送]]の第一声を発した[[中部日本放送]](ラジオ事業は現在の[[CBCラジオ]])の開局当時の社屋(1951年)]]
[[Image:Eritrean_Independence_War.gif|thumb|upright|[[エリトリア独立戦争]]勃発(1961年)]]
[[Image:Pioneer_11_at_Saturn.gif|thumb|探査機[[パイオニア11号]](1979年)、土星に最接近。画像はイメージ画]]
{{multiple image
| footer = [[大韓航空機撃墜事件]](1983年)
| image1 = Ogarkov-KAL007.gif
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| caption1 = 9日、釈明するソ連の[[ニコライ・オガルコフ]]元帥
| image2 = Tower_of_the_prayer_at_Cape_Soya.jpg
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| caption2 = 宗谷岬の慰霊碑
}}
* [[1173年]] - 神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]の軍によって包囲されていた[[アンコーナ]]の[[スタミラ]]([[:en:Stamira|Stamira]])が、市外に設置された爆弾を起爆してフリードリヒの軍を攻撃するために単身市外へ出撃、起爆した爆弾によりスタミラは死亡し後に[[イタリア]]の[[ナショナリズム]]運動の一環で英雄と見なされる。
* [[1189年]]([[文治]]5年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[源頼朝]]が奥州平泉の[[藤原泰衡]]追討のために鎌倉を出発。
* [[1203年]]([[建仁]]3年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]) - 仏師[[運慶]]・[[快慶]]が[[東大寺]][[金剛力士]]像の造立を開始。
* [[1420年]] - [[チリ]]の[[アタカマ州]]でM9.4の[[カルデラ地震]]([[:en:1420_Caldera_earthquake)、ハワイや日本にも津波が到達する。|1420 Caldera earthquake]])、ハワイや日本にも津波が到達する。
* [[1435年]] - [[リトアニアの内戦 (1431年-1435年)|リトアニアの内戦]]最後の戦闘[[パバイスカスの戦い]]が行われ[[ジーギマンタス・ケーストゥタイティス|ジーギマンタス]]の軍勢が勝利。
* [[1449年]]([[正統 (明)|正統]]14年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[土木の変]]、[[オイラト]]の[[エセン・ハーン|エセン]]が[[英宗 (明)|正統帝(英宗)]]を捕らえる。
* [[1529年]] - [[スペイン]]が[[アルゼンチン]]に建設した最初の砦である[[サンクティ・スピリトゥ]]([[:en:Sancti_Spiritu_(Argentina))が原住民によって破壊される。|Sancti Spiritu]])が原住民によって破壊される。
* [[1604年]] - [[シク教]]の聖典[[グル・グラント・サーヒブ]]が[[ハリマンディル・サーヒブ|黄金寺院]]に設置される。
* [[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]) - [[江戸幕府]]が、[[豊臣秀吉]]を祭神として祀る[[豊国神社 (京都市)|豊国神社]]の破却を命令。
* [[1644年]] - [[ティパミュアの戦い]]([[:en:Battle_of_Tippermuir|Battle of Tippermuir]])。
* [[1715年]] - [[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が、[[ヨーロッパ]]の君主では最長となる在位期間72年と110日で死去。
* [[1772年]] - [[ミッション・サン・ルイス・オビスポ・デ・トロサ]]([[:en:Mission_San_Luis_Obispo_de_Tolosa|Mission San Luis Obispo de Tolosa]])がカリフォルニア州[[サンルイスオビスポ]]に設立される。
* [[1774年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[マサチューセッツ湾|チューセッツ湾]]にて「[[パウダー・アラーム]]<small>([[:en:Powder_Alarm|英語版]])</small>」が起こる。
* [[1790年]]([[寛政]]2年[[7月22日 (旧暦)|7月22日]]) - [[浦上一番崩れ]]。肥前国浦上村の村民19人がキリシタンとして初めて検挙。
* [[1804年]] - ドイツの天文学者[[カール・ハーディング]]が3番目の[[小惑星]]「[[ジュノー (小惑星)|ジュノー]]」を発見。
* [[1831年]] - 教皇[[グレゴリウス16世]]が教皇書簡「Quod Summis」により[[大聖グレゴリウス勲章]]を設立。
* [[1862年]] - [[南北戦争]]: [[シャンティリーの戦い]]。
* [[1870年]] - [[普仏戦争]]: [[セダンの戦い]]。[[プロイセン王国]]が完勝。フランス皇帝[[ナポレオン3世]]が捕虜となり、[[フランス第二帝政]]が終焉へ。
* [[1873年]] - [[ズールー王国]]最後の国王[[セテワヨ・カムパンデ]]が即位。
* [[1889年]] - [[山陽鉄道]]・[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]] - [[兵庫駅]]が(現在の[[山陽本線]])延伸開業し、神戸で官設鉄道(現在の[[東海道本線]])と接続。
* [[1891年]] - [[日本鉄道]]本線[[上野駅]] - [[青森駅]]間(現在の[[東北本線]])が全通。
* [[1894年]] - [[第4回衆議院議員総選挙]]。
* [[1896年]] - 官設鉄道・[[汐留駅 (国鉄)|新橋駅]] - 神戸駅(現東海道本線)で[[急行列車]]の運行を開始。
* [[1899年]] - [[北海道官設鉄道]][[根室本線|十勝線]]・[[旭川駅]] - [[美瑛駅]](現在の[[富良野線]])が開業。
* [[1904年]] - [[与謝野晶子]]が『[[明星 (文芸誌)|明星]]』で長詩『君死にたまふことなかれ』を発表。
* [[1905年]] - 日本の有力新聞各紙が[[ポーツマス条約]]の内容を不服とした記事や社説を掲載する。
* [[1907年]] - [[三越]]大阪店に[[百貨店]]初の美術部「新美術部」が創設される。
* [[1910年]] - [[ブラジル]]・[[サンパウロ]]で[[サッカー]]クラブ「[[SCコリンチャンス・パウリスタ]]」が創設される。
* [[1911年]] - [[平塚らいてう]]らが文芸雑誌『[[青鞜]]』を創刊。創刊号には「元始、女性は太陽であつた」という平塚の宣言が載せられた。
* [[1913年]] - 南京事件。[[袁世凱]]軍が[[南京]]を占領し中国[[第二革命]]を鎮圧。占領時に在留日本人3名が殺害される。
* [[1914年]] - シンシナティ動物園で飼育されていた最後の[[リョコウバト]]の[[マーサ (リョコウバト)|マーサ]]が死亡し絶滅。
* [[1916年]] - 日本初の労働法「[[工場法 (日本)|工場法]]」が施行。
* [[1921年]] - [[大塚製薬工場]]([[大塚ホールディングス|大塚グループ]]の源流会社)設立
* [[1923年]] - [[関東地震]]([[関東大震災]])発生。
* 1923年 - [[フランク・ロイド・ライト]]の設計による[[帝国ホテル]]新館の開館式。祝宴の準備中に関東地震が起こるが建物は無傷。
* [[1927年]] - [[宝塚歌劇団|宝塚少女歌劇団]]が日本初のレビュー『[[モン・パリ]]』を上演。
* [[1928年]] - [[アルバニア共和国 (1925年-1928年)|アルバニア共和国]]で[[憲法]]改正が行われ、アフメト・ベイ・ゾグー大統領が[[ゾグー1世]]として国王に即位。
* [[1931年]] - [[清水トンネル]]の開通に伴い[[上越線]]が全通。
* [[1935年]] - 第一回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]・[[直木三十五賞|直木賞]]発表。
* [[1939年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ドイツ]]が突如[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]。これに対してイギリスとフランスが3日に宣戦し、[[第二次世界大戦]]が勃発。
* 1939年 - 日本で初の[[興亜奉公日]]を実施。
* 1939年 - ドイツ軍で最終版となる[[鉄十字]]の制定。
* 1939年 - [[スイス]]議会が[[アンリ・ギザン]]を[[スイス軍]]の総司令官に選出する。
* 1939年 - [[T4作戦]]開始の署名を[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]が行う。
* [[1940年]] - [[大阪朝日新聞]]と[[東京朝日新聞]]が題字を「[[朝日新聞]]」に統一。
* [[1941年]] - [[ウクライナ]]の[[オストロフ]]で[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が[[ホロコースト]]、2500人の[[ユダヤ人]]が虐殺される。
* [[1942年]] - [[愛知県]]の2大[[ブロック紙]]・[[新愛知]]と[[名古屋新聞]]が合併、「中部日本新聞」(現:[[中日新聞]])発刊。
* [[1946年]] - [[ギリシア]]で人民投票により王政を支持。
* [[1947年]] - 日本で[[労働省]]が発足。[[山川菊栄]]が婦人少年局長に就任し、日本初の女性[[局長#内部部局の局長|局長]]となる。
* [[1951年]] - 日本初の[[民間放送]][[ラジオ]]、[[中部日本放送]](CBC、現在のラジオ事業は株式会社[[CBCラジオ]]が運営)、新日本放送(NJB、現・[[毎日放送]]=[[MBSメディアホールディングス]]、現在のラジオ事業は株式会社[[MBSラジオ]]が運営)が開局。
* 1951年 - [[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]、[[アメリカ合衆国]]が[[太平洋安全保障条約]] (ANZUS) に調印。
*[[1952年]] - [[アーネスト・ヘミングウェイ|ヘミングウェイ]]の小説『[[老人と海]]』の初版が刊行。
* [[1953年]] - [[トルコ]]の[[アンカラ]]に[[ケマル・アタチュルク]]の棺を安置した[[アタチュルク廟]]が完成。
* 1953年 - [[高知放送|ラジオ高知(現・高知放送)]]開局。
* [[1955年]] - 日本で初めて[[五十円硬貨]]を発行。
* [[1959年]] - 岩手放送(現・[[IBC岩手放送]])のテレビジョン放送開局。
* [[1961年]] - [[エリトリア独立戦争]]が始まる。
* 1961年 - [[非同盟運動]]の第1回会議が[[ベオグラード]]で行われる。
* 1961年 - [[TWA 529便墜落事故]]<small>([[:en:TWA_Flight_529|英語版]])</small>、離陸直後に墜落した航空機において搭乗していた78人全員が死亡、単一の航空機による事故としてはアメリカ史上最悪。
* [[1962年]] - [[広島テレビ放送]]が開局。
* [[1963年]] - [[日本国有鉄道|国鉄]]が[[自動列車停止装置]](ATS)の使用開始。
* [[1964年]] - [[村上雅則]]が[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]で登板。初の日本人メジャーリーガーとなる。
* 1964年 - 10月の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]に合わせ、東京・赤坂に[[ホテルニューオータニ]]、芝に[[東京プリンスホテル]]が開業。
* [[1967年]] - [[四日市ぜんそく]]の患者が四日市石油コンビナートの企業6社を相手に提訴。[[1972年]]に原告勝訴。
*1967年 - [[ハルツーム決議]]が第4回アラブ首脳会談で採択される。
* [[1969年]] - [[リビア]]で国王[[イドリース1世 (リビア王)|イドリース1世]]の外遊中に[[ムアンマル・アル=カッザーフィー]]らが無血[[クーデター]]。国王を退位させ共和国を宣言。
* [[1970年]] - [[広中平祐]]が[[数学]]の[[フィールズ賞]]を受賞。日本人で二人目<ref>広中氏にフィールズ賞 代数幾何学の難問解く『朝日新聞』1970年(昭和45年)9月3日朝刊 12版 3面</ref>。
* [[1971年]] - [[懸賞|オープン懸賞広告規制]]施行(2006年廃止)。
* [[1974年]] - 実験航海中の[[原子力船]]「[[むつ (原子力船)|むつ]]」で放射線漏れ事故が発生。母港[[大湊港]]のある[[むつ市]]で帰港反対運動が起き、[[10月15日]]まで太平洋上を漂流。
* [[1979年]] - [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の[[惑星探査機]]「[[パイオニア11号]]」が[[土星]]に最接近。
* [[1981年]] - [[中央アフリカ]]で国軍参謀総長[[アンドレ・コリンバ]]がクーデター。[[ダヴィド・ダッコ]]大統領が亡命。
* 1981年 - [[九州]]の大手スーパー・[[ユニード]]と[[ダイエー]]の子会社の九州ダイエーが経営統合、ユニードが存続会社となる。
* [[1982年]] - [[アメリカ空軍]]に[[空軍宇宙軍団|宇宙軍団]]創設。
* 1982年 - [[メキシコ]]が国内すべての[[銀行]]の国有化を発表。
* [[1983年]] - [[冷戦]]: [[大韓航空機撃墜事件]]。[[ソビエト連邦|ソ連]]の領空を侵犯した[[大韓航空]]機を[[ソ連防空軍]]が撃墜し、269人全員死亡。
* 1983年 - [[テレビ愛知]](TVA)が開局(全国で100局目の民放[[テレビ局]])。
* [[1984年]] - [[沖縄県]]のラジオ局・[[極東放送 (沖縄)|極東放送]]、社名を「[[エフエム沖縄]]」に変更。同日より「FM沖縄」として放送開始。
* [[1985年]] - [[1912年]]に沈没した[[タイタニック (客船)|タイタニック号]]が北[[大西洋]]沖で発見される。
* [[1989年]] - [[ジャスコ]](現・[[イオン (企業)|イオン]])を中核とするジャスコグループが、グループの名称を「[[イオングループ]]」に改称。
* [[1991年]] - [[ウズベキスタン]]が[[ソビエト連邦]]からの独立を宣言。
* 1991年 - [[1991年世界陸上競技選手権大会|世界陸上東京大会]]の男子マラソンで[[谷口浩美]]が世界陸上において日本人初の金メダルを獲得。
* 1991年 - [[西日本旅客鉄道]][[七尾線]]・[[七尾駅]](和倉温泉駅) - [[輪島駅]]間を[[のと鉄道]]に事業譲渡。
* [[1993年]] - [[エフエム九州]](現・[[CROSS FM]])開局。
* [[1993年]] - 気象庁は沖縄県、奄美地方以外の梅雨明けを特定せずとした。
* 1997年 - [[フィンランド]]で[[フィンランドの地方行政区画#フィンランドの州(廃止)|州]]の大規模改革。全12州が全6州へと統合。
* [[2000年]] - [[三宅島]]の火山活動の活発化により、全住民に島外への避難指示が発令。
* [[2001年]] - [[歌舞伎町ビル火災]]発生で44人死亡。日本で戦後5番目の大惨事に。
* [[2004年]] - [[ロシア]]・[[北オセチア共和国]]で[[ベスラン学校占拠事件]]が起こる( - [[9月3日|3日]])。人質の生徒ら千人以上が死傷。
* 2004年 - [[浅間山]]が噴火。
* 2004年 - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]][[金正日]]総書記の第4夫人[[高英姫]]の死亡が発覚。
* [[2006年]] - [[イランエアツアーズ945便着陸失敗事故]]。
* 2006年 - [[ルクセンブルク]]が世界で初めて[[デジタルテレビ放送]]に完全移行。
* [[2007年]] - [[西日本旅客鉄道]]が広島、岡山地区にICカード乗車券「[[ICOCA]]」を導入。
* 2007年 - [[世界陸上競技選手権大会|世界陸上]]大阪の男子50キロ[[競歩]]で、コースマーシャルが残り周回数を間違え[[山崎勇喜]]をスタジアムに誘導し、同選手が失格となる事件が起こる。
* 2007年 - [[広島東洋カープ]]の[[前田智徳]][[外野手]]が、[[中日ドラゴンズ]]戦で[[久本祐一]][[投手]]から右翼へ2点適時打を放ち、史上36人目の通算2000本安打を達成。
* [[2008年]] - [[福田康夫]][[内閣総理大臣|首相]]が突然の辞任を表明。
* [[2009年]] - [[消費者庁]]発足。
* [[2013年]] - [[宮崎駿]]の監督引退を[[スタジオジブリ]]が発表。
* [[2014年]] - [[損害保険ジャパン|株式会社損害保険ジャパン]]と[[日本興亜損害保険|日本興亜損害保険株式会社]]が合併し、[[損害保険ジャパン日本興亜|損害保険ジャパン日本興亜株式会社]]が発足。
* [[2016年]] - [[ファミリーマート]]と[[ユニー]]が経営統合、[[ユニー・ファミリーマートホールディングス]]が誕生。
* 2016年 - ヤマザキナビスコが[[ヤマザキビスケット]]に社名を変更。
* [[2017年]] - [[創価学会]]総務会及び[[創価学会インタナショナル]]常任理事会・理事会で会憲の制定を議決。
* [[2019年]] - [[全日本空輸|全日空]]が、日系の航空会社としては初めて[[西オーストラリア州]]に就航。[[成田国際空港]]発[[パース空港]]行きのNH881便とNH882便が当フライトに該当する。
*2019年 - [[ハリケーン・ドリアン]]が[[バハマ]]に来襲。
* [[2021年]] - これまで使われていた[[福澤諭吉]]の肖像を使用した1万円札に代わる、[[渋沢栄一]]の肖像を使用した新1万円札の印刷がスタート。
* [[2023年]] - [[内閣感染症危機管理統括庁]]発足。
=== 日本の自治体改編 ===
* [[1906年]] - [[三重県]]宇治山田市(後に[[伊勢市]]に改称)が市制施行。
* [[1911年]] - [[新潟県]][[高田市]](現 [[上越市]]の一部)が市制施行。
* [[1917年]] - [[東京都]][[八王子市]]が市制施行。
* [[1921年]] - [[愛知県]][[一宮市]]が市制施行。
* [[1924年]] - [[福島県]][[郡山市]]、[[福岡県]][[戸畑市]](現 [[戸畑区]])が市制施行。
* [[1939年]] - [[茨城県]][[日立市]]が市制施行。
* [[1940年]] - [[長崎県]][[諌早市]]、[[熊本県]][[八代市]]が市制施行。
* [[1949年]] - [[鹿児島県]][[枕崎市]]が市制施行。
* [[1951年]] - [[兵庫県]][[赤穂市]]が市制施行。
* [[1954年]] - [[埼玉県]][[羽生市]]、[[千葉県]]東葛市(同年中に[[柏市]]に改称)、[[福井県]][[勝山市]]、[[広島県]][[大竹市]]、[[愛媛県]][[大洲市]]が市制施行。
* [[1956年]] - [[政令指定都市]]制度施行。[[神奈川県]][[横浜市]]・[[愛知県]][[名古屋市]]・[[京都府]][[京都市]]・[[大阪府]][[大阪市]]・[[兵庫県]][[神戸市]]が政令指定都市となる。
* 1956年 - [[奈良県]][[桜井市]]、[[大阪府]][[和泉市]]が市制施行。
* [[1958年]] - [[青森県]][[三沢市]]が市制施行。
* [[1959年]] - 青森県大湊田名部市(翌年[[むつ市]]に改称)が市制施行。
* [[1970年]] - [[愛知県]][[大府市]]・[[知多市]]が市制施行。
* [[1971年]] - [[千葉県]][[君津市]]・[[富津市]]・[[鎌ケ谷市]]が市制施行。
* [[1976年]] - [[埼玉県]][[坂戸市]]が市制施行。
* [[1991年]] - 埼玉県[[鶴ヶ島市]]が市制施行。
* [[1995年]] - [[茨城県]][[鹿嶋市]]が市制施行。[[東京都]][[秋川市]]と[[西多摩郡]][[五日市町 (東京都)|五日市町]]が合併して[[あきる野市]]が発足。
* [[1996年]] - 北海道[[北広島市]]・[[石狩市]]が市制施行。
* [[2003年]] - [[長野県]][[更埴市]]ほか2町が合併して[[千曲市]]が発足。
* [[2004年]] - [[山梨県]][[甲斐市]]が市制施行。
* [[2005年]] - [[岩手県]][[八幡平市]]、[[新潟県]][[胎内市]]が市制施行。
== 誕生日 ==
{{右|[[Image:1D line.svg|220px]]}} <!-- 画像がセクションの境界を大きくはみ出す時に、セクションの境目を示すセパレータです --><!-- 日付に本質的な意味のある「できごと」の図版を優先的に紹介するためスペースを融通させています。{{-}}などとは役割が違いますので置き換えないでください。 -->
[[Image:Inazo_Nitobe.jpg|thumb|100px|農学者・教育者、[[新渡戸稲造]](1862-1933)誕生]]
[[Image:Roh_Moo-hyun_3.jpg|thumb|100px|大韓民国第16代大統領、[[盧武鉉]](1946-2009)]]
[[ファイル:Kento Momota (JPN) cropped (1).jpg|代替文=|サムネイル|161x161ピクセル|[[バドミントン]]選手、[[桃田賢斗]](1994-)誕生。]]
* [[948年]]([[天禄 (遼)|天禄]]2年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]) - [[景宗 (遼)|景宗]]、[[遼]]の皇帝(+ [[982年]])
* [[1145年]] - [[イブン・ジュバイル]]、旅行家(+ [[1217年]])
* [[1286年]] - [[リクサ・エルジュビェタ]]、[[ボヘミア王国|ボヘミア]]・[[ポーランド王国|ポーランド王]]妃(+ [[1335年]])
* [[1341年]] - [[フェデリーコ3世 (シチリア王)|フェデリーコ3世]]、[[シチリア王]](+ [[1377年]])
* [[1453年]] - [[ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ]](+ [[1515年]])
* [[1529年]] - [[タッデオ・ツッカリ]]、[[画家]](+ [[1566年]])
* [[1588年]] - [[コンデ公]][[アンリ2世 (コンデ公)|アンリ2世]](+ [[1646年]])
* [[1601年]]([[慶長]]6年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]) - [[松平直政]]、[[大名]]、出雲[[松江藩]]初代藩主(+ [[1666年]])
* [[1629年]]([[寛永]]6年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]) - [[松平頼元]]、[[大名]]、常陸[[額田藩]]初代藩主(+ [[1693年]])
* [[1641年]]([[寛永]]18年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]) - [[中川久恒]]、[[大名]]、豊後[[岡藩]]第4代藩主(+ [[1695年]])
* [[1647年]] - [[アンナ・ソフィー・ア・ダンマーク]](+ [[1717年]])
* [[1652年]]([[承応]]元年[[7月29日 (旧暦)|7月29日]]) - [[加藤明英]]、[[大名]]、下野[[壬生藩]]初代藩主(+ [[1712年]])
* [[1653年]] - [[ヨハン・パッヘルベル]]、[[作曲家]](+ [[1706年]])
* [[1711年]] - [[ウィレム4世 (オラニエ公)|ウィレム4世]]、[[オラニエ公]](+ [[1751年]])
* [[1723年]]([[享保]]8年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]) - [[三浦梅園]]、[[思想家]]、自然哲学者(+ [[1789年]])
* [[1800年]] - [[ジュゼッペ・ガブリエル・バルサモ=クリヴェリ]]、[[植物学者]](+ [[1874年]])
* [[1818年]]([[文政]]元年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[伊達宗城]]、第8代[[宇和島藩|宇和島藩主]](+ [[1892年]])
* [[1850年]] - [[ジム・オルーク (野球)|ジム・オルーク]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1919年]])
* [[1862年]]([[文久]]2年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]) - [[新渡戸稲造]]、[[教育者]](+ [[1933年]])
* [[1864年]]([[元治]]元年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[明石元二郎]]、[[陸軍]][[軍人]](+ [[1919年]])
* [[1875年]] - [[エドガー・ライス・バローズ]]、[[小説家]](+ [[1950年]])
* [[1878年]] - [[トゥリオ・セラフィン]]、[[指揮者]](+ [[1968年]])
* 1878年 - [[真山青果]]、[[劇作家]]、小説家(+ [[1948年]])
* [[1885年]] - [[吉岡信敬]]、[[記者]](+ [[1940年]])
* [[1889年]] - [[国吉康雄]]、画家(+ [[1953年]])
* 1889年 - [[白井喬二]]、時代小説[[作家]](+ [[1980年]])
* [[1891年]] - [[呂運弘]]、[[政治家]](+ [[1973年]])
* [[1896年]] - [[シモン・バレル]]、[[ピアニスト]](+ [[1951年]])
* [[1898年]] - [[田崎広助]]、[[洋画家]](+ [[1984年]])
* 1898年 - [[藤浦洸]]、[[作詞家]]、[[詩人]](+ [[1979年]])
* [[1902年]] - [[カジミェシュ・ドンブロフスキ]]、[[精神科医]](+ [[1980年]])
* [[1903年]] - [[後藤はつの]]、画家(+ [[2017年]])
* [[1904年]] - [[幸田文]]、小説家(+ [[1990年]])
* [[1905年]] - [[チャウ・セン・コクサル・チュム]]、政治家、第40代[[カンボジアの首相|カンボジア首相]](+ [[2009年]])
* [[1906年]] - [[ホアキン・バラゲール]]、政治家、第39代[[ドミニカ共和国の大統領|ドミニカ共和国大統領]](+ [[2002年]])
* 1906年 - [[エリナー・ヒバート]]、作家(+ [[1993年]])
* 1906年 - [[アーサー・ロウ]]、[[サッカー選手]](+ 1993年)
* [[1910年]] - [[水谷則一]]、元プロ野球選手(+ [[1984年]])
* [[1912年]] - [[青柴憲一]]、元プロ野球選手(+ [[1945年]])
* 1912年 - [[西村正夫]]、元プロ野球選手(+ [[2002年]])
* [[1916年]] - [[ドロシー・バンディ]]、[[テニス選手]](+ [[2014年]])
* [[1919年]] - [[森国五郎]]、元プロ野球選手(+ 1945年)
* [[1920年]] - [[リチャード・ファーンズワース]]、俳優(+ [[2000年]])
* [[1921年]] - [[西沢道夫]]、元プロ野球選手、監督(+ [[1977年]])
* [[1922年]] - [[イヴォンヌ・デ・カーロ]]、[[俳優#性別での分類|女優]](+ [[2007年]])
* 1922年 - [[ヴィットリオ・ガスマン]]、俳優(+ [[2000年]])
* [[1923年]] - [[ロッキー・マルシアノ]]、[[ボクサー (スポーツ)|ボクサー]](+ [[1969年]])
* [[1925年]] - [[荒川宗一]]、元プロ野球選手(+ [[2010年]])
* 1925年 - [[アート・ペッパー]]、[[サクソフォニスト]](+ [[1982年]])
* [[1926年]] - [[フランコ・グッリ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[2001年]])
* 1926年 - [[石井ふく子]]、[[テレビプロデューサー]]
* [[1928年]] - [[ジョージ・マハリス]]、俳優(+ [[1992年|2023年]])
* [[1929年]] - [[若山富三郎]]、[[映画俳優]](+ [[1992年]])
* 1929年 - [[マッドドッグ・バション]]、[[プロレスラー]](+ 2013年)
* [[1931年]] - [[徳永喜久夫]]、元プロ野球選手
* [[1933年]] - [[今井洋行]]、元プロ野球選手
* [[1935年]] - [[小澤征爾]]、[[指揮者]]
* 1935年 - [[松下三郎]]、[[柔道家]](+ [[2020年]])
* 1935年 - [[ガイ・ロジャース]]、バスケットボール選手(+ [[2001年]])
* [[1936年]] - [[ヴァレリー・レガソフ]]、[[化学者]](+ [[1988年]])
* [[1937年]] - [[河原主尚]]、元プロ野球選手
* [[1938年]] - [[アラン・ダーショウィッツ]]、[[弁護士]]
* [[1939年]] - [[リリー・トムリン]]、女優
* [[1940年]] - [[ヤシャル・ビュユクアヌト]]、第25代[[参謀本部|トルコ共和国参謀総長]](+ [[2019年]])
* 1940年 - [[フランコ・ビトッシ]]、[[自転車競技]]選手
* 1940年 - [[花園ひろみ]]、[[俳優|女優]]
* [[1941年]] - [[ユリア・ヴァラディ]]、[[ソプラノ歌手]]
* [[1942年]] - [[C・J・チェリイ]]、[[サイエンス・フィクション|SF]]・[[ファンタジー]][[作家]]
* [[1944年]] - [[金野昭次]]、元スキージャンプ選手(+ [[2019年]])
* 1944年 - [[レナード・スラットキン]]、指揮者
* [[1945年]] - [[アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー]]、政治家、第2代[[イエメンの大統領|イエメン大統領]]
* 1945年 - [[青木和雄]] 、タレント、元アナウンサー
* [[1946年]](旧暦[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]) - [[盧武鉉]]、政治家、第16代[[大統領 (大韓民国)|大韓民国大統領]](+ [[2009年]])
* 1946年 - [[バリー・ギブ]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ビージーズ]])
* 1946年 - [[佐々木誠吾]]、元プロ野球選手
* [[1947年]] - [[三船和子]]、[[演歌歌手]]
* [[1948年]] - [[外山博]]、元プロ野球選手
* 1948年 - [[ラス・カンケル]]、[[ドラマー]]
* [[1949年]] - [[ギャリー・マドックス]]、元プロ野球選手
* [[1950年]] - [[ミハイル・フラトコフ]]、第7代[[ロシアの首相|ロシア連邦首相]]
* [[1951年]] - [[石田祝稔]]、政治家
* [[1952年]] - [[マイケル・マッシー]]、俳優(+ [[2016年]])
* 1952年 - [[菅野詩朗]]、[[アナウンサー]]
* [[1953年]] - [[伊井直行]]、小説家
* [[1955年]] - [[ビリー・ブランクス]]、エクササイズ指導者、[[格闘家]]、[[俳優]]
* [[1956年]] - [[張豊毅]]、俳優
* 1956年 - [[ヴィニー・ジョンソン]]、バスケットボール選手
* [[1957年]] - [[グロリア・エステファン]]、[[歌手]]
* 1957年 - [[山内和宏]]、元プロ野球選手
* [[1958年]] - [[アーミ・アーヴィッコ]]、[[歌手]](+ [[2002年]])
* [[1959年]] - [[大堀薫]]、ミュージシャン(元[[BLUEW]])
* 1959年 - [[真田豊実]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]]
* [[1960年]] - [[ジョセフ・ウィリアムズ]]、シンガーソングライター、ミュージシャン
* [[1961年]] - [[クラッシャー・バンバン・ビガロ]]、[[プロレスラー]]
* [[1962年]] - [[飯塚富司]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[高橋ヒロ]]、[[テディベア]][[アーティスト]]、[[アートディレクター]]、アートコンシェルジュ©
* 1962年 - [[依田栄二]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[ルート・フリット]]、元[[サッカー選手]]、[[サッカー]]指導者
* [[1964年]] - [[ルイス・ロペス (1964年生の内野手)|ルイス・ロペス]]、元プロ野球選手
* 1964年 - [[デビッド・ウェスト (野球)|デビッド・ウエスト]]、元プロ野球選手(+ [[2022年]])
* 1964年 - [[キキ・ラーマース]]、[[画家]]
* [[1965年]] - [[さねよしいさ子]]、歌手
* 1965年 - [[中谷忠己]]、元プロ野球選手
* [[1966年]] - [[青田浩子]]、元タレント
* 1966年 - [[セッド・ジニアス]]、プロレスラー
* 1966年 - [[上澤津孝]]、歌手(wface、元[[マジック (バンド)|MAGIC]])
* 1966年 - [[ティム・ハーダウェイ]]、元バスケットボール選手
* [[1967年]] - [[渡邊晃一]]、[[福島大学]] 教授
* [[1967年]] - [[中村繁之]]、タレント、俳優
* 1967年 - [[安藤真裕]]、アニメーション監督
* [[1968年]] - [[湯屋敦子]]、女優、[[声優]]
* 1968年 - [[杉本大成]]、[[プロ野球審判員]]
* [[1970年]] - [[玉越博幸]]、[[漫画家]]
* 1970年 - [[木村龍治]]、元プロ野球選手
* 1970年 - [[秋野由美子]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー
* 1970年 - [[新垣隆]]、[[作曲家]]、[[指揮者]]
* [[1971年]] - [[浅見祐一]]、[[ゲームクリエイター]]
* 1971年 - 豊田和貴、ミュージシャン([[SOPHIA (バンド)|SOPHIA]])
* 1971年 - [[本田英志]]、プロ野球審判員
* 1971年 - [[吉田みどり]]、元アナウンサー
* 1971年 - [[松本勝也]]、[[競艇]]選手(+ [[2020年]]<ref>{{Cite news2|title=【ボート】兵庫のトップレーサーがレース中の事故で死亡 松本勝也選手|newspaper=デイリースポーツ|date=2020-02-09|url=https://www.daily.co.jp/horse/2020/02/09/0013102960.shtml|agency=神戸新聞社|accessdate=2020-10-24}}</ref>)
* [[1972年]] - [[土田晃之]]、[[お笑いタレント]](元[[U-turn]])
* 1972年 - [[渡部陽一]]、戦場[[カメラマン]]、フォト[[ジャーナリスト]]
* 1972年 - [[今林久弥]]、俳優
* [[1973年]] - [[三浦理恵子]]、[[俳優|女優]](元[[CoCo (アイドルグループ)|CoCo]])
* [[1974年]] - [[山本寛 (アニメ演出家)|山本寛]]、[[アニメーション]][[演出家]]
* 1975年 - [[河本邦弘]]、声優
* [[1976年]] - [[土肥義弘]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[福西崇史]]、元サッカー選手
* [[1978年]] - [[中島沙樹]]、[[声優]]
* 1978年 - [[山﨑貴弘]]、元プロ野球選手
* [[1979年]] - [[三上真司 (野球)|三上真司]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[しみけん (AV男優)|しみけん]]、AV男優
* [[1980年]] - [[赤田将吾]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[町田恵 (タレント)|町田恵]]、元タレント、元アイドル(元[[チェキッ娘]])
* [[1981年]] - [[森下千里]]、タレント
* 1981年 - [[堀江守弘]]、[[スキーオリエンテーリング]]選手
* 1981年 - [[エマ=ジェーン・ウィルソン]]、[[騎手]]
* 1981年 - [[マイケル・メイス]]、卓球選手
* 1981年 - [[華城季帆]]、女優
* 1981年 - [[山田キヌヲ]]、女優
* [[1982年]] - [[ジェフリー・バトル]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1982年 - [[仲澤忠厚]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[高木純平]]、元サッカー選手
* [[1983年]] - [[アレックス・ラミレス・ジュニア]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[ホセ・アントニオ・レジェス]]、サッカー選手(+ 2019年)
* [[1984年]] - [[平岡祐太]]、俳優
* [[1985年]] - [[ジャスミン・S|ジャスミン・アレン]]、タレント
* 1985年 - [[中町公祐]]、サッカー選手
* [[1986年]] - [[浅木一華]]、ファッションモデル
* [[1987年]] - [[トレイボン・ロビンソン]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[ショーン・オサリバン (野球)|ショーン・オサリバン]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[石山泰稚]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[エスクデロ・セルヒオ]]、サッカー選手
* 1988年 - [[金園英学]]、元サッカー選手
* [[1989年]] - [[島袋涼平]]、元プロ野球選手
* [[1990年]] - [[宮河マヤ]]、[[ファッションモデル]]、タレント
* 1990年 - [[磯部夏紀]]、バスケットボール選手
* 1990年 - [[イブラヒマ・バルデ]]、サッカー選手
* [[1991年]] - [[小林公太]]、元プロ野球選手
* 1991年 - [[九里亜蓮]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[赤崎秀平|赤﨑秀平]]、サッカー選手
* [[1992年]] - [[松田修平]]、声優
* [[1993年]] - [[今永昇太]]、プロ野球選手
* [[1994年]] - [[宮下遥]]、バレーボール選手
* 1994年 - [[桃田賢斗]]、バドミントン選手
* 1994年 - [[ビアンカ・ライアン]]、歌手
* 1994年 - [[リディアン・ロペス]]、陸上競技選手
* 1994年 - [[カルロス・サインツJr.]]、レーシングドライバー
* 1994年 - [[櫻岡駿]]、陸上選手
* [[1995年]] - [[鈴木理子 (ホリプロ)|鈴木理子]]、女優
* 1995年 - [[児山祐斗]]、元プロ野球選手
* 1995年 - [[中山来未]]、女優、歌手
* [[1996年]] - [[ゼンデイヤ]]、女優、歌手、ダンサー
* [[1997年]] - [[JUNG KOOK|チョン・ジョングク]]、アイドル、歌手
* 1997年 - [[小原美南]]、元野球選手
* [[1999年]] - [[石田龍之進]]、プロアイスホッケー選手
* 1999年 - [[山本里咲]]、アナウンサー
* [[2000年]] - [[醍醐虎汰朗]]、俳優
* 2000年 - [[佐藤新]]、俳優、歌手([[IMP.]]、元[[IMPACTors]])
* 2000年 - [[畠田瞳]]、元体操競技選手
* [[2003年]] - [[アン・ユジン|ユジン]]、アイドル([[IVE (音楽グループ)|IVE]]、元[[IZ*ONE]])
* [[2007年]] - [[松本わかな]]、歌手、アイドル([[アンジュルム]])
* [[2009年]] - [[鎌田英怜奈]]、女優
* 生年不明 - [[長門三照]]、声優
* 生年不明 - [[鹿瀬ハジメ]]<ref>[http://www.yyy-voice.com/talent/show/9 鹿瀬 ハジメ : ナレーター・声優 プロダクション 有限会社ワイワイワイ ]</ref>、声優
* 生年不明 - [[藤城リエ]]、歌手、作詞家、モデル
== 忌日 ==
{{multiple image
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| width1 = 100
| caption1 = 鎌倉幕府第4代将軍、[[藤原頼経]](1218-1256)没
| image2 = Nocret, attributed to - Louis XIV of France - Versailles, MV2066.jpg
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| caption2 = フランス王「太陽王」[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]](1638-1715)
}}
{{multiple image
| image1 = S%C5%8Dgi.jpg
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| caption1 = 連歌師、[[宗祇]](1421-1502)没
| image2 = Kurofuneya.JPG
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| caption2 = 画家[[竹久夢二]](1884-1934)没。画像は『黒船屋』
}}
[[Image:Jacques Cartier 1851-1852.jpg|thumb|100px|探検家[[ジャック・カルティエ]](1491-1557)没。[[カナダ]]の名付け親]]
{{multiple image
| image1 = Marin_mersenne.jpg
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| caption1 = 神学者・数学者・物理学者、[[マラン・メルセンヌ]](1588-1648)没。[[音響学]]の父とも呼ばれる
| image2 = Luis_Alvarez_ID_badge.png
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| caption2 = 物理学者[[ルイ・アルヴァレ]](1911-1988)
}}
{{multiple image
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| caption1 = 劇作家[[ジュゼッペ・ジャコーザ]](1847-1906)
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| caption2 = 作曲家[[サミュエル・コールリッジ=テイラー]](1875-1912)
}}
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| footer = 建築家[[エーロ・サーリネン]](1910-1961)没。左画像は「ゲートウェイ・アーチ」、右は「JFK空港」
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| alt1 = ゲートウェイ・アーチ
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| alt2 = JFK空港
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| caption1 = 政治家、[[井上馨]](1836-1915)
| image2 = Bundesarchiv_Bild_183-V00555-3%2C_Obersalzberg%2C_Albert_Speer%2C_Adolf_Hitler.jpg
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| caption2 = [[ナチス・ドイツ]]の軍需大臣、建築家[[アルベルト・シュペーア]](左; 1905-1981)没
| image3 = Wladyslaw_Gomulka_na_trybunie.jpg
| width3 = 100
| caption3 = ポーランドの政治家[[ヴワディスワフ・ゴムウカ]](1905-1982)没
}}
* [[683年]]([[天武天皇]]12年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]) - [[大伴吹負]]、[[飛鳥時代]]の[[豪族]]
* [[1067年]] - [[ボードゥアン5世 (フランドル伯)|ボードゥアン5世]]、[[フランドル伯]](* [[1012年]])
* [[1198年]] - [[ドゥルセ・ベレンゲル・デ・バルセロナ]]、[[サンシュ1世 (ポルトガル王)|ポルトガル王サンシュ1世]]の妃(* [[1152年]]) <!-- ja,en,ES,fr:- de,it,ru:9/1 -->
* [[1204年]]([[元久]]元年[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]) - [[宇都宮朝綱]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]](* [[1122年]])
* [[1256年]]([[康元]]元年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]) - [[藤原頼経]]、[[鎌倉幕府]]第4代[[征夷大将軍|将軍]]、[[摂家将軍]](* [[1218年]])
* [[1343年]]([[興国]]4年/[[康永]]2年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]) - [[多田頼貞]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]
* [[1409年]]([[応永]]16年[[7月22日 (旧暦)|7月22日]]) - [[足利満兼]]、[[室町幕府]]第3代[[鎌倉公方]](* [[1378年]])
* [[1502年]]([[文亀]]2年[[7月30日 (旧暦)|7月30日]]) - [[宗祇]]、[[室町時代]]の[[連歌|連歌師]](* [[1421年]])
* [[1557年]] - [[ジャック・カルティエ]]、[[探検家]](* [[1491年]])
* [[1600年]] - [[タデアーシュ・ハーイェク]]、[[天文学者]](* [[1525年]])
* [[1648年]] - [[マラン・メルセンヌ]]、[[数学者]](* [[1588年]])
* [[1654年]]([[承応]]3年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]) - [[伏見宮邦道親王]]、[[江戸時代]]の[[皇族]](* [[1641年]])
* [[1687年]] - [[ヘンリー・モア]]、[[哲学|哲学者]](* [[1614年]])
* [[1715年]] - [[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]、[[フランス王国|フランス]]国王(* [[1638年]])
* [[1733年]]([[享保]]18年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]) - [[戸田氏定]]、[[大垣藩|大垣藩主]](* [[1657年]])
* [[1797年]]([[寛政]]9年[[閏]][[7月11日 (旧暦)|7月11日]]) - [[日厳]]、[[大石寺]]第42世法主(* [[1748年]])
* [[1814年]] - [[エリク・トゥリンドベリ]]、[[作曲家]](* [[1761年]])
* [[1838年]] - [[ウィリアム・クラーク (探検家)|ウィリアム・クラーク]]、探検家(* [[1770年]])
* [[1862年]]([[文久]]2年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]) - [[熊谷直好]]、[[歌人]](* [[1782年]])
* [[1870年]] - [[ヨーゼフ・フォン・マッファイ]]、[[鉄道]]技術者、[[J.A.マッファイ]]創業者(* [[1790年]])
* [[1872年]] - [[アル・サーク]]、[[野球選手]](* [[1849年]])
* [[1878年]] - [[牧野忠恭]]、[[越後長岡藩|越後長岡藩主]](* [[1824年]])
* [[1881年]] - [[梨本宮守脩親王]]、皇族(* [[1819年]])
* [[1893年]] - [[細川護久]]、[[熊本藩]][[藩知事|知事]](* [[1839年]])
* [[1898年]] - [[田崎草雲]]、[[南画|南画家]](* [[1815年]])
* [[1906年]] - [[ジュゼッペ・ジャコーザ]]、[[詩人]]、[[劇作家]]、[[オペラ台本]]作家(* [[1847年]])
* [[1912年]] - [[サミュエル・コールリッジ=テイラー]]、作曲家(* [[1875年]])
* [[1915年]] - [[井上馨]]、[[元老]](* [[1835年]])
* [[1922年]] - [[エドモンド・レイトン]]、[[画家]](* [[1853年]])
* [[1923年]] - [[松岡康毅]]、[[農商務省 (日本)|農商務大臣]](* [[1846年]])
* 1923年 - [[武彦王妃佐紀子女王]]、皇族(* [[1903年]])
* 1923年 - [[寛子女王]]、皇族(* [[1906年]])
* 1923年 - [[師正王]]、皇族(* [[1918年]])
* 1923年 - [[富田木歩]]、[[俳人]](* [[1897年]])
* [[1931年]] - [[アンドリュー・セス]]、哲学者(* [[1856年]]) <!-- en日付なし -->
* [[1934年]] - [[竹久夢二]]、[[画家]](* [[1884年]])
* [[1950年]] - [[原田慶吉]]、[[法学者]](* [[1903年]])
* [[1951年]] - [[ヴォルス]]、画家(* [[1913年]])
* 1951年 - [[ビル・クレム]]、[[メジャーリーグ]]審判(* [[1874年]])
* [[1952年]] - [[小杉天外]]、[[小説家]](* [[1865年]])
* [[1953年]] - [[ジャック・ティボー]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1880年]])
* [[1957年]] - [[ヴィルヘルム・ヌセルト]]、[[物理学者]](* [[1882年]])
* 1957年 - [[鈴鹿栄]]、[[軟式野球]]ボールの開発者(* [[1888年]])
* 1957年 - [[デニス・ブレイン]]、[[ホルン]]奏者(* [[1921年]])
* [[1961年]] - [[エーロ・サーリネン]]、[[建築家]](* [[1910年]])
* [[1966年]] - [[森弘太郎]]、元[[プロ野球選手]](* [[1915年]])
* [[1967年]] - [[イルゼ・コッホ]]、[[ナチス・ドイツ]]の[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]看守(* [[1906年]])
* [[1969年]] - [[坂倉準三]]、建築家(* [[1904年]])
* [[1970年]] - [[フランソワ・モーリアック]]、[[小説家]](* [[1885年]])
* [[1972年]] - [[川上澄生]]、[[版画家]](* [[1895年]])
* [[1975年]] - [[松本彦七郎]]、[[考古学者]](* [[1887年]])
* 1975年 - [[杉狂児]]、[[歌手]]、[[俳優]](* [[1903年]])
* [[1981年]] - [[アルベルト・シュペーア]]、ナチス・ドイツの軍需相、建築家(* [[1905年]])
* [[1982年]] - [[ハスケル・カリー]]、数学者(* [[1900年]])
* 1982年 - [[ヴワディスワフ・ゴムウカ]]、[[ポーランド]]の指導者(* [[1905年]])
* 1982年 - [[クリフォード・カーゾン]]、[[ピアニスト]](* [[1907年]])
* [[1983年]] - [[ヘンリー・M・ジャクソン]]、[[アメリカ合衆国上院|アメリカ合衆国上院議員]](* [[1912年]])
* [[1984年]] - [[伊奈努]]<ref>プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、57ページ</ref>、元プロ野球選手(* [[1934年]])
* [[1985年]] - [[ステファン・ベロフ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(* [[1957年]])
* [[1987年]] - [[松久朋琳]]、[[仏師]](* [[1901年]])
* [[1988年]] - [[ルイ・アルヴァレ]]、物理学者(* [[1911年]])
* 1988年 - [[並木輝男]]、元プロ野球選手(* [[1938年]])
* [[1989年]] - [[A・バートレット・ジアマッティ]]、[[ナショナルリーグ]]会長(* [[1938年]])
* 1989年 - [[カジミエシュ・デイナ]]、[[サッカー]]選手(* [[1947年]])
* [[1990年]] - [[エドウィン・O・ライシャワー]]、[[歴史家]]、[[外交官]](* [[1910年]])
* 1990年 - [[バスター・アダムズ]]、野球選手(* [[1915年]])
* [[1991年]] - [[外山義明]]、元プロ野球選手(* [[1947年]])
* [[1996年]] - [[ヴァン・ホルンボー]]、作曲家(* [[1909年]])
* [[1999年]] - [[W・リチャード・スティーヴンス]]、[[UNIX]]・[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]技術書の[[著作家]](* [[1951年]])
* [[2002年]] - [[今井澄]]、[[学生運動|学生運動家]]、[[医師]]、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]][[参議院|参議院議員]](* [[1939年]])
* [[2003年]] - [[ジャック・スマイト]]、[[映画監督]](* [[1926年]])
* [[2005年]] - [[居村眞二]]、[[漫画家]](* [[1949年]])
* [[2006年]] - [[佐伯千仭]]、[[刑法学者]]、[[立命館大学]][[名誉教授]]、[[弁護士]](* [[1907年]])
* 2006年 - [[名和弓雄]]、[[時代考証|時代考証家]]、[[武道|武道家]](* [[1912年]])
* 2006年 - [[小林久三]]、小説家(* [[1935年]])
* [[2008年]] - [[ドン・ラフォンティーヌ]]、[[声優]](* [[1940年]])
* 2008年 - [[オデッド・シュラム]]、数学者(* [[1961年]])
* [[2010年]] - [[若乃花幹士 (初代)]]、大相撲45代[[横綱]]、年寄10代[[二子山 (相撲)|二子山]]、6代[[日本相撲協会]]理事長(* [[1928年]])
* [[2012年]] - [[菊池孝]]<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/news/p-bt-tp0-20120904-1011305.html 最古参プロレス評論家菊池孝氏死去] 日刊スポーツ 2020年11月10日閲覧</ref>、スポーツジャーナリスト、格闘技コラムニスト、プロレス評論家(* [[1932年]])
* 2012年 - [[ハル・デヴィッド|ハル・デイヴィッド]]<ref>{{cite news|last=Hoerburger|first=Rob|url=http://www.nytimes.com/2012/09/02/arts/music/hal-david-oscar-and-grammy-winning-songwriter-is-dead-at-91.html?_r=1&hp|title=Hal David, Songwriter, Is Dead at 91|accessdate=1 September 2012|newspaper=The New York Times|date=1 September 2012}}</ref>、[[作詞家]](* [[1921年]])
* [[2013年]] - [[トミー・モリソン]]<ref>{{Cite web|和書|url= http://boxingnews.jp/news/5904/ | title= 元ヘビー級王者トミー・モリソンが死去 |publisher= Boxing News(ボクシングニュース) |date= 2013年9月3日 |accessdate= 2020年10月22日 }}</ref>、プロボクサー(* [[1969年]])
* [[2015年]] - [[中平卓馬]]、[[写真家]](* [[1938年]])
* [[2022年]] - [[諸角憲一]]、俳優、声優(* [[1955年]])
{{-}}
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Desolation of Nihonbashi and Kanda after Kanto Earthquake.jpg|thumb|center|600px|[[関東大震災]](1923)。画像は京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た日本橋および神田方面]] <!-- 特例でパノラマ画像を本文に割り込ませます -->
{{multiple image
| footer = [[ウズベキスタン]]の独立記念日(1991年独立)。{{audio|Uzbekistan_anthem.ogg|国歌を聴く}}
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| caption1 = ウズベキスタンの位置
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| caption2 = 子供たち
}}
[[Image:Kazenobon1.jpg|thumb|[[おわら風の盆]]]]
[[Image:1 сентября - День знаний !.JPG|thumb|140px|[[ロシア]]の「知識の日」]]
<!-- [[Image:Teachers Day HCI.jpg|thumb|240px|[[シンガポール]]の「教師の日」]] [[教師の日]]で使おう -->
* [[防災の日]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/350339913172ab150bc0c4c69c83b14343983838|title=歴史を変えた9月1日に起きた2つの大地震(福和伸夫)|publisher=Yahoo!ニュース|date=2017-09-01|accessdate=2021-09-22}}</ref>({{JPN}})
*:[[1923年]]9月1日に発生した関東大震災を忘れることなく[[災害]]に備えようと、伊勢湾台風襲来の翌年である[[1960年]]に閣議決定で制定。
* [[二百十日]]({{JPN}}、[[2002年]]・[[2003年]]・[[2004年]])
*:[[立春]]から数えて210日目の日。台風襲来の時期であるため、農家にとっての厄日である。
* [[おわら風の盆]]({{JPN}}[[富山県]][[富山市]](旧[[八尾町]])、[[9月3日]]まで)
* [[独立記念日]]({{UZB}})
*: [[1991年]]のこの日、ウズベキスタンが[[ソビエト連邦]]からの独立を宣言したことを記念する祝日。
* [[憲法記念日]]({{SVK}})
*: [[1992年]]のこの日、スロバキア共和国憲法制定が制定されたことを記念する祝日。
* {{仮リンク|知識の日|ru|День знаний|en|Knowledge Day}}({{RUS}}および旧ソビエト連邦諸国)
*: ロシアおよび旧ソビエト連邦諸国の学校年度の始まり。教師に花などを贈り各種行事が催される。
* [[教師の日]]({{SGP}})
*: シンガポールの学校の休日。教師の日のイベントは前日に行われ、授業は午前中のみとなる。
* [[教会暦]]の最初の日([[正教会]])
* [[杭|くい]]の日({{JPN}})
*: 東日本基礎工業協同組合が[[1993年]]に制定。「く(9)い(1)」(杭)の語呂合せ。
* [[キウイフルーツ|キウイ]]の日({{JPN}})
*:キウイの輸入を行っている[[ゼスプリ・インターナショナル・ジャパン|ゼスプリインターナショナルジャパン]]が制定。「キュー(9)イ(1)」の語呂合せ。
* [[レビュー]]記念日({{JPN}})
*: [[1927年]]のこの日、宝塚少女歌劇団が日本初のレビュー『[[モン・パリ]]』の初演を行ったことを記念して[[宝塚歌劇団]]が[[1989年]]に制定。
* [[駄洒落|だじゃれ]]の日<ref>{{Cite web|和書|title=一般社団法人 日本記念日協会|url=https://www.kinenbi.gr.jp/|website=www.kinenbi.gr.jp|accessdate=2019-12-13}}</ref>({{JPN}})
*: [[一般社団法人日本だじゃれ活用協会]]が制定。同協会は2014年9月1日に設立。 「ク(9)リエイティブ」かつ「イ(1)ンパクト」がある「だじゃれ」は、人と人とのコミュニケーションをより豊かなものにしてくれる「無形文化遊具」であり、「だじゃれ」が秘める無限の「吸(9)引(1)力」を活かし、生活に彩りと潤いをもたらすことで、世の中に「救(9)い(1)」を届けたいとの願いが込められている。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0901|date=2011年7月}}
* [[1921年]] - 蜂須賀初野は妹・八重子から体型を詰られたのを機に、痩せる為絶食を敢行していたが無理が祟り倒れてしまう。(漫画『[[紡ぐ乙女と大正の月]]』)<ref>{{Cite book|和書|title=紡ぐ乙女と大正の月 2巻|date=2021-08-26|publisher=[[芳文社]]|page=54|author=ちうね|isbn=978-4832273016}}作中の日付は同巻の目次より。</ref>
*1960年 - ヴィヴィエンヌ・ミシェルが[[ロンドン]]を出発。(小説『[[007/私を愛したスパイ#ノベライズ|わたしを愛したスパイ]]』第1章<ref group="注">年は第13章で[[ジェームズ・ボンド]]が1959年の[[007 サンダーボール作戦#出版|サンダーボール作戦]]を1年ほど前と言っていることによる。</ref>)
*1964年 - [[ビッグ・ボス|ネイキッド・スネーク]]、グロズニィグラードに到達。(『[[メタルギアソリッド3]]』)
*2001年 - 南空ナオミ、[[連邦捜査局|FBI]]に入る。(漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1967年]] - 空豆ピースケ、漫画・アニメ『[[Dr.スランプ]]』に登場するキャラクター<ref>『[[Dr.スランプ]]』ジャンプ・コミックス4巻 118ページDr.スランプ ほよよ履歴書「空豆ピースケ」より</ref>
* [[1973年]] - 秀麗黄(金剛のシュウ)、アニメ『[[鎧伝サムライトルーパー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |year = 1989 |editor = アニメック編集部 編 |title = 鎧伝サムライトルーパー大事典 |page = 37 |publisher = [[ラポート]] |series = ラポートデラックス }}</ref>
* [[1994年]] - 野沢出、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref name=":02">{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2019|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-882053-8|quote=|date=|volume=39巻|page=130}}</ref>
* [[2003年]] - 小野沢悠貴、アニメ『[[東京マグニチュード8.0]]』に登場するキャラクター<ref>作中に登場した死亡診断書内の記述より。</ref>(+ 2012年)
* [[3千年紀|2600年代]] - シーラ・レヴィット、漫画『[[テラフォーマーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author1=貴家悠|authorlink1=貴家悠|author2=橘賢一|authorlink2=橘賢一|title= テラフォーマーズ|origyear= 2012|accessdate= 2016-03-13|publisher= 集英社|isbn= 978-4-08-879459-4|volume= 3巻}}</ref>
* [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]509年 - ティファン・ドラクロア、ゲーム『[[スターオーシャン5 -Integrity and Faithlessness-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=88|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref>
* 生年不明 - 日田絢芽、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/hita_ayame |title=大分 日田 絢芽 |access-date=2022-10-13 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=温泉むすめ}}</ref>
* 生年不明 - [[城戸沙織]](女神アテナ)、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=車田正美|authorlink=車田正美|year=2001|title=聖闘士星矢大全|page=98|publisher=集英社|series=[[ジャンプ・コミックス|ジャンプ・コミックス・セレクション]]|isbn=4-8342-1690-X}}</ref>
* 生年不明 - オジュワール・ドロン、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1432721100228775957}}</ref>
* 生年不明 - うたたねコハル、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|year = 2002 |title = NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK |page = 69 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 4-08-873288-X }}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・者の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2008|pae=73|isbn=978-4-08-874247-2}}</ref>
* 生年不明 - 城戸正宗、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1432721109456199698}}</ref>
* 生年不明 - 桔梗、漫画・アニメ『家庭教師ヒットマンREBORN!』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 今結花、漫画・アニメ『ワールドトリガー』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|W_Trigger_off|1167816318759968768}}</ref>
*生年不明 - [[ARIAの登場人物#アリス・キャロル(Alice Carroll)|アリス・キャロル]]、漫画・アニメ『[[ARIA (漫画)|ARIA]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=天野こずえ(監修)|authorlink=天野こずえ|year=2005|title=ARIA OFFICIAL NAVIGATION GUIDE|page=54|publisher=[[マッグガーデン]]|isbn=978-4-86127-212-7}}</ref>
* 生年不明 - 斉藤恵那、漫画・アニメ『[[ゆるキャン△]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yurucamp_anime|1564991401879752704}}</ref><ref>{{Twitter status|taka8rie|1433072330050134017}}</ref>
*生年不明 - 平田洋介、小説・アニメ『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://youkosozitsuryoku-2nd.com/character/hirata.html |title=平田洋介 |accessdate=2022-10-13 |publisher=衣笠彰梧・KADOKAWA刊 |work=『ようこそ実力至上主義の教室へ 2年生編』公式サイト}}</ref>
*生年不明 - 冷泉麻子、アニメ『[[ガールズ&パンツァー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|garupan|1432719831317442560}}</ref><ref>{{Cite book|和書|year=2013|title=ガルパン・アルティメット・ガイド〜ガールズ&パンツァーを100倍楽しむ本〜|page=52|publisher=[[廣済堂出版]]|isbn=978-4-331-25286-4}}</ref>
* 生年不明 - [[ハイデルン (KOF)|ハイデルン]]、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kof98umol|1035693846653542401}}</ref>
* 生年不明 - 久遠道也、ゲーム・アニメ『[[イナズマイレブン]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/2/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=2 |accessdate=2022-10-13}}</ref>
* 生年不明 - Λ -No.11-、ゲーム『[[BLAZBLUE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.blazblue.jp/cf/ac/character/lambda.html |title=Λ-NO.11- ラムダ・イレブン |access-date=2022-10-13 |publisher=ARC SYSTEM WORKS |work=BLAZBLUE}}</ref><ref>{{Twitter status|BLAZBLUE_PR|1432901024180850689}}</ref>
* 生年不明 - 松本沙理奈、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20152 |title=松本 沙理奈(まつもと さりな) |access-date=2022-10-13 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 諸星きらり、ゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20173 |title=諸星 きらり(もろぼし きらり) |access-date=2022-10-13 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 皆藤蜜子、ゲーム『[[ガールフレンド(仮)|ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://app.famitsu.com/20130516_163244/ |title=【ガールフレンド(仮)通信38】誘惑ボディの書道娘 皆藤蜜子ちゃん |access-date=2022-10-13 |publisher=ファミ通App |date=2013-05-16}}</ref>
* 生年不明 - 山下次郎、ゲーム『[[アイドルマスター SideM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/40044 |title=山下 次郎(やました じろう) |access-date=2022-10-13 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 華房心、ゲーム・アニメ『[[アイ★チュウ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.i-chu.jp/unit/popnstar/kokoro/ |title=華房 心 |access-date=2022-10-13 |publisher=LIBER |work=アイ★チュウ}}</ref>
== その他 ==
* [[9月1日問題]] - 日本では、2015年までの40年間で18歳以下の者の自殺が1年で最も多い日が9月1日であることが判明した<ref>[http://mainichi.jp/articles/20160829/dde/001/040/067000c 自殺]{{リンク切れ|date=2018年4月}} ([[毎日新聞]]、2016年8月29日)</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|8|31|9|2|[[8月1日]]|[[10月1日]]|[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]|0901|9|01}}
*[[8月32日]]
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== できごと ==
[[ファイル:Castro Battle of Actium.jpg|thumb|[[ローマ内戦]]、[[アクティウムの海戦]](BC31)。[[オクタウィアヌス]]が[[マルクス・アントニウス|アントニウス]]と[[クレオパトラ7世]]を破る|180x180ピクセル]]
[[ファイル:Great Fire London.jpg|thumb|[[ロンドン大火]](1666)、市内家屋の85%が焼失|180x180ピクセル]]
[[ファイル:U.S._Treasury_building_%281804%29_%28Harper%27s_engraving%29.png|thumb|[[アメリカ合衆国財務省]]設置(1789)。画像の建物は1814年の[[米英戦争]]で焼失。|180x180ピクセル]]
[[ファイル:SeptemberMassacres.jpg|thumb|[[九月虐殺]](1792)。[[フランス革命戦争]]下のパリで「反革命容疑者」1500人前後が殺害される。|180x180ピクセル]]
[[ファイル:21lancers.JPG|thumb|[[マフディー戦争]]、[[オムダーマンの戦い]](1898)。[[マフディー運動|マフディーの大軍]]を英国の[[マキシム機関銃]]と[[ライフル銃]]が粉砕。|180x180ピクセル]]
[[ファイル:Tr-bigstick-cartoon.JPG|thumb|[[セオドア・ルーズベルト|ルーズベルト]]米大統領、「[[棍棒外交]]」の語を初めて用いる(1901)。画像は1904年、『[[ガリバー旅行記]]』を基にした風刺画。|180x180ピクセル]]
{{multiple image
| footer = [[清]]が[[598年]]より続いてきた[[科挙]]を廃止(1905)。
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| alt1 = 1873年に撮影された科挙会場「号舎」。7500の個室を備える
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| alt2 = 1894年の試験問題
}}[[ファイル:Mamoru Shigemitsu signs the Instrument of Surrender, officially ending the Second World War - Original.jpg|thumb|180x180px|[[日本の降伏|降伏文書に調印する日本政府代表]]、[[第二次世界大戦]]が正式に終結(1945)]]
[[ファイル:Sealand_fortress.jpg|thumb|[[シーランド公国]]が「独立」を宣言(1967)|180x180ピクセル]]
* [[紀元前44年]] - [[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]が初の[[ピリッピカ]](攻撃演説)を行う。以降数か月のうちに14回の演説を行う。
* 紀元前44年 - [[クレオパトラ7世]]が息子の[[カエサリオン|プトレマイオス15世カエサリオン]]を[[プトレマイオス朝]]の共同統治者とすることを宣言。
* [[紀元前31年]] - [[アクティウムの海戦]]。
* [[1192年]] - [[ヤッファ条約 (1192年)|ヤッファ条約]](Treaty of Jaffa)が[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード獅子心王]]と[[サラディン]]の間で締結。[[第3回十字軍]]が終了。
* [[1264年]]([[文永]]元年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]) - [[鎌倉幕府]][[執権]]・[[北条時頼]]が病で出家したのに伴い、[[北条政村]]が7代執権に就任。
* [[1561年]] - この年の[[8月19日]]から[[8月20日|20日]]にかけて[[スコットランド]]に帰国した[[メアリー (スコットランド女王)|スコットランド女王メアリー]]のエディンバラ入りを祝う式([[:en:Entry of Mary, Queen of Scots into Edinburgh|Entry of Mary, Queen of Scots into Edinburgh]])が行われる。
* [[1600年]]([[慶長]]5年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]) - 小山評定。会津討伐に向かう途中の[[徳川家康]]が下野国小山で[[石田三成]]の挙兵を知り、諸将を集めて軍議を開く。
* [[1649年]] - [[イタリア]]の都市[[カストロ (ラツィオ州)|カストロ]]([[:en:Castro, Lazio|Castro]])が教皇[[インノケンティウス10世]]の軍によって破壊され、[[カストロ戦争]]<small>([[:en:Wars of Castro|英語版]])</small>が終結。
* [[1666年]] - [[ロンドン大火]]:[[ロンドン橋]]近くのパン屋から出火。火災は[[9月6日]]まで続き、ロンドンの5分の4が焼失した<ref>{{Cite web |url=https://www.history.com/this-day-in-history/great-fire-of-london-begins |title=Great Fire of London begins |access-date=20 Nov 2023 |publisher=A&E Television Networks, LLC. |date=August 31, 2020}}</ref>。
* [[1715年]] - 5歳にして[[フランス王]]に即位した[[ルイ15世]]の摂政に[[フィリップ・ドルレアン]]が就任。
* [[1752年]](グレゴリオ暦[[9月13日]]) - [[イギリス]]で[[グレゴリオ暦]]を導入。9月2日の翌日が[[9月14日]]となる。
* [[1789年]] - [[アメリカ合衆国財務省]]設置。
* [[1792年]] - [[フランス革命]]: [[九月虐殺]]が始まる。
* [[1794年]] - [[ヴァンデの反乱|ヴァンデーの反乱]]: [[バウシュの戦い]]([[:fr:Bataille des Bauches|Bataille des Bauches]])
* [[1806年]] - [[スイス]]のゴールダウで地滑り、457人が死亡。
* [[1807年]] - [[砲艦戦争]]<small>([[:en:Gunboat War|英語版]])</small>: {{仮リンク|コペンハーゲンの戦い (1807年)|en|Battle of Copenhagen (1807)|label=コペンハーゲンの戦い}}
* [[1819年]] - [[サン・テルモ (船)|サン・テルモ]]が[[ホーン岬]]の南の[[ドレーク海峡]]で、悪天候により損傷し沈没、644人が世界史史上初となる[[南極大陸]]での犠牲者となる。
* [[1856年]] - [[太平天国の乱]]: 太平天国の都天京(南京)で、北王[[韋昌輝]]が、東王[[楊秀清]]を殺害。[[天京事変]]の始まり。
* [[1859年]] - 記録上最強の地磁気嵐[[1859年の太陽嵐|キャリントン・イベント]]が観測。黒点やフレアは8月28日から前日にかけて観測されていた。
* [[1864年]] - [[南北戦争]]: [[ウィリアム・シャーマン|シャーマン将軍]]率いる北軍により前日に陥落した南軍の軍事拠点[[アトランタ]]に同氏の軍が入城。[[アトランタ方面作戦]]が終了。
* 1864年([[元治]]元年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]) - [[長州征討#第一次長州征討|第一次長州征討]]: 将軍[[徳川家茂]]が中国・四国など35藩に長州征討の為の出兵を命令。
* [[1870年]] - [[普仏戦争]]: [[セダンの戦い]]で[[ナポレオン3世]]が10万の将兵とともに投降し[[捕虜]]となる。ナポレオンは[[9月4日|4日]]に廃位。
* [[1885年]] - [[ワイオミング州]]で中国系移民に対する[[ロックスプリングスの虐殺]]<small>([[:en:Rock Springs massacre|英語版]])。</small>
* [[1898年]] - [[マフディー戦争]]: [[オムダーマンの戦い]]。
* [[1901年]] - [[セオドア・ルーズベルト]]米副大統領([[ウィリアム・マッキンリー|マッキンリー]]大統領暗殺により[[9月14日|同月14日]]から大統領)が{{仮リンク|ミネソタ州フェア|en|Minnesota State Fair}}で[[棍棒外交]]という言葉(Speak softly and carry a big stick)を初めて用いる。
* [[1905年]]([[光緒]]31年[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]) - [[清]]が[[科挙]]を廃止。
* [[1914年]] - [[第一次世界大戦]]・青島出兵: [[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]が[[山東半島]]への上陸を開始。
* 1914年 - [[横山大観]]らが[[日本美術院]]を再興<ref>{{Cite web |url=https://nihonbijutsuin.or.jp/about.php |title=日本美術院について |access-date=20 Nov 2023 |publisher=日本美術院}}</ref>。
* [[1919年]] - 朝鮮の南大門駅(現 [[ソウル駅]])で、独立運動派の[[姜宇奎]]が[[朝鮮総督府|朝鮮総督]]・[[斎藤実]]に爆弾を投げつけ暗殺未遂<ref>{{Cite web |url=https://jp.yna.co.kr/view/AJP20200827002300882 |title=今日の歴史(9月2日) |access-date=20 Nov 2023 |publisher=Yonhap News Agency. |website=聯合ニュース}}</ref>。
* [[1921年]] - [[阪神急行電鉄]](現・[[阪急電鉄]])西宝線(現・[[阪急今津線|今津線]])宝塚-西宮北口間開業。
* [[1922年]] - 目黒蒲田電鉄(現・[[東京急行電鉄]])設立。
* [[1923年]] - [[日本]]で[[山本権兵衛]]が第22代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[第2次山本内閣]]が発足。
* [[1927年]] - [[カール・ラインムート]]が[[ハイデルベルク]]で[[小惑星]][[アラビス (小惑星)|アラビス]]を発見。
* [[1935年]] - [[レイバー・デー・ハリケーン]]<small>([[:en:1935 Labor Day Hurricane|英語版]])</small>がフロリダ州[[ロングキー]]<small>([[:en:Long Key|英語版]])</small>に上陸し400人以上が死亡。
* 1935年 - [[大阪府]][[堅下]]村(現[[柏原市]])平野集落にあった[[ため池]]「菱尾池」が前日来の豪雨により決壊。死者9人、重傷5人、軽傷10余人。家屋の全壊6戸、倒壊16戸の被害<ref>用水池が決壊、九人死ぬ『大阪毎日新聞』(昭和10年9月4日夕刊).『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p57 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1938年]] - [[トルコ]]で[[ハタイ県]]が独立を宣言。[[ハタイ国|ハタイ共和国]]<small>([[:en:Hatay State|英語版]])</small>を名乗る。
* [[1939年]] - 第二次世界大戦: [[第三帝国|ドイツ]]の侵攻により[[自由都市ダンツィヒ]]が陥落。
* 1939年 - ダンツィヒに初となるドイツ領外の収容所である[[シュトゥットホーフ強制収容所]]が設置される。
* [[1940年]] - 米英間で[[駆逐艦基地協定]]<small>([[:en:Destroyers-for-bases deal|英語版]])</small>締結。
* [[1945年]] - [[第二次世界大戦]]での[[日本の降伏]]: [[大日本帝国]]政府が[[東京湾]]の[[ミズーリ (戦艦)|戦艦ミズーリ号]]艦上で[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対する[[日本の降伏文書|降伏文書]]([[ポツダム宣言]])に調印。降伏文書は調印と同時に発効し、第二次世界大戦が終結<ref>{{Cite web |url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001530016_00000 |title=9月2日、降伏文書調印 |access-date=20 Nov 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]] アーカイブス}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://ussmissouri.org/jp/learn-the-history/surrender/general-macarthurs-radio-address |title=1945年9月2日 マッカーサー元帥のラジオでの演説 |access-date=20 Nov 2023 |publisher=戦艦ミズーリ保存会}}</ref>。([[対日戦勝記念日]])
* 1945年 - [[ホー・チ・ミン]]が[[ベトナム民主共和国]](北ベトナム)の日仏両国からの[[ベトナム独立宣言|独立を宣言]]。([[国慶節 (ベトナム)|国慶節]])
* 1945年 - 日本陸軍パラオ地区集団司令官、[[第14師団 (日本軍)|第14師団]]長[[井上貞衛]]陸軍中将が米[[護衛駆逐艦]][[アミック (護衛駆逐艦)|アミック]](後の[[海上自衛隊|海自]]艦[[あさひ型護衛艦 (初代)|あさひ]])上で米海兵隊ペリリュー島司令部への降伏文書に署名する。
* 1945年 - [[チューク諸島|トラック諸島]]の日本海軍[[第四艦隊 (日本海軍)#第四艦隊(三代目)|第四艦隊]]司令長官[[原忠一]]海軍中将と陸軍[[第31軍 (日本軍)|第31軍]]司令官[[麦倉俊三郎]]陸軍中将が米[[重巡洋艦]][[ポートランド (重巡洋艦)|ポートランド]]上で米海軍への降伏文書に署名する。
* 1945年 - [[パガン島]]の日本陸軍第31軍[[第71師団 (日本軍)#第5派遣隊|独立混成第9連隊]]長[[天羽馬八]]陸軍少将が米駆逐艦{{仮リンク|リンド (DD-404)|label=リンド|en|USS Rhind (DD-404)}}上で米海軍に対する降伏文書に署名し、独立混成第10連隊[[ロタ島]]守備隊長今川陸軍少佐が米護衛駆逐艦{{仮リンク|ヘイリガー (護衛駆逐艦)|label=ヘイリガー|en|USS Heyliger (DE-510)}}上で海兵隊グアム島部隊に対する降伏文書に署名する。
* 1945年 - [[第二次世界大戦]]・[[ビサヤ諸島の戦い#パナイ島|ビサヤ諸島の戦い]]: [[パナイ島]][[イロイロ州]]カバトゥアン町ティリンのカバツアン飛行場で日本陸軍[[第102師団]]歩兵第77旅団独立歩兵第170大隊長戸塚良一中佐が米{{仮リンク|第160歩兵連隊 (アメリカ軍)|label=第160歩兵連隊|en|160th_Infantry_Regiment (United_States)}}に対する降伏文書に署名する。終戦の日。
* 1945年 - [[ホー・チ・ミン]]が[[ベトナム民主共和国]]成立を宣言。
* [[1946年]] - [[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]により[[インド暫定政府]]<small>([[:en:Interim Government of India|英語版]])</small>が発足。
* [[1947年]] - [[米州相互援助条約]]が署名される、発行は翌[[1948年]][[3月12日]]。
* [[1954年]] - [[アムステルダム]]で開催された[[国際数学者会議]]にて、[[小平邦彦]]が日本人初の[[フィールズ賞]]を受賞。
* [[1957年]] - [[ゴ・ディン・ジエム]]が外国の元首としては初めて公式に[[オーストラリア]]を訪れる。
* 1960年 - 中央チベット政権議会([[:en:Parliament of the Central Tibetan Administration|Parliament of the Central Tibetan Administration]])の議員を決める第1回選挙、同日中に開会が宣言される([[チベットの民主化]]<small>([[:fr:Démocratisation du Tibet en exil|フランス語版]])</small>)。
* [[1964年]] - [[競泳]]男子1500m[[自由形]]でアメリカの{{仮リンク|ロイ・サーリ|en|Roy Saari}}が16分58秒7を記録。人類史上初めて17分を切る。
* [[1967年]] - [[パディ・ロイ・ベーツ]]が[[サフォーク]]沖の海上要塞跡を占拠し、「[[シーランド公国]]」と称して[[独立]]宣言。
* [[1968年]] - [[ビアフラ戦争|ナイジェリア内戦]]のOAU作戦([[:en:Operation OAU|Operation OAU]])が開始。
* [[1970年]] - [[アポロ15号]]・19号の計画が中止([[:en:Canceled Apollo missions|Canceled Apollo missions]])になる。しかし15号はのち復活し翌年月への飛行を行った。
* [[1972年]] - 時代劇「[[必殺シリーズ]]」の第1作『[[必殺仕掛人]]』が放映開始。
* [[1975年]] - [[松生丸事件]]。[[黄海]]北部で操業中の日本漁船が北朝鮮の銃撃を受け、2人が死亡し、北朝鮮に連行される。
* [[1978年]] - [[カナダ]]の[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]で遊覧飛行中の水上機が海中に墜落。[[新婚旅行]]で現地を訪れていた日本人観光客ら9人が死亡<ref>チャーター遊覧 一瞬の悲劇 新婚旅行の三組犠牲『朝日新聞』1978年(昭和53年)9月4日朝刊、13版、23面</ref>。
* [[1982年]] - [[日本国有鉄道|国鉄]]が[[宮崎県]][[日向市]]の[[リニア実験線]]で開発中の[[磁気浮上式鉄道|磁気浮上式リニアモーターカー]]が、世界初の有人走行に成功<ref>{{Cite web |url=https://gendai.media/articles/-/55406?page=1&imp=0 |title=9月 2日 リニアモーターカー世界初の有人浮上走行(1982年) |access-date=20 Nov 2023 |publisher=[[講談社]] |website=ブルーバックス サイエンス365days |date=2 Sep 2018}}</ref>。
* [[1987年]] - [[マチアス・ルスト]]が[[フィンランド]]の[[ヘルシンキ]]から[[ソビエト連邦]]の[[モスクワ]]まで小型飛行機を操縦し、[[赤の広場]]に着陸した事件の裁判が始まる。
* [[1990年]] - [[沿ドニエストル共和国|沿ドニエストル共和国(トランスニストリア)]]が[[モルドバ]]からの分離独立を宣言。
* 1990年 - [[児童の権利に関する条約]]が発効。
* [[1991年]] - [[アメリカ合衆国]]が[[バルト三国]]の独立を[[国家の承認|承認]]<ref>{{Cite web |url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1991/09/03/bush-after-delay-grants-baltic-states-formal-recognition/e3a188f8-3d43-4da2-80a0-6311995210cd/ |title=BUSH, AFTER DELAY, GRANTS BALTIC STATES FORMAL RECOGNITION |access-date=20 Nov 2023 |publisher=The Washington Post |date=3 Sep 1991}}</ref>。
* 1991年 - [[ナゴルノ・カラバフ]]が「[[アルツァフ共和国]]」としてアゼルバイジャンからの[[国家の独立|独立]]を宣言。しかし[[国家の承認]]は得られていない。
* [[1992年]] - [[ニカラグア]]で[[マグニチュード]]7.7の地震、津波により約180人が死亡。
* [[1996年]] - [[フィリピン]]政府と[[モロ民族解放戦線]]が和平協定を結ぶ<ref>{{Cite web |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/08/di_0902.html |title=フィリピン政府とモロ民族解放戦線(MNLF)の和平合意署名について |access-date=20 Nov 2023 |publisher=[[外務省]] |website=池田外務大臣談話 |date=2 Sep 1996}}</ref>。
* [[1998年]] - [[スイス航空111便墜落事故]]。
* [[1999年]] - 日本で低用量[[経口避妊薬|ピル]]の発売を開始。
* [[2002年]] - 軽自動車の[[字光式ナンバー]]の払い出しが一部地域(品川、練馬、足立、八王子、多摩、横浜、川崎、相模、湘南、大宮、春日部、熊谷、所沢、群馬、千葉、習志野、野田、袖ヶ浦、水戸、土浦、宇都宮、とちぎ、新潟、長岡、山梨、名古屋、尾張小牧、三河、豊橋、静岡、沼津、浜松、岐阜、飛騨、三重、福井、なにわ、大阪、和泉、京都、神戸、姫路、奈良、滋賀、和歌山、広島、福山、鳥取、島根、岡山、山口ナンバー)で始まる。
* [[2006年]] - 元[[豪華客船]]「[[スカンジナビア (客船)|ステラ・ポラリス号]]」が[[潮岬]]沖にて沈没。
* [[2008年]] - [[大相撲力士大麻問題]]に伴う抜き打ちの尿検査にて、ロシア出身の兄弟力士[[露鵬幸生|露鵬]]と[[白露山佑太|白露山]]に[[大麻]]吸引の陽性反応が出る。
* [[2010年]] - [[2010年イスラエル・パレスチナ和平交渉|2010年のイスラエルとパレスチナの和平交渉]]<small>([[:en:2010–11 Israeli–Palestinian peace talks|英語版]])</small>が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]によって開始される。
* [[2011年]] - 日本で[[野田佳彦]]が第95代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[野田内閣]]が発足。
* [[2012年]] - [[六本木クラブ襲撃事件]]。
* [[2013年]] - 電話事業会社の[[ボーダフォン]]がアメリカの[[ベライゾン・ワイヤレス]]の自社保有分、45%の株式を、総額1300億ドルで、電気通信事業者の[[ベライゾン・コミュニケーションズ]]に売却することで、同社と合意したと発表。
* [[2018年]] - [[ブラジル国立博物館]]で火災が発生し、収蔵物が全焼<ref>{{Cite web |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3188201 |title=ブラジル国立博物館で火災、国宝など2千万点収蔵 「200年の成果」焼失か |access-date=20 Nov 2023 |publisher=[[フランス通信社|AFP]] BB News |date=3 Sep 2018}}</ref>。
* [[2019年]] - [[ディズニーランド・パリ]]にあった[[ロックンローラー・コースター]]が閉鎖、[[ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート]]のもののみが現存するように。
* [[2020年]] - [[鹿児島県]][[奄美大島]]沖で[[ニュージーランド]]から[[中国]]へ向かう貨物船が台風接近に伴う波浪の中、救難信号を出した後に沈没。乗員1人救出、43人が行方不明<ref>{{Cite web|和書 |date=3 Sep 2020 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3302767?cx_part=logly |title=奄美沖で遭難の貨物船、沈没か 43人乗船、牛6千頭輸送中 |publisher=[[フランス通信社|AFP]] BB News |accessdate=20 Nov 2023}}</ref>。
* [[2022年]] - 2019年4月、東京東池袋で、暴走した乗用車で8人の通行人を引き倒した事故で、自動車運転死傷処罰法違反の罪に問われた旧通産省工業技術院元院長に対し、東京地裁が禁錮5年の実刑判決を下す。検察、弁護側ともに控訴せず[[9月17日]]に刑が確定<ref>{{Cite web |url=https://bunshun.jp/articles/-/53659 |title=〈事故から3年〉“池袋暴走”飯塚幸三受刑者90歳に起きたこと 街宣車、脅迫状、爆破予告… |access-date=20 Nov 2023 |publisher=[[文藝春秋]] |website=文春オンライン |date=19 Apr 2022}}</ref>。
* [[2023年]] - インドが初の太陽観測衛星の打ち上げに成功<ref>{{Cite web |url=https://www.sankei.com/article/20230902-2GKD6ECYDNKYTAO2WT7D5EY4YM/ |title=太陽観測衛星を打ち上げ成功 インド初、宇宙計画加速 |access-date=20 Nov 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=2 Sep 2023}}</ref>。
=== 予定 ===
* [[2035年]] - [[アジア]]、[[太平洋]]を中心に[[日食]]が発生。皆既日食も観測され、日本では[[北信越地方|北信越]]から[[北関東]]にかけての地域が皆既帯に含まれる。詳しくは[[2035年9月2日の日食]]を参照。
== 誕生日 ==
[[ファイル:Liliuokalani.jpg|thumb|231x231px|ハワイ王国最後の女王、[[リリウオカラニ]](1838-1917)誕生。『[[アロハ・オエ]]』の作曲者でもある]]
{{multiple image
| caption1 = 小説家[[ジョヴァンニ・ヴェルガ]](1840-1922)
| image1 = Giovanni-Verga.jpg
| width1 = 90
| alt1 = ジョヴァンニ・ヴェルガ
| image2 = An_Jung-geun.JPG
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| caption2 = 朝鮮の独立運動家[[安重根]](1879-1910)誕生。[[伊藤博文]]を暗殺。
| alt2 = 安重根
}}
[[ファイル:Wilhelm Ostwald.jpg|198x198px|thumb|化学者[[ヴィルヘルム・オストヴァルト]](1853-1932)。平衡・反応論を研究]]
[[ファイル:Horace_Silver_by_Dmitri_Savitski_1989.jpg|thumb|180x180px|[[ジャズピアノ|ジャズ・ピアニスト]]、[[ホレス・シルバー]](1928-)]]
* [[1251年]] - [[フランシス・オブ・ファブリアーノ]]<small>([[:en:Francis of Fabriano|英語版]])</small>、作家(+ [[1322年]])
* [[1516年]] - [[フランソワ1世 (ヌヴェール公)|フランソワ1世]]、[[ヌヴェール家|ヌヴェール公]](+ [[1561年]])
* [[1548年]] - [[ヴィンチェンツォ・スカモッツィ]]、[[建築家]](+ [[1616年]])
* [[1661年]] - [[ゲオルク・ベーム]]、[[オルガニスト]](+ [[1733年]])
* [[1675年]] - [[ウィリアム・サマーヴィル]]<small>([[:en:William Somervile|英語版]])、[[詩人]]</small>(+ [[1742年]])
* [[1722年]] - [[ウィギリウス・エリクセン]]、[[画家]](+ [[1782年]])
* [[1753年]] - [[マリー・ジョゼフィーヌ・ド・サヴォワ]]、[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]の妻(ルイの即位前に死したため王妃ではない)(+ [[1810年]])
* [[1758年]]([[宝暦]]8年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[加藤明陳]]、第5代[[水口藩|水口藩主]](+ [[1808年]])
* [[1768年]]([[明和]]5年[[7月22日 (旧暦)|7月22日]]) - [[西尾忠善]]、第5代[[横須賀藩|横須賀藩主]](+ [[1831年]])
* [[1773年]] - [[ルイ・オーギュスト・ヴィクター・ド・ガイスネ・ド・ブルモン]]<small>([[:fr:Louis Auguste Victor de Ghaisne de Bourmont)|フランス語版]])</small>、軍人(+ [[1846年]])
* [[1778年]] - [[ルイ・ボナパルト]]<ref>{{Cite web |title=Louis Bonaparte {{!}} king of Holland |url=https://www.britannica.com/biography/Louis-Bonaparte-king-of-Holland |website=Britannica |access-date=20 Nov 2023}}</ref>、[[ホラント王国|ホラント王]](+ [[1846年]])
* [[1793年]]([[寛政]]5年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) - [[松平定則]]、第10代[[伊予松山藩|伊予松山藩主]](+ [[1809年]])
* [[1805年]] - [[エステバン・エチェヴェリア]]<small>([[:en:Esteban Echeverría|英語版]])</small>、詩人(+ [[1851年]])
* [[1810年]] - [[ライサンダー・バトン]]<small>([[:en:Lysander Button|英語版]])</small>、[[工学者]](+ [[1897年]])
* [[1814年]] - [[エルンスト・クルティウス]]<small>([[:en:Ernst Curtius|英語版]])</small>、[[考古学者]]、[[歴史家]](+ [[1896年]])
* [[1820年]]([[文政]]3年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]) - [[池田斉訓]]、第9代[[鳥取藩|鳥取藩主]](+ [[1840年]])
* [[1830年]] - [[ウィリアム・P・フライ]]<small>([[:en:William P. Frye|英語版]])</small>、[[政治家]](+ [[1911年]])
* [[1838年]] - [[リリウオカラニ]]、[[ハワイ王国|ハワイ]]最後の国王(+ [[1917年]])
* [[1839年]] - [[ヘンリー・ジョージ]]、[[作家]]、[[政治経済学者]]、政治家(+ [[1897年]])
* [[1840年]] - [[クレー・アリソン]]、[[西部開拓時代]]の[[アウトロー]](+ [[1887年]])
* 1840年 - [[ジョヴァンニ・ヴェルガ]]、小説家(+ [[1922年]])
* [[1850年]] - [[アルバート・スポルディング]]、元プロ野球選手(+ [[1915年]])
* 1850年 - [[ユージン・フィールド]]<small>([[:en:Eugene Field|英語版]])</small>、作家(+ [[1895年]])
* 1850年 - [[ヴォルデマール・フォークト]]、[[物理学者]](+ [[1919年]])
* [[1852年]] - [[ポール・ブールジェ]]、作家・[[批評家]](+ [[1935年]])
* [[1853年]] - [[ヴィルヘルム・オストヴァルト]]、[[化学者]](+ [[1932年]])
* [[1857年]] - [[ポール・ハーヴュー]]<small>([[:fr:Paul Hervieu|フランス語版]])</small>、作家(+ [[1915年]])
* [[1865年]] - [[シメオン・オラ]]<small>([[:en:Simeón Ola)、軍人(+|英語版]])</small>、軍人(+ [[1952年]])
* [[1870年]]([[明治]]3年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]) - [[笹川臨風]]、[[歴史家]]、美術[[評論家]](+ [[1949年]])
* [[1871年]](明治4年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]) - [[川上貞奴]]、女優(+ [[1946年]])
* [[1877年]] - [[フレデリック・ソディ]]、化学者(+ [[1956年]])
* [[1878年]] - [[モーリス・ルネ・フレシェ]]、数学者(+ [[1973年]])
* 1878年 - [[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]、軍人、[[第三帝国]]の国防大臣(+ [[1946年]])
* [[1879年]] - [[安重根]]、[[テロリスト]]、[[殺人者]]、朝鮮独立運動家、[[伊藤博文]]の暗殺者(+ [[1910年]])
* [[1882年]] - [[ハーレン・ブレッツ]]<small>([[:en:J Harlen Bretz)|英語版]])</small>、[[地質学者]](+ [[1981年]])
* [[1883年]] - [[エリーザベト・マリー・ペツネック]]、[[ハプスブルク家]]の大公女(+ [[1963年]])
* 1883年 - [[ルドルフ・ステファン・ヤン・ヴァイグル]]<small>([[:fr:Rudolf Weigl|フランス語版]])</small>、生物学者(+ [[1957年]])
* [[1889年]] - [[土倉宗明]]、政治家(+ [[1972年]])
* [[1892年]] - [[デジェー・ケルテス]]<small>([[:en:Dezső Kertész|英語版]])</small>、俳優(+ [[1965年]])
* [[1893年]] - [[太田功平]]、[[農学者]]・教育者(+ [[1930年]])
* [[1897年]] - [[ファズロッラー・ザーヘディー]]<small>([[:en:Fazlollah Zahedi|英語版]])</small>、[[イランの首相の一覧|イラン首相]](+ 1963年)
* [[1899年]] - [[ハンス・ジェイコブ・ニールセン]]、[[ボクサー (スポーツ)|ボクサー]](+ [[1967年]])
* [[1901年]] - [[アンドレアス・エンビリコス]]<small>([[:en:Andreas Embirikos|英語版]])</small>、[[精神分析医]](+ [[1975年]])
* 1901年 - [[アドルフ・ラップ]]<small>([[:en:Adolph Rupp|英語版]])</small>、[[バスケットボール選手一覧|バスケットボール選手]](+ [[1977年]])
* [[1904年]] - [[アウグスト・ヤコブソン]]<small>([[:en:August Jakobson|英語版]])</small>、作家(+ [[1963年]])
* [[1910年]] - [[ポール・サーグパック]]<small>([[:en:Paul Saagpakk|英語版]]、[[:et:Paul Saagpakk|エストニア語版]])</small>、言語学者(+ [[1996年]])
* 1910年 - [[ドナルド・ワトソン]]<small>([[:en:Donald Watson|英語版]])</small>、ヴィーガン協会を設立した活動家(+ [[2005年]])
* [[1911年]] - [[ロメール・ベアデン]]<small>([[:en:Romare Bearden|英語版]])</small>、画家(+ [[1988年]])
* [[1913年]] - [[イズライル・ゲルファント]]、数学者(+ [[2009年]])
* 1913年 - [[ビル・シャンクリー]]、[[サッカー選手]]、指導者(+ [[1981年]])
* [[1914年]] - [[ジャン・ピクテ]]<small>([[:en:Jean Pictet|英語版]])</small>、弁護士(+ [[2002年]])
* [[1917年]] - [[ローリンド・アルメイダ]]、ギタリスト(+ [[1995年]])
* 1917年 - [[阿部重四郎]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1918年]] - [[アレン・ドルーリー]]<small>([[:en:Allen Drury|英語版]])</small>、[[ジャーナリスト]]、[[作家]](+ [[1998年]])
* [[1919年]] - [[マージ・チャンピオン]]<small>([[:en:Marge Champion|英語版]])</small>、[[俳優#性別での分類|女優]](+ [[2020年]])
* 1919年 - [[ランス・マックリン]]<small>([[:en:Lance Macklin|英語版]])</small>、[[レーシングドライバー]](+ [[2002年]])
* 1919年 - [[綱島新八]]、元プロ野球選手(+ [[1997年]])
* [[1922年]] - [[アーサー・アシュキン]]、物理学者(+ [[2020年]])
* [[1923年]] - [[ルネ・トム]]、[[数学者]](+ [[2002年]])
* 1923年 - [[ラモン・バルデス]]、俳優・[[コメディアン]]・作曲家(+ [[1988年]])
* 1923年 - [[ワレリアン・ボロズウィック]]、[[映画監督]](+ [[2006年]])
* [[1924年]] - [[ダニエル・アラップ・モイ]]、政治家、第2代[[ケニアの大統領|ケニア大統領]](+ [[2020年]])
* [[1925年]] - [[ヒューゴ・モンテネグロ]]<small>([[:en:Hugo Montenegro|英語版]])</small>、作曲家(+ [[1981年]])
* [[1927年]] - [[フランシス・マシューズ]]<small>([[:en:Francis Matthews (actor))|英語版]])</small>、俳優(+ [[2014年]])
* [[1928年]] - [[ホレス・シルバー|ホレス・シルヴァー]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](+ [[2014年]])
* 1928年 - [[メル・スチュアート]]<small>([[:en:Mel Stuart|英語版]])</small>、映画監督(+ [[2012年]])
* 1929年 - [[ハル・アシュビー]]、映画監督(+ [[1988年]])
* 1929年 - [[レックス・ハートウィグ]]<small>([[:en:Rex Hartwig)|英語版]])</small>、[[テニス選手一覧|テニス選手]]
* 1929年 - [[ヴィクター・スピネッティ]]<small>([[:en:Victor Spinetti|英語版]])</small>、俳優(+ 2012年)
* [[1930年]] - [[アンドレイ・ペトロフ]]、[[作曲家]](+ [[2006年]])
* [[1931年]] - [[クリフォード・ジョーダン]]、[[ジャズ]]・[[サクソフォーン|サクソフォニスト]](+ [[1993年]])
* 1931年 - [[アラン・K・シンプソン]]<small>([[:en:Alan Simpson (American politician))|英語版]])</small>、政治家
* 1932年 - [[ウォルター・デイヴィス・ジュニア]]、ジャズ[[ピアニスト]](+ [[1990年]])
* [[1933年]] - [[マチュー・ケレク]]、[[ベナン人民共和国]]・[[ベナン共和国]]初代・第3代[[ベナンの大統領|大統領]](+ [[2015年]])
* [[1934年]] - [[チャック・マッキャン]]<small>([[:en:Chuck McCann)|英語版]])</small>、俳優(+ [[2018年]])
* [[1935年]] - [[ウェイン・ルーカス]]、[[調教師]]
* [[1936年]] - [[アンドルー・グローヴ]]、[[実業家]](+ [[2016年]])
* 1936年 - [[カレル・クライツァル]]<small>([[:sl:Karel Krajcar|スロベニア語版]]、[[:en:Károly Krajczár|英語版]])</small>、作家(+ 2018年)
* [[1937年]] - [[阿南準郎]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]]
* 1937年 - [[ピーター・ユベロス]]、MLB[[コミッショナー]]
* [[1938年]] - [[なかにし礼]]、[[小説家]]、[[作詞家]] (+ [[2020年]])
* 1938年 - [[ジュリアーノ・ジェンマ]]、[[俳優]](+ [[2013年]])
* 1938年 - [[三浦清弘]]、元プロ野球選手(+ [[2016年]]<ref>{{Cite web |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/03/27/kiji/K20160327012297220.html |title=三浦清弘氏死去 杉浦忠氏らと南海黄金期の投手陣を支える |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=27 Mar 2016 |accessdate=20 Nov 2023 |website=Sponichi Annex}}</ref>)
*1938年 - [[ジミー・クラントン]]<small>([[:en:Jimmy Clanton|英語版]])</small>、シンガーソングライター
* [[1939年]] - [[イヴァー・ヤコブソン]]、[[コンピュータ科学]]者
* [[1940年]] - [[鈴原研一郎]]、[[漫画家]](+ [[2008年]])
* [[1941年]] - [[サダナ・シヴダサニ]]<small>([[:en:Sadhana Shivdasani)|英語版]])</small>、女優(+ [[2015年]])
* 1941年 - [[ジョン・R・トンプソン・ジュニア]]<small>([[:en:John Thompson (basketball))|英語版]])</small>、[[バスケットボール選手一覧|バスケ選手]](+ 2020年)
* [[1943年]] - [[是久幸彦]]、元プロ野球選手
* 1943年 - [[グレン・サザー]]<small>([[:en:Glen Sather)|英語版]])</small>、アイスホッケー選手
* [[1944年]] - [[ジャネット・シンプソン]]、[[陸上競技選手]]
* 1944年 - [[クロード・ニコリエ]]、[[宇宙飛行士]]
* 1944年 - [[オーランド・マルティネス]]<small>([[:en:Orlando Martínez|英語版]])</small>、[[ボクサー (スポーツ)|ボクサー]]
* [[1945年]] - [[佐々木精一郎]]、元[[陸上競技]]選手
* [[1946年]] - [[ルイス・アヴァロス]]、俳優
* 1946年 - [[ビリー・プレストン]]、[[音楽家|ミュージシャン]]
* 1946年 - [[ダン・ホワイト (暗殺者)|ダン・ホワイト]]<small>([[:en:Dan White|英語版]])</small>、暗殺者(+ [[1985年]])
* [[1947年]] - [[中原誠]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]、元[[日本将棋連盟]]会長
* 1947年 - [[矢崎滋]]、俳優
* 1947年 - [[ジム・リチャーズ (レーサー)|ジム・リチャーズ]]、[[レーシングドライバー]]
* [[1948年]] - [[テリー・ブラッドショー]]、元[[アメリカンフットボール]]選手
* 1948年 - [[ネイト・アーチボルド]]、バスケットボール選手
* 1948年 - [[クリスタ・マコーリフ]]、[[チャレンジャー号爆発事故]]で死亡した7人の乗組員のうちの1人(+ [[1986年]])
* [[1949年]] - [[東新昇]]、元プロ野球選手
* 1949年 - [[ハンス・ヘルマン・ホッペ]]<small>([[:en:Hans-Hermann Hoppe|英語版]])</small>、経済学者
* [[1950年]] - [[小池裕美子 (アナウンサー)|小池裕美子]]、元アナウンサー
* 1950年 - [[ロザンナ・デソト]]<small>([[:en:Rosanna DeSoto|英語版]])</small>、女優
* 1950年 - [[ミヒャエル・ローター]]、音楽家
* [[1951年]] - [[いしいひさいち]]、[[漫画家]]
* 1951年 - [[関東孝雄]]、元プロ野球選手
* 1951年 - [[堀切功章]]、実業家、[[キッコーマン]]社長
* 1951年 - [[ジム・デミント]]、政治家、[[ヘリテージ財団]]所長
* 1951年 - [[マーク・ハーモン]]、俳優
* [[1952年]] - [[よこざわけい子]]、[[声優]]
* 1952年 - [[ジミー・コナーズ]]、元プロテニス選手
* 1952年 - [[ミハイル・ロットマン]]<small>([[:en:Mihhail Lotman|英語版]])</small>、言語学者
* [[1953年]] - [[アフマド・シャー・マスード]]、[[アフガニスタン・イスラム国]]国防大臣、[[北部同盟 (アフガニスタン)|アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線]](北部同盟)副大統領
* 1953年 - [[ダニー・グッドウィン]]、元プロ野球選手
* 1953年 - [[ジョン・ゾーン]]、サックス奏者
* 1953年 - [[ゲルハルト・ティーレ]]<small>([[:en:Gerhard Thiele|英語版]])</small>、宇宙飛行士
* 1953年 - [[松田光保]]、元プロ野球選手
* 1953年 - [[林忠良]]、元プロ野球審判員
* [[1954年]] - [[三善英史]]、[[演歌歌手]]
* 1954年 - [[瀬戸利一]]、[[空手家]]、[[歯科医師]]
* [[1955年]] - [[山倉和博]]、元プロ野球選手
* 1955年 - [[フロレンツァ・ミハイ]]、テニス選手(+ [[2015年]])
* [[1956年]] - [[廣野眞一]]、実業家、[[集英社]]社長
* [[1957年]] - [[トニー・アルヴァ]]<small>([[:en:Tony Alva|英語版]])</small>、ミュージシャン、[[スケートボーダー]]
* 1957年 - [[スティーヴ・ポーカロ]]、ミュージシャン
* 1957年 - [[柴田秀一]]、元アナウンサー
* 1957年 - [[増田恵子]]、タレント(元[[ピンクレディー]])
* [[1959年]] - [[日山正明]]、[[ドラマー]](元[[カシオペア (バンド)|カシオペア]])
* 1959年 - [[ギー・ラリベルテ]]、「[[シルク・ドゥ・ソレイユ]]」の創設者
* 1959年 - [[中島哲也]]、[[映画監督]]
* [[1960年]] - [[レックス・ハドラー]]、元プロ野球選手
* 1960年 - [[松田浩]]、元[[サッカー選手]]、[[サッカー]]指導者
* 1960年 - [[エリック・ディッカーソン]]、アメリカンフットボール選手
* 1960年 - [[クリスティン・ハルヴォルセン]]、政治家、[[社会主義左翼党 (ノルウェー)|社会主義左翼党]][[党首]]([[1997年]] - )
* [[1961年]] - [[原哲夫]]、漫画家
* 1961年 - [[アンソニー・ウォン (香港俳優)|アンソニー・ウォン]]、俳優
* 1961年 - [[ジェフ・ラッセル]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[勝矢寿延]]、元サッカー選手、サッカー指導者
* 1961年 - [[カルロス・バルデラマ]]、元サッカー選手
* 1961年 - [[七戸康博]]、空手家
* [[1962年]] - [[水戸泉政人]]、元[[大相撲]][[力士]]、[[年寄]]10代[[錦戸 (相撲)|錦戸]]
* 1962年 - [[プラッチャヤー・ピンゲーオ]]、映画監督
* 1962年 - [[ジョニー・パリデス]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[和田豊]]、元プロ野球選手、監督
* [[1964年]] - [[キアヌ・リーブス]]、俳優
* 1964年 - [[ピストン西沢]]、[[ラジオパーソナリティー]]
* 1964年 - [[田嶋智太郎]]、[[経済評論家]]
* 1964年 - [[太田愛]]、[[脚本家]]、小説家
* [[1965年]] - [[レノックス・ルイス]]、元[[プロボクサー]]
* 1965年 - [[横谷総一]]、元プロ野球選手
* 1965年 - [[林修]]、予備校講師
* [[1966年]] - [[早見優]]、[[タレント]]
* [[1967年]] - [[早瀬優香子]]、元女優、元[[歌手]]
* [[1968年]] - [[緒方耕一]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[相原隆行]]、作曲家
* [[1969年]] - [[横山めぐみ]]、女優
* 1969年 - [[髙村祐]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[永田寿康]]、元[[衆議院議員]](+ [[2009年]])
* [[1970年]] - [[安藤真児]]、元プロ野球選手
* [[1971年]] - [[細川ふみえ]]、タレント、女優
* 1971年 - [[リッチ・オーリリア]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[高橋良明]]、俳優、歌手(+ [[1989年]])
* [[1973年]] - [[早坂隆]]、[[ルポライター]]
* [[1974年]] - [[国分太一]]、ミュージシャン、アイドル([[TOKIO]])
* 1974年 - [[永野 (お笑い芸人)|永野]]、お笑い芸人
* [[1979年]] - [[大脇浩二]]、元プロ野球選手
* [[1980年]] - [[吉本大樹]]、レーサー、ミュージシャン([[doa (バンド)|doa]])
* 1980年 - [[堀田ゆい夏]]、[[グラビアアイドル]]、タレント
* [[1981年]] - [[木内晶子]]、女優
* 1981年 - [[栗原瞳]]、女優
* 1981年 - [[粟島瑞丸]]、俳優、[[脚本家]]
* 1981年 - [[石川央]]、アイスホッケー選手
* [[1982年]] - [[仁科克基]]、俳優
* 1982年 - [[クセニヤ・ヤストシェニスキー]]、フィギュアスケート選手
* 1982年 - [[下村愛]]、女優、元[[AV女優]]
* [[1983年]] - [[佐藤亮太 (野球)|佐藤亮太]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[松崎克俊]]、お笑い芸人(元[[やさしい雨 (お笑いコンビ)|やさしい雨]])
* 1983年 - [[ギャビー・サンチェス]]、プロ野球選手
* 1983年 - [[大浜岳]]、プロ雀士
* [[1985年]] - [[石原優子]]、[[ローカルアイドル]]([[サンフラワー (アイドルグループ)|サンフラワー]])
* 1985年 - [[小瀬浩之]]、プロ野球選手(+ [[2010年]])
* [[1986年]] - [[帯広さやか]]、[[プロレスラー]]、元[[19時女子プロレス]]代表
* 1986年 - [[今市隆二]]、歌手([[三代目J Soul Brothers]])
* [[1987年]] - [[柳田将利]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[スコット・モイア]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1987年 - [[海田智行]]、元プロ野球選手
* [[1988年]] - [[塚原佳代子]]、元バレーボール選手
* 1988年 - [[加藤慶祐]]、元俳優
* 1988年 - [[福泉敬大]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[ドミトリ・オフチャロフ]]、卓球選手
* [[1989年]] - [[田原誠次]]、元プロ野球選手
* 1989年 - [[アレシャンドレ・パト]]、サッカー選手
* 1989年 - [[ゼッド (音楽家)|ゼッド]]、[[DJ]]、[[音楽プロデューサー]]
* [[1990年]] - [[丸橋祐介]]、サッカー選手
* 1990年 - [[曵地裕哉]]、サッカー選手
* 1990年 - [[平井桃子]]、元バレーボール選手
* 1990年 - [[シャルリーヌ・ファンスニック]]、柔道選手
* [[1991年]] - [[松山メアリ]]、女優、歌手(元[[bump.y]])
* [[1992年]] - [[須田琴子]]、元女優(元[[JK21]])
* 1992年 - [[ロナルド・トレイエズ]]、プロ野球選手
* 1992年 ‐ [[勢喜遊]]、ミュージシャン([[King Gnu]])
* [[1993年]] - [[木内江莉]]、元タレント
* 1993年 - [[藤村慶太]]、サッカー選手
* 1993年 - [[森川夕貴]]、[[テレビ朝日]]アナウンサー
* 1993年 - [[山﨑丈路]]、アメリカンフットボール選手
* [[1994年]] - [[飯田花歩]]、ファッションモデル
* 1994年 - [[キム・ヒチョン]]、歌手([[HALO (音楽グループ)|HALO]]、[[ORβIT]])
* [[1995年]] - [[鎌田宏夢]]、アナウンサー
* [[1996年]] - [[佐野皓大]]、プロ野球選手
* [[1998年]] - [[やす子]]、お笑いタレント
* 1998年 - [[佐野如一]]、プロ野球選手
* [[1999年]] - [[渡部遼人]]、プロ野球選手
* [[2000年]] - [[八掛うみ]]、AV女優、[[YouTuber]]
* 2000年 - [[七嶋舞]]、AV女優
* 2000年 - [[松井奏]]、俳優、歌手([[IMP.]]、元[[ジャニーズJr.解散グループ (2000年以降)|IMPACTors]])
* [[2001年]] - [[髙橋藍]]、バレーボール選手
* 2001年 - [[荒木彩花]]、バレーボール選手
* [[2004年]] - 峯吉愛梨沙、アイドル([[STU48]])
* 2004年 - [[イヒネ・イツア]]、プロ野球選手
* [[2005年]] - [[雨宮未苺]]、モデル、タレント
* [[2009年]] - [[山口太幹]]、俳優
* 生年不明 - [[有森聡美]]、[[作詞家]]
* 生年不明 - [[美郷あき]]、歌手
* 生年不明 - [[ゆきうさぎ (イラストレーター)|ゆきうさぎ]]、[[イラストレーター]]
* 生年不明 - [[いしだまお]]、声優
* 生年不明 - [[高木達也]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://sigma7.co.jp/actors/takagi_tatsuya |title=高木 達也 |accessdate=20 Nov 2023 |publisher=[[シグマ・セブン|株式会社シグマ・セブン]]}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[竹尾歩美]]、声優
{{-}}
== 忌日 ==
{{multiple image
| image1 = Taira_Shigemori.jpg
| width1 = 90
| caption1 = 武将・公卿[[平重盛]](1138-1179)没
| alt1 = 平重盛
| image2 = La_mort_du_g%C3%A9n%C3%A9ral_Moreau-Auguste_Couder_mg_8221.jpg
| width2 = 90
| caption2 = フランスの軍人[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー]](1763-1813)戦没
| alt2 = ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー
}}
{{multiple image
| image1 = Emperor_Jiaqing.jpg
| width1 = 90
| caption1 = [[清]]の第7代皇帝[[嘉慶帝]](1760-1820)
| alt1 = 嘉慶帝
| image2 = Kazunomiya.jpg
| width2 = 90
| caption2 = [[和宮親子内親王]](1846-1877)没
| alt2 = 和宮親子内親王
}}
{{multiple image
| footer = 画家[[カレル・ヴァン・マンデル]](1548-1606)没。右画像は『愛の園』(1602)
| image1 = Karel-van-mander-schilderboeck.JPG
| width1 = 60
| alt1 = カレル・ヴァン・マンデル
| image2 = Karek_van_Manden_Garden_of_Love.jpg
| width2 = 120
| alt2 = 『愛の園』
}}
{{multiple image
| image1 = WilliamRowanHamilton.jpeg
| width1 = 90
| caption1 = 数学者・物理学者[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]](1805-1865)没
| alt1 = ウィリアム・ローワン・ハミルトン
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| image2 = Kuga_Katsunan.jpg
| caption2 = ジャーナリスト[[陸羯南]](1857-1907)没
| alt2 = 陸羯南
}}
{{multiple image
| footer = [[素朴派]]の画家、[[アンリ・ルソー]](1844-1910)没。右画像は『眠るジプシー女』(1897)
| image1 = Henri_Rousseau_-_Self-portrait_of_the_Artist_with_a_Lamp.jpg
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| alt1 = アンリ・ルソー
| image2 = Henri_Rousseau_010.jpg
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| alt2 = 眠るジプシー女
}}
{{multiple image
| image1 = Okakura Kakuzo Portrait c1905.png
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| caption1 = 美術家[[岡倉天心]](1863-1913)没
| alt1 = 岡倉天心
| width2 = 90
| image2 = Tolkiengrab.jpg
| caption2 = 作家[[J・R・R・トールキン]](1892-1973)没。画像は英国オックスフォードのWolvercote墓地。
| alt2 = J・R・R・トールキン墓地。
}}
*[[421年]] - [[コンスタンティウス3世]]、[[西ローマ帝国]]の[[皇帝]]
*[[1179年]]([[治承]]3年[[閏]][[7月29日 (旧暦)|7月29日]]) - [[平重盛]]、[[平安時代]]の[[武将]]、[[公卿]](* [[1138年]])
*[[1397年]] - [[フランチェスコ・ランディーニ]]、[[作曲家]](* [[1325年]]?)
*[[1559年]]([[永禄]]2年8月1日) - [[結城政勝]]、[[下総国]]の[[戦国大名]](* [[1503年]])
*[[1566年]] - [[タッデオ・ツッカリ]]、[[画家]](* [[1529年]])
*[[1606年]] - [[カレル・ヴァン・マンデル]]、画家(* [[1548年]])
*[[1610年]]([[慶長]]15年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[大友義統]]、[[豊後国]]の戦国大名(* [[1558年]])
*[[1784年]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィスコンティ]]、考古学者(* [[1722年]])
*[[1813年]] - [[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー]]、[[ナポレオン戦争]]期の軍人(* [[1763年]])
*[[1820年]]([[嘉慶 (清)|嘉慶]]25年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]) - [[嘉慶帝]]、第7代[[清]][[皇帝]](* [[1760年]])
*[[1832年]] - [[フランツ・フォン・ツァハ]]、[[天文学者]](* [[1754年]])
*[[1865年]] - [[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]、[[数学者]](* [[1805年]])
*[[1877年]] - [[和宮親子内親王]]、[[江戸幕府]]第14代将軍[[徳川家茂|家茂]]の正室(* [[1846年]])
*[[1894年]] - [[柳原前光]]、公卿、[[外交官]]、[[元老院 (日本)|元老院]]議長、[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]](* [[1850年]])
*[[1899年]] - [[アーネスト・レンショー]]、[[テニス]]選手(* [[1861年]])
*[[1907年]] - [[陸羯南]]、[[ジャーナリスト]](* [[1857年]])
*[[1910年]] - [[アンリ・ルソー]]、[[画家]](* [[1844年]])
*[[1913年]] - [[岡倉天心]]、美術評論家(* [[1862年]])
*[[1916年]] - [[小芝長之助]]、[[蝦夷共和国]]探索役主任(* [[1829年]])
*[[1920年]] - [[山口孤剣]]、[[評論家]](* [[1883年]])
*[[1923年]] - [[厨川白村]]、[[イギリス文学者]](* [[1880年]])
*[[1927年]] - [[梅ヶ谷藤太郎 (2代)]]、[[大相撲]]第20代[[横綱]](* [[1878年]])
*[[1937年]] - [[ピエール・ド・クーベルタン]]、[[近代オリンピック]]創始者(* [[1863年]])
*[[1940年]] - [[デイヴィッド・ヒューストン]]、[[アメリカ合衆国財務長官]](* [[1866年]])
*[[1944年]] - [[高須四郎]]、[[大日本帝国海軍]]の[[大将]](* [[1884年]])
*[[1949年]] - [[東浦庄治]]、参議院議員(* [[1898年]])
*[[1953年]] - [[ジョナサン・ウェインライト]]、[[アメリカ陸軍]]の大将(* [[1883年]])
*[[1956年]] - [[岡田武松]]、[[気象学者]](* [[1874年]])
*[[1967年]] - [[ビルホ・ツーロス]]、[[陸上競技]]選手(* [[1895年]])
*[[1969年]] - [[ホー・チ・ミン]]、[[ベトナム社会主義共和国主席|ベトナム初代主席]](* [[1890年]])
*[[1973年]] - [[J・R・R・トールキン]]、[[小説家]]、言語学者(* [[1892年]])
*[[1977年]] - [[信夫山治貞]]、大相撲[[力士]]、元[[関脇]](* [[1925年]])
*[[1978年]] - [[チャールズ・ブレア]]、[[パイロット (航空)|パイロット]](* [[1909年]])
*[[1992年]] - [[バーバラ・マクリントック]]、[[生物学者]](* [[1902年]])
*[[1995年]] - [[ヴァーツラフ・ノイマン]]、[[指揮者]](* [[1920年]])
*[[1996年]] - [[エミリー・カーメ・ウングワレー]]、画家(* [[1910年]]頃)
*[[1997年]] - [[福田一]]、第62代[[衆議院議長]](* [[1902年]])
*1997年 - [[ヴィクトール・フランクル]]、[[精神科医]]、[[心理学者]](* [[1905年]])
*[[1999年]] - 木村雅行、[[農学者]](* [[1940年]])
*[[2001年]] - [[クリスチャン・バーナード]]、[[医学者]](* [[1922年]])
*2001年 - [[木部佳昭]]、[[政治家]](* [[1926年]])
*2001年 - [[トロイ・ドナヒュー]]、[[俳優]](* [[1936年]])
*2001年 - [[毛綱毅曠]]、[[建築家]](* [[1941年]])
*[[2002年]] - [[内山安二]]、[[漫画家]](* [[1935年]])
*[[2004年]] - [[ボブ・O・エバンズ]]、[[技術者]]、[[工学者]](* [[1927年]])
*[[2005年]] - [[朝吹登水子]]、[[フランス文学者]]、[[随筆家]](* [[1917年]])
*[[2006年]] - [[ボブ・マサイアス]]、陸上競技選手(* [[1930年]])
*2006年 - [[デューイ・レッドマン]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン]]奏者(* [[1931年]])
*2006年 - [[ウィリー・ニンジャ]]、[[ダンサー]]、[[振付師]](* [[1961年]])
*2006年 - [[岩田ゆり]]、[[タレント]](* [[1981年]])
*[[2008年]] - [[トッド・クルーズ]]、元プロ野球選手(* [[1955年]])
*[[2009年]] - [[伊夫伎一雄]]、元[[三菱銀行]]頭取(* [[1920年]])
*[[2010年]] - [[ロバート・ウォルドーフ・ラブレス]]、[[ナイフ]]職人(* [[1929年]])
* 2010年 - [[坂東徹]]、政治家(* [[1925年]])
*[[2013年]] - [[ロナルド・コース]]、[[経済学者]](* [[1910年]])
*2013年 - [[フレデリック・ポール]]、[[SF作家]](* [[1919年]])
*2013年 - [[諸井誠]]、作曲家(* [[1930年]])
*[[2014年]] - [[上甲正典]]、高校野球指導者(* [[1947年]])
*[[2015年]] - [[斉藤瑞樹]]<ref>{{Twitter status|chattergang1|639801553038147584}}</ref>、声優(* [[1973年]])
*[[2016年]] - [[イスラム・カリモフ]]<ref>{{Cite web |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3099630 |title=カリモフ大統領死去、ウズベク政府が正式発表 |access-date=20 Nov 2023 |publisher=[[フランス通信社|AFP]] BB News |date=3 Sep 2016}}</ref>、政治家、[[ウズベキスタン]]初代[[大統領]](* [[1938年]])
*[[2018年]] - [[井出正一]]<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34889170S8A900C1CZ8000/ |title=井出正一氏が死去 元厚相 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=2 Sep 2018 |accessdate=20 Nov 2023}}</ref>、政治家、実業家(* [[1939年]])
*[[2019年]] - [[安部譲二]]<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi.com/articles/ASM983CXRM98UCLV001.html |title=作家の安部譲二さん死去 「塀の中の懲りない面々」 |access-date=20 Nov 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=8 Sep 2019}}</ref>、[[小説家]](* [[1937年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2022年]] - [[ゼンノロブロイ]]、[[競走馬]](* [[2000年]])
{{-}}
== 記念日・年中行事 ==
{{multiple image
| footer = [[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]の[[国慶節]]。[[ベトナム民主共和国]]の1945年の[[ベトナム独立宣言|独立宣言]]を記念。独立を宣言した初代国家主席[[ホー・チ・ミン]]は国慶節の日に亡くなった。
| image1 = Location_Vietnam_ASEAN.svg
| width1 = 110
| caption1 = ベトナム社会主義共和国の位置
| image2 = Ho Chi Minh 1946.jpg
| width2 = 70
| caption2 = [[ホー・チ・ミン]]
}}
{{multiple image
| footer = [[沿ドニエストル共和国]]の独立記念日
| image1 = Transnistria-map.png
| width1 = 90
| caption1 = 沿ドニエストル共和国の位置
| image2 = Верховный совет и правительство ПМР.jpg
| width2 = 90
| caption2 = 国会議事堂前には[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]像。旧ソの影響が色濃く残る
}}
* [[対日戦勝記念日]](VJデー)([[第二次世界大戦]]の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]各国)
*:[[1945年]]のこの日、日本が降伏文書に調印し[[第二次世界大戦]]が終結、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]が日本に対して勝利したことを記念。ただし、1945年に国家が存在しなかった[[中華人民共和国]]では、翌[[9月3日]]を対日勝戦記念日としている。
* [[国慶節 (ベトナム)|国慶節]]({{VNM}})
*:1945年のこの日、日本が降伏文章に調印し、[[ベトナム民主共和国]](北ベトナム)が[[ベトナム独立宣言|独立を宣言]]したことを記念。
* [[独立記念日]]([[沿ドニエストル共和国]])
*: [[1990年]]のこの日、[[モルドバ]]からの独立を宣言。2010年現在、国家として承認しているのは[[アブハジア]]と[[南オセチア]]のみである。
* [[宝くじの日]]({{JPN}})
*:「く(9)じ(2)」の語呂合せ。引き換え忘れ防止のPRの一環として[[第一勧業銀行]](現[[みずほ銀行]])が[[1967年]]に制定。
* [[靴|くつ]]の日({{JPN}})
*:「く(9)つ(2)」の語呂合せ。銀座の婦人靴専門店「ダイアナ」が[[1992年]]に制定。
{{-}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0902|date=Nov 2023}}
* [[1964年]] - [[ビッグ・ボス|ネイキッド・スネーク]]、ザ・ボスを抹殺。軍事基地グロズニィグラード消滅。(ゲーム『[[メタルギアソリッド3]]』)
* [[2145年]] - [[蒼穹のファフナー RIGHT OF LEFT#用語|L計画]]、開始。(アニメ『[[蒼穹のファフナー RIGHT OF LEFT]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1964年]] - 紺野純子、アニメ『[[ゾンビランドサガ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://zombielandsaga.com/character/5.php |title=紺野純子 |access-date=20 Nov 2023 |publisher=ゾンビランドサガ リベンジ製作委員会 |work=『ゾンビランドサガ リベンジ』}}</ref>
* [[2004年]] - 土居球子、小説・漫画『[[乃木若葉は勇者である]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://yuyuyui.jp/character/character10.html |title=土居 珠子 |access-date=20 Nov 2023 |publisher=Project 2H [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION ]]/[[オルトプラス]] |work=『結城友奈は勇者である 花結いのきらめき』}}</ref>
* 生年不明 - 獏良了、漫画・アニメ『[[遊☆戯☆王]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=高橋和希 |authorlink=高橋和希 |title=遊☆戯☆王 キャラクターズガイド -真理の福音- |publisher=[[集英社]] |series=[[ジャンプ・コミックス]] |date=2002年11月 |isbn=4-08-873363-0}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=高橋和希 |title=遊☆戯☆王キャラクターズガイドブック 千年の書 |publisher=集英社 |series=Vジャンプブックス |year=2015 |page=86 |isbn=978-4-08-779722-0}}</ref>
* 生年不明 - ボア・ハンコック、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://one-piece.com/character/Boa_Hancock/index.html |title=ボア・ハンコック |access-date=20 Nov 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - マダラオ、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=星野桂 |authorlink=星野桂 |date=2011-07-04 |title=D.Gray-manキャラクターランキングブック キャラグレ! |page=89 |publisher=[[集英社]] |series=[[ジャンプ・コミックス]] |isbn=978-4-08-870268-1}}</ref>
* 生年不明 - 春日隆平、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|animatetimes|1433313822840918016}}</ref>
* 生年不明 - シーランド、漫画・アニメ『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=AXIS POWESヘタリア2 |date=2008-12-31 |publisher=[[幻冬舎]] |page=22 |author=日丸屋秀和}}</ref>
* 生年不明 - 棗鈴(なつめりん)、ゲーム・アニメ『[[リトルバスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|key_official|1168332897041801217}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#豊川風花|豊川風花]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場する キャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30021 |title=豊川 風花(とよかわ ふうか) |access-date=20 Nov 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#双葉杏|双葉杏]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20140 |title=双葉 杏(ふたば あんず) |access-date=20 Nov 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 花村輝々、ゲーム・アニメ『[[スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園]]に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sp_kiboukoubai|1433248313982267393}}</ref>
* 生年不明 - キャル、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1697791455987966109}}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|September 2|2 September}}
{{新暦365日|9|1|9|3|[[8月2日]]|[[10月2日]]|[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]|0902|9|02}}
{{1年の月と日}} | 2003-03-06T17:13:00Z | 2023-12-06T20:40:24Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%882%E6%97%A5 |
3,545 | 10月2日 | 10月2日(じゅうがつふつか)は、グレゴリオ暦で年始から275日目(閏年では276日目)にあたり年末まであと90日ある。 | [
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] | 10月2日(じゅうがつふつか)は、グレゴリオ暦で年始から275日目(閏年では276日目)にあたり年末まであと90日ある。 | {{カレンダー 10月}}
'''10月2日'''(じゅうがつふつか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から275日目([[閏年]]では276日目)にあたり年末まであと90日ある。
== できごと ==
[[File:HMSBeagle.jpg|thumb|upright|[[ビーグル (帆船)|ビーグル号]]帰投(1836)。[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]は当初、艦長[[ロバート・フィッツロイ]]の話し相手として乗船した]]
[[File:Lytton Commission at railway.jpg|thumb|120px|[[リットン報告書]]発表(1932)。日本の正当性を否定しながらも実益を認めた提言は受け入れられなかった]]
[[File:Charles Schulz NYWTS.jpg|thumb|120px|漫画『[[ピーナッツ (漫画)|ピーナッツ]]』連載開始(1950)。画像は作者の[[チャールズ・M・シュルツ]]]]
{{multiple image
| footer = [[大鵬幸喜|大鵬]]と[[柏戸剛|柏戸]]、横綱に昇進(1961)。[[高度経済成長]]期の角界を支えた
| image1 = Taiho Kōki 1961 Scan10008-2.JPG
| width1 = 100
| alt1 = 大鵬
| image2 = Kashiwado 1961 Scan10007.JPG
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| alt2 = 柏戸
}}
* [[829年]] - [[テオフィロス]]が[[東ローマ帝国]][[アモリア王朝]]の第2代[[皇帝]]になる。
* [[939年]] - [[アンダーナッハの戦い]]([[:en:Battle_of_Andernach|Battle of Andernach]])。[[神聖ローマ皇帝]][[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]が[[フランケン公]][[エーバーハルト (フランケン公)|エーバーハルト]]による反乱を鎮圧。
* [[1187年]] - [[エルサレム王国]]が[[サラーフッディーン]]に降伏し[[エルサレム]]を開城。
* [[1263年]] - [[スコットランド・ノルウェー戦争]]: [[ラーグスの戦い]]([[:en:Battle_of_Largs|Battle of Largs]])。
* [[1470年]] - 第16代[[ウォリック伯]][[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|リチャード・ネヴィル]]が[[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]を追放し、エドワードが[[ネーデルラント]]に逃れる。10月30日にはキングメーカーとなったウォリック伯によって[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]が王位に返り咲く。
* [[1552年]] - [[カザン包囲戦]]([[:en:Siege_of_Kazan|Siege_of_Kazan]]): [[イヴァン4世]]のロシア軍が[[カザン]]に入城する。
* [[1649年]] - [[クロムウェルのアイルランド侵略]]: [[ウェックスフォードの略奪]]([[:en:Sack_of_Wexford|Sack of Wexford]])が始まる。[[10月11日]]まで。
* [[1780年]] - [[アメリカ独立戦争]]: 大陸軍の[[ベネディクト・アーノルド]]がイギリス軍に[[ニューヨーク]]の[[ウェストポイント (ニューヨーク州)|ウェストポイント]]砦を明け渡そうとした策謀に加担し[[9月23日]]に逮捕されたたジョン・アンドレが[[スパイ]]として処刑される。
* [[1814年]] - [[チリ独立戦争]]([[:en:Chilean_War_of_Independence|Chilean War of Independence]]): [[ランカグアの戦い]]([[:en:Battle_of_Rancagua|Battle of Rancagua]])。
* [[1835年]] - [[ゴンザレスの戦い]]により[[テキサス革命]]が始まる。
* [[1836年]] - [[チャールズ・ダーウィン]]が[[ビーグル (帆船)|ビーグル号]]による5年間の世界一周航海から帰国。この航海で得た見分が後に[[進化論]]として結実する。
* [[1864年]] - [[南北戦争]]: [[第一次ソルトヴィルの戦い]]([[:en:First_Battle_of_Saltville|First Battle of Saltville]])。
* [[1870年]] - [[イタリア統一運動|リソルジメント]]: 国民投票により、教皇領の国民が[[イタリア王国]]による併合を受け入れる。
<!-- 9月20日 * [[1870年]] - [[イタリア王国]]が[[教皇領]]を占領し、イタリア統一が完成。 -->
* [[1889年]] - 第1回[[パン=アメリカ会議]]が[[ワシントンD.C.]]で開催。
* [[1900年]] - [[内務省 (日本)|内務省]]令として[[娼妓取締規則]]公布。
* [[1924年]] - [[国際連盟]]第5回総会でジュネーブ平和議定書が可決。
* [[1925年]] - [[ジョセフィン・ベーカー]]が「レビュー・ネグロ」よりデビュー。著名な[[バナナ]]を腰の周りにぶら下げただけの衣装で[[チャールストン (ダンス)|チャールストン]]を踊り[[アーネスト・ヘミングウェイ]]などが賛辞を送った。
* [[1928年]] - 神父・聖[[ホセマリア・エスクリバー]]によって[[マドリード]]に[[オプス・デイ]]創立。
* [[1930年]] - 日本が[[ロンドン海軍軍縮条約]]に[[批准]]。野党や[[枢密院 (日本)|枢密院]]が[[統帥権干犯問題]]を提起し反対するが失敗。
* [[1932年]] - [[リットン報告書]]が公表される。
* [[1937年]] - [[ドミニカ共和国]]で[[パセリの虐殺]]が始まる。8日まで。
* [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]・[[独ソ戦]]: ドイツ軍が[[モスクワ]]攻略戦([[モスクワの戦い|タイフーン作戦]])を開始。
* 1941年 - 第二次世界大戦: {{仮リンク|パリ・シナゴーグ攻撃|en|1941 Paris synagogue attacks|fr|Attentats contre des synagogues de Paris en octobre 1941}}
* [[1942年]] - 第二次世界大戦: [[アイリッシュ海]]で[[クイーン・メリー (客船)|クイーン・メリー号]]が護衛の[[軽巡洋艦]][[キュラソー (軽巡洋艦)|キュラソー]]と衝突。キュラソーは沈没し乗員338名が死亡。
* 1942年 - 第二次世界大戦: 前日に米潜水艦[[グルーパー (潜水艦)|グルーパー]]の魚雷攻撃を受けた[[りすぼん丸]]が沈没。
* [[1943年]] - 第二次世界大戦: 「在学徴集延期臨時特例」公布。文科系学生の徴兵猶予を全面停止。([[学徒出陣]])
* [[1944年]] - 第二次世界大戦: [[国内軍 (ポーランド)|ポーランド国内軍]]がドイツ軍に降伏し、[[ワルシャワ蜂起]]が終結。
* [[1945年]] - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が日比谷の[[DNタワー21]]で執務開始。
* [[1948年]] - [[東京家政学院大学|東京家政学院]]内に[[子供のための音楽教室]]を開設。後に[[学校法人桐朋学園|桐朋学園]]に発展。
* [[1950年]] - 漫画『[[ピーナッツ (漫画)|ピーナッツ]]』の連載がアメリカの新聞7紙でスタート。
* [[1955年]] - 世界初の[[コンピュータ]][[ENIAC]]の使用がこの日の午後11時45分をもって中止される。
* [[1958年]] - [[ギニア]]が[[フランス]]から独立。
* [[1961年]] - [[東京証券取引所|東京]]・[[大阪証券取引所|大阪]]・[[名古屋証券取引所|名古屋]]の各[[証券取引所]]が[[株式市場]]第2部を開設。
* 1961年 - [[大鵬幸喜|大鵬]]と[[柏戸剛|柏戸]]が同時に横綱に昇進。
* 1961年 - [[鹿児島県]][[鹿児島市]][[郡元 (鹿児島市)|郡元]]で大火。719戸が全焼、32戸が半焼、住民18人が負傷した<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=155 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1967年]] - [[サーグッド・マーシャル]]が[[アフリカ系アメリカ人]]として初めて[[合衆国最高裁判所|米連邦最高裁]]判事に就任<ref>{{Cite web |url=https://education.nationalgeographic.org/resource/supreme-court-swears-first-african-american-justice/ |title=On October 2, 1967, Thurgood Marshall became the first Black justice on the U.S. Supreme Court. |access-date=16 Feb 2023 |publisher=National Geographic |language=En}}</ref>。
* 1967年 - [[ニッポン放送]]系の[[深夜放送|深夜ラジオ]]『[[オールナイトニッポン]]』が放送開始。
* [[1968年]] - [[1968年メキシコシティーオリンピック|メキシコシティーオリンピック]]開催10日前の[[メキシコシティ|メキシコシティー]]のラス・トレス・クルトゥラレス広場([[三文化広場]])で[[トラテロルコ事件]]が発生。[[軍]]と[[警察]]による[[在籍者 (学習者)|学生]]と[[民間人]]の大[[虐殺]]事件である。
* [[1970年]] - [[六甲トンネル]]が貫通。
* [[1971年]] - [[1971年南ベトナム大統領選挙]]が行われる。対立候補のボイコットにより、候補者は現職の[[グエン・バン・チュー]]ただ一人のみとなった。
* [[1972年]] - [[白新線]]・[[羽越本線]]全線と[[奥羽本線]][[秋田駅]] - [[青森駅]]間の[[鉄道の電化|電化]]が完成し、[[米原駅]]([[滋賀県]]) - 青森駅間の[[日本海縦貫線]]の全線電化が完了。
* [[1978年]] - [[紀勢本線]][[新宮駅]] - [[和歌山駅]]間の電化完成。同時に全国で[[日本国有鉄道|国鉄]]のダイヤ改正が行われる。([[ゴーサントオ]])
* [[1983年]] - [[グラミン銀行]]が[[バングラデシュ]]の独立銀行として発足。
* [[1985年]] - [[関越自動車道]]が全線開通。
<!-- * [[1988年]] - [[CBSドキュメント]]が放送開始。 -->
* [[1989年]] - [[TBSテレビ|TBS]]で『[[NEWS23|筑紫哲也 NEWS23]]』が放送を開始する。
* [[1990年]] - [[廈門航空機ハイジャック事件]]。[[ハイジャック]]された[[厦門航空]]の[[ボーイング737]]型機が[[広州市|広州]]に着陸する直前にハイジャッカーと機長が揉み合いになり地上の飛行機2機と衝突、132名が死亡する。
* [[1992年]] - [[カランジル虐殺事件]]([[:en:Carandiru massacre|Carandiru massacre]])が発生。[[サンパウロ]]の[[カランジル刑務所]]で111人の囚人が殺される。指揮権を持っていた[[ウビラタン・ギマランイス]]([[:en:Ubiratan Guimarães|Ubiratan Guimarães]])[[サンパウロ州軍警察]]([[:en:Military Police of São Paulo State|Military Police of São Paulo State]])[[大佐]]には、[[懲役]]632年が言い渡される。
* [[1994年]] - [[1994年アジア競技大会|第12回アジア競技大会]]が[[広島市]]で開幕。[[10月16日]]まで。
* [[1996年]] - [[アエロペルー603便墜落事故]]。乗員乗客70名全員が死亡。
* [[1997年]] - [[アムステルダム条約]]調印。
* [[2001年]] - [[スイス航空]]倒産。
* [[2002年]] - [[ワシントンD.C.狙撃事件]]([[:en:Beltway_sniper_attacks|D.C. sniper attacks]])が発生。
* [[2007年]] - [[南北首脳会談]]: [[第2回南北首脳会談]]([[:en:2007_inter-Korean_summit|2007 inter-Korean summit]])が行われる。
* [[2009年]] - [[デンマーク]]の[[コペンハーゲン]]で開催された[[第121次IOC総会]]で、2016年の[[夏季オリンピック]]開催地が[[ブラジル]]・[[リオデジャネイロ]]に決定<ref>{{Cite web|和書 |date=2009-10-02 |url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-11780920091003 |title=2016年オリンピック開催地に東京は落選、「リオ特需」に期待も |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |accessdate=16 Feb 2023}}</ref>。([[マドリード]]、[[東京]]、[[シカゴ]]は落選)
* [[2014年]] - [[10.2決戦]]: [[福岡ソフトバンクホークス]]が[[オリックス・バファローズ]]との最後の直接対決に勝ち、ソフトバンクがリーグ優勝。
* [[2015年]] - [[ニューサウスウェールズ警察本部銃殺事件]]。
* [[2016年]] - [[コロンビア内戦]]終結に向けたコロンビア政府と[[コロンビア革命軍]]の和平合意の是非を問う国民投票「{{仮リンク|2016年コロンビア国民投票|en|2016 Colombian peace agreement referendum}}」実施。開票の結果、反対票が賛成票を上回り否決される。
* [[2018年]] - [[アーサー・アシュキン]]ら3人が[[ノーベル物理学賞]]を受賞。アシュキンは96歳と史上最高齢での受賞<ref>{{Cite web|和書 |url=https://scienceportal.jst.go.jp/newsflash/20181002_01/index.html |title=ノーベル物理学賞は、レーザーの画期的な利用法を開発した米国などの3氏に 女性の物理学賞は55年ぶり3人目 |access-date=16 Feb 2023 |publisher=国立研究開発法人科学技術振興機構 |date=2 Oct 2018}}</ref>。
* 2018年 - [[サウジアラビア]]の[[ジャーナリスト]]、[[ジャマル・カショギ]]が[[トルコ]]・[[イスタンブール]]のサウジアラビア総領事館を訪問し失踪。その後、トルコ政府は館内で殺害されたと発表<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35127101.html |title=サウジ記者、殺害後に遺体切断か トルコ当局者 |access-date=16 Feb 2023 |website=CNN.co.jp |date=17 Oct 2018}}</ref>。
* [[2019年]] - [[ブラッドレー国際空港]]にて[[第二次世界大戦]]時代の[[B-17 (航空機)|B-17爆撃機]]が着陸後に空港施設に突っ込む事故が発生。ツアー客ら搭乗者7人が死亡<ref>{{Cite web|和書 |date=3 Oct 2019 |url=https://www.cnn.co.jp/usa/35143452.html |title=B17爆撃機、空港施設に衝突 7人死亡 米コネティカット州 |accessdate=16 Feb 2023 |website=CNN.co.jp}}</ref>。
* [[2021年]] - {{仮リンク|2021年カタール総選挙|en|2021 Qatari general election}}が行われる。同国初の総選挙。
* [[2022年]] - [[10.2決戦]]: 福岡ソフトバンクホークスがマジック1を点灯していた状況でオリックス・バファローズが勝利し、なおかつ福岡ソフトバンクホークスが敗れたため、オリックス・バファローズが逆転でリーグ優勝。([[2022年のオリックス・バファローズのリーグ優勝]])
{{-}}
== 誕生日 ==
{{multiple image
| image1 = Bundesarchiv Bild 183-C06886, Paul v. Hindenburg.jpg
| width1 = 100
| caption1 = [[ヴァイマル共和政]]第2代[[ドイツ国大統領|ドイツ大統領]][[パウル・フォン・ヒンデンブルク]](1847-1934)誕生
| alt1 = ヒンデンブルク
| image2 = Hull-Cordell-LOC.jpg
| width2 = 100
| caption2 = [[ハル・ノート]]で知られる[[アメリカ合衆国国務長官]]、[[コーデル・ハル]](1871-1955)誕生
| alt2 = ハル
}}
[[File:Ozawa11.jpg|thumb|120px|第31代[[連合艦隊司令長官]]、[[小沢治三郎]](1886-1966)誕生]]
{{multiple image
| image1 = Alexander Todd Nobel.jpg
| width1 = 100
| caption1 = [[イギリス]]の[[生化学|生化学者]][[アレクサンダー・トッド]](1907-1997)誕生。[[ヌクレオチド]]、[[ヌクレオシド]]の構造を研究した
| alt1 = トッド
| image2 = Christian de Duve.tif
| width2 = 120
| caption2 = [[オートファジー]]の名称を定義付けた[[細胞生物学|細胞生物学者]]、[[クリスチャン・ド・デューブ]](1917-2013)誕生
| alt2 =ド・デューブ
}}
[[File:Ayumi Hamasaki 2007.jpg|thumb|120px|[[歌手]]、[[浜崎あゆみ]](1978-)誕生]]
* [[1238年]] - [[マンラーイ]]、[[ラーンナー王朝]]の創始者(+ [[1317年]])
* [[1452年]] - [[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]、[[イングランド王国|イングランド]]王(+ [[1485年]])
* [[1470年]] - [[イサベル・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]]の王妃(+ [[1498年]])
* [[1527年]] - [[ウィリアム・ドラリー]]([[:en:William_Drury|William_Drury]])、[[軍人]]、[[政治家]](+ [[1579年]])
* [[1538年]] - [[カルロ・ボッロメーオ]]、[[聖職者]](+ [[1584年]])
* [[1547年]] - [[フィリップ・ルートヴィヒ (プファルツ=ノイブルク公)|フィリップ・ルートヴィヒ]]、[[プファルツ=ノイブルク公]](+ [[1614年]])
* [[1582年]] - [[アウグスト (プファルツ=ズルツバッハ公)|アウグスト]]、[[プファルツ=ズルツバッハ公]](+ [[1632年]])
* [[1718年]] - [[エリザベス・モンタグ]]([[:en:Elizabeth_Montagu|Elizabeth Montagu]])、作家(+ [[1800年]])
* [[1741年]] - [[オーギュスタン・バリュエル]]([[:en:Augustin_Barruel|Augustin Barruel]])、司祭、エッセイスト(+ [[1820年]])
* [[1754年]] - [[ルイ・ド・ボナール]]、[[著述家]]・[[反革命]][[哲学者]](+ [[1840年]])
* [[1768年]] - [[ウィリアム・ベレスフォード (初代ベレスフォード子爵)|ウィリアム・ベレスフォード]]([[:en:William_Beresford,_1st_Viscount_Beresford|William Beresford, 1st Viscount Beresford]])、初代ベレスフォード子爵(+ [[1854年]])
* [[1781年]] - [[ウィリアム・ワイアット・ビブ]]([[:en:William_Wyatt_Bibb|William Wyatt Bibb]])、政治家(+ 1820年)
* [[1798年]] - [[カルロ・アルベルト]]、[[サルデーニャ王国|サルデーニャ]]国王(+ [[1849年]])
* [[1800年]] - [[ハインリッヒ・ヴェルナー]]、[[音楽]][[教員|教師]](+ [[1833年]])
* [[1809年]] - [[シャルル・ドレクリューズ]]([[:en:Louis_Charles_Delescluze|Louis Charles Delescluze]])、政治家(+ [[1871年]])
* [[1821年]] - [[アレクサンダー・P・スチュワート]]([[:en:Alexander_P._Stewart|Alexander P. Stewart]])、軍人(+ [[1908年]])
* [[1828年]] - [[シャルル・フロケ]]([[:en:Charles_Floquet|Charles Floquet]])、[[フランス首相]](+ [[1896年]])
* [[1832年]] - [[エドワード・バーネット・タイラー]]、[[人類学者]] (+ [[1917年]])
* [[1832年]] - [[ユリウス・フォン・ザックス]]、[[植物学者]] (+ [[1897年]])
* [[1843年]] - [[ジェームズ・ホイットニー]]([[:en:James_Whitney|James Whitney]])、弁護士(+ [[1914年]])
* [[1847年]] - [[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]、政治家、[[ドイツ国大統領|ドイツ大統領]](+ [[1934年]])
* [[1851年]] - [[フェルディナン・フォッシュ]]、[[軍人]](+ [[1929年]])
* [[1852年]] - [[ウィリアム・ラムゼー]]、[[化学者]] (+ [[1916年]])
* [[1854年]] - [[パトリック・ゲデス]]、[[生物学者]]、[[教育学者]](+ [[1932年]])
* [[1858年]] - [[イェラルド・ドゥ・イェール]]、[[地質学者]](+ [[1943年]])
* [[1869年]] - [[マハトマ・ガンディー]]、インド独立運動家(+ [[1948年]])
* [[1871年]] - [[コーデル・ハル]]、[[アメリカ合衆国国務長官]](+ [[1955年]])
* [[1875年]] - [[パティ・ラフナー・ジェイコブス]]([[:en:Pattie_Ruffner_Jacobs|Pattie Ruffner Jacobs]])、[[女性参政権]]論者(+ [[1935年]])
* 1875年 - [[アンリ・フェヴリエ]]([[:en:Henry_Février|Henry Février]])、作曲家(+ [[1957年]])
* [[1879年]] - [[柳川平助]]、[[陸軍軍人]](+ [[1945年]])
* 1879年 - [[ウォレス・スティーヴンズ]]、[[モダニズム]][[詩人]](+ [[1955年]])
* [[1882年]] - [[ボリス・シャポシニコフ]]、軍人(+ [[1945年]])
* [[1883年]] - [[カール・テルツァーギ|カール・フォン・テルツァーギ]]、[[土木]][[技術者]](+ [[1963年]])
* 1883年 - [[ロバート・ウィリアム・ボイル]]([[:en:Robert_William_Boyle|Robert William Boyle]])、物理学者(+ [[1955年]])
* [[1886年]] - [[小沢治三郎]]、[[海軍軍人]](+ [[1966年]])
* [[1890年]] - [[グルーチョ・マルクス]]、[[喜劇俳優]]、[[マルクス兄弟]]の三男(+ [[1977年]])
* [[1893年]] - [[リロイ・シールド]]([[:en:Leroy_Shield|Leroy Shield]])、作曲家(+ [[1962年]])
* [[1895年]] - [[バッド・アボット]]([[:en:Bud_Abbott|Bud Abbott]])、[[俳優]]([[アボットとコステロ]])(+ [[1974年]])
* [[1896年]] - [[ジャック・デュクロ]]([[:fr:Jacques_Duclos|Jacques Duclos]])、[[レジスタンス運動|レジスタンス]]運動家(+ [[1975年]])
* [[1897年]] - [[ジョゼフ・プロファチ]]、[[コーサ・ノストラ]]のプロファチ一家(現[[コロンボ一家]])のボス(+ [[1962年]])
* 1897年 - [[フランソワ・クラッセン]]([[:en:François_Claessens|François Claessens]])、体操選手(+ [[1971年]])
* [[1899年]] - [[松本重治]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1989年]])
* [[1900年]] - [[リーラ・ロイ・ナグ]]([[:en:Leela_Roy|Leela Roy]])、[[社会活動家]]、政治家(+ [[1970年]])
* 1900年 - [[金東仁]]、作家(+ [[1951年]])
* [[1902年]] - [[八原博通]]、陸軍軍人(+ [[1981年]])
* 1902年 - [[湯浅禎夫]]、元[[プロ野球選手]]、[[プロ野球監督|監督]](+ [[1958年]])
* 1902年 - [[レオポルト・フィグル]]([[:de:Leopold_Figl|Leopold Figl]])、[[オーストリア首相]](+ [[1965年]])
* [[1903年]] - [[ミケーレ・マーラ]]([[:it:Michele_Mara|Michele Mara]])、[[自転車競技]]選手(+ [[1986年]])
* [[1904年]] - [[グレアム・グリーン]]、[[小説家]] (+ [[1991年]])
* 1904年 - [[大隅健一郎]]、[[商法学者]] (+ [[1998年]])
* 1904年 - [[ジョルジュ・ミーツ]]、[[体操選手]](+ [[1999年]])
* 1904年 - [[イゴール・ウラジミロビッチ・ベルコビッチ]]([[:ru:Белькович,_Игорь_Владимирович|Белькович, Игорь Владимирович]])、[[天文学者]](+ [[1949年]])
* [[1905年]] - [[円地文子]]、小説家(+ [[1986年]])
* 1905年 - [[マクシミリアン・グラブナー]]([[:en:Maximilian_Grabner|Maximilian Grabner]])、[[ゲシュタポ]]隊員(+ [[1948年]])
* [[1906年]] - [[トーマス・ホルウェイ]]([[:en:Thomas_Hollway|Thomas Hollway]])、[[ビクトリア州首相]](+ [[1971年]])
* [[1907年]] - [[アレクサンダー・トッド]]、[[生化学者]](+ [[1997年]])
* 1907年 - [[ビクトル・パス・エステンソロ]]、政治家、第54・56・57・76代[[ボリビアの大統領|ボリビア大統領]](+ [[2001年]])
* 1907年 - [[セルゲイ・クルグロフ (政治家)|セルゲイ・クルグロフ]]、初代・第3代ソビエト連邦[[ソビエト連邦内務省#歴代内務大臣|内務大臣]]、チェキスト(+ [[1977年]])
* [[1908年]] - [[増田四郎]]、[[歴史学者]](+ 1997年)
* [[1909年]] - [[アレックス・レイモンド]]([[:en:Alex_Raymond|Alex Raymond]])、作家(+ [[1956年]])
* [[1910年]] - [[竹内好]]、[[中国文学者]]、[[文芸評論家]](+ 1977年)
* 1910年 - [[塚原俊郎]]、[[政治家]](+ [[1975年]])
* 1910年 - [[アルド・オリヴィエリ]]([[:en:Aldo_Olivieri|Aldo Olivieri]])、サッカー選手(+ 2001年)
* [[1911年]] - [[ジャック・フィニイ]]、[[小説家]](+ [[1995年]])
* [[1912年]] - [[フランク・マリナ]]、航空技師、[[画家]](+ [[1981年]])
* 1912年 - [[ビャーネ・イヴェルセン]]([[:en:Bjarne_Iversen|Bjarne Iversen]])、[[スキー選手]](+ [[1999年]])
* [[1913年]] - [[志村正順]]、[[アナウンサー]](+ [[2007年]]<ref>{{Cite web|和書 |title=プロ野球天覧試合実況、志村正順さん死去 - 芸能ニュース |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20080425-352183.html |access-date=2023-02-16 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=25 Apr 2008}}</ref>)
* 1913年 - [[ウィリアム・チン]]([[:en:William_Ching|William Ching]])、俳優(+ [[1989年]])
* 1913年 - [[ウォーリー・ローズ]]([[:en:Wally_Rose|Wally Rose]])、[[ジャズ]][[音楽家|ミュージシャン]](+ [[1993年]])
* [[1914年]] - [[ジャック・パーソンズ]]([[:en:Jack_Parsons_(rocket_engineer)|Jack Parsons (rocket engineer)]])、[[ロケット|ロケット技師]]、工学者(+ [[1952年]])
* [[1917年]] - [[下元勉]]、俳優(+ [[2000年]])
* 1917年 - [[クリスチャン・ド・デューブ]]、生化学者(+ [[2013年]])
* 1917年 - [[長野士郎]]、政治家(+ [[2006年]])
* 1917年 - [[ハインツ・ランゲ]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]軍人(+ 2006年)
* 1917年 - [[チャールズ・ドレイク]]([[:en:Charles_Drake_(actor)|Charles Drake (actor)]])、俳優(+ 1994年)
* [[1918年]] - [[クロード・イーザリー]]、[[アメリカ空軍]][[軍人]](+ [[1978年]])
* [[1919年]] - [[ヤン・フリンターマン]]([[:en:Jan_Flinterman|Jan Flinterman]])、軍人(+ [[1992年]])
* [[1921年]] - [[大島信雄]]、元プロ野球選手(+ [[2005年]])
* 1921年 - [[アルバート・スコット・クロスフィールド|スコット・クロスフィールド]]、軍人、[[パイロット (航空)|パイロット]](+ 2006年)
* 1921年 - [[エドマンド・クリスピン]]、作家(+ [[1978年]])
* 1921年 - [[ロバート・ランシー]]([[:en:Robert_Runcie|Robert_Runcie]])、大司教(+ [[2000年]])
* [[1923年]] - [[岩井直溥]]、[[作曲家]]、[[編曲家]](+ [[2014年]])
* [[1925年]] - [[海野和三郎]]、[[天文学者]](+ [[2023年]])
* 1925年 - [[金石範]]、小説家
* 1925年 - [[近藤貞雄]]、元プロ野球選手、監督(+ [[2006年]])
* [[1926年]] - [[鈴木通夫]]、[[数学者]](+ [[1998年]])
* 1926年 - [[ジャン・モリス]]([[:en:Jan_Morris|Jan Morris]])、歴史家(+ [[2020年]])
* [[1928年]] - [[ヴォルフハルト・パネンベルク]]、[[ルター派]][[神学者]](+ [[2014年]])
* [[1929年]] - [[モーゼス・ガン]]、俳優(+ [[1993年]])
* [[1930年]] - [[デイヴ・バレット]]([[:en:Dave_Barrett|Dave_Barrett]])、政治家、[[ブリティッシュコロンビア州首相]](+ [[2018年]])
* [[1932年]] - [[出目昌伸]]、[[映画監督]](+ [[2016年]])
* 1932年 - [[長谷川繁雄]]、元プロ野球選手(+ [[1966年]])
* 1932年 - [[モーリー・ウィルス]]、元プロ野球選手(+ [[2022年]])
* [[1933年]] - [[ジョン・ガードン (生物学者)|ジョン・ガードン]]、[[生物学者]]
* 1933年 - [[ミシェル・プラッソン]]、指揮者
* [[1934年]] - [[アール・ウィルソン]]、元プロ野球選手(+ [[2005年]])
* [[1935年]] - [[小原乃梨子]]、[[声優]]
* 1935年 - [[オマール・シボリ]]、[[サッカー選手]](+ [[2005年]])
* 1935年 - [[ロバート・ヘンリー・ローレンス・ジュニア]]([[:en:Robert_Henry_Lawrence_Jr.|Robert Henry Lawrence Jr.]])、飛行士(+ [[1967年]])
* [[1936年]] - [[ディック・バーネット]]、[[バスケットボール選手]]
* [[1937年]] - [[浦上郁夫]]、[[実業家]](+ [[1985年]])
* 1937年 - [[ジョニー・コクラン]]([[:en:Johnnie_Cochran|Johnnie Cochran]])、弁護士(+ [[2005年]])
* [[1938年]] - [[エリック・ドマルサン]]([[:en:Éric_Demarsan|Éric Demarsan]])、[[映画音楽]][[作曲家]]
* 1938年 - [[カルロス・コントレラス (サッカー選手)|カルロス・コントレラス]]([[:en:Carlos_Contreras_(footballer,_born_1938)|Carlos Contreras (footballer, born 1938)]])、サッカー選手(+ [[2020年]])
* 1938年 - [[ジョセフ・ケルゲリス]]([[:en:Joseph_Kergueris|Joseph Kergueris]])、政治家
* 1938年 - [[ピエール・ロドカナチ]]([[:fr:Pierre_Rodocanachi|Pierre Rodocanachi]])、[[フェンシング|フェンシング選手]]
* [[1939年]] - [[ユーリ・グラズコフ]]、軍人・[[宇宙飛行士]](+ [[2008年]])
* [[1940年]] - [[尾辻秀久]]、[[政治家]]
* [[1941年]] - [[ユーセフ・ユースフィ]]([[:en:Youcef_Yousfi|Youcef Yousfi]])、政治家
* [[1942年]] - [[尾上菊五郎 (7代目)]]、[[歌舞伎]][[俳優]]
* 1942年 - [[スティーヴ・セイボル]]([[:en:Steve_Sabol|Steve Sabol]])、[[NFLフィルムズ]]2代目社長(+ [[2012年]])
* [[1943年]] - 青空好児、[[漫才師]]([[青空球児・好児]])
* [[1944年]] - [[小島一慶]]、[[アナウンサー]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書 |title=フリーアナウンサーの小島一慶さん 肺がんで死去 75歳「ぴったし カン・カン」2代目司会などで人気 - スポニチ Sponichi Annex 芸能 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/04/26/kiji/20200426s00041000078000c.html |website=Sponichi Annex |access-date=2023-02-16 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=26 Apr 2020}}</ref>)
* 1944年 - [[トン・コープマン]]、指揮者、[[チェンバロ]]奏者、[[オルガン]]奏者
* 1944年 - [[ヴァーナー・ヴィンジ]]、数学者
* [[1945年]] - [[ドン・マクリーン]]、[[シンガーソングライター]]
* 1945年 - [[室伏重信]]、[[陸上競技]]選手
* 1945年 - [[マーティン・ヘルマン]]、[[暗号理論]]研究者
* [[1946年]] - [[亀井進]]、元プロ野球選手
* 1946年 - [[成田文男]]、元プロ野球選手(+ [[2011年]])
* 1946年 - [[ソンティ・ブンヤラットカリン]]、軍人
* [[1947年]] - [[ワード・チャーチル]]([[:en:Ward_Churchill|Ward Churchill]])、作家
* [[1948年]] - [[稲葉光雄]]、元プロ野球選手(+ [[2012年]])
* 1948年 - [[ダナ・キャラン]]、[[ファッションデザイナー]]
* 1948年 - [[トレヴァー・ブルッキング]]、サッカー選手
* 1948年 - [[エイヴリー・ブルックス]]、俳優
* 1948年 - [[パーシス・カンバッタ]]、[[モデル (職業)|モデル]]、女優(+ [[1998年]])
* 1948年 - [[シーム・カラス]]、政治家、[[エストニアの首相|エストニア首相]]
* [[1949年]] - [[リチャード・ヘル]]、ミュージシャン、俳優
* 1949年 - [[アニー・リーボヴィッツ]]、[[写真家]]
* [[1950年]] - [[マイク・ラザフォード]]、ミュージシャン([[ジェネシス (バンド)|ジェネシス]])
* 1950年 - [[ピエトロ・アルジェリ]]([[:it:Pietro_Algeri|Pietro Algeri]])、[[自転車競技]]選手
* 1950年 - [[ギィ・キャベ]]、[[ジャズ]]・ミュージシャン
* 1950年 - [[アントニオ・ディ・ピエトロ]]、政治家、[[欧州議会議員]]、初代[[価値あるイタリア]][[党首]]
* 1950年 - [[イアン・マクニース]]、俳優
* [[1951年]] - [[スティング (ミュージシャン)|スティング]]、ミュージシャン
* 1951年 - [[ロミナ・パワー]]、歌手
* [[1952年]] - [[マリー・デシャン]]([[:en:Marie_Deschamps|Marie Deschamps]])、裁判官
* [[1953年]] - [[岩崎和夫]]、[[アナウンサー]]
* 1953年 - [[鳥井架南子]]、小説家
* [[1954年]] - [[プリティ長嶋]]、[[タレント]]、政治家
* 1954年 - [[岡村隆則]]、元プロ野球選手
* 1954年 - [[ガイ・スティール・ジュニア]]、[[計算機科学]]者
* 1954年 - [[エラン・リクリス]]([[:en:Eran_Riklis|Eran Riklis]])、映画監督
* 1954年 - [[ロレイン・ブラッコ]]、女優
* [[1955年]] - [[フィリップ・オーキー]]([[:en:Philip_Oakey|Philip Oakey]])、シンガーソングライター
* 1955年 - [[伊藤耕]]、ミュージシャン([[THE FOOLS]])
* 1955年 - [[ノロドム・アルンラスミー]]([[:en:Norodom_Arunrasmy|Norodom Arunrasmy]])、[[カンボジア]]王女、政治家
* 1955年 - [[ウォーレン・スペクター]]([[:en:Warren_Spector|Warren Spector]])、ビデオゲームデザイナー
* [[1956年]] - [[ジェフ・ドイル]]、元プロ野球選手
* 1956年 - [[フレディ・ジャクソン]]、歌手
* [[1957年]] - [[ジョン・クック (ゴルファー)|ジョン・クック]]([[:en:John_Cook_(golfer)|John Cook (golfer)]])、ゴルファー
* [[1958年]] - [[和久井光司]]、総合音楽家
* 1958年 - [[ウェイン・トゥープス]]、[[歌手]]、[[アコーディオン]]奏者
* 1958年 - [[アラン・ソラル]]([[:en:Alain_Soral|Alain Soral]])、[[随筆家|エッセイスト]]
* [[1959年]] - [[田和宏]]、官僚
* 1959年 - [[レナ・ハデス]]、[[画家]]、[[作家]]
* 1959年 - [[ルイス・フェルナンデス (サッカー選手)|ルイス・フェルナンデス]]、サッカー選手
* [[1960年]] - [[フロイド・カルドス]]、[[シェフ]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.47news.jp/medical/4649536.html |title=世界的シェフがコロナ感染で死去 米で活躍、印料理のカルドスさん |access-date=16 Feb 2023 |publisher=47NEWS |date=26 Mar 2020}}</ref>)
* 1960年 - [[ジャンゴ・ベイツ]]、作曲家
* 1960年 - [[ジョー・サッコ]]、漫画家
* [[1961年]] - [[向井昭吾]]、[[ラグビーユニオン]]監督
* 1962年 - [[真鍋吉明]]、[[ギタリスト]]([[the pillows]]、[[NINE MILES]])
* [[1964年]] - [[いくえみ綾]]、[[漫画家]]
* 1964年 - [[月鈴茶子]]、漫画家
* 1964年 - [[浪花ゆうじ]]、俳優
* [[1965年]] - [[堀内一史]]、ミュージシャン([[ユニコーン (バンド)|ユニコーン]])
* [[1967年]] - [[フランク・フレデリクス]]、[[陸上競技選手]]
* [[1968年]] - [[ダンナ小柳]]、パフォーマー([[電撃ネットワーク]])
* 1968年 - [[ヤナ・ノボトナ]]、[[テニス]]選手(+ [[2017年]]<ref>{{Cite web |url=https://www.reuters.com/article/us-tennis-novotna/wimbledon-champion-novotna-dies-after-battle-with-cancer-idUSKBN1DK0W8 |title=Wimbledon champion Novotna dies after battle with cancer |access-date=16 Feb 2023 |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |date=20 Nov 2017 |language=En}}</ref>)
* 1968年 - [[村田蓮爾]]、[[イラストレーター]]
* [[1969年]] - [[高井一 (野球)|高井一]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[徳光由禾]]、声優
* 1969年 - [[アラン・ニューマン]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[山瀬まみ]]、タレント
* [[1970年]] - [[相川冬也]]、俳優
* 1970年 - [[エディ・グアダード]]、元プロ野球選手
* 1970年 - [[萩野純一郎]]、[[計算機科学|計算機科学者]](+ [[2007年]])
* [[1971年]] - [[桑原裕義]]、サッカー選手
* 1971年 - [[ティファニー (歌手)|ティファニー]]、歌手
* 1971年 - [[原田武男]]、元サッカー選手
* 1971年 - [[矢柴俊博]]、俳優
* [[1972年]] - [[トレイ・ムーア]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[村上由利子]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー
* [[1973年]] - [[プルーフ (ラッパー)|プルーフ]]、[[MC (ヒップホップ)|MC]]
* 1973年 - [[井手元健一朗]]、元プロ野球選手
* 1973年 - [[鳩山来留夫]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]
* 1973年 - [[スコット・ショーエンワイス]]、元プロ野球選手
* [[1974年]] - [[浅野実奈子]]、女優
* 1974年 - [[大八木友之]]、元アナウンサー
* [[1975年]] - [[森田展義]]、お笑いタレント
* [[1977年]] - [[西村麻子]]、[[毎日放送]]アナウンサー
* [[1978年]] - [[新井田豊]]、元プロボクサー
* 1978年 - [[浜崎あゆみ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.oricon.co.jp/prof/246497/ |title=浜崎あゆみのプロフィール |access-date=16 Feb 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]] |date=12 Jun 2017}}</ref>、[[歌手]]
* [[1980年]] - タイヘイ、ミュージシャン([[ヤドカリ (ミュージシャン)|ヤドカリ]])
* 1980年 - [[miyake]]、ミュージシャン([[mihimaru GT]])
* [[1981年]] - [[アンバー・リー・エッティンガー]]、モデル、女優
* 1981年 - [[宮本大輔 (野球)|宮本大輔]]、元プロ野球選手
* [[1982年]] - [[住吉文子]]、漫画家
* 1982年 - [[吉河美希]]、漫画家
* 1982年 - 三島達矢、お笑い芸人([[すゑひろがりず]])
* [[1983年]] - [[石原朋香]]、タレント
* 1983年 - [[水野真裕美]]、[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー
* 1983年 - [[アレクセイ・ベル]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[大和貴弘]]、元[[プロ野球審判員]]
* [[1984年]] - [[リッカルド・ベルタニョン]]、プロ野球選手
* [[1985年]] - [[モテ期プロデューサー荒野]]、実業家、[[YouTuber]]
* 1985年 - [[白仁田寛和]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[渡部龍一]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[クリスティーナ (モデル)|クリスティーナ]] 、ファッションモデル
* 1985年 - [[チプリアン・マリカ]]、サッカー選手
* 1985年 - [[リンダ・シュタール]]、陸上競技選手
* 1985年 - [[鵜澤明日香]]、声優
* [[1986年]] - [[坂田遼]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[イスメル・ヒメネス]]、元野球選手
* 1986年 - [[カミーラ・ベル]]、女優
* 1986年 - [[深澤美和]]、元野球選手
* [[1987年]] - [[高橋としみ]]、タレント
* 1987年 - [[ラファエル・ロペス]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[愛衣]]、元[[グラビアアイドル]]
* 1988年 - [[上田剛史]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[小野生奈]]、[[競艇選手]]
* 1988年 - [[上間江望]]、声優
* 1988年 - [[明日花キララ]]、元[[AV女優]]、タレント
* [[1989年]] - [[チャド・スミス (1989年生の投手)|チャド・スミス]]、元プロ野球選手
* 1989年 - [[アーロン・ヒックス]]、プロ野球選手
* 1989年 - [[内田健太]]、サッカー選手
* 1989年 - [[細谷将司]]、バスケットボール選手
* [[1990年]] - [[田川雄理]]、ミュージカル俳優、元システムエンジニア
* 1990年 - [[武田るい]]、元タレント
* 1990年 - [[仙石廉]]、元サッカー選手
* 1990年 - [[大沼美咲]]、元バスケットボール選手
* 1990年 - [[渡辺一樹]]、オートバイレーサー
* 1990年 - [[サマンサ・バークス]]、歌手
* 1990年 - [[ベッキー・ベレスウィル]]、フィギュアスケート選手
* [[1991年]] - [[時任勇気]]、俳優
* 1991年 - [[キャム・ベドローシアン]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[ロベルト・フィルミーノ]]<ref>{{Cite web |url=https://www.bbc.com/sport/football/51815586 |title=Roberto Firmino: Liverpool forward's journey from humble origins to starring Anfield role |access-date=16 Feb 2023 |publisher=BBC WORKLIFE |date=17 Mar 2020 |language=En}}</ref>、サッカー選手
* 1991年 - [[市川蒼]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://osawa-inc.co.jp/men/ichikawaaoi/ |title=市川 蒼(いちかわ あおい)– Aoi Ichikawa – |access-date=16 Feb 2023 |publisher=大沢事務所}}</ref>、声優
* 1991年 - [[津野米咲]]、ミュージシャン([[赤い公園]])(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/139728 |title=女性ロックバンド「赤い公園」津野米咲さん死去 SMAP、モー娘。に楽曲提供 事務所悲痛「現実を受け止めきれない」 |access-date=16 Feb 2023 |publisher=[[東京中日スポーツ]] |date=19 Oct 2020}}</ref>)
* [[1992年]] - [[アリソン・ベッカー]]、サッカー選手
* 1992年 - [[志村理佳]]、タレント、[[アイドル]](元[[SUPER☆GiRLS]])
* 1992年 - [[山﨑康晃]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[細田あかね]]、元野球選手
* 1992年 - [[長谷川かすみ]]、女優
* [[1993年]] - [[ランス・マッカラーズ・ジュニア]]、プロ野球選手
* [[1994年]] - [[木津レイナ]]、ファッションモデル(元[[E-girls]])
* [[1996年]] - [[岩下大輝]]、プロ野球選手
* 1996年 - [[山本萩子]]、[[ニュースキャスター|キャスター]]、タレント
* 1996年 - [[茂木駿佑]]、サッカー選手
* [[1997年]] - [[杉咲花]]、女優
* 1997年 - [[本前郁也]]、プロ野球選手
* [[1998年]] - [[アドゥワ誠]]、プロ野球選手
* 1998年 - [[小田翔夢]]、ボクサー
* [[1999年]] - [[井上咲楽]]、タレント
* 1999年 - [[中川虎大]]、プロ野球選手
* [[2003年]] - [[林瑠奈]]、アイドル([[乃木坂46]])
* 2003年 - スンハン、アイドル([[RIIZE]])
* 2003年 - 檜山光成、アイドル([[ジャニーズJr.]]、少年忍者)
* 生年不明 - [[岡嶋妙]]、声優
* 生年不明 - [[クリス松村]]、タレント、フィットネスインストラクター
* 生年不明 - [[大平泉]]、声優
* 生年不明 - [[後藤光祐]]、声優
* 生年不明 - [[竹谷和樹]]、声優
== 忌日 ==
[[File:千代女.jpg|thumb|120px|[[俳人]]、[[加賀千代女]](1703-1775)没{{Squote|月も見て我はこの世をかしく哉}}]]
[[File:François Arago.jpg|thumb|120px|[[フランス]]の[[数学者]]、[[フランソワ・アラゴ]](1786-1853)没。[[誘導電動機]]の始祖的原理、[[アラゴーの円板]]を発見した]]
[[File:Marcel Duchamp 01.jpg|thumb|120px|「芸術を捨てた芸術家」[[フランス]]出身の前衛[[芸術家]]、[[マルセル・デュシャン]](1887-1968)没]]
* [[534年]] - [[アタラリック]]、[[東ゴート王国|東ゴート王]](* [[516年]])
* [[829年]] - [[ミカエル2世]]、[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]](* [[770年]]頃)
* [[939年]] - [[エーバーハルト (フランケン公)|エーバーハルト]]、フランケン公(* [[885年]]頃)
* 939年 - [[ギゼルベルト (ロートリンゲン公)|ギゼルベルト]]、[[ロートリンゲン公]](* [[890年]]頃)
* [[1264年]] - [[ウルバヌス4世 (ローマ教皇)|ウルバヌス4世]]、ローマ教皇(* [[1195年]])
* [[1515年]]([[永正]]12年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[島津忠治]]、[[薩摩国]]の[[戦国大名]](* [[1489年]])
* [[1593年]]([[文禄]]2年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]) - [[島津久保]]、[[武将|戦国武将]](* [[1573年]])
* [[1628年]]([[寛永]]5年[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]) - [[鳥居忠政]]、[[山形藩|山形藩主]](* [[1566年]])
* [[1699年]]([[元禄]]12年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) - [[戸田忠昌]]、[[江戸幕府]][[老中]](* [[1632年]])
* [[1764年]] - 第4代[[デヴォンシャー公爵]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第4代デヴォンシャー公爵)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1720年]])
* [[1775年]]([[安永 (元号)|安永]]4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]) - [[加賀千代女]]、[[俳人]](* [[1703年]])
* [[1782年]] - [[チャールズ・リー (軍人)|チャールズ・リー]]、[[アメリカ独立戦争]]時の[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]][[少将]](* [[1732年]])
* [[1803年]] - [[サミュエル・アダムズ]]、[[アメリカ合衆国建国の父|アメリカ合衆国建国指導者]](* [[1722年]])
* [[1853年]] - [[フランソワ・アラゴ]]、[[数学者]](* [[1786年]])
* [[1877年]] - [[ルートヴィヒ・カール・ゲオルク・プファイファー]]、[[医師]]、[[植物学者]]、貝類学者(* [[1805年]])
* [[1899年]] - [[エマ・ハーディング・ブリテン]]、[[心霊主義]]運動家(* [[1823年]])
* [[1920年]] - [[マックス・ブルッフ]]、[[作曲家]](* [[1838年]])
* [[1921年]] - [[ヴィルヘルム2世 (ヴュルテンベルク王)|ヴィルヘルム2世]]、[[ヴュルテンベルク王国|ヴュルテンベルク王]](* [[1848年]])
* [[1927年]] - [[スヴァンテ・アレニウス]]、[[物理化学]]者(* [[1859年]])
* 1927年 - [[ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン]]、[[プロイセン王国|プロイセン王族]](* [[1864年]])
* [[1931年]] - [[ジョージ・ブラッドリー]]、プロ野球選手(* [[1852年]])
* [[1938年]] - [[アレクサンドル・アヴェレスク]]、軍人、政治家(* 1859年)
* [[1939年]] - [[小橋一太]]、[[文部大臣]]、[[東京市|東京市長]](* [[1870年]])
* [[1944年]] - [[前田利定]]、[[逓信省|逓信大臣]]、[[農商務省 (日本)|農商務大臣]](* [[1874年]])
* [[1947年]] - [[ピョートル・ウスペンスキー]]、[[神秘主義|神秘思想家]](* [[1878年]])
* [[1949年]] - [[フランク・シュルト]]、プロ野球選手(* [[1882年]])
* [[1952年]] - [[市村羽左衛門 (16代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1904年]])
* [[1953年]] - [[ジョン・マリン]]、[[画家]]、[[版画家]](* [[1870年]])
* [[1964年]] - [[山村新治郎 (10代目)]]、[[行政管理庁]]長官(* [[1908年]])
* [[1968年]] - [[マルセル・デュシャン]]、[[美術家]](* [[1887年]])
* [[1969年]] - [[ノエル・ヌエット]]、[[詩人]]、[[画家]](* [[1885年]])
* [[1973年]] - [[パーヴォ・ヌルミ]]、[[陸上競技]]選手(* [[1897年]])
* [[1980年]] - [[ルイ・ダカン]]、[[俳優]]、[[映画監督]](* [[1908年]])
* [[1982年]] - [[ウィリアム・バーンバック]]、[[コピーライター]](* [[1911年]])
* [[1984年]] - [[井口秋子]]、[[ピアニスト]](* [[1905年]])
* [[1985年]] - [[ロック・ハドソン]]<ref>{{Cite web |url=https://www.biography.com/actors/rock-hudson |title=Rock Hudson |access-date=16 Feb 2023 |publisher=BIOGRAPHY |date=14 MAY 2021}}</ref>、俳優(* [[1925年]])
* [[1987年]] - [[ピーター・メダワー]]、[[生物学|生物学者]](* [[1915年]])
* [[1988年]] - [[アレック・イシゴニス]]、自動車技術者(* [[1906年]])
* [[1990年]] - [[芥川隆行]]、[[ナレーター]](* [[1919年]])
* 1990年 - [[土居君雄]]、[[実業家]]、[[ドイ]]創業者(* [[1926年]])
* 1990年 - [[渡辺博之]]、元[[プロ野球選手]](* [[1923年]])
* [[1992年]] - [[森谷良平]]、元プロ野球選手(* [[1914年]])
* [[1998年]] - [[オリン・エッゲン]]、[[天文学者]](* [[1919年]])
* 1998年 - [[須川栄三]]、映画監督(* [[1930年]])
* 1998年 - [[安井亀和]]、元プロ野球選手(* [[1920年]])
* [[1999年]] - [[香山彬子]]、[[児童文学作家]](* [[1926年]])
* [[2003年]] - [[オットー・ギュンシェ]]、[[ナチス・ドイツ]][[親衛隊少佐]](* [[1917年]])
* [[2007年]] - [[北村弘一]]、俳優、[[声優]](* [[1931年]])
* 2007年 - [[大津守]]、元プロ野球選手(* 1931年)
* [[2008年]] - [[ジョージ・フィールズ]]、[[実業家]]、[[コメンテーター]](* [[1928年]])
* 2008年 - [[チェ・ジンシル]]、女優(* [[1968年]])
* [[2009年]] - [[津久井克行]]、歌手([[class (音楽グループ)|class]])(* [[1960年]])
* [[2012年]] - [[金子哲雄]]、[[流通]][[ジャーナリスト]](* [[1971年]])
* 2012年 - [[大滝秀治]]、俳優(* [[1925年]])
* [[2013年]] - [[秋山駿]]、文芸評論家(* [[1930年]])
* [[2014年]] - [[坂本義和]]、国際政治学者(* [[1927年]])
* [[2015年]] - {{仮リンク|エリク・アルトゥーロ・デルバイエ|es|Eric Arturo Delvalle}}、政治家、[[パナマ]][[パナマの大統領|大統領]](* [[1937年]])
* [[2016年]] - [[ネヴィル・マリナー]]、[[指揮者]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1924年]])
* [[2018年]] - [[ジャマル・カショギ]]、ジャーナリスト(* [[1958年]])
* 2018年 - [[金田留広]]、元プロ野球選手(* [[1946年]])
* [[2019年]] - [[グラツィア・バルチェローナ]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1929年]])
* 2019年 - [[ビル・ビドウィル]]、実業家、元[[NFL]][[アリゾナ・カージナルス]]オーナー(* [[1935年]])
* 2019年 - [[ギヤ・カンチェリ]]、作曲家(* [[1935年]])
* [[2020年]] - [[ヴィクター・アブラモヴィッチ・ザルガラー]]、[[数学者]](* [[1920年]])
* 2020年 - [[稲葉清右衛門]]、実業家、[[工学博士]](* [[1925年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2012年]] - [[アロマ (盲導犬)|アロマ]]、[[ラブラドール・レトリバー]]の[[盲導犬]](* [[2001年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Non-Violence sculpture Malmö.JPG|thumb|upright|[[国際非暴力デー]]。画像は{{仮リンク|カール・フレデリック・. ロイテルスワルト|en|Carl Fredrik Reuterswärd}}の『{{仮リンク|Non-Violence|en|Non-Violence (sculpture)}}』(1985)]]
* [[国際非暴力デー]]
*: [[2007年]]6月の国連総会で制定した[[国際デー]]。インド独立運動の指導者で、非暴力を説いた[[マハトマ・ガンディー]]の誕生日。
* [[ガンディー記念日]]({{IND}})
*: マハトマ・ガンディーの誕生日。
* [[独立記念日]]({{GIN}})
*: [[1958年]]のこの日、ギニアが[[フランス]]から独立した。
* [[守護天使]]の日([[カトリック教会|カトリック]])
*: ローマ・カトリックの聖名祝日の一つ。全ての人についていてその人を守り導く守護天使を記念する日。
* 警察の日({{LTU}})
* [[豆腐]]の日({{JPN}})
*: 「とう(10)ふ(2)」の語呂合せ。日本豆腐協会が[[1993年]]に制定。
* 東武の日({{JPN}})
*: 「とう(10)ぶ(2)」の語呂合せ。[[東武鉄道]]が[[2005年]]に制定した、東武グループのキャンペーン。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1002|date=2011年7月}}
* [[1872年]] - 午後8時45分、フィリアス・フォッグらが80日間世界一周の旅に出発。(小説『[[八十日間世界一周]]』)
* 1947年(昭和22年)- [[金田一耕助]]と[[警視庁 (内務省)|警視庁]]の出川[[刑事]]が[[東京]]を出発し[[須磨]]に向かう。(小説『[[悪魔が来りて笛を吹く]]』第13章)
* 2010年 - 寝隠神社付近でゴセイジャーとシンケンジャーが外道衆と戦う。その頃2011年からゴーカイジャーが来訪。(映画『[[天装戦隊ゴセイジャーVSシンケンジャー エピックon銀幕]]』、特撮『[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]』)
* 2016年 - [[お台場]]にある新都電力台場[[原子力発電所]]で[[炉心溶融|メルトダウン]]による爆発事故が発生、[[東京都]]全域に避難命令が出される (漫画『[[COPPELION]]』)
* [[コズミック・イラ|C.E.]]73年 - [[プラント (ガンダムシリーズ)|プラント]]の軍事工廠『[[プラント (ガンダムシリーズ)#各プラント|アーモリーワン]]』で、[[ザフトの機動兵器#セカンドステージシリーズ|3機のセカンドステージシリーズMS]]([[カオスガンダム|カオス]]、[[ガイアガンダム|ガイア]]、[[アビスガンダム|アビス]])が地球連合軍の[[ファントムペイン (ガンダムシリーズ)|第81独立機動軍ファントムペイン]]によって強奪される。 (アニメ『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』)
* 年不明 - 午前9時から、筧悟朗が東洋女子医大で[[食道癌]]の手術を受ける。(漫画『[[きのう何食べた?]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* 2009年 - [[ビニシウスとトム|ヴィニシウス]]、[[リオデジャネイロオリンピック]]のマスコット<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.joc.or.jp/sp/games/olympic/riodejaneiro/mascot/ |title=マスコット紹介 ヴィニシウス |access-date=2022-10-13 |publisher=JOC 公益財団法人日本オリンピック委員会}}</ref>
* 2009年 - [[ビニシウスとトム|トム]]、[[リオデジャネイロパラリンピック]]のマスコット<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yomiuri.co.jp/olympic/paralympic2016/feature/20160916-OYT8T50035.html |title=メダリストに贈られる人形の正体は? |access-date=2022-10-13 |publisher=[[読売新聞]] |date=2016-09-16}}</ref>
* [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]745年 - ミラージュ・コースト、ゲーム『[[スターオーシャン Till the End of Time]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=57|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref>
* 生年不明 - [[地獄先生ぬ〜べ〜の登場人物#教職員|高橋律子]]、漫画・アニメ『[[地獄先生ぬ〜べ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=週刊少年ジャンプ特別編集|authorlink=週刊少年ジャンプ |year = 1997 |title = 地獄先生ぬ~べ~大百科 |page = 104 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス デラックス]] |isbn = 4-08-858883-5 }}</ref>
* 生年不明 - 小堀浩志、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kurobasanime|1576232982448287744}}</ref>
* 生年不明 - [[ゆらぎ荘の幽奈さん#夢咲春夢|夢咲春夢]]、漫画・アニメ『[[ゆらぎ荘の幽奈さん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=ミウラタダヒロ|authorlink=ミウラタダヒロ|year = 2020 |title = ゆらぎ荘の幽奈さん |volume = 24巻 |page = 152 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 978-4-08-882496-3 }}</ref>
* 生年不明 - 三輪秀次、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1443955122598461450}}</ref>
* 生年不明 - 葦木場拓斗、漫画・アニメ『[[弱虫ペダル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yowapeda_anime|1570622254085738496}}</ref>
* 生年不明 - 網倉麻子、小説・アニメ『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>衣笠彰梧 『ようこそ実力至上主義の教室へ 7』(KADOKAWA、2017年10月発行)15頁</ref>
* 生年不明 - 鈴矢萌、漫画・アニメ『[[恋する小惑星]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite tweet|user=uoaaaoi |author=Quro |number=1312825722558320640 |title=10/2はすずの誕生日でした 遅くなりましたがおめでとう~ |date=2020-10-05 |accessdate=2023-07-20}}</ref><ref>{{Cite tweet|user=koiastv |author=TVアニメ「恋する小惑星」公式ツイッター |number=1443953861350199302 |title=HAPPYBIRTHDAY 本日10月2日はスズヤベーカリーの看板娘でリサーチ得意なすずのお誕生日です‼ お誕生日おめでとうございます |date=2021-10-02 |accessdate=2023-07-20}}</ref>
* 生年不明 - アンジュ・エマ、小説・アニメ『[[86-エイティシックス-]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_eightysix|1444138888780398592}}</ref>
* 生年不明 - 伊南栖羽、アニメ・漫画『[[刀使ノ巫女]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tojitomo|1443953864961581056}}</ref>
* 生年不明 - 立向居勇気、ゲーム・アニメ『[[イナズマイレブン]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/2/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=2 |accessdate=2022-10-13}}</ref>
* 生年不明 - 風沢そら、ゲーム・アニメ『[[アイカツ! (アニメ)|アイカツ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.aikatsu.net/02/character/10.html |title=風沢 そら |access-date=2022-12-10 |publisher=BNP/BANDAI, DENTSU, TV TOKYO |work=『アイカツ!』}}</ref><ref>{{Twitter status|aikatsu_dcd|1311839090489266177}}</ref><ref>[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]](企画・原作)、[[バンダイ]](原案)、サンライズ、バンダイ(監修)『アイカツ! アイドル名鑑』[[小学館]]、2014年、68頁。{{ISBN2|978-4-09-280501-9}}。</ref>
* 生年不明 - トニ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=109&cate=name&cont=Toni |title=トニ |access-date=2023-02-16 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 桜田千代、ゲーム・アニメ『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hachinai.com/character/sakurada |publisher=[[アカツキ (企業)|Akatsuki Inc.]] |title=桜田 千代 |accessdate=16 Feb 2023 |work=『八月のシンデレラナイン』}}</ref>
<!--
* 1940年 - ラウ・チェン、ゲーム『[[バーチャファイター]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 黒神めだか、漫画・アニメ『[[めだかボックス]]』の主人公
* 生年不明 - 真田信幸、漫画『[[SAMURAI DEEPER KYO]]』に登場するキャラクター
-->
=== 忌日(フィクション) ===
* 没年不明 - トマシーナ・アン・タッカートン 、小説『[[蒼ざめた馬 (アガサ・クリスティ)|蒼ざめた馬]]』の登場人物<ref>第2章の[[タイムズ]]の死亡欄</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
{{新暦365日|10|1|10|3|[[9月2日]]|[[11月2日]]|[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]|1002|10|02}}
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3,546 | 11月1日 | 11月1日(じゅういちがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から305日目(閏年では306日目)にあたり、年末まであと60日ある。 | [
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'''11月1日'''(じゅういちがつついたち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から305日目([[閏年]]では306日目)にあたり、年末まであと60日ある。
== できごと ==
[[ファイル:Chapelle sixtine2.jpg|thumb|180px|[[システィーナ礼拝堂]]の天井画公開(1512年)。[[1508年]]から足掛け4年ほどかかった]]
{{multiple image
| footer = [[豊臣秀吉]]が[[北野大茶湯]]を開催(1587)。参加者が振るわず、わずか1日で終了
| image1 = Toyotomi_Hideyoshi_c1598_Kodai-ji_Temple.png
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| alt1 = 秀吉
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| alt2 = 黄金の台子
}}
{{multiple image
| footer = 約6万人が犠牲になった[[リスボン地震 (1755年)|リスボン大地震]](1755)。復興を成し遂げた宰相[[ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ|セバスティアン・デ・カルヴァーリョ]]は[[啓蒙専制君主|啓蒙専制政治]]を引く
| image1 = 1755 Lisbon earthquake.jpg
| width1 = 130
| alt1 = リスボン地震
| image2 = O marques de pombal, conde de Oeiras.jpg
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| alt2 = カルヴァーリョ
}}
[[ファイル:Parliament Stamp Act1765.jpg|thumb|120px|[[イギリス]]による[[13植民地|アメリカ植民地]]への[[印紙税]](1765)。[[アメリカ独立戦争]]の一因]]
[[File:Sultanvahideddin.jpg|thumb|140px|[[トルコ]]、[[スルターン|スルタン]]制の廃止(1922)。[[ドルマバフチェ宮殿]]を去る[[メフメト6世]]]]
{{multiple image
| image1 = Yamanote Line 1925.jpg
| width1 = 110
| caption1 = [[山手線]]が環状運転を開始(1925)。画像は[[上野駅]]に進入する外回り電車
| alt1 = 山手線
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| caption2 =特急「[[あじあ (列車)|あじあ]]」運転開始(1934)。
| alt2 = あじあ
}}
[[File:IvyMike2.jpg|thumb|140px|[[アイビー作戦]](1952)。目標の[[エルゲラブ島]]が完全に破壊される]]
[[ファイル:Stone memorial in front of the entry to the Limburg Province government building in Maastricht, Netherlands, commemorating the signing of the Maastricht Treaty in February 1992.jpg|thumb|120px|[[マーストリヒト条約]]発効(1993)。[[欧州連合]] (EU) が正式発足]]
[[File:Yurikamome7300wiki.jpg|thumb|140px|[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]]開通(1995)]]
* [[1512年]] - [[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]による[[システィーナ礼拝堂]]の天井画が公開される。
* [[1587年]]([[天正]]15年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]])- [[北野天満宮]]で[[豊臣秀吉]]主催の[[茶会]][[北野大茶湯]]が行われる。
* [[1604年]] - [[ウィリアム・シェイクスピア]]の『[[オセロー|オセロ]]』が[[ロンドン]]にて初演。
* [[1611年]] - ウィリアム・シェイクスピアの『[[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]]』がロンドンにて初演。
* [[1612年]]([[ユリウス暦]][[10月22日]]) - [[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|ロシア・ポーランド戦争]]: [[ドミトリー・ポジャルスキー]]率いる[[ロシア]]国民軍が、[[ポーランド]]軍が占領する[[モスクワ]]を解放([[動乱時代]])。
* [[1755年]] - [[ポルトガル]]で[[リスボン地震 (1755年)|リスボン大地震]]が発生。[[津波]]と[[火災]]による死者10万人。
* [[1765年]] - [[イギリス]]議会が北米の植民地13州に対する[[印紙条例]]を可決。北米駐在のイギリス軍の費用調達のため。
* [[1790年]] - [[エドマンド・バーク]]が『[[フランス革命の省察]]』を出版。同書中で[[フランス革命]]が失敗に終わることを予言。
* [[1800年]] - 米大統領[[ジョン・アダムズ]]が大統領官邸(後の[[ホワイトハウス]])に入居。
* [[1805年]] - [[ナポレオン戦争]]・[[第三次対仏大同盟#1805年オーストリア戦役|1805年オーストリア戦役]]: [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]軍が[[オーストリア]]に侵攻。
* [[1873年]] - 東京・[[神田川 (東京都)|神田川]]の[[万世橋]]が竣工。
* 1880年 - 官設鉄道の全列車で日本人運転士が乗務開始。
* [[1890年]] - [[石川倉次]]の日本語の6点式[[点字]]が正式に採用される([[点字の日]])。
* [[1892年]] - [[黒岩涙香]]が『[[萬朝報]]』を創刊。
* [[1894年]](ユリウス暦[[10月20日]]) - [[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]が[[ロシア|帝政ロシア]]皇帝位を継承。
* 1894年 - 『[[ビルボード]]』誌の前身、『ビルボード・アドバタイジング』が創刊。
* [[1897年]] - [[東武鉄道]]創立。
* [[1911年]] - [[朝鮮]]・[[満洲国|満洲]]国境の[[鴨緑江]]に[[中朝友誼橋|鴨緑江橋梁]]が開通。[[京義線]]と[[南満洲鉄道|満鉄]][[瀋丹線|安奉線]]が接続される。
* [[1913年]] - 常総鉄道(現[[関東鉄道常総線]])[[取手駅]] - [[下館駅]]間開業。
* [[1914年]] - [[第一次世界大戦]]:[[コロネル沖海戦]]。
* 1914年 - 岩越線(現在の[[磐越西線]])・[[郡山駅 (福島県)|郡山]] - [[新津駅|新津]]が全通。[[東北本線]]・磐越西線経由で[[上野駅|上野]] - [[新潟駅|新潟]]の直通運転を開始。
* [[1916年]] - 第一次世界大戦: [[第九次イゾンツォの戦い]]。
* [[1920年]] - [[明治神宮]]創建。鎮座祭に群衆が殺到し、死傷者38人が生じる事故も発生<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p339 河出書房新社 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。
* [[1922年]] - [[トルコ革命]]: [[トルコ]]で[[トルコ大国民議会|大国民議会]]が[[スルターン|スルタン]]制の廃止を宣言。[[オスマン帝国]]が滅亡。
* [[1925年]] - [[神田駅 (東京都)|神田]] - [[上野駅|上野]]の高架線路が開通し、[[山手線]]が環状運転を開始。
* [[1928年]] - [[トルコ]]で、[[ラテン文字]]による現行の[[トルコ語]]表記法([[トルコ語アルファベット]])の使用が開始される。それまでは[[オスマン語のアラビア文字|アラビア文字]]を用いていた。
* 1928年 - [[ラジオ体操]]が放送開始。
* [[1930年]] - [[日比谷]]交差点に国内初の自動[[交通信号機|交通信号]]が登場(米国製)。
* 1930年 - [[名古屋市]]で市営[[電気バス]]登場。
* [[1934年]] - [[南満洲鉄道]]が[[特別急行列車|特急列車]]「[[あじあ (列車)|あじあ]]」の運行を開始。
* [[1935年]] - [[汪兆銘狙撃事件]]。
* 1935年 - [[思想犯保護観察法]]に基づき、全国15カ所に保護観察所および保護観察所出張所が設置される。以後、[[思想犯]]保護の名目<ref>転向者指導が狙う『東京日日新聞』昭和11年5月28日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p237 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>で[[言論弾圧]]が進められた。
* [[1938年]] - アメリカ合衆国の人気競走馬[[シービスケット]]対[[ウォーアドミラル]]の[[マッチレース]]が行われる。
* [[1939年]] - [[中勢鉄道]]([[三重県]])の列車(ガソリンカー)が脱線転覆する事故。死者2人、負傷者多数<ref>ガソリンカーが転覆、女学生ら死傷『伊勢新聞』(昭和14年11月2日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p743 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1940年]] - 日本海軍の戦艦「[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]」が進水。
* 1940年 - 日本統治下の[[南洋群島]]で[[南洋神社]]の鎮座式。
* [[1942年]] - [[フジサンケイ ビジネスアイ|日本工業新聞]]など[[西日本]]([[愛知県]]以西)の産業経済紙数社が合同して産業経済新聞(現・[[産経新聞]])が発刊。
* [[1943年]] - [[逓信省]]・[[鉄道省]]・[[商工省]]・[[企画院]]を廃止し、[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]・[[軍需省]]・[[農商務省 (日本)|農商省]]を設置。
* 1943年 - 節米を目的に全国主要駅の[[駅弁]]が一斉に芋弁当に切り替わる<ref>富山市史編纂委員会編『富山市史 第二編』(p1154)1960年4月 富山市史編纂委員会</ref>。
* [[1945年]] - [[朝鮮労働党]]の機関紙『[[労働新聞 (朝鮮労働党)|労働新聞]]』が創刊。
* 1945年 - [[オーストラリア]]が[[国際連合]]に加盟。
* 1945年 - [[日比谷公園]]にて[[餓死]]対策国民大会が開催。
* [[1946年]] - 京都・大阪で[[第1回国民体育大会]]秋季大会が開幕。
* [[1949年]] - 日本で、道路交通取締法改正により、歩行者は右側、車は左側の[[対面交通]]に。
* [[1950年]] - [[プエルトリコ]]の国家主義者2人により[[ハリー・S・トルーマン]]米大統領の暗殺未遂。
* 1950年 - ローマ教皇[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]が[[教皇不可謬説|教皇不可謬権]]を行使して[[聖母の被昇天]]を正式に[[カトリック教会|カトリック]]の教義として宣言。
* [[1952年]] - [[アイビー作戦]]: アメリカ合衆国が[[マーシャル諸島]][[エニウェトク環礁]]で人類初の[[水素爆弾|水爆]]実験。
* 1952年 - ラジオ静岡(現:[[静岡放送]])開局。
* [[1954年]] - [[アルジェリア民族解放戦線]]が一斉蜂起。[[アルジェリア戦争]]が始まる。
* [[1955年]] - [[ユナイテッド航空629便爆破事件]]。
* [[1957年]] - アメリカ[[ミシガン州]]の[[マキナック橋]]が完成。
* [[1958年]] - 東海道本線[[東京駅]] - [[大阪駅]]間で、[[日本国有鉄道|国鉄]]初の[[国鉄181系電車|電車特急]]「[[こだま (列車)#東海道本線電車特急「こだま」|こだま]]」が運転開始。
* 1958年 - [[静岡放送]]テレビジョン本放送を開始。
* [[1959年]] - [[国民年金法]]施行。
* 1959年 - [[琉球政府|琉球]]([[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ施政下の沖縄]])初のテレビ局・[[沖縄テレビ放送]] (OTV) 開局。
* 1959年 - [[アイスホッケー]]試合中に顔面を負傷した[[ゴールテンダー]]、{{仮リンク|ジャック・プランテ|en|Jacques Plante}}がマスクを装着して試合を続行。ホッケーマスクの始まり。
* [[1961年]] - [[国立国会図書館]]東京本館が開館。
* [[1963年]] - 南[[ベトナム]]大統領[[ゴ・ディン・ジエム]]が軍部のクーデターにより{{仮リンク|ゴ・ディン・ジエムの逮捕と暗殺|en|Arrest and assassination of Ngo Dinh Diem|label=暗殺}}される([[1963年ベトナム共和国の軍事クーデター]])。
* 1963年 - [[プエルトリコ]]に世界最大の[[電波望遠鏡]]・[[アレシボ天文台]]が開設。
* 1963年 - 従来の[[聖徳太子]]の肖像から[[伊藤博文]]にデザインを変更した新[[千円紙幣|千円札]](C号券)を発行。
* [[1965年]] - 国鉄が[[1965年10月1日・11月1日国鉄ダイヤ改正|ダイヤ改正]]実施。
* [[1966年]] - [[国立劇場]]が開場。
* [[1967年]] - [[東急百貨店本店]]([[渋谷区]][[道玄坂]])開店。
* 1967年 - [[八郎潟]]干拓地への入植開始。
* [[1968年]] - [[MPAA|米国映画業協会]]によるアメリカでの[[映画のレイティングシステム]]が開始。
* 1968年 - [[テレビ静岡]]が開局。
* [[1969年]] - 日本銀行券C号500円(岩倉新500円)が発行。
* [[1971年]] - 『[[テレビマガジン]]』創刊号発売。
* [[1973年]] - [[第一次オイルショック]]: [[トイレットペーパー騒動]]が発生。
* 1973年 - [[日本科学技術振興財団]]のテレビ事業本部を引き継ぐ形で、東京12チャンネル(現在の[[テレビ東京]])が発足。
* 1973年 - 日本教育テレビ(NETテレビ。現在の[[テレビ朝日]])が教育専門局から一般総合局に移行。
* 1973年 - [[読売ジャイアンツ]]が[[1973年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]を破り、史上初の[[V9 (読売ジャイアンツ)|9年連続日本一]]を達成。
* [[1974年]] - [[気象庁]]の[[アメダス]]が運用開始。
* [[1981年]] - [[アンティグア・バーブーダ]]が[[イギリス]]から独立。
* [[1984年]] - 日本の新[[日本銀行券|紙幣]]([[D号券]])が発行開始。[[一万円紙幣|一万円札]]は[[福澤諭吉|福沢諭吉]]、[[五千円紙幣|五千円札]]は[[新渡戸稲造]]、[[千円紙幣|千円札]]は[[夏目漱石]]の肖像。
* [[1986年]] - 国鉄最後となる大規模[[1986年11月1日国鉄ダイヤ改正|ダイヤ改正]]。
* [[1987年]] - 10年間開催が休止されていた[[日本グランプリ (4輪)|F1日本グランプリ]]が開催場所を[[鈴鹿サーキット]]に移して復活。
* [[1992年]] - [[ソニー]]が[[ミニディスク|MD]]プレーヤー1号機、MZ-1を発売。
* [[1993年]] - [[マーストリヒト条約]]が発効し、[[欧州共同体]] (EC) を元に[[欧州連合]] (EU) が正式発足。
* [[1995年]] - [[食糧管理法]]廃止。米の生産・流通・販売が自由化。
* 1995年 - [[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]](東京臨海新交通臨海線)の[[新橋駅]](仮駅) - [[有明駅 (東京都)|有明駅]]間が開業。
* 1995年 - [[東京メトロポリタンテレビジョン]] (TOKYO MX) 開局。
* 1995年 - [[V6 (グループ)|V6]]が[[MUSIC FOR THE PEOPLE]]でCDデビュー。
* [[1998年]] - [[欧州人権裁判所]]が常置化される。
* [[2000年]] - [[ユーゴスラビア連邦共和国|新ユーゴ]]が[[国際連合]]に加盟。後に代表権は[[セルビア・モンテネグロ]]、[[セルビア]]が継承。
* [[2002年]] - 軽自動車の[[字光式ナンバー]]の払い出しが全国で始まる。
* [[2004年]] - 日本の新紙幣([[E号券]])が発行開始。[[一万円札]]はD号券に引き続き福沢諭吉、[[五千円札]]は[[樋口一葉]]、[[千円札]]は[[野口英世]]の肖像。
* [[2006年]] - [[国際自由労働組合総連盟]](国際自由労連)と国際労連が合併、[[国際労働組合総連合]] (ITUC) を結成。
* [[2007年]] - 改正[[少年法]]が施行。[[少年院]]送致の対象年齢が「14歳以上」から「おおむね12歳以上」へ引き下げられる。
* 2007年 - [[中日ドラゴンズ]]が53年ぶりの日本一を達成。この試合で[[山井大介]]と[[岩瀬仁紀]]の継投による[[完全試合]]となる([[2007年日本シリーズ完全試合リレー]])。
* 2007年 - [[Folding@home]]が1PFLOPS超えにより、世界一強力な分散コンピューティングネットワークとして、[[ギネス世界記録|ギネス]]に認定されたと報じられる。
* [[2008年]] - [[任天堂]]の携帯型ゲーム機、[[ニンテンドーDSi]]が日本国内で発売。
* [[2009年]] - [[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]: アメリカの[[CITグループ]]が[[連邦倒産法第11章]]の適用を申請して破綻。
* 2009年 - [[アラブ首長国連邦]]の[[アブダビ]]で[[フォーミュラ1|F1レース]]の[[アブダビグランプリ]]が初開催。
* 2009年 - [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]が日本で[[PlayStation Portable go]]を発売。
* [[2014年]] - この日をもってインドが[[カルナータカ州]]の州都バンガロール([[英語]]のBangalore)の都市名の[[ベンガルール]]([[カンナダ語]]: ಬೆಂಗಳೂರು)への改称を認可<ref name="Bangalore, Mysore, Other Karnataka Cities to be Renamed on 1 November">"{{Cite web |url=http://www.ibtimes.co.in/bangalore-mysore-other-karnataka-cities-be-renamed-1-november-611683 |newspaper=International Business Times |title=Bangalore, Mysore, Other Karnataka Cities to be Renamed on 1 November |accessdate=2023-02-11 |date=18 Oct 2014 |language=En}}</ref>。
* [[2017年]] - 日本で[[第195回国会|第195特別国会]]が召集され<ref>{{Cite web|和書 |date=2017-11-01 |url=https://mainichi.jp/articles/20171102/k00/00m/010/137000c |title=特別国会:会期39日間 野党、準備不足で力量問われる |publisher=[[毎日新聞]] |accessdate=2023-02-11}}</ref>、[[第48回衆議院議員総選挙]]で当選した465名が正式に衆議院議員に就任。[[第4次安倍内閣]]も発足<ref name="sankei_plt1711010049">{{Cite web|和書 |date=2017-11-01 |url=https://www.sankei.com/article/20171101-FMYYJU57GVJV7AGTTHGSCONOSY/ |title=第4次安倍内閣が発足 「安保環境最も厳しい」対北圧力「最大限高める」 補正予算案編成指示 特別国会は来月9日まで(1/2ページ) |work=産経ニュース |publisher=[[産経新聞]] |accessdate=2023-02-11}}</ref>。
*[[2021年]] - 日本で3代目となる[[五百円硬貨|500円硬貨]]([[バイメタル貨|バイカラー]][[クラッド貨幣]])が発行開始。素材のバイメタル技術に、縁の異形斜めギザ、表面の一部に微細文字を施し、偽造抵抗力をより強化した。
*2021年 - [[V6 (グループ)|V6]]がこの日行われたコンサートツアーのファイナル公演をもって解散。26年の活動に終止符を打つ。
<!--
=== 日本の自治体改編 ===
* [[1919年]] - 兵庫県[[明石市]]が市制施行。
* [[1921年]] - 山口県[[宇部市]]が市制施行。
* [[1922年]] - 大阪府[[岸和田市]]が市制施行。
* [[1936年]] - 岐阜県[[高山市]]が市制施行。
* [[1946年]] - 大阪府[[守口市]]が市制施行。
* [[1954年]] - 山形県[[村山市]]、茨城県[[勝田市]](現在の[[ひたちなか市]])、新潟県新井市(現在の[[妙高市]])、三重県[[鳥羽市]]が市制施行、愛媛県[[伊予三島市]](現在の[[四国中央市]])・[[川之江市]](同)が市制施行。
* [[1958年]] - 栃木県[[矢板市]]、群馬県[[安中市]]、埼玉県[[草加市]]、愛知県[[稲沢市]]・[[新城市]]、愛媛県[[北条市]](現在の[[松山市]])、福岡県[[中間市]]、宮崎県[[西都市]]が市制施行。
* [[1966年]] - 埼玉県[[入間市]]、大阪府[[摂津市]]・[[高石市]]・[[藤井寺市]]が市制施行。
* [[1970年]] - 北海道[[恵庭市]]、栃木県[[黒磯市]](現在の[[那須塩原市]])、埼玉県[[新座市]]、新潟県[[豊栄市]](現在の[[新潟市]])、山口県[[新南陽市]](現在の[[周南市]])が市制施行。
* [[1971年]] - 北海道[[亀田市]](現在は[[函館市]]の一部)、宮城県[[岩沼市]]・[[泉市]](現在は[[仙台市]]泉区)・[[多賀城市]]、東京都[[多摩市]]・[[稲城市]]、神奈川県[[海老名市]]・[[座間市]]、奈良県[[生駒市]]が市制施行。
* [[1977年]] - 京都府[[八幡市]]が市制施行。
* [[1978年]] - 神奈川県[[綾瀬市]]が市制施行。
* [[1991年]] - 東京都[[羽村市]]が市制施行。
* [[1994年]] - 茨城県[[那珂湊市]]と[[勝田市]]が合併して[[ひたちなか市]]になる。
* [[2004年]] - 山梨県[[北杜市]]、新潟県[[魚沼市]]・[[南魚沼市]]、富山県[[南砺市]]、兵庫県[[丹波市]]、岡山県[[瀬戸内市]]、広島県[[江田島市]]が市制施行。
* 2004年 - 島根県[[大原郡]][[木次町]]、[[加茂町 (島根県)|加茂町]]、[[大東町 (島根県)|大東町]]、[[飯石郡]][[三刀屋町]]、[[掛合町]]、[[吉田村 (島根県)|吉田村]]が合併して[[雲南市]]になる。
* 2004年 - 三重県[[上野市]]と5町村が合併して[[伊賀市]]になる。
* [[2005年]] - 岩手県[[和賀郡]][[湯田町]]と同郡[[沢内村]]が合併して和賀郡[[西和賀町]]に、富山県[[新湊市]]と[[射水郡]]の全町村が合併して[[射水市]]に、山梨県[[塩山市]]ほか2町村が合併して[[甲州市]]になる。
* [[2008年]] - 鹿児島県[[大口市]]と[[伊佐郡]][[菱刈町]]が合併して[[伊佐市]]になる。-->
== 誕生日 ==
[[ファイル:AntonioCanova PsycheRevivedByCupidsKiss.JPG|thumb|[[イタリア]][[新古典主義]]を代表する[[彫刻家]]、[[アントニオ・カノーヴァ]](1757-1822)誕生。画像は『アモルの接吻で蘇るプシュケ』(1777)|293x293ピクセル]]
[[ファイル:Elizaveta Federovna.gif|サムネイル|[[ロシア大公女・大公妃一覧|ロシア大公妃]]、[[新致命者]]、[[エリザヴェータ・フョードロヴナ]](1864〜1918)誕生]]
[[ファイル:Carlos Saavedra Lamas.jpg|thumb|297x297px|[[チャコ戦争]]の調停で[[ノーベル平和賞]]を受賞した[[アルゼンチン]]の学者にして政治家、[[カルロス・サアベドラ・ラマス]](1878-1959)誕生]]
[[ファイル:Alfred Wegener ca.1924-30.jpg|thumb|266x266px|[[大陸移動説]]を提唱した[[ドイツ]]の[[気象学者]]、[[アルフレート・ヴェーゲナー]](1880-1930)誕生]]
* [[1287年]] - [[ナスル (ナスル朝)|ナスル]]、[[ナスル朝]][[スルターン]](+ [[1322年]])
* [[1596年]] - [[ピエトロ・ダ・コルトーナ]]<ref>{{Cite web |title=Pietro da Cortona |url=https://www.britannica.com/biography/Pietro-da-Cortona |access-date=2023-02-11 |language=en |publisher=Britannica}}</ref>、[[画家]]、[[建築家]](+ [[1669年]])
* [[1757年]] - [[アントニオ・カノーヴァ]]、[[彫刻家]](+ [[1822年]])
* [[1761年]] - [[スペンサー・パーシヴァル]]、[[政治家]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[1812年]])
* [[1778年]] - [[グスタフ4世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ4世アドルフ]]、[[スウェーデン|スウェーデン王]](+ [[1837年]])
* [[1782年]] - [[ゴドリッチ子爵]][[フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)|フレデリック・ジョン・ロビンソン]]、政治家、イギリス首相(+ [[1859年]])
* [[1852年]]([[嘉永]]5年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]) - [[本因坊秀栄]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](+ [[1907年]])
* [[1858年]] - [[ジョセフ・ティレル]]、[[地質学者]]、[[古生物学者]](+ [[1957年]])
* [[1864年]] - [[エリザヴェータ・フョードロヴナ]]、[[ロシア大公女・大公妃一覧|ロシア大公妃]]、[[新致命者]](+ [[1918年]])
* [[1871年]] - [[スティーヴン・クレイン]]、[[小説家]]、[[詩人]](+ [[1900年]])
* [[1878年]] - [[カルロス・サアベドラ・ラマス]]、政治家、学者、[[ノーベル平和賞]]受賞者(+ [[1959年|1959]][[1959年|年]])
* [[1880年]] - [[アルフレート・ヴェーゲナー]]、気象学者(+ [[1930年]])
* 1880年 - [[ショーレム・アッシュ]]、作家(+ [[1957年]])
* [[1886年]] - [[萩原朔太郎]]、詩人(+ [[1942年]])
* 1886年 - [[ヘルマン・ブロッホ]]、[[小説家]]、[[劇作家]]、[[評論家]](+ [[1951年]])
* [[1889年]] - [[ハンナ・ヘッヒ]]、[[ダダイスム|ダダイスト]](+ [[1978年]])
* [[1891年]] - [[ヤン・ムカジョフスキー]]、[[美学者]]、[[文学者]]、[[言語学|言語学者]](+ [[1975年]])
* [[1895年]] - [[池田遙邨]]、[[画家]](+ [[1988年]])
* [[1896年]] - [[石本秀一]]、元[[プロ野球監督]](+ [[1982年]])
* 1896年 - [[エドマンド・ブランデン]]、詩人(+ [[1974年]])
* [[1902年]] - [[オイゲン・ヨッフム]]、[[指揮者]](+ [[1987年]])
* [[1903年]] - [[ジャン・タルデュー]]、[[詩人]]、[[劇作家]](+ [[1995年]])
* [[ファイル:Hagiwara Sakutaro.jpg|サムネイル|日本の口語自由詩を確立した[[詩人]]、萩原朔太郎(1886-1942)誕生]][[1906年]] - [[西園寺公一]]、政治家(+ [[1993年]])
* [[1913年]] - [[戸田吉蔵]]、プロ野球選手(+ [[1986年]])
* 1913年 - [[三浦淳史]]、音楽評論家(+[[1997年]])
* [[1917年]] - [[エーリッヒ・ルドルファー]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](+ [[2016年]])
* [[1919年]] - [[佐治敬三]]、[[サントリー]]元会長(+ [[1999年]])
* [[1923年]] - [[ビクトリア・デ・ロス・アンヘレス]]、[[ソプラノ]][[歌手]](+ [[2005年]])
* [[1924年]] - [[太田美實]]、[[医師]]、[[馬主]](+ [[2015年]]<ref>{{Cite web|和書 |title=ダービー馬Wチケットなど所有、馬主の太田美實氏が死去… |url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2015/01/18/kiji/K20150118009647620.html |website=Sponichi Annex |access-date=2023-02-11 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=2015-01-18}}</ref>)
* 1924年 - [[スュレイマン・デミレル]]、政治家、トルコ首相、大統領(+ [[2015年]])
* 1924年 - [[バジル・バーンステイン]]、[[社会学|社会学者]]、言語学者(+ [[2000年]])
* [[1927年]] - [[島美弥子]]、[[俳優|女優]]、[[声優]]
* 1927年 - [[ビクター・ペロット]] ([[:en:Victor Pellot|Victor Pellot]])、元プロ野球選手(+ [[2005年]])
* [[1931年]] - [[いかりや長介]]、[[お笑いタレント]]([[ザ・ドリフターズ]])、俳優(+ [[2004年]])
* 1931年 - [[大村崑]]、俳優
* 1931年 - [[菊池俊輔]]、[[作曲家]](+ [[2021年]]<ref>{{Cite web|和書 |title=作曲家・菊池俊輔さん、誤嚥性肺炎で死去 89歳 『ドラえもんのうた』『仮面ライダー』など手掛ける |url=https://www.oricon.co.jp/news/2191950/full/ |website=[[オリコン|ORICON NEWS]] |access-date=2023-02-11 |date=2021-04-28}}</ref>)
* [[1932年]] - [[伊藤四郎]]、元プロ野球選手(+ [[2011年]])
* 1932年 - [[大神武俊]]、元プロ野球選手(+ [[2003年]])
*
* [[1935年]] - [[エドワード・サイード]]、文学研究者(+ [[2003年]])
* [[ファイル:Poster of Edward Said.jpg|thumb|220x220px|著書『[[オリエンタリズム (サイード)|オリエンタリズム]]』で[[ポストコロニアル理論]]を打ち立てた[[パレスチナ]]系[[アメリカ人]]の文学批評家、[[エドワード・サイード]](1935-2003)誕生]]1935年 - [[ゲーリー・プレーヤー]]、ゴルファー
* 1935年 - [[水原弘]]、歌手(+ [[1978年]])
* 1935年 - [[アンジェイ・チャイコフスキ]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[1982年]])
* [[1936年]] - [[亀井静香]]、政治家
* 1936年 - [[服部克久]]、作曲家、[[編曲家]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/06/11/kiji/20200611s00041000300000c.html |title=作曲家の服部克久さん死去 83歳 テレビ創生期から活躍「ミュージックフェア」など手掛ける |access-date=2023-02-11 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex}}</ref>)
* [[1937年]] - [[広島尚保]]、元プロ野球選手
* 1937年 - [[土井豊]]、元プロ野球選手
* 1937年 - [[牧野圭一]]、[[漫画家]](+ [[2022年]])
* 1937年 - [[赤井勝利]]、元プロ野球選手
* [[1941年]] - [[目片信]]、政治家(+ [[2020年]])
* [[1943年]] - [[逢坂剛]]、[[推理作家]]
* 1943年 - [[サルヴァトール・アダモ]]、作曲家、歌手[[ファイル:Salvatore Adamo.jpg|thumb|293x293px|[[イタリア]]出身の[[ベルギー]]人[[歌手]]、[[サルヴァトール・アダモ]](1943-)誕生。代表曲『[[雪が降る]]』は日本でもヒットした]]
*1943年 - [[ジャック・アタリ]]、 [[経済学者]]、政治顧問
* [[1944年]] - [[池田隆一]]、[[政治家]]
* [[1945年]] - [[矢吹健]]、歌手(+ [[2015年]])
* 1945年 - [[はす池均|𨂊池均]]、[[プロ野球審判員]](+ [[2008年]])
* [[1947年]] - [[一ノ瀬泰造]]、写真家(+ [[1973年]])
* 1947年 - [[廣重毅]]、[[空手家]](+ [[2018年]])
* [[1949年]] - [[上林成行]]、元プロ野球選手
* [[1950年]] - [[西口久美子]]、歌手、女優、タレント(元[[青い三角定規]])
* 1950年 - [[ミッチ・ケイパー]]、[[実業家]]、[[プログラマ]]
* 1950年 - [[越阪部豊]]、元プロ野球選手
* [[1951年]] - [[今陽子]]、歌手、女優
* 1951年 - [[千野秀一]]、キーボード奏者、作曲家
* 1951年 - [[桂春若]]、落語家
* [[1952年]] - [[島本講平]]、元プロ野球選手
* 1952年 - [[九十九一]]、お笑い芸人、俳優、脚本家
* [[1953年]] - [[阿川佐和子]]、[[エッセイスト]]、タレント
* 1953年 - [[ジーン・ダットサン]]、元プロ野球選手
* 1953年 - [[石丸謙二郎]]、俳優
* 1953年 - [[ボー・ジョック]]、[[アコーディオン]]奏者、歌手(+ [[1999年]])
* [[1954年]] - [[深澤祐二]]、実業家
* [[1956年]] - [[ラルフ・イーザウ]]、[[ファンタジー]]作家
* 1956年 - [[今井譲二]]、元プロ野球選手
* 1956年 - [[松田浩平]]、[[心理学者]]
* [[1958年]] - [[ジョン・カビラ]]、タレント
* [[1959年]] - [[原えりこ]]、声優
* 1959年 - [[田城郁]]、政治家
* 1959年 - [[奥谷彰男]]、サッカー[[審判員 (サッカー)|審判員]]
* [[1960年]] - [[フェルナンド・バレンズエラ]]、元プロ野球選手
* 1960年 - [[国本武春]]、[[浪曲師]](+ [[2015年]])
* [[1961年]] - [[中村弘道]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[アン・ドノバン]]、バスケットボール選手、指導者
* [[1962年]] - [[アンソニー・キーディス]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[レッド・ホット・チリ・ペッパーズ]])
* 1962年 - [[マグネ・フルホルメン]]、ミュージシャン([[a-ha]])
* 1962年 - [[みやすのんき]]、漫画家
* [[1963年]] - [[かの香織]]、ミュージシャン
* 1963年 - [[リック・アレン]]、[[ドラマー]]([[デフ・レパード]])
* 1963年 - [[荒多惠子]]、写真家
* [[1964年]] - [[西原理恵子]]、漫画家
* [[1965年]] - [[IKUZONE]]、ミュージシャン([[Dragon Ash]])(+ [[2012年]])
* [[1966年]] - [[山口貴由]]、漫画家
* 1966年 - [[インゴ・シュトイアー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1968年]] - [[河本栄得]]、お笑い芸人([[ベイブルース]])(+ [[1994年]])
* [[1970年]] - [[内山佳子]]、[[札幌テレビ放送]][[アナウンサー]]
* 1970年 - [[白川悟実]]、お笑いタレント([[テンダラー]])
* 1970年 - [[ミシェル・トゥームス]]、[[シンガー・ソングライター]]、[[ピアニスト]]
* [[1971年]] - [[アレクセイ・ティホノフ]]、フィギュアスケート選手
* [[1972年]] - [[古内東子]]、シンガーソングライター
* 1972年 - [[トニ・コレット]]、女優
* 1972年 - [[矢薙直樹]]、声優
* [[1973年]] - [[中嶋潤一郎]]、[[ジャグラー]]
* 1973年 - [[アイシュワリヤー・ラーイ]]、女優、モデル
* 1973年 - [[上野優作]]、[[サッカー選手]]
* 1973年 - [[李小双]]、元体操選手
* [[1974年]] - [[高島宗一郎]]、政治家、元アナウンサー
* 1974年 - [[フローラン・ダバディ]]、[[編集者]]、[[評論家]]
* 1974年 - [[ライアン・グリン]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[筒井壮]]、元プロ野球選手
* [[1975年]] - [[楠原千秋]]、ビーチバレーボール選手
* 1975年 - [[メーガン・ウィング]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1977年]] - [[池内友彦]]、元サッカー選手
* 1977年 - [[鈴木ともこ]]、[[エッセイスト]]、漫画家
* 1977年 - [[木川絵理子]]<ref>{{Cite book|和書|title=日本音声製作者名鑑2007|page=167|publisher=[[小学館]]|year=2007|isbn=978-4-09-526302-1}}</ref>、声優
* [[1979年]] - [[榎本温子]]、声優
* 1979年 - [[藤田太陽]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[ココ・クリスプ]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[河野友軌]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[永井ゆうじ]]、漫画家
* [[1981年]] - [[小久保淳平]]、歌手
* 1981年 - [[奥田絢子]]、歌手
* [[1982年]] - [[全美貞]]、[[プロゴルファー]]
* [[1983年]] - [[小倉優子]]、[[タレント]]
* 1983年 - [[須藤温子]]、女優
* 1983年 - [[SoulJa]]、ミュージシャン
* 1983年 - [[スティーブ・トールソン]]、プロ野球選手
* [[1984年]] - [[仁科仁美]]、タレント
* 1984年 - [[スティーブン・ボート]]、プロ野球選手
* 1984年 - [[森麻貴]]、グラビアアイドル
* [[1986年]] - [[丸山未沙希]]、声優
* 1986年 - [[ライナー・クルーズ]]、プロ野球選手
* [[1987年]] - [[張田昂]]、[[騎手]]
* 1987年 - [[アンソニー・バス]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[福原愛]]、元[[卓球]]選手
[[ファイル:Ai Fukuhara at Table Tennis Pro Tour Grand Finals 2011.jpg|サムネイル|元[[卓球]]選手、[[福原愛]](1988- )誕生]]
* 1988年 - [[田中将大]]、プロ野球選手
[[ファイル:Masahiro Tanaka on August 4, 2015.jpg|サムネイル|[[プロ野球]]選手、[[田中将大]](1988- )誕生]]
* 1988年 - [[新井章太]]、サッカー選手
* 1988年 - [[石田政博]]、俳優、YouTuber
* [[1989年]] - [[諸塚香奈実]]、タレント(元[[チャオ ベッラ チンクエッティ]])
* 1989年 - [[上野巴恵]]、柔道家
* 1989年 - [[半田渚]]、元[[野球選手]]
* [[1990年]] - [[杉山晃紀]]、元プロ野球選手
* 1990年 - [[舛ノ山大晴]]、元大相撲力士
* 1990年 - [[ゆりやんレトリィバァ]]、お笑い芸人
* 1990年 - [[杉山仁]]、タレント(元[[PrizmaX]])
* 1990年 - [[和田晃一良]]、実業家
* 1990年 - [[ジェフリー・モク]]、タレント
* [[1991年]] - [[碇由貴子]]、女優
* 1991年 - [[橋本汰斗]]、俳優
* 1991年 - [[中野省吾]]、騎手
* [[1992年]] - [[磯村嘉孝]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[青山誠]]、元プロ野球選手
* 1991年 - [[高橋寛太]]、サッカー選手
* 1992年 - [[白洲迅]]、俳優
* [[1993年]] - [[伊藤大海 (アナウンサー)|伊藤大海]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー
* 1993年 - [[新井千鶴]]、柔道家
* 1993年 - 三方優加<ref>{{Cite web|和書 |url=https://profile.ameba.jp/ameba/yuuka-mikata |title=三方優加 |access-date=31 May 2023 |format=三方優加オフィシャルブログ}}</ref>、アイドル
* [[1995年]] - [[百川晴香]]、歌手、[[アイドル]](元[[全力少女R]]、Bety)
* 1995年 - [[マルガリータ・マムン]]、新体操選手
* [[1996年]] - [[江野沢愛美]]、ファッションモデル、女優
* 1996年 - [[ジョンヨン]]、アイドル([[TWICE (韓国の音楽グループ)|TWICE]])
* 1996年 - [[キム・ミンジェ (1996年生の俳優)|キム・ミンジェ]]、俳優
* 1996年 - [[リル・ピープ]]、ラッパー、シンガーソングライター
* [[1997年]] - [[吉田伊吹]]、サッカー選手
* 1997年 - [[伊澤星花]]、[[総合格闘家]]
* 1997年 - [[浦野雄平]]、陸上選手
* [[1998年]] - [[工藤あかり]]、女優
* [[1999年]] - [[渡辺みり愛]]、女優、元歌手、元アイドル([[乃木坂46|元乃木坂46]])
* [[2000年]] - [[加藤心]](ココロ)、アイドル([[ME:I]]・元[[Cherry Bullet]])
* [[2003年]] - [[春日香音]]、女優
* 2003年 - ピンクレディ、アイドル([[りんご娘]])
* 2006年 - [[田仲れい]]、アイドル、女優
* [[2009年]] - [[星乃あんな]]、モデル
* 生年不明 - [[虎渡瑞季]]、声優
* 生年不明 - [[増田雄市]]、声優
* 生年不明 - [[西田雅一]]、声優
== 忌日 ==
=== 人物 ===
[[File:Gigant.jpg|thumb|160px|<small>[[マニエリスム]]芸術の巨匠たる[[建築家]]にして[[画家]]、[[ジュリオ・ロマーノ]](1499-1546)没。画像の《巨人の間壁画》(1532-35) がある[[:en:Palazzo del Te|パラッツォ・デル・テ]]は設計、建築、装飾すべてを手掛けた</small>]]
[[ファイル:Carlos II; Koning van Spanje.jpg|thumb|120px|[[スペイン・ハプスブルク朝]]最後の王、[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]](1661-1700)没。病弱で[[知的障害]]もあり、黄金時代の終焉を象徴した]]
[[ファイル:Grave of Tokugawa Muneharu.jpg|thumb|120px|[[徳川吉宗]]に対抗して開放政策を行った第7代[[尾張藩|尾張藩主]]、[[徳川宗春]](1696-1764)没。[[1739年]]から約25年間、隠居謹慎の身であった]]
{{multiple image
| footer = [[安政の大獄]]により刑死した思想家たち
| image1 = 頼三樹三郎墓.JPG
| width1 = 100
| caption1 = [[頼三樹三郎]](1825-1859)
| alt1 = 頼三樹三郎の墓
| image2 = Grave of Sanai Hashimoto.jpg
| width2 = 100
| caption2 = [[橋本左内]](1834-1859)
| alt2 = 橋本左内の墓
}}
[[ファイル:Baba Tatsui.jpg|thumb|120px|[[自由民権運動]]の論客、[[馬場辰猪]](1850-1888)、亡命先の[[アメリカ合衆国]]で客死]]
[[ファイル:Γεώργιος Α. Παπανδρέου 1.jpg|thumb|120px|[[ギリシャの首相|ギリシャ首相]]を3期務めた、[[ゲオルギオス・パパンドレウ]](1888-1968)、クーデターによって自宅軟禁中に死去。息子{{仮リンク|アンドレアス・パパンドレウ|label=アンドレアス|en|Andreas_Papandreou}}、孫の[[ゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウ|ジョルゴス]]も首相となる]]
{{multiple image
| image1 = King Vidor Film Daily 1919.png
| width1 = 100
| caption1 = 映画『[[戦争と平和 (1956年の映画)|戦争と平和]]』を手掛けた[[アメリカ合衆国]]の[[映画監督]]、[[キング・ヴィダー]](1894-1982)没
| alt1 = ヴィダー
| image2 = Seven Samurai poster2.jpg
| width2 = 100
| caption2 = 『[[七人の侍]]』林田平八役など、[[黒澤明]]作品の常連[[俳優]]、[[千秋実]](1917-1999)没
| alt2 = 千秋実
}}
* [[1038年]] - [[ヘルマン1世 (マイセン辺境伯)|ヘルマン1世]]、[[マイセン辺境伯]](* [[980年]]頃)
* [[1187年]]([[文治]]3年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]])- [[大中臣親隆]]、[[伊勢神宮]][[祭主]](* [[1105年]])
* [[1243年]]([[寛元]]元年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]])- [[大炊御門麗子]]、[[土御門天皇]][[中宮]](* [[1185年]])
* [[1456年]] - [[エドマンド・テューダー (リッチモンド伯)|エドマンド・テューダー]]、[[リッチモンド伯]](* [[1430年]])
* [[1457年]] - [[フランチェスコ・フォスカリ]]、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の[[ドージェ]](* [[1373年]])
* [[1463年]] - [[ダヴィド (トレビゾンド皇帝)|ダヴィド]]、[[トレビゾンド帝国|トレビゾンド皇帝]]
* [[1517年]]([[永正]]14年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]])- [[鷹司政平]]、[[室町時代]]の[[公卿]](* [[1415年]])
* [[1546年]] - [[ジュリオ・ロマーノ]]、[[画家]](* [[1499年]]?)
* [[1588年]] - [[ジャン・ドラ]]、[[人文主義者]]、[[詩人]](* [[1508年]])
* [[1606年]]([[慶長]]11年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]])- [[桑山重晴]]、[[武将|戦国武将]](* [[1524年]]?)
* [[1629年]] - [[ヘンドリック・テル・ブルッヘン]]、画家(* [[1588年]])
* [[1700年]] - [[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]、[[スペイン君主一覧|スペイン王]](* [[1661年]])
* [[1715年]]([[正徳 (日本)|正徳]]5年[[10月6日 (旧暦)|10月6日]]) - [[渋川春海]]、[[天文学者|天文暦学者]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1639年]])
* [[1723年]]([[享保]]8年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]])- [[今井似閑]]、[[国学者]](* [[1657年]])
* [[1724年]](享保9年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]])- [[松平清武]]、[[館林藩|館林藩主]](* [[1663年]])
* [[1764年]]([[明和]]元年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]])- [[徳川宗春]]<ref>『御系譜』『系譜』(共に名古屋叢書三編)第一巻所収</ref>、第7代[[尾張藩|尾張藩主]](* [[1696年]])
* [[1787年]]([[天明]]7年[[9月22日 (旧暦)|9月22日]])- [[九条尚実]]、[[江戸時代]]の公卿(* [[1717年]])
* [[1801年]]([[享和]]元年[[9月25日 (旧暦)|9月25日]])- 尊信女王、江戸時代の[[皇族]](* [[1734年]])
* [[1818年]] - [[マリー=ガブリエル・カペ]]、[[画家]](* [[1761年]])
* [[1823年]]([[文政]]6年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]])- [[小笠原長昌]]、[[唐津藩|唐津藩主]](* [[1796年]])
* [[1852年]] - [[マクシミリアン・ド・ボアルネ]]、ロイヒテンベルク公(* [[1817年]])
* [[1859年]]([[安政]]6年[[10月7日 (旧暦)|10月7日]])- [[飯泉喜内]]、[[土浦藩|土浦藩士]](* [[1805年]])
* 1859年(安政6年10月7日)- [[頼三樹三郎]]、[[儒学者]](* [[1825年]])
* 1859年(安政6年10月7日)- [[橋本左内]]、[[福井藩|福井藩士]](* [[1834年]])
* [[1877年]] - [[オリヴァー・ハザード・ペリー・スロック・モートン]]、第14代[[インディアナ州知事]](* [[1823年]])
* [[1888年]] - [[馬場辰猪]]、[[自由民権運動]]の政論家(* [[1850年]])
* [[1893年]] - [[ヤン・マテイコ]]、画家(* [[1838年]])
* [[1894年]] - [[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]、[[ロシア帝国|ロシア]][[ツァーリ|皇帝]](* [[1845年]])
* [[1903年]] - [[テオドール・モムゼン]]、[[歴史家]](* [[1817年]])
* [[1907年]] - [[アルフレッド・ジャリ]]、[[小説家]](* [[1873年]])
* [[1908年]] - [[エドワード・ケアード]]、[[哲学|哲学者]](* [[1835年]])
* [[1910年]] - [[玉置半右衛門]]、[[実業家]](* [[1838年]])
* [[1914年]] - [[クリストファー・クラドック]]、[[イギリス海軍]]の[[少将]](* [[1862年]])
* [[1916年]] - [[李人稙]]、小説家(* 1862年)
* [[1919年]] - [[釈宗演]]、[[臨済宗]]の[[僧]](* [[1860年]])
* [[1925年]] - [[朴殷植]]、[[大韓民国臨時政府]]大統領(* [[1859年]])
* [[1927年]] - [[横井時敬]]、[[農学|農学者]](* [[1860年]])
* [[1938年]] - [[岩佐銈]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1878年]])
* [[1942年]] - [[フーゴー・ディストラー]]、[[作曲家]](* [[1908年]])
* [[1948年]] - [[曾我廼家五郎]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]](* [[1877年]])
* [[1955年]] - [[デール・カーネギー]]、作家(* [[1888年]])
* [[1956年]] - [[ピエトロ・バドリオ]]、[[イタリア王国|イタリア首相]](* [[1871年]])
* [[1959年]] - [[張景恵]]、[[満洲国]][[国務総理大臣]](* [[1871年]])
* [[1962年]] - [[信夫淳平]]、[[法学者]](* [[1871年]])
* 1962年 - [[リカルド・ロドリゲス (レーサー)|リカルド・ロドリゲス]]、[[F1ドライバー]](* [[1942年]])
* [[1968年]] - [[ルドビカ・ヤコブソン]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1884年]])
* 1968年 - [[ゲオルギオス・パパンドレウ]]、[[ギリシャの首相|ギリシャ首相]](* [[1888年]])
* [[1972年]] - [[エズラ・パウンド]]、[[詩人]](* [[1885年]])
* 1972年 - [[ロバート・マッカーサー]]、[[生態学|生態学者]](* [[1930年]])
* [[1973年]] - [[鶴見祐輔]]、[[厚生大臣]](* 1885年)
* [[1974年]] - [[南条徳男]]、[[弁護士]]、[[政治家]](* [[1895年]])
* [[1975年]] - 出井盛之、[[経済学博士]](* [[1892年]])
* [[1979年]] - [[堀切善次郎]]、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]](* [[1884年]])
* 1979年 - [[マミー・アイゼンハワー]]、[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]第34代[[アメリカ合衆国大統領]]の妻(* [[1896年]])
* [[1982年]] - [[キング・ヴィダー]]、[[映画監督]](* [[1894年]])
* 1982年 - [[桜井純]]、[[物理学者]](* [[1933年]])
* [[1983年]] - [[アントニー・ヴァン・ホーボーケン]]、[[音楽学者]](* [[1887年]])
* 1983年 - [[北島正元]]、[[歴史学者]](* [[1912年]])
* [[1984年]] - [[マルセル・モイーズ]]、[[フルート]]奏者(* [[1889年]])
* [[1985年]] - [[リュシアン・ミシャール]]、[[自転車競技]]選手(* [[1903年]])
* 1985年 - [[大内山平吉]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1926年]])
* [[1991年]] - [[デニス・ベネット]]、[[キリスト教]][[カリスマ運動]]指導者(* [[1917年]])
* [[1992年]] - [[カール・ドイッチュ]]、[[政治学者]](* [[1912年]])
* [[1993年]] - [[セベロ・オチョア]]、[[生化学|生化学者]](* [[1905年]])
* [[1994年]] - [[高原滋夫]]、[[医学者]](* [[1908年]])
* [[1995年]] - [[エリカ・モリーニ]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1904年]])
* [[1997年]] - [[小坂一也]]、[[俳優]]、[[歌手]](* [[1935年]])
* [[1999年]] - [[千秋実]]、俳優(* [[1917年]])
* 1999年 - [[ウォルター・ペイトン]]、アメリカンフットボール選手(* [[1954年]])
* [[2000年]] - [[スティーヴン・ランシマン]]、[[歴史家]](* [[1903年]])
* [[2003年]] - [[ジョージ川口]]、[[ジャズ]][[ドラマー]](* [[1927年]])
* 2003年 - [[吉村大志郎]](ネルソン吉村)、[[サッカー]]選手、指導者(* [[1947年]])
* 2003年 - [[吉田治美]]、[[アナウンサー]]、[[タレント]](* [[1950年]])
* [[2004年]] - [[白井浩司]]、仏文学者(* [[1917年]])
* [[2005年]] - [[虎島和夫]]、政治家、[[防衛庁長官]](* [[1928年]])
* [[2006年]] - [[レオン・ヘンキン]]、[[論理学|論理学者]](* [[1921年]])
* 2006年 - [[シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ]]、[[指揮者]](* [[1924年]])
* 2006年 - [[ウィリアム・スタイロン]]、[[小説家]](* [[1925年]])
* 2006年 - [[ウラカン・ラミレス]]、[[プロレスラー]](* [[1926年]])
* 2006年 - [[牧田清]]、[[写真家]](* [[1952年]])
* 2006年 - [[永沢光雄]]、[[ノンフィクション作家]](* [[1959年]])
* 2006年 - [[エイドリアン・シェリー]]、女優(* [[1966年]])
* [[2007年]] - [[ポール・ティベッツ]]、[[アメリカ空軍]][[退役軍人|退役]][[准将]](* [[1915年]])
* 2007年 - [[後藤喜八郎]]、[[武蔵野市]]第2代[[市長]](* [[1920年]])
* [[2008年]] - [[ユマ・スマック]]、[[ソプラノ]]歌手(* [[1922年]])
* 2008年 - [[林田賢太]]、映画監督(* [[1976年]])
* [[2011年]] - [[嵯峨健四郎]]、[[プロ野球選手]](* [[1937年]])
* [[2014年]] - [[田村元]]、政治家、第66代[[衆議院議長]](* [[1924年]])
* 2014年 - [[弥永和子]]、声優(* [[1947年]])
* [[2015年]] - [[深江章喜]]、俳優(* [[1926年]])
* 2015年 - [[ギュンター・シャボフスキー]]、[[ドイツ社会主義統一党]]政治局員(* [[1929年]])
* 2015年 - [[フレッド・トンプソン]]、俳優、元アメリカ上院議員(* [[1942年]])
* [[2019年]] - [[鴈龍]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201912030001051.html |title=鴈龍太郎さん死去 勝新太郎さん中村玉緒夫妻の長男 |access-date=2023-02-11 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=2019-12-04}}</ref>、俳優(* [[1964年]])
* [[2020年]] - [[キャロル・アーサー]]<ref>{{Cite web |url=https://www.hollywoodreporter.com/movies/movie-news/carol-arthur-actress-in-blazing-saddles-and-wife-of-dom-deluise-dies-at-85-4087099/ |title=Carol Arthur, Actress in ‘Blazing Saddles’ and Wife of Dom DeLuise, Dies at 85 |access-date=2023-02-11 |publisher=The Hollywood REPORTER |date=NOVEMBER 2, 2020 |language=En}}</ref>、女優(* [[1935年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1947年]] - [[マンノウォー]]、[[競走馬]](* [[1917年]])
* [[1998年]] - [[サイレンススズカ]]、競走馬(* [[1994年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[諸聖人の日]]・万聖節([[カトリック教会|カトリック]])
*: 全ての[[聖人]]と[[殉教者]]を記念する日。
* 全聖徒の日([[ルーテル教会|一部のプロテスタント]])
*: 全ての[[聖徒]]([[万人祭司]]の立場から死者生者を問わず記念する日。)
* [[死者の日 (メキシコ)]]
*:[[ラテンアメリカ]]諸国における祝日
* [[独立記念日]]({{ATG}})
*: [[1981年]]のこの日、[[アンティグア・バーブーダ]]が[[イギリス]]から独立した。
* [[革命記念日]]({{DZA}})
*: [[1954年]]の[[アルジェリア戦争]](アルジェリア独立戦争)開戦を記念。
* {{仮リンク|世界ヴィーガン・デー|en|World Vegan Day}}
*: [[ヴィーガニズム|ヴィーガン]](純粋菜食者)の記念日。
* 計量記念日({{JPN}})
*: [[1993年]](平成5年)11月1日に現行の[[計量法]]が施行されたことから、当時の主管官庁である[[通商産業省]]が制定。それまでは旧計量法が施行された[[6月7日]]が計量記念日だった。
* [[灯台記念日]]({{JPN}})
*: [[明治]]元年11月1日([[1868年]])に、日本初の洋式[[灯台]]である[[観音埼灯台]]が起工されたことに由来。[[1949年]]に[[海上保安庁]]が制定。
* [[自衛隊記念日]]({{JPN}})
*: [[1966年]]に制定。実際の創立年月日は[[1954年]][[7月1日]]であるが、7月から10月は災害での出動が予想され、記念行事等を行うのに都合が悪いため、天候が安定する11月1日を記念日とした。
* [[古典の日]]({{JPN}})
*: [[2012年]]に法制化。[[源氏物語]]の存在が「[[紫式部日記]]」[[1008年]]([[寛弘]]5年)11月1日の記述で確認できることに由来。[[源氏物語千年紀]]を記念して始まった<ref>{{Cite web|和書 |title=古典の日について |url=https://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2013_10/special_02/special_02.html |publisher=[[文化庁]] |work=文化庁月報 平成25年10月号(No.541) |accessdate=2023-02-11}}</ref>。
* [[点字の日]]({{JPN}})
*: [[1890年]]のこの日、日本語用の点字として[[筑波大学附属視覚特別支援学校|東京盲啞学校]]教諭[[石川倉次]]の点字案が正式に採用されたことを記念。
* [[犬]]の日({{JPN}})
*: 犬の鳴き声「ワンワンワン」の語呂合せ。ペットフード工業会(現 [[ペットフード協会]])など6団体が[[1987年]]に制定。
* [[寿司]]の日({{JPN}})
*: 全国すし商環境衛生同業組合連合会が[[1961年]]に制定。新米の季節であり、ネタになる海や山の幸が美味しい時期であることから。
* [[紅茶]]の日({{JPN}})
*: [[寛政]]3年11月1日([[1791年]])に、暴風雨のため[[ロシア]]に漂着していた[[大黒屋光太夫]]がロシア皇帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]の茶会に招かれ、日本人として初めて、外国での正式の茶会で紅茶を飲んだ最初の人として、この日が定められたことに由来。日本紅茶協会が[[1983年]]に制定。
* [[焼酎|本格焼酎]]の日({{JPN}})
*: [[1987年]]9月に九州で開かれた本格焼酎業者の会議の場で制定され、[[日本酒造組合中央会]]が実施。その年に8~9月ごろから仕込まれた焼酎の新酒が飲めるようになるのが11月1日ごろであることから。
* [[泡盛]]の日({{JPN}})
*: 沖縄県酒造組合連合会が[[1989年]]に制定。11月から泡盛製造の最盛期に入り、泡盛の美味しい季節となることから。
* [[家具]]の日({{JPN}})
* [[友]]の日({{JPN}})
*:[[サンリオ]]が制定。同社創業者・[[辻信太郎]]が『[[いちご新聞]]』紙上で提案。[[ハローキティ]]の誕生日に由来する<ref>{{Cite book|和書|author=辻信太郎|title=いちごの王さまのメッセージ|publisher=サンリオ|year=2007|pages=34-35|isbn=978-4-387-07141-9}}</ref>。
* [[カーペット]]の日({{JPN}})
*:日本カーペット工業組合が[[1974年]]に制定。[[1956年]]のこの日、[[昭和天皇]]がカーペット工場を視察(住江織物・住吉工場)されたことを記念する<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.carpet.or.jp/publics/index/67 |title=11月1日は「カーペットの日」 |access-date=2023-02-11 |publisher=日本カーペット工業組合}}</ref>。
* [[教育]]の日({{JPN}})
*: いくつかの都道府県が11月1日を「教育の日」、または11月1日からの1週間を「教育週間」としている。北海道教育の日([[北海道]])・あきた教育の日([[秋田県]])・いわて教育の日([[岩手県]])・みやぎ教育の日([[宮城県]])・ふくしま教育の日([[福島県]])・いばらき教育の日([[茨城県]])・ぐんま教育の日([[群馬県]])・彩の国教育の日([[埼玉県]])・いしかわ教育の日([[石川県]])・滋賀教育の日([[滋賀県]])・奈良県教育の日([[奈良県]])・おかやま教育週間([[岡山県]])・ひろしま教育週間([[広島県]])・しまね教育の日([[島根県]])・えひめ教育の日([[愛媛県]])・とくしま教育の日([[徳島県]])・おおいた教育の日([[大分県]])・くまもと教育の日([[熊本県]])
* ウェザーリポーターの日({{JPN}})
*: 気象情報会社[[ウェザーニューズ]]が行っている、全国の協力者('''ウェザーリポーター''')から現在の天気・雲の様子や自然現象、季節の風景などを投稿してもらう取り組み『[[ウェザーニューズのサポーター参加型企画#ウェザーリポート(常設企画)|ウェザーリポート]]』が開始された2005年11月1日から2014年で9周年をむかえるにあたり、日々の報告活動に励まれている全国のリポーターに感謝の意を表し、その功績を顕彰する日として、2014年に日本記念日協会からの認定を受け、同年10月24日の同社が運営する気象情報番組「[[SOLiVE24]]」で発表。その当日には記念日登録証授与式も番組内で中継された。
* [[警備]]の日({{JPN}})
*: 全国警備業協会が[[2015年]]に制定。警備業法が1972年11月1日に施行されたことから。
* [[いい医療の日]]({{JPN}})
*: [[日本医師会]]が[[2017年]]に制定。「いい(11)医(1)療」の語呂合わせから。
* [[生命保険]]の月({{JPN}}、[[11月30日]]まで)
*: [[生命保険協会]]が[[1947年]]に制定。
* 教育・文化週間({{JPN}}、[[11月7日]]まで)
*: [[1959年]]9月の閣議決定により制定。[[11月3日]]の[[文化の日]]の前後1週間。
*ダーツの日 ( {{JPN}})
*: エレクトロニックダーツマシンの開発・販売、ダーツ大会の企画・運営などを手がける株式会社ダーツライブが制定。 日付はダーツは3本の矢を1セットとして的に投げるスポーツであり、3本目がとても重要なことから数字の「1」を矢に見立てて「1」が3つ並ぶ11月1日としたもの。 スポーツ競技としてのダーツの存在と素晴らしさをより多くの人に知ってもらうとともに、ダーツに関わる人々の力を一つにすることが目的。記念日は2020年(令和2年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された<ref>[https://dartslive.co.jp/jp/release/20201101-dartsday/ 「11月1日はダーツの日」日本記念日協会が認定]</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1101|date=May 2023}}
*昭和2×年 - 犬神佐兵衛の[[遺言状]]の内容が発表される。(小説『[[犬神家の一族]]』第2章)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1966年]] - 清滝鋼介、小説・漫画・アニメ『[[りゅうおうのおしごと!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=[[りゅうおうのおしごと!]]|volume=2|author=白鳥士郎|authorlink=白鳥士郎|publisher=[[SBクリエイティブ]]|page=141|isbn=978-4-7973-8676-9}}</ref>
* [[1974年]] - キティ・ホワイト、サンリオの『[[ハローキティ]]』のメインキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sanrio.co.jp/character/hellokitty/#char_profile=キャラクター |title=ハローキティ |accessdate=2022-10-30 |publisher=[[サンリオ]]}}</ref>
* [[1974年]] - ミミィ・ホワイト、キティの双子の妹<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.puroland.jp/character/kt_mimmy/ |title=ハローミミィ |accessdate=2022-10-30 |publisher=サンリオピューロランド 公式サイト}}</ref>
* [[1976年]] - クラウド・ナイン、漫画『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|title=D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2008|page=53|isbn=978-4-08-874248-9}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|title=D.Gray-man キャラクター ランキングブック キャラグレ!|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2011|page=88|isbn=978-4-08-870268-1}}</ref>
* [[1978年]] - 芹澤レイラ、漫画『[[NANA]]』に登場するキャラクター<ref name="nana">{{Cite book|和書|author=矢沢あい|authorlink=矢沢あい|title=NANA|publisher=[[集英社]]|series=[[りぼんマスコットコミックス|りぼんマスコットコミックス Cookie]]|year=2004|volume=11|page=129|isbn=4-08-856560-6}}</ref>
* [[1985年]] - 岡崎真一(シン)、漫画『NANA』に登場するキャラクター{{R|nana}}
* 生年不明 - 小黒、アニメ・漫画『[[羅小黒戦記]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1633585051 |title=推しの誕生日、お祝いしませんか?──11月1日はアニメ映画『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ)』主人公・小黒の誕生日!バースデーフェアがアニメイトにて開催決定! |access-date=2023-01-11 |publisher=animate Times |date=2021-10-14}}</ref>
* 生年不明 - ユキ、ゲーム・アニメ『[[消滅都市]]』のメインヒロイン<ref>{{Twitter status|shoumetsutoshi|1322780411626487810}}</ref>
* 生年不明 - はやしだきっこ、ベネッセの教材『[[こどもちゃれんじ]]』、アニメ『[[しまじろうヘソカ]]』『[[しまじろうのわお!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kodomochallenge|129389108299698177}}</ref>
* 生年不明 - 林大介、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1454826762744045571}}</ref>
* 生年不明 - [[To LOVEる -とらぶる-の登場人物#黒咲芽亜|黒咲芽亜]]、漫画・アニメ『[[To LOVEる -とらぶる-|To LOVEる -とらぶる- ダークネス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author1=矢吹健太朗|authorlink1=矢吹健太朗|author2=長谷見沙貴|authorlink2=長谷見沙貴|year = 2011 |title = To LOVEる -とらぶる-&To LOVEる -とらぶる- ダークネス公式データブック「ぱ〜ふぇくとらぶる! 」|page = 136 |publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 978-4-08-874852-8 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 矢吹健太朗、長谷見沙貴 |year = 2014 |title = To LOVEる-とらぶる-ダークネス 楽園計画ガイドブック「とらぶまにあ」|page = 36 |publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 978-4-08-880260-2 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 矢吹健太朗、長谷見沙貴 |year = 2015 |title = To LOVEる -とらぶる- ダークネス総選挙BOOK「とらぶるくいーんず」|page = 44 |publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 978-4-08-880576-4 }}</ref>
* 生年不明 - 犬岡走、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2013|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-870555-2|quote=|date=|volume=4巻|page=114}}</ref>
* 生年不明 - 黒色支配、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heroaca.com/character/chara_group02/02-13/ |title=黒色支配 |access-date=2022-10-30 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=TVアニメ『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - デステゴロ、漫画・アニメ『僕のヒーローアカデミア』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heroaca.com/character/chara_group05/05-03/ |title=デステゴロ |access-date=2022-10-30 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=TVアニメ『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 万丈数壱、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=万丈数壱 |url=http://youngjump.jp/tokyoghoul/tg/chara/banjo_kazuichi/ |work=東京喰種トーキョーグール ―解体「真」報― |publisher=週刊ヤングジャンプ公式サイト [[集英社]] |accessdate=2022-10-30}}</ref>
* 生年不明 - MAKUBEX、漫画・アニメ『[[GetBackers-奪還屋-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.tbs.co.jp/getbackers/old/chara/c_makubex.html |title=MAKUBEX |access-date=2022-10-30 |publisher=[[青樹佑夜]]・[[綾峰欄人]]・[[講談社]] / チーム奪還屋 TBS |work=アニメ・ゲットバッカーズ}}</ref>
* 生年不明 - ミケ・ザカリアス、漫画・アニメ『[[進撃の巨人]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 名瀬美月、小説・アニメ『[[境界の彼方]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.co.jp/smp/anime/kyokai/chara.html |title=CHARACTER 名瀬美月 |access-date=2022-10-30 |publisher=[[鳥居なごむ]]・[[京都アニメーション]]/境界の彼方製作委員会 |work=境界の彼方}}</ref>
* 生年不明 - 黒木洋美、アニメ『[[ハイスクール・フリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=劇場版「ハイスクール・フリート」公式サイト |url=https://www.hai-furi.com/character/04_02/ |title=黒木 洋美 |accessdate=2022-10-30 |publisher=AAS/新海上安全整備局}}</ref>
* 生年不明 - 万作雄一郎、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/2/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=2 |accessdate=2022-10-30}}</ref>
* 生年不明 - 久慈悠、アニメ『[[さらざんまい]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|noitamina_shop|1454991585536450561}}</ref>
* 生年不明 - ラテ、アニメ『[[ヒーリングっど♥プリキュア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/healingood_precure/character/chara7.php |title=ラテ |access-date=2022-10-30 |publisher=ABC-A・[[東映アニメーション]] |work=ヒーリングっど♥プリキュア}}</ref>
* 生年不明 - 牧凌太、[[テレビ朝日]][[土曜ナイトドラマ (テレビ朝日)|土曜ナイトドラマ]]『[[おっさんずラブ#連続版|おっさんずラブ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=監修・テレビ朝日|year=2018|title=土曜ナイトドラマ「おっさんずラブ」公式ブック|page=23|publisher=文藝春秋|isbn=978-4-16-390880-9}}</ref>
* 生年不明 - ミランダ、ゲーム『[[クイズマジックアカデミー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://p.eagate.573.jp/game/qma/17/world/detail.html?c=208 |title=ミランダ |access-date=2022-10-30 |publisher=KONAMI |work=クイズマジックアカデミー 夢幻の鏡界}}</ref>
* 生年不明 - 久遠寺夢、ゲーム・アニメ『[[君が主で執事が俺で]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.minatosoft.com/kimiaru/ |title=キャラクター 夢チーム 久遠寺 夢 |access-date=2023-02-01 |publisher=[[みなとそふと]] |work=『君が主で執事が俺で』}}</ref>
* 生年不明 - 鳳チャチャ、ゲーム・アニメ『[[Tokyo 7th シスターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://t7s.jp/character/chara/34.html |title=鳳チャチャ |access-date=2023-02-11 |work=『Tokyo 7th シスターズ』}}</ref>
* 生年不明 - シリウス、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=82&cate=name&cont=Sirius |title=シリウス |access-date=2023-01-21 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - プロキオン、ゲーム・アニメ・小説・漫画『夢王国と眠れる100人の王子様』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=138&cate=name&cont=Procyon |title=プロキオン |access-date=2023-01-11 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - ヴァスティ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『夢王国と眠れる100人の王子様』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=23&cate=name&cont=Vashti |title=ヴァスティ |access-date=2023-01-11 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 國見タマ、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heaven-burns-red.com/character/31a/kunimi-tama/ |title=國見タマ |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=2023-02-11 |work=『ヘブンバーンズレッド』}}</ref>
* 生年不明 - [[ラブライブ!#星空凛|星空凛]]、メディアミックス『[[ラブライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.lovelive-anime.jp/otonokizaka/member/member05.html |title=星空 凛 |publisher=プロジェクト ラブライブ! |accessdate=2022-10-30 |work=ラブライブ!Official Web Site}}</ref>
* 生年不明 - 宗谷いちか、ヴァーチャルYouTuber<ref>{{Twitter status|ichika_souya|1320609089118851074}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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== できごと ==
[[File:Ishii-Lansing.jpg|thumb|140px|日米による中国分割協定、[[石井・ランシング協定]]成立(1917)。この日米協調路線は[[第一次世界大戦]]終結後、[[1922年]]の[[九カ国条約]]まで維持される]]
[[File:2011-08 Desk Balfour.JPG|thumb|120px|[[パレスチナ]]に[[ユダヤ人]]国家設立を認めた[[バルフォア宣言]](1917)。画像は時の外務大臣[[アーサー・バルフォア]]が宣言を執筆した机]]
[[File:Kokumin-Fuku.JPG|thumb|120px|[[国民服]]令公布(1940)。甲号(左)と乙号(右)が定められた]]
[[File:Vivienne Nearing, Jack Barry, Charles Van Doren NYWTS.jpg|thumb|120px|クイズ番組『トウェンティーワン』でのやらせ発覚(1959)。映画『[[クイズ・ショウ]]』の原題]]
* [[676年]] - [[ドヌス (ローマ教皇)|ドヌス]]が[[教皇|ローマ教皇]]に即位。
* [[1795年]] - [[フランス革命]]: [[総裁政府]]が発足。
* [[1870年]]([[明治]]3年[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]) - [[岩崎弥太郎]]が土佐開成社を開設([[三菱財閥]]の起源)<ref>{{Cite web|和書 |url=https://news.livedoor.com/article/detail/2660276/ |title=あしたは何の日 11月2日 岩崎弥太郎 土佐開成社開設(1870年) |access-date=2023-02-08 |publisher=[[livedoor ニュース]]}}</ref>。
* [[1874年]] - [[読売新聞]]創刊。
* [[1884年]] - [[安房事件]]発生。
* [[1889年]] - [[ダコタ準州]]が州に昇格し、[[ノースダコタ州]]と[[サウスダコタ州]]として[[アメリカ合衆国]]39番目と40番目の州となる。
* [[1917年]] - [[石井・ランシング協定]]成立。
* 1917年 - [[イギリス]]のバルフォア外相が「ユダヤ人[[シオニスト]]諸組織に対する好意の宣言」([[バルフォア宣言]])を発表。パレスチナ内にユダヤ人の民族的郷土の建設を援助すると約束。
* [[1920年]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]が同社[[フランク・コンラッド]]技師の設計による設備で世界初の商業ラジオ[[放送局]]KDKAを現地時間午後6時に開局。
* [[1930年]] - [[エチオピア帝国|エチオピア皇帝]][[ハイレ・セラシエ1世]]が[[戴冠]]。
* [[1936年]] - [[ベニート・ムッソリーニ]]が「[[枢軸国#ベルリン・ローマ枢軸|ベルリン・ローマ枢軸]]」という言葉を初めて使う。
* 1936年 - [[カナダ放送協会]]設立。<!--英語版より-->
* [[1938年]] - [[第一次ウィーン裁定]]の結果、[[チェコスロバキア]]が南部スロバキアおよび[[カルパト・ウクライナ]]地域を[[ハンガリー王国|ハンガリー]]に割譲する事が決定。
* [[1940年]] - 日本で[[国民服]]令が公布。
* [[1945年]] - [[日本社会党]]結成。
* [[1947年]] - [[飛行艇]][[H-4 (航空機)|H-4]]が初飛行。
* [[1948年]] - [[1948年アメリカ合衆国大統領選挙]]の結果、現職の[[ハリー・S・トルーマン]]候補が再選。
* [[1949年]] - [[オランダ]]と[[インドネシア]]がハーグ協定に調印。1949年末までにオランダからインドネシアへ主権を無条件譲渡することが決定。
* [[1959年]] - {{仮リンク|クイズショー・スキャンダル|en|Quiz show scandals}}: {{仮リンク|チャールズ・ヴァン・ドーレン|en|Charles Van Doren}}が[[アメリカ合衆国議会|米議会]]{{仮リンク|下院立法管理小委員会|en|House Subcommittee on Legislative Oversight}}において、クイズショー『[[21 (テレビ番組)|21]]』でのやらせを認め、テレビ初期の信用を失墜させる。
* [[1960年]] - [[浅沼稲次郎暗殺事件]]実行犯[[山口二矢]]が自害。
* [[1961年]] - [[柏戸剛|柏戸]]と[[大鵬幸喜|大鵬]]がそろって[[横綱]]に昇進。
* [[1964年]] - [[サウード・ビン・アブドゥルアズィーズ|サウード]]王の譲位により[[ファイサル (サウジアラビア王)|ファイサル]]が[[サウジアラビア]]王に即位。
* [[1968年]] - [[有馬温泉]]の旅館・池之坊満月城で[[池之坊満月城火災|火災]]。30人が死亡。
* [[1973年]] - [[金大中事件]]: 日本の[[田中角栄]]首相と韓国の[[金鍾泌]]首相の会談により両国間で政治決着。
* [[1975年]] - [[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]が初めて日本シリーズを制覇。
* [[1976年]] - [[1976年アメリカ合衆国大統領選挙]]の結果、[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジミー・カーター]]が当選。
* 1976年 - 超音速旅客機[[コンコルド]]の製造中止が決定。
* [[1979年]] - フランス警察がパリの路上で怪盗[[ジャック・メスリーヌ]]を射殺。
* [[1982年]] - [[山万ユーカリが丘線]][[ユーカリが丘駅]] - ([[女子大駅]]) - [[中学校駅]]間が開業。
* [[1985年]] - [[阪神タイガース]]が初めて日本シリーズを制覇。(「日本一」は戦前に2度達成済み)
* [[1986年]] - [[メジロラモーヌ]]が[[エリザベス女王杯]](当時は4歳〈現3歳〉牝馬限定競走)に勝ち、日本競馬史上初の[[中央競馬クラシック三冠|牝馬三冠]]を達成。
* [[1988年]] - [[ロバート・T・モリス]]が世界初の[[インターネット]][[ワーム (コンピュータ)|ワーム]]とされる[[Morris worm]]を放つ。
<!-- 確認できず * [[1996年]] - 神戸市で世界初の薬害エイズ国際会議が開幕。 -->
* [[2003年]] - 日本で[[勲等]]の等級が廃止。
* [[2004年]] - [[2004年アメリカ合衆国大統領選挙]]の投票の結果、現職の[[ジョージ・W・ブッシュ]]が再選<ref>[http://uselectionatlas.org/RESULTS/national.php?year=2004 2004 Presidential Election Results]</ref>。
{{-}}
== 誕生日 ==
[[File:Huizong.jpg|thumb|120px|[[北宋]]第8代[[皇帝]]、[[徽宗]](1082-1135)誕生]]
[[File:Jean-Baptiste Siméon Chardin 003.jpg|thumb|160px|[[ロココ]]美術全盛期に写実的な[[風俗画]]で名声を博した。[[フランス]]の[[画家]]、[[ジャン・シメオン・シャルダン]](1699-1779)誕生。画像は《食前の祈り》(1740) ]]
[[File:Portrait of Daniel Boone by Chester Harding 1820.jpg|thumb|120px|[[ケンタッキー州]]に入植した[[アメリカ合衆国]]の開拓者、[[ダニエル・ブーン]](1734-1820)誕生。アメリカ人の理想像の1人]]
[[File:Liotard - Archduchess Maria Antonia - Schönbrunn, Study and Salon of Franz Karl.jpg|thumb|120px|[[マリー・アントワネット]](1755-1793)誕生。画像は7歳の時の肖像画]]
[[File:Ryokan Sculpture Ryusen-ji.jpg|thumb|120px|[[良寛]](1758-1831)誕生{{Squote|この里に手鞠つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし}}]]
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| image1 = Georges Sorel.jpg
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| caption1 = [[サンディカリスム|革命的サンディカリスム]]に影響を与えた[[フランス]]の[[思想家]]、[[ジョルジュ・ソレル]](1847-1922)誕生
| alt1 = ソレル
| image2 = Taikan Yokoyama 01.jpg|
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| caption2 = [[日本画家]]、[[横山大観]](1868-1958)誕生
| alt2 = 横山大観
}}
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| caption1 = [[イタリア]]の[[映画監督]]、[[ルキノ・ヴィスコンティ]](1906-1976)誕生
| alt1 = ヴィスコンティ
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| caption2 = [[俳優]]、[[三橋達也]](1923-2004)誕生
| alt2 = 三橋達也
}}
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| image1 = Norman Mineta, official portrait, DOT.jpg
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| caption1 = [[日系アメリカ人]]として初の[[アメリカ合衆国]]政府閣僚となった、[[ノーマン・ミネタ]](1931-2022)誕生
| alt1 = ミネタ
| image2 = Keith Emerson standing desert mari kawaguchi (cropped).jpg
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| caption2 = [[プログレッシブ・ロック]]バンド、[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー]]の[[キーボーディスト]]、[[キース・エマーソン]](1944-2016)誕生
| alt2 = エマーソン
}}
[[File:Kyoko Fukada - red carpet at Harry Potter 2007 Tokyo.jpg|thumb|120px|[[俳優|女優]]、[[深田恭子]](1982-)誕生]]
* [[1082年]]([[元豊 (宋)|元豊]]5年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]) - [[徽宗]]、[[北宋]]第8代[[皇帝]](+ [[1135年]])
* [[1591年]] - {{仮リンク|アウグスト・ブーフナー|de|August Buchner}}、詩人、詩学者(+ [[1661年]])<ref>「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%20%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%8A%E3%83%BC-1807527 アウグスト ブーフナー]」『367日誕生日大事典』[[日外アソシエーツ]]、[[コトバンク]]。2020年10月22日閲覧。</ref>
* [[1636年]] - [[エドワード・コルストン]]、貿易商人、政治家(+ [[1721年]])
* [[1646年]]([[正保]]6年[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]) - [[小笠原長勝]]、第2代[[中津藩|中津藩主]](+ [[1682年]])
* [[1692年]] - [[ウニコ・ヴィルヘルム・ファン・ヴァッセナール]]、[[作曲家]](+ [[1766年]])
* [[1699年]] - [[ジャン・シメオン・シャルダン]]、[[画家]](+ [[1779年]])<ref>[https://www.britannica.com/biography/Jean-Baptiste-Simeon-Chardin Jean-Baptiste-Siméon Chardin French painter] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>
* [[1734年]] - [[ダニエル・ブーン]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Daniel-Boone Daniel Boone American frontiersman] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[探検家]](+ [[1820年]])
* [[1739年]] - [[カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ]]、作曲家、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1799年]])
* [[1755年]] - [[マリー・アントワネット]]、[[フランス王国|フランス王]][[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の妃(+ [[1793年]])
* [[1758年]]([[宝暦]]8年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]) - [[良寛]]、[[曹洞宗]]の[[僧侶]]、[[歌人]](+ [[1831年]])
* [[1785年]]([[天明]]5年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]) - [[増山正寧]]、第6代[[長島藩|長島藩主]](+ [[1842年]])
* [[1789年]]([[寛政]]元年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]) - [[津軽典暁]]、第3代[[弘前藩|黒石領主]]、(+ [[1805年]])
* [[1795年]] - [[ジェームズ・ポーク]]、第11代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1849年]])
* [[1806年]]([[文化 (元号)|文化]]3年[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]) - [[小笠原長泰]]、第2代[[唐津藩|唐津藩主]](+ [[1862年]])
* [[1815年]] - [[ジョージ・ブール]]、[[数学者]]、[[哲学者]](+ [[1864年]])
* [[1841年]]([[天保]]12年[[9月19日 (旧暦)|9月19日]]) - [[片桐貞篤]]、第6代[[小泉藩|小泉藩主]](+ [[1883年]])
* [[1843年]]([[天保]]年閏[[9月11日 (旧暦)|9月11日]]) - [[池田清緝]]、第9代[[鳥取藩|若桜藩主]](+ [[1862年]])
* [[1844年]] - [[メフメト5世]]、[[オスマン帝国]]第35代[[スルタン]](+ [[1918年]])
* [[1847年]] - [[ジョルジュ・ソレル]]、哲学者(+ [[1922年]])
* [[1865年]] - [[ウオレン・G・ハーディング|ウォレン・G・ハーディング]]、第29代アメリカ合衆国大統領(+ [[1923年]])
* 1865年([[慶応]]7年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]) - [[松前修広]]、第14代[[松前藩|松前藩主]]、(+ [[1905年]])
* [[1867年]] - [[ワシリー・サペルニコフ]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[1941年]])
* [[1868年]]([[明治]]元年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]) - [[横山大観]]、[[日本画家]](+ [[1958年]])
* [[1877年]] - [[アーガー・ハーン3世]]、[[イスラム教]][[ニザール派]]の[[イマーム]](+ [[1957年]])
* [[1885年]] - [[ハーロー・シャプレー]]、[[天文学者]](+ [[1972年]])
* [[1890年]] - [[西ノ海嘉治郎 (3代)]]、[[力士]](+ [[1933年]])
* 1890年 - [[岸田國士]]、[[劇作家]]、[[小説家]](+ [[1954年]])
* [[1891年]] - [[許百錬]]、[[南画]]家(+ [[1977年]])
* [[1893年]] - [[バッティスタ・ファリーナ]]、[[自動車]]デザイナー、[[ピニンファリーナ]]創始者(+ [[1966年]])
* [[1903年]] - [[トラビス・ジャクソン]]、[[プロ野球選手]](+ [[1987年]])
* [[1906年]] - [[ルキノ・ヴィスコンティ]]、[[映画監督]](+ [[1976年]])
* [[1907年]] - [[人生幸朗・生恵幸子|人生幸朗]]、[[漫才師]](+ [[1982年]]<ref>{{コトバンク|人生 幸朗}} - [[日外アソシエーツ]]編『20世紀日本人名事典』(日外アソシエーツ、2004年)および日外アソシエーツ編『新撰 芸能人物事典 明治~平成』(日外アソシエーツ、2010年)より引用。なお、読みについては「じんせい '''こうろう'''」としている。</ref>)
* [[1910年]] - [[三益愛子]]、女優(+ [[1982年]])
* [[1911年]] - [[オデッセアス・エリティス]]、[[詩人]](+ [[1996年]])
* [[1912年]] - [[勝田正之]]、[[実業家]](+ [[1991年]])
* [[1913年]] - [[バート・ランカスター]]、[[俳優]](+ [[1994年]])
* [[1914年]] - [[ジョニー・ヴァンダー・ミーア]]、元プロ野球選手(+ [[1997年]])
* [[1915年]] - [[芹沢常行]]、[[検視官]](+ [[2005年]])
* [[1916年]] - [[アル・キャンパニス]]、MLBゼネラルマネージャー (+ [[1998年]])
* [[1919年]] - [[アルフレート・グリスラフスキ]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](+ [[2003年]])
* [[1920年]] - [[金鉄万]]、[[軍人]]、[[政治家]](+ [[2018年]])
* [[1922年]] - [[リア・ファルク]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1986年]])
* [[1923年]] - [[三橋達也]]、俳優(+ [[2004年]])
* [[1925年]] - [[柴田崎雄]]、元プロ野球選手(+ [[1986年]])
* [[1927年]] - [[デイビー・ウィリアムズ]]、元プロ野球選手(+ [[2009年]])
* [[1930年]] - [[浜田貫太郎]]、[[漫画家]](+ [[2002年]])
* [[1931年]] - [[フィル・ウッズ]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン]]奏者(+ [[2015年]])
* 1931年 - [[ノーマン・ミネタ]]、[[アメリカ合衆国運輸長官]](+ [[2022年]])
* 1931年 - [[小森光生]]、元プロ野球選手
* [[1932年]] - [[棟居進]]、元プロ野球選手
* [[1935年]] - [[工藤直子]]、[[詩人]]、[[童話作家]]
* 1935年 - [[日下部禧代子]]、政治家
* [[1936年]] - [[馬渕晴子]]、女優(+ [[2012年]])
* [[1938年]] - [[乾浩明]]、[[アナウンサー]]、実業家
* 1938年 - [[幸田優]]、元プロ野球選手(+ [[1995年]])
* 1939年 - [[いその・えいたろう]]、評論家
* [[1940年]] - [[有川博]]、俳優、[[声優]](+ [[2011年]])
* [[1943年]] - [[鈴木義信]]、[[野球選手]]
* [[1944年]] - [[キース・エマーソン]]、[[キーボーディスト]]、[[作曲家]](+ [[2016年]])
* 1944年 - [[パトリス・シェロー]]、映画監督、[[演出家]](+ [[2013年]])
* 1944年 - [[マイケル・バッファー]]、リングアナウンサー
* 1944年 - [[西田暢]]、元プロ野球選手
* 1944年 - [[坂本剛二]]、政治家(* [[2018年]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S13756417.html|title=坂本剛二さん死去|publisher=朝日新聞デジタル|date=2018-11-06|accessdate=2020-10-30}}</ref>
* [[1946年]] - [[ジュゼッペ・シノーポリ]]、[[指揮者]](+ [[2001年]])
* 1946年 - [[杉田二郎]]、歌手
* [[1948年]] - [[五十嵐文彦]]、政治家
* [[1949年]] - [[山田直政]]、元プロ野球選手
* 1949年 - [[L・M・ビジョルド]]、[[小説家]]
* [[1950年]] - [[リュボミィル・リュボエビッチ]]、[[チェス]]プレーヤー
* 1950年 - [[星野好男]]、元[[アイスホッケー]]選手
* [[1952年]] - [[高月敏文]]、元プロ野球選手
* [[1953年]] - [[平田満]]、俳優
* 1953年 - [[渡部重十]]、[[地球物理学|地球物理学者]]、[[惑星科学|惑星科学者]]
* [[1954年]] - [[吉田裕 (歴史学者)|吉田裕]]、[[歴史家]]
* 1954年 - [[貞山健源]]、元プロ野球選手
* [[1955年]] - [[小山田隆 (実業家)|小山田隆]]、[[実業家]]
* 1955年 - [[田中孝司 (サッカー選手)|田中孝司]]、元[[サッカー選手]]、指導者
* [[1957年]] - [[美木良介]]、俳優
* [[1958年]] - [[山内ケンジ]]、CMディレクター、演出家、映画監督
* [[1960年]] - [[ポール・マルティーニ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1961年]] - [[滝口光則]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[k.d.ラング]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1962年]] - [[大土井裕二]]、[[音楽家|ミュージシャン]](元[[チェッカーズ]])
* 1962年 - [[シュテファン・フッソング]]、[[アコーディオン]]奏者
* [[1963年]] - [[ボビー・ダル]]、ベーシスト、[[ポイズン (ロックバンド)|ポイズン]]
* [[1964年]] - [[たかしげ宙]]、[[漫画原作者]]
* 1964年 - [[中山加奈子]]、ミュージシャン(元[[プリンセス・プリンセス]])
* [[1965年]] - [[シャー・ルク・カーン]]、俳優
* [[1966年]] - [[オーランド・マルセド]]、元プロ野球選手
* 1966年 - [[小川良成]]、[[プロレスラー]]
* 1966年 - [[デヴィッド・シュワイマー]]、俳優
* [[1967年]] - [[石田彰]]、声優<ref name="seiyuhistory110">{{Cite book|和書|year=1997|title=声優ヒストリー 12人の声優が歩んだ軌跡|pages=110|publisher=[[徳間書店]]|isbn=978-4-19-720015-3}}</ref>
* 1967年 - [[中垣内祐一]]、元[[バレーボール選手]]
* [[1969年]] - [[コーン (バンド)|フィールディ]]、ベーシスト([[コーン (バンド)|コーン]])
* [[1970年]] - [[佐藤寛之]]、歌手、俳優(元[[光GENJI]])
* [[1971年]] - [[道上千夏]]、[[競艇]]選手
* [[1972年]] - [[松本裕子 (アナウンサー)|松本裕子]]、ニュースキャスター
* 1972年 - [[水野貴広]]、元[[騎手]]、[[調教師]]
* 1972年 - [[水野貴史]]、元騎手、調教師
* 1972年 - [[上野忠]]、元プロ野球選手
* [[1974年]] - [[ホセ・フェルナンデス (1974年生の内野手)|ホセ・フェルナンデス]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[オーランド・カブレラ]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[ネリー (ラッパー)|ネリー]]、[[MC (ヒップホップ)|ラッパー]]
* [[1975年]] - [[津曲勝利]]、バレーボール選手
* 1975年 - [[魚谷智之]]、[[競艇]]選手
* 1975年 - [[ジェレミー・デュフォア]]、[[レーシングドライバー]]
* 1975年 - [[若林直美]]、声優
* 1975年 - [[宝井誠明]]、俳優
* [[1976年]] - [[滝藤賢一]]、俳優
* 1976年 - [[シドニー・ポンソン]]、元プロ野球選手
* [[1977年]] - [[箕田卓哉]]、元プロ野球選手
* [[1978年]] - [[田中毅]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[アナウンサー]]
* 1978年 - [[篠原祐剛]]、元[[ショートトラックスピードスケート]]選手
* [[1979年]] - [[今村雅美]]、女優
* 1979年 - [[石山智也]]、プロ野球審判員
* [[1980年]] - [[ウラジミール・ツヴェトコフ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1980年 - [[キム・ソヨン (1980年生の女優)|キム・ソヨン]]、女優
* [[1981年]] - [[AI (歌手)|AI]]、歌手
* 1981年 - [[民部良子]]、女優、ファッションモデル
* 1981年 - [[タチアナ・トトミアニナ]]、フィギュアスケート選手
* [[1982年]] - [[深田恭子]]、女優<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.horipro.co.jp/fukadakyoko/|title=深田恭子 プロフィール|publisher=[[ホリプロ]]|accessdate=2020-10-28}}</ref>
* 1982年 - [[田久保郁美]]、車いすバスケットボール選手
* 1982年 - [[ユネル・エスコバー]]、プロ野球選手
* 1982年 - [[ウィリアム・バイアー]]、フィギュアスケート選手
* [[1985年]] - [[魚谷侑未]]、プロ雀士
* 1985年 - [[ダヴォール・パロ]]、[[チェス]]選手
* 1985年 - [[テリー・ドイル]]、元プロ野球選手
* [[1986年]] - [[奥ゆり]]、モデル、タレント
* 1986年 - [[イェシド・サラザール]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[長井進之介]]、ピアニスト、音楽ライター
* [[1987年]] - [[永川光浩]]、元プロ野球選手
* [[1988年]] - [[新井麻衣]]、[[プロゴルファー]]
* 1988年 - [[ユリア・ゲルゲス]]、テニス選手
* 1988年 - [[セス・ロジン]]、元プロ野球選手
* [[1989年]] - [[ステヴァン・ヨヴェティッチ]]、サッカー選手
* 1989年 - [[堀口ひかる]]、女優
* [[1990年]] - [[岸田実保]]、ミュージカル俳優
* 1990年 - [[村上雄太]]、俳優
* 1990年 - [[鳩谷紗彩]]、元ファッションモデル
* 1990年 - [[本宮未紀]]、棒高跳び選手
* 1990年 - [[カルロス・ラブリン]]、サッカー選手
* 1990年 - [[マット・クック]]、プロ野球選手
* [[1992年]] - [[中平千佳]]、元野球選手
* 1992年 - [[ナオミ・アッキー]]、女優
* 1992年 - [[小林慶祐]]、プロ野球選手
* [[1993年]] - [[大野柚布子]]、声優
* [[1994年]] - [[諏訪ななか]]、声優
* [[1995年]] - [[栗原沙也加]]、ミュージカル女優
* 1995年 - [[傳谷英里香]]、歌手、元アイドル(元[[ベイビーレイズJAPAN]])
* 1995年 - [[岡崎紗絵]]、モデル、女優
* 1995年 - [[木村彩子]]、プロゴルファー
* 1995年 - [[高橋礼]]、プロ野球選手
* 1995年 - [[秋奈]]、声優
* 1995年 - [[青柳優馬]]、プロレスラー
* [[1997年]] - [[星名美怜]]、アイドル([[私立恵比寿中学]])
* [[1998年]] - [[高本彩花]]、アイドル([[日向坂46]])
* [[1999年]] - [[カーター・スチュワート]]、プロ野球選手
* [[2000年]] - [[JUNNA]]、歌手
* 2000年 - [[青海ひな乃]]、アイドル([[SKE48]]、[[カミングフレーバー]])
* 2000年 - [[浅見めい]]、[[YouTuber]] ([[くれいじーまぐねっと]])
* 2000年 - [[小林愛理奈]]、キックボクサー
* [[2002年]] - [[福山絢水]]、ファッションモデル
* [[2003年]] - [[市川優月]]、アイドル([[AMEFURASSHI]])
* [[2006年]] - [[當真あみ]]、女優
* 生年不明 - [[野村勝人]]、声優
* 生年不明 - [[氷室省吾]]、声優
== 忌日 ==
{{multiple image
| image1 = PedroIII.jpg
| width1 = 100
| caption1 = [[アラゴン十字軍]]を撃退した[[アラゴン王国]]最大の王、[[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世]](1239-1285)没
| alt1 = ペドロ3世
| image2 = Tachibana Dosetsu.jpg
| width2 = 100
| caption2 = [[大友氏]]を支えた[[戦国武将]]、[[立花道雪]](1513-1585)没
| alt2 = 立花道雪
}}
{{multiple image
| image1 = Alcock.jpg
| width1 = 100
| caption1 = [[イギリス]]初代駐日[[総領事]]、[[ラザフォード・オールコック]](1809-1897)没
| alt1 = オールコック
| image2 = Duan Qiruo old.jpg
| width2 = 100
| caption2 = [[安徽派]]を率い日本と接触した[[中華民国]][[北京政府]][[国務総理]]、[[段祺瑞]](1865-1936)没
| alt2 = 段祺瑞
}}
[[File:Ngo Dinh Diem - Thumbnail - ARC 542189.png|thumb|120px|[[南ベトナムの指導者|南ベトナム初代大統領]]、[[ゴ・ディン・ジエム]](1901-1963)クーデターにより殺害]]
[[File:Zayed bin Al Nahayan.jpg|thumb|120px|[[アラブ首長国連邦]][[アラブ首長国連邦の大統領|初代大統領]]、[[ザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーン]](19??-2004)没]]
{{multiple image
| footer = [[オランダ]]の[[映画監督]]、[[テオ・ファン・ゴッホ (映画監督)|テオ・ファン・ゴッホ]](1957-2004)、[[イスラーム過激派|イスラーム過激主義者]]により殺害。[[フィンセント・ファン・ゴッホ|画家ゴッホ]]の弟[[テオドルス・ファン・ゴッホ|テオドルス]]の曾孫
| image1 = TheoVanGogh.jpg
| width1 = 100
| alt1 = ゴッホ
| image2 = Plaats waar Theo van Gogh vermoord is.jpg
| width2 = 130
| alt2 = 襲撃現場
}}
* [[1020年]]([[寛仁]]5年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]) - [[藤原道綱]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[955年]])
* [[1083年]] - [[マティルダ・オブ・フランダース]]、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]の王妃(* [[1031年]])
* [[1285年]] - [[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世]]、[[アラゴン王国|アラゴン]]王(* [[1239年]])
* [[1327年]] - [[ハイメ2世 (アラゴン王)|ハイメ2世]]、アラゴン王(* [[1267年]])
* [[1483年]] - [[ヘンリー・スタッフォード (第2代バッキンガム公爵)|ヘンリー・スタッフォード]]、[[バッキンガム公]](* [[1454年]])
* [[1494年]]([[明応]]3年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) - [[上杉定正]]、[[室町時代]]の[[武将]](* [[1443年]])
* [[1573年]]([[天正]]元年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]]) - [[足利義維]]、室町時代の武将、[[堺公方]]、[[平島公方]](* [[1509年]])
* [[1585年]](天正13年[[9月11日 (旧暦)|9月11日]]) - [[立花道雪]]{{Sfn|楠戸|2009|p=165}}、[[武将|戦国武将]](* [[1513年]])
* [[1676年]]([[延宝]]4年[[9月26日 (旧暦)|9月26日]]) - [[本多忠義]]、[[白河藩|白河藩主]](* [[1602年]])
* 1676年 - [[アダム・ヴァーツラフ・ミフナ]]、[[作曲家]](* [[1600年]]頃)
* [[1716年]] - [[エンゲルベルト・ケンペル]]、[[医師]]、[[博物学|博物学者]](* [[1651年]])
* [[1843年]]([[天保]]14年[[閏]]9月11日) - [[平田篤胤]]、[[国学者]]、[[神道]]家(* [[1776年]])
* [[1897年]] - [[ラザフォード・オールコック]]、医師、[[外交官]](* [[1809年]])
* [[1900年]] - [[大西祝]]、[[思想家]](* [[1864年]])
* [[1913年]] - [[ラディスラス・ワイネック]]、[[天文学者]](* [[1848年]])
* [[1916年]] - [[エリサベタ (ルーマニア王妃)|エリサベタ]]、[[ルーマニア王国|ルーマニア]]王[[カロル1世 (ルーマニア王)|カロル1世]]の妃(* [[1843年]])
* [[1922年]] - [[坪井玄道]]、[[スポーツ科学|体育学者]](* [[1852年]])
* [[1924年]] - 初代[[三遊亭圓右]]、[[落語家]](* [[1860年]])
* [[1936年]] - [[段祺瑞]]、元[[中華民国]][[北京政府]]首相(* [[1865年]])
* 1936年 - [[マーチン・ローリー]]、[[化学者]](* [[1874年]])
* [[1942年]] - [[北原白秋]]、[[詩人]](* [[1885年]])
* [[1944年]] - [[トマス・ミジリー]]、化学者(* [[1889年]])
* [[1945年]] - [[東武雄]]、[[野球選手]](* [[1901年]])
* [[1950年]] - [[ジョージ・バーナード・ショー]]、[[劇作家]](* [[1856年]])
* [[1957年]] - [[徳冨蘇峰]]、[[評論家]](* [[1863年]])
* [[1960年]] - [[ディミトリ・ミトロプーロス]]、[[指揮者]](* [[1896年]])
* [[1960年]] - [[山口二矢]]、[[右翼]]活動家(* [[1943年]])
* 1960年 - [[エベレット・スコット]]、プロ野球選手(* [[1892年]])
* [[1962年]] - [[細井魚袋]]、[[歌人]](* [[1889年]])
* [[1963年]] - [[ゴ・ディン・ジエム]]、[[南ベトナムの指導者|南ベトナム初代大統領]](* [[1901年]])
* [[1966年]] - [[荒木貞夫]]、元[[陸軍大臣]]、[[文部大臣]](* [[1877年]])
* 1966年 - [[ピーター・デバイ]]、[[物理学者]]、[[化学者]](* [[1884年]])
* [[1967年]] - [[恒藤恭]]、[[法学者]](* [[1888年]])
* [[1971年]] - [[野田九浦]]、[[日本画家]](* [[1879年]])
* [[1975年]] - [[清棲幸保]]、[[鳥類学|鳥類学者]](* [[1901年]])
* 1975年 - [[ピエル・パオロ・パゾリーニ]]、[[映画監督]](* [[1922年]])
* [[1978年]] - [[岩倉具栄]]、[[英文学者]](* [[1904年]])
* [[1980年]] - [[山川菊栄]]、[[評論家]](* [[1890年]])
* [[1981年]] - [[金素雲]]、詩人(* [[1908年]])
* [[1982年]] - [[勝田興]]<ref>プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、149ページ</ref>、元[[プロ野球選手]](* [[1923年]])
* [[1983年]] - [[足利惇氏]]、[[インド]]学者(* [[1901年]])
* 1983年 - [[渡邊洋治]]、[[建築家]](* [[1923年]])
* 1983年 - [[若三杉彰晃]]、元[[大相撲]][[力士]](* [[1937年]])
* 1983年 - [[田村泰次郎]]、[[小説家]](* [[1911年]])
* [[1985年]] - [[直良信夫]]、[[考古学者]](* [[1902年]])
* [[1990年]] - [[丹羽兵助]]、元[[労働大臣]](* [[1911年]])
* [[1991年]] - [[アーウィン・アレン]]、[[映画監督]](* [[1916年]])
* [[1997年]] - [[長嶺将真]]、[[空手]]家(* [[1907年]])
* [[2000年]] - [[ロバート・コーミア]]、小説家(* [[1925年]])
* [[2002年]] - [[チャールズ・シェフィールド]]、[[SF作家]](* [[1935年]])
* [[2004年]] - [[ザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーン]]、[[アブダビ]]首長、[[アラブ首長国連邦の大統領|アラブ首長国連邦大統領]](* [[1918年]])
* 2004年 - [[テオ・ファン・ゴッホ (映画監督)|テオ・ファン・ゴッホ]]、映画監督(* [[1957年]])
* [[2006年]] - [[レナード・シュレイダー]]、[[脚本家]](* [[1944年]])
* [[2009年]] - [[アミール・プヌーリ]]、[[計算機科学]]研究者(* [[1941年]])
* [[2010年]] - [[ルドルフ・バルシャイ]]、[[指揮者]](* [[1924年]])
* [[2015年]] - [[加藤治子]]、[[俳優#性別での分類|女優]](* [[1922年]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2061828/full/|title=加藤治子さん心不全で死去 ドラマ『寺内貫太郎一家』など出演|publisher=[[ORICON STYLE]]|date=2015-11-05|accessdate=2021-01-06}}</ref>
* [[2017年]] - [[青島利幸]]、[[放送作家]](* [[1961年]])<ref name="sanspo20171109">{{Cite news|url=https://www.sanspo.com/article/20171109-HS73F52OFBP57EWU2V3TD3KZI4/|title=青島幸男さんの長男、利幸氏が肺がんのため死去 テレビ番組の構成作家|newspaper=[[サンケイスポーツ]]|publisher=[[産経新聞社]]|accessdate=2020年10月30日|date=2017-11-09}}</ref>
* [[2023年]] - [[北浜晴子]]、声優(* [[1938年]])
* 2023年 - [[朝潮太郎 (4代)|四代目朝潮太郎]]、元大相撲力士(* [[1955年]])<ref>{{Cite news2 |url=https://www.sankei.com/article/20231103-5DVNDQS2PRI23IE5HCVJJTK2VQ/|title=元大関「朝潮」が死去 長岡末弘さん、67歳 |newspaper=産経ニュース |agency=産経デジタル |date=2023-11-03|accessdate=2023-11-03}}</ref>
{{-}}
== 記念日・年中行事 ==
* [[死者の日]]([[カトリック教会|カトリック]])
*:死者の霊魂のために祈りを捧げる日。
* [[死者の日 (メキシコ)|死者の日]]({{MEX}})
*: 死者の霊魂のために祈りを捧げ祝う日。
* {{仮リンク|インド人到達の日|en|Indian Arrival Day}}({{MUS}})
* [[阪神タイガース]]記念日({{JPN}})
*: [[1985年]]のこの日、[[プロ野球]]の[[1985年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で[[阪神タイガース]]が[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]を破り、38年ぶり、2リーグ化後では初の日本一になったことを記念。
* [[習字]]の日・[[書道]]の日({{JPN}})
*: 公益財団法人日本習字教育財団が制定。「いい(11)もじ(2)」の語呂合わせの意味と、文化祭などの多い11月の文化月間に合わせたもの。
* [[タイツ]]の日({{JPN}})
*: 株式会社エムアンドエムソックスが制定。11月は女性がタイツでおしゃれをするベストシーズンであること。そして、タイツは片足ずつ編み、あとで1つに縫製されることから形が数字の11と似ており、2つがペアであることから。
* キッチン・バスの日({{JPN}})
*: キッチン・バス工業会が制定。[[11月3日]]の「[[文化の日]]」の前日を家庭文化のあり方を考える日にということと、Kitchen-BathのK・Bがアルファベットの11番目・2番目でもあることから。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1102|date=2011年7月}}
* [[2011年]] - [[空条徐倫]]、[[ひき逃げ]]・[[死体損壊・遺棄罪|死体遺棄]]容疑で[[逮捕]]。(漫画『[[ストーンオーシャン]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1974年]](アニメでは[[1977年]]) - ウエディ、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=[[大場つぐみ]]、[[小畑健]]|title=DEATH NOTE|volume=13巻|publisher=[[集英社]]|year=2006|page=26|isbn=978-4-08-874095-9}}</ref>
* [[1980年]] - 則巻ガジラ、漫画・アニメ『[[Dr.スランプ]]』に登場するキャラクター<ref>『[[Dr.スランプ]]』ジャンプ・コミックス4巻 74ページDr.スランプ ほよよ履歴書「則巻ガジラ」より</ref>
*2328年 - [[ロラン・セアック]]、アニメ「[[∀ガンダム]]」の主人公<ref>アニメ第4話「ふるさとの軍人」より</ref>
* 生年不明 - 月光ハヤテ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2002|page=68|isbn=4-08-873288-X}}</ref>
* 生年不明 - 林藤匠、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1190283624748343299}}</ref>
* 生年不明 - ニコ、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|year=2013|title=東京喰種トーキョーグール|publisher=集英社|location=|isbn=978-4-08-879546-1|date=|volume=7巻|quote=カバー裏}}</ref>
* 生年不明 - 奈津恵(メグ)、漫画・アニメ『[[ご注文はうさぎですか?]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=「ご注文はうさぎですか?」画集 Cafe du Lapin|publisher=[[芳文社]]|series=[[まんがタイムKRコミックス]]|year=2014|page=23|isbn=978-4-8322-4448-1}}</ref>
* 生年不明 - 篠崎豊、漫画・アニメ『[[うちの会社の小さい先輩の話]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 成瀬まなみ、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://app.famitsu.com/20130626_183051/ |title=【ガールフレンド(仮)通信67】ドジっ娘バドミントンガール 成瀬まなみちゃん(CV: 儀武ゆう子) |access-date=2022-10-30 |publisher=ファミ通App |date=2013-06-26}}</ref>
* 生年不明 - 村上文緒、ゲーム・アニメ『ガールフレンド(仮)』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://app.famitsu.com/20140326_340354/ |title=『ガールフレンド(仮)』総選挙 クロエを抜いて1位に輝いた村上文緒に独占インタビュー |access-date=2022-10-30 |publisher=ファミ通App |date=2014-03-26}}</ref>
* 生年不明 - 大月シーナ、ゲーム『[[ステーションメモリーズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ekimemo|1058154221105627136}}</ref>
* 生年不明 - キース、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=47&cate=name&cont=Kies |title=キース |access-date=2023-02-08 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 朔間零、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://ensemble-stars.jp/characters/sakuma_rei/ |title=朔間 零(夜闇に誘う魔王) |accessdate=2023-02-08 |publisher=[[Happy Elements]] |work=『あんさんぶるスターズ!!』}}</ref>
* 生年不明 - 瀬名泉、ゲーム『あんさんぶるスターズ!』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://ensemble-stars.jp/characters/sena_izumi/ |title=瀬名 泉(夢追う望騎士) |accessdate=2023-02-08 |publisher=[[Happy Elements]] |work=『あんさんぶるスターズ!!』}}</ref>
* 生年不明 - 海部子規、ゲーム・アニメ『[[アイ★チュウ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.i-chu.jp/unit/ars/shiki/ |title=海部 子規 |access-date=2023-02-08 |publisher=[[リベル・エンタテインメント|Liber Entertainment Inc.]] |work=『アイ★チュウ』}}</ref>
* 生年不明 - 伏見臣、ゲーム・アニメ『[[A3!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.a3-liber.jp/character/ |title=〔秋組〕伏見 臣 |accessdate=2023-02-08 |publisher=[[リベル・エンタテインメント|Liber Entertainment Inc.]] |website=『A3!(エースリー)』}}</ref>
* 生年不明 - 瑞原あいな、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heaven-burns-red.com/character/31d/mizuhara-aina/ |title=瑞原あいな |website=『ヘブンバーンズレッド』 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=2023-02-08}}</ref>
=== 忌日(フィクション) ===
* [[2045年]] - クローネ、漫画・アニメ『[[約束のネバーランド]]』に登場するキャラクター(* [[2019年]])<ref>{{Cite book|和書|author1=白井カイウ|authorlink1=白井カイウ|author2=出水ぽすか|authorlink2=出水ぽすか|year=2020 |title=シークレットバイブル 約束のネバーランド 0 MYSTIC CODE |publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|page=236|isbn=978-4-08-882462-8}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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'''12月1日'''(じゅうにがつついたち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から335日目([[閏年]]では336日目)にあたり、年末まであと30日ある。
== できごと ==
* [[1640年]] - [[ポルトガル]]のブラガンサ公[[ジョアン4世 (ポルトガル王)|ジョアン]]らが[[スペイン]]王宮を襲撃し、[[ポルトガル王政復古戦争]]が勃発。15日にスペインとの[[同君連合]]解消、ポルトガル王即位。
* [[1821年]] - [[ドミニカ共和国]]がスペインからの独立を宣言。
* [[1822年]] - [[ブラジル帝国|ブラジル]]皇帝[[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)|ペドロ1世]]が戴冠。
* [[1885年]] - [[アメリカ合衆国特許商標庁|アメリカ特許庁]]が認定した、[[ドクターペッパー]]が初めて売り出される。
* [[1898年]] - 官設鉄道・[[上田駅|上田]] - [[軽井沢駅|軽井沢]]間(後の[[信越本線]]、現[[しなの鉄道線|しなの鉄道]])が延伸開業。[[直江津駅|直江津]] - 軽井沢間が鉄道で結ばれる。
* [[1891年]] - [[常設国際平和局]]設立。
* 1891年 - [[中之島公園]]開園。大阪市で誕生した初めての都市公園。
* [[1898年]] - [[淀橋浄水場]]通水。東京に初の近代水道ができる。
* [[1900年]] - [[東海道本線]]を運行する客車に[[蒸気暖房 (鉄道)|蒸気暖房]]が導入。
* [[1911年]] - [[阪堺電気軌道]]が恵美須町〜市ノ町を開業。
* [[1912年]] - [[鹿児島市交通局|鹿児島電気軌道]]が、武之橋~谷山間6.4kmを開業。
* [[1913年]] - [[ブエノスアイレス地下鉄]]が開業。
* [[1918年]] - [[デンマーク|デンマーク王国]]との[[同君連合]]体制下で[[アイスランド王国]]が成立。1944年に完全独立。
* [[1918年]] - セルビア・クロアチア・スロベニア王国(後の[[ユーゴスラビア王国]])が成立。
* [[1921年]] - [[強羅駅]]と[[早雲山駅]]を結ぶ[[箱根登山鉄道鋼索線]](箱根登山ケーブルカー)が開業。
* [[1923年]] - 同年(大正12年)[[9月1日]]の[[関東大震災]]で、日本橋市場一帯が全焼。東京市が築地への市場移転方針を決定し、築地海軍技術研究所の跡地を借り受けて東京市設築地市場を開場した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/207118 |title=築地市場、約100年前もあった移転騒動の深層 日本橋、築地、豊洲…「東京の魚河岸」の変遷 |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[東洋経済新報社|東洋経済]]ONLINE |page=2}}</ref>。
* [[1925年]] - [[ロンドン]]で[[ロカルノ条約]]が調印される。
* 1925年 - [[農民労働党]]結成、即日結社禁止。
* 1925年 - [[京都学連事件]]、[[京都府警察部]][[特別高等警察|特高課]]が[[京都大学|京大]]・[[同志社大学|同志社大]]などの[[社会科学研究会|社研部員]]33名を拘束。
* [[1926年]] - 大阪中央放送局(現在の[[NHK大阪放送局]])が本放送を開始。
* [[1927年]] - 日本で[[徴兵令]]が改正、[[兵役法]]が施行。
* [[1934年]] - ロシア共産党中央委員会書記[[セルゲイ・キーロフ]]が[[セルゲイ・キーロフ暗殺事件|暗殺]]。[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]による[[大粛清]]の契機となる。
* 1934年 - [[丹那トンネル]]が開通。これに伴い[[東海道本線]]のルート変更され元のルートが[[御殿場線]]として分離。[[1934年12月1日国鉄ダイヤ改正|ダイヤ改正]]も同時に実施。
* 1934年 - [[日本国有鉄道|国鉄]]初の流線型蒸気機関車、[[C53形]]43号機が運行開始。
* [[1937年]] - [[大阪市]]営[[渡船]]、[[桜島 (大阪市)|桜島]]発[[天保山]]行き「第三桜島丸」(11.5トン)が悪天候と定員超過が重なり沈没<ref>暗夜、安治川尻の惨事『大阪毎日新聞』(昭和12年12月2日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p45 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。死者・行方不明者57人。
* [[1939年]] - [[白米]]の販売が禁止される。コメの消費量を抑える目的で、以降、七分搗き以下のコメが流通することとなった<ref>白米とお別れ、買い溜めを取り締まる『東京日日新聞』(昭和14年12月1日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p712 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[御前会議]]で、[[ハル・ノート]]によるアメリカの要求は受け入れられないとして対米英開戦を決定。
* [[1943年]] - 第二次世界大戦: [[カイロ宣言]]発表。
* [[1945年]] - [[陸軍省]]・[[海軍省]]を[[第一復員省]]・[[第二復員省]]に改組。[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]を廃止。
* [[1949年]] - 初の[[お年玉付郵便はがき|お年玉年賀はがき]]を発売。
* 1949年 - [[阪急電鉄|京阪神急行電鉄]]に統合されていた[[京阪電気鉄道]]が分離再独立。
* [[1951年]] - 福岡でラジオ九州(現・[[RKB毎日放送]])開局。
* [[1953年]] - [[松阪市|松阪]]と[[伊勢市|伊勢]]を結ぶ日本初の[[有料道路]]、[[参宮有料道路]]が開通。
* 1953年 - [[ラジオ福島]]が開局。
* [[1955年]] - 同年10月、[[佐世保市|佐世保]]と[[長崎市|長崎]]を結ぶ[[国道202号]]に日本初の有料道路橋として[[西海橋]]が完成<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.pref.nagasaki.jp/bunrui/machidukuri/doro-kotsu/saikaibashi/ |title=「西海橋」(国指定重要文化財) |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[長崎県]]}}</ref>。この日供用が開始された<ref>{{Cite web|和書 |url=https://tabi-mag.jp/ns0087/ |title=西海橋(西海橋公園) |access-date=4 Aug 2023 |publisher=プレスマンユニオン |website=ニッポン旅マガジン}}</ref>。
* 1955年 - [[モンゴメリー・バス・ボイコット事件]]: [[アラバマ州]][[モンゴメリー (アラバマ州)|モンゴメリー]] で市営バスの白人優先席に座っていた黒人女性[[ローザ・パークス]]が逮捕される。
* [[1956年]] - [[中部日本放送]](CBC、現在のテレビ事業は株式会社[[CBCテレビ]]が運営)テレビジョン、大阪テレビ放送(OTV、現・[[朝日放送テレビ|朝日放送テレビジョン]])開局。
* [[1958年]] - [[中央アフリカ共和国]]が[[フランス共同体]]内の自治共和国として成立。1960年に独立。
* 1958年 - 初の[[一万円紙幣|一万円札]]が発行される。図柄は[[聖徳太子]]。
* 1958年 - [[北陸放送]]・[[南海放送]]テレビ放送開始。北陸放送は日本海側で初の民放テレビ局。
* 1958年 - 日本初のステンレス製電車、[[東急5200系電車|東急5200系]]が運行開始。
* [[1959年]] - [[南極条約]]を採択。
* [[1963年]] - NHK[[NHK甲府放送局|甲府]]、[[NHK長崎放送局|長崎]]、[[NHK宮崎放送局|宮崎]]教育テレビジョンが開局。
* [[1964年]] - [[マラウイ]]・[[マルタ]]・[[ザンビア]]が[[国際連合|国連]]に加盟。
* [[1969年]] - [[青森テレビ]]、[[秋田テレビ]]、[[テレビ岩手]]、[[三重テレビ放送]]が開局。
* 1969年 - [[三井住友銀行|住友銀行]]が日本初の[[現金自動預け払い機|現金自動支払機]] (CD機) を設置。
* [[1970年]] - [[広島ホームテレビ]]が開局。
* [[1973年]] - [[出版社]]の[[白泉社]]設立。
* [[1974年]] - 辞任を表明した[[田中角栄]]首相の後任として、[[椎名悦三郎]]自民党副総裁が[[三木武夫]]を指名。([[椎名裁定]])
* [[1976年]] - [[アンゴラ]]が国連に加盟。
* [[1980年]] - 日本で初めての[[ワーキング・ホリデー]]が[[オーストラリア]]との間で開始。
* [[1982年]] - [[ユタ大学]]で世界初の[[人工心臓]]の移植手術を実施。
* 1982年 - [[東北地方]]初の民放FMラジオ局・[[エフエム仙台]]が開局。
* [[1984年]] - [[エフエム宮崎]]が開局。
* [[1985年]] - [[エフエム山口]]が開局。
* [[1986年]] - [[井原鉄道]]設立。
* [[1988年]] - JR[[京葉線]][[新木場駅]] - [[南船橋駅]]間、[[市川塩浜駅]] - [[西船橋駅]]間開業。
* [[1990年]] - [[英仏海峡トンネル]]が貫通。
* [[1991年]] - [[1991年ウクライナ独立住民投票|ウクライナ独立住民投票]]で{{仮リンク|ウクライナ独立宣言|label=独立宣言|en|Declaration of Independence of Ukraine}}を承認。
* [[1992年]] - 1991年の[[計量法]]改正により、気圧の単位[[バール (単位)|ミリバール]]が[[パスカル (単位)|ヘクトパスカル]]に。
* [[1993年]] - 日本で住宅向けソーラーパネルの販売が開始される。
* [[1996年]] - [[エフエム滋賀]] (e-radio) が開局。
* [[1997年]] - [[第3回気候変動枠組条約締約国会議|地球温暖化防止京都会議]]が開会。
* [[1998年]] - [[特定非営利活動促進法]](NPO法)施行。
* [[2000年]] - [[日本における衛星放送|BSデジタル放送]]開始。同時に、[[BS日本|BS日テレ]]、[[BS朝日]]、[[BS-TBS|BS-i(現・BS-TBS)]]、[[BSテレビ東京|BSジャパン(現・BSテレ東)]]、[[BSフジ]]、以上5局の民間BS放送局が開局。
* [[2001年]] - [[湘南新宿ライン]]運行開始。[[ファイル:E2+E3kei0bandai omiya.jpg|サムネイル|東北新幹線八戸開業(2002)|228x228ピクセル]]
* [[2002年]] - [[東北新幹線]][[盛岡駅]] - [[八戸駅]]間延伸開業。それに伴い、[[東北本線]]盛岡駅 - [[目時駅]]間が[[IGRいわて銀河鉄道]]に、同線目時駅 - 八戸駅間が[[青い森鉄道]]に[[第三セクター]]化される。
* 2002年 - [[埼京線]][[恵比寿駅]] - [[大崎駅]]間延伸開業、ならびに[[東京臨海高速鉄道りんかい線]][[天王洲アイル駅]] - 大崎駅間開業。
* [[2003年]] - [[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]が3大都市圏の一部で開始。
* [[2004年]] - [[東京国際空港]](羽田空港)第2ターミナルビル供用開始。また、これに関連し[[東京モノレール羽田空港線|東京モノレール羽田線]]の[[羽田空港第1ターミナル駅|羽田空港駅]] - [[羽田空港第2ターミナル駅|羽田空港第2ビル駅]]間が開業。羽田空港駅はモノレールのみ[[羽田空港第1ターミナル駅|羽田空港第1ビル駅]]に改称される。
* 2004年 - [[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]: [[大阪近鉄バファローズ]]が解散し、オリックスブルーウェーブと合併。新球団『[[オリックス・バファローズ]]』が誕生。
* [[2005年]] - 日本では[[トゥーン・ディズニー]]が開局された。
* [[2006年]] - 地上波デジタル放送が全都道府県の一部で放送開始。
* [[2007年]] - [[日本BS放送|BS11]]と[[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|トゥエルビ]]が開局。BSデジタル民放テレビ放送局の新規開設は2000年の同放送開始以来。
* 2007年 - [[気象業務法]]改正により、[[緊急地震速報]]が予報および[[警報]]として位置づけられた。
* [[2010年]] - [[地方分権]]を推進させることを目的として、[[近畿地方]]の7つの[[都道府県|府県]]が参加する[[関西広域連合]]が発足<ref>{{Cite web|和書 |date=Feb 2011 |url=http://www.kankeiren.or.jp/keizaijin/pdf/now11.2.pdf |title=関西広域連合 誕生 |format=[[PDF]] |publisher=関西経済連合会 |accessdate=4 Aug 2023 |page=1}}</ref>。
* [[2011年]] - 日本において、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ハワイ州|ハワイ]]産の[[遺伝子組み換え作物|遺伝子組み換え]][[パパイア]]の輸入が解禁。生食向けの遺伝子組み換え作物の輸入認可は初<ref>{{Cite web|和書 |date=1 Dec 2011 |url=https://news.ntv.co.jp/category/international/195553 |title=遺伝子組み換えパパイア、日本への輸出解禁 |work=[[日テレNEWS24]] |publisher=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]] |accessdate=4 Aug 2023}}</ref>。
* 2011年 - プロ野球のオーナー会議において、[[東京放送ホールディングス]]より横浜ベイスターズを買収した[[ディー・エヌ・エー|DeNA]]の球界への参入が承認<ref>{{Cite web|和書 |date=2 Dec 2011 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/12/02/kiji/K20111202002151290.html |title=楽天は最後まで反対も…11球団賛成でDeNA承認 |publisher=[[スポーツニッポン]] |accessdate=4 Aug 2023 |website=Sponichi Annex}}</ref>。
* [[2016年]] - [[タイ王国]][[タイの国王|国王]]に、[[ラーマ9世]]前国王の長男:ワチラーロンコーン[[皇太子]]が即位し、[[ラーマ10世]]となる<ref>{{Cite web|和書 |date=2 Dec 2016 |url=https://www.bbc.com/japanese/38178583 |title=タイのワチラロンコン皇太子、新国王に即位 |publisher=[[BBC]] NEWS JAPAN |accessdate=4 Aug 2023}}</ref>。
* [[2017年]] - [[ホンジュラス]]にて、大統領選挙後の混乱を収拾するために[[非常事態宣言]]、[[夜間外出禁止令]]が発出<ref>{{Cite web|和書 |date=3 Dec 2017 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3153938 |title=中米ホンジュラスで非常事態宣言、大統領選後の暴力デモで |work=AFP BB News |publisher=[[フランス通信社]] |accessdate=4 Aug 2023}}</ref>。
* 2017年 - 第125代天皇[[明仁]]の[[退位]]等について定めた『[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]』の施行期日(天皇明仁の退位の日程)を定める為の[[皇室会議]]が開催され、「[[2019年]]([[平成]]31年)[[4月30日]]」という答申が決定する<ref>{{Cite web|和書 |title=退位・改元の準備を滞りなく進めよう |url=https://www.nikkei.com/article/DGXKZO24188210R01C17A2EA1001/ |date=2 Dec 2017 |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[日本経済新聞]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.kunaicho.go.jp/news/pdf/koshitsukaigi.pdf |title=皇室会議 議事概要 |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[宮内庁]] |page=5 |format=[[PDF]]}}</ref>。
* [[2018年]] - BSで本格的に家庭向け[[4K 8Kテレビ放送]]が開始<ref>{{Cite web|和書 |title=4K8K、五輪に照準|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO38440990R01C18A2EA5000/ |date=2 Dec 2018 |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[日本経済新聞]]}}</ref>。
* 2018年 - [[フランス]]で、3週間連続で「[[黄色いベスト運動|黄色いベスト]]」デモが行われる。フランス全土で3万6000人以上が参加し、このうち5000人が首都パリに集結。一部が暴徒化し412人が拘束された。フランス首都の混乱としては1968年以来最悪の規模<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.businessinsider.jp/post-180686 |title=パリでは一部が暴徒化! フランス全土に拡大する抗議デモ「黄色いベスト」とは |access-date=4 Aug 2023 |publisher=BUSINESS INSIDER JAPAN |date=4 Dec 2018}}</ref>。
*[[2022年]] - [[2022 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップカタール大会]]1次リーグE組。日本代表はスペインと対戦し、2―1で逆転勝利し、決勝トーナメント進出を決める。逆転をアシストしたMF[[三笘薫]]の折り返しは、「三笘の1㎜」として、海外でも大会を象徴するプレーに選出された<ref>{{Cite web|和書 |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/855640 |title=三笘薫“奇跡の1ミリ”、あの“証拠写真”を撮影した外国人カメラマンに直撃取材「なぜ撮れた?」「地上50mからニッポンのゴールを待っていた」 |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[文芸春秋]] |website=Number Web |date=5 Dec 2022}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://web.gekisaka.jp/news/worldcup/detail/?375773-375773-fl |title=三笘薫の“1mmアシスト”がカタールW杯を象徴する1枚に…米メディアが選出「今後も困惑させられ続ける」 |access-date=4 Aug 2022 |publisher=[[講談社]] |date=21 Dec 2022 |website=ゲキサカ}}</ref>。
*[[2023年]] - BS1とBSPが再編され、「NHK-BS」が誕生する。
<!--
=== 日本の自治体改編 ===
* [[1922年]] - 埼玉県[[川越市]]が市制施行。
* [[1940年]] - 東京都[[立川市]]、石川県[[小松市]]が市制施行。
* [[1942年]] - 三重県[[鈴鹿市]]が市制施行。
* [[1954年]] - 岩手県[[遠野市]]、栃木県[[大田原市]]、兵庫県[[小野市]]が市制施行。
* [[1956年]] - 大阪府[[箕面市]]が市制施行。
* [[1970年]] - 愛知県[[尾張旭市]]・[[高浜市]]・[[知立市]]、宮崎県[[えびの市]]が市制施行。
* [[1971年]] - 愛知県[[岩倉市]]、沖縄県[[糸満市]]が市制施行。
* [[1980年]] - 兵庫県[[神戸市]][[葺合区]]と[[生田区]]が合区し、[[中央区 (神戸市)|中央区]]が発足。
* [[2003年]] - 三重県[[いなべ市]]が市制施行。
* [[2007年]] - 鹿児島県[[南九州市]]が市制施行。-->
== 誕生日 ==
* [[1081年]] - [[ルイ6世 (フランス王)|ルイ6世]]、[[フランス王]](+ [[1137年]])
* [[1521年]]([[大永]]元年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]) - [[武田信玄]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[大名]](+ [[1573年]])
* [[1580年]] - [[ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスク]]、[[天文学者]](+ [[1637年]])
* [[1709年]] - [[フランツ・クサヴァー・リヒター]]、[[作曲家]](+ [[1789年]])
* [[1716年]]([[享保]]元年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]) - [[宗義如]]、第10代[[対馬府中藩|対馬府中藩主]](+ [[1752年]])
* [[1743年]] - [[マルティン・ハインリヒ・クラプロート]]、[[化学者]](+ [[1817年]])
* [[1761年]] - [[マリー・タッソー]]、[[人形]]作家(+ [[1850年]])
* [[1791年]]([[寛政]]3年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]) - [[島津斉興]]、第10代[[薩摩藩|薩摩藩主]](+ [[1859年]])
* [[1792年]] - [[ニコライ・ロバチェフスキー]]、[[数学者]](+ [[1856年]])
* [[1796年]]([[寛政]]8年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]) - [[小笠原長昌]]、第3代[[棚倉藩|棚倉藩主]]・初代[[唐津藩|唐津藩主]](+ [[1823年]])
* [[1809年]]([[文化 (元号)|文化]]6年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]) - [[阿部正寧]]、第3代[[福山藩|福山藩主]](+ [[1870年]])
* [[1844年]] - [[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]]、[[イギリス]]王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]の妃(+ [[1925年]])
* [[1845年]] - [[新島八重]](+ [[1932年]])
* [[1847年]] - [[アガーテ・バッケル=グロンダール]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[1907年]])
* [[1855年]]([[安政]]2年[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]) - [[松平喜徳]]、第10代[[会津藩|会津藩主]](+ [[1891年]])
* [[1875年]] - [[松永安左エ門]]、[[財界人]]、[[茶人]](+ [[1971年]])
* [[1879年]] - [[荻原碌山]]、[[彫刻家]](+ [[1910年]])
* [[1882年]] - [[エド・ロイルバック]] 、[[プロ野球選手]](+ [[1961年]])
* [[1884年]] - [[苫米地英俊]]、言語学者、[[政治家]](+ [[1966年]])
* [[1886年]] - [[朱徳]]、[[軍人]]、政治家(+ [[1976年]])
* 1886年 - [[飛田穂洲]]、[[野球評論家]](+ [[1965年]])
* 1886年 - [[レックス・スタウト]]、[[推理作家]](+ [[1975年]])
* [[1894年]] - [[嵐吉三郎 (7代目)]]、[[歌舞伎役者]](+ [[1973年]])
* [[1895年]] - [[山田恵諦]]、第253世[[天台座主]](+ [[1994年]])
* 1895年 - ヘンリー・ワシントン ([[:en:Henry Williamson|Henry Williamson]])、[[作家]](+ [[1977年]])
* [[1896年]] - [[ゲオルギー・ジューコフ]]、[[ソビエト連邦]]の[[軍人]](+ [[1974年]])
* [[1898年]] - [[田畑政治]]、教育家、[[記者|新聞記者]]、[[水泳]]指導者(+ [[1984年]])
* [[1900年]] - [[鬼頭仁三郎]]、経済学者(+[[1947年]])
* [[1903年]] - [[小林多喜二]]、[[プロレタリア文学]]の[[小説家]](+ [[1933年]])(戸籍上)
* [[1910年]] - [[中田正子]]、弁護士(+[[2002年]])
* 1910年 - [[アリシア・マルコワ]]、[[バレエ]]ダンサー(+ [[2004年]])
* [[1911年]] - [[ウォルター・オルストン]]、元[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]][[監督]](+ [[1984年]])
* [[1912年]] - [[宮本正太郎]]、天文学者(+[[1992年]])
* 1912年 - [[ミノル・ヤマサキ]]、[[建築家]](+ [[1986年]])
* [[1915年]] - [[暁伸・ミスハワイ|暁伸]]、[[漫才師]](+ [[2011年]])
* [[1916年]] - [[大沢清]]、プロ野球選手(+ [[2005年]])
* 1916年 - [[マーティー・マリオン]]、プロ野球選手(+ [[2011年]])
* 1916年 - [[万里]]、政治家([[2015年]])
* [[1919年]] - [[中尾碩志]]、プロ野球選手(+ [[1977年]])
* [[1921年]] - [[山本静雄]]、プロ野球選手(+ [[1959年]])
* [[1922年]] - [[フセヴォロド・ボブロフ]]、[[サッカー選手]]、[[アイスホッケー選手]](+ [[1979年]])
* [[1925年]] - [[マーティン・ロッドベル]]、[[生化学者]](+ [[1998年]])
* [[1926年]] - [[八波むと志]]、[[コメディアン|喜劇俳優]](+ [[1964年]])
* [[1927年]] - [[中村時蔵 (4代目)]]、歌舞伎役者(+[[1962年]])
* [[1928年]] - [[銭村健四]]、プロ野球選手(+ [[2000年]])
* [[1929年]] - [[奈良岡朋子]]、[[俳優|女優]](+ [[2023年]])
* 1929年 - [[花房秀三郎]]、[[ウイルス学|ウイルス学者]](+ [[2009年]])
* [[1932年]] - [[鈴木敏文]]、[[セブン-イレブン]]・ジャパン[[最高経営責任者|CEO]]、事実上の創設者
* [[1933年]] - [[藤子・F・不二雄]]、[[漫画家]](+ [[1996年]])
* [[1934年]] - [[龍円恵喜二]]、政治学者、[[帝京大学]][[名誉教授]](+ [[2021年]])
* 1934年 - [[田中守]]、プロ野球選手(+ [[2004年]])
* [[1935年]] - [[ウディ・アレン]]、映画監督、俳優
* 1935年 - [[平野貞夫]]、政治家
* [[1936年]] - [[久保明]]、[[俳優]]
* 1936年 - [[木下強三]]、プロ野球選手(+ [[2008年]])
* [[1938年]] - [[三留理男]]、報道写真家、ジャーナリスト(+ [[2022年]])
* 1938年 - [[金田高義]]、元プロ野球選手
* 1938年 - [[萩原千秋]]、元プロ野球選手(+ [[2018年]])
* [[1939年]] - [[小野木孝]]、元プロ野球選手
* [[1940年]] - [[三原有美子]]、女優
* 1940年 - [[松島みのり]]、声優(+ [[2022年]])
* [[1941年]] - [[清水利章]]、[[調教師]]
* 1941年 - [[金田星雄]]、元プロ野球選手
* 1941年 - [[伊藤英成]]、政治家(+ [[2021年]])
* 1941年 - [[重野安正]]、政治家(+ [[2021年]])
* 1941年 - [[増村紀一郎]]、漆芸家
* 1941年 - [[フェデリコ・ファジン]]、[[電気工学]]研究者
* [[1942年]] - [[北川イッセイ]]、政治家(+ [[2021年]])
* 1942年 - [[水原英子]]、女優(+[[2008年]])
* [[1943年]] - [[フィン・キドランド]]、[[経済学者]]
* [[1944年]] - [[八木沢荘六]] 、元プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]]
* 1944年 - [[三上英昭]]、大学教授、元裁判官
* 1944年 - [[梨元勝]]、[[芸能リポーター]](+ [[2010年]])
* [[1945年]] - [[ベット・ミドラー]]、歌手、女優
* 1945年 - [[横田順彌]]、[[SF作家]](+ [[2019年]])
* 1945年 - [[富司純子]]、女優
* 1945年 - [[波乃久里子]]、女優
* 1945年 - [[奥田怜子]]、[[イラストレーター]]、[[絵本作家]]
* [[1946年]] - [[野本憲一]]、[[天文学者]]
* 1946年 - [[宇都宮健児]]、弁護士
* 1946年 - [[ギルバート・オサリバン]]、[[シンガーソングライター]]
* 1946年 - [[富田清吾]]、元プロ野球選手
* [[1947年]] - [[田尻惠保]]、実業家
* 1947年 - [[根津甚八 (俳優)|根津甚八]]、俳優(+ [[2016年]])
* [[1948年]] - [[梶三和子]]、女優
* 1948年 - [[ジョージ・フォスター]]、元プロ野球選手
* [[1949年]] - 岩久茂、[[歌手]](元[[青い三角定規]])
* [[1950年]] - [[上田恵介]]、生物学者、鳥類学者、 [[立教大学]][[名誉教授]]
* 1950年 - [[斎藤聖美]]、実業家
* [[1951年]] - [[ジャコ・パストリアス]]、[[ベーシスト]](+ [[1987年]])
* [[1952年]] - [[板東知文]]、政治家
* [[1954年]] - [[渋谷天外 (3代目)]]、新生[[松竹新喜劇]]代表、喜劇俳優
* 1954年 - [[島村美輝]]、元俳優
* 1954年 - [[藤山新太郎]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]]
* 1954年 - [[阿川大樹]]、[[作家]]
* [[1955年]] - [[乙骨正生]]、[[ジャーナリスト]]
* 1958年 - [[徳田ザウルス]]、[[漫画家]](+ [[2006年]])
* 1958年 - [[三宅宗源]]、元プロ野球選手
* 1958年 - [[ハビエル・アギーレ]]、元サッカー選手、[[サッカー]]指導者
* [[1959年]] - [[スティーブ・ジャンセン]]、[[音楽家|ミュージシャン]]、ドラマー(元[[ジャパン (バンド)|ジャパン]])
* [[1960年]] - [[石井茂樹]]、元俳優
* [[1961年]] - [[ジェレミー・ノーサム]]、俳優
* [[1962年]] - [[林家正蔵 (9代目)]]、[[落語家]]
* 1962年 - [[中村ひろみ]]、声優
* 1962年 - [[萩原佐代子]]、女優
* [[1963年]] - [[阿部重典]]、[[茨城放送]][[アナウンサー]]
* [[1964年]] - [[竹内海南江]]、[[タレント]]
* 1964年 - [[サルヴァトーレ・スキラッチ]]、サッカー選手
* [[1965年]] - [[フリオ・マチャド]]、元プロ野球選手
* [[1966年]] - [[池田政典]]、俳優、声優、歌手
* 1966年 - [[ラリー・ウォーカー]]、元プロ野球選手
* [[1967年]] - [[小野輝男]]、物理学者
* [[1969年]] - [[三輪隆]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[芦沢公一]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[やぶうち優]]、漫画家
* [[1970年]] - [[髙橋オリバー]]、コンサルタント、実業家
* 1970年 - [[小早川幸二]]、元プロ野球選手
* 1970年 - [[サラ・シルバーマン]]、コメディエンヌ
* [[1971年]] - [[高橋洋平]]、映像作家
* 1971年 - [[上野浩司]]、ミュージシャン
* [[1973年]] - [[池谷直樹]]、元体操選手、スポーツタレント、リポーター
* 1973年 - [[門倉有希]]、歌手
* 1973年 - [[中川亜紀子]]、声優
* 1973年 - [[長谷川理恵]]、タレント
* 1973年 - [[五十嵐サキ]]、お笑い芸人
* 1973年 - [[本田太郎]]、政治家、弁護士
* [[1974年]] - [[田辺真由美]]、漫画家
* 1974年 - [[中村善之]]、元プロ野球選手
* [[1975年]] - [[大野敬正]]、ミュージシャン
* 1975年 - [[下山真二]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[斉藤雅人]]、サッカー選手
* 1975年 - [[DJ龍太]]、ラジオパーソナリティ
* 1975年 - 和田唱、ミュージシャン([[TRICERATOPS]])
* [[1976年]] - [[許銘傑]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[ブルー・ウルフ]]、[[プロレスラー]]
* [[1977年]] - [[田中明 (野球)|田中明]]、元野球選手
* 1977年 - [[花村さやか]]、声優
* 1977年 - [[神保佳永]]、料理人
* 1977年 - [[河野義博 (政治家)|河野義博]]、政治家
* [[1978年]] - [[一十三十一]]、シンガーソングライター
* [[1979年]] - [[村上綾歌]]、タレント
* 1979年 - [[中島優美]]、ミュージシャン(元[[GO!GO!7188]])
* 1979年 - [[村井慎二]]、元サッカー選手
* [[1980年]] - [[西部洋平]]、サッカー選手
* [[1981年]] - [[羽田憲司]]、 元サッカー選手
* 1981年 - [[松村正代]]、アナウンサー
* [[1982年]] - [[山田タマル]]、[[シンガーソングライター]]
* 1982年 - [[植木秀美]]、声優
* 1982年 - [[三遊亭わん丈]]、落語家
* 1982年 - 阿部磨有香、元[[お笑いタレント]](元[[少年少女 (お笑いコンビ)|少年少女]])
* 1982年 - [[清水良行]]、自転車競技選手
* 1982年 - [[ジョン・マッタータル]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1983年]] - いぶくろ聖志、箏奏者([[和楽器バンド]])
* 1983年 - [[阿部翔平]]、サッカー選手
* 1983年 - [[金澤大将]]、元サッカー選手、サッカー指導者
* 1983年 - [[王皓]]、[[卓球]]選手
* [[1984年]] - [[田口真一]]、ミュージシャン
* [[1985年]] - [[石野枝里子]]、スピードスケート選手
* 1985年 - [[エミリアーノ・ヴィヴィアーノ]]、サッカー選手
* [[1986年]] - [[桶谷英則]]、ハンドボール選手
* [[1987年]] - [[中野紘志]]、ボート選手
* 1987年 - [[アマンダ (タレント)|アマンダ]]、タレント
* [[1988年]] - [[千葉美乃梨]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー
* 1988年 - [[タイラー・ジョゼフ]]、ミュージシャン([[トゥエンティ・ワン・パイロッツ]])
* [[1989年]] - [[志麻]]、歌手、声優([[浦島坂田船]])
* 1989年 - [[小出真衣]]、女優、[[グラビアアイドル]]
* 1989年 - [[深澤恵梨香]]、作曲家、編曲家、指揮者、音楽プロデューサー
* [[1990年]] - [[稲村梓]]、女優
* 1990年 - [[宝野聡史]]、作曲家、編曲家
* 1990年 - [[酒井志穂]]、競泳選手
* 1990年 - [[トゥローツィ・ドーラ]]、元アイスダンス選手
* 1990年 - [[シャネル・イマン]]、ファッションモデル
* [[1991年]] - [[孫楊]]、[[競泳]]選手
* [[1992年]] - [[高橋美帆 (競泳選手)|高橋美帆]]、競泳選手
* 1992年 - [[伊東誠 (俳優)|伊東誠]]、俳優
* 1992年 - [[佐藤巧 (アナウンサー)|佐藤巧]]、アナウンサー
* [[1993年]] - [[田中豊樹]]、プロ野球選手
* [[1995年]] - [[石坪聖野]]、ビーチバレー選手
* 1995年 - [[藪田美穂子]]、バレーボール選手
* 1995年 - [[ジェームズ・ウィルソン (1995年生のサッカー選手)|ジェームズ・ウィルソン]]、サッカー選手
* 1995年 - 山上暁之進、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]]([[山上兄弟]])
* [[1996年]] - [[松山友紀奈]]、女優
* 1996年 - [[大橋尚志]]、 サッカー選手
* [[1997年]] - [[美馬和也]]、サッカー選手
* 1997年 - [[葵 (タレント)|葵]]、モデル
* [[1998年]] - [[宮本佳林]]、歌手(元[[Juice=Juice]])
* [[1999年]] - [[太田夢莉]]、歌手、タレント(元[[NMB48]])
* 1999年 - 沖侑果、アイドル([[STU48]])
* [[2001年]] - [[愛子内親王|敬宮愛子内親王]]、[[皇族]]、[[徳仁|今上天皇]]第一皇女子
* [[2002年]] - [[山出愛子]]、シンガーソングライター
* 2002年 - [[白井琴望]]、女優、[[YouTuber]](元[[SKE48]])
* 2002年 - [[古川杏]]、グラビアアイドル
* [[2003年]] - [[日髙麻鈴]]、女優(元[[さくら学院]])
* [[2004年]] - 布袋百椛、アイドル([[AKB48]])
* [[2006年]] - [[佐藤愛桜]]、女優、ファッションモデル
* 2006年 - [[歸山竜成]]、俳優
* 生年不明 - [[みづほ梨乃]]、漫画家
* 生年不明 - [[浅見侑]]、漫画家、イラストレーター
* 生年不明 - [[華純沙那]]、女優、[[宝塚歌劇団]][[雪組 (宝塚歌劇)|雪組]]
* 生年不明 - [[岡本瑞恵]]、女優
* 生年不明 - [[杏野ヒナナ]]、タレント
* 生年不明 - [[有賀由衣]]、声優、女優
* 生年不明 - [[根塚良]]、声優
* 生年不明 - [[高橋かな]]、声優
* 生年不明 - [[仲田ありさ]]、声優
* 生年不明 - [[黒羽保]] 、声優
* 生年不明 - [[湊あくあ]]、Vtuber
== 忌日 ==
=== 人物 ===
* [[842年]]([[承和 (日本)|承和]]9年[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]) - [[阿保親王]]、[[平安時代]]の[[皇族]](* [[792年]])
* [[1135年]] - [[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]、[[イングランド王国|イングランド]]王(* [[1068年]])
* [[1155年]]([[久寿]]2年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]) - [[行玄]]、[[天台宗]]の[[僧]](* [[1097年]])
* [[1433年]]([[永享]]5年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]) - [[後小松天皇]]、[[北朝 (日本)|北朝]] 第6代・第100代[[天皇]](* [[1377年]])
* [[1455年]] - [[ロレンツォ・ギベルティ]]、[[彫刻家]](* [[1381年]]頃)
* [[1516年]]([[永正]]13年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]) - [[宇都宮成綱]]、[[戦国大名]]、[[下野国|下野]][[宇都宮氏]]の第17代当主、宇都宮氏中興の祖(* [[1468年]])
* [[1521年]] - [[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]、第217代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1475年]])
* [[1530年]] - [[マルグリット・ドートリッシュ|マルガレーテ(マルグリット)]]、[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]の娘(* [[1480年]])
* [[1602年]]([[慶長]]7年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]) - [[小早川秀秋]]、[[岡山藩|岡山藩主]](* [[1582年]])
* [[1640年]] - [[ゲオルク・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|ゲオルク・ヴィルヘルム]]、[[プロイセン公]]、[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]](* [[1595年]])
* [[1719年]]([[享保]]17年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]) - [[井伊直陽]]、[[越後国|越後]][[与板藩]]第2代藩主(* [[1732年]])
* [[1729年]] - [[ジャコーモ・フィリッポ・マラルディ]]、[[天文学者]](* [[1665年]])
* [[1750年]] - [[ヨハン・ドッペルマイヤー]]、天文学者(* [[1677年]])
* [[1755年]] - [[モーリス・グリーン (作曲家)|モーリス・グリーン]]、[[作曲家]](* [[1696年]])
* [[1797年]] - [[オリヴァー・ウォルコット (独立宣言署名者)|オリヴァー・ウォルコット]]、[[アメリカ合衆国下院|アメリカ合衆国下院議員]]、[[コネチカット州]]知事(* [[1726年]])
* [[1825年]] - [[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]、[[ロマノフ朝]]第10代[[ロシア帝国]][[ロシア皇帝|皇帝]](* [[1777年]])
* [[1830年]] - [[ピウス8世 (ローマ教皇)|ピウス8世]]、第253代ローマ教皇(* [[1761年]])
* [[1848年]]([[嘉永]]元年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]) - [[曲亭馬琴]]、[[読本]]作者(* [[1767年]])
* [[1866年]] - [[ジョージ・エベレスト]]、[[探検家]]、[[地理学者]](* [[1790年]])
* [[1867年]]([[慶応]]3年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]) - [[野村望東尼]]、[[歌人]]、[[尊王攘夷]]運動家(* [[1806年]])
* [[1882年]] - [[松平定安]]、第10代[[松江藩|松江藩主]](* [[1835年]])
* [[1902年]] - [[フレッド・ダンラップ]] 、プロ野球選手(* [[1859年]])
* [[1911年]] - [[ワシーリー・マクシモフ]]、[[画家]](* [[1844年]])
* [[1914年]] - [[アルフレッド・セイヤー・マハン]]、[[アメリカ海軍]][[少将]](* [[1840年]])
* [[1917年]] - [[池田蕉園]]、[[日本画家]](* [[1886年]])
* [[1928年]] - [[浅井虎夫]]、[[歴史学者]](* [[1877年]])
* [[1934年]] - [[セルゲイ・キーロフ]]、[[政治家]](* [[1886年]])
* [[1935年]] - [[ベルンハルト・シュミット]]、[[望遠鏡]][[技術者]](* [[1879年]])
* [[1943年]] - [[ダムロンラーチャーヌパープ]]、[[タイ王国|タイ]]の王族、歴史学者(* [[1862年]])
* 1943年 - [[男嶌舟藏]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1878年]])
* [[1944年]] - [[村上浪六]]、[[小説家]](* [[1865年]])
* [[1947年]] - [[アレイスター・クロウリー]]、神秘主義者(* [[1875年]])
* 1947年 - [[ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ]]、[[数学者]](* [[1877年]])
* [[1950年]] - [[アーネスト・ジョン・モーラン]]、作曲家(* [[1894年]])
* [[1952年]] - [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]、[[イタリアの首相|イタリア首相]](* [[1860年]])
* [[1954年]] - [[下位春吉]]、政治運動家、[[童話]]口演家、[[教育家]](* [[1883年]])
* [[1955年]] - [[菊池武夫 (陸軍軍人)|菊池武夫]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[中将]]、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]、[[興亜専門学校 (旧制)|興亜専門学校]]([[亜細亜大学]]前身)初代校長(* [[1875年]])
* [[1964年]] - [[J・B・S・ホールデン]]、[[生物学者]](* [[1892年]])
* [[1968年]] - [[中村天風]]、[[ヨーガ]]行者(* [[1876年]])
* [[1971年]] - [[平野長靖]]、自然保護運動家(* [[1935年]])
* [[1972年]] - [[アントニオ・セーニ]]、第4代[[共和国大統領 (イタリア)|イタリア大統領]](* [[1891年]])
* [[1973年]] - [[ダヴィド・ベン=グリオン]]、初代[[イスラエルの首相|イスラエル首相]](* [[1886年]])
* [[1977年]] - [[海音寺潮五郎]]、[[小説家]](* [[1901年]])
* 1977年 - [[望月優子]]、[[俳優|女優]]、[[政治家]](* [[1917年]])
* [[1980年]] - [[松田竹千代]]、政治家、第55代[[衆議院議長]](* [[1888年]])
* [[1981年]] - [[手塚英孝]]、小説家、文学研究者(* [[1906年]])
* [[1982年]] - [[武政英策]]、作曲家(* [[1907年]])
* [[1983年]] - [[木村俊夫]]、元[[内閣官房長官]]、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](* [[1909年]])
* [[1984年]] - [[井口愛子]]、[[ピアノ]]教育家(* [[1910年]])
* [[1987年]] - [[カール・ワイデル・レイモン]] 、食肉職人(* [[1894年]])
* [[1991年]] - [[ジョージ・スティグラー]]、[[経済学者]](* [[1911年]])
* [[1993年]] - [[益田喜頓]]、[[コメディアン]](* [[1909年]])
* [[1994年]] - [[姚依林]]、元[[中華人民共和国国務院]]副総理(* [[1917年]])
* 1994年 - [[ヘレン・マクロイ]]、[[推理作家]](* [[1904年]])
* [[1997年]] - [[ステファン・グラッペリ]]、ジャズ[[ヴァイオリニスト]](* [[1908年]])
* [[1998年]] - [[中山昭二]]、[[俳優]](* [[1928年]])
* [[1999年]] - [[井尻正二]]、[[古生物学|古生物学者]]、[[地質学|地質学者]](* [[1913年]])
* [[2001年]] - [[村松克己]]、俳優(* [[1939年]])
* [[2002年]] - [[デーブ・マクナリー]]、元プロ野球選手(* [[1942年]])
* [[2006年]] - [[クロード・ジャド]]、女優(* [[1948年]])
* [[2007年]] - [[ケン・マグレガー]]、[[テニス]]選手(* [[1929年]])
* 2007年 - [[アントン・ロジャース]]、俳優(* [[1933年]])
* [[2007年]] - [[ジューン・アルメイダ]]、[[ウイルス学|ウイルス学者]](* [[1930年]])
* [[2008年]] - [[藤田和夫]]、[[地球科学者]](* [[1919年]])
* [[2011年]] - [[内山まもる]]、[[漫画家]](* [[1949年]])
* [[2012年]] - [[渡辺芳則]]、[[ヤクザ]]、[[指定暴力団]]五代目[[山口組]]組長(* [[1941年]])
* [[2015年]] - [[大島晃]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/obituaries/CK2015120302000237.html |title=大島晃氏 上智大名誉教授、漢文学 |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[東京新聞]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20151206025721/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/obituaries/CK2015120302000237.html |archive-date=6 Dec 2015 |date=3 Dec 2015}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.sophiakai.gr.jp/news/news/2015/2015120401.html|title=上智大学名誉教授(元文学部教授)の大島晃先生が、12月1日逝去されました|publisher= 上智大学ソフィア会|date=2015-12-04|accessdate=2020-10-23}}</ref>、[[漢文学]]者、[[上智大学]]名誉教授、漢文学者、[[上智大学]]名誉教授(* [[1946年]])
* [[2020年]] - [[金城茉奈]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://ameblo.jp/mana-kinjho/entry-12642091953.html |title=お知らせ |website=金城茉奈オフィシャルブログ |publisher=[[Ameba]] |date=5 Dec 2020 |accessdate=4 Aug 2023}}</ref>、女優、ファッションモデル(* [[1996年]])
* 2020年 - [[ヒュー・キース・バーン]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20201204/11/|title=「マッドマックス 怒りのデス・ロード」イモータン・ジョー俳優が死去|publisher=映画.com|date=4 Dec 2020|accessdate=4 Aug 2023}}</ref>、俳優(* [[1947年]])
* 2020年 - [[アーニー・ロビンソン]]<ref>{{Cite web |url=https://www.nytimes.com/2020/12/09/sports/arnie-robinson-dead-covid.html |title=Arnie Robinson Jr., Olympic Long Jump Champion, Dies at 72 |access-date=4 Aug 2023 |publisher=The New York Times |date=11 Dec 2020}}</ref>、元[[陸上競技]]選手(* [[1948年]])
* [[2021年]] - [[信本敬子]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://jp.ign.com/cowboy-bebop-2/56526/news/57 |title=『カウボーイビバップ』や『マクロスプラス』などで知られる脚本家の信本敬子が57歳で逝去 |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[産経デジタル]] |date=13 Dec 2022 |website=IGN Japan}}</ref>、脚本家(* 1964年)
* [[2022年]] - [[ゲイロード・ペリー]]<ref>{{Cite web|和書 |date=3 Dec 2022 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/12/03/kiji/20221203s00001007036000c.html |title=ゲイロード・ペリーさん死去、84歳 ア、ナで史上初サイ・ヤング賞 |website=Sponichi Annex |publisher=[[スポーツニッポン]] |accessdate=4 Aug 2023}}</ref>、元プロ野球選手(* [[1938年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1986年]] - [[メジロアサマ]]、競走馬(* [[1966年]])
* [[2016年]] - [[ロジータ]]、競走馬(* [[1986年]]<ref>{{Cite web|和書 |date=2 May 2018 |url=http://nankandamasii.jugem.jp/?eid=12029 |title=名牝たちの馬碑が完成したそうです。 |work=南関魂 |publisher=高橋華代子の南関東競馬ブログ |accessdate=4 Aug 2023}}</ref>)
== 記念日・年中行事 ==
* [[世界エイズデー]]({{UN}})
*: [[世界保健機関]] (WHO) が[[1988年]]に、[[エイズ]]問題への人々の意識を高めることを目的として制定。[[国際デー]]の一つ。シンボルは[[レッドリボン]]。
* 独立回復記念日({{PRT}})
*: [[1640年]]のこの日に[[ポルトガル王政復古戦争]]が勃発したことにちなむ。これにより、同月15日にスペインとの[[同君連合]]を解消し、ポルトガル王が即位した。
* 統一記念日({{ROU}})
*: [[1918年]]のこの日、[[トランシルヴァニア]]がルーマニアに統合されたことを記念。
* 開拓者の日({{AGO}})
* 軍備全廃の日({{CRI}})
*: [[1948年]]のこの日、コスタリカ大統領[[ホセ・フィゲーレス・フェレール]]が常設軍を廃止したことを記念。
* 住吉神社『河渡祭』({{JPN}})
*: 日本三大住吉のひとつ、[[山口県]][[下関市]]の[[住吉神社 (下関市)|住吉神社]]のお祭り。戦国時代、石見国江川で毛利氏と尼子氏が戦ったとき、[[毛利元就]]は全軍に神酒を与え、田作りと餅粥をふるまい、その勢いで一気に奇襲して江川を渡ることに成功したことが始まり。現在では大きな釜に餅粥を炊いて一般参拝客にふるまっている<ref>{{Cite web|和書 |url=https://yamaguchi-tourism.jp/event/detail_10456.html |title=河渡祭 |access-date=4 Aug 2023 |publisher=一般社団法人 山口県観光連盟}}</ref>。
* [[映画の日]]({{JPN}})
*: [[映画産業団体連合会]]が[[1956年]]に制定。[[1896年]][[11月25日]]に[[神戸市|神戸]]の神港倶楽部にて、日本ではじめて[[映画]]が一般公開されたことを記念し、それに近いきりの良い日を記念日とした。
* [[鉄]]の記念日({{JPN}})
*: [[日本鉄鋼連盟]]が[[1958年]]に制定。[[安政]]4年[[12月1日 (旧暦)|旧暦12月1日]]([[1858年]][[1月15日]])、南部藩士・[[大島高任]]が日本で初めて高炉による製鉄に成功したことを記念。
* いのちの日({{JPN}})
*: [[厚生労働省]]が[[2001年]]に[[自殺]]予防活動の一環として制定。
* [[地上デジタルテレビ放送|デジタル放送の日]]({{JPN}})
*: [[2003年]]から順次放送を開始した[[地上デジタルテレビ放送]]が[[2006年]]全国の都道府県庁所在地で受信可能となったことを記念して[[デジタル放送推進協会]]と[[総務省]]によって2006年に設けられた。なお、[[2009年]]は完全デジタル化600日前という節目にあたり、アナログ放送完全終了に向けた大規模な周知活動が行われた。
* [[懐炉|カイロ]]の日({{JPN}})
*: 日本使いすてカイロ同業会(現在の日本カイロ工業会)が[[1991年]]に制定。カイロの需要が高くなる時期である12月の最初の日を記念日とした。
* カレー南蛮の日({{JPN}})
*: 「カレーうどん100年革新プロジェクト」制定。日付は、カレー南蛮を考案した東京中目黒「朝松庵」2代目店主、角田酉之助の誕生日に由来。
* 下仁田ネギの日({{JPN}})
*: [[群馬県]][[甘楽郡]][[下仁田町]]の下仁田ファームが制定。同町産の特産品、[[下仁田ネギ|下仁田葱]]をPRするのが目的で、この日に下仁田ネギの出荷が解禁される。
* [[データセンター]]の日({{JPN}})
*: [[IDCフロンティア|ソフトバンクIDC]]が制定。Data Centerの頭文字"DC"が英語の12月(December)に似ていることから12月、「安全第一」から1日を記念日とした。
* [[着信メロディ]]の日({{JPN}})
*: 1999年、[[フェイス (企業)|株式会社フェイス]]が、株式会社[[エクシング]]と共同で世界で初めて「着信メロディ」を配信したことから同社が制定。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1201|date=Aug 2023}}
* 1904年(明治37年)- 苦沙弥先生が、[[水彩画]]の才能の無いことを[[日記]]に書いた。(『[[吾輩は猫である]]』第1話)
* 1936年(昭和11年)- [[怪人二十面相]]と[[明智小五郎]]が東京で初対面(小説『[[怪人二十面相 (小説)|怪人二十面相]]』)
* 1941年([[艦隊シリーズの用語集#名称・通称|照和]]16年)- 青風会・紺碧会合同クーデター([[架空戦記]]『[[紺碧の艦隊]]』)
* 1948年(昭和23年)- 太陽クラブは[[株式会社 (日本)|株式会社]]の東都金融となる。(小説『[[白昼の死角]]』第2章)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1973年]] - [[天馬星座の星矢|天馬星座(ペガサス)の星矢]]、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=1 |title=天馬星座(ペガサス)の星矢(せいや) |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』 |website=MUSEUM聖闘士博物館}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=車田正美 |authorlink=車田正美 |title=聖闘士星矢大全 |publisher=集英社 |year=2001 |page=40 |isbn=4-8342-1690-X}}</ref>
* [[1996年]] - 白神葉子、漫画・アニメ『[[実は私は]]』のヒロイン<ref>{{Cite book|和書|author=増田英二|authorlink=増田英二|title=実は私は|volume=22巻|publisher=[[秋田書店]]|series=[[少年チャンピオン・コミックス]]|year=2017|page=155|isbn=978-4-253-22802-2}}</ref>
* [[1996年]] - 宮水三葉、アニメ映画『[[君の名は。]]』の主人公のひとり<ref>{{Twitter status|animatetimes|1465898490052157445}}</ref><ref name="yourname.">『[[君の名は。]]』ブルーレイ特典ブックレット、79ページ</ref>
* [[1997年]] - [[onちゃん]]、[[北海道テレビ放送]](HTB)のマスコットキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.htb.co.jp/onchan/profile/ |title=onちゃんとは |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[北海道テレビ放送|HTB 北海道テレビ放送株式会社]]}}</ref>
* [[1999年]] - 立花瀧、アニメ映画『君の名は。』の主人公のひとり<ref>{{Twitter status|animatetimes|1465913591895400449}}</ref><ref name="yourname." />
* [[2006年]] - [[GO太くん]]、[[五稜郭タワー]]公式イメージキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.goryokaku-tower.co.jp/gotakun/ |title=GO太くんの部屋 |access-date=4 Aug 2023 |publisher=五稜郭タワー}}</ref>
* 生年不明 - 剣創人、漫画『[[ポケットモンスターSPECIAL]]』の主人公のひとり<ref>{{Twitter status|pokesp_special|1333615678960541700}}</ref>
* 生年不明 - 三津谷あくと、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1333426823305289729}}</ref>
* 生年不明 - 初代雷影、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1465697149510103042}}</ref>
* 生年不明 - ゾウリ、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|year=2002|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=[[集英社]]|series=ジャンプ・コミックス|isbn=4-08-873288-X|page=75}}</ref>
* 生年不明 - ウルキオラ・シファー、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - アレイスター・クロウリー三世、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|title=D.Gray-man|volume=5巻|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2005|page=132|isbn=4-08-873832-2}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|title=D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃|publisher=[[集英社]]|series=ジャンプ・コミックス|year=2008|page=42|isbn=978-4-08-874248-9}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=星野桂 |title=D.Gray-man キャラクター ランキングブック キャラグレ!|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2011|page=96|isbn=978-4-08-870268-1}}</ref>
* 生年不明 - かえんどくりゅう、漫画・アニメ『[[魔王城でおやすみ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|maoujo_anime|1465848126372147205}}</ref>
* 生年不明 - 綿谷新、漫画・アニメ『[[ちはやふる]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yuyu2000_0908|1465970642030043137}}</ref>
* 生年不明 - 高梨菜々香、漫画・アニメ『[[お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://king-cr.jp/special/oniichan/introduction/nanaka.html |title=高梨菜々香 |access-date=4 Aug 2023 |work=『お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!』 |publisher=[[草野紅壱]]・[[双葉社]]/お兄ちゃん観察隊 [[キングレコード|King Record.Co.,Ltd.]]}}</ref>
* 生年不明 - 九条カレン、漫画・アニメ『[[きんいろモザイク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=原悠衣|authorlink=原悠衣|title=きんいろモザイク画集 〜ひみつのきんいろモザイク〜|publisher=[[芳文社]]|date=2013-8-27|isbn=978-4-8322-4344-6}}</ref>
* 生年不明 - 広田空、アニメ『[[ハイスクール・フリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=『ハイスクール・フリート』 |url=https://www.hai-furi.com/character/04_06/ |title=広田空 |accessdate=4 Aug 2023 |publisher=AAS/新海上安全整備局}}</ref>
* 生年不明 - 飯塚桜子、メディアミックス『[[アイドル事変]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://idoljihen.jp/character/iiduka-sakurako/ |title=奈良県 飯塚 桜子 |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[MAGES.]] アイドル事変製作委員会 |work=『アイドル事変』}}</ref>
* 生年不明 - ナオト=クロガネ、ゲーム『[[BLAZBLUE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.blazblue.jp/cf/ac/character/naoto.html |title=ナオト=クロガネ |publisher=[[アークシステムワークス|ARC SYSTEM WORKS]] |work=『BLAZBLUE CENTRALFICTION AC版』 |accessdate=4 Aug 2023}}</ref>
* 生年不明 - 鳳鳴、ゲーム・アニメ『[[俺たちに翼はない]]』に登場するキャラクター<ref>『[[コンプティーク]]』2011年1月号、[[角川書店]]、44頁。</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#本田未央|本田未央]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20146 |title=本田 未央(ほんだ みお) |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 三科果歩、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://app.famitsu.com/20130704_186949/ |title=【ガールフレンド(仮)通信73】ファーストキスは小麦粉の味 三科果歩ちゃん |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage|KADOKAWA Game Linkage Inc.]] |work=ファミ通App |date=4 Jul 2013}}</ref>
* 生年不明 - 那由多(ナユタ)、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=114&cate=name&cont=Nayuta |title=那由多(ナユタ) |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[ジークレスト|GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 藤原定家、ゲーム『茜さすセカイでキミと詠う』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aka_seka|1068701218086645765}}</ref>
* 生年不明 - 小林多喜二、ゲーム『[[文豪とアルケミスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bunal_pr|1068520142227701764}}</ref>
* 生年不明 - 東雲龍、ゲーム・アニメ『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hachinai.com/character/shinonome |publisher=[[アカツキ (企業)|Akatsuki Inc.]] |title=東雲 龍 |accessdate=4 Aug 2023 |work=『八月のシンデレラナイン』}}</ref>
* 生年不明 - アン、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1333592267056005123}}</ref>
* 生年不明 - ユリ、ゲーム『[[クイズマジックアカデミー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://p.eagate.573.jp/game/qma/17/world/detail.html?c=105 |title=ユリ |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[コナミアミューズメント|Konami Amusement]] |work=『クイズマジックアカデミー 夢幻の鏡界』}}</ref>
* 生年不明 - 月城最中、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heaven-burns-red.com/character/30g/tsukishiro-monaka/ |title=月城最中 |website=『ヘブンバーンズレッド』 |accessdate=4 Aug 2023 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]]}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
{{commonscat|1 December}}
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== できごと ==
* [[1611年]]([[慶長]]16年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]) - [[慶長三陸地震]]が起こる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASPD16RX9PCZUNHB017.html |title=慶長津波の謎を解く 従来説より巨大、東日本級?4日東北大でシンポ |access-date=23 Mar 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=2 Dec 2021}}</ref>。
* [[1804年]] - [[ナポレオン・ボナパルト]]の[[戴冠式]]が[[パリ]]の[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]で行われ、[[フランス]]皇帝に即位<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin_old/backnumber/110528/index.html |title=ダヴィッド「皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」 |access-date=23 Mar 2023 |publisher=[[テレビ東京]]}}</ref>。
* [[1805年]] - [[ナポレオン戦争]]: [[アウステルリッツの戦い]]。
* [[1823年]] - [[ジェームズ・モンロー]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]による[[モンロー宣言]]。[[ヨーロッパ]]からの自立と相互不干渉([[モンロー主義]])を宣言。
* [[1848年]] - [[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]が[[オーストリア皇帝]]に即位<ref>{{Cite journal|和書|author=山之内克子 |date=1991 |url=https://doi.org/10.20680/aees.14.0_76 |title=リベラル期におけるウィーン市政の発展 |journal=東欧史研究 |ISSN=0386-6904 |publisher=東欧史研究会 |volume=14 |page=78 |doi=10.20680/aees.14.0_76 |id={{CRID|1390845713026467072}}}}</ref>。
* [[1851年]] - [[フランス第二共和政]]大統領[[ナポレオン3世|ルイ=ナポレオン]]が[[1851年12月2日のクーデター|クーデター]]を起こし、[[国民議会 (フランス)|国民議会]]を解散<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.napoleon.org/en/young-historians/napodoc/napoleon-iii-emperor-of-the-french-1808-1873/ |title=NAPOLEON III, EMPEROR OF THE FRENCH (1808-1873) |access-date=23 Mar 2023 |publisher=Fondation Napoléon}}</ref>。
* [[1852年]] - ルイ=ナポレオンがナポレオン3世としてフランス皇帝に即位<ref name=":0" />。[[フランス第二帝政]]が始まる。
* [[1859年]] - [[奴隷制度廃止運動]]家[[ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)|ジョン・ブラウン]]が処刑。
* [[1872年]] - 同年[[11月9日]]、近代化を進める明治政府から「明治5年12月3日をもって、明治6年1月1日とする」という詔書が発表された。日本の暦が旧暦から新暦に変わるタイミングで、この日が大晦日になり、翌日が明治6年1月1日になった<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.ytv.co.jp/ten/corner/naniversary/xo8r0dnnxnfjsak3.html |title=12月2日は「明治5年の大晦日」 |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[讀賣テレビ放送|YOMIURI TELECASTING CORPORATION.]]}}</ref>。
* [[1908年]]([[光緒]]34年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]) - 2歳10か月の[[愛新覚羅溥儀]]が[[清]]の皇帝に即位<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200309/50wan.htm |title=わたしの北京50万年 第21話 紫禁城の秘話 |access-date=23 Mar 2023 |publisher=人民中国}}</ref>。
* [[1929年]] - 中国の考古学者・地質学者の[[裴文中]]が、北京郊外の周口店の石灰洞窟で、[[北京原人]]の頭蓋骨を発見<ref>{{Cite web|和書 |url=https://gendai.media/articles/-/68677?page=1&imp=0 |title=12月 2日 北京原人の頭骨発見(1929年) |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[講談社]] |work=サイエンス365days}}</ref>。
* [[1939年]] - ニューヨーク市立空港(現 [[ラガーディア空港]])が開港。
* [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[大本営]]が「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電文により[[アリゾナ (戦艦)|戦艦アリゾナ]]を主標的とした[[真珠湾攻撃]]を訓電発令<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASPD75TH7PD6TOLB00P.html |title=「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」 今も残る暗号中継の無線電信所 |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=8 Dec 2021}}</ref>。
* [[1942年]] - [[マンハッタン計画]]: [[エンリコ・フェルミ]]らが[[シカゴ大学]]の[[原子炉]]で持続的な[[核分裂反応|核分裂]]の[[連鎖反応 (核分裂)|連鎖反応]]に成功。
* [[1943年]] - 第二次世界大戦: [[バーリ空襲]]。
* [[1944年]] - 第二次世界大戦: [[沢村栄治]]投手の乗った輸送船が、屋久島沖西方の東シナ海で米潜水艦[[シーデビル (潜水艦)|シーデビル]]により撃沈<ref>{{Cite web|和書 |url=https://yakyutaro.jp/r.php?hash=qw9am |title=戦後70年、戦火に散った伝説のプロ野球選手たち 沢村栄治(元巨人) |access-date=23 Mar 2023 |publisher=週刊野球太郎 |date=15 Aug 2015}}</ref>。
* [[1946年]] - [[内務省 (日本)|内務省]]が特殊飲食店地帯「[[赤線]]」を制定。
* [[1949年]] - [[人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約]]が採択される。
* [[1951年]] - [[北海道]][[釧路市]]の[[市立釧路総合病院|釧路市立病院]]で火災が発生。建物の一部と周囲の家屋7戸が焼失。死者15人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=84 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1954年]] - [[アメリカ合衆国]]と[[中華民国]]が[[米華相互防衛条約]]に調印。
* [[1956年]] - [[キューバ革命]]: [[フィデル・カストロ]]、[[チェ・ゲバラ]]らが、[[グランマ号]]で[[キューバ]]の東海岸に上陸<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Fidel-Castro |title=Fidel Castro|political leader of Cuba |access-date=23 Mar 2023 |publisher=Britannica}}</ref>。
* [[1959年]] - [[フランス]]で建設中の[[マルパッセダム]]が堪水試験中に決壊。ダム湖の水が下流の集落を襲い、死者500人以上の惨事となる。
* [[1961年]] - [[1961年世界柔道選手権大会]]でオランダの[[アントン・ヘーシンク]]が日本の[[曽根康治]]を破り優勝。柔道世界チャンピオンの座が初めて日本から離れる。
* [[1970年]] - [[アメリカ合衆国環境保護庁]]設立。
* [[1971年]] - [[ペルシャ湾]]岸の6つの[[首長国]]により[[アラブ首長国連邦]]が成立。
* [[1975年]] - [[ラオス]]で[[王政]]を廃止し人民民主共和国を宣言。
* 1975年 - [[オランダ]]で[[モルッカ]]人[[ゲリラ]]が[[列車]]乗っ取り。事件は12日間続き、[[人質]]3人が死亡。
* [[1976年]] - フィデル・カストロがキューバの大統領に就任。
* [[1980年]] - [[名古屋女子大生誘拐殺人事件]]が発生<ref>『[[中日新聞]]』1980年12月26日夕刊E版一面1頁「名古屋 金城大生誘かい、3000万円要求 不明から25日目、異例の公開捜査 28回の脅迫電話 男性の声 6日夜から接触途絶 『東名阪から金落とせ』」「電話の声 尾張か西濃出身?大阪に長期間滞在か」「中部管区認定第2号事件に」([[中日新聞社]]) - 『中日新聞』[[新聞縮刷版|縮刷版]] 1980年(昭和55年)12月号821頁。</ref><ref>『中日新聞』1987年7月9日夕刊一面1頁「[[木村修治|木村]]の死刑確定 最高裁が上告棄却 Aさん誘拐・殺人 「冷酷、同情の余地なし」」(中日新聞社) - 『中日新聞』縮刷版 1987年(昭和62年)7月号339頁。</ref>。
* [[1981年]] - [[大阪市営地下鉄千日前線]] [[新深江駅]] - [[南巽駅]]間が開業し、全通。
* [[1984年]] - [[インド]]のボパール化学工場で[[ボパール化学工場事故|ガス漏れ事故]]。15,000人 - 25,000人が死亡。
* [[1988年]] - [[ベーナズィール・ブットー]]が[[パキスタン]]首相に就任。イスラム圏初の[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相]]。
* 1988年 - [[札幌市営地下鉄東豊線]][[栄町駅 (札幌市)|栄町駅]] - [[豊水すすきの駅]]間が開業。
* [[1989年]] - [[マルタ会談]]開始。
* [[1990年]] - [[1990年ドイツ連邦議会選挙]]。[[ドイツ再統一]]後初の総選挙。
* 1990年 - [[TBSテレビ|TBS]]記者の[[秋山豊寛]]が[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[宇宙船]][[ソユーズTM-11]]号で宇宙へ飛び立つ。日本人初、ジャーナリストとして世界初の宇宙飛行となった<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.jiji.com/jc/daily?d=1202 |title=TBS記者の秋山豊寛さんがソ連のソユーズで宇宙へ |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[時事通信社]] |website=JIJI.com}}</ref>。
* [[1993年]] - [[コロンビア]]の[[麻薬]]密売組織[[メデジン・カルテル]]の最高幹部[[パブロ・エスコバル]]が[[コロンビア]]治安部隊に[[銃殺]]される。
* [[1994年]] - [[オウム真理教]]による[[駐車場経営者VX襲撃事件]]。
* [[2000年]] - [[沖縄県]]の「[[琉球王国のグスク及び関連遺産群]]」が[[世界遺産]]に登録される<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.pref.okinawa.jp/site/kodomo/land/bunka/sekaiisan/index.html |title=沖縄の世界遺産(せかいいさん) |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[沖縄県]] |date=31 Mar 2019}}</ref>。
* 2000年 - [[スマッシング・パンプキンズ]]が解散。
* [[2001年]] - アメリカの大手エネルギー会社、[[エンロン]]が[[経営破綻]]。
* [[2003年]] - [[超電導リニア]]が[[リニア実験線|山梨実験線]]で{{Val|581|ul=km/h}}の鉄道世界最高速度を記録。
* [[2004年]] - [[任天堂]]の携帯型ゲーム機、[[ニンテンドーDS]]が日本国内で発売。
* [[2005年]] - [[マンダリン・オリエンタル東京]]が[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]に開業。
* [[2006年]] - 任天堂の据え置き型ゲーム機、[[Wii]]が日本国内で発売。
* [[2012年]] - [[笹子トンネル天井板落下事故]]が発生。9人が死亡<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2914624 |title=中央道・笹子トンネル崩落事故、死者9人に |access-date=23 Mar 2023 |publisher=[[フランス通信社]] |website=AFP BB News |date=3 Dec 2012}}</ref>。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[File:Gondoh hiroshi.jpg|thumb|150px|プロ野球選手・監督、[[権藤博]](1938-)誕生。1961年に35勝を挙げて最多勝と新人王、その投げぶりは「権藤、権藤、雨、権藤」とも評された。]]
[[File:Ikeda Shuichi "The World of Gundam" at Opening Ceremony of the 28th Tokyo International Film Festival (22405153956).jpg |thumb|180px|声優、[[池田秀一]](1949-)誕生。1979年に「[[機動戦士ガンダム]]」の[[シャア・アズナブル]]役に抜擢、世界的人気を得る。]]
* [[1609年]]([[慶長]]14年[[11月6日 (旧暦) |11月6日]]) - [[遠山秀友]]、第2代[[苗木藩|苗木藩主]](+ [[1642年]])
* [[1723年]]([[享保]]8年[[11月5日 (旧暦) |11月5日]]) - [[佐竹義明]]、第7代[[久保田藩|久保田藩主]](+ [[1758年]])
* [[1743年]]([[寛保]]3年[[10月17日 (旧暦) |10月17日]]) - [[浅野重晟]]、第7代[[広島藩|広島藩主]](+ [[1814年]])
* [[1745年]]([[延享]]2年[[11月10日 (旧暦) |11月10日]]) - [[板倉勝志]]、第4代[[庭瀬藩|庭瀬藩主]](+ [[1785年]])
* [[1756年]]([[宝暦]]6年[[11月11日 (旧暦) |11月11日]]) - [[内田正純]]、第4代[[小見川藩|小見川藩主]](+ [[1825年]])
* [[1759年]] - [[ジェームズ・エドワード・スミス]]、[[植物学者]](+ [[1828年]])
* [[1799年]]([[寛政]]11年[[11月6日 (旧暦) |11月6日]]) - [[牧野忠雅]]、第9代[[長岡藩|長岡藩主]](+ [[1858年]])
* [[1807年]]([[文化 (元号)|文化]]4年[[11月4日 (旧暦) |11月4日]]) - [[水野忠寛]]、第6代[[沼津藩|沼津藩主]](+ [[1874年]])
* [[1817年]]([[文化 (元号)|文化]]14年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]) - [[島津久光]]、[[薩摩藩]]の指導者(+ [[1887年]])
* [[1821年]]([[文政]]4年[[11月8日 (旧暦) |11月8日]]) - [[安藤直裕]]、第16代・第18代[[田辺藩|田辺藩主]](+ [[1885年]])
* [[1825年]] - [[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ペドロ2世]]、[[ブラジル帝国|ブラジル皇帝]](+ [[1891年]])
* [[1833年]] - [[エドゥアール・リウー]]、[[イラストレーター]]、[[画家]](+ [[1900年]])
* [[1858年]] - [[斎藤実]]、[[政治家]]、第30代[[内閣総理大臣]](+ [[1936年]])
* [[1859年]] - [[ジョルジュ・スーラ]]、[[新印象派]]画家(+ [[1891年]])
* [[1874年]] - [[福田徳三]]、[[経済学者]](+ [[1930年]])
* [[1883年]] - [[桜井弥一郎]]、[[野球選手]](+ [[1958年]])
* [[1891年]] - [[オットー・ディクス]]、画家(+ [[1965年]])
* [[1893年]] - [[レオ・オーンスタイン]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[2002年]])
* [[1895年]] - [[ハリエット・コーエン]]、ピアニスト(+ [[1967年]])
* [[1898年]] - [[蕗谷虹児]]、画家、[[詩人]](+ [[1979年]])
* [[1899年]] - [[ジョン・バルビローリ]]、[[指揮者]](+ [[1970年]])
* [[1900年]] - [[由起しげ子]]、[[作家]](+ [[1969年]])
* [[1905年]] - [[八田尚之]]、[[脚本家]](+ [[1964年]])
* 1905年 - [[オスヴァルド・プグリエーセ]]、[[ピアニスト]](+ [[1995年]])
* [[1915年]] - [[三笠宮崇仁親王]]、[[皇族]]、[[大正天皇]]の四男(+ [[2016年]])
* [[1918年]] - [[高峰三枝子]]、[[俳優|女優]]、[[歌手]](+ [[1990年]])
* 1918年 - [[テルターク・エレメール]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1999年]])
* [[1920年]] - [[奥田元]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1921年]] - [[谷内六郎]]、画家(+ [[1981年]])
* 1921年 - [[道仏訓]]、元プロ野球選手(+ [[2005年]])
* [[1923年]] - [[マリア・カラス]]、[[オペラ]][[歌手]](+ [[1977年]])
* 1923年 - [[アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ヤコヴレフ|アレクサンドル・ヤコブレフ]]、政治家、[[歴史家|歴史学者]](+ [[2005年]])
* [[1924年]] - [[多田道太郎]]、[[フランス文学者]]、[[評論家]](+ [[2007年]])
* [[1930年]] - [[村越伊知郎]]、[[声優]](+ [[2007年]])
* [[1931年]] - [[初見良昭]]、武術家
* [[1935年]] - [[立川談志|7代目立川談志]]、落語家 ※実際の出生日。戸籍上の生年月日は[[1936年]][[1月2日]](+ [[2011年]])
* 1936年 - [[山﨑努]]、[[俳優]]
* 1936年 - [[寺島達夫]]、元プロ野球選手(+ [[1997年]])
* [[1938年]] - [[権藤博]]、元プロ野球選手、監督
* 1939年 - [[アラン・サンドランス]]、[[シェフ]](+ [[2017年]])
* [[1943年]] - [[太地喜和子]]、女優(+ [[1992年]])
* [[1944年]] - [[奥正之]]、銀行家、[[三井住友銀行]]顧問
* 1944年 - [[ボート・シュトラウス]]、[[劇作家]]、[[小説家]]、[[エッセイスト]]
* [[1945年]] - [[油井大三郎]]、[[歴史家]]
* 1945年 - [[中林佳子]]、政治家
* [[1948年]] - [[夏木ゆたか]]、タレント
* 1948年 - [[田山雅充]]、歌手
* 1948年 - [[政宗一成]]、声優
* 1948年 - [[トニーニョ・オルタ]]、歌手
* [[1949年]] - [[池田秀一]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=850 |title=池田秀一 |publisher=animateTimes |accessdate=23 Mar 2023}}</ref>、声優、俳優
* 1949年 - [[北山耕平]]、[[編集者]]、[[作家]]、[[翻訳家]]
* [[1952年]] - [[高汐巴]]、女優
* [[1955年]] - [[K.INOJO]]、[[作詞家]]
* [[1957年]] - [[山本みどり]]、女優
* 1957年 - [[遠山裕]]、[[音楽家|ミュージシャン]]
* 1957年 - [[御木貴日止]]、宗教家(+ [[2020年]])
* [[1958年]] - [[浅見美那]]、元女優
* 1958年 - [[ランディ・ガードナー]]、フィギュアスケート選手
* [[1959年]] - [[細野不二彦]]、[[漫画家]]
* 1959年 - [[仁科有理]]、女優
* 1959年 - [[森たけし]]、アナウンサー
* [[1960年]] - [[リック・サヴェージ]]、ベーシスト
* [[1961年]] - [[塚本正治]]、社会運動家、詩人、シンガーソングライター
* [[1962年]] - [[けらえいこ]]、漫画家
* [[1964年]] - [[本多平直]]、政治家
* [[1966年]] - 奥野真哉、ミュージシャン([[ソウル・フラワー・ユニオン]])
* 1966年 - 中西圭一、ミュージシャン([[クレイジーケンバンド]])
* 1966年 - [[新崎人生]]、[[プロレスラー]]
* [[1967年]] - [[深江卓次]]、俳優
* 1967年 - [[渡辺剛 (キーボーディスト)|渡辺剛]]、作曲家
* [[1968年]] - [[デビッド・バッティ]]、元[[サッカー選手]]
* 1968年 - [[ルーシー・リュー]]、女優
* 1968年 - [[若木未生]]、[[作家]]
* [[1969年]] - [[近藤光]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]][[プロデューサー]]
* 1969年 - [[小坂憲央]]、アナウンサー
* [[1971年]] - [[松嶋尚美]]、[[お笑いタレント]](元[[オセロ (お笑いコンビ)|オセロ]])
* 1971年 - [[吉崎観音]]、[[漫画家]]
* 1971年 - [[フランチェスコ・トルド]]、元サッカー選手
* 1971年 - [[道口瑞之]]、ミュージカル俳優
* [[1973年]] - [[サイモン・ケリー猪木|サイモン猪木]]、実業家、元[[新日本プロレス]][[社長]]
* 1973年 - [[ヤン・ウルリッヒ]]、元自転車プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手
* 1973年 - [[グレアム・カヴァナ]]、元サッカー選手
* 1973年 - [[モニカ・セレシュ]]、[[テニス]]選手
* 1973年 - [[六車奈々]]、タレント
* [[1974年]] - [[森尾正博]]、[[漫画家]]
* [[1975年]] - [[野村真季]]、アナウンサー
* 1975年 - [[マーク・コッツェイ]]、元プロ野球選手
* [[1976年]] - [[後藤正文]]、ミュージシャン([[ASIAN KUNG-FU GENERATION]])
* 1976年 - [[細木美和]]、元女優
* 1976年 - [[ジェニファー・ロビンソン]]、フィギュアスケート選手
* [[1977年]] - [[宮本耀子]]、タレント
* 1977年 - [[神戸たろう]]、[[AV監督]]
* [[1978年]] - [[クリス・ウォルステンホルム]]、ミュージシャン
* 1978年 - [[森実友紀]]、女優
* 1978年 - [[ピーター・モイラン]]、元プロ野球選手
* [[1979年]] - [[仁後真耶子]]、[[声優]]
* [[1980年]] - [[三橋直樹]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://npb.jp/bis/players/01605112.html |title=三橋直樹(横浜ベイスターズ) |access-date=23 Mar 2023 |publisher=一般財団法人日本野球機構}}</ref>、元プロ野球選手
* [[1981年]] - [[ブリトニー・スピアーズ]]、歌手
* 1981年 - [[井上直美]]、タレント、声優
* [[1982年]] - おたけ、お笑いタレント([[ジャングルポケット (お笑いトリオ)|ジャングルポケット]])
* 1982年 - [[福島和可菜]]、タレント、元[[予備自衛官]]
* [[1983年]] - [[渡辺敦子 (アニメーター)|渡辺敦子]]、[[キャラクターデザイナー]]
* 1983年 - [[アーロン・ロジャース]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* [[1984年]] - [[松井宏次]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[古澤恵]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/1000093488/ |title=古澤恵(ふるさわめぐみ) |access-date=23 Mar 2023 |publisher=WEBザテレビジョン}}</ref>、[[レースクイーン]]、[[モデル (職業)|モデル]]
* [[1985年]] - [[エルネスト・メヒア]]、プロ野球選手
* [[1986年]] - [[中山旦子]]、女優
* 1986年 - [[財前貴男]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[山本エドワード]]、プロバスケットボール選手
* 1986年 - [[流海]]、元[[AV女優]]
* [[1988年]] - [[安藤典莉子]]、[[バレーボール]]選手
* [[1989年]] - [[樋口賢]]、元プロ野球選手
* 1989年 - [[ルカ・パネラッティ]]、プロ野球選手
* 1989年 - [[マッテオ・ダルミアン]]、[[サッカー]]選手
* 1989年 - [[近藤彩希]]、タレント
* 1989年 - [[山村和也]]、サッカー選手
* 1989年 - [[大栗麻未]] - アナウンサー
* [[1990年]] - [[八乙女光]]、[[アイドル]]([[Hey! Say! JUMP]])
* 1990年 - 伊宮理恵<ref>{{Cite web|和書 |url=http://orchard-net.com/wordpress/?page_id=4700 |title=伊宮 理恵 Imiya Rie |access-date=23 Mar 2023 |publisher=ORCHARD}}</ref>、タレント
* 1990年 - [[樋江井ありさ]]、歌手
* 1990年 - 岡山みのり、アイドル([[まなみのりさ]])
* 1990年 - [[エマニュエル・アギェマン=バドゥ]]、サッカー選手
* 1990年 - [[ガストン・ラミレス]]、サッカー選手
* 1991年 - [[長谷川ぱせり]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1991年]] - [[このは (AV女優)|このは]]、AV女優
* 1991年 - [[菅原千瑛]]、[[プロ雀士]]
* 1991年 - [[髙橋竜基]]、プロレスラー
* 1991年 - [[鈴木夕湖]]、[[カーリング]]選手
* 1991年 - [[チャーリー・プース]]、歌手
* [[1992年]] - [[田名部生来]]、タレント(元[[AKB48]])
* 1992年 - [[ゲイリー・サンチェス]]、プロ野球選手
* [[1993年]] - [[石田晴香]]、タレント、声優(元AKB48)
* 1993年 - [[コスタス・スタフィリディス]]、サッカー選手
* 1993年 - [[川崎由意]]、プロボウラー
* [[1994年]] - [[千眼美子]] 、女優
* [[1995年]] - [[水瀬いのり]]、声優
* 1995年 - [[藤川菜緒]]、タレント、元AV女優
* [[1996年]] - [[寺坂尚呂己]]、俳優
* [[1997年]] - [[宮田輝星]]、元プロ野球選手
* [[1998年]] - [[薮下柊]]、元アイドル(元[[NMB48]])
* 1998年 - 佐々木大芽<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.kpoint.net/talentn/TaigaSasaki |title=佐々木 大芽 |publisher=KPOINT |accessdate=23 Mar 2023}}</ref>、タレント
* [[1998年]] - [[ジュース・ワールド]]、ラッパー
* [[1999年]] - [[京佳]]、タレント、元アイドル(元[[夢みるアドレセンス]])
* 1999年 - [[ケルヴィン・キプタム]]、陸上競技選手
* [[2000年]] - [[駒井蓮]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.box-corporation.com/ren_komai |accessdate=23 Mar 2023 |title=駒井蓮 |publisher=BOX CORPRATION}}</ref>、女優
* 2000年 - [[尾碕真花]]、女優
* [[2001年]] - [[柿崎芽実]]、元アイドル(元[[日向坂46]])
* [[2006年]] - [[小田将聖]]、アイドル([[ジャニーズJr.|ジュニア]]、少年忍者)
* 生年不明 - [[友永朱音]]、声優
* 生年不明 - [[西田亜沙子]]、[[アニメーター]]、[[キャラクターデザイナー]]
* 生年不明 - [[篠原まさのり]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://haikyo.co.jp/profile/profile.php?ActorID=11366 |title=篠原 まさのり |accessdate=23 Mar 2023 |publisher=俳協}}</ref>、声優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1999年]] - [[ピース (ホッキョクグマ)|ピース]]、日本で初めて人工哺育に成功した[[ホッキョクグマ]]
* [[2014年]] - [[桜浜]]、[[ジャイアントパンダ]]
* 2014年 - [[桃浜]]、ジャイアントパンダ
== 忌日 ==
[[File:Sawamura_eji00.jpg|thumb|150px|プロ野球選手、[[沢村栄治]](1917-1944)戦死。速球派投手として活躍、[[沢村栄治賞|沢村賞]]として名を残す。]]
[[File:Mikio_Oda.jpg|thumb|150px|陸上選手、[[織田幹雄]](1905-1998)没。日本人初のオリンピック金メダリスト。]]
[[File:Death_of_Pablo_Escobar.jpg|thumb|200px|[[パブロ・エスコバル]](1949-1993)銃殺。エスコバルの銃殺を成し遂げて記念撮影をする警官たち]]
* [[1348年]]([[貞和]]4年/[[正平 (日本)|正平]]3年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[花園天皇]] 、第95代[[天皇]](* [[1297年]])
* [[1455年]] - [[イザベル・デ・コインブラ]]、[[アフォンソ5世 (ポルトガル王)|ポルトガル王アフォンソ5世]]の妃(* [[1432年]])
* [[1469年]] - [[ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ]]、[[フィレンツェ]]・[[メディチ家]]当主(* [[1416年]])
* [[1515年]] - [[ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ]]、[[スペイン|スペイン王国]]の[[将軍]](* [[1453年]])
* [[1547年]] - [[エルナン・コルテス]]、探検家(* [[1485年]])
* [[1594年]] - [[ジェラール・メルカトル]]、地図学者(* [[1512年]])
* [[1628年]]([[寛永]]5年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]) - [[小野忠明]]、[[剣術|剣術家]](* [[1569年]])
* [[1810年]] - [[フィリップ・オットー・ルンゲ]]、[[画家]](* [[1777年]])
* [[1814年]] - [[マルキ・ド・サド]]、フランスの貴族、[[小説家]](* [[1740年]])
* [[1845年]] - [[ジモン・マイール]]、[[作曲家]](* [[1763年]])
* [[1846年]]([[弘化]]3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]) - [[伴信友]]、[[国学|国学者]](* [[1773年]])
* [[1849年]] - [[アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン|アデレード]]、[[イギリス]]王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]の妃(* [[1792年]])
* [[1859年]] - [[ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)|ジョン・ブラウン]]、[[奴隷制度廃止運動|奴隷制度廃止運動家]](* [[1800年]])
* [[1894年]] - [[ヘルマン・ロエスレル]]、[[法学者]]、[[経済学者]](* [[1834年]])
* [[1903年]] - [[ジュゼッペ・ザナルデッリ]]、[[イタリアの首相]](* [[1826年]])
* [[1910年]] - [[グスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェン]]、[[探検家]](* [[1866年]])
* [[1912年]] - [[川崎正蔵]]、[[実業家]]、[[川崎造船所]]創業者(* [[1838年]])
* [[1916年]] - [[フランチェスコ・パオロ・トスティ]]、作曲家(* [[1846年]])
* [[1918年]] - [[エドモン・ロスタン]]、[[劇作家]]、[[詩人]](* [[1868年]])
* [[1923年]] - [[トマス・ブレトン]]、作曲家(* [[1850年]])
* [[1924年]] - [[フーゴ・フォン・ゼーリガー]]、[[天文学者]](* [[1849年]])
* [[1931年]] - [[ヴァンサン・ダンディ]]、作曲家(* [[1851年]])
* [[1934年]] - [[トーマス・エスピン]]、天文学者(* [[1858年]])
* [[1938年]] - [[江口きち]]、[[歌人]](* [[1913年]])
* [[1941年]] - [[野崎廣太]]、実業家(* [[1859年]])
* [[1944年]] - [[ヨゼフ・レヴィーン]]、[[ピアニスト]](* [[1874年]])
* 1944年 - [[フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ]]、詩人、[[評論家]](* [[1876年]])
* 1944年 - [[沢村栄治]]、[[プロ野球選手]](* [[1917年]])
* [[1945年]] - [[岩崎小弥太]]、実業家、[[三菱財閥]]4代目総帥(* [[1879年]])
* 1945年 - [[安井てつ]]、[[教育関係人物一覧|教育者]](* [[1870年]])
* [[1948年]] - [[チャノ・ポソ]]、[[ラテンジャズ]][[コンガ]]奏者(* [[1915年]])
* [[1950年]] - [[ディヌ・リパッティ]]、ピアニスト(* [[1917年]])
* [[1955年]] - [[岩崎久弥]]、実業家(* [[1865年]])
* [[1956年]] - [[ハインリッヒ・バルクハウゼン]]、[[物理学者]](* [[1881年]])
* [[1959年]] - [[ジョン・オーガスト・アンダースン]]、天文学者(* [[1876年]])
* [[1962年]] - [[植原悦二郎]]、政治家(* [[1877年]])
* 1962年 - [[細川嘉六]]、[[ジャーナリスト]]、[[政治学者]]、政治家(* [[1888年]])
* [[1963年]] - [[佐佐木信綱]]、歌人(* [[1872年]])
* [[1964年]] - [[青木正児]]、[[中国文学]]研究家(* [[1887年]])
* 1964年 - [[ジョゼフ・ドッジ]]、銀行家(* [[1890年]])
* [[1966年]] - [[ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワー]]、[[数学者]](* [[1881年]])
* 1966年 - [[舟崎由之]]、実業家(* [[1894年]])
* [[1969年]] - [[クリメント・ヴォロシーロフ]]、軍人、政治家(* [[1881年]])
* [[1970年]] - [[河西三省]]、[[アナウンサー]]、実業家(* [[1898年]])
* [[1974年]] - [[ソフィー=カルメン・エックハルト=グラマッテ]]、作曲家(* [[1901年]])
* [[1975年]] - [[森田忠勇]]、プロ野球監督(* [[1905年]])
* [[1979年]] - [[植草甚一]]、評論家(* [[1908年]])
* [[1980年]] - [[麻生太賀吉]]、実業家、政治家(* [[1911年]])
* [[1984年]] - [[牧野茂 (野球)|牧野茂]]、[[プロ野球選手]]、コーチ(* [[1928年]])
* [[1985年]] - [[アニエロ・デラクローチェ]]、[[マフィア]](* [[1914年]])
* [[1986年]] - [[デジ・アーナズ]]、[[俳優]](* [[1917年]])
* [[1987年]] - [[ヤーコフ・ゼルドビッチ]]、[[物理学者]](* [[1914年]])
* [[1990年]] - [[アーロン・コープランド]]、[[作曲家]](* [[1900年]])
* 1990年 - [[浜口庫之助]]、[[作曲家]](* [[1917年]])
* [[1993年]] - [[井伊直愛]]、政治家(* [[1910年]])
* 1993年 - [[パブロ・エスコバル]]、[[犯罪者]]、[[メデジン・カルテル]]の最高幹部(* [[1949年]])
* [[1998年]] - [[織田幹雄]]、[[陸上競技]][[三段跳]]選手(* [[1905年]])
* [[2002年]] - [[イヴァン・イリイチ]]、[[哲学者]](* [[1926年]])
* 2002年 - [[マル・ウォルドロン]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](* 1926年)
* [[2003年]] - [[西村公朝]]、[[仏師]](* [[1915年]])
* [[2004年]] - [[アリシア・マルコワ]]、[[バレエ]]ダンサー(* [[1910年]])
* [[2006年]] - [[マリスカ・ヴェレス]]、[[ロック (音楽)|ロック]][[歌手]]([[ショッキング・ブルー]])(* [[1947年]])
* [[2007年]] - [[多田道太郎]]、[[フランス文学者]](* [[1924年]])
* 2007年 - [[エレオノラ・ロッシ=ドラゴ]]、[[俳優|女優]](* [[1925年]])
* [[2008年]] - [[オデッタ]]、[[フォークソング]]歌手(* [[1930年]])
* 2008年 - [[ピョートル・ラティシェフ]]、[[ロシア]][[ウラル連邦管区]]大統領全権代表(* [[1948年]])
* [[2009年]] - [[平山郁夫]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=2049 |title=平山郁夫氏が死去 文化勲章 日本画の重鎮 79歳 シルクロード主題 |publisher=[[中國新聞]]ヒロシマ平和メディアセンター |date=5 Dec 2009 |accessdate=23 Mar 2023}}</ref>、[[日本画家]](* [[1930年]])
* [[2014年]] - [[ジャン・ベリヴォー]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Jean-Beliveau |title=Jean Béliveau|Canadian hockey player |access-date=23 Mar 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[アイスホッケー]]選手(* [[1931年]])
* [[2017年]] - [[はしだのりひこ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20171202-MYWCWVGBANKL5KLE7N7VCLWN6I/ |title=訃報 はしだのりひこさん死去 フォーク歌手、72歳 「帰って来たヨッパライ」「花嫁」などヒット |access-date=23 Mar 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=2 Dec 2017}}</ref>、[[シンガーソングライター]]・[[フォークシンガー]](* [[1945年]])
* [[2020年]] - [[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]、[[政治家]](* [[1926年]])
* 2020年 - [[レイファー・ジョンソン]]、元[[陸上競技選手]]、[[俳優]](* [[1934年]])
* 2020年 - [[パット・パターソン]]、元[[プロレスラー]](* [[1941年]])
* 2020年 - [[ザファルッラー・カーン・ジャマーリー]]、[[政治家]](* [[1944年]])
* 2020年 - [[平松一夫]]、[[会計学|会計学者]](* [[1947年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[奴隷制度廃止国際デー]]
*: [[国際デー]]の一つ。[[1949年]]のこの日に国際連合総会決議317(IV)「[[人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約]]」が採択されたことを記念。
* [[建国記念日]]({{LAO}})
*: [[1975年]]のこの日、ラオスで王制が廃止され、ラオス人民民主共和国が成立したことを記念。
* 連邦結成記念日({{ARE}})
*: [[1971年]]のこの日、イギリスの保護下にあった[[アブダビ]]、[[ドバイ]]、[[シャールジャ]]、[[アジュマーン]]、[[ウンム・アル=カイワイン]]、[[フジャイラ]]の6つの[[首長国]]が独立してアラブ首長国連邦を結成したことを記念。翌年[[ラアス・アル=ハイマ]]が加入し、現在の7首長国の体制となった。
* [[交通安全]]の日({{PRC}})
*: 2012年11月21日、[[中華人民共和国国務院]]は、2012年から毎年12月2日を「全国交通安全の日」とすることに合意した。
* 日本アルゼンチン修好記念日({{JPN}})
*: [[1898年]]のこの日、日本とアルゼンチンとの間に修好通商航海条約が結ばれた。
* 日本人宇宙飛行記念日({{JPN}})
*: [[1990年]]12月2日に[[TBSテレビ|TBS]]記者の[[秋山豊寛]]を乗せた[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ソユーズ]]TM11号が打ち上げられ、秋山が日本人初の宇宙飛行に成功したことに由来。
* [[原子炉]]の日
*: [[1942年]]のこの日、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[シカゴ大学]]構内に設置された実験用小型原子炉[[シカゴ・パイル1号]]で、世界で初めて[[ウラン]]の[[核分裂反応|核分裂]]の持続的な連鎖反応に成功したことに由来。
* 安全カミソリの日
*: [[1901年]]のこの日、[[キング・キャンプ・ジレット]]が替え刃式の安全カミソリの特許を出願したことに由来<ref>{{Cite web|和書 |url=https://prtimes.jp/magazine/today/safety-razor- |title=安全カミソリの日(12月2日) |access-date=23 Mar 2023 |publisher=PR TIMES MAGAGINE}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1202|date=2023年3月}}
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1991年]] - 千堂敦、漫画・アニメ『[[東京卍リベンジャーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://times.abema.tv/articles/-/10011845 |title=アニメ「東京リベンジャーズ」アッくん(千堂敦)を解説!死亡は確定? |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[ABEMA]] TIMES |date=8 May 2023}}</ref>
* 2114年 - [[ドラミ]]、漫画・アニメ『[[ドラえもん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|doraemonchannel|539554687540658176}}</ref><ref>『[[ドラえもん百科]]』第2巻収録「ドラミちゃん秘密ブック」。</ref>
* 生年不明 - 桜島麻衣、小説・アニメ・映画『[[青春ブタ野郎シリーズ|青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない]]』のメインヒロイン<ref>{{Cite web|和書 |url=https://ao-buta.com/news/?id=48912 |title=『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』 ポップアップストア –桜島麻衣 誕生祭- 開催決定! |access-date=23 Jul 2023 |work=『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』 |date=5 Nov 2018 |publisher=[[鴨志田一]]/[[KADOKAWA]]/青ブタ Project イラスト [[溝口ケージ]]}}</ref><ref>{{Twitter status|aobuta_anime|1598482080291176448}}</ref>
* 生年不明 - フラットくん、『[[マイメロディ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sanrio_news|1201153996804648960}}</ref>
* 生年不明 - ナポレオン、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Napoleon.html |title=ナポレオン |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - エルマー・ジークフリート、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1598332344246697984}}</ref>
* 生年不明 - 小森希乃子、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heroaca.com/character/chara_group02/02-16/ |title=小森希乃子 |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 巴虎太郎、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1201155251270832130}}</ref>
* 生年不明 - ウタ、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|year=2014|title=東京喰種トーキョーグール|publisher=集英社|location=|isbn=978-4-08-879859-2|date=|volume=12巻|quote=カバー裏}}</ref>
* 生年不明 - グラディアス、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=東まゆみ|authorlink=東まゆみ|title=Erementar gerad オフィシャルガイド|year=2005|publisher=[[マッグガーデン]]|series=ブレイドコミックス|isbn=4-86127-152-5|page=76}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=東まゆみ|authorlink=東まゆみ|title=エレメンタルジェレイド アルティメットガイド|year=2009|publisher=[[マッグガーデン]]|series=ブレイドコミックス|isbn=978-4-86127-616-3|page=56}}</ref>
* 生年不明 - 戸部学、アニメ『[[勇者指令ダグオン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.yusha.net/dagwon/character.html |title=キャラクター紹介 戸部 学 |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] |work=『勇者司令ダグオン』}}</ref>
* 生年不明 - 木ノ幡みさ、漫画・アニメ『[[恋する小惑星]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|koiastv|1466059517767081985}}</ref>
* 生年不明 - 駒込・アズズ、アニメ『[[戦翼のシグルドリーヴァ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://sigururi.com/chara/?chara=azuzu |title=駒込・アズズ |access-date=23 Jul 2023 |work=『戦翼のシグルドリーヴァ』 |publisher=戦翼倶楽部/909整備補給隊}}</ref>
* 生年不明 - ラッキー・グローバー、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ|THE KING OF FIGHTERS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kof_allstar|1201153983588524033}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#喜多見柚|喜多見柚]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20048 |title=喜多見 柚(きたみ ゆず)|access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 迎羽織、 キャラクターソング企画 『[[音楽少女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://ongaku-shoujo.jp/#character |title=CHARACTER 迎 羽織 |access-date=23 Jul 2023 |work=『音楽少女』 |publisher=音楽少女製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 降神あから、ゲーム・アニメ『[[スクールガールストライカーズ|スクールガールストライカーズ2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://schoolgirlstrikers.jp/member/akara.html |title=降神 あから CV:三瓶 由布子 |publisher=[[スクウェア・エニックス|SQUARE ENIX CO.]] |work=『スクールガールストライカーズ2』 |accessdate=23 Jul 2023}}</ref>
* 生年不明 - ダッチュー、ゲーム『[[ステーションメモリーズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ekimemo|1333931386584002560}}</ref>
* 生年不明 - ニャッシュ、ゲーム『ステーションメモリーズ!』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ekimemo|936739191567683585}}</ref>
* 生年不明 - 朴木十夜、ゲーム・アニメ『[[アイ★チュウ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.i-chu.jp/unit/tenjotenge/toya/ |title=朴木 十夜 |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[リベル・エンタテインメント|Liber Entertainment Inc.]] |work=『アイ★チュウ』}}</ref>
* 生年不明 - 香澄朝陽、ゲーム・アニメ『[[アイカツスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.aikatsu.net/aikatsustars_02/character/chara_asahi.html |title=香澄 朝陽 |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[バンダイナムコピクチャーズ|BNP]]/[[バンダイ|BANDAI]], [[電通|DENTSU]], [[テレビ東京|TV TOKYO]] |work=『アイカツスターズ!』}}</ref>
* 生年不明 - ルーク・ハント、ゲーム『[[ディズニー ツイステッドワンダーランド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://twisted-wonderland.aniplex.co.jp/character/rook |title=ルーク・ハント |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|Disney.]] [[Aniplex]] |work=『Disney TWISTED WONDERLAND』}}</ref>
* 生年不明 - メリーローズ、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yumekuro.com/character/meister/yumetsumugi/merry-rose/ |title=メリーローズ |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref>
* 生年不明 - [[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#巴珠緒|巴珠緒]]、メディアミックス『[[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#アプリゲーム|少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|starlightrelive|1201153983424815104}}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|12|1|12|3|[[11月2日]]|[[1月2日]]|[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]|1202|12|02}}
{{1年の月と日}} | 2003-03-06T17:50:11Z | 2023-12-02T16:25:18Z | false | false | false | [
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3,550 | 1月2日 | 1月2日(いちがつふつか)は、グレゴリオ暦で年始から2日目に当たり、年末まであと363日(閏年では364日)ある。
※この他、元日(同年1月1日)に配達された書面の年賀状は、2017年以降、インターネットの普及等によるはがきの利用者が減少していることからこの日に限り配達を終日取りやめ、翌1月3日に再び配達される。 | [
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"title": "記念日・年中行事"
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'''1月2日'''(いちがつふつか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から2日目に当たり、年末まであと363日([[閏年]]では364日)ある。
== できごと ==
* [[1492年]] - [[グラナダ]]が陥落し[[ナスル朝]]が滅亡。[[レコンキスタ]]が終結<ref>{{Cite web |url=https://www.history.com/this-day-in-history/reconquest-of-spain |title=1492 January 02 Reconquest of Spain |access-date=19 Mar 2023 |publisher=THE ARENA Group}}</ref>。
* [[1586年]]([[天正]]13年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]) - [[徳川家康]]の重臣[[石川数正]]が[[豊臣秀吉]]のもとに出奔<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents2_02/ |title=石川数正の出奔 |access-date=21 Mar 2023 |publisher=国立公文書館}}</ref>。
* [[1624年]]([[元和 (日本)|元和]]9年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]) - [[平戸市|平戸]]の[[イギリス商館]]が閉鎖。
* [[1777年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[プリンストンの戦い]]。
* 1777年 - アメリカ独立戦争: [[アッサンピンク・クリークの戦い]]。
* [[1788年]] - [[ジョージア州]]が[[アメリカ合衆国憲法]]を批准し、[[アメリカ合衆国]]4番目の州となる。
* [[1843年]] - [[リヒャルト・ワーグナー]]の歌劇『[[さまよえるオランダ人]]』が[[ドレスデン]]でワーグナー自身の指揮により初演。
* [[1904年]] - [[報知新聞]]に日本初の新聞[[写真]]として[[川上貞奴]]の写真が掲載される。
* [[1905年]] - [[日露戦争]]・[[旅順攻囲戦]]: ロシア軍の[[旅順要塞]]が、[[乃木希典]]将軍率いる日本軍により陥落。
* [[1930年]] - 第1回朝日学術賞授与式。
* [[1937年]] - [[イギリス]]の[[戦艦]]「[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]」の建造開始。[[1939年]]に進水。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]: [[日本軍]]が[[マニラ]]を占領。
* 1942年 - 第二次世界大戦: [[興亜奉公日]]を廃止し、毎月8日を[[大詔奉戴日]]とすることを[[閣議決定]]。
* [[1943年]] - 第二次世界大戦・[[ポートモレスビー作戦]]: [[ニューギニア]]のブナで[[日本軍]]が玉砕する。
* [[1945年]] - 国鉄長野原線(現:[[吾妻線]])が開業。
* [[1953年]] - 『[[第3回NHK紅白歌合戦]]』がテレビで実験放送される。同日の『[[NHK紅白歌合戦]]』開催は史上唯一。
* [[1954年]] - [[二重橋事件]]:[[皇居]]一般参賀者が[[二重橋]]上で[[将棋倒し]]になり、16名死亡、56名が重軽傷を負う<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030008_00000 |title=参賀で死傷者多数 二重橋事件 |access-date=19 Mar 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]]}}</ref>。
* [[1955年]] - [[ナイロンザイル事件]]: [[前穂高岳]]でナイロン製ザイルの切断により登山者が滑落死。麻ザイルよりも強いとメーカーが保証したザイルだったため、ザイル論争に発展。
* [[1956年]] - [[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]がこの年から2日に往路、3日に復路の開催となる。
* [[1959年]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]が世界初の月面ロケット「[[ルナ1号]]」を打ち上げ。[[軌道 (力学)|軌道]]が逸れて[[太陽]]を周回する初の人工惑星となる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://gendai.media/articles/-/59043 |title=1月2日 初の人工惑星「ルナ1号」の打ち上げ(1959年) |access-date=19 Mar 2023 |publisher=[[講談社]] |date=2 Jan 2019 |work=サイエンス365days}}</ref>。
* 1959年 - [[全日空機爆破未遂事件]]: [[大分空港]]発、[[岩国飛行場|岩国]]経由[[大阪国際空港|大阪]]行の[[全日本空輸|全日空]]機で飛び降り自殺。[[飛行機]]の[[便所]]から不発の[[ダイナマイト]]25本が発見される。
* [[1960年]] - [[ジョン・F・ケネディ]]が[[1960年アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選]]に出馬表明。
* [[1966年]] - テレビ初の怪獣SF『[[ウルトラQ]]』放送開始。
* [[1969年]] - [[奥崎謙三#昭和天皇パチンコ狙撃事件|昭和天皇パチンコ狙撃事件]]: 二重橋事件以来6年ぶりに開催された皇居一般参賀で、活動家[[奥崎謙三]]が、昭和天皇をパチンコ玉で狙撃したが、命中せず未遂に終わる。
* 1969年 - [[ビートルズの解散問題]]: [[ビートルズ]]がゲット・パック・セッションの収録を行う(『[[レット・イット・ビー (映画)|レット・イット・ビー]]』)。
* [[1971年]] - [[寿司由楼火災]]: [[和歌山市]][[新和歌浦]]の旅館・寿司由楼で火災が発生。16名死亡、15名負傷。
* 1971年 - [[アイブロックスの惨事]]: [[スコットランド]]・グラスゴーで行われた[[レンジャーズFC|レンジャーズ]]対[[セルティックFC|セルティック]]戦で将棋倒しが発生し、66名が死亡<ref>{{Cite web |url=https://www.scotlandspeople.gov.uk/article/our-records-ibrox-disaster-1971 |title=Our Records: The Ibrox Disaster of 1971 |access-date=19 Mar 2023 |publisher=The ScotlandsPeople |date=6 Jan 2022}}</ref><ref>「新春サッカーで大惨事 イギリス 66人圧死 168人ケガ」『[[読売新聞]]』1971年1月4日 14版 15面</ref>。
* [[1973年]] - [[ボクシング]]世界フライ級タイトルマッチで[[大場政夫]]が5度目の防衛成功<ref>ボクシング・マガジン編集部 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 ベースボール・マガジン社、2002年</ref>。しかし、防衛から23日後の1月25日に交通事故で死亡<ref>{{Cite web|和書 |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/othersports/fight/2012/01/02/post_34/ |title=【今日は何の日?】大場政夫、世界フライ級王座5度目の防衛 |access-date=21 Mar 2023 |publisher=[[集英社]] |date=2 Jan 2012 |website=web Sportiva Love Sports}}</ref>。
* [[1979年]] - 午前9時、昭和54年台風1号(Alice)発生。平成31年台風第1号(Pabuk)の発生まで、1年の中で最も発生の早い[[台風]]かつ発生の早い台風1号であった<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/typhoon/statistics/ranking/late_early_g.html |title=発生日時 |access-date=21 Mar 2023 |publisher=[[気象庁]]}}</ref>。
* [[1983年]] - ミュージカル『[[アニー]]』の[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]・オリジナル版が2377回の[[ロングラン公演|ロングラン]]で終演。
* [[1997年]] - [[ナホトカ号重油流出事故]]。
* [[2004年]] - アメリカの[[彗星]]探査機「[[スターダスト (探査機)|スターダスト]]」が[[ヴィルト第2彗星]]に最接近。彗星の核を撮影し、[[塵]]を採取。
* [[2015年]] - [[ハルビン市道外区1月2日火災事故]]<ref>{{Cite web|和書 |date=6 Jan 2015 |url=http://jp.xinhuanet.com/2015-01/06/c_133899253.htm |title=ハルビン倉庫火災で犠牲となった消防士5人に烈士の称号を授与 |publisher=新華網 |accessdate=19 Mar 2023}}</ref>。
*[[2022年]] - [[2022年カザフスタン反政府デモ|2022年カザフスタン反政府運動]]発生<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/01/d97c27fec4aaf775.html |title=燃料価格に対する抗議デモを機に、マミン首相が辞職 (カザフスタン) |access-date=19 Mar 2023 |publisher=JETRO |date=5 Jan 2022}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[869年]]([[貞観 (日本)|貞観]]10年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]) - [[陽成天皇]]、第57代[[天皇]](+ [[949年]])
* [[1601年]]([[慶長]]5年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[徳川義直]]、[[尾張藩|尾張藩主]](+ [[1650年]])
* [[1649年]] - [[メフメト4世]]、[[オスマン帝国]]第19代[[スルタン]](+ [[1693年]])
* [[1687年]]([[貞享]]3年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]) - [[大関増恒]]、[[黒羽藩|黒羽藩主]](+ [[1759年]])
* [[1702年]]([[元禄]]14年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]) - [[鍋島直恒]]、[[蓮池藩|蓮池藩主]](+ [[1749年]])
* [[1727年]] - [[ジェームズ・ウルフ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/James-Wolfe James Wolfe British general] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[イギリス陸軍]]の将軍(+ [[1759年]])
* [[1729年]] - [[ヨハン・ティティウス]]、[[科学者]](+ [[1796年]])
* [[1731年]]([[享保]]15年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]) - [[朽木舖綱]]、[[福知山藩|福知山藩主]](+ [[1787年]])
* [[1765年]] - [[チャールズ・ハチェット]]、[[化学者]](+ [[1847年]])
* [[1771年]]([[明和]]8年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[前田利幹]]、[[富山藩|富山藩主]](+ [[1836年]])
* [[1784年]] - [[エルンスト1世 (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|エルンスト1世]]、[[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国|ザクセン=コーブルク=ゴータ公]](+ [[1844年]])
* [[1809年]]([[文化 (元号)|文化]]5年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]) - [[酒井忠学]]、[[姫路藩|姫路藩主]](+ [[1844年]])
* [[1818年]](文化14年[[11月26日 (旧暦)|11月26日]]) - [[宗義章]]、[[対馬府中藩|対馬府中藩主]](+ [[1842年]])
* [[1822年]] - [[ルドルフ・クラウジウス]]、[[物理学者]](+ [[1888年]])
* [[1836年]] - [[メンデレ・スフォリム]]、[[イディッシュ語]]作家(+ [[1917年]])
* [[1837年]] - [[ミリイ・バラキレフ]]、[[作曲家]](+ [[1910年]])
* [[1840年]]([[天保]]10年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[司馬凌海]]、[[医学者]](+ [[1879年]])
* [[1850年]] - [[フランシス・アバークロンビー]]、[[プロ野球選手]](+ [[1939年]])
* [[1851年]]([[嘉永]]3年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[矢野龍渓]]、[[ジャーナリスト]]、[[著作家]](+ [[1931年]])
* [[1854年]] - [[若尾民造]]、[[実業家]]、甲府市長(官選第7代)(+ [[1917年]])
* [[1856年]] - [[丸山重俊]]、[[熊本藩|熊本]][[藩士]]、[[検察官]]・[[日本の警察|警察]][[官僚]](+ [[1911年]])
* 1856年 - [[吉井幸蔵]]、[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]、[[政治家]](+ [[1927年]])
* [[1857年]] - [[佐立七次郎]]、[[建築家]](+ [[1922年]])
* [[1860年]] - [[渡邊修]]、官僚、政治家(+ [[1932年]])
* [[1862年]] - [[川村惇]]、[[ジャーナリスト]]、[[政治家]]、[[教育者]](+ [[1930年]])
* 1862年 - [[小林文七]]、[[浮世絵]]の[[版元]]、浮世絵商兼[[収集家]](+ [[1923年]])
* [[1864年]] - [[小松謙次郎]]、[[官僚]]、[[政治家]](+ [[1932年]])
* 1864年 - [[ルシア・サラーテ]]、世界で最も体重の軽い[[成人]]として記録された女性(+ [[1890年]])
* [[1868年]] - [[アーサー・ゴア]]、[[テニス]]選手(+ [[1928年]])
* [[1869年]] - [[ベイヤード・ヴェイラー]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[劇作家]](+ [[1943年]])
* 1869年 - [[三遊亭圓盛]]、[[落語家]](+ [[没年不詳]])
* [[1870年]] - [[エルンスト・バルラハ]]、[[彫刻家]](+ [[1938年]])
* 1870年([[明治]]2年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[小川平吉]]、[[法務大臣|司法大臣]]、[[国土交通大臣|鉄道大臣]](+ [[1942年]])
* [[1871年]] - [[ポーレット・ダルティ]]、歌手(+ [[1939年]])
* 1871年 - [[高橋松亭]]、[[浮世絵師]]、[[版画家]](+ [[1945年]])
* [[1872年]] - [[村上春太郎]]、[[天文学者]]、[[物理学者]](+ [[1947年]])
* [[1873年]] - [[リジューのテレーズ]]、[[修道士|修道女]]、カトリック教会の聖人(+ [[1897年]])
* 1873年 - [[アントン・パンネクーク]]、天文学者、[[マルクス主義]]理論家(+ [[1960年]])
* 1873年 - [[八代国治]]、[[歴史学者]](+ [[1924年]])
* 1873年 - [[モイセイ・ウリツキー]]、[[ソ連共産党]]の活動家(+ [[1918年]])
* [[1875年]] - [[中村雀右衛門 (3代目)|中村雀右衛門]]、[[歌舞伎]]役者(+ [[1927年]])
* 1875年 - [[沈鈞儒]]、[[政治家]](+ [[1963年]])
* [[1876年]] - [[鬼竜山雷八 (2代)|鬼竜山雷八]]、[[力士]](+ [[1937年]])
* [[1877年]] - [[ヨハネス・シュミット (生物学者)|ヨハネス・シュミット]]、[[海洋生物学者]](+ [[1933年]])
* [[1879年]] - [[バウエル・ルドルフ]]、[[陸上競技選手]](+ [[1932年]])
* [[1880年]] - [[ルイ・ブレゲー]]、[[飛行機]]設計者(+ [[1955年]])
* 1880年 - [[ヴァシーリー・デグチャレフ]]、軍人、銃器設計者(+ [[1949年]])
* [[1881年]] - [[藤岡直平衛]]、[[政治家]](+ [[1965年]])
* [[1882年]] - [[ベンジャミン・ジョーンズ]]、[[自転車競技]]([[トラックレース]])選手(+ [[1963年]])
* 1882年 - [[ヘンリー・アラン・グリーソン (植物学者)|ヘンリー・アラン・グリーソン]]、[[植物学者]](+ [[1975年]])
* 1882年 - [[石山賢吉]]、[[実業家]]、[[ジャーナリスト]]、[[政治家]](+ [[1964年]])
* [[1883年]] - [[牧野雅楽之丞]]、[[技術者]](+ [[1967年]])
* [[1884年]] - [[朴賛翊]]、[[独立運動家]](+ [[1949年]])
* 1884年 - [[中島利一郎]]、[[東洋]][[比較言語学]]者(+ [[1959年]])
* [[1885年]] - [[アンナ・ヒュブラー]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1976年]])
* 1885年 - [[山村耕花]]、[[日本画家]]、[[浮世絵師]]、[[版画家]](+ [[1942年]])
* [[1886年]] - [[和田秀穂]]、[[軍人]](+ [[1972年]])
* 1886年 - [[アスカナズ・ムラヴャン]]、政治家(+ [[1929年]])
* 1886年 - [[カール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル]]、[[軍人]](+ [[1944年]])
* 1886年 - [[フローレンス・ローレンス]]、[[俳優|女優]](+ [[1938年]])
* [[1887年]] - [[三遊亭圓吉]]、[[落語家]](+ [[没年不詳]])
* [[1888年]] - [[古坂嵓城]]、[[教育者]](+ [[1974年]])
* 1888年 - [[草場辰巳]]、[[軍人]](+ [[1946年]])
* 1888年 - [[大橋良一 (地質学者)|大橋良一]]、[[地球科学者]](+ [[1983年]])
* [[1889年]] - [[ティート・スキーパ]]、[[テノール]]歌手(+ [[1965年]])
* 1889年 - [[木村謹治]]、[[ドイツ文学]]・[[ドイツ語]]学者(+ [[1948年]])
* 1889年 - [[川西實三]]、[[内務省 (日本)|内務]][[官僚]]、[[日本赤十字社]]社長(+ [[1978年]])
* 1889年 - [[細井魚袋]]、[[歌人]](+ [[1962年]])
* [[1890年]] - [[長谷外余男]]、[[神職]](+ [[1973年]])
* [[1891年]] - [[ディディエ・ドーラ]]、フランスの航空の先駆者(+ [[1969年]])
* [[1892年]] - [[柏尾誠一郎]]、[[テニス]]選手(+ [[1962年]])
* [[1893年]] - [[遠藤三郎 (陸軍軍人)|遠藤三郎]]、[[軍人]](+ [[1984年]])
* [[1894年]] - [[カール・ダマー]]、[[指揮者]](+ [[1977年]])
* 1894年 - [[牟田口格郎]]、[[軍人]](+ [[1945年]])
* 1894年 - [[ロバート・ネイサン]]、[[詩人]]、[[ファンタジー]]作家、[[脚本家]](+ [[1985年]])
* [[1895年]] - [[八田四郎次]]、応用[[化学者]](+ [[1973年]])
* 1895年 - [[フォルケ・ベルナドッテ]]、[[外交官]](+ [[1948年]])
* 1895年 - [[黒正巌]]、[[経済学者]]、農業史家、農村社会史学者(+ [[1949年]])
* 1895年 - [[ハミルトン・ギブ]]、[[東洋学者]]、[[歴史家の一覧|歴史学研究者]](+ [[1971年]])
* [[1896年]] - [[ジガ・ヴェルトフ]]、映画監督(+ [[1954年]])
* 1896年 - [[ジュゼッペ・エンリーチ]]、[[自転車競技]]([[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]])選手(+ [[1968年]])
* [[1897年]] - [[地崎宇三郎 (二代)|地崎宇三郎]]、[[政治家]]、[[実業家]](+ [[1951年]])
* 1897年 - [[桐ノ花光之助]]、[[大相撲]][[力士]](+ [[1993年]])
* 1897年 - [[曽拡情]]、政治家(+ [[1983年]])
* [[1898年]] - [[五味國男]]、俳優、映画監督(+ [[没年不詳]])
* [[1899年]] - [[吉川美夫]]、[[言語学者]]、[[英語学者]](+ [[1991年]])
* 1899年 - [[ヘルマン・フォン・オッペルン=ブロニコフスキー]]、軍人(+ [[1966年]])
* [[1900年]] - [[伊丹万作]]、映画監督(+ [[1946年]])
* 1900年 - [[大崎史郎]]、[[俳優]](+ [[1967年]])
* 1900年 - [[四方博]]、[[日本の経済学者の一覧|経済学者]](+ [[1973年]])
* 1900年 - [[安田幹太]]、[[法学者]](+ [[1987年]])
* 1900年 - [[ウィリアム・ヘインズ]]、[[俳優]]、インテリア・デザイナー(+ [[1973年]])
* 1900年 - [[レスリー・ペルチャー]]、アマチュア天文家(+ [[1980年]])
* [[1901年]] - [[久保栄]]、[[戯曲]]作家(+ [[1958年]])
* 1901年 - [[谷口五郎]]、[[野球選手]](+ [[1980年]])
* 1901年 - [[服部卓四郎]]、[[軍人]](+ [[1960年]])
* [[1902年]] - [[小野吉郎]]、[[逓信省|逓信]][[官僚]](+ [[2006年]])
* 1902年 - [[山内清男]]、[[考古学者]](+ [[1970年]])
* [[1903年]] - [[下村三郎]]、[[裁判官]]、[[弁護士]](+ [[1980年]])
* 1903年 - [[江家義男]]、[[法学者]](+ [[1958年]])
* 1903年 - [[田中カ子]]、世界最高齢の女性(+ [[2022年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220425/k10013597701000.html |title=119歳 福岡市の田中カ子さん死去 ギネスで世界最高齢に認定 |access-date=21 Mar 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]]}}</ref>)
* [[1904年]] - [[ヴァルター・ハイトラー]]、[[物理学者]](+ [[1981年]])
* 1904年 - [[稲山嘉寛]]、[[実業家]]、[[財界人]](+ [[1987年]])
* 1904年 - [[目黒三策]]、実業家(+ [[1974年]])
* 1904年 - [[横倉辰次]]、作家、劇作家、歴史家(+ [[1983年]])
* [[1905年]] - [[ルイジ・ザンパ]]、[[映画監督]](+ [[1991年]])
* 1905年 - [[マイケル・ティペット]]、作曲家(+ [[1998年]])
* 1905年 - [[小幡治和]]、[[政治家]](+ [[1998年]])
* 1905年 - [[レフ・ゲンリホーヴィッチ・シュニレルマン]]、[[数学者]](+ [[1938年]])
* 1905年 - [[エスコット・リード]]、[[外交官]]、[[学者]](+ [[1999年]])
* [[1906年]] - [[三島雅夫]]、[[俳優]](+ [[1973年]])
* [[1907年]] - [[辻嘉一]]、[[料理人]](+ [[1988年]])
* 1907年 - [[岩上順一]]、[[文芸評論家]](+ [[1958年]])
* 1907年 - [[ネイサン・コーン]]、[[電子工学|電子工学者]](+ [[1989年]])
* 1907年 - [[渋谷実]]、[[映画監督]](+ [[1980年]])
* 1907年 - [[奈街三郎]]、[[児童文学作家]](+ [[1978年]])
* [[1908年]] - [[三木澄子]]、児童文学作家(+ [[1988年]])
* 1908年 - [[ロベール・プラネル]]、作曲家(+ [[1994年]])
* 1908年 - [[邦正美]]、[[舞踊家]](+ [[2007年]])
* 1908年 - [[ローレンス・ウェザビー]]、[[政治家]]、[[弁護士]](+ [[1994年]])
* [[1909年]] - [[吾郷清彦]]、[[歴史家]](+ [[2003年]])
* 1909年 - [[柴谷貞雄]]、実業家(+ [[2001年]])
* 1909年 - [[道家忠道]]、[[ドイツ文学]]者(+ [[1984年]])
* 1909年 - [[戸川敬一]]、ドイツ文学者(+ [[2002年]])
* 1909年 - [[バリー・ゴールドウォーター]]、[[政治家]](+ [[1998年]])
* [[1910年]] - [[松谷穣]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](+ [[1995年]])
* 1910年 - [[キングスレー・チャールズ・ダナム]]、[[地質学|地質学者]]、[[鉱物学|鉱物学者]](+ [[2001年]])
* [[1911年]] - [[横路節雄]]、[[政治家]](+ [[1967年]])
* 1911年 - [[近藤巌]]、拳闘家、[[プロボクサー]](+ [[1971年]])
* 1911年 - [[秋元松代]]、[[劇作家]](+ [[2001年]])
* 1911年 - [[岡田譲]]、[[美術評論家]](+ [[1981年]])
* 1911年 - [[パーヴェル・ルィチャゴフ]]、軍人(+ [[1941年]])
* [[1912年]] - [[木村庄之助 (26代)|第26代木村庄之助]]、[[立行司]](+ [[1984年]])
* 1912年 - [[豆千代]]、[[歌手]](+ [[2004年]])
* 1912年 - [[剣持勇]]、[[インテリアデザイナー]](+ [[1971年]])
* 1912年 - [[野村尚吾]]、編集者、作家、評論家(+ [[1975年]])
* 1912年 - [[折茂豊]]、法学者
* 1912年 - [[豊田久吉]]、[[水泳]]選手(+ [[1976年]])
* [[1913年]] - [[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]、[[歴史家|歴史学者]]、[[東京大学]]総長(+ [[2004年]])
* 1913年 - [[アンナ・リー (俳優)|アンナ・リー]]、[[俳優|女優]](+ [[2004年]])
* 1913年 - [[ガードナー・リード]]、[[作曲家]](+ [[2005年]])
* 1913年 - [[松重美人]]、[[新聞記者]]・[[カメラマン|報道写真家]](+ [[2005年]])
* [[1914年]] - [[カール・ハインツ・カイテル]]、軍人
* 1914年 - [[小松勇作]]、[[数学者]](+ [[2004年]])
* [[1915年]] - [[柳家小さん (5代目)|5代目柳家小さん]]、[[落語家]](+ [[2002年]])
* 1915年 - [[むのたけじ]]、[[ジャーナリスト]](+ [[2016年]])
* 1915年 - [[古川正男]]、[[プロ野球選手]]
* 1915年 - [[松本一]]、第27・28代岡山市長(+ [[1998年]])
* 1915年 - [[千葉昇隆利]]、[[大相撲]][[力士]](+ [[没年不詳]])
* 1915年 - [[古川喜一]]、[[政治家]](+ [[1989年]])
* 1915年 - [[和田政雄]]、[[ラグビーユニオン|ラグビー]]選手・監督(+ [[1985年]])
* 1915年 - [[笹川了平]]、笹川興産社長、[[大阪日日新聞]]社長(+ [[1982年]])
* 1915年 - [[星玲子]]、[[俳優|女優]]、[[歌手]](+ [[2003年]])
* 1915年 - [[吉田雅夫]]、[[フルート]]奏者(+ [[2003年]])
* [[1916年]] - [[武者一雄]]、[[小説家]]、[[児童文学作家]](+ [[2008年]])
* 1916年 - [[エドムンド・ド・ロスチャイルド]]、[[銀行家]]、[[実業家]]、[[軍人]](+ [[2009年]])
* [[1917年]] - [[山根常男]]、社会学者(+ [[2007年]])
* 1917年 - [[田村圓澄]]、日本史学者、仏教史学者(+ [[2013年]])
* 1917年 - [[金元均]]、[[作曲家]]、[[最高人民会議]]代議員(+ [[2002年]])
* 1917年 - [[池真理子]]、[[ジャズ]]・[[ラテン音楽|ラテン]]・[[フォルクローレ]]の[[歌手]](+ [[2000年]])
* [[1918年]] - [[中村太郎 (政治家)|中村太郎]]、[[政治家]](+ [[2011年]])
* 1918年 - [[ヴィリー・グラーフ]]、[[白いバラ|白バラ抵抗運動]]のメンバーの一人(+ [[1943年]])
* 1918年 - [[ジョアン・メリル]]、[[歌手]]、[[俳優|女優]](+ [[1992年]])
* 1918年 - [[永末英一]]、[[軍人]]、[[政治家]](+ [[1994年]])
* 1918年 - [[白川元春]]、[[軍人]]、[[航空自衛官]](+ [[2008年]])
* [[1919年]] - [[川路夏子]]、[[声優]]、女優(+ [[2011年]])
* 1919年 - [[吉原正喜]]、プロ野球選手(+ [[1944年]])
* 1919年 - [[安原美穗]]、[[検察官]]、[[法務省|法務]][[官僚]]、[[検事総長]]、[[弁護士]](+ [[1997年]])
* 1919年 - [[小野健一 (物理学者)|小野健一]]、物理学者、科学史家(+ [[2010年]])
* 1919年 - [[大宜見小太郎]]、[[俳優]]、[[脚本家]]、[[演出家]]、[[舞踏家|舞踊家]](+ [[1994年]])
* 1919年 - [[斉藤広志]]、[[文化人類学者]](+ [[1983年]])
* 1919年 - [[李煥之]]、[[作曲家]](+ [[2000年]])
* 1919年 - [[高木孝一 (政治家)|高木孝一]]、[[政治家]](+ [[2012年]])
* [[1920年]] - [[アイザック・アシモフ]]、[[SF作家]](+ [[1992年]])
* 1920年 - [[丹下キヨ子]]、[[歌手]]、女優(+ [[1998年]])
* 1920年 - [[塩谷一夫]]、[[政治家]](+ [[1989年]])
* 1920年 - [[加藤信幸]]、[[サッカー|サッカー選手]]
* 1920年 - [[ジョージ・ハービッグ]]、[[天文学者]](+ [[2013年]])
* 1920年 - [[桂小南 (2代目)|桂小南]]、[[落語家]](+ [[1996年]])
* [[1921年]] - [[春風亭小柳枝 (7代目)]]、落語家(+ [[1962年]])
* 1921年 - [[神尾季羊]]、俳人(+ [[1997年]])
* 1921年 - [[スマイリー小原]]、[[ジャズ]][[ミュージシャン]](+ [[1984年]])
* 1921年 - [[岡田純一]]、経済学者(+ [[1988年]])
* [[1922年]] - [[枝村要作]]、[[政治家]](+ [[2004年]])
* 1922年 - [[品川孝子]]、[[教育評論家]](+ [[2016年]])
* 1922年 - [[プンツォク・ワンギャル]]、革命家(+ [[2014年]])
* [[1923年]] - [[玉乃海太三郎]]、元[[大相撲]][[力士]](+ [[1987年]])
* 1923年 - [[小川泰]]、[[政治家]]
* 1923年 - [[太田じろう]]、[[漫画家]]、絵本作家(+ [[1982年]])
* 1923年 - [[磯貝英夫]]、日本近代文学研究者(+ [[2016年]])
* [[1924年]] - [[河合雅雄]]、動物生態学者(+ [[2021年]])
* 1924年 - [[山崎豊子]]、小説家(+ [[2013年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.asahi.com/extra/articles/TKY201309300237.html |title=山崎豊子さん死去(9月30日) |access-date=21 Mar 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=30 Sep 2013}}</ref>)
* 1924年 - [[藤島昭]]、[[検察官]]、[[弁護士]](+ [[2010年]])
* 1924年 - [[寿岳章子]]、[[日本語学者]]、[[エッセイスト]](+ [[2005年]])
* 1924年 - [[荒木雅子]]、[[俳優|女優]]
* [[1925年]] - [[リチャード・ジェサップ]]、[[小説家]](+ [[1982年]])
* 1925年 - [[山中末治]]、[[政治家]](+ [[2014年]])
* 1925年 - [[伊藤秀雄 (文芸評論家)|伊藤秀雄]]、推理・冒険小説研究家
* 1925年 - [[金春欣三]]、[[シテ方]][[金春流]]の[[能楽師]]
* 1925年 - [[増本剛]]、[[金属工学者]](+ [[2012年]])
* 1925年 - [[梶山雄一]]、[[仏教学者]]、文学博士(+ [[2004年]])
* [[1926年]] - [[天本英世]]、[[俳優]](+ [[2003年]])
* 1926年 - [[長江録弥]]、[[彫刻家]](+ [[2005年]])
* 1926年 - [[今泉勝義]]、元プロ野球選手(+ [[2009年]])
* 1926年 - [[堀内一市]]、[[俳優]]
* 1926年 - [[醍醐敏郎]]、[[柔道家]] ※戸籍上の誕生日。実際の出生日は1925年[[12月26日]](+ [[2021年]])
* 1926年 - [[岡田喜秋]]、[[紀行]][[作家]]
* 1926年 - [[ブルース・ハーラン]]、飛込選手(+ [[1959年]])
* [[1927年]] - [[野村昭子]]、俳優(+ [[2022年]])
* 1927年 - [[坂上富男]]、[[弁護士]]、[[衆議院議員]](+ [[2018年]])
* 1927年 - [[富本壮吉]]、[[映画監督]]、[[テレビ]][[演出家]](+ [[1989年]])
* 1927年 - [[ユーリー・グリゴローヴィチ]]、[[バレエ]]振付家
* 1927年 - [[土方鐵]]、[[作家]]、[[俳人]]、[[脚本家]]、部落解放運動家(+ [[2005年]])
* 1927年 - [[置塩信雄]]、[[経済学者]](+ [[2003年]])
* [[1928年]] - [[池田大作]]、[[宗教家]]、[[作家]]、[[創価学会]]第3代会長・名誉会長、SGI([[創価学会インタナショナル]])会長(+ [[2023年]])
* 1928年 - [[大木民夫]]、声優(+ [[2017年]]<ref>{{Cite web|和書 | url = https://mausu.net/topics/2017/12/post_16.html| title = 訃報 | publisher = マウスプロモーション| accessdate = 19 Mar 2023|date=19 Dec 2017}}</ref>)
* 1928年 - [[田中米太郎]]、[[プロレスラー]](+ [[1995年]])
* 1928年 - [[森本茂]]、国文学者(+ [[1996年]])
* 1928年 - [[山田昭夫]]、日本近代文学研究者、文芸評論家(+ [[2004年]])
* 1928年 - [[アルベルト・ゼッダ]]、[[指揮者]](+ [[2017年]])
* 1928年 - [[池田廉 (イタリア文学者)|池田廉]]、イタリア文学者
* [[1929年]] - [[ロバート・ウォルドーフ・ラブレス]]、[[ナイフ]][[職人]](+ [[2010年]])
* 1929年 - [[チャールズ・ボーモント]]、[[小説家]](+ [[1967年]])
* [[1930年]] - [[梶山季之]]、[[小説家]](+ [[1975年]])
* 1930年 - [[徳岡孝夫]]、ジャーナリスト
* 1930年 - [[皆川博子]]、小説家
* 1930年 - [[岡照雄]]、[[イギリス文学|英文学者]]
* 1930年 - [[森田良行]]、[[日本語学者|国語学者]]
* 1930年 - [[佐伯安一]]、郷土史家、建築史学者(+ [[2016年]])
* 1930年 - [[デリア俊子]]、市民ランナー(+ [[2014年]])
* 1930年 - [[東川清一]]、[[音楽学者]]、[[音楽評論家]]
* 1930年 - [[師岡孝次]]、[[経営工学|経営工学者]](+ [[2021年]])
* 1930年 - [[淀かほる]]、[[俳優|女優]](元[[宝塚歌劇団]][[花組]]主演[[男役]])(+ [[1993年]])
* 1930年 - [[大村平]]、[[航空自衛官]]、[[著述家]](+ [[2021年]])
* [[1931年]] - [[海部俊樹]]、第76、77代[[内閣総理大臣]](+ [[2022年]])
* 1931年 - [[松崎昭雄]]、[[森永製菓]]相談役
* 1931年 - [[中川晴之助]]、テレビディレクター(+[[2018年]])
* 1931年 - [[マリーノ・モレッティーニ]]、[[自転車競技]]([[トラックレース]])選手(+ [[1990年]])
* 1931年 - [[左近淑]]、[[聖書学]]者(+ [[1990年]])
* 1931年 - [[吉田おさみ]]、社会運動家(+ [[1984年]])
* 1931年 - [[行天豊雄]]、[[経済学者]]
* 1931年 - [[後藤宏行 (哲学者)|後藤宏行]]、[[哲学]]・[[社会学]]者(+ [[1989年]])
* 1931年 - [[藤井凡大]]、[[作曲家]]、[[指揮者]]、音楽教育家(+ [[1994年]])
* 1931年 - [[根井正利]]、[[集団遺伝学]]者・[[進化生物学]]者(+ [[2023年]])
* [[1932年]] - [[野末陳平]]、[[作家]]、[[国会議員|参議院議員]]
* 1932年 - [[二上達也]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]、第12代[[日本将棋連盟]]会長(+ [[2016年]])
* 1932年 - [[大津淳]]、元プロ野球選手(+ [[2020年]])
* 1932年 - [[神津善行]]、[[作曲家]]
* 1932年 - [[佐々木雄司]]、[[精神医学|精神医学者]]
* 1932年 - [[村田正夫 (詩人)|村田正夫]]、[[詩人]](+ [[2011年]])
* 1932年 - [[定村忠士]]、[[編集者]]、[[評論家]]、[[劇作家]](+ [[2001年]])
* 1932年 - [[起雲山世志介]]、元[[大相撲]][[力士]](+ [[1977年]])
* 1932年 - [[久米是志]]、[[自動車]][[技術者|エンジニア]]、[[実業家]](+ [[2022年]])
* 1932年 - [[宮脇磊介]]、[[警察]][[官僚]](+ [[2014年]])
* 1932年 - [[鈴木英一 (教育学者)|鈴木英一]]、教育行政学者
* 1932年 - [[ベンジー・ラミレス]]、[[プロレスラー]](+ [[1995年]])
* 1932年 - [[塩野谷祐一]]、[[経済学者]](+ [[2015年]])
* [[1933年]] - [[森村誠一]]、作家(+ [[2023年]])
* 1933年 - [[河原温]]、[[美術家]](+ [[2014年]])
* 1933年 - [[鈴木勲]]、[[ジャズ]][[ベース (弦楽器)|ベース]]、[[チェロ]]奏者、[[作曲家]](+ [[2022年]])
* 1933年 - [[小林俊一]]、[[テレビプロデューサー]]、[[演出家]](+ [[2012年]])
* 1933年 - [[リチャード・ウィルソン・ライリー]]、[[政治家]]
* 1933年 - [[宇佐美滋]]、[[国際関係論]]研究者(+ [[2013年]])
* 1933年 - [[石井英夫]]、[[コラムニスト]]・[[新聞記者]]
* [[1934年]] - [[山口定]]、[[政治学者]](+ [[2013年]])
* 1934年 - [[長野洋]]、[[脚本家]](+ [[2012年]])
* 1934年 - [[森本芳樹]]、[[ヨーロッパ史|西洋史学者]](+ [[2012年]])
* 1934年 - [[小野旭]]、[[経済学者]](+ [[2010年]])
* [[1935年]] - [[伊藤強]]、[[音楽評論家]](+ [[2016年]])
* 1935年 - [[三笠山護]]、大相撲[[力士]]
* 1935年 - [[木村俊恵]]、[[俳優|女優]](+ [[1974年]])
* 1935年 - [[岩城完之]]、[[社会学者]](+ [[2020年]])
* 1935年 - [[ジョスリン・デルクール]]、[[陸上競技]]選手
* 1935年 - [[坂本恭章 (言語学者)|坂本恭章]]、タイ語・カンボジア語学者
* 1935年 - [[岩男寿美子]]、[[心理学者]](+ [[2018年]])
* [[1936年]] - [[立川談志|7代目立川談志]]、落語家 ※戸籍上の誕生日。実際の出生日は1935年[[12月2日]](+ [[2011年]])
* 1936年 - [[はせさん治]]、俳優、[[声優]] (+ [[2002年]])
* 1936年 - [[式守伊之助 (30代)|式守伊之助]]、立行司(+ [[2013年]])
* 1936年 - [[中島そのみ]]、女優
* 1936年 - [[宮路雄資]]、[[競輪選手]]
* 1936年 - [[宮津純一郎]]、[[実業家]]
* 1936年 - [[奥田勲]]、国文学者
* 1936年 - [[深澤弘]]、アナウンサー、スポーツコメンテーター(+ [[2021年]])
* 1936年 - [[ポール・フリーマン (指揮者)|ポール・フリーマン]]、[[指揮者]](+ [[2015年]])
* 1936年 - [[村上和雄]]、[[分子生物学者]](+ [[2021年]])
* [[1937年]] - [[沢たまき]]、歌手、女優、[[参議院議員]](+ [[2003年]])
* 1937年 - [[花紀京]]、[[コメディアン]](+ [[2015年]])
* 1937年 - [[櫻井一孝]]、[[映画監督]]
* 1937年 - [[イメリオ・マッシニャン]]、[[自転車競技]]([[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]])選手
* 1937年 - [[水野源三]]、[[詩人]](+ [[1984年]])
* 1937年 - [[梶原敬義]]、[[政治家]]
* 1937年 - [[四季の花範雄]]、元[[大相撲]][[力士]]
* 1937年 - [[白川正芳]]、文芸評論家
* 1937年 - [[マルチン・ラウアー]]、陸上競技選手(+ [[2019年]])
* 1937年 - [[岡村堯]]、法学者
* 1937年 - [[古今亭志ん駒]]、落語家(+ [[2018年]])
* 1937年 - [[長島信弘]]、[[文化人類学]]者
* 1937年 - [[日景忠男]]、実業家(+ [[2015年]])
* [[1938年]] - [[野田知佑]]、カヌーイスト、作家(+ [[2022年]])
* 1938年 - [[ロバート・スミッソン]]、[[現代美術家]](+ [[1973年]])
* 1938年 - [[旭丘光志]]、[[作家]]、[[ジャーナリスト]]、[[デザイナー]]、[[漫画家]]
* 1938年 - [[高建]]、[[政治家]]
* 1938年 - [[ニコラス・フィリップス (フィリップス男爵)|ニコラス・フィリップス]]、[[裁判官]]、[[法律貴族|法服貴族]]、[[政治家]]
* [[1939年]] - [[長谷川政春]]、国文学者
* 1939年 - [[増田彰久]]、写真家
* 1939年 - [[コンスタンツェ・ヴェルノン]]、[[バレリーナ]]、[[振付家]]、バレエ教師(+ [[2013年]])
* 1939年 - [[長岡一也]]、[[フリーアナウンサー]]、[[ジャーナリスト|競馬ジャーナリスト]]
* [[1940年]] - [[津川雅彦]]、俳優(+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書 |title=津川雅彦さん逝く 妻朝丘雪路さん死去から3カ月余、歯に衣着せぬ発言 実業家の顔も|publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex |date=2018-08-08 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/08/08/kiji/20180808s00041000077000c.html |accessdate=19 Mar 2023}}</ref>)
* 1940年 - [[S. R. シュリニヴァーサ・ヴァラダン]]、[[数学者]]
* 1940年 - [[島野雅亘]]、元プロ野球選手
* 1940年 - [[石橋直]]、[[実業家]]
* 1940年 - [[甲斐中辰夫]]、最高裁判事、[[東京高等検察庁]][[検事長]]、最高検[[次長検事]]、弁護士
* 1940年 - [[林えり子]]、[[作家]](+ [[2019年]])
* 1940年 - [[サウード・アル=ファイサル]]、[[サウード家]]の一員(+ [[2015年]])
* 1940年 - [[馬場元子]]、[[全日本プロレス]]社長、全日本プロレスオーナー(+ [[2018年]])
* 1940年 - [[戸塚進也]]、[[通商産業省|通産]][[官僚]]、[[政治家]]
* 1940年 - [[ニコラウス・リッター]]、軍人(+ [[1975年]])
* [[1941年]] - [[植村榮]]、[[化学者]]
* 1941年 - [[倉持隆夫]]、元[[アナウンサー]]
* 1941年 - [[百瀬明治]]、著作家(+ [[2016年]])
* 1941年 - [[秋山和慶]]、[[指揮者]]
* [[1942年]] - [[デニス・ハスタート]]、[[アメリカ合衆国下院議長]]
* 1942年 - [[トマス・ハマーベリ]]、外交官、[[人権擁護者]]
* 1942年 - [[宗形智子]]、[[俳優|女優]]、[[声優]]
* 1942年 - [[宮原安春]]、政治運動家、[[ノンフィクション作家]](+ [[2017年]])
* 1942年 - [[常森寿子]]、[[ソプラノ]]歌手
* 1942年 - [[奈良陽]]、[[アナウンサー]]、[[ジャーナリスト]](+ [[2007年]])
* [[1943年]] - [[横山義恭]]、[[アナウンサー]]
* 1943年 - [[福島滋雄]]、[[競泳]]選手(+ [[1998年]])
* 1943年 - [[広瀬義宣]]、[[俳優]]
* 1943年 - [[ジャネット・アクユズ・マッテイ]]、[[天文学者]](+ [[2004年]])
* 1943年 - [[佐藤通雅]]、[[歌人]]、[[評論家]]
* 1943年 - [[バルシュ・マンチョ]]、ロック歌手、[[作曲家]]、[[テレビプロデューサー]](+ [[1999年]])
* [[1944年]] - [[ノロドム・ラナリット]]、[[カンボジア]]の王族
* 1944年 - [[古谷一行]]、俳優(+ [[2022年]])
* 1944年 - [[宮崎総子]]、アナウンサー(+ [[2015年]])
* 1944年 - [[梶間俊一]]、[[映画監督]]
* 1944年 - [[キム・ニューカム]]、[[オートバイ]]レーサー(+ [[1973年]])
* 1944年 - [[ハンネス・アルトロフ]]、[[クラリネット]]奏者
* 1944年 - [[千代田邦夫]]、会計学者
* 1944年 - [[エトヴェシュ・ペーテル]]、[[作曲者]]、[[指揮者]]
* [[1945年]] - [[小島利明]]、[[漫画家]]、[[アニメーター]]
* 1945年 - [[中村達也 (1945年生のドラマー)|中村達也]]、[[ジャズ]][[ドラマー]]、[[パーカッショニスト]]
* 1945年 - [[簗正昭]]、[[俳優]]、[[声優]](+ [[2012年]])
* 1945年 - [[玉井碧]]、[[俳優]]、[[声優]]
* 1945年 - [[重岡孝文]]、[[柔道家]]
* 1945年 - [[鈴木正樹]]、[[スピードスケート]]選手
* 1945年 - [[石川賢治]]、[[写真家]]
* 1945年 - [[エリザベス・ムーン]]、[[SF作家]]
* 1945年 - [[西川一誠]]、[[自治省|自治]][[官僚]]、[[政治家]]
* 1945年 - [[ひのきしんじ]]、[[音楽プロデューサー]]、元[[歌手]]
* 1945年 - [[アワド・ハマド・バンダル]]、[[イラク]][[革命裁判所]]長官、大統領府副長官、[[バアス党]]幹部(+ [[2007年]])
* 1945年 - [[沢井桂子]]、[[俳優|女優]]
* 1945年 - [[スロボダン・プラリャク]]、[[クロアチア防衛評議会]]幹部(+ [[2017年]])
* 1945年 - [[阿部榮次]]、[[実業家]]
* [[1946年]] - [[伊吹吾郎]]、俳優
* 1946年 - 高島晋一郎、元アナウンサー
* 1946年 - [[横山正枝]]、[[プロゴルファー]]
* 1946年 - [[小林政春]]、[[競輪選手]]
* 1946年 - [[乾龍初太郎]]、元[[大相撲]][[力士]]
* 1946年 - [[木津智史]]、カメラマン
* 1946年 - [[今津孝次郎]]、[[教育社会学]]者
* [[1947年]] - [[菱川章]]、元プロ野球選手(+ [[2020年]])
* 1947年 - [[マルカス・ジンゲリス]]、作家、詩人
* 1947年 - [[アレクサンドル・チホノフ]]、[[バイアスロン]]選手
* 1947年 - [[楠原映二]]、[[俳優]](+ [[2010年]])
* 1947年 - [[秋田明大]]、学生運動家
* 1947年 - [[星正治]]、放射線医科学者
* 1947年 - [[権哲賢]]、[[政治家]]
* [[1948年]] - [[岡本信人]]、俳優
* 1948年 - [[鏡明]]、[[SF作家]]
* 1948年 - [[川崎徹]]、[[CMディレクター]]
* 1948年 - [[神保史郎]]、[[小説家]]、[[漫画原作者]](+ [[1994年]])
* 1948年 - [[竜崎孝路]]、[[作曲家]]
* 1948年 - [[北村新司]]、[[政治家]]
* 1948年 - [[藤原勉]]、[[政治家]]
* 1948年 - [[田中久雄 (中央市長)|田中久雄]]、[[政治家]]
* 1948年 - [[木股文昭]]、[[地震学]]者
* 1948年 - [[河合満]]、[[実業家]]
* 1948年 - [[河原多恵子]]、フリーアナウンサー
* 1948年 - [[トニー・ジャット]]、[[歴史学者]](+ [[2010年]])
* 1948年 - [[酒井猛]]、[[囲碁]][[棋士 (囲碁)|棋士]]
* 1948年 - [[熊村剛幸]]、実業家
* 1948年 - [[私市正年]]、[[イスラーム]]研究者
* 1948年 - [[笠間治雄]]、[[検察官|検事総長]]
* [[1949年]] - [[高野悦子 (大学生)|高野悦子]]、『[[二十歳の原点]]』著者(+ [[1969年]])
* 1949年 - [[奥田敏輝]]、元プロ野球選手(+ [[2006年]])
* 1949年 - [[クリストファー・デュラング]]、[[劇作家]]
* 1949年 - [[レイン・ルヴェサイン]]、[[自転車競技]]([[トラックレース]])選手
* 1949年 - [[奥田喜久男]]、[[経営者]]、[[週刊BCN]]主幹
* 1949年 - [[アイリス・マリオン・ヤング]]、[[政治哲学]]者(+ [[2006年]])
* 1949年 - [[マイク・ニューリン]]、[[バスケットボール]]選手
* 1949年 - [[徳井淑子]]、服飾史学者
* [[1950年]] - [[ジョルジ・ファゼカス]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1950年 - [[西銘順志郎]]、[[政治家]]
* 1950年 - [[バトルホーク風間]]、[[プロボクサー]](+ [[2004年]])
* 1950年 - [[神幸勝紀]]、元大相撲力士
* 1950年 - [[飯島大介]]、[[俳優]]
* 1950年 - [[市原多朗]]、[[声楽家]]、[[テノール]]歌手
* [[1951年]] - [[ビル・マドロック]]、元プロ野球選手
* 1951年 - [[ヤン・フィシェル]]、官僚
* 1951年 - [[伊藤勝美]]、[[政治家]]
* 1951年 - [[バウディール・ペレス]]、[[サッカー選手]]
* 1951年 - [[津々井まり]]、[[歌手]]
* 1951年 - [[八木功]]、造形家、[[特撮監督]]
* [[1952年]] - [[井原慎一郎]]、元プロ野球選手
* 1952年 - [[ジョン・フッド]]、[[工学者]]
* 1952年 - [[デイブ・ギャラガー (アメリカンフットボール)|デイブ・ギャラガー]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* 1952年 - [[クバトベク・バイボロフ]]、政治家、[[チェキスト]]
* 1952年 - [[廣本敏郎]]、[[会計学]]者
* [[1953年]] - [[二間瀬敏史]]、[[天体物理学|宇宙物理学者]]
* 1953年 - [[魚満芳]]、元プロ野球選手
* 1953年 - [[谷口進一]]、[[政治家]]
* 1953年 - [[藤本万太郎]]、[[経営者]]
* 1953年 - [[井波陵一]]、[[中国文学者]]
* 1953年 - [[後藤篤子]]、[[歴史学者]]
* 1953年 - [[永松健幹]]、[[裁判官]]
* 1953年 - [[吉武正成]]、元プロ野球選手
* 1953年 - [[ローランド・フックス]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* [[1954年]] - [[アントン・ラマザレス]]、[[画家]]
* 1954年 - [[大橋靖雄]]、生物[[統計学者]]、疫学者
* 1954年 - [[ミロヴァン・ライェヴァツ]]、[[サッカー選手]]、サッカー指導者
* 1954年 - [[村田和人]]、[[シンガーソングライター]]、[[作曲家]](+ [[2016年]])
* [[1955年]] - [[佐藤直子]]、元プロ[[テニス]]選手、[[タレント]]
* 1955年 - [[三村景一]]、実業家
* 1955年 - [[ゲーリー・サトウ]]、[[バレーボール]]指導者
* [[1956年]] - [[睦月影郎]]、小説家
* 1956年 - [[蔵前仁一]]、[[旅行作家]]
* 1956年 - [[首藤正治]]、[[政治家]]
* 1956年 - [[末松正博]]、[[漫画家]]
* 1956年 - [[稲垣恭子]]、[[教育社会学|教育社会学者]]
* 1956年 - [[菅原昭子]]、[[歌手]]
* 1956年 - [[菅野覚明]]、[[倫理学]]者、[[僧侶]]
* 1956年 - [[小倉孝誠]]、[[フランス文学者]]
* 1956年 - [[大前千代子]]、障害者スポーツ選手
* 1956年 - [[齊藤治和]]、[[航空自衛隊|航空]][[自衛官]]
* [[1957年]] - [[小坂明子]]、[[シンガーソングライター]]
* 1957年 - [[ジョアンナ・パクラ]]、俳優
* 1957年 - [[カール=ハインツ・レーマン]]、[[柔道]]選手
* 1957年 - [[イリヤ・ミハルチュク]]、[[政治家]]
* [[1958年]] - [[ウラディーミル・オフチニコフ]]、[[ピアニスト]]
* 1958年 - [[黒田真治]]、元プロ野球選手
* 1958年 - [[高橋雅子]]、[[バスケットボール]]選手
* 1958年 - [[菅原義広]]、モトクロスライダー(+ [[2011年]])
* [[1959年]] - [[クリスティーナ (歌手)|クリスティーナ]]、[[歌手]]
* 1959年 - [[高野あさお]]、[[ラジオパーソナリティ]]
* [[1960年]] - [[浦沢直樹]]、[[漫画家]]
* 1960年 - [[ダリン・オカダ]]、[[撮影監督]]
* 1960年 - [[井川幸広]]、実業家
* 1960年 - [[細川伸二]]、[[柔道家]]
* 1960年 - [[井坂聡]]、[[映画監督]]
* 1960年 - [[金谷多一郎]]、[[プロゴルファー]]
* 1960年 - [[遠藤真理子]]、[[俳優|女優]]
* [[1961年]] - [[斉藤仁]]、[[柔道家]](+ [[2015年]])
* 1961年 - [[トッド・ヘインズ]]、映画監督
* 1961年 - [[ガブリエル・カーテリス]]、[[俳優|女優]]
* 1961年 - [[オーレ・ブレムセット]]、スキージャンプ選手
* [[1962年]] - [[正田耕三]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[速水けんたろう]]、歌手(『[[おかあさんといっしょ]]』8代目[[うたのおにいさん]])
* 1962年 - [[ダーク・ビッケンバーグ]]、[[ファッションデザイナー]]
* 1962年 - [[武林武士]]、[[漫画家]]
* 1962年 - [[張在根]]、[[陸上競技]]選手
* [[1963年]] - [[エドガー・マルティネス]]、元プロ野球選手
* 1963年 - [[あみん|加藤晴子]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[あみん]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.toyokawa.lg.jp/smph/shisei/koho/kohotoyokawatext/29nen/20170101go/20170101text9.html|title= 〈歌手〉加藤 晴子さん|woke=「広報とよかわ」2017年1月号(MY COLOR)|publisher=[[豊川市]]|accessdate=19 Mar 2023}}</ref>)
* 1963年 - [[デビッド・コーン]]、元プロ野球選手
* 1963年 - [[福本実]]、[[福井放送]]報道制作局長
* 1963年 - [[ツィモン・バルト]]、[[ピアノ]]奏者、ボディビルダー、作家
* 1963年 - [[白井さゆり]]、[[経済学者]]
* [[1964年]] - [[パーネル・ウィテカー]]、[[プロボクサー]]
* 1964年 - [[宮嶋千佳子]]、[[タレント]]、[[リポーター]]
* 1964年 - [[牧野竜一]]、[[アニメーター]]
* [[1965年]] - [[孫葆潔]]、[[審判員 (サッカー)|サッカー審判員]]
* 1965年 - [[戸羽太]]、[[政治家]]
* [[1967年]] - [[黒岩唯一]]、DJ
* 1967年 - [[ティア・カレル]]、女優
* 1967年 - [[桜井美春]]、タレント
* 1967年 - [[ロバート・ウィッシュネフスキー]]、元プロ野球選手
* 1967年 - [[チョ・ジェヒョン (フィギュアスケート選手)|チョ・ジェヒョン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1967年 - [[ジェームズ・マーシャル (俳優)|ジェームズ・マーシャル]]、[[俳優]]
* 1967年 - [[有元美保]]、[[女性]][[漫画家]]、[[イラストレーター]]
* 1967年 - [[バジール・ボリ]]、[[サッカー選手]]
* 1967年 - [[中田春介]]、[[俳優]]
* 1967年 - [[牛嶋俊明]]、ラジオDJ、[[司会者]]
* 1967年 - [[ヨン・ナール]]、[[俳優]]、[[コメディアン]]、[[政治家]]
* [[1968年]] - [[キューバ・グッディングJr.]]、俳優
* 1968年 - [[オレグ・デリパスカ]]、[[ルサール]]社長
* 1968年 - [[トレイシー・ワイマン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1968年 - [[ラース・ドレスラー]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1995年]])
* 1968年 - [[鬼橋美智子]]、[[ラジオパーソナリティ]]、[[ローカルタレント]]
* 1968年 - [[アンキー・ヴァン・グルンスヴェン]]、馬術選手
* 1968年 - [[松岡象一郎]]、[[特殊メイク]]・特殊衣装・特殊造形[[アーティスト]]
* 1968年 - [[須田剛一]]、[[グラスホッパー・マニファクチュア]]CEO、ゲームデザイナー、ゲームディレクター、シナリオライター
* 1968年 - [[伊東寛晃]]、[[テレビプロデューサー]]、[[演出家]]、[[映画監督]]
* [[1969年]] - [[トミー・モリソン]]、プロボクサー(+ [[2013年]]<ref>{{Cite web|和書|url= http://boxingnews.jp/news/5904/ | title= 元ヘビー級王者トミー・モリソンが死去 |publisher= Boxing News(ボクシングニュース) |date= 3 Sep 2013|accessdate= 21 Mar 2023 }}</ref>)
* 1969年 - [[クリスティー・ターリントン]]、[[ファッションモデル]]
* 1969年 - [[上口龍生]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]]
* 1969年 - [[ハレド・アル・エイド]]、[[馬術]]選手
* 1969年 - [[グレンコフ・ジョンソン]]、[[プロボクサー]]
* 1969年 - [[河村卓也]]、[[ボーイソプラノ]]歌手
* [[1970年]] - [[福山俊郎]]、俳優
* 1970年 - [[セードリック・ムゥーリエ]]、[[テニス]]競技国際審判員
* 1970年 - [[太田拓弥]]、[[アマチュアレスリング|レスリング]]選手
* 1970年 - タン・ブン・フォン、[[ファッションデザイナー]]
* 1970年 - [[エリック・ウィテカー]]、[[作曲家]]、[[指揮者]]
* 1970年 - [[ロイス・クレイトン]]、元[[プロ野球選手]]
* 1970年 - [[石田眞得]]、[[法学者]]
* [[1971年]] - [[竹野内豊]]、俳優
* 1971年 - [[吉村ミキ]]、[[モデル (職業)|モデル]]、[[俳優|女優]]
* 1971年 - [[ジェイムス・ヘイブンス]]、[[ディスクジョッキー|DJ]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1973年]] - [[高橋真紀子]]、[[アナウンサー]]
* 1973年 - [[中嶋ミチヨ]]、タレント
* 1973年 - [[さとう珠緒]]、タレント
* [[1975年]] - [[佐々木瑶子]]、声優
* 1975年 - {{仮リンク|ロバート・ウェスターホルト|en|Robert Westerholt}}、ギタリスト([[ウィズイン・テンプテーション]])
* 1975年 - [[ジェフ・スーパン]]、元プロ野球選手
* [[1978年]] - [[豊口めぐみ]]、声優
* 1978年 - ユン・セア、女優
* [[1979年]] - [[清水あき]]、[[ファッションモデル]]
* 1979年 - [[ミチェル・アブレイユ]]、プロ野球選手
* [[1980年]] - [[村上知子]]、[[お笑いタレント]]([[森三中]])
* 1980年 - [[アニー・ベルマール]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1980年 - [[デヴィッド・ジャーシー]]、俳優
* [[1981年]] - [[青井実]]、[[アナウンサー]]
* 1981年 - [[マキシ・ロドリゲス]]、プロサッカー選手
* [[1982年]] - [[妹岳なつめ]]、元[[AV女優]]
* [[1983年]] - [[松林悟]]、漫画家
* 1983年 - [[詹智堯]]、プロ野球選手
* [[1984年]] - 菊池亜衣、[[歌手]]
* 1984年 - [[渡邊佐和子]]、アナウンサー
* [[1985年]] - [[森内壽春]]、元プロ野球選手
* [[1986年]] - [[蕭一傑]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[荒木麻里子]]、アナウンサー
* 1986年 - [[大谷尚徳]]、元プロ野球選手
* [[1987年]] - [[水谷妃里]]、女優
* 1987年 - [[上林巨人]]、[[プロボクサー]]
* [[1988年]] - [[明坂聡美]]、声優
* 1988年 - [[橘由紀子]]、女優
* [[1989年]] - [[オキラニ・ティニラウ]]、陸上選手、サッカー選手
* 1989年 - [[中井光義]]、格闘家
* [[1990年]] - [[カレル・アブラハム]]、オートバイレーサー
* 1990年 - [[鈴木あや]]、[[ファッションモデル]]
* 1990年 - [[野沢春日]]、アナウンサー
* 1990年 - [[柴田将平]]、アナウンサー
* [[1991年]] - [[ダビデ・サントン]]、サッカー選手
* 1991年 - [[林羿豪]]、プロ野球選手
* 1991年 - チョン・ユジ、元アイドル、ミュージカル俳優(元[[EXID]]、元[[BESTie]])
* [[1992年]] - [[井上美帆]]、ファッションモデル
* 1992年 - [[市橋直歩]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/2000006725/ |title=市橋直歩 |access-date=21 Mar 2023 |publisher=WEBザテレビジョン}}</ref>、タレント
* [[1993年]] - [[高柳愛実]]、タレント
* 1993年 - [[ヨアン・ロペス]]、プロ野球選手
* 1993年 - [[酒居知史]]、プロ野球選手
* 1994年 - ジョンミン、アイドル、ミュージカル俳優([[BOYFRIEND (音楽グループ)|BOY FRIEND]])
* [[1995年]] - [[松崎奈波]]、タレント、元ファッションモデル
* 1995年 - [[三谷千季]]、女優
* [[1996年]] - [[杉枝真結]]、ファッションモデル、元ボーカル、パフォーマー(元[[Happiness (グループ)|Happiness]]、元[[E-girls]])
* [[1998年]] - [[小栗かこ]]、[[コレオグラファー]]、アイドル(元[[GEM (アイドルグループ)|GEM]]、元[[ONE CHANCE]])
* 1998年 - [[藤田もも]]、[[グラビアアイドル]]、[[YouTuber]]
* [[1999年]] - [[フェルナンド・タティス・ジュニア]]、プロ野球選手
* [[2000年]] - [[守屋麗奈]]、アイドル([[櫻坂46]])
* [[2001年]] - [[樋口新葉]]、フィギュアスケート選手
* [[2002年]] - [[池戸優音]]、女優
* [[2008年]] - [[大里菜桜]]、ファッションモデル
* 生年不明 - 石山昭子<ref>{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/1000051429/ |title=石山昭子 |access-date=21 Mar 2023 |publisher=WEBザテレビジョン}}</ref>、女優、モデル
* 生年不明 - [[真壁かずみ]]、声優
* 生年不明 - [[岡雅子]]、声優
* 生年不明 - [[田昌人]]、声優
* 生年不明 - [[うさみ航]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.wonder-space.net/talent/talent/-/%e3%81%86%e3%81%95%e3%81%bf%e8%88%aa |title=うさみ航 |publisher=合同会社ワンダースペース |accessdate=21 Mar 2023}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[星谷美緒]]<ref name="ザテレビジョン">{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/2000043348/ |title=星谷美緒 |publisher=WEBザテレビジョン |accessdate=21 Mar 2023}}</ref>、声優
== 忌日 ==
=== 人物 ===
* [[1497年]] - [[ベアトリーチェ・デステ]]、[[ミラノ公国|ミラノ公]][[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]の妃(* [[1475年]])
* [[1546年]]([[天文 (元号)|天文]]14年[[11月30日 (旧暦)|11月30日]]) - [[妙玖]]、[[毛利元就]]の[[正室]](* [[1499年]])
* [[1557年]] - [[ヤコポ・ダ・ポントルモ]]、[[画家]](* [[1494年]])
* [[1726年]] - [[ドメニコ・ツィポーリ]]、[[作曲家]](* [[1688年]])
* [[1788年]]([[天明]]7年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]) - [[浅野宗恒]]、第6代[[広島藩|広島藩主]](* [[1717年]])
* [[1819年]] - [[マリア・ルイサ・デ・パルマ|マリア・ルイサ]]、[[スペイン]]王[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]の妃(* [[1751年]])
* [[1823年]]([[文政]]5年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[松浦検校]]、[[三味線]]・[[箏曲]]奏者、作曲家
* [[1831年]] - [[バルトホルト・ゲオルク・ニーブール]]、[[歴史家]](* [[1776年]])
* [[1835年]]([[天保]]5年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]) - [[宇田川玄真]]、[[蘭学|蘭学者]](* [[1770年]])
* [[1850年]] - [[山口弘穀]]、第10代[[牛久藩|牛久藩主]](* [[1810年]])
* [[1853年]] - [[一柳末周]]、第8代[[小野藩|小野藩主]](* [[1791年]])
* [[1855年]]([[嘉永]]7年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]) - [[源清麿]]、[[刀工]](* [[1813年]])
* [[1857年]] - [[島津久長 (加治木家)|島津久長]]、江戸後期の[[薩摩藩]]士(* [[1818年]])
* 1857年 - [[ヘンリエッテ・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク]]、[[ナッサウ=ヴァイルブルク家]]の侯女(* [[1780年]])
* [[1858年]] - [[ジョン・フォーブス・ロイル]]、植物学者(* [[1798年]])
* [[1861年]] - [[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]国王(* [[1795年]])
* [[1864年]] - [[松平昭訓]]、[[水戸藩]]主[[徳川斉昭]]の十四男(* [[1849年]])
* [[1865年]] - [[リチャード・バクストン (植物学者)|リチャード・バクストン]]、靴職人、アマチュア[[植物学者]](* [[1786年]])
* [[1872年]]([[明治]]4年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[片岡仁左衛門 (9代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1839年]])
* [[1873年]] - [[ボグスワフ・フリデリク・ラジヴィウ]]、貴族、軍人、政治家(* [[1809年]])
* [[1875年]] - [[ハリオット・ハント]]、女医(* [[1805年]])
* [[1876年]] - [[ジョン・H・クリフォード]]、[[弁護士]]、[[政治家]](* [[1809年]])
* [[1877年]] - [[アレクサンダー・ベイン]]、[[発明家]](* [[1811年]])
* [[1879年]] - [[ケイレブ・クッシング]]、第23代[[アメリカ合衆国司法長官]](* [[1800年]])
* [[1883年]] - [[物集高世]]、[[国学|国学者]](* [[1817年]])
* [[1888年]] - [[大橋利左衛門]]、植林家・政治家(* [[1853年]])
* 1888年 - [[菅野八郎]]、民衆思想家。(* [[1810年]])
* 1888年 - [[アイザック・トリンブル]]、職業[[軍人]](* [[1802年]])
* [[1892年]] - [[ジョージ・ビドル・エアリー]]、[[天文学者]](* [[1801年]])
* 1892年 - [[モンゴメリー・メグズ]]、職業[[軍人]]、[[土木技師]](* [[1816年]])
* [[1893年]] - [[島本仲道]]、[[官僚]]、[[法律家]](* [[1833年]])
* 1893年 - [[ジョン・ウェストウッド]]、昆虫学者、考古学者、博物画家(* [[1805年]])
* [[1899年]] - [[フレデリック・イングリング]]、[[イングリング (ビール)|D・G・イングリング&サン]]2代目社長、オーナー(* [[1848年]])
* 1899年 - [[アルジャーノン・パーシー (第6代ノーサンバーランド公爵)|アルジャーノン・パーシー]]、政治家、貴族(* [[1810年]])
* [[1901年]] - [[尾高惇忠 (実業家)|尾高惇忠]]、実業家(* [[1830年]])
* [[1904年]] - [[マチルド・ボナパルト]]、[[ヴェストファーレン王国|ヴェストファーレン王]][[ジェローム・ボナパルト]]の長女(* [[1820年]])
* 1904年 - [[フェルディナント・ボナフェントゥラ・キンスキー]]、[[キンスキー家|キンスキー・フォン・ヴヒニッツ・ウント・テッタウ侯爵家]]の第7代当主(* [[1834年]])
* 1904年 - [[ジェイムズ・ロングストリート]]、軍人(* [[1821年]])
* [[1913年]] - [[レオン・ティスラン・ド・ボール]]、[[気象学者の一覧|気象学者]](* [[1855年]])
* 1913年 - [[永井久一郎]]、[[漢詩人]]、[[官僚]](+ [[1852年]])
* [[1915年]] - [[カール・ゴルトマルク]]、[[作曲家]](* [[1830年]])
* [[1917年]] - [[エドワード・バーネット・タイラー]]、[[人類学者]](* [[1832年]])
* 1917年 - [[レオン・フラマン]]、[[自転車競技]]選手(* [[1877年]])
* [[1922年]] - [[ヴィルヘルム・ヘルマン]]、[[神学者]](* [[1846年]])
* [[1923年]] - [[アーサー・ディオシー]]、講演活動家、[[著述家]](* [[1856年]])
* [[1924年]] - [[セイバイン・ベアリング=グールド]]、[[民俗学者]]、[[聖書学者]]、作家(* [[1834年]])
* [[1925年]] - [[ユリウス・オスカル・ブレフェルト]]、[[植物学者]]、[[菌類学]]者(* [[1839年]])
* [[1926年]] - [[村井吉兵衛]]、[[実業家]](* [[1864年]])
* [[1927年]] - [[アハド・ハアム]]、[[ヘブライ語]]著述家、[[シオニズム]][[思想家]](* [[1856年]])
* [[1929年]] - [[土井利与]]、[[古河藩]]の第7代(最後)の[[藩主]](* [[1851年]])
* [[1931年]] - [[斯波淳六郎]]、[[内務省 (日本)|内務]][[官僚]](* [[1861年]])
* [[1932年]] - [[綾部利右衛門]]、[[実業家]]、[[川越市|川越市長]](* [[1860年]])
* [[1934年]] - [[ヴィクトル・ミヌート]]、[[ロシア帝国]]の軍人、中将(* [[1868年]])
* [[1935年]] - [[吉松茂太郎]]、第6 - 8代[[連合艦隊司令長官]](* [[1859年]])
* [[1941年]] - [[ミッシャ・レヴィツキ]]、[[ピアニスト]](* [[1898年]])
* [[1942年]] - [[イザベラ・ブラックモーア]]、[[宣教師]](* [[1863年]])
* 1942年 - [[金擎天]]、[[朝鮮]]の[[独立運動家]](* [[1888年]])
* [[1944年]] - [[ジョン・マルドゥーン (1896年生のラグビー選手)|ジョン・マルドゥーン]]、[[ラグビーユニオン]]選手(* [[1896年]])
* 1944年 - [[細谷資氏]]、[[軍人]](* [[1858年]])
* [[1945年]] - [[佐々木積]]、[[俳優]](* [[1885年]])
* 1945年 - [[花田仲之助]]、陸軍[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]第2部の情報将校([[中佐]])、教育者(+ [[1860年]])
* 1945年 - [[バートラム・ラムゼー]]、[[イギリス海軍]]の士官(+ [[1883年]])
* [[1949年]] - [[ディナム・ヴィクトール・フューメ]]、[[作曲家]]・[[オルガニスト]](+ [[1867年]])
* [[1950年]] - [[エミール・ヤニングス]]、俳優(* [[1884年]])
* [[1951年]] - [[遠山郁三]]、皮膚科学者(* [[1877年]])
* [[1953年]] - [[上杉憲章]]、[[米沢藩|米沢]][[上杉氏|上杉家]]15代目当主(* [[1876年]])
* 1953年 - [[グッチオ・グッチ]]、[[起業家]]、「[[グッチ]]」の創業者(* [[1881年]])
* [[1957年]] - [[ウィルソン・ブラウン]]、軍人(* [[1882年]])
* 1957年 - [[林文慶]]、医師、実業家、教育・社会運動家(* [[1869年]])
* [[1960年]] - [[ファウスト・コッピ]]、自転車プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手(* [[1919年]])
* 1960年 - [[フリードリヒ・アドラー]]、[[社会主義|社会主義者]]・[[政治家]](* [[1879年]])
* [[1963年]] - [[ディック・パウエル]]、俳優(* [[1904年]])
* 1963年 - [[フェルナンド・アルティマーニ]]、[[陸上競技選手]](* [[1893年]])
* 1963年 - [[ジャック・カーソン]]、俳優(* [[1910年]])
* [[1966年]] - [[藤蔭静樹]]、[[舞踏家]](* [[1880年]])
* 1966年 - [[エドウィン・スワテック]]、競泳、水球選手(* [[1885年]])
* 1966年 - [[楯甲新蔵]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1908年]])
* [[1968年]] - [[斎藤宗次郎]]、「[[雨ニモマケズ]]」のモデルとされる人物(* [[1877年]])
* 1968年 - [[クーノ・ホフマイスター]]、天文学者(* [[1892年]])
* [[1970年]] - [[ピエール・フランカステル]]、[[美術史|美術史家]]、[[美術評論家]]、[[芸術社会学]]の創始者の一人(* [[1900年]])
* 1970年 - [[矢野仁一]]、東洋史学者(* [[1872年]])
* 1970年 - [[緋縅力弥 (4代)|緋縅力弥]]、元[[大相撲]][[力士]](* [[1922年]])
* [[1972年]] - [[阿部謙夫]]、実業家、[[北海道放送]]初代社長(* [[1894年]])
* [[1976年]] - [[檀一雄]]、小説家(* [[1912年]])
* [[1978年]] - [[アルノルト・ハウザー]]、[[美術史|美術史学者]](* [[1892年]])
* [[1986年]] - [[ビル・ベック]]、[[メジャーリーグベースボール]]球団オーナー(* [[1914年]])
* [[1987年]] - [[杉本勝次]]、[[政治家]](* [[1895年]])
* [[1988年]] - [[エドモンド・ブリスコ・フォード]]、[[生態学|生態学者]]、[[遺伝学|遺伝学者]](* [[1901年]])
* [[1991年]] - [[野間宏]]、小説家(* [[1915年]])
* [[1993年]] - [[田中浩 (俳優)|田中浩]]、俳優(* [[1934年]])
* 1995年 - [[ヘンリー・グラハム・シャープ]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1917年]])
* 1995年 - [[モハメド・シアド・バーレ]]、[[ソマリアの大統領一覧|ソマリア大統領]](* [[1919年]])
* [[1999年]] - [[清元志寿太夫]]、[[清元節]][[太夫]](* [[1898年]])
* 1999年 - [[ロルフ・リーバーマン]]、作曲家(* [[1910年]])
* [[2000年]] - [[パトリック・オブライアン]]、[[小説家]](* [[1914年]])
* 2000年 - [[ナット・アダレイ]]、[[ジャズ]][[コルネット]]奏者(* [[1931年]])
* [[2001年]] - [[島上善五郎]]、政治家(* [[1903年]])
* [[2002年]] - [[桂歌之助 (2代目)]]<ref>桂米朝、2007年、pp.168 - 171</ref>、[[落語家]](* [[1946年]])
* 2002年 - [[アーミ・アーヴィッコ]]、モデル、歌手(* [[1958年]])
* [[2004年]] - [[桂枝助]]、落語家(* [[1943年]])
* [[2005年]] - [[本多逸郎]]、元[[プロ野球選手]]、監督(* [[1931年]])
* [[2006年]] - [[近藤貞雄]]、元プロ野球選手、監督(* [[1925年]])
* [[2007年]] - [[中居英太郎]]、政治家(* [[1917年]])
* 2007年 - [[浅井孝祐]]、[[オートレース選手]](* [[1938年]])
* [[2008年]] - [[ナラーティワートラーチャナカリン]]、[[タイ王国|タイ]]の王族(* [[1923年]])
* [[2009年]] - [[平木隆三]]、元サッカー選手、サッカー指導者(* [[1931年]])
* 2009年 - [[マリア・デ・ジェズス]]、2008年[[11月26日]] - 2009年1月2日の長寿世界一(* [[1893年]])
* 2009年 - [[市川治]]、声優(* [[1936年]])
* [[2012年]] - [[真樹日佐夫]]、[[漫画原作者]]、小説家、[[空手家]](* [[1940年]])
* [[2013年]] - [[高野裕良]]、元プロ野球選手(* [[1924年]])
* [[2014年]] - [[追風山裕邦]]、元[[大相撲]][[力士]](* [[1938年]])
* 2014年 - [[ハーラル・ヌーギセクス]]、軍人(* [[1921年]])
* 2014年 - [[井上安雄]]、元プロ野球選手(* [[1931年]])
* [[2016年]] - [[東田正義]]、元プロ野球選手(* [[1945年]])
* [[2017年]] - [[ダリル・スペンサー]]、元プロ野球選手(* [[1929年]])
* [[2020年]] - [[上原正三]]、[[脚本家]](* [[1937年]])
* 2020年 - [[三宅雪子]]<ref>{{Cite web|和書 |date=6 Jan 2020 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54060830W0A100C2CC1000/ |title=三宅雪子元衆院議員が自殺か 海岸付近で遺体発見 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=21 Mar 2023}}</ref>、元政治家(* [[1965年]])
* [[2021年]] - [[桑名義治]]、政治家(* [[1930年]])
* 2021年 ‐ [[ポール・ウェストファル]]、バスケットボール選手、指導者 (*[[1950年]])
* 2021年 - [[クレーベル・エドゥアルド・アラード]]、元[[サッカー]]選手(* [[1972年]])
* [[2023年]] - [[野杁俊希]]、俳優(* [[1989年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2020年]] - [[ダンスインザダーク]]、[[競走馬]](* [[1993年]])
{{-}}
== 記念日・年中行事 ==
[[ファイル:Tozan Kowakidani cross Ekiden Meidai.jpg|thumb|東京箱根間往復大学駅伝競走]]
* 謹賀[[新年]] ([[正月]])({{JPN}})
** [[書き初め]]
** [[初売り]]([[仙台初売り]])
* [[初荷]]([[仕事始め]])({{JPN}})
*: この日、多くの職業で年明け初めての仕事が行われる。荷物を運ぶことが多い商店では、その年初めての荷物を初荷と呼ぶ。農業では、農初め、漁業では初船、林業では山初めなどと言う<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]]|year=2020|page=6|isbn=978-4422021140}}</ref>。
* [[初夢]]の日({{JPN}})
*: 2日の夜から3日の朝にかけて見る夢を初夢とすることから生まれた日。初夢で[[年|1年]]の良し悪しを占った昔は、よい夢を見るため枕の下に七福神が乗った宝船の絵を敷いて寝る人も多く、商人が絵を売り歩いたという。なお、よく言われるめでたい夢「一富士、ニ鷹、三茄子」は、[[駿河国|駿河]]の名物とされる<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]]|year=2020|page=7|isbn=978-4422021140}}</ref>。
* 皇室[[一般参賀]]({{JPN}})
** 毎年1月2日、皇居において、天皇・皇后が国民から祝賀を受ける行事。天皇・皇后が他の皇族と共に、随時宮殿のベランダに現れ、直接国民から祝賀を受ける。皇居での新年一般参賀は、[[1948年]](昭和23年)1月1日から始まった。当時は、正午から午後4時までの間、参賀者が正門から入門し、正門内鉄橋付近に設けられた記帳所で記帳の上、坂下門から退出していた。[[1951年]](昭和26年)には、庁舎中央玄関上のバルコニーにおいて、[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]が参賀者の前に初めて現れた。1月2日から実施されるようになったのは、[[1953年]](昭和28)年からで、[[1969年]](昭和44年)から現在の宮殿で行われるようなった<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/sanga/shukuga01.html |title=新年一般参賀 |access-date=7 Aug 2023 |publisher=[[宮内庁]]}}</ref>。
* [[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]往路({{JPN}})
** [[1920年]](大正9)、マラソンの父として知られる[[金栗四三]]らが「世界に通用するランナーを育成したい」との思いから創設。箱根駅伝実施に遡る三年前の[[1917年]](大正6)、[[読売新聞社]]が上野で開く大博覧会の協賛イベントとして日本初の駅伝「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」を実施。京都三条大橋と東京・上野不忍池間516キロを23区間に分け、三日間、昼夜兼行で走り継ぐたすきリレーで、これが箱根駅伝の原型になった。この「東海道駅伝」の成功に意を強くした金栗らは、大学や師範学校、専門学校に箱根駅伝創設の意義を説いて参加を呼びかけ、その結果、早稲田、慶応、明治、東京高師(現筑波大)の四校が応じ、1920年2月14日午後1時に第1回大会が「四大校駅伝競走」の名称でスタートした<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.hakone-ekiden.jp/about/ |title=箱根駅伝とは |access-date=7 Aug 2023 |publisher=[[関東学生陸上競技連盟]] [[読売新聞社]]}}</ref>。なお、1月2日から開催されるようになったのは[[1955年]](昭和30年)実施の第31回大会から。
* 長尾寺三味線餅つき({{JPN}})
** [[香川県]][[さぬき市]]、[[四国八十八箇所]]霊場第87番札所「[[長尾寺]]」で行われる。三味線餅つきは、揃いの法被を身につけた氏子たちが三味線の音色に合わせながら、威勢よく福餅や大鏡餅をつきあげる。つきあげられた餅は、正月7日に行われる力餅運搬競技大会に用いられる。また、当日は子ども餅つきも行われる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://sanuki-kanko.jp/event/winter/post-1314.html |title=長尾寺三味線餅つき |access-date=7 Aug 2023 |publisher=一般社団法人さぬき市観光協会 |website=さぬき市観光ガイド}}</ref>。
* 定期闘牛大会・観光闘牛({{JPN}})
** [[愛媛県]][[宇和島市]]で行われる闘牛大会。定期闘牛大会は年間4回、1月2日、[[5月3日]]、[[8月14日]]、10月の第4日曜日に実施される。闘牛の起源については、[[鎌倉時代]]に農民が農耕用の強い牛をつくるために野原で角突き合わせをしたのが始まりとする説と、17世紀後半に[[宇和海]]を漂流していたオランダ船を救助した礼として2頭の牛が贈られ、この牛がたまたま格闘したことにより始まったとする説がある<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.uwajima.org/event/index3.html |title=定期闘牛大会・観光闘牛 |access-date=7 Aug 2023 |publisher=宇和島市観光情報センター |website=うわじま観光ガイド}}</ref>。
{{-}}
※この他、[[元日]](同年[[1月1日]])に[[配達]]された[[書面]]の[[年賀状]]は、[[2017年]]以降、[[インターネット]]の普及等による[[はがき]]の利用者が減少していることからこの日に限り配達を終日取りやめ、翌[[1月3日]]に再び配達される。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0102|date=Mar 2023}}
* [[1905年]](明治38年)- [[猫]]の「吾輩」は、苦沙弥先生の食べ残しの[[雑煮]]を食べようとしたら[[餅]]が噛みきれず、小供に「猫が御雑煮を食べて踊を踊っている」と笑われる。<ruby><rb>御三</rb><rt>おさん</rt></ruby>に餅をとってもらったが、ばつが悪くなって[[二弦琴]]の御師匠さんの家に行き、三毛子と「おめでとう」の挨拶をする。家に帰る途中で車屋の黒に因縁をつけられるが、黒は[[牛肉]]をねらいに去っていった。家に戻ると苦沙弥先生は水島寒月君の[[名刺]]を携えてきた越智東風君と話していた<ref group="注">迷亭が[[西洋料理]]店で「トチメンボー」を注文して[[ウェイター|ボイ]]を煙に巻いた話</ref>。越智東風君が帰った後、苦沙弥先生は迷亭の[[年賀状]]を読む<ref group="注">「トチメンボー」に加えて「[[孔雀]]の舌」で苦沙弥先生はかつがれる。</ref>。(『[[吾輩は猫である]]』第2話)
* [[2015年]] - “ともだち”が死亡。([[漫画]]・[[映画]]『[[20世紀少年]]』)
* 年不明 - SOS団が冬合宿から帰還。キョン・長門有希・朝比奈みくるの3人で時間遡行して「やり残していたこと」を済ませる。([[小説]]『[[涼宮ハルヒシリーズ|涼宮ハルヒの陰謀]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1912年]] - 舜帝(シュン)、ゲーム『[[バーチャファイター]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|vf_official|1609746306049708034}}</ref>
* [[1958年]] - 天馬賢三、漫画・アニメ『[[MONSTER (漫画)|MONSTER]]』の主人公
* [[1972年]] - 柳英美(ヨンミー)、ゲーム『[[ファイターズヒストリー]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.vc-neogeo.d4e.co.jp/title_neogeo/fightershistorydynamite/index.html |title=キャラクター紹介 柳 英美(リュウ・ヨンミー) |access-date=2023-01-30 |publisher=[[D4エンタープライズ]] |work=『ファイターズヒストリーダイナマイト』}}</ref>
* [[1977年]] - [[殿馬一人]]、漫画・アニメ『[[ドカベン]]』に登場するキャラクター
* [[1978年]] - 綾小路行人、ゲーム『[[アパシー・シリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|78corobi|1222480356588154880}}</ref>
* [[1995年]] - 長深田充彦、ゲーム・漫画『[[ROBOTICS;NOTES]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=電撃プレイステーション編集部 |date=2012-09-29|title =ROBOTICS;NOTES【ロボティクス・ノーツ】 公式設定資料集 Childhood Dreams|page=92|publisher=[[アスキー・メディアワークス]]|isbn=978-4048867566}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author1=浅川圭司(漫画)|author2=5pb.(原作)|authorlink2=5pb. |date=2012-11-09|title=ROBOTICS;NOTES |volume=2巻 |publisher = [[マッグガーデン]] |series = ブレイドコミックス |isbn = 978-4800000620 |page=149 }}</ref>
* [[2003年]] - 新条アカネ、アニメ『[[SSSS.GRIDMAN]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ssss_project|1477631598585847809}}</ref>
* [[2009年]] - ジェフ・トレーシー、[[特撮]][[人形劇]]『[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tbjapan.com/classic/characters/ |title=キャラクター紹介 ジェフ・トレイシー |access-date=2023-01-30 |publisher=Thunderbirds and ITC Entertainment Group Limited, ITV Ventures Limited. |work=『Thunderbirds』}}</ref>
* [[2042年]] - 朝倉由夢、ゲーム『[[D.C.II 〜ダ・カーポII〜]]』のメインヒロイン<ref>{{Cite web|和書 |url=https://circus-co.jp/product/dc2ps/character/yume.html |title=キャラクター 朝倉 由夢 |access-date=2023-01-30 |publisher=[[CIRCUS (ブランド)|CIRCUS]] |work=『D.C.II P.S.~ダ・カーポII~プラスシチュエーション』}}</ref>
* [[ギルガメス]]暦2294年 - ブールーズ・ゴウト、アニメ『[[装甲騎兵ボトムズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |date=1987-01-01|title =完全版資料集 装甲騎兵ボトムズ|editor=山崎益広|page = 20 |publisher = [[ムービック]] |isbn =978-4943966043}}</ref>
* [[未来世紀]]47年 - [[機動武闘伝Gガンダムの登場人物#マリアルイゼ|マリア・ルイゼ]]、アニメ『[[機動武闘伝Gガンダム]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[キャプテン翼の登場人物#東邦学園中等部(東京都)|沢田タケシ]]、漫画・アニメ『[[キャプテン翼]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=高橋陽一|authorlink=高橋陽一|date=2003-05-20|title=キャプテン翼 3109日全記録 (愛蔵版コミックス) |publisher =[[集英社]]|isbn=978-4087827897|page=54}}</ref>
* 生年不明 - 星崎理都、漫画『[[密・リターンズ!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 壇太一、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1477294809475919876}}</ref>
* 生年不明 - 栗尾かの子、漫画『[[Mr.FULLSWING]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - たたみイワシ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|date=2002-07-04|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=76|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088732886}}</ref>
* 生年不明 - サー・ナイトアイ、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://mhaoj2.bn-ent.net/character/nighteye.php |title=サー・ナイトアイ |access-date=2023-01-30 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 [[バンダイナムコエンターテインメント|BANDAI NAMCO Entertainment Inc.]] |work=『僕のヒーローアカデミア One's Justice2』}}</ref>
* 生年不明 - 真達羅、漫画・アニメ『[[SAMURAI DEEPER KYO]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 青山美生、漫画・アニメ『[[神のみぞ知るセカイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=神のみぞ知るセカイ |date=16 Jul 2008 |publisher=[[小学館]] |page=185 |isbn=978-4-09-121430-0 |author=[[若木民喜]] |volume=1}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=若木民喜 |authorlink=若木民喜 |editor=キャラメル・ママ |date=2013-09-18 |title=神のみぞ知るセカイ公式ガイドブック |page=28 |publisher=[[小学館]] |series=少年サンデーコミックススペシャル |isbn=978-4091244512}}</ref>
* 生年不明 - [[史上最強の弟子ケンイチの登場人物#緒方一神斎|緒方一神斎]]、漫画・アニメ『[[史上最強の弟子ケンイチ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=松江名俊 |authorlink=松江名俊 |title=史上最強の弟子ケンイチ 公式ガイドブック 史上最強の秘伝書 |page=148 |publisher=[[小学館]] |date=2014-05-16 |isbn=978-4091250162 |series=少年サンデーコミックススペシャル}}</ref>
* 生年不明 - 石塚織絵、アニメ『[[絶対無敵ライジンオー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.eldran.net/raijin-oh/chara/index.html |title=5年3組地球防衛組 石塚織絵 |publisher=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|SUNRISE]] |accessdate=7 Aug 2023 |work=『絶対無敵ライジンオー』}}</ref>
* 生年不明 - 辻垣内智葉、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=辻垣内 智葉(つじがいと さとは) |url=http://sciasta.com/characters.html |access-date=2023-01-30 |publisher=[[小林立]] |work=『咲-Saki-』}}</ref>
* 生年不明 - 斉藤健、漫画『[[生徒会のヲタのしみ。]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 仲野夢月、漫画・アニメ『[[だんちがい]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_danchi|815576995161513985}}</ref>
* 生年不明 - 七海悠、漫画・アニメ『[[恋する小惑星]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|koiastv|1609746302132158464}}</ref>
* 生年不明 - エメレンツィア・ベアトリクス・リューディガー、小説・アニメ『[[護くんに女神の祝福を!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 吉良ヒロト、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=1 |accessdate=2023-01-30}}</ref>
* 生年不明 - ししょー、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 ししょー |access-date=2023-01-30 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - ポンチョ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 ポンチョ |access-date=2023-01-30 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - 岡本みなみ、ゲーム『[[とらいあんぐるハート2 さざなみ女子寮]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.sp-janis.com/janis/triangleheart2/index.html#character |title=CHARACTER 岡本みなみ(おかもと みなみ) |access-date=2023-01-30 |publisher=SPACE PROJECT |work=『とらいあんぐるハート2 〜さざなみ女子寮〜』}}</ref>
* 生年不明 - ガイア、ゲーム『[[ファイアーエムブレム 覚醒]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ロロット・ステイシル、ゲーム『[[リーズのアトリエ 〜オルドールの錬金術士〜]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ヴィトス・ロートス、ゲーム『[[ユーディーのアトリエ 〜グラムナートの錬金術士〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.gust.co.jp/products/a4/about04.html#Witoss |title=ヴィトス・ロートス(Witoss-Lotps) |access-date=7 Aug 2023 |publisher=[[ガスト (ゲームブランド)|Gust]] |work=『ユーディーのアトリエ ~グラムナートの錬金術士~』}}</ref>
* 生年不明 - 冬美旬、ゲーム『[[アイドルマスター SideM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/40040 |title=冬美 旬(ふゆみ じゅん) |access-date=2023-01-30 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - ヴィオ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=24&cate=name&cont=Vio |title=ヴィオ |access-date=7 Aug 2023 |publisher=[[ジークレスト|GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 木戸つぼみ(キド)、メディアミックス『[[カゲロウプロジェクト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|mekakushidan|1477474729011277825}}</ref>
=== 忌日(フィクション) ===
* [[2004年]] - 南空ナオミ、漫画『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ |coauthors = [[小畑健]] |date=2006-10-13|volume=13巻 |title = DEATH NOTE|page=25 |publisher = [[集英社]] |isbn =978-4088740959|series=[[ジャンプコミックス]]}}</ref>
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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3,551 | くりこみ群 | くりこみ群(、英: renormalization group)とは、くりこみ変換により構成される半群である。名前では「群」とついているが、実際は「群」ではなく「半群」である点は注意すべきことである。
「くりこみ変換」とは、直感的に言うとスケール変換をして粗視化することである。量子論的場の理論の理解では素粒子は半径を持たないので任意のスケール変換に対し、元のスケールの粒子描像に新たに量子補正を取り入れた粒子を「変換後のスケールにおける粒子」と再定義することが可能である。つまりスケール変換に応じて質量や結合定数の異なる粒子描像に移行することになる。
理論のパラメータが1つである典型的な場合を考える。 パラメータが x {\displaystyle x} であるとして、スケール変換
を考える。この時、 x {\displaystyle x} に依存する量 g {\displaystyle g} が
のように変換されると仮定する。したがって、 G ( t , g ) {\displaystyle \;G(t,g)\;} の初期条件は
で与えられる。パラメータ x {\displaystyle x} と g {\displaystyle g} の対 ( x , g ) {\displaystyle (x,g)} は空間 M := ( 0 , ∞ ) × R {\displaystyle M:=(0,\infty )\times \mathbb {R} } の点と考えられるので、写像 ( x , g ) ⟶ ( x / t , G ( t , g ) ) {\displaystyle (x,g)\longrightarrow (x/t,G(t,g))\;} は M {\displaystyle \;M\;} の中への写像だと見なせる。
今、変換 ( x , g ) ⟶ ( x / t , G ( t , g ) ) {\displaystyle \;(x,g)\longrightarrow (x/t,G(t,g))\;} を
R t ( x g ) = ( x / t G ( t , g ) ) {\displaystyle R_{t}{\begin{pmatrix}x\\g\end{pmatrix}}={\begin{pmatrix}x/t\\G(t,g)\end{pmatrix}}}
と書き、関係式
を満足しているものと仮定する。このとき、単位元は R 1 {\displaystyle R_{1}} であり、任意の R s , R t {\displaystyle R_{s},R_{t}} に対して R t R s = R s R t {\displaystyle R_{t}R_{s}=R_{s}R_{t}} が分かるので、集合 { R t | t > 0 } {\displaystyle \{R_{t}|t>0\}} は、可換半群をなすことが分かる。この { R t | t > 0 } {\displaystyle \{R_{t}|t>0\}} を「くりこみ変換」と呼ぶ。
くりこみ群方程式とは、端的にいえば、理論のパラメータのスケール変換に対して物理量がどのように応答するかを記述する偏微分方程式のことである。
くりこみ変換の関係式を、 G ( t , g ) {\displaystyle G(t,g)} の言葉で書くと、
と表現できる。これは、関数等式としての「くりこみ群方程式」である。このままでは扱いにくいので、普通は G ( t , g ) {\displaystyle G(t,g)} の微分可能性を仮定し、偏微分方程式の形に直す。そのためには、 x = s t {\displaystyle x=st} とおいて、上式の両辺を t {\displaystyle t} で微分して t = 1 {\displaystyle t=1} とおけばよい。得られる式は
である。ただし、 β ( g ) {\displaystyle \beta (g)} は
で定義される。このような偏微分方程式を、「Gell-Mann=Low型のくりこみ群方程式」という。「Gell-Mann=Low型のくりこみ群方程式」とは異なり、非同次項を持つくりこみ群方程式が現れることもある。そのようなタイプの方程式は、「Callan-Symanzik型のくりこみ群方程式」と呼ばれる。
得られた方程式は1階の線型偏微分方程式であるので、特性方程式
を解いて一般解を求めることができ、それは
で与えられる。ただし、 F ( g ) {\displaystyle F(g)} は、
を満足する関数、 φ ( z ) {\displaystyle \phi (z)} は z {\displaystyle z} の任意関数である。ここで、初期条件
により φ ( x ) {\displaystyle \phi (x)} は F − 1 ( x ) {\displaystyle F^{-1}(x)} であることが分かるので、結局、
が解である。
関数 β ( g ) {\displaystyle \beta (g)} は、物理量のスケール変換の応答を決定する重要な量で、ベータ関数と呼ばれる。ベータ関数をどうやって求めるかは重要な問題だが、摂動計算による以外、事実上、方法はない。
場の理論で g {\displaystyle g} を頂点関数などに選び、 x {\displaystyle x} をくりこみ点 μ 2 {\displaystyle \mu ^{2}} に選んだ場合、 g {\displaystyle g} の x {\displaystyle x} 依存性は、いくつかの関数 f i {\displaystyle f_{i}} を通して現れる。よって、このときのくりこみ群方程式は、
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] | くりこみ群(くりこみぐん、とは、くりこみ変換により構成される半群である。名前では「群」とついているが、実際は「群」ではなく「半群」である点は注意すべきことである。 | {{出典の明記|date=2017年8月}}
{{読み仮名|'''くりこみ群'''|くりこみぐん|{{lang-en-short|renormalization group}}}}とは、[[くりこみ]]変換により構成される[[半群]]である。名前では「群」とついているが、実際は「[[群 (数学)|群]]」ではなく「[[半群]]」である点は注意すべきことである。
== くりこみ変換 ==
「くりこみ変換」とは、直感的に言うとスケール変換をして[[粗視化]]することである。量子論的[[場の理論]]の理解では素粒子は半径を持たないので任意のスケール変換に対し、元のスケールの粒子描像に新たに量子補正を取り入れた粒子を「変換後のスケールにおける粒子」と再定義することが可能である。つまりスケール変換に応じて質量や結合定数の異なる粒子描像に移行することになる。
理論のパラメータが1つである典型的な場合を考える。
パラメータ<ref>例えば、[[くりこみ点]] <math>\mu^2</math> や、[[カットオフ理論]]での[[カットオフ]] <math>\Lambda</math>。</ref>が <math>x</math> であるとして、スケール変換
:<math>x\longrightarrow x/t\qquad t>0</math>
を考える。この時、<math>x</math> に依存する量 <math>g</math><ref>例えば、[[グリーン関数]]や[[頂点関数]]など。</ref>が
:<math>g\longrightarrow G(t,g)</math>
のように変換されると仮定する。したがって、<math>\;G(t,g)\;</math>の初期条件は
:<math>G(1,g)=g</math>
で与えられる。パラメータ <math>x</math> と <math>g</math> の対 <math>(x,g)</math> は空間 <math>M:=(0,\infty )\times \mathbb{R}</math> の点と考えられるので、写像 <math>(x,g)\longrightarrow (x/t, G(t,g))\;</math>は<math>\;M\;</math>の[[中への写像]]だと見なせる。
今、変換<math>\;(x,g)\longrightarrow(x/t,G(t,g))\;</math>を
{{Indent|<math>R_t\begin{pmatrix}x\\g\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}x/t\\G(t,g)\end{pmatrix}</math>}}
と書き、関係式
:<math>R_s R_t =R_{ts}</math>
を満足しているものと仮定する<ref>物理量 <math>g</math> がこの関係式を満足するかどうかは、モデルや <math>g</math> の選び方によるので、問題ごとにチェックしなければならない。</ref>。このとき、[[単位元]]は <math>R_1</math> であり、任意の <math>R_s ,R_t</math> に対して <math>R_t R_s =R_s R_t</math> が分かるので<ref>なぜなら、<math>ts=st</math> であるから。</ref>、集合 <math>\{ R_t |t>0\}</math> は、[[可換]][[半群]]をなすことが分かる<ref>[[ブロックスピン]]やウィルソン流の[[くりこみ]]などから分かるように、くりこみ変換は1種の粗子化、平均化であるので、1度くりこみ変換をしてしまうと逆変換を求めることは不可能である。これは数学的には[[逆元]]が存在しないことと等価であるので、[[群 (数学)|群]]にはなりえず、[[半群]]どまりになる。</ref>。この <math>\{R_t |t>0\}</math> を「くりこみ変換」と呼ぶ。
== くりこみ群方程式 ==
くりこみ群方程式とは、端的にいえば、理論のパラメータのスケール変換に対して物理量がどのように応答するかを記述する偏微分方程式のことである。
くりこみ変換の関係式を、<math>G(t,g)</math> の言葉で書くと、
:<math>G(ts,g)=G(s,G(t,g)),</math>
と表現できる<ref>左辺は、一気に <math>ts</math> だけスケール変換したことに相当し、右辺は、先に <math>t</math> だけスケール変換し、続けて <math>s</math> 分変換したことに相当する。</ref>。これは、[[関数等式]]としての「くりこみ群方程式」である。このままでは扱いにくいので、普通は <math>G(t,g)</math> の微分可能性を仮定し、偏微分方程式の形に直す。そのためには、<math>x=st</math> とおいて、上式の両辺を <math>t</math> で微分して <math>t=1</math> とおけばよい。得られる式は
:<math>x\frac{\partial}{\partial x} G(x,g)-\beta (g)\frac{\partial}{\partial g}G(x,g)=0,</math>
である。ただし、<math>\beta (g)</math> は
:<math>\beta (g)=\left. \frac{\partial}{\partial t} G(t,g) \right|_{t=1},</math>
で定義される。このような[[偏微分方程式]]を、「Gell-Mann=Low型のくりこみ群方程式」という。「Gell-Mann=Low型のくりこみ群方程式」とは異なり、非同次項を持つくりこみ群方程式が現れることもある。そのようなタイプの方程式は、「Callan-Symanzik型のくりこみ群方程式」と呼ばれる<ref>厳密に言って「Callan-Symanzik型」はくりこみ群方程式では「ない」。しかし、[[くりこみ]]と関係しているために、くりこみ群方程式と呼ばれることが多い。「Callan-Symanzik型」の場合は、理論の[[質量]]をスケール変換したときの応答を考えることで得られる。</ref>。
得られた方程式は1階の[[線型性|線型]][[偏微分方程式]]であるので、[[特性方程式]]
:<math>\frac{dx}{x} =-\frac{dg}{\beta (g)} </math>
を解いて[[一般解]]を求めることができ<ref>ただし、関数 <math>\beta (g)</math> は既知だと仮定する。</ref>、それは
:<math>\phi (F(g)+\ln x)</math>
で与えられる。ただし、<math>F(g)</math> は、
:<math>\frac{dF(g)}{dg} =\frac{1}{\beta (g)}</math>
を満足する関数、<math>\phi (z)</math> は <math>z</math> の任意関数である。ここで、初期条件
:<math>G(1,g)=g</math>
により <math>\phi (x)</math> は <math>F^{-1} (x)</math> であることが分かるので<ref>[[逆関数]] <math>F^{-1}(x)</math> の存在は仮定する</ref>、結局、
:<math>G(x,g)=F^{-1} (F(g)+\ln x)</math>
が解である。
関数 <math>\beta (g)</math> は、物理量のスケール変換の応答を決定する重要な量で、[[ベータ関数 (物理学)|ベータ関数]]<ref>[[特殊関数]]の[[ベータ関数]] <math>B(p,q)</math> とは無関係。</ref>と呼ばれる。ベータ関数をどうやって求めるかは重要な問題だが、[[摂動]]計算による以外、事実上、方法はない。
場の理論で <math>g</math> を[[頂点関数]]などに選び、
<math>x</math>をくりこみ点 <math>\mu^2</math> に選んだ場合、<math>g</math> の <math>x</math> 依存性は、いくつかの関数 <math>f_i</math><ref>波動関数の[[くりこみ]] <math>Z</math>、質量のくりこみ <math>\delta m</math>、結合定数のくりこみ <math>Z_3</math> など。</ref>を通して現れる。よって、このときのくりこみ群方程式は、
:<math>x\frac{\partial}{\partial x} G(x,f_1 ,\dots ,f_n )
-\sum^n_{i=1} \beta_i \frac{\partial}{\partial f_i} G(x,f_1 ,\dots ,f_n )=0,</math>
ベータ関数は
:<math>\beta_i (f_1 ,\dots ,f_n ):=\left. \frac{\partial}{\partial t} f_i \right|_{t=1},</math>
となる。
== 応用例 ==
#[[統計力学]]
#[[場の量子論]]
== 参考文献 ==
*数学セミナー増刊 数学・物理100の方程式、[[日本評論社]]、1989年,ISBN 4-535-70409-0
*S. Coleman, "Dilatation" in Aspect of Symmetry, [[Cambridge University Press]], 1985, ISBN 0 521 31827 0
*九後汰一郎、ゲージ場の量子論Ⅱ、[[培風館]]、1989年、ISBN 4-563-02424-4
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{sci-stub}}
{{DEFAULTSORT:くりこみくん}}
[[Category:統計力学]]
[[Category:場の量子論]]
[[Category:数理物理学]]
[[Category:数学に関する記事]] | null | 2021-12-30T08:56:19Z | false | false | false | [
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3,556 | 3月12日 | 3月12日(さんがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から71日目(閏年では72日目)にあたり、年末まであと294日ある。 | [
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'''3月12日'''(さんがつじゅうににち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から71日目([[閏年]]では72日目)にあたり、年末まであと294日ある。
== できごと ==
[[Image:Marche sel.jpg|thumb|240px|[[マハトマ・ガンディー]]、[[塩の行進]]を開始(1930年)]]
[[Image:Bouddhas de Bâmiyân - Aout 2005.jpg |thumb|180px|[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群|バーミヤンの石仏]]、[[ターリバーン]]により破壊される(2001年)]]
* [[538年]] - [[東ゴート王国|東ゴート王]][[ウィティギス]]が[[ローマ]]の包囲を解き[[ラヴェンナ]]に退却。
* [[1622年]] - [[イエズス会]]を創始した[[イグナチオ・デ・ロヨラ]]と[[フランシスコ・ザビエル]]が[[列聖]]される。
* [[1689年]] - [[ウィリアマイト戦争]]が始まる。
* [[1832年]] - [[バレエ]]作品『[[ラ・シルフィード]]』が初演。
* [[1876年]] - 官公庁で[[日曜日]]を休日・[[土曜日]]を半休([[半ドン]])とする[[太政官布告]]。
* [[1894年]] - [[ミシシッピ州]][[ヴィックスバーグ (ミシシッピ州)|ヴィックスバーグ]]で瓶詰[[コカ・コーラ]]が初めて販売される。
* [[1910年]] - 暴風雪により千葉県[[銚子市|銚子]]沖で漁船83隻が遭難。1055人死亡。
* [[1912年]] - アメリカで[[ジュリエット・ロー]]が[[ガールスカウト]]を創立。
* 1912年 - 外国人観光客向けの旅行案内所としてジャパン・ツーリスト・ビューロー(現・[[日本交通公社 (公益財団法人)|日本交通公社]]・[[JTB|ジェイティービー]])が創立。
* [[1917年]] - [[第一次世界大戦]]: [[第十次イゾンツォの戦い]]。
* [[1918年]] - [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア]]が[[モスクワ]]に[[遷都]]、[[サンクトペテルブルク]]への遷都から215年ぶりにモスクワがロシアの[[首都]]となる。
* [[1930年]] - [[マハトマ・ガンディー]]が[[塩の行進]]を開始。
* [[1933年]] - [[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が初の[[炉辺談話]]を行う。
* [[1934年]] - [[友鶴事件]]が起こる。
* [[1936年]] - [[中谷宇吉郎]]が[[雪]]の[[結晶]]の作製に成功。
* 1936年 - [[ソ蒙相互援助議定書]]締結。
* [[1938年]] - [[第二次世界大戦]]: ドイツ軍が[[オーストリア]]に進駐。翌日、ドイツへの併合([[アンシュルス]])を宣言。
* [[1940年]] - [[冬戦争]]停戦:[[モスクワ講和条約]]が締結される。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦: [[フランス領インドシナ]]の植民地政府を破った日本軍が、[[ノロドム・シハヌーク|シハヌーク国王]]に[[カンボジア]]の独立を宣言させる。
* 1945年 - 第二次世界大戦・[[日本本土空襲]]: [[名古屋大空襲|名古屋市街地に標的とする最大の空襲]]。
* [[1947年]] - [[アメリカ合衆国大統領]][[ハリー・S・トルーマン]]が共産主義封じ込め政策([[トルーマン・ドクトリン]])を発表。
* [[1948年]] - [[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]で「[[死刑]]制度は[[日本国憲法]]下でも合憲」という判決が出る。([[死刑制度合憲判決事件]])
* [[1968年]] - [[モーリシャス]]が[[イギリス]]から独立<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mauritius/data.html |title=モーリシャス共和国(Republic of Mauritius) |access-date=25 Mar 2023 |publisher=[[外務省]]}}</ref>。
* [[1972年]] - [[東武東上本線|東武東上線]][[成増駅]]前に[[モスバーガー]]の第1号実験店舗が開店。
* [[1974年]] - [[小野田寛郎]]が[[フィリピン]]・[[ルバング島]]から30年ぶりに日本に帰還。
* [[1984年]] - [[高松地方裁判所|高松地裁]]で[[財田川事件]]に対して再審無罪の判決。
* [[1993年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が[[核拡散防止条約]]を脱退<ref>{{Cite web|和書|url=https://japanese.joins.com/JArticle/302464 |title=外交安保専門家55%「30年以内の北核解決は不可能」…「独自の核保有」反対62% |access-date=25 Mar 2023 |publisher=[[中央日報]] |date=24 Mar 2023}}</ref>。
* [[1994年]] - [[イングランド国教会]]で初の女性司祭が叙任。
* [[1996年]] - ホテル日航東京(現[[ヒルトン東京お台場]])が[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[お台場]]に開業。
* [[1999年]] - [[ワルシャワ条約機構]]の一員であった[[チェコ]]、[[ハンガリー]]、[[ポーランド]]が[[北大西洋条約機構]] (NATO) に加盟。
* [[2001年]] - [[アフガニスタン]]・[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群|バーミヤーン]]の巨大石仏が、[[ターリバーン]]により破壊されたことを[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]が確認。
* [[2003年]] - [[セルビア]]首相[[ゾラン・ジンジッチ]]が、[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]前ユーゴスラビア大統領配下の秘密警察関係者により{{仮リンク|ゾラン・ジンジッチ暗殺事件|en|Assassination of Zoran Đinđić|label=暗殺}}される。
* [[2004年]] - [[大韓民国|韓国]]国会が[[盧武鉉]]大統領の[[盧武鉉韓国大統領弾劾訴追|弾劾]]を決議。
* [[2007年]] - 京都府[[木津川市]]が市制施行。
* [[2009年]] - [[ラトビア]][[サエイマ|議会]]が[[ヴァルディス・ドムブロフスキス]]元財務相の首相就任を承認。
* [[2010年]] - 寝台特急「[[北陸 (列車)|北陸]]」がこの日発の運行限りで廃止。また、[[夜行列車]]「[[能登 (列車)|能登]]」は臨時列車化となる。首都圏-北陸間の在来線優等列車が消滅。
* [[2011年]] - [[九州新幹線]][[博多駅]] - [[新八代駅]]間が開業し、 [[九州新幹線|鹿児島ルート]]が全通<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/v4?id=kyushushinkansen10001 |title=九州新幹線が全線開業 |publisher=[[時事通信社]] |accessdate=25 Mar 2023}}</ref>。
* 2011年 - [[長野県北部地震 (2011年)|長野県北部地震]]発生。この地震により[[長野県]][[栄村]]や[[新潟県]][[津南町]]・[[十日町市]]などが大きな被害を受けた<ref>{{Cite web|和書|date=24 Dec 2015 |url=http://www.vill.sakae.nagano.jp/docs/278.html |title=栄村大震災/被災状況 |publisher=長野県 栄村 |accessdate=25 Mar 2023}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=29 Mar 2019 |url=https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/kikitaisaku/h23naganokenhokubujishin.html |title=3月12日発生 長野県北部を震源とする地震に関する情報 |publisher=[[新潟県]] |accessdate=25 Mar 2023}}</ref>。
* 2011年 - [[東日本大震災]]・[[福島第一原子力発電所事故]]: [[福島県]]にある[[東京電力]][[福島第一原子力発電所]]の1号機が[[水素爆発]]<ref>{{Cite web|和書|date=12 Mar 2011 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/genpatsu-fukushima/20110312/ |title=官房長官 1号機の爆発を説明 |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |accessdate=25 Mar 2023}}</ref>。
[[ファイル:Twilight Express at naoetsu others.JPG|サムネイル|231x231ピクセル|寝台特急「トワイライトエクスプレス」廃止(2015)]]
* [[2015年]] - 寝台特急「[[トワイライトエクスプレス]]」がこの日の運行をもって廃止。大阪と東北・北海道間の寝台特急が消滅。
* [[2018年]] - [[USバングラ航空211便着陸失敗事故]]が発生。
* [[2023年]] - 10日の[[シリコンバレーバンク]]に続き[[シグネチャー・バンク]]が経営破綻。
== 誕生日 ==
[[ファイル:Vaux-le-Vicomte Garten.jpg|thumb|240px|フランス式[[庭園]]の完成者[[アンドレ・ル・ノートル]](1613-1700)誕生。画像は[[ヴォー=ル=ヴィコント城]]の庭園]]
[[ファイル:Kaishu Katsu 2.jpg|thumb|160px|日本海軍の産みの親、[[勝海舟]](1823-1899)誕生]]
[[ファイル:Kirchhoffs improved spectroscope.jpg|thumb|240px|[[電気回路]]や[[分光学]]に大きな功績を残した物理学者[[グスタフ・キルヒホフ]](1824-1887)誕生]]
[[ファイル:Kerouac by Palumbo.jpg|thumb|180px|[[ビート・ジェネレーション|ビートニク]]を代表する作家[[ジャック・ケルアック]](1922-1969)。代表作『[[路上 (小説)|路上]]』(1951)]]
=== 人物 ===
* [[1386年]]([[至徳 (日本)|至徳]]3年/[[元中]]3年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]) - [[足利義持]]、[[室町幕府]]4代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1428年]])
* [[1613年]] - [[アンドレ・ル・ノートル]]<ref>{{Cite web |title=Andre Le Notre {{!}} Biography, Designs, & Facts |url=https://www.britannica.com/biography/Andre-Le-Notre |website=Britannica |access-date=25 Mar 2023}}</ref>、[[造園|造園家]](+ [[1700年]])
* [[1626年]] - [[ジョン・オーブリー]]、[[作家]]、[[古代]]史研究家(+ [[1697年]])
* [[1685年]] - [[ジョージ・バークリ]]、[[哲学|哲学者]]、[[聖職者]](+ [[1753年]])
* [[1710年]] - [[トマス・アーン]]、[[作曲家]](+ [[1778年]])
* [[1770年]] - フランソワ・ジェラール ([[:en:Francois Gérard|Francois Gérard]])、[[画家]](+ [[1837年]])
* [[1790年]] - [[ジョン・フレデリック・ダニエル]]、[[化学者]](+ [[1845年]])
* [[1812年]] - [[ジョゼフ・プレストウィッチ]]、[[地質学|地質学者]]、[[実業家]](+ [[1896年]])
* [[1818年]]([[文政]]元年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]) - [[松浦武四郎]]、[[探険家]](+ [[1888年]])
* [[1823年]](文政6年[[1月30日 (旧暦)|1月30日]]) - [[勝海舟]]、[[江戸幕府]][[海軍奉行]](+ [[1899年]])
* [[1824年]] - [[グスタフ・キルヒホフ]]、[[物理学者]](+ [[1887年]])
* [[1832年]] - [[シャルル・フリーデル]]、化学者(+ [[1899年]])
* [[1835年]] - [[サイモン・ニューカム]]、[[天文学者]](+ [[1909年]])
* [[1836年]] - [[ビートン夫人]]、[[家政|家政書]][[著作家]](+ [[1865年]])
* [[1838年]] - [[ウィリアム・パーキン]]、化学者(+ [[1907年]])
* [[1843年]] - [[ガブリエル・タルド]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](+ [[1904年]])
* [[1863年]] - [[ガブリエレ・ダヌンツィオ]]、[[詩人]]、[[小説家]]、[[劇作家]](+ [[1938年]])
* 1863年 - [[ウラジミール・ベルナドスキー]]、[[鉱物学|鉱物学者]]、[[地球化学者]](+ [[1945年]])
* [[1864年]]([[文久]]4年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]) - [[池辺三山]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1912年]])
* [[1881年]] - [[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]、[[政治家]]、[[軍人]]、[[トルコの大統領|トルコ共和国初代大統領]](+ [[1938年]])
* [[1883年]] - [[朝倉希一]]、鉄道[[技術者]](+ [[1978年]])
* [[1885年]] - [[山鹿清華]]、[[染織|染織家]](+ [[1981年]])
* [[1888年]] - [[ハンス・クナッパーツブッシュ]]、[[指揮者]](+ [[1965年]])
* [[1889年]] - [[イドリース1世 (リビア王)|イドリース1世]]、初代[[リビア王国|リビア国王]](+ [[1983年]])
* [[1890年]] - [[ヴァーツラフ・ニジンスキー]]、バレエダンサー(+ [[1950年]])
* [[1892年]] - [[生田春月]]、詩人(+ [[1930年]])
* [[1893年]] - [[岩田藤七]]、[[ガラス工芸|ガラス工芸家]](+ [[1980年]])
* [[1894年]] - [[葉山嘉樹]]、小説家(+ [[1945年]])
* 1894年 - [[植村甲午郎]]、[[実業家]]、[[財界人]](+ [[1978年]])
* [[1897年]] - [[小菅健吉]]、教育者(+ [[1977年]])
* [[1898年]] - [[田漢]]、小説家、劇作家、[[詩人]]、[[映画]][[脚本家]]、社会活動家(+ [[1968年]])
* [[1899年]] - [[野津謙]]、元[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]、指導者(+ [[1983年]])
* [[1900年]] - [[グスタボ・ロハス・ピニージャ]]、[[軍人]]、[[政治家]](+ [[1975年]])
* [[1904年]] - [[関屋敏子]]、[[声楽家]](+ [[1941年]])
* [[1905年]] - [[志村喬]]、[[俳優]](+ [[1982年]]<ref>「野良犬」、「生きる」、「七人の侍」 ”よき時代”いぶし銀の味 「黒沢映画」支えた名優・志村喬さん死去(『[[読売新聞]]』[[1982年]][[2月12日]]朝刊)</ref>)
* [[1910年]] - [[大平正芳]]、政治家、第68・69代[[内閣総理大臣]](+ [[1980年]])
* [[1913年]] - [[セルゲイ・ミハルコフ]]、作家(+ [[2009年]])
* [[1917年]] - [[岡田宗芳]]、[[プロ野球選手]](+ [[1942年]])
* 1917年 - [[内堀保]]、元プロ野球選手(+ [[1997年]])
* [[1915年]] - [[アルベルト・ブッリ]]、[[画家]]、[[彫刻家]](+ [[1995年]])
* [[1921年]] - [[ジャンニ・アニェッリ|ジョヴァンニ・アニェッリ(ジャンニ・アニェッリ)]]、[[実業家]](+ [[2003年]])
* [[1922年]] - [[ジャック・ケルアック]]、作家(+ [[1969年]])
* [[1924年]] - [[平松守彦]]、政治家、元[[大分県知事一覧|大分県知事]](+ [[2016年]])
* [[1925年]] - [[江崎玲於奈]]、[[物理学者]]、[[ノーベル賞]]受賞者
* 1925年 - [[ハリイ・ハリスン]]、[[SF作家]](+ [[2012年]])
* 1925年 - [[ジョルジュ・ドルリュー]]、[[作曲家]](+ [[1992年]])
* 1925年 - [[ルイゾン・ボベ]]、[[自転車競技]]選手(+ [[1983年]])
* [[1926年]] - [[ジョージ・クリストファー・ウィリアムズ]]、[[生物学者の一覧|生物学者]](+ [[2010年]])
* 1926年 - [[由起艶子]]、女優、声優
* [[1927年]] - [[ラウル・アルフォンシン]]、政治家、49代[[アルゼンチン大統領]](+ [[2009年]])
* [[1928年]] - [[花登筐]]、[[劇作家]]、[[放送作家]]、[[演出家]](+ [[1983年]])
* [[1930年]] - [[バーノン・ロー]]、元プロ野球選手
* [[1936年]] - [[稲垣博愛]]、元プロ野球選手
* 1936年 - [[大沼清]]、元プロ野球選手
* [[1938年]] - [[青芝フック]]、[[漫才師]]
* [[1940年]] - [[アル・ジャロウ]]、[[歌手]](+ [[2017年]])
* [[1942年]] - [[黒木憲]]、歌手(+ [[2006年]])
* [[1943年]] - [[林家こん平]]、[[落語家]](+ [[2020年]])
* 1943年 - [[松田卓也]]、[[天文学者]]
* [[1944年]] - [[関根知雄]]、元プロ野球選手
* 1944年 - [[バウミール・ロールス|バウミール]]、元サッカー選手、指導者
* 1944年 - [[中川武隆]]、元裁判官、元大学教授、弁護士
* [[1945年]] - [[若林ケン]]、[[シャンソン]]歌手
* [[1946年]] - [[ライザ・ミネリ]]、[[俳優|女優]]、[[歌手]]
* [[1946年]] - [[小坂憲次]]、政治家(+ [[2016年]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/topics/timeline/?keyword=小坂憲次 |title=小坂憲次 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |accessdate=25 Mar 2023}}</ref>)
* [[1947年]] - [[塚原俊平]]、政治家(+ [[1997年]])
* 1947年 - [[ミット・ロムニー]]、実業家、政治家
* [[1948年]] - [[ジェームス・テイラー]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1949年]] - [[江尻良文]]、[[夕刊フジ]]編集委員
* 1949年 - [[ロブ・コーエン]]、[[映画監督]]、[[映画プロデューサー]]
* 1949年 - [[ナタリア・クチンスカヤ]]、[[体操選手]]
* [[1950年]] - [[吉永みち子]]、[[随筆家|エッセイスト]]
* 1950年 - [[ハビエル・クレメンテ]]、元サッカー選手、指導者
* [[1952年]] - [[奥寺康彦]]、元サッカー選手
* [[1953年]] - [[マーダブ・クマール・ネパール]]、政治家、3代[[ネパールの首相|ネパール首相]]
* 1953年 - [[沢田ユキオ]]、漫画家
* [[1954年]] - [[飯合肇]]、[[ゴルファー]]
* 1954年 - [[ラリー・ロスチャイルド]]、元プロ野球選手
* [[1955年]] - [[池波志乃]]、女優
* 1955年 - [[ルパート・ジョーンズ]]、元プロ野球選手
* [[1956年]] - [[デール・マーフィー]]、元プロ野球選手
* 1956年 - [[スティーヴ・ハリス]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[アイアン・メイデン]])
* [[1959年]] - [[森秀行]]、[[調教師]]
* 1959年 - [[やくみつる]]、[[漫画家]]
* [[1960年]] - [[銀色夏生]]、[[詩人]]
* 1960年 - [[野宮真貴]]、ミュージシャン、歌手
* 1960年 - [[二井原実]]、ミュージシャン
* [[1961年]] - [[村井一男]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[太田敏之]]、元プロ野球選手
* [[1962年]] - [[ダイヤモンド・ユカイ]]、ミュージシャン、俳優
* 1962年 - [[ダリル・ストロベリー]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[アンドレアス・ケプケ]]、元サッカー選手、指導者
* [[1963年]] - [[上條淳士]]、漫画家
* [[1963年]] - [[井上義行]]、政治家
* 1963年 - [[松田朋恵]]、フリー[[アナウンサー]]
* [[1964年]] - [[陣内貴美子]]、[[タレント]]、[[バドミントン]]選手
* 1964年 - [[森永奈緒美]]、女優
* 1965年 - [[青山豊久]]、[[官僚]]
* 1965年 - [[勝俣州和]]、タレント
* 1965年 - [[スティーブ・フィンリー]]、元プロ野球選手
* 1965年 - [[ショーン・ギルバート]]、元プロ野球選手
* 1965年 - [[きむらひでふみ]]、脚本家
* [[1966年]] - [[神崎ゆう子]]、歌手
* [[1968年]] - [[アーロン・エッカート]]、俳優
* 1968年 - [[佐藤賢一]]、小説家
* 1968年 - [[川端一彰]]、元プロ野球選手
* [[1969年]] - [[グレアム・コクソン]]、ミュージシャン([[ブラー]])
* 1969年 - [[岡村明美]]、[[声優]]
* 1969年 - [[肥後かおり]]、[[プロゴルファー]]
* [[1970年]] - [[鬼塚勝也]]、元[[プロボクサー]]
* [[1971年]] - [[ユースケ・サンタマリア]]、タレント、[[俳優]]
* 1971年 - [[トルステン・ムンドリー]]、[[騎手]]
* 1971年 - [[グレッグ・ハンセル]]、元プロ野球選手
* 1971年 - [[ラウル・モンデシー]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[ジョージ・アリアス]]、元プロ野球選手
* 1972年 - 藤井宏和、[[お笑いタレント]]([[飛石連休 (お笑いコンビ)|飛石連休]])
* 1972年 - [[倉橋えりか]]、漫画家
* [[1973年]] - 平井善之、お笑い芸人([[アメリカザリガニ (お笑いコンビ)|アメリカザリガニ]])
* [[1974年]] - [[椎名へきる]]、[[声優]]、[[歌手]]
* 1974年 - [[礒部公一]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[豊桜俊昭]]、元[[大相撲]][[力士]]
* 1974年 - [[岩田康誠]]、騎手
* [[1975年]] - [[細江純子]]、騎手、[[競馬評論家|ホース・コラボレーター]]
* 1975年 - [[ぼくもとさきこ]]、女優
* 1975年 - [[エドガラス・ヤンカウスカス]]、元サッカー選手
* [[1976年]] - [[ヴィッキー・チャオ]]、[[俳優|女優]]
* 1976年 - [[くっきー!]]、お笑いタレント([[野性爆弾]])
* [[1977年]] - 神田伸一郎、お笑いタレント([[ハマカーン]])
* [[1978年]] - [[種村有菜]]、[[漫画家]]
* [[1979年]] - [[佐藤まい子]]、タレント
* 1979年 - [[デーブ・ウィリアムス]]、プロ野球選手
* 1979年 - [[李惠踐]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[ピート・ドハーティ]]、ミュージシャン、詩人
* [[1980年]] - [[デレク・トレント]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1981年]] - [[小野真弓]]、タレント
* 1981年 - [[我那覇美奈]]、歌手
* 1981年 - [[斎藤千和]]、声優
* 1981年 - [[徳永愛]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/0000138824/ |title=徳永愛 |access-date=25 Mar 2023 |publisher=WEBザテレビジョン}}</ref>、声優
* 1981年 - [[小林健太|KENTA]]、[[プロレスラー]]
* 1981年 - [[井生崇光]]、元プロ野球選手
* [[1982年]] - [[三輪明日美]]、女優
* 1982年 - [[佐藤寿人]]、元サッカー選手
* 1982年 - [[佐藤勇人]]、元サッカー選手
* 1982年 - [[佐々木義人 (プロレスラー)|佐々木義人]]、元プロレスラー
* 1982年 - [[えれな]]、[[ファッションモデル]]
* 1982年 - おばらよしお、ダンサー([[エグスプロージョン]])
* [[1984年]] - [[杉野希妃]]、女優
* 1984年 - [[ホセ・アレドンド]]、プロ野球選手
* [[1985年]] - [[藤岡好明]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[アンダーソン・ゴメス]]、プロ野球選手
* [[1986年]] - [[大塚千弘]]、女優
* 1986年 - [[ジョーイ・バトラー]]、プロ野球選手
* [[1987年]] - [[鈴木あきえ]]、タレント
* 1987年 - [[登坂広臣]]、歌手、俳優([[三代目J Soul Brothers]])
* [[1988年]] - [[小坂優舞]]、[[アキバ系アイドル]]
* [[1989年]] - [[山下りな]]、プロレスラー
* [[1990年]] - [[阿井原すみれ]]、[[グラビアアイドル]]
* 1990年 - [[小野寺祐太]]、騎手
* [[1991年]] - [[井出卓也]]、タレント
* 1991年 - [[有吉優樹]]、元プロ野球選手
* 1991年 - [[住田貴彦]]、サッカー選手
* 1991年 - [[ハマ・オカモト]]、ベーシスト([[OKAMOTO'S]])
* 1991年 - [[小谷実由]]、ファッションモデル
* 1991年 - [[フェリックス・クロース]]、サッカー選手
* 1991年 - [[李載冠]]、サッカー選手
* [[1992年]] - [[横山弘樹]]、元プロ野球選手
* 1992年 - [[小林ひろみ]]、元タレント、元グラビアアイドル(元[[恵比寿マスカッツ (1.5以降)|恵比寿マスカッツ]])
* 1992年 - [[甲斐犬人]]、[[演歌・歌謡曲]]歌手
* [[1993年]] - [[江越大賀]]、プロ野球選手
* 1993年 - [[坂田将人]]、元プロ野球選手
* [[1994年]] - [[クリスティーナ・グリミー]]、シンガーソングライター(+ [[2016年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/2016/06/13/adam-levine_n_10449356.html|title=凶弾に倒れた歌姫クリスティーナ・グリミーさん、葬儀代の負担を申し出たロックスターは...|publisher=ハフポスト|date=14 Jun 2016|accessdate=25 Mar 2023}}</ref>)
* 1994年 - [[塩ノ谷早耶香]]、歌手
* [[1995年]] - [[巫まろ]]、タレント、アイドル([[ZOC (アイドルグループ)|ZOC]]、元[[アンジュルム]])
* [[1996年]] - [[根岸拓哉]]、俳優
* 1996年 - [[小林佑暉]]、俳優
* [[1998年]] - [[堀葵衣]]、[[静岡放送]]アナウンサー
* [[1999年]] - [[小田さくら]]、アイドル([[モーニング娘。]])
* 1999年 - [[ヤンヤ・ガンブレット]]、[[スポーツクライミング|スポーツクライマー]]
* [[2000年]] - [[吉住晴斗]]、元プロ野球選手
* [[2001年]] - [[高橋文哉]]、俳優、モデル
* 2001年 - [[韻マン]]、ラッパー
* [[2003年]] - [[ソン・ドヒョン]]、プロアイスホッケー選手
* [[2004年]] - ヒカル、アイドル([[Kep1er]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1940年]] - [[クリフジ]]、[[競走馬]]・[[繁殖牝馬]](+ [[1964年]])
* [[1996年]] - [[アドマイヤベガ]]、競走馬(+ [[2004年]])
* 不詳 - [[くまモン]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://kumamon-official.jp/kiji0031657/index.html |title=くまモン自己紹介 |access-date=25 Mar 2023 |publisher=Kumamoto Prefectural Government. |website=くまモン オフィシャルホームページ}}</ref>、[[熊本県]][[パブリック・リレーションズ|PR]][[マスコット|マスコットキャラクター]]、[[ゆるキャラ|ゆるキャラグランプリ]]2011王者
== 忌日 ==
[[ファイル:Cesareborgia.jpg|thumb|240px|[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェッリ]]の『[[君主論]]』のモデルともなった[[チェーザレ・ボルジア]]。]]
[[ファイル:Mizuno Tadakuni.jpg|thumb|240px|[[天保の改革]](1841-1843)の中心となった[[老中]][[水野忠邦]]。]]
[[ファイル:Sun Yat-sen 1924 Guangzhou.jpg|thumb|200px|[[辛亥革命]]の指導者[[孫文]](1866-1925)、「革命未だ成らず」と遺言し[[北京]]で客死。]]
* [[604年]]([[ユリウス暦]]) - [[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]、[[ローマ教皇]](* [[540年]])
* [[1065年]]([[康平]]8年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]) - [[藤原頼宗]]、[[平安時代]]の公卿(* [[992年]])
* [[1189年]]([[文治]]5年[[2月24日 (旧暦)|2月24日]]) - [[平時忠]]、平安時代の公卿(* [[1130年]])
* [[1352年]]([[正平 (日本)|正平]]7年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]) - [[足利直義]]、武将(* [[1306年]])
* [[1374年]]([[文中]]3年/[[応安]]7年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]) - [[後光厳天皇]]、[[北朝 (日本)|北朝]]第4代[[天皇]](* [[1338年]])
* [[1447年]] - [[シャー・ルフ]]<ref>{{Cite web |title=Shāh Rokh {{!}} Timurid ruler of Iran and Turkistan |url=https://www.britannica.com/biography/Shah-Rokh-Timurid-ruler-of-Iran-and-Turkistan |website=Britannica |access-date=25 Mar 2023}}</ref>、[[ティムール朝]]君主(* [[1377年]])
* [[1507年]] - [[チェーザレ・ボルジア]]、[[政治家]](* [[1475年]])
* [[1608年]]([[慶長]]13年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]) - [[高力清長]]、[[武将|戦国武将]](* [[1530年]])
* [[1628年]] - [[ジョン・ブル (作曲家)|ジョン・ブル]]、[[作曲家]](* [[1562年]]頃)
* [[1647年]]([[正保]]4年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]) - [[小堀政一]](小堀遠州<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koborienshu.org/小堀遠州/ |title=小堀遠州(こぼりえんしゅう) |access-date=25 Mar 2023 |publisher=公益財団法人 小堀遠州顕彰会}}</ref>)、武将、[[茶道|茶人]](* [[1579年]])
* [[1648年]] - [[ティルソ・デ・モリーナ]]、[[劇作家]](* [[1579年]])
* [[1662年]]([[寛文]]2年[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]) - [[松平定頼]]、第2代[[伊予松山藩|伊予松山藩主]](* [[1607年]])
* [[1699年]]([[元禄]]12年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - [[松平綱昌]]、第6代[[福井藩|福井藩主]](* [[1661年]])
* [[1821年]] - [[ウィリアム・ロバート・ブロートン]]、海軍士官、[[探検家]](* [[1762年]])
* [[1828年]]([[文政]]11年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]) - [[酒井忠進]]、[[江戸幕府]][[老中]]、[[小浜藩|小浜藩主]](* [[1770年]])
* [[1832年]] - [[フリードリヒ・クーラウ]]、作曲家(* [[1786年]])
* [[1851年]]([[嘉永]]4年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[水野忠邦]]、[[浜松藩|浜松藩主]]、江戸幕府老中(* [[1794年]])
* [[1869年]] - [[エルンスト・ハーベルビアー]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](* [[1813年]])
* [[1872年]]([[同治]]11年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[曽国藩]]、[[清]]の[[湘軍]]創設者(* [[1811年]])
* [[1907年]] - [[松本良順]]、[[大日本帝国陸軍]]の初代[[軍医総監]](* [[1832年]])
* [[1909年]] - [[ジョゼッペ・ペトロジーノ]]、[[マフィア]]捜査で功績を上げた[[警察官]](* [[1860年]])
* [[1921年]] - [[三角錫子]]、[[教育者]]、[[学校法人トキワ松学園|トキワ松学園]]創立者(* [[1872年]])
* [[1925年]] - [[孫文]]、[[辛亥革命]]の指導者(* [[1866年]])
* [[1927年]] - [[新海竹太郎]]、[[彫刻家]](* [[1868年]])
* [[1930年]] - [[アロイス・イラーセク]]、[[小説家]](* [[1851年]])
* [[1936年]] - [[内田康哉]]、[[外交官]]、[[政治家]](* [[1865年]])
* [[1937年]] - [[シャルル=マリー・ヴィドール]]、作曲家(* [[1844年]])
* 1937年 - [[イェネー・フバイ]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1858年]])
* [[1942年]] - [[ロバート・ボッシュ]]、[[発明家]]、[[ロバート・ボッシュ (企業)|ロバート・ボッシュ]]社創業者(* [[1861年]])
* 1942年 - [[ヘンリー・ブラッグ]]、[[物理学者]](* [[1862年]])
* [[1946年]] - [[関根金次郎]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](* [[1868年]])
* 1946年 - [[鈴木文治]]、[[労働運動|労働運動家]]、[[友愛会]]創立者(* [[1885年]])
* 1946年 - [[サーラシ・フェレンツ]]、[[ハンガリー]]の指導者(* [[1897年]])
* [[1948年]] - [[アルフレッド・ラクロワ]]、[[鉱物学|鉱物学者]]、[[火山学|火山学者]](* [[1863年]])
* [[1950年]] - [[ハインリヒ・マン]]、小説家(* [[1871年]])
* [[1953年]] - [[伊東静雄]]、[[詩人]](* [[1906年]])
* [[1955年]] - [[チャーリー・パーカー]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン|サックス]]奏者(* [[1920年]])
* [[1957年]] - [[ジョン・ミドルトン・マリー]]、小説家(* [[1889年]])
* [[1968年]] - [[小杉義男]]、[[俳優]](* [[1903年]])
* [[1973年]] - [[フランキー・フリッシュ]]、元プロ野球選手(* [[1898年]])
* [[1976年]] - [[天知俊一]]、[[プロ野球監督]](* 1903年)
* [[1978年]] - [[ジョン・カザール]]、[[俳優]](* [[1935年]])
* 1978年 - [[テレサ・ウェルド]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1893年]])
* [[1983年]] - [[上原正吉]]、[[政治家]]、[[大正製薬]]社長(* [[1897年]])
* [[1985年]] - [[ユージン・オーマンディ]]、[[指揮者]](* [[1899年]])
* [[1989年]] - [[武藤清]]、[[建築家]](* 1903年)
* 1989年 - [[ヤコブ・ギンペル]]、[[ピアニスト]](* [[1906年]])
* [[1991年]] - [[ラグナー・グラニト]]、[[医学|医学者]](* [[1900年]])
* [[1993年]] - [[王震]]、[[中華人民共和国]]副主席(* [[1908年]])
* [[1995年]] - [[法月惣次郎]]、[[望遠鏡]]製作者(* [[1912年]])
* 1995年 - [[西村俊一]]、[[テレビプロデューサー]](* [[1928年]])
* [[1999年]] - [[ユーディ・メニューイン]]、ヴァイオリニスト(* [[1916年]])
* [[2001年]] - [[ロバート・ラドラム]]、小説家(* [[1927年]])
* [[2003年]] - [[ゾラン・ジンジッチ]]、[[セルビア]]首相(* [[1952年]])
* [[2005年]] - [[桂文枝 (5代目)]]、[[落語家]](* [[1930年]])
* 2005年 - [[江間章子]]、[[詩人]]、作詞者(* [[1913年]])
* [[2006年]] - [[ヨナタン・ヨハンソン]]、[[スノーボード]]選手(* [[1980年]])
* [[2007年]] - [[アントニオ・オルティス・メナ]]、[[メキシコ]]大蔵公債長官、[[米州開発銀行]]総裁(* [[1907年]])
* 2007年 - [[山下浩二]]、元[[プロ野球選手]](* [[1955年]])
* 2007年 - [[ノーム・ラーカー]]、元プロ野球選手(* [[1930年]])
* [[2008年]] - [[ラザール・ポンティセリ]]、[[第一次世界大戦]]時の[[フランス軍]]兵士最後の生存者(* [[1897年]])
* [[2009年]] - [[中里太郎右衛門 (13代)]]、[[陶芸家]](* [[1923年]])
* [[2013年]] - [[北原亞以子]]、[[作家]](* [[1938年]])
* [[2014年]] - [[大西巨人]]、[[小説家]](* [[1916年]])
* 2014年 - [[前田治郎]]、[[アナウンサー]]、[[ジャーナリスト]](* [[1928年]])
* 2014年 - [[ヴェラ・ヒティロヴァ]]、映画監督(* [[1929年]])
* [[2015年]] - [[テリー・プラチェット]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG13H0B_T10C15A3000000/ |title=テリー・プラチェット氏が死去 英ファンタジー作家 |access-date=25 Mar 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=13 Mar 2015}}</ref>、小説家(* [[1948年]])
* [[2016年]] - [[ロイド・シャープレー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG15H06_V10C16A3CC0000/ |title=ロイド・シャプレー氏が死去 ノーベル経済学賞受賞の米数学者 |access-date=25 Mar 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=15 Mar 2016}}</ref>、経済学者、数学者(* [[1923年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[File:Anerood Jugnauth January 2013.jpg|thumb|200px|[[モーリシャス]]の独立記念日(1968)。画像は「共和国の父」[[アヌルード・ジュグノート]]]]
[[ファイル:Sugar cane mauritius hg.jpg|thumb|280px|[[モーリシャス]]の独立記念日(1968)。<br />画像はモーリシャスのさとうきび畑の収穫。]]
* [[独立記念日]]({{MUS}})
*: [[1968年]]のこの日、モーリシャスがイギリスから独立した。
* {{仮リンク|植樹節|zh|植樹節}}({{CHN}}・{{ROC}})
* [[世界反サイバー検閲デー]]({{World}})
*: [[国境なき記者団]]と[[アムネスティ・インターナショナル]]が[[2009年]]に制定。
* [[お水取り]]({{JPN}}[[奈良市]][[東大寺]])
* 財布の日({{JPN}})
*: 3月12日の「312」が「さいふ」と読めることから。
* モスの日({{JPN}})
*: [[モスフードサービス]]が制定。[[1972年]]のこの日、[[東武東上本線|東武東上線]][[成増駅]]前に初めてモスバーガーの実験店がオープンした。
* [[スイーツ]]の日({{JPN}})
*: [[サイバーエージェント]]の子会社である[[スーパースイーツ]]が2008年に制定。「ス(3)イ(1)ーツ(2)」の語呂合せ。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0312|date=2023年3月}}
* [[2006年]] - ジェリーイマジンが出現。ゼロノスベガフォームに倒される。(特撮『[[仮面ライダー電王]]』)
* [[2015年]] - 「ともだち」が新宿視察のパレード中に銃撃され死亡する。北国のムロップ町では歌手・春波夫による慰問ショーが開催される。(映画『[[20世紀少年 (映画)|20世紀少年 第2章 最後の希望]]』)
* [[宇宙世紀|U.C.]]0093年 - [[第二次ネオ・ジオン抗争]]終結。[[アムロ・レイ]]と[[シャア・アズナブル]]が、この日を境に行方不明となる。(アニメ映画『[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* 生年不明 - 神無のぞみ、漫画・アニメ『[[競女!!!!!!!!]]』の主人公<ref>{{Twitter status|keijo_anime|1634705765423251456}}</ref>
* 生年不明 - [[葵新伍]]、漫画・アニメ『[[キャプテン翼]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=高橋陽一|authorlink=高橋陽一|year = 2003|title = キャプテン翼 3109日全記録|publisher = 集英社 |isbn = 4-08-782789-5|page = 52 }}</ref>
* 生年不明 - [[地獄先生ぬ〜べ〜の登場人物#童守小学校 5年3組|栗田まこと]]、漫画・アニメ『[[地獄先生ぬ〜べ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=週刊少年ジャンプ特別編集|authorlink=週刊少年ジャンプ |year = 1997 |title = 地獄先生ぬ~べ~大百科 |page = 40 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス デラックス]] |isbn = 4-08-858883-5 }}</ref>
* 生年不明 - 梅本幸子、漫画・アニメ『[[ダイヤのA]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|diaace_anime|708938596414148609}}</ref>
* 生年不明 - 桃人華蓮、漫画『[[時空異邦人KYOKO]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|arinacchi|840937916138364928}}</ref>
* 生年不明 - [[坂柳有栖]]、小説・アニメ『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://youkosozitsuryoku-2nd.com/character/sakayanagi.html |title=坂柳 有栖 |accessdate=25 Mar 2023 |publisher=[[衣笠彰梧]]・[[KADOKAWA]]刊/ようこそ実力至上主義の教室へ製作委員会 |work=『ようこそ実力至上主義の教室へ 2年生編』}}</ref>
* 生年不明 - 周防有希、小説・漫画・アニメ『[[時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|roshidere|1634569871202701312}}</ref>
* 生年不明 - エル、アニメ『[[ひろがるスカイ!プリキュア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=キュアマジェスティ / プリンセス・エル|url=http://www.toei-anim.co.jp/tv/precure/character/chara5.php |website=『ひろがるスカイ!プリキュア』 |access-date=10 Sep 2023 |publisher=[[ABCアニメーション|ABC-A]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - [[ソウルキャリバーの登場人物#ソフィーティア・アレクサンドル|ソフィーティア・アレクサンドル]]、ゲーム『[[ソウルシリーズ|ソウルキャリバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://sc6.soularchive.jp/character/sophitia.php |title=ソフィーティア・アレクサンドル |access-date=25 Mar 2023 |publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『SOULCALIBUR Ⅵ』}}</ref>
* 生年不明 - 翡翠 & 琥珀、ゲーム『[[月姫 (ゲーム)|月姫]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite|和書|title=月姫読本PlusPeriod|author=[[武内崇]]、[[奈須きのこ]]|year=2004|publisher=宙出版|page=68 & 75|isbn=4776790378}}</ref>
* 生年不明 - うずまき、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m03.html |title=住民名簿 3月 うずまき |access-date=25 Mar 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - 奈木野さくら、ゲーム『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|girlfriend_kari|1370026726894501890}}</ref>
* 生年不明 - クロノ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=56&cate=name&cont=Chrono |title=クロノ |access-date=25 Mar 2023 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - ユリア、ゲーム『[[キングスレイド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://kings-raid.com/characters/#character-2032 |title=ユリア |accessdate=25 Mar 2023 |publisher=Vespa Inc. |work=『キングスレイド』 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210613090914/https://kings-raid.com/characters/detail.php?cid=2032 |archive-date=13 Jun 2021}}</ref>
* 生年不明 - 七瀬美沙、ゲーム・漫画・アニメ『[[アイドル事変]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://idoljihen.jp/character/nanase-misa/ |title=山口県 七瀬 美沙 |access-date=25 Mar 2023 |publisher=[[MAGES.]] アイドル事変製作委員 |work=『アイドル事変』}}</ref>
* 生年不明 - アキノ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1634735964856754176}}</ref>
* 生年不明 - アドマイヤベガ、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=admirevega |title=アドマイヤベガ |publisher=[[Cygames]] |accessdate=25 Mar 2023 |website=『ウマ娘 プリティーダービー』}}</ref>
* 生年不明 - 杉原真奈美、ゲーム『センチメンタルグラフィティ』に登場するキャラクター
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|3|11|3|13|[[2月12日]]|[[4月12日]]|[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]|0312|3|12}}
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3,557 | 3月13日 | 3月13日(さんがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から72日目(閏年では73日目)にあたり、年末まであと293日ある。 | [
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== できごと ==
[[Image:HerschelTelescope.jpg|thumb|180px|[[ウィリアム・ハーシェル]]、[[天王星]]を発見(1781)。画像はハーシェルが発見に用いた望遠鏡のレプリカ]]
[[Image:Dien bien phu castor or siege deinterlaced.png|thumb|240px|[[ディエンビエンフーの戦い]]はじまる(1954年)。[[フランス]]は敗れ[[第一次インドシナ戦争]]の転換点となった]]
[[ファイル:Seikan Tunnel entrance - dual-gauge track.jpg|サムネイル|242x242ピクセル|青函トンネルが開業(1988)]]
[[ファイル:Shinkansen 800 series Tsubame Shiranui Sea.jpg|thumb|240px|九州新幹線が開業(2004)]]
* [[1623年]] - [[李氏朝鮮|朝鮮]]第15代国王・[[光海君]]が[[西人]]による変革[[クーデター]]により失脚・廃位。([[仁祖|仁祖反正]])
* [[1758年]] - [[フレンチ・インディアン戦争]]: [[かんじきの戦い (1758年)|かんじきの戦い]]でフランスが勝利。
* [[1781年]] - [[ウィリアム・ハーシェル]]が[[天王星]]を発見<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/60249 |title=3月13日 天王星の発見(1781年) |access-date=25 Mar 2023 |publisher=[[講談社]] |website=サイエンス365days |date=13 Mar 2019}}</ref>。
* [[1809年]] - [[第二次ロシア・スウェーデン戦争]]敗戦の責任を問われていた[[グスタフ4世アドルフ (スウェーデン王)|スウェーデン王グスタフ4世アドルフ]]が[[グリプスホルム城]]に幽閉され、王位を剥奪される。
* [[1845年]] - [[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の[[ヴァイオリン協奏曲 (メンデルスゾーン)|ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64]]が[[ライプツィヒ]]で初演される<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/topic/Violin-Concerto-in-E-Minor-Op-64 |title=Violin Concerto in E Minor, Op. 64|work by Mendelssohn |access-date=25 Mar 2023 |publisher=Britannica}}</ref>。
* [[1848年]] - [[1848年革命|オーストリア三月革命]]によって、オーストリア宰相[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]が失脚、ロンドンに[[亡命]]。
* [[1881年]]([[ユリウス暦]][[3月1日]]) - ロシア皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]が投げつけられた爆弾により[[アレクサンドル2世暗殺事件 (1881年)|暗殺]]される。
* [[1897年]] - [[サンディエゴ州立大学]]が創設される。
* [[1898年]] - [[ロシア社会民主労働党]]が初の党大会。
* [[1912年]] - [[ギリシア]]・[[ブルガリア]]・[[セルビア]]・[[モンテネグロ]]がロシア主導による反オーストリア同盟「[[バルカン同盟]]」を結成。
* [[1920年]] - [[ドイツ]]で[[カップ一揆]]が起こる。
* [[1921年]] - [[モンゴル人民革命党|モンゴル人民党]]がトロイツコサフスクでモンゴル臨時人民政府樹立。
* [[1933年]] - ドイツで[[国民啓蒙・宣伝省]]が発足、[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]が大臣に就任。
* [[1934年]] - [[新潟県]][[糸魚川市]]の姫川第六水力発電所工事現場にて[[雪崩]]が発生。9人死亡。
* [[1937年]] - [[大阪市立電気科学館]]に日本初の[[プラネタリウム]]が設置。
* [[1938年]] - [[ナチス・ドイツ]]によって[[オーストリア]]が併合。([[アンシュルス]])
* [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ソビエト連邦]]と[[フィンランド]]が[[モスクワ講和条約]]を締結し[[冬戦争]]が終結、フィンランドは国土の1割の割譲を余儀なくされる。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦・[[日本本土空襲]]: [[大阪市]]が初めて空襲される。([[大阪大空襲]])
* [[1949年]] - [[黒澤明]]監督の映画「[[静かなる決闘]]」が初公開<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/movie/14077/ |title=静かなる決闘 |publisher=[[映画.com]] |accessdate=25 Mar 2023}}</ref>。
* [[1954年]] - [[第一次インドシナ戦争]]: [[ディエンビエンフーの戦い]]が始まる。
* [[1957年]] - [[チャタレー事件|チャタレー裁判]]で最高裁が上告を棄却。訳者[[伊藤整]]と出版社社長の[[猥褻物頒布罪]]による有罪が確定。
* [[1964年]] - [[キティ・ジェノヴィーズ事件]]。[[ニューヨーク]]でキティ・ジェノヴィーズが自宅アパート前で殺害され、他の住人は被害者の叫び声を無視していた。この事件を機に[[傍観者効果]]が提唱される。
* [[1971年]] - この日限りで[[神戸市電]]の最後の区間・板宿 - 三宮阪神前間が廃止。
* [[1973年]] - [[上尾駅]]で[[上尾事件]]が発生。
* [[1977年]] - [[谷津遊園]]にコークスクリュータイプの[[ローラーコースター|ジェットコースター]]が営業開始。この後、遊園地の目玉アトラクションとして各地で導入へ。
* 1977年 - [[大山観光電鉄大山鋼索線]]の[[ケーブルカー]]が急停車したことにより12人が負傷。
* [[1979年]] - [[ヨーロッパ共同体]] (EC) で共通の通貨単位・[[欧州通貨単位]] (ECU) を導入。
* [[1983年]] - [[東北大学]]医学部で日本初の[[体外受精]]による[[妊娠]]が成功。10月に女児出産。
* [[1985年]] - 徳島県の[[日本国有鉄道|国鉄]][[小松島線]]がこの日限りで廃止。
* [[1987年]] - 鹿児島県の国鉄[[大隅線]]がこの日限りで廃止。
* [[1988年]] - [[青函トンネル]]開通。[[青函連絡船]]廃止。[[4月10日]]の[[瀬戸大橋]]開通と合わせ、「[[一本列島]]」と呼ばれることになる。
* 1988年 - 寝台特急「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」運転開始。豪華寝台特急の先駆けとなる。
* [[1989年]] - [[1989年3月の磁気嵐]]が発生。
* [[1990年]] - ソ連で[[ソビエト連邦共産党|共産党]]による[[一党独裁制|一党独裁]]を破棄し大統領制に移行。
* [[1996年]] - [[イギリス]]の[[スコットランド]]にある{{仮リンク|ダンブレーン小学校|en|Dunblane Primary School}}に男が侵入し、児童と教師合わせて16人を拳銃で殺害。
* 1996年 - [[大阪地方検察庁|大阪地検]]特捜部など、[[木津信用組合]]を背任などで捜査。
* [[1999年]] - [[東海道新幹線|東海道]]・[[山陽新幹線]]で[[新幹線700系電車|700系]]が営業運転に就く。同日、山陽新幹線に[[厚狭駅]]が設置される。
* [[2004年]] - [[九州旅客鉄道]][[九州新幹線]]・[[新八代駅]] - [[鹿児島中央駅]]間開業。これに伴い[[肥薩おれんじ鉄道]][[八代駅]] - [[川内駅 (鹿児島県)|川内駅]]間開業。
* [[2005年]] - この時期としては記録的に強い真冬並みの寒波が南下し、全国的に降雪。積雪も観測された。西日本では真冬以下の異常低温となった。特に[[鳥取市]]では51cmの積雪を観測し3月としては記録的な[[大雪]]となった。
* [[2007年]] - [[全日空機高知空港胴体着陸事故]]が発生。
* 2007年 - [[安倍晋三|安倍]][[内閣総理大臣|首相]]が、来日中の[[オーストラリア]][[ジョン・ハワード]]首相と、「安全保障協力に関する日豪共同宣言」に署名。日本が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]以外と[[安全保障]]の協力関係を結ぶのは、これが初めて。
* [[2008年]] - [[ニューヨーク・マーカンタイル取引所]]での[[金]]の価格が初めて1[[トロイオンス|オンス]]1000ドルに達する。
* 2008年 - [[あたご型護衛艦]]の2番「[[あしがら (護衛艦)|あしがら]]」が就役。
* [[ファイル:JRN PC24 HTS3 20061102 001.jpg|サムネイル|寝台特急「北斗星」運転開始(1988)・廃止(2015)]]2008年 - 円高が進み、[[東京外国為替市場]]で一時1ドル=100円を割りこむ。100円を下回ったのは[[1995年]]以来12年ぶり。
* [[2009年]] - 寝台特急「[[はやぶさ (列車)|はやぶさ]]」及び「[[富士 (列車)|富士]]」がこの日発の運行限りで廃止。東京・九州間の定期[[寝台列車]]、東京駅発着の[[ブルートレイン (日本)|ブルートレイン]]が消滅。
* [[2015年]] - 寝台特急「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」がこの日発の運行限りで廃止<ref>{{Cite web|和書|date=13 Mar 2015 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG13HFT_T10C15A3CC1000/ |title=寝台特急「北斗星」最後のまたたき ブルトレ60年の歴史に幕 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=25 Mar 2023}}</ref>。ブルートレインが完全に消滅。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[Image:Priestley.jpg|thumb|200px|[[化学者]][[ジョゼフ・プリーストリー]](1733-1804)、[[酸素]]の発見者]]
[[Image:Anton von Maron 006.png|thumb|200px|[[啓蒙専制君主]]の代表格、[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]](1741-1790)誕生]]
[[Image:James Curtis Hepburn.jpg|thumb|200px|宣教師[[ジェームス・カーティス・ヘボン]](1815-1911)誕生。[[明治学院大学|明治学院]]を設立したほか、ヘボン式[[ローマ字]]の創始者としても知られる]]
[[Image:Sanetomi Sanjo.jpg|thumb|200px|[[尊皇攘夷]]派の公家[[三条実美]](1837-1891)誕生]]
[[Image:Hugo Wolf.jpg|thumb|200px|[[後期ロマン派]]の作曲家[[フーゴ・ヴォルフ]](1860-1903)。歌曲を多く遺した]]
* [[1615年]] - [[インノケンティウス12世 (ローマ教皇)|インノケンティウス12世]]<ref>{{Cite web |title=Innocent XII {{!}} pope |url=https://www.britannica.com/biography/Innocent-XII |website=Britannica |access-date=25 Mar 2023}}</ref>、[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1700年]])
* [[1700年]] - [[ミシェル・ブラヴェ]]、[[フルート奏者]]、[[作曲家]](+ [[1768年]])
* [[1741年]] - [[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]、[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1790年]])
* [[1759年]]([[宝暦]]9年[[2月15日 (旧暦) |2月15日]]) - [[石川総博]]、第4代[[亀山藩|亀山藩主]](+ [[1819年]])
* [[1764年]] - [[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|チャールズ・グレイ]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[1845年]])
* [[1781年]] - [[カルル・フリードリッヒ・シンケル]]、[[建築家]](+ [[1841年]])
* [[1810年]] - [[グスタヴ・ヴィルヘルム・パルム]]、[[画家]](+ [[1890年]])
* [[1815年]] - [[ジェームス・カーティス・ヘボン]]、[[キリスト教]][[宣教師]]、[[学校法人明治学院|明治学院]]創設者(+ [[1911年]])
* [[1837年]]([[天保]]8年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]) - [[三条実美]]、[[政治家]](+ [[1891年]])
* [[1845年]] - [[ヤン・ボードゥアン・ド・クルトネ]]、[[言語学者の一覧|言語学者]](+ [[1929年]])
* [[1851年]]([[嘉永]]4年[[2月11日 (旧暦) |2月11日]]) - [[井伊直安]]、第10代[[与板藩|与板藩主]]・[[子爵]](+ [[1935年]])
* [[1853年]]([[嘉永]]6年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[金子堅太郎]]、[[官僚]]、[[政治家]](+ [[1942年]])
* [[1855年]] - [[パーシヴァル・ローウェル]]、[[天文学者]](+ [[1916年]])
* [[1860年]] - [[フーゴー・ヴォルフ]]、[[作曲家]](+ [[1903年]])
* [[1865年]] - [[広瀬久政]]、政治家(+[[1939年]])
* [[1877年]] - [[金光庸夫]]、[[政治家]](+ [[1955年]])
* [[1882年]] - [[松平慶民]]、元[[宮内大臣]](+ [[1948年]])
* [[1883年]] - [[高村光太郎]]、[[彫刻家]]、[[詩人]](+ [[1956年]])
* [[1886年]] - [[フランク・ベーカー (1886年生の内野手)|フランク・ベーカー]]、元プロ野球選手(+ [[1963年]])
* [[1888年]] - [[ポール・モラン]]、[[作家]]、[[外交官]](+ [[1976年]])
* [[1890年]] - [[フリッツ・ブッシュ]]、[[指揮者]](+ [[1951年]])
* [[1891年]] - [[仲井間宗一]]、弁護士、政治家(+[[1965年]])
* [[1895年]] - [[草葉隆圓]]、政治家(+[[1966年]])
* [[1897年]] - [[佐藤千夜子]]、[[歌手]](+ [[1968年]])
* [[1898年]] - [[ヘンリー・ハサウェイ]]、[[映画監督]](+ [[1985年]])
* [[1899年]] - [[ジョン・ヴァン・ヴレック]]、[[物理学者]](+ [[1980年]])
* [[1900年]] - [[ベーラ・グットマン]]、元[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]、指導者(+ [[1981年]])
* [[1902年]] - [[ハンス・ベルメール]]、画家、[[人形]]作家、[[写真家]](+ [[1975年]])
* [[1903年]] - [[小出保太郎]]、世界最高齢の男性(+ [[2016年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG19H7V_Z10C16A1CC0000/ |title=世界最高齢男性が死去 112歳の小出さん |access-date=25 Mar 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=19 Jan 2016}}</ref>)
* [[1906年]] - [[金井喜久子]]、作曲家(+ [[1986年]])
* [[1907年]] - [[ルードヴィッヒ・ビーアマン]]、[[宇宙物理学|宇宙物理学者]](+ [[1986年]])
* [[1908年]] - [[吉田法晴]]、政治家(+[[1981年]])
* [[1911年]] - [[L・ロン・ハバード]]、[[SF作家]](+ [[1986年]])
* 1911年 - [[国分一太郎]]、[[教育関係人物一覧|教育者]]、[[児童文学作家一覧|児童文学者]](+ [[1985年]])
* [[1912年]] - [[石野信一]]、元大倉事務次官、実業家(+[[1996年]])
* 1912年 - [[山路ふみ子]]、[[俳優|女優]](+ [[2004年]])
* [[1913年]] - [[石野信一]]、[[銀行家]](+ [[1996年]])
* [[1913年]] - [[ライトニン・スリム]]、ブルース・シンガー、ギタリスト(+ [[1974年]])
* 1913年 - [[江間章子]]、[[作詞家]]、詩人(+ [[2005年]])
* [[1917年]] - [[長田裕二]]、政治家(+ [[2003年]])
* [[1919年]] - [[菅井汲]]、画家、[[版画家]](+ 1996年)
* [[1923年]] - [[大山康晴]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](+ [[1992年]])
* [[1924年]] - [[滝口康彦]]、作家(+ [[2004年]])
* 1924年 - [[榎本美佐江]]、歌手、女優(+[[1998年]])
* [[1925年]] - [[ジョン・テイト]]、[[数学者]](+ [[2019年]])
* 1925年 - [[ロイ・ヘインズ]]、[[ジャズ]][[音楽家|ミュージシャン]]
* [[1926年]] - [[藤田田]]、実業家、[[日本マクドナルド]]創業者(+ [[2004年]])
* [[1928年]] - [[西原春夫]]、法学者(+[[2023年]])
* [[1930年]] - [[ダグ・ハーヴェイ (審判員)|ダグ・ハーヴェイ]]、[[メジャーリーグ]]審判(+ [[2018年]])
* [[1931年]] - [[篠田守男]]、[[彫刻家]]
* [[1932年]] - [[クロード・トーマス・スミス]]、作曲家(+ [[1987年]])
* [[1933年]] - [[ロベルト・バルボン]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2023年]])
* 1933年 - [[宮川淳]]、[[美術評論家]](+ [[1977年]])
* [[1934年]] - [[宇野亜喜良]]、[[イラストレーター]]
* [[1937年]] - [[石垣泰司]]、外務官僚
* [[1938年]] - [[栃ノ海晃嘉]]、元[[大相撲]][[力士]]、第49代[[横綱]](+ [[2021年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202101290000306.html |title=元横綱栃ノ海が死去 小兵の技巧派横綱として活躍 |access-date=25 Mar 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=29 Jan 2021}}</ref>)
* [[1939年]] - [[池田鴻]]、歌手(+ [[1988年]])
* 1939年 - [[石井義信]]、元[[サッカー選手]]、指導者(+ [[2018年]]<ref name="sponichi">{{Cite web|和書|title=サッカー元日本代表監督の石井義信さん死去 86〜87年に指揮 |date=27 Apr 2018 |url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2018/04/27/kiji/20180427s00002014241000c.html |accessdate=25 Mar 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex}}</ref>)
* 1939年 - [[ニール・セダカ]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1940年]] - [[福永嫮生]]、[[満州国]]皇帝[[愛新覚羅溥儀]]の姪
* 1940年 - [[ジャクリーヌ・ササール]]、女優
* [[1941年]] - [[マフムード・ダルウィーシュ]]、詩人(+ [[2008年]])
* [[1942年]] - [[児玉弘義]]、元プロ野球選手(+ [[2009年]])
* 1942年 - [[秋竜山]]、[[漫画家]](+[[2023年]])
* 1942年 - [[スキャットマン・ジョン]]、ミュージシャン(+ [[1999年]])
* 1942年 - [[デヴィッド・カトラー]]、[[コンピュータ技術者]]
* [[1943年]] - [[豊岡武士]]、政治家
* 1943年 - [[玉木宏樹]]、作曲家、ヴァイオリニスト(+ [[2012年]])
* 1943年 - [[アンドレ・テシネ]]、映画監督
* [[1945年]] - [[吉永小百合]]、女優
* 1945年 - [[井狩春男]]、[[エッセイスト]]
* 1945年 - [[山根義紘]]、テレビプロデューサー、実業家(+ [[2008年]])
* 1945年 - [[アナトリー・フォメンコ]]、[[数学者]]
* [[1946年]] - [[ヨナタン・ネタニヤフ]]、[[軍人]](+ [[1976年]])
* [[1947年]] - [[今里良三]]、元ラグビー選手・監督
* [[1948年]] - [[大和和紀]]、漫画家
* [[1949年]] - [[エミー・ヴェルヘイ]]、[[ヴァイオリニスト]]
* 1949年 - [[風戸裕]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]](+ [[1974年]])
* 1949年 - [[高木由一]]、元プロ野球選手
* [[1951年]] - [[三浦善功]]、実業家、元[[日清食品|日清食品株式会社]]会長
* [[1952年]] - [[ヴォルフガング・リーム]]、作曲家
* [[1953年]] - [[松村潔]]、占い師(占星術)
* [[1954年]] - [[ランディ・バース]]、元プロ野球選手
* [[1955年]] - [[今邑彩]]、[[小説家]](+ [[2013年]])
* 1955年 - [[ブルーノ・コンティ]]、元サッカー選手、指導者
* [[1956年]] - [[佐野元春]]、ミュージシャン
* [[1957年]] - [[高橋慶彦]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://sp.baseball.findfriends.jp/player/高橋慶彦/ |title=高橋慶彦 |access-date=25 Mar 2023 |publisher=[[週刊ベースボール]]ONLINE}}</ref>、元プロ野球選手
* 1957年 - [[種橋牧夫]]、実業家
* [[1958年]] - [[田中義剛]]、[[タレント]]、実業家
* [[1959年]] - [[千年屋俊幸]]、アナウンサー
* 1959年 - [[グレッグ・ノートン (ミュージシャン)|グレッグ・ノートン]]、ミュージシャン
* [[1960年]] - [[コロッケ (タレント)|コロッケ]]、[[お笑いタレント]]
* 1960年 - [[増岡浩]]、ラリードライバー
* 1960年 - [[ジョー・ランフト]]、アニメーター、声優(+ [[2005年]])
* 1960年 - [[アダム・クレイトン]]、[[ベーシスト]]([[U2]])
* [[1961年]] - [[島田雅彦]]、小説家
* [[1962年]] - [[沢田聖子]]、[[歌手]]
* 1962年 - [[テレンス・ブランチャード]]、トランペット奏者、作曲家
* 1962年 - [[見澤譲治]]、元騎手
* [[1963年]] - [[栗山和樹]]、作曲家、編曲家
* 1963年 - [[舘正貴]]、[[俳優]](+ [[2018年]])
* 1963年 - [[マリアーノ・ダンカン]]、元プロ野球選手
* 1963年 - [[横山紳]]、官僚
* [[1964年]] - [[吹田明日香]]、タレント
* 1964年 - [[信本敬子]]、脚本家(+ [[2021年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20211214-UORYHWL2IVKYFKNYYF3ZEY5OEM/ |title=脚本家、信本敬子さん死去 57歳 「白線流し」「カウボーイビバップ」など |access-date=25 Mar 2023 |publisher=[[サンケイスポーツ]] |date=14 Dec 2021}}</ref>)
* [[1965年]] - [[鳥居かほり]]、タレント、女優
* [[1966年]] - [[今田耕司]]、お笑いタレント
* 1966年 - [[中田なおき]]、お笑いタレント
* 1966年 - [[AKIRA (プロレスラー)|AKIRA]]、[[プロレスラー]]、俳優
* [[1967年]] - [[アンドレス・エスコバル]]、サッカー選手(+ [[1994年]])
* 1967年 - [[田渕正浩]]、[[AV男優]]
* [[1968年]] - [[DJ DRAGON]]、[[DJ]] 、ミュージシャン
* 1968年 - [[奥井雅美]]、シンガーソングライター
* 1968年 - [[清山宏明]]、元[[騎手]]、[[調教助手]]
* [[1969年]] - [[船木誠勝]]、[[格闘家]]
* 1969年 - [[高橋義生]]、格闘家
* 1969年 - [[三和英樹]]、競輪選手
* 1969年 - [[ルカ・ブッチ]]、サッカー選手
* 1969年 - [[加地倫三]]、[[テレビプロデューサー]]
* [[1971年]] - [[顔田顔彦]]、俳優
* 1971年 - [[西野努]]、元サッカー選手
* 1971年 - [[アラン・ニールセン]]、元サッカー選手
* [[1972年]] - [[コモン]]、[[ラッパー]]、俳優
* [[1973年]] - [[エドガー・ダーヴィッツ]]、元サッカー選手、指導者
* 1973年 - [[白井暁彦]]、[[メディアアート]]研究者
* [[1974年]] - [[稲葉貴子]]、歌手、タレント(元[[太陽とシスコムーン]])
* 1974年 - [[戸田菜穂]]、女優
* 1974年 - [[鈴里真帆]]、歌手
* [[1975年]] - [[ケンジ・シラトリ]]、[[作家]]
* [[1976年]] - [[大橋慶三]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]、作家
* [[1977年]] - [[小渕健太郎]]、ミュージシャン([[コブクロ]])
* 1977年 - [[桑田尚樹]]、俳優、[[ファッションモデル]]
* 1977年 - [[前田瑠美]]、歌手、空手家
* [[1978年]] - [[山田玲奈]]、タレント、[[気象予報士]]
* 1978年 - [[建みさと]]、女優
* [[1979年]] - [[菅井悦子]]、ファッションモデル
* 1979年 - [[ヨハン・サンタナ]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[陳怡蓉]]、女優
* [[1980年]] - [[カロン・バトラー]]、[[バスケットボール選手]]
* [[1982年]] - [[羽多野渉]]、声優
* [[1983年]] - [[桜井良太]]、バスケットボール選手
* [[1984年]] - [[南里侑香]]、声優、歌手([[FictionJunction YUUKA]])
* 1984年 - [[喜屋武ちあき]]、[[グラビアアイドル]]
* 1984年 - [[坂東慧子]]、競艇選手
* 1984年 - [[廣瀬浩二]]、元サッカー選手
* 1984年 - [[河住一仁]]、元サッカー選手
* 1984年 - [[デニス・スアレス]]、プロ野球選手
* [[1985年]] - [[藤本貴大]]、スピードスケート選手
* 1985年 - [[千々波英明]]、元ハンドボール選手
* 1985年 - [[エミール・ハーシュ]]、俳優
* [[1986年]] - [[米原幸佑]]、俳優、タレント
* 1986年 - [[大東駿介]]、俳優、モデル
* 1986年 - [[流石組レイナ]]、元子役、元ダンサー
* 1986年 - [[鳴海杏子]]、声優
* 1986年 - [[菅原沙樹]]、ファッションモデル
* 1986年 - [[上里一将]]、サッカー選手
* 1986年 - [[清水聡 (ボクサー)|清水聡]]、アマチュアボクサー
* [[1987年]] - [[横田沙夜]]、画家
* 1987年 - [[アナスタシア・ゴルシュコワ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1988年]] - [[加藤美穂]]、元グラビアアイドル
* 1988年 - [[平田ブルーノ]]、元[[野球選手]]
* 1988年 - [[ジェイソン・ロジャース (野球)|ジェイソン・ロジャース]]、プロ野球選手
* [[1989年]] - [[マーガリン (タレント)|マーガリン]]、[[ローカルタレント]]
* 1989年 - [[ホルガー・バトシュトゥバー]]、[[プロサッカー選手]]
* [[1990年]] - [[秋山拓也]]、俳優
* [[1991年]] - [[夏目鈴]]、女優
* 1991年 - [[梅村妃奈子]]、声優、ミュージシャン(元[[SILENT SIREN|Silent Siren]])
* 1991年 - [[エディ・バトラー]]、プロ野球選手
* 1992年 - エル、俳優、アイドル([[INFINITE]])
* [[1993年]] - [[星野大地]]、元プロ野球選手
* [[1994年]] - 佐々木萌、ミュージシャン([[エドガー・サリヴァン]])
* 1994年 - [[ジェラール・デウロフェウ]]、サッカー選手
* 1994年 - [[中島健人]]、俳優、アイドル([[Sexy Zone]])
* [[1995年]] - [[秋元龍太朗]]、モデル
* 1995年 - [[稲井桃子]]、バスケットボール選手
* [[1997年]] - [[土井暉仁]]、ラグビー選手
* 1997年 - [[雷挺婕]]、[[チェス]][[チェスプレーヤーの一覧|プレーヤー]]
* [[1998年]] - [[福山康平]]、俳優
* 1998年 - [[ジャック・ハーロウ]]、[[MC (ヒップホップ)|ラッパー]]
* [[1999年]] - [[佐藤輝明]]、プロ野球選手
* [[2000年]] - [[NOA (ミュージシャン)|NOA]]、ミュージシャン、シンガーソングライター
* [[2002年]] - [[佐野晶哉]]、アイドル([[ジャニーズJr.]]、[[Aぇ! group]])
* [[2003年]] - [[茜空 (歌手)|茜空]]、アイドル([[ukka]])
* 2003年 - 片岡成美、元アイドル([[SKE48]])
* [[2004年]] - [[寺田陽菜]]、元アイドル([[NGT48]])
* 2004年 - [[安井南]]、女優
* 生年不明 - [[星崎龍]]、漫画家、イラストレーター
* 生年不明 - [[春井柚佳]]、声優
* 生年不明 - [[香里有佐]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aoni.co.jp/search/kori-arisa.html |title=香里 有佐 |publisher=[[青二プロダクション]] |accessdate=25 Mar 2023}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[安達貴英]]、声優
* 生年不明 - [[橋本和 (声優)|橋本和]]、声優
* 生年不明 - [[森千早都]]、声優、歌手
* 生年不明 - [[み〜こ]]、歌手、作詞家、声優
* 生年不明 - 水穂豊、女優
* 生年不明 - 南美千子、女優
* 生年不明 - 桜万知子、女優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1960年]] - [[メイズイ]]、[[競走馬]]、[[種牡馬]](+ [[1978年]])
* [[1981年]] - [[シンボリルドルフ]]、競走馬、種牡馬(+ [[2011年]])
* [[1996年]] - [[テイエムオペラオー]]、競走馬、種牡馬(+ [[2018年]])
== 忌日 ==
[[Image:Attentat mortal Alexander II (1881).jpg|thumb|300px|ロシア皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]](1818-1881)、暗殺される]]
[[Image:Japanese Woman by Ragusa 1881.jpg|thumb|240px|彫刻家[[ヴィンチェンツォ・ラグーザ]](1841-1927)没。明治初期の日本で彫刻を教えた。画像は『日本婦人』(1881)]]
[[Image:KarlHaushofer.jpg|thumb|200px|[[地政学]]の創始者の1人、[[カール・ハウスホーファー]](1869-1946)自殺]]
[[Image:Tamiki Hara.jpg|thumb|200px|[[原民喜]](1905-1951)、[[西荻窪駅]]にて鉄道自殺]]
*[[729年]]([[神亀]]6年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - [[小治田安麻呂]]、[[貴族]]
*[[1097年]]([[承徳]]元年[[閏]][[1月27日 (旧暦)|1月27日]]) - [[源頼綱]]、[[武将]]、[[歌人]](* [[1025年]])
*[[1164年]]([[長寛]]2年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]) - [[藤原忠通]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[1097年]])
*[[1490年]] - [[カルロ1世・ディ・サヴォイア|カルロ1世]]、[[サヴォイア公国|サヴォイア公]](* [[1468年]])
*[[1516年]] - [[ウラースロー2世 (ハンガリー王)|ウラースロー2世]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/ウラディスラフ2世ヤゲロウェツ-35322 |title=ウラディスラフ2世ヤゲロウェツ |publisher=コトバンク |accessdate=25 Mar 2023 |work=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説}}</ref>、[[ボヘミア]]王(* [[1456年]])
*[[1711年]] - [[ニコラ・ボアロー=デプレオー]]、[[詩人]]、[[文芸評論家]](* [[1636年]])
*[[1807年]] - [[ニコライ・レザノフ]]、[[外交官]](* [[1764年]])
*[[1808年]] - [[クリスチャン7世 (デンマーク王)|クリスチャン7世]]、[[デンマーク]]王(* [[1749年]])
*[[1839年]]([[天保]]10年[[閏]][[1月28日 (旧暦)|1月28日]]) - [[鍋島斉直]]、第9代[[佐賀藩|佐賀藩主]](* [[1780年]])
*[[1845年]] - [[ジョン・フレデリック・ダニエル]]、[[化学者]]、[[物理学者]](* [[1790年]])
*[[1857年]] - [[ウィリアム・アマースト (初代アマースト伯爵)]]、[[外交官]](* [[1773年]])
*[[1858年]] - [[フェリーチェ・オルシーニ]]、[[カルボナリ]]の活動家(* [[1819年]])
*[[1879年]] - [[アドルフ・アンデルセン]]、[[チェス]]選手(* [[1818年]])
*[[1881年]] - [[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]、[[ロマノフ朝]]第12代[[ロシア君主一覧|ロシア皇帝]](* [[1818年]])
*[[1884年]] - [[アレクサンデル・レッセル]]、画家、美術批評家(* [[1814年]])
*[[1892年]] - [[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン大公)|ルートヴィヒ4世]]、[[ヘッセン大公国]]第4代[[大公]](* [[1837年]])
*[[1901年]] - [[ベンジャミン・ハリソン]]、第23代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1833年]])
*[[1906年]] - [[スーザン・B・アンソニー]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[女性参政権]]運動指導者(* [[1820年]])
*1906年 - [[ジョゼフ・モニエ]]、発明家(* [[1823年]])
*[[1912年]] - [[西徳二郎]]、第12・13代[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]、[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]](* [[1847年]])
*[[1927年]] - [[ヴィンチェンツォ・ラグーザ]]、[[彫刻家]](* [[1841年]])
*[[1929年]] - [[シェリー・マギー]]、プロ野球選手(* [[1884年]])
*[[1933年]] - [[ロバート・イネス]]、[[天文学者]](* [[1861年]])
*[[1939年]] - [[リュシアン・レヴィ=ブリュール]]、[[哲学|哲学者]]、[[社会学者の一覧|社会学者]]、[[文化人類学|文化人類学者]](* [[1857年]])
*[[1940年]] - [[永井建子]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]第6代[[軍楽隊|軍楽隊長]]、[[作曲家]](* [[1865年]])
*1940年 - [[山室軍平]]、[[救世軍|日本救世軍]]創始者(* [[1872年]])
*[[1946年]] - [[カール・ハウスホーファー]]、[[地政学|地政学者]](* [[1869年]])
*[[1947年]] - [[坂井徳章]](台湾名:湯徳章)、警察官、弁護士(* [[1907年]])
*[[1949年]] - [[アンリ・ジロー]]、[[軍人]](* [[1879年]])
*[[1951年]] - [[志田鉀太郎]]、[[法学者]](* [[1865年]])
*1951年 - [[原民喜]]、[[小説家]]、[[詩人]](* [[1905年]])
*[[1952年]] - [[福来友吉]]、[[心理学者]](* [[1869年]])
*[[1965年]] - [[コッラド・ジニ]]、[[統計学|統計学者]]、社会学者(* [[1884年]])
*[[1966年]] - [[新井紀一]]、小説家(* [[1890年]])
*[[1972年]] - [[宮内三朗]]、[[政治家]](* [[1889年]])
*[[1975年]] - [[イヴォ・アンドリッチ]]、小説家、外交官(* [[1892年]])
*[[1976年]] - [[重宗雄三]]、第8-10代[[参議院議長]]、第27代[[運輸大臣]]、[[実業家]](* [[1894年]])
*[[1979年]] - [[藤浦洸]]、[[作詞家]]、詩人(* [[1898年]])
*[[1980年]] - [[梅根悟]]、[[教育学|教育学者]](* [[1903年]])
*[[1987年]] - [[ジェラルド・ムーア]]、[[ピアニスト]](* [[1899年]])
*[[1989年]] - [[嵯峨善兵]]、[[俳優]](* [[1909年]])
*1989年 - [[亀岡高夫]]、[[政治家]](* [[1920年]])
*[[1990年]] - [[ブルーノ・ベッテルハイム]]、[[精神医学|精神医学者]](* [[1903年]])
*[[1991年]] - [[カール・ミュンヒンガー]]、[[指揮者]](* [[1915年]])
*[[1996年]] - [[クシシュトフ・キェシロフスキ]]、[[映画監督]](* [[1941年]])
*1996年 - [[アンドレアス・ムンツァー]]、[[ボディビルダー]](* [[1966年]])
*[[1997年]] - [[葦原邦子]]、[[俳優|女優]](* [[1912年]])
*[[1998年]] - [[徳久利明]]、[[プロ野球選手]](* [[1942年]])
*1998年 - [[ハンス・フォン・オハイン]]、航空エンジニア(* [[1911年]])
*1998年 - [[加太こうじ]]、[[評論家]]、庶民文化研究家(* [[1918年]])
*[[2000年]] - [[吉尾弘]]、[[登山家]](* [[1937年]])
*[[2001年]] - [[佐藤竹秀]]、プロ野球選手(* [[1947年]])
*[[2002年]] - [[ハンス・ゲオルク・ガダマー]]、[[哲学|哲学者]](* [[1900年]])
*[[2003年]] - [[ルートヴィヒ・シュトライヒャー]]、[[コントラバス]]奏者(* [[1920年]])
*[[2005年]] - [[長尾雅人]]、[[仏教学者]]、[[チベット]]学者(* [[1907年]])
*2005年 - [[平義久]]、作曲家(* [[1937年]])
*2005年 - [[仲川翠]]、プロ野球選手(* [[1924年]])
*[[2006年]] - [[モーリン・ステイプルトン]]、女優(* [[1925年]])
*2006年 - [[北村協一]]、[[指揮者]](* [[1931年]])
*[[2007年]] - [[アーノルド・スコーラン]]、[[プロレスラー]](* [[1925年]])
*[[2008年]] - [[梁瀬次郎]]、[[ヤナセ]]名誉会長(* [[1916年]])
*2008年 - [[スカーレット・ガルシア]]、モデル(* [[1985年]])
*[[2009年]] - [[アンドリュー・テスト・マーチン]]、プロレスラー(* [[1975年]])
*[[2014年]] - [[アフマド・テジャン・カバー]]、[[シエラレオネの元首|シエラレオネ大統領]](* [[1932年]])
*[[2015年]] - [[:en:Daevid Allen|デヴィッド・アレン]]、ミュージシャン(* [[1938年]])
*2015年 - [[アル・ローゼン]]、プロ野球選手(* [[1924年]])
*[[2016年]] - [[上田正昭]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1927年]])
*2016年 - [[出目昌伸]]、[[映画監督]](* [[1932年]])
*[[2018年]] - [[内田康夫]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2018/03/18323930.html?p=all |title=内田康夫さん死去、83歳 浅見光彦シリーズで大人気 |access-date=25 Mar 2023 |publisher=J-CAST ニュース |date=18 Mar 2018}}</ref>、[[推理作家]](* [[1934年]])
*[[2020年]] - [[草場良八]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57052260Q0A320C2CZ8000/ |title=草場良八氏が死去 元最高裁長官 |access-date=25 Mar 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=21 Mar 2020}}</ref>、第12代[[最高裁判所長官]](* [[1925年]])
*[[2022年]] - [[和田明広]] 、[[実業家]](* [[1934年]])
*2022年 - [[安田賢治]]、教育ジャーナリスト(* [[1956年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[春日大社|春日祭]]({{JPN}}[[奈良市]][[春日大社]])
* [[新選組]]の日({{JPN}})
*: [[東京都]][[日野市]]観光協会が制定。[[文久]]3年([[1863年]])旧暦[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]、京都・壬生に詰めていた新選組の前身「[[壬生浪士|壬生浪士組]]」に、会津藩主で[[京都守護職]]の[[松平容保]]から会津藩預りとする連絡が入り、新選組が正式に発足した。
* 青函トンネル開業記念日({{JPN}})
*: [[1988年]]のこの日、[[青函トンネル]]を通るJR[[津軽海峡線]]が開業した。
* [[サンドイッチ]]デー({{JPN}})
*: 数字の3(サン)が1(イチ)を挟んでいることから。
* 正義と勇気の記念日({{lang-zh-tw|正義與勇氣紀念日}}、{{TWN}}[[台南市]])
*: 上記坂井德章の行為と精神を称えるために2014年に制定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.taiwantoday.tw/news.php?unit=148,149,150,151,152&post=233442 |title=228事件から76年、蔡英文総統が記念式典に出席 |date=1 Mar 2023 |accessdate=25 Mar 2023 |publisher=中華民国(台湾)外交部 |website=Taiwan Today}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0313|date=2023年3月}}
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1969年]] - キース・ウェイン、ゲーム『[[豪血寺一族]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/vc/vc_gkt/vc_gkt_06.html |title=キャラクター紹介 キース ウェイン |access-date=2023-01-28 |publisher=[[任天堂]] |work=『VC 豪血寺一族』}}</ref>
*[[1981年]] - [[朝おき太]]、[[朝日放送テレビ]]『[[おはよう朝日です]]』のキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.co.jp/ohaasa/week/cast/index.html |title=出演者 エレクトーンお天気キャスターキャラクター 朝おき太 |access-date=2023-01-28 |publisher=ABC TV}}</ref>
* [[1984年]] - 篁唯依、小説・アニメ・ゲーム『[[マブラヴ オルタネイティヴ トータル・イクリプス]]』に登場するキャラクター
* [[2283年]] - リーアベルト・フォン・ノイエシュタイン、ゲーム『[[銀河お嬢様伝説ユナ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/softinfo/yuna3/char/lia.html|title=銀河お嬢様伝説ユナ:キャラクター紹介:リア|date=20100923224347}}</ref>
* 生年不明 - 荒城幸也、アニメ『[[W'z《ウィズ》]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=http://wz-anime.net/character/ |title=CHARACTER ユキヤ(荒城幸也) |work=『W'z《ウィズ》』 |accessdate=2023-01-28 |publisher=GoHands,Frontier Works/W'z-Project}}</ref>
* 生年不明 - 芙羽ここね、アニメ『[[デリシャスパーティ♡プリキュア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/delicious-party_precure/character/chara2.php |title=キュアスパイシー / 芙羽ここね |publisher=ABC-A・[[東映アニメーション]] |accessdate=2023-01-28 |work=『デリシャスパーティ♡プリキュア』}}</ref>
* 生年不明 - 仙石原三香沙、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/sengokuhara_mikasa |title=神奈川 仙石原 三香沙 |work=『温泉むすめ』 |accessdate=2023-01-28 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT}}</ref>
* 生年不明 - ラフィット、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Lafitte.html |title=ラフィット |work=『ONE PIECE』 |accessdate=2023-01-28 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - ウンケイ、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - カイケイ、漫画・アニメ『銀魂』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 理石平介、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|date=2018-04-04|title=ハイキュー!!||publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088813783|volume=31巻|page=66}}</ref>
* 生年不明 - 山本あかね、漫画・アニメ『ハイキュー!!』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|date=2016-07-04 |title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088807447|volume=22巻|page=26}}</ref>
* 生年不明 - 狂骨、漫画・アニメ『[[ぬらりひょんの孫]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 蹉跎椿、漫画・アニメ『[[双星の陰陽師]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ハイドラ、漫画・アニメ『[[円盤皇女ワるきゅーレ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 保登モカ、漫画・アニメ『[[ご注文はうさぎですか?]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|usagi_anime|1105483588777185280}}</ref>
* 生年不明 - 神原弥生、小説・アニメ『[[境界の彼方]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://tv.anime-kyokai.com/character/yayoi/ |title=神原弥生 |work=『境界の彼方』 |accessdate=2023-01-28 |publisher=[[鳥居なごむ]]・[[京都アニメーション]]/境界の彼方製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - メイズ、アニメ『[[ファイ・ブレイン 神のパズル]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 王大河、アニメ『[[ガールズ&パンツァー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|oaraitourist|973360104983560192}}</ref>
* 生年不明 - クラルス・トニトルス、アニメ『[[装神少女まとい]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 真宮寺若菜、ゲーム・アニメ『[[サクラ大戦]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ファイブワット、ゲーム『[[メイド イン ワリオシリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=ナインボルトの『日記公開!』その1 |url=https://www.nintendo.co.jp/n08/azwj/9volt/diary.html |accessdate=2023-01-28 |publisher=ワリオカンパニー}}</ref>
* 生年不明 - 来ヶ谷唯湖、ゲーム『[[リトルバスターズ!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#堀裕子|堀裕子]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20145 |title=堀 裕子(ほり ゆうこ) |access-date=2023-01-28 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 丸地にころ、ゲーム『[[ステーションメモリーズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ekimemo|1370532560850194434}}</ref>
* 生年不明 - 指宿おとめ、ゲーム『ステーションメモリーズ!』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ekimemo|1370533315145388033}}</ref>
* 生年不明 - ユーノ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=158&cate=name&cont=Juno |title=ユーノ |access-date=2023-01-28 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - フォレオ、ゲーム『[[ファイアーエムブレムif]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - King、ゲーム・アニメ『[[DYNAMIC CHORD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |title=King |url=https://www.honeybee-cd.com/dynamic/artist/reve_mem.html |accessdate=2023-01-28 |work=『DYNAMIC CHORD』 |publisher=}}</ref>
* 生年不明 - シンボリルドルフ、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=symbolirudolf |title=シンボリルドルフ |publisher=[[Cygames]] |accessdate=2028-01-28 |website=『ウマ娘 プリティーダービー』}}</ref>
* 生年不明 - テイエムオペラオー、ゲーム・アニメ『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=tmoperao |title=テイエムオペラオー |publisher=[[Cygames]] |accessdate=2028-01-28 |website=『ウマ娘 プリティーダービー』}}</ref>
* 生年不明 - ホロウ、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yumekuro.com/character/meister/nijinokanata/hollow/ |title=ホロウ |access-date=2023-01-28 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|3|12|3|14|[[2月13日]]|[[4月13日]]|[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]|0313|3|13}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8813%E6%97%A5 |
3,558 | PHP (プログラミング言語) | ■カテゴリ / ■テンプレート
PHP(ピー・エイチ・ピー)は、 "The PHP Group" によってコミュニティベースで開発されているオープンソースの汎用プログラミング言語およびその公式の処理系であり、特にサーバーサイドで動的なウェブページを作成するための機能を多く備えていることを特徴とする。 名称の PHP は再帰的頭字語として、 "PHP: Hypertext Preprocessor" を意味するとされており、「PHPはHTMLのプリプロセッサである」とPHP自身を再帰的に説明している。
PHPはラスマス・ラードフが個人的にCで開発していたCGIプログラムである "Personal Home Page Tools" (短縮されて "PHP Tools" と呼ばれていた)を起源とする。 元々はラードフ自身のWebサイトで簡単な動的Webページを作成するために用いられていたが、その後データベースへのアクセス機能などを追加したPHP Toolsを1995年にGPLの下で公開した。 オープンソースライセンスの下で公開されたことにより同ツールの利用者が増加し、機能の追加を行う開発者たちの貢献もあって、幾度かの大きなバージョンアップを経て今日に至っている。 PHPの再帰的頭字語が PHP: Hypertext Preprocessor となったのは2017年現在の文法の基礎が確立したPHP 3からである。
先に述べたように、PHPは動的なWebページを生成するツールを起源としているため、公式の処理系にはWebアプリケーション開発に関する機能が豊富に組み込まれている。 元々PHPはプログラミング言語と言えるものではなく、単にテンプレート的な処理を行うだけであったが、度重なる機能追加やコードの書き直しにより、2017年現在リリースされているPHP 5やPHP 7は目的によらず汎用的に使うことの出来るスクリプト言語となっている。 特にApache HTTP ServerやnginxといったWebサーバーソフトウェアから動作させるスクリプト言語として選択されてサーバーサイドWebアプリケーション開発に利用されることが多い。
プログラミング言語としてのPHPは、CやPerl, Javaなどのプログラミング言語に強く影響を受けており、これらの言語に近く学習しやすい文法を有する。 組み込み関数についてもこれらの言語から直接輸入されたものも多く、関数名を変えずにそのまま取り込んだことで標準関数の命名規則が一貫していないといった問題も有している。 またC由来のヌル終端文字列とヌル文字を含むことを許容する文字列とが併存し、関数によってどちらを取り扱うかが異なっていたために深刻なセキュリティ上の問題を起こしたこともある。
PHPで書かれたライブラリは、PEARを利用してシステムワイドにインストールしたりユーザ単位で利用することが多かったが、2012年にRubyのパッケージ管理ツールであるRubyGems及び依存関係管理ツールbundler、Node.jsのnpmに影響を受けて開発されたComposerが公開されたことにより、パッケージリポジトリPackagistに登録されたライブラリをプロジェクト単位で利用することが容易になった。
PHP製のWebアプリケーションフレームワークが増加したことにより、それらが提供するロガーやHTTPリクエストハンドラなどといった共通の機能を実装するコードの再利用性を高めるため、2010年頃にフレームワーク開発者などが集まってPHP Standard Groupを立ち上げた。 PHP Standard Groupはその後PHP-FIG (Framework Interoperability Group)に改称し、クラスオートローディングの規格やコーディング規約などの推奨される標準規格、PSR (PHP Standards Recommendations)の策定を行っている。
プログラミング言語としてのPHPはCやPerlなどの影響を強く受けており、同じくこれらに影響を受けたRubyやPythonと比較してよりCそのままに近い制御構文を有している。 またクラスやインターフェイスといったオブジェクト指向構文はC++よりJavaに近いものが採用されている。 文法の近さによって利用者の多いCやJavaからPHPを学んだり、その逆も行いやすいことは言語の学習コストの面からは大きな利点である。
PHPによるHello worldの最も簡単な実装は、単にテキストファイルとして「Hello world」を記述するだけでよい。
PHPはテキストファイルにHTMLタグのように埋め込んで書き、それ以外の部分はそのまま出力されるため、上記は(プログラムとして実行される部分は存在しないものの)正しく処理系によって認識されて「Hello world!」を出力する。 もう少しプログラムらしい書き方をすれば次のような記述が出来る。
PHPの処理系はPHPタグ<?php ?>で囲われた部分を解釈・実行し、その外側の部分はそのまま文字列として出力する。 単純にデータを出力する場合にはPHPタグを<?= ?>と略記することが可能であり、更にPHPタグがファイルの末尾にある場合はファイル末尾の空白や改行の影響を避けるためにPHPタグを閉じないことが推奨されるので、次のように書いても同じ結果が得られる。
次のように、数値として「 5+2 」を行うと7が出力される。ただし「5+2」をシングルクォーテーションやダブルクォーテーションで囲むと、文字列と解釈されてそのまま出力される。
プログラミング言語としてのPHPを実行するための The PHP Group による公式な処理系の実装も、プログラミング言語としてのPHPと区別されることなく PHP と呼ばれる。 2014年頃までプログラミング言語としてのPHPには規格などが存在しなかったため、公式の処理系の実装およびマニュアルの記述がその代わりとなっていた。 2018年1月現在では、作業中となっているが、プログラミング言語としての仕様は処理系の実装と分かれて文書化されている。
この実装はCで書かれており、PHP LicenseおよびZend Engine Licenseの下で公開されている自由なソフトウェアである。 PHP4以降において、プログラミング言語としてのPHPを解釈・実行するエンジンとしてZend Engineが使用されており、PHP5よりZend Engine 2、PHP7ではZend Engine 3へと順次バージョンアップされている。 Zend EngineはPHP 3の主要な開発者であるアンディ・ガトマンズおよびゼーブ・スラスキー(後にZend Technologies Ltd.を設立)により設計・開発されたスクリプト言語エンジンであり、現在はThe PHP GroupによりPHPと共に開発されている。 Zend Engineは1つのプロセスが1つのインタプリタのコンテキストを持つように設計されていて、単独ではマルチスレッドを用いた処理をサポートしていない。 PHPはそのソースコードのほとんどがPHP Licenseの下でリリースされるが、Zend EngineのコードについてはZend Engine Licenseが適用される。
実際のPHPの構成はZend Engineに加え、PHPの組み込み関数の実装、Webサーバや標準入出力とスクリプティングエンジンの間を仲介するSAPI (Server API) レイヤ、マルチスレッドで動くWebサーバのモジュールとして利用される場合にグローバル変数のセマンティクスを提供するTSRM (Thread Safe Resource Manager)、プラットフォーム間での入出力機構やAPIの差異を吸収するStreamsレイヤを含む。 一部の組み込み関数はプラットフォームごとに挙動が違うため、スクリプトによっては移植作業が必要になる場合がある。
公式の処理系に対して、CやC++で記述された拡張ライブラリを提供する PECL (The PHP Extension Community Library) というプロジェクトが存在する。 基本的にPECLのライブラリは標準ではPHPに組み込まれてはいないものが多いが、PECLで開発されていたライブラリがPHPの本体に標準でバンドルされるようになったり(PDO)、逆に非推奨となった機能が本体より取り除かれ、PECLでメンテナンスが継続される(mcrypt)こともあり、拡張機能としてはPHPの準標準と言える立ち位置にある。
PHPは数多くのDBMSを標準でサポートしている。 提供されるAPIは、ベンダ固有モジュールというDBMS毎に提供される専用モジュールによるものと、ベンダ毎の差異を吸収して一貫したインターフェイスで様々なDBMSに接続出来るデータベース抽象化レイヤとがある。 特にデータベースをより高度に抽象化して扱うライブラリなどでは、様々なDBMSに対応するためにPHP5.1で標準になったデータベース抽象化レイヤ PDO をバックエンドとして選択するものが多い。
PHPをWebサーバで動作させる方法には、実行ファイル形式 (CGI / FastCGI)、モジュール形式(mod_phpなど)がある。 どの方法を利用するか(利用出来るか)はWebサーバにより異なる。 実行ファイル形式によるCGIはほぼ全てのWebサーバに対応しているが、Apacheで動作させる場合はmod_phpとFastCGI、IIS、lighttpdやNginxで動作させる場合はFastCGIが利用可能である。
PHPに標準で実装されているWebサーバ用API (SAPI)の一覧を以下に挙げる。以前はこのほかにも存在したがPHP 7.0で削除された。
とくに、HTTPリクエストの度にプロセスを起動させないインタフェース(Apacheとmod_phpの組み合わせ、またはlighttpdなどのFastCGIに対応したWebサーバ)での動作が高速である。
PHPの処理系は公式の実装を含めいくつかの異なる実装が存在する。 そのうち比較的よく知られているものについて簡単に記述する。
PHPは学習コストの低さ、記述の容易さから多くのアプリケーションが開発されている。 Wikipediaを動作させているアプリケーションであるMediaWikiもPHPによって記述されている。
本節ではPHPで書かれた代表的なアプリケーションを列挙する。
ラスマス・ラードフは自身のWebページで利用するため、1994年にCで書かれたCGI用バイナリ群を作成し、 "Personal Home Page Tools" と命名した。 このCGIソフトウェアは略して "PHP Tools" と呼ばれることが多かったようである。 その後、利用者からの機能要望が増えたため、オリジナルのPHP Toolsは大きく書き直され、データベースを利用することが出来るようになった。 単純なツール群から一種のフレームワークとしての機能を有するようになったのである。 ラードフは1995年6月8日にGPLの下でPHP Toolsを公開、オープンソースソフトウェアとして最初のリリースを行った。
1995年9月、ラードフはPHP Toolsを発展させ、現在のPHPにも受け継がれている特徴、Perl風の変数名やHTMLフォームデータの自動取得、そしてHTMLへの埋め込み型の記述方式などを持ったツール "FI" (Form Interpreter) を実装した。 翌月にはFIを完全に書き直し、 "Personal Home Page Construction Kit" という名前でリリースを行い、CやPerlに近い構文を有する簡易スクリプトツールへと発展した。
このツールは再び一から書き直され、ユーザ定義関数のサポートなど、プログラミング言語としての機能を有するようになった。 1996年4月になるとPHPとFIの名称を合わせた "PHP/FI" として公開された。 同年6月に、後にPHP 2として言及される "PHP/FI Version 2.0" のベータ版がリリースされた。 PHP/FI Version 2.0は翌1997年11月に正式版がリリースされ、その後1998年1月に一度アップデートが行われたあとはメンテナンスは行われなかった。
イスラエルのアンディ・ガトマンズとゼーブ・スラスキーは、e-コマースアプリケーションを開発するためにPHP/FI Version 2.0を利用しようと考えていたが、PHP/FIには機能が不足していた。 そこで1997年、彼らはラードフに対してPHP/FIを作り直す方法を検討していることを伝えた。 ガトマンズとスラスキ―はPHP/FIで使われていたパーサを書き直し、ラードフとも協力して新たなプログラミング言語を開発した。 この言語は再び "PHP" と命名されたが、"Personal Home Page Tools"が抱えていた個人用という印象を避けるため、新しく "PHP: Hypertext Preprocessor" という再帰的頭字語を与えられることになった。 1998年6月、ラードフ、ガトマンズそしてスラスキーに加え、世界中の開発者らが立ち上げたPHP Development Teamは "PHP 3.0" をPHP/FI Version 2.0の後継として、GPLとPHP Licenseとのデュアルライセンスの下でリリースした。
PHP 3.0がリリースされて間もなく、ガトマンズとスラスキーはPHPのプログラミング言語を処理するコアの部分の再設計を行い、新しく作り上げた実行エンジンを彼らの名前からとって "Zend Engine" と命名した。 2000年5月、このZend Engineを使用した大幅なパフォーマンスの改善を行い、より多くのWebサーバのサポートなどの機能拡張を行った新しいバージョンである"PHP 4.0"がリリースされた。 PHP 4ではコピーレフト条項がPHPの利用拡散を妨げるという判断により、ライセンスからGPLが外れてPHP LicenseおよびZend EngineのコードについてはZend Engine Licenseが適用されることになった。
PHP 4は4.0から4.4までがリリースされ、2008年8月にセキュリティ対応を含めた全ての開発が終了している。
2004年7月、新たにZend Engine 2をコアとし、オブジェクト指向構文をより一層強化したバージョンである "PHP 5.0" がリリースされた。 マイナーアップデートにより様々な機能の追加が行われ、DBMSへの一貫したアクセスインターフェイスを提供する抽象化レイヤPDOが導入されたり、PHPが欠いていた名前空間、静的遅延束縛、クロージャなどをはじめとしたプログラミング言語としての機能強化が頻繁に取り入れられている。
PHP 5.4では特筆すべき機能として開発用の組み込みWebサーバが導入されており、他のWebサーバを導入しなくともWebアプリケーション開発が容易に行えるようになった。 PHP 5.6では対話式デバッガがSAPIとして組み入れられた。
PHP 5は既にほとんどのバージョンで開発が終了しており、最終バージョンであるPHP 5.6のセキュリティ対応も2018年12月31日をもって終了した。
PHP 5.3の次のリリースとなるべく開発されていたバージョンで、エンジンの内部処理がUTF-16に置き換えられる計画であったが、多くの問題に見舞われたことから2010年に開発が断念されている。 PHP 5.3の次のリリースはPHP 5.4へと置き換えられ、また次のPHPのメジャーリリースがPHP 7とされたことでPHP 6は欠番となった。
2015年12月に内部エンジンをZend Engine 3とした"PHP 7.0"がリリースされた。 Zend Engineの改善を行うPHPNG (PHP Next-Gen) プロジェクトの成果を取り入れており、データ構造の改善などにより、前バージョンのPHP 5.6と比べて25%から70%の性能改善が図られている。 また言語仕様も大きく拡張されており、引数のタイプヒンティングにスカラー型が指定できるようになる(タイプヒンティングは5.1で導入されたが、クラスや配列など一部の型に限られていた)他、戻り値へのタイプヒンティングも導入されており、前年に発表されたHHVM用プログラミング言語Hackの影響が見受けられるものになっている。
2020年11月に"PHP 8.0"がリリースされた。 | [
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"text": "■カテゴリ / ■テンプレート",
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"text": "PHP(ピー・エイチ・ピー)は、 \"The PHP Group\" によってコミュニティベースで開発されているオープンソースの汎用プログラミング言語およびその公式の処理系であり、特にサーバーサイドで動的なウェブページを作成するための機能を多く備えていることを特徴とする。 名称の PHP は再帰的頭字語として、 \"PHP: Hypertext Preprocessor\" を意味するとされており、「PHPはHTMLのプリプロセッサである」とPHP自身を再帰的に説明している。",
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"text": "PHPはラスマス・ラードフが個人的にCで開発していたCGIプログラムである \"Personal Home Page Tools\" (短縮されて \"PHP Tools\" と呼ばれていた)を起源とする。 元々はラードフ自身のWebサイトで簡単な動的Webページを作成するために用いられていたが、その後データベースへのアクセス機能などを追加したPHP Toolsを1995年にGPLの下で公開した。 オープンソースライセンスの下で公開されたことにより同ツールの利用者が増加し、機能の追加を行う開発者たちの貢献もあって、幾度かの大きなバージョンアップを経て今日に至っている。 PHPの再帰的頭字語が PHP: Hypertext Preprocessor となったのは2017年現在の文法の基礎が確立したPHP 3からである。",
"title": "概要"
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"text": "先に述べたように、PHPは動的なWebページを生成するツールを起源としているため、公式の処理系にはWebアプリケーション開発に関する機能が豊富に組み込まれている。 元々PHPはプログラミング言語と言えるものではなく、単にテンプレート的な処理を行うだけであったが、度重なる機能追加やコードの書き直しにより、2017年現在リリースされているPHP 5やPHP 7は目的によらず汎用的に使うことの出来るスクリプト言語となっている。 特にApache HTTP ServerやnginxといったWebサーバーソフトウェアから動作させるスクリプト言語として選択されてサーバーサイドWebアプリケーション開発に利用されることが多い。",
"title": "概要"
},
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"text": "プログラミング言語としてのPHPは、CやPerl, Javaなどのプログラミング言語に強く影響を受けており、これらの言語に近く学習しやすい文法を有する。 組み込み関数についてもこれらの言語から直接輸入されたものも多く、関数名を変えずにそのまま取り込んだことで標準関数の命名規則が一貫していないといった問題も有している。 またC由来のヌル終端文字列とヌル文字を含むことを許容する文字列とが併存し、関数によってどちらを取り扱うかが異なっていたために深刻なセキュリティ上の問題を起こしたこともある。",
"title": "概要"
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"text": "PHPで書かれたライブラリは、PEARを利用してシステムワイドにインストールしたりユーザ単位で利用することが多かったが、2012年にRubyのパッケージ管理ツールであるRubyGems及び依存関係管理ツールbundler、Node.jsのnpmに影響を受けて開発されたComposerが公開されたことにより、パッケージリポジトリPackagistに登録されたライブラリをプロジェクト単位で利用することが容易になった。",
"title": "概要"
},
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"text": "PHP製のWebアプリケーションフレームワークが増加したことにより、それらが提供するロガーやHTTPリクエストハンドラなどといった共通の機能を実装するコードの再利用性を高めるため、2010年頃にフレームワーク開発者などが集まってPHP Standard Groupを立ち上げた。 PHP Standard Groupはその後PHP-FIG (Framework Interoperability Group)に改称し、クラスオートローディングの規格やコーディング規約などの推奨される標準規格、PSR (PHP Standards Recommendations)の策定を行っている。",
"title": "概要"
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"text": "プログラミング言語としてのPHPはCやPerlなどの影響を強く受けており、同じくこれらに影響を受けたRubyやPythonと比較してよりCそのままに近い制御構文を有している。 またクラスやインターフェイスといったオブジェクト指向構文はC++よりJavaに近いものが採用されている。 文法の近さによって利用者の多いCやJavaからPHPを学んだり、その逆も行いやすいことは言語の学習コストの面からは大きな利点である。",
"title": "構文"
},
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"text": "PHPによるHello worldの最も簡単な実装は、単にテキストファイルとして「Hello world」を記述するだけでよい。",
"title": "構文"
},
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"text": "PHPはテキストファイルにHTMLタグのように埋め込んで書き、それ以外の部分はそのまま出力されるため、上記は(プログラムとして実行される部分は存在しないものの)正しく処理系によって認識されて「Hello world!」を出力する。 もう少しプログラムらしい書き方をすれば次のような記述が出来る。",
"title": "構文"
},
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"text": "PHPの処理系はPHPタグ<?php ?>で囲われた部分を解釈・実行し、その外側の部分はそのまま文字列として出力する。 単純にデータを出力する場合にはPHPタグを<?= ?>と略記することが可能であり、更にPHPタグがファイルの末尾にある場合はファイル末尾の空白や改行の影響を避けるためにPHPタグを閉じないことが推奨されるので、次のように書いても同じ結果が得られる。",
"title": "構文"
},
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"text": "次のように、数値として「 5+2 」を行うと7が出力される。ただし「5+2」をシングルクォーテーションやダブルクォーテーションで囲むと、文字列と解釈されてそのまま出力される。",
"title": "構文"
},
{
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"text": "プログラミング言語としてのPHPを実行するための The PHP Group による公式な処理系の実装も、プログラミング言語としてのPHPと区別されることなく PHP と呼ばれる。 2014年頃までプログラミング言語としてのPHPには規格などが存在しなかったため、公式の処理系の実装およびマニュアルの記述がその代わりとなっていた。 2018年1月現在では、作業中となっているが、プログラミング言語としての仕様は処理系の実装と分かれて文書化されている。",
"title": "処理系"
},
{
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"text": "この実装はCで書かれており、PHP LicenseおよびZend Engine Licenseの下で公開されている自由なソフトウェアである。 PHP4以降において、プログラミング言語としてのPHPを解釈・実行するエンジンとしてZend Engineが使用されており、PHP5よりZend Engine 2、PHP7ではZend Engine 3へと順次バージョンアップされている。 Zend EngineはPHP 3の主要な開発者であるアンディ・ガトマンズおよびゼーブ・スラスキー(後にZend Technologies Ltd.を設立)により設計・開発されたスクリプト言語エンジンであり、現在はThe PHP GroupによりPHPと共に開発されている。 Zend Engineは1つのプロセスが1つのインタプリタのコンテキストを持つように設計されていて、単独ではマルチスレッドを用いた処理をサポートしていない。 PHPはそのソースコードのほとんどがPHP Licenseの下でリリースされるが、Zend EngineのコードについてはZend Engine Licenseが適用される。",
"title": "処理系"
},
{
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"text": "実際のPHPの構成はZend Engineに加え、PHPの組み込み関数の実装、Webサーバや標準入出力とスクリプティングエンジンの間を仲介するSAPI (Server API) レイヤ、マルチスレッドで動くWebサーバのモジュールとして利用される場合にグローバル変数のセマンティクスを提供するTSRM (Thread Safe Resource Manager)、プラットフォーム間での入出力機構やAPIの差異を吸収するStreamsレイヤを含む。 一部の組み込み関数はプラットフォームごとに挙動が違うため、スクリプトによっては移植作業が必要になる場合がある。",
"title": "処理系"
},
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"text": "公式の処理系に対して、CやC++で記述された拡張ライブラリを提供する PECL (The PHP Extension Community Library) というプロジェクトが存在する。 基本的にPECLのライブラリは標準ではPHPに組み込まれてはいないものが多いが、PECLで開発されていたライブラリがPHPの本体に標準でバンドルされるようになったり(PDO)、逆に非推奨となった機能が本体より取り除かれ、PECLでメンテナンスが継続される(mcrypt)こともあり、拡張機能としてはPHPの準標準と言える立ち位置にある。",
"title": "処理系"
},
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"text": "PHPは数多くのDBMSを標準でサポートしている。 提供されるAPIは、ベンダ固有モジュールというDBMS毎に提供される専用モジュールによるものと、ベンダ毎の差異を吸収して一貫したインターフェイスで様々なDBMSに接続出来るデータベース抽象化レイヤとがある。 特にデータベースをより高度に抽象化して扱うライブラリなどでは、様々なDBMSに対応するためにPHP5.1で標準になったデータベース抽象化レイヤ PDO をバックエンドとして選択するものが多い。",
"title": "処理系"
},
{
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"text": "PHPをWebサーバで動作させる方法には、実行ファイル形式 (CGI / FastCGI)、モジュール形式(mod_phpなど)がある。 どの方法を利用するか(利用出来るか)はWebサーバにより異なる。 実行ファイル形式によるCGIはほぼ全てのWebサーバに対応しているが、Apacheで動作させる場合はmod_phpとFastCGI、IIS、lighttpdやNginxで動作させる場合はFastCGIが利用可能である。",
"title": "処理系"
},
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"text": "PHPに標準で実装されているWebサーバ用API (SAPI)の一覧を以下に挙げる。以前はこのほかにも存在したがPHP 7.0で削除された。",
"title": "処理系"
},
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"text": "とくに、HTTPリクエストの度にプロセスを起動させないインタフェース(Apacheとmod_phpの組み合わせ、またはlighttpdなどのFastCGIに対応したWebサーバ)での動作が高速である。",
"title": "処理系"
},
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"text": "PHPの処理系は公式の実装を含めいくつかの異なる実装が存在する。 そのうち比較的よく知られているものについて簡単に記述する。",
"title": "処理系"
},
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"text": "PHPは学習コストの低さ、記述の容易さから多くのアプリケーションが開発されている。 Wikipediaを動作させているアプリケーションであるMediaWikiもPHPによって記述されている。",
"title": "PHPで書かれたソフトウェア"
},
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"text": "本節ではPHPで書かれた代表的なアプリケーションを列挙する。",
"title": "PHPで書かれたソフトウェア"
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"text": "",
"title": "PHPで書かれたソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ラスマス・ラードフは自身のWebページで利用するため、1994年にCで書かれたCGI用バイナリ群を作成し、 \"Personal Home Page Tools\" と命名した。 このCGIソフトウェアは略して \"PHP Tools\" と呼ばれることが多かったようである。 その後、利用者からの機能要望が増えたため、オリジナルのPHP Toolsは大きく書き直され、データベースを利用することが出来るようになった。 単純なツール群から一種のフレームワークとしての機能を有するようになったのである。 ラードフは1995年6月8日にGPLの下でPHP Toolsを公開、オープンソースソフトウェアとして最初のリリースを行った。",
"title": "歴史"
},
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"text": "1995年9月、ラードフはPHP Toolsを発展させ、現在のPHPにも受け継がれている特徴、Perl風の変数名やHTMLフォームデータの自動取得、そしてHTMLへの埋め込み型の記述方式などを持ったツール \"FI\" (Form Interpreter) を実装した。 翌月にはFIを完全に書き直し、 \"Personal Home Page Construction Kit\" という名前でリリースを行い、CやPerlに近い構文を有する簡易スクリプトツールへと発展した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "このツールは再び一から書き直され、ユーザ定義関数のサポートなど、プログラミング言語としての機能を有するようになった。 1996年4月になるとPHPとFIの名称を合わせた \"PHP/FI\" として公開された。 同年6月に、後にPHP 2として言及される \"PHP/FI Version 2.0\" のベータ版がリリースされた。 PHP/FI Version 2.0は翌1997年11月に正式版がリリースされ、その後1998年1月に一度アップデートが行われたあとはメンテナンスは行われなかった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "イスラエルのアンディ・ガトマンズとゼーブ・スラスキーは、e-コマースアプリケーションを開発するためにPHP/FI Version 2.0を利用しようと考えていたが、PHP/FIには機能が不足していた。 そこで1997年、彼らはラードフに対してPHP/FIを作り直す方法を検討していることを伝えた。 ガトマンズとスラスキ―はPHP/FIで使われていたパーサを書き直し、ラードフとも協力して新たなプログラミング言語を開発した。 この言語は再び \"PHP\" と命名されたが、\"Personal Home Page Tools\"が抱えていた個人用という印象を避けるため、新しく \"PHP: Hypertext Preprocessor\" という再帰的頭字語を与えられることになった。 1998年6月、ラードフ、ガトマンズそしてスラスキーに加え、世界中の開発者らが立ち上げたPHP Development Teamは \"PHP 3.0\" をPHP/FI Version 2.0の後継として、GPLとPHP Licenseとのデュアルライセンスの下でリリースした。",
"title": "歴史"
},
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"text": "PHP 3.0がリリースされて間もなく、ガトマンズとスラスキーはPHPのプログラミング言語を処理するコアの部分の再設計を行い、新しく作り上げた実行エンジンを彼らの名前からとって \"Zend Engine\" と命名した。 2000年5月、このZend Engineを使用した大幅なパフォーマンスの改善を行い、より多くのWebサーバのサポートなどの機能拡張を行った新しいバージョンである\"PHP 4.0\"がリリースされた。 PHP 4ではコピーレフト条項がPHPの利用拡散を妨げるという判断により、ライセンスからGPLが外れてPHP LicenseおよびZend EngineのコードについてはZend Engine Licenseが適用されることになった。",
"title": "歴史"
},
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"text": "PHP 4は4.0から4.4までがリリースされ、2008年8月にセキュリティ対応を含めた全ての開発が終了している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "2004年7月、新たにZend Engine 2をコアとし、オブジェクト指向構文をより一層強化したバージョンである \"PHP 5.0\" がリリースされた。 マイナーアップデートにより様々な機能の追加が行われ、DBMSへの一貫したアクセスインターフェイスを提供する抽象化レイヤPDOが導入されたり、PHPが欠いていた名前空間、静的遅延束縛、クロージャなどをはじめとしたプログラミング言語としての機能強化が頻繁に取り入れられている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "PHP 5.4では特筆すべき機能として開発用の組み込みWebサーバが導入されており、他のWebサーバを導入しなくともWebアプリケーション開発が容易に行えるようになった。 PHP 5.6では対話式デバッガがSAPIとして組み入れられた。",
"title": "歴史"
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"text": "PHP 5は既にほとんどのバージョンで開発が終了しており、最終バージョンであるPHP 5.6のセキュリティ対応も2018年12月31日をもって終了した。",
"title": "歴史"
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"text": "PHP 5.3の次のリリースとなるべく開発されていたバージョンで、エンジンの内部処理がUTF-16に置き換えられる計画であったが、多くの問題に見舞われたことから2010年に開発が断念されている。 PHP 5.3の次のリリースはPHP 5.4へと置き換えられ、また次のPHPのメジャーリリースがPHP 7とされたことでPHP 6は欠番となった。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2015年12月に内部エンジンをZend Engine 3とした\"PHP 7.0\"がリリースされた。 Zend Engineの改善を行うPHPNG (PHP Next-Gen) プロジェクトの成果を取り入れており、データ構造の改善などにより、前バージョンのPHP 5.6と比べて25%から70%の性能改善が図られている。 また言語仕様も大きく拡張されており、引数のタイプヒンティングにスカラー型が指定できるようになる(タイプヒンティングは5.1で導入されたが、クラスや配列など一部の型に限られていた)他、戻り値へのタイプヒンティングも導入されており、前年に発表されたHHVM用プログラミング言語Hackの影響が見受けられるものになっている。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 35,
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"text": "2020年11月に\"PHP 8.0\"がリリースされた。",
"title": "歴史"
}
] | PHP(ピー・エイチ・ピー)は、 "The PHP Group" によってコミュニティベースで開発されているオープンソースの汎用プログラミング言語およびその公式の処理系であり、特にサーバーサイドで動的なウェブページを作成するための機能を多く備えていることを特徴とする。
名称の PHP は再帰的頭字語として、 "PHP: Hypertext Preprocessor" を意味するとされており、「PHPはHTMLのプリプロセッサである」とPHP自身を再帰的に説明している。 | {{Infobox プログラミング言語
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| name = PHP
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<!-- | latest preview version = 8.3.0 RC4<ref>{{cite web|url=https://www.php.net/archive/2023.php#2023-10-12-1 |title=PHP: News Archive{{snd}} 2022 |at=PHP 8.3.0 RC4 available for testing |accessdate=2023-10-12 |date=2023-10-18}}</ref>
| latest preview date = {{start date and age|2023|10|12}}-->
| typing = 強い[[動的型付け]]
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| dialects = [[Hack (プログラミング言語)|Hack]]
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| programming language =
| wikibooks = PHP
}}
{{Infobox Software
| 名称 = PHP(処理系)
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| 開発者 = [[ラスマス・ラードフ]]
| 開発元 = The PHP Group
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{{プログラミング言語}}
'''PHP'''(ピー・エイチ・ピー)は、 "The PHP Group" によってコミュニティベースで開発<ref name="Contributing to PHP">{{
Cite web
|url=//php.net/get-involved.php
|title=Contributing to PHP
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|accessdate=2018-02-02
}}</ref>されている[[オープンソース]]の汎用[[プログラミング言語]]およびその[[リファレンス実装|公式の処理系]]であり、特にサーバーサイドで動的な[[ウェブページ]]を作成するための機能を多く備えていることを特徴とする<ref name="php.net">{{
Bquote
|PHP is a popular general-purpose scripting language that is especially suited to web development.
|
|
|The PHP Group
|php.net
}}</ref>。
名称の '''PHP''' は[[再帰的頭字語]]として、 "{{lang|en|PHP: Hypertext Preprocessor}}" を意味<ref name="What is PHP">{{
Cite web
|url=//php.net/manual/intro-whatis.php
|title=What is PHP
|work=PHP Manual
|publisher=php.net
|accessdate=2018-02-02
}}</ref><ref name="History of PHP">{{
Cite web
|url=//php.net/manual/history.php.php
|title=History of PHP
|work=PHP Manual
|publisher=php.net
|accessdate=2018-02-02
}}</ref>するとされており、「PHPは[[HTML]]の[[プリプロセッサ]]である」とPHP自身を再帰的に説明している。
== 概要 ==
PHPは[[ラスマス・ラードフ]]が個人的に[[C言語|C]]で開発していた[[Common Gateway Interface|CGI]]プログラムである "{{lang|en|Personal Home Page Tools}}" (短縮されて "{{lang|en|PHP Tools}}" と呼ばれていた)を起源とする<ref name="History of PHP" />。
元々はラードフ自身のWebサイトで簡単な動的Webページを作成するために用いられていたが、その後データベースへのアクセス機能などを追加したPHP Toolsを1995年に[[GNU General Public License|GPL]]の下で公開した<ref name="PHP under GPL">{{
Cite web
|url=https://groups.google.com/forum/#!msg/comp.infosystems.www.authoring.cgi/PyJ25gZ6z7A/M9FkTUVDfcwJ
|title=Announce: Personal Home Page Tools (PHP Tools)
|publisher=Google Group
|author=[[ラスマス・ラードフ|Rasmus Lerdorf]]
|accessdate=2018-02-02
}}</ref>。
オープンソースライセンスの下で公開されたことにより同ツールの利用者が増加し、機能の追加を行う開発者たちの貢献もあって、幾度かの大きなバージョンアップを経て今日に至っている。
PHPの[[再帰的頭字語]]が PHP: Hypertext Preprocessor となったのは2017年現在の文法の基礎が確立したPHP 3から<ref name="History of PHP" />である。
先に述べたように、PHPは動的なWebページを生成するツールを起源としているため、公式の処理系にはWebアプリケーション開発に関する機能が豊富に組み込まれている。
元々PHPはプログラミング言語と言えるものではなく、単にテンプレート的な処理を行うだけであったが、度重なる機能追加やコードの書き直しにより、2017年現在リリースされているPHP 5やPHP 7は目的によらず汎用的に使うことの出来るスクリプト言語となっている。
特に[[Apache HTTP Server]]や[[nginx]]といった[[Webサーバー]]ソフトウェアから動作させるスクリプト言語として選択されてサーバーサイドWebアプリケーション開発に利用されることが多い。
プログラミング言語としてのPHPは、[[C言語|C]]や[[Perl]], [[Java]]などのプログラミング言語に強く影響を受けており、これらの言語に近く学習しやすい文法を有する。
組み込み関数についてもこれらの言語から直接輸入されたものも多く、関数名を変えずにそのまま取り込んだことで標準関数の命名規則が一貫していないといった問題も有している。
また[[C言語|C]]由来の[[ヌル終端文字列]]と[[ヌル文字]]を含むことを許容する文字列とが併存し、関数によってどちらを取り扱うかが異なっていたために深刻なセキュリティ上の問題を起こしたこともある<ref name="Null bytes related issues">{{
Cite web
|url=//php.net/manual/security.filesystem.nullbytes.php
|title=Null bytes related issues
|work=PHP Manual
|publisher=php.net
|accessdate=2018-02-02
}}</ref>。
PHPで書かれたライブラリは、[[PEAR]]を利用してシステムワイドにインストールしたりユーザ単位で利用することが多かったが、2012年に[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]のパッケージ管理ツールである[[RubyGems]]及び依存関係管理ツール[[:en:Bundler (Software)|bundler]]、[[Node.js]]の[[npm]]に影響を受けて開発された[[Composer]]が公開されたことにより、パッケージリポジトリPackagist<ref name="Packagist">[https://packagist.org/ packagist.org]</ref>に登録されたライブラリをプロジェクト単位で利用することが容易になった。
PHP製のWebアプリケーションフレームワークが増加したことにより、それらが提供するロガーやHTTPリクエストハンドラなどといった共通の機能を実装するコードの再利用性を高めるため、2010年頃にフレームワーク開発者などが集まってPHP Standard Groupを立ち上げた<ref name="PHP-FIG">[http://www.php-fig.org/ www.php-fig.org]</ref>。
PHP Standard Groupはその後PHP-FIG (Framework Interoperability Group)に改称し、クラスオートローディングの規格やコーディング規約などの推奨される標準規格、'''PSR''' (PHP Standards Recommendations)の策定を行っている<ref name="PHP Standards Recommendations">{{
Cite web
|url=http://www.php-fig.org/psr/
|title=PHP Standards Recommendations
|publisher=PHP-FIG
|accessdate=2018-02-02
}}</ref>。
=== プログラミング言語としての特徴 ===
* [[Hypertext Markup Language|HTML]]埋め込み型の構文(Hypertext Preprocessorたる所以)
* 弱い[[動的型付け]]
* [[クラスベース]][[オブジェクト指向]]のサポート
* [[例外処理]] (try, catch, throw) のサポート
=== 処理系としての特徴 ===
* サーバーサイドWebアプリケーション構築のための豊富な組み込み関数
* データベースへの容易なアクセス(ベンダーごとの組み込み関数、[[PHP Data Object|PDO]])
* [[PECL]]による言語機能の拡張
* 多くのWebサーバへの組み込みの標準サポート
== 構文 ==
[[プログラミング言語]]としてのPHPは[[C言語|C]]や[[Perl]]などの影響を強く受けており、同じくこれらに影響を受けた[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]や[[Python]]と比較してよりCそのままに近い制御構文を有している。
また[[クラス_(コンピュータ)|クラス]]や[[インタフェース (情報技術)|インターフェイス]]といったオブジェクト指向構文は[[C++]]より[[Java]]に近いものが採用されている。
文法の近さによって利用者の多いCやJavaからPHPを学んだり、その逆も行いやすいことは言語の学習コストの面からは大きな利点である。
=== Hello world ===
PHPによる[[Hello world]]の最も簡単な実装は、単にテキストファイルとして「Hello world」を記述するだけでよい。
<syntaxhighlight lang="php">
Hello world!
</syntaxhighlight>
PHPはテキストファイルに[[HTML]]タグのように埋め込んで書き、それ以外の部分はそのまま出力されるため、上記は(プログラムとして実行される部分は存在しないものの)正しく処理系によって認識されて「Hello world!」を出力する。
もう少しプログラムらしい書き方をすれば次のような記述が出来る。
<syntaxhighlight lang="php">
<?php echo 'Hello world!'; ?>
</syntaxhighlight>
PHPの処理系は'''PHPタグ'''<code><?php ?></code>で囲われた部分を解釈・実行し、その外側の部分はそのまま文字列として出力する。
単純にデータを出力する場合にはPHPタグを<code><?= ?></code>と略記することが可能であり、更にPHPタグがファイルの末尾にある場合はファイル末尾の空白や改行の影響を避けるためにPHPタグを閉じないことが推奨されるので、次のように書いても同じ結果が得られる。
<syntaxhighlight lang="php">
<?='Hello world!'
</syntaxhighlight>
=== 文字列と数値の違い ===
次のように、[[数値]]として「 5+2 」を行うと7が出力される。ただし「5+2」を[[シングルクォーテーション]]や[[ダブルクォーテーション]]で囲むと、[[文字列]]と解釈されてそのまま出力される。
<syntaxhighlight lang="php">
<?php
echo 5+2; //結果: 7
echo '5+2'; //結果: 5+2
?>
</syntaxhighlight>
== 処理系 ==
プログラミング言語としてのPHPを実行するための The PHP Group による[[リファレンス実装|公式な処理系の実装]]も、プログラミング言語としてのPHPと区別されることなく '''PHP''' と呼ばれる。
2014年頃までプログラミング言語としてのPHPには規格などが存在しなかった<ref>{{
Cite web
|author=Joab Jackson
|date=2014-07-31
|url=https://www.itworld.com/article/2697195/enterprise-software/php-gets-a-formal-specification--at-last.html
|title=PHP gets a formal specification, at last
|publisher=IDG
|work=ITworld
|accessdate=2018-02-02
}}</ref>ため、公式の処理系の実装およびマニュアルの記述がその代わりとなっていた。
2018年1月現在では、作業中となっているが、プログラミング言語としての仕様は処理系の実装と分かれて文書化されている<ref name="PHP Language Specifications">{{
Cite web
|url=https://github.com/php/php-langspec
|title=PHP Language Specifications
|author=The PHP Group
|publisher=[[GitHub]]
|accessdate=2018-02-02
}}</ref>。
この実装は[[C言語|C]]で書かれており、[[PHP License]]および[[PHP License#Zend_Engine_License|Zend Engine License]]の下で公開されている[[自由なソフトウェア]]である。
PHP4以降において、プログラミング言語としてのPHPを解釈・実行するエンジンとして[[Zend Engine]]が使用されており、PHP5よりZend Engine 2、PHP7ではZend Engine 3へと順次バージョンアップされている。
Zend EngineはPHP 3の主要な開発者である[[アンディ・ガトマンズ]]および[[ゼーブ・スラスキー]](後に[[ゼンド・テクノロジーズ|Zend Technologies Ltd.]]を設立)により設計・開発されたスクリプト言語エンジンであり、現在はThe PHP GroupによりPHPと共に開発されている。
Zend Engineは1つのプロセスが1つのインタプリタのコンテキストを持つように設計されていて、単独では[[マルチスレッド]]を用いた処理をサポートしていない。
PHPはそのソースコードのほとんどがPHP Licenseの下でリリースされるが、Zend EngineのコードについてはZend Engine Licenseが適用される。
実際のPHPの構成はZend Engineに加え、PHPの組み込み関数の実装、Webサーバや[[標準入出力]]とスクリプティングエンジンの間を仲介するSAPI (Server API) レイヤ、マルチスレッドで動くWebサーバのモジュールとして利用される場合にグローバル変数の[[セマンティクス]]{{要曖昧さ回避|date=2023年6月}}を提供するTSRM (Thread Safe Resource Manager)、プラットフォーム間での入出力機構やAPIの差異を吸収するStreamsレイヤを含む。
一部の組み込み関数はプラットフォームごとに挙動が違うため、スクリプトによっては移植作業が必要になる場合がある。
=== PECLによる拡張 ===
公式の処理系に対して、[[C言語|C]]や[[C++]]で記述された拡張ライブラリを提供する '''[[PECL]]''' (The PHP Extension Community Library) というプロジェクトが存在する。
基本的にPECLのライブラリは標準ではPHPに組み込まれてはいないものが多いが、PECLで開発されていたライブラリがPHPの本体に標準でバンドルされるようになったり([[PHP Data Object|PDO]])、逆に非推奨となった機能が本体より取り除かれ、PECLでメンテナンスが継続される([[mcrypt]]<ref group="※">[https://pecl.php.net/package/mcrypt PECL :: Package :: mcrypt]</ref>)こともあり、拡張機能としてはPHPの準標準と言える立ち位置にある。
=== 対応する主要DBMS ===
PHPは数多くの[[DBMS]]を標準でサポートしている。
提供されるAPIは、'''ベンダ固有モジュール'''というDBMS毎に提供される専用モジュールによるものと、ベンダ毎の差異を吸収して一貫したインターフェイスで様々なDBMSに接続出来る'''データベース抽象化レイヤ'''とがある。
特にデータベースをより高度に抽象化して扱うライブラリなどでは、様々なDBMSに対応するためにPHP5.1で標準になったデータベース抽象化レイヤ [[PHP Data Object|PDO]] をバックエンドとして選択するものが多い。
<div style="columns: 24em 4; column-rule: 2px solid #eee;">
* [[Apache Derby]]
* [[DB2]]
* [[Informix Dynamic Server]]
* [[InterBase]]
* [[Microsoft SQL Server]]
* [[mSQL]]
* [[MySQL]] / [[MariaDB]]
* [[Open Database Connectivity|ODBC]]
* [[Oracle Database]]
* [[PostgreSQL]]
* [[Adaptive Server Enterprise|Sybase Adaptive Server Enterprise]]
* [[SQLite]]
* [[Redis]]
</div>
=== Webサーバとの統合 ===
PHPをWebサーバで動作させる方法には、実行ファイル形式 (CGI / [[FastCGI]])、モジュール形式(mod_phpなど)がある。
どの方法を利用するか(利用出来るか)はWebサーバにより異なる。
実行ファイル形式によるCGIはほぼ全てのWebサーバに対応しているが、[[Apache HTTP Server|Apache]]で動作させる場合はmod_phpとFastCGI、[[Internet Information Services|IIS]]、[[lighttpd]]や[[Nginx]]で動作させる場合は[[FastCGI]]が利用可能である。
PHPに標準で実装されているWebサーバ用[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]] (SAPI)の一覧を以下に挙げる。以前はこのほかにも存在したがPHP 7.0で削除された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.php.net/manual/ja/migration70.removed-exts-sapis.php |title=PHP: 削除された拡張モジュールおよび SAPI |website=PHP Manual |accessdate=2020-07-19}}</ref>。
* [[Common Gateway Interface|CGI]] / [[FastCGI]]
** FastCGIについては、php-cgiプログラムとFastCGI Process Manager (FPM)の2種類が用意されている。
* [[Apache HTTP Server]]
* {{仮リンク|LiteSpeed Web Server|en|LiteSpeed Web Server|label=litespeed}}
とくに、HTTPリクエストの度にプロセスを起動させないインタフェース(Apacheとmod_phpの組み合わせ、または[[lighttpd]]などの[[FastCGI]]に対応したWebサーバ)での動作が高速である。
=== その他の処理系 ===
PHPの[[処理系]]は公式の実装を含めいくつかの異なる実装が存在する。
そのうち比較的よく知られているものについて簡単に記述する。
; [[HipHop Virtual Machine|HHVM]] (HipHop Virtual Machine) ([[PHP License]], [[Zend Engine License]])
: [[Facebook]]によって開発された処理系で、実行の高速化のために[[実行時コンパイラ|実行時(JIT)コンパイル]]方式を採用している。HHVMは実行時にソースコードをHipHopバイトコードと呼ばれる独自の中間言語にコンパイルし、そこから動的に機械語にコンパイル/最適化を経て実行される。ただし、HHVM4.0 以降はPHPから派生した言語である[[Hack (プログラミング言語)|Hack]]専用となり、PHP自体のサポートは削除された。
; [[Phalanger]] ([[Apache License]])
: [[プラハ・カレル大学]]のオープンソースプロジェクトとして開発されている処理系で、PHPのソースコードを[[CILバイトコード]]にコンパイルすることにより[[.NET Framework]]上で動作させることを可能にしている。
== PHPで書かれたソフトウェア ==
PHPは学習コストの低さ、記述の容易さから多くのアプリケーションが開発されている。
[[Wikipedia]]を動作させているアプリケーションである[[MediaWiki]]もPHPによって記述されている。
本節ではPHPで書かれた代表的なアプリケーションを列挙する。
=== ウェブアプリケーション、CMSなど ===
<div style="columns: 24em 4; column-rule: 2px solid #eee;">
* [[IBM WebSphere sMash]]<ref group="※">[https://www.ibm.com/jp-ja/cloud/info/websphere]</ref>
* [[MediaWiki]]
* [[phpBB]]
* [[phpMyAdmin]]
* [[PukiWiki]]
* [[Serendipity Weblog System]]<ref group="※">[https://docs.s9y.org Serendipity - A reliable, secure and extensible PHP blog | Serendipity Blog System]</ref>
* [[SilverStripe CMS]]<ref group="※">[https://www.silverstripe.org Silverstripe CMS » the open source CMS that empowers great web teams » Silverstripe CMS]</ref>
* [[WordPress]]
* [[XOOPS]]
* [[OpenPNE]]
* [[KinagaCMS]]
</div>
=== ウェブアプリケーション・フレームワーク ===
<div style="columns: 24em 4; column-rule: 2px solid #eee;">
* [[CakePHP]]
* [[CodeIgniter]]
* [[Cosmos]]<ref group="※">[https://cwf.codeplex.com]</ref>
* [[Ethna]]<ref group="※">[http://ethna.jp Ethna — Ethna 2.6 documentation]</ref>
* [[eZ components]]<ref group="※">[https://ez.no/index.php/products/ez_components]</ref>
** [[Zeta Components]]<ref group="※">[http://zetacomponents.org Zeta Components - high quality PHP components]</ref>
* [[FuelPHP]]
* [[Kohana]]<ref group="※">[https://kohanaframework.org Kohana: The Swift PHP Framework]</ref>
* [[Laravel]]
* [[Lithium]]<ref group="※">[https://lithiumseo.com Lithium Marketing - We make digital marketing for your business simple and cost-effective]</ref>
* [[PHP on TRAX]]<ref group="※">[https://github.com/phpontrax/trax GitHub - phpontrax/trax: PHP on Trax - Official Repository]</ref>
* [[PRADO (フレームワーク)|PRADO]]
* [[Risoluto]]<ref group="※">[https://ja.osdn.net/projects/risoluto/ Risoluto - Simple Framework for PHP - (リゾルート) プロジェクト日本語トップページ - OSDN]</ref>
* [[Seasar.PHP]]<ref group="※">[https://www.seasar.org/#seasar.php The Seasar Project]</ref>
* [[Symfony]]
* [[WACT]]<ref group="※">[https://www.acronymfinder.com/Web-Application-Component-Toolkit-(PHP-development-framework)-(WACT).html WACT - Web Application Component Toolkit (PHP development framework) | AcronymFinder]</ref>
* [[xFramework]]<ref group="※">{{Wayback|url=http://www.xframeworkpx.com/ |title=xFramework|date=20120103192308}}</ref>
* [[Yii]]
* [[Zend Framework]]
* [[ちいたん]]<ref group="※">[https://ja.osdn.net/projects/cheetan/ ちいたん プロジェクト日本語トップページ - OSDN]</ref>
* [[Chimpanzee]]<ref group="※">[https://chimpanzee-php.com]</ref>
</div>
=== テンプレートエンジン ===
<div style="columns: 24em 4; column-rule: 2px solid #eee;">
* [[Smarty]]
* [[Twig]]
</div>
== 歴史 ==
=== 前史 ===
[[ラスマス・ラードフ]]は自身のWebページで利用するため、1994年に[[C言語|C]]で書かれたCGI用バイナリ群を作成し、 "'''Personal Home Page Tools'''" と命名した。
このCGIソフトウェアは略して "'''PHP Tools'''" と呼ばれることが多かったようである。
その後、利用者からの機能要望が増えたため、オリジナルのPHP Toolsは大きく書き直され、データベースを利用することが出来るようになった。
単純なツール群から一種のフレームワークとしての機能を有するようになったのである。
ラードフは[[1995年]]6月8日に[[GNU General Public License|GPL]]の下でPHP Toolsを公開、オープンソースソフトウェアとして最初のリリースを行った。
1995年9月、ラードフはPHP Toolsを発展させ、現在のPHPにも受け継がれている特徴、[[Perl]]風の変数名やHTMLフォームデータの自動取得、そしてHTMLへの埋め込み型の記述方式などを持ったツール "'''FI'''" (Form Interpreter) を実装した。
翌月にはFIを完全に書き直し、 "'''Personal Home Page Construction Kit'''" という名前でリリースを行い、CやPerlに近い構文を有する簡易スクリプトツールへと発展した。
このツールは再び一から書き直され、ユーザ定義関数のサポートなど、プログラミング言語としての機能を有するようになった。
1996年4月になるとPHPとFIの名称を合わせた "'''PHP/FI'''" として公開された。
同年6月に、後にPHP 2として言及される "'''PHP/FI Version 2.0'''" の[[ベータ版]]がリリースされた。
PHP/FI Version 2.0は翌1997年11月に正式版がリリースされ、その後1998年1月に一度アップデートが行われたあとはメンテナンスは行われなかった。
=== PHP 3 ===
イスラエルの[[アンディ・ガトマンズ]]と[[ゼーブ・スラスキー]]は、[[電子商取引|e-コマース]]アプリケーションを開発するためにPHP/FI Version 2.0を利用しようと考えていたが、PHP/FIには機能が不足していた。
そこで1997年、彼らはラードフに対してPHP/FIを作り直す方法を検討していることを伝えた。
ガトマンズとスラスキ―はPHP/FIで使われていたパーサを書き直し、ラードフとも協力して新たなプログラミング言語を開発した。
この言語は再び "'''PHP'''" と命名されたが、"Personal Home Page Tools"が抱えていた個人用という印象を避けるため、新しく "'''PHP: Hypertext Preprocessor'''" という[[再帰的頭字語]]を与えられることになった。
1998年6月、ラードフ、ガトマンズそしてスラスキーに加え、世界中の開発者らが立ち上げたPHP Development Teamは "'''PHP 3.0'''" をPHP/FI Version 2.0の後継として、[[GPL]]と[[PHP License]]とのデュアルライセンスの下でリリースした。
=== PHP 4 ===
PHP 3.0がリリースされて間もなく、ガトマンズとスラスキーはPHPのプログラミング言語を処理するコアの部分の再設計を行い、新しく作り上げた実行エンジンを彼らの名前からとって "'''[[Zend Engine]]'''" と命名した。
2000年5月、このZend Engineを使用した大幅なパフォーマンスの改善を行い、より多くのWebサーバのサポートなどの機能拡張を行った新しいバージョンである"'''PHP 4.0'''"がリリースされた。
PHP 4では[[コピーレフト]]条項がPHPの利用拡散を妨げるという判断<ref>{{
Cite web
|url=https://www.php.net/license/
|title=PHP Licensing
|publisher=php.net
|accessdate=2018-02-02
}}</ref>により、ライセンスから[[GPL]]が外れて[[PHP License]]およびZend Engineのコードについては[[Zend Engine License]]が適用されることになった。
PHP 4は4.0から4.4までがリリースされ、2008年8月にセキュリティ対応を含めた全ての開発が終了している。
=== PHP 5 ===
[[2004年]]7月、新たにZend Engine 2をコアとし、[[オブジェクト指向]]構文をより一層強化したバージョンである "'''PHP 5.0'''" がリリースされた。
マイナーアップデートにより様々な機能の追加が行われ、DBMSへの一貫したアクセスインターフェイスを提供する抽象化レイヤ[[PHP Data Object|PDO]]が導入されたり、PHPが欠いていた[[名前空間]]、[[束縛 (情報工学)|静的遅延束縛]]、[[クロージャ]]などをはじめとしたプログラミング言語としての機能強化が頻繁に取り入れられている。
PHP 5.4では特筆すべき機能として開発用の組み込みWebサーバが導入されており、他のWebサーバを導入しなくともWebアプリケーション開発が容易に行えるようになった。
PHP 5.6では対話式デバッガがSAPIとして組み入れられた。
PHP 5は既に開発が終了しており、最終バージョンであるPHP 5.6のセキュリティ対応も2018年12月31日をもって終了した。
=== PHP 6 ===
PHP 5.3の次のリリースとなるべく開発されていたバージョンで、エンジンの内部処理がUTF-16に置き換えられる計画であったが、多くの問題に見舞われたことから2010年に開発が断念されている。
PHP 5.3の次のリリースはPHP 5.4へと置き換えられ<ref>{{
Cite web
|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20100317-a053/
|title=PHP6開発 UTF-16化を断念、5.3へロールバック
|publisher=[[マイナビニュース]]
|date=2010-03-17
|accessdate=2015-05-03
}}</ref>、また次のPHPのメジャーリリースがPHP 7とされたことでPHP 6は欠番となった。
=== PHP 7 ===
2015年12月に内部エンジンをZend Engine 3とした"'''PHP 7.0'''"がリリースされた<ref>{{
cite web
| url=http://php.net/archive/2015.php#id2015-12-03-1
| title=PHP 7.0.0 Released
| publisher=php.net
| accessdate=2015-12-04
}}</ref>。
Zend Engineの改善を行うPHPNG (PHP Next-Gen) プロジェクトの成果を取り入れており、データ構造の改善などにより、前バージョンのPHP 5.6と比べて25%から70%の性能改善が図られている。
また言語仕様も大きく拡張されており、引数のタイプヒンティングにスカラー型が指定できるようになる<ref name="scalar-types">{{
cite web
|url=https://wiki.php.net/rfc/scalar_type_hints_v5
|title=RFC: Scalar Type Declarations
|date=2015-03-16
|accessdate=2015-03-17
|publisher=php.net
}}</ref>(タイプヒンティングは5.1で導入されたが、クラスや配列など一部の型に限られていた)他、戻り値へのタイプヒンティング<ref name="return-types">{{
cite web
|url=https://wiki.php.net/rfc/return_types
|title=RFC: Return Types
|date=2015-01-27
|accessdate=2015-01-28
|publisher=php.net
}}</ref>も導入されており、前年に発表された[[HipHop Virtual Machine|HHVM]]用プログラミング言語[[Hack (プログラミング言語)|Hack]]の影響が見受けられるものになっている。<ref>{{
Cite web
|url=https://pages.zend.com/ty-infographic.html
|title=PHP 7 Infographic - 5 things you need to know #php #zend
|publisher=Zend Technologies Inc.
|accessdate=2015-05-03
}}</ref>
=== PHP 8 ===
2020年11月に"'''PHP 8.0'''"がリリースされた<ref>{{
cite web
| url=https://www.php.net/archive/2020.php#2020-11-26-3
| title=PHP 8.0.0 Released!
| publisher=php.net
| accessdate=2020-11-27
}}</ref>。
=== リリース履歴 ===
{| class="wikitable"
|+ 凡例
! 色
! 意味
! メンテナンスの状況
|-
| style="background:salmon;"| 赤
| 旧版
| メンテナンス終了
|-
| style="background:#FCED77;"| 黄
| 安定版
| セキュリティ対応のみ
|-
| style="background:#a0e75a;"| 緑
| 安定版
| バグ修正とセキュリティ対応
|-
| style="background:skyBlue;"| 青
| 開発版
| 新機能の追加
|}
{| class="wikitable"
|-
! rowspan="2" | Ver.
! rowspan="2" style="min-width: 3em;" | メンテナンスの状況
! rowspan="2" style="min-width: 8em;" | リリース日時
! colspan="2" | サポート期限<ref name="supportedversions">{{cite web|url=http://php.net/supported-versions.php |title=Supported Versions |publisher=php.net |accessdate=2018-12-07}}</ref><ref name="eol">{{cite web|url=//php.net/eol.php |title=Unsupported Branches |publisher=php.net |accessdate=2015-11-14}}</ref>
! rowspan="2" | 特記事項
|-
! style="min-width: 8em;" | アクティブ
! style="min-width: 8em;" | セキュリティ
|-
| 1.0
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|1995-06-08}}
|
|
| 正式名称は"Personal Home Page Tools (PHP Tools)". "PHP"という名称が使用された最初のバージョン。<ref name="History of PHP" />
|-
| 2.0
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|1997-11-01}}
|
|
| 正式名称は"PHP/FI 2.0". 今日まで続くプログラミング言語としてのPHPが成立した最初のバージョン。
|-
| 3.0
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|1998-06-06}}
|
| {{ISO dateJA|2000-10-20}}<ref name="eol" />
| このバージョンからコミュニティーベースの開発に移行した。特にアンディ・ガトマンズやゼーブ・スラスキーが基礎となる部分を大幅に書き直した。<ref name="History of PHP" />
|-
| 4.0
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|2000-05-22}}
|
| {{ISO dateJA|2001-06-23}}<ref name="eol" />
| Zend Engineを導入し、コードのパース部分と実行部分とが分離された。<ref name="php4changelog">{{cite web|title=PHP: PHP 4 ChangeLog|url=http://www.php.net/ChangeLog-4.php|publisher=The PHP Group|accessdate=2008-02-22|date=2008-01-03}}</ref>
|-
| 4.1
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|2001-12-10}}
|
| {{ISO dateJA|2002-03-12}}<ref name="eol" />
| スーパーグローバル変数の導入 ({{code|lang=php|$_GET}}, {{code|lang=php|code=$_POST}}, {{code|lang=php|code=$_SESSION}}, etc.)<ref name="php4changelog" />
|-
| 4.2
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|2002-04-22}}
|
| {{ISO dateJA|2002-09-06}}<ref name="eol" />
| <code>register_globals</code>が標準で無効化された。これによりセキュリティホールの原因となりがちだった外部入力をチェック無しで直接グローバル変数に格納する処理が行われなくなった。<ref name="php4changelog" />
|-
| 4.3
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|2002-12-27}}
|
| {{ISO dateJA|2005-03-31}}<ref name="eol" />
| これまで提供されていたCGI用SAPIに加えて[[キャラクタユーザインタフェース|コマンドラインインターフェイス]](CLI-SAPI)が導入された。<ref name="php4changelog" /><ref name="phpclidocs">{{cite web|title= Using PHP from the command line | work = PHP Manual|url=http://php.net/manual/en/features.commandline.php|publisher=The PHP Group|accessdate=2009-09-11}}</ref>
|-
| 4.4
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|2005-07-11}}
|
| {{ISO dateJA|2008-08-07}}<ref name="eol" />
| メモリ破損の脆弱性を修正した。これによりバイナリ互換性が崩れ、PHP version 4.3.x向けにビルドされた拡張が使用出来なくなった。<ref name="php44announcement">{{cite web|title=PHP 4.4.0 Release Announcement|work=PHP Mannual|url=http://php.net/releases/4_4_0.php|publisher=The PHP Group|accessdate=2013-11-24}}</ref>
|-
| 5.0
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|2004-07-13}}
|
| {{ISO dateJA|2005-09-05}}<ref name="eol" />
| Zend Engine 2の導入とオブジェクト指向構文の刷新。<ref name="php5changelog">{{cite web|title=PHP: PHP 5 ChangeLog|url=http://www.php.net/ChangeLog-5.php|publisher=The PHP Group|accessdate=2008-02-22|date=2007-11-08}}</ref>
|-
| 5.1
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|2005-11-24}}
|
| {{ISO dateJA|2006-08-24}}<ref name="eol" />
| 大幅なパフォーマンス改善。<ref name="php5changelog" /> 一貫したデータベースアクセスインターフェイスを提供するPHP Data Objects (PDO)の導入。<ref name="phpPdoDocs">{{cite web|title=PHP manual: PDO|url=http://php.net/manual/en/intro.pdo.php|publisher=The PHP Group|accessdate=2011-11-15|date=2011-11-15}}</ref>
|-
| 5.2
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|2006-11-02}}
|
| {{ISO dateJA|2011-01-06}}<ref name="eol" />
| フィルター拡張を標準で有効に。[[JSON]]サポートを標準化。<ref name="php5changelog" />
|-
| 5.3
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|2009-06-30}}
|
| {{ISO dateJA|2014-08-14}}<ref name="eol" />
| [[名前空間]]のサポート、 [[束縛 (情報工学)|静的遅延束縛]]、[[Goto文|goto]]演算子、[[クロージャ]]、PHPアーカイブ (phar)、[[循環参照]]に対する[[ガベージコレクション]]、[[Microsoft Windows|Windows]]サポートの改善、[[SQLite|SQLite3]]、[[MySQL]]関数のバックエンドライブラリをlibmysqlからmysqlndに置き換え、[[MIME]]サポートの改善のためmime_magic拡張の代替としてfileinfo拡張を追加、[[国際化と地域化|i18n]]拡張、ereg拡張の非推奨化。
|-
| 5.4
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|2012-03-01}}
|
| {{ISO dateJA|2015-09-03}}<ref name="eol" />
| [[トレイト]]のサポート、配列の短縮記法の導入。<code>register_globals</code>, <code>safe_mode</code>, <code>allow_call_time_pass_reference</code>, {{code|lang=php|code=session_register()}}, {{code|lang=php|code=session_unregister()}}および {{code|lang=php|code=session_is_registered()}}の削除。ビルトインWebサーバ。<ref>{{cite web|url=http://php.net/manual/en/features.commandline.webserver.php |title=Built-in web server |accessdate=March 26, 2012}}</ref> 既存の機能に対するいくつかの改善、パフォーマンスの向上とメモリの削減。
|-
| 5.5
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|2013-06-20}}
|
| {{ISO dateJA|2016-07-10}}<ref name="supportedversions"/>
| [[ジェネレータ (プログラミング)|ジェネレータ]]および[[例外処理]]に於けるfinallyブロックの導入、OpCache (Zend Optimizer+に基く)のバンドル。<ref name="55changes">{{cite web|title=PHP 5.5.0 changes|url=http://php.net/manual/en/migration55.new-features.php|accessdate=2015-03-03|publisher=php.net}}</ref>
|-
| 5.6
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|2014-08-28}}
| {{ISO dateJA|2017-01-19}}<ref name="supportedversions" />
| {{ISO dateJA|2018-12-31}}<ref name="supportedversions" />
| 定数式、[[可変長引数|可変長引数関数]]、引数の展開演算子(<code>...</code>)、累乗演算子(<code>**</code>)、定数と関数に対する{{Mono|use}}文、対話型デバッガphpdbgをSAPIモジュールとしてバンドル、その他細かな改善。<ref name="56changes">{{cite web |title=Migrating from PHP 5.5.x to PHP 5.6.x |url=http://www.php.net/manual/en/migration56.new-features.php |accessdate=2014-03-24 |publisher=php.net}}</ref> <code>mysql_</code>で始まる関数名が非推奨となる。
|-
| 6.x
| {{n/a}}
| {{n/a|破棄}}
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| ネイティブ[[Unicode]]サポートを含むことを検討されていたが、最終的にリリースされず欠番となった。<ref>{{cite web|url=https://lwn.net/Articles/379909/|title=Resetting PHP 6|quote=There have been books on the shelves purporting to cover PHP 6 since at least 2008. But, in March 2010, the PHP 6 release is not out - in fact, it is not even close to out. Recent events suggest that PHP 6 will not be released before 2011 - if, indeed, it is released at all.|accessdate=2018-01-31}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.infoworld.com/article/2841561/php/php-7-moves-full-speed-ahead.html|title=PHP 7 moves full speed ahead|quote=Recent versions of PHP have been part of the 5.x release series, but there will be no PHP 6. “We’re going to skip [version] 6 because years ago, we had plans for a 6 but those plans were very different from what we’re doing now,” Gutmans said. Going right to version 7 avoids confusion.|accessdate=2018-01-31}}</ref>
|-
| 7.0
| style="background:salmon;"| 旧版
| {{ISO dateJA|2015-12-03}}<ref name=php7final>{{cite web |url=http://php.net/archive/2018.php#id2018-04-26-1 |title=News Archive{{snd}} 2018: PHP 7.2.5 Released |date=2018-04-26 |accessdate=2018-04-28 |publisher=php.net}}</ref>
| {{ISO dateJA|2017-12-03}}<ref name="supportedversions" />
| {{ISO dateJA|2018-12-03}}<ref name="releaseprocess">{{cite web|title=PHP: Release Process|url=https://wiki.php.net/rfc/releaseprocess|accessdate=2018-01-31|date=2011-06-20}}</ref>
| Zend Engine 3 (パフォーマンスの改善<ref name="phpng">{{cite web|url=https://wiki.php.net/phpng |title=PHP: phpng |publisher=php.net |accessdate=2014-07-15}}</ref>とWindowsでの64-bit整数サポート<ref>{{cite web|url=https://wiki.php.net/rfc/size_t_and_int64_next|title=PHP: rfc:size_t_and_int64_next|publisher=php.net|accessdate=16 December 2014}}</ref>)、可変変数に対する構文の統一<ref name="uvs">{{cite web |url=https://wiki.php.net/rfc/uniform_variable_syntax |title=PHP RFC: Uniform Variable Syntax |date=2014-05-31 |accessdate=2014-07-30 |publisher=php.net}}</ref>
、 [[抽象構文木|AST]]に基くコンパイル<ref>{{cite web|url=https://wiki.php.net/rfc/abstract_syntax_tree|title=PHP: rfc:abstract_syntax_tree|publisher=php.net|accessdate=16 December 2014}}</ref>、{{code|lang=php|code=Closure::call()}}の追加<ref>{{cite web|url=https://wiki.php.net/rfc/closure_apply|title=PHP: rfc:closure_apply|publisher=php.net|accessdate=16 December 2014}}</ref>、 [[ビット演算|ビットシフト演算]]のプラットフォーム依存性の排除<ref>{{cite web|url=https://wiki.php.net/rfc/integer_semantics|title=PHP: rfc:integer_semantics|publisher=php.net|accessdate=16 December 2014}}</ref>、 [[null合体演算子]]{{code|lang=php|code=??}}<ref>{{cite web|url=https://wiki.php.net/rfc/isset_ternary|title=PHP: rfc:isset_ternary|publisher=php.net|accessdate=16 December 2014}}</ref>、 [[エスケープシーケンス]]構文による[[Unicode]]コードポイント指定<ref>{{cite web|url=https://wiki.php.net/rfc/unicode_escape|title=RFC: Unicode Codepoint Escape Syntax|date=2014-11-24|accessdate=2014-12-19}}</ref>、関数の戻り値の宣言構文<ref name="return-types" />、スカラー型のタイプヒンティング<ref name="scalar-types" />、 [[宇宙船演算子]]<code><=></code><ref>{{cite web|url=https://wiki.php.net/rfc/combined-comparison-operator|title=Combined Comparison (Spaceship) Operator|publisher=php.net|accessdate=2015-05-21}}</ref>、 [[ジェネレータ (プログラミング)|ジェネレータ]]の委譲<ref>{{cite web|url=https://wiki.php.net/rfc/generator-delegation|title=PHP RFC: Generator Delegation|accessdate=2015-05-21|publisher=php.net}}</ref>、無名クラス<ref>{{cite web|url=https://wiki.php.net/rfc/anonymous_classes|title=PHP RFC: Anonymous Classes|accessdate=2015-05-21|publisher=php.net}}</ref>、より良い[[暗号論的擬似乱数生成器]]<ref>{{cite web|url=https://wiki.php.net/rfc/easy_userland_csprng|title=PHP RFC: Easy User-land CSPRNG|accessdate=2015-05-21|publisher=php.net}}</ref>、PHPの内部エラーを[[例外処理|例外]]で置き換え<ref name="engine_exceptions">{{cite web|url=https://wiki.php.net/rfc/engine_exceptions_for_php7|title=PHP RFC: Exceptions in the engine (for PHP 7)|accessdate=2015-05-21|publisher=php.net}}</ref>、複数の対象をuseする場合の短縮構文<ref>{{cite web|url=https://wiki.php.net/rfc/group_use_declarations|title=PHP RFC: Group Use Declarations|accessdate=2015-05-21|publisher=php.net}}</ref> バージョン5.5で非推奨となっていたMySQLの拡張機能が削除された。
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| 7.1
| style="background:salmon;"| 旧版
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| 関数が値を返さないことを宣言可能に([[void (コンピュータ)|void return type]])<ref>{{cite web|url=http://wiki.php.net/rfc/void_return_type|title=PHP: rfc:void_return_type|publisher=php.net|date=2015-11-09|accessdate=2015-11-14}}</ref>、クラス定数の [[カプセル化|可視性]]が宣言可能に<ref>{{cite web|url=https://wiki.php.net/rfc/class_const_visibility|title=PHP: rfc:class_constant_visibility|publisher=php.net|date=2015-10-27|accessdate=2015-12-08}}</ref>
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| 7.2
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| countableでない型のオブジェクトに対する{{code|lang=php|code=count()}}で警告を発生するように<ref>[https://www.php.net/archive/2017.php#id2017-11-30-1 PHP: News Archive - 2017] 30 Nov 2017</ref>
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|-
| 8.3
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|}
== 注釈 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|group="※"}}
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Portal|FLOSS}}
{{Wikibooks|PHP}}
* [[Perl]]
* [[Java]]
* [[スクリプト言語]]
* [[オブジェクト指向プログラミング]]
* {{仮リンク|PHPの構文とセマンティック|en|PHP syntax and semantics}}
== 外部リンク ==
* {{公式サイト|name=PHP: Hypertext Preprocessor}} 公式ウェブサイト{{En icon}}
** [https://www.php.net/manual/ja/ PHP: PHP マニュアル - Manual] 日本語マニュアル<!-- 負荷分散用のミラーサイト -->
* [http://www.php.gr.jp 日本 PHP ユーザ会 (Japan PHP Users Group) :: メイン]
{{PHP}}
{{プログラミング言語一覧}}
{{Web interfaces}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:PHP}}
[[Category:スクリプト言語]]
[[Category:オープンソースソフトウェア]]
[[Category:Webサーバ]]
[[Category:PHP]]
[[Category:テンプレートエンジン]] | 2003-03-06T23:03:35Z | 2023-12-19T07:01:48Z | false | false | false | [
"Template:PHP",
"Template:プログラミング言語一覧",
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"Template:要曖昧さ回避",
"Template:Code"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/PHP_(%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0%E8%A8%80%E8%AA%9E) |
3,562 | DV端子 | DV端子(ディーブイたんし)は、デジタルビデオカメラなどDV方式の機器に装備される、データ伝送用の端子(ソケット)である。AV端子のうちのひとつ。IEEE 1394で規定される4芯端子に対するAV機器分野における呼称・通称でもあり、現在i.LINKと呼ばれているものと同じ。
呼称が異なるだけで、IEEE 1394の4芯端子と完全に同一である。
登場当初、この形状の端子を搭載したAV機器はDV方式のものだけだったため、この名称が一般的に用いられていた。しかし、のちにソニーが「i.LINK」の呼称を提唱し、それが普及するに伴って製品における記載は「i.LINK」(または「i.LINK (DV)」など)に置き換わり、「DV端子」の名称は通称としてのみ存在している。
また、この端子を搭載しているデジタル映像機器の一部は、コンピュータ用のIEEE 1394と信号上の互換性があるため、IEEE 1394端子を搭載するコンピュータとケーブルで接続し、映像の送受信を行う事で、デジタルビデオカメラの映像をコンピュータ上で編集したり、デジタルビデオカメラをWebカメラの代用として使うことなどが可能である。 | [
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'''DV端子'''(ディーブイたんし)は、[[デジタルビデオカメラ]]など[[DV (ビデオ規格)|DV]]方式の機器に装備される、データ伝送用の[[端子]](ソケット)である。[[AV端子]]のうちのひとつ。[[IEEE 1394]]で規定される4芯端子に対するAV機器分野における呼称・[[通称]]でもあり、現在[[i.LINK]]と呼ばれているものと同じ。
呼称が異なるだけで、IEEE 1394の4芯端子と完全に同一である。
登場当初、この形状の端子を搭載したAV機器はDV方式のものだけだったため、この名称が一般的に用いられていた。しかし、のちに[[ソニー]]が「i.LINK」の呼称を提唱し、それが普及するに伴って製品における記載は「i.LINK」(または「i.LINK (DV)」など<ref>i.LINKによって接続される機器はDVだけではなく、また[[デジタルハイビジョン]]機器で用いられる[[MPEG-2システム|MPEG-2 TS]]などとはデータそのものに互換性がなく使用できないので、DV専用であることを明示するためにそれを併記する場合がある。</ref>)に置き換わり、「DV端子」の名称は通称としてのみ存在している。
また、この端子を搭載しているデジタル映像機器の一部は、コンピュータ用のIEEE 1394と信号上の互換性があるため、IEEE 1394端子を搭載するコンピュータとケーブルで接続し、映像の送受信を行う事で、デジタルビデオカメラの映像をコンピュータ上で編集したり、デジタルビデオカメラを[[Webカメラ]]の代用として使うことなどが可能である。
== 脚注 ==
<references />
{{commonscat|FireWire}}
[[Category:映像端子]]
[[Category:音声端子]]
[[Category:コネクタ]] | null | 2019-03-14T03:45:36Z | false | false | false | [
"Template:Commonscat"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/DV%E7%AB%AF%E5%AD%90 |
3,564 | 映像機器 | 映像機器(えいぞうきき)とは、映像(静止画映像を含む)を表示したり、記録したりすることを目的にした機器。英語を使って「ビジュアル機器」ともいう。
各映像規格の録画・再生や、各種放送の受信の対応・非対応など。 | [
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"title": "方式、対応"
}
] | 映像機器(えいぞうきき)とは、映像(静止画映像を含む)を表示したり、記録したりすることを目的にした機器。英語を使って「ビジュアル機器」ともいう。 | {{出典の明記|date=2023年3月}}
[[File:EIZO FlexScan L461 16.0inch.jpg|250px|thumb|right|[[TFT液晶]]ディスプレイ]]
'''映像機器'''(えいぞうきき)とは、映像(静止画映像を含む)を表示したり、記録したりすることを目的にした機器。英語を使って「'''[[ビジュアル]]機器'''」ともいう。
== 映像機器の用語一覧 ==
[[File:Toshiba Regza S Series.jpg|thumb|250px|液晶テレビ(2018年、[[東芝]])]]
* [[テレビ受像機]]、[[ビデオモニター]]、[[ディスプレイデバイス]]
** 映像表示方式の違いによる機器の種別
*** [[ブラウン管]] (CRT)
**** [[トリニトロン]]管
**** [[薄型ブラウン管]]
*** [[液晶ディスプレイ]](LCD)
*** [[プラズマディスプレイ]]
*** [[プロジェクタ]]
*** [[リアプロジェクションテレビ]]
*** [[電界放出ディスプレイ]] (FED)
**** [[表面伝導型電子放出素子ディスプレイ]] (SED)
*** [[有機エレクトロルミネッセンス|有機ELディスプレイ]](有機エレクトロルミネッセンス)
** 表示画面サイズ規格の違いによる種別
*** 標準画質ノーマル型 画素数:水平×垂直=640×480 ([[画面アスペクト比|画面比]]4:3)
*** 高画質ノーマル型 画素数:水平×垂直=960×720 (画面比4:3)
*** 標準画質ワイド型 画素数:水平×垂直=850×480 (画面比16:9)
*** [[ハイビジョン]]型 画素数:水平×垂直=1280×720 (画面比16:9)
*** フルハイビジョン型 画素数:水平×垂直=1920×1080 (画面比16:9)(正式にはフルスペックハイビジョン)
**: ※メーカーや製品により各製品での広告上の呼称は多少異なる。(参考:[[ハイビジョン#ハイビジョンテレビの種類、仕様、放送規格|ハイビジョン]]の項)
**: また、画素数の数値は解像度の規格上からのものなので、実際の製品スペックは若干それを上回るものもある。
* チューナー
** [[MUSEデコーダ]]
** [[MUSE-NTSCコンバーター]] BSアナログ放送チューナー内蔵機器に接続し、アナログハイビジョン放送を標準画質に変換して番組視聴できるようにする機器
** [[BSチューナー]]
** [[CSチューナー]]
** [[デジタルチューナー|デジタル放送のチューナー]]
[[File:Camera crew at Candlestick Park 8-29-08.JPG|thumb|250px|[[プロ野球]]を撮影する[[放送]]用[[ビデオカメラ]]]]
* [[ビデオカメラ]]
** [[撮像]]デバイス
*** [[撮像管]]
*** [[CCDイメージセンサ]]
*** [[CMOSイメージセンサ]]
*** [[ハイビジョンカメラ]]
** [[監視カメラ]]
** [[デジタルビデオカメラ]]
*** [[Webカメラ]]
*** [[ネットワークカメラ]]
** [[カムコーダ]]
[[Image:Sony WV-DR7 SVHS & DV & Mini DV Video Cassete Recoder.jpg|thumb|250px|家庭用[[ビデオテープレコーダ]]([[ソニー]]、1999年)]]
[[file:VHS-Video-Tape-Top-Flat.jpg|thumb|[[VHS]]の[[ビデオテープ]]]]
* ビデオレコーダー
** [[磁気]]メディア
*** [[オープンリール]]
**** [[2インチVTR|2インチ]]
**** [[1インチVTR|1インチ]]
*** [[ビデオテープレコーダ|VTR]](カセットテープ方式の[[ビデオ信号記録装置|ビデオ機器]])
**** [[DV (ビデオ規格)|DV]] 標準画質のデジタルビデオ(テープ方式)
***** [[HDV]] - [[ハイビジョン]]画質のデジタルビデオ(テープ方式)、DV規格と同一のカセットテープ
***** MiniDV - DV / HDV規格で小型[[カムコーダ]]用テープサイズ
***** 標準DV - DV / HDV規格で業務用カムコーダ・据え置き型ビデオデッキ用テープサイズ
***** [[DVCAM]] - DV規格をベースにした業務用標準画質規格
***** [[DVCPRO]] - DV規格をベースにした業務用標準画質規格、後にハイビジョン規格に拡張された
***** [[HDCAM]] - 業務用ハイビジョン規格
***** [[MICROMV]] - 小型カセットを使用した標準画質規格
**** [[D1-VTR|D-1]] - 放送用標準画質規格デジタルビデオ
**** [[D2-VTR|D-2]] - 放送用標準画質規格デジタルビデオ
**** [[UNIHI]](業務用アナログハイビジョン用)
****[[M規格]] - 放送用標準画質規格アナログビデオ
**** [[MII]] - 放送用標準画質規格アナログビデオ
**** [[D3-VTR|D-3]] - 放送用標準画質規格デジタルビデオ
**** [[D5-VTR|D-5]] - 放送用標準画質規格デジタルビデオ
**** [[VX方式]]
**** [[VHS]] - 家庭用ビデオテープ、標準画質規格アナログビデオ
***** [[S-VHS]] - VHSの高画質化規格
***** [[W-VHS]] - VHSを拡張したアナログハイビジョン録画規格
***** [[D-VHS]] - VHSを拡張したデジタルハイビジョン録画規格
***** フルカセット - (ノーマルVHS/S-VHS/W-VHS/D-VHS)
***** コンパクトカセット - カムコーダ用([[VHS-C]](ノーマルVHS)/[[S-VHS-C]](S-VHS))
**** [[8ミリビデオ]] - カムコーダ用ビデオテープ、標準画質規格アナログビデオ(スタンダード8ミリ / Video8)
***** [[Hi8]] - 8ミリビデオの高画質化規格
***** [[Digital8]] - 8ミリビデオの構造にDV規格の標準画質デジタル録画を行うデジタルビデオ
**** [[ベータマックス]] - 家庭用ビデオテープ、標準画質規格アナログビデオ
***** ノーマルベータ/ハイバンドベータ/EDベータ
**** [[ベータカム]] - 業務用標準画質規格アナログビデオ (ベータカムSP:高画質化規格)
***** [[Digital BETACAM]] / [[BETACAM-SX]] / [[MPEG IMX]] - ベータカムをベースにした業務用標準画質規格デジタルビデオ
**** [[U規格]]
***** [[Uマチック]]/UマチックSP - 放送用標準画質規格アナログビデオ
**** [[D6-VTR|D-6]] - 放送用ハイビジョン画質規格デジタルビデオ
**** [[D9-VTR|Digital S(D-9)]] - 放送用標準画質規格デジタルビデオ
*** ディスク方式のビデオ機器
**** [[VHD]] ※再生専用
[[File:Sony DVD+RW.jpg|thumb|[[ソニー]]の書き換え可能な[[DVD]]]]
** [[光学]]メディア
*** [[CD]]
**** [[CDビデオ]]/[[ビデオシングルディスク|VSD]]/[[ビデオCD]]
*** [[DVD]]
**** [[DVD-Video]]/[[DVD-VR|VR]]/[[AVCHD]] - (DVD-R/-R DL/-RW/-RAM/+R/+R DL/+RW)
**** [[HD DVD]] - (HD DVD-ROM/-R/-RW)
*** [[MVDISC]]
*** [[Blu-ray Disc]] - (BD-ROM/-R/-RE)
*** [[レーザーディスク]](LD) ※再生専用
*** [[XDCAM]] - [[ソニー]]がBlu-ray Discをベースに開発した放送業務用ビデオ規格。
**[[半導体メモリ]]メディア
***[[P2|P2カード]]
==端子==
[[Image:Composite.jpg|thumb|200px|[[コンポジット映像信号]]の接続に使われる[[黄色]]の[[RCA端子]]]]
*[[RCA端子]]([[コンポジット映像信号]]) 民生用
*BNC端子 業務用・放送用
*[[S端子]]
*[[コンポーネント端子]]
*[[D端子]]
*[[特殊D端子]]
*[[DV端子]] - [[IEEE 1394]]を利用したDV規格の伝送用端子
*i.LINK - IEEE 1394を利用し、DV規格以外にも[[MPEG-2システム|MPEG-2 TS]]など多彩な伝送ができる、詳細は[[IEEE 1394]]
*[[Digital Visual Interface|DVI端子]]
*[[シリアルデジタルインタフェース|SDI端子]] 放送機器用
*[[HDMI]]端子
==方式、対応==
各映像規格の録画・再生や、各種放送の受信の対応・非対応など。
*映像規格
**[[テレビ]]([[NTSC]]他)、標準画質 (SDTV:Standard Definition Television)
**[[ハイビジョン]]、[[高精細度テレビジョン放送|高精細度]] (HDTV:High Definition television)
*放送方式
**[[地上波]](地上アナログテレビジョン放送)
**[[衛星放送]](BS/CSアナログ放送、BSデジタル放送、110度CSデジタル放送など)
**[[地上デジタルテレビジョン放送|地上デジタル放送]]
*表示方式
**[[オーバースキャン]]
**[[アンダースキャン]]
== 映像機器メーカー ==
=== 日本 ===
* [[アストロデザイン]]
* [[EIZO]]
* [[池上通信機]]
* [[イメージニクス]]
* [[シャープ]]
* [[ソニー]]
* [[パナソニック]]
* [[ローランド]]
* [[アイ・ディ・ケイ]]
==関連項目==
*[[音響機器]]
*[[情報機器]]
*[[家電機器]]
*[[デジタル放送の一覧]]
{{映像出力機器}}
{{Audio-visual-stub}}
{{DEFAULTSORT:えいそうきき}}
[[Category:AV機器|*えいそうきき]]
[[Category:映像技術]] | null | 2023-07-20T09:58:09Z | false | false | false | [
"Template:Audio-visual-stub",
"Template:出典の明記",
"Template:映像出力機器"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A0%E5%83%8F%E6%A9%9F%E5%99%A8 |
3,566 | 劣化ウラン弾 | 劣化ウラン弾(れっかウランだん、Depleted uranium ammunition、略称DU)とは、弾体として劣化ウランを主原料とする合金を使用した弾丸全般を指す。
劣化ウランの比重は約19と大きく、鉄の2.5倍、鉛の1.7倍である。そのため合金化して砲弾に用いると、同サイズ、同速度でより大きな運動エネルギー(質量に比例する)を得られるため、主に対戦車用の砲弾・弾頭として使用される。
劣化ウランはウラン鉱石を精製した後の純粋ウランからウラン濃縮を行い核燃料としての低濃縮ウラン燃料を得た後に残る残渣であり、原子力発電所から発生する廃棄物とは発生経路が異なる。成分はいくつかの放射性同位体が混ざった純粋ウランである。原材料の天然ウランの性質から半減期が数億年〜数十億年と長く、弱い放射線を放出する。
劣化ウランは、現実的に調達可能な物質の内では比重が最も大きいので、目標物を貫通する事を目的とした銃砲弾の弾芯の素材に適している。この弾芯に劣化ウランを用いた銃砲弾を劣化ウラン弾と呼称する。アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ロシア、中国、カナダ、スウェーデン、ギリシャ、トルコ、イスラエル、サウジアラビア、ヨルダン、バーレーン、エジプト、クウェート、パキスタン、タイ、台湾、韓国などが劣化ウラン弾を軍用配備している。銃砲弾だけでなく戦車など装甲車両の装甲板に劣化ウランを含有させれば防御効力が高まることから、M1エイブラムスにおいては追加装甲を含めて車体装甲に活用されている。
劣化ウラン弾が実用化される以前はタングステンが同様の理由で採用されており、現在でも欧州(イギリス・フランス・ロシア・スウェーデン・ギリシャを除く)や日本では調達性や安全性から対戦車弾や大型ガトリング砲にタングステン弾を使用している。タングステンに比べて劣化ウランは原料コストこそ安価であるものの、劣化ウランの特性から加工に高い技術と費用、さらに安全対策費とを要する。にもかかわらず米英露中が劣化ウラン弾を製造し配備しているのはそのコストに見合う性能を持つためであると軍事専門家は述べている。また、タングステンは資源が極端に中国に偏在しているという調達性における問題を抱えている。
一方、劣化ウラン弾は目標命中時やセルフ・シャープニング効果発生時に微粉末化され、さらに燃焼により酸化ウランに化合されて周囲に飛散するため、戦闘員だけに限定されず、戦闘区域外の生物が呼吸器から吸収してしまうおそれがある。この時、重金属としての化学毒性に加え、微量ながら含まれる放射性同位体(Uなど)による内部被曝が発生する危険性もあり、いわゆる「ダーティ・ボム」の亜種となりうることからその安全性において国際的に懸念されている。また、一次的に接触しなくとも地面に堆積した酸化ウランが土壌や水源を汚染し、人体や環境に長期的な悪影響を及ぼすリスクも抱えている。
2023年9月、前年から始まったロシアのウクライナ侵攻を受けて、アメリカはウクライナに対し劣化ウラン弾の供与を決定。これに対してロシアは、環境への影響をあからさまに無視する「犯罪行為」であるとして供与決定を非難したが、アメリカ国防総省は反論。アメリカ疾病対策センターは劣化ウラン弾の発がん性を示す証拠はないとしたことを指摘した上で、世界保健機関もウランや劣化ウランにさらされた後に白血病などのがんが増加した例は確認されていないと報告していること、国際原子力機関でさえ劣化ウランへの暴露とがんの増加、健康や環境への重大な影響との間に立証された関連性はないとしていることに言及した。
劣化ウラン弾は目標の装甲板に侵徹する過程で先端部分が先鋭化しながら侵攻する自己先鋭化現象(セルフ・シャープニング現象)を起こす。このため一般的な対戦車用砲弾であるタングステン合金弾よりも高い貫通能力を発揮し、劣化ウランの侵徹性能は密度の違いも含めてタングステン合金よりも10%程優れているとされる。
劣化ウラン弾やタングステン弾が命中すると砲弾の持つ運動エネルギーが熱エネルギーへと変換される。これは侵徹体金属の結晶構造が変形して高温を発するためであり、摩擦で発生する熱はあまり関与していない事が判明している。
劣化ウラン弾は穿孔過程で侵徹体の先端温度が1,200度を越えて融解温度に達する。装甲板を貫通した後で侵徹体の溶解した一部が微細化して撒き散らされる。金属ウラン成分は高温下で容易に酸素と結びついて激しく燃焼するため、劣化ウラン弾は焼夷効果を発揮する。 この性質のために、劣化ウラン弾は鍛造加工できないので不活性ガス中で低速切削加工により製造される。
劣化ウラン弾は以下の2つの点で人体に被害を与える恐れがあるため、実戦や演習・射撃訓練で劣化ウラン弾を使用し、自然環境に劣化ウランを放散させることの是非について、たびたび議論される。
ウランは化学的な毒性を持つ重金属である。
劣化ウランは、主体を占めるウラン238、ウラン濃縮過程で取りこぼされたウラン235、それらの子孫核種からなっており、放射能を持つ放射性物質である。 劣化ウランの比放射能は14.8 Bq/mgであり、天然ウランの25.4 Bq/mgと比較すると約6割と低い。
劣化ウラン弾はタングステン弾に比べて原料費が安い分製品価格も安価であるという誤解が散見されるが、前述のように加工コストが莫大なために、納入価格はタングステン弾とさほど変わらない。なお劣化ウラン弾の価格についてはAPFSDSを参照のこと。
これら以外にも、防御用としてM1A1(HA)戦車、M1A2戦車の装甲用構成部品として劣化ウラン装甲が使用されている。
トマホーク巡航ミサイルにも劣化ウランが使われているとの疑惑があったが、1999年に米国防総省が不使用を明言しており、事実トマホークのステルス性や誘導性に悪影響を及ぼしかねないため、標準搭載する必要性はない。新型のタクティカル・トマホークの地下貫通型については使用されている可能性があるものの、2005年春の時点では未配備であるため確認は取れていない。
バンカーバスターにおいては、BLU-109/B についてロッキード社の特許申請書において劣化ウランの採用が明記されている。
概要に記載されているとおり、アメリカ以外ではイギリス、フランス、ロシア、中国、カナダ、スウェーデン、ギリシャ、トルコ、イスラエル、サウジアラビア、ヨルダン、バーレーン、エジプト、クウェート、パキスタン、タイ、台湾、韓国などが劣化ウラン弾を配備している。
このうちイギリスは、主力戦車チャレンジャー2の近代化改装に伴う主砲換装に伴い、ラインメタル社の55口径120mm滑腔砲を搭載する見込みであったことから、使用砲弾に砲製造会社の純正品を用いる方針により劣化ウラン弾の新規生産を停止した。予算不足により長らく滞っていた主砲換装計画であったが、2021年5月、チャレンジャー2→チャレンジャー3のアップグレードが発表されるとともに搭載砲がラインメタルのL/55A1に決定されたため、既存車両の退役にしたがって主力戦車の主砲弾として配備されている劣化ウラン弾は順次廃棄されてゆく見込みである。
ドイツ(旧西ドイツ)は、環境汚染を理由に冷戦時代から今日までレオパルト2戦車でタングステン砲弾を使用し続けている。
日本の自衛隊も2014年の時点ではタングステン砲弾を配備しており、劣化ウラン弾は保持していない。海上自衛隊が保有する護衛艦の一部に搭載されている対空迎撃システム、ファランクス CIWS の最初の量産モデルである Block0 のメーカー純正弾頭には劣化ウラン弾が採用されていたが、海上自衛隊では弾薬を国産化し、アメリカ製の劣化ウラン弾は当初(くらま搭載時)より使用していない。また、アメリカにおいても後継の量産モデルである Block1(1988年)からは劣化ウラン弾の使用を止めている。
1991年の湾岸戦争で、米軍がイラク戦車部隊に使用した。使用量は公式には約300トンである。
その後、NATO による PKF 多国籍軍がボスニア紛争およびコソボ紛争に介入し、ボスニアで約1万発、コソボでは約3万発の劣化ウラン弾を使用したことを公式に認めている。
また、2003年3月以降のイラク戦争でも、米軍は劣化ウラン弾を大量に使用したといわれている。人道支援・戦後復興支援のためにイラクに派遣された陸上自衛隊が駐留したサマーワ郊外においても、米軍がイラク戦争時に使用したものとみられる劣化ウラン弾が複数発見されている。
2015年11月16日と22日、米軍はISへのA10攻撃機によるISの石油タンクローリーの車列を標的とした空爆において対戦車用の劣化ウラン弾を使用した。
劣化ウラン弾頭が着弾し、あるいは劣化ウラン装甲に被弾することによって劣化ウランが燃焼すると、酸化ウランの微粒子となり周囲に飛散する。これが体内に取り込まれた場合、内部被曝や化学的毒性による健康被害を引き起こすとして、その影響が懸念されている。
湾岸戦争後の米軍の帰還兵などに「湾岸戦争症候群」と呼ばれる健康被害が確認されており、劣化ウランがその原因の一つではないかとする説がある。また過去にも劣化ウラン弾頭が使用されたボスニアやコソボ等の地域においては、白血病の罹患率や奇形児の出生率が増加した等と主張する健康被害が報告されている。
これらの懸念や報告に対して、劣化ウラン弾頭や劣化ウラン装甲を使用する当事者であるアメリカ政府は反論し、劣化ウラン弾による健康被害を否定、さらにこれら症状は劣化ウラン弾による影響ではなく、フセイン政権がかつて用いた化学兵器の残留物の影響という公式見解を発表した。
また「湾岸戦争症候群」についても、イラク軍による油田破壊によって放散した化学物質の影響や、戦争前に兵士に投与された対化学戦用ワクチンの副作用によるものであるとする説もある。湾岸戦争に限定したそれらの説に加え、ボスニアやコソボを含む「白血病の罹患率や奇形児出生率の増加」に関するデータも、当事者として医療現場が主張する統計的な根拠や信頼性に対しては疑問があり、UNEP の公式報告書でも、ボスニア・コソボにおける劣化ウラン弾使用の放射線による影響を懸念・重要視しておらず、WHO は UNEP の収集したデータを基に「DU が紛争で使われた地域の住民や滞在していた民間人に対して、DU 毒性に関する医学的スクリーニングを行う健康上の理由はない」と結論づけている。これらは主に、DUの汚染が現場から数十m単位に限局されており一般住民が継続的にDUに曝露される可能性が極めて低いことが理由である。ただし、WHOは食物や地下水への汚染物質蓄積による食物連鎖への影響など、環境への影響は懸念を示している。
これらの指摘・症状と劣化ウランとの因果関係の証明には、疫学的に有意なデータを得るだけでも膨大なサンプル数の確保と時間が要求されるため、標本の量・質とも決定的に不足している現段階では因果関係の結論を出すのは困難であるという指摘がある。また、性質上その被害が発展途上国に集中しやすく、軍事衝突でのみ被害が発生するため、企業による研究資金の拠出がほとんどないこともこの分野の研究の困難さに拍車をかけている。
また、環境・人体への悪影響が懸念される以上、少なくとも安全性を明確に確認するまでは予防原則に基き保有および行使は規制・禁止されるべきであるとする慎重な指摘もある | [
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"text": "劣化ウラン弾(れっかウランだん、Depleted uranium ammunition、略称DU)とは、弾体として劣化ウランを主原料とする合金を使用した弾丸全般を指す。",
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"text": "トマホーク巡航ミサイルにも劣化ウランが使われているとの疑惑があったが、1999年に米国防総省が不使用を明言しており、事実トマホークのステルス性や誘導性に悪影響を及ぼしかねないため、標準搭載する必要性はない。新型のタクティカル・トマホークの地下貫通型については使用されている可能性があるものの、2005年春の時点では未配備であるため確認は取れていない。",
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"text": "バンカーバスターにおいては、BLU-109/B についてロッキード社の特許申請書において劣化ウランの採用が明記されている。",
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"text": "概要に記載されているとおり、アメリカ以外ではイギリス、フランス、ロシア、中国、カナダ、スウェーデン、ギリシャ、トルコ、イスラエル、サウジアラビア、ヨルダン、バーレーン、エジプト、クウェート、パキスタン、タイ、台湾、韓国などが劣化ウラン弾を配備している。",
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"text": "このうちイギリスは、主力戦車チャレンジャー2の近代化改装に伴う主砲換装に伴い、ラインメタル社の55口径120mm滑腔砲を搭載する見込みであったことから、使用砲弾に砲製造会社の純正品を用いる方針により劣化ウラン弾の新規生産を停止した。予算不足により長らく滞っていた主砲換装計画であったが、2021年5月、チャレンジャー2→チャレンジャー3のアップグレードが発表されるとともに搭載砲がラインメタルのL/55A1に決定されたため、既存車両の退役にしたがって主力戦車の主砲弾として配備されている劣化ウラン弾は順次廃棄されてゆく見込みである。",
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"text": "2015年11月16日と22日、米軍はISへのA10攻撃機によるISの石油タンクローリーの車列を標的とした空爆において対戦車用の劣化ウラン弾を使用した。",
"title": "実戦での使用実績"
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"text": "劣化ウラン弾頭が着弾し、あるいは劣化ウラン装甲に被弾することによって劣化ウランが燃焼すると、酸化ウランの微粒子となり周囲に飛散する。これが体内に取り込まれた場合、内部被曝や化学的毒性による健康被害を引き起こすとして、その影響が懸念されている。",
"title": "健康被害"
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"text": "湾岸戦争後の米軍の帰還兵などに「湾岸戦争症候群」と呼ばれる健康被害が確認されており、劣化ウランがその原因の一つではないかとする説がある。また過去にも劣化ウラン弾頭が使用されたボスニアやコソボ等の地域においては、白血病の罹患率や奇形児の出生率が増加した等と主張する健康被害が報告されている。",
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"text": "これらの懸念や報告に対して、劣化ウラン弾頭や劣化ウラン装甲を使用する当事者であるアメリカ政府は反論し、劣化ウラン弾による健康被害を否定、さらにこれら症状は劣化ウラン弾による影響ではなく、フセイン政権がかつて用いた化学兵器の残留物の影響という公式見解を発表した。",
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"text": "これらの指摘・症状と劣化ウランとの因果関係の証明には、疫学的に有意なデータを得るだけでも膨大なサンプル数の確保と時間が要求されるため、標本の量・質とも決定的に不足している現段階では因果関係の結論を出すのは困難であるという指摘がある。また、性質上その被害が発展途上国に集中しやすく、軍事衝突でのみ被害が発生するため、企業による研究資金の拠出がほとんどないこともこの分野の研究の困難さに拍車をかけている。",
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"text": "また、環境・人体への悪影響が懸念される以上、少なくとも安全性を明確に確認するまでは予防原則に基き保有および行使は規制・禁止されるべきであるとする慎重な指摘もある",
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] | 劣化ウラン弾とは、弾体として劣化ウランを主原料とする合金を使用した弾丸全般を指す。 劣化ウランの比重は約19と大きく、鉄の2.5倍、鉛の1.7倍である。そのため合金化して砲弾に用いると、同サイズ、同速度でより大きな運動エネルギー(質量に比例する)を得られるため、主に対戦車用の砲弾・弾頭として使用される。 | '''劣化ウラン弾'''(れっかウランだん、Depleted uranium ammunition、略称DU)とは、弾体として[[劣化ウラン]]を主原料とする合金を使用した[[弾丸]]全般を指す。
劣化ウランの[[比重]]は約19と大きく、[[鉄]]の2.5倍、[[鉛]]の1.7倍である。そのため合金化して[[砲弾]]に用いると、同サイズ、同速度でより大きな[[運動エネルギー]](質量に比例する)を得られるため、主に対[[戦車]]用の砲弾・弾頭として使用される。
[[ファイル:Sabot separating.gif|thumb|300px|right|対戦車用砲弾である[[APFSDS]]のサボが分離する瞬間。この[[弾芯]](中心のダーツ状の棒)の材質が砲弾の効力を非常に大きく左右する。]]
== 概要 ==
劣化ウランはウラン鉱石を精製した後の純粋ウランからウラン濃縮を行い核燃料としての低濃縮ウラン燃料を得た後に残る残渣であり、原子力発電所から発生する廃棄物とは発生経路が異なる。成分はいくつかの[[放射性同位体]]が混ざった純粋ウラン<ref>ただし精製時での話であり、その後[[放射性崩壊]]の発生により、時間経過につれて微量ながら不純物が増加してゆく</ref>である。原材料の天然ウランの性質から半減期が数億年〜数十億年と長く、弱い放射線を放出する。
劣化ウランは、現実的に調達可能な物質の内では[[比重]]が最も大きいので、目標物を貫通する事を目的とした[[銃砲弾]]の[[弾芯]]の素材に適している。この弾芯に劣化ウランを用いた銃砲弾を劣化ウラン弾と呼称する。[[アメリカ合衆国]]、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[ロシア]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[カナダ]]、[[スウェーデン]]、[[ギリシャ]]、[[トルコ]]、[[イスラエル]]、[[サウジアラビア]]、[[ヨルダン]]、[[バーレーン]]、[[エジプト]]、[[クウェート]]、[[パキスタン]]、[[タイ王国|タイ]]、[[中華民国|台湾]]、[[大韓民国|韓国]]などが劣化ウラン弾を軍用配備している。銃砲弾だけでなく[[戦車]]など装甲車両の装甲板に劣化ウランを含有させれば防御効力が高まることから、[[M1エイブラムス]]においては追加装甲を含めて車体装甲に活用されている。
劣化ウラン弾が実用化される以前は[[タングステン]]が同様の理由で採用されており、現在でも欧州(イギリス・フランス・ロシア・スウェーデン・ギリシャを除く)や日本では調達性や安全性から対戦車弾や大型[[ガトリング砲]]にタングステン弾を使用している。タングステンに比べて劣化ウランは原料コストこそ安価であるものの、劣化ウランの特性から加工に高い技術と費用、さらに安全対策費とを要する。<!--しかし、タングステンは希少金属でありかなり高価である。この価格の話から発想して「米英は安い廃棄物から作った劣化ウラン弾で戦争している。」という声がある{{誰}}が、劣化ウラン弾もタングステン弾より原料費は格安だが加工コストは同じであり、安価と言うわけではない。-->にもかかわらず米英露中が劣化ウラン弾を製造し配備しているのはそのコストに見合う性能を持つためであると軍事専門家は述べている<ref>軍事研究2003年5月号、軍事研究2004年8月号</ref>。また、タングステンは資源が極端に中国に偏在しているという調達性における問題を抱えている。
一方、劣化ウラン弾は目標命中時やセルフ・シャープニング効果発生時に微粉末化され、さらに[[燃焼]]により酸化ウランに化合されて周囲に飛散するため、戦闘員だけに限定されず、戦闘区域外の生物が[[呼吸器]]から吸収してしまうおそれがある。この時、[[重金属]]としての化学毒性に加え、微量ながら含まれる放射性同位体(<sup>234</sup>Uなど)による[[内部被曝]]が発生する危険性もあり、いわゆる「ダーティ・ボム」の亜種となりうることからその安全性において国際的に懸念されている。また、一次的に接触しなくとも地面に堆積した酸化ウランが土壌や水源を汚染し、人体や環境に長期的な悪影響を及ぼすリスクも抱えている。
[[2023年]]9月、前年から始まった[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]]を受けて、アメリカは[[ウクライナ]]に対し劣化ウラン弾の供与を決定。これに対してロシアは、環境への影響をあからさまに無視する「犯罪行為」であるとして供与決定を非難したが<ref>{{Cite web |url=https://www.cnn.co.jp/world/35208822.html |title=米国の劣化ウラン弾の供与は「犯罪行為」 ロシアが主張 |publisher=CNN |date=2023-09-07 |accessdate=2023-09-09}}</ref>、[[アメリカ国防総省]]は反論。[[アメリカ疾病対策センター]]は劣化ウラン弾の発がん性を示す証拠はないとしたことを指摘した上で、[[世界保健機関]]もウランや劣化ウランにさらされた後に[[白血病]]などのがんが増加した例は確認されていないと報告していること、[[国際原子力機関]]でさえ劣化ウランへの暴露とがんの増加、健康や環境への重大な影響との間に立証された関連性はないとしていることに言及した<ref>{{Cite web |url=https://www.cnn.co.jp/usa/35208855.html |title=劣化ウラン弾の健康リスク、米国防総省がロシアに反論 |publisher=CNN |date=2023-09-08 |accessdate=2023-09-09}}</ref>。
== 特徴 ==
=== セルフ・シャープニング ===
劣化ウラン弾は目標の装甲板に侵徹する過程で先端部分が先鋭化しながら侵攻する自己先鋭化現象(セルフ・シャープニング現象)を起こす。このため一般的な対戦車用砲弾であるタングステン合金弾よりも高い貫通能力を発揮し、劣化ウランの侵徹性能は密度の違いも含めてタングステン合金よりも10%程優れているとされる。
=== 焼夷効果 ===
劣化ウラン弾やタングステン弾が命中すると砲弾の持つ運動エネルギーが熱エネルギーへと変換される。これは侵徹体金属の結晶構造が変形して高温を発するためであり、摩擦で発生する熱はあまり関与していない事が判明している。
劣化ウラン弾は穿孔過程で侵徹体の先端温度が1,200度を越えて融解温度に達する。装甲板を貫通した後で侵徹体の溶解した一部が微細化して撒き散らされる。金属ウラン成分は高温下で容易に酸素と結びついて激しく燃焼するため、劣化ウラン弾は焼夷効果を発揮する<ref name="現代戦車砲の主用砲弾 APFSDS">一戸崇雄著 『現代戦車砲の主用砲弾 APFSDS』 「軍事研究」2008年8月号 (株)ジャパン・ミリタリー・レビュー 2008年8月1日発行</ref>。
この性質のために、劣化ウラン弾は鍛造加工できないので[[不活性ガス]]中で低速切削加工により製造される<ref>平成13年度、ダイキン工業株式会社による高速飛翔体の比較実験より</ref>。
== 毒性 ==
劣化ウラン弾は以下の2つの点で人体に被害を与える恐れがあるため、実戦や演習・射撃訓練で劣化ウラン弾を使用し、自然環境に劣化ウランを放散させることの是非について、たびたび議論される。
=== 重金属毒性 ===
ウランは化学的な[[毒性]]を持つ[[重金属]]である。
=== 放射性 ===
劣化ウランは、主体を占める[[ウラン238]]、ウラン濃縮過程で取りこぼされた[[ウラン235]]、それらの子孫核種からなっており、[[放射能]]を持つ[[放射性物質]]である。
劣化ウランの比放射能は14.8 [[Bq]]/mgであり<ref name="IAEA_DU_QA">国際原子力機関 劣化ウラン Q&A[http://www.iaea.org/NewsCenter/Features/DU/du_qaa.shtml#q3]</ref>、天然ウランの25.4 Bq/mgと比較すると約6割と低い。
== 価格 ==
劣化ウラン弾はタングステン弾に比べて原料費が安い分製品価格も安価であるという誤解が散見されるが、前述のように加工コストが莫大なために、納入価格はタングステン弾とさほど変わらない。なお劣化ウラン弾の価格については[[APFSDS]]を参照のこと<ref name="現代戦車砲の主用砲弾 APFSDS"/>。
== 使用しているとされる兵器 ==
[[画像:M829.jpg|thumb|140px|M829E3砲弾とその構造(右)。白で示された矢状の飛翔体の中心にウラニウム合金製の侵徹体(弾芯)が収納されている。]]
; PGU-14/B
: [[アメリカ空軍]]の30ミリ砲弾。約 300g の貫通芯のうち 99.25% が劣化ウラン。[[A-10 (航空機)|フェアチャイルドA-10AサンダーボルトII攻撃機]] の[[GAU-8 (機関砲)|GAU-8/A]]で使用される。
; M735A1
: [[アメリカ陸軍]]105ミリ砲弾。約 2.2kg の劣化ウラン貫通体を持つ。[[M1エイブラムス|M1戦車]]および[[M60パットン]]の主砲が使用。
; M774
: 約 3.4kg の劣化ウラン貫通体を持つ。使用は M735A1 に準じる。
; M829・M829E1・M829E2
: 約 4.9kg の劣化ウラン貫通体を持つ。アメリカ陸軍の120ミリ砲弾。[[M1エイブラムス|M1A1戦車およびM1A2戦車]]の主砲が使用。
; M833
: 約 3.7kg の劣化ウラン貫通体を持つ。アメリカ陸軍の105ミリ砲弾。EX35 の105ミリ砲のシステムで使われる。
; XM919
: 約 85g の劣化ウラン貫通体を持つ。アメリカ陸軍の25ミリ砲弾。主として[[M2ブラッドレー歩兵戦闘車]]で使われる。
; XM900E1
: 約 10kg の劣化ウラン貫通体を持つ。アメリカ陸軍の105ミリ砲弾。
; MK149-2 20ミリ砲弾
: 艦艇の[[ファランクス (火器)|ファランクス]]対空迎撃システムに利用。使用は Block0 のみ。1988年以降タングステン弾芯に移行。
これら以外にも、防御用として[[M1エイブラムス|M1A1(HA)戦車]]、M1A2戦車の装甲用構成部品として劣化ウラン装甲が使用されている。
[[トマホーク (ミサイル)|トマホーク巡航ミサイル]]にも劣化ウランが使われているとの疑惑があったが、1999年に[[アメリカ国防総省|米国防総省]]が不使用を明言しており、事実トマホークのステルス性や誘導性に悪影響を及ぼしかねないため、標準搭載する必要性はない。新型のタクティカル・トマホークの地下貫通型については使用されている可能性があるものの、2005年春の時点では未配備であるため確認は取れていない。
[[地中貫通爆弾|バンカーバスター]]においては、BLU-109/B について[[ロッキード・マーティン|ロッキード]]社の特許申請書において劣化ウランの採用が明記されている{{要出典|date=2010年7月}}。
概要に記載されているとおり、アメリカ以外では[[イギリス]]、[[フランス]]、[[ロシア]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[カナダ]]、[[スウェーデン]]、[[ギリシャ]]、[[トルコ]]、[[イスラエル]]、[[サウジアラビア]]、[[ヨルダン]]、[[バーレーン]]、[[エジプト]]、[[クウェート]]、[[パキスタン]]、[[タイ王国|タイ]]、[[台湾]]、[[大韓民国|韓国]]などが劣化ウラン弾を配備している[http://www1.odn.ne.jp/hibaku-hantai/uran-kinsi/DU-01.pdf]。
このうちイギリスは、[[主力戦車]][[チャレンジャー2]]の近代化改装に伴う主砲換装に伴い、[[ラインメタル]]社の55口径120mm滑腔砲を搭載する見込みであったことから、使用砲弾に砲製造会社の純正品を用いる方針により劣化ウラン弾の新規生産を停止した。予算不足により長らく滞っていた主砲換装計画であったが、2021年5月、チャレンジャー2→チャレンジャー3のアップグレードが発表されるとともに搭載砲がラインメタルのL/55A1に決定されたため、既存車両の退役にしたがって主力戦車の主砲弾として配備されている劣化ウラン弾は順次廃棄されてゆく見込みである。
ドイツ(旧西ドイツ)は、環境汚染を理由に[[冷戦|冷戦時代]]から今日まで[[レオパルト2|レオパルト2戦車]]でタングステン砲弾を使用し続けている。
日本の[[自衛隊]]も2014年の時点ではタングステン砲弾を配備しており、劣化ウラン弾は保持していない。[[海上自衛隊]]が保有する護衛艦の一部に搭載されている対空迎撃システム、ファランクス CIWS の最初の量産モデルである Block0 のメーカー純正弾頭には劣化ウラン弾が採用されていたが、海上自衛隊では弾薬を国産化し、アメリカ製の劣化ウラン弾は当初([[くらま (護衛艦)|くらま]]搭載時)より使用していない。また、アメリカにおいても後継の量産モデルである Block1(1988年)からは劣化ウラン弾の使用を止めている。
== 実戦での使用実績 ==
1991年の[[湾岸戦争]]で、米軍が[[イラク]]戦車部隊に使用した。使用量は公式には約300トンである。
その後、[[北大西洋条約機構|NATO]] による PKF 多国籍軍が[[ボスニア・ヘルツェゴビナ#歴史|ボスニア紛争]]および[[コソボ紛争]]に介入し、ボスニアで約1万発、コソボでは約3万発の劣化ウラン弾を使用したことを公式に認めている。
また、[[2003年]]3月以降の[[イラク戦争]]でも、米軍は劣化ウラン弾を大量に使用したといわれている。人道支援・戦後復興支援のためにイラクに派遣された[[陸上自衛隊]]が駐留した[[サマーワ]]郊外においても、米軍がイラク戦争時に使用したものとみられる劣化ウラン弾が複数発見されている。
2015年11月16日と22日、米軍は[[ISIL|IS]]への[[A-10 (航空機)|A10攻撃機]]によるISの[[タンクローリー|石油タンクローリー]]の車列を標的とした[[空爆]]において[[対戦車兵器|対戦車用]]の劣化ウラン弾を使用した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3118232 米軍、対IS空爆で劣化ウラン弾使用、国防総省] AFP(2017年02月17日)2017年02月17日閲覧</ref>。
== 健康被害 ==
劣化ウラン弾頭が着弾し、あるいは劣化ウラン装甲に被弾することによって劣化ウランが燃焼すると、[[ウラン|酸化ウラン]]の微粒子となり周囲に飛散する。これが体内に取り込まれた場合、[[被曝|内部被曝]]や化学的毒性による健康被害を引き起こすとして、その影響が懸念されている。
湾岸戦争後の米軍の帰還兵などに「[[湾岸戦争症候群]]」と呼ばれる健康被害が確認されており、劣化ウランがその原因の一つではないかとする説がある{{要出典|date=2012年9月}}。また過去にも劣化ウラン弾頭が使用されたボスニアやコソボ等の地域においては、[[白血病]]の罹患率や奇形児の出生率が増加した等と主張する健康被害が報告されている{{要出典|date=2012年9月}}。
これらの懸念や報告に対して、劣化ウラン弾頭や劣化ウラン装甲を使用する当事者であるアメリカ政府は反論し、劣化ウラン弾による健康被害を否定、さらにこれら症状は劣化ウラン弾による影響ではなく、[[サッダーム・フセイン|フセイン]]政権がかつて用いた[[化学兵器]]の残留物の影響という公式見解を発表した。
また「湾岸戦争症候群」についても、イラク軍による油田破壊によって放散した化学物質の影響や、戦争前に兵士に投与された対化学戦用ワクチンの副作用によるものであるとする説もある{{要出典|date=2011年10月}}。湾岸戦争に限定したそれらの説に加え、ボスニアやコソボを含む「白血病の罹患率や奇形児出生率の増加」に関するデータも、当事者として医療現場が主張する統計的な根拠や信頼性に対しては疑問があり{{要出典|date=2011年10月}}、[[UNEP]] の公式報告書でも、ボスニア・コソボにおける劣化ウラン弾使用の放射線による影響を懸念・重要視しておらず{{要出典|date=2011年10月}}<ref name="who20190716">{{Cite web|和書|url=https://www.who.int/ionizing_radiation/pub_meet/en/DU_Eng.pdf|title=WHO モノグラフ|accessdate=2019/07/16|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030807022222/https://www.who.int/ionizing_radiation/pub_meet/en/DU_Eng.pdf|archivedate=2003-08-07}}</ref>、[[世界保健機関|WHO]] は UNEP の収集したデータを基に「DU が紛争で使われた地域の住民や滞在していた民間人に対して、DU 毒性に関する医学的スクリーニングを行う健康上の理由はない」と結論づけている{{要出典|date=2011年10月}}。これらは主に、DUの汚染が現場から数十m単位に限局されており一般住民が継続的にDUに曝露される可能性が極めて低いことが理由である{{要出典|date=2011年10月}}。ただし、WHOは食物や地下水への汚染物質蓄積による食物連鎖への影響など、環境への影響は懸念を示している<ref name="who20190716"/>。
これらの指摘・症状と劣化ウランとの因果関係の証明には、[[疫学]]的に有意なデータを得るだけでも膨大なサンプル数の確保と時間が要求されるため、標本の量・質とも決定的に不足している現段階では因果関係の結論を出すのは困難であるという指摘がある{{要出典|date=2012年9月}}。また、性質上その被害が発展途上国に集中しやすく、軍事衝突でのみ被害が発生するため、企業による研究資金の拠出がほとんどないこともこの分野の研究の困難さに拍車をかけている。
また、環境・人体への悪影響が懸念される以上、少なくとも安全性を明確に確認するまでは[[予防原則]]に基き保有および行使は規制・禁止されるべきであるとする慎重な指摘もある{{要出典|date=2010年5月}}
==環境への影響==
*[[1995年]]-1996年、[[沖縄県]][[鳥島 (沖縄県)|鳥島射爆撃場]]にて、[[アメリカ軍]]により劣化ウラン弾1520発が誤射された。都合4度にわたり弾頭の回収が試みられたが、総重量188.4kg相当分の弾頭が回収されておらず、汚染された状態が継続している<ref>{{Cite web|和書|date= 2019-05-08|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/417133 |title=米軍、被ばく恐れ環境調査せず 沖縄・鳥島の劣化ウラン弾誤射 政府の説明と矛盾 |publisher= 沖縄タイムス|accessdate=2019-05-26}}</ref>。
== 出典 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* [[劣化ウラン]]
* [[放射能兵器]]
* [[核兵器]]
* [[核テロリズム]]
* [[汚い爆弾]]
* [[APFSDS]]
* [[放射性廃棄物]]
== 外部リンク ==
* [http://home.hiroshima-u.ac.jp/heiwa/Pub/29.html 武力紛争における劣化ウラン兵器の使用]
* [http://tokyo.usembassy.gov/j/policy/tpolicyj-security.html#du 在日米国大使館/劣化ウランに関する情報]
* [http://www.iaea.org/worldatom/Press/Focus/DU/faq_depleted_uranium.html IAEAの劣化ウランについてのFAQ](英語)
* [http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20031006d1.html 上の仮翻訳(在日米国大使館)]
* [http://www.kankyo-hoshano.go.jp/08/08_2.html 「米軍鳥島射爆撃場における劣化ウラン含有弾誤使用問題に係る環境調査について」] @ [http://www.kankyo-hoshano.go.jp/ 日本の環境放射能と放射線] (文部科学省の情報公開サイト)
* [http://www.centcom.mil/CENTCOMNews/News_Release.asp?NewsRelease=20030368.txt ブルックス准将による2003年3月26日の記者会見](英文)
* [http://www1.umn.edu/humanrts/demo/subcom96-part1.htm U.N. Sub-Commission on Prevention of Discrimination and Protection of Minorities, Report of the Sub-Commission on Prevention of Discrimination and Protection of Minorities on its 48th Session , U.N. Doc. E/CN.4/Sub.2/1996/41 (1996).](1996年国連人権小委員会における劣化ウラン弾関連のテキスト・英文)
* [http://plaza.rakuten.co.jp/bosc1945/4001 劣化ウランに関する資料リンク集]
* [http://postconflict.unep.ch/dufact.html UNEPの公式報告書]([http://chronoflyer.ddo.jp/~trinary/plus/unep/factsheet_ja.html 日本語訳])
* [https://web.archive.org/web/20120815092349/http://www.who.int/mediacentre/factsheets/fs257/en/ WHOの概況報告書]([http://www.who.int/ionizing_radiation/pub_meet/factsheets/DU_fs_257_japan.pdf 日本語訳])
* [http://www.who.int/ionizing_radiation/en/Recommend_Med_Officers_final.pdf 劣化ウラニウム被曝のためのWHOガイダンス -医療従事者・事業管理者のために-]([http://www.who.int/ionizing_radiation/env/uranium/WHO_guidance_on_exposure_DU_japan.pdf 日本語訳])
* [http://www.morizumi-pj.com/balkan/balkan.html]NATO軍の劣化ウラン弾の告発。
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
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[[Category:ウラン]]
[[en:Depleted uranium ammunition]]
[[he:אורניום מדולל]] | 2003-03-07T01:28:40Z | 2023-12-08T05:18:39Z | false | false | false | [
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3,567 | D端子 | D端子(ディーたんし)とは映像機器のアナログ映像信号を伝送するために規格された日本独自の接続端子である。
D端子という名称は、ハーフピッチベローズコネクタの形状が「D」の文字型をしていることから命名されたものである。
主にPCのコネクタを思わせる形状やデジタル放送受信・録画再生機器に用いられることからD端子の「D」は「デジタル」を示していると誤解されることが多いが、前述の通りあくまで形状による命名であり、内部の信号はアナログ信号である。
EIAJ(Electronic Industries Association of Japan; 日本電子機械工業会)によってRC-5237として1999年7月に制定された規格で、「デジタル放送映像信号用(Y, Pb, Pr)接続用D端子コネクタ」の名称が付いている。専ら日本国内で利用されている規格で、名称にデジタル放送映像信号用とあるが実際に内部を流れているのはアナログ信号である。
従来はコンポーネント映像信号(SD信号専用は「Y/Cb/Cr」、HD信号にも対応した端子なら「Y/Pb/Pr」と表記される)を伝送するためにはコンポーネント端子を用いていたため、入力側・出力側それぞれ3つの端子の間を計3本のケーブルを使って接続する必要があった。これを1本のケーブルで接続できるように端子を1つにまとめたものが、D端子である。また、コンポーネント映像信号だけではなく走査線数・走査方式・アスペクト比を切り換えるための識別信号の伝送も可能になり、プラグ挿入の検知機能も付いた。
コネクタは14のピンを7つずつ2段にまとめた構造をしており、そのうち輝度信号の伝送に2つ、色差信号の伝送に4つ、走査線数・走査方式・アスペクト比を切り換えるための識別信号の伝送に3つ、プラグの挿入を検知するために2つのピンを用い、残り3つのピンは予備ライン用である。なお、識別信号を伝送する場合は外被 (FG) の接続が必須となるため、実質的な端子数は15となる。また、ハンディカムなど機器の都合で物理スペースが十分に確保できない場合、特殊D端子が用いられることがある。
コンポーネント端子と比べても値段はほとんど変わらず省スペースであるため、日本国内ではコンポーネント端子よりも普及しているが、コネクタの構造(接続部での整合が取れない・信号線のシールドが維持できないなど)に起因して画質が若干コンポーネント端子に比べて劣るという声もある。日本独自の規格であるため、諸外国の製品では特に日本向けとして生産されたものでない限り、採用されていない。よって、D端子の映像をHDMIに変換する器具は未だ登場していない。
映像信号のみの伝送に用いるので、音声の伝送は行わない。機器間で音声信号も受け渡したい場合には、音声についてさらに別線(RCA端子など)で接続する必要がある。
なお、D3・D5がフルハイビジョン(フルHD)の解像度、D2・D4・D5がプログレッシブに対応している。
映像信号規格(フォーマット)ごとに対応規格がさらに細分化されている。端子の形状は全て同一。
映像信号規格の名称表記については、有効走査線数と総走査線数(本文では( )内表記が総走査線数)による表記がある。また、ドット数表記は水平×垂直を表す。映像信号規格の区分名称はその映像フォーマットの垂直解像度を表していて、表記している水平解像度は想定される対象の信号フォーマットの最大サイズを示している。なおD端子の規格定義上では伝送が可能な対象の各信号フォーマットについては上位互換を保証していて、細分化された各区分名称の解説で対象としている以外の若番の映像信号フォーマットも含まれる(詳細は以下の各章を参照)。
D1 - D5の区分名称は個々の映像信号規格の名称ではなく、その端子が対応している映像信号規格の種類別に付けられたD端子規格内の区分を表している。入力側においては各対応規格とも1種類の映像信号への対応のみではなく以下のように下位の区分規格に対して互換を保証しているが、出力側においては少なくてもその区分の最上位の解像度(下表の◎)を出力できれば良いと規定されており必ずしも下位の出力 (○) が用意されているとは限らない。
この互換の都合上、D4出力ができてもD1出力が用意されていないという場合もあるため、D4出力とD1入力を接続した場合に表示できない場合がある。
PlayStation 2では2001年に発売を開始したD映像ケーブルにより、全モデルでD1映像端子をサポートしている。D映像端子を使用することで、コンポジット信号による480i出力よりも超大幅に画質が向上する。また一部作品、およびSCPH-50000以降のDVDプレイヤーはD2映像による480p出力が可能。グランツーリスモ4のみ、アップコンバートされたD3映像の出力も対応。ただし、DVDプレイヤーによるDVDの映像は、他のハードウェア上で再生するよりも画質が本来より多少劣化する場合がある。D映像出力を行う場合は、起動後に本体設定画面から映像出力設定で「Y Cb/Pb Cr/Pr」を選択する必要がある。
初代Xboxでは480iのみでなく、480p(D2)、1080i(D3)、720p(D4)のD映像出力に対応。
Xbox 360 S以前のモデルでは、本体購入時にコンポジット・D映像両方が搭載されたケーブルが付属する。最大1080p(D5)映像出力に対応。コンポジット信号とD映像信号を切り替えるスイッチもケーブルに存在しているが、Xbox 360起動中にそのスイッチを操作するとXbox 360が強制的に再起動する。Xbox 360 Eはコンポジット端子、HDMI以外非対応なのでD映像ケーブルを接続不可能。
一部ゲーム起動時に専用のD映像ケーブルを使うと480pに対応。ただし、ゲームキューブ用のD映像ケーブルは非常に高価であり、Wiiのゲームキューブ互換機能でD映像出力を行えば通常はこのケーブルを買う必要はない。(ゲームボーイプレイヤーなどが数少ない例外。)
最大480p(D2)映像出力に対応。D映像ケーブルは公式品以外のものも存在。
最大1080p出力に対応。ただし、CECH-3000以降のモデルではD映像ケーブルを使用してもブルーレイの画質が強制的に480iに変更され、CECH-4200以降のモデルではTorne及びブルーレイはHDMIを使用しない限り一切起動できなくなる。
PlayStation Portable(PSP-2000)でのD端子へのゲーム画面出力は当初プログレッシブ (D2) のみの対応であった(これに付随してコンポジット映像出力・S映像出力ができなかった)が、システムソフトウェアVer.5.00以降はゲームアーカイブスのうちPlayStation規格ソフトのインターレース (D1) 出力(およびコンポジット映像出力・S映像出力)に対応した。ただし2010年現在もPSP用ソフトの出力はVer.5.00以降でもプログレッシブ出力のみの対応である。なおPSP-3000およびPSP goではPSP用ソフトもPlayStation規格ソフトもインターレース出力(同)が可能となっている。
識別信号の電気仕様や識別信号3の意味はS2端子のものと同じ。また、これらの信号のGNDはケーブル外被(シールド・FG)を使用する。このため、識別信号を使用する接続では両端の機器は必ずグラウンド・ループを構成することになる。
D端子は日本国内のデジタル放送視聴用の標準規格として制定されたが信号の伝送がアナログで行なわれていることから「HD素材の権利保護が十分でない」とするコンテンツホルダーの意向により、徐々にHDMIに置き換わりつつある。それに伴い、HD映像の扱いにおいてD端子はHDMIに比べて制限を加えられている場合がある。
また第3世代光ディスク(Blu-ray DiscやHD DVD)の場合、市販ソフトにおいてはソフト本来の画質での出力がHDMI(HDCP有)に限定され、D端子出力では多くのソフトでD1かD2出力しかできない仕様になる見通しである。これはD端子などのアナログ信号ではコピーガードを掛けると画質劣化や変質を招く恐れがあり、コピーガードが容易なデジタル出力に一本化するためである。AACS LAでは発売とともにこの仕様にする方針であったが、各方面から反対意見が続出したため、アナログでのHD出力を規制する機能は残した上で2010年(平成22年)まではアナログHD出力を認め、それ以降も出力規制は段階的に行うこととした(AACSのAACS Final Adopter Agreementで2010年12月31日以降に製造の機種からアナログ出力を480i及び576iのみに制限、2013年(平成25年)12月31日以降の製造機種ではアナログ出力自体が禁止されることが決まった)。2009年現在においてもHDMI入力端子を持たない安価なテレビやHDMI出力端子を持たない安価な地上波デジタルチューナーなどの製品(外国メーカー製など)がディスカウントストアやホームセンターやECサイトなどで販売されており、それを買い求める消費者も少なからず存在する事や、2006年(平成18年)ごろまでに生産された製品にはHDMI入力端子が装備されていない物もある事から、アナログ出力制限が始まる2011年(平成23年)の時点でHDMI入力端子付きテレビやモニターがどの程度普及しているかは未知数である。
BDレコーダー・プレーヤー・薄型テレビの中には低価格帯モデルを中心にD端子やコンポーネント端子を搭載しない機種が登場し始めている。機種によってはS端子も省略されHDMIかコンポジットでしか映像を出力できない場合もある。さらに、2011年(平成23年)に入ってから接続端子がHDMIしかない機種も登場し、アナログ出力が禁止された2014年(平成26年)以降はD端子はコンポーネント端子と共に廃止されHDMIに一本化する可能性が高い。 | [
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"text": "従来はコンポーネント映像信号(SD信号専用は「Y/Cb/Cr」、HD信号にも対応した端子なら「Y/Pb/Pr」と表記される)を伝送するためにはコンポーネント端子を用いていたため、入力側・出力側それぞれ3つの端子の間を計3本のケーブルを使って接続する必要があった。これを1本のケーブルで接続できるように端子を1つにまとめたものが、D端子である。また、コンポーネント映像信号だけではなく走査線数・走査方式・アスペクト比を切り換えるための識別信号の伝送も可能になり、プラグ挿入の検知機能も付いた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "コネクタは14のピンを7つずつ2段にまとめた構造をしており、そのうち輝度信号の伝送に2つ、色差信号の伝送に4つ、走査線数・走査方式・アスペクト比を切り換えるための識別信号の伝送に3つ、プラグの挿入を検知するために2つのピンを用い、残り3つのピンは予備ライン用である。なお、識別信号を伝送する場合は外被 (FG) の接続が必須となるため、実質的な端子数は15となる。また、ハンディカムなど機器の都合で物理スペースが十分に確保できない場合、特殊D端子が用いられることがある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "コンポーネント端子と比べても値段はほとんど変わらず省スペースであるため、日本国内ではコンポーネント端子よりも普及しているが、コネクタの構造(接続部での整合が取れない・信号線のシールドが維持できないなど)に起因して画質が若干コンポーネント端子に比べて劣るという声もある。日本独自の規格であるため、諸外国の製品では特に日本向けとして生産されたものでない限り、採用されていない。よって、D端子の映像をHDMIに変換する器具は未だ登場していない。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "映像信号のみの伝送に用いるので、音声の伝送は行わない。機器間で音声信号も受け渡したい場合には、音声についてさらに別線(RCA端子など)で接続する必要がある。",
"title": "概要"
},
{
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"tag": "p",
"text": "なお、D3・D5がフルハイビジョン(フルHD)の解像度、D2・D4・D5がプログレッシブに対応している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "映像信号規格(フォーマット)ごとに対応規格がさらに細分化されている。端子の形状は全て同一。",
"title": "規定されている規格"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "映像信号規格の名称表記については、有効走査線数と総走査線数(本文では( )内表記が総走査線数)による表記がある。また、ドット数表記は水平×垂直を表す。映像信号規格の区分名称はその映像フォーマットの垂直解像度を表していて、表記している水平解像度は想定される対象の信号フォーマットの最大サイズを示している。なおD端子の規格定義上では伝送が可能な対象の各信号フォーマットについては上位互換を保証していて、細分化された各区分名称の解説で対象としている以外の若番の映像信号フォーマットも含まれる(詳細は以下の各章を参照)。",
"title": "規定されている規格"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "D1 - D5の区分名称は個々の映像信号規格の名称ではなく、その端子が対応している映像信号規格の種類別に付けられたD端子規格内の区分を表している。入力側においては各対応規格とも1種類の映像信号への対応のみではなく以下のように下位の区分規格に対して互換を保証しているが、出力側においては少なくてもその区分の最上位の解像度(下表の◎)を出力できれば良いと規定されており必ずしも下位の出力 (○) が用意されているとは限らない。",
"title": "規定されている規格"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "この互換の都合上、D4出力ができてもD1出力が用意されていないという場合もあるため、D4出力とD1入力を接続した場合に表示できない場合がある。",
"title": "規定されている規格"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "PlayStation 2では2001年に発売を開始したD映像ケーブルにより、全モデルでD1映像端子をサポートしている。D映像端子を使用することで、コンポジット信号による480i出力よりも超大幅に画質が向上する。また一部作品、およびSCPH-50000以降のDVDプレイヤーはD2映像による480p出力が可能。グランツーリスモ4のみ、アップコンバートされたD3映像の出力も対応。ただし、DVDプレイヤーによるDVDの映像は、他のハードウェア上で再生するよりも画質が本来より多少劣化する場合がある。D映像出力を行う場合は、起動後に本体設定画面から映像出力設定で「Y Cb/Pb Cr/Pr」を選択する必要がある。",
"title": "規定されている規格"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "初代Xboxでは480iのみでなく、480p(D2)、1080i(D3)、720p(D4)のD映像出力に対応。",
"title": "規定されている規格"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "Xbox 360 S以前のモデルでは、本体購入時にコンポジット・D映像両方が搭載されたケーブルが付属する。最大1080p(D5)映像出力に対応。コンポジット信号とD映像信号を切り替えるスイッチもケーブルに存在しているが、Xbox 360起動中にそのスイッチを操作するとXbox 360が強制的に再起動する。Xbox 360 Eはコンポジット端子、HDMI以外非対応なのでD映像ケーブルを接続不可能。",
"title": "規定されている規格"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "一部ゲーム起動時に専用のD映像ケーブルを使うと480pに対応。ただし、ゲームキューブ用のD映像ケーブルは非常に高価であり、Wiiのゲームキューブ互換機能でD映像出力を行えば通常はこのケーブルを買う必要はない。(ゲームボーイプレイヤーなどが数少ない例外。)",
"title": "規定されている規格"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "最大480p(D2)映像出力に対応。D映像ケーブルは公式品以外のものも存在。",
"title": "規定されている規格"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "最大1080p出力に対応。ただし、CECH-3000以降のモデルではD映像ケーブルを使用してもブルーレイの画質が強制的に480iに変更され、CECH-4200以降のモデルではTorne及びブルーレイはHDMIを使用しない限り一切起動できなくなる。",
"title": "規定されている規格"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "PlayStation Portable(PSP-2000)でのD端子へのゲーム画面出力は当初プログレッシブ (D2) のみの対応であった(これに付随してコンポジット映像出力・S映像出力ができなかった)が、システムソフトウェアVer.5.00以降はゲームアーカイブスのうちPlayStation規格ソフトのインターレース (D1) 出力(およびコンポジット映像出力・S映像出力)に対応した。ただし2010年現在もPSP用ソフトの出力はVer.5.00以降でもプログレッシブ出力のみの対応である。なおPSP-3000およびPSP goではPSP用ソフトもPlayStation規格ソフトもインターレース出力(同)が可能となっている。",
"title": "規定されている規格"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "端子構造と伝送情報"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "識別信号の電気仕様や識別信号3の意味はS2端子のものと同じ。また、これらの信号のGNDはケーブル外被(シールド・FG)を使用する。このため、識別信号を使用する接続では両端の機器は必ずグラウンド・ループを構成することになる。",
"title": "端子構造と伝送情報"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "D端子は日本国内のデジタル放送視聴用の標準規格として制定されたが信号の伝送がアナログで行なわれていることから「HD素材の権利保護が十分でない」とするコンテンツホルダーの意向により、徐々にHDMIに置き換わりつつある。それに伴い、HD映像の扱いにおいてD端子はHDMIに比べて制限を加えられている場合がある。",
"title": "HDMI登場後の状況"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "また第3世代光ディスク(Blu-ray DiscやHD DVD)の場合、市販ソフトにおいてはソフト本来の画質での出力がHDMI(HDCP有)に限定され、D端子出力では多くのソフトでD1かD2出力しかできない仕様になる見通しである。これはD端子などのアナログ信号ではコピーガードを掛けると画質劣化や変質を招く恐れがあり、コピーガードが容易なデジタル出力に一本化するためである。AACS LAでは発売とともにこの仕様にする方針であったが、各方面から反対意見が続出したため、アナログでのHD出力を規制する機能は残した上で2010年(平成22年)まではアナログHD出力を認め、それ以降も出力規制は段階的に行うこととした(AACSのAACS Final Adopter Agreementで2010年12月31日以降に製造の機種からアナログ出力を480i及び576iのみに制限、2013年(平成25年)12月31日以降の製造機種ではアナログ出力自体が禁止されることが決まった)。2009年現在においてもHDMI入力端子を持たない安価なテレビやHDMI出力端子を持たない安価な地上波デジタルチューナーなどの製品(外国メーカー製など)がディスカウントストアやホームセンターやECサイトなどで販売されており、それを買い求める消費者も少なからず存在する事や、2006年(平成18年)ごろまでに生産された製品にはHDMI入力端子が装備されていない物もある事から、アナログ出力制限が始まる2011年(平成23年)の時点でHDMI入力端子付きテレビやモニターがどの程度普及しているかは未知数である。",
"title": "HDMI登場後の状況"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "BDレコーダー・プレーヤー・薄型テレビの中には低価格帯モデルを中心にD端子やコンポーネント端子を搭載しない機種が登場し始めている。機種によってはS端子も省略されHDMIかコンポジットでしか映像を出力できない場合もある。さらに、2011年(平成23年)に入ってから接続端子がHDMIしかない機種も登場し、アナログ出力が禁止された2014年(平成26年)以降はD端子はコンポーネント端子と共に廃止されHDMIに一本化する可能性が高い。",
"title": "HDMI登場後の状況"
}
] | D端子(ディーたんし)とは映像機器のアナログ映像信号を伝送するために規格された日本独自の接続端子である。 D端子という名称は、ハーフピッチベローズコネクタの形状が「D」の文字型をしていることから命名されたものである。 主にPCのコネクタを思わせる形状やデジタル放送受信・録画再生機器に用いられることからD端子の「D」は「デジタル」を示していると誤解されることが多いが、前述の通りあくまで形状による命名であり、内部の信号はアナログ信号である。 | {{混同|link1=D-subminiature|D-sub端子|link2=Digital Visual Interface|DVI端子}}
<!--[[ファイル:DFP connector.jpg|thumb|200px|DFPコネクタ<br/>D端子はこのDFPコネクタをモデルに規格された。]]-->
[[ファイル:D4_video_connector.jpg|thumb|200px|D端子ケーブル コネクタ部<br/>このケーブルはD4対応のもの。]]
[[ファイル:D-Terminal jack.JPG|thumb|200px|液晶テレビに搭載されたD端子。上図の機器はD4まで対応している。]]
[[ファイル:Regza Z Series Back Panel Interface.jpg|thumb|200px|D端子(D5)を装備している薄型テレビ(2010年)]]
'''D端子'''(ディーたんし)とは[[映像機器]]のアナログ映像信号を伝送するために規格された[[ガラパゴス化|日本独自の接続端子]]である。
D端子という名称は、ハーフピッチベローズコネクタの形状が「D」の文字型をしていることから命名されたものである<ref>[http://www.tdk.co.jp/techmag/knowledge/200701/index.htm TDK テクの雑学 第61回 より]</ref>。
主にPCのコネクタを思わせる形状や[[デジタル放送]]受信・録画再生機器に用いられることからD端子の「D」は「[[デジタル]]」を示していると誤解{{Efn|実際に[[総務省]][[東北総合通信局]]がデジタル放送推進用の[[ウェブサイト]]にてD端子をデジタル端子であると紹介していたが<ref>[https://megalodon.jp/2007-1224-1657-20/www.ttb.go.jp/digital/touhoku/tok21.html 知りたい情報(Q&A)]</ref>、これは間違いである。}}されることが多いが、前述の通りあくまで形状による命名であり、'''内部の信号は[[アナログ]]信号である'''{{Efn|一方、モデルとなったDFPコネクタはデジタルコンポーネント信号RGBHV。}}。
== 概要 ==
EIAJ(Electronic Industries Association of Japan; 日本電子機械工業会)によってRC-5237として1999年7月に制定された規格で、「デジタル放送映像信号用(Y, Pb, Pr)接続用D端子コネクタ」の名称が付いている。専ら日本国内で利用されている規格で、名称にデジタル放送映像信号用とあるが実際に内部を流れているのはアナログ信号である。
従来は[[コンポーネント映像信号]](SD信号専用は「Y/Cb/Cr」、HD信号にも対応した端子なら「Y/Pb/Pr」と表記される)を伝送するためには[[コンポーネント端子]]を用いていたため、入力側・出力側それぞれ3つの端子の間を計3本のケーブルを使って接続する必要があった{{Efn|一般的には[[RCA端子]]が使用されている。}}。これを1本のケーブルで接続できるように端子を1つにまとめたものが、D端子である。また、コンポーネント映像信号だけではなく[[走査|走査線数・走査方式]]・[[アスペクト比]]を切り換えるための識別信号の伝送も可能になり、プラグ挿入の検知機能も付いた。
コネクタは14のピンを7つずつ2段にまとめた構造をしており、そのうち輝度信号の伝送に2つ、色差信号の伝送に4つ、走査線数・走査方式・アスペクト比を切り換えるための識別信号の伝送に3つ、プラグの挿入を検知するために2つのピンを用い、残り3つのピンは予備ライン用である。なお、識別信号を伝送する場合は外被 (FG) の接続が必須となるため、実質的な端子数は15となる。また、[[ハンディカム]]など機器の都合で物理スペースが十分に確保できない場合、[[特殊D端子]]が用いられることがある。
コンポーネント端子と比べても値段はほとんど変わらず省スペースであるため、日本国内ではコンポーネント端子よりも普及しているが、コネクタの構造(接続部での整合が取れない・信号線のシールドが維持できないなど)に起因して画質が若干コンポーネント端子に比べて劣るという声もある。日本独自の規格であるため、諸外国の製品では特に日本向けとして生産されたものでない限り、採用されていない{{Efn|これに対応するためRCA3端子⇔D端子の変換アダプターが販売されている。}}。よって、D端子の映像を[[HDMI]]に変換する器具は未だ登場していない。
映像信号のみの伝送に用いるので、音声の伝送は行わない。機器間で音声信号も受け渡したい場合には、音声についてさらに別線([[RCA端子]]など)で接続する必要がある。
なお、D3・D5が[[フルハイビジョン|フルハイビジョン(フルHD)]]の解像度、D2・D4・D5が[[走査#インターレース方式とプログレッシブ方式|プログレッシブ]]に対応している。
== 規定されている規格 ==
映像信号規格(フォーマット)ごとに対応規格がさらに細分化されている。端子の形状は全て同一。
映像信号規格の名称表記については、有効走査線数と総走査線数(本文では( )内表記が総走査線数)による表記がある。また、ドット数表記は水平×垂直を表す。映像信号規格の区分名称はその映像フォーマットの垂直解像度を表していて、表記している水平解像度は想定される対象の信号フォーマットの最大サイズを示している。なおD端子の規格定義上では伝送が可能な対象の各信号フォーマットについては[[上位互換]]を保証していて、細分化された各区分名称の解説で対象としている以外の若番の映像信号フォーマットも含まれる(詳細は以下の各章を参照)。
=== 対応規格 ===
; '''D1''' [[480i|480i (525i)]] :720×480ドット [[インターレース]](標準画質)
: アナログテレビ放送 ([[NTSC]]) 及び、[[地上デジタルテレビジョン放送|地上デジタル]]と[[衛星放送|BSデジタル]]の[[世界の放送方式|SD放送]]と同等の画質。また、[[VHS]]/[[S-VHS]]や[[DVD-Video|DVDビデオ]]ソフトもこの画質である。[[DVD]]などのデジタル圧縮映像用にはこのD1 (Full D1) の他に3/4 D1 (544×480)、2/3 D1 (480×480)、1/2 D1 (352×480)、1/4 D1 (352×240 : SIF) もD1での伝送対象に含まれる。
: ワイドサイズ(縦:横=16:9)映像の場合は、720×480内に横方向を圧縮する形で記録されている(参考:[[スクイーズ]]方式)。
: 映像信号はコンポーネント映像信号で、[[S端子]]と違って色差信号も分離されているため、S端子よりさらに画質が向上している。
: 主にプログレッシブ出力機能を持たない製品に搭載されている。
; '''D2''' [[480p|480p (525p)]] :720×480ドット [[走査#インターレース方式とプログレッシブ方式|プログレッシブ]](標準画質)
: ワイド映像なども含めた基本的なところはD1と同様だが、走査方式がプログレッシブ表示に対応した映像信号の伝送規格。
: D2接続の場合は[[ハイビジョン]]により近い解像感が得られるのが特徴で、DVDビデオソフトを[[プロジェクタ]]を使った[[ホームシアター]][[システム]]やプログレッシブ方式対応テレビで視聴する場合は激しい動きのある映像の場合を除けば480iの場合よりも鮮明な映像が楽しめる。
: [[DVDプレーヤー]]でプログレッシブ出力機能を持つ製品はD2出力を搭載している。
; '''D3''' [[1080i|1080i (1125i)]] :1920×1080ドット インターレース(フルハイビジョン画質)
: ほとんどのデジタルハイビジョン放送番組が対応している画質。
: 1920×1080の他に1440×1080のフォーマットもあり[[2007年]](平成19年)現在、実際の[[デジタルテレビ放送|デジタルテレビ]]放送や撮影機材の規格として実際に多用されている(映像フォーマット上は[[画面アスペクト比|画面のサイズ比]]が横:縦=4:3になるが、表示時に16:9の画面サイズに拡大される。参考:[[スクイーズ]]方式)。
: ハイビジョンビデオカメラ([[HDV]]規格)では民生機でも放送取材用でも、多くがD3以上での映像信号出入力端子を標準搭載している。
: [[ハイビジョン試験放送]]などで使用されていた、[[ハイビジョン#アナログハイビジョン|1035i]]の[[ベースバンド]]信号も扱える。
; '''D4''' [[720p|720p (750p)]] :1280×720ドット プログレッシブ(ハイビジョン画質)
: [[2009年]](平成21年)現在、多くのデジタルハイビジョンテレビや機器で対応している最上位の画質。
: D3出力の上位規格だが、水平解像度はD3出力に劣る。
: HDV規格家庭用ハイビジョンビデオカメラやゲーム機でもD4出力対応のものがある。
; '''D5''' [[1080p|1080p (1125p)]] :1920×1080ドット プログレッシブ(フルハイビジョン画質)
: フルハイビジョン映像のプログレッシブということで、[[劇場]]用[[映画]]に迫る画質と評されている。
: 最も高精細な映像を伝送でき、[[2010年]](平成22年)に[[JEITA]]によって正式な規格化がなされた。
=== D端子規格と映像信号規格の相関関係 ===
D1 - D5の区分名称は個々の映像信号規格の名称ではなく、その端子が対応している映像信号規格の種類別に付けられたD端子規格内の区分を表している{{Efn|例えば「1080i」の映像信号を表記解説の便宜上で「D3信号」と表現している例もあるが本来は「1080i」の映像信号は「D3信号」という定義がされているわけではなく、D端子の規格を定義した際の端子規格内の区分名称でしかない。D3規格で扱う対象の信号が「1080i」の映像信号(但し上位互換あり)というのが正しい。なお、D1 - D5で伝送対象となっている各映像信号フォーマットは本来他で定義されているものを日本国内での使用状況を考慮して便宜的に集積・定義し直したもの。例えばD1の480i (525i) は[[NTSC]]上で、D3の1080i (1125i) は[[ISDB]]上でそれぞれ既定となっているもの。}}。入力側においては各対応規格とも1種類の映像信号への対応のみではなく以下のように下位の区分規格に対して互換を保証しているが、出力側においては少なくてもその区分の最上位の解像度(下表の◎)を出力できれば良いと規定されており必ずしも下位の出力 (○) が用意されているとは限らない。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller"
!rowspan="2" colspan="2"|表示!!colspan="5"|映像信号フォーマット
|-
!480i||480p||1080i||720p||1080p
|-
!rowspan="5"|D<br />端<br />子<br />規<br />格<br />名<br />称!!D1
|◎||colspan="4"|
|-
!D2
|○||◎||colspan="3"|
|-
!D3
|○||○||◎||colspan="2"|
|-
!D4
|○||○||○||◎||
|-
!D5
|○||○||○||○||◎
|}
この互換の都合上、D4出力ができてもD1出力が用意されていないという場合もあるため、D4出力とD1入力を接続した場合に表示できない場合がある。
=== ゲーム機のD映像端子 ===
==== PlayStation 2 ====
[[PlayStation 2]]では2001年に発売を開始したD映像ケーブルにより、'''全モデルでD1映像端子をサポートしている'''。D映像端子を使用することで、[[コンポジット映像信号|コンポジット]]信号による480i出力よりも超大幅に画質が向上する。また一部作品、およびSCPH-50000以降の[[DVD]]プレイヤーはD2映像による480p出力が可能。グランツーリスモ4のみ、アップコンバートされたD3映像の出力も対応。ただし、DVDプレイヤーによるDVDの映像は、他のハードウェア上で再生するよりも画質が本来より多少劣化する場合がある。D映像出力を行う場合は、起動後に本体設定画面から映像出力設定で「Y Cb/Pb Cr/Pr」を選択する必要がある。
==== Xbox ====
初代[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]では480iのみでなく、480p(D2)、1080i(D3)、720p(D4)のD映像出力に対応。
==== Xbox 360 ====
[[Xbox 360]] S以前のモデルでは、本体購入時にコンポジット・D映像両方が搭載されたケーブルが付属する。最大1080p(D5)映像出力に対応。コンポジット信号とD映像信号を切り替えるスイッチもケーブルに存在しているが、Xbox 360起動中にそのスイッチを操作するとXbox 360が強制的に再起動する。Xbox 360 Eはコンポジット端子、HDMI以外非対応なのでD映像ケーブルを接続不可能。
==== ニンテンドーゲームキューブ ====
一部ゲーム起動時に専用のD映像ケーブルを使うと480pに対応。ただし、[[ニンテンドーゲームキューブ|ゲームキューブ]]用のD映像ケーブルは非常に高価であり、Wiiのゲームキューブ互換機能でD映像出力を行えば通常はこのケーブルを買う必要はない。([[ゲームボーイプレーヤー|ゲームボーイプレイヤー]]などが数少ない例外。)
==== Wii/Wii U ====
最大480p(D2)映像出力に対応。D映像ケーブルは公式品以外のものも存在。
==== PlayStation 3 ====
最大1080p出力に対応。ただし、CECH-3000以降のモデルではD映像ケーブルを使用してもブルーレイの画質が強制的に480iに変更され、CECH-4200以降のモデルではTorne及びブルーレイはHDMIを使用しない限り一切起動できなくなる。
==== PlayStation Portable ====
[[PlayStation Portable]](PSP-2000)でのD端子へのゲーム画面出力は当初プログレッシブ (D2) のみの対応であった(これに付随してコンポジット映像出力・[[S端子|S映像]]出力ができなかった)が、[[PlayStation Portableのシステムソフトウェア#バージョン5.00|システムソフトウェアVer.5.00]]以降は[[ゲームアーカイブス]]のうちPlayStation規格ソフトのインターレース (D1) 出力(およびコンポジット映像出力・S映像出力)に対応した。ただし2010年現在もPSP用ソフトの出力はVer.5.00以降でもプログレッシブ出力のみの対応である。なおPSP-3000および[[PlayStation Portable go|PSP go]]ではPSP用ソフトもPlayStation規格ソフトもインターレース出力(同)が可能となっている。
== 端子構造と伝送情報 ==
[[ファイル:D4 connector.png|300px]]
=== ピン配列 ===
{| class="wikitable"
!ピン!!信号!!ピン!!信号
|-
|1||Y||8||制御信号(識別信号1)走査線数
|-
|2||Y GND||9||制御信号(識別信号2)走査方式
|-
|3||Pb||10||予備2
|-
|4||Pb GND||11||制御信号(識別信号3)画角
|-
|5||Pr||12||ホットプラグ検出 GND
|-
|6||Pr GND||13||予備3
|-
|7||予備1||14||ホットプラグ検出
|-
|||||シェル||制御信号 GND(シールド編組を接続)
|}
=== 制御信号 ===
{| class="wikitable"
!識別電圧!!識別信号1<br />総走査線数(有効走査線数)!!識別信号2<br />走査方式!!識別信号3<br />画角
|-
|5V||1125 (1080) ||プログレッシブ||16:9
|-
|2.2V||750 (720) ||(未定義)||4:3レターボックス
|-
|0V||525 (480) ||インターレース||4:3
|}
識別信号の電気仕様や識別信号3の意味は[[S端子#信号の拡張|S2端子]]のものと同じ。また、これらの信号のGNDはケーブル外被(シールド・FG)を使用する。このため、識別信号を使用する接続では両端の機器は必ずグラウンド・ループを構成することになる。
== HDMI登場後の状況 ==
D端子は日本国内のデジタル放送視聴用の標準規格として制定されたが信号の伝送がアナログで行なわれていることから「HD素材の権利保護が十分でない」とするコンテンツホルダーの意向により、徐々に[[HDMI]]に置き換わりつつある。それに伴い、HD映像の扱いにおいてD端子はHDMIに比べて制限を加えられている場合がある。
* ハイビジョン対応[[薄型テレビ]]などでは、HDMIは1080p(D5相当)入力やさらに上の画質に対応しているがD端子は720p (D4) までの入力にしか対応しない機種が多い。また、再生機器側でも最大出力が720p (D4) までしか対応しない機種も多い。
* [[DVD-Video]]をハイビジョン信号に[[映像のコンバート|アップコンバート]]する機能がある再生機器ではコピー制限([[Content Scramble System|CSS]]や[[CPRM]])が施されたDVDのアップコンバートが[[HDCP]]で暗号化されたHDMIに限定され、D端子などの[[コンポーネント映像信号|アナログコンポーネント]]出力ではD1かD2出力しかできない。ただしそれに該当するのは市販DVDビデオソフトの大多数や[[コピー・ワンス]]のデジタル放送をムーブしたDVDの場合であってハードディスクに直接録画した番組、自作の映像など[[コピーガード]]の無いソフトならばこのような制限は受けずアナログコンポーネントでもHD出力が可能(ただし、メーカーや機種による)であり、HDMI出力ではHDCPで暗号化されずに出力される。このため[[ホームビデオ]]など過去の[[世界の放送方式|SD]]素材([[ベータマックス]]、[[S-VHS]]、[[Hi8]]、[[Digital8]]、[[DV (ビデオ規格)|DV]]、[[DVD]][[DVD-Video|-V]]/[[DVD-VR|VR]]など。ただし、DVD以外のメディアは一旦ディスクレコーダーにダビングする必要がある)を[[高精細度テレビジョン放送|ハイビジョン]]化させた上で出力し、パソコンの[[キャプチャ (録画ソフト)|ビデオキャプチャーボード]]などへ入力すれば自作[[キャプチャ (録画ソフト)|BD]]ソフト([[BDMV]]形式)などで用いる素材として活用できる。なお[[民生用]]の[[DVDレコーダー]]や[[BDレコーダー]]では、2008年以降ほぼすべての機種にHDMI端子が搭載されている。
また[[第3世代光ディスク]]([[Blu-ray Disc]]や[[HD DVD]])の場合、市販ソフトにおいてはソフト本来の画質での出力がHDMI(HDCP有)に限定され、D端子出力では多くのソフトでD1かD2出力しかできない仕様になる見通しである。これはD端子などのアナログ信号では[[コピーガード]]を掛けると画質劣化や変質を招く恐れがあり、コピーガードが容易なデジタル出力に一本化するためである。[[Advanced Access Content System|AACS LA]]では発売とともにこの仕様にする方針であったが、各方面から反対意見が続出したため、アナログでのHD出力を規制する機能は残した上で[[2010年]](平成22年)まではアナログHD出力を認め、それ以降も出力規制は段階的に行うこととした(AACSのAACS Final Adopter Agreementで2010年[[12月31日]]以降に製造の機種からアナログ出力を480i及び576iのみに制限、[[2013年]](平成25年)12月31日以降の製造機種ではアナログ出力自体が禁止されることが決まった<ref>[http://www.aacsla.com/license/ Licence AACS(英文)]</ref>)。2009年現在においてもHDMI入力端子を持たない安価なテレビやHDMI出力端子を持たない安価な[[地上デジタルテレビ放送|地上波デジタル]][[チューナー]]などの製品(外国メーカー製など)が[[ディスカウントストア]]や[[ホームセンター]]や[[ECサイト]]などで販売されており、それを買い求める[[消費者]]も少なからず存在する事や、[[2006年]](平成18年)ごろまでに生産された製品にはHDMI入力端子が装備されていない物もある事から、アナログ出力制限が始まる[[2011年]](平成23年)の時点でHDMI入力端子付きテレビやモニターがどの程度普及しているかは未知数である。
BDレコーダー・プレーヤー・薄型テレビの中には低価格帯モデルを中心にD端子や[[コンポーネント端子]]を搭載しない機種が登場し始めている。機種によっては[[S端子]]も省略されHDMIか[[コンポジット映像信号|コンポジット]]でしか映像を出力できない場合もある。さらに、[[2011年]](平成23年)に入ってから接続端子がHDMIしかない機種も登場し、アナログ出力が禁止された[[2014年]](平成26年)以降はD端子はコンポーネント端子と共に廃止されHDMIに一本化する可能性が高い。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* EIAJ RC-5237「デジタル放送映像信号 (Y, Pb, Pr) 接続用D端子コネクタ」 日本電子機械工業会、[[1999年]](平成11年)7月制定
** D端子コネクタの外形・定格について規定
* EIAJ CP-4120「デジタルチューナとテレビジョン受信機のD端子接続」 日本電子機械工業会、[[2000年]](平成12年)1月制定
** コネクタの信号配置、各信号の電気的特性、輝度・色差信号の測色パラメータ、ケーブルの特性、対応機器におけるD端子の表記などコネクタの外形・定格以外の条件について規定
== 関連項目 ==
{{Commons category|D-Terminal}}
* [[S端子]]
* [[HDMI]]
** [[ビエラリンク]]
* [[Irシステム]]
* [[日本の地上デジタルテレビ放送]]
* [[コンポーネント端子]]
* [[ビデオデッキ]]
* [[BDレコーダー]]・[[DVDレコーダー]]
* [[D-subminiature]]
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{{DEFAULTSORT:Dたんし}}
[[Category:映像端子]]
[[Category:コネクタ]]
[[Category:インタフェース規格]] | 2003-03-07T01:33:20Z | 2023-08-10T16:23:40Z | false | false | false | [
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3,570 | Adobe Flash | Adobe Flash(アドビ・フラッシュ)は、かつてアドビが開発していた動画やゲームなどを扱うための規格、およびそれを作成・動作させるアプリケーション群。かつてフューチャーウェーブ・ソフトウェアと、それを買収したマクロメディアが開発していた。旧称はFutureSplash(フューチャー・スプラッシュ)、Macromedia Flash(マクロメディア・フラッシュ)。競合としては、Microsoft Silverlightがあったが、両社とも現在はHTML5を推奨している。 かつてはFlash規格のアプリケーションを制作する同社のオーサリングツール群としてFlash Professional、Flash Builder/Flash Catalystが存在したが、後者はすでに開発終了したほか、Flash Professionalは2016年にAdobe Animateに名称を変更しており、HTML5のオーサリングツールに移行している。
アドビは、2020年12月末をもって中華人民共和国を除いた国と地域でのFlash Playerの開発と配布を終了しアンインストールを勧告して、翌年1月12日以降はFlash Playerの実行をブロックしている。Windows 10では、2020年10月27日以降のアップデートパッチ「KB4577586」をもって、Flash PlayerがWindowsから完全に削除された。だが、Firefoxでプラグイン「Flash Player 2021」のページを開き、「Firefoxへ追加」を押すという操作を行うと、Adobe Flash Playerが閲覧できるようになる。
ベクターイメージが規格の中心で、それにスクリプトで制御することによりマウスの動きに合わせてアニメーションをしたり、音を鳴らしたりなど、動きのあるウェブサイトを作成するのに向いている。アニメーション、ゲーム、ウェブサイトのナビゲーション、音楽再生などのコンテンツを作るためのソフトウェア。再生環境への依存度が低く、ベクターイメージを扱う場合、ウインドウサイズを変えても画質が劣化しないという特徴がある。ラスターイメージを扱うこともでき、この場合ビットマップスムージングで画質の劣化を目立たなくすることができる機能がある。
Flashを用いるとインタラクティブ性の高いウェブサイトにすることも可能だが、ウェブブラウザやプレーヤーからテキスト検索できない。ただし、Google検索など一部の検索エンジンはFlash内のテキストを抜き出して、検索対象とすることができた。
Flash再生ソフトとしては主にFlash Player(フラッシュ・プレイヤー)が使われる。Windows、macOS、Linuxなどのオペレーティングシステム上で動作し、代表的なウェブブラウザの中でプラグインとして動作させることができた。携帯電話機にも再生ソフトが搭載されているものがあった(以前は機能制限を加えたAdobe Flash Lite(アドビ・フラッシュ・ライト)が提供されていた)。
また、アドビはFlashをウェブ以外にも利用できるようにする意向を発表している。Flashのファイルフォーマットは仕様が一般に公開されており、アドビ以外の企業、個人でもFlashデータを加工、生成するソフトウェアを自由に開発、配布することができる。しかし、仕様書に基づいてFlashファイルを再生するソフトウェアを開発することは認められていなかった。そのため、例えばFlash再生ソフトであるGnashでは、ウェブ上に存在するFlashを収集し、それらを解析することを通じて開発が行われていた。その後、ライセンスの変更が行われ、現在では互換ソフトの開発が可能になっている。
Flashによるアニメーションは、ポータルサイトや企業や公的機関、歌手や個人のウェブサイト等においてトップページに使用されていたが、HTMLの代替ページを用意していない場合は、アクセシビリティの観点から批判も受けることも多かった。また、Flash上に表示されたテキストは、通常のテキストや画像のようにブラウザの機能を用いてコピーや印刷、保存することが不可能なため、たとえば歌詞などのテキストをFlashを用いて表示し、コピー・アンド・ペーストを出来ない様にする特殊な使われ方もあった。そのほか、バナー広告をはじめとしたウェブ広告の分野においても広く使用されていた。
後期のバージョンでは、インタラクティブなコンテンツの表現手段だけにとどまらずリッチインターネットアプリケーション向けの機能が拡充されており、高度なユーザインタフェース、複数ファイルの同時アップロード、シームレスな動画の再生など、DHTMLなどで賄いきれない柔軟で利便性の高いインタフェースをクロスプラットフォームで比較的容易に提供できる手段としても普及していた。
特に、2006年に脚光を浴びた動画共有サイトYouTubeと伴に急成長した動画配信の分野においては、(デジタル著作権管理の保護が必要な一部のケースを除いて)非常に広く使われ、従来のWindows Media Player、QuickTime、RealPlayerによるストリーミング再生に替わって、動画配信において欠かせない技術のひとつとなっていたが、2007年発売のiPhoneは、コンピュータセキュリティの問題から、Flashの使用を許可しなかった(サードパーティのアプリを用いれば使用できた)ことやプロプライエタリの問題をきっかけに、急速に衰退していった。
終了決定後も、メディア・アート、インタラクティブ・アートやインスタレーションの制作ツールとしてFlashが使用されることもある。
かつてはAdobe Flash (Macromedia Flash) 規格のアプリケーションを開発するソフトウェアのことも「Flash」と呼ばれていた。しかし2000年代後半以降は類似技術としてW3CやWHATWGにより標準化の過程にあるHTML5が台頭しつつあり、Flash Professional CS6以降ではHTML5での開発にも対応した。さらにWebGLやAdobe AIRなどにも対応し、そちらの用途で使われることも多くなったため、Adobe Animateに名称を変更した。
10.1-11.1までは携帯端末にも対応しているが、それ以前の携帯端末向けはAdobe Flash Liteで、11.2以降は携帯端末はAdobe AIRのみになった。
1996年にアメリカ合衆国のコンピュータ・ソフトウェア会社フューチャーウェーブ・ソフトウェア (FutureWave Software) が、アニメーション・データを作成するソフトFutureSplash Animatorと再生プラグインFutureSplash Player(フューチャースプラッシュ・プレイヤー)を開発。これをマクロメディアが会社ごと買収、「FutureSplash」の頭文字「F」と接尾「lash」をとって略称を「Flash」とし、Shockwaveシリーズに組み込んで「Shockwave Flash」とした。ファイルフォーマット名及び拡張子として使われている「SWF」は元々「small Web format」(スモール・ウェブ・フォーマット)の略であったが、マクロメディアによって「Shockwave Flash」の略として改称された(現在は再び元の略称へ改称)。作成ソフトはMacromedia Flashに改名された。このころからすでに数多くの基本的な機能を備えており、またベクターイメージで描画することにより、動画データとしては非常にデータ量を小さくしたことで注目される。
1998年、Flash 3のベータ版公開と同時にShockwave Flash (SWF) の仕様をオープン・スタンダード化する事が発表される。同年発売されたMacromedia Flash 3からインタラクティブ関連の機能が強化され、次第に「アニメーションソフト」の枠にとどまらない発展をするようになる。Flash 4で変数、文字列処理、条件分岐ができるようになる。
Macromedia Flash 5、Macromedia Flash MX (Flash Player 6) でActionScriptが搭載され、プログラミングの機能が大幅に強化されたため、プログラマたちもMacromedia Flashを使うようになる。MXは「miracle experience」(奇跡体験)の略称である。
2004年春にリリースされたMacromedia Flash MX 2004 (Flash Player 7) では、ActionScript 2が搭載され、動画配信もサポートする。Mac OS 9、Windows NT、Windows 95に対応する最終バージョン。2005年秋にリリースされたMacromedia Flash 8 Professionalではアニメ、グラフィック関連を中心に大幅なバージョンアップが行われ、また新規層向けの機能制限版Macromedia Flash 8 BASICも同時リリースされた。
2005年4月にマクロメディアはアドビに買収され、プレイヤーはAdobe Flash Playerに改名される。作成ソフトは新バージョンの発売までMacromedia Flashの名称のまま販売が継続された。2007年4月アドビシステムズのクリエイティブ製品群である「Adobe Creative Suite 3」に組み込まれて新バージョンとなるAdobe Flash CS3 Professionalが発売され、作成ソフトの名称もAdobe Flashに改名された。
Windows 98に対応する最後のバージョン。第8版まではMacromedia FlashとFlash Playerがほぼ同時にリリースされていたが、Windows、Mac OS用のFlash Player 9が2006年6月にリリースされた(開発環境は現在、Adobe Flash CS3 ProfessionalかFlex 2およびFlex 3)。
Linux用について見ると、Flash Player 8はそのリリースが見送られることとなった。その後、Flash Player 9がWindows、Mac OS用よりも数ヵ月遅れた2007年1月にリリースされた。Linux用のリリースが遅れた理由は、多くのLinuxディストリビューションに対応させる必要から、開発に相当時間がかかったためであるといわれている。
2007年12月3日リリースされたFlash Player 9 update 3 (9,0,115,0) からはMPEG-4 (H.264, AAC, HE-AAC) に対応。以後バージョン10.3まで同形式再生時はSSE対応CPU必須となった。
CS4製品の米国での発表は2008年9月2日、発売は同年10月15日。日本語版の発表は同年11月11日、発売は同年12月19日であった。
3D変換、H.264のエンコード、Adobe AIRとの連携、新フォーマットXFLなどをサポートしている。
全世界での発表は2010年4月12日、日本での発売は同年5月28日。
CS5から新設されたソフト。
2011年2月8日公開。以下の機能を追加。対応するAdobe AIRは2.6。SWFバージョン11。
2011年5月12日公開。以下の機能を追加。対応するAdobe AIRは2.7。SWFバージョン12。
2011年5月20日販売開始。
2011年10月3日公開。以下の機能を追加。対応するAdobe AIRは3.0。SWFバージョン13。
2011年11月10日公開。対応するAdobe AIRは3.1。SWFバージョン14。
2012年3月27日公開。以下の機能を追加。対応するAdobe AIRは3.2。SWFバージョン15。
2012年5月11日販売開始。Flash Player 11.2、Adobe AIR 3.2対応。以下の機能を追加。
2012年6月8日公開。以下の機能を追加。対応するAdobe AIRは3.3。SWFバージョン16。開発コードCyril。
2012年8月21日公開。以下の機能を追加。対応するAdobe AIRは3.4。SWFバージョン17。開発コードDolores。
2012年11月6日公開。パフォーマンスおよび安定性の向上が目的。対応するAdobe AIRは3.5。SWFバージョン18。開発コードはEllis。
追加される主な新機能
ActionScript 3用のコンパイラだが、ActionScript Compiler 1がActionScriptの仕様書とずれている部分があり、仕様書通りに正しくコンパイルするように修正。Flash Builder 4.7に搭載。開発コードはFalcon。
2012年12月4日公開。C/C++からSWFへのコンパイラ。リリース当初はFlash C++ Compilerという名称だったが、リリース後にCrossBridgeに名称変更になった。Adobe Game Developer Toolsの一環として配布されている。
2013年2月12日公開。セキュリティの強化と安定性の向上が目的。対応するAdobe AIRは3.6。SWFバージョン19。開発コードはFolsom。
追加される主な新機能
2013年4月9日公開。対応するAdobe AIRは3.7。SWFバージョン20。開発コードはGeary。このバージョンは長期サポートを行う。以下の機能を追加。
2013年6月18日販売開始。2016年に「Animate CC」に変更される予定。
2013年7月9日公開。対応するAdobe AIRは3.8。SWFバージョン21。開発コードはHarrison。以下の機能を追加。
2013年10月8日公開。対応するAdobe AIRは3.9。SWFバージョン22。開発コードはIrving。以下の機能を追加。
2014年1月14日公開。対応するAdobe AIRは4。SWFバージョン23。開発コードはJones。本バージョンより0.1単位でバージョン番号を振るのを止め、3ヶ月単位でバージョンアップする予定。以下の機能を追加。
2014年4月8日公開。対応するAdobe AIRは13。SWFバージョン24。開発コードはKing。このバージョンは長期サポートを行う。本バージョンより、Adobe AIRとAdobe Flash Playerのバージョンを揃えることとなった。以下の機能を追加。
2014年6月10日公開。Adobe AIRもバージョンが14になる。SWFバージョン25。開発コードはLombard。以下の機能を追加。
2014年9月9日公開。Adobe AIRもバージョンが15になる。SWFバージョン26。開発コードはMarket。以下の機能を追加。
2014年12月9日公開。SWFバージョン27。
なお、アドビシステムズは次のメジャーバージョンアップとして、根本的に再設計されたバーチャルマシンやアーキテクチャーを備えたFlash Player "Next" と開発言語の革新を図るActionScript "Next" の2013年リリースを計画していた。しかし2013年1月30日、この手の設計・仕様変更は、従来との継続性に欠けることが多く、後方互換性を犠牲にして開発者に大きな負担がかかるため、またブラウザベースのバーチャルマシンに対する要望が高まっているとして、この計画をキャンセルした。今後は既存のFlash Playerアーキテクチャーを継続しつつ、Webベースの次世代バーチャルマシンおよび言語の開発に携わっていく意向を示した。計画されていた新機能は以下のとおり。
2018年12月4日公開。SWF バージョン 43。
iPhone XS、iPhone XS Max、iPhone XR の起動イメージがサポートされるようになった。iOS アプリケーションでの Geolocation の機能強化がされた。
必要システム構成は以下の通り。
Appleは、Safariがクラッシュする原因の大半はFlash Playerによるものだとし、動作が重くセキュリティ問題を抱えるFlashは携帯機器には不向きであるとして、iOS上では動作しないようにしている。同社はまた、Flashの代替として、プラグインを必要としないHTML5を強く推奨している。
しかし、上の表明がなされた時点(2010年4月)ではHTML5はまだ仕様が確定していない発展途上の段階であり(2014年に正式の仕様が勧告された)、実装状況はブラウザによって異なっていた。そのため、Flashを完全に置き換える要素にはなっていなかった。
Googleは、HTML5を強く推進し、また独自の動画規格WebMを開発している一方、AndroidをFlashに対応させたり、Google Chromeのデスクトップ版にFlash Playerを内蔵させているが、2016年第4四半期中に無効化されることが正式に発表された。モバイル分野ではAndroid 4.1以降をFlash Player非対応とするなど、Adobeのモバイル版Flash Player開発中止に同調した動きを取っている。
また、アドビシステムズ自身もFlashからの変換ツールを開発する等、HTML5を推進する立場をとっている。
下記ブラウザは、Flash Playerを搭載された状態で配布され、アップデートも自動で行われる。
他のブラウザはFlash Playerをインストールする必要がある。Windows用では、「Internet Explorer」版 (ActiveX) と「その他のブラウザ」版(プラグイン)に分かれていてInternet Explorerとその他のブラウザ両方で利用したい場合、それぞれインストールする必要がある。「その他のブラウザ」版を一回インストールすると、NPAPIに対応したブラウザ(Firefox・Safari・Opera等)の全てで利用可能になる。Flash Player 11.0から64ビット版もリリースされており、64ビットネイティブ版ブラウザでも利用することができるようになった。Windows・macOS版では32ビット・64ビット両対応のインストーラが配布されている。
アンインストールについては、アドビシステムズから「Flash Player Uninstaller」がリリースされており、それを利用するとすべてのブラウザのFlash Playerが削除される。
アドビ以外が実装するFlash再生ソフトウェアは存在するものの、いずれもまだバグが多く実用レベルに達していない。SWFのファイルフォーマットの仕様は公開されているが、ライセンス上は、この仕様書を再生ソフトウェアの作成に用いることはできなかった。2008年5月1日に、ライセンスが変更されてOpen Screen Projectが始まり、仕様書に基づいた互換プレーヤーを作ることが可能になった。
FlashのファイルフォーマットであるSWFは仕様が公開されており、サードパーティー製のFlash作成ソフトも多数存在する。
ActionScriptの統合開発環境。Adobe製はAdobe Flash Builder。
SWFファイルを読み書きするライブラリ。
2010年4月、AppleのiPhoneやiPadがAdobe Flashをサポートしない理由について、スティーブ・ジョブズは自社ウェブサイト上で「Flashはパソコン (PC) とマウスの時代に作られたものだ。しかしモバイル時代といえば低消費電力機器、タッチスクリーン、オープンなウェブ標準などだ。どれもFlashが及んでいない分野だ」と発表した。
2011年11月9日、アドビはAdobe Flashの携帯端末版の開発中止を表明し、今後はHTML5の開発に注力することを発表した。
日本での本格的な流通はFlash 2の頃からであるが、実際にはFutureSplashの直輸入版も一部店舗では取り扱われていた。
日本においてウェブサイトの一般ユーザーに広くFlashが認知されるようになったのはFlash 4の時期とされる。数々の企業サイトで採用されるに至っていたが、特にフォークデュオのゆずの公式サイトは、そのほとんどをFlashで構築した上、「ゆず一家の家の中」を探索するアドベンチャーゲーム風の演出をそれに取り入れていた。他方で個人制作されたFlash作品もこの時期を境に増え始めており、個人制作Flashの「投稿型コミュニティ」や、自動リンクを用いて主催者が気に入った作品を登録する形式で紹介するウェブサイトが派生してきたのもこの時代である。
制作コストや人材費、時間コストなどはデジタルアニメよりも更に費用がかからない安いアニメを作ることが可能だった。
いわゆるMADムービーの制作ツールとしてFlashが多用されていた時期があり、『サザエさん』や『ドラえもん』、コミックソング等を素材に使用した作品が数多く公開された。一方で個人制作ながら表現において高レベルの水準に到達した『つきのはしずく』(森野あるじ)や、脚本に注力されFlashに興味の無い一般層も抵抗無く作品世界へ引き入れた感動系の始祖『キミとボク』(やまがらしげと)など、黎明期を代表する作品が発表されている。
2006年春、『菅井君と家族石』で注目されていたFROGMAN(蛙男商会)により、全編Flashで制作されたテレビアニメシリーズ『THE FROGMAN SHOW』が制作され、テレビ朝日・朝日放送にて放映。映画化やゲーム化なども行われた。
Flash Playerは、本格的なプログラミング言語であるActionScriptの処理系を含んでいる。そのためFlashデザイナーやFlexプログラマーは任意の機能を実現できるが、信頼性の保証がないサーバから読み込まれたコンピュータプログラムが動作することについて、コンピュータセキュリティ上の懸念が存在する。
Flash Playerにはサンドボックスモデルに基づいたセキュリティ機構が実装されている。ローカルストレージや周辺機器へのアクセス、ダウンロード元と異なるドメインのサーバとの通信は制限されており、例えば自由に読み書きできるローカルストレージはWebブラウザのCookieに相当するSharedObjectに限られ、ファイルの読み書きにはユーザの選択による許可を必要とする。
このため、通常はFlashによってシステムが破壊されたり、ローカルファイルに保存した情報が盗まれることはないが、Flash PlayerやPDFに埋め込まれたFlashを再生できるAdobe Readerには、コンピュータシステムのクラッシュや悪意のあるプログラムの実行を許す脆弱性が、過去にいくつか発見されている。多くのユーザは、ウェブブラウザに組み込まれたFlash Playerを有効にした状態でWebを利用しているので、それらの脆弱性を突くJSRedir-RやTROJ PIDIEF.INのようなコンピュータウイルスは、修正アップデートが公開されるまでの間に急速に感染を拡大した。
また、サイトを閲覧していると、「アップデートが必要」などのポップアップが現れるが、これは偽物で、クリックすると通知を許可させようとしたりアプリをインストールさせようとする。
Flash 10以降では、ダウンロードのページにあるチェックボックスを手動で外さない限り、McAfee Security Scanが自動インストールされるようになった。旧版のアンインストールについては、アドビシステムズから「Flash Player Uninstaller」がリリースされており、それを利用すると、すべてのウェブブラウザのFlash Playerが削除される。
アドビは2020年12月31日でFlashの配布と更新を終了した。Maxthon Nitroなどと言った一部のウェブブラウザでは現在もAdobe Flashを使用可能である | [
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"text": "1996年にアメリカ合衆国のコンピュータ・ソフトウェア会社フューチャーウェーブ・ソフトウェア (FutureWave Software) が、アニメーション・データを作成するソフトFutureSplash Animatorと再生プラグインFutureSplash Player(フューチャースプラッシュ・プレイヤー)を開発。これをマクロメディアが会社ごと買収、「FutureSplash」の頭文字「F」と接尾「lash」をとって略称を「Flash」とし、Shockwaveシリーズに組み込んで「Shockwave Flash」とした。ファイルフォーマット名及び拡張子として使われている「SWF」は元々「small Web format」(スモール・ウェブ・フォーマット)の略であったが、マクロメディアによって「Shockwave Flash」の略として改称された(現在は再び元の略称へ改称)。作成ソフトはMacromedia Flashに改名された。このころからすでに数多くの基本的な機能を備えており、またベクターイメージで描画することにより、動画データとしては非常にデータ量を小さくしたことで注目される。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1998年、Flash 3のベータ版公開と同時にShockwave Flash (SWF) の仕様をオープン・スタンダード化する事が発表される。同年発売されたMacromedia Flash 3からインタラクティブ関連の機能が強化され、次第に「アニメーションソフト」の枠にとどまらない発展をするようになる。Flash 4で変数、文字列処理、条件分岐ができるようになる。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "Macromedia Flash 5、Macromedia Flash MX (Flash Player 6) でActionScriptが搭載され、プログラミングの機能が大幅に強化されたため、プログラマたちもMacromedia Flashを使うようになる。MXは「miracle experience」(奇跡体験)の略称である。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2004年春にリリースされたMacromedia Flash MX 2004 (Flash Player 7) では、ActionScript 2が搭載され、動画配信もサポートする。Mac OS 9、Windows NT、Windows 95に対応する最終バージョン。2005年秋にリリースされたMacromedia Flash 8 Professionalではアニメ、グラフィック関連を中心に大幅なバージョンアップが行われ、また新規層向けの機能制限版Macromedia Flash 8 BASICも同時リリースされた。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2005年4月にマクロメディアはアドビに買収され、プレイヤーはAdobe Flash Playerに改名される。作成ソフトは新バージョンの発売までMacromedia Flashの名称のまま販売が継続された。2007年4月アドビシステムズのクリエイティブ製品群である「Adobe Creative Suite 3」に組み込まれて新バージョンとなるAdobe Flash CS3 Professionalが発売され、作成ソフトの名称もAdobe Flashに改名された。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "Windows 98に対応する最後のバージョン。第8版まではMacromedia FlashとFlash Playerがほぼ同時にリリースされていたが、Windows、Mac OS用のFlash Player 9が2006年6月にリリースされた(開発環境は現在、Adobe Flash CS3 ProfessionalかFlex 2およびFlex 3)。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "Linux用について見ると、Flash Player 8はそのリリースが見送られることとなった。その後、Flash Player 9がWindows、Mac OS用よりも数ヵ月遅れた2007年1月にリリースされた。Linux用のリリースが遅れた理由は、多くのLinuxディストリビューションに対応させる必要から、開発に相当時間がかかったためであるといわれている。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "2007年12月3日リリースされたFlash Player 9 update 3 (9,0,115,0) からはMPEG-4 (H.264, AAC, HE-AAC) に対応。以後バージョン10.3まで同形式再生時はSSE対応CPU必須となった。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "CS4製品の米国での発表は2008年9月2日、発売は同年10月15日。日本語版の発表は同年11月11日、発売は同年12月19日であった。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "3D変換、H.264のエンコード、Adobe AIRとの連携、新フォーマットXFLなどをサポートしている。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "全世界での発表は2010年4月12日、日本での発売は同年5月28日。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "CS5から新設されたソフト。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2011年2月8日公開。以下の機能を追加。対応するAdobe AIRは2.6。SWFバージョン11。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2011年5月12日公開。以下の機能を追加。対応するAdobe AIRは2.7。SWFバージョン12。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2011年5月20日販売開始。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2011年10月3日公開。以下の機能を追加。対応するAdobe AIRは3.0。SWFバージョン13。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2011年11月10日公開。対応するAdobe AIRは3.1。SWFバージョン14。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2012年3月27日公開。以下の機能を追加。対応するAdobe AIRは3.2。SWFバージョン15。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2012年5月11日販売開始。Flash Player 11.2、Adobe AIR 3.2対応。以下の機能を追加。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2012年6月8日公開。以下の機能を追加。対応するAdobe AIRは3.3。SWFバージョン16。開発コードCyril。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2012年8月21日公開。以下の機能を追加。対応するAdobe AIRは3.4。SWFバージョン17。開発コードDolores。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2012年11月6日公開。パフォーマンスおよび安定性の向上が目的。対応するAdobe AIRは3.5。SWFバージョン18。開発コードはEllis。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "追加される主な新機能",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ActionScript 3用のコンパイラだが、ActionScript Compiler 1がActionScriptの仕様書とずれている部分があり、仕様書通りに正しくコンパイルするように修正。Flash Builder 4.7に搭載。開発コードはFalcon。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2012年12月4日公開。C/C++からSWFへのコンパイラ。リリース当初はFlash C++ Compilerという名称だったが、リリース後にCrossBridgeに名称変更になった。Adobe Game Developer Toolsの一環として配布されている。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2013年2月12日公開。セキュリティの強化と安定性の向上が目的。対応するAdobe AIRは3.6。SWFバージョン19。開発コードはFolsom。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "追加される主な新機能",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2013年4月9日公開。対応するAdobe AIRは3.7。SWFバージョン20。開発コードはGeary。このバージョンは長期サポートを行う。以下の機能を追加。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2013年6月18日販売開始。2016年に「Animate CC」に変更される予定。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2013年7月9日公開。対応するAdobe AIRは3.8。SWFバージョン21。開発コードはHarrison。以下の機能を追加。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2013年10月8日公開。対応するAdobe AIRは3.9。SWFバージョン22。開発コードはIrving。以下の機能を追加。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2014年1月14日公開。対応するAdobe AIRは4。SWFバージョン23。開発コードはJones。本バージョンより0.1単位でバージョン番号を振るのを止め、3ヶ月単位でバージョンアップする予定。以下の機能を追加。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2014年4月8日公開。対応するAdobe AIRは13。SWFバージョン24。開発コードはKing。このバージョンは長期サポートを行う。本バージョンより、Adobe AIRとAdobe Flash Playerのバージョンを揃えることとなった。以下の機能を追加。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2014年6月10日公開。Adobe AIRもバージョンが14になる。SWFバージョン25。開発コードはLombard。以下の機能を追加。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2014年9月9日公開。Adobe AIRもバージョンが15になる。SWFバージョン26。開発コードはMarket。以下の機能を追加。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2014年12月9日公開。SWFバージョン27。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "なお、アドビシステムズは次のメジャーバージョンアップとして、根本的に再設計されたバーチャルマシンやアーキテクチャーを備えたFlash Player \"Next\" と開発言語の革新を図るActionScript \"Next\" の2013年リリースを計画していた。しかし2013年1月30日、この手の設計・仕様変更は、従来との継続性に欠けることが多く、後方互換性を犠牲にして開発者に大きな負担がかかるため、またブラウザベースのバーチャルマシンに対する要望が高まっているとして、この計画をキャンセルした。今後は既存のFlash Playerアーキテクチャーを継続しつつ、Webベースの次世代バーチャルマシンおよび言語の開発に携わっていく意向を示した。計画されていた新機能は以下のとおり。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2018年12月4日公開。SWF バージョン 43。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "iPhone XS、iPhone XS Max、iPhone XR の起動イメージがサポートされるようになった。iOS アプリケーションでの Geolocation の機能強化がされた。",
"title": "バージョンアップの歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "必要システム構成は以下の通り。",
"title": "必要システム構成"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "Appleは、Safariがクラッシュする原因の大半はFlash Playerによるものだとし、動作が重くセキュリティ問題を抱えるFlashは携帯機器には不向きであるとして、iOS上では動作しないようにしている。同社はまた、Flashの代替として、プラグインを必要としないHTML5を強く推奨している。",
"title": "HTML5との比較"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "しかし、上の表明がなされた時点(2010年4月)ではHTML5はまだ仕様が確定していない発展途上の段階であり(2014年に正式の仕様が勧告された)、実装状況はブラウザによって異なっていた。そのため、Flashを完全に置き換える要素にはなっていなかった。",
"title": "HTML5との比較"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "Googleは、HTML5を強く推進し、また独自の動画規格WebMを開発している一方、AndroidをFlashに対応させたり、Google Chromeのデスクトップ版にFlash Playerを内蔵させているが、2016年第4四半期中に無効化されることが正式に発表された。モバイル分野ではAndroid 4.1以降をFlash Player非対応とするなど、Adobeのモバイル版Flash Player開発中止に同調した動きを取っている。",
"title": "HTML5との比較"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "また、アドビシステムズ自身もFlashからの変換ツールを開発する等、HTML5を推進する立場をとっている。",
"title": "HTML5との比較"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "下記ブラウザは、Flash Playerを搭載された状態で配布され、アップデートも自動で行われる。",
"title": "ブラウザへのインストール"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "他のブラウザはFlash Playerをインストールする必要がある。Windows用では、「Internet Explorer」版 (ActiveX) と「その他のブラウザ」版(プラグイン)に分かれていてInternet Explorerとその他のブラウザ両方で利用したい場合、それぞれインストールする必要がある。「その他のブラウザ」版を一回インストールすると、NPAPIに対応したブラウザ(Firefox・Safari・Opera等)の全てで利用可能になる。Flash Player 11.0から64ビット版もリリースされており、64ビットネイティブ版ブラウザでも利用することができるようになった。Windows・macOS版では32ビット・64ビット両対応のインストーラが配布されている。",
"title": "ブラウザへのインストール"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "アンインストールについては、アドビシステムズから「Flash Player Uninstaller」がリリースされており、それを利用するとすべてのブラウザのFlash Playerが削除される。",
"title": "ブラウザへのインストール"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "アドビ以外が実装するFlash再生ソフトウェアは存在するものの、いずれもまだバグが多く実用レベルに達していない。SWFのファイルフォーマットの仕様は公開されているが、ライセンス上は、この仕様書を再生ソフトウェアの作成に用いることはできなかった。2008年5月1日に、ライセンスが変更されてOpen Screen Projectが始まり、仕様書に基づいた互換プレーヤーを作ることが可能になった。",
"title": "アドビ以外の実装"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "FlashのファイルフォーマットであるSWFは仕様が公開されており、サードパーティー製のFlash作成ソフトも多数存在する。",
"title": "アドビ以外の実装"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ActionScriptの統合開発環境。Adobe製はAdobe Flash Builder。",
"title": "アドビ以外の実装"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "SWFファイルを読み書きするライブラリ。",
"title": "アドビ以外の実装"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2010年4月、AppleのiPhoneやiPadがAdobe Flashをサポートしない理由について、スティーブ・ジョブズは自社ウェブサイト上で「Flashはパソコン (PC) とマウスの時代に作られたものだ。しかしモバイル時代といえば低消費電力機器、タッチスクリーン、オープンなウェブ標準などだ。どれもFlashが及んでいない分野だ」と発表した。",
"title": "Adobe Flashをめぐる動向"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2011年11月9日、アドビはAdobe Flashの携帯端末版の開発中止を表明し、今後はHTML5の開発に注力することを発表した。",
"title": "Adobe Flashをめぐる動向"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "日本での本格的な流通はFlash 2の頃からであるが、実際にはFutureSplashの直輸入版も一部店舗では取り扱われていた。",
"title": "Adobe Flashをめぐる動向"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "日本においてウェブサイトの一般ユーザーに広くFlashが認知されるようになったのはFlash 4の時期とされる。数々の企業サイトで採用されるに至っていたが、特にフォークデュオのゆずの公式サイトは、そのほとんどをFlashで構築した上、「ゆず一家の家の中」を探索するアドベンチャーゲーム風の演出をそれに取り入れていた。他方で個人制作されたFlash作品もこの時期を境に増え始めており、個人制作Flashの「投稿型コミュニティ」や、自動リンクを用いて主催者が気に入った作品を登録する形式で紹介するウェブサイトが派生してきたのもこの時代である。",
"title": "Adobe Flashをめぐる動向"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "制作コストや人材費、時間コストなどはデジタルアニメよりも更に費用がかからない安いアニメを作ることが可能だった。",
"title": "Adobe Flashをめぐる動向"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "いわゆるMADムービーの制作ツールとしてFlashが多用されていた時期があり、『サザエさん』や『ドラえもん』、コミックソング等を素材に使用した作品が数多く公開された。一方で個人制作ながら表現において高レベルの水準に到達した『つきのはしずく』(森野あるじ)や、脚本に注力されFlashに興味の無い一般層も抵抗無く作品世界へ引き入れた感動系の始祖『キミとボク』(やまがらしげと)など、黎明期を代表する作品が発表されている。",
"title": "Adobe Flashをめぐる動向"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2006年春、『菅井君と家族石』で注目されていたFROGMAN(蛙男商会)により、全編Flashで制作されたテレビアニメシリーズ『THE FROGMAN SHOW』が制作され、テレビ朝日・朝日放送にて放映。映画化やゲーム化なども行われた。",
"title": "Adobe Flashをめぐる動向"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "Flash Playerは、本格的なプログラミング言語であるActionScriptの処理系を含んでいる。そのためFlashデザイナーやFlexプログラマーは任意の機能を実現できるが、信頼性の保証がないサーバから読み込まれたコンピュータプログラムが動作することについて、コンピュータセキュリティ上の懸念が存在する。",
"title": "Adobe Flashをめぐる動向"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "Flash Playerにはサンドボックスモデルに基づいたセキュリティ機構が実装されている。ローカルストレージや周辺機器へのアクセス、ダウンロード元と異なるドメインのサーバとの通信は制限されており、例えば自由に読み書きできるローカルストレージはWebブラウザのCookieに相当するSharedObjectに限られ、ファイルの読み書きにはユーザの選択による許可を必要とする。",
"title": "Adobe Flashをめぐる動向"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "このため、通常はFlashによってシステムが破壊されたり、ローカルファイルに保存した情報が盗まれることはないが、Flash PlayerやPDFに埋め込まれたFlashを再生できるAdobe Readerには、コンピュータシステムのクラッシュや悪意のあるプログラムの実行を許す脆弱性が、過去にいくつか発見されている。多くのユーザは、ウェブブラウザに組み込まれたFlash Playerを有効にした状態でWebを利用しているので、それらの脆弱性を突くJSRedir-RやTROJ PIDIEF.INのようなコンピュータウイルスは、修正アップデートが公開されるまでの間に急速に感染を拡大した。",
"title": "Adobe Flashをめぐる動向"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "また、サイトを閲覧していると、「アップデートが必要」などのポップアップが現れるが、これは偽物で、クリックすると通知を許可させようとしたりアプリをインストールさせようとする。",
"title": "Adobe Flashをめぐる動向"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "Flash 10以降では、ダウンロードのページにあるチェックボックスを手動で外さない限り、McAfee Security Scanが自動インストールされるようになった。旧版のアンインストールについては、アドビシステムズから「Flash Player Uninstaller」がリリースされており、それを利用すると、すべてのウェブブラウザのFlash Playerが削除される。",
"title": "Adobe Flashをめぐる動向"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "アドビは2020年12月31日でFlashの配布と更新を終了した。Maxthon Nitroなどと言った一部のウェブブラウザでは現在もAdobe Flashを使用可能である",
"title": "Adobe Flashをめぐる動向"
}
] | Adobe Flash(アドビ・フラッシュ)は、かつてアドビが開発していた動画やゲームなどを扱うための規格、およびそれを作成・動作させるアプリケーション群。かつてフューチャーウェーブ・ソフトウェアと、それを買収したマクロメディアが開発していた。旧称はFutureSplash(フューチャー・スプラッシュ)、Macromedia Flash(マクロメディア・フラッシュ)。競合としては、Microsoft Silverlightがあったが、両社とも現在はHTML5を推奨している。
かつてはFlash規格のアプリケーションを制作する同社のオーサリングツール群としてFlash Professional、Flash Builder/Flash Catalystが存在したが、後者はすでに開発終了したほか、Flash Professionalは2016年にAdobe Animateに名称を変更しており、HTML5のオーサリングツールに移行している。 アドビは、2020年12月末をもって中華人民共和国を除いた国と地域でのFlash Playerの開発と配布を終了しアンインストールを勧告して、翌年1月12日以降はFlash Playerの実行をブロックしている。Windows 10では、2020年10月27日以降のアップデートパッチ「KB4577586」をもって、Flash PlayerがWindowsから完全に削除された。だが、Firefoxでプラグイン「Flash Player 2021」のページを開き、「Firefoxへ追加」を押すという操作を行うと、Adobe Flash Playerが閲覧できるようになる。 | {{複数の問題
| 更新 = 2017年2月
| 独自研究 = 2021年2月
}}
{{Infobox Software
|名称 = Adobe Flash Professional
|ロゴ = [[File:Adobe Flash Professional icon.png|100px]]
|screenshot =
|説明文 =
|開発元 = (フューチャーウェーブ・ソフトウェア→)<br>([[マクロメディア]]→)<br>[[アドビ]]
|最新版 = CC (2015)
|最新版発表日 = {{release date|2015|06|15}}
|対応OS = [[Microsoft Windows|Windows]], [[macOS]]
|種別 = Multimedia Content Creator
|ライセンス = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]
|公式サイト = {{Wayback |url=http://www.adobe.com/jp/products/flash/ |title=Adobe Flash }}
}}
{{Infobox Software
|名称 = Adobe Flash Player
|ロゴ = [[ファイル:Adobe Flash Player 32.svg|100px]]
|説明文 =
|開発元 = (フューチャーウェーブ・ソフトウェア→)<br>([[マクロメディア]]→)<br>[[アドビ]]
|最新版 = 32.0.0.465 <ref>[https://helpx.adobe.com/flash-player/release-note/fp_32_air_32_release_notes.html Release Notes Flash Player 32 AIR 32]</ref>
|最新版発表日 = {{release date|2020|12|08}}
|最新評価版 =
|最新評価版発表日 =
|対応OS = 【開発終了】<br />
[[Microsoft Windows|Windows]], [[macOS]], [[BlackBerry]], [[Pocket PC]]<ref>[http://www.adobe.com/products/flashplayer_pocketpc/ Adobe - Flash Player 7 For Pocket PC]</ref>, [[OS/2]], [[HP-UX]]<ref>[https://h20392.www2.hp.com/portal/swdepot/displayProductInfo.do?productNumber=B9002AA Macromedia Flash Player 6 for HP-UX]</ref>, [[IRIX]], [[Symbian OS]], [[webOS]], [[Windows Mobile]], [[Solaris]], Motrola Webtop, [[Android (オペレーティングシステム)|Android]], [[MeeGo]]<br />
【単独配布なし】<br />
[[Linux]]
|種別 =
|ライセンス = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]
|サポート状況 = サポート終了<ref name="end_of_flash"/>
|公式サイト = {{URL|https://www.adobe.com/jp/products/flashplayer.html}}
|screenshot =
}}
{{Infobox Software
|名称 = Adobe Flash Catalyst
|ロゴ = [[File:Adobe Flash Catalyst CS5 Icon.png|100px]]
|screenshot =
|説明文 =
|開発元 = [[アドビ]]
|最新版 = CS5 (1.0.0)
|最新版発表日 = {{release date|2010|4|30}}
|対応OS = [[Microsoft Windows|Windows]], [[macOS]]
|種別 =
| サポート状況 = 2020年12月31日にサポート終了
|ライセンス = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]
|公式サイト = {{URL|https://www.adobe.com/jp/products/flashcatalyst.html}}
}}
'''Adobe Flash'''(アドビ・フラッシュ)は、かつて[[アドビ]]が開発していた[[動画]]や[[ゲーム]]などを扱うための規格、およびそれを作成・動作させるアプリケーション群。かつてフューチャーウェーブ・ソフトウェアと、それを買収した[[マクロメディア]]が開発していた。旧称は'''FutureSplash'''(フューチャー・スプラッシュ)、'''Macromedia Flash'''(マクロメディア・フラッシュ)。競合としては、[[Microsoft Silverlight]]があったが、両社とも現在は[[HTML5]]を推奨している。
かつてはFlash規格のアプリケーションを制作する同社の[[オーサリングツール]]群としてFlash Professional、Flash Builder/Flash Catalystが存在したが、後者はすでに開発終了したほか、Flash Professionalは2016年に'''[[Adobe Animate]]'''に名称を変更しており、HTML5のオーサリングツールに移行している。
アドビは、[[2020年]]12月末をもって[[中華人民共和国]]を除いた国と地域でのFlash Playerの開発と配布を終了しアンインストールを勧告して<ref name="end_of_flash">[https://blogs.adobe.com/conversations/2017/07/adobe-flash-update.html Flash & The Future of Interactive Content | Adobe]</ref><ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1072487.html Adobe、「Flash Player」の更新と提供を2020年12月末で終了 - 窓の杜]</ref>、翌年1月12日以降はFlash Playerの実行をブロックしている<ref>{{Cite web|和書|title=Adobe Flash Playerサポート終了|url=https://www.adobe.com/jp/products/flashplayer/end-of-life.html|website=www.adobe.com|accessdate=2021-02-07|language=ja}}</ref>。[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]では、2020年10月27日以降のアップデートパッチ「KB4577586」をもって、Flash PlayerがWindowsから完全に削除された<ref> [https://support.microsoft.com/ja-jp/topic/kb4577586-adobe-flash-player-%E3%81%AE%E5%89%8A%E9%99%A4%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%9B%B4%E6%96%B0%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0-2020-%E5%B9%B4-10-%E6%9C%88-27-%E6%97%A5-931521b9-075a-ce54-b9af-ff3d5da047d5 KB4577586: Update for the removal of Adobe Flash Player: October 27, 2020]</ref>。
== 概要 ==
[[ベクタ形式|ベクターイメージ]]が規格の中心で、それに[[スクリプト]]で制御することにより[[マウス (コンピュータ)|マウス]]の動きに合わせて[[アニメーション]]をしたり、音を鳴らしたりなど、動きのある[[ウェブサイト]]を作成するのに向いている。アニメーション、ゲーム、ウェブサイトのナビゲーション、音楽再生などのコンテンツを作るためのソフトウェア。再生環境への依存度が低く、ベクターイメージを扱う場合、[[ウインドウ]]サイズを変えても画質が劣化しないという特徴がある。[[ビットマップ画像|ラスターイメージ]]を扱うこともでき、この場合[[ビットマップ]]スムージングで画質の劣化を目立たなくすることができる機能がある。
Flashを用いるとインタラクティブ性の高いウェブサイトにすることも可能だが、[[ウェブブラウザ]]やプレーヤーから[[テキスト検索]]できない。ただし、[[Google検索]]など一部の[[検索エンジン]]はFlash内のテキストを抜き出して、検索対象とすることができた。
Flash再生ソフトとしては主にFlash Player(フラッシュ・プレイヤー)が使われる。[[Microsoft Windows|Windows]]、[[macOS]]、[[Linux]]などの[[オペレーティングシステム]]上で動作し、代表的な[[ウェブブラウザ]]の中で[[プラグイン]]として動作させることができた。[[携帯電話]]機にも再生ソフトが搭載されているものがあった(以前は機能制限を加えた[[Adobe Flash Lite]](アドビ・フラッシュ・ライト)が提供されていた)。
また、アドビはFlashをウェブ以外にも利用できるようにする意向を発表している。Flashの[[ファイルフォーマット]]は仕様が一般に公開されており、アドビ以外の企業、個人でもFlashデータを加工、生成するソフトウェアを自由に開発、配布することができる。しかし、仕様書に基づいてFlashファイルを再生するソフトウェアを開発することは認められていなかった。そのため、例えばFlash再生ソフトである[[Gnash]]では、ウェブ上に存在するFlashを収集し、それらを解析することを通じて開発が行われていた。その後、[[ライセンス]]の変更が行われ、現在では互換ソフトの開発が可能になっている。
Flashによるアニメーションは、[[ポータルサイト]]や企業や公的機関、歌手や個人のウェブサイト等においてトップページに使用されていたが、[[HyperText Markup Language|HTML]]の代替ページを用意していない場合は、[[アクセシビリティ]]の観点から批判も受けることも多かった。また、Flash上に表示されたテキストは、通常のテキストや画像のようにブラウザの機能を用いてコピーや印刷、保存することが不可能なため、たとえば歌詞などのテキストをFlashを用いて表示し、[[コピー・アンド・ペースト]]を出来ない様にする特殊な使われ方もあった。そのほか、[[バナー|バナー広告]]をはじめとしたウェブ広告の分野においても広く使用されていた。
後期のバージョンでは、インタラクティブなコンテンツの表現手段だけにとどまらず[[リッチインターネットアプリケーション]]向けの機能が拡充されており、高度な[[ユーザインタフェース]]、複数ファイルの同時アップロード、シームレスな動画の再生など、[[ダイナミックHTML|DHTML]]などで賄いきれない柔軟で利便性の高い[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]を[[クロスプラットフォーム]]で比較的容易に提供できる手段としても普及していた。
特に、[[2006年]]に脚光を浴びた[[動画共有サイト]][[YouTube]]と伴に急成長した動画配信の分野においては、([[デジタル著作権管理]]の保護が必要な一部のケースを除いて)非常に広く使われ、従来の[[Windows Media Player]]、[[QuickTime]]、[[RealPlayer]]による[[ストリーミング]]再生に替わって、動画配信において欠かせない技術のひとつとなっていたが、[[2007年]]発売の[[iPhone]]は、[[コンピュータセキュリティ]]の問題から、Flashの使用を許可しなかった(サードパーティのアプリを用いれば使用できた)ことや[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]の問題をきっかけに、急速に衰退していった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1708/24/news018_2.html|title=Flashにとどめを刺したのは (2/2)|website=ITmedia エンタープライズ|date=2017-08-24|accessdate=2019-09-09}}</ref>。
終了決定後も、[[メディアアート|メディア・アート]]、インタラクティブ・アートや[[インスタレーション]]の制作ツールとしてFlashが使用されることもある。
== Adobe Flash (Macromedia Flash)(開発ソフト) ==
かつてはAdobe Flash (Macromedia Flash) 規格のアプリケーションを開発するソフトウェアのことも「Flash」と呼ばれていた。しかし2000年代後半以降は類似技術として[[World Wide Web Consortium|W3C]]や[[Web Hypertext Application Technology Working Group|WHATWG]]により標準化の過程にある[[HTML5]]が台頭しつつあり<!--HTML5はFlashと重ならない機能も多く、またアドビシステムズもFlashをHTML5に変換する「Wallaby」を用意しており、HTML5がFlashの対抗技術とは単純に言えない-->、Flash Professional CS6以降ではHTML5での開発にも対応した。さらに[[WebGL]]や[[Adobe AIR]]などにも対応し、そちらの用途で使われることも多くなったため、'''[[Adobe Animate]]'''に名称を変更した。
10.1-11.1までは携帯端末にも対応しているが、それ以前の携帯端末向けは[[Adobe Flash Lite]]で、11.2以降は携帯端末は[[Adobe AIR]]のみになった<ref>[http://blogs.adobe.com/conversations/2011/11/flash-focus.html Flash to Focus on PC Browsing and Mobile Apps; Adobe to More Aggressively Contribute to HTML5 (Adobe Featured Blogs)]</ref>。
== バージョンアップの歴史 ==
{{更新|date=2017年2月|section=0}}
=== Flash 1, 2 ===
[[1996年]]にアメリカ合衆国の[[コンピュータ]]・[[ソフトウェア]]会社フューチャーウェーブ・ソフトウェア (FutureWave Software) が、アニメーション・データを作成するソフトFutureSplash Animatorと再生プラグインFutureSplash Player(フューチャースプラッシュ・プレイヤー)を開発。これをマクロメディアが会社ごと買収、「FutureSplash」の頭文字「F」と接尾「lash」をとって略称を「Flash」とし、[[Adobe Shockwave|Shockwave]]シリーズに組み込んで「Shockwave Flash」とした。ファイルフォーマット名及び拡張子として使われている「<code>SWF</code>」は元々「small Web format」(スモール・ウェブ・フォーマット)の略であったが、マクロメディアによって「Shockwave Flash」の略として改称された(現在は再び元の略称へ改称)。作成ソフトはMacromedia Flashに改名された。このころからすでに数多くの基本的な機能を備えており、またベクターイメージで描画することにより、動画データとしては非常にデータ量を小さくしたことで注目される。
=== Flash 3, 4 ===
[[1998年]]、Flash 3の[[ベータ版]]公開と同時にShockwave Flash (SWF) の仕様を[[オープン・スタンダード]]化する事が発表される。同年発売されたMacromedia Flash 3からインタラクティブ関連の機能が強化され、次第に「[[アニメーションソフトウェア|アニメーションソフト]]」の枠にとどまらない発展をするようになる。Flash 4で変数、文字列処理、条件分岐ができるようになる。
=== Flash 5, 6 ===
Macromedia Flash 5、Macromedia Flash MX (Flash Player 6) で[[ActionScript]]が搭載され、プログラミングの機能が大幅に強化されたため、プログラマたちもMacromedia Flashを使うようになる。MXは「miracle experience」(奇跡体験)の略称である。
=== Flash 7, 8 ===
2004年春にリリースされたMacromedia Flash MX 2004 (Flash Player 7) では、ActionScript 2が搭載され、動画配信もサポートする。[[Mac OS|Mac OS 9]]、[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]に対応する最終バージョン。2005年秋にリリースされたMacromedia Flash 8 Professionalではアニメ、グラフィック関連を中心に大幅なバージョンアップが行われ、また新規層向けの機能制限版Macromedia Flash 8 BASICも同時リリースされた。
=== アドビシステムズによる買収 ===
2005年4月にマクロメディアは[[アドビ]]に買収され、プレイヤーはAdobe Flash Playerに改名される。作成ソフトは新バージョンの発売までMacromedia Flashの名称のまま販売が継続された。2007年4月アドビシステムズのクリエイティブ製品群である「[[Adobe Creative Suite]] 3」に組み込まれて新バージョンとなるAdobe Flash CS3 Professionalが発売され、作成ソフトの名称もAdobe Flashに改名された。
=== Flash CS3 (9) ===
[[Microsoft Windows 98|Windows 98]]に対応する最後のバージョン。第8版まではMacromedia FlashとFlash Playerがほぼ同時にリリースされていたが、Windows、Mac OS用のFlash Player 9が2006年6月にリリースされた(開発環境は現在、Adobe Flash CS3 ProfessionalかFlex 2およびFlex 3)。
Linux用について見ると、Flash Player 8はそのリリースが見送られることとなった。その後、Flash Player 9がWindows、Mac OS用よりも数ヵ月遅れた2007年1月にリリースされた。Linux用のリリースが遅れた理由は、多くの[[Linuxディストリビューション]]に対応させる必要から、開発に相当時間がかかったためであるといわれている。
2007年12月3日リリースされたFlash Player 9 update 3 (9,0,115,0) からはMPEG-4 (H.264, AAC, HE-AAC) に対応。以後バージョン10.3まで同形式再生時は[[ストリーミングSIMD拡張命令|SSE]]対応CPU必須となった。
=== Flash CS4 (10) ===
CS4製品の米国での発表は[[2008年]][[9月2日]]、発売は同年[[10月15日]]。日本語版の発表は同年[[11月11日]]、発売は同年[[12月19日]]であった。
[[3DCG|3D]]変換、[[H.264]]のエンコード、[[Adobe AIR]]との連携、新フォーマット'''XFL'''などをサポートしている。
=== Flash Professional CS5 (10.1) ===
全世界での発表は[[2010年]][[4月12日]]、日本での発売は同年[[5月28日]]。
=== Flash Catalyst CS5 (1) ===
CS5から新設されたソフト。
=== Flash Player 10.2 ===
2011年2月8日公開。以下の機能を追加<ref>[http://kb2.adobe.com/jp/releasenotes/890/cpsid_89050.html Adobe Flash Player 10.2 リリースノート]</ref>。対応する[[Adobe AIR]]は2.6。SWFバージョン11。
*StageVideoのハードウェアアクセラレーション
*複数のモニターでのフルスクリーンモード
*Internet Explorer 9でのハードウェアアクセラレーションによるレンダリング
*カスタム ネイティブマウスカーソル
*サブピクセルテキストレンダリング
=== Flash Player 10.3 ===
2011年5月12日公開。以下の機能を追加<ref>[http://kb2.adobe.com/jp/releasenotes/901/cpsid_90194.html Adobe Flash Player 10.3 リリースノート]</ref>。対応するAdobe AIRは2.7。SWFバージョン12。
*メディアの測定 - ビデオの使用状況の分析
*音声エコーの除去 - ヘッドセットを利用していない状況で、より強力なエコー除去やノイズ除去など
*ローカル記憶領域の管理の改善
*ネイティブ制御パネル
*Mac OS Xでのアップデートの自動通知
=== Flash Professional CS5.5 ===
2011年5月20日販売開始。
=== Flash Player 11.0 ===
2011年10月3日公開。以下の機能を追加<ref>[http://kb2.adobe.com/jp/releasenotes/919/cpsid_91932.html Flash Player 11 および AIR 3 リリースノート:2011/10/04]</ref>。対応するAdobe AIRは3.0。SWFバージョン13。
*GPUによる2D, 3Dのハードウェアアクセラレーションレンダリング。Stage3D API「Molehill」。
**レンダリング性能が1,000倍高速化するケースが存在する<ref name="20110921_air3">[http://www.adobe.com/jp/aboutadobe/pressroom/pressreleases/20110921_air3.html Adobe - アドビ システムズ社、Flash Player 11と AIR 3 によって、3Dゲームを実現]</ref>
**[[Microsoft DirectX|DirectX]] 9 (Windows)、[[OpenGL]] 1.3 (Mac OS X, Linux)、OpenGL ES 2.0 (Android, iOS, BlackBerry Tablet OS) などを使用。未対応なら、SwiftShaderを使用<ref name="bytearray2555">[http://www.bytearray.org/?p=2555 Digging more into the Molehill APIs - ByteArray.org]</ref>。
**[[シェーダ]]言語のAdobe Pixel Bender 3Dも2011年3月2日に発表<ref>[http://labs.adobe.com/technologies/pixelbender3d/ Adobe Pixel Bender 3D | vertex and fragment shaders, molehill - Adobe Labs]</ref>。シェーダ言語の[[アセンブリ言語]]として、Adobe Graphics Assembly Language (AGAL) も利用可能<ref name="bytearray2555"/>。
*キュービック[[ベジェ曲線]](3次ベジェ曲線)
*64ビットブラウザサポート
*Linuxベクター印刷
*[[G.711]]
*[[H.264]]/AVCソフトウェア圧縮
*[[JavaScript Object Notation|JSON]]
*[[ガベージコレクション]]のタイミング指示
*ソケットプログレスイベント
*安全な乱数生成機
*HTTPダイナミックストリーミングが[[コピーガード]]対応
*JPEG-XR
*大きなBitmapDataのサポート
*[[Lempel-Ziv-Markov chain-Algorithm|LZMA]]によるSWFの圧縮
*<code>DisplayObjectContainer.removeChildren</code>、<code>MovieClip.isPlaying</code>
*非同期のビットマップデコード
*[[Transport Layer Security|TLS]]
=== Flash Player 11.1 ===
2011年11月10日公開。対応するAdobe AIRは3.1。SWFバージョン14。
*iOS 5 (AIR) 対応
*モバイル版Flash Playerおよび[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]対応の最終版
**Android版は、Android 2.2-4.0のみをサポート。加えて、2012年8月15日からは、工場出荷時にインストール済みのAdobe認証端末や2012年8月15日より前にインストール済みの端末以外には新規インストールが出来なくなった<ref>[http://blogs.adobe.com/flashplayer/2012/06/flash-player-and-android-update.html An Update on Flash Player and Android « Adobe AIR and Adobe Flash Player Team Blog]</ref>。
=== Flash Player 11.2 ===
2012年3月27日公開。以下の機能を追加。対応するAdobe AIRは3.2。SWFバージョン15。
*マルチスレッド ビデオデコード (Windows, OS X, Linux)
**幾つかのエンコーディング、典型的にはライブストリームやリアルタイムインタラクティブで時々見られたジッターを除去。
**幾つかのプラットフォームでビットレートの高いコンテンツで、ドロップされるフレームを減らすことにより、フレームレートを最大50%改善。
**フレームシークを正確にした。
**解像度が高かったり、ビットレートの高いコンテンツをデコードしても、メインUIスレッドを止めないようにした。
**HTTPストリーミングで、シークの反応性が良くなり、シーク後により素早く再生できるようにした。
*Flash Playerバックグラウンドアップデート(Windowsのみ) - 「可能な場合にアップデートを自動的にインストールする (推奨)」を選択した場合、何も通知せずに自動的にバージョンアップするようになる
*フルスクリーンモードでのマウスロック、相対マウス座標(モバイルのAdobe AIRは対応しない)
*右クリック・中クリック(Adobe AIRだけでなく、Flash Playerも対応)
*Flash Player 11.1までは、Windowsでビデオカードのデバイスドライバの日付が、2009年1月1日よりも前の場合は、wmode="direct" の時でも、ソフトウェアレンダリングを使用していたが、その判定日時を2008年1月1日に切り替えた。
*ウェブブラウザでタブが背後に隠れたり、最小化したときに、ThrottleEventを生成。
*SWFバージョン13以降を指定した場合、高速なメモリ操作の[[オペコード]]<ref>[https://code.google.com/archive/p/apparat/wikis/MemoryExpansion.wiki MemoryExpansion - apparat - Accessing Alchemy memory. - A framework to optmize ABC, SWC and SWF files. - Google Project Hosting]</ref>が無効になり、2008年版の古い方のAdobe Alchemy 1<ref>[http://blogs.adobe.com/flashplayer/2011/09/updates-from-the-lab.html Updates from the Lab « Adobe AIR and Adobe Flash Player Team Blog]</ref>、[[haXe]]のflash.Memory、ApparatのMemoryExpansionなどが動作しなくなった。同時に新しいAdobe Alchemy 2とStage3Dを併用する場合は別途課金をすることが発表された<ref>[http://www.adobe.com/devnet/flashplayer/articles/premium-features.html Adobe Flash Player Premium Features for Gaming - Adobe Developer Connection]</ref>。
=== Flash Professional CS6 ===
2012年5月11日販売開始。Flash Player 11.2、Adobe AIR 3.2対応。以下の機能を追加。
* スプライトシートの生成
* HTML5を生成する拡張機能
* 幅広いプラットフォームおよびデバイスのサポート
* あらかじめパッケージ化されたAdobe AIRアプリケーションの作成
* Adobe AIRモバイルシミュレーション
* Stage 3D対応
=== Flash Player 11.3 ===
2012年6月8日公開。以下の機能を追加。対応するAdobe AIRは3.3。SWFバージョン16。開発コードCyril<ref name="whitepapers_roadmap">[http://www.adobe.com/devnet/flashplatform/whitepapers/roadmap.html Adobe roadmap for the Flash runtimes - Adobe Developer Connection]</ref>。
*フルスクリーンモードでのキーボード入力のサポート(Adobe AIRだけでなく、Flash Playerも対応)。ESCキー以外が利用可能。
*NetStreamでの低遅延オーディオ
*Sound APIでの低遅延オーディオ
*[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]以降かつFirefox 4以降でのプロテクトモードでの実行
*OS Xでの自動アップデート
*Stage 3Dコンテンツ用のテクスチャのプログレッシブ・ストリーム
*Context3D.driverinfoにハードウェアアクセラレーションの失敗情報を含めた
*フレームラベル イベント Event.FRAME_LABEL
*外でマウスボタンをリリースしたというイベント取得 MouseEvent.RELEASE_OUTSIDE
*Linux版でのサポートを終了し、{{仮リンク|PPAPI|en|PPAPI}}のみサポートになり、Google Chromeのみ対応となり、Flash Playerの単独配布を終了<ref>{{Cite web
|url = http://blogs.adobe.com/flashplayer/2012/02/adobe-and-google-partnering-for-flash-player-on-linux.html
|title = Adobe and Google Partnering for Flash Player on Linux
|publisher = Adobe AIR and Adobe Flash Player Team Blog
|language = 英語
|date = 2012-02-22
|accessdate = 2012-02-23}}</ref>。Linux版をWi{{仮リンク|NPAPI|en|NPAPI}}ndows・OS X版とは同時公開せず。[[Solaris]]版は開発終了。
*Bitmap.drawWithQuality
*BitmapData.encode() - PNG, JPEG, JPEG XRへの圧縮
*ApplicationDomain.getQualifiedDefinitionNames()
*Mac App Storeの対応の改善
*モバイル版 (AIR)
**Android 4.0でのスタイラスサポート
**iOS (AIR) 版のサンドボックス対応
**iOSでのUSBデバッグ
**iOSでバックグラウンドで位置情報の取得やネットワーク通信
**iOS版のシミュレータのサポート
**アスペクト比対応の改善
**144x144サイズのアイコンのサポート
**Capabilities.screenDPIが[[iPad (第3世代)]] で正しい値を返すようになった
**Windowsで[[iOS SDK]]のサポート
=== Flash Player 11.4 ===
2012年8月21日公開。以下の機能を追加。対応するAdobe AIRは3.4。SWFバージョン17。開発コードDolores。
*サンドボックスブリッジ
*ByteArrayのLZMAのサポート
*Stage3Dでアルファチャンネル付きの圧縮テクスチャ
*StageVideoのattachCameraの改良
*OS XでCarbon APIのサポートの廃止
*OS XでiTunesなしでのAIRの配布
*iOSプッシュ通知
*Ambient音声再生モード
*iOS 5.1サポート
*iOSのネイティブエクステンションでC++/Objective-Cの例外サポート
*ADTで接続されているモバイルデバイスの一覧
*ActionScriptワーカー(並列実行)。デスクトップ版のみ
**flash.systemパッケージのWorker, MessageChannelなど
*2006年以降のビデオカードでのGPUアクセラレーション
* 新しいdomainMemory API
** Flash C++ Compiler対応(Adobe Alchemyの後継)
** プレミアム機能 - Stage 3DとdomainMemory APIの両方 (XC API) を使用する場合は有償契約が必要(Flash Playerのみ)
*** この契約は、2013年1月をもって5か月で終了になり、無償で利用可能になった<ref>[http://www.adobe.com/jp/devnet/flashplayer/articles/premium-features.html Flash Playerのプレミアム機能]</ref>。
*** 無契約で両方を使用しようとした場合、Stage 3Dはソフトウェアレンダリングとなる
*** デバッグプレーヤーでは、両方の機能を使用した場合、ウォーターマークが表示される。ただし、Stage 3Dはハードウェアレンダリングとなる。
=== Flash Player 11.5 ===
2012年11月6日公開。パフォーマンスおよび安定性の向上が目的。対応するAdobe AIRは3.5。SWFバージョン18。開発コードはEllis。
追加される主な新機能
* ActionScriptワーカーでの共有メモリをサポート
** Flash C++ Compilerで[[POSIXスレッド]]のサポート。
** ByteArray.shareable, atomicCompareAndSwapIntAt(), atomicCompareAndSwapLength()
** flash.concurrentパッケージ
* リリースビルドにおけるスタックトレースのデバッグ
* 静的リンクDRM(デスクトップ版のみ)
* InvokeEventReason.OPEN_URL(モバイル版のみ)
* iOS
** 複数ライブラリのパッケージング
** 複数SWFのパッケージングとロード
** [[iPhone 5]]サポート
=== ActionScript Compiler 2.0 ===
ActionScript 3用のコンパイラだが、ActionScript Compiler 1がActionScriptの仕様書とずれている部分があり、仕様書通りに正しくコンパイルするように修正<ref>[http://helpx.adobe.com/flash-builder/actionscript-compiler-backward-compatibility.html Flash Builder Help / ActionScript Compiler 2.0 Backward Compatibility]</ref>。Flash Builder 4.7に搭載。開発コードはFalcon。
=== CrossBridge(旧称 Flash C++ Compiler) ===
2012年12月4日公開。C/C++からSWFへのコンパイラ。リリース当初はFlash C++ Compilerという名称だったが、リリース後にCrossBridgeに名称変更になった。Adobe Game Developer Toolsの一環として配布されている。
=== Flash Player 11.6 ===
2013年2月12日公開。セキュリティの強化と安定性の向上が目的。対応するAdobe AIRは3.6。SWFバージョン19。開発コードはFolsom。
追加される主な新機能
*Adobe AIRでMac Retinaのサポート
*フルスクリーン許可ダイアログのユーザインタフェース改善
*ランタイム時にグラフィックスベクトルデータにクエリをかける
*複数SWFのサポート - AOTモードでiOSにデプロイしたAIRアプリケーションのランタイム時にSWFを読み込む機能
*AIRアプリケーションとしてiOS端末にデプロイする際に、サポート対象の画像解像度をより細かく制御
*iOSでiCloudへのバックアップの拒否指定
*Context3D.setSamplerStateAt()
=== Flash Player 11.7 ===
[[2013年]][[4月9日]]公開。対応するAdobe AIRは3.7。SWFバージョン20。開発コードはGeary。このバージョンは長期サポートを行う。以下の機能を追加。
* サンドボックスに機能追加
* iOS
** Shared ObjectのiCloudバックアップの拒否
** 特定のデバイスはCPUレンダリング、別のデバイスはGPUレンダリングという指定を可能にした
** 第2のSWFファイルを外部ホスティング可能にした
* Android
** GameInput API, [[OUYA]]コントローラのサポート
** captiveランタイムのみでパッケージング
=== Flash Professional CC ===
[[2013年]][[6月18日]]販売開始。[[2016年]]に「Animate CC」に変更される予定。
=== Flash Player 11.8 ===
[[2013年]][[7月9日]]公開。対応するAdobe AIRは3.8。SWFバージョン21。開発コードはHarrison。以下の機能を追加。
* サンドボックスの機能拡張
* ムービークリップの再帰ストップAPI
* iOS, Android
** Datagramソケット、サーバーソケット
** SWFのLZMA圧縮のサポート
* 4096x4096のテクスチャサポート
* 長方形のテクスチャサポート
=== Flash Player 11.9 ===
[[2013年]][[10月8日]]公開。対応するAdobe AIRは3.9。SWFバージョン22。開発コードはIrving。以下の機能を追加。
* Flash Player自体のOS Xでの.pkgでのインストール
* Safari 6.1以降のセーフモードのサポート
* モバイルAIRでバックグラウンド実行してる際の、ダイレクトレンダリングモードのサポート
* iOS 7, OS X 10.9対応
* AndroidでのAIR XXHDPI (144x144) アイコンのサポート
=== Flash Player 12 ===
[[2014年]][[1月14日]]公開。対応するAdobe AIRは4。SWFバージョン23。開発コードはJones。本バージョンより0.1単位でバージョン番号を振るのを止め、3ヶ月単位でバージョンアップする予定。以下の機能を追加。
* iOS向けの新しいパッケージツール
* Flash Player自体のOS Xでの.pkgでのインストールのUIの改善
* Internet Explorer 11 on Windows 7のサポート
* Safari 6.1以降のセーフモードのサポートの改善
* Google Chromeでの64ビットPPAPIのサポート
* Stage3D
** Stage3DでのBuffer Usageフラグ
** Stage3D.requestContext3DMatchingProfiles()
* Android
** Android 4.4のサポート
** AndroidでのWorkersサポート
** Androidでのネイティブリソースへのアクセス
=== Flash Player 13 ===
[[2014年]][[4月8日]]公開。対応するAdobe AIRは13。SWFバージョン24。開発コードはKing。このバージョンは長期サポートを行う。本バージョンより、Adobe AIRとAdobe Flash Playerのバージョンを揃えることとなった。以下の機能を追加。
* [[基本多言語面]]以外の[[Unicode]]のサポート
* 動画をフルスクリーンにしたときの警告メッセージの改善
* Stage3DのテクスチャラッピングにREPEAT_U_CLAMP_VとCLAMP_U_REPEAT_Vを追加
* Stage3DにsetRenderToTexture()追加
* ゲームプレビュー(Androidのみ)
=== Flash Player 14 ===
[[2014年]][[6月10日]]公開。Adobe AIRもバージョンが14になる。SWFバージョン25。開発コードはLombard。以下の機能を追加。
* 異方性フィルタリング
* 新しいStage3Dの標準プロファイル
* Android x86のサポート
* iOSのパッケージ化の改善
=== Flash Player 15 ===
[[2014年]][[9月9日]]公開。Adobe AIRもバージョンが15になる<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/666075.html Adobe、「Flash Player 15」「AIR 15」正式版を公開。「Adobe Reader」の更新は延期]</ref>。SWFバージョン26。開発コードはMarket。以下の機能を追加。
* [[Microsoft Windows 8|Windows 8]]以降のInternet Explorerにおける100%を超えるズームに関する不具合の改善
* Windowsで全画面表示やデバイスの向きを変更した場合の動作改善
* ソフトウェアレンダリングでのStageVideo対応
=== Flash Player 16 ===
[[2014年]][[12月9日]]公開。SWFバージョン27。
なお、アドビシステムズは次のメジャーバージョンアップとして、根本的に再設計されたバーチャルマシンやアーキテクチャーを備えたFlash Player "Next" と開発言語の革新を図るActionScript "Next" の[[2013年]]リリースを計画していた。しかし2013年1月30日、この手の設計・仕様変更は、従来との継続性に欠けることが多く、後方互換性を犠牲にして開発者に大きな負担がかかるため、またブラウザベースのバーチャルマシンに対する要望が高まっているとして、この計画をキャンセルした。今後は既存のFlash Playerアーキテクチャーを継続しつつ、Webベースの次世代バーチャルマシンおよび言語の開発に携わっていく意向を示した。計画されていた新機能は以下のとおり。
* ActionScriptで型の強化
** 動的型付けは利用可能であるものの、明示的に指定しないといけなくなる
** [[型推論]]
** int, uint, float, float4, byte, short, longといったプリミティブ型の導入。これらの型では桁あふれ時に型変換せずに[[C言語]]と同じような動作をする。
=== Flash Player 32 ===
[[2018年]][[12月4日]]公開。SWF バージョン 43。
iPhone XS、iPhone XS Max、iPhone XR の起動イメージがサポートされるようになった。iOS アプリケーションでの Geolocation の機能強化がされた。
=== バージョン ===
==== 作成環境 ====
*1996年 Future Splash Animator (Macromedia Flash 1)
*1997年 Macromedia Flash 2
*1998年 Macromedia Flash 3
*1999年 Macromedia Flash 4
*2000年 Macromedia Flash 5
*2002年 Macromedia Flash MX (6)
*2003年 Macromedia Flash MX2004 (7)
*2003年 Macromedia Flash MX Professional 2004 (7)
*2005年 Macromedia Flash Basic 8
*2005年 Macromedia Flash Professional 8
*2007年 Adobe Flash CS3 (9) Professional
*2008年9月23日 Adobe Flash CS4 (10) Professional、日本語版の発売日は12月19日。
*2010年5月28日 Adobe Flash Professional CS5 (11.0)
*2011年5月20日 Adobe Flash Professional CS5.5 (11.5)
*2012年5月11日 Adobe Flash Professional CS6 (12.0)
*2013年6月18日 Adobe Flash Professional CC (13.0)
==== 再生環境 ====
*1996年 Future Splash Player (Macromedia Flash Player 1)
*1997年 Macromedia Flash Player 2
*1998年 Macromedia Flash Player 3
*1999年 Macromedia Flash Player 4
*2000年 Macromedia Flash Player 5
*2002年 Macromedia Flash Player 6
*2003年 Macromedia Flash Player 7
*2005年9月13日 Macromedia Flash Player 8<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2005/09/13/9122.html マクロメディア、「Flash Player 8」を公開]</ref>
*2006年6月28日 Adobe Flash Player 9<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2006/06/28/12499.html 「Adobe Flash Player 9」リリース、パフォーマンスを大幅向上]</ref>
*2008年10月15日 Adobe Flash Player 10.0<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2008/10/15/21187.html 「Flash Player 10」正式版公開、レンダリングエンジンを強化]</ref>
*2010年
**6月10日 Adobe Flash Player 10.1<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/373664.html 「Flash Player 10.1」正式版が公開、ゼロデイ脆弱性にも対応]</ref>
**8月17日 [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]版
*2011年
**2月8日 Adobe Flash Player 10.2<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/425931.html 「Flash Player 10.2」正式版公開、Stage Video技術に対応、脆弱性の修正も]</ref>
**5月12日 Adobe Flash Player 10.3<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/445440.html 「Adobe Flash Player 10.3」公開、Android 3.1もサポート]</ref>
**10月3日 Adobe Flash Player 11.0<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/481483.html 窓の杜 - 【NEWS】「Adobe Flash Player 11」「Adobe AIR 3」がついに正式公開]</ref>
**11月10日 Adobe Flash Player 11.1
*2012年
**3月27日 Adobe Flash Player 11.2
**6月8日 Adobe Flash Player 11.3
**8月21日 Adobe Flash Player 11.4
**11月6日 Adobe Flash Player 11.5
*2013年
**2月12日 Adobe Flash Player 11.6
**4月9日 Adobe Flash Player 11.7
**7月9日 Adobe Flash Player 11.8
**10月8日 Adobe Flash Player 11.9
*2014年
**1月14日 Adobe Flash Player 12
**4月8日 Adobe Flash Player 13<ref>[http://blogs.adobe.com/flashplayer/2014/04/flash-player-and-air-13-released.html Flash Player and AIR 13 Released]</ref>
**6月10日 Adobe Flash Player 14<ref>[http://blogs.adobe.com/flashplayer/2014/06/flash-runtime-14-is-now-available.html Flash Runtime 14 is now available!]</ref>
**9月9日 Adobe Flash Player 15<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/666075.html Adobe、「Flash Player 15」「AIR 15」正式版を公開。「Adobe Reader」の更新は延期 - 窓の杜]</ref>
**12月9日 Adobe Flash Player 16<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/679677.html Adobe、「Adobe Flash Player 16」を正式公開。6件の脆弱性を修正 - 窓の杜]</ref>
*2015年
**3月12日 Adobe Flash Player 17<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/692672.html Adobe、「Adobe Flash Player 17」「Adobe AIR 17」正式版を公開 - 窓の杜]</ref>
**6月9日 Adobe Flash Player 18<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/706262.html 「Adobe Flash Player 18」「Adobe AIR 18」が正式版に、脆弱性修正も - 窓の杜]</ref>
**9月24日 Adobe Flash Player 19<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/722366.html Adobe、「Adobe Flash Player 19」および「Adobe AIR 19」を正式公開。脆弱性修正も - 窓の杜]</ref>
**12月8日 Adobe Flash Player 20<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/734440.html Adobe、「Adobe Flash Player 20」「Adobe AIR 20」を正式公開。脆弱性の修正も - 窓の杜]</ref>
*2016年
**3月10日 Adobe Flash Player 21<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/747864.html 「Adobe Flash Player 21」「Adobe AIR 21」が正式版に。ゼロデイ脆弱性の修正も - 窓の杜]</ref>
**6月16日 Adobe Flash Player 22<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1005778.html Adobe、「Flash Player 22」「AIR 22」を正式公開。「Flash」ではゼロデイ脆弱性を修正 - 窓の杜]</ref>
**9月13日 Adobe Flash Player 23<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1019959.html Adobe、「Flash Player 23」「AIR 23」を正式公開。「Flash」では脆弱性の修正も - 窓の杜]</ref>
**12月13日 Adobe Flash Player 24<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1035018.html 「Adobe Flash Player 24」が公開、17件の脆弱性を修正。IEの標的型攻撃への悪用も - 窓の杜]</ref>
*2017年
**3月14日 Adobe Flash Player 25<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1049514.html Adobe、「Adobe Flash Player 25」を正式公開。7件の脆弱性を修正する月例更新 - 窓の杜]</ref>
**6月13日 Adobe Flash Player 26<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1065116.html 「Adobe Flash Player 26」が正式公開 ~CVE番号ベースで9件の脆弱性を修正 - 窓の杜]</ref>
**9月12日 Adobe Flash Player 27<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1080537.html 「Adobe Flash Player 27」「Adobe AIR 27」が公開 ~月例セキュリティアップデートも - 窓の杜]</ref>
**12月12日 Adobe Flash Player 28<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1096595.html 「Adobe Flash Player 28」が公開 ~セキュリティ修正を施した月例アップデート - 窓の杜]</ref>
*2018年
**3月13日 Adobe Flash Player 29<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1111407.html Adobe、「Adobe Flash Player 29」を正式公開 ~2件の“Critical”な脆弱性を修正 - 窓の杜]</ref>
**6月7日 Adobe Flash Player 30<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1126426.html 「Adobe Flash Player」にゼロデイ脆弱性、Adobeが修正版を緊急リリース - 窓の杜]</ref>
**9月11日 Adobe Flash Player 31<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1142618.html Adobe、「Flash Player 31」を公開 ~権限昇格の脆弱性を修正 - 窓の杜]</ref>
**12月4日 Adobe Flash Player 32
== 必要システム構成 ==
=== Adobe Flash Player ===
必要システム構成は以下の通り<ref>[http://www.adobe.com/jp/products/flashplayer/tech-specs.html 必要システム構成]</ref>。
;Windows
:*対応OS(32ビット)
::*[[Microsoft Windows XP|Windows XP]] SP3
::*[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]
::*[[Microsoft Windows 7|Windows 7]]
::*[[Microsoft Windows 8#Windows 8.1|Windows 8.1]]
::*[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]
::*最新バージョンの[[Microsoft Internet Explorer]]、[[Microsoft Edge]]、[[Mozilla Firefox]]、[[Google Chrome]]、[[Opera]]
:*対応OS(64ビット)
::*Windows 7
::*Windows 8.1
::*Windows 10
::*最新バージョンのMicrosoft Internet Explorer、Microsoft Edge、Mozilla Firefox、Google Chrome、Opera
;Mac OS X
:*[[macOS|OS X]] 10.9以降
:*最新バージョンのSafari、Mozilla Firefox、Google Chrome、Opera
;Linux
:*NPAPIおよびPPAPI対応のYUM、TAR.GZ、RPM、APTパッケージ
:*最新バージョンのFirefox、Google Chrome
== HTML5との比較 ==
[[Apple]]は、[[Safari]]がクラッシュする原因の大半はFlash Playerによるものだとし、動作が重くセキュリティ問題を抱えるFlashは携帯機器には不向きであるとして、[[iOS]]上では動作しないようにしている<ref>http://www.apple.com/hotnews/thoughts-on-flash/</ref>。同社はまた、Flashの代替として、プラグインを必要としない[[HTML5]]を強く推奨している。
しかし、上の表明がなされた時点(2010年4月)ではHTML5はまだ仕様が確定していない発展途上の段階であり(2014年に正式の仕様が勧告された)、実装状況はブラウザによって異なっていた。そのため、Flashを完全に置き換える要素にはなっていなかった。
Googleは、HTML5を強く推進し、また独自の動画規格[[WebM]]を開発している一方、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]をFlashに対応させたり、[[Google Chrome]]のデスクトップ版にFlash Playerを内蔵させているが、2016年第4四半期中に無効化されることが正式に発表された。モバイル分野ではAndroid 4.1以降をFlash Player非対応とするなど<ref name="Android41">{{cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1206/29/news114.html|title=Adobe、Android 4.1へのFlash Player非対応を再発表|publisher=ITmedia|date=2012-06-29|accessdate=2012-06-29}}</ref>、Adobeのモバイル版Flash Player開発中止に同調した動きを取っている。
また、アドビシステムズ自身もFlashからの変換ツールを開発する等、HTML5を推進する立場をとっている<ref>[http://adobe-html5.jp/ HTML5/CSS3 特設サイト]</ref><ref>[http://www.adobe.com/jp/joc/devnet/dreamweaver/articles/aics5_html5pack.html Adobe Illustrator CS5 HTML5 Pack]</ref><ref>[https://atmarkit.itmedia.co.jp/news/201010/29/adobe.html Adobe Max 2010まとめレポート - アドビのHTML5・jQueryサポート最新事情]</ref>。
== ブラウザへのインストール ==
下記ブラウザは、Flash Playerを搭載された状態で配布され、アップデートも自動で行われる。
* [[Internet Explorer 10]]以降(Windows 8もしくはWindows Server 2012)。ただし、Windows Serverはデスクトップ・エクスペリエンスを有効にすること。
* [[Google Chrome]] 5以降 (但し、76以降ではデフォルト設定で Flash Player はオフになっている<ref>{{cite
|first1 =
|last1 =
|date =
|title = Google Chrome Enterprise ヘルプ
|chapter = ユーザーの Chrome ブラウザで Flash を管理する
|journal=
|pages =
|isbn =
|url = https://support.google.com/chrome/a/answer/7084871?hl=ja
|access-date = 2020-12-20
|archive-url =
|archive-date =
|url-status =
}}</ref>。)
他のブラウザはFlash Playerをインストールする必要がある。Windows用では、「[[Internet Explorer]]」版 ([[ActiveX]]) と「その他のブラウザ」版(プラグイン)に分かれていてInternet Explorerとその他のブラウザ両方で利用したい場合、それぞれインストールする必要がある。「その他のブラウザ」版を一回インストールすると、[[:en:NPAPI|NPAPI]]に対応したブラウザ([[Mozilla Firefox|Firefox]]・[[Safari]]・[[Opera]]等)の全てで利用可能になる。Flash Player 11.0から64ビット版もリリースされており、64ビットネイティブ版ブラウザでも利用することができるようになった。Windows・macOS版では32ビット・64ビット両対応のインストーラが配布されている。
アンインストールについては、アドビシステムズから「Flash Player Uninstaller」がリリースされており、それを利用するとすべてのブラウザのFlash Playerが削除される<ref name="名前なし-1">[http://helpx.adobe.com/jp/flash-player/kb/230810.html Flash Playerをアンインストールする方法]</ref>。
<!-- ここは、細かいバグを書く場所ではないです。
Windows版のGoogle ChromeやMozilla Firefoxでは、言語バーが消える、Flash上の新しい情報が読み込まれない等といった不具合が発生し、未解決である。
-->
== アドビ以外の実装 ==
=== 再生ソフトウェア ===
アドビ以外が実装するFlash再生ソフトウェアは存在するものの、いずれもまだバグが多く実用レベルに達していない。[[SWF]]のファイルフォーマットの仕様は公開されているが、ライセンス上は、この仕様書を再生ソフトウェアの作成に用いることはできなかった。[[2008年]][[5月1日]]に、ライセンスが変更されてOpen Screen Projectが始まり、仕様書に基づいた互換プレーヤーを作ることが可能になった<ref>[http://www.adobe.com/aboutadobe/pressroom/pressreleases/200804/050108AdobeOSP.html Adobe and Industry Leaders Establish Open Screen Project] (2008.4)</ref>。
*[[Gnash]]([[クロスプラットフォーム]])開発終了
*[[Swfdec]]([[Linux]]と[[FreeBSD]])開発終了
*[[Lightspark]]([[クロスプラットフォーム]])
*[[Ruffle]]([[クロスプラットフォーム]])
=== 作成ソフトウェア ===
Flashのファイルフォーマットである[[SWF]]は仕様が公開されており、[[サードパーティー]]製のFlash作成ソフトも多数存在する。
*クロスプラットフォーム
**flaave
**[[Toon Boom Animation|Toon Boom Studio]]
**[[かんたんWebアニメーション]]
**サーバベース・コンバータ
*Windows
**frimo 3([[Free Motion]]の後継ソフトウェア)
**In A Flash
**jaMing
**Liveswif lite
**MotionMaker 4([[FlashMaker]]の後継ソフトウェア)
**MotionSWF
**[[ParaFla!]]
**Powerbullet
**[[Suzuka]]
**SWiSH
=== 統合開発環境 ===
ActionScriptの統合開発環境。Adobe製は[[Adobe Flash Builder]]。
*デスクトップアプリ
**[https://fdt.powerflasher.com/ FDT] - [[Eclipse (統合開発環境)|Eclipse]]プラグイン
**[[FlashDevelop]] - Windowsのみ
**[[IntelliJ IDEA]]
*ウェブアプリ
**[[wonderfl]]
=== SWFライブラリ ===
SWFファイルを読み書きするライブラリ。
*{{Wayback|url=http://opaque.net/ming/ |title=Ming|date=20130518023953}}
*[https://www.m2osw.com/sswf.html SSWF]
*[https://www.swfmill.org/ swfmill]
*{{Wayback|url=http://delphiflash.com/swf-scout-sdk |title=SWF Scout SDK|date=20120505064457}}
*[http://www.swftools.org/ SWFTOOLS]
*[https://www.flagstonesoftware.com/transform/ Transform SWF For Java]
== Adobe Flashをめぐる動向 ==
=== 米国 ===
2010年4月、AppleのiPhoneやiPadがAdobe Flashをサポートしない理由について、[[スティーブ・ジョブズ]]は自社ウェブサイト上で「Flashはパソコン (PC) とマウスの時代に作られたものだ。しかしモバイル時代といえば低消費電力機器、タッチスクリーン、オープンなウェブ標準などだ。どれもFlashが及んでいない分野だ」と発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2722526 |title=アップルのジョブズCEO、Flash非対応の理由を公開 |publisher=AFP |date=2010-04-30 |accessdate=2021-05-26}}</ref>。
2011年11月9日、アドビはAdobe Flashの携帯端末版の開発中止を表明し、今後はHTML5の開発に注力することを発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2839920 |title=アドビ、携帯版「フラッシュ」の開発中止 |publisher=AFP |date=2011-11-10 |accessdate=2021-05-26}}</ref>。
{{節スタブ}}
=== 日本 ===
日本での本格的な流通はFlash 2の頃からであるが、実際にはFutureSplashの直輸入版も一部店舗では取り扱われていた。
日本においてウェブサイトの一般ユーザーに広くFlashが認知されるようになったのはFlash 4の時期とされる。数々の企業サイトで採用されるに至っていたが、特に[[フォークソング|フォーク]][[フォークデュオ|デュオ]]の[[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]の公式サイト<ref>{{wayback|date=20050205015539|url=http://www.senha.co.jp/yuzu_new/enter.php|title=ゆず 公式サイト}}</ref>は、そのほとんどをFlashで構築した上、「ゆず一家の家の中」を探索する[[アドベンチャーゲーム]]風の演出をそれに取り入れていた。他方で個人制作されたFlash作品もこの時期を境に増え始めており、個人制作Flashの「投稿型コミュニティ」や、自動リンクを用いて主催者が気に入った作品を登録する形式で紹介するウェブサイトが派生してきたのもこの時代である。
制作コストや人材費、時間コストなどは[[デジタルアニメ]]よりも更に費用がかからない安いアニメを作ることが可能だった。
いわゆる[[MADムービー]]の制作ツールとしてFlashが多用されていた時期があり、『[[サザエさん]]』や『[[ドラえもん]]<ref name="蛙男53">『蛙男商会の本』、53頁。</ref>』、[[コミックソング]]等を素材に使用した作品が数多く公開された。一方で個人制作ながら表現において高レベルの水準に到達した『[[つきのはしずく]]』([[森野あるじ]])<ref name="蛙男53-54">『蛙男商会の本』、53-54頁。</ref>や、脚本に注力されFlashに興味の無い一般層も抵抗無く作品世界へ引き入れた感動系の始祖『[[キミとボク]]<ref name="蛙男52">『蛙男商会の本』、52頁。</ref><ref name="蛙男54">『蛙男商会の本』、54頁。</ref>』([[キミとボク|やまがらしげと]])など、黎明期を代表する作品が発表されている。
2006年春、『[[菅井君と家族石]]』で注目されていた[[FROGMAN]]([[蛙男商会]]<ref name="蛙男52"/>)により、全編Flashで制作された[[テレビアニメ]]シリーズ『[[THE FROGMAN SHOW]]<ref name="蛙男54"/>』が制作され、[[テレビ朝日]]・[[朝日放送テレビ|朝日放送]]にて放映。[[映画]]化やゲーム化なども行われた。
: [[2ちゃんねる]]「'''FLASH・動画板'''」におけるFlash動画ブームについては、「[[PC等 (2ちゃんねるカテゴリ)#FLASH]]」の記事を参照。
=== セキュリティ問題 ===
Flash Playerは、本格的な[[プログラミング言語]]であるActionScriptの処理系を含んでいる。そのためFlashデザイナーや[[Flex]]プログラマーは任意の機能を実現できるが、信頼性の保証がない[[サーバ]]から読み込まれた[[コンピュータプログラム]]が動作することについて、[[コンピュータセキュリティ]]上の懸念が存在する。
Flash Playerには[[サンドボックス (セキュリティ)|サンドボックス]]モデルに基づいたセキュリティ機構が実装されている。ローカルストレージや周辺機器へのアクセス、ダウンロード元と異なるドメインのサーバとの通信は制限されており、例えば自由に読み書きできるローカルストレージはWebブラウザの[[HTTP cookie|Cookie]]に相当するSharedObjectに限られ、ファイルの読み書きにはユーザの選択による許可を必要とする。
このため、通常はFlashによってシステムが破壊されたり、ローカルファイルに保存した情報が盗まれることはないが、Flash Playerや[[Portable Document Format|PDF]]に埋め込まれたFlashを再生できる[[Adobe Reader]]には、[[コンピュータシステム]]のクラッシュや悪意のあるプログラムの実行を許す[[脆弱性]]が、過去にいくつか発見されている<ref>[http://www.adobe.com/jp/support/security/ Adobeセキュリティ情報]</ref>。多くのユーザは、[[ウェブブラウザ]]に組み込まれたFlash Playerを有効にした状態でWebを利用しているので、それらの脆弱性を突く[[JSRedir-R]]や[[TROJ PIDIEF.IN]]のような[[コンピュータウイルス]]は、修正アップデートが公開されるまでの間に急速に感染を拡大した。
また、サイトを閲覧していると、「アップデートが必要」などのポップアップが現れるが、これは偽物で、クリックすると通知を許可させようとしたりアプリをインストールさせようとする。
Flash 10以降では、ダウンロードのページにあるチェックボックスを手動で外さない限り、McAfee Security Scanが自動インストールされるようになった。旧版のアンインストールについては、アドビシステムズから「Flash Player Uninstaller」がリリースされており、それを利用すると、すべてのウェブブラウザのFlash Playerが削除される<ref name="名前なし-1" />。
アドビは2020年12月31日でFlashの配布と更新を終了した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/flashplayer-end_jp_5ef01f8bc5b60f5875987005 |title=アドビ、Flash Playerの削除促すメッセージを表示すると発表 |publisher=ハフポスト|date=2020-06-22 |accessdate=2021-05-26}}</ref>。Maxthon Nitroなどと言った一部のウェブブラウザでは現在もAdobe Flashを使用可能である
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*「Flashアニメの歴史」『蛙男商会の本』[[講談社]]、2007年3月9日発行、ISBN 9784-063646870、52-55頁。
== 関連項目 ==
*[[2Dアニメーション制作ソフト一覧]]
*[[リッチインターネットアプリケーション]]
*[[アドビ]]
**[[Adobe Flash Lite]]
**[[Adobe Flash Media Server]]
**[[Adobe Flex|Adobe Flash Builder]]
**{{仮リンク|Adobe Media Player|en|Adobe Media Player}}
**[[Adobe Shockwave]]
**[[ActionScript]]
**[[Flash Video]]
**[[FlashPaper]]
**[[Local Shared Object]]
*[[Microsoft Silverlight]] - [[マイクロソフト]]の製品
== 外部リンク ==
* [https://www.adobe.com/jp/products/animate.html Adobe Animate]
* [https://www.adobe.com/jp/products/flashplayer.html Adobe Flash Player]
* [https://developer.mozilla.org/ja/docs/Plugins/Roadmap Firefox のプラグインロードマップ]
* {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20220401020702/https://www.adobe.com/support/flashplayer/debug_downloads.html |title=Adobe Flash Player - Debug Downloads}} - Flash Player projector(スタンドアロン版Flash Player)の配布サイト
{{アドビ}}
{{Adobe Flash}}
{{Adobe CS}}
{{Animation}}
{{DEFAULTSORT:あとひふらつしゆ}}
[[Category:Adobe Flash|*]]
[[Category:アドビのソフトウェア|Flash]]
[[Category:Webオーサリングソフト]]
[[Category:メディアプレーヤーソフト]]
[[Category:動画ファイルフォーマット]]
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[[Category:Windowsのソフトウェア]]
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[[Category:Androidのソフトウェア]]
[[Category:1996年のソフトウェア]] | 2003-03-07T05:55:49Z | 2023-10-16T11:38:34Z | false | false | false | [
"Template:Adobe Flash",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Adobe_Flash |
3,571 | フラッシュ | フラッシュ(英: flash、flush)
瞬間的な光、短期間の事象
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コンピュータ
雑誌
漫画
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実在の人物
架空の事物
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] | フラッシュ | '''フラッシュ'''({{lang-en-short|flash、flush}})
== flash (用語)==
瞬間的な光、短期間の事象
* [[閃光]]。一瞬だけ放たれる強烈な[[光]]。
* 写真撮影用の瞬間的な光源。
** [[閃光電球|フラッシュバルブ]]
** [[エレクトロニックフラッシュ]]
* [[スポットニュース|フラッシュニュース]] - テレビニュース番組の一種。
* [[フラッシュマーケティング]] - 短期間のうちに売買契約を行う[[マーケティング]]手法。
* フラッシュクラッシュ - [[金融]]用語で、[[株価]]などの瞬間[[暴落]]のこと。
* [[高速電波バースト|フラッシュ現象]]
通常の照明
* flashlight(フラッシュライト) - 通常の[[懐中電灯]]を示す英語。
== flash (名称) ==
コンピュータ
* [[Adobe Flash]](旧 Macromedia Flash) - {{仮リンク|インタラクティブ|en|Interactivity}}[[動画]]の[[ファイルフォーマット]]、およびその制作[[ソフトウェア]]。
** これにより制作された動画をFlash動画、略して単にフラッシュ(Flash)と呼ぶ場合もある。
** [[2ちゃんねる]]の「FLASH・動画板」については、[[PC等 (2ちゃんねるカテゴリ)#FLASH]]を参照。
* [[フラッシュメモリ]] - 書き換え可能な不揮発性半導体メモリの一種。速いイメージがある閃光という意味から命名。
** [[コンパクトフラッシュ]]やそのほかのフラッシュメモリを採用している記憶メディアのこと。
雑誌
* [[FLASH (写真週刊誌)]] - [[光文社]]発行の写真週刊誌。
漫画
* [[フラッシュ (DCコミックス)]] - [[DCコミックス]]刊行の[[アメリカン・コミックス]]。
* [[FLASH!]] - [[さとう智子]]による漫画作品。
* FLASH - [[田中政志]]による漫画作品。
ドラマ
* [[THE FLASH/フラッシュ]] - 同名アメコミ作品のテレビドラマ。
* [[超新星フラッシュマン]] - [[スーパー戦隊シリーズ]]第10作目。
映画
* [[ザ・フラッシュ (映画)]] - 同名アメコミ作品の映画作品。
音楽
* [[フラッシュ (バンド)]] - [[イングランド]]の[[プログレッシブ・ロック]]・グループ。
* [[フラッシュ (アルバム)]] - [[ジェフ・ベック]]のアルバム。
* [[フラッシュのテーマ]] - [[クイーン (バンド)|クイーン]]の楽曲。
* [[FLASH (Crystal Kayのアルバム)]] - [[Crystal Kay]]のミニアルバム。
* [[FLASH (Perfumeの曲)]] - [[Perfume]]の配信限定シングル。
* [[Flash!!!]] - [[King Gnu]]の楽曲。
* [[Blu-Swing]]のアルバム及びタイトル曲。
* FLASH - [[Hey!Say!JUMP]]の楽曲。アルバム「[[SENSE or LOVE]]」に収録。
実在の人物
* [[グランドマスター・フラッシュ]] - アメリカのミュージシャン。[[グランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイヴ]]の元メンバー。
* [[金子隆博|フラッシュ金子]] - 日本の[[キーボーディスト]]、[[サクソフォーン]]奏者、[[作曲家]]、[[編曲家]]、[[音楽プロデューサー]]、[[指揮者]]。
* [[ジョシュ・ゴードン]] - アメリカのアメリカンフットボール選手の愛称。
架空の事物
* ゲームソフト『[[アインハンダー]]』(スクウェア)に登場する架空の兵器。
* ゲームソフト『[[勇者聖戦バーンガーン]]』(タカラ)に登場する双子のロボットの弟。
== flush ==
* 水洗トイレなど水を使って物を流すこと。転じて単なる洗浄や経路から物を除去する行為など。
** [[洗浄]]。特に、[[工業製品]]の製造[[工程]]の中での[[清掃]]工程。
** [[キャッシュ (コンピュータシステム)]] の内容を全て本来あるべき記憶領域に書き込む処理及び名称。
** 医療において、[[中心静脈カテーテル]]など、管腔構造の器材の内腔を[[生理食塩水]]などで洗い流すこと。[[注射器]]を接続して行う。
* [[ポーカー]]の役のひとつ。選んだカードのスーツ(マーク)が全て同じになること。
* [[フラッシュ 或る伝記]](原題: ''Flush: A Biography'')- ヴァージニア・ウルフの小説
商品名、固有名称
* [[本田技研工業]]がかつて生産していたスクーター。
* [[FLUSH]] - [[宇都宮隆]]の9thシングル。
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3,572 | アプレット | アプレット(applet)とは、他のアプリケーションの中に組み込まれて実行される小さなプログラムとのことである。多くの場合、アプレットを動作させるアプリケーションはWebブラウザである。アプレットという用語はJavaアプレットの略称として用いられることも多い。
他のアプリケーションの上で動くために、同じ機能を実現するのにも、単独のアプリケーションより必要なプログラミング量が減る特徴がある。
アプレット(英語: applet)という言葉は、application (の略称 app ) に縮小辞を付加して造語されたものである。
日本ではあまり用いられないが、英語圏ではMacromedia FlashのようなWebページに組み込まれるものもアプレットに数えることもある。その他、Webブラウザ上のもの以外にも使われる例がある(例:パッケージソフトSiebelにおいて自社製品の部品の一つの名称として使用している)。
また、X Window System用のデスクトップ環境GNOMEでは、パネル上で動く小さなプログラムをアプレットと呼んでいる。
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他のアプリケーションの上で動くために、同じ機能を実現するのにも、単独のアプリケーションより必要なプログラミング量が減る特徴がある。
アプレット({{lang-en|applet}})という言葉は、application (の略称 app ) に[[縮小辞]]を付加して造語されたものである。
==アプレットの例==
日本ではあまり用いられないが、英語圏では[[Macromedia Flash]]のようなWebページに組み込まれるものもアプレットに数えることもある。その他、Webブラウザ上のもの以外にも使われる例がある(例:パッケージソフト[[Siebel]]において自社製品の部品の一つの名称として使用している)。
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==関連項目==
*[[サーブレット]]
*[[プラグイン]]
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3,575 | 津田沼 | 津田沼(つだぬま)は、千葉県習志野市の一地名である。千葉県内では千葉中央、船橋、柏などと並ぶ関東地方有数の繁華街を形成している。
習志野市が町村合併によって成立した際、中核となった前身自治体が当時の千葉郡津田沼町で、今日習志野市の津田沼地区(旧久々田村)にその名を残す。ちなみに「千葉県習志野市津田沼」の現行行政地名は津田沼一丁目から津田沼七丁目、郵便番号は275-0016であるが、単に「津田沼」と呼称した場合、同駅北口商店街の一部を構成する船橋市前原地区や南口の谷津・奏の杜地区を含んだ「(概ね)津田沼駅周辺の地域」を指すことが多く、最寄駅が津田沼駅になるか、それしかない船橋市三山から船橋市習志野、習志野市東習志野にかけた京成バス三山車庫バス停が最寄になる一帯にまで「津田沼」の名称がついたマンション群が存在し、同様に、袖ヶ浦、鷺沼、秋津、芝園となどの地域でも施設や事業所、店舗などに「津田沼」の名前が付いたものがいくつかあり、この地域も一部が広義の「津田沼」になることがある。また、津田沼自体が習志野市のかなり北に位置し、殆ど船橋市との境界近くに属しており、同市と共存している箇所も存在しているため、「津田沼」と呼ばれる全域が習志野市に属しているとは限らず、その中には船橋市に属している部分が多分に含まれている。
この地名は1889年(明治22年)に町村制施行に伴い谷津村、久々田(読み方くくだ、くぐた)村、鷺沼村、藤崎村、大久保新田の旧来からの5ヶ村が合併したことに由来し、中核となった谷津、久々田、鷺沼の3ヶ村から一文字ずつ取ったものである。これによって津田沼町の前身の津田沼村が成立した。これらの前身5ヶ村は、下総台地に古くから成立した多くの村落と同様に、下総台地に発達した樹枝状の浸食谷、すなわち谷津田の谷底を水田として開発して成立したものであった。谷津村、鷺沼村はそれぞれ一つの小規模な谷津田を単位としており、久々田村は菊田川河谷に形成された谷津田の下流部に、藤崎村はその中流部に成立した村であった。菊田川河谷の最上流部に成立した村は田喜野井新田であったが、これは明治時代の合併で二宮村となり、その後船橋市に編入されている。最後に大久保新田であるが、これは今日千葉市の幕張の中核となった馬加村と同じ浜田川河谷の最上流部に形成された村であった。
伝統的にそれぞれの村においては谷津田の水田における稲作と、それを取り巻く台地の縁辺部の畑における畑作を組み合わせた農業が営まれ、さらに東京湾に発達した干潟では、船橋漁民の独占的な魚漁が行われたため、専業の漁業は発達しなかったが、農業の片手間の潮干狩り的な貝漁が行われ、ハマグリやアサリなどを産した。海岸には下総台地の縁辺部が迫っており海食崖を成し、その足元の海岸線との間の狭い平地には房総往還=千葉街道(今日の国道14号)が通っていた。ここに小規模な宿場も形成されていたことが、久々田村の小字に浜宿、鷺沼村には上宿と下宿があったことから知られる。
近代になると、久々田地区は北総内陸部と江戸内湾の物資の集散地として栄え、薪炭・肥料・米穀などを扱う商店が軒を連ねた。1921年(大正10年)、京成電鉄の開通に伴い京成津田沼駅ができると、駅から海岸に至る商店街が発展し久々田地区の市街地化が進んだ。また、大久保新田は隣接する習志野原の陸軍施設との結びつきを強め、現在の京成大久保駅の北側で市街地化が進行した。津田沼駅も習志野原への玄関となり、駅前商店街が形成されたがそのほとんどは隣接する二宮町(現船橋市)に属する。
しかし、1907年(明治40年)に駅に隣接する谷津・久々田地区北部に鉄道連隊が転営し、1918年(大正7年)に鉄道第二連隊となると「津田沼」は鉄道連隊の町として知られるようになった。一方谷津の地先干潟では塩田開発が行われたが、大正期の台風被害で操業停止となり、跡地に遊園地(谷津遊園)が成立し、久々田、鷺沼の地先干潟の潮干狩り・海水浴とともに東京からの行楽地として有名になっていったほか、京成線の谷津遊園駅(から船橋市の花輪駅にかけて)の北側台地は、療養地、別荘地として開発が進んだ。また地盤のしっかりした砂質干潟は日本の黎明期の航空産業の滑走路としても利用され、鷺沼の海岸沿いに伊藤音次郎の伊藤飛行機研究所など、飛行機やその関連部品の工場やパイロットや整備士を養成する学校などが立ち並んだ(移転元の稲毛海岸も含めて、いわゆる本来の「袖ヶ浦」で、当海岸埋立地に残る習志野市袖ヶ浦の名はそこに由来する)。
谷津の塩田跡地のうち干潟の部分は、昭和放水路計画のため大蔵省の所有地となったため、1960年代以降の千葉県企業庁による埋め立てを免れ、今日の鳥獣保護区谷津干潟成立の伏線となった。また戦後海苔の人工培養技術に基づく養殖技術が成立すると、津田沼の半農半漁の漁業を行っていた人々の間で率先してこの技術が導入され、海苔の養殖も大規模に行われるようになった。
1954年(昭和29年)に津田沼町が千葉市の一部(旧幕張町の北部)を編入して習志野市が成立すると、谷津と鷺沼の2ヶ村の名称は習志野市の行政区画として存続したが、久々田はそれ自体行政区画名としては存続せず、旧久々田村の区域が習志野市の行政区画の津田沼町とされた。「久々田」の地名は、飲食店組合やアパートの名称、それと「久々田公園」にその名を残すのみである。また、「菊田」の名前も京成津田沼駅近くの菊田神社、菊田公民館及び今日ではそのほとんどが暗渠化してはいるが、菊田川にその名が残る。
1976年(昭和51年)から1978年(昭和53年)にかけて、国鉄(現・JR東日本)津田沼駅周辺に大型店の進出が相次ぎ、北口のイトーヨーカ堂津田沼店、津田沼パルコと西友津田沼店の二館体制の「西武津田沼ショッピングセンター」、南口のダイエー津田沼店(「サンペデック」)との間で競争が激化し、当時のメディア等で「津田沼戦争」と表現をされていた。
1946年(昭和21年)4月に創業した津田沼駅北口の文具店・峰文堂が1966年(昭和41年)6月に三宝ショッピング株式会社を設立。1967年(昭和42年)10月21日、北口に地下1階地上4階の寄合百貨店として「サンポーショッピングセンター」が開業。サンポーの3階と4階のテナントには扇屋津田沼店(後の扇屋ジャスコ)がテナントとして出店。
1976年(昭和51年)8月には、長崎屋津田沼店が開店。
1977年(昭和52年)7月1日、津田沼駅北口駅前の区画整理事業により、パルコと西友二館の西武津田沼ショッピングセンターが開業。11月には、新京成新津田沼駅ビルにイトーヨーカ堂津田沼店が開店。
1978年(昭和53年)2月には、イトーヨーカ堂向かい側に丸井津田沼店が開店。10月には、南口にダイエーと津田沼髙島屋を核テナントに迎えたサンペデックが開業。
津田沼駅前には、西友、パルコ、丸井、高島屋、ダイエー、イトーヨーカ堂、長崎屋などといった大手流通業界の店舗が揃い、1978年(昭和53年)を中心に、新聞・雑誌に「津田沼戦争」「戦場にかける橋」(総武線上をかけただけでなく、当地にあった鉄道連隊もかけたと見られている) 、「津田沼も戦国時代」という見出しが現れた。
激しい競争を象徴するものとして、南口のダイエーのオープニングセールに対抗し、北口のイトーヨーカ堂はダイエーのセール品を無料で進呈するなど、日に日に両店の競争は勢いを増し、同じく西友などの北口周辺の店舗にも影響を及ぼすなどして価格競争は激化した。
サンポーは、テナントの扇屋ジャスコが1978年2月に撤退するも、入居していたテナント75店舗は売上が好調だった。しかし、周囲の区画整理事業の事情等が重なり、サンポーは1978年7月に閉館した。閉館後に取り壊され、ダイアパレス津田沼となっている。
イトーヨーカ堂と目と鼻の先にあった長崎屋は、わずか2年余りの1978年8月31日で撤退し、1979年(昭和54年)3月には大塚家具のショールームとなった。
高島屋は百貨店として規模が小さく、2駅先の船橋駅前には船橋西武と東武百貨店船橋店といった百貨店が立地し、1981年にはららぽーとが開業し、さらにはららぽーと内にはそごうが出店するなど、周辺商圏の激しい競合に耐えられず、業績不振により開店から10年目にあたる1988年(昭和63年)8月に撤退。
西友も、1985年(昭和60年)11月に全フロアから地下の食品売場に売り場縮小し事実上閉店。跡地は津田沼パルコレッツ館(後の津田沼パルコB館)に業態転換した。
その後、ダイエーは高島屋の店舗跡にディスカウントストア「エキゾチックタウン」(業態の中身はバンドール)をオープンさせ、スポーツ用品や家電などを幅広く扱い、広範囲から集客する。やがて津田沼周辺が発展していくにつれ、価格競争も次第に収拾していった。価格競争に生き残った両店は、1990年代前半にはダイエー津田沼店、イトーヨーカドー津田沼店ともに当時全国で一、二を争う売り上げ規模にまで成長したが、ダイエーは急速に業績が悪化し、2002年にはエキゾチックタウンが閉店。その後、当時ダイエーが目指していたCVC(カテゴリーバリュセンター;直営または外部企業による専門店化)を具体化させるためにリニューアルオープンさせた。
2003年には新津田沼駅北側にイオンがジャスコ津田沼店を核店舗とする大型店イオン津田沼ショッピングセンター(現在のイオンモール津田沼)をオープンさせた。これはサンポーとともに扇屋ジャスコ津田沼店を閉店して以来のオープンとなった。
新京成の線路を挟んでジャスコとイトーヨーカ堂が、JRの線路をはさんでダイエーが立ち並んだ。その後、ダイエーは産業再生機構による経営再建の一環により2005年11月30日をもって、ダイエー津田沼店は27年間の営業に終止符を打ち閉店する。
北口にあった丸井は、2007年(平成19年)2月12日に閉店し、同年11月にユニクロがキーテナントのミーナ津田沼が同じ場所にオープンした。
ダイエーの閉店以降、大部分が空きテナントとなっていたサンペデックは、日本生命が野村不動産系私募ファンドへ売却後イオンをはじめとし、TSUTAYA、ヤマダ電機LABI、マクドナルド、ブックオフ等様々なテナントが入った「モリシア津田沼」として2008年(平成20年)3月13日にリニューアルオープンした。
2011年(平成23年)3月1日にはイオン津田沼ショッピングセンターの核店舗がジャスコ津田沼店からイオン津田沼店へ変更され、同年11月21日にはイオン津田沼ショッピングセンターからイオンモール津田沼へ名称が変更された。
モリシア向かいにある大規模な土地区画整理事業「奏の杜プロジェクト」用地の一角に2013年(平成25年)4月、ベルクを中心とした新たな商業施設「奏の杜forte(フォルテ)」が開業した。
1977年(昭和52年)の西友津田沼店の開業から、パルコ地下1階で40年営業してきた西友津田沼パルコ店も、2017年(平成29年)1月31日をもって閉店。跡地は生鮮食品中心の商業施設「つだぬマルシェ」となった。
2017年(平成29年)8月31日、モリシア津田沼に入居していたイオンモリシア津田沼店が閉店。ダイエーに営業権を移譲し、9月5日にダイエーモリシア津田沼店として、約12年ぶりに津田沼、及び同施設へ再進出することとなった。これにより再び新京成の線路を挟んでイオンとイトーヨーカ堂、JRの線路を挟んでダイエーという構図が復活した。
2023年(令和5年)2月28日、津田沼パルコが閉店。跡地(B館)にリニューアルオープンした商業施設「Viit」に2023年10月頃を目処にベイシアの都市型店舗となる「Beisia Foods Park」を出店することが同年6月に発表された。
住宅地の地価は、2017年(平成29年)の公示地価によれば、津田沼1-7-15の地点で27万7000円/mとなっている。
習志野市内で最も地価が高い。
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"text": "イトーヨーカ堂と目と鼻の先にあった長崎屋は、わずか2年余りの1978年8月31日で撤退し、1979年(昭和54年)3月には大塚家具のショールームとなった。",
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"text": "高島屋は百貨店として規模が小さく、2駅先の船橋駅前には船橋西武と東武百貨店船橋店といった百貨店が立地し、1981年にはららぽーとが開業し、さらにはららぽーと内にはそごうが出店するなど、周辺商圏の激しい競合に耐えられず、業績不振により開店から10年目にあたる1988年(昭和63年)8月に撤退。",
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"text": "西友も、1985年(昭和60年)11月に全フロアから地下の食品売場に売り場縮小し事実上閉店。跡地は津田沼パルコレッツ館(後の津田沼パルコB館)に業態転換した。",
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"text": "その後、ダイエーは高島屋の店舗跡にディスカウントストア「エキゾチックタウン」(業態の中身はバンドール)をオープンさせ、スポーツ用品や家電などを幅広く扱い、広範囲から集客する。やがて津田沼周辺が発展していくにつれ、価格競争も次第に収拾していった。価格競争に生き残った両店は、1990年代前半にはダイエー津田沼店、イトーヨーカドー津田沼店ともに当時全国で一、二を争う売り上げ規模にまで成長したが、ダイエーは急速に業績が悪化し、2002年にはエキゾチックタウンが閉店。その後、当時ダイエーが目指していたCVC(カテゴリーバリュセンター;直営または外部企業による専門店化)を具体化させるためにリニューアルオープンさせた。",
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"text": "2003年には新津田沼駅北側にイオンがジャスコ津田沼店を核店舗とする大型店イオン津田沼ショッピングセンター(現在のイオンモール津田沼)をオープンさせた。これはサンポーとともに扇屋ジャスコ津田沼店を閉店して以来のオープンとなった。",
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"text": "新京成の線路を挟んでジャスコとイトーヨーカ堂が、JRの線路をはさんでダイエーが立ち並んだ。その後、ダイエーは産業再生機構による経営再建の一環により2005年11月30日をもって、ダイエー津田沼店は27年間の営業に終止符を打ち閉店する。",
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"text": "北口にあった丸井は、2007年(平成19年)2月12日に閉店し、同年11月にユニクロがキーテナントのミーナ津田沼が同じ場所にオープンした。",
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"text": "ダイエーの閉店以降、大部分が空きテナントとなっていたサンペデックは、日本生命が野村不動産系私募ファンドへ売却後イオンをはじめとし、TSUTAYA、ヤマダ電機LABI、マクドナルド、ブックオフ等様々なテナントが入った「モリシア津田沼」として2008年(平成20年)3月13日にリニューアルオープンした。",
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"text": "2011年(平成23年)3月1日にはイオン津田沼ショッピングセンターの核店舗がジャスコ津田沼店からイオン津田沼店へ変更され、同年11月21日にはイオン津田沼ショッピングセンターからイオンモール津田沼へ名称が変更された。",
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"text": "モリシア向かいにある大規模な土地区画整理事業「奏の杜プロジェクト」用地の一角に2013年(平成25年)4月、ベルクを中心とした新たな商業施設「奏の杜forte(フォルテ)」が開業した。",
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"text": "1977年(昭和52年)の西友津田沼店の開業から、パルコ地下1階で40年営業してきた西友津田沼パルコ店も、2017年(平成29年)1月31日をもって閉店。跡地は生鮮食品中心の商業施設「つだぬマルシェ」となった。",
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"text": "2017年(平成29年)8月31日、モリシア津田沼に入居していたイオンモリシア津田沼店が閉店。ダイエーに営業権を移譲し、9月5日にダイエーモリシア津田沼店として、約12年ぶりに津田沼、及び同施設へ再進出することとなった。これにより再び新京成の線路を挟んでイオンとイトーヨーカ堂、JRの線路を挟んでダイエーという構図が復活した。",
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"text": "2023年(令和5年)2月28日、津田沼パルコが閉店。跡地(B館)にリニューアルオープンした商業施設「Viit」に2023年10月頃を目処にベイシアの都市型店舗となる「Beisia Foods Park」を出店することが同年6月に発表された。",
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"text": "住宅地の地価は、2017年(平成29年)の公示地価によれば、津田沼1-7-15の地点で27万7000円/mとなっている。",
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"text": "習志野市内で最も地価が高い。",
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"text": "2017年(平成29年)10月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである。",
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"text": "市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。",
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] | 津田沼(つだぬま)は、千葉県習志野市の一地名である。千葉県内では千葉中央、船橋、柏などと並ぶ関東地方有数の繁華街を形成している。 | {{Pathnav|日本|千葉県|習志野市|frame=1}}
{{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}}
{{Infobox settlement
| name = 津田沼
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}}
'''津田沼'''(つだぬま)は、[[千葉県]][[習志野市]]の一地名である。千葉県内では[[千葉中央駅|千葉中央]]、[[船橋市|船橋]]、[[柏市|柏]]などと並ぶ[[関東地方]]有数の[[繁華街]]を形成している。
== 概要 ==
習志野市が町村合併によって成立した際、中核となった前身自治体が当時の[[千葉郡]][[習志野市|津田沼町]]で、今日習志野市の津田沼地区(旧久々田村)にその名を残す。ちなみに「千葉県習志野市津田沼」の現行行政地名は津田沼一丁目から津田沼七丁目、[[日本の郵便番号|郵便番号]]は275-0016である<ref name="postal"></ref>が、単に「津田沼」と呼称した場合、同駅北口商店街の一部を構成する[[船橋市]][[前原 (船橋市)|前原]]地区や南口の谷津・奏の杜地区を含んだ「(概ね)[[津田沼駅]]周辺の地域」を指すことが多く、最寄駅が[[津田沼駅]]になるか、それしかない船橋市[[三山 (船橋市)|三山]]から船橋市[[習志野]]、習志野市東習志野にかけた[[京成バス]]三山車庫バス停が最寄になる一帯にまで「津田沼」の名称がついたマンション群が存在し、同様に、[[袖ケ浦 (習志野市)|袖ヶ浦]]、鷺沼、秋津、芝園となどの地域でも施設や事業所、店舗などに「津田沼」の名前が付いたものがいくつかあり、この地域も一部が広義の「津田沼」になることがある。また、津田沼自体が習志野市のかなり北に位置し、殆ど[[船橋市]]との境界近くに属しており、同市と共存している箇所も存在しているため、「津田沼」と呼ばれる全域が習志野市に属しているとは限らず、その中には船橋市に属している部分が多分に含まれている。
== 行政区画の変遷 ==
* [[1889年]][[4月1日]] - [[町村制]]施行にともなう[[日本の市町村の廃置分合|明治の大合併]]により、[[千葉郡]]北西部の谷津村・久々田村・鷺沼村・藤崎村・大久保新田が合併して'''千葉郡津田沼村'''が発足(谷「津」・久々「田」・鷺「沼」の[[合成地名]]<ref>津田沼(つだぬま)とは - コトバンク</ref>)。旧村の区域により、谷津・久々田・鷺沼・藤崎・大久保の各大字を編成する。
* [[1903年]][[6月3日]] - 町制を施行し、'''千葉郡津田沼町'''となる。
* [[1954年]][[8月1日]] - 同年[[7月6日]]に[[千葉市]]へ編入された旧千葉郡[[幕張|幕張町]]の区域のうち実籾・愛宕・安生津・長作・天戸および馬加(まくわり)のうち屋敷台を編入。'''千葉郡習志野町'''と改称し、即日市制を施行して'''習志野市'''となる。その際、従来の大字久々田の区域を以って'''津田沼町'''を編成する。
== 歴史 ==
[[画像:Narasino,Saginuma.jpg|thumb|[[京成津田沼駅]]周辺(昭和30年代)|代替文=]]
[[画像:2nd railway regiment,Tsudanuma.jpg|thumb|戦前、[[津田沼駅]]付近にあった[[鉄道連隊|鉄道第二連隊]]。斜めに走る[[総武本線]]をはさんだ手前(南側)は連隊本部などで現在の[[千葉工業大学]]ほか。奥(北側)は[[工場]]などで現在の[[新京成電鉄新京成線|新京成電鉄]][[新津田沼駅]]のほか、整備工場は戦後[[京成電鉄]]の津田沼第二工場や[[千葉県立千葉工業高等学校]]などに利用された。|代替文=]]
この地名は[[1889年]]([[明治]]22年)に[[町村制]]施行に伴い谷津村、久々田(読み方くくだ、くぐた)村、鷺沼村、藤崎村、大久保新田の旧来からの5ヶ村が合併したことに由来し、中核となった谷'''津'''、久々'''田'''、鷺'''沼'''の3ヶ村から一文字ずつ取ったものである<ref>このときの経緯が書かれている『千葉郡町村分合取調』にある「新村名選定ノ理由」には、比較的大きな三ヶ村からとって名付けられたと記述されているが、「久々田村二菊田ノ地名アリ、著名ナルヲ以テ、今其地名二従ヒ」と書かれた部分に赤線が引かれて消されているという。つまり当初は「菊田村」としようとしたものを「津田沼村」と変更したということである 出典 新京成Ciao 112号 P.9 沿線歴史探訪 第21回 津田沼誕生の物語</ref>。これによって津田沼町の前身の津田沼村が成立した。これらの前身5ヶ村は、[[下総台地]]に古くから成立した多くの村落と同様に、下総台地に発達した樹枝状の浸食谷、すなわち[[谷戸|谷津田]]の谷底を水田として開発して成立したものであった。谷津村、鷺沼村はそれぞれ一つの小規模な谷津田を単位としており<ref>谷津村がその名の通りの谷津田構造であったかについては異論もあり、現・奏の杜(かなでのもり)地区にあった「庄司ヶ池」が海に注いでおらず、溜池構造であった事(http://www.city.narashino.chiba.jp/konnamachi/walk/sansaku/h11/sansaku038.html )がその論拠となっている。</ref>、久々田村は菊田川河谷に形成された谷津田の下流部に、藤崎村はその中流部に成立した村であった。菊田川河谷の最上流部に成立した村は田喜野井新田であったが、これは明治時代の合併で二宮村となり、その後船橋市に編入されている。最後に大久保新田であるが、これは今日千葉市の[[幕張]]の中核となった馬加村と同じ浜田川河谷の最上流部に形成された村であった。
伝統的にそれぞれの村においては谷津田の水田における稲作と、それを取り巻く台地の縁辺部の畑における畑作を組み合わせた農業が営まれ、さらに東京湾に発達した[[干潟]]では、船橋漁民の独占的な魚漁が行われたため、専業の漁業は発達しなかったが、農業の片手間の[[潮干狩り]]的な貝漁が行われ、[[ハマグリ]]や[[アサリ]]などを産した。海岸には下総台地の縁辺部が迫っており海食崖を成し、その足元の海岸線との間の狭い平地には房総往還=[[千葉街道]](今日の[[国道14号]])が通っていた。ここに小規模な[[宿場]]も形成されていたことが、久々田村の[[小字]]に浜宿、鷺沼村には上宿と下宿があったことから知られる。
近代になると、久々田地区は北総内陸部と江戸内湾の物資の集散地として栄え、薪炭・肥料・米穀などを扱う商店が軒を連ねた。[[1921年]]([[大正]]10年)、[[京成電鉄]]の開通に伴い[[京成津田沼駅]]ができると、駅から海岸に至る商店街が発展し久々田地区の市街地化が進んだ。また、大久保新田は隣接する[[習志野|習志野原]]の[[陸軍]]施設との結びつきを強め、現在の京成大久保駅の北側で市街地化が進行した。[[津田沼駅]]も習志野原への玄関となり、駅前商店街が形成されたがそのほとんどは隣接する[[二宮町 (千葉県)|二宮町]](現船橋市)に属する<ref>津田沼駅前にあった[[交番]](現・パルコの角の位置)は、[[船橋警察署]]と[[習志野警察署]]の共同交番であった。</ref>。
しかし、[[1907年]](明治40年)に駅に隣接する谷津・久々田地区北部に[[鉄道連隊]]が転営し、[[1918年]]([[大正]]7年)に鉄道第二連隊となると「津田沼」は鉄道連隊の町として知られるようになった。一方谷津の地先干潟では[[塩田]]開発が行われたが、大正期の[[台風]]被害で操業停止となり、跡地に[[遊園地]]([[谷津遊園]])が成立し、久々田、鷺沼の地先干潟の潮干狩り・海水浴とともに東京からの行楽地として有名になっていったほか、京成線の[[谷津駅|谷津遊園駅]](から船橋市の[[船橋競馬場駅|花輪駅]]にかけて)の北側台地は、療養地、別荘地として開発が進んだ。また地盤のしっかりした砂質干潟は日本の黎明期の航空産業の滑走路としても利用され、鷺沼の海岸沿いに[[伊藤音次郎]]の[[伊藤飛行機研究所]]など、飛行機やその関連部品の工場やパイロットや整備士を養成する学校などが立ち並んだ(移転元の稲毛海岸も含めて、いわゆる本来の「[[袖ヶ浦]]」で、当海岸埋立地に残る習志野市袖ヶ浦の名はそこに由来する)。
谷津の塩田跡地のうち干潟の部分は、[[利根川放水路|昭和放水路]]計画のため[[大蔵省]]の所有地となったため、[[1960年代]]以降の[[千葉県]][[千葉県企業庁|企業庁]]による埋め立てを免れ、今日の鳥獣保護区[[谷津干潟]]成立の伏線となった。また戦後[[海苔]]の人工培養技術に基づく[[養殖]]技術が成立すると、津田沼の半農半漁の漁業を行っていた人々の間で率先してこの技術が導入され、海苔の養殖も大規模に行われるようになった。
[[1954年]]([[昭和]]29年)に津田沼町が千葉市の一部(旧幕張町の北部)を編入して習志野市が成立すると、谷津と鷺沼の2ヶ村の名称は習志野市の行政区画として存続したが、久々田はそれ自体行政区画名としては存続せず、旧久々田村の区域が習志野市の行政区画の津田沼町<ref>1970年代に住居表示が実施され、津田沼一丁目〜津田沼七丁目に再編された。</ref>とされた。「久々田」の地名は、飲食店組合やアパートの名称、それと「久々田公園」にその名を残すのみである。また、「菊田」の名前も京成津田沼駅近くの[[菊田神社]]、菊田公民館及び今日ではそのほとんどが暗渠化してはいるが、菊田川にその名が残る。
=== 商業施設による競争の激化 ===
[[画像:TSUDANUMA-PARCO.gif|thumb|300x300px|津田沼駅北側のデッキより、津田沼パルコを望む(2007年2月撮影)|代替文=]]
[[1976年]](昭和51年)から[[1978年]](昭和53年)にかけて、[[日本国有鉄道|国鉄]](現・JR東日本)[[津田沼駅]]周辺に大型店の進出が相次ぎ、北口の[[イトーヨーカ堂]]津田沼店、津田沼[[パルコ]]と[[西友]]津田沼店の二館体制の「西武津田沼ショッピングセンター」、南口の[[ダイエー]]津田沼店(「[[モリシア津田沼|サンペデック]]」)との間で競争が激化し、当時のメディア等で'''「津田沼戦争」'''と表現をされていた。
==== 激化した競争と相次ぐ撤退 ====
1946年(昭和21年)4月に創業した津田沼駅北口の文具店・峰文堂が1966年(昭和41年)6月に三宝ショッピング株式会社を設立<ref>{{Cite book|和書 |title=津田沼で蘇る懐かしい思い出~閉店する津田沼PARCOとともに~ |date=2023年7月1日 |publisher=習志野の歴史を語る会 |page=29}}</ref>。1967年(昭和42年)10月21日、北口に地下1階地上4階<ref>『津田沼で蘇る懐かしい思い出~津田沼PARCOとともに~』には、'''地下1階地上5階(5階は屋上広場)'''と記載。</ref>の[[寄合百貨店]]として「サンポーショッピングセンター」が開業<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=津田沼で蘇る懐かしい思い出~閉店する津田沼PARCOとともに~ |date= |publisher=習志野の歴史を語る会 |page=26 |year=2023年}}</ref><ref name="good-department-tobu-history-30-1993-1">東武百貨店社史編纂室編纂 『グッドデパートメント東武百貨店30年の歩み』 東武百貨店、1993年1月、177、178頁。</ref>。サンポーの3階と4階のテナントには[[扇屋 (百貨店)|扇屋]]津田沼店(後の[[扇屋 (百貨店)|扇屋ジャスコ]])がテナントとして出店<ref>{{Cite book|和書 |title=津田沼で蘇る懐かしい思い出~閉店する津田沼PARCOとともに~ |year=2023年 |publisher=習志野の歴史を語る会 |pages=31,39}}</ref><ref name="management-data-marcketing-4-1968">[[日本経営政策学会]]編 『経営資料集大成 16 マーケティング編(4)』 [[日本総合出版機構]]経営出版事業部、1968年。</ref>。[[ファイル:Shin-Tsudanuma Station 1.jpg|サムネイル|イトーヨーカドー 津田沼店]]
1976年(昭和51年)8月には、[[長崎屋]]津田沼店が開店<ref name="miya-retailt-strategy-1985-5">三家英治 『現代日本小売経営戦略』 晃洋書房、1985年5月。ISBN 978-4771002906。三家英治 </ref><ref name="kikuchi-yen-1980-10">[[竹内宏]] 『路地裏の経済学 続―庶民の眼 庶民の発想 (2)』 [[日本経済新聞社]]出版局、1980年10月。ISBN 978-4532073459</ref>。
1977年(昭和52年)7月1日、津田沼駅北口駅前の区画整理事業<ref>船橋市郷土資料館編「津田沼の今昔」(2014年(平成28年)2月28日)19頁。</ref>により、パルコと西友二館の西武津田沼ショッピングセンターが開業。11月には、[[新京成電鉄新京成線|新京成]][[新津田沼駅]]ビルにイトーヨーカ堂津田沼店が開店。
1978年(昭和53年)2月には、イトーヨーカ堂向かい側に[[丸井]]津田沼店が開店。10月には、南口に[[ダイエー]]と津田沼[[髙島屋]]を核テナントに迎えたサンペデックが開業。
津田沼駅前には、西友、パルコ、丸井、高島屋、ダイエー、イトーヨーカ堂、長崎屋などといった大手流通業界の店舗が揃い、1978年(昭和53年)を中心に、新聞・雑誌に「'''津田沼戦争'''」「'''[[戦場にかける橋]]'''」(総武線上をかけただけでなく、当地にあった鉄道連隊もかけたと見られている) 、「'''津田沼も戦国時代'''」という見出しが現れた<ref>東武百貨店著『グッドデパートメント東武百貨店30年の歩み』船橋東武小史・P.177「激戦地、船橋・津田沼」より</ref>。
{{要出典範囲|激しい競争を象徴するものとして、南口のダイエーのオープニングセールに対抗し、北口のイトーヨーカ堂はダイエーのセール品を無料で進呈するなど、日に日に両店の競争は勢いを増し、同じく西友などの北口周辺の店舗にも影響を及ぼすなどして価格競争は激化した|date=2023年7月}}。
サンポーは、テナントの扇屋ジャスコが1978年2月に撤退するも<ref name="megalopolis-satellite-city-1981">『巨大都市近郊における衛星都市の研究』 [[地方自治協会]]、1981年3月。</ref><ref name="jusco-30years-history-200009">ジャスコ株式会社『ジャスコ三十年史』2000年12月20日発行、268頁より。</ref>、入居していたテナント75店舗は売上が好調だった<ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=津田沼で蘇る懐かしい思い出~閉店する津田沼PARCOとともに~ |year=2023年 |publisher=習志野の歴史を語る会 |page=38}}</ref>。しかし、周囲の区画整理事業の事情等が重なり<ref name=":1" />、サンポーは1978年7月に閉館した<ref name=":0" /><ref name="megalopolis-satellite-city-1981" />。閉館後に取り壊され、[[ダイア建設|ダイアパレス]]津田沼となっている<ref name=":1" />。
イトーヨーカ堂と目と鼻の先にあった長崎屋は、{{要出典範囲|わずか2年余りの1978年8月31日で撤退し|date=2023年7月}}、1979年(昭和54年)3月には大塚家具のショールームとなった<ref name="capital-comerce-map-1995">東洋経済新報社,社会調査研究所共同編集 『東洋経済臨時増刊 首都圏商業地図マップ』 [[東洋経済新報社]]、1995年。</ref>。
高島屋は百貨店として規模が小さく、2駅先の船橋駅前には[[西武百貨店|船橋西武]]と[[東武百貨店]]船橋店といった百貨店が立地し、1981年には[[ららぽーとTOKYO-BAY|ららぽーと]]が開業し、さらにはららぽーと内には[[そごう]]が出店するなど、周辺商圏の激しい競合に耐えられず<ref name="tsudanuma-t-nikkei19880122">「NEWS追跡「波乱の撤退劇やっと幕 津田沼高島屋、調整難航の11ヶ月(原文ママ)」」『[[日本経済新聞]]』([[日本経済新聞社]]) 1988年1月22日、夕刊2面。</ref>、業績不振により開店から10年目にあたる1988年(昭和63年)8月に撤退<ref>“津田沼高島屋店きょう閉店”. 毎日新聞 (毎日新聞社): pp. 朝刊 24. (1988年8月28日)</ref>。
西友も、1985年(昭和60年)11月に全フロアから地下の食品売場に売り場縮小し事実上閉店。跡地は津田沼パルコレッツ館(後の津田沼パルコB館)に業態転換した<ref>「セゾンの歴史 下巻 変革のダイナミズム」P471~472 専門店事業の不振と再編 より</ref><ref>西友は2008年12月3日付全国紙の一面広告で「KY(カカクヤスク)でいこう」として西友・イトーヨーカ堂・ジャスコ津田沼各店の価格比較を掲載した。</ref>。
==== 90年代から現在にかけて ====
[[ファイル:AEON Mall Tsudanuma.jpg|サムネイル|左:イオンモール津田沼 右:イトーヨーカドー津田沼店]]
[[ファイル:Mina Tsudanuma.jpg|サムネイル|ミーナ津田沼]]
その後、ダイエーは高島屋の店舗跡にディスカウントストア「エキゾチックタウン」(業態の中身は[[ダイエーグループの商業ブランド#消滅した店舗ブランド|バンドール]])をオープンさせ、スポーツ用品や家電などを幅広く扱い、広範囲から集客する。やがて津田沼周辺が発展していくにつれ、価格競争も次第に収拾していった。価格競争に生き残った両店は、[[1990年代]]前半にはダイエー津田沼店、イトーヨーカドー津田沼店ともに当時全国で一、二を争う売り上げ規模にまで成長したが、ダイエーは急速に業績が悪化し、[[2002年]]にはエキゾチックタウンが閉店。その後、当時ダイエーが目指していたCVC(カテゴリーバリュセンター;直営または外部企業による専門店化)を具体化させるためにリニューアルオープンさせた。
[[2003年]]には[[新津田沼駅]]北側<ref>[[京成電鉄]]津田沼第二車輛工場跡地。経営危機で売却後[[スキーイング津田沼]]となったが閉鎖されて駐車場となっていた。</ref>にイオンが[[ジャスコ|ジャスコ津田沼店]]を核店舗とする大型店イオン津田沼ショッピングセンター(現在の[[イオンモール津田沼]])をオープンさせた。これはサンポーとともに扇屋ジャスコ津田沼店を閉店して以来のオープンとなった。
新京成の線路を挟んでジャスコとイトーヨーカ堂が、[[東日本旅客鉄道|JR]]の線路をはさんでダイエーが立ち並んだ。その後、ダイエーは産業再生機構による経営再建の一環により[[2005年]][[11月30日]]をもって、ダイエー津田沼店は27年間の営業に終止符を打ち閉店する。
北口にあった[[丸井]]は、2007年(平成19年)2月12日に閉店し、同年11月に[[ユニクロ]]が[[キーテナント]]の[[ミーナ (商業施設)#ミーナ津田沼(mina tsudanuma)|ミーナ津田沼]]が同じ場所にオープンした。
ダイエーの閉店以降、大部分が空きテナントとなっていたサンペデックは、日本生命が野村不動産系私募ファンドへ売却後[[イオン (企業)|イオン]]をはじめとし、[[TSUTAYA]]、[[ヤマダデンキ|ヤマダ電機LABI]]、[[日本マクドナルド|マクドナルド]]、[[ブックオフコーポレーション|ブックオフ]]等様々なテナントが入った「[[モリシア津田沼]]」として[[2008年]](平成20年)[[3月13日]]にリニューアルオープンした。
[[2011年]](平成23年)[[3月1日]]にはイオン津田沼ショッピングセンターの核店舗がジャスコ津田沼店からイオン津田沼店へ変更され、同年[[11月21日]]にはイオン津田沼ショッピングセンターからイオンモール津田沼へ名称が変更された。
モリシア向かいにある大規模な土地区画整理事業「奏の杜プロジェクト」用地の一角に2013年(平成25年)4月、[[ベルク (企業)|ベルク]]を中心とした新たな商業施設「奏の杜forte(フォルテ)」が開業した。
1977年(昭和52年)の西友津田沼店の開業から、パルコ地下1階で40年営業してきた西友津田沼パルコ店も、2017年(平成29年)1月31日をもって閉店。跡地は生鮮食品中心の商業施設「つだぬマルシェ」となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ryutsuu.biz/report/j100503.html|title=「津田沼パルコ/目標年商30億円、「つだぬマルシェ」でファミリー層を集客」(2017年10月5日)|accessdate=2019年5月13日|publisher=流通ニュース}}</ref>。
[[2017年]](平成29年)[[8月31日]]、モリシア津田沼に入居していたイオンモリシア津田沼店が閉店。ダイエーに営業権を移譲し、[[9月5日]]にダイエーモリシア津田沼店として、約12年ぶりに津田沼、及び同施設へ再進出することとなった<ref>{{Cite press release|和書|title=『ダイエーモリシア津田沼店』と『ダイエー南砂町スナモ店』のオープンについて|publisher=(株)ダイエー|date=2017-09-01|url=http://www.daiei.co.jp/indexes.php/corporate/release_detail/1301|accessdate= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170908025427/http://www.daiei.co.jp/indexes.php/corporate/release_detail/1301|archivedate=2017-09-08}}</ref><ref>{{Cite news|title=イオン/モリシア津田沼店と南砂町スナモ店、ダイエー店舗にリニューアル|newspaper=流通ニュース|publisher=株式会社ロジスティクス・パートナー|date=2017-09-01|url=https://ryutsuu.biz/strategy/j090124.html|accessdate= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170902134817/https://ryutsuu.biz/strategy/j090124.html|archivedate=2017-09-02}}</ref>。これにより再び新京成の線路を挟んでイオンとイトーヨーカ堂、[[東日本旅客鉄道|JR]]の線路を挟んでダイエーという構図が復活した。
2023年(令和5年)2月28日、津田沼パルコが閉店<ref>{{Cite book|和書 |title=津田沼で蘇る懐かしい思い出~閉店する津田沼PARCOとともに~ |year=2023年 |publisher=習志野の歴史を語る会 |pages=15,24-25}}</ref>。跡地(B館)にリニューアルオープンした商業施設「[[Viit]]」に2023年10月頃を目処に[[ベイシア]]の都市型店舗となる「Beisia Foods Park」を出店することが同年6月に発表された<ref>{{Cite web|和書|title=昔も今もこれからも、街に賑わいを与え続ける津田沼駅前のシンボル「Viit(ビート)」2023年秋全面開業 2023年7月1日(土)より順次オープンする店舗情報<第二弾>発表 |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000115307.html |website=PR TIMES |date=2023-06-28 |access-date=2023-07-17 |author=株式会社津田沼七番館}}</ref>。
{{Clear}}
== 地価 ==
住宅地の地価は、[[2017年]]([[平成]]29年)の[[公示地価]]によれば、津田沼1-7-15の地点で27万7000円/m{{sup|2}}となっている。
習志野市内で最も地価が高い。<ref>[https://www.land.mlit.go.jp/landPrice/AriaServlet?MOD=2&TYP=0 国土交通省地価公示・都道府県地価調査]</ref>
== 世帯数と人口 ==
[[2017年]](平成29年)[[10月31日]]現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population"></ref>。
{| class="wikitable"
![[丁目]]!![[世帯|世帯数]]!![[人口]]
|-
|津田沼一丁目
|style="text-align:right"|673世帯
|style="text-align:right"|1,188人
|-
|津田沼二丁目
|style="text-align:right"|1,679世帯
|style="text-align:right"|3,337人
|-
|津田沼三丁目
|style="text-align:right"|1,949世帯
|style="text-align:right"|3,782人
|-
|津田沼四丁目
|style="text-align:right"|612世帯
|style="text-align:right"|1,212人
|-
|津田沼五丁目
|style="text-align:right"|1,012世帯
|style="text-align:right"|2,010人
|-
|津田沼六丁目
|style="text-align:right"|853世帯
|style="text-align:right"|1,851人
|-
|津田沼七丁目
|style="text-align:right"|1,139世帯
|style="text-align:right"|2,386人
|-
|style="text-align:center"|計
|style="text-align:right"|7,917世帯
|style="text-align:right"|15,766人
|}
== 小・中学校の学区 ==
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref name="school">{{Cite web|和書|url=http://www.city.narashino.lg.jp/kosodate/kyoiku/610120130821155629261.html|title=通学区|publisher=習志野市|date=2016-10-12|accessdate=2017-11-29}}</ref>。
{| class="wikitable"
!丁目!!番地!!小学校!!中学校
|-
||津田沼一丁目||全域||[[習志野市立藤崎小学校]]||rowspan=7|[[習志野市立第五中学校]]
|-
||津田沼二丁目||全域||rowspan=2|[[習志野市立津田沼小学校]]
|-
|rowspan=2|津田沼三丁目||1~12番
|-
||13~23番||習志野市立藤崎小学校
|-
||津田沼四丁目||全域||rowspan=3|習志野市立津田沼小学校
|-
||津田沼五丁目||全域
|-
|rowspan=3|津田沼六丁目||4~14番
|-
||1番||[[習志野市立袖ヶ浦東小学校]]||rowspan=3|[[習志野市立第三中学校]]
|-
||2番・3番||rowspan=2|[[習志野市立袖ヶ浦西小学校]]
|-
|rowspan=2|津田沼七丁目||1番・2番・18番
|-
||3番~17番||習志野市立津田沼小学校||習志野市立第五中学校
|}
== 交通 ==
* [[津田沼駅]] - 駅は[[船橋市]]との境界上に位置し、北口商店街の大部分は船橋市前原西に属する。
* [[京成津田沼駅]]
* [[新津田沼駅]]
== 関連項目 ==
* [[合成地名]]
* [[藤崎台駅]] - 新京成電鉄の廃止された駅。前原駅から京成津田沼駅の間のルートは、開業以来たびたび変遷した。ちなみに「藤崎台」は習志野市藤崎ではなく、船橋市前原の小字名であった。
* [[総武線・京葉線接続新線]] - 京葉線新木場駅から新浦安駅までを複々線化し、同駅から総武線船橋駅を経て津田沼駅に至る計画。現在の所、具体化の兆しはない。
* [[カメレオン (漫画)]] - [[新津田沼駅]]前が度々登場する。
* [[でじぱら]] - 漫画作品。同作には同地区を舞台としている面が多々見受けられる。
* [[ツマヌダ格闘街]] - 漫画作品。同地区をモデルにした妻沼田市が舞台。
* [[劇団ひとり|つっぱり亭津田沼]] - 劇団ひとりが初期に演じた、ツッパリ落語家の団員(キャラクター)。ちなみに劇団ひとりこと、川島省吾は近隣の[[幕張]]出身である。
* [[阪東妻三郎プロダクション|阪妻プロ]] - 谷津海岸に撮影スタジオがあり、津田沼近辺も[[ロケーション撮影|ロケ地]]として使われた。跡地が後の[[谷津遊園]]になる。
* [[仲代達矢]] - 幼少時津田沼に住み、父は[[京成バス]]の運転手であったことを公表している<ref>[[春日太一]]『仲代達矢が語る日本映画黄金時代』PHP新書 2013年2月1日。p.18</ref>。
* [[三遊亭圓生_(6代目)]] - 昭和時代を代表する[[落語]]の大名人。 1979年(昭和54年)9月3日、津田沼駅前の習志野文化ホールで公演中、体調が急変、当日そのまま亡くなった。現在でも時折、話題になる<ref>2011年10月に当地で開かれた「マムちゃん寄席」でも、冒頭で席亭役の[[毒蝮三太夫]]がその件に触れた。</ref>。
* [[白鳥製薬]] - 現在も[[習志野市]]に本拠を置く製薬会社。創業の地は、本来の津田沼(つまり久々田)である。現在も工場が存在。
* [[白鳥製粉]] - [[京成津田沼]]駅から海方向に伸びる、「ワイガヤ通り」に本社工場が存在。オーストラリア・[[タスマニア]]産の[[ソバ]]粉を日本に定着させた存在として有名<ref>[http://globe.asahi.com/breakthrough/100628/01_01.html 朝日新聞GLOBEの記事]</ref><ref>そばの世界を描いた[[マンガ]]『[[そばもん ニッポン蕎麦行脚]]」』の中にも登場する</ref> 。
* [[京成バス習志野出張所]] - 現在も津田沼とかかわりが深いが、一時期、船橋市前原の津田沼十字路の辺りに車庫があった事がわかっている。
* [[習志野市立習志野高等学校]] - 甲子園初制覇時や[[掛布雅之]]在籍時には、津田沼に校舎が存在(正確には鷺沼になる)<ref>「京成らいん」582号インタビュー記事より</ref>。
* [[京葉銀行津田沼支店立てこもり事件]] - 1999年(平成11年)6月11日、津田沼駅南口で起きた立てこもり事件。当時、すぐ隣の現・奏の杜地区はターミナル駅直近にも係わらず広大な畑が広がる地区であった。
* [[谷津船橋インターチェンジ]] - JR津田沼駅から伸びるマロニエ通りからのアクセスが至便なインター。
*丸善
*駿台津田沼校、河合塾津田沼校
== 脚注 ==
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{{習志野市の町名}}
{{DEFAULTSORT:つたぬま}}
[[Category:習志野市の町・字]]
[[Category:合成地名]]
[[Category:津田沼駅]] | 2003-03-07T07:30:34Z | 2023-11-27T00:51:48Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E6%B2%BC |
3,576 | 京成津田沼駅 | 京成津田沼駅(けいせいつだぬまえき)は、千葉県習志野市津田沼三丁目にある京成電鉄・新京成電鉄の駅である。
京成電鉄が業務を行う同社と新京成電鉄の共同使用駅であり、京成電鉄の京成本線、京成千葉線、新京成電鉄の新京成線が乗り入れる。
京成電鉄の京成本線では有料特急を除く全優等列車が停車し、京成千葉線が乗り入れて、新京成電鉄の新京成線と中間改札口を通らずに乗換可能な、京成のターミナル駅である。京成における習志野市の代表駅であり、市役所の最寄駅でもある。同じく「津田沼」を冠するJR東日本の津田沼駅は当駅から徒歩約20分、または京成バスで約5分の場所に位置している。
快速は当駅から成田空港方面は各駅に停車、京成上野方面は快速運転となる。日中は、京成上野方面からの普通列車の半数は当駅で折り返す。京成千葉線の起点であり新京成線の終点であるが、日中は新京成線の半数程度の列車が、当駅を介して京成千葉線へ片乗り入れ直通運転している。朝と夕刻は千葉線から本線京成上野方面へ直通する列車も設定されている。
京成電鉄の京成本線、京成千葉線、新京成電鉄の新京成線が乗り入れて、各々の接続駅となっている。
1921年に京成船橋駅 - 京成千葉駅間が開業し、同時に設置された。本線の成田までの区間に先行して千葉線が開業した。開業当時は総武鉄道であった鉄道省線の津田沼駅は、津田沼町の中心部から離れた位置に設置されたが、当駅は町の中心部に設置された。
島式ホーム3面6線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有する。京成電鉄は駅長配置駅である。京成電鉄と新京成電鉄、両社間の中間改札口は直通運転以前から設置されていない。
跨線橋が2本設置されている。改札口は京成上野・松戸方のみに配しており、京成成田・京成千葉方は乗り換え用通路となる。エスカレーターはホーム東端と跨線橋を、エレベーターはホーム中央と跨線橋を結んでいる。エレベーターのドアの色は京成側が赤、新京成側が青である。北側出入口とコンコースの間にもエレベーターが設置されている。
6線のうち1 - 4番線の2面4線が京成電鉄本線・千葉線、5・6番線の1面2線が新京成電鉄であるが、5番線は日中時間帯に京成千葉線列車も使用している。6番線は京成千葉方に車止めが設置されているため、新京成線内折り返し専用である。
連絡線は一時期ほぼ使用されず、当時は砂利をかぶせていた。当駅南側は「サンロード津田沼」と接続している。当駅に併設して乗務員の出退勤場所である京成電鉄津田沼乗務区が併設されているため、ほとんどの列車は当駅で乗務員が交代する。
発車標は、1 - 4番線が京成、5・6番線が新京成のものを使用している。改札内コンコースにある5・6番線の発車標は、新京成の発車案内に加えて新京成線ホームから発車する京成の発車案内も表示するスペースが加えられている。
京成電鉄は京成本線・千葉線ともに日中を除き同一ホームを使用するため、京成成田方面行と京成千葉方面行の列車は行先で区別する必要がある。
発車標は3・4番線に幕式が設置されていたが、1988年に反転フラップ式案内表示機が5・6番線に設置され、時期は不明だが後々すべてのホームにLED式が設置された。2012年に1 - 4番線の発車標はフルカラーLEDに交換されている。
当駅1-4番線の案内放送は、以前までスカイアクセス開業以前の青砥駅と同一内容が放送されていた。2012年に発車標を更新してフルカラーLED化した際に案内放送も変更され、成田スカイアクセスの駅と同一の内容になった。ただし列車の到着時に乗り換えホームの案内を含む到着放送が流れたり、利用客を別ホームに誘導する放送 が流れたりするのは当駅が京成線内で唯一である。2019年11月現在、京成上野駅や船橋競馬場駅に導入されている英語放送は流れない。 5,6番線では新京成の駅と同一仕様の放送が流れる。こちらでも駅名が放送されるが、乗り換えについては路線名のみ放送され、乗り換えるべき番線は案内されない。
京成上野方に踏切を挟んで引き上げ線があり、京成千葉線の折り返しのほか、日中は本線京成上野方面からの折り返しにも使われている。当駅到着後、京成上野方面へ出発するまでに、3番線到着、引き上げ線、2番線入線、発車と進行方向を3回転換する。
2014年から駅改良工事に着手した。1 - 4番線にエスカレーターを追設し、乗り換え通路を拡幅し、商業スペースを設置した。工事前に構内の売店や飲食店は閉店となる。
2015年2月に券売機と定期券売り場の位置が変更され、5月19日に改札口が有人窓口からウォークインタイプに変更され、10月に京成上野寄り階段にエスカレーターが設置された。
2016年9月30日に東側構内にファミリーマートが開店した。
京成電鉄は2019年頃まで、自社線内に向けた案内で、京成高砂を「高砂」とするなど「京成○○」の正式駅名から「京成」を省略していた が、当駅は「京成」の省略を取りやめる 前からJR津田沼駅と新津田沼駅の乗り換えを容易に区別するため、駅名標や路線図で「京成津田沼」と省略せずに表記されていた。
京成電鉄、芝山鉄道、北総鉄道、千葉ニュータウン鉄道の車両の行先表示器や車内案内表示器では、基本的に「津田沼」と表示していたが、2020年1月以降は一部を除き「京成津田沼」に順次変更されている。一方、新京成電鉄と東京都交通局、京浜急行電鉄の車両ではそれ以前より「京成津田沼」となっているほか、新京成線の車内自動放送でも「京成津田沼」と案内されている。
近年の1日平均乗降・乗車人員推移を下記する。
津田沼の古くからの市街地に近接し、駅前南口から袖ヶ浦団地方面に南下する道路と、市役所方面に東に向かう道路沿いが商店街になっている。
上野寄りに位置する谷津5号踏切は、朝夕のラッシュ時以外も開かずの踏切となる。当駅以西の営業列車本数が多く、さらに新京成線の列車と上野方の引き上げ線に出入りする入れ換え車両が通過するためである。このため、踏切横の歩道には当駅の自由通路の利用を推奨する看板が設置されている。
駅前は、京成電鉄第一整備工場跡地を再開発した複合施設があり、千葉銀行などが入居している。以前は津田沼グランドホテルと称された帝国ホテル系のザ・クレストホテルは、2002年(平成14年)3月末に撤退し、習志野市は2011年の東日本大震災で被害を受けた習志野市役所本庁舎に代わり、2012年10月1日から仮庁舎として一時的に一部部署の機能をホテル跡地に移転した。現在は、新庁舎落成に伴い仮庁舎での業務は終了している。 2014年11月中旬に旧ホテル1階部分で東武ストアが開店した。そして2020年2月1日、幕張が東京オリンピック・パラリンピックの会場となることに合わせて、ザ・クレストホテルの跡地にホテル「ベッセルイン京成津田沼駅前」が開店した。 | [
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"text": "津田沼の古くからの市街地に近接し、駅前南口から袖ヶ浦団地方面に南下する道路と、市役所方面に東に向かう道路沿いが商店街になっている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "上野寄りに位置する谷津5号踏切は、朝夕のラッシュ時以外も開かずの踏切となる。当駅以西の営業列車本数が多く、さらに新京成線の列車と上野方の引き上げ線に出入りする入れ換え車両が通過するためである。このため、踏切横の歩道には当駅の自由通路の利用を推奨する看板が設置されている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "駅前は、京成電鉄第一整備工場跡地を再開発した複合施設があり、千葉銀行などが入居している。以前は津田沼グランドホテルと称された帝国ホテル系のザ・クレストホテルは、2002年(平成14年)3月末に撤退し、習志野市は2011年の東日本大震災で被害を受けた習志野市役所本庁舎に代わり、2012年10月1日から仮庁舎として一時的に一部部署の機能をホテル跡地に移転した。現在は、新庁舎落成に伴い仮庁舎での業務は終了している。 2014年11月中旬に旧ホテル1階部分で東武ストアが開店した。そして2020年2月1日、幕張が東京オリンピック・パラリンピックの会場となることに合わせて、ザ・クレストホテルの跡地にホテル「ベッセルイン京成津田沼駅前」が開店した。",
"title": "駅周辺"
}
] | 京成津田沼駅(けいせいつだぬまえき)は、千葉県習志野市津田沼三丁目にある京成電鉄・新京成電鉄の駅である。 | {{駅情報
|社色 = #1155cc
|文字色 =
|駅名 = 京成津田沼駅
|画像 = Tobu Store Tsudanuma.jpg
|pxl =300
|画像説明 = 南側出入口の複合ビル(2018年7月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = けいせいつだぬま
|ローマ字 = Keisei-Tsudanuma
|電報略号 =
|所属事業者 = 京成電鉄<br />[[新京成電鉄]]
|所在地 = [[千葉県]][[習志野市]][[津田沼]]三丁目1番1号
|所在地幅 = long
|緯度度 = 35 |緯度分 = 41 |緯度秒 = 1 |N(北緯)及びS(南緯) = N
|経度度 = 140 |経度分 = 1 |経度秒 = 28 |E(東経)及びW(西経) = E
|地図国コード = JP
|座標右上表示 = Yes
|開業年月日 = [[1921年]]([[大正]]10年)[[7月17日]]
|廃止年月日 =
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 京成電鉄:2面4線<br />新京成電鉄:1面2線
|乗車人員 =
|乗降人員 = {{Small|(京成電鉄)-2021年-}}<br />50,754人/日<hr />{{Small|(新京成電鉄)-2021年-}}<br />38,162
|統計年度 =
|乗入路線数= 3
|所属路線1 = {{color|#005aaa|■}}[[京成本線]]
|前の駅1 = KS25 [[谷津駅|谷津]]
|駅間A1 = 1.5
|駅間B1 = 2.4
|次の駅1 = [[京成大久保駅|京成大久保]] KS27
|駅番号1 = {{駅番号r|KS|26|#005aaa|4||#005aaa}}
|キロ程1 = 29.7
|起点駅1 = [[京成上野駅|京成上野]]
|所属路線2 = {{color|#005aaa|■}}[[京成千葉線]]*
|前の駅2 =
|駅間A2 =
|駅間B2 = 2.1
|次の駅2 = [[幕張本郷駅|京成幕張本郷]] KS52
|駅番号2 = {{駅番号r|KS|26|#005aaa|4||#005aaa}}
|キロ程2 = 0.0
|起点駅2 = 京成津田沼
|所属路線3 = {{color|#EF59A1|■}}[[新京成電鉄新京成線]]*
|前の駅3 = SL23 [[新津田沼駅|新津田沼]]
|駅間A3 = 1.2
|駅間B3 =
|次の駅3 =
|駅番号3 = {{駅番号r|SL|24|#EF59A1|4||#EF59A1}}
|キロ程3 = 26.5
|起点駅3 = [[松戸駅|松戸]]
|乗換 =
|備考 = [[共同使用駅]](京成電鉄の管轄駅)
|備考全幅 = * 京成千葉線と新京成線は日中の時間帯、一部直通運転を実施
|}}
{|{{Railway line header}}
{{UKrail-header2|<br />京成津田沼駅<br />配線図|#1155cc}}
{{BS-table|配線}}
{{BS-colspan}}
<center>↑[[谷津駅]]/[[新津田沼駅]]→</center>
{{BS6text|1|2|3|4|5|6||}}
{{BS6||STRg|STRf||||||}}
{{BS6||STR|STRl|STR+r|||||}}
{{BS6||STR|ENDEa|STR|||||}}
{{BS6|STR+l|ABZgr|STR|STR|STR+l|STRq|||}}
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{{BS6|STR|STR|ABZg+l|ABZgr|ABZgl|STR+r|||}}
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{{BS6|STRl|STRq|STRq|KRZo|KRZo|STRq|}}
{{BS-colspan}}
{{center|↓[[幕張本郷駅|京成幕張本郷駅]]/[[京成大久保駅]]→}}
|}<ref>{{PDFlink|[http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/stationmap/pdf/jp/127.pdf 京成電鉄ホームページ(駅構内図)]}}</ref>
|}{{maplink2|frame=yes|type=point|type2=point|type3=point|zoom=14|frame-width=250|marker=rail|marker2=rail|marker3=rail|marker-color=0067c0|marker-color2=EF59A1|marker-color3=005aaa|coord={{coord|35|41|28|N|140|1|14|E}}|title=津田沼駅|coord2={{coord|35|41|24.8|N|140|1|25|E}}|title2=新津田沼駅|coord3={{coord|35|41|1|N|140|1|28|E}}|title3=京成津田沼駅|frame-latitude=35.687327|frame-longitude=140.022977|text=上から津田沼駅、新津田沼駅、京成津田沼駅}}
'''京成津田沼駅'''(けいせいつだぬまえき)は、[[千葉県]][[習志野市]][[津田沼]]三丁目にある[[京成電鉄]]・[[新京成電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]である。
== 概要 ==
[[京成電鉄]]が業務を行う同社と[[新京成電鉄]]の[[共同使用駅]]であり、京成電鉄の[[京成本線]]、[[京成千葉線]]、新京成電鉄の[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]が乗り入れる。
京成電鉄の京成本線では有料特急を除く全[[優等列車]]が停車し、京成千葉線が乗り入れて、新京成電鉄の新京成線と中間[[改札|改札口]]を通らずに乗換可能な、京成の[[ターミナル駅]]である<ref>{{Cite web|和書|title=京成津田沼駅|publisher=京成電鉄|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/keisei-tsudanuma.php|website=www.keisei.co.jp|accessdate=2019-04-03}}</ref>。京成における[[習志野市]]の代表駅であり、市役所の最寄駅でもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.narashino.lg.jp/shisetu/shi/shi.html|title=市役所庁舎案内|publisher=習志野市|accessdate=2019-12-28}}</ref>。同じく「津田沼」を冠するJR東日本の[[津田沼駅]]は当駅から徒歩約20分、または京成バスで約5分の場所に位置している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/keisei-tsudanuma.php|title=京成津田沼駅|website=京成電鉄|accessdate=2019-07-28}}</ref>。
快速は当駅から[[成田空港駅|成田空港]]方面は各駅に停車、京成上野方面は快速運転となる。日中は、[[京成上野駅|京成上野]]方面からの[[普通列車]]の半数は当駅で折り返す。京成千葉線の起点であり新京成線の終点であるが、日中は新京成線の半数程度の列車が、当駅を介して京成千葉線へ片乗り入れ直通運転している<ref>[http://www.shinkeisei.co.jp/old/topics/2006/060.html 京成電鉄千葉線への乗り入れに伴うダイヤ改正について] - 新京成電鉄 バックナンバー</ref>。朝と夕刻は千葉線から本線京成上野方面へ直通する列車も設定されている。
== 乗り入れ路線 ==
京成電鉄の京成本線、京成千葉線、新京成電鉄の新京成線が乗り入れて、各々の接続駅となっている。
* [[ファイル:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線:京成上野駅と[[成田空港駅]]間を[[京成船橋駅]]経由で結ぶ、京成電鉄の鉄道路線である。 - 駅番号「'''KS26'''」
* [[ファイル:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成千葉線:当駅と[[千葉中央駅]]を結ぶ、京成電鉄の鉄道路線である。 - 駅番号「'''KS26'''」
* [[ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg|15px|SL]] 新京成線:[[松戸駅]]と当駅を結ぶ新京成電鉄の鉄道路線である。- 駅番号「'''SL24'''」
== 歴史 ==
[[1921年]]に[[京成船橋駅]] - [[千葉中央駅|京成千葉駅]]間が開業し、同時に設置された。本線の[[京成成田駅|成田]]までの区間に先行して千葉線が開業した。開業当時は[[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]であった[[鉄道省]]線の[[津田沼駅]]は、[[習志野市|津田沼町]]の中心部<ref group="注">当駅から[[国道14号]]に向かって伸びる道路(現・ワイガヤ通り)の周辺が中心部であった。</ref>から離れた位置に設置されたが、当駅は町の中心部に設置された。
=== 年表 ===
* [[1921年]]([[大正]]10年)[[7月17日]] - 京成電気軌道の津田沼駅として開業する<ref name="ryokochizucho3">[[日本鉄道旅行地図帳]]3号 関東1([[今尾恵介]] 監修 [[新潮社]] 2008年7月18日発行 ISBN 9784107900210 )37頁</ref>。
* [[1926年]](大正15年)[[12月9日]] - 津田沼 - [[京成酒々井駅|酒々井]]間が開業する<ref name="ryokochizucho3"/>。
* [[1931年]]([[昭和]]6年)[[11月18日]] - '''京成津田沼駅'''に改称する<ref name="ryokochizucho3"/>。
* [[1950年]](昭和25年)[[10月28日]] - 改札係の不当解雇を糾弾する労働者のデモ隊がホームを占拠。駆け付けた警官隊に向けて投石をはじめ乱闘状態となった<ref>「デモ隊、駅で大暴れ 京成津田沼で二十七名を検挙」『日本経済新聞』昭和25年10月29日2面</ref>。
* [[1953年]](昭和28年)[[11月1日]] - 新京成電鉄の駅が開業する。当初は京成ホームから発着した<ref name="keiseikonjyaku">JTBキャンブックス『京成の駅 今昔・昭和の面影』([[石本祐吉]]・著 2014年2月1日初版発行)95-97頁</ref>。
* [[1955年]](昭和30年)[[4月21日]] - 新京成線の全線開業に伴い京成千葉線へ直通運転を開始し、9月1日で廃止した。
* [[1957年]](昭和32年)[[10月15日]] - 構内改良工事(3面5線化)完成により新京成発着用として5番線を使用開始する。
* [[1968年]](昭和43年)- 本線・千葉線のホームを方向別に改築、新京成線の6番線を新設、3面6線に拡張する<ref name="keiseikonjyaku"/>。
* 1968年(昭和43年)11月 - 橋上駅舎化。同時に谷津方に[[引き上げ線]]を新設<ref name="keiseikonjyaku"/>。
* [[2006年]]([[平成]]18年)[[12月10日]] - 新京成線が京成千葉線に片乗り入れを開始する。
* [[2014年]](平成26年) - 駅舎耐震補強及び駅舎改良工事に着手する。
* [[2016年]](平成28年)[[4月12日]] - 駅舎耐震補強及び駅舎改良工事が完了する<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/160412_01.pdf |title=京成津田沼駅 駅舎耐震補強及び 駅舎改良工事が完了しました |access-date=2023-12-11}}</ref>。
== 駅構造 ==
{{出典の明記| date = 2011年1月| section = 1}}
[[島式ホーム]]3面6線を持つ[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有する。京成電鉄は[[駅長]]配置駅である。京成電鉄と新京成電鉄、両社間の中間[[改札|改札口]]は直通運転以前から設置されていない。
[[跨線橋]]が2本設置されている。改札口は京成上野・[[松戸駅|松戸]]方のみに配しており、京成成田・[[京成千葉駅|京成千葉]]方は乗り換え用通路となる。[[エスカレーター]]はホーム東端と跨線橋を、[[エレベーター]]はホーム中央と跨線橋を結んでいる。エレベーターのドアの色は京成側が赤、新京成側が青である。北側出入口と[[コンコース]]の間にもエレベーターが設置されている。
6線のうち1 - 4番線の2面4線が京成電鉄本線・千葉線、5・6番線の1面2線が新京成電鉄であるが、5番線は日中時間帯に京成千葉線列車も使用している。6番線は京成千葉方に[[車止め]]が設置されているため、新京成線内折り返し専用である。
連絡線は一時期ほぼ使用されず、当時は砂利をかぶせていた。当駅南側は「サンロード津田沼」と接続している。当駅に併設して乗務員の出退勤場所である京成電鉄津田沼乗務区が併設されているため、ほとんどの列車は当駅で[[乗務員]]が交代する。
=== 発車標 ===
[[発車標]]は、1 - 4番線が京成、5・6番線が新京成のものを使用している。改札内コンコースにある5・6番線の[[発車標]]は、新京成の発車案内に加えて新京成線ホームから発車する京成の発車案内も表示するスペースが加えられている。
京成電鉄は京成本線・千葉線ともに日中を除き同一ホームを使用するため、京成成田方面行と京成千葉方面行の列車は行先で区別する必要がある。
発車標は3・4番線に幕式が設置されていたが、[[1988年]]に[[反転フラップ式案内表示機]]が5・6番線に設置され、時期は不明だが後々すべてのホームに[[発光ダイオード|LED]]式が設置された。[[2012年]]に1 - 4番線の発車標はフルカラーLEDに交換されている。
=== 案内放送 ===
当駅1-4番線の案内放送は、以前までスカイアクセス開業以前の[[青砥駅]]と同一内容が放送されていた。2012年に発車標を更新してフルカラーLED化した際に案内放送も変更され、[[京成成田空港線|成田スカイアクセス]]の駅と同一の内容になった。ただし列車の到着時に乗り換えホームの案内を含む到着放送が流れたり、利用客を別ホームに誘導する放送<ref group="注">千葉線の電車が5番線から発車する時間に、千葉線の利用客を誘導するため放送される。</ref> が流れたりするのは当駅が京成線内で唯一である<ref group="注">到着放送は[[京成成田駅]]でも流れるが、そちらでは駅名が読まれるものの乗り換え案内は流れない。</ref>。2019年11月現在、[[京成上野駅]]や[[船橋競馬場駅]]に導入されている英語放送は流れない。
5,6番線では新京成の駅と同一仕様の放送が流れる。こちらでも駅名が放送されるが、乗り換えについては路線名のみ放送され、乗り換えるべき番線は案内されない。
=== 引き上げ線 ===
京成上野方に[[踏切]]を挟んで[[引き上げ線]]があり、京成千葉線の折り返しのほか、日中は本線京成上野方面からの折り返しにも使われている。当駅到着後、京成上野方面へ出発するまでに、3番線到着、引き上げ線、2番線入線、発車と進行方向を3回転換する。
=== 駅改良工事 ===
[[2014年]]から駅改良工事に着手した。1 - 4番線にエスカレーターを追設し、乗り換え通路を拡幅し、商業スペースを設置した。工事前に構内の売店や飲食店は閉店となる。
[[2015年]]2月に券売機と定期券売り場の位置が変更され、5月19日に改札口が有人窓口からウォークインタイプに変更され、10月に京成上野寄り階段にエスカレーターが設置された。
[[2016年]]4月に駅舎耐震補強及び駅舎改良工事が完了する<ref name=":0" />。
[[2016年]]9月30日に駅構内売店から転換した[[ファミリーマート]]が開店した<ref>{{Cite web |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/160929_01.pdf |title=京成線の駅構内売店をファミリーマートに転換(第4弾) |access-date=2023-12-11}}</ref>。
=== のりば ===
<!-- 2018年5月時点での新サインシステムに基づいたホームの案内標の表記に準拠 -->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!事業者!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
!1・2
|rowspan="4"|京成電鉄
|rowspan="2"|[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線
|style="text-align:center"|上り
|[[京成船橋駅|京成船橋]]・[[日暮里駅|日暮里]]・[[京成上野駅|京成上野]]・[[押上駅|押上]]・[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]方面
|
|-
!rowspan="2"|3・4
|rowspan="3" style="text-align:center"|下り
|[[八千代台駅|八千代台]]・[[京成成田駅|京成成田]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[成田空港駅|成田空港]]方面
|
|-
|rowspan="2"|[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 千葉線
|rowspan="2"|[[京成千葉駅|京成千葉]]・[[ちはら台駅|ちはら台]]方面
|日中以外
|-
!rowspan="2"|5
|日中のみ
|-
|rowspan="2"|新京成電鉄
|rowspan="2"|[[ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg|15px|SL]] 新京成線
|rowspan="2" style="text-align:center"|上り
|rowspan="2"|[[北習志野駅|北習志野]]・[[新鎌ヶ谷駅|新鎌ヶ谷]]・[[八柱駅|八柱]]・[[松戸駅|松戸]]方面
|
|-
!6
|始発のみ
|}
*京成本線は、2・4番線が主本線、1・3番線が[[待避駅|待避線]]である。
*当駅折り返しの列車は千葉線の日中の列車を除き、2・3番線を使用する。
*千葉線は、始発のみが3番線を使用する。
=== ギャラリー ===
<gallery perrow="8" widths="200">
ファイル:Keisei-tsudanuma-south-entrance.jpg|南側出入口(2007年)
ファイル:Keisei-Tsudanuma-Sta-Gate.JPG|改札口(2018年)
ファイル:Keisei-tsudanumastakaisatsu.jpg|駅改良工事前の改札口(2008年)
ファイル:Keisei-Tsudanuma-STA Home-3-4.jpg|京成線ホーム(2021年)
ファイル:Keisei-Tsudanuma-STA Home-5-6.jpg|新京成線ホーム(2021年)
ファイル:Keiseitudanumaeki2.jpg|[[大正]]時代に造られた[[煉瓦|レンガ]]橋(2006年)
</gallery>
=== 呼称について ===
京成電鉄は2019年頃まで、自社線内に向けた案内で、[[京成高砂駅|京成高砂]]を「高砂」とするなど「京成○○」の正式駅名から「京成」を省略していた<ref name="map">{{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/ir/library/dl/presentation/2019_e4-plan.pdf 京成グループ中期経営計画E4プラン(2019-2021年度)]}}</ref> が、当駅は「京成」の省略を取りやめる<ref>{{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/quality/image/01.pdf 京成グループ要覧2019]}}</ref> 前からJR[[津田沼駅]]と[[新津田沼駅]]の乗り換えを容易に区別するため、[[駅名標]]や[[路線図]]で「'''京成津田沼'''」と省略せずに表記されていた<ref name="map" />。
京成電鉄、[[芝山鉄道]]、[[北総鉄道]]、[[千葉ニュータウン鉄道]]の車両の[[方向幕|行先表示器]]や[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]では、基本的に「津田沼」と表示していたが、2020年1月以降は一部を除き「京成津田沼」に順次変更されている。一方、新京成電鉄と[[東京都交通局]]、[[京浜急行電鉄]]の車両ではそれ以前より「京成津田沼」となっているほか、新京成線の車内自動放送でも「京成津田沼」と案内されている。
<gallery perrow="8" widths="200">
ファイル:Keisei Tsudanuma signboard.jpg|5番線駅名標 新京成仕様(幕張本郷方は京成の路線色で表示・京成の駅番号も記載<ref group="注">この駅名標では、隣駅の京成幕張本郷駅は「京成」の冠を省略している。</ref>)
ファイル:Keisei-Tsudanuma(SL-24,KS-26).jpg|5番線旧駅名標 新京成仕様(京成の駅番号も記載)
</gallery>
== 利用状況 ==
* '''京成電鉄''' - 2021年度の1日平均[[乗降人員]]は'''50,754人'''<ref name="keiseijoko">[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/people_top.html 駅別乗降人員(2021年度1日平均)]、京成電鉄ホームページ、2022年5月21日閲覧</ref> で、京成線内69駅中第5位である。新京成電鉄との直通人員を含む。
* '''新京成電鉄''' - 2021年度の1日平均乗降人員は'''38,162人'''<ref name="shinkeiseijoko">[http://www.shinkeisei.co.jp/station/navi_keiseitsudanuma/ 駅地図・駅情報 京成津田沼駅]、新京成電鉄ホームページ、2021年8月30日閲覧</ref> で、新京成線24駅中第3位である。京成電鉄との直通人員を含む。
近年の1日平均乗降・乗車人員推移を下記する。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
!rowspan="2"|年度
!colspan="2"|京成電鉄
!colspan="2"|新京成電鉄
|-
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref name="chiba-toukei">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑]</ref>
!1日平均<br />乗降人員
!1日平均<br />乗車人員<ref name="chiba-toukei" />
|-
|1998年(平成10年)
|
|<ref name="toukei1998">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/111n_3.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、千葉県統計年鑑(平成11年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 24,867
|
|<ref name="toukei1998" /> 19,049
|-
|1999年(平成11年)
|
|<ref name="toukei1999">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況] - 千葉県統計年鑑(平成12年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 24,286
|
|<ref name="toukei1999" /> 18,681
|-
|2000年(平成12年)
|
|<ref name="toukei2000">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、千葉県統計年鑑(平成13年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 23,663
|
|<ref name="toukei2000" /> 18,213
|-
|2001年(平成13年)
|
|<ref name="toukei2001">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、千葉県統計年鑑(平成14年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 23,513
|
|<ref name="toukei2001" /> 18,123
|-
|2002年(平成14年)
|
|<ref name="toukei2002">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、千葉県統計年鑑(平成15年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 23,079
|
|<ref name="toukei2002" /> 18,193
|-
|2003年(平成15年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0411/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成15年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 47,128
|<ref name="toukei2003">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、千葉県統計年鑑(平成16年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 23,296
|
|<ref name="toukei2003"/> 18,693
|-
|2004年(平成16年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0511/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成16年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 47,291
|<ref name="toukei2004">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、千葉県統計年鑑(平成17年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 23,360
|
|<ref name="toukei2004" /> 19,046
|-
|2005年(平成17年)
|<ref>[http://www.train-media.net/report/0611/keisei.pdf 京成電鉄]、平成17年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 47,234
|<ref name="toukei2005">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/111n_2.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、千葉県統計年鑑(平成18年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 23,345
|
|<ref name="toukei2005" /> 19,542
|-
|2006年(平成18年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0711/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成18年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 47,721
|<ref name="toukei2006">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/111n_1.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、千葉県統計年鑑(平成19年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 23,598
|
|<ref name="toukei2006" /> 20,066
|-
|2007年(平成19年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0811/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成19年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 50,840
|<ref name="toukei2007">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、千葉県統計年鑑(平成20年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 25,277
|
|<ref name="toukei2007" /> 20,694
|-
|2008年(平成20年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0910/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成20年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 52,266
|<ref name="toukei2008">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、千葉県統計年鑑(平成21年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 26,092
|
|<ref name="toukei2008" /> 20,925
|-
|2009年(平成21年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/1010/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成21年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 53,119
|<ref name="toukei2009">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、千葉県統計年鑑(平成22年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 26,538
|
|<ref name="toukei2009" /> 20,915
|-
|2010年(平成22年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/1110/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成22年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 53,983
|<ref name="toukei2010">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、千葉県統計年鑑(平成23年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 26,994
|
|<ref name="toukei2010" /> 20,990
|-
|2011年(平成23年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/1210/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成23年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 52,619
|<ref name="toukei2011">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、千葉県統計年鑑(平成24年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref> 26,257
|
|<ref name="toukei2011" /> 20,251
|-
|2012年(平成24年)
|54,144
|27,060
|
|20,957
|-
|2013年(平成25年)
|56,037
|28,023
|43,346
|21,503
|-
|2014年(平成26年)
|56,213
|28,139
|43,195
|21,508
|-
|2015年(平成27年)
|57,452
|28,750
|43,859
|21,824
|-
|2016年(平成28年)
|58,518
|29,271
|44,244
|22,045
|-
|2017年(平成29年)
|59,560
|29,810
|45,151
|22,517
|-
|2018年(平成30年)
|60,416
|30,236
|45,411
|22,644
|-
|2019年(令和元年)
|60,394
|30,245
|45,132
|22,514
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|46,398
|23,262
|35,374
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|50,754
|25,470
|38,162
|
|}
== 駅周辺 ==
{{main|津田沼}}
[[津田沼]]の古くからの市街地に近接し、駅前南口から袖ヶ浦団地方面に南下する道路と、市役所方面に東に向かう道路沿いが[[商店街]]になっている。
上野寄りに位置する谷津5号[[踏切]]は、朝夕の[[ラッシュ時]]以外も[[開かずの踏切]]となる。当駅以西の営業列車本数が多く、さらに新京成線の列車と上野方の引き上げ線に出入りする入れ換え車両が通過するためである。このため、踏切横の歩道には当駅の自由通路の利用を推奨する看板が設置されている。
駅前は、京成電鉄第一整備工場跡地を再開発した複合施設があり、[[千葉銀行]]などが入居している。以前は津田沼グランドホテルと称された[[帝国ホテル]]系のザ・クレストホテルは、[[2002年]](平成14年)3月末に撤退し<ref>習志野市議会、「習志野市議会 定例会会議録」(平成14年第3回)、2002年、Page114</ref>、習志野市は[[2011年]]の[[東日本大震災]]で被害を受けた[[習志野市役所]]本庁舎に代わり、[[2012年]]10月1日から仮庁舎として一時的に一部部署の機能をホテル跡地に移転した<ref>{{PDFlink|[https://www.city.narashino.lg.jp/koho/H24.files/ko240901.pdf 広報習志野 平成24年9月1日号]}}、習志野市、2012年、Page2,3、2014年5月11日閲覧</ref>。現在は、新庁舎落成に伴い仮庁舎での業務は終了している。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.narashino.lg.jp/joho/koho/koho/H29.files/ko290415.pdf|title=広報習志野 平成29年4月15日号|accessdate=2019年11月10日|publisher=習志野市}}</ref> 2014年11月中旬に旧ホテル1階部分で[[東武ストア]]が開店した<ref>[https://disclosure.edinet-fsa.go.jp/E01EW/download?1399777994610&uji.bean=ee.bean.parent.EECommonSearchBean&uji.verb=W0EZA104CXP001003Action&SESSIONKEY=1399777994207&s=S000DG0C 有価証券報告書-第67期(平成24年3月1日-平成25年2月28日)]、東武ストア株式会社、2013年、Page8、2014年5月11日閲覧</ref>。そして[[2020年]][[2月1日]]、幕張が[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会|東京オリンピック・パラリンピック]]の会場となることに合わせて、ザ・クレストホテルの跡地にホテル「ベッセルイン京成津田沼駅前」が開店した<ref group="注">しかしながら、その後オリンピックは1年延期されることとなった。</ref>。
=== 名勝・旧跡など ===
* [[菊田神社]]
* [[東漸寺 (習志野市)|東漸寺]]
=== 公共施設 ===
* [[習志野市役所]]
* 習志野市中央消防署
* [[習志野警察署]]京成津田沼駅前交番
=== 文教施設など ===
* [[千葉工業大学]]津田沼校舎
* [[習志野市立津田沼小学校]]
* 習志野市立津田沼幼稚園
* 習志野市立菊田保育所
* 習志野市立菊田第二保育所
=== 郵便局 ===
* 習志野津田沼郵便局
* [[習志野郵便局]]
** [[ゆうちょ銀行]]習志野店
=== 公園など ===
* 久々田公園
== バス路線 ==
{|class="wikitable"
!のりば!!系統!!主要経由地!!行先!!運行会社!!備考
|-
| rowspan="9" |京成津田沼駅|| rowspan="2" |津62||大久保団地・[[京成大久保駅|京成大久保駅南口]]||[[幕張本郷駅]]|| rowspan="4" |[[京成バス]]||
|-
|大久保団地・京成大久保駅南口・幕張本郷駅
|幕張西五丁目
|
|-
|津65
|大久保団地
|京成大久保駅南口
|
|-
|津61<br />津62
津65
| ||[[津田沼駅]]||京成津田沼駅入口にも停車
|-
|[[リムジンバス]]|| ||[[東京国際空港|羽田空港]]||京成バス<br />[[東京空港交通]]||
|-
|夜行高速バス[[やまと号]]||[[天理駅]]・[[奈良駅]]||[[大和西大寺駅]]南口||京成バス<br />[[奈良交通]]||
|-
|高速バス||[[富士急ハイランド]]||[[河口湖駅]]|| rowspan="2" |京成バス<br />[[フジエクスプレス]]||
|-
|高速バス||(直行)||[[御殿場プレミアム・アウトレット]]||
|-
|海浜ルート||香澄三丁目・団地中央・[[新習志野駅]]||海浜公園
|[[習志野市ハッピーバス]]<br />(京成バス)||
|-
| rowspan="6" |京成津田沼駅入口||津41||袖ヶ浦団地入口・[[習志野市立第三中学校|第三中学校]]||袖ヶ浦団地|| rowspan="5" |京成バス||
|-
|津42||袖ヶ浦団地入口・第三中学校・団地中央||[[千葉県立津田沼高等学校|津田沼高校]]||平日深夜のみ
|-
|津46||袖ヶ浦団地入口・秋津運動公園・新習志野駅・[[イオンモール幕張新都心]]||[[幕張メッセ]]中央||平日3本のみ
|-
|津52||袖ヶ浦団地入口・津田沼高校・臨海工業団地||新習志野駅|| rowspan="2" |平日朝のみ
|-
|津54
|袖ヶ浦団地入口・津田沼高校・臨海工業団地・新習志野駅
|新都心営業所
|-
|内陸ルート||津田沼一丁目・[[習志野市立第五中学校|第五中学校]]・[[習志野市立藤崎小学校|藤崎小学校]]||京成津田沼駅
|[[習志野市ハッピーバス]]<br />(京成バス)||
|}
== 隣の駅 ==
; 京成電鉄
: [[ファイル:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 本線
:: {{Color|#049c5e|■}}快速特急・{{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#21ade5|■}}通勤特急
::: [[京成船橋駅]] (KS22) - '''京成津田沼駅 (KS26)''' - [[八千代台駅]] (KS29)
:: {{Color|#ee86a1|■}}快速(京成大久保方当駅から各駅に停車)
::: [[船橋競馬場駅]] (KS24) - '''京成津田沼駅 (KS26)''' - [[京成大久保駅]] (KS27)
:: {{Color|#595757|■}}普通
::: [[谷津駅]] (KS25) - '''京成津田沼駅 (KS26)''' - 京成大久保駅 (KS27) / [[幕張本郷駅|京成幕張本郷駅]](京成千葉線:日中以外)(KS52)
: [[ファイル:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 千葉線
:: {{Color|#595757|■}}普通
::: '''京成津田沼駅 (KS26)''' - 京成幕張本郷駅 (KS52)
::
:
; 新京成電鉄
: [[ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg|15px|SL]] 新京成線
::: 新津田沼駅 (SL23) - '''京成津田沼駅 (SL24)'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{notelist2}}
===出典===
{{Reflist|2}}
; 私鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; 私鉄の統計データ
{{Reflist|group="乗降データ"}}
; 千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="千葉県統計"|16em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Keisei Tsudanuma Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/keisei-tsudanuma.php 京成津田沼駅|電車と駅の情報|京成電鉄]
* {{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/stationmap/pdf/jp/127.pdf 京成電鉄 京成津田沼駅]}}
* [https://www.shinkeisei.co.jp/train/station/keiseitsudanuma/ 新京成電鉄 京成津田沼駅]
{{京成本線}}
{{京成千葉線}}
{{新京成線}}
{{DEFAULTSORT:けいせいつたぬま}}
[[Category:千葉県の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 け|いせいつたぬま]]
[[Category:京成電鉄の鉄道駅]]
[[Category:新京成電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1921年開業の鉄道駅]]
[[Category:習志野市の交通|けいせいつたぬまえき]]
[[Category:習志野市の建築物]] | 2003-03-07T07:31:20Z | 2023-12-10T15:50:29Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%88%90%E6%B4%A5%E7%94%B0%E6%B2%BC%E9%A7%85 |
3,577 | 新京成電鉄新京成線 | 新京成線(しんけいせいせん)は、千葉県松戸市の松戸駅と千葉県習志野市の京成津田沼駅を結ぶ、新京成電鉄が経営する鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSL。
国土交通省監修『鉄道要覧』では京成津田沼駅が起点・松戸駅が終点だが、案内・運行上は松戸方面行きを「上り」、京成津田沼方面行きを「下り」としている。台地の分水嶺に沿ったルート(小金牧の区域内)をとっており、トンネルや水域を渡る橋が1つも存在しない。
全て6両編成の普通列車(各駅停車)で、京成津田沼駅 - 松戸駅間の全線通し運転を基本とする。朝晩に車両基地(本社)のあるくぬぎ山駅発着の列車があり、朝ラッシュ時には新津田沼駅折り返し列車がある。一部の列車は京成千葉線千葉中央駅まで直通運転する(後述)。また、深夜に松戸発新津田沼行きが運行され、その列車は新津田沼駅で夜間停泊後、翌日の新津田沼始発京成津田沼行き初電として運行される。
2014年までは8両編成の列車も運行されていたほか、かつてはラッシュ時を中心に京成津田沼駅 - 鎌ヶ谷大仏駅間や新津田沼駅 - 高根公団駅間の区間列車も設定されていた。
朝のラッシュ時は京成津田沼駅 - 新津田沼駅間が単線のため9分間隔で、他の区間が4分半間隔、夕方のラッシュ時は8分間隔で運転しており、日中でも10分間隔で運転と郊外路線ながら本数が多い。日中に関しては一部を除き接続する東京直通路線よりも本数が多いほどである。これは駅間距離の短さも手伝って日中の生活需要も大きいためである。一方、長い区間を乗車する旅客が少ないことなどから、急行運転を行う予定はない。
車両については「新京成電鉄#車両」を参照。
全通した1955年に実施したものの、同年中に取りやめて以来長らく実施してこなかった京成千葉線への直通運転を2006年12月10日に再開した。2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)発生後しばらく休止されていたが、同年6月27日に再開されている。
2021年11月時点で、乗り入れは8900形および80000形以外の新京成電鉄の車両により行われていて、全て6両編成で運行されている。運行区間は全列車とも松戸駅 - 京成津田沼駅 - 千葉中央駅間で、新京成線や京成千葉線の途中駅止まりの列車は運行されていない。将来は京成電鉄の車両による相互乗り入れや運行時間の拡大、千葉中央駅で接続する京成千原線への乗り入れ区間拡大も検討している。
直通運転はラッシュ時には行っていない。2012年10月21日改正のダイヤでは、松戸駅発車時刻で平日は午前8時42分から午後3時40分まで、土曜・休日は午前6時20分から午後4時40分まで運転している。なおこの時間帯は、一部を除いて京成津田沼駅始発・終着の新京成線の列車が同駅の6番線から発着するところ、同駅始発・終着の京成千葉線の千葉中央・ちはら台方面の列車の多くは同一ホーム上の5番線から発着し、乗り換えの便宜を図っている。他方、直通運転が行われていない時間帯は、5・6番線とも新京成線の列車の発着に使用されることが多く、京成千葉線の列車は2番線に到着し、3・4番線から発車する。
使用される方向幕は全車英字入りとなっており、新京成線内では行先のみ、京成千葉線内では「普通」表示の付いた行先表示となる。表示変更は京成津田沼駅での停車中に行われる。
乗り入れ再開時には、沿線から千葉市方面への乗客誘致をアピールするため、乗り入れ対応編成の一部に「Chiba」をあしらったステッカーを車体に貼付けするとともに、車内ドア上部には「matsudo to CHIBA 06.12.10」(後に単に「matsudo to CHIBA」に変わった)というキャッチフレーズも添えられた。
本路線大半の区間は旧日本陸軍鉄道連隊が演習用に敷設した軌道敷(鉄道連隊演習線松戸線)であり、第二次世界大戦後の京成電鉄への払い下げを経て民間利用されているものである。
第二次世界大戦での日本の降伏後、鉄道連隊は解散した。鉄道連隊演習線のレールは西武鉄道に払い下げられたが、軌道敷はそのまま残されていたことから、西武鉄道と京成電鉄は早くからこれに着目していた。鉄道連隊の旧軍人を入社させた両社は、日本の占領統治を担う連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に鉄道敷設のための使用許可を働きかけた。最終的に陳情合戦は営業基盤を千葉県内に持つ京成電鉄が制し、1946年(昭和21年)3月に軌道敷使用が認可された(正式な払下げは1955年)。この背景には、京成電鉄に入社した旧鉄道連隊の椎名三郎陸軍大尉とその元上官だった鎌田銓一陸軍少将の存在が大きかったといわれている。鎌田少将は太平洋戦争以前にアメリカの陸軍士官学校に留学経験があり、その際に上級生に、GHQのトップに就いたダグラス・マッカーサー元帥がいたことから戦後はGHQの首席接待委員となり、いわゆる鎌田機関を組織。「鎌田を通さなければマッカーサーには会えない」と言われるほどの影響力を持っていたという。
京成電鉄は同年10月に子会社として新京成電鉄を設立した。1947年(昭和22年)1月に開始された工事は、新たな資材の入手が困難であったため、県外に足を延ばして規格の異なる古資材をかき集めて行われた。
開業直前にGHQが旧軍用線の復活を懸念し一時は開業が危ぶまれたが、新京成電鉄幹部の説得により、予定通り1947年(昭和22年)12月27日に新津田沼駅 - 薬園台駅間を軌間1,067 mmで開業している。
演習線は規定の線路延長(45 km)を確保することと、様々な状況での路線敷設演習のために急曲線が多数介在する屈曲線形で、旅客線開業時に可能な限り直線化を図るも現在なお良好な線形でない。移動距離に比して道程が長く、津田沼駅 - 松戸駅間は直線距離約16 kmに対し道程26.5 kmである。演習線軌間は600 mmと極端に狭隘()だったが京成電鉄払い下げ時に1,067 mm(3フィート6インチ)へ改軌される。当時の地方鉄道法では「地方鉄道ノ軌間ハ1.067メートルトス特別ノ場合ニ在リテハ1.435メートル又ハ0.762メートルト為スコトヲ得」とあり、軌間1,372 mmでの建設が認められなかったため、親会社の京成電鉄準拠の軌間1,372 mmは許可されず、1,067 mmに設定している。
払い下げ以後、新津田沼側から延伸し、建設資金不足から一時期は常磐線松戸駅までの全通を諦めて初富駅 - 松戸駅間にバスを運行するも、三菱電機の支援で敷設工事を再開して松戸駅まで全通する。なお、松戸駅 - 上本郷駅間は旧軍用線ではなく、全くの新線であるため、台地を切り崩す工事が行われた。切り崩しで生じた残土を利用して平潟土地整理事業がなされた。開業当初、開発が進んでいない沿線付近は雨や霜解けでぬかるむ道路を駅まで歩き革靴やハイヒールへ履き替える乗客が多く、松戸駅延伸開業時は各駅に下駄箱設置もみられた。
全通は地域の人々から暖かく迎えられ、数々の恩恵を受け、近所の農家から赤飯や餅、夕飯のおかず等の差し入れが度々あったという。
古くは松戸新田駅やみのり台駅などの5駅が小さな駅舎で一人勤務のワンマンボックス駅(畳一帖未満の小さな建物)だった。
1953年(昭和28年)10月、全線の軌間を1,372 mmへ、1959年(昭和34年)8月に1,435 mmへ改軌する。親会社の京成電鉄よりも早期の改軌で、京成電鉄の改軌予行演習も意図したと推察されている。
従前に、松戸 - 柴又(東京都葛飾区)間、国府台間も免許取得して松戸市内で路線用地を買収するも、千葉大学園芸学部や柴又駅周辺の反対や常磐線の複々線化、北総線が計画された影響もあり、計画が頓挫して未成線のまま1971年(昭和46年)頃に免許失効している。買収した路線予定地のうち仮称三矢小台駅はリブレ京成三矢小台店と松戸新京成バス折り返し場へ、その他の多くが住宅地へ転用されている。国府台駅までの延伸計画は、流山電鉄(後に総武流山電鉄を経て現在の流鉄)の市川駅延伸免許取得による周辺地域での路線バス運行など、営業機会損失を阻止する意図もあった。
急激な乗客増による複線化が行われた。演習線軌道敷の大半は複線分あったので工事は比較的容易に進められ、1975年(昭和50年)2月に新津田沼駅 - 京成津田沼駅間を除く全線が複線化された。
新津田沼駅は現位置へ至るまで駅舎位置や路線が変遷しており、以前の同駅と京成津田沼駅への2路線に分かれていたものを現在は急カーブで1線にまとめている(詳細は「新津田沼駅」参照)。新津田沼駅 - 京成津田沼駅間のイオンモール津田沼所在地は1982年(昭和57年)頃まで京成電鉄第二工場が存在し、京成線改軌期間中に、京成電鉄所属構内側線の引き込み線扱いとして先行改軌された新京成線1,435 mmと京成線1,372 mmの軌間を移設してレール4本を敷設している。京成電鉄第二工場の出入構は主に深夜に行われた。京成電鉄の車両工場が宗吾参道へ移転後、1987年(昭和62年)に新京成電鉄へ譲渡され、0キロポストは現在も新津田沼駅に設置されている。
優等列車は現在設定されていないが、かつて同線内各駅停車で京成千葉線方面へ急行「九十九里号」を運行し、赤電なども使用した京成本線京成上野駅始発の同名列車も運行していた。
2023年(令和5年)10月31日、親会社の京成電鉄は、2025年(令和7年)4月1日付で簡易合併形式により、当路線を保有している新京成電鉄を吸収合併することを発表したが、現在の路線・駅・従業員の雇用と、運賃体系はそれぞれ維持する方針としている。ただ、路線名については今後検討するとしている。
松戸駅を出発すると右側に大きくカーブをし、下総台地を登る緩やかな勾配にさしかかる。国道6号を超え、勾配を登り終えると新京成鉄道模型館があった上本郷駅へと到着する。松戸駅 - 上本郷駅間は新たに建設された区間であり、切り通しの残土は松戸駅の向こう側である平潟の土地整理に利用された。元々の鉄道連隊演習線跡とは上本郷駅手前で合流する。次の松戸新田駅とみのり台駅は駅間距離が短く、しばらく住宅地の中を走る。JR東日本武蔵野線との乗換駅である八柱駅を過ぎると、左手に21世紀の森と広場や森のホール21を見ながら右にカーブし、常盤平駅へと至る。この周辺は新京成線の開通後に常盤平団地としてベッドタウン化した街である。次の五香駅を過ぎるとカーブが連続する線形が続き、併走する千葉県道57号千葉鎌ケ谷松戸線(一部区間は国道464号との重複区間)とはこの先踏切で4回も交差をすることになる。元山駅を出ると陸上自衛隊松戸駐屯地の中を走り、新京成電鉄本社のあるくぬぎ山駅へと至る。沿線は梨園が多く、シーズンになると観光農園として賑わっている。線路は東に進路を変え、くぬぎ山車両基地を右手に見ながら北総線・成田スカイアクセス線の高架をくぐった後高架線となり北初富駅へ至る。この先、新鎌ヶ谷駅までは北総線・成田スカイアクセス線と併走して走る。
新鎌ヶ谷駅を出ると南へ大きく進路を変え、初富駅へと至る。この区間は新鎌ケ谷の街の開発にあわせ、連続立体交差化が行われた。次の鎌ヶ谷大仏駅は船橋新京成バスの車庫に隣接しており、駅の近くには駅名の由来にもなった鎌ヶ谷大仏がある。しばらく直線区間が続くが、二和向台駅を過ぎると再びカーブの多い線形となる。三咲駅から滝不動駅にかけては沿線に畑や果樹園などの田園風景が広がるが、次の高根公団駅を過ぎると再び住宅地の中を走る。高根木戸駅にかけての周辺には日本住宅公団(現在のURの前身)により開発された高根台団地が広がり、「高根公団」駅の駅名の由来にもなっている。やがて線路は東葉高速鉄道線との乗換駅である北習志野駅へと到着する。周辺には習志野台団地が広がり、また学校が多く朝夕は学生で賑わっている。北習志野駅を過ぎると右にカーブし、すぐに習志野駅へと到着する。習志野と称するものの、駅は習志野市ではなく船橋市に位置している。次の薬園台駅付近は直線区間が続くが、前原駅を過ぎると国道296号と交差し、線路はイオンモール津田沼を左に見ながら大きくカーブして新津田沼駅へと至る。周辺は繁華街となっているが、JRの津田沼駅とは400m程離れており徒歩連絡となる。これから先は単線区間となり、大きく逆S字カーブを描きながら京成本線と合流し、終点の京成津田沼駅へと到着する。
新京成は京成千葉線に乗り入れているが、片乗り入れであるため他社から乗り入れてくる車両は存在しない。
2005年度の旅客輸送人キロは722百万人キロとなっている。
新京成線の近年の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
新京成線の近年の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最低値を青色で表記している。
| [
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"text": "新京成線(しんけいせいせん)は、千葉県松戸市の松戸駅と千葉県習志野市の京成津田沼駅を結ぶ、新京成電鉄が経営する鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSL。",
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},
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"text": "国土交通省監修『鉄道要覧』では京成津田沼駅が起点・松戸駅が終点だが、案内・運行上は松戸方面行きを「上り」、京成津田沼方面行きを「下り」としている。台地の分水嶺に沿ったルート(小金牧の区域内)をとっており、トンネルや水域を渡る橋が1つも存在しない。",
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},
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"text": "全て6両編成の普通列車(各駅停車)で、京成津田沼駅 - 松戸駅間の全線通し運転を基本とする。朝晩に車両基地(本社)のあるくぬぎ山駅発着の列車があり、朝ラッシュ時には新津田沼駅折り返し列車がある。一部の列車は京成千葉線千葉中央駅まで直通運転する(後述)。また、深夜に松戸発新津田沼行きが運行され、その列車は新津田沼駅で夜間停泊後、翌日の新津田沼始発京成津田沼行き初電として運行される。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "2014年までは8両編成の列車も運行されていたほか、かつてはラッシュ時を中心に京成津田沼駅 - 鎌ヶ谷大仏駅間や新津田沼駅 - 高根公団駅間の区間列車も設定されていた。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "朝のラッシュ時は京成津田沼駅 - 新津田沼駅間が単線のため9分間隔で、他の区間が4分半間隔、夕方のラッシュ時は8分間隔で運転しており、日中でも10分間隔で運転と郊外路線ながら本数が多い。日中に関しては一部を除き接続する東京直通路線よりも本数が多いほどである。これは駅間距離の短さも手伝って日中の生活需要も大きいためである。一方、長い区間を乗車する旅客が少ないことなどから、急行運転を行う予定はない。",
"title": "運行形態"
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"text": "車両については「新京成電鉄#車両」を参照。",
"title": "運行形態"
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"text": "全通した1955年に実施したものの、同年中に取りやめて以来長らく実施してこなかった京成千葉線への直通運転を2006年12月10日に再開した。2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)発生後しばらく休止されていたが、同年6月27日に再開されている。",
"title": "運行形態"
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"text": "2021年11月時点で、乗り入れは8900形および80000形以外の新京成電鉄の車両により行われていて、全て6両編成で運行されている。運行区間は全列車とも松戸駅 - 京成津田沼駅 - 千葉中央駅間で、新京成線や京成千葉線の途中駅止まりの列車は運行されていない。将来は京成電鉄の車両による相互乗り入れや運行時間の拡大、千葉中央駅で接続する京成千原線への乗り入れ区間拡大も検討している。",
"title": "運行形態"
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"text": "直通運転はラッシュ時には行っていない。2012年10月21日改正のダイヤでは、松戸駅発車時刻で平日は午前8時42分から午後3時40分まで、土曜・休日は午前6時20分から午後4時40分まで運転している。なおこの時間帯は、一部を除いて京成津田沼駅始発・終着の新京成線の列車が同駅の6番線から発着するところ、同駅始発・終着の京成千葉線の千葉中央・ちはら台方面の列車の多くは同一ホーム上の5番線から発着し、乗り換えの便宜を図っている。他方、直通運転が行われていない時間帯は、5・6番線とも新京成線の列車の発着に使用されることが多く、京成千葉線の列車は2番線に到着し、3・4番線から発車する。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "使用される方向幕は全車英字入りとなっており、新京成線内では行先のみ、京成千葉線内では「普通」表示の付いた行先表示となる。表示変更は京成津田沼駅での停車中に行われる。",
"title": "運行形態"
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"text": "乗り入れ再開時には、沿線から千葉市方面への乗客誘致をアピールするため、乗り入れ対応編成の一部に「Chiba」をあしらったステッカーを車体に貼付けするとともに、車内ドア上部には「matsudo to CHIBA 06.12.10」(後に単に「matsudo to CHIBA」に変わった)というキャッチフレーズも添えられた。",
"title": "運行形態"
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"text": "本路線大半の区間は旧日本陸軍鉄道連隊が演習用に敷設した軌道敷(鉄道連隊演習線松戸線)であり、第二次世界大戦後の京成電鉄への払い下げを経て民間利用されているものである。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 12,
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"text": "第二次世界大戦での日本の降伏後、鉄道連隊は解散した。鉄道連隊演習線のレールは西武鉄道に払い下げられたが、軌道敷はそのまま残されていたことから、西武鉄道と京成電鉄は早くからこれに着目していた。鉄道連隊の旧軍人を入社させた両社は、日本の占領統治を担う連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に鉄道敷設のための使用許可を働きかけた。最終的に陳情合戦は営業基盤を千葉県内に持つ京成電鉄が制し、1946年(昭和21年)3月に軌道敷使用が認可された(正式な払下げは1955年)。この背景には、京成電鉄に入社した旧鉄道連隊の椎名三郎陸軍大尉とその元上官だった鎌田銓一陸軍少将の存在が大きかったといわれている。鎌田少将は太平洋戦争以前にアメリカの陸軍士官学校に留学経験があり、その際に上級生に、GHQのトップに就いたダグラス・マッカーサー元帥がいたことから戦後はGHQの首席接待委員となり、いわゆる鎌田機関を組織。「鎌田を通さなければマッカーサーには会えない」と言われるほどの影響力を持っていたという。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 13,
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"text": "京成電鉄は同年10月に子会社として新京成電鉄を設立した。1947年(昭和22年)1月に開始された工事は、新たな資材の入手が困難であったため、県外に足を延ばして規格の異なる古資材をかき集めて行われた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "開業直前にGHQが旧軍用線の復活を懸念し一時は開業が危ぶまれたが、新京成電鉄幹部の説得により、予定通り1947年(昭和22年)12月27日に新津田沼駅 - 薬園台駅間を軌間1,067 mmで開業している。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 15,
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"text": "演習線は規定の線路延長(45 km)を確保することと、様々な状況での路線敷設演習のために急曲線が多数介在する屈曲線形で、旅客線開業時に可能な限り直線化を図るも現在なお良好な線形でない。移動距離に比して道程が長く、津田沼駅 - 松戸駅間は直線距離約16 kmに対し道程26.5 kmである。演習線軌間は600 mmと極端に狭隘()だったが京成電鉄払い下げ時に1,067 mm(3フィート6インチ)へ改軌される。当時の地方鉄道法では「地方鉄道ノ軌間ハ1.067メートルトス特別ノ場合ニ在リテハ1.435メートル又ハ0.762メートルト為スコトヲ得」とあり、軌間1,372 mmでの建設が認められなかったため、親会社の京成電鉄準拠の軌間1,372 mmは許可されず、1,067 mmに設定している。",
"title": "歴史"
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"text": "払い下げ以後、新津田沼側から延伸し、建設資金不足から一時期は常磐線松戸駅までの全通を諦めて初富駅 - 松戸駅間にバスを運行するも、三菱電機の支援で敷設工事を再開して松戸駅まで全通する。なお、松戸駅 - 上本郷駅間は旧軍用線ではなく、全くの新線であるため、台地を切り崩す工事が行われた。切り崩しで生じた残土を利用して平潟土地整理事業がなされた。開業当初、開発が進んでいない沿線付近は雨や霜解けでぬかるむ道路を駅まで歩き革靴やハイヒールへ履き替える乗客が多く、松戸駅延伸開業時は各駅に下駄箱設置もみられた。",
"title": "歴史"
},
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"text": "全通は地域の人々から暖かく迎えられ、数々の恩恵を受け、近所の農家から赤飯や餅、夕飯のおかず等の差し入れが度々あったという。",
"title": "歴史"
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"text": "古くは松戸新田駅やみのり台駅などの5駅が小さな駅舎で一人勤務のワンマンボックス駅(畳一帖未満の小さな建物)だった。",
"title": "歴史"
},
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"text": "1953年(昭和28年)10月、全線の軌間を1,372 mmへ、1959年(昭和34年)8月に1,435 mmへ改軌する。親会社の京成電鉄よりも早期の改軌で、京成電鉄の改軌予行演習も意図したと推察されている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "従前に、松戸 - 柴又(東京都葛飾区)間、国府台間も免許取得して松戸市内で路線用地を買収するも、千葉大学園芸学部や柴又駅周辺の反対や常磐線の複々線化、北総線が計画された影響もあり、計画が頓挫して未成線のまま1971年(昭和46年)頃に免許失効している。買収した路線予定地のうち仮称三矢小台駅はリブレ京成三矢小台店と松戸新京成バス折り返し場へ、その他の多くが住宅地へ転用されている。国府台駅までの延伸計画は、流山電鉄(後に総武流山電鉄を経て現在の流鉄)の市川駅延伸免許取得による周辺地域での路線バス運行など、営業機会損失を阻止する意図もあった。",
"title": "歴史"
},
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"text": "急激な乗客増による複線化が行われた。演習線軌道敷の大半は複線分あったので工事は比較的容易に進められ、1975年(昭和50年)2月に新津田沼駅 - 京成津田沼駅間を除く全線が複線化された。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 22,
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"text": "新津田沼駅は現位置へ至るまで駅舎位置や路線が変遷しており、以前の同駅と京成津田沼駅への2路線に分かれていたものを現在は急カーブで1線にまとめている(詳細は「新津田沼駅」参照)。新津田沼駅 - 京成津田沼駅間のイオンモール津田沼所在地は1982年(昭和57年)頃まで京成電鉄第二工場が存在し、京成線改軌期間中に、京成電鉄所属構内側線の引き込み線扱いとして先行改軌された新京成線1,435 mmと京成線1,372 mmの軌間を移設してレール4本を敷設している。京成電鉄第二工場の出入構は主に深夜に行われた。京成電鉄の車両工場が宗吾参道へ移転後、1987年(昭和62年)に新京成電鉄へ譲渡され、0キロポストは現在も新津田沼駅に設置されている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "優等列車は現在設定されていないが、かつて同線内各駅停車で京成千葉線方面へ急行「九十九里号」を運行し、赤電なども使用した京成本線京成上野駅始発の同名列車も運行していた。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "2023年(令和5年)10月31日、親会社の京成電鉄は、2025年(令和7年)4月1日付で簡易合併形式により、当路線を保有している新京成電鉄を吸収合併することを発表したが、現在の路線・駅・従業員の雇用と、運賃体系はそれぞれ維持する方針としている。ただ、路線名については今後検討するとしている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "松戸駅を出発すると右側に大きくカーブをし、下総台地を登る緩やかな勾配にさしかかる。国道6号を超え、勾配を登り終えると新京成鉄道模型館があった上本郷駅へと到着する。松戸駅 - 上本郷駅間は新たに建設された区間であり、切り通しの残土は松戸駅の向こう側である平潟の土地整理に利用された。元々の鉄道連隊演習線跡とは上本郷駅手前で合流する。次の松戸新田駅とみのり台駅は駅間距離が短く、しばらく住宅地の中を走る。JR東日本武蔵野線との乗換駅である八柱駅を過ぎると、左手に21世紀の森と広場や森のホール21を見ながら右にカーブし、常盤平駅へと至る。この周辺は新京成線の開通後に常盤平団地としてベッドタウン化した街である。次の五香駅を過ぎるとカーブが連続する線形が続き、併走する千葉県道57号千葉鎌ケ谷松戸線(一部区間は国道464号との重複区間)とはこの先踏切で4回も交差をすることになる。元山駅を出ると陸上自衛隊松戸駐屯地の中を走り、新京成電鉄本社のあるくぬぎ山駅へと至る。沿線は梨園が多く、シーズンになると観光農園として賑わっている。線路は東に進路を変え、くぬぎ山車両基地を右手に見ながら北総線・成田スカイアクセス線の高架をくぐった後高架線となり北初富駅へ至る。この先、新鎌ヶ谷駅までは北総線・成田スカイアクセス線と併走して走る。",
"title": "沿線風景"
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"text": "新鎌ヶ谷駅を出ると南へ大きく進路を変え、初富駅へと至る。この区間は新鎌ケ谷の街の開発にあわせ、連続立体交差化が行われた。次の鎌ヶ谷大仏駅は船橋新京成バスの車庫に隣接しており、駅の近くには駅名の由来にもなった鎌ヶ谷大仏がある。しばらく直線区間が続くが、二和向台駅を過ぎると再びカーブの多い線形となる。三咲駅から滝不動駅にかけては沿線に畑や果樹園などの田園風景が広がるが、次の高根公団駅を過ぎると再び住宅地の中を走る。高根木戸駅にかけての周辺には日本住宅公団(現在のURの前身)により開発された高根台団地が広がり、「高根公団」駅の駅名の由来にもなっている。やがて線路は東葉高速鉄道線との乗換駅である北習志野駅へと到着する。周辺には習志野台団地が広がり、また学校が多く朝夕は学生で賑わっている。北習志野駅を過ぎると右にカーブし、すぐに習志野駅へと到着する。習志野と称するものの、駅は習志野市ではなく船橋市に位置している。次の薬園台駅付近は直線区間が続くが、前原駅を過ぎると国道296号と交差し、線路はイオンモール津田沼を左に見ながら大きくカーブして新津田沼駅へと至る。周辺は繁華街となっているが、JRの津田沼駅とは400m程離れており徒歩連絡となる。これから先は単線区間となり、大きく逆S字カーブを描きながら京成本線と合流し、終点の京成津田沼駅へと到着する。",
"title": "沿線風景"
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"text": "新京成は京成千葉線に乗り入れているが、片乗り入れであるため他社から乗り入れてくる車両は存在しない。",
"title": "車両"
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"text": "2005年度の旅客輸送人キロは722百万人キロとなっている。",
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"paragraph_id": 29,
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"text": "新京成線の近年の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
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"text": "新京成線の近年の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最低値を青色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
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"tag": "p",
"text": "",
"title": "利用状況"
}
] | 新京成線(しんけいせいせん)は、千葉県松戸市の松戸駅と千葉県習志野市の京成津田沼駅を結ぶ、新京成電鉄が経営する鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSL。 国土交通省監修『鉄道要覧』では京成津田沼駅が起点・松戸駅が終点だが、案内・運行上は松戸方面行きを「上り」、京成津田沼方面行きを「下り」としている。台地の分水嶺に沿ったルート(小金牧の区域内)をとっており、トンネルや水域を渡る橋が1つも存在しない。 | <!--検証可能性を満たさない部分があれば、該当箇所にテンプレートを貼付した上でノートで具体的に指摘してください-->
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[ファイル:Shin-Keisei Logo.SVG|40px|link=新京成電鉄]] 新京成線
|路線色=#EF59A1
|ロゴ=ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像=新京成80000形80016編成.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=新京成線で使用される[[新京成電鉄80000形電車|80000形電車]]
|国={{JPN}}
|所在地=[[千葉県]]
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|終点=[[京成津田沼駅]]
|駅数=24駅
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|車両基地=
|使用車両=[[新京成電鉄#車両]]を参照
|路線距離=26.5 [[キロメートル|km]]
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|保安装置=[[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]]([[二和向台駅]] - [[習志野駅]]間)<br />[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]](松戸駅 - 二和向台駅間、習志野駅 - 京成津田沼駅間)<ref name="handbook_2021p38" group="広報">[https://www.shinkeisei.co.jp/official/wp-content/uploads/2021/09/20210927_handbook_2021.pdf#page=21 『新京成電鉄会社要覧 2021』]p.38</ref>
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|路線図=File:Shin-Keisei Electric Railway Linemap.svg
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{{BS4||eABZgl|exSTR+r|||→''旧線''| 1953-68|}}
{{BS4||STR|exBHF|||''[[藤崎台駅]]''|''新津田沼駅'' (II) 1953-61|}}
{{BS4||eBHF|exSTR|||''新津田沼駅''|(I, III) 1947-53, 61-68|}}
{{BS4||eABZgl|exABZgr|||||}}
{{BS4|HUBrg|BHF|O2=HUBeq|exSTR||25.3|SL23 [[新津田沼駅]]|(IV) 1968-|}}
{{BS4|HUB|eABZg+l|exSTRr|||||}}
{{BS4|BHFq|O1=HUB|KRZo|STRq|STRq|||←JR東:[[総武快速線|総武線(快速)]]→|}}
{{BS4|BHFq|O1=HUBe|KRZo|STRq|STRq|||←JR東:[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]→|}}
{{BS4|STR+l|STRr|||||[[津田沼駅]]|}}
{{BS4|STRl|BHFq|O2=HUBa|ABZq+l|STR+r|26.5|SL24 KS26 [[京成津田沼駅]]||}}
{{BS4||BHFq|O2=HUBe|ABZqr|KRZo|||←京成:[[京成本線|本線]]→|}}
{{BS4||||LSTR|||京成:[[京成千葉線|千葉線]]↓|}}
{{BS4||||HST|||KS60 [[千葉中央駅]]|}}
|}
|}
'''新京成線'''(しんけいせいせん)は、[[千葉県]][[松戸市]]の[[松戸駅]]と[[千葉県]][[習志野市]]の[[京成津田沼駅]]を結ぶ、[[新京成電鉄]]が経営する[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''SL'''。
[[国土交通省]]監修『[[鉄道要覧]]』では京成津田沼駅が起点・松戸駅が終点だが、案内・運行上は松戸方面行きを「[[ダイヤグラム#上りと下り|上り]]」、京成津田沼方面行きを「[[ダイヤグラム#上りと下り|下り]]」としている。[[台地]]の[[分水界|分水嶺]]に沿ったルート([[小金牧]]の区域内)をとっており、[[トンネル]]や水域を渡る[[橋]]が1つも存在しない<ref name="keyobank1207">{{Cite web|和書|date=2012-07 |url=http://www.keiyobank.co.jp/ir/csr/information/pdf/tetsudo34.pdf |title=鉄道で行く千葉 第34回 新京成電鉄 |publisher=[[京葉銀行]] |format=PDF |pages=2-4 |accessdate=2017-06-07 }}</ref><ref>[http://www.keiyogas.co.jp/home/park/hureai/ensen2/detail_7.html 新京成線] - [[京葉ガス]]、2017年6月6日閲覧。</ref>{{efn2|他の道路や鉄道路線を越える橋は何か所か存在する<ref group="広報">{{PDFlink|1=[https://www.shinkeisei.co.jp/official/wp-content/uploads/2018/09/20180918_handbook_2018.pdf#page=63 『新京成電鉄会社要覧 2018』p.61]}}</ref>。}}。
== 路線データ ==
* 管轄:新京成電鉄([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
* 路線距離([[営業キロ]]):26.5 [[キロメートル|km]]
* [[軌間]]:[[標準軌|1,435 mm]]
* 駅数:24駅(起終点駅含む)
* [[単線]]区間:[[新津田沼駅]] - 京成津田沼駅間
* [[複線]]区間:松戸駅 - 新津田沼駅間
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線([[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度: 85 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="speed" />{{R|交通960327}}
* 保安装置
** [[鎌ヶ谷大仏駅]] - [[習志野駅]]間:[[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]]
** 松戸駅 - 鎌ヶ谷大仏駅、習志野駅 - 京成津田沼駅間:[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]<ref name="handbook_2021p38" group="広報" />{{Refnest|group="注"|新京成電鉄のほか、[[京成電鉄]]、[[北総鉄道]]、[[京浜急行電鉄]]、[[都営地下鉄浅草線]]で使用されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyosan.co.jp/product/pdf/P36-37.pdf |format=PDF |title=C-ATS装置 |work=PRODUCTS INFORMATION VOL.10 |pages=36-37 |publisher=[[京三製作所]] |accessdate=2018-10-10}}</ref>。}}
* [[車両基地]]所在駅:[[くぬぎ山駅]]
* 最小曲線半径:139 m(新津田沼駅 - 京成津田沼駅間)
== 運行形態 ==
全て6両[[編成 (鉄道)|編成]]の[[普通列車]](各駅停車)で、京成津田沼駅 - 松戸駅間の全線通し運転を基本とする。朝晩に[[車両基地]](本社)のあるくぬぎ山駅発着の列車があり<ref group="広報">[https://www.shinkeisei.co.jp/train/timetable/kunugiyama_weekday_up/ くぬぎ山駅 時刻表] 新京成電鉄(2023年2月27日閲覧)</ref>、朝[[ラッシュ時]]には新津田沼駅折り返し列車がある。一部の列車は[[京成千葉線]][[千葉中央駅]]まで[[直通運転]]する<ref group="広報">[https://www.shinkeisei.co.jp/train/timetable/matsudo_weekday_down/ 松戸駅 時刻表] 新京成電鉄(2023年2月27日閲覧)</ref>([[#京成千葉線への直通運転|後述]])。また、深夜に松戸発新津田沼行きが運行され、その列車は新津田沼駅で[[夜間滞泊|夜間停泊]]後、翌日の新津田沼始発京成津田沼行き初電として運行される。
2014年までは8両編成の列車も運行されていたほか、かつてはラッシュ時を中心に京成津田沼駅 - 鎌ヶ谷大仏駅間や新津田沼駅 - [[高根公団駅]]間の区間列車も設定されていた。
朝のラッシュ時は京成津田沼駅 - 新津田沼駅間が[[単線]]のため9分間隔で、他の区間が4分半間隔、夕方のラッシュ時は8分間隔で運転しており、日中でも10分間隔で運転と郊外路線ながら本数が多い。日中に関しては一部を除き接続する[[東京都区部|東京]]直通路線よりも本数が多いほどである{{Refnest|group="注"|[[北総鉄道北総線|北総線]]は日中それぞれ、京成線扱いであるアクセス特急を含めれば毎時4-5本<ref group="広報">[https://hokuso.ekitan.com/jp/pc/T5?USR=PC&dw=0&slCode=200-12&d=1 千葉ニュータウン中央 時刻表] - 北総鉄道(2018年10月10日閲覧)</ref>、[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]は毎時4本程度<ref group="広報">[http://www.toyokosoku.co.jp/station/toyokatsutadai 東葉勝田台駅] - 東葉高速鉄道(2018年10月10日閲覧)</ref>。}}。これは駅間距離の短さも手伝って日中の生活需要も大きいためである。一方、長い区間を乗車する旅客が少ないことなどから、[[急行列車|急行運転]]を行う予定はない<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.shinkeisei.co.jp/faq/detail5.html#qa11 |title=車内のマナーや設備、列車ダイヤについて |work=よくある質問 |publisher=新京成電鉄 |accessdate=2017-03-05}}</ref>。
車両については「[[新京成電鉄#車両]]」を参照。
=== 京成千葉線への直通運転 ===
全通した[[1955年]]に実施したものの、同年中に取りやめて以来長らく実施してこなかった[[京成千葉線]]への直通運転を[[2006年]][[12月10日]]に再開した<ref group="広報" name="Shinkeisei200611">[https://web.archive.org/web/20061120234152fw_/http://www.shinkeisei.co.jp/topics/2006/060.html 京成電鉄千葉線への乗り入れに伴うダイヤ改正について。] 新京成電鉄トピックスの[[インターネットアーカイブ]](2006年時点の版)</ref>。[[2011年]][[3月11日]]の[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])発生後しばらく休止されていたが、同年[[6月27日]]に再開されている。
2021年11月時点で、乗り入れは[[新京成電鉄8900形電車|8900形]]および[[新京成電鉄80000形電車|80000形]]以外の新京成電鉄の車両により行われていて、全て6両編成で運行されている。運行区間は全列車とも松戸駅 - 京成津田沼駅 - [[千葉中央駅]]間で、新京成線や京成千葉線の途中駅止まりの列車は運行されていない。将来は[[京成電鉄]]の車両による相互乗り入れや運行時間の拡大、千葉中央駅で接続する[[京成千原線]]への乗り入れ区間拡大も検討している。
直通運転はラッシュ時には行っていない。[[2012年]][[10月21日]]改正のダイヤでは、松戸駅発車時刻で平日は午前8時42分から午後3時40分まで、土曜・休日は午前6時20分から午後4時40分まで運転している。なおこの時間帯は、一部を除いて京成津田沼駅始発・終着の新京成線の列車が同駅の6番線から発着するところ、同駅始発・終着の京成千葉線の千葉中央・[[ちはら台駅|ちはら台]]方面の列車の多くは同一ホーム上の5番線から発着し、乗り換えの便宜を図っている。他方、直通運転が行われていない時間帯は、5・6番線とも新京成線の列車の発着に使用されることが多く、京成千葉線の列車は2番線に到着し、3・4番線から発車する。
使用される[[方向幕]]は全車英字入りとなっており、新京成線内では行先のみ、京成千葉線内では「普通」表示の付いた行先表示となる。表示変更は京成津田沼駅での停車中に行われる。
乗り入れ再開時には、沿線から[[千葉市]]方面への乗客誘致をアピールするため、乗り入れ対応編成の一部に「Chiba」をあしらったステッカーを車体に貼付けするとともに、車内ドア上部には「matsudo to CHIBA 06.12.10」(後に単に「matsudo to CHIBA」に変わった)という[[キャッチコピー|キャッチフレーズ]]も添えられた。
== 歴史 ==
[[ファイル:Shin-keisei-matsudo-platform.jpg|thumb|right|240px|[[松戸駅]](2007年1月8日)]]
本路線大半の区間は旧[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[鉄道連隊]]が[[軍事演習|演習]]用に敷設した軌道敷([[鉄道連隊演習線]]松戸線)であり、[[第二次世界大戦]]後の[[京成電鉄]]への払い下げを経て民間利用されているものである<ref name="keyobank1207" />{{efn2|これに関し「新京成電鉄の線路はなぜ曲がっているのか(曲線が多いのか)?」とのテーマから旧日本陸軍鉄道連隊や戦争の歴史学習へ導く記載が、高校[[日本史 (科目)|日本史]][[教科書]]の一部<ref>{{Cite book|和書|title=日本史A|year=2002|publisher=[[実教出版]]|pages={{要ページ番号|date=2017年3月}}}}</ref>に見られる。}}。
第二次世界大戦での[[日本の降伏]]後、鉄道連隊は解散した。鉄道連隊演習線の[[軌条|レール]]は[[西武鉄道]]に払い下げられたが、軌道敷はそのまま残されていたことから、西武鉄道と京成電鉄は早くからこれに着目していた。鉄道連隊の旧軍人を入社させた両社は、日本の占領統治を担う[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)に鉄道敷設のための使用許可を働きかけた<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=千葉県の鉄道史|year=1980|accessdate=|publisher=千葉県企画部交通計画課|pages=37,44,72}}</ref>。最終的に陳情合戦は営業基盤を千葉県内に持つ京成電鉄が制し、[[1946年]]([[昭和]]21年)3月に軌道敷使用が認可された(正式な払下げは[[1955年]])<ref name=":0" />。この背景には、京成電鉄に入社した旧鉄道連隊の椎名三郎陸軍大尉とその元上官だった[[鎌田銓一]]陸軍少将の存在が大きかったといわれている。鎌田少将は[[太平洋戦争]]以前に[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|アメリカの陸軍士官学校]]に留学経験があり、その際に上級生に、GHQのトップに就いた[[ダグラス・マッカーサー]]元帥がいたことから戦後はGHQの首席接待委員となり、いわゆる鎌田機関を組織。「鎌田を通さなければマッカーサーには会えない」と言われるほどの影響力を持っていたという。
京成電鉄は同年10月に[[子会社]]として新京成電鉄を設立した。1947年(昭和22年)1月に開始された工事は、新たな資材の入手が困難であったため、県外に足を延ばして規格の異なる古資材をかき集めて行われた<ref name=":0" />。
開業直前にGHQが旧[[軍用鉄道|軍用線]]の復活を懸念し一時は開業が危ぶまれたが<ref>{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=6号 新京成電鉄・北総鉄道・東葉高速鉄道・芝山鉄道・東京臨海高速鉄道・埼玉高速鉄道|date=2011-04-05}}</ref>、新京成電鉄幹部の説得により、予定通り[[1947年]](昭和22年)12月27日に新津田沼駅 - [[薬園台駅]]間を[[3フィート6インチ軌間|軌間1,067 mm]]で開業している。
演習線は規定の線路延長(45 [[キロメートル|km]])を確保することと<ref name=":0" />、様々な状況での路線敷設演習のために急曲線が多数介在する屈曲[[線形 (路線)|線形]]で、旅客線開業時に可能な限り直線化を図るも現在なお良好な線形でない。移動距離に比して道程が長く、津田沼駅 - 松戸駅間は直線距離約16 kmに対し道程26.5 kmである<ref name="keyobank1207" />。演習線軌間は[[特殊狭軌|600 mm]]と極端に{{読み仮名|狭隘|きょうあい}}だったが京成電鉄払い下げ時に1,067 mm(3[[フィート]]6[[インチ]])へ[[改軌]]される。当時の[[地方鉄道法]]では「地方鉄道ノ軌間ハ1.067メートルトス特別ノ場合ニ在リテハ1.435メートル又ハ0.762メートルト為スコトヲ得」とあり、[[4フィート6インチ軌間|軌間1,372 mm]]での建設が認められなかったため、親会社の京成電鉄準拠の軌間1,372 mmは許可されず、1,067 mmに設定している。
払い下げ以後、新津田沼側から延伸し{{Sfn|白土貞夫|1996|p=223}}、建設資金不足から一時期は[[常磐線]]松戸駅までの全通を諦めて[[初富駅]] - 松戸駅間にバスを運行するも、[[三菱電機]]の支援で敷設工事を再開して松戸駅まで全通{{Sfn|白土貞夫|1996|p=224}}する。なお、松戸駅 - [[上本郷駅]]間は旧軍用線ではなく、全くの新線であるため、台地を切り崩す工事が行われた。切り崩しで生じた残土を利用して平潟土地整理事業がなされた。開業当初、開発が進んでいない沿線付近は雨や[[霜]]解けでぬかるむ道路を駅まで歩き革靴や[[ハイヒール]]へ履き替える乗客が多く、松戸駅延伸開業時は各駅に[[下駄箱]]設置もみられた。
全通は地域の人々から暖かく迎えられ、数々の恩恵を受け、近所の[[農家]]から[[赤飯]]や[[餅]]、夕飯のおかず等の差し入れが度々あったという<ref>{{Cite journal |和書 |title=全線開通60周年の記録 |journal=CiaO |issue=Vol.120 |date=2015-05-20 |publisher=新京成電鉄 |page=10 |url=https://www.shinkeisei.co.jp/welove/ciao/vol120/ }}</ref>。
古くは[[松戸新田駅]]や[[みのり台駅]]などの5駅が小さな駅舎で一人勤務のワンマンボックス駅([[畳]]一帖未満の小さな建物)だった。
[[1953年]](昭和28年)10月、全線の軌間を1,372 mmへ、[[1959年]](昭和34年)8月に1,435 mmへ[[改軌]]する。親会社の京成電鉄よりも早期の改軌で、京成電鉄の改軌予行演習も意図したと推察されている<ref name=":1">{{Cite book|和書|author=川島令三|title=全国鉄道事情大研究 東京東部・千葉篇〈2〉|year=2003|accessdate=|publisher=[[草思社]]|pages=134-150}}</ref>{{Sfn|白土貞夫|1996|p=225}}。
従前に、松戸 - [[柴又]]([[東京都]][[葛飾区]])間<ref group="注">かつて[[筑波高速度電気鉄道]]が松戸支線として[[梅島 (足立区)|梅島]](東京都[[足立区]]) - 柴又 - 松戸間を計画していたが、[[青砥駅|青砥]]経由に変更して京成電鉄吸収合併後に現在の京成本線として開業した区間以外(青砥 - 柴又 - 松戸間)は免許失効。</ref>、[[国府台 (市川市)|国府台]]間も免許取得して松戸市内で路線用地を買収するも、[[千葉大学|千葉大学園芸学部]]や[[柴又駅]]周辺の反対や常磐線の[[複々線化]]、[[北総鉄道北総線|北総線]]が計画された影響もあり、計画が頓挫して[[未成線]]のまま[[1971年]](昭和46年)頃に免許失効している。買収した路線予定地のうち仮称三矢小台駅は[[京成ストア|リブレ京成三矢小台店]]と[[松戸新京成バス]]折り返し場へ、その他の多くが住宅地<ref>{{Cite book |和書 |author=草町義和 |year=2001 |title=鉄道未完成路線を往く 生まれなかった幻の鉄道路線 |publisher=[[講談社ビーシー]] |pages=130-132 |isbn=978-4-06-217131-1}}</ref>へ転用されている。[[国府台駅]]までの延伸計画は、流山電鉄(後に総武流山電鉄を経て現在の[[流鉄]])の[[市川駅]]延伸免許取得による周辺地域での路線バス運行など、営業機会損失を阻止する意図もあった。
急激な乗客増による[[複線]]化が行われた。演習線軌道敷の大半は複線分あったので工事は比較的容易に進められ、1975年(昭和50年)2月に新津田沼駅 - 京成津田沼駅間を除く全線が複線化された<ref name=":1" />。
新津田沼駅は現位置へ至るまで駅舎位置や路線が変遷しており、以前の同駅と京成津田沼駅への2路線に分かれていたものを現在は急カーブで1線にまとめている(詳細は「[[新津田沼駅]]」参照)。新津田沼駅 - 京成津田沼駅間の[[イオンモール津田沼]]所在地は[[1982年]](昭和57年)頃まで京成電鉄第二工場が存在し、京成線[[改軌]]期間中に、京成電鉄所属構内[[側線]]の引き込み線扱いとして先行改軌された新京成線1,435 mmと京成線1,372 mmの軌間を移設してレール4本を敷設している。京成電鉄第二工場の出入構は主に深夜に行われた。京成電鉄の車両工場が[[宗吾参道駅|宗吾参道]]へ移転後、[[1987年]](昭和62年)に新京成電鉄へ譲渡され、0[[距離標|キロポスト]]は現在も新津田沼駅に設置されている。
[[優等列車]]は現在設定されていないが、かつて同線内各駅停車で京成千葉線方面へ急行「[[スカイライナー|九十九里号]]」を運行し、[[赤電 (京成)|赤電]]なども使用した[[京成本線]][[京成上野駅]]始発の同名列車も運行していた。
2023年([[令和]]5年)10月31日、親会社の京成電鉄は、[[2025年]](令和7年)[[4月1日]]付で[[簡易組織再編行為|簡易合併]]形式により、当路線を保有している新京成電鉄を[[合併 (企業)#吸収合併|吸収合併]]することを発表した<ref name="keisei20231031">[https://contents.xj-storage.jp/xcontents/AS01810/c42c9a09/9d88/4561/b70d/344102d6f272/140120231030573888.pdf 完全子会社(新京成電鉄株式会社)の吸収合併(簡易合併・略式合併) に関するお知らせ] - 京成電鉄、2023年10月31日</ref>が、現在の路線・駅・従業員の雇用と、運賃体系はそれぞれ維持する方針としている。ただ、路線名については今後検討するとしている<ref name="chibanippo20231031">[https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/1124565 【速報】京成電鉄、新京成電鉄を吸収合併へ 2025年4月 現在の路線・駅は維持する方針【追記あり】] - 千葉日報オンライン、2023年10月31日 15:16</ref>。
=== 年表 ===
* [[1918年]]([[大正]]7年)頃 - 一部を除き完成<ref name=":0" />。
* [[1929年]]([[昭和]]4年)頃 - 陸軍鉄道連隊演習線として津田沼 - 松戸間26.2km(当時)のうち[[八栄村]]付近まで完成。
* [[1932年]](昭和7年)頃 - 松戸まで開通(現在の松戸駅の位置ではなく松戸中央公園付近)。地元住民を無賃で乗車させたこともあった。
* 第二次世界大戦中 - レール等資材が転用され、軌道敷は放置<ref name=":0" /><ref name=":1" />。
* [[1946年]](昭和21年)
** 3月 - 京成電鉄に軌道敷の使用認可{{Sfn|白土貞夫|1996|p=223}}。
** 10月 - 京成電鉄が子会社として新京成電鉄設立。
* [[1947年]](昭和22年)[[12月27日]] - 新京成電鉄新京成線として[[新津田沼駅]](初代) - [[薬園台駅]]間 (2.5km) 開業<ref name="keyobank1207" /><ref name=":0" />(1,067mm軌間)。
* [[1948年]](昭和23年)
** [[8月26日]] - 薬園台駅 - [[滝不動駅]]間 (4.1km) 開業。
** [[10月8日]] - [[習志野駅]]、[[高根木戸駅]]開業。
** [[12月13日]] - [[前原駅]]開業。
* [[1949年]](昭和24年)
** [[1月8日]] - 滝不動駅 - [[鎌ヶ谷大仏駅]]間 (3.1km) 開業。[[三咲駅]]開業。
** [[3月16日]] - [[二和向台駅]]開業。
** [[10月7日]] - 鎌ヶ谷大仏駅 - 鎌ヶ谷初富駅(現:[[初富駅]])間 (2.1km) が開業し、薬園台駅 - 鎌ヶ谷初富駅間が全通<ref name=":0" />。
* [[1953年]](昭和28年)
** [[10月20日]] - 全線1,372mmに改軌。新津田沼駅から京成駅へ乗り入れ<ref name=":0" />。
** [[11月1日]] - 京成津田沼駅 - 新津田沼駅(二代目) - 前原駅間 (2.3km) 開業。新津田沼駅(初代) - 前原駅間 (1.2km) 廃止。京成第二工場への構内側線を利用。
* [[1955年]](昭和30年)
** [[4月1日]] - 鎌ヶ谷初富駅を初富駅に改称。
** [[4月21日]] - 初富駅 - [[松戸駅]]間 (13.3km) 開業<ref name=":0" />、新京成線全線(単線)開業。[[京成千葉線]]への直通運転実施。
** [[9月1日]] - 京成千葉線への直通運転廃止。
* [[1959年]](昭和34年)[[8月18日]] - 全線1,435mmに改軌<ref name=":0" />。
* [[1960年]](昭和35年)[[2月1日]] - 金ヶ作駅を[[常盤平駅]]に改称。
* [[1961年]](昭和36年)
** [[8月1日]] - [[高根公団駅]]開業。
** [[8月23日]] - 新津田沼駅(三代目:現在の新津田沼駅より前原寄り300m) - 前原駅間 (1.1km) 開業<ref name=":0" />。新津田沼駅(二代目)は[[藤崎台駅]]に改称。
** [[11月25日]] - [[八柱駅]] - 松戸駅間複線化<ref name=":0" />。
* [[1962年]](昭和37年)[[8月21日]] - [[五香駅]] - 八柱駅間複線化。
* [[1963年]](昭和38年)[[10月26日]] - 前原駅 - 高根公団駅間複線化<ref name=":0" />。
* [[1964年]](昭和39年)[[8月12日]] - 高根公団駅 - 鎌ヶ谷大仏駅間複線化。
* [[1965年]](昭和40年)[[6月29日]] - くぬぎ山駅 - 五香駅間複線化<ref name=":0" />。
* [[1966年]](昭和41年)[[4月11日]] - [[北習志野駅]]開業<ref name=":0" />。
* [[1968年]](昭和43年)
** [[5月14日]] - 新津田沼駅(四代目)現在地に移転。京成津田沼駅 - 新津田沼駅(四代目)間(移転分を含め1.5km)開業。京成津田沼駅 - 藤崎台駅 - 前原駅間 (2.3km) 廃止。
** [[5月15日]] - 新津田沼駅 - 前原駅間複線化<ref name=":0" />。
* [[1975年]](昭和50年)
** [[2月7日]] - 鎌ヶ谷大仏駅 - くぬぎ山駅間複線化(京成津田沼駅 - 新津田沼駅間を除き複線化)<ref name=":0" /><ref name=":1" />。
** [[11月1日]] - 全ダイヤ6両編成運転開始<ref name=":0" />。
* [[1979年]](昭和54年)[[3月9日]] - [[北総鉄道北総線|北総開発鉄道線]](当時)と相互直通運転開始。
* [[1982年]](昭和57年)[[10月1日]] - 4両を2本連結した8両編成の運転を開始<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |date=1983-02 |publisher=[[交友社]] |page=111}}</ref>。
* [[1984年]](昭和59年)[[3月19日]] - 住宅・都市整備公団線(当時)と相互直通運転開始。
* [[1987年]](昭和62年)
** 4月1日 - 京成津田沼駅 - 旧京成第二工場( - 新津田沼駅)間構内側線 (1.2km) を京成電鉄より譲受。全線が新京成の所属となる。
** 11月1日 - 運行管理システムを電算化<ref name="asahi19871030">{{Cite news | title = 新京成電鉄 「運行管理」を電算化 一日から列車の遅れ一目で | newspaper = 『[[朝日新聞]]』 | date = 1987-10-30 | author = | publisher = 朝日新聞社 | page = 朝刊 27 }}</ref>。
* [[1992年]]([[平成]]4年)[[7月8日]] - [[新鎌ヶ谷駅]]開業<ref name="keyobank1207" />。[[北総鉄道北総線|北総・公団線]](当時)との相互直通運転廃止<ref>{{Cite news |title=新京成電鉄新鎌ヶ谷駅 来月8日開業 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1992-06-29 |page=1 }}</ref>。土曜ダイヤを設定<ref>{{Cite news |title=土曜ダイヤを新設 新京成電鉄 8日にダイヤ改正 |newspaper=交通新聞|publisher=交通新聞社 |date=1992-07-04 |page=2 }}</ref>。
* [[1996年]](平成8年)4月1日 - ダイヤ改正により、最高速度を75Km/hから85km/hに向上し、松戸駅 - 京成津田沼駅間の所要時間が3分短縮されて37分となる{{R|交通960327}}。また、日中の運転間隔が10分間隔となる{{R|交通960327}}。
* [[2004年]](平成16年)[[2月22日]] - [[鎌ケ谷市]]内[[連続立体交差事業]]のため一部([[北初富駅]] - 初富駅間)[[仮線]]に切り替え。
* [[2006年]](平成18年)[[12月10日]] - 京成千葉線への[[直通運転|片乗り入れ]]再開<ref group="広報" name="Shinkeisei200611"/>。これによって千葉方面と[[新鎌ヶ谷駅|新鎌ヶ谷]]・松戸方面が乗り換えることなく結ばれる。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月11日]] - [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])が発生し、全線運休となる。
** [[3月13日]] - 大震災による発電所の停止に伴う電力供給{{読み仮名|逼迫|ひっぱく}}のため、[[東京電力]]が[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]を実施。これに伴い、この日から一部区間で[[徐行#鉄道の徐行|徐行運転]]が実施され、京成千葉線への直通運転が休止される。
** [[6月27日]] - 節電ダイヤで中止されていた京成千葉線への直通運転が一部再開される。
** [[9月19日]] - 一部区間での徐行運転を終了し、新津田沼駅 - 京成津田沼駅間の運転および京成千葉線への直通運転を全面的に再開する。
* [[2013年]](平成25年)
** [[2月3日]] - 鎌ケ谷市内連続立体交差事業のため初富駅付近の上り線の線路を仮線に切り替え。
** [[2月8日]] - 全営業車両が[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]になる<ref group="広報">{{Cite web|和書|date=2013-02-04 |url=https://www.shinkeisei.co.jp/pdf/topics/shinkeisei0450.pdf |title=全営業列車が「VVVFインバータ制御電車」になります(2/8〜) |publisher=新京成電鉄 |format=PDF |accessdate=2017-03-05 }}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)
** [[2月23日]] - 鎌ケ谷市内連続立体交差事業のため北初富駅付近の線路を仮線に切り替え。
** 2月23日 - [[駅ナンバリング]]導入<ref group="広報" name="shinkeisei20140203">{{Cite web|和書|date=2014-02-03 |url=https://www.shinkeisei.co.jp/pdf/topics/shinkeisei0603.pdf |title=新京成線に駅ナンバリングを導入します(2/23〜) |publisher=新京成電鉄 |format=PDF |accessdate=2017-03-05 }}</ref>。
** [[5月18日]] - 鎌ケ谷市内連続立体交差事業のため初富駅付近の下り線の線路を仮線に切り替え。
** [[9月30日]] - 全営業車両が6両編成となる。
** [[12月6日]] - 前原駅 - 京成津田沼駅間でC-ATSの使用を開始<ref group="広報" name="c-ats">{{Cite web|和書|date=2014-12-08 |url=https://www.shinkeisei.co.jp/pdf/topics/shinkeisei0738.pdf |title=新型ATS「C-ATS」を一部区間で使用開始(12/6~) |publisher=新京成電鉄 |format=PDF |accessdate=2017-01-19 }}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)
** 7月1日 - 開業70周年と[[ふなっしー]]地上降臨5周年を記念した、ふなっしーのヘッドマーク付き[[ラッピング列車]]「ふなっしートレイン」を9月30日までの予定で運行開始(期間は延長して2018年1月まで)<ref group="広報">{{Cite press release|和書|title=ふなっしーと新京成とのコラボレーション企画が始動(7/1~)|publisher=新京成電鉄|date=2017-06-23|url=https://www.shinkeisei.co.jp/topics/2017/11219/|access-date=2023-03-02}}</ref><ref group="広報">{{Cite press release|和書|title=ふなっしートレイン、運行終了いたしました(1/16)|publisher=新京成電鉄|date=2018-01-16|url=https://www.shinkeisei.co.jp/topics/2018/12553/|access-date=2023-03-02}}</ref>。
** [[10月21日]] - 鎌ヶ谷大仏駅 - くぬぎ山駅間の下り線が高架化<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.shinkeisei.co.jp/official/wp-content/uploads/2017/08/20170830_release_railway.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170903221922/http://www.shinkeisei.co.jp/official/wp-content/uploads/2017/08/20170830_release_railway.pdf|format=PDF|language=日本語|title=新京成線(鎌ヶ谷大仏〜くぬぎ山駅間)連続立体交差事業 10月21日(土)始発より下り線を高架化します|publisher=新京成電鉄|date=2017-08-30|accessdate=2020-12-29|archivedate=2017-09-03}}</ref><ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/dousei/press/2017/documents/sinkeisei_koukakirikae_press.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170906001552/http://www.pref.chiba.lg.jp/dousei/press/2017/documents/sinkeisei_koukakirikae_press.pdf|format=PDF|language=日本語|title=新京成線連続立体交差事業(鎌ヶ谷大仏駅〜くぬぎ山駅間)平成29年10月21日(土)始発列車より下り線を高架化します!|publisher=千葉県県土整備部道路整備課|date=2017-08-30|accessdate=2020-12-29|archivedate=2017-09-06}}</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)
** [[12月1日]] - 鎌ヶ谷大仏駅 - くぬぎ山駅間の上り線が高架化(同区間全線の高架化が完了<ref group="広報">[https://www.shinkeisei.co.jp/topics/2019/16015/ 「連続立体交差事業 全線高架化記念乗車券」の発売(12/1~)] - 新京成電鉄(2019年11月20日)2020年1月7日閲覧。</ref>)<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.shinkeisei.co.jp/official/wp-content/uploads/2019/10/20191011_release_kouka.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191216044351/https://www.shinkeisei.co.jp/official/wp-content/uploads/2019/10/20191011_release_kouka.pdf|format=PDF|language=日本語|title=新京成線(鎌ヶ谷大仏〜くぬぎ山駅間)連続立体交差事業 上り線高架切替工事を実施します 12月1日(日)から上り線の高架化により、鉄道と道路の立体交差化が完了|publisher=新京成電鉄|date=2019-10-11|accessdate=2020-12-29|archivedate=2019-12-16}}</ref><ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/dousei/press/2019/documents/20191119_shinkeiseikouka.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201228091818/https://www.pref.chiba.lg.jp/dousei/press/2019/documents/20191119_shinkeiseikouka.pdf|format=PDF|language=日本語|title= 新京成線連続立体交差事業(鎌ヶ谷大仏駅〜くぬぎ山駅間)全線高架運行開始について|publisher=千葉県県土整備部道路整備課|date=2019-11-19|accessdate=2020-12-29|archivedate=2020-12-28}}</ref>。
** [[12月27日]] - [[新京成電鉄80000形電車|80000形]]が営業運転開始<ref>{{Cite web|和書|title=新京成14年ぶりの新型「80000形」 共同開発でも独自仕様さまざま|url=https://www.tetsudo.com/report/201/ |publisher=鉄道コム|date=2019-12-09|accessdate=2019-12-28}}</ref><ref name="sl20191227" />。
* [[2022年]](令和4年)
** 4月21日 - 開業75周年とふなっしー地上降臨10周年を記念した、ふなっしーのヘッドマーク付きラッピング列車「ふなっしートレイン」を12月末までの予定で運行開始(2017年以来2回目。期間は延長して2023年3月まで)<ref group="広報">[https://www.shinkeisei.co.jp/topics/2022/25989/ ふなっしートレインを運行します(4/21~)] 新京成電鉄ニュースリリース(2022年4月13日)2023年2月27日閲覧</ref><ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/233431 [東京新聞鉄道クラブ]「ふなっしー」列車]『[[東京新聞]]』朝刊2023年2月27日26面(同日閲覧)</ref>。
** [[5月22日]] - 空間波式デジタル[[列車無線]]の使用を開始<ref group="注">自社線内は当日より空間波式アナログ列車無線から一斉切り替え。空間波式デジタル列車無線は直通先の京成電鉄でも使用されているがこの時点では京成電鉄は従来の[[誘導無線]]式アナログ列車無線との併用となっており、直通する編成においては京成線内では誘導無線式アナログ列車無線を使用。</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[4月22日]] - 列車無線を空間波式デジタルに移行完了<ref group="注">移行完了に伴い、直通先である京成線内でも新京成車を含む直通先事業者所属車両における空間波式デジタル列車無線を使用開始した。</ref><ref group="広報" name="shinkeisei20230424">{{PDFlink|[https://www.shinkeisei.co.jp/official/wp-content/uploads/2023/04/230424_relrease_digital.pdf デジタル方式の列車無線工事が完了しました]}} - 新京成電鉄、2023年4月24日</ref>。
=== 今後の予定 ===
* C-ATSを全線に拡大する予定<ref group="広報" name="c-ats" />。
* 2025年(令和7年)4月1日付をもって、京成電鉄が新京成電鉄を簡易合併方式により吸収合併する予定<ref name="keisei20231031" /><ref name="chibanippo20231031" />。これに伴い、本路線が京成電鉄の路線となる予定。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[千葉県]]内に所在。
* 全列車が各駅に停車。
* [[駅ナンバリング|駅番号]]は2014年2月23日から導入<ref group="広報" name="shinkeisei20140203" />。「SL」とは「Shinkeisei Line」の略<ref group="注">「SK」は[[西武国分寺線]]で使用済みのため。</ref>。
* 全駅で出改札を終日実施(下記○印の駅は発売券種制限あり)。
; 駅員
: ●:終日配置
: ○:7:00 - 22:00に限り「係員」を配置。その他の時間はインターホン対応。遠隔監視システム導入。
:* 各駅とも[[高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律|交通バリアフリー法]]上の「特定旅客施設」に該当する一日5,000人以上の乗降人員がある。
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #EF59A1;"|駅番号
!style="width:8em; border-bottom:solid 3px #EF59A1;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #EF59A1;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #EF59A1;"|累計キロ
!style="width:1.5em; border-bottom:solid 3px #EF59A1;"|{{縦書き|駅員}}
!style="border-bottom:solid 3px #EF59A1;"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #EF59A1;"|所在地
|-
!style="width:2.5em;"|SL01
|[[松戸駅]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|0.0
|style="text-align:center;"|●
|[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] [[常磐快速線|常磐線(快速)]]([[上野東京ライン]]) (JJ 06) ・[[ファイル:JR JL line symbol.svg|18px|JL]] [[常磐緩行線|常磐線(各駅停車)]] (JL 22)
|rowspan="8"|[[松戸市]]
|-
!style="width:2.5em;"|SL02
|[[上本郷駅]]
|style="text-align:right"|1.7
|style="text-align:right"|1.7
|style="text-align:center;"|○
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL03
|[[松戸新田駅]]
|style="text-align:right"|0.7
|style="text-align:right"|2.4
|style="text-align:center;"|○
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL04
|[[みのり台駅]]
|style="text-align:right"|0.6
|style="text-align:right"|3.0
|style="text-align:center;"|○
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL05
|[[八柱駅]]
|style="text-align:right"|0.8
|style="text-align:right"|3.8
|style="text-align:center;"|●
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JM line symbol.svg|18px|JM]] [[武蔵野線]]([[新八柱駅]]:JM 14)
|-
!style="width:2.5em;"|SL06
|[[常盤平駅]]
|style="text-align:right"|1.8
|style="text-align:right"|5.6
|style="text-align:center;"|●
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL07
|[[五香駅]]
|style="text-align:right"|1.8
|style="text-align:right"|7.4
|style="text-align:center;"|●
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL08
|[[元山駅 (千葉県)|元山駅]]
|style="text-align:right"|1.3
|style="text-align:right"|8.7
|style="text-align:center;"|●
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL09
|[[くぬぎ山駅]]
|style="text-align:right"|0.9
|style="text-align:right"|9.6
|style="text-align:center;"|●
|
|rowspan="5"|[[鎌ケ谷市]]
|-
!style="width:2.5em;"|SL10
|[[北初富駅]]
|style="text-align:right"|1.8
|style="text-align:right"|11.4
|style="text-align:center;"|○
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL11
|[[新鎌ヶ谷駅]]
|style="text-align:right"|0.7
|style="text-align:right"|12.1
|style="text-align:center;"|●
|[[北総鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Hokusō.svg|18px|HS]] [[北総鉄道北総線|北総線]] (HS08)<br />[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix SkyAccess.svg|18px|KS]] [[京成成田空港線|成田空港線(成田スカイアクセス線)]]<br />[[東武鉄道]]:[[ファイル:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|18px|TD]] [[東武野田線|野田線(東武アーバンパークライン)]](TD-30)
|-
!style="width:2.5em;"|SL12
|[[初富駅]]
|style="text-align:right"|1.2
|style="text-align:right"|13.3
|style="text-align:center;"|○
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL13
|[[鎌ヶ谷大仏駅]]
|style="text-align:right"|2.1
|style="text-align:right"|15.4
|style="text-align:center;"|●
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL14
|[[二和向台駅]]
|style="text-align:right"|0.9
|style="text-align:right"|16.3
|style="text-align:center;"|●
|
|rowspan="9"|[[船橋市]]
|-
!style="width:2.5em;"|SL15
|[[三咲駅]]
|style="text-align:right"|0.8
|style="text-align:right"|17.1
|style="text-align:center;"|○
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL16
|[[滝不動駅]]
|style="text-align:right"|1.4
|style="text-align:right"|18.5
|style="text-align:center;"|○
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL17
|[[高根公団駅]]
|style="text-align:right"|1.0
|style="text-align:right"|19.5
|style="text-align:center;"|●
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL18
|[[高根木戸駅]]
|style="text-align:right"|0.6
|style="text-align:right"|20.1
|style="text-align:center;"|○
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL19
|[[北習志野駅]]
|style="text-align:right"|0.9
|style="text-align:right"|21.0
|style="text-align:center;"|●
|[[東葉高速鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Toyo-Rapid.svg|18px|TR]] [[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]] (TR04)
|-
!style="width:2.5em;"|SL20
|[[習志野駅]]
|style="text-align:right"|0.7
|style="text-align:right"|21.7
|style="text-align:center;"|○
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL21
|[[薬園台駅]]
|style="text-align:right"|0.8
|style="text-align:right"|22.5
|style="text-align:center;"|●
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL22
|[[前原駅]]
|style="text-align:right"|1.4
|style="text-align:right"|23.9
|style="text-align:center;"|○
|
|-
!style="width:2.5em;"|SL23
|[[新津田沼駅]] <!-- 所在地についてはノート参照 -->
|style="text-align:right"|1.4
|style="text-align:right"|25.3
|style="text-align:center;"|●
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[総武快速線|総武線(快速)]]・[[ファイル:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]([[津田沼駅]]:JO 26・JB 33)
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[習志野市]]
|-
!style="width:2.5em;"|SL24
|[[京成津田沼駅]]
|style="text-align:right"|1.2
|style="text-align:right"|26.5
|style="text-align:center;"|●
|京成電鉄:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] '''[[京成千葉線|千葉線]](KS26、直通運転:下記参照)'''・[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成本線|本線]]
|-
!colspan="5"|直通運転区間
|colspan="2"|[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成千葉線]][[千葉中央駅]]まで(新京成車のみで日中のみ)
|}
=== 廃駅 ===
* [[藤崎台駅]](前原駅 - 京成津田沼駅間 1953年11月1日開業、1968年5月14日廃止)
== 沿線風景 ==
=== 松戸駅 - 新鎌ヶ谷駅間 ===
'''[[松戸駅]]'''を出発すると右側に大きくカーブをし、[[下総台地]]を登る緩やかな勾配にさしかかる。[[国道6号]]を超え、勾配を登り終えると[[新京成鉄道模型館]]があった'''[[上本郷駅]]'''へと到着する。松戸駅 - 上本郷駅間は新たに建設された区間であり、切り通しの残土は松戸駅の向こう側である平潟の土地整理に利用された。元々の[[鉄道連隊演習線]]跡とは上本郷駅手前で合流する。次の'''[[松戸新田駅]]'''と'''[[みのり台駅]]'''は駅間距離が短く、しばらく住宅地の中を走る。[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[武蔵野線]]との[[乗換駅]]である'''[[八柱駅]]'''を過ぎると、左手に[[21世紀の森と広場]]や[[森のホール21]]を見ながら右にカーブし、'''[[常盤平駅]]'''へと至る。この周辺は新京成線の開通後に[[常盤平団地]]として[[ベッドタウン]]化した街である。次の'''[[五香駅]]'''を過ぎるとカーブが連続する[[線形 (路線)|線形]]が続き、併走する[[千葉県道57号千葉鎌ケ谷松戸線]](一部区間は[[国道464号]]との重複区間)とはこの先[[踏切]]で4回も交差をすることになる。'''[[元山駅 (千葉県)|元山駅]]'''を出ると[[陸上自衛隊]][[松戸駐屯地]]の中を走り、新京成電鉄本社のある'''[[くぬぎ山駅]]'''へと至る。沿線は[[ナシ|梨]]園が多く、シーズンになると観光農園として賑わっている<ref name="keyobank1207" />。線路は東に進路を変え、[[くぬぎ山車両基地]]を右手に見ながら[[北総鉄道北総線|北総線]]・[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]の高架をくぐった後高架線となり'''[[北初富駅]]'''へ至る。この先、'''[[新鎌ヶ谷駅]]'''までは北総線・成田スカイアクセス線と併走して走る。
=== 新鎌ヶ谷駅 - 京成津田沼駅間 ===
新鎌ヶ谷駅を出ると南へ大きく進路を変え、'''[[初富駅]]'''へと至る。この区間は[[新鎌ケ谷]]の街の開発にあわせ、[[連続立体交差事業|連続立体交差化]]が行われた。次の'''[[鎌ヶ谷大仏駅]]'''は[[船橋新京成バス]]の車庫に隣接しており、駅の近くには駅名の由来にもなった[[鎌ヶ谷大仏]]がある。しばらく直線区間が続くが、'''[[二和向台駅]]'''を過ぎると再びカーブの多い線形となる。'''[[三咲駅]]'''から'''[[滝不動駅]]'''にかけては沿線に畑や[[果樹園]]などの田園風景が広がるが、次の'''[[高根公団駅]]'''を過ぎると再び住宅地の中を走る。'''[[高根木戸駅]]'''にかけての周辺には[[日本住宅公団]](現在の[[都市再生機構|UR]]の前身)により開発された[[高根台団地]]が広がり、「高根公団」駅の駅名の由来にもなっている。やがて線路は[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速鉄道線]]との乗換駅である'''[[北習志野駅]]'''へと到着する。周辺には[[習志野台団地]]が広がり、また学校が多く朝夕は学生で賑わっている。北習志野駅を過ぎると右にカーブし、すぐに'''[[習志野駅]]'''へと到着する。[[習志野]]と称するものの、駅は[[習志野市]]ではなく[[船橋市]]に位置している{{Refnest|group="注"|新京成電鉄の習志野駅は1948年の開業<ref name="chizucho">今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳』3号 関東1([[新潮社]]、2008年)p.38</ref>で1954年の習志野市の成立<ref>[https://www.city.narashino.lg.jp/joho/shokai/yurai.html 名前の由来] - 習志野市</ref>より前に生まれている。詳細は「[[習志野]]」の項を参照。{{要出典範囲|date=2018年10月|また、鉄道連隊演習線の頃には付近に「西習志野」停車場があった}}。}}。次の'''[[薬園台駅]]'''付近は直線区間が続くが、'''[[前原駅]]'''を過ぎると[[国道296号]]と交差し、線路は[[イオンモール津田沼]]を左に見ながら大きくカーブして'''[[新津田沼駅]]'''へと至る。周辺は[[繁華街]]となっているが、JRの[[津田沼駅]]とは400m程離れており徒歩連絡となる。これから先は[[単線]]区間となり、大きく逆S字カーブを描きながら[[京成本線]]と合流し、終点の'''[[京成津田沼駅]]'''へと到着する。
== 車両 ==
=== 自社車両 ===
==== 現用車両 ====
* [[新京成電鉄80000形電車|80000形]] - [[2019年]][[12月27日]]営業運転開始<ref name="sl20191227">{{Cite tweet|author=新京成電鉄【公式】 |user=shinkeisei_info|number=1210386759458050048|title=新形式車両80000形。今日から運行を開始しました。よろしくお願いいたします。 https://t.co/3rQNQHzAxC|date=2019-12-27|accessdate=2019-12-27|language=ja}}</ref>。
* [[新京成電鉄N800形電車|N800形]]
* [[新京成電鉄8900形電車|8900形]]
* [[新京成電鉄8800形電車|8800形]]
<gallery>
新京成80000形80016編成.jpg|80000形
Shinkeisei-n800pink.jpg|N800形新塗装車
Shinkeisei8900pink.jpg|8900形新塗装車
Shinkeisei8800pink-wiki.jpg|8800形新塗装車
</gallery>
==== 過去の車両 ====
* [[新京成電鉄800形電車|800形]]
* [[新京成電鉄8000形電車|8000形]]
<gallery>
Shinkeisei8000pink-wiki.jpg|8000形新塗装車
</gallery>
=== 乗り入れ車両 ===
新京成は[[京成千葉線]]に乗り入れているが、片乗り入れであるため他社から乗り入れてくる車両は存在しない。
==== 過去の乗り入れ車両 ====
* [[北総鉄道|北総開発鉄道]](当時、現・[[北総鉄道]])
** [[北総開発鉄道7300形電車|7300形]](7308・7318編成のみ)
** [[北総開発鉄道7000形電車|7000形]]
* [[住宅・都市整備公団]](当時、現・[[千葉ニュータウン鉄道]])
** [[住宅・都市整備公団2000形電車|2000形]](当時。後に9000形に改称)
== 利用状況 ==
2005年度の[[輸送量の単位|旅客輸送人キロ]]は722百万人キロ<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/singikai/koutusin/koutu/chiiki/3/images/05.pdf 地方民鉄の現状と課題(2006年11月14日、日本民営鉄道協会)]}}より算出。</ref>となっている。
=== 輸送実績 ===
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead">年度別輸送実績</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
新京成線の近年の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%"
|-
! rowspan="2" style="width:150px" | 年度
! colspan="4" style="width:280px" | 輸送実績(乗車人員):万人/年度
! rowspan="2" style="width:350px" | 特記事項
|-
! style="width:70px" | 通勤定期
! style="width:70px" | 通学定期
! style="width:70px" | 定期外
! style="width:70px" | 合計
|-
! style="font-weight:normal" | 1975年(昭和50年)
| 4397.7
| 1391.5
| 1816.5
| 7605.7
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1976年(昭和51年)
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1977年(昭和52年)
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1978年(昭和53年)
| 4660.2
| 1458.2
| 2190.9
| 8309.4
| style="text-align:left" | 北総開発鉄道北総線(当時)と相互直通運転開始
|-
! style="font-weight:normal" | 1979年(昭和54年)
| 4897.3
| 1467.5
| 2277.7
| 8642.6
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1980年(昭和55年)
| 5083.3
| 1548.2
| 2360.4
| 8992.0
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1981年(昭和56年)
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1982年(昭和57年)
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1983年(昭和58年)
|
|
|
|
| style="text-align:left" | 住宅・都市整備公団線(当時)と相互直通運転開始
|-
! style="font-weight:normal" | 1984年(昭和59年)
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1985年(昭和60年)
| 5409.5
| 1716.8
| 2508.3
| 9634.6
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1986年(昭和61年)
| 5535.5
| 1794.9
| 2591.2
| 9921.6
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1987年(昭和62年)
| 5693.6
| 1894.3
| 2647.4
| 10235.3
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1988年(昭和63年)
| 5987.7
| 1981.7
| 2791.8
| 10761.2
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1989年(平成元年)
| 6123.6
| 2014.4
| 2901.6
| 11039.6
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1990年(平成2年)
| style="background-color: #ffcccc;"| 6324.5
| style="background-color: #ffcccc;"| 2140.1
| 3050.7
| 11515.3
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1991年(平成3年)
| 6087.5
| 2059.1
| 3158.2
| 11304.8
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1992年(平成4年)
| 6116.9
| 2086.7
| 3265.4
| 11469.0
| style="text-align:left" | 新鎌ヶ谷駅開業 北総公団線(当時)との相互運転廃止
|-
! style="font-weight:normal" | 1993年(平成5年)
| 6125.7
| 2065.2
| 3411.7
| 11602.6
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1994年(平成6年)
| 6097.2
| 2025.4
| 3661.4
| style="background-color: #ffcccc;"| 11784.0
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1995年(平成7年)
| 6087.9
| 2001.3
| 3651.5
| 11740.7
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1996年(平成8年)
| 5753.3
| 1780.0
| 3578.6
| 11111.9
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1997年(平成9年)
| 5589.7
| 1626.6
| 3472.5
| 10688.8
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1998年(平成10年)
| 5450.9
| 1540.3
| 3420.5
| 10411.7
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1999年(平成11年)
| 5319.8
| 1485.9
| 3427.2
| 10232.9
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2000年(平成12年)
| 5210.9
| 1412.4
| 3430.9
| 10054.2
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2001年(平成13年)
| 5124.7
| 1355.4
| 3479.5
| 9959.6
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2002年(平成14年)
| 4990.4
| 1327.2
| 3507.3
| 9824.9
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2003年(平成15年)
| 4971.8
| 1318.1
| 3603.1
| 9893.0
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2004年(平成16年)
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2005年(平成17年)
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2006年(平成18年)
|
|
|
|
| style="text-align:left" | 京成千葉線と直通運転開始
|-
! style="font-weight:normal" | 2007年(平成19年)
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2008年(平成20年)
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2009年(平成21年)
|5143.1
|1232.6
|3733.0
|10108.6
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2010年(平成22年)
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2011年(平成23年)
|
|
|
|
| style="text-align:left" | 東日本大震災発生
|-
! style="font-weight:normal" | 2012年(平成24年)
|5074.1
|1328.7
|3738.0
|10140.8
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2013年(平成25年)
|5171.1
|1374.6
|3763.3
|10309.0
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2014年(平成26年)
| 5107.7
| 1326.4
| 3714.4
| 10191.5
| style="text-align:left" |全営業車両が6両編成化
|-
! style="font-weight:normal" | 2015年(平成27年)
| 5218.4
| 1350.5
| 3764.7
| 10333.6
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2016年(平成28年)
|5237.8
|1356.2
|3736.7
|10330.7
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2017年(平成29年)
|5314.3
|1333.4
| style="background-color: #ffcccc;"|3768.0
|10415.7
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2018年(平成30年)
|5381.9
|1308.8
|3748.7
|10439.3
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2019年(令和元年)
|5460.8
|1288.3
|3661.6
|10410.7
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2020年(令和2年)
| style="background-color:#ccffff" |4693.1
| style="background-color:#ccffff" |728.1
| style="background-color:#ccffff" |2643.9
| style="background-color:#ccffff" |8065.0
|
|}
</div>
</div>
=== 収入実績 ===
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead">年度別収入実績</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
新京成線の近年の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最低値を青色で表記している。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:90%"
|-
! rowspan="2" style="width:150px" | 年度
! colspan="5" style="width:350px" | 旅客運賃収入:千円/年度
! rowspan="2" style="width:80px" | 運輸雑収<br />千円/年度
! rowspan="2" style="width:80px" | 総合計<br />千円/年度
|-
! style="width:70px" | 通勤定期
! style="width:70px" | 通学定期
! style="width:70px" | 定期外
! style="width:70px" | 手小荷物
! style="width:70px" | 合計
|-
! style="font-weight:normal" | 1975年(昭和50年)
| 1,820,606
| style="text-align:center" | ←←←←
| 1,190,971
| 0
| 3,011,577
| 131,734
| 3,143,311
|-
! style="font-weight:normal" | 1976年(昭和51年)
|
| style="text-align:center" | ←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1977年(昭和52年)
|
| style="text-align:center" | ←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1978年(昭和53年)
| 2,638,668
| style="text-align:center" | ←←←←
| 1,839,039
| 0
| 4,477,708
| 171,262
| 4,648,970
|-
! style="font-weight:normal" | 1979年(昭和54年)
| 3,030,630
| style="text-align:center" | ←←←←
| 2,088,927
| 0
| 5,119,558
| 204,226
| 5,323,784
|-
! style="font-weight:normal" | 1980年(昭和55年)
| 3,256,123
| style="text-align:center" | ←←←←
| 2,286,686
| 0
| 5,542,809
| 240,599
| 5,783,407
|-
! style="font-weight:normal" | 1981年(昭和56年)
|
| style="text-align:center" | ←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1982年(昭和57年)
|
| style="text-align:center" | ←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1983年(昭和58年)
|
| style="text-align:center" | ←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1984年(昭和59年)
|
| style="text-align:center" | ←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1985年(昭和60年)
| 4,585,066
| style="text-align:center" | ←←←←
| 3,144,182
| 0
| 7,729,248
| 302,645
| 8,031,893
|-
! style="font-weight:normal" | 1986年(昭和61年)
|
| style="text-align:center" | ←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1987年(昭和62年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1988年(昭和63年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1989年(平成元年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1990年(平成2年)
| 4,912,010
| 958,377
| 4,180,930
| 0
| 10,051,317
| 442,598
| 10,493,915
|-
! style="font-weight:normal" | 1991年(平成3年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1992年(平成4年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1993年(平成5年)
| 4,724,949
| 929,296
| 4,602,878
| 0
| 10,257,123
| 380,808
| 10,637,931
|-
! style="font-weight:normal" | 1994年(平成6年)
| 4,723,490
| 917,052
| 4,765,521
| 0
| 10,406,063
| 392,940
| 10,799,003
|-
! style="font-weight:normal" | 1995年(平成7年)
| 4,981,672
| 943,989
| 5,105,802
| 0
| 11,031,463
| 399,431
| 11,430,894
|-
! style="font-weight:normal" | 1996年(平成8年)
| 5,124,301
| 927,040
| 5,360,423
| 0
| 11,411,764
| 431,883
| 11,843,647
|-
! style="font-weight:normal" | 1997年(平成9年)
| 4,958,606
| 840,738
| 5,277,437
| 0
| 11,076,781
| 395,802
| 11,472,583
|-
! style="font-weight:normal" | 1998年(平成10年)
| 4,841,544
| 797,483
| 5,210,264
| 0
| 10,849,291
| 451,101
| 11,300,392
|-
! style="font-weight:normal" | 1999年(平成11年)
| 4,730,600
| 770,182
| 5,219,053
| 0
| 10,719,835
| 385,456
| 11,105,291
|-
! style="font-weight:normal" | 2000年(平成12年)
| 4,635,149
| 730,045
| 5,218,532
| 0
| 10,583,726
| 410,653
| 10,994,379
|-
! style="font-weight:normal" | 2001年(平成13年)
| 4,547,525
| 700,352
| 5,307,957
| 0
| 10,555,834
| 385,681
| 10,941,515
|-
! style="font-weight:normal" | 2002年(平成14年)
| 4,429,873
| 685,067
| 5,366,980
| 0
| 10,481,920
| 338,704
| 10,820,624
|-
! style="font-weight:normal" | 2003年(平成15年)
| 4,416,424
| 679,571
| 5,528,151
| 0
| 10,624,146
| 1,449,882
| 12,691,838
|-
! style="font-weight:normal" | 2004年(平成16年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2005年(平成17年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2006年(平成18年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
|-
! style="font-weight:normal" | 2007年(平成19年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2008年(平成20年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2009年(平成21年)
|4,543,746
|624,510
|5,669,358
|0
|10,837,613
|349,265
|11,186,878
|-
! style="font-weight:normal" | 2010年(平成22年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2011年(平成23年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2012年(平成24年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2013年(平成25年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2014年(平成26年)
| 4,487,353
| 663,320
| 5,150,673
| 0
| 10,826,080
| 344,326
| 11,170,406
|-
! style="font-weight:normal" | 2015年(平成27年)
| 4,555,084
| 676,141
| 5,756,394
| 0
| 10,987,619
| 414,180
| 11,401,799
|}
</div>
</div>
<!--
=== 混雑率・集中率 ===
[[川島令三]]の分析による。最混雑区間は[[上本郷駅]]→[[松戸駅]]。1両平均124人と標準的であるが、以前は134人にしていた。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|年度
!colspan="6"|最混雑区間輸送実績<ref>{{Cite book|和書|author=川島令三|title=東京圏通勤電車どの路線が速くて便利か|publisher=[[草思社]]|year=2006|ISBN=978-4794214843}}</ref>
!rowspan="2"|特記事項
|-
!時間帯!!運転本数!!輸送力(1両平均)!!輸送人員!!混雑率!!集中率
|-
|1989年<br/>(平成元年)
|7:15-||6両×11本<br/>8両×4本||13160人(134)||24084人||183%||37%
|
|-
|1996年<br/>(平成8年)
|7:22-||6両×6本<br/>8両×10本||14384人(124)||19475人||135%||35%
|
|-
|1999年<br/>(平成11年)
| || || || ||126%||31.8%
|
|-
|2002年<br/>(平成14年)
|7:34-||6両×7本<br/>8両×9本||14136人(124)||17451人||123%||33%
|
|-
|}
基本的に松戸・新津田沼両方向への流れが強い。北習志野や新鎌ヶ谷に向かう流れもあるが、北総や東葉の高運賃が災いして両端駅に比べると少ない。[[北初富駅]]-[[鎌ヶ谷大仏駅]]が谷になっている。但し、北総や東葉の開業により定期客が減り、定期外客が増えている。<ref>{{Cite book|和書|author=川島令三|title=[[全国鉄道事情大研究]](東京東部・千葉篇2)|publisher=草思社|year=2003|ISBN=978-4794211934}}</ref>
-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ====
{{Reflist|group="広報"}}
== 参考文献 ==
<!-- 参考文献の定義:本項目の記述に際して参考とした文献 -->
* {{Cite book |和書 |author=白土貞夫|authorlink=白土貞夫 |year=1996 |title=ちばの鉄道一世紀 |publisher=[[崙書房]] |isbn=978-4845510276 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=白土貞夫 編著 |year=2012 |title=新京成電鉄 駅と電車の半世紀 |publisher=[[彩流社]] |isbn=978-4779117121}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.shinkeisei.co.jp/train/station/ 路線図・駅情報] - 新京成電鉄
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/railmap/railmap_221126.pdf 停車駅ご案内] - 京成電鉄 - 伝統的に新京成線を併載
{{デフォルトソート:しんけいせいせん}}
[[Category:関東地方の鉄道路線]]
[[Category:新京成電鉄|路]]
[[Category:千葉県の交通]]
[[Category:部分廃止路線]] | 2003-03-07T07:32:26Z | 2023-12-04T16:10:13Z | false | false | false | [
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3,578 | ラインラント | ラインラント(Rheinland)は、ドイツ西部、ライン川沿岸の一帯を指す地方の名称。ラインラント=プファルツ州のほぼ全域とノルトライン=ヴェストファーレン州西部を中心に、ヘッセン州西部、バーデン=ヴュルテンベルク州北部にまたがる。沿岸一帯といっても、南部の上流域であるアルザスやバーデン地方は含まず、カールスルーエ付近からオランダ国境付近までを指す。ベネルクス三国やフランスのロレーヌ地方に接し、西欧の経済・産業の一大中心地である。
フランク族発祥地ということもあって方言系統はフランク語系に属し、宗教的には比較的カトリックが強い。観光名所が集まり、ドイツワインの中心的産地としても世界的に知られる。
第四紀の更新世には、ネアンデルタール人がこの地域に分布していたが、ネアンデルタール人は、デュッセルドルフ近くのネアンデル谷から名付けられた。
古代ローマ帝国の時代から都市が建設され、ドイツでは最も古くから文明が栄えた地域でもある。ケルン、マインツなどの歴史ある都市が点在し、中世には神聖ローマ帝国を支える主要地域の一つであった。
その地域的重要性から、ルイ14世以来フランスの侵攻をたびたび受けた。ナポレオン戦争の際には、ライン川西岸一帯がフランスの占領下に降ることとなった。1815年のウィーン議定書によってプロイセン王国に割譲され、1822年よりラインラント県がおかれた。周辺地域の豊富な地下資源とライン川による物流という地理的優位性から、ドイツにおける工業化の中心地となり、1871年のドイツ帝国成立後も工業地帯として発展した。第一次世界大戦後のパリ講和会議によって成立したヴェルサイユ条約で、ラインラントの非武装化が定められた。
その後、1925年のロカルノ条約によって、再びこの地が非武装地帯であることが確認されたが、1933年に成立したヒトラー政権のもとでヴェルサイユ条約、ロカルノ条約が破棄され、1936年3月7日にドイツ軍がラインラントに進駐した。現在は、ラインラント=プファルツ州、ヘッセン州、ノルトライン=ヴェストファーレン州などにまたがる一地域となっている。 | [
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] | ラインラント(Rheinland)は、ドイツ西部、ライン川沿岸の一帯を指す地方の名称。ラインラント=プファルツ州のほぼ全域とノルトライン=ヴェストファーレン州西部を中心に、ヘッセン州西部、バーデン=ヴュルテンベルク州北部にまたがる。沿岸一帯といっても、南部の上流域であるアルザスやバーデン地方は含まず、カールスルーエ付近からオランダ国境付近までを指す。ベネルクス三国やフランスのロレーヌ地方に接し、西欧の経済・産業の一大中心地である。 フランク族発祥地ということもあって方言系統はフランク語系に属し、宗教的には比較的カトリックが強い。観光名所が集まり、ドイツワインの中心的産地としても世界的に知られる。 | {{otheruses||ドイツ海軍の戦艦|ラインラント (戦艦)}}
{{出典の明記|date=2013年1月}}
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'''ラインラント'''(Rheinland)は、[[ドイツ]]西部、[[ライン川]]沿岸の一帯を指す地方の名称。[[ラインラント=プファルツ州]]のほぼ全域と[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]西部を中心に、[[ヘッセン州]]西部、[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]北部にまたがる。沿岸一帯といっても、南部の上流域である[[アルザス]]や[[バーデン (領邦)|バーデン]]地方は含まず、[[カールスルーエ]]付近から[[オランダ]]国境付近までを指す。[[ベネルクス]]三国や[[フランス]]の[[ロレーヌ]]地方に接し、西欧の経済・産業の一大中心地である。
[[フランク族]]発祥地ということもあって方言系統は[[フランク語|フランク語系]]に属し、[[宗教]]的には比較的[[カトリック教会|カトリック]]が強い。観光名所が集まり、[[ドイツワイン]]の中心的産地としても世界的に知られる{{要出典|date=2018年4月}}。
== 歴史 ==
[[第四紀]]の[[更新世]]には、[[ネアンデルタール人]]がこの地域に分布していたが、ネアンデルタール人は、[[デュッセルドルフ]]近くの[[ネアンデル谷]]から名付けられた。
古代[[ローマ帝国]]の時代から都市が建設され、ドイツでは最も古くから文明が栄えた地域でもある。[[ケルン]]、[[マインツ]]などの歴史ある都市が点在し、[[中世]]には[[神聖ローマ帝国]]を支える主要地域の一つであった。
その地域的重要性から、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]以来フランスの侵攻をたびたび受けた。[[ナポレオン戦争]]の際には、ライン川西岸一帯がフランスの占領下に降ることとなった。1815年の[[ウィーン議定書]]によって[[プロイセン王国]]に割譲され、1822年よりラインラント県がおかれた。周辺地域の豊富な地下資源と[[ライン川]]による物流という地理的優位性から、ドイツにおける工業化の中心地となり、1871年の[[ドイツ帝国]]成立後も工業地帯として発展した。[[第一次世界大戦]]後の[[パリ講和会議]]によって成立した[[ヴェルサイユ条約]]で、ラインラントの非武装化が定められた。
その後、1925年の[[ロカルノ条約]]によって、再びこの地が[[非武装地帯]]であることが確認されたが、1933年に成立したヒトラー政権のもとでヴェルサイユ条約、ロカルノ条約が破棄され、[[1936年]][[3月7日]]にドイツ軍が[[ラインラント進駐|ラインラントに進駐]]した。現在は、[[ラインラント=プファルツ州]]、[[ヘッセン州]]、[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]などにまたがる一地域となっている<ref>Gerhard Köbler: ''Historisches Lexikon der deutschen Länder''. 6. Aufl. München: C.H.Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 524-525.</ref>。
== 主な都市 ==
* [[シュパイアー]]
* [[カールスルーエ]]
* [[マンハイム]]
* [[マインツ]]
* [[ヴィースバーデン]]
* [[コブレンツ]]
* [[トリーア]]
* [[ボン]]
* [[アーヘン]]
* [[ケルン]]
* [[デュッセルドルフ]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ドイツのワイン]]
* [[ルール地方]]
* [[ウィーン会議]]
* [[アルザス=ロレーヌ]]
* [[中部フランク王国]]
* [[ラインラントの私生児]]
* [[ラインラント進駐]]
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[[Category:フランスの歴史的地域]] | null | 2023-06-01T15:33:38Z | false | false | false | [
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3,580 | 新京成電鉄 |
新京成電鉄株式会社(しんけいせいでんてつ、英: Shin-Keisei Electric Railway Co.,Ltd.)は、千葉県東葛地域を拠点とする鉄道会社。京成電鉄の完全子会社であり京成グループの企業で、京成グループ共通の「K'SEI GROUP」ロゴを使用している。1990年(平成2年)5月31日以降、関東地方で唯一の準大手私鉄に分類される。パスネットの符丁はSK。本社所在地は千葉県鎌ケ谷市くぬぎ山4丁目1番12号。
千葉県松戸市の松戸駅と習志野市の京成津田沼駅の間で鉄道事業(新京成線)を行うほか、不動産業を展開する。かつてはバス事業も営んでいたが、2003年(平成15年)10月1日に松戸新京成バス・習志野新京成バス・船橋新京成バスの3社に分社化(後に習志野新京成バスは2014年(平成26年)4月16日をもって船橋新京成バスに吸収合併)し、直営事業としては行っていない。詳細については各社の記事および新京成バスを参照のこと。
京成カード(鉄道定期券のみ)加盟店。
2025年(令和7年)4月1日をもって親会社の京成電鉄に吸収合併(簡易合併・略式合併)されることが決まっており、関東地方から準大手私鉄が消滅することとなった。
社章は京成電鉄社紋に英字社名のイニシャルである「S」を加えたものである。1946年(昭和21年)10月23日に制定されたものであるため、ベースの京成社紋は1964年(昭和39年)改定前のものである。
シンボルマークとコーポレートカラーは2014年(平成26年)6月1日に制定された。Step Mark(ステップマーク)と命名されたシンボルマークは社名のイニシャルである「S」をカーブの多い路線になぞらえてデザインされており、右上がりとなる形はステップアップする会社の姿勢を表している。マークに添えられるロゴタイプ(shin-kei-sei)は音節ごとに区切られており、音のリズム感と読みやすさを向上させている。なお、マークとロゴタイプの位置は使われる個所に応じて2パターンある。
コーポレートカラーはメインカラーのgentle pink(ジェントルピンク)とサブカラーのnew maroon(ニューマルーン)の2色があり、メインカラーはシンボルマークに合う色として、サブカラーは従来の「新京成マルーン」を継承する新色として設定された。コーポレートカラー制定後、メインカラーは駅名標を含めた駅のサイン類のほか、ラインカラーとしても用いられている。サブカラーはロゴタイプのほか、シンボルマークや駅名標のワンポイントとして用いられている。
なお、シンボルマークおよびコーポレートカラー制定前には「SHIN-KEISEI」のロゴタイプも存在し、N800形の旧塗装車や船橋新京成バスに在籍していた深夜急行車や貸切用車に使用されていた。このほか、船橋新京成バスは別途「Funabashi Shinkeisei Bus」のロゴタイプも存在する。
8800形の導入以降、他の大手私鉄よりもいち早く在籍車両のVVVFインバータ制御化を進め、2013年(平成25年)2月8日より、在籍する全編成の電動車がVVVFインバータ制御車両となった。また、補助電源装置のSIV化も完了している。これ以外の新技術の導入も積極的で、純電気ブレーキ、シングルアームパンタグラフの導入も京成より先駆けるものとなった。
現有車両の形式はすべて縁起が良い数字とされる「8」から始まる。800形を上回る車両として8000形と命名され、800形と8000形の長所を併せ持った車両として8800形と命名されたという説がある。その後、8900形、N800形、80000形と続く。また、都営地下鉄浅草線・京浜急行電鉄直通の北総開発鉄道(当時)と同社が以前に直通運転を行い、現在は京成とも直通する関係上、車番重複を避けるための関係各社の協定による割り当て(千位が1・2は京急(この他特例で「600形」を使用)、3・4は京成(4は現在のところ使用経歴はなし)、5は都営、7は北総、8は新京成、9は千葉ニュータウン鉄道〈旧・都市公団〉)が存在する。なお、N800形まで伝統的に車外側面の車番の前に社章をつけていた。 車体は設立の経緯から、京成電鉄の払い下げ車両に準じた設計が大半を占めていたが、8000形以降は非貫通の正面形状など、京成と一線を画す独自のデザインを使用した車両が登場するようになった。その後、2000年代以降は再び京成電鉄と共通設計の車両が登場している。
完全新造車両はすべて日本車輌製造が製造を担当する。また、電動機や制御装置などの電気機器は三菱電機製(避雷器と8000形・800形の車内扇風機など一部電気機器は東芝製)を採用するが、これは1955年の全線開業に際して三菱電機の協力があったためである。ただし、N800形のみ京成3000形をベースにしているため、電動機のみが三菱電機製で、制御装置は東洋電機製造製、冷房装置および補助電源装置(SIV)は東芝製である。ただしN838編成以降の冷房装置は三菱電機製である。また、8000形のインバータ制御改造編成のインバータ装置は三菱電機製であるが、主電動機は東芝製となっている。
伝統的な車内装備品として客用扉脇に備えられた鏡がある。日本の他事業者では名古屋市営地下鉄、江ノ島電鉄、相模鉄道の一部車両に見られる程度である。設置理由は「視線がそこへ向く」ということで「鏡を見ることで広告に目が行くだろうと考えて設置された」、「副次的に痴漢防止効果も有ると考えたから」だという。
2011年からVVVFインバータ制御に改造されていない8000形を順次廃車、8800形の全編成を6両編成とし、一部編成が京成千葉線へ乗り入れている。
前述したコーポレートカラーを採用したデザインの展開を2014年8月29日より開始し、旧々塗装に復刻された8000形1編成を除く全車両に展開が行われた。
主に8両と6両の交互で運転されていたが、8800形から順に6両化、車番変更を行い、8900形の3編成にも6両化が行われた。8900形は中間付随車を抜き取っただけで車番の改番はされず、2014年(平成26年)9月30日より全編成が6両で運行されている。
一部の車両は京成線直通運転に対応していないか、対応していても乗り入れを行っていない。
800形以前の過去の車両(吊り掛け駆動方式)については京成電鉄の「1988年以前消滅形式」の項目を参照。
新京成では運行番号と関係なく下り列車では1から奇数を、上り列車では2から偶数を初列車から順に振っていく付番方法となっている。
ちなみに、親会社の京成電鉄やその乗り入れ先である北総鉄道・都営地下鉄浅草線・京浜急行電鉄では始発駅の発車時刻の「時」の数字と運行番号2桁(南行〈京成・北総の上り、京急の下り〉列車では1を引いた偶数、京成では線内のみの列車の一部でその前に〈例:aayxx〉、京成の直通列車やそれ以外の事業者では後にアルファベット1文字〈例:aaxxy、京急のみ2文字の場合あり〉が加わる場合もある)とを組み合わせた付番法であり、新京成のそれとは全く異なる(「列車番号の付番方法」を参照)。
運転区間によって百位の数字が区別されており、それぞれの種類ごとに始発駅発車順の付番となっている。
なお、千葉線直通列車では3xx列車が直通した場合、京成ではaaxxF(aaは始発駅発車時刻の「時」、Fは新京成所属車を表すアルファベット)という列車番号になる(例:8時台に松戸を出発する303列車は京成線内では803F列車)。京成線内での運行番号は下り列車ではxx、上り列車ではxx+1の奇数となる(例:303→803F→1002F→302列車の場合の運行番号は03F)。
大人普通旅客運賃(小児半額・端数は1円単位で切り捨て、きっぷの場合は10円単位で切り上げ)。2023年(令和5年)10月1日改定。
新京成電鉄の労働組合は、「新京成交通労働組合」という名称で私鉄総連に加盟している。同組合の下部組織として「新京成電鉄労働組合」と「新京成バス労働組合」があり、ユニオンショップ制であるので、社員は一部管理職などを除きそれらに所属することになる。また、バス事業は2社に分社しているが、組合は1つになっている。
1947年(昭和22年)10月25日に「新京成電鉄電鉄労働組合」を結成した。鉄道の開業は同年12月27日なので開業より2か月早い。1997年(平成9年)10月30日には関係者により組合結成50周年の祝賀会が開催されるとともに組合50年史も出版され、関係者に配布された。その後、2003年(平成15年)10月1日のバス事業分社化に伴い「新京成交通労働組合」となり、交通労組の下部組織として「電鉄労組」と「バス労組」がある現在の状態になった。
新京成電鉄の組合員は「新京成電鉄労働組合」に、新京成バス各社の組合員は「新京成バス労働組合」に所属する。バス会社の社員は、分社化前は新京成電鉄労働組合に所属していたが分社時に移籍した。2003年(平成15年)のバス事業分社前は「新京成電鉄労働組合」という1つの組織で、私鉄総連への加盟も「新京成電鉄労働組合」という名称で行っていた。船橋バスは元々別会社(大成輸送)であったという経緯から新京成交通労組には属していなかったが、独自の労働組合があった。組合結成時には新京成労組から組合旗を贈っている。長年にわたって独自に活動していたが、2006年(平成18年)秋に新京成交通労組に加盟した。その後、翌2007年(平成19年)10月1日の新京成電鉄への吸収合併に伴い新京成バス労働組合へ合流した。
事務所は以前新津田沼駅付近の線路沿いにあったが、現在は五香駅付近の線路沿いに移転している。広報誌の名称は『新路(しんろ)』で、新聞版で発行される。そのほか冊子版で発行されることもあり、組合員から寄せられた原稿が掲載される(内容は家族や趣味の話題など)。 | [
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "800形以前の過去の車両(吊り掛け駆動方式)については京成電鉄の「1988年以前消滅形式」の項目を参照。",
"title": "車両"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "新京成では運行番号と関係なく下り列車では1から奇数を、上り列車では2から偶数を初列車から順に振っていく付番方法となっている。",
"title": "列車番号"
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"text": "ちなみに、親会社の京成電鉄やその乗り入れ先である北総鉄道・都営地下鉄浅草線・京浜急行電鉄では始発駅の発車時刻の「時」の数字と運行番号2桁(南行〈京成・北総の上り、京急の下り〉列車では1を引いた偶数、京成では線内のみの列車の一部でその前に〈例:aayxx〉、京成の直通列車やそれ以外の事業者では後にアルファベット1文字〈例:aaxxy、京急のみ2文字の場合あり〉が加わる場合もある)とを組み合わせた付番法であり、新京成のそれとは全く異なる(「列車番号の付番方法」を参照)。",
"title": "列車番号"
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"text": "運転区間によって百位の数字が区別されており、それぞれの種類ごとに始発駅発車順の付番となっている。",
"title": "列車番号"
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"text": "なお、千葉線直通列車では3xx列車が直通した場合、京成ではaaxxF(aaは始発駅発車時刻の「時」、Fは新京成所属車を表すアルファベット)という列車番号になる(例:8時台に松戸を出発する303列車は京成線内では803F列車)。京成線内での運行番号は下り列車ではxx、上り列車ではxx+1の奇数となる(例:303→803F→1002F→302列車の場合の運行番号は03F)。",
"title": "列車番号"
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"text": "大人普通旅客運賃(小児半額・端数は1円単位で切り捨て、きっぷの場合は10円単位で切り上げ)。2023年(令和5年)10月1日改定。",
"title": "運賃"
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"text": "新京成電鉄の労働組合は、「新京成交通労働組合」という名称で私鉄総連に加盟している。同組合の下部組織として「新京成電鉄労働組合」と「新京成バス労働組合」があり、ユニオンショップ制であるので、社員は一部管理職などを除きそれらに所属することになる。また、バス事業は2社に分社しているが、組合は1つになっている。",
"title": "労働組合"
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"text": "1947年(昭和22年)10月25日に「新京成電鉄電鉄労働組合」を結成した。鉄道の開業は同年12月27日なので開業より2か月早い。1997年(平成9年)10月30日には関係者により組合結成50周年の祝賀会が開催されるとともに組合50年史も出版され、関係者に配布された。その後、2003年(平成15年)10月1日のバス事業分社化に伴い「新京成交通労働組合」となり、交通労組の下部組織として「電鉄労組」と「バス労組」がある現在の状態になった。",
"title": "労働組合"
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"text": "新京成電鉄の組合員は「新京成電鉄労働組合」に、新京成バス各社の組合員は「新京成バス労働組合」に所属する。バス会社の社員は、分社化前は新京成電鉄労働組合に所属していたが分社時に移籍した。2003年(平成15年)のバス事業分社前は「新京成電鉄労働組合」という1つの組織で、私鉄総連への加盟も「新京成電鉄労働組合」という名称で行っていた。船橋バスは元々別会社(大成輸送)であったという経緯から新京成交通労組には属していなかったが、独自の労働組合があった。組合結成時には新京成労組から組合旗を贈っている。長年にわたって独自に活動していたが、2006年(平成18年)秋に新京成交通労組に加盟した。その後、翌2007年(平成19年)10月1日の新京成電鉄への吸収合併に伴い新京成バス労働組合へ合流した。",
"title": "労働組合"
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{
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"text": "事務所は以前新津田沼駅付近の線路沿いにあったが、現在は五香駅付近の線路沿いに移転している。広報誌の名称は『新路(しんろ)』で、新聞版で発行される。そのほか冊子版で発行されることもあり、組合員から寄せられた原稿が掲載される(内容は家族や趣味の話題など)。",
"title": "労働組合"
}
] | 新京成電鉄株式会社は、千葉県東葛地域を拠点とする鉄道会社。京成電鉄の完全子会社であり京成グループの企業で、京成グループ共通の「K'SEI GROUP」ロゴを使用している。1990年(平成2年)5月31日以降、関東地方で唯一の準大手私鉄に分類される。パスネットの符丁はSK。本社所在地は千葉県鎌ケ谷市くぬぎ山4丁目1番12号。 | {{Pathnav|京成電鉄|frame=1}}
{{pp-vandalism|small=yes}}
{{画像提供依頼|「SHIN-KEISEI」の旧ロゴタイプ|date=2021年12月|cat=交通|cat1=鉄道}}
<!--検証可能性を満たさない部分があれば、該当箇所にテンプレートを貼付した上でノートで具体的に指摘してください-->
{{基礎情報 会社
| 社名 = 新京成電鉄株式会社
| 英文社名 = Shin-Keisei Electric Railway Co.,Ltd.
| ロゴ = [[File:Shin-Keisei Logo (Horizontal).SVG|200px|シンボルマーク]] [[File:Shin Keisei Companymark.svg|50px|社章]]<br />シンボルマーク(左)と社章(右)
| 画像 = [[File:Shinkeisei-honsya.jpg|300px]]
| 画像説明 = 本社
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 機関設計 = [[監査役会設置会社]]<ref>[https://www.shinkeisei.co.jp/corporate/company_governance/ 企業統治] - 新京成電鉄株式会社</ref>
| 市場情報 = {{上場情報 | 東証スタンダード | 9014 | 1961年10月2日 | 2022年8月30日}}
| 設立 = [[1946年]]([[昭和]]21年)[[10月23日]]
| 略称 = 新京成
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 273-0192
| 本社所在地 = [[千葉県]][[鎌ケ谷市]][[くぬぎ山]]4丁目1番12号
| 本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 46|本社緯度秒 = 54.7|本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 139|本社経度分 = 58|本社経度秒 = 31.1|本社E(東経)及びW(西経) = E
| 座標右上表示 = Yes
| 本社地図国コード = JP
| 代表者 = 代表取締役社長 [[眞下幸人]]
| 業種 = 5050
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = 鉄道による一般運輸事業、土地建物の売買、仲介及び賃貸事業
| 資本金 = 59億3594万円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy">{{Cite report |和書 |author=新京成電鉄株式会社 |date=2021-06-25 |title=第103期(2020年4月1日 - 2021年3月31日)有価証券報告書}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 発行済株式総数 = 1102万3228株<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 売上高 = 連結: 174億1536万8000円<br />単独: 126億8509万2000円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 営業利益 = 連結: △6億8947万9000円<br />単独: 2億3935万1000円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|経常利益 = 連結: △3億6416万2000円<br />単独: 4億8575万7000円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください-->
|純利益 = 連結: △10億8567万2000円<br />単独: 1180万0000円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください-->
| 純資産 = 連結: 434億8653万8000円<br />単独: 392億9306万3000円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください-->
| 総資産 = 連結: 1026億6411万4000円<br />単独: 990億4272万2000円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 従業員数 = 連結: 902人<br />単独: 477人<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 決算期 = [[3月31日]]
| 会計監査人 = [[東陽監査法人]]<ref name="fy" />
| 主要株主 = [[京成電鉄]] 100%<br />(2022年9月1日現在)
| 主要子会社 = [[#関連会社]]参照
| 関係する人物 =
| 外部リンク = https://www.shinkeisei.co.jp/
| 特記事項 =
}}
'''新京成電鉄株式会社'''(しんけいせいでんてつ、{{Lang-en-short|Shin-Keisei Electric Railway Co.,Ltd.}}<ref>{{Cite report |和書 |author=新京成電鉄株式会社 |date=2021-06-25 |title=第103期(2020年4月1日 - 2021年3月31日)有価証券報告書 表紙英訳名}}</ref>)は、[[千葉県]][[東葛地域]]を拠点とする[[鉄道事業者|鉄道会社]]。[[京成電鉄]]の完全子会社であり[[京成グループ]]の企業で、京成グループ共通の「'''K'SEI GROUP'''」ロゴを使用している。[[1990年]](平成2年)[[5月31日]]以降、[[関東地方]]で唯一の[[準大手私鉄]]{{efn|[[相模鉄道]]も関東地方の準大手の一つであったが、同日以降は[[大手私鉄]]に分類が変更されたため。}}に分類される。[[パスネット]]の符丁はSK。本社所在地は千葉県[[鎌ケ谷市]][[くぬぎ山]]4丁目1番12号。
== 概要 ==
千葉県[[松戸市]]の[[松戸駅]]と[[習志野市]]の[[京成津田沼駅]]の間で鉄道事業([[新京成電鉄新京成線|新京成線]])を行うほか、[[不動産]]業を展開する。かつては[[バス (交通機関)|バス]]事業も営んでいたが、[[2003年]](平成15年)[[10月1日]]に[[松戸新京成バス]]・習志野新京成バス・[[船橋新京成バス]]の3社に分社化(後に習志野新京成バスは[[2014年]](平成26年)[[4月16日]]をもって船橋新京成バスに吸収合併)し、直営事業としては行っていない。詳細については各社の記事および[[新京成バス]]を参照のこと。
[[京成カード]](鉄道定期券のみ)加盟店。
[[2025年]](令和7年)[[4月1日]]をもって親会社の京成電鉄に吸収合併([[簡易組織再編行為|簡易合併]]・[[略式組織再編行為|略式合併]])されることが決まっており<ref name="release20231031" group="広報"/><ref name="chibanippo20231031">{{Cite web|和書|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/1124565 |title=【速報】京成電鉄、新京成電鉄を吸収合併へ 2025年4月 現在の路線・駅は維持する方針【追記あり】|date=2023-10-31 |access-date=2023-10-31 |website=千葉日報オンライン |publisher=千葉日報社}}</ref>、関東地方から準大手私鉄が消滅することとなった。
== 歴史 ==
{{Main2|新京成線の詳細な歴史は「[[新京成電鉄新京成線]]」も}}
* [[1946年]]([[昭和]]21年)
** [[8月8日]] - 下総鉄道の名称で申請していた新津田沼 - 松戸間の免許を取得<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.93</ref>。
** [[10月23日]] - 会社設立。
* [[1947年]](昭和22年)[[12月27日]] - [[新津田沼駅]](初代) - [[薬園台駅]]間営業開始<ref name="keyobank1207">{{Cite web|和書|date=2012-07 |url=http://www.keiyobank.co.jp/ir/csr/information/pdf/tetsudo34.pdf |title=鉄道で行く千葉 第34回 新京成電鉄 |publisher=京葉銀行 |format=PDF |pages=2-4 |accessdate=2017-06-07 }}</ref>。
* [[1948年]](昭和23年)8月6日 - 薬園台駅 - [[滝不動駅]]間開業。
* [[1949年]](昭和24年)
** 自動車事業営業開始。
** 1月8日 - 滝不動駅 - [[鎌ヶ谷大仏駅]]間開業。
** 10月17日 - 鎌ヶ谷大仏駅 - 鎌ヶ谷初富駅(現:[[初富駅]])間開業。
* [[1953年]](昭和28年)
** 10月21日 - 全線で[[軌間]]を1067mmから1372mmに[[改軌]]。
** 11月1日 - [[前原駅]] - [[京成津田沼駅]]間開業。2代目新津田沼駅開業。同駅(初代) - 前原駅間廃止。
* [[1955年]](昭和30年)4月21日 - 鎌ヶ谷初富駅 - [[松戸駅]]間が開業し、全線開業([[単線]])。[[京成千葉線]]への直通運転実施(8月31日まで)。
* [[1959年]](昭和34年)11月30日 - 全線で軌道を1372mmから1435mmに改軌。
* [[1961年]](昭和36年)
** 10月 - [[東京証券取引所]]二部に上場<ref group="注釈">東証に上場している準大手私鉄は、1990年に[[相模鉄道]]が大手私鉄に昇格してから2013年に[[大阪取引所|大阪証券取引所]]の現物株式市場を東証に統合するまで(これに伴い、大証一部に上場していた準大手の[[山陽電気鉄道]]が東証一部に上場した)は新京成電鉄が唯一だった。</ref>。
** [[8月23日]] - 新津田沼駅(3代目) - 前原駅間開業。2代目の同駅は[[藤崎台駅]]に改称。
* [[1968年]](昭和43年)5月14日 - 新津田沼駅を現在地に移転(4代目)。同駅(4代目) - 京成津田沼駅間開業。前原駅 - 藤崎台駅 - 京成津田沼駅間廃止。
* [[1971年]](昭和46年) - [[新京成電鉄800形電車|800形]]電車営業運転開始。
* [[1975年]](昭和50年)2月7日 - 京成津田沼 - 新津田沼間1.2kmを除き[[複線]]化完成。
* [[1978年]](昭和53年)12月1日 - [[新京成電鉄8000形電車|8000形]]電車営業運転開始<ref name="ShinKeisei50th-210">新京成電鉄『新京成電鉄五十年史』p.210。</ref>。
* [[1979年]](昭和54年)3月9日 - 北総開発鉄道線(現:[[北総鉄道北総線]])と相互直通運転を開始。
* [[1984年]](昭和59年)3月19日 - 住宅・都市整備公団千葉ニュータウン線(現:北総鉄道北総線)と相互直通運転を開始。
* [[1985年]](昭和60年)7月1日 - [[定期券発行機]]の使用を開始(係員操作型)。
* [[1986年]](昭和61年)2月26日 - [[新京成電鉄8800形電車|8800形]]電車営業運転開始<ref name="ShinKeisei50th-229">新京成電鉄『新京成電鉄五十年史』p.229。</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)
** 4月5日 - [[三咲駅]]を橋上化。同駅で[[自動改札機]]を導入。
** 11月1日 - 運行管理システムを電算化<ref name="asahi19871030">{{Cite news | title = 新京成電鉄 「運行管理」を電算化 一日から列車の遅れ一目で | newspaper = [[朝日新聞]] | date = 1987-10-30 | author = | publisher = 朝日新聞社 | page = 朝刊 27 }}</ref>。
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** 6月1日 - [[相模鉄道]]の大手私鉄昇格に伴い、関東唯一の[[準大手私鉄]]となる。
** 6月20日 - 全車両冷房化<ref name="sougou-nenpyou">{{Cite book|和書 |author=池田光雅 |title=鉄道総合年表1972-93 |publisher=中央書院 |year=1993 |page=183}}</ref><ref name="交通900623">{{Cite news |title=新京成電鉄冷房化率100%達成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1990-06-23 |page=2 }}</ref>。路線バスもこのころ冷房改造が終了して全車冷房化される{{R|交通900623}}。
* [[1992年]](平成4年)
** 5月1日 - 全列車に[[弱冷房車]]を設定<ref>{{Cite news |title=“弱冷房車”を全列車に連結 新京成電鉄 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-04-30 |page=2 }}</ref>。
** 7月8日 - [[新鎌ヶ谷駅]]開業に伴い、北総開発鉄道線、住宅・都市整備公団線との相互直通運転を廃止。
* [[1993年]](平成5年)[[11月15日]] - [[新京成電鉄8900形電車|8900形]]電車営業運転開始<ref>{{Cite news |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-11-05 |page=3 }}</ref>。
* [[1994年]](平成6年)4月1日 - ダイヤ改正。データイムは12分間隔のパターンダイヤとなる。新京成初の冊子型有料時刻表(税込200円)を発売。
* [[1995年]](平成7年)4月1日 - 新京成線で[[SKカード]]による[[乗車カード|ストアードフェアシステム]]を導入。
* [[1996年]](平成8年)4月1日 - ダイヤ改正<ref name="交通960327">{{cite news |和書|title=所要時間を短縮 新京成電鉄 4月1日ダイヤ改正 |newspaper=交通新聞 |date=19960327 |publisher=交通新聞社 |page=5 }}</ref>。最高速度を従来の75km/hから85km/hに向上{{R|交通960327}}。データイムは10分間隔となる{{R|交通960327}}。2回目の冊子型有料時刻表、スピードアップ記念SKカードを発売。
* [[1999年]](平成11年)8月2日 - 公式サイトを開設。
* [[2000年]](平成12年)10月14日 - 共通乗車カード[[パスネット]]の運用を開始。
* [[2002年]](平成14年)
** 3月1日 - 東京証券取引所一部に上場。
** 7月26日 - 車両部門で[[ISO 9000|ISO9001:2000]]認証取得(登録日)。
** 11月1日 - 忘れ物検索システムを導入(鉄道)。
* [[2003年]](平成15年)
** [[3月13日]] - 高根[[変電所]]を新設。
** [[10月1日]] - バス事業の3社への分社化により、自動車事業はすべてグループ会社の運営となる。
** [[10月4日]] - ダイヤ改正。夜間帯の増便と終電繰り下げが行われたが、夕ラッシュ時の運転間隔が広がった。また、3回目の冊子型時刻表が作成され、駅で無料配布された。
** [[10月31日]] - [[八柱駅]]第2ビルが竣工。
* [[2005年]](平成17年)[[5月29日]] - [[新京成電鉄N800形電車|N800形]]電車営業運転開始。
* [[2006年]](平成18年)
** 10月1日 - 創立60周年を記念して[[制服]]を紺色から現行のグレーのものに変更。
** [[12月10日]] - ダイヤ改正。データイムのみ20分間隔で[[京成千葉線]][[千葉中央駅]]までの直通運転を再開。また、運転時分の見直しが行われ、松戸 - 京成津田沼が40分から44分のゆとりダイヤに。4回目の冊子型時刻表が無料配布された。
* [[2007年]](平成19年)
** [[3月18日]] - 新京成線でIC乗車カード[[PASMO]]を導入。同時に[[Suica]]との相互利用を開始。係員定期券発売所(松戸・八柱・北習志野・新津田沼)で、京成カードによる定期券発売を実施。
** 12月1日 - 松戸新田駅と前原駅に[[駅集中管理システム|遠隔監視システム]]を導入し、近隣駅からの遠隔制御による運用を実施。(時間帯によっては両駅は駅員が不在となる)
* [[2008年]](平成20年)
** [[1月10日]] - PASMOの普及に伴いこの日の終電をもってパスネットの発行・発売を終了。
** [[2月27日]] - タッチパネル式[[自動券売機]]で[[京成カード]]による[[定期乗車券|定期券]]の発売を開始。
** [[3月14日]] - この日の終電をもってパスネットの自動改札機での使用を終了。
** [[3月15日]] - パスネットの残額の払い戻し及びPASMOへの移し替えを開始。同日から駅構内の一部の飲料自動販売機でPASMO[[電子マネー]]の取り扱いを開始。八柱乗り換え定期券の発売を開始。
* [[2009年]](平成21年)4月1日 - 8800形と8000形で英語[[車内放送|自動放送]]を開始<ref group="広報" name="shikeisei20090331">{{PDFlink|[https://www.shinkeisei.co.jp/old/topics/2009/018.pdf 当社で初めて英語放送を導入 8800形・8000形電車に自動放送を導入します。]}} - 新京成電鉄、2009年3月31日</ref>。
* [[2010年]](平成22年)[[7月17日]] - ダイヤ修正に伴い800形が定期運用を離脱。[[7月24日]]・[[7月25日|25日]]にさよなら運転実施。
* [[2013年]](平成25年)
** [[2月8日]] - 在籍する全編成の電動車が[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]になる。記念乗車券も発売<ref group="広報" name="shinkeisei20130204">{{PDFlink|[https://www.shinkeisei.co.jp/pdf/topics/shinkeisei0450.pdf 全営業列車が「VVVFインバータ制御電車」になります(2/8〜)]}} - 新京成電鉄、2013年2月4日</ref>。
** [[3月23日]] - [[交通系ICカード全国相互利用サービス]]開始に伴い、 新京成線で[[Kitaca]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[ICOCA]]、[[PiTaPa]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が利用可能になる。
** [[10月30日]] - [[セブン-イレブン|セブン-イレブン・ジャパン]]と業務提携<ref name="chiba-nippo-2013-10-31">“駅売店をセブンイレブンに 14年度までに8店 新京成”. [[千葉日報]](千葉日報社). (2013年10月31日)</ref>。[[新京成リテーリングネット|スタシオン・セルビス]](当時)がフランチャイズ加盟店となり、駅売店などを転換<ref name="chiba-nippo-2013-10-31" />。
* [[2014年]](平成26年)
** [[2月23日]] - 新京成線で[[駅ナンバリング]]導入<ref group="広報" name="shinkeisei20140203">{{PDFlink|[https://www.shinkeisei.co.jp/pdf/topics/shinkeisei0603.pdf 新京成線に駅ナンバリングを導入します(2/23〜)]}} - 新京成電鉄、2014年2月3日</ref>。
** [[6月1日]] - [[#社章・シンボルマーク・コーポレートカラー|シンボルマーク]]とスローガンを刷新、[[#社章・シンボルマーク・コーポレートカラー|コーポレートカラー]]を制定<ref group="広報" name="shinkeisei20140530">{{PDFlink|[https://www.shinkeisei.co.jp/pdf/topics/shinkeisei0658.pdf 「シンボルマーク」と「スローガン」が新しくなります(6/1)]}} - 新京成電鉄、2014年5月30日</ref>。
** [[8月29日]] - コーポレートカラーを採用しデザインを刷新した車両の運行を開始<ref group="広報" name="shinkeisei20140714">{{PDFlink|[https://www.shinkeisei.co.jp/pdf/topics/shinkeisei0679.pdf 新京成線の「車両デザイン」が新しくなります(8/29〜)]}} - 新京成電鉄、2014年7月14日</ref>。以後4年間で新京成保有全車両を共通の塗装に変更予定。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[12月27日]] - [[新京成電鉄80000形電車|80000形]]電車営業運転開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2019/12/29/200000.html|title=新京成80000形が営業運転を開始|accessdate=2021-11-22|publisher=交友社|date=2019-12-29|website=鉄道ファン・railf.jp|work=鉄道ニュース}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[11月1日]] - 8000形営業運転終了<ref group="広報">{{Cite press release|和書|title=ありがとう8000形引退記念イベントを開催します|publisher=新京成電鉄|date=2021-11-04|url=https://www.shinkeisei.co.jp/topics/2021/24075/|accessdate=2021-11-22|quote=8000形は、2021年11月1日に全車が約43年の活躍に幕を閉じました。}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
** [[4月4日]] - 東京証券取引所の市場移行に伴い、一部からスタンダード市場に移行<ref group="注釈">市場移行から上場廃止までの時点で、東証一部上場の準大手以上の私鉄では唯一スタンダード市場に移行した(他社はプライム市場へ移行)。</ref>。
** [[5月22日]] - 空間波式デジタル[[列車無線]]の使用を開始<ref group="注釈">自社線内は当日より空間波式アナログ列車無線から一斉切り替え。空間波式デジタル列車無線は直通先の京成電鉄でも使用されているがこの時点では京成電鉄は従来の[[誘導無線]]式アナログ列車無線との併用となっており、直通する編成においては京成線内では誘導無線式アナログ列車無線を使用。</ref>。
** [[8月30日]] - 東京証券取引所スタンダード市場[[上場廃止]]<ref group="広報" name="keisei20220428">{{PDFlink|[https://contents.xj-storage.jp/xcontents/AS01810/fa03bc6f/31ac/48d4/be65/981e631b7f63/140120220425526690.pdf 京成電鉄株式会社による新京成電鉄株式会社の完全子会社化に関する株式交換契約締結(簡易株式交換)のお知らせ]}} - 京成電鉄・新京成電鉄、2022年4月28日</ref>。
** [[9月1日]] - [[簡易組織再編行為#簡易株式交換|簡易株式交換]]により京成電鉄の完全子会社となる<ref group="広報" name="keisei20220428" />。
* [[2023年]](令和5年)
** [[4月22日]] - 列車無線を空間波式デジタルに移行完了<ref group="注釈">移行完了に伴い、直通先である京成線内でも新京成車を含む直通先事業者所属車両における空間波式デジタル列車無線を使用開始した。</ref><ref group="広報" name="shinkeisei20230424">{{PDFlink|[https://www.shinkeisei.co.jp/official/wp-content/uploads/2023/04/230424_relrease_digital.pdf デジタル方式の列車無線工事が完了しました]}} - 新京成電鉄、2023年4月24日</ref>。
** [[10月31日]] - この日開催された京成電鉄の取締役会において、新京成電鉄の吸収合併(簡易合併・略式合併)を決議し、両社の間で合併契約を締結<ref name="release20231031" group="広報">{{Cite press release |language=ja |title=完全子会社(新京成電鉄株式会社)の吸収合併(簡易合併・略式合併)に関するお知らせ |publisher= 京成電鉄株式会社 |date= 2023-10-31|format=PDF|url= https://contents.xj-storage.jp/xcontents/AS01810/c42c9a09/9d88/4561/b70d/344102d6f272/140120231030573888.pdf|accessdate=2023-10-31}}</ref>。
* [[2025年]](令和7年)4月1日 - この日をもって新京成電鉄が京成電鉄に吸収合併され、法人格が消滅する予定<ref name="release20231031" group="広報"/>。
== 新京成電鉄グループ会社の歴史 ==
* [[1971年]](昭和46年)[[2月6日]] - [[新京成タクシー]]設立。
* [[1974年]](昭和49年)[[3月20日]] - 下総緑地(後の下総興業→スタシオン・セルビス、現在の[[新京成リテーリングネット]])設立。
* [[1975年]](昭和50年)[[9月17日]] - 袖ヶ浦実業設立。
* [[1979年]](昭和54年)
** [[1月16日]] - 新京成車輌工業設立。
** [[4月5日]] - 新津田沼駐車場設立。
** [[7月25日]] - [[大成建設]]傘下の大成輸送より現・船橋グリーンハイツ線の営業権と車両を譲受され、船橋バス株式会社を設立。
* [[1981年]](昭和56年)[[8月11日]] - 下総緑地が下総興業に社名変更。
* [[1985年]](昭和60年)
** [[1月18日]] - 下総興業が袖ヶ浦実業を吸収合併。
** [[5月27日]] - 新京成タクシーが新津田沼駐車場を吸収合併。
* [[1999年]](平成11年)
** [[3月29日]] - エスケーサービス設立。
** [[10月18日]] - 直営であった豊富自動車整備工場を新京成車輌工業に移管。
* [[2000年]](平成12年)
** [[7月19日]] - エスピー産業設立。
** [[8月1日]] - 下総興業が新京成タクシーを吸収合併
** [[10月30日]] - アドバンス産業、新京成エステート、フロンティア企画設立。
* [[2001年]](平成13年)[[2月26日]] - 新京成エステートが有限会社(前有)から株式会社(後株)に改組。
* [[2003年]](平成15年)
** [[3月20日]] - フロンティア企画が有限会社(前有)から株式会社(後株)に改組。
** [[4月15日]] - [[上本郷駅]]の駅ビル内にて、フロンティア企画が運営する[[新京成鉄道模型館]]が開館。
** [[4月28日]] - バス事業の分社化のため、[[船橋新京成バス]]株式会社・習志野新京成バス株式会社・[[松戸新京成バス]]株式会社の3社を設立。
** [[10月1日]] - バス事業を分社子会社の船橋新京成バス株式会社(鎌ヶ谷営業所)・習志野新京成バス株式会社(鎌ヶ谷営業所習志野車庫→習志野営業所)・松戸新京成バス株式会社(松戸営業所)の3社に譲渡。
* [[2004年]](平成16年)[[9月1日]] - [[松戸市]][[高塚新田]]にて、フロンティア企画が運営するドッグラン松戸が開業。
* [[2005年]](平成17年)[[4月22日]] - フロンティア企画が新京成フロンティア企画に社名変更。
* [[2006年]](平成18年)
** [[3月1日]] - 下総興業がスタシオン・セルビスに社名変更。
** [[7月]] - 新京成車輌工業が[[京成車両工業]]に吸収合併される。
* [[2007年]](平成19年)10月1日 - 船橋バスを吸収合併。路線及び車両は船橋新京成バスが継承。
* [[2008年]](平成20年)
** 9月16日 - 松戸新京成バスが京成バスより梨香台団地線を譲受し高塚梨香台線としたことに伴い転入した車両がレトロカラーバスとして運行開始。
** 9月27日 - 船橋新京成バス・習志野新京成バスの2社がPASMOを導入。
** [[10月25日]] - 松戸新京成バスがPASMOを導入し、新京成バス3社とも導入を完了。
* [[2009年]](平成21年)2月 - 京成車両工業豊富工場(元・新京成車輌工業豊富工場)が閉鎖される。
* [[2011年]](平成23年)
** 3月20日 - 船橋新京成バス・習志野新京成バスの2社が乗降方式を中乗り・前降り・運賃後払いに統一。ただし、コミュニティバスを除く。
** [[12月23日]]
*** 松戸新京成バスが乗降方式を中乗り・前降り・運賃後払いに統一し、新京成バス3社とも同じ乗降方式に変更完了。
*** 併せて、松戸新京成バスでは新京成グループ初の[[車内メロディ]]、[[ドアチャイム]]を導入。
* [[2012年]](平成24年)[[4月8日]] - 新京成鉄道模型館が閉館。
* [[2013年]](平成25年)
** [[4月16日]] - 船橋新京成バスが新京成バスグループとして初めて[[深夜急行バス]]の運行に参入。
** [[12月5日]] - スタシオン・セルビスがセブン-イレブンジャパンとの提携第1号店を[[新津田沼駅]]に開店。
* [[2014年]](平成26年)4月16日 - 習志野新京成バスが船橋新京成バスに吸収され同社の習志野営業所となる。
* [[2018年]](平成30年)
** [[5月10日]] - スタシオン・セルビスが新京成リテーリングネットに社名変更。
** [[9月1日]] - 松戸新京成バスが新京成バスグループとして初めて[[高速バス]]の運行に参入。
** [[12月9日]]・[[12月16日]] - 松戸新京成バスにおいて創立15周年特別塗装車両を導入<ref group="広報">[https://www.shinkeisei.co.jp/topics/2018/14355/ 松戸新京成バス初の特別塗装車両の運行(12/9~)] 新京成電鉄、2018年11月30日</ref>、それに伴い乗車証明書を配布<ref group="広報">[https://www.shinkeisei.co.jp/topics/2018/14360/ 創立15周年特別塗装車両の運行開始と乗車証明証の配布について(12/9、12/16)] 新京成電鉄、2018年11月30日</ref>。
* [[2022年]](令和4年)7月中旬 - 「新京成グループデザインバス」を導入開始<ref group="広報">[https://www.shinkeisei.co.jp/topics/2022/26606/ 新京成グループデザインバスがデビューします] 新京成電鉄、2022年6月8日</ref>。
* [[2023年]](令和5年)4月1日
** 新京成フロンティア企画が京成エージェンシーに吸収合併され[[京成フロンティア企画]]となる。
** エスピー産業、エスケーサービス、新京成エステートが[[京成不動産]]に吸収合併され同社駐車場事業部、駐輪場事業部、プロパティマネジメント事業部にそれぞれ再編となる。
* [[2025年]](令和7年)4月1日 - 新京成電鉄の京成電鉄への吸収合併に伴い、傘下の船橋新京成バス、松戸新京成バス、新京成リテーリングネットの3社が京成電鉄の完全子会社となる予定<ref name="chibanippo20231031"/>。
== 社章・シンボルマーク・コーポレートカラー ==
社章は[[京成電鉄]]社紋に英字社名のイニシャルである「S」を加えたものである。1946年(昭和21年)10月23日に制定されたものであるため、ベースの京成社紋は1964年(昭和39年)改定前のものである<ref name="RJ157-127">{{Cite journal|和書|title=ズームレンズ 民鉄の社章(上) |journal=鉄道ジャーナル |volume=157 |date= 1980-03|publisher=鉄道ジャーナル社 |page=127}}</ref>。
シンボルマークとコーポレートカラーは2014年(平成26年)6月1日に制定された。'''Step Mark'''(ステップマーク)と命名されたシンボルマークは社名のイニシャルである「S」をカーブの多い路線になぞらえてデザインされており、右上がりとなる形はステップアップする会社の姿勢を表している。マークに添えられるロゴタイプ(shin-kei-sei)は音節ごとに区切られており、音のリズム感と読みやすさを向上させている<ref group="広報" name="shinkeisei20140530"/>。なお、マークとロゴタイプの位置は使われる個所に応じて2パターンある。
コーポレートカラーはメインカラーの'''gentle pink'''(ジェントルピンク)とサブカラーの'''new maroon'''(ニューマルーン)の2色があり、メインカラーはシンボルマークに合う色として、サブカラーは従来の「新京成マルーン」を継承する新色として設定された<ref group="広報" name="shinkeisei20140530"/>。コーポレートカラー制定後、メインカラーは駅名標を含めた駅のサイン類のほか、ラインカラーとしても用いられている。サブカラーはロゴタイプのほか、シンボルマークや駅名標のワンポイントとして用いられている。
<!--16進数やRGB値の指定は出典に無いので記載しない-->
なお、シンボルマークおよびコーポレートカラー制定前には「SHIN-KEISEI」のロゴタイプも存在し、N800形の旧塗装車や船橋新京成バスに在籍していた深夜急行車や貸切用車に使用されていた。このほか、船橋新京成バスは別途「Funabashi Shinkeisei Bus」のロゴタイプも存在する。
<gallery style="font-size:90%;">
Shin Keisei Companymark.svg|社章
Keisei Logo 1909.svg|(参考)京成電鉄初代社紋
Shin-Keisei Logo (Vertical).SVG|シンボルマーク
</gallery>
== 路線 ==
* [[ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg|20px|SL]] [[新京成電鉄新京成線|新京成線]]:[[松戸駅]] - [[京成津田沼駅]]間 (26.5km)
[[ファイル:Shin-Keisei Electric Railway Linemap.svg|thumb|none|400px|路線図(クリックで拡大)]]
=== 未成路線 ===
* [[新京成電鉄新京成線|新京成線]]:[[松戸駅]] - [[柴又駅]]間 (4.7km) <ref name="moriguchi-p187">森口誠之『鉄道未成線を歩く 〈私鉄編〉』JTB、2001年、p.187</ref>
== 車両 ==
=== 現有車両 ===
8800形の導入以降、他の大手私鉄よりもいち早く在籍車両の[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]化を進め、[[2013年]](平成25年)[[2月8日]]より、在籍する全編成の電動車がVVVFインバータ制御車両となった<ref group="広報" name="shinkeisei20130204" />。また、補助電源装置の[[静止形インバータ|SIV]]化も完了している。これ以外の新技術の導入も積極的で、[[純電気ブレーキ]]、[[集電装置#Z型・シングルアーム型|シングルアームパンタグラフ]]の導入も京成より先駆けるものとなった。
[[ファイル:Shin-Keise Type 809-side.JPG|thumb|right|200px|800形モハ809の側面には、車番の前に社章が描かれている。<br />(2006年8月11日)]]
現有車両の形式はすべて縁起が良い数字とされる「[[8]]」から始まる<ref name="keyobank1207" />。[[新京成電鉄800形電車|800形]]を上回る車両として8000形と命名され、800形と8000形の長所を併せ持った車両として8800形と命名されたという説がある。その後、8900形、N800形、80000形と続く。また、[[都営地下鉄浅草線]]・[[京浜急行電鉄]]直通の北総開発鉄道(当時)と同社が以前に直通運転を行い、現在は京成とも直通する関係上、車番重複を避けるための関係各社の協定による割り当て(千位が1・2は京急{{smaller|(この他特例で「[[京急600形電車 (3代)|600形]]」を使用)}}、3・4は京成{{smaller|(4は現在のところ使用経歴はなし)}}、5は都営、7は北総、'''8は新京成'''、9は千葉ニュータウン鉄道〈旧・都市公団〉)が存在する。なお、N800形まで伝統的に車外側面の車番の前に社章をつけていた。
車体は設立の経緯から、京成電鉄の払い下げ車両に準じた設計が大半を占めていたが、8000形以降は非貫通の正面形状など、京成と一線を画す独自のデザインを使用した車両が登場するようになった。その後、2000年代以降は再び京成電鉄と共通設計の車両が登場している。
完全新造車両はすべて[[日本車輌製造]]が製造を担当する。また、[[電動機]]や[[制御装置]]などの電気機器は[[三菱電機]]製([[避雷器]]と8000形・800形の車内[[扇風機]]など一部電気機器は[[東芝]]製)を採用するが、これは[[1955年]]の全線開業に際して三菱電機の協力があったためである<ref>『新京成電鉄50年史』より。</ref><ref>『ちばの鉄道一世紀』より。</ref>。ただし、N800形のみ[[京成3000形電車 (2代)|京成3000形]]をベースにしているため、電動機のみが三菱電機製で、制御装置は[[東洋電機製造]]製、[[エア・コンディショナー|冷房装置]]および[[静止形インバータ|補助電源装置(SIV)]]は東芝製である。ただしN838編成以降の冷房装置は三菱電機製である。また、8000形のインバータ制御改造編成のインバータ装置は三菱電機製であるが、主電動機は東芝製となっている<ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.toshiba.co.jp/tech/review/2008/12/63_12pdf/f06.pdf 環境に優しい鉄道車両用 全閉自冷式主電動機]}} - 東芝レビュー Vol. 63 No. 12 (2008)</ref>。
伝統的な車内装備品として客用扉脇に備えられた[[鏡]]がある。日本の他事業者では[[名古屋市営地下鉄]]、[[江ノ島電鉄]]、[[相模鉄道]]の一部車両に見られる程度である。設置理由は「視線がそこへ向く」ということで「鏡を見ることで広告に目が行くだろうと考えて設置された」、「副次的に痴漢防止効果も有ると考えたから」だという<ref>[http://trafficnews.jp/post/44109/2/ なぜ電車内に鏡? 実は合理的なその効果] - 乗りものニュース、2015年10月11日</ref>。
2011年からVVVFインバータ制御に改造されていない8000形を順次廃車、8800形の全編成を6両編成とし、一部編成が京成千葉線へ乗り入れている。
前述したコーポレートカラーを採用したデザインの展開を2014年8月29日より開始し<ref group="広報" name="shinkeisei20140714"/>、旧々塗装に復刻された<ref group="広報" name="shinkeisei20170601">{{PDFlink|[https://www.shinkeisei.co.jp/official/wp-content/uploads/2017/06/20170601_release_8000.pdf 「新京成8000形電車」が茶色帯のリバイバルカラーで再登場]}} - 新京成電鉄、2017年6月1日</ref>8000形1編成を除く全車両に展開が行われた。
主に8両と6両の交互で運転されていたが、8800形から順に6両化、車番変更を行い、8900形の3編成にも6両化が行われた。8900形は中間付随車を抜き取っただけで車番の改番はされず、2014年(平成26年)9月30日より全編成が6両で運行されている。
一部の車両は京成線直通運転に対応していないか、対応していても乗り入れを行っていない。
* [[新京成電鉄80000形電車|80000形]]
** 京成グループの標準車両として、京成電鉄と共同で設計。駆動方式は[[WN駆動方式|WN駆動]]で、制御装置に[[三菱電機]]製フル[[炭化ケイ素|SiC]]素子VVVFインバータ制御を採用し、N800形と比較して消費電力を19%削減<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=新京成14年ぶりの新型「80000形」 共同開発でも独自仕様さまざま|url=https://www.tetsudo.com/report/201/ |publisher=鉄道コム|date=2019-12-09|accessdate=2019-12-09|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=新京成電鉄80000形、京成電鉄と共同設計の新型車両 - 2019年冬導入|url=https://news.mynavi.jp/article/20190411-shinkeisei80000/|website=マイナビニュース|date=2019-04-11|accessdate=2019-07-04|language=ja}}</ref>。[[京成3100形電車 (2代)|京成3100形]]と共通設計であるが、京成3100形は東洋電機製造製ハイブリッドSiCインバータで[[TD平行カルダン駆動方式|TD駆動]]、跳ね上げシートとFREE Wi-Fi(無料[[公衆無線LAN]])は80000形には設置されないという相違点がある。[[2019年]][[12月27日]]営業運転開始<ref name="sl20191227">{{Cite tweet|author=新京成電鉄【公式】 |user=shinkeisei_info|number=1210386759458050048|title=新形式車両80000形。今日から運行を開始しました。よろしくお願いいたします。 https://t.co/3rQNQHzAxC|date=2019-12-27|accessdate=2019-12-27|language=ja}}</ref>。
* [[新京成電鉄N800形電車|N800形]]
* [[新京成電鉄8900形電車|8900形]]
* [[新京成電鉄8800形電車|8800形]]
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
新京成80000形80016編成.jpg|80000形
Shin-Keisei N800 series N818F 20190123.jpg|N800形新塗装車
ShinKeisei N831.jpg|N800形旧塗装車
SHIN-KEISEI 8900 SERIES 8938- 20181226.jpg|8900形新塗装車
ShinKeisei 8900 old color.jpg|8900形旧塗装車
新京成8800形8802編成.jpg|8800形新塗装車
Shin-Keisei-8805-6.jpg|8800形旧塗装車
</gallery>
=== 過去の車両 ===
* [[新京成電鉄8000形電車|8000形]]
* [[新京成電鉄800形電車|800形]]
800形以前の過去の車両([[吊り掛け駆動方式]])については京成電鉄の「[[京成電鉄#1988年以前消滅形式|1988年以前消滅形式]]」の項目を参照。
<gallery>
Shinkeisei8000pink-wiki.jpg|8000形
Shin-Keisei Type 800.jpg|800形
</gallery>
== 列車番号 ==
新京成では運行番号と関係なく下り列車では1から奇数を、上り列車では2から偶数を'''初列車から順に振っていく'''付番方法となっている。
ちなみに、親会社の京成電鉄やその乗り入れ先である北総鉄道・[[都営地下鉄浅草線]]・[[京浜急行電鉄]]では始発駅の発車時刻の'''「時」の数字'''と'''運行番号2桁'''(南行〈京成・北総の上り、京急の下り〉列車では1を引いた偶数、京成では線内のみの列車の一部でその前に〈例:aayxx〉、京成の直通列車やそれ以外の事業者では後にアルファベット1文字〈例:aaxxy、京急のみ2文字の場合あり〉が加わる場合もある)とを組み合わせた付番法であり、新京成のそれとは全く異なる(「[[列車番号の付番方法#京成電鉄・北総鉄道・芝山鉄道|列車番号の付番方法]]」を参照)。
運転区間によって百位の数字が区別されており、それぞれの種類ごとに始発駅発車順の付番となっている。
* '''松戸 - 京成津田沼(新津田沼)間''':'''1'''列車および'''2'''列車から順に'''**'''、'''1**'''を経て'''2**'''まで
* '''松戸 - '''(京成津田沼経由)''' - 千葉中央間'''の'''京成千葉線直通列車''':'''3**'''
*: ただし新京成側の付番方法の都合上京成線内で01F運用に相当する上り300列車(京成線内**00F列車)を設定できない関係で下り301列車(京成線内**01F列車)は欠番。
*: また、300番台の列車に限り京成側の付番方法の都合上始発駅発車順になるのは303列車から始まる奇数の列車番号のみである(偶数は京成線から直通してくる上り列車が列車番号としては1つ若くなって戻ってくるため)。
*: そのうえ新京成側の付番方法の関係で松戸で折り返す度に列車番号が16増えるため京成に直通するたびに京成線内でも毎回違う運行番号になる。
* '''くぬぎ山 - 京成津田沼(新津田沼)間'''の区間列車:'''5**'''
* '''松戸 - くぬぎ山間'''の区間列車:'''7**'''
* '''新津田沼 - 京成津田沼間'''の区間列車:'''8**'''
*: 現行ダイヤでは早朝の下り801列車のみ。
なお、千葉線直通列車では'''3xx'''列車が直通した場合、京成では'''aaxxF'''('''aa'''は始発駅発車時刻の'''「時」'''、'''F'''は新京成所属車を表すアルファベット)という列車番号になる(例:8時台に松戸を出発する303列車は京成線内では803F列車)。京成線内での'''運行番号'''は下り列車では'''xx'''、上り列車では'''xx+1'''の奇数となる(例:303→803F→1002F→302列車の場合の運行番号は03F)。
== 運賃 ==
大人普通旅客[[運賃]](小児半額・端数は1円単位で切り捨て、きっぷの場合は10円単位で切り上げ)。2023年(令和5年)10月1日改定<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.shinkeisei.co.jp/topics/2023/30918/ |title=鉄道旅客運賃の上限変更認可および届出について|publisher=新京成電鉄|date=2023-06-02|access-date=2023-06-15}}</ref>。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center; margin-left:3em;"
|-
!rowspan="2" style="width:6em;"| キロ程
!style="text-align:center;" colspan="2"| 運賃(円)
|-
! ICカード !! 切符利用
|-
|1 - 5||style="text-align:right;"|167||style="text-align:right;"|170
|-
|6 - 9||style="text-align:right;"|188||style="text-align:right;"|190
|-
|10 - 13||style="text-align:right;"|209||style="text-align:right;"|210
|-
|14 - 17||style="text-align:right;"|230||style="text-align:right;"|230
|-
|18 - 22||style="text-align:right;"|252||style="text-align:right;"|260
|-
|23 - 27||style="text-align:right;"|272||style="text-align:right;"|280
|}
=== 乗継割引 ===
* 京成津田沼駅経由で新京成電鉄と京成電鉄の初乗り区間同士の相互間を乗車する場合は両者運賃の合算額から20円の割引となる(各社10円ずつ割引)。
=== 回数券 ===
* [[回数乗車券|回数券]]は2022年8月末を以て廃止された。但し、障害者割引と[[放送大学]]の通学用は継続発売している<ref group="広報" name="shinkeisei20220617">[https://www.shinkeisei.co.jp/topics/2022/26710/ 普通回数乗車券の発売終了について] - 新京成電鉄、2022年6月17日</ref>。区間式で有効期限は2か月だった。
* 時差回数券や土休日割引回数券は[[東京都交通局]]同様に発売されていなかった。
=== 乗車券・カードの取り扱い ===
* [[パスネット]]が[[2008年]](平成20年)[[1月10日]]で発売を終了し、同年[[3月14日]]で自動改札機での使用を終了したことから、翌[[3月15日|15日]]から残額の払い戻しと自動券売機で残額をPASMOに移し替えるサービスを行っていた(現在は終了)。
* 2008年(平成20年)[[3月15日]]から連絡定期券の発売範囲が一部拡大され、[[八柱駅]]接続[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]線、[[北習志野駅]]接続[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]経由[[東京地下鉄|東京メトロ]]線、[[松戸駅]]接続JR東日本線経由東京メトロ線などの券を購入することが可能となった。
* 一方で[[2023年]](令和5年)[[3月17日]]をもって北習志野駅接続の東葉高速線および松戸駅・[[新津田沼駅]]<ref group="注釈">新津田沼駅接続のものは[[鎌ヶ谷大仏駅]]以南でのみ発売していた。</ref>接続のJR東日本線への連絡切符の発売を終了した。そのため、同日以降は連絡切符は京成津田沼接続の京成線および新鎌ヶ谷接続の北総線・京成成田空港線(成田スカイアクセス線)<ref group="注釈" name="SA-kippu">北総線との重複区間も京成成田空港線とみなされるため。</ref>のみの発売となる。
* 3社以上の連絡範囲は限られる。[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]や[[相模鉄道]]・[[流鉄]]への連絡定期券は購入出来ない。連絡切符では前述通りのため3社以上の連絡切符の発売はない<ref group="注釈" name="SA-kippu"/>。
== 駅施設 ==
* 2010年(平成22年)7月17日に実施された京成グループ各線(京成電鉄・[[北総鉄道]]・[[芝山鉄道]])のダイヤ改正で導入された[[駅ナンバリング]]は、新京成電鉄では2014年2月23日に導入されることとなった<ref group="広報" name="shinkeisei20140203"/>。
* [[駅名標]]に関してはほぼ全駅新しいコーポレーションロゴの導入と同時に桃色調のものに更新された。京成電鉄のものに準拠しているが、[[中国語]]・[[朝鮮語]]は記載されていない。ただし、一部の駅の出入口案内には中国語・朝鮮語も表記されている。
* 2007年より、乗降人員の比較的少ない駅(松戸新田、上本郷、その他多くの駅)に遠隔監視システムが導入され、早朝、夜間、昼間で無人化(駅員が不在)されている。用事がある場合は、近隣の駅員常駐駅とインターホンで連絡をとる。また、夜間帯の無人化は治安上も問題があると指摘されている{{誰|date=2023年8月}}。
* 2012年(平成24年)7月現在、[[発光ダイオード|LED]]式[[発車標|発車案内表示器]]が松戸・八柱・常盤平・五香・くぬぎ山・新鎌ヶ谷・鎌ヶ谷大仏・二和向台・高根公団・北習志野・薬園台・新津田沼・京成津田沼の各駅に設置されており、これらの駅では電車到着時のアナウンスも流れている。また、松戸新田・みのり台・三咲・滝不動・高根木戸・習志野・前原の各駅(遠隔監視システム導入駅)には簡易式の列車接近案内表示が設置されている。
* 2012年(平成24年)7月現在、松戸・八柱・五香・新鎌ヶ谷・高根公団・北習志野・新津田沼・京成津田沼の各駅に[[自動体外式除細動器]](AED)を設置している。
== 案内放送 ==
* [[駅自動放送]]は2004年2月1日から[[萩原えみこ]]<ref>[https://haikyo.co.jp/profile/profile.php?ActorID=11446 萩原 えみこ] - 俳協</ref>と[[中西俊彦]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.haikyo.or.jp/PROFILE/man/11805.html |title=中西 俊彦 |access-date=2023-08-29 |publisher=俳協 |archive-url=https://web.archive.org/web/20121124035124/http://www.haikyo.or.jp/PROFILE/man/11805. |archive-date=2012-11-24 |language=ja}}</ref>が担当していたが、2020年3月25日からの放送内容更新を機に、上りホームは[[シンガーソングライター]]の[[奥華子]]、下りホームは[[俳優]]の[[濱田龍臣]]による音声に変更されている<ref>[https://railf.jp/news/2020/03/26/111000.html 新京成で奥華子さんと濱田龍臣さんによる駅構内放送を開始] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2020年3月26日</ref>。
* [[車内放送|車内自動放送]]は[[三浦七緒子]](日本語)と[[クリステル・チアリ]](英語)が担当している<ref group="広報" name="shikeisei20090331" />。なお、かつて8900形は[[水谷ケイコ]]が担当していた<ref>[https://ameblo.jp/keikokeiko1104/entry-11109917488.html 『車内アナウンス』…!?!] - 水谷ケイコのブログ、2011年12月18日<!-- コメント欄に「8900系読ませて頂いています」の記載あり。 --></ref>。
* 2014年には、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列の[[バラエティ番組]]『[[笑神様は突然に…]]』の企画で録音した鉄道BIG4([[中川礼二]]、[[ダーリンハニー|吉川正洋]]、[[ななめ45°|岡安章介]]、[[南田裕介]])、[[宮川大輔 (タレント)|宮川大輔]]、[[松井玲奈]]による3種類の車内放送(マナー放送)が、11月8日から11月22日まで26編成中19編成で放送された<ref group="広報">[https://www.shinkeisei.co.jp/topics/2014/2967/ 日本テレビ「笑神様は突然に…」出演者が車内放送(11/8〜11/22)] - 新京成電鉄、2014年11月7日</ref>。
* 2017年および2022年に[[ふなっしー]]とのコラボレーション企画が行われた際には、新京成線で運行された「ふなっしートレイン」の車内と三咲駅(コラボレーション期間中は「みさっきー駅」となった)において、ふなっしーの声による啓発放送が放送された<ref group="広報">{{Cite press release|和書|title=ふなっしーと新京成とのコラボレーション企画が始動(7/1~)|publisher=新京成電鉄|date=2017-06-23|url=https://www.shinkeisei.co.jp/topics/2017/11219/|access-date=2023-03-02}}</ref><ref group="広報">[https://www.shinkeisei.co.jp/topics/2022/25989/ ふなっしートレインを運行します(4/21~)] 新京成電鉄ニュースリリース(2022年4月13日)2023年2月27日閲覧</ref>。
== 関連会社 ==
* [[子会社]]
** ([[新京成バス]]グループ{{efn|「新京成バス」という事業者があるわけではなく、便宜上の総称。バス接近情報および時刻表検索サイトであるBus-Visionにおいては「新京成バスグループ」の表記がされている<ref>[https://bus-vision.jp/skbus/view/searchStop.html Bus-Vision 新京成バス]</ref>。}})
*** [[船橋新京成バス]]
*** [[松戸新京成バス]]
** [[新京成リテーリングネット]](下総興業→スタシオン・セルビスから改称)
* [[持分法|持分法適用会社]] - 下記2社は、いずれも[[京成電鉄]]の連結子会社である。
** [[京成車両工業]]
** [[京成建設]]
=== かつて存在した子会社 ===
* [[新京成車輌工業]](京成車両工業に吸収合併)
* [[新京成タクシー]](下総興業に吸収され事業廃止)
* [[船橋バス]](新京成電鉄に吸収合併)
* [[習志野新京成バス]](船橋新京成バスに吸収合併)
** 船橋新京成バス・習志野新京成バス・松戸新京成バスの3社は、[[2003年]][[10月1日]]に新京成電鉄から分社して独立した会社である。
** 「船橋新京成バス」と「船橋バス」は別の会社であった。なお、「船橋バス」は[[2007年]]10月1日に新京成電鉄に吸収合併され、また路線と車両を船橋新京成バスが引き継いだ([http://ir.nikkei.co.jp/irftp/data/tdnr2/home/oracle/00/2007/461b0c9/461b0c90.pdf 日本経済新聞社ウェブサイトより])。
* エスピー産業([[京成不動産]]に吸収合併)
* エスケーサービス(京成不動産に吸収合併)
* 新京成エステート(京成不動産に吸収合併)
* 新京成フロンティア企画(京成エージェンシー(現・[[京成フロンティア企画]])に吸収合併)
* 新京成国立学院([[学究社]]及び[[日本国土開発]]と連携して、1983年に設立。1992年に事業廃止)
== 労働組合 ==
{{出典の明記|date=2019年12月9日 (月) 13:29 (UTC)|section=1}}
新京成電鉄の[[労働組合]]は、「新京成交通労働組合」という名称で[[日本私鉄労働組合総連合会|私鉄総連]]に加盟している。同組合の下部組織として「新京成電鉄労働組合」と「新京成バス労働組合」があり、[[ユニオン・ショップ|ユニオンショップ制]]であるので、社員は一部管理職などを除きそれらに所属することになる。また、バス事業は2社に分社しているが、組合は1つになっている。
[[1947年]](昭和22年)[[10月25日]]に「新京成電鉄電鉄労働組合」を結成した。鉄道の開業は同年[[12月27日]]なので開業より2か月早い。[[1997年]](平成9年)[[10月30日]]には関係者により組合結成50周年の祝賀会が開催されるとともに組合50年史も出版され、関係者に配布された。その後、[[2003年]](平成15年)[[10月1日]]のバス事業分社化に伴い「新京成交通労働組合」となり、交通労組の下部組織として「電鉄労組」と「バス労組」がある現在の状態になった。
新京成電鉄の組合員は「新京成電鉄労働組合」に、新京成バス各社の組合員は「新京成バス労働組合」に所属する。バス会社の社員は、分社化前は新京成電鉄労働組合に所属していたが分社時に移籍した。2003年(平成15年)のバス事業分社前は「新京成電鉄労働組合」という1つの組織で、私鉄総連への加盟も「新京成電鉄労働組合」という名称で行っていた。[[船橋バス]]は元々別会社([[船橋バス|大成輸送]])であったという経緯から新京成交通労組には属していなかったが、独自の労働組合があった。組合結成時には新京成労組から組合旗を贈っている。長年にわたって独自に活動していたが、[[2006年]](平成18年)秋に新京成交通労組に加盟した。その後、翌[[2007年]](平成19年)10月1日の新京成電鉄への吸収合併に伴い新京成バス労働組合へ合流した。
事務所は以前[[新津田沼駅]]付近の線路沿いにあったが、現在は[[五香駅]]付近の線路沿いに移転している。広報誌の名称は『新路(しんろ)』で、[[新聞]]版で発行される。そのほか冊子版で発行されることもあり、組合員から寄せられた原稿が掲載される(内容は家族や趣味の話題など)。<!--{{要出典範囲|date=2019年12月9日|新京成電鉄の社員(労働組合員)が子会社に出向した場合、組合員資格は停止される。}}-->
== マスコットキャラクター ==
* しんちゃん
** 設定では[[ツバメ]]の男の子とされており、「けいちゃん」というガールフレンドが存在する。
** また、[[ドアステッカー]]も以前は[[カニ]]を配したものを使用していたが、「しんちゃん」を配したものに交換されている。
** 鳥の[[益鳥]](ツバメ)と[[駅長]]をかけたデザインとなっている。
== その他 ==
* 開業当初の沿線は未開発地域が多く、雨や霜解けでぬかるんだ[[道路]]を駅まで歩いて[[革靴]]や[[ハイヒール]]に履き替える乗客が多かったため、松戸延伸開業時には各駅に[[下駄箱]]が置かれたという。
* [[動力車操縦者]](運転士)の養成は、社内に[[動力車操縦者養成所]]がないため、[[京成電鉄]]に委託している。
* 廃棄予定の[[吊革]]を再利用したカバンを発売している<ref>[https://irorio.jp/nagasawamaki/20181005/497284/ 廃棄予定の「つり革を再利用したカバン」を限定販売へ!新京成電鉄がファッション業界とコラボ] - IRORIO(イロリオ)</ref>。
* 沿線の[[ラーメン]]店でスタンプを集める「ラーメン得々[[スタンプラリー]]」を、[[2009年]]から毎年10月〜12月に実施している。新京成沿線の厳選の人気ラーメン店12店舗が対象で、すべての降車駅が異なる。7回目の2015年は、[[キン肉マン]]と初めて[[タイアップ]]し、ポスターや応募用紙に[[ラーメンマン]]が描かれた。
* 「CiaO」という[[フリーペーパー]]を出版しており、「CiaO-CiaO」として公式の沿線情報[[ブログ]]も開設している。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
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==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ====
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== 関連項目 ==
<!-- グループ会社へのリンクは[[京成グループ]]や下部の{{京成グループ}}、{{新京成電鉄グループ}}テンプレ内にあります。-->
* [[京成グループ]]
* [[BMK推進運動]]
* [[鉄道連隊演習線]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Shin-Keisei Electric Railway}}
* {{Official website}}
* {{Twitter|shinkeisei_info|新京成電鉄【公式】}}
{{京成グループ}}
{{新京成電鉄グループ}}
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[[Category:大手私鉄・準大手私鉄]]
[[Category:日本の鉄道事業者]]
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[[Category:1961年上場の企業]]
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[[Category:京成グループ]]
[[Category:新京成電鉄|*]] | 2003-03-07T07:40:41Z | 2023-12-11T13:22:02Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%AC%E6%88%90%E9%9B%BB%E9%89%84 |
3,582 | 千葉 | 千葉(ちば、ちは、せんよう) | [
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"text": "千葉(ちば、ちは、せんよう)",
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}
] | 千葉(ちば、ちは、せんよう) | '''千葉'''(ちば、ちは、せんよう)
== 地名 ==
*[[千葉県]]
*千葉県[[千葉市]]
**自動車の[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]に表記される[[国土交通省]]運輸局記号。千葉県千葉市に所在する「関東運輸局[[千葉運輸支局]]」。
**[[市原市]]と千葉市を本拠とする[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)のチーム、[[ジェフユナイテッド市原・千葉]](ジェフ千葉)の略称。
**[[船橋市]]を本拠とする[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ]](Bリーグ)のチーム、[[千葉ジェッツふなばし]]の略称。
**千葉市を本拠とする[[パシフィック・リーグ]]に所属するプロ野球のクラブチーム、[[千葉ロッテマリーンズ]]の略称。
**船橋市を本拠とする[[ベイサイドリーグ]]に所属するプロ野球のクラブチーム、[[千葉スカイセイラーズ]]の略称。
*千葉県[[千葉郡]]
*[[静岡県]][[島田市]]千葉
== 姓 ==
*[[千葉氏]] - 日本の氏族。
== 寺院 ==
*千葉山智満寺
**[[智満寺 (島田市)]] - 静岡県島田市千葉にある[[天台宗]]寺院。再建した[[千葉常胤]]に因んで[[山号]]が「千葉山」と改められた。
**[[智満寺 (川根本町)]] - 静岡県[[榛原郡]][[川根本町]]にある[[曹洞宗]]寺院。かつては上記寺院の末寺であったという説がある。
== その他 ==
*千葉({{lang-ko|천엽}}、チョニョプ)- [[ウシ|牛]]の第三胃([[センマイ]])の朝鮮語での呼称<ref>{{Cite book|和書|author=鄭大聲|date=2001-07|title=焼肉は好きですか?|publisher=[[新潮社]]|isbn=4-10-603503-0}} p.48。</ref>。
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* {{Prefix}}
{{aimai}}
{{デフォルトソート:ちは}}
[[Category:日本の地名]]
[[Category:同名の地名]]
[[Category:日本語の姓]] | null | 2023-06-14T02:53:50Z | true | false | false | [
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"Template:Aimai",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89 |
3,583 | JR線 | JR線(ジェイアールせん)は、日本国有鉄道(国鉄)の路線を承継した旅客鉄道会社(北海道旅客鉄道、東日本旅客鉄道、東海旅客鉄道、西日本旅客鉄道、四国旅客鉄道、九州旅客鉄道)および日本貨物鉄道(JRグループ)の営業する鉄道路線の総称である。鉄道路線ではないが、東日本旅客鉄道が営業するバス高速輸送システム(BRT)である気仙沼線・大船渡線BRTも、JR線に含む場合がある。JR線の乗車券等では「旅客鉄道会社線」「東日本会社線」「東海会社線」など、旅客鉄道会社および通用区間に係る略称社名を表示して発売することがある。広義では私鉄線に含まれるが、歴史的経緯から他の私鉄とは区別され、日本国内では事実上「私鉄線」の対義語となっている。
国鉄の事業を継承した7社は、それぞれが別個の会社組織であるが、国鉄承継事業者として全国に亘る連携したサービスが発足の前提であり、旅客および荷主は原則的に会社(区域)ごとに別個の契約を都度結び直すようなことなく、統一された運送約款のもと利用できる。
国鉄・JRの特定地方交通線、並行在来線等を転換した第三セクター鉄道は、国鉄線・JR線としては廃止されたものであり、接続するJR線から乗入れ列車があったとしても、当然JR線ではない。 同じ区間でJR貨物が第二種鉄道事業者として営業していてもJR線として見なされない。
東京モノレール、JRバスのようにJR会社の子会社の運営である場合や、JR会社の第一種鉄道事業路線や第三種鉄道事業路線であっても他の事業者が第二種鉄道事業者として運営している場合は、一般にJR線とは認識されず、運賃の通算も行われない。第一種鉄道事業の例としては東海交通事業城北線、嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線、第三種鉄道事業の例としてはのと鉄道七尾線の和倉温泉駅以北がある。
また、第一種鉄道事業者のJR線と線路を共有して、他の鉄道事業者が第二種鉄道事業者として営業している場合もある(のと鉄道七尾線の和倉温泉駅以南、嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線、井原鉄道井原線)。この場合、同じ線路を走行するが、運賃は別立てである。(特例で運賃がJRと同額となる区間も存在する。)
JR飯田線と名鉄名古屋本線も豊橋駅-平井信号場間において線路を共有している。双方が単線を供出して複線として扱うため両社とも第一種鉄道事業者となっており、名鉄の電車でこの区間を通過する場合は当然ながらJR線とは見なされない。途中にある船町駅と下地駅も名鉄の駅としては存在しないことになっている。
関西国際空港へと向かうJR関西空港線と南海空港線もりんくうタウン駅から関西空港駅の間でともに第二種鉄道事業者として線路を共有している。両社の接続点となるりんくうタウン駅は共同使用駅であるが、関西空港駅では両社のホームと改札が分離されているためこの区間で南海の電車に乗る場合はJR線とは見なされない。乗車券についてもりんくうタウン駅から乗車し関西空港駅まで普通乗車券で利用する場合のみ特定運賃が適用され、券売機は両社それぞれ用意されているものの同じ運賃でお互いの列車と改札を利用できる特例があるが、関西空港駅から乗車する場合やその他の乗車券の場合はこの特例は適用されない。
逆に、路線の所有権は別会社にあっても、JR旅客6社が第二種鉄道事業者として列車を運行している場合は、一般にJR線と認識される。
また、東京メトロ千代田線の北千住駅 - 綾瀬駅間は東京メトロの路線であるが、同区間は当初常磐線として建設され、日暮里・上野方面と直通していた歴史的経緯などの関係で常磐線各駅停車としての機能も果たしており、同区間と他のJR線を連続して利用する場合など、一部例外を除き運賃計算上JR線とみなされる場合がある。西日暮里もしくは北千住でJR線から東京メトロ千代田線へ乗り換えて綾瀬以降の亀有、金町、松戸などへ行く場合や、その逆などの場合はJRとして計算される。
私鉄各線の駅や車内放送における乗換案内では頻繁に聞かれる言葉である。たとえば渋谷駅では「東急東横線・東急田園都市線」などと会社名と路線名を両方述べる言い方が多く、「東急線」という一括案内は用いられることが少ないのに対し、JR駅への案内は山手線、埼京線などとは言わず「JR線はお乗り換えです」という表現で一括することが多い。また、JR中央線の各駅停車と快速は共通して中央線などと呼ばれるのに対し、常磐線は常磐快速線と常磐緩行線を分けて言うことが多いようである。
JRだけがこのような一括案内をなされるのは、都心の1つのターミナル駅ではJR路線の数が突出して多く集まっているケースが多いということが理由の1つとして挙げられる。しかし、JRの路線が1つしかない駅でも「JR線」のみで済まされることも多い。目黒駅では、JRも東急も路線が1つだけであるが、東急側は「東急線」ではなく「東急目黒線」と案内されるのに対し、JR側は「JR山手線」ではなく「JR線」と案内される。対して、JR同様都心部に多くの路線や乗換駅を抱える東京地下鉄(東京メトロ)も、1つ1つに対し「○○線」と路線名で案内されることが多く、「東京メトロ線」という一括案内はなされない。
また、新幹線もJRの路線ではあるが、「JR線」という表現は専ら在来線の意味で用いられる。たとえば東京メトロ東西線大手町駅、東京メトロ丸ノ内線東京駅などの構内の乗換案内では「新幹線・JR線」などと表記していて、「新幹線」と「JR線」は切り離し、区別している。しかし、東京メトロから新幹線の乗り換えは車内放送や車内案内表示装置などでは案内されない。
かつて大阪市営地下鉄(現・大阪市高速電気軌道(Osaka Metro))での乗り継ぎアナウンスは、梅田駅(大阪駅)では「国鉄線(JR線)〜」、天王寺駅では「環状線、関西線、阪和線〜」、新大阪駅では「国鉄新幹線」とアナウンスされていた。これは明治期の官設鉄道時代からの国鉄線であった東海道本線を国鉄 (JR) とあらわし、私鉄から買収されて国鉄線になった路線が多い他の線を線名で表す例の多い証拠である。現在はどの駅でも「JR線」になっている。 | [
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"text": "JRだけがこのような一括案内をなされるのは、都心の1つのターミナル駅ではJR路線の数が突出して多く集まっているケースが多いということが理由の1つとして挙げられる。しかし、JRの路線が1つしかない駅でも「JR線」のみで済まされることも多い。目黒駅では、JRも東急も路線が1つだけであるが、東急側は「東急線」ではなく「東急目黒線」と案内されるのに対し、JR側は「JR山手線」ではなく「JR線」と案内される。対して、JR同様都心部に多くの路線や乗換駅を抱える東京地下鉄(東京メトロ)も、1つ1つに対し「○○線」と路線名で案内されることが多く、「東京メトロ線」という一括案内はなされない。",
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] | JR線(ジェイアールせん)は、日本国有鉄道(国鉄)の路線を承継した旅客鉄道会社(北海道旅客鉄道、東日本旅客鉄道、東海旅客鉄道、西日本旅客鉄道、四国旅客鉄道、九州旅客鉄道)および日本貨物鉄道(JRグループ)の営業する鉄道路線の総称である。鉄道路線ではないが、東日本旅客鉄道が営業するバス高速輸送システム(BRT)である気仙沼線・大船渡線BRTも、JR線に含む場合がある。JR線の乗車券等では「旅客鉄道会社線」「東日本会社線」「東海会社線」など、旅客鉄道会社および通用区間に係る略称社名を表示して発売することがある。広義では私鉄線に含まれるが、歴史的経緯から他の私鉄とは区別され、日本国内では事実上「私鉄線」の対義語となっている。 国鉄の事業を継承した7社は、それぞれが別個の会社組織であるが、国鉄承継事業者として全国に亘る連携したサービスが発足の前提であり、旅客および荷主は原則的に会社(区域)ごとに別個の契約を都度結び直すようなことなく、統一された運送約款のもと利用できる。 | [[ファイル:Musashi-Urawa Station - platforms train - Jan 19 2018.jpg|サムネイル|JR線の例([[武蔵野線]][[武蔵浦和駅]])]]
'''JR線'''(ジェイアールせん)は、[[日本国有鉄道]](国鉄)の路線を承継した旅客鉄道会社([[北海道旅客鉄道]]、[[東日本旅客鉄道]]、[[東海旅客鉄道]]、[[西日本旅客鉄道]]、[[四国旅客鉄道]]、[[九州旅客鉄道]])および[[日本貨物鉄道]]([[JR]]グループ)の営業する[[鉄道路線]]の総称である。鉄道路線ではないが、東日本旅客鉄道が営業する[[バス・ラピッド・トランジット|バス高速輸送システム(BRT)]]である[[気仙沼線・大船渡線BRT]]や、九州旅客鉄道が事業主体となり[[JR九州バス]]が営業するバス高速輸送システム(BRT)である[[日田彦山線BRT]]も、JR線に含む場合がある<ref>『[[JR時刻表]]』2020年5月号、交通新聞社、2020年4月20日。</ref><ref>『JR時刻表』2023年12月号、交通新聞社、2023年11月20日。</ref>。JR線の[[乗車券]]等では「旅客鉄道会社線」「東日本会社線」「東海会社線」など、旅客鉄道会社および通用区間に係る略称社名を表示して発売することがある。広義では[[私鉄]]線に含まれるが、歴史的経緯から他の私鉄とは区別され、日本国内では事実上「私鉄線」の対義語となっている。
国鉄の事業を継承した7社は、それぞれが別個の会社組織であるが、国鉄承継事業者として全国に亘る連携したサービスが発足の前提であり、旅客および荷主は原則的に会社(区域)ごとに別個の契約を都度結び直すようなことなく、統一された運送約款のもと利用できる。
== JRと関連があるがJR線でないもの ==
国鉄・JRの[[特定地方交通線]]、[[並行在来線]]等を転換した[[第三セクター鉄道]]は、国鉄線・JR線としては[[廃線|廃止]]されたものであり、接続するJR線から[[直通運転|乗入れ列車]]があったとしても、当然JR線ではない。
同じ区間でJR貨物が第二種鉄道事業者として営業していてもJR線として見なされない。
[[東京モノレール]]、[[JRバス]]のようにJR会社の[[子会社]]の運営である場合や、JR会社の[[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業]]路線や[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業]]路線であっても他の事業者が[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]]として運営している場合は、一般にJR線とは認識されず、運賃の通算も行われない。第一種鉄道事業の例としては[[東海交通事業城北線]]、[[嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線]]、第三種鉄道事業の例としては[[のと鉄道七尾線]]の[[和倉温泉駅]]以北がある。
また、第一種鉄道事業者のJR線と線路を共有して、他の鉄道事業者が第二種鉄道事業者として営業している場合もある(のと鉄道七尾線の和倉温泉駅以南、嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線、[[井原鉄道井原線]])。この場合、同じ線路を走行するが、運賃は別立てである。(特例で運賃がJRと同額となる区間も存在する。)
JR[[飯田線]]と[[名鉄名古屋本線]]も[[豊橋駅]]-[[平井信号場]]間において線路を共有している。双方が単線を供出して複線として扱うため両社とも第一種鉄道事業者となっており、名鉄の電車でこの区間を通過する場合は当然ながらJR線とは見なされない。途中にある[[船町駅]]と[[下地駅]]も名鉄の駅としては存在しないことになっている。
[[関西国際空港]]へと向かうJR[[関西空港線]]と[[南海電気鉄道|南海]][[南海空港線|空港線]]も[[りんくうタウン駅]]から[[関西空港駅]]の間でともに第二種鉄道事業者として線路を共有している。両社の接続点となるりんくうタウン駅は[[共同使用駅]]であるが、関西空港駅では両社の[[プラットホーム|ホーム]]と[[改札]]が分離されているためこの区間で南海の電車に乗る場合はJR線とは見なされない。乗車券についてもりんくうタウン駅から乗車し関西空港駅まで普通乗車券で利用する場合のみ特定運賃が適用され、券売機は両社それぞれ用意されているものの同じ運賃でお互いの列車と改札を利用できる特例があるが、関西空港駅から乗車する場合やその他の乗車券の場合はこの特例は適用されない。
== 所有者はJRではないがJR線扱いされる路線 ==
逆に、路線の[[所有権]]は別会社にあっても、JR旅客6社が第二種鉄道事業者として列車を運行している場合は、一般にJR線と認識される。
*[[JR東西線]]([[関西高速鉄道]])
*[[関西空港線]]の一部([[新関西国際空港|新関西国際空港株式会社]])
*[[成田線]]の一部([[成田空港高速鉄道]])
*[[おおさか東線]]([[大阪外環状鉄道]])
*[[只見線]]の一部([[福島県]])
また、[[東京メトロ千代田線]]の[[北千住駅]] - [[綾瀬駅]]間は東京メトロの路線であるが、同区間は当初[[常磐線]]として建設され、日暮里・上野方面と直通していた歴史的経緯などの関係で常磐線各駅停車としての機能も果たしており、同区間と他のJR線を連続して利用する場合など、一部例外を除き運賃計算上JR線とみなされる場合がある。西日暮里もしくは北千住でJR線から東京メトロ千代田線へ乗り換えて綾瀬以降の亀有、金町、松戸などへ行く場合や、その逆などの場合はJRとして計算される。
== 鉄道事業者における案内呼称 ==
私鉄各線の駅や車内放送における乗換案内では頻繁に聞かれる言葉である。たとえば[[渋谷駅]]では「[[東急東横線]]・[[東急田園都市線]]」などと会社名と路線名を両方述べる言い方が多く、「東急線」という一括案内は用いられることが少ないのに対し、JR駅への案内は[[山手線]]、[[埼京線]]などとは言わず「JR線はお乗り換えです」という表現で一括することが多い。また、JR[[中央本線|中央線]]の[[中央・総武緩行線|各駅停車]]と[[中央線快速|快速]]は共通して中央線などと呼ばれるのに対し、常磐線は[[常磐快速線]]と[[常磐緩行線]]を分けて言うことが多いようである。
JRだけがこのような一括案内をなされるのは、都心の1つの[[ターミナル駅]]ではJR路線の数が突出して多く集まっているケースが多いということが理由の1つとして挙げられる。しかし、JRの路線が1つしかない駅でも「JR線」のみで済まされることも多い。[[目黒駅]]では、JRも東急も路線が1つだけであるが、東急側は「東急線」ではなく「[[東急目黒線]]」と案内されるのに対し、JR側は「JR山手線」ではなく「JR線」と案内される。対して、JR同様都心部に多くの路線や乗換駅を抱える[[東京地下鉄]](東京メトロ)も、1つ1つに対し「○○線」と路線名で案内されることが多く、「東京メトロ線」という一括案内はなされない。
また、[[新幹線]]もJRの路線ではあるが、「JR線」という表現は専ら[[在来線]]の意味で用いられる。たとえば[[東京メトロ東西線]][[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]、[[東京メトロ丸ノ内線]][[東京駅]]などの構内の乗換案内では「新幹線・JR線」などと表記していて、「新幹線」と「JR線」は切り離し、区別している。しかし、東京メトロから新幹線の乗り換えは[[車内放送]]や[[車内案内表示装置]]などでは案内されない。
かつて[[大阪市営地下鉄]](現・[[大阪市高速電気軌道]](Osaka Metro))での乗り継ぎアナウンスは、[[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]([[大阪駅]])では「国鉄線(JR線)〜」、[[天王寺駅]]では「[[大阪環状線|環状線]]、[[関西本線|関西線]]、[[阪和線]]〜」、[[新大阪駅]]では「国鉄新幹線」とアナウンスされていた。これは明治期の官設鉄道時代からの国鉄線であった[[東海道本線]]を国鉄 (JR) とあらわし、私鉄から買収されて国鉄線になった路線が多い他の線を線名で表す例の多い証拠である。現在はどの駅でも「JR線」になっている。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* JRグループ各社
** [[北海道旅客鉄道]](JR北海道)
** [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
** [[東海旅客鉄道]](JR東海)
** [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
** [[四国旅客鉄道]](JR四国)
** [[九州旅客鉄道]](JR九州)
** [[日本貨物鉄道]](JR貨物)
* [[国鉄・JR線路名称一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://hiramatu-hifuka.com/onyak/onyak2/tetu-jr.html JR線読み方辞典]
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[[Category:JRの鉄道路線|*]] | 2003-03-07T07:44:52Z | 2023-11-27T08:22:51Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/JR%E7%B7%9A |
3,585 | 国内総生産 | 国内総生産(こくないそうせいさん、英:Gross Domestic Product、略称:GDP、独:Bruttoinlandsprodukt、略称:BIP)は、一定期間内に国内で産み出された物やサービスの付加価値の合計のことである。その国内領土に居住する経済主体を基準にした数値で「居住者たる生産者による国内生産活動の結果、生み出された付加価値の総額」をいう。
以前は、景気を測る指標として国民総生産 (こくみんそうせいさん、英:Gross National Product、略称:GNP)が用いられていたが、1993SNAの導入に伴い、“Gross National Income (GNI、国民総所得)”が新たに導入され、GNPの概念はなくなり、現在はGDPが重視されている。
なお、GDPは “国内”のため、日本企業が海外で生産した付加価値は含まないのに対して、GNPは“国民”のため、国内に限らず、海外での所得も含んでいる。
また、世界の総生産の合計は、世界総生産 (英:Gross World Product、略称:GWP)と呼ぶ。
国内総生産は「ストック」に対する「フロー」を表す指標であり、経済を総合的に把握する統計である国民経済計算の中の一指標で、GDPの伸び率が実質経済成長率に値する。
原則として国内総生産には市場で取引された財やサービスの生産のみが計上される。市場で取引されない活動は、GDPには含まれない。このため、家事労働やボランティア活動などは国内総生産には計上されない。この点は、国民総生産でも同じである。こうした取り扱いの例外として、持ち家の家賃など帰属計算が行われるものがある。
また、今期新たに生産されたのでない財(例:古美術品)の取引、最終財の原材料となる中間財の取引は算入されない。地下経済なども計上されないことが一般的であったが、2014年以降、EU圏内では麻薬取引や売春サービスも計上し始めている。オーストラリアに本部を置き、米国、メキシコ、オランダ、ベルギーなどに支部を持つ経済平和研究所によると、GDPは「幸福度と国富の関連性」を誤って表現する問題指標であり、より良い測定方法が必要であるとしている。具体的な問題点としては、GDPには犯罪経済などが含まれていることが挙げられる。
国連統計委員会が勧告を出し、統計設計、財の概念の設定などは勧告に沿って行われる。直近の勧告としては、68SNA、93SNA、2008SNAがある。
日本の国内総生産は、内閣府(2001年の中央省庁再編以前は経済企画庁)が推計し、速報値や改定値として発表しているが、その詳細な計算方法については他国同様、公開されていない。
国内総生産を定義するために、実際の経済を単純化したモデルを与える 。なお、ここで説明するGDPは名目GDPと呼ばれるもので、実質GDPとは異なる。
国内には家計、企業、政府の三種類の経済部門があり、それとは別に外国という経済部門がある。
また生産物市場、生産要素市場、金融市場の三種類の市場がある。
企業が財・サービスを生産するために別の企業から購入する財・サービスを中間財・サービスといい、それ以外の財・サービスを最終財・サービスという。
生産物市場は企業および外国が自身の最終財・サービスを売るための市場で、各経済部門はこの市場から財・サービスを買い取る。
中間生産物は、別の(中間ないし最終)財・サービスを作るための要素として使われるので、「二重カウント」を避けるため、国内総生産には企業が中間生産物を売ることで得た金は含まれない。
企業によって生産された最終財・サービスは、誰かが自身のお金を支出して買い取るか、あるいは生産した企業が在庫として抱え込む。在庫は「将来、販売する為の商品」であるから、企業の将来への投資支出の一種とみなせる。従って生産された最終財・サービスは最終的に誰かの支出となる。 企業による支出は投資支出と呼ばれ、Iで表される。家計による支出は消費支出と呼ばれ、Cで表される。また政府による支出はGで表される。
輸出入がない場合、GDPを国内で一定期間の間に最終財・サービスに対して行われた支出の総額ともみなせ、次が成立する事がわかる:
輸出入がある場合、国内総生産額であるGDPのうち、輸出額X分だけ海外へと漏れ出る。 また国内の総支出C+I+Gの一部は輸入に使われたものである。 従って輸入額をIMとすると、以上の議論より、次が成立する事がわかる:
要素市場および金融市場は国内総生産(GDP)を定義する際、直接的には使用しないが、モデルの全体像を捉えやすくするため、説明する。生産要素市場は企業が労働、資本といった生産要素を家計から購入するための市場で、生産要素に対する対価として賃金、利潤、利子、賃料などの形で企業から家計に金が流れ込む。
金融市場は、銀行間取引市場、証券市場および外国為替市場などの総称で、金融市場には家計から民間貯蓄が流れ込み、外国からは外国貸付や株式購入により金が流れ込む。
企業は銀行借入や株式発行により、金融市場から資金を調達し、政府は政府借入により金融市場から資金を調達する。 そして外国は外国借入や株式売却により金融市場から資金を調達する。
上では、企業が財・サービスの市場で自身の最終財・サービスを売り、その対価として得た金額として国内総生産を定義した。これを支出による定義と呼ぶ。
GDPにはこの他に生産による定義、分配による定義があり、これら3つの定義は全て同値となる(三面等価の原理)。
国内で一定期間(たとえば一年間)に生産された全ての最終財・サービスの総額として国内総生産を定義する。
企業によって生産された最終財・サービスは、誰かが自身のお金を支出して買い取るか、あるいは生産した企業が在庫として抱え込む。在庫は「将来売るための商品」であるから、企業の将来への投資支出の一種とみなせる。従って生産された最終財・サービスは最終的に誰かの支出となる。よって生産額による定義は支出による定義と一致する。
財・サービスXに対し、Xの売上額からXを作るのに使った中間財・サービスの値段を引いたものをXの付加価値という。国内総生産の定義より明らかに、国内総生産は(中間または最終)財・サービスの付加価値の合計に等しい。
企業は財・サービスを売ることで、その付加価値分だけの儲けを得る。企業の得た儲けの一部は、賃金、利子、賃料、および租税として家計や政府の利潤となり、残りは企業の利潤となる(そして利潤の一部は株主への配当や内部留保となる)。従って国内総生産は家計、政府、および企業へと分配された利潤の総和としても定義出来る。
先進諸国の傾向としては、国内総生産の3分の2が労働者の取り分となり、3分の1が地主・株主などの資本家の取り分となる。経済学者の飯田泰之は「付加価値に占める賃金の割合は、3分の2くらいが妥当である」と指摘している。
その国内領土に居住する経済主体を対象とする概念である「国内」を基準とする国内総生産(GDP)に対し、当該国の居住者主体を対象とする概念である「国民」を基準とする国民総生産(GNP)がある。「国民総生産」でいう「国民」とは当該国の居住者主体を対象とする経済的な概念であり国籍とは関係がない。個人の場合、主として当該領土内に6か月以上の期間居住しているすべての人を含む一方、一般に国外に2年以上居住する人は非居住者として扱われる。
「国の実体経済」を表す指標としては、国民総生産(GNP)よりも国内総生産(GDP)が重視されるようになった。1980年代頃までは国の経済の規模・成長を測るものさしとして国民総生産(GNP)がよく用いられたが、これは外国に住む国民の生産量も含む一方で、国内で経済活動をする外国人の生産量は含まないという点が、時代が下るにつれて進展していった経済のグローバル化に伴い、国家を単位とする経済指標としては実態に即さなくなったと考えられるためである。
国連の1993SNA等ではGNPの概念そのものがなくなっており、それに代わる概念として国民総所得(Gross National Income = GNI)が導入されている。国内総生産を推計する体系を国民経済計算(体系)と呼ぶように、国民概念がもともと利用されてきたが、国内の経済活動状況を判断する基準としては国内総生産を使用することが一般的となった。日本でも1993年から国民総生産に替わって国内総生産を使用するようになっている。
国内総生産は各国の経済力を示す一番重要な指標であるが、計算方法を公開していない推計値であると山内竜介はしている。日本の国内総生産を公表する内閣府は非公開の理由を、「国家機密に当たる」としていると山内竜介は主張する。また、山内竜介によれば計算数式は毎年改良されるので、どれほど客観性、継続性があるか明らかではない。
どのように基礎統計を用いて国民経済計算を作成するかなどは内閣府によってある程度公開されている。日本はそうでも、北朝鮮は自己申告であるため、真実であるかどうかはわからない。しかし、自己申告である点は中国やアメリカも変わらず、アメリカの国内総生産を疑問視する中国人もいる。どのくらい豊かなのかは、数字だけでは全くわからないのである。
ダイアン・コイルは「GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史」の中で、問題点を指摘している。まず金融仲介の生産高は金利差を使っているのでリスクの高い投資をすればするほどGDPが増える。また公的部門の計算には費用を使うので、公的部門が肥大するとGDPも増加する。ソフトウェアはGDPが増えない中間原材料とも、GDPが増える投資として考えることもできる。ただし「GDPより良い指標はない」という。評者の脇田成首都大学教授は、日本の2013年度のGDP統計では、各項目の税収が増えているのにマイナス成長という不思議なことが起こっているという。
アンガス・ディートンは、今までの経済成長は物質量ではかられてきたため電子メールなどによる生活水準の向上が過小評価されてきたとする
今井賢一・一橋大名誉教授・米スタンフォード大学教授は「21世紀経済はGDPでは測れない」という。無料のサービスが普及したからだという。例えばスカイプ、ライン、メールなどの普及で郵便や電話によるGDPは減少する。今井は河川、森林、野生生物などの価値が「自然資本」として重要性を持つと述べる。
オスカー・モルゲンシュテルンは、GDPの統計誤差は5%以上あったとしている。
2009年、国連は計算基準を見直し、企業の研究開発費、防衛装備費、不動産仲介手数料、特許使用料も加えることとした。そのため日本のGDPは3%程度(約15兆円)増加する見込みである。世界各国は早めに導入済みで、日本では2016年7-9月から導入され、2016年7-9月より前のGDPに対しても、再計算されることになる。
タックス・ヘイヴン(オフショア金融センター)にある資金は世界GDPの1/3である推定21兆~32兆ドルといわれ、GDPの計算がどこまで意味があるか不明となっている。
世界銀行が公表するGDPは、国際比較プログラムの計算法による購買力平価(PPP)で比較したもので、一般的な為替レートを使う計算法とは異なる。購買力平価によるGDPは、先進国のGDPが低めに算出されるため、2017年の国際間の順位は中華人民共和国が1位であり、アメリカ合衆国が2位、インドが3位となる。
以上で説明した国内総生産(名目GDP)は、経済状況のみならず、インフレによる価格変動によっても変化してしまう。そこで価格変動の影響を排除した国内総生産も定義されており、これを実質国内総生産(実質GDP)と呼ぶ。
価格変動の影響を排除するため、実質GDPではある年(例えば2001年)を基準年として定め、基準年における最終財・サービスの価格を使って現在の国内総生産を計算する。
厳密には以下の通りである。最終財・サービスiの基準年における価格がPiで、今年の価格がQiとする。またiは今年Xi個売れたとする。
このとき、今年の実質GDPは
実質GDP = Σi PiXi
により定義される。ここで和Σiは全ての最終財・サービスを渡る。
一方今年の名目GDPは
名目GDP = Σi QiXi
である。
以上で述べた実質GDPの値は、基準年の選び方に依存してしまう。従って現在では基準年の選び方の影響を排除するために、「連鎖」という方法で補正した定義を用いて実質GDPを計算している。
GDPの変化(経済成長率)に関しては経済成長を参照。
国内総生産をその国の人口で割った値を一人当たりGDPと呼ぶ。 国ごとに人口が違うので、国ごとの経済状況を比較するには、通常の国内総生産ではなく一人当たり国内総生産を使う必要がある。国内総生産には名目と実質があるため、一人当たりGDPも一人当たり名目国内総生産と一人当たり実質GDPがある。
現在の国別一人当たりGDPについては国の国内総生産順リスト (一人当り為替レート)を参照。
名目GDPを実質GDPで割ったものをGDPデフレーターと呼ぶ。 名目GDPと実質GDPはそれぞれインフレの調整を行っていないGDPと行ったGDPであるから、その比にあたるGDPデフレーターは、インフレの程度を表す物価指数であるのだと解釈できる。 従ってGDPデフレーターの増加率がプラスであればインフレーション、マイナスであればデフレーションとみなせる。
GDPデフレーターが消費者物価指数や企業物価指数など他の物価指数と著しく異なる点は、GDPデフレーターは輸入物価の上昇による影響を控除した「国内」の物価水準を表しているという点である。このため、原油価格の上昇など輸入物価が上昇するというような場合には、消費者物価指数や企業物価指数が上昇しているにもかかわらず、GDPデフレーターが下落をするということがしばしば起こる。
このため1990年代末から2000年代初頭にかけて、日本経済で物価の下落が続くデフレーションが続いているのかどうかを判断する際に、GDPデフレーターを使うことが適切であるかどうかについては見解が分かれた。下落が続いていた消費者物価指数は、2005年初めから下落幅が縮小し、その年の10月には前年同月比がゼロとなって、11月以降は上昇が続いた。このことには原油価格の上昇によるコスト・プッシュの影響がかなりあったため、GDPデフレーターは前年比で1%以上の下落が続いていた。量的金融緩和政策の解除時期を巡って、緩和策の継続を望む日本政府と早期解除を望む日本銀行の間で議論が起こり、政府はGDPデフレーターがデフレであるとして量的金融緩和政策の解除に対しては慎重な姿勢をみせた。しかし、現実に上昇している消費者物価と企業物価を無視し、GDPデフレーターのみによって、「物価は上昇しているがインフレでない」と主張することはきわめて詭弁的である。GDPデフレーターはあくまで名目GDPを実質GDPで割った数値にすぎず、現実の物価が上がっていることを否定できるものでない。
なお現在、日本のGDPデフレーターはパーシェ型の連鎖指数で、実質GDPはラスパイレス型の連鎖指数であり、米国の実質GDPはフィッシャー型の連鎖指数が採用されている(パーシェ、ラスパイレス、フィッシャーおよび連鎖指数の説明については、指数 (経済)を参照)。
国内純生産(NDP: Net Domestic Product)は、国内総生産から固定資本の減耗分を差し引いたものである。しかし経済全体での固定資本の減耗分は測定しづらく、このため経済学者達は減耗の推定をあまり信用していない。
グリーンGDPとは、従来のGDPから環境破壊による生活の質低下を引いたもの。 基本的な概念は「自然界の様々な要素を、何らかの基準で数値化し、価値ある資源として計上する」というものである。多くの場合、人類の経済活動は環境に悪影響を及ぼしているので、GDPに相応の減少分が発生する。これは生産活動によって減価償却が行われるのと似ている。
一定期間内に一国内で発生した付加価値の総量のことをGDPといい、この数値が増加すれば経済は発展していると見なされるが、これはつまり、「より多くの付加価値が生産されれば、それだけ経済は成長している」と考えているということである。
しかし、この考え方には欠点もある。例えば、森林開発が行われると木材・パルプ生産や住宅建設などがGDPを押し上げるが、土壌流出など環境破壊が起こっても、GDPには何の影響もない。このような矛盾に対して、1980年代後半から環境問題に対する取り組みが強化されたことで、現行のGDPの算出方式を変えようという声が出始めた。そこで代わりにグリーンGDPが考え出される。
1993年には国連統計部が独自の基準を策定したが、世界的にはばらばらの基準を用いているのが現状である。つまり、定評のある金銭換算の計測方法は未だにない。
国民純福祉(NNW)とは、GDPから公害や軍事費などの社会的に望ましくない価値を差し引き、家事労働やボランティア活動など値段で示されない価値を金銭換算して加えたもの。ただし、定評のある金銭換算の計測方法は未だにない。
国内総生産が一国内において生産された付加価値額を表すのに対し、域内総生産 (Gross Regional Product) は都市圏や経済圏、州や県など、一定の地域内で生産された付加価値額を表す。域内総生産には中央政府が行う生産が含まれない場合もあり、全国の域内総生産を合計しても、必ず国内総生産と一致するとは限らない(日本の経済産業省が公表している地域間産業連関表のように、不整合を項目として設ける等の調整を行わない限り、全国計と一致することの方が珍しい。また、特性上、域内総生産=<国内総生産となる。そのため、中華人民共和国の各省の域内総生産を合計すると、国内総生産よりも大きな値となるのは、各省の地方政府が数値を誤魔化しているためと考えられる。)。
都市圏同士の比較や地域経済間比較といった各種分析で使用される他、国土の広大なロシアの統計でよく用いられる。
アメリカ合衆国ドル(US$)建ての名目国内総生産における上位10か国。
円建てでの日本の国内総生産(実質GDPと名目GDP、GDPデフレーター)の経年変化。
1990年代以降の約20年間は、円建てでの国内総生産の名目経済成長率は年率マイナス0.7%程度、実質経済成長率は年率0.6%程度、インフレ率は年率マイナス1.3%程度になった。名目GDPは1997年に記録した536兆円をピークとし、2010年にはそれより63兆円少ない473兆円にまで低下した。
1999年4月に実施した消費税の増税の影響で第二四半期の成長率は2.9%のマイナス成長に陥った。これは過去23年間で最悪の数字であった。その後名目GDPは低迷を続けた。
日本は2012年現在、毎年1%前後のデフレが続いているため、仮に実質GDP成長率が1%あっても差し引きで名目GDP成長率はゼロとなる(実質GDP成長率1%+インフレ率-1%=名目GDP成長率0%)。
US$建てにしたGDPでは、円ではなくてUS$で給料を受け取っている人は日本には稀有なので他国のGDPと正確に比較することは出来ない。ただし、ユーロのような共通通貨を使っているEU加盟国同士では為替による変動が無いため実体を反映した比較ができる。例えば、日本で前年より経済成長したため、円建てのGDPが増加していても、前年より円安の時は同じ額をUSドル建てにしたGDPでは伸びるどころか逆に減少しているようにみえることが多い。一方、円建てのGDPが減少又は低迷している不景気でさえ、前年より円高だとUS$建てのGDPだと前年より増加していることが多い。日本のGDPを約500兆円だと仮定して1US$= 80円の円高に日本のGDPをUS$建てで換算すると約6兆US$になり、1US$=120円の円安でなら約4兆US$となり、円建てでのGDPが同じ額にもかかわらず減少しているような統計結果になってしまう。実際に2015年に国民1人当たり名目GDPはドルに換算した「ドル建て」では「減少」しているが、円建てベースでは1994年以降最高で前年比3.4%程増加している。一方で、円安はUSドルベースでのGDPにおいてはマイナス要因となるが、円安は輸出を促進するため、輸出増加分がGDPに反映される頃にはプラス要因となる。このように、ドルベースのGDPは為替の影響を大きく受ける。そのため、USドルベースのGDPは日本と日本以外の国のGDPを比較するときに主に用いられ、日本国内の経済成長の推移を解析する上では、日本円ベースのGDPが主に用いられる。
アメリカ合衆国のGDPは米国商務省経済分析局(BEA=The Bureau of Economic Analysis, U.S. Department of Commerce)から発表されている。発表時期は1、4、7、10月に速報値、次月の2、5、8、11月に改定値、さらに3、6、9、12月に確定値が発表される。 | [
{
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"text": "国内総生産(こくないそうせいさん、英:Gross Domestic Product、略称:GDP、独:Bruttoinlandsprodukt、略称:BIP)は、一定期間内に国内で産み出された物やサービスの付加価値の合計のことである。その国内領土に居住する経済主体を基準にした数値で「居住者たる生産者による国内生産活動の結果、生み出された付加価値の総額」をいう。",
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},
{
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"text": "以前は、景気を測る指標として国民総生産 (こくみんそうせいさん、英:Gross National Product、略称:GNP)が用いられていたが、1993SNAの導入に伴い、“Gross National Income (GNI、国民総所得)”が新たに導入され、GNPの概念はなくなり、現在はGDPが重視されている。",
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},
{
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"text": "なお、GDPは “国内”のため、日本企業が海外で生産した付加価値は含まないのに対して、GNPは“国民”のため、国内に限らず、海外での所得も含んでいる。",
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},
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"text": "また、世界の総生産の合計は、世界総生産 (英:Gross World Product、略称:GWP)と呼ぶ。",
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},
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"text": "国内総生産は「ストック」に対する「フロー」を表す指標であり、経済を総合的に把握する統計である国民経済計算の中の一指標で、GDPの伸び率が実質経済成長率に値する。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "原則として国内総生産には市場で取引された財やサービスの生産のみが計上される。市場で取引されない活動は、GDPには含まれない。このため、家事労働やボランティア活動などは国内総生産には計上されない。この点は、国民総生産でも同じである。こうした取り扱いの例外として、持ち家の家賃など帰属計算が行われるものがある。",
"title": "概要"
},
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"text": "また、今期新たに生産されたのでない財(例:古美術品)の取引、最終財の原材料となる中間財の取引は算入されない。地下経済なども計上されないことが一般的であったが、2014年以降、EU圏内では麻薬取引や売春サービスも計上し始めている。オーストラリアに本部を置き、米国、メキシコ、オランダ、ベルギーなどに支部を持つ経済平和研究所によると、GDPは「幸福度と国富の関連性」を誤って表現する問題指標であり、より良い測定方法が必要であるとしている。具体的な問題点としては、GDPには犯罪経済などが含まれていることが挙げられる。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "国連統計委員会が勧告を出し、統計設計、財の概念の設定などは勧告に沿って行われる。直近の勧告としては、68SNA、93SNA、2008SNAがある。",
"title": "概要"
},
{
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"tag": "p",
"text": "日本の国内総生産は、内閣府(2001年の中央省庁再編以前は経済企画庁)が推計し、速報値や改定値として発表しているが、その詳細な計算方法については他国同様、公開されていない。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "国内総生産を定義するために、実際の経済を単純化したモデルを与える 。なお、ここで説明するGDPは名目GDPと呼ばれるもので、実質GDPとは異なる。",
"title": "経済モデル"
},
{
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"text": "国内には家計、企業、政府の三種類の経済部門があり、それとは別に外国という経済部門がある。",
"title": "経済モデル"
},
{
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"text": "また生産物市場、生産要素市場、金融市場の三種類の市場がある。",
"title": "経済モデル"
},
{
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"tag": "p",
"text": "企業が財・サービスを生産するために別の企業から購入する財・サービスを中間財・サービスといい、それ以外の財・サービスを最終財・サービスという。",
"title": "経済モデル"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "生産物市場は企業および外国が自身の最終財・サービスを売るための市場で、各経済部門はこの市場から財・サービスを買い取る。",
"title": "経済モデル"
},
{
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"tag": "p",
"text": "中間生産物は、別の(中間ないし最終)財・サービスを作るための要素として使われるので、「二重カウント」を避けるため、国内総生産には企業が中間生産物を売ることで得た金は含まれない。",
"title": "経済モデル"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "企業によって生産された最終財・サービスは、誰かが自身のお金を支出して買い取るか、あるいは生産した企業が在庫として抱え込む。在庫は「将来、販売する為の商品」であるから、企業の将来への投資支出の一種とみなせる。従って生産された最終財・サービスは最終的に誰かの支出となる。 企業による支出は投資支出と呼ばれ、Iで表される。家計による支出は消費支出と呼ばれ、Cで表される。また政府による支出はGで表される。",
"title": "経済モデル"
},
{
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"tag": "p",
"text": "輸出入がない場合、GDPを国内で一定期間の間に最終財・サービスに対して行われた支出の総額ともみなせ、次が成立する事がわかる:",
"title": "経済モデル"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "輸出入がある場合、国内総生産額であるGDPのうち、輸出額X分だけ海外へと漏れ出る。 また国内の総支出C+I+Gの一部は輸入に使われたものである。 従って輸入額をIMとすると、以上の議論より、次が成立する事がわかる:",
"title": "経済モデル"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "要素市場および金融市場は国内総生産(GDP)を定義する際、直接的には使用しないが、モデルの全体像を捉えやすくするため、説明する。生産要素市場は企業が労働、資本といった生産要素を家計から購入するための市場で、生産要素に対する対価として賃金、利潤、利子、賃料などの形で企業から家計に金が流れ込む。",
"title": "経済モデル"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "金融市場は、銀行間取引市場、証券市場および外国為替市場などの総称で、金融市場には家計から民間貯蓄が流れ込み、外国からは外国貸付や株式購入により金が流れ込む。",
"title": "経済モデル"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "企業は銀行借入や株式発行により、金融市場から資金を調達し、政府は政府借入により金融市場から資金を調達する。 そして外国は外国借入や株式売却により金融市場から資金を調達する。",
"title": "経済モデル"
},
{
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"tag": "p",
"text": "上では、企業が財・サービスの市場で自身の最終財・サービスを売り、その対価として得た金額として国内総生産を定義した。これを支出による定義と呼ぶ。",
"title": "経済モデル"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "GDPにはこの他に生産による定義、分配による定義があり、これら3つの定義は全て同値となる(三面等価の原理)。",
"title": "経済モデル"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "国内で一定期間(たとえば一年間)に生産された全ての最終財・サービスの総額として国内総生産を定義する。",
"title": "経済モデル"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "企業によって生産された最終財・サービスは、誰かが自身のお金を支出して買い取るか、あるいは生産した企業が在庫として抱え込む。在庫は「将来売るための商品」であるから、企業の将来への投資支出の一種とみなせる。従って生産された最終財・サービスは最終的に誰かの支出となる。よって生産額による定義は支出による定義と一致する。",
"title": "経済モデル"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "財・サービスXに対し、Xの売上額からXを作るのに使った中間財・サービスの値段を引いたものをXの付加価値という。国内総生産の定義より明らかに、国内総生産は(中間または最終)財・サービスの付加価値の合計に等しい。",
"title": "経済モデル"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "企業は財・サービスを売ることで、その付加価値分だけの儲けを得る。企業の得た儲けの一部は、賃金、利子、賃料、および租税として家計や政府の利潤となり、残りは企業の利潤となる(そして利潤の一部は株主への配当や内部留保となる)。従って国内総生産は家計、政府、および企業へと分配された利潤の総和としても定義出来る。",
"title": "経済モデル"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "先進諸国の傾向としては、国内総生産の3分の2が労働者の取り分となり、3分の1が地主・株主などの資本家の取り分となる。経済学者の飯田泰之は「付加価値に占める賃金の割合は、3分の2くらいが妥当である」と指摘している。",
"title": "経済モデル"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "その国内領土に居住する経済主体を対象とする概念である「国内」を基準とする国内総生産(GDP)に対し、当該国の居住者主体を対象とする概念である「国民」を基準とする国民総生産(GNP)がある。「国民総生産」でいう「国民」とは当該国の居住者主体を対象とする経済的な概念であり国籍とは関係がない。個人の場合、主として当該領土内に6か月以上の期間居住しているすべての人を含む一方、一般に国外に2年以上居住する人は非居住者として扱われる。",
"title": "計数の特徴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "「国の実体経済」を表す指標としては、国民総生産(GNP)よりも国内総生産(GDP)が重視されるようになった。1980年代頃までは国の経済の規模・成長を測るものさしとして国民総生産(GNP)がよく用いられたが、これは外国に住む国民の生産量も含む一方で、国内で経済活動をする外国人の生産量は含まないという点が、時代が下るにつれて進展していった経済のグローバル化に伴い、国家を単位とする経済指標としては実態に即さなくなったと考えられるためである。",
"title": "計数の特徴"
},
{
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"tag": "p",
"text": "国連の1993SNA等ではGNPの概念そのものがなくなっており、それに代わる概念として国民総所得(Gross National Income = GNI)が導入されている。国内総生産を推計する体系を国民経済計算(体系)と呼ぶように、国民概念がもともと利用されてきたが、国内の経済活動状況を判断する基準としては国内総生産を使用することが一般的となった。日本でも1993年から国民総生産に替わって国内総生産を使用するようになっている。",
"title": "計数の特徴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "国内総生産は各国の経済力を示す一番重要な指標であるが、計算方法を公開していない推計値であると山内竜介はしている。日本の国内総生産を公表する内閣府は非公開の理由を、「国家機密に当たる」としていると山内竜介は主張する。また、山内竜介によれば計算数式は毎年改良されるので、どれほど客観性、継続性があるか明らかではない。",
"title": "計数の特徴"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "どのように基礎統計を用いて国民経済計算を作成するかなどは内閣府によってある程度公開されている。日本はそうでも、北朝鮮は自己申告であるため、真実であるかどうかはわからない。しかし、自己申告である点は中国やアメリカも変わらず、アメリカの国内総生産を疑問視する中国人もいる。どのくらい豊かなのかは、数字だけでは全くわからないのである。",
"title": "計数の特徴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ダイアン・コイルは「GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史」の中で、問題点を指摘している。まず金融仲介の生産高は金利差を使っているのでリスクの高い投資をすればするほどGDPが増える。また公的部門の計算には費用を使うので、公的部門が肥大するとGDPも増加する。ソフトウェアはGDPが増えない中間原材料とも、GDPが増える投資として考えることもできる。ただし「GDPより良い指標はない」という。評者の脇田成首都大学教授は、日本の2013年度のGDP統計では、各項目の税収が増えているのにマイナス成長という不思議なことが起こっているという。",
"title": "計数の特徴"
},
{
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"text": "アンガス・ディートンは、今までの経済成長は物質量ではかられてきたため電子メールなどによる生活水準の向上が過小評価されてきたとする",
"title": "計数の特徴"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "今井賢一・一橋大名誉教授・米スタンフォード大学教授は「21世紀経済はGDPでは測れない」という。無料のサービスが普及したからだという。例えばスカイプ、ライン、メールなどの普及で郵便や電話によるGDPは減少する。今井は河川、森林、野生生物などの価値が「自然資本」として重要性を持つと述べる。",
"title": "計数の特徴"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "オスカー・モルゲンシュテルンは、GDPの統計誤差は5%以上あったとしている。",
"title": "計数の特徴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2009年、国連は計算基準を見直し、企業の研究開発費、防衛装備費、不動産仲介手数料、特許使用料も加えることとした。そのため日本のGDPは3%程度(約15兆円)増加する見込みである。世界各国は早めに導入済みで、日本では2016年7-9月から導入され、2016年7-9月より前のGDPに対しても、再計算されることになる。",
"title": "計数の特徴"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "タックス・ヘイヴン(オフショア金融センター)にある資金は世界GDPの1/3である推定21兆~32兆ドルといわれ、GDPの計算がどこまで意味があるか不明となっている。",
"title": "計数の特徴"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "世界銀行が公表するGDPは、国際比較プログラムの計算法による購買力平価(PPP)で比較したもので、一般的な為替レートを使う計算法とは異なる。購買力平価によるGDPは、先進国のGDPが低めに算出されるため、2017年の国際間の順位は中華人民共和国が1位であり、アメリカ合衆国が2位、インドが3位となる。",
"title": "世界銀行による計算手法"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "以上で説明した国内総生産(名目GDP)は、経済状況のみならず、インフレによる価格変動によっても変化してしまう。そこで価格変動の影響を排除した国内総生産も定義されており、これを実質国内総生産(実質GDP)と呼ぶ。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "価格変動の影響を排除するため、実質GDPではある年(例えば2001年)を基準年として定め、基準年における最終財・サービスの価格を使って現在の国内総生産を計算する。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "厳密には以下の通りである。最終財・サービスiの基準年における価格がPiで、今年の価格がQiとする。またiは今年Xi個売れたとする。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "このとき、今年の実質GDPは",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "実質GDP = Σi PiXi",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "により定義される。ここで和Σiは全ての最終財・サービスを渡る。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "一方今年の名目GDPは",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "名目GDP = Σi QiXi",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "である。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "以上で述べた実質GDPの値は、基準年の選び方に依存してしまう。従って現在では基準年の選び方の影響を排除するために、「連鎖」という方法で補正した定義を用いて実質GDPを計算している。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "GDPの変化(経済成長率)に関しては経済成長を参照。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "国内総生産をその国の人口で割った値を一人当たりGDPと呼ぶ。 国ごとに人口が違うので、国ごとの経済状況を比較するには、通常の国内総生産ではなく一人当たり国内総生産を使う必要がある。国内総生産には名目と実質があるため、一人当たりGDPも一人当たり名目国内総生産と一人当たり実質GDPがある。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "現在の国別一人当たりGDPについては国の国内総生産順リスト (一人当り為替レート)を参照。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "名目GDPを実質GDPで割ったものをGDPデフレーターと呼ぶ。 名目GDPと実質GDPはそれぞれインフレの調整を行っていないGDPと行ったGDPであるから、その比にあたるGDPデフレーターは、インフレの程度を表す物価指数であるのだと解釈できる。 従ってGDPデフレーターの増加率がプラスであればインフレーション、マイナスであればデフレーションとみなせる。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "GDPデフレーターが消費者物価指数や企業物価指数など他の物価指数と著しく異なる点は、GDPデフレーターは輸入物価の上昇による影響を控除した「国内」の物価水準を表しているという点である。このため、原油価格の上昇など輸入物価が上昇するというような場合には、消費者物価指数や企業物価指数が上昇しているにもかかわらず、GDPデフレーターが下落をするということがしばしば起こる。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "このため1990年代末から2000年代初頭にかけて、日本経済で物価の下落が続くデフレーションが続いているのかどうかを判断する際に、GDPデフレーターを使うことが適切であるかどうかについては見解が分かれた。下落が続いていた消費者物価指数は、2005年初めから下落幅が縮小し、その年の10月には前年同月比がゼロとなって、11月以降は上昇が続いた。このことには原油価格の上昇によるコスト・プッシュの影響がかなりあったため、GDPデフレーターは前年比で1%以上の下落が続いていた。量的金融緩和政策の解除時期を巡って、緩和策の継続を望む日本政府と早期解除を望む日本銀行の間で議論が起こり、政府はGDPデフレーターがデフレであるとして量的金融緩和政策の解除に対しては慎重な姿勢をみせた。しかし、現実に上昇している消費者物価と企業物価を無視し、GDPデフレーターのみによって、「物価は上昇しているがインフレでない」と主張することはきわめて詭弁的である。GDPデフレーターはあくまで名目GDPを実質GDPで割った数値にすぎず、現実の物価が上がっていることを否定できるものでない。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "なお現在、日本のGDPデフレーターはパーシェ型の連鎖指数で、実質GDPはラスパイレス型の連鎖指数であり、米国の実質GDPはフィッシャー型の連鎖指数が採用されている(パーシェ、ラスパイレス、フィッシャーおよび連鎖指数の説明については、指数 (経済)を参照)。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "国内純生産(NDP: Net Domestic Product)は、国内総生産から固定資本の減耗分を差し引いたものである。しかし経済全体での固定資本の減耗分は測定しづらく、このため経済学者達は減耗の推定をあまり信用していない。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "グリーンGDPとは、従来のGDPから環境破壊による生活の質低下を引いたもの。 基本的な概念は「自然界の様々な要素を、何らかの基準で数値化し、価値ある資源として計上する」というものである。多くの場合、人類の経済活動は環境に悪影響を及ぼしているので、GDPに相応の減少分が発生する。これは生産活動によって減価償却が行われるのと似ている。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "一定期間内に一国内で発生した付加価値の総量のことをGDPといい、この数値が増加すれば経済は発展していると見なされるが、これはつまり、「より多くの付加価値が生産されれば、それだけ経済は成長している」と考えているということである。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "しかし、この考え方には欠点もある。例えば、森林開発が行われると木材・パルプ生産や住宅建設などがGDPを押し上げるが、土壌流出など環境破壊が起こっても、GDPには何の影響もない。このような矛盾に対して、1980年代後半から環境問題に対する取り組みが強化されたことで、現行のGDPの算出方式を変えようという声が出始めた。そこで代わりにグリーンGDPが考え出される。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1993年には国連統計部が独自の基準を策定したが、世界的にはばらばらの基準を用いているのが現状である。つまり、定評のある金銭換算の計測方法は未だにない。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "国民純福祉(NNW)とは、GDPから公害や軍事費などの社会的に望ましくない価値を差し引き、家事労働やボランティア活動など値段で示されない価値を金銭換算して加えたもの。ただし、定評のある金銭換算の計測方法は未だにない。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "国内総生産が一国内において生産された付加価値額を表すのに対し、域内総生産 (Gross Regional Product) は都市圏や経済圏、州や県など、一定の地域内で生産された付加価値額を表す。域内総生産には中央政府が行う生産が含まれない場合もあり、全国の域内総生産を合計しても、必ず国内総生産と一致するとは限らない(日本の経済産業省が公表している地域間産業連関表のように、不整合を項目として設ける等の調整を行わない限り、全国計と一致することの方が珍しい。また、特性上、域内総生産=<国内総生産となる。そのため、中華人民共和国の各省の域内総生産を合計すると、国内総生産よりも大きな値となるのは、各省の地方政府が数値を誤魔化しているためと考えられる。)。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "都市圏同士の比較や地域経済間比較といった各種分析で使用される他、国土の広大なロシアの統計でよく用いられる。",
"title": "関連指標"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国ドル(US$)建ての名目国内総生産における上位10か国。",
"title": "各国の国内総生産"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "円建てでの日本の国内総生産(実質GDPと名目GDP、GDPデフレーター)の経年変化。",
"title": "各国の国内総生産"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "1990年代以降の約20年間は、円建てでの国内総生産の名目経済成長率は年率マイナス0.7%程度、実質経済成長率は年率0.6%程度、インフレ率は年率マイナス1.3%程度になった。名目GDPは1997年に記録した536兆円をピークとし、2010年にはそれより63兆円少ない473兆円にまで低下した。",
"title": "各国の国内総生産"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1999年4月に実施した消費税の増税の影響で第二四半期の成長率は2.9%のマイナス成長に陥った。これは過去23年間で最悪の数字であった。その後名目GDPは低迷を続けた。",
"title": "各国の国内総生産"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "日本は2012年現在、毎年1%前後のデフレが続いているため、仮に実質GDP成長率が1%あっても差し引きで名目GDP成長率はゼロとなる(実質GDP成長率1%+インフレ率-1%=名目GDP成長率0%)。",
"title": "各国の国内総生産"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "US$建てにしたGDPでは、円ではなくてUS$で給料を受け取っている人は日本には稀有なので他国のGDPと正確に比較することは出来ない。ただし、ユーロのような共通通貨を使っているEU加盟国同士では為替による変動が無いため実体を反映した比較ができる。例えば、日本で前年より経済成長したため、円建てのGDPが増加していても、前年より円安の時は同じ額をUSドル建てにしたGDPでは伸びるどころか逆に減少しているようにみえることが多い。一方、円建てのGDPが減少又は低迷している不景気でさえ、前年より円高だとUS$建てのGDPだと前年より増加していることが多い。日本のGDPを約500兆円だと仮定して1US$= 80円の円高に日本のGDPをUS$建てで換算すると約6兆US$になり、1US$=120円の円安でなら約4兆US$となり、円建てでのGDPが同じ額にもかかわらず減少しているような統計結果になってしまう。実際に2015年に国民1人当たり名目GDPはドルに換算した「ドル建て」では「減少」しているが、円建てベースでは1994年以降最高で前年比3.4%程増加している。一方で、円安はUSドルベースでのGDPにおいてはマイナス要因となるが、円安は輸出を促進するため、輸出増加分がGDPに反映される頃にはプラス要因となる。このように、ドルベースのGDPは為替の影響を大きく受ける。そのため、USドルベースのGDPは日本と日本以外の国のGDPを比較するときに主に用いられ、日本国内の経済成長の推移を解析する上では、日本円ベースのGDPが主に用いられる。",
"title": "各国の国内総生産"
},
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"paragraph_id": 71,
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"text": "アメリカ合衆国のGDPは米国商務省経済分析局(BEA=The Bureau of Economic Analysis, U.S. Department of Commerce)から発表されている。発表時期は1、4、7、10月に速報値、次月の2、5、8、11月に改定値、さらに3、6、9、12月に確定値が発表される。",
"title": "各国の国内総生産"
}
] | 国内総生産は、一定期間内に国内で産み出された物やサービスの付加価値の合計のことである。その国内領土に居住する経済主体を基準にした数値で「居住者たる生産者による国内生産活動の結果、生み出された付加価値の総額」をいう。 以前は、景気を測る指標として国民総生産が用いられていたが、1993SNAの導入に伴い、“Gross National Income (GNI、国民総所得)”が新たに導入され、GNPの概念はなくなり、現在はGDPが重視されている。 なお、GDPは “国内”のため、日本企業が海外で生産した付加価値は含まないのに対して、GNPは“国民”のため、国内に限らず、海外での所得も含んでいる。 また、世界の総生産の合計は、世界総生産と呼ぶ。 | {{redirect|GDP}}
[[File:MERandPPP.png|right|300px|thumb|'''国別GDP(2016年)'''<ref>{{Cite web|author=IMF|authorlink=国際通貨基金|url=https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2019/02/weodata/weorept.aspx?sy=2016&ey=2016&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=0&c=512%2C668%2C914%2C672%2C612%2C946%2C614%2C137%2C311%2C546%2C213%2C674%2C911%2C676%2C314%2C548%2C193%2C556%2C122%2C678%2C912%2C181%2C313%2C867%2C419%2C682%2C513%2C684%2C316%2C273%2C913%2C868%2C124%2C921%2C339%2C948%2C638%2C943%2C514%2C686%2C218%2C688%2C963%2C518%2C616%2C728%2C223%2C836%2C516%2C558%2C918%2C138%2C748%2C196%2C618%2C278%2C624%2C692%2C522%2C694%2C622%2C962%2C156%2C142%2C626%2C449%2C628%2C564%2C228%2C565%2C924%2C283%2C233%2C853%2C632%2C288%2C636%2C293%2C634%2C566%2C238%2C964%2C662%2C182%2C960%2C359%2C423%2C453%2C935%2C968%2C128%2C922%2C611%2C714%2C321%2C862%2C243%2C135%2C248%2C716%2C469%2C456%2C253%2C722%2C642%2C942%2C643%2C718%2C939%2C724%2C734%2C576%2C644%2C936%2C819%2C961%2C172%2C813%2C132%2C726%2C646%2C199%2C648%2C733%2C915%2C184%2C134%2C524%2C652%2C361%2C174%2C362%2C328%2C364%2C258%2C732%2C656%2C366%2C654%2C144%2C336%2C146%2C263%2C463%2C268%2C528%2C532%2C923%2C944%2C738%2C176%2C578%2C534%2C537%2C536%2C742%2C429%2C866%2C433%2C369%2C178%2C744%2C436%2C186%2C136%2C925%2C343%2C869%2C158%2C746%2C439%2C926%2C916%2C466%2C664%2C112%2C826%2C111%2C542%2C298%2C967%2C927%2C443%2C846%2C917%2C299%2C544%2C582%2C941%2C474%2C446%2C754%2C666%2C698&s=NGDPD%2CPPPGDP&grp=0&a=&pr.x=66&pr.y=10|title=World Economic Outlook, October 2019|date=2019-10|format=Excel|accessdate=2020-02-17}}</ref> 上段が[[為替レート|MER]]ベース、下段が[[購買力平価説|PPP]]ベース。単位は10億ドル。名目ベースでは先進国の値が高く、PPPベースではインドや中華人民共和国などの新興国やアフリカなどの発展途上国の値が高く表示されやすいことが読み取れる。]]
'''国内総生産'''(こくないそうせいさん、[[英語|英]]:Gross Domestic Product、略称:'''GDP'''、[[ドイツ語|独]]:Bruttoinlandsprodukt、略称:'''BIP''')は、一定期間内に[[国内]]で産み出された物やサービスの[[付加価値]]の合計のこと<ref name="Dif"/><ref>【NHK】[https://www3.nhk.or.jp/news/special/news_seminar/jiji/jiji54/ 1からわかる!景気【下】オリンピック後は?就活への影響は?]2020年2月13日</ref>である。その国内領土に居住する経済主体を基準にした数値で「居住者たる生産者による国内生産活動の結果、生み出された付加価値の総額」をいう<ref name="reference4">{{Cite web|和書|url= https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/reference4/yougo_top.html#ka25 |title=用語の解説(国民経済計算)|publisher=内閣府経済社会総合研究所 |accessdate=2020-02-18}}</ref>。
以前は、景気を測る指標として'''[[国民総生産]]''' (こくみんそうせいさん、[[英語|英]]:Gross National Product、略称:'''GNP''')が用いられていたが、[[93SNA|1993SNA]]の導入に伴い、“Gross National Income (GNI、国民総所得)”が新たに導入され、GNPの概念はなくなり、現在はGDPが重視されている<ref name="Dif">[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/otoiawase/faq/qa14.html GDPとGNI(GNP)の違いについて]内閣府経済社会総合研究所</ref>。
なお、GDPは “国内”のため、日本企業が海外で生産した付加価値は含まないのに対して、GNPは“国民”のため、国内に限らず、海外での所得も含んでいる<ref name="Dif"/>。
また、世界の総生産の合計は、'''世界総生産''' ([[英語|英]]:Gross World Product、略称:'''[[GWP]]''')と呼ぶ<ref>[[日本学術会議]]「[https://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/warming/index.html 地球温暖化問題解決のために ―知見と施策の分析]」2009年,p.17.</ref>。
== 概要 ==
[[File:StockFlow.gif|thumb|250px| [[フローとストック]]の[[ダイアグラム]]]]
国内総生産は「[[フローとストック|ストック」に対する「'''フロー'''」]]を表す指標であり<ref group="注釈">「ストック(物と[[知識]])をつくるを含む」と「フロー([[需要と供給]])」がともに可能な[[産業]]・[[職業]]は、主に[[製造業]]と[[建設業]](日本のGDPを試算・算出する際に製造業の内閣府機械受注統計調査と建設業の国土交通省建設工事受注動態統計調査を使用する)、[[知識産業]]([[医師]]、[[歯科医師]]、[[獣医師]]、[[薬剤師]]、[[プログラマ]]、[[システムエンジニア]]など)や、職能産業・[[エッセンシャルワーカー]](航空旅客機[[パイロット (航空)|パイロット]]、[[貨物自動車|トラック]][[運転手]]、[[バス (交通機関)|バス]]運転手、[[タクシー]][[運転手|ドライバー]]、旅客船[[海技士]]、[[看護師]]、[[愛玩動物看護師]]、[[歯科衛生士]]、[[歯科技工士]]、[[登録販売者]]、[[介護士]]、[[保育士]]、[[教員]]、[[ブルーカラー]]、[[建設作業員]]など)</ref>、[[経済]]を総合的に把握する[[統計]]である[[国民経済計算]]の中の一指標で、GDPの伸び率が[[実質経済成長率]]に値する。{{main2|経済学用語のフロー、ストックは[[フローとストック]]を}}
原則として国内総生産には市場で取引された財やサービスの生産のみが計上される。市場で取引されない活動は、GDPには含まれない<ref name="keizainoshikumi24">大和総研 『最新版 入門の入門 経済のしくみ-見る・読む・わかる』 日本実業出版社・第4版、2002年、24頁。</ref>。このため、家事労働やボランティア活動などは国内総生産には計上されない。この点は、[[国民総生産]]でも同じである。こうした取り扱いの例外として、持ち家の家賃など帰属計算が行われるものがある。{{main2|[[国民経済計算]]の帰属家賃の説明を}}また、今期新たに生産されたのでない財(例:古美術品)の取引、最終財の原材料となる[[中間財]]の取引は算入されない。[[地下経済]]なども計上されないことが一般的であったが、2014年以降、EU圏内では麻薬取引や売春サービスも計上し始めている<ref>{{Cite news|url=http://jp.reuters.com/article/wtOddlyEnoughNews/idJPKBN0F10XQ20140626?rpc=223|title=オランダの売春・麻薬の経済規模、チーズ消費額を上回る|work=ロイター|publisher=ロイター通信社|date=2014-06-26|accessdate=2014-07-27}}</ref>。オーストラリアに本部を置き、米国、メキシコ、オランダ、ベルギーなどに支部を持つ経済平和研究所によると、GDPは「幸福度と国富の関連性」を誤って表現する問題指標であり、より良い測定方法が必要であるとしている。具体的な問題点としては、GDPには犯罪経済などが含まれていることが挙げられる<ref>{{Cite web |title=The Problem with GDP |url=https://www.visionofhumanity.org/the-problem-with-gdp/ |website=Vision of Humanity |date=2022-05-06 |access-date=2022-06-15 |language=en-US}}</ref>。
[[国連統計委員会]]が勧告を出し、統計設計、財の概念の設定などは勧告に沿って行われる。直近の勧告としては、[[68SNA]]、[[93SNA]]、[[2008SNA]]がある。
日本の国内総生産は、[[内閣府]](2001年の[[中央省庁再編]]以前は[[経済企画庁]])が推計し、速報値や改定値として発表しているが、その詳細な計算方法については他国同様、公開されていない。
== 経済モデル ==
=== 国内総生産の定義 ===
国内総生産を定義するために、実際の経済を単純化したモデルを与える<ref>この節は、クルーグマン『マクロ経済学』東洋経済新報社、2009年、38 - 41ページおよび189 - 190ページを参考にした。</ref> 。なお、ここで説明するGDPは'''名目GDP'''と呼ばれるもので、'''実質GDP'''とは異なる。
==== 支出面 ====
国内には'''家計'''、'''企業'''、'''政府'''の三種類の経済部門があり、それとは別に'''外国'''という経済部門がある。
また'''生産物市場'''、'''生産要素市場'''、'''金融市場'''の三種類の市場がある。
企業が財・サービスを生産するために別の企業から購入する財・サービスを'''中間'''財・サービスといい、それ以外の財・サービスを'''最終'''財・サービスという。
'''生産物市場'''は企業および外国が自身の[[最終財]]・サービスを売るための市場で、各経済部門はこの市場から財・サービスを買い取る。
[[中間生産物]]は、別の(中間ないし最終)財・サービスを作るための要素として使われるので、「二重カウント」を避けるため、国内総生産には企業が中間生産物を売ることで得た金は含まれない。
企業によって生産された最終財・サービスは、誰かが自身のお金を支出して買い取るか、あるいは生産した企業が在庫として抱え込む。在庫は「将来、販売する為の商品」であるから、企業の将来への投資支出の一種とみなせる。従って生産された最終財・サービスは最終的に誰かの支出となる。
企業による支出は投資支出と呼ばれ、Iで表される。家計による支出は消費支出と呼ばれ、Cで表される。また政府による支出はGで表される。
輸出入がない場合、GDPを国内で一定期間の間に最終財・サービスに対して行われた支出の総額ともみなせ、次が成立する事がわかる:
GDP = C + I + G
輸出入がある場合、国内総生産額であるGDPのうち、輸出額X分だけ海外へと漏れ出る。 また国内の総支出C+I+Gの一部は輸入に使われたものである。 従って輸入額をIMとすると、以上の議論より、次が成立する事がわかる:
GDP = C + I + G + X - IM
要素市場および金融市場は国内総生産(GDP)を定義する際、直接的には使用しないが、モデルの全体像を捉えやすくするため、説明する。'''生産要素市場'''は企業が労働、資本といった'''生産要素'''を家計から購入するための市場で、生産要素に対する対価として賃金、利潤、利子、賃料などの形で企業から家計に金が流れ込む。
'''金融市場'''は、[[銀行間取引市場]]、[[証券市場]]および[[外国為替市場]]などの総称で、金融市場には家計から'''民間貯蓄'''が流れ込み、外国からは'''外国貸付'''や'''株式購入'''により金が流れ込む。
企業は'''銀行借入'''や'''株式発行'''により、金融市場から資金を調達し、政府は'''政府借入'''により金融市場から資金を調達する。
そして外国は'''外国借入'''や'''株式売却'''により金融市場から資金を調達する。
=== 三面等価の原理 ===
{{main|三面等価の原則}}
上では、企業が財・サービスの市場で自身の最終財・サービスを売り、その対価として得た金額として国内総生産を定義した。これを'''支出'''による定義と呼ぶ。
GDPにはこの他に'''生産'''による定義、'''分配'''による定義があり、これら3つの定義は全て同値となる('''三面等価の原理''')。
==== 生産による定義 ====
国内で一定期間(たとえば一年間)に生産された全ての最終財・サービスの総額として国内総生産を定義する。
企業によって生産された最終財・サービスは、誰かが自身のお金を支出して買い取るか、あるいは生産した企業が在庫として抱え込む。在庫は「将来売るための商品」であるから、企業の将来への投資支出の一種とみなせる。従って生産された最終財・サービスは最終的に誰かの支出となる。よって生産額による定義は支出による定義と一致する。
財・サービスXに対し、Xの売上額からXを作るのに使った中間財・サービスの値段を引いたものをXの'''付加価値'''という。国内総生産の定義より明らかに、国内総生産は(中間または最終)財・サービスの付加価値の合計に等しい。
==== 分配による定義 ====
企業は財・サービスを売ることで、その付加価値分だけの儲けを得る。企業の得た儲けの一部は、賃金、利子、賃料、および租税として家計や政府の利潤となり、残りは企業の利潤となる(そして利潤の一部は株主への配当や内部留保となる)。従って国内総生産は家計、政府、および企業へと分配された利潤の総和としても定義出来る。
先進諸国の傾向としては、国内総生産の3分の2が労働者の取り分となり、3分の1が地主・株主などの資本家の取り分となる<ref>飯田泰之・雨宮処凛 『脱貧困の経済学』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、2012年、32-33頁。</ref>。[[経済学者]]の[[飯田泰之]]は「付加価値に占める賃金の割合は、3分の2くらいが妥当である」と指摘している<ref>飯田泰之・雨宮処凛 『脱貧困の経済学』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、2012年、83頁。</ref>。
;分配面から見た国内総生産
*国内総生産=雇用者報酬+(営業余剰+混合所得)+固定資本減耗+(生産・輸入品に課される税ー補助金)
== 計数の特徴 ==
=== 国民総生産と国内総生産の違い ===
その国内領土に居住する経済主体を対象とする概念である「国内」を基準とする国内総生産(GDP)に対し、当該国の居住者主体を対象とする概念である「国民」を基準とする[[国民総生産]](GNP)がある<ref name="reference4" />。「国民総生産」でいう「国民」とは当該国の居住者主体を対象とする経済的な概念であり国籍とは関係がない<ref name="reference4" />。個人の場合、主として当該領土内に6か月以上の期間居住しているすべての人を含む一方、一般に国外に2年以上居住する人は非居住者として扱われる<ref name="reference4" />。
「国の実体経済」を表す指標としては、国民総生産(GNP)よりも国内総生産(GDP)が重視されるようになった<ref name="qa14" /><ref>松原聡 『日本の経済 ([[図解雑学シリーズ]])』 ナツメ社、2000年、30頁。</ref>。1980年代頃までは国の経済の規模・成長を測るものさしとして国民総生産(GNP)がよく用いられたが、これは外国に住む国民の生産量も含む一方で、国内で経済活動をする外国人の生産量は含まないという点が、時代が下るにつれて進展していった経済のグローバル化に伴い、[[国家]]を単位とする経済指標としては実態に即さなくなったと考えられるためである。
国連の[[93SNA|1993SNA]]等ではGNPの概念そのものがなくなっており、それに代わる概念として国民総所得(Gross National Income = GNI)が導入されている<ref name="qa14">{{Cite web|和書|url= https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/otoiawase/faq/qa14.html |title=用語の解説(国民経済計算)|publisher=内閣府経済社会総合研究所 |accessdate=2020-02-18}}</ref>。国内総生産を推計する体系を国民経済計算(体系)と呼ぶように、国民概念がもともと利用されてきたが、国内の経済活動状況を判断する基準としては国内総生産を使用することが一般的となった。日本でも1993年から国民総生産に替わって国内総生産を使用するようになっている。
=== 問題点 ===
国内総生産は各国の経済力を示す一番重要な指標であるが、計算方法を公開していない推計値であると山内竜介<ref>読売新聞記者</ref>はしている。日本の国内総生産を公表する[[内閣府]]は非公開の理由を、「国家機密に当たる」としていると山内竜介は主張する。また、山内竜介によれば計算数式は毎年改良されるので、どれほど客観性、継続性があるか明らかではない<ref>『GDP 秘密のレシピ」』山内竜介。読売新聞2015年2月12日朝刊「オン オフ」</ref>。
どのように基礎統計を用いて[[国民経済計算]]を作成するかなどは内閣府によってある程度公開されている<ref>内閣府「[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/reference1/h17/pdf/sakusei_houhou17-2.pdf 国民経済計算の作成方法]」2015年6月6日閲覧。</ref>。日本はそうでも、北朝鮮は自己申告<ref>{{Cite web|和書|url =https://mainichi.jp/articles/20181013/k00/00m/030/107000c|title =「プラス成長」主張 制裁下の発展アピール |publisher =毎日新聞 |date =2018-10-13 |accessdate =2018-10-13 }}</ref>であるため、真実であるかどうかはわからない。しかし、自己申告である点は中国やアメリカも変わらず、アメリカの国内総生産を疑問視<ref>{{Cite web |url = http://osaka.china-consulate.gov.cn/jpn/xwdt/202207/t20220729_10730234.htm |title = 米国GDP、不思議なデータの裏に隠された中国に対する焦り|website = osaka.china-consulate.gov.cn|publisher = osaka.china-consulate.gov.cn|date = 2022-07-29|accessdate = 2023-03-02}}</ref>する中国人もいる。どのくらい豊かなのかは、数字だけでは'''全く'''わからないのである。
[[ダイアン・コイル]]は「GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史<ref>髙橋璃子訳、2015年、みすず書房</ref>」の中で、問題点を指摘している。まず金融仲介の生産高は金利差を使っているのでリスクの高い投資をすればするほどGDPが増える。また公的部門の計算には費用を使うので、公的部門が肥大するとGDPも増加する。[[ソフトウェア]]はGDPが増えない中間原材料とも、GDPが増える投資として考えることもできる。ただし「GDPより良い指標はない」という。評者の[[脇田成]]首都大学教授は、日本の2013年度のGDP統計では、各項目の税収が増えているのにマイナス成長という不思議なことが起こっているという<ref>「GDP」日本経済新聞2015年10月25日</ref>。
[[アンガス・ディートン]]<ref>[[プリンストン大]]学教授、2015年ノーベル賞。「経済学者、未来を語る」小坂恵理訳、NTT出版</ref>は、今までの経済成長は物質量ではかられてきたため電子メールなどによる生活水準の向上が過小評価されてきたとする<ref>「GDPを問い直す」日本経済新聞2015年12月20日21面</ref>
[[今井賢一 (経営学者)|今井賢一]]・一橋大名誉教授・米[[スタンフォード大学]]教授は「21世紀経済はGDPでは測れない」という。無料のサービスが普及したからだという。例えばスカイプ、ライン、メールなどの普及で郵便や電話によるGDPは減少する。今井は河川、森林、野生生物などの価値が「自然資本」として重要性を持つと述べる<ref>[http://mainichi.jp/shimen/news/20151019ddm002070153000c.html 風知草:GDPでは すくえない=山田孝男]毎日新聞 2015年10月19日 東京朝刊</ref><ref>「ザ・セカンド・マシン・エイジ 」日経BP 2015年7月</ref><ref>「戦後70年日本の強みは(下)自然資本と宗教に鍵」経済教室 2015年8月7日日本経済新聞 朝刊</ref><ref>2012年6月17日、国連持続可能な開発会議(リオ+20サミット)で地球環境変化の人間・社会的側面に関する国際研究計画(IHDP)は共同で「Inclusive Wealth Report 2012(IWR: 包括的な 豊かさに関する報告書)」</ref>。
[[オスカー・モルゲンシュテルン]]<ref>「経済観測の科学」、法政大学出版会、1968</ref>は、GDPの統計誤差は5%以上あったとしている。
2009年、国連は計算基準を見直し、企業の研究開発費、防衛装備費、不動産仲介手数料、特許使用料も加えることとした。そのため日本のGDPは3%程度(約15兆円)増加する見込みである。世界各国は早めに導入済みで、日本では2016年7-9月から導入され、2016年7-9月より前のGDPに対しても、再計算されることになる<ref>[http://www.sankei.com/economy/news/160506/ecn1605060033-n1.html 日本のGDPが一気に3%底上げも 国連の計算方法見直し、600兆円挑戦に“朗報”]産経新聞2016年5月6日(共同通信)</ref>。
[[タックス・ヘイヴン]]([[オフショア金融センター]])にある資金は世界GDPの1/3である推定21兆~32兆ドルといわれ、GDPの計算がどこまで意味があるか不明となっている。
==世界銀行による計算手法==
[[世界銀行]]が公表するGDPは、国際比較プログラムの計算法による購買力平価(PPP)で比較したもので、一般的な[[為替レート]]を使う計算法とは異なる。購買力平価によるGDPは、先進国のGDPが低めに算出されるため、2017年の国際間の順位は[[中華人民共和国]]が1位であり、[[アメリカ合衆国]]が2位、[[インド]]が3位となる<ref>{{Cite web|和書|date=2020-05-28 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3284840?cx_part=search |title=米国をGDPで抜いた中国、すでに先進国家なのか? |publisher=CNS |accessdate=2020-05-26}}</ref>。
== 関連指標 ==
=== 実質国内総生産 ===
以上で説明した国内総生産('''名目GDP''')は、経済状況のみならず、インフレによる価格変動によっても変化してしまう。そこで価格変動の影響を排除した国内総生産も定義されており、これを実質国内総生産('''実質GDP''')と呼ぶ。
価格変動の影響を排除するため、実質GDPではある年(例えば2001年)を'''基準年'''として定め、基準年における最終財・サービスの価格を使って現在の国内総生産を計算する。
厳密には以下の通りである。最終財・サービスiの基準年における価格がP<sub>i</sub>で、今年の価格がQ<sub>i</sub>とする。またiは今年X<sub>i</sub>個売れたとする。
このとき、今年の実質GDPは
実質GDP = Σ<sub>i</sub> P<sub>i</sub>X<sub>i</sub>
により定義される。ここで和Σ<sub>i</sub>は全ての最終財・サービスを渡る。
一方今年の名目GDPは
名目GDP = Σ<sub>i</sub> Q<sub>i</sub>X<sub>i</sub>
である。
以上で述べた実質GDPの値は、基準年の選び方に依存してしまう。従って現在では基準年の選び方の影響を排除するために、「連鎖」という方法で補正した定義を用いて実質GDPを計算している。
''GDPの変化(経済成長率)に関しては[[経済成長]]を参照''。
=== 一人当たり国内総生産 ===
国内総生産をその国の人口で割った値を'''一人当たりGDP'''と呼ぶ。
国ごとに人口が違うので、国ごとの経済状況を比較するには、通常の国内総生産ではなく一人当たり国内総生産を使う必要がある。国内総生産には名目と実質があるため、一人当たりGDPも一人当たり名目国内総生産と一人当たり実質GDPがある。
''現在の国別一人当たりGDPについては[[国の国内総生産順リスト (一人当り為替レート)]]を参照''。
<!--
執筆中
=== 所得・支出均衡国内総生産 ===
簡単のため、政府支出も経常収支も0であると仮定する。
すると、GDP Yは消費支出Cと企業の投資支出Iの和である。
さて、企業は売れる数を予想して製品を作るが、予想は常に当たるとは限らない。
企業が予想していた投資支出を'''意図した投資支出'''I<sub>Planned</sub>と呼ぶ。
予想販売数が現実よりも多かったとき企業は在庫を抱えることとなる。この支出を'''意図しない在庫支出'''I<sub>Unplanned</sub>と呼ぶ。なお逆に予想販売数が現実よりも少なかった場合、企業は在庫を減らすことになるので、I<sub>Unplanned</sub>は負であるとみなす。明らかにI=I<sub>Planned</sub>+I<sub>Unplanned</sub>。
-->
=== 国内総生産デフレーター ===
{{See also|GDPデフレーター}}
名目GDPを実質GDPで割ったものを[[GDPデフレーター]]と呼ぶ。
名目GDPと実質GDPはそれぞれインフレの調整を行っていないGDPと行ったGDPであるから、その比にあたるGDPデフレーターは、インフレの程度を表す[[物価]]指数であるのだと解釈できる。
従ってGDPデフレーターの増加率がプラスであれば[[インフレーション]]、マイナスであれば[[デフレーション]]とみなせる。<!--尚、交換方程式MV=PYにおいて、PYは名目GDP、Yは実質GDP、PはGDPデフレーター、Mはマネーサプライ、Vは貨幣の所得速度(フローのPYとストックのMの比)を各々あらわす。-->
[[Image:GDPDeflator01.png|thumb|250px|right|1995年からの日本のGDPデフレーター前年同四半期増加率(%)。内閣府の四半期別GDP速報より作成。]]
GDPデフレーターが[[消費者物価指数]]や[[企業物価指数]]など他の物価指数と著しく異なる点は、GDPデフレーターは輸入物価の上昇による影響を控除した「国内」の物価水準を表しているという点である。このため、[[原油価格]]の上昇など輸入物価が上昇するというような場合には、消費者物価指数や企業物価指数が上昇しているにもかかわらず、GDPデフレーターが下落をするということがしばしば起こる。
このため1990年代末から2000年代初頭にかけて、日本経済で物価の下落が続くデフレーションが続いているのかどうかを判断する際に、GDPデフレーターを使うことが適切であるかどうかについては見解が分かれた。下落が続いていた消費者物価指数は、2005年初めから下落幅が縮小し、その年の10月には前年同月比がゼロとなって、11月以降は上昇が続いた。このことには原油価格の上昇によるコスト・プッシュの影響がかなりあったため、GDPデフレーターは前年比で1%以上の下落が続いていた。[[量的金融緩和政策]]の解除時期を巡って、緩和策の継続を望む日本政府と早期解除を望む[[日本銀行]]の間で議論が起こり、政府はGDPデフレーターがデフレであるとして量的金融緩和政策の解除に対しては慎重な姿勢をみせた。しかし、現実に上昇している消費者物価と企業物価を無視し、GDPデフレーターのみによって、「物価は上昇しているがインフレでない」と主張することはきわめて詭弁的である。GDPデフレーターはあくまで名目GDPを実質GDPで割った数値にすぎず、現実の物価が上がっていることを否定できるものでない。
なお現在、日本のGDPデフレーターはパーシェ型の連鎖指数で、実質GDPはラスパイレス型の連鎖指数であり、米国の実質GDPはフィッシャー型の連鎖指数が採用されている(パーシェ、ラスパイレス、フィッシャーおよび連鎖指数の説明については、[[指数 (経済)]]を参照)。
=== 国内純生産 ===
{{Main|国内純生産}}
'''国内純生産'''(NDP: Net Domestic Product)は、国内総生産から固定資本の減耗分を差し引いたものである。しかし経済全体での固定資本の減耗分は測定しづらく、このため経済学者達は減耗の推定をあまり信用していない<ref>スティグリッツ『マクロ経済学』東洋経済新報社、第3版、2007年、90ページ</ref>。
=== グリーンGDP ===
[[グリーンGDP]]とは、従来のGDPから環境破壊による生活の質低下を引いたもの<ref>スティグリッツ『マクロ経済学』東洋経済新報社、第3版、2007年、93ページ</ref>。
基本的な概念は「'''自然界の様々な要素を、何らかの基準で数値化し、価値ある資源として計上する'''」というものである。多くの場合、人類の経済活動は環境に悪影響を及ぼしているので、GDPに相応の減少分が発生する。これは生産活動によって減価償却が行われるのと似ている。
一定期間内に一国内で発生した付加価値の総量のことをGDPといい、この数値が増加すれば経済は発展していると見なされるが、これはつまり、「'''より多くの付加価値が生産されれば、それだけ経済は成長している'''」と考えているということである。
しかし、この考え方には欠点もある。例えば、森林開発が行われると木材・パルプ生産や住宅建設などがGDPを押し上げるが、土壌流出など環境破壊が起こっても、GDPには何の影響もない。このような矛盾に対して、1980年代後半から環境問題に対する取り組みが強化されたことで、現行のGDPの算出方式を変えようという声が出始めた。そこで代わりにグリーンGDPが考え出される。
1993年には国連統計部が独自の基準を策定したが、世界的にはばらばらの基準を用いているのが現状である。つまり、定評のある金銭換算の計測方法は未だにない。
===国民純福祉===
'''国民純福祉'''(NNW)とは、GDPから公害や軍事費などの'''社会的に望ましくない価値'''を差し引き、家事労働やボランティア活動など'''値段で示されない価値'''を金銭換算して加えたもの<ref name="keizainoshikumi24" />。ただし、定評のある金銭換算の計測方法は未だにない。
=== 域内総生産 ===
国内総生産が一国内において生産された付加価値額を表すのに対し、'''域内総生産''' (Gross Regional Product) は[[都市圏]]や経済圏、州や県など、一定の地域内で生産された付加価値額を表す。域内総生産には中央政府が行う生産が含まれない場合もあり、全国の域内総生産を合計しても、必ず国内総生産と一致するとは限らない(日本の[[経済産業省]]が公表している地域間産業連関表のように、不整合を項目として設ける等の調整を行わない限り、全国計と一致することの方が珍しい。また、特性上、域内総生産=<国内総生産となる。そのため、[[中華人民共和国]]の各省の域内総生産を合計すると、国内総生産よりも大きな値となるのは、各省の地方政府が数値を誤魔化しているためと考えられる。)。
都市圏同士の比較や地域経済間比較といった各種分析で使用される他、国土の広大な[[ロシア]]の統計でよく用いられる。
== 各国の国内総生産 ==
=== 各国の名目国内総生産順リスト ===
[[アメリカ合衆国ドル]](US$)建ての名目国内総生産における上位10か国<ref>{{Cite web |url=https://countrycassette.com/gdp-by-country-2023-live/|title =GDP by Country 2023 - (Live GDP, Maps, Graph) - Live Growth |date =2023-04-07 |accessdate =2023-05-23 }}</ref>。
* 単位は10億US$
{| class="wikitable sortable" style="font-size:95%"
|-
!順位
!colspan="2"|2023年
!colspan="2"|2017年
!colspan="2"|2007年
!colspan="2"|1997年
!colspan="2"|1987年
|-
!1
|{{USA}}||style="text-align:right"|26,185.210
|{{USA}}||style="text-align:right"|19,519.40
|{{USA}}||style="text-align:right"|14,477.63
|{{USA}}||style="text-align:right"|8,608.53
|{{USA}}||style="text-align:right"|4,870.23
|-
!2
|{{PRC}}||style="text-align:right"|19,243.974
|{{PRC}}||style="text-align:right"|12,062.29
|{{JPN}}||style="text-align:right"|4,515.26
|{{JPN}}||style="text-align:right"|4,415.72
|{{JPN}}||style="text-align:right"|2,495.96
|-
!3
|{{JPN}}||style="text-align:right"|4,365.976
|{{JPN}}||style="text-align:right"|4,859.79
|{{PRC}}||style="text-align:right"|3,571.45
|{{DEU}}||style="text-align:right"|2,221.74
|{{FRG}}||style="text-align:right"|1,170.62
|-
!4
|{{DEU}}||style="text-align:right"|4,120.242
|{{DEU}}||style="text-align:right"|3,664.51
|{{DEU}}||style="text-align:right"|3,444.72
|{{GBR}}||style="text-align:right"|1,537.56
|{{FRA}}||style="text-align:right"|939.45
|-
!5
|{{IND}}||style="text-align:right"|3,820.573
|{{IND}}||style="text-align:right"|2,652.25
|{{GBR}}||style="text-align:right"|3,064.35
|{{FRA}}||style="text-align:right"|1,462.61
|{{ITA}}||style="text-align:right"|815.84
|-
!6
|{{GBR}}||style="text-align:right"|3,479.468
|{{GBR}}||style="text-align:right"|2,640.07
|{{FRA}}||style="text-align:right"|2,666.81
|{{ITA}}||style="text-align:right"|1,240.58
|{{GBR}}||style="text-align:right"|807.38
|-
!7
|{{FRA}}||style="text-align:right"|2,806.690
|{{FRA}}||style="text-align:right"|2,591.78
|{{ITA}}||style="text-align:right"|2,206.11
|{{PRC}}||style="text-align:right"|965.32
|{{SSR}}||style="text-align:right"|532.61
|-
!8
|{{CAN}}||style="text-align:right"|2,326.620
|{{BRA}}||style="text-align:right"|2,052.81
|{{ESP}}||style="text-align:right"|1,481.39
|{{BRA}}||style="text-align:right"|883.53
|{{CAN}}||style="text-align:right"|431.33
|-
!9
|{{RUS}}||style="text-align:right"|2,136.222
|{{ITA}}||style="text-align:right"|1,950.70
|{{CAN}}||style="text-align:right"|1,464.98
|{{CAN}}||style="text-align:right"|652.83
|{{PRC}}||style="text-align:right"|330.30
|-
!10
|{{BRA}}||style="text-align:right"|2,059.443
|{{CAN}}||style="text-align:right"|1,649.93
|{{BRA}}||style="text-align:right"|1,397.11
|{{ESP}}||style="text-align:right"|587.97
|{{ESP}}||style="text-align:right"|317.60
|}
=== 日本 ===
[[File:日本の実質GDPの推移.jpg|thumb|right|日本の実質GDPの推移。青が1990年基準、赤が2000年基準によるグラフである。]]
円建てでの日本の国内総生産(実質GDPと名目GDP、GDPデフレーター)の経年変化<ref>[[内閣府]]の[[国民経済計算]]
[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/h12-nenpou/12annual-report-j.html 1955年~1980年]、[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/qe104/gdemenu_ja.html 1980年~2010年]、[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/sokuhou/kekka/toukei/toukei_top.html]</ref>。
1990年代以降の約20年間は、円建てでの国内総生産の名目経済成長率は年率マイナス0.7%程度、[[実質経済成長率]]は年率0.6%程度、インフレ率は年率マイナス1.3%程度になった<ref name="chuoonline20121220">[http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/research/20121220.htm 研究 : 安倍新政権の金融政策の経済学的根拠について]Chuo Online : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2012年12月20日</ref>。名目GDPは1997年に記録した536兆円をピークとし、2010年にはそれより63兆円少ない473兆円にまで低下した<ref name="chuoonline20121220" />。
1999年4月に実施した[[消費税]]の増税の影響で第二四半期の成長率は2.9%のマイナス成長に陥った<ref>[http://money.cnn.com/magazines/fortune/fortune_archive/1997/10/13/232509/index.htm A showdown's coming for Japan's economy if at first you don't succeed, lie, lie again] CNN Money 1999年10月13日 </ref>。これは過去23年間で最悪の数字であった。その後名目GDPは低迷を続けた。
日本は2012年現在、毎年1%前後のデフレが続いているため、仮に実質GDP成長率が1%あっても差し引きで名目GDP成長率はゼロとなる(実質GDP成長率1%+インフレ率-1%=名目GDP成長率0%)<ref>「ダイヤモンドZAi」5月号、2011年、170頁。</ref>。
US$建てにしたGDPでは、円ではなくてUS$で給料を受け取っている人は日本には稀有なので他国のGDPと正確に比較することは出来ない。ただし、[[ユーロ]]のような共通通貨を使っているEU加盟国同士では為替による変動が無いため実体を反映した比較ができる。例えば、日本で前年より経済成長したため、円建てのGDPが増加していても、前年より円安の時は同じ額をUSドル建てにしたGDPでは伸びるどころか逆に減少しているようにみえることが多い。一方、円建てのGDPが減少又は低迷している不景気でさえ、前年より円高だとUS$建てのGDPだと前年より増加していることが多い。日本のGDPを約500兆円だと仮定して1US$= 80円の円高に日本のGDPをUS$建てで換算すると約6兆US$になり、1US$=120円の円安でなら約4兆US$となり、円建てでのGDPが同じ額にもかかわらず減少しているような統計結果になってしまう。実際に2015年に国民1人当たり名目GDPはドルに換算した「ドル建て」では「減少」しているが、円建てベースでは1994年以降最高で前年比3.4%程増加している<ref>[https://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je09/pdf/09p01023.pdf]</ref><ref>[https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160107/dms1601070730009-n1.htm]</ref>。一方で、円安はUSドルベースでのGDPにおいてはマイナス要因となるが、円安は輸出を促進するため、輸出増加分がGDPに反映される頃にはプラス要因となる。このように、ドルベースのGDPは為替の影響を大きく受ける。そのため、USドルベースのGDPは日本と日本以外の国のGDPを比較するときに主に用いられ、日本国内の経済成長の推移を解析する上では、日本円ベースのGDPが主に用いられる。
{{Wide image|GDP growth rate in Japan.svg|700px|日本の実質GDP成長率の推移}}
{|
|-
| width="33%" align="center" | 1954年 - 1980年
| width="33%" align="center" | 1980年 - 1993年
| width="33%" align="center" | 1994年 - 2016年
|- valign="top"
|
{| class="wikitable sortable" style="font-size: 85%"
!暦年!!名目GDP!!実質GDP!!GDPデフレーター対前年増加率(%)
|-
!nowrap|1954年
|style="text-align:right"|8,369.5||style="text-align:right"|47,075.0||
|-
!1955年
|style="text-align:right"|9,422.2||style="text-align:right"|50,602.7||style="text-align:right"|4.7
|-
!1956年
|style="text-align:right"|10,858.3||style="text-align:right"|54,557.8||style="text-align:right"|6.9
|-
!1957年
|style="text-align:right"|11,538.3||style="text-align:right"|57,946.9||style="text-align:right"|0.0
|-
!1958年
|style="text-align:right"|13,190.3||style="text-align:right"|63,402.7||style="text-align:right"|4.5
|-
!1959年
|style="text-align:right"|16,009.7||style="text-align:right"|71,683.1||style="text-align:right"|7.4
|-
!1960年
|style="text-align:right"|19,336.5||style="text-align:right"|80,179.8||style="text-align:right"|8.0
|-
!1961年
|style="text-align:right"|21,942.7||style="text-align:right"|87,072.6||style="text-align:right"|4.5
|-
!1962年
|style="text-align:right"|25,113.2||style="text-align:right"|94,724.0||style="text-align:right"|5.2
|-
!1963年
|style="text-align:right"|29,541.3||style="text-align:right"|105,319.5||style="text-align:right"|5.8
|-
!1964年
|style="text-align:right"|32,866.0||style="text-align:right"|111,294.3||style="text-align:right"|5.3
|-
!1965年
|style="text-align:right"|38,170.0||style="text-align:right"|122,700.2||style="text-align:right"|5.3
|-
!1966年
|style="text-align:right"|44,730.5||style="text-align:right"|136,300.2||style="text-align:right"|5.5
|-
!1967年
|style="text-align:right"|52,974.9||style="text-align:right"|152,532.1||style="text-align:right"|5.8
|-
!1968年
|style="text-align:right"|62,228.9||style="text-align:right"|170,764.5||style="text-align:right"|4.9
|-
!1969年
|style="text-align:right"|73,344.9||style="text-align:right"|188,323.1||style="text-align:right"|6.9
|-
!1970年
|style="text-align:right"|80,701.3||style="text-align:right"|196,588.9||style="text-align:right"|5.4
|-
!1971年
|style="text-align:right"|92,394.4||style="text-align:right"|213,129.0||style="text-align:right"|5.6
|-
!1972年
|style="text-align:right"|112,498.1||style="text-align:right"|230,248.8||style="text-align:right"|12.7
|-
!1973年
|style="text-align:right"|134,243.8||style="text-align:right"|227,427.7||style="text-align:right"|20.8
|-
!1974年
|style="text-align:right"|148,327.1||style="text-align:right"|234,458.7||style="text-align:right"|7.2
|-
!1975年
|style="text-align:right"|166,573.3||style="text-align:right"|243,778.5||style="text-align:right"|8.0
|-
!1976年
|style="text-align:right"|185,622.0||style="text-align:right"|254,481.2||style="text-align:right"|6.7
|-
!1977年
|style="text-align:right"|204,404.1||style="text-align:right"|267,897.5||style="text-align:right"|4.6
|-
!1978年
|style="text-align:right"|221,546.6||style="text-align:right"|282,588.9||style="text-align:right"|2.8
|-
!1979年
|style="text-align:right"|240,175.9||style="text-align:right"|290,551.1||style="text-align:right"|5.4
|}
|
{| class="wikitable sortable" style="font-size: 85%"
!暦年!!名目GDP!!実質GDP!!GDPデフレーター対前年増加率(%)
|-
!nowrap|1980年
|style="text-align:right"|242,838.7||style="text-align:right"|284,375.0||style="text-align:right"|
|-
!1981年
|style="text-align:right"|261,068.2||style="text-align:right"|296,252.9||style="text-align:right"|3.2
|-
!1982年
|style="text-align:right"|274,086.6||style="text-align:right"|306,256.2||style="text-align:right"|1.6
|-
!1983年
|style="text-align:right"|285,058.3||style="text-align:right"|315,629.9||style="text-align:right"|0.9
|-
!1984年
|style="text-align:right"|302,974.9||style="text-align:right"|329,719.3||style="text-align:right"|1.7
|-
!1985年
|style="text-align:right"|319,401.9||style="text-align:right"|350,601.6||style="text-align:right"|1.0
|-
!1986年
|style="text-align:right"|340,559.5||style="text-align:right"|360,527.4||style="text-align:right"|1.8
|-
!1987年
|style="text-align:right"|354,170.2||style="text-align:right"|375,335.8||style="text-align:right"|1.1
|-
!1988年
|style="text-align:right"|387,742.9||style="text-align:right"|402,159.9||style="text-align:right"|0.3
|-
!1989年
|style="text-align:right"|420,122.2||style="text-align:right"|423,756.5||style="text-align:right"|2.2
|-
!1990年
|style="text-align:right"|454,781.0||style="text-align:right"|447,369.9||style="text-align:right"|2.3
|-
!1991年
|style="text-align:right"|481,421.8||style="text-align:right"|468,242.0||style="text-align:right"|2.6
|-
!1992年
|style="text-align:right"|493,782.8||style="text-align:right"|477,027.9||style="text-align:right"|1.6
|-
!1993年
|style="text-align:right"|496,711.8||style="text-align:right"|478,825.1||style="text-align:right"|0.4
|-
|}
|
{| class="wikitable sortable" style="font-size: 85%"
!暦年!!名目GDP!!実質GDP!!GDPデフレーター対前年増加率(%)
|-
!nowrap|1994年
|style="text-align:right"|507,743.4||style="text-align:right"|490,779.9||style="text-align:right"|0.1
|-
!1995年
|style="text-align:right"|516,706.9||style="text-align:right"|501,537.7||style="text-align:right"|1.7
|-
!1996年
|style="text-align:right"|532,934.8||style="text-align:right"|520,715.8||style="text-align:right"|2.6
|-
!1997年
|style="text-align:right"|550,698.3||style="text-align:right"|537,289.4||style="text-align:right"|3.6
|-
!1998年
|style="text-align:right"|550,438.6||style="text-align:right"|534,142.5||style="text-align:right"|0.0
|-
!1999年
|style="text-align:right"|518,903.2||style="text-align:right"|514,957.2||style="text-align:right"|-5.3
|-
!2000年
|style="text-align:right"|519,860.0||style="text-align:right"|521,408.5||style="text-align:right"|-1.2
|-
!2001年
|style="text-align:right"|505,543.2||style="text-align:right"|489,501.1||style="text-align:right"|-1.2
|-
!2002年
|style="text-align:right"|499,147.0||style="text-align:right"|487,914.9||style="text-align:right"|-1.6
|-
!2003年
|style="text-align:right"|498,854.8||style="text-align:right"|485,968.3||style="text-align:right"|-1.7
|-
!2004年
|style="text-align:right"|503,725.3||style="text-align:right"|490,440.7||style="text-align:right"|-1.4
|-
!2005年
|style="text-align:right"|503,903.0||style="text-align:right"|488,921.0||style="text-align:right"|-1.3
|-
!2006年
|style="text-align:right"|505,687.0||style="text-align:right"|492,451.9||style="text-align:right"|-1.1
|-
!2007年
|style="text-align:right"|506,975.2||style="text-align:right"|495,685.8||style="text-align:right"|-0.9
|-
!2008年
|style="text-align:right"|497,209.3||style="text-align:right"|493,230.9||style="text-align:right"|-1.3
|-
!2009年
|style="text-align:right"|464,138.7||style="text-align:right"|480,588.4||style="text-align:right"|-3.5
|-
!2010年
|style="text-align:right"|473,384.4||style="text-align:right"|489,364.6||style="text-align:right"|-2.2
|-
!2011年
|style="text-align:right"|460,623.2||style="text-align:right"|478,439.9||style="text-align:right"|-1.9
|-
!2012年
|style="text-align:right"|474,403.6||style="text-align:right"|492,547.2||style="text-align:right"|-0.9
|-
!2013年
|style="text-align:right"|493,175.5||style="text-align:right"|501,781.4||style="text-align:right"|
|-
!2014年
|style="text-align:right"|503,698.0||style="text-align:right"|510,489.2||style="text-align:right"|
|-
!2015年
|style="text-align:right"|510,465.7||style="text-align:right"|516,635.6||style="text-align:right"|
|-
!2016年
|style="text-align:right"|517,289.4||style="text-align:right"|521,794.3||style="text-align:right"|
|}
|- valign="top"
|}
* '''統計のGDPは円建てであり、単位は10億円'''
* 1954 - 1980年は、「平成10年度国民経済計算」(平成2年基準・68SNA)による。実質値は1990(平成2)暦年基準。1980年は連続性のために示した。
* 1980年 - 1993年 は、2000(平成12)暦年連鎖価格
* 1994年 - 2012年 は、2005(平成17)暦年連鎖価格
* 2008年以降については、計数の改定が行われる可能性がある。
*
=== 米国 ===
アメリカ合衆国のGDPは米国商務省経済分析局(BEA=The Bureau of Economic Analysis, U.S. Department of Commerce)から発表されている<ref name="usgdp">{{Cite web|和書|url= https://www.rakuten-sec.co.jp/web/market/calendar/dictionary/e/g/usgdp.html |title=GDP(米国)|publisher=楽天証券 |accessdate=2020-02-18}}</ref>。発表時期は1、4、7、10月に速報値、次月の2、5、8、11月に改定値、さらに3、6、9、12月に確定値が発表される<ref name="usgdp" />。
{{See|アメリカ合衆国の経済|アメリカ合衆国の経済史}}
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Gross domestic product|国内総生産}}
*[[国民経済計算]]
*[[各国のGDPリスト]](全ての国・地域対象)
** [[各国の名目GDPリスト]]
** [[各国の一人当たり名目GDPリスト]]
** [[各国の実質GDPリスト]]
** [[各国の一人当たり実質GDPリスト]]
*[[国の国内総生産の動態]](全ての国・地域対象)
*[[域内総生産順リスト]](全ての国・地域対象)
*[[国民総生産]] (GNP)
*[[国民総所得]] (GNI)
*[[国民総幸福量]] (GNH)
*[[県民経済計算]]
*[[日本の年間商品販売額一覧]]
== 外部リンク ==
*[https://data.oecd.org/gdp/gross-domestic-product-gdp.htm Gross domestic product (GDP)] - OECD
*[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/menu.html 内閣府 国民経済計算(GDP統計)]
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[[Category:国民経済計算]] | 2003-03-07T07:55:17Z | 2023-12-14T09:06:24Z | false | false | false | [
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3,586 | JR | JR(ジェイアール、Japan Railwaysの略称)は、日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化により1987年に発足した鉄道会社の統一的総称。6つの旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社などから構成される。全体としてJRグループとも呼ばれる。
国鉄の英文字略称が「JNR (Japanese National Railways)」であったことから、「国有」を表すNを除いて「JR」とした、と説明されることもあるが、実際には「NR」(Nは日本=Nihon、Nipponの頭文字)などの案も検討されていた。
JRグループには、6つの旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社、鉄道の研究機関(公益財団法人)やコンピュータシステムを担当する会社があり、旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律(JR会社法)を設立根拠とする会社と、対象外の会社が混在している。そのうち旅客鉄道事業を担当する会社は、それぞれJRバスやJRホテルグループに属する会社のほか、駅ビルや飲食店などを運営する各種子会社・関連会社を傘下に収めている。また、貨物鉄道事業を担当するJR貨物に関しても、臨海鉄道会社や物流会社などを傘下に収めている。
各事業者・法人の総称としてはJRグループとも呼ばれるが、このグループは概ね以下の3種に分類される独自の資本体制に依拠した法人の総称で(次項「#民営化から現在までの状況」も参照)、なおかつ資本体制に関わらず経営はそれぞれ独立しており、グループを代表して各社を統括する持株会社および統括会社は存在しないが、上場完全民営化までは鉄道建設・運輸施設整備支援機構(JRTT、分割民営化当初は、日本国有鉄道清算事業団)が株式の保有を行っている。
発足当初は会社相互間の株式持ち合い関係も存在しなかったが、後に純粋民間会社となった4社の間では株式の持ち合いが行われている。保有割合はおおむね1%未満だが、JR九州に対しての他3社からの出資は2020年以降1%を超えている。
このような分散的なグループ体制に起因して、営業施策や経営戦略等において各社の独自性が極めて強いのが特徴であるが、一方で旧国鉄から引き継いだ鉄道ネットワークの一体性にも利用客への利便性という観点からある程度配慮されている。2社以上のJR営業エリアにまたがる列車の相互乗り入れ、運賃・乗車券制度の事実上の共通化、観光振興(国鉄時代から続くデスティネーションキャンペーン)、震災のような大規模災害時の復旧要員派遣といった様々な分野で、広域的な連携・協調・協力体制も構築している。
JRの駅などに掲示されるデスティネーションキャンペーンや青春18きっぷのポスター、そして交通新聞社発行の『JR時刻表』には、「JR-GROUP」のロゴが使用されている。ただし、この場合のJRグループは旅客鉄道各社を意味し、貨物・総研・システムは含まれない。ただし、2017年12月に実施された国鉄民営化30周年記念ツアーの企画には、寝台特急「カシオペア」を牽引する機関車を提供する形でJR貨物も参加している。
JR東日本・東海・西日本・九州が、鉄道ノウハウ(とりわけ高速鉄道)の国際進出を目的に一般社団法人国際高速鉄道協会(IHRA)を2014年(平成26年)4月1日に東京都港区に設立した。こちらは出資したJR大手4社の他、JR総研、さらにJR方式の高速鉄道を採用した台湾高速鉄路公司なども会員としている(のちにJR北海道も加盟し、四国を除くすべての旅客会社が参加している)。
JR系の社員の健康保険組合は、概ね「JRグループ健康保険組合」の加入となる。
JRグループ各社傘下の吹奏楽団が加盟する「JRグループ音楽連盟」は、JR北海道音楽クラブ(休部中)、JR東日本吹奏楽連盟(JR東日本東北吹奏楽団・JR東日本東京吹奏楽団)、JR東海音楽クラブ、JR西日本バンド連盟、JR四国吹奏楽部、JR九州吹奏楽団が会員。2016年11月から定期演奏会を開始した。各楽団は国鉄時代からの各管理局ごとの吹奏楽団が前身。
薄緑:北海道 緑色:東日本 橙色:東海 青色;西日本 水色;四国 赤色:九州
JRグループ各社は、日本国有鉄道改革法(昭和61年法律第88号)(第6条第2項(旅客会社)、第8条第2項(貨物会社))の規定により、1987年4月1日に発足した。運営等については、旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律(JR会社法)に定められた。「JR」という呼称は、同年2月20日に決められたものである。
JR発足当初は、国鉄から移行した日本国有鉄道清算事業団が全株式を保有する特殊会社であった。なお、同事業団解散に伴い1998年10月22日以降日本鉄道建設公団(JRCC)国鉄清算事業本部、2003年10月1日以降独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構(JRTT)が株式を継承した。
2001年6月27日にJR会社法が改正され、本州の旅客3社(JR東日本、JR東海、JR西日本)が同法の対象から外され、純粋民間会社(非特殊会社)化が実現した。それに伴い、一部経営に関する部分の認可制から解放され、いわゆる「普通の会社」になったが、その一方で、国鉄改革趣旨に則った事業運営が行われるよう「本州3社が配慮すべき指針」の公表、事業経営への指導及び助言、勧告及び命令を国土交通大臣が行うことができる旨が、改正附則に明記された。
その後、本州3社の株式については順次民間への売却が行われ、2002年6月にはJR東日本、2004年3月にはJR西日本、2006年4月にはJR東海の全株式の売却が完了し、上場している本州3社は名実ともに「完全民営化」が実現した。
一方、いわゆる三島(さんとう)会社と呼ばれる本州以外の旅客3社(JR北海道、JR四国、JR九州)およびJR貨物は独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構(JRTT)が全株式を保有する特殊会社であり、また、もともと採算の厳しい路線が多く、経営努力だけでは限界があることが当初より想定されていたため、固定資産税の減免および三島会社に関しては経営安定基金の運用(主にJRTTへの高金利による貸付であり、実質的な補助金)により損失補填しているが、バブル崩壊以後は低金利状態の基金運用が続いている等経営環境は厳しい状況にあった。
2015年6月10日にJR会社法が改正され、2016年4月1日よりJR九州が同法の適用から除外された。これにより同社は法令上は特殊会社から民間会社に移行した。同社の株式は2016年10月25日に東京証券取引所に上場、JRTTが保有していた同社の株式は全て売却された。これにより、同社は経営が厳しいと見られていた三島会社からは初めて「完全民営化」を果たすこととなった。なお、同社の経営安定基金の取り扱いについては、借入金の返済や新幹線設備使用料の一括前払いなどに充てられ、国庫に返納せずに全て取り崩された。固定資産税の軽減措置は改正JR会社法の施行から3年後の2019年度に廃止される予定である。
なお、2016年時点でその他3社(北海道、四国、貨物)については依然として厳しい経営状況が続いており、上場や民間への株式売却の目途は立っていない。
「鉄」の字について、ロゴ文字に限り「鉃」(金偏に矢)という字を採用した。JR四国を除き、JRグループでは各社とも社名ロゴに「鉃」(金偏に矢、本来は「鏃(やじり)」の意)を使用している。これは「金を失う」に繋がる「鉄」の字を避けるためのゲン担ぎであり、背景にはJRは国鉄の赤字が原因で発足したという経緯がある。かつては、近畿日本鉄道等にも同様の例があった。
JRグループにおける各社の略称は、分割民営化前の国鉄時代に原案が作られており、それらをもとに決定され、1987年2月20日に発表された。1987年4月1日の新体制の発足に際し、呼称としての「JRグループ」・「JR○○」を前面に押し出した結果、「JR」の定着はスムーズに進んだ。
JRグループにおける各社のコーポレートカラーは、分割民営化前の国鉄時代に原案が作られており、それらを元に決定され、1987年(昭和62年)2月20日に発表された。
JRマークなどのロゴデザインは、1964年東京オリンピックポスター、トヨタロゴ、アサヒビールロゴ等を考案した日本デザインセンターが製作した。
JRマークは、鉄道車両は両方向に進行することが可能であるため、どちらに動いても違和感のないように作られている。高速走行時の視認性も考慮され、太くて横に広がるシンプルな一筆書き(レールは繋がっている)の形状には、スピード感も込められている。また、新会社の安定感を作り出すために「R」の斜めの支えを加えることで、大地に根を張るイメージが付与されている。
JRマークはわずかな例外を除き、各社の鉄道車両に掲出されている。電車や気動車については制御車の側面・まれに前面部分、機関車の側面、客車では緩急車の側面などにこのマークがある。民営化当初、各社は車体の色合いに合わせて、白色、黒色または灰色といった無彩色のJRマークを掲出していたが、JR九州だけは一貫してコーポレートカラーである赤色のJRマークを掲出しており、ED76・EF81など、車体が赤色である交流用および交流直流両用電気機関車については、赤地に白い縁取りを加えたJRマークを使用した。また、JR東海でも1988年以降、クロ381形10番台の落成を皮切りに特急形車両を中心にコーポレートカラーであるオレンジ色のJRマークを掲出するようになった。その後、現在に至るまでに様々な色のJRマークが車両に掲出されている。
なお、JRマークは「ジェイアアル」という呼称で1999年12月3日に商標登録が完了している。各社毎にロゴが商標登録されており、各JR旅客各社のロゴは、全旅客各社が共同で権利を申請し、所有している模様。
また、JR貨物では、JRマークの下に「FREIGHT」の文字を加えたロゴや、1990年代後半以降は独自の「JRF」マークを制定している。所有するコンテナや機関車に使用しており、こちらも商標登録されている。
このほか1998年まで存在した日本国有鉄道清算事業団(JNRSC)では、1988年2月4日に事業団の識別用マークを制定しており、JRマークを元に改変した「JNR」のマークがデザインに含まれていた。
1986年11月28日に参議院本会議で国鉄改革関連8法が可決成立したことに伴い、新会社のマークと社名ロゴにコーポレートカラーなど、新会社が必要とするデザイン課題が国鉄プロジェクトチームと電通との間で話し合われていた。その製作に相応しいクリエイターということで、日本デザインセンターにデザイン製作依頼が舞い込み、チーフディレクターの梶祐輔を中心としたプロジェクトチームが立ち上げられた。
マークのデザイン案は「JRグループ(Japan Railway Company)」または「NRグループ(Nippon Railway Company)」で、それ以外にも幅の広いデザイン案が求められた。各デザイナーによって起こされたデザインは100案以上を超え、「JR」「NR」を模ったもの、レールの頭文字「R」をデザインしたもの、6つの旅客会社のレールをデザインしたもの、レールを鳥がはばたくイメージで表現したものなど多様なアプローチが提案されたが、1987年1月14日には3案に絞られた。国鉄総裁の杉浦喬也はその3案を自宅に持ち帰って3日間考え抜いた末、新会社グループのJRを最もシンプルにデザインしたものに決定し、最終的には永井一正の監修を受けて完成した。デザインが決定してから民営化までは2か月半しかなく、7社の社名ロゴおよび各社カラー・アプリケーションの開発・マニュアル制作・記者発表用キット・各社の切符など膨大な制作物をこの期間で仕上げることが求められた。
国鉄では、民営化初日の4月1日に特急の一部と山手線だけにでもJRマークを付けた車輌を走らせたいと考えていた。日本デザインセンターは、民営化の初日から全国の列車の機関車と運転台付きの車両にマーク展開することを提案。全国で約1万輛に及ぶ多彩な型式の車両ごとにデザインを起こし、3月31日の最終列車から翌4月1日始発までの間に職員の手でJRマークを貼付するという計画だった。そのために誰にでも短時間で作業できるよう工夫した「JRマーク車両貼付け指示書」が制作された。この指示書は110ページに及ぶものだったが、時間が切迫していたため、図面の指示は山本洋司による手書きだった。 | [
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"text": "JRグループにおける各社の略称は、分割民営化前の国鉄時代に原案が作られており、それらをもとに決定され、1987年2月20日に発表された。1987年4月1日の新体制の発足に際し、呼称としての「JRグループ」・「JR○○」を前面に押し出した結果、「JR」の定着はスムーズに進んだ。",
"title": "社名表記について"
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"text": "JRグループにおける各社のコーポレートカラーは、分割民営化前の国鉄時代に原案が作られており、それらを元に決定され、1987年(昭和62年)2月20日に発表された。",
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"text": "JRマークなどのロゴデザインは、1964年東京オリンピックポスター、トヨタロゴ、アサヒビールロゴ等を考案した日本デザインセンターが製作した。",
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"text": "JRマークは、鉄道車両は両方向に進行することが可能であるため、どちらに動いても違和感のないように作られている。高速走行時の視認性も考慮され、太くて横に広がるシンプルな一筆書き(レールは繋がっている)の形状には、スピード感も込められている。また、新会社の安定感を作り出すために「R」の斜めの支えを加えることで、大地に根を張るイメージが付与されている。",
"title": "ロゴ(JRマーク)"
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"text": "JRマークはわずかな例外を除き、各社の鉄道車両に掲出されている。電車や気動車については制御車の側面・まれに前面部分、機関車の側面、客車では緩急車の側面などにこのマークがある。民営化当初、各社は車体の色合いに合わせて、白色、黒色または灰色といった無彩色のJRマークを掲出していたが、JR九州だけは一貫してコーポレートカラーである赤色のJRマークを掲出しており、ED76・EF81など、車体が赤色である交流用および交流直流両用電気機関車については、赤地に白い縁取りを加えたJRマークを使用した。また、JR東海でも1988年以降、クロ381形10番台の落成を皮切りに特急形車両を中心にコーポレートカラーであるオレンジ色のJRマークを掲出するようになった。その後、現在に至るまでに様々な色のJRマークが車両に掲出されている。",
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"text": "なお、JRマークは「ジェイアアル」という呼称で1999年12月3日に商標登録が完了している。各社毎にロゴが商標登録されており、各JR旅客各社のロゴは、全旅客各社が共同で権利を申請し、所有している模様。",
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"text": "また、JR貨物では、JRマークの下に「FREIGHT」の文字を加えたロゴや、1990年代後半以降は独自の「JRF」マークを制定している。所有するコンテナや機関車に使用しており、こちらも商標登録されている。",
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"text": "マークのデザイン案は「JRグループ(Japan Railway Company)」または「NRグループ(Nippon Railway Company)」で、それ以外にも幅の広いデザイン案が求められた。各デザイナーによって起こされたデザインは100案以上を超え、「JR」「NR」を模ったもの、レールの頭文字「R」をデザインしたもの、6つの旅客会社のレールをデザインしたもの、レールを鳥がはばたくイメージで表現したものなど多様なアプローチが提案されたが、1987年1月14日には3案に絞られた。国鉄総裁の杉浦喬也はその3案を自宅に持ち帰って3日間考え抜いた末、新会社グループのJRを最もシンプルにデザインしたものに決定し、最終的には永井一正の監修を受けて完成した。デザインが決定してから民営化までは2か月半しかなく、7社の社名ロゴおよび各社カラー・アプリケーションの開発・マニュアル制作・記者発表用キット・各社の切符など膨大な制作物をこの期間で仕上げることが求められた。",
"title": "ロゴ(JRマーク)"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "国鉄では、民営化初日の4月1日に特急の一部と山手線だけにでもJRマークを付けた車輌を走らせたいと考えていた。日本デザインセンターは、民営化の初日から全国の列車の機関車と運転台付きの車両にマーク展開することを提案。全国で約1万輛に及ぶ多彩な型式の車両ごとにデザインを起こし、3月31日の最終列車から翌4月1日始発までの間に職員の手でJRマークを貼付するという計画だった。そのために誰にでも短時間で作業できるよう工夫した「JRマーク車両貼付け指示書」が制作された。この指示書は110ページに及ぶものだったが、時間が切迫していたため、図面の指示は山本洋司による手書きだった。",
"title": "ロゴ(JRマーク)"
}
] | JRは、日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化により1987年に発足した鉄道会社の統一的総称。6つの旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社などから構成される。全体としてJRグループとも呼ばれる。 国鉄の英文字略称が「JNR 」であったことから、「国有」を表すNを除いて「JR」とした、と説明されることもあるが、実際には「NR」(Nは日本=Nihon、Nipponの頭文字)などの案も検討されていた。 | {{otheruses}}
{{色}}
{{画像提供依頼|date=2023年3月|各社エリアの日本地図|cat=鉄道}}
{{基礎情報 グループ
|名称=JRグループ
|ロゴ=JR logo JRgroup.svg
|創立=1987年
|国籍=JPN
|中核企業={{Plainlist|
* [[北海道旅客鉄道]]
* [[東日本旅客鉄道]]
* [[東海旅客鉄道]]
* [[西日本旅客鉄道]]
* [[四国旅客鉄道]]
* [[九州旅客鉄道]]
* [[日本貨物鉄道]]
}}
|会員数=
|主要業務=[[鉄道事業者|鉄道事業]]
|前身=[[日本国有鉄道]]
}}
'''JR'''(ジェイアール、Japan Railwaysの略称)は、[[日本国有鉄道]](国鉄)の[[国鉄分割民営化|分割民営化]]により1987年に発足した鉄道会社の統一的総称。6つの旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社などから構成される。全体として'''JRグループ'''とも呼ばれる。
国鉄の英文字略称が「JNR (Japanese National Railways)」であったことから、「国有」を表すNを除いて「JR」とした、と説明されることもあるが、実際には「NR」(Nは日本=Nihon、Nipponの頭文字)などの案も検討されていた<ref>「時刻表」はこうしてつくられるP.125 交通新聞社新書 ISBN 978-4-330-37713-1、2013年</ref>{{efn|一方で、JR東日本傘下にあった[[日本レストランエンタプライズ]](現:[[JR東日本クロスステーション]])の略称は「NRE(Nippon Restaurant Enterprise)」となっていた。}}。
== JRグループ ==
{{Main2|子会社・関連会社についてはJR各社の項目を}}
JRグループには、6つの[[旅客]]鉄道会社と1つの[[貨物]]鉄道会社、鉄道の[[研究機関]]([[公益財団法人]])や[[コンピュータシステム]]を担当する会社があり、[[旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律]](JR会社法)を設立根拠とする会社と、対象外の会社が混在している。そのうち旅客鉄道事業を担当する会社は、それぞれ[[JRバス]]や[[JRホテルグループ]]に属する会社のほか、[[駅ビル]]や[[飲食店]]などを運営する各種[[子会社]]・関連会社を傘下に収めている{{efn|一例を挙げると、[[東京国際空港|羽田空港]]輸送を担う[[東京モノレール]]もJR東日本グループの一員である。}}。また、貨物鉄道事業を担当するJR貨物に関しても、[[臨海鉄道]]会社や[[物流]]会社などを傘下に収めている。
{| class="wikitable" style="font-size:85%; clear:both;" rules="all"
|+JRグループ
!事業領域
!法人名
!種別
!通称
![[コーポレートカラー]]
!本社
!style="width:23em;"|主な事業区域
|-
!rowspan="6"|[[旅客]]鉄道
![[北海道旅客鉄道]]
|rowspan="8"|株式会社
|JR北海道
|style="color:#44AF35"|'''{{nowrap|[[ファイル:JR logo (hokkaido).svg|50px]] 萌黄}}'''
|[[北海道]][[札幌市]]
|[[北海道]]、および[[青森県]][[津軽地方]]の一部
|-
![[東日本旅客鉄道]]
|JR東日本
|style="color:#0A8C0D"|'''{{nowrap|[[ファイル:JR logo (east).svg|50px]] 緑}}'''
|[[東京都]][[渋谷区]]
|[[東北地方|東北]]・[[関東地方|関東]]・[[甲信越地方|甲信越]]、および[[静岡県]]東部の一部
|-
![[東海旅客鉄道]]
|JR東海
|style="color:#EE6D00"|'''{{nowrap|[[ファイル:JR logo (central).svg|50px]] 橙}}'''
|[[愛知県]][[名古屋市]]
東京都[[港区 (東京都)|港区]]
|[[東京都]]から[[京都府]]を経由し[[大阪府]]までを結ぶ[[東海道新幹線]]と[[中央新幹線|リニア中央新幹線]]、および[[東海地方|東海]]{{efn|[[岐阜県]]・[[愛知県]]・[[三重県]]([[伊賀]]地区を除く)・[[静岡県]](東部の一部を除く)が該当。}}・[[長野県]]南部・[[山梨県]]南部・[[神奈川県]]西部
|-
![[西日本旅客鉄道]]
|JR西日本
|style="color:#0068B7"|'''{{nowrap|[[ファイル:JR logo (west).svg|50px]] 青}}'''
|[[大阪府]][[大阪市]]
|[[北信越地方|北信越]]{{efn|[[北陸地方|北陸]]([[富山県]]・[[石川県]]・[[福井県]]・[[新潟県]]西部)と長野県北西部が該当。}}・[[三重県]][[伊賀]]地区・[[近畿地方|関西]]・[[中国地方|中国]]・[[福岡県]]{{efn|[[山陽新幹線]]の[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]と[[博多駅]]および[[博多南線]]の[[博多南駅]]が該当。}}
|-
![[四国旅客鉄道]]
|JR四国
|style="color:#309AC3"|'''{{nowrap|[[ファイル:JR logo (shikoku).svg|50px]] 水色}}'''
|[[香川県]][[高松市]]
|[[四国]]
|-
![[九州旅客鉄道]]
|JR九州
|style="color:#E50012"|'''{{nowrap|[[ファイル:JR logo (kyushu).svg|50px]] 赤}}'''
|[[福岡県]][[福岡市]]
|[[九州]]
|-
![[貨物]]鉄道
![[日本貨物鉄道]]
|JR貨物
|style="color:#367193"|'''{{nowrap|[[ファイル:JR logo (freight).svg|50px]] コンテナブルー}}'''{{efn|国鉄時代の名称から[[青22号]]ともいう。}}
|東京都渋谷区
|rowspan="3"|日本全域
|-
![[情報処理]]
![[鉄道情報システム]]
|JRシステム
|style="color:#C11B41"|'''{{nowrap|[[ファイル:JR logo systems.svg|50px]] エンジ}}'''
|東京都渋谷区
|-
![[研究機関]]
![[鉄道総合技術研究所]]
|公益財団法人
|鉄道総研<br />JR総研
|style="color:#8F7ED5"|'''{{nowrap|[[ファイル:JR logo RTRI.svg|50px]] 薄紫}}'''
|東京都[[国分寺市]]
|-
|}
{| class="wikitable" style="font-size:85%;" rules="all"
|+かつてJRグループだった企業
!事業領域
!法人名
!種別
!通称
!コーポレートカラー
!本社
!主な事業区域
!style="width:23em;"|備考
|-
![[鉄道電話]]
!鉄道通信<br />→ 日本テレコム
|株式会社
|JR通信
| style="color:#bbbcbe" |'''{{nowrap|[[ファイル:JR logo (tsushin).svg|50px]] グレー}}'''{{efn|当初は[[灰色]]の「JR」ロゴを使用していた。日本テレコム→ソフトバンクの商標登録第3126644号だったが、2016年3月29日で権利が消滅した。}}
|東京都[[港区 (東京都)|港区]]
|日本全域
|2001年、JRグループとの資本関係解消。<br />2015年に[[ソフトバンク|ソフトバンクモバイル(現:ソフトバンク、元は日本テレコム子会社のジェイフォン)]]に吸収合併された、[[ソフトバンクテレコム]]の前身(→[[ソフトバンクテレコム#歴史]])。
|-
|}
各事業者・法人の総称としては'''JRグループ'''とも呼ばれるが、このグループは概ね以下の3種に分類される独自の資本体制に依拠した法人の総称で(次項「[[#民営化から現在までの状況]]」も参照)、なおかつ資本体制に関わらず経営はそれぞれ独立しており、グループを代表して各社を統括する[[持株会社]]および統括会社は存在しない{{Efn|日本で持株会社の設立が可能となったのはJR発足から10年後の1997年である。類似事例として、2005年に[[日本道路公団]](JH)より民営化されて発足した高速道路会社主要3社を含む[[NEXCO]]各社間でも同じくグループ全体を統括する会社は存在していない。一方、[[NTTグループ]]は1999年の再編成で持株会社の形式を採用した。}}が、上場完全民営化までは[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]](JRTT、分割民営化当初は、[[日本国有鉄道清算事業団]])が株式の保有を行っている。
発足当初は会社相互間の[[株式持ち合い]]関係も存在しなかったが、後に純粋民間会社となった4社の間では株式の持ち合いが行われている。保有割合はおおむね1%未満だが、JR九州に対しての他3社からの出資は2020年以降1%を超えている<ref>{{Cite news | title=JR東・東海、トヨタ株 125億円分取得 交通問題の協業視野 | newspaper=日刊工業新聞 | date=2016-06-28 | url=https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00433637}}</ref><ref>{{Cite news | title=JR上場4社、株式持ち合い拡大 九州への出資、3社1%超 | newspaper=日刊工業新聞 | date=2020-06-25 | url=https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00562300}}</ref>。
* 純粋民間会社([[株式公開|上場会社]]。下記の特殊会社からの移行)
** [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
** [[東海旅客鉄道]](JR東海)
** [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
** [[九州旅客鉄道]](JR九州)
* 現時点では独立行政法人の[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構|JRTT]]が全株式を保有する[[特殊会社]]
** [[北海道旅客鉄道]](JR北海道)
** [[四国旅客鉄道]](JR四国)
** [[日本貨物鉄道]](JR貨物)
* 各旅客会社・JR貨物による[[合弁事業|共同出資法人]]
** [[鉄道情報システム]](JRシステム)
** [[鉄道総合技術研究所]](JR総研)
このような分散的なグループ体制に起因して、営業施策や経営戦略等において各社の独自性が極めて強いのが特徴であるが、一方で旧国鉄から引き継いだ鉄道ネットワークの一体性にも利用客への利便性という観点からある程度配慮されている。2社以上のJR営業エリアにまたがる列車の相互乗り入れ、運賃・乗車券制度の事実上の共通化、観光振興(国鉄時代から続く[[デスティネーションキャンペーン]])、震災のような大規模災害時の復旧要員派遣<ref>[http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1698 インフラ復旧 危機対応の物語(5)東日本旅客鉄道〔JR東日本〕過去の震災活かした鉄道員の一体感][[WEDGE]] REPORT(2011年5月20日)</ref>といった様々な分野で、広域的な連携・協調・協力体制も構築している。
JRの駅などに掲示される[[デスティネーションキャンペーン]]や[[青春18きっぷ]]のポスター、そして[[交通新聞社]]発行の『[[時刻表#交通新聞社発行|JR時刻表]]』には、「'''JR-GROUP'''」のロゴが使用されている{{efn|コーポレートカラーは黒色。}}。ただし、この場合のJRグループは旅客鉄道各社を意味し、貨物・総研・システムは含まれない{{要出典|date=2022年10月}}。ただし、2017年12月に実施された国鉄民営化30周年記念ツアーの企画には、[[カシオペア (列車)|寝台特急「カシオペア」]]を牽引する機関車を提供する形でJR貨物も参加している<ref>[https://web.archive.org/web/20171029172924/http://www.jrfreight.co.jp/common/pdf/news/jrg7_special_tour.pdf JR発足30周年記念「JR7社共同企画 スペシャルツアー」の発売について]JR貨物プレスリリース(2017年10月17日)</ref><ref>{{Cite news|title=JRグループ、JR発足30周年記念「JR7社共同企画 スペシャルツアー」を発売|newspaper=日本経済新聞|date=2017-10-17日|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLRSP460509_X11C17A0000000/|accessdate=2019年3月11日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190311104819/https://www.nikkei.com/article/DGXLRSP460509_X11C17A0000000/|archivedate=2019-03-11}}</ref>。
JR東日本・東海・西日本・九州が、鉄道ノウハウ(とりわけ高速鉄道)の国際進出を目的に一般社団法人国際高速鉄道協会(IHRA)を2014年(平成26年)4月1日に東京都港区に設立した。こちらは出資したJR大手4社の他、JR総研、さらにJR方式の高速鉄道を採用した[[台湾高速鉄路公司]]なども会員としている(のちにJR北海道も加盟し、四国を除くすべての旅客会社が参加している)。
JR系の社員の健康保険組合は、概ね「[[JRグループ健康保険組合]]」の加入となる。
JRグループ各社傘下の[[吹奏楽団]]が加盟する「JRグループ音楽連盟」は、JR北海道音楽クラブ(休部中)、JR東日本吹奏楽連盟(JR東日本東北吹奏楽団・JR東日本東京吹奏楽団)、JR東海音楽クラブ、JR西日本バンド連盟、JR四国吹奏楽部、JR九州吹奏楽団が会員。2016年11月から定期演奏会を開始した。各楽団は国鉄時代からの各管理局ごとの吹奏楽団が前身。
== 民営化から現在までの状況 ==
{{Location map+|Japan|float=right|width=350|places=
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 釧路 --> |lat_deg= 42 |lat_min= 59 |lat_sec= 26 |lon_deg= 144 |lon_min= 22 |lon_sec= 53 |mark= Lightgreen pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 旭川 --> |lat_deg= 43 |lat_min= 45 |lat_sec= 53 |lon_deg= 142 |lon_min= 21 |lon_sec= 22 |mark= Lightgreen pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 函館 --> |lat_deg= 41 |lat_min= 46 |lat_sec= 36 |lon_deg= 140 |lon_min= 43 |lon_sec= 42 |mark= Lightgreen pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= [[ファイル:JR logo (hokkaido).svg|30px]] |lat_deg= 43 |lat_min= 4 |lat_sec= 15 |lon_deg= 141 |lon_min= 19 |lon_sec= 56 |mark= Lightgreen pog.svg |marksize= 8 |position= right }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 静岡 --> |lat_deg= 34 |lat_min= 58 |lat_sec= 15 |lon_deg= 138 |lon_min= 23 |lon_sec= 20 |mark= Orange pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 三重 --> |lat_deg= 34 |lat_min= 44 |lat_sec= 5 |lon_deg= 136 |lon_min= 30 |lon_sec= 39 |mark= Orange pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 飯田 --> |lat_deg= 35 |lat_min= 31 |lat_sec= 11 |lon_deg= 137 |lon_min= 49 |lon_sec= 14 |mark= Orange pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 関西 --> |lat_deg= 34 |lat_min= 43 |lat_sec= 49 |lon_deg= 135 |lon_min= 30 |lon_sec= 0 |mark= Orange pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 東海鉄道 --> |lat_deg= 35 |lat_min= 10 |lat_sec= 5 |lon_deg= 136 |lon_min= 52 |lon_sec= 57 |mark= Orange pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 新幹線鉄道 --> |lat_deg= 35 |lat_min= 40 |lat_sec= 58 |lon_deg= 139 |lon_min= 46 |lon_sec= 6 |mark= Orange pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= [[ファイル:JR logo (central).svg|30px]] |lat_deg= 35 |lat_min= 10 |lat_sec= 15 |lon_deg= 136 |lon_min= 52 |lon_sec= 57 |mark= Orange pog.svg |marksize= 8 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 本社(東京) --> |lat_deg= 35 |lat_min= 37 |lat_sec= 47 |lon_deg= 139 |lon_min= 44 |lon_sec= 25 |mark= Orange pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 愛媛(企) --> |lat_deg= 33 |lat_min= 50 |lat_sec= 22 |lon_deg= 132 |lon_min= 45 |lon_sec= 4 |mark= Turquoise pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 徳島(企) --> |lat_deg= 34 |lat_min= 4 |lat_sec= 29 |lon_deg= 134 |lon_min= 33 |lon_sec= 0 |mark= Turquoise pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 高知(企) --> |lat_deg= 33 |lat_min= 34 |lat_sec= 2 |lon_deg= 133 |lon_min= 32 |lon_sec= 41 |mark= Turquoise pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 岡山(企) --> |lat_deg= 34 |lat_min= 39 |lat_sec= 49 |lon_deg= 133 |lon_min= 55 |lon_sec= 7 |mark= Turquoise pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 大阪(営) --> |lat_deg= 34 |lat_min= 42 |lat_sec= 26 |lon_deg= 135 |lon_min= 29 |lon_sec= 44 |mark= Turquoise pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 東京(事) --> |lat_deg= 35 |lat_min= 40 |lat_sec= 35 |lon_deg= 139 |lon_min= 45 |lon_sec= 43 |mark= Turquoise pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= [[ファイル:JR logo (shikoku).svg|30px]] |lat_deg= 34 |lat_min= 20 |lat_sec= 59 |lon_deg= 134 |lon_min= 2 |lon_sec= 31 |mark= Turquoise pog.svg |marksize= 8 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 金沢 --> |lat_deg= 36 |lat_min= 35 |lat_sec= 27 |lon_deg= 136 |lon_min= 40 |lon_sec= 3 |mark= Blue pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 京都 --> |lat_deg= 34 |lat_min= 59 |lat_sec= 5 |lon_deg= 135 |lon_min= 45 |lon_sec= 14 |mark= Blue pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 大阪 --> |lat_deg= 34 |lat_min= 38 |lat_sec= 43 |lon_deg= 135 |lon_min= 30 |lon_sec= 58 |mark= Blue pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 和歌山 --> |lat_deg= 34 |lat_min= 13 |lat_sec= 48 |lon_deg= 135 |lon_min= 11 |lon_sec= 29 |mark= Blue pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 神戸 --> |lat_deg= 34 |lat_min= 40 |lat_sec= 41 |lon_deg= 135 |lon_min= 10 |lon_sec= 51 |mark= Blue pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 福知山 --> |lat_deg= 35 |lat_min= 17 |lat_sec= 49 |lon_deg= 135 |lon_min= 7 |lon_sec= 4 |mark= Blue pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 岡山 --> |lat_deg= 34 |lat_min= 40 |lat_sec= 4 |lon_deg= 133 |lon_min= 55 |lon_sec= 13 |mark= Blue pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 米子 --> |lat_deg= 35 |lat_min= 25 |lat_sec= 20 |lon_deg= 133 |lon_min= 20 |lon_sec= 8 |mark= Blue pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 広島 --> |lat_deg= 34 |lat_min= 24 |lat_sec= 0 |lon_deg= 132 |lon_min= 28 |lon_sec= 40 |mark= Blue pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 新幹線管理本部 --> |lat_deg= 34 |lat_min= 43 |lat_sec= 49 |lon_deg= 135 |lon_min= 30 |lon_sec= 0 |mark= Blue pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 福岡支社 --> |lat_deg= 33 |lat_min= 35 |lat_sec= 25 |lon_deg= 130 |lon_min= 25 |lon_sec= 11 |mark= Blue pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= [[ファイル:JR logo (west).svg|30px]] |lat_deg= 34 |lat_min= 42 |lat_sec= 26 |lon_deg= 135 |lon_min= 29 |lon_sec= 42 |mark= Blue pog.svg |marksize= 8 |position= top }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 東京本部 --> |lat_deg= 35 |lat_min= 40 |lat_sec= 35 |lon_deg= 139 |lon_min= 45 |lon_sec= 43 |mark= Blue pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 北部九州地域本社 --> |lat_deg= 33 |lat_min= 53 |lat_sec= 18 |lon_deg= 130 |lon_min= 52 |lon_sec= 22 |mark= Red pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 長崎 --> |lat_deg= 32 |lat_min= 45 |lat_sec= 5 |lon_deg= 129 |lon_min= 52 |lon_sec= 12 |mark= Red pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 大分 --> |lat_deg= 33 |lat_min= 14 |lat_sec= 0 |lon_deg= 131 |lon_min= 36 |lon_sec= 23 |mark= Red pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 熊本 --> |lat_deg= 32 |lat_min= 47 |lat_sec= 21 |lon_deg= 130 |lon_min= 41 |lon_sec= 20 |mark= Red pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 鹿児島 --> |lat_deg= 31 |lat_min= 34 |lat_sec= 58 |lon_deg= 130 |lon_min= 32 |lon_sec= 26 |mark= Red pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 東京支店 --> |lat_deg= 35 |lat_min= 40 |lat_sec= 35 |lon_deg= 139 |lon_min= 45 |lon_sec= 43 |mark= Red pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan|label= <!-- 沖縄支店 --> |lat_deg= 26 |lat_min= 12 |lat_sec= 56 |lon_deg= 127 |lon_min= 40 |lon_sec= 40 |mark= Red pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= [[ファイル:JR logo (kyushu).svg|30px]] |lat_deg= 33 |lat_min= 35 |lat_sec= 21 |lon_deg= 130 |lon_min= 25 |lon_sec= 1 |mark= Red pog.svg |marksize= 8 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 新幹線鉄道事業部 --> |lat_deg= 31 |lat_min= 48 |lat_sec= 48 |lon_deg= 130 |lon_min= 18 |lon_sec= 14 |mark= Red pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 東京 --> |lat_deg= 35 |lat_min= 44 |lat_sec= 24 |lon_deg= 139 |lon_min= 45 |lon_sec= 38 |mark= Green pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 横浜 --> |lat_deg= 35 |lat_min= 27 |lat_sec= 45 |lon_deg= 139 |lon_min= 37 |lon_sec= 10 |mark= Green pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 大宮 --> |lat_deg= 35 |lat_min= 54 |lat_sec= 12 |lon_deg= 139 |lon_min= 37 |lon_sec= 27 |mark= Green pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 高崎 --> |lat_deg= 36 |lat_min= 19 |lat_sec= 22 |lon_deg= 139 |lon_min= 1 |lon_sec= 1 |mark= Green pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
{{Location map~ |Japan |label= <!-- 千葉 --> |lat_deg= 35 |lat_min= 36 |lat_sec= 44 |lon_deg= 140 |lon_min= 6 |lon_sec= 47 |mark= Green pog.svg |marksize= 5 |position= bottom }}
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|caption=JRグループ旅客各社 本社・支社 <br />
[[ファイル:Lightgreen pog.svg|8px]] 薄緑:[[ファイル:JR logo (hokkaido).svg|30px]]'''{{Color|#44AF35|北海道}}'''
[[ファイル:Green pog.svg|8px]] [[緑色]]:[[ファイル:JR logo (east).svg|30px]]'''{{Color|#0A8C0D|東日本}}'''
[[ファイル:Orange pog.svg|8px]] [[橙色]]:[[ファイル:JR logo (central).svg|30px]]'''{{Color|#EE6D00|東海}}'''<br />
[[ファイル:Blue pog.svg|8px]] [[青色]];[[ファイル:JR logo (west).svg|30px]]'''{{Color|#0068B7|西日本}}'''
[[ファイル:Turquoise pog.svg|8px]] [[水色]];[[ファイル:JR logo (shikoku).svg|30px]]'''{{Color|#309AC3|四国}}'''
[[ファイル:Red pog.svg|8px]] [[赤色]]:[[ファイル:JR logo (kyushu).svg|30px]]'''{{Color|#E50012|九州}}'''
([[日本貨物鉄道|JR貨物]]、[[鉄道総合技術研究所|JR総研]]、[[鉄道情報システム|JRシステム]]は割愛)}}
JRグループ各社は、[[日本国有鉄道改革法]](昭和61年法律第88号)(第6条第2項(旅客会社)、第8条第2項(貨物会社))の規定により、[[1987年]][[4月1日]]に発足した。運営等については、[[旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律]](JR会社法)に定められた。「JR」という呼称は、同年[[2月20日]]に決められたものである。
JR発足当初は、国鉄から移行した[[日本国有鉄道清算事業団]]が全[[株式]]を保有する[[特殊会社]]であった。なお、同事業団解散に伴い[[1998年]][[10月22日]]以降[[日本鉄道建設公団]](JRCC)国鉄清算事業本部、[[2003年]][[10月1日]]以降[[独立行政法人]][[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]](JRTT)が株式を継承した。
[[2001年]][[6月27日]]にJR会社法が改正され、[[本州]]の旅客3社(JR東日本、JR東海、JR西日本)が同法の対象から外され、純粋民間会社(非特殊会社)化が実現した。それに伴い、一部経営に関する部分の認可制から解放され、いわゆる「普通の会社」になったが、その一方で、国鉄改革趣旨に則った事業運営が行われるよう「本州3社が配慮すべき指針」の公表、事業経営への指導及び助言、勧告及び命令を[[国土交通大臣]]が行うことができる旨が、改正附則に明記された。
その後、本州3社の株式については順次民間への売却が行われ、[[2002年]]6月にはJR東日本、[[2004年]]3月にはJR西日本、[[2006年]]4月にはJR東海の全株式の売却が完了し、[[株式公開|上場]]している本州3社は名実ともに「完全民営化」が実現した。
一方、いわゆる'''三島(さんとう)会社'''と呼ばれる本州以外の旅客3社(JR北海道、JR四国、JR九州)およびJR貨物は独立行政法人[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]](JRTT)が全株式を保有する特殊会社であり、また、もともと採算の厳しい路線が多く、経営努力だけでは限界があることが当初より想定されていたため、[[固定資産税]]の減免および三島会社に関しては[[経営安定基金]]の運用(主にJRTTへの高金利による貸付であり、実質的な補助金)により[[損失補填]]しているが、バブル崩壊以後は低金利状態の基金運用が続いている等経営環境は厳しい状況にあった。
[[2015年]]6月10日にJR会社法が改正され、[[2016年]]4月1日よりJR九州が同法の適用から除外された。これにより同社は法令上は特殊会社から民間会社に移行した。同社の株式は2016年10月25日に東京証券取引所に上場<ref>{{Cite press release |和書 |title=九州旅客鉄道株式会社株式の売出しの実施について |url=http://www.jrtt.go.jp/08-2Press/pdf/H28/pressh280915.pdf |publisher=鉄道・運輸機構 |format=PDF |date=2016-09-15 |accessdate=2016-09-15}}</ref>、JRTTが保有していた同社の株式は全て売却された。これにより、同社は経営が厳しいと見られていた三島会社からは初めて「完全民営化」を果たすこととなった<ref>{{Cite news |author= |title=JR九州が完全民営化へ 「三島会社」で初、改正法成立 |newspaper=産経新聞 |date=2015-06-03 |url=http://www.sankei.com/west/news/150603/wst1506030043-n1.html |accessdate=2015-06-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150603061648/http://www.sankei.com/west/news/150603/wst1506030043-n1.html |archivedate=2015-06-03}}</ref>。なお、同社の経営安定基金の取り扱いについては、借入金の返済や新幹線設備使用料の一括前払いなどに充てられ、国庫に返納せずに全て取り崩された<ref>{{Cite news |author= |title=JR九州の17年3月期、経常利益535億円 最高益で上場へ |newspaper=日本経済新聞 |date=2016-05-27 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASJC20H3O_Q6A520C1000000/ |accessdate=2016-05-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160520061648/http://www.nikkei.com/article/DGXLASJC20H3O_Q6A520C1000000/ |archivedate=2016-05-27}}</ref>。[[固定資産税]]の軽減措置は改正JR会社法の施行から3年後の2019年度に廃止される予定である。
なお、2016年時点でその他3社(北海道、四国、貨物)については依然として厳しい経営状況が続いており、上場や民間への株式売却の目途は立っていない。
== 社名表記について ==
{{JIS2004|対象=節}}
「鉄」の字について、ロゴ文字に限り「鉃」(金偏に矢)という字を採用した<ref>{{Cite news|newspaper=朝日新聞(夕刊)|date=1987-01-21}}</ref>{{efn|会社登記上の文字は、いずれも「鉄」である。}}。JR四国を除き、JRグループでは各社とも社名ロゴに「鉃」(金偏に矢、本来は「鏃(やじり)」の意)を使用している{{efn|発足当初はJR四国も他のJR各社同様に金偏に矢の「鉃」を使用していた。}}。これは「金を失う」に繋がる「鉄」の字を避けるためのゲン担ぎであり、背景にはJRは国鉄の[[黒字と赤字|赤字]]が原因で発足したという経緯がある<ref>[https://web.archive.org/web/20060219160420/http://www.westjr.co.jp/gallery/naruhodo/02.html#q11 参考リンク]</ref>。かつては、[[近畿日本鉄道]]等にも同様の例があった。
JRグループにおける各社の略称は、分割民営化前の国鉄時代に原案が作られており、それらをもとに決定され、1987年2月20日に発表された。1987年4月1日の新体制の発足に際し、呼称としての「JRグループ」・「JR○○」を前面に押し出した結果、「JR」の定着はスムーズに進んだ{{efn|なお、発足当初は「○○線」「○○鉄道」「○○会社線」の呼称も存在した。}}。
== コーポレートカラー ==
JRグループにおける各社の[[コーポレートカラー]]は、分割民営化前の国鉄時代に原案が作られており、それらを元に決定され、1987年(昭和62年)2月20日に発表された。
* [[北海道旅客鉄道]] - [[萌黄|ライトグリーン]]。真白な雪の大地から一斉に芽生え、やがて野山を彩る柔らかな色。新会社のさわやかで伸びやかなイメージを表現<ref name=NDC>{{Cite web|和書|url=http://www.ndc.co.jp/selection/87jr.html |title=87 JRグループ CIデザイン |publisher=株式会社[[日本デザインセンター]] |language=日本語 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110609064903/http://www.ndc.co.jp/selection/87jr.html |archivedate=2011-06-09 |accessdate=2012-05-06}}</ref>。
* [[東日本旅客鉄道]] - [[緑|グリーン]]。[[東北]]・[[信越]]・[[関東]]の豊かな緑色で、力強く発展していく新会社の未来を象徴させる。また、[[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線]]のカラー([[緑14号]])でもある<ref name=NDC/>。
* [[東海旅客鉄道]] - [[オレンジ色|オレンジ]]。かぎりなく広がる[[東海]]の海と空の彼方を染める夜明けの色。新鮮で潑剌とした[[オレンジ]]のように、フレッシュな新会社を表す。また、この地域を走る[[湘南電車#湘南色|湘南色]]の電車にあやかっている<ref name=NDC/>。
* [[西日本旅客鉄道]] - [[青|ブルー]]。日本の文化と歴史に彩られた地域に相応しい色とされ、地域に密着した会社を表している。また、[[山陽新幹線]]のカラーでもあり、豊かな海と湖を象徴するカラーでもある<ref name=NDC/>。
* [[四国旅客鉄道]] - [[水色|ライトブルー]]。[[太平洋]]の青さより、さらに鮮やかなブルーであり、「青い国・四国」で知られる澄みきった空のブルーとして、新会社のフレッシュさを表現<ref name=NDC/>。
* [[九州旅客鉄道]] - [[赤|レッド]]。南の明るい太陽の国には、燃える熱意の色「赤」が相応しいとされた。全力で明るくスタートダッシュを切る新会社の意欲的な姿勢を表現している<ref name=NDC/>。
* [[日本貨物鉄道]] - コンテナブルー。新会社のフレッシュさと信頼感を演出するカラー。国鉄末期には[[国鉄C35形コンテナ|C35形コンテナ]]から始まる、2万個もの新造コンテナがイメージの一新を目指して、塗装を従来のコンテナグリーン([[黄緑6号]])からコンテナブルー([[青22号]])に変更して登場していた<ref name=NDC/>。民営化後に設計された[[JR貨物19A形コンテナ|19A形コンテナ]]は当初JRFレッドと黒で登場し、その後、後継形式を含めJRFレッド一色となっている。
* [[鉄道情報システム]] - [[えんじ色|エンジ]]。<ref name="ayaito">[https://ayaito.net/webtips/color_code/12759/amp/] </ref>{{出典無効|date=2023-07-11 |title=個人サイトは出典になりません}}
* [[鉄道総合技術研究所]] - [[薄紫]]。<ref name="ayaito" />{{出典無効|date=2023-07-11 |title=個人サイトは出典になりません}}
* JRグループ - 無彩色。グループ各社としての汎用性を考え、黒、グレー、白、3つの無彩色とされ、金・銀も可としている<ref name=NDC/>
== ロゴ(JRマーク) ==
JRマークなどの[[ロゴタイプ|ロゴ]][[デザイン]]は、[[1964年東京オリンピック]][[ポスター]]、[[トヨタ自動車|トヨタ]]ロゴ、[[アサヒビール]]ロゴ等を考案した[[日本デザインセンター]]が製作した<ref name=NDC/>。
JRマークは、鉄道車両は両方向に進行することが可能であるため、どちらに動いても違和感のないように作られている。高速走行時の視認性も考慮され、太くて横に広がるシンプルな一筆書き(レールは繋がっている)の形状には、スピード感も込められている。また、新会社の安定感を作り出すために「R」の斜めの支えを加えることで、大地に根を張るイメージが付与されている<ref name=NDC/>。
JRマークはわずかな例外を除き、各社の鉄道車両に掲出されている。[[電車]]や[[気動車]]については[[制御車]]の側面・まれに前面部分、[[機関車]]の側面、[[客車]]では[[緩急車]]の側面などにこのマークがある。民営化当初、各社は車体の色合いに合わせて、白色、黒色または灰色といった無彩色のJRマークを掲出していたが、JR九州だけは一貫してコーポレートカラーである赤色のJRマークを掲出しており、[[国鉄ED76形電気機関車|ED76]]・[[国鉄EF81形電気機関車|EF81]]など、車体が赤色である[[交流電化|交流]]用および[[交直流電車|交流直流両用]][[電気機関車]]については、赤地に白い縁取りを加えたJRマークを使用した。また、JR東海でも1988年以降、[[国鉄381系電車|クロ381形10番台]]の落成を皮切りに特急形車両を中心にコーポレートカラーであるオレンジ色のJRマークを掲出するようになった。その後、現在に至るまでに様々な色のJRマークが車両に掲出されている。
なお、JRマークは「ジェイアアル」という呼称で1999年12月3日に[[商標登録]]が完了している<ref>[https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/TR/JP-1998-018999/425BA1712C15B23C16423A56BEBF87C4C7548D370771E98E4A19FA679D8FA8C9/40/ja 登録第4323175号] - 特許庁 商標出願・登録情報検索</ref>。各社毎にロゴが商標登録されており、各JR旅客各社のロゴは、全旅客各社が共同で権利を申請し、所有している模様。
また、JR貨物では、JRマークの下に「FREIGHT」の文字を加えたロゴや、1990年代後半以降は独自の「JRF」マークを制定している{{efn|ただしJR FREIGHTのロゴやJRFマークは近年撤去が進んでいる。}}。所有する[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ]]や[[機関車]]に使用しており、こちらも商標登録されている。
このほか1998年まで存在した[[日本国有鉄道清算事業団]](JNRSC)では、1988年2月4日に事業団の識別用マークを制定しており<ref>{{Cite book |和書 |date=1998-10-21|title=国鉄清算事業団史 〜11年半のあゆみ〜|publisher=日本国有鉄道清算事業団 |page=33}}</ref>、JRマークを元に改変した「JNR」のマークがデザインに含まれていた。
=== 製作の経緯 ===
1986年11月28日に[[参議院]][[本会議]]で国鉄改革関連8法が可決成立したことに伴い、新会社のマークと社名ロゴにコーポレートカラーなど、新会社が必要とするデザイン課題が国鉄プロジェクトチームと[[電通]]との間で話し合われていた。その製作に相応しいクリエイターということで、日本デザインセンターにデザイン製作依頼が舞い込み、チーフディレクターの[[梶祐輔]]を中心としたプロジェクトチームが立ち上げられた<ref name=NDC/>。
マークのデザイン案は「JRグループ(Japan Railway Company)」または「NRグループ(Nippon Railway Company)」で、それ以外にも幅の広いデザイン案が求められた。各デザイナーによって起こされたデザインは100案以上を超え、「JR」「NR」を模ったもの、レールの頭文字「R」をデザインしたもの、6つの旅客会社のレールをデザインしたもの、レールを鳥がはばたくイメージで表現したものなど多様なアプローチが提案されたが、1987年1月14日には3案に絞られた。国鉄総裁の[[杉浦喬也]]はその3案を自宅に持ち帰って3日間考え抜いた末、新会社グループのJRを最もシンプルにデザインしたものに決定し、最終的には[[永井一正]]の監修を受けて完成した。デザインが決定してから民営化までは2か月半しかなく、7社の社名ロゴおよび各社カラー・アプリケーションの開発・マニュアル制作・記者発表用キット・各社の切符など膨大な制作物をこの期間で仕上げることが求められた<ref name=NDC/>。
国鉄では、民営化初日の4月1日に特急の一部と山手線だけにでもJRマークを付けた車輌を走らせたいと考えていた。日本デザインセンターは、民営化の初日から全国の列車の機関車と運転台付きの車両にマーク展開することを提案。全国で約1万輛に及ぶ多彩な型式の車両ごとにデザインを起こし、3月31日の最終列車から翌4月1日始発までの間に職員の手でJRマークを貼付するという計画だった。そのために誰にでも短時間で作業できるよう工夫した「JRマーク車両貼付け指示書」が制作された。この指示書は110ページに及ぶものだったが、時間が切迫していたため、図面の指示は山本洋司による手書きだった<ref name=NDC/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[国鉄分割民営化]]
* [[JRTT]]
* [[JR線]]
* [[JRダイヤ改正]]
* [[国鉄・JR線路名称一覧]]
* [[JRバス]]
* [[JRカード]]
* [[二谷英明]]・[[白川由美]]
* [[ソフトバンクテレコム]] - JRが資本関係を持っていた鉄道通信および日本テレコムを主たる系譜とする企業。
* [[遠くへ行きたい (テレビ番組)]] - [[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]が制作し、[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]で放送されている[[紀行番組]]。国鉄時代から[[スポンサー]]となっており、2020年現在もJRグループがスポンサーである。
* [[産経児童出版文化賞]] - JR貨物を含むJR7社が協賛している。
== 外部リンク ==
{{commons|Category:JR Group|JRグループ}}
* [http://www.jr.cyberstation.ne.jp/ JRサイバーステーション]
* [https://japanrailpass.net/ JAPAN RAIL PASS - ジャパンレールパス] {{en icon}}
* [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=361AC0000000088 旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律(昭和61年法律第88号)]([[e-Gov法令検索]])
* {{NHK放送史|D0009030214_00000|国鉄分割民営化 JR発足(1987年)}}
{{JR}}
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{{デフォルトソート:JR}}
[[Category:JR|*]]
[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:日本の鉄道]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/JR |
3,587 | 津田沼駅 | 津田沼駅(つだぬまえき)は、千葉県習志野市津田沼一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。運行系統としては快速線を走行する総武快速線、緩行線を走行する総武緩行線の2系統が停車する。駅番号は快速線がJO 26、緩行線がJB 33。新京成電鉄新京成線の新津田沼駅は相互乗換駅である。
当駅は習志野市の中心駅である。周辺は駅が密集しており、相互乗換駅である新京成電鉄の新津田沼駅を始め、前原駅、京成電鉄の谷津駅、新京成電鉄・京成電鉄の京成津田沼駅が全て当駅から半径約2 km圏内に位置している。
駅舎及び改札は習志野市側にあるが、ホーム西側および北口西端の一部が船橋市前原西二丁目にまたがっている。そのため近くに船橋市との境があり、船橋市東部の玄関口としても機能している。1日の平均乗車人員は、千葉県内では船橋駅、西船橋駅、柏駅、千葉駅に次ぐ第5位である。
当駅に乗り入れている路線は、線路名称上は総武本線1路線のみである(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」参照)が、運転系統としては、快速線を走る総武快速線、および緩行線を走る中央・総武線各駅停車の2系統が停車する。
第二次世界大戦前は軍郷習志野への玄関口として賑わった。また、1907年(明治40年)には駅周辺に陸軍鉄道連隊が転営し、「津田沼」はその所在地として知られるようになった。戦後、鉄道連隊の広大な敷地は千葉工業大学などの学校用地とされた他、千葉県松戸市方面への旧演習線が新京成電鉄新京成線に転用された。また、1960年代には千葉市方面への旧演習線施設の一部を利用して陸上自衛隊第101建設隊が設置されている(1966年廃止)。
島式ホーム3面6線を有する地上駅。橋上駅舎を有し、エレベーターとエスカレーターが設置されている。元は2面3線の構造で現在の北口側に駅舎が存在したが(後に南口を開設)、1972年の複々線化に合わせて現在の形に拡張され、橋上駅化された。改札付近にみどりの窓口と指定席券売機が設置されている。
津田沼営業統括センター所在駅で、所長兼駅長が配置された直営駅。当駅から幕張駅までを統括している。
日中の各駅停車の約半数は当駅で御茶ノ水・新宿・中野駅方面に折り返す。千葉駅方面に向かう場合で当駅止まりの電車はホームが異なるため、手前の東船橋駅での乗り換えを誘導する車内放送が流れる。また、快速も朝夕の通勤時間帯を中心に東京・品川・横浜駅方面(横須賀線直通)への折り返し電車が多数存在する。また、平日ラッシュ時に限り各駅停車ホームから当駅始発として東京メトロ東西線直通列車が運転され、一部はメトロ線を経由して中央線(緩行線)の三鷹駅まで直通する。この関係で、平日の7時半〜9時の御茶ノ水方面の始発列車の設定はない。
当駅始発の東京方面の快速は大半は2番線から発車するが、一部は下り線本線の1番線から発車する。
2番線は東京方面の始発で使われる以外に、両方向での特急の通過待ちに使用することがある。ただし、同じく特急の通過待ちを行う市川駅と比較すると通過待ちを行う列車は少ない。
また、運転士・車掌の交代を行う場合もある。
(出典:JR東日本:駅構内図)
年度全体の乗車人員を365(閏日が入る年度は366)で除して1日平均乗車人員を求めている。
近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。
駅からの主な動線整備としては駅北口及び駅南口に各主要施設を結ぶペデストリアンデッキ(歩行者デッキ)が整備されており、特に駅南口は津田沼公園、モリシア津田沼を経由し、津田沼ザ・タワー(奏の杜方面)へと続く大規模な駅前デッキ網として知られる。また、駅周辺にはJR東日本ホテルメッツ津田沼、東横イン津田沼などのホテルがあるため、ビジネス利用や観光拠点としても適している。
当駅には千葉ステーションビルの駅ビルであるペリエ津田沼、北口にはミーナ津田沼、イオンモール津田沼、イトーヨーカドー、津田沼OKビル(大和商事)などが立地しており、南口にはモリシア津田沼(ダイエー、ヤマダデンキLABI津田沼など)、Loharu津田沼(ユザワヤ、丸善)、奏の杜フォルテなど大型店舗が多数林立している。古くから津田沼戦争と呼ばれるほど駅周辺に大型店の進出や店舗同士での競争激化が相次ぐ関東有数の繁華街となっている。
北口商店街の大部分は船橋市前原西に属する。津田沼(旧称:久々田)の古くからの市街地は国道14号から京成津田沼駅周辺に位置し、当駅からは離れている。習志野市側では1960年代まで北口側・南口側共に戦前の陸軍鉄道連隊跡地を転用した施設(京成電鉄津田沼第二工場、千葉県立千葉工業高等学校、千葉工業大学、習志野市立第一中学校、国鉄官舎)などが広がっていた。北口側では、1960年代末に県立千葉工業高校などが移転した跡に新京成線の新津田沼駅が移転し(藤崎台駅と統合)、1970年代にかけて両市域に跨る再開発事業が行われた。
南口側でも市立第一中学校の移転跡地の再開発が行われ、1978年に習志野サンペデック(現在のモリシア津田沼)が開業した。これらの再開発により、習志野市側においても駅周辺が市の中心街として成長するとともに大型商業施設間の激しい競争が展開した。
南口には学習塾が多く立地しており、千葉工業大学津田沼キャンパスなどもあるため、学生が多く利用する文教地区となっている。学習塾業界を物語とした森絵都による『みかづき』の舞台となっており、津田沼戦争(塾激戦区)という塾同士の熾烈な抗争があったことが取り上げられている。
また、南口では2007年から35haに及ぶ大規模な土地区画整理事業であるJR津田沼駅南口特定土地区画整理事業が実施されており、都市再開発や超高層マンションの建設が進んでいる。 将来的には7000人程度の定住人口を見込んでいる。街の入り口付近に商業施設(フォルテ)が開業するなど、今後の発展が期待される。この地域の旧町名は「谷津(やつ)」であったが、習志野市が開発プロジェクト名を採り入れた「奏の杜(かなでのもり)」という新町名を導入するにあたって市議会などで紛糾した。
南口にはほんの一部分だけ船橋市前原西の地域が存在する。駅の船橋方にある歩道橋は、船橋市内の小学校区通学の便を図るために設置されている。
新京成線の新津田沼駅までは東へ400m程のため、乗り換えが可能であるが、連絡通路が設置されていない。屋根もないため、乗り換え駅としては不便である。「新津田沼駅#JR津田沼駅との乗換」参照。現在ではイトーヨーカドー隣の駐車場と程近くにあるバス転回場の敷地を利用して再開発を計画している。かつては貨物駅でもあり、当時は京成電鉄などの車両を搬出入する際に、当駅が使用されていた。
駅ナカ商業施設として千葉ステーションビルの駅ビル「ペリエ津田沼(Perie)」がある。
改札内にエキナカ、改札外にエキソトとフロアが分かれている。
半径約2km圏内に位置する駅。
北口は1 - 7番、南口は7 - 10番となる。
京成バス、京成バスシステム、ちばグリーンバス、ちばレインボーバス、船橋新京成バスが運行する路線バスまたは高速バスが発着する。
京成バス、京成バスシステム、東京空港交通、奈良交通、富士急行観光が運行する路線バスまたは高速バスが発着する。
平和交通は駅前バスロータリー先の津田沼公園の横に停留所があり、ららぽーとTOKYO-BAYへの路線バスを運行している。
銀座駅・東京駅・兜町からの平和交通の深夜急行バスは南口・ユザワヤ前に到着する。
バスターミナルには乗り入れていないが、習志野市ハッピーバス京成津田沼駅内陸ルートが駅の東側を通過しており、北口の津田沼一丁目公園前に津田沼一丁目停留所が設置されている。
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"text": "当駅は習志野市の中心駅である。周辺は駅が密集しており、相互乗換駅である新京成電鉄の新津田沼駅を始め、前原駅、京成電鉄の谷津駅、新京成電鉄・京成電鉄の京成津田沼駅が全て当駅から半径約2 km圏内に位置している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "駅舎及び改札は習志野市側にあるが、ホーム西側および北口西端の一部が船橋市前原西二丁目にまたがっている。そのため近くに船橋市との境があり、船橋市東部の玄関口としても機能している。1日の平均乗車人員は、千葉県内では船橋駅、西船橋駅、柏駅、千葉駅に次ぐ第5位である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "当駅に乗り入れている路線は、線路名称上は総武本線1路線のみである(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」参照)が、運転系統としては、快速線を走る総武快速線、および緩行線を走る中央・総武線各駅停車の2系統が停車する。",
"title": "乗り入れ路線"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦前は軍郷習志野への玄関口として賑わった。また、1907年(明治40年)には駅周辺に陸軍鉄道連隊が転営し、「津田沼」はその所在地として知られるようになった。戦後、鉄道連隊の広大な敷地は千葉工業大学などの学校用地とされた他、千葉県松戸市方面への旧演習線が新京成電鉄新京成線に転用された。また、1960年代には千葉市方面への旧演習線施設の一部を利用して陸上自衛隊第101建設隊が設置されている(1966年廃止)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "島式ホーム3面6線を有する地上駅。橋上駅舎を有し、エレベーターとエスカレーターが設置されている。元は2面3線の構造で現在の北口側に駅舎が存在したが(後に南口を開設)、1972年の複々線化に合わせて現在の形に拡張され、橋上駅化された。改札付近にみどりの窓口と指定席券売機が設置されている。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "津田沼営業統括センター所在駅で、所長兼駅長が配置された直営駅。当駅から幕張駅までを統括している。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "日中の各駅停車の約半数は当駅で御茶ノ水・新宿・中野駅方面に折り返す。千葉駅方面に向かう場合で当駅止まりの電車はホームが異なるため、手前の東船橋駅での乗り換えを誘導する車内放送が流れる。また、快速も朝夕の通勤時間帯を中心に東京・品川・横浜駅方面(横須賀線直通)への折り返し電車が多数存在する。また、平日ラッシュ時に限り各駅停車ホームから当駅始発として東京メトロ東西線直通列車が運転され、一部はメトロ線を経由して中央線(緩行線)の三鷹駅まで直通する。この関係で、平日の7時半〜9時の御茶ノ水方面の始発列車の設定はない。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "当駅始発の東京方面の快速は大半は2番線から発車するが、一部は下り線本線の1番線から発車する。",
"title": "駅構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2番線は東京方面の始発で使われる以外に、両方向での特急の通過待ちに使用することがある。ただし、同じく特急の通過待ちを行う市川駅と比較すると通過待ちを行う列車は少ない。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "また、運転士・車掌の交代を行う場合もある。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "年度全体の乗車人員を365(閏日が入る年度は366)で除して1日平均乗車人員を求めている。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "駅からの主な動線整備としては駅北口及び駅南口に各主要施設を結ぶペデストリアンデッキ(歩行者デッキ)が整備されており、特に駅南口は津田沼公園、モリシア津田沼を経由し、津田沼ザ・タワー(奏の杜方面)へと続く大規模な駅前デッキ網として知られる。また、駅周辺にはJR東日本ホテルメッツ津田沼、東横イン津田沼などのホテルがあるため、ビジネス利用や観光拠点としても適している。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "当駅には千葉ステーションビルの駅ビルであるペリエ津田沼、北口にはミーナ津田沼、イオンモール津田沼、イトーヨーカドー、津田沼OKビル(大和商事)などが立地しており、南口にはモリシア津田沼(ダイエー、ヤマダデンキLABI津田沼など)、Loharu津田沼(ユザワヤ、丸善)、奏の杜フォルテなど大型店舗が多数林立している。古くから津田沼戦争と呼ばれるほど駅周辺に大型店の進出や店舗同士での競争激化が相次ぐ関東有数の繁華街となっている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "北口商店街の大部分は船橋市前原西に属する。津田沼(旧称:久々田)の古くからの市街地は国道14号から京成津田沼駅周辺に位置し、当駅からは離れている。習志野市側では1960年代まで北口側・南口側共に戦前の陸軍鉄道連隊跡地を転用した施設(京成電鉄津田沼第二工場、千葉県立千葉工業高等学校、千葉工業大学、習志野市立第一中学校、国鉄官舎)などが広がっていた。北口側では、1960年代末に県立千葉工業高校などが移転した跡に新京成線の新津田沼駅が移転し(藤崎台駅と統合)、1970年代にかけて両市域に跨る再開発事業が行われた。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "南口側でも市立第一中学校の移転跡地の再開発が行われ、1978年に習志野サンペデック(現在のモリシア津田沼)が開業した。これらの再開発により、習志野市側においても駅周辺が市の中心街として成長するとともに大型商業施設間の激しい競争が展開した。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "南口には学習塾が多く立地しており、千葉工業大学津田沼キャンパスなどもあるため、学生が多く利用する文教地区となっている。学習塾業界を物語とした森絵都による『みかづき』の舞台となっており、津田沼戦争(塾激戦区)という塾同士の熾烈な抗争があったことが取り上げられている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また、南口では2007年から35haに及ぶ大規模な土地区画整理事業であるJR津田沼駅南口特定土地区画整理事業が実施されており、都市再開発や超高層マンションの建設が進んでいる。 将来的には7000人程度の定住人口を見込んでいる。街の入り口付近に商業施設(フォルテ)が開業するなど、今後の発展が期待される。この地域の旧町名は「谷津(やつ)」であったが、習志野市が開発プロジェクト名を採り入れた「奏の杜(かなでのもり)」という新町名を導入するにあたって市議会などで紛糾した。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "南口にはほんの一部分だけ船橋市前原西の地域が存在する。駅の船橋方にある歩道橋は、船橋市内の小学校区通学の便を図るために設置されている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "新京成線の新津田沼駅までは東へ400m程のため、乗り換えが可能であるが、連絡通路が設置されていない。屋根もないため、乗り換え駅としては不便である。「新津田沼駅#JR津田沼駅との乗換」参照。現在ではイトーヨーカドー隣の駐車場と程近くにあるバス転回場の敷地を利用して再開発を計画している。かつては貨物駅でもあり、当時は京成電鉄などの車両を搬出入する際に、当駅が使用されていた。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "駅ナカ商業施設として千葉ステーションビルの駅ビル「ペリエ津田沼(Perie)」がある。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "改札内にエキナカ、改札外にエキソトとフロアが分かれている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "半径約2km圏内に位置する駅。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "北口は1 - 7番、南口は7 - 10番となる。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "京成バス、京成バスシステム、ちばグリーンバス、ちばレインボーバス、船橋新京成バスが運行する路線バスまたは高速バスが発着する。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "京成バス、京成バスシステム、東京空港交通、奈良交通、富士急行観光が運行する路線バスまたは高速バスが発着する。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "平和交通は駅前バスロータリー先の津田沼公園の横に停留所があり、ららぽーとTOKYO-BAYへの路線バスを運行している。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "銀座駅・東京駅・兜町からの平和交通の深夜急行バスは南口・ユザワヤ前に到着する。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "バスターミナルには乗り入れていないが、習志野市ハッピーバス京成津田沼駅内陸ルートが駅の東側を通過しており、北口の津田沼一丁目公園前に津田沼一丁目停留所が設置されている。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "また、新津田沼駅の北側に新津田沼駅北口、南側に新津田沼駅の2つの停留所があるが、前者は路線の始発・終着地点であるのに対して、後者は当駅発着路線における隣の停留所となっている。",
"title": "バス路線"
}
] | 津田沼駅(つだぬまえき)は、千葉県習志野市津田沼一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。運行系統としては快速線を走行する総武快速線、緩行線を走行する総武緩行線の2系統が停車する。駅番号は快速線がJO 26、緩行線がJB 33。新京成電鉄新京成線の新津田沼駅は相互乗換駅である。 | {{Otheruseslist|東日本旅客鉄道(JR東日本)総武線(快速・緩行)の駅|同駅に近接する新京成電鉄の駅|新津田沼駅|かつて同名を名乗っていた京成電鉄(本線・千葉線)・新京成電鉄の駅|京成津田沼駅}}
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = 津田沼駅
|画像 = JR Tsudanuma sta 009(cropped).jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 南口から撮影(2012年3月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = つだぬま
|ローマ字 = Tsudanuma
|電報略号 = ツヌ
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[千葉県]][[習志野市]][[津田沼]]一丁目1-1{{Refnest|group="*"|正式な所在地。ホームの西側は船橋市[[前原 (船橋市)|前原西]]二丁目にまたがる<ref name="chibanippo20210809" />。}}
|座標 = {{coord|35|41|28|N|140|1|14|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日 = [[1895年]]([[明治]]28年)[[9月21日]]<ref name="sobu-line-120-2014-2">三好好三『総武線120年の軌跡』[[JTBパブリッシング]]、2014年2月。ISBN 978-4533096310</ref>
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 3面6線<ref name="sobu-line-120-2014-2" />
|乗車人員 = <ref group="JR" name="jreast-jyousha2022" />85,072
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数= 2
|所属路線1 = {{color|#0067c0|■}}[[横須賀・総武快速線|総武線(快速)]]<ref group="*" name="線路名称">線路名称上は[[総武本線]]。</ref>
|前の駅1 = JO 25 [[船橋駅#JR東日本|船橋]]
|駅間A1 = 3.5
|駅間B1 = 9.2
|次の駅1 = [[稲毛駅|稲毛]] JO 27
|駅番号1 = {{駅番号r|JO|26|#0067c0|1}}
|キロ程1 = 26.7
|起点駅1 = [[東京駅|東京]]
|所属路線2 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]<ref group="*" name="線路名称"/>
|前の駅2 = JB 32 [[東船橋駅|東船橋]]
|駅間A2 = 1.7
|駅間B2 = 2.9
|次の駅2 = [[幕張本郷駅#JR東日本(幕張本郷駅)|幕張本郷]] JB 34
|駅番号2 = {{駅番号r|JB|33|#ffd400|1}}
|キロ程2 = 26.7 km(東京起点)<ref name="sobu-line-120-2014-2" /><br />[[千葉駅|千葉]]から12.5
|起点駅2 =
|乗換 = {{駅番号r|SL|23|#EF59A1|4||#EF59A1}} [[新津田沼駅]]<ref name="transfer">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200512081618/https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|title=●JR線と連絡会社線との乗り換え駅|archivedate=2020-05-12|accessdate=2020-07-26|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref><br/>([[新京成電鉄新京成線]])
|備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]<br/>[[みどりの窓口]] 有
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
[[ファイル:JR Tsudanuma sta 011.jpg|thumb|250px|北口(2012年3月)]]
'''津田沼駅'''(つだぬまえき)は、[[千葉県]][[習志野市]][[津田沼]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[総武本線]]の[[鉄道駅|駅]]である<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。[[運行系統]]としては[[急行線|快速線]]を走行する[[横須賀・総武快速線|総武快速線]]、[[各駅停車|緩行線]]を走行する[[中央・総武緩行線|総武緩行線]]の2系統が停車する。[[駅ナンバリング|駅番号]]は快速線が'''JO 26'''、緩行線が'''JB 33'''。[[新京成電鉄新京成線]]の[[新津田沼駅]]は相互[[乗換駅]]である<ref group="注釈" name=":02">新津田沼駅は [https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1009 駅情報] に接続交通機関として掲載されている。連絡定期券も発売されている。</ref>。
== 概要 ==
[[ファイル:Morisia Tsudanuma 001.jpg|thumb|250px|南口駅前(2012年5月)。向かって左側は[[モリシア津田沼]]。]]
[[ファイル:Kyoukaisen.jpg|サムネイル|187x187ピクセル|ホームにテープで市の境界線が張られた]]
[[ファイル:TSUDANUMA-PARCO.gif|thumb|250px|北口駅前(2007年2月)。写っている津田沼[[パルコ]]は2023年2月末で閉業した<ref name=日経MJ20230310>「[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC243010U3A220C2000000/ 津田沼パルコ跡地、三井不系が一部取得 9月に新商業施設、回遊性課題]」『[[日経MJ]]』2023年3月10日(大型小売り・ファッション面)2023年3月19日閲覧</ref>。]]
{{maplink2|frame=yes|type=point|type2=point|type3=point|zoom=14|frame-width=250|marker=rail|marker2=rail|marker3=rail|marker-color=008000|marker-color2=EF59A1|marker-color3=005aaa|coord={{coord|35|41|28|N|140|1|14|E}}|title=津田沼駅|coord2={{coord|35|41|24.8|N|140|1|25|E}}|title2=新津田沼駅|coord3={{coord|35|41|1|N|140|1|28|E}}|title3=京成津田沼駅|frame-latitude=35.687328|frame-longitude=140.022976|text=上から津田沼駅、新津田沼駅、京成津田沼駅}}
当駅は[[習志野市]]の中心駅である。周辺は駅が密集しており、相互乗換駅である[[新京成電鉄]]の[[新津田沼駅]]を始め<ref group="注釈" name=":02">新津田沼駅は [https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1009 駅情報] に接続交通機関として掲載されている。連絡定期券も発売されている。</ref>、[[前原駅]]、[[京成電鉄]]の[[谷津駅]]、新京成電鉄・[[京成電鉄]]の[[京成津田沼駅]]が全て当駅から半径約2 [[キロメートル|km]]圏内に位置している。
駅舎及び[[改札]]は習志野市側にあるが、[[プラットホーム|ホーム]]西側および北口西端の一部が[[船橋市]][[前原 (船橋市)|前原西]]二丁目にまたがっている<ref name="chibanippo20210809">{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/local/819773|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210814113403/https://www.chibanippo.co.jp/news/local/819773|title=駅ホームに境界線も!? 津田沼の「市境」に興味津々 商店会が親子向け企画 船橋・習志野|newspaper=[[千葉日報]]|date=2021-08-09|accessdate=2021-08-14|archivedate=2021-08-14}}</ref>。そのため近くに船橋市との境があり、船橋市東部の玄関口としても機能している。1日の平均[[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]は、千葉県内では[[船橋駅]]、[[西船橋駅]]、[[柏駅]]、[[千葉駅]]に次ぐ第5位である。
== 乗り入れ路線 ==
当駅に乗り入れている路線は、線路名称上は総武本線1路線のみである(詳細は路線記事および「[[鉄道路線の名称]]」参照)が、運転系統としては、[[急行線|快速線]]を走る[[横須賀・総武快速線|総武快速線]]、および[[急行線|緩行線]]を走る[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]の2系統が停車する。
* [[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 総武線(快速):[[急行線]]を走行する総武本線の近距離電車。上り列車は[[東京駅]]を起点に[[横須賀線]]への[[直通運転]]も実施している。[[駅ナンバリング|駅番号]]は「'''JO 26'''」。
* [[定期列車]]の[[特急列車|特急]]は通過するが、休日運転で千葉県内と[[東京都区部]]や[[北関東]]を結ぶ「新宿[[わかしお (列車)|わかしお]]」「新宿[[さざなみ (列車)|さざなみ]]」のほか、「[[日光 (列車)#千葉駅発着列車|日光]]」「[[あやめ (列車)#あやめ祭り|あやめ祭り]]」などの臨時特急が停車する。
* [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車):緩行線を走行する総武本線の近距離電車。平日の朝夕[[ラッシュ時]]のみ[[西船橋駅]]を経由して[[東京メトロ東西線]]へ直通する列車も運行される<ref>[https://www.jreast-timetable.jp/2303/timetable/tt1009/1009040.html#time_6 津田沼駅 時刻表:中央・総武線各駅停車 西船橋・両国方面(西行)]JR東日本公式サイト(2023年3月19日閲覧)</ref>。駅番号は「'''JB 33'''」。
== 歴史 ==
[[第二次世界大戦]]前は軍郷[[習志野]]への玄関口として賑わった。また、[[1907年]]([[明治]]40年)には駅周辺に[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[鉄道連隊]]が転営し、「津田沼」はその所在地として知られるようになった。戦後、鉄道連隊の広大な敷地は[[千葉工業大学]]などの学校用地とされた他、千葉県[[松戸市]]方面への旧[[鉄道連隊演習線|演習線]]が[[新京成電鉄]][[新京成電鉄新京成線|新京成線]]に転用された。また、[[1960年代]]には[[千葉市]]方面への旧演習線施設の一部を利用して[[陸上自衛隊]][[第101建設隊]]が設置されている([[1966年]]廃止)。
=== 年表 ===
* [[1895年]](明治28年)[[9月21日]]:[[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]の駅として開業<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。旅客・貨物扱い開始。
* [[1907年]](明治40年)[[9月1日]]:[[鉄道国有法]]により買収され、[[帝国鉄道庁]]の駅となる<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。
* [[1969年]]([[昭和]]44年)[[4月8日]]:[[帝都高速交通営団]](現:東京メトロ)地下鉄東西線からの平日ラッシュ時直通乗り入れ開始<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。
* [[1972年]](昭和47年)[[7月15日]]:[[両国駅]] - 当駅間の[[複々線]]化完成<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。[[総武快速線]]の運転開始。
* [[1974年]](昭和49年)[[10月1日]]:当駅 - [[千葉駅]]間の複々線化完成<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。貨物扱い廃止。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線|page=19|date=2010-01-17}}</ref>。
* [[1992年]]([[平成]]4年)[[11月28日]]:[[自動改札機]]を設置し、使用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-114-7}}</ref>。
* [[1996年]](平成8年)[[7月20日]]:駅構内に[[盲導鈴]]を設置<ref>{{Cite news |title=JR千葉支社 4駅にチャイム |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1996-07-15 |page=1 }}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2011年]](平成23年)[[3月20日]]:[[駅ナカ]]「Dila津田沼」リニューアルオープン。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[8月31日]]:この日をもって[[びゅうプラザ]]が営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5cca8e7df1c059191ec0bba0.pdf|title=営業施策について提案される!|format=PDF|publisher=[[JR東日本労働組合|JR東労組]]千葉地方本部|date=2019-04-30|accessdate=2020-01-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200127150454/http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5cca8e7df1c059191ec0bba0.pdf|archivedate=2020-01-27}}</ref>。
*[[2021年]](令和3年)[[8月7日]]:船橋市前原商店街の市境を探すフォトラリーでホームの市境にテープが張られる<ref>{{Cite web|和書|title=市境を探すフォトラリーイベントが各種メディアに掲載されました – 船橋市前原商店会|url=https://funabashi-maehara.com/news/photorally-softball/|website=funabashi-maehara.com|accessdate=2021-08-30}}</ref>。
*[[2023年]](令和5年)2月28日:津田沼[[パルコ]]最終営業日に合わせて、この日限定で「ありがとう つだぬまパルコ JO26」の駅名表示板を掲出<ref name=日経MJ20230310/>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]3面6線を有する[[地上駅]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。[[橋上駅|橋上駅舎]]を有し、[[エレベーター]]と[[エスカレーター]]が設置されている。元は2面3線の構造で現在の北口側に駅舎が存在したが(後に南口を開設)、[[1972年]]の複々線化に合わせて現在の形に拡張され、橋上駅化された。改札付近に[[みどりの窓口]]と指定席券売機が設置されている。
津田沼営業統括センター所在駅で、所長兼駅長が配置された直営駅。当駅から[[幕張駅]]までを統括している。
日中の各駅停車の約半数は当駅で[[御茶ノ水駅|御茶ノ水]]・[[新宿駅|新宿]]・[[中野駅 (東京都)|中野駅]]方面に折り返す。[[千葉駅]]方面に向かう場合で当駅止まりの電車はホームが異なるため、手前の[[東船橋駅]]での乗り換えを誘導する車内放送が流れる。また、快速も朝夕の通勤時間帯を中心に東京・[[品川駅|品川]]・[[横浜駅]]方面(横須賀線直通)への折り返し電車が多数存在する。また、平日ラッシュ時に限り各駅停車ホームから当駅始発として東京メトロ東西線直通列車が運転され、一部はメトロ線を経由して中央線(緩行線)の[[三鷹駅]]まで直通する。この関係で、平日の7時半〜9時の御茶ノ水方面の始発列車の設定はない。
当駅始発の東京方面の快速は大半は2番線から発車するが、一部は下り線本線の1番線から発車する。
2番線は東京方面の始発で使われる以外に、両方向での特急の通過待ちに使用することがある。ただし、同じく特急の通過待ちを行う[[市川駅]]と比較すると通過待ちを行う列車は少ない。
また、[[運転士]]・[[車掌]]の交代を行う場合もある。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
! 1
|rowspan="3"|[[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 総武線(快速)
|style="text-align:center"|下り
|[[稲毛駅|稲毛]]・[[千葉駅|千葉]]方面
|一部列車は2番線
|-
! 2
|rowspan="2" style="text-align:center"|上り
|rowspan="2"|[[錦糸町駅|錦糸町]]・[[東京駅|東京]]方面
|rowspan="2"|一部列車は1番線
|-
! 3
|-
! 4
|rowspan="3"|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
|style="text-align:center"|東行
|[[幕張本郷駅|幕張本郷]]・稲毛・千葉方面
|
|-
! 5
|rowspan="2" style="text-align:center"|西行
|rowspan="2"|[[西船橋駅|西船橋]]・錦糸町・[[新宿駅|新宿]]方面
|5番線は当駅始発専用<br />(地下鉄東西線直通はすべて5番線)
|-
! 6
|
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1009.html JR東日本:駅構内図])
* 当駅の西側に大きく、同じく当駅の東側に1本、それぞれに[[習志野運輸区|総武線各駅停車専用の留置線]]があり、[[夜間滞泊]]などの留置運用が設定されている。かつては習志野電車区が存在したものの、2004年に全車両が[[三鷹車両センター]]に転属した。
* 平日ラッシュピーク時に総武快速線当駅折り返し東京・横浜(横須賀線)方面行および東西線直通電車では整列乗車が行われる。
<gallery>
ファイル:JR Tsudanuma sta 003.jpg|南口[[ペデストリアンデッキ]](2007年12月)
ファイル:Tsudanuma-Sta-Gate-201608.JPG|改札口(2016年8月)
ファイル:JR Sobu-Main-Line Tsudanuma Station Platform 1・2.jpg|1・2番線(快速)ホーム(2019年12月)
ファイル:JR Sobu-Main-Line Tsudanuma Station Platform 3・4.jpg|3・4番線(快速・各駅停車)ホーム(2019年12月)
ファイル:JR Sobu-Main-Line Tsudanuma Station Platform 5・6.jpg|5・6番線(各駅停車)ホーム(2019年12月)
ファイル:Soubusen Tsudanuma eki 1.jpg|旧南口駅舎(2003年6月)
ファイル:JR Tsudanuma sta 010.jpg|駅コンコース(2012年3月)
ファイル:JR Tsudanuma sta 007.jpg|千葉方面にある総武線各駅停車用の折り返し線(2007年12月)
ファイル:JR Tsudanuma sta 008.jpg|左に曲がる線路は習志野電車区への線路(2007年12月)
</gallery>
== 利用状況 ==
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''85,072人'''である<ref group="JR" name="jreast-jyousha2022" />。
** 千葉県内では西船橋駅、船橋駅、柏駅、千葉駅に次ぐ第5位で、JR東日本全体では[[赤羽駅]]に次いで第36位である。1995年度までは1日平均乗車人員が13万人を上回っており、西船橋駅や千葉駅よりも乗車人員が多かった。しかし、[[東葉高速鉄道東葉高速線]]が開業した1996年度に大きく減少し、1997年度に西船橋駅を下回った。
=== 年度別1日平均乗車人員(1890年代 - 1930年代) ===
年度<ref group="備考">1897年・1898年・1900年・1901年・1905年・1906年については1月 - 12月の暦年</ref>全体の'''乗車'''人員を365(閏日が入る年度は366)で除して1日平均'''乗車'''人員を求めている。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度!!1日平均<br />乗車人員!!出典
|-
|1897年(明治30年)
|80
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806514 明治30年]</ref>
|-
|1898年(明治31年)
|104
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806515 明治31年]</ref>
|-
|1900年(明治33年)
|201
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806516 明治33年]</ref>
|-
|1901年(明治34年)
|325
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806517 明治34年]</ref>
|-
|1905年(明治38年)
|467
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806524 明治38年]</ref>
|-
|1906年(明治39年)
|398
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806526 明治39年]</ref>
|-
|1907年(明治40年)
|341
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806528 明治40年]</ref>
|-
|1908年(明治41年)
|518
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806529 明治41年]</ref>
|-
|1909年(明治42年)
|390
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806530 明治42年]</ref>
|-
|1910年(明治43年)
|377
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806531 明治43年]</ref>
|-
|1911年(明治44年)
|405
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972760 明治44年]</ref>
|-
|1912年(大正元年)
|388
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152331 大正元年]</ref>
|-
|1913年(大正{{0}}2年)
|400
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152349 大正2年]</ref>
|-
|1914年(大正{{0}}3年)
|400
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152377 大正3年]</ref>
|-
|1915年(大正{{0}}4年)
|417
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972765 大正4年]</ref>
|-
|1916年(大正{{0}}5年)
|441
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972772 大正5年]</ref>
|-
|1917年(大正{{0}}6年)
|498
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972779 大正6年]</ref>
|-
|1918年(大正{{0}}7年)
|548
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972784 大正7年]</ref>
|-
|1919年(大正{{0}}8年)
|644
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972789 大正8年]</ref>
|-
|1920年(大正{{0}}9年)
|701
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972796 大正9年]</ref>
|-
|1921年(大正10年)
|831
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972803 大正10年]</ref>
|-
|1922年(大正11年)
|837
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972807 大正11年]</ref>
|-
|1923年(大正12年)
|810
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972811 大正12年]</ref>
|-
|1924年(大正13年)
|923
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972818 大正13年]</ref>
|-
|1925年(大正14年)
|1,033
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/988687 大正14年]</ref>
|-
|1926年(昭和元年)
|992
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710242 昭和元年]</ref>
|-
|1927年(昭和{{0}}2年)
|824
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710307 昭和2年]</ref>
|-
|1928年(昭和{{0}}3年)
|779
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710312 昭和3年]</ref>
|-
|1929年(昭和{{0}}4年)
|786
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710317 昭和4年]</ref>
|-
|1930年(昭和{{0}}5年)
|732
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710267 昭和5年]</ref>
|-
|1931年(昭和{{0}}6年)
|697
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710285 昭和6年]</ref>
|-
|1932年(昭和{{0}}7年)
|662
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710297 昭和7年]</ref>
|-
|1933年(昭和{{0}}8年)
|683
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710302 昭和8年]</ref>
|-
|1934年(昭和{{0}}9年)
|693
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452386 昭和9年]</ref>
|-
|1935年(昭和10年)
|768
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452376 昭和10年]</ref>
|-
|1936年(昭和11年)
|989
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452396 昭和11年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) ===
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。
* 年度全体の乗車人員を365(閏日が入る年度は366)で除して1日平均乗車人員を求めている。2012年度以降の定期外と定期の値は、計算で生じた小数点以下の値は'''切り捨てている'''ため、定期外と定期の和は必ずしも合計と一致しない。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="funabashi">[http://www.city.funabashi.lg.jp/shisei/toukei/002/p012851.html 船橋市統計書] - 船橋市</ref><ref group="乗降データ" name="narashino">[https://www.city.narashino.lg.jp/joho/tokei/tokeisyo/index.html 習志野市統計書] - 習志野市</ref>
! rowspan="2" |年度
! colspan="3" |1日平均乗車人員
! rowspan="2" |出典
|-
!定期外!!定期!!合計
|-
|1953年(昭和28年)
|1,880||6,201||8,081
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s29-2/index.html#13 昭和29年]</ref>
|-
|1954年(昭和29年)
|1,823||6,640||8,463
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s30/index.html#13 昭和30年]</ref>
|-
|1955年(昭和30年)
|1,894||7,368||9,262
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s31/#13 昭和31年]</ref>
|-
|1956年(昭和31年)
|2,040||8,033||10,073
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s32/index.html#13 昭和32年]</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|2,331||8,871||11,202
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s33/index.html#13 昭和33年]</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|2,583||10,396||12,979
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s34/index.html#13 昭和34年]</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|3,214||12,424||15,638
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s35/index.html#13 昭和35年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|4,000||15,191||19,191
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s36/index.html#13 昭和36年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|4,103||19,328||23,431
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s37/index.html#13 昭和37年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|5,248||24,409||29,657
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s38/index.html#13 昭和38年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|6,571||30,096||36,667
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s39/index.html#13 昭和39年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|7,786||35,103||42,889
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s40/index.html#13 昭和40年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|8,948||37,591||46,539
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s41.html#13 昭和41年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|9,657||42,910||52,567
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s42.html#13 昭和42年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|11,274||44,640||55,914
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s43.html#13 昭和43年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|12,607||47,450||60,057
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s44.html#13 昭和44年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|13,472||51,659||65,131
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s45.html#13 昭和45年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|14,605||57,090||71,695
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s46.html#13 昭和46年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|15,776||59,865||75,641
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s47.html#13 昭和47年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|17,875||64,510||82,385
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s48.html#13 昭和48年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|19,447||69,009||88,456
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s49.html#13 昭和49年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|20,356||73,631||93,987
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s50.html#13 昭和50年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|21,009||72,304||93,313
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s51.html#13 昭和51年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|22,149||76,491||98,640
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s52.html#13 昭和52年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|23,318||79,207||102,525
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s53.html#13 昭和53年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|24,524||81,161||105,685
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s54.html#13 昭和54年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|24,440||83,235||107,675
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s55.html#13 昭和55年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|24,610||84,823||109,433
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s56.html#13 昭和56年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|24,562||86,849||111,411
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s57.html#13 昭和57年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|24,212||86,362||110,574
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s58.html#13 昭和58年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|25,485||86,551||112,036
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s59.html#13 昭和59年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|25,979||91,287||117,266
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s60.html#13 昭和60年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|26,917||90,463||117,380
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s61.html#11 昭和61年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|28,368||89,522||117,890
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s62.html#11 昭和62年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|29,251||91,758||121,009
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s63.html#11 昭和63年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|29,572||97,506||127,078
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h01.html#11 平成元年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|30,510||99,996||130,506
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h02.html#11 平成2年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|31,278||102,314||133,592
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03.html#11 平成3年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|32,984||103,801||136,785
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04.html#11 平成4年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|33,864||105,176||139,040
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05.html#11 平成5年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|34,436||104,404||138,840
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06.html#11 平成6年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|33,926||102,555||136,481
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07.html#11 平成7年]</ref>
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|1995年(平成{{0}}7年)
|33,782||101,314||135,096
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|{{Refnest|group="注釈"|東葉高速線開業年度([[1996年]](平成8年)[[4月27日]]に開業<ref name="chibanippo1996428">{{Cite news
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|title = 21世紀に向け“発進” 東葉高速鉄道 盛大に開業祝う
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}}</ref>)}}1996年(平成{{0}}8年)
|30,778||87,959||118,737
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|1997年(平成{{0}}9年)
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|1998年(平成10年)
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|1999年(平成11年)
|30,536||76,565
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|-
|2000年(平成12年)
|30,319||74,886
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|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="funabashi" /><ref group="乗降データ" name="narashino" />
! rowspan="2" |年度
! colspan="3" |1日平均乗車人員
! rowspan="2" |出典
|-
!定期外!!定期!!合計
|-
|2001年(平成13年)
|30,605||74,347
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|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 平成14年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|30,686||73,715
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>104,401
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 平成15年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|31,628||73,593
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>105,221
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 平成16年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|30,958||74,021
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>104,979
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 平成17年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|30,267||73,655
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|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18.html#11 平成18年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|30,059||73,353
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|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19.html#11 平成19年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|30,477||72,923
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>103,400
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20.html#11 平成20年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|30,548||72,905
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>103,453
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 平成21年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|29,724||72,146
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|-
|2010年(平成22年)
|29,169||72,078
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|-
|2011年(平成23年)
|29,416||71,911
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|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 平成24年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR" name="jreast-jyousha2012" />29,812||<ref group="JR" name="jreast-jyousha2012" />71,958
|<ref group="JR" name="jreast-jyousha2012">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>101,771
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|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR" name="jreast-jyousha2013" />30,269||<ref group="JR" name="jreast-jyousha2013" />73,812
|<ref group="JR" name="jreast-jyousha2013">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>104,082
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|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR" name="jreast-jyousha2014" />29,927||<ref group="JR" name="jreast-jyousha2014" />72,197
|<ref group="JR" name="jreast-jyousha2014">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>102,125
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|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR" name="jreast-jyousha2015" />30,099||<ref group="JR" name="jreast-jyousha2015" />73,304
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|-
|2016年(平成28年)
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|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR" name="jreast-jyousha2017" />29,957||<ref group="JR" name="jreast-jyousha2017" />74,116
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|2018年(平成30年)
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|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 令和元年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR" name="jreast-jyousha2019" />28,608||<ref group="JR" name="jreast-jyousha2019" />74,237
|<ref group="JR" name="jreast-jyousha2019">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>102,846
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 令和2年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR" name="jreast-jyousha2020" />20,233||<ref group="JR" name="jreast-jyousha2020" />56,653
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|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR" name="jreast-jyousha2021" />23,673||<ref group="JR" name="jreast-jyousha2021" />56,126
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|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
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|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
{{See also|津田沼}}
[[ファイル:Tsudanuma,1948.jpg|thumb|[[1948年]](昭和23年)頃の[[省線]]時代の津田沼駅周辺の[[空中写真]]]]
駅からの主な動線整備としては駅北口及び駅南口に各主要施設を結ぶ[[ペデストリアンデッキ]](歩行者デッキ)が整備されており、特に駅南口は津田沼公園、[[モリシア津田沼]]を経由し、[[津田沼ザ・タワー]](奏の杜方面)へと続く大規模な駅前デッキ網として知られる<ref>{{Cite web|和書|title=ペデストリアンデッキの登場と駅前空間の変化│47号 つなぐ橋|url=http://www.mizu.gr.jp/|website=www.mizu.gr.jp|accessdate=2019-03-31|publisher=}}</ref>。また、駅周辺には[[JR東日本ホテルメッツ]]津田沼、[[東横イン]]津田沼などの[[ホテル]]があるため、ビジネス利用や観光拠点としても適している<ref>{{Cite web|和書|title=JR津田沼駅南口より徒歩1分「JR東日本ホテルメッツ 津田沼」|url=https://www.hotelmets.jp/tsudanuma/|website=www.hotelmets.jp|accessdate=2019-03-31}}</ref>。
当駅には[[千葉ステーションビル]]の[[駅ビル]]であるペリエ津田沼、北口には[[ミーナ (商業施設)#ミーナ津田沼(mina tsudanuma)|ミーナ津田沼]]、[[イオンモール津田沼]]、[[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]]、津田沼OKビル([[大和商事]])などが立地しており、南口にはモリシア津田沼([[ダイエー]]、[[ヤマダデンキ]]LABI津田沼など)、[[Loharu津田沼]]([[ユザワヤ]]、[[丸善雄松堂|丸善]])、[[奏の杜フォルテ]]など大型店舗が多数林立している。古くから[[津田沼#商業施設による競争の激化|津田沼戦争]]と呼ばれるほど駅周辺に大型店の進出や店舗同士での競争激化が相次ぐ関東有数の[[繁華街]]となっている<ref group="注釈">特に昭和53年(1978年)を中心に新聞・雑誌に「津田沼戦争」「[[戦場にかける橋]]」(総武線上をかけただけでなく、当地にあった鉄道連隊もかけたと見られている)のほか「津田沼も戦国時代」という見出しが現れた。東武百貨店『グッドデパートメント東武百貨店30年の歩み 船橋東武小史』177頁「激戦地、船橋・津田沼」より。</ref>。
北口[[商店街]]の大部分は船橋市前原西に属する。津田沼(旧称:久々田)の古くからの市街地は[[国道14号]]から[[京成津田沼駅]]周辺に位置し、当駅からは離れている。習志野市側では[[1960年代]]まで北口側・南口側共に戦前の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[鉄道連隊]]跡地を転用した施設([[京成電鉄]]津田沼第二工場、[[千葉県立千葉工業高等学校]]、[[千葉工業大学]]、[[習志野市立第一中学校]]、国鉄官舎)などが広がっていた。北口側では、1960年代末に県立千葉工業高校などが移転した跡に[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]の[[新津田沼駅]]が移転し([[藤崎台駅]]と統合)、[[1970年代]]にかけて両市域に跨る[[都市再開発|再開発]]事業が行われた。
南口側でも市立第一中学校の移転跡地の再開発が行われ、[[1978年]]に習志野サンペデック(現在のモリシア津田沼)が開業した。これらの再開発により、習志野市側においても駅周辺が市の中心街として成長するとともに大型商業施設間の激しい競争が展開した。
南口には[[学習塾]]が多く立地しており、[[千葉工業大学]]津田沼キャンパスなどもあるため、学生が多く利用する[[文教地区]]となっている。学習塾業界を物語とした[[森絵都]]による『[[みかづき (小説)|みかづき]]』の舞台となっており、津田沼戦争(塾激戦区)という塾同士の熾烈な抗争があったことが取り上げられている<ref>{{Cite web|和書|title=「津田沼戦争」「谷津遊園」…懐かしさと戦後教育の問題描く長編『みかづき』(インタビュー・記事/金井元貴)|url=https://www.sinkan.jp/news/7570|website=だれかに話したくなる本の話 - 新刊JP|accessdate=2019-04-01|language=ja|publisher=}}</ref>。
また、南口では[[2007年]]から35[[ヘクタール|ha]]に及ぶ大規模な[[土地区画整理事業]]であるJR津田沼駅南口特定土地区画整理事業が実施されており<ref>{{Cite web|和書|title=JR津田沼駅南口地区の土地区画整理事業について 習志野市ホームページ|url=https://www.city.narashino.lg.jp/smph/joho/doroshuhen/jrtsudanuma/jrminami/yatukukakuseirikoso.html|website=www.city.narashino.lg.jp|accessdate=2021-3-26}}</ref>、[[都市再開発]]や[[超高層マンション]]の建設が進んでいる<ref>{{Cite web|和書|title=人・まち・緑のシンフォニー 奏の杜|url=http://www.kanadenomori.jp/|website=www.kanadenomori.jp|accessdate=2019-03-26}}</ref>。
将来的には7000人程度の定住人口を見込んでいる。街の入り口付近に商業施設(フォルテ)が開業するなど、今後の発展が期待される。この地域の旧町名は「[[谷津 (習志野市)|谷津]](やつ)」であったが、習志野市が開発プロジェクト名を採り入れた「奏の杜(かなでのもり)」という新町名を導入するにあたって市議会などで紛糾した<ref>『[[朝日新聞]]』朝刊ちば首都圏面:習志野市、住居表示変更へ 津田沼駅南口の開発地、「谷津」から「奏の杜」(2012年8月17日付)/「谷津」から「奏の杜」への地名変更を否決 習志野市議会委員会(2012年9月20日付)/「奏の杜」に町名変更 議案一転可決 習志野市議会(2012年9月29日付)</ref>。
南口にはほんの一部分だけ船橋市前原西の地域が存在する。駅の船橋方にある[[横断歩道橋|歩道橋]]は、船橋市内の[[学区|小学校区]]通学の便を図るために設置されている。
新京成線の新津田沼駅までは東へ400m程のため、乗り換えが可能であるが、連絡通路が設置されていない。屋根もないため、乗り換え駅としては不便である。「[[新津田沼駅#JR津田沼駅との乗換]]」参照。現在ではイトーヨーカドー隣の駐車場と程近くにあるバス転回場の敷地を利用して再開発を計画している。かつては貨物駅でもあり、当時は[[京成電鉄]]などの車両を搬出入する際に、当駅が使用されていた。
=== 駅舎内の施設(駅ナカ・駅ビル) ===
駅ナカ商業施設として[[千葉ステーションビル]]の駅ビル「[[ペリエ (駅ビル)|ペリエ]]津田沼(Perie)」がある<ref>{{Cite web|和書|title=フロアガイド|ペリエ津田沼|url=https://www.perie.co.jp/tsudanuma/floorguide/|website=「ペリエ津田沼」公式サイト|accessdate=2019-03-27|language=ja}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.perie.co.jp/files/upload/1474973998032719500.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210814112958/https://www.perie.co.jp/files/upload/1474973998032719500.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜ペリエがもっと便利に〜 JR津田沼駅構内のDila津田沼がペリエ津田沼に! JREポイントも併せてスタート ペリエ検見川浜がより便利に使いやすく! 10月14日リニューアルオープン|publisher=千葉ステーションビル|date=2016-09-23|accessdate=2021-08-14|archivedate=2021-08-14}}</ref>。
改札内にエキナカ、改札外にエキソトとフロアが分かれている。
* 改札内
** 駅ビル:ペリエ津田沼(エキナカ)
*** [[専門店]]約19店舗を有する商業施設、以下代表店
**** [[キヨスク]]、[[NewDays]]、[[ザ・ガーデン自由が丘]]、[[3COINS]]、[[青山フラワーマーケット]]、とんかつ[[まい泉]]、[[VIEW ALTTE]]
* 改札外
** 駅ビル:ペリエ津田沼(エキソト)
***[[エクセルシオール カフェ]]、[[ロッテリア]]、VIEW ALTTE
* みどりの窓口
* [[指定席券売機]]
=== 近隣の駅 ===
[[ファイル:Shin-Tsudanuma Station 1(cropped).jpg|thumb|[[新津田沼駅]]とイトーヨーカドー津田沼店]]
半径約2km圏内に位置する駅。
* [[新津田沼駅]]
* [[京成津田沼駅]]
* [[谷津駅]]
* [[前原駅]]
=== 北口 ===
==== 習志野市津田沼 ====
[[ファイル:AEON Mall Tsudanuma.jpg|thumb|[[イオンモール津田沼]]]]
[[ファイル:Mina Tsudanuma.jpg|thumb|ミーナ津田沼]]
* 新津田沼駅
* [[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]] 津田沼店
* [[イオンモール津田沼]]
* [[ミーナ (商業施設)#ミーナ津田沼(mina tsudanuma)|ミーナ津田沼]]
* [[大和商事|津田沼OKビル]]
* [[代々木ゼミナール|代々木日大ゼミナール]]
* [[コナミスポーツクラブ]]津田沼
* [[三菱UFJ銀行]] 津田沼支店
* 津田沼1丁目公園
==== 船橋市前原西・前原東 ====
[[ファイル:Tsudanuma Parco.jpg|thumb|津田沼パルコ(2023年2月閉店)]]
* [[ペリエ (駅ビル)|ペリエ]]津田沼
* [[Viit]](津田沼パルコB館跡に開業)
* [[都市再生機構]]UR津田沼営業センター
* [[船橋市立前原小学校]]
* 東部[[公民館]](船橋市役所 津田沼連絡所)
* 東横イン津田沼
* [[カプセルホテル]]ファミー
* グリーンアロー津田沼店
* ファミーユ津田沼ホール<ref name="sobu-line-120-2014-2" />
* [[船橋東警察署]]前原[[交番]]
* 津田沼郵便局
* 津田沼[[住宅展示場]]
* 津田沼[[自動車教習所]]
=== 南口 ===
==== 習志野市津田沼 ====
[[ファイル:Tobu Store Tsudanuma.jpg|thumb|[[京成津田沼駅]]前]]
[[ファイル:Tsudanuma-Chiba Institute of Technology.JPG|thumb|[[千葉工業大学]]津田沼キャンパス]]
* 京成津田沼駅
* ベッセルイン京成津田沼駅前
* [[JR東日本ホテルメッツ]]津田沼
* [[千葉工業大学]]<ref name="ozaki-boso-study-60-1985-3">[[尾崎乕四郎]]『房総地誌の研究 60年の軌跡』[[古今書院]]、1985年3月。ISBN 978-4772213639</ref>津田沼キャンパス
* 千葉美術予備校
* [[学校法人大原学園|大原簿記公務員医療情報ビジネス専門学校]] 津田沼校
* [[習志野市役所]](厳密には所在地は鷺沼)
* [[習志野郵便局]]
* [[菊田神社]]
==== 習志野市谷津 ====
* [[モリシア津田沼]]
** 習志野文化ホール
* [[Loharu津田沼]]
** [[ユザワヤ]]津田沼店
** [[丸善雄松堂|丸善]]津田沼店
** [[ザ・ダイソー]]
* 津田沼[[公園]]
* [[駿台予備学校]] 津田沼校
* [[河合塾]] 津田沼校
* 日産レンタカー津田沼駅前店
* 津田沼中央総合病院
==== 習志野市奏の杜 ====
* 奏の杜forte
** [[ベルク (企業)|ベルク]]フォルテ津田沼店
* 習志野市中央消防署 谷津奏の杜出張所
* [[習志野市立第一中学校]]
* オレンジロード
* 谷津奏の杜公園
== バス路線 ==
北口は1 - 7番、南口は7 - 10番となる。
=== 北口 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
[[京成バス]]、[[京成バスシステム]]、[[ちばグリーンバス]]、[[ちばレインボーバス]]、[[船橋新京成バス]]が運行する[[路線バス]]または[[高速バス]]が発着する。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!乗り場!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|style="text-align:center;"|ちばレインボーバス
|[[ちばレインボーバス#神崎線|船尾車庫 / 八千代緑が丘駅]]
|[[八千代緑が丘駅]]行は平日のみ
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|rowspan="2" style="text-align:center;"|船橋新京成バス
|[[船橋新京成バス#津田沼線|'''緑03''']]:八千代緑が丘駅<br />'''津16''':高津団地東口<br />[[船橋新京成バス#津田沼グリーンハイツ線|'''津17'''・'''津18''']]:津田沼グリーンハイツ<br />[[船橋新京成バス#三山線|'''津07''']]:[[二宮神社 (船橋市)|二宮神社]]前
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|-
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|'''津04''':[[北習志野駅]]<br />'''津05''':習志野車庫<br />'''津06''':[[習志野駐屯地|自衛隊]]前<br />'''津08''':二宮神社前<br />'''津08A''':田喜野井入口
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|-
!rowspan="2"|4
|style="text-align:center;"|京成バス
|[[京成バス習志野出張所#大久保線・東習志野線|'''津01''']]:三山車庫 / 京成バス習志野出張所<br />'''津02''':二宮神社<br />'''津21'''・'''津22''':[[八千代台駅]]西口
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|-
|style="text-align:center;"|ちばグリーンバス
|[[ちばグリーンバス#深夜急行バス|'''深夜急行''']]:[[京成佐倉駅]] / 成田空港第2ターミナル
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|-
!rowspan="2"|5
|style="text-align:center;"|京成バス
|'''津03''':日大実籾<br />'''津31''':八千代台駅東口 / ユトリシア<br />'''津31-1''':習志野出張所
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|style="text-align:center;"|京成バスシステム
|[[京成バスシステム#東船橋線|'''船41''']]:[[京成船橋駅]]
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|style="text-align:center;"|船橋新京成バス
|[[船橋新京成バス#前原線|'''津10''']]:千葉病院前<br />'''津11''':公団東口<br />'''津13''':飯山満二丁目<br />'''津14''':[[東船橋駅]]
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|-
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|style="text-align:center;"|京成バス
|'''津32''':習志野企業局<br />[[京成バス習志野出張所#田喜野井線|三山一丁目方面(田喜野井循環)]]
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|}
=== 南口 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
京成バス、京成バスシステム、[[東京空港交通]]、[[奈良交通]]、[[富士急行#バス営業所・地域子会社|富士急行観光]]が運行する路線バスまたは高速バスが発着する。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!乗り場!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
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|rowspan="2" style="text-align:center;"|京成バス
|[[京成バス新都心営業所#秋津団地線・香澄団地線|'''津51'''・'''津52''']]:[[新習志野駅]]
|「津52」は平日朝のみ
|-
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|[[京成バス新都心営業所#袖ヶ浦団地線|'''津41''']]:[[袖ケ浦 (習志野市)|袖ヶ浦団地]]<br />'''津46''':幕張メッセ中央
|「津46」は平日のみ
|-
!rowspan="3"|9
|style="text-align:center;"|京成バス<br />東京空港交通
|[[京成バス#羽田空港発着便|'''空港連絡''']]:[[東京国際空港|羽田空港]]
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|style="text-align:center;"|京成バス<br />奈良交通
|'''[[やまと号]]''':[[大和西大寺駅]]南口
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|-
|style="text-align:center;"|京成バス<br />フジエクスプレス
|[[河口湖駅]] / [[御殿場プレミアム・アウトレット]]
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!rowspan="2"|10
|style="text-align:center;"|京成バス
|[[京成バス習志野出張所#屋敷線|'''津61'''・'''津62''']]:幕張西五丁目<br />'''津65''':[[京成大久保駅]]南口<br />[[京成バス新都心営業所#谷津線|'''津71'''・'''津72''']]:[[谷津干潟]]
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|-
|style="text-align:center;"|京成バスシステム
|[[京成バスシステム#津田沼ららぽーと線|'''ら01''']]:ららぽーと東口 / [[南船橋駅]] / 東船橋駅<br />'''東11''':東船橋駅
|
|}
平和交通は駅前バスロータリー先の津田沼公園の横に停留所があり、ららぽーとTOKYO-BAYへの路線バスを運行している。
* [[平和交通 (千葉県)#津田沼・ららぽーとTOKYO-BAY線|ららぽーとTOKYO-BAY]] / [[海老川]]大橋下
* 船橋市若松公園
[[銀座駅]]・[[東京駅のバス乗り場|東京駅]]・[[日本橋兜町|兜町]]からの平和交通の深夜急行バスは南口・ユザワヤ前に到着する。
=== その他 ===
{{main|新津田沼駅#バス路線}}
バスターミナルには乗り入れていないが、[[習志野市ハッピーバス]]京成津田沼駅内陸ルートが駅の東側を通過しており、北口の津田沼一丁目公園前に'''津田沼一丁目'''停留所が設置されている。
また、新津田沼駅の北側に'''新津田沼駅北口'''、南側に'''新津田沼駅'''の2つの停留所があるが、前者は路線の始発・終着地点であるのに対して、後者は当駅発着路線における隣の停留所となっている。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 総武線(快速)
:: [[船橋駅]] (JO 25) - '''津田沼駅 (JO 26)''' - [[稲毛駅]] (JO 27)
: [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)・[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線直通
:: [[東船橋駅]] (JB 32) - '''津田沼駅 (JB 33)''' - [[幕張本郷駅]] (JB 34)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
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==== 出典 ====
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===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 =====
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=== 利用状況 ===
;1日平均利用客数
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;JR東日本の1999年度以降の乗車人員
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;JR・私鉄の統計データ
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;千葉県統計年鑑
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Tsudanuma Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[習志野運輸区]](旧習志野電車区説明のリンク)
* [[津田沼]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1009|name=津田沼}}
* [http://www.shinkeisei.co.jp/bus/route/narashino/tsudanuma.html 習志野新京成バス 津田沼駅]
{{中央・総武緩行線}}
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[[Category:千葉県の鉄道駅]]
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[[Category:横須賀・総武快速線]]
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[[Category:習志野市の建築物]]
[[Category:千葉県の駅ビル]] | 2003-03-07T08:00:39Z | 2023-11-28T11:30:06Z | false | false | false | [
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3,588 | 総武本線 | 総武本線(そうぶほんせん)は、東京都千代田区の東京駅から千葉県銚子市の銚子駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。このほか、東京都墨田区の錦糸町駅で分岐して御茶ノ水駅に至る支線(いわゆる総武緩行線)、小岩駅(新小岩信号場駅)から分岐して金町駅および、越中島貨物駅に至る貨物支線を持つ。電車内や駅構内の旅客案内上は主に千葉駅から銚子駅の区間がこの名称で呼ばれる(後述)。
なお、『鉄道要覧』やJRの事業基本計画上は錦糸町駅 - 御茶ノ水駅間となっているが、東京駅 - 錦糸町駅間開業以前の起点の御茶ノ水駅には現在も0キロポストが存在する。
東京駅 - 千葉駅間および御茶ノ水駅 - 千葉駅間については、以下の記事も参照。
東京都の都心から東へ伸び、そのベッドタウンである千葉県西部の各都市、同県の県庁所在地であり政令指定都市である千葉を通り、同県最東端の銚子へ至る路線である。東京と千葉県北東部の各地を結ぶ特急列車が東京駅 - 銚子駅間を通して運行されているほか、都心から成田国際空港へアクセスする特急「成田エクスプレス」が当路線を経由している。
千葉駅以西は電車特定区間に指定されており、区間外よりも割安な運賃が適用される。このうち錦糸町駅 - 千葉駅間は、各駅停車の電車が走行する総武緩行線と、快速電車や特急列車が走行する総武快速線が並行する線路別複々線となっている。この区間は「総武線」と呼ばれることが多く、「総武本線」と呼ばれる場合は特急列車は東京駅 - 銚子駅間、ローカル列車は千葉駅 - 成東駅 - 八日市場駅 - 銚子駅間を指すことが多く、JR東日本ウェブサイトの路線案内においてもそのようになっている。ただし必ずしも統一されておらず、車内の路線ネットワーク図や発車標、駅の時刻表などでは千葉駅以東も「総武線」と表記している場合もある。なお、『鉄道要覧』においては全線通して「総武線」となっている。
貨物支線を除き旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。千葉駅以東では路線案内に用いられるラインカラーとして黄色(■)が用いられている。
本節では、千葉県内の鉄道敷設運動前後から総武鉄道設立、路線開業及び国有化以降の総武本線全体の沿革について記述する。
1872年(明治5年)に日本最初の鉄道が新橋駅(後の旧国鉄汐留駅) - 横浜駅(現在の桜木町駅)間に開通し、その後、1884年(明治17年)に日本鉄道会社が上野駅- 高崎駅間に民営鉄道を開業して良好な営業成績を上げたことなどをうけ、明治10年代後半に全国的な民営鉄道建設ブームが起きた。千葉県内でも鉄道敷設の機運が高まったが、当初は資金面から馬車鉄道の計画が多かった。
千葉県内では1886年(明治19年)頃から蒸気機関車による鉄道建設の運動が始められ、1887年(明治20年)11月に佐原の伊能権之丞らが発起した武総鉄道会社と、成東の安井理民らが発起した総州鉄道会社が相次いで創立の申請を行った。しかし、当時は従来からの水上交通の実績に対する評価が高く、また利根運河の開削も決まったばかりだったため、千葉県知事であった船越衛が鉄道敷設に対して慎重な姿勢をとるようになった。船越は両者に対し計画の翻意や合併を促してきたが、総州鉄道はこれに応じず東京府知事である高崎五六を通じて正式に鉄道敷設を出願した。これを受けて船越もやむなく千葉県知事として武総鉄道を内閣に進達したが、「利根・江戸両川の水運が至便であるうえに、この地方の状況は鉄道敷設を必要とするほど発展していない」などとして結局どちらも却下されている。
上述の経験から、競願の不利益さを悟った両社の発起人は合併を協議し、発起人に利根川水運の株主であった県会議長の池田栄亮などの有力者を加え、1889年(明治22年)1月に総武鉄道株式会社を創立した。会社名称は上総国(かずさのくに)・下総国(しもうさのくに)と武蔵国を結ぶことに因む。総武鉄道は翌2月に再願を申請した。この時の出願では、利根運河との競合を避けるとともに陸軍の支持が得られるように国府台・津田沼・佐倉(この計画線は直接通らないものの、習志野も隣接する)等の軍営所在地を通る以下のルートを採用し、その使命に「軍事輸送と政府開墾地への輸送」を掲げていた。
総武鉄道の狙いどおり「陸軍営所を通過し、用兵上にも便利である」とする陸軍省の意見が決め手となり、1889年(明治22年)4月に仮免状が下付され、同年12月に小岩 - 佐倉間の免許状が降りた。ただし、計画の一部変更などにより、工事着手は1893年(明治26年)8月となる。なお、1892年(明治25年)に公布された鉄道敷設法で「東京府下上野ヨリ千葉県下千葉、佐倉ヲ経テ銚子ニ至ル鉄道及本線ヨリ分岐シテ木更津ニ至ル鉄道」が将来建設されるべき鉄道として指定された。このころになるとルートの候補地となった各地域で様々な鉄道誘致運動が行われるようになる。なお、千葉県各所(船橋・千葉・佐倉・芝山・飯岡・茂原・流山等)で鉄道反対運動が行われたとの言説が市町村史や小学校副読本などで取り上げられることがあるが、当時の文献や記録にこれらを裏付けるものはなく、単なる鉄道忌避伝説であるとされる。
1894年(明治27年)7月20日に市川駅 - 佐倉駅間が開業し、千葉県内初の鉄道となる。直後の8月1日に日清両国で宣戦布告がなされ、早速日清戦争での兵員輸送に活用された。同年12月9日には江戸川を越えて本所駅(現在の錦糸町駅)に達した。総武鉄道は、1897年(明治30年)5月1日に成東駅まで、同年6月1日には銚子駅まで延伸され、佐倉駅で成田鉄道との連絡も実現する。
両国橋から都心部への延伸は1899年(明治33年)に本所 - 秋葉原間の免許を得、1904年(明治37年)に両国橋駅(現在の両国駅)まで延伸され、ここを都心側のターミナルとした。両国橋駅を利用する旅客はすでに開業していた路面電車(のちの都電)に乗り継いだ。なお、この当時は貨物扱いも両国橋駅で行い、ここから隅田川などの舟運を利用して物資が東京市内へと運ばれた。
1907年(明治40年)、鉄道国有法により買収・国有化され、官設鉄道の総武本線となった。
鉄道開業により、総武本線の沿線には住宅地の拡大が両国から徐々に東側へ向けて始まった。また、1912年(大正元年)に最初の区間が開業した京成電気軌道(現在の京成電鉄)とは東京 - 船橋 - 千葉の都市間輸送で競合するようになり、東海道本線からは少し遅れたが総武本線の近代化に向けた取り組みが始まった。ただし、1923年(大正12年)9月1日には関東大震災で両国周辺で多数の犠牲者が出る惨事も起きた。復興計画が立てられる中、1926年(大正15年)には常磐線と連絡する貨物支線(新金線)、1929年(昭和4年)には東京湾岸に近い小名木川駅への支線(のちの越中島支線)が開業し、旅客と貨物の分離が進められた。
震災復興をきっかけとして都心部への延伸が進められ 、1932年(昭和7年)7月1日には、御茶ノ水駅 - 両国駅間が延伸され、同区間で電車の運転を開始した。これにより、総武本線は東京都心部で他の国鉄線と連絡するようになった。以降、1933年(昭和8年)3月に市川まで、同年9月には船橋駅まで電化区間が延長され、中央本線中野駅まで緩行電車として直通運転を実施するようになった。1935年(昭和10年)には、千葉駅までの電化が完成した。以後、総武本線は千葉駅を境に、住宅地が広がる地域で通勤形電車が頻繁に運転される御茶ノ水駅方面の西側と、農村や漁村を蒸気機関車牽引の客車列車が結ぶ銚子駅方面の東側に性格が二分された。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)3月10日、沿線で米軍による無差別爆撃、東京大空襲が実行され、一夜にして約10万人が死亡し、両国・錦糸町・亀戸などの各駅には多くの被災者が避難した。また、アメリカ軍が九十九里浜に上陸する日本侵攻作戦が予測され、日本軍は本土決戦に備えた決号作戦により総武本線で大量の軍事輸送を行ったが、同年8月15日に日本はポツダム宣言受諾を発表し、沿線での大規模戦闘は回避された。
戦時中の酷使並びに食糧難による買い出し客の殺到や資材不足により、終戦直後の総武本線が置かれた環境は劣悪であった。当初GHQは国鉄の車両改善予算を承認しなかったが、両国駅で総武本線の木造客車を視察しそのあまりのボロさに仰天した担当官が即座にこれを認めたといわれる。
その後、被災地域の復興や高度経済成長による東京都市圏の人口急増により、千葉以西が複線電化、千葉以東が単線非電化という総武本線の輸送事情は逼迫した。房総方面の国鉄の鉄道路線は、1953年(昭和28年)に「気動車化モデル線区」に選定されキハ17系が集中投入されてある程度の近代化が進展していたが、電化の進展は1968年(昭和43年)までは総武本線の御茶ノ水駅 - 千葉駅までに過ぎず、他の路線は非電化の状況であった。千葉・房総方面において機関車牽引でない“電車”は中央緩行線に直通する総武線国電(御茶ノ水駅から千葉駅までの各駅に停車)と私鉄である京成電鉄の路線だけであり、それ以外は蒸気機関車やディーゼル機関車が走る、関東でも電化整備の遅れた地域であった。そのため、新たに発足した日本国有鉄道(国鉄)は1964年(昭和39年)に決定した通勤五方面作戦の重要な一部として総武本線の輸送力増強に着手した。その中核として、国鉄初の本格的な都市内地下鉄道になる東京 - 錦糸町間の新線建設を含む東京 - 千葉間の快速線建設が決定された。
一方、千葉駅以東の近代化も徐々に進み、通勤路線としての性格が強まり、1968年(昭和43年)3月28日に総武本線・成田線の千葉駅 - 佐倉駅 - 成田駅間の電化が、同年7月13日に千葉駅 - 木更津駅間の電化がそれぞれ完成、同区間に電車が走れるようになり、朝夕には、成田駅・木更津駅発着のカナリアイエロー色の101系電車を使用した直通電車が運行され、さらに、同年10月1日のダイヤ改正から中央線の中野駅 - 木更津駅発着及び翌1969年(昭和44年)10月1日のダイヤ改正から中野駅 - 成田駅発着で毎日1時間に1 - 2本程度同電車を使用した電車快速が、また、同改正から御茶ノ水駅 - 千葉駅間では夜間下り2本の気動車快速列車が運行を開始した(なお、1975年(昭和50年)3月10日のダイヤ改正では千葉駅 - 銚子駅間にも快速列車が運行された。101系使用の直通電車および電車快速以外の詳細は後述)。
1972年(昭和47年)7月には東京駅 - 錦糸町駅の地下トンネル区間及び津田沼駅までの複々線完成により総武快速線が開業した。これにより起点が御茶ノ水駅から東京駅に変更され、新設された東京駅の地下ホームからは新たに設定された房総方面への特急列車が発着した。一方、総武鉄道時代から東京と千葉以東を結ぶターミナルとなっていた両国駅は、急行列車の発着は残されたものの、その重要性が大きく低下した。1974年(昭和49年)には銚子駅までの電化が完成し、東京からの直通電車特急「しおさい」の運行が開始された。その後、1980年(昭和55年)には横須賀線との直通運転(SM分離及びSF直結)が開始され、1981年(昭和56年)には千葉駅まで複々線区間が延長されて、当初の計画は完成した。これにより、国鉄による輸送は高速化され、国鉄は東京 - 船橋・千葉の都市間輸送で京成電鉄より優位に立った。また、1969年(昭和44年)には営団地下鉄(現在の東京地下鉄)東西線が西船橋駅 - 津田沼駅間に乗り入れ、特に通勤輸送で総武本線(中央・総武緩行線)の負担を大きく軽減していた。さらに、紆余曲折を経て1978年(昭和53年)に新東京国際空港(現在の成田国際空港)が開港すると、総武本線と成田線は京成電鉄を補完する鉄道アクセスルートとなった。なお、複々線化にあたり、成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(成田財特法)による補助金のかさ上げの適用を受けている。このような状況で1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化を迎え、総武本線は施設保有と旅客輸送がJR東日本、貨物輸送がJR貨物へ承継された。ただし、銚子漁港からの鮮魚・醤油輸送がトラックに切り替えられて銚子駅 - 新生駅の貨物線が廃止されたように、総武本線での貨物輸送量は減少していた。
総武本線の大部分を管轄する国鉄千葉鉄道管理局(民営化後はJR東日本千葉支社)では分割民営化に反対する国鉄千葉動力車労働組合(千葉動労)の勢力が強く、1985年(昭和60年)11月29日に千葉動労が実施した分割民営化反対ストライキの際にはこれを支持する革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)により国電同時多発ゲリラ事件が発生した。特に浅草橋駅は国鉄職員を含む約120人の中核派グループにより破壊・放火された。分割民営化後も千葉動労はJR東日本との対決を続け、特に千葉駅以東ではストライキによる列車運行の停止が毎年起こった。
総武本線を受け継いだJR東日本は総武本線の改良を続け、ATS-Pの設置を進めた。また、当初は貨物線で計画していた京葉線を旅客営業兼用に転換し、国鉄末期の1986年(昭和61年)の第1期区間開業に続いて1990年(平成2年)に東京駅乗り入れを実現させた。内房線・外房線直通列車は定期特急の大半と快速の一部が総武本線(快速線)から京葉線に移行し、乗客の転移もあって、総武本線(快速線)の過密緩和に役立った。
1991年(平成3年)には成田新幹線の施設を転用した成田空港旅客ターミナルへの鉄道乗り入れが実現し、総武本線(および成田線)では空港連絡特急「成田エクスプレス」の運行が始まって、アクセス路線としての重要性を増した。ただし、1985年以降の東関東自動車道の延伸により、高速バス(かしま号、犬吠号、利根ライナー号、あそう号、東京 - 八日市場線)の運行が拡大されると、「しおさい」などの「成田エクスプレス」以外の特急列車は本数削減や一部区間の普通列車化が行われ、総武本線(および成田線・鹿島線)は東京と千葉県北東部・茨城県南東部を結ぶ都市間輸送で劣勢に立っていることが明確となった。
2000年(平成12年)の運輸政策審議会答申第18号では、2015年までに整備すべき路線として新浦安(京葉線) - 船橋 - 津田沼間の新線建設(船橋 - 津田沼間は3複線化)が提唱された。千葉方面からの総武本線の列車は津田沼から新線に乗り入れ、新浦安から京葉線経由で東京駅へ、あるいはこれも2015年を整備目標とする新宿・三鷹方面への延伸線に向かうことが想定されている。また、新木場 - 新浦安間の建設(複々線化)と新木場からの東京臨海高速鉄道(りんかい線)乗り入れも明記されたが、運営会社のJR東日本はこの建設計画についてまだ正式な発表を行っていない。
本線と貨物支線(越中島支線・新金線)のそれぞれの路線開業から各駅の開業や複線化及び路線施設関連などの使用開始年月日について記述する。
元は本線だった錦糸町駅 - 御茶ノ水駅間の支線も含めて記述する。
総武本線を運行する列車の形態を、成田線・外房線・内房線直通列車及び途中区間から乗り入れる列車も含め記述する。
総武本線を運行する優等列車として、下記の特急列車が運転されている。詳細は各列車の記事を参照。
電車特定区間である東京駅・御茶ノ水駅 - 千葉駅間は、1972年(昭和47年)の複々線化により快速線と緩行線に分かれ、東京駅経由で快速線を走行する快速電車(総武快速線、案内上は「横須賀・総武線快速」)と、御茶ノ水駅を経由し緩行線を走行する各駅停車(総武緩行線、案内上は「中央・総武線各駅停車」)の2系統に分かれている。1981年(昭和56年)に錦糸町駅 - 千葉駅間が完全複々線化されて以降は、両者の線路・車両・ダイヤもそれぞれ独立したものとなっている。
快速電車は東京駅 - 錦糸町駅で地下線を走行し、東京駅以南は東海道本線(品川駅 - 武蔵小杉駅 - 鶴見駅間は通称品鶴線)を経由して横須賀線と直通運転を行っている(旅客案内などでは東海道本線の区間も含めて「横須賀線」と称される)ほか、総武本線も含めた千葉駅以東(総武本線・成田線・鹿島線)・以南(外房線・内房線)に直通する列車もある。
黄色帯の電車で運行される各駅停車は錦糸町駅から御茶ノ水駅方面への支線へ乗り入れ、同駅から中央本線の三鷹駅まで直通するが、千葉駅以南・以東への乗り入れは設定されていない。また平日の朝夕には西船橋駅で東京地下鉄(東京メトロ)東西線から緩行線津田沼駅に乗り入れる列車もある。なお将来的なホームドア設置実施に伴い、2020年3月14日のダイヤ改正から、中央線は東京駅発着の各駅停車の運行を廃止して快速・特別快速などの速達列車のみを終日運転することになり、これに付随して、中央・総武緩行線は早朝・深夜における御茶ノ水駅折り返しおよび武蔵小金井方面への直通を廃止し、全列車を千葉駅 - 御茶ノ水駅経由 - 三鷹駅までの相互直通運転のみとなった。
千葉駅以東では普通・快速の2種別が設定されている。2022年3月改正までは通勤快速が運行されていた。普通列車は旭駅 - 銚子駅間と(成田駅 - )松岸駅 - 銚子駅間の区間列車を除き千葉駅に乗り入れるが、東京方面千葉駅以西へは乗り入れない。
逆に快速列車は、上り1本を除くすべての定期列車が千葉駅以西の快速線(多くはさらに横須賀線)に乗り入れる。佐倉駅から先の成田線直通成田駅・成田空港駅発着列車と佐倉駅発着の列車がほとんどで、佐倉駅を越えて当線を走行する列車は、朝の成東発の快速上り1本と、夜間の成田空港・成東行きとその折り返し(佐倉駅 - 成東駅間は普通列車)のみである。
なお、千葉駅 - 佐倉駅間および松岸駅 - 銚子駅間は、成田線内、佐原駅・香取駅経由鹿島線鹿島神宮駅発着あるいは佐倉駅 - 松岸駅間で成田線を経由する列車も乗り入れている。
日中の1時間毎の運行本数をまとめると、以下のとおりになる(2020年3月14日改正時点)。ただし、一部時間帯で快速列車が1本となり、代わりに千葉駅 - 成田線成田駅間の各駅停車が1本運転される。2023年3月のダイヤ改正からは、快速列車が1本となり、その代わりとして千葉駅 - 成田線成田空港駅間の各駅停車が1本運行されるようになる。
千葉駅 - 銚子駅間の普通列車は、成田線経由の列車も含めてすべて最大8両編成で運転されている。しかし、内房線・外房線とは違って、両数はまちまちである。
夜間留置の都合上、旭駅 - 銚子駅間の列車や横芝駅発着の列車も設定されている。横芝駅発着に関しては2010年3月12日までは始発のみの扱いで、到着は回送列車であった。2023年のダイヤ改正からは八街行きが新設される。
貨物列車は金町駅 - 新小岩信号場駅 - 佐倉駅間で運行される。しかし、総武本線の駅を発着する定期貨物列車は設定されていない。2014年3月改正時点では、東海道貨物線東京貨物ターミナル駅および武蔵野線越谷貨物ターミナル駅から鹿島臨海鉄道鹿島臨港線神栖駅へ向かう高速貨物列車1往復ずつ、常磐線隅田川駅から京葉臨海鉄道千葉貨物駅へ向かう高速貨物列車1往復、東海道貨物線川崎貨物駅から千葉貨物駅へ向かう専用貨物列車1往復が、総武本線を経由する。専用貨物列車はコンテナ車のほか、ホッパ車やタンク車が併結されることもある。
かつて、成田空港への本格パイプラインが稼働するまでの間、航空燃料を千葉港から空港まで輸送する列車が総武線を経由していた(暫定輸送)。
新小岩信号場駅 - 越中島貨物駅間は定期貨物列車は運行されていないが、レール輸送用の臨時専用貨物列車が日曜日を除き3往復運行される。
この節では、過去に総武本線全線及び成田線・鹿島線・外房線・内房線へ直通した列車を記述する。
特急列車は2004年10月まで「すいごう」が、2015年3月までは「あやめ」が運行されていた。また、1991年より「成田エクスプレス」が運行開始されるが、外房線直通の「わかしお」や内房線直通の「さざなみ」も当線(総武快速線)経由で運転されていたが、以後は京葉線 海浜幕張・蘇我駅経由となった。
急行・準急列車は、北総3線(総武・成田・鹿島線)は「犬吠」・「水郷」・「鹿島」・「京葉」・「総武」などが、房総方面は「内房(うち房)」・「外房(そと房)」、房総半島1周列車として「なぎさ」(内房線回り)・「みさき」(外房線回り)などが運行された。
この節では、1972年(昭和47年)7月15日以前の御茶ノ水駅 - 千葉駅間と、千葉駅 - 銚子駅間にそれぞれ運行されていた列車について記述する。
1968年10月1日のダイヤ改正から御茶ノ水駅 - 千葉駅間で夜間下り2本のみ設定された気動車快速。新宿駅まで到着した上り急行「そと房」8号(安房鴨川発新宿行き)と、急行「犬吠」4号(銚子発新宿行き)・「水郷」5号(佐原発新宿行き)の千葉気動車区への回送列車を客扱いしたもので、当時としては画期的な発想だった。途中停車駅は、秋葉原駅・両国駅・船橋駅で、運行ダイヤは御茶ノ水駅20:09発→千葉駅21:00着(「そと房」8号→2251D)と、御茶ノ水駅20:36発→千葉駅21:30着(「犬吠」4号・「水郷」5号→2259D)であった。快速列車なので当然特別料金は不要、そのためか1971年10月12日付けの交通新聞の「好評の回送利用快速気動車」「毎日満席のモテぶり」と題した乗車ルポには、「船橋、千葉へ帰る通勤客に根強い人気があり、御茶ノ水、秋葉原で国電を見送ってでもこの列車に乗ろうという固定客が多い」「乗車効率もよく座席は毎日全席が埋まる」「2251Dがグリーン車を1両含む7両、2259Dが普通車10両、両方合わせて毎日1500人が利用している」なとど記事に記載され、また、車両の間合いによっては、キハ28形などの冷房車が充当され、急行列車なので座席もボックス形でゆっくりと座って帰れるので、混雑する上に立ったままの乗車を強いられる国電と比べるとまさに天国と利用客からは大変好評であった。この列車は当時1年間限定の運転予定が、1972年7月15日の複々線化の前日まで運転された。また、この列車はホームライナーの元祖といえるもので、このアイデアは1984年の東北本線の「ホームライナー大宮」で復活している。
1975年3月10日のダイヤ改正で千葉駅 - 銚子駅間に1日1往復設定された快速で、東京駅 - 千葉駅間の快速が「総武快速」と呼ばれたのと区別するため、この快速は「千葉快速」と呼ばれた。朝に上り、夜に下りが運転され、当初の停車駅は千葉駅・四街道駅・佐倉駅・八街駅・成東駅・松尾駅・横芝駅・八日市場駅・旭駅・飯岡駅・松岸駅・銚子駅だったが、1978年10月2日のダイヤ改正で都賀駅・干潟駅が停車駅に追加され、1981年10月1日のダイヤ改正で普通に格下げされる形で廃止された。
道路事情の悪い千葉駅以東・以南の沿線への夕刊新聞輸送のための荷物列車。列車は、非電化時代は蒸気機関車牽引の荷物客車や貨車であったが、気動車化後はキユニ11・キユニ19が使用され、房総西線(現・内房線)が部分電化および外房線が全線電化された後はクモハユ74形・クモユニ74形100番台を使用、その後に長岡運転所(現・長岡車両センター)から転属したクモユニ143を使用、気動車は千葉気動車区から、電車は幕張電車区(現・幕張車両センター)からそれぞれ津田沼駅方面に単独で出区、両国駅まで回送後新聞を積み込み、折り返して両国駅 - 千葉駅間は荷物列車扱いで千葉駅まで運行、到着後各方面行きの列車に併結されて分かれていく、特異な列車であった。
運用は、気動車は千葉気動車区からの出区時は2両編成で運行、房総各線が全線電化後は、幕張電車区からの出区時は4両編成で、千葉駅で1両ずつ各方面への千葉ローカル運用の気動車または113系の後部に併結して運転され、各駅に新聞を配布していき、それぞれの線区の終点駅(北総方面は銚子駅、房総半島方面は安房鴨川駅)と、終点駅から折り返し荷物車両を先頭にして千葉駅まで運行され、千葉駅到着後は回送列車となり、併結した気動車および電車とともに帰区する運用であった。国鉄の郵便・荷物輸送が基本的に廃止された1986年11月1日以降は、外房線・内房線の新聞荷物輸送が道路事情の関係により存続されることとなり、前述のクモユニ143が幕張電車区に転属し充当、電車区からの出区時は2両編成で両国駅まで回送、その後は前述のように、両国駅で積み込み→千葉駅で1両ずつ外房線・内房線の113系6両編成の普通列車(両者とも安房鴨川行き)の後部に連結→終着駅到着後クモユニ143が先頭車になって折り返し(両者とも千葉行き)→千葉駅到着後回送列車として帰区する運用であった。
1996年12月1日のダイヤ改正で、合理化のため房総地区への専用車両による輸送は廃止となり、それ以降は113系4両編成×2本を併結し、上り方各1両を荷物扱いとすることで対処、なお、この列車は2010年3月12日まで運行された。また、列車の運行開始以降から113系の荷物扱い列車に至るまで、夕刊の休刊日は運休となっていた。
すべて電車で運転されている。
ここでは総武本線の線路および沿線の概況について記す。
快速線側の起点である東京駅では、地上駅より丸の内側にある1972年完成の総武地下ホームに発着し、同駅以南の横須賀線(東海道本線地下線)線路との直通が可能な構造になっている。同駅を出ると東京都心部の地下を北東へ進み、新日本橋駅から馬喰町駅付近まで国道6号の直下を通る。両駅間では東京メトロ日比谷線小伝馬町駅と交差しているが、総武快速線に駅は設けられていない。馬喰町駅を過ぎると東へ向かい、隅田川の下をくぐり、両国駅付近で地上に出る。
一方、緩行線は、直通運転を行う中央本線との接続駅・御茶ノ水駅から、高架上を東方向へ向かう。中央本線(中央線快速)の上下線に挟まれる形で同駅を出ると中央本線と分かれて神田川を渡り、東北本線(山手線・京浜東北線・上野東京ライン)との交差地点にある秋葉原駅へ。続いて首都高速1号上野線を跨ぎ、市街地を進むと国道6号との交点に浅草橋駅がある。そして隅田川を渡り首都高速6号向島線をくぐると、両国国技館および東京都江戸東京博物館の最寄駅・両国駅に至る。同駅には緩行線ホームのほかに、快速線に繋がっている列車ホームがあるが、現在は定期列車では使用されていない。
両国駅からは快速線と緩行線による複々線区間が始まり、千葉駅まで沿線は住宅密集地が延々と続く。また海側(南側)には国道14号(京葉道路一般道区間)が並行する。緩行線・快速線間の最初の接続駅となっている錦糸町駅は快速線・横須賀線列車の留置線を併設しており、また東京スカイツリーの南に位置している。錦糸町駅を出ると、海側(南側)から単線の総武本線支線(越中島貨物線)が近づき、緩行線の亀戸駅。同駅から発着する東武亀戸線が内陸側(北側)へ離れていき、同時に越中島貨物線が本線を跨いで北側に並行して5線となると、国道14号から離れ、カーブして北東方向へ進路を変える。旧中川を渡ると平井駅、次いで首都高速中央環状線をくぐり、荒川・中川を渡ると快速停車駅の新小岩駅に至る。
新小岩駅を過ぎると、左側の貨物線上に新小岩信号場駅の線路群が広がる。環七通りをくぐると同信号場より総武本線支線(新金貨物線)が内陸側へ分かれていき、また快速線へも貨物線が合流する。新中川を渡り、小岩駅を過ぎると右へカーブして今度は東南東にまっすぐ進む。内陸側に再び国道14号(千葉街道)、さらにそれを挟んで京成本線が並行し、江戸川を渡ると東京都から千葉県へと移り、同県最初の駅で快速停車駅でもある市川駅に至る。
市川駅を過ぎると、線路はしばらく直線が続き、快速線を走行する列車は120 km/h(特急は130 km/h)の最高速度で運転する。国道298号を跨ぐと、緩行線は、都営地下鉄新宿線と接続する本八幡駅、次いで下総中山駅と続き、海側から東京メトロ東西線が近づくと、御茶ノ水駅から続いてきた高架区間が一旦終了し、武蔵野線・京葉線との交点に位置する西船橋駅に至る。メトロ東西線と直通運転を行う東葉高速線も接続する主要駅だが、総武快速線は停車しない。西船橋駅を過ぎると東西線からの短絡線が緩行線に合流し、進路を東に変える。国道14号と京成本線が海側へ移り、続いて内陸側から東武野田線が現れると快速停車駅の船橋駅。南口側にはペデストリアンデッキやロータリーを挟んで京成本線の京成船橋駅がある。同線が一旦総武本線に接近してから右にカーブして海側へ離れ、東船橋駅を過ぎると今度は南東へ向かう。国道296号(成田街道)を跨ぎ、海側から緩行線の車両基地・旧習志野電車区からの引込線が合流すると快速停車駅の津田沼駅に至る。同駅は緩行線・快速線とも車両基地が近接する運行拠点の一つとなっており、周辺には千葉工業大学や、新京成線の新津田沼駅が立地する。
津田沼駅を出ると、逆S字型にカーブを描く新京成線をくぐる。まもなく京成本線が総武本線をくぐって成田方面へ向かって離れていく。代わって海側には京成千葉線が千葉駅まで並行し、幕張駅までは総武本線のすぐ隣を通る。この区間には市街化調整区域があるため、海沿いに沿線では数少ない原野を見ることが出来る。しばらく進むと千葉市に入り、快速線の上下線の間に車両基地・幕張車両センターが広がる。一方、その横の緩行線には幕張本郷駅があり、京成千葉線の京成幕張本郷駅が同一構内にある。JRの駅と京成の駅が同一構内にある例は数少ない。幕張本郷駅の先で京葉道路(有料区間)をくぐり、さらに東京 - 千葉間および中央・総武緩行線唯一の踏切である花立踏切を通過すると幕張車両センター構内が終わり、緩行線から京成千葉線が離れる。京成幕張駅を見送ると幕張駅。幕張の中央部で発展している幕張新都心からは少し離れている。東方向に進路を変え新検見川駅を過ぎ、再びカーブして南南東方向へ進路を変えると東関東自動車道をくぐり、高架線になって快速停車駅の稲毛駅。さらに直進し、千葉大学の西側では快速線上に黒砂信号場が、緩行線上に西千葉駅が位置する。西千葉駅を過ぎると快速線の線路が総武本線東千葉駅(・成田線)方面と外房線(・内房線)方面の2本に分岐。そして千葉県内各線のジャンクションである千葉駅に至る。緩行線はこの千葉駅で終点となっている。
千葉駅は総武本線と外房線との分岐地点上に位置するY字型の構造となっている。総武本線は同駅構内からほぼ90度左にカーブし、佐倉駅までは複線となって北東へ進む。千葉駅を出てカーブを終えると右側に並行していた千葉都市モノレール2号線をくぐり、国道126号と交差する手前に東千葉駅がある。ここから都賀駅400m先まではほぼ直線区間である。マンション群の中を直進で進んで国道16号と京葉道路を跨ぎ、北西側からモノレール2号線が再び寄り添うと都賀駅に至る。同駅を過ぎるとモノレール2号線が南東側に広がる住宅街方向に分かれ、そのまま直進後左へカーブして進み、陸上自衛隊下志津駐屯地の西側を過ぎて千葉市から四街道市に移り、緩やかに右にカーブしたところに四街道駅がある。同駅周辺には愛国学園大学をはじめとする学校が立ち並んでいる。ここまで沿線は住宅地が続いたが、四街道駅を過ぎると沿線は一変して田畑が広がるようになる。東関東自動車道をくぐると物井駅に出る。駅周辺は田畑だが駅西側には住宅街がある。田園地帯を進んでいくとトンネルを抜け、カーブして東方向に向きを変えると、成田線との分岐駅である佐倉駅に至る。
総武本線はこの先終点の銚子駅まで単線となる。佐倉駅を出ると複線の成田線から分岐する形で単線となり第二高岡踏切まで2 kmほど並行する。国道51号と交差後、第二高岡踏切を通過した瞬間に成田線は北側に離れていき、総武本線は単線で南東の雑木林の中を進む。ここから成東駅までは県道76号と並行する。単線区間最初の駅である南酒々井駅は丘陵地帯の谷間に位置し、市街地からは離れたところにある。同駅を出ると東関東自動車道をくぐり、平野部にある榎戸駅・八街駅へ。八街は下総台地上にあり地盤が固く標高も高いため地震や水害に強いといえる。山武市に入ると再び丘陵の間を進んで日向駅を過ぎ、圏央道をくぐり進路を東方向に変えて平野部に出て、県道76号と交差する和田踏切を通過すると、山武市の中心都市である東金線が分岐する成東駅に至る。
成東駅からは国道126号と並行し、南東の太平洋に面した九十九里浜から5 kmほど離れた下総台地のふもとの平野部を進んで銚子を目指す。成東駅を出て東金線が南方向へ分かれていくと、左にカーブして北東方向へ。沿線は田園地帯が続き、旭駅手前では線路の方向が東向きに変わる。旭駅を出ると国道126号が南側へ分かれ、銚子駅の手前にある松岸駅までは丘陵地帯の合間をカーブしながら進む。この区間の飯岡駅 - 倉橋駅間にはトンネルが1か所存在する。松岸駅で成田線と合流すると国道356号と利根川に沿い、水産業と並ぶ銚子市の主たる産業である醤油工場が車窓から見え、市街地に入ると総武本線の終点・銚子駅に至る。同駅では銚子電鉄線が接続している。
東京駅 - 馬喰町駅間、秋葉原駅 - 御茶ノ水駅間、新金線金町駅構内はJR東日本首都圏本部、それ以外は同社千葉支社の管轄となっており、馬喰町駅 - 錦糸町駅間、浅草橋駅 - 秋葉原駅間、新小岩信号場駅 - 金町駅間に支社境がある。なお、越中島支線の越中島貨物駅は千葉支社所属駅となっているが、構内には首都圏本部が管轄する東京レールセンターが置かれている。
本節では駅名と主要駅のキロ程のみを列挙する。
() 内は起点からの営業キロ
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、南酒々井駅・飯倉駅・倉橋駅・猿田駅である。
(貨)は貨物専用駅を表す。小岩駅 - 新小岩信号場駅間は本線と重複。() 内の数字は起点からの営業キロ。詳細は各支線記事を参照。 | [
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"text": "総武本線(そうぶほんせん)は、東京都千代田区の東京駅から千葉県銚子市の銚子駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。このほか、東京都墨田区の錦糸町駅で分岐して御茶ノ水駅に至る支線(いわゆる総武緩行線)、小岩駅(新小岩信号場駅)から分岐して金町駅および、越中島貨物駅に至る貨物支線を持つ。電車内や駅構内の旅客案内上は主に千葉駅から銚子駅の区間がこの名称で呼ばれる(後述)。",
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"text": "なお、『鉄道要覧』やJRの事業基本計画上は錦糸町駅 - 御茶ノ水駅間となっているが、東京駅 - 錦糸町駅間開業以前の起点の御茶ノ水駅には現在も0キロポストが存在する。",
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"text": "東京駅 - 千葉駅間および御茶ノ水駅 - 千葉駅間については、以下の記事も参照。",
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"text": "東京都の都心から東へ伸び、そのベッドタウンである千葉県西部の各都市、同県の県庁所在地であり政令指定都市である千葉を通り、同県最東端の銚子へ至る路線である。東京と千葉県北東部の各地を結ぶ特急列車が東京駅 - 銚子駅間を通して運行されているほか、都心から成田国際空港へアクセスする特急「成田エクスプレス」が当路線を経由している。",
"title": "概要"
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"text": "千葉駅以西は電車特定区間に指定されており、区間外よりも割安な運賃が適用される。このうち錦糸町駅 - 千葉駅間は、各駅停車の電車が走行する総武緩行線と、快速電車や特急列車が走行する総武快速線が並行する線路別複々線となっている。この区間は「総武線」と呼ばれることが多く、「総武本線」と呼ばれる場合は特急列車は東京駅 - 銚子駅間、ローカル列車は千葉駅 - 成東駅 - 八日市場駅 - 銚子駅間を指すことが多く、JR東日本ウェブサイトの路線案内においてもそのようになっている。ただし必ずしも統一されておらず、車内の路線ネットワーク図や発車標、駅の時刻表などでは千葉駅以東も「総武線」と表記している場合もある。なお、『鉄道要覧』においては全線通して「総武線」となっている。",
"title": "概要"
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"text": "貨物支線を除き旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。千葉駅以東では路線案内に用いられるラインカラーとして黄色(■)が用いられている。",
"title": "概要"
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"text": "本節では、千葉県内の鉄道敷設運動前後から総武鉄道設立、路線開業及び国有化以降の総武本線全体の沿革について記述する。",
"title": "歴史"
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"text": "1872年(明治5年)に日本最初の鉄道が新橋駅(後の旧国鉄汐留駅) - 横浜駅(現在の桜木町駅)間に開通し、その後、1884年(明治17年)に日本鉄道会社が上野駅- 高崎駅間に民営鉄道を開業して良好な営業成績を上げたことなどをうけ、明治10年代後半に全国的な民営鉄道建設ブームが起きた。千葉県内でも鉄道敷設の機運が高まったが、当初は資金面から馬車鉄道の計画が多かった。",
"title": "歴史"
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"text": "千葉県内では1886年(明治19年)頃から蒸気機関車による鉄道建設の運動が始められ、1887年(明治20年)11月に佐原の伊能権之丞らが発起した武総鉄道会社と、成東の安井理民らが発起した総州鉄道会社が相次いで創立の申請を行った。しかし、当時は従来からの水上交通の実績に対する評価が高く、また利根運河の開削も決まったばかりだったため、千葉県知事であった船越衛が鉄道敷設に対して慎重な姿勢をとるようになった。船越は両者に対し計画の翻意や合併を促してきたが、総州鉄道はこれに応じず東京府知事である高崎五六を通じて正式に鉄道敷設を出願した。これを受けて船越もやむなく千葉県知事として武総鉄道を内閣に進達したが、「利根・江戸両川の水運が至便であるうえに、この地方の状況は鉄道敷設を必要とするほど発展していない」などとして結局どちらも却下されている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "上述の経験から、競願の不利益さを悟った両社の発起人は合併を協議し、発起人に利根川水運の株主であった県会議長の池田栄亮などの有力者を加え、1889年(明治22年)1月に総武鉄道株式会社を創立した。会社名称は上総国(かずさのくに)・下総国(しもうさのくに)と武蔵国を結ぶことに因む。総武鉄道は翌2月に再願を申請した。この時の出願では、利根運河との競合を避けるとともに陸軍の支持が得られるように国府台・津田沼・佐倉(この計画線は直接通らないものの、習志野も隣接する)等の軍営所在地を通る以下のルートを採用し、その使命に「軍事輸送と政府開墾地への輸送」を掲げていた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 10,
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"text": "総武鉄道の狙いどおり「陸軍営所を通過し、用兵上にも便利である」とする陸軍省の意見が決め手となり、1889年(明治22年)4月に仮免状が下付され、同年12月に小岩 - 佐倉間の免許状が降りた。ただし、計画の一部変更などにより、工事着手は1893年(明治26年)8月となる。なお、1892年(明治25年)に公布された鉄道敷設法で「東京府下上野ヨリ千葉県下千葉、佐倉ヲ経テ銚子ニ至ル鉄道及本線ヨリ分岐シテ木更津ニ至ル鉄道」が将来建設されるべき鉄道として指定された。このころになるとルートの候補地となった各地域で様々な鉄道誘致運動が行われるようになる。なお、千葉県各所(船橋・千葉・佐倉・芝山・飯岡・茂原・流山等)で鉄道反対運動が行われたとの言説が市町村史や小学校副読本などで取り上げられることがあるが、当時の文献や記録にこれらを裏付けるものはなく、単なる鉄道忌避伝説であるとされる。",
"title": "歴史"
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"text": "1894年(明治27年)7月20日に市川駅 - 佐倉駅間が開業し、千葉県内初の鉄道となる。直後の8月1日に日清両国で宣戦布告がなされ、早速日清戦争での兵員輸送に活用された。同年12月9日には江戸川を越えて本所駅(現在の錦糸町駅)に達した。総武鉄道は、1897年(明治30年)5月1日に成東駅まで、同年6月1日には銚子駅まで延伸され、佐倉駅で成田鉄道との連絡も実現する。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "両国橋から都心部への延伸は1899年(明治33年)に本所 - 秋葉原間の免許を得、1904年(明治37年)に両国橋駅(現在の両国駅)まで延伸され、ここを都心側のターミナルとした。両国橋駅を利用する旅客はすでに開業していた路面電車(のちの都電)に乗り継いだ。なお、この当時は貨物扱いも両国橋駅で行い、ここから隅田川などの舟運を利用して物資が東京市内へと運ばれた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1907年(明治40年)、鉄道国有法により買収・国有化され、官設鉄道の総武本線となった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "鉄道開業により、総武本線の沿線には住宅地の拡大が両国から徐々に東側へ向けて始まった。また、1912年(大正元年)に最初の区間が開業した京成電気軌道(現在の京成電鉄)とは東京 - 船橋 - 千葉の都市間輸送で競合するようになり、東海道本線からは少し遅れたが総武本線の近代化に向けた取り組みが始まった。ただし、1923年(大正12年)9月1日には関東大震災で両国周辺で多数の犠牲者が出る惨事も起きた。復興計画が立てられる中、1926年(大正15年)には常磐線と連絡する貨物支線(新金線)、1929年(昭和4年)には東京湾岸に近い小名木川駅への支線(のちの越中島支線)が開業し、旅客と貨物の分離が進められた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "震災復興をきっかけとして都心部への延伸が進められ 、1932年(昭和7年)7月1日には、御茶ノ水駅 - 両国駅間が延伸され、同区間で電車の運転を開始した。これにより、総武本線は東京都心部で他の国鉄線と連絡するようになった。以降、1933年(昭和8年)3月に市川まで、同年9月には船橋駅まで電化区間が延長され、中央本線中野駅まで緩行電車として直通運転を実施するようになった。1935年(昭和10年)には、千葉駅までの電化が完成した。以後、総武本線は千葉駅を境に、住宅地が広がる地域で通勤形電車が頻繁に運転される御茶ノ水駅方面の西側と、農村や漁村を蒸気機関車牽引の客車列車が結ぶ銚子駅方面の東側に性格が二分された。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 16,
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"text": "第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)3月10日、沿線で米軍による無差別爆撃、東京大空襲が実行され、一夜にして約10万人が死亡し、両国・錦糸町・亀戸などの各駅には多くの被災者が避難した。また、アメリカ軍が九十九里浜に上陸する日本侵攻作戦が予測され、日本軍は本土決戦に備えた決号作戦により総武本線で大量の軍事輸送を行ったが、同年8月15日に日本はポツダム宣言受諾を発表し、沿線での大規模戦闘は回避された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "戦時中の酷使並びに食糧難による買い出し客の殺到や資材不足により、終戦直後の総武本線が置かれた環境は劣悪であった。当初GHQは国鉄の車両改善予算を承認しなかったが、両国駅で総武本線の木造客車を視察しそのあまりのボロさに仰天した担当官が即座にこれを認めたといわれる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 18,
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"text": "その後、被災地域の復興や高度経済成長による東京都市圏の人口急増により、千葉以西が複線電化、千葉以東が単線非電化という総武本線の輸送事情は逼迫した。房総方面の国鉄の鉄道路線は、1953年(昭和28年)に「気動車化モデル線区」に選定されキハ17系が集中投入されてある程度の近代化が進展していたが、電化の進展は1968年(昭和43年)までは総武本線の御茶ノ水駅 - 千葉駅までに過ぎず、他の路線は非電化の状況であった。千葉・房総方面において機関車牽引でない“電車”は中央緩行線に直通する総武線国電(御茶ノ水駅から千葉駅までの各駅に停車)と私鉄である京成電鉄の路線だけであり、それ以外は蒸気機関車やディーゼル機関車が走る、関東でも電化整備の遅れた地域であった。そのため、新たに発足した日本国有鉄道(国鉄)は1964年(昭和39年)に決定した通勤五方面作戦の重要な一部として総武本線の輸送力増強に着手した。その中核として、国鉄初の本格的な都市内地下鉄道になる東京 - 錦糸町間の新線建設を含む東京 - 千葉間の快速線建設が決定された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "一方、千葉駅以東の近代化も徐々に進み、通勤路線としての性格が強まり、1968年(昭和43年)3月28日に総武本線・成田線の千葉駅 - 佐倉駅 - 成田駅間の電化が、同年7月13日に千葉駅 - 木更津駅間の電化がそれぞれ完成、同区間に電車が走れるようになり、朝夕には、成田駅・木更津駅発着のカナリアイエロー色の101系電車を使用した直通電車が運行され、さらに、同年10月1日のダイヤ改正から中央線の中野駅 - 木更津駅発着及び翌1969年(昭和44年)10月1日のダイヤ改正から中野駅 - 成田駅発着で毎日1時間に1 - 2本程度同電車を使用した電車快速が、また、同改正から御茶ノ水駅 - 千葉駅間では夜間下り2本の気動車快速列車が運行を開始した(なお、1975年(昭和50年)3月10日のダイヤ改正では千葉駅 - 銚子駅間にも快速列車が運行された。101系使用の直通電車および電車快速以外の詳細は後述)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1972年(昭和47年)7月には東京駅 - 錦糸町駅の地下トンネル区間及び津田沼駅までの複々線完成により総武快速線が開業した。これにより起点が御茶ノ水駅から東京駅に変更され、新設された東京駅の地下ホームからは新たに設定された房総方面への特急列車が発着した。一方、総武鉄道時代から東京と千葉以東を結ぶターミナルとなっていた両国駅は、急行列車の発着は残されたものの、その重要性が大きく低下した。1974年(昭和49年)には銚子駅までの電化が完成し、東京からの直通電車特急「しおさい」の運行が開始された。その後、1980年(昭和55年)には横須賀線との直通運転(SM分離及びSF直結)が開始され、1981年(昭和56年)には千葉駅まで複々線区間が延長されて、当初の計画は完成した。これにより、国鉄による輸送は高速化され、国鉄は東京 - 船橋・千葉の都市間輸送で京成電鉄より優位に立った。また、1969年(昭和44年)には営団地下鉄(現在の東京地下鉄)東西線が西船橋駅 - 津田沼駅間に乗り入れ、特に通勤輸送で総武本線(中央・総武緩行線)の負担を大きく軽減していた。さらに、紆余曲折を経て1978年(昭和53年)に新東京国際空港(現在の成田国際空港)が開港すると、総武本線と成田線は京成電鉄を補完する鉄道アクセスルートとなった。なお、複々線化にあたり、成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(成田財特法)による補助金のかさ上げの適用を受けている。このような状況で1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化を迎え、総武本線は施設保有と旅客輸送がJR東日本、貨物輸送がJR貨物へ承継された。ただし、銚子漁港からの鮮魚・醤油輸送がトラックに切り替えられて銚子駅 - 新生駅の貨物線が廃止されたように、総武本線での貨物輸送量は減少していた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "総武本線の大部分を管轄する国鉄千葉鉄道管理局(民営化後はJR東日本千葉支社)では分割民営化に反対する国鉄千葉動力車労働組合(千葉動労)の勢力が強く、1985年(昭和60年)11月29日に千葉動労が実施した分割民営化反対ストライキの際にはこれを支持する革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)により国電同時多発ゲリラ事件が発生した。特に浅草橋駅は国鉄職員を含む約120人の中核派グループにより破壊・放火された。分割民営化後も千葉動労はJR東日本との対決を続け、特に千葉駅以東ではストライキによる列車運行の停止が毎年起こった。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "総武本線を受け継いだJR東日本は総武本線の改良を続け、ATS-Pの設置を進めた。また、当初は貨物線で計画していた京葉線を旅客営業兼用に転換し、国鉄末期の1986年(昭和61年)の第1期区間開業に続いて1990年(平成2年)に東京駅乗り入れを実現させた。内房線・外房線直通列車は定期特急の大半と快速の一部が総武本線(快速線)から京葉線に移行し、乗客の転移もあって、総武本線(快速線)の過密緩和に役立った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1991年(平成3年)には成田新幹線の施設を転用した成田空港旅客ターミナルへの鉄道乗り入れが実現し、総武本線(および成田線)では空港連絡特急「成田エクスプレス」の運行が始まって、アクセス路線としての重要性を増した。ただし、1985年以降の東関東自動車道の延伸により、高速バス(かしま号、犬吠号、利根ライナー号、あそう号、東京 - 八日市場線)の運行が拡大されると、「しおさい」などの「成田エクスプレス」以外の特急列車は本数削減や一部区間の普通列車化が行われ、総武本線(および成田線・鹿島線)は東京と千葉県北東部・茨城県南東部を結ぶ都市間輸送で劣勢に立っていることが明確となった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2000年(平成12年)の運輸政策審議会答申第18号では、2015年までに整備すべき路線として新浦安(京葉線) - 船橋 - 津田沼間の新線建設(船橋 - 津田沼間は3複線化)が提唱された。千葉方面からの総武本線の列車は津田沼から新線に乗り入れ、新浦安から京葉線経由で東京駅へ、あるいはこれも2015年を整備目標とする新宿・三鷹方面への延伸線に向かうことが想定されている。また、新木場 - 新浦安間の建設(複々線化)と新木場からの東京臨海高速鉄道(りんかい線)乗り入れも明記されたが、運営会社のJR東日本はこの建設計画についてまだ正式な発表を行っていない。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "本線と貨物支線(越中島支線・新金線)のそれぞれの路線開業から各駅の開業や複線化及び路線施設関連などの使用開始年月日について記述する。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "元は本線だった錦糸町駅 - 御茶ノ水駅間の支線も含めて記述する。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "総武本線を運行する列車の形態を、成田線・外房線・内房線直通列車及び途中区間から乗り入れる列車も含め記述する。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "総武本線を運行する優等列車として、下記の特急列車が運転されている。詳細は各列車の記事を参照。",
"title": "運行形態"
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"text": "",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "電車特定区間である東京駅・御茶ノ水駅 - 千葉駅間は、1972年(昭和47年)の複々線化により快速線と緩行線に分かれ、東京駅経由で快速線を走行する快速電車(総武快速線、案内上は「横須賀・総武線快速」)と、御茶ノ水駅を経由し緩行線を走行する各駅停車(総武緩行線、案内上は「中央・総武線各駅停車」)の2系統に分かれている。1981年(昭和56年)に錦糸町駅 - 千葉駅間が完全複々線化されて以降は、両者の線路・車両・ダイヤもそれぞれ独立したものとなっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "快速電車は東京駅 - 錦糸町駅で地下線を走行し、東京駅以南は東海道本線(品川駅 - 武蔵小杉駅 - 鶴見駅間は通称品鶴線)を経由して横須賀線と直通運転を行っている(旅客案内などでは東海道本線の区間も含めて「横須賀線」と称される)ほか、総武本線も含めた千葉駅以東(総武本線・成田線・鹿島線)・以南(外房線・内房線)に直通する列車もある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "黄色帯の電車で運行される各駅停車は錦糸町駅から御茶ノ水駅方面への支線へ乗り入れ、同駅から中央本線の三鷹駅まで直通するが、千葉駅以南・以東への乗り入れは設定されていない。また平日の朝夕には西船橋駅で東京地下鉄(東京メトロ)東西線から緩行線津田沼駅に乗り入れる列車もある。なお将来的なホームドア設置実施に伴い、2020年3月14日のダイヤ改正から、中央線は東京駅発着の各駅停車の運行を廃止して快速・特別快速などの速達列車のみを終日運転することになり、これに付随して、中央・総武緩行線は早朝・深夜における御茶ノ水駅折り返しおよび武蔵小金井方面への直通を廃止し、全列車を千葉駅 - 御茶ノ水駅経由 - 三鷹駅までの相互直通運転のみとなった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "千葉駅以東では普通・快速の2種別が設定されている。2022年3月改正までは通勤快速が運行されていた。普通列車は旭駅 - 銚子駅間と(成田駅 - )松岸駅 - 銚子駅間の区間列車を除き千葉駅に乗り入れるが、東京方面千葉駅以西へは乗り入れない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "逆に快速列車は、上り1本を除くすべての定期列車が千葉駅以西の快速線(多くはさらに横須賀線)に乗り入れる。佐倉駅から先の成田線直通成田駅・成田空港駅発着列車と佐倉駅発着の列車がほとんどで、佐倉駅を越えて当線を走行する列車は、朝の成東発の快速上り1本と、夜間の成田空港・成東行きとその折り返し(佐倉駅 - 成東駅間は普通列車)のみである。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "なお、千葉駅 - 佐倉駅間および松岸駅 - 銚子駅間は、成田線内、佐原駅・香取駅経由鹿島線鹿島神宮駅発着あるいは佐倉駅 - 松岸駅間で成田線を経由する列車も乗り入れている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "日中の1時間毎の運行本数をまとめると、以下のとおりになる(2020年3月14日改正時点)。ただし、一部時間帯で快速列車が1本となり、代わりに千葉駅 - 成田線成田駅間の各駅停車が1本運転される。2023年3月のダイヤ改正からは、快速列車が1本となり、その代わりとして千葉駅 - 成田線成田空港駅間の各駅停車が1本運行されるようになる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "千葉駅 - 銚子駅間の普通列車は、成田線経由の列車も含めてすべて最大8両編成で運転されている。しかし、内房線・外房線とは違って、両数はまちまちである。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "夜間留置の都合上、旭駅 - 銚子駅間の列車や横芝駅発着の列車も設定されている。横芝駅発着に関しては2010年3月12日までは始発のみの扱いで、到着は回送列車であった。2023年のダイヤ改正からは八街行きが新設される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "貨物列車は金町駅 - 新小岩信号場駅 - 佐倉駅間で運行される。しかし、総武本線の駅を発着する定期貨物列車は設定されていない。2014年3月改正時点では、東海道貨物線東京貨物ターミナル駅および武蔵野線越谷貨物ターミナル駅から鹿島臨海鉄道鹿島臨港線神栖駅へ向かう高速貨物列車1往復ずつ、常磐線隅田川駅から京葉臨海鉄道千葉貨物駅へ向かう高速貨物列車1往復、東海道貨物線川崎貨物駅から千葉貨物駅へ向かう専用貨物列車1往復が、総武本線を経由する。専用貨物列車はコンテナ車のほか、ホッパ車やタンク車が併結されることもある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "かつて、成田空港への本格パイプラインが稼働するまでの間、航空燃料を千葉港から空港まで輸送する列車が総武線を経由していた(暫定輸送)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "新小岩信号場駅 - 越中島貨物駅間は定期貨物列車は運行されていないが、レール輸送用の臨時専用貨物列車が日曜日を除き3往復運行される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "この節では、過去に総武本線全線及び成田線・鹿島線・外房線・内房線へ直通した列車を記述する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "特急列車は2004年10月まで「すいごう」が、2015年3月までは「あやめ」が運行されていた。また、1991年より「成田エクスプレス」が運行開始されるが、外房線直通の「わかしお」や内房線直通の「さざなみ」も当線(総武快速線)経由で運転されていたが、以後は京葉線 海浜幕張・蘇我駅経由となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "急行・準急列車は、北総3線(総武・成田・鹿島線)は「犬吠」・「水郷」・「鹿島」・「京葉」・「総武」などが、房総方面は「内房(うち房)」・「外房(そと房)」、房総半島1周列車として「なぎさ」(内房線回り)・「みさき」(外房線回り)などが運行された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "この節では、1972年(昭和47年)7月15日以前の御茶ノ水駅 - 千葉駅間と、千葉駅 - 銚子駅間にそれぞれ運行されていた列車について記述する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1968年10月1日のダイヤ改正から御茶ノ水駅 - 千葉駅間で夜間下り2本のみ設定された気動車快速。新宿駅まで到着した上り急行「そと房」8号(安房鴨川発新宿行き)と、急行「犬吠」4号(銚子発新宿行き)・「水郷」5号(佐原発新宿行き)の千葉気動車区への回送列車を客扱いしたもので、当時としては画期的な発想だった。途中停車駅は、秋葉原駅・両国駅・船橋駅で、運行ダイヤは御茶ノ水駅20:09発→千葉駅21:00着(「そと房」8号→2251D)と、御茶ノ水駅20:36発→千葉駅21:30着(「犬吠」4号・「水郷」5号→2259D)であった。快速列車なので当然特別料金は不要、そのためか1971年10月12日付けの交通新聞の「好評の回送利用快速気動車」「毎日満席のモテぶり」と題した乗車ルポには、「船橋、千葉へ帰る通勤客に根強い人気があり、御茶ノ水、秋葉原で国電を見送ってでもこの列車に乗ろうという固定客が多い」「乗車効率もよく座席は毎日全席が埋まる」「2251Dがグリーン車を1両含む7両、2259Dが普通車10両、両方合わせて毎日1500人が利用している」なとど記事に記載され、また、車両の間合いによっては、キハ28形などの冷房車が充当され、急行列車なので座席もボックス形でゆっくりと座って帰れるので、混雑する上に立ったままの乗車を強いられる国電と比べるとまさに天国と利用客からは大変好評であった。この列車は当時1年間限定の運転予定が、1972年7月15日の複々線化の前日まで運転された。また、この列車はホームライナーの元祖といえるもので、このアイデアは1984年の東北本線の「ホームライナー大宮」で復活している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1975年3月10日のダイヤ改正で千葉駅 - 銚子駅間に1日1往復設定された快速で、東京駅 - 千葉駅間の快速が「総武快速」と呼ばれたのと区別するため、この快速は「千葉快速」と呼ばれた。朝に上り、夜に下りが運転され、当初の停車駅は千葉駅・四街道駅・佐倉駅・八街駅・成東駅・松尾駅・横芝駅・八日市場駅・旭駅・飯岡駅・松岸駅・銚子駅だったが、1978年10月2日のダイヤ改正で都賀駅・干潟駅が停車駅に追加され、1981年10月1日のダイヤ改正で普通に格下げされる形で廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "道路事情の悪い千葉駅以東・以南の沿線への夕刊新聞輸送のための荷物列車。列車は、非電化時代は蒸気機関車牽引の荷物客車や貨車であったが、気動車化後はキユニ11・キユニ19が使用され、房総西線(現・内房線)が部分電化および外房線が全線電化された後はクモハユ74形・クモユニ74形100番台を使用、その後に長岡運転所(現・長岡車両センター)から転属したクモユニ143を使用、気動車は千葉気動車区から、電車は幕張電車区(現・幕張車両センター)からそれぞれ津田沼駅方面に単独で出区、両国駅まで回送後新聞を積み込み、折り返して両国駅 - 千葉駅間は荷物列車扱いで千葉駅まで運行、到着後各方面行きの列車に併結されて分かれていく、特異な列車であった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "運用は、気動車は千葉気動車区からの出区時は2両編成で運行、房総各線が全線電化後は、幕張電車区からの出区時は4両編成で、千葉駅で1両ずつ各方面への千葉ローカル運用の気動車または113系の後部に併結して運転され、各駅に新聞を配布していき、それぞれの線区の終点駅(北総方面は銚子駅、房総半島方面は安房鴨川駅)と、終点駅から折り返し荷物車両を先頭にして千葉駅まで運行され、千葉駅到着後は回送列車となり、併結した気動車および電車とともに帰区する運用であった。国鉄の郵便・荷物輸送が基本的に廃止された1986年11月1日以降は、外房線・内房線の新聞荷物輸送が道路事情の関係により存続されることとなり、前述のクモユニ143が幕張電車区に転属し充当、電車区からの出区時は2両編成で両国駅まで回送、その後は前述のように、両国駅で積み込み→千葉駅で1両ずつ外房線・内房線の113系6両編成の普通列車(両者とも安房鴨川行き)の後部に連結→終着駅到着後クモユニ143が先頭車になって折り返し(両者とも千葉行き)→千葉駅到着後回送列車として帰区する運用であった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1996年12月1日のダイヤ改正で、合理化のため房総地区への専用車両による輸送は廃止となり、それ以降は113系4両編成×2本を併結し、上り方各1両を荷物扱いとすることで対処、なお、この列車は2010年3月12日まで運行された。また、列車の運行開始以降から113系の荷物扱い列車に至るまで、夕刊の休刊日は運休となっていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "すべて電車で運転されている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ここでは総武本線の線路および沿線の概況について記す。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "快速線側の起点である東京駅では、地上駅より丸の内側にある1972年完成の総武地下ホームに発着し、同駅以南の横須賀線(東海道本線地下線)線路との直通が可能な構造になっている。同駅を出ると東京都心部の地下を北東へ進み、新日本橋駅から馬喰町駅付近まで国道6号の直下を通る。両駅間では東京メトロ日比谷線小伝馬町駅と交差しているが、総武快速線に駅は設けられていない。馬喰町駅を過ぎると東へ向かい、隅田川の下をくぐり、両国駅付近で地上に出る。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "一方、緩行線は、直通運転を行う中央本線との接続駅・御茶ノ水駅から、高架上を東方向へ向かう。中央本線(中央線快速)の上下線に挟まれる形で同駅を出ると中央本線と分かれて神田川を渡り、東北本線(山手線・京浜東北線・上野東京ライン)との交差地点にある秋葉原駅へ。続いて首都高速1号上野線を跨ぎ、市街地を進むと国道6号との交点に浅草橋駅がある。そして隅田川を渡り首都高速6号向島線をくぐると、両国国技館および東京都江戸東京博物館の最寄駅・両国駅に至る。同駅には緩行線ホームのほかに、快速線に繋がっている列車ホームがあるが、現在は定期列車では使用されていない。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "両国駅からは快速線と緩行線による複々線区間が始まり、千葉駅まで沿線は住宅密集地が延々と続く。また海側(南側)には国道14号(京葉道路一般道区間)が並行する。緩行線・快速線間の最初の接続駅となっている錦糸町駅は快速線・横須賀線列車の留置線を併設しており、また東京スカイツリーの南に位置している。錦糸町駅を出ると、海側(南側)から単線の総武本線支線(越中島貨物線)が近づき、緩行線の亀戸駅。同駅から発着する東武亀戸線が内陸側(北側)へ離れていき、同時に越中島貨物線が本線を跨いで北側に並行して5線となると、国道14号から離れ、カーブして北東方向へ進路を変える。旧中川を渡ると平井駅、次いで首都高速中央環状線をくぐり、荒川・中川を渡ると快速停車駅の新小岩駅に至る。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "新小岩駅を過ぎると、左側の貨物線上に新小岩信号場駅の線路群が広がる。環七通りをくぐると同信号場より総武本線支線(新金貨物線)が内陸側へ分かれていき、また快速線へも貨物線が合流する。新中川を渡り、小岩駅を過ぎると右へカーブして今度は東南東にまっすぐ進む。内陸側に再び国道14号(千葉街道)、さらにそれを挟んで京成本線が並行し、江戸川を渡ると東京都から千葉県へと移り、同県最初の駅で快速停車駅でもある市川駅に至る。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "市川駅を過ぎると、線路はしばらく直線が続き、快速線を走行する列車は120 km/h(特急は130 km/h)の最高速度で運転する。国道298号を跨ぐと、緩行線は、都営地下鉄新宿線と接続する本八幡駅、次いで下総中山駅と続き、海側から東京メトロ東西線が近づくと、御茶ノ水駅から続いてきた高架区間が一旦終了し、武蔵野線・京葉線との交点に位置する西船橋駅に至る。メトロ東西線と直通運転を行う東葉高速線も接続する主要駅だが、総武快速線は停車しない。西船橋駅を過ぎると東西線からの短絡線が緩行線に合流し、進路を東に変える。国道14号と京成本線が海側へ移り、続いて内陸側から東武野田線が現れると快速停車駅の船橋駅。南口側にはペデストリアンデッキやロータリーを挟んで京成本線の京成船橋駅がある。同線が一旦総武本線に接近してから右にカーブして海側へ離れ、東船橋駅を過ぎると今度は南東へ向かう。国道296号(成田街道)を跨ぎ、海側から緩行線の車両基地・旧習志野電車区からの引込線が合流すると快速停車駅の津田沼駅に至る。同駅は緩行線・快速線とも車両基地が近接する運行拠点の一つとなっており、周辺には千葉工業大学や、新京成線の新津田沼駅が立地する。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "津田沼駅を出ると、逆S字型にカーブを描く新京成線をくぐる。まもなく京成本線が総武本線をくぐって成田方面へ向かって離れていく。代わって海側には京成千葉線が千葉駅まで並行し、幕張駅までは総武本線のすぐ隣を通る。この区間には市街化調整区域があるため、海沿いに沿線では数少ない原野を見ることが出来る。しばらく進むと千葉市に入り、快速線の上下線の間に車両基地・幕張車両センターが広がる。一方、その横の緩行線には幕張本郷駅があり、京成千葉線の京成幕張本郷駅が同一構内にある。JRの駅と京成の駅が同一構内にある例は数少ない。幕張本郷駅の先で京葉道路(有料区間)をくぐり、さらに東京 - 千葉間および中央・総武緩行線唯一の踏切である花立踏切を通過すると幕張車両センター構内が終わり、緩行線から京成千葉線が離れる。京成幕張駅を見送ると幕張駅。幕張の中央部で発展している幕張新都心からは少し離れている。東方向に進路を変え新検見川駅を過ぎ、再びカーブして南南東方向へ進路を変えると東関東自動車道をくぐり、高架線になって快速停車駅の稲毛駅。さらに直進し、千葉大学の西側では快速線上に黒砂信号場が、緩行線上に西千葉駅が位置する。西千葉駅を過ぎると快速線の線路が総武本線東千葉駅(・成田線)方面と外房線(・内房線)方面の2本に分岐。そして千葉県内各線のジャンクションである千葉駅に至る。緩行線はこの千葉駅で終点となっている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "千葉駅は総武本線と外房線との分岐地点上に位置するY字型の構造となっている。総武本線は同駅構内からほぼ90度左にカーブし、佐倉駅までは複線となって北東へ進む。千葉駅を出てカーブを終えると右側に並行していた千葉都市モノレール2号線をくぐり、国道126号と交差する手前に東千葉駅がある。ここから都賀駅400m先まではほぼ直線区間である。マンション群の中を直進で進んで国道16号と京葉道路を跨ぎ、北西側からモノレール2号線が再び寄り添うと都賀駅に至る。同駅を過ぎるとモノレール2号線が南東側に広がる住宅街方向に分かれ、そのまま直進後左へカーブして進み、陸上自衛隊下志津駐屯地の西側を過ぎて千葉市から四街道市に移り、緩やかに右にカーブしたところに四街道駅がある。同駅周辺には愛国学園大学をはじめとする学校が立ち並んでいる。ここまで沿線は住宅地が続いたが、四街道駅を過ぎると沿線は一変して田畑が広がるようになる。東関東自動車道をくぐると物井駅に出る。駅周辺は田畑だが駅西側には住宅街がある。田園地帯を進んでいくとトンネルを抜け、カーブして東方向に向きを変えると、成田線との分岐駅である佐倉駅に至る。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "総武本線はこの先終点の銚子駅まで単線となる。佐倉駅を出ると複線の成田線から分岐する形で単線となり第二高岡踏切まで2 kmほど並行する。国道51号と交差後、第二高岡踏切を通過した瞬間に成田線は北側に離れていき、総武本線は単線で南東の雑木林の中を進む。ここから成東駅までは県道76号と並行する。単線区間最初の駅である南酒々井駅は丘陵地帯の谷間に位置し、市街地からは離れたところにある。同駅を出ると東関東自動車道をくぐり、平野部にある榎戸駅・八街駅へ。八街は下総台地上にあり地盤が固く標高も高いため地震や水害に強いといえる。山武市に入ると再び丘陵の間を進んで日向駅を過ぎ、圏央道をくぐり進路を東方向に変えて平野部に出て、県道76号と交差する和田踏切を通過すると、山武市の中心都市である東金線が分岐する成東駅に至る。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "成東駅からは国道126号と並行し、南東の太平洋に面した九十九里浜から5 kmほど離れた下総台地のふもとの平野部を進んで銚子を目指す。成東駅を出て東金線が南方向へ分かれていくと、左にカーブして北東方向へ。沿線は田園地帯が続き、旭駅手前では線路の方向が東向きに変わる。旭駅を出ると国道126号が南側へ分かれ、銚子駅の手前にある松岸駅までは丘陵地帯の合間をカーブしながら進む。この区間の飯岡駅 - 倉橋駅間にはトンネルが1か所存在する。松岸駅で成田線と合流すると国道356号と利根川に沿い、水産業と並ぶ銚子市の主たる産業である醤油工場が車窓から見え、市街地に入ると総武本線の終点・銚子駅に至る。同駅では銚子電鉄線が接続している。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "東京駅 - 馬喰町駅間、秋葉原駅 - 御茶ノ水駅間、新金線金町駅構内はJR東日本首都圏本部、それ以外は同社千葉支社の管轄となっており、馬喰町駅 - 錦糸町駅間、浅草橋駅 - 秋葉原駅間、新小岩信号場駅 - 金町駅間に支社境がある。なお、越中島支線の越中島貨物駅は千葉支社所属駅となっているが、構内には首都圏本部が管轄する東京レールセンターが置かれている。",
"title": "データ"
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"text": "本節では駅名と主要駅のキロ程のみを列挙する。",
"title": "駅一覧"
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"text": "() 内は起点からの営業キロ",
"title": "駅一覧"
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"text": "2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、南酒々井駅・飯倉駅・倉橋駅・猿田駅である。",
"title": "駅一覧"
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"text": "(貨)は貨物専用駅を表す。小岩駅 - 新小岩信号場駅間は本線と重複。() 内の数字は起点からの営業キロ。詳細は各支線記事を参照。",
"title": "駅一覧"
}
] | 総武本線(そうぶほんせん)は、東京都千代田区の東京駅から千葉県銚子市の銚子駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。このほか、東京都墨田区の錦糸町駅で分岐して御茶ノ水駅に至る支線(いわゆる総武緩行線)、小岩駅(新小岩信号場駅)から分岐して金町駅および、越中島貨物駅に至る貨物支線を持つ。電車内や駅構内の旅客案内上は主に千葉駅から銚子駅の区間がこの名称で呼ばれる(後述)。 なお、『鉄道要覧』やJRの事業基本計画上は錦糸町駅 - 御茶ノ水駅間となっているが、東京駅 - 錦糸町駅間開業以前の起点の御茶ノ水駅には現在も0キロポストが存在する。 東京駅 - 千葉駅間および御茶ノ水駅 - 千葉駅間については、以下の記事も参照。 横須賀・総武快速線
中央・総武緩行線 | {{Otheruses|東京駅 - 銚子駅間を結ぶ本線と、錦糸町駅 - 御茶ノ水駅間の支線および小岩駅 - 金町駅・越中島貨物駅間の貨物支線|本線を中核とする鉄道路線群の総称の「総武線」|総武線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 総武本線
|路線色=#ffc20d
|画像=255 shiosai.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=東京駅 - 銚子駅間で運転される<br />255系による特急「しおさい」
|通称=[[総武快速線]]([[東京駅]] - [[千葉駅]]間の[[急行線|快速線]])<br/>[[中央・総武緩行線|総武緩行線]](千葉駅 - [[御茶ノ水駅]]間の緩行線)
|国= {{JPN}}
|所在地=[[東京都]]、[[千葉県]]
|種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点=[[東京駅]]<ref name="sone 5">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 5頁]]</ref>(本線)<br/>[[錦糸町駅]](支線)
|終点=[[銚子駅]]<ref name="sone 5"/>(本線)<br/>[[御茶ノ水駅]](支線)
|駅数=49駅(貨物駅および金町駅を含む)
|電報略号=ソムホセ
|路線記号=[[File:JR JO line symbol.svg|20px|JO]](東京駅 - 千葉駅間の[[急行線|快速線]]及び千葉駅 - 佐倉駅間)<br/>[[File:JR JB line symbol.svg|20px|JB]](御茶ノ水駅 - 千葉駅間の緩行線)
|開業=[[1894年]][[7月20日]]
|廃止=
|所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|運営者=東日本旅客鉄道(JR東日本)<br />[[日本貨物鉄道]](JR貨物)
|路線距離=120.5 [[キロメートル|km]] (東京-銚子間)<br />4.3 km (錦糸町-御茶ノ水間)<br />8.9 km (小岩-金町間)<br />11.7 km (小岩-越中島貨物間)
|軌間={{RailGauge|1067mm|lk=on}}
|線路数=[[複々線]](錦糸町-千葉間)<br />[[複線]](東京-錦糸町間・錦糸町-御茶ノ水間・千葉-佐倉間)<br />[[単線]](上記以外)
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]<br />(越中島支線は非電化)
|最高速度={{convert|130|kph|mph|lk=on|abbr=on}}
|路線図=[[File:JR Sōbu Main Line linemap.svg|250px]]
}}
'''総武本線'''(そうぶほんせん)は、[[東京都]][[千代田区]]の[[東京駅]]から[[千葉県]][[銚子市]]の[[銚子駅]]を結ぶ[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。このほか、東京都[[墨田区]]の[[錦糸町駅]]で分岐して[[御茶ノ水駅]]に至る支線(いわゆる[[総武緩行線]])、[[小岩駅]]([[新小岩信号場駅]])から分岐して[[金町駅]]および、[[越中島貨物駅]]に至る[[貨物線|貨物支線]]を持つ。電車内や駅構内の旅客案内上は主に[[千葉駅]]から銚子駅の区間がこの名称で呼ばれる([[#概要|後述]])。
なお、『[[鉄道要覧]]』やJRの事業基本計画上は錦糸町駅 - 御茶ノ水駅間となっているが、東京駅 - 錦糸町駅間開業以前の起点の御茶ノ水駅には現在も[[距離標|0キロポスト]]が存在する。
東京駅 - 千葉駅間および御茶ノ水駅 - 千葉駅間については、以下の記事も参照。
* [[横須賀・総武快速線]](東京駅 - 千葉駅間)
* [[中央・総武緩行線]](御茶ノ水駅 - 千葉駅間)
== 概要 ==
[[東京都]]の都心から東へ伸び、その[[ベッドタウン]]である[[千葉県]]西部の各都市、同県の県庁所在地であり[[政令指定都市]]である[[千葉市|千葉]]を通り、同県最東端の[[銚子市|銚子]]へ至る路線である。[[東京]]と千葉県北東部の各地を結ぶ[[特別急行列車|特急列車]]が東京駅 - 銚子駅間を通して運行されているほか、都心から[[成田国際空港]]へアクセスする特急「[[成田エクスプレス]]」が当路線を経由している。
[[千葉駅]]以西は[[電車特定区間]]に指定されており、区間外よりも割安な運賃が適用される。このうち[[錦糸町駅]] - 千葉駅間は、[[各駅停車]]の電車が走行する[[中央・総武緩行線|総武緩行線]]と、[[快速列車|快速電車]]や特急列車が走行する[[横須賀・総武快速線|総武快速線]]が並行する[[複々線#線路別複々線|線路別複々線]]となっている。この区間は「'''総武線'''」と呼ばれることが多く、「総武本線」と呼ばれる場合は特急列車は東京駅 - 銚子駅間、ローカル列車は千葉駅 - 成東駅 - 八日市場駅 - 銚子駅間を指すことが多く、JR東日本ウェブサイトの路線案内においてもそのようになっている<ref name=":0">例:[http://www.jreast.co.jp/estation/stations/989.html JR東日本:駅構内図(千葉駅)]・[http://www.jreast-timetable.jp/timetable/list0989.html JR東日本:駅の時刻表](千葉駅) - 東日本旅客鉄道</ref>。ただし必ずしも統一されておらず、車内の路線ネットワーク図や[[発車標]]、駅の時刻表などでは千葉駅以東も「総武線」と表記している場合もある<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/map/pdf/map_tokyo.pdf JR東日本 路線ネットワーク図]}} - 東日本旅客鉄道</ref>。なお、『鉄道要覧』においては全線通して「'''総武線'''」となっている。
貨物支線を除き[[旅客営業規則]]の定める大都市近郊区間の「[[大都市近郊区間 (JR)#東京近郊区間|東京近郊区間]]」、および[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Suica]]」の首都圏エリアに含まれている。千葉駅以東では路線案内に用いられる[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]として'''黄色'''({{Color|#ffd400|■}})が用いられている。
== 歴史 ==
本節では、千葉県内の鉄道敷設運動前後から総武鉄道設立、路線開業及び国有化以降の総武本線全体の沿革について記述する。
{{Main2|総武快速線開業以降の快速線の沿革|横須賀・総武快速線#歴史|<br>中央本線との相互直通運転開始以降の緩行線の沿革|中央・総武緩行線#歴史}}
=== 背景 ===
[[1872年]]([[明治]]5年)に[[日本の鉄道開業|日本最初の鉄道]]が新橋駅(後の旧国鉄[[汐留駅 (国鉄)|汐留駅]]) - 横浜駅(現在の[[桜木町駅]])間に開通し、その後、[[1884年]](明治17年)に[[日本鉄道]]会社が[[上野駅]]- [[高崎駅]]間に[[私鉄|民営鉄道]]を開業して良好な営業成績を上げたことなどをうけ、明治10年代後半に全国的な民営鉄道建設ブームが起きた。千葉県内でも鉄道敷設の機運が高まったが、当初は資金面から[[馬車鉄道]]の計画が多かった<ref name="sone 16">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 16頁]]</ref><ref name=":1">{{Cite book|author=|title=千葉県の鉄道史|year=1980|publisher=千葉県企画部交通計画課|pages=1-3,36}}</ref>。
=== 初期の鉄道敷設運動 ===
千葉県内では[[1886年]](明治19年)頃から[[蒸気機関車]]による鉄道建設の運動が始められ、[[1887年]](明治20年)11月に[[佐原市|佐原]]の伊能権之丞らが発起した'''武総鉄道会社'''と、[[成東町|成東]]の[[安井理民]]らが発起した'''総州鉄道会社'''が相次いで創立の申請を行った。しかし、当時は従来からの[[水運|水上交通]]の実績に対する評価が高く、また[[利根運河]]の開削も決まったばかりだったため、[[千葉県知事一覧|千葉県知事]]であった[[船越衛]]が鉄道敷設に対して慎重な姿勢をとるようになった。船越は両者に対し計画の翻意や[[合併 (企業)|合併]]を促してきたが、総州鉄道はこれに応じず[[東京府知事]]である[[高崎五六]]を通じて正式に鉄道敷設を出願した<ref>{{Cite web|和書|title=千葉県平民安井理民外五名東京ヨリ千葉県銚子港ニ至ル鉄道布設ヲ請ヒ同県平民伊能権之丞外十三名東京ヨリ千葉県佐原町ニ至ル鉄道布設ヲ請フ并ヒニ之ヲ允サス|url=https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_M0000000000001721308#|website=国立公文書館 デジタルアーカイブ|accessdate=2020-07-07|publisher=独立行政法人国立公文書館}}</ref>。これを受けて船越もやむなく千葉県知事として武総鉄道を[[内閣 (日本)|内閣]]に進達したが、「[[利根川|利根]]・[[江戸川|江戸]]両川の水運が至便であるうえに、この地方の状況は鉄道敷設を必要とするほど発展していない」などとして結局どちらも却下されている<ref name="sone 16" /><ref name=":1" />。
; [[1887年]](明治20年)11月に申請された計画ルート<ref name=":1" />
: 武総鉄道株式会社:[[本所 (墨田区)|本所]] - [[市川町 (千葉県)|市川]] - [[船橋町|船橋]] - [[千葉市|千葉]] - [[佐倉町|佐倉]] - [[成田町|成田]] - [[佐原町|佐原]]
: 総州鉄道株式会社:本所 - 市川 - 船橋 - 千葉 - 佐倉 - [[八街市|八街]] - [[芝山町|芝山]] - [[八日市場市|八日市]] - [[銚子町|銚子]]
=== 総武鉄道 ===
{{基礎情報 会社
|社名 = 総武鉄道
|ロゴ = [[File:SobuRyLogo.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[東京府]][[東京市]][[本所区]]横網町1丁目<ref name="NDLDC780119"/>
|設立 = [[1889年]](明治22年)12月<ref name="NDLDC780119"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|代表者 = 社長 [[青田綱三]]<ref name="NDLDC780119"/>
|資本金 = 6,000,000円<ref name="NDLDC780119"/><br />(払込高:4,800,000円)<ref name="NDLDC780119"/>
|特記事項 = 上記データは1907年(明治40年)現在<ref name="NDLDC780119">[{{NDLDC|780119/151}} 『日本全国諸会社役員録. 明治40年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
上述の経験から、競願の不利益さを悟った両社の発起人は合併を協議し、発起人に利根川水運の株主であった県会議長の[[池田栄亮]]などの有力者を加え、[[1889年]](明治22年)1月に'''総武鉄道株式会社'''を創立した。会社名称は[[上総国]](かずさのくに)・[[下総国]](しもうさのくに)と[[武蔵国]]を結ぶことに因む。総武鉄道は翌2月に再願を申請した。この時の出願では、利根運河との競合を避けるとともに[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の支持が得られるように[[国府台 (市川市)|国府台]]・[[津田沼]]・[[佐倉町|佐倉]](この計画線は直接通らないものの、[[習志野]]も隣接する)等の軍営所在地を通る以下のルートを採用し、その使命に「軍事輸送と政府開墾地への輸送」を掲げていた<ref name="sone 16" /><ref name=":1" />。
; 1889年(明治22年)1月に申請された計画ルート<ref name=":1" />
: 総武鉄道株式会社:[[本所 (墨田区)|本所]] - [[市川町 (千葉県)|市川]] - [[船橋町|船橋]] - [[千葉市|千葉]] - [[佐倉町|佐倉]] - [[八街市|八街]]
総武鉄道の狙いどおり「陸軍営所を通過し、用兵上にも便利である」とする[[陸軍省]]の意見が決め手となり、[[1889年]](明治22年)4月に仮免状が下付され、同年12月に小岩 - 佐倉間の免許状が降りた。ただし、計画の一部変更などにより、工事着手は[[1893年]](明治26年)8月となる<ref name="sone 16" /><ref name=":1" />。なお、[[1892年]](明治25年)に公布された[[鉄道敷設法]]で「[[東京府]]下上野ヨリ[[千葉県]]下[[千葉市|千葉]]、[[佐倉市|佐倉]]ヲ経テ[[銚子市|銚子]]ニ至ル鉄道及本線ヨリ分岐シテ[[木更津市|木更津]]ニ至ル鉄道」が将来建設されるべき鉄道として指定された。このころになるとルートの候補地となった各地域で様々な鉄道誘致運動が行われるようになる。なお、千葉県各所(船橋・千葉・佐倉・芝山・飯岡・茂原・流山等)で鉄道反対運動が行われたとの言説が市町村史や小学校副読本などで取り上げられることがあるが、当時の文献や記録にこれらを裏付けるものはなく、単なる[[鉄道忌避伝説]]であるとされる<ref name=":2">{{Cite book|author=白土貞夫|title=ちばの鉄道一世紀|date=|year=1996|accessdate=|publisher=崙書房|pages=14-25|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref><ref name=":3">{{Cite book|author=白土貞夫|title=千葉の鉄道|date=|year=2013|accessdate=|publisher=彩流社|pages=18-21}}</ref>。
[[1894年]](明治27年)7月20日に[[市川駅]] - [[佐倉駅]]間が開業し、千葉県内初の鉄道となる。直後の8月1日に日清両国で[[宣戦布告]]がなされ、早速[[日清戦争]]での兵員輸送に活用された。同年12月9日には[[江戸川]]を越えて本所駅(現在の錦糸町駅)に達した。総武鉄道は、[[1897年]](明治30年)5月1日に[[成東駅]]まで、同年6月1日には銚子駅まで延伸され、[[佐倉駅]]で[[成田線|成田鉄道]]との連絡も実現する<ref name="sone 16" /><ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref name=":3" />。
両国橋から都心部への延伸は[[1899年]](明治33年)に[[本所 (墨田区)|本所]] - [[秋葉原]]間の免許<ref group="注">総武鉄道は[[日本鉄道]]に[[日本の鉄道車両検査|車両修繕]]を委託する方針から秋葉原から[[上野]]まで路線を延伸する計画としていた。横網町([[両国 (墨田区)|両国]]付近) - 秋葉原間の建設は新橋 - 上野間竣工の時まで、という猶予がついていた。本所 - 両国橋間は[[山手線]]同様の[[煉瓦]]造りによる[[高架橋|高架]]線を計画していたが、資金不足により[[桁橋|プレートガーダー]]によって建設となった。</ref>を得、[[1904年]](明治37年)に両国橋駅(現在の両国駅)まで延伸され、ここを都心側のターミナルとした<ref name="sone 16" />。両国橋駅を利用する旅客はすでに開業していた[[路面電車]](のちの[[東京都電車|都電]])に乗り継いだ。なお、この当時は[[貨物]]扱いも両国橋駅で行い、ここから[[隅田川]]などの[[水運|舟運]]を利用して物資が東京市内へと運ばれた。
[[1907年]](明治40年)、[[鉄道国有法]]により買収・国有化され、官設鉄道の'''総武本線'''となった<ref name="sone 17">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 17頁]]</ref>。
=== 近代化と戦争 ===
鉄道開業により、総武本線の沿線には住宅地の拡大が両国から徐々に東側へ向けて始まった。また、1912年([[大正]]元年)に最初の区間が開業した京成電気軌道(現在の[[京成電鉄]])とは東京 - 船橋 - 千葉の都市間輸送で競合するようになり、東海道本線からは少し遅れたが総武本線の近代化に向けた取り組みが始まった<ref name="sone 17"/>。ただし、1923年(大正12年)9月1日には[[関東大震災]]で[[両国 (墨田区)|両国]]周辺で多数の犠牲者が出る惨事も起きた。復興計画が立てられる中、1926年(大正15年)には常磐線と連絡する貨物支線([[新金貨物線|新金線]])、1929年([[昭和]]4年)には東京湾岸に近い小名木川駅への支線(のちの[[越中島支線]])が開業し、旅客と貨物の分離が進められた。
震災復興をきっかけとして都心部への延伸が進められ<ref group="注">震災によって焦土となった延伸予定地周辺では、復興事業として区画整理が行なわれたため線路敷地の捻出が容易となった。直接買収を行なったのは駅拡張の必要な両国駅・御茶ノ水駅周辺や奇跡的に焼失を免れた[[神田佐久間町]]などにとどまった。</ref> 、1932年(昭和7年)7月1日には、御茶ノ水駅 - 両国駅間が延伸され、同区間で電車の運転を開始した<ref name=":3" /><ref name="sone 17"/>。これにより、総武本線は東京都心部で他の国鉄線と連絡するようになった。以降、1933年(昭和8年)3月に市川まで、同年9月には船橋駅まで電化区間が延長され、[[中央本線]][[中野駅 (東京都)|中野駅]]まで緩行電車として直通運転を実施するようになった<ref name="sone 17"/>。1935年(昭和10年)には、千葉駅までの電化が完成した。以後、総武本線は千葉駅を境に、住宅地が広がる地域で通勤形電車が頻繁に運転される御茶ノ水駅方面の西側と、農村や漁村を蒸気機関車牽引の客車列車が結ぶ銚子駅方面の東側に性格が二分された。
[[第二次世界大戦]]末期の1945年(昭和20年)[[3月10日]]、沿線で米軍による[[無差別爆撃]]、[[東京大空襲]]が実行され、一夜にして約10万人が死亡し、両国・錦糸町・亀戸などの各駅には多くの被災者が避難した。また、アメリカ軍が[[九十九里浜]]に上陸する日本侵攻作戦が予測され、日本軍は[[本土決戦]]に備えた[[決号作戦]]により総武本線で大量の軍事輸送を行ったが、同年8月15日に日本は[[ポツダム宣言]]受諾を発表し、沿線での大規模戦闘は回避された。
=== 戦後の改良 ===
戦時中の酷使並びに食糧難による買い出し客の殺到や資材不足により、終戦直後の総武本線が置かれた環境は劣悪であった。当初[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は国鉄の車両改善予算を承認しなかったが、両国駅で総武本線の木造客車を視察しそのあまりのボロさに仰天した担当官が即座にこれを認めたといわれる<ref name=":3" />。
その後、被災地域の復興や高度経済成長による東京都市圏の人口急増により、千葉以西が複線電化、千葉以東が単線非電化という総武本線の輸送事情は逼迫した。[[房総半島|房総]]方面の[[日本国有鉄道|国鉄]]の鉄道路線は、[[1953年]](昭和28年)に「気動車化モデル線区」に選定され[[国鉄キハ10系気動車#キハ17形(キハ45000形)|キハ17系]]が集中投入され<ref name=":3" />てある程度の近代化が進展していたが、電化の進展は[[1968年]](昭和43年)までは総武本線の御茶ノ水駅 - 千葉駅までに過ぎず、他の路線は非電化の状況であった。千葉・房総方面において[[機関車]]牽引でない“[[電車]]”は[[中央・総武緩行線|中央緩行線]]に直通する総武線国電(御茶ノ水駅から千葉駅までの各駅に停車)と私鉄である[[京成電鉄]]の路線だけであり、それ以外は[[蒸気機関車]]や[[ディーゼル機関車]]が走る、関東でも電化整備の遅れた地域であった。そのため、新たに発足した[[日本国有鉄道]](国鉄)は1964年(昭和39年)に決定した[[通勤五方面作戦]]の重要な一部として総武本線の輸送力増強に着手した。その中核として、国鉄初の本格的な都市内地下鉄道になる東京 - 錦糸町間の新線建設を含む東京 - 千葉間の快速線建設が決定された。
一方、千葉駅以東の近代化も徐々に進み、通勤路線としての性格が強まり、1968年(昭和43年)3月28日に総武本線・成田線の千葉駅 - 佐倉駅 - 成田駅間の電化が<ref group="新聞" name="chibanippo1968327">{{Cite news|title=待望の電化あす開業 千葉ー成田間、喜び乗せて祝賀電車、駅々に旗振る地元民|newspaper=[[千葉日報]]|pages=|publisher=千葉日報社|date=1968-03-27}}</ref>、同年7月13日に千葉駅 - 木更津駅間の電化がそれぞれ完成、同区間に電車が走れるようになり、朝夕には、成田駅・木更津駅発着のカナリアイエロー色の[[国鉄101系電車|101系]]電車を使用した直通電車が運行<ref name="RP2020 09">鉄道ピクトリアル2020年9月号 pp.70 - 71</ref><ref name="RP2021 09">鉄道ピクトリアル2021年9月号 p.14</ref>され、さらに、[[ヨンサントオ|同年10月1日のダイヤ改正]]から中央線の[[中野駅 (東京都)|中野駅]] - 木更津駅発着及び翌1969年(昭和44年)10月1日のダイヤ改正から中野駅 - 成田駅発着で毎日1時間に1 - 2本程度同電車を使用した電車快速が、また、同改正から御茶ノ水駅 - 千葉駅間では夜間下り2本の気動車快速列車が運行を開始した<ref name="RP943 17">[[#鉄ピク山田 943|{{Cite journal|和書 |author=山田亮 |date=2018-3 |title=横須賀線と総武快速線-通勤5方面作戦がもたらした異なる沿線文化同士の直通運転- |journal=鉄道ピクトリアル 【特集】横須賀・総武快速線 |volume=68 |issue=3号(通巻第943号) |page=17 |publisher=電気車研究会}}]]</ref>(なお、1975年(昭和50年)3月10日のダイヤ改正では千葉駅 - 銚子駅間にも快速列車が運行された。101系使用の直通電車および電車快速以外の詳細は[[#快速|後述]])。
{{Main2|101系電車使用の成田駅・木更津駅直通電車および電車快速|中央・総武緩行線#過去の運行列車}}
[[1972年]](昭和47年)7月には東京駅 - 錦糸町駅の地下トンネル区間及び津田沼駅までの複々線完成により総武快速線が開業した<ref name="sone 18">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 18頁]]</ref>。これにより起点が御茶ノ水駅から東京駅に変更され、新設された東京駅の地下ホームからは新たに設定された房総方面への特急列車が発着した。一方、総武鉄道時代から東京と千葉以東を結ぶターミナルとなっていた両国駅は、急行列車の発着は残されたものの、その重要性が大きく低下した。1974年(昭和49年)には銚子駅までの電化が完成し、東京からの直通電車特急「[[しおさい (列車)|しおさい]]」の運行が開始された<ref name="sone 18"/>。その後、1980年(昭和55年)には横須賀線との直通運転([[横須賀・総武快速線#SM分離|SM分離]]及びSF直結<ref name="RP943 20">鉄道ピクトリアル2018年3月号 p.20 山田亮「横須賀線と総武快速線-通勤5方面作戦がもたらした異なる沿線文化同士の直通運転」 電気車研究会</ref><ref name="鉄J198001">鉄道ジャーナル1981年1月号 P.143 吉村忠晃「SM分離SF直結したけれど」 鉄道ジャーナル社</ref>)が開始され、1981年(昭和56年)には千葉駅まで複々線区間が延長されて、当初の計画は完成した。これにより、国鉄による輸送は高速化され、国鉄は東京 - 船橋・千葉の都市間輸送で京成電鉄より優位に立った。また、1969年(昭和44年)には[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]](現在の[[東京地下鉄]])[[東京メトロ東西線|東西線]]が西船橋駅 - 津田沼駅間に乗り入れ、特に通勤輸送で総武本線(中央・総武緩行線)の負担を大きく軽減していた。さらに、紆余曲折を経て1978年(昭和53年)に新東京国際空港(現在の[[成田国際空港]])が開港すると、総武本線と成田線は京成電鉄を補完する鉄道アクセスルートとなった。なお、複々線化にあたり、[[成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律]](成田財特法)による補助金のかさ上げの適用を受けている<ref>{{Cite web|和書|date=2014年9月 |url=https://www.pref.chiba.lg.jp/kuushin/documents/seibikeikaku_.pdf |title=成田国際空港周辺地域整備計画 |format=PDF |publisher= |accessdate=2017-03-06}}</ref>。このような状況で[[1987年]](昭和62年)の[[国鉄分割民営化]]を迎え、総武本線は施設保有と旅客輸送がJR東日本、貨物輸送がJR貨物へ承継された。ただし、銚子漁港からの鮮魚・醤油輸送がトラックに切り替えられて銚子駅 - 新生駅の貨物線が廃止されたように、総武本線での貨物輸送量は減少していた。
=== 民営化前の出来事 ===
総武本線の大部分を管轄する国鉄千葉鉄道管理局(民営化後は[[東日本旅客鉄道千葉支社|JR東日本千葉支社]])では分割民営化に反対する[[国鉄千葉動力車労働組合]](千葉動労)の勢力が強く、[[1985年]](昭和60年)[[11月29日]]に千葉動労が実施した分割民営化反対[[ストライキ]]の際にはこれを支持する[[革命的共産主義者同盟全国委員会]](中核派)により[[国電同時多発ゲリラ事件]]が発生した。特に浅草橋駅は国鉄職員を含む約120人の中核派グループにより破壊・放火された。分割民営化後も千葉動労はJR東日本との対決を続け、特に千葉駅以東ではストライキによる列車運行の停止が毎年起こった。
=== 民営化後の展開 ===
総武本線を受け継いだJR東日本は総武本線の改良を続け、ATS-Pの設置を進めた。また、当初は貨物線で計画していた[[京葉線]]を旅客営業兼用に転換し、国鉄末期の1986年(昭和61年)の第1期区間開業に続いて1990年([[平成]]2年)に東京駅乗り入れを実現させた。[[内房線]]・[[外房線]]直通列車は定期特急の大半と快速の一部が総武本線(快速線)から京葉線に移行し、乗客の転移もあって、総武本線(快速線)の過密緩和に役立った。
1991年(平成3年)には[[成田新幹線]]の施設を転用した[[成田国際空港|成田空港]]旅客ターミナルへの鉄道乗り入れが実現し、総武本線(および成田線)では空港連絡特急「[[成田エクスプレス]]」の運行が始まって、アクセス路線としての重要性を増した<ref name="sone 19">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 19頁]]</ref>。ただし、1985年以降の[[東関東自動車道]]の延伸により、[[高速バス]]([[かしま号]]、[[犬吠号 (高速バス)|犬吠号、利根ライナー号]]、[[あそう号]]、[[東京 - 富里・多古線|東京 - 八日市場線]])の運行が拡大されると、「しおさい」などの「成田エクスプレス」以外の特急列車は本数削減や一部区間の普通列車化が行われ、総武本線(および成田線・[[鹿島線]])は東京と千葉県北東部・[[茨城県]]南東部を結ぶ都市間輸送で劣勢に立っていることが明確となった。
2000年(平成12年)の[[運輸政策審議会答申第18号]]では、2015年までに整備すべき路線として[[新浦安駅|新浦安]](京葉線) - [[船橋駅|船橋]] - [[津田沼駅|津田沼]]間の新線建設(船橋 - 津田沼間は3複線化)が提唱された。千葉方面からの総武本線の列車は津田沼から新線に乗り入れ、新浦安から京葉線経由で東京駅へ、あるいはこれも2015年を整備目標とする[[新宿駅|新宿]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面への延伸線に向かうことが想定されている。また、新木場 - 新浦安間の建設(複々線化)と新木場からの[[東京臨海高速鉄道]]([[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]])乗り入れも明記されたが、運営会社のJR東日本はこの建設計画についてまだ正式な発表を行っていない。
=== 年表 ===
本線と貨物支線(越中島支線・新金線)のそれぞれの路線開業から各駅の開業や複線化及び路線施設関連などの使用開始年月日について記述する。
==== 本線 ====
元は本線だった錦糸町駅 - 御茶ノ水駅間の支線も含めて記述する。
* [[1894年]]([[明治]]27年)
** [[7月20日]]:総武鉄道 市川駅 - 佐倉駅間が開業<ref name="sone 16"/><ref NAME=KY27>[{{NDLDC|805397/93}} 『鉄道局年報. 明治27年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。市川駅、船橋駅、千葉駅、佐倉駅が開業。
** [[12月9日]]:本所駅(現在の錦糸町駅)- 市川駅間が延伸開業。幕張駅・四ツ街道駅(現在の四街道駅)が開業<ref name="sone 16"/><ref NAME=KY27/>。
* [[1895年]](明治28年)
** [[4月12日]]:中山駅が開業<ref name="sone 16"/>。
** [[9月21日]]:津田沼駅が開業<ref name="sone 16"/>。
* [[1897年]](明治30年)
** [[5月1日]]:佐倉駅 - 成東駅間が延伸開業<ref name="sone 16"/>。八街駅、成東駅が開業。
** [[6月1日]]:成東駅 - 銚子駅間が延伸開業<ref name="sone 16"/>。横芝駅、八日市場駅、旭町駅(現在の旭駅)、飯岡駅、松岸駅、銚子駅が開業。
* [[1898年]](明治31年)
** [[1月25日]]:猿田駅が開業<ref name="sone 16"/>。
** [[2月25日]]:松尾駅・干潟駅が開業<ref name="sone 16"/>。
* [[1899年]](明治32年)
** [[4月28日]]:平井駅が開業<ref name="sone 16"/>。
** [[5月24日]]:小岩駅が開業<ref name="sone 16"/>。
** [[9月13日]]:稲毛駅が開業<ref name="sone 16"/>。
** [[10月12日]]:日向駅が開業<ref name="sone 16"/>。
* [[1904年]](明治37年)
** [[3月29日]]:亀戸駅が開業<ref name="sone 16"/>。
** [[4月5日]]:両国橋駅(現在の両国)- 本所駅間が延伸開業。同日開業の[[東武鉄道]][[東武亀戸線|亀戸線]]が両国橋駅 - 亀戸駅間に乗り入れ開始<ref name="sone 16"/>。
* [[1907年]](明治40年)
** [[8月29日]]:両国橋駅 - 亀戸駅間が複線化<ref name="sone 17"/>。
** [[9月1日]]:鉄道国有法により買収、国有化<ref name="sone 17"/>。
** [[11月1日]]:四ツ街道駅が四街道駅に改称。
* [[1908年]](明治41年)
** [[6月17日]]:平井駅 - 小岩間駅、市川駅 - 船橋駅間、稲毛駅 - 千葉駅間が複線化<ref name="sone 17"/>。
** [[7月17日]]:船橋駅 - 津田沼駅間が複線化<ref name="sone 17"/>。
** [[9月15日]]:亀戸駅 - 平井駅間、津田沼駅 - 稲毛駅間が複線化<ref name="sone 17"/>。
** [[10月14日]]:小岩駅 - 市川駅間が複線化<ref name="sone 17"/>。
* [[1909年]](明治42年)10月12日 [[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定により、'''総武本線'''になる<ref name="sone 17"/>。
* [[1910年]](明治43年)[[3月27日]]:東武亀戸線の両国橋駅 - 亀戸駅間への直通運転廃止<ref name="sone 17"/>。
* [[1911年]](明治44年)[[3月4日]]:四街道駅 - 佐倉駅間に物井信号所が開業<ref name="sone 17"/>。
* [[1912年]]([[大正]]元年)11月1日 千葉駅 - 四街道駅間に都賀信号所が開業<ref name="sone 17"/>。
* [[1914年]](大正3年)[[9月10日]]:南酒々井駅が開業<ref name="sone 17"/>。
* [[1915年]](大正4年)
** 5月1日:本所駅が錦糸町駅に改称<ref name="sone 17"/>。
** 9月11日:中山駅が下総中山駅に改称<ref name="sone 17"/>。
* [[1922年]](大正11年)[[4月1日]]:信号所が信号場に改称。
* [[1926年]](大正15年)
** [[2月14日]]:平井駅 - 小岩駅間に新小岩信号場が開業<ref name="sone 17"/>。
** [[7月1日]]:新小岩信号場が新小岩操車場に変更<ref name="sone 17"/>。
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[7月10日]]:新小岩操車場が駅に変更され、新小岩駅が開業<ref name="sone 17"/>。
* [[1931年]](昭和6年)[[10月1日]]:両国橋駅が両国駅に改称<ref name="sone 17"/>。
* [[1932年]](昭和7年)
**[[3月15日]]:鉄道省電化計画委員会が両国駅 - 市川駅間の電化を決定。総工費は291万円、両国駅 - 亀戸駅間に電車専用線を新設し、市川駅に車庫、亀戸駅に変電所を新設、電力は自家変電・[[東京電燈|東電]]からの買電を併用する計画案であった。計画案においては、運転時間は約20分で、平常時は2両運転・ラッシュアワーは4両運転とし、いずれも4分おきでの運転とした。また、翌年3月中に工事を完成させ、4月1日から運転を開始するとした<ref group="新聞">{{Cite news|title=兩國、市川間の電化决定|date=1932-03-16|newspaper=讀賣新聞夕刊|page=2|pages=|at=5段目}}</ref>。
**7月1日:御茶ノ水駅 - 両国駅間が延伸開業(複線、旅客営業のみ)。同区間で電車の運転開始<ref name="sone 17" />。
**[[12月27日]]:鉄道省が市川駅 - 船橋駅間の電化を決定。予算は50万円<ref group="新聞">{{Cite news|title=市川船橋間の電化决定 明年着工區域|date=1932-12-28|newspaper=讀賣新聞朝刊|page=2|at=8段目}}</ref>。
* [[1933年]](昭和8年)
**[[3月15日]]:両国駅 - 市川駅間が電化<ref name="sone 17"/>。電車は御茶ノ水駅 - 市川駅間において、三等車2両連結・10分間隔(ラッシュアワー8分間隔)で運転された。列車は同区間を無停車とした<ref group="新聞">{{Cite news|title=兩國・市川間の電車 いよ〱今日から運轉|date=1933-03-15|newspaper=東京日日新聞朝刊|agency=大阪毎日新聞社|issue=20330|at=3段目|page=11}}</ref>。また、省線電車と同様特定運賃制を実施した<ref group="新聞">{{Cite news|title=兩國・市川間 近く電車運轉|date=1933-02-14|newspaper=朝日新聞朝刊|page=7|at=5段目}}</ref>。
** 9月15日:市川駅 - 船橋駅間が電化。中央線中野駅まで緩行電車として直通運転開始<ref name="sone 17"/>。市川駅 - 千葉駅間16往復のガソリンカーが船橋駅 - 千葉駅間30往復に増加して運転された。船橋駅 - 千葉駅間は20分間隔の運転で、千葉以遠の列車は両国駅 - 千葉駅間をノンストップで走った<ref group="新聞">{{Cite news|title=愈々15日から中野と東京間急行電車 船橋まで省電延長 千葉船橋間にガソリンカー|date=1933-09-02|newspaper=朝日新聞朝刊|page=3|参照=|at=2段目}}</ref>。
* [[1935年]](昭和10年)
** 7月1日:船橋駅 - 千葉駅間が電化<ref>[{{NDLDC|1114644/104}} 『鉄道省年報. 昭和10年度』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>。
** 9月1日:本八幡駅が開業<ref name="sone 17"/>。
* [[1937年]](昭和12年)4月5日:物井信号場が駅に変更され、物井駅が開業。
* [[1942年]](昭和17年)10月1日:西千葉駅が開業<ref name="sone 17"/>。
* [[1944年]](昭和19年)[[4月1日]]:[[決戦非常措置要綱]]に基づき、総武本線(両国-銚子間)の列車の[[二等車]]が廃止される<ref>国鉄一等車、寝台車は全廃(昭和19年3月25日 朝日新聞 『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p784 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1951年]](昭和26年)[[7月15日]]:新検見川駅が開業<ref name="sone 18"/>。
* [[1958年]](昭和33年)
** 4月1日:榎戸駅が開業<ref name="sone 18"/>。
** [[11月10日]]:西船橋駅が開業<ref name="sone 18"/>。
* [[1959年]](昭和34年)10月1日:旭町駅が旭駅に改称。
* [[1960年]](昭和35年)6月1日:倉橋駅が開業<ref name="sone 18"/>。
* [[1963年]](昭和38年)4月28日:房総東線(現在の外房線)のスイッチバック解消のため千葉駅を西千葉寄りに0.8 km移転<ref name="sone 18"/>。
* [[1964年]](昭和39年)10月1日:飯倉駅が開業<ref name="sone 18"/>。
* [[1965年]](昭和40年)
** [[2月1日]]:[[自動列車停止装置#B形(軌道電流形)・S形(地上子形)|ATS-S]]を導入<ref>{{Cite news |和書|title=国鉄主要幹線のATS化進む |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1965-02-02 |page=2 }}</ref>。
** [[9月30日]]:千葉駅 - 四街道駅間が複線化および[[鉄道信号機#自動信号機|自動信号化]]<ref name="sone 18"/>。都賀信号場が仮乗降場に変更され都賀仮乗降場が開業。
** [[12月20日]]:東千葉駅が開業<ref name="sone 18"/>。
* [[1966年]](昭和41年)[[9月25日]]:四街道駅 - 物井駅間が複線化および自動信号化<ref name="sone 18"/>。
* [[1967年]](昭和42年)[[12月21日]] - 臨時新東京国際空港閣僚協議会決定「[[s:新東京国際空港関連事業計画について|新東京国際空港関連事業計画について]]」において、成田空港供用開始(1971年予定)までを目途に、東京・千葉間の複々線化の整備をすすめるとされる。
* [[1968年]](昭和43年)
** 2月25日:物井駅 - 佐倉駅間が複線化および自動信号化(同時に成田線佐倉駅 - 成田駅間も自動信号化<!-- 佐倉駅 - 成田駅間の複線化は1986年完成-->)<ref name="sone 18"/>。
** [[3月28日]]:千葉駅 - 佐倉駅間が電化(同時に成田線佐倉駅 - 成田駅間も電化)<ref name="sone 18"/><ref group="新聞" name="chibanippo1968327"/>。都賀仮乗降場が駅に変更され、都賀駅が開業。
** 6月1日:新小岩駅から貨物扱い・操車場業務を分離して新小岩操駅が開業。
* [[1970年]](昭和45年)
** 1月7日:船橋駅 - 西船橋駅間の踏切で踏切警手が遮断機を下げ損ねて乗用車と電車が衝突。2人が負傷<ref>朝食の支度に夢中で 遮断機しめ遅れ 車はねられ二人けが『朝日新聞』1970年(昭和45年)1月7日夕刊 3版 9面</ref>。
** [[5月18日]]:上り普通電車の電気系統が故障して暴走する事件が発生。津田沼駅の手前を走行中にドアが開き、ブレーキが効かないまま津田沼駅、船橋駅、西船橋駅を通過。乗員に加え乗客らが[[手ブレーキ]]を操作したことにより下総中山駅構内にて停車させることに成功した。乗客約500人に負傷者無し<ref>乗客はうしろへ 暴走総武線緊迫の車内『朝日新聞』1970年(昭和45年)5月19日朝刊 12版 3面</ref>。
** [[7月12日]]:新小岩駅 - 西船橋駅間が高架化<ref>{{Cite news |和書|title=新高架線がオープン |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1970-07-14 |page=2 }}</ref>。
* [[1971年]](昭和46年)[[7月5日]]:亀戸駅 - 新小岩駅間が3線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●総武本線亀戸・新小岩間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1971-07-03 |page=4 }}</ref>。
* [[1972年]](昭和47年)
** 3月28日:[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#船橋駅構内追突事故|船橋駅構内追突事故]]。
** [[6月4日]]:新小岩駅 - 津田沼駅間が複々線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●総武本線新小岩・津田沼間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1972-06-03 |page=4 }}</ref>。
** 7月15日:東京駅 - 錦糸町駅間が開業(複線、旅客営業のみ)。総武本線の起点が東京駅に変更され、錦糸町駅 - 御茶ノ水駅間は支線として分離。錦糸町駅 - 亀戸駅間が複々線化。亀戸駅 - 新小岩駅間が5線化<ref name="sone 18"/>。
* [[1974年]](昭和49年)
** [[2月2日]]:佐倉駅 - 銚子駅間が自動信号化。
** 3月15日:千葉駅 - 銚子駅間に [[列車集中制御装置]] (CTC) が導入<ref name="sone 18"/>。
** 10月1日:両国駅 - 新小岩操駅間の貨物営業廃止。
** [[10月26日]]:佐倉駅 - 銚子駅間が電化され、本線の電化が完成<ref name="sone 18"/>。
* [[1978年]](昭和53年)[[3月17日]]:成田空港への航空燃料輸送(暫定輸送)開始<ref name=":4" />。
* [[1979年]](昭和54年)
** [[7月7日]]:新検見川駅 ‐ 千葉駅間が複々線化。
** [[7月9日]]:新検見川駅 - 千葉駅間が高架化<ref>{{Cite journal ja-jp |author=[[白土貞夫]] |year=1979 |month=10 |title=総武線新検見川-千葉間高架線完成 |journal=[[鉄道ピクトリアル]] |serial= 通巻366号 |volume = 29巻 |issue = 10号|page= 68 |publisher=[[電気車研究会]] }}</ref>。
* [[1980年]](昭和55年)
**[[10月1日]]:横須賀線との直通運転(SM分離)開始。
**[[11月28日]]:稲毛駅 - 西千葉駅間に黒砂信号場が開業。
* [[1981年]](昭和56年)
** 7月5日:津田沼駅 - 新検見川駅間が複々線化<ref name="sone 19"/>。
** 10月1日:東船橋駅・幕張本郷駅が開業<ref name="sone 19"/>。
*[[1983年]](昭和58年)8月:成田空港本格パイプライン稼働開始により、暫定輸送終了。
* [[1986年]](昭和61年)11月1日:成東駅 - 銚子駅間の貨物営業廃止。新小岩操駅が廃止され、新小岩操車場に変更<ref name="sone 19"/>。
* [[1987年]](昭和62年)
** [[3月31日]]:新小岩操車場が貨物駅に変更され、新小岩操駅が開業。
** 4月1日:国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道に承継。新小岩操駅 - 成東駅間は日本貨物鉄道が第二種鉄道事業者となる<ref name="sone 19"/>。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[3月25日]]:御茶ノ水駅 - 千葉駅間(緩行線)で ATS-P 使用開始<ref group="新聞">{{Cite news |title=ATS-P 東京圏中心に導入 工事急ピッチ JR東日本 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1990-07-16 |page=3 }}</ref>。
* [[1993年]](平成5年)
** [[10月24日]]:錦糸町駅 - 市川駅間で ATS-P 使用開始<ref name="sone 19"/>。
** [[10月31日]]:市川駅 - 千葉駅間で ATS-P 使用開始<ref name="sone 19"/>。
* [[1994年]](平成6年)[[10月28日]]:千葉駅 - 佐倉駅間で ATS-P 使用開始<ref name="sone 19"/>。
* [[1997年]](平成9年)[[3月22日]]:成東駅 - 銚子駅間の普通列車がすべて禁煙となる<ref>{{Cite news |title=普通列車内の禁煙・分煙化 JR千葉支社22日から拡大 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-03-12 |page=3 }}</ref>。
* [[1999年]](平成11年)
** [[5月29日]]:御茶ノ水駅 - 千葉駅間(緩行線)で[[東京圏輸送管理システム]] (ATOS) が導入される。
** 3月31日:佐倉駅 - 成東駅間の日本貨物鉄道の第二種鉄道事業廃止<ref name="sone 19"/>。
* [[2000年]](平成12年)9月30日:東京駅 - 幕張駅間で ATOS が導入される。
* [[2001年]](平成13年)[[2月4日]]:佐倉駅 - 成東駅間で ATS-P 使用開始<ref name="sone 19"/>。
* [[2004年]](平成16年)[[2月29日]]:東京駅 - 錦糸町駅間が ATC から ATS-P に変更<ref name="sone 19"/><ref group="新聞">{{Cite news |title=保安装置、ATS-Pに |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2004-03-08 |page=1 }}</ref>。
* [[2005年]](平成17年)[[12月10日]]:183系、189系を置き換える関係から特急に[[JR東日本E257系電車#500番台|E257系500番台]]が投入され、運用を開始。
* [[2006年]](平成18年)[[10月21日]]:211系3000番台が運用開始。
* [[2009年]](平成21年)
** [[3月14日]]:成東駅 - 銚子駅間が[[大都市近郊区間 (JR)#東京近郊区間|東京近郊区間]]に組み込まれ、同時にICカード「[[Suica]]」サービス開始<ref group="報道">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf Suicaをご利用いただけるエリアが広がります。]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2008年12月22日</ref>。
** 10月1日:113系の老朽化などの事由により、千葉駅 - 成東駅 - 銚子駅間に4ドア車の[[JR東日本209系電車|209系]]2000番台・2100番台が運用開始<ref group="報道">{{PDFlink|[http://www.jrchiba.jp/news/pdf/20090821209kei.pdf 普通列車の車両変更について]}} - 東日本旅客鉄道千葉支社プレスリリース 2009年8月21日</ref>
** [[10月4日]]:成東駅 - 銚子駅間で ATS-P 使用開始。
* [[2010年]](平成22年)[[3月12日]]:この日を最後に荷物列車廃止。
* [[2011年]](平成23年)[[3月12日]]:新小岩操駅が新小岩信号場駅に改称。
* [[2020年]](令和2年)[[2月16日]]:千葉駅で内房線・外房線・総武本線・成田線ホームに ATOS を導入。
==== 越中島支線 ====
* [[1929年]](昭和4年)[[3月20日]]:亀戸駅 - 小名木川駅間が開業<ref name="sone 17"/>。
* [[1958年]](昭和33年)[[11月10日]]:小名木川駅 - 越中島駅(現在の越中島貨物駅)間が延伸開業<ref name="sone 18"/>。
* [[1966年]](昭和41年)[[10月1日]]:全線で自動信号化。
* [[1971年]](昭和46年)[[7月5日]]:起点が新小岩操駅に変更される。
* [[1984年]](昭和59年)2月1日:小名木川駅 - 越中島駅(現在の越中島貨物駅)間の運転方式が入換方式に変更。
* [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]:新小岩操駅廃止のため、起点が小岩駅に変更される<ref name="sone 19"/>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道に承継。日本貨物鉄道が第二種鉄道事業者となる<ref name="sone 19"/>。
* [[1990年]](平成2年)[[3月10日]]:京葉線越中島駅との区別のため、越中島駅が越中島貨物駅に改称<ref name="sone 19"/>。
* [[2000年]](平成12年)[[12月2日]]:小名木川駅が廃止<ref name="sone 19"/>。
* [[2001年]](平成13年)[[3月1日]]:千葉総合指令室から東京総合指令室に移管。
* [[2011年]](平成23年)[[3月12日]]:新小岩操駅が新小岩信号場駅に改称。
==== 新金線 ====
* [[1926年]](大正15年)[[7月1日]]:新小岩操車場 - 金町駅間が開業<ref name="sone 17"/>。
* [[1928年]](昭和3年)[[7月10日]]:新小岩操車場が新小岩駅に変更。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[9月25日]]:全線で電化。
** [[10月1日]]:全線で自動信号化。
* [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]:新小岩操駅廃止のため、起点が小岩駅に変更される<ref name="sone 19"/>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道に承継。日本貨物鉄道が第二種鉄道事業者となる<ref name="sone 19"/>。
* [[2001年]](平成13年)[[3月1日]]:千葉総合指令室から東京総合指令室に移管。
* [[2011年]](平成23年)[[3月12日]]:新小岩操駅が新小岩信号場駅に改称。
==== 貨物支線 ====
* [[1900年]](明治33年)[[3月28日]]:銚子駅 - 新生駅間が延伸開業<ref name="sone 16"/>。
* [[1978年]](昭和53年)[[4月1日]]:廃止<ref name="sone 18"/>。
== 運行形態 ==
総武本線を運行する列車の形態を、成田線・外房線・内房線直通列車及び途中区間から乗り入れる列車も含め記述する。
=== 優等列車 ===
総武本線を運行する[[優等列車]]として、下記の[[特別急行列車|特急列車]]が運転されている。詳細は各列車の記事を参照。
* [[しおさい (列車)|しおさい]]
** 東京駅 - 千葉駅 - 佐倉駅・成東駅・銚子駅間
* [[成田エクスプレス]]
** [[成田国際空港|成田空港]]へのアクセス特急。[[大船駅]]・[[八王子駅]]・新宿駅 - 東京駅 - [[成田空港駅]]間
* [[わかしお (列車)|新宿わかしお]]
** 新宿駅 - 千葉駅 - 茂原駅 - [[安房鴨川駅]](千葉駅以南は外房線)…土曜・休日のみ(臨時列車扱い)
* [[さざなみ (列車)|新宿さざなみ]]
** 新宿駅 - 千葉駅 - 木更津駅 - [[館山駅]](千葉駅以南は外房線・内房線)…土曜・休日のみ(臨時列車扱い)
* [[あずさ (列車)|あずさ]]
** [[松本駅]] - 新宿駅 - 千葉駅…朝(3号 松本行き、千葉駅 - [[大月駅]]間で富士回遊と[[多層建て列車|併結]])・夜(松本始発50号 千葉行き)のみ運転
* [[富士回遊]]
** [[河口湖駅]] ← [[富士山駅]] ← 新宿駅 ← 千葉駅 …あずさ3号と併結で、河口湖方面のみ運転
=== 地域輸送 ===
==== 東京駅・御茶ノ水駅 - 千葉駅間 ====
{{Main|横須賀・総武快速線|中央・総武緩行線}}
[[ファイル:SobuLineStops.svg|500px|総武本線(電車特定区間)停車駅表]]
[[電車特定区間]]である[[東京駅]]・[[御茶ノ水駅]] - [[千葉駅]]間は、[[1972年]](昭和47年)の複々線化により快速線と緩行線に分かれ、東京駅経由で快速線を走行する快速電車([[横須賀・総武快速線|総武快速線]]、案内上は「横須賀・総武線快速」)と、御茶ノ水駅を経由し緩行線を走行する各駅停車([[中央・総武緩行線|総武緩行線]]、案内上は「中央・総武線各駅停車」)の2系統に分かれている。[[1981年]](昭和56年)に錦糸町駅 - 千葉駅間が完全複々線化されて以降は、両者の線路・車両・[[ダイヤグラム|ダイヤ]]もそれぞれ独立したものとなっている。
快速電車は東京駅 - 錦糸町駅で地下線を走行し、東京駅以南は[[東海道本線]](品川駅 - 武蔵小杉駅 - 鶴見駅間は通称[[品鶴線]])を経由して[[横須賀線]]と直通運転を行っている(旅客案内などでは東海道本線の区間も含めて「横須賀線」と称される)ほか、総武本線も含めた千葉駅以東(総武本線・成田線・鹿島線)・以南([[外房線]]・[[内房線]])に直通する列車もある。
黄色帯の電車で運行される各駅停車は錦糸町駅から御茶ノ水駅方面への支線へ乗り入れ、同駅から[[中央本線]]の[[三鷹駅]]まで直通するが、千葉駅以南・以東への乗り入れは設定されていない。また平日の朝夕には[[西船橋駅]]で[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ東西線|東西線]]から緩行線[[津田沼駅]]に乗り入れる列車もある。なお将来的な[[ホームドア]]設置実施に伴い、[[2020年]][[3月14日]]のダイヤ改正<ref name="jreast20191213">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|format=PDF|title=2020年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-12-13|accessdate=2019-12-14}}</ref><ref name="jreast-chiba20191213">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1912_daikai.pdf|format=PDF|title=2020年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2019-12-13|accessdate=2019-12-14}}</ref>から、[[中央線快速|中央線]]は東京駅発着の各駅停車の運行を廃止して快速・特別快速などの速達列車のみを終日運転することになり、これに付随して、中央・総武緩行線は早朝・深夜における御茶ノ水駅折り返しおよび武蔵小金井方面への直通を廃止し、全列車を千葉駅 - 御茶ノ水駅経由 - 三鷹駅までの相互直通運転のみとなった。
==== 千葉駅 - 銚子駅間 ====
千葉駅以東では普通・快速の2種別が設定されている。2022年3月改正までは[[横須賀・総武快速線#通勤快速|通勤快速]]が運行されていた。普通列車は旭駅 - 銚子駅間と(成田駅 - )松岸駅 - 銚子駅間の区間列車を除き千葉駅に乗り入れるが、東京方面千葉駅以西へは乗り入れない。
逆に快速列車は、上り1本を除くすべての定期列車が千葉駅以西の快速線(多くはさらに横須賀線)に乗り入れる。佐倉駅から先の[[成田線]]直通成田駅・成田空港駅発着列車と佐倉駅発着の列車がほとんど<ref group="注">数本は成田駅からさらに佐原駅・香取駅経由[[鹿島線]]鹿島神宮駅発着</ref>で、佐倉駅を越えて当線を走行する列車は、朝の成東発の快速上り1本と、夜間の成田空港・成東行きとその折り返し(佐倉駅 - 成東駅間は普通列車)のみである。
なお、千葉駅 - 佐倉駅間および松岸駅 - 銚子駅間は、成田線内、佐原駅・香取駅経由[[鹿島線]]鹿島神宮駅発着あるいは佐倉駅 - 松岸駅間で成田線を経由<ref group="注">総武本線経由に比べて営業キロ数で13.4 km長い。</ref>する列車も乗り入れている。
日中の1時間毎の運行本数をまとめると、以下のとおりになる(2020年3月14日改正時点)。ただし、一部時間帯で快速列車が1本となり、代わりに千葉駅 - 成田線成田駅間の各駅停車が1本運転される。2023年3月のダイヤ改正からは、快速列車が1本となり、その代わりとして千葉駅 - 成田線成田空港駅間の各駅停車が1本運行されるようになる。
{| class="wikitable" style="font-size:85%;"
|-
!colspan="2"|種別\駅名
!…
!colspan="2"|千葉
!…
!colspan="2"|佐倉
!…
!colspan="2"|成東
!…
!colspan="2"|松岸
!銚子
|- style="text-align:center;"
!rowspan="4" style="width:1em;"|運行本数
| style="background:#87cefa;"|快速
|colspan="5" style="background:#87cefa;"| 2本 ||style="text-align:left;" colspan="8" |→<small>成田線</small> 成田空港
|- style="text-align:center;"
|rowspan="3" style="background:#90ee90;" |各駅停車
|colspan="2"| ||colspan="11" style="background:#90ee90;"| 1本
|- style="text-align:center;"
|colspan="2"| ||colspan="6" style="background:#90ee90;"| 1本||colspan="5"|
|- style="text-align:center;"
|style="text-align:right;" colspan="11"|成田 <small>成田線</small>←||colspan="2" style="background:#90ee90;"| 1本
|}
千葉駅 - 銚子駅間の普通列車は、成田線経由の列車も含めてすべて最大8両編成で運転されている<ref group="注">これは東千葉駅のホーム有効長が8両分までしかないことに起因する。</ref>。しかし、内房線・外房線とは違って、両数はまちまちである。
[[夜間滞泊|夜間留置]]の都合上、旭駅 - 銚子駅間の列車や横芝駅発着の列車も設定されている。横芝駅発着に関しては2010年3月12日までは始発のみの扱いで、到着は回送列車であった。2023年のダイヤ改正からは八街行きが新設される。
[[File:209系2100番台 横芝 LED表示.jpg|220px|thumb|none|下り最終列車として1本のみ設定されている横芝行き(側面LED表示)]]
=== 貨物輸送 ===
[[ファイル:航空燃料暫定輸送鉄道ルート案略図.jpg|サムネイル|航空燃料暫定輸送鉄道ルート案。実際の京葉ルートでは、一度千葉駅を通過して幕張駅で折り返していた<ref>{{Cite journal|和書|year=2021|date=2021-2-20|title=証言 DD51 成田空港ジェット燃料輸送|journal=ジェイ・トレイン|issue=81|page=37|ASIN=B08TYSB939}}</ref>。]]
貨物列車は[[金町駅]] - [[新小岩信号場駅]] - [[佐倉駅]]間で運行される。しかし、総武本線の駅を発着する定期貨物列車は設定されていない。2014年3月改正時点では、[[東海道貨物線]][[東京貨物ターミナル駅]]および[[武蔵野線]][[越谷貨物ターミナル駅]]から[[鹿島臨海鉄道鹿島臨港線]][[神栖駅]]へ向かう[[高速貨物列車]]1往復ずつ、常磐線[[隅田川駅]]から[[京葉臨海鉄道]][[千葉貨物駅]]へ向かう高速貨物列車1往復、東海道貨物線[[川崎貨物駅]]から千葉貨物駅へ向かう[[専用貨物列車]]1往復が、総武本線を経由する<ref>{{Cite_journal|和書|author=|year=2014|title=|journal=貨物時刻表 平成26年3月ダイヤ改正|issue=|pages=134|publisher=鉄道貨物協会}}</ref>。専用貨物列車は[[コンテナ車]]のほか、[[ホッパ車]]や[[タンク車]]が併結されることもある。
かつて、成田空港への本格パイプラインが稼働するまでの間、[[航空燃料]]を[[千葉港]]から空港まで輸送する列車が総武線を経由していた(暫定輸送)<ref name=":4">{{Cite book|author=原口和久|title=成田 あの一年|year=2002|publisher=崙書房|page=92}}</ref>。
新小岩信号場駅 - [[越中島貨物駅]]間は定期貨物列車は運行されていないが、レール輸送用の臨時専用貨物列車が日曜日を除き3往復運行される<ref>{{Cite_journal|和書|author=|year=2014|title=|journal=貨物時刻表 平成26年3月ダイヤ改正|issue=|pages=133|publisher=鉄道貨物協会}}</ref>。
=== 過去の列車 ===
この節では、過去に総武本線全線及び成田線・鹿島線・外房線・内房線へ直通した列車を記述する。
==== 特急・急行・準急 ====
{{節スタブ|date=2020年12月}}
{{Main2|各列車の沿革は、「[[しおさい (列車)#総武本線優等列車沿革]]」「[[あやめ (列車)#成田線・鹿島線優等列車沿革]]」「[[さざなみ (列車)#内房線優等列車沿革]]」「[[わかしお (列車)#外房線優等列車沿革]]」もそれぞれ}}
特急列車は2004年10月まで「すいごう」が、2015年3月までは「あやめ」が運行されていた。また、1991年より「成田エクスプレス」が運行開始されるが、外房線直通の「[[わかしお (列車)|わかしお]]」や内房線直通の「[[さざなみ (列車)|さざなみ]]」も当線(総武快速線)経由で運転されていたが、以後は[[京葉線]] [[海浜幕張駅|海浜幕張]]・[[蘇我駅]]経由となった。
急行・準急列車は、北総3線(総武・成田・鹿島線)は「犬吠」・「水郷」・「鹿島」・「京葉」・「総武」などが、房総方面は「内房(うち房)」・「外房(そと房)」、房総半島1周列車として「なぎさ」(内房線回り)・「みさき」(外房線回り)などが運行された。
==== 快速 ====
この節では、1972年(昭和47年)7月15日以前の御茶ノ水駅 - 千葉駅間と、千葉駅 - 銚子駅間にそれぞれ運行されていた列車について記述する。
{{Main2|1968年10月1日のダイヤ改正以降に中野駅 - 成田駅(1969年10月1日から)・木更津駅間で運行された101系電車を使用した快速は「[[中央・総武緩行線#快速]]」を}}
===== 御茶ノ水駅 - 千葉駅間 =====
1968年10月1日のダイヤ改正から御茶ノ水駅 - 千葉駅間で夜間下り2本のみ設定された気動車快速。新宿駅まで到着した上り急行「そと房」8号(安房鴨川発新宿行き)と、急行「犬吠」4号(銚子発新宿行き)・「水郷」5号(佐原発新宿行き)<ref group="注">「そと房」が新宿駅19:45着、「犬吠」と「水郷」が新宿駅20:00着。「犬吠」と「水郷」は佐倉駅から併結される。</ref>の千葉気動車区への回送列車を客扱いしたもので、当時としては画期的な発想だった<ref name="RP943 17" />。途中停車駅は、秋葉原駅・両国駅・船橋駅で、運行ダイヤは御茶ノ水駅20:09発→千葉駅21:00着(「そと房」8号→2251D)と、御茶ノ水駅20:36発→千葉駅21:30着(「犬吠」4号・「水郷」5号→2259D)であった<ref name="RP943 17" /><ref name="鉄ピク長谷川698 70">[[#鉄ピク長谷川 698|{{Cite journal|和書 |author=長谷川明 |date=2001-3 |title=横須賀・総武快速線列車運転の興味 |journal=鉄道ピクトリアル 【特集】 横須賀・総武快速線 |volume=51 |issue=3号(通巻第698号)|pages=70 - 71 |publisher=電気車研究会}}]]</ref>{{Refnest|group="注"|時刻はいずれも同年10月1日のダイヤ改正時の時刻。その後のダイヤ改正毎に多少の時刻変更があり、2251Dは御茶ノ水駅20:07発→千葉駅21:01着、2259Dは御茶ノ水駅20:36発→千葉駅21:14着となった時期もあった<ref name="RP943 17" /><ref name="鉄ピク長谷川698 70" />。}}。快速列車なので当然特別料金は不要、そのためか1971年10月12日付けの交通新聞の「好評の回送利用快速気動車」「毎日満席のモテぶり」と題した乗車ルポには、「船橋、千葉へ帰る通勤客に根強い人気があり、御茶ノ水、秋葉原で国電を見送ってでもこの列車に乗ろうという固定客が多い」「乗車効率もよく座席は毎日全席が埋まる」「2251Dがグリーン車を1両含む7両、2259Dが普通車10両、両方合わせて毎日1500人が利用している」なとど記事に記載され、また、車両の間合いによっては、キハ28形などの冷房車が充当され、急行列車なので座席もボックス形でゆっくりと座って帰れるので、混雑する上に立ったままの乗車を強いられる国電と比べるとまさに天国と利用客からは大変好評であった<ref name="RP943 17" />。この列車は当時1年間限定の運転予定が、1972年7月15日の複々線化の前日まで運転された<ref name="RP943 17" />。また、この列車は[[ホームライナー]]の元祖といえるもので、このアイデアは1984年の東北本線の「ホームライナー大宮」で復活している<ref name="鉄ピク長谷川698 70" />。
===== 千葉駅 - 銚子駅間 =====
1975年3月10日のダイヤ改正で千葉駅 - 銚子駅間に1日1往復設定された快速で、東京駅 - 千葉駅間の快速が「総武快速」と呼ばれたのと区別するため、この快速は「千葉快速」と呼ばれた<ref>鉄道ピクトリアル2021年9月号 №989 p.22 2021年9月1日発行</ref>。朝に上り、夜に下りが運転され、当初の停車駅は千葉駅・四街道駅・佐倉駅・八街駅・成東駅・松尾駅・横芝駅・八日市場駅・旭駅・飯岡駅・松岸駅・銚子駅だったが、1978年10月2日のダイヤ改正で都賀駅・干潟駅が停車駅に追加され、1981年10月1日のダイヤ改正で普通に格下げされる形で廃止された。
==== 荷物列車 ====
道路事情の悪い千葉駅以東・以南の沿線への夕刊新聞輸送のための[[荷物列車]]。列車は、非電化時代は蒸気機関車牽引の荷物客車や貨車であったが、気動車化後は[[国鉄キハ10系気動車|キユニ11・キユニ19]]が使用され、房総西線(現・内房線)が部分電化および外房線が全線電化された後は[[国鉄72系電車#クモハユ74形|クモハユ74形]]・[[国鉄クモユニ74形電車|クモユニ74形100番台]]を使用{{refnest|group="注"|ただし、北総3線(総武・成田・鹿島線)が全線電化されるまで、気動車と電車が同時に運行された時期があった<ref name="鉄ピク長谷川698 70" /><ref name="RP943佐藤">[[#鉄ピク佐藤 943|{{Cite journal|和書 |author=佐藤信之 |date=2018-3 |title=国鉄時代の総武快速線と113系電車-総武快速線の開業から横須賀線との直通運転まで-|journal=鉄道ピクトリアル 【特集】横須賀・総武快速線 |volume=68 |issue=3号(通巻第943号)|page=55|publisher=電気車研究会}}]]</ref>。}}、その後に長岡運転所(現・[[長岡車両センター]])から転属した[[国鉄143系電車#クモユニ143形|クモユニ143]]を使用、気動車は千葉気動車区から、電車は幕張電車区(現・幕張車両センター)からそれぞれ津田沼駅方面に単独で出区、両国駅まで回送後新聞を積み込み、折り返して両国駅 - 千葉駅間は荷物列車扱いで千葉駅まで運行、到着後各方面行きの列車に併結されて分かれていく、特異な列車であった<ref name="鉄ピク長谷川698 70" />。
運用は、気動車は千葉気動車区からの出区時は2両編成で運行、房総各線が全線電化後は、幕張電車区からの出区時は4両編成で{{refnest|group="注"|気動車と電車が同時に運行された時期の気動車は2・3両編成で北総3線向けに、電車は2両編成で房総半島方面向けに運行された<ref name="鉄ピク長谷川698 70" />。}}、千葉駅で1両ずつ各方面への千葉ローカル運用の気動車または113系の後部に併結して運転され<ref name="鉄ピク長谷川698 70" />、各駅に新聞を配布していき、それぞれの線区の終点駅(北総方面は銚子駅、房総半島方面は安房鴨川駅)と、終点駅から折り返し荷物車両を先頭にして千葉駅まで運行され、千葉駅到着後は回送列車となり、併結した気動車および電車とともに帰区する運用であった<ref name="RF707">[[#鉄道ファン 707|{{Cite journal|和書|author1=今泉博之 |author2=藤田吾郎 |author3=吉岡真一 |date=2020-3 |title=特集:形式記号「ユ」 郵便電車形式解説 郵便気動車形式解説|journal=鉄道ファン |volume=60 |issue=3号(通巻第707号)|pages=42 - 43,53 - 55頁|publisher=交友社}}]]</ref>。国鉄の郵便・荷物輸送が基本的に廃止された1986年11月1日以降は、外房線・内房線の新聞荷物輸送が道路事情の関係により存続されることとなり、前述のクモユニ143が幕張電車区に転属し充当、電車区からの出区時は2両編成で両国駅まで回送、その後は前述のように、両国駅で積み込み→千葉駅で1両ずつ外房線・内房線の113系6両編成の普通列車(両者とも安房鴨川行き)の後部に連結→終着駅到着後クモユニ143が先頭車になって折り返し(両者とも千葉行き)→千葉駅到着後回送列車として帰区する運用であった<ref name="RF707 55">[[#鉄道ファン 707|{{Cite journal|和書|author1=今泉博之 |author2=藤田吾郎 |author3=吉岡真一 |date=2020-3 |title=特集:形式記号「ユ」 郵便電車形式解説 郵便気動車形式解説 |journal=鉄道ファン |volume=60 |issue=3号(通巻第707号)|page=55 |publisher=交友社}}]]</ref>。
1996年12月1日のダイヤ改正で、合理化のため房総地区への専用車両による輸送は廃止となり、それ以降は113系4両編成×2本を併結し、上り方各1両を荷物扱いとすることで対処、なお、この列車は2010年3月12日まで運行された<ref name="47n20100219">[https://web.archive.org/web/20100308220725/http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010020901000115.html 新聞専用列車、3月で幕 経費削減「時代の流れ」] - 47NEWS、2010年2月9日付け、同月22日閲覧</ref>。また、列車の運行開始以降から113系の荷物扱い列車に至るまで、夕刊の休刊日は運休となっていた<ref name="鉄ピク長谷川698 70" /><ref name="RF707 55" />。
== 使用車両 ==
{{Main2|総武緩行線の車両および東京メトロ東西線からの直通車両|中央・総武緩行線#使用車両}}
=== 現在の使用車両 ===
すべて[[電車]]で運転されている。
==== 特急列車 ====
* [[JR東日本255系電車|255系]]([[幕張車両センター]]所属)
** 「[[しおさい (列車)|しおさい]]」として東京駅 - 銚子駅間で運用されている。
* [[JR東日本E257系電車|E257系500番台]](幕張車両センター所属)
** 平日朝の「しおさい4号」として東京駅 - 佐倉駅間で運用されている。
* [[JR東日本E259系電車|E259系]]([[鎌倉車両センター]]所属)
** 「[[成田エクスプレス]]」として東京駅 - 佐倉駅間で運用されている。
* [[JR東日本E353系電車|E353系]]([[松本車両センター]]所属)
** 千葉駅発着の「[[あずさ (列車)|あずさ]]」「[[富士回遊]]」として御茶ノ水駅 - 錦糸町駅 - 千葉駅間で運用されている。
<gallery>
Series255 Shiosai-10.jpg|255系「しおさい」
JREast-E257-500-NB11-20120106.jpg|E257系500番台「しおさい」
Series-E259 NE018.jpg|E259系「成田エクスプレス」
</gallery>
==== 普通・快速列車 ====
* [[JR東日本E217系電車|E217系]](鎌倉車両センター所属)
** 東京駅 - 成東駅間で運用<ref group="注">千葉駅までは、君津駅発着及び上総一ノ宮駅発着、佐倉駅間までは、成田空港駅及び鹿島神宮駅発着の列車も同じ車両で運用。</ref>されているが、大半は津田沼駅および千葉駅までの運行で、一部が佐倉駅<ref group="注">鹿島神宮駅発着の列車は佐倉駅で成田空港駅発着の列車と連結または解結を行う。</ref>および成東駅まで運行する。種別は一部を除き快速として運行、編成両数は15両での運行を基本とするが、一部は4両または11両編成で運行され、朝の成東駅始発は11両編成、夜の成東駅発着列車は佐倉駅 - 成東駅間は4両編成で種別は普通<ref group="注">東京駅 - 佐倉駅間は成田空港駅発着列車と連結し15両編成で、種別は快速となる。</ref>で運行される。
* [[JR東日本E235系電車|E235系]](鎌倉車両センター所属)
** 東京駅 - 成東駅間で[[JR東日本E235系電車#1000番台|1000番台]]が運用されている。運行区間・形態・種別および編成両数はE217系と同様である。
* [[JR東日本209系電車|209系]](幕張車両センター所属)
** 千葉駅 - 銚子駅間の普通列車として、[[JR東日本209系電車#2000番台・2100番台|2000番台・2100番台]]が運用されている。
<gallery>
Series-E217 Y7.jpg|E217系
Series-E235-1000 J10.jpg|E235系1000番台
Series209-2100 C413.jpg|209系2100番台
</gallery>
=== 過去の使用車両 ===
* 特急・急行・準急列車
** 電車
*** [[国鉄183系電車|183系]](1974年 - 2004年)
*** [[JR東日本253系電車|253系]](1991年 - 2010年)
*** [[国鉄165系電車|165系]](1969年 - 1982年)
*** [[国鉄153系電車|153系]](1975年 - 1982年)
** [[気動車]]
*** [[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]](1975年まで)
*** [[国鉄キハ55系気動車|キハ55系]](1970年まで)
* 普通列車(千葉駅 - 銚子駅間)
** 電車
*** [[国鉄113系電車|113系]](1974年 - 2011年)
*** [[国鉄211系電車|211系3000番台]](2006年 - 2013年)
*** [[国鉄72系電車|72系]]
** 気動車
*** [[国鉄キハ35系気動車|キハ35系]]・[[国鉄キハ45系気動車|キハ45系]]・[[国鉄キハ20系気動車|キハ20系]]・[[国鉄キハ10系気動車|キハ17系]]
** 蒸気機関車・ディーゼル機関車牽引による旧型客車
<gallery>
JRE 113-NaritaLine.jpg|113系
JRE 211 Sobu Line.jpg|211系3000番台
</gallery>
* 荷物列車(両国駅 - 千葉駅間は回送扱い)<ref name="鉄ピク長谷川698 70" />
** 電車
*** モハユニ30
*** クハニ67
*** クモハユ74
*** クモユニ74
*** [[国鉄143系電車#クモユニ143形|クモユニ143]]
** 気動車
*** キユニ11
*** キユニ19
{{節スタブ}}
== 沿線概況 ==
{{BS-map|collapse=yes
|title=停車場・施設・接続路線|title-bg=#ffc20d|title-color=black
|map=
{{BS2||BHF|4.3*|[[御茶ノ水駅]]||}}
{{BS2||LSTR||||}}
{{BS4|BHFq|LSTRq|KRZ|STR+r|0.0|JO 19 [[東京駅]]||}}
{{BS4|||BHF|BHF|O3=HUBaq|O4=HUBeq|{{BSkm|4.8|0.0*}}|JO 22 [[錦糸町駅]]||}}
{{BS4|||LSTR|O3=POINTERg@fq|LSTR|||[[中央・総武緩行線|総武緩行線]]参照|}}
{{BS4|||LSTR|LSTR|O4=POINTERg@fq|||[[総武快速線]]参照|}}
{{BS5|excdSTRq|O1=STR+r|exSTR+r|c|LSTR|LSTR|||[[京成電鉄|京成]]:[[京成千葉線|千葉線]]|}}
{{BS4|STR|exvSTR-|KBHFe|O3=HUBrg|BHF|O4=HUBeq|39.2|JO 28 [[千葉駅]] (II)||}}
{{BS5|KRZu|O1=HUBrg|c|O2=xdKRZ|P2=HUBq|cd|O3=lBHF|STR+r|O4=HUBrf|STR|||[[千葉都市モノレール|千葉モノレール]]:[[千葉都市モノレール1号線|1号線]]|}}
{{BS5|BHF|O1=HUBe|exdSTR2|O2=vSTR+l-|exdSTRc3|KRZo|ABZgr|||[[京成千葉駅]]|}}
{{BS5|STR|dSTR|O2=exdSTRc1|exdSTR+4|ABZgl|KRZu|||千葉モノレール:[[千葉都市モノレール2号線|2号線]]|}}
{{BS4|STR|veABZg+l-exSTRo|eKRZo|eABZg+r|||''外房線旧線'' -1963|}}
{{BS4|STR|vSTR-exKHSTe|STR|STR|||''[[京成千葉駅]]'' -1958|}}
{{BS4|STRr|O1=STRc2|vSTR3-|STR|eBHF||''千葉駅 (I)''|-1963|}}
{{BS4|STRr+1-|STRc4|O2=POINTER4|STR|STR|||[[外房線]]|}}
{{BS4|||STRr|O3=STRc2|STR3|||千葉モノレール:1号線|}}
{{BS4|||STR+1|STRc4||||}}
{{BS2||BHF|40.1|JO 29 [[東千葉駅]]||}}
{{BS2|STR+l|KRZu|||千葉モノレール:2号線|}}
{{BS2|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq|43.4|JO 30 [[都賀駅]]||}}
{{BS2|STRr|STR||||}}
{{BS2||BHF|46.9|JO 31 [[四街道駅]]||}}
{{BS2||BHF|51.1|JO 32 [[物井駅]]||}}
{{BS4|||eKRWgl|exKRW+r||''旧線''||}}
{{BS4|||TUNNEL1|exSTR||寺崎トンネル||}}
{{BS4|||eKRWg+l|exKRWr||||}}
{{BS2||BHF|55.3|JO 33 [[佐倉駅]]||}}
{{BS2||ABZgl|||[[成田線]]|}}
{{BS2||BHF|59.3|[[南酒々井駅]]||}}
{{BS2||BHF|62.2|[[榎戸駅 (千葉県)|榎戸駅]]||}}
{{BS4|||STR|exSTR+l|||''[[千葉交通|成田鉄道]]:[[成田鉄道八街線|八街線]]''|}}
{{BS4|||BHF|O3=HUBaq|exKBHFe|O4=HUBeq|65.9|[[八街駅]]||}}
{{BS2||BHF|71.7|[[日向駅]]||}}
{{BS2||BHF|76.9|[[成東駅]]||}}
{{BS2||ABZgr|||[[東金線]]|}}
{{BS2||BHF|82.5|[[松尾駅 (千葉県)|松尾駅]]||}}
{{BS2||BHF|86.8|[[横芝駅]]||}}
{{BS2||BHF|90.6|[[飯倉駅]]||}}
{{BS4|||STR|exSTR+l|||''成田鉄道:[[成田鉄道多古線|多古線]]''|}}
{{BS4|||BHF|O3=HUBaq|exKBHFe|O4=HUBeq|93.7|[[八日市場駅]]||}}
{{BS2||BHF|98.8|[[干潟駅]]||}}
{{BS2||BHF|103.6|[[旭駅 (千葉県)|旭駅]]||}}
{{BS2||BHF|106.3|[[飯岡駅]]||}}
{{BS2||TUNNEL1||||}}
{{BS2||BHF|109.2|[[倉橋駅]]||}}
{{BS2||BHF|111.8|[[猿田駅]]||}}
{{BS2||ABZg+l|||成田線|}}
{{BS2||BHF|117.3|[[松岸駅]]||}}
{{BS2|KBHFa|BHF|O1=HUBaq|O2=HUBeq|120.5|[[銚子駅]]||}}
{{BS2|ABZqr|xABZgr|||[[銚子電気鉄道線]]|}}
{{BS2||exKDSTe|121.3|''[[新生駅 (千葉県)|新生駅]]''|-1978|}}
}}
ここでは総武本線の線路および沿線の概況について記す<ref>線形、平行・交差する鉄道・道路、周辺の建造物についての出典:[https://www.google.co.jp/maps Google マップ] 地図および航空写真(2012年1月)</ref><ref>[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 6-13頁]]</ref>。
=== 東京駅・御茶ノ水駅 - 千葉駅間 ===
{{Main2|東京駅 - 千葉駅間における快速線の路線概況と沿革|横須賀・総武快速線#総武快速線区間}}
[[横須賀・総武快速線|快速線]]側の起点である[[東京駅]]では、地上駅より丸の内側にある[[1972年]]完成の総武地下ホームに発着し、同駅以南の[[横須賀線]]([[東海道本線]]地下線)線路との直通が可能な構造になっている。同駅を出ると[[東京]]都心部の地下を北東へ進み、[[新日本橋駅]]から[[馬喰町駅]]付近まで[[国道6号]]の直下を通る。両駅間では[[東京メトロ日比谷線]][[小伝馬町駅]]と交差しているが、総武快速線に駅は設けられていない。馬喰町駅を過ぎると東へ向かい、[[隅田川]]の下をくぐり、[[両国駅]]付近で地上に出る。
一方、[[中央・総武緩行線|緩行線]]は、直通運転を行う[[中央本線]]との接続駅・[[御茶ノ水駅]]から、高架上を東方向へ向かう。中央本線([[中央線快速]])の上下線に挟まれる形で同駅を出ると中央本線と分かれて[[神田川 (東京都)|神田川]]を渡り、東北本線([[山手線]]・[[京浜東北線]]・[[上野東京ライン]])との交差地点にある[[秋葉原駅]]へ。続いて[[首都高速1号上野線]]を跨ぎ、市街地を進むと国道6号との交点に[[浅草橋駅]]がある。そして隅田川を渡り[[首都高速6号向島線]]をくぐると、[[両国国技館]]および[[東京都江戸東京博物館]]の最寄駅・[[両国駅]]に至る。同駅には緩行線ホームのほかに、快速線に繋がっている列車ホームがあるが、現在は定期列車では使用されていない。
両国駅からは快速線と緩行線による[[複々線]]区間が始まり、千葉駅まで沿線は住宅密集地が延々と続く。また海側(南側)には[[国道14号]]([[京葉道路]]一般道区間)が並行する。緩行線・快速線間の最初の接続駅となっている[[錦糸町駅]]は快速線・横須賀線列車の留置線を併設しており、また[[東京スカイツリー]]の南に位置している。錦糸町駅を出ると、海側(南側)から単線の総武本線支線([[越中島支線|越中島貨物線]])が近づき、緩行線の[[亀戸駅]]。同駅から発着する[[東武亀戸線]]が内陸側(北側)へ離れていき、同時に越中島貨物線が本線を跨いで北側に並行して5線となると、国道14号から離れ、カーブして北東方向へ進路を変える。[[旧中川]]を渡ると[[平井駅 (東京都)|平井駅]]、次いで[[首都高速中央環状線]]をくぐり、[[荒川 (関東)|荒川]]・[[中川]]を渡ると快速停車駅の[[新小岩駅]]に至る。
新小岩駅を過ぎると、左側の貨物線上に[[新小岩信号場駅]]の線路群が広がる。[[東京都道318号環状七号線|環七通り]]をくぐると同信号場より総武本線支線([[新金貨物線]])が内陸側へ分かれていき、また快速線へも貨物線が合流する。[[新中川]]を渡り、[[小岩駅]]を過ぎると右へカーブして今度は東南東にまっすぐ進む。内陸側に再び国道14号([[千葉街道]])、さらにそれを挟んで[[京成本線]]が並行し、[[江戸川]]を渡ると[[東京都]]から[[千葉県]]へと移り、同県最初の駅で快速停車駅でもある[[市川駅]]に至る。
市川駅を過ぎると、線路はしばらく直線が続き、快速線を走行する列車は120 [[キロメートル毎時|km/h]](特急は130 [[キロメートル毎時|km/h]])の最高速度で運転する。[[国道298号]]を跨ぐと、緩行線は、[[都営地下鉄新宿線]]と接続する[[本八幡駅]]、次いで[[下総中山駅]]と続き、海側から[[東京メトロ東西線]]が近づくと、御茶ノ水駅から続いてきた高架区間が一旦終了し、[[武蔵野線]]・[[京葉線]]との交点に位置する[[西船橋駅]]に至る。メトロ東西線と直通運転を行う[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]も接続する主要駅だが、総武快速線は停車しない。西船橋駅を過ぎると東西線からの短絡線が緩行線に合流し、進路を東に変える。国道14号と京成本線が海側へ移り、続いて内陸側から[[東武野田線]]が現れると快速停車駅の[[船橋駅]]。南口側には[[ペデストリアンデッキ]]や[[ロータリー交差点|ロータリー]]を挟んで京成本線の[[京成船橋駅]]がある。同線が一旦総武本線に接近してから右にカーブして海側へ離れ、[[東船橋駅]]を過ぎると今度は南東へ向かう。[[国道296号]]([[成田街道]])を跨ぎ、海側から緩行線の車両基地・旧[[習志野運輸区|習志野電車区]]からの引込線が合流すると快速停車駅の[[津田沼駅]]に至る。同駅は緩行線・快速線とも車両基地が近接する運行拠点の一つとなっており、周辺には[[千葉工業大学]]や、[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]の[[新津田沼駅]]が立地する。
津田沼駅を出ると、逆S字型にカーブを描く新京成線をくぐる。まもなく京成本線が総武本線をくぐって[[成田市|成田]]方面へ向かって離れていく。代わって海側には[[京成千葉線]]が千葉駅まで並行し、幕張駅までは総武本線のすぐ隣を通る。この区間には市街化調整区域があるため、海沿いに沿線では数少ない原野を見ることが出来る。しばらく進むと[[千葉市]]に入り、快速線の上下線の間に車両基地・[[幕張車両センター]]が広がる。一方、その横の緩行線には[[幕張本郷駅]]があり、京成千葉線の京成幕張本郷駅が同一構内にある。JRの駅と京成の駅が同一構内にある例は数少ない。幕張本郷駅の先で京葉道路(有料区間)をくぐり、さらに東京 - 千葉間および中央・総武緩行線唯一の踏切である[[幕張駅|花立踏切]]を通過すると幕張車両センター構内が終わり、緩行線から京成千葉線が離れる。[[京成幕張駅]]を見送ると[[幕張駅]]。幕張の中央部で発展している[[幕張新都心]]からは少し離れている。東方向に進路を変え[[新検見川駅]]を過ぎ、再びカーブして南南東方向へ進路を変えると[[東関東自動車道]]をくぐり、高架線になって快速停車駅の[[稲毛駅]]。さらに直進し、[[千葉大学]]の西側では快速線上に[[黒砂信号場]]が、緩行線上に[[西千葉駅]]が位置する。西千葉駅を過ぎると快速線の線路が総武本線東千葉駅(・成田線)方面と[[外房線]](・[[内房線]])方面の2本に分岐。そして千葉県内各線のジャンクションである[[千葉駅]]に至る。緩行線はこの千葉駅で終点となっている。
=== 千葉駅 - 銚子駅間 ===
[[ファイル:第二高岡踏切.jpg|サムネイル|成田線と総武線の分岐点(佐倉市内)]]
千葉駅は総武本線と外房線との分岐地点上に位置するY字型の構造となっている<ref group="注">[[1963年]]に[[東千葉駅]]の位置に存在していた千葉駅を、現在の位置に移転したため。</ref>。総武本線は同駅構内からほぼ90度左にカーブし、[[佐倉駅]]までは[[複線]]となって北東へ進む。千葉駅を出てカーブを終えると右側に並行していた[[千葉都市モノレール2号線]]をくぐり、[[国道126号]]と交差する手前に[[東千葉駅]]がある。ここから都賀駅400m先まではほぼ直線区間である。マンション群の中を直進で進んで[[国道16号]]と京葉道路を跨ぎ、北西側からモノレール2号線が再び寄り添うと[[都賀駅]]に至る。同駅を過ぎるとモノレール2号線が南東側に広がる住宅街方向に分かれ、そのまま直進後左へカーブして進み、[[下志津駐屯地|陸上自衛隊下志津駐屯地]]の西側を過ぎて<ref group="注">[[明治]]から[[昭和]]初期には、下志津駐屯地付近から四街道市、佐倉市一帯に、旧[[佐倉藩]]の砲術練習所を前身とする[[陸軍野戦砲兵学校]]や、下志津駐屯地の前身の[[下志津陸軍飛行学校]]といった陸軍施設があった。前身の総武鉄道は、軍事利用されることを意図して、こうした陸軍営所を経由して建設された。</ref>千葉市から[[四街道市]]に移り、緩やかに右にカーブしたところに[[四街道駅]]がある。同駅周辺には[[愛国学園大学]]をはじめとする学校が立ち並んでいる。ここまで沿線は住宅地が続いたが、四街道駅を過ぎると沿線は一変して田畑が広がるようになる。東関東自動車道をくぐると[[物井駅]]に出る。駅周辺は田畑だが駅西側には住宅街がある。田園地帯を進んでいくとトンネルを抜け<ref group="注">[[1968年]]の複線化の際に、[[千葉県道136号|県道136号]]沿いに存在していた線形を改良したため、トンネルがある新線経由となった(営業キロは変更なし)。</ref>、カーブして東方向に向きを変えると、[[成田線]]との分岐駅である佐倉駅に至る。
総武本線はこの先終点の銚子駅まで単線となる。佐倉駅を出ると複線の成田線から分岐する形で単線となり第二高岡踏切まで2 [[キロメートル|km]]ほど並行する。[[国道51号]]と交差後、第二高岡踏切を通過した瞬間に成田線は北側に離れていき、総武本線は単線で南東の雑木林の中を進む。ここから[[成東駅]]までは[[千葉県道76号成東酒々井線|県道76号]]と並行する。単線区間最初の駅である[[南酒々井駅]]は丘陵地帯の谷間に位置し、市街地からは離れたところにある。同駅を出ると東関東自動車道をくぐり、平野部にある[[榎戸駅 (千葉県)|榎戸駅]]・[[八街駅]]へ。八街は[[下総台地]]上にあり地盤が固く標高も高いため地震や水害に強いといえる。[[山武市]]に入ると再び丘陵の間を進んで[[日向駅]]を過ぎ、[[首都圏中央連絡自動車道|圏央道]]をくぐり進路を東方向に変えて平野部に出て、県道76号と交差する和田踏切を通過すると、山武市の中心都市である[[東金線]]が分岐する成東駅に至る<ref group="注">快速線からの直通列車と平日運転の[[東京駅]]始発特急しおさい13号はこの成東駅が終点。</ref>。
成東駅からは国道126号と並行し、南東の[[太平洋]]に面した[[九十九里浜]]から5 kmほど離れた下総台地のふもとの平野部を進んで銚子を目指す。成東駅を出て東金線が南方向へ分かれていくと、左にカーブして北東方向へ。沿線は田園地帯が続き、[[旭駅 (千葉県)|旭駅]]手前では線路の方向が東向きに変わる。旭駅を出ると国道126号が南側へ分かれ、銚子駅の手前にある松岸駅までは丘陵地帯の合間をカーブしながら進む。この区間の[[飯岡駅]] - [[倉橋駅]]間にはトンネルが1か所存在する。[[松岸駅]]で成田線と合流すると[[国道356号]]と[[利根川]]に沿い、水産業と並ぶ銚子市の主たる産業である[[醤油]]工場が車窓から見え、市街地に入ると総武本線の終点・[[銚子駅]]に至る。同駅では[[銚子電気鉄道線|銚子電鉄線]]が接続している。
== データ ==
=== 路線データ ===
* 管轄・路線距離([[営業キロ]]):全長145.4 [[キロメートル|km]](支線含む)
** 東日本旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
*** [[東京駅]] - [[銚子駅]]間 120.5 km<ref name="sone 5"/>
*** [[錦糸町駅]] - [[御茶ノ水駅]]間 4.3 km<ref name="sone 5"/>
*** [[小岩駅]] - [[金町駅]]間 8.9 km(通称:[[新金貨物線|新金線]]。小岩駅 - 新小岩信号場駅間2.3 kmは本線と重複)
*** 小岩駅 - [[越中島貨物駅]]間 11.7 km(通称:[[越中島支線]]。小岩駅 - 新小岩信号場駅間2.3 kmは本線と重複。新小岩信号場駅 - 亀戸間は本線と並行)
** [[日本貨物鉄道]](第二種鉄道事業者)
*** 新小岩信号場駅 - [[佐倉駅]]間 44.8 km
*** 新小岩信号場駅 - 金町駅間 6.6 km
*** 新小岩信号場駅 - 越中島貨物駅間 9.4 km
* [[軌間]]:1067 [[ミリメートル|mm]]
* 駅数:49(起終点駅、金町駅を含む)
** 旅客駅:46(金町駅・越中島貨物駅を除く)
*** 総武本線所属の旅客駅に限定すると、東海道本線所属の東京駅、東北本線所属の秋葉原駅・中央本線所属の御茶ノ水駅・常磐線所属の金町駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]] 1998年 ISBN 978-4533029806</ref>が除外された43駅となる。なお、名目上旅客併設駅だが実態は貨物専用となっている越中島貨物駅も旅客駅として計上すると44駅となる。
** 貨物駅:2(越中島貨物駅含む、旅客併設駅を除く)
* 複線区間:
** [[複々線]]:
*** 錦糸町駅 - 千葉駅間 34.4 km(新小岩信号場駅 - 亀戸駅間は越中島支線が並行し、実質的に複々線と単線の5線区間)
** [[複線]]:
*** 東京駅 - 錦糸町駅間 4.8 km
*** 錦糸町駅 - 御茶ノ水駅間 4.3 km
*** 千葉駅 - 佐倉駅間 16.1 km
** [[単線]]:
*** 佐倉駅 - 銚子駅間 65.2 km
*** 新小岩信号場駅 - 金町駅間 6.6 km
*** 新小岩信号場駅 - 越中島貨物駅間 9.4 km
* [[鉄道の電化|電化]]区間
** 新小岩信号場駅 - 越中島貨物駅間を除き[[直流電化]] (1500 V)
* 保安装置:
** 東京駅 - 銚子駅間 [[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]
** 御茶ノ水駅 - 千葉駅間(緩行線) ATS-P
** 新小岩信号場駅 - 金町駅間(新金線) [[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]]
** 新小岩信号場駅 - 越中島貨物駅間(越中島支線) ATS-S<small>N</small>
* 最高速度:
** 東京駅 - 錦糸町駅間 100 km/h(ATC時代は90 km/h)
** 錦糸町駅 - 千葉駅間 優等列車130 km/h、普通列車120 km/h
** 千葉駅 - 佐倉駅間 120 km/h
** 佐倉駅 - 銚子駅間 95 km/h
** 御茶ノ水駅 - 千葉駅間(緩行線) 95 km/h
** 新小岩信号場駅 - 金町駅間(新金線) 95 km/h
** 新小岩信号場駅 - 越中島貨物駅間(越中島支線) 95 km/h
* [[運転指令所]]:
** 東京駅 - 千葉駅間 東京総合指令室
** 千葉駅 - 銚子駅間 千葉総合指令室(千葉駅 - 佐倉駅間:成田指令・[[列車集中制御装置|CTC]]、佐倉駅 - 銚子駅間:総武指令・CTC)
** 御茶ノ水駅 - 千葉駅間(緩行線) 東京総合指令室
** 新小岩信号場駅 - 金町駅間(新金線) 東京総合指令室
** 新小岩信号場駅 - 越中島貨物駅間(越中島支線) 東京総合指令室
* [[列車運行管理システム]]
** 東京駅 - 千葉駅間・御茶ノ水駅 - 錦糸町駅間 [[東京圏輸送管理システム]] (ATOS)
* 運転取扱駅(駅が信号を制御、運行を管理)
** 佐倉駅・銚子駅
** 新小岩信号場駅・金町駅・越中島貨物駅(新金線・越中島支線)
* 準運転取扱駅(異常時、入換時は駅が信号を制御)
** 東京駅・錦糸町駅(両国駅快速線含む)・西船橋駅・津田沼駅・幕張駅・成東駅
東京駅 - 馬喰町駅間、秋葉原駅 - 御茶ノ水駅間、新金線金町駅構内はJR東日本[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]、それ以外は同社[[東日本旅客鉄道千葉支社|千葉支社]]の管轄となっており、馬喰町駅 - 錦糸町駅間、浅草橋駅 - 秋葉原駅間、新小岩信号場駅 - 金町駅間に[[JR支社境|支社境]]がある。なお、越中島支線の越中島貨物駅は千葉支社所属駅となっているが、構内には首都圏本部が管轄する東京レールセンターが置かれている。
== 駅一覧 ==
=== 東京駅・御茶ノ水駅 - 千葉駅間 ===
{{See also|横須賀・総武快速線#駅一覧|中央・総武緩行線#駅一覧}}
本節では駅名と主要駅のキロ程のみを列挙する。
() 内は起点からの営業キロ<!--他JR線との接続駅と列車の折り返し駅を中心に記載-->
; 本線
: [[東京駅]] (0.0) - [[新日本橋駅]] - [[馬喰町駅]] - [[錦糸町駅]] (4.8) - [[亀戸駅]] - [[平井駅 (東京都)|平井駅]] - [[新小岩駅]] - [[小岩駅]] (12.8) - [[市川駅]] - [[本八幡駅]] - [[下総中山駅]] - [[西船橋駅]] (20.6) - [[船橋駅]] - [[東船橋駅]] - [[津田沼駅]] (26.7) - [[幕張本郷駅]] - [[幕張駅]] - [[新検見川駅]] - [[稲毛駅]] - ([[黒砂信号場]]) - [[西千葉駅]] - [[千葉駅]] (39.2)
; 支線(錦糸町駅 - 御茶ノ水駅)
: 錦糸町駅 (0.0) - [[両国駅]] - [[浅草橋駅]] - [[秋葉原駅]] (3.4) - [[御茶ノ水駅]] (4.3)
=== 千葉駅 - 銚子駅間 ===
* [[駅ナンバリング]](駅番号)は[[横須賀・総武快速線]]からの連番で割り振られている。
* 停車駅
** 普通…全駅に停車
** 快速…●・▲印の駅は停車(▲は上り千葉方面のみ運転)、|印の駅は通過
** 特急…「[[しおさい (列車)]]」参照
*: 東千葉駅は、横須賀・総武快速線-成田線成田空港方面間の直通列車は全列車が通過する。
* 線路 … ∥:複線区間、◇・◆・|:単線区間(◇は[[列車交換]]可能、◆は列車交換可能「[[安全側線]]有・同時進入可」)、∨:これより下は単線、∧:終点(交換可能)
* この区間は全駅[[千葉県]]内に所在。
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:3.5em; border-bottom:3px solid #ffc20d;"|駅番号
!style="width:6em; border-bottom:3px solid #ffc20d;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #ffc20d;"|駅間<br />営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #ffc20d;"|東京<br /><small>からの</small><br />営業キロ
!style="width:1em; background:#bcf; border-bottom:3px solid #ffc20d;"|{{縦書き|快速|height=3em}}
!style="border-bottom:3px solid #ffc20d;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:3px solid #ffc20d;"|{{縦書き|線路|height=3em}}
!style="border-bottom:3px solid #ffc20d;" colspan="2"|所在地
|-
!JO 28
|[[千葉駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|39.2
|style="background:#bcf;"|●
|[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[総武快速線|総武線(快速)]]([[横須賀線]][[久里浜駅]]まで直通運転)・[[ファイル:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]](JB 39)・{{Color|#db4028|■}}[[外房線]]・{{Color|#00B2E5|■}}[[内房線]]<ref group="*">内房線の正式な起点は外房線[[蘇我駅]]だが、列車は[[京葉線]]直通列車を除いて千葉駅へ乗り入れる</ref><br />[[千葉都市モノレール]]:[[File:Number prefix Chiba monorail.svg|18px|CM]] [[千葉都市モノレール1号線|1号線]]・[[File:Number prefix Chiba monorail.svg|18px|CM]] [[千葉都市モノレール2号線|2号線]] (CM03)<br />[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成千葉線|千葉線]] ⇒[[京成千葉駅]] (KS59)
|style="width:1em;"|∥
|style="text-align:center; width:1em;" rowspan="3"|{{縦書き|[[千葉市]]|height=4em}}
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[中央区 (千葉市)|中央区]]
|-
!JO 29
|[[東千葉駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|40.1
|style="background:#bcf;"||
|
|style="width:1em;"|∥
|-
!JO 30
|[[都賀駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|43.4
|style="background:#bcf;"|●
|千葉都市モノレール:[[File:Number prefix Chiba monorail.svg|18px|CM]] 2号線 (CM11)
|style="width:1em;"|∥
|[[若葉区]]
|-
!JO 31
|[[四街道駅]]
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:right;"|46.9
|style="background:#bcf;"|●
|
|style="width:1em;"|∥
|rowspan="2" colspan="2"|[[四街道市]]
|-
!JO 32
|[[物井駅]]
|style="text-align:right;"|4.2
|style="text-align:right;"|51.1
|style="background:#bcf;"|●
|
|style="width:1em;"|∥
|-
!JO 33
|[[佐倉駅]]
|style="text-align:right;"|4.2
|style="text-align:right;"|55.3
|style="background:#bcf;"|●
|東日本旅客鉄道:{{Color|#00b261|■}} [[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[成田線]]<ref group="*" name="narita">成田線の列車は佐倉駅から千葉駅方面へ、松岸駅から銚子駅へ乗り入れる</ref>
|style="width:1em;"|∨
|colspan="2"|[[佐倉市]]
|-
!
|[[南酒々井駅]]
|style="text-align:right;"|4.0
|style="text-align:right;"|59.3
|style="background:#bcf;"||
|
|style="width:1em;"|◆
|style=" white-space:nowrap;" colspan="2"|[[印旛郡]]<br>[[酒々井町]]
|-
!
|[[榎戸駅 (千葉県)|榎戸駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|62.2
|style="background:#bcf;"||
|
|style="width:1em;"|◆
|rowspan="2" colspan="2"|[[八街市]]
|-
!
|[[八街駅]]
|style="text-align:right;"|3.7
|style="text-align:right;"|65.9
|style="background:#bcf;"|▲
|
|style="width:1em;"|◇
|-
!
|[[日向駅]]
|style="text-align:right;"|5.8
|style="text-align:right;"|71.7
|style="background:#bcf;"||
|
|style="width:1em;"|◇
|rowspan=3 colspan="2"|[[山武市]]
|-
!
|[[成東駅]]
|style="text-align:right;"|5.2
|style="text-align:right;"|76.9
|style="background:#bcf;"|▲
|東日本旅客鉄道:{{Color|#f15a22|■}}[[東金線]]
|style="width:1em;"|◇
|-
!
|[[松尾駅 (千葉県)|松尾駅]]
|style="text-align:right;"|5.6
|style="text-align:right;"|82.5
|
|
|style="width:1em;"|◇
|-
!
|[[横芝駅]]
|style="text-align:right;"|4.3
|style="text-align:right;"|86.8
|
|
|style="width:1em;"|◆
|colspan="2"|[[山武郡]]<br>[[横芝光町]]
|-
!
|[[飯倉駅]]
|style="text-align:right;"|3.8
|style="text-align:right;"|90.6
|
|
|style="width:1em;"||
|rowspan="2" colspan="2"|[[匝瑳市]]
|-
!
|[[八日市場駅]]
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|93.7
|
|
|style="width:1em;"|◇
|-
!
|[[干潟駅]]
|style="text-align:right;"|5.1
|style="text-align:right;"|98.8
|
|
|style="width:1em;"|◇
|rowspan="4" colspan="2"|[[旭市]]
|-
!
|[[旭駅 (千葉県)|旭駅]]
|style="text-align:right;"|4.8
|style="text-align:right;"|103.6
|
|
|style="width:1em;"|◇
|-
!
|[[飯岡駅]]
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|106.3
|
|
|style="width:1em;"|◇
|-
!
|[[倉橋駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|109.2
|
|
|style="width:1em;"||
|-
!
|[[猿田駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|111.8
|
|
|style="width:1em;"|◇
|rowspan="3" colspan="2"|[[銚子市]]
|-
!
|[[松岸駅]]
|style="text-align:right;"|5.5
|style="text-align:right;"|117.3
|
|東日本旅客鉄道:{{Color|#00b261|■}}成田線<ref group="*" name="narita" />
|style="width:1em;"|◆
|-
!
|[[銚子駅]]
|style="text-align:right;"|3.2
|style="text-align:right;"|120.5
|
|[[銚子電気鉄道]]:[[File:Number prefix Choshi.svg|18px|CD]] [[銚子電気鉄道線]] (CD01)
|style="width:1em;"|∧
|}
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-10}}</ref>の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、南酒々井駅・飯倉駅・倉橋駅・猿田駅である。
{{Reflist|group="*"}}
=== 貨物支線 ===
(貨)は貨物専用駅を表す。小岩駅 - 新小岩信号場駅間は本線と重複。() 内の数字は起点からの営業キロ。詳細は各支線記事を参照。
; [[越中島支線]]
: 小岩駅 (0.0) - [[新小岩信号場駅]] (2.3) - {{del|(貨)[[小名木川駅]]}}(8.6 廃止) - (貨)[[越中島貨物駅]] (11.7)
; [[新金貨物線]]
: 小岩駅 (0.0) - 新小岩信号場駅 (2.3) - [[金町駅]] (8.9)
=== 過去の接続路線 ===
* 八街駅:成田鉄道[[成田鉄道八街線|八街線]] - 1940年5月14日廃止
* 八日市場駅:成田鉄道[[成田鉄道多古線|多古線]] - 1946年10月9日廃止
=== 廃止区間 ===
; 貨物支線
: 銚子駅 (0.0) - (貨)[[新生駅 (千葉県)|新生駅]] (0.8)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
=== 報道発表資料 ===
{{Reflist|group="報道"}}
=== 新聞記事 ===
{{Reflist|group="新聞"}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線|pages=5-19|date=2010-01-17|ref=sone26}}
* {{Cite journal|和書 |author=長谷川明 |date=2001-3 |title=横須賀・総武快速線列車運転の興味 |journal=鉄道ピクトリアル 【特集】 横須賀・総武快速線 |volume=51 |issue=3号(通巻第698号) |pages=66 - 71 |publisher=[[電気車研究会]] |ref=鉄ピク長谷川 698}}
* {{Cite journal|和書 |author=山田亮 |date=2018-3 |title=横須賀線と総武快速線-通勤5方面作戦がもたらした異なる沿線文化同士の直通運転- |journal=鉄道ピクトリアル 【特集】 横須賀・総武快速線 |volume=68 |issue=3号(通巻第943号) |pages=10 - 24 |publisher=電気車研究会 |ref=鉄ピク山田 943}}
* {{Cite journal|和書 |author=佐藤信之 |date=2018-3 |title=国鉄時代の総武快速線と113系電車-総武快速線の開業から横須賀線との直通運転まで- |journal=鉄道ピクトリアル 【特集】 横須賀・総武快速線 |volume=68 |issue=3号(通巻第943号) |pages=50 - 61 |publisher=電気車研究会 |ref=鉄ピク佐藤 943}}
* {{Cite journal|和書|author1=今泉博之 |author2=藤田吾郎 |author3=吉岡真一|date=2020-3 |title=特集:形式記号「ユ」 郵便電車形式解説 郵便気動車形式解説|journal=鉄道ファン|volume=60|issue=3号(通巻707号) |pages=40 - 54|publisher=[[交友社]]|ref=鉄道ファン 707}}
== 関連文献 ==
* {{Cite journal |和書|author =老川慶喜|title =明治中期銚子港における鉄道建設 -総武鉄道成立過程の一問題- |date =1980|publisher =経営史学会|journal =経営史学|volume =15|issue =2|doi=10.5029/bhsj.15.2_84|pages =84-103|ref = }}
* {{Cite journal |和書|author =小野田滋|title =総武鉄道高架延長線計画の沿革に関する研究|date =2001|publisher =土木学会|journal =土木計画学研究・論文集|volume =18|doi=10.2208/journalip.18.17|pages =17-24|ref = }}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Sōbu Main Line}}
* [[横須賀・総武快速線]] / [[中央・総武緩行線]]
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[通勤五方面作戦]]
* [[総武線・京葉線接続新線]]
* [[東関東自動車道]]
* [[国道14号]]
** [[京葉道路]]
* [[国道51号]]
* [[国道126号]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=41=1=%91%8d%95%90%96%7b%90%fc 検索結果(総武本線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}}
* {{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/chiba/images/raininfo/soubu.pdf 総武・房総路線図]}} - 東日本旅客鉄道千葉支社
{{東日本旅客鉄道の鉄道路線}}
{{東京近郊区間}}
{{東日本旅客鉄道千葉支社}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:そうふほん}}
[[Category:総武本線|*]]
[[Category:関東地方の鉄道路線]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]]
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[[Category:成田空港航空燃料暫定輸送]]
[[Category:東京都の交通]]
[[Category:千葉県の交通]]
[[Category:成田財特法]] | 2003-03-07T08:05:06Z | 2023-12-25T09:23:13Z | false | false | false | [
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