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日本語では小学館から出版された『日本大百科全書』においては、「人間が自然にもっている発声能力や聴覚、身ぶりなどを認識する視覚などによって直接に情報を伝えうる距離的な限界を超え、なんらかの道具や媒体を使用して意志、情報、感情などの交換を行う知的な活動。」との説明を記載している。
古代から用いられている手紙のやりとりから、18世紀に使われた腕木と望遠鏡による通信、19世紀から使われている電信、電話、そして20世紀以降に使われるようになったラジオ放送、テレビ放送、インターネットでのやりとりといったものまでさまざまなものがある。
物理的な手紙を用いた通信(郵便) / 電気通信...などと分けることもできる。また印刷物の(大量の)配布も一種の通信である。
電気を用いた通信は 無線通信 / 有線通信に分類できる。 有線通信と言っても、歴史の長い銅線を用いたものだけでなく、近年では光ファイバーを用いた通信もある。
受信する人の数に着目し、 1対1の通信、1対多の通信に分類することもでき、特に不特定多数を相手にする通信はマスコミュニケーションと言う。
狼煙による通信は、先史時代、つまり人類が文字も使っておらずまだ歴史を文字に残していなかった太古の昔から世界的に使用されてきたものである。アメリカの先住民が近・現代にいたるまで使っていることでも、広く知られている。
ギリシアの神話では、トロイア戦争でギリシア軍が勝利した時、戦地のギリシア人は火を燃やすことで「戦勝のしるし」を伝え、そのしるしをリレーして故郷の仲間に戦勝を知らせた、とされている。トロイア戦争を現代にまで伝えているのは「神話」ではあるが、この神話の中には実際の出来事や要素も多く織り込まれている、と考えられていて、トロイア戦争の物語に「火のリレー」のエピソードが織り込まれているからには、実際にギリシア人らは紀元前13世紀~14世紀ごろには火を燃やす場所を複数設置してそこに人員を配置しそれをリレーしてゆく方式で遠隔地間の通信を行っていた、と考えられている。
ペルシアの王キュロス2世(在位 紀元前559年~529年)は、その首都から放射状に塔の列を設置し、それぞれの上に兵士を配置しメッセージを塔から塔へと大声で伝える方式で、王からのメッセージを遠隔地に伝えるシステムを構築した。(これはひとりの王から多くの臣下・部下へメッセージが送ることができ、一対多の通信も行えた。)(なおアレクサンドロス大王(紀元前356年 - 紀元前323年)は、同様の塔を配置しそこに巨大なメガホンを設置し兵士の声を19kmほど先まで届かせたという。)
ガーナのアシャンティ人(英語版)は、2000年以上も昔からドラム(太鼓)による通信方法を先祖代々継承してきた歴史があり、今日でも使用できるといわれる。アシャンティ人が発明したこのドラム通信はFontomfromと呼ばれており英語では「talking drum(喋る太鼓)」と言われており、アシャンティ人は「drum language ドラム言語」という言語を発達させていて、これを用いてかなり細かな内容、具体的な内容も伝えることができる。ドラムの大音量のおかげではるか離れた場所まで伝えることができ、メッセージを多人数でリレーしてゆくこともでき、300km以上先まで電信並みのすばやさでメッセージを伝えることができる。このおかげでアシャンティ人は「Ashanti Empire アシャンティ帝国」と呼ばれる広大な国を築いた。西アフリカにはアシャンティ人以外にもドラム言語を操る民族・部族がいくつもいる。
文字が発明されてからの通信の多くは手紙という方式で行われるようになった。たとえばメソポタミアでは粘土板に楔形文字で、古代エジプトではパピルスにヒエラティックやデモティックやコプト文字で、古代ローマではエジプトから輸入したパピルスあるいは代用品の動物の革にローマン・アルファベット(英語版)で、古代中国では木簡や竹簡に漢字で、手紙が書かれた。文字を持たなかったインカ帝国では紐の結び目(キープ)を用いた表現が高度化しそれで手紙が書かれた。
紀元前3000年以前に粘土版に楔形文字が書かれるようになっており、メソポタミアつまり現代のイラクあたりでさかんに用いられていたのであり、粘土板は近年、数十万個規模で大量に発掘されているわけだが、この楔形文字が理解される圏域では粘土板での手紙のやり取りが広くなされるようになっていた。王族などから一般人たちまで広く手紙のやりとりをした。たとえば王族が遠隔地にいる部下・臣下にメッセージ、命令などを伝える場合は、粘土板に書かれた手紙を自分の部下に持たせて宛先の人物に直接届けさせればよかった。一般人の場合でも、いくつかやり方はあったが、たとえば二つの場所の近辺を行き来する旅の商人などを見つけて手紙を託し、手渡すことができ返事も受け取って帰ってきた場合の報酬などを決めておき、宛先の人物の名前や居所などを伝える、というやり方で行えた。無事に手紙を相手に届け、返事も受け取って戻って来たら依頼者は約束のお金を払えばよかった。一般人が行っていた日常の手紙のやりとりの雰囲気が判る例を挙げると、たとえば発掘後に大英博物館に展示されている粘土板のひとつを解読してみたところ、その内容は、ナンニという人から貿易商のEA-ナシルという人に宛てた手紙で、概略としては「あんたから買った銅のインゴットは品質が悪すぎる! 一体どういうことだ! 払った金を返金してくれ!」という内容のもので、つまり顧客から商人に対するクレームの手紙だったという。つまり現代人が手紙やe-mailで日常的にしているようなやりとりとさほど違いが無いような、日常感が溢れる内容の通信が行われていたことが分かる。
ちなみに粘土板に書かれたメッセージは、さらに粘土の「封筒」で覆い封印し秘匿性を高めること、つまり運ぶ途中で宛名人以外に読まれることを防止したり、万が一 途中で開封され読まれたら読まれたと分かるようにすること、もできた。
インカ帝国というのは南北の長さがおよそ5,000kmにも達した広大な帝国であったが、全長5万kmにおよぶインカ道が整備されていて、情報を迅速に首都のクスコに届けるためのシステムとして、インカ道に5kmの間隔で道沿いに駅が設けられ、「チャスキ」と呼ばれる公設の飛脚の制度も設けられ、各駅に常時2名の飛脚が駐在していた。文字を持たないインカ帝国では「キープ」と呼ばれる紐の束が情報の表現に使われていたわけだが、このキープを次から次へとリレーして引き渡してゆくことで情報を伝えており、その速度は時速20kmほどに達したとも言われている。このシステムを用いてインカ帝国の王や各地の責任者は互いに通信することができた。
手紙というのは、前述の「のろし」や「火のリレー」などに比べると、伝えられる内容の正確さや内容の詳細さ、という点では良くなったが、スピードという点ではかなり劣っている。概して、手紙は遅いが、どうしても手紙を早く届けなければならない場合には、脚の速い人を手紙を届けるための人として選んで専門職のように扱い(「飛脚」)その人に託したり、脚の速い馬を選んで手紙を届けるためだけに借り切って「早馬」とする、そのために高い報酬を(走者や馬の持ち主や乗り手などに)払う、という解決策は古代から世界各地で行われた。
世界史上、広大な地域を支配する中央集権国家が成立すると、その支配体制を維持するために中央と地方とを常時連絡する手段が必要となった。 たとえば紀元前5世紀に、アケメネス朝ペルシア帝国の大王ダレイオス1世によって、王の道(おうのみち、英語: Persian Royal Road)が構築されたことが世界史上では有名であるが、この例に限らず、適当な間隔で人・馬・馬車などを常備した施設を置き、施設から施設へと人や馬などが行き来することで、情報をリレー形式で伝える通信制度は、世界各地で一般的となっていった。
1150年にはバグダッドで伝書鳩が使われはじめた。だが目的地にたどり着かないことも多く、確実性が低い通信方法だった。
望遠鏡が発明されると、それを用いて新たな通信手法が開発され、1793年にフランスのクロード・シャップは、フランスの首都パリとベルギーとの国境あたりのリールの間の230kmに通信塔(fr:semaphore セマフォール)を約10km間隔で配列し、腕木通信とよばれる通信を行い、230km先までかなりすみやかにメッセージを送ることを可能にした。これは塔の上に形を変えられるようにした大きな「腕木(うでぎ)」を設置し、この形の変化を望遠鏡で観測して文字や記号などとして読み取り、塔から塔へと中継していく仕組みである。このセマフォールがうまく機能し、各地の戦況が素早くパリの政権に伝えられたことで、フランス革命政府は通信システムの重要性を認識するようになり、フランス国内にセマフォールの通信網を張り巡らす計画が立てられ、1795年にはフランス国内が556のセマフォールによる総延長4800kmのネットワークで網羅された。このセマフォール通信は当時としては非常にすぐれており、アメリカやイギリスなどでも採用された。(その後他のもっと便利な通信方法が現れ現代では陸上ではセマフォール通信は使われなくなったが)セマフォール通信は、船舶、海運の世界では今日でも使われ続けている。現代でも船員は信号旗を用い、それをマストの張り出しの異なる位置に掲げることで他船に信号を送り、周辺を航行する船舶の乗組員は望遠鏡で信号旗の位置や種類を観測し、その船が置かれている状態の表示やその船が周囲の船に伝えたいことを読み取る。また船舶間では手旗信号による通信も行われている。
1787年、スペインのアグスティン・デ・ベタンクルはマドリードとアランフエス間で電信を送るための実験を行った。1798年にはバルセロナのフランシスコ・サルバ(英語版)(1751―1828)がマドリード―アランフエス間の42kmを1本の電線で結ぶ実験に成功。1816年にはイギリスの通信技術者フランシス・ロナルズ(英語版)がロンドン郊外クイーンスクエアーの広大な自宅の庭で実験を積み重ね、新しい方式を発明した。これは、アルファベットを書いた回転ダイヤルを送・受信双方に設け同期して回転させ、送信側において希望の文字が目前にきたときに放電させ、受信側では木の髄でつくった小球が弾かれて、それを見れば送信したい文字が分かる、というもので、これはイギリス海軍に採用された。
1809年にサミュエル・トーマス・ゼンメリンク(ドイツ語版)が『ミュンヘン・アカデミー・オブ・サイエンス』誌(Munich Academy of Science)で電気化学的通信のアイディアについて述べ、それを読んだシリング男爵Baron Pavel L'vovitch Schilling(1780―1837)がそれを実現しようと実験に没頭し、それをロシア皇帝から認められサンクトペテルブルクとペテルホーフ宮殿の間に電気通信設備を設けるよう命じられたが不幸にもまもなく没してしまった。一方で、1833年ゲッティンゲン大学教授のカール・フリードリヒ・ガウスとヴィルヘルム・ヴェーバーが最初の電磁検流針電信装置を実用化し、1km離れた研究施設の間で通信を行った。これは4つの基本的なシグナルの単位で動作するものであった。
1950年代あたりからコンピュータネットワークを用いた通信が行われるようになり、1990年代からはインターネットを用いた通信が盛んになっている。
通信に掛かった費用、又は簿記で通信を処理する勘定科目のこと。電話料金等は、銀行振替日か請求書の日付で継続的に計上する。
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] | 通信とは、(なんらかの媒体などを用いた)隔地間(離れた場所の間)でのコミュニケーションのこと。直接的に互いの顔や姿を見たり直接的に肉声を聞いてコミュニケーションを行える距離を超えて行うコミュニケーションのこと。 日本語では小学館から出版された『日本大百科全書』においては、「人間が自然にもっている発声能力や聴覚、身ぶりなどを認識する視覚などによって直接に情報を伝えうる距離的な限界を超え、なんらかの道具や媒体を使用して意志、情報、感情などの交換を行う知的な活動。」との説明を記載している。 古代から用いられている手紙のやりとりから、18世紀に使われた腕木と望遠鏡による通信、19世紀から使われている電信、電話、そして20世紀以降に使われるようになったラジオ放送、テレビ放送、インターネットでのやりとりといったものまでさまざまなものがある。 telecommunication = tele(離れた) + communication(コミュニケーション)
漢字の「信」は、「しるし」「合図」「手紙」などの意味。「通信」で「合図をかよわせる」「手紙を交わす」などという意味になる。 | {{Otheruses|情報の伝達を意味する言葉|ニュースなどの収集、配信を行う組織|通信社}}
{{出典の明記|date=2021年3月}}
'''通信'''(つうしん、{{Lang-en-short|telecommunication}} '''テレコミュニケーション''')とは、(なんらかの媒体などを用いた)<u>隔地間(離れた場所の間)での</u>[[コミュニケーション]]のこと<ref>世界大百科事典第二版「通信」</ref>。直接的に互いの顔や姿を見たり直接的に肉声を聞いてコミュニケーションを行える[[距離]]を超えて行うコミュニケーションのこと。
日本語では小学館から出版された『[[日本大百科全書]]』においては、「人間が自然にもっている発声能力や聴覚、身ぶりなどを認識する視覚などによって<u>直接に情報を伝えうる距離的な限界を超え</u>、なんらかの道具や媒体を使用して意志、情報、感情などの交換を行う知的な活動<ref name="nippo">小学館『ニッポニカ』「通信」</ref>。」との説明を記載している。
古代から用いられている[[手紙]]のやりとりから、18世紀に使われた腕木と望遠鏡による通信、19世紀から使われている[[電信]]、[[電話]]、そして20世紀以降に使われるようになった[[ラジオ放送]]、[[テレビ放送]]、[[インターネット]]でのやりとりといったものまでさまざまなものがある。
;語源
*telecommunication = tele(離れた) + communication([[コミュニケーション]])
*漢字の「信」は、「しるし」「合図」「手紙」などの意味。「通信」で「合図をかよわせる」「手紙を交わす」などという意味になる。
== 種類、分類 ==
物理的な手紙を用いた通信(郵便) / 電気通信...などと分けることもできる。また印刷物の(大量の)配布も一種の通信である。
電気を用いた通信は [[無線通信]] / [[有線通信]]に分類できる。 有線通信と言っても、歴史の長い銅線を用いたものだけでなく、近年では[[光ファイバー]]を用いた通信もある。
受信する人の数に着目し、
1対1の通信、1対多の通信に分類することもでき、特に不特定多数を相手にする通信は[[マスコミュニケーション]]と言う。
<!--
*人間による伝言
*聴覚 - [[寺院]]や[[教会 (キリスト教)|教会]]の[[鐘]]による[[時報]]、[[火の見櫓]]の[[半鐘]]による[[警報]]、[[トーキングドラム]]の利用等。
*視覚 - [[狼煙|のろし]]、[[光]]([[回光通信機]])、[[旗]]([[手旗]]、[[国際信号旗|信号旗]])、[[腕木通信|腕木]]など[[視覚]]に頼るもの。
*輸送 - [[郵便]]([[飛脚]]・[[伝書鳩]])などの[[信書]]の輸送。
*[[電気通信]]([[有線通信|有線]]・[[無線通信|無線]]):[[電話]]・[[電信]]([[電報]])・[[インターネット]]・[[パソコン通信]]・[[アマチュア無線]]・[[デバイス間通信]]
-->
== 歴史 ==
=== 先史時代 ===
[[File:Remington The Smoke Signal 1905.jpg|thumb|right|220px|先史時代から使われていた'''[[狼煙]]'''という通信方法。この絵はのろしで通信するアメリカの先住民。]]
'''[[狼煙]]'''による通信は、[[先史時代]]、つまり人類が文字も使っておらずまだ歴史を文字に残していなかった太古の昔から世界的に使用されてきたものである<ref name="nippo" />。[[アメリカ州の先住民族|アメリカの先住民]]が近・現代にいたるまで使っていることでも、広く知られている<ref name="nippo" />。
=== 古代 ===
==== 火の目視のリレー ====
ギリシアの神話では、[[トロイア戦争]]でギリシア軍が勝利した時、戦地のギリシア人は[[火]]を燃やすことで「戦勝のしるし」を伝え、そのしるしをリレーして故郷の仲間に戦勝を知らせた、とされている。トロイア戦争を現代にまで伝えているのは「神話」ではあるが、この神話の中には実際の出来事や要素も多く織り込まれている、と考えられていて、トロイア戦争の物語に「火のリレー」のエピソードが織り込まれているからには、実際にギリシア人らは紀元前13世紀~14世紀ごろには火を燃やす場所を複数設置してそこに人員を配置しそれをリレーしてゆく方式で遠隔地間の通信を行っていた、と考えられている。
==== 大声のリレー ====
ペルシアの王[[キュロス2世]](在位 [[紀元前559年]]~529年)は、その首都から放射状に[[塔]]の列を設置し、それぞれの上に兵士を配置しメッセージを塔から塔へと大声で伝える方式で、王からのメッセージを遠隔地に伝えるシステムを構築した<ref name="nippo" />。(これはひとりの王から多くの臣下・部下へメッセージが送ることができ、一対多の通信も行えた。)(なお[[アレクサンドロス大王]]([[紀元前356年]] - [[紀元前323年]])は、同様の塔を配置しそこに巨大な[[メガホン]]を設置し兵士の声を19kmほど先まで届かせたという<ref name="nippo" />。)
==== アフリカのドラムを用いた通信 ====
[[File:Fontomfrom-Orchester EthnM Berlin.jpg|thumb|right|220px|{{仮リンク|アシャンティ人|en|Ashanti people}}が通信に使うドラム]]
[[ガーナ]]の{{仮リンク|アシャンティ人|en|Ashanti people}}は、2000年以上も昔からドラム([[太鼓]])による通信方法を先祖代々継承してきた歴史があり、今日でも使用できるといわれる<ref name="nippo" />。アシャンティ人が発明したこのドラム通信はFontomfromと呼ばれており英語では「talking drum(喋る太鼓)」と言われており、アシャンティ人は「drum language ドラム言語」という言語を発達させていて、これを用いてかなり細かな内容、具体的な内容も伝えることができる。ドラムの大音量のおかげではるか離れた場所まで伝えることができ、メッセージを多人数でリレーしてゆくこともでき、300km以上先まで電信並みのすばやさでメッセージを伝えることができる。このおかげでアシャンティ人は「[[アシャンティ王国|Ashanti Empire アシャンティ帝国]]」と呼ばれる広大な国を築いた。西アフリカにはアシャンティ人以外にもドラム言語を操る民族・部族がいくつもいる。
==== 手紙の登場 ====
[[文字]]が発明されてからの通信の多くは'''[[手紙]]'''という方式で行われるようになった<ref name="nippo" />。たとえば[[メソポタミア]]では[[粘土板]]に[[楔形文字]]で、[[古代エジプト]]では[[パピルス]]に[[ヒエラティック]]や[[デモティック]]や[[コプト文字]]で、[[古代ローマ]]ではエジプトから輸入したパピルスあるいは代用品の動物の革に{{仮リンク|ローマン・アルファベット|en|Latin alphabet}}で、古代中国では[[木簡]]や[[竹簡]]に[[漢字]]で、手紙が書かれた。文字を持たなかった[[インカ帝国]]では紐の結び目([[キープ (インカ)|キープ]])を用いた表現が高度化しそれで手紙が書かれた。
;メソポタミアの粘土板の手紙
[[紀元前3000年]]以前に[[粘土版]]に[[楔形文字]]が書かれるようになっており、[[メソポタミア]]つまり現代のイラクあたりでさかんに用いられていたのであり、粘土板は近年、数十万個規模で大量に[[発掘]]されているわけだが、この楔形文字が理解される圏域では粘土板での手紙のやり取りが広くなされるようになっていた。王族などから一般人たちまで広く手紙のやりとりをした。たとえば王族が遠隔地にいる部下・臣下にメッセージ、命令などを伝える場合は、粘土板に書かれた手紙を自分の部下に持たせて宛先の人物に直接届けさせればよかった。一般人の場合でも、いくつかやり方はあったが、たとえば二つの場所の近辺を行き来する旅の商人などを見つけて手紙を託し、手渡すことができ返事も受け取って帰ってきた場合の報酬などを決めておき、宛先の人物の名前や居所などを伝える、というやり方で行えた。無事に手紙を相手に届け、返事も受け取って戻って来たら依頼者は約束のお金を払えばよかった。一般人が行っていた日常の手紙のやりとりの雰囲気が判る例を挙げると、たとえば発掘後に[[大英博物館]]に展示されている粘土板のひとつを解読してみたところ、その内容は、ナンニという人から貿易商のEA-ナシルという人に宛てた手紙で、概略としては「あんたから買った銅のインゴットは品質が悪すぎる! 一体どういうことだ! 払った金を返金してくれ!」という内容のもので、つまり顧客から商人に対するクレームの手紙だったという<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Karapaia_52186882/]</ref>。つまり現代人が手紙やe-mailで日常的にしているようなやりとりとさほど違いが無いような、日常感が溢れる内容の通信が行われていたことが分かる。
ちなみに粘土板に書かれたメッセージは、さらに粘土の「封筒」で覆い封印し秘匿性を高めること、つまり運ぶ途中で宛名人以外に読まれることを防止したり、万が一 途中で開封され読まれたら読まれたと分かるようにすること、もできた。
{{gallery
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|File:Cuneiform tablet with a small second tablet- private letter MET DP-13441-021.jpg|[[粘土板]]に[[楔形文字]]で書かれた私的な手紙の一例([[紀元前17世紀]]~[[紀元前16世紀]]ころのもの).
|File:Cuneiform tablet- private letter MET DP-12499-013.jpg|粘土板に書かれた私的な手紙(書かれた内容から紀元前1632年ころのものと推定されている)
|File:Letter written in hieratic script on papyrus MET DP234741.jpg|[[パピルス]]に[[ヒエラティック|ヒエラティック(神官文字)]]で書かれた手紙([[エジプト第18王朝|古代エジプト第18王朝]]、紀元前1479年~1458年のもの)
|File:Papyrus letter in Greek MET DP137338.jpg|パピルスに[[古代ギリシア語]]で書かれた手紙([[紀元前3世紀]]ころのもの)
|File:Shanghai Qingpu - Zhujiajiao IMG 8181 Qing Dynasty Post Office - bamboo slip Qin Dynasty 21-206BC.jpg|[[秦朝]](紀元前221年~206年)時代の、[[竹簡]]に書かれた手紙
}}
;インカ帝国の通信システム
[[File:Chasqui3.JPG|thumb|right|200px|広大なインカ帝国を支えるのに必要な通信に活躍した「[[チャスキ]]」と呼ばれる公設の飛脚。メッセージの手渡しリレーを行った駅伝走者である。
左手に持っているのがメッセージを結び目で表現した「[[キープ (インカ)|キープ]]」。]]
[[インカ帝国]]というのは南北の長さがおよそ5,000kmにも達した広大な帝国であったが、全長5万kmにおよぶ[[インカ道]]が整備されていて、情報を迅速に首都の[[クスコ]]に届けるためのシステムとして、インカ道に5kmの間隔で道沿いに駅が設けられ、「[[チャスキ]]」と呼ばれる公設の飛脚の制度も設けられ、各駅に常時2名の飛脚が駐在していた。文字を持たないインカ帝国では「[[キープ (インカ)|キープ]]」と呼ばれる紐の束が情報の表現に使われていたわけだが、このキープを次から次へとリレーして引き渡してゆくことで情報を伝えており、その速度は時速20kmほどに達したとも言われている<ref>[https://www.jcca.or.jp/kaishi/270/270_toku5.pdf]</ref>。このシステムを用いてインカ帝国の王や各地の責任者は互いに通信することができた。
==== 「早馬」や「飛脚」の利用、駅伝制、伝書鳩 ====
手紙というのは、前述の「のろし」や「火のリレー」などに比べると、伝えられる内容の正確さや内容の詳細さ、という点では良くなったが、スピードという点ではかなり劣っている<ref name="nippo" />。概して、手紙は遅いが、どうしても手紙を早く届けなければならない場合には、脚の速い人を手紙を届けるための人として選んで専門職のように扱い(「飛脚」)その人に託したり、脚の速い[[ウマ|馬]]を選んで手紙を届けるためだけに借り切って「早馬」とする、そのために高い報酬を(走者や馬の持ち主や乗り手などに)払う、という解決策は古代から世界各地で行われた。
世界史上、広大な地域を支配する中央集権国家が成立すると、その支配体制を維持するために中央と地方とを常時連絡する手段が必要となった。
たとえば紀元前5世紀に、アケメネス朝ペルシア帝国の大王[[ダレイオス1世]]によって、[[王の道]](おうのみち、英語: Persian Royal Road)が構築されたことが世界史上では有名であるが、この例に限らず、適当な間隔で人・馬・馬車などを常備した施設を置き、施設から施設へと人や馬などが行き来することで、情報をリレー形式で伝える通信制度は、世界各地で一般的となっていった。
{{Seealso|駅伝制}}
[[1150年]]には[[バグダッド]]で[[伝書鳩]]が使われはじめた。だが目的地にたどり着かないことも多く、確実性が低い通信方法だった<ref name="nippo" />。
=== セマフォール ===
[[File:OptischerTelegraf.jpg|thumb|left|180px|セマフォール通信の塔、および塔の上の「腕木」]]
'''[[望遠鏡]]'''が発明されると、それを用いて新たな通信手法が開発され、[[1793年]]にフランスの[[クロード・シャップ]]は、フランスの首都[[パリ]]とベルギーとの国境あたりの[[リール (フランス)|リール]]の間の230kmに通信塔([[:fr:semaphore]] セマフォール)を約10km間隔で配列し、[[腕木通信]]とよばれる通信を行い、230km先までかなりすみやかにメッセージを送ることを可能にした。これは塔の上に形を変えられるようにした大きな「腕木(うでぎ)」を設置し、この形の変化を望遠鏡で観測して文字や記号などとして読み取り、塔から塔へと中継していく仕組みである<ref name="nippo" />。このセマフォールがうまく機能し、各地の戦況が素早くパリの政権に伝えられたことで、フランス革命政府は通信システムの重要性を認識するようになり、フランス国内にセマフォールの通信網を張り巡らす計画が立てられ、[[1795年]]にはフランス国内が556のセマフォールによる総延長4800kmのネットワークで網羅された<ref name="nippo" />。このセマフォール通信は当時としては非常にすぐれており、アメリカやイギリスなどでも採用された。(その後他のもっと便利な通信方法が現れ現代では陸上ではセマフォール通信は使われなくなったが)セマフォール通信は、[[船舶]]、[[海運]]の世界では今日でも使われ続けている。現代でも船員は[[信号旗]]を用い、それをマストの張り出しの異なる位置に掲げることで他船に信号を送り、周辺を航行する船舶の乗組員は望遠鏡で信号旗の位置や種類を観測し、その船が置かれている状態の表示やその船が周囲の船に伝えたいことを読み取る。また船舶間では[[手旗信号]]による通信も行われている。
{{gallery
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|File:J_M_W_Turner-La_bataile_de_Trafalgar.JPG|[[信号旗]]を用いた通信の例。離れていても'''[[望遠鏡]]'''でこの船の信号旗を観測することで「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」というメッセージを伝えていることが理解できる。[[トラファルガーの海戦]]での通信。
|File:ICS-flags.png|アルファベットを送る場合の信号旗
|File:Semaphore Signals A-Z.jpg|[[手旗信号]]でのアルファベットの一覧
|Demostracion.gif|手旗信号が実際に送られる時の雰囲気や速さが分かるgif動画
}}
=== 電気を用いた通信の登場 ===
[[1787年]]、スペインの[[アグスティン・デ・ベタンクル]]はマドリードとアランフエス間で電信を送るための実験を行った。[[1798年]]にはバルセロナの{{仮リンク|フランシスコ・サルバ|en|Francisco Salva Campillo}}(1751―1828)がマドリード―アランフエス間の42kmを1本の電線で結ぶ実験に成功。[[1816年]]にはイギリスの通信技術者{{仮リンク|フランシス・ロナルズ|en|Francis Ronalds}}がロンドン郊外[[:en:Queen Square, London|クイーンスクエアー]]の広大な自宅の庭で実験を積み重ね、新しい方式を発明した。これは、アルファベットを書いた回転ダイヤルを送・受信双方に設け同期して回転させ、送信側において希望の文字が目前にきたときに放電させ、受信側では木の髄でつくった小球が弾かれて、それを見れば送信したい文字が分かる、というもので、これはイギリス海軍に採用された<ref name="nippo" />。
[[1809年]]に{{仮リンク|サミュエル・トーマス・ゼンメリンク|de|Samuel Thomas von Soemmerring}}が『ミュンヘン・アカデミー・オブ・サイエンス』誌(Munich Academy of Science)で電気化学的通信のアイディアについて述べ、それを読んだシリング男爵[[:en:Pavel Schilling|Baron Pavel L'vovitch Schilling]](1780―1837)がそれを実現しようと実験に没頭し、それをロシア皇帝から認められ[[サンクトペテルブルク]]とペテルホーフ宮殿の間に電気通信設備を設けるよう命じられたが不幸にもまもなく没してしまった。一方で、1833年ゲッティンゲン大学教授の[[カール・フリードリヒ・ガウス]]と[[ヴィルヘルム・ヴェーバー]]が最初の電磁検流針電信装置を実用化し、1km離れた研究施設の間で通信を行った<ref name="nippo" />。これは4つの基本的なシグナルの単位で動作するものであった<ref name="nippo" />。
{{Seealso|電気通信}}
=== コンピュータを用いた通信の登場 ===
1950年代あたりから[[コンピュータネットワーク]]を用いた通信が行われるようになり、1990年代からは[[インターネット]]を用いた通信が盛んになっている。
{{gallery
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|File:Erdfunkstelle Raisting 2.jpg|現代の[[パラボラアンテナ]]と[[通信衛星]]を用いた通信
|File:Internet map 1024.jpg|現代の[[インターネット]]網を視覚化したもの
}}
== 会計用語、経理用語 ==
通信に掛かった費用、又は[[簿記]]で通信を処理する[[勘定科目]]のこと。電話料金等は、銀行振替日か請求書の日付で継続的に計上する。
請求書の日付で計上する場合は、[[発生主義]]の観点から[[未払金]]とする。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary pipe|通信}}
*[[通信技術の年表]]
*[[コミュニケーション]]
*[[通信工学]]
*[[暗号]]、[[秘匿通信]]
*[[データ通信]]
*[[超光速通信]]
*[[インターネット用語一覧]]
*[[通信用語一覧]]
*[[通信と放送の融合]]
*[[情報通信技術]](ICT)
*[[情報通信業]]
*[[電気通信事業]]
*[[光波長多重通信]]
{{Telecommunications}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:つうしん}}
[[Category:通信|*]]
[[Category:媒体]]
[[de:Telekommunikation]]
[[en:Telecommunication]]
[[fr:Télécommunications]]
[[pl:Telekomunikacja]] | null | 2023-03-22T05:14:15Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E4%BF%A1 |
3,757 | ハーフメタリック | ハーフメタリック(Half-metallic)とは、スピン分極した系において、一方のスピンの側では価電子帯が電子で完全に満たされて、バンドギャップが開き半導体的な状態となり、もう片方のスピン側では価電子帯の電子は完全に満たされていない(つまり金属的なバンド)状態のこと。スピントロニクスの分野にとって非常に重要な性質である。特にスピン(磁気)を使ったデバイスへの応用が期待されている。
この性質を持つ物質のことを、ハーフメタルまたは完全スピン偏極強磁性体と言う。これは、半金属(Semi-metal)とは異なる概念である。 | [
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'''ハーフメタリック'''(Half-metallic)とは、[[スピン分極]]した系において、一方の[[スピン角運動量|スピン]]の側では[[価電子帯]]が[[電子]]で完全に満たされて、[[バンドギャップ]]が開き[[半導体]]的な状態となり、もう片方のスピン側では価電子帯の電子は完全に満たされていない(つまり[[金属]]的なバンド)状態のこと。[[スピントロニクス]]の分野にとって非常に重要な性質である。特にスピン([[磁気]])を使った[[デバイス]]への応用が期待されている。
この性質を持つ[[物質]]のことを、'''ハーフメタル'''または'''完全スピン偏極強磁性体'''と言う。これは、[[半金属 (バンド理論)|半金属]](Semi-metal)とは異なる概念である。
== 関連項目 ==
*[[物性物理学]]
*[[第一原理バンド計算]]
*[[Magnetoresistive Random Access Memory|MRAM]]
{{DEFAULTSORT:はふめたりつく}}
[[Category:半導体]]
[[Category:物性物理学]] | null | 2023-01-10T03:54:20Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF |
3,760 | SF作家一覧 | SF作家一覧(エスエフさっかいちらん)
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] | SF作家一覧(エスエフさっかいちらん) | '''[[SF作家]]一覧'''(エスエフさっかいちらん)
== 日本 ==
=== あ行 ===
* [[秋山完]]
* [[秋山瑞人]]
* [[阿武天風]]
* [[安部公房]]
* [[新井素子]]
* [[荒巻義雄]]
* [[荒俣宏]]
* [[池田正暢]]
* [[池上永一]]
* [[伊坂康宏]]
* [[石川英輔]]
* [[石飛卓美]]
* [[石原藤夫]]
* [[石川さつき]]
* [[泉和良]]
* [[伊藤計劃]]
* [[井上剛 (SF作家)|井上剛]]
* [[入間人間]]
* [[岩本隆雄]]
* [[岩間宏通]]
* [[うえお久光]]
* [[上田早夕里]]
* [[冲方丁]]
* [[海野十三]]
* [[江坂遊]]
* [[円城塔]]
* [[大場惑]]
* [[小川一水]]
*[[小川哲]]
* [[小川有里]]
* [[大原まり子]]
* [[大熊ふさ子]]
* [[岡崎弘明]]
* [[荻野目悠樹]]
* [[押川春浪]]
* [[恩田陸]]
=== か行 ===
* [[鏡明]]
* [[風間斉]]
* [[梶尾真治]]
* [[上遠野浩平]]
* [[加納一朗]]
* [[香山滋]]
* [[川又千秋]]
* [[神林長平]]
* [[かんべむさし]]
* [[亀和田武]]
* [[菊地秀行]]
* [[北野勇作]]
* [[今日泊亜蘭]]
* [[草上仁]]
* [[鯨統一郎]]
* [[久美沙織]]
* [[倉田タカシ]]
* [[栗本薫]]
* [[黒沼健]]
* [[河野美奈]]
* [[五代格]]
* [[小林めぐみ]]
* [[小林泰三]]
* [[小松左京]]
* [[今野敏]]
* [[高斎正]]
=== さ行 ===
* [[笹本祐一]]
* [[阪上隆庸]]
* [[坂永雄一]]
* [[坂本康宏]]
* [[椎名誠]]
* [[式貴士]]
* [[柴田勝家 (作家)|柴田勝家]]
* [[紫野直子]]
* [[篠田節子]]
* [[篠原ナオミ]]
* [[島野玲]]
* [[清水義範]]
* [[新城カズマ]]
* [[須賀しのぶ]]
* [[菅浩江]]
* [[杉村修]]
* [[関戸康之]]
* [[瀬名秀明]]
=== た行 ===
* [[高瀬美恵]]
* [[高千穂遙]]
* [[高野史緒]]
* [[高橋総一郎]]
* [[高本恵子]]
* [[滝川羊]]
* [[田中光二]]
* [[田中哲弥]]
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* [[田中芳樹]]
* [[谷川流]]
* [[谷甲州]]
* [[谷口裕貴]]
* [[筒井康隆]]
* [[津守時生]]
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* [[豊田有恒]]
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=== な行 ===
* [[中井紀夫]]
* [[仁木稔]]
* 西尾維新
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* [[西谷史]]
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=== は行 ===
* [[林譲治 (作家)|林譲治]]
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* [[平谷美樹]]
* [[広瀬正]]
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* [[宏奈和泉]]
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=== ま行 ===
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* [[牧野修]]
* [[柾悟郎]]
* [[松岡たつる]]
* [[眉村卓]]
* [[三雲岳斗]]
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=== や行 ===
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* [[矢野徹]]
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* [[山口由紀子]]
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* [[山野浩一]]
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* [[結城充考]]
* [[夢野久作]]
* [[夢枕獏]]
* [[横田順彌]]
* [[吉川良太郎]]
* [[吉田親司]]
* [[吉田直]]
* [[米田淳一]]
=== ら行 ===
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== アジア ==
=== インド ===
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=== 韓国 ===
* [[カン・ビョンユン]]
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=== タイ ===
* [[ソムトウ・スチャリトカル]](S・P・ソムトウ)
=== 台湾 ===
* [[紀大偉]](き だいい、Ji Dawei)
* [[張系国]](ちょう けいこく、Zhang Xiguo)
=== 中国 ===
* [[王晋康]](おう しんこう、Wan Jinkang)
* [[夏笳]](か か、Xia Jia)
* [[韓松]](かん しょう、Han Song)
* [[倪匡]](げい きょう、Ni Kuang)
* [[江波 (小説家)|江波]](こう は、Jiang Bo)
* {{仮リンク|譚剣|en|Albert Tam|zh|譚劍}}(たん けん、Tan Jian)
* [[陳楸帆]](ちん しゅうはん、Chen Qiufan)
* {{仮リンク|鄭文光|en|Zheng Wenguang|zh|郑文光}}(てい ぶんこう、Zheng Wenguang)
* {{仮リンク|童恩正|en|Tong Enzheng|zh|童恩正}}(どう おんせい、Tong Enzheng)
* [[葉永烈]](よう えいれつ、Ye Yonglie)
* [[劉慈欣]](りゅう じきん、Liu Cixin)
* [[老舎]](ろうしゃ、Laoshe)
=== 香港 ===
* [[陳浩基]](ちん こうき、Chen Haoji)
== 欧米・オセアニア ==
=== 英語圏 ===
==== ア行 ====
* [[キャサリン・アサロ]] (Catherine Asaro)
* [[アイザック・アシモフ]] (Isaac Asimov)
* [[ロバート・アスプリン]] (Robert Asprin)
* [[クリストファー・アンヴィル]](Christopher Anvil)
* [[ピアズ・アンソニイ]] (Piers Anthony)
* [[ポール・アンダースン]] (Poul Anderson)
* [[グレッグ・イーガン]] (Greg Egan)
* [[ジョン・ヴァーリイ]] (John Varley)
* [[ジャック・ヴァンス]] (Jack Vance)
* [[ジャック・ウィリアムスン]] (Jack Williamson)
* [[ロバート・ムーア・ウイリアムズ]] (Robert Moore Williams)
* [[コニー・ウィリス]] (Constance Elaine Trimmer Willis)
* [[リチャード・ウィルスン (小説家)|リチャード・ウィルスン]] (Richard Wilson)
* [[ロバート・チャールズ・ウィルスン]](Robert Charles Wilson)
* [[F・ポール・ウィルソン]](Francis Paul Wilson)
* [[ケイト・ウィルヘルム]](Kate Wilhelm)
* [[ヴァーナー・ヴィンジ]] (Vernor Vinge)
* [[ジョーン・D・ヴィンジ]] (Joan D. Vinge)
* [[ジョン・ウィンダム]] (John Wyndham)
* [[デイヴィッド・ウェーバー]] (David Weber)
* [[H・G・ウェルズ]] (Herbert George Wells)
* [[A・E・ヴァン・ヴォークト]] (A.E.van Vogt)
* [[カート・ヴォネガット]] (Kurt Vonnegut)
* [[ジャック・ウォマック]] (Jack Womack)
* [[ハワード・ウォルドロップ]] (Howard Waldrop)
* [[ドナルド・A・ウォルハイム]] (Donald A. Wollheim)
* [[バーナード・ウルフ]] (Bernard Wolfe)
* [[ジーン・ウルフ]] (Gene Wolfe)
* [[ジョージ・アレック・エフィンジャー]] (George Alec Effinger)
* [[キャロル・エムシュウィラー]](Carol Emshwiller)
* [[ハーラン・エリスン]](Harlan Jay Ellison)
* [[ブライアン・オールディス]](Brian W. Aldiss)
* [[ローレンス・オドネル]] (Lawrence O'Donnell)
* [[チャド・オリヴァー]](Chad Oliver)
==== カ行 ====
* [[テリー・カー]] (Terry Carr)
* [[オースン・スコット・カード]] (Orson Scott Card)
* [[ヘンリー・カットナー]] (Henry Kuttner)
* [[レイ・カミングス]] (Ray Cummings)
* [[レイモンド・Z・ガラン]](Raymond Z. Gallun)
* [[ジェイムズ・E・ガン (小説家)|ジェイムズ・E・ガン]] (James E. Gunn)
* [[ヒューゴー・ガーンズバック]](Hugo Gernsback)
* [[ウィリアム・ギブスン]] (William Gibson)
* [[グラント・キャリン]] (Grant D. Callin)
* [[ジャック・キャンベル]] (Jack Campbell)
* [[ジョン・W・キャンベル]](John W. Campbell)
* [[エドマンド・クーパー]](Edmund Cooper)
* [[アーサー・C・クラーク]] (Arthur Charles Clarke)
* [[マイケル・クライトン]](Michael Crichton)
* [[O・A・クライン]](Otis Adelbert Kline)
* [[ジョン・クリストファー]](John Christopher)
* [[マーク・クリフトン]](Mark Clifton)
* [[ジョージ・グリフィス]](George Griffith)
* [[ニコラ・グリフィス]](Nicola Griffith)
* [[ナンシー・クレス]] (Nancy Kress)
* [[ハル・クレメント]](Hal Clement)
* [[シオドア・R・コグスウェル]](Theodore R. Cogswell)
* [[トム・ゴドウィン]](Tom Godwin)
* [[マイクル・コニイ]](Michael Coney)
* [[スタントン・A・コブレンツ]](Stanton A. Coblentz)
==== サ行 ====
* [[ティモシイ・ザーン]](Timothy Zahn)
* [[K・W・ジーター]](K. W. Jeter)
* [[チャールズ・シェフィールド]](Charles Sheffield)
* [[メアリー・シェリー]](Mary Shelley)
* [[カート・シオドマク]](Curt Siodmak)
* [[クリフォード・D・シマック]](Clifford D. Simak)
* [[ダン・シモンズ]] (Dan Simmons)
* [[ロバート・シェクリイ]] (Robert Sheckley)
* [[ルーシャス・シェパード]] (Lucius Shepard)
* [[ジェイムズ・H・シュミッツ]] (James Henry Schmitz)
* [[レイモンド・F・ジョーンズ]] (Raymond F. Jones)
* [[ニール・R・ジョーンズ]](Neil R. Jones)
* [[ギネス・ジョーンズ (作家)|ギネス・ジョーンズ]](Gwyneth Jones)
* [[ウィルマー・H・シラス]] (Wilmar H. Shiras)
* [[ロバート・シルヴァーバーグ]](Robert Silverberg)
* [[シオドア・スタージョン]] (Theodore Sturgeon)
* [[ブルース・スターリング]] (Bruce Sterling)
* [[ブライアン・ステイブルフォード]](Brian Stableford)
* [[ニール・スティーヴンスン]] (Neal Stephenson)
* [[アレン・スティール]] (Allen Mulherin Steele, Jr.)
* [[チャールズ・ストロス]] (Charles Stross)
* [[ノーマン・スピンラッド]] (Norman Richard Spinrad)
* [[ウェン・スペンサー]](Wen Spencer)
* [[E・E・スミス]] (Edward Elmer Smith)
* [[コードウェイナー・スミス]] (Cordwainer Smith)
* [[ジョージ・O・スミス]](George O. Smith)
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* [[マイクル・スワンウィック]](Michael Swanwick)
* [[カール・セーガン]](Carl Sagan)
* [[フレッド・セイバーヘーゲン]](Fred Thomas Saberhagen)
* [[ロジャー・ゼラズニイ]](Roger Joseph Christopher Zelazny)
* [[ロバート・J・ソウヤー]](Robert J. Sawyer)
==== タ行 ====
* [[ウィルスン・タッカー]] (Arthur Wilson Tucker)
* [[ジョージ・ターナー (小説家)|ジョージ・ターナー]](George Turner)
* [[E・C・タブ]] (Edwin Charles Tubb)
* [[テッド・チャン]] (Ted Chiang)
* [[ジャック・L・チョーカー]] (Jack L. Chalker)
* [[L・スプレイグ・ディ=キャンプ]] (Lyon Sprague de Camp)
* [[アヴラム・デイヴィッドスン]] (Avram Davidson)
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==== ナ行 ====
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==== ハ行 ====
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==== マ行 ====
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* [[アン・マキャフリイ]] (Anne McCaffrey)
* [[ジョン・D・マクドナルド]] (John D.MacDonald)
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* [[ドナルド・モフィット]](Donald Moffitt)
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==== ヤ行 ====
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==== ラ行 ====
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* [[ジョー・R・ランズデール]](Joe Richard Lansdale)
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==== ワ行 ====
* [[フィリップ・ワイリー]] (Philip Wylie)
* [[スタンリイ・G・ワインボウム]] (Stanley G. Weinbaum)
* [[ピーター・ワッツ]] (Peter Watts)
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=== フランス語圏 ===
[[フランス]]
* [[オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン]] (Auguste de Villiers de L'Isle-Adam)
* [[ジュール・ヴェルヌ]] (Jules Verne)
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* [[レジス・メサック]]({{lang|fr|Régis Messac}})
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[[ベルギー]]
* {{仮リンク|ジャック・ステルンベール|en|Jacques Sternberg|fr|Jacques Sternberg}} (Jacques Sternberg)
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=== ドイツ語圏 ===
[[ドイツ]]
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* [[アンドレアス・エシュバッハ]] (Andreas Eschbach)
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[[オーストリア]]
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=== 北欧 ===
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=== 南欧 ===
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[[ポーランド]]
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[[ロシア]]
* [[イワン・エフレーモフ]] (Ivan Efremov)
* [[イリヤ・エレンブルグ]]
* [[ユーリ・グラズコフ]]
* [[ゲオルギー・グレーヴィッチ]] (Georgi Iosifovich Gurevich)
* [[エヴゲーニイ・ザミャーチン]]
* [[ストルガツキー兄弟]] (Arkady and Boris Strugatsky)
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* [[マリエッタ・シャギニャン]]
* [[コンスタンチン・ツィオルコフスキー]]
* [[アナトーリイ・ドニェプロフ]](Anatoliy Dnyeprov)
* [[アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ]] (Aleksey Nikolaevich Tolstoy)
* [[ワレリー・ブリューソフ]]
* [[ミハイル・ブルガーコフ]]
* [[アレクサンドル・ベリャーエフ]] (Aleksandr Romanovich Beljaev)
* [[セルゲイ・ベリャーエフ]]
* [[ヴィクトル・ペレーヴィン]]
* [[アレクサンドル・ボグダーノフ]]
* [[ビタリ・メレンチェフ]](Vitaliy Melent'yev)
* [[セルゲイ・ルキヤネンコ]]
* [[イリヤ・ワルシャフスキー]] (Il'ya Varshavskiy)
== 中南米 ==
[[アルゼンチン]]
* [[アドルフォ・ビオイ=カサーレス]] (Adolfo Bioy Casares)
[[キューバ]]
* [[ダイナ・チャヴィアノ]] (Daína Chaviano)
== 関連項目 ==
*[[小説家]]
*[[ファンタジー作家一覧]]
[[Category:小説家一覧|えすえふさつか]]
[[Category:SF作家|*えすえふさつかいちらん]] | null | 2022-11-18T08:29:46Z | false | false | false | [
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3,762 | 電気通信 | 電気通信(でんきつうしん)とは、電気信号や電磁波(電波・赤外線・可視光線)等の電磁的手段により映像(動画)・音声・データなどの情報を伝える通信である。
電気通信分野の初期の発明者としては、アレクサンダー・グラハム・ベル、グリエルモ・マルコーニ、ジョン・ロジー・ベアードらが挙げられる。
電気通信は世界経済の重要な部分となっており、2006年の全世界の電気通信業界の収入は1兆2千億ドルと見積もられている。
有線通信・無線通信という区分があるが、現在の通信ネットワークは有線・無線を適材適所に組み合わせて構築される。
日本の電気通信事業法は、「有線、無線その他の電磁的方式により、符号、音響又は影像を送り、伝え又は受けること」と定義している。
また、放送は公衆に向けた通信の送信とされ、電気通信の部分集合であるが、しばしば並立するものとして言及される。
定訳としては、日本語(漢語)「電気通信」は、どうしても英語に翻訳したい場合は(やむなく) "electronic communication"と1対1に対応させるのが通常である。
ところが、英語圏の人々は(つまりネイティブは)一般に、「electronic communication」という英語を、日本人が「電気通信」という用語で指すような概念を指すためには使っていない。生物が電気的にコミュニケーションを行うことを指すために使っている。つまり日本人が強引に「電気通信」を英語に訳すつもりで「electronic communication」という表現を使っても、英語のネイティブには通じないわけであり、これでは和製英語である。
「通信」に相当するのは "telecommunication" である。造語法的には「tele + communication」であり、遠隔地間のコミュニケーションを指す。たとえば、狼煙、トーキングドラム、手紙、腕木通信、手旗信号なども含み、日本の「電気通信」という概念とは別の線引きによる概念である。
「電気通信」という用語の設定、概念の区切りかたは、日本の行政用語や大学の学科名などでは頻出し日本人は頻繁に用いていてそれに慣れてしまっていて、日本人の多くが気付いていないが、実は欧米圏ではあまり一般的ではない用語の設定、概念の区切り方である。つまり実は「電気通信」はそのままでは世界的に通用する概念ではなく、どちらかと言うと日本の行政用語や、日本の大学や日本の専門学校の学科運営のための用語なのである。
世界初の商業化された電信は1839年4月9日、チャールズ・ホイートストンとウィリアム・フォザギル・クックが構築したものである。ホイートストンもクックも彼らの装置を「(既存)の電磁式テレグラフの改良」と考えており、新たな装置とは見なしていなかった。
サミュエル・モールスも独自の電信を開発したが、1837年9月2日のデモンストレーションは失敗に終わった。ホイートストンの通信手法に比べて、モールス符号を定めた点が重要な利点だった。世界初の大西洋横断電信ケーブルが1866年7月27日に完成し、大陸間の電気通信の時代が始まった。
1849年、アントニオ・メウッチが音声を電線を通して伝える装置を発明した。しかし、メウッチの装置は「電気聴覚効果」というものを利用しており、電極を口にくわえることで電流を直接人体に流し、それによって聴覚を生じさせるものだった。このため、音質はよいが実用的とは言い難い面があった。1876年、アレクサンダー・グラハム・ベルとイライシャ・グレイがそれぞれ独自に現代と同じ仕組みの電話を発明した。世界初の商業化された電話サービスは1878年から1879年に、大西洋を挟んだニューヘイブンとロンドンでほぼ同時に開始された。
1832年、ジェームズ・ボウマン・リンゼーは学生たちに無線電信のデモンストレーションを披露した。1854年までには、スコットランドのテイ湾を挟んだダンディーとウッドヘイヴンの間(約3km)での通信に成功した。この場合は確かに電線はないが、水を伝送媒体として使っている。1901年12月、グリエルモ・マルコーニはセントジョンズ(カナダ)とコーンウォールPoldhu(イギリス)との間で無線通信に成功し、それによってノーベル物理学賞を(1909年、フェルディナント・ブラウンと共同で)受賞した。ただしもっと小規模な無線通信は、1893年にニコラ・テスラがデモンストレーションし成功させていた。
1925年3月25日、ジョン・ロジー・ベアードはロンドンの百貨店Selfridgesで動画の転送実験を披露した。ベアードの装置はニプコー円板を使った機械式テレビジョンだった。これに基づいて、英国放送協会は1929年9月30日テレビの実験放送を開始した。しかし20世紀のテレビのほとんどはフェルディナント・ブラウンの発明したブラウン管を使っている。そのようなテレビを最初に作ったのはフィロ・ファーンズワースで、1927年9月7日に家族に対してデモンストレーションを披露している。
1940年9月11日、ジョージ・スティビッツはニューハンプシャー州のダートマス大学に設置したテレタイプ端末からニューヨークにある複素数計算機(リレー式)に問題を送り、答を受け取るというデモンストレーションを行った。これは中央コンピュータ(メインフレーム)とリモートのダム端末という1950年代によく見られた構成と同じである。しかし、1960年代になる前に研究者らはパケット交換の研究を開始した。これは、中央のコンピュータを経由せずにデータを断片化して様々な場所のコンピュータとやり取りするテクノロジーである。1969年12月5日、4ノードのネットワークが構成され、ARPANETと名付けられた。1981年には、これが213ノードに成長している。
ARPANET関連の開発は Request for Comments というプロセスを中心として進められており、1969年4月7日に RFC 1 が発行されている。ARPANETはその後他のネットワークと融合してインターネットとなったため、このプロセスは重要である。今日のインターネットの様々な通信プロトコルは Request for Comment プロセスで策定されてきた。1981年9月、RFC 791 で Internet Protocol v4 (IPv4)、RFC 793 で Transmission Control Protocol (TCP) が定義され、今日のインターネットの大部分が基盤としているTCP/IPプロトコルが生まれた。
しかし、コンピュータネットワーク関連の重要な開発が全て Request for Comment プロセスで策定されたわけではない。1970年代、2つの重要な Local Area Network (LAN) 用リンクプロトコルが登場した。1974年10月29日、Olof Soderblom がトークンリングの特許を出願し、1976年7月の Communications of the ACM 誌にロバート・メトカーフと デビッド・ボグス がイーサネットに関する論文を発表した。
基本的な電気通信システムは以下の3つの要素から成る。
例えば、ラジオ放送では放送用電波塔が送信機、自由空間が伝送媒体、ラジオが受信機である。電気通信システムでは、1つの装置が送信機と受信機を兼ねていることが多く、送受信機(トランシーバー)と呼ぶ。
電話回線による電気通信は1つの送信機と1つの受信機を繋ぐものであり、ポイント・ツー・ポイントである。ラジオ放送による電気通信は強力な送信機と多数の受信機という構成であるため、放送である。
信号にはアナログとデジタルがある。アナログ信号では、情報に応じて信号が連続的に変化する。デジタル信号では、情報が離散値(例えば1と0)に符号化される。伝送時、アナログ信号が運ぶ情報はノイズによって劣化する。一方デジタル信号では、ノイズがあるしきい値未満であれば情報はそのまま保持される。ノイズへの耐性はデジタル信号がアナログ信号より優れている点の1つである。
電気通信網は送信機・受信機・送受信機の集合体であり、それらが相互に通信する。デジタルネットワークにはルーターがあり、正しいユーザーへと情報を転送する。アナログネットワークには交換機があり、ユーザー間の接続を確立する。どちらのネットワークであっても、遠距離に信号を伝送するには信号を増幅したり再作成するための中継機が必要になることがある。そうしないと、信号が減衰してノイズと区別できなくなる。
伝送媒体を区分けしたものが伝送路であり、そうすることで情報の流れを複数送ることができる。例えば、ラジオ局はそれぞれ異なる周波数の電波を送信する。この場合は、伝送媒体を周波数で区分けしたものが伝送路である。また時間を細かく区切り、それぞれを異なる伝送路に割り当てる方式を時分割多重化と呼び、光ファイバーによる通信などで採用している。
情報を運搬するよう信号を形成することを変調と呼ばれる。変調はデジタルのメッセージをアナログの波形で表すのにも使われる。そのような変調を デジタル変調 (keying) と呼び、位相偏移変調、周波数偏移変調、振幅偏移変調などがある。例えばBluetoothは位相偏移変調を使っている。
変調はアナログ信号の情報をより高い周波数で伝送するのにも使われる。周波数が低いと自由空間上で効率的に伝送することができないため、変調が必要になる。低周波数のアナログ信号の持つ情報を高周波数の信号(搬送波)に載せてから発信する。変調方式はいくつかあり、代表的なものとしては振幅変調と周波数変調がある。
電気通信は現代社会に社会的にも、文化的にも、経済的にも大きな影響を与えている。2006年時点で、電気通信業界の総収入は1兆2千億ドル、世界総生産の3%弱と見積もられている(公式の通貨換算レート)。ここでは、電気通信の社会への影響を論じる。
ミクロ経済の規模では、企業は電気通信を使って国際的帝国を構築してきた。Amazon.comのようなオンライン販売業者ではこれは自明だが、Edward Lenert によれば、ウォルマートのような普通の小売業者も電気通信基盤を改善することで同業他社に対して優位に立っているとしている。世界中の都市では、各家庭で宅配ピザから電気工事まで各種サービスを電話で注文することができる。相対的に貧困な社会でも、電気通信による恩恵を受けている。バングラデシュの僻地の村からでも、卸売り業者に携帯電話で直接連絡し、商品をより高く買い取ってくれる業者を探すことができる。コートジボワールのコーヒー栽培者は携帯電話で刻々と変化するコーヒーの価格をフォローし、最高値で売るようにしている。
マクロ経済の規模では、Lars-Hendrik Röller と Leonard Waverman がよい電気通信基盤と経済成長に因果関係があると示唆した。因果関係と見ることに反対する者もいるが、相関関係があることを否定する者はほとんどいない(相関関係と因果関係)。
よい電気通信基盤は経済によい影響を与えるため、世界中の各国で電気通信サービスへのアクセスの格差、すなわち情報格差への懸念が増大している。国際電気通信連合 (ITU) が2003年に行った調査で、約3分の1の国で国民20人当たりの携帯電話加入は1人未満、約3分の1の国で国民20人当たりの固定電話加入は1人未満ということが明らかになった。インターネットアクセスに関しては、約半分の国で国民20人当たりでインターネットアクセスしている人は1人未満だった。これらの情報と教育に関するデータを総合し、ITUは市民が情報および通信テクノロジーにアクセスし利用する能力の国別指数を算定した。それによると上位3位まではスウェーデン、デンマーク、アイスランドで、最下位3位まではアフリカのナイジェリア、ブルキナファソ、マリ共和国となった。
電気通信は社会関係にも大きな役割を果たしている。それにも関わらず、電話のような装置は元来実用面だけを強調して宣伝され、社会的側面は宣伝されなかった。電話の社会的側面が広告のテーマとなるのは1920年代末から1930年代になってからだった。新たなプロモーションでは、消費者の感情に訴え、社会的会話の重要性や家族や友人とつながったままでいられることの重要性を強調した。
その後、社会関係で電気通信が果たす役割は重要性を増してきた。最近ではソーシャル・ネットワーキング・サービス (SNS) の人気が急上昇している。SNSサイトではユーザーが互いにコミュニケーションをとれるだけでなく、写真やイベントやプロフィールをポストして公開できる。プロフィールには当人の年齢、趣味、性別などの項目がある。このようにして、SNSサイトは社交的な約束をすることから恋愛まであらゆることに重要な役割を演じることができる。
SNSが登場する以前から、SMSのようなテクノロジーや電話も社会的対話に大きな影響を与えていた。市場調査グループ Ipsos MORI の2000年の調査によれば、イギリスの15歳から24歳までのSMSユーザーの85%は社会的合意を調整するサービスを利用し、42%は恋愛の手段としてそれを使っていたという。
文化の面では、電気通信によって音楽や映画へのアクセス能力が増大してきた。テレビにより、人々はビデオ店や映画館に行かなくても見逃していた映画を見ることができる。ラジオとインターネットにより、人々はCD店に行かなくても聞いたことのない音楽を耳にすることができる。
電気通信は人々がニュースを受け取る方法も変化させてきた。非営利の Pew Internet and American Life Project の調査によると、「昨日」のニュースにどういう形で接したかを3000人のアメリカ合衆国在住の人々に聞いたところ、新聞よりもテレビやラジオという人が多かった。結果は次の表にまとめられている(複数の情報源を挙げることができる形式のため、合計は100%以上となっている)。
電気通信は広告にも大きな影響を与えてきた。TNS Media Intelligence の2007年のレポートによると、アメリカ合衆国内の広告費の58%は電気通信媒体に費やされた。結果は次の表にまとめられている。
多くの国は、国際電気通信連合 (ITU) が制定した国際電気通信規則 (ITR) に対応する法を制定している。ITUは情報および通信テクノロジーに関する問題を扱う国際連合の専門機関である。1947年のアトランティックシティでの会議で、ITUは「新たな国際周波数一覧に登録された全周波数を国際的に保護し、無線通信規制に従って使用していく」ことを決議した。ITUの「無線通信規制」によれば、国際周波数登録委員会 (IFRB) で参照され、調査され、国際周波数一覧に掲載された全周波数帯は「有害な干渉から国際的に保護される権利を有することとする」とされている。
国際的な視点から、電気通信と放送の管理について政治的な議論と立法が行われてきた。例えば、出版などの従来からある通信手段とラジオ放送などの電気通信のバランスといった議論である。第二次世界大戦が勃発すると、世界初の国際放送によるプロパガンダが爆発的に展開された。国家や政府や反乱勢力やテロリストや民兵などがそれぞれ電気通信や放送技術を使ってプロパガンダを展開してきた。政治運動や植民地化のための愛国的なプロパガンダは1930年代半ばごろに始まった。1936年、BBCはアラブ世界にプロパガンダ放送を行った。これは同地域の植民地化に興味を持っていたイタリアの同様な放送を相殺することを目的としていた。
最近のイラク戦争などでは、脅迫電話や脅迫SMS、数時間以内に実施された相手方への攻撃の動画を配布するなどの手法がプロパガンダとして用いられている。イラクでは、スンニ派の反乱勢力はテレビ局を持っていて、新政府軍がそこを押さえても別の拠点から放送を行っている。
アナログの電話網では、電話をかけると電話交換機群によって話したい相手とつながる。交換機群は2つの利用者間の電気的接続を形成する。それらの設定は電話をかけた際の電話番号のダイヤルパルスで電気的に決定される。接続が確立すると、電話をかけた側の声が受話器のマイクロフォンで電気信号に変換されて伝送される。その電気信号はネットワークを経由して通話先に送られ、そこで受話器のスピーカーによって音声に戻される。これとは反対方向に働く電気的接続があり、それによって相互に対話することができる。
一般家庭の固定電話の多くはアナログ式である。すなわち、話者の声が信号の電圧に直接反映される。ただし、市内通話は一貫してアナログ信号かもしれないが、電話事業者は局間の伝送を透過的にデジタル化しているところが増えている。デジタル信号の利点は、アナログ信号と違って長距離であっても音質が劣化しせず、インターネットのデータと一緒に送ることもできる点である。
携帯電話は電話網に大きな影響を与えた。多くの国で携帯電話の契約数が固定電話の契約数を超えている。2005年の携帯電話販売数は全世界で8億1660万台であり、アジア太平洋(2億400万台)、西ヨーロッパ(1億6400万台)、CEMEA(中央ヨーロッパ、中東、アフリカ: 1億5300万台)、北米(1億4800万台)、中南米(1億200万台)のそれぞれの市場で同じように成長している。1999年から5年間の成長率を新規加入者数で見ると、アフリカでの成長率が58.2%と群を抜いている。携帯電話もGSMやW-CDMAといったデジタル伝送が増え、AMPSなどのアナログ方式は減少しつつある。
電話通信には目に見えないところで大きな変化も起きている。1988年にはTAT-8(8代目の大西洋横断電話ケーブルで初の光ファイバー海底ケーブル)が運用を開始し、1990年代には光ファイバーに基づくシステムが広く採用されていった。光ファイバーによる通信は、データ容量が劇的に増大するという利点がある。TAT-8自体は従来の銅線製ケーブルの10倍の電話回線容量があり、近年の光ファイバーケーブルではTAT-8の25倍の容量がある。このデータ容量の増加にはいくつかの要因がある。まず、光ファイバーは他のテクノロジーよりも物理的に小型化できる。そして、光ファイバーでは漏話の心配がないため、数百本のファイバーを1本のケーブルに仕込むことができる。また、1本のファイバーのデータ容量は多重化によって指数関数的に増大させることができる。
光ファイバー網の多くは Asynchronous Transfer Mode (ATM) というプロトコルを使っている。ATMプロトコルは音声やデータを同時に転送可能とする。それによって網上にデータの経路を確立でき、その経路にトラフィック契約を結びつけることができることから、公衆電話回線網に適している。トラフィック契約とは顧客と網の間の合意であり、網がデータをどのように扱うかを定めたものである。網がトラフィック契約の条件を満たせない場合、接続自体が受理されない。電話の呼はある一定のビットレートを保証するよう契約を結び、音声が遅延したり途切れたりしないことを保証する性質があるため、この点は重要である。ATMプロトコルと類似する技術として Multi-Protocol Label Switching (MPLS) がある。
放送システムにおいては、中央の高出力の放送塔が高周波の電磁波を発信し、それを多数の低出力の受信機が受信する。塔から発せられる高周波は、映像情報や音声情報を含む信号を変調したものである。受信機をチューニングしてその周波数に合わせると、復調を行って元の映像信号や音声信号を取り出す。放送信号はアナログ(情報に応じて連続的に変換する信号)またはデジタル(情報を離散値で符号化したもの)である。
放送業界は世界的にアナログからデジタルへの重大な転換点にある。この変化は、集積回路がより安くより高速かつ大容量になったことで可能になった。デジタル放送は、アナログ放送につきものの問題点を解消できるという利点がある。テレビの場合、スノーノイズやゴースト障害といった歪みなどの問題が解消される。これらの障害はアナログ伝送の性質に起因するもので、ノイズの影響が最終的な画質に現れたものと言える。デジタル信号では離散値しか扱わないためこのような問題がなく、多少のノイズでは最終的な画質に影響しない。単純化すると、バイナリメッセージ 1011 を [1.0 0.0 1.0 1.0] という振幅の信号で表したとき、受信した信号が [0.9 0.2 1.1 0.9] でも 1011 というバイナリメッセージに戻すことができ、送信した情報が正確に保持されている。またこの例でわかる通り、ノイズが強すぎると復号したメッセージは大きく変化している可能性があり、それがデジタル伝送の弱点である。前方誤り訂正を受信機で行えば複数ビットの誤りを訂正できるが、ノイズが強ければ訂正では追いつかず、伝送は不可能となる。
デジタルテレビ放送ではATSC、DVB、ISDBという3種類の規格があり、それぞれを世界各国が採用している(右図の地図参照)。いずれも動画圧縮にはMPEG-2を使っている。音声圧縮については、ATSCは Dolby Digital AC-3、ISDBは Advanced Audio Coding (MPEG-2 Part 7) を採用し、DVBは1つに定めていないが一般に MPEG-1 Part 3 Layer 2 を使っている。変調方式もそれぞれ異なる。デジタル音声放送では、ほぼ世界中が Digital Audio Broadcasting という規格を採用している。例外としてアメリカ合衆国だけは HD Radio という規格を採用している。HD Radio では、従来のAMやFMのアナログ放送とデジタル放送を共存させるIBOC (In-Band On-Channel) 方式を採用している。
デジタルへの切り替えが進んでいるが、多くの国ではアナログテレビ放送も続けられている。ただし、アメリカ合衆国では2度の延期を経て2009年7月12日にアナログテレビ放送が終了となった。アナログテレビには3種類の規格 PAL、NTSC、SECAM がある(分布はこちらを参照)。ラジオ放送のデジタル化は、受信機の価格に大きな差があるため、テレビよりもさらに困難と言われている。アナログのラジオ放送は一般に振幅変調(AM)と周波数変調(FM)に分けられる。FMにおけるステレオ方式としては、差和方式やAM-FM方式などがある。
インターネットはコンピュータの世界的ネットワークであり、Internet Protocol を使って相互に通信できるコンピュータネットワークである。インターネット上のコンピュータには一意なIPアドレスが割り当てられており、他のコンピュータが情報を送る際の宛先として使う。そのため、インターネット上では各コンピュータがIPアドレスを使って任意のコンピュータにメッセージを送ることができる。そのメッセージには送信元のIPアドレスが含まれているので、双方向通信が可能となる。インターネットはコンピュータ間のメッセージ交換で成り立っている。
2008年現在、全世界の21.9%の人々がインターネットに頻繁にアクセスしている。北米では73.6%、オセアニアでは59.5%、ヨーロッパでは48.1%の人々がアクセスしている。ブロードバンドインターネット接続の普及率という観点では、アイスランド(26.7%)、韓国(25.4%)、オランダ(25.3%)などが世界をリードしている。
インターネットでは、通信プロトコルによってコンピュータやルーターの相互通信の手順が決められている。コンピュータネットワークの通信は階層型アプローチを採用しており、プロトコルスタック内の各プロトコルは他のプロトコルとはほぼ独立して動作している。これにより、下層のプロトコルを物理的なネットワークに最適化しつつ、上層のプロトコルは物理ネットワークとは独立して動作させることができる。なぜこのことが重要なのかを具体的な例で示すと、あるコンピュータがイーサネットでインターネットに接続するのか、それともWi-Fiで接続するのかに関わらず、全く同じウェブブラウザを使うことができるのは、この階層型アプローチのおかげである。プロトコルはOSI参照モデル(右図参照)と関連付けて語られることが多い。これは開放型システム間相互接続という失敗に終わったプロトコルスイート構築の試みの初期段階である1983年に策定されたモデルである。
インターネットでは、物理層の伝送媒体やデータリンク層のプロトコルは送信元から宛先までにメッセージを送る間に複数の種類を使うことになる。つまりインターネットでは物理的な伝送媒体やデータリンクプロトコルに制限を設けていない。そのため、状況に応じて最適な伝送媒体やプロトコルを採用できる。実際、大陸間の通信には Asynchronous Transfer Mode (ATM) プロトコルと光ファイバーが使われている。これには公衆交換電話網と同じ基盤を共用していることが多い。
ネットワーク層では、Internet Protocol (IP) を基本として標準化されており、論理アドレスが設定されている。World Wide Web では、Domain Name System を使って人間にも読める形式の名前から「IPアドレス」を導出する(例えば www.google.com から 72.14.207.99 を得る)。現在、最もよく使われている Internet Protocol はバージョン4だが、バージョン6(IPv6)への移行が差し迫っている。
トランスポート層では、多くの場合 Transmission Control Protocol (TCP) または User Datagram Protocol (UDP) を使う。基本的にTCPは送信した全てのメッセージが確実に受信されなければならないときに使われ、UDPはそれが必須ではないときに使われる。TCPではパケットが失われた場合に再送が行われ、上位層には順番通りにメッセージが渡される。UDPではパケットが失われても再送は行われないし、順序も不定である。TCPもUDPもポート番号によってパケットを処理すべきアプリケーションやプロセスを指定する。ある種のアプリケーション層のプロトコルは特定のポートを使うため、ネットワーク管理者はトラフィックを操作して特定の要求に合うように調整できる。例えば特定のポートへのトラフィックをブロックしたり、優先順位を低くして性能を制限したりできる。
トランスポート層より上層では、セッション層とプレゼンテーション層に大まかに当てはまり、時々使われるプロトコルがある。例えば Secure Sockets Layer (SSL) や Transport Layer Security (TLS) がそれにあたる。これらのプロトコルは転送されるデータが秘匿されていることを保証する。ブラウザに南京錠のアイコンが表示されているとき、それらが使われている。最後にアプリケーション層にはインターネットユーザーがよく目にする多数のプロトコルがあり、HTTP(ウェブブラウジング)、POP3(電子メール)、FTP(ファイル転送)、IRC(チャット)、BitTorrent(ファイル共有)などがある。
Local Area Network(LAN、数km以内で機能するコンピュータネットワーク)の特徴は、インターネットとは別である。この程度の規模のネットワークは大規模ネットワークの特徴を全て備える必要はなく、それによってよりコストを低減させることができる。
1980年代中ごろ、OSI参照モデルのデータリンク層とアプリケーション層の間のギャップを埋めるプロトコルスイートがいくつか生まれた。例えば、AppleTalk、IPX、NetBIOSなどで、特にMS-DOSユーザーによく利用されたIPXが1990年代初期まで広く採用されていた。そのころには既にTCP/IPが存在していたが、主に政府機関や研究機関での利用に限られていた。インターネットが成長し、インターネット関連のトラフィックの割合が増えてくると、LANでもTCP/IPを採用することが多くなり、今ではTCP/IPがLAN上でも一般的になっている。TCP/IP化の動きを助けたテクノロジーとして、クライアントが自身のネットワークアドレスを探すのを助けるDHCPがある。同様の機能はAppleTalkやIPXやNetBIOSのプロトコルスイートにも標準で備わっていた。
データリンク層はLANとインターネットで大きく異なる部分である。大規模ネットワークのデータリンクプロトコルとしては、Asynchronous Transfer Mode (ATM) や Multi-Protocol Label Switching (MPLS) が使われているが、LANではイーサネットやトークンリングが典型的である。これらはインターネットのデータリンク層に比較して単純で(例えば、Quality of Service 保証などの機能がない)、CSMA/CDによる衝突回避を行う。そのため、設定に際してさらにコストを抑えられるという違いがある。
1980年代から1990年代にかけてはトークンリングもそれなりに使われていたが、現在ではLANのほとんどが有線または無線のイーサネットとなっている。物理層では、有線イーサネットの多くはツイストペアケーブルを使っている。しかし、初期の実装では同軸ケーブルを使っていたし、最近の高速なイーサネットでは光ファイバーを使う実装もある。光ファイバーを使う場合、シングルモードとマルチモードで特徴が異なる。マルチモード・光ファイバーは太く、製造コストは低いが帯域幅が小さく減衰が大きい(したがって、長距離には向かない)。 | [
{
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"text": "電気通信(でんきつうしん)とは、電気信号や電磁波(電波・赤外線・可視光線)等の電磁的手段により映像(動画)・音声・データなどの情報を伝える通信である。",
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"text": "電気通信分野の初期の発明者としては、アレクサンダー・グラハム・ベル、グリエルモ・マルコーニ、ジョン・ロジー・ベアードらが挙げられる。",
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"text": "電気通信は世界経済の重要な部分となっており、2006年の全世界の電気通信業界の収入は1兆2千億ドルと見積もられている。",
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"text": "有線通信・無線通信という区分があるが、現在の通信ネットワークは有線・無線を適材適所に組み合わせて構築される。",
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"text": "日本の電気通信事業法は、「有線、無線その他の電磁的方式により、符号、音響又は影像を送り、伝え又は受けること」と定義している。",
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"text": "また、放送は公衆に向けた通信の送信とされ、電気通信の部分集合であるが、しばしば並立するものとして言及される。",
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"text": "定訳としては、日本語(漢語)「電気通信」は、どうしても英語に翻訳したい場合は(やむなく) \"electronic communication\"と1対1に対応させるのが通常である。",
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"text": "ところが、英語圏の人々は(つまりネイティブは)一般に、「electronic communication」という英語を、日本人が「電気通信」という用語で指すような概念を指すためには使っていない。生物が電気的にコミュニケーションを行うことを指すために使っている。つまり日本人が強引に「電気通信」を英語に訳すつもりで「electronic communication」という表現を使っても、英語のネイティブには通じないわけであり、これでは和製英語である。",
"title": "用語と定義"
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"text": "「通信」に相当するのは \"telecommunication\" である。造語法的には「tele + communication」であり、遠隔地間のコミュニケーションを指す。たとえば、狼煙、トーキングドラム、手紙、腕木通信、手旗信号なども含み、日本の「電気通信」という概念とは別の線引きによる概念である。",
"title": "用語と定義"
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{
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"text": "「電気通信」という用語の設定、概念の区切りかたは、日本の行政用語や大学の学科名などでは頻出し日本人は頻繁に用いていてそれに慣れてしまっていて、日本人の多くが気付いていないが、実は欧米圏ではあまり一般的ではない用語の設定、概念の区切り方である。つまり実は「電気通信」はそのままでは世界的に通用する概念ではなく、どちらかと言うと日本の行政用語や、日本の大学や日本の専門学校の学科運営のための用語なのである。",
"title": "用語と定義"
},
{
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"text": "世界初の商業化された電信は1839年4月9日、チャールズ・ホイートストンとウィリアム・フォザギル・クックが構築したものである。ホイートストンもクックも彼らの装置を「(既存)の電磁式テレグラフの改良」と考えており、新たな装置とは見なしていなかった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "サミュエル・モールスも独自の電信を開発したが、1837年9月2日のデモンストレーションは失敗に終わった。ホイートストンの通信手法に比べて、モールス符号を定めた点が重要な利点だった。世界初の大西洋横断電信ケーブルが1866年7月27日に完成し、大陸間の電気通信の時代が始まった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "1849年、アントニオ・メウッチが音声を電線を通して伝える装置を発明した。しかし、メウッチの装置は「電気聴覚効果」というものを利用しており、電極を口にくわえることで電流を直接人体に流し、それによって聴覚を生じさせるものだった。このため、音質はよいが実用的とは言い難い面があった。1876年、アレクサンダー・グラハム・ベルとイライシャ・グレイがそれぞれ独自に現代と同じ仕組みの電話を発明した。世界初の商業化された電話サービスは1878年から1879年に、大西洋を挟んだニューヘイブンとロンドンでほぼ同時に開始された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 13,
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"text": "1832年、ジェームズ・ボウマン・リンゼーは学生たちに無線電信のデモンストレーションを披露した。1854年までには、スコットランドのテイ湾を挟んだダンディーとウッドヘイヴンの間(約3km)での通信に成功した。この場合は確かに電線はないが、水を伝送媒体として使っている。1901年12月、グリエルモ・マルコーニはセントジョンズ(カナダ)とコーンウォールPoldhu(イギリス)との間で無線通信に成功し、それによってノーベル物理学賞を(1909年、フェルディナント・ブラウンと共同で)受賞した。ただしもっと小規模な無線通信は、1893年にニコラ・テスラがデモンストレーションし成功させていた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "1925年3月25日、ジョン・ロジー・ベアードはロンドンの百貨店Selfridgesで動画の転送実験を披露した。ベアードの装置はニプコー円板を使った機械式テレビジョンだった。これに基づいて、英国放送協会は1929年9月30日テレビの実験放送を開始した。しかし20世紀のテレビのほとんどはフェルディナント・ブラウンの発明したブラウン管を使っている。そのようなテレビを最初に作ったのはフィロ・ファーンズワースで、1927年9月7日に家族に対してデモンストレーションを披露している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1940年9月11日、ジョージ・スティビッツはニューハンプシャー州のダートマス大学に設置したテレタイプ端末からニューヨークにある複素数計算機(リレー式)に問題を送り、答を受け取るというデモンストレーションを行った。これは中央コンピュータ(メインフレーム)とリモートのダム端末という1950年代によく見られた構成と同じである。しかし、1960年代になる前に研究者らはパケット交換の研究を開始した。これは、中央のコンピュータを経由せずにデータを断片化して様々な場所のコンピュータとやり取りするテクノロジーである。1969年12月5日、4ノードのネットワークが構成され、ARPANETと名付けられた。1981年には、これが213ノードに成長している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 16,
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"text": "ARPANET関連の開発は Request for Comments というプロセスを中心として進められており、1969年4月7日に RFC 1 が発行されている。ARPANETはその後他のネットワークと融合してインターネットとなったため、このプロセスは重要である。今日のインターネットの様々な通信プロトコルは Request for Comment プロセスで策定されてきた。1981年9月、RFC 791 で Internet Protocol v4 (IPv4)、RFC 793 で Transmission Control Protocol (TCP) が定義され、今日のインターネットの大部分が基盤としているTCP/IPプロトコルが生まれた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "しかし、コンピュータネットワーク関連の重要な開発が全て Request for Comment プロセスで策定されたわけではない。1970年代、2つの重要な Local Area Network (LAN) 用リンクプロトコルが登場した。1974年10月29日、Olof Soderblom がトークンリングの特許を出願し、1976年7月の Communications of the ACM 誌にロバート・メトカーフと デビッド・ボグス がイーサネットに関する論文を発表した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "基本的な電気通信システムは以下の3つの要素から成る。",
"title": "主な概念"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "例えば、ラジオ放送では放送用電波塔が送信機、自由空間が伝送媒体、ラジオが受信機である。電気通信システムでは、1つの装置が送信機と受信機を兼ねていることが多く、送受信機(トランシーバー)と呼ぶ。",
"title": "主な概念"
},
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "電話回線による電気通信は1つの送信機と1つの受信機を繋ぐものであり、ポイント・ツー・ポイントである。ラジオ放送による電気通信は強力な送信機と多数の受信機という構成であるため、放送である。",
"title": "主な概念"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "信号にはアナログとデジタルがある。アナログ信号では、情報に応じて信号が連続的に変化する。デジタル信号では、情報が離散値(例えば1と0)に符号化される。伝送時、アナログ信号が運ぶ情報はノイズによって劣化する。一方デジタル信号では、ノイズがあるしきい値未満であれば情報はそのまま保持される。ノイズへの耐性はデジタル信号がアナログ信号より優れている点の1つである。",
"title": "主な概念"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "電気通信網は送信機・受信機・送受信機の集合体であり、それらが相互に通信する。デジタルネットワークにはルーターがあり、正しいユーザーへと情報を転送する。アナログネットワークには交換機があり、ユーザー間の接続を確立する。どちらのネットワークであっても、遠距離に信号を伝送するには信号を増幅したり再作成するための中継機が必要になることがある。そうしないと、信号が減衰してノイズと区別できなくなる。",
"title": "主な概念"
},
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"paragraph_id": 23,
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"text": "伝送媒体を区分けしたものが伝送路であり、そうすることで情報の流れを複数送ることができる。例えば、ラジオ局はそれぞれ異なる周波数の電波を送信する。この場合は、伝送媒体を周波数で区分けしたものが伝送路である。また時間を細かく区切り、それぞれを異なる伝送路に割り当てる方式を時分割多重化と呼び、光ファイバーによる通信などで採用している。",
"title": "主な概念"
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"text": "情報を運搬するよう信号を形成することを変調と呼ばれる。変調はデジタルのメッセージをアナログの波形で表すのにも使われる。そのような変調を デジタル変調 (keying) と呼び、位相偏移変調、周波数偏移変調、振幅偏移変調などがある。例えばBluetoothは位相偏移変調を使っている。",
"title": "主な概念"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "変調はアナログ信号の情報をより高い周波数で伝送するのにも使われる。周波数が低いと自由空間上で効率的に伝送することができないため、変調が必要になる。低周波数のアナログ信号の持つ情報を高周波数の信号(搬送波)に載せてから発信する。変調方式はいくつかあり、代表的なものとしては振幅変調と周波数変調がある。",
"title": "主な概念"
},
{
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"text": "電気通信は現代社会に社会的にも、文化的にも、経済的にも大きな影響を与えている。2006年時点で、電気通信業界の総収入は1兆2千億ドル、世界総生産の3%弱と見積もられている(公式の通貨換算レート)。ここでは、電気通信の社会への影響を論じる。",
"title": "電気通信と社会"
},
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ミクロ経済の規模では、企業は電気通信を使って国際的帝国を構築してきた。Amazon.comのようなオンライン販売業者ではこれは自明だが、Edward Lenert によれば、ウォルマートのような普通の小売業者も電気通信基盤を改善することで同業他社に対して優位に立っているとしている。世界中の都市では、各家庭で宅配ピザから電気工事まで各種サービスを電話で注文することができる。相対的に貧困な社会でも、電気通信による恩恵を受けている。バングラデシュの僻地の村からでも、卸売り業者に携帯電話で直接連絡し、商品をより高く買い取ってくれる業者を探すことができる。コートジボワールのコーヒー栽培者は携帯電話で刻々と変化するコーヒーの価格をフォローし、最高値で売るようにしている。",
"title": "電気通信と社会"
},
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"text": "マクロ経済の規模では、Lars-Hendrik Röller と Leonard Waverman がよい電気通信基盤と経済成長に因果関係があると示唆した。因果関係と見ることに反対する者もいるが、相関関係があることを否定する者はほとんどいない(相関関係と因果関係)。",
"title": "電気通信と社会"
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"text": "よい電気通信基盤は経済によい影響を与えるため、世界中の各国で電気通信サービスへのアクセスの格差、すなわち情報格差への懸念が増大している。国際電気通信連合 (ITU) が2003年に行った調査で、約3分の1の国で国民20人当たりの携帯電話加入は1人未満、約3分の1の国で国民20人当たりの固定電話加入は1人未満ということが明らかになった。インターネットアクセスに関しては、約半分の国で国民20人当たりでインターネットアクセスしている人は1人未満だった。これらの情報と教育に関するデータを総合し、ITUは市民が情報および通信テクノロジーにアクセスし利用する能力の国別指数を算定した。それによると上位3位まではスウェーデン、デンマーク、アイスランドで、最下位3位まではアフリカのナイジェリア、ブルキナファソ、マリ共和国となった。",
"title": "電気通信と社会"
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"text": "電気通信は社会関係にも大きな役割を果たしている。それにも関わらず、電話のような装置は元来実用面だけを強調して宣伝され、社会的側面は宣伝されなかった。電話の社会的側面が広告のテーマとなるのは1920年代末から1930年代になってからだった。新たなプロモーションでは、消費者の感情に訴え、社会的会話の重要性や家族や友人とつながったままでいられることの重要性を強調した。",
"title": "電気通信と社会"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "その後、社会関係で電気通信が果たす役割は重要性を増してきた。最近ではソーシャル・ネットワーキング・サービス (SNS) の人気が急上昇している。SNSサイトではユーザーが互いにコミュニケーションをとれるだけでなく、写真やイベントやプロフィールをポストして公開できる。プロフィールには当人の年齢、趣味、性別などの項目がある。このようにして、SNSサイトは社交的な約束をすることから恋愛まであらゆることに重要な役割を演じることができる。",
"title": "電気通信と社会"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "SNSが登場する以前から、SMSのようなテクノロジーや電話も社会的対話に大きな影響を与えていた。市場調査グループ Ipsos MORI の2000年の調査によれば、イギリスの15歳から24歳までのSMSユーザーの85%は社会的合意を調整するサービスを利用し、42%は恋愛の手段としてそれを使っていたという。",
"title": "電気通信と社会"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "文化の面では、電気通信によって音楽や映画へのアクセス能力が増大してきた。テレビにより、人々はビデオ店や映画館に行かなくても見逃していた映画を見ることができる。ラジオとインターネットにより、人々はCD店に行かなくても聞いたことのない音楽を耳にすることができる。",
"title": "電気通信と社会"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "電気通信は人々がニュースを受け取る方法も変化させてきた。非営利の Pew Internet and American Life Project の調査によると、「昨日」のニュースにどういう形で接したかを3000人のアメリカ合衆国在住の人々に聞いたところ、新聞よりもテレビやラジオという人が多かった。結果は次の表にまとめられている(複数の情報源を挙げることができる形式のため、合計は100%以上となっている)。",
"title": "電気通信と社会"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "電気通信は広告にも大きな影響を与えてきた。TNS Media Intelligence の2007年のレポートによると、アメリカ合衆国内の広告費の58%は電気通信媒体に費やされた。結果は次の表にまとめられている。",
"title": "電気通信と社会"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "多くの国は、国際電気通信連合 (ITU) が制定した国際電気通信規則 (ITR) に対応する法を制定している。ITUは情報および通信テクノロジーに関する問題を扱う国際連合の専門機関である。1947年のアトランティックシティでの会議で、ITUは「新たな国際周波数一覧に登録された全周波数を国際的に保護し、無線通信規制に従って使用していく」ことを決議した。ITUの「無線通信規制」によれば、国際周波数登録委員会 (IFRB) で参照され、調査され、国際周波数一覧に掲載された全周波数帯は「有害な干渉から国際的に保護される権利を有することとする」とされている。",
"title": "電気通信と政府"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "国際的な視点から、電気通信と放送の管理について政治的な議論と立法が行われてきた。例えば、出版などの従来からある通信手段とラジオ放送などの電気通信のバランスといった議論である。第二次世界大戦が勃発すると、世界初の国際放送によるプロパガンダが爆発的に展開された。国家や政府や反乱勢力やテロリストや民兵などがそれぞれ電気通信や放送技術を使ってプロパガンダを展開してきた。政治運動や植民地化のための愛国的なプロパガンダは1930年代半ばごろに始まった。1936年、BBCはアラブ世界にプロパガンダ放送を行った。これは同地域の植民地化に興味を持っていたイタリアの同様な放送を相殺することを目的としていた。",
"title": "電気通信と政府"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "最近のイラク戦争などでは、脅迫電話や脅迫SMS、数時間以内に実施された相手方への攻撃の動画を配布するなどの手法がプロパガンダとして用いられている。イラクでは、スンニ派の反乱勢力はテレビ局を持っていて、新政府軍がそこを押さえても別の拠点から放送を行っている。",
"title": "電気通信と政府"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "アナログの電話網では、電話をかけると電話交換機群によって話したい相手とつながる。交換機群は2つの利用者間の電気的接続を形成する。それらの設定は電話をかけた際の電話番号のダイヤルパルスで電気的に決定される。接続が確立すると、電話をかけた側の声が受話器のマイクロフォンで電気信号に変換されて伝送される。その電気信号はネットワークを経由して通話先に送られ、そこで受話器のスピーカーによって音声に戻される。これとは反対方向に働く電気的接続があり、それによって相互に対話することができる。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "一般家庭の固定電話の多くはアナログ式である。すなわち、話者の声が信号の電圧に直接反映される。ただし、市内通話は一貫してアナログ信号かもしれないが、電話事業者は局間の伝送を透過的にデジタル化しているところが増えている。デジタル信号の利点は、アナログ信号と違って長距離であっても音質が劣化しせず、インターネットのデータと一緒に送ることもできる点である。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "携帯電話は電話網に大きな影響を与えた。多くの国で携帯電話の契約数が固定電話の契約数を超えている。2005年の携帯電話販売数は全世界で8億1660万台であり、アジア太平洋(2億400万台)、西ヨーロッパ(1億6400万台)、CEMEA(中央ヨーロッパ、中東、アフリカ: 1億5300万台)、北米(1億4800万台)、中南米(1億200万台)のそれぞれの市場で同じように成長している。1999年から5年間の成長率を新規加入者数で見ると、アフリカでの成長率が58.2%と群を抜いている。携帯電話もGSMやW-CDMAといったデジタル伝送が増え、AMPSなどのアナログ方式は減少しつつある。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "電話通信には目に見えないところで大きな変化も起きている。1988年にはTAT-8(8代目の大西洋横断電話ケーブルで初の光ファイバー海底ケーブル)が運用を開始し、1990年代には光ファイバーに基づくシステムが広く採用されていった。光ファイバーによる通信は、データ容量が劇的に増大するという利点がある。TAT-8自体は従来の銅線製ケーブルの10倍の電話回線容量があり、近年の光ファイバーケーブルではTAT-8の25倍の容量がある。このデータ容量の増加にはいくつかの要因がある。まず、光ファイバーは他のテクノロジーよりも物理的に小型化できる。そして、光ファイバーでは漏話の心配がないため、数百本のファイバーを1本のケーブルに仕込むことができる。また、1本のファイバーのデータ容量は多重化によって指数関数的に増大させることができる。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "光ファイバー網の多くは Asynchronous Transfer Mode (ATM) というプロトコルを使っている。ATMプロトコルは音声やデータを同時に転送可能とする。それによって網上にデータの経路を確立でき、その経路にトラフィック契約を結びつけることができることから、公衆電話回線網に適している。トラフィック契約とは顧客と網の間の合意であり、網がデータをどのように扱うかを定めたものである。網がトラフィック契約の条件を満たせない場合、接続自体が受理されない。電話の呼はある一定のビットレートを保証するよう契約を結び、音声が遅延したり途切れたりしないことを保証する性質があるため、この点は重要である。ATMプロトコルと類似する技術として Multi-Protocol Label Switching (MPLS) がある。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "放送システムにおいては、中央の高出力の放送塔が高周波の電磁波を発信し、それを多数の低出力の受信機が受信する。塔から発せられる高周波は、映像情報や音声情報を含む信号を変調したものである。受信機をチューニングしてその周波数に合わせると、復調を行って元の映像信号や音声信号を取り出す。放送信号はアナログ(情報に応じて連続的に変換する信号)またはデジタル(情報を離散値で符号化したもの)である。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "放送業界は世界的にアナログからデジタルへの重大な転換点にある。この変化は、集積回路がより安くより高速かつ大容量になったことで可能になった。デジタル放送は、アナログ放送につきものの問題点を解消できるという利点がある。テレビの場合、スノーノイズやゴースト障害といった歪みなどの問題が解消される。これらの障害はアナログ伝送の性質に起因するもので、ノイズの影響が最終的な画質に現れたものと言える。デジタル信号では離散値しか扱わないためこのような問題がなく、多少のノイズでは最終的な画質に影響しない。単純化すると、バイナリメッセージ 1011 を [1.0 0.0 1.0 1.0] という振幅の信号で表したとき、受信した信号が [0.9 0.2 1.1 0.9] でも 1011 というバイナリメッセージに戻すことができ、送信した情報が正確に保持されている。またこの例でわかる通り、ノイズが強すぎると復号したメッセージは大きく変化している可能性があり、それがデジタル伝送の弱点である。前方誤り訂正を受信機で行えば複数ビットの誤りを訂正できるが、ノイズが強ければ訂正では追いつかず、伝送は不可能となる。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "デジタルテレビ放送ではATSC、DVB、ISDBという3種類の規格があり、それぞれを世界各国が採用している(右図の地図参照)。いずれも動画圧縮にはMPEG-2を使っている。音声圧縮については、ATSCは Dolby Digital AC-3、ISDBは Advanced Audio Coding (MPEG-2 Part 7) を採用し、DVBは1つに定めていないが一般に MPEG-1 Part 3 Layer 2 を使っている。変調方式もそれぞれ異なる。デジタル音声放送では、ほぼ世界中が Digital Audio Broadcasting という規格を採用している。例外としてアメリカ合衆国だけは HD Radio という規格を採用している。HD Radio では、従来のAMやFMのアナログ放送とデジタル放送を共存させるIBOC (In-Band On-Channel) 方式を採用している。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "デジタルへの切り替えが進んでいるが、多くの国ではアナログテレビ放送も続けられている。ただし、アメリカ合衆国では2度の延期を経て2009年7月12日にアナログテレビ放送が終了となった。アナログテレビには3種類の規格 PAL、NTSC、SECAM がある(分布はこちらを参照)。ラジオ放送のデジタル化は、受信機の価格に大きな差があるため、テレビよりもさらに困難と言われている。アナログのラジオ放送は一般に振幅変調(AM)と周波数変調(FM)に分けられる。FMにおけるステレオ方式としては、差和方式やAM-FM方式などがある。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "インターネットはコンピュータの世界的ネットワークであり、Internet Protocol を使って相互に通信できるコンピュータネットワークである。インターネット上のコンピュータには一意なIPアドレスが割り当てられており、他のコンピュータが情報を送る際の宛先として使う。そのため、インターネット上では各コンピュータがIPアドレスを使って任意のコンピュータにメッセージを送ることができる。そのメッセージには送信元のIPアドレスが含まれているので、双方向通信が可能となる。インターネットはコンピュータ間のメッセージ交換で成り立っている。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2008年現在、全世界の21.9%の人々がインターネットに頻繁にアクセスしている。北米では73.6%、オセアニアでは59.5%、ヨーロッパでは48.1%の人々がアクセスしている。ブロードバンドインターネット接続の普及率という観点では、アイスランド(26.7%)、韓国(25.4%)、オランダ(25.3%)などが世界をリードしている。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "インターネットでは、通信プロトコルによってコンピュータやルーターの相互通信の手順が決められている。コンピュータネットワークの通信は階層型アプローチを採用しており、プロトコルスタック内の各プロトコルは他のプロトコルとはほぼ独立して動作している。これにより、下層のプロトコルを物理的なネットワークに最適化しつつ、上層のプロトコルは物理ネットワークとは独立して動作させることができる。なぜこのことが重要なのかを具体的な例で示すと、あるコンピュータがイーサネットでインターネットに接続するのか、それともWi-Fiで接続するのかに関わらず、全く同じウェブブラウザを使うことができるのは、この階層型アプローチのおかげである。プロトコルはOSI参照モデル(右図参照)と関連付けて語られることが多い。これは開放型システム間相互接続という失敗に終わったプロトコルスイート構築の試みの初期段階である1983年に策定されたモデルである。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "インターネットでは、物理層の伝送媒体やデータリンク層のプロトコルは送信元から宛先までにメッセージを送る間に複数の種類を使うことになる。つまりインターネットでは物理的な伝送媒体やデータリンクプロトコルに制限を設けていない。そのため、状況に応じて最適な伝送媒体やプロトコルを採用できる。実際、大陸間の通信には Asynchronous Transfer Mode (ATM) プロトコルと光ファイバーが使われている。これには公衆交換電話網と同じ基盤を共用していることが多い。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ネットワーク層では、Internet Protocol (IP) を基本として標準化されており、論理アドレスが設定されている。World Wide Web では、Domain Name System を使って人間にも読める形式の名前から「IPアドレス」を導出する(例えば www.google.com から 72.14.207.99 を得る)。現在、最もよく使われている Internet Protocol はバージョン4だが、バージョン6(IPv6)への移行が差し迫っている。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "トランスポート層では、多くの場合 Transmission Control Protocol (TCP) または User Datagram Protocol (UDP) を使う。基本的にTCPは送信した全てのメッセージが確実に受信されなければならないときに使われ、UDPはそれが必須ではないときに使われる。TCPではパケットが失われた場合に再送が行われ、上位層には順番通りにメッセージが渡される。UDPではパケットが失われても再送は行われないし、順序も不定である。TCPもUDPもポート番号によってパケットを処理すべきアプリケーションやプロセスを指定する。ある種のアプリケーション層のプロトコルは特定のポートを使うため、ネットワーク管理者はトラフィックを操作して特定の要求に合うように調整できる。例えば特定のポートへのトラフィックをブロックしたり、優先順位を低くして性能を制限したりできる。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "トランスポート層より上層では、セッション層とプレゼンテーション層に大まかに当てはまり、時々使われるプロトコルがある。例えば Secure Sockets Layer (SSL) や Transport Layer Security (TLS) がそれにあたる。これらのプロトコルは転送されるデータが秘匿されていることを保証する。ブラウザに南京錠のアイコンが表示されているとき、それらが使われている。最後にアプリケーション層にはインターネットユーザーがよく目にする多数のプロトコルがあり、HTTP(ウェブブラウジング)、POP3(電子メール)、FTP(ファイル転送)、IRC(チャット)、BitTorrent(ファイル共有)などがある。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "Local Area Network(LAN、数km以内で機能するコンピュータネットワーク)の特徴は、インターネットとは別である。この程度の規模のネットワークは大規模ネットワークの特徴を全て備える必要はなく、それによってよりコストを低減させることができる。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1980年代中ごろ、OSI参照モデルのデータリンク層とアプリケーション層の間のギャップを埋めるプロトコルスイートがいくつか生まれた。例えば、AppleTalk、IPX、NetBIOSなどで、特にMS-DOSユーザーによく利用されたIPXが1990年代初期まで広く採用されていた。そのころには既にTCP/IPが存在していたが、主に政府機関や研究機関での利用に限られていた。インターネットが成長し、インターネット関連のトラフィックの割合が増えてくると、LANでもTCP/IPを採用することが多くなり、今ではTCP/IPがLAN上でも一般的になっている。TCP/IP化の動きを助けたテクノロジーとして、クライアントが自身のネットワークアドレスを探すのを助けるDHCPがある。同様の機能はAppleTalkやIPXやNetBIOSのプロトコルスイートにも標準で備わっていた。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "データリンク層はLANとインターネットで大きく異なる部分である。大規模ネットワークのデータリンクプロトコルとしては、Asynchronous Transfer Mode (ATM) や Multi-Protocol Label Switching (MPLS) が使われているが、LANではイーサネットやトークンリングが典型的である。これらはインターネットのデータリンク層に比較して単純で(例えば、Quality of Service 保証などの機能がない)、CSMA/CDによる衝突回避を行う。そのため、設定に際してさらにコストを抑えられるという違いがある。",
"title": "現代の電気通信"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1980年代から1990年代にかけてはトークンリングもそれなりに使われていたが、現在ではLANのほとんどが有線または無線のイーサネットとなっている。物理層では、有線イーサネットの多くはツイストペアケーブルを使っている。しかし、初期の実装では同軸ケーブルを使っていたし、最近の高速なイーサネットでは光ファイバーを使う実装もある。光ファイバーを使う場合、シングルモードとマルチモードで特徴が異なる。マルチモード・光ファイバーは太く、製造コストは低いが帯域幅が小さく減衰が大きい(したがって、長距離には向かない)。",
"title": "現代の電気通信"
}
] | 電気通信(でんきつうしん)とは、電気信号や電磁波(電波・赤外線・可視光線)等の電磁的手段により映像(動画)・音声・データなどの情報を伝える通信である。 電気通信分野の初期の発明者としては、アレクサンダー・グラハム・ベル、グリエルモ・マルコーニ、ジョン・ロジー・ベアードらが挙げられる。 電気通信は世界経済の重要な部分となっており、2006年の全世界の電気通信業界の収入は1兆2千億ドルと見積もられている。 有線通信・無線通信という区分があるが、現在の通信ネットワークは有線・無線を適材適所に組み合わせて構築される。 | '''電気通信'''(でんきつうしん)とは、[[電気信号]]や[[電磁波]]([[電波]]・[[赤外線]]・[[可視光線]])等の電磁的手段により映像([[動画]])・[[音声]]・[[データ]]などの[[情報]]を伝える[[通信]]である。
電気通信分野の初期の発明者としては、[[アレクサンダー・グラハム・ベル]]、[[グリエルモ・マルコーニ]]、[[ジョン・ロジー・ベアード]]らが挙げられる。
電気通信は世界経済の重要な部分となっており、2006年の全世界の電気通信業界の収入は1兆2千億ドルと見積もられている。
[[有線通信]]・[[無線通信]]という区分があるが、現在の通信ネットワークは有線・無線を適材適所に組み合わせて構築される。
== 用語と定義 ==
日本の[[電気通信事業法]]は、「[[有線通信|有線]]、[[無線]]その他の電磁的方式により、符号、音響又は影像を送り、伝え又は受けること」と定義している。
また、[[放送]]は[[公衆]]に向けた通信の送信とされ、電気通信の部分集合であるが、しばしば並立するものとして言及される。
* 例:「[[通信衛星]]と[[放送衛星]]」「[[電気通信事業者|通信事業者]]と[[放送事業者]]」「[[通信と放送の融合]]」
定訳としては、日本語(漢語)「電気通信」は、どうしても英語に翻訳したい場合は(やむなく) "electronic communication"と1対1に対応させるのが通常である。
ところが、英語圏の人々は(つまりネイティブは)一般に、「electronic communication」という英語を、日本人が「電気通信」という用語で指すような概念を指すためには使っていない。生物が電気的にコミュニケーションを行うことを指すために使っている。つまり日本人が強引に「電気通信」を英語に訳すつもりで「electronic communication」という表現を使っても、英語のネイティブには通じないわけであり、これでは[[和製英語]]である。
「通信」に相当するのは "telecommunication" である。造語法的には「tele + communication」であり、遠隔地間のコミュニケーションを指す。たとえば、[[狼煙]]、[[トーキングドラム]]、[[手紙]]、[[腕木通信]]、[[手旗信号]]なども含み、日本の「電気通信」という概念とは別の線引きによる概念である。
「電気通信」という用語の設定、概念の区切りかたは、日本の行政用語や大学の学科名などでは頻出し日本人は頻繁に用いていてそれに慣れてしまっていて、日本人の多くが気付いていないが、実は欧米圏ではあまり一般的ではない用語の設定、概念の区切り方である。つまり実は「電気通信」はそのままでは世界的に通用する概念ではなく、どちらかと言うと日本の行政用語や、日本の大学や日本の専門学校の学科運営のための用語なのである。
== 歴史 ==
{{See also|通信技術の年表}}
=== 電気以前の通信 ===
{{Main|通信#歴史}}
<!--
[[ファイル:OptischerTelegraf.jpg|thumb|ドイツ[[ナルバッハ]]にある[[クロード・シャップ|シャップ]]の[[腕木通信]]塔のレプリカ]]
中世には、丘の上で[[狼煙]]を上げてリレーすることで信号を伝えていた。狼煙の連鎖では送ることができる情報は限られており、事前に例えば「敵が現れた」という意味だと決めておかなくてはならない。狼煙を実際に使って通信した例としては、[[アルマダの海戦|スペイン無敵艦隊]]が現れたときに[[プリマス]]からロンドンまで狼煙のリレーでそれを伝えたという<ref>David Ross, [http://www.britainexpress.com/History/tudor/armada.htm The Spanish Armada], Britain Express, October 2007.</ref>。
フランス人技師[[クロード・シャップ]]は1792年、世界初の固定の視覚通信システム([[腕木通信]])を[[リール (フランス)|リール]]とパリの間に構築した<ref>[http://chappe.ec-lyon.fr/ Les Télégraphes Chappe], Cédrick Chatenet, l'Ecole Centrale de Lyon, 2003.</ref>。しかし腕木通信には、熟練した操作者と高価な塔を適当な間隔(10kmから30km)で配置しなければならないという問題があった。元々 "telegraphy" はこの腕木通信を指す用語だったが、電気式の "telegraph"、すなわち[[電信]]との競合に勝てず、腕木通信は1880年には姿を消した<ref>{{PDFlink|[http://www.itu.int/itudoc/gs/promo/tsb/88192.pdf CCIT/ITU-T 50 Years of Excellence]}} - International Telecommunication Union, 2006.</ref>。
日本国内においては18世紀半ばから[[旗振り通信]]が発達しており、20世紀初頭に電気通信に駆逐されるまで、高速通信手段として用いられていた。そのため腕木通信が日本で普及することはなかった。しかし、熟練した技術者を要すること、多くの塔が必要であり、その設置場所を選ぶこと、天候に左右されることなどの特徴は腕木通信と同じであり、これが電気通信に取って代わられる理由となった。
-->
=== 電信と電話 ===
世界初の商業化された[[電信]]は1839年4月9日、[[チャールズ・ホイートストン]]と[[ウィリアム・フォザギル・クック]]が構築したものである。ホイートストンもクックも彼らの装置を「(既存)の電磁式テレグラフの改良」と考えており、新たな装置とは見なしていなかった<ref>[http://www.du.edu/~jcalvert/tel/morse/morse.htm The Electromagnetic Telegraph], J. B. Calvert, 19 May 2004.</ref>。
[[サミュエル・モールス]]も独自の電信を開発したが、1837年9月2日のデモンストレーションは失敗に終わった。ホイートストンの通信手法に比べて、[[モールス符号]]を定めた点が重要な利点だった。世界初の[[大西洋横断電信ケーブル]]が1866年7月27日に完成し、大陸間の電気通信の時代が始まった<ref>[http://www.sil.si.edu/digitalcollections/hst/atlantic-cable/ The Atlantic Cable], Bern Dibner, Burndy Library Inc., 1959</ref>。
1849年、[[アントニオ・メウッチ]]が音声を電線を通して伝える装置を発明した。しかし、メウッチの装置は「電気聴覚効果」というものを利用しており、電極を口にくわえることで電流を直接人体に流し、それによって聴覚を生じさせるものだった。このため、音質はよいが実用的とは言い難い面があった<ref>[https://web.archive.org/web/20060424055029/http://chem.ch.huji.ac.il/~eugeniik/history/meucci.html Antonio Santi Giuseppe Meucci], Eugenii Katz. (Retrieved May, 2006 from [http://chem.ch.huji.ac.il/~eugeniik/history/meucci.html http://chem.ch.huji.ac.il/~eugeniik/history/meucci.html])</ref>。1876年、[[アレクサンダー・グラハム・ベル]]と[[イライシャ・グレイ]]がそれぞれ独自に現代と同じ仕組みの[[電話]]を発明した<ref>[http://www.oberlin.edu/external/EOG/OYTT-images/ElishaGray.html Elisha Gray], Oberlin College Archives, Electronic Oberlin Group, 2006.</ref>。世界初の商業化された電話サービスは1878年から1879年に、大西洋を挟んだ[[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]]と[[ロンドン]]でほぼ同時に開始された<ref>[http://www.connected-earth.com/Galleries/Telecommunicationsage/Thetelephone/index.htm Connected Earth: The telephone], BT, 2006.</ref><ref>[http://www.att.com/history/milestones.html History of AT&T], AT&T, 2006.</ref>。
=== ラジオとテレビ ===
1832年、[[ジェームズ・ボウマン・リンゼー]]は学生たちに[[無線電信]]のデモンストレーションを披露した。1854年までには、スコットランドの[[テイ湾]]を挟んだ[[ダンディー (スコットランド)|ダンディー]]とウッドヘイヴンの間(約3km)での通信に成功した。この場合は確かに電線はないが、水を伝送媒体として使っている<ref>[http://www.dundeecity.gov.uk/jbl/ James Bowman Lindsay], Dundee City Council</ref>。1901年12月、[[グリエルモ・マルコーニ]]は[[セントジョンズ (ニューファンドランド・ラブラドール州)|セントジョンズ]](カナダ)と[[コーンウォール]]Poldhu(イギリス)との間で無線通信に成功し、それによって[[ノーベル物理学賞]]を(1909年、[[フェルディナント・ブラウン]]と共同で)受賞した<ref>[http://www.teslasociety.com/biography.htm Tesla Biography], Ljubo Vujovic, Tesla Memorial Society of New York, 1998.</ref>。ただしもっと小規模な無線通信は、1893年に[[ニコラ・テスラ]]がデモンストレーションし成功させていた<ref>[http://www.tfcbooks.com/teslafaq/q&a_025.htm Tesla's Radio Controlled Boat], Twenty First Century Books, 2007.</ref>。
1925年3月25日、[[ジョン・ロジー・ベアード]]はロンドンの百貨店[[:en:Selfridges|Selfridges]]で動画の転送実験を披露した。ベアードの装置は[[ニプコー円板]]を使った[[機械式テレビジョン]]だった。これに基づいて、[[英国放送協会]]は1929年9月30日[[テレビ]]の実験放送を開始した<ref>[http://www.mztv.com/newframe.asp?content=http://www.mztv.com/pioneers.html The Pioneers], MZTV Museum of Television, 2006.</ref>。しかし20世紀のテレビのほとんどは[[フェルディナント・ブラウン]]の発明した[[ブラウン管]]を使っている。そのようなテレビを最初に作ったのは[[フィロ・ファーンズワース]]で、1927年9月7日に家族に対してデモンストレーションを披露している<ref>[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,990620,00.html Philo Farnsworth], Neil Postman, [[タイム (雑誌)|TIME Magazine]], 29 March 1999</ref>。
=== コンピュータネットワークとインターネット ===
1940年9月11日、[[ジョージ・スティビッツ]]は[[ニューハンプシャー州]]の[[ダートマス大学]]に設置した[[テレタイプ端末]]からニューヨークにある複素数計算機(リレー式)に問題を送り、答を受け取るというデモンストレーションを行った<ref>[http://www.kerryr.net/pioneers/stibitz.htm George Stlibetz], Kerry Redshaw, 1996.</ref>。これは中央コンピュータ([[メインフレーム]])とリモートの[[ダム端末]]という1950年代によく見られた構成と同じである。しかし、1960年代になる前に研究者らは[[パケット通信|パケット交換]]の研究を開始した。これは、中央のコンピュータを経由せずにデータを断片化して様々な場所のコンピュータとやり取りするテクノロジーである。1969年12月5日、4ノードのネットワークが構成され、[[ARPANET]]と名付けられた。1981年には、これが213ノードに成長している<ref>{{cite book | last = Hafner | first = Katie | title = Where Wizards Stay Up Late: The Origins Of The Internet | publisher = Simon & Schuster | year = 1998 | isbn = 0-684-83267-4 }}</ref>。
ARPANET関連の開発は [[Request for Comments]] というプロセスを中心として進められており、1969年4月7日に {{IETF RFC|1}} が発行されている。ARPANETはその後他のネットワークと融合して[[インターネット]]となったため、このプロセスは重要である。今日のインターネットの様々な[[通信プロトコル]]は Request for Comment プロセスで策定されてきた。1981年9月、{{IETF RFC|791}} で [[Internet Protocol]] v4 (IPv4)、{{IETF RFC|793}} で [[Transmission Control Protocol]] (TCP) が定義され、今日の[[インターネット]]の大部分が基盤としているTCP/IPプロトコルが生まれた。
しかし、コンピュータネットワーク関連の重要な開発が全て Request for Comment プロセスで策定されたわけではない。1970年代、2つの重要な [[Local Area Network]] (LAN) 用リンクプロトコルが登場した。1974年10月29日、[[:en:Olof Soderblom|Olof Soderblom]] が[[トークンリング]]の特許を出願し、1976年7月の ''Communications of the ACM'' 誌に[[ロバート・メトカーフ]]と [[デビッド・ボグス]] が[[イーサネット]]に関する論文を発表した<ref>[http://patft1.uspto.gov/netacgi/nph-Parser?Sect1=PTO2&Sect2=HITOFF&p=1&u=%2Fnetahtml%2FPTO%2Fsearch-bool.html&r=1&f=G&l=50&co1=AND&d=PTXT&s1=4293948.PN.&OS=PN/4293948&RS=PN/4293948 Data transmission system], Olof Solderblom, PN 4,293,948, October 1974.</ref><ref>[http://portal.acm.org/citation.cfm?id=360248.360253&coll=ACM&dl=ACM&CFID=71710344&CFTOKEN=53425035 Ethernet: Distributed Packet Switching for Local Computer Networks], Robert M. Metcalfe and David R. Boggs, Communications of the ACM (pp 395-404, Vol. 19, No. 5), July 1976.</ref>。
== 主な概念 ==
=== 基本要素 ===
基本的な電気通信システムは以下の3つの要素から成る。
* [[送信機]]は[[情報]]を[[信号 (電気工学)|信号]]に変換する。
* [[伝送媒体]]はその信号を運ぶ。
* [[受信機]]はその信号を受け取り、利用可能な情報に変換する。
例えば、ラジオ放送では放送用[[電波塔]]が送信機、[[自由空間]]が伝送媒体、[[ラジオ]]が受信機である。電気通信システムでは、1つの装置が送信機と受信機を兼ねていることが多く、送受信機(トランシーバー)と呼ぶ<ref name="stallings-intro">{{cite book | last = Haykin | first = Simon | edition= 4th | title = Communication Systems | publisher = John Wiley & Sons | year = 2001 | pages = 1–3 | isbn = 0-471-17869-1 }}</ref>。
電話回線による電気通信は1つの送信機と1つの受信機を繋ぐものであり、[[ポイント・ツー・ポイント]]である。ラジオ放送による電気通信は強力な送信機と多数の受信機という構成であるため、[[放送]]である<ref name="stallings-intro" />。
=== アナログとデジタル ===
信号には[[アナログ]]と[[デジタル]]がある。アナログ信号では、情報に応じて信号が連続的に変化する。デジタル信号では、情報が離散値(例えば1と0)に符号化される。伝送時、アナログ信号が運ぶ情報はノイズによって劣化する。一方デジタル信号では、ノイズがあるしきい値未満であれば情報はそのまま保持される。ノイズへの耐性はデジタル信号がアナログ信号より優れている点の1つである<ref>{{cite book | last = Ambardar | first = Ashok | edition= 2nd | title = Analog and Digital Signal Processing | publisher = Brooks/Cole Publishing Company | year = 1999 | pages = 1–2 | isbn = 0-534-95409-X }}</ref>。
=== ネットワーク ===
[[電気通信網]]は送信機・受信機・送受信機の集合体であり、それらが相互に通信する。デジタルネットワークには[[ルーター]]があり、正しいユーザーへと情報を転送する。アナログネットワークには[[電話交換機|交換機]]があり、ユーザー間の接続を確立する。どちらのネットワークであっても、遠距離に信号を伝送するには信号を増幅したり再作成するための[[中継局|中継機]]が必要になることがある。そうしないと、信号が[[減衰]]して[[ノイズ (電子工学)|ノイズ]]と区別できなくなる<ref name="glossary">[http://www.atis.org/tg2k/ ATIS Telecom Glossary 2000], ATIS Committee T1A1 Performance and Signal Processing (approved by the American National Standards Institute), 28 February 2001.</ref>。
=== 伝送路 ===
伝送媒体を区分けしたものが[[伝送路]]であり、そうすることで情報の流れを複数送ることができる。例えば、ラジオ局はそれぞれ異なる周波数の電波を送信する。この場合は、伝送媒体を[[周波数]]で区分けしたものが伝送路である。また時間を細かく区切り、それぞれを異なる伝送路に割り当てる方式を[[時分割多重化]]と呼び、光ファイバーによる通信などで採用している<ref name="glossary" /><ref>{{Cite news | first = Colin | last = Yao | title = Introduction to SONET (Synchronous Optical Networking) | url = http://www.articlesbase.com/computers-articles/introduction-to-sonet-synchronous-optical-networking-fiber-optic-technologies-tutorial-series-449247.html | publisher = Articlesbase.com | date = June 14, 2008 | quote =}}</ref>。
=== 変調 ===
情報を運搬するよう信号を形成することを[[変調方式|変調]]と呼ばれる。変調はデジタルのメッセージをアナログの波形で表すのにも使われる。そのような変調を [[デジタル変調]] (keying) と呼び、[[位相偏移変調]]、[[デジタル変調|周波数偏移変調]]、[[振幅偏移変調]]などがある。例えば[[Bluetooth]]は[[位相偏移変調]]を使っている<ref>Haykin, pp 344-403.</ref>。
変調はアナログ信号の情報をより高い周波数で伝送するのにも使われる。周波数が低いと自由空間上で効率的に伝送することができないため、変調が必要になる。低周波数のアナログ信号の持つ情報を高周波数の信号([[搬送波]])に載せてから発信する。変調方式はいくつかあり、代表的なものとしては[[振幅変調]]と[[周波数変調]]がある<ref>Haykin, pp 88-126.</ref>。
== 電気通信と社会 ==
電気通信は現代社会に社会的にも、文化的にも、経済的にも大きな影響を与えている。2006年時点で、電気通信業界の総収入は1兆2千億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]、[[世界総生産]]の3%弱と見積もられている(公式の通貨換算レート)<ref>[http://www.itnewsonline.com/showstory.php?storyid=2133&scatid=7&contid=3 Telecom Industry Revenue to Reach $1.2 Trillion in 2006], IT News Online, 2005-12-18.</ref>。ここでは、電気通信の社会への影響を論じる。
=== 経済への影響 ===
==== ミクロ経済 ====
[[ミクロ経済学|ミクロ経済]]の規模では、企業は電気通信を使って国際的帝国を構築してきた。[[Amazon.com]]のようなオンライン販売業者ではこれは自明だが、Edward Lenert によれば、[[ウォルマート]]のような普通の小売業者も電気通信基盤を改善することで同業他社に対して優位に立っているとしている<ref>{{cite journal | last = Lenert | first = Edward | year = 1998 | month = 12 | title = A Communication Theory Perspective on Telecommunications Policy | journal = Journal of Communication| volume = 48 | issue = 4 | pages = 3–23 | doi = 10.1111/j.1460-2466.1998.tb02767.x}}</ref>。世界中の都市では、各家庭で[[宅配ピザ]]から[[電気工事士|電気工事]]まで各種サービスを電話で注文することができる。相対的に貧困な社会でも、電気通信による恩恵を受けている。[[バングラデシュ]]の僻地の村からでも、卸売り業者に携帯電話で直接連絡し、商品をより高く買い取ってくれる業者を探すことができる<ref>{{cite paper | author = Mireille Samaan | title = The Effect of Income Inequality on Mobile Phone Penetration | version = Boston University Honors thesis | date = April 2003 | url = | format = | accessdate = }}</ref>。[[コートジボワール]]のコーヒー栽培者は携帯電話で刻々と変化するコーヒーの価格をフォローし、最高値で売るようにしている。
==== マクロ経済 ====
[[マクロ経済学|マクロ経済]]の規模では、Lars-Hendrik Röller と Leonard Waverman がよい電気通信基盤と経済成長に因果関係があると示唆した<ref>{{cite journal | last = Röller | first = Lars-Hendrik | coauthor = Leonard Waverman | title = Telecommunications Infrastructure and Economic Development: A Simultaneous Approach | journal = [[American Economic Review]] | issn = 0002-8282 | year = 2001 | volume = 91 | issue = 4 | pages = 909–923}}</ref>。因果関係と見ることに反対する者もいるが、相関関係があることを否定する者はほとんどいない([[相関関係と因果関係]])<ref>{{cite journal | last = Riaz | first = Ali | title = The role of telecommunications in economic growth: proposal for an alternative framework of analysis | journal = Media, Culture & Society | year = 1997 | volume = 19 | issue = 4 | pages = 557–583 | doi = 10.1177/016344397019004004}}</ref>。
よい電気通信基盤は経済によい影響を与えるため、世界中の各国で電気通信サービスへのアクセスの格差、すなわち[[情報格差]]への懸念が増大している。[[国際電気通信連合]] (ITU) が2003年に行った調査で、約3分の1の国で国民20人当たりの携帯電話加入は1人未満、約3分の1の国で国民20人当たりの固定電話加入は1人未満ということが明らかになった。インターネットアクセスに関しては、約半分の国で国民20人当たりでインターネットアクセスしている人は1人未満だった。これらの情報と教育に関するデータを総合し、ITUは市民が情報および通信テクノロジーにアクセスし利用する能力の国別指数を算定した<ref>{{cite web|title=Digital Access Index (DAI)|url= http://www.itu.int/ITU-D/ict/dai/|publisher=itu.int|accessdate=2008-03-06}}</ref>。それによると上位3位までは[[スウェーデン]]、[[デンマーク]]、[[アイスランド]]で、最下位3位まではアフリカの[[ナイジェリア]]、[[ブルキナファソ]]、[[マリ共和国]]となった<ref>[http://www.itu.int/ITU-D/ict/publications/wtdr_03/index.html World Telecommunication Development Report 2003], [[国際電気通信連合|International Telecommunication Union]], 2003.</ref>。
=== 社会への影響 ===
電気通信は社会関係にも大きな役割を果たしている。それにも関わらず、電話のような装置は元来実用面だけを強調して宣伝され、社会的側面は宣伝されなかった。電話の社会的側面が広告のテーマとなるのは1920年代末から1930年代になってからだった。新たなプロモーションでは、消費者の感情に訴え、社会的会話の重要性や家族や友人とつながったままでいられることの重要性を強調した<ref name="fischer">Fischer, Claude S.. "'Touch Someone': The Telephone Industry Discovers Sociability." Technology and Culture 29.1 (Jan., 1988): 32-61. JSTOR. Web. 4 Oct. 2009.</ref>。
その後、社会関係で電気通信が果たす役割は重要性を増してきた。最近では[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]] (SNS) の人気が急上昇している。SNSサイトではユーザーが互いにコミュニケーションをとれるだけでなく、写真やイベントやプロフィールをポストして公開できる。プロフィールには当人の年齢、趣味、性別などの項目がある。このようにして、SNSサイトは社交的な約束をすることから恋愛まであらゆることに重要な役割を演じることができる<ref>{{cite news|title=How do you know your love is real? Check Facebook|publisher=CNN|url= https://edition.cnn.com/2008/LIVING/personal/04/04/facebook.love/index.html|date=2008-04-04}}</ref>。
SNSが登場する以前から、[[ショートメッセージサービス|SMS]]のようなテクノロジーや電話も社会的対話に大きな影響を与えていた。市場調査グループ [[:en:Ipsos MORI|Ipsos MORI]] の2000年の調査によれば、イギリスの15歳から24歳までのSMSユーザーの85%は社会的合意を調整するサービスを利用し、42%は恋愛の手段としてそれを使っていたという<ref>[http://www.ipsos-rsl.com/researchpublications/researcharchive/poll.aspx?oItemId=1575 I Just Text To Say I Love You], Ipsos MORI, September 2005.</ref>。
=== 他の影響 ===
文化の面では、電気通信によって音楽や映画へのアクセス能力が増大してきた。テレビにより、人々はビデオ店や映画館に行かなくても見逃していた映画を見ることができる。ラジオとインターネットにより、人々はCD店に行かなくても聞いたことのない音楽を耳にすることができる。
電気通信は人々がニュースを受け取る方法も変化させてきた。非営利の Pew Internet and American Life Project の調査によると、「昨日」のニュースにどういう形で接したかを3000人のアメリカ合衆国在住の人々に聞いたところ、新聞よりもテレビやラジオという人が多かった。結果は次の表にまとめられている(複数の情報源を挙げることができる形式のため、合計は100%以上となっている)<ref>{{cite web|title=Online News: For many home broadband users, the internet is a primary news source|publisher=Pew Internet Project|url= http://www.pewinternet.org/Reports/2006/Online-News-For-many-home-broadband-users-the-internet-is-a-primary-news-source.aspx?r=1|date=2006-03-22|accessdate=2010-01-20}}</ref>。
{| class="wikitable" border="1"
|-
! テレビ(ローカル)
! テレビ(全国)
! ラジオ
! 地方紙
! インターネット
! 全国紙
|-
| 59%
| 47%
| 44%
| 38%
| 23%
| 12%
|}
電気通信は広告にも大きな影響を与えてきた。[[:en:Taylor Nelson Sofres|TNS Media Intelligence]] の2007年のレポートによると、アメリカ合衆国内の広告費の58%は電気通信媒体に費やされた<ref>{{cite web|title=100 Leading National Advertisers|publisher=Advertising Age|format=PDF|url= http://adage.com/images/random/datacenter/2008/spendtrends08.pdf|date=2008-06-23|accessdate=2009-06-21}}</ref>。結果は次の表にまとめられている。
{| class="wikitable" border="1"
|-
!
! インターネット
! ラジオ
! ケーブルテレビ
! テレビ(独立局)
! テレビ(スポット)
! テレビ(ネットワーク)
! 新聞
! 雑誌
! 屋外
! 合計
|-
! パーセント
| 7.6%
| 7.2%
| 12.1%
| 2.8%
| 11.3%
| 17.1%
| 18.9%
| 20.4%
| 2.7%
| 100%
|-
! 金額(ドル)
| 113億1千万
| 106億9千万
| 180億2千万
| 41億7千万
| 168億2千万
| 254億2千万
| 282億2千万
| 303億3千万
| 40億2千万
| 1490億
|}
== 電気通信と政府 ==
多くの国は、[[国際電気通信連合]] (ITU) が制定した国際電気通信規則 (ITR) に対応する法を制定している。ITUは情報および通信テクノロジーに関する問題を扱う[[国際連合]]の[[専門機関]]である<ref>[http://www.itu.int/net/about/index.aspx International Telecommunication Union : About ITU]. ITU. Accessed 21 July 2009. (ITRに関する [https://www.itu.int/osg/csd/wtpf/wtpf2009/documents/ITU_ITRs_88.pdf PDF] 文書)</ref>。1947年の[[アトランティックシティ]]での会議で、ITUは「新たな国際周波数一覧に登録された全周波数を国際的に保護し、無線通信規制に従って使用していく」ことを決議した。ITUの「無線通信規制」によれば、国際周波数登録委員会 (IFRB) で参照され、調査され、国際周波数一覧に掲載された全周波数帯は「有害な干渉から国際的に保護される権利を有することとする」とされている<ref>Codding, George A. Jr.. "''[http://www.jstor.org/pss/2194872 Jamming and the Protection of Frequency Assignments]''". The American Journal of International Law, Vol. 49, No. 3 (Jul., 1955), Published by: American Society of International Law. pp. 384-388. Republished by JSTOR "''URL: http://www.jstor.org/stable/2194872 JSTOR: The American Journal of International Law''". Accessed 21 July 2009.</ref>。
国際的な視点から、電気通信と[[放送]]の管理について政治的な議論と立法が行われてきた。例えば、出版などの従来からある通信手段とラジオ放送などの電気通信のバランスといった議論である<ref name="Wood"/>。第二次世界大戦が勃発すると、世界初の国際放送による[[プロパガンダ]]が爆発的に展開された<ref name="Wood">Wood, James & Science Museum (Great Britain) "''History of international broadcasting''". IET 1994, Volume 1, p.2 of 258 ISBN 0863413021, ISBN 9780863413025. Republished by Googlebooks. Accessed 21 July 2009.</ref>。国家や政府や反乱勢力やテロリストや民兵などがそれぞれ電気通信や放送技術を使ってプロパガンダを展開してきた<ref name="Wood"/><ref name="Garfield"/>。政治運動や植民地化のための愛国的なプロパガンダは1930年代半ばごろに始まった。1936年、BBCはアラブ世界にプロパガンダ放送を行った。これは同地域の植民地化に興味を持っていたイタリアの同様な放送を相殺することを目的としていた<ref name="Wood"/>。
最近の[[イラク戦争]]などでは、脅迫電話や脅迫[[ショートメッセージサービス|SMS]]、数時間以内に実施された相手方への攻撃の動画を配布するなどの手法がプロパガンダとして用いられている。イラクでは、スンニ派の反乱勢力はテレビ局を持っていて、新政府軍がそこを押さえても別の拠点から放送を行っている<ref name="Garfield">Garfield, Andrew. "''[http://www.meforum.org/1753/the-us-counter-propaganda-failure-in-iraq The U.S. Counter-propaganda Failure in Iraq]''", FALL 2007, The Middle East Quarterly, Volume XIV: Number 4, Accessed 21 July 2009.</ref>。
== 現代の電気通信 ==
=== 電話 ===
[[ファイル:Fibreoptic.jpg|thumb|upright|[[光ファイバー]]は長距離通信用に安価な帯域幅を提供する。]]
アナログの電話網では、電話をかけると[[電話交換機]]群によって話したい相手とつながる。交換機群は2つの利用者間の電気的接続を形成する。それらの設定は電話をかけた際の電話番号の[[ダイヤルパルス]]で電気的に決定される。接続が確立すると、電話をかけた側の声が[[受話器]]の[[マイクロフォン]]で電気信号に変換されて伝送される。その電気信号はネットワークを経由して通話先に送られ、そこで受話器の[[スピーカー]]によって音声に戻される。これとは反対方向に働く電気的接続があり、それによって相互に対話することができる<ref>[http://electronics.howstuffworks.com/telephone1.htm How Telephone Works], HowStuffWorks.com, 2006.</ref><ref>[http://www.epanorama.net/links/telephone.html Telephone technology page], ePanorama, 2006.</ref>。
一般家庭の[[固定電話]]の多くはアナログ式である。すなわち、話者の声が信号の電圧に直接反映される。ただし、市内通話は一貫してアナログ信号かもしれないが、電話事業者は局間の伝送を透過的にデジタル化しているところが増えている。デジタル信号の利点は、アナログ信号と違って長距離であっても音質が劣化しせず、インターネットのデータと一緒に送ることもできる点である。
[[携帯電話]]は電話網に大きな影響を与えた。多くの国で携帯電話の契約数が固定電話の契約数を超えている。2005年の携帯電話販売数は全世界で8億1660万台であり、アジア太平洋(2億400万台)、西ヨーロッパ(1億6400万台)、CEMEA(中央ヨーロッパ、中東、アフリカ: 1億5300万台)、北米(1億4800万台)、中南米(1億200万台)のそれぞれの市場で同じように成長している<ref>[http://www.gartner.com/press_releases/asset_145891_11.html Gartner Says Top Six Vendors Drive Worldwide Mobile Phone Sales to 21% Growth in 2005], Gartner Group, 28 February 2006.</ref>。1999年から5年間の成長率を新規加入者数で見ると、アフリカでの成長率が58.2%と群を抜いている<ref>[http://www.spectrum.ieee.org/may06/3426 Africa Calling], Victor and Irene Mbarika, IEEE Spectrum, May 2006.</ref>。携帯電話も[[GSM]]や[[W-CDMA]]といったデジタル伝送が増え、[[AMPS]]などのアナログ方式は減少しつつある<ref>[http://www.amta.org.au/default.asp?Page=142 Ten Years of GSM in Australia], Australia Telecommunications Association, 2003.</ref>。
電話通信には目に見えないところで大きな変化も起きている。1988年には[[TAT-8]](8代目の大西洋横断電話ケーブルで初の光ファイバー海底ケーブル)が運用を開始し、1990年代には[[光ファイバー]]に基づくシステムが広く採用されていった。光ファイバーによる通信は、データ容量が劇的に増大するという利点がある。TAT-8自体は従来の銅線製ケーブルの10倍の電話回線容量があり、近年の光ファイバーケーブルではTAT-8の25倍の容量がある<ref>[http://www.att.com/history/milestones.html Milestones in AT&T History], AT&T Knowledge Ventures, 2006.</ref>。このデータ容量の増加にはいくつかの要因がある。まず、光ファイバーは他のテクノロジーよりも物理的に小型化できる。そして、光ファイバーでは[[漏話]]の心配がないため、数百本のファイバーを1本のケーブルに仕込むことができる。また、1本のファイバーのデータ容量は[[多重化]]によって指数関数的に増大させることができる<ref>[http://www.cisco.com/univercd/cc/td/doc/product/mels/cm1500/dwdm/dwdm_ovr.pdf Fundamentals of DWDM Technology], CISCO Systems, 2006.</ref><ref>[http://www.lightreading.com/document.asp?doc_id=31358 Report: DWDM No Match for Sonet], Mary Jander, Light Reading, 2006.</ref>。
[[光ファイバー網]]の多くは [[Asynchronous Transfer Mode]] (ATM) というプロトコルを使っている。ATMプロトコルは音声やデータを同時に転送可能とする。それによって網上にデータの経路を確立でき、その経路に[[トラフィック契約]]を結びつけることができることから、公衆電話回線網に適している。トラフィック契約とは顧客と網の間の合意であり、網がデータをどのように扱うかを定めたものである。網がトラフィック契約の条件を満たせない場合、接続自体が受理されない。電話の呼はある一定のビットレートを保証するよう契約を結び、音声が遅延したり途切れたりしないことを保証する性質があるため、この点は重要である<ref>{{cite book | last = Stallings | first = William | edition= 7th edition (intl) | title = Data and Computer Communications | publisher = Pearson Prentice Hall | year = 2004 | pages = 337–366 | isbn = 0-13-183311-1 }}</ref>。ATMプロトコルと類似する技術として [[Multi-Protocol Label Switching]] (MPLS) がある<ref>[http://www.networkworld.com/columnists/2002/0812edit.html MPLS is the future, but ATM hangs on], John Dix, Network World, 2002</ref>。
=== ラジオとテレビ ===
[[ファイル:Digital broadcast standards.svg|thumb|300px|[[デジタルテレビ放送]]規格の採用状況]]
放送システムにおいては、中央の高出力の[[電波塔|放送塔]]が高周波の[[電磁波]]を発信し、それを多数の低出力の受信機が受信する。塔から発せられる高周波は、映像情報や音声情報を含む信号を[[変調方式|変調]]したものである。[[受信機]]をチューニングしてその周波数に合わせると、[[復調]]を行って元の映像信号や音声信号を取り出す。放送信号はアナログ(情報に応じて連続的に変換する信号)またはデジタル(情報を離散値で符号化したもの)である<ref name="stallings-intro" /><ref>[http://www.howstuffworks.com/radio.htm How Radio Works], HowStuffWorks.com, 2006.</ref>。
放送業界は世界的にアナログからデジタルへの重大な転換点にある。この変化は、[[集積回路]]がより安くより高速かつ大容量になったことで可能になった。デジタル放送は、アナログ放送につきものの問題点を解消できるという利点がある。テレビの場合、[[スノーノイズ]]や[[ゴースト障害]]といった歪みなどの問題が解消される。これらの障害はアナログ伝送の性質に起因するもので、[[ノイズ (電子工学)|ノイズ]]の影響が最終的な画質に現れたものと言える。デジタル信号では離散値しか扱わないためこのような問題がなく、多少のノイズでは最終的な画質に影響しない。単純化すると、バイナリメッセージ 1011 を [1.0 0.0 1.0 1.0] という振幅の信号で表したとき、受信した信号が [0.9 0.2 1.1 0.9] でも 1011 というバイナリメッセージに戻すことができ、送信した情報が正確に保持されている。またこの例でわかる通り、ノイズが強すぎると復号したメッセージは大きく変化している可能性があり、それがデジタル伝送の弱点である。[[前方誤り訂正]]を受信機で行えば複数ビットの誤りを訂正できるが、ノイズが強ければ訂正では追いつかず、伝送は不可能となる<ref>{{cite book | last = Stallings | first = William | edition= 7th edition (intl) | title = Data and Computer Communications | publisher = Pearson Prentice Hall | year = 2004 | isbn = 0-13-183311-1 }}</ref>。
デジタルテレビ放送では[[ATSC]]、[[デジタルビデオブロードキャスティング|DVB]]、[[ISDB]]という3種類の規格があり、それぞれを世界各国が採用している(右図の地図参照)。いずれも動画圧縮には[[MPEG-2]]を使っている。音声圧縮については、ATSCは [[ドルビーデジタル|Dolby Digital AC-3]]、ISDBは [[AAC|Advanced Audio Coding]] (MPEG-2 Part 7) を採用し、DVBは1つに定めていないが一般に [[MPEG-1|MPEG-1 Part 3 Layer 2]] を使っている。変調方式もそれぞれ異なる。デジタル音声放送では、ほぼ世界中が [[DAB|Digital Audio Broadcasting]] という規格を採用している。例外としてアメリカ合衆国だけは [[HD Radio]] という規格を採用している。HD Radio では、従来のAMやFMのアナログ放送とデジタル放送を共存させる[[IBOC]] (In-Band On-Channel) 方式を採用している。
デジタルへの切り替えが進んでいるが、多くの国ではアナログテレビ放送も続けられている。ただし、アメリカ合衆国では2度の延期を経て2009年7月12日にアナログテレビ放送が終了となった<ref>{{cite news | author=Brian Stelter | title=Changeover to Digital TV Off to a Smooth Start | url= http://www.nytimes.com/2009/06/14/business/media/14digital.html?_r=2&hp |publisher=New York Times | date=June 13, 2009 }}</ref>。アナログテレビには3種類の規格 [[PAL]]、[[NTSC]]、[[SECAM]] がある(分布は[[:ファイル:NTSC-PAL-SECAM.png|こちら]]を参照)。ラジオ放送のデジタル化は、受信機の価格に大きな差があるため、テレビよりもさらに困難と言われている。アナログのラジオ放送は一般に[[振幅変調]](AM)と[[周波数変調]](FM)に分けられる。FMにおける[[ステレオ]]方式としては、[[周波数変調#差和方式|差和方式]]や[[周波数変調#AM-FM方式|AM-FM方式]]などがある。
=== インターネット ===
[[ファイル:OSI Model v1.svg|250px|thumb|[[OSI参照モデル]]]]
インターネットはコンピュータの世界的ネットワークであり、[[Internet Protocol]] を使って相互に通信できるコンピュータネットワークである<ref>Robert E. Kahn and Vinton G. Cerf, [http://www.cnri.reston.va.us/what_is_internet.html What Is The Internet (And What Makes It Work)], December 1999. (specifically see footnote xv)</ref>。インターネット上のコンピュータには一意な[[IPアドレス]]が割り当てられており、他のコンピュータが情報を送る際の宛先として使う。そのため、インターネット上では各コンピュータがIPアドレスを使って任意のコンピュータにメッセージを送ることができる。そのメッセージには送信元のIPアドレスが含まれているので、双方向通信が可能となる。インターネットはコンピュータ間のメッセージ交換で成り立っている<ref>[http://computer.howstuffworks.com/internet-infrastructure.htm How Internet Infrastructure Works], HowStuffWorks.com, 2007.</ref>。
2008年現在、全世界の21.9%の人々がインターネットに頻繁にアクセスしている。北米では73.6%、オセアニアでは59.5%、ヨーロッパでは48.1%の人々がアクセスしている<ref>[http://www.internetworldstats.com/stats.htm World Internet Users and Population Stats], internetworldstats.com, 19 March 2007.</ref>。[[ブロードバンドインターネット接続]]の普及率という観点では、[[アイスランド]](26.7%)、韓国(25.4%)、オランダ(25.3%)などが世界をリードしている<ref>[http://www.oecd.org/document/39/0,2340,en_2649_34225_36459431_1_1_1_1,00.html OECD Broadband Statistics], [[経済協力開発機構|Organisation for Economic Co-operation and Development]], December 2005.</ref>。
インターネットでは、[[通信プロトコル]]によってコンピュータやルーターの相互通信の手順が決められている。コンピュータネットワークの通信は階層型アプローチを採用しており、[[プロトコルスタック]]内の各プロトコルは他のプロトコルとはほぼ独立して動作している。これにより、下層のプロトコルを物理的なネットワークに最適化しつつ、上層のプロトコルは物理ネットワークとは独立して動作させることができる。なぜこのことが重要なのかを具体的な例で示すと、あるコンピュータが[[イーサネット]]でインターネットに接続するのか、それとも[[Wi-Fi]]で接続するのかに関わらず、全く同じ[[ウェブブラウザ]]を使うことができるのは、この階層型アプローチのおかげである。プロトコルは[[OSI参照モデル]](右図参照)と関連付けて語られることが多い。これは[[開放型システム間相互接続]]という失敗に終わったプロトコルスイート構築の試みの初期段階である1983年に策定されたモデルである<ref>[http://www.tcpipguide.com/free/t_HistoryoftheOSIReferenceModel.htm History of the OSI Reference Model], The TCP/IP Guide v3.0, Charles M. Kozierok, 2005.</ref>。
インターネットでは、物理層の伝送媒体やデータリンク層のプロトコルは送信元から宛先までにメッセージを送る間に複数の種類を使うことになる。つまりインターネットでは物理的な伝送媒体やデータリンクプロトコルに制限を設けていない。そのため、状況に応じて最適な伝送媒体やプロトコルを採用できる。実際、大陸間の通信には [[Asynchronous Transfer Mode]] (ATM) プロトコルと光ファイバーが使われている。これには[[公衆交換電話網]]と同じ基盤を共用していることが多い。
ネットワーク層では、[[Internet Protocol]] (IP) を基本として標準化されており、[[論理アドレス]]が設定されている。[[World Wide Web]] では、[[Domain Name System]] を使って人間にも読める形式の名前から「IPアドレス」を導出する(例えば [https://www.google.com/ www.google.com] から [http://72.14.207.99/ 72.14.207.99] を得る)。現在、最もよく使われている Internet Protocol はバージョン4だが、バージョン6([[IPv6]])への移行が差し迫っている。
トランスポート層では、多くの場合 [[Transmission Control Protocol]] (TCP) または [[User Datagram Protocol]] (UDP) を使う。基本的にTCPは送信した全てのメッセージが確実に受信されなければならないときに使われ、UDPはそれが必須ではないときに使われる。TCPではパケットが失われた場合に再送が行われ、上位層には順番通りにメッセージが渡される。UDPではパケットが失われても再送は行われないし、順序も不定である。TCPもUDPも[[ポート番号]]によってパケットを処理すべきアプリケーションや[[プロセス]]を指定する<ref>Stallings, pp 683-702.</ref>。ある種のアプリケーション層のプロトコルは[[TCPやUDPにおけるポート番号の一覧|特定のポート]]を使うため、ネットワーク管理者はトラフィックを操作して特定の要求に合うように調整できる。例えば特定のポートへのトラフィックをブロックしたり、優先順位を低くして性能を制限したりできる。
トランスポート層より上層では、セッション層とプレゼンテーション層に大まかに当てはまり、時々使われるプロトコルがある。例えば Secure Sockets Layer (SSL) や [[Transport Layer Security]] (TLS) がそれにあたる。これらのプロトコルは転送されるデータが秘匿されていることを保証する。ブラウザに南京錠のアイコンが表示されているとき、それらが使われている<ref>T. Dierks and C. Allen, The TLS Protocol Version 1.0, {{IETF RFC|2246}}, 1999.</ref>。最後にアプリケーション層にはインターネットユーザーがよく目にする多数のプロトコルがあり、[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]](ウェブブラウジング)、[[Post Office Protocol|POP3]](電子メール)、[[File Transfer Protocol|FTP]](ファイル転送)、[[Internet Relay Chat|IRC]](チャット)、[[BitTorrent]](ファイル共有)などがある。
=== LAN ===
[[Local Area Network]](LAN、数km以内で機能するコンピュータネットワーク)の特徴は、インターネットとは別である。この程度の規模のネットワークは大規模ネットワークの特徴を全て備える必要はなく、それによってよりコストを低減させることができる。
1980年代中ごろ、[[OSI参照モデル]]のデータリンク層とアプリケーション層の間のギャップを埋めるプロトコルスイートがいくつか生まれた。例えば、[[AppleTalk]]、[[IPX/SPX|IPX]]、[[NetBIOS]]などで、特に[[MS-DOS]]ユーザーによく利用されたIPXが1990年代初期まで広く採用されていた。そのころには既に[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]が存在していたが、主に政府機関や研究機関での利用に限られていた<ref>Martin, Michael (2000). ''Understanding the Network'' ([http://www.informit.com/content/images/0735709777/samplechapter/0735709777.pdf The Networker's Guide to AppleTalk, IPX, and NetBIOS]), SAMS Publishing, ISBN 0-7357-0977-7.</ref>。インターネットが成長し、インターネット関連のトラフィックの割合が増えてくると、LANでもTCP/IPを採用することが多くなり、今ではTCP/IPがLAN上でも一般的になっている。TCP/IP化の動きを助けたテクノロジーとして、クライアントが自身のネットワークアドレスを探すのを助ける[[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]]がある。同様の機能はAppleTalkやIPXやNetBIOSのプロトコルスイートにも標準で備わっていた<ref>Ralph Droms, [http://www.dhcp.org/ Resources for DHCP], November 2003.</ref>。
データリンク層はLANとインターネットで大きく異なる部分である。大規模ネットワークのデータリンクプロトコルとしては、[[Asynchronous Transfer Mode]] (ATM) や [[Multi-Protocol Label Switching]] (MPLS) が使われているが、LANでは[[イーサネット]]や[[トークンリング]]が典型的である。これらはインターネットのデータリンク層に比較して単純で(例えば、[[Quality of Service]] 保証などの機能がない)、[[CSMA/CD]]による衝突回避を行う。そのため、設定に際してさらにコストを抑えられるという違いがある<ref>Stallings, pp 500-526.</ref>。
1980年代から1990年代にかけては[[トークンリング]]もそれなりに使われていたが、現在ではLANのほとんどが有線または無線の[[イーサネット]]となっている。物理層では、有線イーサネットの多くは[[ツイストペアケーブル]]を使っている。しかし、初期の実装では[[同軸ケーブル]]を使っていたし、最近の高速なイーサネットでは[[光ファイバー]]を使う実装もある<ref>Stallings, pp 514-516.</ref>。光ファイバーを使う場合、シングルモードとマルチモードで特徴が異なる。マルチモード・光ファイバーは太く、製造コストは低いが帯域幅が小さく減衰が大きい(したがって、長距離には向かない)<ref>[http://www.arcelect.com/fibercable.htm Fiber Optic Cable Tutorial], Arc Electronics. Retrieved June, 2007.</ref>。
== 関連機関 ==
* [[国際電気通信連合]](ITU,旧CCIR)
** [[世界無線通信会議]](WRC, 旧WARC)
* [[国際アマチュア無線連合]](IARU)
* '''欧州連合'''
** [[欧州電気通信標準化機構]](ETSI)
** [[欧州放送連合]](EBU)
* '''アメリカ合衆国'''
** [[IEEE|米国電気電子学会]](IEEE:アイ・トリプル・イー)
** [[SMPTE|米国映画テレビ技術者協会]](SMPTE)
** [[連邦通信委員会]](FCC)
** [[アメリカ無線中継連盟]](ARRL)
* '''日本'''
** [[総務省]] - [[総合通信局]](旧:電気通信監理局)
*** [[日本放送協会]](NHK)- [[NHK放送技術研究所|放送技術研究所]]
*** [[情報通信研究機構]]
** [[文部科学省]] - [[高等教育局]]
*** [[電気通信大学]] - [[電波工業高等専門学校|国立電波高専]]
** [[一般社団法人]]
*** [[電波産業会]](ARIB)
*** [[日本民間放送連盟]](民放連)
*** [[電子情報通信学会]](信学会,IEICE)
*** [[日本アマチュア無線連盟]] (JARL)
== 関連法規および資格 ==
* [[有線電気通信]]
** [[電気通信事業法]]
** [[電気通信役務利用放送法]]
** [[電気通信主任技術者]] - [[電気通信設備工事担任者]]
** [[有線電気通信法]]
* [[無線通信]]
** [[電波法]]
** [[放送法]]
** [[無線従事者]] - [[総合無線通信士]] - [[陸上無線技術士]] - [[特殊無線技士]] - [[アマチュア無線技士]]
== 関連項目 ==
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[経済協力開発機構|OECD]], [https://books.google.co.jp/books?id=WpmzcqmgMbAC&redir_esc=y&hl=ja ''Universal Service and Rate Restructuring in Telecommunications''], Organisation for Economic Co-operation and Development (OECD) Publishing, 1991. ISBN 92-64-13497-2
== 外部リンク ==
* [http://www.complextoreal.com/tutorial.htm Communications Engineering Tutorials]
* [http://www.fcc.gov/ Federal Communications Commission]
* [http://www.comsoc.org/ IEEE Communications Society]
* [http://www.ieice.org/jpn/index.html 電子情報通信学会]
* [http://www.itu.int/home/ International Telecommunication Union]
{{Telecommunications}}
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[[Category:電気通信|*]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%80%9A%E4%BF%A1 |
3,763 | PROM | PROM (Programmable ROM) は、コンピュータシステムで使用されるROMの一種で、通常時はデータを読み出すだけで書き込む事ができないが、特定の手順で書き込みが可能なもののこと。およびその特徴を持ったROMの総称。
書き込み可能なROMの総称として、以下の分類のものがある。
書き込み可能なROMのうち消去不可能なもの、つまり1回のみ書き込むことができるROMのことを指して、EPROMは含めずにPROMと言うことがある。
情報を書き込む際は、ROMライタと呼ばれる専用装置を使い、高電圧をかけて書き込みを行う。
ヒューズROMは、データに対応するビット毎のヒューズの導通の有無で0/1を表す。
消去窓無しUV-EPROMは、消去窓が無い分紫外線照射によって消去することができないこと以外は、基本的にUV-EPROMの動作と同じである。データに対応するビット毎のフローティングゲートに電荷を貯め、電荷の有無で0/1を表す。
OTPROMはマスクROMに比べ、データの内容にあわせたフォトマスクを製造しなくて済む分、期間短縮、コストダウンにつながり、少量多品種の用途に向いている。
2010年現在、多くの用途でフラッシュメモリーが用いられているため、あえてOTPROMを用いる場面は少ない。
フラッシュメモリーが登場する以前は、プログラム開発時は消去窓ありUV-EPROMを用いて消去/書込を繰り返し、量産時にはパッケージコストが安い消去窓無しUV-EPROM (OTPROM) を用いて単価を下げるという使い分けを行っていた。もっと大規模な大量生産を行う場合は、更に単価が安いマスクROMを用いる場合もある。
一部のマイクロコントローラでは、消去窓があるパッケージにチップが収められたものを開発用として、消去/書込を繰り返し可能にしている。一方、量産用として、消去窓なしの安価なプラスチックパッケージに同じチップを収め、パッケージコストを下げたものを安く販売している。どちらもチップ自体は全く同じ (UV-EPROM) である。 | [
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] | PROM は、コンピュータシステムで使用されるROMの一種で、通常時はデータを読み出すだけで書き込む事ができないが、特定の手順で書き込みが可能なもののこと。およびその特徴を持ったROMの総称。 | {{Otheruses|半導体メモリのPROM|その他のPROM|Prom}}
{{出典の明記|date=2023年2月26日 (日) 09:28 (UTC)}}
'''PROM''' (Programmable ROM) は、[[コンピュータ]]システムで使用される[[Read Only Memory|ROM]]の一種で、通常時はデータを読み出すだけで書き込む事ができないが、特定の手順で書き込みが可能なもののこと<ref>{{cite book |title=Computer Architecture and Organization |last=Hayes |first=John P. |isbn=0-07-027363-4 |date=1978 |publisher=McGraw-Hill International Book Company |pages=325}}</ref>。およびその特徴を持ったROMの総称。
== 種類 ==
書き込み可能なROMの総称として、以下の分類のものがある。
* OTP ROM (One Time Programmable ROM) 1回のみ書込可能、消去不可
** ヒューズROM
*** [[ヒューズ]]型
**** 配線を焼き切るタイプ
**** [[PN接合]]を破壊するタイプ(バイポーラROM)
*** アンチヒューズ型
**** [[MOSFET|MOS]]絶縁膜を破壊するタイプ
** 消去窓無し[[UV-EPROM]]
* [[EPROM]] 書込可能、消去可能
** [[UV-EPROM]] 高電圧印加で書込可能、紫外線を照射することで消去可能
** [[EEPROM]] 通常電圧印加で書込可能、通常電圧(もしくは高電圧)印加で消去可能
*** [[フラッシュメモリ]](フラッシュ型EEPROM)
== OTPROM ==
[[ファイル:PIC16C57.JPG|thumb|200px|[[Microchip]]社製のマイクロコントローラ[[PIC_(コントローラ)|PIC]]のOTP ROM版]]
[[ファイル:PIC16C57JW.JPG|thumb|200px|Microchip社製のマイクロコントローラの消去窓あり版]]
書き込み可能なROMのうち消去不可能なもの、つまり1回のみ書き込むことができるROMのことを指して、EPROMは含めずにPROMと言うことがある。
情報を書き込む際は、ROMライタと呼ばれる専用装置を使い、高電圧をかけて書き込みを行う。
ヒューズROMは、データに対応する[[ビット]]毎のヒューズの導通の有無で0/1を表す。
消去窓無しUV-EPROMは、消去窓が無い分紫外線照射によって消去することができないこと以外は、基本的にUV-EPROMの動作と同じである。データに対応するビット毎の[[フローティングゲート]]に電荷を貯め、電荷の有無で0/1を表す。
OTPROMは[[マスクROM]]に比べ、データの内容にあわせたフォトマスクを製造しなくて済む分、期間短縮、コストダウンにつながり、少量多品種の用途に向いている。
* 代表的なOTPROM製品
** 単体のROM
*** ヒューズROM 23xxx(23128など)
*** 消去窓無しUV-EPROM 27Cxxx(27C256など)
** 他の回路と一緒にワンチップに集積したもの
*** [[マイクロコントローラ]]
*** [[プログラマブルロジックデバイス]] PAL, GAL, アンチヒューズ型のCPLD,FPGA
2010年現在、多くの用途でフラッシュメモリーが用いられているため、あえてOTPROMを用いる場面は少ない。
フラッシュメモリーが登場する以前は、プログラム開発時は消去窓ありUV-EPROMを用いて消去/書込を繰り返し、量産時にはパッケージコストが安い消去窓無しUV-EPROM (OTPROM) を用いて単価を下げるという使い分けを行っていた。もっと大規模な大量生産を行う場合は、更に単価が安いマスクROMを用いる場合もある。
一部のマイクロコントローラでは、消去窓がある[[パッケージ_(電子部品)|パッケージ]]にチップが収められたものを開発用として、消去/書込を繰り返し可能にしている。一方、量産用として、消去窓なしの安価なプラスチックパッケージに同じチップを収め、パッケージコストを下げたものを安く販売している。どちらもチップ自体は全く同じ (UV-EPROM) である。
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
* [[EPROM]]
* [[Write Once Read Many]]
{{半導体メモリ}}
{{Normdaten}}
[[Category:半導体メモリ]] | 2003-03-10T16:25:37Z | 2023-12-27T17:56:39Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/PROM |
3,768 | Blu-ray Disc | Blu-ray Disc(ブルーレイディスク)は、青紫色半導体レーザーを使用する光ディスクである。第3世代光ディスクの一種。DVDの後継であり、Ultra HD Blu-ray(4K Ultra HD Blu-ray)の前身である。
規格はBlu-ray Disc Associationが策定している。
一般的な略称は「BD(ビーディー)」である。あるいは単に「ブルーレイ(Blu-ray)」と呼ばれることも多い。
名称が「Blue-ray」ではなく「Blu-ray」になっているのは、「Blue-ray Disc」とすると英語圏の国々では「青色光(で読み取る)ディスク」を意味する一般名詞と解釈され、商標登録が認められない可能性があるためである。
波長405nmの青紫色半導体レーザーと、0.1mmのカバー層の光ディスクを使うことでレンズのNA値を0.65から0.85に上げ、DVDの5倍以上の記録容量(1層式ディスクで25GB、2層式ディスクの場合は50GB、ほか)を実現した。青紫色は可視光線の中で最も波長が短いことから、ソニーはBDを「家庭用光ディスクの最終形」とホームページ上でうたっている。
1層のディスク(25GB)でも日本の地上デジタル放送(ISDB-T、1440×1080i、約16.8Mbps)なら3時間強、日本のBS2Kデジタル放送(ISDB-S、1920×1080i、約24Mbps)で2時間強のハイビジョン映像を収録可能。現在、23.3GB/25GB/50GB/100GB/128GBのディスクが規格・製品化されているほか、研究レベルではTDKが2009年に10層320GB、2010年には16層512GBの試作に成功するなど、記録容量の拡張が進められている。
BDでは記録層の数に応じて1層(単層)をSL(Single Layer)、2層(複層)をDL(Dual Layer)、BDXL(多層)規格の3層をTL(Triple Layer)、同じくBDXL(多層)規格の4層をQL(Quad Layer)と表記することがある。例えばBD-RであればそれぞれBD-R SL、BD-R DL、BD-R TL(BDXL-R TLとも)、BD-R QL(BDXL-R QLとも)となる。
ディスクの大きさ(直径12cm、厚さ1.2mm)はCDならびにDVDと共通だが、BD規格はCD規格やDVD規格と独立しているため、BD対応機器におけるCD/DVDの記録・再生機能は必須ではない。しかし商品企画の段階において現行のCDやDVDも使用できる製品として商品化が進められたため、ほとんどのBD対応機器やBDドライブでは光ピックアップが3波長化され、CDやDVDも利用可能となっている。現在の民生用のBDプレーヤー / レコーダー製品では、CD・DVD・BDの記録フォーマットであるCD-DA・DVD-Video・BDMVの再生が基本機能としてサポートされており、ユニバーサルプレーヤーとなっている。
なお、DVDなどと同様、すべてのメディアに「データ用(for DATA)」と「ビデオ録画用(for VIDEO)」の2種類があるが、違いはないため、データ用ディスクで映像を録画することも可能である。ビデオ録画用ディスクは日本の地上デジタルテレビ放送移行前は私的録音録画補償金制度によりデジタルコピーに対する補償金が上乗せされていたが、デジタルテレビ完全移行後はコピー・ワンスやダビング10の「デジタルコピーガードがある」という理由より補償金を上乗せせずに販売されている。
ファイルフォーマットはBD-RE Ver.1.0のみBDFSを採用し、それ以降はすべてのメディアでUDF 2.50以降が採用された。
これによりBD-Rでも擬似的に(BD-REやDVD-RAMのように)リライタブルメディアとして手軽に扱え、PCとの親和性が高まることや、書き込み時のファイナライズ処理を必要としないことといったメリットがある。
等速は36Mbpsすなわち4.5MB/s。これはDVDの転送速度を1倍速(1.4MB/s)として、約3倍速に相当する。BD-ROMは1.5倍速の54Mbpsすなわち6.75MB/sが標準転送速度である。追記型ディスクであるBD-Rは現在6倍速の216Mbpsすなわち27MB/s、書き換え型のBD-REは2倍速の72Mbpsすなわち9MB/sまで規格化され、BD-R/REディスク、BDドライブが商品化されている。なお、6倍速記録に対応したBD-Rに、12倍速で書き込み可能なBDドライブも発表されている。
BDの最大の特徴として、保護層(カバー層)が0.1mmであることが挙げられる。DVD、HD DVDは0.6mmでCDは1.2mmである。
Blu-ray Discは、1枚のディスクの多層化により大幅な容量の拡張が可能である。BD-ROMに関しては8層構造までが学会発表済みであり、実用可能であると考えられる。これが実現すれば1枚のディスク(25GB×8層)で容量が200GBを超える光ディスクメディアが誕生することになる。BD-RE/BD-Rの記録型光ディスクについては片面4層(128GB)構造までがBDXLとして開発済みである。
TDKは2006年4月26日、「33.3GB×6層」の200GBの追記型Blu-ray Discを光ディスク関連技術の国際会議「ODS 2006」で試作品として発表した。1枚のディスクにHD映像を約18時間分格納できる。信号処理技術の進歩で1層あたりの記憶容量が拡大したため、各層あたり33.3GBのデータが格納できるようになったという。
2008年1月24日のソニー発表によれば、BD用などの記録・再生光ディスクドライブの薄型化・低コスト化できる光集積デバイス(レーザカプラ)を日亜化学工業と共同開発した。高効率の1ビーム光学系を採用し、さらに独自の小型パッケージング技術を活用したことで厚み3mm未満、面積14mm×7.4mmと小型・薄型化を実現。BDなどの2層メディアでの信号読み出しを最適化し、安定的な記録・再生を可能にするドライブや光学ピックアップが設計できるようになるという。BDドライブの薄型化とコスト低減に向け、2008年内に量産化を目指すとした。
2008年7月7日、パイオニアはBDと互換性を有する400GB光ディスク技術を開発したと発表。BDと同じ25GBの記録層を16層に積層した再生専用光ディスクだが、記録型ディスクにも応用可能という。また、対物レンズの光学的仕様がBD規格と同一で、互換性維持が可能。
また、パイオニアのロードマップによれば2008年から2010年にかけて再生専用ディスクを開発し、さらに2010年から2012年にかけて書き込み・書き換え可能ディスクの開発を行うとし、2013年には記録層が40層で記録容量1TBの再生専用ディスクが登場する予定となっていたが、商品化はされていない。
2010年、TDK(イメーション)は片面16層で容量512GBの光ディスクを開発したと発表した。両面記録では容量1,024GB(1TB)となり、世界初の1TB級の光ディスクを実現した。
2014年5月13日、パイオニアとメモリーテックは片面256GB/両面512GBの「データアーカイブ用 次世代大容量光ディスク」を発表した。
12cmディスクのほかにビデオカメラ向けの用途での使用などを目的とした8cm光ディスク(BD-R/BD-RE)が規格策定済み。容量は1層で7.5GB、2層で15GBとなる。現在1層7.5GBのみが商品化されている。
2004年4月15日、凸版印刷とソニーは、「材質の51%以上が紙のディスクを共同開発した」と発表。近いうちに紙の割合を70%以上まで引き上げると発表している。多くの自治体において、燃えるゴミとして捨てることが可能となる。また、日本ビクター(現:JVCケンウッド)やパイオニアはトウモロコシの澱粉(デンプン)から合成されたバイオプラスチックによるディスクを開発した。両社の技術や原料は同じだが、製法が若干異なる。
BD-ROMでは、ビデオデコードやBD-Jを必要としないオーディオのみのプレーヤープロファイル(BD-Audio)を含む4つのBlu-rayディスクプレーヤープロファイルが策定されている。なお、ビデオベースのプレーヤープロファイル(BD-Video)においてはBD-Jが必須である。
インターネットから追加コンテンツやゲームなどを行える機能である(BD-ROMプロファイル2.0)。BD-Liveに対応したソフトとBD-Liveに対応したBD再生可能機器(PlayStation 3など)が必要である。追加データの記録は再生機器のハードディスクに記録される。BD再生専用機などハードディスクを持たないプレーヤーではUSBメモリなどの外部記録媒体を用いる必要がある。
主に2010年以降に登場したBlu-ray Discの派生規格。Blu-rayに対応した全ての機器でBlu-ray 3Dが視聴できるわけではなく、対応しているゲーム機はPlayStation 3、PlayStation 4、Xbox One以降のディスクドライブが付いたXBOXシリーズのみである。通常の方法での視聴には専用規格の3D眼鏡、およびHDMI伝送で3D映像に対応したテレビも必要である。それらを用意できなかった場合、Ultra HD Blu-rayのように映像のダウンコンバートは行われないので映像を一切視聴できなくなる。
DVDでは容量などの都合上から不可能であったが、Blu-ray以降はリージョンコード以外のデータを国際間で共通させたデータのディスクを製造できるようになった。また、Blu-rayプレイヤーに設定された二つの地域情報により、一部の字幕・音声を選択できなくなるような仕様にすることも可能である。また、設定上可能な言語数もDVDより大幅に増加し、古語に該当する言語も追加されている。
例としてPlayStation 3の場合、リージョン以外の二つの地域情報を変更できる設定項目は「BD / DVD - 視聴年齢制限使用地域」や「BD/メニュー言語」などが該当する。前者を変更した場合、BD-ROM内の許諾画面の言語が変更される。このように、Blu-rayには三つの言語・リージョン設定の項目が存在する。Blu-rayのリージョンコードを再生機器側から変更することは不可能。
DVDでは読み出し専用規格(ROM型)を先に策定したために、書き込み型フォーマットの策定では規格が乱立した。また、CDやDVDでは初期の再生専用ドライブでは書き換えメディアは反射率が低いため、読み込めないという問題があった。これらの反省からBDでは書き換えメディアフォーマットを先に策定して、共通の仕様にて読み出し専用メディアにも対応する方向で開発が進められた。したがってBDでは反射率の問題は発生しない。また、現行メディアとの併用も考慮し、波長や基板厚の異なるCD/DVD/BDに1つの光ヘッドで対応するための、いわゆるユニバーサルプレーヤー向けの技術開発も当初の段階から行われた。
BD-RE Ver.1.0以外はベアディスク(bare disk, カートリッジに入っていないむき出しディスク)でカートリッジはオプション。ベアディスクタイプの容量は25GB(1層)と50GB(2層)のほか、後発のBDXL規格で100GBと128GBが製品化されている。しかし、それ以上の容量の商品化はいまだにされておらず、Ultra HD Blu-rayでも同様。
物理フォーマットは以下の各節の通りである。
BD-R(Blu-ray Disc Recordable)は、ライトワンスディスクである。BD-Rでは記録層に「無機系記録材料」または「有機系記録材料」を使用する。無機系は経年劣化に強いが高価である一方、有機系は従来のDVD-Rなどと同じものであり、製造コストが安いが経年劣化しやすい。当初は無機系ディスクの価格が高かったが、現在では価格にほとんど差がなくなったため、有機系記録ディスクはしだいに販売されなくなった。
物理規格はハードコート技術を前提とした表面の強度の規定が追加されたため、ベアディスクが基本となっている。
記録速度は1 - 2倍速に対応。
ファイルシステムはUDF 2.6。
アプリ規格はBD-RE Ver.1.0と同じBDAV規格。
著作権保護技術はAACSを使用。
物理規格はVer.1.1と互換性を保ったままであるが、無機系記録材料の場合は4倍速記録対応になり、有機(色素)系記録材料のディスクの規定(1 - 2倍速)が追加された。
物理規格はVer.1.1と互換性を保ったままであるが、無機系記録材料の場合は6倍速記録に対応。
物理規格、ファイルシステム、著作権保護技術はVer.1.2と同じ。
アプリ規格はBD-ROMのアプリ規格であるBDMVを使用し、PCで編集したコンテンツやカムコーダで録画したコンテンツを格納することが可能。
BD-R LTHのLTHはLow To Highを指す。
有機色素タイプと呼ばれるもので、従来の無機素材タイプとは異なり記録面に有機色素を用いており、化学変化により反射率を低から高にするという記録方式である。BD-R Ver.1.2から制定された。
メリットとして、従来のDVD-Rディスクの製造法と近いことによる低価格化がある。デメリットとして、書き込み速度の低下や保存性耐久性の低下が考えられる。
IFA2007においてBD-R LTHの試作品が展示されたが、Ver.1.2未対応の機器との互換性はない。
概ね2007年末商戦以降のBD機器はLTH対応だが、それより前のBD機器はLTH非対応である。しかし非対応の場合であっても、ファームウェアの更新によりLTH対応になる場合がある。
BD-R LTHディスクは太陽誘電と三菱化学メディアが2008年2月26日から、マクセルが3月上旬から、日本ビクター(現:ビクターアドバンストメディア)が3月下旬から発売した。
素材の関係からしばらくの間は2倍速止まりが続いたが、2009年4月に三菱化学の子会社である三菱化学メディアが6倍速メディアの規格認定を受け夏頃に生産・出荷する予定であった。アゾ色素を採用したものがVerbatimブランドで発売された。
BD-RE(Blu-ray Disc Rewritable)は、書換え型ディスクである。相変化記録技術方式を採用し、上書き可能回数は理論上、1万回以上とされている。
メディアはカートリッジ付きのみ。記録速度は1倍速のみ。
メディアの記憶容量は、23.3GBまたは25GB(Single Layer) / 50GB(Dual Layer)
ファイルシステムはBDFS。
アプリケーション規格はデジタル放送録画用のBDAV規格。
著作権保護技術はBD-CPSを使用。
ハードコート技術を前提とした表面の強度の規定が追加されたため、ベアディスクが基本となる。
記録速度は1 - 2倍速に対応。
ファイルシステムはUDF 2.5に変更。
アプリ規格はVer.1.0と同じBDAV規格。
著作権保護技術はAACSに変更。
物理規格、ファイルシステム、著作権保護技術はVer.2.0と同じ。
アプリ規格はVer.2.0と同じBDAV規格に、録画時間を延長するためMPEG-4 AVC High Profileのビデオ圧縮技術が追加されたもの。
物理規格、ファイルシステム、著作権保護技術はVer.2.0と同じ。
アプリ規格はBD-ROMのアプリ規格であるBDMVを使用して、PCで編集したコンテンツやカムコーダで録画したコンテンツを格納することが可能。
BD-RE Ver. 3.0対応のBlu-ray DiscプレーヤではBlu-rayカムコーダで録画したBlu-ray Discの再生が可能。
BD-ROM(Blu-ray Disc Read Only Memory)は、読み出し専用ディスクである。
物理規格はベアディスクが基本。再生速度は1.5倍速。
ファイルシステムは、UDF 2.5。
アプリ規格は映画コンテンツを格納するためのBDMV規格。
著作権保護技術にはAACSを使用。
2006年3月に失効した。
RPC(Region Playback Control)を採用。
アプリ規格はBDMVに加え、BD-J規格がともに採用される。
ファイルシステムは引き続きUDF 2.5である。
BD・DVDコンビネーションROMディスクとは、日本ビクターが開発した、BD1層+DVD2層の計3層構造のディスク。BDドライブ、DVDドライブどちらでも読み込みが可能。
日本ビクターの技術をもとに、共同テレビジョンとインフィニティ・ストレージ・メディアが開発した、BD1層・DVD2層ディスクが、2009年2月に製品化される。光の波長によって透過率が異なる半透明の金属膜を使用し、BDドライブで再生するとDVD層は認識されない。このため、既存のBD機器で特別な対処をすることなく再生できるとしている。
AVCRECは、BDAVを応用してDVDにハイビジョン規格映像を記録する技術規格。直接にはBD9とはまったく無関係だが、技術的なコンセプトやアプローチは、BD9と同じ軸上にある。関連する規格としてAVCHDも存在する。
Blu-ray 3Dは、2009年12月に発表された、3D映像をBDに収録するためのハードウェアとソフトウェアの双方の規格である。Blu-ray Disc Associationにより策定された。
規格としてH.264/MVC(マルチビュー符号化)を採用する。従来のサイド・バイ・サイド方式などとの互換性がないため、Blu-ray 3D 方式に対応したプレーヤー/レコーダーが必要である。テレビとの間はフレームパッキング方式により伝送するため、その方式に対応した3D対応テレビ、そして伝送帯域が従来より広がるため、HDMI1.4a以降対応(いわゆるHDMI 3D対応)のケーブルが必要になる。
2010年4月23日にはパナソニックから対応BDレコーダー(DMR-BWT1000・2000・3000)、BDプレーヤー(DMP-BDT900)が発売された。
他社もこれに追従し、シャープは2010年7月30日にBD-HDW70/700を発売し、ソニーは2010年9月25日(BDZ-AX2000のみで、ほかのモデルは10月22日)にBDZ-AX1000/2000、BDZ-AT300S/500/700/900を発売した(ソニーは全モデル3D対応)。東芝からは2010年8月下旬にBDプレーヤーのSD-BDT1、2010年11月下旬にレコーダーのRD-X10(RD-BR600・BZ700・BZ800はバージョンアップで対応)が発売された。
ブルーレイ録画、再生、Blu-ray 3D対応テレビでは、2010年8月27日にパナソニックがTH-P42/46RT2Bを発売した。三菱電機はLCD-40/46/55MDR1を2010年10月21日に発売した。ソニーはKDL-40/46/55HX80Rを2010年12月5日に発売した。
ソニー・コンピュータエンタテインメントは2010年9月21日にPlayStation 3をシステムソフトウェアの更新にてBlu-ray 3Dに対応させた。
2017年、販売の低迷から3Dモニターおよび3Dテレビの新規製造を各社中止。2018年現在販売されている3D対応機種は在庫品のみ。また、そのほとんどが4K対応テレビであり20万円から100万円という実売価格である。そのため、新規にBlu-ray 3D視聴環境を整える事が困難となっている。なお、Oculus Rift、HTC Vive、Windows Mixed Realityに代表されるバーチャルリアリティ用ヘッドマウントディスプレイではBlu-ray 3Dの映像を直接視聴することができない。
2019年現在、もっとも安価なBlu-ray 3D視聴環境は、3Dプロジェクター、もしくはPlaystation 4とPlaystation VRの組み合わせだけである。前者は映像を投影する壁やスクリーンが必要であり、後者はヘッドマウントディスプレイをかぶることにより複数人で視聴できないというデメリットがある。そのため、3D対応テレビのような手軽さはない。
4K ULTRA HD Blu-ray(Ultra HD Blu-ray、UHD BD)は4Kに対応する、BDの上位規格。BD-ROMとディスクの外見が全く同じであるが、書き込み規格が変更された。また、ウルトラHDブルーレイにはR/RE規格が存在しない。
BDXL(Blu-ray Disc Extra Large)はBDの一種ではあるが、記録層が3層や4層となっている。BDXL対応でないBD対応機器では動作しない。2010年6月に規格が策定され、3層で100GBのBD-R TL・BD-RE TLと4層で128GBのBD-R QLが製品化されている。
BD9はワーナー・ブラザースが提案したDVDメディアにBDのアプリケーションフォーマットで圧縮映像を入れる規格。同様のコンセプトでHD DVD側に策定されたHD DVD9とともに3x DVDという総称でも呼ばれる。
この規格は、DVD-Videoの3倍の帯域幅を持ち、MPEG-2の代わりにVC-1やH.264といったより高圧縮のコーデックを用いることで、ハイビジョン規格の映像をDVDメディアに保存することを可能とするものである。DVDメディアであるため、記録容量がBDに比べ少なく、記録時間や画質の面ではBDに劣る。また、一般的なDVD-Video規格とはまったく異なるため、DVDプレイヤーで再生することはできず、再生にはBDプレイヤーが必要である。
当初にワーナー・ブラザースが想定していたものは、片面2層8.5GBのDVDへ平均ビットレート8Mbpsで120分のハイビジョン映像を収録することにより、3x DVDに対応した青紫色半導体レーザーを用いないDVDプレーヤーで再生可能にすることであった。
BD9は製品化がなされていない。なお、AVCRECが類似したコンセプトで開発されている。
2007年1月、ワーナー・ブラザースは片面にHD DVD、もう片面にBDを収めた両面ディスク「Total Hi Def」を発表した。この時点では2007年後半発売予定とし、2規格が店頭に並び混乱を生じることへの解決策として製品化が進められたが2007年秋に開発中止され、さらに2008年1月のワーナーのBD一本化発表により必要性がなくなったため、結局製品化はなされなかった。
BDMVは読み出し専用型BD(BD-ROM)で採用されている記録フォーマットである。解像度は最大1080i/60、720p/60である。
H.264/MPEG-4 AVCとVC-1などの新圧縮技術は一般的な既存のDVD(DVD-VideoおよびDVD-VR)や現状の日本で行われているデジタル放送(地上デジタル放送およびBSデジタル放送)で使われているMPEG-2よりも圧縮能力に優れているが、H.264/MPEG-4 AVCはもともと携帯電話などの小さな画面を主体に開発された技術のため、そのままではHD映画の画質再現に問題があり、当初ハリウッド企業は新コーデックの採用に積極的ではない会社も多かった。そのため、最初に発売されたBDビデオソフトはDVDと同じMPEG-2をコーデックに採用せざるをえなかったが、そのことから初期に発売されたBDビデオソフトは画質が必ずしも満足できるものではないとの指摘もあった。その後、HD映像用に新たにパナソニックハリウッド研究所(PHL)により開発されたMPEG-4 AVC High Profileが制定され、このHigh Profileを使えばHD映画の画質をMPEG-2以上に向上させられることがハリウッド企業でも確認された。このためMPEG-2に加えMPEG-4 AVC High ProfileやVC-1もBD-Videoの映画タイトルに採用されるようになり、現在ではほとんどのソフトにMPEG-4 AVC、VC-1のどちらかが採用されている。
字幕はDVDに比べ鮮明になっている。大画面表示を前提として制作されているため、小さい画面で観ると読みづらくなることがある。
ドルビーアトモス、ドルビーデジタルプラス、DTS:X、DTS-HDマスターオーディオは一部のプレイヤーでは対応していない場合もあるが、これらの音声コーデックは下位互換性があるため、非対応の機器でそれらの音声を再生した場合は下位互換性のために自動でドルビーアトモス→ドルビーデジタルプラス→ドルビーデジタル、DTS:X→DTS-HDマスターオーディオ→DTSの順に音源が劣化するが、DTS-HDマスターオーディオは5.1ch、2.0chの音源出力も可能である。PCMを利用した非圧縮音源によるサラウンド5.1ch、7.1chの出力にも対応。(主に国内映画などで非圧縮PCMが採用される傾向にある。)
(*) Blu-rayプレーヤーではオプション扱い。
BDAVはBDレコーダーで書き込み型BD(BD-R、BD-RE)に録画したときに使われる記録フォーマットである。
高度なメニューやネットワーク機能などを実現する技術として、Javaの一種であるBlu-ray Disc Java(略称:BD-J)が採用された。BD-JはすべてのBDプレーヤに搭載されているため映像を使った対戦ゲーム、シューティングゲーム、インベーダー型ゲームなどを附録に入れたBDタイトルが発売されている。また、2007年11月以後に発売されるBDプレーヤーには、追加のJavaインタラクティブ機能(ピクチャインピクチャ機能など)の搭載が義務づけられる。ネットワーク機能としては「BD-Live(Blu-ray Disc Live)」と呼ばれるプロファイルが標準化されている。
HD DVDではマイクロソフトが中心となって開発した「iHD(現:HDi)」が採用され、マイクロソフトがHD DVDを支持する要因のひとつとなっていた。BDでもHDiを採用する提案がなされたが採用は見送られた。
4つの技術を使用し、コンテンツの著作権保護を図る。コピーガードを大幅に強化、DVDに比べ海賊版作製とその視聴がより困難と言われている。これにより、ブルーレイプレイヤーの一部(PlayStation 3など)は定期的なハードウェアのバージョンアップを要求される事がある。
なお、BD-RE Ver.1.0ではAACSではなくBD-CPSが採用された。
BD-CPSはBD-RE Ver.1.0で採用されたコピーガードシステム。BD-RE Ver.2.0以降やBD-R、BD-ROMではBD-CPSではなくAACSが採用された。
AACS(Advanced Access Content System)により、コピー管理も含め、ネットワーク機能やインターネット接続に関連して公認されたセキュアな方法でコンテンツを保護する。
AACSのカバー範囲はTV放送およびインターネットを利用したコンテンツ配信、家庭内のネットワーク配信など、現在想定できる使用用途のほぼすべてと広範囲にわたる。また、再生専用メディアだけではなく記録型メディアにも対応し、コンテンツのムーブやDRMによって認められたコンテンツの複製をセキュアに管理する。
ROM Markは、BD-ROM原盤の偽造を困難にする技術である。
映画や音楽、ゲームなどBD-ROMメディアに収録されるコンテンツの中に検出できない一意の識別子を埋め込む。ライセンスを受けたBD-ROMメーカーに提供される機器でしか扱えず、スタンパーを入手しただけではこの識別子は書き込めない。そのため、ディスク原盤の非正規の作製はきわめて困難とされている。
BD独自の機能であるBD+はBDプレイヤーのコンテンツ保護プログラムが破られた際にも、新たなコンテンツ保護プログラムをBDプレイヤーに導入できる機能である。
破られたコンテンツ保護プログラムをコンテンツ企業が後から自動的に更新できるため、非正規に複製されたディスクの視聴は実質的に不可能になると考えられている。なお、BD+はキーが改変されたプレイヤーのみに影響する。
BDのコピーガード規格の一つとしてCinavia(シナビア)が採用された。Cinaviaに対応した機種でCinavia対応コンテンツをHDMIから出力させ、その映像を録画しようとすると、対応機器は自動的に音声や映像をミュートする。
ブルーレイディスクには再生できる地域を制限することを目的としたリージョンコードが指定されている。これは地域の区分けこそ異なるものの原則として従来のDVDリージョンコードと同様のものであり、ある一定の地域で販売されたプレーヤーではそれと同じ地域で発売されたソフトしか再生できない。このシステムは当初ブルーレイにはなかったものであるが、映画会社の強い要望により3つの地域に分割された方式が採用された。
これにより映画会社は特に販売価格、日付、内容を地域によって制御することが可能になる。また、地域の制限を設けないリージョンフリーでも作成できるため、すべての地域で再生可能なソフトを作成することもできる。そのため2008年上半期の時点で発売されたソフトのおよそ3分の2のソフトはリージョンフリーで作成されている。
韓国、マレーシアなどほかのブルーレイ生産国と同様、日本はアメリカと同じリージョンに属するためDVD-Videoとは異なりアメリカ製ソフトの輸入版を再生することが可能である。
ネットワークを利用した用途も考慮されており、ネットからダウンロードした字幕データをディスクに追記するようなことが可能となっている。もちろん再生専用のROMディスクには追記できないため、プレーヤーに記憶装置を内蔵するなどの対応が必要になる。
パソコン向けの記録・再生ドライブ、およびBDドライブを内蔵したパソコンが2006年6月に発売された。日本国内では11月までBD-Video対応機器はパソコンのみという状況であった。
H.264/MPEG-4 AVCやVC-1の映像コーデックを採用したBD・HD DVDソフトは再生時のCPU負荷が非常に高く、規格発表当時に高スペックであるパソコンでも滑らかに再生するのが困難と言われてきた。後にGPUの再生支援機能やCPUの高性能化などにより解決された。
また、ディスプレイへの出力にも問題が大きい。AACSの仕様によりデジタル出力にはHDMI接続、またはHDCPに対応したDVI-D接続が必須となり、通常のDVI-D接続では表示できない。さらにディスプレイ自体の解像度がフルハイビジョン規格(1920×1080ピクセル)に満たない場合、BDをはじめとする第3世代光ディスクの映像を完全な形で再生することはできない。
記録型BDドライブ内蔵PCでデジタルテレビチューナー搭載モデルは、デジタル放送をHD映像のままBD-R/REに保存できる。
マイクロソフトはWindows Vistaの発売前、同OSでHD DVDのみを標準サポートすると表明していた。しかし、サードパーティによるおもな再生アプリケーションやDVDライティングソフトはすでにBDに対応しており、実際の使用でBDに不利益が生じることはない。また、製品版VistaではHD DVDサポートが当初の予定より縮小された。2008年1月には同社幹部が「OSにおけるサポートは中立である」と言明している。
すでにDVDについてはデッキのみならずカムコーダも開発されており、一般家庭の他企業や学校、結婚式場など業務用途でも広く活用されている。
同様に、BDについてもHD映像の普及に伴いカムコーダや編集などの用途での機器の需要は見込まれる。それらの開発によって、小規模な放送局や制作プロダクションなどのユーザーがコンテンツ制作用機器として採用する可能性は考えられる。しかし、すでに放送用、業務用には同じ青紫色半導体レーザーを用いてPFDに記録するSONYのXDCAMが存在し、フラッシュメモリに記録するメモリーカード記録タイプのカムコーダも追加された。パナソニックからもメモリーカード記録タイプのカムコーダの発売が予定されており、この用途とは違う市場である。
現在、日立製作所からBDを記録メディアに採用したカムコーダ2機種が発売されており、地方のケーブルテレビ局など企業によっては採用を検討しているところもあるといわれている。
動画圧縮/伸張用にMPEG-4 AVC/H.264エンコーダを搭載したBD/HDDレコーダーが発売されており片面2層ディスク(50GB)を用意することでXPモード(S-VHS標準モード並みの画質)で約10時間30分、SPモード(S-VHS3倍モード並みの画質)で約21時間録画可能とされている。自宅などにS-VHSやED Beta、Hi8などの大量のエアチェックコレクションなどがある場合、その高解像度・高画質を保ったままで大幅な省スペース化が可能。また、BDレコーダにi.LINK端子が搭載されていれば、D-VHSデッキの「LS3モード」で24時間記録した映像をテープ1本分丸ごと移し変えることもできる。DVDの場合、もっともよく使われるSPモードでも2時間しか記録できない(片面1層ディスクの場合)ためアーカイブ用途には不向きである。
BDでは、SDTV映像であればS-VHS方式3倍モード並の画質で長時間記録をすることが可能である。そのメリットを活かして、フルモーションのカラー映像で監視カメラの映像記録に活用することも可能となる。
防災・防犯を目的とした監視カメラの映像の収録には、連日膨大な量のストレージメディアを必要とする。BDならこれまでのCDやDVDと同一のサイズなので、メディアの収納性には優れていると言える。
以下の理由により、BDはDVD用などのBD非対応の不織布ケースに入れると記録面が破損するおそれがあるため、繊維をきめ細かくしたBD対応の不織布ケースが販売されている。
BD規格の機器や、対応ディスクが発表された当時の技術では、対応メディアの表面に些細な汚れや傷がついただけで、そのメディアが使用不能状態に陥るほどの脆弱性に悩まされ、対策として、カートリッジ内にディスクを密閉する方式を採用した。
カートリッジ入りのため、メディア全体の容積が増え、取り扱い性の悪さや、ノートパソコン向けドライブの小型化が難しいという点で、BD普及の大きな障害となっていた。
また、DVDはハードコーティング製品を除き傷のついた部分を均一に研磨すれば使用できるが、BDは保護層が0.1mmと非常に薄いため、初期のメディアでは表面研磨をすると再生できなくなる。
BD-ROMやBD-Rは、規格制定当初からHD DVDと同様、カートリッジを必要としないベアディスクであり、BD-REものちにバージョン2.0で「ベアディスク」に対応させることになった。それぞれの物理フォーマットには、メディアの表面硬度に関する規定が追加された。このベアディスク化を実現するため、ハードコート技術の開発が急務となった。
これに対応する技術として、TDKがディスクの耐久性向上技術「DURABIS(デュラビス)」を開発。このDURABISをはじめとする各種ハードコート技術により、傷や汚れなどによる問題や、小型ドライブの問題も解決のめどが立ち、HD DVDに対して対等、もしくはそれ以上の条件が揃った。
初期のBDドライブは、ピックアップレンズとディスク表面までの距離が0.3mm程度であり、HD DVDの1mm程度と比較すると3分の1しかなく、表面カバー層も0.1mmと非常に薄いため、振動でピックアップレンズとディスクが衝突しやすかった。そこで車載などの用途への仕様を満たすため、接近検知時間がDVDの3分の1以下のより高精度な接近検知システムを搭載することとなった。接近検知時間は0.8msとなっている。
DURABIS(デュラビス)は、TDKのハードコート技術の名称である。英: DURABILITY(耐久性)と英: SHIELD(盾/保護物)からの造語で、優れた耐久性を表現するよう命名された。傷に強くスチールウールで100〜200回擦ったぐらいでは影響がほとんどないほどの耐久性を持つ。また、指紋汚れやチリ・ほこりがつきにくい。ただし、ディスクが傷に強いからと言って、ドライブのレーザー光の耐久性でディスクが読み込めなくなることもある。
DURABISは、当初青紫色半導体レーザー方式の第3世代光ディスク(BDやHD DVD)向けに開発された技術であり、のちにDVD・BD用途へと採用された。従前、TDKではDVDにおいては「超硬(スーパーハードコート)」(欧:Scratch Proof Disc、米:Armor Plated Disc)としてハードコート技術を展開しており、すでにDVD-Rで「超硬」「UV超硬」ブランドを掲げた製品を発売していたが、BDへのハードコート技術の展開を期にブランド名を「DURABIS」に統一した。DVDに最適化したものを「DURABIS1」、BD用を「DURABIS2」、放送用を「DURABIS PRO」としている。
2006年(平成18年)4月18日に、「DURABIS2」を採用したBD-R/REディスクを発売した。なお、同社は2007年(平成19年)には8年後の2015年(平成27年)12月末以降の光ディスク(グループ企業のイメーション製品のBlu-ray DiscメディアとDVDメディアを含む)の新製品の開発と製造終了とともに全面撤退することを発表しており、すでに撤退している。
パソコン上でBDを再生するソフトは、2006年春ごろから販売が始まった。当初は他の機器やサービス同様HD DVDとBDの両方をサポートするソフトウェアが多かったが、2008年春に東芝がHD DVDから撤退して以降同機能を削減して発売をするソフトウェアが増えた。また、編集ソフトなどの中にはBDへの出力をサポートするソフトも増えている。
2006年6月に最初の映画ソフトとなる7作品がBlu-ray化されている。
北アメリカでは2007年6月18日、全米に7,000以上の店舗を展開している米ビデオレンタルチェーン最大手のブロックバスターはBD規格のビデオタイトル取り扱い店舗を7月半ばまでに1,700店まで増やすと発表した。同社では2006年末から250店舗で実験的にBDとHD DVDでビデオタイトルをレンタルしてきたが、割以上の顧客がBDタイトルを選択していたため、BDタイトルの拡充を決定した。実験時の250店舗およびオンラインではHD DVDも取り扱いを続けた。
また、同様に北アメリカレンタル店舗大手のNetflixも、Blu-rayのみ取り扱うことを2月12日に発表している。
一方で日本では試験レンタルを開始する際、レンタルの動向などを調べる目的でTSUTAYAやゲオ、SPEや20世紀 フォックス ホームエンターテイメント ジャパンなどの22社により「Blu-ray研究会」が設立される。
2023年現在ではPlayStation3,PlayStation4,XboxOne,Xbox Series X向けのBD-ROMが供給されている。ゲームデータを直接読み出してプレイする方式のゲーム機はPlayStation3のみである。ただし、PlayStation3のソニー製以外の作品の大半はXbox360などとの同時移植の都合上、技術的な統一の影響でBD-ROMを採用したにもかかわらず、ゲーム本編の容量を8GB以内に納める傾向にあった。Xbox作品の一部のディスクはXbox OneおよびXbox Series X版両方に対応したスマートデリバリーに対応している場合があるが、PlayStation4とPlayStation5の間では無料の上位互換版の配信は法律の制約などの問題から、低価格の有償アップグレード版の購入が必要である。PS3,PS4の間では、2014年に短期間開催された「アップグレードプログラム」でPS4のダウンロード版の作品を低価格で購入し、PS3版のディスクをPS4に挿入することでゲームをプレイできるようにする制度が存在した。
PlayStation3版のゲームは後にゲームデータをソフト側でインストールを義務付けする作品も増加し、「グランド・セフト・オート V」、「ウォッチドッグス」、「グランツーリスモ5(6は対象外)」、「みんなのGOLF 6」、「リトルビッグプラネット」などが該当。
BDに採用された技術等を挙げる。
なお、2008年ごろからDTS-HDマスターオーディオの対応が開始。 | [
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"text": "Blu-ray Disc(ブルーレイディスク)は、青紫色半導体レーザーを使用する光ディスクである。第3世代光ディスクの一種。DVDの後継であり、Ultra HD Blu-ray(4K Ultra HD Blu-ray)の前身である。",
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"text": "規格はBlu-ray Disc Associationが策定している。",
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"text": "一般的な略称は「BD(ビーディー)」である。あるいは単に「ブルーレイ(Blu-ray)」と呼ばれることも多い。",
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"text": "名称が「Blue-ray」ではなく「Blu-ray」になっているのは、「Blue-ray Disc」とすると英語圏の国々では「青色光(で読み取る)ディスク」を意味する一般名詞と解釈され、商標登録が認められない可能性があるためである。",
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"text": "波長405nmの青紫色半導体レーザーと、0.1mmのカバー層の光ディスクを使うことでレンズのNA値を0.65から0.85に上げ、DVDの5倍以上の記録容量(1層式ディスクで25GB、2層式ディスクの場合は50GB、ほか)を実現した。青紫色は可視光線の中で最も波長が短いことから、ソニーはBDを「家庭用光ディスクの最終形」とホームページ上でうたっている。",
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"text": "1層のディスク(25GB)でも日本の地上デジタル放送(ISDB-T、1440×1080i、約16.8Mbps)なら3時間強、日本のBS2Kデジタル放送(ISDB-S、1920×1080i、約24Mbps)で2時間強のハイビジョン映像を収録可能。現在、23.3GB/25GB/50GB/100GB/128GBのディスクが規格・製品化されているほか、研究レベルではTDKが2009年に10層320GB、2010年には16層512GBの試作に成功するなど、記録容量の拡張が進められている。",
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"text": "BDでは記録層の数に応じて1層(単層)をSL(Single Layer)、2層(複層)をDL(Dual Layer)、BDXL(多層)規格の3層をTL(Triple Layer)、同じくBDXL(多層)規格の4層をQL(Quad Layer)と表記することがある。例えばBD-RであればそれぞれBD-R SL、BD-R DL、BD-R TL(BDXL-R TLとも)、BD-R QL(BDXL-R QLとも)となる。",
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"text": "ディスクの大きさ(直径12cm、厚さ1.2mm)はCDならびにDVDと共通だが、BD規格はCD規格やDVD規格と独立しているため、BD対応機器におけるCD/DVDの記録・再生機能は必須ではない。しかし商品企画の段階において現行のCDやDVDも使用できる製品として商品化が進められたため、ほとんどのBD対応機器やBDドライブでは光ピックアップが3波長化され、CDやDVDも利用可能となっている。現在の民生用のBDプレーヤー / レコーダー製品では、CD・DVD・BDの記録フォーマットであるCD-DA・DVD-Video・BDMVの再生が基本機能としてサポートされており、ユニバーサルプレーヤーとなっている。",
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"text": "なお、DVDなどと同様、すべてのメディアに「データ用(for DATA)」と「ビデオ録画用(for VIDEO)」の2種類があるが、違いはないため、データ用ディスクで映像を録画することも可能である。ビデオ録画用ディスクは日本の地上デジタルテレビ放送移行前は私的録音録画補償金制度によりデジタルコピーに対する補償金が上乗せされていたが、デジタルテレビ完全移行後はコピー・ワンスやダビング10の「デジタルコピーガードがある」という理由より補償金を上乗せせずに販売されている。",
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"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "ファイルフォーマットはBD-RE Ver.1.0のみBDFSを採用し、それ以降はすべてのメディアでUDF 2.50以降が採用された。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "これによりBD-Rでも擬似的に(BD-REやDVD-RAMのように)リライタブルメディアとして手軽に扱え、PCとの親和性が高まることや、書き込み時のファイナライズ処理を必要としないことといったメリットがある。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "等速は36Mbpsすなわち4.5MB/s。これはDVDの転送速度を1倍速(1.4MB/s)として、約3倍速に相当する。BD-ROMは1.5倍速の54Mbpsすなわち6.75MB/sが標準転送速度である。追記型ディスクであるBD-Rは現在6倍速の216Mbpsすなわち27MB/s、書き換え型のBD-REは2倍速の72Mbpsすなわち9MB/sまで規格化され、BD-R/REディスク、BDドライブが商品化されている。なお、6倍速記録に対応したBD-Rに、12倍速で書き込み可能なBDドライブも発表されている。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "BDの最大の特徴として、保護層(カバー層)が0.1mmであることが挙げられる。DVD、HD DVDは0.6mmでCDは1.2mmである。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "Blu-ray Discは、1枚のディスクの多層化により大幅な容量の拡張が可能である。BD-ROMに関しては8層構造までが学会発表済みであり、実用可能であると考えられる。これが実現すれば1枚のディスク(25GB×8層)で容量が200GBを超える光ディスクメディアが誕生することになる。BD-RE/BD-Rの記録型光ディスクについては片面4層(128GB)構造までがBDXLとして開発済みである。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "TDKは2006年4月26日、「33.3GB×6層」の200GBの追記型Blu-ray Discを光ディスク関連技術の国際会議「ODS 2006」で試作品として発表した。1枚のディスクにHD映像を約18時間分格納できる。信号処理技術の進歩で1層あたりの記憶容量が拡大したため、各層あたり33.3GBのデータが格納できるようになったという。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2008年1月24日のソニー発表によれば、BD用などの記録・再生光ディスクドライブの薄型化・低コスト化できる光集積デバイス(レーザカプラ)を日亜化学工業と共同開発した。高効率の1ビーム光学系を採用し、さらに独自の小型パッケージング技術を活用したことで厚み3mm未満、面積14mm×7.4mmと小型・薄型化を実現。BDなどの2層メディアでの信号読み出しを最適化し、安定的な記録・再生を可能にするドライブや光学ピックアップが設計できるようになるという。BDドライブの薄型化とコスト低減に向け、2008年内に量産化を目指すとした。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2008年7月7日、パイオニアはBDと互換性を有する400GB光ディスク技術を開発したと発表。BDと同じ25GBの記録層を16層に積層した再生専用光ディスクだが、記録型ディスクにも応用可能という。また、対物レンズの光学的仕様がBD規格と同一で、互換性維持が可能。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "また、パイオニアのロードマップによれば2008年から2010年にかけて再生専用ディスクを開発し、さらに2010年から2012年にかけて書き込み・書き換え可能ディスクの開発を行うとし、2013年には記録層が40層で記録容量1TBの再生専用ディスクが登場する予定となっていたが、商品化はされていない。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2010年、TDK(イメーション)は片面16層で容量512GBの光ディスクを開発したと発表した。両面記録では容量1,024GB(1TB)となり、世界初の1TB級の光ディスクを実現した。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "2014年5月13日、パイオニアとメモリーテックは片面256GB/両面512GBの「データアーカイブ用 次世代大容量光ディスク」を発表した。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "12cmディスクのほかにビデオカメラ向けの用途での使用などを目的とした8cm光ディスク(BD-R/BD-RE)が規格策定済み。容量は1層で7.5GB、2層で15GBとなる。現在1層7.5GBのみが商品化されている。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2004年4月15日、凸版印刷とソニーは、「材質の51%以上が紙のディスクを共同開発した」と発表。近いうちに紙の割合を70%以上まで引き上げると発表している。多くの自治体において、燃えるゴミとして捨てることが可能となる。また、日本ビクター(現:JVCケンウッド)やパイオニアはトウモロコシの澱粉(デンプン)から合成されたバイオプラスチックによるディスクを開発した。両社の技術や原料は同じだが、製法が若干異なる。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "BD-ROMでは、ビデオデコードやBD-Jを必要としないオーディオのみのプレーヤープロファイル(BD-Audio)を含む4つのBlu-rayディスクプレーヤープロファイルが策定されている。なお、ビデオベースのプレーヤープロファイル(BD-Video)においてはBD-Jが必須である。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "インターネットから追加コンテンツやゲームなどを行える機能である(BD-ROMプロファイル2.0)。BD-Liveに対応したソフトとBD-Liveに対応したBD再生可能機器(PlayStation 3など)が必要である。追加データの記録は再生機器のハードディスクに記録される。BD再生専用機などハードディスクを持たないプレーヤーではUSBメモリなどの外部記録媒体を用いる必要がある。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "主に2010年以降に登場したBlu-ray Discの派生規格。Blu-rayに対応した全ての機器でBlu-ray 3Dが視聴できるわけではなく、対応しているゲーム機はPlayStation 3、PlayStation 4、Xbox One以降のディスクドライブが付いたXBOXシリーズのみである。通常の方法での視聴には専用規格の3D眼鏡、およびHDMI伝送で3D映像に対応したテレビも必要である。それらを用意できなかった場合、Ultra HD Blu-rayのように映像のダウンコンバートは行われないので映像を一切視聴できなくなる。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "DVDでは容量などの都合上から不可能であったが、Blu-ray以降はリージョンコード以外のデータを国際間で共通させたデータのディスクを製造できるようになった。また、Blu-rayプレイヤーに設定された二つの地域情報により、一部の字幕・音声を選択できなくなるような仕様にすることも可能である。また、設定上可能な言語数もDVDより大幅に増加し、古語に該当する言語も追加されている。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "例としてPlayStation 3の場合、リージョン以外の二つの地域情報を変更できる設定項目は「BD / DVD - 視聴年齢制限使用地域」や「BD/メニュー言語」などが該当する。前者を変更した場合、BD-ROM内の許諾画面の言語が変更される。このように、Blu-rayには三つの言語・リージョン設定の項目が存在する。Blu-rayのリージョンコードを再生機器側から変更することは不可能。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "DVDでは読み出し専用規格(ROM型)を先に策定したために、書き込み型フォーマットの策定では規格が乱立した。また、CDやDVDでは初期の再生専用ドライブでは書き換えメディアは反射率が低いため、読み込めないという問題があった。これらの反省からBDでは書き換えメディアフォーマットを先に策定して、共通の仕様にて読み出し専用メディアにも対応する方向で開発が進められた。したがってBDでは反射率の問題は発生しない。また、現行メディアとの併用も考慮し、波長や基板厚の異なるCD/DVD/BDに1つの光ヘッドで対応するための、いわゆるユニバーサルプレーヤー向けの技術開発も当初の段階から行われた。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "BD-RE Ver.1.0以外はベアディスク(bare disk, カートリッジに入っていないむき出しディスク)でカートリッジはオプション。ベアディスクタイプの容量は25GB(1層)と50GB(2層)のほか、後発のBDXL規格で100GBと128GBが製品化されている。しかし、それ以上の容量の商品化はいまだにされておらず、Ultra HD Blu-rayでも同様。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "物理フォーマットは以下の各節の通りである。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "BD-R(Blu-ray Disc Recordable)は、ライトワンスディスクである。BD-Rでは記録層に「無機系記録材料」または「有機系記録材料」を使用する。無機系は経年劣化に強いが高価である一方、有機系は従来のDVD-Rなどと同じものであり、製造コストが安いが経年劣化しやすい。当初は無機系ディスクの価格が高かったが、現在では価格にほとんど差がなくなったため、有機系記録ディスクはしだいに販売されなくなった。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "物理規格はハードコート技術を前提とした表面の強度の規定が追加されたため、ベアディスクが基本となっている。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "記録速度は1 - 2倍速に対応。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ファイルシステムはUDF 2.6。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "アプリ規格はBD-RE Ver.1.0と同じBDAV規格。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "著作権保護技術はAACSを使用。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "物理規格はVer.1.1と互換性を保ったままであるが、無機系記録材料の場合は4倍速記録対応になり、有機(色素)系記録材料のディスクの規定(1 - 2倍速)が追加された。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "物理規格はVer.1.1と互換性を保ったままであるが、無機系記録材料の場合は6倍速記録に対応。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "物理規格、ファイルシステム、著作権保護技術はVer.1.2と同じ。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "アプリ規格はBD-ROMのアプリ規格であるBDMVを使用し、PCで編集したコンテンツやカムコーダで録画したコンテンツを格納することが可能。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "BD-R LTHのLTHはLow To Highを指す。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "有機色素タイプと呼ばれるもので、従来の無機素材タイプとは異なり記録面に有機色素を用いており、化学変化により反射率を低から高にするという記録方式である。BD-R Ver.1.2から制定された。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "メリットとして、従来のDVD-Rディスクの製造法と近いことによる低価格化がある。デメリットとして、書き込み速度の低下や保存性耐久性の低下が考えられる。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "IFA2007においてBD-R LTHの試作品が展示されたが、Ver.1.2未対応の機器との互換性はない。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "概ね2007年末商戦以降のBD機器はLTH対応だが、それより前のBD機器はLTH非対応である。しかし非対応の場合であっても、ファームウェアの更新によりLTH対応になる場合がある。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "BD-R LTHディスクは太陽誘電と三菱化学メディアが2008年2月26日から、マクセルが3月上旬から、日本ビクター(現:ビクターアドバンストメディア)が3月下旬から発売した。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "素材の関係からしばらくの間は2倍速止まりが続いたが、2009年4月に三菱化学の子会社である三菱化学メディアが6倍速メディアの規格認定を受け夏頃に生産・出荷する予定であった。アゾ色素を採用したものがVerbatimブランドで発売された。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "BD-RE(Blu-ray Disc Rewritable)は、書換え型ディスクである。相変化記録技術方式を採用し、上書き可能回数は理論上、1万回以上とされている。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "メディアはカートリッジ付きのみ。記録速度は1倍速のみ。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "メディアの記憶容量は、23.3GBまたは25GB(Single Layer) / 50GB(Dual Layer)",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ファイルシステムはBDFS。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "アプリケーション規格はデジタル放送録画用のBDAV規格。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "著作権保護技術はBD-CPSを使用。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ハードコート技術を前提とした表面の強度の規定が追加されたため、ベアディスクが基本となる。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "記録速度は1 - 2倍速に対応。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ファイルシステムはUDF 2.5に変更。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "アプリ規格はVer.1.0と同じBDAV規格。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "著作権保護技術はAACSに変更。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "物理規格、ファイルシステム、著作権保護技術はVer.2.0と同じ。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "アプリ規格はVer.2.0と同じBDAV規格に、録画時間を延長するためMPEG-4 AVC High Profileのビデオ圧縮技術が追加されたもの。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "物理規格、ファイルシステム、著作権保護技術はVer.2.0と同じ。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "アプリ規格はBD-ROMのアプリ規格であるBDMVを使用して、PCで編集したコンテンツやカムコーダで録画したコンテンツを格納することが可能。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "BD-RE Ver. 3.0対応のBlu-ray DiscプレーヤではBlu-rayカムコーダで録画したBlu-ray Discの再生が可能。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "BD-ROM(Blu-ray Disc Read Only Memory)は、読み出し専用ディスクである。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "物理規格はベアディスクが基本。再生速度は1.5倍速。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ファイルシステムは、UDF 2.5。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "アプリ規格は映画コンテンツを格納するためのBDMV規格。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "著作権保護技術にはAACSを使用。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2006年3月に失効した。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "RPC(Region Playback Control)を採用。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "アプリ規格はBDMVに加え、BD-J規格がともに採用される。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "ファイルシステムは引き続きUDF 2.5である。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "BD・DVDコンビネーションROMディスクとは、日本ビクターが開発した、BD1層+DVD2層の計3層構造のディスク。BDドライブ、DVDドライブどちらでも読み込みが可能。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "日本ビクターの技術をもとに、共同テレビジョンとインフィニティ・ストレージ・メディアが開発した、BD1層・DVD2層ディスクが、2009年2月に製品化される。光の波長によって透過率が異なる半透明の金属膜を使用し、BDドライブで再生するとDVD層は認識されない。このため、既存のBD機器で特別な対処をすることなく再生できるとしている。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "AVCRECは、BDAVを応用してDVDにハイビジョン規格映像を記録する技術規格。直接にはBD9とはまったく無関係だが、技術的なコンセプトやアプローチは、BD9と同じ軸上にある。関連する規格としてAVCHDも存在する。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "Blu-ray 3Dは、2009年12月に発表された、3D映像をBDに収録するためのハードウェアとソフトウェアの双方の規格である。Blu-ray Disc Associationにより策定された。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "規格としてH.264/MVC(マルチビュー符号化)を採用する。従来のサイド・バイ・サイド方式などとの互換性がないため、Blu-ray 3D 方式に対応したプレーヤー/レコーダーが必要である。テレビとの間はフレームパッキング方式により伝送するため、その方式に対応した3D対応テレビ、そして伝送帯域が従来より広がるため、HDMI1.4a以降対応(いわゆるHDMI 3D対応)のケーブルが必要になる。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2010年4月23日にはパナソニックから対応BDレコーダー(DMR-BWT1000・2000・3000)、BDプレーヤー(DMP-BDT900)が発売された。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "他社もこれに追従し、シャープは2010年7月30日にBD-HDW70/700を発売し、ソニーは2010年9月25日(BDZ-AX2000のみで、ほかのモデルは10月22日)にBDZ-AX1000/2000、BDZ-AT300S/500/700/900を発売した(ソニーは全モデル3D対応)。東芝からは2010年8月下旬にBDプレーヤーのSD-BDT1、2010年11月下旬にレコーダーのRD-X10(RD-BR600・BZ700・BZ800はバージョンアップで対応)が発売された。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "ブルーレイ録画、再生、Blu-ray 3D対応テレビでは、2010年8月27日にパナソニックがTH-P42/46RT2Bを発売した。三菱電機はLCD-40/46/55MDR1を2010年10月21日に発売した。ソニーはKDL-40/46/55HX80Rを2010年12月5日に発売した。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "ソニー・コンピュータエンタテインメントは2010年9月21日にPlayStation 3をシステムソフトウェアの更新にてBlu-ray 3Dに対応させた。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "2017年、販売の低迷から3Dモニターおよび3Dテレビの新規製造を各社中止。2018年現在販売されている3D対応機種は在庫品のみ。また、そのほとんどが4K対応テレビであり20万円から100万円という実売価格である。そのため、新規にBlu-ray 3D視聴環境を整える事が困難となっている。なお、Oculus Rift、HTC Vive、Windows Mixed Realityに代表されるバーチャルリアリティ用ヘッドマウントディスプレイではBlu-ray 3Dの映像を直接視聴することができない。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "2019年現在、もっとも安価なBlu-ray 3D視聴環境は、3Dプロジェクター、もしくはPlaystation 4とPlaystation VRの組み合わせだけである。前者は映像を投影する壁やスクリーンが必要であり、後者はヘッドマウントディスプレイをかぶることにより複数人で視聴できないというデメリットがある。そのため、3D対応テレビのような手軽さはない。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "4K ULTRA HD Blu-ray(Ultra HD Blu-ray、UHD BD)は4Kに対応する、BDの上位規格。BD-ROMとディスクの外見が全く同じであるが、書き込み規格が変更された。また、ウルトラHDブルーレイにはR/RE規格が存在しない。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "BDXL(Blu-ray Disc Extra Large)はBDの一種ではあるが、記録層が3層や4層となっている。BDXL対応でないBD対応機器では動作しない。2010年6月に規格が策定され、3層で100GBのBD-R TL・BD-RE TLと4層で128GBのBD-R QLが製品化されている。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "BD9はワーナー・ブラザースが提案したDVDメディアにBDのアプリケーションフォーマットで圧縮映像を入れる規格。同様のコンセプトでHD DVD側に策定されたHD DVD9とともに3x DVDという総称でも呼ばれる。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "この規格は、DVD-Videoの3倍の帯域幅を持ち、MPEG-2の代わりにVC-1やH.264といったより高圧縮のコーデックを用いることで、ハイビジョン規格の映像をDVDメディアに保存することを可能とするものである。DVDメディアであるため、記録容量がBDに比べ少なく、記録時間や画質の面ではBDに劣る。また、一般的なDVD-Video規格とはまったく異なるため、DVDプレイヤーで再生することはできず、再生にはBDプレイヤーが必要である。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "当初にワーナー・ブラザースが想定していたものは、片面2層8.5GBのDVDへ平均ビットレート8Mbpsで120分のハイビジョン映像を収録することにより、3x DVDに対応した青紫色半導体レーザーを用いないDVDプレーヤーで再生可能にすることであった。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "BD9は製品化がなされていない。なお、AVCRECが類似したコンセプトで開発されている。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "2007年1月、ワーナー・ブラザースは片面にHD DVD、もう片面にBDを収めた両面ディスク「Total Hi Def」を発表した。この時点では2007年後半発売予定とし、2規格が店頭に並び混乱を生じることへの解決策として製品化が進められたが2007年秋に開発中止され、さらに2008年1月のワーナーのBD一本化発表により必要性がなくなったため、結局製品化はなされなかった。",
"title": "規格・フォーマット"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "BDMVは読み出し専用型BD(BD-ROM)で採用されている記録フォーマットである。解像度は最大1080i/60、720p/60である。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "H.264/MPEG-4 AVCとVC-1などの新圧縮技術は一般的な既存のDVD(DVD-VideoおよびDVD-VR)や現状の日本で行われているデジタル放送(地上デジタル放送およびBSデジタル放送)で使われているMPEG-2よりも圧縮能力に優れているが、H.264/MPEG-4 AVCはもともと携帯電話などの小さな画面を主体に開発された技術のため、そのままではHD映画の画質再現に問題があり、当初ハリウッド企業は新コーデックの採用に積極的ではない会社も多かった。そのため、最初に発売されたBDビデオソフトはDVDと同じMPEG-2をコーデックに採用せざるをえなかったが、そのことから初期に発売されたBDビデオソフトは画質が必ずしも満足できるものではないとの指摘もあった。その後、HD映像用に新たにパナソニックハリウッド研究所(PHL)により開発されたMPEG-4 AVC High Profileが制定され、このHigh Profileを使えばHD映画の画質をMPEG-2以上に向上させられることがハリウッド企業でも確認された。このためMPEG-2に加えMPEG-4 AVC High ProfileやVC-1もBD-Videoの映画タイトルに採用されるようになり、現在ではほとんどのソフトにMPEG-4 AVC、VC-1のどちらかが採用されている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "字幕はDVDに比べ鮮明になっている。大画面表示を前提として制作されているため、小さい画面で観ると読みづらくなることがある。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "ドルビーアトモス、ドルビーデジタルプラス、DTS:X、DTS-HDマスターオーディオは一部のプレイヤーでは対応していない場合もあるが、これらの音声コーデックは下位互換性があるため、非対応の機器でそれらの音声を再生した場合は下位互換性のために自動でドルビーアトモス→ドルビーデジタルプラス→ドルビーデジタル、DTS:X→DTS-HDマスターオーディオ→DTSの順に音源が劣化するが、DTS-HDマスターオーディオは5.1ch、2.0chの音源出力も可能である。PCMを利用した非圧縮音源によるサラウンド5.1ch、7.1chの出力にも対応。(主に国内映画などで非圧縮PCMが採用される傾向にある。)",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "(*) Blu-rayプレーヤーではオプション扱い。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "BDAVはBDレコーダーで書き込み型BD(BD-R、BD-RE)に録画したときに使われる記録フォーマットである。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "高度なメニューやネットワーク機能などを実現する技術として、Javaの一種であるBlu-ray Disc Java(略称:BD-J)が採用された。BD-JはすべてのBDプレーヤに搭載されているため映像を使った対戦ゲーム、シューティングゲーム、インベーダー型ゲームなどを附録に入れたBDタイトルが発売されている。また、2007年11月以後に発売されるBDプレーヤーには、追加のJavaインタラクティブ機能(ピクチャインピクチャ機能など)の搭載が義務づけられる。ネットワーク機能としては「BD-Live(Blu-ray Disc Live)」と呼ばれるプロファイルが標準化されている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "HD DVDではマイクロソフトが中心となって開発した「iHD(現:HDi)」が採用され、マイクロソフトがHD DVDを支持する要因のひとつとなっていた。BDでもHDiを採用する提案がなされたが採用は見送られた。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "4つの技術を使用し、コンテンツの著作権保護を図る。コピーガードを大幅に強化、DVDに比べ海賊版作製とその視聴がより困難と言われている。これにより、ブルーレイプレイヤーの一部(PlayStation 3など)は定期的なハードウェアのバージョンアップを要求される事がある。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "なお、BD-RE Ver.1.0ではAACSではなくBD-CPSが採用された。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "BD-CPSはBD-RE Ver.1.0で採用されたコピーガードシステム。BD-RE Ver.2.0以降やBD-R、BD-ROMではBD-CPSではなくAACSが採用された。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "AACS(Advanced Access Content System)により、コピー管理も含め、ネットワーク機能やインターネット接続に関連して公認されたセキュアな方法でコンテンツを保護する。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "AACSのカバー範囲はTV放送およびインターネットを利用したコンテンツ配信、家庭内のネットワーク配信など、現在想定できる使用用途のほぼすべてと広範囲にわたる。また、再生専用メディアだけではなく記録型メディアにも対応し、コンテンツのムーブやDRMによって認められたコンテンツの複製をセキュアに管理する。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "ROM Markは、BD-ROM原盤の偽造を困難にする技術である。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "映画や音楽、ゲームなどBD-ROMメディアに収録されるコンテンツの中に検出できない一意の識別子を埋め込む。ライセンスを受けたBD-ROMメーカーに提供される機器でしか扱えず、スタンパーを入手しただけではこの識別子は書き込めない。そのため、ディスク原盤の非正規の作製はきわめて困難とされている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "BD独自の機能であるBD+はBDプレイヤーのコンテンツ保護プログラムが破られた際にも、新たなコンテンツ保護プログラムをBDプレイヤーに導入できる機能である。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "破られたコンテンツ保護プログラムをコンテンツ企業が後から自動的に更新できるため、非正規に複製されたディスクの視聴は実質的に不可能になると考えられている。なお、BD+はキーが改変されたプレイヤーのみに影響する。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "BDのコピーガード規格の一つとしてCinavia(シナビア)が採用された。Cinaviaに対応した機種でCinavia対応コンテンツをHDMIから出力させ、その映像を録画しようとすると、対応機器は自動的に音声や映像をミュートする。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "ブルーレイディスクには再生できる地域を制限することを目的としたリージョンコードが指定されている。これは地域の区分けこそ異なるものの原則として従来のDVDリージョンコードと同様のものであり、ある一定の地域で販売されたプレーヤーではそれと同じ地域で発売されたソフトしか再生できない。このシステムは当初ブルーレイにはなかったものであるが、映画会社の強い要望により3つの地域に分割された方式が採用された。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "これにより映画会社は特に販売価格、日付、内容を地域によって制御することが可能になる。また、地域の制限を設けないリージョンフリーでも作成できるため、すべての地域で再生可能なソフトを作成することもできる。そのため2008年上半期の時点で発売されたソフトのおよそ3分の2のソフトはリージョンフリーで作成されている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "韓国、マレーシアなどほかのブルーレイ生産国と同様、日本はアメリカと同じリージョンに属するためDVD-Videoとは異なりアメリカ製ソフトの輸入版を再生することが可能である。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "ネットワークを利用した用途も考慮されており、ネットからダウンロードした字幕データをディスクに追記するようなことが可能となっている。もちろん再生専用のROMディスクには追記できないため、プレーヤーに記憶装置を内蔵するなどの対応が必要になる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "パソコン向けの記録・再生ドライブ、およびBDドライブを内蔵したパソコンが2006年6月に発売された。日本国内では11月までBD-Video対応機器はパソコンのみという状況であった。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "H.264/MPEG-4 AVCやVC-1の映像コーデックを採用したBD・HD DVDソフトは再生時のCPU負荷が非常に高く、規格発表当時に高スペックであるパソコンでも滑らかに再生するのが困難と言われてきた。後にGPUの再生支援機能やCPUの高性能化などにより解決された。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "また、ディスプレイへの出力にも問題が大きい。AACSの仕様によりデジタル出力にはHDMI接続、またはHDCPに対応したDVI-D接続が必須となり、通常のDVI-D接続では表示できない。さらにディスプレイ自体の解像度がフルハイビジョン規格(1920×1080ピクセル)に満たない場合、BDをはじめとする第3世代光ディスクの映像を完全な形で再生することはできない。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "記録型BDドライブ内蔵PCでデジタルテレビチューナー搭載モデルは、デジタル放送をHD映像のままBD-R/REに保存できる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフトはWindows Vistaの発売前、同OSでHD DVDのみを標準サポートすると表明していた。しかし、サードパーティによるおもな再生アプリケーションやDVDライティングソフトはすでにBDに対応しており、実際の使用でBDに不利益が生じることはない。また、製品版VistaではHD DVDサポートが当初の予定より縮小された。2008年1月には同社幹部が「OSにおけるサポートは中立である」と言明している。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "すでにDVDについてはデッキのみならずカムコーダも開発されており、一般家庭の他企業や学校、結婚式場など業務用途でも広く活用されている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "同様に、BDについてもHD映像の普及に伴いカムコーダや編集などの用途での機器の需要は見込まれる。それらの開発によって、小規模な放送局や制作プロダクションなどのユーザーがコンテンツ制作用機器として採用する可能性は考えられる。しかし、すでに放送用、業務用には同じ青紫色半導体レーザーを用いてPFDに記録するSONYのXDCAMが存在し、フラッシュメモリに記録するメモリーカード記録タイプのカムコーダも追加された。パナソニックからもメモリーカード記録タイプのカムコーダの発売が予定されており、この用途とは違う市場である。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "現在、日立製作所からBDを記録メディアに採用したカムコーダ2機種が発売されており、地方のケーブルテレビ局など企業によっては採用を検討しているところもあるといわれている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "動画圧縮/伸張用にMPEG-4 AVC/H.264エンコーダを搭載したBD/HDDレコーダーが発売されており片面2層ディスク(50GB)を用意することでXPモード(S-VHS標準モード並みの画質)で約10時間30分、SPモード(S-VHS3倍モード並みの画質)で約21時間録画可能とされている。自宅などにS-VHSやED Beta、Hi8などの大量のエアチェックコレクションなどがある場合、その高解像度・高画質を保ったままで大幅な省スペース化が可能。また、BDレコーダにi.LINK端子が搭載されていれば、D-VHSデッキの「LS3モード」で24時間記録した映像をテープ1本分丸ごと移し変えることもできる。DVDの場合、もっともよく使われるSPモードでも2時間しか記録できない(片面1層ディスクの場合)ためアーカイブ用途には不向きである。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "BDでは、SDTV映像であればS-VHS方式3倍モード並の画質で長時間記録をすることが可能である。そのメリットを活かして、フルモーションのカラー映像で監視カメラの映像記録に活用することも可能となる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "防災・防犯を目的とした監視カメラの映像の収録には、連日膨大な量のストレージメディアを必要とする。BDならこれまでのCDやDVDと同一のサイズなので、メディアの収納性には優れていると言える。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "以下の理由により、BDはDVD用などのBD非対応の不織布ケースに入れると記録面が破損するおそれがあるため、繊維をきめ細かくしたBD対応の不織布ケースが販売されている。",
"title": "耐久性"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "BD規格の機器や、対応ディスクが発表された当時の技術では、対応メディアの表面に些細な汚れや傷がついただけで、そのメディアが使用不能状態に陥るほどの脆弱性に悩まされ、対策として、カートリッジ内にディスクを密閉する方式を採用した。",
"title": "耐久性"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "カートリッジ入りのため、メディア全体の容積が増え、取り扱い性の悪さや、ノートパソコン向けドライブの小型化が難しいという点で、BD普及の大きな障害となっていた。",
"title": "耐久性"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "また、DVDはハードコーティング製品を除き傷のついた部分を均一に研磨すれば使用できるが、BDは保護層が0.1mmと非常に薄いため、初期のメディアでは表面研磨をすると再生できなくなる。",
"title": "耐久性"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "BD-ROMやBD-Rは、規格制定当初からHD DVDと同様、カートリッジを必要としないベアディスクであり、BD-REものちにバージョン2.0で「ベアディスク」に対応させることになった。それぞれの物理フォーマットには、メディアの表面硬度に関する規定が追加された。このベアディスク化を実現するため、ハードコート技術の開発が急務となった。",
"title": "耐久性"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "これに対応する技術として、TDKがディスクの耐久性向上技術「DURABIS(デュラビス)」を開発。このDURABISをはじめとする各種ハードコート技術により、傷や汚れなどによる問題や、小型ドライブの問題も解決のめどが立ち、HD DVDに対して対等、もしくはそれ以上の条件が揃った。",
"title": "耐久性"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "初期のBDドライブは、ピックアップレンズとディスク表面までの距離が0.3mm程度であり、HD DVDの1mm程度と比較すると3分の1しかなく、表面カバー層も0.1mmと非常に薄いため、振動でピックアップレンズとディスクが衝突しやすかった。そこで車載などの用途への仕様を満たすため、接近検知時間がDVDの3分の1以下のより高精度な接近検知システムを搭載することとなった。接近検知時間は0.8msとなっている。",
"title": "耐久性"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "DURABIS(デュラビス)は、TDKのハードコート技術の名称である。英: DURABILITY(耐久性)と英: SHIELD(盾/保護物)からの造語で、優れた耐久性を表現するよう命名された。傷に強くスチールウールで100〜200回擦ったぐらいでは影響がほとんどないほどの耐久性を持つ。また、指紋汚れやチリ・ほこりがつきにくい。ただし、ディスクが傷に強いからと言って、ドライブのレーザー光の耐久性でディスクが読み込めなくなることもある。",
"title": "耐久性"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "DURABISは、当初青紫色半導体レーザー方式の第3世代光ディスク(BDやHD DVD)向けに開発された技術であり、のちにDVD・BD用途へと採用された。従前、TDKではDVDにおいては「超硬(スーパーハードコート)」(欧:Scratch Proof Disc、米:Armor Plated Disc)としてハードコート技術を展開しており、すでにDVD-Rで「超硬」「UV超硬」ブランドを掲げた製品を発売していたが、BDへのハードコート技術の展開を期にブランド名を「DURABIS」に統一した。DVDに最適化したものを「DURABIS1」、BD用を「DURABIS2」、放送用を「DURABIS PRO」としている。",
"title": "耐久性"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "2006年(平成18年)4月18日に、「DURABIS2」を採用したBD-R/REディスクを発売した。なお、同社は2007年(平成19年)には8年後の2015年(平成27年)12月末以降の光ディスク(グループ企業のイメーション製品のBlu-ray DiscメディアとDVDメディアを含む)の新製品の開発と製造終了とともに全面撤退することを発表しており、すでに撤退している。",
"title": "耐久性"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "パソコン上でBDを再生するソフトは、2006年春ごろから販売が始まった。当初は他の機器やサービス同様HD DVDとBDの両方をサポートするソフトウェアが多かったが、2008年春に東芝がHD DVDから撤退して以降同機能を削減して発売をするソフトウェアが増えた。また、編集ソフトなどの中にはBDへの出力をサポートするソフトも増えている。",
"title": "Blu-ray Disc規格の採用例"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "2006年6月に最初の映画ソフトとなる7作品がBlu-ray化されている。",
"title": "Blu-ray Disc規格の採用例"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "北アメリカでは2007年6月18日、全米に7,000以上の店舗を展開している米ビデオレンタルチェーン最大手のブロックバスターはBD規格のビデオタイトル取り扱い店舗を7月半ばまでに1,700店まで増やすと発表した。同社では2006年末から250店舗で実験的にBDとHD DVDでビデオタイトルをレンタルしてきたが、割以上の顧客がBDタイトルを選択していたため、BDタイトルの拡充を決定した。実験時の250店舗およびオンラインではHD DVDも取り扱いを続けた。",
"title": "Blu-ray Disc規格の採用例"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "また、同様に北アメリカレンタル店舗大手のNetflixも、Blu-rayのみ取り扱うことを2月12日に発表している。",
"title": "Blu-ray Disc規格の採用例"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "一方で日本では試験レンタルを開始する際、レンタルの動向などを調べる目的でTSUTAYAやゲオ、SPEや20世紀 フォックス ホームエンターテイメント ジャパンなどの22社により「Blu-ray研究会」が設立される。",
"title": "Blu-ray Disc規格の採用例"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "2023年現在ではPlayStation3,PlayStation4,XboxOne,Xbox Series X向けのBD-ROMが供給されている。ゲームデータを直接読み出してプレイする方式のゲーム機はPlayStation3のみである。ただし、PlayStation3のソニー製以外の作品の大半はXbox360などとの同時移植の都合上、技術的な統一の影響でBD-ROMを採用したにもかかわらず、ゲーム本編の容量を8GB以内に納める傾向にあった。Xbox作品の一部のディスクはXbox OneおよびXbox Series X版両方に対応したスマートデリバリーに対応している場合があるが、PlayStation4とPlayStation5の間では無料の上位互換版の配信は法律の制約などの問題から、低価格の有償アップグレード版の購入が必要である。PS3,PS4の間では、2014年に短期間開催された「アップグレードプログラム」でPS4のダウンロード版の作品を低価格で購入し、PS3版のディスクをPS4に挿入することでゲームをプレイできるようにする制度が存在した。",
"title": "Blu-ray Disc規格の採用例"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "PlayStation3版のゲームは後にゲームデータをソフト側でインストールを義務付けする作品も増加し、「グランド・セフト・オート V」、「ウォッチドッグス」、「グランツーリスモ5(6は対象外)」、「みんなのGOLF 6」、「リトルビッグプラネット」などが該当。",
"title": "Blu-ray Disc規格の採用例"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "BDに採用された技術等を挙げる。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "なお、2008年ごろからDTS-HDマスターオーディオの対応が開始。",
"title": "沿革"
}
] | Blu-ray Disc(ブルーレイディスク)は、青紫色半導体レーザーを使用する光ディスクである。第3世代光ディスクの一種。DVDの後継であり、Ultra HD Blu-rayの前身である。 規格はBlu-ray Disc Associationが策定している。 一般的な略称は「BD(ビーディー)」である。あるいは単に「ブルーレイ(Blu-ray)」と呼ばれることも多い。 名称が「Blue-ray」ではなく「Blu-ray」になっているのは、「Blue-ray Disc」とすると英語圏の国々では「青色光(で読み取る)ディスク」を意味する一般名詞と解釈され、商標登録が認められない可能性があるためである。 | {{Redirect3|ブルーレイ'''」と「'''BD|[[第3世代光ディスク]]の1つ|一般的な青(などの)色がついた光|可視光線|その他|BD (曖昧さ回避)}}
{{Pathnav|メディア (媒体)|記録媒体|光ディスク|frame=1}}
{{ディスクメディア
| 名称 = Blu-ray Disc<ref>参考文献:『図解 ブルーレイディスク読本』、小川博司・田中伸一 監修、オーム社、2006. ISBN 4-274-20341-7</ref><ref group="発表">[http://www.blu-raydisc.com/jp/Technical/TechnicalWhitePapers/General-ja.html Blu-ray Disc Technical White papers]</ref><ref group="発表">[http://www.blu-raydisc.com/jp/Technical/TechnicalWhitePapers/BDRE.html BD-RE Technical White papers]</ref><ref group="発表">[http://www.blu-raydisc.com/jp/Technical/TechnicalWhitePapers/BDR.html BD-R Technical White papers]</ref><ref group="発表">[http://www.blu-raydisc.com/jp/Technical/TechnicalWhitePapers/BDROM.html BD-ROM Technical White papers]</ref>
| 略称 =BD
| ロゴ = [[File:Blu-ray Disc.svg|230px]]
| 画像 = [[File:BluRayDiscBack.png|200px]]
| 画像コメント = Blu-rayの裏面
| 種類 = [[光ディスク]]
* '''カバー層''':0.1mm
* '''記録膜'''
** BD-RE/-R(HTL):相変化膜
** BD-R(LTH):有機膜
** BD-ROM:アルミ反射膜
* '''記録方式'''
** BD-RE/-R:グルーブ記録
** BD-ROM:ピット記録
| 容量 =
* '''120mmディスク'''
** 23.3GB(1層:BD-RE V1.0)
** 25GB(1層)
** 50GB(2層)
** 100GB(3層:BDXL)
** 128GB(4層:BDXL)
* '''80mmディスク'''
** 7.5GB(1層)
** 15GB(2層)
| フォーマット =
* '''物理フォーマット'''
** '''レーザー波長''':405nm(青紫)
** '''対物レンズ開口数'''(NA):0.85
** '''トラックピッチ''':320nm
** '''線速度''':4.917m/s(25GB/Layer、1倍速、CLV)
** '''チャネル周波数''':66MHz(1倍速)
** '''変調方式''':1-7PP
** '''誤り訂正''':64kB LDC+BIS
** '''アドレス方式'''(BD-RE/-R):グルーブアドレス(MSK+STW)
* '''ファイルシステム''':[[ユニバーサルディスクフォーマット|UDF]]<br />(BD-RE Ver.1.0は[[BD File System|BDFS]])
* '''アプリケーション・フォーマット'''
** BD-RE/BD-R:[[BDAV]]
** BD-ROM:[[BDMV]]
| コーデック =
* '''映像'''
** [[MPEG-2]]
** [[MPEG-4 AVC]]/[[H.264]]
** [[MPEG-4]] {{仮リンク|Multiview Video Coding|En|Multiview Video Coding}}([[3次元映像|3D]])
** [[VC-1]]
* '''音声'''
** [[パルス符号変調#種類|Linear PCM]]
** [[ドルビーデジタル|Dolby Digital]]
** {{仮リンク|Dolby Digital Plus|en|Dolby Digital Plus}}
** [[ドルビーTrueHD|Dolby TrueHD]]
** [[ドルビーアトモス|Dolby Atmos]]
** [[DTS (サウンドシステム)|DTS]]
** [[DTS-HDマスターオーディオ|DTS-HD Master Audio]]
** {{仮リンク|DTS-HD High Resolution Audio|En|DTS (sound system)#DTS-HD High Resolution Audio}}
** {{仮リンク|DTS:X|En|DTS (sound system company)#DTS:X}}
| 読み込み速度 =
* BD-RE/-R:36Mbps(標準1倍速)
* BD-ROM:54Mbps(標準1.5倍速)
* BD-ROM([[3次元映像|3D]]):72Mbps(標準2倍速)
| 回転速度 =
| 読み取り方法 =
* '''トラッキング方式'''
** BD-RE/-R:プッシュプル法
** BD-ROM:位相差検出法
* '''データ検出方式''':[[Partial Response Maximum Likelihood|PRML]]
| 書き込み方法 = パルストレイン方式ライトストラテジ
| 回転制御 = [[CLV]]
| 策定 = [[Blu-ray Disc Association]]<ref group="発表">[http://www.jp.blu-raydisc.com/ BDA]</ref>
| 用途 = 映像、音楽、データ、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation 4]]、[[Xbox One]]、[[Xbox Series X]]用ゲームソフト等
| ディスク径 = 120mm、80mm
| 大きさ = Φ120mm(12cmディスク)/t=1.2mm
| 重さ =
| 上位 = [[Ultra HD Blu-ray|UHD BD]]<br />[[HVD]]
| 下位 = [[DVD]]
| 関連 = [[Professional Disc|PFD]]([[XDCAM]]に採用)<br />[[HD DVD]](かつての対抗規格)
}}
'''Blu-ray Disc'''(ブルーレイディスク)は、[[半導体レーザー|青紫色半導体レーザー]]を使用する[[光ディスク]]である。[[第3世代光ディスク]]の一種。[[DVD]]の後継であり、[[Ultra HD Blu-ray|Ultra HD Blu-ray(4K Ultra HD Blu-ray)]]の前身である。
規格は[[Blu-ray Disc Association]]{{Efn2|BDの普及を目的とする団体である。前身は'''Blu-ray Disc Founders'''(ブルーレイディスクファウンダーズ、略称'''BDF''')。}}が策定している。
一般的な略称は「'''BD'''(ビーディー)」である。あるいは単に「'''ブルーレイ'''(Blu-ray)」と呼ばれることも多い。
名称が「'''Blue'''-ray」ではなく「'''Blu'''-ray」になっているのは、「Blue-ray Disc」とすると[[英語圏]]の国々では「青色光(で読み取る)ディスク」を意味する[[一般名詞]]と解釈され、[[商標]]登録が認められない可能性があるためである<ref>{{Wayback|url=http://www.tdk-media.jp/bd/about/index.html |title=ブルーレイディスクとは よくわかる!ブルーレイディスク ブルーレイディスクを上手に楽しく活用しよう! |date=20100309160059}}</ref>{{Efn2|なお、'''blu'''は[[イタリア語]]では「青い」を指す[[形容詞]]である。}}。
== 概要 ==
波長405[[ナノメートル|nm]]の青紫色[[半導体レーザー]]と、0.1mmのカバー層の[[光ディスク]]を使うことでレンズの[[開口数|NA値]]を0.65から0.85に上げ、DVDの5倍以上の記録容量(1層式ディスクで25GB、2層式ディスクの場合は50GB、ほか)を実現した。青紫色は可視光線の中で最も波長が短いことから、[[ソニー]]はBDを「家庭用光ディスクの最終形」とホームページ上でうたっている<ref group="発表">{{Cite news|url=http://www.sony.jp/bd/about/technology/index.html|title=ブルーレイディスクのしくみ|publisher=Sony|accessdate=2013-09-21}}</ref>。
1層のディスク(25GB)でも日本の地上デジタル放送(ISDB-T、1440×[[1080i]]、約16.8Mbps)なら3時間強、日本のBS2Kデジタル放送(ISDB-S、1920×1080i、約24Mbps)で2時間強の[[高精細度テレビジョン放送|ハイビジョン]]映像を収録可能。現在、23.3GB/25GB/50GB/100GB{{Efn2|name=BDXL|[[#BDXL|BDXL]]規格。}}/128GB{{Efn2|name=BDXL}}のディスクが規格・製品化されているほか、研究レベルでは[[TDK]]が2009年に10層320GB、2010年には16層512GBの試作に成功するなど、記録容量の拡張が進められている。
BDでは記録層の数に応じて1層(単層)をSL(Single Layer)、2層(複層){{Efn2|name=fukuso|広義にはBDXLも複層に含まれる。}}をDL(Dual Layer<ref group="発表">[https://www.maxell.jp/faq/bd-faq01_07.html BDディスクのDLとは何ですか?|「ブルーレイディスクの仕様について」よくあるご質問|FAQ|個人のお客様向けサイト - マクセル]</ref>)、BDXL{{Efn2|name=XL|XLはE'''x'''tra '''L'''argeを指す。}}(多層){{Efn2|name=fukuso}}規格の3層をTL(Triple Layer)、同じくBDXL{{Efn2|name=XL}}(多層){{Efn2|name=fukuso}}規格の4層をQL(Quad Layer)と表記することがある。例えばBD-RであればそれぞれBD-R SL、BD-R DL、BD-R TL(BDXL-R TLとも)、BD-R QL(BDXL-R QLとも)となる。
ディスクの大きさ(直径12cm、厚さ1.2mm)は[[コンパクトディスク|CD]]ならびに[[DVD]]と共通だが、BD規格はCD規格やDVD規格と独立しているため、BD対応機器におけるCD/DVDの記録・再生機能は必須ではない。しかし商品企画の段階において現行のCDやDVDも使用できる製品として商品化が進められたため、ほとんどのBD対応機器やBDドライブでは光ピックアップが3[[レーザー|波長]]化され、CDやDVDも利用可能となっている。現在の[[民生用]]の[[BDプレーヤー]] / [[BDレコーダー|レコーダー]]製品では、CD・DVD・BDの記録フォーマットである[[CD-DA]]・[[DVD-Video]]・[[BDMV]]の再生が基本機能としてサポートされており、[[ユニバーサルプレーヤー]]となっている{{Efn2|ただし、[[SACD]]には対応する機種と非対応の機種が混在する。}}。
なお、DVDなどと同様、すべてのメディアに「データ用({{Lang|en|'''for DATA'''}})」と「ビデオ録画用({{Lang|en|'''for VIDEO'''}})」の2種類があるが、違いはないため、データ用ディスクで映像を録画することも可能である{{Efn2|録画用ディスクにデータを記録することもDVDなどと同様に可能。}}<ref group="発表">[https://www.sony.jp/support/vaio/beginner/howto/033/ ブルーレイディスクの種類と使い分けについて知りたい | パソコン豆知識 | VAIOを活用するためのお役立ち情報 | 使いかた/取扱説明 | パーソナルコンピューター VAIO® | サポート・お問い合わせ | ソニー]</ref>。ビデオ録画用ディスクは[[日本の地上デジタルテレビ放送]]移行前は[[私的録音録画補償金制度]]によりデジタルコピーに対する補償金が上乗せされていたが、[[日本のデジタルテレビ放送|デジタルテレビ完全移行後]]は[[コピー・ワンス]]や[[ダビング10]]の「デジタル[[コピーガード]]がある」という理由より補償金を上乗せせずに販売されている{{Efn2|[[私的録音録画補償金制度#デジタル放送専用レコーダーの私的録画補償金に対する訴訟]]を参照。}}。
== 仕様 ==
=== ファイルフォーマット ===
[[ファイルフォーマット]]はBD-RE Ver.1.0のみ[[BD File System|BDFS]]を採用し、それ以降はすべてのメディアで[[ユニバーサルディスクフォーマット|UDF]] 2.50以降が採用された{{Efn2|DVDはUDF 2.0を採用。}}。
これにより[[#BD-R|BD-R]]でも擬似的に([[#BD-RE|BD-RE]]や[[DVD#DVD-RAM|DVD-RAM]]のように)リライタブルメディアとして手軽に扱え、[[パーソナルコンピュータ|PC]]との親和性が高まることや、書き込み時の[[ファイナライズ]]処理を必要としないことといったメリットがある。
=== 転送速度 ===
等速は36[[ビット毎秒|Mbps]]すなわち4.5MB/s。これは[[DVD]]の転送速度を1倍速(1.4MB/s)として、約3倍速に相当する。BD-ROMは1.5倍速の54Mbpsすなわち6.75MB/sが標準転送速度である。追記型ディスクであるBD-Rは現在6倍速の216Mbpsすなわち27MB/s、書き換え型のBD-REは2倍速の72Mbpsすなわち9MB/sまで規格化され、BD-R/REディスク、BDドライブが商品化されている。なお、6倍速記録に対応したBD-Rに、12倍速で書き込み可能なBDドライブも発表されている。
=== 保護層 ===
{{See also|#耐久性}}
BDの最大の特徴として、保護層(カバー層)が0.1mmであることが挙げられる。DVD、HD DVDは0.6mmで[[コンパクトディスク|CD]]は1.2mmである。
=== 拡張性 ===
Blu-ray Discは、1枚のディスクの多層化により大幅な容量の拡張が可能である。BD-ROMに関しては8層構造までが学会発表済みであり、実用可能であると考えられる。これが実現すれば1枚のディスク(25GB×8層)で容量が200GBを超える光ディスクメディアが誕生することになる。BD-RE/BD-Rの記録型光ディスクについては片面4層(128GB)構造までが[[#BDXL|BDXL]]として開発済みである。
TDKは2006年4月26日、「33.3GB×6層」の200GBの追記型Blu-ray Discを光ディスク関連技術の国際会議「ODS 2006」で試作品として発表した<ref>[https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20060426/116606/ 【ODS】TDK、容量200Gバイトの6層追記型Blu-ray Disc媒体を実現] - Tech-On! 2006年4月26日</ref>。1枚のディスクにHD映像を約18時間分格納できる。信号処理技術の進歩で1層あたりの記憶容量が拡大したため、各層あたり33.3GBのデータが格納できるようになったという。
[[2008年]][[1月24日]]の[[ソニー]]発表によれば、BD用などの記録・再生光ディスクドライブの薄型化・低コスト化できる光集積デバイス([[レーザカプラ]])を[[日亜化学工業]]と共同開発した。高効率の1ビーム光学系を採用し、さらに独自の小型パッケージング技術を活用したことで厚み3mm未満、面積14mm×7.4mmと小型・薄型化を実現。BDなどの2層メディアでの信号読み出しを最適化し、安定的な記録・再生を可能にするドライブや光学ピックアップが設計できるようになるという。BDドライブの薄型化とコスト低減に向け、2008年内に量産化を目指すとした。
2008年[[7月7日]]、[[パイオニア]]はBDと[[互換性]]を有する400GB光ディスク技術を開発したと発表<ref group="発表">[http://pioneer.jp/press/2008/0707-1.html 世界初、多層(16層)光ディスク技術を開発] - パイオニア 2008年7月7日</ref>。BDと同じ25GBの記録層を16層に積層した再生専用光ディスクだが、記録型ディスクにも応用可能という。また、対物レンズの光学的仕様がBD規格と同一で、互換性維持が可能。
また、パイオニアの[[ロードマップ]]によれば2008年から[[2010年]]にかけて再生専用ディスクを開発し、さらに2010年から2012年にかけて書き込み・書き換え可能ディスクの開発を行うとし、2013年には記録層が40層で記録容量1TBの再生専用ディスクが登場する予定となっていたが<ref>[http://www.digitimes.com/news/a20081201PD212.html Pioneer showcases 16-layer 400GB optical disc] - Jimmy Hsu, Taipei; Adam Hwang, DIGITIMES 1 December 2008</ref>、商品化はされていない。
2010年、[[TDK]]([[イメーション]]<ref>後の[[大韓民国|韓]][[オージン・コーポレーション]]</ref>)は片面16層で容量512GBの光ディスクを開発したと発表した。両面記録では容量1,024GB(1TB)となり、世界初の1TB級の光ディスクを実現した<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/1010/06/news076.html|title = 1枚で1Tバイト、TDKが16層の光ディスクを公開|website = www.itmedia.co.jp|publisher = くらテク|date = 2010-10-16|accessdate = 2020-05-11}}</ref>。
2014年5月13日、パイオニアと[[メモリーテック]]は片面256GB/両面512GBの「データアーカイブ用 次世代大容量光ディスク」を発表した<ref>{{Cite web|和書|url = https://news.mynavi.jp/article/20140514-a124/|title = 片面256GB/両面512GBの次世代光ディスク、1TB超えも視野に - パイオニア|website = news.mynavi.jp|publisher = マイナビニュース|date = 2014-05-14|accessdate = 2020-05-11}}</ref>。
=== 小型メディア ===
12cmディスクのほかに[[ビデオカメラ]]向けの用途での使用などを目的とした8cm光ディスク(BD-R/BD-RE)が規格策定済み。容量は1層で7.5GB、2層で15GBとなる。現在1層7.5GBのみが商品化されている。
=== 環境への配慮 ===
[[2004年]][[4月15日]]、[[凸版印刷]]とソニーは、「材質の51%以上が紙の[[光ディスク|ディスク]]を共同開発した」と発表<ref>[http://techon.nikkeibp.co.jp/members/NEWS/20040415/102871/ 記録媒体は「紙」へと回帰? 凸版印刷とソニーが紙基板のBlu-ray Discを開発] - Tech-On! 2004年4月15日</ref><ref>[http://techon.nikkeibp.co.jp/members/NEWS/20040416/102891/ 【続報】はさみで切れるBlu-ray Disc,その起源は紙製の飲料缶だった] - Tech-On! 2004年4月16日</ref>。近いうちに紙の割合を70%以上まで引き上げると発表している。多くの自治体において、燃えるゴミとして捨てることが可能となる。また、[[日本ビクター]](現:[[JVCケンウッド]])や[[パイオニア]]はトウモロコシの澱粉(デンプン)から合成された[[バイオプラスチック]]によるディスクを開発した<ref>[http://techon.nikkeibp.co.jp/members/DM/DMNEWS/20041206/3/ 日本ビクター、トウモロコシのでんぷんから合成したポリ乳酸製のDVDメディアを開発] - Tech-On! 2004年12月6日</ref>。両社の技術や原料は同じだが、製法が若干異なる。
=== ProFile ===
BD-ROMでは、ビデオデコードや[[BD-J]]を必要としないオーディオのみのプレーヤープロファイル(BD-Audio)を含む4つのBlu-rayディスクプレーヤープロファイルが策定されている。なお、ビデオベースのプレーヤープロファイル(BD-Video)においてはBD-Jが必須である。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!rowspan="3"| !!rowspan="2"|BD-Audio!!colspan="4"|BD-Video
|-
|''Grace Period''||''Bonus View''||[[#BD-Live|''BD-Live'']]||''Blu-ray 3D''
|-
|Profile 3.0||Profile 1.0||Profile 1.1||Profile 2.0||Profile 5.0
|-
|内蔵メモリ要件||不要||64KB||64KB||64KB||64KB
|-
|内蔵ストレージ||不要||オプション||256MB以上||1GB以上||1GB以上
|-
|二次ビデオデコーダー<br />(ピクチャ・イン・ピクチャ)||-||オプション||必須||必須||必須
|-
|二次音声デコーダー||オプション||オプション||必須||必須||必須
|-
|[[仮想ファイルシステム]]||不要||オプション||必須||必須||必須
|-
|インターネット接続機能||なし||なし||なし||必須||必須
|}
=== BD-Live ===
インターネットから追加[[コンテンツ]]やゲームなどを行える機能である(BD-ROMプロファイル2.0)。BD-Liveに対応したソフトとBD-Liveに対応したBD再生可能機器([[PlayStation 3]]など)が必要である。追加データの記録は再生機器のハードディスクに記録される。BD再生専用機などハードディスクを持たないプレーヤーではUSBメモリなどの外部記録媒体を用いる必要がある。
=== Blu-ray 3D ===
主に2010年以降に登場したBlu-ray Discの派生規格。Blu-rayに対応した全ての機器でBlu-ray 3Dが視聴できるわけではなく、対応しているゲーム機は[[PlayStation 3]]、[[PlayStation 4]]、[[Xbox One]]以降のディスクドライブが付いたXBOXシリーズのみである。通常の方法での視聴には専用規格の3D眼鏡、およびHDMI伝送で3D映像に対応したテレビも必要である。それらを用意できなかった場合、[[Ultra HD Blu-ray]]のように映像のダウンコンバートは行われないので映像を一切視聴できなくなる。
=== 言語設定 ===
[[DVD]]では容量などの都合上から不可能であったが、Blu-ray以降はリージョンコード以外のデータを国際間で共通させたデータのディスクを製造できるようになった。また、Blu-rayプレイヤーに設定された二つの地域情報により、一部の字幕・音声を選択できなくなるような仕様にすることも可能である。また、設定上可能な言語数もDVDより大幅に増加し、古語に該当する言語も追加されている。
例として[[PlayStation 3]]の場合、リージョン以外の二つの地域情報を変更できる設定項目は「BD / DVD - 視聴年齢制限使用地域」や「BD/メニュー言語」などが該当する。前者を変更した場合、BD-ROM内の許諾画面の言語が変更される。このように、Blu-rayには三つの言語・リージョン設定の項目が存在する。Blu-rayのリージョンコードを再生機器側から変更することは不可能。
== 規格・フォーマット ==
[[DVD]]では読み出し専用規格([[ROM型]])を先に策定したために、書き込み型フォーマットの策定では規格が乱立した。また、[[CD]]やDVDでは初期の再生専用ドライブでは書き換えメディアは反射率が低いため、読み込めないという問題があった。これらの反省からBDでは書き換えメディアフォーマットを先に策定して、共通の仕様にて読み出し専用メディアにも対応する方向で開発が進められた。したがってBDでは反射率の問題は発生しない。また、現行メディアとの併用も考慮し、波長や基板厚の異なるCD/DVD/BDに1つの光ヘッドで対応するための、いわゆる[[ユニバーサルプレーヤー]]向けの技術開発も当初の段階から行われた。
BD-RE Ver.1.0以外はベアディスク(bare disk, [[カートリッジ]]に入っていないむき出しディスク)でカートリッジはオプション。ベアディスクタイプの容量は25GB(1層)と50GB(2層)のほか、後発の[[#BDXL|BDXL]]規格で100GBと128GBが製品化されている。しかし、それ以上の容量の商品化はいまだにされておらず、[[Ultra HD Blu-ray]]でも同様。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+'''ディスクの規格'''
!!!BD-RE Ver.1.0!!BD-RE Ver.2.0以降!!BD-R!!BD-ROM
|-
!単層ディスクの容量
|23.3GBまたは25GB||colspan="3"|25GB
|-
!カートリッジ
|必須||colspan="3"|オプション
|-
!ファイルフォーマット
|[[BD File System|BDFS]]||colspan="3"|[[ユニバーサルディスクフォーマット|UDF]]
|-
!アプリケーションフォーマット
|colspan="3"|[[BDAV]]||[[BDMV]]
|-
!著作権保護技術
|[[#BD-CPS|BD-CPS]]||colspan="3"|[[AACS]]
|-
!記録速度
|1x||1 - 2x||6x||1.5x(再生速度)
|}
物理フォーマットは以下の各節の通りである。
=== BD-R ===
'''BD-R'''(Blu-ray Disc Recordable)は、[[ライトワンス]]ディスクである。BD-Rでは記録層に「無機系記録材料」または「有機系記録材料」を使用する。無機系は経年劣化に強いが高価である一方、有機系は従来のDVD-Rなどと同じものであり、製造コストが安いが[[経年劣化]]しやすい。当初は無機系ディスクの価格が高かったが、現在では価格にほとんど差がなくなったため、有機系記録ディスクはしだいに販売されなくなった。
==== BD-R Ver.1.1 ====
物理規格はハードコート技術を前提とした表面の強度の規定が追加されたため、ベアディスクが基本となっている。
記録速度は1 - 2倍速に対応。
ファイルシステムは[[ユニバーサルディスクフォーマット|UDF]] 2.6。
アプリ規格はBD-RE Ver.1.0と同じ[[BDAV]]規格。
著作権保護技術は[[AACS]]を使用。
==== BD-R Ver.1.2 ====
{{Anchors|BD-R1.2}}物理規格はVer.1.1と互換性を保ったままであるが、無機系記録材料の場合は4倍速記録対応になり、有機(色素)系記録材料のディスクの規定(1 - 2倍速)が追加された。
==== BD-R Ver.1.3 ====
物理規格はVer.1.1と互換性を保ったままであるが、無機系記録材料の場合は6倍速記録に対応。
==== BD-R Ver.2.0 ====
物理規格、ファイルシステム、著作権保護技術はVer.1.2と同じ。
アプリ規格はBD-ROMのアプリ規格であるBDMVを使用し、PCで編集したコンテンツやカムコーダで録画したコンテンツを格納することが可能。
==== BD-R LTH ====
{{Anchors|LTH}}
BD-R LTHのLTHはLow To Highを指す。
有機色素タイプと呼ばれるもので、従来の無機素材タイプとは異なり記録面に有機色素を用いており、化学変化により反射率を低から高にするという記録方式である。BD-R Ver.1.2から制定された。
メリットとして、従来のDVD-Rディスクの製造法と近いことによる低価格化がある。デメリットとして、書き込み速度の低下や保存性耐久性の低下が考えられる。
IFA2007においてBD-R LTHの試作品が展示されたが、Ver.1.2未対応の機器との互換性はない{{Efn2|アップデートにより読み取り / 再生できる場合はある。}}。
概ね2007年末商戦以降のBD機器はLTH対応だが、それより前のBD機器はLTH非対応である。しかし非対応の場合であっても、[[ファームウェア]]の更新によりLTH対応になる場合がある{{Efn2|BD-R Ver.1.1非対応のBDレコーダー以外は、殆どの機種がファームウェアの更新で対応されている。}}。
BD-R LTHディスクは[[太陽誘電]]と[[三菱ケミカルメディア|三菱化学メディア]]が2008年2月26日から、[[マクセル]]が3月上旬から、[[日本ビクター]](現:ビクターアドバンストメディア)が3月下旬から発売した。
素材の関係からしばらくの間は2倍速止まりが続いたが、2009年4月に三菱化学の子会社である三菱化学メディアが6倍速メディアの規格認定を受け夏頃に生産・出荷する予定であった<ref group="発表">[http://www.mcmedia.co.jp/japanese/news/press/0076.html 世界初!記録層に有機色素を使った、追記型ブルーレイディスク6倍速BD-R LTH TYPE を開発・生産] - 三菱化学メディアからのプレスリリース 2009年5月21日</ref>。アゾ色素を採用したものがVerbatimブランドで発売された<ref group="発表">[http://www.verbatim.jp/special/azo.html 参考]</ref>。
=== BD-RE ===
[[ファイル:IFA 2005 Panasonic LM-BRM50.png|thumb|200px|right|記録面の耐久性が改善され、ベアディスクが実現した]]
[[ファイル:IFA 2005 Panasonic Blu-ray Discs Single and Dual Layer BD-RE (Cartridge) (by HDTVTotalDOTcom).jpg|thumb|200px|right|BD-RE Ver.1.0ディスク 25GB BD-RE Ver.1.0ディスク 50GB]]
[[ファイル:Blu-ray_01.jpg|thumb|200px|right|BD-RE Ver.2.1ディスク<br />(パッケージ)<br />左:25GB、右:50GB(2層)]]
'''BD-RE'''(Blu-ray Disc Rewritable)は、書換え型ディスクである。[[相変化記録技術]]方式を採用し、上書き可能回数は理論上、'''1万回以上'''とされている{{Efn2|CD-RWとDVD-RWは1,000回以上、[[DVD-RAM]]は10万回以上、[[光磁気ディスク]]方式は100万回以上。}}。
==== BD-RE Ver.1.0 ====
メディアはカートリッジ付きのみ。記録速度は1倍速のみ。
メディアの記憶容量は、23.3GBまたは25GB(Single Layer) / 50GB(Dual Layer)
ファイルシステムは[[BD File System|BDFS]]。
アプリケーション規格はデジタル放送録画用のBDAV規格。
著作権保護技術はBD-CPSを使用。
==== BD-RE Ver.2.0 ====
ハードコート技術を前提とした表面の強度の規定が追加されたため、ベアディスクが基本となる{{Efn2|カートリッジはオプションである。}}。
記録速度は1 - 2倍速に対応。
ファイルシステムはUDF 2.5に変更。
アプリ規格はVer.1.0と同じBDAV規格。
著作権保護技術はAACSに変更。
==== BD-RE Ver.2.1 ====
物理規格、ファイルシステム、著作権保護技術はVer.2.0と同じ。
アプリ規格はVer.2.0と同じBDAV規格に、録画時間を延長するためMPEG-4 AVC High Profileのビデオ圧縮技術が追加されたもの。
==== BD-RE Ver. 3.0 ====
物理規格、ファイルシステム、著作権保護技術はVer.2.0と同じ。
アプリ規格はBD-ROMのアプリ規格であるBDMVを使用して、PCで編集したコンテンツや[[カムコーダ]]で録画したコンテンツを格納することが可能。
BD-RE Ver. 3.0対応のBlu-ray DiscプレーヤではBlu-rayカムコーダで録画したBlu-ray Discの再生が可能。
=== BD-ROM ===
'''BD-ROM'''(Blu-ray Disc Read Only Memory)は、読み出し専用ディスクである。
==== BD-ROM Ver.1.0 ====
物理規格はベアディスクが基本。再生速度は1.5倍速。
ファイルシステムは、UDF 2.5。
アプリ規格は映画コンテンツを格納するためのBDMV規格。
著作権保護技術にはAACSを使用。
2006年3月に失効した。
==== BD-ROM Ver.2.0 ====
RPC(Region Playback Control)を採用。
アプリ規格はBDMVに加え、BD-J規格がともに採用される。
ファイルシステムは引き続きUDF 2.5である。
=== 派生規格 ===
==== BD・DVDコンビネーションROMディスク ====
'''BD・DVDコンビネーションROMディスク'''とは、[[日本ビクター]]が開発した、BD1層+DVD2層の計3層構造のディスク<ref group="発表">[http://pro.jvc.com/pro/pr/2004/victor/041224BDDVD_combo_ROM_Disc.pdf JVC Develops World's First Blu-ray/DVD Combo ROM Disc Technology] - JVC Press Releases(英語、[[Portable Document Format|PDF]]形式) 2004年12月24日</ref>。BDドライブ、DVDドライブどちらでも読み込みが可能。<!--{{いつ範囲|現在、BDAに技術の規格を提案中。|date=2021年7月}}-->
日本ビクターの技術をもとに、[[共同テレビジョン]]とインフィニティ・ストレージ・メディアが開発した、BD1層・DVD2層ディスクが、2009年2月に製品化される<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/20081219/kyodo.htm 世界初の片面Blu-ray/DVDハイブリッドディスクを公開] - AV Watch 2008年12月19日</ref>。光の波長によって透過率が異なる半透明の金属膜を使用し、BDドライブで再生するとDVD層は認識されない。このため、既存のBD機器で特別な対処をすることなく再生できるとしている。
==== AVCREC ====
{{Main|AVCREC}}
'''AVCREC'''は、BDAVを応用してDVDにハイビジョン規格映像を記録する技術規格。直接にはBD9とはまったく無関係だが、技術的なコンセプトやアプローチは、[[#BD9|BD9]]と同じ軸上にある。関連する規格として[[AVCHD]]も存在する。
==== Blu-ray 3D ====
'''Blu-ray 3D'''は、2009年12月に発表された、3D映像をBDに収録するためのハードウェアとソフトウェアの双方の規格である。Blu-ray Disc Associationにより策定された<ref group="発表">[http://www.blu-raydisc.com/assets/Downloadablefile/20091218-3D-finalization_J_final-16839.pdf プレスリリース参考訳]</ref>。
規格として[[H.264]]/MVC(マルチビュー符号化)を採用する。従来のサイド・バイ・サイド方式などとの互換性がないため、Blu-ray 3D 方式に対応したプレーヤー/レコーダーが必要である。テレビとの間は[[フレームパッキング]]方式により伝送するため、その方式に対応した3D対応テレビ、そして伝送帯域が従来より広がるため、[[HDMI]]1.4a以降対応(いわゆるHDMI 3D対応)のケーブルが必要になる。
2010年4月23日には[[パナソニック]]から対応BDレコーダー(DMR-BWT1000・2000・3000)<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/347878.html パナソニック、世界初3D再生対応「ブルーレイDIGA」]</ref>、BDプレーヤー(DMP-BDT900)<ref group="発表">[https://news.panasonic.com/jp/press/jn100209-6 ブルーレイディスクプレーヤー DMP-BDT900 を発売]</ref>が発売された。
他社もこれに追従し、[[シャープ]]は2010年7月30日にBD-HDW70/700を発売し<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/371183.html シャープ、Blu-ray 3D対応レコーダ「AQUOSブルーレイ」]</ref>、[[ソニー]]は2010年9月25日(BDZ-AX2000のみで、ほかのモデルは10月22日)にBDZ-AX1000/2000、BDZ-AT300S/500/700/900を発売した<ref>[https://news.mynavi.jp/articles/2010/09/22/bdz/index.html 【レビュー】ソニー、ブルーレイディスクレコーダー「BDZ-AT900」]</ref>(ソニーは全モデル3D対応)。[[東芝]]からは2010年8月下旬にBDプレーヤーのSD-BDT1、2010年11月下旬にレコーダーのRD-X10(RD-BR600・BZ700・BZ800はバージョンアップで対応)が発売された<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/383324.html 東芝、RD-X10などBDレコーダ「REGZAブルーレイ」]</ref>。
ブルーレイ録画、再生、Blu-ray 3D対応テレビでは、2010年8月27日に[[パナソニック]]がTH-P42/46RT2Bを発売した<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/382031.html パナソニック、3D対応+BD/HDD簡単録画の新「VIERA」]</ref>。[[三菱電機]]はLCD-40/46/55MDR1を2010年10月21日に発売した<ref>[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20100824/1032729/ 三菱電機、3D対応液晶テレビ「REAL MDR1シリーズ」を10月発売]</ref>。[[ソニー]]はKDL-40/46/55HX80Rを2010年12月5日に発売した<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/389270.html ソニー、3D再生やW録対応の録画TV「BRAVIA HX80R」]</ref>。
[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]は2010年9月21日に[[PlayStation 3]]をシステムソフトウェアの更新にてBlu-ray 3Dに対応させた{{Efn2|[[PlayStation 3のシステムソフトウェア#バージョン3.50|システムソフトウェア バージョン3.50]]より。}}。
2017年、販売の低迷から3Dモニターおよび3Dテレビの新規製造を各社中止<ref name="cnet20170117">{{Cite web |date=2017年1月17日|url=https://www.cnet.com/news/shambling-corpse-of-3d-tv-finally-falls-down-dead/|title=Shambling corpse of 3D TV finally falls down dead|publisher=[[CNET]]|accessdate=2018-12-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2017年6月9日|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/topic/1064070.html|title=3Dテレビ時代の終焉。'17年テレビから3D対応機種が無くなった理由|publisher=[[インプレス]]|accessdate=2018-12-19}}</ref>。2018年現在販売されている3D対応機種は在庫品のみ。また、そのほとんどが4K対応テレビであり20万円から100万円という実売価格である。そのため、新規にBlu-ray 3D視聴環境を整える事が困難となっている。なお、[[Oculus Rift]]、[[HTC Vive]]、[[Windows Mixed Reality]]に代表される[[バーチャルリアリティ]]用[[ヘッドマウントディスプレイ]]ではBlu-ray 3Dの映像を直接視聴することができない。
2019年現在、'''もっとも安価なBlu-ray 3D視聴環境は、3Dプロジェクター、もしくはPlaystation 4{{Efn2|後継機種のPlaystation 5ではBlu-ray 3Dには非対応となった。}}とPlaystation VRの組み合わせだけである。'''前者は映像を投影する壁やスクリーンが必要であり、後者はヘッドマウントディスプレイをかぶることにより複数人で視聴できないというデメリットがある。そのため、3D対応テレビのような手軽さはない。
==== 4K ULTRA HD Blu-ray ====
{{Main|Ultra HD Blu-ray}}
'''4K ULTRA HD Blu-ray'''(Ultra HD Blu-ray、UHD BD)は[[4K解像度|4K]]に対応する、BDの上位規格。BD-ROMとディスクの外見が全く同じであるが、書き込み規格が変更された。また、ウルトラHDブルーレイにはR/RE規格が存在しない。
==== BDXL ====
'''BDXL'''(Blu-ray Disc Extra Large)はBDの一種ではあるが、記録層が3層や4層となっている<ref group="発表" name="BDXLTM">[https://av.jpn.support.panasonic.com/support/media/disc/info/bdxl.html ブルーレイディスク「BDXL{{Sup|TM}}」特設ページ|最新情報/トピックス|Blu-ray™・DVDディスク|お客様サポート|Panasonic]</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1800T_Y1A110C1000000/ BDXLって何?:日本経済新聞]</ref>。BDXL対応でないBD対応機器では動作しない<ref group="発表" name="BDXLTM" />。2010年6月に規格が策定され、3層で100GBのBD-R TL・BD-RE TLと4層で128GBのBD-R QLが製品化されている<ref>[https://ascii.jp/elem/000/000/598/598323/ ASCII.jp:BDXLでHDDを光学ディスクにバックアップする技(1/3)]</ref>。
==== 未製品化規格 ====
===== BD9 =====
'''BD9'''は[[ワーナー・ブラザース]]が提案したDVDメディアにBDのアプリケーションフォーマットで圧縮映像を入れる規格。同様のコンセプトでHD DVD側に策定された[[HD DVD#HD DVD-VR|HD DVD9]]とともに[[DVD#3x DVD|3x DVD]]という総称でも呼ばれる。
この規格は、DVD-Videoの3倍の帯域幅を持ち、MPEG-2の代わりにVC-1やH.264といったより高圧縮のコーデックを用いることで、ハイビジョン規格の映像をDVDメディアに保存することを可能とするものである。DVDメディアであるため、記録容量がBDに比べ少なく、記録時間や画質の面ではBDに劣る。また、一般的なDVD-Video規格とはまったく異なるため、DVDプレイヤーで再生することはできず、再生にはBDプレイヤーが必要である。
当初にワーナー・ブラザースが想定していたものは、片面2層8.5GBのDVDへ平均ビットレート8Mbpsで120分のハイビジョン映像を収録することにより、3x DVDに対応した[[半導体レーザー|青紫色半導体レーザー]]を用いないDVDプレーヤーで再生可能にすることであった。
BD9は製品化がなされていない。なお、[[AVCREC]]が類似したコンセプトで開発されている。
===== Total Hi Def =====
{{See also|第3世代光ディスク#Total Hi Def}}
2007年[[1月]]、[[ワーナー・ブラザース]]は片面にHD DVD、もう片面にBDを収めた両面ディスク「Total Hi Def」を発表した。この時点では2007年後半発売予定とし、2規格が店頭に並び混乱を生じることへの解決策として製品化が進められたが2007年秋に開発中止され、さらに2008年1月のワーナーのBD一本化発表により必要性がなくなったため、結局製品化はなされなかった。
== 用途 ==
=== ホームシアターなど映像フォーマットとしての用途 ===
==== BDMV 採用コーデック ====
{{Main|BDMV}}
'''BDMV'''は読み出し専用型BD(BD-ROM)で採用されている記録フォーマットである。解像度は最大[[1080i]]/60、[[720p]]/60である。
; 動画圧縮/伸張技術
* [[MPEG-2]](''[[Moving Picture Experts Group]]'')
* [[H.264|H.264/MPEG-4 AVC]] High Profile
* [[VC-1]] Advanced Profile
H.264/MPEG-4 AVCとVC-1などの新圧縮技術は一般的な既存のDVD([[DVD-Video]]および[[DVD-VR]])や現状の日本で行われている[[デジタル放送]]([[地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]および[[BSデジタル放送]])で使われているMPEG-2よりも圧縮能力に優れているが、H.264/MPEG-4 AVCはもともと[[携帯電話]]などの小さな画面を主体に開発された技術のため、そのままではHD映画の画質再現に問題があり、当初ハリウッド企業は新コーデックの採用に積極的ではない会社も多かった。そのため、最初に発売されたBDビデオソフトはDVDと同じMPEG-2をコーデックに採用せざるをえなかったが、そのことから初期に発売されたBDビデオソフトは画質が必ずしも満足できるものではないとの指摘もあった{{Efn2|[[MPEG-2]]と[[H.264]]/MPEG-4 AVCとの単純比較では概算として圧縮効率に約2倍程度の能力差があるとされている。従ってMPEG-2からH.264/MPEG-4 AVCに変えることで記録時間の観点からは同じ画質なら2倍の記録時間が期待でき、画質の観点からは同じ記録時間なら画質の記録・再現に2倍のデータ量を割り当てることが期待できる。なお、映像などの記録・再現に2倍のデータ量を割り当てた結果が、「画質が2倍良くなる」という評価に必ずしもならない点に注意。}}。その後、HD映像用に新たにパナソニックハリウッド研究所(PHL)<ref>[https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0609/01/news111.html 次世代光ディスクの画質を上げるPHLエンコーダーとは?] - ITmedia +D LifeStyle 2006年9月1日</ref><ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/20070525/avt006.htm 本田雅一のAV Trends 最高品質を求めたBD版「パイレーツ」制作の裏側【後編】〜 ディズニーがDIマスターを初蔵出し 〜 H.264エンコーダもパイレーツに最適化] - Impress AV Watch 2007年5月24日</ref>により開発されたMPEG-4 AVC High Profileが制定され、このHigh Profileを使えばHD映画の画質をMPEG-2以上に向上させられることがハリウッド企業でも確認された。このためMPEG-2に加えMPEG-4 AVC High ProfileやVC-1もBD-Videoの映画タイトルに採用されるようになり、現在ではほとんどのソフトにMPEG-4 AVC、VC-1のどちらかが採用されている。
字幕はDVDに比べ鮮明になっている。大画面表示を前提として制作されているため、小さい画面で観ると読みづらくなることがある。
; 音声圧縮/伸張技術
ドルビーアトモス、ドルビーデジタルプラス、DTS:X、DTS-HDマスターオーディオは一部のプレイヤーでは対応していない場合もあるが、これらの音声コーデックは下位互換性があるため、非対応の機器でそれらの音声を再生した場合は下位互換性のために自動でドルビーアトモス→ドルビーデジタルプラス→ドルビーデジタル、DTS:X→DTS-HDマスターオーディオ→DTSの順に音源が劣化するが、DTS-HDマスターオーディオは5.1ch、2.0chの音源出力も可能である。PCMを利用した非圧縮音源によるサラウンド5.1ch、7.1chの出力にも対応。(主に国内映画などで非圧縮PCMが採用される傾向にある。)
* [[パルス符号変調#種類|PCM]](Pulse Code Modulation)
* [[ドルビーデジタル]](''Dolby Digital'')(AC-3)
* [[DTS (サウンドシステム)|DTS]](''Digital Theater Systems'') デジタルサラウンド
* [[ドルビーデジタル#拡張規格|ドルビーデジタルプラス]](''DD+'')(*)
* [[ドルビーTrueHD]](*)
* [[DTS-HDマスターオーディオ]](*)
* [[ドルビーアトモス]](*)
* [[DTS:X]](*)
(*) Blu-rayプレーヤーではオプション扱い。
==== BDAV 採用コーデック ====
{{Main|BDAV}}
'''BDAV'''は[[BDレコーダー]]で書き込み型BD(BD-R、BD-RE)に録画したときに使われる記録フォーマットである。
; 動画圧縮/伸張技術
* MPEG-2(''Moving Picture Experts Group'')
* H.264/MPEG-4 AVC High Profile
; 音声圧縮/伸張技術
* [[AAC]](''Advanced Audio Coding'')
* ドルビーデジタル(''Dolby Digital'')(AC-3)
==== インタラクティブ技術 ====
{{Main|BD-J}}
高度なメニューやネットワーク機能などを実現する技術として、[[Javaプラットフォーム|Java]]の一種であるBlu-ray Disc Java(略称:'''BD-J''')が採用された。BD-JはすべてのBDプレーヤに搭載されているため映像を使った[[対戦ゲーム]]、[[シューティングゲーム]]、[[インベーダーゲーム|インベーダー型ゲーム]]などを附録に入れたBDタイトルが発売されている。また、2007年11月以後に発売されるBDプレーヤーには、追加のJavaインタラクティブ機能(ピクチャインピクチャ機能など)の搭載が義務づけられる。ネットワーク機能としては「BD-Live(Blu-ray Disc Live)」<ref>[https://atmarkit.itmedia.co.jp/news/200705/12/bdj.html Javaが映像とネットをつなげる CGMを採り入れる次世代DVDの世界] - @IT 2007年5月12日</ref>と呼ばれるプロファイルが標準化されている。
HD DVDでは[[マイクロソフト]]が中心となって開発した「iHD(現:[[HDi]])」が採用され、マイクロソフトがHD DVDを支持する要因のひとつとなっていた。BDでもHDiを採用する提案がなされたが採用は見送られた。
==== コンテンツ管理システム(著作権保護技術) ====
4つの技術を使用し、コンテンツの[[著作権]]保護を図る。[[コピーガード]]を大幅に強化、DVDに比べ[[海賊版]]作製とその視聴がより困難と言われている。これにより、ブルーレイプレイヤーの一部([[PlayStation 3]]など)は定期的なハードウェアのバージョンアップを要求される事がある。
* [[AACS]]
* ROM Mark
* BD+
* [[Cinavia]]
なお、BD-RE Ver.1.0ではAACSではなくBD-CPSが採用された。
===== BD-CPS =====
'''BD-CPS'''はBD-RE Ver.1.0で採用されたコピーガードシステム。BD-RE Ver.2.0以降やBD-R、BD-ROMではBD-CPSではなく[[#AACS|AACS]]が採用された。
===== AACS =====
{{更新|section=1|date=2021年8月}}
{{Main|Advanced Access Content System}}
'''AACS'''(Advanced Access Content System)により、コピー管理も含め、ネットワーク機能やインターネット接続に関連して公認されたセキュアな方法でコンテンツを保護する。
AACSのカバー範囲はTV放送およびインターネットを利用したコンテンツ配信、家庭内のネットワーク配信など、現在想定できる使用用途のほぼすべてと広範囲にわたる。また、再生専用メディアだけではなく記録型メディアにも対応し、コンテンツのムーブやDRMによって認められたコンテンツの複製をセキュアに管理する。
* 暗号方式に「[[Advanced Encryption Standard]](AES)」を採用
* [[鍵 (暗号)|暗号鍵]]の長さは128ビット。
* 約一年に一回更新されるAACSの暗号化キーをプレイヤーにネットワーク経由でダウンロードしなければ、最新作のブルーレイディスクは視聴ができなくなる。この仕様上、2023年現在でも定期的に[[PlayStation 3|PlayStation3]]のようなゲーム機はバージョンアップを行う必要が出る。
* リボークシステムによる不正な機器、メディアによる使用をガードする排除機能を搭載
* 固有ID情報:メディアに「ユニークID」と「MKB(Media Key Block)」が書き込まれる。ドライブ側にも機器ごとに固有の鍵を導入。ドライブ側の鍵は約一年に一回、オンラインアップデートで鍵を更新しなければ、最新のBD-ROMを再生できなくなる。
* [[ウォーターマーク]]によるコンテンツプロテクション。
* [[HDMI]]は推奨、[[ハイビジョン]]画質でのアナログ映像出力を映画会社が望めばダウングレードする機能(ICT)あり。ただし、2012年以降の発売機種はHDMIが必須となった。
* HDDからリムーバブル媒体、リムーバブル媒体からHDDへのコンテンツ移動(ムーブ)をする機能を持つ機種もある。<!--2010年発売のパナソニック機など、BDからHDDへの、いわゆる逆ムーブも可能となった{{Efn2|DVD-Videoは著作権保護技術であるCSSの規定でDVDからHDDへのコンテンツ移動は禁止されている。→日本ではCSSを著作権保護技術として認定していない。著作権法的には私的録音録画保証金制度の対象となっており、著作権保護が施された媒体として認定されていない。}}。-->
===== ROM Mark =====
'''ROM Mark'''は、BD-ROM原盤の[[偽造]]を困難にする技術である。
映画や音楽、ゲームなどBD-ROMメディアに収録されるコンテンツの中に検出できない一意の[[識別子]]を埋め込む。ライセンスを受けたBD-ROMメーカーに提供される機器でしか扱えず、スタンパーを入手しただけではこの識別子は書き込めない。そのため、ディスク原盤の非正規の作製はきわめて困難とされている。
===== BD+ =====
{{Anchors|BDplus}}
BD独自の機能である'''BD+'''は[[BDプレイヤー]]の[[コンテンツ]]保護プログラムが破られた際にも、新たなコンテンツ保護プログラムをBDプレイヤーに導入できる機能である。
破られたコンテンツ保護プログラムをコンテンツ企業が後から自動的に更新できるため、非正規に複製されたディスクの視聴は実質的に不可能になると考えられている。なお、BD+はキーが改変されたプレイヤーのみに影響する。
===== Cinavia =====
{{Main|Cinavia}}
BDのコピーガード規格の一つとして'''Cinavia'''(シナビア)が採用された。Cinaviaに対応した機種でCinavia対応コンテンツをHDMIから出力させ、その映像を録画しようとすると、対応機器は自動的に音声や映像をミュートする。
==== リージョンコード ====
{{色}}
[[ファイル:Blu-ray regions without key.svg|thumb|none|400px|Blu-ray規格のリージョン<ref group="発表">{{Cite web
| url = http://www.blu-raydisc.com/Section-13470/Section-14003/Section-14006/Index.html
| title = Blu-ray Disc for Video
| language =
| accessdate = 2007-01-14
| year = 2006
}}</ref><br />{{Color|#ffa208|■}}[[黄色|黄]]:リージョンA<br />{{Color|#77b830|■}}[[緑色|緑]]:リージョンB<br />{{Color|#ce5dff|■}}[[紫色|紫]]:リージョンC
]]
{| class="wikitable"
!リージョンコード!!地域
|-
|style="text-align:center"|{{Legend|#ffa208|A}}||[[南北アメリカ]]、[[東南アジア]]、[[日本]]、[[朝鮮半島]]、[[香港]]、[[マカオ]]、[[台湾]]およびそれら海外領土
|-
|style="text-align:center"|{{Legend|#77b830|B}}||[[ヨーロッパ]]、[[中近東]]、[[アフリカ]]、[[オセアニア]]およびそれら海外領土
|-
|style="text-align:center"|{{Legend|#ce5dff|C}}||[[中央アジア|中央]]・[[南アジア]]、[[中国大陸|中国本土]]、[[ロシア]]、[[モンゴル]]
|}
ブルーレイディスクには再生できる地域を制限することを目的とした[[リージョンコード]]が指定されている。これは地域の区分けこそ異なるものの原則として従来のDVDリージョンコードと同様のものであり、ある一定の地域で販売されたプレーヤーではそれと同じ地域で発売されたソフトしか再生できない。このシステムは当初ブルーレイにはなかったものであるが、[[映画会社]]の強い要望により3つの地域に分割された方式が採用された。
これにより映画会社は特に販売価格、日付、内容を地域によって制御することが可能になる。また、地域の制限を設けないリージョンフリーでも作成できるため、すべての地域で再生可能なソフトを作成することもできる。そのため2008年上半期の時点で発売されたソフトのおよそ3分の2のソフトはリージョンフリーで作成されている。
韓国、マレーシアなどほかのブルーレイ生産国と同様、日本はアメリカと同じリージョンに属するため[[DVD-Video]]とは異なりアメリカ製ソフトの[[輸入]]版を再生することが可能である。
==== ネットワーク用途の考慮 ====
ネットワークを利用した用途も考慮されており、ネットからダウンロードした字幕データをディスクに追記するようなことが可能となっている。もちろん再生専用のROMディスクには追記できないため、プレーヤーに記憶装置を内蔵するなどの対応が必要になる。
=== IT用途 ===
[[ファイル:SDTV_HDTV.png|thumb|right|200px|[[ハイビジョン|フルハイビジョン]]と[[標準画質映像|SD映像]]の違い]]
[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]向けの記録・再生ドライブ、およびBDドライブを内蔵したパソコンが2006年6月に発売された。日本国内では11月までBD-Video対応機器はパソコンのみという状況であった。
H.264/MPEG-4 AVCやVC-1の映像コーデックを採用したBD・HD DVDソフトは再生時の[[CPU]]負荷が非常に高く、規格発表当時に高スペックであるパソコンでも滑らかに再生するのが困難と言われてきた。後に[[Graphics Processing Unit|GPU]]の再生支援機能やCPUの高性能化などにより解決された。
また、[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]への出力にも問題が大きい。AACSの仕様によりデジタル出力には[[HDMI]]接続、または[[HDCP]]に対応した[[Digital Visual Interface|DVI-D]]接続が必須となり、通常のDVI-D接続では表示できない{{Efn2|[[RCA端子|RCA]]などによるアナログ接続は禁止されていない。}}。さらにディスプレイ自体の[[画面解像度|解像度]]が[[フルハイビジョン]]規格(1920×1080ピクセル)に満たない場合、BDをはじめとする第3世代光ディスクの映像を完全な形で再生することはできない。
記録型BDドライブ内蔵PCでデジタルテレビチューナー搭載モデルは、デジタル放送をHD映像のままBD-R/REに保存できる{{Efn2|各機種の機能やソフトウェアに依存する。}}。
マイクロソフトは[[Windows Vista]]の発売前、同OSでHD DVDのみを標準サポートすると表明していた。しかし、サードパーティによるおもな再生アプリケーションやDVDライティングソフトはすでにBDに対応しており、実際の使用でBDに不利益が生じることはない{{Efn2|現にマイクロソフトはDVD自体を公式に認めていないが、DVDがメディアの主体となったように今回のHD DVD支持も規格争いへの直接的な影響は事実上およぼさなかった。}}。また、製品版VistaではHD DVDサポートが当初の予定より縮小された。2008年1月には同社幹部が「OSにおけるサポートは中立である」と言明している。
=== コンテンツ制作用途 ===
{{更新|section=1|date=2021年8月}}
すでにDVDについては[[DVDレコーダー|デッキ]]のみならず[[カムコーダ]]も開発されており、[[家庭|一般家庭]]の他[[企業]]や[[学校]]、[[結婚式場]]など[[業務用|業務用途]]でも広く活用されている。
同様に、BDについても[[高画質|HD映像]]の普及に伴いカムコーダや[[映像編集|編集]]などの用途での機器の需要は見込まれる。それらの開発によって、小規模な[[放送局]]や[[制作プロダクション]]などのユーザーがコンテンツ制作用機器として採用する可能性は考えられる。しかし、すでに放送用、業務用には同じ[[半導体レーザー|青紫色半導体レーザー]]を用いて[[Professional Disc|PFD]]に記録するSONYの[[XDCAM]]が存在し、[[フラッシュメモリ]]に記録する[[メモリーカード]]記録タイプのカムコーダも追加された。パナソニックからもメモリーカード記録タイプのカムコーダの発売が予定されており、この用途とは違う市場である。
現在、日立製作所からBDを[[メディア (媒体)|記録メディア]]に採用した[[Blu-ray Disc#ビデオカメラ|カムコーダ]]2機種が発売されており、{{いつ範囲|地方の[[ケーブルテレビ]]局など[[企業]]によっては採用を検討しているところもあるといわれている。|date=2021年8月}}
=== アーカイブ用途 ===
動画圧縮/伸張用にMPEG-4 AVC/H.264エンコーダを搭載したBD/HDDレコーダーが発売されており片面2層ディスク(50GB)を用意することでXPモード([[S-VHS]]標準モード並みの画質)で約10時間30分、SPモード(S-VHS3倍モード並みの画質)で約21時間録画可能とされている<ref group="発表">[http://av.jpn.support.panasonic.com/support/mpi/bd/bw900bw800bw700/bw900_bw800_bw700_c03_02.html Panasonic DIGA 公式サイト]</ref>。自宅などにS-VHSや[[ベータマックス|ED Beta]]、[[Hi8]]などの大量の[[エアチェック]]コレクションなどがある場合、その高解像度・高画質を保ったままで大幅な省スペース化が可能。また、BDレコーダに[[IEEE 1394|i.LINK]]端子が搭載されていれば、[[D-VHS]]デッキの「LS3モード」で24時間記録した映像をテープ1本分丸ごと移し変えることもできる。DVDの場合、もっともよく使われるSPモードでも2時間しか記録できない(片面1層ディスクの場合)ためアーカイブ用途には不向きである。
=== セキュリティー用途 ===
BDでは、[[標準画質映像|SDTV]]映像であれば[[S-VHS]]方式3倍モード並の画質で長時間記録をすることが可能である。そのメリットを活かして、フルモーションのカラー映像で[[監視カメラ]]の映像記録に活用することも可能となる。
[[防災]]・[[防犯]]を目的とした監視カメラの映像の収録には、連日膨大な量の[[ストレージ]]メディアを必要とする。BDならこれまでの[[コンパクトディスク|CD]]やDVDと同一のサイズなので、メディアの収納性には優れていると言える。
== 耐久性 ==
[[ファイル:Old Blu-ray and Nomal Blu-ray.jpg|thumb|耐久性に問題があった当初の規格ではカートリッジがついていた(右)。のちにベアディスクに改良(左)。]]
以下の理由により、BDはDVD用などのBD非対応の[[不織布]]ケースに入れると記録面が破損するおそれがあるため、繊維をきめ細かくしたBD対応の不織布ケースが販売されている<ref group="発表">[https://www.sanwa.co.jp/product/acc/howto/bluray/blu-ray.html ブルーレイディスクの正しい保管方法]サンワサプライ</ref>。
=== 初期製品 ===
BD規格の機器や、対応ディスクが発表された当時の技術では、対応メディアの表面に些細な汚れや傷がついただけで、そのメディアが使用不能状態に陥るほどの脆弱性に悩まされ、対策として、カートリッジ内にディスクを密閉する方式を採用した。
カートリッジ入りのため、メディア全体の容積が増え、取り扱い性の悪さや、ノートパソコン向けドライブの小型化が難しいという点で、BD普及の大きな障害となっていた。
また、DVDはハードコーティング製品を除き傷のついた部分を均一に研磨すれば使用できるが、BDは保護層が0.1mmと非常に薄いため、初期のメディアでは表面研磨をすると再生できなくなる。
=== 耐久性の向上 ===
BD-ROMやBD-Rは、規格制定当初からHD DVDと同様、カートリッジを必要としないベアディスクであり、BD-REものちにバージョン2.0で「ベアディスク」に対応させることになった。それぞれの物理フォーマットには、メディアの表面硬度に関する規定が追加された。このベアディスク化を実現するため、ハードコート技術の開発が急務となった。
これに対応する技術として、TDKがディスクの耐久性向上技術「[[#DURABIS|DURABIS]](デュラビス)」を開発。このDURABISをはじめとする各種ハードコート技術により、傷や汚れなどによる問題や、小型ドライブの問題も解決のめどが立ち、HD DVDに対して対等、もしくはそれ以上の条件が揃った。
初期のBDドライブは、ピックアップレンズとディスク表面までの距離{{Efn2|作動距離。}}が0.3mm程度であり、HD DVDの1mm程度と比較すると3分の1しかなく、表面カバー層も0.1mmと非常に薄いため、振動でピックアップレンズとディスクが衝突しやすかった。そこで車載などの用途への仕様を満たすため、接近検知時間がDVDの3分の1以下のより高精度な接近検知システムを搭載することとなった。接近検知時間は0.8msとなっている{{Efn2|DVDは3msである。}}。
=== DURABIS ===
'''{{En|DURABIS}}'''(デュラビス)は、[[TDK]]のハードコート技術の名称である<ref name="DURABIS">[https://av.watch.impress.co.jp/docs/20050106/tdk.htm TDK、超硬などのハードコート技術名を「DURABIS」に統一]AV Watch</ref>。{{Lang-en-short|DURABILITY}}(耐久性)と{{Lang-en-short|SHIELD}}(盾/保護物)からの造語で、優れた耐久性を表現するよう命名された。傷に強くスチールウールで100〜200回擦ったぐらいでは影響がほとんどないほどの耐久性を持つ。また、指紋汚れやチリ・ほこりがつきにくい{{Efn2|『[[ネトラン|ネットランナー]]』で実験が行われた<ref>ネットランナー8月号「いけにえ君 アバッ! ヒデブゥ」コーナー</ref>。}}。ただし、ディスクが傷に強いからと言って、ドライブのレーザー光の耐久性でディスクが読み込めなくなることもある。
DURABISは、当初[[半導体レーザー|青紫色半導体レーザー方式]]の[[第3世代光ディスク]](BDやHD DVD)向けに開発された技術であり、のちにDVD・BD用途へと採用された<ref group="発表">[http://www.tdk.co.jp/tjaah01/aah52300.htm スーパーハードコートの技術名をDURABIS(デュラビス)に統一し、グローバルに幅広く展開。] - TDKプレスリリース 2005年1月6日</ref>。従前、TDKではDVDにおいては「超硬(スーパーハードコート)」(欧:{{En|Scratch Proof Disc}}、米:{{En|Armor Plated Disc}})としてハードコート技術を展開しており<ref name="DURABIS" />、すでに[[DVD-R]]で「超硬」「UV超硬」ブランドを掲げた製品を発売していたが、BDへのハードコート技術の展開を期にブランド名を「DURABIS」に統一した<ref name="DURABIS" />。DVDに最適化したものを「DURABIS1」、BD用を「DURABIS2」、放送用を「DURABIS PRO」としている。
2006年(平成18年)4月18日に、「DURABIS2」を採用したBD-R/REディスクを発売した。なお、同社は2007年(平成19年)には8年後の2015年(平成27年)12月末以降の[[光ディスク]](グループ企業のイメーション製品のBlu-ray DiscメディアとDVDメディアを含む)の新製品の開発と製造終了とともに全面撤退することを発表しており、すでに撤退している。
== Blu-ray Disc規格の採用例 ==
{{Trivia|date=2017年10月16日 (月) 17:17 (UTC)|section=1}}
{{See also|BDレコーダー|BDプレーヤー|光学ドライブ#BDドライブ}}
=== ビデオカメラ ===
* 2007年
** 日立製作所は7月20日、撮像から記録まで1920×1080画素の[[ハイビジョン|フルハイビジョン]]で一貫して処理するための民生用ビデオカメラ向け基幹技術を新開発したと発表<ref group="発表">[http://www.hitachi.co.jp/New/cnews/month/2007/07/0720b.html 撮像から記録まで1920×1080画素のフルハイビジョンで一貫して処理するための民生用ビデオカメラ向け基幹技術を新開発] - 日立製作所プレスリリース 2007年7月20日</ref>。「高品位映像音声コーデックLSI(民生用)」「高画質カメラ画像処理LSI」「8cmBD/DVDドライブ(世界初)」「約530万画素CMOS撮像素子」などにより、フルハイビジョンBDビデオカメラとして製品化する。
** 日立製作所は8月2日、世界初のフルハイビジョンBDビデオカメラ「BDカム[[Wooo]]」<ref group="発表">[http://av.hitachi.co.jp/cam/products_bd/index.html HITACHI Wooo World ビデオカメラ BDカメラ商品紹介] - 日立製作所</ref>として「DZ-BD7H」「DZ-BD70」を発売すると発表し<ref group="発表">[http://www.hitachi.co.jp/New/cnews/month/2007/08/0802.html 世界で初めてBDを記録メディアに採用した『BDカム(ブルーレイカム)』Wooo 2機種を発売] - 日立製作所プレスリリース 2007年8月2日</ref>8月30日に発売された。「DZ-BD7H」は30GBのHDDとBDドライブのハイブリッドで「DZ-BD70」はBDドライブのみとなる。8cmで7.5GBのBD-R、REメディアは8月10日に[[日立マクセル]]<ref group="発表">[http://www.maxell.co.jp/jpn/news/2007/news070802.html 世界初ビデオカメラ用8cm Blu-ray Disc(ブルーレイディスク)追記型BD-R / 書換型BD-RE ディスク新発売] - 日立マクセルニュースリリース 2007年8月2日</ref>・[[三菱ケミカルメディア|三菱化学メディア]]<ref group="発表">[http://www.mcmedia.co.jp/japanese/news/press/0065.html 世界初! ブルーレイディスク(BD)ビデオカメラに対応した8cmブルーレイディスクを発売] - 三菱化学メディア株式会社プレスリリース 2007年8月2日</ref>・TDKより発売された。
* 2008年1月、日立がBDカムWoooの第2世代製品を発表。60GBのHDDとBDドライブのハイブリッドでBD単独記録(HDD非搭載)モデルはラインナップから外れている。
=== パソコン用ソフトウェア ===
パソコン上でBDを再生するソフトは、2006年春ごろから販売が始まった。当初は他の機器やサービス同様HD DVDとBDの両方をサポートするソフトウェアが多かったが、2008年春に東芝がHD DVDから撤退して以降同機能を削減して発売をするソフトウェアが増えた。また、編集ソフトなどの中にはBDへの出力をサポートするソフトも増えている。
* [[Adobe Premiere]] Pro CS3以降
* [[Adobe Encore]] CS3以降 (Adobe Encore CS3以降はAdobe Premiere Pro CS3以降に同梱されている)
* [[Corel]] [[WinDVD]](8以降の上位バージョン、バンドル版の各BDバージョン、10 ProをVer.10.0.5.536以上にアップデートするとBlu-ray 3D対応になる)
* Corel [[VideoStudio]](11Plus、12plus、X3以降)
* Corel [[MovieWriter]](6、7、2010、バンドル版の各BDバージョン)
* [[CyberLink]] [[PowerDVD]](PowerDVD 9Ultra、10Ultra、10はBlu-ray 3D対応)
* CyberLink [[PowerDirector]]
* [[Roxio]] [[MyDVD]](VideoLab HD)
* [[Sony Vegas]] Pro 9
* Sony Vegas Movie Studio 10
* [[Mac Blu-ray Player]]{{Efn2|Macと名前こそついているものの、macOS版の他にWindows版も存在している。}}(2011年11月現在で唯一の[[macOS]]に対応するBlu-ray再生ソフトウェア{{Efn2|再生用の解読キーをダウンロードするのにインターネットを使用する為、使用にはインターネット接続を必要とする。}})
* [[グラスバレー (企業)|グラスバレー]] [[EDIUS]]
* グラスバレー EDIUS Neo
* [[ArcSoft]] [[TotalMedia Theatre]]
=== レンタル店舗 ===
2006年6月に最初の映画ソフトとなる7作品がBlu-ray化されている<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/20060615/sphe.htm| SPHE、世界初のBlu-ray Discソフトを6月20日から発売開始-「ターミネーター」など7作品。22.99ドル〜]</ref>。
北アメリカでは2007年6月18日、全米に7,000以上の店舗を展開している米ビデオレンタルチェーン最大手の[[ブロックバスター (企業)|ブロックバスター]]はBD規格のビデオタイトル取り扱い店舗を7月半ばまでに1,700店まで増やすと発表した。同社では2006年末から250店舗で実験的にBDとHD DVDでビデオタイトルをレンタルしてきたが、割以上の顧客がBDタイトルを選択していたため、BDタイトルの拡充を決定した。実験時の250店舗およびオンラインではHD DVDも取り扱いを続けた<ref>[http://www.nytimes.com/2007/06/18/business/18blockbuster.html?_r=oref=slogin Blockbuster Says It Will Back Blu-ray in DVD Format Wat] - The New York Times 2007年6月18日</ref><ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0706/19/news016.html 米Blockbuster、Blu-ray支持表明――「レンタル数で大差」] - ITmedia News 2007年6月19日</ref>。
また、同様に北アメリカレンタル店舗大手の[[Netflix]]も、Blu-rayのみ取り扱うことを2月12日に発表している。
一方で日本では試験レンタルを開始する際、レンタルの動向などを調べる目的で[[TSUTAYA]]や[[ゲオ]]、[[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント (日本)|SPE]]や[[20世紀フォックス|20世紀 フォックス]] ホームエンターテイメント ジャパンなどの22社により「Blu-ray研究会」が設立される<ref>[https://japan.cnet.com/article/20362534/ レンタルソフト事業者など22社、国内初のBlu-rayソフトのテストレンタルニュース - CNET Japan] - WebBCN 2007年12月5日</ref>。
* [[ゲオ]]
** 2007年12月4日、22社26店舗が2007年12月 - 2008年2月に限られた店舗で試験レンタルを実施する<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/20071204/bdrental.htm Blu-rayビデオの国内レンタルが4日よりスタート - ゲオなどが全国26店舗で試験的に実施。] - IMPRESS WATCH 2008年12月4日</ref>。
** 2008年4月12日より全国800余店舗にてブルーレイ48タイトルのレンタルを開始した<ref group="発表">[http://www.geonet.co.jp/news/documents/2681_20080317blu-rayrentaru.pdf ブルーレイディスクレンタル、4月12日(土)よりゲオショップ800店にて取扱開始] - ゲオ 2008年3月17日</ref>。
* [[TSUTAYA]]
** 2008年3月19日より主要都市10店舗で45タイトルのレンタルを開始した。
** 2008年夏までに全国1,300余店舗で導入を目指すと発表している<ref group="発表">[http://www.tsutaya-ltd.co.jp/news/release/documents/20080317_blu-layrental.pdf TSUTAYAグループ ブルーレイディスクレンタルを3月19日より開始] {{リンク切れ|date=2011年4月}} - TSUTAYA 2008年3月17日</ref>。
=== ゲーム機用ディスク ===
2023年現在では[[PlayStation 3|PlayStation3]],[[PlayStation 4|PlayStation4]],[[Xbox One|XboxOne]],[[Xbox Series X/S|Xbox Series X]]向けのBD-ROMが供給されている。ゲームデータを直接読み出してプレイする方式のゲーム機はPlayStation3のみである。ただし、PlayStation3のソニー製以外の作品の大半はXbox360などとの同時移植の都合上、技術的な統一の影響でBD-ROMを採用したにもかかわらず、ゲーム本編の容量を8GB以内に納める傾向にあった。Xbox作品の一部のディスクはXbox OneおよびXbox Series X版両方に対応したスマートデリバリーに対応している場合があるが、PlayStation4とPlayStation5の間では無料の上位互換版の配信は法律の制約などの問題から、低価格の有償アップグレード版の購入が必要である。PS3,PS4の間では、2014年に短期間開催された「アップグレードプログラム」でPS4のダウンロード版の作品を低価格で購入し、PS3版のディスクをPS4に挿入することでゲームをプレイできるようにする制度が存在した。
PlayStation3版のゲームは後にゲームデータをソフト側でインストールを義務付けする作品も増加し、「[[グランド・セフト・オートV|グランド・セフト・オート V]]」、「[[ウォッチドッグス]]」、「[[グランツーリスモ5]]([[グランツーリスモ6|6]]は対象外)」、「[[みんなのGOLF 6]]」、「[[リトルビッグプラネット]]」などが該当。
== 沿革 ==
=== BD規格策定前 ===
BDに採用された技術等を挙げる。
* [[1999年]]7月、ISOM/ODS'99でソニー、フィリップスがDVR-Blue規格発表。カバー層0.1mm、NA=0.85、変調方式1-7pp、誤り訂正方式LDC/BISなどBlu-ray Discに採用された技術が開発された。
* [[2001年]]10月、[[CEATEC JAPAN]] 2001時点でのDVR-Blue方式と2層相変化RAM方式のそれぞれのメンバーは、DVR-Blue方式が[[ソニー]](初代法人、現:[[ソニーグループ]])、[[フィリップス]]、[[パイオニア]]、[[シャープ]]で、2層相変化RAM方式が松下電器産業(現:[[パナソニックホールディングス]]、以下[[パナソニック]])、日立製作所、[[東芝]](映像機器事業部、現:[[TVS REGZA]])、[[日本ビクター]](現:[[JVCケンウッド]])である。
* 2001年10月15日、松下電器産業が2層相変化記録方式の容量50GBの書き換えディスクを発表。質疑応答で「フォーマットが二分されるのは好ましくない、統一するよう努力する」と述べた。のちに2層技術、アドレス検出方式STWなどがBlu-ray Discに採用された。
=== BD規格策定から規格争い終結まで ===
{{Main2|HD DVDとの規格争い<!--に関する沿革-->|高解像度光ディスク規格戦争#沿革}}
[[ファイル:CEATECの模様001.jpg|thumb|right|200px|2005年CEATECの模様]]
* [[2002年]]
** 2月19日、日立製作所、LG電子、パナソニック、パイオニア、フィリップス、サムスン電子、シャープ、ソニー、[[トムソン (企業)|トムソン]]の9社がBlu-ray Disc(BD)の規格を策定したことが発表される。その中にDVDフォーラム中核企業である東芝は含まれていなかった。
** 5月20日、上記の9社によりBlu-ray Discの規格策定を行うBlu-ray Disc Foundersが設立される。
* [[2003年]]
** 4月10日、ソニーは世界初のブルーレイディスクレコーダー・BDZ-S77を発売。
** 5月28日、[[三菱電機]]がBlu-ray Disc Foundersに加盟。以後Blu-ray Disc Associationへの移行(後述)までに[[デル]]、[[ヒューレット・パッカード]](HP)、TDKが加盟する。
** 録画機器と録画用書き換えメディアの製品化が始まる。
** ソニーはBD規格をカスタマイズした容量23.3GB(片面1層)の「[[Professional Disc|プロフェッショナルディスク]]」を開発し、業務用のハイビジョン録画・編集機器とコンピュータ補助記憶装置に採用した。
* [[2004年]]
** 5月18日、規格策定団体「Blu-ray Disc Founders」を「[[ブルーレイディスクアソシエーション|Blu-ray Disc Association]]」と改称し、多くの企業が参加できるオープン団体に移行すると発表。10月4日に正式に発足した。これにより多くの会社(発足時点で73社、2006年6月時点で170社以上)がBlu-ray Disc Associationに参加した。
** 7月、松下電器産業は世界初の片面2層ディスクの記録に対応したブルーレイディスクレコーダー、「[[real]]」DMR-E700BDを発売。
** 9月21日、[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]が次世代ゲーム機「[[PlayStation 3]]」にBD-ROM採用を発表。[[ゲーム機]]としての仕様がほとんど発表されていない中での採用メディアの発表であった。
* [[2005年]]5月、松下電器産業が、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]ロサンゼルス近郊にスピンコート技術を使ったBD量産工場<ref>[https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0602/27/news021.html 記録型にもつながる? 2層BD-ROM製造の最前線] - ITmedia +D LifeStyle 2006年2月27日</ref>を稼動させたことを発表。BD-ROMディスクがDVDに近いコストで製造できることを証明した。ソニーはシート方式を用いて製造していたが、コストや2層ディスクの製造効率が悪いことなどから、2006年までにスピンコート方式に転換<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/20060901/sony2.htm ソニー、2層BD-ROM生産ラインをプレス向けに公開 歩留まりは「1層で85%、2層で80%程度」] - Impress AV Watch 2006年9月1日</ref>した。
* [[2006年]]
** 6月10日、松下電器産業はBD[[ディスクドライブ|ドライブ]](内蔵型の記録ドライブ単体)および片面2層構成、記憶容量50GBのBDを発売。同ドライブを内蔵したPCも6月から発売した。
** 6月、[[サムスン電子|サムスン]]はBD-ROMプレーヤをアメリカで発売。同時期にソニーピクチャーズは、LionsgateからBD-ROM映画ディスクを発売。日本でもアメリカのソフトを再生できるため{{Efn2|[[#リージョンコード|リージョンコード]]が同じであるため。}}、BD搭載PCを用意すればソフトが再生できる状況となった。
** 8月29日、国内の[[プログラム (コンピュータ)|ソフトウェア]]メーカー14社と[[ハードウェア]]メーカー5社が合同発表会を開催し、11月以降に75タイトル以上を発売することを発表した。国内第1号ソフトとして11月3日にワーナーやソニー・ピクチャーズ等から7タイトルが発売された。
** 10月14日、ソニーから世界初のBDドライブ搭載のノートPC、[[VAIO]] type Aが発売。
** 11月10日、20世紀FOXは世界初の2層50GBソフト、「[[キングダム・オブ・ヘブン]]」を日本で発売。
** 11月11日、[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]](現:ソニー・インタラクティブエンタテインメント)はBDプレイヤーを兼ねた家庭用ゲーム機「[[PlayStation 3]]」を日本で発売{{Efn2|後継の[[PlayStation 4]]もBD対応。}}。
** 11月15日、松下電器産業は、民生用BDレコーダーとして初めてBD-Videoの再生に対応した「[[DIGA|ブルーレイDIGA]]」DMR-BW200/BR100を発売。
* [[2007年]]
** 4月23日、業界最大の青紫色[[半導体レーザー]]月産170万個体制を確立<ref group="発表">[http://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press/200704/07-037/index.html 青紫色半導体レーザーの生産体制及びビジネスの強化]、Sony Japan プレスリリース 2007年4月23日</ref>、外販強化、コストダウンも進む。
** 5月15日 '''[[ドルビーTrueHD]]を採用した史上初の長編作品'''である[[Stomp the Yard]]が発売。
** 8月30日、中国の大手AV機器メーカである華録集団(CHLG)と台湾のPCメーカである[[エイサー (企業)|エイサー]]がBDAに加盟。華録集団は中国国内にオーサリングセンターを設立予定。エイサーはBDドライブ搭載ノートPCを製品化予定<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/20070831/bda.htm?ref=rss 中国華録集団とAcerがBlu-rayを支持。BDAに加盟 - 松下が中国におけるBDオーサリングを技術支援] - Impress AV Watch 2007年8月31日</ref>。
** 11月27日、Blu-ray Disc Associationは声明文で業界の販売データを引き合いに出しBlu-ray映画ディスクの販売本数が100万本を超えたこと、欧州向けに製造されたBlu-rayゲームディスクが2,100万本を突破したことを報告したとロイターが報道した<ref>[http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0711/28/news075.html 出典]{{リンク切れ|date=2021年7月}}</ref>。
** 12月4日、[[TSUTAYA]]等のビデオレンタル事業者、松下電器産業などのAV機器メーカー、[[20世紀フォックス]]などの映像ソフトメーカー、合計22社が「ブルーレイレンタル研究会」を設立。[[ゲオ]]などのビデオレンタル店13社(合計26店舗)で2008年2月29日まで試験的にBlu-ray Discビデオのレンタルを開始。レンタル価格はDVDビデオの新作と同額<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/20071204/bdrental.htm Blu-rayビデオの国内レンタルが4日よりスタート] - Impress AV Watch 2007年12月4日</ref>。なお最大手のTSUTAYAはこの試験に参加していない。
** 10月には[[エイベックス]]、11月に[[アスミック・エース]]、[[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン|ジェネオン]]{{Efn2|販売提携を結んでいるワーナーホームビデオ向けには先行供給している。}}がBD参入を発表している。
* [[2008年]]
** 1月、BD-ROMビデオのProfile 1.1(ピクチャーインピクチャーなどのインタラクティブ機能を実装)に準拠した初のタイトルとして『[[バイオハザード (映画)|バイオハザード]]』が北アメリカで発売された。
** 1月8日、アメリカで世界最大級の家電展示会「2008 International CES」が開催される。
*** International CESではBD-ROMのProfile 2.0に実装されるBD-Live(ネットワーク機能など)のデモが展示された。2008年内にソフトが発売され、対応プレーヤーの発売やPlayStation 3の対応ファームウェアも予定されている。
** 1月30日、[[EMIミュージック・ジャパン]]はBD参入を発表。
** 3月19日、[[TSUTAYA]]が全国の主要都市10店舗でBDソフトレンタル開始。
なお、2008年ごろから[[DTS-HDマスターオーディオ|DTS-HD]]マスターオーディオの対応が開始。
=== 規格争い終結後 ===
* 2008年
** 4月12日、[[ゲオ]]が全国約800店舗でBDソフトのレンタル開始<ref group="発表">[http://www.geonet.co.jp/news/documents/2681_20080317blu-rayrentaru.pdf ニュースリリース] - ゲオ 2008年3月17日</ref>。
** 6月11日、歌手の[[T.M.Revolution]]が世界初となるBlu-ray Discつきの[[CDシングル]]「[[resonance]]」を発売した。BDの内容映像は同曲の[[ビデオクリップ]]である。
** 7月15日、TSUTAYAが7月19日から1,339店舗全店(2008年7月15日当時)でBlu-ray Discレンタルサービスを開始すると発表<ref>[http://www.watch.impress.co.jp/av/docs/20080715/tsutaya.htm TSUTAYA、7月19日から全国1,339店舗でBlu-rayレンタル開始] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080719092645/http://www.watch.impress.co.jp/av/docs/20080715/tsutaya.htm |date=2008年7月19日 }} - AV watch 2008年7月15日</ref>。
* [[2009年]]
** 6月25日、東芝社長西田厚聰が今後のBlu-ray Discの展開に触れた発言を行う。株主総会にて「[[規格争い]]に負けたから一切やらないということではない」と発言<ref>[http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/25/news015.html 東芝・西田氏、Blu-rayは「負けたから一切やらないということではない」] - ITmedia News 2009年6月25日</ref>。
** 7月18日、東芝は、BD「再生専用機」の発売(2009年内)を発表した。再生専用機発売の理由は、海外では録画習慣が日本に比べて少ないこと、テレビ番組の[[インターネット]]配信が日本よりも普及し、日本で主流の録画再生機の需要増大が見込めないためとしていた。その一方で、「録画再生機」の発売も需要状況検討するとの姿勢も示していた。
** 8月10日、東芝はブルーレイディスクアソシエーションへの加盟を正式に申請した。今後は、BD対応の録画再生専用機「[[VARDIA]]」やBD対応のノートパソコン「[[dynabook (ブランド)|dynabook]]」/「[[Qosmio]]」の発売を目指す予定とした。
** 9月5日、東芝はBD再生機の欧米での発売を発表した。アメリカは11月、欧州は12月から。希望小売価格は、アメリカで249.99ドル(約2万3,000円)欧州では未定。日本を含むその他の地域での発売は未定であった。
** 10月30日、民生機として業界初のHDD・BDレコーダー一体型液晶テレビを三菱電機が発売した。「[[リアル (三菱電機)|REAL]]」2機種(LCD-37BHR300・32BHR300)。
** 12月17日、Blu-ray Disc Associationが、[[#Blu-ray 3D|Blu-ray 3D]]規格であるMPEG-4 MVCを規格策定した。
* [[2010年]]
** 2月中旬、[[東芝]]が[[船井電機]]の[[OEM]]でD-B1005K、D-BW1005K、D-B305Kの3機種を発売した。東芝のそれまでの製品構成は、[[HD DVDレコーダー|HD DVD]]、[[DVDレコーダー]]のみであった。
** 4月23日、[[Panasonic]]は、Blu-ray 3D再生対応機種、4機種(DMR-BWT1000・2000・3000、DMP-BDT900)を発売した。3D再生対応として民生機業界初。
** 6月25日、ブルーレイディスクアソシエーションが、記録容量を最大128Gバイトに拡大したBlu-ray Discの新フォーマット「[[#BDXL|BDXL]]」の最終仕様を決定した。BDXLは3層で100GバイトのRE(最大2倍速)およびR(最大4倍速)、4層128GバイトのR(最大4倍速)が規定された。現行Blu-ray Discの仕様を延長した規格のため、25Gバイト / 50Gバイトの従来規格のディスクも再生可能。
** 7月30日、シャープが「BDXL」規格に対応させた録画機「AQUOSブルーレイ」2機種と100GバイトのBD-R XL録画用ディスクの発売を開始。業界初の民生機。Panasonicも追従して9月に発売を開始した。これは既存発売機種への機能追加の製品であった。3D非対応機が2月発売済み機種、3D対応機が4月に発売済み機種、それぞれにブルーレイドライブをBDXL対応化させたものであった。
* [[2011年]]11月、大手メーカーが従来型DVDレコーダーの生産終了。
* [[2013年]]11月22日、マイクロソフトがBlu-ray Disc対応のゲーム機「[[Xbox One]]」を発売。マイクロソフトはXbox Oneの前モデルである「[[Xbox 360]]」にてHD DVDドライブユニットを発売していた。
* [[2015年]]
** [[5月11日]]、[[Ultra HD Blu-ray]]の規格(最大解像度3840x2160ピクセル、HDR、Digital Bridge、片面2層で66GB、片面3層で100GB)策定完了を発表<ref group="発表">[http://www.jp.blu-raydisc.com/wordpress/wp-content/uploads/2011/07/ブルーレイディスク-アソシエーション%E3%80%80Ultra-HD-Blu-rayTM規格策定と新ロゴを発表-2015年夏よりライセンス開始へ.pdf ブルーレイディスクアソシエーション UltraHDBlu-rayTM規格策定と新ロゴを発表 2015年夏よりライセンス開始へ]</ref>。
** 光ディスク市場の急速な縮小により、[[太陽誘電]]が本年をもって撤退。
** 12月末、TDKがBlu-rayディスクメディア(イメーションブランドと同社のLife On RecordブランドのBlu-ray Discを含むその他のディスクメディア全製品)からの完全撤退を発表{{Efn2|完全撤退に伴いBlu-rayディスクなどの記録メディアに関する新製品の開発と既存製品の追加製造自体は終了するが、TDKブランド製品の[[アフターサービス]]のみに関しては2020年12月末まで継続すると発表。}}した<ref group="発表">[http://www.tdk-media.jp/index.html TDKのLife On Recordブランドサイト]</ref>。
* [[2016年]][[8月2日]]、[[マイクロソフト]]がUltra HD Blu-ray対応のゲーム機「[[Xbox One|Xbox One S]]」を発売。
* [[2018年]][[11月10日]]、ソニーが世界初、4層128GBのBD-R XLメディアを開発・発売<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1148542.html ソニー、世界初の4層128GB BD-Rを11月発売。新4K衛星放送の録画訴求] - AV Watch 2018年10月18日</ref>。
* [[2020年]][[11月12日]]、[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント]]がUHD BD対応のゲーム機「[[PlayStation 5]]」{{Efn2|PlayStation 5 デジタル・エディションを除く。}}を発売。
* [[2023年]][[1月23日]]、パナソニックが同年2月末をもって、2006年に開始した録画用Blu-rayディスクの生産・出荷を完了すると発表<ref>{{Cite web|和書|title=パナソニック、録画用Blu-rayディスクを2023年2月に生産終了 |url=https://news.mynavi.jp/article/20230124-2573914/ |website=マイナビニュース |date=2023-01-24 |access-date=2023-01-24 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://panasonic.jp/media/products/info_230123.html |title=ブルーレイディスク生産終了のお知らせ(Panasonic) |access-date=2023/01/24}}</ref>。
== 備考 ==
* ほぼすべての規格のブルーレイから流れる映像はAACSによって保護されているが、(ハードウェア上の)ブルーレイプレイヤーのHDMI以外のアナログ映像出力端子を使用した場合はコピーガードを無視して映像をキャプチャできるリスクが存在した。そのため、[[Advanced Access Content System|AACS]]の規定変更により2011年ごろから発売されたブルーレイプレイヤーの新規モデルではHDMI以外でブルーレイを視聴する際に強制的に画質が[[480i]]になり、2013年6月以降に発売された新規モデルでは[[HDMI]]による映像出力以外でブルーレイを視聴できなくなった。
* '''AACSの都合から、すべてのブルーレイプレイヤーにはインターネット接続とディスクドライブ内部の記録媒体を必要とする'''。[[PlayStation 3]]以降のプレイステーションシリーズは本体OSのバージョンアップ、Xboxは「Blu-ray Disc」アプリケーションの更新でAACSの暗号鍵を更新する。暗号鍵の更新により、将来に発売されるすべてのビデオ用BD-ROMとの互換性を確保できる。なお、[[DVD]]プレイヤーにもリージョンコードを記録するためだけにドライブに記録媒体を入れる必要がある。
* BD-ROMを[[PlayStation 3]]~[[PlayStation 5]]の[[PlayStation]]シリーズに挿入すると、専用のジャケット画面が再生前のメニュー画面の項目に表示されることがある。ジャケットでは二枚組のディスクでない場合でも「DISC 1」の表記が付与されていることが多い。ジャケットの画像サイズはPS3の[[クロスメディアバー|XMB]]に基づいたものが多い。
* BD-ROMの[[レジューム]]再生はディスクによって対応が異なる。[[DVD]]と異なり、すべてのディスクにレジューム機能が実装された(実装できる)とは限らない。ディスクに途中まで再生したことをドライブに保存させるプログラムを追加することは可能である。
* [[DVD]]と異なり、規格上はブルーレイ再生中のメニュー画面でテレビの色ボタン、番号ボタンも使用が可能。
* BD-ROM再生直後は画面がかならず暗転し、ディスクごとに異なる専用のローディングアイコンが表示される。その後、プレイヤー上で再生アイコンが表示され、版権表示が行われる。
* 2023年時点でBD-LIVEを使ってボーナスコンテンツを遊べるBD-ROM作品は絶滅した。ただし、BD-LIVE用のサーバーはソニーではなく会社ごとに各自で管理する。
* ただし、現在でもBD-LIVE規格がごくわずかに使用されているため[[PlayStation 5]]や[[Xbox Series X/S|Xbox Series X]]でもBD-LIVE規格はいまだ実装されている。例としては'''[[20世紀フォックス]]製のブルーレイのうち2016年以降に製造されたもの'''があり、通常の[[Advanced Access Content System|AACS]]による暗号化解除に加え、本来の発売日より先にブルーレイの映像を見ることを防ぐためにオンライン認証が一度だけ行われる。この時にオンライン環境にブルーレイを再生するソフトウェアが接続できなかった場合やPC上のソフトウェアを使用してブルーレイを視聴する場合は、アクセスコードを手動で入力するよう求められることがある。<ref>{{Cite web |url=https://www.cyberlink.com/support/faq-content.do?id=15982 |title=What is the access code that is required to play some Fox Blu-Ray movies with CyberLink PowerDVD? |access-date=2023-05-23}}</ref>バージョンアップを正しく行ったゲーム機では、日付設定を変更してもこの処理が省略されることがある。
* BD-LIVEはUltra HD Blu-rayには存在しない規格。また、3D-Blurayに3D映像と通常の映像を同時に入れることができない。
* リージョンコードはDVD同様に存在する。[[PlayStation 3|PS3]]、[[PlayStation 4|PS4]]ゲームディスクもリージョンロックがソフトごとに異なる場合があっても[[リージョンコード]]は付与されている。しかし、[[Ultra HD Blu-ray]]やXbox One(Xbox Series X)規格のブルーレイにはリージョンコードが存在しない。
* ゲーム機におけるブルーレイディスクの対応は、まず2006年に誕生した[[PlayStation 3]]から始まり、Xboxは2013年に登場した[[Xbox One]]より対応。その後、PS5用ゲームのディスク規格は[[Ultra HD Blu-ray]]に変更されたものの、[[Xbox Series X/S|Xbox Series X]]専用のディスクは引き続きブルーレイである。ゲーム用ブルーレイは最大容量が二層50GBである。[[Wii U]]のゲーム用ディスクは独自規格である。
* [[PlayStation 3|PS3]]用BD-ROMはゲーム中も読み込みが続くため、よりゲームディスクが傷に弱い傾向にあり、[[グランツーリスモ6|Gran Turismo 6]]や[[グランド・セフト・オートV|Grand Theft Auto V]]ではディスクに目に見えないほど小さい傷がディスクにつくだけでデータインストールに失敗することが多い。PS4用BD-ROMでも同様にデータインストールに失敗するリスクがあるが、Xbox([[Xbox One]]以降)のディスクの場合はオンライン上からもすべてのゲームデータをインストールできることからこのリスクは低い。
* ディスクケースは[[DVD]]のようにメーカーごとに自由な色を使用する傾向がなく、青いケースに「Blu-ray disc」のロゴが描かれ、サイズもDVD用ケースよりも小さい専用のものを使用する傾向にある。[[Ultra HD Blu-ray]]ではケースが黒色になる傾向にある。ディスクケースの厚さはDVDよりも5mmほど薄くなったものが多い。
* BD-ROMは裏面が透明な青色であることから、「Blu-ray Disc」の名称と相性があり、知名度を広げることにつながった。しかし、現在のBD-RやBD-REの裏面は黄金色になる傾向にある。BD-RやBD-REに書き込みを行ったディスクの面は黒色になる。BD-REはよりディスクが黒い傾向にある。Ultra HD Blu-rayも同様に同じ青色であるが、ブルーレイと異なり三層ディスクも製造可能であり、製造工程を流用しやすいことから、本来一層で容量が収まるBD-ROMも二層で製造される傾向にある。(逆に、一層のUltra HD Blu-rayディスクは存在しない。)
* 2023年現在では、'''CD,DVD,Blu-ray Disc,Ultra HD Blu-rayすべてに対応するゲーム機は[[Xbox Series X/S|Xbox Series X]]、[[Xbox One]] S、Xbox One Xのみである'''。PCではUltra HD Blu-rayに対応することが難しくなっていることから、4k対応のレコーダー、およびプレーヤー、ゲーム機を選ぶことが最も好ましい。ただし、XboxはCPRMに対応していない。
* [[CPRM]]に対応したBD-R(BD-RE ver2.0以降)にテレビ放送を録画した場合、録画した番組のデータを全て劣化なく移植することが可能。例えば、字幕や多言語の音声、[[データ放送]]も同時にダビングできる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|30em}}
=== 出典 ===
==== 二次資料 ====
{{Reflist|30em}}
==== 一次資料 ====
{{Reflist|group="発表"|30em}}
== 関連項目 ==
* [[プレーヤーズゲーム]](BDPG)
* [[x264]](採用コーデック)
* [[RCA端子|RCA]]
* [[HVD]](後継規格候補)
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Blu-ray Disc}}
* {{Wayback|url=http://www.jp.blu-raydisc.com/|title=Blu-ray Disc Association Japan|date=20191015142730}}{{Ja icon}}
** {{Wayback|url=http://meister.blu-raydisc.com/jp/|title=BDA公認 ブルーレイディスク マイスター認定スペシャルサイト|date=20191207014218}}{{Ja icon}}
** [https://blu-raydisc.info/ Blu-ray Disc License Web Site]{{En icon}}
<!--* [https://aacsla.com/ AACS]{{En icon}}
* [https://www.hdmi.org/ HDMI]{{En icon}}-->
{{光ディスク}}
{{Video storage formats}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ふるうれいていすく}}
[[Category:Blu-ray Disc|*]]
[[Category:ビデオディスク]]
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3,771 | EPROM | EPROM (Erasable Programmable Read Only Memory)は、半導体メモリの一種で、デバイスの利用者が書き込み・消去可能なROMである。電源を切っても記憶内容が保持される不揮発性メモリの一種でもある。フローティングゲートMOSFETのアレイで構成されており、通常のデジタル回路よりも印加する電圧が高い専用機器を使って個々のMOSFETに書き込むことができる。データやプログラムの書き込みを行ったEPROMは、強い紫外線光を照射することでその記憶内容を消去できる。そのため、パッケージ中央上部に石英ガラスの窓があってシリコンチップが見えているので、容易にEPROMだとわかる。このようなEPROMを特にUV-EPROMと呼ぶこともある。
消去方式の異なるEEPROM(電気的に消去可能なPROM, Electrically Erasable PROM)などもある。コンピュータ制御機器の試作品や製品をはじめ、パソコンのBIOS ROMなど、多くの機器に搭載されている。近年は、フラッシュメモリに置き換わりつつある。
EPROMメモリセルの開発は、トランジスタのゲートの配線が壊れた集積回路を調査することから始まった。配線のない孤立したゲートに溜まった電荷により、その特性が変化したのである。EPROMは1971年にインテルのドブ・フローマン が発明し、1972年にアメリカ合衆国特許第3660189号を取得した。
EPROMで1ビットのデータが格納される場所は、1個の電界効果トランジスタである。それぞれの電界効果トランジスタは、デバイスの半導体本体中のチャネルで構成される。ソースとドレインはチャネルの両端に形成される。絶縁酸化層がチャネル上を覆い、伝導性(ケイ素またはアルミニウム)のゲート電極がその上に配置され、さらに分厚い酸化層がゲート電極の上に形成される。フローティングゲートには配線がなく集積回路内の他の部品とは繋がっておらず、周囲は酸化層によって完全に絶縁されている。コントロールゲートがその上に配置され、それをさらに酸化層で覆う。
EPROMからデータを読み出すには、EPROMのアドレスピンにアドレスを表す値を入力する。するとEPROM内でそれをデコードし、対応する1ワード(通常、8ビット)のメモリセルを出力バッファ増幅回路に接続する。ワード内の各ビットに対応するトランジスタがオン状態かオフ状態かによって1または0を示す。
電界効果トランジスタのスイッチング状態は、トランジスタのコントロールゲート上の電圧によって制御される。ゲートに電圧がかかっているとトランジスタ内に伝導経路ができ、スイッチがオンとなる。フローティングゲートに電荷を蓄えるとゲートに電圧をかけるのと同じ効果が得られ、それによってデータを記憶することができる。
データを書き込むには、アドレスを指定しつつ、トランジスタに通常よりも高い電圧を印加する。それによって電子のなだれ放出が起き、絶縁酸化物層を通過してゲート電極上に電荷を蓄積するのに十分なエネルギーが与えられる。高い電圧の印加をやめると、電荷が電極上に閉じ込められる。ゲートを取り囲む酸化ケイ素の層は絶縁値が高いため、蓄えられた電荷は簡単には漏れ出すことができず、データは数十年間保持できる。書き込み時の高電圧がシリコンにストレスを与えるため、書き換え可能な回数はおおよそ20回前後である。
EEPROMとは異なり、書き込みは電気的に何度も行えるというわけではない。トランジスタのアレイに格納されたデータを消去するには、ダイに直接紫外線(UV)をあてる。UV光の光子によって酸化ケイ素中で電離が発生し、フローティングゲートに蓄積された電荷が絶縁膜を通って拡散する。メモリアレイの一部のみ選択的に紫外線を当てるということはできないため、全メモリが同時に消去される。一般的な大きさのUVランプを使うと、消去には数分かかる。太陽光の場合数週間でメモリが消去され、室内の蛍光灯にさらした場合は消去に数年以上かかる。一般にEPROMを使用する回路にUVランプを組み込むことは実用的ではないため、内容を消去したいEPROMは装置から外される。遮光シールを貼って適切な取り扱いをすれば、十年単位で記憶を保持できると言われる。しかし、シールを貼らずにおくと、太陽光や蛍光灯の光に含まれる紫外線で短期のうちに内容が消えてしまう。また、動作中にカメラのフラッシュのような、強烈な光を浴びせると読み出し時に誤った値を出力する事がある。
石英ガラスの窓は高価だったため、廉価版のワンタイムPROM(OTP:One-Time Programmable ROM)として窓のないパッケージにダイを収めた製品も作られたが、これは消去ができないため一度書き込むと書き換えられない。また、こうすると消去機能のテストを省略できるため、そういった面でもコストが低減された。OTP版のEPROMやEPROM内蔵型マイクロコントローラが製造された。しかし、OTP EPROM は少量生産用途ではコストが問題とならないためEEPROMに徐々に置き換えられていき、大量生産用途ではフラッシュメモリに置き換えられていった。
EPROMは書き込まれた内容を約10年から20年保持するとされている。また、読み出し回数に制限はない。消去用の窓は太陽光などにさらされて内容が消去されることを防ぐため、不透明なシールを貼ってカバーする必要がある。古いPCのBIOSチップにEPROMを使っていることが多く、消去用の窓はそのBIOSを作ったメーカー名、BIOSのリビジョン、コピーライト表示などが書かれたシールで覆っていることが多かった。BIOSチップは消去窓のないEEPROMやフラッシュメモリに置き換えられているが、今でもそのようなラベルが貼ってあることが多い。
EPROMの消去は400nmより短い波長の光によって起きる。太陽光では1週間から3週間、室内の蛍光灯では3年ほど光を当て続けるとメモリの内容が消去されることになる。推奨される消去方法は、波長 253.7 nm で最低でも15WのUVランプを20から30分照射するというもので、ランプとEPROMの距離は約1インチ(2.54cm)とする。
X線でも記憶内容を消去でき、5×10 ( = 500 J/kg) ラド 以上のX線照射(商用のX線発生装置で容易に達成される量)で消去される。このとき石英ガラスの窓を必要としない。しかし、X線によって半導体が変質する可能性があるため、X線照射後にオーブンで焼きなましたり、詳細に検査する必要がある。そのため石英ガラスの窓を設ける方法が選択された。
EPROMは限度はあるが、何度も消去可能である。ゲートのまわりの酸化ケイ素には消去のたびにダメージが蓄積され、数千回の消去でチップの信頼性が低下する。EPROMの書き換えは他のメモリに比べると時間がかかる。集積度を高めると酸化絶縁層に紫外線が当たりにくくなるため、紫外線による消去が難しくなる。パッケージ内の小さなゴミでさえ、一部のメモリセルを消去するのを妨げることがある。
大量生産する場合はマスクROMが最もコストが低くなる。しかし、ICマスク層を格納するデータに従って設計するため、数週間の準備期間が必要となる。当初EPROMは大量生産用途には高価すぎて使えないと見られ、開発途中でしか使われないと見られていた。間もなく、少量生産ならEPROMでもコスト的に見合うことが判明し、ファームウェアを素早く更新できるという利点も判明した。なお、多品種少量生産向けに、パッケージの窓を廃して廉価なプラスチックモールドとし、ワンタイムPROM(OTP:One-Time Programmable ROM)とした製品もあったが、メモリチップ自体は普通のUV-EPROMであり、プログラミングにはUV-EPROM用のライタ等をそのまま流用できる。
EEPROMやフラッシュメモリが登場する以前、プログラム格納用EPROMを内蔵したマイクロコントローラも存在した。例えば、Intel 8048、Freescale 68HC11、PICマイクロコントローラの"C"バージョンなどがある。これらのマイクロコントローラにはやや高価な石英ガラスの窓付きのバージョンがあり、EPROMのように内蔵プログラムを消去できるのでプログラム開発・デバッグに便利だった。開発後の生産用に窓のない廉価版もあった。
EPROMはパッケージの大きさの面でも記憶容量の面でも様々なものがある。メーカーが異なっていても機種番号が同じものは、少なくとも読み出しに関しては互換性がある。ただし書き込み方法はメーカーによって微妙に異なる。
ほとんどのEPROMは、A9ピンに12Vを印加して "signature mode" にすると2バイトの識別データを読み出せる。ただしこれは普遍的ではないので、メーカーと機種を手動で確認してから、適切な書き込み手段を選択すべきである。
最初のEPROMはIntel 1702Aであり、これはP-MOS構造のため、負電圧が必要など、使いにくいものであった。その後、2716以降、5V単一電源になり、使いやすさが向上した。その後は、ピン配置の互換を出来るだけ保ちながら、容量を増やしたものが提供されている。
フローティングゲートからドレインにトンネル効果を利用して電子を引き抜くことにより、電気的な操作のみで消去を行うようにしたもの。EEPROMは回路基板に実装したままで書込み・消去ができる不揮発性メモリなので、利用時に書き換えが必要な用途、例えば機器の動作設定データや、利用者固有の情報を保存するのに適する。初期には容量が小さく、デバイスも高価であり、また書込み・消去の所要時間がRAMに比べて長かったが、フラッシュメモリの登場により改良され、広く普及した。 | [
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] | EPROMは、半導体メモリの一種で、デバイスの利用者が書き込み・消去可能なROMである。電源を切っても記憶内容が保持される不揮発性メモリの一種でもある。フローティングゲートMOSFETのアレイで構成されており、通常のデジタル回路よりも印加する電圧が高い専用機器を使って個々のMOSFETに書き込むことができる。データやプログラムの書き込みを行ったEPROMは、強い紫外線光を照射することでその記憶内容を消去できる。そのため、パッケージ中央上部に石英ガラスの窓があってシリコンチップが見えているので、容易にEPROMだとわかる。このようなEPROMを特にUV-EPROMと呼ぶこともある。 消去方式の異なるEEPROMなどもある。コンピュータ制御機器の試作品や製品をはじめ、パソコンのBIOS ROMなど、多くの機器に搭載されている。近年は、フラッシュメモリに置き換わりつつある。 | [[ファイル:Eprom.jpg|thumb|UV-EPROM。消去のために紫外線を通す石英ガラスの窓がある。]]
'''EPROM''' (Erasable Programmable Read Only Memory)は、[[半導体メモリ]]の一種で、デバイスの利用者が書き込み・消去可能な[[Read Only Memory|ROM]]である。電源を切っても記憶内容が保持される[[不揮発性メモリ]]の一種でもある。[[フローティングゲートMOSFET]]のアレイで構成されており、通常のデジタル回路よりも印加する電圧が高い専用機器を使って個々のMOSFETに書き込むことができる。データやプログラムの書き込みを行ったEPROMは、強い[[紫外線]]光を照射することでその記憶内容を消去できる。そのため、[[パッケージ (電子部品)|パッケージ]]中央上部に[[石英ガラス]]の窓があって[[ケイ素|シリコン]]チップが見えているので、容易にEPROMだとわかる。このようなEPROMを特に[[UV-EPROM]]と呼ぶこともある。
消去方式の異なる[[EEPROM]](電気的に消去可能なPROM, Electrically Erasable PROM)などもある。[[コンピュータ]]制御機器の試作品や製品をはじめ、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の[[Basic Input/Output System|BIOS ROM]]など、多くの機器に搭載されている。近年は、[[フラッシュメモリ]]に置き換わりつつある。
== 動作 ==
[[ファイル:Uv_prom.jpg|thumb|UV-EPROM (1994年製造)]]
[[ファイル:Floating gate transistor.png|thumb|フローティングゲートMOSFETの断面図]]
EPROMメモリセルの開発は、トランジスタのゲートの配線が壊れた集積回路を調査することから始まった。配線のない孤立したゲートに溜まった電荷により、その特性が変化したのである。EPROMは1971年に[[インテル]]の[[ドブ・フローマン]] が発明し、1972年にアメリカ合衆国特許第3660189号を取得した。
EPROMで1ビットのデータが格納される場所は、1個の[[電界効果トランジスタ]]である。それぞれの電界効果トランジスタは、デバイスの半導体本体中のチャネルで構成される。ソースとドレインはチャネルの両端に形成される。絶縁酸化層がチャネル上を覆い、伝導性(ケイ素またはアルミニウム)のゲート電極がその上に配置され、さらに分厚い酸化層がゲート電極の上に形成される。フローティングゲートには配線がなく集積回路内の他の部品とは繋がっておらず、周囲は酸化層によって完全に絶縁されている。コントロールゲートがその上に配置され、それをさらに酸化層で覆う<ref>Chih-Tang Sah ,'' Fundamentals of solid-state electronics '' World Scientific, 1991 ISBN 9810206372, page 639</ref>。
EPROMからデータを読み出すには、EPROMのアドレスピンにアドレスを表す値を入力する。するとEPROM内でそれをデコードし、対応する1ワード(通常、8ビット)のメモリセルを出力バッファ増幅回路に接続する。ワード内の各ビットに対応するトランジスタがオン状態かオフ状態かによって1または0を示す。
電界効果トランジスタのスイッチング状態は、トランジスタのコントロールゲート上の電圧によって制御される。ゲートに電圧がかかっているとトランジスタ内に伝導経路ができ、スイッチがオンとなる。フローティングゲートに電荷を蓄えるとゲートに電圧をかけるのと同じ効果が得られ、それによってデータを記憶することができる。
データを書き込むには、アドレスを指定しつつ、トランジスタに通常よりも高い電圧を印加する。それによって電子のなだれ放出が起き、絶縁酸化物層を通過してゲート電極上に電荷を蓄積するのに十分なエネルギーが与えられる。高い電圧の印加をやめると、電荷が電極上に閉じ込められる<ref>Vojin G. Oklobdzija, ''Digital Design and Fabrication'', CRC Press, 2008 ISBN 0849386020, page 5-14 through 5-17 </ref>。ゲートを取り囲む酸化ケイ素の層は絶縁値が高いため、蓄えられた電荷は簡単には漏れ出すことができず、データは数十年間保持できる。書き込み時の高電圧がシリコンにストレスを与えるため、書き換え可能な回数はおおよそ20回前後である。
[[EEPROM]]とは異なり、書き込みは電気的に何度も行えるというわけではない。トランジスタのアレイに格納されたデータを消去するには、[[ダイ (集積回路)|ダイ]]に直接[[紫外線]](UV)をあてる。UV光の光子によって酸化ケイ素中で電離が発生し、フローティングゲートに蓄積された電荷が絶縁膜を通って拡散する。メモリアレイの一部のみ選択的に紫外線を当てるということはできないため、全メモリが同時に消去される。一般的な大きさのUVランプを使うと、消去には数分かかる。太陽光の場合数週間でメモリが消去され、室内の[[蛍光灯]]にさらした場合は消去に数年以上かかる<ref> John E. Ayers ,''Digital integrated circuits: analysis and design'', CRC Press, 2004 , ISBN 084931951X, page 591 </ref>。一般にEPROMを使用する回路にUVランプを組み込むことは実用的ではないため、内容を消去したいEPROMは装置から外される。遮光シールを貼って適切な取り扱いをすれば、十年単位で記憶を保持できると言われる。しかし、シールを貼らずにおくと、[[太陽光]]や[[蛍光灯]]の光に含まれる紫外線で短期のうちに内容が消えてしまう。また、動作中に[[カメラ]]の[[エレクトロニックフラッシュ|フラッシュ]]のような、強烈な光を浴びせると読み出し時に誤った値を出力する事がある。
== 詳細 ==
石英ガラスの窓は高価だったため、廉価版の[[PROM#OTPROM|ワンタイムPROM]](OTP:One-Time Programmable ROM)として窓のないパッケージにダイを収めた製品も作られたが、これは消去ができないため一度書き込むと書き換えられない。また、こうすると消去機能のテストを省略できるため、そういった面でもコストが低減された。OTP版のEPROMやEPROM内蔵型マイクロコントローラが製造された。しかし、OTP EPROM は少量生産用途ではコストが問題とならないため[[EEPROM]]に徐々に置き換えられていき、大量生産用途では[[フラッシュメモリ]]に置き換えられていった。
EPROMは書き込まれた内容を約10年から20年保持するとされている<ref>[[:en:Paul Horowitz|Paul Horowitz]] and Winfield Hill, ''The Art of Electronics 2nd Ed. '' Cambridge University Press, Cambridge, 1989 ISBN 0521370957 page 817 </ref>。また、読み出し回数に制限はない。消去用の窓は太陽光などにさらされて内容が消去されることを防ぐため、不透明なシールを貼ってカバーする必要がある。古いPCの[[Basic Input/Output System|BIOS]]チップにEPROMを使っていることが多く、消去用の窓はそのBIOSを作ったメーカー名、BIOSのリビジョン、コピーライト表示などが書かれたシールで覆っていることが多かった。BIOSチップは消去窓のないEEPROMやフラッシュメモリに置き換えられているが、今でもそのようなラベルが貼ってあることが多い。
EPROMの消去は400[[ナノメートル|nm]]より短い波長の光によって起きる。太陽光では1週間から3週間、室内の蛍光灯では3年ほど光を当て続けるとメモリの内容が消去されることになる。推奨される消去方法は、波長 253.7 nm で最低でも15WのUVランプを20から30分照射するというもので、ランプとEPROMの距離は約1インチ(2.54cm)とする。
[[X線]]でも記憶内容を消去でき、5×10<sup>4</sup> ( = 500 [[ジュール|J]]/kg) [[ラド]] 以上のX線照射(商用のX線発生装置で容易に達成される量)で消去される<ref>May 10, 1971 issue of [[:en:Electronics (magazine)|Electronics Magazine]] in an article written by Dov Frohman</ref>。このとき石英ガラスの窓を必要としない。しかし、X線によって半導体が変質する可能性があるため、X線照射後にオーブンで焼きなましたり、詳細に検査する必要がある。そのため石英ガラスの窓を設ける方法が選択された<ref name="jmargolin_com-eprom">{{Cite web|title=eprom|url= http://www.jmargolin.com/patents/eprom.htm |accessdate=2011-03-21}} 090508 jmargolin.com</ref>。
EPROMは限度はあるが、何度も消去可能である。ゲートのまわりの酸化ケイ素には消去のたびにダメージが蓄積され、数千回の消去でチップの信頼性が低下する。EPROMの書き換えは他のメモリに比べると時間がかかる。集積度を高めると酸化絶縁層に紫外線が当たりにくくなるため、紫外線による消去が難しくなる。パッケージ内の小さなゴミでさえ、一部のメモリセルを消去するのを妨げることがある<ref> Sah 1991 page 640 </ref>。
== 用途 ==
大量生産する場合は[[マスクROM]]が最もコストが低くなる。しかし、ICマスク層を格納するデータに従って設計するため、数週間の準備期間が必要となる。当初EPROMは大量生産用途には高価すぎて使えないと見られ、開発途中でしか使われないと見られていた。間もなく、少量生産ならEPROMでもコスト的に見合うことが判明し、[[ファームウェア]]を素早く更新できるという利点も判明した。なお、多品種少量生産向けに、パッケージの窓を廃して廉価なプラスチックモールドとし、[[PROM#OTPROM|ワンタイムPROM]](OTP:One-Time Programmable ROM)とした製品もあったが、メモリチップ自体は普通のUV-EPROMであり、プログラミングにはUV-EPROM用のライタ等をそのまま流用できる。
[[EEPROM]]や[[フラッシュメモリ]]が登場する以前、プログラム格納用EPROMを内蔵した[[マイクロコントローラ]]も存在した。例えば、[[Intel 8048]]、[[Freescale 68HC11]]、[[PIC (コントローラ)|PICマイクロコントローラ]]の"C"バージョンなどがある。これらのマイクロコントローラにはやや高価な石英ガラスの窓付きのバージョンがあり、EPROMのように内蔵プログラムを消去できるのでプログラム開発・デバッグに便利だった。開発後の生産用に窓のない廉価版もあった。
== EPROM の容量と機種 ==
EPROMはパッケージの大きさの面でも記憶容量の面でも様々なものがある。メーカーが異なっていても機種番号が同じものは、少なくとも読み出しに関しては互換性がある。ただし書き込み方法はメーカーによって微妙に異なる。
ほとんどのEPROMは、A9ピンに12Vを印加して "signature mode" にすると2バイトの識別データを読み出せる。ただしこれは普遍的ではないので、メーカーと機種を手動で確認してから、適切な書き込み手段を選択すべきである<ref name = "Silicon Signature"> {{Cite book| editor = U.S. International Trade Commission | title = Certain EPROM, EEPROM, Flash Memory and Flash Microcontroller Semiconductor Devices and Products Containing Same, Inv. 337-TA-395 | publisher = Diane Publishing | date = October 1998 | pages = 51–72 | url = https://books.google.co.jp/books?id=fkd0fwh9N2UC&pg=PA51&redir_esc=y&hl=ja | isbn = 1428957219}} The details of SEEQ's Silicon Signature method of a device programmer reading an EPROM's ID.</ref>。
最初のEPROMはIntel 1702Aであり、これはP-MOS構造のため、負電圧が必要など、使いにくいものであった。その後、2716以降、5V単一電源になり、使いやすさが向上した。その後は、ピン配置の互換を出来るだけ保ちながら、容量を増やしたものが提供されている。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
! EPROMの機種 !! 容量 — [[ビット]]数 !! 容量 — [[バイト (情報)|バイト]]数 !! 容量 - [[十六進法|16進]] !! 最終アドレス([[十六進法|16進]])
|-
| 1702, 1702A || 2 [[キロビット|Kbit]] || 256 || 100 || FF
|-
| 2704 || 4 Kbit || 512 || 200 || 1FF
|-
| 2708 || 8 Kbit || 1 [[キロバイト|KB]] || 400 || 3FF
|-
| 2716, 27C16 || 16 Kbit || 2 KB || 800 || 7FF
|-
| 2732, 27C32 || 32 Kbit || 4 KB || 1000 || FFF
|-
| 2764, 27C64 || 64 Kbit || 8 KB || 2000 || 1FFF
|-
| 27128, 27C128 || 128 Kbit || 16 KB || 4000 || 3FFF
|-
| 27256, 27C256 || 256 Kbit || 32 KB || 8000 || 7FFF
|-
| 27512, 27C512 || 512 Kbit || 64 KB || 10000 || FFFF
|-
| 27C010, 27C100 || 1 [[メガビット|Mbit]] || 128 KB || 20000 || 1FFFF
|-
| 27C020 || 2 Mbit || 256 KB || 40000 || 3FFFF
|-
| 27C040, 27C400 || 4 Mbit || 512 KB || 80000 || 7FFFF
|-
| 27C080 || 8 Mbit || 1 [[メガバイト|MB]] || 100000 || FFFFF
|-
| 27C160 || 16 Mbit || 2 MB || 200000 || 1FFFFF
|-
| 27C320 || 32 Mbit || 4 MB || 400000 || 3FFFFF
|}
<ref group="注釈">1702 EPROM は[[:en:PMOS logic|PMOS]]、27xシリーズのEPROMで名称に "C" とあるものは[[CMOS]]ベースで、"C"がないものは[[:en:NMOS logic|NMOS]]である。</ref>
== ギャラリー ==
<gallery>
ファイル:EPROMdie.jpg|EPROMのダイのクローズアップ
image:ST Microelectronics M27C256B (2006).jpg|32KB (256Kbit) EPROM
image:Eprom60x.jpg|60倍にクローズアップしたEPROM
image:NEC D8749HD.png|[[Intel 8048|8749]] [[マイクロコントローラ]]。内蔵EPROMにプログラムを格納する。
</gallery>
== EEPROM ==
{{Main|EEPROM}}
フローティングゲートからドレインに[[トンネル効果]]を利用して電子を引き抜くことにより、電気的な操作のみで消去を行うようにしたもの。EEPROMは回路基板に実装したままで書込み・消去ができる[[不揮発性メモリ]]なので、利用時に書き換えが必要な用途、例えば機器の動作設定データや、利用者固有の情報を保存するのに適する。初期には容量が小さく、デバイスも高価であり、また書込み・消去の所要時間が[[Random Access Memory|RAM]]に比べて長かったが、[[フラッシュメモリ]]の登場により改良され、広く普及した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ROMプログラマ]](ROMライタ)
* [[マスクROM]]
* [[PROM]]
* [[EEPROM]]
* [[フラッシュメモリ]]
==外部リンク==
* [http://www.progshop.com/shop/electronic/eprom-programming.html Detailed information about EPROMs types and EPROM programming]
{{半導体メモリ}}
{{Normdaten}}
[[Category:半導体メモリ]]
[[Category:不揮発性メモリ]]
[[Category:集積回路]] | null | 2023-06-20T06:43:39Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/EPROM |
3,772 | ML | ML, mL, ml | [
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}
] | ML, mL, ml | {{TOCright}}
'''ML''', '''mL''', '''ml'''
== 記号・単位 ==
* '''mL''', '''ml''' - [[ミリリットル]] ({{fr|millilitre}})
* '''Ml''', <math>M_\text{L}</math> - [[ローカル・マグニチュード]] ({{en|local magnitude}})。リヒター・マグニチュード、リヒター・スケールとも。
== 正式名称 ==
* [[ML (プログラミング言語)]]
== 略語・略称 ==
=== 一般名詞・術語 ===
* [[機械学習]] ({{en|machine learning}})
* [[メーリングリスト]] ({{en|mailing list}})
* [[悪性リンパ腫]] ({{en|malignant lymphoma}})
* [[マークアップ言語]] ({{en|Markup Language}})
* [[最尤法]] ({{en|maximum likelihood}})
* [[マルクス・レーニン主義]] ({{en|Marxism‐Leninism}})。ML主義、[[共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派|ML派]]など。
* [[中世ラテン語]] ({{en|Medieval Latin}})
* [[メンズラブ]] ({{interlang|en|Men's Love }})
* [[機雷敷設艦]] ({{en|mine layer}})
=== 固有名詞 ===
* [[ムーンライト (列車)|ムーンライト]] - [[JR]]の[[夜行列車]]
* [[スカイライナー|モーニングライナー]] - [[京成電鉄]]の列車
* [[メリルリンチ]] ({{en|Merrill Lynch}})
* [[マーメイドラグーン]] ({{en|Mermaid Lagoon}}) - [[東京ディズニーシー]]のテーマポート
* [[群馬テレビ]] (JOML-DTV)
== コード・形式名 ==
* [[国際標準化機構]]の[[国名コード]]([[ISO 3166-1]] alpha-2)で、'''[[マリ共和国]]'''を示す。
* [[国際標準化機構]]の[[ISO 639|言語コード]](ISO 639-1)で、'''[[マラヤーラム語]]'''を示す。
* 日本の[[無線局免許手続規則]]に基づく[[無線局の種別コード]]で、[[陸上移動局]]を示す。
* [[メルセデス・ベンツ・Mクラス|MLクラス]] - [[メルセデス・ベンツ]]の車種。
== 他の記号等を付して用いるもの ==
* '''[[.ml]]''' - [[マリ共和国]]の[[国別コードトップレベルドメイン]](ccTLD)
== 各言語・表記での用法 ==
* [[ローマ数字]]で[[1050]]を示す。
== 関連項目 ==
* [[ラテン文字のアルファベット二文字組み合わせの一覧]]
* [[特別:Prefixindex/ML|MLで始まる記事の一覧]]
* [[特別:Prefixindex/Ml|Ml, mlで始まる記事の一覧]]
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3,775 | ヒンドゥー教 | ヒンドゥー教(ヒンドゥーきょう、ヒンドゥーイズム、英: Hinduism、ヒンディー語: हिन्दू धर्म、サンスクリット語: सनातनधर्मः)、慣用表記でヒンズー教、ヒンヅー教、ヒンド教、ヒンドゥ教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教、またはインド的伝統を指す。西欧で作られた用語である。ヒンドゥー教徒の数はインド国内で10億人、その他の国の信者を合わせると約11億人以上とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目の宗教である。
「ヒンドゥー」 Hindu の語源は、サンスクリットでインダス川を意味する sindhu に対応するペルシア語。「(ペルシアから見て)インダス川対岸に住む人々」の意味で用いられ、西欧に伝わり、インドに逆輸入され定着した。同じ語がギリシアを経由して西欧に伝わって India となり、こちらもインドに逆輸入されて定着した。漢訳では「身毒」「印度」と表記され、唐代にインドへ旅した仏教僧玄奘による「印度」が定着している。インドが植民地化された時代にイギリス領インド帝国を支配した大英帝国側が、インド土着の民族宗教を包括的に示す名称として採用したことから、この呼称が広まった。そのため、英語のHinduは、まずイスラム教徒(ムスリム)との対比において用いられるのが現在では一般的で、イスラム教徒以外で小宗派を除いた、インドで5億人を超えるような多数派である、インド的な複数の有神教宗派の教徒の総称である。
同じくヒンドゥー教と訳される英語のHinduismは、最も広い意味・用法ではインドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれていて、インドの歴史では先史文明のインダス文明まで遡るものであるが、一般的には、アーリア民族のインド定住以後、現代まで連続するインド的伝統を指す。このうち仏教以前に存在した宗教をバラモン教(Brahmanism)、特にヴェーダ時代の宗教思想をヴェーダの宗教(Vedic Religion)と呼ぶこともあるが、これは西欧で作られた呼び名である。インド哲学研究者の川崎信定は、これらの用法は、日本の漢訳仏典の中の仏教・内道に対応する婆羅門教(ばらもんきょう)の用法に対応していると言える、と述べている。
ヒンドゥー教を狭い意味で用いる場合、仏教興隆以後発達して有力になったもので、とくに中世・近世以後の大衆宗教運動としてのシヴァ教徒、ヴィシュヌ教徒などの有神的民衆宗教を意識しての呼び方であることが多い。
日本では慣用表記ではヒンズー教、ヒンド教、一般的にはヒンドゥー教と呼ばれるが、時にインド教と呼ばれることもある。中国、韓国でも「印度教」と呼ばれるが、現在のインドは世俗国家であり国教はなく、インド憲法では信教の自由が規定されておりインドでこのように呼ばれることはない。
狭い意味でのヒンドゥー教は、バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。紀元前2000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵入した。彼らは前1500年頃ヴェーダを成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。
紀元前5世紀頃に政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。その結果、バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く(バラモン教もヒンドゥー教に含む考えもある)。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった。その後、インドの民族宗教として民衆に信仰され続けてきた。
神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)や職業(ジャーティ)までを含んだカースト制等を特徴とする宗教である。
三神一体(トリムールティ)とよばれる近世の教義では、中心となる3大神、すなわち
は一体をなすとされている。 しかし現在では、ブラフマー神を信仰する人は減り、ヴィシュヌ神とシヴァ神が二大神として並び称され、多くの信者がいる。ヴィシュヌ神を信仰する派をヴィシュヌ教、またシヴァ神を信仰する派をシヴァ教と呼ぶ。
ヒンドゥー教の神や祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教に影響を与えている。以下にヒンドゥー教の特徴を解説する。
インド国内の広義の定義においては、「ヒンドゥー教」にはキリスト教やイスラム教などインド以外の地域で発祥した特定宗教以外の全ての宗教が相当する。一例として、インドにおいて仏教はヒンドゥー教の一派とされる。インド憲法25条では、(ヒンドゥー教から分派したと考えられる)シク教、ジャイナ教、仏教を信仰する人も広義のヒンドゥーとして扱われている。
ヒンドゥー教には極めて様々な信仰、霊性や風習が包括され、かつ体系化されている。一方でキリスト教に見られるような教会制度や宗教的権威は存在せず、また預言者も居なければ纏まった形の共通の聖典も存在しない。よってヒンドゥー教徒は多神教、汎神論、一神教、不可知論、無神論、ヒューマニズムを自身の思想として自由に選ぶことができる。ヒンドゥー教の包含する信仰、思想、真理は広範で、そのため「ヒンドゥー教」に包括的な定義を与えることは困難である。これまでにも、1つの宗教である、1つの風習である、信仰の集合である、生活様式である、と言った具合に様々に定義されてきた。西洋の言葉上の観点からはヒンドゥー教は、例えばキリスト教等と同様に1つの宗教であるとされているが、インドでは「ダルマ」(dharma)という語が好まれる。この語はいわゆる「宗教」よりも意味が広い。特にヒンドゥー教の伝統主義者はサナータナ・ダルマ(Sanatana Dharma、永遠の、あるいは古代のダルマの意)という語を好む。
インド、インドの文化、インドの宗教に関する研究、そしてヒンドゥー教の定義は、植民地主義の利益を目的とし、西洋の持つ「宗教」という概念の枠組みから行われてきた。1990年以降はこれら西洋のもたらした影響や、それによって生じた変化などがヒンドゥー教の研究者の間でも議題に挙がるようになり、それは西洋的視点に対する批判へと引き継がれている。
3大神はそれぞれ神妃をもち、夫婦共に多様な化身を有する。
3大神は、信者個人の信仰においては並立しているわけではない。たとえば「シヴァ神」を最高神と崇める人にとって、「ヴィシュヌ神」は劣位ではあるが敬うべき神である。また神話の中で3大神の化身と共に活躍する神や、3大神の子神も信仰されている。
インドの国立博物館にヒンドゥー教の神々の多様な神像が収蔵・展示されている。
四住期(アーシュラマ)とはヒンドゥー教独特の概念で、最終目標の解脱に向かって人生を4つの住期に分け、それぞれの段階ごとに異なる目標と義務を設定したもの。なお四住期は、上位ヴァルナのバラモン、クシャトリア、ヴァイシャにのみ適用され、エーカージャ(一生族)であるシュードラ及び女性には適用されない。四住期について概略を示す。
過去においても現在でも、全てのヒンドゥー教徒が四住期を全うするわけではない。ちなみに仏教の開祖釈迦も当時のバラモン教の教えに従い、四住期に則った人生を送っている。即ち男子をもうけた後、29歳で釈迦族の王族の地位を捨て林間で修行をし、その後悟りを開いて布教の旅に出ている。
ヒンドゥー教の特徴のなかで、カースト制度の存在が大きい。カーストは歴史的に基本的な分類(ヴァルナ)が4つ成立し、その下に職業を世襲するジャーティ(生まれ・出生)と呼ばれる社会集団が形成されて、例えば「牛飼い」や「大工」や「床屋」などの職業が世襲されてきた。結果としてインドには非常に多くのカーストが存在する。カーストは親から受け継がれるだけで、生まれた後にカーストを変えることはできない。ただし、現在の人生の結果によって次の生などの生で高いカーストに上がることができるという。現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。
基本的な4つのカースト(ヴァルナ)とカースト外の身分には、以下のものがある。
他宗教から改宗してヒンドゥー教徒になることは可能である。しかし、そこにはカースト制がある。カーストは親から受け継がれ、カーストを変えることが出来ない。カーストは職業や身分を定める。他の宗教から改宗した場合は最下位のカーストであるシュードラにしか入ることができない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、次の生まれ変わりで上のカーストに生まれるしか方法はないと経典には記されているのが特徴である。そのため改宗による移動を行えないという点がある。
ヒンドゥー教からイスラム教や仏教へと改宗する場合は、下位のカーストの者が差別から抜け出すためであることが多い。しかし、皮肉にもイスラム教徒や、パキスタン人の間にも若干のカースト意識は有ると言われている。カーストはヒンドゥーに限らず、イスラム教徒や仏教徒なども含めた全インド文化に共通する意識であるとも言える。
ヒンドゥー教では河川崇拝が顕著であり、水を使った沐浴の儀式が重要視されている。特にガンジス川(ガンガー)は川の水そのものがシヴァ神の身体を伝って流れ出て来た聖水とされ、川自体も女神ガンガーであるため「母なる川ガンジス」として河川崇拝の中心となっている。ガンジス川添いには沐浴場(ガート)が設けられた聖地が点在する。ヒンドゥー教徒は、沐浴場に設けられた石の階段を下りて川の水に頭までつかって罪を清め、あるいは水を飲む。
ヒンドゥー教は不殺生を旨とし、そのため肉食を忌避するので菜食主義の人が多い。しかし、身分やしきたりによってその度合いが異なる。一般的な菜食は植物に加えて鶏卵も可とする人と、鶏卵を不可とする人がいる。また上位カースト階級には、収穫の際に地中の生物を殺す惧れのあるタマネギなどの根菜類を不可とする人もいる。いずれの場合も牛乳および乳製品は良く食べられる。ところが宗派によっては祭りに際し犠牲獣を供することがある。その際、宗教儀式にしたがって神に捧げられたヤギなどの犠牲獣の肉を「お下がり」として食べる場合もある。しかし、どのような場合においても牛、特に瘤牛は神話にも出てくる聖獣で絶対に食べない。一方、同じ牛でも水牛は次々と姿を変える悪魔マヒシャの化身の一つであることから、コブ牛との扱いには差があり、家畜として使役され、その肉は輸出品にされている。
ヒンドゥー社会において牛は崇拝の対象となっている。ヒンドゥー教徒でインド思想研究者のベンガル人クシティモハン・センは、民衆ヒンドゥー教における牛の神聖視の起源は、全くわからないと述べている。神話にも牛が度々登場し、たとえばシヴァ神の乗り物はナンディンという牡牛である。実社会でも牡牛は移動、運搬、農耕に用いられ、牝牛は牛乳を供し、乾燥させた牛糞は貴重な燃料(牛糞ケーキ)となる。ただし聖別されているのは主として瘤牛であり、水牛は崇拝の対象とはならない。
ヒンドゥー神学では、牛の神聖性は輪廻と結びついている。ヒンドゥー教の輪廻の考え方は上下87段の階梯構造となっているが、最上段の人間に輪廻する1つ前の段階が牛であり、牛を殺した者は輪廻の階梯の最下段からやり直さなくてはならなくなると言われる。また、ヒンドゥー神学者は牛には3億3千万の神々が宿るとし、牛に仕え、牛に祈ることはその後21世代に渡ってニルヴァーナをもたらすという。
民衆の牛への崇拝はインド大反乱のきっかけとなったとも言われ、マハトマ・ガンディーが牛への帰依心を言及したことも、彼が民衆から聖人のような名声を得る理由の一つとなっている。
ヒンドゥー教の修行としてヨーガが挙げられる。ヨーガは『心身の鍛錬によって肉体を制御し、精神を統一して人生究極の目的である「解脱」に至ろうとする伝統的宗教的行法のひとつである』。ヨーガはヒンドゥー教の専有物ではなく、インドの諸宗教で実践されており、仏教に取り入れられたヨーガの行法は中国・日本の禅宗などの修行法にもつながっている。
ヴェーダの権威を受け入れ、ブラーフマナ(バラモン、司祭)階級の社会的階層の優位を容認する諸学派は「正統バラモン教」と認められ、その6系統のうちヨーガ学派は、心身を鍛錬しヨーガの修行で精神統一を図ることで、解脱に達することを説いた。正統バラモン教の各学派も、その学派の教学を学ぶことと並行して、ヨーガの修行を行っている。ヨーガ学派に代表される古典ヨーガの沈思瞑想による修行法は、4-5世紀頃に編纂されたといわれるヨーガ学派の教典である『ヨーガ・スートラ』にも書かれている。
また身体を鍛錬するヨーガは、13世紀に始まる「ハタ・ヨーガ」と呼ばれる流派がある。「現代ヨーガの父」と呼ばれるティルマライ・クリシュナマチャーリヤ(英語版)(1888年 - 1989年)らによって、体操などの西洋身体文化をもとに作られたヨーガも、伝統的なハタ・ヨーガに倣って「ハタ・ヨーガ」と呼ばれるが、古典ヨーガとも元来のハタ・ヨーガとも関係は薄いという。現在日本で行われている「ヨーガ教室」等の多くはこの流派に入る。
ヒンドゥー教で重要な位置を占めているのが、グル(サンスクリット語で「重いもの」「闇から光へ導くもの」「木星」「導師」という意味)である。グルはヨーガの修行を成就するにあたって、必要不可欠なものとされ、尊敬と崇拝を集めている。
『マヌ法典』では、女性はどのヴァルナ(身分)であっても、入門式(ウパナヤナ)を受けてヴェーダを学ぶ男子として「再生」するドヴィジャ(二度生まれる者、再生族)ではなく、入門式を受けられず一度生まれるだけのエーカージャ(一生族)とされていたシュードラ(隷民)と同等視され、女性は再生族である夫と食事を共にすることはなく、祭祀を主催したり、マントラを唱えることも禁止されていた。解脱を目指して修行するヨーガ行者も男性である。
少女、若い婦人、あるいは老女すらも、何事をも独立になすべきではない。たとい、家庭内においても。婦人は幼児期にはその父に、若いときはその夫に、夫が死亡したときには、その息子に従うべきである。婦人は独立性を得るべきではない。マントラ(真言)で浄化されて結婚する夫は、その妻に、妊娠に適する時期においても、適さない時期においても、現世においても、また来世においても常に幸福を与えるであろう。行状が悪く、あるいは放縦、あるいは美徳を欠いているとしても、貞節な妻は、夫を常に神のように尊敬すべきである。(『マヌの法典』)
ヒンドゥー教の解脱や浄性に関する価値観において女性の位置づけは低く、一般的に無知で不浄で社会的にも霊的にも劣っていると考えられてきた。とはいえ、女神信仰やシャクティ思想には女性性への強い崇拝が見られ、女性がいかなる信仰・思想でも例外なく劣位であったとも言い難い。『リグ・ヴェーダ』では家庭で妻が神事を司るよう説かれ、『マハーバーラタ』では妻が神を祭るのに適しているとされた。『ウパニシャッド』には、最も高度な討論で女性が主導権を握る例が複数あり、『マハーバーラタ』の王であり勇ましい女戦士チトラーンガダの物語など、ヒンドゥー教の聖典・古典が例外なく女性に対して抑圧的なわけではない。
中世に女性は家事に専念することが求められるようになり、社会的地位はかなり悪化した。これがイスラム教や中東地域の習慣の影響なのか、インドのヒンドゥー教社会内部の変化によるものなのか、明確にはわからない。社会的地位にしろ、価値にしろ、近代インドにおいてヒンドゥー教とイスラム教の女性に差はなく、両者とも社会的にも経済的にも完全に男性に依存していた。
伝統的な価値観において、妻や母としての女性の役割はしばしば称賛されたが、個人としての女性の社会的地位は極めて低かった。夫との関係性以外に個性は全く認められず、夫の付属物として扱われ、従属を名誉として受け入れるよう教えられ、生まれ持った才能や望みを表現する手段はなかった。ホールカル家当主としてインドール藩王国を統治した女性アヒリヤー・バーイー・ホールカルなど政治の場で活躍した個性的な女性もいたが、例外であり、全体を変えることはなかった。上流階級の女性が屋外で働くことはタブーであり、北インドでは女性を隔離するパルダ制度の下で生活した。農村の女性にはパルダ制度はなく、男性と共に野良仕事をしていたため、上流階級の女性より相対的に自由で、男性に対する地位も高かった。
女性としての規範通りに生きれば、良き母良き娘として尊敬され、戦争や混乱の中でも、女性は乱暴されることもなく、丁重に扱われ、人混みの激しい場所に一人で出かけても危険はなかったという。
ヒンドゥー教の立法者達は妻の地位をかなり制限しており、一般的に女性の財産所有権は否定されていた。
後代の立法者達は、男性のみに高等教育を受ける権利を認めようとし、ほとんどの女性に教育を受ける権利はなかった。
19世紀に、イギリスの支配から脱しようと様々な社会運動が行われるようになると、西洋の平等や個人主義の理念の影響を受け、女性の地位改善も叫ばれるようになり、20世紀になると、急進的な民族運動の台頭でさらに運動は活発化した。インドが独立すると、インド憲法で男女の完全な平等が保証された。男女の不平等は多くの形で残されているが、両性の平等に向けた運動が続けられている。
幼児婚が全国的に見られ、7、8歳、時に3、4歳で結婚する女性もいた。結婚は全て家長が決定し、同じジャーティ(カースト)の内部で結婚する。少年少女の自由な交流は禁じられていた。近世インドは基本的に家父長制であり、家族を年長の男子が支配し、男系相続だった。ケーララ地域に例外的に母系制がみられた。
イギリスからの独立まで一夫多妻が許されていたが、裕福なもの以外は一夫一婦制が普通だった。一妻多夫は厳禁とされていた。
上流階級では、結婚には莫大な持参金(ダウリー)を持たせる習慣が広くあり、ラージプータナーやベンガル地域で特に行われていた。
高カーストの女性は再婚が許されなかった。一方、男性と共に野良仕事をする農村の女性は、多くが再婚の権利を持っていた。寡婦の生活は悲惨なもので、禁欲的で厳しい規則に縛られ、現世の幸福を全て捨て、亡き夫の家族や自分の兄弟の家族に滅私奉公することが求められた。夫が死亡した場合に、妻が夫の遺体と共に焼かれ殉死するサティーという儀礼があり、これはラージプータナー、ベンガル地方その他の北部インドを中心に行われていた。
ヒンドゥー教はキリスト教やイスラム教のような、特定の開祖によって開かれたものではなく、インダス文明の時代からインド及びその周辺に居住する住民の信仰が受け継がれ時代に従って変化したものと考えられている。したがってヒンドゥー教がいつ始まったかについては見解が分かれている。
インダス文明(紀元前2,300年 - 1,800年)のハラッパーから出土した印章には、現代のシヴァ神崇拝につながる結跏趺坐した行者の絵や、シヴァ神に豊穣を願うリンガ崇拝につながる直立した男性器を示す絵が見られる。しかしインダス文字は解読できていないので、後代との明確な関係は不明である。
ヴェーダは「知る」という意味のサンスクリット語に由来し、宗教的知識を意味する。さらには、その知識を集成した聖典類の総称となっている。最も古い『リグ・ヴェーダ』は紀元前1,200年から1,000年頃にインド北西部のパンジャブ地方でアーリヤ人によって成立したと考えられている。ヴェーダの内容は下記のように分類されるが、狭義にはサンヒターのみを指す。
リグ・ヴェーダには登場する神々の多くは、自然界の構成要素や諸現象、その背後にあると思われた神秘的な力を神格化したものである。多数の神が登場するが、その中で重要なのは雷神インドラ(日本では帝釈天)、アグニ(火の神)、ヴァルナであった。現在では前述のヴィシュヌ神等に押されて影が薄い。
『リグ・ヴェーダ』に登場する神々は、各々が独立した個性を有しているわけではなく、属性や事績を共有することが多い。また狭義のヒンドゥー教で見られる人格神的な形態を取らず、神像や恒久的な寺院建造物の存在も確たる証拠は見つかっていない。バラモン教の祭祀は具体的な目的に対して行われ、バラモンが規定に則って空き地を清め、そこに目的に応じた特定の神を招き、供物や犠牲を祭壇の火炉に捧げる「供犠」が主体であった。
現在のヒンドゥー哲学の基本となる「因果応報」「霊魂不滅」「輪廻」などの諸観念の淵源は、ウパニシャッドが完成した頃まで遡ることができる。ウパニシャッドは紀元前800 - 500年頃にガンジス川流域で作られたインド古代哲学の総称である。なおヴェーダに登場するヴィシュヴァカルマン神(造物や工巧の神)は、現在でも物造りの神様として、インドの各工場で祀られている。現在この神の祭りは毎年9月17日に行われている。
バラモン教は、インドを支配するアーリア人の祭司階級バラモンによる祭儀を重要視する宗教を指す。紀元前5世紀頃に、バラモン教の祭儀重視に批判的な仏教とジャイナ教が成立した。
更にインド北西部は紀元前520年ころにはアケメネス朝ペルシア、前326年にはアレクサンドロス大王に支配された。その後仏教はアショーカ王(在位紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)の帰依などにより一時期バラモン教を凌ぐ隆盛を示した。この時期にヴェーダを基本とする宗教であるバラモン教は「支配者の宗教」からの変貌を迫られ、インド各地の先住民族の土着宗教を吸収・同化して形を変えながら民衆宗教へ変化していった。このため広義のヒンドゥー教にはバラモン教が含まれる。
ヒンドゥー教にはバラモン教の全てが含まれているが、ヒンドゥー教の成立に伴って、バラモン教では重要であったものがそうでなくなったり、その逆が起きたりなど大きく変化している。
紀元後4世紀頃、グプタ朝がガンジス川流域を支配した。グプタ朝はチャンドラグプタ2世(在位紀元385年 - 413年)に最盛期を迎えるが、この頃に今もヒンドゥー教徒に愛されている叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がまとめられるなど、ヒンドゥー教の隆盛が始まった。
また東南アジアの「インド化」に伴い、5世紀頃から中国の史料にヒンドゥー教に関する記述が見られる。以降、島嶼部では古マタラム王国やマジャパヒト王国など、大陸部では扶南国などで栄えた。アンコール朝では12世紀前半まではヒンドゥー教のシヴァ派とヴィシュヌ派が立国の思想となっていた。
バラモン教は上記のように具体的な目的に対して神に「供犠」を捧げる、いわば「ギヴ・アンド・テイク」の宗教であったのに対し、ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神のような至高の神への絶対的帰依(「バクティ」と呼ぶ)に基づく信仰態度が多くの大衆に受け入れられ始めた。この時期に六派哲学と呼ばれるインドの古典哲学が確立し、互いに論争を繰り広げた。インドの学問のおよそ全般は、輪廻からの解脱を究極の目的とし、宗教的色彩が濃く、固有の思想体系を伝える哲学学派も、宗教の宗派とほとんど区別することができない。
ヴェーダーンタ学派の思想の中で最も有名なものに不二一元論がある。これは、精神的実在であるブラフマン(梵)またはアートマン(我)以外に実在する物は無い、言い換えれば「今目の前にある世界は幻影に過ぎない」という思想。この思想を突き詰めてゆくと、シャンカラ(700年 - 750年頃)の説くように「ブラフマンは人格や属性を持たないもの」となり、無神論的一元論に達する。この教義は現在でもヒンドゥー教の正統派としてインドの5箇所の僧院で代々「シャンカラ・アーチャーリヤ」の名を継承する学匠によって不二一元論の法灯が維持され続けている。シャンカラ後の不二一元論は、11世紀の神学者ラーマーヌジャによる被制限者不二一元論、13世紀の神学者マドヴァ(英語版)の二元論へと発展していった。現代インドのパンディット(伝統的スタイルのバラモン学者)の大部分はヴェーダーンタ学徒で、その八割以上はシャンカラ派に属していると言われる。ヴェーダーンタ哲学がその2000年以上の歴史において、インドの宗教、文化、社会、政治等に及ぼした影響は非常に大きい。
5世紀〜10世紀の南インドでは「至高の神への絶対的帰依」「自己犠牲をいとわない神への奉仕」を信仰の柱とするバクティと呼ばれる信仰形態が顕在化し始めた。このバクティに関して、12世紀から13世紀にかけてヴェーダーンタ学派の学匠達によって「ヴィシュヌ神」を崇拝する信仰が理論化された。バクティーは一般庶民の信仰形態として現在まで広く行われている。不二一元論とバクティは正反対とも言える形態だが、現在のヒンドゥー教の中では問題なく同居している。
その後北インドではイスラム教徒の征服王朝が交代する時代に入る。タージ・マハルなど北インドの著名な文化財はイスラム教様式である。しかし庶民や南インドの王朝はヒンドゥー教を信奉した。ヒンドゥー教では ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァが3大神とされた。各神は多様な側面を持ち、その性格は一様ではない。その中でヴィシュヌやシヴァは民間宗教の神を取り込んでゆき、多様な神話を通じて多くの信徒を有している。ヒンドゥー教の複雑さ・分かりにくさの一例として、たくさんの神々を崇める多神教としての姿、シヴァまたはヴィシュヌを至高の神とする一神教的な姿、教理を哲学的に極めた不二一元論のような無神教としての姿のすべてを内在している点が挙げられる。
インドがイギリスの植民地となって久しい19世紀に、ベンガル州を中心に知的エリート層によってキリスト教とヒンドゥー教の知的交流が盛んになり、西欧的な合理主義に基づいて、インドの近代化とヒンドゥー教の復興・改革を目指すヒンドゥー教改革運動(英語版)が起こった。インドの歴史的個性・古典・文化のすばらしさが説かれ、ヒンドゥー教の近代的解釈を行って信仰態度を確立し、植民地時代のインド(英語版)で民衆に自信と勇気を与え、「インド」を認識し、ナショナリズムを盛り上げた。こうした現代ヒンドゥー教の改革運動を担った人々は、多くが上部カースト出身のインド人だったが、神智学協会のアニー・ベサントのような外国人もいた。
のちに「ヒンドゥー・ルネサンス」「ベンガル・ルネッサンス(英語版)」と呼ばれる改革の創始者は、「近代インドの父」とも呼ばれるラーム・モーハン・ローイである。バラモン階級出身でウパニシャッドの影響を受けていたローイは、ユニテリアン主義の影響も受け、神は超越的な存在であり聖像などで表現し得ないものと信じ、宗教は合理的で倫理的な体系であるべきであり、道徳法は理性によって理解されるべきと考えた。ローイの兄の妻はサティー(寡婦殉死)で死亡しており、彼はこれに大きなショックを受けたと言われ、サティーや幼児婚といったヒンドゥー教の慣習を非道徳な儀式として非難し、1829年のサティー禁止法の発布に影響を与えた。また、聖像礼拝やカルマ、輪廻といった概念を迷信として、キリスト教の改革運動をモデルとしたブラフモ・サマージ(ブラフモ協会)という宗教団体を設立した。
ローイは訪英中に客死してしまうが、その仕事はデヴェンドラナート・タゴール(英語版)やケーシャブ・チャンドラ・セーン(英語版)に引き継がれた。プラーナやタントラを否定するブラフモ・サマージの思想は知識層の関心を集めたが、大衆レベルではまったく人気が無かった。
1875年にローイの影響を受けたダヤーナンダ・サラスワティー(英語版)は、ブラフモ・サマージに内在する民族主義を発展させたアーリヤ・サマージ(アーリヤ協会)を発足させた。アーリヤ・サマージはヒンドゥー教を純粋なヴェーダの形態に戻すべきと主張し、ヴェーダ文化を振興させる活動を通じてインドの国民意識を喚起した。アーリヤ・サマージは教育面での貢献が大きく、インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーは、「抑圧された階級の地位をあげ、女子の状態を改良し、少年、少女の教育のためにアーリヤ・サマージは多くの仕事をした」と評価している。
また、ロシア人オカルティストのヘレナ・P・ブラヴァツキーらによる神智学協会は、本拠地をアメリカからインドに移し、ヒンドゥー教や仏教思想を取り入れて、転生(輪廻)やカルマ(業)を強調した神秘思想を説いた。インドには聖者とされた人々が数多あるが、その内にはブラヴァッツキーに始まる近代神智学(接神論)の者もおり、彼らは外国人ながらインド独立運動に関わり、2代目会長のアニー・ベサントは国民会議の年次大会議長になる等、インド・ナショナリズムの運動に大きな影響を及ぼした。なお、ヴィヴェーカーナンダは、神智学協会を疑似ヒンドゥー教であるとしており、真面目な宗教運動であったか疑問視する声もある。
一方で、バクティ運動の直接の影響を受け、ローイらのように西洋式教育を受けていない田舎のバラモンであったラーマクリシュナは、聖典に興味を持つこともなく、純粋なバクティを説き、複雑な神学体系なしに、知性ではなく純粋な信仰を捧げることで神に近づこうとした。彼の信仰はカーリー女神へのバクティを中核とし、タントラ的な性格を持つが、イスラム神秘主義やキリスト教の修行も実践して様々な神を見たとされ、易々と神秘体験に入り得ることで注目を集め、『世界の全ての宗教は神に至る道』と説いた。その神秘体験と、子供のような特異な人格で多くの人を魅了し、彼の影響下でブラフモ・サマージの流れとも異なるヒンドゥー教改革運動が生じた。弟子のヴィヴェーカーナンダは、ヒンドゥー教は普遍宗教であると主張して、各々の宗教の寛容を強調し、神性の本質は各個人の内にあり、ヒンドゥー教の実践を通じて理解できると主張し、宗教統一理論をもとにヒンドゥー教を再構築した。ヴィヴェーカーナンダは、1893年にシカゴで開かれた万国宗教会議(英語版)に参加してヒンドゥー教を世界宗教のひとつとして認めさせることに貢献し、1895年にはラーマクリシュナ僧院とラーマクリシュナ・ミッションを創設し、世界にアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)を根幹とするネオ・ヴェーダーンタ(英語版)を布教し、インド内で社会奉仕活動を行った。
古代のヒンドゥー教の聖典はサンスクリット語で書かれている。そしてこれらはシュルティ(英語版)(天啓)とスムリティ(英語版)(聖伝)の2種類に大別される。ヒンドゥー教の聖典は何世紀にもわたり口承にて編纂され、記憶され、そして世代を超えて伝承され、後に文字に起こされた。何世紀にもわたりリシ(聖仙)たちは教義を磨き上げ、それをシュルティとスムリティに展開した。さらにはヒンドゥー哲学の6学派は認識論、形而上の理論をシャーストラと呼ばれる書物にまとめた。
シュルティ(聞かれた物の意)は通常ヴェーダのことを指す。ヴェーダはヒンドゥー教の聖典の中でも最も早い時期に記録されたもので、古代のリシ(聖仙)たちに明かされた永遠の真実が記されていると考えられている。ヴェーダには『リグ・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』の4つが存在し、それぞれのヴェーダはさらにサンヒター(賛歌、祈り)、アーラニヤカ(儀式、祭祀について)、ブラーフマナ(儀式、祭祀の解釈)、ウパニシャッド(瞑想、哲学について)の4つの部門に分けられる。最初の2つ(サンヒター、アーラニヤカ)はカルマカーンダ(Karmakāṇḍa、施祭部門)とよばれ、残りの2つがジュニャーナカーンダ(Jñānakāṇḍa、哲学的、宗教的思索部門)と呼ばれる。
ウパニシャッドはヒンドゥー哲学の基礎であり、シュルティの中でも特に優れた聖書であるとされ、その基本理念は後の時代のヒンドゥー教哲学や信仰にも継続的に影響を与え続けている。サルヴパッリー・ラーダークリシュナンは、ウパニシャッドは歴史に登場して以来ずっと支配的な役割を果たしていると語っている。ヒンドゥー教には108のムクティカー・ウパニシャッド(英語版)が存在し、学者よって幅があるがそのうちの10から13は特に重要なものとしてムキャ・ウパニシャッド(英語版)と呼ばれる。
最も重要なスムリティ(記憶されたものの意)はヒンドゥー叙事詩とプラーナ文献である。具体的には『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がヒンドゥー叙事詩であり、『マハーバーラタ』にその一部として含まれている『バガヴァッド・ギーター』は最も一般的なヒンドゥー教の聖典の一つであり、ヒンドゥー教徒の信仰生活を実質的に規定してきた。『バガヴァッド・ギーター』(「神の歌」の意)は時にウパニシャッドとみなされギートパニシャッド(Gitopanishad)と呼ばれる。そのためシュルティに数えられることもある。また『ラーマーヤナ』はラーム・リーラー(英語版)、『マハーバーラタ』はラース・リーラー(英語版)という名で歌舞劇にされており、各地で祝祭に合わせて上演される伝統がある。一方のプラーナ文献はおよそ西暦300年あたりから編纂され始め、広範な神話を含む。これらはヒンドゥー教の共通のテーマを、生き生きとした物語を通して人々に伝えるという役割を担い、布教の中心となっている。またヨーガについて記された古典『ヨーガ・スートラ』は20世紀になって再評価されている。
19世紀のヒンドゥー教現代主義者らはヒンドゥー教のアーリア人起原の要素を再評価し、タントリズム(密教)の影響を受けたヒンドゥー教を純化しようという試みのなかで埋もれていたヴェーダの要素を強調した。たとえばヴィヴェーカーナンダは、たとえそれが古代のリシ(聖仙)たちに明かされたものでないにしても、ヴェーダは精神世界の法律であるという立場をとった。タントリズムでは「アーガマ (ヒンドゥー教)(英語版)」という語が彼らにとって権威のある聖典全体を指す言葉であり、また同時にシヴァがシャクティに語った教えを意味する。一方で「ニガマ」(Nigama)という語はヴェーダを意味し、同時にシャクティがシヴァに語った教えを意味する。アーガマ派(聖典シヴァ派)ではアーガマをヴェーダと同等なものとして同様に重視している。
ガンジス川添いには沐浴場(ガート)が設けられた聖地がある(以下は上流側から順に記載)。
4大巡礼地
他には、神話の舞台や由緒ある寺などが聖地とされている。
ヒンドゥー教の祭りはウツァヴ(梵語: Utsava、「高く上げること」の意)と呼ばれ、個人と社会生活をダルマ(法)と結び付ける儀式とされている。年間に多くの祭りが開催され、日取りはヒンドゥー暦(太陰太陽暦)に従って定められる。これらは満月(ホーリー)か新月(ディワーリー)、または季節の変わり目を起点にして開催されるものが多くみられる。地域ごとに限定され彼らの伝統を祝う性質の祭りも存在するが、一方でホーリー祭や、ディワーリー祭は汎ヒンドゥー教的性格を持ち、国を越えたヒンドゥー教文化圏全土で祝われる。「色祭り」として知られるホーリー祭は、ヒンドゥー教の春の祭典。祭りの期間中、参加者たちは音楽に合わせて踊り、お互いに色粉を投げつけ合う。
ヒンドゥー教の祭りは通常宗教的なテーマや、例えばラクシャー・バンダンのような家族の絆を祝うといった側面を持っている。同じ祭りでも宗派によって違うストーリーを背景に持っている場合もあり、また、地域ごとのテーマ、伝統農業や地域の伝統芸能、家族の集まりや、 プージャ (お祈り)、祝宴を取り込んでいる場合もある。
主な祭りを以下に紹介する。 | [
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"text": "ヒンドゥー教(ヒンドゥーきょう、ヒンドゥーイズム、英: Hinduism、ヒンディー語: हिन्दू धर्म、サンスクリット語: सनातनधर्मः)、慣用表記でヒンズー教、ヒンヅー教、ヒンド教、ヒンドゥ教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教、またはインド的伝統を指す。西欧で作られた用語である。ヒンドゥー教徒の数はインド国内で10億人、その他の国の信者を合わせると約11億人以上とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目の宗教である。",
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"text": "「ヒンドゥー」 Hindu の語源は、サンスクリットでインダス川を意味する sindhu に対応するペルシア語。「(ペルシアから見て)インダス川対岸に住む人々」の意味で用いられ、西欧に伝わり、インドに逆輸入され定着した。同じ語がギリシアを経由して西欧に伝わって India となり、こちらもインドに逆輸入されて定着した。漢訳では「身毒」「印度」と表記され、唐代にインドへ旅した仏教僧玄奘による「印度」が定着している。インドが植民地化された時代にイギリス領インド帝国を支配した大英帝国側が、インド土着の民族宗教を包括的に示す名称として採用したことから、この呼称が広まった。そのため、英語のHinduは、まずイスラム教徒(ムスリム)との対比において用いられるのが現在では一般的で、イスラム教徒以外で小宗派を除いた、インドで5億人を超えるような多数派である、インド的な複数の有神教宗派の教徒の総称である。",
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"text": "同じくヒンドゥー教と訳される英語のHinduismは、最も広い意味・用法ではインドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれていて、インドの歴史では先史文明のインダス文明まで遡るものであるが、一般的には、アーリア民族のインド定住以後、現代まで連続するインド的伝統を指す。このうち仏教以前に存在した宗教をバラモン教(Brahmanism)、特にヴェーダ時代の宗教思想をヴェーダの宗教(Vedic Religion)と呼ぶこともあるが、これは西欧で作られた呼び名である。インド哲学研究者の川崎信定は、これらの用法は、日本の漢訳仏典の中の仏教・内道に対応する婆羅門教(ばらもんきょう)の用法に対応していると言える、と述べている。",
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"text": "ヒンドゥー教を狭い意味で用いる場合、仏教興隆以後発達して有力になったもので、とくに中世・近世以後の大衆宗教運動としてのシヴァ教徒、ヴィシュヌ教徒などの有神的民衆宗教を意識しての呼び方であることが多い。",
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"text": "日本では慣用表記ではヒンズー教、ヒンド教、一般的にはヒンドゥー教と呼ばれるが、時にインド教と呼ばれることもある。中国、韓国でも「印度教」と呼ばれるが、現在のインドは世俗国家であり国教はなく、インド憲法では信教の自由が規定されておりインドでこのように呼ばれることはない。",
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"text": "狭い意味でのヒンドゥー教は、バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。紀元前2000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵入した。彼らは前1500年頃ヴェーダを成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。",
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"text": "紀元前5世紀頃に政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。その結果、バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く(バラモン教もヒンドゥー教に含む考えもある)。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった。その後、インドの民族宗教として民衆に信仰され続けてきた。",
"title": "特徴"
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"text": "神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)や職業(ジャーティ)までを含んだカースト制等を特徴とする宗教である。",
"title": "特徴"
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"text": "三神一体(トリムールティ)とよばれる近世の教義では、中心となる3大神、すなわち",
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"text": "は一体をなすとされている。 しかし現在では、ブラフマー神を信仰する人は減り、ヴィシュヌ神とシヴァ神が二大神として並び称され、多くの信者がいる。ヴィシュヌ神を信仰する派をヴィシュヌ教、またシヴァ神を信仰する派をシヴァ教と呼ぶ。",
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"text": "ヒンドゥー教の神や祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教に影響を与えている。以下にヒンドゥー教の特徴を解説する。",
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"text": "インド国内の広義の定義においては、「ヒンドゥー教」にはキリスト教やイスラム教などインド以外の地域で発祥した特定宗教以外の全ての宗教が相当する。一例として、インドにおいて仏教はヒンドゥー教の一派とされる。インド憲法25条では、(ヒンドゥー教から分派したと考えられる)シク教、ジャイナ教、仏教を信仰する人も広義のヒンドゥーとして扱われている。",
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"text": "ヒンドゥー教には極めて様々な信仰、霊性や風習が包括され、かつ体系化されている。一方でキリスト教に見られるような教会制度や宗教的権威は存在せず、また預言者も居なければ纏まった形の共通の聖典も存在しない。よってヒンドゥー教徒は多神教、汎神論、一神教、不可知論、無神論、ヒューマニズムを自身の思想として自由に選ぶことができる。ヒンドゥー教の包含する信仰、思想、真理は広範で、そのため「ヒンドゥー教」に包括的な定義を与えることは困難である。これまでにも、1つの宗教である、1つの風習である、信仰の集合である、生活様式である、と言った具合に様々に定義されてきた。西洋の言葉上の観点からはヒンドゥー教は、例えばキリスト教等と同様に1つの宗教であるとされているが、インドでは「ダルマ」(dharma)という語が好まれる。この語はいわゆる「宗教」よりも意味が広い。特にヒンドゥー教の伝統主義者はサナータナ・ダルマ(Sanatana Dharma、永遠の、あるいは古代のダルマの意)という語を好む。",
"title": "特徴"
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{
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"text": "インド、インドの文化、インドの宗教に関する研究、そしてヒンドゥー教の定義は、植民地主義の利益を目的とし、西洋の持つ「宗教」という概念の枠組みから行われてきた。1990年以降はこれら西洋のもたらした影響や、それによって生じた変化などがヒンドゥー教の研究者の間でも議題に挙がるようになり、それは西洋的視点に対する批判へと引き継がれている。",
"title": "特徴"
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"text": "3大神はそれぞれ神妃をもち、夫婦共に多様な化身を有する。",
"title": "特徴"
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"text": "3大神は、信者個人の信仰においては並立しているわけではない。たとえば「シヴァ神」を最高神と崇める人にとって、「ヴィシュヌ神」は劣位ではあるが敬うべき神である。また神話の中で3大神の化身と共に活躍する神や、3大神の子神も信仰されている。",
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"text": "インドの国立博物館にヒンドゥー教の神々の多様な神像が収蔵・展示されている。",
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"text": "四住期(アーシュラマ)とはヒンドゥー教独特の概念で、最終目標の解脱に向かって人生を4つの住期に分け、それぞれの段階ごとに異なる目標と義務を設定したもの。なお四住期は、上位ヴァルナのバラモン、クシャトリア、ヴァイシャにのみ適用され、エーカージャ(一生族)であるシュードラ及び女性には適用されない。四住期について概略を示す。",
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"text": "過去においても現在でも、全てのヒンドゥー教徒が四住期を全うするわけではない。ちなみに仏教の開祖釈迦も当時のバラモン教の教えに従い、四住期に則った人生を送っている。即ち男子をもうけた後、29歳で釈迦族の王族の地位を捨て林間で修行をし、その後悟りを開いて布教の旅に出ている。",
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"text": "ヒンドゥー教の特徴のなかで、カースト制度の存在が大きい。カーストは歴史的に基本的な分類(ヴァルナ)が4つ成立し、その下に職業を世襲するジャーティ(生まれ・出生)と呼ばれる社会集団が形成されて、例えば「牛飼い」や「大工」や「床屋」などの職業が世襲されてきた。結果としてインドには非常に多くのカーストが存在する。カーストは親から受け継がれるだけで、生まれた後にカーストを変えることはできない。ただし、現在の人生の結果によって次の生などの生で高いカーストに上がることができるという。現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。",
"title": "特徴"
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"text": "基本的な4つのカースト(ヴァルナ)とカースト外の身分には、以下のものがある。",
"title": "特徴"
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"text": "他宗教から改宗してヒンドゥー教徒になることは可能である。しかし、そこにはカースト制がある。カーストは親から受け継がれ、カーストを変えることが出来ない。カーストは職業や身分を定める。他の宗教から改宗した場合は最下位のカーストであるシュードラにしか入ることができない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、次の生まれ変わりで上のカーストに生まれるしか方法はないと経典には記されているのが特徴である。そのため改宗による移動を行えないという点がある。",
"title": "特徴"
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"text": "ヒンドゥー教からイスラム教や仏教へと改宗する場合は、下位のカーストの者が差別から抜け出すためであることが多い。しかし、皮肉にもイスラム教徒や、パキスタン人の間にも若干のカースト意識は有ると言われている。カーストはヒンドゥーに限らず、イスラム教徒や仏教徒なども含めた全インド文化に共通する意識であるとも言える。",
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"text": "ヒンドゥー教では河川崇拝が顕著であり、水を使った沐浴の儀式が重要視されている。特にガンジス川(ガンガー)は川の水そのものがシヴァ神の身体を伝って流れ出て来た聖水とされ、川自体も女神ガンガーであるため「母なる川ガンジス」として河川崇拝の中心となっている。ガンジス川添いには沐浴場(ガート)が設けられた聖地が点在する。ヒンドゥー教徒は、沐浴場に設けられた石の階段を下りて川の水に頭までつかって罪を清め、あるいは水を飲む。",
"title": "特徴"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "ヒンドゥー教は不殺生を旨とし、そのため肉食を忌避するので菜食主義の人が多い。しかし、身分やしきたりによってその度合いが異なる。一般的な菜食は植物に加えて鶏卵も可とする人と、鶏卵を不可とする人がいる。また上位カースト階級には、収穫の際に地中の生物を殺す惧れのあるタマネギなどの根菜類を不可とする人もいる。いずれの場合も牛乳および乳製品は良く食べられる。ところが宗派によっては祭りに際し犠牲獣を供することがある。その際、宗教儀式にしたがって神に捧げられたヤギなどの犠牲獣の肉を「お下がり」として食べる場合もある。しかし、どのような場合においても牛、特に瘤牛は神話にも出てくる聖獣で絶対に食べない。一方、同じ牛でも水牛は次々と姿を変える悪魔マヒシャの化身の一つであることから、コブ牛との扱いには差があり、家畜として使役され、その肉は輸出品にされている。",
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"text": "ヒンドゥー社会において牛は崇拝の対象となっている。ヒンドゥー教徒でインド思想研究者のベンガル人クシティモハン・センは、民衆ヒンドゥー教における牛の神聖視の起源は、全くわからないと述べている。神話にも牛が度々登場し、たとえばシヴァ神の乗り物はナンディンという牡牛である。実社会でも牡牛は移動、運搬、農耕に用いられ、牝牛は牛乳を供し、乾燥させた牛糞は貴重な燃料(牛糞ケーキ)となる。ただし聖別されているのは主として瘤牛であり、水牛は崇拝の対象とはならない。",
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{
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"tag": "p",
"text": "ヒンドゥー神学では、牛の神聖性は輪廻と結びついている。ヒンドゥー教の輪廻の考え方は上下87段の階梯構造となっているが、最上段の人間に輪廻する1つ前の段階が牛であり、牛を殺した者は輪廻の階梯の最下段からやり直さなくてはならなくなると言われる。また、ヒンドゥー神学者は牛には3億3千万の神々が宿るとし、牛に仕え、牛に祈ることはその後21世代に渡ってニルヴァーナをもたらすという。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "民衆の牛への崇拝はインド大反乱のきっかけとなったとも言われ、マハトマ・ガンディーが牛への帰依心を言及したことも、彼が民衆から聖人のような名声を得る理由の一つとなっている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ヒンドゥー教の修行としてヨーガが挙げられる。ヨーガは『心身の鍛錬によって肉体を制御し、精神を統一して人生究極の目的である「解脱」に至ろうとする伝統的宗教的行法のひとつである』。ヨーガはヒンドゥー教の専有物ではなく、インドの諸宗教で実践されており、仏教に取り入れられたヨーガの行法は中国・日本の禅宗などの修行法にもつながっている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ヴェーダの権威を受け入れ、ブラーフマナ(バラモン、司祭)階級の社会的階層の優位を容認する諸学派は「正統バラモン教」と認められ、その6系統のうちヨーガ学派は、心身を鍛錬しヨーガの修行で精神統一を図ることで、解脱に達することを説いた。正統バラモン教の各学派も、その学派の教学を学ぶことと並行して、ヨーガの修行を行っている。ヨーガ学派に代表される古典ヨーガの沈思瞑想による修行法は、4-5世紀頃に編纂されたといわれるヨーガ学派の教典である『ヨーガ・スートラ』にも書かれている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "また身体を鍛錬するヨーガは、13世紀に始まる「ハタ・ヨーガ」と呼ばれる流派がある。「現代ヨーガの父」と呼ばれるティルマライ・クリシュナマチャーリヤ(英語版)(1888年 - 1989年)らによって、体操などの西洋身体文化をもとに作られたヨーガも、伝統的なハタ・ヨーガに倣って「ハタ・ヨーガ」と呼ばれるが、古典ヨーガとも元来のハタ・ヨーガとも関係は薄いという。現在日本で行われている「ヨーガ教室」等の多くはこの流派に入る。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ヒンドゥー教で重要な位置を占めているのが、グル(サンスクリット語で「重いもの」「闇から光へ導くもの」「木星」「導師」という意味)である。グルはヨーガの修行を成就するにあたって、必要不可欠なものとされ、尊敬と崇拝を集めている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "『マヌ法典』では、女性はどのヴァルナ(身分)であっても、入門式(ウパナヤナ)を受けてヴェーダを学ぶ男子として「再生」するドヴィジャ(二度生まれる者、再生族)ではなく、入門式を受けられず一度生まれるだけのエーカージャ(一生族)とされていたシュードラ(隷民)と同等視され、女性は再生族である夫と食事を共にすることはなく、祭祀を主催したり、マントラを唱えることも禁止されていた。解脱を目指して修行するヨーガ行者も男性である。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "少女、若い婦人、あるいは老女すらも、何事をも独立になすべきではない。たとい、家庭内においても。婦人は幼児期にはその父に、若いときはその夫に、夫が死亡したときには、その息子に従うべきである。婦人は独立性を得るべきではない。マントラ(真言)で浄化されて結婚する夫は、その妻に、妊娠に適する時期においても、適さない時期においても、現世においても、また来世においても常に幸福を与えるであろう。行状が悪く、あるいは放縦、あるいは美徳を欠いているとしても、貞節な妻は、夫を常に神のように尊敬すべきである。(『マヌの法典』)",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ヒンドゥー教の解脱や浄性に関する価値観において女性の位置づけは低く、一般的に無知で不浄で社会的にも霊的にも劣っていると考えられてきた。とはいえ、女神信仰やシャクティ思想には女性性への強い崇拝が見られ、女性がいかなる信仰・思想でも例外なく劣位であったとも言い難い。『リグ・ヴェーダ』では家庭で妻が神事を司るよう説かれ、『マハーバーラタ』では妻が神を祭るのに適しているとされた。『ウパニシャッド』には、最も高度な討論で女性が主導権を握る例が複数あり、『マハーバーラタ』の王であり勇ましい女戦士チトラーンガダの物語など、ヒンドゥー教の聖典・古典が例外なく女性に対して抑圧的なわけではない。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "中世に女性は家事に専念することが求められるようになり、社会的地位はかなり悪化した。これがイスラム教や中東地域の習慣の影響なのか、インドのヒンドゥー教社会内部の変化によるものなのか、明確にはわからない。社会的地位にしろ、価値にしろ、近代インドにおいてヒンドゥー教とイスラム教の女性に差はなく、両者とも社会的にも経済的にも完全に男性に依存していた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "伝統的な価値観において、妻や母としての女性の役割はしばしば称賛されたが、個人としての女性の社会的地位は極めて低かった。夫との関係性以外に個性は全く認められず、夫の付属物として扱われ、従属を名誉として受け入れるよう教えられ、生まれ持った才能や望みを表現する手段はなかった。ホールカル家当主としてインドール藩王国を統治した女性アヒリヤー・バーイー・ホールカルなど政治の場で活躍した個性的な女性もいたが、例外であり、全体を変えることはなかった。上流階級の女性が屋外で働くことはタブーであり、北インドでは女性を隔離するパルダ制度の下で生活した。農村の女性にはパルダ制度はなく、男性と共に野良仕事をしていたため、上流階級の女性より相対的に自由で、男性に対する地位も高かった。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "女性としての規範通りに生きれば、良き母良き娘として尊敬され、戦争や混乱の中でも、女性は乱暴されることもなく、丁重に扱われ、人混みの激しい場所に一人で出かけても危険はなかったという。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ヒンドゥー教の立法者達は妻の地位をかなり制限しており、一般的に女性の財産所有権は否定されていた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "後代の立法者達は、男性のみに高等教育を受ける権利を認めようとし、ほとんどの女性に教育を受ける権利はなかった。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "19世紀に、イギリスの支配から脱しようと様々な社会運動が行われるようになると、西洋の平等や個人主義の理念の影響を受け、女性の地位改善も叫ばれるようになり、20世紀になると、急進的な民族運動の台頭でさらに運動は活発化した。インドが独立すると、インド憲法で男女の完全な平等が保証された。男女の不平等は多くの形で残されているが、両性の平等に向けた運動が続けられている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "幼児婚が全国的に見られ、7、8歳、時に3、4歳で結婚する女性もいた。結婚は全て家長が決定し、同じジャーティ(カースト)の内部で結婚する。少年少女の自由な交流は禁じられていた。近世インドは基本的に家父長制であり、家族を年長の男子が支配し、男系相続だった。ケーララ地域に例外的に母系制がみられた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "イギリスからの独立まで一夫多妻が許されていたが、裕福なもの以外は一夫一婦制が普通だった。一妻多夫は厳禁とされていた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "上流階級では、結婚には莫大な持参金(ダウリー)を持たせる習慣が広くあり、ラージプータナーやベンガル地域で特に行われていた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "高カーストの女性は再婚が許されなかった。一方、男性と共に野良仕事をする農村の女性は、多くが再婚の権利を持っていた。寡婦の生活は悲惨なもので、禁欲的で厳しい規則に縛られ、現世の幸福を全て捨て、亡き夫の家族や自分の兄弟の家族に滅私奉公することが求められた。夫が死亡した場合に、妻が夫の遺体と共に焼かれ殉死するサティーという儀礼があり、これはラージプータナー、ベンガル地方その他の北部インドを中心に行われていた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ヒンドゥー教はキリスト教やイスラム教のような、特定の開祖によって開かれたものではなく、インダス文明の時代からインド及びその周辺に居住する住民の信仰が受け継がれ時代に従って変化したものと考えられている。したがってヒンドゥー教がいつ始まったかについては見解が分かれている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "インダス文明(紀元前2,300年 - 1,800年)のハラッパーから出土した印章には、現代のシヴァ神崇拝につながる結跏趺坐した行者の絵や、シヴァ神に豊穣を願うリンガ崇拝につながる直立した男性器を示す絵が見られる。しかしインダス文字は解読できていないので、後代との明確な関係は不明である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ヴェーダは「知る」という意味のサンスクリット語に由来し、宗教的知識を意味する。さらには、その知識を集成した聖典類の総称となっている。最も古い『リグ・ヴェーダ』は紀元前1,200年から1,000年頃にインド北西部のパンジャブ地方でアーリヤ人によって成立したと考えられている。ヴェーダの内容は下記のように分類されるが、狭義にはサンヒターのみを指す。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "リグ・ヴェーダには登場する神々の多くは、自然界の構成要素や諸現象、その背後にあると思われた神秘的な力を神格化したものである。多数の神が登場するが、その中で重要なのは雷神インドラ(日本では帝釈天)、アグニ(火の神)、ヴァルナであった。現在では前述のヴィシュヌ神等に押されて影が薄い。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "『リグ・ヴェーダ』に登場する神々は、各々が独立した個性を有しているわけではなく、属性や事績を共有することが多い。また狭義のヒンドゥー教で見られる人格神的な形態を取らず、神像や恒久的な寺院建造物の存在も確たる証拠は見つかっていない。バラモン教の祭祀は具体的な目的に対して行われ、バラモンが規定に則って空き地を清め、そこに目的に応じた特定の神を招き、供物や犠牲を祭壇の火炉に捧げる「供犠」が主体であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "現在のヒンドゥー哲学の基本となる「因果応報」「霊魂不滅」「輪廻」などの諸観念の淵源は、ウパニシャッドが完成した頃まで遡ることができる。ウパニシャッドは紀元前800 - 500年頃にガンジス川流域で作られたインド古代哲学の総称である。なおヴェーダに登場するヴィシュヴァカルマン神(造物や工巧の神)は、現在でも物造りの神様として、インドの各工場で祀られている。現在この神の祭りは毎年9月17日に行われている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "バラモン教は、インドを支配するアーリア人の祭司階級バラモンによる祭儀を重要視する宗教を指す。紀元前5世紀頃に、バラモン教の祭儀重視に批判的な仏教とジャイナ教が成立した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "更にインド北西部は紀元前520年ころにはアケメネス朝ペルシア、前326年にはアレクサンドロス大王に支配された。その後仏教はアショーカ王(在位紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)の帰依などにより一時期バラモン教を凌ぐ隆盛を示した。この時期にヴェーダを基本とする宗教であるバラモン教は「支配者の宗教」からの変貌を迫られ、インド各地の先住民族の土着宗教を吸収・同化して形を変えながら民衆宗教へ変化していった。このため広義のヒンドゥー教にはバラモン教が含まれる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ヒンドゥー教にはバラモン教の全てが含まれているが、ヒンドゥー教の成立に伴って、バラモン教では重要であったものがそうでなくなったり、その逆が起きたりなど大きく変化している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "紀元後4世紀頃、グプタ朝がガンジス川流域を支配した。グプタ朝はチャンドラグプタ2世(在位紀元385年 - 413年)に最盛期を迎えるが、この頃に今もヒンドゥー教徒に愛されている叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がまとめられるなど、ヒンドゥー教の隆盛が始まった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "また東南アジアの「インド化」に伴い、5世紀頃から中国の史料にヒンドゥー教に関する記述が見られる。以降、島嶼部では古マタラム王国やマジャパヒト王国など、大陸部では扶南国などで栄えた。アンコール朝では12世紀前半まではヒンドゥー教のシヴァ派とヴィシュヌ派が立国の思想となっていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "バラモン教は上記のように具体的な目的に対して神に「供犠」を捧げる、いわば「ギヴ・アンド・テイク」の宗教であったのに対し、ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神のような至高の神への絶対的帰依(「バクティ」と呼ぶ)に基づく信仰態度が多くの大衆に受け入れられ始めた。この時期に六派哲学と呼ばれるインドの古典哲学が確立し、互いに論争を繰り広げた。インドの学問のおよそ全般は、輪廻からの解脱を究極の目的とし、宗教的色彩が濃く、固有の思想体系を伝える哲学学派も、宗教の宗派とほとんど区別することができない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ヴェーダーンタ学派の思想の中で最も有名なものに不二一元論がある。これは、精神的実在であるブラフマン(梵)またはアートマン(我)以外に実在する物は無い、言い換えれば「今目の前にある世界は幻影に過ぎない」という思想。この思想を突き詰めてゆくと、シャンカラ(700年 - 750年頃)の説くように「ブラフマンは人格や属性を持たないもの」となり、無神論的一元論に達する。この教義は現在でもヒンドゥー教の正統派としてインドの5箇所の僧院で代々「シャンカラ・アーチャーリヤ」の名を継承する学匠によって不二一元論の法灯が維持され続けている。シャンカラ後の不二一元論は、11世紀の神学者ラーマーヌジャによる被制限者不二一元論、13世紀の神学者マドヴァ(英語版)の二元論へと発展していった。現代インドのパンディット(伝統的スタイルのバラモン学者)の大部分はヴェーダーンタ学徒で、その八割以上はシャンカラ派に属していると言われる。ヴェーダーンタ哲学がその2000年以上の歴史において、インドの宗教、文化、社会、政治等に及ぼした影響は非常に大きい。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "5世紀〜10世紀の南インドでは「至高の神への絶対的帰依」「自己犠牲をいとわない神への奉仕」を信仰の柱とするバクティと呼ばれる信仰形態が顕在化し始めた。このバクティに関して、12世紀から13世紀にかけてヴェーダーンタ学派の学匠達によって「ヴィシュヌ神」を崇拝する信仰が理論化された。バクティーは一般庶民の信仰形態として現在まで広く行われている。不二一元論とバクティは正反対とも言える形態だが、現在のヒンドゥー教の中では問題なく同居している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "その後北インドではイスラム教徒の征服王朝が交代する時代に入る。タージ・マハルなど北インドの著名な文化財はイスラム教様式である。しかし庶民や南インドの王朝はヒンドゥー教を信奉した。ヒンドゥー教では ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァが3大神とされた。各神は多様な側面を持ち、その性格は一様ではない。その中でヴィシュヌやシヴァは民間宗教の神を取り込んでゆき、多様な神話を通じて多くの信徒を有している。ヒンドゥー教の複雑さ・分かりにくさの一例として、たくさんの神々を崇める多神教としての姿、シヴァまたはヴィシュヌを至高の神とする一神教的な姿、教理を哲学的に極めた不二一元論のような無神教としての姿のすべてを内在している点が挙げられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "インドがイギリスの植民地となって久しい19世紀に、ベンガル州を中心に知的エリート層によってキリスト教とヒンドゥー教の知的交流が盛んになり、西欧的な合理主義に基づいて、インドの近代化とヒンドゥー教の復興・改革を目指すヒンドゥー教改革運動(英語版)が起こった。インドの歴史的個性・古典・文化のすばらしさが説かれ、ヒンドゥー教の近代的解釈を行って信仰態度を確立し、植民地時代のインド(英語版)で民衆に自信と勇気を与え、「インド」を認識し、ナショナリズムを盛り上げた。こうした現代ヒンドゥー教の改革運動を担った人々は、多くが上部カースト出身のインド人だったが、神智学協会のアニー・ベサントのような外国人もいた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "のちに「ヒンドゥー・ルネサンス」「ベンガル・ルネッサンス(英語版)」と呼ばれる改革の創始者は、「近代インドの父」とも呼ばれるラーム・モーハン・ローイである。バラモン階級出身でウパニシャッドの影響を受けていたローイは、ユニテリアン主義の影響も受け、神は超越的な存在であり聖像などで表現し得ないものと信じ、宗教は合理的で倫理的な体系であるべきであり、道徳法は理性によって理解されるべきと考えた。ローイの兄の妻はサティー(寡婦殉死)で死亡しており、彼はこれに大きなショックを受けたと言われ、サティーや幼児婚といったヒンドゥー教の慣習を非道徳な儀式として非難し、1829年のサティー禁止法の発布に影響を与えた。また、聖像礼拝やカルマ、輪廻といった概念を迷信として、キリスト教の改革運動をモデルとしたブラフモ・サマージ(ブラフモ協会)という宗教団体を設立した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ローイは訪英中に客死してしまうが、その仕事はデヴェンドラナート・タゴール(英語版)やケーシャブ・チャンドラ・セーン(英語版)に引き継がれた。プラーナやタントラを否定するブラフモ・サマージの思想は知識層の関心を集めたが、大衆レベルではまったく人気が無かった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "1875年にローイの影響を受けたダヤーナンダ・サラスワティー(英語版)は、ブラフモ・サマージに内在する民族主義を発展させたアーリヤ・サマージ(アーリヤ協会)を発足させた。アーリヤ・サマージはヒンドゥー教を純粋なヴェーダの形態に戻すべきと主張し、ヴェーダ文化を振興させる活動を通じてインドの国民意識を喚起した。アーリヤ・サマージは教育面での貢献が大きく、インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーは、「抑圧された階級の地位をあげ、女子の状態を改良し、少年、少女の教育のためにアーリヤ・サマージは多くの仕事をした」と評価している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "また、ロシア人オカルティストのヘレナ・P・ブラヴァツキーらによる神智学協会は、本拠地をアメリカからインドに移し、ヒンドゥー教や仏教思想を取り入れて、転生(輪廻)やカルマ(業)を強調した神秘思想を説いた。インドには聖者とされた人々が数多あるが、その内にはブラヴァッツキーに始まる近代神智学(接神論)の者もおり、彼らは外国人ながらインド独立運動に関わり、2代目会長のアニー・ベサントは国民会議の年次大会議長になる等、インド・ナショナリズムの運動に大きな影響を及ぼした。なお、ヴィヴェーカーナンダは、神智学協会を疑似ヒンドゥー教であるとしており、真面目な宗教運動であったか疑問視する声もある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "一方で、バクティ運動の直接の影響を受け、ローイらのように西洋式教育を受けていない田舎のバラモンであったラーマクリシュナは、聖典に興味を持つこともなく、純粋なバクティを説き、複雑な神学体系なしに、知性ではなく純粋な信仰を捧げることで神に近づこうとした。彼の信仰はカーリー女神へのバクティを中核とし、タントラ的な性格を持つが、イスラム神秘主義やキリスト教の修行も実践して様々な神を見たとされ、易々と神秘体験に入り得ることで注目を集め、『世界の全ての宗教は神に至る道』と説いた。その神秘体験と、子供のような特異な人格で多くの人を魅了し、彼の影響下でブラフモ・サマージの流れとも異なるヒンドゥー教改革運動が生じた。弟子のヴィヴェーカーナンダは、ヒンドゥー教は普遍宗教であると主張して、各々の宗教の寛容を強調し、神性の本質は各個人の内にあり、ヒンドゥー教の実践を通じて理解できると主張し、宗教統一理論をもとにヒンドゥー教を再構築した。ヴィヴェーカーナンダは、1893年にシカゴで開かれた万国宗教会議(英語版)に参加してヒンドゥー教を世界宗教のひとつとして認めさせることに貢献し、1895年にはラーマクリシュナ僧院とラーマクリシュナ・ミッションを創設し、世界にアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)を根幹とするネオ・ヴェーダーンタ(英語版)を布教し、インド内で社会奉仕活動を行った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "古代のヒンドゥー教の聖典はサンスクリット語で書かれている。そしてこれらはシュルティ(英語版)(天啓)とスムリティ(英語版)(聖伝)の2種類に大別される。ヒンドゥー教の聖典は何世紀にもわたり口承にて編纂され、記憶され、そして世代を超えて伝承され、後に文字に起こされた。何世紀にもわたりリシ(聖仙)たちは教義を磨き上げ、それをシュルティとスムリティに展開した。さらにはヒンドゥー哲学の6学派は認識論、形而上の理論をシャーストラと呼ばれる書物にまとめた。",
"title": "教典"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "シュルティ(聞かれた物の意)は通常ヴェーダのことを指す。ヴェーダはヒンドゥー教の聖典の中でも最も早い時期に記録されたもので、古代のリシ(聖仙)たちに明かされた永遠の真実が記されていると考えられている。ヴェーダには『リグ・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』の4つが存在し、それぞれのヴェーダはさらにサンヒター(賛歌、祈り)、アーラニヤカ(儀式、祭祀について)、ブラーフマナ(儀式、祭祀の解釈)、ウパニシャッド(瞑想、哲学について)の4つの部門に分けられる。最初の2つ(サンヒター、アーラニヤカ)はカルマカーンダ(Karmakāṇḍa、施祭部門)とよばれ、残りの2つがジュニャーナカーンダ(Jñānakāṇḍa、哲学的、宗教的思索部門)と呼ばれる。",
"title": "教典"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "ウパニシャッドはヒンドゥー哲学の基礎であり、シュルティの中でも特に優れた聖書であるとされ、その基本理念は後の時代のヒンドゥー教哲学や信仰にも継続的に影響を与え続けている。サルヴパッリー・ラーダークリシュナンは、ウパニシャッドは歴史に登場して以来ずっと支配的な役割を果たしていると語っている。ヒンドゥー教には108のムクティカー・ウパニシャッド(英語版)が存在し、学者よって幅があるがそのうちの10から13は特に重要なものとしてムキャ・ウパニシャッド(英語版)と呼ばれる。",
"title": "教典"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "最も重要なスムリティ(記憶されたものの意)はヒンドゥー叙事詩とプラーナ文献である。具体的には『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がヒンドゥー叙事詩であり、『マハーバーラタ』にその一部として含まれている『バガヴァッド・ギーター』は最も一般的なヒンドゥー教の聖典の一つであり、ヒンドゥー教徒の信仰生活を実質的に規定してきた。『バガヴァッド・ギーター』(「神の歌」の意)は時にウパニシャッドとみなされギートパニシャッド(Gitopanishad)と呼ばれる。そのためシュルティに数えられることもある。また『ラーマーヤナ』はラーム・リーラー(英語版)、『マハーバーラタ』はラース・リーラー(英語版)という名で歌舞劇にされており、各地で祝祭に合わせて上演される伝統がある。一方のプラーナ文献はおよそ西暦300年あたりから編纂され始め、広範な神話を含む。これらはヒンドゥー教の共通のテーマを、生き生きとした物語を通して人々に伝えるという役割を担い、布教の中心となっている。またヨーガについて記された古典『ヨーガ・スートラ』は20世紀になって再評価されている。",
"title": "教典"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "19世紀のヒンドゥー教現代主義者らはヒンドゥー教のアーリア人起原の要素を再評価し、タントリズム(密教)の影響を受けたヒンドゥー教を純化しようという試みのなかで埋もれていたヴェーダの要素を強調した。たとえばヴィヴェーカーナンダは、たとえそれが古代のリシ(聖仙)たちに明かされたものでないにしても、ヴェーダは精神世界の法律であるという立場をとった。タントリズムでは「アーガマ (ヒンドゥー教)(英語版)」という語が彼らにとって権威のある聖典全体を指す言葉であり、また同時にシヴァがシャクティに語った教えを意味する。一方で「ニガマ」(Nigama)という語はヴェーダを意味し、同時にシャクティがシヴァに語った教えを意味する。アーガマ派(聖典シヴァ派)ではアーガマをヴェーダと同等なものとして同様に重視している。",
"title": "教典"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "ガンジス川添いには沐浴場(ガート)が設けられた聖地がある(以下は上流側から順に記載)。",
"title": "聖地"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "4大巡礼地",
"title": "聖地"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "他には、神話の舞台や由緒ある寺などが聖地とされている。",
"title": "聖地"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "ヒンドゥー教の祭りはウツァヴ(梵語: Utsava、「高く上げること」の意)と呼ばれ、個人と社会生活をダルマ(法)と結び付ける儀式とされている。年間に多くの祭りが開催され、日取りはヒンドゥー暦(太陰太陽暦)に従って定められる。これらは満月(ホーリー)か新月(ディワーリー)、または季節の変わり目を起点にして開催されるものが多くみられる。地域ごとに限定され彼らの伝統を祝う性質の祭りも存在するが、一方でホーリー祭や、ディワーリー祭は汎ヒンドゥー教的性格を持ち、国を越えたヒンドゥー教文化圏全土で祝われる。「色祭り」として知られるホーリー祭は、ヒンドゥー教の春の祭典。祭りの期間中、参加者たちは音楽に合わせて踊り、お互いに色粉を投げつけ合う。",
"title": "祭礼"
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"paragraph_id": 75,
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"text": "ヒンドゥー教の祭りは通常宗教的なテーマや、例えばラクシャー・バンダンのような家族の絆を祝うといった側面を持っている。同じ祭りでも宗派によって違うストーリーを背景に持っている場合もあり、また、地域ごとのテーマ、伝統農業や地域の伝統芸能、家族の集まりや、 プージャ (お祈り)、祝宴を取り込んでいる場合もある。",
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"text": "主な祭りを以下に紹介する。",
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] | ヒンドゥー教、慣用表記でヒンズー教、ヒンヅー教、ヒンド教、ヒンドゥ教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教、またはインド的伝統を指す。西欧で作られた用語である。ヒンドゥー教徒の数はインド国内で10億人、その他の国の信者を合わせると約11億人以上とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目の宗教である。 | {{redirect|ヒンドゥー|[[アメリカ合衆国]]の[[競走馬]]|ヒンドゥー (競走馬)}}{{基礎情報 宗教|宗教名=ヒンドゥー教|背景色=#ED1A3D|画像=[[File:Om symbol.svg|120px]]|画像2=|国・地域={{IND}}など|成立年=[[紀元前13世紀]]頃に前身となる[[バラモン教]]が発展|創始者=無し(自然形成)|信仰対象=[[多神教]]|聖典=[[リグ・ヴェーダ]]など|母体=|宗派=[[ヴィシュヌ派]]<br/>[[シヴァ派]]<br/>[[シャクティ派]]<br/>[[スマルタ派]]など|主な指導者=|聖地={{IND}}・[[バラナシ]]<br/>{{IND}}・[[リシケーシュ]]|発祥地=古代[[インド]]|本拠地=|教義=[[輪廻]]・[[解脱]]|備考=|信者数=約11億人}}{{Hinduism}}
[[File:Om symbol.svg|thumb|ヒンズー教の神聖な言葉である[[サンスクリット語]]で書かれた「[[オーム (聖音)|オーム]]」という言葉。]]
[[File:Sri Mariamman Temple 3, Dec 05.JPG|thumb|240px|[[シンガポール]]のスリマリアマンヒンドゥー寺院。]]
'''ヒンドゥー教'''(ヒンドゥーきょう、'''ヒンドゥーイズム'''、{{lang-en-short|Hinduism}}、{{lang-hi|हिन्दू धर्म}}、{{lang-sa|सनातनधर्मः}})、慣用表記で'''ヒンズー教、ヒンヅー教、ヒンド教、ヒンドゥ教'''は、[[インド]]や[[ネパール]]で多数派を占める[[民族宗教]]、またはインド的伝統を指す。[[西欧]]で作られた用語である{{sfn|川崎|1997|pp=12-13}}。[[ヒンドゥー教徒]]の数はインド国内で10億人、その他の国の信者を合わせると約11億人以上とされ、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]に続いて、人口の上で世界で第3番目の宗教である<ref>『インドを知る事典』22頁</ref><ref>現在の人口や国別統計は「[[:en:Hinduism by country|Hinduism by country]]」を参照</ref>。
== 語源と名称 ==
「ヒンドゥー」 {{lang|all|Hindu}} の語源は、[[サンスクリット]]で[[インダス川]]を意味する {{lang|all|sindhu}} に対応する[[ペルシア語]]。「(ペルシアから見て)インダス川対岸に住む人々」の意味で用いられ<ref>『インドを知る事典』25頁</ref>、西欧に伝わり、インドに逆輸入され定着した{{sfn|川崎|1997|pp=12-13}}。同じ語が[[ギリシャ|ギリシア]]を経由して西欧に伝わって India となり、こちらもインドに逆輸入されて定着した{{sfn|川崎|1997|pp=12-13}}。[[中国語|漢訳]]では「身毒」「印度」と表記され、[[唐]]代にインドへ旅した[[仏教]]僧[[玄奘]]による「印度」が定着している{{sfn|川崎|1997|pp=12-13}}。インドが[[植民地]]化された時代に[[イギリス領インド帝国]]を支配した[[大英帝国]]側が、インド土着の民族宗教を包括的に示す名称として採用したことから、この呼称が広まった。そのため、英語のHinduは、まず[[イスラム教]]徒([[ムスリム]])との対比において用いられるのが現在では一般的で、イスラム教徒以外で小宗派{{Refnest|group="注"|[[キリスト教]]徒、[[シク教]]徒、[[パールシー]]教徒、[[ジャイナ教]]徒、仏教徒など。少数派といっても一千万人以上、少なくとも数百万人の新教徒がいる。}}を除いた、インドで5億人を超えるような多数派である、インド的な複数の有神教宗派の教徒の総称である{{sfn|川崎|1997|pp=12-13}}。
同じくヒンドゥー教と訳される英語のHinduismは、最も広い意味・用法ではインドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれていて、[[インドの歴史]]では先史文明の[[インダス文明]]まで遡るものであるが{{sfn|川崎|1997|pp=12-13}}、一般的には、[[アーリア人|アーリア民族]]のインド定住以後、現代まで連続するインド的伝統を指す{{sfn|川崎|1997|pp=12-13}}。このうち仏教以前に存在した宗教を[[バラモン教]]({{en|Brahmanism}})、特に[[ヴェーダ]]時代の宗教思想を[[ヴェーダの宗教]]({{en|Vedic Religion}})と呼ぶこともあるが、これは西欧で作られた呼び名である{{sfn|川崎|1997|pp=12-13}}。[[インド哲学]]研究者の[[川崎信定]]は、これらの用法は、日本の漢訳仏典の中の仏教・内道に対応する婆羅門教(ばらもんきょう)の用法に対応していると言える、と述べている{{sfn|川崎|1997|pp=12-13}}。
ヒンドゥー教を狭い意味で用いる場合、仏教興隆以後発達して有力になったもので、とくに[[中世]]・[[近世]]以後の大衆宗教運動としての[[シヴァ]]教徒、[[ヴィシュヌ]]教徒などの有神的民衆宗教を意識しての呼び方であることが多い{{sfn|川崎|1997|pp=12-13}}。
日本では慣用表記ではヒンズー教、ヒンド教、一般的にはヒンドゥー教と呼ばれるが、時にインド教と呼ばれることもある<ref>{{Citation|first1=ルイ|last1=ルヌー|others=[[渡辺照宏]]・美田稔訳|isbn=4560057230|year=1991|title=『インド教』|publisher=[[白水社]]}}</ref>。[[中華人民共和国|中国]]、[[大韓民国|韓国]]でも「印度教」と呼ばれるが<ref name="事典23">『インドを知る事典』23頁</ref>、現在のインドは[[世俗国家]]であり[[国教]]はなく、[[インド憲法]]では[[信教の自由]]が規定されており<ref name="読売20211107">あすへの考【モディ政権とヒンズー至上主義】歴史家サンジャイ・スブラマニヤム氏「インド 西洋への遺恨と打算」『[[読売新聞]]』朝刊2021年11月7日(言論面)</ref>インドでこのように呼ばれることはない。
== 信者 ==
{{Main|ヒンドゥー教徒}}
* 地域や[[カースト]](後述)によって信仰形態が著しく異なる
** 一般のヒンドゥー教徒は、[[輪廻]]などの宗教観念を共有しながらも、長い歴史を経て生活に深く根付いた習慣や[[身分]](カースト)に従って多様な生活を送っている。日々の礼拝・儀礼や年中行事や冠婚葬祭の習慣はカーストや土地や信仰する神によって著しく異なる場合が多い。カーストによる[[差別]]は1950年にインド憲法で禁止されているが、それでもまだ根強く残っている。
* 多数の言語を話す人々に信仰されている
** ヒンドゥー教の聖典「[[ヴェーダ聖典|ヴェーダ]]」は古代インドの[[ヴェーダ語]]で書かれている。しかし現在のインド人はヴェーダ語から生じた古典[[サンスクリット]]ではなく、各地の言語で生活しており、インドは多言語国家である。インド憲法で公式に認められた[[公用語]]は23言語、他に準公用語の英語がある。例えば[[世界遺産]][[マハーバリプラム]]がある[[タミル・ナードゥ州]]では[[タミル語]]が使われ、隣の[[アーンドラ・プラデーシュ州]](数多くの遺跡がある[[ハイデラバード (インド)|ハイデラバード]]を州都とする)では[[テルグ語]]が話されている。タミル語とテルグ語は言語も[[文字]]も違う。更にデリーの人はまた別の言葉[[ヒンディー語]]を話す。よってヒンドゥー教を「様々な言語を話す人々に信仰されている宗教である」ということも可能である。
* アジア地域などにおける信仰の広がり
** インドでは人口の81.4%を占める8億2760万人、ネパールでは人口の過半数、[[バングラデシュ]]では人口の14%、[[スリランカ]]は15%がヒンドゥー教徒である<ref name="事典23"/>。[[インドネシア]]の[[バリ島]]では人口の約9割が[[バリ・ヒンドゥー]]と呼ばれる独自の習合宗教を奉じ、[[マレーシア]]、[[シンガポール]]にも相当数の信者が住んでいる。[[パキスタン]]では1.6%程度であり、キリスト教に並んで多い。さらに、[[インド洋]]の[[モーリシャス]]や[[南太平洋]]の[[フィジー]]、[[南米]]の[[ガイアナ]]のように、[[インド系移民と在外インド人]]が多い国でも信者が多い。世界全体での信者数を比較してみるとヒンドゥー教徒は仏教徒よりも多くなる。
== 特徴 ==
[[画像:Sivakempfort.jpg|thumb|200px|[[シヴァ]]神。首に[[コブラ]]を巻き[[結跏趺坐]]する姿が特徴的。]]
[[画像:Vishnu National Museum01.jpg|thumb|200px|[[ヴィシュヌ]]神の石像]]
[[画像:Brahma sarawati.jpg|thumb|200px|[[ブラフマー]]神(中央)と神妃[[サラスワティー]](右)、1793年。]]
[[画像:CAM01396.jpg|thumb|200px|[[ガネーシャ]]]]
[[画像:Prasanna_yoga_hanuman_chromepet.jpg|thumb|200px|[[ハヌマーン]]]]
[[画像:Indra_dikpala.JPG|thumb|200px|[[インドラ]]]]
狭い意味でのヒンドゥー教は、[[バラモン教]]から[[聖典]]や[[カースト制度]]を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた[[多神教]]である。紀元前2000年頃に[[アーリア人]]が[[イラン]]からインド北西部に侵入した。彼らは前1500年頃ヴェーダを成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。
紀元前5世紀頃に政治的な変化や仏教の隆盛があり、[[バラモン教]]は変貌を迫られた。その結果、[[バラモン教]]は民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く(バラモン教もヒンドゥー教に含む考えもある)。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった<ref>『インドを知る事典』40頁</ref>。その後、インドの民族宗教として民衆に信仰され続けてきた。
神々への信仰と同時に[[輪廻]]や[[解脱]]といった独特な概念を有し、'''[[#四住期|四住期]]'''に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)や職業(ジャーティ)までを含んだ'''[[#カースト|カースト制]]'''等を特徴とする宗教である。
[[三神一体]](トリムールティ)とよばれる近世の教義では、中心となる3大神、すなわち
* '''[[ブラフマー]]''':宇宙、世界に実存、実在の場を与える神
* '''[[ヴィシュヌ]]''':宇宙、世界の維持、平安を司る神
* '''[[シヴァ]]''':宇宙、世界を創造し、その寿命が尽きた時に破壊、破滅を司る神
は一体をなすとされている。
しかし現在では、ブラフマー神を信仰する人は減り、ヴィシュヌ神とシヴァ神が二大神として並び称され、多くの信者がいる。ヴィシュヌ神を信仰する派を'''ヴィシュヌ教'''、またシヴァ神を信仰する派を'''シヴァ教'''と呼ぶ<ref>[http://www.aa.tufs.ac.jp/~tjun/articles/henyou6.html 高島淳 シヴァ信仰の確立 ---シャイヴァ・シッダーンタと南インド]</ref>。
ヒンドゥー教の神や祭祀は一部形を変えながらも、[[日本の仏教]]に影響を与えている。以下にヒンドゥー教の特徴を解説する。
===ヒンドゥー教の範囲===
インド国内の広義の定義においては、「ヒンドゥー教」には[[キリスト教]]や[[イスラム教]]などインド以外の地域で発祥した特定宗教以外の全ての宗教が相当する。一例として、インドにおいて仏教はヒンドゥー教の一派とされる。[[インド憲法]]25条では、(ヒンドゥー教から分派したと考えられる)シク教、ジャイナ教、仏教を信仰する人も広義のヒンドゥーとして扱われている<ref>『インドを知る事典』26頁</ref>。
ヒンドゥー教には極めて様々な[[信仰]]、[[霊性]]や風習が包括され、かつ体系化されている。一方でキリスト教に見られるような[[教会 (キリスト教)|教会制度]]や宗教的権威は存在せず、また[[預言者]]も居なければ纏まった形の共通の聖典も存在しない。よってヒンドゥー教徒は多神教、[[汎神論]]、[[一神教]]、[[不可知論]]、[[無神論]]、[[ヒューマニズム]]を自身の思想として自由に選ぶことができる<ref>{{仮リンク|Julius J. Lipner|en|Julius J. Lipner|label=Julius J. Lipner}} (2009), Hindus:Their Religious Beliefs and Practices, 2nd Edition, Routledge, ISBN 978-0-415-45677-7, page 8;Quote:"(...) one need not be religious in the minimal sense described to be accepted as a Hindu by Hindus, or describe oneself perfectly validly as Hindu. One may be polytheistic or monotheistic, monistic or pantheistic, even an agnostic, humanist or atheist, and still be considered a Hindu."</ref><ref>Lester Kurtz (Ed.), Encyclopedia of Violence, Peace and Conflict, ISBN 978-0123695031, Academic Press, 2008</ref><ref>MK Gandhi, [http://www.mkgandhi.org/ebks/essence_of_hinduism.pdf The Essence of Hinduism], Editor:VB Kher, Navajivan Publishing, see page 3;According to Gandhi, "a man may not believe in God and still call himself a Hindu."</ref>。ヒンドゥー教の包含する信仰、思想、真理は広範で、そのため「ヒンドゥー教」に包括的な定義を与えることは困難である{{Sfn|Flood|1996|p=6}}<ref>{{Cite book |title=Hinduism:A Very Short Introduction|edition=|last=Knott|first=Kim|year=1998|publisher=Oxford University press|location=Oxford|isbn=978-0-19-285387-5|page=117}}</ref>。これまでにも、1つの宗教である、1つの風習である、信仰の集合である、生活様式である、と言った具合に様々に定義されてきた{{Sfn|Sharma|2003|p=12-13}}{{Refnest|group="注"|name="definition"|
as a "religion", "set of religious beliefs and practices", "religious tradition", "a way of life" ({{Harvnb|Sharma|2003|pp=12–13}}) etc. For a discussion on the topic, see:"Establishing the boundaries" in {{Harvnb|Flood|2008|pp=1–17}}}}。西洋の言葉上の観点からはヒンドゥー教は、例えばキリスト教等と同様に1つの宗教であるとされているが、インドでは「ダルマ」(dharma)という語が好まれる。この語はいわゆる「宗教<!--英語のreligionの話-->」よりも意味が広い。特にヒンドゥー教の伝統主義者はサナータナ・[[ダルマ]](Sanatana Dharma、永遠の、あるいは古代のダルマの意)という語を好む{{Sfn|Vivekjivandas|2010|p=1}}。
インド、インドの文化、インドの宗教に関する研究、そしてヒンドゥー教の定義は、植民地主義の利益を目的とし、西洋の持つ「宗教」という概念の枠組みから行われてきた<ref>{{Harvnb|Sweetman|2004}};{{Harvnb|King|1999}}</ref>。1990年以降はこれら西洋のもたらした影響や、それによって生じた変化などがヒンドゥー教の研究者の間でも議題に挙がるようになり{{Sfn|Sweetman|2004}}{{Refnest|group="注"|ウィル・スイートマン(Will Sweetman)は以下を例として挙げている。
* Wilhelm Halbfass (1988), ''India and Europe''
* IXth European Conference on Modern Asian Studies in Heidelberg (1989), ''Hinduism Reconsidered''
* {{仮リンク|Ronald Inden|en|Ronald Inden|label=Ronald Inden}}, ''Imagining India''
* {{仮リンク|Carol Breckenridge|en|Carol Breckenridge|label=Carol Breckenridge}} and {{仮リンク|Peter van der Veer|en|Peter van der Veer|label=Peter van der Veer}}, ''Orientalism and the Postcolonial Predicament''
* Vasudha Dalmia and {{仮リンク|Heinrich von Stietencron|en|Heinrich von Stietencron|label=Heinrich von Stietencron}}, ''Representing Hinduism''
* {{仮リンク|S.N. Balagangadhara|en|S.N. Balagangadhara|label=S.N. Balagangadhara}}, ''The Heathen in his Blindness...''
* {{仮リンク|Thomas Trautmann|en|Thomas Trautmann|label=Thomas Trautmann}}, ''Aryans and British India''
* Richard King (1989), ''Orientalism and religion''}}、それは西洋的視点に対する批判へと引き継がれている{{Sfn|Nussbaum|2009}}。
===主要な神々===
3大神はそれぞれ神妃をもち、夫婦共に多様な化身を有する。
; ヴィシュヌ神
: 世界維持の神、慈愛の神、毘盧遮那、盧遮那。鳥神[[ガルダ|ガルーダ]]に乗る。10大化身と呼ばれる多数の分身を有するが、それぞれの分身にはヴィシュヌ神としての自我は無く、それぞれの自我を持つ。例えば釈迦は釈迦であって釈迦ではなく、ヴィシュヌ神である。10大権現という概念の方が理解しやすい。
:; [[ラーマ]]
:: ヴィシュヌ神の化身。[[叙事詩]]『[[ラーマーヤナ]]』で大活躍する。
:; [[クリシュナ]]
:: ヴィシュヌ神の化身。叙事詩『[[マハーバーラタ]]』の英雄、民間に人気のある神。
:; [[釈迦]]
:: 仏教の開祖である釈迦牟尼はヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の9番目の化身とされている。
:; [[ラクシュミー]]
:: ヴィシュヌ神の神妃、富と幸運の女神。[[大乗仏教|北伝仏教]]では[[吉祥天]]。
:
; シヴァ神
: 創造と破壊の神、乗り物は牡牛の[[ナンディン]]、[[トラ|虎]]の皮をまとい首に[[コブラ]]を巻く。しばしば[[結跏趺坐]]して[[瞑想]]する姿で描かれる。北伝仏教では[[大自在天]]([[降三世明王]]に降伏され仏教に改宗したとされる)。
:; [[マハーカーラ]]
:: シヴァ神の化身。[[チベット仏教]]など仏教においても信仰される。北伝仏教では[[大黒天]]。
:; [[パールヴァティー]]
:: シヴァ神の神妃、ヒマラヤ神の娘。穏やかで心優しい。
::; [[ドゥルガー]]
::: パールヴァティーの化身の一つで美しい戦いの女神。虎に騎乗して[[スイギュウ|水牛]]に化けた悪魔を倒す美しい神像が有名。
::; [[カーリー]]
::: パールヴァティーの化身の一つで荒々しい殺戮の神。しばしば多くの生首を首、腰に巻き付け殺戮に狂う荒神の像で現される。[[コルカタ]](カルカッタ)の地名はカーリーから来ている。
:
; ブラフマー神
: 形而上および現実に存在する全てに対して実存する為の縁起を与える神。神であれ、人であれ、実存しているのならばブラフマーの働きに依存している。神学的哲学の根元。擬人化され水鳥[[ハンサ]]に乗った老人の姿で表される。北伝仏教では[[梵天]]。[[新義真言宗]]では[[大日如来]]。釈迦もしばしば言及したとされる。
:; [[サラスヴァティー|サラスワティー]]
:: ブラフマー神の神妃、北伝仏教では[[弁才天]]。
3大神は、信者個人の信仰においては並立しているわけではない。たとえば「シヴァ神」を最高神と崇める人にとって、「ヴィシュヌ神」は劣位ではあるが敬うべき神である。また神話の中で3大神の化身と共に活躍する神や、3大神の子神も信仰されている。
; [[ガネーシャ]]
: シヴァ神の子供で象の頭を持つ神、鼠に乗る。富と繁栄、智恵と学問を司る。北伝仏教では[[歓喜天]](聖天)。
; [[ハヌマーン]]
: 外見が猿の神、叙事詩『ラーマーヤナ』でラーマ王子を助けて活躍する。身体の大きさを自由に変えられる。[[孫悟空]]の元になったと考えられる。
; [[インドラ]]
: 雷神、天空神。『[[リグ・ヴェーダ]]』の中心的な神で、古くバラモン教の時代には盛んに信仰された。北伝仏教では[[帝釈天]]。
; [[カーマデーヴァ|カーマ]]
: 恋愛、性愛、和合を司る神。
インドの[[国立博物館 (ニューデリー)|国立博物館]]にヒンドゥー教の神々の多様な神像が収蔵・展示されている。
===四住期===
四住期([[アーシュラマ]])とはヒンドゥー教独特の概念で、最終目標の解脱に向かって人生を4つの住期に分け、それぞれの段階ごとに異なる目標と義務を設定したもの。なお四住期は、上位ヴァルナの[[バラモン]]、[[クシャトリア]]、[[ヴァイシャ]]にのみ適用され、[[エーカジャ|エーカージャ]](一生族)である[[シュードラ]]及び[[女性]]には適用されない<ref>森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』192頁</ref>。四住期について概略を示す。
* [[受胎]]から入門式(8 - 12歳)までは四住期に入らず、この間は一人前の人間とは見なされない。
* 学生期 - 本来の意味は、特定の師匠(グル)に弟子入りして聖典ヴェーダを学習する時期であったが、クシャトリアは武人としての技能の鍛錬や[[行政]]統治の実務の勉強も行い、ヴァイシャも[[世襲]]の職業に関する勉強も行った。現在では就学期間に相当。
* 家住期 - 学生期を終えると家業に務め結婚して[[家族]]を養う家住期に入る。男子をもうけて先祖の祭祀を絶やさないことが重要視される。このためインドでは中国のような[[一人っ子政策]]は受け入れられにくい。『[[カーマ・スートラ]]』は家住期を充実させるための経典である<ref>森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』227頁</ref>。家住期において家長は家業を繁栄させて大いに儲け、その金を[[喜捨]]することも重要と考えられている。
* 林住期 - 家住期を終えると解脱に向けた人生段階に入る。[[孫]]の誕生を見届けた家長は家を離れて荒野や林に住み、質素で禁欲的な生活を営む。
* 遊行期 - 林住期を終えると住まいを捨てて遍歴[[行者]]となって放浪し、解脱を目指す。
過去においても現在でも、全てのヒンドゥー教徒が四住期を全うするわけではない。ちなみに仏教の開祖釈迦も当時のバラモン教の教えに従い、四住期に則った人生を送っている。即ち男子をもうけた後、29歳で[[釈迦族]]の[[王族]]の地位を捨て林間で[[修行]]をし、その後[[悟り]]を開いて[[布教]]の旅に出ている。
===業と輪廻===
{{main|輪廻#ヒンドゥー教における輪廻}}
; 業(カルマ)
: [[業]]はサンスクリットで 本来は行為の意味。[[因果]]思想と結合し、業はその善悪に応じて果報を与え、死によっても失われず、輪廻に伴って、代々伝えられると考えられた。『[[ウパニシャッド]]』にもその思想は現れ、輪廻思想・業感縁起の基礎となる。宿業思想に発展し、一種の[[運命論]]となった。中国、日本の思想にも影響を与えている。
: 業はインドにおいて、古い時代から重要視された。ヴェーダ時代からウパニシャッド時代にかけて輪廻思想と結びついて展開し、紀元前10世紀から4世紀位までの間にしだいに固定化してきた。
; 輪廻(サンサーラ)
: ヒンドゥー教では、輪廻を教義の根幹とし、信心と業(カルマ、{{lang|en|karman}})によって次の輪廻([[来世]])の宿命が定まるとする。具体的には、[[カースト]](ヴァルナ)の位階が定まるなどである。生き物は、行為を超越する段階に達しないかぎり、永遠に生まれ変わり、来世は[[前世]]の業(行為)によって決定される。これが、因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されて一部のインド人の死生観・世界観を形成してきた。
===カースト===
{{main|カースト}}
====身分(ヴァルナ)と職業(ジャーティ)====
ヒンドゥー教の特徴のなかで、カースト制度の存在が大きい。カーストは歴史的に基本的な分類(ヴァルナ)が4つ成立し、その下に職業を世襲する[[ジャーティ]](生まれ・出生)と呼ばれる社会集団が形成されて、例えば「牛飼い」や「[[大工]]」や「[[理容所|床屋]]」などの職業が世襲されてきた<ref>『神話と芸能のインド』66頁</ref>。結果としてインドには非常に多くのカーストが存在する。カーストは親から受け継がれるだけで、生まれた後にカーストを変えることはできない。ただし、現在の[[人生]]の結果によって次の生などの生で高いカーストに上がることができるという。現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。
基本的な4つのカースト(ヴァルナ)とカースト外の身分には、以下のものがある。
# ブラフミン(サンスクリットでブラーフマナ、音写して婆羅門・バラモン)
#: 神聖な職についたり、[[儀式]]を行うことができる。バラモンというのは「ブラフマン(梵)を有するもの」の意味で自然界を支配する能力を持つものとされている<ref>森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』124頁</ref>。「司祭」とも翻訳される。本来のバラモン層は下層集団が持たぬ知識、認識及び、その発見方法としての母(汎)知識-例えば[[数学]]-の存在を発見し、蓄積、独占した集団である。
# [[クシャトリヤ|クシャトリア]](クシャトリヤ)
#: [[王]]や[[貴族]]など武力や政治力を持つ。「王族」「戦士」とも翻訳される。釈迦がこの階層に生まれた。
# ヴァイシャ
#: [[商業]]、[[農業]]、[[牧畜]]、[[工業]]及び[[製造業]]などの職業につくことができる。のちには主として「商人」を指すようになった。
# シュードラ(スードラ)
#: 古代では、一般的に人が忌避する職業のみにしか就くことしか出来なかったが、時代の変遷とともに、中世頃には、ヴァイシャおよびシュードラの両ヴァルナと職業の関係に変化が生じ、ヴァイシャは商売を、シュードラは農牧業や手工業など生産に従事する広汎な「大衆」を指すようになった。「労働者」とも翻訳される。
# ヴァルナをもたない人びと
# ヴァルナに属さない人びと(アウト・カースト)もおりアチュートという。「[[不可触民]](アンタッチャブル)」とも翻訳される。不可触賎民は「指定カースト」ともいわれる。1億人もの人々がアチュートとしてインド国内に暮らしている。彼ら自身は、自分たちのことを「[[ダリット]](''Dalit'')」と呼ぶ。ダリットとは壊された民 (Broken People) という意味で、近年、ダリットの人権を求める動きが顕著となっている。カーストによる差別は1950年に憲法で禁止されている。
====改宗====
他宗教から[[改宗]]してヒンドゥー教徒になることは可能である。しかし、そこには[[カースト制]]がある。カーストは親から受け継がれ、カーストを変えることが出来ない。カーストは職業や身分を定める。他の宗教から改宗した場合は最下位のカーストであるシュードラにしか入ることができない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、次の生まれ変わりで上のカーストに生まれるしか方法はないと経典には記されているのが特徴である。そのため改宗による移動を行えないという点がある。
ヒンドゥー教からイスラム教や仏教へと改宗する場合は、下位のカーストの者が差別から抜け出すためであることが多い。しかし、皮肉にもイスラム教徒や、パキスタン人の間にも若干のカースト意識は有ると言われている。カーストはヒンドゥーに限らず、イスラム教徒や仏教徒なども含めた全インド文化に共通する意識であるとも言える。
===河川崇拝===
{{main|ガンジス崇拝}}
[[image:Ganga National Museum01.jpg|right|thumb|200px|ワニに乗る女神[[ガンガー]]]]
ヒンドゥー教では河川崇拝が顕著であり、水を使った沐浴の儀式が重要視されている。特に[[ガンジス川]](ガンガー)は川の水そのものがシヴァ神の身体を伝って流れ出て来た[[聖水]]とされ、川自体も女神[[ガンガー]]であるため「母なる川ガンジス」として河川崇拝の中心となっている。ガンジス川添いには[[沐浴]]場(ガート)が設けられた聖地が点在する。ヒンドゥー教徒は、沐浴場に設けられた石の階段を下りて川の水に頭までつかって罪を清め、あるいは水を飲む。
===菜食主義===
{{main|インドの菜食主義}}
ヒンドゥー教は[[不殺生]]を旨とし、そのため[[肉食]]を忌避するので[[菜食主義]]の人が多い。しかし、身分やしきたりによってその度合いが異なる。一般的な菜食は植物に加えて[[鶏卵]]も可とする人と、鶏卵を不可とする人がいる。また上位カースト階級には、収穫の際に地中の生物を殺す惧れのある[[タマネギ]]などの[[根菜]]類を不可とする人もいる<ref>森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』103頁</ref>。いずれの場合も[[牛乳]]および[[乳製品]]は良く食べられる。ところが[[宗派]]によっては祭りに際し犠牲獣を供することがある。その際、宗教儀式にしたがって神に捧げられた[[ヤギ]]などの犠牲獣の肉を「お下がり」として食べる場合もある。しかし、どのような場合においても牛、特に[[コブウシ|瘤牛]]は神話にも出てくる聖獣で絶対に食べない。一方、同じ牛でも水牛は次々と姿を変える悪魔[[マヒシャ]]の化身の一つであることから、コブ牛との扱いには差があり、家畜として使役され、その肉は[[輸出]]品にされている。
===聖牛崇拝===
[[File:Sacred_cow2.jpg|thumb|牛の各部分が特定の神格を具体化しているというヒンズー教の教えを示した図、[[ラヴィ・ヴァルマ]]作「84柱の神格を持つ牛」。[[ウシ|牛]]の保護を訴えるパンフレットの一部より]]
ヒンドゥー社会において[[ウシ|牛]]は崇拝の対象となっている。ヒンドゥー教徒でインド思想研究者の[[ベンガル人]][[クシティモハン・セン]]は、民衆ヒンドゥー教における[[牛]]の神聖視の起源は、全くわからないと述べている{{sfn|セーン|1999|p=188}}。神話にも牛が度々登場し、たとえばシヴァ神の乗り物はナンディンという牡牛である。実社会でも牡牛は移動、運搬、農耕に用いられ、牝牛は[[牛乳]]を供し、乾燥させた[[牛糞]]は貴重な燃料([[牛糞ケーキ]])となる。ただし聖別されているのは主として瘤牛であり、水牛は崇拝の対象とはならない<ref>森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』165-182頁</ref>。
ヒンドゥー神学では、牛の神聖性は輪廻と結びついている。ヒンドゥー教の輪廻の考え方は上下87段の階梯構造となっているが、最上段の人間に輪廻する1つ前の段階が牛であり、牛を殺した者は輪廻の階梯の最下段からやり直さなくてはならなくなると言われる<ref name="Harris">[[マーヴィン・ハリス]]『食と文化の謎:Good to eatの人類学』([[岩波書店]] 1988年、ISBN 4000026550)pp.49-74.</ref>。また、ヒンドゥー神学者は牛には3億3千万の神々が宿るとし、牛に仕え、牛に祈ることはその後21世代に渡って[[涅槃|ニルヴァーナ]]をもたらすという。
民衆の牛への崇拝は[[インド大反乱]]のきっかけとなったとも言われ、[[マハトマ・ガンディー]]が牛への帰依心を言及したことも、彼が民衆から聖人のような名声を得る理由の一つとなっている。
===ヨーガ===
[[File:A yogi seated in a garden.jpg|thumb|200px|庭園に坐すヨーギー]]
ヒンドゥー教の修行として[[ヨーガ]]が挙げられる。ヨーガは『心身の鍛錬によって肉体を制御し、精神を統一して人生究極の目的である「解脱」に至ろうとする伝統的宗教的行法のひとつである』<ref>森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』288頁</ref>。ヨーガはヒンドゥー教の専有物ではなく、インドの諸宗教で実践されており、仏教に取り入れられたヨーガの行法は中国・日本の[[禅宗]]などの修行法にもつながっている。
ヴェーダの権威を受け入れ、ブラーフマナ(バラモン、司祭)階級の社会的階層の優位を容認する諸学派は「正統バラモン教」と認められ、その6系統のうち[[ヨーガ学派]]は、心身を鍛錬しヨーガの修行で精神統一を図ることで、解脱に達することを説いた{{sfn|川崎|1997|p=116}}。正統バラモン教の各学派も、その学派の教学を学ぶことと並行して、ヨーガの修行を行っている{{sfn|川崎|1997|pp=116-117}}。ヨーガ学派に代表される古典ヨーガの沈思[[瞑想]]による修行法は、4-5世紀頃に編纂されたといわれるヨーガ学派の教典である『[[ヨーガ・スートラ]]』にも書かれている。
また身体を鍛錬するヨーガは、13世紀に始まる「[[ハタ・ヨーガ]]」と呼ばれる流派がある。「現代ヨーガの父」と呼ばれる{{仮リンク|ティルマライ・クリシュナマチャーリヤ|en|Tirumalai Krishnamacharya}}(1888年 - 1989年)らによって、[[体操]]などの西洋身体文化をもとに作られたヨーガも、伝統的なハタ・ヨーガに倣って「ハタ・ヨーガ」と呼ばれるが、古典ヨーガとも元来のハタ・ヨーガとも関係は薄いという<ref name="伊藤">{{Cite journal|和書|author=伊藤雅之 |date=2011-03-30 |title=現代ヨーガの系譜:スピリチュアリティ文化との融合に着目して |journal=宗教研究 |volume=84(4) |publisher=[[日本宗教学会]] |naid=110008514008 |pages=417-418}}</ref><ref name="シングルトン">マーク・シングルトン『ヨガ・ボディ - ポーズ練習の起源』</ref>。現在日本で行われている「ヨーガ教室」等の多くはこの流派に入る。
===グル信仰===
ヒンドゥー教で重要な位置を占めているのが、[[グル]](サンスクリット語で「重いもの」「闇から光へ導くもの」「[[木星]]」「導師」という意味)である。グルはヨーガの修行を成就するにあたって、必要不可欠なものとされ、尊敬と崇拝を集めている。
===女性===
『[[マヌ法典]]』では、女性はどの[[ヴァルナ (種姓)|ヴァルナ]](身分)であっても、入門式(ウパナヤナ)を受けてヴェーダを学ぶ男子として「再生」する[[ドヴィジャ]](二度生まれる者、再生族)ではなく、入門式を受けられず一度生まれるだけの[[エーカジャ|エーカージャ]](一生族)とされていた[[シュードラ]](隷民)と同等視され、女性は再生族である夫と食事を共にすることはなく、祭祀を主催したり、[[マントラ]]を唱えることも禁止されていた{{sfn|森本|2003|pp=191-192}}。解脱を目指して修行するヨーガ行者も男性である。
<blockquote>少女、若い婦人、あるいは老女すらも、何事をも独立になすべきではない。たとい、家庭内においても。婦人は幼児期にはその父に、若いときはその夫に、夫が死亡したときには、その息子に従うべきである。婦人は独立性を得るべきではない。マントラ(真言)で浄化されて結婚する夫は、その妻に、妊娠に適する時期においても、適さない時期においても、現世においても、また来世においても常に幸福を与えるであろう。行状が悪く、あるいは放縦、あるいは美徳を欠いているとしても、貞節な妻は、夫を常に神のように尊敬すべきである。(『マヌの法典』){{sfn|前田|1982|p=57}}</blockquote>
ヒンドゥー教の解脱や浄性に関する価値観において女性の位置づけは低く、一般的に無知で不浄で社会的にも霊的にも劣っていると考えられてきた{{sfn|パートリッジ 編|2009|p=271}}。とはいえ、女神信仰や[[シャクティ]]思想には女性性への強い崇拝が見られ、女性がいかなる信仰・思想でも例外なく劣位であったとも言い難い{{sfn|パートリッジ 編|2009|p=271}}。『リグ・ヴェーダ』では家庭で妻が神事を司るよう説かれ、『マハーバーラタ』では妻が神を祭るのに適しているとされた{{sfn|セーン|1999|pp=182-183}}。『ウパニシャッド』には、最も高度な討論で女性が主導権を握る例が複数あり、『マハーバーラタ』の王であり勇ましい女戦士[[チトラーンガダ]]の物語など、ヒンドゥー教の聖典・古典が例外なく女性に対して抑圧的なわけではない{{sfn|セーン|1999|pp=182-183}}。
中世に女性は[[家事]]に専念することが求められるようになり、社会的地位はかなり悪化した{{sfn|セーン|1999|pp=182-183}}。これがイスラム教や中東地域の習慣の影響なのか、インドのヒンドゥー教社会内部の変化によるものなのか、明確にはわからない{{sfn|セーン|1999|pp=182-183}}。社会的地位にしろ、価値にしろ、近代インドにおいてヒンドゥー教とイスラム教の女性に差はなく、両者とも社会的にも経済的にも完全に男性に依存していた{{sfn|チャンドラ|2001|pp=236-237}}。
伝統的な価値観において、妻や母としての女性の役割はしばしば称賛されたが、個人としての女性の社会的地位は極めて低かった{{sfn|チャンドラ|2001|pp=236-237}}。夫との関係性以外に個性は全く認められず、夫の付属物として扱われ、従属を名誉として受け入れるよう教えられ、生まれ持った才能や望みを表現する手段はなかった{{sfn|チャンドラ|2001|pp=236-237}}。[[ホールカル家]]当主として[[インドール藩王国]]を統治した女性[[アヒリヤー・バーイー・ホールカル]]など政治の場で活躍した個性的な女性もいたが、例外であり、全体を変えることはなかった{{sfn|チャンドラ|2001|pp=42-43}}{{sfn|チャンドラ|2001|pp=236-237}}。上流階級の女性が屋外で働くことはタブーであり、北インドでは女性を隔離する[[パルダ]]制度の下で生活した{{sfn|チャンドラ|2001|pp=42-43}}{{sfn|チャンドラ|2001|pp=236-237}}。農村の女性にはパルダ制度はなく、男性と共に野良仕事をしていたため、上流階級の女性より相対的に自由で、男性に対する地位も高かった{{sfn|チャンドラ|2001|pp=236-237}}。
女性としての規範通りに生きれば、良き母良き娘として尊敬され、戦争や混乱の中でも、女性は乱暴されることもなく、丁重に扱われ、人混みの激しい場所に一人で出かけても危険はなかったという{{sfn|チャンドラ|2001|pp=42-43}}。
ヒンドゥー教の立法者達は妻の地位をかなり制限しており、一般的に女性の財産所有権は否定されていた{{sfn|セーン|1999|pp=182-183}}。
後代の立法者達は、男性のみに高等教育を受ける権利を認めようとし{{sfn|セーン|1999|pp=182-183}}、ほとんどの女性に教育を受ける権利はなかった{{sfn|チャンドラ|2001|pp=236-237}}。
19世紀に、イギリスの支配から脱しようと様々な社会運動が行われるようになると、西洋の平等や個人主義の理念の影響を受け、女性の地位改善も叫ばれるようになり、20世紀になると、急進的な民族運動の台頭でさらに運動は活発化した{{sfn|チャンドラ|2001|pp=237-238}}。インドが独立すると、インド憲法で男女の完全な平等が保証された。男女の不平等は多くの形で残されているが、両性の平等に向けた運動が続けられている{{sfn|チャンドラ|2001|pp=237-238}}。
===結婚===
幼児婚が全国的に見られ、7、8歳、時に3、4歳で結婚する女性もいた{{sfn|チャンドラ|2001|pp=42-43}}{{sfn|チャンドラ|2001|pp=236-237}}。結婚は全て[[家長]]が決定し{{sfn|チャンドラ|2001|pp=42-43}}、同じ[[ジャーティ]](カースト)の内部で結婚する{{sfn|前田|1982|pp=58-59}}。少年少女の自由な交流は禁じられていた{{sfn|チャンドラ|2001|pp=42-43}}。近世インドは基本的に[[家父長制]]であり、家族を年長の男子が支配し、男系相続だった{{sfn|チャンドラ|2001|pp=42-43}}。[[ケーララ州|ケーララ]]地域に例外的に[[母系制]]がみられた{{sfn|チャンドラ|2001|pp=42-43}}。
イギリスからの独立まで[[一夫多妻]]が許されていたが、裕福なもの以外は一夫一婦制が普通だった{{sfn|チャンドラ|2001|pp=42-43}}。[[一妻多夫]]は厳禁とされていた{{sfn|セーン|1999|pp=182-183}}{{Refnest|group="注"|文献の上では、『マハーバーラタ』に5人の夫を持った[[ドラウパディー]]王女の物語がある{{sfn|セーン|1999|pp=182-183}}。}}。
上流階級では、結婚には莫大な持参金([[ダヘーズ|ダウリー]])を持たせる習慣が広くあり、ラージプータナーやベンガル地域で特に行われていた{{sfn|チャンドラ|2001|pp=42-43}}。
高カーストの女性は再婚が許されなかった{{sfn|チャンドラ|2001|pp=42-43}}{{sfn|チャンドラ|2001|pp=236-237}}。一方、男性と共に野良仕事をする農村の女性は、多くが再婚の権利を持っていた{{sfn|チャンドラ|2001|pp=236-237}}。寡婦の生活は悲惨なもので、禁欲的で厳しい規則に縛られ、現世の幸福を全て捨て、亡き夫の家族や自分の兄弟の家族に滅私奉公することが求められた{{sfn|チャンドラ|2001|pp=42-43}}{{sfn|チャンドラ|2001|pp=236-237}}。夫が死亡した場合に、妻が夫の遺体と共に焼かれ殉死する[[サティー (ヒンドゥー教)|サティー]]という儀礼があり、これは[[ラージプータナー]]、[[ベンガル地方]]その他の北部インドを中心に行われていた{{sfn|チャンドラ|2001|pp=42-43}}。
===主な宗派===
* [[ヴィシュヌ派]]
* [[シヴァ派]]
* [[シャクティ派]]
* [[スマールタ派]]
====派生した宗教====
* [[バリ・ヒンドゥー]]
====ヒンドゥー教の一部と見なされることがあるもの====
* [[アイヤーヴァリ]]
== 歴史 ==
ヒンドゥー教はキリスト教やイスラム教のような、特定の開祖によって開かれたものではなく、[[インダス文明]]の時代からインド及びその周辺に居住する住民の信仰が受け継がれ時代に従って変化したものと考えられている。したがってヒンドゥー教がいつ始まったかについては見解が分かれている<ref>『インドを知る事典』27頁</ref>。
{{see also|インドの歴史}}
===インダス文明時代===
インダス文明(紀元前2,300年 - 1,800年)の[[ハラッパー]]から出土した印章には、現代のシヴァ神崇拝につながる[[結跏趺坐]]した行者の絵や、シヴァ神に豊穣を願う[[リンガ]]崇拝につながる直立した[[男性器]]を示す絵が見られる<ref>森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』73頁</ref>。しかし[[インダス文字]]は[[未解読文字|解読できていない]]ので、後代との明確な関係は不明である。
===ヴェーダ===
{{main|ヴェーダ}}
[[File:Rigveda MS2097.jpg|thumb|リグ・ヴェーダ]]
ヴェーダは「知る」という意味のサンスクリット語に由来し、宗教的知識を意味する{{sfn|川崎|1997|p=29}}。さらには、その知識を集成した聖典類の総称となっている{{sfn|川崎|1997|p=29}}。最も古い『リグ・ヴェーダ』は紀元前1,200年から1,000年頃にインド北西部の[[パンジャブ地方]]で[[アーリア人|アーリヤ人]]によって成立したと考えられている。ヴェーダの内容は下記のように分類されるが、狭義には[[サンヒター]]のみを指す。
* サンヒター(本集)
** 『リグ・ヴェーダ』(賛歌)
** 『[[サーマ・ヴェーダ]]』(歌詠)
** 『[[ヤジュル・ヴェーダ]]』(祭詞)
** 『[[アタルヴァ・ヴェーダ]]』(呪詞)
* [[ブラーフマナ]](祭儀書)
* [[アーラニヤカ]](森林書)
* ウパニシャッド(奥義書)
リグ・ヴェーダには登場する神々の多くは、自然界の構成要素や諸現象、その背後にあると思われた神秘的な力を神格化したものである{{sfn|川崎|1997|pp=30-31}}。多数の神が登場するが、その中で重要なのは雷神インドラ(日本では帝釈天)、[[アグニ]](火の神)、[[ヴァルナ (神)|ヴァルナ]]であった。現在では前述のヴィシュヌ神等に押されて影が薄い。
『リグ・ヴェーダ』に登場する神々は、各々が独立した個性を有しているわけではなく、属性や事績を共有することが多い。また狭義のヒンドゥー教で見られる人格神的な形態を取らず、神像や恒久的な寺院建造物の存在も確たる証拠は見つかっていない。バラモン教の祭祀は具体的な目的に対して行われ、バラモンが規定に則って空き地を清め、そこに目的に応じた特定の神を招き、供物や犠牲を祭壇の火炉に捧げる「供犠」が主体であった<ref>『インドを知る事典』34頁</ref>。
現在の[[ヒンドゥー哲学]]の基本となる「[[因果応報]]」「[[霊魂]]不滅」「輪廻」などの諸観念の淵源は、ウパニシャッドが完成した頃まで遡ることができる<ref>『インドを知る事典』36頁</ref>。ウパニシャッドは紀元前800 - 500年頃にガンジス川流域で作られたインド古代哲学の総称である<ref>『インドを知る事典』30頁</ref>。なおヴェーダに登場する[[ヴィシュヴァカルマン]]神(造物や工巧の神)は、現在でも物造りの神様として、インドの各工場で祀られている。現在この神の祭りは毎年9月17日に行われている。
===バラモン教からヒンドゥー教へ===
バラモン教は、インドを支配するアーリア人の祭司階級バラモンによる祭儀を重要視する宗教を指す。紀元前5世紀頃に、バラモン教の祭儀重視に批判的な仏教とジャイナ教が成立した。
更にインド北西部は紀元前520年ころには[[アケメネス朝]]ペルシア、前326年には[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]に支配された。その後仏教は[[アショーカ王]](在位紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)の帰依などにより一時期バラモン教を凌ぐ隆盛を示した。この時期にヴェーダを基本とする宗教であるバラモン教は「支配者の宗教」からの変貌を迫られ、インド各地の[[先住民族]]の土着宗教を吸収・同化して形を変えながら民衆宗教へ変化していった。このため広義のヒンドゥー教にはバラモン教が含まれる。
ヒンドゥー教にはバラモン教の全てが含まれているが、ヒンドゥー教の成立に伴って、バラモン教では重要であったものがそうでなくなったり、その逆が起きたりなど大きく変化している。
紀元後4世紀頃、[[グプタ朝]]がガンジス川流域を支配した。グプタ朝は[[チャンドラグプタ2世]](在位紀元385年 - 413年)に最盛期を迎えるが、この頃に今もヒンドゥー教徒に愛されている叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がまとめられるなど、ヒンドゥー教の隆盛が始まった。
また東南アジアの「[[インド化 (東南アジア)|インド化]]」に伴い、5世紀頃から中国の史料にヒンドゥー教に関する記述が見られる<ref>青山亨「[https://doi.org/10.11384/jjasas.2010.261 ベンガル湾を渡った古典インド文明]」『南アジア研究』2010年 2010巻 22号 p.261-276, {{doi|10.11384/jjasas.2010.261}}</ref>。以降、島嶼部では[[古マタラム王国]]や[[マジャパヒト王国]]など、大陸部では[[扶南国]]などで栄えた。[[アンコール朝]]では12世紀前半まではヒンドゥー教のシヴァ派とヴィシュヌ派が立国の思想となっていた<ref>[[石澤良昭]]「[https://doi.org/10.5512/sea.2002.3 アンコール王朝史の新局面]」『東南アジア -歴史と文化-』2002年 2002巻 31号 p.3-26, {{doi|10.5512/sea.2002.3}}</ref>。
===六派哲学===
バラモン教は上記のように具体的な目的に対して神に「供犠」を捧げる、いわば「ギヴ・アンド・テイク」の宗教であったのに対し、ヒンドゥー教では[[ヴィシュヌ神]]のような至高の神への絶対的帰依(「バクティ」と呼ぶ)に基づく信仰態度が多くの大衆に受け入れられ始めた。この時期に'''六派哲学'''と呼ばれるインドの古典哲学が確立し、互いに論争を繰り広げた<ref>『インドを知る事典』41頁</ref>。インドの学問のおよそ全般は、輪廻からの解脱を究極の目的とし、宗教的色彩が濃く、固有の思想体系を伝える哲学学派も、宗教の宗派とほとんど区別することができない{{sfn|川崎|1997|p=98}}。
* [[ヴァイシェーシカ学派]] - 多数の実在を認め、物質を無数の[[原子]]からなるものと規定した。
* [[ニヤーヤ学派]] - 実在を認めつつ、主宰神「シヴァ神」の証明を試みた。
* [[サーンキヤ学派]] - 世界は精神と物質から成るとした[[二元論]]を展開した。純粋精神が物質から離れた時に「解脱」が達成されるとし、最高神の存在を認めない。
* [[ヨーガ学派]] - 教説のかなりの部分をサーンキヤ学派と共有するが、最高神の存在を信じる。「解脱」の手段としてのヨーガの行法を発達させた。
* [[ミーマーンサー学派]] - ヴェーダの「供犠」を受け継ぎ、正しい祭祀が(神を通さず)直接果報をもたらすものとした。
* [[ヴェーダーンタ学派]] - 根本聖典『[[ブラフマ・スートラ]]』に則り[[梵我一如]]を追求した。この学派がその後のヒンドゥー教の正統派の地位を継続している。
{{Seealso|インド哲学#比較}}
===不二一元論とバクティ===
{{main|不二一元論|バクティ}}
ヴェーダーンタ学派の思想の中で最も有名なものに[[不二一元論]]がある。これは、精神的実在である[[ブラフマン]](梵)または[[アートマン]](我)以外に実在する物は無い、言い換えれば「今目の前にある世界は幻影に過ぎない」という思想。この思想を突き詰めてゆくと、[[シャンカラ]](700年 - 750年頃)の説くように「ブラフマンは人格や属性を持たないもの」となり、無神論的一元論に達する。この教義は現在でもヒンドゥー教の正統派としてインドの5箇所の僧院で代々「[[シャンカラ・アーチャーリヤ]]」の名を継承する学匠によって不二一元論の法灯が維持され続けている。シャンカラ後の不二一元論は、11世紀の神学者[[ラーマーヌジャ]]による被制限者不二一元論、13世紀の神学者{{仮リンク|マドヴァ|en|Madhvacharya}}の[[二元論]]へと発展していった<ref name="Fiood">ギャヴィン・フラッド ジョン・ボウカー(編)「インドの諸宗教とヒンドゥー教」松村一男監訳『ヴィジュアル版 ケンブリッジ 世界宗教百科』([[原書房]] 2006年 ISBN 4562040343 )pp.45,50-51.</ref>。現代インドの[[パンディット]](伝統的スタイルのバラモン学者)の大部分はヴェーダーンタ学徒で、その八割以上はシャンカラ派に属していると言われる{{sfn|前田|1967|p=250}}。ヴェーダーンタ哲学がその2000年以上の歴史において、インドの宗教、文化、社会、政治等に及ぼした影響は非常に大きい{{sfn|前田|1967|p=250}}。
5世紀〜10世紀の[[南インド]]では「至高の神への絶対的帰依」「自己犠牲をいとわない神への奉仕」を信仰の柱とする'''バクティ'''と呼ばれる信仰形態が顕在化し始めた。このバクティに関して、12世紀から13世紀にかけてヴェーダーンタ学派の学匠達によって「ヴィシュヌ神」を崇拝する信仰が理論化された。バクティーは一般庶民の信仰形態として現在まで広く行われている<ref>『インドを知る事典』43-45頁</ref>。不二一元論とバクティは正反対とも言える形態だが、現在のヒンドゥー教の中では問題なく同居している。
===その後のヒンドゥー教===
[[image:Vishvanatha Temple, Khajuraho (side).jpg|right|thumb|200px|[[カジュラーホー]]のヴィシュヴァナータ寺院(1002年頃)シヴァ神を祀る。寺院の壁面には多数の彫刻が浮き彫りされている]]
その後[[北インド]]ではイスラム教徒の征服王朝が交代する時代に入る。[[タージ・マハル]]など北インドの著名な文化財はイスラム教様式である。しかし庶民や南インドの王朝はヒンドゥー教を信奉した。ヒンドゥー教では ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァが3大神とされた。各神は多様な側面を持ち、その性格は一様ではない。その中でヴィシュヌやシヴァは民間宗教の神を取り込んでゆき、多様な神話を通じて多くの信徒を有している。ヒンドゥー教の複雑さ・分かりにくさの一例として、たくさんの神々を崇める多神教としての姿、シヴァまたはヴィシュヌを至高の神とする一神教的な姿、教理を哲学的に極めた不二一元論のような無神教としての姿のすべてを内在している点が挙げられる。
インドがイギリスの植民地となって久しい[[19世紀]]に、[[ベンガル州]]を中心に知的エリート層によってキリスト教とヒンドゥー教の知的交流が盛んになり、西欧的な[[合理主義]]に基づいて、インドの近代化とヒンドゥー教の復興・改革を目指す{{仮リンク|ヒンドゥー教改革運動|en|Hindu reform movements}}が起こった。インドの歴史的個性・古典・文化のすばらしさが説かれ、ヒンドゥー教の近代的解釈を行って信仰態度を確立し、{{仮リンク|植民地時代のインド|en|Colonial India}}で民衆に自信と勇気を与え、「インド」を認識し、ナショナリズムを盛り上げた{{sfn|斎藤|1982|p=32}}{{sfn|斎藤|1982|p=40}}。こうした現代ヒンドゥー教の改革運動を担った人々は、多くが上部カースト出身のインド人だったが、[[神智学協会]]の[[アニー・ベサント]]のような外国人もいた{{sfn|斎藤|1982|pp=31-32}}。
のちに「ヒンドゥー・ルネサンス」「{{仮リンク|ベンガル・ルネッサンス|en|Bengali renaissance}}」と呼ばれる改革の創始者は、「近代インドの父」とも呼ばれる[[ラーム・モーハン・ローイ]]である<ref name="Fiood"/>。バラモン階級出身でウパニシャッドの影響を受けていたローイは、[[ユニテリアン主義]]の影響も受け、神は超越的な存在であり聖像などで表現し得ないものと信じ、宗教は合理的で倫理的な体系であるべきであり、道徳法は理性によって理解されるべきと考えた<ref name="Fiood"/>。ローイの兄の妻は[[サティー (ヒンドゥー教)|サティー]](寡婦殉死)で死亡しており、彼はこれに大きなショックを受けたと言われ{{sfn|斎藤|1982|p=43}}、サティーや幼児婚といったヒンドゥー教の慣習を非道徳な儀式として非難し、1829年のサティー禁止法の発布に影響を与えた。また、聖像礼拝やカルマ、[[輪廻]]といった概念を[[迷信]]として、キリスト教の改革運動をモデルとした[[ブラフモ・サマージ]](ブラフモ協会)という宗教団体を設立した。
ローイは訪英中に客死してしまうが、その仕事は{{仮リンク|デヴェンドラナート・タゴール|en|Debendranath Tagore}}や{{仮リンク|ケーシャブ・チャンドラ・セーン|en|Keshub Chandra Sen}}に引き継がれた。[[プラーナ]]や[[タントラ]]を否定するブラフモ・サマージの思想は知識層の関心を集めたが、大衆レベルではまったく人気が無かった<ref name="Fiood"/>。
1875年にローイの影響を受けた{{仮リンク|ダヤーナンダ・サラスワティー|en|Dayananda Saraswati}}は、ブラフモ・サマージに内在する民族主義を発展させた[[アーリヤ・サマージ]](アーリヤ協会)を発足させた。アーリヤ・サマージはヒンドゥー教を純粋なヴェーダの形態に戻すべきと主張し、ヴェーダ文化を振興させる活動を通じてインドの国民意識を喚起した<ref name="Fiood"/>。アーリヤ・サマージは教育面での貢献が大きく、インドの初代首相[[ジャワハルラール・ネルー]]は、「抑圧された階級の地位をあげ、女子の状態を改良し、少年、少女の教育のためにアーリヤ・サマージは多くの仕事をした」と評価している{{sfn|斎藤|1982|p=40}}。
また、[[ロシア人]][[オカルト|オカルティスト]]の[[ヘレナ・P・ブラヴァツキー]]らによる[[神智学協会]]は、本拠地をアメリカからインドに移し、ヒンドゥー教や仏教思想を取り入れて、[[転生]](輪廻)や[[カルマ]](業)を強調した神秘思想を説いた{{sfn|増原|1967|pp=340-341}}。インドには聖者とされた人々が数多あるが、その内にはブラヴァッツキーに始まる近代[[神智学]](接神論)の者もおり、彼らは外国人ながらインド独立運動に関わり、2代目会長の[[アニー・ベサント]]は国民会議の年次大会議長になる等、インド・ナショナリズムの運動に大きな影響を及ぼした{{sfn|増原|1967|pp=340-341}}。なお、[[ヴィヴェーカーナンダ]]は、神智学協会を疑似ヒンドゥー教であるとしており、真面目な宗教運動であったか疑問視する声もある{{sfn|増原|1967|pp=340-341}}。
一方で、[[バクティ]]運動の直接の影響を受け、ローイらのように西洋式教育を受けていない田舎のバラモンであった[[ラーマクリシュナ]]は、聖典に興味を持つこともなく、純粋なバクティを説き、複雑な神学体系なしに、知性ではなく純粋な信仰を捧げることで神に近づこうとした{{sfn|セーン|1999|pp=174-175}}。彼の信仰は[[カーリー]]女神へのバクティを中核とし、[[タントラ]]的な性格を持つが{{sfn|臼田|2000|pp=207-208}}、[[イスラム神秘主義]]やキリスト教の修行も実践して様々な神を見たとされ、易々と神秘体験に入り得ることで注目を集め、『世界の全ての宗教は神に至る道』<ref>森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』375頁</ref>と説いた。その神秘体験と、子供のような特異な人格で多くの人を魅了し、彼の影響下でブラフモ・サマージの流れとも異なるヒンドゥー教改革運動が生じた{{sfn|セーン|1999|pp=174-175}}。弟子の[[ヴィヴェーカーナンダ]]は、ヒンドゥー教は[[普遍宗教]]であると主張して、各々の宗教の寛容を強調し、神性の本質は各個人の内にあり、ヒンドゥー教の実践を通じて理解できると主張し、宗教統一理論をもとにヒンドゥー教を再構築した。ヴィヴェーカーナンダは、1893年にシカゴで開かれた{{仮リンク|万国宗教会議|en|Parliament of the World's Religions}}に参加してヒンドゥー教を[[世界宗教]]のひとつとして認めさせることに貢献し<ref name="Fiood"/>、1895年には[[ラーマクリシュナ僧院]]と[[ラーマクリシュナ・ミッション]]を創設し、世界に[[アドヴァイタ・ヴェーダーンタ]](不二一元論)を根幹とする{{仮リンク|ネオ・ヴェーダーンタ|en|Neo-Vedanta}}を布教し、インド内で社会奉仕活動を行った。
== 教典 ==
[[ファイル:Rigveda MS2097.jpg|thumb|[[リグ・ヴェーダ]]は最古の、そして最も重要なヴェーダであり<ref>Rigveda is not only the oldest among the vedas, but is one of the earliest [[インド・ヨーロッパ語族|Indo-European]] texts.</ref>、世界的に見ても最も古い聖典の一つとされている。]]
{{Main|ヴェーダ|マハーバーラタ|バガヴァッド・ギーター|ラーマーヤナ|プラーナ文献}}
古代のヒンドゥー教の聖典はサンスクリット語で書かれている。そしてこれらは{{仮リンク|シュルティ|en|Śruti}}(天啓)と{{仮リンク|スムリティ|en|Smriti}}(聖伝)の2種類に大別される。ヒンドゥー教の聖典は何世紀にもわたり口承にて編纂され、記憶され、そして世代を超えて伝承され、後に文字に起こされた<ref>Flood, Gavin, ed. (2003), The Blackwell Companion to Hinduism, Blackwell Publishing Ltd., ISBN 1-4051-3251-5, see {{仮リンク|Michael Witzel|en|Michael Witzel}} quote on pages 68-69</ref><ref>{{Harvnb|Sargeant|Chapple|1984|p=3}}</ref>。何世紀にもわたり[[リシ]](聖仙)たちは教義を磨き上げ、それをシュルティとスムリティに展開した。さらには[[ヒンドゥー哲学]]の6学派は[[認識論]]、[[形而上]]の理論を[[シャーストラ]]と呼ばれる書物にまとめた。
シュルティ(聞かれた物の意{{Sfn|Rinehart|2004|p=68}})は通常ヴェーダのことを指す。ヴェーダはヒンドゥー教の聖典の中でも最も早い時期に記録されたもので、古代のリ[[シ]](聖仙)たちに明かされた永遠の真実が記されていると考えられている{{Sfn|Flood|2008|p=4}}。ヴェーダには『リグ・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』の4つが存在し、それぞれのヴェーダはさらにサンヒター(賛歌、祈り)、アーラニヤカ(儀式、祭祀について)、ブラーフマナ(儀式、祭祀の解釈)、ウパニシャッド(瞑想、哲学について)の4つの部門に分けられる<ref name="gflood">Gavin Flood (1996), An Introduction to Hinduism, Cambridge University Press, ISBN 978-0521438780, pages 35-39</ref><ref>A Bhattacharya (2006), Hindu Dharma:Introduction to Scriptures and Theology, ISBN 978-0595384556, pages 8-14;George M. Williams (2003), Handbook of Hindu Mythology, Oxford University Press, ISBN 978-0195332612, page 285</ref><ref>[[ヤン・ゴンダ|Jan Gonda]] (1975), Vedic Literature:(Saṃhitās and Brāhmaṇas), Otto Harrassowitz Verlag, ISBN 978-3447016032</ref>。最初の2つ(サンヒター、アーラニヤカ)はカルマカーンダ(Karmakāṇḍa、施祭部門)とよばれ、残りの2つがジュニャーナカーンダ(Jñānakāṇḍa、哲学的、宗教的思索部門)と呼ばれる<ref>Edward Roer (Translator), {{Google books|3uwDAAAAMAAJ|Shankara's Introduction}} to ''Brihad Aranyaka Upanishad'' at pages 1-5;'''Quote''' - "The Vedas are divided in two parts, the first is the karma-kanda, the ceremonial part, also (called) purva-kanda, and treats on ceremonies;the second part is the jnana kanda, the part which contains knowledge, also named uttara-kanda or posterior part, and unfolds the knowledge of Brahma or the universal soul."</ref><ref name="Shivananda">{{Cite web|url=http://www.dlshq.org/religions/vedas.htm|title=Swami Shivananda's mission|accessdate=25 June 2007}}</ref><ref>{{Harvnb|Werner|1994|p=166}}</ref><ref>{{Harvnb|Monier-Williams|1974|pp=25–41}}</ref><ref>Olivelle, Patrick (1998), Upaniṣads, Oxford University Press, ISBN 0-19-282292-6, Introduction chapter</ref>。
ウパニシャッドはヒンドゥー哲学の基礎であり<ref name=wendydoniger/><ref>Wiman Dissanayake (1993), Self as Body in Asian Theory and Practice (Editors:Thomas P. Kasulis et al), State University of New York Press, ISBN 978-0791410806, page 39;'''Quote''':"The Upanishads form the '''foundations of Hindu philosophical thought''' and the central theme of the Upanishads is the identity of Atman and Brahman, or the inner self and the cosmic self.";<br />
Michael McDowell and Nathan Brown (2009), World Religions, Penguin, ISBN 978-1592578467, pages 208-210</ref>、シュルティの中でも特に優れた聖書であるとされ、その基本理念は後の時代のヒンドゥー教哲学や信仰にも継続的に影響を与え続けている<ref name="wendydoniger">Wendy Doniger (1990), Textual Sources for the Study of Hinduism, 1st Edition, University of Chicago Press, ISBN 978-0226618470, pages 2-3;'''Quote:''' "The Upanishads supply the '''basis of later Hindu philosophy''';they alone of the Vedic corpus are widely known and quoted by most well-educated Hindus, and their central ideas have also become a part of the spiritual arsenal of rank-and-file Hindus."</ref><ref>{{仮リンク|Patrick Olivelle|en|Patrick Olivelle}} (2014), The Early Upanisads, Oxford University Press, ISBN 978-0195352429, page 3;'''Quote''':"Even though theoretically the whole of vedic corpus is accepted as revealed truth [shruti], in reality it is the Upanishads that have continued to influence the life and thought of the various religious traditions that we have come to call Hindu. Upanishads are the scriptures par excellence of Hinduism".</ref>。[[サルヴパッリー・ラーダークリシュナン]]は、ウパニシャッドは歴史に登場して以来ずっと支配的な役割を果たしていると語っている<ref>S Radhakrishnan, [https://archive.org/stream/PrincipalUpanishads/129481965-The-Principal-Upanishads-by-S-Radhakrishnan#page/n19/mode/2up The Principal Upanishads] George Allen & Co., 1951, pages 17-19, Reprinted as ISBN 978-8172231248</ref>。ヒンドゥー教には108の{{仮リンク|ムクティカー|en|Muktikā|label=ムクティカー・ウパニシャッド}}が存在し、学者よって幅があるがそのうちの10から13は特に重要なものとして{{仮リンク|ムキャ・ウパニシャッド|en|Mukhya Upanishads}}と呼ばれる<ref>Patrick Olivelle (1998), Upaniṣhads. Oxford University Press, ISBN 978-0199540259, see Introduction</ref><ref>[https://archive.org/stream/thirteenprincipa028442mbp#page/n1/mode/2up Thirteen Principal Upanishads], Robert Hume (Translator)</ref>。
最も重要なスムリティ(記憶されたものの意)はヒンドゥー叙事詩と[[プラーナ文献]]である。具体的には『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がヒンドゥー叙事詩であり、『マハーバーラタ』にその一部として含まれている『[[バガヴァッド・ギーター]]』は最も一般的なヒンドゥー教の聖典の一つであり<ref>''Sarvopaniṣado gāvo,'' etc. (''Gītā Māhātmya'' 6). ''Gītā Dhyānam'', ''cited in'' Introduction to [http://www.bhagavadgitaasitis.com/introduction/en Bhagavad-gītā As It Is]. {{Webarchive |url=https://web.archive.org/web/20140301204524/http://www.bhagavadgitaasitis.com/introduction/en |date=1 March 2014 }}</ref>、ヒンドゥー教徒の信仰生活を実質的に規定してきた<ref>森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』308頁</ref>。『バガヴァッド・ギーター』(「神の歌」の意)は時にウパニシャッドとみなされギートパニシャッド(Gitopanishad)と呼ばれる。そのためシュルティに数えられることもある<ref>Thomas B. Coburn, ''Scripture" in India:Towards a Typology of the Word in Hindu Life'', {{仮リンク|Journal of the American Academy of Religion|en|Journal of the American Academy of Religion|label=Journal of the American Academy of Religion}}, Vol. 52, No. '''3''' (September, 1984), pp. 435-459</ref>。また『ラーマーヤナ』は{{仮リンク|ラーム・リーラー|en|Ramlila}}、『マハーバーラタ』は{{仮リンク|ラース・リーラー|en|Rasa lila}}という名で歌舞劇にされており、各地で祝祭に合わせて上演される伝統がある<ref>『神話と芸能のインド』 91頁。</ref>。一方のプラーナ文献はおよそ西暦300年あたりから編纂され始め{{Sfn|Lorenzen|1999|p=655}}、広範な神話を含む。これらはヒンドゥー教の共通のテーマを、生き生きとした物語を通して人々に伝えるという役割を担い、布教の中心となっている。またヨーガについて記された古典『ヨーガ・スートラ』は20世紀になって再評価されている{{Sfn|Michelis|2005}}。
19世紀のヒンドゥー教現代主義者らはヒンドゥー教のアーリア人起原の要素を再評価し、[[タントリズム]](密教)の影響を受けたヒンドゥー教を純化しようという試みのなかで{{Sfn|Lorenzen|2002|p=33}}埋もれていたヴェーダの要素を強調した。たとえばヴィヴェーカーナンダは、たとえそれが古代の[[リシ]](聖仙)たちに明かされたものでないにしても、ヴェーダは精神世界の法律であるという立場をとった<ref>{{Harvnb|Vivekananda|1987|loc=Vol I, pp. 6–7}}</ref><ref>{{Harvnb|Harshananda|1989}}</ref>。タントリズムでは「{{仮リンク|アーガマ (ヒンドゥー教)|en|Āgama (Hinduism)}}」という語が彼らにとって権威のある聖典全体を指す言葉であり、また同時にシヴァがシャクティに語った教えを意味する{{Sfn|Jones|Ryan|2006|p=13}}。一方で「ニガマ」(Nigama)という語はヴェーダを意味し、同時にシャクティがシヴァに語った教えを意味する{{Sfn|Jones|Ryan|2006|p=13}}。アーガマ派(聖典シヴァ派)ではアーガマをヴェーダと同等なものとして同様に重視している<ref>Mariasusai Dhavamony (1999), Hindu Spirituality, Gregorian University and Biblical Press, ISBN 978-8876528187, pages 31-34 with footnotes</ref><ref>David Smith (1996), The Dance of Siva:Religion, Art and Poetry in South India, Cambridge University Press, ISBN 978-0521482349, page 116</ref>。
== 聖地 ==
[[File:Benares 1.JPG|thumb|220px|ワーラーナシーにおける沐浴]]
ガンジス川添いには沐浴場(ガート)が設けられた聖地がある(以下は上流側から順に記載)。
* [[ガンゴートリー]]
* [[バドリーナート]]
* [[リシケーシュ]](リシケシ、リシュケシュ) - 沐浴場のほかヨガの道場(アーシュラム)も多く存在し、[[ビートルズ]]のメンバーも一時滞在した<ref>『インド黄金街道』71頁</ref>。
* [[ハリドワール]](ハルドワール)
* [[アラーハーバード]]
* [[ワーラーナシー]](バラナシ、バナーラス、ベナレス) - 北インド中央、ガンジス川左岸に位置するガンジス川最大の沐浴場。
4大巡礼地
* [[プリー]] - インド東部、[[ベンガル湾]]沿いに位置するヴィシュヌ神の町。[[ジャガンナート寺院]]がある。
* バドリーナート・[[ケーダールナート]] - 北インドにある。
* [[ドワールカー]](ドワーラカー) - インド西部にある。
* [[ラーメーシュワラム]] - 南インドにある。
他には、神話の舞台や由緒ある寺などが聖地とされている。
* [[アヨーディヤー]] - 『ラーマーヤナ』の主人公ラーマ王子の故郷。
* [[ヤムノートリー]]
* マトゥラー - ヴィシュヌ神の化身クリシュナの生誕地。
* [[カーンチープラム]] - インド南部の聖地、7世紀頃から栄えたため、古い寺院が多く残っている。
* [[ウッジャイン]]
== 遺跡 ==
* [[プランバナン寺院群]] - インドネシアの[[ジャワ島]]にあり、[[世界文化遺産]]の一つ。プランバナン寺院には、かつて約240もの祠堂が建てられていたそう。その後、地震や[[ムラピ山]]の噴火などでそのほとんどが崩壊。現在は、大小合わせて18の祠堂が修復、再建されている。中心にそびえ立つのはヒンドゥー教の3大主神、ブラフマ(創造の神)、ヴィシュヌ(維持の神)、シヴァ(破壊の神)の3つの祠堂。<ref>[http://www.excite.co.jp/News/travel/20170512/Tripping_39535.html ヒンドゥー教の理解が深まる!ジョグジャカルタの世界遺産「プランバナン寺院」][[エキサイト]]</ref>
* [[アンコール遺跡]] - [[カンボジア]]にあり、世界文化遺産の一つ。
== 祭礼 ==
{{Main|{{仮リンク|ヒンドゥー教の祝祭|en|Hindu festivals}}}}
[[File:Durga puja at gurgaon01.jpg|left|thumb|200px|ドゥルガー・プージャ、ドゥルガー女神とその子ども達の像は毎年新しく制作され、祭りが終わると川に流される。中央がドゥルガー神、向かって左端が象頭のガネーシャ神。]]
[[File:Diwali light festival 01.jpg|thumb|200px|デリー近郊の民家のディワーリー祭の灯明、戸口に幸運の女神を呼び込む明かりが灯される。]]
ヒンドゥー教の祭りはウツァヴ([[梵語]]: Utsava、「高く上げること」の意)と呼ばれ、個人と社会生活をダルマ(法)と結び付ける儀式とされている<ref name=sandrarobinson/><ref name="yustf">Karen-Marie Yust (2005), Sacred Celebrations, in Nurturing Child and Adolescent Spirituality (Editor:Karen-Marie Yust), Rowman & Littlefield, ISBN 978-0742544635, page 234, see also Chapter 18</ref>。年間に多くの祭りが開催され、日取りは[[ヒンドゥー暦]]([[太陰太陽暦]])に従って定められる。これらは[[満月]](ホーリー)か[[新月]](ディワーリー)、または季節の変わり目を起点にして開催されるものが多くみられる<ref name="denisecushf">Sandra Robinson (2007), Encyclopedia of Hinduism (Editors:Denise Cush et al), Routledge, ISBN 978-0700712670, page 907</ref>。地域ごとに限定され彼らの伝統を祝う性質の祭りも存在するが、一方で[[ホーリー祭]]や、[[ディワーリー|ディワーリー祭]]は汎ヒンドゥー教的性格を持ち、国を越えたヒンドゥー教文化圏全土で祝われる<ref name=denisecushf/><ref>Lynn Foulston and Stuart Abbott (2009), Hindu Goddesses:Beliefs and Practices, Sussex Academic Press, ISBN 978-1902210438, page 155</ref>。「色祭り」として知られるホーリー祭は、ヒンドゥー教の春の祭典。祭りの期間中、参加者たちは音楽に合わせて踊り、お互いに色粉を投げつけ合う。<ref>[http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/photo/17/102400265/ 勇敢な参加者]</ref>
ヒンドゥー教の祭りは通常宗教的なテーマや、例えば[[ラーキー|ラクシャー・バンダン]]のような家族の絆を祝うといった側面を持っている<ref name=yustf/><ref>Dale Holberg et al (2000), Festival calendar of India, in Students' Britannica India, Volume 2, Encyclopedia Britannica (India), ISBN 978-0-85229-760-5, page 120, '''Quote:''' "Raksha Bandhan (also called Rakhi), when girls and women tie a rakhi (a symbolic thread) on their brothers' wrists and pray for their prosperity, happiness and goodwill. The brothers, in turn, give their sisters a token gift and promise protection."</ref>。同じ祭りでも宗派によって違うストーリーを背景に持っている場合もあり、また、地域ごとのテーマ、伝統農業や地域の伝統芸能、家族の集まりや、 [[プージャ (ヒンドゥー教)|プージャ]] (お祈り)、祝宴を取り込んでいる場合もある<ref name="sandrarobinson">Sandra Robinson (2007), Encyclopedia of Hinduism (Editors:Denise Cush et al), Routledge, ISBN 978-0700712670, pages 908-912</ref><ref>Jessica Frazier (2015), The Bloomsbury Companion to Hindu Studies, Bloomsbury Academic, ISBN 978-1472511515, pages 255, 271-273</ref>。
主な祭りを以下に紹介する。
* ホーリー祭: 春の祭り、ヒンドゥー教3大祭りの一つ。
* ラクシャー・バンダン: 女性が兄弟の右腕にお守り紐を巻きつけて加護を願う祭り。
* [[ガネーシュ・フェスティバル|ガネーシャ祭]]: 西インドで開催される象頭の神ガネーシャの祭。各家庭では、毎年新しく神像を購入して祭った後、像を川に流す。ムンバイなどの都会では巨大な神像が町を練り歩く<ref>『神話と芸能のインド』133頁</ref>
* ダシェラ祭: ヒンドゥー教3大祭りの一つ。ラーマ神が悪魔を倒したことを祝う。ガンジス川流域では悪魔を倒すドゥルガー女神像を祭る「ドゥルガー・プージャ」が盛大に行われる(左写真参照)。
* [[ディーワーリー|ディワーリー祭]]: ヒンドゥー教3大祭りのひとつ。富と幸運の女神ラクシュミーを祭る。家業の繁栄を願い家の戸口に灯明を飾って祝う。ダシェラ祭やディワーリー祭には都会に働きに出ている人も実家に帰る事が多い。
* [[マハー・シヴァラートリー]]: シヴァ神の祭り。シヴァとパールヴァティが結婚した日とされている。
* [[オナム]]: [[ケーララ州]]のお祭り。[[マハーバリ]]を祝う。
* [[ナヴラトリ]]: ドゥルガーのお祭り。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* マーク・シングルトン『ヨガ・ボディ - ポーズ練習の起源』喜多千草訳、大隅書店、2014年、ISBN 978-4-905328-06-3
* {{Cite book|和書 |ref={{SfnRef|パートリッジ 編|2009}} |author={{仮リンク|クリストファー・パートリッジ|en|Christopher Partridge}} 編|others=[[井上順孝]] 監訳、井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清 訳 |title=現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ|publisher=[[悠書館]]|date=2009}}
* [[鈴木正崇]]編『神話と芸能のインド』[[山川出版社]] 異文化理解講座9、2008年、ISBN 978-4-634-47454-3
* 山下博司・岡光信子『インドを知る事典』[[東京堂出版]]、2007年。『新版 インドを知る事典』東京堂出版、2016年、ISBN 978-4-490-10879-8
* [[立川武蔵]]『ヒンドゥー教巡礼』[[集英社新書]]、2005年、ISBN 4-08-720281-X
* 山下博司『ヒンドゥー教 インドという〈謎〉 [[講談社選書メチエ]]、2004年、ISBN 4-06-258299-6
* {{Cite book|和書|ref={{Harvid|森本|2003}} |author=森本達雄|authorlink=森本達雄 |title=ヒンドゥー教―インドの聖と俗 |series=[[中公新書]] |publisher=[[中央公論新社]] |year=2003 |isbn=4-12-101707-2}}
* [[旅行人]]編集室『インド黄金街道』株式会社旅行人、2002年、ISBN 4-947702-42-7
* {{Cite book|和書 |author={{仮リンク|ビパン・チャンドラ|en|Bipan Chandra}}|title=近代インドの歴史|other=粟屋敏江訳|publisher=山川出版社|date=2001 |ref={{Harvid|チャンドラ|2001}}}}
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* {{Cite book|和書 |author=クシティ・モーハン・セーン|title=ヒンドゥー教 - インド三〇〇〇年の生き方・考え方|publisher=[[講談社現代新書]]|date=1999|others=中川正生 訳|isbn=4-06-149469-4|ref={{Harvid|セーン|1999}}}}
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** {{Cite journal|和書|ref={{Harvid|前田|1967}} |author|author=[[前田専学]] 執筆|title = 第4章 バラモン思想の諸体系 第六節 ヴェーダーンタ}}
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* Charles Coleman [https://books.google.co.jp/books?id=nphTAAAAcAAJ&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false "The Mythology of the Hindus"] Parbury, Allen, 1832 (インド他、日本を含む周辺国におけるヒンドゥー教神話について)
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* {{Citation |last=Lorenzen |first=David N. |year=1999 |title=Who Invented Hinduism? |journal=Comparative Studies in Society and History |volume=41 |issue=4 |pages=630–659 |ref=harv}}
* {{Citation |last=Lorenzen |first=David N. |chapter=Early Evidence for Tantric Religion |editor-last1=Harper |editor-first1=Katherine Anne |editor-last2=Brown |editor-first2=Robert L. |year=2002 |title=The Roots of Tantra |publisher=State University of New York Press |isbn=0-7914-5306-5 |ref=harv}}
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== 関連項目 ==
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* [[宗教]]、[[宗教一覧]]、[[神]]、[[神の一覧]]
* [[インド哲学]]
* [[ヒンドゥー哲学]]
* [[ヨーガ]]
* [[ヴァーストゥ・シャーストラ]]
* [[ヒンドゥー至上主義]]
* [[インドの宗教間対立]]
* [[ヒンドゥー文明]]
* [[ヒンドゥー暦]] - [[インド国定暦]]
== 外部リンク ==
* [http://www.kamit.jp/11_information/hindu/hindu.htm ヒンドゥ建築 (日本語)]
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3,777 | 玩具 | 玩具(がんぐ、おもちゃ、英: toy)は、遊びのための道具。翫具とも表記される。遊び道具とも。
おもちゃの語源は平安時代の「手に持って遊ぶ」行為である「もて(もち)あそぶもの」であり、これが室町時代に省略と接頭語の添付を経て生まれた。漢字の「玩具」も同じ意味を表現して成り立った。英語の「toy」という単語の発祥はわかっていないが、少なくとも14世紀頃には用いられていた。
数多い種類の玩具がデザインされているが、他の用途向けの道具などが玩具に適さないというわけではなく、たとえば子供が文房具や道具ですらない木切れを手に持って遊べばそれは玩具として機能する。子供にとって遊びは余暇ではなく生活行動そのものであり、その中で玩具は活動の方向性を作り出す。遊戯の目的である、自然法則を理解するための準備や文化・社会生活へ適応するための訓練は、玩具の意義にもそのまま当てはめることができる。
通常、玩具は子供向けの道具と捉えられがちだが、実際には大人も玩具で遊ぶ。
また玩具を与えられたペットが玩具で遊ぶだけでなく、野生動物が(彼らにとって身近なものを)玩具として使うことは決して珍しくない。例えば、イルカが水中で自分の呼気で作った空気の輪を通って遊ぶことなどもこれに当たる。
玩具の起源は非常に古く、先史時代まで遡る。ただしそれらは当初から子供向けに製作されたものではなく、大人が用いていた宗教の祭祀や生活における様々な道具が子供に下げ与えられたことに発すると考えられる。
玩具の範囲については、テレビゲーム類も玩具であることは言うまでもないが、 他にもロボットも玩具に入れることが出来、蒐集家が収集し眺めて楽しむものも玩具に含めることができる。
古代文明の遺跡からは、玩具やゲームが発掘されており、それは文字の発明よりも古い時代に遡る。紀元前3000-1500年前のインダス文明跡からは、小さな荷車や鳥の形をした笛、張った糸を滑り下りる猿のおもちゃなども見つかった。数千年前の古代エジプトには、手足を動かせる上にかつらをつけた石・粘土・木製の人形や、貝殻製のガラガラがあった。墳墓からも、兵士や奴隷の人形のほかにボールが副葬品として発見された。
古代ギリシアや古代ローマでは子供たちは蝋や焼物で作られた人形や棒、弓矢、ヨーヨーなどで遊んでいた。大人になると、特に女性は子供時代に遊んだこれら玩具を神に供えることが恒例となっていた。14歳頃の少女が結婚の前日に、成人になる通過儀礼として人形を寺院に奉納していた。
しかし、これらは必ずしも子供に与えるものとして製作されたものばかりではない。古代ギリシア・ローマの遺跡から見つかる人形類、鈴や鳴子などは元々呪術や祭事などで使われた器具類と考えられる。これは遊びそのものにも当てはまるが、古代または素朴な社会での玩具は大人が何らかの目的を持って使用した道具が、その意味を喪失したりまたは変化した結果、子供に与えられるようになったと考えられる。子供の側から見れば、大人が執り行った様々な行事や行動を模倣する遊びにおいてこれらの道具を用い、これが玩具となったと考えられ、その意味では玩具は子供が発明したとも言える。この例には、日本において特別な日に屋外で食事をする「盆飯」や「辻飯」が変化したままごと、アメリカ先住民族では本来鹿の狩猟道具だったボール、東南アジアでは宗教儀礼として発したブランコなどもある。
玩具が商業製品となるのは11世紀頃のイギリスに見られ、手工業で生産された玩具が市場や城などに持ち込まれて販売されていた。その後行商人が取り扱うようになり、商業地での流通や貿易も行われるようになった。
古くから玩具の典型のひとつである人形も、伝統的で素朴なものだけでなく、高価なものも作られるようになった。ロシア皇帝ピョートル1世はヨーロッパ化を推進する一環としてドールハウスを購入しているが、これも文化財としての側面を重視した決定だった。16世紀は、ドイツのニュールンベルクで錫製兵隊人形の大量生産が始まり、またぜんまいばねを用いた初期のおもちゃが開発されるなど、玩具が普及を迎えた時代でもあった。クリスマスのときにツリーに吊るしたりする習慣や、サンタクロースから贈られるという寓話もこの頃に生まれた。
18世紀から19世紀にかけて起こった産業革命を通じて安価で大量生産が可能になると玩具はさらに普及した。切り絵や工作用または着せ替え人形の服など玩具の材料に紙が使われるのもこの頃である。
日本でも庶民の間で広く玩具が広がったのは江戸時代中期以降であり、それまでは宮中の行事用や上流階級の遊び用であった様々な道具に起源をもつ玩具が一般層に広がった。『日本永代蔵』では風車職人の話があり、元禄文化時代には家内制手工業による生産と露天商や行商等の販売、そして庶民文化と生活の発展による消費が成り立った。また、自然素材を用いたからくり玩具も江戸時代の庶民に普及した。
19世紀に玩具は大きな発展を見せた。「ママ」としゃべる人形が登場し、ぜんまい仕掛けの玩具も精巧になり、1851年に開催されたロンドン万国博覧会では当時最先端の玩具が多数出品された。また、幼児教育と玩具の関係が重要視され始めたのもこの時期である。
20世紀に入ると、玩具にも様々な技術革新が導入された。経済の安定的成長とテレビの普及など大量消費社会では、玩具市場も急速な拡大を見せた。1960年代には合成樹脂などの新たな素材が普及し、これをさらに加速させた。1970年代からは半導体を使用するハイテクおもちゃが現れ始め、1979年のインベーダーゲームのブームに端を発するテレビゲームが普及し、玩具の有り様に大きな変化をもたらした。さらにメディアミックスを用いて漫画やアニメーション、インターネットなどと関連させ市場への訴求力を高めた玩具が販売されている。伝統的な玩具を製造販売する企業には、ハイテクおもちゃに長年の市場を奪われていることに対抗し、昔からの玩具をテレビゲーム化してインターネットで対戦できるような分野に進出してその販売力を高めている企業もある。
偶然の発明が新しいタイプの玩具を生むことがある。例えば、第二次世界大戦時にアール・ウィリックが合成ゴム代替に発明した「nutty putty(愚かなパテ)」が、後にピーター・ホジソンによって幼児用の玩具として見出され「Silly Putty(おかしなパテ)」として商品化された。
また、小麦粉を主な材料にした粘土であるプレイ・ドー(英語版)は、元々壁紙の清掃用に開発されたものである。
2007年のニュルンベルク国際玩具見本市にて、ジェーン・ツイミーは世界の玩具市場は年間670億ドルと推計した。これは前年比5.2%の伸びであり、日本を除くアジアやアフリカ、ラテンアメリカそしてロシアでは今後も伸びが期待されると解説を加えた。この市場を前に玩具を大量生産で提供する多くの企業が、コスト削減のために低賃金の地区に工場を構えた。例えばアメリカで流通する玩具の75%が中国製である。
遊びは子供の成長に大きな影響を与える。数々の玩具は、発育や様々な機能の発達に刺激を与える重要な道具である。ドイツのフリードリヒ・フレーベル(1782年-1852年)は人間形成において玩具の重要性を初めて主張し、1831年に世界初の幼稚園を創設した。彼は「恩物の理論」の中で、玩具とは自然の法則を理解するために神が与えた道具と定義づけ、幼児の成長段階において必要な種類の玩具を分類した。これによると、最初には毛糸を巻きつけた小さめのボールを与えるべきであり、次は木製の球と立方体、続けて(3)分割された立方体、(4)八面体、(5)立方体の面を二回ずつ切断した27片、(6)棒や水晶型など複雑な27個の積み木という段階を設定した。この積み木は「恩物」という名がつけられた。フレーベルは1837年にブランケンブルクで「子供の労働意欲を育てる会」を作り、ボールやさいころなど様々な玩具を製作した。
イタリアのマリア・モンテッソーリ(1870年-1952年)は、独自の教育法(モンテッソーリ教育)を実践するために200種類もの教育玩具(教具)を開発した。これらは、感覚教育、言語教育、算数教育などそれぞれに目的を持つが、子供が自ら遊ぶ中でこれらの主題を発見し、身につけることで社会への適応性を育て、人格を形成するための補助となるように考えられていた。
日本では、1871年(明治4年)に慶應義塾が遊具を設置し、1873年(明治6年)には内務省が教育玩具の普及を目的に製造業界に製品の販売を促した。文部省も乗り出し、『小学読本』でボール遊びのひとつとして野球の記事を載せたり、『童女筌』でけん玉遊びを奨励するなどの活動を行った。1879年(明治12年)にはフレーベルの理論を紹介した『幼稚園法二〇遊嬉』を発行した。1914年(大正7年)には幼稚園・小学校の教材に折り紙が加えられた。第二次世界大戦中には模型飛行機などの軍事色が強い玩具が学校教育に導入されたが、戦後にはこのような戦争玩具は教室から排除された。
最も単純な玩具のひとつである木製の積み木は、心の育成において最良の玩具とも言われる。メガ・ブランズ(英語版)社マーケッティング担当役員のアンドリュー・ウィットキンは、情報誌『Investor's Business Daily』で「それ(積み木)は、眼と手指の共同作業を発達させ、数学や科学の技能、そして想像力を子供に芽生えさせる」と話した。おはじきやお手玉、ボール遊びなども同様に、心身を駆使して空間認識や原因と結果の繋がりなど様々な能力を育てる有効な教材になるとウィットキンは述べている。
児童の成長に影響を与えるめざましい玩具のひとつに、プレイ・ドーやシリーパティーおよび家庭で作れる同じような成形用粘土類がある。ウェルズリー大学幼児学習センターの教育担当メアリー・アッチーは、このような種類の玩具がなぜ子供の身体的発達、認知力向上、情緒教育の有効性および社会性の発達に影響を与えるのかを説明した。
特に幼児や児童向けに思考や創造性を重視して開発された玩具の一種知育玩具では、認知心理学や感性工学および人間工学などの考え方を組み入れ、またこれを用いて一緒に遊ぶ親子の行動分析を通じて、知能や情緒の形成、認知的発達の仕組みを知り、玩具の設計にフィードバックされている。これらには、ブロックや積み木からプレスクール用玩具、幼児用玩具類、楽器や絵本から幼児用キャラクター製品などが含まれる。
子供の玩具に対する好みは、視覚的には暖色で光を発するものを、聴覚は特に幼少時に反応する律音から成長に応じて調音が、触覚では先ず掌で掴めるものから徐々に身体全体で感じられるものへと変化する。嗅覚に訴える効果は充分な成長を経ないと関心を引き起こしがたい。玩具そのものの運動についても強い関心を持ち、それは成長に伴って細かな動きに目を向けるようになる。
また、認知症の高齢者への治療のひとつに玩具を用いる例もある。心理療法の手段のひとつ回想法 (Reminiscence) の手段として懐かしい玩具などを用いた記憶発想への刺激を行ったり、幼児向け知育玩具のゲームを通じて感覚を刺激する試みも行われている。
ある種の玩具、例えばバービーの人形は女の子向け(または大人の女性向け)で、一方GIジョーは、男の子向け(または大人の男性向け)という風に分けられる。研究によると、18ヶ月未満の乳児でも性別によって玩具の選択が分かれるという結果がある。
日本でも、業界分類等で「男児玩具」と「女児玩具」はそれぞれ別に分類されており、前者には模型玩具や乗り物など、後者には人形とその周辺道具類などがある。キャラクター人形やごっこ遊びの玩具類も男児向けと女児向けがそれぞれ区分される。
生後、赤ちゃんに最初に与えられる玩具が、未発達の聴覚や視覚に働きかける「ながめ玩具」と呼ばれる種類である。これらは手に取って遊ばせるものではなく、乳児をあやすことを目的とする。赤など暖色が多く用いられながら刺激は弱められ、澄んだ音を連続的または間歇的に発すものが好まれる。生後一ヶ月を過ぎた頃になると緩やかな動きがあるものが好ましい。ガラガラは普遍的な乳児用玩具であり、メキシコ民族が用いたさとうきびの茎製、エスキモーのアザラシの皮製など多様な素材から作られたものがあり、これらは乳児期に音が大切な発達要素であったことを各民族が認識していた傍証になる。
天井に吊るしたり棚などに置いたりしてモビールが回転する玩具(メリー、ベビーメリー、オルゴールメリーなど)も多く、また風車やガラガラなどを親が手に持って見せる限りはこれらもながめ玩具の範疇に入り、日本のでんでん太鼓は乳児には扱えるものではないため、この用途専用のものだった。これらを持って遊ぶ様子は生後三ヶ月頃から見られ始め、手に持つための適度な大きさや、口に含むことを念頭に置いた安全性などを考慮した製品が設計される。乳児が這って動ける頃には、全身運動の興味に答えるおきあがりこぼし(en)などが与えられる。
長い歴史を持つ人形には多様な種類がある。幼児向けには人間や動物を象った単純な人形やぬいぐるみが与えられ、これが概念の初期形成に寄与する。当初こそ幼児はただ触って遊ぶに過ぎないが、やがて仮の人格を与え、食事や排泄など生命があるようにみなし、遊び相手や友人として扱うようになる。これは動物のぬいぐるみなどにも当てはまる。
人間の成長を通して、人形が玩具である期間は長い。幼児から成長すると、ままごとなど遊びが高度化するに伴い、人形にもさまざまな機能を求めるようになる。これに対応し、手足が可動なものからぜんまいなど動力を備えて動く人形、泣いたり眼をつむったりするものが作られている。さらに、人形用の衣類や家具などのお道具類等も整備された。
人形の起源は民間信仰の道具だったと考えられる。被災や罹病などの身代わり、豊作などの祈りの対象、そして権力者の墓に埋葬される品であったりした。日本で人形が子供用玩具となるのは、8世紀頃に始まり、江戸時代に広まった。そして芸術的・工芸的な要素が加えられ、地域の特色を帯びる郷土玩具の一体系となった。衣服をつけた人形も8世紀のヨーロッパで作られ始め、14世紀に華やかさを増した。
古くから子供は様々な乗り物の模型を玩具にして遊んでおり、古代ギリシアの陶芸品から二輪のカートで遊ぶ子供の図柄が発見されている。自動車や電車または飛行機など乗り物の模型は、所有欲を満たす玩具である。子供の場合は、実体験で見聞した乗り物を再現する性質が強く、結果的に荒く扱って壊されやすい。10代以上になると科学的な興味を満たす傾向が強まり、玩具へ精巧さを求めるようになって材質や実際に駆動することなどにも目を向ける。さらに電車ならばゲージなど様々な周辺部品を加え、飛行機ならば実際に飛ばせるものなどへと、高度かつ高価なものとなってゆく。
子供の聴覚に訴えかける玩具の種類がある。乳児期のガラガラなども該当するが、手を使う遊びの延長として太鼓やタンバリン、口に含む行動から笛などの玩具がこれらに相当する。さらに、成長に伴い使われる子供向けの楽器類なども玩具に相当する。
玩具を用いて行う遊びのうち、目標を上手く達成することに楽しさを感じ、その技能を上達させる目的で遊ぶものを練習玩具、スキルトイという。これを複数の人間で比較競争すればゲームとなるが、ヨーヨーやけん玉または独楽、縄跳びや紙風船などを一人単位で遊ぶことが該当する。紐を玩具に使う様々な遊びも多くこれに当たり、リリアンのようなものから複数で遊ぶあやとり、縄飛び、ゴムとびなどが例示される。
木の実に軸を挿した原始的な独楽は世界中で見られ、それぞれの文化圏の様式に沿って自然発生した。独楽は子供に限らない玩具の典型であり、古代エジプトの頃から美しい装飾が施されたり、回し方にも様々な工夫が発展した。『和名類聚抄』では、日本の独楽は宮廷の儀式道具として独楽廻しの専門職がいたことが記されている。江戸時代には賭場の道具になり、また曲芸としても大成した。ヨーロッパでは16世紀イギリスで多様な種類と形状が発達し、18-19世紀には特に鉄製の独楽が流行した。この中には、氷上でも遊べる工夫が施されたものもあった。
考える玩具の代表がパズルであり、智慧と工夫をこらして目的を達する。到達点はさまざまであり、単純な知恵の輪からジグソーパズル・メカニカルパズルなど、また何かしら目的のものを作り上げるという意味でブロックもまた立体的なパズルの範疇に入る。
競争・勝負がつけられる玩具もある。これには運動を伴うものもあれば、基本的に知的作業のみで行われるものもある。貝殻や土器に発し紙が使われるようになっためんこ、独楽を戦わせるベーゴマ、他にもビー玉やおはじきなどもルールに即したゲームとして使われる。
ゲームには、より高度かつ複雑なものも無数に存在する。知的作業のみで行われるものとしては、囲碁、リバーシ、チェッカー、チェス、将棋、シャンチー、マンカラ、バックギャモンなどのボードゲーム類、トランプ、ドミノ、麻雀などのカードゲーム・タイルゲーム類がある。運動を伴うものとしてはかるた、野球盤、ビリヤードなどから、これらが拡張されたスポーツ全般で使われる用具類も、広義の玩具に入れることができる。
最古のボードゲームは紀元前3000年以前の古代エジプト墳墓から発見されているセネトである。これは暦や占いまたは死霊信仰の道具であった。紀元前1400年頃には初期のマンカラが登場してアフリカに伝播した。これは奴隷貿易とともにアメリカ大陸にも伝わり、ハイチではブードゥー教とも関連づいた。一方インドにはギャンブルのひとつとして流行した。
ボールや鞠の発祥は非常に古く定かでないが、多くの地域や文化圏および各歴史の段階を通じた普遍的な玩具である。その発生は、木の実や石などを本能的に投げる人間の行動にあると思われる。
ボールの発展段階を追うことで、それぞれの地域で調達できた材料や加工などの技術史を追うことができる。さらに、手に入れたボールの硬さや重さ、または弾力性などが遊び方を決定づけ、様々なスポーツを生み出す母体ともなった。ボール遊びはゴムの利用によって大きく広がり、運動や競技において征服欲の充足を目的にした様々なゲームやスポーツの発案を助長した。
子供が乗る、または乗る模倣をする玩具は、ソクラテスの家に棒馬があった事や古代中国にも存在した事、さらに中世ヨーロッパの版画や彫刻に頻繁に現れる点からも広く普及したと考えられる。人が乗って遊ぶ木馬も、中世ロシアには満1歳の男児に贈る習慣があり、17世紀中ごろにイギリスでロッキングホースが発明されたように、広い歴史を持つ。
子供が何らかの人物や職業になりきるごっこ遊び用の玩具も存在する。これには訓練的な意味を持つ場合もあり、プラトンは「将来の建築家は子供の頃から家を建てる遊びをするべし」と記した。それらは仕事に使う道具の模造品であったり、衣装やお面なども含まれる。戦争玩具に分類されるものでも、戦車や戦闘機および砲台等は模型に相当するが、軍刀や勲章など身につける類のものはこの一種になる。
アントニア・フレイザーは著作『おもちゃの文化史』 (ISBN 978-4-472-07331-1) にて、玩具を「成長後も子供時代を懐かしく思う」ものと述べ、大人でも蒐集や歴史家が着目するものと記した。現代では、子供向けに限定されない玩具、大人向けの玩具が豊富に溢れている。パズルやゲーム類は大人が遊ぶに充分なものであり、また人形やロボットなども一種の癒しを与える玩具として重宝される。バウリンガルなどは、ペットと飼い主の双方に働きかける玩具とも定義できる。テレビゲームや高度なラジコンなど、高年齢層までも購買層に狙った玩具が数多く販売されている。
蒐集の対象としての玩具の歴史は中世で多く見られる。16世紀に始まったと言われるドールハウスは、女の子に与えられた代表的な玩具であったが、貴族階級の大人が楽しむ鑑賞品として発展し、贅を尽くした工芸品を子供が触ることは許されなかった。愛好家の多いフランス人形は、当初新しいデザインの服飾品を宣伝する媒体であった。
日本でも江戸時代には物見遊山や神社仏閣参拝のみやげ物、縁起物とした玩具が発達した。本来子供向けの玩具を蒐集する趣味や遊びが発展し、骨董や嬉遊と並んだ大人の遊楽のひとつとなった。明治時代には人形蒐集家の集まりが「大供会」を結成し機関紙の発行も行われた。この「大供」とは「子供」と対を成す造語である。玩具全般も広く愛され、「おもちゃ番付」の作成や選集の編纂などの盛り上がりを見せた。
現在でもビーニーベイビー(英語版)やボイズベアー(英語版)のように、玩具の中には収集の対象となり、大人を含む熱狂的な蒐集家(コレクター)が存在するものもある。中には多額の費用が掛けられるような場合もあり、PEZの稼働式ケース1個がオークションにて1,100ドルで落札された例もある。
多くの国で販売される玩具に対する安全基準が設定されている。日本の場合、乳幼児玩具は食品衛生法が適用され、毒性が指摘されている重金属や砒素の溶出が検査される。また、電気を使う玩具には電気用品安全法に則したPSEマークの表示が義務づけられ、花火には火薬類取締法の規制がかかる。業界の自主規制では、SGマークやSTマークなどがある。
欧州委員会では2008年12月18日に「玩具の安全性に関する指令」 (88/378/EEC) の改訂が提案された。これでは、玩具に含有する物質の規制が強化され、REACH規制に基づくCMR物質(発癌性物質、変異原性物質、生殖毒性物質)やアレルギー物質、芳香物質の一部に対する使用禁止や規制、使用時のリスクに対する注意の表示義務、誤飲等のリスク規制、食玩と食品の接触禁止などを盛り込んだ。これは2009年上旬に発効された。
玩具企業には、数量が多くなる製品を確保するために実体がはっきりしない外注を利用し、しばしば外国の工場で製造をすることがある。近年、アメリカでは中国製玩具で受取り拒否に踏み切った事態が発生した。監視が行き届かない下請け企業は、時に不適切な製造方法をとることがある。大規模な市場を持つアメリカ合衆国政府は、玩具製造企業に対して販売する前に製品評価を義務づける準備を行っている。
名称や図柄を使うキャラクター玩具などには著作権や商標登録の権者の許諾が必要になる。また、日本では青少年の健全な育成に好ましくないと判断される「有害玩具」を都道府県の条例で販売や貸与などに規制をかけている自治体もある。
子供が成長したり、または興味をなくしたりしたような際、玩具はリユースを検討される。グッドウィル・インダストリーズや救世軍などチャリテシーへの寄付やガレージセールへの出展、オークションまたは美術館への寄贈など、その方法は様々である。壊れた玩具や何かしらの理由で不具合を生じたものは、廃棄する際に注意を払う必要がある。寄付や販売する際には丁寧に扱い、きれいにしておくべきであり、また部品が揃っていることも必須である。
2007年に発生した中国製品の安全性問題によって、アメリカ国内で玩具を扱った数多くのチャリティーが中断したり取り消されたりする事態が起きた。グッドウィル・インダストリーズはぬいぐるみを除く全玩具の寄付受取りを停止し、他のチャリティーも政府が発行したチェックリストに基づいて玩具類に対する確認を実施した。
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"text": "古くから玩具の典型のひとつである人形も、伝統的で素朴なものだけでなく、高価なものも作られるようになった。ロシア皇帝ピョートル1世はヨーロッパ化を推進する一環としてドールハウスを購入しているが、これも文化財としての側面を重視した決定だった。16世紀は、ドイツのニュールンベルクで錫製兵隊人形の大量生産が始まり、またぜんまいばねを用いた初期のおもちゃが開発されるなど、玩具が普及を迎えた時代でもあった。クリスマスのときにツリーに吊るしたりする習慣や、サンタクロースから贈られるという寓話もこの頃に生まれた。",
"title": "玩具の歴史"
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{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "18世紀から19世紀にかけて起こった産業革命を通じて安価で大量生産が可能になると玩具はさらに普及した。切り絵や工作用または着せ替え人形の服など玩具の材料に紙が使われるのもこの頃である。",
"title": "玩具の歴史"
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{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "日本でも庶民の間で広く玩具が広がったのは江戸時代中期以降であり、それまでは宮中の行事用や上流階級の遊び用であった様々な道具に起源をもつ玩具が一般層に広がった。『日本永代蔵』では風車職人の話があり、元禄文化時代には家内制手工業による生産と露天商や行商等の販売、そして庶民文化と生活の発展による消費が成り立った。また、自然素材を用いたからくり玩具も江戸時代の庶民に普及した。",
"title": "玩具の歴史"
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{
"paragraph_id": 14,
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"text": "19世紀に玩具は大きな発展を見せた。「ママ」としゃべる人形が登場し、ぜんまい仕掛けの玩具も精巧になり、1851年に開催されたロンドン万国博覧会では当時最先端の玩具が多数出品された。また、幼児教育と玩具の関係が重要視され始めたのもこの時期である。",
"title": "玩具の歴史"
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{
"paragraph_id": 15,
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"text": "20世紀に入ると、玩具にも様々な技術革新が導入された。経済の安定的成長とテレビの普及など大量消費社会では、玩具市場も急速な拡大を見せた。1960年代には合成樹脂などの新たな素材が普及し、これをさらに加速させた。1970年代からは半導体を使用するハイテクおもちゃが現れ始め、1979年のインベーダーゲームのブームに端を発するテレビゲームが普及し、玩具の有り様に大きな変化をもたらした。さらにメディアミックスを用いて漫画やアニメーション、インターネットなどと関連させ市場への訴求力を高めた玩具が販売されている。伝統的な玩具を製造販売する企業には、ハイテクおもちゃに長年の市場を奪われていることに対抗し、昔からの玩具をテレビゲーム化してインターネットで対戦できるような分野に進出してその販売力を高めている企業もある。",
"title": "玩具の歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "偶然の発明が新しいタイプの玩具を生むことがある。例えば、第二次世界大戦時にアール・ウィリックが合成ゴム代替に発明した「nutty putty(愚かなパテ)」が、後にピーター・ホジソンによって幼児用の玩具として見出され「Silly Putty(おかしなパテ)」として商品化された。",
"title": "玩具の歴史"
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "また、小麦粉を主な材料にした粘土であるプレイ・ドー(英語版)は、元々壁紙の清掃用に開発されたものである。",
"title": "玩具の歴史"
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{
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"text": "2007年のニュルンベルク国際玩具見本市にて、ジェーン・ツイミーは世界の玩具市場は年間670億ドルと推計した。これは前年比5.2%の伸びであり、日本を除くアジアやアフリカ、ラテンアメリカそしてロシアでは今後も伸びが期待されると解説を加えた。この市場を前に玩具を大量生産で提供する多くの企業が、コスト削減のために低賃金の地区に工場を構えた。例えばアメリカで流通する玩具の75%が中国製である。",
"title": "玩具の歴史"
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{
"paragraph_id": 19,
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"text": "遊びは子供の成長に大きな影響を与える。数々の玩具は、発育や様々な機能の発達に刺激を与える重要な道具である。ドイツのフリードリヒ・フレーベル(1782年-1852年)は人間形成において玩具の重要性を初めて主張し、1831年に世界初の幼稚園を創設した。彼は「恩物の理論」の中で、玩具とは自然の法則を理解するために神が与えた道具と定義づけ、幼児の成長段階において必要な種類の玩具を分類した。これによると、最初には毛糸を巻きつけた小さめのボールを与えるべきであり、次は木製の球と立方体、続けて(3)分割された立方体、(4)八面体、(5)立方体の面を二回ずつ切断した27片、(6)棒や水晶型など複雑な27個の積み木という段階を設定した。この積み木は「恩物」という名がつけられた。フレーベルは1837年にブランケンブルクで「子供の労働意欲を育てる会」を作り、ボールやさいころなど様々な玩具を製作した。",
"title": "子供の発育用玩具"
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{
"paragraph_id": 20,
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"text": "イタリアのマリア・モンテッソーリ(1870年-1952年)は、独自の教育法(モンテッソーリ教育)を実践するために200種類もの教育玩具(教具)を開発した。これらは、感覚教育、言語教育、算数教育などそれぞれに目的を持つが、子供が自ら遊ぶ中でこれらの主題を発見し、身につけることで社会への適応性を育て、人格を形成するための補助となるように考えられていた。",
"title": "子供の発育用玩具"
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{
"paragraph_id": 21,
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"text": "日本では、1871年(明治4年)に慶應義塾が遊具を設置し、1873年(明治6年)には内務省が教育玩具の普及を目的に製造業界に製品の販売を促した。文部省も乗り出し、『小学読本』でボール遊びのひとつとして野球の記事を載せたり、『童女筌』でけん玉遊びを奨励するなどの活動を行った。1879年(明治12年)にはフレーベルの理論を紹介した『幼稚園法二〇遊嬉』を発行した。1914年(大正7年)には幼稚園・小学校の教材に折り紙が加えられた。第二次世界大戦中には模型飛行機などの軍事色が強い玩具が学校教育に導入されたが、戦後にはこのような戦争玩具は教室から排除された。",
"title": "子供の発育用玩具"
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"text": "最も単純な玩具のひとつである木製の積み木は、心の育成において最良の玩具とも言われる。メガ・ブランズ(英語版)社マーケッティング担当役員のアンドリュー・ウィットキンは、情報誌『Investor's Business Daily』で「それ(積み木)は、眼と手指の共同作業を発達させ、数学や科学の技能、そして想像力を子供に芽生えさせる」と話した。おはじきやお手玉、ボール遊びなども同様に、心身を駆使して空間認識や原因と結果の繋がりなど様々な能力を育てる有効な教材になるとウィットキンは述べている。",
"title": "子供の発育用玩具"
},
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"paragraph_id": 23,
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"text": "児童の成長に影響を与えるめざましい玩具のひとつに、プレイ・ドーやシリーパティーおよび家庭で作れる同じような成形用粘土類がある。ウェルズリー大学幼児学習センターの教育担当メアリー・アッチーは、このような種類の玩具がなぜ子供の身体的発達、認知力向上、情緒教育の有効性および社会性の発達に影響を与えるのかを説明した。",
"title": "子供の発育用玩具"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "特に幼児や児童向けに思考や創造性を重視して開発された玩具の一種知育玩具では、認知心理学や感性工学および人間工学などの考え方を組み入れ、またこれを用いて一緒に遊ぶ親子の行動分析を通じて、知能や情緒の形成、認知的発達の仕組みを知り、玩具の設計にフィードバックされている。これらには、ブロックや積み木からプレスクール用玩具、幼児用玩具類、楽器や絵本から幼児用キャラクター製品などが含まれる。",
"title": "子供の発育用玩具"
},
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"text": "子供の玩具に対する好みは、視覚的には暖色で光を発するものを、聴覚は特に幼少時に反応する律音から成長に応じて調音が、触覚では先ず掌で掴めるものから徐々に身体全体で感じられるものへと変化する。嗅覚に訴える効果は充分な成長を経ないと関心を引き起こしがたい。玩具そのものの運動についても強い関心を持ち、それは成長に伴って細かな動きに目を向けるようになる。",
"title": "子供の発育用玩具"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "また、認知症の高齢者への治療のひとつに玩具を用いる例もある。心理療法の手段のひとつ回想法 (Reminiscence) の手段として懐かしい玩具などを用いた記憶発想への刺激を行ったり、幼児向け知育玩具のゲームを通じて感覚を刺激する試みも行われている。",
"title": "子供の発育用玩具"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "ある種の玩具、例えばバービーの人形は女の子向け(または大人の女性向け)で、一方GIジョーは、男の子向け(または大人の男性向け)という風に分けられる。研究によると、18ヶ月未満の乳児でも性別によって玩具の選択が分かれるという結果がある。",
"title": "性差"
},
{
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"text": "日本でも、業界分類等で「男児玩具」と「女児玩具」はそれぞれ別に分類されており、前者には模型玩具や乗り物など、後者には人形とその周辺道具類などがある。キャラクター人形やごっこ遊びの玩具類も男児向けと女児向けがそれぞれ区分される。",
"title": "性差"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "生後、赤ちゃんに最初に与えられる玩具が、未発達の聴覚や視覚に働きかける「ながめ玩具」と呼ばれる種類である。これらは手に取って遊ばせるものではなく、乳児をあやすことを目的とする。赤など暖色が多く用いられながら刺激は弱められ、澄んだ音を連続的または間歇的に発すものが好まれる。生後一ヶ月を過ぎた頃になると緩やかな動きがあるものが好ましい。ガラガラは普遍的な乳児用玩具であり、メキシコ民族が用いたさとうきびの茎製、エスキモーのアザラシの皮製など多様な素材から作られたものがあり、これらは乳児期に音が大切な発達要素であったことを各民族が認識していた傍証になる。",
"title": "種類"
},
{
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"text": "天井に吊るしたり棚などに置いたりしてモビールが回転する玩具(メリー、ベビーメリー、オルゴールメリーなど)も多く、また風車やガラガラなどを親が手に持って見せる限りはこれらもながめ玩具の範疇に入り、日本のでんでん太鼓は乳児には扱えるものではないため、この用途専用のものだった。これらを持って遊ぶ様子は生後三ヶ月頃から見られ始め、手に持つための適度な大きさや、口に含むことを念頭に置いた安全性などを考慮した製品が設計される。乳児が這って動ける頃には、全身運動の興味に答えるおきあがりこぼし(en)などが与えられる。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "長い歴史を持つ人形には多様な種類がある。幼児向けには人間や動物を象った単純な人形やぬいぐるみが与えられ、これが概念の初期形成に寄与する。当初こそ幼児はただ触って遊ぶに過ぎないが、やがて仮の人格を与え、食事や排泄など生命があるようにみなし、遊び相手や友人として扱うようになる。これは動物のぬいぐるみなどにも当てはまる。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "人間の成長を通して、人形が玩具である期間は長い。幼児から成長すると、ままごとなど遊びが高度化するに伴い、人形にもさまざまな機能を求めるようになる。これに対応し、手足が可動なものからぜんまいなど動力を備えて動く人形、泣いたり眼をつむったりするものが作られている。さらに、人形用の衣類や家具などのお道具類等も整備された。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "人形の起源は民間信仰の道具だったと考えられる。被災や罹病などの身代わり、豊作などの祈りの対象、そして権力者の墓に埋葬される品であったりした。日本で人形が子供用玩具となるのは、8世紀頃に始まり、江戸時代に広まった。そして芸術的・工芸的な要素が加えられ、地域の特色を帯びる郷土玩具の一体系となった。衣服をつけた人形も8世紀のヨーロッパで作られ始め、14世紀に華やかさを増した。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "古くから子供は様々な乗り物の模型を玩具にして遊んでおり、古代ギリシアの陶芸品から二輪のカートで遊ぶ子供の図柄が発見されている。自動車や電車または飛行機など乗り物の模型は、所有欲を満たす玩具である。子供の場合は、実体験で見聞した乗り物を再現する性質が強く、結果的に荒く扱って壊されやすい。10代以上になると科学的な興味を満たす傾向が強まり、玩具へ精巧さを求めるようになって材質や実際に駆動することなどにも目を向ける。さらに電車ならばゲージなど様々な周辺部品を加え、飛行機ならば実際に飛ばせるものなどへと、高度かつ高価なものとなってゆく。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "子供の聴覚に訴えかける玩具の種類がある。乳児期のガラガラなども該当するが、手を使う遊びの延長として太鼓やタンバリン、口に含む行動から笛などの玩具がこれらに相当する。さらに、成長に伴い使われる子供向けの楽器類なども玩具に相当する。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "玩具を用いて行う遊びのうち、目標を上手く達成することに楽しさを感じ、その技能を上達させる目的で遊ぶものを練習玩具、スキルトイという。これを複数の人間で比較競争すればゲームとなるが、ヨーヨーやけん玉または独楽、縄跳びや紙風船などを一人単位で遊ぶことが該当する。紐を玩具に使う様々な遊びも多くこれに当たり、リリアンのようなものから複数で遊ぶあやとり、縄飛び、ゴムとびなどが例示される。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "木の実に軸を挿した原始的な独楽は世界中で見られ、それぞれの文化圏の様式に沿って自然発生した。独楽は子供に限らない玩具の典型であり、古代エジプトの頃から美しい装飾が施されたり、回し方にも様々な工夫が発展した。『和名類聚抄』では、日本の独楽は宮廷の儀式道具として独楽廻しの専門職がいたことが記されている。江戸時代には賭場の道具になり、また曲芸としても大成した。ヨーロッパでは16世紀イギリスで多様な種類と形状が発達し、18-19世紀には特に鉄製の独楽が流行した。この中には、氷上でも遊べる工夫が施されたものもあった。",
"title": "種類"
},
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"paragraph_id": 38,
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"text": "考える玩具の代表がパズルであり、智慧と工夫をこらして目的を達する。到達点はさまざまであり、単純な知恵の輪からジグソーパズル・メカニカルパズルなど、また何かしら目的のものを作り上げるという意味でブロックもまた立体的なパズルの範疇に入る。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "競争・勝負がつけられる玩具もある。これには運動を伴うものもあれば、基本的に知的作業のみで行われるものもある。貝殻や土器に発し紙が使われるようになっためんこ、独楽を戦わせるベーゴマ、他にもビー玉やおはじきなどもルールに即したゲームとして使われる。",
"title": "種類"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ゲームには、より高度かつ複雑なものも無数に存在する。知的作業のみで行われるものとしては、囲碁、リバーシ、チェッカー、チェス、将棋、シャンチー、マンカラ、バックギャモンなどのボードゲーム類、トランプ、ドミノ、麻雀などのカードゲーム・タイルゲーム類がある。運動を伴うものとしてはかるた、野球盤、ビリヤードなどから、これらが拡張されたスポーツ全般で使われる用具類も、広義の玩具に入れることができる。",
"title": "種類"
},
{
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"text": "最古のボードゲームは紀元前3000年以前の古代エジプト墳墓から発見されているセネトである。これは暦や占いまたは死霊信仰の道具であった。紀元前1400年頃には初期のマンカラが登場してアフリカに伝播した。これは奴隷貿易とともにアメリカ大陸にも伝わり、ハイチではブードゥー教とも関連づいた。一方インドにはギャンブルのひとつとして流行した。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ボールや鞠の発祥は非常に古く定かでないが、多くの地域や文化圏および各歴史の段階を通じた普遍的な玩具である。その発生は、木の実や石などを本能的に投げる人間の行動にあると思われる。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ボールの発展段階を追うことで、それぞれの地域で調達できた材料や加工などの技術史を追うことができる。さらに、手に入れたボールの硬さや重さ、または弾力性などが遊び方を決定づけ、様々なスポーツを生み出す母体ともなった。ボール遊びはゴムの利用によって大きく広がり、運動や競技において征服欲の充足を目的にした様々なゲームやスポーツの発案を助長した。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "子供が乗る、または乗る模倣をする玩具は、ソクラテスの家に棒馬があった事や古代中国にも存在した事、さらに中世ヨーロッパの版画や彫刻に頻繁に現れる点からも広く普及したと考えられる。人が乗って遊ぶ木馬も、中世ロシアには満1歳の男児に贈る習慣があり、17世紀中ごろにイギリスでロッキングホースが発明されたように、広い歴史を持つ。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "子供が何らかの人物や職業になりきるごっこ遊び用の玩具も存在する。これには訓練的な意味を持つ場合もあり、プラトンは「将来の建築家は子供の頃から家を建てる遊びをするべし」と記した。それらは仕事に使う道具の模造品であったり、衣装やお面なども含まれる。戦争玩具に分類されるものでも、戦車や戦闘機および砲台等は模型に相当するが、軍刀や勲章など身につける類のものはこの一種になる。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "アントニア・フレイザーは著作『おもちゃの文化史』 (ISBN 978-4-472-07331-1) にて、玩具を「成長後も子供時代を懐かしく思う」ものと述べ、大人でも蒐集や歴史家が着目するものと記した。現代では、子供向けに限定されない玩具、大人向けの玩具が豊富に溢れている。パズルやゲーム類は大人が遊ぶに充分なものであり、また人形やロボットなども一種の癒しを与える玩具として重宝される。バウリンガルなどは、ペットと飼い主の双方に働きかける玩具とも定義できる。テレビゲームや高度なラジコンなど、高年齢層までも購買層に狙った玩具が数多く販売されている。",
"title": "大人が楽しむ玩具"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "蒐集の対象としての玩具の歴史は中世で多く見られる。16世紀に始まったと言われるドールハウスは、女の子に与えられた代表的な玩具であったが、貴族階級の大人が楽しむ鑑賞品として発展し、贅を尽くした工芸品を子供が触ることは許されなかった。愛好家の多いフランス人形は、当初新しいデザインの服飾品を宣伝する媒体であった。",
"title": "大人が楽しむ玩具"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "日本でも江戸時代には物見遊山や神社仏閣参拝のみやげ物、縁起物とした玩具が発達した。本来子供向けの玩具を蒐集する趣味や遊びが発展し、骨董や嬉遊と並んだ大人の遊楽のひとつとなった。明治時代には人形蒐集家の集まりが「大供会」を結成し機関紙の発行も行われた。この「大供」とは「子供」と対を成す造語である。玩具全般も広く愛され、「おもちゃ番付」の作成や選集の編纂などの盛り上がりを見せた。",
"title": "大人が楽しむ玩具"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "現在でもビーニーベイビー(英語版)やボイズベアー(英語版)のように、玩具の中には収集の対象となり、大人を含む熱狂的な蒐集家(コレクター)が存在するものもある。中には多額の費用が掛けられるような場合もあり、PEZの稼働式ケース1個がオークションにて1,100ドルで落札された例もある。",
"title": "大人が楽しむ玩具"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "多くの国で販売される玩具に対する安全基準が設定されている。日本の場合、乳幼児玩具は食品衛生法が適用され、毒性が指摘されている重金属や砒素の溶出が検査される。また、電気を使う玩具には電気用品安全法に則したPSEマークの表示が義務づけられ、花火には火薬類取締法の規制がかかる。業界の自主規制では、SGマークやSTマークなどがある。",
"title": "取り扱い"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "欧州委員会では2008年12月18日に「玩具の安全性に関する指令」 (88/378/EEC) の改訂が提案された。これでは、玩具に含有する物質の規制が強化され、REACH規制に基づくCMR物質(発癌性物質、変異原性物質、生殖毒性物質)やアレルギー物質、芳香物質の一部に対する使用禁止や規制、使用時のリスクに対する注意の表示義務、誤飲等のリスク規制、食玩と食品の接触禁止などを盛り込んだ。これは2009年上旬に発効された。",
"title": "取り扱い"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "玩具企業には、数量が多くなる製品を確保するために実体がはっきりしない外注を利用し、しばしば外国の工場で製造をすることがある。近年、アメリカでは中国製玩具で受取り拒否に踏み切った事態が発生した。監視が行き届かない下請け企業は、時に不適切な製造方法をとることがある。大規模な市場を持つアメリカ合衆国政府は、玩具製造企業に対して販売する前に製品評価を義務づける準備を行っている。",
"title": "取り扱い"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "名称や図柄を使うキャラクター玩具などには著作権や商標登録の権者の許諾が必要になる。また、日本では青少年の健全な育成に好ましくないと判断される「有害玩具」を都道府県の条例で販売や貸与などに規制をかけている自治体もある。",
"title": "取り扱い"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "子供が成長したり、または興味をなくしたりしたような際、玩具はリユースを検討される。グッドウィル・インダストリーズや救世軍などチャリテシーへの寄付やガレージセールへの出展、オークションまたは美術館への寄贈など、その方法は様々である。壊れた玩具や何かしらの理由で不具合を生じたものは、廃棄する際に注意を払う必要がある。寄付や販売する際には丁寧に扱い、きれいにしておくべきであり、また部品が揃っていることも必須である。",
"title": "取り扱い"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2007年に発生した中国製品の安全性問題によって、アメリカ国内で玩具を扱った数多くのチャリティーが中断したり取り消されたりする事態が起きた。グッドウィル・インダストリーズはぬいぐるみを除く全玩具の寄付受取りを停止し、他のチャリティーも政府が発行したチェックリストに基づいて玩具類に対する確認を実施した。",
"title": "取り扱い"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "電気製品の3R促進を目標に制定されたWEEE指令(電気電子機器廃棄物に関する欧州連合指令)では、2007年1月2日よりイギリスにおける玩具へ適用させる運用が始まった。",
"title": "取り扱い"
}
] | 玩具は、遊びのための道具。翫具とも表記される。遊び道具とも。 | {{redirect|おもちゃ'''」「'''オモチャ|その他|おもちゃ (曖昧さ回避)}}
{{ウィキポータルリンク|玩具}}
[[ファイル:Wooden toys.JPG|thumb|250px|[[インド]]の伝統的な[[木製]]玩具。({{仮リンク|チャンナパトナ|en|Channapatna}}にて。この町は木製玩具の製造で有名<ref>{{cite web|url=http://www.channapatnacity.agov.in/index1.html |title= Channapatna City|publisher=City Municipal Council Channapatna |language=英語|accessdate=2011-01-30}}</ref>)]]
[[File:Indian girl playing with Barbie dolls in a gated middle-class community in Bangalore.jpg|thumb|250px|[[バービー人形]]で遊ぶ女の子。バービー人形はアメリカだけでなく世界的に人気である。]]
[[File:Lego IMG 6599.jpg|thumb|250px|[[レゴ|LEGO]][[ブロック]]]]
[[File:Plarail first.jpg|thumb|250px|[[プラレール]]。子供向け鉄道模型玩具。]]
'''玩具'''(がんぐ、'''おもちゃ'''<ref name=weblio>{{Cite web|和書|url=http://thesaurus.weblio.jp/content/%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%A1%E3%82%83 |title=【玩具(おもちゃ)】|publisher=weblio類語辞典|language=日本語|date=2008-03|accessdate=2011-01-30}}</ref>、{{lang-en-short|toy}})は、[[遊び]]のための[[道具]]。'''翫具'''とも表記される<ref name=googa>{{Cite web|和書|url=http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/47852/m0u/ |title=がんぐ【玩具/翫具】の意味|publisher=[[Goo辞書]]|language=日本語|accessdate=2011-01-30}}</ref>。'''遊び道具'''とも<ref name=weblio />。
== 概要 ==
おもちゃの[[語源]]は[[平安時代]]の「手に持って遊ぶ」行為である「もて(もち)あそぶもの」であり、これが[[室町時代]]に省略と接頭語の添付を経て生まれた。[[漢字]]の「玩具」も同じ意味を表現して成り立った<ref name=whatis>{{Cite web|和書|url=http://www.toyculture.org/whatis.html |title=おもちゃとは|publisher=日本玩具文化財団|language=日本語|accessdate=2011-01-30}}</ref><ref>[[斎藤良輔 (玩具研究家)|斎藤良輔]]『おもちゃ博物誌』、1989年、ISBN 978-4882900054</ref>。[[英語]]の「toy」という単語の発祥はわかっていないが、少なくとも[[14世紀]]頃には用いられていた<ref name=etymonline>{{cite web|url= http://www.etymonline.com/index.php?term=toy |title= Definition of "toy" |publisher= etymonline.com|language=英語|accessdate=2011-01-30}}</ref>。
数多い種類の玩具がデザインされているが、他の用途向けの道具などが玩具に適さないというわけではなく、たとえば[[子供]]が[[文房具]]や道具ですらない木切れを手に持って遊べばそれは玩具として機能する<ref name=Kura1 />。子供にとって遊びは[[余暇]]ではなく[[生活]][[行動]]そのものであり、その中で玩具は活動の方向性を作り出す<ref name=Kura5>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.5-8、玩具教育篇 第一篇第一章第二節 子供の遊びの特性]]</ref>。遊戯の目的である、[[自然法則]]を[[理解]]するための準備や[[文化_(代表的なトピック)|文化]]・[[社会]]生活へ[[適応 (生物学)|適応]]するための[[訓練]]は、玩具の意義にもそのまま当てはめることができる<ref name=Kura8>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.8-13、玩具教育篇 第一篇第一章第三節 子供の遊びの本質]]</ref>。
通常、玩具は子供向けの道具と捉えられがちだが、実際には[[大人]]も玩具で遊ぶ<ref name=Kura1>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.1-5、玩具教育篇 第一篇第一章第一節 子供の遊びと玩具]]</ref>。
また玩具を与えられたペットが玩具で遊ぶだけでなく、[[野生動物]]が(彼らにとって身近なものを)玩具として使うことは決して珍しくない<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/hope/reports/19-044-j.html |title=ゴリラの遊び行動における環境的・社会的影響に関する研究|author=松原幹|publisher=[[京都大学]]霊長類研究所|language=日本語|date=2008-03|accessdate=2011-01-14}}</ref>。例えば、[[イルカ]]が水中で自分の[[息|呼気]]で作った空気の輪を通って遊ぶことなどもこれに当たる<ref>{{cite web|url=http://www.earthtrust.org/delrings.html |title=Mystery of the Silver Rings |author=Don White |publisher=Earthtrust |language=英語|accessdate=2011-01-14}}</ref>。
玩具の[[起源]]は非常に古く、[[先史時代]]まで遡る<ref name=Kura1 />。ただしそれらは当初から子供向けに製作されたものではなく、大人が用いていた[[宗教]]の[[祭祀]]や[[生活]]における様々な道具が子供に下げ与えられたことに発すると考えられる<ref name=Ta272-2>[[#多田1990|多田 (1990)、世界の玩具文化史、pp.272-278、玩具文化小史]]</ref>。{{Main|#玩具の歴史}}
玩具の範囲については、[[テレビゲーム]]類も玩具であることは言うまでもないが、
他にも[[ロボット]]<ref name=Saka>{{Cite web|和書|url=http://www.hss.ocha.ac.jp/psych/socpsy/akira/media/robot.files/robot.htm |title=玩具としてのロボットと子供の社会的発達‐来るべき悪影響論に対して‐|author=坂元章|publisher=[[お茶の水女子大学]]大学院人間文化研究科、日本ロボット学会誌,18(2), 167-172, 2000|language=日本語|accessdate=2011-01-30}}</ref>も玩具に入れることが出来、[[蒐集家]]が収集し眺めて楽しむものも玩具に含めることができる。
== 玩具の歴史 ==
[[ファイル:Little horse on wheels (Ancient greek child's Toy).jpg|thumb|200px|right|[[古代ギリシア]]の子供用馬の玩具。紀元前950-900年頃の墓地から発掘された。[[アテネ]]の[[ケラメイコス]]考古学博物館所蔵]]
=== 古代 ===
古代文明の[[遺跡]]からは、玩具や[[ゲーム]]が発掘されており、それは[[文字]]の発明よりも古い時代に遡る。紀元前3000-1500年前の[[インダス文明]]跡からは、小さな[[荷車]]や鳥の形をした[[笛]]、張った糸を滑り下りる[[猿]]のおもちゃなども見つかった<ref name=Indialife>{{cite web|url=http://india.mrdonn.org/indus.html |title= Daily Life in Ancient India, including the mysterious Indus Valley Civilization|publisher= MrDonn.org |language=英語|accessdate=2011-01-15}}</ref>。数千年前の[[古代エジプト]]には、手足を動かせる上にかつらをつけた[[石]]・[[粘土]]・[[木]]製の人形<ref name=Maspero>{{cite book|author=[[ガストン・マスペロ]]|title=Manual of Egyptian Archaeology and Guide to the Study of Antiquities in Egypt|publisher=Project Gutenberg|url=http://www.gutenberg.org/etext/14400}}</ref>や、[[貝殻]]製の[[がらがら (玩具)|ガラガラ]]<ref name=Kura1 />があった。[[墳墓]]からも、[[兵士]]や[[奴隷]]の[[人形]]のほかに[[ボール]]が[[副葬品]]として発見された<ref name=Ta272-2 />。
[[ファイル:Roman-toys.jpg|thumb|left|200px|[[ローマ時代]]の玩具の展示。[[人形]]、[[サイコロ]]、[[がらがら (玩具)|ガラガラ]]、[[皿]]など現代の子供にも馴染み深いものが多く含まれる。]]
[[古代ギリシア]]や[[古代ローマ]]では子供たちは[[蝋]]や[[陶磁器|焼物]]で作られた人形や棒、[[弓矢]]、[[ヨーヨー]]などで遊んでいた。大人になると、特に女性は子供時代に遊んだこれら玩具を神に供えることが恒例となっていた。14歳頃の少女が[[結婚]]の前日に、成人になる通過儀礼として人形を[[寺院]]に奉納していた<ref name=Powell>{{cite book| last =Powell| first =Barry B.| title =Classical Myth; Third Edition| publisher =Prentice Hall| year =2001| location =Upper Saddle River, NJ| pages =33-34 | isbn =0-13-088442-1 }}</ref><ref name=Oliver>{{cite web|last=Oliver|first=Valerie|title=History Of The Yo-Yo|publisher=Spintastics Skill Toys, Inc.|year=1996|url=http://www.spintastics.com/HistoryOfYoYo.asp|accessdate=2011-01-14}}</ref>。
しかし、これらは必ずしも子供に与えるものとして製作されたものばかりではない。古代ギリシア・ローマの遺跡から見つかる人形類、[[鈴]]や[[鳴子 (音具)|鳴子]]などは元々[[呪術]]や祭事などで使われた器具類と考えられる。これは遊びそのものにも当てはまるが、古代または素朴な社会での玩具は大人が何らかの目的を持って使用した道具が、その意味を喪失したりまたは変化した結果、子供に与えられるようになったと考えられる。子供の側から見れば、大人が執り行った様々な行事や行動を[[模倣]]する遊びにおいてこれらの道具を用い、これが玩具となったと考えられ<ref name=Ta272-2 />、その意味では玩具は子供が発明したとも言える<ref name=Kura1 />。この例には、[[日本]]において特別な日に屋外で食事をする「盆飯」や「辻飯」が変化した[[ままごと]]、[[アメリカ先住民族]]では本来[[鹿]]の[[狩猟]]道具だった[[ボール]]、[[東南アジア]]では宗教儀礼として発した[[ブランコ]]などもある<ref name=Ta272-2 />。
[[ファイル:Reif Spielzeug.jpg|thumb|right|150px|[[輪回し]]の輪と少年。この輪回しの輪は多くの文化圏で古くからよく知られている玩具である。]]
=== 中世 ===
玩具が[[商業]]製品となるのは11世紀頃の[[イギリス]]に見られ、[[手工業]]で生産された玩具が[[市場]]や[[城]]などに持ち込まれて販売されていた。その後[[行商人]]が取り扱うようになり、商業地での流通や[[貿易]]も行われるようになった<ref name=Ta272-2 />。
古くから玩具の典型のひとつである人形も、伝統的で素朴なものだけでなく、高価なものも作られるようになった<ref name=Ta272-2 />。[[ロシア皇帝]][[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]は[[ヨーロッパ]]化を推進する一環として[[ドールハウス]]を購入しているが、これも文化財としての側面を重視した決定だった<ref name=Ta272-2 />。16世紀は、[[ドイツ]]の[[ニュールンベルク]]で[[錫]]製兵隊人形の大量生産が始まり、また[[ぜんまいばね]]を用いた初期のおもちゃが開発されるなど、玩具が普及を迎えた時代でもあった。[[クリスマス]]のときに[[クリスマスツリー|ツリー]]に吊るしたりする習慣や、[[サンタクロース]]から贈られるという寓話もこの頃に生まれた<ref name=Ta272-2 />。
=== 近代 ===
18世紀から19世紀にかけて起こった[[産業革命]]を通じて安価で大量生産が可能になると玩具はさらに普及した<ref name=Ta272-2 />。[[切り絵]]や[[工作]]用または[[着せ替え人形]]の服など玩具の材料に[[紙]]が使われるのもこの頃である<ref name=Ta272-2 />。
日本でも庶民の間で広く玩具が広がったのは[[江戸時代]]中期以降であり、それまでは宮中の行事用や上流階級の遊び用であった様々な道具に起源をもつ玩具が一般層に広がった<ref name=Ta272-2 />。『[[日本永代蔵]]』では[[風車 (玩具)|風車]]職人の話があり、[[元禄文化]]時代には[[家内制手工業]]による生産と[[露天商]]や行商等の販売、そして庶民文化と生活の発展による[[消費]]が成り立った<ref name=Saito20>[[#斎藤1997|斎藤 (1997)、日本の郷土玩具‐その歩みと系譜‐、pp.20-22、庶民玩具]]</ref>。また、自然素材を用いた[[からくり]]玩具も江戸時代の庶民に普及した<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.nara-u.ac.jp/hist/s50/s50-02/s50-02.html |title=からくりおもちゃの復元|publisher=[[奈良大学]]史学科|language=日本語|accessdate=2016-01-20}}</ref>。
19世紀に玩具は大きな発展を見せた。「ママ」としゃべる人形が登場し<ref>{{cite web|url= https://news.google.com/newspapers?nid=1955&dat=20010320&id=uvkhAAAAIBAJ&sjid=-qIFAAAAIBAJ&pg=5122,4172687 |title=The first doll who talked was created in early 1800s|publisher=Reading Eagle/Reading Times|date=2001-03-22 |language=英語|accessdate=2011-01-14}}</ref>、ぜんまい仕掛けの玩具も精巧になり<ref name=Ta272-2 />、1851年に開催された[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|ロンドン万国博覧会]]では当時最先端の玩具が多数出品された<ref name=Ta272-2 />。また、[[幼児教育]]と玩具の関係が重要視され始めたのもこの時期である<ref name=Ta272-2 />。
=== 現代 ===
[[ファイル:Rubiks cube scrambled.jpg|thumb|right|200px|[[1980年代]]に流行した[[立体]][[パズル]]、[[ルービックキューブ]]。]]
[[ファイル:Playzone4.jpg|right|thumb|200px|現代の子供たちは自由時間は[[テレビゲーム]]で遊んでいる割合が大きい。]]
20世紀に入ると、玩具にも様々な[[技術革新]]が導入された。経済の安定的成長と[[テレビ]]の普及など大量消費社会では、玩具市場も急速な拡大を見せた。1960年代には[[合成樹脂]]などの新たな素材が普及し、これをさらに加速させた。1970年代からは[[半導体]]を使用する[[ハイテク]]おもちゃが現れ始め、1979年の[[インベーダーゲーム]]のブームに端を発する[[テレビゲーム]]が普及し、玩具の有り様に大きな変化をもたらした<ref name=JTCF>{{Cite web|和書|url=http://www.toyculture.org/toy.html |title=おもちゃの歴史|publisher=日本玩具文化財団|language=日本語|accessdate=2011-01-30}}</ref>。さらに[[メディアミックス]]を用いて[[漫画]]や[[アニメーション]]、[[インターネット]]などと関連させ市場への訴求力を高めた玩具が販売されている<ref>[http://www.amazon.co.jp/dp/4763620525 マスコミ玩具 (おもちゃ博物館) 多田敏捷]、Amazon.co.jp。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/klib/kiyo/hum/h21/h2109.pdf|format=PDF |title=子どものメディア文化の回|author=角田巌|publisher=[[文教大学]]|language=日本語|accessdate=2011-01-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://libweb.nagoya-wu.ac.jp/kiyo/kiyo51/jinbun/kojin/10arakawa.pdf |format=PDF |title=子ども世界への情報化社会の影響|author=荒川志津代|publisher=[[名古屋女子大学]]|language=日本語|accessdate=2011-01-30}}</ref>。伝統的な玩具を製造販売する企業には、ハイテクおもちゃに長年の市場を奪われていることに対抗し、昔からの玩具をテレビゲーム化してインターネットで対戦できるような分野に進出してその販売力を高めている企業もある<ref name = "Ibisworld">{{cite news | last = | first = | authorlink = | coauthors = | url = http://www.theage.com.au/news/technology/world-in-their-hands/2007/03/24/1174597945762.html?page=fullpage#contentSwap2| title = World in their hands | work = | publisher = The Age| location=Melbourne| date=2007-03-26}}</ref>。
偶然の[[発明]]が新しいタイプの玩具を生むことがある。例えば、[[第二次世界大戦]]時にアール・ウィリックが[[合成ゴム]]代替に発明した「nutty putty(愚かなパテ)」が、後にピーター・ホジソンによって幼児用の玩具として見出され「[[シリーパティー|Silly Putty]](おかしなパテ)」として商品化された。
[[ファイル:Playdoh.jpg|right|thumb|150px|{{仮リンク|プレイ・ドー|en|Play-Doh}}は壁紙掃除用の素材を使用している。]]
また、小麦粉を主な材料にした粘土である{{仮リンク|プレイ・ドー|en|Play-Doh}}は、元々壁紙の清掃用に開発されたものである<ref name=mit>{{cite web|url= http://web.mit.edu/Invent/iow/sillyputty.html |title= On the invention of silly putty |publisher=[[マサチューセッツ工科大学]] |language=英語|accessdate=2011-01-14}}</ref>。
2007年の[[ニュルンベルク国際玩具見本市]]にて、ジェーン・ツイミーは世界の玩具市場は年間670億ドルと推計した。これは前年比5.2%の伸びであり、日本を除くアジアやアフリカ、ラテンアメリカそしてロシアでは今後も伸びが期待されると解説を加えた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gantsu.co.jp/npd.html |title=世界と日本の玩具市場を語る|author=ジェーン・ツイミー|publisher=週間玩具通信|language=日本語|accessdate=2011-01-30}}</ref>。この市場を前に玩具を大量生産で提供する多くの企業が、コスト削減のために低賃金の地区に工場を構えた。例えばアメリカで流通する玩具の75%が中国製である<ref name=Tsuruoka/>。
== 子供の発育用玩具 ==
===理論と普及の経緯===
遊びは子供の成長に大きな影響を与える。数々の玩具は、発育や様々な機能の発達に刺激を与える重要な道具である<ref name=JTAkodomo>{{Cite web|和書|url= http://www.toys.or.jp/toukei_ko.htm |title=こどもの成長とおもちゃ|publisher=社団法人日本玩具協会|language=日本語|accessdate=2011-01-30}}</ref>。ドイツの[[フリードリヒ・フレーベル]](1782年-1852年)は人間形成において玩具の重要性を初めて主張し、1831年に世界初の[[幼稚園]]を創設した。彼は「恩物の理論」の中で、玩具とは自然の法則を理解するために神が与えた道具と定義づけ、幼児の成長段階において必要な種類の玩具を分類した。これによると、最初には毛糸を巻きつけた小さめのボールを与えるべきであり、次は木製の球と立方体、続けて(3)分割された立方体、(4)八面体、(5)立方体の面を二回ずつ切断した27片、(6)棒や水晶型など複雑な27個の積み木という段階を設定した。この積み木は「恩物」という名がつけられた。フレーベルは1837年に[[ブランケンブルク]]で「子供の労働意欲を育てる会」を作り、ボールやさいころなど様々な玩具を製作した<ref name=Ta272-2 />。
[[イタリア]]の[[マリア・モンテッソーリ]](1870年-1952年)は、独自の教育法([[モンテッソーリ教育]])を実践するために200種類もの教育玩具(教具)を開発した。これらは、[[感覚]]教育、[[言語]]教育、[[算数]]教育などそれぞれに目的を持つが、子供が自ら遊ぶ中でこれらの主題を発見し、身につけることで社会への適応性を育て、人格を形成するための補助となるように考えられていた<ref name=Ta272-2 />。
[[日本]]では、1871年(明治4年)に[[慶應義塾]]が[[遊具]]を設置し、1873年(明治6年)には[[内務省 (日本)|内務省]]が教育玩具の普及を目的に製造業界に製品の販売を促した。[[文部省]]も乗り出し、『小学読本』でボール遊びのひとつとして[[野球]]の記事を載せたり、『童女筌』で[[けん玉]]遊びを奨励するなどの活動を行った。1879年(明治12年)にはフレーベルの理論を紹介した『幼稚園法二〇遊嬉』を発行した。1914年(大正7年)には幼稚園・小学校の教材に[[折り紙]]が加えられた。[[第二次世界大戦]]中には模型飛行機などの[[軍事]]色が強い玩具が学校教育に導入されたが、戦後にはこのような[[戦争玩具]]は教室から排除された<ref name=Ta272-2 />。
[[ファイル:Hitting the Ball in the Shadow of the Banana Leaves.jpg|thumb|200px|二児が{{仮リンク|パドルボール|en|paddle ball}}で遊ぶ光景を描いた絵画。[[中国]]、[[宋 (王朝)|宋]]代の画家・苏汉臣(1130-1160年頃に活躍)が描いた。]]
=== 現状 ===
最も単純な玩具のひとつである木製の[[積み木]]は、心の育成において最良の玩具とも言われる。{{仮リンク|メガ・ブランズ|en|Mega Brands}}社マーケッティング担当役員のアンドリュー・ウィットキンは、情報誌『Investor's Business Daily』で「それ(積み木)は、眼と手指の共同作業を発達させ、数学や科学の技能、そして想像力を子供に芽生えさせる」と話した。[[おはじき]]や[[お手玉]]、[[ボール]]遊びなども同様に、心身を駆使して空間認識や原因と結果の繋がりなど様々な能力を育てる有効な教材になるとウィットキンは述べている<ref name=Tsuruoka>{{cite journal | last =Tsuruoka | first =Doug | title =Toys: Not All Fun And Games | journal =Investor's Business Daily | volume = | issue = | pages = | publisher = | date =2007-01-05}}</ref>。
児童の成長に影響を与えるめざましい玩具のひとつに、プレイ・ドーや[[シリーパティー]]および家庭で作れる同じような成形用粘土類がある。[[ウェルズリー大学]]幼児学習センターの教育担当メアリー・アッチーは、このような種類の玩具がなぜ子供の身体的発達、認知力向上、情緒教育の有効性および社会性の発達に影響を与えるのかを説明した<ref name=Ucci>{{cite journal | last =Ucci | first =Mary | title =Playdough: 50 Years' Old, And Still Gooey, Fun, And Educational | journal =Child Health Alert | volume =24 | issue = | pages = | publisher = | month =April | year =2006}}</ref>。
=== 知育玩具 ===
{{main|知育玩具}}
特に幼児や児童向けに[[思考]]や創造性を重視して開発された玩具の一種[[知育玩具]]では、[[認知心理学]]や[[感性]]工学および人間工学などの考え方を組み入れ、またこれを用いて一緒に遊ぶ親子の[[行動分析]]を通じて、知能や情緒の形成、認知的発達の仕組みを知り、玩具の設計にフィードバックされている<ref>{{cite web|url=http://www.kri.sfc.keio.ac.jp/kris-yp/cgi/view_page.cgi?research_id=212&otype=print |title=認知科学と知育のデザイン‐乳幼児の行動から学ぶ、知能的発達のメカニズムの解明と応用‐|author=石崎俊|date=2010年|publisher=[[慶応義塾大学]]環境情報学部|language=日本語|accessdate=2011-01-14}}</ref>。これらには、ブロックや積み木からプレスクール用玩具、幼児用玩具類、楽器や絵本から幼児用[[キャラクター]]製品などが含まれる<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.toys.or.jp/2008sijyoukibo_10bunya.htm |title=2008年度玩具市場規模調査結果データ(主要10分野)テレビゲーム関連を除く|publisher=社団法人日本玩具協会|language=日本語|accessdate=2011-01-30}}</ref>。
子供の玩具に対する好みは、[[視覚]]的には[[暖色]]で[[光]]を発するものを、[[聴覚]]は特に幼少時に反応する律音から成長に応じて[[調音]]が、[[触覚]]では先ず[[掌]]で掴めるものから徐々に身体全体で感じられるものへと変化する<ref name=Kura16>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.16-26、玩具教育篇 第一篇第二章第二節 子供の遊びの真相 1.感覚器官の遊戯的活動]]</ref>。[[嗅覚]]に訴える効果は充分な成長を経ないと関心を引き起こしがたい<ref name=Kura16 />。玩具そのものの運動についても強い関心を持ち、それは成長に伴って細かな動きに目を向けるようになる<ref name=Kura16 />。
また、[[認知症#心理療法|認知症]]の[[高齢者]]への[[治療]]のひとつに玩具を用いる例もある。[[心理療法]]の手段のひとつ[[回想法]] (Reminiscence) の手段として懐かしい玩具などを用いた記憶発想への刺激を行ったり<ref>{{cite journal |和書 |url=https://hdl.handle.net/10270/1637 |title=痴呆性高齢者に対する回想法的アプローチ|author=坂本敦史, 中野明徳|journal=福島大学教育実践研究紀要 |date=2002 |issue=42 |pages=55-62 |publisher=福島大学教育学部附属教育実践総合センター |language=日本語|accessdate=2011-01-14}}</ref>、幼児向け知育玩具のゲームを通じて感覚を刺激する試みも行われている<ref>{{cite journal |和書|url=http://wakahide.dyndns.org/wakamatsu/games/121.pdf |format=PDF |title=軽度の地方性老人の精神機能回復訓練とその評価‐幼児用コンピュータゲームを用いて‐|author=若松秀俊、大久保順司、高原健爾、小宮山実、兎東俊、一瀬邦弘、田中邦明、横田則夫、東郷清児|publisher=[[東京医科歯科大学]]生体機能支援システム学|language=日本語|accessdate=2011-01-14}}</ref>。
== 性差 ==
ある種の玩具、例えば[[バービー]]の人形は[[女の子]]向け(または大人の女性向け)で、一方[[GIジョー]]は、[[男の子]]向け(または大人の男性向け)という風に分けられる。研究によると、18ヶ月未満の乳児でも[[性別]]によって玩具の選択が分かれるという結果がある<ref name=Caldera>{{cite journal|last=Caldera|first=Yvonne M.|coauthors=Aletha C. Huston, Marion O'Brien|title=Social Interactions and Play Patterns of Parents and Toddlers with Feminine, Masculine, and Neutral Toys|journal=Child Development|volume=60|issue=1|pages=70-76|date=1989-02|url=http://links.jstor.org/sici?sici=0009-3920(198902)60%3A1%3C70%3ASIAPPO%3E2.0.CO%3B2-F#abstract|doi=10.2307/1131072|accessdate=2006-10-25|pmid=2702876}}</ref>。
日本でも、業界分類等で「男児玩具」と「女児玩具」はそれぞれ別に分類されており、前者には模型玩具や乗り物など、後者には人形とその周辺道具類などがある。キャラクター人形やごっこ遊びの玩具類も男児向けと女児向けがそれぞれ区分される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.toys.or.jp/st/pdf/bunrui_book.pdf|format=PDF |title=玩具業界統一商品分類コードハンドブック|publisher=社団法人日本玩具協会|language=日本語|accessdate=2011-01-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= http://www.shirayuri.ac.jp/syllabus/gakubu/syllabus/detail/lesson_44515001.html |title=児童文化講義・おもちゃ論|author=森下みさ子|publisher=[[白百合女子大学]] |language=日本語|accessdate=2011-01-30}}</ref>。
<gallery>
Tank toy radio.JPG|[[戦車]]の玩具。[[男児]]向け玩具の典型。
Sgt. Savage and his P-40 Warhawk.jpg|兵士の人形や戦闘機の玩具。[[男児]]向け玩具。
</gallery>
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File:Children-play-toy-kitchen-set-Teddy-Girl-Birthday-Cake-fruit-cutting-simulation-DIY-fruit-cake-model.jpg|[[料理]]の玩具。女児向け玩具。
File:Wikimania 2017 by Ovedc - Wikimania 2017 post-conference - Barbie dolls - 05.jpg|大人の女性もバービー人形が好きで、「大人買い」をして、収集することも。
</gallery>
<!--[[ファイル:|thumb|right|150px|主に[[女児]]向け玩具に分けられる。]]-->
== 種類 ==
{{main|[[:Category:玩具]]}}
[[ファイル:Omocha.jpg|thumb|日本の伝統的おもちゃたち<br>こま、羽子板、風車、竹とんぼ、お手玉、輪投げ、めんこなど]]
=== 乳児用玩具 ===
[[ファイル:Ребенок лежит на манеже.JPG|thumb|200px|幼児の頭上に吊るされた玩具]]
生後、赤ちゃんに最初に与えられる玩具が、未発達の聴覚や視覚に働きかける「ながめ玩具」と呼ばれる種類である。これらは手に取って遊ばせるものではなく、乳児をあやすことを目的とする。赤など暖色が多く用いられながら刺激は弱められ、澄んだ音を連続的または間歇的に発すものが好まれる。生後一ヶ月を過ぎた頃になると緩やかな動きがあるものが好ましい<ref name=Kura57>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.57-63、玩具教育篇 第二篇一 ながめ玩具]]</ref>。[[がらがら (玩具)|ガラガラ]]は普遍的な乳児用玩具であり、[[メキシコ]]民族が用いた[[さとうきび]]の茎製、[[エスキモー]]の[[アザラシ]]の皮製など多様な素材から作られたものがあり、これらは乳児期に音が大切な発達要素であったことを各民族が認識していた傍証になる<ref name=Ta281>[[#多田1990|多田 (1990)、世界の玩具文化史、pp.281-282、古代から息づく音の玩具-ガラガラ]]</ref>。
[[天井]]に吊るしたり[[棚]]などに置いたりして[[モビール]]が[[回転]]する玩具(メリー、ベビーメリー、オルゴールメリーなど<ref>暫定出典[http://item.rakuten.co.jp/saikosha/c/0000000285/ 楽天市場:赤ちゃんのおもちゃ]</ref>)も多く、また[[風車 (玩具)|風車]]やガラガラなどを親が手に持って見せる限りはこれらもながめ玩具の範疇に入り<ref name=Kura57 />、日本の[[でんでん太鼓]]は乳児には扱えるものではないため、この用途専用のものだった<ref name=Ta281 />。これらを持って遊ぶ様子は生後三ヶ月頃から見られ始め、手に持つための適度な大きさや、口に含むことを念頭に置いた安全性などを考慮した製品が設計される<ref name=JTAkodomo /><ref name=Kura63>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.63-67、玩具教育篇 第二篇二 がらがら]]</ref>。乳児が這って動ける頃には、全身運動の興味に答える[[おきあがりこぼし]]([[:en:Roly-poly toy|en]])などが与えられる<ref name=Kura67>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.67-、玩具教育篇 第二篇三 おきあがり]]</ref>。
=== 人形やぬいぐるみなど ===
{{main|人形|ぬいぐるみ}}
[[ファイル:Child and Doll.jpg|left|thumb|150px|[[人形]]を持つ女の子の写真。1900年代]]
長い歴史を持つ人形には多様な種類がある。幼児向けには人間や動物を象った単純な人形や[[ぬいぐるみ]]が与えられ、これが概念の初期形成に寄与する<ref name=Kura83>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.83-91、玩具教育篇 第二篇七 動物玩具及人形]]</ref>。当初こそ幼児はただ触って遊ぶに過ぎないが、やがて仮の人格を与え、食事や排泄など[[生命]]があるようにみなし、遊び相手や[[友人]]として扱うようになる。これは動物のぬいぐるみなどにも当てはまる<ref name=Kura83 />。
人間の成長を通して、人形が玩具である期間は長い。幼児から成長すると、ままごとなど遊びが高度化するに伴い、人形にもさまざまな機能を求めるようになる<ref name=Kura83 />。これに対応し、手足が可動なものからぜんまいなど動力を備えて動く人形<ref name=Kura69>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.69-73、玩具教育篇 第二篇四 ぜんまいもの]]</ref>、泣いたり眼をつむったりするものが作られている<ref name=Kura83 />。さらに、人形用の[[衣類]]や[[家具]]などのお道具類等も整備された<ref name=Kura92>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.92-108、玩具教育篇 第二篇八 人形の種々相]]</ref>。
人形の起源は[[民間信仰]]の道具だったと考えられる。被災や罹病などの身代わり、豊作などの祈りの対象、そして権力者の墓に埋葬される品であったりした。日本で人形が子供用玩具となるのは、8世紀頃に始まり、江戸時代に広まった。そして芸術的・工芸的な要素が加えられ、地域の特色を帯びる[[郷土玩具]]の一体系となった<ref name=Ta268>[[#多田1990|多田 (1990)、生活に根差す玩具、pp.268-269、人形の玩具]]</ref>。衣服をつけた人形も8世紀のヨーロッパで作られ始め、14世紀に華やかさを増した<ref name=Ta268 />。
=== 模型 ===
[[ファイル:Knatterboot.jpg|thumb|200px|right|おもちゃのボート]]
古くから子供は様々な乗り物の[[模型]]を玩具にして遊んでおり、[[古代ギリシアの陶芸]]品から二輪のカートで遊ぶ子供の図柄が発見されている<ref name=Hils/>。[[自動車]]や[[電車]]または[[飛行機]]など乗り物の模型は、所有欲を満たす玩具である。子供の場合は、実体験で見聞した乗り物を再現する性質が強く、結果的に荒く扱って壊されやすい<ref name=Kura108>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.108-132、玩具教育篇 第二篇九 自動車・電車・汽車・飛行機]]</ref>。10代以上になると科学的な興味を満たす傾向が強まり、玩具へ精巧さを求めるようになって材質や実際に駆動することなどにも目を向ける。さらに電車ならばゲージなど様々な周辺部品を加え、飛行機ならば実際に飛ばせるものなどへと、高度かつ高価なものとなってゆく<ref name=Kura108 />。
=== 音響玩具 ===
子供の聴覚に訴えかける玩具の種類がある<ref name=JTAkodomo />。乳児期のガラガラなども該当するが、手を使う遊びの延長として[[太鼓]]や[[タンバリン]]、口に含む行動から[[笛]]などの玩具がこれらに相当する。さらに、成長に伴い使われる子供向けの[[楽器]]類なども玩具に相当する<ref name=Kura73>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.73-80、玩具教育篇 第二篇五 音響玩具]]</ref>。
=== 練習玩具 ===
[[ファイル:Kendama seperat.JPG|thumb|right|200px|[[けん玉]]]]
玩具を用いて行う遊びのうち、目標を上手く達成することに楽しさを感じ、その技能を上達させる目的で遊ぶものを練習玩具、[[スキルトイ]]という。これを複数の人間で比較競争すればゲームとなるが、[[ヨーヨー]]や[[けん玉]]または[[独楽]]、[[縄跳び]]や[[紙風船]]などを一人単位で遊ぶことが該当する。[[紐]]を玩具に使う様々な遊びも多くこれに当たり、[[リリアン]]のようなものから複数で遊ぶ[[あやとり]]、[[縄飛び]]、[[ゴムとび]]などが例示される<ref name=Kura164>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.164-169、玩具教育篇 第二篇一四 練習玩具]]</ref>。
木の実に軸を挿した原始的な独楽は世界中で見られ、それぞれの文化圏の様式に沿って自然発生した。独楽は子供に限らない玩具の典型であり、古代エジプトの頃から美しい装飾が施されたり、回し方にも様々な工夫が発展した。『[[和名類聚抄]]』では、日本の独楽は宮廷の儀式道具として独楽廻しの専門職がいたことが記されている。江戸時代には[[賭場]]の道具になり、また[[曲芸]]としても大成した<ref name=Ta282>[[#多田1990|多田 (1990)、世界の玩具文化史、pp.282-284、庶民と宮廷文化で回り続けた独楽]]</ref>。ヨーロッパでは16世紀イギリスで多様な種類と形状が発達し、18-19世紀には特に鉄製の独楽が流行した。この中には、氷上でも遊べる工夫が施されたものもあった<ref name=Ta282 />。
===パズル===
[[ファイル:PuzzleByAltekruse.jpg|thumb|left|150px|[[メカニカルパズル]]。1890年W. アルテクルーズ作。]]
{{main|パズル}}
考える玩具の代表が[[パズル]]であり、[[知恵|智慧]]と工夫をこらして目的を達する。到達点はさまざまであり、単純な[[知恵の輪]]から[[ジグソーパズル]]・[[メカニカルパズル]]など、また何かしら目的のものを作り上げるという意味で[[ブロック]]もまた立体的なパズルの範疇に入る<ref name=Kura169>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.169-、玩具教育篇 第二篇一五 工夫遊び]]</ref>。
=== 競争するゲーム ===
[[競争]]・勝負がつけられる玩具もある。これには運動を伴うものもあれば、基本的に知的作業のみで行われるものもある。貝殻や土器に発し紙が使われるようになった[[めんこ]]、独楽を戦わせる[[ベーゴマ]]、他にも[[ビー玉]]や[[おはじき]]なども[[規則|ルール]]に即した[[ゲーム]]として使われる<ref name=Kura140>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.140-152、玩具教育篇 第二篇一一 勝負ごと]]</ref>。
ゲームには、より高度かつ複雑なものも無数に存在する。知的作業のみで行われるものとしては、[[囲碁]]、[[オセロ (ボードゲーム)|リバーシ]]、[[チェッカー]]、[[チェス]]、[[将棋]]、[[シャンチー]]、[[マンカラ]]、[[バックギャモン]]などの[[ボードゲーム]]類、[[トランプ]]、[[ドミノ]]、[[麻雀]]などの[[カードゲーム]]・タイルゲーム類がある。運動を伴うものとしては[[かるた]]、[[野球盤]]、[[ビリヤード]]などから、これらが拡張された[[スポーツ]]全般で使われる用具類も、広義の玩具に入れることができる<ref name=Kura140 />。
最古のボードゲームは紀元前3000年以前の古代エジプト墳墓から発見されている[[セネト]]である<ref>{{cite journal |last=Sebbane |first=Michael |year=2001 |title=Board Games from Canaan in the Early and Intermediate Bronze Ages and the Origin of the Egyptian Senet Game |journal=Tel Aviv |volume=28 |issue=2 |pages=213–230 |doi=10.1179/tav.2001.2001.2.213}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.gamesmuseum.uwaterloo.ca/Archives/Piccione/index.html |title=In search of the meaning of Senet |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080918080211/http://www.gamesmuseum.uwaterloo.ca/Archives/Piccione/index.html |archivedate=2008-09-18 |first=Peter A. |last=Piccione |website=Games Museum |publisher=University of Waterloo |place=Canada|accessdate=2021-04-02}}</ref>。これは[[暦]]や[[占い]]または死霊信仰の道具であった。紀元前1400年頃には初期のマンカラが登場して[[アフリカ]]に伝播した。これは[[奴隷貿易]]とともに[[アメリカ大陸]]にも伝わり、[[ハイチ]]では[[ブードゥー教]]とも関連づいた。一方インドには[[賭博|ギャンブル]]のひとつとして流行した<ref name=Ta287>[[#多田1990|多田 (1990)、世界の玩具文化史、pp.287-290、裸でつきあえる盤ゲーム]]</ref>。
=== ボール ===
[[ファイル:Jakarta old football.jpg|thumb|180px|ボールを持つ[[ジャカルタ]]の少年。ボール遊びは好ましい運動や身体活動であり、世界中で楽しまれている。]]
[[ボール]]や[[鞠]]の発祥は非常に古く定かでないが、多くの地域や文化圏および各歴史の段階を通じた普遍的な玩具である<ref name=Ta278>[[#多田1990|多田 (1990)、世界の玩具文化史、pp.278-279、人類始まって以来の素材史-ボール]]</ref>。その発生は、木の実や石などを本能的に投げる人間の行動にあると思われる<ref name=Kura152>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.152-156、玩具教育篇 第二篇十二 ボール・ゲーム]]</ref>。
ボールの発展段階を追うことで、それぞれの地域で調達できた[[原材料|材料]]や[[加工]]などの技術史を追うことができる。さらに、手に入れたボールの[[硬さ]]や[[重さ]]、または[[弾力性]]などが遊び方を決定づけ、様々なスポーツを生み出す母体ともなった<ref name=Ta278 />。ボール遊びは[[ゴム]]の利用によって大きく広がり、運動や競技において征服欲の充足を目的にした様々なゲームやスポーツの発案を助長した<ref name=Kura152 />。
=== 乗り物 ===
子供が乗る、または乗る模倣をする玩具は、[[ソクラテス]]の家に[[棒馬]]があった事や[[古代中国]]にも存在した事、さらに中世ヨーロッパの版画や彫刻に頻繁に現れる点からも広く普及したと考えられる。人が乗って遊ぶ[[木馬]]も、中世[[ロシア]]には満1歳の男児に贈る習慣があり、17世紀中ごろにイギリスでロッキングホースが発明されたように、広い歴史を持つ<ref name=Ta279>[[#多田1990|多田 (1990)、世界の玩具文化史、pp.279-281、男の子の健康のシンボル-木馬]]</ref>。
=== ごっこ遊びの玩具 ===
[[ファイル:Lincoln Logs sawmill.jpg|150px|thumb|right|{{仮リンク|リンカーンログ|en|Lincoln Logs}}は1920年代から続くアメリカで一般的な工事セットの玩具である。]]
子供が何らかの人物や職業になりきる[[ごっこ遊び]]用の玩具も存在する。これには訓練的な意味を持つ場合もあり、[[プラトン]]は「将来の建築家は子供の頃から家を建てる遊びをするべし」と記した<ref name=Hils>Karl Hils, ''The Toy - Its Value, Construction and Use'', Edmund Ward Ltd., London, 1959.</ref>。それらは仕事に使う道具の模造品であったり、衣装や[[お面]]なども含まれる<ref name=Kura156>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.156-、玩具教育篇 第二篇十三 模倣遊び玩具]]</ref>。[[戦争玩具]]に分類されるものでも、[[戦車]]や[[戦闘機]]および[[砲台]]等は模型に相当するが、[[軍刀]]や[[勲章]]など身につける類のものはこの一種になる<ref name=Kura132>[[#倉橋1935|倉橋 (1935)、pp.132-140、玩具教育篇 第二篇一〇 戦争玩具]]</ref>。
== 大人が楽しむ玩具 ==
=== 大人向け製品 ===
[[アントニア・フレイザー]]は著作『おもちゃの文化史』 (ISBN 978-4-472-07331-1) にて、玩具を「成長後も子供時代を懐かしく思う」ものと述べ、大人でも蒐集や歴史家が着目するものと記した<ref name=whatis />。現代では、子供向けに限定されない玩具、大人向けの玩具が豊富に溢れている。パズルやゲーム類は大人が遊ぶに充分なものであり、また人形やロボットなども一種の癒しを与える玩具として重宝される。[[バウリンガル]]などは、ペットと飼い主の双方に働きかける玩具とも定義できる。テレビゲームや高度なラジコンなど、高年齢層までも購買層に狙った玩具が数多く販売されている<ref name=Asean>{{Cite web|和書|url= http://www.asean.or.jp/ja/trade/lookfor/top/market/pdf/b8.pdf/at_download/file |format=PDF |title=玩具・ゲーム類|publisher=日本アセアンセンター|language=日本語|accessdate=2011-01-30}}</ref>。
=== 蒐集 ===
蒐集の対象としての玩具の歴史は中世で多く見られる。16世紀に始まったと言われる[[ドールハウス]]は、女の子に与えられた代表的な玩具であったが、貴族階級の大人が楽しむ[[鑑賞|鑑賞品]]として発展し、贅を尽くした[[工芸品]]を子供が触ることは許されなかった。愛好家の多い[[フランス人形]]は、当初新しいデザインの[[服飾品]]を[[宣伝]]する媒体であった<ref name=Ta272-2 />。
日本でも江戸時代には物見遊山や神社仏閣参拝のみやげ物、縁起物とした玩具が発達した。本来子供向けの玩具を蒐集する趣味や遊びが発展し、骨董や嬉遊と並んだ大人の遊楽のひとつとなった<ref name=Saito22>[[#斎藤1997|斎藤 (1997)、日本の郷土玩具‐その歩みと系譜‐、pp.22-24、おとなの玩具]]</ref>。[[明治時代]]には人形蒐集家の集まりが「大供会」を結成し機関紙の発行も行われた。この「大供」とは「子供」と対を成す造語である。玩具全般も広く愛され、「おもちゃ番付」の作成や選集の編纂などの盛り上がりを見せた<ref name=Saito24>[[#斎藤1997|斎藤 (1997)、日本の郷土玩具‐その歩みと系譜‐、pp.24-26、「大供玩具」趣味]]</ref>。
現在でも{{仮リンク|ビーニーベイビー|en|Beanie Baby}}や{{仮リンク|ボイズベアー|en|Boyds Bears}}のように、玩具の中には収集の対象となり、大人を含む熱狂的な蒐集家(コレクター)が存在するものもある。中には多額の費用が掛けられるような場合もあり、[[PEZ]]の稼働式ケース1個がオークションにて1,100ドルで落札された例もある<ref name=Brown>{{cite news|last=Brown|first=Patricia Leigh|title=New Auction Gems: Common Folks; Venerable Houses Woo Unstuffy Buyers With Unstuffy Stuff|work=The New York Times|page=37|date=1995-04-23|url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F6061EF93B5D0C708EDDAD0894DD494D81|accessdate=2006-10-11}}</ref>。
== 玩具を素材にした作品 ==
;曲・童謡
* [[おもちゃのマーチ]] 作詞:[[海野厚]] 作曲:[[小田島樹人]]
* [[おもちゃのチャチャチャ]] 作詞:[[野坂昭如]]・[[吉岡治]] 作曲:[[越部信義]]
* [[シャボン玉 (唱歌)|シャボン玉]] 作詞:[[野口雨情]] 作曲:[[中山晋平]]
* [[おもちゃ箱 (ドビュッシー)|おもちゃ箱]] 作曲:ドビュッシー
* [[おもちゃの兵隊の観兵式]] 作曲:[[レオン・イェッセル]]
* [[音楽おもちゃ箱]] 作曲:[[ソフィア・グバイドゥーリナ]]
;本
* [[悲しき玩具]] [[石川啄木]]
* [[ノディ]] [[児童文学]]
* [[玩具修理者]] [[小説]]
;映画
* [[おもちゃの国を救え!]] [[アニメーション映画]]
* [[トイ・ストーリーシリーズ]]アニメ映画
* [[マゴリアムおじさんの不思議なおもちゃ屋]]映画
* [[おもちゃの国のクリスマス]] [[実写映画]]
* [[ドックはおもちゃドクター]][[ディズニージュニア]]のアニメ
* [[トイズ (映画)|トイズ]] 実写映画
* [[チャイルド・プレイ (1988年の映画)|チャイルド・プレイ]](1988年)
* [[ジングル・オール・ザ・ウェイ]](1996年)
* [[スモール・ソルジャーズ]](1998年)
;テレビ
* [[おもちゃ屋ケンちゃん]] [[児童向けドラマ]]
== 取り扱い ==
[[ファイル:LEGO-01.jpg|thumb|200px|[[レゴ]]のような小片を含む玩具について、小児が誤って飲み込まないように警告するように複数の国で法律が定められている。]]
=== 法令等 ===
多くの国で販売される玩具に対する安全基準が設定されている。日本の場合、乳幼児玩具は[[食品衛生法]]が適用され、[[毒性]]が指摘されている[[重金属]]や[[砒素]]の溶出が検査される<ref name=Asean />。また、電気を使う玩具には[[電気用品安全法]]に則したPSEマークの表示が義務づけられ、花火には[[火薬類取締法]]の規制がかかる<ref name=Asean />。業界の自主規制では、[[SGマーク]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sg-mark.org/sgzhidu_1.html |title=SG制度のねらい|publisher=製品安全協会|language=日本語|accessdate=2011-01-30}}</ref>や[[STマーク]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.toys.or.jp/st/stpbc/st.htm |title=STマークについて|publisher=日本玩具協会|language=日本語|accessdate=2011-01-30}}</ref>などがある<ref name=Asean />。
[[欧州委員会]]では2008年12月18日に「玩具の安全性に関する指令」 (88/378/EEC) の改訂が提案された。これでは、玩具に含有する物質の規制が強化され、[[REACH]]規制に基づくCMR物質([[発癌性]]物質、[[変異原性]]物質、[[生殖毒性]]物質)や[[アレルギー]]物質、芳香物質の一部に対する使用禁止や規制、使用時のリスクに対する注意の表示義務、誤飲等のリスク規制、食玩と食品の接触禁止などを盛り込んだ。これは2009年上旬に発効された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/legis/23802/02380203.pdf |format=PDF |title=【EU】玩具の安全性に関する新しい指令の採択|author=萩原愛一|publisher=[[国立国会図書館]]及び立法考査局 |language=日本語|accessdate=2011-01-30}}</ref>。
玩具企業には、数量が多くなる製品を確保するために実体がはっきりしない外注を利用し、しばしば外国の工場で製造をすることがある。近年、アメリカでは中国製玩具で受取り拒否に踏み切った事態が発生した。監視が行き届かない下請け企業は、時に不適切な製造方法をとることがある。大規模な市場を持つアメリカ合衆国政府は、玩具製造企業に対して販売する前に製品評価を義務づける準備を行っている<ref>{{cite news| url=http://www.nytimes.com/2007/09/11/business/worldbusiness/11lead.html | work=The New York Times | title=Why Lead in Toy Paint? It's Cheaper | first=David | last=Barboza | date=2007-09-11 | accessdate=2010-03-28}}</ref>。
[[名前|名称]]や図柄を使うキャラクター玩具などには[[著作権]]や[[商標登録]]の権者の許諾が必要になる<ref name=Asean />。また、日本では青少年の健全な育成に好ましくないと判断される「[[有害玩具]]」を[[都道府県]]の[[条例]]で販売や貸与などに規制をかけている自治体もある<ref name=Asean />。
[[ファイル:LR44 Button Cell Battery.jpg|thumb|LR44[[:en:LR44 battery|(en)]][[ボタン型電池]](別称:AG13)。多くの玩具で使用されている。]]
=== リサイクルやリユース ===
子供が成長したり、または興味をなくしたりしたような際、玩具は[[リユース]]を検討される。[[グッドウィル・インダストリーズ]]や[[救世軍]]などチャリテシーへの寄付やガレージセールへの出展、[[オークション]]または[[美術館]]への寄贈など、その方法は様々である。壊れた玩具や何かしらの理由で不具合を生じたものは、廃棄する際に注意を払う必要がある。寄付や販売する際には丁寧に扱い、きれいにしておくべきであり、また部品が揃っていることも必須である<ref name=Goodwilldonationguidelines>{{cite web|url= http://www.goodwill.org/page/guest/about/howweoperate/donations/dosanddonts |title= Goodwill donation guidelines |publisher=[[グッドウィル・インダストリーズ]] |language=英語|accessdate=2011-01-14}}</ref>。
2007年に発生した[[中国製品の安全性問題]]によって、アメリカ国内で玩具を扱った数多くのチャリティーが中断したり取り消されたりする事態が起きた。グッドウィル・インダストリーズはぬいぐるみを除く全玩具の寄付受取りを停止し、他のチャリティーも政府が発行したチェックリストに基づいて玩具類に対する確認を実施した<ref name=Recall>{{cite news | last =Eckelbecker | first =Lisa | coauthors = | title =Santa helpers deal with toy recalls; Charities must scrutinize gifts | work = Worcester Telegram & Gazette | pages = | publisher = | date =2007-11-15 | url =http://www.telegram.com/article/20071115/NEWS/711150727/1116 |language=英語 |accessdate =2011-01-14}}</ref>。
電気製品の[[3R]]促進を目標に制定された[[WEEE指令]]([[電気電子機器廃棄物]]に関する[[欧州連合]]指令)では、2007年1月2日より[[イギリス]]における玩具へ適用させる運用が始まった<ref>{{cite web|url= https://web.archive.org/web/20070623125558/http://www.dti.gov.uk/innovation/sustainability/weee/page30269.html|title= Information about the Weee Directive|publisher=Internet Archive Wayback Machine |language=英語|accessdate=2011-01-14}}</ref>。
== 美術館・博物館・関連する地域等 ==
=== 日本 ===
* [[現代玩具博物館]]<ref>[http://www.toymuseum-okayama.jp/ 現代玩具博物館]</ref>
* [[有馬玩具博物館]]<ref>[http://www.arima-toys.jp/ 有馬玩具博物館]</ref>
* [[東京おもちゃ美術館]]<ref>[http://goodtoy.org/ttm/ 東京おもちゃ美術館]</ref>
* [[日本玩具博物館]]<ref>[http://www.japan-toy-museum.org/ 日本玩具博物館]</ref>
* [[壬生町おもちゃ博物館]]<ref>[http://www.mibutoymuseum.com/ 壬生町おもちゃ博物館]</ref>
* [[和倉昭和博物館とおもちゃ館]]<ref>[http://toymuseum.jp/ 和倉昭和博物館とおもちゃ館]</ref>
* [[おもちゃのまち]] - [[おもちゃのまち駅]]([[栃木県]][[壬生町]])
* [[おもちゃのまちバンダイミュージアム]]<ref>[http://www.bandai-museum.jp/museum/ おもちゃのまちバンダイミュージアム]</ref>
* [[おもちゃ王国]]
* [[五十崎凧博物館]]
* [[伊香保おもちゃと人形自動車博物館]]
* [[エルツおもちゃ博物館・軽井沢]]
* [[円形劇場くらよしフィギュアミュージアム]]
* [[静岡ホビースクエア]]
* [[蓼科テディベア美術館]]
* [[日本独楽博物館]]
* [[ブリキのおもちゃ博物館]]
* [[リカちゃんキャッスル]]
* [[わらべ館]]
* 他<ref>{{Cite web|和書
|url=http://www.toys.or.jp/sisetsu/sisetsu.htm
|title=玩具関連施設リンク
|publisher=日本玩具協会
|language=日本語
|accessdate=2011-01-30
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130509171309/http://www.toys.or.jp/sisetsu/sisetsu.htm
|archivedate=2013-05-09
|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>
=== 日本国外 ===
{{main|[[:en:Category:Toy museums]]}}
*[[香港国際玩具博物館]]<ref>[http://www.hotfrog.hk/Companies/Hong-Kong-International-Hobby-and-Toy-Museum 香港国際玩具博物館]</ref>
*[[トイワールド・ミュージアム]]([[スイス]]、[[バーゼル]])
*[[ポロック玩具博物館]]([[イギリス]]、[[ロンドン]])
*[[V&A子供博物館]](イギリス、ロンドン)
==読書案内==
*{{cite book|author=Kline, Stephen|year=1995| title=Out of the Garden: Toys, TV, and Children's Culture in the Age of Marketing|publisher=Verso Books|isbn=1-85984-059-0}}
*{{cite book|author=Walsh, Tim|year=2005|title=Timeless Toys: Classic Toys and the Playmakers Who Created Them|publisher=Andrews McMeel Publishing|isbn=0-7407-5571-4}}
*{{cite book|author=Wulffson, Don L.|title=Toys!|publisher=Henry Holt and Company|isbn=0-8050-6196-7}}
*Paolo Rampini , The Golden Book of Toycars 1900-1980 , Edizioni P.R. 2004 .
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|title=世界の玩具事典|author1=多田信作|authorlink1=多田信作|author2=多田千尋|authorlink2=多田千尋|publisher=岩崎美術社|edition=第2刷| origyear=1989|year=1990|ref=多田1990}}
*{{Cite book|和書|title=玩具叢書|author=倉橋惣三|authorlink=倉橋惣三|publisher=[[雄山閣]]|year=1935|url=https://books.google.co.jp/books?id=O3eDGc2TrdsC&printsec=frontcover&dq=%E7%8E%A9%E5%85%B7&hl=ja#v=onepage&q&f=false|ref=倉橋1935}}
*{{Cite book|和書|title=郷土玩具辞典|author=斎藤良輔|authorlink=斎藤良輔 (玩具研究家)|publisher=[[東京堂出版]]|year=1997|edition=初版|isbn=4-490-10478-2|ref=斎藤1997}}
== 関連項目 ==
* [[自然玩具]]
* [[ぜんまい式玩具]]
* [[オートマタ]]
* [[スキルトイ]]
* [[おまけ]]
* [[かえっこ]]
* [[玩具絵]]
* [[食玩]]
* [[玩具デザイナー]]
* [[玩具工房コースケ]]
* [[玩具堂]]
* [[東京おもちゃショー]] [[日本玩具協会]]の展示会(会期中に[[日本おもちゃ大賞]]も開催)
* [[和歌山電鐵2270系電車#おもちゃ電車(2276F)|おもちゃ電車]] [[内装]]におもちゃを[[ディスプレイ]]した[[電車]]
* [[おもちゃ博物館]]
* [[澄海区]] - 中国は世界で生産されるおもちゃの7割を作っており、中でも広東省汕頭市の同区では1万社の玩具メーカがあり、「おもちゃの都」と呼ばれている。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Toys}}
* [https://www.toys.or.jp/ 日本玩具協会]
* [https://www.toynes.jp/ 日本のおもちゃ情報]
* {{Kotobank}}
* ストレス解消玩具 [https://wackytrack.com/ Wacky Tracks Fidget Toys]
* [https://screwballscramble.com/ Crewball Scramble Toy]
* [[:Category:玩具メーカー]]
{{Normdaten}}
{{Good article}}
{{DEFAULTSORT:かんく}}
[[Category:玩具|*]]
[[Category:趣味]]
[[Category:熟字訓]] | 2003-03-11T06:34:05Z | 2023-12-20T15:05:35Z | false | false | false | [
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"Template:Cite book",
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"Template:ウィキポータルリンク",
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"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:Redirect",
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"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%A9%E5%85%B7 |
3,780 | Secure Shell | Secure Shell(セキュア シェル、SSH)は、暗号や認証技術を利用して、安全にリモートコンピュータと通信するためのプロトコル。パスワードなどの認証を含むすべてのネットワーク上の通信が暗号化される。
従来からTelnet、rsh、rloginなどリモートホストのシェルを利用するためのプロトコルは存在した。しかしながら、これらはネットワークに平文でパスワードを送信するため、パスワードを覗き見(盗聴)される危険性が高く、特にインターネット上では大きな問題であった。SSHは通信を暗号化した代替の通信プロトコルである。
ファイルコピー用のコマンドrcpを代用するscpや、FTPを代用するsftpも用意されている。
SSHの暗号通信はいわゆるハイブリッド暗号であり:
認証方式は公開鍵認証の他にも、パスワード認証、ワンタイムパスワードなどが提供されており、各個人/企業の情報セキュリティポリシーに合わせて選択できる。
なりすましを防止するための仕組みも充実している。
現在はバージョン1と2の2種類のプロトコルが共存している。バージョン1は既知の脆弱性があり推奨されない。
商用、フリーソフトウェア含めて幾つかの実装があり、特許や互換性の問題などでやや混乱があったが、2006年にSSHおよびその関連技術がRFCとして制定された。2008年の時点で最も普及しているのは、オープンソースのOpenSSHである。Linuxなどでも標準利用されており、現在では単にSSHと言った場合、OpenSSHの実装系を指すことが多い。
SSH接続時にサーバ鍵のフィンガープリントを確認しないと、意図しないリモートコンピュータに接続している事に気づかず、通信内容を盗聴される恐れがある。
SSHサーバによっては、設定次第でブルートフォースアタックでシェルへのアクセスを許してしまう。IPAが発表している不正アクセスの届け出状況では、SSHポート経由でパスワードクラッキングが行われた例が繰り返し発表されている。「パスワード管理の徹底」「セキュリティパッチの適用」「アクセスログの監視による攻撃の迅速な発見」のような対策に加えて、公開鍵認証を採用することをIPAは推奨している。 | [
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] | Secure Shellは、暗号や認証技術を利用して、安全にリモートコンピュータと通信するためのプロトコル。パスワードなどの認証を含むすべてのネットワーク上の通信が暗号化される。 | {{IPstack}}{{インターネットセキュリティプロトコル}}<!-- Edit the stack image at: Template:IPstack -->
'''Secure Shell'''(セキュア シェル、'''SSH''')は、[[暗号]]や[[認証]]技術を利用して、安全にリモートコンピュータと[[通信]]するための[[プロトコル]]。[[パスワード]]などの認証を含むすべての[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]上の通信が暗号化される。
== 概要 ==
従来から[[Telnet]]、[[rsh]]、[[rlogin]]などリモートホストの[[シェル]]を利用するためのプロトコルは存在した。しかしながら、これらはネットワークに[[平文]]でパスワードを送信するため、パスワードを覗き見([[盗聴]])される危険性が高く、特にインターネット上では大きな問題であった。SSHは通信を暗号化した代替の通信プロトコルである。
ファイルコピー用のコマンド[[rcp]]を代用する[[Secure copy|scp]]や、FTPを代用する[[SSH File Transfer Protocol|sftp]]も用意されている。
SSHの暗号通信はいわゆる[[ハイブリッド暗号]]であり:
* 鍵交換アルゴリズム([[ディフィー・ヘルマン鍵共有]]など)で共通鍵暗号のセッション鍵を生成し
* [[共通鍵暗号]]([[トリプルDES]]、[[Advanced Encryption Standard|AES]]など)で通信を暗号化し
* [[公開鍵暗号]]([[RSA暗号|RSA]]や[[Digital Signature Algorithm|DSA]])でホストやユーザ認証を行なう
認証方式は[[公開鍵暗号|公開鍵]][[認証]]の他にも、[[パスワード]][[認証]]、[[ワンタイムパスワード]]などが提供されており、各個人/企業の[[情報セキュリティポリシー]]に合わせて選択できる。
なりすましを防止するための仕組みも充実している。
現在はバージョン1と2の2種類のプロトコルが共存している。バージョン1は既知の脆弱性があり推奨されない。
商用、[[フリーソフトウェア]]含めて幾つかの実装があり、特許や互換性の問題などでやや混乱があったが、[[2006年]]にSSHおよびその関連技術が[[Request for Comments|RFC]]として制定された<ref>{{IETF RFC|4250}}、{{IETF RFC|4251}}、{{IETF RFC|4252}}、{{IETF RFC|4253}}、{{IETF RFC|4254}}、{{IETF RFC|4255}}、{{IETF RFC|4256}} を参照。</ref>。2008年の時点で最も普及しているのは、[[オープンソース]]の[[OpenSSH]]である<ref>{{cite web |url=http://www.openssh.com/usage/ssh-stats.html|title=Statistics from the current scan results|accessdate=2009-03-08}}</ref>。[[Linux]]などでも標準利用されており、現在では単にSSHと言った場合、OpenSSHの実装系を指すことが多い。
== ソフトウェア ==
=== SSHサーバ ===
* [[OpenSSH]] (マルチプラットフォーム)
* SSH Tectia Server (マルチプラットフォーム)
* [http://www.attachmate.jp/Products/Security/security.htm Reflection for Secure IT](マルチプラットフォーム)
=== SSHクライアント ===
* [[OpenSSH]] (マルチプラットフォーム)
* [[PuTTY]] (Windows, UNIX)
* [https://www.netsarang.com Xshell] (Windows)
* [[Tera Term]] (Windows)
* [[Poderosa]] (Windows)
* [[RLogin]] (Windows)
* SSH Tectia Client (マルチプラットフォーム)
* [http://www.attachmate.jp/Products/Security/security.htm Reflection for Secure IT](マルチプラットフォーム)
* [http://webssh.uni.me WebSSH]
== セキュリティリスク ==
SSH接続時にサーバ鍵の[[フィンガープリント]]を確認しないと、意図しないリモートコンピュータに接続している事に気づかず、通信内容を盗聴される恐れがある。
SSHサーバによっては、設定次第で[[総当たり攻撃|ブルートフォースアタック]]で[[シェル]]へのアクセスを許してしまう。[[情報処理推進機構|IPA]]が発表している不正アクセスの届け出状況では、SSHポート経由でパスワードクラッキングが行われた例が繰り返し発表されている<ref name="ipa-200512">{{Cite web|和書|url=http://www.ipa.go.jp/security/txt/2005/12outline.html|title=コンピュータウイルス・不正アクセスの届出状況(2005年11月分)について|publisher=[[情報処理推進機構]]|accessdate=2013-05-18}}</ref><ref name="ipa-200810">{{Cite web|和書|url=http://www.ipa.go.jp/security/txt/2008/10outline.html|title=コンピュータウイルス・不正アクセスの届出状況(2008年9月および第3四半期分)について|publisher=[[情報処理推進機構]]|accessdate=2013-05-18}}</ref>。「パスワード管理の徹底」「セキュリティパッチの適用」「アクセスログの監視による攻撃の迅速な発見」のような対策に加えて、公開鍵認証を採用することをIPAは推奨している<!-- OpenSSHで公開鍵認証をどのように実現するかは、[[OpenSSH]]にでも書いてください。ここは特定アプリケーションを主題とする記事ではありません -->。
2023年10月頃にTerapin Attachという中間者攻撃法が報告された<ref>[https://gigazine.net/news/20231220-terrapin-attack/ SSH接続への中間者攻撃を可能にするエクスプロイト「Terrapin Attack」が発見される (Gigazine, 2023年12月20日)]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 関連項目 ==
* [[Transport Layer Security|TLS]]
* [[Telnet]]
* [[File Transfer Protocol]]
* [[SSH File Transfer Protocol]]
* [[Secure copy]]
* [[Files transferred over shell protocol|FISH]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:Secure Shell}}
[[Category:Secure Shell|*]]
[[Category:アプリケーション層プロトコル]]
[[Category:暗号ソフトウェア]]
[[Category:RFC|4250]] | 2003-03-11T07:59:16Z | 2023-12-21T14:10:28Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Secure_Shell |
3,781 | Secure copy | Secure Copy(scp)は、sftp同様、Secure Shell(ssh)に含まれるsshの機能を使ってセキュリティの高い(セキュアな)ファイル転送を行うコマンドの一つである。scpで使用される通信プロトコルは、Secure Copy Protocol(SCP)と呼ばれる。
SSHを介してファイル転送を行うプロトコルとしてはSSH File Transfer Protocol(以下SFTP)があり、両者はしばしば比較される。その際、SCPはより軽く、SFTPはより高機能と評されることがある。2019年4月、OpenSSHの開発チームは「scpのプロトコルはもはや時代遅れで柔軟性がなく、修正が困難になっている」とし、SFTPやrsyncなど他のファイル転送プロトコルの使用を勧めている。scpコマンド自体についても、プロトコルにSFTPを使用するオプションが追加されている。
認証情報(たとえばパスワード認証なら、ユーザー名やパスワード)と、セッション中でやり取りされるデータとの両方ともが、暗号化されてネットワーク上を流れる。Unixで古くから使われているリモートファイル転送コマンドrcp(Remote CoPy)のセキュアなバージョンといえる。コマンドラインの指定方法はrcpとほぼ同じである。rcpは暗号化などに対応しておらず、安全ではない。ある種のシステムではrcpという名前で起動しようとするとscpコマンドを実行する。
ssh-agentコマンドなどと組み合わせて利用すれば、コピー時に認証情報の入力が不要で、cpやrcp同様に利用できる。
「SCPが対応する、1ファイルの転送可能な最大サイズは4GB」と解説されることがあるが、これは正確ではない。プロトコル自体にはファイルサイズ制限はなく、最大サイズはクライアントおよびサーバのソフトウェアとOS、そしてファイルシステムに依存する。例えば、OpenSSHでは実質上ファイルサイズの制限なく取り扱えるようになっている。
Windowsには、WinSCPというSCPを用いるGUI対応ソフトがある。 | [
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SSHを介してファイル転送を行うプロトコルとしては[[SSH File Transfer Protocol]](以下SFTP)があり、両者はしばしば比較される。その際、SCPはより軽く、SFTPはより高機能と評されることがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/0606/27/news135_2.html|title=軽快なscpか高機能なsftp、sshサーバに向いているのは?|publisher=[[ITmedia]]|date=2006-06-27|accessdate=2015-06-06}}</ref>。2019年4月、[[OpenSSH]]の開発チームは「scpのプロトコルはもはや時代遅れで柔軟性がなく、修正が困難になっている」とし、SFTPや[[rsync]]など他のファイル転送プロトコルの使用を勧めている<ref>{{Cite web|url=https://www.openssh.com/txt/release-8.0 |title=OpenSSH 8.0 |work=OpenSSH Release Notes |language=英語 |date=2019-04-17 |accessdate=2019-06-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=末岡洋子 |date=2019年4月22日 |url=https://mag.osdn.jp/19/04/22/164000 |title=「OpenSSH 8.0/8.0p」リリース、scpプロトコルに関連した脆弱性を修正 |website=[[OSDN]] Magazine |publisher=[[Open Source Development Network|OSDN株式会社]] |accessdate=2019-06-13}}</ref>。scpコマンド自体についても、プロトコルにSFTPを使用するオプションが追加されている<ref>{{Cite web|和書|author=末岡洋子 |date=2021-08-23 |url=https://mag.osdn.jp/21/08/26/114400 |title=「OpenSSH 8.7」が公開 |website=[[OSDN]] Magazine |publisher=[[Open Source Development Network|OSDN株式会社]] |accessdate=2021-08-28}}</ref>。
[[認証#Authentication|認証]]情報(たとえば[[パスワード]]認証なら、ユーザー名やパスワード)と、[[セッション (コンピュータ)|セッション]]中でやり取りされる[[データ]]との両方ともが、暗号化されて[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]上を流れる。[[Unix]]で古くから使われているリモートファイル転送コマンド[[rcp]]({{Lang|en|Remote CoPy}})のセキュアなバージョンといえる。コマンドラインの指定方法はrcpとほぼ同じである。rcpは暗号化などに対応しておらず、安全ではない。ある種のシステムではrcpという名前で起動しようとするとscpコマンドを実行する。
ssh-agentコマンドなどと組み合わせて利用すれば、コピー時に認証情報の入力が不要で、cpやrcp同様に利用できる。
「SCPが対応する、1ファイルの転送可能な最大サイズは4GB」と解説されることがあるが<ref>例として、[https://web.archive.org/web/20160211192722/http://winscp.net:80/eng/docs/protocols WinSCP公式サイトのプロトコル比較。]2016年2月11日時点のアーカイブ。</ref>、これは正確ではない。プロトコル自体にはファイルサイズ制限はなく、最大サイズはクライアントおよびサーバのソフトウェアとOS、そしてファイルシステムに依存する。例えば、OpenSSHでは実質上ファイルサイズの制限なく取り扱えるようになっている<ref>{{Cite web|url=https://blogs.oracle.com/janp/entry/how_the_scp_protocol_works|title=How the SCP protocol works|publisher=Jan Pechanec|date=2007-07-09|accessdate=2015-06-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110525013828/http://blogs.oracle.com/janp/entry/how_the_scp_protocol_works|archivedate=2011-05-25|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
[[Windows]]には、[[WinSCP]]というSCPを用いるGUI対応ソフトがある<ref>WinSCP https://winscp.net/eng/download.php</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[SSH File Transfer Protocol]]
* [[rsync]]
* [[File Transfer Protocol]]
* [[Secure Shell]]
* [[telnet]]
* [[WinSCP]]
* [[Files transferred over shell protocol|FISH]]
<!--
== 外部リンク ==
-->
[[Category:ファイル転送プロトコル]]
[[Category:Secure Shell]] | 2003-03-11T07:59:48Z | 2023-09-30T06:43:38Z | false | false | false | [
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"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Secure_copy |
3,782 | Rcp | rcp(remote copy, リモートコピー、アールシーピー)は、UNIXコンピュータ間のネットワーク経由でのファイル転送を行うコマンド。4.2BSDより導入された。
信頼されたホスト/ユーザー間では、いちいちパスワードを入力することなくファイルのコピーが可能である。認証はホスト名とIPアドレスに基づいて行われるが、この情報は偽装可能であるため、パスワード等の漏洩を防ぎセキュリティを確保する目的から、近年ではSecure Copy (scp) による置き換えが進んでいる。 | [
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] | rcpは、UNIXコンピュータ間のネットワーク経由でのファイル転送を行うコマンド。4.2BSDより導入された。 信頼されたホスト/ユーザー間では、いちいちパスワードを入力することなくファイルのコピーが可能である。認証はホスト名とIPアドレスに基づいて行われるが、この情報は偽装可能であるため、パスワード等の漏洩を防ぎセキュリティを確保する目的から、近年ではSecure Copy (scp) による置き換えが進んでいる。 | {{小文字}}
'''rcp'''(remote copy, '''リモートコピー'''、'''アールシーピー''')は、[[UNIX]]コンピュータ間の[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]経由での[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]転送を行う[[コマンド (コンピュータ)|コマンド]]。4.2[[Berkeley Software Distribution|BSD]]より導入された。
信頼されたホスト/ユーザー間では、いちいちパスワードを入力することなくファイルのコピーが可能である。認証はホスト名と[[IPアドレス]]に基づいて行われるが、この情報は偽装可能であるため、パスワード等の漏洩を防ぎセキュリティを確保する目的から、近年ではSecure Copy (scp) による置き換えが進んでいる。
== 関連 ==
*[[rlogin]], [[リモートシェル|rsh]](remsh)
*[[Secure copy|scp]]
== 外部リンク ==
*http://X68000.q-e-d.net/~68user/unix/pickup?rcp
[[Category:UNIXのソフトウェア]]
[[Category:BSD]]
[[Category:通信プロトコル]] | null | 2020-12-24T07:02:06Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Rcp |
3,784 | IC | IC | [
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] | IC 集積回路 - 電子機器に用いられる部品。関連:ICカード
インタークーラー
インターチェンジ - 道路交通同士が接続するための合分流構造。
イメージカラー
イオンクロマトグラフィーの略
インフォームド・コンセント
インターシティ (InterCity) - (特にヨーロッパの)都市間特別急行列車
インターシティ (ドイツ) - そのうちドイツにおける都市間列車について
インデックスカタログ - 星団や星雲、銀河を収載した2つの星表のこと
NHK富山放送局のラジオ第2放送・教育テレビのコールサイン(JOIC/JOIC-DTV)
イリノイ・セントラル鉄道の報告記号 間質性膀胱炎 の略
インターコンチネンタル の略
インターナショナルチャレンジの略 - スポーツ競技等における国際競技大会の区分のひとつ。バドミントン,ムエタイ,フィギュアスケートなどに見られる。各競技の協議会の項目を参照
アイドルカレッジ の略
茨城キリスト教大学の略 -
株式会社IC - 2022年4月1日に株式会社インフォメーションクリエーティブが商号変更。東証スタンダード上場。 | '''IC'''
* [[集積回路]] (Integrated Circuit) - [[電子機器]]に用いられる部品。関連:[[ICカード]]
* [[インタークーラー]] (Inter Cooler)
* [[インターチェンジ]] (Inter Change) - [[道路交通]]同士が接続するための合分流構造。
* [[イメージカラー]] (Image Color)
* [[イオンクロマトグラフィー]](Ion Chromatography)の略
* [[インフォームド・コンセント]] (Informed Consent)
* [[インターシティ]] (InterCity) - (特に[[ヨーロッパ]]の)都市間[[特別急行列車]]
** [[インターシティ (ドイツ)]] - そのうちドイツにおける都市間列車について
* [[インデックスカタログ]] - [[星団]]や[[星雲]]、[[銀河]]を収載した2つの[[星表]]のこと(Index Catalogue)
* [[NHK富山放送局]]の[[NHKラジオ第2放送|ラジオ第2放送]]・[[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]]の[[コールサイン]](JOIC/JOIC-DTV)
* [[イリノイ・セントラル鉄道]]の[[報告記号]] (Illinois Central railroad)
* [[間質性膀胱炎]] (Interstitial cystitis) の略
* [[インターコンチネンタル]] (Inter Continental)の略
* インターナショナルチャレンジ(International Challenge)の略 - [[スポーツ]]競技等における国際競技大会の区分のひとつ。[[バドミントン]],[[ムエタイ]],[[フィギュアスケート競技会|フィギュアスケート]]などに見られる。各競技の協議会の項目を参照
* [[アイドルカレッジ]] (IDOL COLLEGE、日本の女性アイドルグループ)の略
* [[茨城キリスト教大学]]の略 - (ibaraki christian university)
* [[IC (企業)|株式会社IC]] - 2022年4月1日に株式会社インフォメーションクリエーティブが商号変更。東証スタンダード上場。
{{Aimai}} | null | 2022-04-13T04:18:01Z | true | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/IC |
3,788 | SSH | SSH | [
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* [[Secure Shell]]の略。プロトコルの名称。
* [[スーパーサイエンスハイスクール]]の略。
* [[埼玉最終兵器]]の略。
* [[Society for Simulation in Healthcare]]の略。学会の名称。
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/SSH |
3,796 | クリエイティブ・コモンズ | クリエイティブ・コモンズ(英: Creative Commons、略称: CC)とは、著作物の適正な再利用の促進を目的として、著作者がみずからの著作物の再利用を許可するという意思表示を手軽に行えるようにするための様々なレベルのライセンスを策定し普及を図る国際的プロジェクト及びその運営主体である国際的非営利団体の名称である。
クリエイティブ・コモンズが策定した一連のライセンスはクリエイティブ・コモンズ・ライセンスと呼ばれる。
情報を共有しようとすると、知的所有権法や著作権法が障害になる場合があるが、この運動の基本的なねらいは、そのような法的問題を回避することにある。
これを達成するために同プロジェクトは著作権者が作品のリリースにあたって無料で利用できるようなライセンスのプロトタイプを作成、提供し作品がウェブ上で公開される際に検索や機械処理をしやすいようなRDF (XML) によるメタデータのフォーマットを提案している。
2001年、クリエイティブ・コモンズはアメリカ合衆国で非営利団体として設立された。発起人はローレンス・レッシグを始め知的所有権問題、インターネット法などの専門家を多く含む。ナイキとベストバイが共同で参加した。翌2002年12月、プロジェクトの最初の成果として4つの選択肢を複合して11種類のクリエイティブ・コモンズ・ライセンス バージョン1を発表した。
2004年、ネットワーク上でのリソースの流通に寄与する活動が認められ、アルス・エレクトロニカ賞を受賞した。
2008年、CEO(最高経営責任者)を務めたLarry Lessigが退任し、同CEOには、同団体の理事長を務めていた伊藤穣一が就任した。
2011年6月、クリエイティブ・コモンズは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスを利用したプロジェクトやクリエイターの活動をまとめた世界各国の事例集『The Power of Open』をリリースした。
2013年3月26日、日本の文化庁は、これまで策定を検討していた独自ライセンス「CLIPライセンス」の計画を破棄し、著作物の利用許諾について意思表示するライセンスとしてクリエイティブ・コモンズを支援していくと表明した。
2017年2月、Creative Commons Searchをクリエイティブ・コモンズ作品の検索エンジンとして公開した。
クリエイティブ・コモンズは著作権のある著作物の配布を許可するライセンスと、作品をパブリックドメインであると宣言するツールを提供している。
Global Affiliate Networkは、クリエイティブ・コモンズの国際化および多文化展開を進めるプロジェクトである。85ヵ国以上の国でボランティアおよびコミュニティメンバーが参加している。
クリエイティブ・コモンズの国際化は、クリエイティブ・コモンズの公認連携組織として各国で組織が立ち上げられ、各国語版のクリエイティブ・コモンズ・ライセンスの翻訳や、地域毎でのクリエイティブ・コモンズに関わる活動をしている。クリエイティブ・コモンズはGlobal Affiliate Networkを通してクリエイティブ・コモンズの活動を広め、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスが利用可能な地域の展開を進めている
多文化展開は大きく分けて「Open Education Platform」「Copyright Reform Platform」「Community Development Platform」「GLAM Platform」の4つの分野で展開を進めている。
Open Education Platformでは、Open Education Resource(OER)に主観を置いて教育、学習、研究の分野でのリソースのオープンアクセス化を図っている。
Copyright Reform Platformでは、インターネット社会(デジタル作品)での著作権の在り方の再構成を図っている。
GLAM Platformでは、美術館、図書館、公文書館、博物館の所蔵する作品のオープンアクセス化を図っている。
Creative Commons Searchは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスもしくはパブリック・ドメイン・マークで公開されている作品を検索する場を提供する。2017年2月に立ち上げられ、初期の検索対象は500px、ヨーロピアナ、Flickr、メトロポリタン美術館、ニューヨーク公共図書館、アムステルダム国立美術館であった。Creative Commons Searchはそれらに所蔵されている高品質の作品をオンラインで検索するサービスを提供する。検索機能の他、二次著作物への派生サポート、ソーシャルネットワーク機能を計画している。
2003年6月にはクリエイティブ・コモンズ・ジャパン(CCJP)が発足。これは上記のライセンスを日本の法体系に即したものにすることを目的としたインターナショナル・コモンズ(iコモンズ)の一環である。同時にクリエイティブ・コモンズ・ジャパンもiコモンズの一環として日本語版クリエイティブ・コモンズ・ライセンスを発表した。
2007年7月25日、活動母体を特定非営利活動法人化し、初代の理事長に中山信弘(東京大学名誉教授)が就任した。2013年2月、法人名をクリエイティブ・コモンズ・ジャパンからコモンスフィアに変更した。2016年3月からは渡邊智暁(慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任准教授)が理事長を務めている。
本部は東京都品川区上大崎4丁目 | [
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"text": "2017年2月、Creative Commons Searchをクリエイティブ・コモンズ作品の検索エンジンとして公開した。",
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"text": "クリエイティブ・コモンズは著作権のある著作物の配布を許可するライセンスと、作品をパブリックドメインであると宣言するツールを提供している。",
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"text": "クリエイティブ・コモンズの国際化は、クリエイティブ・コモンズの公認連携組織として各国で組織が立ち上げられ、各国語版のクリエイティブ・コモンズ・ライセンスの翻訳や、地域毎でのクリエイティブ・コモンズに関わる活動をしている。クリエイティブ・コモンズはGlobal Affiliate Networkを通してクリエイティブ・コモンズの活動を広め、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスが利用可能な地域の展開を進めている",
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"text": "Copyright Reform Platformでは、インターネット社会(デジタル作品)での著作権の在り方の再構成を図っている。",
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"text": "Creative Commons Searchは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスもしくはパブリック・ドメイン・マークで公開されている作品を検索する場を提供する。2017年2月に立ち上げられ、初期の検索対象は500px、ヨーロピアナ、Flickr、メトロポリタン美術館、ニューヨーク公共図書館、アムステルダム国立美術館であった。Creative Commons Searchはそれらに所蔵されている高品質の作品をオンラインで検索するサービスを提供する。検索機能の他、二次著作物への派生サポート、ソーシャルネットワーク機能を計画している。",
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"text": "2003年6月にはクリエイティブ・コモンズ・ジャパン(CCJP)が発足。これは上記のライセンスを日本の法体系に即したものにすることを目的としたインターナショナル・コモンズ(iコモンズ)の一環である。同時にクリエイティブ・コモンズ・ジャパンもiコモンズの一環として日本語版クリエイティブ・コモンズ・ライセンスを発表した。",
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"text": "2007年7月25日、活動母体を特定非営利活動法人化し、初代の理事長に中山信弘(東京大学名誉教授)が就任した。2013年2月、法人名をクリエイティブ・コモンズ・ジャパンからコモンスフィアに変更した。2016年3月からは渡邊智暁(慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任准教授)が理事長を務めている。",
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] | クリエイティブ・コモンズとは、著作物の適正な再利用の促進を目的として、著作者がみずからの著作物の再利用を許可するという意思表示を手軽に行えるようにするための様々なレベルのライセンスを策定し普及を図る国際的プロジェクト及びその運営主体である国際的非営利団体の名称である。 クリエイティブ・コモンズが策定した一連のライセンスはクリエイティブ・コモンズ・ライセンスと呼ばれる。 | {{WikipediaPage|クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの利用|Wikipedia:ライセンス更新}}
{{基礎情報 非営利団体
| Non-profit_name = クリエイティブ・コモンズ
| Non-profit_logo = [[ファイル:CC-logo.svg|クリエイティブ・コモンズのロゴ|200px]]
| Non-profit_type = [[非営利団体]]
| founded_date = [[2001年]]
| founder = [[ローレンス・レッシグ]]
| location = {{USA}}<br />[[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]<br /><small>{{Coord|37|47|14.3|N|122|23|54.4|W|type:landmark_region:US|display=inline}}</small>
| origins =
| key_people =
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| focus = 合理的な著作権利用の拡大
| method = [[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス]]
| revenue =
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| num_volunteers =
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| subsib =
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| Non-profit_slogan =
| homepage = [https://creativecommons.org/ creativecommons.org]{{En icon}}<br />[https://creativecommons.jp/ creativecommons.jp](CCジャパン)
| dissolved =
| footnotes =
}}
'''クリエイティブ・コモンズ'''({{lang-en-short|Creative Commons}}、略称: CC)とは、[[著作物]]の適正な再利用の促進を目的として、[[著作者]]がみずからの著作物の再利用を許可するという意思表示を手軽に行えるようにするための様々なレベルの[[ライセンス]]を策定し普及を図る国際的プロジェクト及びその運営主体である国際的[[非営利団体]]の名称である。
クリエイティブ・コモンズが策定した一連のライセンスは'''[[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス]]'''と呼ばれる。
== 理念 ==
[[File:Wanna_Work_Together?_(Japanese_subtitled).ogv|thumb|320px|クリエイティブ・コモンズ紹介動画(2007年製作)]]
[[情報]]を共有しようとすると、[[産業財産権法|知的所有権法]]や[[著作権法]]が障害になる場合があるが、この運動の基本的なねらいは、そのような法的問題を回避することにある。
これを達成するために同プロジェクトは[[著作権者]]が作品のリリースにあたって無料で利用できるようなライセンスのプロトタイプを作成、提供し作品がウェブ上で公開される際に検索や機械処理をしやすいような[[Resource Description Framework|RDF]] ([[Extensible Markup Language|XML]]) による[[メタデータ]]のフォーマットを提案している。
== 略歴 ==
[[2001年]]、クリエイティブ・コモンズは[[アメリカ合衆国]]で[[非営利団体]]として設立された。発起人は[[ローレンス・レッシグ]]を始め知的所有権問題、インターネット法などの専門家を多く含む。[[ナイキ]]と[[ベストバイ]]が共同で参加した<ref>{{Cite book |和書|last1=エプスタイン|first1=マーク |last2=ユーザス|first2=クリスティ|translator=鵜尾雅隆|translator2=鴨崎貴泰|translator3=松本裕|title = 社会的インパクトとは何か - 社会変革のための投資・評価・事業戦略ガイド| year = 2015| publisher = 英知出版| isbn = 978-4-86276-207-8|page=71}}</ref>。翌[[2002年]]12月、プロジェクトの最初の成果として4つの選択肢を複合して11種類の[[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス]] バージョン1を発表した。
[[2004年]]、ネットワーク上でのリソースの流通に寄与する活動が認められ、[[アルス・エレクトロニカ]]賞を受賞した。
2008年、CEO(最高経営責任者)を務めたLarry Lessigが退任し、同CEOには、同団体の理事長を務めていた伊藤穣一が就任した。
[[2011年]]6月、クリエイティブ・コモンズは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスを利用したプロジェクトやクリエイターの活動をまとめた世界各国の事例集『The Power of Open』<ref>{{citeweb|url=http://thepowerofopen.org/|title=The Power of Open|accessdate=2018-02-15}}</ref>をリリースした。<!-- この事例集自体が「クリエイティブ・コモンズ 表示-3.0 ライセンス」で公開されており、英語だけでなく、日本語<ref>{{citeweb|url=http://thepowerofopen.org/assets/pdfs/tpoo_jap.pdf|title=The Power of Open(日本語)|format=pdf|accessdate=2018-02-15}}</ref>、フランス語、ポルトガル語、スペイン語の各国語でも読むことができる。紹介されている事例は、[[TED (カンファレンス)|TED]]<ref>{{citeweb|url=http://www.ted.com/|title=TED: Ideas worth spreading|accessdate=2018-02-15}}</ref>、[[Jonathan Worth (photographer)|Jonathan Worth]]の写真作品<ref>{{citeweb|url=http://jonathanworth.com/|title=Photography – JonathanWorth.org|accessdate=2018-02-15}}</ref>、[[Nina Paley]]の『[[Sita Sings the Blues]]』<ref>{{citeweb|url=http://www.sitasingstheblues.com/|title=Sita Sings the Blues|accessdate=2018-02-15}}</ref>、[[ProPublica]]<ref>{{citeweb|url=http://www.propublica.org/|title=Home — ProPublica|accessdate=2018-02-15}}</ref>、[[Vincent Moon]]<ref>{{citeweb|url=http://www.vincentmoon.com/|title=Vincent Moon|accessdate=2018-02-15}}</ref>の映像作品、[[Jamendo]]<ref>{{citeweb|url=http://www.jamendo.com/|title=Jamendo Music | Free music downloads|accessdate=2018-02-15}}</ref>、[[Dublab]]<ref>{{citeweb|url=http://dublab.com/|title=dublab | future . roots . radio|accessdate=2018-02-15}}</ref>と[[Into Infinity]]<ref>{{citeweb|url=http://intoinfinity.org/|title=Into Infinity|accessdate=2018-02-15}}</ref>など。 -->
[[2013年]][[3月26日]]、[[日本]]の[[文化庁]]は、これまで策定を検討していた独自ライセンス「CLIPライセンス」の計画を破棄し、著作物の利用許諾について意思表示するライセンスとしてクリエイティブ・コモンズを支援していくと表明した<ref>{{Cite news |title=文化庁、CCライセンスを支援へ 独自ライセンス構築は断念 |newspaper=[[ITmedia]] |date=2013-2-27 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1303/27/news105.html |accessdate=2013-3-28}}</ref>。
[[2017年]]2月、Creative Commons Searchをクリエイティブ・コモンズ作品の[[検索エンジン]]として公開した<ref name="techchrunch-ccsearch" />。
== ライセンス ==
{{Main|クリエイティブ・コモンズ・ライセンス}}
クリエイティブ・コモンズは[[著作権]]のある[[著作物]]の配布を許可するライセンスと、作品をパブリックドメインであると宣言するツールを提供している<ref name="cc-licenses">{{citeweb|url=https://creativecommons.org/licenses/|title=About The Licenses|publisher= Creative Commons|accessdate=2018-03-02}}</ref>。
; CC BY
: [[File:CC-BY icon.svg|thumb|upright=0.5|CC BY]]
: 作品を複製、頒布、展示、実演を行うにあたり、[[著作権表示|著作権者の表示]]を要求する。
:{{-}}
; CC BY-NC
: [[File:Cc-by-nc icon.svg|thumb|upright=0.5|CC BY-NC]]
: 作品を複製、頒布、展示、実演を行うにあたり、著作権者の表示を要求し、[[非営利]]目的での利用に限定する。
:{{-}}
; CC BY-ND
: [[File:Cc-by-nd icon.svg|thumb|upright=0.5|CC BY-ND]]
: 作品を複製、頒布、展示、実演を行うにあたり、著作権者の表示を要求し、いかなる改変も禁止する。
:{{-}}
; CC BY-NC-ND
: [[File:Cc-by-nc-nd icon.svg|thumb|upright=0.5|CC BY-NC-ND]]
: 作品を複製、頒布、展示、実演を行うにあたり、著作権者の表示を要求し、[[非営利]]目的での利用に限定し、いかなる改変も禁止する。
:{{-}}
; CC BY-SA
: [[File:Cc by-sa (1).svg|thumb|upright=0.5|CC BY-SA]]
: 作品を複製、頒布、展示、実演を行うにあたり、著作権者の表示を要求し、作品を改変・変形・加工してできた作品についても、元になった作品と同じライセンスを継承させた上で頒布を認める。
:{{-}}
; CC BY-NC-SA
: [[File:Cc-by-nc-sa icon.svg|thumb|upright=0.5|CC BY-NC-SA]]
: 作品を複製、頒布、展示、実演を行うにあたり、著作権者の表示を要求し、[[非営利]]目的での利用に限定し、作品を改変・変形・加工してできた作品についても、元になった作品と同じライセンスを継承させた上で頒布を認める。
:{{-}}
; CC0
: [[ファイル:CC0 button.svg|thumb|upright=0.5|CC0]]
: 権利者が自分の作品を能動的に[[パブリックドメイン]]に置くツールである。CC0は[[2007年]]に開発が始まり<ref>{{Cite press release |url=http://creativecommons.org/press-releases/entry/7919 |title=Creative Commons Launches CC0 and CC+ Programs |date=December 17, 2007 |publisher=[[Creative Commons]] |accessdate=2012年8月19日}}</ref>、[[2009年]]に公開された<ref>{{Cite web |url=http://www.earlham.edu/~peters/fos/2009/01/report-from-cc-board-meeting.html |title=Report from CC board meeting |first=Gavin |last=Baker |work=Open Access News |date=January 16, 2009 |accessdate=2012年8月19日}}</ref><ref>{{citeweb|author=Diane Peters|date=2009-03-11|url=http://creativecommons.org/weblog/entry/13304|title=Expanding the Public Domain: Part Zero|accessdate=2018-02-15}}</ref>。
:{{-}}
; PDM
: [[ファイル:Public Domain Mark button.svg|thumb|upright=0.5|PDM]]
: 既に[[パブリックドメイン]]になっている作品に標示するツールである。PDMは[[2010年]]に公開された<ref>{{citeweb|author=Diane Peters|date=2010-08-06|url=http://creativecommons.org/weblog/entry/22940|title=Marking and Tagging the Public Domain: An Invitation to Comment|accessdate=2018-02-15}}</ref>。
:{{-}}
== プロジェクト ==
=== Global Affiliate Network ===
Global Affiliate Networkは、クリエイティブ・コモンズの国際化および多文化展開を進めるプロジェクトである。85ヵ国以上の国でボランティアおよびコミュニティメンバーが参加している<ref>{{citeweb|url=https://creativecommons.org/about/global-affiliate-network/|title=Global Affiliate Network|publisher=Creative Commons|accessdate=2018-03-02}}</ref>。
クリエイティブ・コモンズの国際化は、クリエイティブ・コモンズの公認連携組織として各国で組織が立ち上げられ、各国語版の[[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス]]の翻訳や、地域毎でのクリエイティブ・コモンズに関わる活動をしている。クリエイティブ・コモンズはGlobal Affiliate Networkを通してクリエイティブ・コモンズの活動を広め、[[クリエイティブ・コモンズ・ライセンスが利用可能な地域]]の展開を進めている<ref>{{citeweb|url=https://creativecommons.org/about/global-affiliate-network/|title=Global Affiliate Network|accessdate=2018-02-15}}</ref>
多文化展開は大きく分けて「Open Education Platform」「Copyright Reform Platform」「Community Development Platform」「[[GLAM]] Platform」の4つの分野で展開を進めている<ref>{{citeweb|url=https://creativecommons.org/about/global-affiliate-network/network-strategy/|title=Network Strategy|publisher=Creative Commons|accessdate=2018-03-02}}</ref><ref>{{citeweb|date=2017-09-29|author=Claudio Ruiz Gallardo|url=https://github.com/creativecommons/network-platforms/blob/c6d63eb78a1b4b1c2eb9d78f94238961828ed685/README.md|title=Creative Commons Network Platforms README.md|publisher=github|accessdate=2018-03-02}}</ref>。
Open Education Platformでは、[[オープン教育リソース|Open Education Resource]](OER)に主観を置いて教育、学習、研究の分野でのリソースの[[オープンアクセス]]化を図っている<ref>{{citeweb|date=2017-09-29|url=https://github.com/creativecommons/network-platforms/blob/c6d63eb78a1b4b1c2eb9d78f94238961828ed685/Open-Education.md|title=Creative Commons Network Platforms Open-Education.md|publisher=github|accessdate=2018-03-02}}</ref>。
Copyright Reform Platformでは、インターネット社会(デジタル作品)での著作権の在り方の再構成を図っている<ref>{{citeweb|date=2017-09-29|url=https://github.com/creativecommons/network-platforms/blob/c6d63eb78a1b4b1c2eb9d78f94238961828ed685/copyright-reform.md|title=Creative Commons Network Platforms Open-copyright-reform.md|publisher=github|accessdate=2018-03-02}}</ref>。
[[GLAM]] Platformでは、美術館、図書館、公文書館、博物館の所蔵する作品の[[オープンアクセス]]化を図っている<ref>{{citeweb|date=2017-09-29|url=https://github.com/creativecommons/network-platforms/blob/c6d63eb78a1b4b1c2eb9d78f94238961828ed685/GLAM.md|title=Creative Commons Network Platforms Open-GLAM.md|publisher=github|accessdate=2018-03-02}}</ref>。
=== Creative Commons Search ===
Creative Commons Searchは、[[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス]]もしくはパブリック・ドメイン・マークで公開されている作品を検索する場を提供する<ref>{{citeweb|url=https://search.creativecommons.org|title=CC Search|publisher=Creative Commons|accessdate=2018-03-02}}</ref>。[[2017年]]2月に立ち上げられ、初期の検索対象は[[500px]]、[[ヨーロピアナ]]、[[Flickr]]、[[メトロポリタン美術館]]、[[ニューヨーク公共図書館]]、[[アムステルダム国立美術館]]であった<ref name="techchrunch-ccsearch">{{citeweb|author=Sarah Perez|date=2017-02-07|url=https://techcrunch.com/2017/02/07/creative-commons-unveils-a-new-photo-search-engine-with-filters-lists-social-sharing/|title=Creative Commons unveils a new photo search engine with filters, lists & social sharing|publisher=TechCrunch|accessdate=2018-03-02}}</ref>。Creative Commons Searchはそれらに所蔵されている高品質の作品をオンラインで検索するサービスを提供する。検索機能の他、二次著作物への派生サポート、ソーシャルネットワーク機能を計画している。
=== 過去のプロジェクト ===
; Creative Commons Labs
: クリエイティブ・コモンズに関わる試験的なテクニックやソフトウェアを公開していた。2018年現在は休止しているが、クリエイティブ・コモンズに関わるソフトウェア等は[[github]]で[[オープンソースソフトウェア]]として開発が進められている<ref>{{citeweb|url=https://github.com/creativecommons|title=Creative Commons - github|author=Creative Commons|accessdate=2018-03-02}}</ref>。
; [[サイエンス・コモンズ]]
: 科学研究の分野で研究成果を[[オープンアクセス]]で共有し、同分野の発展を手助けする戦略およびツールを設計、開発するプロジェクトである。[[2005年]]、クリエイティブ・コモンズのプロジェクトとして立ち上げられた<ref>{{citeweb|url=http://www.dcc.ac.uk/resources/briefing-papers/legal-watch-papers/science-commons|title=Science Commons - Digital Curation Centre|publisher=Digital Curation Centre|accessdate=2018-03-02}}</ref>。[[2009年]]にプロジェクトは終了し、クリエイティブ・コモンズへ活動を統合した。
; [[ccMixter]]
: [[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス]]で頒布される再利用可能な各種音源を提供するコミュニティウェブサイトである。[[2004年]]、クリエイティブ・コモンズのプロジェクトとして立ち上げられた。[[2009年]]、[[ArtisTech Media]]にプロジェクトの運営を移管した。
; [[iCommons]]
: クリエイティブ・コモンズの国際化を推進するプロジェクトである<ref>{{citeweb|url=https://wiki.creativecommons.org/wiki/ICommons|title=ICommons - Creative Commons Wiki|date=2010-03-02|accessdate=2018-03-05|publisher=Creative Commons}}</ref>。[[2008年]]を皮切りに、iコモンズ・サミットとして各国でのクリエイティブ・コモンズのイベントを開催した。
== 関連団体 ==
=== クリエイティブ・コモンズ・ジャパン ===
[[ファイル:Tomoaki Watanabe cropped 1 Tomoaki Watanabe 2019.jpg|thumb|200px|コモンスフィア[[理事長]]を務める[[渡邊智暁]]]]
[[2003年]]6月にはクリエイティブ・コモンズ・ジャパン(CCJP)が発足<ref name="ccjp-history">{{Cite web|和書|url=https://creativecommons.jp/about/history/|title=沿革 - クリエイティブ・コモンズ・ジャパン|publisher=クリエイティブ・コモンズ・ジャパン|accessdate=2018-03-02}}</ref>。これは上記のライセンスを日本の法体系に即したものにすることを目的としたインターナショナル・コモンズ(iコモンズ)の一環である。同時にクリエイティブ・コモンズ・ジャパンもiコモンズの一環として日本語版[[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス]]を発表した。
[[2007年]][[7月25日]]、活動母体を特定非営利活動法人化し<ref name="ccjp-history" />、初代の理事長に[[中山信弘]](東京大学名誉教授)が就任した。[[2013年]]2月、法人名をクリエイティブ・コモンズ・ジャパンからコモンスフィアに変更した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.npo-homepage.go.jp/npoportal/detail/013006609|title=コモンスフィア - NPO法人ポータルサイト|publisher=内閣府|date=2018-02-13|accessdate=2018-03-02}}</ref><ref name="ccjp-history" />。[[2016年]]3月からは[[渡邊智暁]](慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任准教授)が理事長を務めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://creativecommons.jp/2016/07/24/%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E7%95%B0%E5%8B%95%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/|title=人事異動のお知らせ|publisher=クリエイティブ・コモンズ・ジャパン|accessdate=2018-02-15}}</ref>。
本部は[[東京都]][[品川区]][[上大崎]]4丁目<ref>[https://npo-search.com/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD/%E5%93%81%E5%B7%9D%E5%8C%BA/24075/ NPO法人検索]</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|30em}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Creative Commons}}
{{Wikisourcecat|クリエイティブ・コモンズ}}
* [[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス]]
== 外部リンク ==
* [https://creativecommons.org/ Creative Commons] - クリエイティブ・コモンズ公式サイト
* [https://creativecommons.jp/ クリエイティブ・コモンズ・ジャパン] -クリエイティブ・コモンズ・ジャパン公式サイト
=== 情報サイト ===
紹介、リンク集、および英文資料の和訳などが提供されているサイト(又はサイトの一部)を以下に挙げる。
* [http://www2.117.ne.jp/~mat/cc/menujp.html Mat creative commons日本語情報]{{リンク切れ|date=2020年6月}}
* [https://www.hyuki.com/trans/cc-index.html 結城浩 「クリエイティブ・コモンズ 関連文書の日本語訳」](2003年<!-- 1月から -->のウェブログの和訳などもある)
* [https://www.kanzaki.com/docs/sw/ccm.html 神崎正英 「クリエイティブ・コモンズのメタデータ」]
* [https://thepowerofopen.org/ The Power of Open](世界各国の事例集)
=== 案内記事 ===
既に挙げたものの他に以下の文章はクリエイティブ・コモンズについての入門、紹介文章として頻繁に言及される。
* {{Wayback |url=http://www.alles.or.jp/~spiegel/docs/cc-about.html |title=荒川靖弘 「クリエイティブコモンズについて」 2003年1月- |date=20150526114237 }}
* {{Wayback |url=http://www.ocsworld.com/ocsnews/home/694/netlife.asp |title=長野弘子 「共有することから生まれた「クリエイティブ・コモンズ」~デジタル時代にふさわしい著作権のかたちとは?~」『OCS NEWS』 2003年1月 |date=20050204142208 }}
* {{PDFlink|[http://internet.impress.co.jp/im/pdf/cc.pdf 先田千映・白田秀彰・神崎正英「著作権を自分でコントロールするための新しいツール:クリエイティブコモンズとは」『iNTERNET magazine』 2003年4月]}}{{リンク切れ|date=2020年6月}}
* [https://japan.cnet.com/article/20059809/ かみむら けいすけ「クリエイティブ・コモンズ---知のイノベーションを守るために」 CNET.com 2003年7月18日]
* [https://webtan.impress.co.jp/e/2007/02/01/489 中川譲「クリエイティブコモンズ」『Web担当者Forum』インプレスR&D 2007年2月1日]
=== 論考など ===
* {{Wayback |url=http://www.urban.ne.jp/home/josua/neco1.htm |title=金子義亮 Net著作権宣言。1998年3月|date=20000615051133 }}
* {{Wayback |url=http://www.urban.ne.jp/home/josua/rool1.htm |title=金子義亮 My Rule Your Game -著作権を考えよう!!- 1998年3月|date=20000520023323 }}
* {{PDFlink|[http://k.lenz.name/j/r/CC.pdf Karl-Friedrich Lenz(2003)「著作権とCreative Commons 実施権」 2003年7月]}}
* {{Wayback|url=http://homepage3.nifty.com/machina/r/mark.html |title=ヴァーチャルネット法律娘真紀奈17歳 (2003)「自由利用マークとCreative Commonsと」2003年3月 |date=20030813062836}}
* [http://www.hyuki.com/trans/blogtrap.html 結城浩(2003)「クリエイティブ・コモンズのライセンスをWeblogツールで使うことの危険性」 2003年4月]
* [http://www.rieti.go.jp/it/column/column030521.html 澁川修一(2003)「Creative Commons-ユーザが積極的に「共有」するためのライセンス 」2003年6月12日]
* {{Wayback |url=http://it.nikkei.co.jp/it/njh/njh.cfm?i=20030916s2000s2 |title=土屋大洋(2003)「クリエイティブ・コモンズに気をつけろ」 日本経済新聞 2003年9月18日 |date=20041010195730 }}
* [http://sourceforge.jp/magazine/03/09/29/0955208 八田真行(2003)「クリエイティヴ・コモンズに関する悲観的な見解 「オープンソース的著作物」は可能か」 2003年9月29日 japan.linux.com(SourceForge.JP Magazine)]
{{Intellectual property activism}}
{{Open navbox}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くりえいていふこもんす}}
[[Category:クリエイティブ・コモンズ|*]]
[[Category:国際NPO]]
[[Category:カリフォルニア州の非営利組織]]
[[Category:サンフランシスコの組織]]
[[Category:著作権に関連する組織]]
[[Category:コピーレフト]] | 2003-03-11T09:34:10Z | 2023-11-07T10:33:28Z | false | false | false | [
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3,800 | ヒジュラ |
ヒジュラ(アラビア語: هِجْرَة)は、622年にイスラームの預言者であるムハンマドと彼に従うムスリムがマッカからマディーナへ移住した出来事である。日本語では聖遷とも呼称される。
マッカでイスラームの布教を行っていたムハンマドと彼に従うムスリムは、クライシュ族などのマッカの住民から迫害を受けていた。一方、マッカの北方にあるヤスリブ(現在のマディーナ)は何十年にも渡る部族間抗争で疲弊しており、強力な調停者を必要としていた。620年に6人のヤスリブの住民がイスラームに改宗したことをきっかけにヤスリブのイスラーム化が進み、武力をもってムハンマドとイスラームを守る誓いも行われた。622年、ムハンマドはヤスリブより調停者として招待を受け、ムハンマドは70人余りのムスリムをヤスリブに移住させた後に、アブー・バクルと共に自らも移住した。
ヒジュラによってイスラーム共同体であるウンマが形成され、これは後のイスラーム社会や国家の原型となった。また、2代目正統カリフであるウマル・イブン・ハッターブによって定められたヒジュラ暦の起点にもなった。
なお、「マディーナ」はヒジュラ後に名付けられた都市名であるため、本稿ではヒジュラが行われて改名されるまでは旧称である「ヤスリブ」と表記する。
ヒジュラとはアラビア語で「移住」を意味し、特に今までの人間関係を断ち切って新たな人間関係に移ることを言う単語である。イスラーム用語としての意味は、多神教徒などを意味するシルク(英語版)の支配にあり、宗教的迫害を受ける恐れのある地から、その心配がない地へ移住することを指す。
ヒジュラという単語は一般的には本稿で取り扱うマッカからヤスリブへのムハンマドやムスリムの移住を指すが、615年前後に行われたムスリムのエチオピアへの亡命や、イスラーム教徒の大征服の時代に征服地であるミスルでの戦いに参加することもヒジュラと呼ばれた。また、ムラービト朝においては外部から陣営に加わること、植民地時代のマグリブやインドでは非ムスリムの支配を逃れてムスリム支配地に移住することもヒジュラと呼ばれた。
本稿で取り扱うヒジュラに限らず、ムハンマドの事績についてはイブン・イスハーク(英語版) (704頃 - 767) が記した『マブアス』と『マガーズィー』という著作をイブン・ヒシャーム(英語版) (? - 833) がムハンマドの伝記を中心に再編した『預言者ムハンマド伝』にほとんど頼っている。原本となったイブン・イスハークの著作は現存していない。こうした理由から、本稿の記述は基本的に『預言者ムハンマド伝』による。ただし、イブン・ヒシャームが恣意的に削除した部分が多いほか、医王 (2012b)は、伝承者が記されていない情報の入手元に疑問が残されているとしている。
610年ごろにヒラー山にてアッラーの啓示を受けたムハンマドは、614年頃からマッカの市民への宣教を始めた。当初はマッカの市民はムハンマドを嘲笑していたが、信者が増えるにつれ、ムハンマドやムスリムに対して迫害を行い、棄教を迫るようになった。615年ごろにはムハンマドの勧めにより100人以上のムスリムが、同じく一神教であるキリスト教徒の王が治めているアクスム王国へ保護を求めて亡命した。これによって当時のムスリムのほとんどがマッカを去り、ムハンマドの元には少数の成年男子しか残らなかった。
619年には、ムハンマドの妻であるハディージャ・ビント・フワイリドと、ムハンマドの叔父でありハーシム家の長としてムハンマドを保護していたアブー・ターリブが死去した。新たにハーシム家の長となったアブー・ラハブ(英語版)は、当初はムハンマドを保護すると約束していたが、やがて彼は部族の名誉を汚す裏切り者としてムハンマドの庇護を取り消した。ハーシム家の庇護を失ったムハンマドとムスリムたちへの迫害はますます激しくなっていった。ムハンマドは布教と自らを庇護してくれる人を見つけるためにマッカから60 kmほど東にあるターイフに赴いた。ムハンマドは秘かに現地の有力者に接触して自らを庇護するように要請したが、彼らはこれを断ったうえで、住民に石を投げさせてムハンマドを追い返した。その後、ムハンマドはナウファル家の家長であるムトイムのジワール(隣人への保護)によってマッカに入ることが出来た。
620年、ムハンマドはカアバを訪れた各部族の巡礼団の間をめぐって宣教を行っていた。このときムハンマドの教えを聞いてイスラームに改宗した者の中にヤスリブから来たアウス族(英語版)とハズラジュ族(英語版)の巡礼団6人がいた。ヤスリブに帰った彼らはイスラームを布教した。
ヤスリブとは現在のマディーナであり、マッカの北方およそ350 km、紅海からおよそ160 kmほどの内陸に位置している。住民のおよそ三分の一がクライザ族(英語版)やナディール族(英語版)、カイヌカー族(英語版)などのユダヤ教徒で、三分の二が多神教徒のアラブ人だった。当時のヤスリブではアラブ人の有力部族であるアウス族とハズラジュ族がユダヤ教徒を巻き込んで何十年にもわたる抗争を繰り広げていた。国家が存在していなかった当時のアラビアでは、部族の一員が殺害された際には敵対部族を殺害することによって勢力均衡を図る「血の復讐」と呼ばれる制度が形成されており、両部族は復讐の悪循環に陥っていた。そこでヤスリブは平和の回復のため強力な権威を持つ調停者、指導者を必要としていた。
その翌年である621年の巡礼月、ヤスリブから昨年マッカを訪れて改宗した6人のうち5人を含めた12人の部族代表者がマッカのムハンマドを訪れた。ムハンマドと彼らはマッカ郊外のアカバの谷間で会見を行った。ウバーダ・ブン・アル=サーミト(英語版)が語ったところによると、この会見の中で彼らは多神教の崇拝、盗み、姦通、女児殺し、隣人への中傷などをやめることを誓ったという。この誓いは「第一のアカバの誓い」と呼ばれる。その後、ムハンマドは信頼のおける弟子であるムスアブ・イブン・ウマイル(英語版)をヤスリブへ送り、新たな信徒の獲得に努めた。これは大きな成功をおさめ、ヤスリブではどの家庭においても家族の誰かはムスリムであるという状態になったという。ムスアブは翌年の巡礼時期の直前にマッカに戻り、その成功をムハンマドに報告した。
622年6月には男性73人、女性2人から成る75人のヤスリブの使節団がムハンマドのもとを訪れた。再びアカバで会見した彼らはムハンマドを神の使徒として認め、武力でムハンマドとイスラームを守ることを誓った。これを「戦いの誓い」または「第二のアカバの誓い」という。カアブ・ブン・マーリクが語ったところによると、ムハンマドは彼らの中から各部族の指導者12人を選んだうえで彼らをヤスリブに返した。こうして、ハズラジュ族を中心とする改宗者を中心としたヤスリブの住民は、抗争の調停者としてムハンマドを迎えることを決断した。
マッカでの宣教が行き詰っており、なおかつ身の危険を感じていたムハンマドはヤスリブからの招待を受け入れた。第二のアカバの誓いから数日後、ムハンマドはムスリムたちにヤスリブへ向かうよう指示した。
ムスリムの中で最初にヤスリブへ移住したのはアブー・サラマ(英語版)という男だった。彼はエチオピアに移住し、その後マッカに帰ってきていた。ウンム・サラマ(英語版)が語ったところによると、彼は妻であるウンム・サラマと息子であるサラマと共に移住しようとしたが、マッカを出たところでウンムの親族が彼らを追いかけ、「お前のことは、お前が決めればよい。が、妻を連れていくことを、我々が許すと思うのか」と言ってウンムと息子サラマを彼から引き離した。すると、同じくそこへやってきたアブー・サラマの親族が「サラマは我々一族のものだ」としてサラマを妻から引き離して連れ帰ったという。両家の板挟みになったアブー・サラマは仕方なく1人で移住した。
ヒジュラは密かに行われていたが、のちに2代目正統カリフとなるウマル・イブン・ハッターブはカアバ神殿でクライシュ族を前にして「命の惜しくないものは私に挑戦せよ」と堂々と宣言してからマッカを去ったという。
こうして70人あまりのムスリムたちが数名ずつ家族単位で密かにマッカを脱出しヤスリブへの移住を遂げた。通常のキャラバンなら11日で到着するところを彼らは2か月ほどかけて進み、ほぼ全員がクライシュ族の妨害にあうことなくヤスリブに到着した。彼らはヤスリブのムスリムの家に泊まってムハンマドの到着を待った。
ウマルが語ったところによると、アイヤーシュ・ブン・アブー・ラビーア(英語版)という男はウマルと同行してヒジュラを遂げたものの、ヤスリブまで会いに来た兄弟に「お前の母は願をかけた。お前を見るまでは髪をとかさず日中でも日焼け止めを使わないと。」と告げられ、これは兄弟の策略だというウマルの忠告を無視してマッカへ戻ることを決めた。マッカが近づくと兄弟は彼を縛り上げ、見せしめとして町中を引き回したという。
マッカに残ったのはムハンマドとその妻サウダと娘ファーティマ、アブー・バクルとその家族、そしてアリーのみであった。アブー・バクルはムハンマドに何度もヒジュラを決行する許可を求めたが、ムハンマドは「急いではいけない。おそらくアッラーはあなたに友を与えられる」と言ってすぐには出発しなかったという。アブー・バクルは出発に備えて、砂漠の長旅に耐えられる俊足のラクダを2頭購入した。
ヒジュラは秘密裏に行われていたが噂はマッカの人々の間に広まった。ウマイヤ家のアブー・スフィヤーンを中心とするクライシュ族の有力者たちは集まって協議を行った。協議では、ムハンマドを鎖につないで投獄して一生拘束するという案、ムハンマドをマッカから追放して二度と戻らせないという案が出たが、それぞれ、ムスリムが彼を救出しに来る可能性、追放された地で仲間を増やしてマッカを征服しに来る恐れから却下されたという。
協議の結果、クライシュ族の各家系から屈強な若者を1人ずつ暗殺者として送り、一斉にムハンマドを剣で刺して殺すという案で一致した。これは、各氏族の代表者が一斉にムハンマドを殺すことで、上記の「血の復讐」に基づく報復の責任を分散させ、ハーシム家に報復を行わせないようにするという意図があった。
ムハンマドの暗殺は同年9月に行われることになっていたが、ムハンマドはこの計画を事前に察知した。アーイシャが語ったところによると、ムハンマドはアブー・バクルの家へ行き、ヒジュラを行うことを彼に告げ、アブー・バクルの娘であるアスマとアーイシャが食料を用意した。また、ムハンマドとアブー・バクルは道案内人であるアブドゥッラー・ビン・クライクトを雇い、ラクダを預けたうえで3日後にサウル山で会うことを約束した。その後、ムハンマドは、夜が来たらムハンマドのベッドで寝るよう、のちに第4代正統カリフとなるアリー・イブン・アビー・ターリブに指示した。深夜、ムハンマドとアブー・バクルは家の裏口から抜け出し、徒歩でマッカを脱出した。
マッカを出たムハンマドとアブー・バクルはまずマディーナとは反対側である南側、イエメン行きの道を5 kmほど進み、サウル山の頂上近くにある洞窟に身を潜めた。洞窟の入り口は身をかがめなければならないほど低くて小さかったが、洞窟内は広く、高さもあった。彼らが洞窟に身を潜めた後、アブー・バクル家の解放奴隷であるアーミル・ブン・フハイラ(英語版)が羊を連れて2人の足跡を消したという。
ベッドにいるのがムハンマドではなくアリーであり、ムハンマドがすでにマッカを脱出したことを知ったクライシュ族はムハンマドの首にラクダ100頭をかけ、捜索隊を出した。なお、アリーは投獄されたがすぐに釈放された。
ムハンマドとアブー・バクルが洞窟に隠れている間、アーミル・ブン・フヘイヤが洞窟の近くに羊を連れてきて、絞った乳を彼らに飲ませたり、アスマが食料を持ってきたりした。また、マッカに残っていたアブー・バクルの息子であるアブドゥッラーは夜になると洞窟を訪れてマッカの様子を報告した。アブドゥッラーがマッカに戻るときは、アーミルが羊を彼の後についていかせて足跡を消した。
捜索隊は主にヤスリブへの道でムハンマドを探していたが、ある一団は残された足跡をたどってサウル山に到達し、2人が隠れている洞窟の入り口までやって来た。この時のことをアブー・バクルは以下のように回顧している。
また、以下に引用するクルアーンの第9章40節の一説はこの洞窟での出来事を指していると信じられている。
捜索隊は洞窟の前まで来たにもかかわらず中をのぞかずに去った。後世の伝説によると、1匹の蜘蛛が入り口に巣を張り、また1羽の鳩が卵を産んで温めていたため、これらを見た捜索隊は中に誰もいないと判断して通り過ぎたという。洞窟に潜伏してから3日目の夜、アブドゥッラーは捜索が終了したとムハンマドらに知らせた。4日目には約束通り道案内人のアブドゥッラー・ビン・クライクトがラクダをサウル山に連れてきた。アスマが糧食をラクダにくくりつけた。
また、アリーはムハンマドがマッカを脱出した3日後に、ムハンマドの妻子とアブー・バクルの家族とともにマッカを脱出した。
ムハンマドとアブー・バクルはラクダに乗り、アーミルとアブドゥッラー・ビン・クライクトと共に4人でヤスリブへ出発した。彼らはキャラバンが通るような人通りの多い道や有名なルートを避けて進んだという。サウル山を出発して北西のジェッダ方面へ進んだ後、内陸に戻った。マッカ北方のウスファーンを過ぎるとたびたび交易ルートと交わるようになった。ジュフファを過ぎたらクライシュ族の影響力が及ばない地域であったため、その後は本来の交易ルートでヤスリブへ向かったという。
9月24日(ヒジュラ暦元年3月12日月曜日)の午後、彼らはヤスリブ郊外のクバーに到着した。
ムハンマドの到着前、ヤスリブにはムハンマドがマッカを脱出したという情報は入っていたが、ムハンマドが洞窟で3日間潜伏していることは誰も知らなかった。ヤスリブの改宗者やマッカからの移住者たちはマッカへの道を1、2マイルほど進んだところにあるハラートと呼ばれる岩山に陣取り、ムハンマドが到着する10日以上前からそこと家とを往復して彼を待っていたという。ムハンマドが到着した9月24日、彼らは既にハラートから家に戻っていた。しかし、ナツメヤシ畑で働いていた一人のユダヤ人がクバーに向かうムハンマド一行の姿を捉え、家の屋上から「お前たちの幸運がやってきたぞ」と叫んだ。ムスリムたちは急いでクバーに向かい、ヤスリブに到着したムハンマドを、詩をうたったりタンバリンを打ったりして、喜びを表して迎えたという。
2人から3日遅れでマッカを出発したアリーはムハンマドが到着した2日後にヤスリブに到着した。
ヤスリブ郊外のクバーに到着したムハンマドはそこで数日を過ごし、イスラーム史上初のモスクであるクバー・モスクを作った。その後、ヤスリブの中心部に移ったムハンマドは孤児の土地を買い、そこに住居を建設した。この住居は後に預言者のモスクとして利用されるようになった。
ヤスリブではムハンマドへの異論を唱える者がいたが、大多数のものは彼を調停者とするのに賛成した。イスラームを受け入れた住民は必ずしも多くなかったが、ムハンマドは住民みながアッラーの信者になったと見なした。また、ヤスリブはアラビア語で「預言者の町」を意味する「マディーナ・アル=ナビー」、略して「町」を意味する「マディーナ」と呼ばれるようになった。
ヒジュラの結果、マディーナにはイスラーム共同体であるウンマが成立し、イスラーム社会、国家の原型となった。また、マディーナを拠点としてマッカと対抗し、後の大征服を可能とした。このためイスラームの思想や歴史ではこのヒジュラの重要性が強調されるようになった。
2代目正統カリフであるウマルが638年に暦を定めた際には、ムハンマドの誕生日でも啓示が下った日でもなくこのヒジュラを起点とし、ヒジュラが行われた年のアラビア暦1月1日である西暦622年7月16日をヒジュラ暦の元年元日とした。 | [
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"text": "ムハンマドの暗殺は同年9月に行われることになっていたが、ムハンマドはこの計画を事前に察知した。アーイシャが語ったところによると、ムハンマドはアブー・バクルの家へ行き、ヒジュラを行うことを彼に告げ、アブー・バクルの娘であるアスマとアーイシャが食料を用意した。また、ムハンマドとアブー・バクルは道案内人であるアブドゥッラー・ビン・クライクトを雇い、ラクダを預けたうえで3日後にサウル山で会うことを約束した。その後、ムハンマドは、夜が来たらムハンマドのベッドで寝るよう、のちに第4代正統カリフとなるアリー・イブン・アビー・ターリブに指示した。深夜、ムハンマドとアブー・バクルは家の裏口から抜け出し、徒歩でマッカを脱出した。",
"title": "ヒジュラの実行"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "マッカを出たムハンマドとアブー・バクルはまずマディーナとは反対側である南側、イエメン行きの道を5 kmほど進み、サウル山の頂上近くにある洞窟に身を潜めた。洞窟の入り口は身をかがめなければならないほど低くて小さかったが、洞窟内は広く、高さもあった。彼らが洞窟に身を潜めた後、アブー・バクル家の解放奴隷であるアーミル・ブン・フハイラ(英語版)が羊を連れて2人の足跡を消したという。",
"title": "ヒジュラの実行"
},
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"text": "ベッドにいるのがムハンマドではなくアリーであり、ムハンマドがすでにマッカを脱出したことを知ったクライシュ族はムハンマドの首にラクダ100頭をかけ、捜索隊を出した。なお、アリーは投獄されたがすぐに釈放された。",
"title": "ヒジュラの実行"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "ムハンマドとアブー・バクルが洞窟に隠れている間、アーミル・ブン・フヘイヤが洞窟の近くに羊を連れてきて、絞った乳を彼らに飲ませたり、アスマが食料を持ってきたりした。また、マッカに残っていたアブー・バクルの息子であるアブドゥッラーは夜になると洞窟を訪れてマッカの様子を報告した。アブドゥッラーがマッカに戻るときは、アーミルが羊を彼の後についていかせて足跡を消した。",
"title": "ヒジュラの実行"
},
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"text": "捜索隊は主にヤスリブへの道でムハンマドを探していたが、ある一団は残された足跡をたどってサウル山に到達し、2人が隠れている洞窟の入り口までやって来た。この時のことをアブー・バクルは以下のように回顧している。",
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"text": "また、以下に引用するクルアーンの第9章40節の一説はこの洞窟での出来事を指していると信じられている。",
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"text": "捜索隊は洞窟の前まで来たにもかかわらず中をのぞかずに去った。後世の伝説によると、1匹の蜘蛛が入り口に巣を張り、また1羽の鳩が卵を産んで温めていたため、これらを見た捜索隊は中に誰もいないと判断して通り過ぎたという。洞窟に潜伏してから3日目の夜、アブドゥッラーは捜索が終了したとムハンマドらに知らせた。4日目には約束通り道案内人のアブドゥッラー・ビン・クライクトがラクダをサウル山に連れてきた。アスマが糧食をラクダにくくりつけた。",
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},
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"text": "また、アリーはムハンマドがマッカを脱出した3日後に、ムハンマドの妻子とアブー・バクルの家族とともにマッカを脱出した。",
"title": "ヒジュラの実行"
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"text": "ムハンマドとアブー・バクルはラクダに乗り、アーミルとアブドゥッラー・ビン・クライクトと共に4人でヤスリブへ出発した。彼らはキャラバンが通るような人通りの多い道や有名なルートを避けて進んだという。サウル山を出発して北西のジェッダ方面へ進んだ後、内陸に戻った。マッカ北方のウスファーンを過ぎるとたびたび交易ルートと交わるようになった。ジュフファを過ぎたらクライシュ族の影響力が及ばない地域であったため、その後は本来の交易ルートでヤスリブへ向かったという。",
"title": "ヒジュラの実行"
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"text": "9月24日(ヒジュラ暦元年3月12日月曜日)の午後、彼らはヤスリブ郊外のクバーに到着した。",
"title": "ヒジュラの実行"
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"tag": "p",
"text": "ムハンマドの到着前、ヤスリブにはムハンマドがマッカを脱出したという情報は入っていたが、ムハンマドが洞窟で3日間潜伏していることは誰も知らなかった。ヤスリブの改宗者やマッカからの移住者たちはマッカへの道を1、2マイルほど進んだところにあるハラートと呼ばれる岩山に陣取り、ムハンマドが到着する10日以上前からそこと家とを往復して彼を待っていたという。ムハンマドが到着した9月24日、彼らは既にハラートから家に戻っていた。しかし、ナツメヤシ畑で働いていた一人のユダヤ人がクバーに向かうムハンマド一行の姿を捉え、家の屋上から「お前たちの幸運がやってきたぞ」と叫んだ。ムスリムたちは急いでクバーに向かい、ヤスリブに到着したムハンマドを、詩をうたったりタンバリンを打ったりして、喜びを表して迎えたという。",
"title": "ヒジュラの実行"
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"text": "2人から3日遅れでマッカを出発したアリーはムハンマドが到着した2日後にヤスリブに到着した。",
"title": "ヒジュラの実行"
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"text": "ヤスリブ郊外のクバーに到着したムハンマドはそこで数日を過ごし、イスラーム史上初のモスクであるクバー・モスクを作った。その後、ヤスリブの中心部に移ったムハンマドは孤児の土地を買い、そこに住居を建設した。この住居は後に預言者のモスクとして利用されるようになった。",
"title": "移住後"
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"text": "ヤスリブではムハンマドへの異論を唱える者がいたが、大多数のものは彼を調停者とするのに賛成した。イスラームを受け入れた住民は必ずしも多くなかったが、ムハンマドは住民みながアッラーの信者になったと見なした。また、ヤスリブはアラビア語で「預言者の町」を意味する「マディーナ・アル=ナビー」、略して「町」を意味する「マディーナ」と呼ばれるようになった。",
"title": "移住後"
},
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"text": "ヒジュラの結果、マディーナにはイスラーム共同体であるウンマが成立し、イスラーム社会、国家の原型となった。また、マディーナを拠点としてマッカと対抗し、後の大征服を可能とした。このためイスラームの思想や歴史ではこのヒジュラの重要性が強調されるようになった。",
"title": "ヒジュラの宗教的意義"
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{
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"text": "2代目正統カリフであるウマルが638年に暦を定めた際には、ムハンマドの誕生日でも啓示が下った日でもなくこのヒジュラを起点とし、ヒジュラが行われた年のアラビア暦1月1日である西暦622年7月16日をヒジュラ暦の元年元日とした。",
"title": "ヒジュラの宗教的意義"
}
] | ヒジュラは、622年にイスラームの預言者であるムハンマドと彼に従うムスリムがマッカからマディーナへ移住した出来事である。日本語では聖遷とも呼称される。 マッカでイスラームの布教を行っていたムハンマドと彼に従うムスリムは、クライシュ族などのマッカの住民から迫害を受けていた。一方、マッカの北方にあるヤスリブ(現在のマディーナ)は何十年にも渡る部族間抗争で疲弊しており、強力な調停者を必要としていた。620年に6人のヤスリブの住民がイスラームに改宗したことをきっかけにヤスリブのイスラーム化が進み、武力をもってムハンマドとイスラームを守る誓いも行われた。622年、ムハンマドはヤスリブより調停者として招待を受け、ムハンマドは70人余りのムスリムをヤスリブに移住させた後に、アブー・バクルと共に自らも移住した。 ヒジュラによってイスラーム共同体であるウンマが形成され、これは後のイスラーム社会や国家の原型となった。また、2代目正統カリフであるウマル・イブン・ハッターブによって定められたヒジュラ暦の起点にもなった。 なお、「マディーナ」はヒジュラ後に名付けられた都市名であるため、本稿ではヒジュラが行われて改名されるまでは旧称である「ヤスリブ」と表記する。 | {{Good article}}
{{Otheruses|イスラーム用語|南アジアにおける第3の性別|ヒジュラー}}
{{Islam}}
'''ヒジュラ'''({{lang-ar|هِجْرَة}}, hijrah ないしは hijra, ヒジュラ)は、[[622年]]に[[イスラームの預言者]]である[[ムハンマド]]と彼に従う[[ムスリム]]が[[マッカ]]から[[マディーナ]]へ移住した出来事である。日本語では'''聖遷'''とも呼称される。
マッカでイスラームの布教を行っていたムハンマドと彼に従う[[ムスリム]]は、[[クライシュ族]]などのマッカの住民から迫害を受けていた。一方、マッカの北方にあるヤスリブ(現在の[[マディーナ]])は何十年にも渡る部族間抗争で疲弊しており、強力な調停者を必要としていた。[[620年]]に6人のヤスリブの住民がイスラームに改宗したことをきっかけにヤスリブのイスラーム化が進み、武力をもってムハンマドとイスラームを守る誓いも行われた。[[622年]]、ムハンマドはヤスリブより調停者として招待を受け、ムハンマドは70人余りのムスリムをヤスリブに移住させた後に、[[アブー・バクル]]と共に自らも移住した。
ヒジュラによってイスラーム共同体である[[ウンマ (イスラム)|ウンマ]]が形成され、これは後のイスラーム社会や国家の原型となった。また、2代目[[正統カリフ]]である[[ウマル・イブン・ハッターブ]]によって定められた[[ヒジュラ暦]]の起点にもなった。
なお、「マディーナ」はヒジュラ後に名付けられた都市名であるため、本稿ではヒジュラが行われて改名されるまでは旧称である「ヤスリブ」と表記する。
== 語義 ==
ヒジュラとはアラビア語で「移住」「(鳥などの)渡り、移動」他を意味する語で、主に経済的理由や身の安全を求めるといった何らかの事情によりとある地から別の地、とある国から別の国へと移動することを指す<ref>{{Cite web |title=The Living Arabic Project - هجرة |url=https://www.livingarabic.com/en/search?q=%D9%87%D8%AC%D8%B1%D8%A9 |website=livingarabic.com |access-date=2023-10-18 |language=en |first=Living Arabic |last=Project}}</ref><ref>{{Cite web |title=معنى شرح تفسير كلمة (هجرة) |url=https://almougem.com/search.php?mdatabase=lmougem&query=%D9%87%D8%AC%D8%B1%D8%A9 |website=almougem.com |access-date=2023-10-18}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.almaany.com/ar/dict/ar-ar/%D9%87%D8%AC%D8%B1%D8%A9/ |title=المعاني : هجرة |access-date=2023-10-18}}</ref>。
現在アラビア諸国では内情不安による国外への移民や農村の宅地化による元農民の都市部移住について使われるが、元々の語義が「ある地点を去って離れ別の地点へと向かう行為」であることから、宗教的な文脈では今までの人間関係を断ち切って新たな人間関係に移ること{{sfn|日本イスラム協会|1982|p=317}}指すのに用いられている。
イスラーム用語としての意味は、多神教徒などを意味する{{仮リンク|シルク (イスラーム)|label=シルク|en|Shirk (Islam)}}の支配にあり、宗教的迫害を受ける恐れのある地から、その心配がない地へ移住することを指す{{sfn|佐藤|2019|pp=1336, 1351}}。
ヒジュラという単語は一般的には本稿で取り扱うマッカからヤスリブへのムハンマドやムスリムの移住を指すが、615年前後に行われたムスリムのエチオピアへの亡命や、[[イスラーム教徒の大征服]]の時代に征服地である[[ミスル]]での戦いに参加することもヒジュラと呼ばれた。また、[[ムラービト朝]]においては外部から陣営に加わること、植民地時代のマグリブやインドでは非ムスリムの支配を逃れてムスリム支配地に移住することもヒジュラと呼ばれた{{sfn|日本イスラム協会|1982|p=317}}{{sfn|蔀|2018|p=210}}。
== 史料 ==
本稿で取り扱うヒジュラに限らず、ムハンマドの事績については{{仮リンク|イブン・イスハーク|en|Ibn Ishaq}} (704頃 - 767) が記した『マブアス』と『マガーズィー』という著作を{{仮リンク|イブン・ヒシャーム|en|Ibn Hisham}} (? - 833) がムハンマドの伝記を中心に再編した『預言者ムハンマド伝』にほとんど頼っている{{sfn|医王|2012b|pp=363, 366, 374}}。原本となったイブン・イスハークの著作は現存していない{{sfn|医王|2012b|p=368}}。こうした理由から、本稿の記述は基本的に『預言者ムハンマド伝』による。ただし、イブン・ヒシャームが恣意的に削除した部分が多いほか、{{harvtxt|医王|2012b}}は、伝承者が記されていない情報の入手元に疑問が残されているとしている{{sfn|医王|2012b|pp=368, 375}}。
== 背景 ==
[[ファイル:Map of Arabia 600 AD.svg|サムネイル|右|300px|西暦600年頃のアラビア半島の地図。]]
[[610年]]ごろに[[ヒラー山]]にて[[アッラー]]の啓示を受けたムハンマドは、[[614年]]頃からマッカの市民への宣教を始めた{{sfn|蔀|2018|pp=206-207}}。当初はマッカの市民はムハンマドを嘲笑していたが、信者が増えるにつれ、ムハンマドやムスリムに対して迫害を行い、棄教を迫るようになった{{sfn|蔀|2018|p=209}}{{sfn|中田|2001|pp=185-186}}。615年ごろにはムハンマドの勧めにより100人以上のムスリムが、同じく一神教であるキリスト教徒の王が治めている[[アクスム王国]]へ保護を求めて亡命した{{Refnest|group="注釈"|これは「第一のヒジュラ」とも呼ばれる{{sfn|蔀|2018|pp=209-210}}。}}。これによって当時のムスリムのほとんどがマッカを去り、ムハンマドの元には少数の成年男子しか残らなかった{{sfn|蔀|2018|pp=209-210}}。
[[619年]]には、ムハンマドの妻である[[ハディージャ・ビント・フワイリド]]と、ムハンマドの叔父であり[[ハーシム家]]の長としてムハンマドを保護していた[[アブー・ターリブ]]が死去した{{sfn|蔀|2018|p=212}}。新たにハーシム家の長となった{{仮リンク|アブー・ラハブ|en|Abū Lahab}}は、当初はムハンマドを保護すると約束していたが、やがて彼は部族の名誉を汚す裏切り者としてムハンマドの庇護を取り消した{{sfn|中田|2001|p=187}}{{sfn|小杉|1994|p=36}}{{sfn|佐藤|2008|p=62}}{{refnest|group="注釈"|この時代のアラビアにおいて、氏族からの保護を失うことは生命の安全すら保障されないことを意味していた{{sfn|佐藤|2008|p=61}}。}}。ハーシム家の庇護を失ったムハンマドとムスリムたちへの迫害はますます激しくなっていった{{sfn|中田|2001|p=187}}。ムハンマドは布教と自らを庇護してくれる人を見つけるためにマッカから60 [[キロメートル|km]]ほど東にある[[ターイフ]]に赴いた。ムハンマドは秘かに現地の有力者に接触して自らを庇護するように要請したが、彼らはこれを断ったうえで、住民に石を投げさせてムハンマドを追い返した{{sfn|小杉|1994|p=36}}{{sfn|佐藤|2008|p=63}}{{sfn|嶋田|1977|p=22}}。その後、ムハンマドはナウファル家の家長であるムトイムのジワール(隣人への保護)によってマッカに入ることが出来た{{sfn|嶋田|1977|p=22}}{{Refnest|group="注釈"|ムトイムがムハンマドにジワールを与えたこと理由について{{Harvtxt|嶋田|1977}}は、ムトイムがムハンマドに好感を抱いており、また、ナウファル家がハーシム家と深い血縁関係にあったためと推測している{{sfn|嶋田|1977|p=22}}。}}。
=== ヤスリブからの巡礼者 ===
[[620年]]、ムハンマドは[[カアバ]]を訪れた各部族の巡礼団の間をめぐって宣教を行っていた。このときムハンマドの教えを聞いてイスラームに改宗した者の中にヤスリブから来た{{仮リンク|アウス族|en|Banu Aws}}と{{仮リンク|ハズラジュ族|en|Banu Khazraj}}の巡礼団6人がいた。ヤスリブに帰った彼らはイスラームを布教した{{sfn|中田|2001|p=187}}{{sfn|中村|1998|p=38}}。
=== 当時のヤスリブの状況 ===
ヤスリブとは現在のマディーナであり、マッカの北方およそ350 km、紅海からおよそ160 kmほどの内陸に位置している。住民のおよそ三分の一が{{仮リンク|クライザ族|en|Banu Qurayza}}や{{仮リンク|ナディール族|en|Banu Nadir}}、{{仮リンク|カイヌカー族|en|Banu Qaynuqa}}などのユダヤ教徒で、三分の二が多神教徒のアラブ人だった{{sfn|蔀|2018|p=213}}{{sfn|嶋田|1977|p=25}}。当時のヤスリブではアラブ人の有力部族であるアウス族とハズラジュ族がユダヤ教徒を巻き込んで何十年にもわたる抗争を繰り広げていた{{sfn|中田|2001|p=187}}{{sfn|蔀|2018|p=213}}。国家が存在していなかった当時のアラビアでは、部族の一員が殺害された際には敵対部族を殺害することによって勢力均衡を図る「血の復讐」と呼ばれる制度が形成されており、両部族は復讐の悪循環に陥っていた。そこでヤスリブは平和の回復のため強力な権威を持つ調停者、指導者を必要としていた{{sfn|中田|2001|p=187}}{{Refnest|group="注釈"|620年にイスラームに改宗した6人は「我々は憎悪と遺恨のために内部分裂している。神はあなたを通して統一してくださるであろう」とムハンマドに語ったという{{sfn|後藤|1980a|p=73}}。}}。
=== 第一のアカバの誓い ===
その翌年である621年の巡礼月、ヤスリブから昨年マッカを訪れて改宗した6人のうち5人を含めた12人の部族代表者がマッカのムハンマドを訪れた{{sfn|中田|2001|p=188}}{{sfn|後藤|1980a|p=67}}{{sfn|中村|1998|p=38}}。ムハンマドと彼らはマッカ郊外のアカバの谷間で会見を行った。{{仮リンク|ウバーダ・ブン・アル=サーミト|en|Ubadah ibn al-Samit}}が語ったところによると、この会見の中で彼らは多神教の崇拝、盗み、姦通、女児殺し{{Refnest|group="注釈"|当時のアラビアの貧しい家庭には、女児が生まれると、これを間引く習慣があった{{sfn|佐藤|2008|p=64}}。}}、隣人への中傷などをやめることを誓ったという{{sfn|イブン・イスハーク|2010|pp=458-459}}。この誓いは「第一のアカバの誓い」と呼ばれる{{sfn|小杉|2002|p=88}}{{Refnest|group="注釈"|この誓いは「婦人の誓い」や「女性の誓い」とも呼ばれる。このように呼ばれる所以について、{{harvtxt|イブン・イスハーク|2010}}の訳注では不明であるとされている一方で{{sfn|イブン・イスハーク|2010|p=559}}、{{harvtxt|小杉|2002}}は、戦闘義務がなかった女性をも拘束する誓いという意味であるとしている{{sfn|小杉|2002|p=88}}。}}。その後、ムハンマドは信頼のおける弟子である{{仮リンク|ムスアブ・イブン・ウマイル|en|Mus'ab ibn Umayr}}をヤスリブへ送り、新たな信徒の獲得に努めた{{sfn|佐藤|2008|p=64}}{{sfn|小杉|2002|p=88}}。これは大きな成功をおさめ、ヤスリブではどの家庭においても家族の誰かはムスリムであるという状態になったという{{sfn|小杉|2002|p=88}}{{refnest|group="注釈"|ヤスリブでイスラームが受け入れられた理由について、{{harvtxt|小杉|2002}}は、ヤスリブにはユダヤ教徒が多く一神教に慣れていたことや、多神教徒の信仰心がマッカに比べてはるかに弱かったためであると推測している{{sfn|小杉|2002|pp=89-90}}。}}。ムスアブは翌年の巡礼時期の直前にマッカに戻り、その成功をムハンマドに報告した{{sfn|鈴木|2007|p=152}}。
=== 第二のアカバの誓い ===
622年6月には男性73人、女性2人から成る75人のヤスリブの使節団がムハンマドのもとを訪れた{{sfn|佐藤|2008|p=64}}。再びアカバで会見した彼らはムハンマドを神の使徒として認め、武力でムハンマドとイスラームを守ることを誓った{{sfn|中田|2001|p=188}}{{sfn|イブン・イスハーク|2010|p=484}}。これを「戦いの誓い」または「第二のアカバの誓い」という{{sfn|佐藤|2008|p=65}}{{refnest|group="注釈"|これまでムハンマドは啓示によってどんな迫害にも忍耐を持って耐えるよう命じられていたが、戦闘を許可する旨の啓示が下ったためこの誓いが可能になったとされる{{sfn|小杉|2002|p=89}}。}}。[[カアブ・ブン・マーリク]]が語ったところによると、ムハンマドは彼らの中から各部族の指導者12人を選んだうえで彼らをヤスリブに返した{{sfn|中田|2001|p=188}}{{sfn|イブン・イスハーク|2010|p=472}}{{Refnest|group="注釈"|{{harvtxt|後藤|1980a}}は、指導者が12人選ばれた理由について、[[イエス・キリスト]]の[[十二使徒]]が意図されたとしている。指導者たちはヤスリブの改宗運動の指導的立場にあった{{sfn|後藤|1980a|pp=71-72}}。}}。こうして、ハズラジュ族を中心とする改宗者を中心としたヤスリブの住民は、抗争の調停者としてムハンマドを迎えることを決断した{{sfn|蔀|2018|p=213}}。
== ヒジュラの実行 ==
=== ムスリムの出発 ===
[[ファイル:Hejaz622-ar.png|サムネイル|右|ヒジュラの経路図。]]
マッカでの宣教が行き詰っており、なおかつ身の危険を感じていたムハンマドはヤスリブからの招待を受け入れた{{sfn|蔀|2018|p=213}}。第二のアカバの誓いから数日後、ムハンマドはムスリムたちにヤスリブへ向かうよう指示した{{sfn|Muir|1858a|p=243}}。
ムスリムの中で最初にヤスリブへ移住したのは{{仮リンク|アブー・サラマ|en|Abu Salama}}という男だった。彼はエチオピアに移住し、その後マッカに帰ってきていた{{sfn|後藤|1980b|p=152}}{{sfn|イブン・イスハーク|2010|p=503}}。{{仮リンク|ウンム・サラマ|en|Umm Salama}}が語ったところによると、彼は妻であるウンム・サラマと息子であるサラマと共に移住しようとしたが、マッカを出たところでウンムの親族が彼らを追いかけ、「お前のことは、お前が決めればよい。が、妻を連れていくことを、我々が許すと思うのか」と言ってウンムと息子サラマを彼から引き離した。すると、同じくそこへやってきたアブー・サラマの親族が「サラマは我々一族のものだ」としてサラマを妻から引き離して連れ帰ったという{{sfn|後藤|1980b|p=152}}{{sfn|イブン・イスハーク|2010|p=503}}。両家の板挟みになったアブー・サラマは仕方なく1人で移住した{{sfn|鈴木|2007|p=154}}{{sfn|イブン・イスハーク|2010|p=504}}{{Refnest|group="注釈"|夫から引き離されたウンム・サラマは1年もの間、朝から晩まで泣き暮らす日々を送ったという。これを哀れんだ親族によって彼女は移住を許可され、息子と共に移住した{{sfn|鈴木|2007|pp=154-155}}{{sfn|イブン・イスハーク|2010|p=504}}。なお、その後アブー・サラマは戦死し、ウンマ・サラマはムハンマドの妻となった{{sfn|後藤|1980b|p=152}}。}}。
ヒジュラは密かに行われていたが、のちに2代目正統カリフとなる[[ウマル・イブン・ハッターブ]]はカアバ神殿でクライシュ族を前にして「命の惜しくないものは私に挑戦せよ」と堂々と宣言してからマッカを去ったという{{sfn|小杉|2002|p=94}}。
こうして70人あまりのムスリムたちが数名ずつ家族単位で密かにマッカを脱出しヤスリブへの移住を遂げた{{sfn|アームストロング|2017|pp=16-17}}{{sfn|佐藤|2008|p=65}}{{sfn|中村|1998|p=39}}。通常のキャラバンなら11日で到着するところを彼らは2か月ほどかけて進み、ほぼ全員がクライシュ族の妨害にあうことなくヤスリブに到着した{{sfn|佐藤|2008|p=65}}{{sfn|Muir|1858a|p=246}}。彼らはヤスリブのムスリムの家に泊まってムハンマドの到着を待った{{sfn|佐藤|2008|p=65}}。
ウマルが語ったところによると、{{仮リンク|アイヤーシュ・ブン・アブー・ラビーア|en|Ayyash ibn Abi Rabiah}}という男はウマルと同行してヒジュラを遂げたものの、ヤスリブまで会いに来た兄弟に「お前の母は願をかけた。お前を見るまでは髪をとかさず日中でも日焼け止めを使わないと。」と告げられ、これは兄弟の策略だというウマルの忠告を無視してマッカへ戻ることを決めた。マッカが近づくと兄弟は彼を縛り上げ、見せしめとして町中を引き回したという{{sfn|鈴木|2007|p=155}}{{sfn|イブン・イスハーク|2011|pp=512-514}}。
=== ムハンマドの出発 ===
==== マッカ脱出 ====
マッカに残ったのはムハンマドとその妻サウダと娘[[ファーティマ]]、アブー・バクルとその家族、そしてアリーのみであった{{sfn|後藤|1980b|p=153}}。アブー・バクルはムハンマドに何度もヒジュラを決行する許可を求めたが、ムハンマドは「急いではいけない。おそらくアッラーはあなたに友を与えられる」と言ってすぐには出発しなかったという{{sfn|Muir|1858a|p=248}}{{sfn|サルチャム|2011|p=129}}{{sfn|イブン・イスハーク|2011|p=1}}{{Refnest|group="注釈"|この理由について{{harvtxt|Muir|1858a}}は、ヤスリブが彼を受け入れる準備が整い、また、彼を守るというヤスリブ側の約束が実行されるという保証を得るまで出発を延期したかったためだと推測している{{sfn|Muir|1858a|pp=248-249}}。}}。アブー・バクルは出発に備えて、砂漠の長旅に耐えられる俊足のラクダを2頭購入した{{sfn|鈴木|2007|p=156}}{{sfn|イブン・イスハーク|2011|p=8}}。
ヒジュラは秘密裏に行われていたが噂はマッカの人々の間に広まった。ウマイヤ家のアブー・スフィヤーンを中心とするクライシュ族の有力者たちは集まって協議を行った{{sfn|鈴木|2007|p=156}}{{sfn|イブン・イスハーク|2011|p=3}}。協議では、ムハンマドを鎖につないで投獄して一生拘束するという案、ムハンマドをマッカから追放して二度と戻らせないという案が出たが、それぞれ、ムスリムが彼を救出しに来る可能性、追放された地で仲間を増やしてマッカを征服しに来る恐れから却下されたという{{sfn|サルチャム|2011|p=131}}{{sfn|イブン・イスハーク|2011|pp=4-5}}。
協議の結果、クライシュ族の各家系から屈強な若者を1人ずつ暗殺者として送り、一斉にムハンマドを剣で刺して殺すという案で一致した{{sfn|嶋田|1977|p=23}}{{sfn|アンサーリー|2011|p=69}}{{sfn|Watt|1961|p=90}}{{sfn|イブン・イスハーク|2011|p=5}}。これは、各氏族の代表者が一斉にムハンマドを殺すことで、上記の「血の復讐」に基づく報復の責任を分散させ、ハーシム家に報復を行わせないようにするという意図があった{{sfn|鈴木|2007|p=156}}{{sfn|サルチャム|2011|p=131}}。
ムハンマドの暗殺は同年9月に行われることになっていたが、ムハンマドはこの計画を事前に察知した{{sfn|サルチャム|2011|p=131}}{{sfn|イブン・イスハーク|2011|p=6}}{{Refnest|group="注釈"|『預言者ムハンマド伝』では天使[[ガブリエル|ジブリール]]からの忠告があったとされている{{sfn|イブン・イスハーク|2011|p=6}}。}}。[[アーイシャ]]が語ったところによると、ムハンマドはアブー・バクルの家へ行き、ヒジュラを行うことを彼に告げ、アブー・バクルの娘であるアスマとアーイシャが食料を用意した。また、ムハンマドとアブー・バクルは道案内人であるアブドゥッラー・ビン・クライクトを雇い、ラクダを預けたうえで3日後にサウル山で会うことを約束した。その後、ムハンマドは、夜が来たらムハンマドのベッドで寝るよう、のちに第4代正統カリフとなる[[アリー・イブン・アビー・ターリブ]]に指示した{{sfn|サルチャム|2011|pp=133-134}}{{sfn|イブン・イスハーク|2011|p=6}}。深夜、ムハンマドとアブー・バクルは家の裏口から抜け出し、徒歩でマッカを脱出した{{sfn|サルチャム|2011|pp=133-134}}{{sfn|イブン・イスハーク|2011|p=10}}。
==== 洞窟での潜伏 ====
[[ファイル:Mecca 9.jpg|サムネイル|右|ムハンマドとアブー・バクルが身を潜めたサウル山の洞窟の入り口。2008年撮影。]]
マッカを出たムハンマドとアブー・バクルはまずマディーナとは反対側である南側、イエメン行きの道を5 kmほど進み{{sfn|鈴木|2007|p=156}}、サウル山の頂上近くにある洞窟に身を潜めた{{sfn|Watt|1961|p=91}}{{sfn|Muir|1858a|p=255}}。洞窟の入り口は身をかがめなければならないほど低くて小さかったが、洞窟内は広く、高さもあった。彼らが洞窟に身を潜めた後、アブー・バクル家の解放奴隷である{{仮リンク|アーミル・ブン・フハイラ|en|Amir ibn Fuhayra}}が羊を連れて2人の足跡を消したという{{sfn|鈴木|2007|p=156}}{{sfn|イブン・イスハーク|2011|p=10}}。
ベッドにいるのがムハンマドではなくアリーであり、ムハンマドがすでにマッカを脱出したことを知ったクライシュ族はムハンマドの首にラクダ100頭をかけ、捜索隊を出した{{sfn|鈴木|2007|p=157}}{{sfn|イブン・イスハーク|2011|p=10}}。なお、アリーは投獄されたがすぐに釈放された{{sfn|サルチャム|2011|p=134}}。
ムハンマドとアブー・バクルが洞窟に隠れている間、アーミル・ブン・フヘイヤが洞窟の近くに羊を連れてきて、絞った乳を彼らに飲ませたり、アスマが食料を持ってきたりした。また、マッカに残っていたアブー・バクルの息子であるアブドゥッラーは夜になると洞窟を訪れてマッカの様子を報告した。アブドゥッラーがマッカに戻るときは、アーミルが羊を彼の後についていかせて足跡を消した{{sfn|サルチャム|2011|p=134}}{{sfn|イブン・イスハーク|2011|pp=10-11}}。
捜索隊は主にヤスリブへの道でムハンマドを探していたが{{sfn|鈴木|2007|p=157}}、ある一団は残された足跡をたどってサウル山に到達し、2人が隠れている洞窟の入り口までやって来た{{sfn|サルチャム|2011|p=134}}。この時のことをアブー・バクルは以下のように回顧している。
{{cquote|頭を上げると、彼らの足が見えた。「アッラーの使徒よ、彼らが腰をかがめて中をのぞけば私たちは見つかってしまいます」と私が言うと、ムハンマドは「黙りなさい、アブー・バクル。二人の旅人にとって三人目の友はアッラーなのだ。恐れることはない」と答えられた。|4=アブー・バクル{{sfn|サルチャム|2011|pp=134-135}}}}
また、以下に引用するクルアーンの第9章40節の一説はこの洞窟での出来事を指していると信じられている{{sfn|イブン・イスハーク|2011|p=583}}。
{{cquote|たとえ汝らが彼〔ムハンマド〕を助けなくとも、アッラーが彼を助ける。不信仰の者たちが彼を追い出し、もう一人〔アブー・バクル〕とともに二人が洞窟にいたときを思い起こせ。彼はその輩に「悲しむなかれ。アッラーは私たちとともにある」と言った。そして、アッラーは彼にサキーナ(安らぎ)を下し、彼を汝らには見えない軍勢で強化し、不信仰の者たちの言葉を最低のものとし、アッラーの言葉を至高のものとした。アッラーは比類なき強力者・叡智者である。|4=クルアーン[[悔悟 (クルアーン)|第9章]]40節{{sfn|小杉|2002|pp=96-97}}}}
捜索隊は洞窟の前まで来たにもかかわらず中をのぞかずに去った。後世の伝説によると、1匹の蜘蛛が入り口に巣を張り、また1羽の鳩が卵を産んで温めていたため、これらを見た捜索隊は中に誰もいないと判断して通り過ぎたという{{sfn|アンサーリー|2011|p=70}}{{sfn|サルチャム|2011|p=136}}。洞窟に潜伏してから3日目の夜、アブドゥッラーは捜索が終了したとムハンマドらに知らせた{{sfn|Muir|1858a|p=259}}。4日目には約束通り道案内人のアブドゥッラー・ビン・クライクトがラクダをサウル山に連れてきた。アスマが糧食をラクダにくくりつけた{{sfn|鈴木|2007|p=157}}{{sfn|サルチャム|2011|p=136}}。
また、アリーはムハンマドがマッカを脱出した3日後に、ムハンマドの妻子とアブー・バクルの家族とともにマッカを脱出した{{sfn|サルチャム|2011|p=134}}{{sfn|後藤|1980b|p=155}}。
==== ヤスリブへの到着 ====
[[ファイル:Umar Farrukh's Prophet Arrives to Medina.png|サムネイル|右|到着したムハンマドをタンバリンを叩いて迎えるムスリムの絵]]
ムハンマドとアブー・バクルはラクダに乗り、アーミルとアブドゥッラー・ビン・クライクトと共に4人でヤスリブへ出発した{{sfn|Watt|1961|p=91}}{{sfn|イブン・イスハーク|2011|p=17}}。彼らはキャラバンが通るような人通りの多い道や有名なルートを避けて進んだという。サウル山を出発して北西の[[ジェッダ]]方面へ進んだ後、内陸に戻った。マッカ北方のウスファーンを過ぎるとたびたび交易ルートと交わるようになった。ジュフファを過ぎたらクライシュ族の影響力が及ばない地域であったため、その後は本来の交易ルートでヤスリブへ向かったという{{sfn|サルチャム|2011|p=136}}。
9月24日(ヒジュラ暦元年3月12日月曜日)の午後、彼らはヤスリブ郊外のクバーに到着した{{sfn|佐藤|2008|p=66}}{{sfn|医王|2012a|p=199}}{{sfn|イブン・イスハーク|2011|p=17}}。
ムハンマドの到着前、ヤスリブにはムハンマドがマッカを脱出したという情報は入っていたが、ムハンマドが洞窟で3日間潜伏していることは誰も知らなかった。ヤスリブの改宗者やマッカからの移住者たちはマッカへの道を1、2マイルほど進んだところにあるハラートと呼ばれる岩山に陣取り、ムハンマドが到着する10日以上前からそこと家とを往復して彼を待っていたという{{sfn|デルカンブル|2003|p=66}}{{sfn|イブン・イスハーク|2011|p=18}}。ムハンマドが到着した9月24日、彼らは既にハラートから家に戻っていた。しかし、ナツメヤシ畑で働いていた一人のユダヤ人がクバーに向かうムハンマド一行の姿を捉え、家の屋上から「お前たちの幸運がやってきたぞ」と叫んだ{{sfn|Muir|1858b|pp=5-6}}{{sfn|デルカンブル|2003|p=66}}。ムスリムたちは急いでクバーに向かい、ヤスリブに到着したムハンマドを、詩をうたったりタンバリンを打ったりして、喜びを表して迎えたという{{sfn|中田|2001|p=188}}{{sfn|Muir|1858b|p=6}}。
2人から3日遅れでマッカを出発したアリーはムハンマドが到着した2日後にヤスリブに到着した{{sfn|佐藤|2008|p=66}}{{sfn|Muir|1858b|p=8}}。
== 移住後 ==
ヤスリブ郊外のクバーに到着したムハンマドはそこで数日を過ごし、イスラーム史上初のモスクである[[クバー・モスク]]を作った{{sfn|鈴木|2007|p=159}}{{sfn|小杉|2002|p=98}}。その後、ヤスリブの中心部に移ったムハンマドは孤児の土地を買い、そこに住居を建設した。この住居は後に[[預言者のモスク]]として利用されるようになった{{sfn|佐藤|2008|p=67}}。
ヤスリブではムハンマドへの異論を唱える者がいたが、大多数のものは彼を調停者とするのに賛成した。イスラームを受け入れた住民は必ずしも多くなかったが、ムハンマドは住民みながアッラーの信者になったと見なした{{sfn|蔀|2018|p=215}}{{sfn|後藤|2017|p=87}}。また、ヤスリブはアラビア語で「預言者の町」を意味する「マディーナ・アル=ナビー」、略して「町」を意味する「マディーナ」と呼ばれるようになった{{sfn|中田|2001|p=188}}{{sfn|アームストロング|2017|p=18}}。
== ヒジュラの宗教的意義 ==
ヒジュラの結果、マディーナにはイスラーム共同体である[[ウンマ (イスラム)|ウンマ]]が成立し、イスラーム社会、国家の原型となった{{sfn|アームストロング|2017|p=18}}{{sfn|蔀|2018|p=215}}。また、マディーナを拠点としてマッカと対抗し、後の大征服を可能とした{{sfn|佐藤|2008|p=66}}。このためイスラームの思想や歴史ではこのヒジュラの重要性が強調されるようになった{{sfn|蔀|2018|p=215}}。
2代目正統カリフであるウマルが638年に暦を定めた際には、ムハンマドの誕生日でも啓示が下った日でもなくこのヒジュラを起点とし{{sfn|中田|2001|p=188}}、ヒジュラが行われた年のアラビア暦1月1日である西暦622年7月16日を[[ヒジュラ暦]]の元年元日とした{{sfn|小杉|1994|p=37}}{{sfn|佐藤|2008|p=66}}{{sfn|蔀|2018|p=215}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|20em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
=== 日本語文献 ===
* {{Cite book|和書|author=カレン・アームストロング|translator=小林朋則|title=イスラームの歴史|series=[[中公新書]]|publisher=[[中央公論新社]]|year=2017|isbn=978-4-12-102453-4|ref={{SfnRef|アームストロング|2017}}}}
* {{Cite book|和書|author=タミム・アンサーリー|translator=小沢千重子|title=イスラームから見た「世界史」|publisher=[[紀伊国屋書店]]|year=2011|isbn=978-4-314-01086-3|ref={{SfnRef|アンサーリー|2011}}}}
* {{Cite book|和書|author=医王秀行|title=預言者ムハンマドとアラブ社会―信仰・暦・巡礼・交易・税からイスラム化の時代を読み解く|publisher=[[福村出版]]|year=2012|isbn= 978-4-571-31020-1|ref={{SfnRef|医王|2012a}}}}
* {{Cite book|和書|author=イブン・イスハーク|authorlink=イブン・イスハーク|editor=イブン・ヒシャーム編注|editor-link=イブン・ヒシャーム|translator=後藤明ほか|title=預言者ムハンマド伝|volume=1|series=イスラーム原典叢書|publisher=[[岩波書店]]|year=2010|isbn=978-4-00-028411-0|ref={{SfnRef|イブン・イスハーク|2010}}}}
* {{Cite book|和書|author=イブン・イスハーク|editor=イブン・ヒシャーム編注|translator=後藤明ほか|title=預言者ムハンマド伝|volume=2|series=イスラーム原典叢書|publisher=岩波書店|year=2011|isbn=978-4-00-028412-7|ref={{SfnRef|イブン・イスハーク|2011}}}}
* {{Cite book|和書|author=イブン・イスハーク|editor=イブン・ヒシャーム編注|translator=後藤明ほか|title=預言者ムハンマド伝|volume=4|series=イスラーム原典叢書|publisher=岩波書店|year=2012|isbn=978-4-00-028414-1}}
** {{Cite book|和書|author=医王秀行|chapter=『預言者ムハンマド伝』解題|ref={{SfnRef|医王|2012b}}}}
* {{Cite book|和書|author=ビルジル・ゲオルギウ|title=マホメットの生涯|publisher=[[河出書房新社]]|year=2002|isbn=4-30922391-5|ref={{SfnRef|ゲオルギウ|2002}}}}
* {{Cite journal|和書|author=後藤晃 |title=ヒジュラ前後のメディナの政情 |journal=オリエント |publisher=日本オリエント学会 |year=1980 |volume=23 |issue=2 |pages=59-77 |naid=130000822685 |doi=10.5356/jorient.23.2_59 |url=https://doi.org/10.5356/jorient.23.2_59 |ISSN=0030-5219 |ref={{SfnRef|後藤|1980a}}}}
* {{Cite book|和書|author=後藤晃|title=ムハンマドとアラブ|publisher=[[東京新聞出版局]]|year=1980|isbn=4-8083-0044-3|ref={{SfnRef|後藤|1980b}}}}
* {{Cite book|和書|author=後藤明|title=イスラーム世界史|series=[[角川ソフィア文庫]]|publisher=[[KADOKAWA]]|year=2017|isbn=978-4-04-400264-0|ref={{SfnRef|後藤|2017}}}}
* {{Cite book|和書|author=小杉泰|authorlink=小杉泰|title=イスラームとは何か|series=[[講談社現代新書]]|publisher=[[講談社]]|year=1994|isbn=4-06-149210-1|ref={{SfnRef|小杉|1994}}}}
* {{Cite book|和書|author=小杉泰|title=ムハンマド|series=ヒストリア|publisher=[[山川出版社]]|year=2002|isbn=4-634-49010-2|ref={{SfnRef|小杉|2002}}}}
* {{Cite book|和書|author=小杉泰|title=イスラーム帝国のジハード|series=[[興亡の世界史]]|publisher=講談社|year=2006|isbn=4-06-280706-8|ref={{SfnRef|小杉|2006}}}}
* {{Cite book|和書|author=佐藤次高|authorlink=佐藤次高|author2=鈴木董|title=都市の文明イスラーム|series=講談社現代新書|publisher=講談社|year=1993|isbn=4-06-149162-8|ref={{SfnRef|佐藤|鈴木|1993}}}}
* {{Cite book|和書|author=佐藤次高|title=イスラーム世界の興隆|series=中公文庫|publisher=中央公論新社|year=2008|isbn=978-4-12-205079-2|ref={{SfnRef|佐藤|2008}}}}
* {{Cite book|和書|translator=サイード佐藤|title=聖クルアーン:日亜対訳注解|publisher=ファハド国王マディーナ・クルアーン印刷コンプレックス|year=2019|isbn=9786038187579|ref={{SfnRef|佐藤|2019}}}}
* {{Cite book|和書|author=イブラーヒム・サルチャム|title=聖ムハンマドその普遍的教え|volume=1|publisher=[[東京ジャーミイ|東京・トルコ・ディヤーナト・ジャーミイ]]|year=2011|isbn=978-4-9905876-0-4|ref={{SfnRef|サルチャム|2011}}}}
* {{Cite book|和書|author=蔀勇造|authorlink=蔀勇造|title=物語 アラビアの歴史|series=中公新書|publisher=中央公論新社|year=2018|isbn=978-4-12-102496-1|ref={{SfnRef|蔀|2018}}}}
* {{Cite book|和書|author=嶋田襄平|title=イスラムの国家と社会|series=世界歴史叢書|publisher=[[岩波書店]]|year=1977|isbn=4-00-004551-2|ref={{SfnRef|嶋田|1977}}}}
* {{Cite book|和書|author=鈴木紘司|title=預言者ムハンマド|series=[[PHP新書]]|publisher=[[PHP研究所]]|year=2007|isbn=978-4569693644|ref={{SfnRef|鈴木|2007}}}}
* {{Cite book|和書|author=中田考|authorlink=中田考|title=イスラームのロジック|series=[[講談社選書メチエ]]|publisher=講談社|year=2001|isbn=4-06-258229-5|ref={{SfnRef|中田|2001}}}}
* {{Cite book|和書|author=中村廣治郎|authorlink=中村廣治郎|title=イスラム教入門|series=[[岩波新書]]|publisher=岩波書店|year=1998|isbn=4-00-430538-1|ref={{SfnRef|中村|1998}}}}
* {{Cite book|和書|editor=日本イスラム協会|title=イスラム事典|publisher=[[平凡社]]|year=1982|isbn=4-58-212601-4|ref={{SfnRef|日本イスラム協会|1982}}}}
* {{Cite book|和書|author=アンヌ=マリ・デルカンブル|title=ムハンマドの生涯|series=知の再発見双書|publisher=[[創文社]]|year=2003|isbn=978-4422211701|ref={{SfnRef|デルカンブル|2003}}}}
=== 英語文献 ===
* {{Cite book|author=William Muir|title=The Life of Mahomet and History of Islam to the Era of the Hegira|volume=2|publisher=[[オックスフォード大学|Oxford University]]|year=1858|ncid=BA5964399X|ref={{SfnRef|Muir|1858a}}}}
* {{Cite book|author=William Muir|title=The Life of Mahomet and History of Islam to the Era of the Hegira|volume=3|publisher=Oxford University|year=1858|ncid=BA59644063|ref={{SfnRef|Muir|1858b}}}}
* {{Cite book|author=William Montgomery Watt|title=Muhammad: Prophet and Statesman|publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]|year=1961|isbn=978-0-19-881078-0|ref={{SfnRef|Watt|1961}}}}
== 関連項目 ==
* [[ヒジュラ暦]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
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[[Category:ムハンマド]]
[[Category:イスラム世界史]]
[[Category:アラビア語の語句]]
[[Category:イスラーム用語]] | 2003-03-11T09:59:24Z | 2023-10-18T08:30:04Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A9 |
3,801 | Sendmail | Sendmail(センドメール) は、UNIXで古くから使われてきたメールサーバソフトウェアである。
Sendmailプログラム本体は、パターンマッチルールによって動作するオートマトンと、MTA動作を支援するユーティリティである。 MTAとしての動作そのものは、sendmail.cfに記述された複雑で莫大な量のパターンマッチルールによって実現している。
1980年代から1990年代にかけて、数多くの企業や研究機関により、様々な電子メールプロトコルと、それらを実装した独自仕様の電子メールシステムが乱立していた。Sendmail は、それらの乱立する各種プロトコルを相互変換し、橋渡しする目的で登場した。
電子メールプロトコルよりも底層に位置する通信プロトコルには、近年インターネットの普及により一般的になったTCP/IPだけでなく、パソコン通信が主流であった時代のUUCPなど、様々なものに対応している。しかし、その柔軟性の代償としてセキュリティホールが多く見つかっている。
2013年10月、米プルーフポイント社(英語: Proofpoint,_Inc.)によるSendmail社(英語: Sendmail,_Inc.)の買収により、その開発やサポートもプルーフポイントに移管された。 | [
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] | Sendmail(センドメール) は、UNIXで古くから使われてきたメールサーバソフトウェアである。 Sendmailプログラム本体は、パターンマッチルールによって動作するオートマトンと、MTA動作を支援するユーティリティである。
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'''Sendmail'''(センドメール) は、[[UNIX]]で古くから使われてきた[[メールサーバ]][[アプリケーションソフトウェア|ソフトウェア]]である。
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== 歴史 ==
[[1980年代]]から[[1990年代]]にかけて、数多くの[[企業]]や[[研究機関]]により、様々な電子メールプロトコルと、それらを[[実装]]した独自仕様の電子メールシステムが乱立していた。Sendmail は、それらの乱立する各種プロトコルを相互変換し、橋渡しする目的で登場した。
電子メールプロトコルよりも底層に位置する通信プロトコルには、近年[[インターネット]]の普及により一般的になった[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]だけでなく、[[パソコン通信]]が主流であった時代の[[Unix to Unix Copy Protocol|UUCP]]など、様々なものに対応している。しかし、その柔軟性の代償として[[セキュリティホール]]が多く見つかっている。
2013年10月、米{{日本語版にない記事リンク|プルーフポイント社|en|Proofpoint,_Inc.}}による{{日本語版にない記事リンク|Sendmail社|en|Sendmail,_Inc.}}の買収により、その開発やサポートもプルーフポイントに移管された<ref>{{Cite web|和書|title=米Proofpoint、米Sendmailを約2300万ドルで買収~オープンソース版は継続|url=https://cloud.watch.impress.co.jp/docs/news/618004.html|website=クラウド Watch|date=2013-10-03|accessdate=2019-03-22|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref>。
== 特徴 ==
; 設定ファイルの複雑性
:* 設定ファイルが非常に複雑であるため、通常はまず mc ファイルという [[M4_(プログラミング言語)|M4]] [[マクロ言語]]で記述してから、実際のファイル(cf)を生成する。
:* 設定ファイルの複雑さとセキュリティホールのできやすさを改善するために、いくつか代替のメールサーバも開発されている。
; 商用版 Sendmail
:* Sendmail には[[オープンソース]]版と[[商用ソフトウェア|商用]]版があり、商用版ではIMAP/POPサーバを構築することのできる Sendmail Advanced Server という製品がある。
:* 商用版では設定方法に[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]を利用でき、GUI上から設定内容を反映することができる。
:* 柔軟性と引き換えに設定方法の複雑さが増しているため、商用サポートや商用版により複雑さを取り除くオプションが用意されているとも言える。
:* 商用版では、メールの送信速度も改善されている。
; 次世代 Sendmail
:* まったく新たに構造を作り直した次世代の Sendmail として Sendmail X が開発される。その後 MeTA1 と改名された<ref>http://www.sendmail.org/sm-X/</ref>。
; Milter API のサポート
:* Sendmail では [[電子メールフィルタリング|Milter]] API をサポートしているため、Milter API で作成された[[プラグイン]]を容易に利用することができる。
:* 有名なOpenSource Milterとしては[[SpamAssassin]]があり、商用Red Hat系の製品では標準的に用意されている。
:* スパム対策、[[コンピュータウイルス|ウイルス]]対策、[[企業コンプライアンス|コンプライアンス]]対策、メール[[アーカイブ (コンピュータ)|アーカイブ]]など、Milter によって実現可能な領域が広がっている。
:* 商用の製品としては Mailstream Manager という製品を導入することで商用の Milter プラグインを利用できる。
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
{{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}}
* [[Courier-MTA]]
* [[Postfix]]
* [[qmail]]
* [[XMail]]
* [[エリック・オールマン]]
== 外部リンク ==
* [http://www.sendmail.org/ Sendmail.org]
{{Normdaten}}
[[Category:メール転送エージェント]]
[[Category:オープンソースソフトウェア]] | 2003-03-11T10:13:27Z | 2023-09-30T06:51:48Z | false | false | false | [
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"Template:日本語版にない記事リンク",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Sendmail |
3,802 | 文庫 | 文庫(ぶんこ)とは、文書、図書を収蔵する書庫のことで、まとまった蔵書、コレクションのことをいう。さらに、それを所蔵・公開する図書館や、まとまった形態によって出版される叢書のこともいう。
この語は、書庫を意味する和語の「ふみくら」に対し、漢字のふみ(文)、くら(庫)の二字をあてた「文庫(ふみくら)」に由来する和製漢語である。書庫としての意味から転じ、後にはある邸宅や施設の中の書庫に収められた書籍のコレクションそのものおよびコレクションを収める施設を指す語として用いられるようになった。
中世では金沢北条氏の金沢文庫、足利学校の足利文庫などが有名な例である。近世には徳川将軍家の紅葉山文庫が名高く、その他、各藩の大名や藩校のもとには優れた文庫が存在した。
国立国会図書館の源流である書籍館、国立公文書館に統合された総理府の内閣文庫などは、近世の文庫から引き継がれた蔵書を基礎としている。近代以降では、有力者の私的なコレクションから出発した南葵文庫、静嘉堂文庫、東洋文庫などが文庫の名を冠しつつ、近代的な図書館として誕生した。
また、近代図書館活動の中では、「自動車文庫」、「学級文庫」、「子ども文庫」などというように、ある集団に対して開かれた蔵書群の比較的小規模なものを文庫ということがあり、特に図書館の外で有志が図書を収集し提供する小規模な図書館的な活動を「文庫活動」と呼ぶ。
なお、「金沢文庫」は、横浜市金沢区にある施設名から転じて周辺の地名となったが、さらに単に「文庫」と略して、金沢文庫駅やその周辺の地域を指すことがある。
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'''文庫'''(ぶんこ)とは、[[文書]]、[[本|図書]]を収蔵する[[書庫]]のことで、まとまった蔵書、[[コレクション]]のことをいう。さらに、それを所蔵・公開する[[図書館]]や、まとまった形態によって[[出版]]される[[叢書]]のこともいう。
==概説==
この語は、書庫を意味する[[和語]]の「ふみくら」に対し、[[漢字]]のふみ(文)、くら(庫)の二字をあてた「文庫(ふみくら)」に由来する[[和製漢語]]である。書庫としての意味から転じ、後にはある邸宅や施設の中の書庫に収められた[[本|書籍]]のコレクションそのものおよびコレクションを収める施設を指す語として用いられるようになった。
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また、近代図書館活動の中では、「自動車文庫」、「[[学級文庫]]」、「子ども文庫」などというように、ある集団に対して開かれた蔵書群の比較的小規模なものを文庫ということがあり、特に図書館の外で有志が図書を収集し提供する小規模な図書館的な活動を「[[文庫活動]]」と呼ぶ。
なお、「金沢文庫」は、[[横浜市]][[金沢区]]にある施設名から転じて周辺の地名となったが、さらに単に「文庫」と略して、[[金沢文庫駅]]やその周辺の地域を指すことがある。
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==関連項目==
*[[文庫本]]
*[[アーカイブ]]
*[[文書館]]
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[[Category:図書館の歴史]]
[[Category:日本の図書館の歴史]] | null | 2018-02-26T03:40:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%BA%AB |
3,803 | タケノコ | タケノコ(竹の子、筍、英名: bamboo shoot)は、春になるとイネ科タケ亜科タケ類(一部はダイミョウチクやチシマザサなどのササ類を含む)の地下茎から出る若芽の部分である。日本や中国などの温帯から亜熱帯に産するものは食材として利用されている。広義には、竹の皮(稈鞘)が稈に付着していて離脱するまでのものであれば地上に現れてから時間が経過して大きく伸びていてもタケノコといえるが、一般には食用とする地上に稈が出現する前後のものだけを指す。夏の季語。
タケには温帯性タケ類(単軸型)、亜熱帯性タケ類(準連軸型)、熱帯性タケ類(連軸型)がある。タケノコがそのまま生長すると、稈梢(竹の皮)が脱落してタケになる。ただし、生長しても稈梢が落ちずに長く稈を包んでいる種類はササになる。
春先、地面から芽が出かけているものをタケノコとして食用にし、旬は4 - 5月とされる。一般に食用にするのは地上に稈が出現する前後のものである。タケノコは地上に現れると次第に固くなり、えぐみも強くなるため、穂先が出るか出ないうちに収穫する。ただし、先述のように広義には竹の皮(稈鞘)が稈に付着していて離脱するまでのものはタケノコであり、特にタケが大きく伸びた後でも先端部のみが竹の皮に覆われている場合にはその先端部のみを「穂先タケノコ」と称して食用とする種もある。収穫されたタケノコは、先端、中央部、根元部分でそれぞれ食感に違いがある。
形はずんぐりして穂先が黄色っぽく、外皮はツヤがあり薄茶色のもので、根元の周囲に出た赤紫色の突起が小さめのが良く、この突起が大きくて濃い紫色になっていると食材としては育ちすぎの場合がある。タケノコは掘り上げてからの鮮度落ちが極端に早く、時間が経つとかたくなると同時に灰汁が増えてえぐみが増すため、掘って収穫したその日のうちに調理するか灰汁抜きして下ごしらえするのが理想といわれている。そのため、おいしくタケノコを食べるためには鮮度が重要であり、すぐに食べない場合は生のままではなく、下茹でしてから保存する。下茹では収穫後できるだけ早く茹でて皮を剥いて、さらに10分ほど茹でたら水にとって冷ましておく。茹でたタケノコは容器に水を張って入れておき、毎日水代えして冷蔵保存すれば、5 - 6日ほど日持ちする。茹でたタケノコを皮付きのままラップなどに包んで冷蔵しても、1週間ほど保存できる。
タケノコの加工品としては、水煮の缶詰がある。タケノコの水煮は、春の旬の時期以外でも通年市販されており、南九州で多く出回っている細いタイプはコサンチク(鼓山竹:ホテイチクの別称)、関東などで多く出回っている大きいものはモウソウチク(孟宗竹)などの種類がある。水煮の断面に見られる白い粉状のものは、茹でることによって出てくるチロシンというアミノ酸物質で、取り除かずにそのまま食べられる。
タケ類の種類の数は多いが、タケノコとして食用にされるのは数種である。タケ類ではモウソウチク(孟宗竹)、ハチク(淡竹)、マダケ(真竹)、カンチク(寒竹)など、ササ類ではカンザンチク(寒山竹)、ネマガリダケ(根曲がり竹)などである。中でもよく食べられるモウソウチクが最も馴染みがある。ふつうタケノコといえば、モウソウチクのタケノコを指す場合が多い。
モウソウチクの場合、土から顔を出す前に掘るのが望ましい(地面が盛り上がっているのを見分けて掘る)とされる。マダケやネマガリタケのように、30センチメートル (cm) 程度に生長した地上部を折り取って収穫できる種類もある。その他の種類を含めた外見や旬は以下のような違いがある。
日本では古来、竹林がある各地域で食用とされてきた。現代の日本では、収穫作業が「竹の子掘り」として、季節の観光行事としても親しまれている。日本の竹林面積20万ヘクタール (ha) のうち、約7割がマダケ林、約2割がモウソウチク林、残り約1割がその他の竹種となっている。モウソウチクのタケノコ産地で知られる京都地方では、寛政年間(1789 - 1801年)に盛んに増殖され、明治時代に入ってからも販路の拡張によって栽培の有用性が認められ、京都盆地の西部から北部の丘陵地帯にさらに増殖された。
高級品の産地としては、乙訓(現在の京都府向日市・長岡京市・大山崎町・京都市南西部の一部)が有名で、約500 haある畑地のうち約5割がタケノコ畑となっている。乙訓産は竹林をふかふかの土壌に改善して、日当たりも調整するなどのタケノコ栽培技術で、柔らかくえぐみを抑えて、香りが良くなるようタケノコを育てている。大阪市の高級料亭では、大阪府貝塚市木積(こつみ)地区産も珍重されている。 高級品としては、合馬たけのこ(福岡県北九州市)も有名である。また石川県金沢市産たけのこは、加賀野菜の一つに選定されている。
いずれも生鮮野菜であるタケノコの栽培技術は都市近郊で発達し、都市部から離れた地域では物流手段の未発達もあり、竹林利用は竹材が優先されてタケノコとしての利用は従となっていたところも多い。第二次世界大戦後は、食生活の変化により缶詰としての需要が盛んになる一方で、交通網の整備もあってタケノコを青果として出荷する努力もされて、栽培技術も集約化されてきている。
日本で水煮として缶詰やレトルトパックで流通しているタケノコは、その多くが中華人民共和国からの輸入品となっており、早春から日本産と市場を競合している。中国では秋にも出荷される。冬を控えて行われる竹園の整備で伐採された地下茎から、タケノコが収穫されている。小さく堅いことから、加工食品用にされる。
栽培の適地は、タケノコは過湿に非常に弱いため緩傾斜地で水はけが良いところが有利で、土壌面は礫質が少ない粘質土で乾燥しすぎず腐植の少ない土壌が適している。通常は、当年生の若い竹を母竹として移植する無性的な繁殖が行われており、種子繁殖は行われていない。新規開園する場合には、10アール (a) あたり30 - 50株の母竹を、長さ40 - 60 cmの地下茎をつけて植えられている。植栽適期は10月ごろで、その地方の初霜のころまでに植え付けるのがよいとされる。順調にいけば翌年春からタケノコが出現し、6月以降から芽子が伸長し始め、地下茎として機能するようになる。出盛り期(4月下旬ごろ)までに母竹として残しておくタケノコを決めておくことが大切で、タケノコを生む地下茎は3 - 5年生であるため、母竹も若い地下茎から出たものを残す必要がある。
タケノコの収量と品質を左右する要因は、充実した太い地下茎をよく伸長させ、芽子の多くがタケノコに伸長肥大するように肥料管理に努めることにある。施肥時期は、夏肥(7 - 8月)・礼肥(5月下旬 - 6月上旬)・冬肥(晩秋 - 初冬)の3つがそれぞれ大切で、京都地方でもこの3つの時期に施肥が行われている事例が多く、特に夏肥に重点を置いて施肥が行われているところが多い。芽子が伸長肥大し始める夏に肥料が不足すると、翌春に出るタケノコの本数が少なくなり、1本あたりの重さも少なく肥大不充分で品質的に劣るものが多くなる。礼肥は、タケノコを掘り採ったあとに行うもので、タケノコを産出し消耗した母竹の栄養を回復させて新葉の光合成活動を促す時期であり、年間施肥量の50%程度を施している事例も多い。冬肥は、早春の地温上昇に伴ってタケノコが伸長肥大する時期に備えて行うもので、京都地方では11月から1月にかけて行われる敷きわら、客土作業の前に冬肥を施して、タケノコが出る早春の肥料必要期に備えている。
タケノコと降雨との密接な関係は古くから知られており、京都府農業試験場の調査によれば、夏期と12月の降雨量が少ないと翌年春のタケノコの発生が非常に悪くなり、雨量のわずかな差も収量に影響を及ぼすことがわかっている。徳島県農業試験場による調査では、春先(2 - 4月)の土壌水分量の多少がタケノコの発生時期、品質に大きな影響を与えることから、この時期に灌水をすることでタケノコの早出しが可能になることを明らかにしている。
掘りたての鮮度が良いものは灰汁が少なく、皮付きのまま焼きタケノコにしておいしく食べられる。通常は茹でてから食べられる。部位によって繊維の状態が異なるので料理によって使い分けられ、先端のやわらかい姫皮部分は和え物・椀種・酢の物に、穂先は竹の子ご飯や椀種・煮物・和え物に、中心部分は煮物・焼き物に、根元の歯ごたえがある部分は竹の子ご飯・煮物・炒め物・揚げ物に向いている。
タケノコのアクは、シュウ酸やホモゲンチジン酸とその配糖体などが主成分とされ、コメのとぎ汁や重曹などのアルカリ性の水で除くことができる。ただし、タケノコはアミノ酸の一種チロシンを非常に多く含み(100g中690mg:日本食品成分表)、これが酵素によって次第に変化しホモゲンチジン酸になるため、加熱して酵素を失活させるアク止めが必要となる。青酸配糖体も含まれているが、薄く切った場合で8 - 10分以上煮込むと安全になる。
日本料理の煮物として調理する際には、米糠と、輪切り唐辛子などと一緒に茹でると効果的にアク抜きできるが、米糠がないときは米のとぎ汁が使われる。タケノコは皮付きのまま穂先を斜めに切り落として、さらに皮の部分に縦に切れ目を入れておき、深鍋に米糠などを一緒に被るほどの水に入れて、吹きこぼれないように水を足して様子を見ながら弱火で40分から1時間ほどかけてゆっくりと茹でる。タケノコに串が通るほどやわらかくなったら火を止めて、湯に浸けたまま完全に冷ましたあと、米糠を洗い流して皮を剥いてから料理に使われる。
また、料理人の野崎洋光が考案した方法として、皮ごとおろした大根と同量の水に1%の塩を加え、皮を剥いたタケノコをひたひたに漬かるぐらいにして1時間ほど浸すやり方があり、大学での検証の結果、大根おろしにはタケノコのえぐみ成分であるホモゲンチジン酸を減少させることがわかった。
中華料理では、湯でアク抜きする代わりに、高温の油で揚げて処理することも行われる。
栄養成分は、ビタミン類が少なく、タンパク質に富む。カリウムと食物繊維の含有量は多いのが特徴で、ビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンC、ビタミンEなどを含む。タケノコに含まれる食物繊維は水に溶けない不溶性食物繊維・セルロースで、コマツナやキャベツと同じ程度であるとされる。タケノコの豊富な食物繊維は、腸内の老廃物や有害物質を排出したり、同時にコレステロールの吸収を阻害する健康に役立つ効果が期待されている。タケノコに含まれるカリウムは、高血圧の原因となるナトリウムを体外に排出して血圧を下げる働きがあるといわれる成分で、タケノコを茹でても量はあまり減少しないのが特徴である。亜鉛、銅などのミネラル分も比較的多く含んでいる。 | [
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"text": "タケノコのアクは、シュウ酸やホモゲンチジン酸とその配糖体などが主成分とされ、コメのとぎ汁や重曹などのアルカリ性の水で除くことができる。ただし、タケノコはアミノ酸の一種チロシンを非常に多く含み(100g中690mg:日本食品成分表)、これが酵素によって次第に変化しホモゲンチジン酸になるため、加熱して酵素を失活させるアク止めが必要となる。青酸配糖体も含まれているが、薄く切った場合で8 - 10分以上煮込むと安全になる。",
"title": "食材としてのタケノコ"
},
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "日本料理の煮物として調理する際には、米糠と、輪切り唐辛子などと一緒に茹でると効果的にアク抜きできるが、米糠がないときは米のとぎ汁が使われる。タケノコは皮付きのまま穂先を斜めに切り落として、さらに皮の部分に縦に切れ目を入れておき、深鍋に米糠などを一緒に被るほどの水に入れて、吹きこぼれないように水を足して様子を見ながら弱火で40分から1時間ほどかけてゆっくりと茹でる。タケノコに串が通るほどやわらかくなったら火を止めて、湯に浸けたまま完全に冷ましたあと、米糠を洗い流して皮を剥いてから料理に使われる。",
"title": "食材としてのタケノコ"
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"text": "また、料理人の野崎洋光が考案した方法として、皮ごとおろした大根と同量の水に1%の塩を加え、皮を剥いたタケノコをひたひたに漬かるぐらいにして1時間ほど浸すやり方があり、大学での検証の結果、大根おろしにはタケノコのえぐみ成分であるホモゲンチジン酸を減少させることがわかった。",
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"text": "中華料理では、湯でアク抜きする代わりに、高温の油で揚げて処理することも行われる。",
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"text": "栄養成分は、ビタミン類が少なく、タンパク質に富む。カリウムと食物繊維の含有量は多いのが特徴で、ビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンC、ビタミンEなどを含む。タケノコに含まれる食物繊維は水に溶けない不溶性食物繊維・セルロースで、コマツナやキャベツと同じ程度であるとされる。タケノコの豊富な食物繊維は、腸内の老廃物や有害物質を排出したり、同時にコレステロールの吸収を阻害する健康に役立つ効果が期待されている。タケノコに含まれるカリウムは、高血圧の原因となるナトリウムを体外に排出して血圧を下げる働きがあるといわれる成分で、タケノコを茹でても量はあまり減少しないのが特徴である。亜鉛、銅などのミネラル分も比較的多く含んでいる。",
"title": "食材としてのタケノコ"
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] | タケノコは、春になるとイネ科タケ亜科タケ類(一部はダイミョウチクやチシマザサなどのササ類を含む)の地下茎から出る若芽の部分である。日本や中国などの温帯から亜熱帯に産するものは食材として利用されている。広義には、竹の皮(稈鞘)が稈に付着していて離脱するまでのものであれば地上に現れてから時間が経過して大きく伸びていてもタケノコといえるが、一般には食用とする地上に稈が出現する前後のものだけを指す。夏の季語。 | {{redirect|たけのこ|小説家|たけのこ (小説家)}}
[[File:Bamboo sprout2.JPG|thumb|タケノコ]]
'''タケノコ'''(竹の子{{sfn|講談社編|2013|p=34}}、筍{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=28}}、[[英名]]: bamboo shoot{{sfn|主婦の友社編|2011|p=173}})は、春になると[[イネ科]][[タケ亜科]][[竹|タケ]]類(一部はダイミョウチクや[[チシマザサ]]などのササ類を含む<ref name="uchimura123" />)の[[地下茎]]から出る若[[芽]]の部分である{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=28}}。[[日本]]や[[中国]]などの温帯から亜熱帯に産するものは食材として利用されている。広義には、竹の皮(稈鞘)が稈に付着していて離脱するまでのものであれば地上に現れてから時間が経過して大きく伸びていてもタケノコといえるが<ref name="uchimura122" />、一般には食用とする地上に稈が出現する前後のものだけを指す<ref name="uchimura122">{{Cite book |和書 |author=内村悦三 |year=2012 |title=竹資源の植物誌 |page=122 |publisher=創森社}}</ref>。夏の[[季語]]<ref name=koujien>広辞苑第5版</ref><ref name="saijiki">『俳句歳時記 第4版』、 [[角川学芸出版]]、2008年、ISBN 978-4-04-621167-5</ref>。
== タケノコの成長 ==
[[File:Bamboo shoot outdoor.jpg|thumb|地面から顔を出したタケノコ]]
[[ファイル:BambooShoot.JPG|thumb|竹と共に群生している様子]]
タケには温帯性タケ類(単軸型)、亜熱帯性タケ類(準連軸型)、熱帯性タケ類(連軸型)がある<ref>{{Cite book |和書 |author=内村悦三 |year=2012 |title=竹資源の植物誌 |page=68 |publisher=創森社}}</ref>。タケノコがそのまま生長すると、稈梢(竹の皮)が脱落してタケになる{{sfn|農文協編|2004|p=204}}。ただし、生長しても稈梢が落ちずに長く稈を包んでいる種類はササになる{{sfn|農文協編|2004|p=204}}。
; 温帯性タケ類(単軸型)
: 温帯性タケ類には[[地下茎]]があり、地表面から40センチメートル前後の深さに横方向に這いながら成長する特性を持つ<ref name="uchimura69">{{Cite book |和書 |author=内村悦三 |year=2012 |title=竹資源の植物誌 |page=69 |publisher=創森社}}</ref>。毎年、初夏から秋にかけて地下茎の主軸もしくは側軸を数メートルずつ伸ばして、各節には芽子が分化、着生する{{sfn|農文協編|2004|p=206}}。通常2年生以降の地下茎の芽子が夏ごろから伸長肥大し始め、そのおよそ20%程度がタケノコとなる<ref name="uchimura69" />。モウソウチクの場合、伸長肥大し始めた芽子は年内中に生育し続けるが、冬に地温5度以下で生育を停止し、早春に再び地温5度を超えるようになると伸長肥大し始め、地温10度に近づくと地表に顔を出すようになる{{sfn|農文協編|2004|p=206}}。
: タケノコの成長の速さは次第に増し、地表に顔を出す頃は1日当たり数センチメートル程度だったものが、10日目頃には数十センチメートルから、時には1メートルを超える。[[ツル性]]を除く[[被子植物]]のうち、最も成長が速いとされる。タケノコにうっかり帽子を掛けたまま1日経つと(手が届かない高さまで持ち上げられて)取ることができなくなる場合があるとも言われる<ref name="zatsugakuomoshirojiten_p69"> 管野浩編 『雑学おもしろ事典』 p.69 日東書院 1991年</ref>。この様に昼夜を問わず伸びるのがとても速いことから、一種の[[民間語源]]として、漢字の「筍」は10日間を意味する「[[旬 (単位)|旬]]」から来ている、などと言われることもある。ただ、2 - 3カ月程度でその成長は止まる<ref name="zatsugakuomoshirojiten_p69"/>。長さ数十センチまで成長を続けたタケノコには養分不足のため成長を終える「止まりタケノコ」と呼ばれる現象があり、全体の30%から70%にこのような現象がみられる<ref name="uchimura69" />。
: また、固いタケノコの皮(稈鞘)は柔らかい本体(稈)を保護するだけでなく、節の成長を助ける役割を持っている。このため若竹の皮を取ると、その節の成長は止まってしまう。成長を続けたタケノコはやがて皮を落とすが、以後、高さや太さはそれ以上変化せず硬化が進み、成竹となって10年ほど生きる。
; 熱帯性タケ類(連軸型)・亜熱帯性タケ類(準連軸型)
: 熱帯性タケ類や亜熱帯性タケ類は温帯性タケ類とは異なる成長の特性を有する。温帯性タケ類とは異なり稈は直立して90日から100日かけて成長すると一度に数個を発芽させ、そのうち2個が成長を続ける<ref name="uchimura77">{{Cite book |和書 |author=内村悦三 |year=2012 |title=竹資源の植物誌 |page=77 |publisher=創森社}}</ref>。温帯性タケ類のように地中を地下茎が横走することはなく直ちにタケノコとして地上に伸びていく<ref name="uchimura77" />。
: 熱帯雨林のように一年中継続して降雨がある地域では1個のタケノコは90日前後で成長を完了し、さらに次の芽が発芽してゆくサイクルとなっており、多くて年に3回から4回の発筍期がある場合もある<ref name="uchimura77" />。
== 食材としてのタケノコ ==
[[File:Gathering Bamboo Shoots, by Suzuki Harunobu, 1765.jpg|thumb|[[鈴木春信]], 1765]]
春先、地面から芽が出かけているものをタケノコとして食用にし、[[旬]]は4 - 5月とされる{{sfn|主婦の友社編|2011|p=172}}。一般に食用にするのは地上に稈が出現する前後のものである<ref name="uchimura122"/>。タケノコは地上に現れると次第に固くなり、えぐみも強くなるため、穂先が出るか出ないうちに収穫する{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=28}}。ただし、先述のように広義には竹の皮(稈鞘)が稈に付着していて離脱するまでのものはタケノコであり、特にタケが大きく伸びた後でも先端部のみが竹の皮に覆われている場合にはその先端部のみを「穂先タケノコ」と称して食用とする種もある<ref name="uchimura122"/>。収穫されたタケノコは、先端、中央部、根元部分でそれぞれ食感に違いがある{{sfn|主婦の友社編|2011|p=173}}。
形はずんぐりして穂先が黄色っぽく、外皮はツヤがあり薄茶色のもので、根元の周囲に出た赤紫色の突起が小さめのが良く、この突起が大きくて濃い紫色になっていると食材としては育ちすぎの場合がある{{sfn|主婦の友社編|2011|p=172}}{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=28}}。タケノコは掘り上げてからの鮮度落ちが極端に早く、時間が経つとかたくなると同時に[[灰汁]]が増えてえぐみが増すため{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=28}}<ref name="tabemonotokenkouomoshirozatsugaku_p82"> 落合敏監修 『食べ物と健康おもしろ雑学』 p.82 梧桐書院 1991年</ref>、掘って収穫したその日のうちに調理するか灰汁抜きして下ごしらえするのが理想といわれている{{sfn|主婦の友社編|2011|p=172}}<ref>[http://www.yc.zennoh.or.jp/web/shoku/0304_1.html たけのこのお話][[全国農業協同組合連合会|JA全農]][[山口県|山口]](2018年3月16日閲覧)</ref>。そのため、おいしくタケノコを食べるためには鮮度が重要であり、すぐに食べない場合は生のままではなく、下茹でしてから保存する{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=28}}{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=29}}。下茹では収穫後できるだけ早く茹でて皮を剥いて、さらに10分ほど茹でたら水にとって冷ましておく{{sfn|主婦の友社編|2011|p=172}}。茹でたタケノコは容器に水を張って入れておき、毎日水代えして冷蔵保存すれば、5 - 6日ほど日持ちする{{sfn|主婦の友社編|2011|p=172}}。茹でたタケノコを皮付きのままラップなどに包んで冷蔵しても、1週間ほど保存できる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=29}}{{sfn|講談社編|2013|p=37}}。
タケノコの加工品としては、[[水煮]]の[[缶詰]]がある。タケノコの水煮は、春の旬の時期以外でも通年市販されており、南九州で多く出回っている細いタイプはコサンチク(鼓山竹:[[ホテイチク]]の別称)、関東などで多く出回っている大きいものは[[モウソウチク]](孟宗竹)などの種類がある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=28}}。水煮の断面に見られる白い粉状のものは、茹でることによって出てくる[[チロシン]]という[[アミノ酸]]物質で、取り除かずにそのまま食べられる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=28}}。
=== 種類 ===
タケ類の種類の数は多いが、タケノコとして食用にされるのは数種である{{sfn|講談社編|2013|p=34}}。タケ類ではモウソウチク(孟宗竹)、ハチク(淡竹)、マダケ(真竹)、カンチク(寒竹)など、ササ類ではカンザンチク(寒山竹)、ネマガリダケ(根曲がり竹)などである{{sfn|農文協編|2004|p=203}}。中でもよく食べられるモウソウチクが最も馴染みがある{{sfn|講談社編|2013|p=34}}。ふつうタケノコといえば、モウソウチクのタケノコを指す場合が多い{{sfn|農文協|2004|p=203}}。
==== 温帯性タケ類(単軸型) ====
[[File:Bamboo sprouts in basket.jpg|thumb|収穫後のタケノコ(孟宗竹)]]
[[File:TakenokoBambooSprouts.jpg|thumb|陳列例]]
[[File:たけのこ2847.JPG|thumb|老舗京都特産品店でのたけのこ販売例(京都市中京区)]]
モウソウチクの場合、土から顔を出す前に掘るのが望ましい(地面が盛り上がっているのを見分けて掘る)とされる。マダケやネマガリタケのように、30センチメートル (cm) 程度に生長した地上部を折り取って収穫できる種類もある。その他の種類を含めた外見や[[旬]]は以下のような違いがある。
* [[モウソウチク]](孟宗竹)
*: 日本で最も多く食べられている代表的なタケノコである{{sfn|主婦の友社編|2011|p=172}}<ref name="uchimura123">{{Cite book |和書 |author=内村悦三 |year=2012 |title=竹資源の植物誌 |page=123 |publisher=創森社}}</ref>{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=28}}。正月用に早どりして出荷される10 cm前後のものは「ちび竹の子」とよばれている{{sfn|講談社編|2013|p=36}}。えぐみが少なく、肉厚でやわらかい{{sfn|講談社編|2013|p=37}}。
*: 時期は3 - 5月で、タケノコの中では最も早い{{sfn|講談社編|2013|p=36}}。日本では九州産から始まり、徳島、京都、静岡、関東地方、福島へと産地が北上して5月ごろまで食べられる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=28}}。皮は黒斑と紫褐色の粗毛に覆われ、稈の直径が最大20 - 25 cmに達するほどタケ類の中でも最も大形であることが特徴{{sfn|農文協編|2004|p=204}}{{sfn|主婦の友社編|2011|p=173}}。原産は中国江南地方といわれ、日本へは1736年([[元文]]元年)に琉球を経由して薩摩(鹿児島)に渡来し、以後各地に分布したとされる{{sfn|農文協編|2004|p=203}}{{sfn|講談社編|2013|p=36}}。主産地の京都地方では、中国出身の禅宗の僧である[[隠元隆琦|隠元]]が、1654年に宇治の黄檗山に孟宗竹を植えたともいわれている{{sfn|農文協編|2004|p=203}}。
* [[ハチク]](淡竹)
*: やや細身で基部を除いて肉質部は薄く、色は少し黄色みを帯びるが、灰汁が少なく淡泊な味わいで特有の野趣がある{{sfn|農文協編|2004|p=205}}{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=29}}{{sfn|講談社編|2013|p=37}}。美味と言われるが出回り量が少ない<ref name="rinya">[https://www.rinya.maff.go.jp/j/tokuyou/take/syurui.html 主な竹の種類]林野庁(2018年3月16日閲覧)</ref>。
*: 時期は4 - 5月で、出回り時期は孟宗竹よりも遅い{{sfn|講談社編|2013|p=36}}。淡竹の子を意味する「ハチコ」とも呼ぶ地域がある。稈の直径が3 - 10 cmになる{{sfn|農文協編|2004|p=205}}。皮は淡紅色で薄く、寒さに強く北海道南部でも栽培されている{{sfn|主婦の友社編|2011|p=173}}{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=29}}{{sfn|講談社編|2013|p=36}}。原産は中国中部とされており、日本にも野生種があるという説もあるが、その渡来時期は不明である{{sfn|農文協編|2004|p=203}}。
* [[マダケ]](真竹、別名ニガタケ:苦竹)
*: 肉質は締まり、灰汁がやや強いが歯ごたえがあって風味は良い{{sfn|講談社編|2013|p=37}}。特に発生して間もない段階では別名の通り「苦い」という印象を抱く人もいる<ref name="uchimura122" /><ref name="rinya" />。ただし、大きく伸びると苦みが少なくなり先端部を収穫して「穂先タケノコ」として食用にする<ref name="uchimura122" />。稈の直径が5 - 15 cmで、皮は薄い黒斑に覆われ、平滑で無毛である{{sfn|農文協編|2004|p=205}}。
*: 時期は5 - 6月で、出回り時期が孟宗竹や淡竹よりも遅い{{sfn|講談社編|2013|p=37}}。主にタケ材に使われるのが本種であるが、タケ材にならない遅く出てきたタケノコが食用に収穫される{{sfn|講談社編|2013|p=37}}。原産は中国の浙江および江蘇南部で、日本への渡来時期は不明であるが17世紀には日本でも広く分布していたとみられている{{sfn|農文協編|2004|p=203}}。
* [[チシマザサ]](別名ネマガリタケ:根曲がり竹)
*: 日本原産の細く灰汁が少ない品種で、北海道、本州の日本海沿岸に多く自生し{{sfn|農文協編|2004|p=203}}{{sfn|主婦の友社編|2011|p=173}}、タケノコが美味なことで知られ{{sfn|講談社編|2013|p=37}}、長野県から東北地方や北海道などで食用とされる<ref name="uchimura122" />{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=29}}。特に[[津軽地方]]([[青森県]])などでよく食される<ref>[http://dazai.or.jp/modules/contents/gourmet_hometown.html 太宰が愛した郷土の味][[太宰治|太宰]]ミュージアム(2018年3月16日閲覧)</ref>。時期は5 - 6月。[[山菜]]として食べられるのは長さ20 cm前後のタケノコで、稈の直径が1 - 2 cm、根元から弓状に曲がって生え、肉が白くて香りが良いのが特徴{{sfn|農文協編|2004|p=205}}{{sfn|主婦の友社編|2011|p=173}}{{sfn|講談社編|2013|p=37}}。皮を剥いてから切って炒めるか、皮付きで下茹でしてから調理する{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=29}}。穂先を水煮にした加工品もある{{sfn|講談社編|2013|p=37}}。山形県の[[月山]]に生える根曲がり竹は「月山竹」(がっさんだけ)というブランド筍で、移植されて鶴岡市で栽培も行われており、灰汁抜き不要で、焼きタケノコ、味噌汁、天ぷらなどにして食べられている{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=29}}。
* [[カンチク]](寒竹)
*: 時期は10月で、稈の直径が5 - 15 mmで黄色または黒紫色{{sfn|農文協編|2004|p=205}}。日本原産とされており、中部地方以南に多く分布している{{sfn|農文協編|2004|p=203}}。
* [[カンザンチク]](寒山竹、別名ダイミョウタケノコ:大名筍)
*:九州で防風林として植栽され、タケノコとしても食される{{sfn|講談社編|2013|p=37}}。鹿児島産の細い高級タケノコは、やわらかく灰汁が少ない。時期は4 - 8月ごろで長期にわたり{{sfn|農文協編|2004|p=205}}、生でも食べられる。稈の直径が1.5 - 4 cmで緑色{{sfn|農文協編|2004|p=205}}。[[上三島]]産の「大名たけのこ」の名は、薩摩の国の殿様が好んだというとことから命名された{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=29}}。原産地は中国南部で、日本では関東地方以南に分布する{{sfn|農文協編|2004|p=203}}。
==== 亜熱帯性タケ類(準連軸型) ====
* マチク(麻竹)
*: 中国南部や台湾など亜熱帯性地方に産するタケ類である<ref>{{Cite book |和書 |author=内村悦三 |year=2012 |title=竹資源の植物誌 |pages=145-146 |publisher=創森社}}</ref>。代表的な加工品として[[メンマ]]がある<ref>{{Cite book |和書 |author=内村悦三 |year=2012 |title=竹資源の植物誌 |page=125 |publisher=創森社}}</ref>。
=== 日本の生産地 ===
[[ファイル:たけのこ3008.jpg|thumb|220px|right|京都府大山崎町天王山におけるタケノコ収穫作業。登山道に沿った[[モノレール]]を用いた運び出し]]
日本では古来、竹林がある各地域で食用とされてきた。現代の日本では、収穫作業が「竹の子掘り」として、季節の観光行事としても親しまれている。日本の竹林面積20万[[ヘクタール]] (ha) のうち、約7割がマダケ林、約2割がモウソウチク林、残り約1割がその他の竹種となっている{{sfn|農文協編|2004|p=203}}。モウソウチクのタケノコ産地で知られる京都地方では、寛政年間(1789 - 1801年)に盛んに増殖され{{sfn|農文協編|2004|p=203}}、明治時代に入ってからも販路の拡張によって栽培の有用性が認められ、京都盆地の西部から北部の丘陵地帯にさらに増殖された{{sfn|農文協編|2004|p=204}}。
高級品の産地としては、[[乙訓]](現在の[[京都府]][[向日市]]・[[長岡京市]]・[[大山崎町]]・[[京都市]]南西部の一部)が有名で、約500 haある畑地のうち約5割がタケノコ畑となっている{{sfn|農文協編|2004|p=204}}。乙訓産は竹林をふかふかの土壌に改善して、日当たりも調整するなどのタケノコ栽培技術で、柔らかくえぐみを抑えて、香りが良くなるようタケノコを育てている{{sfn|農文協編|2004|p=204}}<ref>[http://www.kanzakiya.co.jp/season/takenoko/ 京都乙訓筍]京都・神崎屋(2018年3月16日閲覧)</ref>。[[大阪市]]の高級料亭では、[[大阪府]][[貝塚市]]木積(こつみ)地区産も珍重されている<ref>[https://www.yanmar.com/jp/agri/agrilife/premium_marche/farmers/list27.html 白筍]ヤンマー(2018年3月16日閲覧)</ref>。 高級品としては、[[合馬たけのこ]]([[福岡県]][[北九州市]])も有名である<ref>[http://www.city.kitakyushu.lg.jp/kokuraminami/file_0121.html 合馬たけのこ] 北九州市・小倉南区(2018年3月16日閲覧)</ref>。また[[石川県]][[金沢市]]産たけのこは、[[加賀野菜]]の一つに選定されている<ref>[http://www.kanazawa-kagayasai.com/kagayasai/takenoko/ 加賀野菜・たけのこ]金沢市農産物ブランド協会(2016年3月16日閲覧)</ref>。
いずれも生鮮野菜であるタケノコの栽培技術は都市近郊で発達し、都市部から離れた地域では物流手段の未発達もあり、竹林利用は竹材が優先されてタケノコとしての利用は従となっていたところも多い{{sfn|農文協編|2004|p=204}}。第二次世界大戦後は、食生活の変化により缶詰としての需要が盛んになる一方で、交通網の整備もあってタケノコを青果として出荷する努力もされて、栽培技術も集約化されてきている{{sfn|農文協編|2004|p=204}}。
日本で[[水煮]]として[[缶詰]]や[[レトルト食品|レトルト]]パックで流通しているタケノコは、その多くが[[中華人民共和国]]からの輸入品となっており、早春から日本産と市場を競合している{{sfn|農文協編|2004|p=204}}。中国では秋にも出荷される。冬を控えて行われる竹園の整備で伐採された[[地下茎]]から、タケノコが収穫されている。小さく堅いことから、加工食品用にされる。
=== 栽培 ===
栽培の適地は、タケノコは過湿に非常に弱いため緩傾斜地で水はけが良いところが有利で、土壌面は礫質が少ない粘質土で乾燥しすぎず腐植の少ない土壌が適している{{sfn|農文協編|2004|p=210}}。通常は、当年生の若い竹を母竹として移植する無性的な繁殖が行われており、種子繁殖は行われていない{{sfn|農文協編|2004|p=210}}。新規開園する場合には、10[[アール (単位)|アール]] (a) あたり30 - 50株の母竹を、長さ40 - 60 cmの地下茎をつけて植えられている{{sfn|農文協編|2004|p=210}}。植栽適期は10月ごろで、その地方の初霜のころまでに植え付けるのがよいとされる{{sfn|農文協編|2004|p=210}}。順調にいけば翌年春からタケノコが出現し、6月以降から芽子が伸長し始め、地下茎として機能するようになる{{sfn|農文協編|2004|p=211}}。出盛り期(4月下旬ごろ)までに母竹として残しておくタケノコを決めておくことが大切で、タケノコを生む地下茎は3 - 5年生であるため、母竹も若い地下茎から出たものを残す必要がある{{sfn|農文協編|2004|p=214}}。
タケノコの収量と品質を左右する要因は、充実した太い地下茎をよく伸長させ、芽子の多くがタケノコに伸長肥大するように肥料管理に努めることにある{{sfn|農文協編|2004|p=206}}。施肥時期は、夏肥(7 - 8月)・礼肥(5月下旬 - 6月上旬)・冬肥(晩秋 - 初冬)の3つがそれぞれ大切で、京都地方でもこの3つの時期に施肥が行われている事例が多く、特に夏肥に重点を置いて施肥が行われているところが多い{{sfn|農文協編|2004|p=207}}。芽子が伸長肥大し始める夏に肥料が不足すると、翌春に出るタケノコの本数が少なくなり、1本あたりの重さも少なく肥大不充分で品質的に劣るものが多くなる{{sfn|農文協編|2004|p=206}}。礼肥は、タケノコを掘り採ったあとに行うもので、タケノコを産出し消耗した母竹の栄養を回復させて新葉の光合成活動を促す時期であり、年間施肥量の50%程度を施している事例も多い{{sfn|農文協編|2004|p=207}}。冬肥は、早春の地温上昇に伴ってタケノコが伸長肥大する時期に備えて行うもので、京都地方では11月から1月にかけて行われる敷きわら、客土作業の前に冬肥を施して、タケノコが出る早春の肥料必要期に備えている{{sfn|農文協編|2004|p=207}}。
タケノコと降雨との密接な関係は古くから知られており、京都府農業試験場{{efn2|現在は、京都府農林水産技術センター 農林センターに改組。}}の調査によれば、夏期と12月の降雨量が少ないと翌年春のタケノコの発生が非常に悪くなり、雨量のわずかな差も収量に影響を及ぼすことがわかっている{{sfn|農文協編|2004|p=208}}。徳島県農業試験場{{efn2|現在は、徳島県立農林水産総合技術センターに改組。}}による調査では、春先(2 - 4月)の土壌水分量の多少がタケノコの発生時期、品質に大きな影響を与えることから、この時期に灌水をすることでタケノコの早出しが可能になることを明らかにしている{{sfn|農文協編|2004|p=208}}。
=== 料理 ===
掘りたての鮮度が良いものは灰汁が少なく、皮付きのまま焼きタケノコにしておいしく食べられる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=28}}{{sfn|講談社編|2013|p=37}}。通常は茹でてから食べられる{{sfn|講談社編|2013|p=37}}。部位によって繊維の状態が異なるので料理によって使い分けられ、先端のやわらかい姫皮部分は[[和え物]]・椀種・[[酢の物]]に、穂先は竹の子ご飯や椀種・[[煮物]]・和え物に、中心部分は煮物・[[焼き物 (料理)|焼き物]]に、根元の歯ごたえがある部分は竹の子ご飯・煮物・[[炒め物]]・[[揚げ物]]に向いている{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=28}}{{sfn|講談社編|2013|p=37}}。
==== 日本料理 ====
[[ファイル:Japanese wakatakeni 2014.jpg|thumb|若竹煮]]
; 生食、焼き物
: 旬になると、掘ったその日のうちに調理または販売・出荷されるタケノコが直売所や食料品・飲食店などに出回り、「朝堀筍」<ref>[http://www.pref.kyoto.jp/tisantisho/1270527193680.html 朝堀筍]京都府農林水産部食の安心・安全推進課(2018年3月16日閲覧)</ref>と称されることも多い。掘りたてを皮付きのまま炭火焼きにした焼き物のほか、特に新鮮なものであれば生や、軽く湯がいた[[刺身]]として味わえる{{sfn|講談社編|2013|p=38}}。これを目当てに、タケノコ掘りに出かける人も多い。
; 煮物
: [[鰹節]]で[[出汁]]を煮含めるものが多い。そのまま煮詰める[[土佐煮]]や、[[ワカメ]]と合わせた[[若竹煮]]が代表的な調理法で、中程より上の柔らかい部分が適する。
; 汁物
: 北信地域と新潟県上越地域での調理法で、[[チシマザサ]]のタケノコをサバの水煮の缶詰と一緒に味噌汁とする<ref>[https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/takenoko_jiru_nagano.html たけのこ汁]長野県 | うちの郷土料理:農林水産省(2022年5月18日閲覧)</ref>。
; 揚げ物
: アク抜きしたものは水分が多く、おいしく[[天ぷら]]にするには技術が要る。
; その他具材
: タケノコご飯、吸い物、[[八宝菜]]などの炒め物、[[カレー_(代表的なトピック)|カレー]]<ref>[http://genki3.net/?p=88577 桑名たけのこカレー](2018年3月16日閲覧)</ref>の具にも使われる。宮崎県北方町の郷土料理に、乾燥品をもどして煮たタケノコに[[酢飯]]を詰めた「竹の子ずし」があり、歯ごたえや風味が[[シナチク]]に似て、[[煮干し|いりこ]]や[[シイタケ]]の出汁を含んで甘い{{sfn|講談社編|2013|p=39}}。
; 皮
: 柔らかい皮(甘皮)は、本体と同じく食用にされる。固い皮は[[おむすび]]を包むなど食器・包装材代わりに利用されるほか、[[梅干]]しを包んで子供のおやつにする。
==== 中国料理 ====
; 玉蘭片(ユィランピエン)
: [[江南 (中国)|江南地方]]の加工品で、冬堀したタケノコを[[塩漬け]]したもの<ref name="ryourisyokuzaidaijiten_p494">『料理食材大事典』主婦の友社 p.494 1996年</ref>。スープや旨煮に用いる<ref name="ryourisyokuzaidaijiten_p494"/>。
==== 台湾料理 ====
[[ファイル:Japanese_Hosaki_Menma.jpg|thumb|穂先メンマ]]
; 乾筍([[メンマ]])
: タケノコを[[乳酸発酵]]させた[[漬物]]。元は[[台湾]]の[[嘉義県]]における伝統食材で、日本でも[[ラーメン]]の具や酒のつまみとして人気のある食材。
=== アク抜き ===
タケノコのアクは、[[シュウ酸]]や[[ホモゲンチジン酸]]とその[[配糖体]]などが主成分とされ{{sfn|講談社編|2013|p=34}}、コメの[[とぎ汁]]や[[重曹]]などの[[アルカリ]]性の水で除くことができる。ただし、タケノコは[[アミノ酸]]の一種[[チロシン]]を非常に多く含み(100g中690mg:日本食品成分表)、これが[[酵素]]によって次第に[[4-ヒドロキシフェニルピルビン酸|変化]]しホモゲンチジン酸になるため、加熱して酵素を失活させるアク止めが必要となる。[[青酸配糖体]]も含まれているが、薄く切った場合で8 - 10分以上煮込むと安全になる。
[[日本料理]]の煮物として調理する際には、米[[糠]]と、輪切り[[唐辛子]]などと一緒に茹でると効果的に[[灰汁|アク]]抜きできるが、米糠がないときは米のとぎ汁が使われる{{sfn|主婦の友社編|2011|p=173}}。タケノコは皮付きのまま穂先を斜めに切り落として、さらに皮の部分に縦に切れ目を入れておき、深鍋に米糠などを一緒に被るほどの水に入れて、吹きこぼれないように水を足して様子を見ながら弱火で40分から1時間ほどかけてゆっくりと茹でる{{sfn|主婦の友社編|2011|p=173}}{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=29}}{{sfn|講談社編|2013|p=38}}。タケノコに串が通るほどやわらかくなったら火を止めて、湯に浸けたまま完全に冷ましたあと、米糠を洗い流して皮を剥いてから料理に使われる{{sfn|主婦の友社編|2011|p=173}}{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=29}}{{sfn|講談社編|2013|p=38}}。
また、料理人の[[野崎洋光]]が考案した方法として、皮ごとおろした[[大根]]と同量の水に1%の塩を加え、皮を剥いたタケノコをひたひたに漬かるぐらいにして1時間ほど浸すやり方があり、大学での検証の結果、[[大根おろし]]にはタケノコのえぐみ成分である[[ホモゲンチジン酸]]を減少させることがわかった<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/248841 タケノコのアク抜きには大根おろし!プロがおすすめする簡単なやり方、科学的にも正しかった ]東京新聞、2023年5月9日</ref>。
[[中華料理]]では、湯でアク抜きする代わりに、高温の油で揚げて処理することも行われる。
=== 栄養価 ===
{{栄養価 | name=たけのこ(若茎、生)<ref name=mext7>[[文部科学省]] 「[https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/1365297.htm 日本食品標準成分表2015年版(七訂)]」</ref>| kJ =109| water=90.8 g| protein=3.6 g| fat=0.2 g| carbs=4.3 g| opt1n=[[食物繊維|水溶性食物繊維]]| opt1v=0.3 g| opt2n=[[食物繊維|不溶性食物繊維]]| opt2v=2.5 g| fiber=2.8 g| potassium_mg=520| calcium_mg=16| magnesium_mg=13| phosphorus_mg=62| iron_mg=0.4| zinc_mg=1.3| copper_mg=0.13| Manganese_mg=0.68| selenium_ug =1| betacarotene_ug=11| vitA_ug =1| vitE_mg =0.7| vitK_ug=2| thiamin_mg=0.05| riboflavin_mg=0.11| niacin_mg=0.7| vitB6_mg=0.13| folate_ug=63| pantothenic_mg=0.63| opt3n=[[ビオチン|ビオチン(B<sub>7</sub>)]] | opt3v=0.8 µg| vitC_mg=10| note =ビタミンEはα─トコフェロールのみを示した<ref>[[厚生労働省]] 「[https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10901000-Kenkoukyoku-Soumuka/0000114399.pdf 日本人の食事摂取基準(2015年版)]」</ref>。| right=1 }}
栄養成分は、[[ビタミン]]類が少なく{{sfn|主婦の友社編|2011|p=172}}、[[タンパク質]]に富む<ref name="tabemonotokenkouomoshirozatsugaku_p82"/>。[[カリウム]]と[[食物繊維]]の含有量は多いのが特徴で{{sfn|主婦の友社編|2011|p=172}}{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=28}}、[[ビタミンB1]]、[[ビタミンB2]]、[[ビタミンC]]、[[ビタミンE]]などを含む。タケノコに含まれる食物繊維は水に溶けない不溶性食物繊維・[[セルロース]]で{{sfn|主婦の友社編|2011|p=172}}、[[コマツナ]]や[[キャベツ]]と同じ程度であるとされる<ref name="tabemonotokenkouomoshirozatsugaku_p82"/>。タケノコの豊富な食物繊維は、腸内の老廃物や有害物質を排出したり、同時に[[コレステロール]]の吸収を阻害する健康に役立つ効果が期待されている{{sfn|主婦の友社編|2011|p=172}}。タケノコに含まれるカリウムは、高血圧の原因となるナトリウムを体外に排出して血圧を下げる働きがあるといわれる成分で、タケノコを茹でても量はあまり減少しないのが特徴である{{sfn|講談社編|2013|p=37}}。[[亜鉛]]、[[銅]]などのミネラル分も比較的多く含んでいる{{sfn|講談社編|2013|p=37}}。
== ことわざ・比喩表現 ==
; 雨後のタケノコ
: 雨が降った後はタケノコが生えやすいことから、何かをきっかけとしてある物事が続々と発生すること。(「成長が早い」の意で使うのは誤用<ref>[https://kotobank.jp/word/雨後の筍-439407 雨後の筍] コトバンク</ref>)
; タケノコ生活
: たけのこの皮を1枚ずつはぐように、身の回りの衣類・家財などを少しずつ売って食いつないでいく生活。
; タケノコ剥ぎ
: [[風俗店|性風俗店]]で用いられる用語で、[[ボッタクリ]]商法のひとつ。タケノコの皮をはがす行為に由来し、初期料金を安く見せかけ、女の子の脱衣や接触行為などのオプション料金を積み上げていった結果、法外な高額の料金になってしまうこと。
; タケノコ医者(筍医者)
: (筍がやがて竹になり藪になることから) 技術が下手で未熟な[[藪医者]]にも至らぬ医者のこと。
; 竹の子の親まさり
: 親よりも子が優れているたとえ
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author =猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|title = かしこく選ぶ・おいしく食べる 野菜まるごと事典|date=2012-07-10|publisher = [[成美堂出版]]|isbn=978-4-415-30997-2|pages =28 - 29|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author =講談社編|title = からだにやさしい旬の食材 野菜の本|date=2013-05-13|publisher = [[講談社]]|isbn=978-4-06-218342-0|pages =34 - 39|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author =主婦の友社編|title = 野菜まるごと大図鑑|date=2011-02-20|publisher = [[主婦の友社]]|isbn=978-4-07-273608-1|pages =172 - 173|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author = 農文協編|title = 野菜園芸大百科 第2版 20:特産野菜70種|date = 2004-03-31|publisher = [[農山漁村文化協会]]|isbn = 4-540-04123-1|pages = 203 - 214|ref=harv}}
* 小机ゑつ子,土田広信,水野進「セファデックスG-10カラムクロマトグラフィー及び高速液体クロマトグラフィーによるタケノコのホモゲンチジン酸の測定法」園芸学会雑誌57号3巻(1988年)
* 野村隆哉「<総説>竹の生長について」木材研究・資料15巻(1980年)
== 関連項目 ==
{{commonscat|Bamboo sprouts}}
{{wiktionary|たけのこ|筍|笋}}
* [[竹林]]
* [[マコモ|マコモダケ]]
* [[たけのこの里]] - タケノコを模した菓子。
* [[孟宗]] - [[二十四孝]]の1人で、孟宗竹の語源
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たけのこ}}
[[Category:タケノコ|*]]
[[Category:タケ亜科]]
[[Category:野菜]]
[[Category:日本の食文化]]
[[Category:中国の食文化]] | 2003-03-11T10:33:11Z | 2023-11-22T14:11:01Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%83%8E%E3%82%B3 |
3,808 | 寺沢大介 | 寺沢 大介(てらさわ だいすけ、1959年6月10日 - )は、日本の漫画家。
兵庫県伊丹市出身。男性。甲陽学院中学校・高等学校、慶應義塾大学文学部出身。既婚者。血液型はO型。料理を扱った漫画作品が多い傾向にある。また自画像にカバの絵を用いることが多い。
デビュー時から長年にわたって講談社の少年・青年向け漫画雑誌にて執筆していたが、2009年以降は小学館の漫画雑誌にも執筆の場を広げている。小学館の漫画雑誌では、料理以外の事柄を題材にした作品を執筆している。
料理を扱った漫画が多いが、『ミスター味っ子』連載当時の単行本のコメントによると、実際に料理を作るのは苦手とのこと(現在は不明)。そばアレルギーを患っている一方で、ラーメンが好物であり、学生時代から田町駅のラーメン二郎を良く食しており、『週刊少年マガジン』1986年50号と1987年2月発売の『ミスター味っ子』第2巻、第3話「焦がしネギの風味」の扉絵に二郎のぶたダブルを描いて紹介している。 | [
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] | 寺沢 大介は、日本の漫画家。 | {{Infobox 漫画家
| 名前 = 寺沢 大介
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| 脚注 =
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| 国籍 = [[日本]]
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| 没年 =
| 職業 = [[漫画家]]
| 活動期間 = [[1985年]] -
| ジャンル = 少年漫画、青年漫画、料理漫画
| 代表作 = 『[[ミスター味っ子]]』<br />『[[将太の寿司]]』<br />『[[喰いタン]]』
| 受賞 = 第12回[[講談社漫画賞]]少年部門<br /> (『ミスター味っ子』)<br />第20回[[講談社漫画賞]]少年部門<br /> (『将太の寿司』)
| 公式サイト =
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'''寺沢 大介'''(てらさわ だいすけ、[[1959年]][[6月10日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。
== 概要 ==
[[兵庫県]][[伊丹市]]出身。男性。[[甲陽学院中学校・高等学校]]、[[慶應義塾大学]]文学部出身。既婚者。[[ABO式血液型|血液型]]はO型。[[料理]]を扱った漫画作品が多い傾向にある。また自画像に[[カバ]]の絵を用いることが多い。
デビュー時から長年にわたって[[講談社]]の少年・青年向け漫画雑誌にて執筆していたが、[[2009年]]以降は[[小学館]]の漫画雑誌にも執筆の場を広げている。小学館の漫画雑誌では、料理以外の事柄を題材にした作品を執筆している。
料理を扱った漫画が多いが、『ミスター味っ子』連載当時の単行本のコメントによると、実際に料理を作るのは苦手とのこと(現在は不明)。[[蕎麦|そば]][[アレルギー]]を患っている<ref>激ウマセレクション(コンビニ版コミックス)の料理コメント。</ref>一方で、[[ラーメン]]が好物であり、学生時代から[[田町駅]]の[[ラーメン二郎]]を良く食しており、『週刊少年マガジン』1986年50号と1987年2月発売の『[[ミスター味っ子]]』第2巻、第3話「焦がしネギの風味」の[[扉絵]]に二郎のぶたダブルを描いて紹介している<ref>{{Cite book|和書|author=寺沢大介||date=1986-02|title=ミスター味っ子|publisher=講談社|volume=2|isbn=978-4063112153}}</ref>。
== 経歴 ==
* [[1985年]]、『イシュク』でデビュー。
* [[1986年]]、『[[ミスター味っ子]]』を連載開始
* [[1987年]]、『ミスター味っ子』が[[テレビ東京]]系でアニメ化(8[[クール (放送)|クール]]にわたり放送)
* [[1988年]]、『ミスター味っ子』で第12回[[講談社漫画賞]]を受賞。
* [[1991年]]、『[[WARASHI]]』を原作とした『B級ホラーWARASHI!』が[[円谷映像]]製作、[[TBSテレビ|TBS]]系でドラマ化。
* [[1992年]]、『[[将太の寿司]]』を連載開始
* [[1996年]]、『将太の寿司』で第20回講談社漫画賞を受賞。同作は同年春に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系でドラマ化。
* [[1999年]]、『将太の寿司』がテレビ東京系で単発スペシャルとしてアニメ化。
* [[2002年]]、『[[喰いタン]]』を連載開始(完結)
* [[2004年]]、『[[ミスター味っ子II]]』を連載開始(完結)
* [[2006年]]、『喰いタン』が[[東山紀之]]主演で[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系でドラマ化。詳細は[[喰いタン (テレビドラマ)]]を参照。
* [[2007年]]、『喰いタン』が第二シリーズとして再びドラマ化。
* [[2009年]]、『[[修理もん研究室]]』を『[[ビッグコミックオリジナル]]』で連載(完結)。[[小学館]]で初めて連載する。
* [[2011年]]、『[[キッテデカ]]』を『[[ビッグコミック増刊号]]』で連載開始(完結)。
* [[2012年]]、『ドクターメシア』を『[[ビッグコミックオリジナル増刊]]』で連載開始(完結)。
* [[2013年]]、『将太の寿司2 World Stage』を連載開始。
* [[2015年]]、『[[ミスター味っ子 幕末編]]』を[[週刊朝日]]増刊『[[真田太平記 (雑誌)|真田太平記]]』で連載開始(完結)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/167315|title=新しい歴史マンガ誌・真田太平記、12月に創刊!「ミスター味っ子」幕末編も - コミックナタリー|date=2015年11月27日|accessdate=2016年1月27日 }}</ref>。
== 作品リスト ==
* [[ミスター味っ子]]<ref>{{Cite news|url=https://www.sunrise-inc.co.jp/ajikko/story/index.html|title=ストーリー|newspaper=アニメ『ミスター味っ子』公式サイト|accessdate=2020-12-04}}</ref> - 『[[週刊少年マガジン]]』(1986年 - 1989年) 全19巻
** [[ミスター味っ子II]] - 『イブニング』(2003年 - 2012年) 全13巻
** [[ミスター味っ子 幕末編]] - 『[[真田太平記 (雑誌)|真田太平記]]』(2015年 - 2019年) 全4巻
* [[WARASHI]] - 『週刊少年マガジン』(1990年 - 1991年) 全4巻
* [[将太の寿司]] - 『[[マガジンSPECIAL]]』『週刊少年マガジン』(1992年 - 1997年) 全27巻
** 将太の寿司〜全国大会編〜 - 『週刊少年マガジン』(1997年 - 2000年) 全17巻
*** 将太の寿司2 World Stage - 『イブニング』(2013年 - 2015年) 全4巻
* [[喰わせモン!]] - 『週刊少年マガジン』(2001年) 全4巻
* [[喰いタン]] - 『[[イブニング]]』(2002年 - 2009年) 全16巻
** [[喰いタン#くいしんぼうたんてい せいやくん|くいしんぼうたんてい せいやくん]] - 『[[たのしい幼稚園 (雑誌)|たのしい幼稚園]]』(2007年)
**:1-4話まで『喰いタン』単行本に収録
* サプリビンダーズ - 『[[コミックボンボン]]』(2003年 - 2004年)、原作:[[広井王子]] 全3巻
* 知識ゼロからの寿司入門(2008年、幻冬舎、著:小原佐喜男、画:寺沢大介)
* [[修理もん研究室|修理(なおし)もん研究室]] - 『[[ビッグコミックオリジナル]]』(2009年 - 2010年) 全2巻
* [[キッテデカ]] - 『[[ビッグコミック増刊号|ビッグコミック増刊]]』(2011年 - 2014年)、原案:高橋遠州、全2巻
* ドクターメシア - 『[[ビッグコミックオリジナル増刊]]』(2012年 - 2013年) 全1巻
* [[月子]] - 『[https://coziki.jp/ COZIKI]』 (2019年- )
* SUSHIROAD 寿司道 - 『[[スシロー|株式会社あきんどスシロー]]』、全10話
* 講談社 学習まんが 日本の歴史(1) 列島のあけぼの(2020年)
== アシスタント ==
* [[寺嶋裕二]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.ntv.co.jp/kuitan/ 日テレ『喰いタン2』ホームページ]
* [http://sonorama.asahi.com/series/misterajikko.html ソノラマ+] - [[朝日新聞出版]]の試し読みサイト
* [https://www.akindo-sushiro.co.jp/sushiroad 寺沢大介 自身初、回転すし漫画「SUSHIROAD寿司道(スシロード)」]
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{{Normdaten}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:慶應義塾大学出身の人物]]
[[Category:兵庫県出身の人物]]
[[Category:1959年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-03-11T11:16:18Z | 2023-11-19T06:52:15Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E6%B2%A2%E5%A4%A7%E4%BB%8B |
3,809 | 共有結合結晶 | 共有結合結晶(きょうゆうけつごうけっしょう、英: covalent crystal)は、共有結合によって形成される結晶。一つの結晶粒で一つの分子(巨大分子)を形成しているため、化学式で表す際は形成される元素とその比率により表される。慣用的に「共有結晶(きょうゆうけっしょう)」とも。
ダイヤモンドなどのように、共有結晶の中で各原子どうしは強い結合を形成する場合があり、その結果、融点が高かったり硬い性質を持つ場合がある。通常、電気伝導性はほとんどない。
その他、ケイ素(シリコン)、二酸化ケイ素、炭化ケイ素などが共有結晶を作る。 | [
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] | 共有結合結晶は、共有結合によって形成される結晶。一つの結晶粒で一つの分子(巨大分子)を形成しているため、化学式で表す際は形成される元素とその比率により表される。慣用的に「共有結晶(きょうゆうけっしょう)」とも。 ダイヤモンドなどのように、共有結晶の中で各原子どうしは強い結合を形成する場合があり、その結果、融点が高かったり硬い性質を持つ場合がある。通常、電気伝導性はほとんどない。 その他、ケイ素(シリコン)、二酸化ケイ素、炭化ケイ素などが共有結晶を作る。 | '''共有結合結晶'''(きょうゆうけつごうけっしょう、{{Lang-en-short|covalent crystal}})は、[[共有結合]]によって形成される[[結晶]]。一つの結晶粒で一つの分子(巨大分子)を形成しているため、化学式で表す際は形成される元素とその比率により表される。慣用的に「共有結晶(きょうゆうけっしょう)」とも<ref>『[[学術用語集]]』(物理学編・分光学編)。</ref><ref>[http://www.chemistry.or.jp/news/press/1-1.html 高等学校化学で用いる用語に関する提案(1)](日本化学会、2015年3月17日更新版)。<br>[http://www.chemistry.or.jp/news/information/1-2.html 高等学校化学で用いる用語に関する提案(1)への反応](日本化学会、2018年1月25日更新版)。</ref>。
[[ダイヤモンド]]などのように、共有結晶の中で各原子どうしは強い結合を形成する場合があり、その結果、融点が高かったり硬い性質を持つ場合がある。通常、[[電気伝導性]]はほとんどない。
その他、[[ケイ素]](シリコン)、[[二酸化ケイ素]]、[[炭化ケイ素]]などが共有結晶を作る。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[イオン結晶]]
* [[物性物理]]
* [[結晶学]]
{{DEFAULTSORT:きようゆうけつこうけつしよう}}
{{Chem-stub}}
[[Category:結晶]] | null | 2023-06-27T01:11:10Z | false | false | false | [
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"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%9C%89%E7%B5%90%E5%90%88%E7%B5%90%E6%99%B6 |
3,810 | イオン結晶 | イオン結晶(イオン結合結晶, 英: ionic crystal)はイオン結合によって形成される結晶のこと。
この結晶は、異符号のイオン同士が隣り合いクーロン力によって結び付けられ固定されることでできる。イオン結合は強い結合なのでイオン結晶は融点が高く、硬い性質を持つ場合が多いが、脆くて壊れやすい性質も持つ。この性質を劈開という。これは、外力が加わると同符号のイオン同士が接近して、互いに反発しあうためである。
通常、固体では電気伝導性はない(超イオン伝導体は例外)が、融点を超えて液体となった場合や溶質として水などに溶かすと電気を導く。これは、液体や水溶液になることで電荷を持ったイオンが移動できるようになるためである。水溶液中では電離して水和イオンとして存在する。このように水中で電離する物質を電解質という。
陽イオンを構成する元素と陰イオンを構成する元素の電気陰性度の差が小さい場合、結合は共有性を帯びるようになり、共有結晶的な性質をもつようになる。例えばヨウ化銀および硫化亜鉛などは共有結合性が強くなり、水に対する溶解度も小さい。
イオン結晶を構成する物質は組成式で表される。
1:1電解質の場合、陽イオンと陰イオンとのイオン半径の比率により周囲を取り囲む相手イオンの配位数が変化する。例えば立方晶系の場合、4配位の場合閃亜鉛鉱型構造、6配位では塩化ナトリウム型構造、8配位では塩化セシウム型構造となる。さらに結晶の種類によっては六方晶系その他の構造を取るものもある。 1:2あるいは2:1電解質電解質では蛍石型構造、ヨウ化カドミウム型構造など様々な構造を取る。
イオン結晶の結合エネルギーの指標の一つとして、格子エネルギーがあり、これはイオンの電荷、イオン半径および結晶構造により決まり、結晶の融点、溶解度などに影響を与える。
陽イオンと陰イオンとの組み合わせにより数多くのイオン結晶が存在する。 | [
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] | イオン結晶はイオン結合によって形成される結晶のこと。 | '''イオン結晶'''('''イオン結合結晶''', {{lang-en-short|ionic crystal}})は[[イオン結合]]によって形成される[[結晶]]のこと。
== 解説 ==
この結晶は、異符号のイオン同士が隣り合い[[クーロン力]]によって結び付けられ固定されることでできる。イオン結合は強い結合なのでイオン結晶は[[融点]]が高く、硬い性質を持つ場合が多いが、脆くて壊れやすい性質も持つ。この性質を劈開という。これは、外力が加わると同符号の[[イオン]]同士が接近して、互いに反発しあうためである。
通常、固体では[[電気伝導性]]はない([[超イオン伝導体]]は例外)が、融点を超えて[[液体]]となった場合や[[溶質]]として[[水]]などに溶かすと電気を導く。これは、液体や[[水溶液]]になることで[[電荷]]を持ったイオンが移動できるようになるためである。水溶液中では[[電離]]して[[水和]]イオンとして存在する。このように水中で電離する物質を[[電解質]]という。
[[陽イオン]]を構成する元素と[[陰イオン]]を構成する元素の[[電気陰性度]]の差が小さい場合、結合は共有性を帯びるようになり、[[共有結晶]]的な性質をもつようになる。例えば[[ヨウ化銀]]および[[硫化亜鉛]]などは[[共有結合]]性が強くなり、水に対する[[溶解度]]も小さい<ref name=shimura>新村陽一 『無機化学』 朝倉書店、1984年</ref>。
イオン結晶を構成する物質は[[組成式]]で表される。
== 構造 ==
[[File:NaCl-Ionengitter.png|thumb|right|150px|塩化ナトリウム型構造]]
{{main|結晶構造}}
1:1電解質の場合、陽イオンと陰イオンとの[[イオン半径]]の比率により周囲を取り囲む相手イオンの配位数が変化する。例えば[[立方晶系]]の場合、4配位の場合[[閃亜鉛鉱]]型構造、6配位では[[塩化ナトリウム型構造]]、8配位では[[塩化セシウム型構造]]となる<ref name=Cotton> FA コットン, G. ウィルキンソン著, 中原 勝儼訳 『コットン・ウィルキンソン無機化学』 培風館、1987年</ref>。さらに結晶の種類によっては[[六方晶系]]その他の構造を取るものもある。
1:2あるいは2:1電解質電解質では[[蛍石]]型構造、[[ヨウ化カドミウム]]型構造など様々な構造を取る。
イオン結晶の[[結合エネルギー]]の指標の一つとして、[[格子エネルギー]]があり、これはイオンの電荷、イオン半径および結晶構造により決まり、結晶の融点、溶解度などに影響を与える。
== 例 ==
陽イオンと陰イオンとの組み合わせにより数多くのイオン結晶が存在する。
=== 1価の陽イオンと1価の陰イオンからなるイオン結晶 ===
{| class="wikitable" style="float:left; text-align: left"
! !! F<sup>−</sup> !! Cl<sup>−</sup> !! Br<sup>−</sup> !! I<sup>−</sup> !! NO<sub>3</sub><sup>−</sup>
|-
! Li<sup>+</sup>
| LiF([[フッ化リチウム]])|| LiCl([[塩化リチウム]])|| LiBr([[臭化リチウム]])|| LiI([[ヨウ化リチウム]])|| LiNO<sub>3</sub>([[硝酸リチウム]])
|-
! Na<sup>+</sup>
| NaF([[フッ化ナトリウム]])|| NaCl([[塩化ナトリウム]])|| NaBr([[臭化ナトリウム]])|| NaI([[ヨウ化ナトリウム]])|| NaNO<sub>3</sub>([[硝酸ナトリウム]])
|-
! K<sup>+</sup>
| KF([[フッ化カリウム]])|| KCl([[塩化カリウム]])|| KBr([[臭化カリウム]])|| KI([[ヨウ化カリウム]])|| KNO<sub>3</sub>([[硝酸カリウム]])
|-
! Rb<sup>+</sup>
| RbF([[フッ化ルビジウム]])|| RbCl([[塩化ルビジウム]])|| RbBr([[臭化ルビジウム]])|| RbI([[ヨウ化ルビジウム]])|| RbNO<sub>3</sub>([[硝酸ルビジウム]])
|-
! Cs<sup>+</sup>
| CsF([[フッ化セシウム]])|| CsCl([[塩化セシウム]] )|| CsBr([[臭化セシウム]])|| CsI([[ヨウ化セシウム]])|| CsNO<sub>3</sub>([[硝酸セシウム]])
|-
! NH<sub>4</sub><sup>+</sup>
| NH<sub>4</sub>F([[フッ化アンモニウム]])|| NH<sub>4</sub>Cl([[塩化アンモニウム]] )|| NH<sub>4</sub>Br([[臭化アンモニウム]])|| NH<sub>4</sub>I([[ヨウ化アンモニウム]])|| NH<sub>4</sub>NO<sub>3</sub>([[硝酸アンモニウム]])
|}
{{-}}
=== 1価の陽イオンと2価の陰イオンからなるイオン結晶 ===
{| class="wikitable" style="float:left; text-align: left"
! !! O<sup>2−</sup> !! SO<sub>4</sub><sup>2−</sup> !! CO<sub>3</sub><sup>2−</sup>
|-
! Li<sup>+</sup>
| Li<sub>2</sub>O([[酸化リチウム]])|| Li<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>([[硫酸リチウム]])|| Li<sub>2</sub>CO<sub>3</sub>([[炭酸リチウム]])
|-
! Na<sup>+</sup>
| Na<sub>2</sub>O([[酸化ナトリウム]])|| Na<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>([[硫酸ナトリウム]])|| Na<sub>2</sub>CO<sub>3</sub>([[炭酸ナトリウム]])
|-
! K<sup>+</sup>
| K<sub>2</sub>O([[酸化カリウム]])|| K<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>([[硫酸カリウム]])|| K<sub>2</sub>CO<sub>3</sub>([[炭酸カリウム]])
|-
! Rb<sup>+</sup>
| Rb<sub>2</sub>O([[酸化ルビジウム]])|| Rb<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>([[硫酸ルビジウム]])|| Rb<sub>2</sub>CO<sub>3</sub>([[炭酸ルビジウム]])
|-
! Cs<sup>+</sup>
| Cs<sub>2</sub>O([[酸化セシウム]])|| Cs<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>([[硫酸セシウム]] )|| Cs<sub>2</sub>CO<sub>3</sub>([[炭酸セシウム]])
|-
! NH<sub>4</sub><sup>+</sup>
| − || (NH<sub>4</sub>)<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>([[硫酸アンモニウム]] )|| (NH<sub>4</sub>)<sub>2</sub>CO<sub>3</sub>([[炭酸アンモニウム]])
|}
{{-}}
=== 2価の陽イオンと2価の陰イオンからなるイオン結晶 ===
{| class="wikitable" style="float:left; text-align: left"
! !! O<sup>2−</sup> !! S<sup>2−</sup> !! SO<sub>4</sub><sup>2−</sup> !! CO<sub>3</sub><sup>2−</sup>
|-
! Mg<sup>2+</sup>
| MgO([[酸化マグネシウム]])|| MgS([[硫化マグネシウム]])|| MgSO<sub>4</sub>([[硫酸マグネシウム]])|| MgCO<sub>3</sub>([[炭酸マグネシウム]])
|-
! Ca<sup>2+</sup>
| CaO([[酸化カルシウム]])|| CaS([[硫化カルシウム]])|| CaSO<sub>4</sub>([[硫酸カルシウム]])|| CaCO<sub>3</sub>([[炭酸カルシウム]])
|-
! Sr<sup>2+</sup>
| SrO([[酸化ストロンチウム]])|| SrS([[硫化ストロンチウム]])|| SrSO<sub>4</sub>([[硫酸ストロンチウム]])|| SrCO<sub>3</sub>([[炭酸ストロンチウム]])
|-
! Ba<sup>2+</sup>
| BaO([[酸化バリウム]])|| BaS([[硫化バリウム]])|| BaSO<sub>4</sub>([[硫酸バリウム]])|| BaCO<sub>3</sub>([[炭酸バリウム]])
|}
{{-}}
=== 2価の陽イオンと1価の陰イオンからなるイオン結晶 ===
{| class="wikitable" style="float:left; text-align: left"
! !! F<sup>−</sup> !! Cl<sup>−</sup> !! NO<sub>3</sub><sup>−</sup>
|-
! Mg<sup>2+</sup>
| MgF<sub>2</sub>([[フッ化マグネシウム]])|| MgCl<sub>2</sub>([[塩化マグネシウム]])|| Mg(NO<sub>3</sub>)<sub>2</sub>([[硝酸マグネシウム]])
|-
! Ca<sup>2+</sup>
| CaF<sub>2</sub>([[フッ化カルシウム]])|| CaCl<sub>2</sub>([[塩化カルシウム]])|| Ca(NO<sub>3</sub>)<sub>2</sub>([[硝酸カルシウム]])
|-
! Sr<sup>2+</sup>
| SrF<sub>2</sub>([[フッ化ストロンチウム]])|| SrCl<sub>2</sub>([[塩化ストロンチウム]])|| Sr(NO<sub>3</sub>)<sub>2</sub>([[硝酸ストロンチウム]])
|-
! Ba<sup>2+</sup>
| BaF<sub>2</sub>([[フッ化バリウム]])|| BaCl<sub>2</sub>([[塩化バリウム]])|| Ba(NO<sub>3</sub>)<sub>2</sub>([[硝酸バリウム]])
|}
{{-}}
== 参考文献 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[共有結合]]
** [[共有結合結晶]]
* [[物性物理学]]
* [[結晶学]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いおんけつしよう}}
[[Category:結晶]]
[[Category:イオン]]
{{sci-stub}} | null | 2022-12-21T23:07:28Z | false | false | false | [
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"Template:Sci-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3%E7%B5%90%E6%99%B6 |
3,811 | 金属結晶 | 金属結晶 (きんぞくけっしょう) は、金属結合によって形成される結晶のこと。
金属結晶中では金属原子は最外殻電子を切り離し陽イオンとなっている。この切り離された電子が自由電子となり結晶構成原子間を自由に動き回ることで結晶が保たれている。このため金属結晶は延性、展性、電気伝導性や熱伝導性に富み、独特の金属光沢をもつ。結晶なのに展延性(塑性加工性)に富むことを驚きの出発点とし、とくに米国人により転位論が確立され、材料強度学における重要な地位を確立している。また、強度やトライボロジー特性に優れた鉄鋼材料の一種である工具鋼などは、熱処理を行うことで急激な金属結晶の変化が生じマルテンサイト構造になることでその優れた特性を得、塑性加工などの過酷な摩擦現象がおこる用途に用いられる。
【例】 いわゆる金属は、全て金属結晶であるとは言えない(金属的性質を示す準結晶やアモルファス金属などを除く←アモルファスは結晶ではない)。
金属では多形は一般的であり、それは温度変化にともなってしばしば起こる。異なる構造は通常温度の増加に応じて、α、β、γ、...という記号で区別される。例えばα-Feは906°Cまで安定であり、1401°Cでγ-Feに変化し、1530°Cで再びα-Feに変わる。β-Feは通常の条件下では安定ではなく、高圧下でのみ存在する。 | [
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] | 金属結晶 (きんぞくけっしょう) は、金属結合によって形成される結晶のこと。 金属結晶中では金属原子は最外殻電子を切り離し陽イオンとなっている。この切り離された電子が自由電子となり結晶構成原子間を自由に動き回ることで結晶が保たれている。このため金属結晶は延性、展性、電気伝導性や熱伝導性に富み、独特の金属光沢をもつ。結晶なのに展延性(塑性加工性)に富むことを驚きの出発点とし、とくに米国人により転位論が確立され、材料強度学における重要な地位を確立している。また、強度やトライボロジー特性に優れた鉄鋼材料の一種である工具鋼などは、熱処理を行うことで急激な金属結晶の変化が生じマルテンサイト構造になることでその優れた特性を得、塑性加工などの過酷な摩擦現象がおこる用途に用いられる。 【例】 いわゆる金属は、全て金属結晶であるとは言えない(金属的性質を示す準結晶やアモルファス金属などを除く←アモルファスは結晶ではない)。 金属では多形は一般的であり、それは温度変化にともなってしばしば起こる。異なる構造は通常温度の増加に応じて、α、β、γ、…という記号で区別される。例えばα-Feは906℃まで安定であり、1401℃でγ-Feに変化し、1530℃で再びα-Feに変わる。β-Feは通常の条件下では安定ではなく、高圧下でのみ存在する。 | {{出典の明記|date=2011年3月}}
'''金属結晶''' (きんぞくけっしょう) は、[[金属結合]]によって形成される[[結晶]]のこと。
金属結晶中では金属原子は最外殻[[電子]]を切り離し陽[[イオン]]となっている。この切り離された電子が[[自由電子]]となり結晶構成原子間を自由に動き回ることで結晶が保たれている。このため金属結晶は[[展延性|延性]]、[[展性]]、[[電気伝導性]]や[[熱伝導性]]に富み、独特の金属光沢をもつ。結晶なのに展延性(塑性加工性)に富むことを驚きの出発点とし、とくに米国人により転位論が確立され、材料強度学における重要な地位を確立している。また、強度やトライボロジー特性に優れた鉄鋼材料の一種である工具鋼などは、熱処理を行うことで急激な金属結晶の変化が生じマルテンサイト構造になることでその優れた特性を得、塑性加工などの過酷な摩擦現象がおこる用途に用いられる。
【例】 いわゆる[[金属]]は、全て金属結晶であるとは言えない(金属的性質を示す[[準結晶]]や[[アモルファス金属]]などを除く←[[アモルファス]]は結晶ではない)。
金属では[[多形]]は一般的であり、それは温度変化にともなってしばしば起こる。異なる構造は通常温度の増加に応じて、α、β、γ、…という記号で区別される。例えばα-Feは906℃まで安定であり、1401℃でγ-Feに変化し、1530℃で再びα-Feに変わる。β-Feは通常の条件下では安定ではなく、高圧下でのみ存在する。
==関連項目==
*[[化学]]
*[[物性物理]]
*[[結晶学]]
{{DEFAULTSORT:きんそくけつしよう}}
[[Category:結晶]]
[[Category:金属]] | 2003-03-11T12:22:40Z | 2023-08-23T11:44:58Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B1%9E%E7%B5%90%E6%99%B6 |
3,812 | ファンデルワールス結晶 | ファンデルワールス結晶(ファンデルワールスけっしょう)とは、分子間力の一種であるファンデルワールス力によって形成される結晶のこと。分子結晶とも呼ばれる。なお、分子性結晶という表現は、分子間力以外の結合様式も入り込んだ場合用いる用語である。
ファンデルワールス力による結合は弱いので、分子結晶の格子エネルギーは弱く、融点が低かったり、柔らかかったり、昇華性を持ったりする場合が多い。
主な例として、ドライアイスやナフタレン、非極性の高分子化合物などがあげられる。
一般に、静電相互作用や水素結合などのより強い分子間相互作用がはたらかないような分子が結晶となる場合にとる形式である。 | [
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] | ファンデルワールス結晶(ファンデルワールスけっしょう)とは、分子間力の一種であるファンデルワールス力によって形成される結晶のこと。分子結晶とも呼ばれる。なお、分子性結晶という表現は、分子間力以外の結合様式も入り込んだ場合用いる用語である。 ファンデルワールス力による結合は弱いので、分子結晶の格子エネルギーは弱く、融点が低かったり、柔らかかったり、昇華性を持ったりする場合が多い。 主な例として、ドライアイスやナフタレン、非極性の高分子化合物などがあげられる。 一般に、静電相互作用や水素結合などのより強い分子間相互作用がはたらかないような分子が結晶となる場合にとる形式である。 | '''ファンデルワールス結晶'''(ファンデルワールスけっしょう)とは、[[分子間力]]の一種である[[ファンデルワールス力]]によって形成される[[結晶]]のこと。'''分子結晶'''とも呼ばれる。なお、分子性結晶という表現は、分子間力以外の結合様式も入り込んだ場合用いる用語である。
ファンデルワールス力による結合は弱いので、分子結晶の[[格子エネルギー]]は弱く、[[融点]]が低かったり、柔らかかったり、昇華性を持ったりする場合が多い。
主な例として、[[ドライアイス]]や[[ナフタレン]]、非極性の[[高分子|高分子化合物]]などがあげられる。
一般に、[[静電相互作用]]や[[水素結合]]などのより強い分子間相互作用がはたらかないような分子が結晶となる場合にとる形式である。
== 関連項目 ==
* [[ファンデルワールス力]]
* [[分子結晶]]
* [[結晶学]]
{{DEFAULTSORT:ふあんてるわるすけつしよう}}
[[Category:結晶]]
[[Category:分子]]
[[Category:ヨハネス・ファン・デル・ワールス]] | null | 2021-06-21T11:33:07Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E7%B5%90%E6%99%B6 |
3,813 | 清水義範 | 清水 義範(しみず よしのり、1947年10月28日 -)は、日本の小説家。
パスティーシュ(文体模倣)の手法を用いた『蕎麦ときしめん』(1986年)、『永遠のジャック&ベティ』(1988年)など、諧謔を駆使した作品で異彩を放つ。ほかに『博士の異常な発明』(2002年)、『首輪物語』(2005年)など。
1947年、愛知県愛知郡天白村(現名古屋市天白区)生まれ。2歳のときに、名古屋市西区笠取町に移住した。名古屋市立庄内小学校、名古屋市立名塚中学校、愛知県立名古屋西高等学校、および愛知教育大学教育学部国語学科卒業。
中学時代からSFファンで、同人作家として自身でSF同人誌を発行。半村良の面識を得て、大学卒業後、半村の勧めで上京し半村に師事。1977年からソノラマ文庫を活動の場とし、『宇宙史シリーズ』などSFを中心に多数の少年作品を発表した。
その後、短編集『蕎麦ときしめん』では司馬遼太郎の文体で猿蟹合戦を叙述したり(『猿蟹の賦』。猿蟹合戦ネタでは他に丸谷才一の文体を用いた『猿蟹合戦とは何か』も発表している)、『日本人とユダヤ人』やそれをめぐる状況のパロディとなっている表題作など様々なパスティーシュの手法が用いられている。以降この手法を用いた短編を書き続け、その数は数百編に達する。この他にもユーモア色の濃い推理小説のシリーズを複数手がけたり、自伝的な青春小説シリーズを執筆している。推理小説シリーズの1つである「躁鬱探偵コンビの事件簿シリーズ」のうち、「H殺人事件」および「Y殺人事件」は、TBS系列で「Hは謎のイニシアル 女子短大生の愛のゆくえ -H殺人事件-」、「Y殺人事件 湯けむりスキーと女子大生!?」のタイトルでそれぞれ2時間ドラマ化されている。
また、加藤清正と北政所が名古屋弁で会話するショートショート『決断』を書いて以来、名古屋弁など名古屋を前面に押し出した「名古屋もの」と呼ばれる作品を多数著し、大須演芸場で「名古屋弁を全国に広める会」の功労賞を受賞。名古屋名誉市民になった。この路線の集大成が、豊臣氏が存続して名古屋幕府を開き、名古屋弁が標準語化した日本の近代史を描くパラレルワールドSF『金鯱の夢』である。最近では「お勉強シリーズ」をはじめとした西原理恵子とのコンビ作品がある。
日本語にまつわる著作が多いことから、NHKの用語委員を務める。
丸谷才一からは、「注目すべきパロディスト」「パロディを書くことと小説を作ることが両立して、両者は互いに相手を引き立てる、これは賞賛に値する才能」という評価を受けている。ただし、自身の作である『忠臣蔵とは何か』のパロディである『猿蟹合戦とは何か』については、素直に評価できない事を告白している。
現在、小説公募情報誌「月刊公募ガイド」の連載企画「小説の虎の穴」で選考委員を務めている。 | [
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"text": "その後、短編集『蕎麦ときしめん』では司馬遼太郎の文体で猿蟹合戦を叙述したり(『猿蟹の賦』。猿蟹合戦ネタでは他に丸谷才一の文体を用いた『猿蟹合戦とは何か』も発表している)、『日本人とユダヤ人』やそれをめぐる状況のパロディとなっている表題作など様々なパスティーシュの手法が用いられている。以降この手法を用いた短編を書き続け、その数は数百編に達する。この他にもユーモア色の濃い推理小説のシリーズを複数手がけたり、自伝的な青春小説シリーズを執筆している。推理小説シリーズの1つである「躁鬱探偵コンビの事件簿シリーズ」のうち、「H殺人事件」および「Y殺人事件」は、TBS系列で「Hは謎のイニシアル 女子短大生の愛のゆくえ -H殺人事件-」、「Y殺人事件 湯けむりスキーと女子大生!?」のタイトルでそれぞれ2時間ドラマ化されている。",
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] | 清水 義範は、日本の小説家。 パスティーシュ(文体模倣)の手法を用いた『蕎麦ときしめん』(1986年)、『永遠のジャック&ベティ』(1988年)など、諧謔を駆使した作品で異彩を放つ。ほかに『博士の異常な発明』(2002年)、『首輪物語』(2005年)など。 | {{別人|清水良典|x1=文芸評論家の}}
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{{読み仮名_ruby不使用|'''清水 義範'''|しみず よしのり|[[1947年]][[10月28日]] - }}は、[[日本]]の[[小説家]]。
パスティーシュ(文体模倣)の手法を用いた『蕎麦ときしめん』(1986年)、『永遠のジャック&ベティ』(1988年)など、諧謔を駆使した作品で異彩を放つ。ほかに『博士の異常な発明』(2002年)、『首輪物語』(2005年)など。
==人物==
1947年、[[愛知県]][[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]][[天白村 (愛知県)|天白村]](現[[名古屋市]][[天白区]])生まれ<ref name="生まれ"/>。2歳のときに、名古屋市[[西区 (名古屋市)|西区]][[笠取町]]に移住した<ref>{{Cite book|和書|author=清水義範|title=バールのようなもの|chapter=愛知妖怪事典 かさとり|page=265|language=日本語|publisher=文藝春秋|series=文春文庫|date=1998-09-10}}</ref>。[[名古屋市立庄内小学校]]、[[名古屋市立名塚中学校]]、[[愛知県立名古屋西高等学校]]<ref>[[高千穂遙]]は面識はなかったが後輩</ref>、および[[愛知教育大学]]教育学部国語学科卒業<ref>以上『やっとかめ!大(でゃあ)名古屋語辞典』より</ref>。
中学時代からSFファンで、[[同人作家]]として自身でSF同人誌を発行。[[半村良]]の面識を得て、大学卒業後、半村の勧めで上京し半村に師事<ref>半村原作『軍靴の響き』コミカライズ版へ清水が寄稿した追悼文によれば、教わったのは食い物や酒のことばかりだったという</ref>。1977年から[[ソノラマ文庫]]を活動の場とし、『宇宙史シリーズ』など[[サイエンス・フィクション|SF]]を中心に多数の少年作品を発表した。
その後、短編集『蕎麦ときしめん』では[[司馬遼太郎]]の文体で[[猿蟹合戦]]を叙述したり(『猿蟹の賦』。猿蟹合戦ネタでは他に[[丸谷才一]]の文体を用いた『猿蟹合戦とは何か』も発表している)、『日本人とユダヤ人』やそれをめぐる状況の[[パロディ]]となっている表題作など様々な[[パスティーシュ]]の手法が用いられている。以降この手法を用いた短編を書き続け、その数は数百編に達する。この他にもユーモア色の濃い[[推理小説]]のシリーズを複数手がけたり、自伝的な青春小説シリーズを執筆している。推理小説シリーズの1つである「躁鬱探偵コンビの事件簿シリーズ」のうち、「H殺人事件」および「Y殺人事件」は、TBS系列で「Hは謎のイニシアル 女子短大生の愛のゆくえ -H殺人事件-」、「Y殺人事件 湯けむりスキーと女子大生!?」のタイトルでそれぞれ2時間ドラマ化されている。
また、[[加藤清正]]と[[高台院|北政所]]が[[名古屋弁]]で会話する[[ショートショート]]『決断』を書いて以来、名古屋弁など[[名古屋市|名古屋]]を前面に押し出した「名古屋もの」と呼ばれる作品を多数著し、[[大須演芸場]]で「[[名古屋弁]]を全国に広める会」の功労賞を受賞。名古屋名誉市民になった。この路線の集大成が、豊臣氏が存続して名古屋幕府を開き、名古屋弁が標準語化した日本の近代史を描くパラレルワールドSF『金鯱の夢』である。最近では「お勉強シリーズ」をはじめとした[[西原理恵子]]とのコンビ作品がある。
[[日本語]]にまつわる著作が多いことから、[[日本放送協会|NHK]]の[[用語委員]]を務める<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/bunken/kotoba/yougo/index.html|title=NHK放送文化研究所 放送用語委員会|accessdate=2012-5-5}}2007年06月01日「用語の決定」等の出席者に名前が見える。</ref>。
[[丸谷才一]]からは、「注目すべきパロディスト」「パロディを書くことと小説を作ることが両立して、両者は互いに相手を引き立てる、これは賞賛に値する才能」という評価を受けている。ただし、自身の作である『忠臣蔵とは何か』のパロディである『猿蟹合戦とは何か』については、素直に評価できない事を告白している<ref>「国語入試問題必勝法」巻末解説・247頁</ref>。
現在、小説公募情報誌「月刊公募ガイド」の連載企画「小説の虎の穴」で選考委員を務めている<ref>[http://www.koubo.co.jp/ 月刊公募ガイドオフィシャルサイト]</ref>。
==略歴==
*1969年、自身の同人誌『スーパー・ノバ』に書いた「冒険狂時代」が『[[宇宙塵]]』に掲載、それが更に商業誌『推理界』に掲載される。
*1977年、「エスパー少年抹殺作戦」(朝日ソノラマ)で単行本デビュー。
*1981年 『昭和御前試合』により、一般向けデビュー(ということになっている)。
*1988年 『[[国語入試問題必勝法]]』により第9回[[吉川英治文学新人賞]]を受賞。
*『金鯱の夢』、『虚構市立不条理中学校』、『柏木誠治の生活』で[[直木賞]]候補になるがすべて落選<ref>以上『やっとかめ!大(でゃあ)名古屋語辞典』より引用</ref>。
*2009年 [[中日文化賞]](「名古屋文化の神髄紹介とユーモアあふれる作風」)受賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/info/award/culture/page07.html|title=中日文化賞:第62回|publisher=中日新聞|accessdate=2009-10-19}}{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20190525090846/https://www.chunichi.co.jp/info/award/culture/page07.html|date=2019-05-25 }}</ref>。
==作品リスト==
===シリーズ長編===
*エスパー少年シリーズ
:エスパー少年抹殺作戦 1977 (ソノラマ文庫)
:エスパー少年時空作戦 1978.2 (ソノラマ文庫)
*伝説シリーズ
:禁断星域の伝説 1979.1 (ソノラマ文庫 のちハルキ文庫)
:黄金惑星の伝説 1979.6 (ソノラマ文庫 のちハルキ文庫)
:不死人類の伝説 1979.10 (ソノラマ文庫 のちハルキ文庫)
:絶滅星群の伝説 1980.4 (ソノラマ文庫) のちハルキ文庫)
:楽園宇宙の伝説 1980.11 (ソノラマ文庫) のちハルキ文庫)
*剣闘士シリーズ
:魔界の剣闘士 1981.11 (フタバノベルス のち文庫)
:惑星の剣闘士 1982.7 (フタバノベルス のち文庫)
*エスパー・コネクションシリーズ
:神界の異端者 1981.5 (ソノラマ文庫)
:天空の魔道師 1981.12 (ソノラマ文庫)
:異形の渡来神 1982.8 (ソノラマ文庫)
:暗黒の破壊王 1982.12 (ソノラマ文庫)
*ハンター&ウィッチシリーズ
:妖魔よ翔べ 1983.5 (ソノラマ文庫)
:妖魔を撃て 1983.7 (ソノラマ文庫)
*魔獣学園シリーズ
:魔獣学園 1984.2 (ソノラマ文庫)
:魔獣学園2 1984.5 (ソノラマ文庫)
*幻想探偵社シリーズ
:怪事件が多すぎる 1984.9 (ソノラマ文庫)
:ABO殺人事件 1984.12 (ソノラマ文庫)
:不透明人間の挑戦 1987.1 (ソノラマ文庫)
:アリバイ崩しに御用心 1986.初夏(獅子王)
:不透明人間の挑戦 1985.初秋(獅子王)
:世にも不思議な他殺死体 1986.初冬(獅子王)
:エイリアン右往左往 1986.初夏(獅子王)
:新・幻想探偵社 1992.6(朝日ソノラマ)
:UWO現る! 1990.10(獅子王)
:涙なくしては語れない事件 1991.1(獅子王)
:怪人千面鬼 1991.1、1991.9(獅子王)
:"冬の恋" 1991.4(獅子王)
*ランドルフィ物語シリーズ
:聖金剛石の秘密 1985.2 (ソノラマ文庫)
:隻眼の魔術師 1985.4 (ソノラマ文庫)
:冥海の神獣島 1985.9 (ソノラマ文庫)
:大迷宮の邪王 1986.3 (ソノラマ文庫)
:異境の聖戦士 1986.7 (ソノラマ文庫)
:復讐の双生児 1987.9 (ソノラマ文庫)
:魔窟の飛兵団 1988.7 (ソノラマ文庫)
*高野山伝説シリーズ
:黄金の空隙 高野山秘宝伝説 1985.8 (シャピオ)
:.高野山黄金伝説 1988.5 (双葉文庫)
*躁鬱探偵コンビの事件簿シリーズ
:H殺人事件 1985.9 (光文社文庫)
:CM殺人事件 1986.9 (光文社文庫)
:DC殺人事件戦 1987.7 (光文社文庫)
:M殺人事件 1987.12 (光文社文庫)
:Y殺人事件 1989.1 (光文社文庫)
:W殺人事件 1990.9 (光文社文庫)
*霊界魔変録シリーズ
:霊峰黄金道 1987.10 (ソノラマ文庫)
:羽黒冥府道 1988.5 (ソノラマ文庫)
:恐山無明道 1989.8 (ソノラマ文庫
:死闘輪廻道 1990.3 (ソノラマ文庫)
*[[やっとかめ探偵団]]シリーズ
:やっとかめ探偵団 1988.5 (光文社文庫)
:やっとかめ探偵団危うし 1989.12 (光文社文庫)
:やっとかめ探偵団と殺人魔 1996.3 (光文社文庫)
:やっとかめ探偵団とゴミ袋の死体 2000.10 (祥伝社文庫)
:やっとかめ探偵団と鬼の栖 2002.8 (実業之日本社 のち光文社文庫)
===短編集===
*『[[世にも奇妙な物語 映画の特別編|昭和御前試合]]』[[ソニー・マガジンズ|CBS・ソニー出版]] 1981 のち光文社文庫
*『グローイング・ダウン』[[光風社出版]] 1986
*『蕎麦ときしめん』講談社、1986 のち文庫
*『[[国語入試問題必勝法]]』講談社、1987 のち文庫
*『永遠のジャック&ベティ』講談社 1988 のち文庫
*『深夜の弁明』[[実業之日本社]] 1988 のち講談社文庫、徳間文庫
*『アキレスと亀』[[広済堂出版]]、1989 のち角川文庫、広済堂文庫
*『青春小説』講談社 1989 のち文庫、中公文庫
*『イエスタデイ』徳間書店 1989 のち文庫、講談社文庫
*『ビビンパ』講談社、1990 のち文庫
*『動物ワンダーランドーヒト特集』実業之日本社 1990 のち文春文庫
*『秘湯中の秘湯 「ことば」の前衛喜劇全11編!』[[大陸書房]] 1990 のち新潮文庫
*『河馬の夢』[[祥伝社]]、1990 のち新潮文庫
*『ムイミダス』[[毎日新聞社]]、1991 のち文春文庫
*『お金物語』[[朝日新聞社]]、1991 のち講談社文庫
*『単位物語』朝日新聞社、1991 のち講談社文庫
*『黄昏のカーニバル』徳間書店、1991 のち文庫、講談社文庫
*『主な登場人物』実業之日本社、1991 のち角川文庫
*『ジャンケン入門』[[天山出版]] 1991 のち角川文庫
*『清水義範本人の愛好本 自選傑作集』講談社 1991
*『人生うろうろ』[[中央公論社]]、1992 のち文庫、講談社文庫
*『世界文学全集』[[集英社]]、1992 「普及版世界文学全集」文庫
*『ダムとカンナとシンシロシテン』[[文芸春秋]] 1992 「酒とバラの日々」文庫
*『世界衣裳盛衰史』[[角川書店]] 1992 のち文庫
*『日本文学全集』実業之日本社 1992 「普及版日本文学全集」集英社文庫
*『発言者たち』文藝春秋、1993 のち文庫
*『私は作中の人物である』講談社、1993 のち文庫、中公文庫
*『シナプスの入江』[[福武書店]]、1993 のち文庫
*『バラバラの名前』広済堂出版 1993 のち文庫、新潮文庫
*『陽のあたらない坂道』[[新潮社]] 1993 のち文庫
*『遥か幻のモンデルカ』集英社 1993 「大探検記 遥か幻のモンデルカ」文庫
*『黄昏の悪夢 自選恐怖小説集』1993 角川ホラー文庫
*『似ッ非イ教室』講談社、1994 のち文庫
*『バスが来ない』徳間書店、1994 のち文庫
*『戦時下動物活用法』実業之日本社 1994 のち新潮文庫
*『バールのようなもの』文藝春秋、1995 のち文庫
*『体に悪いことしてますか』[[祥伝社]] 1995 「ピンポン接待術」文庫
*『日本ジジババ列伝』中央公論社 1995 のち文庫、講談社文庫
*『騙し絵 日本国憲法』集英社、1996 のち文庫
*『ターゲット』実業之日本社 1996 のち新潮文庫
*『茶色い部屋の謎』光文社文庫、1997
*『12皿の特別料理』角川書店 1997 のち文庫
*『ザ・対決』講談社、1998 のち文庫
*『本番いきま~す』実業之日本社 1998 「間違いだらけのビール選び」講談社文庫)
*『親亀こけたら』徳間書店 1998 のち文庫
*『その後のシンデレラ』祥伝社 1998 のち文庫
*『永遠のタージ』1999 (角川文庫)
*『大剣豪』2000 (講談社文庫)
*『日本語の乱れ』集英社 2000 のち文庫
*『ゴミの定理』実業之日本社 2001 のち講談社文庫
*『世にも珍妙な物語集』講談社 2001 のち文庫
*『博士の異常な発明』集英社 2002 のち文庫
*『ザ・勝負』講談社 2002 のち文庫
*『笑う霊長類』文藝春秋 2003
*『Money』徳間書店 2004 のち文庫
*『首輪物語』集英社 2005 のち文庫
*『読み違え源氏物語』文藝春秋 2007
*『新アラビアンナイト』2007 集英社文庫
*『清水義範パスティーシュ100』全6冊 [[ちくま文庫]]、2008-2009
*『会津春秋』集英社文庫、2012
===長編===
*『緑の侵略者』1978 (ソノラマ文庫)
*『パステル学園大乱戦』1987(光風社出版 のち角川文庫)
*『超・怪盗入門』フタバノベルス 1987 のち文庫、角川文庫
*『金鯱の夢』集英社 1989 のち文庫
*『[[学問ノススメ]] 奮闘編 挫折編 自立編』光文社カッパノベルス、1989-1990 のち文庫
*『超・誘拐入門』フタバノベルス、1989 のち文庫、角川文庫
*『ことばの国』集英社、1990 のち文庫
*『虚構市立不条理中学校』正続 徳間書店、1990-1991 のち文庫、講談社文庫
*『江勢物語』1991 角川文庫
*『柏木誠治の生活』[[岩波書店]]、1991 のち新潮文庫
*『ナウの水びたし』文芸春秋 1991 のち文庫
*『スシとニンジャ』講談社、1992 のち文庫
*『神々の午睡』講談社 1992 のち文庫
*『青山物語1971』光文社 1992 のち文庫
*『ニッポン見聞録』角川書店 1993
*『青山物語1974 スニーカーと文庫本』光文社 1994 のち文庫
*『袖すりあうも他生の縁』角川書店 1994 のち文庫
*『催眠術師』福武書店 1994 のち文庫
*『春高楼の』講談社、1995 のち文庫
*『家族の時代』[[読売新聞社]] 1995 のち角川文庫
*『名前がいっぱい』新潮社 1996 のち文庫
*『新築物語 または、泥江龍彦はいかにして借地に家を建て替えたか』角川書店 1996 のち文庫
*『まちまちな街々 ニッポン見聞録』1996 角川文庫
*『偽史日本伝』集英社 1997 のち文庫
*『死神』ベネッセコーポレーション、1998 のち角川文庫
*『上野介の忠臣蔵』文藝春秋 1999 のち文庫
*『迷宮』集英社 1999 のち文庫
*『みんな家族』文藝春秋、2000 のち文庫
*『二重螺旋のミレニアム』[[マガジンハウス]] 2000 「遺伝子インフェルノ」幻冬舎文庫
*『尾張春風伝』2000 (幻冬舎文庫)([[徳川宗春]]を描く)
*『八つの顔を持つ男』朝日新聞社 2000 光文社文庫
*『銀河がこのようにあるために』[[早川書房]] 2000
*『スタア』[[幻冬舎]]、2001 のち文庫
*『[[平賀源内|源内]]万華鏡』2001 (講談社文庫)
*『蛙男』2002 (幻冬舎文庫)
*『幸福の軛』幻冬舎 2003 のち文庫
*『青山物語1979 郷愁完結編』2004 (光文社文庫)
*『[[バードケージ (小説)|バードケージ]]』[[日本放送出版協会]] 2004
*『イマジン』集英社 2004 のち文庫
*『[[漱石先生大いに悩む]]』[[小学館]] 2004
*『[[福沢諭吉]]は謎だらけ。心訓小説』小学館、2006
*『冬至祭』[[筑摩書房]] 2006
*『疑史世界伝』集英社 2007 「シミズ式目からウロコの世界史物語」文庫
*『ドン・キホーテの末裔』筑摩書房 2007 のち[[岩波現代文庫]] 2013
*『幕末裏返史』集英社 2008 「ifの幕末」文庫
*『いい奴じゃん』講談社 2008 のち文庫
*『愛と日本語の惑乱』[[ベストセラーズ]] 2008 のち講談社文庫 2014
*『川のある街 [[伊勢湾台風]]物語』[[中日新聞社]]、2009
*『龍馬の船』2009 集英社文庫
*『信長の女』2011 集英社文庫
*『朦朧戦記』新潮社 2015
===エッセイ===
*『パスティーシュと透明人間』実業之日本社、1992 のち新潮文庫
*『映画でボクが勉強したこと ほんとーに素敵だ』毎日新聞社 1993 のち幻冬舎文庫
*『清水義範の作文教室』早川書房 1995 のち文庫
*『日本語がもっと面白くなるパズルの本 難問、奇問、愚問を解』1997 光文社文庫
*『青二才の頃 回想の'70年代』講談社 1999 のち文庫
*『今どきの教育を考えるヒント』講談社 1999 のち文庫
*『もうなつかしい平成の年表』講談社 2000
*『日本語必笑講座』講談社 2000 のち文庫
*『目からウロコの教育を考えるヒント』講談社 2001 のち文庫
*『作文ダイキライ』2001 (学研M文庫)
*『サイエンス言誤学』朝日新聞社 2001 のち文庫
*『清水義範ができるまで』[[大和書房]] 2001 のち講談社文庫
*『銅像めぐり旅 蘊蓄紀行』祥伝社 2002 のち文庫
*『行儀よくしろ。』 2003 ([[ちくま新書]])
*『やっとかめ!大名古屋語辞典』学習研究社 2003
*『清水義範のほめ言葉大事典』[[白泉社]] 2004
*『大人のための文章教室』2004 ([[講談社現代新書]])
*『わが子に教える作文教室』2005 (講談社現代新書)
*『「大人」がいない…』ちくま新書、2006
*『スラスラ書ける!ビジネス文書』講談社現代新書、2006
*『ああ知らなんだこんな世界史』毎日新聞社 2006 のち朝日文庫
*『小説家になる方法 本気で考える人のための創作活動のススメ』[[ビジネス社]] 2007
*『早わかり世界の文学―パスティーシュ読書術』ちくま新書、2008
*『幸せになる力』[[ちくまプリマー新書]]、2008
*『世界文学必勝法』筑摩書房 2008
*『身もフタもない日本文学史』2009 [[PHP新書]] 「学校では教えてくれない日本文学史」文庫
*『夫婦で行くイスラムの国々』2009 集英社文庫
*『暴言で読む日本史』メディアファクトリー新書、2011
*『夫婦で行くイタリア歴史の街々』2011 集英社文庫
*『夫婦で行くバルカンの国々』集英社文庫、2013
*『50代から上手に生きる人ムダに生きる人』[[三笠書房]]・知的生きかた文庫 2013
*『50代から余裕が生まれる人なくなる人』三笠書房・知的生きかた文庫 2013
*『考えすぎた人 お笑い哲学者列伝』新潮社、2013 文庫 2015
*『心を操る文章術』[[新潮新書]] 2014
*『ちょっと毒のあるほうが、人生うまくいく!』三笠書房 知的生きかた文庫 2015
*『夫婦で行く旅の食日記 世界あちこち味巡り』集英社文庫 2015
*『夫婦で行く意外とおいしいイギリス』集英社文庫 2016
*『ウケる!大人の会話術』[[朝日新書]] 2017
*『日本の異界 名古屋』[[ベスト新書]] 2017
===西原理恵子 絵===
*『おもしろくても理科』講談社、1994 のち文庫
*『もっとおもしろくても理科』講談社、1996 のち文庫
*『どうころんでも社会科』講談社、1998 のち文庫
*『もっとどうころんでも社会科』講談社、1999 のち文庫
*『いやでも楽しめる算数』講談社、2001 のち文庫
*『はじめてわかる国語』講談社、2002 のち文庫
*『飛びすぎる教室 先生の雑談風に』講談社 2003 のち文庫
*『独断流「読書」必勝法』講談社、2007 のち文庫
*『雑学のすすめ』講談社、2007 のち文庫
*『清水義範のイッキによめる!学校よりおもしろい社会』講談社 2010
*『清水義範のイッキによめる!日本史人物伝 古代編 (ヤマトタケル・卑弥呼・聖徳太子・中大兄皇子・大海人皇子)』講談社 2012
*『清水義範のイッキによめる!日本史人物伝. 平安時代&武士の誕生編 (桓武天皇・空海・平将門 平清盛・源義経・北条時宗 後醍醐天皇・足利尊氏)』講談社 2013
*『清水義範のイッキによめる!日本史人物伝. 戦国時代~幕末激動編 (織田信長・徳川家康・徳川吉宗 井伊直弼・吉田松陰・勝海舟 坂本龍馬・西郷隆盛)』講談社 2014
===共編著===
*『笑説大名古屋語事典』学習研究社、1994(編著)のち角川文庫
*『電脳兄弟のパソコン放浪記』清水幸範共著 朝日新聞社 1994.5 「パソコン・マスターへの道」光文社文庫
*『日本の名随筆 別巻 66 方言』 [[作品社]] 1996
*『一日の終わりに50の名作一編』 2008 成美文庫
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==関連項目==
*[[吉良義央]]
*[[ココだけの話]] - 『バスが来ない』などの短編をドラマ化
*[[世にも奇妙な物語]] - 『シャーロック・ホームズの口寄せ』『もれパス係長』などの短編をドラマ化
*[[立川志の輔]] - 『バールのようなもの』などの作品を落語として口演
*[[徳川宗春]]
*[[パスティーシュ]]
*[[夏目漱石]] - 『漱石先生大いに悩む』
*[[半村良]]
*[[福澤心訓]] - 『福沢諭吉は謎だらけ。心訓小説』
*[[福澤諭吉]] - 『[[学問ノススメ]]』をテレビドラマ化
*[[ベルンハルド・カールグレン]]
*[[名港トリトン]]
*[[山田昌]]
*[[ジンクピリチオン効果]] - 名前の命名者
==外部リンク==
*{{Cite web|和書|author=清水幸範|url=http://www.asahi-net.or.jp/~JF7Y-SMZ/|title=清水家のお茶の間ページ|accessdate=2011-09-11}}
*[[平山洋]]との往復書簡
**{{Cite web|和書|author=平山洋|date=2010-11-14 |url=http://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/h35/|title=2006年10月23日付 作家清水義範氏宛ての書簡|accessdate=2011-09-11}}
**{{Cite web|和書|author=平山洋|date=2010-11-14|url=http://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/h36/|title=2006年11月05日付 作家清水義範氏からの書簡|accessdate=2011-09-11}}
*[https://web.archive.org/web/20070209014634/http://www.moura.jp/liter/zatsugaku/ 雑学のすすめ]
*[https://web.archive.org/web/20071003002457/http://y-shimizu.moura.jp/ いい奴じゃん]
{{吉川英治文学新人賞|第9回}}
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3,814 | ミニコン | ミニコン | [
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エレクトロニカのアーティストミニコン (ミュージシャン) (minikon)。 | '''ミニコン'''
*[[ミニコンピュータ]]の略。
*[[ミニコンポ]]の略。
*アニメ「TRANSFORMERS ARMADA(邦題:[[超ロボット生命体トランスフォーマー マイクロン伝説 ]])」に登場する[[トランスフォーマー]]の小型の種族。和名[[マイクロン (トランスフォーマー)|マイクロン]]。
*[[エレクトロニカ]]のアーティスト[[ミニコン (ミュージシャン)]] (minikon)。
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3,815 | 都営地下鉄 |
都営地下鉄(とえいちかてつ)は、東京都地下高速電車条例(昭和35年11月26日東京都条例第94号) に基づき、東京都が運営している地下鉄である。モノレール・軌道・バス事業とともに地方公営企業管理者の権限下で東京都交通局が事務を行っている。
東京都特別区及びその周辺地域に浅草線、三田線、新宿線、大江戸線の4路線がある。2000年10月14日から2008年3月14日まで利用可能だったパスネットの符丁はTO。パスネット対応カードをTカードの名称で取り扱っていた。
東京の地下鉄は、東京地下鉄(東京メトロ)の前身の帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が建設するものとされていたが、1957年6月の都市交通審議会において、地下鉄建設を営団だけでなく、複数の事業主体で進めるべきであるとした。そのため、既に営団が受けていた第1号線(浅草線)の免許を、東京都及び京浜急行電鉄(京急電鉄)に譲渡したことが始まりである。その後、第6号線(三田線)と第10号線(新宿線)も都市計画決定の過程で、東京都が建設するものとして調整された。
鉄道の仕様が各路線で異なり、浅草線が1,435 mm軌間の標準軌、三田線が1,067 mm軌間の狭軌、新宿線が1,372 mm軌間の変則軌間(馬車軌間)、大江戸線が標準軌ベースのリニア方式が用いられている。これは直通先の鉄道事業者が採用している軌間に合わせたためで、浅草線は京浜急行電鉄に(もう一方の京成電鉄は改軌工事を実施。当時北総鉄道は未設立)、三田線は当初直通予定であった東武鉄道および一旦直通計画は消滅するも後の計画変更で別路線への直通を果たした東京急行電鉄(現・東急電鉄)に(当時相模鉄道との直通計画は存在せず)、新宿線は京王帝都電鉄(現・京王電鉄)に(当時千葉県営鉄道への直通計画も京王電鉄と同様にされていたが、未成線となったため実現しなかった)それぞれ合わせている。大江戸線は他者線への乗り入れを行わず、また、建設費削減のためミニ地下鉄方式を採用したために仕様が独特であるが、標準軌であるため電気機関車の牽引により浅草線へ回送入線が可能である
三田線は、東急目黒線に加えて、2023年3月18日に開業した東急新横浜線を介して相模鉄道(相鉄)との直通運転を開始した。将来の構想として、大江戸線は終点の光が丘駅から大泉学園町方面への延伸が検討されている(「都営地下鉄大江戸線#延伸構想」を参照)。
都営地下鉄は次の4路線がある。なお、路線番号(計画路線名)は東京地下鉄(東京メトロ)との連番であるため、飛びがある。路線名は東京メトロの路線と区別をつけるため、一般的には「都営○○線」と呼ぶことがある。
大江戸線を除く各線において、他社との相互(相鉄のみ当面は片方向)直通運転が行われている。 東京メトロでは東京都に隣接する神奈川県、千葉県、埼玉県には乗り入れているものの、都営は埼玉県には唯一乗り入れていない。
形式の呼称は名古屋市営地下鉄などと同様、「系」ではなく「形」と称す。
2019年(令和元年)10月1日改定。(小児半額・端数がある場合、ICカードの場合は1円未満の端数は切り捨て、切符利用の場合は10円単位で切り上げ)。
都営地下鉄では、通勤・通学定期券のほかに全線を対象にした全線定期券も発売されている。有効期間はいずれも1か月・3か月・6か月の3種類がある。また、以下のような場合に割引が適用されている。
2006年10月25日から、都営地下鉄の定期乗車券購入(全線定期券・連絡定期券を含む)にJCB・Visa・マスターカード等の一般クレジットカードが使用できるようになった。当初は定期券発売所のみの取り扱いだったが、追って2007年3月4日から自動券売機(IC定期券発売機の配備されていない一部の駅を除く)でも開始されている。
回数券については、障害者割引回数乗車券および通学用割引回数乗車券(放送大学生用・通信教育生用)を発売している。
かつては終日利用可能な金額式回数券(11枚綴り・有効期間3か月)を発売していたが、2023年3月17日をもって発売を終了した。
都営地下鉄各駅で購入できる乗車券のうち、一部(企画乗車券、自動券売機により発売する定期乗車券等)は他社が管理する押上(京成電鉄管理)、目黒(東急電鉄管理)、白金台及び白金高輪(東京地下鉄管理)、新宿線新宿(新線新宿駅・京王電鉄管理)の各駅では取り扱いをしない。これにあたって、同局ではこれらの駅で不発売の乗車券を購入するために、当該乗車券を発売する各駅との間を往復乗車する場合、乗車駅では普通乗車券を券売機で購入し、改札口において定期券購入の証明印を押印する。降車駅ではその乗車券を提示したうえで、当該乗車券を購入する。証明印を受けた普通乗車券は当該乗車券購入時に払い戻し、復路の乗車券が必要な場合には無料の乗車証を交付している。この取り扱いは東京地下鉄と異なり、当該定期券等を自動券売機で購入する場合にも適用される。ただし、新宿駅には大江戸線の駅(東京都交通局管理。ただし他線の新宿駅とは異なり渋谷区に位置する)もあり、こちらでは当該乗車券を取り扱う。
上記各乗車券を提示するだけで都内にある100以上のスポットで割引などを受けられる「ちかとく」サービス(2014年4月1日開始。東京メトロの「ちか旅。」、都営の「いっとく」を統合)も利用できる。
通常、駅を通過するのは回送列車・試運転列車のほかに、営業運転では浅草線のエアポート快特と新宿線の急行のみ。それ以外はすべて各駅に停車する。浅草線と新宿線では列車が通過する際に警報音をホームで鳴打する。
駅構内および車内の自動放送の担当者は以下の通り(プロフィールなどで情報がある者のみ記載)。
経営状況は、2004年(平成16年)度は約134億7,000万円の赤字、2005年度で約38億7300万円の赤字と、長年赤字に苦しんでいた。しかし近年に赤字幅が大幅に減少し、地下鉄事業を始めてから47年目である2006年度に25億2800万円の初の純利益を計上し、黒字に転換した。以来毎年、黒字を継続しており、莫大な累積欠損金を少しずつ削減している。
下表からわかるように、直近6年度では浅草線・三田線・新宿線は黒字となっている。大江戸線のみが長年赤字となっていたが、これは減価償却費(2017年度は約221億9400万円) 及び支払利息等が大きな負担となっているためである。ただし乗車料収入については約426億7700万円と、4路線の中では最も多い。2016年度には、開業後初めて大江戸線が黒字に転じた。なお、2008年度浅草線の純利益が大幅に増加したのは、主に旧馬込工場跡地の売却(63億円あまり)によるものである。
累積欠損金が過大なため、過去に財政再建団体に転落したことがある。近年においての単年度の黒字決算はじめ大江戸線の有利子負債の償却等により欠損金の削減は進んではいるものの、2020年度末においてもなお約2082億円の累積欠損金が残っている状態である。しかし、2028年度には解消する見通しである。
都営地下鉄には、過去に何度か民営化構想や帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)との統合構想、他社への売却構想などが出たことがある。2013年12月まで、東京都交通局の最高責任者であった当時の東京都知事の猪瀬直樹は、2012年東京都知事選挙直後に開かれた記者会見で、猪瀬の前の都知事である石原慎太郎が手がけてきた地下鉄一元化を引き続き推進していく方針を表明している。その後2013年2月20日に行われた施政方針演説の中で、猪瀬は東京地下鉄の株式を東京都が保有する形での一元化を具体的な方法論として示し、演説の時点で進められていたサービス一体化への取り組み(九段下駅ホームの改良工事や乗り継ぎ割引適用の拡大など。いずれも同年3月16日に完成または運用開始)を「経営一元化への一里塚」と位置づけた。
一連の統合議論の発端となったのが、2009年6月26日のJNN(TBS系列)のニュースで、東京都交通局が東京地下鉄との統合交渉を行い、東京地下鉄の株式上場を条件に上下分離方式(東京地下鉄が第二種鉄道事業者で東京都交通局が第三種事業者にする方式が有力)で統合する覚書に合意したと報じられた。2009年度に計画されている東京地下鉄の株式上場が統合の条件で、株価の動向次第では先送りされる可能性があるとも報じられている。JNNのカメラ取材に対し、当時の都知事であった石原は「覚書は交わしたんだけど、それ(統合)は時期の問題、タイミングの問題でしょう。ユーザーのためには絶対そう(統合)すべきだと思います」とコメントしている。さらに、6月29日には続報として、株式上場後も最終的な割合で国23%、東京都20%の出資を維持することで調整を進めていると伝えた。
2009年11月11日に行われた東京地下鉄の2009年9月中間連結決算の記者会見の場において、なお両者が統合に向けた協議を続行中であることが明らかにされた。また、2010年3月5日に行われた石原知事の記者会見では、上場予定の東京地下鉄株を東京都が購入する考えを明らかにした。
2010年6月19日に行われた東京地下鉄株主総会では東京都副知事(当時)の猪瀬直樹が出席し、両者の統合に関して協議を続けるように主張した。
同年8月3日から国土交通省鉄道局主導により「東京の地下鉄の一元化等に関する協議会」が行われ、東京地下鉄と東京都交通局の代表者に加え東京都副知事の猪瀬と国土交通審議官、財務省理財局次長も参加しての協議が行われている。11月16日に行われた第3回の協議会で、国側は資産などを合計した企業価値から負債を差し引いた「株式価値」について、東京地下鉄が4000億から6000億円のプラスであるのに対し、都営地下鉄は1800億から7300億円のマイナスとの試算結果を示し、現状のまま統合すると(完全民営化を予定しており、国が保有する株式を売却することになる)東京地下鉄の株式の価値を棄損するとして、統合のためには都営地下鉄のさらなる債務圧縮が必要、と統合に消極的な姿勢を示した。これに対して猪瀬は「株をいかに高く売るかだけがテーマでなく、利用者の目線で考えて、利用者のためにどうするかということで一元化を進めるべきである。株式価値だけを全面に押し出すのはおかしい」と反論している。
2011年、国が東日本大震災被災地の復興財源捻出のため、保有する東京地下鉄株の売却を検討するという問題に対して、石原知事や猪瀬副知事(共に当時)は東京地下鉄株が売却された場合は東京都がその全株式を購入し、過半数を保有するという姿勢を見せている。
なお、東京都交通局は都営地下鉄だけでなく、都営バス・東京さくらトラムや新交通システムの日暮里・舎人ライナー・上野動物園モノレールといった各種交通機関の運行も行っているが、これらの運行や駅・車両などの管理先については言及されていない(都営バスの一部の路線等を委託されているはとバスには東京地下鉄やそのグループであるメトロ文化財団も出資している)。 | [
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"text": "経営状況は、2004年(平成16年)度は約134億7,000万円の赤字、2005年度で約38億7300万円の赤字と、長年赤字に苦しんでいた。しかし近年に赤字幅が大幅に減少し、地下鉄事業を始めてから47年目である2006年度に25億2800万円の初の純利益を計上し、黒字に転換した。以来毎年、黒字を継続しており、莫大な累積欠損金を少しずつ削減している。",
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"text": "都営地下鉄には、過去に何度か民営化構想や帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)との統合構想、他社への売却構想などが出たことがある。2013年12月まで、東京都交通局の最高責任者であった当時の東京都知事の猪瀬直樹は、2012年東京都知事選挙直後に開かれた記者会見で、猪瀬の前の都知事である石原慎太郎が手がけてきた地下鉄一元化を引き続き推進していく方針を表明している。その後2013年2月20日に行われた施政方針演説の中で、猪瀬は東京地下鉄の株式を東京都が保有する形での一元化を具体的な方法論として示し、演説の時点で進められていたサービス一体化への取り組み(九段下駅ホームの改良工事や乗り継ぎ割引適用の拡大など。いずれも同年3月16日に完成または運用開始)を「経営一元化への一里塚」と位置づけた。",
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"text": "一連の統合議論の発端となったのが、2009年6月26日のJNN(TBS系列)のニュースで、東京都交通局が東京地下鉄との統合交渉を行い、東京地下鉄の株式上場を条件に上下分離方式(東京地下鉄が第二種鉄道事業者で東京都交通局が第三種事業者にする方式が有力)で統合する覚書に合意したと報じられた。2009年度に計画されている東京地下鉄の株式上場が統合の条件で、株価の動向次第では先送りされる可能性があるとも報じられている。JNNのカメラ取材に対し、当時の都知事であった石原は「覚書は交わしたんだけど、それ(統合)は時期の問題、タイミングの問題でしょう。ユーザーのためには絶対そう(統合)すべきだと思います」とコメントしている。さらに、6月29日には続報として、株式上場後も最終的な割合で国23%、東京都20%の出資を維持することで調整を進めていると伝えた。",
"title": "東京地下鉄(東京メトロ)との統合議論"
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"text": "2009年11月11日に行われた東京地下鉄の2009年9月中間連結決算の記者会見の場において、なお両者が統合に向けた協議を続行中であることが明らかにされた。また、2010年3月5日に行われた石原知事の記者会見では、上場予定の東京地下鉄株を東京都が購入する考えを明らかにした。",
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"text": "2010年6月19日に行われた東京地下鉄株主総会では東京都副知事(当時)の猪瀬直樹が出席し、両者の統合に関して協議を続けるように主張した。",
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"text": "2011年、国が東日本大震災被災地の復興財源捻出のため、保有する東京地下鉄株の売却を検討するという問題に対して、石原知事や猪瀬副知事(共に当時)は東京地下鉄株が売却された場合は東京都がその全株式を購入し、過半数を保有するという姿勢を見せている。",
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"text": "なお、東京都交通局は都営地下鉄だけでなく、都営バス・東京さくらトラムや新交通システムの日暮里・舎人ライナー・上野動物園モノレールといった各種交通機関の運行も行っているが、これらの運行や駅・車両などの管理先については言及されていない(都営バスの一部の路線等を委託されているはとバスには東京地下鉄やそのグループであるメトロ文化財団も出資している)。",
"title": "東京地下鉄(東京メトロ)との統合議論"
}
] | 都営地下鉄(とえいちかてつ)は、東京都地下高速電車条例(昭和35年11月26日東京都条例第94号) に基づき、東京都が運営している地下鉄である。モノレール・軌道・バス事業とともに地方公営企業管理者の権限下で東京都交通局が事務を行っている。 東京都特別区及びその周辺地域に浅草線、三田線、新宿線、大江戸線の4路線がある。2000年10月14日から2008年3月14日まで利用可能だったパスネットの符丁はTO。パスネット対応カードをTカードの名称で取り扱っていた。 | {{pp-vd|small=y}}
{{pathnav|地下鉄|日本の地下鉄|[[東京の地下鉄|東京都内の地下鉄]]|frame=1}}
{{Otheruseslist|東京都が運営する地下鉄|[[東京地下鉄]]なども含めた東京の地下鉄全般|東京の地下鉄|2004年に設立された「東京メトロ」と通称する東京の地下鉄運営会社|東京地下鉄}}
{{Infobox 公共交通機関
|名称=都営地下鉄<!--#009f40-->
|ロゴ=
|ロゴサイズ=
|画像=Symbol of Tokyo Metropolis.svg
|画像サイズ=90px
|画像説明=1989年6月1日に制定された<br />東京都のシンボルマークを使用(局章は別に制定)。
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]]、[[千葉県]]
|種類=[[地下鉄]]
|開業={{Start date and age|1960|12|4}}
|廃止=
|所有者=
|運営者=[[東京都交通局]]
|ウェブサイト=[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/index.html 都営地下鉄公式ウェブサイト]
|総延長距離=109 km
|路線数=4路線
|駅数=106駅
|輸送人員=
|1日利用者数=
|保有車両数=
|軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]](大江戸線、浅草線)<br>1,372 mm(新宿線)<br>1,067 mm(三田線)
|電化方式=[[直流電化|直流]] 1500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|最高速度=70 [[キロメートル毎時|km/h]](浅草線、大江戸線)<br>75 km/h(三田線、新宿線)
|路線図=[[File:Tokyo metro map ja - Toei Subway lines.png|300px|都営地下鉄の路線図]]
}}
'''都営地下鉄'''(とえいちかてつ)は、東京都地下高速電車条例(昭和35年11月26日東京都条例第94号)<ref>[https://www.reiki.metro.tokyo.lg.jp/reiki/reiki_honbun/g101RG00001682.html 東京都地下高速電車条例] {{Wayback|url=https://www.reiki.metro.tokyo.lg.jp/reiki/reiki_honbun/g101RG00001682.html |date=20221223133005 }}</ref> に基づき、[[東京都]]が運営している[[地下鉄]]である。モノレール・軌道・バス事業とともに[[地方公営企業]]管理者の権限下で[[東京都交通局]]が事務を行っている。
[[東京都特別区]]及びその周辺地域に[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]、[[都営地下鉄三田線|三田線]]、[[都営地下鉄新宿線|新宿線]]、[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]の4路線がある。[[2000年]][[10月14日]]から[[2008年]][[3月14日]]まで利用可能だった[[パスネット]]の符丁は'''TO'''。パスネット対応カードを[[Tカード]]の名称で取り扱っていた。
== 概要 ==
東京の地下鉄は、[[東京地下鉄]](東京メトロ)の前身の[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)が建設するものとされていたが、[[1957年]]6月の都市交通審議会において、地下鉄建設を営団だけでなく、複数の事業主体で進めるべきであるとした。そのため、既に営団が受けていた第1号線(浅草線)の免許を、東京都及び[[京浜急行電鉄]](京急電鉄)に譲渡したことが始まりである。その後、第6号線(三田線)と第10号線(新宿線)も都市計画決定の過程で、東京都が建設するものとして調整された。
鉄道の仕様が各路線で異なり、浅草線が1,435 mm[[軌間]]の[[標準軌]]、三田線が[[3フィート6インチ軌間|1,067 mm軌間]]の[[狭軌]]、新宿線が[[4フィート6インチ軌間|1,372 mm軌間]]の変則軌間(馬車軌間)、大江戸線が標準軌ベースの[[リニアモーターカー#鉄輪式|リニア]]方式が用いられている。これは直通先の鉄道事業者が採用している軌間に合わせたためで、浅草線は[[京浜急行電鉄]]に(もう一方の[[京成電鉄]]は改軌工事を実施。当時[[北総鉄道]]は未設立)、三田線は当初直通予定であった[[東武鉄道]]および一旦直通計画は消滅するも後の計画変更で別路線への直通を果たした東京急行電鉄(現・[[東急電鉄]])に(当時[[相模鉄道]]との直通計画は存在せず)、新宿線は[[京王電鉄|京王帝都電鉄]](現・京王電鉄)に(当時[[千葉県営鉄道]]への直通計画も京王電鉄と同様にされていたが、未成線となったため実現しなかった)それぞれ合わせている。大江戸線は他者線への乗り入れを行わず、また、建設費削減のため[[日本の地下鉄#ミニ地下鉄|ミニ地下鉄]]方式を採用したために仕様が独特であるが、標準軌であるため[[電気機関車]]の牽引により浅草線へ回送入線が可能である
三田線は、東急目黒線に加えて、2023年3月18日に開業した[[東急新横浜線]]を介して[[相模鉄道]](相鉄)との直通運転を開始した<ref name="相鉄直通計画">{{Cite press release|1=和書|title=2023年3月18日(土)相鉄新横浜線※1・東急新横浜線開業に伴い形成される 広域鉄道ネットワークの直通運転形態および主な所要時間について|publisher=東京都交通局|date=2022-12-16|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2022/sub_p_2022121610731_h_01.pdf|format=PDF|access-date=2022-12-17|archive-date=2022年12月22日|archive-url=https://web.archive.org/web/20221222085618/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2022/sub_p_2022121610731_h_01.pdf|url-status=live}}</ref>。将来の構想として、大江戸線は終点の[[光が丘駅]]から[[大泉学園町]]方面への延伸が検討されている(「[[都営地下鉄大江戸線#延伸構想]]」を参照)。
== 路線 ==
都営地下鉄は次の4路線がある。なお、路線番号(計画路線名)は[[東京地下鉄]](東京メトロ)との連番であるため、飛びがある。路線名は東京メトロの路線と区別をつけるため、一般的には「都営○○線」と呼ぶことがある<ref group="注釈">なお、現行の「東京都地下高速電車の路線の名称及び区間」(昭和35年11月29日 交通局告示第5号、最終改正 平成15年交通局告示第17号)では路線名称に「都営」を含まない。</ref>。
<!-- 色を変更される際は、できれば各路線の記事中の路線記号マークの色・駅一覧の帯色、[[日本の鉄道ラインカラー一覧]]、各路線のテンプレート[[Template:都営地下鉄○○線]]のラインカラーも変更してください。-->
{| class="wikitable sortable" style="font-size:90%; clear:both;"
!style="width: 4em"|色
!style="width: 3em"|記号
!style="width: 5em" data-sort-type="number"|路線番号
!style="width: 4em"|路線名
!class="unsortable"|区間
!style="width: 4em"|キロ程
!style="width: 5em"|軌間
!style="width: 4em"|電気方式
|-
|style="background:#ec6e65; color:white; text-align:center;"|ローズ
|style="text-align:center;"|[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|24px|A]]
|style="text-align:center;"|1号線
|data-sort-value="あ"|[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]
|{{駅番号r|A|01|#ec6e65|4}}[[西馬込駅]] - {{駅番号r|A|20|#ec6e65|4}}[[押上駅]]
|style="text-align:right;"|18.3 km
|標準軌
|架空線
|-
|style="background:#006ab8; color:white; text-align:center;"|ブルー
|style="text-align:center;"|[[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|24px|I]]
|style="text-align:center;"|6号線
|data-sort-value="み"|[[都営地下鉄三田線|三田線]]
|{{駅番号r|I|01|#006ab8|4}}[[目黒駅]]- {{駅番号r|I|27|#006ab8|4}}[[西高島平駅]] {{Ref|A|A}}
|style="text-align:right;"|26.5 km
|狭軌
|架空線
|-
|style="background:#b0bf1e; color:white; text-align:center;"|リーフ
|style="text-align:center;"|[[ファイル:Toei Shinjuku line symbol.svg|24px|S]]
|style="text-align:center;"|10号線
|data-sort-value="し"|[[都営地下鉄新宿線|新宿線]]
|{{駅番号r|S|01|#b0bf1e|4}}[[新宿駅]] - {{駅番号r|S|21|#b0bf1e|4}}[[本八幡駅]]
|style="text-align:right;"|23.5 km
|変則軌間<br />([[4フィート6インチ軌間|馬車軌間]])
|架空線
|-
|style="background:#cd045b; color:white; text-align:center;"|マゼンタ<br /><ref group="注釈">[[ルビー]]とする資料も存在する。</ref>
|style="text-align:center;"|[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|24px|E]]
|style="text-align:center;"|12号線
|data-sort-value="お"|[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]
|{{駅番号r|E|28|#cd045b|4}}[[都庁前駅]] - {{駅番号r|E|14|#cd045b|4}}[[清澄白河駅]] - {{駅番号r|E|28|#cd045b|4}}都庁前駅 - {{駅番号r|E|38|#cd045b|4}}[[光が丘駅]]
|style="text-align:right;"|40.7 km
|標準軌
|架空線<br />([[リニアモーターカー|リニア]])
|-class="sortbottom"
|colspan="8"|{{Note label|A|A}} 三田線のうち、目黒駅 (I 01) - [[白金高輪駅]] (I 03) について、東京都交通局が[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]]、東京地下鉄が[[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]]となっている。
|}
=== 直通運転路線 ===
大江戸線を除く各線において、他社との相互(相鉄のみ当面は片方向)直通運転が行われている。
[[東京地下鉄|東京メトロ]]では東京都に隣接する[[神奈川県]]、[[千葉県]]、[[埼玉県]]には乗り入れているものの、都営は[[埼玉県]]には唯一乗り入れていない。
{| class="wikitable" style="font-size:90%;
!colspan="2"|路線||直通運転先
|-
|rowspan="4" style="background:#ec6e65;"|
|rowspan="4" | 浅草線 {{Ref|C|A}}
|'''[[京成電鉄]]''':[[京成押上線|押上線]]・[[京成東成田線|東成田線]]・[[京成成田空港線|成田空港線(成田スカイアクセス線)]]の全線、および[[京成本線|本線]]([[青砥駅|青砥]] - [[成田空港駅|成田空港]]間)
|-
|'''[[京浜急行電鉄]]''':[[京急本線|本線]]・[[京急空港線|空港線]]・[[京急逗子線|逗子線]]・[[京急久里浜線|久里浜線]]
|-
|'''[[北総鉄道]]''':[[北総鉄道北総線|北総線]](京成成田空港線が北総線の全区間で線路を共用)
|-
|'''[[芝山鉄道]]''':[[芝山鉄道線]]
|-
|rowspan="2" style="background:#006ab8;"|
|rowspan="2" | 三田線 {{Ref|C|B}}
|'''[[東急電鉄]]''':[[東急目黒線|目黒線]]・[[東急新横浜線]]
|-
|'''[[相模鉄道]]''':[[相鉄本線|本線]]・[[相鉄いずみ野線|いずみ野線]]・[[相鉄新横浜線]]
|-
|style="background:#b0bf1e;"|
| 新宿線 {{Ref|C|C}}
|'''[[京王電鉄]]''':[[京王新線]]・[[京王線]]・[[京王相模原線|相模原線]]・[[京王高尾線|高尾線]]
|-
|colspan="3" style="font-size:90%"|
*{{Note label|C|A}} 浅草線の定期ダイヤでは、<!--京成本線(京成上野 - 青砥間)、-->京成東成田線、芝山鉄道線、京急本線(堀ノ内 - 浦賀間)には東京都交通局の車両は乗り入れず、他者車両により同区間と浅草線との直通運転が行われる。ただし、一時期の定期ダイヤでは、<!--京成本線(京成上野 - 青砥間)と-->京成東成田線にも乗り入れていた。
*{{Note label|C|B}} 三田線の定期ダイヤでは、相鉄の各路線には東京都交通局の車両は乗り入れず、他者車両により同区間と三田線との直通運転が行われる。なお、以前には[[回送]]列車(2000年9月22日より2008年6月21日まで)と[[臨時列車]]「[[みなとみらい号]]」のみ、[[東急東横線|東横線]]・[[横浜高速鉄道]][[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]](田園調布 - 武蔵小杉 - )日吉 - 横浜 - [[元町・中華街駅|元町・中華街]](回送列車は武蔵小杉 - [[元住吉駅|元住吉]])間にも乗り入れていた。
*{{Note label|C|C}} 新宿線では、2018年2月のダイヤ改定より、京王線新宿 - [[笹塚駅|笹塚]]間でも東京都交通局の車両が乗り入れている。また、一時期の定期ダイヤや臨時列車では、京王線の[[北野駅 (東京都)|北野]] - [[京王八王子駅|京王八王子]]間と[[京王競馬場線|競馬場線]]・[[京王動物園線|動物園線]]で、東京都交通局での車両の運用が設定されていた事例もある。
|}
== 車両 ==
形式の呼称は[[名古屋市営地下鉄]]などと同様、「系」ではなく「形」と称す。
=== 現有車両 ===
* 浅草線 - [[東京都交通局5500形電車 (鉄道)|5500形]]・[[東京都交通局E5000形電気機関車|E5000形]]([[電気機関車]])
* 三田線 - [[東京都交通局6300形電車|6300形]]・[[東京都交通局6500形電車 (鉄道)|6500形]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2020/sub_p_202010289373_h_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201029102041/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2020/sub_p_202010289373_h_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=都営三田線 8両編成の新型車両「6500形」を導入します|publisher=東京都交通局|date=2020-10-29|accessdate=2020-10-29|archivedate=2020-10-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://raillab.jp/news/article/27396|title=都営三田線の新型6500形、ついにデビュー!採用第1号のパンタグラフにも注目|accessdate=2022-05-14|website=RailLab ニュース(レイルラボ)}} {{Wayback|url=https://raillab.jp/news/article/27396 |date=20220927105149 }}</ref>
* 新宿線 - [[東京都交通局10-300形電車|10-300形]]
* 大江戸線 - [[東京都交通局12-000形電車|12-000形]]<!-- 試作車は関係ない。また、E5000形は馬込所属 -->・[[東京都交通局12-600形電車|12-600形]]<ref>{{Cite web|和書|title=東京都交通局12-600形が甲種輸送される|鉄道ニュース|2011年8月29日掲載|鉄道ファン・railf.jp|url=https://railf.jp/news/2011/08/29/230000.html|website=鉄道ファン・railf.jp|accessdate=2020-09-18|language=ja}} {{Wayback|url=https://railf.jp/news/2011/08/29/230000.html |date=20230215193321 }}</ref>
<gallery widths="200"><!-- 過剰掲載を防ぐため、形態差に関係なく画像は各形式1枚におさめて下さい -->
ファイル:Toei-Type5509-1.jpg|5500形
ファイル:Toei-Type6300-6332.jpg|6300形
ファイル:Toei Series6500-6502.jpg|6500形
ファイル:Toei 10-300 series 5th-batch Keio Sagamihara Line 20180602.jpg|10-300形
ファイル:Model 12-000 of Toei Transportation 2.jpg|12-000形
ファイル:Toei-subway12-600.jpg|12-600形
ファイル:Toei-subway EL-E5000.jpg|E5000形
</gallery>
=== 過去の車両 ===
* 浅草線 - [[東京都交通局5000形電車 (鉄道)|5000形]]・[[東京都交通局5000形電車 (鉄道)|5200形]]・[[東京都交通局5300形電車|5300形]]
* 三田線 - [[東京都交通局6000形電車 (鉄道)|6000形]]・[[東京都交通局10-000形電車|10-000形]]
* 新宿線 - 10-000形<ref>{{Cite news|url=http://railf.jp/news/2018/02/12/201000.html|title=都営新宿線10-000形8次車が営業運転終了|newspaper=鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース|publisher=交友社|date=2018-02-12|accessdate=2018-02-12|archive-date=2018年2月12日|archive-url=https://web.archive.org/web/20180212194928/http://railf.jp/news/2018/02/12/201000.html}}</ref>・[[東京都交通局10-300形電車#10-300R形|10-300R形]]<ref>{{Cite news|url=http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2017/02/10-300r_1.html|title=【東京都】10-300R形 引退する|newspaper=鉄道ホビダス RMニュース|publisher=[[ネコ・パブリッシング]]|date=2017-02-15|accessdate=2017-02-19|archive-date=2017年2月15日|archive-url=https://web.archive.org/web/20170215085743/http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2017/02/10-300r_1.html}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://railf.jp/news/2017/02/18/203000.html|title=10-300R形10-330編成が若葉台へ|newspaper=鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース|publisher=交友社|date=2017-02-18|accessdate=2017-02-19|archive-date=2017年2月18日|archive-url=https://web.archive.org/web/20170218225531/http://railf.jp/news/2017/02/18/203000.html}}</ref>
<gallery widths="200">
ファイル:Toei5000MemorialRun2.JPG|5000形
ファイル:Toei-5200.jpg|5200形
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ファイル:Model_10-300R_of_Toei.JPG|10-300R形
</gallery>
== 運賃 ==
2019年(令和元年)10月1日改定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2019/sub_p_201909058739_h_03.pdf|title=【都営地下鉄】 現行・改定運賃比較表|accessdate=2019-09-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190930145048/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2019/sub_p_201909058739_h_03.pdf|publisher=東京都交通局|archivedate=2019-09-30}} {{Wayback|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2019/sub_p_201909058739_h_03.pdf |date=20190930145048 }}</ref>。(小児半額・端数がある場合、ICカードの場合は1円未満の端数は切り捨て、切符利用の場合は10円単位で切り上げ)。
{|class="wikitable" style="text-align: center; margin-left:2em;"
! rowspan="3" |キロ程(km)!! colspan="4" |運賃(円)
|-
! colspan="2" |大人
! colspan="2" |小児
|-
!ICカード
!切符利用
!ICカード
!切符利用
|-
|初乗り4km||178
|180
|89
|90
|-
|5 - 9km||220
|220
|110
|110
|-
|10 - 15km||272
|280
|136
|140
|-
|16 - 21km||325
|330
|162
|170
|-
|22 - 27km||377
|380
|188
|190
|-
|28 - 46km||430
|430
|215
|220
|}
*[[東京地下鉄]]との共用区間である[[目黒駅]] - [[白金高輪駅]]の各駅相互間では運賃計算の特例が設定されている。詳細は「[[東京メトロ南北線#運賃計算の特例]]」を参照。
*[[蔵前駅]]および[[東日本橋駅|東日本橋]]・[[馬喰横山駅]]で改札を出て乗り換える場合、ICカードの場合は、ICカードの残額が乗車駅から乗換駅までの運賃に満たなければチャージ(入金)しないと乗り換えることができず、きっぷの場合はその額面が乗車駅から乗換駅までの運賃に満たない場合は、その駅までの運賃と原乗車券の額面との差額を精算しなければ乗り換えることができない。また、ICカードの場合、'''60分'''以内に乗り換えなければ運賃は通算されない(60分を超えると運賃計算がそこで打ち切られ、その駅からまた新たな乗車として運賃が必要となる)が、きっぷの場合は有効期間内であれば乗換時間の制限はない。
* 団体客向けに団体割引が行われている。
*[[身体障害者手帳]]や[[療育手帳|愛の手帳]]を所有、もしくは[[生活保護]]や[[児童扶養手当]]を受給している東京都民は「都営交通無料乗車券」が発行され運賃が無料になる。
*[[精神障害者保健福祉手帳]]を所有している東京都民は[[東京都福祉保健局]]より「精神障害者都営交通乗車証」が発行され運賃が無料になる。
* 満70歳以上の東京都民に発行されている乗車券「[[東京都シルバーパス]]」を利用することができる。
; 連絡特殊割引
: [[東京地下鉄]]線と連絡して利用する場合は、発駅から着駅までに両社局線を1回乗り継ぐことにより、最も低廉となる経路の併算運賃から大人70円、小児40円を割り引く(都営地下鉄線・東京地下鉄線それぞれの乗り継ぎ駅との運賃を計算した場合にいずれか片方でも最も低廉となる経路の併算運賃を超える場合を除く)。
:* 東京地下鉄線との乗換駅において改札外で乗り換える場合(連絡改札のある駅で連絡改札を通らず改札を出場して乗り換える場合を含む)、交通系ICカードのSF利用の場合は乗換駅で改札を出場してから60分以内に乗り換え先の改札を入場することで自動的に適用される(きっぷの場合は有効期間内であれば制限はない)。<!--
; 空港連絡特殊割引
:# 都営地下鉄各駅(泉岳寺駅を除く)と[[泉岳寺駅]]連絡[[京浜急行電鉄|京急線]][[羽田空港第3ターミナル駅]]もしくは[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]との発着、または都営地下鉄各駅(押上駅を除く)と[[押上駅]]連絡[[京成電鉄|京成線]][[成田空港駅]]、もしくは[[空港第2ビル駅]]との発着となる連絡普通運賃は、2社局の併算額から'''大人50円、小児20円を割り引く'''(ただし、上記の東京地下鉄線との連絡特殊割引が適用される場合を除く)'''。'''
:# 泉岳寺駅及び押上駅連絡で、都営地下鉄線に跨り、'''京急線羽田空港第1・第2ターミナル駅'''もしくは'''羽田空港第3ターミナル駅'''と'''京成本線成田空港駅'''/'''京成成田空港線成田空港駅'''または'''京成本線空港第2ビル駅'''/'''京成成田空港線空港第2ビル駅'''との2駅間発着となる連絡普通運賃は、3社局の併算額から'''大人80円、小児40円を割り引く。'''
: 開始当初は、「エアポートきっぷ」という企画乗車券の扱いで、事前の乗車券の購入が必要であり、[[パスネット]]が割引対象にならなかった。しかし、[[2005年]][[8月24日]]から空港連絡特殊割引となったため、すべての乗車を割引運賃で計算することとなった。-->
; 北総線区間(新柴又駅 - 印旛日本医大駅)に係る連絡割引
: 都営地下鉄各駅(押上駅を除く)と押上、京成高砂連絡で[[北総鉄道北総線|北総線]]区間各駅との発着となる普通運賃は、3者の併算額から'''大人30円、小児20円を割り引く。'''また、都営地下鉄各駅(同前)と北総線区間のうち[[大町駅 (千葉県)|大町駅]] - [[印旛日本医大駅]]間各駅との発着となる大人普通運賃については、'''40円を割り引く'''(上記の東京地下鉄線との乗り継ぎ割引が適用される場合を除く)。
; その他の連絡割引
: 他社との接続駅付近の、特定の区間について、大人20円、小児10円(京王線 - 大江戸線の乗り継ぎに限り、大人・小児とも10円)の連絡割引運賃が設定されている。以下に例示する。
{| class="wikitable" rules="all" style="margin-left:2em"
!接続駅
!接続会社
!都営線の駅
!乗継対象の路線の駅
|-
|押上駅
|京成電鉄
|浅草線:浅草駅 - [[本所吾妻橋駅]]
|京成押上線:[[京成曳舟駅]] - [[八広駅]]
|-
|[[浅草駅]]
|[[東武鉄道]]
|浅草線:[[浅草橋駅]] - 押上駅<br />大江戸線:[[新御徒町駅]] - [[両国駅]]
|[[東武伊勢崎線]]:[[とうきょうスカイツリー駅]] - [[東向島駅]]<br />[[東武亀戸線]]:[[曳舟駅]] - [[小村井駅]]
|-
|泉岳寺駅
|京浜急行電鉄
|浅草線:[[五反田駅]] - [[大門駅 (東京都)|大門駅]]<br />三田線:[[芝公園駅]] - 白金高輪駅
|[[京急本線]]:[[品川駅]] - [[新馬場駅]]
|-
|目黒駅
|[[東急電鉄]]
|三田線:白金高輪駅 - [[白金台駅]]
|[[東急目黒線]]:[[不動前駅]] - [[西小山駅]]
|-
|rowspan="2"|[[新宿駅]]
|[[京王電鉄]]
|新宿線:[[新宿三丁目駅]] - [[曙橋駅]]<br />大江戸線:[[国立競技場駅]] - [[西新宿五丁目駅]]
|[[京王線]]([[京王新線]]):[[初台駅]]-[[笹塚駅]]
|-
|[[小田急電鉄]]
|新宿線:新宿三丁目駅 - 曙橋駅<br />大江戸線:[[都庁前駅]] - 西新宿五丁目駅
|[[小田急小田原線]]:[[南新宿駅]] - [[代々木上原駅]]
|-
|[[中井駅]]
|[[西武鉄道]]
|大江戸線:[[中野坂上駅]] - [[新江古田駅]]
|[[西武新宿線]]:[[西武新宿駅]] - [[野方駅]]
|-
|[[練馬駅]]
|西武鉄道
|大江戸線:[[落合南長崎駅]] - [[練馬春日町駅]]
|[[西武池袋線]]:[[東長崎駅]] - [[練馬高野台駅]]<br />[[西武有楽町線]]:[[小竹向原駅]] - [[新桜台駅]](全線)<br />※[[西武豊島線]]は対象外
|}
=== 定期券 ===
都営地下鉄では、通勤・通学[[定期乗車券|定期券]]のほかに全線を対象にした全線定期券も発売されている。有効期間はいずれも1か月・3か月・6か月の3種類がある。また、以下のような場合に割引が適用されている。
* 都営地下鉄・都バス連絡定期券/都営地下鉄・都電連絡定期券
** 都営地下鉄線と[[都営バス]]または[[都電荒川線]]を乗り継ぐ定期券は、それぞれの運賃が1割引となる。
* 都営地下鉄線と東京地下鉄線との連絡、または都営地下鉄線と押上駅・京成線経由で北総線各駅との連絡の場合にも割引が適用される。
[[2006年]][[10月25日]]から、都営地下鉄の定期乗車券購入(全線定期券・連絡定期券を含む)に[[ジェーシービー|JCB]]・[[Visa]]・[[マスターカード]]等の一般[[クレジットカード]]が使用できるようになった。当初は定期券発売所のみの取り扱いだったが、追って[[2007年]][[3月4日]]から自動券売機(IC定期券発売機の配備されていない一部の駅を除く)でも開始されている。
=== 回数券 ===
[[回数乗車券|回数券]]については、障害者割引回数乗車券および通学用割引回数乗車券(放送大学生用・通信教育生用)を発売している。
かつては終日利用可能な金額式回数券(11枚綴り・有効期間3か月)を発売していたが、2023年3月17日をもって発売を終了した<ref>{{Cite web|和書|title=新たなポイントサービス「ToKoPo ステップアップボーナス」の開始について|publisher=東京都交通局|date=2022-12-22|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2022/sub_p_2022122210749_h.html|accessdate=2023-05-29}}</ref>。
=== 一日乗車券 ===
==== 自局発売分 ====
; 都営まるごときっぷ
: 都営地下鉄・[[都営バス]](飛び地エリアである[[都営バス青梅支所|青梅地区]]の路線を含む<ref group="注釈">ただし、都区内の利用可能エリアから、多摩地区の利用可能エリアまで、民営の交通機関を利用する場合は、民営交通機関の運賃は別途必要となる。</ref>)・[[都電荒川線]](東京さくらトラム)・[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]の全線に、1日限りで何回でも乗車できる。大人700円・小児350円。これは、東京地下鉄線および[[東日本旅客鉄道|JR]]線に比べて地下鉄普通運賃が割高であることや、都営バスの広い路線網から、割安に利用できる機会の多いものである。
: 例を挙げれば、都営バス(23区内は1乗車210円)と地下鉄180円区間を乗り継いだ往復普通運賃は780円、東京さくらトラム(均一料金で170円)と地下鉄180円区間を乗り継いだ往復普通運賃は700円、また、新宿線新宿 - 本八幡間の往復運賃は760円であり、この乗車券の方がより安くなる(片道大人運賃が380円以上の区間を往復利用するには、こちらの乗車券が安くなる)。
: 前売り券は、他社管理の[[押上駅]]・[[目黒駅]]・[[白金台駅]]・[[白金高輪駅]]・[[新線新宿駅|新宿線新宿駅]]を除く各駅の窓口(有人改札または駅長事務室)・定期券発売所、都電・都バス営業所・支所・分駐所で購入出来る。購入日から6か月以内の1日に限り使用できる。最初の乗車の際に自動改札機または運賃箱にカードを投入して使用日の印字処理を受ける必要がある。2回目以降にバスや都電に乗車する際は日付部分を運転士に提示すればよい。
:: 2018年10月31日発売分まで前売り券はスクラッチ式になっており、乗車する日付の部分を[[硬貨]]などで削って使用。また、非磁気券のため[[自動改札機]]は通れず、改札口の駅係員に日付を見せて利用するか、日暮里・舎人ライナーの係員不在駅では改札口のインターホンで係員を呼び出して遠隔操作で改札を開けてもらう必要があった。以前は大人・小児別々の券だったが、のちに大人・小児同一の券を発行していた。
: 当日券は都営地下鉄、日暮里・舎人ライナーの各駅(他社管理の駅も含む)の券売機で、[[PASMO]]・[[Suica]]の残高を利用して購入することもできる。都営バス、都電の車内で当日券を購入する場合はPASMO・Suicaや回数券類では購入できない。
:: 2014年までは都営バスの運転士から当日券を購入する場合は、感熱紙を使用した定期券サイズの非磁気券となり、自動改札機を通ることは出来なかった。そのため、券面には「有人改札専用」と表記されていた。また、熱によって券面の日付が見えなくなるのを防ぐため、「ラミネート加工(パウチ等)をしないでください」という注意書きがあった。都電車内でも2007年頃までは感熱紙の非磁気券を発行していた。
: [[2007年]]秋から、[[東京・ミュージアムぐるっとパス|ぐるっとパス]]とセットになった一日乗車券が発売されている。
: 2008年3月30日に新たな都営交通として日暮里・舎人ライナーが開業するにあたり、同日より「都電・都バス・都営地下鉄一日乗車券」から名称が変更された。ただし、発売額は以前の「都電・都バス・都営地下鉄一日乗車券」と同額で、2008年3月29日以前に発売された前売り券でも日暮里・舎人ライナーの利用が可能だった。2020年3月14日からはPASMOに付与して購入出来るようになった。<!-- https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2020/sub_p_202002269002_h.html -->
; 都営地下鉄ワンデーパス(期間限定)[[File:東京都交通局 都営地下鉄「秋」のワンデーパス.png|thumb|都営地下鉄「秋」のワンデーパス 磁気券]]
: 都営地下鉄全線に、1日限りで何回でも乗車出来る。大人500円・小児250円で発売(片道大人運賃が280円以上の区間を往復利用するには、こちらの乗車券が安くなる)。有効期間や双方の運賃体系が異なるため単純に比較はできないが、東京地下鉄の発売する[[東京地下鉄一日乗車券|東京メトロ24時間券]](大人600円・小児300円)よりも割安となっている。当日券のみの発売。
: 土曜・休日ダイヤ運行日を中心に、特定日に発売される。発売期間はその都度、東京都交通局のホームページや中吊り広告、駅のポスターで案内される。以前は、企画を行う度にサイズが違い、かつ自動改札機を通れなかったが、現在は定期券サイズとなり、自動改札機を利用出来るようになっている。なお、この乗車券で他の都営交通路線に乗車することはできない(購入時に確認の画面が表示される)。また、他社管理駅では発売されていない。2018年7月14日からはPASMOに付与して発売も出来るようになった。
; 都営地下鉄・東京メトロ一日乗車券 [[File:東京都交通局 東京メトロ・都営地下鉄共通一日乗車券.png|thumb|東京地下鉄 東京メトロ・都営地下鉄共通一日乗車券]]
: 都営地下鉄と東京地下鉄の全線が、一日限りで何回でも乗車できる。大人900円・小児450円で当日券は自動券売機で発売。この乗車券では都営バス・東京さくらトラム・日暮里・舎人ライナーを利用できない。2017年3月31日発売分までは大人1,000円・小児500円だった<ref name="news-20170223"/>。2017年4月1日からは前売券を記名式又は無記名式PASMOに付与して発売することも可能になった。
; [[Tokyo Subway Ticket]]
: 有効区間は「都営地下鉄・東京メトロ一日乗車券」と同じだが、有効期間は東京メトロに合わせて24時間・48時間・72時間のいずれかから選択可能。24時間券の場合、大人800円・小児400円と「都営地下鉄・東京メトロ一日乗車券」より安い。
: 購入できるのは、首都圏1都7県を除く地域(海外含む)からの旅行客のみ。国内からの利用者は指定旅行代理店にて旅行商品と共に購入する<ref group="注釈">[[エクスプレス予約]]で[[熱海駅]]以西から[[東京駅]]・[[品川駅]]まで新幹線を予約して利用した旅客も購入できるが、東京メトロの定期券販売所(東京駅・[[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]]・[[新宿駅]]・[[池袋駅]])と[[京橋エドグラン]]地下1階の中央区観光情報センターで取り扱っており、都営地下鉄の窓口では取り扱っていない。</ref>。海外からの利用は羽田空港か成田空港において旅券を提示の上で購入する。2020年3月14日からはPASMOに付与して購入出来るようになった。
; [[東京フリーきっぷ]]
: 都営地下鉄、東京さくらトラム、日暮里・舎人ライナー、都営バス(青梅地区の路線を含む)、東京地下鉄全線及びJR線の都区内区間が、1日に限りで何回でも乗車できる。大人1,600円・小児800円で発売。自動改札機対応の磁気券もしくはPASMO(都営交通・メトロ発売分)及びSuica(JR発売分)となっている。
* なお、上記の各乗車券はPASMO定期券及び他の企画乗車券の情報(いずれも期限内のもの)が'''搭載されていない'''PASMO(記名式又は無記名式)に限り、同カードに付与して購入・利用が可能である。
* かつては「わくわくマリンきっぷ」「くりはま花の国セット往復乗車券」「わくわくランドきっぷ」といった特別企画乗車券も発売されていた。
==== 他社発売分 ====
; 東京1DAYきっぷ
: [[京浜急行電鉄]]が発売している。都営まるごときっぷと、品川駅までの往復乗車券をセットにした割引乗車券(品川駅 - 泉岳寺駅間は乗り降り自由)。泉岳寺駅以外の京急線全駅で購入が可能。
; 東京トラベル1DAY&2DAYパス
: 京浜急行電鉄が発売している。都営地下鉄ワンデーパス(2DAYパスは2日間有効)と、[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]・[[羽田空港第3ターミナル駅]] - 品川駅までの片道乗車券をセットにした割引乗車券(品川駅 - 泉岳寺駅間は乗り降り自由)。羽田空港第1・第2ターミナル駅・羽田空港第3ターミナル駅、および全国15空港に設置されている京急の自動販売機で発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/information/otoku/otoku_tokyo1day/index.html|title=東京トラベル1DAY&2DAYパス|work=京浜急行電鉄|accessdate=2019-05-13}} {{Wayback|url=https://www.keikyu.co.jp/information/otoku/otoku_tokyo1day/index.html |date=20190513005350 }}</ref>。「都営地下鉄ワンデーパス」と異なり、通年販売している。
; 京急羽田・ちか鉄共通パス
: 京浜急行電鉄が発売している。都営地下鉄・東京メトロ一日乗車券と、羽田空港第1・第2ターミナル駅・羽田空港第3ターミナル駅 - 泉岳寺駅間の片道乗車券をセットにした割引乗車券。発売箇所は「東京トラベル1DAY&2DAYパス」と同じ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/information/otoku/otoku_chikatetsu/index.html|title=京急羽田・ちか鉄共通パス|work=京浜急行電鉄|accessdate=2019-05-13}} {{Wayback|url=https://www.keikyu.co.jp/information/otoku/otoku_chikatetsu/index.html |date=20190513005347 }}</ref>。ただし、「東京1DAYきっぷ」「東京トラベルDAY&2DAY」パスと異なり、品川駅 - 泉岳寺駅間は乗り降り自由区間には含まれない。
; TOKYO探索きっぷ
: [[京王電鉄]]・[[首都圏新都市鉄道]]が発売している。「都営まるごときっぷ」と、都営地下鉄の接続駅までの往復割引乗車券をセットにした割引乗車券。現在「東京1DAYきっぷ」を発売する京浜急行電鉄は、かつてこの名称で発売していた。[[東武鉄道]]でも発売していたが、2019年8月31日で発売を終了した(きっぷの有効期限は2019年9月30日まで)。
:* 京王電鉄では、京王線新宿駅・新線新宿駅以外の全駅で購入が可能。京王線・井の頭線の乗車駅から京王線新宿駅・新線新宿駅までの往復割引乗車券と、都営まるごときっぷがセットになっている。
:* 首都圏新都市鉄道では、新御徒町駅以外の全駅で購入が可能。つくばエクスプレス線の乗車駅から新御徒町までの往復割引乗車券と、都営まるごときっぷがセットになっている。秋葉原駅と自駅発着分を除いて浅草駅、秋葉原駅・浅草駅・南千住駅と自駅発着分を除いて北千住駅にも乗降することができる。
:*東武鉄道では、[[谷塚駅]]以北で購入が可能だった(ただし、[[竹ノ塚駅]]以南と[[東武野田線|野田線]]の大宮駅 - 七里駅間・梅郷駅 - 船橋駅間の各駅および他社に業務委託する伊勢崎駅、相老駅、赤城駅、新藤原駅と無人駅を発着する乗車券は発売されなかった。また、[[東武東上本線|東上線]]管内の全駅を発着する乗車券も発売されなかった)。[[東武本線]]の乗車駅から押上または浅草までの往復割引乗車券と、都営まるごときっぷがセットになっていた。また、[[東向島駅]]([[東武博物館]]最寄駅)にも乗降することができた。
都営地下鉄各駅で購入できる乗車券のうち、一部(企画乗車券、自動券売機により発売する定期乗車券等)は他社が管理する押上(京成電鉄管理)、目黒(東急電鉄管理)、白金台及び白金高輪(東京地下鉄管理)、新宿線新宿(新線新宿駅・京王電鉄管理)の各駅では取り扱いをしない。これにあたって、同局ではこれらの駅で不発売の乗車券を購入するために、当該乗車券を発売する各駅との間を往復乗車する場合、乗車駅では普通乗車券を券売機で購入し、改札口において定期券購入の証明印を押印する。降車駅ではその乗車券を提示したうえで、当該乗車券を購入する。証明印を受けた普通乗車券は当該乗車券購入時に払い戻し、復路の乗車券が必要な場合には無料の乗車証を交付している。この取り扱いは東京地下鉄と異なり、当該定期券等を自動券売機で購入する場合にも適用される。ただし、新宿駅には大江戸線の駅(東京都交通局管理。ただし他線の新宿駅とは異なり[[渋谷区]]に位置する)もあり、こちらでは当該乗車券を取り扱う。
上記各乗車券を提示するだけで都内にある100以上のスポットで割引などを受けられる「ちかとく」サービス(2014年4月1日開始。東京メトロの「ちか旅。」、都営の「いっとく」を統合<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2014/03/20o3o300.htm|title=地下鉄・バスの一日乗車券で炙りとろ寿司をサービス!?「ちか旅。」と「いっとく」がひとつになりました。一日乗車券特典ちかとくサービス開始!|work=東京地下鉄株式会社・東京都交通局|date=2014-03-24|accessdate=2019-05-13}} {{Wayback|url=http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2014/03/20o3o300.htm |date=20190513005351 }}</ref>)も利用できる。
== 列車速度 ==
=== 最高速度 ===
* 浅草線・大江戸線:全線70km/h
* 三田線:白金高輪駅 - 西高島平駅間 75km/h、目黒駅 - 白金高輪駅間 80km/h(同区間は都営地下鉄の乗務員が東京地下鉄の運転取扱規定により運転する)
* 新宿線:全線75km/h
=== 駅通過速度 ===
* 浅草線・三田線・新宿線:55km/h
* 大江戸線:25km/h
通常、駅を通過するのは[[回送]]列車・[[試運転]]列車のほかに、営業運転では浅草線の[[エアポート快特]]と新宿線の[[急行列車|急行]]のみ。それ以外はすべて各駅に停車する。浅草線と新宿線では列車が通過する際に警報音をホームで鳴打する。
== 運転編成両数 ==
* 浅草線・大江戸線:8両編成
* 三田線:6・8両編成
* 新宿線:10両編成
== 保安方式 ==
* 浅草線:C-ATS(デジタル伝送を利用し、[[自動列車停止装置#ATS-P|ATS-P]]に匹敵する機能を持つ。[[2007年]][[3月16日]]までは全区間で[[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]]で、京成・新京成・北総・京急・芝山と同じだった。直通各社も芝山を除きC-ATSに更新)。
* 三田線・大江戸線:[[自動列車制御装置#地下鉄のATC|CS-ATC]](三田線は[[1999年]][[12月2日]]まではT型ATS(※注))※注:T型ATS=かつて乗り入れ予定のあった東武鉄道と共同開発したパターン型ATS
* 新宿線:[[自動列車制御装置#D-ATC|D-ATC]]([[2005年]][[5月13日]]まではCS-ATC)
== 案内放送 ==
駅構内および車内の自動放送の担当者は以下の通り(プロフィールなどで情報がある者のみ記載)。
*長塚みどり - [[駅自動放送]]女声<ref>https://m.facebook.com/midori.nagatsuka.9/
{{Wayback|url=https://m.facebook.com/midori.nagatsuka.9/}}</ref>
*[[西村文江]] - [[車内放送|車内自動放送]](日本語、浅草線・三田線・大江戸線担当)<ref>https://news.mynavi.jp/article/trivia-105/ {{Wayback|url=https://news.mynavi.jp/article/trivia-105/ |date=20190707075726 }}</ref>
*[[加藤純子 (アナウンサー)|加藤純子]] - 車内自動放送(日本語、新宿線担当)
*[[リアド慈英蘭]] - 車内自動放送(英語)<ref>{{Cite web|和書|title=リアド 慈英蘭|日本タレント名鑑 |url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W08-0567 |website=日本タレント名鑑 |access-date=2022-05-01 |language=ja }} {{Wayback|url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W08-0567 |date=20220819112630 }}</ref>
== 各種無線機器への対応 ==
* 車内<ref group="注釈">[[つり革|吊り手]]棒を車体から絶縁して送信アンテナとしている(「新車ガイド 東京都交通局6300形(三田線用)」、『鉄道ファン』1993年9月号)。</ref> や駅のコンコース、ホームで[[振幅変調#放送|AMラジオ放送]]が聴取可能である(東京地下鉄やJR・私鉄の地下部分は不可。また三田線の白金高輪 - 目黒間は東京地下鉄が施設を管理する区間のため不可)。この[[サービス]]は、[[1993年]][[9月]]に浅草線の一部区間で試験を行い<ref>{{Cite news |title=地下鉄でAM聞けます |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-09-02 |page=2 }}</ref>、翌[[1994年]][[11月]]より全線で本格実施となった<ref>{{Cite news |title=都営地下鉄全線 ラジオ受診可能に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher= |date=-- |page= }}</ref>。
* [[2006年]][[2月1日]]から[[3月31日]]まで、三田線の一部区間で[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]([[ワンセグ]])の送信試験を行っていた。
* [[2012年]][[3月30日]]始発より新宿線新宿 - 九段下間のトンネル内で[[携帯電話]]が使えるようになったのを皮切りに<ref name="news-20120328"/>、順次提供区間を拡大し、2013年[[3月27日]]正午より三田線の目黒 - 白金高輪間を除く全線{{Refnest|group="注釈"|三田線の目黒 - 白金高輪間は[[東京地下鉄]](東京メトロ)が[[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]]としてトンネル施設を保有しており、三田線の他区間とは整備状況が一致していない。同区間は東京メトロ全線で使用可能となる2013年3月21日より携帯電話が使用可能となっている<ref name="tokyometro-news-20130318"/>。}}で携帯電話の利用が可能となっている<ref name="news-20130326"/>。
* 一部他社管轄駅を除くほぼ全駅に[[NTTBP]]の公衆無線LAN設備が設置されており、2022年5月現在[[d Wi-Fi]]/[[フレッツスポット]]/[[ソフトバンクWi-Fiスポット]]/UQ Wi-Fiが利用できる。また2011年5月19日に東京都とUQコミュニケーションズで[[WiMAX]]の設備設置で合意したと発表<ref name="news-20110519"/>、同年11月28日より三田線大手町駅で設置工事に着手し<ref name="uq-news-20111121"/>、[[12月26日]]より同駅とその前後のトンネル区間にてサービスを開始した<ref name="news-20111222"/>。翌2012年12月26日にはほぼ全線{{Refnest|group="注釈"|三田線目黒・白金台・白金高輪駅、新宿線新宿駅を除く。浅草線押上駅については2013年1月までに管轄の京成電鉄によってエリア整備が行われた<ref name="uq-news-20121213"/>。}}の駅構内・トンネル内においてサービスを開始し、都営地下鉄によるエリア整備が完了した<ref name="news-20121226"/>が、2023年3月末を以てサービス終了した<ref>[https://www.ntt-bp.net/column/blog/2023/04/post-121.html 都営地下鉄がフリーWi-Fi「Toei_Subway_Free_Wi-Fi」「TRAVEL JAPAN Wi-Fi」の提供を2023年3月末で終了] - Wi-Fi Column(NTTBP、2023年4月7日)</ref>。
== 経営状況 ==
経営状況は、[[2004年]]([[平成]]16年)度は約134億7,000万円の[[黒字と赤字|赤字]]、2005年度で約38億7300万円の赤字と、長年赤字に苦しんでいた。しかし近年に赤字幅が大幅に減少し、地下鉄事業を始めてから47年目である2006年度に25億2800万円の初の純利益を計上し、黒字に転換した<ref name="kousoku18"/>。以来毎年、黒字を継続しており、莫大な累積欠損金を少しずつ削減している。
下表からわかるように、直近6年度では浅草線・三田線・新宿線は黒字となっている。大江戸線のみが長年赤字となっていたが、これは[[減価償却|減価償却費]](2017年度は約221億9400万円)<ref name="kousoku29"/> 及び支払利息等が大きな負担となっているためである。ただし乗車料収入については約426億7700万円と、4路線の中では最も多い<ref name="kousoku29"/>。2016年度には、開業後初めて大江戸線が黒字に転じた。なお、2008年度浅草線の純利益が大幅に増加したのは、主に旧[[馬込車両検修場|馬込工場]]跡地の売却(63億円あまり)によるものである<ref name="kousoku20"/>。
累積欠損金が過大なため、過去に[[財政再建団体]]に転落したことがある。近年においての単年度の黒字決算はじめ大江戸線の有利子負債の償却等により欠損金の削減は進んではいるものの、2020年度末においてもなお約2082億円の累積欠損金が残っている状態である<ref>[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/closing/r02_closing.html 令和2年度決算] {{Wayback|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/closing/r02_closing.html |date=20221205153236 }} - 東京都交通局、2021年12月27日閲覧。</ref>。しかし、2028年度には解消する見通しである<ref>{{PDFlink|1=[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/plan/pdf/plan2019_01.pdf#page=94 経営計画2019]}} - 東京都交通局 p.88、2019年3月13日閲覧。</ref>。
=== 路線別収支 ===
{|id="shorts" class="sortable wikitable" style="font-size:95%; margin:10px 0px;"
|+ 都営地下鉄4路線の純損益推移(▲は赤字)<ref group="注釈">便宜上、百万円未満は四捨五入した。</ref>
! 年度 !! 浅草線 !! 三田線 !! 新宿線 !! 大江戸線 !! 合計 !! class="unsortable"| 出典
|-
| 2017年度 || 134億9600万円 || 90億8400万円 || 103億1900万円 || 14億1900万円 || 340億4300万円 ||<ref name="kousoku29"/>
|-
| 2016年度 || 128億1000万円 || 81億5600万円 || 116億2700万円 || 3億1700万円 || 329億1100万円 ||<ref name="kousoku28"/>
|-
| 2015年度 || 107億1611万円 || 58億3153万円 || 105億8191万円 || ▲{{0}}12億7255万円 || 258億5693万円 ||<ref name="kousoku27"/>
|-
| 2014年度 || 102億3593万円 || 45億2965万円 || {{0}}87億5142万円 || ▲{{0}}49億3913万円 || 185億7787万円 || <ref name="kousoku26"/>
|-
| 2013年度 || 102億4464万円 || 47億5633万円 || {{0}}85億8683万円 || ▲{{0}}81億4391万円 || 154億4642万円 || <ref name="kousoku25"/>
|-
| 2012年度 || 103億3918万円 || 44億9239万円 || {{0}}82億2396万円 || ▲102億9611万円 || 122億7594万円 || <ref name="kousoku24"/>
|-
| 2011年度 || {{0}}78億5300万円 || 36億4900万円 || {{0}}95億4300万円 || ▲123億9500万円 || {{0}}86億5000万円 || <ref name="kousoku23"/>
|-
| 2010年度 || {{0}}86億6000万円 || 41億4300万円 || {{0}}98億3300万円 || ▲132億3800万円 || {{0}}93億9900万円 || <ref name="kousoku22"/>
|-
| 2009年度 || {{0}}96億7600万円 || 41億{{0}}200万円 || 106億5300万円 || ▲120億7700万円 || 123億5500万円 || <ref name="kousoku21"/>
|-
| 2008年度 || 155億1400万円 || 41億9700万円 || 121億9700万円 || ▲115億8000万円 || 203億2900万円 || <ref name="kousoku20"/>
|-
| 2007年度 || {{0}}88億4900万円 || 33億3500万円 || 111億9300万円 || ▲123億9800万円 || 109億8000万円 || <ref name="kousoku19"/>
|-
| 2006年度 || {{0}}67億1400万円 || 21億7000万円 || {{0}}93億2800万円 || ▲156億2800万円 || {{0}}25億8400万円 || <ref name="kousoku18"/>
|}
== 東京地下鉄(東京メトロ)との統合議論 ==
都営地下鉄には、過去に何度か[[民営化]]構想や[[帝都高速度交通営団]](現・[[東京地下鉄]])との統合構想、他社への売却構想などが出たことがある。2013年12月まで、東京都交通局の最高責任者であった当時の[[東京都知事]]の[[猪瀬直樹]]は、[[2012年東京都知事選挙]]直後に開かれた記者会見で、猪瀬の前の都知事である[[石原慎太郎]]が手がけてきた地下鉄一元化を引き続き推進していく方針を表明している<ref name="tokyo-governor-20121218"/>。その後2013年2月20日に行われた[[施政方針演説]]の中で、猪瀬は東京地下鉄の株式を東京都が保有する形での一元化を具体的な方法論として示し、演説の時点で進められていたサービス一体化への取り組み([[九段下駅]]ホームの改良工事や乗り継ぎ割引適用の拡大など。いずれも同年3月16日に完成または運用開始<ref name="news-20130215"/>)を「経営一元化への一里塚」と位置づけた<ref name="tokyo-governor-20130220"/>。
一連の統合議論の発端となったのが、2009年6月26日の[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]([[TBSテレビ|TBS]]系列)のニュースで、東京都交通局が東京地下鉄との統合交渉を行い、東京地下鉄の株式上場を条件に[[上下分離方式]](東京地下鉄が第二種鉄道事業者で東京都交通局が第三種事業者にする方式が有力)で統合する覚書に合意したと報じられた。2009年度に計画されている東京地下鉄の[[株式上場]]が統合の条件で、株価の動向次第では先送りされる可能性があるとも報じられている。JNNのカメラ取材に対し、当時の都知事であった石原は「覚書は交わしたんだけど、それ(統合)は時期の問題、タイミングの問題でしょう。ユーザーのためには絶対そう(統合)すべきだと思います」とコメントしている。さらに、6月29日には続報として、株式上場後も最終的な割合で国23%、東京都20%の出資を維持することで調整を進めていると伝えた。
[[2009年]][[11月11日]]に行われた東京地下鉄の2009年9月中間連結決算の記者会見の場において、なお両者が統合に向けた協議を続行中であることが明らかにされた<ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20091111-OYT1T01228.htm|title=東京メトロと都営地下鉄、経営統合で協議|work=YOMIURI ONLINE|publisher=[[読売新聞社]]|date=2009-11-11|accessdate=2009-11-11|archive-date=2009年11月14日|archive-url=https://web.archive.org/web/20091114071510/http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20091111-OYT1T01228.htm}}</ref>。また、[[2010年]][[3月5日]]に行われた石原知事の記者会見では、上場予定の東京地下鉄株を東京都が購入する考えを明らかにした。
2010年[[6月19日]]に行われた東京地下鉄株主総会では[[東京都副知事]](当時)の猪瀬直樹が出席し、両者の統合に関して協議を続けるように主張した。
同年[[8月3日]]から[[国土交通省]][[鉄道局]]主導により「東京の地下鉄の一元化等に関する協議会」が行われ、東京地下鉄と東京都交通局の代表者に加え東京都副知事の猪瀬と[[国土交通審議官]]、[[財務省]][[理財局]]次長も参加しての協議が行われている。[[11月16日]]に行われた第3回の協議会で、国側は資産などを合計した企業価値から負債を差し引いた「株式価値」について、東京地下鉄が4000億から6000億円のプラスであるのに対し、都営地下鉄は1800億から7300億円のマイナスとの試算結果を示し<ref>{{Cite news|url=http://www.sankeibiz.jp/business/news/101118/bsd1011180504010-n1.htm|title=都営地下鉄と東京メトロ「統合困難」|work=SankeiBiz|date=2010-11-18|accessdate=2010-11-19|archive-date=2010年11月24日|archive-url=https://web.archive.org/web/20101124141013/http://www.sankeibiz.jp/business/news/101118/bsd1011180504010-n1.htm}}</ref>、現状のまま統合すると(完全民営化を予定しており、国が保有する株式を売却することになる)東京地下鉄の株式の価値を棄損するとして、統合のためには都営地下鉄のさらなる債務圧縮が必要、と統合に消極的な姿勢を示した<ref>{{Cite news|url=http://response.jp/article/2010/11/17/148136.html|title=東京地下鉄一本化、東京都と国交省でバトル|work=レスポンス自動車ニュース|date=2010-11-17|accessdate=2010-11-18|archive-date=2013年9月11日|archive-url=https://web.archive.org/web/20130911064944/http://response.jp/article/2010/11/17/148136.html}}</ref>。これに対して猪瀬は「株をいかに高く売るかだけがテーマでなく、利用者の目線で考えて、利用者のためにどうするかということで一元化を進めるべきである。株式価値だけを全面に押し出すのはおかしい」と反論している。
2011年、国が[[東日本大震災]]被災地の復興財源捻出のため、保有する東京地下鉄株の売却を検討するという問題に対して、石原知事や猪瀬副知事(共に当時)は東京地下鉄株が売却された場合は東京都がその全株式を購入し、過半数を保有するという姿勢を見せている。
なお、東京都交通局は都営地下鉄だけでなく、[[都営バス]]・[[都電荒川線|東京さくらトラム]]や[[新交通システム]]の[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]・[[東京都交通局上野懸垂線|上野動物園モノレール]]といった各種交通機関の運行も行っているが、これらの運行や駅・車両などの管理先については言及されていない(都営バスの一部の路線等を委託されている[[はとバス]]には東京地下鉄やそのグループであるメトロ文化財団も出資している)。
== その他 ==
* [[ホームドア]]については、2000年に三田線、2013年に大江戸線、2019年8月に新宿線でそれぞれ全駅での整備が完了しており、浅草線でも押上駅(京成電鉄により整備)を除く全駅で2023年度までに設置を完了する予定<ref>{{Cite news|url=http://response.jp/article/2014/05/17/223404.html|title=東京都交通局、都営新宿線全駅にホームドア設置へ|work=レスポンス鉄道ニュース|date=2014-05-17|accessdate=2014-05-25|archive-date=2014年5月25日|archive-url=https://web.archive.org/web/20140525213544/http://response.jp/article/2014/05/17/223404.html}}</ref><ref>[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/home_door/door_asakusa.html 浅草線へのホームドアの設置工事について] {{Wayback|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/home_door/door_asakusa.html |date=20200314144106 }} - 東京都交通局、2019年6月8日閲覧。</ref>。
* 一部の駅では関係団体の一般財団法人[[東京都営交通協力会]]に業務委託を行っている。
* 2010年頃より、各駅の[[サインシステム|案内サインシステム]]を東京メトロと類似のデザインのものへ順次更新している。この更新以降は、駅名等のローマ字表記における[[マクロン]]が省略されるようになった(「[[東京地下鉄#案内表示の英字表記]]」も参照)。
* 政府が都営地下鉄の24時間運行化を検討している。金・土曜の深夜限定の24時間化といった案も出ている<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS1505J_V10C13A4MM8000/ 都営地下鉄を24時間運行 3大都市圏に特区検討] {{Wayback|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS1505J_V10C13A4MM8000/ |date=20130416181213 }}、日本経済新聞(2013年4月16日)、2013年4月16日閲覧。</ref>。
* 2017年8月以降、車両更新に合わせて順次全車両の車内に[[防犯カメラ]]を設置するとしている。なお、東京メトロにおいても2018年度より、順次全車両の車内に防犯カメラを設置する予定である<ref>[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2017/sub_p_201703146072_h.html 都営地下鉄の全車両内に防犯カメラを設置します] {{Wayback|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2017/sub_p_201703146072_h.html |date=20220811143826 }}(2017年3月14日 東京都交通局プレスリリース)</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20170315-a362/|title=東京メトロは乗降ドア上部、都営地下鉄は天井 - 全車両に防犯カメラ設置へ|publisher=マイナビニュース|date=2017-03-15|accessdate=2017-03-19}} {{Wayback|url=https://news.mynavi.jp/article/20170315-a362/ |date=20230308034316 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://response.jp/article/2017/03/15/292144.html|title=都営地下鉄も全車両に防犯カメラ 8月以降|work=レスポンス鉄道ニュース|date=2017-03-15|accessdate=2017-03-19}} {{Wayback|url=http://response.jp/article/2017/03/15/292144.html |date=20170319114041 }}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<ref name="news-20110519">[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2011/sub_p_201105191_h.html 都営地下鉄の駅や列車内でWiMAXサービスがご利用いただけるようになります。] {{Wayback|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2011/sub_p_201105191_h.html |date=20220811145918 }}、都営地下鉄報道発表(2011年5月19日)、2013年1月16日閲覧。</ref>
<ref name="news-20111222">[http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/subway/2011/sub_p_201112225_h.html 三田線 大手町駅(駅構内及び駅付近のトンネル内)WiMAXサービス開始のお知らせ] {{Wayback|url=http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/subway/2011/sub_p_201112225_h.html |date=20120301072003 }}、都営地下鉄報道発表(2011年12月22日)、2013年1月16日閲覧。</ref>
<ref name="news-20120328">[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2012/sub_p_201203281_h.html 都営地下鉄の列車内で携帯電話サービスがご利用いただけるようになります。] {{Wayback|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2012/sub_p_201203281_h.html |date=20220811135118 }}、都営地下鉄報道発表(2012年3月28日)、2013年1月16日閲覧。</ref>
<ref name="news-20130326">[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2013/sub_p_201303264164_h.html 浅草線・三田線・新宿線の全区間、大江戸線の環状線区間が竣工!] {{Wayback|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2013/sub_p_201303264164_h.html |date=20220811140403 }}、都営地下鉄報道発表(2013年3月26日)、2013年3月27日閲覧。</ref>
<ref name="news-20121226">[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2012/sub_i_201212264031_h.html 都営地下鉄でのWiMAXエリア整備完了について] {{Wayback|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2012/sub_i_201212264031_h.html |date=20220811153731 }}、都営地下鉄報道発表(2012年12月26日)、2013年1月16日閲覧。</ref>
<ref name="news-20130215">[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2013/sub_p_201302154107_h.html 平成25年3月16日(土) 東京の地下鉄がさらに便利になります] {{Wayback|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2013/sub_p_201302154107_h.html |date=20220811135757 }}、都営地下鉄報道発表(2013年2月15日)、2013年2月23日閲覧。</ref>
<ref name="news-20170223">[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2017/sub_p_201702236051_h.html 「東京メトロ・都営地下鉄共通一日乗車券」がお求めやすくなります!] {{Wayback|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2017/sub_p_201702236051_h.html |date=20170415202852 }}、都営地下鉄報道発表(2017年2月23日)、2017年4月15日閲覧。</ref>
<ref name="tokyometro-news-20130318">{{PDFlink|[http://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130318_mobile.pdf 平成25年3月21日(木)正午より、東京メトロの全線で携帯電話が利用可能に!]}}、東京メトロニュースリリース(2013年3月18日)、2013年3月19日閲覧。</ref>
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<ref name="kousoku18">{{PDFlink|[http://www.kansa.metro.tokyo.jp/PDF/05kessankikin/18kouketu/18kousoku.pdf 平成18年度東京都高速電車事業会計決算審査意見書]}}、東京都監査事務局ウェブサイト、2013年1月16日閲覧。</ref>
<ref name="tokyo-governor-20121218">[http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2012/121218.htm 知事の部屋 / 記者会見(平成24年12月18日)|東京都]、東京都公式ウェブサイト(2012年12月19日)、2013年2月8日閲覧。</ref>
<ref name="tokyo-governor-20130220">[http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/HATSUGEN/30n2k100.htm 平成25年第一回都議会定例会知事施政方針表明] {{Wayback|url=http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/HATSUGEN/30n2k100.htm |date=20130224065304 }}、東京都公式ウェブサイト(2013年2月20日)、2013年2月23日閲覧。</ref>
<!--<ref name="getnavi">[http://getnavi.jp/vehicles/324985/view-all/ 変貌する相鉄に注目! — 期待が膨らむ新線に沿って歩いてみた] - GetNaviWeb。2018年12月1日19時発信、2019年3月3日閲覧。</ref>-->
}}
== 関連項目 ==
* [[地下鉄]]
* [[日本の地下鉄]]
* [[東京の地下鉄]]
* [[東京都交通局]]
* [[東京地下鉄]](東京メトロ)
* [[東京都地下鉄建設]]
* [[都営フェスタ]]
* [[出口番号]]
== 外部リンク ==
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* [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/ 都営地下鉄公式ウェブサイト]
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[[Category:東京の地下鉄]]
[[Category:都営地下鉄|*]]
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[[Category:日本の地下鉄]] | 2003-03-11T13:37:45Z | 2023-12-03T10:01:49Z | false | false | false | [
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3,831 | エジプト神話 | エジプト神話(エジプトしんわ、英語: Egyptian mythology)とは、古代エジプトより興った当時のエジプト人の世界観を示す手段としてエジプト固有の神々の行動を記した神話をまとめたものである。同神話が表している信仰は、古代エジプトの宗教の重要な部分であり、各固有の銘は、国名と同期している。エジプトの文学や芸術、特に短編小説や賛美歌、儀式文書、葬礼文書、神殿の装飾といった宗教的素材にエジプト神話が頻繁に現れる。これら原資料が神話の完全な記述になっていることは稀で、短い断片だけを記したものが多い。
自然のサイクルに触発され、エジプト人は現在の時間を一連の繰り返しパターンとして捉え、その一方で最初期の時間は直線的だと考えた。エジプト神話はその直線的な最初期にあたるもので、同神話が現在のサイクルにつながるパターンを設定している。現在の出来事は神話の出来事を繰り返しているのであり、そうすることで宇宙の根源的秩序であるマアトを更新していくことになる。
神話上の過去を起点とする最も重要なエピソードの中に創造神話があり、その中で神々は原始の混沌から宇宙を造形していく。地上における太陽神ラーの統治の物語や、破壊の神セトに対抗する神々オシリス、イシス、ホルスの闘争に関するオシリスとイシスの伝説がある。神話と見なされるかもしれない現在時間からの出来事としては、この世界とそれに対応する異世界ドゥアトを通るラーの日々の旅が含まれる。これらの神話エピソードで繰り返し出てくるテーマには、マアトの支持者と無秩序の勢力との間の対立、マアトを維持する際のファラオの重要性、そして絶えず起こる神々の死と再生などがある。
これら神聖な出来事の詳細はテキストによって大きく異なり、矛盾があるように思えることも多い。エジプト神話は主に隠喩的なもので、神々の本質や行動を人間が理解できる言葉に変えて伝えている。神話のそれぞれの異形は、神々や世界についてのエジプト人の理解を豊かにしてくれる象徴的な見解の相違を表すものである。
同神話はエジプトの文化に多大な影響を与えた。それは多くの宗教的儀式に着想を与えたり影響を及ぼし、王権にとってのイデオロギー的な基盤を与えた。神話に由来する場面や象徴は、墓、神殿、お守りといった芸術に現われた。文学においては、神話あるいは神話的要素がユーモアからアレゴリーまでの物語で使われており、それはエジプト人が多種多様な目的に合わせてこの神話を順応させたことを示すものである。
エジプトがローマ帝国の属州となり、やがてイスラム教が流入すると、これらの信仰は途絶えたとされる。
エジプト神話の発展は追跡が困難である。エジプト学者はだいぶ後年に登場した文書の原資料に基づき、その最初期段階に関する学術的な推測をしなければならない。神話における明白な影響の1つに、エジプトの自然環境がある。太陽が日々昇っては沈み、土地に光をもたらし、人間の活動を規則的にした。ナイル川は毎年氾濫し、土壌の肥沃度を新たにしてエジプト文明を維持させる生産性の高い農業を可能にしていた。このように、エジプト人は水と太陽を生命の象徴と見なし、時間を一連の自然サイクルとして考えた。この秩序だったパターンは絶えず崩壊の危険にさらされた。例年と異なる低い洪水は飢饉をもたらし、高い洪水は穀物と建物を破壊した。恩恵深いナイル渓谷は、エジプト人が野蛮な秩序の敵と見なした人々が住む過酷な砂漠に囲まれていた。これらの理由から、エジプト人は自分たちの土地を安定しているが孤立した場所あるいは混沌に囲まれて危機に瀕している「マアト」だと考えていた。これらのテーマ(秩序、混沌、そして更新)は、古代エジプトの宗教思想に繰り返し現れる。
エジプト神話にとってもう一つの有力な資料に儀式がある。多くの儀式は神話に言及しており、時には神話に直接基づいている。しかし、文化としての神話が儀式以前に発達したのか、あるいはその逆なのかを断定するのは困難である。この神話と儀式の関係についての問いかけは、一般にエジプト学者および比較宗教学者の間で(どちらが先か)多くの議論を生むことになった。古代エジプトでは、最初期の宗教的実践の証拠は文字に記された神話よりも昔のものである。エジプト史初期の儀式は神話からのモチーフを幾つか含んでいた。これらの理由から、一部の学者はエジプトでは神話の前に儀式が出現したと主張している。しかし初期の証拠はごく僅かであるため、この問題は決して確実には解決しない可能性がある。
しばしば「魔法」と呼ばれる非公開の儀式において、神話と儀式は特に密接な結びつきがある。他の原資料では発見されていない神話めいた物語の多くが、儀式文書の中には現れる。毒を盛られた息子ホルスを救う女神イシスという広く知られたモチーフでさえ、このタイプの文書にだけ出てくる。
エジプト学者のダヴィド・フランクフルターは、これら儀式は神話に基づく精巧な新しい物語(historiolasと呼ばれる)を作りあげることで、基本的な神話の伝統を特定儀式に合うよう順応させたものだと主張している。対照的にJ・F・ボーグハウツ(en)は魔法のテキストについて「この分野のために特定種類の「異端」神話が造られたという証拠は微塵もない」と述べている。
エジプト神話の大半は創造神話で構成され、人間の制度や自然現象を含む世界のさまざまな要素の始まりを説明している。王権は原初の時間において神々の間で起こり、後に人間のファラオに渡された。太陽神が空に舞い戻った後、人間が互いに戦い始めたときに戦争が始まる。神話はまた、さほど根本的ではない伝統の始まりとされていることも説明している。マイナーな神話的エピソードで、ホルスは母親のイシスに怒って彼女の頭を切り落とし、イシスは失くした自分の頭を牛のものと取り替える。この出来事は、なぜイシスが頭飾りの一部としてたまに牛の角が描かれるのかを説明したものである。
一部の神話は歴史的な出来事に触発された可能性がある。紀元前3100年頃のエジプト先王朝時代末期におけるファラオの下でのエジプトの統一は、王をエジプト宗教の焦点に据えており、それゆえ王権のイデオロギーは同神話の重要な部分となった。統一をきっかけに、かつて地元の守護神だった神々が国内での重要性を獲得し、統一された国の伝統に地元の神々を結びつける新しい関係を形成した。初期の神話はこれらの関係性から形成された可能性があるとジェラルディン・ピンチは示唆している。エジプトの原資料は、ホルスの神々とセトとの間の神話上の争いを、エジプト先王朝時代後期またはエジプト初期王朝時代に起こったであろう上エジプトと下エジプトの両地域間の争いと結びつけている。
これら初期時代を経て、神話に対する変更の大半は新しい概念を創るのではなく、既存の概念を発展させることで(例外もあるが)適応していった。多くの学者が、太陽神が空に引き揚げて人間同士を戦わせるという神話はエジプト古王国末期(紀元前2686-2181年)における王権と王国の崩壊に触発されたものだと指摘している。エジプト新王国(紀元前1550-1070年頃)では、カナンの宗教から取り入れたヤム (ウガリット神話の神)やアナトといった神々を中心にマイナーな神話が発展した。対照的に、グレコ・ローマン期(紀元前332年-西暦641年)におけるグレコローマン文化はエジプト神話にほとんど影響を及ぼさなかった。
どのような古代エジプトの信仰が神話であるのかを定義することは、学者にとっても難題である。エジプト学者ジョン・ベインズ(en)により示された神話の基本的な定義は「神聖または文化的に中心となる説話」である。エジプトでは、文化および宗教の中心となる説話がほぼ全て神々の間で起きた出来事に関するものである。神々の行動に関する実際の説話は、特に初期からエジプトの文書では稀であり、そのような出来事への言及の大半は単なる顕彰かあるいは隠喩である。
ベインズほか一部のエジプト学者は、「神話」と呼ばれるほど十分に完成した説話がすべての時代に存在したが、それらを書き留めることをエジプトの伝統が良しとしなかったと主張している。ヤン・アスマン(en)など他の学者達は、真の神話はエジプトでは稀であって、最初期の著述に現れるナレーションの断片から発展してその歴史の途中で出来上がった可能性があると述べている。しかしながら、近年ではヴィンセント・A・トビンとスザンヌ・ビッケルが、その複雑で柔軟な性質がゆえに、エジプト神話では長い説話が必要とされなかったと指摘している。トビンが主張するには、説話はそれらが説明する出来事について単純で固定された見方を形成する傾向があるので、説話は神話に対してさえ異質なものである。もしも神話にナレーションが必要とされないならば、神の性質または行動についての考えを伝えるどんな声明も「神話」と呼ばれうることになる。
他の多くの文化における神話と同じく、エジプト神話は人間の伝統を正当化する役割と、無秩序の性質や宇宙の終焉といったこの世界に関する根源的な疑問に応える役割を担っている。エジプト人は神々に関する発言を通してこれらの深遠な問題を説明した。
エジプトの神々は、地球や太陽のような物体から知識や創造性といった抽象的な力までの自然現象を表している。神々の行動および相互作用がこれらの全ての力および要素の振る舞いを支配する、とエジプト人は信じていた。ほとんどの場合、エジプト人はこれらの神秘的な過程を明確な神学的著述に記してはいない。代わりに、そうした過程を神々の関係および相互作用で暗示的に説明したのである。
多くの主要な神々も含めて大半のエジプトの神々は、いずれの神話的な説話においても重要な役割を担っていないが、彼らの性質および他の神格との関係は、ナレーションの無い最小限の声明やリストでしばしば確立されている。説話に深く関わっている神々にとって、神話の出来事は宇宙における彼らの役割の非常に重要な発現である。したがって、説話だけが神話であるなら神話はエジプトの宗教的理解の主要素となるが、他の多くの文化のように不可欠要素ではない。
神々の本当の領域は神秘的であり、人間では到達できない。神話の物語は象徴化を用いることでこの領域の出来事を理解しやすくしている。ただし神話記述のあらゆる細部に象徴的な意味があるわけではない。一部の図像や事案は、宗教的なテキストにおいても、より広い意義を持つ神話の単なる視覚的または劇的な装飾として意図されたものに過ぎない。
エジプト神話の原資料には、完全な物語がほとんど存在しない。これらの原資料には関連する出来事への隠喩以外には何も含まれていないことも多く、実際の説話を含むテキストはより広大な物語の一部だけを伝えている。したがって、エジプト人はどの神話に関しても物語の一般的な概要しか持っておらず、特定の事象を説明する断片がそこから出来上がっていったのかもしれないとする説がある。さらに、神々はしっかり定義づけられた性格が無く、たまに矛盾する行動があってもその動機が付されることは稀である。したがって、エジプト神話は十分に発達した物語ではない。同神話の重要性は、物語としての特徴ではなく、その根底にある意義の部分にある。冗長な固定の物語へと融合するのではなく、それらは(断片状態のまま)非常に柔軟で非教理的なものとして維持されたのである。
エジプト神話は非常に柔軟で、互いに矛盾しているようにも見える。エジプトの文書には世界の創造や太陽の動きの説明が多く出てくるが、その幾つかは互いに非常に異なっている。神々の関係は流動的で、そのため例えば、女神ハトホルは太陽神ラーの母や妻あるいは娘と呼ばれることもあった。別離した神々が一つの存在として習合されたり連結されることさえあった。それゆえ創造主の神アトゥムはラーと結びついてラー=アトゥム(Ra-Atum)を形成した。
神話での矛盾について一般的に示唆される理由の1つは、宗教的な思想が時代の経過や地域によって異なることである。様々な神々の現地の熱狂信奉者(カルト)が彼ら自身の守護神を中心とした神学を発展させた。様々なカルトの影響が移り変わるうちに、一部の神話体系は国家支配に到った。エジプト古王国期(紀元前2686-2181年)における最も重要な体系がヘリオポリスを中心としたラーとアトゥムのカルトであった。彼らは世界を創造したと言われる神話上の家族エネアド(エジプト九柱の神々)を形成した。それは当時の最重要な神格を含むものだったが、中でもアトゥムとラーには優位性を与えた。エジプト人はまた、古い宗教思想を新しいものと重ね合わせた。例えば、メンフィス (エジプト)を中心とするカルトがある神プタハも世界の創造者であると言われていた。プタハの創造神話は、プタハの創造的命令を実行するのはエネアドだと語ることで、より古い神話を取り入れている。したがって、同神話ではプタハをエネアド九柱神よりも古くて偉大なものとしている。多くの学者は、この神話をヘリオポリスの神よりもメンフィス神の優位性を主張する政治的試みと捉えている。このように概念を組み合わせることで、エジプト人は非常に複雑な神々と神話の組み合わせを生み出していった。
20世紀初頭のエジプト学者達は、上述したような政治的動機の変化がエジプト神話における矛盾した描写イメージの主な理由であると考えた。しかし1940年代に、エジプト神話の象徴的な性質を熟知するヘンリ・フランクフォート(en)が、明らかに矛盾する思考はエジプト人が神の領域を理解するために使っていた「アプローチの多様性」の一部であると主張した。フランクフォートの主張は、ごく最近のエジプト信仰分析における大半の基礎となっている。政治的変化はエジプト人の信仰に影響を及ぼしたが、それら変化を通して現れた思想もまた、より深い意味を持っている。同じ神話の複数のバージョンは同じ現象の異なる側面を表しており、同じように振る舞う異なる神々は自然の力の密接な関係を反映したものである。エジプト神話の様々なシンボルは、単眼レンズを通して見るには複雑すぎる思想を表している。
利用可能な原資料は、厳粛な賛美歌から笑い話まで多岐にわたる。いかなる神話でも正典的なバージョンが単一ではなく、エジプト人は彼らの著作の様々な目的に合うように神話の幅広い伝統を適応させた。大半の古代エジプト人は文字が読めなかったため、物語を話すことを通じて神話を語り継ぐ口頭伝承がなされていた可能性がある。スザンヌ・ビッケルは、この伝統の存在がなぜ神話に関連したテキストの多くが殆ど詳細を述べていないのか説明する手掛かりになると指摘し、既に神話は全てのエジプト人に知られていたという。この口頭伝承の証拠はほとんど残っておらず、エジプト神話に関する現代知識は書かれた絵図の原資料から見つかったものである。現在まで残っているのはこれら資料のごく一部であり、かつて書き留められた神話情報の多くが失われてしまっている。この情報はどの時代においても等しく豊富でないため、エジプト人が歴史上のある時代に抱いていた信仰は、よりきちんと文書化された時代における信仰よりも理解が不十分である。
多くの神々がエジプト初期王朝時代(紀元前3100年頃-2686年)の芸術作品に現れるが、これらには最小限の著述しか含まれていないため、神々の行動に関してはこれらの資料から殆ど集めることができない。エジプト人はエジプト古王国時代により広く著述を使うようになり、そこでエジプト神話最初の主要な原資料であるピラミッド・テキストが現れた。これらテキストは紀元前24世紀に始まるピラミッドの内部に刻まれた数百の呪文を集めたものである。それはピラミッドに埋葬された王たちが安全にあの世を通過できるようにすることを意図した、エジプト最初の葬礼文書であった。呪文の多くは、創世神話やオシリス神話を含め、あの世に関連した神話を暗示している。テキストの多くは最初に書かれた既知の複製よりもはるかに古いもので、従ってそれらはエジプトの宗教的信仰の初期段階に関する手がかりを提供している。
エジプト第1中間期(紀元前2181-2055年頃)に、ピラミッド・テキストは同様の素材を含むと共に非王族でも利用可能なピラミッド・テキスト(棺の文章)へと展開された。新王国期の死者の書やエジプト末期王朝(紀元前664-323年)以降の呼吸の書(en)のような後継の葬礼文書は、これらの初期のコレクションから発達したものである。また新王国期では、太陽神の夜の旅について詳細かつまとまった記述を含む、別のタイプの葬礼文書の発展も見られた。この種のテキストには『アムドゥアト(en)』『門の書(en)』『洞窟の書(en)』などがある。
現存する遺跡の大部分が新王国期以降のものだが、神殿はもう一つの神話の資料源である。多くの神殿は、儀式用やその他用途のパピルスを保管するペル=アンク(アンクに関する書庫)や神殿図書館を備えていた。これらパピルスの一部には神の行動を褒め称える賛美歌が含まれており、しばしばそれらの行動を定義する神話に言及している。神殿の他のパピルスは儀式のことを説明しており、それらの多くは部分的に神話に基づいたものである。これらパピルスを集めた散在する遺物は現在まで残っている。コレクションがより体系的な神話の記録を含んでいた可能性はあるが、そのようなテキストの証拠は現存していない。神殿建物の装飾には、神殿のパピルスのものと同様の、神話のテキストや絵図も見られる。プトレマイオス朝およびアエギュプトゥス時代(紀元前305-西暦380年)の精巧な装飾が施されて保存状態も良い神殿は、特に豊かな神話の原資料である。
エジプト人はまた、病気の予防や治癒といった個人的な目的のための儀式も行なっていた。これらの儀式は宗教的というよりむしろ「魔法(呪術)的」と呼ばれることが多いが、それらは儀式の基礎として神話上の出来事を呼び起こす神殿の儀式と同じ原則で作用すると信じられていた。
宗教的な原資料からの情報は、彼らが記述および描写できるものへの伝統的制約のシステム(いわゆるタブー)による制限を受けている。例えば、オシリス神の殺害はエジプトの著述だと決して明示的に書かれていない。エジプト人は言葉や絵図が現実に影響を与えうると信じていたため、彼らはそうしたネガティブな出来事が現実に起こってしまうリスクを避けていた。また、古代エジプト美術の慣習は物語全体を描くのにあまり適しておらず、そのため大半の神話関連の芸術作品はまばらな個々の情景で構成されている。
神話への言及はまた、エジプト中王国より始まる非宗教的なエジプト文学にも現れている。これらの言及の多くは神話のモチーフへの単なる隠喩だが、一部の物語は完全に神話的説話に基づいている。これらのより直接的な神話の描写は、ヘイケ・シュテルンベルクなどの学者によれば、エジプト神話が最も完全に発達した状態になった時期である末期王朝およびグレコローマン時代に特に一般的となった。
エジプトの非宗教的なテキストにおける神話への考え方は大きく異なる。一部の物語は呪術的テキストからの説話に似ているが、他の物語はより明確に娯楽としての意味あいがあり、ユーモラスなエピソードさえも含んでいる。
エジプト神話の最晩年の原資料は、同神話が存在する最後の世紀にエジプトの宗教を描いたヘロドトスやディオドルス・シクルスのような古代ギリシアおよび古代ローマの作家の著作物である。これらの作家の中で著名な人物はプルタルコスで、その作品『モラリア』にオシリス神話の最も長い古代の記述(De Iside et Osiride)が含まれている。これら作家のエジプトの宗教に関する知識は、エジプト外部にいたため多くの宗教的慣習について限定的であり、エジプト人の信仰に関する彼らの声明はエジプトの文化に対する彼らの偏見の影響を受けている。
エジプトの言葉で「m3ˁt,」と記されるマアトは、エジプトの信仰における宇宙の基本的な秩序を指すものである。世界の創造で確立されたマアトは、世界とそれ以前より取り巻いていた混沌とを区分している。マアトは人間の正しい行いと自然の力の正常な機能の両方を網羅しており、その両方が生命と幸福を可能にしている。 神々の行動が自然の力を支配し、神話がそれらの行動を表現するので、エジプト神話は世界の適正な機能と生命そのものの営みを表すものである。
エジプト人にとって、マアトを維持する最重要の人間はファラオである。 神話においてファラオは様々な神格の息子である。その意味で、ファラオは指名された神々の代表であり、彼らが自然にことを行うよう人間社会において秩序を維持し、神々とその活動を支える儀式を継続するよう義務付けられている。
エジプトの信仰では、秩序ある世界の前からあった無秩序が形状のない無限の水の広がりとして世界を超えて存在しており、神ヌンとして擬人化されている。ゲブという神に擬人化された大地は平らな土地であり、通常その上には女神ヌトによって表される天空が弓なりになっている。この両者は大気の擬人化であるシューによって隔てられている(右の絵図参照)。太陽神ラーは自らの光で世界を賑わせながら、ヌトの全身である空を通って移動すると言われている。夜にラーは西の地平線を越えて、形のないヌンと境を接する謎めいた領域ドゥアトに踏み入る。夜明けに彼は東の地平線のドゥアトから出てくる。
空の性質とドゥアトの場所は不明瞭である。エジプトのテキストは夜間の太陽について、大地の下側を旅するともヌトの体内を移動するとも様々に説明している。 エジプト学者のジェームズ・P・アレン(en)は、これら太陽の動きの説明は似ていないが共存する考えだと確信している。アレンの見解では、ヌトはヌンの水面の見える表面を表しており、星はこの表面に浮かんでいる。 従って、太陽は円を描くように水を横断航行し、毎晩水平線を越えてドゥアトの逆側にある土地の下にアーチを描いて空に到達する。しかしレオナルド・H・レスコ(en)は、エジプト人は空を堅い天蓋と捉えており、夜間に西から東へと空の表面の上にあるドゥアトを通って移動するとして太陽を説明したと確信している。レスコのモデルを修正したジョアンヌ・コンマンは、この堅い天空が動く凹面ドームであり、凸面の大地を深く包括していると主張する。太陽と星はこのドームと一緒に動き、地平線の下でのそれらの通過は単にエジプト人が見ることができなかった大地の領域を超えたそれらの動きである。 これら地域がその後ドゥアトになったのだろうというのがコンマンの説である。
ナイル渓谷(上エジプト)とナイル川デルタ(下エジプト)の肥沃な土地は、エジプト宇宙論の世界の中心にある。 それらの外側に、世界を越えて存在する混沌と関連している不毛の砂漠がある。その先のどこかに地平線アケト(en)がある。東と西にある2つの山は、太陽がドゥアトに出入りする場所を示している。
エジプト人のイデオロギーでは、外国は敵対的な砂漠と関連がある。エジプトと同盟関係にあったりエジプトの支配下にある人々はもっと肯定的に見られていた可能性があるものの、一般的には外国の人々も同じく、ファラオの支配とマアトの安定を脅かす人々「9つの弓(en)」と同列にされた。これらの理由から、エジプト神話の出来事は外国の土地では滅多に起こらない。一部の物語は天空あるいはドゥアトと関連しているが、一般的にはエジプト自体が神々の行動のための現場である。しばしば、エジプトに設定された神話さえも生きている人間が住むところから隔離された別世界の場で起きているように思えるが、他の物語では人間と神が交流している。いずれにせよ、エジプトの神々は彼らの故郷と深く結びついている。
エジプト人の時間に関する視点は彼らの環境による影響を受けた。毎日太陽が昇っては沈み、土地に光をもたらし、人間の活動を規則的にさせた。毎年ナイル川は氾濫し、土壌の肥沃度を刷新してはエジプト文明を維持させる生産性の高い農業を可能にした。これらの周期的な出来事は、全ての時間が(神々と宇宙を刷新する)マアトによって調整された一連の繰り返しパターンだと、理解するための着想をエジプト人に与えた。エジプト人は歴史上の時代が違えばその詳細も異なることを認識していたが、神話のパターンがエジプト人の歴史認識を支配していた。
神々に関するエジプトの物語の多くは、神々が大地に顕現してそれを支配していた原始の時代に起こったものして特徴付けられる。この後、地上の権威が人間のファラオに移ったとエジプト人は信じていた。この原始の時代は、太陽の旅の始まりや現在の世界のパターン繰り返し以前のことのように思われる。 もう一方の時間の終末は、サイクルの終わりと世界の消滅である。これらの遠い時代は現在のサイクルよりも直線的な説話に適しているので、ジョン・ベインズ(en)はそれらを真の神話が起こる唯一の時代と捉えている。ただ、ある程度は、時間の周期的な側面が神話の過去にも存在していた。エジプト人はその当時に設定された物語さえも不変の真実であると考えた。神話はそれらと関連した出来事が起こるたびに現実のものとなった。これらの出来事はしばしば神話を呼び起こした儀式で祝われた。儀式とは、定期的に神話の過去に戻って宇宙における生命を更新する時間を可能にするものだった。
エジプトの人々は、太陽が毎朝繰り返し昇る様子から、死後の再生を信じていた。人間は、名前、肉体、影、バー(Ba・魂)、カー(Ka・精霊)の5つの要素から成り立っていると信じられた。人が死ぬとバーは肉体から離れて冥界へ行くが、肉体がそのままであれば、カーがバーと肉体との仲立ちとなって、アアルで再生できるとされた。そのため、人の死後に肉体が保存されていることが重要視され、ミイラ作りが盛んに行われた。一方で、死後に再生することができない「第二の死」を恐れた。ちなみに、バーは人間の頭をした鷹の姿で現される。
死者の書は、古代エジプト人が信仰した、この「第二の誕生」を得るための指南書であったと言われている。ピラミッドについても墓ではなかったと言われ、死後の世界に旅立つ太陽の船に乗るための場として建造されたものとされる。神殿などに刻まれた名前も、名前こそが死後の再生に必要な要素であると信じられたために、できる限り後世に残すべく、数多く刻まれたものと考えられている。
エジプト神話の最も重要なカテゴリのいくつかを以下に説明する。同神話の断片的な性質のため、エジプトの原資料には神話の出来事に年代順の並びを示すものが殆どない。とは言うものの、カテゴリは非常に緩やかな時系列で並べられている。
詳細は古代エジプトの創世神話(英語版)を参照
最も重要な神話の中に、世界の創造を説明するものがある。エジプト人は、自分たちが述べる出来事で大きな差がある多くの創造の記述を展開させた。 特に、世界を創造したと言われている神格は、それぞれの記述において異なる。この差異は、創造を自分たちが信仰する神によるものとすることで自身の守護神を高位に据えたいというエジプトの都市や神権の欲求を部分的に反映している。ただし、異なる記述が矛盾とは見なされなかった。代わりに、エジプト人は創造プロセスが多くの側面を持ち合わせており、多くの神の力が関わっているものと捉えた。
神話の共通点の1つは、それを取り巻く混沌の水から世界が出現することである。この出来事は、マアトの確立と生命の起源を表している。一つの断片的な伝統は、原初の水自体の特徴を表すオグドアドの8柱の神々に集中している。彼らの行動は太陽(創造神話では様々な神々、特にラーで表される)を生み出し、その誕生は暗い水の中に光と乾燥の空間を形成する。太陽は乾燥した土地の最初の塚から昇ってくる。この塚は創造神話におけるまた別の共通モチーフで、ナイル川の洪水が後退したときに出来ている大地の盛り上がりに触発された可能性が高いとされる。マアトの創設者である太陽神の出現により、世界はその最初の支配者を有することになる。紀元前1世紀の記述は、新しく秩序だった世界を脅かしている混沌の勢力を制圧するための創造神の行動に焦点を当てている。
太陽および原初の丘と密接に関係している神アトゥムは、少なくともエジプト古王国までさかのぼる創造神話の焦点である。世界のあらゆる要素を取り入れたアトゥムは、潜在的な存在として水の中に存在する。創造の時に彼は他の神々を生み出すために出現し、その結果としてゲブやヌトおよび世界のこれ以外の重要な要素を含むエネアド九柱神たちが出来上がった。エネアドは全ての神々の代わりになる事ができるとされるので、その創造は世界中に存在する多様な要素の中にあるアトゥムの際立った潜在能力を表したものである。
時間が経つにつれ、エジプト人は創造過程に関してより抽象的な見方を発展させた。ピラミッド・テキストの時代までに、彼らは世界の形成を創造神の心中で最初に開発された概念の実現だと説明した。神の世界のものと現実世界のものとを結び付けるヘカ(英語版)の力、あるいは魔法、は創造主の当初の概念とその物理的な実現とを結び付ける力である。ヘカ自体は神として擬人化されてはいるが、この創造の知的プロセスがその神にだけ関連付けられているわけではない。エジプト第3中間期(紀元前1070-664年頃)からの碑文は、そのテキストがだいぶ古い可能性もあるが、プロセスの詳細を記述していて、それが神プタハに帰するとしている。その神と鍛冶屋との緊密な関係が、当初の創造計画に物理的な形を与えるための適切な神格となった。新王国期からの賛美歌は、この創造計画の究極の源として神アメンを、他の神々の背後にさえある神秘的な力だと説明している。
人間の起源はエジプトの創造物語の主な題材ではない。一部のテキストでは、ラー=アトゥムまたは彼の女性的側面であるラーの眼が衰弱と苦悩の瞬間に流した涙から最初の人間が生まれ、それは欠陥がある人間の性質および哀しい生涯を暗示していると言う。他のテキストは、神クヌムによって人間が粘土から成形されたと述べている。しかし全体として、創造神話の焦点は宇宙秩序の確立であり、そこに人間の特別な場面はない。
エジプトの複数のテキストが、王権の継承者である神が父親とされる子供の誕生という、同じテーマを取り上げている。そうした物語の最初期に現れたのは神話ではなく楽しい民話で、エジプト第5王朝最初の3人の王の誕生に関する中王国時代のウェストカー・パピルスで発見された。同物語において、3人の王はラーと人間の女性の子孫である。支配者ハトシェプスト、アメンホテプ3世、ラムセス2世が寺院のレリーフに自身の概念と誕生を描かせた時、同じテーマが新王国時代の確固たる宗教的文脈で現れ、そこでは神アメンが父であり、歴史上の女王が母親である。王は神々の中に起源があって当時最も重要な神によって入念に創りこまれたと述べることで、その物語は王の戴冠式に神話的背景を与えており、それは誕生物語と並行して出てくる。神との繋がりは王の支配を正当化し、神と人間の間の仲介者としての王の役割に理論的根拠を提供している。
似たような情景が新王国期以後の多くの寺院に見られるが、この時に彼らが描いた出来事は神々だけが関わっている。この時期、ほとんどの寺院が神話上の神々の家族、通常は父と母と息子に執着した。これらの物語のバージョンでは、誕生はそれぞれ息子3人組である。これら子供の神の各々が、国家の安定性を回復するだろう玉座の継承者である。人間の王から彼と関連のあった神々へのこの焦点推移は、古代エジプト史後期におけるファラオの地位低下を反映している。
天空とドゥアトを通るラーの移動はエジプトの原資料では十分に語られていないが、『アムドゥアト』『門の書』『洞窟の書』といった葬礼文書が一連の寸描で旅の半分にあたる夜間について物語っている。この旅は、ラーの性質と全ての生命維持にとって重要である。
天空を横切って移動する際、ラーは大地に光をもたらし、そこに生きる全てのものを維持している。彼は正午に力のピークに達し、その後は日没に向かって動くにつれて年を取って弱くなる。夕方にラーは世界で最も古い創造神であるアトゥムの形状になる。エジプト初期の文書によると、彼は日の出で平らげた他の全ての神々を一日の終わりに吐き出す。ここでその神々は星として現れ、同物語はなぜ星が夜に見えるのに日中は見えなくなるのかを説明している。
日没でラーは、西のアケト(akhet)という地平線を通過する。この地平線はドゥアトに通じる門または扉として説明されることもある。他の文書で、天空の女神ヌトは太陽の神を飲み込むと言われているので、ドゥアトを通るラーの旅は彼女の体内を通る旅に例えられる。祭礼文書では、ドゥアトとその中にいる神々は緻密かつ詳細に、そして広範囲に変化するイメージで描かれている。これらのイメージはドゥアトの素晴らしくも謎めいた性質を象徴しており、そこでは神と死者の両方が創造の原初の力と接触することで新たに生を受ける。実際のところ、エジプトのテキストはそれを明示的に語らないようにしているが、ラーがドゥアトの中に入ることは彼の死と見られている。
旅の描写には特定のテーマが繰り返し描かれる。ラーはマアトを維持するのに必要な努力を行う代表者として、彼の道中で多くの障害を克服する。最大の試練は、無秩序な破壊の側面を司る蛇神で、太陽神を滅ぼして創造を混沌に陥れると脅すアペプとの対決である。多くのテキストで、ラーは一緒に旅をする他の神々の助けを借りてこれらの障害を克服しており、彼らはラーの権威を支持するのに必要な様々な力を備えている。ラーはまた自身の航路でドゥアトに光をもたらし、そこに住んでいる祝福を受けた死者に活力を与える。対照的に、マアトを傷つけた人々は彼の敵として苦痛を与えられ、暗い穴や火の湖に投げ込まれる。
旅の鍵となる出来事は、ラーとオシリスの出会いである。 新王国期には、この出来事がエジプトの生命と時間の概念の複雑な象徴へと発展した。 ドゥアトに追いやられたオシリスは、墓の中にいるミイラ化した体のようである。休むことなく動いているラーは、死んだ人間のバーあるいは魂のようなもので、日中に旅をするとしても毎晩その体に戻る必要がある。ラーとオシリスが出会うと、彼らは一つの存在になる。彼ら2人組は継続的な繰り返しパターンとなるエジプトの時間の見方を反映しており、一人(オシリス)は常に静的で、もう一方(ラー)は一定の周期で生活している。
ラーはオシリスの再生力と一緒になるや、新たな活力を備えて旅を続ける。この再生が夜明けのラー出現を可能にしている。これは太陽が生まれ変わったと見られ、ヌトがラーを飲み込んだ後にラーを産むという比喩で表現されており、創造の瞬間における初日の出を繰り返していると見られる。この瞬間、昇っていく太陽神は再び星々を飲み込み、それらの力を吸収する。この活性化状態について、ラーは子供であったりスカラベの神ケプリとして描かれており、いずれもエジプトの図像において再生を表すものである。
一般的にエジプトのテキストは避けるべき将来として世界の消滅を扱っており、そうした理由からテキストがそれを詳細に説明しないことも多い。 しかし、数えきれないほどの更新サイクルの後に世界は終焉を迎える運命にある、という考えを多くのテキストが暗示している。 この終焉はピラミッド・テキストとより明示的には『死者の書』における一節の中で説明されており、そこではアトゥムがいつの日か自分が秩序のある世界を消してしまい、混沌とした水の中で原初の不活性な状態に戻ることになるだろうと語っている。創造主以外のあらゆる事物が存在を滅ぼされるが、例外としてオシリスは彼と共に生き残ることになる。この終末論的見通しについての詳細は、オシリスに関連した死の運命を含め、不明確なままである。ただし、秩序ある世界を生み出した水の中に創造神と再生の神が一緒にいるので、古いもの(消された現世)と同じように新しい創造が起こる可能性があるという。
エジプト人が神学的思想を明示的に説明することは稀だったため、神話で暗に示された思想が古代エジプト宗教の根幹の大部分を形成した。エジプト宗教の目的はマアトの維持であり、神話が表現する概念はマアトにとって不可欠なものだと信じられていた。エジプト宗教の儀式は、神話の出来事およびそれが表す概念をもう一度現実に起こすことを意図したもので、それによってマアトを再生していた。儀式は、最初の創造を可能にした物理的領域と神の領域の間とを同一に連結するヘカの力を介して効果が及ぶと信じられていた。
こうした理由から、エジプトの儀式には神話上の出来事を象徴する行動がしばしば含まれていた。寺院の儀式には、セトやアペプのような悪しき神々を表現している模型の破壊や、イシスがホルスのために行なった病気を癒すための非公開な魔法呪文の詠唱、開口の儀式(en)などの葬礼儀式などがあり、そして死者のために執り行う儀式はオシリス復活の神話を想起させるものだった。しかし、神話の劇的な再現を含む儀式はあったとしても稀だった。2人の女性がイシスとネフティスの役割をこなしたオシリス神話を暗示する儀式のような境界的事案があるが、これらの演出が一連の出来事を成したか否かについて学者たちの見解には賛否がある。エジプトの儀式の大半は神々に供え物をするといった基本的な活動に焦点を当てており、神話のテーマは儀式の焦点ではなくイデオロギーの背景として役立っていた。にもかかわらず、神話と儀式は互いに強く影響を及ぼした。イシスとネフティスとの儀式のように、神話は儀式を触発する。そして、神々や死者に供えられた食べ物や他の品物がホルスの目と同等とされた供物儀式の場合のように、もともと神話的意味の無かった儀式が意味があるものと再解釈されることもあった。
王権は人類と神々の間のつながりとする王の役割を通じて、エジプトの宗教の重要な要素であった。神話は王族と神格の間にあるこの関係の背景を説明している。エネアドに関する神話は、創造主に遡る支配者の系統の継承者として王を確立している。神を生み出す神話は王(ファラオ)が神の息子であり継承者であると主張している。そしてオシリスとホルスに関する神話は、玉座の正統な継承がマアトの維持に不可欠であることを強調している。したがって、神話がエジプト政治の本質そのものの理論的根拠を提供していたのである。
神々や神話上の出来事を描いた絵図は、墓、神殿、葬礼文書の中に宗教的叙述と並んで広く出現している。エジプトの芸術作品で神話の場面が説話として順番に並ぶことは稀であるが、特にオシリスの復活を描いた個々の場面はたまに宗教的芸術作品に現れることがある。
神話への暗示は、エジプトの芸術や建築で非常に普及した。神殿の設計では、神殿の軸となる中央通路が空を横切る太陽神の道に例えられており、通路の終わりにある聖域は彼がそこから昇った創造の場所を表していた。神殿の装飾はこの関係を強調した太陽の紋章で満たされていた。同様に、墓の回廊はドゥアトを通る神の旅に、そして埋葬室がオシリスの墓と関連付けられた。ピラミッドはエジプトのあらゆる建築様式の中で最も有名で、所有者の死後の再生を確実にすることを意図した記念碑にふさわしい創造の丘および最初の日の出を表しているとして、神話の象徴から触発を受けたものかもしれないとする説がある。エジプトの伝統における象徴は再解釈されることが度々あるため、神話的な象徴の意味が神話それ自体のように時間と共に変化したり増えたりする。
エジプト人が神の力を呼び覚まそうと一般的に身に着けていたお守りのように、一般的な芸術作品も神話のテーマを想起させるよう設計されていた。例えば、ホルスの目は失われた目の復活後のホルスの幸福を表していたため、保護用のお守りとして非常に一般的な形であった。スカラベ形のお守りは、太陽神が明け方に変化すると言われていた形状の神ケプリを指すもので、生命の再生を象徴していた。
宗教的著作以外でも、神話からのテーマやモチーフがエジプト文学に頻繁に現れる。エジプト中王国期に遡る初期の訓示テキスト『メリカラ王のための教訓(en)』には、恐らく人類滅亡というある種の神話への短い言及が含まれている。最初期で知られるエジプトの短編小説『難破した水夫の物語(en)』は、過去の物語の中に神々および世界の最終的消滅に関する思想を盛り込んでいる。
やや後年の物語は神話上の出来事をあらすじに取り上げたものが多い。『二人兄弟の物語(en)』はオシリス神話の一部を普通の人々に関する素晴らしい物語に適応しており、『弟の「ゲレグ」によって盲人にされてしまった兄の「マアト」の物語(en)』はホルスとセトの間の対立を寓話に変容したものである。
ホルスとセトの行動に関するテキストの断片は中王国期にさかのぼり、神々に関する物話はその時代に起きたことを示唆している。この形式のテキストの幾つかは新王国期から知られており、より多くの話が同後期およびグレコローマン時代に書かれた。 これらのテキストは上述のものよりも明らかに神話から派生したものであるが、それらは依然として非宗教的な目的で神話を適用している。新王国期からの『ホルスとセトの争い(en)』は、二人の神の間の対立の物語で、ユーモラスかつ一見無関心な調子で記されている。ローマ時代の『太陽の目の神話』は神話から取られた枠物語に寓話を取り入れている。魔法の目的とは関係のない道徳的メッセージを伝える新王国の物語『イシス、裕福な女の息子、そして漁師の妻』のように、書かれたフィクションが魔法テキストの説話にも影響を与えてしまうことがあった。神話を扱っているこれら物語の多彩さは、エジプト文化において同神話が貢献することになった意図内容の幅広さを示すものである。 | [
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"text": "エジプト神話(エジプトしんわ、英語: Egyptian mythology)とは、古代エジプトより興った当時のエジプト人の世界観を示す手段としてエジプト固有の神々の行動を記した神話をまとめたものである。同神話が表している信仰は、古代エジプトの宗教の重要な部分であり、各固有の銘は、国名と同期している。エジプトの文学や芸術、特に短編小説や賛美歌、儀式文書、葬礼文書、神殿の装飾といった宗教的素材にエジプト神話が頻繁に現れる。これら原資料が神話の完全な記述になっていることは稀で、短い断片だけを記したものが多い。",
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"text": "自然のサイクルに触発され、エジプト人は現在の時間を一連の繰り返しパターンとして捉え、その一方で最初期の時間は直線的だと考えた。エジプト神話はその直線的な最初期にあたるもので、同神話が現在のサイクルにつながるパターンを設定している。現在の出来事は神話の出来事を繰り返しているのであり、そうすることで宇宙の根源的秩序であるマアトを更新していくことになる。",
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"text": "神話上の過去を起点とする最も重要なエピソードの中に創造神話があり、その中で神々は原始の混沌から宇宙を造形していく。地上における太陽神ラーの統治の物語や、破壊の神セトに対抗する神々オシリス、イシス、ホルスの闘争に関するオシリスとイシスの伝説がある。神話と見なされるかもしれない現在時間からの出来事としては、この世界とそれに対応する異世界ドゥアトを通るラーの日々の旅が含まれる。これらの神話エピソードで繰り返し出てくるテーマには、マアトの支持者と無秩序の勢力との間の対立、マアトを維持する際のファラオの重要性、そして絶えず起こる神々の死と再生などがある。",
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"text": "これら神聖な出来事の詳細はテキストによって大きく異なり、矛盾があるように思えることも多い。エジプト神話は主に隠喩的なもので、神々の本質や行動を人間が理解できる言葉に変えて伝えている。神話のそれぞれの異形は、神々や世界についてのエジプト人の理解を豊かにしてくれる象徴的な見解の相違を表すものである。",
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"text": "同神話はエジプトの文化に多大な影響を与えた。それは多くの宗教的儀式に着想を与えたり影響を及ぼし、王権にとってのイデオロギー的な基盤を与えた。神話に由来する場面や象徴は、墓、神殿、お守りといった芸術に現われた。文学においては、神話あるいは神話的要素がユーモアからアレゴリーまでの物語で使われており、それはエジプト人が多種多様な目的に合わせてこの神話を順応させたことを示すものである。",
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"text": "エジプトがローマ帝国の属州となり、やがてイスラム教が流入すると、これらの信仰は途絶えたとされる。",
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"text": "エジプト神話の発展は追跡が困難である。エジプト学者はだいぶ後年に登場した文書の原資料に基づき、その最初期段階に関する学術的な推測をしなければならない。神話における明白な影響の1つに、エジプトの自然環境がある。太陽が日々昇っては沈み、土地に光をもたらし、人間の活動を規則的にした。ナイル川は毎年氾濫し、土壌の肥沃度を新たにしてエジプト文明を維持させる生産性の高い農業を可能にしていた。このように、エジプト人は水と太陽を生命の象徴と見なし、時間を一連の自然サイクルとして考えた。この秩序だったパターンは絶えず崩壊の危険にさらされた。例年と異なる低い洪水は飢饉をもたらし、高い洪水は穀物と建物を破壊した。恩恵深いナイル渓谷は、エジプト人が野蛮な秩序の敵と見なした人々が住む過酷な砂漠に囲まれていた。これらの理由から、エジプト人は自分たちの土地を安定しているが孤立した場所あるいは混沌に囲まれて危機に瀕している「マアト」だと考えていた。これらのテーマ(秩序、混沌、そして更新)は、古代エジプトの宗教思想に繰り返し現れる。",
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"text": "エジプト神話にとってもう一つの有力な資料に儀式がある。多くの儀式は神話に言及しており、時には神話に直接基づいている。しかし、文化としての神話が儀式以前に発達したのか、あるいはその逆なのかを断定するのは困難である。この神話と儀式の関係についての問いかけは、一般にエジプト学者および比較宗教学者の間で(どちらが先か)多くの議論を生むことになった。古代エジプトでは、最初期の宗教的実践の証拠は文字に記された神話よりも昔のものである。エジプト史初期の儀式は神話からのモチーフを幾つか含んでいた。これらの理由から、一部の学者はエジプトでは神話の前に儀式が出現したと主張している。しかし初期の証拠はごく僅かであるため、この問題は決して確実には解決しない可能性がある。",
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"text": "しばしば「魔法」と呼ばれる非公開の儀式において、神話と儀式は特に密接な結びつきがある。他の原資料では発見されていない神話めいた物語の多くが、儀式文書の中には現れる。毒を盛られた息子ホルスを救う女神イシスという広く知られたモチーフでさえ、このタイプの文書にだけ出てくる。",
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"text": "エジプト学者のダヴィド・フランクフルターは、これら儀式は神話に基づく精巧な新しい物語(historiolasと呼ばれる)を作りあげることで、基本的な神話の伝統を特定儀式に合うよう順応させたものだと主張している。対照的にJ・F・ボーグハウツ(en)は魔法のテキストについて「この分野のために特定種類の「異端」神話が造られたという証拠は微塵もない」と述べている。",
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"text": "エジプト神話の大半は創造神話で構成され、人間の制度や自然現象を含む世界のさまざまな要素の始まりを説明している。王権は原初の時間において神々の間で起こり、後に人間のファラオに渡された。太陽神が空に舞い戻った後、人間が互いに戦い始めたときに戦争が始まる。神話はまた、さほど根本的ではない伝統の始まりとされていることも説明している。マイナーな神話的エピソードで、ホルスは母親のイシスに怒って彼女の頭を切り落とし、イシスは失くした自分の頭を牛のものと取り替える。この出来事は、なぜイシスが頭飾りの一部としてたまに牛の角が描かれるのかを説明したものである。",
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"text": "一部の神話は歴史的な出来事に触発された可能性がある。紀元前3100年頃のエジプト先王朝時代末期におけるファラオの下でのエジプトの統一は、王をエジプト宗教の焦点に据えており、それゆえ王権のイデオロギーは同神話の重要な部分となった。統一をきっかけに、かつて地元の守護神だった神々が国内での重要性を獲得し、統一された国の伝統に地元の神々を結びつける新しい関係を形成した。初期の神話はこれらの関係性から形成された可能性があるとジェラルディン・ピンチは示唆している。エジプトの原資料は、ホルスの神々とセトとの間の神話上の争いを、エジプト先王朝時代後期またはエジプト初期王朝時代に起こったであろう上エジプトと下エジプトの両地域間の争いと結びつけている。",
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"text": "これら初期時代を経て、神話に対する変更の大半は新しい概念を創るのではなく、既存の概念を発展させることで(例外もあるが)適応していった。多くの学者が、太陽神が空に引き揚げて人間同士を戦わせるという神話はエジプト古王国末期(紀元前2686-2181年)における王権と王国の崩壊に触発されたものだと指摘している。エジプト新王国(紀元前1550-1070年頃)では、カナンの宗教から取り入れたヤム (ウガリット神話の神)やアナトといった神々を中心にマイナーな神話が発展した。対照的に、グレコ・ローマン期(紀元前332年-西暦641年)におけるグレコローマン文化はエジプト神話にほとんど影響を及ぼさなかった。",
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"text": "どのような古代エジプトの信仰が神話であるのかを定義することは、学者にとっても難題である。エジプト学者ジョン・ベインズ(en)により示された神話の基本的な定義は「神聖または文化的に中心となる説話」である。エジプトでは、文化および宗教の中心となる説話がほぼ全て神々の間で起きた出来事に関するものである。神々の行動に関する実際の説話は、特に初期からエジプトの文書では稀であり、そのような出来事への言及の大半は単なる顕彰かあるいは隠喩である。",
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"text": "ベインズほか一部のエジプト学者は、「神話」と呼ばれるほど十分に完成した説話がすべての時代に存在したが、それらを書き留めることをエジプトの伝統が良しとしなかったと主張している。ヤン・アスマン(en)など他の学者達は、真の神話はエジプトでは稀であって、最初期の著述に現れるナレーションの断片から発展してその歴史の途中で出来上がった可能性があると述べている。しかしながら、近年ではヴィンセント・A・トビンとスザンヌ・ビッケルが、その複雑で柔軟な性質がゆえに、エジプト神話では長い説話が必要とされなかったと指摘している。トビンが主張するには、説話はそれらが説明する出来事について単純で固定された見方を形成する傾向があるので、説話は神話に対してさえ異質なものである。もしも神話にナレーションが必要とされないならば、神の性質または行動についての考えを伝えるどんな声明も「神話」と呼ばれうることになる。",
"title": "定義と範囲"
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"text": "他の多くの文化における神話と同じく、エジプト神話は人間の伝統を正当化する役割と、無秩序の性質や宇宙の終焉といったこの世界に関する根源的な疑問に応える役割を担っている。エジプト人は神々に関する発言を通してこれらの深遠な問題を説明した。",
"title": "内容と意義"
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"text": "エジプトの神々は、地球や太陽のような物体から知識や創造性といった抽象的な力までの自然現象を表している。神々の行動および相互作用がこれらの全ての力および要素の振る舞いを支配する、とエジプト人は信じていた。ほとんどの場合、エジプト人はこれらの神秘的な過程を明確な神学的著述に記してはいない。代わりに、そうした過程を神々の関係および相互作用で暗示的に説明したのである。",
"title": "内容と意義"
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"text": "多くの主要な神々も含めて大半のエジプトの神々は、いずれの神話的な説話においても重要な役割を担っていないが、彼らの性質および他の神格との関係は、ナレーションの無い最小限の声明やリストでしばしば確立されている。説話に深く関わっている神々にとって、神話の出来事は宇宙における彼らの役割の非常に重要な発現である。したがって、説話だけが神話であるなら神話はエジプトの宗教的理解の主要素となるが、他の多くの文化のように不可欠要素ではない。",
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"text": "神々の本当の領域は神秘的であり、人間では到達できない。神話の物語は象徴化を用いることでこの領域の出来事を理解しやすくしている。ただし神話記述のあらゆる細部に象徴的な意味があるわけではない。一部の図像や事案は、宗教的なテキストにおいても、より広い意義を持つ神話の単なる視覚的または劇的な装飾として意図されたものに過ぎない。",
"title": "内容と意義"
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"text": "エジプト神話の原資料には、完全な物語がほとんど存在しない。これらの原資料には関連する出来事への隠喩以外には何も含まれていないことも多く、実際の説話を含むテキストはより広大な物語の一部だけを伝えている。したがって、エジプト人はどの神話に関しても物語の一般的な概要しか持っておらず、特定の事象を説明する断片がそこから出来上がっていったのかもしれないとする説がある。さらに、神々はしっかり定義づけられた性格が無く、たまに矛盾する行動があってもその動機が付されることは稀である。したがって、エジプト神話は十分に発達した物語ではない。同神話の重要性は、物語としての特徴ではなく、その根底にある意義の部分にある。冗長な固定の物語へと融合するのではなく、それらは(断片状態のまま)非常に柔軟で非教理的なものとして維持されたのである。",
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"text": "エジプト神話は非常に柔軟で、互いに矛盾しているようにも見える。エジプトの文書には世界の創造や太陽の動きの説明が多く出てくるが、その幾つかは互いに非常に異なっている。神々の関係は流動的で、そのため例えば、女神ハトホルは太陽神ラーの母や妻あるいは娘と呼ばれることもあった。別離した神々が一つの存在として習合されたり連結されることさえあった。それゆえ創造主の神アトゥムはラーと結びついてラー=アトゥム(Ra-Atum)を形成した。",
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"text": "神話での矛盾について一般的に示唆される理由の1つは、宗教的な思想が時代の経過や地域によって異なることである。様々な神々の現地の熱狂信奉者(カルト)が彼ら自身の守護神を中心とした神学を発展させた。様々なカルトの影響が移り変わるうちに、一部の神話体系は国家支配に到った。エジプト古王国期(紀元前2686-2181年)における最も重要な体系がヘリオポリスを中心としたラーとアトゥムのカルトであった。彼らは世界を創造したと言われる神話上の家族エネアド(エジプト九柱の神々)を形成した。それは当時の最重要な神格を含むものだったが、中でもアトゥムとラーには優位性を与えた。エジプト人はまた、古い宗教思想を新しいものと重ね合わせた。例えば、メンフィス (エジプト)を中心とするカルトがある神プタハも世界の創造者であると言われていた。プタハの創造神話は、プタハの創造的命令を実行するのはエネアドだと語ることで、より古い神話を取り入れている。したがって、同神話ではプタハをエネアド九柱神よりも古くて偉大なものとしている。多くの学者は、この神話をヘリオポリスの神よりもメンフィス神の優位性を主張する政治的試みと捉えている。このように概念を組み合わせることで、エジプト人は非常に複雑な神々と神話の組み合わせを生み出していった。",
"title": "内容と意義"
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"text": "20世紀初頭のエジプト学者達は、上述したような政治的動機の変化がエジプト神話における矛盾した描写イメージの主な理由であると考えた。しかし1940年代に、エジプト神話の象徴的な性質を熟知するヘンリ・フランクフォート(en)が、明らかに矛盾する思考はエジプト人が神の領域を理解するために使っていた「アプローチの多様性」の一部であると主張した。フランクフォートの主張は、ごく最近のエジプト信仰分析における大半の基礎となっている。政治的変化はエジプト人の信仰に影響を及ぼしたが、それら変化を通して現れた思想もまた、より深い意味を持っている。同じ神話の複数のバージョンは同じ現象の異なる側面を表しており、同じように振る舞う異なる神々は自然の力の密接な関係を反映したものである。エジプト神話の様々なシンボルは、単眼レンズを通して見るには複雑すぎる思想を表している。",
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"text": "利用可能な原資料は、厳粛な賛美歌から笑い話まで多岐にわたる。いかなる神話でも正典的なバージョンが単一ではなく、エジプト人は彼らの著作の様々な目的に合うように神話の幅広い伝統を適応させた。大半の古代エジプト人は文字が読めなかったため、物語を話すことを通じて神話を語り継ぐ口頭伝承がなされていた可能性がある。スザンヌ・ビッケルは、この伝統の存在がなぜ神話に関連したテキストの多くが殆ど詳細を述べていないのか説明する手掛かりになると指摘し、既に神話は全てのエジプト人に知られていたという。この口頭伝承の証拠はほとんど残っておらず、エジプト神話に関する現代知識は書かれた絵図の原資料から見つかったものである。現在まで残っているのはこれら資料のごく一部であり、かつて書き留められた神話情報の多くが失われてしまっている。この情報はどの時代においても等しく豊富でないため、エジプト人が歴史上のある時代に抱いていた信仰は、よりきちんと文書化された時代における信仰よりも理解が不十分である。",
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"text": "多くの神々がエジプト初期王朝時代(紀元前3100年頃-2686年)の芸術作品に現れるが、これらには最小限の著述しか含まれていないため、神々の行動に関してはこれらの資料から殆ど集めることができない。エジプト人はエジプト古王国時代により広く著述を使うようになり、そこでエジプト神話最初の主要な原資料であるピラミッド・テキストが現れた。これらテキストは紀元前24世紀に始まるピラミッドの内部に刻まれた数百の呪文を集めたものである。それはピラミッドに埋葬された王たちが安全にあの世を通過できるようにすることを意図した、エジプト最初の葬礼文書であった。呪文の多くは、創世神話やオシリス神話を含め、あの世に関連した神話を暗示している。テキストの多くは最初に書かれた既知の複製よりもはるかに古いもので、従ってそれらはエジプトの宗教的信仰の初期段階に関する手がかりを提供している。",
"title": "原資料"
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"text": "エジプト第1中間期(紀元前2181-2055年頃)に、ピラミッド・テキストは同様の素材を含むと共に非王族でも利用可能なピラミッド・テキスト(棺の文章)へと展開された。新王国期の死者の書やエジプト末期王朝(紀元前664-323年)以降の呼吸の書(en)のような後継の葬礼文書は、これらの初期のコレクションから発達したものである。また新王国期では、太陽神の夜の旅について詳細かつまとまった記述を含む、別のタイプの葬礼文書の発展も見られた。この種のテキストには『アムドゥアト(en)』『門の書(en)』『洞窟の書(en)』などがある。",
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"text": "現存する遺跡の大部分が新王国期以降のものだが、神殿はもう一つの神話の資料源である。多くの神殿は、儀式用やその他用途のパピルスを保管するペル=アンク(アンクに関する書庫)や神殿図書館を備えていた。これらパピルスの一部には神の行動を褒め称える賛美歌が含まれており、しばしばそれらの行動を定義する神話に言及している。神殿の他のパピルスは儀式のことを説明しており、それらの多くは部分的に神話に基づいたものである。これらパピルスを集めた散在する遺物は現在まで残っている。コレクションがより体系的な神話の記録を含んでいた可能性はあるが、そのようなテキストの証拠は現存していない。神殿建物の装飾には、神殿のパピルスのものと同様の、神話のテキストや絵図も見られる。プトレマイオス朝およびアエギュプトゥス時代(紀元前305-西暦380年)の精巧な装飾が施されて保存状態も良い神殿は、特に豊かな神話の原資料である。",
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"text": "エジプト人はまた、病気の予防や治癒といった個人的な目的のための儀式も行なっていた。これらの儀式は宗教的というよりむしろ「魔法(呪術)的」と呼ばれることが多いが、それらは儀式の基礎として神話上の出来事を呼び起こす神殿の儀式と同じ原則で作用すると信じられていた。",
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"text": "宗教的な原資料からの情報は、彼らが記述および描写できるものへの伝統的制約のシステム(いわゆるタブー)による制限を受けている。例えば、オシリス神の殺害はエジプトの著述だと決して明示的に書かれていない。エジプト人は言葉や絵図が現実に影響を与えうると信じていたため、彼らはそうしたネガティブな出来事が現実に起こってしまうリスクを避けていた。また、古代エジプト美術の慣習は物語全体を描くのにあまり適しておらず、そのため大半の神話関連の芸術作品はまばらな個々の情景で構成されている。",
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"text": "神話への言及はまた、エジプト中王国より始まる非宗教的なエジプト文学にも現れている。これらの言及の多くは神話のモチーフへの単なる隠喩だが、一部の物語は完全に神話的説話に基づいている。これらのより直接的な神話の描写は、ヘイケ・シュテルンベルクなどの学者によれば、エジプト神話が最も完全に発達した状態になった時期である末期王朝およびグレコローマン時代に特に一般的となった。",
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"text": "エジプトの非宗教的なテキストにおける神話への考え方は大きく異なる。一部の物語は呪術的テキストからの説話に似ているが、他の物語はより明確に娯楽としての意味あいがあり、ユーモラスなエピソードさえも含んでいる。",
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"text": "エジプト神話の最晩年の原資料は、同神話が存在する最後の世紀にエジプトの宗教を描いたヘロドトスやディオドルス・シクルスのような古代ギリシアおよび古代ローマの作家の著作物である。これらの作家の中で著名な人物はプルタルコスで、その作品『モラリア』にオシリス神話の最も長い古代の記述(De Iside et Osiride)が含まれている。これら作家のエジプトの宗教に関する知識は、エジプト外部にいたため多くの宗教的慣習について限定的であり、エジプト人の信仰に関する彼らの声明はエジプトの文化に対する彼らの偏見の影響を受けている。",
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"text": "エジプトの言葉で「m3ˁt,」と記されるマアトは、エジプトの信仰における宇宙の基本的な秩序を指すものである。世界の創造で確立されたマアトは、世界とそれ以前より取り巻いていた混沌とを区分している。マアトは人間の正しい行いと自然の力の正常な機能の両方を網羅しており、その両方が生命と幸福を可能にしている。 神々の行動が自然の力を支配し、神話がそれらの行動を表現するので、エジプト神話は世界の適正な機能と生命そのものの営みを表すものである。",
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"text": "エジプト人にとって、マアトを維持する最重要の人間はファラオである。 神話においてファラオは様々な神格の息子である。その意味で、ファラオは指名された神々の代表であり、彼らが自然にことを行うよう人間社会において秩序を維持し、神々とその活動を支える儀式を継続するよう義務付けられている。",
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"text": "エジプトの信仰では、秩序ある世界の前からあった無秩序が形状のない無限の水の広がりとして世界を超えて存在しており、神ヌンとして擬人化されている。ゲブという神に擬人化された大地は平らな土地であり、通常その上には女神ヌトによって表される天空が弓なりになっている。この両者は大気の擬人化であるシューによって隔てられている(右の絵図参照)。太陽神ラーは自らの光で世界を賑わせながら、ヌトの全身である空を通って移動すると言われている。夜にラーは西の地平線を越えて、形のないヌンと境を接する謎めいた領域ドゥアトに踏み入る。夜明けに彼は東の地平線のドゥアトから出てくる。",
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"text": "空の性質とドゥアトの場所は不明瞭である。エジプトのテキストは夜間の太陽について、大地の下側を旅するともヌトの体内を移動するとも様々に説明している。 エジプト学者のジェームズ・P・アレン(en)は、これら太陽の動きの説明は似ていないが共存する考えだと確信している。アレンの見解では、ヌトはヌンの水面の見える表面を表しており、星はこの表面に浮かんでいる。 従って、太陽は円を描くように水を横断航行し、毎晩水平線を越えてドゥアトの逆側にある土地の下にアーチを描いて空に到達する。しかしレオナルド・H・レスコ(en)は、エジプト人は空を堅い天蓋と捉えており、夜間に西から東へと空の表面の上にあるドゥアトを通って移動するとして太陽を説明したと確信している。レスコのモデルを修正したジョアンヌ・コンマンは、この堅い天空が動く凹面ドームであり、凸面の大地を深く包括していると主張する。太陽と星はこのドームと一緒に動き、地平線の下でのそれらの通過は単にエジプト人が見ることができなかった大地の領域を超えたそれらの動きである。 これら地域がその後ドゥアトになったのだろうというのがコンマンの説である。",
"title": "宇宙論"
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"text": "ナイル渓谷(上エジプト)とナイル川デルタ(下エジプト)の肥沃な土地は、エジプト宇宙論の世界の中心にある。 それらの外側に、世界を越えて存在する混沌と関連している不毛の砂漠がある。その先のどこかに地平線アケト(en)がある。東と西にある2つの山は、太陽がドゥアトに出入りする場所を示している。",
"title": "宇宙論"
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"text": "エジプト人のイデオロギーでは、外国は敵対的な砂漠と関連がある。エジプトと同盟関係にあったりエジプトの支配下にある人々はもっと肯定的に見られていた可能性があるものの、一般的には外国の人々も同じく、ファラオの支配とマアトの安定を脅かす人々「9つの弓(en)」と同列にされた。これらの理由から、エジプト神話の出来事は外国の土地では滅多に起こらない。一部の物語は天空あるいはドゥアトと関連しているが、一般的にはエジプト自体が神々の行動のための現場である。しばしば、エジプトに設定された神話さえも生きている人間が住むところから隔離された別世界の場で起きているように思えるが、他の物語では人間と神が交流している。いずれにせよ、エジプトの神々は彼らの故郷と深く結びついている。",
"title": "宇宙論"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "エジプト人の時間に関する視点は彼らの環境による影響を受けた。毎日太陽が昇っては沈み、土地に光をもたらし、人間の活動を規則的にさせた。毎年ナイル川は氾濫し、土壌の肥沃度を刷新してはエジプト文明を維持させる生産性の高い農業を可能にした。これらの周期的な出来事は、全ての時間が(神々と宇宙を刷新する)マアトによって調整された一連の繰り返しパターンだと、理解するための着想をエジプト人に与えた。エジプト人は歴史上の時代が違えばその詳細も異なることを認識していたが、神話のパターンがエジプト人の歴史認識を支配していた。",
"title": "宇宙論"
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"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "神々に関するエジプトの物語の多くは、神々が大地に顕現してそれを支配していた原始の時代に起こったものして特徴付けられる。この後、地上の権威が人間のファラオに移ったとエジプト人は信じていた。この原始の時代は、太陽の旅の始まりや現在の世界のパターン繰り返し以前のことのように思われる。 もう一方の時間の終末は、サイクルの終わりと世界の消滅である。これらの遠い時代は現在のサイクルよりも直線的な説話に適しているので、ジョン・ベインズ(en)はそれらを真の神話が起こる唯一の時代と捉えている。ただ、ある程度は、時間の周期的な側面が神話の過去にも存在していた。エジプト人はその当時に設定された物語さえも不変の真実であると考えた。神話はそれらと関連した出来事が起こるたびに現実のものとなった。これらの出来事はしばしば神話を呼び起こした儀式で祝われた。儀式とは、定期的に神話の過去に戻って宇宙における生命を更新する時間を可能にするものだった。",
"title": "宇宙論"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "エジプトの人々は、太陽が毎朝繰り返し昇る様子から、死後の再生を信じていた。人間は、名前、肉体、影、バー(Ba・魂)、カー(Ka・精霊)の5つの要素から成り立っていると信じられた。人が死ぬとバーは肉体から離れて冥界へ行くが、肉体がそのままであれば、カーがバーと肉体との仲立ちとなって、アアルで再生できるとされた。そのため、人の死後に肉体が保存されていることが重要視され、ミイラ作りが盛んに行われた。一方で、死後に再生することができない「第二の死」を恐れた。ちなみに、バーは人間の頭をした鷹の姿で現される。",
"title": "宇宙論"
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "死者の書は、古代エジプト人が信仰した、この「第二の誕生」を得るための指南書であったと言われている。ピラミッドについても墓ではなかったと言われ、死後の世界に旅立つ太陽の船に乗るための場として建造されたものとされる。神殿などに刻まれた名前も、名前こそが死後の再生に必要な要素であると信じられたために、できる限り後世に残すべく、数多く刻まれたものと考えられている。",
"title": "宇宙論"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "エジプト神話の最も重要なカテゴリのいくつかを以下に説明する。同神話の断片的な性質のため、エジプトの原資料には神話の出来事に年代順の並びを示すものが殆どない。とは言うものの、カテゴリは非常に緩やかな時系列で並べられている。",
"title": "主な神話"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "詳細は古代エジプトの創世神話(英語版)を参照",
"title": "主な神話"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "最も重要な神話の中に、世界の創造を説明するものがある。エジプト人は、自分たちが述べる出来事で大きな差がある多くの創造の記述を展開させた。 特に、世界を創造したと言われている神格は、それぞれの記述において異なる。この差異は、創造を自分たちが信仰する神によるものとすることで自身の守護神を高位に据えたいというエジプトの都市や神権の欲求を部分的に反映している。ただし、異なる記述が矛盾とは見なされなかった。代わりに、エジプト人は創造プロセスが多くの側面を持ち合わせており、多くの神の力が関わっているものと捉えた。",
"title": "主な神話"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "神話の共通点の1つは、それを取り巻く混沌の水から世界が出現することである。この出来事は、マアトの確立と生命の起源を表している。一つの断片的な伝統は、原初の水自体の特徴を表すオグドアドの8柱の神々に集中している。彼らの行動は太陽(創造神話では様々な神々、特にラーで表される)を生み出し、その誕生は暗い水の中に光と乾燥の空間を形成する。太陽は乾燥した土地の最初の塚から昇ってくる。この塚は創造神話におけるまた別の共通モチーフで、ナイル川の洪水が後退したときに出来ている大地の盛り上がりに触発された可能性が高いとされる。マアトの創設者である太陽神の出現により、世界はその最初の支配者を有することになる。紀元前1世紀の記述は、新しく秩序だった世界を脅かしている混沌の勢力を制圧するための創造神の行動に焦点を当てている。",
"title": "主な神話"
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"text": "太陽および原初の丘と密接に関係している神アトゥムは、少なくともエジプト古王国までさかのぼる創造神話の焦点である。世界のあらゆる要素を取り入れたアトゥムは、潜在的な存在として水の中に存在する。創造の時に彼は他の神々を生み出すために出現し、その結果としてゲブやヌトおよび世界のこれ以外の重要な要素を含むエネアド九柱神たちが出来上がった。エネアドは全ての神々の代わりになる事ができるとされるので、その創造は世界中に存在する多様な要素の中にあるアトゥムの際立った潜在能力を表したものである。",
"title": "主な神話"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "時間が経つにつれ、エジプト人は創造過程に関してより抽象的な見方を発展させた。ピラミッド・テキストの時代までに、彼らは世界の形成を創造神の心中で最初に開発された概念の実現だと説明した。神の世界のものと現実世界のものとを結び付けるヘカ(英語版)の力、あるいは魔法、は創造主の当初の概念とその物理的な実現とを結び付ける力である。ヘカ自体は神として擬人化されてはいるが、この創造の知的プロセスがその神にだけ関連付けられているわけではない。エジプト第3中間期(紀元前1070-664年頃)からの碑文は、そのテキストがだいぶ古い可能性もあるが、プロセスの詳細を記述していて、それが神プタハに帰するとしている。その神と鍛冶屋との緊密な関係が、当初の創造計画に物理的な形を与えるための適切な神格となった。新王国期からの賛美歌は、この創造計画の究極の源として神アメンを、他の神々の背後にさえある神秘的な力だと説明している。",
"title": "主な神話"
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"text": "人間の起源はエジプトの創造物語の主な題材ではない。一部のテキストでは、ラー=アトゥムまたは彼の女性的側面であるラーの眼が衰弱と苦悩の瞬間に流した涙から最初の人間が生まれ、それは欠陥がある人間の性質および哀しい生涯を暗示していると言う。他のテキストは、神クヌムによって人間が粘土から成形されたと述べている。しかし全体として、創造神話の焦点は宇宙秩序の確立であり、そこに人間の特別な場面はない。",
"title": "主な神話"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "エジプトの複数のテキストが、王権の継承者である神が父親とされる子供の誕生という、同じテーマを取り上げている。そうした物語の最初期に現れたのは神話ではなく楽しい民話で、エジプト第5王朝最初の3人の王の誕生に関する中王国時代のウェストカー・パピルスで発見された。同物語において、3人の王はラーと人間の女性の子孫である。支配者ハトシェプスト、アメンホテプ3世、ラムセス2世が寺院のレリーフに自身の概念と誕生を描かせた時、同じテーマが新王国時代の確固たる宗教的文脈で現れ、そこでは神アメンが父であり、歴史上の女王が母親である。王は神々の中に起源があって当時最も重要な神によって入念に創りこまれたと述べることで、その物語は王の戴冠式に神話的背景を与えており、それは誕生物語と並行して出てくる。神との繋がりは王の支配を正当化し、神と人間の間の仲介者としての王の役割に理論的根拠を提供している。",
"title": "主な神話"
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"text": "似たような情景が新王国期以後の多くの寺院に見られるが、この時に彼らが描いた出来事は神々だけが関わっている。この時期、ほとんどの寺院が神話上の神々の家族、通常は父と母と息子に執着した。これらの物語のバージョンでは、誕生はそれぞれ息子3人組である。これら子供の神の各々が、国家の安定性を回復するだろう玉座の継承者である。人間の王から彼と関連のあった神々へのこの焦点推移は、古代エジプト史後期におけるファラオの地位低下を反映している。",
"title": "主な神話"
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"paragraph_id": 51,
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"text": "天空とドゥアトを通るラーの移動はエジプトの原資料では十分に語られていないが、『アムドゥアト』『門の書』『洞窟の書』といった葬礼文書が一連の寸描で旅の半分にあたる夜間について物語っている。この旅は、ラーの性質と全ての生命維持にとって重要である。",
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{
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"text": "天空を横切って移動する際、ラーは大地に光をもたらし、そこに生きる全てのものを維持している。彼は正午に力のピークに達し、その後は日没に向かって動くにつれて年を取って弱くなる。夕方にラーは世界で最も古い創造神であるアトゥムの形状になる。エジプト初期の文書によると、彼は日の出で平らげた他の全ての神々を一日の終わりに吐き出す。ここでその神々は星として現れ、同物語はなぜ星が夜に見えるのに日中は見えなくなるのかを説明している。",
"title": "主な神話"
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"text": "日没でラーは、西のアケト(akhet)という地平線を通過する。この地平線はドゥアトに通じる門または扉として説明されることもある。他の文書で、天空の女神ヌトは太陽の神を飲み込むと言われているので、ドゥアトを通るラーの旅は彼女の体内を通る旅に例えられる。祭礼文書では、ドゥアトとその中にいる神々は緻密かつ詳細に、そして広範囲に変化するイメージで描かれている。これらのイメージはドゥアトの素晴らしくも謎めいた性質を象徴しており、そこでは神と死者の両方が創造の原初の力と接触することで新たに生を受ける。実際のところ、エジプトのテキストはそれを明示的に語らないようにしているが、ラーがドゥアトの中に入ることは彼の死と見られている。",
"title": "主な神話"
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"text": "旅の描写には特定のテーマが繰り返し描かれる。ラーはマアトを維持するのに必要な努力を行う代表者として、彼の道中で多くの障害を克服する。最大の試練は、無秩序な破壊の側面を司る蛇神で、太陽神を滅ぼして創造を混沌に陥れると脅すアペプとの対決である。多くのテキストで、ラーは一緒に旅をする他の神々の助けを借りてこれらの障害を克服しており、彼らはラーの権威を支持するのに必要な様々な力を備えている。ラーはまた自身の航路でドゥアトに光をもたらし、そこに住んでいる祝福を受けた死者に活力を与える。対照的に、マアトを傷つけた人々は彼の敵として苦痛を与えられ、暗い穴や火の湖に投げ込まれる。",
"title": "主な神話"
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"text": "旅の鍵となる出来事は、ラーとオシリスの出会いである。 新王国期には、この出来事がエジプトの生命と時間の概念の複雑な象徴へと発展した。 ドゥアトに追いやられたオシリスは、墓の中にいるミイラ化した体のようである。休むことなく動いているラーは、死んだ人間のバーあるいは魂のようなもので、日中に旅をするとしても毎晩その体に戻る必要がある。ラーとオシリスが出会うと、彼らは一つの存在になる。彼ら2人組は継続的な繰り返しパターンとなるエジプトの時間の見方を反映しており、一人(オシリス)は常に静的で、もう一方(ラー)は一定の周期で生活している。",
"title": "主な神話"
},
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"paragraph_id": 56,
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"text": "ラーはオシリスの再生力と一緒になるや、新たな活力を備えて旅を続ける。この再生が夜明けのラー出現を可能にしている。これは太陽が生まれ変わったと見られ、ヌトがラーを飲み込んだ後にラーを産むという比喩で表現されており、創造の瞬間における初日の出を繰り返していると見られる。この瞬間、昇っていく太陽神は再び星々を飲み込み、それらの力を吸収する。この活性化状態について、ラーは子供であったりスカラベの神ケプリとして描かれており、いずれもエジプトの図像において再生を表すものである。",
"title": "主な神話"
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{
"paragraph_id": 57,
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"text": "一般的にエジプトのテキストは避けるべき将来として世界の消滅を扱っており、そうした理由からテキストがそれを詳細に説明しないことも多い。 しかし、数えきれないほどの更新サイクルの後に世界は終焉を迎える運命にある、という考えを多くのテキストが暗示している。 この終焉はピラミッド・テキストとより明示的には『死者の書』における一節の中で説明されており、そこではアトゥムがいつの日か自分が秩序のある世界を消してしまい、混沌とした水の中で原初の不活性な状態に戻ることになるだろうと語っている。創造主以外のあらゆる事物が存在を滅ぼされるが、例外としてオシリスは彼と共に生き残ることになる。この終末論的見通しについての詳細は、オシリスに関連した死の運命を含め、不明確なままである。ただし、秩序ある世界を生み出した水の中に創造神と再生の神が一緒にいるので、古いもの(消された現世)と同じように新しい創造が起こる可能性があるという。",
"title": "主な神話"
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{
"paragraph_id": 58,
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"text": "エジプト人が神学的思想を明示的に説明することは稀だったため、神話で暗に示された思想が古代エジプト宗教の根幹の大部分を形成した。エジプト宗教の目的はマアトの維持であり、神話が表現する概念はマアトにとって不可欠なものだと信じられていた。エジプト宗教の儀式は、神話の出来事およびそれが表す概念をもう一度現実に起こすことを意図したもので、それによってマアトを再生していた。儀式は、最初の創造を可能にした物理的領域と神の領域の間とを同一に連結するヘカの力を介して効果が及ぶと信じられていた。",
"title": "エジプト文化への影響"
},
{
"paragraph_id": 59,
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"text": "こうした理由から、エジプトの儀式には神話上の出来事を象徴する行動がしばしば含まれていた。寺院の儀式には、セトやアペプのような悪しき神々を表現している模型の破壊や、イシスがホルスのために行なった病気を癒すための非公開な魔法呪文の詠唱、開口の儀式(en)などの葬礼儀式などがあり、そして死者のために執り行う儀式はオシリス復活の神話を想起させるものだった。しかし、神話の劇的な再現を含む儀式はあったとしても稀だった。2人の女性がイシスとネフティスの役割をこなしたオシリス神話を暗示する儀式のような境界的事案があるが、これらの演出が一連の出来事を成したか否かについて学者たちの見解には賛否がある。エジプトの儀式の大半は神々に供え物をするといった基本的な活動に焦点を当てており、神話のテーマは儀式の焦点ではなくイデオロギーの背景として役立っていた。にもかかわらず、神話と儀式は互いに強く影響を及ぼした。イシスとネフティスとの儀式のように、神話は儀式を触発する。そして、神々や死者に供えられた食べ物や他の品物がホルスの目と同等とされた供物儀式の場合のように、もともと神話的意味の無かった儀式が意味があるものと再解釈されることもあった。",
"title": "エジプト文化への影響"
},
{
"paragraph_id": 60,
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"text": "王権は人類と神々の間のつながりとする王の役割を通じて、エジプトの宗教の重要な要素であった。神話は王族と神格の間にあるこの関係の背景を説明している。エネアドに関する神話は、創造主に遡る支配者の系統の継承者として王を確立している。神を生み出す神話は王(ファラオ)が神の息子であり継承者であると主張している。そしてオシリスとホルスに関する神話は、玉座の正統な継承がマアトの維持に不可欠であることを強調している。したがって、神話がエジプト政治の本質そのものの理論的根拠を提供していたのである。",
"title": "エジプト文化への影響"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "神々や神話上の出来事を描いた絵図は、墓、神殿、葬礼文書の中に宗教的叙述と並んで広く出現している。エジプトの芸術作品で神話の場面が説話として順番に並ぶことは稀であるが、特にオシリスの復活を描いた個々の場面はたまに宗教的芸術作品に現れることがある。",
"title": "エジプト文化への影響"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "神話への暗示は、エジプトの芸術や建築で非常に普及した。神殿の設計では、神殿の軸となる中央通路が空を横切る太陽神の道に例えられており、通路の終わりにある聖域は彼がそこから昇った創造の場所を表していた。神殿の装飾はこの関係を強調した太陽の紋章で満たされていた。同様に、墓の回廊はドゥアトを通る神の旅に、そして埋葬室がオシリスの墓と関連付けられた。ピラミッドはエジプトのあらゆる建築様式の中で最も有名で、所有者の死後の再生を確実にすることを意図した記念碑にふさわしい創造の丘および最初の日の出を表しているとして、神話の象徴から触発を受けたものかもしれないとする説がある。エジプトの伝統における象徴は再解釈されることが度々あるため、神話的な象徴の意味が神話それ自体のように時間と共に変化したり増えたりする。",
"title": "エジプト文化への影響"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "エジプト人が神の力を呼び覚まそうと一般的に身に着けていたお守りのように、一般的な芸術作品も神話のテーマを想起させるよう設計されていた。例えば、ホルスの目は失われた目の復活後のホルスの幸福を表していたため、保護用のお守りとして非常に一般的な形であった。スカラベ形のお守りは、太陽神が明け方に変化すると言われていた形状の神ケプリを指すもので、生命の再生を象徴していた。",
"title": "エジプト文化への影響"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "宗教的著作以外でも、神話からのテーマやモチーフがエジプト文学に頻繁に現れる。エジプト中王国期に遡る初期の訓示テキスト『メリカラ王のための教訓(en)』には、恐らく人類滅亡というある種の神話への短い言及が含まれている。最初期で知られるエジプトの短編小説『難破した水夫の物語(en)』は、過去の物語の中に神々および世界の最終的消滅に関する思想を盛り込んでいる。",
"title": "エジプト文化への影響"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "やや後年の物語は神話上の出来事をあらすじに取り上げたものが多い。『二人兄弟の物語(en)』はオシリス神話の一部を普通の人々に関する素晴らしい物語に適応しており、『弟の「ゲレグ」によって盲人にされてしまった兄の「マアト」の物語(en)』はホルスとセトの間の対立を寓話に変容したものである。",
"title": "エジプト文化への影響"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ホルスとセトの行動に関するテキストの断片は中王国期にさかのぼり、神々に関する物話はその時代に起きたことを示唆している。この形式のテキストの幾つかは新王国期から知られており、より多くの話が同後期およびグレコローマン時代に書かれた。 これらのテキストは上述のものよりも明らかに神話から派生したものであるが、それらは依然として非宗教的な目的で神話を適用している。新王国期からの『ホルスとセトの争い(en)』は、二人の神の間の対立の物語で、ユーモラスかつ一見無関心な調子で記されている。ローマ時代の『太陽の目の神話』は神話から取られた枠物語に寓話を取り入れている。魔法の目的とは関係のない道徳的メッセージを伝える新王国の物語『イシス、裕福な女の息子、そして漁師の妻』のように、書かれたフィクションが魔法テキストの説話にも影響を与えてしまうことがあった。神話を扱っているこれら物語の多彩さは、エジプト文化において同神話が貢献することになった意図内容の幅広さを示すものである。",
"title": "エジプト文化への影響"
}
] | エジプト神話とは、古代エジプトより興った当時のエジプト人の世界観を示す手段としてエジプト固有の神々の行動を記した神話をまとめたものである。同神話が表している信仰は、古代エジプトの宗教の重要な部分であり、各固有の銘は、国名と同期している。エジプトの文学や芸術、特に短編小説や賛美歌、儀式文書、葬礼文書、神殿の装飾といった宗教的素材にエジプト神話が頻繁に現れる。これら原資料が神話の完全な記述になっていることは稀で、短い断片だけを記したものが多い。 | {{翻訳直後|1=[[:en:Egyptian mythology]]20:41, 9 May 2019 |date=2019年6月}}
{{Egyptian mythology}}
[[File:Nun_Raises_the_Sun.jpg|thumb|180px|原初の水の具現体である[[ヌン]]が、創造の瞬間に太陽神[[ラー]]([[ケプリ]])の船を空に持ち上げる。]]
'''エジプト神話'''(エジプトしんわ、{{lang-en|Egyptian mythology}})とは、[[古代エジプト]]より興った当時のエジプト人の[[世界観]]を示す手段としてエジプト固有の神々の行動を記した[[神話]]をまとめたものである。同神話が表している信仰は、[[古代エジプトの宗教]]の重要な部分であり、各固有の銘は、国名と同期している。エジプトの文学や芸術、特に短編小説や[[賛美歌]]、儀式文書、葬礼文書、神殿の装飾といった宗教的素材にエジプト神話が頻繁に現れる。これら原資料が神話の完全な記述になっていることは稀で、短い断片だけを記したものが多い。
== 概要==
自然のサイクルに触発され、エジプト人は現在の時間を一連の繰り返しパターンとして捉え、その一方で最初期の時間は直線的だと考えた。エジプト神話はその直線的な最初期にあたるもので、同神話が現在のサイクルにつながるパターンを設定している。現在の出来事は神話の出来事を繰り返しているのであり、そうすることで宇宙の根源的秩序である[[マアト]]を更新していくことになる{{Refnest|group="注釈"|人間の世界において、マアトを更新する役割を担ったとされるのがエジプトの王[[ファラオ]]である<ref>「[https://kotobank.jp/word/マアト-870433 マアトとは]」コトバンク、世界大百科事典 第2版の解説より。2019年5月30日閲覧。</ref>。}}。
神話上の過去を起点とする最も重要なエピソードの中に[[創造神話]]があり、その中で神々は原始の混沌から宇宙を造形していく。地上における太陽神[[ラー]]の統治の物語や、破壊の神[[セト]]に対抗する神々[[オシリス]]、[[イシス]]、[[ホルス]]の闘争に関する[[オシリスとイシスの伝説]]がある。神話と見なされるかもしれない現在時間からの出来事としては、この世界とそれに対応する異世界[[ドゥアト]]を通るラーの日々の旅が含まれる。これらの神話エピソードで繰り返し出てくるテーマには、マアトの支持者と無秩序の勢力との間の対立、マアトを維持する際の[[ファラオ]]の重要性、そして絶えず起こる神々の死と再生などがある。
これら神聖な出来事の詳細はテキストによって大きく異なり、矛盾があるように思えることも多い。エジプト神話は主に[[隠喩]]的なもので、神々の本質や行動を人間が理解できる言葉に変えて伝えている。神話のそれぞれの異形は、神々や世界についてのエジプト人の理解を豊かにしてくれる象徴的な見解の相違を表すものである。
同神話はエジプトの文化に多大な影響を与えた。それは多くの宗教的儀式に着想を与えたり影響を及ぼし、王権にとっての[[イデオロギー]]的な基盤を与えた。神話に由来する場面や象徴は、墓、神殿、お守りといった芸術に現われた。文学においては、神話あるいは神話的要素がユーモアから[[アレゴリー]]までの物語で使われており、それはエジプト人が多種多様な目的に合わせてこの神話を順応させたことを示すものである。
エジプトがローマ帝国の属州となり、やがてイスラム教が流入すると、これらの信仰は途絶えたとされる。
== 起源==
エジプト神話の発展は追跡が困難である。エジプト学者はだいぶ後年に登場した文書の原資料に基づき、その最初期段階に関する学術的な推測をしなければならない{{sfn|Anthes|1961|pp=29-30}}。神話における明白な影響の1つに、エジプトの自然環境がある。太陽が日々昇っては沈み、土地に光をもたらし、人間の活動を規則的にした。[[ナイル川]]は毎年氾濫し、土壌の肥沃度を新たにして[[エジプト文明]]を維持させる生産性の高い農業を可能にしていた。このように、エジプト人は水と太陽を生命の象徴と見なし、時間を一連の自然サイクルとして考えた。この秩序だったパターンは絶えず崩壊の危険にさらされた。例年と異なる低い洪水は飢饉をもたらし、高い洪水は穀物と建物を破壊した{{sfn|David|2002|pp=1-2}}。恩恵深い[[ナイル渓谷]]は、エジプト人が野蛮な秩序の敵と見なした人々が住む過酷な砂漠に囲まれていた{{sfn|O'Connor|2003|pp=155, 178-179}}。これらの理由から、エジプト人は自分たちの土地を安定しているが孤立した場所あるいは混沌に囲まれて危機に瀕している「[[マアト]]」だと考えていた。これらのテーマ(秩序、混沌、そして更新)は、[[古代エジプトの宗教]]思想に繰り返し現れる{{sfn|Tobin|1989|pp=10-11}}。
エジプト神話にとってもう一つの有力な資料に儀式がある。多くの儀式は神話に言及しており、時には神話に直接基づいている{{sfn|Morenz|1973|pp=81-84}}。しかし、文化としての神話が儀式以前に発達したのか、あるいはその逆なのかを断定するのは困難である{{sfn|Baines|1991|p=83}}。この神話と儀式の関係についての問いかけは、一般にエジプト学者および[[比較宗教学]]者の間で(どちらが先か)多くの議論を生むことになった。古代エジプトでは、最初期の宗教的実践の証拠は文字に記された神話よりも昔のものである{{sfn|Morenz|1973|pp=81-84}}。エジプト史初期の儀式は神話からのモチーフを幾つか含んでいた。これらの理由から、一部の学者はエジプトでは神話の前に儀式が出現したと主張している{{sfn|Baines|1991|p=83}}。しかし初期の証拠はごく僅かであるため、この問題は決して確実には解決しない可能性がある{{sfn|Morenz|1973|pp=81-84}}。
しばしば「魔法」と呼ばれる非公開の儀式において、神話と儀式は特に密接な結びつきがある。他の原資料では発見されていない神話めいた物語の多くが、儀式文書の中には現れる。毒を盛られた息子[[ホルス]]を救う女神[[イシス]]という広く知られたモチーフでさえ、このタイプの文書にだけ出てくる。
エジプト学者のダヴィド・フランクフルター<!--ナチス指導者のヴィルヘルム・グストロフを暗殺した故人とは別人物。彼は存命中のボストン大学教授-->は、これら儀式は神話に基づく精巧な新しい物語(historiolasと呼ばれる)を作りあげることで、基本的な神話の伝統を特定儀式に合うよう順応させたものだと主張している{{sfn|Frankfurter|1995|pp=472-474}}。対照的に[[J・F・ボーグハウツ]]([[:en:Joris Borghouts|en]])は魔法のテキストについて「この分野のために特定種類の「異端」神話が造られたという証拠は微塵もない」と述べている{{sfn|Pinch|2004|p=17}}。
エジプト神話の大半は[[創造神話]]で構成され、人間の制度や自然現象を含む世界のさまざまな要素の始まりを説明している。王権は原初の時間において神々の間で起こり、後に人間のファラオに渡された。太陽神が空に舞い戻った後、人間が互いに戦い始めたときに戦争が始まる{{sfn|Assmann|2001|pp=113, 115, 119-122}}。神話はまた、さほど根本的ではない伝統の始まりとされていることも説明している。マイナーな神話的エピソードで、ホルスは母親のイシスに怒って彼女の頭を切り落とし、イシスは失くした自分の頭を牛のものと取り替える。この出来事は、なぜイシスが頭飾りの一部としてたまに牛の角が描かれるのかを説明したものである{{sfn|Griffiths|2001|pp=188-190}}。
一部の神話は歴史的な出来事に触発された可能性がある。紀元前3100年頃の[[エジプト先王朝時代]]末期におけるファラオの下でのエジプトの統一は、王をエジプト宗教の焦点に据えており、それゆえ王権のイデオロギーは同神話の重要な部分となった{{sfn|Anthes|1961|pp=33-36}}。統一をきっかけに、かつて地元の守護神だった神々が国内での重要性を獲得し、統一された国の伝統に地元の神々を結びつける新しい関係を形成した。初期の神話はこれらの関係性から形成された可能性があるとジェラルディン・ピンチは示唆している{{sfn|Pinch|2004|pp=6-7}}。エジプトの原資料は、ホルスの神々とセトとの間の神話上の争いを、エジプト先王朝時代後期または[[エジプト初期王朝時代]]に起こったであろう[[上エジプト]]と[[下エジプト]]の両地域間の争いと結びつけている{{Refnest|group="注釈"|一緒に描かれたホルスとセトは、どちらの神もいずれの地域のために立ち上がることが可能だが、上エジプトと下エジプトのペアを表したものである。彼らはどちらも国の両半分にある都市の守護者だった。 2つの神々の間の対立は、エジプト史の始まりにおける上エジプトと下エジプトの統一に先行する推定された対立を暗示するものだった可能性がある。もしくは[[エジプト第2王朝|第2王朝]]の末期近くにおけるホルスおよびセトの崇拝者間の明白な対立と関連があった可能性がある{{sfn|Meltzer|2001|pp=119-122}}。}}。
これら初期時代を経て、神話に対する変更の大半は新しい概念を創るのではなく、既存の概念を発展させることで(例外もあるが)適応していった{{sfn|Bickel|2004|p=580}}。多くの学者が、太陽神が空に引き揚げて人間同士を戦わせるという神話は[[エジプト古王国]]末期(紀元前2686-2181年)における王権と王国の崩壊に触発されたものだと指摘している{{sfn|Assmann|2001|p=116}}。[[エジプト新王国]](紀元前1550-1070年頃)では、[[カナン]]の宗教から取り入れた[[ヤム (ウガリット神話の神)]]や[[アナト]]といった神々を中心にマイナーな神話が発展した。対照的に、[[エジプトの歴史#グレコ・ローマン期|グレコ・ローマン期]](紀元前332年-西暦641年)におけるグレコローマン文化はエジプト神話にほとんど影響を及ぼさなかった{{sfn|Meeks|Favard-Meeks|1996|pp=49-51}}。
== 定義と範囲==
どのような古代エジプトの信仰が神話であるのかを定義することは、学者にとっても難題である。エジプト学者[[ジョン・ベインズ]]([[:en:John Baines (Egyptologist)|en]])により示された神話の基本的な定義は「神聖または文化的に中心となる[[説話]]」である{{sfn|Baines|1996|p=361}}。エジプトでは、文化および宗教の中心となる説話がほぼ全て神々の間で起きた出来事に関するものである。神々の行動に関する実際の説話は、特に初期からエジプトの文書では稀であり、そのような出来事への言及の大半は単なる顕彰かあるいは隠喩である。
ベインズほか一部のエジプト学者は、「神話」と呼ばれるほど十分に完成した説話がすべての時代に存在したが、それらを書き留めることをエジプトの伝統が良しとしなかったと主張している。[[ヤン・アスマン]]([[:en:Jan Assmann|en]])など他の学者達は、真の神話はエジプトでは稀であって、最初期の著述に現れるナレーションの断片から発展してその歴史の途中で出来上がった可能性があると述べている{{sfn|Baines|1991|pp=81-85, 104}}。しかしながら、近年ではヴィンセント・A・トビン{{sfn|Tobin|2001|pp=464-468}}とスザンヌ・ビッケル{{sfn|Bickel|2004|p=578}}が、その複雑で柔軟な性質がゆえに、エジプト神話では長い説話が必要とされなかったと指摘している。トビンが主張するには、説話はそれらが説明する出来事について単純で固定された見方を形成する傾向があるので、説話は神話に対してさえ異質なものである。もしも神話にナレーションが必要とされないならば、神の性質または行動についての考えを伝えるどんな声明も「神話」と呼ばれうることになる{{sfn|Tobin|2001|pp=464-468}}。
== 内容と意義==
他の多くの文化における神話と同じく、エジプト神話は人間の伝統を正当化する役割と、無秩序の性質や[[宇宙の終焉]]といったこの世界に関する根源的な疑問に応える役割を担っている{{sfn|Pinch|2004|pp=1-2}}{{sfn|Bickel|2004|p=580}}。エジプト人は神々に関する発言を通してこれらの深遠な問題を説明した{{sfn|Bickel|2004|p=578}}。
エジプトの神々は、地球や太陽のような物体から知識や創造性といった抽象的な力までの自然現象を表している。神々の行動および相互作用がこれらの全ての力および要素の振る舞いを支配する、とエジプト人は信じていた{{sfn|Assmann|2001|pp=80-81}}。ほとんどの場合、エジプト人はこれらの神秘的な過程を明確な神学的著述に記してはいない。代わりに、そうした過程を神々の関係および相互作用で暗示的に説明したのである{{sfn|Assmann|2001|pp=107-112}}。
多くの主要な神々も含めて大半のエジプトの神々は、いずれの神話的な説話においても重要な役割を担っていないが{{sfn|Tobin|1989|pp=38-39}}、彼らの性質および他の神格との関係は、ナレーションの無い最小限の声明やリストでしばしば確立されている{{sfn|Baines|1991|pp=100-104}}。説話に深く関わっている神々にとって、神話の出来事は宇宙における彼らの役割の非常に重要な発現である。したがって、説話だけが神話であるなら神話はエジプトの宗教的理解の主要素となるが、他の多くの文化のように不可欠要素ではない{{sfn|Baines|1991|pp=104-105}}。
[[File:Nut1.JPG|thumb|他の神々によって支えられた女神牛として描かれた天空。この図像は幾つかの共存する空のビジョン(屋根として、海面として、牛として、人間の形の女神として)を組み合わせたものである{{sfn|Anthes|1961|pp=18-20}}
。]]
神々の本当の領域は神秘的であり、人間では到達できない。神話の物語は象徴化を用いることでこの領域の出来事を理解しやすくしている{{sfn|Tobin|1989|pp=18, 23-26}}。ただし神話記述のあらゆる細部に象徴的な意味があるわけではない。一部の図像や事案は、宗教的なテキストにおいても、より広い意義を持つ神話の単なる視覚的または劇的な装飾として意図されたものに過ぎない{{sfn|Assmann|2001|p=117}}{{sfn|Tobin|1989|pp=48-49}}。
エジプト神話の原資料には、完全な物語がほとんど存在しない。これらの原資料には関連する出来事への隠喩以外には何も含まれていないことも多く、実際の説話を含むテキストはより広大な物語の一部だけを伝えている。したがって、エジプト人はどの神話に関しても物語の一般的な概要しか持っておらず、特定の事象を説明する断片がそこから出来上がっていったのかもしれないとする説がある{{sfn|Tobin|1989|pp=38-39}}。さらに、神々はしっかり定義づけられた性格が無く、たまに矛盾する行動があってもその動機が付されることは稀である{{sfn|Assmann|2001|p=112}}。したがって、エジプト神話は十分に発達した物語ではない。同神話の重要性は、物語としての特徴ではなく、その根底にある意義の部分にある。冗長な固定の物語へと融合するのではなく、それらは(断片状態のまま)非常に柔軟で非教理的なものとして維持されたのである{{sfn|Tobin|1989|pp=18, 23-26}}。
エジプト神話は非常に柔軟で、互いに矛盾しているようにも見える。エジプトの文書には世界の創造や太陽の動きの説明が多く出てくるが、その幾つかは互いに非常に異なっている{{sfn|Hornung|1992|pp=41-45, 96}}。神々の関係は流動的で、そのため例えば、女神[[ハトホル]]は太陽神ラーの母や妻あるいは娘と呼ばれることもあった{{sfn|Vischak|2001|pp=82-85}}。別離した神々が一つの存在として[[習合]]されたり連結されることさえあった。それゆえ創造主の神[[アトゥム]]はラーと結びついてラー=アトゥム(Ra-Atum)を形成した{{sfn|Anthes|1961|pp=24-25}}。
神話での矛盾について一般的に示唆される理由の1つは、宗教的な思想が時代の経過や地域によって異なることである{{sfn|Allen|1988|pp=62-63}}。様々な神々の現地の熱狂信奉者(カルト)が彼ら自身の守護神を中心とした神学を発展させた{{sfn|Traunecker|2001|pp=101-103}}。様々なカルトの影響が移り変わるうちに、一部の神話体系は国家支配に到った。[[エジプト古王国]]期(紀元前2686-2181年)における最も重要な体系が[[ヘリオポリス]]を中心としたラーとアトゥムのカルトであった。彼らは世界を創造したと言われる神話上の家族エネアド([[エジプト九柱の神々]])を形成した。それは当時の最重要な神格を含むものだったが、中でもアトゥムとラーには優位性を与えた{{sfn|David|2002|pp=28, 84-85}}。エジプト人はまた、古い宗教思想を新しいものと重ね合わせた。例えば、[[メンフィス (エジプト)]]を中心とするカルトがある神[[プタハ]]も世界の創造者であると言われていた。プタハの創造神話は、プタハの創造的命令を実行するのはエネアドだと語ることで、より古い神話を取り入れている{{sfn|Anthes|1961|pp=62-63}}。したがって、同神話ではプタハをエネアド九柱神よりも古くて偉大なものとしている。多くの学者は、この神話をヘリオポリスの神よりもメンフィス神の優位性を主張する政治的試みと捉えている{{sfn|Allen|1988|pp=45-46}}。このように概念を組み合わせることで、エジプト人は非常に複雑な神々と神話の組み合わせを生み出していった{{sfn|Tobin|1989|pp=16-17}}。
20世紀初頭のエジプト学者達は、上述したような政治的動機の変化がエジプト神話における矛盾した描写イメージの主な理由であると考えた。しかし1940年代に、エジプト神話の象徴的な性質を熟知する[[ヘンリ・フランクフォート]]([[:en:Henri Frankfort|en]])が、明らかに矛盾する思考はエジプト人が神の領域を理解するために使っていた「アプローチの[[多様性]]」の一部であると主張した。フランクフォートの主張は、ごく最近のエジプト信仰分析における大半の基礎となっている{{sfn|Traunecker|2001|pp=10-11}}。政治的変化はエジプト人の信仰に影響を及ぼしたが、それら変化を通して現れた思想もまた、より深い意味を持っている。同じ神話の複数のバージョンは同じ現象の異なる側面を表しており、同じように振る舞う異なる神々は自然の力の密接な関係を反映したものである。エジプト神話の様々なシンボルは、単眼レンズを通して見るには複雑すぎる思想を表している{{sfn|Tobin|1989|pp=18, 23-26}}。
== 原資料==
利用可能な原資料は、厳粛な賛美歌から笑い話まで多岐にわたる。いかなる神話でも正典的なバージョンが単一ではなく、エジプト人は彼らの著作の様々な目的に合うように神話の幅広い伝統を適応させた{{sfn|Traunecker|2001|pp=1-5}}。大半の古代エジプト人は文字が読めなかったため、物語を話すことを通じて神話を語り継ぐ[[口頭伝承]]がなされていた可能性がある<!-- 英語原文は「精巧な」口頭伝承だが、であれば正典的なバージョンが発見される筈なので、精巧であるかは疑わしい-->。スザンヌ・ビッケルは、この伝統の存在がなぜ神話に関連したテキストの多くが殆ど詳細を述べていないのか説明する手掛かりになると指摘し、既に神話は全てのエジプト人に知られていたという{{sfn|Bickel|2004|p=379}}。この口頭伝承の証拠はほとんど残っておらず、エジプト神話に関する現代知識は書かれた絵図の原資料から見つかったものである。現在まで残っているのはこれら資料のごく一部であり、かつて書き留められた神話情報の多くが失われてしまっている{{sfn|Baines|1991|pp=100-104}}。この情報はどの時代においても等しく豊富でないため、エジプト人が歴史上のある時代に抱いていた信仰は、よりきちんと文書化された時代における信仰よりも理解が不十分である{{sfn|Baines|1991|pp= 84, 90}}。
===宗教的な原資料===
多くの神々が[[エジプト初期王朝時代]](紀元前3100年頃-2686年)の芸術作品に現れるが、これらには最小限の著述しか含まれていないため、神々の行動に関してはこれらの資料から殆ど集めることができない。エジプト人はエジプト古王国時代により広く著述を使うようになり、そこでエジプト神話最初の主要な原資料である[[ピラミッド・テキスト]]が現れた。これらテキストは紀元前24世紀に始まる[[ピラミッド]]の内部に刻まれた数百の呪文を集めたものである。それはピラミッドに埋葬された王たちが安全にあの世を通過できるようにすることを意図した、エジプト最初の葬礼文書であった<ref>「[https://kotobank.jp/word/ピラミッド%EF%BD%A5テキスト-1199582 ピラミッド・テキスト]」コトバンク、世界大百科事典 第2版の解説より。</ref>。呪文の多くは、創世神話や[[オシリス]]神話を含め、あの世に関連した神話を暗示している。テキストの多くは最初に書かれた既知の複製よりもはるかに古いもので、従ってそれらはエジプトの宗教的信仰の初期段階に関する手がかりを提供している{{sfn|Pinch|2004|pp=6-11}}。
[[エジプト第1中間期]](紀元前2181-2055年頃)に、ピラミッド・テキストは同様の素材を含むと共に非王族でも利用可能な[[ピラミッド・テキスト]](棺の文章)へと展開された。新王国期の[[死者の書 (古代エジプト)|死者の書]]や[[エジプト末期王朝]](紀元前664-323年)以降の[[呼吸の書]]([[:en:Books of Breathing|en]])のような後継の葬礼文書は、これらの初期のコレクションから発達したものである。また新王国期では、太陽神の夜の旅について詳細かつまとまった記述を含む、別のタイプの葬礼文書の発展も見られた。この種のテキストには『[[アムドゥアト]]([[:en:Amduat|en]])』『[[門の書]]([[:en:Book of Gates|en]])』『[[洞窟の書]]([[:en:Book of Caverns|en]])』などがある{{sfn|Traunecker|2001|pp=1-5}}。
[[File:Flickr - Gaspa - Dendara, tempio di Hator (56).jpg|thumb|right|兄[[オシリス]]の死体を見守っている女神[[イシス]]と[[ネフティス]]を描いた、[[デンデラ神殿複合体|デンデラ]]の神殿装飾]]
現存する遺跡の大部分が新王国期以降のものだが、神殿はもう一つの神話の資料源である。多くの神殿は、儀式用やその他用途の[[パピルス]]を保管するペル=アンク([[アンク]]に関する書庫)や神殿図書館を備えていた。これらパピルスの一部には神の行動を褒め称える賛美歌が含まれており、しばしばそれらの行動を定義する神話に言及している。神殿の他のパピルスは儀式のことを説明しており、それらの多くは部分的に神話に基づいたものである{{sfn|Morenz|1973|pp=218-219}}。これらパピルスを集めた散在する遺物は現在まで残っている。コレクションがより体系的な神話の記録を含んでいた可能性はあるが、そのようなテキストの証拠は現存していない{{sfn|Baines|1991|pp=100-104}}。神殿建物の装飾には、神殿のパピルスのものと同様の、神話のテキストや絵図も見られる。[[プトレマイオス朝]]および[[アエギュプトゥス]]時代(紀元前305-西暦380年)の精巧な装飾が施されて保存状態も良い神殿は、特に豊かな神話の原資料である{{sfn|Pinch|2004|pp=37-38}}。
エジプト人はまた、病気の予防や治癒といった個人的な目的のための儀式も行なっていた。これらの儀式は宗教的というよりむしろ「魔法(呪術)的」と呼ばれることが多いが、それらは儀式の基礎として神話上の出来事を呼び起こす神殿の儀式と同じ原則で作用すると信じられていた{{sfn|Ritner|1993|pp=243-249}}。
宗教的な原資料からの情報は、彼らが記述および描写できるものへの伝統的制約のシステム(いわゆる[[タブー]])による制限を受けている。例えば、オシリス神の殺害はエジプトの著述だと決して明示的に書かれていない{{sfn|Baines|1991|pp=100-104}}。エジプト人は言葉や絵図が現実に影響を与えうると信じていたため、彼らはそうしたネガティブな出来事が現実に起こってしまうリスクを避けていた{{sfn|Pinch|2004|p=6}}。また、[[古代エジプト美術]]の慣習は物語全体を描くのにあまり適しておらず、そのため大半の神話関連の芸術作品はまばらな個々の情景で構成されている{{sfn|Baines|1991|pp=100-104}}。
===その他の原資料===
神話への言及はまた、[[エジプト中王国]]より始まる非宗教的な[[エジプト文学]]にも現れている。これらの言及の多くは神話のモチーフへの単なる隠喩だが、一部の物語は完全に神話的説話に基づいている。これらのより直接的な神話の描写は、ヘイケ・シュテルンベルクなどの学者によれば、エジプト神話が最も完全に発達した状態になった時期である末期王朝およびグレコローマン時代に特に一般的となった{{sfn|Baines|1996|pp=365-376}}。
エジプトの非宗教的なテキストにおける神話への考え方は大きく異なる。一部の物語は呪術的テキストからの説話に似ているが、他の物語はより明確に娯楽としての意味あいがあり、ユーモラスなエピソードさえも含んでいる{{sfn|Baines|1996|pp=365-376}}。
エジプト神話の最晩年の原資料は、同神話が存在する最後の世紀にエジプトの宗教を描いた[[ヘロドトス]]や[[シケリアのディオドロス|ディオドルス・シクルス]]のような[[古代ギリシア]]および[[古代ローマ]]の作家の著作物である。これらの作家の中で著名な人物は[[プルタルコス]]で、その作品『モラリア』にオシリス神話の最も長い古代の記述(''[[:en:De Iside et Osiride|De Iside et Osiride]]'')が含まれている{{sfn|Pinch|2004|pp=35, 39-42}}。これら作家のエジプトの宗教に関する知識は、エジプト外部にいたため多くの宗教的慣習について限定的であり、エジプト人の信仰に関する彼らの声明はエジプトの文化に対する彼らの偏見の影響を受けている{{sfn|Baines|1991|pp=100-104}}。
== 宇宙論==
===マアト===
{{main|マアト}}
エジプトの言葉で「''m3ˁt,''」と記されるマアトは、エジプトの信仰における宇宙の基本的な秩序を指すものである。世界の創造で確立されたマアトは、世界とそれ以前より取り巻いていた混沌とを区分している。マアトは人間の正しい行いと自然の力の正常な機能の両方を網羅しており、その両方が生命と幸福を可能にしている。 神々の行動が自然の力を支配し、神話がそれらの行動を表現するので、エジプト神話は世界の適正な機能と生命そのものの営みを表すものである{{sfn|Tobin|1989|pp=79-82, 197-199}}。
エジプト人にとって、マアトを維持する最重要の人間はファラオである。 神話においてファラオは様々な神格の息子である。その意味で、ファラオは指名された神々の代表であり、彼らが自然にことを行うよう人間社会において秩序を維持し、神々とその活動を支える儀式を継続するよう義務付けられている{{sfn|Pinch|2004|p=156}}。
===世界観===
[[File:Geb, Nut, Shu.jpg|thumb|280px|大気の神[[シュー (エジプト神話)|シュー]]が他の神々に補助されながら天空の神[[ヌト]]を支えており、大地の神[[ゲブ]]がその下に横たわっている。]]
エジプトの信仰では、秩序ある世界の前からあった無秩序が形状のない無限の水の広がりとして世界を超えて存在しており、神[[ヌン]]として擬人化されている。[[ゲブ]]という神に擬人化された大地は平らな土地であり、通常その上には女神[[ヌト]]によって表される天空が弓なりになっている。この両者は大気の擬人化である[[シュー (エジプト神話)|シュー]]によって隔てられている(右の絵図参照)。太陽神ラーは自らの光で世界を賑わせながら、ヌトの全身である空を通って移動すると言われている。夜にラーは西の地平線を越えて、形のないヌンと境を接する謎めいた領域[[ドゥアト]]に踏み入る。夜明けに彼は東の地平線のドゥアトから出てくる{{sfn|Allen|1988|p=3-7}}。
空の性質とドゥアトの場所は不明瞭である。エジプトのテキストは夜間の太陽について、大地の下側を旅するともヌトの体内を移動するとも様々に説明している。 エジプト学者の[[ジェームズ・P・アレン]]([[:en:James P. Allen|en]])は、これら太陽の動きの説明は似ていないが共存する考えだと確信している。アレンの見解では、ヌトはヌンの水面の見える表面を表しており、星はこの表面に浮かんでいる。 従って、太陽は円を描くように水を横断航行し、毎晩水平線を越えてドゥアトの逆側にある土地の下にアーチを描いて空に到達する{{sfn|Allen|2003|pp=25-29}}。しかし[[レオナルド・H・レスコ]]([[:en:Leonard H. Lesko|en]])は、エジプト人は空を堅い天蓋と捉えており、夜間に西から東へと空の表面の上にあるドゥアトを通って移動するとして太陽を説明したと確信している{{sfn|Lesko|1991|pp=117-120}}。レスコのモデルを修正したジョアンヌ・コンマンは、この堅い天空が動く凹面ドームであり、凸面の大地を深く包括していると主張する。太陽と星はこのドームと一緒に動き、地平線の下でのそれらの通過は単にエジプト人が見ることができなかった大地の領域を超えたそれらの動きである。 これら地域がその後ドゥアトになったのだろうというのがコンマンの説である{{sfn|Conman|2003|pp=33-37}}。
ナイル渓谷(上エジプト)と[[ナイル川デルタ]](下エジプト)の肥沃な土地は、エジプト宇宙論の世界の中心にある。 それらの外側に、世界を越えて存在する混沌と関連している不毛の砂漠がある{{sfn|Meeks|Favard-Meeks|1996|pp=82-88}}。その先のどこかに地平線[[アケト]]([[:en:Akhet (hieroglyph)|en]])がある。東と西にある2つの山は、太陽がドゥアトに出入りする場所を示している{{sfn|Lurker|1980|pp=64-65, 82}}。
エジプト人の[[イデオロギー]]では、外国は敵対的な砂漠と関連がある。エジプトと同盟関係にあったりエジプトの支配下にある人々はもっと肯定的に見られていた可能性があるものの、一般的には外国の人々も同じく、ファラオの支配とマアトの安定を脅かす人々「[[9つの弓]]([[:en:Nine bows|en]])」と同列にされた{{sfn|O'Connor|2003|pp=155-156, 169-171}}。これらの理由から、エジプト神話の出来事は外国の土地では滅多に起こらない。一部の物語は天空あるいはドゥアトと関連しているが、一般的にはエジプト自体が神々の行動のための現場である。しばしば、エジプトに設定された神話さえも生きている人間が住むところから隔離された別世界の場で起きているように思えるが、他の物語では人間と神が交流している。いずれにせよ、エジプトの神々は彼らの故郷と深く結びついている{{sfn|Meeks|Favard-Meeks|1996|pp=82-88}}。
===時間===
エジプト人の時間に関する視点は彼らの環境による影響を受けた。毎日太陽が昇っては沈み、土地に光をもたらし、人間の活動を規則的にさせた。毎年ナイル川は氾濫し、土壌の肥沃度を刷新してはエジプト文明を維持させる生産性の高い農業を可能にした。これらの周期的な出来事は、全ての時間が(神々と宇宙を刷新する)マアトによって調整された一連の繰り返しパターンだと、理解するための着想をエジプト人に与えた{{sfn|David|2002|pp=1-2}}。エジプト人は歴史上の時代が違えばその詳細も異なることを認識していたが、神話のパターンがエジプト人の歴史認識を支配していた{{sfn|Hornung|1992|pp=151-154}}。
神々に関するエジプトの物語の多くは、神々が大地に顕現してそれを支配していた原始の時代に起こったものして特徴付けられる。この後、地上の権威が人間のファラオに移ったとエジプト人は信じていた{{sfn|Pinch|2004|p=85}}。この原始の時代は、太陽の旅の始まりや現在の世界のパターン繰り返し以前のことのように思われる。 もう一方の時間の終末は、サイクルの終わりと世界の消滅である。これらの遠い時代は現在のサイクルよりも直線的な説話に適しているので、[[ジョン・ベインズ]]([[:en:John Baines (Egyptologist)|en]])はそれらを真の神話が起こる唯一の時代と捉えている{{sfn|Baines|1996|pp=364-365}}。ただ、ある程度は、時間の周期的な側面が神話の過去にも存在していた。エジプト人はその当時に設定された物語さえも不変の真実であると考えた。神話はそれらと関連した出来事が起こるたびに現実のものとなった。これらの出来事はしばしば神話を呼び起こした儀式で祝われた{{sfn|Tobin|1989|pp=27-31}}。儀式とは、定期的に神話の過去に戻って宇宙における生命を更新する時間を可能にするものだった{{sfn|Assmann|2001|pp=77-80}}。
=== 生死観 ===
エジプトの人々は、太陽が毎朝繰り返し昇る様子から、死後の再生を信じていた。人間は、名前、肉体、影、バー(Ba・[[魂]])、カー(Ka・[[精霊]])の5つの要素から成り立っていると信じられた。人が死ぬとバーは肉体から離れて冥界へ行くが、肉体がそのままであれば、カーがバーと肉体との仲立ちとなって、[[アアル]]で再生できるとされた。そのため、人の死後に肉体が保存されていることが重要視され、[[ミイラ]]作りが盛んに行われた。一方で、死後に再生することができない「第二の死」を恐れた。ちなみに、バーは人間の頭をした[[鷹]]の姿で現される。
[[死者の書 (古代エジプト)|死者の書]]は、古代エジプト人が信仰した、この「第二の誕生」を得るための指南書であったと言われている。[[ピラミッド]]についても墓ではなかったと言われ、死後の世界に旅立つ[[太陽の船]]に乗るための場として建造されたものとされる。神殿などに刻まれた名前も、名前こそが死後の再生に必要な要素であると信じられたために、できる限り後世に残すべく、数多く刻まれたものと考えられている。
== 主な神話==
エジプト神話の最も重要なカテゴリのいくつかを以下に説明する。同神話の断片的な性質のため、エジプトの原資料には神話の出来事に年代順の並びを示すものが殆どない{{sfn|Pinch|2004|p=57}}。とは言うものの、カテゴリは非常に緩やかな時系列で並べられている。
===創世神話===
詳細は{{仮リンク|古代エジプトの創世神話|en|Ancient Egyptian creation myths}}を参照
最も重要な神話の中に、世界の創造を説明するものがある。エジプト人は、自分たちが述べる出来事で大きな差がある多くの創造の記述を展開させた。 特に、世界を創造したと言われている神格は、それぞれの記述において異なる。この差異は、創造を自分たちが信仰する神によるものとすることで自身の守護神を高位に据えたいというエジプトの都市や神権の欲求を部分的に反映している。ただし、異なる記述が矛盾とは見なされなかった。代わりに、エジプト人は創造プロセスが多くの側面を持ち合わせており、多くの神の力が関わっているものと捉えた{{sfn|David|2002|pp=81, 89}}。
[[File:Sunrise at Creation.jpg|thumb|right|女神が周囲に原始の水を注ぐと、太陽が創造の丘の上に昇ってくる。]]
神話の共通点の1つは、それを取り巻く混沌の水から世界が出現することである。この出来事は、マアトの確立と生命の起源を表している。一つの断片的な伝統は、原初の水自体の特徴を表す[[オグドアド]]の8柱の神々に集中している。彼らの行動は太陽(創造神話では様々な神々、特にラーで表される)を生み出し、その誕生は暗い水の中に光と乾燥の空間を形成する{{sfn|Dunand|Zivie-Coche|2004|pp=45-50}}。太陽は乾燥した土地の最初の塚から昇ってくる。この塚は創造神話におけるまた別の共通モチーフで、ナイル川の洪水が後退したときに出来ている大地の盛り上がりに触発された可能性が高いとされる。マアトの創設者{{Refnest|group="注釈"|創設者(establisher)は比喩的に「産みの親」と表現されるため、マアトはラーの娘と解釈される。同神話上では、太陽神がマアト(この世界を統べる秩序)を創って確立した。}}である太陽神の出現により、世界はその最初の支配者を有することになる{{sfn|Meeks|Favard-Meeks|1996|pp=19-21}}。紀元前1世紀の記述は、新しく秩序だった世界を脅かしている混沌の勢力を制圧するための創造神の行動に焦点を当てている{{sfn|Bickel|2004|p=580}}。
太陽および原初の丘と密接に関係している神[[アトゥム]]は、少なくともエジプト古王国までさかのぼる創造神話の焦点である。世界のあらゆる要素を取り入れたアトゥムは、潜在的な存在として水の中に存在する。創造の時に彼は他の神々を生み出すために出現し、その結果としてゲブやヌトおよび世界のこれ以外の重要な要素を含む[[エジプト九柱の神々|エネアド九柱神]]たちが出来上がった。エネアドは全ての神々の代わりになる事ができるとされるので、その創造は世界中に存在する多様な要素の中にあるアトゥムの際立った潜在能力を表したものである<!-- うまく訳せなかったので意訳した。原文は、The Ennead can by extension stand for all the gods, so its creation represents the differentiation of Atum's unified potential being into the multiplicity of elements present within the world.-->{{sfn|Allen|1988|pp=8-11}}。
時間が経つにつれ、エジプト人は創造過程に関してより抽象的な見方を発展させた。ピラミッド・テキストの時代までに、彼らは世界の形成を創造神の心中で最初に開発された概念の実現だと説明した。神の世界のものと現実世界のものとを結び付ける{{仮リンク|ヘカ|en|Heka (god)}}の力、あるいは魔法、は創造主の当初の概念とその物理的な実現とを結び付ける力である。ヘカ自体は神として擬人化されてはいるが、この創造の知的プロセスがその神にだけ関連付けられているわけではない。エジプト第3中間期(紀元前1070-664年頃)からの碑文は、そのテキストがだいぶ古い可能性もあるが、プロセスの詳細を記述していて、それが神[[プタハ]]に帰するとしている。その神と鍛冶屋との緊密な関係が、当初の創造計画に物理的な形を与えるための適切な神格となった。新王国期からの賛美歌は、この創造計画の究極の源として神[[アメン]]を、他の神々の背後にさえある神秘的な力だと説明している{{sfn|Allen|1988|pp=36-42, 60}}。
人間の起源はエジプトの創造物語の主な題材ではない。一部のテキストでは、ラー=アトゥムまたは彼の女性的側面である[[ホルスの目|ラーの眼]]が衰弱と苦悩の瞬間に流した涙から最初の人間が生まれ、それは欠陥がある人間の性質および哀しい生涯を暗示していると言う。他のテキストは、神[[クヌム]]によって人間が粘土から成形されたと述べている。しかし全体として、創造神話の焦点は宇宙秩序の確立であり、そこに人間の特別な場面はない{{sfn|Pinch|2004|pp=66-68}}。
===王子の誕生===
エジプトの複数のテキストが、王権の継承者である神が父親とされる子供の誕生という、同じテーマを取り上げている。そうした物語の最初期に現れたのは神話ではなく楽しい民話で、[[エジプト第5王朝]]最初の3人の王の誕生に関する中王国時代の[[ウェストカー・パピルス]]で発見された。同物語において、3人の王はラーと人間の女性の子孫である。支配者[[ハトシェプスト]]、[[アメンホテプ3世]]、[[ラムセス2世]]が寺院の[[レリーフ]]に自身の概念と誕生を描かせた時、同じテーマが新王国時代の確固たる宗教的文脈で現れ、そこでは神[[アメン]]が父であり、歴史上の女王が母親である。王は神々の中に起源があって当時最も重要な神によって入念に創りこまれたと述べることで、その物語は王の戴冠式に神話的背景を与えており、それは誕生物語と並行して出てくる。神との繋がりは王の支配を正当化し、神と人間の間の仲介者としての王の役割に理論的根拠を提供している{{sfn|Assmann|2001|pp=116-119}}。
似たような情景が新王国期以後の多くの寺院に見られるが、この時に彼らが描いた出来事は神々だけが関わっている。この時期、ほとんどの寺院が神話上の神々の家族、通常は父と母と息子に執着した。これらの物語のバージョンでは、誕生はそれぞれ息子3人組である{{sfn|Feucht|2001|p=193}}。これら子供の神の各々が、国家の安定性を回復するだろう玉座の継承者である。人間の王から彼と関連のあった神々へのこの焦点推移は、古代エジプト史後期におけるファラオの地位低下を反映している{{sfn|Assmann|2001|pp=116-119}}。
===太陽の旅===
天空とドゥアトを通るラーの移動はエジプトの原資料では十分に語られていないが{{sfn|Baines|1996|p=364}}、『[[アムドゥアト]]』『[[門の書]]』『[[洞窟の書]]』といった葬礼文書が一連の寸描で旅の半分にあたる夜間について物語っている{{sfn|Hornung |1992|p=96}}。この旅は、ラーの性質と全ての生命維持にとって重要である{{sfn|Tobin|1989|pp=48-49}}。
天空を横切って移動する際、ラーは大地に光をもたらし、そこに生きる全てのものを維持している。彼は正午に力のピークに達し、その後は日没に向かって動くにつれて年を取って弱くなる。夕方にラーは世界で最も古い創造神であるアトゥムの形状になる。エジプト初期の文書によると、彼は日の出で平らげた他の全ての神々を一日の終わりに吐き出す。ここでその神々は星として現れ、同物語はなぜ星が夜に見えるのに日中は見えなくなるのかを説明している{{sfn|Pinch|2004|pp=91-92}}。
日没でラーは、西のアケト(akhet)という地平線を通過する。この地平線はドゥアトに通じる門または扉として説明されることもある。他の文書で、天空の女神ヌトは太陽の神を飲み込むと言われているので、ドゥアトを通るラーの旅は彼女の体内を通る旅に例えられる{{sfn|Hornung|1992|pp=96-97, 113}}。祭礼文書では、ドゥアトとその中にいる神々は緻密かつ詳細に、そして広範囲に変化するイメージで描かれている。これらのイメージはドゥアトの素晴らしくも謎めいた性質を象徴しており、そこでは神と死者の両方が創造の原初の力と接触することで新たに生を受ける。実際のところ、エジプトのテキストはそれを明示的に語らないようにしているが、ラーがドゥアトの中に入ることは彼の死と見られている{{sfn|Tobin|1989|pp=49, 136-138}}。
[[File:Book of Gates Barque of Ra cropped.jpg|thumb|250px|right|ラー(中央)が、他の神々を従えて自分の帆船で冥界を旅している様子{{sfn|Pinch|2004|pp=183-184}}。]]
旅の描写には特定のテーマが繰り返し描かれる。ラーはマアトを維持するのに必要な努力を行う代表者として、彼の道中で多くの障害を克服する。最大の試練は、無秩序な破壊の側面を司る蛇神で、太陽神を滅ぼして創造を混沌に陥れると脅す[[アペプ]]との対決である{{sfn|Hart|1990|pp=52-54}}。多くのテキストで、ラーは一緒に旅をする他の神々の助けを借りてこれらの障害を克服しており、彼らはラーの権威を支持するのに必要な様々な力を備えている{{sfn|Quirke|2001|pp=45-46}}。ラーはまた自身の航路でドゥアトに光をもたらし、そこに住んでいる祝福を受けた死者に活力を与える。対照的に、マアトを傷つけた人々は彼の敵として苦痛を与えられ、暗い穴や火の湖に投げ込まれる{{sfn|Hornung|1992|pp=95, 99-101}}。
旅の鍵となる出来事は、ラーとオシリスの出会いである。 新王国期には、この出来事がエジプトの生命と時間の概念の複雑な象徴へと発展した。 ドゥアトに追いやられたオシリスは、墓の中にいるミイラ化した体のようである。休むことなく動いているラーは、死んだ人間のバーあるいは魂のようなもので、日中に旅をするとしても毎晩その体に戻る必要がある。ラーとオシリスが出会うと、彼らは一つの存在になる。彼ら2人組は継続的な繰り返しパターンとなるエジプトの時間の見方を反映しており、一人(オシリス)は常に静的で、もう一方(ラー)は一定の周期で生活している。
ラーはオシリスの再生力と一緒になるや、新たな活力を備えて旅を続ける{{sfn|Assmann|2001|pp=77-80}}。この再生が夜明けのラー出現を可能にしている。これは太陽が生まれ変わったと見られ、ヌトがラーを飲み込んだ後にラーを産むという比喩で表現されており、創造の瞬間における初日の出を繰り返していると見られる。この瞬間、昇っていく太陽神は再び星々を飲み込み、それらの力を吸収する{{sfn|Pinch|2004|pp=91-92}}。この活性化状態について、ラーは子供であったり[[スカラベ]]の神[[ケプリ]]として描かれており、いずれもエジプトの図像において再生を表すものである{{sfn|Hart|1990|pp=57, 61}}。
===宇宙の終焉===
一般的にエジプトのテキストは避けるべき将来として世界の消滅を扱っており、そうした理由からテキストがそれを詳細に説明しないことも多い。 しかし、数えきれないほどの更新サイクルの後に世界は終焉を迎える運命にある、という考えを多くのテキストが暗示している。 この終焉は[[ピラミッド・テキスト]]とより明示的には『[[死者の書]]』における一節の中で説明されており、そこではアトゥムがいつの日か自分が秩序のある世界を消してしまい、混沌とした水の中で原初の不活性な状態に戻ることになるだろうと語っている。創造主以外のあらゆる事物が存在を滅ぼされるが、例外としてオシリスは彼と共に生き残ることになる{{sfn|Hornung|1982|pp=162-165}}。この[[終末論]]的見通しについての詳細は、オシリスに関連した死の運命を含め、不明確なままである{{sfn|Dunand|Zivie-Coche|2004|pp=67-68}}。ただし、秩序ある世界を生み出した水の中に創造神と再生の神が一緒にいるので、古いもの(消された現世)と同じように新しい創造が起こる可能性があるという{{sfn|Meeks|Favard-Meeks|1996|pp=18-19}}。
== エジプト文化への影響==
===宗教===
[[File:SethAndHorusAdoringRamsses crop.jpg|thumb|right|セトとホルスがファラオを支えている。対立する神々の和解した姿は、しばしばその王の統治下におけるエジプトの統一を表している{{sfn|te Velde|2001|pp=269-270}}]]
エジプト人が神学的思想を明示的に説明することは稀だったため、神話で暗に示された思想が古代エジプト宗教の根幹の大部分を形成した。エジプト宗教の目的はマアトの維持であり、神話が表現する概念はマアトにとって不可欠なものだと信じられていた。エジプト宗教の儀式は、神話の出来事およびそれが表す概念をもう一度現実に起こすことを意図したもので、それによってマアトを再生していた{{sfn|Tobin|1989|pp=27-31}}。儀式は、最初の創造を可能にした物理的領域と神の領域の間とを同一に連結する[[ヘカ]]の力を介して効果が及ぶと信じられていた{{sfn|Ritner|1993|pp=246-249}}。
こうした理由から、エジプトの儀式には神話上の出来事を象徴する行動がしばしば含まれていた{{sfn|Tobin|1989|pp=27-31}}。寺院の儀式には、セトやアペプのような悪しき神々を表現している模型の破壊や、イシスがホルスのために行なった病気を癒すための非公開な魔法呪文の詠唱{{sfn|Ritner|1993|p=150}}、[[開口の儀式]]([[:en:Opening of the mouth ceremony|en]])などの葬礼儀式などがあり{{sfn|Roth|2001|pp=605-608}}、そして死者のために執り行う儀式はオシリス復活の神話を想起させるものだった{{sfn|Assmann|2001|pp=49-51}}。しかし、神話の劇的な再現を含む儀式はあったとしても稀だった。2人の女性がイシスとネフティスの役割をこなしたオシリス神話を暗示する儀式のような境界的事案があるが、これらの演出が一連の出来事を成したか否かについて学者たちの見解には賛否がある{{sfn|O'Rourke|2001|pp=407-409}}。エジプトの儀式の大半は神々に供え物をするといった基本的な活動に焦点を当てており、神話のテーマは儀式の焦点ではなくイデオロギーの背景として役立っていた{{sfn|Baines|1991|p=101}}。にもかかわらず、神話と儀式は互いに強く影響を及ぼした。イシスとネフティスとの儀式のように、神話は儀式を触発する。そして、神々や死者に供えられた食べ物や他の品物がホルスの目と同等とされた供物儀式の場合のように、もともと神話的意味の無かった儀式が意味があるものと再解釈されることもあった{{sfn|Morenz|1973|p=84}}。
王権は人類と神々の間のつながりとする王の役割を通じて、エジプトの宗教の重要な要素であった。神話は王族と神格の間にあるこの関係の背景を説明している。エネアドに関する神話は、創造主に遡る支配者の系統の継承者として王を確立している。神を生み出す神話は王(ファラオ)が神の息子であり継承者であると主張している。そしてオシリスとホルスに関する神話は、玉座の正統な継承がマアトの維持に不可欠であることを強調している。したがって、神話がエジプト政治の本質そのものの理論的根拠を提供していたのである{{sfn|Tobin|1989|pp=90-95}}。
===芸術===
{{further|古代エジプト美術}}
[[File:Hidden treasures 19.jpg|thumb|right|スカラベの形をした葬礼のお守り]]
神々や神話上の出来事を描いた絵図は、墓、神殿、葬礼文書の中に宗教的叙述と並んで広く出現している{{sfn|Traunecker|2001|pp=1-5}}。エジプトの芸術作品で神話の場面が説話として順番に並ぶことは稀であるが、特にオシリスの復活を描いた個々の場面はたまに宗教的芸術作品に現れることがある{{sfn|Baines|1991|p=103}}。
神話への暗示は、エジプトの芸術や建築で非常に普及した。神殿の設計では、神殿の軸となる中央通路が空を横切る太陽神の道に例えられており、通路の終わりにある聖域は彼がそこから昇った創造の場所を表していた。神殿の装飾はこの関係を強調した太陽の紋章で満たされていた。同様に、墓の回廊はドゥアトを通る神の旅に、そして埋葬室がオシリスの墓と関連付けられた{{sfn|Wilkinson|1994|pp=27-29, 69-70}}。[[ピラミッド]]はエジプトのあらゆる建築様式の中で最も有名で、所有者の死後の再生を確実にすることを意図した記念碑にふさわしい創造の丘および最初の日の出を表しているとして、神話の象徴から触発を受けたものかもしれないとする説がある{{sfn|Quirke|2001|p=115}}。エジプトの伝統における象徴は再解釈されることが度々あるため、神話的な象徴の意味が神話それ自体のように時間と共に変化したり増えたりする{{sfn|Wilkinson|1994|pp=11-12}}。
エジプト人が神の力を呼び覚まそうと一般的に身に着けていたお守りのように、一般的な芸術作品も神話のテーマを想起させるよう設計されていた。例えば、[[ホルスの目]]は失われた目の復活後のホルスの幸福を表していたため、保護用のお守りとして非常に一般的な形であった{{sfn|Andrews|2001|pp=75-82}}。スカラベ形のお守りは、太陽神が明け方に変化すると言われていた形状の神[[ケプリ]]を指すもので、生命の再生を象徴していた{{sfn|Lurker|1980|pp=74, 104-105}}。
===文学===
宗教的著作以外でも、神話からのテーマやモチーフが[[エジプト文学]]に頻繁に現れる。エジプト中王国期に遡る初期の[[セバイト|訓示テキスト]]『[[メリカラ王のための教訓]]([[:en:Teaching for King Merykara|en]])』には、恐らく人類滅亡というある種の神話への短い言及が含まれている。最初期で知られるエジプトの短編小説『[[難破した水夫の物語]]([[:en:Tale of the Shipwrecked Sailor|en]])』は、過去の物語の中に神々および世界の最終的消滅に関する思想を盛り込んでいる。
やや後年の物語は神話上の出来事をあらすじに取り上げたものが多い。『[[二人兄弟の物語]]([[:en:Tale of the Two Brothers|en]])』はオシリス神話の一部を普通の人々に関する素晴らしい物語に適応しており、『弟の「ゲレグ」によって盲人にされてしまった兄の「マアト」の物語([[:en:The Blinding of Truth by Falsehood|en]])』{{Refnest|group="注釈"|この訳語は、{{harv|永井正勝|2011|p=108}}に基づく。ちなみに虚偽が弟ゲレグ、真実が兄マアト。より単純化して「マアトとゲレグ」の話と紹介しているものもある。}}はホルスとセトの間の対立を寓話に変容したものである{{sfn|Baines|1996|pp=367-369, 373-374}}。
ホルスとセトの行動に関するテキストの断片は中王国期にさかのぼり、神々に関する物話はその時代に起きたことを示唆している。この形式のテキストの幾つかは新王国期から知られており、より多くの話が同後期およびグレコローマン時代に書かれた。 これらのテキストは上述のものよりも明らかに神話から派生したものであるが、それらは依然として非宗教的な目的で神話を適用している。新王国期からの『[[ホルスとセトの争い]]([[:en:The Contendings of Horus and Seth|en]])』は、二人の神の間の対立の物語で、ユーモラスかつ一見無関心な調子で記されている。ローマ時代の『太陽の目の神話』は神話から取られた[[枠物語]]に寓話を取り入れている。魔法の目的とは関係のない道徳的メッセージを伝える新王国の物語『イシス、裕福な女の息子、そして漁師の妻』のように、書かれたフィクションが魔法テキストの説話にも影響を与えてしまうことがあった。神話を扱っているこれら物語の多彩さは、エジプト文化において同神話が貢献することになった意図内容の幅広さを示すものである{{sfn|Baines|1996|pp=366, 371-373, 377}}。
<!-- これまであった神々リストのセクションは、下のインフォboxである程度役目を果たすため削除した。エジプト神話の神々リストは、関連項目にあるList of Egyptian deitiesを翻訳する「別途記事の作成」が望ましい。-->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Mythology of Egypt}}
* [[エジプトの歴史]]
** [[古代エジプト]]
* [[太陽神話]]
* [[ローマ神話]]
* [[古代エジプト人の魂]]
*{{仮リンク|エジプト神話の神一覧|en|List of Egyptian deities}}
*{{仮リンク|ケメティズム|en|Kemetism}}
== 脚注 ==
===注釈===
{{Reflist|group="注釈"}}
===出典===
{{Reflist|30em}}
==参考文献==
<!-- いずれも出典で著者名+年になっている書籍-->
* {{cite book|last=Allen|first=James P.|author-link=James Peter Allen|title=Genesis in Egypt: The Philosophy of Ancient Egyptian Creation Accounts|publisher=Yale Egyptological Seminar|year=1988| isbn=0-912532-14-9|ref=harv}}
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* {{cite book|last=Andrews |first=Carol A. R. |chapter=Amulets |editor-last=Redford|editor-first=Donald B.|editor-link=Donald B. Redford|title=The Oxford Encyclopedia of Ancient Egypt |volume=1 |pages=75–82 |year=2001|publisher=Oxford University Press| isbn=978-0-19-510234-5|ref=harv}}
* {{cite book|last=Anthes| first=Rudolf|editor-last=Kramer|editor-first=Samuel Noah|title=Mythologies of the Ancient World|pages=16–92|year=1961|publisher=Anchor Books|chapter=Mythology in Ancient Egypt|ref=harv}}
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* {{cite journal|last=Baines|first=John|author-link=John Baines (Egyptologist)|title=Egyptian Myth and Discourse: Myth, Gods, and the Early Written and Iconographic Record|journal=Journal of Near Eastern Studies|volume=50|issue=2|pages=81–105|date=April 1991|jstor=545669|doi=10.1086/373483|ref=harv}}
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* {{cite book|last=Tobin|first=Vincent Arieh|title=Theological Principles of Egyptian Religion|publisher=P. Lang|year=1989|isbn=0-8204-1082-9|ref=harv}}
* {{cite book|last=Tobin |first=Vincent Arieh |chapter=Myths: An Overview |editor-last=Redford|editor-first=Donald B. |title=The Oxford Encyclopedia of Ancient Egypt |volume=2 |pages=464–469 |year=2001|publisher=Oxford University Press| isbn=978-0-19-510234-5|ref=harv}}
* {{cite book|last=Traunecker|first=Claude|others=Translated by David Lorton|title=The Gods of Egypt|publisher=Cornell University Press| year=2001|origyear=French edition 1992 |isbn=0-8014-3834-9|ref=harv}}
* {{cite book|last=Uphill |first=E. P. |chapter=The Ancient Egyptian View of World History |editor-last=Tait|editor-first=John|title='Never Had the Like Occurred': Egypt's View of Its Past|pages=15–29|publisher=UCL Press|year=2003|isbn=978-1-84472-007-1|ref=harv}}
* {{cite book|last=Vischak |first=Deborah |chapter=Hathor |editor-last=Redford|editor-first=Donald B.|title=The Oxford Encyclopedia of Ancient Egypt |volume=2 |pages=82–85 |year=2001|publisher=Oxford University Press| isbn=978-0-19-510234-5|ref=harv}}
* {{cite book|last=Wilkinson|first=Richard H.|title=Symbol and Magic in Egyptian Art|publisher=Thames & Hudson|year=1994|isbn=0-500-23663-1|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=永井正勝 |date=2011-03 |url=https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/23065 |title=大英博物館所蔵の神官文字パピルス写本「BM 10682」に関する書誌学的及び文字素論的所見 |journal=文藝言語研究. 言語篇 |ISSN=0387-7515 |publisher=筑波大学大学院人文社会科学研究科 文芸・言語専攻 |volume=59 |pages=107-125 |hdl=2241/111119 |CRID=1050282677536169728 |ref=harv}}
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3,832 | 語学 | 語学(ごがく)とは、母語以外の言語を学ぶこと。言語学を指すこともあるが、語学はあくまで「実用」を目的とし、言語学はあくまで「言語そのものの解明」を目的とする。
語学には、様々な方法がある。その中には、かつては主流だったものが現在では、ほとんど実践されなくなってしまったものや、支持が得られなくなったものも多い。
AIの発達による機械翻訳の実用化で、外国語学習の必要が減じることはないとされている。
以下は、特に言及がない限り日本語母語話者が諸言語を習得するときの難易とその特徴について述べるものとする。
アラビア語の学習は非常に困難である。アラビア語は日本語や英語と似ておらず、かつ、語根のしくみなどある程度アラビア語の文法を習得しなければ『現代文語アラビア語辞典』などアラビア語の辞書を用いることは難しい。
イタリア語は、世界中の多くの学校で広く教えられており、実際、第二言語としては4~5番目の規模があるとされている。しかし、日本の初等教育、中等教育において第一外国語として教えられることは稀である。
日本においては、第二、第三外国語として主に大学で学習される。2003年の調査によると、全国105の大学で、約1万人の学習者がいるという。
スペイン語は、英語学習をしっかりとやってきた日本人には、比較的有利な言語である。ラテン系言語で、英語と多少異なるものの、単語の大部分は英語と共通性を持っている ため、全く初見の単語と出くわしたとしても、英語の既得知識により、そのスペルからおおよその意味を推定できる。 文字は、アルファベット表記を基本としており特殊文字はニョール等ごく一部で、学びやすい。また、発音に至っては日本語と同じく母音を中心として発音構造を持ち、おおむねスペルの通り発音ができるため、ヒアリング、スピーキングの点においては、欧州言語の中でも比較的学びやすい。 しかし、英語には無い、女性名詞・男性名詞の存在、英語と異なり全ての時制変化に人称変化が影響してくるという複雑性があるので、最初はかなりこの点で苦労する。
中国語は、ニューズウィーク調査によれば、日本人が学びやすい言語として、レベル2にランクされ比較的学びやすいとされている。理由としては、やはり日本人に馴染みがある漢字を採用している部分が大きい。したがって、中国語を学んだことが全くない日本人でも一部の語句の意味を掴む事は可能であるが、語順は英語と同様SVOであったり、日本では存在しない漢字が多数あったりと一筋縄にいかない部分もある。また、発音については4つの声調を持つうえに、必ずしも漢字のスペルと日本人の感覚で考える発音と一致するわけではないので、リスニング・スピーキングは難関であると言えるが、読み書きは漢字を使用する日本人においては他言語話者に比べてアドバンテージが大きいと言える。
朝鮮語は、ニューズウィーク調査によれば、インドネシア語と並んで最も学びやすいレベル1の評価が与えられている。日本語を母語とする者にとっては、最も習得しやすい外国語の一つとして数えられる。文法においては、その語順が主語→目的語・補語等→述語という並びが類似している。文字は、朝鮮語でしか使われないハングルが用いられるため、日本人を含む外国人が朝鮮語を学ぶにはハングルの習得から入ることが多いが、ハングルは規則性がしっかりしているので、一度覚えてしまえば、ライティングはともかくとしてリーディングにおいては比較的早く習得できる。また、ハングルであっても、体言を中心として多くが漢語由来の言葉のため、日本人が朝鮮語の語彙を増やすにあたっては、かなり有利である。
以下に引用する1880年に示されたドイツの実業家であるエルンスト・オッペルトの見解によれば、朝鮮語は欧米では習得するのが困難な言語とされている。
アメリカ国防総省のDefense Language Instituteは、アラビア語、中国語、朝鮮語、および日本語をカテゴリーIVに分類している。これは、英語話者である学習者の当該言語習熟レベルが「社会生活、また職場での一部の要求を満たす十分な能力」を持ち、また「過去、現在、および未来時制を使用して具体的な話題を扱うことができる」程度に達するのに63週間必要であることを意味する(フランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語は25週間とされる)。アメリカにおける朝鮮語の学習者は、朝鮮語を継承するコリアンアメリカンに多く占められており、非軍事大学で朝鮮語を学ぶ学生の80%を超えると推定されている。朝鮮語はある特定の言語話者の方が学習が大幅に容易であるという。日本での方がより広く、朝鮮語を継承する者でない学習者に朝鮮語は学ばれている。朝鮮語が母語でない者の朝鮮語の能力を評価することを目的とした世界韓国語認証試験は1997年に始まり、2005年の試験については17,000人が申請を行ったという。
トルコ語は、言語類型において日本語と同様の膠着語に属し、語順も日本語と同様に語末に動詞が来るため、日本語母語話者にとっては比較的学びやすい言語と見られがちであるが、多くの語は英語との相関性はほぼないため、単語を記憶する面では、むしろ欧州系言語で英語学力を転用できるようなアドバンテージは効かない。また、変化の仕方は日本語のそれに近いが、変化系は多様に及んでおり、一筋縄ではいかない部分もある。発音面に関しては、近世までのアラビア文字を廃し、ラテン文字(アルファベット)に転用したため、ほぼ表音文字となっているので、比較的学びやすい。
フランス語は、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語等と同じ系統を祖先としてもつロマンス系言語であり、両者間で類似性をスペルや文法面(たとえば目的格が動詞の前に置かれる等)から見出され、難易度としては、スペイン語やイタリア語と同等に見られる節があるが、スペイン語やイタリア語がほぼスペルそのままに発音できるのに対し、フランス語は、スペル通りの発音という訳にはいかず、ある程度の規則性があるものの、リエゾン(音の連結)や音の脱落などが、至るところで出現するため、発音に慣れるのにはそれなりの時間を要する。
ベトナム語は、ニューズウィーク調査による難易ランキングでは、日本人が学びやすい言語レベル2(4段階評価)にランクされており、中国語、スペイン語と並んで学びやすいとされている。これは、ベトナム語が孤立語であり、数や性による語形変化が全くないことが大きい。また、かつては中国の影響からチュノムと呼ばれる漢字に似た文字を採用していたが、フランス支配を契機にラテン文字を使ったクオックグーに移行したことも大きい。ただし、発音に関しては、中国語を上回る6つの声調をもち、難しい部類に入る。
現代ヘブライ語に関しては比較的容易な言語である。ヘブライ語を公用語としているイスラエルでは、イスラエル国籍がないユダヤ人がイスラエルに「帰還」する際に、イスラエルにおける公用語のひとつである現代ヘブライ語を現地で生活するために学習しなければならない。その際に、ウルパンというヘブライ語教室においてかなり体系的にヘブライ語をヘブライ文字の読み方など非常に基本的な事柄から教授している。そして、ウルパンにおいて用いられるヘブライ語の教科書は様々なレベルの受講生にあわせて作成されており、ウルパンでヘブライ語を教授しているヘブライ語の教師たちは、受講生がヘブライ語を楽しくわかりやすく学習できるよう、教室内の環境も良好にするなど非常に洗練されている。また、すでに廃刊にはなってしまったが、シャアル・ラマトヒールというヘブライ語の新聞も発行され、同紙はヘブライ語のレベルは初級程度ではあるが、記事の内容はイスラエルの政治や中東和平などに関する事柄であるため、高等教育課程を受講したことがある成人がヘブライ語を学習する際に読解用の新聞としてウルパンなどにおいて用いられていた。また、日本においてもヘブライ語を教授する教室があり、ヘブライ語の受講生がヘブライ語を学習する動機は原則として聖書などに関心がある者が多く、まれにパレスチナ問題や中東和平などに関心がある者や、ヘブライ語話者と結婚するためにヘブライ語を学習する者もいる。そして、聖書ヘブライ語を学習する者は、最初に現代ヘブライ語を習得しそれから聖書ヘブライ語を学習するほうが最初から聖書ヘブライ語のみを学習するよりも学習することが容易である。また、ヘブライ語を修得するとアラビア語の学習が容易になり、ドイツ語とヘブライ語を修得するとイディッシュ語の学習が容易になる。
少なくとも日本語の母語話者にとっては、モンゴル語の学習は非常に容易である。モンゴル語は膠着語であるために文法的にも非常に近い。その点では朝鮮語も同じだが、朝鮮語にある激音、濃音といった日本人初学者には聞き取れない音声学上の違いもモンゴル語には存在しない。ただし、LとRの違いはモンゴルにも存在する。母音の「オ」と「ウ」が2種類あるが、これは円唇か平唇かの違いにすぎないので、日本語話者にとってはそれほど大きな負担にはなっていない。 | [
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"text": "現代ヘブライ語に関しては比較的容易な言語である。ヘブライ語を公用語としているイスラエルでは、イスラエル国籍がないユダヤ人がイスラエルに「帰還」する際に、イスラエルにおける公用語のひとつである現代ヘブライ語を現地で生活するために学習しなければならない。その際に、ウルパンというヘブライ語教室においてかなり体系的にヘブライ語をヘブライ文字の読み方など非常に基本的な事柄から教授している。そして、ウルパンにおいて用いられるヘブライ語の教科書は様々なレベルの受講生にあわせて作成されており、ウルパンでヘブライ語を教授しているヘブライ語の教師たちは、受講生がヘブライ語を楽しくわかりやすく学習できるよう、教室内の環境も良好にするなど非常に洗練されている。また、すでに廃刊にはなってしまったが、シャアル・ラマトヒールというヘブライ語の新聞も発行され、同紙はヘブライ語のレベルは初級程度ではあるが、記事の内容はイスラエルの政治や中東和平などに関する事柄であるため、高等教育課程を受講したことがある成人がヘブライ語を学習する際に読解用の新聞としてウルパンなどにおいて用いられていた。また、日本においてもヘブライ語を教授する教室があり、ヘブライ語の受講生がヘブライ語を学習する動機は原則として聖書などに関心がある者が多く、まれにパレスチナ問題や中東和平などに関心がある者や、ヘブライ語話者と結婚するためにヘブライ語を学習する者もいる。そして、聖書ヘブライ語を学習する者は、最初に現代ヘブライ語を習得しそれから聖書ヘブライ語を学習するほうが最初から聖書ヘブライ語のみを学習するよりも学習することが容易である。また、ヘブライ語を修得するとアラビア語の学習が容易になり、ドイツ語とヘブライ語を修得するとイディッシュ語の学習が容易になる。",
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"text": "少なくとも日本語の母語話者にとっては、モンゴル語の学習は非常に容易である。モンゴル語は膠着語であるために文法的にも非常に近い。その点では朝鮮語も同じだが、朝鮮語にある激音、濃音といった日本人初学者には聞き取れない音声学上の違いもモンゴル語には存在しない。ただし、LとRの違いはモンゴルにも存在する。母音の「オ」と「ウ」が2種類あるが、これは円唇か平唇かの違いにすぎないので、日本語話者にとってはそれほど大きな負担にはなっていない。",
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] | 語学(ごがく)とは、母語以外の言語を学ぶこと。言語学を指すこともあるが、語学はあくまで「実用」を目的とし、言語学はあくまで「言語そのものの解明」を目的とする。 | '''語学'''(ごがく)とは、[[母語]]以外の[[言語]]を学ぶこと。[[言語学]]を指すこともあるが、語学はあくまで「実用」を目的とし、言語学はあくまで「言語そのものの解明」を目的とする。
== 語学の方法 ==
{{main|語学教授法}}
語学には、様々な方法がある。その中には、かつては主流だったものが現在では、ほとんど実践されなくなってしまったものや、支持が得られなくなったものも多い。
== 語学の必要性 ==
[[人工知能|AI]]の発達による[[機械翻訳]]の実用化で、外国語学習の必要が減じることはないとされている<ref group="注釈">「[[技術的特異点|シンギュラリティ]]の時代(AIが全て能力で人間を越える時代。「[[テレパシー]]の様に脳波で直接コミュニケーションを取るため母語ですら不要になる」「不老不死の実現」などの可能性も示唆されている。人間と機械の境界が崩れ、価値観の転換期を迎えると言われている。ただし、あくまで[[未来学]]における仮説の一つ)」が到達しない限り、「[[人工知能|AI]]が発達しても、人間の[[通訳]]を置き換えることは出来ず」「むしろ人間が行わなかった翻訳・通訳の新しいユースケースを開拓していく」としている。</ref><ref>日本経済新聞2019 1.1朝刊</ref><ref>engadget 2017.4.15「人を越えた機械翻訳は通訳の仕事を奪うのか」microsoft社 オリヴィエ氏による</ref>。
{{main|機械翻訳#現状と限界}}
== 主要な言語の難易と習得上の特徴 ==
{{独自研究|section=1|date=2011年3月}}
{{main2|「[[言語の一覧]]」および各言語の記事をそれぞれ}}
{{See also|相互理解可能性}}
以下は、特に言及がない限り日本語母語話者が諸言語を習得するときの難易とその特徴について述べるものとする。
<!--
以下50音順で記すことが望ましい。
-->
=== アラビア語 ===
[[アラビア語]]の学習は非常に困難である<ref>[http://www.tufs.ac.jp/common/fs/asw/ara/2/study/q_and_a.htm アラビア語学習ガイド、2012年8月31日閲覧]</ref>。アラビア語は[[日本語]]や[[英語]]と似ておらず、かつ、[[語根]]のしくみなどある程度アラビア語の文法を習得しなければ『[[現代文語アラビア語辞典]]』などアラビア語の辞書を用いることは難しい。
=== イタリア語 ===
<!--Italian is widely taught in many schools around the world, but rarely as the first non-native language of pupils, in fact Italian generally is the fourth or fifth most taught second-language in the world.-->
[[イタリア語]]は、世界中の多くの学校で広く教えられており、実際、[[第二言語]]としては4~5番目の規模があるとされている<ref>[http://www.iic-colonia.de/italiano-2000/09.12%20Analisi%20generale%20dei%20dati.htm Die besten sextreffen in hamburg]</ref>。しかし、日本の[[初等教育]]、[[中等教育]]において[[第一外国語]]として教えられることは稀である。
日本においては、第二、第三外国語として主に大学で学習される。2003年の調査によると、全国105の大学で、約1万人の学習者がいるという<ref>[[高田和文]]「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110006177734/ 大学におけるイタリア語教育の現状と第二外国語学習の意義について]」『静岡文化芸術大学研究紀要』、2006年</ref>。
=== スペイン語 ===
[[スペイン語]]は、英語学習をしっかりとやってきた日本人には、比較的有利な言語である。ラテン系言語で、英語と多少異なるものの、単語の大部分は英語と共通性を持っている ため、全く初見の単語と出くわしたとしても、英語の既得知識により、そのスペルからおおよその意味を推定できる。
文字は、[[アルファベット]]表記を基本としており特殊文字は{{要検証範囲|ニョール|date=2011年7月}}<!-- スペイン語の文字「ñ」の名称に近いカタカナ表記は「エニェ」である。 -->等ごく一部で、学びやすい。また、発音に至っては日本語と同じく母音を中心として発音構造を持ち、おおむねスペルの通り発音ができるため、ヒアリング、スピーキングの点においては、欧州言語の中でも比較的学びやすい。
しかし、英語には無い、[[女性名詞]]・[[男性名詞]]の存在、英語と異なり全ての時制変化に人称変化が影響してくるという複雑性があるので、最初はかなりこの点で苦労する。
=== 中国語 ===
[[中国語]]は、[[ニューズウィーク]]調査によれば{{Full|date=2012年3月}}、日本人が学びやすい言語として、レベル2にランクされ比較的学びやすいとされている。理由としては、やはり日本人に馴染みがある漢字を採用している部分が大きい。したがって、中国語を学んだことが全くない日本人でも一部の語句の意味を掴む事は可能であるが、語順は英語と同様SVOであったり、日本では存在しない漢字が多数あったりと一筋縄にいかない部分もある。また、発音については4つの声調を持つうえに、必ずしも漢字のスペルと日本人の感覚で考える発音と一致するわけではないので、リスニング・スピーキングは難関であると言えるが、読み書きは漢字を使用する日本人においては他言語話者に比べてアドバンテージが大きいと言える。
=== 朝鮮語 ===
[[朝鮮語]]は、ニューズウィーク調査によれば{{Full|date=2012年3月}}、インドネシア語と並んで最も学びやすいレベル1の評価が与えられている。日本語を母語とする者にとっては、最も習得しやすい外国語の一つとして数えられる。文法においては、その語順が主語→目的語・補語等→述語という並びが類似している。<!--世界中を眺めても述語(動詞)が文末にくるのは、この2語を含めかなり稀である。←いわゆるSOV型に分類される言語はむしろメジャーである。--><!--{{要検証範囲|特に、助詞の使い方においては他語では類をみない程、共通点が多い。「は、が、に、を」などの助詞は発音こそ若干異なるものの、その位置や接続方法、用法などは両語全く共通である)|date=2011年6月}}。2022年に放送大学の「韓国語I」を学んだところ、全く共通といえるのは文中の位置のみだったためコメントアウト。-->文字は、朝鮮語でしか使われない[[ハングル]]が用いられるため、日本人を含む外国人が朝鮮語を学ぶにはハングルの習得から入ることが多いが、ハングルは規則性がしっかりしているので、一度覚えてしまえば、ライティングはともかくとしてリーディングにおいては比較的早く習得できる。また、ハングルであっても、[[体言]]を中心として多くが[[漢語]]由来の言葉のため、日本人が{{ISO639言語名|ko}}の語彙を増やすにあたっては、かなり有利である。
<!--逆に、{{ISO639言語名|ko}}話者が日本語を習得するにあたり、もちろん欧米圏話者に比べて有利な点が多いが、漢字・ひらがな・カタカナの3文字を全て習得しなければならない点があるので、日本人が{{ISO639言語名|ko}}を習得するほど簡単にはいかない。←朝鮮語を学ぶ者についての記事であるのでこの記述は不要かと-->
<!--以下の節は
http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Korean_language&oldid=192984071
より引用-->
<!--Korean is regarded in the West as a difficult language to learn, an opinion that was expressed as early as 1880 by German businessman [[Ernst Oppert]], who wrote:
:"The difficulties in acquiring and properly speaking the Corean language are by no means inferior to those which beset the study of the Chinese; they are even considered by many to be infinitely greater, and they cannot be likened to the comparatively easy manner with which even foreigners are able to acquire a knowledge of Japanese in a proportionately short time.<ref>{{cite book|last=Oppert|first=Ernst|title=A Forbidden Land: Voyages to the Corea|publisher=S. Low, Marston, Searle, and Rivington|date=1880|url=https://books.google.co.jp/books?id=PB8PAAAAYAAJ&redir_esc=y&hl=ja}}</ref>-->
以下に引用する1880年に示されたドイツの実業家である[[エルンスト・オッペルト]]の見解によれば、[[朝鮮語]]は欧米では習得するのが困難な言語とされている。
:朝鮮語を習得し正確に話すことの難しさは、中国語の学習につきまとう困難と比較しても全く劣ってはいない。この難しさは際限なく大なるものであると多くの者はみなしており、またその難易度は、外国人でも比較的短時間で日本語の知識(a knowledge of Japanese)を獲得できるその比較的容易な度合いに比することはできない<ref>{{cite book|last=Oppert|first=Ernst|title=A Forbidden Land: Voyages to the Corea|publisher=S. Low, Marston, Searle, and Rivington|date=1880|url=https://books.google.co.jp/books?id=PB8PAAAAYAAJ&redir_esc=y&hl=ja}}</ref>。<!--The [[United States]]' [[Defense Language Institute]] classifies Korean alongside [[Arabic]], [[Chinese language|Chinese]], and [[Japanese language|Japanese]] as a Category IV language, meaning that 63 weeks of instruction (as compared to just 25 weeks for [[French language|French]], [[Spanish language|Spanish]], [[Portuguese language|Portuguese]], and [[Italian language|Italian]]) are required to bring an English-speaking student to a limited working level of profiency in which he or she has "sufficient capability to meet routine social demands and limited job requirements" and "can deal with concrete topics in past, present, and future tense."-->
[[アメリカ国防総省]]のDefense Language Instituteは、アラビア語、中国語、朝鮮語、および日本語をカテゴリーIVに分類している。これは、英語話者である学習者の当該言語習熟レベルが「社会生活、また職場での一部の要求を満たす十分な能力」を持ち、また「過去、現在、および未来時制を使用して具体的な話題を扱うことができる」程度に達するのに63週間必要であることを意味する(フランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語は25週間とされる)<ref>{{cite journal|journal=Applied Language Learning|volume=16|issue=2|url=http://www.dliflc.edu/academics/academic_materials/all/ALLissues/all16two.pdf|last=Raugh|first=Harold E.|title=The Origins of the Transformation of the Defense Language Program|pages=1-12|accessdate=2008-01-09}}</ref>。<!-- As a result, the study of Korean language in the United States is dominated by [[Korean American]] heritage language students; they are estimated to form over 80% of all students of the language at non-military universities.-->アメリカにおける朝鮮語の学習者は、朝鮮語を継承する[[コリアンアメリカン]]に多く占められており、非軍事大学で朝鮮語を学ぶ学生の80%を超えると推定されている<ref>{{cite journal|title=Issues of Validity of SAT Subject Test Korea with Listening|last=Lee|first=Saekyun H.|coauthors=HyunJoo Han|pages=33-56|journal=Applied Language Learning|volume=17|issue=1|url=http://www.dliflc.edu/academics/academic_materials/all/ALLissues/ALL17.pdf}}</ref>。<!--However, Korean is considerably easier for speakers of certain other languages, such as Japanese; in Japan, it is more widely studied by non-heritage learners.-->朝鮮語はある特定の言語話者の方が学習が大幅に容易であるという。日本での方がより広く、朝鮮語を継承する者でない学習者に朝鮮語は学ばれている<ref>{{cite book|chapter=Language Education Policy in Japan|last=Fujita-Round|first=Sachiyo|coauthors=John C. Maher|pages=393-404|book=Encyclopedia of Language and Education|publisher=Springer|location=United States|date=2007|id=ISBN 978-0-387-32875-1}}</ref>。<!--The [[Korean Language Proficiency Test]], an examination aimed at assessing non-native speakers' competence in Korean, was instituted in 1997; 17,000 people applied for the 2005 sitting of the examination.-->朝鮮語が母語でない者の朝鮮語の能力を評価することを目的とした[[世界韓国語認証試験]]は1997年に始まり、2005年の試験については17,000人が申請を行ったという<ref>{{cite news|url=http://english.chosun.com/w21data/html/news/200410/200410100002.html|date=2004-10-10|accessdate=2008-01-09|title=Korea Marks 558th Hangul Day|work=The Chosun Ilbo}}{{リンク切れ|date=2011年3月}}</ref>。
=== トルコ語 ===
[[トルコ語]]は、[[言語類型論|言語類型]]において日本語と同様の[[膠着語]]に属し、語順も日本語と同様に語末に動詞が来るため、日本語母語話者にとっては比較的学びやすい言語と見られがちであるが、多くの語は英語との相関性はほぼないため、単語を記憶する面では、むしろ欧州系言語で英語学力を転用できるようなアドバンテージは効かない。また、変化の仕方は日本語のそれに近いが、変化系は多様に及んでおり、一筋縄ではいかない部分もある。発音面に関しては、近世までのアラビア文字を廃し、[[ラテン文字]](アルファベット)に転用したため、ほぼ表音文字となっているので、比較的学びやすい。
=== フランス語 ===
[[フランス語]]は、スペイン語、[[ポルトガル語]]、イタリア語等と同じ系統を祖先としてもつロマンス系言語であり、両者間で類似性をスペルや文法面(たとえば目的格が動詞の前に置かれる等)から見出され、難易度としては、スペイン語やイタリア語と同等に見られる節があるが、スペイン語やイタリア語がほぼスペルそのままに発音できるのに対し、フランス語は、スペル通りの発音という訳にはいかず、ある程度の規則性があるものの、[[リエゾン]](音の連結)や音の脱落などが、至るところで出現するため、発音に慣れるのにはそれなりの時間を要する。
=== ベトナム語 ===
[[ベトナム語]]は、ニューズウィーク調査による難易ランキングでは{{Full|date=2012年3月}}、日本人が学びやすい言語レベル2(4段階評価)にランクされており、中国語、スペイン語と並んで学びやすいとされている。これは、ベトナム語が[[孤立語]]であり、数や性による語形変化が全くないことが大きい。また、かつては中国の影響から[[チュノム]]と呼ばれる漢字に似た文字を採用していたが、フランス支配を契機にラテン文字を使った[[クオックグー]]に移行したことも大きい。ただし、発音に関しては、中国語を上回る6つの声調をもち、難しい部類に入る。
=== ヘブライ語 ===
現代[[ヘブライ語]]に関しては比較的容易な言語である。ヘブライ語を公用語としているイスラエルでは、イスラエル国籍がないユダヤ人がイスラエルに「帰還」する際に、イスラエルにおける公用語のひとつである現代ヘブライ語を現地で生活するために学習しなければならない。その際に、[[ウルパン]]というヘブライ語教室においてかなり体系的にヘブライ語をヘブライ文字の読み方など非常に基本的な事柄から教授している。そして、ウルパンにおいて用いられるヘブライ語の教科書は様々なレベルの受講生にあわせて作成されており、ウルパンでヘブライ語を教授しているヘブライ語の教師たちは、受講生がヘブライ語を楽しくわかりやすく学習できるよう、教室内の環境も良好にするなど非常に洗練されている。また、すでに廃刊にはなってしまったが、[[シャアル・ラマトヒール]]というヘブライ語の[[新聞]]も発行され、同紙はヘブライ語のレベルは初級程度ではあるが、記事の内容はイスラエルの[[政治]]や[[中東和平]]などに関する事柄であるため、[[高等教育]]課程を受講したことがある成人がヘブライ語を学習する際に読解用の新聞としてウルパンなどにおいて用いられていた。また、日本においてもヘブライ語を教授する教室があり、ヘブライ語の受講生がヘブライ語を学習する動機は原則として[[聖書]]などに関心がある者が多く、まれに[[パレスチナ問題]]や中東和平などに関心がある者や、ヘブライ語話者と[[結婚]]するためにヘブライ語を学習する者もいる。そして、[[聖書ヘブライ語]]を学習する者は、最初に現代ヘブライ語を習得しそれから聖書ヘブライ語を学習するほうが最初から聖書ヘブライ語のみを学習するよりも学習することが容易である。また、ヘブライ語を修得するとアラビア語の学習が容易になり、[[ドイツ語]]とヘブライ語を修得すると[[イディッシュ語]]の学習が容易になる。
=== モンゴル語 ===
少なくとも日本語の母語話者にとっては、[[モンゴル語]]の学習は非常に容易である。モンゴル語は[[膠着語]]であるために文法的にも非常に近い。その点では{{ISO639言語名|ko}}も同じだが、{{ISO639言語名|ko}}にある[[激音]]、[[濃音]]といった日本人初学者には聞き取れない音声学上の違いもモンゴル語には存在しない。ただし、LとRの違いはモンゴルにも存在する。母音の「オ」と「ウ」が2種類あるが、これは円唇か平唇かの違いにすぎないので、日本語話者にとってはそれほど大きな負担にはなっていない。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wikibooks|Category:語学|語学}}
{{Wikiversity|School:語学と文学|語学}}
*[[日本の語学に関する資格一覧]]
*[[語学教育研究所]]
*[[語学検定]]
*[[言語教育]]、[[外国語教育]]、[[外国語]]
*[[言語獲得]]、[[言語接触]]
*[[第二言語]]、[[第二言語習得]]、[[第二言語習得の理論]]、[[多言語]]
*[[英会話]]
*[[言語交換]]
*[[母語話者の数が多い言語の一覧]]
*[[大津由紀雄]]
{{DEFAULTSORT:こかく}}
[[Category:言語教育]]
[[Category:応用言語学]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%9E%E5%AD%A6 |
3,835 | セト | セト(Set)は、エジプト神話における戦争の神。ヘリオポリス九柱神に数えられる。
大地の神ゲブを父に、天空の女神ヌトを母に持つ。二柱の間に生まれた四柱の神々の三男であり、冥界の神オシリスを兄に、豊穣の女神イシスを姉、葬祭の女神ネフティスを妹に持つ。配偶神は妹でもあるネフティス、彼女との間にアヌビス、ネイトとの間にセベクを成した。
オシリスとイシスの伝説において、兄オシリスを殺害し「兄殺し」の汚名を受け、オシリスとイシスとの間に出来た息子ホルスと王位を巡って争い敗れたためにセトは嫌われ者の神となり、悪神として捉えられた。セトの象徴となっている動物たちはみな、古代エジプトにおいて、人々に有害なものとされてきた存在であり、ファラオが直接狩りを行う風習が生まれるなどその嫌われようがうかがえる。しかしながら、セトは英雄的な一面も併せ持ち、太陽神ラーの航海では邪悪な大蛇アポピスからラーを守ることが出来る唯一の神とされ、讃えられた。
セトはジャッカル(エジプトジャッカル=オオカミ)の頭をした神であると思われているが、壁画などで表現されているセトの頭はツチブタのものである。一般的に四角い両耳、先の分かれた尾(パピルスの花)そして曲がって大きく突き出した鼻を持ち、犬、ツチブタ、ジャッカルのほか、シマウマ、ロバ、ワニ、ブタ、そしてカバなどとも結びつけられている。このため、想像上の動物(合成獣)をわざわざ作ってセトに充てたとする説も存在する。この正体不明な動物を英語では「セト・アニマル」と呼ぶ。このように様々な動物を合体させて想像上の動物を作り神に充てる例は多く、他にトエリスが挙げられる。
セトの図像が手にしているのは、生命を意味する「アンク(Ankh)」と権力と支配(統治)、権威と繁栄を意味する「ウアス(Ouas/ウス/ウァズ)」と呼ばれる杖である。ウアス杖は、王権の守護神や王が持つとされヒエログリフにもなっている。ウアス杖の頭は、セトやアヌビスの頭とされる。ウアス杖の先端は二股になっており、古くからある蛇避けの杖の名残であるとされる。
セトはセトゥ(Seth)、セテカー(Setekh)、セティ(Seti)、ステカー(Sutekh)、テューポーン(Typhon)など他の呼び名も持つ。
初期のセトは砂漠の神であり、砂嵐を引き起こしているとされるが、その一方キャラバンの守り神でもある。また、粗暴な性格を持つ戦争を司る神であるが、その武力が外に向けられると軍隊の守護神となり、悪邪アポピスからラーを守る役割とも合わさって軍神としての神格を持つようになり、信仰を受けるようになった。 次第にセトは元より信仰を受けていたホルスと取って変わるようになり、紀元前3000年代には特にナイル川下流部の下エジプトの王を後援・象徴する神となり、大いに崇められた。 ところが、時代を下るにつれて、オシリスがセトより重要な神と認知され始めたため、正反対の描写をされてきたセトは悪役の立場を背負わされ、遂には兄オシリスを殺すというエピソードまで生まれた(オシリスとイシスの伝説を参照)。そして、親の敵討ちに乗り出すホルスの敵役にされてしまう。 長らくエジプトの嫌われ者となったセトだが、第19王朝になって宗教上の復権を果たした。これはラムセス家のセトへの信仰とセトの名を冠したファラオ、セティ1世が即位したためである。「セティ」とは、「セト神による君主」という意味であり、セティ1世の息子であるラムセス2世はセトから弓の使い方を教えられるレリーフやホルスとセトに戴冠式の祝福をされる場面を表したレリーフを残し、セトは「王の武器の主人」という称号を受け、ファラオに武術を教える神として信仰された。 このようなセト神への信仰からラムセス家がヒクソス系ともセト神の神官の家系であったともいう説もある。また第20王朝はセトナクト(「セトによって勝利する」の意味)という名のファラオ。しかしながら、戦争に関する神は民間で人気がなく、王家の崇める神に留まったが、それでも上エジプトでは根強く信仰された。
セトは、性欲を象徴する神ともされた。これと関連してセトの好物はレタスとされる。 レタスは、古代エジプトが原産とする説があり、4000年前には、既に栽培されており、エジプト古王国時代の遺跡である「ニアンククヌムとクヌムヘテプの墳墓」には、「レタス栽培」を表したものとされる浮き彫りが残されている。ただし浮き彫りの形から判断するに現在一般によく見かける「玉ヂシャ」や「リーフレタス」ではなく高く伸びた茎や葉を食べる「ステムレタス」に近かったのではないかと考えられている。 古代エジプトでは、レタスは、茎から出る白い液が精液の素になると看做され、催眠・催淫効果があると考えられたことから、精力増強剤や媚薬として食されていた。またレタスは、ファルスの神であるミンの象徴でもある。ここからセトは、ミンとも習合された。 レタスに絡んだセトとホルスに関する逸話が残されている。セトは、イシスによる報復の結果、ホルスの精液を食べてしまい妊娠したとされる(このことからセトは、両性具有とも考えられる)。これは、エジプト第19王朝時代に書かれた「ベッティ・パピルス」(銅山王 Alfred Chester-Beatty 所有の古代エジプトパピルスコレクション)に記されている。 | [
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] | セト(Set)は、エジプト神話における戦争の神。ヘリオポリス九柱神に数えられる。 | {{Otheruses|[[エジプト神話]]の[[神]]|[[旧約聖書]]の人物|セト (聖書)}}
{{出典の明記|date= 2016年6月21日 (火) 11:54 (UTC)}}
{{Infobox deity
|type = Egyptian
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|deity_of = {{small|戦争の神, 砂漠の神, 嵐の神}}
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{{Egyptian mythology}}
'''セト'''(Set)は、[[エジプト神話]]における戦争の[[神]]。[[エジプト九柱の神々|ヘリオポリス九柱神]]に数えられる。
== 概要 ==
大地の神[[ゲブ]]を父に、天空の女神[[ヌト]]を母に持つ。二柱の間に生まれた四柱の神々の三男であり、冥界の神[[オシリス]]を兄に、豊穣の女神[[イシス]]を姉、葬祭の女神[[ネフティス]]を妹に持つ。配偶神は妹でもあるネフティス、彼女との間に[[アヌビス]]、[[ネイト (エジプト神話)|ネイト]]との間に[[セベク]]を成した。<ref>{{cite web |url=http://www.ancientegyptonline.co.uk/sobek.html |title=Gods of Ancient Egypt: Sobek |website=www.ancientegyptonline.co.uk |access-date=2022-05-24}}</ref>
[[オシリスとイシスの伝説]]において、兄オシリスを殺害し「兄殺し」の汚名を受け、オシリスとイシスとの間に出来た息子ホルスと王位を巡って争い敗れたためにセトは嫌われ者の神となり、悪神として捉えられた。セトの象徴となっている動物たちはみな、古代エジプトにおいて、人々に有害なものとされてきた存在であり、ファラオが直接狩りを行う風習が生まれるなどその嫌われようがうかがえる。しかしながら、セトは英雄的な一面も併せ持ち、太陽神ラーの航海では邪悪な大蛇[[アポピス]]からラーを守ることが出来る唯一の神とされ、讃えられた。
== 外見 ==
セトは[[ジャッカル]](エジプトジャッカル=[[オオカミ]])の頭をした神であると思われているが、壁画などで表現されているセトの頭は[[ツチブタ]]のものである。一般的に四角い両耳、先の分かれた[[尾]]([[パピルス]]の花)そして曲がって大きく突き出した鼻を持ち、[[犬]]、[[ツチブタ]]、[[ジャッカル]]のほか、[[シマウマ]]、[[ロバ]]、[[ワニ]]、[[ブタ]]、そして[[カバ]]などとも結びつけられている。このため、想像上の動物([[キマイラ|合成獣]])をわざわざ作ってセトに充てたとする説も存在する。この正体不明な動物を英語では「[[:en:set animal|セト・アニマル]]」と呼ぶ。このように様々な動物を合体させて想像上の動物を作り神に充てる例は多く、他に[[タウエレト|トエリス]]が挙げられる。[[ファイル:Egypt.Mythology.Set.jpg|thumb|[[トトメス3世]]の墓所に描かれたセト。]]
セトの図像が手にしているのは、生命を意味する「[[アンク]](Ankh)」と権力と支配(統治)、権威と繁栄を意味する「[[ウアス]](Ouas/ウス/ウァズ)」と呼ばれる杖である。ウアス杖は、王権の守護神や王が持つとされ[[ヒエログリフ]]にもなっている。ウアス杖の頭は、セトや[[アヌビス]]の頭とされる。ウアス杖の先端は二股になっており、古くからある蛇避けの杖の名残であるとされる。
== 名称 ==
セトは'''セトゥ'''(Seth)、'''セテカー'''(Setekh)、'''セティ'''(Seti)、'''ステカー'''(Sutekh)、'''[[テューポーン]]'''(Typhon)など他の呼び名も持つ。
== 信仰の変遷 ==
初期のセトは[[砂漠]]の神であり、砂嵐を引き起こしているとされるが、その一方[[キャラバン]]の守り神でもある。また、粗暴な性格を持つ戦争を司る神であるが、その武力が外に向けられると軍隊の守護神となり、悪邪アポピスからラーを守る役割とも合わさって軍神としての神格を持つようになり、信仰を受けるようになった。
次第にセトは元より信仰を受けていたホルスと取って変わるようになり、[[紀元前3000年]]代には特にナイル川下流部の下エジプトの王を後援・象徴する神となり、大いに崇められた。
ところが、時代を下るにつれて、[[オシリス]]がセトより重要な神と認知され始めたため、正反対の描写をされてきたセトは悪役の立場を背負わされ、遂には兄オシリスを殺すというエピソードまで生まれた([[オシリスとイシスの伝説]]を参照)。そして、親の敵討ちに乗り出すホルスの敵役にされてしまう。
長らくエジプトの嫌われ者となったセトだが、[[エジプト第19王朝|第19王朝]]になって宗教上の復権を果たした。これはラムセス家のセトへの信仰とセトの名を冠したファラオ、[[セティ1世]]が即位したためである。「セティ」とは、「セト神による君主」という意味であり、セティ1世の息子である[[ラムセス2世]]はセトから弓の使い方を教えられるレリーフやホルスとセトに戴冠式の祝福をされる場面を表したレリーフを残し、セトは「王の武器の主人」という称号を受け、ファラオに武術を教える神として信仰された。
このようなセト神への信仰からラムセス家がヒクソス系ともセト神の神官の家系であったともいう説もある。また[[エジプト第20王朝|第20王朝]]は[[セトナクト]](「セトによって勝利する」の意味)という名のファラオ。しかしながら、戦争に関する神は民間で人気がなく、王家の崇める神に留まったが、それでも上エジプトでは根強く信仰された。
== 余談 ==
セトは、性欲を象徴する神ともされた。これと関連してセトの好物は[[レタス]]とされる。
レタスは、古代エジプトが原産とする説があり、4000年前には、既に栽培されており、[[エジプト古王国]]時代の遺跡である「ニアンククヌムとクヌムヘテプの墳墓」には、「レタス栽培」を表したものとされる浮き彫りが残されている。ただし浮き彫りの形から判断するに現在一般によく見かける「[[レタス|玉ヂシャ]]」や「[[レタス|リーフレタス]]」ではなく高く伸びた茎や葉を食べる「[[ステムレタス]]」に近かったのではないかと考えられている。
古代エジプトでは、レタスは、茎から出る白い液が[[精液]]の素になると看做され、催眠・催淫効果があると考えられたことから、[[精力剤|精力増強剤]]や[[媚薬]]として食されていた。またレタスは、[[ファルス]]の神である[[ミン]]の象徴でもある。ここからセトは、ミンとも習合された。
レタスに絡んだセトとホルスに関する逸話が残されている。セトは、イシスによる報復の結果、ホルスの精液を食べてしまい妊娠したとされる(このことからセトは、[[両性具有]]とも考えられる)。これは、[[エジプト第19王朝]]時代に書かれた「[[ベッティ・パピルス]]」(銅山王 Alfred Chester-Beatty 所有の古代エジプトパピルスコレクション)に記されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ネフティス]] - 妻にあたる神。
* [[ゲブ]]、[[ヌト]] - 父と母にあたる神。
* [[オシリス]]、[[イシス]]、[[ネフティス]] - 兄弟にあたる神。
* [[ホルス]] - 宿敵。
== 外部リンク ==
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3,837 | オスマン帝国 | オスマン帝国(オスマンていこく、オスマントルコ語: دولتِ عليۀ عثمانيه, ラテン文字転写: Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye)は、かつて存在したテュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国である。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノープル(後のイスタンブール)を征服し、この都市を自らの首都とした。17世紀の最大版図は中東からアフリカ・欧州に著しく拡大した。東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリーに至る広大な領域に及んだ。
アナトリア(小アジア)の片隅に生まれた小君侯国から発展したイスラム王朝であるオスマン朝は、やがて東ローマ帝国などの東ヨーロッパキリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を征服して地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展した。
その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。宗教改革にも間接的ながら影響を及ぼし、神聖ローマ帝国のカール5世が持っていた西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を挫折させる主因となった。そして、「トルコの脅威」に脅かされた神聖ローマ帝国は「トルコ税」を新設、中世封建体制から絶対王政へ移行することになり、その促進剤としての役割を務めた。ピョートル1世がオスマン帝国を圧迫するようになると、神聖ローマがロマノフ朝を支援して前線を南下させた。
19世紀中ごろに英仏が地中海規模で版図分割を実現した。オスマン債務管理局が設置された世紀末から、ドイツ帝国が最後まで残っていた領土のアナトリアを開発した。このような経緯から、オスマン帝国は中央同盟国として第一次世界大戦に参戦したが、敗れた。敗戦後の講和条約のセーブル条約は列強によるオスマン帝国の解体といえる内容だったため、同条約に反対する勢力がアンカラに共和国政府を樹立し、1922年にはオスマン家のスルタン制度の廃止を宣言、メフメト6世は亡命した。1923年には「アンカラ政府」が「トルコ共和国」の建国を宣言し、1924年にはオスマン家のカリフ制度の廃止も宣言。その結果、アナトリアの国民国家トルコ共和国に取って代わられた(トルコ革命)。
英語でオスマン帝国を Ottoman Turks, Turkish Empire と呼んだことから、かつては「オスマントルコ」、「トルコ帝国」、「オスマントルコ帝国」、「オスマン朝トルコ帝国」とされることが多かったが、現在はオスマン帝国あるいは単にオスマン朝と表記するようになっており、オスマントルコという表記は使われなくなってきている。これは、君主(パーディシャー、スルタン)の出自はトルコ系で宮廷の言語もオスマン語と呼ばれるアラビア語やペルシア語の語彙を多く取り込んだトルコ語ではあったが、支配階層には民族・宗教の枠を越えて様々な出自の人々が登用されており、国内では多宗教・多民族が共存していたことから、単純にトルコ人の国家とは規定しがたいことを根拠としている。事実、オスマン帝国の内部の人々は滅亡の時まで決して自国を「トルコ帝国」とは称さずに「オスマン家の崇高なる国家」「オスマン国家」などと称しており、オスマン帝国はトルコ民族の国家であると認識する者は帝国の最末期までついに現れなかった。つまり、帝国の実態からも正式な国号という観点からもオスマントルコという呼称は不適切であり、オスマン帝国をトルコと呼んだのは実は外部からの通称に過ぎない。
なお、オスマン帝国の後継国家であるトルコ共和国は正式な国号に初めて「トルコ」という言葉を採用したが、オスマン帝国を指すにあたっては「オスマン帝国」にあたる Osmanlı İmparatorluğu や「オスマン国家」にあたる Osmanlı Devleti の表記を用いるのが一般的であり、オスマン朝トルコ帝国という言い方は現地トルコにおいても行われることはない。
歴代皇帝についてはオスマン家を参照。オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖オスマン1世がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる1299年を建国年とするのが通例であり、帝制が廃止されてメフメト6世が廃位された1922年が滅亡年とされる。
もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定していくことは難しい。
13世紀末に、東ローマ帝国とルーム・セルジューク朝の国境地帯(ウジ)であったアナトリア西北部ビレジクにあらわれたトルコ人の遊牧部族長オスマン1世が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、オスマンを指導者としたムスリム(イスラム教徒)のガーズィー(ジハードに従事する戦士)が集団を形成したとされる説が欧州では一般的であるが、遊牧民の集団であったとする説も根強く、未だに決着はされていない。彼らオスマン集団は、オスマン1世の父エルトゥグルルの時代にアナトリア西北部のソユットを中心に活動していたが、オスマンの時代に周辺のキリスト教徒やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展するオスマン君侯国(トルコ語版)を築き上げた。
1326年頃、オスマンの後を継いだ子のオルハンは、即位と同じ頃に東ローマ帝国の地方都市プロウサ(現在のブルサ)を占領し、さらにマルマラ海を隔ててヨーロッパ大陸を臨むまでに領土を拡大、アナトリア最西北部を支配下とした上で東ローマ帝国首都コンスタンティノープルを対岸に臨むスクタリをも手中に収めた。ブルサは15世紀初頭までオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる。 1346年、東ローマの共治皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスは後継者争いが激化したため、娘テオドラをオルハンに嫁がせた上で同盟を結び、オスマンらをアナトリアより呼び寄せてダーダネルス海峡を渡らせてバルカン半島のトラキアに進出させた。これを切っ掛けにオスマンらはヨーロッパ側での領土拡大を開始(東ローマ内戦 (1352年 - 1357年))、1354年3月2日にガリポリ一帯が地震に見舞われ、城壁が崩れたのに乗じて占領し(ガリポリ陥落)、橋頭堡とした。後にガリポリスはオスマン帝国海軍の本拠地となった。オルハンの時代、オスマン帝国はそれまでの辺境の武装集団から君侯国への組織化が行われた。
オルハンの子ムラト1世は、即位するとすぐにコンスタンティノープルとドナウ川流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在のエディルネ)を占領、ここを第2首都とするとともに、デウシルメと呼ばれるキリスト教徒の子弟を強制徴発することによる人材登用制度のシステムを採用して常備歩兵軍イェニチェリを創設して国制を整えた。さらに戦いの中で降伏したキリスト教系騎士らを再登用して軍に組み込むことも行った。
1371年、マリツァ川の戦いでセルビア諸侯連合軍を撃破、東ローマ帝国や第二次ブルガリア帝国はオスマン帝国への臣従を余儀なくされ、1387年、テッサロニキも陥落、ライバルであったカラマン侯国も撃退した。1389年にコソヴォの戦いでセルビア王国を中心とするバルカン諸国・諸侯の連合軍を撃破したが、ムラト1世はセルビア人貴族ミロシュ・オビリッチによって暗殺された。しかし、その息子バヤズィト1世が戦場で即位したため事なきを得た上にコソヴォの戦いでの勝利は事実上、バルカン半島の命運を決することになった。なお、バヤズィト1世は即位に際し兄弟を殺害している。以降、オスマン帝国では帝位争いの勝者が兄弟を殺害する慣習が確立され、これを兄弟殺しという。バヤズィト1世は報復としてセルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチを始めとするセルビア人らの多くを処刑した。
1393年にはタルノヴォを占領、第二次ブルガリア帝国も瓦解した。しかし、オスマン帝国はそれだけにとどまらず、さらに1394年秋にはコンスタンティノープルを一時的に包囲した上でギリシャ遠征を行い、ペロポネソス半島までがオスマン帝国の占領下となった。これらオスマン帝国の拡大により、ブルガリア、セルビアは完全に臣従、バルカン半島におけるオスマン帝国支配の基礎が固まった。
さらにバヤズィト1世はペロポネソス半島、ボスニア、アルバニアまで侵略、ワラキアのミルチャ1世はオスマン帝国の宗主権を一時的に認めなければいけない状況にまで陥った上、コンスタンティノープルが数回にわたって攻撃されていた。この状況はヨーロッパを震撼させることになり、ハンガリー王ジギスムントを中心にフランス、ドイツの騎士団、バルカン半島の諸民族軍らが十字軍を結成、オスマン帝国を押し戻そうとした。
しかし、1396年、ブルガリア北部におけるニコポリスの戦いにおいて十字軍は撃破されたため、オスマン帝国はさらに領土を大きく広げた。しかし、1402年のアンカラの戦いでティムールに敗れバヤズィト1世が捕虜となったため、オスマン帝国は1413年まで、空位状態となり、さらにはアナトリアを含むオスマン帝国領がティムールの手中に収まることになった。
バヤズィト亡き後のアナトリアは、オスマン朝成立以前のような、各君侯国が並立する状態となった。このため、東ローマ帝国はテッサロニキを回復、さらにアテネ公国も一時的ながらも平穏な日々を送ることができた。
バヤズィトの子メフメト1世は、1412年に帝国の再統合に成功して失地を回復し、その子ムラト2世は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。こうして高まった国力を背景に1422年には再びコンスタンティノープルの包囲を開始、1430年にはテッサロニキ、ヨアニナを占領、1431年にはエペイロス全土がオスマン支配下となった。
しかし、バルカン半島の諸民族はこれに対抗、ハンガリーの英雄フニャディ・ヤーノシュはオスマン帝国軍を度々撃破し、アルバニアにおいてもアルバニアの英雄スカンデルベグが1468年に死去するまでオスマン帝国軍を押し戻し、アルバニアの独立を保持するなど活躍したが、後にフニャディは1444年のヴァルナの戦い、1448年のコソヴォの戦い(英語版)において敗北、モレア、アルバニア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを除くバルカン半島がオスマン帝国占領下となった。
それ以前、東ローマ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスは西ヨーロッパからの支援を受けるために1438年から1439年にかけてフィレンツェ公会議に出席、東西教会の合同決議に署名したが、結局、西ヨーロッパから援軍が向かうことはなかった。1445年から1446年、後に東ローマ帝国最後の皇帝となるコンスタンティノス11世パレオロゴスがギリシャにおいて一時的に勢力を回復、ペロポネソス半島などを取り戻したが、オスマン帝国はこれに反撃、コリントス地峡のヘキサミリオン要塞を攻略してペロポネソス半島を再び占領したが、メフメト1世と次代ムラト2世の時代は失地回復に費やされることになった。
1453年、ムラト2世の子メフメト2世は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略し、ついに東ローマ帝国を滅ぼした(コンスタンティノープルの陥落)。コンスタンティノープルは以後オスマン帝国の首都となった。また、これ以後徐々にギリシャ語に由来するイスタンブールという呼称がコンスタンティノープルに代わって用いられるようになった。そして1460年、ミストラが陥落、ギリシャ全土がオスマン帝国領となり、オスマン帝国によるバルカン半島支配が確立した。
陥落後、シャーリアに従うことを余儀なくされたコンスタンティノープルでは略奪の嵐が吹き荒れた。略奪の後、市内へ入ったメフメト2世はコンスタンティノープルの人々を臣民として保護することを宣言、さらに都市の再建を開始、モスク、病院、学校、水道、市場などを構築し、自らの宮廷をも建設してコンスタンティノープルの再建に努めた。
コンスタンティノープルの征服に反対した名門チャンダルル家出身の大宰相チャンダルル・ハリル・パシャ(英語版)を粛清し、メフメト2世は、スルタン権力の絶対化と国家制度の中央集権化の整備を推進したことにより、トルコ系の有力な一族らは影を潜めその代わりにセルビア人のマフムト・パシャ(英語版)、ギリシャ人のルム・メフムト・パシャ(英語版)のようにトルコ人以外の人々が重きを成すようになった。
コンスタンティノープルを征服した後も、メフメト2世の征服活動は継続された。バルカン半島方面では、ギリシャ、セルビア、アルバニア、ボスニアの征服を達成した。また、黒海沿岸に点在するジェノヴァの植民都市の占領、1460年にはペロポネソスのパレオゴロス系モレア専制公国を、1461年にはトレビゾンド帝国を征服東ローマ帝国の残党は全て消滅することになり、さらには、1475年のクリミア・ハン国を宗主権下に置くことに成功、ワラキア、モルダヴィアも後にオスマン帝国へ臣従することになる。
そしてメフメト2世はガリポリを中心に海軍の増強に着手、イスタンブールと改名されたコンスタンティノープルにも造船所を築いたため、オスマン帝国の海軍力は著しく飛躍した。そして、15世紀後半には、レスボス(1462年)、サモス(1475年)、タソス、レムノス、プサラ(それぞれ1479年)といったジェノヴァの支配下にあった島々を占領、このため、黒海北岸やエーゲ海の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「オスマンの内海」とするに至った。一方、アナトリア半島方面では、白羊朝の英主ウズン・ハサンが東部アナトリア、アゼルバイジャンを基盤に勢力を拡大していたため、衝突は不可避となった。1473年、東部アナトリアのオトゥルクベリの戦い(英語版)でウズン・ハサンを破ったオスマン朝は中部アナトリアを支配下に置くことに成功した。
メフメト2世の後を継いだバヤズィト2世(1481年 - 1512年)は、父とは異なり積極的な拡大政策を打ち出すことはなかった。その背景には宮廷内の帝位継承問題があった。バヤズィト2世の弟であるジェムは、ロドス島、フランス、イタリアへ逃亡し、常に、バヤズィトの反対勢力に祭り上げられる状態が続いていたからである。
バヤズィト2世の弱腰の姿勢を批判していたセリムが、セリム1世として、1512年に即位した。セリムの積極外交は、東部アナトリアとシリア・エジプトに向けられた。東部アナトリアでは白羊朝の後をサファヴィー朝が襲っていた。1514年、チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝の野望を打ち砕くと、1517年にはオスマン・マムルーク戦争でエジプトのマムルーク朝を滅してイスラム世界における支配領域をアラブ人居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていたイスラム教の二大聖地マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の保護権を掌握してスンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得した。このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られ、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説は19世紀の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである。
スレイマン1世(1520年 - 1566年)の時代、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ、北アフリカにまで広がった。
ポルトガル・マムルーク海上戦争(1505年 - 1517年)では、1507年にポルトガル海上帝国がホルムズ占領に成功。1509年にディーウでインド洋の制海権を巡るディーウ沖海戦でグジャラート・スルターン朝、マムルーク朝、カリカットの領主ザモリン、オスマン帝国の連合艦隊を破った。
ロバート・シャーリーに率いられたイングランド人冒険団によってペルシア軍が近代化され、1622年のホルムズ占領で、イングランド・ペルシア連合軍がホルムズ島を占領し、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放するまでこの状態が続いた。
1569年、スレイマンが既に亡くなっているのにもかかわらずインドネシアのアチェ王国のスルタンであるアラウッディン・アルカハル(英語版)の要請に応じて艦隊を派遣した。このとき艦隊はマラッカ海峡まで行き、ジョホール王国・ポルトガル領マラッカ(英語版)へ攻勢をかけた。
東ではサファヴィー朝と激突、1514年にサファヴィー朝をアナトリアから駆逐すると、さらにはイラクのバグダードを奪い、南ではイエメンに出兵してアデンを征服した。
ポルトガル・マムルーク海上戦争(1505年 - 1517年)ではオスマンとエジプトは対ポルトガルの同盟国だったが、オスマン・マムルーク戦争(1516年 - 1517年)では、1516年のマルジュ・ダービクの戦い・en:Battle of Yaunis Khanと1517年のリダニヤの戦いでセリム1世によってマムルーク朝エジプトが征服され、エジプト・シリア・アラビア半島が属領となった。1522年、次代スレイマン1世の時にムスタファ・パシャ(トルコ語版)がエジプト州(英語版)(1517年–1805年)の二代目総督となったが、その配下となるカーシフ(地方総督)の大部分は依然としてマムルーク朝で軍人を務めた人物が就任していた。1523年にはそのマムルーク朝系のカーシフが反乱を起こし、さらに1524年には新たな州総督に就任していたアフメト・パシャ(英語版)が反乱を起こした。この反乱でアフメト・パシャはローマ教皇にまで援助を求めたが結局、アフメト・パシャはオスマン帝国の鎮圧軍が到着する以前に内部対立で殺害された。
この反乱を受けたスレイマン1世は大宰相イブラヒム・パシャを送り込んで支配体制の強化を図り、次の州総督に就任したハドゥム・スレイマン・パシャはタフリール(徴税敢行、税目、人口などの調査)を実施して徴税面を強化した。さらにスレイマン・パシャは商業施設などを建設してワクフを設定、以後の総督らも積極的な建設活動や宗教的寄進を行い、マムルーク朝色の濃いままであった状況をオスマン帝国色に塗りなおした。
1516年、オスマン帝国の皇子(英語版)コルクト(トルコ語版、英語版)の公的支援を受けたバルバリア海賊のバルバロス・ウルージとバルバロス・ハイレッディン兄弟が、アルジェ占領 (1516年)(英語版)に成功。1517年にはザイヤーン朝の首都トレムセンに侵攻し、ウルージは戦死したもののトレムセン陥落 (1517年)(英語版)が成功、オスマン・アルジェリア(英語版)(1517年 - 1830年)を設置。海上では、1522年のロドス包囲戦ではムスリムに対する海賊行為を行っていたロドス島の聖ヨハネ騎士団と戦ってこれを駆逐し、東地中海の制海権を握った。
1529年1月に宣戦布告し、5月にはアルジェ要塞(スペイン語版、英語版)を落としてアルジェの占領に成功。10月にフォルメンテーラ島での戦いでスペイン船を駆逐(フォルメンテーラ島の戦い (1529年)(英語版))。
1534年にはチュニス征服 (1534年)(英語版)に成功。1535年にハフス朝とスペイン-イタリア連合軍による奪還作戦でチュニスを失陥(チュニス征服 (1535年))。バルバロス・ハイレッディンは脱出の途上でマオー略奪(カタルーニャ語版、英語版)を行なった。
1536年、フランス・オスマン同盟(英語版)を密かに締結。1538年のプレヴェザの海戦でアルジェリアに至る地中海の制海権の掌握に成功した。1540年10月、アルボラン島の海戦(英語版)。1541年10月、カール5世が親征してアルジェ遠征を行い、キリスト教徒への海賊行為をやめさせた。1545年にバルバロスが引退、1546年には後任にソコルル・メフメト・パシャを抜擢した。
1550年にトレムセンを占領し、ザイヤーン朝を滅亡させた。1551年にトリポリ包囲戦 (1551年)(英語版)に成功し、オスマン・トリポリタニア(英語版)(1551年 - 1911年)を設置。
スレイマン1世は密かにヴァロワ朝フランス王のフランソワ1世と同盟していたため、イタリア戦争 (1551年 - 1559年)(ポンツァ島の戦い (1552年)(英語版)、オスマン帝国のバレアレス諸島侵攻 (1558年)(英語版))に派兵して干渉戦争を実施した。
1555年にアルジェのサリフ・レイス(トルコ語版、英語版)がベジャイア占領(英語版)に成功。1556年のオラン包囲戦 (1556年)(英語版)では、オランが包囲されている間に、モロッコ人もトレムセンを包囲し返し、作戦は失敗に終わった。1560年5月にピヤーレ・パシャ(英語版)がチュニジア沖のジェルバ島で行なわれたジェルバの海戦で大勝。1565年、マルタ包囲戦 (1565年)でオスマン帝国が最初の敗北を喫し、大きな被害を出した。1566年9月6日にスレイマンが死去し、その死から5年後の1571年、レパントの海戦でオスマン艦隊はスペイン連合艦隊に大敗したものの、しばしば言われるようにここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン帝国の手から失われることはなかった。そして1571年に占領されたキプロスは単独でキプロス州を形成することになった。クルチ・アリ(トルコ語: Kılıç Ali Paşa)のオスマン帝国艦隊は敗戦から半年で同規模の艦隊を再建し、1573年にはキプロス島、翌1574年にチュニスを攻略し(チュニス征服 (1574年)(英語版))、ハフス朝を滅亡させた。オスマン・チュニス(英語版)(1574年 - 1705年)を設置。17世紀にクレタ島が新たに占領されるとクレタ島も単独のクレタ州となった。
ロシア・ツァーリ国のイヴァン4世は、1552年のカザン包囲戦(英語版)でカザン・ハン国を併合、1554年にアストラハン・ハン国を従属国化した。旧ジョチ・ウルス領のうち残っていたクリミア・ハン国とロシアとの対立が深まると、1568年にセリム二世及びソコルル・メフメト・パシャはアストラハン遠征(露土戦争 (1568年-1570年))を起こした。この戦いで勝利したロシアによるアストラハン・ハン国支配が確定したものの、この戦いは長期にわたる露土戦争の初戦に過ぎなかった。この戦いでソコルル・メフメト・パシャは、ロシアだけでなくサファヴィー朝をも牽制する目的でヴォルガ・ドン運河の建設を試みたが失敗に終わった(実際に完成するのは1952年になってからである)。
過去にオスマン帝国治下のバルカン半島はオスマン帝国の圧政に虐げられた暗黒時代という評価が主流であった。 しかし、これらの評価は19世紀にバルカン半島の各民族が独立を目指した際に政治的意味合いを込めて評価されたものであり、オスマン帝国支配が強まりつつあった16世紀はそれほど過酷なものではないという評価が定着しつつある。これらのことからオスマン帝国によるバルカン半島統治は16世紀末を境に前後の二つの時代に分けることができる。
オスマン帝国が勢力拡大を始めた時、第二次ブルガリア帝国はセルビア人の圧力により崩壊寸前であり、さらにそのセルビアもステファン・ドゥシャンが死去したことにより瓦解し始めていた。これらが表すように第4回十字軍により分裂崩壊していた東ローマ帝国亡き後、バルカン半島は互いに反目状態にあり、分裂状態であった上、オスマン帝国をバルカン半島へ初めて招いたのは内紛を続ける東ローマ帝国であった。このため、アンカラの戦いにおいて混乱を来したオスマン帝国への反撃もままならず、また、バルカン半島において大土地所有者の圧迫に悩まされていたバルカン半島の農民らはしばしばオスマン帝国の進出を歓迎してこれに呼応することもあった。
陸上においては、1521年のベオグラードの征服、1526年のモハーチの戦いにおけるハンガリー王国に対しての戦勝、1529年の第一次ウィーン包囲と続き、クロアチア、ダルマチア、スロベニアも略奪を受けることになった。
15世紀以降、ギリシャはオスマン帝国に併合されるにつれてルメリ州に編入されたが、1534年、地中海州が形成されたことにより、バルカン半島を中心とする地域がルメリ州、バルカン本土とエーゲ海の大部分が地中海州に属することになった。
オスマン家とハプスブルク家の対立構造が、ヨーロッパ外交に持ち込まれることとなった。その結果が、ハプスブルク家と対立していたフランスのフランソワ1世に対してのカピチュレーション付与となった。なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、カピチュレーション(恩恵的待遇)を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での治外法権などを認めた。一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリスをはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした19世紀には、西欧諸国によるオスマン帝国への内政干渉の足がかりに過ぎなくなり、不平等条約として重くのしかかることになった。
スレイマンは、1566年9月にハンガリー遠征のシゲトヴァール包囲戦の最中に陣没し、ピュロスの勝利で終わった(1541年オスマン帝国領ハンガリーブディン・エヤレト(英語版)設置)。ソコルル・メフメト・パシャは、1571年にソコルル・メフメト・パシャ橋の建設をミマール・スィナンに開始させ、1577年に完成した。
スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相(首相)が担うようになる。
オスマン帝国下の住民はアスカリとレアヤーの二つに分けられていた。アスカリはオスマン帝国の支配層であり、オスマン帝国の支配者層に属する者とその家族、従者で形成されており軍人、書記、法学者なども属していた。これに対してレアヤーは被支配層であり、農民、都市民などあらゆる正業に携わる人々が属していた。ただし、19世紀に入ると狭義的にオスマン帝国支配下のキリスト教系農民に対して用いられた例もある。
アスケリは免税、武装、騎乗の特権を有しており、レアヤーは納税の義務をおっていた。ただし、アスケリ層に属する人々が全てムスリムだったわけではなく、また、レアヤーも非ムスリムだけが属していたわけではない。そして、その中間的位置に属する人々も存在した。
オスマン帝国の全盛期を謳歌したスレイマン1世の時代ではあったが、同時期に、軍事構造の転換、すなわち、火砲での武装及び常備軍の必要性が求められる時代に変容していった。その結果、歩兵であるイェニチェリを核とする常備軍の重要性が増大した。しかし、イェニチェリという形で、常備軍が整備されることは裏を返せば、在地の騎士であるスィパーヒー層の没落とイェニチェリの政治勢力としての台頭を意味した。それに応じて、スィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来のティマール制(英語版)は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる徴税請負制(イルティザーム制(英語版))が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。制度の項で後述する高度な官僚機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。
繁栄の裏ではスレイマン時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。1578年にオスマン・サファヴィー戦争(英語版)が始まると、1579年にスレイマン時代から帝国を支えた大宰相ソコルル・メフメト・パシャがサファヴィー朝ペルシアの間者によって暗殺されてしまった。以来、宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに17世紀前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、16世紀末頃から新大陸産の銀の流入による物価の高騰(価格革命)や、トランシルバニアをめぐるハプスブルク家との紛争は1593年から13年間続くこととなった。また、イラク、アゼルバイジャン、ジョージアといった帝国の東部を形成する地方では、アッバース1世のもと、軍事を立て直したサファヴィー朝との対立が17世紀にはいると継続することとなった。中央ヨーロッパ及び帝国東部の領域を維持するために、軍事費が増大し、その結果、オスマン帝国の財政は慢性赤字化した。
極端なインフレーションは流通通貨の急速な不足を招き、銀の不足から従来の半分しか銀を含まない質の悪い銀通を改鋳するようになった。帝国内に流通すると深刻な信用不安を招き、イェニ・チェリたちの不満が蓄積し、1589年には、彼らの反乱が起こった。経済の混乱は17世紀まで続くこととなった。さらには、アナトリアでは、ジェラーリーと呼ばれる暴徒の反乱が頻発することとなり、オスマン帝国は東西に軍隊を裂いていたため、彼らを鎮圧する術を持たなかった。1608年を頂点に、ジェラーリーの反乱(英語版)は収束を迎えるが、その後、首都イスタンブールでは、スルタン継承の抗争が頻発することとなった。
そのような情勢の下、1645年に起こったヴェネツィア共和国とのクレタ戦争(英語版)では勝利したものの、1656年のダルダネスの戦い(英語版)ではヴェネツィア艦隊による海上封鎖を受け、物流が滞り物価が高騰した首都は暴動と反乱の危険にさらされることになった。この危機に際して大宰相に抜擢されたキョプリュリュ・メフメト・パシャ(英語版)は全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝。しかし息子キョプリュリュ・アフメト・パシャが続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。2代続いたキョプリュリュ家の政権は、当時オスマン帝国で成熟を迎えていた官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。先述したオスマン帝国の構造転換はキョプリュリュ期に安定し、一応の完成をみた。
キョプリュリュ家の執政期にオスマン帝国はクレタ島やウクライナにまで領土を拡大、さらにはヴェネツィアが失ったクレタ島の代わりに得たギリシャにおける各地域の大部分を手中に収めたため、スレイマン時代に勝る最大版図を達成したのである。
しかしキョプリュリュ・メフメト・パシャの婿カラ・ムスタファ・パシャは、功名心から1683年に第二次ウィーン包囲を強行してしまう。一時は包囲を成功させるも、ポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる欧州諸国の援軍に敗れ、16年間の戦争状態に入ることになる(大トルコ戦争)。
戦後、1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約において、史上初めてオスマン帝国の領土は削減され、東欧の覇権はハプスブルク家のオーストリアに奪われてしまう。さらには1700年にはロシアとスウェーデンの間で起こった大北方戦争に巻き込まれてしまい、スウェーデン王カール12世の逃亡を受け入れたオスマン帝国は、ピョートル1世の治下で国力の増大著しいロシア帝国との苦しい戦いを強いられた。ロシアとは、1711年のプルート川の戦いで有利な講和を結ぶことに成功するが、続く墺土戦争のために、1718年のパッサロヴィッツ条約でセルビアの重要拠点ベオグラードを失ってしまう。
このように、17世紀末から18世紀にかけては軍事的衰退が表面化したが、他方で西欧技術・文化の吸収を図り、後期のオスマン文化が成熟していった時代でもあった。中でもアフメト3世の大宰相ネフシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャ(トルコ語版)(在任1718年-1730年)の執政時代においては対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中で西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時代は西欧から逆輸入されたチューリップが装飾として流行したことから、チューリップ時代と呼ばれている。また1722年には東方のイラン・ペルシアでアフガーン人の侵入を契機にサファヴィー朝が崩壊した。オスマントルコはこの混乱に乗じて出兵する(オスマン・ペルシア戦争 (1722年-1727年)(英語版))。しかし、ホラーサーンからナーディル・シャーが登場し、イラクとイラン高原における戦況は徐々にオスマン側劣勢へと動き始める(アフシャール戦役(英語版))。浪費政治への不満を募らせていた人々はパトロナ・ハリル(英語版)とともにパトロナ・ハリルの乱(トルコ語版)を起こして君主と大宰相を交代させ、チューリップ時代は終焉するに至った。
やがて露土戦争 (1735年-1739年)が終結し、その講和条約である1739年のニシュ条約とベオグラード条約が締結されベオグラードを奪還。1747年にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン帝国は平穏な18世紀中葉を迎える。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握したアーヤーンと呼ばれる地方名士が台頭し、彼らの手に支えられることで緩やかな経済発展が進んでいた。しかし、産業革命の波及により急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は決定的なものとなり、スレイマン1世時に与えたカピチュレーションを逆に利用することで、ヨーロッパはオスマン領土への進出を始めることとなった。
18世紀末に入ると、ロシア帝国の南下によってオスマン帝国の小康は破られた。1768年に始まった露土戦争で敗北すると、1774年のキュチュク・カイナルジャ条約によって黒海の北岸を喪失し、1787年からの露土戦争にも再び敗れたことで、1792年のヤシ条約ではロシアのクリミア半島の領有を認めざるを得なかった。改革の必要性を痛感したセリム3世は翌1793年、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「ニザーム・ジェディード」を創設するが、計画はイェニチェリの反対により頓挫し、逆に廃位に追い込まれてしまう。かつてオスマン帝国の軍事的成功を支えたイェニチェリは隊員の世襲化が進み、もはや既得権に固執するのみの旧式軍に過ぎなくなっていた。
この時代にはさらに、18世紀から成長を続けていたアーヤーンが地方政治の実権を握り、ギリシャ北部からアルバニアを支配したテペデレンリ・アリー・パシャのように半独立政権の主のように振舞うものも少なくない有様であり、かつてオスマン帝国の発展を支えた強固な中央集権体制は無実化した。さらに1798年のナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征をきっかけに、1806年にムハンマド・アリーがエジプトの実権を掌握した。一方、フランス革命から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族のナショナリズムを呼び覚まし、ギリシャ独立戦争(1821年 - 1829年)によってギリシャ王国が独立を果たした。ムハンマド・アリーは、第一次エジプト・トルコ戦争(1831年 - 1833年)と第二次エジプト・トルコ戦争(1839年 - 1841年)を経てエジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ、事実上独立した。
これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、19世紀のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を辿ることとなった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を東方問題という。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、20世紀初頭における勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけとなってしまう。オスマン帝国はこのように帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。
しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。1808年に即位したマフムト2世はイェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成した。さらにはアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した。また1839年にアブデュルメジト1世は改革派官僚ムスタファ・レシト・パシャの起草したギュルハネ勅令を発布し、全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図るタンジマートを始めた。タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった。
1853年にはロシアとの間でクリミア戦争が起こるが、イギリスなどの加担によりきわどいながらも勝利を収めた。このときイギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は1856年に改革勅令を発布し、非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した。こうして第二段階に入ったタンジマートでは宗教法(シャリーア)と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代教育を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた。そして、カモンド家の支配するオスマン銀行も設立された。
改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の借款を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したことで農業のモノカルチャー化を招き、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、1875年、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産するに至った。
こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、1876年、大宰相ミドハト・パシャのもとでオスマン帝国憲法(通称ミドハト憲法)を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の法治国家であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた。
しかし憲法発布から間もない1878年、オスマン帝国はロシアとの露土戦争に完敗。帝都イスタンブール西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望むアブデュルハミト2世は、ロシアとはサン・ステファノ条約を結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した。これ以降、アブデュルハミト2世による専制政治の時代がはじまる。しかし一方ではオスマン債務管理局などを通じて帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。
アブデュルハミトが専制政治をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは1889年に結成された「統一と進歩委員会」(通称「統一派」)をはじめとする青年トルコ人運動に参加し、憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開した。1891年には、時事新報記者の野田正太郎が日本人として初めてオスマン帝国に居住した。
1908年、サロニカ(現在のテッサロニキ)の統一派を中心とするマケドニア駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた(青年トルコ革命)。彼らは1909年に保守派の反革命運動を鎮圧したものの、積極的に政治の表舞台には立つことはなかった。しかしバルカン戦争中の1913年になると、ついに統一派はクーデターを起こして大宰相を暗殺し、中核指導者タラート・パシャ、エンヴェル・パシャらを指導者とする政権を確立した。バルカン戦争の敗北によってヨーロッパのオスマン領の大半が失われると、統一派政権は次第にムスリム・ナショナリズムに傾斜していった。またバルカン戦争より帝国では、経済におけるナショナリズム路線である「民族経済」政策が議論され始めた。第一次世界大戦の勃発後にはカピチュレーションの一方的な廃止が宣言されている。
この間にも、サロニカを含むマケドニアとアルバニアが、1911年には伊土戦争によりリビアが帝国から失われた。バルカンを喪失した統一派政権は汎スラヴ主義拡大の脅威に対抗するためドイツと同盟に関する密約を締結し、1914年に第一次世界大戦には同盟国側で参戦することとなった。
この戦争でオスマン帝国はアラブ人に反乱を起こされ、ガリポリの戦いなどいくつかの重要な防衛戦では勝利を収めたものの劣勢は覆すことができなかった。戦時中の利敵行為を予防する際にアルメニア人虐殺が発生し、後継となるトルコ政府も事件の存在自体は認めているが犠牲者数などをめぐって紛糾を続け、未解決の外交問題となっている。1918年10月30日ムドロス休戦協定により帝国は降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領されるとともに、イスタンブール、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡は国際監視下、アナトリア半島もエーゲ海に隣接する地域はギリシャ統治下となった。そしてアナトリア東部においてもアルメニア人、クルド人らの独立国家構想が生まれたことにより、オスマン帝国領は事実上、アナトリアの中央部分のみとなった。
敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝メフメト6世は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。さらに、連合国の支援を受けたギリシャ軍がイズミルに上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄ムスタファ・ケマルパシャを指導者として、トルコ人が多数を占める地域(アナトリアとバルカンの一部)の保全を求める運動が起こり、1920年4月、アンカラにトルコ大国民議会を組織して抵抗政府を結成したが、オスマン帝国政府はこれを反逆と断じた。
一方連合国は、1920年、講和条約としてセーヴル条約をメフメト6世と締結した。この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に割譲する内容であり、ギリシャにはイズミルを与えるものであった。この結果はトルコ人の更なる反発を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーヴル条約に代わる新しい講和条約(ローザンヌ条約)の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府を招請した。1922年、ケマルはオスマン国家の二重政府の解消を名目としてパーディシャー(スルタン)とカリフの分離とともに、帝政の廃止(英語版)を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世はマルタへ亡命し、オスマン帝国政府は名実共に滅亡した(トルコ革命)。
翌1923年大国民議会は共和制を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家トルコ共和国に取って代わられた。トルコ共和国は1924年、帝政の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止(英語版)。オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン帝権は完全に消滅した。
オスマン帝国の国家の仕組みについては、近代歴史学の中でさまざまな評価が行われている。ヨーロッパの歴史家たちがこの国家を典型な東方的専制帝国であるとみなす一方、オスマン帝国の歴史家たちはイスラムの伝統に基づく世界国家であるとみなしてきた。また19世紀末以降には、民族主義の高まりからトルコ民族主義的な立場が強調され、オスマン帝国の起源はトルコ系の遊牧民国家にあるという議論が盛んに行われた。
20世紀前半には、ヨーロッパにおける東ローマ帝国に対する関心の高まりから、オスマン帝国の国制と東ローマ帝国の国制の比較が行われた。ここにおいて東ローマ帝国滅亡から間もない時代にはオスマン帝国の君主がルーム(ローマ帝国)のカイセル(皇帝)と自称するケースがあったことなどの史実が掘り起こされたり、帝国がコンスタンティノープル総主教の任命権を通じて東方正教徒を支配したことが東ローマの皇帝教皇主義の延長とみなされる議論がなされ、オスマン帝国は東ローマ帝国の継続であるとする、ネオ・ビザンチン説もあらわれた。(カエサルを自称した皇帝はスレイマンなどほんの一握りだった)
このようにこの帝国の国制の起源にはさまざまな要素の存在が考えられており、「古典オスマン体制」と呼ばれる最盛期のオスマン帝国が実現した精緻な制度を考える上で興味深い論議を提供している。
オスマン帝国の国制が独自に発展を遂げ始めたのはおおよそムラト1世の頃からと考えられている。帝国の拡大にともない次第に整備されてきた制度は、スレイマン1世の時代にほぼ完成し、皇帝を頂点に君主専制・中央集権を実現した国家体制に結実した。これを「古典オスマン体制」という。
軍制は、当初はムスリム・トルコ系の戦士、帰順したムスリム・トルコ系の戦士、元東ローマ帝国の軍人らを合わせた自由身分の騎兵を中心に構成され、さらにアッバース朝で発展していたマムルーク制度のオスマン帝国版の常備軍などが編成され、常備歩兵軍としてイェニチェリが組織化されたが、これらの組み合わせにより騎兵歩兵らによる複合部隊による戦術が可能となったため、オスマン軍の軍事力が著しく向上することになり、彼らはカプクル(「門の奴隷」の意)と呼ばれる常備軍団を形成した。カプクルの人材は主にキリスト教徒の子弟を徴集するデヴシルメ制度によって供給された。カプクル軍団の最精鋭である常備歩兵軍イェニチェリは、火器を扱うことから軍事革命(英語版)の進んだ16世紀に重要性が増し、地方・中央の騎兵を駆逐して巨大な常備軍に発展する。ちなみにこの時代、欧州はまだ常備軍をほとんど持っていなかった。
オスマン帝国の主要海軍基地はガリポリスであったが、ここに投錨する艦隊の指揮官はガリポリスのサンジャクベイが平時には務めており、戦時に入ると海洋のベイレルベイであるカプタン・パシャが総指揮を執ることになっていた。
オスマン帝国は当初から海軍の重要性を考慮していたらしく、オスマン帝国初期に小アジアで活躍した「海のガーズィ」から帝国領土が拡大していく中、エーゲ海、地中海、黒海などに面する地域を併合した際にその地域の保有する艦艇を吸収して拡大していった。オスマン帝国が初めて造船所を建設した場所はカラミュルセル(英語版)であるが、のちにガリポリスを占領するとさらに規模の大きな造船所が作られたことにより、オスマン帝国はダーダルネス海峡の制海権を確保することができた。そのため、1399年にバヤズィト1世がコンスタンティノープルを包囲した際、東ローマ帝国救援に向かったフランス海軍を撃破している。ただし、1453年、コンスタンティノープルの占領に成功すると、コンスタンティノープルにさらに規模の大きな造船所が築かれたため、ガリポリスの造船所はその価値を下げることになった。
15世紀に入るとジェノヴァ、ヴェネツィアとの関係が悪化、これと交戦したが、16世紀になるとオスマン艦隊はエーゲ海、地中海、イオニア海、黒海、紅海、アラビア海、ペルシア湾、インド洋などへ進出、事実上、イスラーム世界の防衛者となり、キリスト教世界と戦った。
帝国の領土は直轄州、独立採算州、従属国からなる。属国(クリミア・ハン国(クリム汗国)、ワラキア(エフラク)君侯国、モルダヴィア(ボーダン)君侯国、トランシルヴァニア(エルデル)君侯国、ドゥブロブニク(ラグーザ)共和国、モンテネグロ公国(公または主教の支配)、ヒジャーズなど)は君主の任免権を帝国中央が掌握しているのみで、原則として自治に委ねられていた。独立採算州(エジプトなど)は州知事(総督)など要職が中央から派遣される他は、現地の有力者に政治が任せられ、州行政の余剰金を中央政府に上納するだけであった。ヨーロッパ方面の領土において、ビザンツ帝国やブルガリア帝国時代の大貴族は没落したが、小貴族は存続を許されてオスマン帝国の制度へ組み込まれていった
オスマン帝国が発展する過程として戦士集団から君侯国、帝国という道を歩んだが、戦士集団であった当初は遊牧民的移動集団であった。特に初期の首都であるソユット、ビレジク(英語版)、イェニシェヒル(ブルサ近郊)などは冬営地的性格が強く、首都と地方との明確な行政区分も存在しなかった。そして戦闘が始まればベイ(君主)、もしくはベイレルベイ(ベイたちのベイの意味で総司令官を指す)が指揮を取ったが、ベイレルベイはムラト1世の時代に臣下のララ・シャヒーンが任ぜられるまでは王子(君主の息子)が務めていた。ムラト1世の時代まで行政区分は不明確であったが、従来の通説では14世紀末、米林仁の説によれば15世紀初頭にアナトリア(アナドル)方面においてベイレルベイが任命されることによりベイレルベイが複数任命されることになった。その後、アナトリアを管轄するアナドル・ベイレルベイスィ(トルコ語版)配下のアナドルのベイレルベイリク(大軍管区の意味)とルメリを管轄するルメリ・ベイレルベイスィ(トルコ語版)配下のルメリのベイレルベイリクによって分割統治されるようになった。
この時点ではベイレルベイは「大軍管区長官」の性格をもち、ベイレルベイリクは「大軍管区」の性格をもっており、当初のベイレルベイは軍司令官の性格が強かった。しかし、次第に帝国化していくことにより、君主専制的、中央集権的体制への進化、さらに帝国の拡大によりベイレルベイ、ベイレルベイリクはそれぞれ地方行政官的性格をも併せ持つことにより、「大軍管区」も「州」の性格を、「大軍管区長官」も「総督」としての性格をそれぞれ併せ持つようになった。
ベイレルベイ(大軍管区長官)とベイレルベイリク(大軍管区)の下にはサンジャク(英語版)(小軍管区)、サンジャク・ベイ(小軍管区長)が置かれた。これは後に県、及び県長としての性格を持つようになるが、後にこれらベイレルベイリク(州)、サンジャク(県)はオスマン帝国の直轄地を形成することになった。なお、ベイレルベイリクは後にエヤレト(エヤレットという表記もある)、ヴィラエットと呼称が変化する。
さらにオスマン帝国領にはイスラーム法官(カーディー)らが管轄する裁判区としてガザ(イスラーム法官区)が設置されていた。県はいくつかのガザ(郡という表記もされる)で形成されていたが、イスラーム法官は県知事、州知事らの指揮命令に属しておらず、全体として相互補完、相互監視を行うシステムとなっていた。そしてその下にナーヒエ(郷)、さらにその下にキョイ(村)があった。
当初、地方行政区画としてはアナドル州とルメリ州のみであったが、ブダを中心とするブディン州、トゥムシュヴァルを中心にするトゥムシュヴァル州、サラエヴォを中心とするボスナ州が16世紀末までに設置され、それぞれその下にベイレルベイが設置された。
さらに16世紀に入ると統治地域が増加したことにより、専管水域も拡大した。そのため、海洋にもベイレルベイが設置され、カプタン・パシャ(大提督)が補任した。
中央では、皇帝を頂点とし、大宰相(サドラザム (en) )以下の宰相(ヴェズィール (en) )がこれを補佐し、彼らと軍人法官(カザスケル)、財務長官(デフテルダル(英語版))、国璽尚書(ニシャンジュ)から構成される御前会議(ディーヴァーヌ・ヒュマーユーン)が最高政策決定機関として機能した。17世紀に皇帝が政治の表舞台から退くと、大宰相が皇帝の代理人として全権を掌握するようになり、宮廷内の御前会議から大宰相の公邸である大宰相府(バーブ・アーリー)に政治の中枢は移る。同じ頃、宮廷内の御前会議事務局から発展した官僚機構が大宰相府の所管になり、名誉職化した国璽尚書に代わって実務のトップとなった書記官長(レイスルキュッターブ)、大宰相府の幹部である大宰相用人(サダーレト・ケトヒュダース)などを頂点とする高度な官僚機構が発展した。
中央政府の官僚機構は、軍人官僚(カプクル)と、法官官僚(ウラマー)と、書記官僚(キャーティプ)の3つの柱から成り立つ。軍人官僚のうちエリートは宮廷でスルタンに近侍する小姓や太刀持ちなどの役職を経て、イェニチェリの軍団長や県知事・州知事に採用され、キャリアの頂点に中央政府の宰相、大宰相があった。法官官僚は、メドレセ(宗教学校)でイスラム法を修めた者が担い手であり、郡行政を司り裁判を行うカーディーの他、メドレセ教授やムフティーの公職を与えられた。カーディーの頂点が軍人法官(カザスケル)であり、ムフティーの頂点がイスラムに関する事柄に関する帝国の最高権威たる「イスラムの長老」(シェイヒュルイスラーム)である。書記官僚は、書記局内の徒弟教育によって供給され、始めは数も少なく地位も低かったが、大宰相府のもとで官僚機構の発展した17世紀から18世紀に急速に拡大し、行政の要職に就任し宰相に至る者もあらわれるようになる。この他に、宦官を宮廷使役以外にも重用し、宦官出身の州知事や宰相も少なくない点もオスマン帝国の人的多様性を示す特徴と言える。
これらの制度は、19世紀以降の改革によって次第に西欧を真似た機構に改められていった。例えば、書記官長は外務大臣、大宰相用人は内務大臣に改組され、大宰相は御前会議を改めた閣議の長とされて事実上の内閣を率いる首相となった。
しかし、例えば西欧法が導入され、世俗法廷が開設されても一方ではシャリーア法廷がそのまま存続したように、イスラム国家としての伝統的・根幹的な制度は帝国の最末期まで廃止されることはなかった。帝国の起源がいずれにあったとしても、末期のオスマン帝国においては国家の根幹は常にイスラムに置かれていた。これらのイスラム国家的な制度に改革の手が入れられるのは、ようやく20世紀前半の統一派政権時代であり、その推進は帝国滅亡後のトルコ共和国による急速な世俗化改革をまたねばならなかった。
『オスマン帝国の行政遺産および現代中東』を執筆したカーター・ヴォーン・フィンドリーによると、1800年代初頭、オスマン帝国は、自由主義という新たな世界秩序に適応するために、「タンジマート」の時期を迎えた。オスマン帝国の支配者は、広大な土地に散らばる臣民との関係を断ち切っていたため、あらゆる方面から様々な独立思想の影響を受けやすかったのである。このような時期の戦略的な変化の一つが、再び権力を集中化することであった。 さらにフィンドリーは、市場を独占していた国家主導の企業に対する自由貿易と、1838年のインフィタ時代に出された保護法との争いがあったことも指摘している。フィンドリーによると、オスマン帝国の支配階級には、軍、宗教、奉仕という3つの重要な機能的区分があった。軍は、軍事工学学校の設立、軍内の外交術の改革、さらに服務規定の改善により、文官としてのプロ意識が育まれた、1800年代のマフムト2世とアブデュルハミト2世の時代に最も強化された。文官支配は「1908年から1950年までトルコを支配し続けた」。フィンドリーはこの遺産を、タンジマート時代に促進されたインフィタ(開かれた貿易市場)時代に起因するとしている。このようなタンジマートの「後継者」または遺産が、「ホーラーニの自由主義時代、アラブの社会主義の一時的な流行、そして冷戦後の時代」を通じて存続した。また、19世紀には文官の雇用率が高まり、行政の質が低下して破産および対外債務につながったが、一方で、不規則な採用および昇進方法はスルターンが利用した利権の保護手段であった。1838年から1839年にかけてのタンジマート時代は、イスラム社会に対する急激な西洋化と批判され、近代主義を通してオスマン帝国によるイスラムの古い価値観の復活を望む国民主義的なオスマン帝国の人々が結集した
オスマン帝国が最大版図となった時、その支配下は自然的地理環境や生態的環境においても多様なものを含んでおり、さらに歴史的過去と文化的伝統も多様なものが存在した。
オスマン帝国南部であるアラブ圏ではムスリムが大部分であり、また、その宗教はオスマン帝国の支配イデオロギーであるスンナ派が中心を成していたが、イラク南部ではシーア派が多数存在しており、また、現在のレバノンに当たる地域にはドゥルーズ派が多数存在していた。しかし、これだけにとどまらず、エジプトのコプト正教会、レバノン周辺のマロン派、シリア北部からイラク北部にはネストリウス派の流れを汲むアッシリア東方教会が少数、ギリシャ正教、アルメニア使徒教会、ローマ・カトリック、ユダヤ教徒などもこのアラブ圏で生活を営んでいた。
そしてアナトリアでは11世紀以降のイスラム化の結果、ムスリムが過半数を占めていたが、ビザンツ以来のギリシャ正教徒、アルメニア教会派も多数存在しており、その他、キリスト教諸教派も見られ、ユダヤ教徒らも少数存在した。しかし、15世紀にイベリア半島でユダヤ教徒排斥傾向が強まると、ユダヤ教徒らが多くアナトリアに移民した。
バルカン半島ではアナトリアからの流入、改宗によりムスリムとなる人々もいたが、キリスト教徒が大多数を占めており、正教徒が圧倒的多数であったがアドリア海沿岸ではカトリック教徒らが多数を占めていた。また、ムスリムとしてはトルコ系ムスリムとセルボ・クロアチア語を使用するボスニアのムスリム、そしてアルバニアのムスリムなどがムスリムとしての中心を成していた。
一方で1526年に占領されたハンガリー方面ではカトリックとプロテスタントの間で紛争が始まった時期であった。オスマン帝国はプロテスタント、カトリックどちらをも容認、対照的にハプスブルク帝国占領下であったフス派の本拠地、ボヘミアではプロテスタントが一掃されていた。
こうして西欧ではキリスト教一色となって少数のユダヤ人らが許容されていたに過ぎない状態であったのと対照的にオスマン帝国下ではイスラム教という大きな枠があるとはいえども多種の宗教が許容されていた。
オスマン帝国が抱え込んだものは宗教だけではなかった。その勢力範囲には同じ宗教を信仰してはいたものの各種民族が生活しており、また、言語も多種にわたった。
オスマン帝国元来の支配層はトルコ人であり、イスラム教徒であった。ただし、このトルコ人という概念も「トルコ語」を母語しているということだけではなく、従来の母語からトルコ語へ母語を変更したものも含まれていた。これはオスマン帝国における民族概念が生物学的なものではなく、文化的なものであったことを示している。
オスマン帝国の南部を占めるイラクからアルジェリアにかけてはアラビア語を母語として自らをアラブ人と認識する人々が多数を占めていた。しかし、西方のマグリブ地域に向かうとベルベル語を母語とするベルベル人、そして北イラクから北シリアへ向かうとシリア語を母語としてネストリウス派を奉じるアッシリア人が少数であるが加わった。微妙な立場としてはコプト正教会でありながらコプト語を宗教用にしか用いず、日常にはアラビア語を用いていたコプト正教徒らが存在する。
また、アナトリア東部から北イラク、北シリアにはスンナ派のクルド人らが存在しており、クルド語を母語としていた。
元東ローマ帝国領であったアナトリア及びバルカン半島では、ギリシャ語を母語としてギリシャ正教を奉じるギリシャ人らが多数を占めていた。ただし、アナトリア東部と都市部にはアルメニア語を母語としてアルメニア使徒教会派であるアルメニア人らも生活を営んでいた。バルカン半島では民族、言語の分布はかなり複雑となっていた。各地にはオスマン帝国征服後に各地に散らばったトルコ人らが存在したが、それ以前、ルーマニア方面にはトルコ語を母語とするが正教徒であるペチェネク人らも存在した。
バルカン半島東部になるとブルガリア語を母語として正教を奉じるブルガリア人、西北部にはセルボ・クロアチア語を母語として正教徒である南スラブ系の人々、これらの人々は正教を奉じた人々らはセルビア人、カトリックを奉じた人々らはクロアチア人という意識をそれぞれ持っていた。しかし、ボスニア北部では母語としてセルボ・クロアチア語を使用しながらもムスリムとなった人々が存在しており、これらはセルビア人、クロアチア人からは「トゥルチン(トルコ人」と呼ばれた。
アルバニアではアルバニア語を母語とするアルバニア人らが存在したが、15世紀にその多くがイスラム教へ改宗した。ただし、全てではなく、中には正教、カトリックをそのまま奉じた人々も存在する。そしてオスマン帝国がハンガリー方面を占領するとハンガリー語を母語としてカトリックを中心に、プロテスタントを含んだハンガリー人もこれに加わることになる。
その他、ユダヤ教を信じる人々が存在したが、母語はバラバラであり、ヘブライ語はすでに典礼用、学問用の言語と化していた。オスマン帝国南部ではアラビア語、北部では東ローマ帝国時代に移住した人々はギリシャ語、15世紀末にイベリア半島から移住した人々はラディーノ語、ハンガリー征服以後はイディッシュ語をそれぞれ母語とするユダヤ教徒らがオスマン帝国に加わることになる。ただし、彼らは母語こそ違えどもユダヤ教という枠の中でアイデンティティを保持しており、ムスリム側も宗教集団としてのユダヤ教徒(ヤフディー)として捉えていた。
オスマン帝国は勢力を拡大すると共にイスラム教徒以外の人々をも支配することになった。その為の制度がミッレト制であり、サーサーン朝ペルシアなどで用いられていたものを採用した。この対象になったのはユダヤ教徒、アルメニア使徒教会派、ギリシャ正教徒らであった。また、成立時より東ローマ帝国と接してきたオスマン帝国は教会をモスクに転用した例こそあれども、東ローマ帝国臣民を強制的にムスリム化させたという証拠は見られず、むしろ、15世紀初頭以来残されている資料から東ローマ帝国臣民をそのまま支配下に組み込んだことが知られている。
このミッレトに所属した人々は人頭税(ジズヤ)の貢納義務はあったが、各自ミッレトの長、ミッレト・バシュを中心に固有の宗教、法、生活習慣を保つことが許され、自治権が与えられた。
これらミッレト制はシャーリア上のズィンミー制に基づいていたと考えられており、過去には唯一神を奉じて啓示の書をもつキリスト教徒やユダヤ教徒などいわゆる「啓典の民」らはズィンマ(保護)を与えられたズィンミー(被保護民)としてシャーリアを破らない限りはその信仰、生活を保つことが許されていた。オスマン帝国はこれを受け継いでおり、元々東ローマ帝国と接してきた面から「正教を奉じ、ギリシャ語を母語とするローマ人にして正教徒」というアイデンティティの元、ムスリム優位という不平等を元にした共存であった。
このミッレト制は過去に語られた「オスマン帝国による圧政」を意味するのではなく、「オスマンの平和」いわゆる「パックス・オトマニカ」という面があったということを意味しており、20世紀以降激化している中東の紛争、90年代の西バルカンにおけるような民族紛争・宗教紛争もなく、オスマン帝国支配下の時代、平穏な時代であった。
ユダヤ人の宗派共同体は東ローマ帝国時代からすでに存在した。1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国領となると、そのミッレトは東ローマ帝国時代と同じ待遇で扱われることを認められ、公認のラビが監督することになった。オスマン帝国はユダヤ人ということで差別することがなかったため、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア、スペインなどからの移民も別け隔てなく受け入れた。ただし、これら新規に流入したユダヤ人たちは纏まりを欠いたため、オスマン帝国がハハム・バシュを任命してこれら小集団と化したユダヤ人らを統括した。
なお、バヤズィト2世の時代にはユダヤ人らを厚遇するように命じた勅令を発布している。
アルメニア人らは合性論を教義とする非カルケドン派が多かったため、東ローマ帝国時代から異端視される傾向が強かった。そのため、東ローマ皇帝によってカフカースからカッパドキア、キリキアへ移住させられ、キリキア・アルメニア王国(小アルメニア)を形成することになった。アルメニア本土はセルジューク軍、モンゴル軍、ティムール帝国などの侵略を受けたが、小アルメニアはなんとか自立を保つことができた。その後、オスマン帝国の侵略を受けたが、小アルメニア、アルメニア本土はすぐにオスマン帝国領化することもなかった。しかし、メフメト2世の時代、アルメニア人らのミッレトが形成されたが、アルメニア本土がオスマン帝国領になるのは1514年のことであった。
ギリシャ正教徒のミッレトにはギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人、ワラキア人らが所属した。彼らはバルカン半島の主要な民族であったために、メフメト2世がギリシャ正教総主教にゲンナデオス2世を任命してミッレト統括者にしたように重要視された。なお、ルメリ地方にミッレト制が導入されたのはメフメト2世以降であり、コンスタンティノープルが陥落するまでは導入されなかった。
なお、このミッレトには上記民族以外にもアラビア語を母語とするキリスト教徒、トルコ語を母語とするキリスト教徒(カラマンル)らも含まれることになり、キリスト教徒(正教徒)としての意識を持ってはいたが、それ以上に母語を元にした民族意識も二次的ながら存在していた。
しかし、オスマン帝国の首都がイスタンブールであったため、イスタンブールにあった全地総主教座を頂点とする正教会上層部がこの主導権を握ることになったため、ギリシャ系正教徒が中心をなし、ギリシャ系正教徒が著しく重きをなした。これに対して過去にステファン・ドゥシャンが帝国を築いたという輝かしい過去をもつセルビア系正教徒らは反感を持っており、1557年、ボスニア出身の元正教徒で大宰相となったソコルル・メフメト・パシャの尽力によりセルビア総主教座を回復したが、これはイスタンブールの総主教座の強い抗議により1766年に廃止された。この例を見るようにオスマン帝国支配下の正教徒社会の中ではギリシャ系の人々が強い影響力をもっていた。
イスタンブールの総主教を中心とする正教会はオスマン帝国内だけではなく、オスマン帝国外にも信仰上の影響力があった。コンスタンティノープル陥落以降、教育機関が消滅したが、イスタンブールの総主教座の元では聖職者養成学校が維持され、さらにアトス山の修道院も維持され、その宗教寄進もスルタンに承認されていた。
これらのことから教会の上位聖職者はギリシャ系が占めることになったが、これは非ギリシャ系正教徒らに対して「ギリシャ化」を促進しようとする傾向として現れた。18世紀になるとアルバニア系正教徒らがアルバニア語を用いて教育することをオスマン政府に要請したが、これはギリシャ系正教会の手によって握りつぶされ、ファナリオテスがエフラク、ボーダンの君侯になったことにより、ルーマニア系正教徒に対してギリシャ系の優位とそのギリシャ化を推進しようとした。
さらに法律の世界でも正教会が重要な位置を占めており、東ローマ時代には皇帝の権力の元、司法と民政を担っていたが、オスマン帝国支配となると裁判などにおいて当事者が正教徒同士である場合、正教会に委ねられることになった。そのため、ムスリムらの固有法がシャーリアであったのに対して、正教徒らはローマ法が固有の法であった。
イスラムの伝統様式を発展させ、オスマン建築と呼ばれる独特の様式を生み出した。
オスマン帝国では15世紀末、イズニクにおいて飛躍的に陶芸が発達した。これをイズニク陶器(英語版)と呼ぶ。中国陶器の影響を受け、初期には青と白を基調にし、のちにイズニクならではと言われた赤色を使用したものが生まれた。これらの陶器は皿などの一般的なものだけではなく、モスクや宮殿も彩った。17世紀に入ると徐々にイズニクでの陶器製造は衰え、テクフール・サライやキュタヒヤが後を継いだがイズニクを越えることは叶わなかった。
しかし、イズニク陶器の影響はオスマン帝国属州に広がり、シリア、チュニジアなどで製造されたタイルにはその影響が強くみられる。
オスマン帝国の宮廷では詩が特権的な立場を得ていた。スルタンの多くが詩作に耽り、また、プルサ、エディルネのような旧都や後に加わったバクダットなどでも作成され、宮廷詩人らはメドレセでアラビアやペルシアの文学を学んだ。その中でもバーキーやフズーリーなどの詩人が生まれた。
イスラム世界から受け継いだアラビア文字の書道が発展し、絵画は、中国絵画の技法を取り入れたミニアチュール(細密画)が伝わった。
アラブ音楽の影響を受けたリュート系統の弦楽器や笛を用いた繊細な宮廷音楽(オスマン古典音楽)と、ティンパニ、チャルメラ・ラッパや太鼓の類によって構成された勇壮な軍楽(メフテル)とがオスマン帝国の遺産として受け継がれている。
オスマン帝国は、600年の歴史の中で科学技術を大きく進歩させていた。その分野は数学、天文学、医学など幅広く及んでおり、特に天文学は同帝国において非常に重要な分野に位置付けられていた。
17世紀の1683年、皇帝メフメト4世の治世の元、オスマン帝国は勢力的に最大版図を築いた。オスマン帝国の歴史学者らはこのオスマン帝国の最盛期や、その後の時代をパクス・オトマニカと呼ぶ。 | [
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"text": "オスマン帝国(オスマンていこく、オスマントルコ語: دولتِ عليۀ عثمانيه, ラテン文字転写: Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye)は、かつて存在したテュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国である。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノープル(後のイスタンブール)を征服し、この都市を自らの首都とした。17世紀の最大版図は中東からアフリカ・欧州に著しく拡大した。東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリーに至る広大な領域に及んだ。",
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"text": "アナトリア(小アジア)の片隅に生まれた小君侯国から発展したイスラム王朝であるオスマン朝は、やがて東ローマ帝国などの東ヨーロッパキリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を征服して地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展した。",
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"text": "その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。宗教改革にも間接的ながら影響を及ぼし、神聖ローマ帝国のカール5世が持っていた西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を挫折させる主因となった。そして、「トルコの脅威」に脅かされた神聖ローマ帝国は「トルコ税」を新設、中世封建体制から絶対王政へ移行することになり、その促進剤としての役割を務めた。ピョートル1世がオスマン帝国を圧迫するようになると、神聖ローマがロマノフ朝を支援して前線を南下させた。",
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"text": "19世紀中ごろに英仏が地中海規模で版図分割を実現した。オスマン債務管理局が設置された世紀末から、ドイツ帝国が最後まで残っていた領土のアナトリアを開発した。このような経緯から、オスマン帝国は中央同盟国として第一次世界大戦に参戦したが、敗れた。敗戦後の講和条約のセーブル条約は列強によるオスマン帝国の解体といえる内容だったため、同条約に反対する勢力がアンカラに共和国政府を樹立し、1922年にはオスマン家のスルタン制度の廃止を宣言、メフメト6世は亡命した。1923年には「アンカラ政府」が「トルコ共和国」の建国を宣言し、1924年にはオスマン家のカリフ制度の廃止も宣言。その結果、アナトリアの国民国家トルコ共和国に取って代わられた(トルコ革命)。",
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"text": "英語でオスマン帝国を Ottoman Turks, Turkish Empire と呼んだことから、かつては「オスマントルコ」、「トルコ帝国」、「オスマントルコ帝国」、「オスマン朝トルコ帝国」とされることが多かったが、現在はオスマン帝国あるいは単にオスマン朝と表記するようになっており、オスマントルコという表記は使われなくなってきている。これは、君主(パーディシャー、スルタン)の出自はトルコ系で宮廷の言語もオスマン語と呼ばれるアラビア語やペルシア語の語彙を多く取り込んだトルコ語ではあったが、支配階層には民族・宗教の枠を越えて様々な出自の人々が登用されており、国内では多宗教・多民族が共存していたことから、単純にトルコ人の国家とは規定しがたいことを根拠としている。事実、オスマン帝国の内部の人々は滅亡の時まで決して自国を「トルコ帝国」とは称さずに「オスマン家の崇高なる国家」「オスマン国家」などと称しており、オスマン帝国はトルコ民族の国家であると認識する者は帝国の最末期までついに現れなかった。つまり、帝国の実態からも正式な国号という観点からもオスマントルコという呼称は不適切であり、オスマン帝国をトルコと呼んだのは実は外部からの通称に過ぎない。",
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"text": "なお、オスマン帝国の後継国家であるトルコ共和国は正式な国号に初めて「トルコ」という言葉を採用したが、オスマン帝国を指すにあたっては「オスマン帝国」にあたる Osmanlı İmparatorluğu や「オスマン国家」にあたる Osmanlı Devleti の表記を用いるのが一般的であり、オスマン朝トルコ帝国という言い方は現地トルコにおいても行われることはない。",
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"text": "歴代皇帝についてはオスマン家を参照。オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖オスマン1世がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる1299年を建国年とするのが通例であり、帝制が廃止されてメフメト6世が廃位された1922年が滅亡年とされる。",
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"text": "もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定していくことは難しい。",
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"text": "13世紀末に、東ローマ帝国とルーム・セルジューク朝の国境地帯(ウジ)であったアナトリア西北部ビレジクにあらわれたトルコ人の遊牧部族長オスマン1世が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、オスマンを指導者としたムスリム(イスラム教徒)のガーズィー(ジハードに従事する戦士)が集団を形成したとされる説が欧州では一般的であるが、遊牧民の集団であったとする説も根強く、未だに決着はされていない。彼らオスマン集団は、オスマン1世の父エルトゥグルルの時代にアナトリア西北部のソユットを中心に活動していたが、オスマンの時代に周辺のキリスト教徒やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展するオスマン君侯国(トルコ語版)を築き上げた。",
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"text": "1326年頃、オスマンの後を継いだ子のオルハンは、即位と同じ頃に東ローマ帝国の地方都市プロウサ(現在のブルサ)を占領し、さらにマルマラ海を隔ててヨーロッパ大陸を臨むまでに領土を拡大、アナトリア最西北部を支配下とした上で東ローマ帝国首都コンスタンティノープルを対岸に臨むスクタリをも手中に収めた。ブルサは15世紀初頭までオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる。 1346年、東ローマの共治皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスは後継者争いが激化したため、娘テオドラをオルハンに嫁がせた上で同盟を結び、オスマンらをアナトリアより呼び寄せてダーダネルス海峡を渡らせてバルカン半島のトラキアに進出させた。これを切っ掛けにオスマンらはヨーロッパ側での領土拡大を開始(東ローマ内戦 (1352年 - 1357年))、1354年3月2日にガリポリ一帯が地震に見舞われ、城壁が崩れたのに乗じて占領し(ガリポリ陥落)、橋頭堡とした。後にガリポリスはオスマン帝国海軍の本拠地となった。オルハンの時代、オスマン帝国はそれまでの辺境の武装集団から君侯国への組織化が行われた。",
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"text": "オルハンの子ムラト1世は、即位するとすぐにコンスタンティノープルとドナウ川流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在のエディルネ)を占領、ここを第2首都とするとともに、デウシルメと呼ばれるキリスト教徒の子弟を強制徴発することによる人材登用制度のシステムを採用して常備歩兵軍イェニチェリを創設して国制を整えた。さらに戦いの中で降伏したキリスト教系騎士らを再登用して軍に組み込むことも行った。",
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"text": "1371年、マリツァ川の戦いでセルビア諸侯連合軍を撃破、東ローマ帝国や第二次ブルガリア帝国はオスマン帝国への臣従を余儀なくされ、1387年、テッサロニキも陥落、ライバルであったカラマン侯国も撃退した。1389年にコソヴォの戦いでセルビア王国を中心とするバルカン諸国・諸侯の連合軍を撃破したが、ムラト1世はセルビア人貴族ミロシュ・オビリッチによって暗殺された。しかし、その息子バヤズィト1世が戦場で即位したため事なきを得た上にコソヴォの戦いでの勝利は事実上、バルカン半島の命運を決することになった。なお、バヤズィト1世は即位に際し兄弟を殺害している。以降、オスマン帝国では帝位争いの勝者が兄弟を殺害する慣習が確立され、これを兄弟殺しという。バヤズィト1世は報復としてセルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチを始めとするセルビア人らの多くを処刑した。",
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"text": "1393年にはタルノヴォを占領、第二次ブルガリア帝国も瓦解した。しかし、オスマン帝国はそれだけにとどまらず、さらに1394年秋にはコンスタンティノープルを一時的に包囲した上でギリシャ遠征を行い、ペロポネソス半島までがオスマン帝国の占領下となった。これらオスマン帝国の拡大により、ブルガリア、セルビアは完全に臣従、バルカン半島におけるオスマン帝国支配の基礎が固まった。",
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"text": "さらにバヤズィト1世はペロポネソス半島、ボスニア、アルバニアまで侵略、ワラキアのミルチャ1世はオスマン帝国の宗主権を一時的に認めなければいけない状況にまで陥った上、コンスタンティノープルが数回にわたって攻撃されていた。この状況はヨーロッパを震撼させることになり、ハンガリー王ジギスムントを中心にフランス、ドイツの騎士団、バルカン半島の諸民族軍らが十字軍を結成、オスマン帝国を押し戻そうとした。",
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"text": "しかし、1396年、ブルガリア北部におけるニコポリスの戦いにおいて十字軍は撃破されたため、オスマン帝国はさらに領土を大きく広げた。しかし、1402年のアンカラの戦いでティムールに敗れバヤズィト1世が捕虜となったため、オスマン帝国は1413年まで、空位状態となり、さらにはアナトリアを含むオスマン帝国領がティムールの手中に収まることになった。",
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"text": "バヤズィト亡き後のアナトリアは、オスマン朝成立以前のような、各君侯国が並立する状態となった。このため、東ローマ帝国はテッサロニキを回復、さらにアテネ公国も一時的ながらも平穏な日々を送ることができた。",
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"text": "バヤズィトの子メフメト1世は、1412年に帝国の再統合に成功して失地を回復し、その子ムラト2世は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。こうして高まった国力を背景に1422年には再びコンスタンティノープルの包囲を開始、1430年にはテッサロニキ、ヨアニナを占領、1431年にはエペイロス全土がオスマン支配下となった。",
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"text": "しかし、バルカン半島の諸民族はこれに対抗、ハンガリーの英雄フニャディ・ヤーノシュはオスマン帝国軍を度々撃破し、アルバニアにおいてもアルバニアの英雄スカンデルベグが1468年に死去するまでオスマン帝国軍を押し戻し、アルバニアの独立を保持するなど活躍したが、後にフニャディは1444年のヴァルナの戦い、1448年のコソヴォの戦い(英語版)において敗北、モレア、アルバニア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを除くバルカン半島がオスマン帝国占領下となった。",
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"text": "それ以前、東ローマ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスは西ヨーロッパからの支援を受けるために1438年から1439年にかけてフィレンツェ公会議に出席、東西教会の合同決議に署名したが、結局、西ヨーロッパから援軍が向かうことはなかった。1445年から1446年、後に東ローマ帝国最後の皇帝となるコンスタンティノス11世パレオロゴスがギリシャにおいて一時的に勢力を回復、ペロポネソス半島などを取り戻したが、オスマン帝国はこれに反撃、コリントス地峡のヘキサミリオン要塞を攻略してペロポネソス半島を再び占領したが、メフメト1世と次代ムラト2世の時代は失地回復に費やされることになった。",
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"text": "1453年、ムラト2世の子メフメト2世は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略し、ついに東ローマ帝国を滅ぼした(コンスタンティノープルの陥落)。コンスタンティノープルは以後オスマン帝国の首都となった。また、これ以後徐々にギリシャ語に由来するイスタンブールという呼称がコンスタンティノープルに代わって用いられるようになった。そして1460年、ミストラが陥落、ギリシャ全土がオスマン帝国領となり、オスマン帝国によるバルカン半島支配が確立した。",
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"text": "陥落後、シャーリアに従うことを余儀なくされたコンスタンティノープルでは略奪の嵐が吹き荒れた。略奪の後、市内へ入ったメフメト2世はコンスタンティノープルの人々を臣民として保護することを宣言、さらに都市の再建を開始、モスク、病院、学校、水道、市場などを構築し、自らの宮廷をも建設してコンスタンティノープルの再建に努めた。",
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"text": "コンスタンティノープルの征服に反対した名門チャンダルル家出身の大宰相チャンダルル・ハリル・パシャ(英語版)を粛清し、メフメト2世は、スルタン権力の絶対化と国家制度の中央集権化の整備を推進したことにより、トルコ系の有力な一族らは影を潜めその代わりにセルビア人のマフムト・パシャ(英語版)、ギリシャ人のルム・メフムト・パシャ(英語版)のようにトルコ人以外の人々が重きを成すようになった。",
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"text": "コンスタンティノープルを征服した後も、メフメト2世の征服活動は継続された。バルカン半島方面では、ギリシャ、セルビア、アルバニア、ボスニアの征服を達成した。また、黒海沿岸に点在するジェノヴァの植民都市の占領、1460年にはペロポネソスのパレオゴロス系モレア専制公国を、1461年にはトレビゾンド帝国を征服東ローマ帝国の残党は全て消滅することになり、さらには、1475年のクリミア・ハン国を宗主権下に置くことに成功、ワラキア、モルダヴィアも後にオスマン帝国へ臣従することになる。",
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"text": "そしてメフメト2世はガリポリを中心に海軍の増強に着手、イスタンブールと改名されたコンスタンティノープルにも造船所を築いたため、オスマン帝国の海軍力は著しく飛躍した。そして、15世紀後半には、レスボス(1462年)、サモス(1475年)、タソス、レムノス、プサラ(それぞれ1479年)といったジェノヴァの支配下にあった島々を占領、このため、黒海北岸やエーゲ海の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「オスマンの内海」とするに至った。一方、アナトリア半島方面では、白羊朝の英主ウズン・ハサンが東部アナトリア、アゼルバイジャンを基盤に勢力を拡大していたため、衝突は不可避となった。1473年、東部アナトリアのオトゥルクベリの戦い(英語版)でウズン・ハサンを破ったオスマン朝は中部アナトリアを支配下に置くことに成功した。",
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"text": "メフメト2世の後を継いだバヤズィト2世(1481年 - 1512年)は、父とは異なり積極的な拡大政策を打ち出すことはなかった。その背景には宮廷内の帝位継承問題があった。バヤズィト2世の弟であるジェムは、ロドス島、フランス、イタリアへ逃亡し、常に、バヤズィトの反対勢力に祭り上げられる状態が続いていたからである。",
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"text": "バヤズィト2世の弱腰の姿勢を批判していたセリムが、セリム1世として、1512年に即位した。セリムの積極外交は、東部アナトリアとシリア・エジプトに向けられた。東部アナトリアでは白羊朝の後をサファヴィー朝が襲っていた。1514年、チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝の野望を打ち砕くと、1517年にはオスマン・マムルーク戦争でエジプトのマムルーク朝を滅してイスラム世界における支配領域をアラブ人居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていたイスラム教の二大聖地マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の保護権を掌握してスンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得した。このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られ、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説は19世紀の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "スレイマン1世(1520年 - 1566年)の時代、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ、北アフリカにまで広がった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 27,
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"text": "ポルトガル・マムルーク海上戦争(1505年 - 1517年)では、1507年にポルトガル海上帝国がホルムズ占領に成功。1509年にディーウでインド洋の制海権を巡るディーウ沖海戦でグジャラート・スルターン朝、マムルーク朝、カリカットの領主ザモリン、オスマン帝国の連合艦隊を破った。",
"title": "歴史"
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"text": "ロバート・シャーリーに率いられたイングランド人冒険団によってペルシア軍が近代化され、1622年のホルムズ占領で、イングランド・ペルシア連合軍がホルムズ島を占領し、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放するまでこの状態が続いた。",
"title": "歴史"
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"text": "1569年、スレイマンが既に亡くなっているのにもかかわらずインドネシアのアチェ王国のスルタンであるアラウッディン・アルカハル(英語版)の要請に応じて艦隊を派遣した。このとき艦隊はマラッカ海峡まで行き、ジョホール王国・ポルトガル領マラッカ(英語版)へ攻勢をかけた。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "東ではサファヴィー朝と激突、1514年にサファヴィー朝をアナトリアから駆逐すると、さらにはイラクのバグダードを奪い、南ではイエメンに出兵してアデンを征服した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ポルトガル・マムルーク海上戦争(1505年 - 1517年)ではオスマンとエジプトは対ポルトガルの同盟国だったが、オスマン・マムルーク戦争(1516年 - 1517年)では、1516年のマルジュ・ダービクの戦い・en:Battle of Yaunis Khanと1517年のリダニヤの戦いでセリム1世によってマムルーク朝エジプトが征服され、エジプト・シリア・アラビア半島が属領となった。1522年、次代スレイマン1世の時にムスタファ・パシャ(トルコ語版)がエジプト州(英語版)(1517年–1805年)の二代目総督となったが、その配下となるカーシフ(地方総督)の大部分は依然としてマムルーク朝で軍人を務めた人物が就任していた。1523年にはそのマムルーク朝系のカーシフが反乱を起こし、さらに1524年には新たな州総督に就任していたアフメト・パシャ(英語版)が反乱を起こした。この反乱でアフメト・パシャはローマ教皇にまで援助を求めたが結局、アフメト・パシャはオスマン帝国の鎮圧軍が到着する以前に内部対立で殺害された。",
"title": "歴史"
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"text": "この反乱を受けたスレイマン1世は大宰相イブラヒム・パシャを送り込んで支配体制の強化を図り、次の州総督に就任したハドゥム・スレイマン・パシャはタフリール(徴税敢行、税目、人口などの調査)を実施して徴税面を強化した。さらにスレイマン・パシャは商業施設などを建設してワクフを設定、以後の総督らも積極的な建設活動や宗教的寄進を行い、マムルーク朝色の濃いままであった状況をオスマン帝国色に塗りなおした。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1516年、オスマン帝国の皇子(英語版)コルクト(トルコ語版、英語版)の公的支援を受けたバルバリア海賊のバルバロス・ウルージとバルバロス・ハイレッディン兄弟が、アルジェ占領 (1516年)(英語版)に成功。1517年にはザイヤーン朝の首都トレムセンに侵攻し、ウルージは戦死したもののトレムセン陥落 (1517年)(英語版)が成功、オスマン・アルジェリア(英語版)(1517年 - 1830年)を設置。海上では、1522年のロドス包囲戦ではムスリムに対する海賊行為を行っていたロドス島の聖ヨハネ騎士団と戦ってこれを駆逐し、東地中海の制海権を握った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 34,
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"text": "1529年1月に宣戦布告し、5月にはアルジェ要塞(スペイン語版、英語版)を落としてアルジェの占領に成功。10月にフォルメンテーラ島での戦いでスペイン船を駆逐(フォルメンテーラ島の戦い (1529年)(英語版))。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "1534年にはチュニス征服 (1534年)(英語版)に成功。1535年にハフス朝とスペイン-イタリア連合軍による奪還作戦でチュニスを失陥(チュニス征服 (1535年))。バルバロス・ハイレッディンは脱出の途上でマオー略奪(カタルーニャ語版、英語版)を行なった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "1536年、フランス・オスマン同盟(英語版)を密かに締結。1538年のプレヴェザの海戦でアルジェリアに至る地中海の制海権の掌握に成功した。1540年10月、アルボラン島の海戦(英語版)。1541年10月、カール5世が親征してアルジェ遠征を行い、キリスト教徒への海賊行為をやめさせた。1545年にバルバロスが引退、1546年には後任にソコルル・メフメト・パシャを抜擢した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "1550年にトレムセンを占領し、ザイヤーン朝を滅亡させた。1551年にトリポリ包囲戦 (1551年)(英語版)に成功し、オスマン・トリポリタニア(英語版)(1551年 - 1911年)を設置。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "スレイマン1世は密かにヴァロワ朝フランス王のフランソワ1世と同盟していたため、イタリア戦争 (1551年 - 1559年)(ポンツァ島の戦い (1552年)(英語版)、オスマン帝国のバレアレス諸島侵攻 (1558年)(英語版))に派兵して干渉戦争を実施した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "1555年にアルジェのサリフ・レイス(トルコ語版、英語版)がベジャイア占領(英語版)に成功。1556年のオラン包囲戦 (1556年)(英語版)では、オランが包囲されている間に、モロッコ人もトレムセンを包囲し返し、作戦は失敗に終わった。1560年5月にピヤーレ・パシャ(英語版)がチュニジア沖のジェルバ島で行なわれたジェルバの海戦で大勝。1565年、マルタ包囲戦 (1565年)でオスマン帝国が最初の敗北を喫し、大きな被害を出した。1566年9月6日にスレイマンが死去し、その死から5年後の1571年、レパントの海戦でオスマン艦隊はスペイン連合艦隊に大敗したものの、しばしば言われるようにここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン帝国の手から失われることはなかった。そして1571年に占領されたキプロスは単独でキプロス州を形成することになった。クルチ・アリ(トルコ語: Kılıç Ali Paşa)のオスマン帝国艦隊は敗戦から半年で同規模の艦隊を再建し、1573年にはキプロス島、翌1574年にチュニスを攻略し(チュニス征服 (1574年)(英語版))、ハフス朝を滅亡させた。オスマン・チュニス(英語版)(1574年 - 1705年)を設置。17世紀にクレタ島が新たに占領されるとクレタ島も単独のクレタ州となった。",
"title": "歴史"
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"text": "ロシア・ツァーリ国のイヴァン4世は、1552年のカザン包囲戦(英語版)でカザン・ハン国を併合、1554年にアストラハン・ハン国を従属国化した。旧ジョチ・ウルス領のうち残っていたクリミア・ハン国とロシアとの対立が深まると、1568年にセリム二世及びソコルル・メフメト・パシャはアストラハン遠征(露土戦争 (1568年-1570年))を起こした。この戦いで勝利したロシアによるアストラハン・ハン国支配が確定したものの、この戦いは長期にわたる露土戦争の初戦に過ぎなかった。この戦いでソコルル・メフメト・パシャは、ロシアだけでなくサファヴィー朝をも牽制する目的でヴォルガ・ドン運河の建設を試みたが失敗に終わった(実際に完成するのは1952年になってからである)。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "過去にオスマン帝国治下のバルカン半島はオスマン帝国の圧政に虐げられた暗黒時代という評価が主流であった。 しかし、これらの評価は19世紀にバルカン半島の各民族が独立を目指した際に政治的意味合いを込めて評価されたものであり、オスマン帝国支配が強まりつつあった16世紀はそれほど過酷なものではないという評価が定着しつつある。これらのことからオスマン帝国によるバルカン半島統治は16世紀末を境に前後の二つの時代に分けることができる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "オスマン帝国が勢力拡大を始めた時、第二次ブルガリア帝国はセルビア人の圧力により崩壊寸前であり、さらにそのセルビアもステファン・ドゥシャンが死去したことにより瓦解し始めていた。これらが表すように第4回十字軍により分裂崩壊していた東ローマ帝国亡き後、バルカン半島は互いに反目状態にあり、分裂状態であった上、オスマン帝国をバルカン半島へ初めて招いたのは内紛を続ける東ローマ帝国であった。このため、アンカラの戦いにおいて混乱を来したオスマン帝国への反撃もままならず、また、バルカン半島において大土地所有者の圧迫に悩まされていたバルカン半島の農民らはしばしばオスマン帝国の進出を歓迎してこれに呼応することもあった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "陸上においては、1521年のベオグラードの征服、1526年のモハーチの戦いにおけるハンガリー王国に対しての戦勝、1529年の第一次ウィーン包囲と続き、クロアチア、ダルマチア、スロベニアも略奪を受けることになった。",
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "15世紀以降、ギリシャはオスマン帝国に併合されるにつれてルメリ州に編入されたが、1534年、地中海州が形成されたことにより、バルカン半島を中心とする地域がルメリ州、バルカン本土とエーゲ海の大部分が地中海州に属することになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "オスマン家とハプスブルク家の対立構造が、ヨーロッパ外交に持ち込まれることとなった。その結果が、ハプスブルク家と対立していたフランスのフランソワ1世に対してのカピチュレーション付与となった。なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、カピチュレーション(恩恵的待遇)を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での治外法権などを認めた。一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリスをはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした19世紀には、西欧諸国によるオスマン帝国への内政干渉の足がかりに過ぎなくなり、不平等条約として重くのしかかることになった。",
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{
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"text": "スレイマンは、1566年9月にハンガリー遠征のシゲトヴァール包囲戦の最中に陣没し、ピュロスの勝利で終わった(1541年オスマン帝国領ハンガリーブディン・エヤレト(英語版)設置)。ソコルル・メフメト・パシャは、1571年にソコルル・メフメト・パシャ橋の建設をミマール・スィナンに開始させ、1577年に完成した。",
"title": "歴史"
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"text": "スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相(首相)が担うようになる。",
"title": "歴史"
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"text": "オスマン帝国下の住民はアスカリとレアヤーの二つに分けられていた。アスカリはオスマン帝国の支配層であり、オスマン帝国の支配者層に属する者とその家族、従者で形成されており軍人、書記、法学者なども属していた。これに対してレアヤーは被支配層であり、農民、都市民などあらゆる正業に携わる人々が属していた。ただし、19世紀に入ると狭義的にオスマン帝国支配下のキリスト教系農民に対して用いられた例もある。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 49,
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"text": "アスケリは免税、武装、騎乗の特権を有しており、レアヤーは納税の義務をおっていた。ただし、アスケリ層に属する人々が全てムスリムだったわけではなく、また、レアヤーも非ムスリムだけが属していたわけではない。そして、その中間的位置に属する人々も存在した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 50,
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"text": "オスマン帝国の全盛期を謳歌したスレイマン1世の時代ではあったが、同時期に、軍事構造の転換、すなわち、火砲での武装及び常備軍の必要性が求められる時代に変容していった。その結果、歩兵であるイェニチェリを核とする常備軍の重要性が増大した。しかし、イェニチェリという形で、常備軍が整備されることは裏を返せば、在地の騎士であるスィパーヒー層の没落とイェニチェリの政治勢力としての台頭を意味した。それに応じて、スィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来のティマール制(英語版)は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる徴税請負制(イルティザーム制(英語版))が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。制度の項で後述する高度な官僚機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "繁栄の裏ではスレイマン時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。1578年にオスマン・サファヴィー戦争(英語版)が始まると、1579年にスレイマン時代から帝国を支えた大宰相ソコルル・メフメト・パシャがサファヴィー朝ペルシアの間者によって暗殺されてしまった。以来、宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに17世紀前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、16世紀末頃から新大陸産の銀の流入による物価の高騰(価格革命)や、トランシルバニアをめぐるハプスブルク家との紛争は1593年から13年間続くこととなった。また、イラク、アゼルバイジャン、ジョージアといった帝国の東部を形成する地方では、アッバース1世のもと、軍事を立て直したサファヴィー朝との対立が17世紀にはいると継続することとなった。中央ヨーロッパ及び帝国東部の領域を維持するために、軍事費が増大し、その結果、オスマン帝国の財政は慢性赤字化した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "極端なインフレーションは流通通貨の急速な不足を招き、銀の不足から従来の半分しか銀を含まない質の悪い銀通を改鋳するようになった。帝国内に流通すると深刻な信用不安を招き、イェニ・チェリたちの不満が蓄積し、1589年には、彼らの反乱が起こった。経済の混乱は17世紀まで続くこととなった。さらには、アナトリアでは、ジェラーリーと呼ばれる暴徒の反乱が頻発することとなり、オスマン帝国は東西に軍隊を裂いていたため、彼らを鎮圧する術を持たなかった。1608年を頂点に、ジェラーリーの反乱(英語版)は収束を迎えるが、その後、首都イスタンブールでは、スルタン継承の抗争が頻発することとなった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "そのような情勢の下、1645年に起こったヴェネツィア共和国とのクレタ戦争(英語版)では勝利したものの、1656年のダルダネスの戦い(英語版)ではヴェネツィア艦隊による海上封鎖を受け、物流が滞り物価が高騰した首都は暴動と反乱の危険にさらされることになった。この危機に際して大宰相に抜擢されたキョプリュリュ・メフメト・パシャ(英語版)は全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝。しかし息子キョプリュリュ・アフメト・パシャが続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。2代続いたキョプリュリュ家の政権は、当時オスマン帝国で成熟を迎えていた官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。先述したオスマン帝国の構造転換はキョプリュリュ期に安定し、一応の完成をみた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "キョプリュリュ家の執政期にオスマン帝国はクレタ島やウクライナにまで領土を拡大、さらにはヴェネツィアが失ったクレタ島の代わりに得たギリシャにおける各地域の大部分を手中に収めたため、スレイマン時代に勝る最大版図を達成したのである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "しかしキョプリュリュ・メフメト・パシャの婿カラ・ムスタファ・パシャは、功名心から1683年に第二次ウィーン包囲を強行してしまう。一時は包囲を成功させるも、ポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる欧州諸国の援軍に敗れ、16年間の戦争状態に入ることになる(大トルコ戦争)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "戦後、1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約において、史上初めてオスマン帝国の領土は削減され、東欧の覇権はハプスブルク家のオーストリアに奪われてしまう。さらには1700年にはロシアとスウェーデンの間で起こった大北方戦争に巻き込まれてしまい、スウェーデン王カール12世の逃亡を受け入れたオスマン帝国は、ピョートル1世の治下で国力の増大著しいロシア帝国との苦しい戦いを強いられた。ロシアとは、1711年のプルート川の戦いで有利な講和を結ぶことに成功するが、続く墺土戦争のために、1718年のパッサロヴィッツ条約でセルビアの重要拠点ベオグラードを失ってしまう。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "このように、17世紀末から18世紀にかけては軍事的衰退が表面化したが、他方で西欧技術・文化の吸収を図り、後期のオスマン文化が成熟していった時代でもあった。中でもアフメト3世の大宰相ネフシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャ(トルコ語版)(在任1718年-1730年)の執政時代においては対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中で西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時代は西欧から逆輸入されたチューリップが装飾として流行したことから、チューリップ時代と呼ばれている。また1722年には東方のイラン・ペルシアでアフガーン人の侵入を契機にサファヴィー朝が崩壊した。オスマントルコはこの混乱に乗じて出兵する(オスマン・ペルシア戦争 (1722年-1727年)(英語版))。しかし、ホラーサーンからナーディル・シャーが登場し、イラクとイラン高原における戦況は徐々にオスマン側劣勢へと動き始める(アフシャール戦役(英語版))。浪費政治への不満を募らせていた人々はパトロナ・ハリル(英語版)とともにパトロナ・ハリルの乱(トルコ語版)を起こして君主と大宰相を交代させ、チューリップ時代は終焉するに至った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 58,
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"text": "やがて露土戦争 (1735年-1739年)が終結し、その講和条約である1739年のニシュ条約とベオグラード条約が締結されベオグラードを奪還。1747年にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン帝国は平穏な18世紀中葉を迎える。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握したアーヤーンと呼ばれる地方名士が台頭し、彼らの手に支えられることで緩やかな経済発展が進んでいた。しかし、産業革命の波及により急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は決定的なものとなり、スレイマン1世時に与えたカピチュレーションを逆に利用することで、ヨーロッパはオスマン領土への進出を始めることとなった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "18世紀末に入ると、ロシア帝国の南下によってオスマン帝国の小康は破られた。1768年に始まった露土戦争で敗北すると、1774年のキュチュク・カイナルジャ条約によって黒海の北岸を喪失し、1787年からの露土戦争にも再び敗れたことで、1792年のヤシ条約ではロシアのクリミア半島の領有を認めざるを得なかった。改革の必要性を痛感したセリム3世は翌1793年、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「ニザーム・ジェディード」を創設するが、計画はイェニチェリの反対により頓挫し、逆に廃位に追い込まれてしまう。かつてオスマン帝国の軍事的成功を支えたイェニチェリは隊員の世襲化が進み、もはや既得権に固執するのみの旧式軍に過ぎなくなっていた。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "この時代にはさらに、18世紀から成長を続けていたアーヤーンが地方政治の実権を握り、ギリシャ北部からアルバニアを支配したテペデレンリ・アリー・パシャのように半独立政権の主のように振舞うものも少なくない有様であり、かつてオスマン帝国の発展を支えた強固な中央集権体制は無実化した。さらに1798年のナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征をきっかけに、1806年にムハンマド・アリーがエジプトの実権を掌握した。一方、フランス革命から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族のナショナリズムを呼び覚まし、ギリシャ独立戦争(1821年 - 1829年)によってギリシャ王国が独立を果たした。ムハンマド・アリーは、第一次エジプト・トルコ戦争(1831年 - 1833年)と第二次エジプト・トルコ戦争(1839年 - 1841年)を経てエジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ、事実上独立した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、19世紀のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を辿ることとなった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を東方問題という。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、20世紀初頭における勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけとなってしまう。オスマン帝国はこのように帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。1808年に即位したマフムト2世はイェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成した。さらにはアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した。また1839年にアブデュルメジト1世は改革派官僚ムスタファ・レシト・パシャの起草したギュルハネ勅令を発布し、全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図るタンジマートを始めた。タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "1853年にはロシアとの間でクリミア戦争が起こるが、イギリスなどの加担によりきわどいながらも勝利を収めた。このときイギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は1856年に改革勅令を発布し、非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した。こうして第二段階に入ったタンジマートでは宗教法(シャリーア)と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代教育を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた。そして、カモンド家の支配するオスマン銀行も設立された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の借款を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したことで農業のモノカルチャー化を招き、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、1875年、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産するに至った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、1876年、大宰相ミドハト・パシャのもとでオスマン帝国憲法(通称ミドハト憲法)を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の法治国家であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "しかし憲法発布から間もない1878年、オスマン帝国はロシアとの露土戦争に完敗。帝都イスタンブール西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望むアブデュルハミト2世は、ロシアとはサン・ステファノ条約を結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した。これ以降、アブデュルハミト2世による専制政治の時代がはじまる。しかし一方ではオスマン債務管理局などを通じて帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "アブデュルハミトが専制政治をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは1889年に結成された「統一と進歩委員会」(通称「統一派」)をはじめとする青年トルコ人運動に参加し、憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開した。1891年には、時事新報記者の野田正太郎が日本人として初めてオスマン帝国に居住した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1908年、サロニカ(現在のテッサロニキ)の統一派を中心とするマケドニア駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた(青年トルコ革命)。彼らは1909年に保守派の反革命運動を鎮圧したものの、積極的に政治の表舞台には立つことはなかった。しかしバルカン戦争中の1913年になると、ついに統一派はクーデターを起こして大宰相を暗殺し、中核指導者タラート・パシャ、エンヴェル・パシャらを指導者とする政権を確立した。バルカン戦争の敗北によってヨーロッパのオスマン領の大半が失われると、統一派政権は次第にムスリム・ナショナリズムに傾斜していった。またバルカン戦争より帝国では、経済におけるナショナリズム路線である「民族経済」政策が議論され始めた。第一次世界大戦の勃発後にはカピチュレーションの一方的な廃止が宣言されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "この間にも、サロニカを含むマケドニアとアルバニアが、1911年には伊土戦争によりリビアが帝国から失われた。バルカンを喪失した統一派政権は汎スラヴ主義拡大の脅威に対抗するためドイツと同盟に関する密約を締結し、1914年に第一次世界大戦には同盟国側で参戦することとなった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 70,
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"text": "この戦争でオスマン帝国はアラブ人に反乱を起こされ、ガリポリの戦いなどいくつかの重要な防衛戦では勝利を収めたものの劣勢は覆すことができなかった。戦時中の利敵行為を予防する際にアルメニア人虐殺が発生し、後継となるトルコ政府も事件の存在自体は認めているが犠牲者数などをめぐって紛糾を続け、未解決の外交問題となっている。1918年10月30日ムドロス休戦協定により帝国は降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領されるとともに、イスタンブール、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡は国際監視下、アナトリア半島もエーゲ海に隣接する地域はギリシャ統治下となった。そしてアナトリア東部においてもアルメニア人、クルド人らの独立国家構想が生まれたことにより、オスマン帝国領は事実上、アナトリアの中央部分のみとなった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝メフメト6世は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。さらに、連合国の支援を受けたギリシャ軍がイズミルに上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄ムスタファ・ケマルパシャを指導者として、トルコ人が多数を占める地域(アナトリアとバルカンの一部)の保全を求める運動が起こり、1920年4月、アンカラにトルコ大国民議会を組織して抵抗政府を結成したが、オスマン帝国政府はこれを反逆と断じた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "一方連合国は、1920年、講和条約としてセーヴル条約をメフメト6世と締結した。この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に割譲する内容であり、ギリシャにはイズミルを与えるものであった。この結果はトルコ人の更なる反発を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーヴル条約に代わる新しい講和条約(ローザンヌ条約)の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府を招請した。1922年、ケマルはオスマン国家の二重政府の解消を名目としてパーディシャー(スルタン)とカリフの分離とともに、帝政の廃止(英語版)を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世はマルタへ亡命し、オスマン帝国政府は名実共に滅亡した(トルコ革命)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "翌1923年大国民議会は共和制を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家トルコ共和国に取って代わられた。トルコ共和国は1924年、帝政の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止(英語版)。オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン帝権は完全に消滅した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "オスマン帝国の国家の仕組みについては、近代歴史学の中でさまざまな評価が行われている。ヨーロッパの歴史家たちがこの国家を典型な東方的専制帝国であるとみなす一方、オスマン帝国の歴史家たちはイスラムの伝統に基づく世界国家であるとみなしてきた。また19世紀末以降には、民族主義の高まりからトルコ民族主義的な立場が強調され、オスマン帝国の起源はトルコ系の遊牧民国家にあるという議論が盛んに行われた。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "20世紀前半には、ヨーロッパにおける東ローマ帝国に対する関心の高まりから、オスマン帝国の国制と東ローマ帝国の国制の比較が行われた。ここにおいて東ローマ帝国滅亡から間もない時代にはオスマン帝国の君主がルーム(ローマ帝国)のカイセル(皇帝)と自称するケースがあったことなどの史実が掘り起こされたり、帝国がコンスタンティノープル総主教の任命権を通じて東方正教徒を支配したことが東ローマの皇帝教皇主義の延長とみなされる議論がなされ、オスマン帝国は東ローマ帝国の継続であるとする、ネオ・ビザンチン説もあらわれた。(カエサルを自称した皇帝はスレイマンなどほんの一握りだった)",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "このようにこの帝国の国制の起源にはさまざまな要素の存在が考えられており、「古典オスマン体制」と呼ばれる最盛期のオスマン帝国が実現した精緻な制度を考える上で興味深い論議を提供している。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "オスマン帝国の国制が独自に発展を遂げ始めたのはおおよそムラト1世の頃からと考えられている。帝国の拡大にともない次第に整備されてきた制度は、スレイマン1世の時代にほぼ完成し、皇帝を頂点に君主専制・中央集権を実現した国家体制に結実した。これを「古典オスマン体制」という。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "軍制は、当初はムスリム・トルコ系の戦士、帰順したムスリム・トルコ系の戦士、元東ローマ帝国の軍人らを合わせた自由身分の騎兵を中心に構成され、さらにアッバース朝で発展していたマムルーク制度のオスマン帝国版の常備軍などが編成され、常備歩兵軍としてイェニチェリが組織化されたが、これらの組み合わせにより騎兵歩兵らによる複合部隊による戦術が可能となったため、オスマン軍の軍事力が著しく向上することになり、彼らはカプクル(「門の奴隷」の意)と呼ばれる常備軍団を形成した。カプクルの人材は主にキリスト教徒の子弟を徴集するデヴシルメ制度によって供給された。カプクル軍団の最精鋭である常備歩兵軍イェニチェリは、火器を扱うことから軍事革命(英語版)の進んだ16世紀に重要性が増し、地方・中央の騎兵を駆逐して巨大な常備軍に発展する。ちなみにこの時代、欧州はまだ常備軍をほとんど持っていなかった。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "オスマン帝国の主要海軍基地はガリポリスであったが、ここに投錨する艦隊の指揮官はガリポリスのサンジャクベイが平時には務めており、戦時に入ると海洋のベイレルベイであるカプタン・パシャが総指揮を執ることになっていた。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 80,
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"text": "オスマン帝国は当初から海軍の重要性を考慮していたらしく、オスマン帝国初期に小アジアで活躍した「海のガーズィ」から帝国領土が拡大していく中、エーゲ海、地中海、黒海などに面する地域を併合した際にその地域の保有する艦艇を吸収して拡大していった。オスマン帝国が初めて造船所を建設した場所はカラミュルセル(英語版)であるが、のちにガリポリスを占領するとさらに規模の大きな造船所が作られたことにより、オスマン帝国はダーダルネス海峡の制海権を確保することができた。そのため、1399年にバヤズィト1世がコンスタンティノープルを包囲した際、東ローマ帝国救援に向かったフランス海軍を撃破している。ただし、1453年、コンスタンティノープルの占領に成功すると、コンスタンティノープルにさらに規模の大きな造船所が築かれたため、ガリポリスの造船所はその価値を下げることになった。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 81,
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"text": "15世紀に入るとジェノヴァ、ヴェネツィアとの関係が悪化、これと交戦したが、16世紀になるとオスマン艦隊はエーゲ海、地中海、イオニア海、黒海、紅海、アラビア海、ペルシア湾、インド洋などへ進出、事実上、イスラーム世界の防衛者となり、キリスト教世界と戦った。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "帝国の領土は直轄州、独立採算州、従属国からなる。属国(クリミア・ハン国(クリム汗国)、ワラキア(エフラク)君侯国、モルダヴィア(ボーダン)君侯国、トランシルヴァニア(エルデル)君侯国、ドゥブロブニク(ラグーザ)共和国、モンテネグロ公国(公または主教の支配)、ヒジャーズなど)は君主の任免権を帝国中央が掌握しているのみで、原則として自治に委ねられていた。独立採算州(エジプトなど)は州知事(総督)など要職が中央から派遣される他は、現地の有力者に政治が任せられ、州行政の余剰金を中央政府に上納するだけであった。ヨーロッパ方面の領土において、ビザンツ帝国やブルガリア帝国時代の大貴族は没落したが、小貴族は存続を許されてオスマン帝国の制度へ組み込まれていった",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "オスマン帝国が発展する過程として戦士集団から君侯国、帝国という道を歩んだが、戦士集団であった当初は遊牧民的移動集団であった。特に初期の首都であるソユット、ビレジク(英語版)、イェニシェヒル(ブルサ近郊)などは冬営地的性格が強く、首都と地方との明確な行政区分も存在しなかった。そして戦闘が始まればベイ(君主)、もしくはベイレルベイ(ベイたちのベイの意味で総司令官を指す)が指揮を取ったが、ベイレルベイはムラト1世の時代に臣下のララ・シャヒーンが任ぜられるまでは王子(君主の息子)が務めていた。ムラト1世の時代まで行政区分は不明確であったが、従来の通説では14世紀末、米林仁の説によれば15世紀初頭にアナトリア(アナドル)方面においてベイレルベイが任命されることによりベイレルベイが複数任命されることになった。その後、アナトリアを管轄するアナドル・ベイレルベイスィ(トルコ語版)配下のアナドルのベイレルベイリク(大軍管区の意味)とルメリを管轄するルメリ・ベイレルベイスィ(トルコ語版)配下のルメリのベイレルベイリクによって分割統治されるようになった。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "この時点ではベイレルベイは「大軍管区長官」の性格をもち、ベイレルベイリクは「大軍管区」の性格をもっており、当初のベイレルベイは軍司令官の性格が強かった。しかし、次第に帝国化していくことにより、君主専制的、中央集権的体制への進化、さらに帝国の拡大によりベイレルベイ、ベイレルベイリクはそれぞれ地方行政官的性格をも併せ持つことにより、「大軍管区」も「州」の性格を、「大軍管区長官」も「総督」としての性格をそれぞれ併せ持つようになった。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "ベイレルベイ(大軍管区長官)とベイレルベイリク(大軍管区)の下にはサンジャク(英語版)(小軍管区)、サンジャク・ベイ(小軍管区長)が置かれた。これは後に県、及び県長としての性格を持つようになるが、後にこれらベイレルベイリク(州)、サンジャク(県)はオスマン帝国の直轄地を形成することになった。なお、ベイレルベイリクは後にエヤレト(エヤレットという表記もある)、ヴィラエットと呼称が変化する。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "さらにオスマン帝国領にはイスラーム法官(カーディー)らが管轄する裁判区としてガザ(イスラーム法官区)が設置されていた。県はいくつかのガザ(郡という表記もされる)で形成されていたが、イスラーム法官は県知事、州知事らの指揮命令に属しておらず、全体として相互補完、相互監視を行うシステムとなっていた。そしてその下にナーヒエ(郷)、さらにその下にキョイ(村)があった。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "当初、地方行政区画としてはアナドル州とルメリ州のみであったが、ブダを中心とするブディン州、トゥムシュヴァルを中心にするトゥムシュヴァル州、サラエヴォを中心とするボスナ州が16世紀末までに設置され、それぞれその下にベイレルベイが設置された。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 88,
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"text": "さらに16世紀に入ると統治地域が増加したことにより、専管水域も拡大した。そのため、海洋にもベイレルベイが設置され、カプタン・パシャ(大提督)が補任した。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "中央では、皇帝を頂点とし、大宰相(サドラザム (en) )以下の宰相(ヴェズィール (en) )がこれを補佐し、彼らと軍人法官(カザスケル)、財務長官(デフテルダル(英語版))、国璽尚書(ニシャンジュ)から構成される御前会議(ディーヴァーヌ・ヒュマーユーン)が最高政策決定機関として機能した。17世紀に皇帝が政治の表舞台から退くと、大宰相が皇帝の代理人として全権を掌握するようになり、宮廷内の御前会議から大宰相の公邸である大宰相府(バーブ・アーリー)に政治の中枢は移る。同じ頃、宮廷内の御前会議事務局から発展した官僚機構が大宰相府の所管になり、名誉職化した国璽尚書に代わって実務のトップとなった書記官長(レイスルキュッターブ)、大宰相府の幹部である大宰相用人(サダーレト・ケトヒュダース)などを頂点とする高度な官僚機構が発展した。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "中央政府の官僚機構は、軍人官僚(カプクル)と、法官官僚(ウラマー)と、書記官僚(キャーティプ)の3つの柱から成り立つ。軍人官僚のうちエリートは宮廷でスルタンに近侍する小姓や太刀持ちなどの役職を経て、イェニチェリの軍団長や県知事・州知事に採用され、キャリアの頂点に中央政府の宰相、大宰相があった。法官官僚は、メドレセ(宗教学校)でイスラム法を修めた者が担い手であり、郡行政を司り裁判を行うカーディーの他、メドレセ教授やムフティーの公職を与えられた。カーディーの頂点が軍人法官(カザスケル)であり、ムフティーの頂点がイスラムに関する事柄に関する帝国の最高権威たる「イスラムの長老」(シェイヒュルイスラーム)である。書記官僚は、書記局内の徒弟教育によって供給され、始めは数も少なく地位も低かったが、大宰相府のもとで官僚機構の発展した17世紀から18世紀に急速に拡大し、行政の要職に就任し宰相に至る者もあらわれるようになる。この他に、宦官を宮廷使役以外にも重用し、宦官出身の州知事や宰相も少なくない点もオスマン帝国の人的多様性を示す特徴と言える。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "これらの制度は、19世紀以降の改革によって次第に西欧を真似た機構に改められていった。例えば、書記官長は外務大臣、大宰相用人は内務大臣に改組され、大宰相は御前会議を改めた閣議の長とされて事実上の内閣を率いる首相となった。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "しかし、例えば西欧法が導入され、世俗法廷が開設されても一方ではシャリーア法廷がそのまま存続したように、イスラム国家としての伝統的・根幹的な制度は帝国の最末期まで廃止されることはなかった。帝国の起源がいずれにあったとしても、末期のオスマン帝国においては国家の根幹は常にイスラムに置かれていた。これらのイスラム国家的な制度に改革の手が入れられるのは、ようやく20世紀前半の統一派政権時代であり、その推進は帝国滅亡後のトルコ共和国による急速な世俗化改革をまたねばならなかった。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "『オスマン帝国の行政遺産および現代中東』を執筆したカーター・ヴォーン・フィンドリーによると、1800年代初頭、オスマン帝国は、自由主義という新たな世界秩序に適応するために、「タンジマート」の時期を迎えた。オスマン帝国の支配者は、広大な土地に散らばる臣民との関係を断ち切っていたため、あらゆる方面から様々な独立思想の影響を受けやすかったのである。このような時期の戦略的な変化の一つが、再び権力を集中化することであった。 さらにフィンドリーは、市場を独占していた国家主導の企業に対する自由貿易と、1838年のインフィタ時代に出された保護法との争いがあったことも指摘している。フィンドリーによると、オスマン帝国の支配階級には、軍、宗教、奉仕という3つの重要な機能的区分があった。軍は、軍事工学学校の設立、軍内の外交術の改革、さらに服務規定の改善により、文官としてのプロ意識が育まれた、1800年代のマフムト2世とアブデュルハミト2世の時代に最も強化された。文官支配は「1908年から1950年までトルコを支配し続けた」。フィンドリーはこの遺産を、タンジマート時代に促進されたインフィタ(開かれた貿易市場)時代に起因するとしている。このようなタンジマートの「後継者」または遺産が、「ホーラーニの自由主義時代、アラブの社会主義の一時的な流行、そして冷戦後の時代」を通じて存続した。また、19世紀には文官の雇用率が高まり、行政の質が低下して破産および対外債務につながったが、一方で、不規則な採用および昇進方法はスルターンが利用した利権の保護手段であった。1838年から1839年にかけてのタンジマート時代は、イスラム社会に対する急激な西洋化と批判され、近代主義を通してオスマン帝国によるイスラムの古い価値観の復活を望む国民主義的なオスマン帝国の人々が結集した",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "オスマン帝国が最大版図となった時、その支配下は自然的地理環境や生態的環境においても多様なものを含んでおり、さらに歴史的過去と文化的伝統も多様なものが存在した。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "オスマン帝国南部であるアラブ圏ではムスリムが大部分であり、また、その宗教はオスマン帝国の支配イデオロギーであるスンナ派が中心を成していたが、イラク南部ではシーア派が多数存在しており、また、現在のレバノンに当たる地域にはドゥルーズ派が多数存在していた。しかし、これだけにとどまらず、エジプトのコプト正教会、レバノン周辺のマロン派、シリア北部からイラク北部にはネストリウス派の流れを汲むアッシリア東方教会が少数、ギリシャ正教、アルメニア使徒教会、ローマ・カトリック、ユダヤ教徒などもこのアラブ圏で生活を営んでいた。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "そしてアナトリアでは11世紀以降のイスラム化の結果、ムスリムが過半数を占めていたが、ビザンツ以来のギリシャ正教徒、アルメニア教会派も多数存在しており、その他、キリスト教諸教派も見られ、ユダヤ教徒らも少数存在した。しかし、15世紀にイベリア半島でユダヤ教徒排斥傾向が強まると、ユダヤ教徒らが多くアナトリアに移民した。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "バルカン半島ではアナトリアからの流入、改宗によりムスリムとなる人々もいたが、キリスト教徒が大多数を占めており、正教徒が圧倒的多数であったがアドリア海沿岸ではカトリック教徒らが多数を占めていた。また、ムスリムとしてはトルコ系ムスリムとセルボ・クロアチア語を使用するボスニアのムスリム、そしてアルバニアのムスリムなどがムスリムとしての中心を成していた。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "一方で1526年に占領されたハンガリー方面ではカトリックとプロテスタントの間で紛争が始まった時期であった。オスマン帝国はプロテスタント、カトリックどちらをも容認、対照的にハプスブルク帝国占領下であったフス派の本拠地、ボヘミアではプロテスタントが一掃されていた。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "こうして西欧ではキリスト教一色となって少数のユダヤ人らが許容されていたに過ぎない状態であったのと対照的にオスマン帝国下ではイスラム教という大きな枠があるとはいえども多種の宗教が許容されていた。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "オスマン帝国が抱え込んだものは宗教だけではなかった。その勢力範囲には同じ宗教を信仰してはいたものの各種民族が生活しており、また、言語も多種にわたった。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "オスマン帝国元来の支配層はトルコ人であり、イスラム教徒であった。ただし、このトルコ人という概念も「トルコ語」を母語しているということだけではなく、従来の母語からトルコ語へ母語を変更したものも含まれていた。これはオスマン帝国における民族概念が生物学的なものではなく、文化的なものであったことを示している。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "オスマン帝国の南部を占めるイラクからアルジェリアにかけてはアラビア語を母語として自らをアラブ人と認識する人々が多数を占めていた。しかし、西方のマグリブ地域に向かうとベルベル語を母語とするベルベル人、そして北イラクから北シリアへ向かうとシリア語を母語としてネストリウス派を奉じるアッシリア人が少数であるが加わった。微妙な立場としてはコプト正教会でありながらコプト語を宗教用にしか用いず、日常にはアラビア語を用いていたコプト正教徒らが存在する。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "また、アナトリア東部から北イラク、北シリアにはスンナ派のクルド人らが存在しており、クルド語を母語としていた。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "元東ローマ帝国領であったアナトリア及びバルカン半島では、ギリシャ語を母語としてギリシャ正教を奉じるギリシャ人らが多数を占めていた。ただし、アナトリア東部と都市部にはアルメニア語を母語としてアルメニア使徒教会派であるアルメニア人らも生活を営んでいた。バルカン半島では民族、言語の分布はかなり複雑となっていた。各地にはオスマン帝国征服後に各地に散らばったトルコ人らが存在したが、それ以前、ルーマニア方面にはトルコ語を母語とするが正教徒であるペチェネク人らも存在した。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "バルカン半島東部になるとブルガリア語を母語として正教を奉じるブルガリア人、西北部にはセルボ・クロアチア語を母語として正教徒である南スラブ系の人々、これらの人々は正教を奉じた人々らはセルビア人、カトリックを奉じた人々らはクロアチア人という意識をそれぞれ持っていた。しかし、ボスニア北部では母語としてセルボ・クロアチア語を使用しながらもムスリムとなった人々が存在しており、これらはセルビア人、クロアチア人からは「トゥルチン(トルコ人」と呼ばれた。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 106,
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"text": "アルバニアではアルバニア語を母語とするアルバニア人らが存在したが、15世紀にその多くがイスラム教へ改宗した。ただし、全てではなく、中には正教、カトリックをそのまま奉じた人々も存在する。そしてオスマン帝国がハンガリー方面を占領するとハンガリー語を母語としてカトリックを中心に、プロテスタントを含んだハンガリー人もこれに加わることになる。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "その他、ユダヤ教を信じる人々が存在したが、母語はバラバラであり、ヘブライ語はすでに典礼用、学問用の言語と化していた。オスマン帝国南部ではアラビア語、北部では東ローマ帝国時代に移住した人々はギリシャ語、15世紀末にイベリア半島から移住した人々はラディーノ語、ハンガリー征服以後はイディッシュ語をそれぞれ母語とするユダヤ教徒らがオスマン帝国に加わることになる。ただし、彼らは母語こそ違えどもユダヤ教という枠の中でアイデンティティを保持しており、ムスリム側も宗教集団としてのユダヤ教徒(ヤフディー)として捉えていた。",
"title": "制度"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "オスマン帝国は勢力を拡大すると共にイスラム教徒以外の人々をも支配することになった。その為の制度がミッレト制であり、サーサーン朝ペルシアなどで用いられていたものを採用した。この対象になったのはユダヤ教徒、アルメニア使徒教会派、ギリシャ正教徒らであった。また、成立時より東ローマ帝国と接してきたオスマン帝国は教会をモスクに転用した例こそあれども、東ローマ帝国臣民を強制的にムスリム化させたという証拠は見られず、むしろ、15世紀初頭以来残されている資料から東ローマ帝国臣民をそのまま支配下に組み込んだことが知られている。",
"title": "ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "このミッレトに所属した人々は人頭税(ジズヤ)の貢納義務はあったが、各自ミッレトの長、ミッレト・バシュを中心に固有の宗教、法、生活習慣を保つことが許され、自治権が与えられた。",
"title": "ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "これらミッレト制はシャーリア上のズィンミー制に基づいていたと考えられており、過去には唯一神を奉じて啓示の書をもつキリスト教徒やユダヤ教徒などいわゆる「啓典の民」らはズィンマ(保護)を与えられたズィンミー(被保護民)としてシャーリアを破らない限りはその信仰、生活を保つことが許されていた。オスマン帝国はこれを受け継いでおり、元々東ローマ帝国と接してきた面から「正教を奉じ、ギリシャ語を母語とするローマ人にして正教徒」というアイデンティティの元、ムスリム優位という不平等を元にした共存であった。",
"title": "ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "このミッレト制は過去に語られた「オスマン帝国による圧政」を意味するのではなく、「オスマンの平和」いわゆる「パックス・オトマニカ」という面があったということを意味しており、20世紀以降激化している中東の紛争、90年代の西バルカンにおけるような民族紛争・宗教紛争もなく、オスマン帝国支配下の時代、平穏な時代であった。",
"title": "ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "ユダヤ人の宗派共同体は東ローマ帝国時代からすでに存在した。1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国領となると、そのミッレトは東ローマ帝国時代と同じ待遇で扱われることを認められ、公認のラビが監督することになった。オスマン帝国はユダヤ人ということで差別することがなかったため、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア、スペインなどからの移民も別け隔てなく受け入れた。ただし、これら新規に流入したユダヤ人たちは纏まりを欠いたため、オスマン帝国がハハム・バシュを任命してこれら小集団と化したユダヤ人らを統括した。",
"title": "ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "なお、バヤズィト2世の時代にはユダヤ人らを厚遇するように命じた勅令を発布している。",
"title": "ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "アルメニア人らは合性論を教義とする非カルケドン派が多かったため、東ローマ帝国時代から異端視される傾向が強かった。そのため、東ローマ皇帝によってカフカースからカッパドキア、キリキアへ移住させられ、キリキア・アルメニア王国(小アルメニア)を形成することになった。アルメニア本土はセルジューク軍、モンゴル軍、ティムール帝国などの侵略を受けたが、小アルメニアはなんとか自立を保つことができた。その後、オスマン帝国の侵略を受けたが、小アルメニア、アルメニア本土はすぐにオスマン帝国領化することもなかった。しかし、メフメト2世の時代、アルメニア人らのミッレトが形成されたが、アルメニア本土がオスマン帝国領になるのは1514年のことであった。",
"title": "ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策"
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{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "ギリシャ正教徒のミッレトにはギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人、ワラキア人らが所属した。彼らはバルカン半島の主要な民族であったために、メフメト2世がギリシャ正教総主教にゲンナデオス2世を任命してミッレト統括者にしたように重要視された。なお、ルメリ地方にミッレト制が導入されたのはメフメト2世以降であり、コンスタンティノープルが陥落するまでは導入されなかった。",
"title": "ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策"
},
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"paragraph_id": 116,
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"text": "なお、このミッレトには上記民族以外にもアラビア語を母語とするキリスト教徒、トルコ語を母語とするキリスト教徒(カラマンル)らも含まれることになり、キリスト教徒(正教徒)としての意識を持ってはいたが、それ以上に母語を元にした民族意識も二次的ながら存在していた。",
"title": "ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策"
},
{
"paragraph_id": 117,
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"text": "しかし、オスマン帝国の首都がイスタンブールであったため、イスタンブールにあった全地総主教座を頂点とする正教会上層部がこの主導権を握ることになったため、ギリシャ系正教徒が中心をなし、ギリシャ系正教徒が著しく重きをなした。これに対して過去にステファン・ドゥシャンが帝国を築いたという輝かしい過去をもつセルビア系正教徒らは反感を持っており、1557年、ボスニア出身の元正教徒で大宰相となったソコルル・メフメト・パシャの尽力によりセルビア総主教座を回復したが、これはイスタンブールの総主教座の強い抗議により1766年に廃止された。この例を見るようにオスマン帝国支配下の正教徒社会の中ではギリシャ系の人々が強い影響力をもっていた。",
"title": "ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "イスタンブールの総主教を中心とする正教会はオスマン帝国内だけではなく、オスマン帝国外にも信仰上の影響力があった。コンスタンティノープル陥落以降、教育機関が消滅したが、イスタンブールの総主教座の元では聖職者養成学校が維持され、さらにアトス山の修道院も維持され、その宗教寄進もスルタンに承認されていた。",
"title": "ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "これらのことから教会の上位聖職者はギリシャ系が占めることになったが、これは非ギリシャ系正教徒らに対して「ギリシャ化」を促進しようとする傾向として現れた。18世紀になるとアルバニア系正教徒らがアルバニア語を用いて教育することをオスマン政府に要請したが、これはギリシャ系正教会の手によって握りつぶされ、ファナリオテスがエフラク、ボーダンの君侯になったことにより、ルーマニア系正教徒に対してギリシャ系の優位とそのギリシャ化を推進しようとした。",
"title": "ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "さらに法律の世界でも正教会が重要な位置を占めており、東ローマ時代には皇帝の権力の元、司法と民政を担っていたが、オスマン帝国支配となると裁判などにおいて当事者が正教徒同士である場合、正教会に委ねられることになった。そのため、ムスリムらの固有法がシャーリアであったのに対して、正教徒らはローマ法が固有の法であった。",
"title": "ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策"
},
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"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "イスラムの伝統様式を発展させ、オスマン建築と呼ばれる独特の様式を生み出した。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "オスマン帝国では15世紀末、イズニクにおいて飛躍的に陶芸が発達した。これをイズニク陶器(英語版)と呼ぶ。中国陶器の影響を受け、初期には青と白を基調にし、のちにイズニクならではと言われた赤色を使用したものが生まれた。これらの陶器は皿などの一般的なものだけではなく、モスクや宮殿も彩った。17世紀に入ると徐々にイズニクでの陶器製造は衰え、テクフール・サライやキュタヒヤが後を継いだがイズニクを越えることは叶わなかった。",
"title": "文化"
},
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"tag": "p",
"text": "しかし、イズニク陶器の影響はオスマン帝国属州に広がり、シリア、チュニジアなどで製造されたタイルにはその影響が強くみられる。",
"title": "文化"
},
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"paragraph_id": 124,
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"text": "オスマン帝国の宮廷では詩が特権的な立場を得ていた。スルタンの多くが詩作に耽り、また、プルサ、エディルネのような旧都や後に加わったバクダットなどでも作成され、宮廷詩人らはメドレセでアラビアやペルシアの文学を学んだ。その中でもバーキーやフズーリーなどの詩人が生まれた。",
"title": "文化"
},
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"text": "イスラム世界から受け継いだアラビア文字の書道が発展し、絵画は、中国絵画の技法を取り入れたミニアチュール(細密画)が伝わった。",
"title": "文化"
},
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"text": "アラブ音楽の影響を受けたリュート系統の弦楽器や笛を用いた繊細な宮廷音楽(オスマン古典音楽)と、ティンパニ、チャルメラ・ラッパや太鼓の類によって構成された勇壮な軍楽(メフテル)とがオスマン帝国の遺産として受け継がれている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 127,
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"text": "オスマン帝国は、600年の歴史の中で科学技術を大きく進歩させていた。その分野は数学、天文学、医学など幅広く及んでおり、特に天文学は同帝国において非常に重要な分野に位置付けられていた。",
"title": "科学と技術"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "17世紀の1683年、皇帝メフメト4世の治世の元、オスマン帝国は勢力的に最大版図を築いた。オスマン帝国の歴史学者らはこのオスマン帝国の最盛期や、その後の時代をパクス・オトマニカと呼ぶ。",
"title": "パクス・オトマニカ"
}
] | オスマン帝国は、かつて存在したテュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国である。英語圏ではオットマン帝国 と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノープル(後のイスタンブール)を征服し、この都市を自らの首都とした。17世紀の最大版図は中東からアフリカ・欧州に著しく拡大した。東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリーに至る広大な領域に及んだ。 | {{特殊文字}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = オスマン帝国
|日本語国名 = オスマン帝国
|公式国名 = {{native name|ota|دولت عليۀ عثمانيه|italic=no}}
|建国時期 = [[1299年]]
|亡国時期 = [[1922年]]
|先代1 = ルーム・セルジューク朝
|先代1略 = セルジューク朝
|先旗1 = Flag of Sultanate of Rum.svg
|先代2 = セルビア公国 (中世)
|先代2略 = セルビア公国
|先旗2 = Supposed Flag of the House of Crnojevic.svg
|先代3 = ハンガリー王国
|先旗3 = Arpadflagga hungary.svg
|先代4 = マムルーク朝
|先旗4 = Mameluke Flag.svg
|先代5 = ザイヤーン朝
|先旗5 = Dz tlem2.png
|先代6 = ハフス朝
|先旗6 = Tunis Hafsid flag.svg
|先代7 = 第二次ブルガリア帝国
|先旗7 = Flag_of_the_Second_Bulgarian_Empire.svg
|先代11 = 東ローマ帝国
|先旗11 =Byzantine_imperial_flag,_14th_century.svg
|先旗11縁 =no
|先代12 = モレアス専制公領
|先旗12 = Flag of PalaeologusEmperor.svg
|先代13 = エピロス専制侯国
|先旗13 =Tocco_stemma.svg
|先代14 = トレビゾンド帝国
|先旗14 = Banner_of_the_Empire_of_Trebizond.svg
|先代15 = ワラキア公国
|先旗15 = Flag of Wallachia.svg
|次代1 = トルコ
|次代1略 = トルコ共和国
|次旗1 = Flag_of_Turkey.svg
|次代2 = フランス委任統治領シリア
|次旗2 = Flag of the French Mandate of Syria (1920).svg
|次代3 = イギリス委任統治領メソポタミア
|次旗3 = Flag of Iraq 1924.svg
|次代4 = イギリス委任統治領パレスチナ
|次旗4 = Palestine-Mandate-Ensign-1927-1948.svg
|次代5 = ヒジャーズ王国
|次旗5 = Flag of Hejaz 1920.svg
|次代6 = セルビア公国 (近代)
|次代6略 = セルビア公国
|次旗6 = Flag of Serbia (1835-82).png
|次代7 = ギリシャ第一共和政
|次旗7 = Flag of Greece (1822-1978).svg
|次代8 = フサイン朝
|次旗8 = Flag of Tunis Bey-fr.svg
|次代9 = フランス領アルジェリア
|次旗9 = Flag of France.svg
|次代10 = ブルガリア公国
|次旗10 = Flag of Bulgaria.svg
|次代11 = イギリス領キプロス
|次旗11 = Flag of Cyprus (1922-1960).svg
|次代12 = エジプト王国
|次旗12 = Egypt flag 1882.svg
|次代13 = ロシア帝国
|次旗13 = Flag_of_Russia.svg
|次代14 = ルーマニア公国
|次旗14 = Flag_of_Romania.svg
|次代15 = オーストリア帝国
|次旗15 = Flag of the Habsburg Monarchy.svg
|次代16 = イタリア領リビア
|次旗16 = Flag of Italy (1861-1946) crowned.svg
|国旗画像 = Flag of the Ottoman Empire (1844–1922).svg
|国旗リンク =[[トルコの国旗|国旗]]
|国旗幅 =
|国旗縁 =
|国章画像 = Coat of arms of the Ottoman Empire (1882–1922).svg
|国章リンク = [[オスマン帝国の国章|国章]]
|国章幅 = 100
|標語 = {{lang|ota|دولت ابد مدت}}{{Languageicon|ota}}<br />''永遠の国家''
|標語追記 =
|国歌 = [[オスマン帝国の国歌]]<br>[[File:Mahmudiye Marşı-instrumental.ogg]]
|国歌追記 =
|位置画像 = Ottoman Empire, AD1683.png
|位置画像説明 = オスマン帝国の最大版図(1683年)
|位置画像幅 =
|公用語 = [[オスマン語]]
|言語 = [[ペルシャ語]]<br>[[アラビア語]]<br>[[ギリシャ語]]<br>[[チャガタイ語]]<br>[[フランス語]]
|国教 = [[スンナ派|イスラム教スンナ派]]
|宗教 = [[ハナフィー学派]]<br>[[マートゥリーディー学派]]
|首都 = [[ソユット]]<br>{{smaller|(1302年 - 1309年)}}<br />[[ブルサ]]<br>{{smaller|(1326年 - 1365年)}}<br />[[エディルネ]]<br>{{smaller|(1365年 - 1453年)}}<ref>"In 1363 the Ottoman capital moved from Bursa to Edirne, although Bursa retained its spiritual and economic importance." [http://www.kultur.gov.tr/–EN,33810/ottoman-capital-bursa.html ''Ottoman Capital Bursa'']. Official website of Ministry of Culture and Tourism of the Republic of Turkey. Retrieved 26 June 2013.</ref><br />[[コンスタンティノープル|コスタンティーニーイェ]]<br>{{smaller|(1453年 - 1922年)}}<ref>In Ottoman Turkish the city was known with various names, among which were ''[[:en:Kostantiniyye]]'' ({{lang|ota-Arab|قسطنطينيه}}) (replacing the suffix ''-polis'' with the Arabic [[:en:Arabic nouns and adjectives#Nisba|nisba]]), ''[[:en:Dersaadet]]'' ({{lang|ota-Arab|در سعادت}}) and ''Istanbul'' ({{lang|ota-Arab|استانبول}}). Names other than Istanbul gradually became obsolete in Turkish, and after Turkey's transition to Latin script in 1928, the city's Turkish name attained international usage.</ref>
|元首等肩書 = [[オスマン帝国の君主|皇帝]]
|元首等年代始1 = 1299年
|元首等年代終1 = 1326年
|元首等氏名1 = [[オスマン1世]]{{smaller|(初代)}}
|元首等年代始2 = 1918年
|元首等年代終2 = 1922年
|元首等氏名2 = [[メフメト6世]]{{smaller|(最後)}}
|首相等肩書 = [[大宰相]]
|首相等年代始1 = 1320年
|首相等年代終1 = 1331年
|首相等氏名1 = [[アラエッディン・パシャ]]{{smaller|(初代)}}
|首相等年代始2 = 1920年
|首相等年代終2 = 1922年
|首相等氏名2 = [[アフメト・テヴフィク・パシャ]]{{smaller|(最後)}}
|面積測定時期1 = 1683年
|面積測定時期2 = 1914年
|面積値1 = 5,500,000
|面積値2 = 1,800,000
|人口測定時期1 = 1520年<ref>Kabadayı p3</ref>
|人口値1 = 11,692,480
|人口測定時期2 = 1566年<ref>Kinross & 1979 p.206)</ref>
|人口値2 = 15,000,000
|人口測定時期3 = 1683年<ref>Kinross & 1979 p.281)</ref>
|人口値3 = 30,000,000
|人口測定時期4 = 1856年
|人口値4 = 35,350,000
|人口測定時期5 = 1906年
|人口値5 = 20,884,000
|人口測定時期6 = 1914年
|人口値6 = 18,520,000
|人口測定時期7 = 1919年
|人口値7 = 14,629,000
|変遷1 = 建国
|変遷年月日1 = 1299年
|変遷2 = [[コンスタンティノープルの陥落]]
|変遷年月日2 = 1453年5月29日
|変遷3 = [[第二次ウィーン包囲]]
|変遷年月日3 = 1683年9月12日
|変遷4 = [[青年トルコ人革命]]
|変遷年月日4 = 1908年7月3日
|変遷5 = 滅亡
|変遷年月日5 = 1922年11月17日
|通貨 = [[アクチェ]]<br />[[クルシュ]]<br />[[トルコリラ|リラ]]
|通貨追記 =
|時間帯 =
|夏時間 =
|時間帯追記 =
|ccTLD =
|ccTLD追記 =
|国際電話番号 =
|国際電話番号追記 =
|現在 = {{TUR}}
|注記 =
}}
'''オスマン帝国'''(オスマンていこく、{{Rtl翻字併記|ota|'''دولتِ عليۀ عثمانيه'''|Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye}})は、かつて存在した[[テュルク|テュルク系]](後の[[トルコ人]])の[[オスマン家]]出身の[[オスマン帝国の君主|君主(皇帝)]]を戴く[[多民族国家|多民族]][[帝国]]である。[[英語圏]]ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。[[15世紀]]には[[東ローマ帝国]]を滅ぼしてその[[首都]]であった[[コンスタンティノープル]](後の[[イスタンブール]])を[[征服]]し、この[[都市]]を自らの首都とした。[[17世紀]]の最大版図は[[中東]]から[[アフリカ]]・[[ヨーロッパ|欧州]]に著しく拡大した。東西は[[アゼルバイジャン]]から[[モロッコ]]に至り、南北は[[イエメン]]から[[ウクライナ]]、[[ハンガリー]]に至る広大な領域に及んだ。
== 概要 ==
[[アナトリア半島|アナトリア]]([[小アジア]])の片隅に生まれた小[[ベイリク|君侯国]]から発展した[[イスラム王朝]]であるオスマン朝は、やがて[[東ローマ帝国]]などの[[東ヨーロッパ]][[キリスト教]]諸国、[[マムルーク朝]]などの[[西アジア]]・[[北アフリカ]]の[[イスラム教]]諸国を征服して[[地中海]]世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展した。
その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。[[宗教改革]]にも間接的ながら影響を及ぼし、[[神聖ローマ帝国]]の[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]が持っていた西欧の統一と[[カトリック]]的世界帝国構築の夢を挫折させる主因となった。そして、「トルコの脅威」に脅かされた神聖ローマ帝国は「トルコ税」を新設、[[中世封建体制]]から[[絶対王政]]へ移行することになり、その促進剤としての役割を務めた<ref name="suzuki00130">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.130]].</ref>。[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]がオスマン帝国を圧迫するようになると、神聖ローマが[[ロマノフ朝]]を支援して前線を南下させた。
19世紀中ごろに英仏が地中海規模で版図分割を実現した。[[オスマン債務管理局]]が設置された世紀末から、[[ドイツ帝国]]が最後まで残っていた領土のアナトリアを開発した。このような経緯から、オスマン帝国は[[中央同盟国]]として[[第一次世界大戦]]に参戦したが、敗れた。敗戦後の講和条約の[[セーブル条約]]は列強によるオスマン帝国の解体といえる内容だったため、同条約に反対する勢力が[[アンカラ]]に[[アンカラ政府|共和国政府]]を樹立し、[[1922年]]にはオスマン家の[[スルタン|スルタン制度]]の廃止を宣言、メフメト6世は亡命した。[[1923年]]には「アンカラ政府」が「トルコ共和国」の建国を宣言し、[[1924年]]にはオスマン家のカリフ制度の廃止も宣言。その結果、アナトリアの[[国民国家]][[トルコ|トルコ共和国]]に取って代わられた([[トルコ革命]])。
== 国名 ==
英語でオスマン帝国を {{lang|en|''Ottoman Turks''}}, {{lang|en|''Turkish Empire''}} と呼んだことから、かつては「'''オスマントルコ'''」、「'''トルコ帝国'''」、「'''オスマントルコ帝国'''」、「'''オスマン朝トルコ帝国'''」とされることが多かったが、現在は'''オスマン帝国'''あるいは単に'''オスマン朝'''と表記するようになっており、オスマントルコという表記は使われなくなってきている。これは、[[オスマン帝国の君主|君主]]([[パーディシャー]]、[[スルターン|スルタン]])の出自は[[トルコ人|トルコ系]]で宮廷の言語も[[オスマン語]]と呼ばれる[[アラビア語]]や[[ペルシア語]]の語彙を多く取り込んだ[[トルコ語]]ではあったが、支配階層には[[民族]]・[[宗教]]の枠を越えて様々な出自の人々が登用されており、国内では多宗教・多民族が共存していたことから、単純にトルコ人の[[国家]]とは規定しがたいことを根拠としている。事実、オスマン帝国の内部の人々は滅亡の時まで決して自国を「トルコ帝国」とは称さずに「オスマン家の崇高なる国家」「オスマン国家」などと称しており、オスマン帝国はトルコ民族の国家であると認識する者は帝国の最末期までついに現れなかった。つまり、帝国の実態からも正式な国号という観点からもオスマントルコという呼称は不適切であり、オスマン帝国をトルコと呼んだのは実は外部からの通称に過ぎない<ref>トルコと呼ぶべきでない理由について。[[#新井2009|新井2009]]、pp.24-27</ref><ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、pp.117-121]].</ref>。
なお、オスマン帝国の後継国家であるトルコ共和国は正式な国号に初めて「トルコ」という言葉を採用したが、オスマン帝国を指すにあたっては「オスマン帝国」にあたる {{lang|tr|''Osmanlı İmparatorluğu''}} や「オスマン国家」にあたる {{lang|tr|''Osmanlı Devleti''}} の表記を用いるのが一般的であり、オスマン朝トルコ帝国という言い方は現地トルコにおいても行われることはない。
== 歴史 ==
歴代皇帝については'''[[オスマン家]]'''を参照。オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖[[オスマン1世]]がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる[[1299年]]を建国年とするのが通例であり、[[帝制]]が廃止されて[[メフメト6世]]が廃位された[[1922年]]が滅亡年とされる。
もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定していくことは難しい<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、pp.22-23]].</ref>。
{{トルコの歴史}}
=== 建国期 ===
[[ファイル:Sipahi3.jpg|thumb|200px|right|初期オスマン帝国の騎兵([[スィパーヒー]])]]
{{main|en:Rise of the Ottoman Empire|オスマン1世|オルハン}}
[[13世紀]]末に、[[東ローマ帝国]]と[[ルーム・セルジューク朝]]の国境地帯(ウジ)であったアナトリア西北部[[ビレジク]]にあらわれたトルコ人の遊牧部族長[[オスマン1世]]が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、オスマンを指導者とした[[ムスリム]](イスラム教徒)のガーズィー([[ジハード]]に従事する戦士)が集団を形成したとされる説<ref name="nagata02174">[[#永田(西アジア史イラン・トルコ)|永田(2002)、p.174]]</ref>が欧州では一般的であるが、[[遊牧民]]の集団であったとする説も根強く{{#tag:ref|15世紀後半の古伝承によれば、トルコ系[[オグズ族]]の[[カユ部族]]が起源とされており、この説は1930年代に異論が出るまで主流であった<ref name="名前なし-1">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.48]].</ref>。|group=#}}、未だに決着はされていない<ref name="G223">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.223]].</ref>{{#tag:ref|キリスト教世界への聖戦に燃えたトルコ人騎士らがガーズィーを形成して東ローマ帝国内へ侵入を繰り返したとする説はキョプリュリュ=ヴィテック説と呼ばれる<ref>[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.6]].</ref>。|group=#}}。彼らオスマン集団は、オスマン1世の父[[エルトゥールル|エルトゥグルル]]の時代にアナトリア西北部のソユットを中心に活動していたが<ref name="G223"/>、オスマンの時代に周辺の[[キリスト教徒]]やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展する'''{{仮リンク|オスマン君侯国|tr|Osmanlı Beyliği}}'''を築き上げた{{#tag:ref|このオスマン率いる軍勢の中にはキリスト教系騎士も参加しており、アナトリア北西の[[ハルマンカヤ]]のギリシャ人領主であった[[キョセ・ミハル]]は生涯、オスマンと同盟を結んだ<ref name="hayashi979"/>。また、逆にトルコ系[[チョンバオール家]]はオスマンとの同盟を破って東ローマ帝国と同盟を結ぶなど、宗教、民族の枠を超えて活動していた<ref name="hayashi9710">[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.10]].</ref>。|group=#}}<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、pp.30-33]]</ref><ref name="hayashi979">[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.9]].</ref>。
[[1326年]]頃、オスマンの後を継いだ子の[[オルハン]]は、即位と同じ頃に東ローマ帝国の地方都市プロウサ(現在の[[ブルサ]])を占領し、さらに[[マルマラ海]]を隔てて[[ヨーロッパ大陸]]を臨むまでに領土を拡大<ref name="名前なし-2">[[#鈴木1992|鈴木1992、p.36]]</ref><ref name="名前なし-1"/>、アナトリア最西北部を支配下とした上で東ローマ帝国首都コンスタンティノープルを対岸に臨む[[ユスキュダル|スクタリ]]をも手中に収めた<ref name="G223"/>。ブルサは15世紀初頭までオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる<ref name="名前なし-2"/>。
[[1346年]]、東ローマの共治皇帝[[ヨハネス6世カンタクゼノス]]は後継者争いが激化したため、娘テオドラをオルハンに嫁がせた上で同盟を結び{{#tag:ref|この同盟はヨハネス6世カンタクゼノスが失脚することにより解消される<ref name="hayashi9712">[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.12]].</ref>。|group=#}}、オスマンらをアナトリアより呼び寄せて[[ダーダネルス海峡]]を渡らせて[[バルカン半島]]の[[トラキア]]に進出させた<ref name="hayashi9711">[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.11]].</ref>。これを切っ掛けにオスマンらはヨーロッパ側での領土拡大を開始([[東ローマ内戦 (1352年 - 1357年)]])、[[1354年]][[3月2日]]に[[ゲリボル|ガリポリ]]一帯が地震に見舞われ、城壁が崩れたのに乗じて占領し([[ガリポリ陥落]])、橋頭堡とした<ref name="G206">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.206]].</ref><ref name="hayashi9711"/>。後にガリポリスはオスマン帝国海軍の本拠地となった<ref name="G233">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.233]].</ref>。オルハンの時代、オスマン帝国はそれまでの辺境の武装集団から[[ベイリク|君侯国]]への組織化が行われた<ref name="G224">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.224]].</ref>。
=== ヨーロッパ侵攻とイェニチェリの時代 ===
[[ファイル:Miloš Obilić, by Aleksandar Dobrić, 1861.jpg|thumb|200px|ムラト1世と刺し違えたと伝承されるミロシュ・オビリチ]]
[[ファイル:Bataille de Nicopolis (Archives B.N.) 1.jpg|left|thumb|200px|ニコポリスの戦い]]
[[ファイル:Bajazeth - Timur - J N Geiger.jpg|thumb|200px|19世紀のヨーロッパの画家によって描かれたバヤズィトとティムール]]
{{main|ムラト1世|バヤズィト1世}}
オルハンの子[[ムラト1世]]は、即位するとすぐにコンスタンティノープルと[[ドナウ川]]流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在の[[エディルネ]])を占領、ここを第2首都とするとともに、[[デウシルメ]]と呼ばれるキリスト教徒の子弟を強制徴発することによる人材登用制度のシステムを採用して常備歩兵軍[[イェニチェリ]]を創設して国制を整えた<ref name="nagata02174"/><ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、p.44]]</ref>。さらに戦いの中で降伏したキリスト教系騎士らを再登用して軍に組み込むことも行った<ref name="hayashi9712"/>。
[[1371年]]、[[マリツァの戦い (1371年)|マリツァ川の戦い]]でセルビア諸侯連合軍を撃破、東ローマ帝国や[[第二次ブルガリア帝国]]はオスマン帝国への臣従を余儀なくされ、[[1387年]]、[[テッサロニキ]]も陥落<ref name="G206"/>、ライバルであったカラマン侯国も撃退した<ref name="hayashi9713">[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.13]].</ref>。[[1389年]]に[[コソボの戦い|コソヴォの戦い]]で[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]を中心とするバルカン諸国・諸侯の連合軍を撃破したが<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、p.45]]</ref>、ムラト1世はセルビア人貴族[[ミロシュ・オビリッチ]]によって暗殺された。しかし、その息子[[バヤズィト1世]]が戦場で即位したため事なきを得た上にコソヴォの戦いでの勝利は事実上、バルカン半島の命運を決することになった<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.227]].</ref>。なお、バヤズィト1世は即位に際し兄弟を殺害している。以降、オスマン帝国では帝位争いの勝者が兄弟を殺害する慣習が確立され<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、p.50・60-61]]</ref>、これを兄弟殺しという{{#tag:ref|先代が死去するとスルタン位継承した王子が他の王子を殺害するという慣習。のちにこれは廃れて幽閉制へと移り代わり、年長者もしくは前スルタンの弟がスルタンを継承するようになった<ref name="hayashi9716">[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.16]].</ref>。|group=#}}<ref name="hayashi9716"/>。バヤズィト1世は報復としてセルビア侯[[ラザル・フレベリャノヴィチ (セルビアの侯)|ラザル・フレベリャノヴィチ]]を始めとするセルビア人らの多くを処刑した{{#tag:ref|セルビア北部はセルビア侯の領有地とされ、ラザルの息子{{仮リンク|ステファン・ラザレヴィチ|en|Stefan Lazarević}}がデスポテース(公)に任命された<ref name="YT103">[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、p.103]].</ref>。|group=#}}<ref name="YT103"/>。
[[1393年]]には[[ヴェリコ・タルノヴォ|タルノヴォ]]を占領、第二次ブルガリア帝国も瓦解した。しかし、オスマン帝国はそれだけにとどまらず、さらに[[1394年]]秋には[[コンスタンティノポリス|コンスタンティノープル]]を一時的に包囲した上でギリシャ遠征を行い、[[ペロポネソス半島]]までがオスマン帝国の占領下となった<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.206-207]].</ref>。これらオスマン帝国の拡大により、ブルガリア、セルビアは完全に臣従、バルカン半島におけるオスマン帝国支配の基礎が固まった<ref name="YT103"/>。
さらにバヤズィト1世はペロポネソス半島、[[ボスニア]]、[[アルバニア]]まで侵略、[[ワラキア]]の[[ミルチャ1世]]はオスマン帝国の宗主権を一時的に認めなければいけない状況にまで陥った上、コンスタンティノープルが数回にわたって攻撃されていた。この状況はヨーロッパを震撼させることになり、[[ハンガリー王国|ハンガリー王]][[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]を中心にフランス、ドイツの騎士団、バルカン半島の諸民族軍らが[[十字軍]]を結成、オスマン帝国を押し戻そうとした<ref name="YT103"/><ref name="hayashi9714">[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.14]].</ref>。
しかし、[[1396年]]、[[ブルガリア]]北部における[[ニコポリスの戦い]]において十字軍は撃破されたため、オスマン帝国はさらに領土を大きく広げた<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、pp.51-52]]</ref>。しかし、[[1402年]]の[[アンカラの戦い]]で[[ティムール]]に敗れバヤズィト1世が捕虜となったため、オスマン帝国は[[1413年]]まで、空位状態となり<ref>[[#永田(西アジア史イラン・トルコ)|永田(2002)、p.173]]</ref>、さらにはアナトリアを含むオスマン帝国領がティムールの手中に収まることになった<ref name="G228">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.228]].</ref><ref name="YT103-4">[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、pp.103-104]].</ref><ref name="hayashi9714"/>。
=== 失地回復の時代 ===
{{main|メフメト1世|ムラト2世}}
バヤズィト亡き後のアナトリアは、オスマン朝成立以前のような、各君侯国が並立する状態となった<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、pp.55-56]]</ref>。このため、東ローマ帝国は[[テッサロニキ]]を回復、さらに[[アテネ公国]]も一時的ながらも平穏な日々を送ることができた<ref name="G207">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.207]].</ref>。
バヤズィトの子[[メフメト1世]]は、[[1412年]]に帝国の再統合に成功して失地を回復し<ref name="G228"/><ref name="YT103-4"/>、その子[[ムラト2世]]は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。こうして高まった国力を背景に[[1422年]]には再びコンスタンティノープルの包囲を開始、[[1430年]]にはテッサロニキ、[[ヨアニナ]]を占領、[[1431年]]には[[イピロス|エペイロス]]全土がオスマン支配下となった{{#tag:ref|エペイロスは当初従属国とされ、イタリア人専制公{{仮リンク|カルロ2世トッコ|en|Carlo II Tocco}}が統治した。なお、エペイロスがオスマン帝国領となるのは1449年のこと<ref name="G207"/>。|group=#}}<ref name="YT104">[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、p.104]].</ref>。
しかし、バルカン半島の諸民族はこれに対抗、ハンガリーの英雄[[フニャディ・ヤーノシュ]]はオスマン帝国軍を度々撃破し、アルバニアにおいてもアルバニアの英雄[[スカンデルベグ]]が[[1468年]]に死去するまでオスマン帝国軍を押し戻し、アルバニアの独立を保持するなど活躍したが、後にフニャディは[[1444年]]の[[ヴァルナの戦い]]、[[1448年]]の{{仮リンク|コソヴォの戦い (1448年)|en|Battle of Kosovo (1448)|label=コソヴォの戦い}}において敗北、モレア、アルバニア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを除くバルカン半島がオスマン帝国占領下となった<ref name="YT104"/>。
それ以前、東ローマ帝国皇帝[[ヨハネス8世パレオロゴス]]は西ヨーロッパからの支援を受けるために[[1438年]]から[[1439年]]にかけて[[フィレンツェ公会議]]に出席、東西教会の合同決議に署名したが、結局、西ヨーロッパから援軍が向かうことはなかった。[[1445年]]から[[1446年]]、後に東ローマ帝国最後の皇帝となる[[コンスタンティノス11世パレオロゴス]]がギリシャにおいて一時的に勢力を回復、ペロポネソス半島などを取り戻したが、オスマン帝国はこれに反撃、[[コリントス地峡]]のヘキサミリオン要塞を攻略してペロポネソス半島を再び占領したが<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.207-208]].</ref>、メフメト1世と次代[[ムラト2世]]の時代は失地回復に費やされることになった<ref name="G228">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.228]].</ref><ref name="hayashi9714"/>。
=== 版図拡大の時代 ===
{{main|en:Growth of the Ottoman Empire|メフメト2世|バヤズィト2世}}
{{See also|コンスタンティノープルの陥落}}
[[1453年]]、ムラト2世の子[[メフメト2世]]は東ローマ帝国の首都[[コンスタンティノポリス|コンスタンティノープル]]を攻略し、ついに東ローマ帝国を滅ぼした([[コンスタンティノープルの陥落]])<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、pp.65-74]]</ref>。コンスタンティノープルは以後オスマン帝国の首都となった<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、p.74]]</ref>。また、これ以後徐々に[[ギリシャ語]]に由来する[[イスタンブール]]という呼称がコンスタンティノープルに代わって用いられるようになった。そして[[1460年]]、[[ミストラス|ミストラ]]が陥落、ギリシャ全土がオスマン帝国領となり<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.208]].</ref>、オスマン帝国によるバルカン半島支配が確立した<ref>[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、pp.104-105]].</ref>。
陥落後、[[シャリーア|シャーリア]]に従うことを余儀なくされたコンスタンティノープルでは略奪の嵐が吹き荒れた。略奪の後、市内へ入ったメフメト2世はコンスタンティノープルの人々を臣民として保護することを宣言、さらに都市の再建を開始<ref name="G230">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.230]].</ref>、モスク、病院、学校、水道、市場などを構築し、自らの宮廷をも建設してコンスタンティノープルの再建に努めた<ref>[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、pp.19-20]].</ref>。
コンスタンティノープルの征服に反対した名門[[チャンダルル家]]出身の[[大宰相]]{{仮リンク|チャンダルル・ハリル・パシャ|en|Çandarlı (2nd) Halil Pasha}}を粛清し<ref name="nagata02233-6">[[#永田(西アジア史イラン・トルコ)|永田(2002)、pp.233-236]]</ref><ref name="G230">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.230]].</ref>、メフメト2世は、[[スルタン]]権力の絶対化と国家制度の中央集権化の整備を推進したことにより、トルコ系の有力な一族らは影を潜めその代わりにセルビア人の{{仮リンク|マフムト・パシャ|en|Mahmud Pasha Angelović}}、ギリシャ人の{{仮リンク|ルム・メフムト・パシャ|en|Rum Mehmed Pasha}}のようにトルコ人以外の人々が重きを成すようになった<ref>[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.21]].</ref>。
コンスタンティノープルを征服した後も、メフメト2世の征服活動は継続された<ref name="nagata02233-6"/>。バルカン半島方面では、[[ギリシャ]]、[[セルビア]]、[[アルバニア]]、[[ボスニア]]の征服を達成した。また、黒海沿岸に点在する[[ジェノヴァ]]の植民都市の占領<ref name="nagata02233-6"/>、[[1460年]]にはペロポネソスの[[パレオロゴス王朝|パレオゴロス系]][[モレアス専制公領|モレア専制公国]]を、[[1461年]]には[[トレビゾンド帝国]]を征服<ref name="nagata02233-6"/>東ローマ帝国の残党は全て消滅することになり<ref name="G230"/>、さらには、[[1475年]]の[[クリミア・ハン国]]を宗主権下に置くことに成功<ref name="nagata02233-6"/>、ワラキア、モルダヴィアも後にオスマン帝国へ臣従することになる<ref>[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、pp.106-107]].</ref>。
そしてメフメト2世はガリポリを中心に海軍の増強に着手、イスタンブールと改名されたコンスタンティノープルにも造船所を築いたため、オスマン帝国の海軍力は著しく飛躍した。そして、15世紀後半には、[[レスボス島|レスボス]]([[1462年]])、[[サモス島|サモス]]([[1475年]])、[[タソス島|タソス]]、[[リムノス島|レムノス]]、[[プサラ島|プサラ]](それぞれ[[1479年]])といったジェノヴァの支配下にあった島々を占領<ref name="G233">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.233]].</ref>、このため、[[黒海]]北岸や[[エーゲ海]]の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「'''オスマンの内海'''」とするに至った。一方、アナトリア半島方面では、[[白羊朝]]の英主[[ウズン・ハサン]]が東部アナトリア、[[アゼルバイジャン]]を基盤に勢力を拡大していたため、衝突は不可避となった。[[1473年]]、東部アナトリアの{{仮リンク|オトゥルクベリの戦い|en|Battle of Otlukbeli}}でウズン・ハサンを破ったオスマン朝は中部アナトリアを支配下に置くことに成功した<ref name="nagata02233-6"/>。
メフメト2世の後を継いだ[[バヤズィト2世]]([[1481年]] - [[1512年]])は、父とは異なり積極的な拡大政策を打ち出すことはなかった<ref name="nagata02236-40">[[#永田(西アジア史イラン・トルコ)|永田(2002)、pp.236-240]]</ref>。その背景には宮廷内の帝位継承問題があった。バヤズィト2世の弟である[[ジェム・スルタン|ジェム]]は、[[ロドス島]]、[[フランス]]、[[イタリア]]へ逃亡し、常に、バヤズィトの反対勢力に祭り上げられる状態が続いていたからである<ref name="nagata02236-40"/>。
=== オスマン帝国の最盛期 ===
[[ファイル:Suleiman I. after 1560.jpg|right|200px|thumb|スレイマン1世(在位1520年-1566年)]]
{{main|セリム1世}}
バヤズィト2世の弱腰の姿勢を批判していた<ref name="nagata02236-40"/>セリムが、[[セリム1世]]として、[[1512年]]に即位した<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、p.124]]</ref>。セリムの積極外交は、東部アナトリアとシリア・エジプトに向けられた。東部アナトリアでは白羊朝の後を[[サファヴィー朝]]が襲っていた。[[1514年]]、[[チャルディラーンの戦い]]でサファヴィー朝の野望を打ち砕くと、[[1517年]]には[[オスマン・マムルーク戦争 (1516年-1517年)|オスマン・マムルーク戦争]]で[[エジプト]]の[[マムルーク朝]]を滅してイスラム世界における支配領域を[[アラブ人]]居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていた[[イスラム教]]の二大聖地[[マッカ]](メッカ)と[[マディーナ]](メディナ)の保護権を掌握して[[スンナ派]][[イスラム世界]]の盟主の地位を獲得した<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、pp.128-136]]</ref>。このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあった[[アッバース朝]]の末裔から[[カリフ]]の称号を譲られ、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説は[[19世紀]]の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、pp.137-138]]</ref><ref>[[#佐藤(西アジア史アラブ)|佐藤(2002)、p.329]].</ref><ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、pp.127-128]].</ref>。
{{main|スレイマン1世}}
スレイマン1世([[1520年]] - [[1566年]])の時代、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は[[中央ヨーロッパ]]、[[北アフリカ]]にまで広がった。
==== ペルシア湾・インド洋方面 ====
[[ポルトガル・マムルーク海上戦争]]([[1505年]] - [[1517年]])では、[[1507年]]に[[ポルトガル海上帝国]]が[[ホルムズ占領 (1507年)|ホルムズ占領]]に成功。[[1509年]]に[[ディーウ]]で[[インド洋]]の制海権を巡る[[ディーウの戦い (1509年)|ディーウ沖海戦]]で[[グジャラート・スルターン朝]]、[[マムルーク朝]]、[[カリカット]]の領主[[ザモリン]]、オスマン帝国の連合艦隊を破った。
[[ロバート・シャーリー]]に率いられたイングランド人冒険団によってペルシア軍が近代化され、[[1622年]]の[[ホルムズ占領 (1622年)|ホルムズ占領]]で、イングランド・ペルシア連合軍が[[ホルムズ島]]を占領し、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放するまでこの状態が続いた。
==== インドネシア方面 ====
[[1569年]]、スレイマンが既に亡くなっているのにもかかわらず[[インドネシア]]の[[アチェ王国]]のスルタンである{{仮リンク|アラウッディン・アルカハル|en|Alauddin al-Kahar}}の要請に応じて艦隊を派遣した。このとき艦隊は[[マラッカ海峡]]まで行き、[[ジョホール王国]]・{{仮リンク|ポルトガル領マラッカ|en|Portuguese Malacca}}へ攻勢をかけた。<ref>M.C. Ricklefs. A History of Modern Indonesia Since c. 1300, 2nd ed. Stanford: Stanford University Press, 1994., 33</ref>
==== エジプト・シリア・アラビア半島方面 ====
東では[[サファヴィー朝]]と激突、1514年にサファヴィー朝をアナトリアから駆逐すると<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.127]].</ref>、さらには[[イラク]]の[[バグダード]]を奪い、南では[[イエメン]]に出兵して[[アデン]]を征服した。
[[ポルトガル・マムルーク海上戦争]]([[1505年]] - [[1517年]])ではオスマンとエジプトは対ポルトガルの同盟国だったが、[[オスマン・マムルーク戦争 (1516年-1517年)|オスマン・マムルーク戦争]]([[1516年]] - [[1517年]])では、[[1516年]]の[[マルジュ・ダービクの戦い]]・[[:en:Battle of Yaunis Khan]]と[[1517年]]の[[リダニヤの戦い]]で[[セリム1世]]によって[[マムルーク朝]]エジプトが征服され、エジプト・[[シリア]]・[[アラビア半島]]が属領となった。[[1522年]]、次代[[スレイマン1世]]の時に{{仮リンク|ムスタファ・パシャ|tr|Çoban Mustafa Paşa}}が{{仮リンク|エジプト州|en|Egypt Eyalet}}([[1517年]]–[[1805年]])の二代目総督となったが、その配下となるカーシフ(地方総督)の大部分は依然としてマムルーク朝で軍人を務めた人物が就任していた。[[1523年]]にはそのマムルーク朝系のカーシフが反乱を起こし、さらに[[1524年]]には新たな州総督に就任していた{{仮リンク|アフメト・パシャ|en|Hain Ahmed Pasha}}が反乱を起こした。この反乱でアフメト・パシャはローマ教皇にまで援助を求めたが結局、アフメト・パシャはオスマン帝国の鎮圧軍が到着する以前に内部対立で殺害された<ref>[[#佐藤(西アジア史アラブ)|佐藤(2002)、pp.329-330]].</ref>。
この反乱を受けた[[スレイマン1世]]は[[大宰相]][[パルガル・イブラヒム・パシャ|イブラヒム・パシャ]]を送り込んで支配体制の強化を図り、次の州総督に就任した[[ハドゥム・スレイマン・パシャ]]はタフリール(徴税敢行、税目、人口などの調査)を実施して徴税面を強化した。さらにスレイマン・パシャは商業施設などを建設して[[ワクフ (イスラム)|ワクフ]]を設定、以後の総督らも積極的な建設活動や宗教的寄進を行い、マムルーク朝色の濃いままであった状況をオスマン帝国色に塗りなおした<ref>[[#佐藤(西アジア史アラブ)|佐藤(2002)、p.330]].</ref>。
==== 地中海・北アフリカ方面 ====
[[ファイル:Battle of Preveza (1538).jpg|thumb|200px|right|プレヴェザの海戦]]
[[ファイル:Siege of malta 2.jpg|thumb|200px|right|マルタ包囲戦 - 聖エルモ砦の陥落]]
[[ファイル:Battle_of_Lepanto_1571.jpg|thumb|200px|right|レパントの海戦]]
{{main|{{仮リンク|オスマン・ハプスブルク戦争|es|Guerras habsburgo-otomanas|it|Guerra ottomano-asburgica|en|Ottoman–Habsburg wars|label=ハプスブルク=オスマン帝国戦争}}}}
[[1516年]]、オスマン帝国の{{仮リンク|皇子 (オスマン帝国)|en|Şehzade|label=皇子}}{{仮リンク|シェフザーデ・コルクト|tr|Şehzade Korkut|en|Şehzade Korkut|label=コルクト}}の公的支援を受けた[[バルバリア海賊]]の[[バルバロス・オルチ|バルバロス・ウルージ]]と[[バルバロス・ハイレッディン]]兄弟が、{{仮リンク|アルジェ占領 (1516年)|en|Capture of Algiers (1516)}}に成功。[[1517年]]には[[ザイヤーン朝]]の首都[[トレムセン]]に侵攻し、ウルージは戦死したものの{{仮リンク|トレムセン陥落 (1517年)|en|Fall of Tlemcen (1517)}}が成功、{{仮リンク|オスマン・アルジェリア|en|Ottoman Algeria}}([[1517年]] - [[1830年]])を設置。海上では、[[1522年]]の[[ロドス包囲戦 (1522年)|ロドス包囲戦]]ではムスリムに対する海賊行為を行っていた[[ロドス島]]の[[聖ヨハネ騎士団]]と戦ってこれを駆逐し、東地中海の[[制海権]]を握った。
[[1529年]]1月に宣戦布告し、5月には{{仮リンク|ペニョン・デ・アルジェ|es|Peñón de Argel|en|Peñón of Algiers|label=アルジェ要塞}}を落として[[アルジェ占領 (1529年)|アルジェの占領]]に成功。10月に[[フォルメンテラ島|フォルメンテーラ島]]での戦いでスペイン船を駆逐({{仮リンク|フォルメンテーラ島の戦い (1529年)|en|Battle of Formentera (1529)}})。
[[1534年]]には{{仮リンク|チュニス征服 (1534年)|en|Conquest of Tunis (1534)}}に成功。[[1535年]]に[[ハフス朝]]とスペイン-イタリア連合軍による奪還作戦でチュニスを失陥([[チュニス征服 (1535年)]])。[[バルバロス・ハイレッディン]]は脱出の途上で{{仮リンク|マオー略奪|ca|Saqueig de Maó|en|Sack of Mahón}}を行なった。
[[1536年]]、{{仮リンク|フランス・オスマン同盟|en|Franco-Ottoman alliance}}を密かに締結。[[1538年]]の[[プレヴェザの海戦]]で[[アルジェリア]]に至る地中海の制海権の掌握に成功した<ref name="nagata02240-4"/><ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.233-234]].</ref>。[[1540年]]10月、{{仮リンク|アルボラン島の戦い|en|Battle of Alborán|label=アルボラン島の海戦}}。[[1541年]]10月、[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]が親征して[[アルジェ遠征 (1541年)|アルジェ遠征]]を行い、キリスト教徒への海賊行為をやめさせた。[[1545年]]にバルバロスが引退、[[1546年]]には後任に[[ソコルル・メフメト・パシャ]]を抜擢した。
[[1550年]]に[[トレムセン]]を占領し、[[ザイヤーン朝]]を滅亡させた。[[1551年]]に{{仮リンク|トリポリ包囲戦 (1551年)|en|Siege of Tripoli (1551)}}に成功し、{{仮リンク|オスマン・トリポリタニア|en|Ottoman Tripolitania}}([[1551年]] - [[1911年]])を設置。
{{main|イタリア戦争}}
[[スレイマン1世]]は密かに[[ヴァロワ朝]][[フランス王国|フランス王]]の[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]と同盟していたため、[[イタリア戦争 (1551年 - 1559年)]]({{仮リンク|ポンツァ島の戦い (1552年)|en|Battle of Ponza (1552)}}、{{仮リンク|オスマン帝国のバレアレス諸島侵攻 (1558年)|en|Ottoman invasion of the Balearic Islands (1558)}})に派兵して干渉戦争を実施した。
[[1555年]]に[[アルジェ]]の{{仮リンク|サリフ・レイス|tr|Salih Reis|en|Salih Reis}}が{{仮リンク|ベジャイア占領|en|Capture of Bougie}}に成功。[[1556年]]の{{仮リンク|オラン包囲戦 (1556年)|en|Siege of Oran (1556)}}では、[[オラン]]が包囲されている間に、[[モロッコ人]]も[[トレムセン]]を包囲し返し、作戦は失敗に終わった。[[1560年]]5月に{{仮リンク|ピヤーレ・パシャ|en|Piyale Pasha}}が[[チュニジア]]沖の[[ジェルバ島]]で行なわれた[[ジェルバ島の戦い|ジェルバの海戦]]で大勝。[[1565年]]、[[マルタ包囲戦 (1565年)]]でオスマン帝国が最初の敗北を喫し、大きな被害を出した。[[1566年]][[9月6日]]にスレイマンが死去し、その死から5年後の[[1571年]]、[[レパントの海戦]]でオスマン艦隊はスペイン連合艦隊に大敗したものの、しばしば言われるようにここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン帝国の手から失われることはなかった<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、pp.236-239]]</ref><ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.234]].</ref>。そして1571年に占領されたキプロスは単独でキプロス州を形成することになった<ref name="名前なし-3">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.249-52]].</ref>。[[クルチ・アリ]]({{lang-tr|Kılıç Ali Paşa}})のオスマン帝国艦隊は敗戦から半年で同規模の艦隊を再建し、[[1573年]]には[[キプロス島]]、翌[[1574年]]に[[チュニス]]を攻略し({{仮リンク|チュニス征服 (1574年)|en|Conquest of Tunis (1574)}})、[[ハフス朝]]を滅亡させた。{{仮リンク|オスマン・チュニス|en|Ottoman Tunis}}([[1574年]] - [[1705年]])を設置。17世紀に[[クレタ島]]が新たに占領されるとクレタ島も単独のクレタ州となった<ref name="名前なし-3"/>。
==== 対ロシア戦 ====
[[ロシア・ツァーリ国]]の[[イヴァン4世]]は、[[1552年]]の{{仮リンク|カザン包囲戦|en|Siege of Kazan}}で[[カザン・ハン国]]を併合、[[1554年]]に[[アストラハン・ハン国]]を従属国化した。旧[[ジョチ・ウルス]]領のうち残っていた[[クリミア・ハン国]]とロシアとの対立が深まると、[[1568年]]にセリム二世及び[[ソコルル・メフメト・パシャ]]はアストラハン遠征([[露土戦争 (1568年-1570年)]])を起こした。この戦いで勝利したロシアによるアストラハン・ハン国支配が確定したものの、この戦いは長期にわたる[[露土戦争]]の初戦に過ぎなかった。この戦いでソコルル・メフメト・パシャは、ロシアだけでなく[[サファヴィー朝]]をも牽制する目的で[[ヴォルガ・ドン運河]]の建設を試みたが失敗に終わった(実際に完成するのは[[1952年]]になってからである)。
==== ヨーロッパ方面(バルカン半島) ====
{{Seealso|en:Ottoman wars in Europe|{{仮リンク|オスマン・ハプスブルク戦争|es|Guerras habsburgo-otomanas|it|Guerra ottomano-asburgica|en|Ottoman–Habsburg wars|label=ハプスブルク=オスマン帝国戦争}}|イタリア戦争}}
過去にオスマン帝国治下のバルカン半島はオスマン帝国の圧政に虐げられた暗黒時代という評価が主流であった。
しかし、これらの評価は19世紀にバルカン半島の各民族が独立を目指した際に政治的意味合いを込めて評価されたものであり、オスマン帝国支配が強まりつつあった16世紀はそれほど過酷なものではないという評価が定着しつつある。これらのことからオスマン帝国によるバルカン半島統治は16世紀末を境に前後の二つの時代に分けることができる<ref>[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、p.100]].</ref>。
オスマン帝国が勢力拡大を始めた時、第二次ブルガリア帝国はセルビア人の圧力により崩壊寸前であり、さらにそのセルビアもステファン・ドゥシャンが死去したことにより瓦解し始めていた。これらが表すように[[第4回十字軍]]により分裂崩壊していた東ローマ帝国亡き後、バルカン半島は互いに反目状態にあり、分裂状態であった上、オスマン帝国をバルカン半島へ初めて招いたのは内紛を続ける東ローマ帝国であった。このため、[[アンカラの戦い]]において混乱を来したオスマン帝国への反撃もままならず、また、バルカン半島において大土地所有者の圧迫に悩まされていたバルカン半島の農民らはしばしばオスマン帝国の進出を歓迎してこれに呼応することもあった<ref>[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、pp.105-106]].</ref>。
陸上においては、[[1521年]]の[[ベオグラード]]の征服<ref name="nagata02240-4">[[#永田(西アジア史イラン・トルコ)|永田(2002)、pp.240-244]]</ref>、[[1526年]]の[[モハーチの戦い]]における[[ハンガリー王国]]に対しての戦勝、[[1529年]]の[[第一次ウィーン包囲]]と続き<ref name="nagata02240-4"/>、クロアチア、ダルマチア、スロベニアも略奪を受けることになった<ref>[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、p.108]].</ref>。
15世紀以降、ギリシャはオスマン帝国に併合されるにつれてルメリ州に編入されたが、1534年、地中海州が形成されたことにより、バルカン半島を中心とする地域がルメリ州、バルカン本土とエーゲ海の大部分が地中海州に属することになった。
オスマン家と[[ハプスブルク家]]の対立構造が、ヨーロッパ外交に持ち込まれることとなった。その結果が、ハプスブルク家と対立していた[[フランス]]の[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]に対してのカピチュレーション付与となった。なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、[[カピチュレーション]](恩恵的待遇)を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での[[治外法権]]などを認めた。一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなく[[イギリス]]をはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした[[19世紀]]には、西欧諸国によるオスマン帝国への[[内政干渉]]の足がかりに過ぎなくなり、[[不平等条約]]として重くのしかかることになった。
スレイマンは、[[1566年]]9月にハンガリー遠征の[[シゲトヴァール包囲戦]]の最中に陣没し、[[ピュロスの勝利]]で終わった([[1541年]][[オスマン帝国領ハンガリー]]{{仮リンク|ブディン・エヤレト|en|Budin Eyalet}}設置)。[[ソコルル・メフメト・パシャ]]は、[[1571年]]に[[ソコルル・メフメト・パシャ橋]]の建設を[[ミマール・スィナン]]に開始させ、[[1577年]]に完成した。
==== 軍事構造の転換 ====
スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど[[大宰相]]([[首相]])が担うようになる。
オスマン帝国下の住民はアスカリとレアヤーの二つに分けられていた。アスカリはオスマン帝国の支配層であり、オスマン帝国の支配者層に属する者とその家族、従者で形成されており軍人、書記、法学者なども属していた。これに対してレアヤーは被支配層であり、農民、都市民などあらゆる正業に携わる人々が属していた。ただし、19世紀に入ると狭義的にオスマン帝国支配下のキリスト教系農民に対して用いられた例もある<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.253-254]].</ref>。
アスケリは免税、武装、騎乗の特権を有しており、レアヤーは納税の義務をおっていた。ただし、アスケリ層に属する人々が全てムスリムだったわけではなく、また、レアヤーも非ムスリムだけが属していたわけではない。そして、その中間的位置に属する人々も存在した<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.254-255]].</ref>。
オスマン帝国の全盛期を謳歌したスレイマン1世の時代ではあったが、同時期に、軍事構造の転換、すなわち、[[火砲]]での武装及び[[常備軍]]の必要性が求められる時代に変容していった。その結果、[[歩兵]]であるイェニチェリを核とする[[常備軍]]の重要性が増大した。しかし、イェニチェリという形で、常備軍が整備されることは裏を返せば、在地の[[騎士]]である[[スィパーヒー]]層の没落とイェニチェリの政治勢力としての台頭を意味した。それに応じて、スィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来の{{仮リンク|ティマール制|en|Timar}}は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる[[徴税請負制]]({{仮リンク|イルティザーム制|en|Iltizam}})が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。[[#制度|制度の項]]で後述する高度な[[官僚]]機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。
=== 帝国支配の混乱 ===
{{main|ソコルル・メフメト・パシャ|セリム2世|アフメト1世|オスマン2世}}
{{See also|東方問題|チューリップ時代}}
繁栄の裏ではスレイマン時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。[[1578年]]に{{仮リンク|オスマン・サファヴィー戦争 (1578年-1590年)|en|Ottoman–Safavid War (1578–1590)|label=オスマン・サファヴィー戦争}}が始まると、[[1579年]]にスレイマン時代から帝国を支えた大宰相[[ソコルル・メフメト・パシャ]]が[[サファヴィー朝|サファヴィー朝ペルシア]]の間者によって[[暗殺]]されてしまった。以来、宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに[[17世紀]]前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、[[16世紀]]末頃から[[新大陸]]産の[[銀]]の流入による物価の高騰([[価格革命]])<ref name="nagata02250-1">[[#永田(西アジア史イラン・トルコ)|永田(2002)、pp.250-251]]</ref>や、トランシルバニアをめぐるハプスブルク家との紛争は1593年から13年間続くこととなった<ref name="nagata02250-1"/>。また、イラク、アゼルバイジャン、ジョージアといった帝国の東部を形成する地方では、アッバース1世のもと、軍事を立て直したサファヴィー朝との対立が17世紀にはいると継続することとなった<ref name="nagata02250-1"/>。中央ヨーロッパ及び帝国東部の領域を維持するために、軍事費が増大し、その結果、オスマン帝国の財政は慢性赤字化した<ref name="nagata02250-1"/>。
極端な[[インフレーション]]は流通通貨の急速な不足を招き、銀の不足から従来の半分しか銀を含まない質の悪い銀通を改鋳するようになった<ref name="nagata02252-6">[[#永田(西アジア史イラン・トルコ)|永田(2002)、pp.252-256]]</ref>。帝国内に流通すると深刻な信用不安を招き、イェニ・チェリたちの不満が蓄積し、[[1589年]]には、彼らの反乱が起こった<ref name="nagata02252-6"/>。経済の混乱は17世紀まで続くこととなった<ref name="nagata02252-6"/>。さらには、アナトリアでは、ジェラーリーと呼ばれる暴徒の反乱が頻発することとなり、オスマン帝国は東西に軍隊を裂いていたため、彼らを鎮圧する術を持たなかった<ref name="nagata02252-6"/>。[[1608年]]を頂点に、{{仮リンク|ジェラーリーの乱|en|Jelali revolts|label=ジェラーリーの反乱}}は収束を迎えるが、その後、首都イスタンブールでは、スルタン継承の抗争が頻発することとなった<ref name="nagata02252-6"/>。
そのような情勢の下、[[1645年]]に起こった[[ヴェネツィア共和国]]との{{仮リンク|クレタ戦争 (1645年)|en|Cretan War (1645–1669)|label=クレタ戦争}}では勝利したものの、[[1656年]]の{{仮リンク|ダルダネスの戦い (1656年)|en|Battle of the Dardanelles (1656)|label=ダルダネスの戦い}}ではヴェネツィア艦隊による[[海上封鎖]]を受け、物流が滞り物価が高騰した首都は暴動と反乱の危険にさらされることになった。この危機に際して大宰相に抜擢された{{仮リンク|キョプリュリュ・メフメト・パシャ|en|Köprülü Mehmed Pasha}}は全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝。しかし息子[[キョプリュリュ・アフメト・パシャ]]が続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。2代続いた[[キョプリュリュ家]]の政権は、当時オスマン帝国で成熟を迎えていた官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。先述したオスマン帝国の構造転換はキョプリュリュ期に安定し、一応の完成をみた。
{{main|{{仮リンク|ポーランド・コサック・タタール戦争 (1666年-1671年)|en|Polish–Cossack–Tatar War (1666–71)}}|{{仮リンク|ポーランド・オスマン戦争 (1672年-1676年)|en|Polish–Ottoman War (1672–76)}}|[[露土戦争 (1676年-1681年)]]|{{仮リンク|モレアス戦争|en|Morean War|label=モレア戦争}}|{{仮リンク|ポーランド・オスマン戦争 (1683年-1699年)|en|Polish–Ottoman War (1683–99)}}|[[露土戦争 (1686年-1700年)]]
}}キョプリュリュ家の執政期にオスマン帝国は[[クレタ島]]やウクライナにまで領土を拡大、さらにはヴェネツィアが失ったクレタ島の代わりに得たギリシャにおける各地域の大部分を手中に収めたため<ref name="G234-5">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.234-235]].</ref>、スレイマン時代に勝る最大版図を達成したのである。
しかしキョプリュリュ・メフメト・パシャの婿[[カラ・ムスタファ・パシャ]]は、功名心から[[1683年]]に[[第二次ウィーン包囲]]を強行してしまう。一時は包囲を成功させるも、[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世ソビエスキ]]率いる欧州諸国の援軍に敗れ、16年間の戦争状態に入ることになる([[大トルコ戦争]])。
=== オスマン文化の繁栄期 ===
{{出典の明記|date=2020-09|section=1}}
{{main|en:Stagnation of the Ottoman Empire}}
戦後、[[1699年]]に結ばれた[[カルロヴィッツ条約]]において、史上初めてオスマン帝国の領土は削減され、東欧の覇権はハプスブルク家の[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]に奪われてしまう。さらには[[1700年]]にはロシアと[[スウェーデン]]の間で起こった[[大北方戦争]]に巻き込まれてしまい、スウェーデン王[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]の逃亡を受け入れたオスマン帝国は、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]の治下で国力の増大著しい[[ロシア帝国]]との苦しい戦いを強いられた。ロシアとは、[[1711年]]の[[露土戦争 (1710年-1711年)|プルート川の戦い]]で有利な講和を結ぶことに成功するが、続く[[墺土戦争 (1716年-1718年)|墺土戦争]]のために、[[1718年]]の[[パッサロヴィッツ条約]]でセルビアの重要拠点[[ベオグラード]]を失ってしまう。
[[ファイル:Koceks_-_Surname-i_Vehbi.jpg|right|200px|thumb|アフメト3世の時代(1720年頃)の祝祭の様子。王子の[[割礼]]を祝う様子を描く。]]
このように、17世紀末から18世紀にかけては軍事的衰退が表面化したが、他方で西欧技術・文化の吸収を図り、後期のオスマン文化が成熟していった時代でもあった。中でも[[アフメト3世]]の大宰相{{仮リンク|ネフシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャ|tr|Nevşehirli Damat İbrahim Paşa|label=ネフシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャ}}(在任[[1718年]]-[[1730年]])の執政時代においては対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中で西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時代は西欧から逆輸入された[[チューリップ]]が装飾として流行したことから、'''[[チューリップ時代]]'''と呼ばれている<ref>{{Cite web|和書|title=チューリップ時代とは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E6%99%82%E4%BB%A3-97580|website=コトバンク|accessdate=2021-05-26}}</ref>。また1722年には東方のイラン・ペルシアで[[ホータキー朝|アフガーン人の侵入]]を契機に[[サファヴィー朝]]が崩壊した。オスマントルコはこの混乱に乗じて出兵する({{仮リンク|オスマン・ペルシア戦争 (1722年-1727年)|en|Ottoman–Persian War (1722–1727)}})。しかし、ホラーサーンから[[ナーディル・シャー]]が登場し、イラクとイラン高原における戦況は徐々にオスマン側劣勢へと動き始める({{仮リンク|アフシャール・オスマン戦争 (1723年-1727年)|en|Afsharid-Ottoman War|label=アフシャール戦役}})。浪費政治への不満を募らせていた人々は{{仮リンク|パトロナ・ハリル|en|Patrona Halil}}とともに{{仮リンク|パトロナ・ハリルの乱|tr|Patrona Halil İsyanı}}を起こして君主と大宰相を交代させ、チューリップ時代は終焉するに至った。
やがて[[オーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年–1739年)|露土戦争 (1735年-1739年)]]が終結し、その講和条約である[[1739年]]の[[ニシュ条約 (1739年)|ニシュ条約]]と[[ベオグラード条約]]が締結されベオグラードを奪還。[[1747年]]にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン帝国は平穏な18世紀中葉を迎える。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握した[[アーヤーン]]と呼ばれる地方名士が台頭し、彼らの手に支えられることで緩やかな経済発展が進んでいた。しかし、[[産業革命]]の波及により急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は決定的なものとなり、[[スレイマン1世]]時に与えた[[カピチュレーション]]を逆に利用することで、ヨーロッパはオスマン領土への進出を始めることとなった。
=== 帝国の衰退と近代化の試み ===
{{出典の明記|date=2021-07|section=1}}
[[ファイル:Navarino.jpg|right|200px|thumb|ギリシャ独立戦争の敗北([[ナヴァリノの海戦]])]]
{{main|en:Decline of the Ottoman Empire}}
[[18世紀]]末に入ると、[[ロシア帝国]]の南下によってオスマン帝国の小康は破られた。[[1768年]]に始まった[[露土戦争 (1768年)|露土戦争]]で敗北すると、[[1774年]]の[[キュチュク・カイナルジ条約|キュチュク・カイナルジャ条約]]によって黒海の北岸を喪失し、[[1787年]]からの[[露土戦争 (1787年)|露土戦争]]にも再び敗れたことで、[[1792年]]の[[ヤシ条約]]ではロシアの[[クリミア半島]]の領有を認めざるを得なかった。改革の必要性を痛感した[[セリム3世]]は翌[[1793年]]、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「[[ニザーム・ジェディード]]」を創設するが、計画はイェニチェリの反対により頓挫し、逆に廃位に追い込まれてしまう。かつてオスマン帝国の軍事的成功を支えたイェニチェリは隊員の世襲化が進み、もはや既得権に固執するのみの旧式軍に過ぎなくなっていた。
この時代にはさらに、18世紀から成長を続けていたアーヤーンが地方政治の実権を握り、[[ギリシャ]]北部から[[アルバニア]]を支配した[[テペデレンリ・アリー・パシャ]]のように半独立政権の主のように振舞うものも少なくない有様であり、かつてオスマン帝国の発展を支えた強固な[[中央集権]]体制は無実化した。さらに[[1798年]]の[[ナポレオン・ボナパルト]]の[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]をきっかけに、1806年に[[ムハンマド・アリー]]がエジプトの実権を掌握した。一方、[[フランス革命]]から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族の[[ナショナリズム]]を呼び覚まし、[[ギリシャ独立戦争]]([[1821年]] - [[1829年]])によって[[ギリシャ王国]]が独立を果たした。[[ムハンマド・アリー]]は、[[エジプト・トルコ戦争#第一次エジプト・トルコ戦争|第一次エジプト・トルコ戦争]]([[1831年]] - [[1833年]])と[[エジプト・トルコ戦争#第二次エジプト・トルコ戦争|第二次エジプト・トルコ戦争]]([[1839年]] - [[1841年]])を経てエジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ、事実上独立した。
これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、[[19世紀]]のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を辿ることとなった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を[[東方問題]]という。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、[[20世紀]]初頭における勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけとなってしまう。オスマン帝国はこのように帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。
しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。[[1808年]]に即位した[[マフムト2世]]は[[幸運な事件|イェニチェリを廃止]]して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成した。さらにはアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した<ref>軍の西欧化と翻訳局について。[[#新井2009|新井2009、pp.42-43,87-88]]</ref>。また[[1839年]]に[[アブデュルメジト1世]]は改革派官僚[[ムスタファ・レシト・パシャ]]の起草した[[ギュルハネ勅令]]を発布し、全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図る'''[[タンジマート]]'''を始めた。タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった<ref>[[#新井2009|新井2009、p.68]]</ref>。
[[1853年]]にはロシアとの間で[[クリミア戦争]]が起こるが、イギリスなどの加担によりきわどいながらも勝利を収めた。このときイギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は[[1856年]]に[[改革勅令]]を発布し、非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した<ref>[[#新井2009|新井2009、pp.77-85]]</ref>。こうして第二段階に入ったタンジマートでは宗教法([[シャリーア]])と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代[[教育]]を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた<ref>[[#新井2009|新井2009、pp.86-87]]</ref>。そして、[[カモンド家]]の支配する[[:en:Ottoman Bank|オスマン銀行]]も設立された。
改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の[[借款]]を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したことで[[農業]]の[[モノカルチャー]]化を招き、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、[[1875年]]、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産するに至った<ref>[[#新井2009|新井2009、pp.78,134-138]]</ref>。
こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、[[1876年]]、大宰相[[ミドハト・パシャ]]のもとで[[オスマン帝国憲法]](通称'''ミドハト憲法''')を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の[[法治国家]]であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた<ref>[[#新井2009|新井2009、pp.172-175]]</ref>。
しかし憲法発布から間もない[[1878年]]、オスマン帝国はロシアとの[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]に完敗。帝都イスタンブール西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望む[[アブデュルハミト2世]]は、ロシアとは[[サン・ステファノ条約]]を結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した<ref>[[#新井2009|新井2009、pp.175,177]]</ref>。これ以降、アブデュルハミト2世による専制政治の時代がはじまる。しかし一方では[[オスマン債務管理局]]などを通じて帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。
=== 世界大戦から滅亡への道 ===
{{main|{{仮リンク|第一次世界大戦下のオスマン帝国|en|Ottoman Empire in World War I}}|{{仮リンク|オスマン帝国の解体|en|Dissolution of the Ottoman Empire}}}}
アブデュルハミトが専制政治をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは[[1889年]]に結成された「[[統一と進歩委員会]]」(通称「統一派」)をはじめとする[[青年トルコ人]]運動に参加し、憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開した<ref>[[#新井2009|新井2009、pp.196-197]]</ref>。[[1891年]]には、[[時事新報]]記者の野田正太郎が日本人として初めてオスマン帝国に居住した<ref>"The first Japanese who resided in the Ottoman Empire: the young journalist NODA and the student merchant YAMADA" 三沢伸生『地中海論集/Mediterranean World』(一橋大学地中海研究会) (21) 51-69 2012年6月</ref>。
[[ファイル:Ismail_Enver.jpg|right|200px|thumb|エンヴェル・パシャ]]
[[ファイル:Sultanvahideddin.jpg|thumb|238px|1922年11月、[[ドルマバフチェ宮殿]]を後にする、最後の皇帝メフメト6世。この写真が撮られてから数日後、彼は英国の戦艦で[[サンレモ]]に亡命。1926年に同地で没した。]]
[[1908年]]、サロニカ(現在の[[テッサロニキ]])の統一派を中心とする[[マケドニア]]駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた([[青年トルコ革命]])。彼らは[[1909年]]に保守派の反革命運動を鎮圧したものの、積極的に政治の表舞台には立つことはなかった。しかしバルカン戦争中の[[1913年]]になると、ついに統一派はクーデターを起こして大宰相を暗殺し、中核指導者[[タラート・パシャ]]、[[エンヴェル・パシャ]]らを指導者とする政権を確立した。バルカン戦争の敗北によってヨーロッパのオスマン領の大半が失われると、統一派政権は次第にムスリム・ナショナリズムに傾斜していった。またバルカン戦争より帝国では、経済におけるナショナリズム路線である「民族経済」政策が議論され始めた。第一次世界大戦の勃発後にはカピチュレーションの一方的な廃止が宣言されている<ref>[[オスマン帝国#新井2009|新井2001、pp.]]113-138</ref>。
この間にも、サロニカを含む[[マケドニア]]と[[アルバニア]]が、[[1911年]]には[[伊土戦争]]により[[リビア]]が帝国から失われた。バルカンを喪失した統一派政権は[[汎スラヴ主義]]拡大の脅威に対抗するため[[ドイツ]]と同盟に関する密約を締結し、[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]には[[中央同盟国|同盟国]]側で参戦することとなった。
この戦争でオスマン帝国は[[アラブ反乱|アラブ人に反乱を起こされ]]、[[ガリポリの戦い]]などいくつかの重要な防衛戦では勝利を収めたものの劣勢は覆すことができなかった。戦時中の利敵行為を予防する際に[[アルメニア人虐殺]]が発生し、後継となるトルコ政府も事件の存在自体は認めているが犠牲者数などをめぐって紛糾を続け、未解決の外交問題となっている。[[1918年]][[10月30日]][[ムドロス休戦協定]]により帝国は降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領されるとともに、イスタンブール、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡は国際監視下、アナトリア半島もエーゲ海に隣接する地域はギリシャ統治下となった。そしてアナトリア東部においてもアルメニア人、クルド人らの独立国家構想が生まれたことにより、オスマン帝国領は事実上、アナトリアの中央部分のみとなった<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、pp.222-224]].</ref>。
敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝[[メフメト6世]]は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。さらに、連合国の支援を受けた[[ギリシャ軍]]が[[イズミル]]に上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]パシャを指導者として、トルコ人が多数を占める地域(アナトリアとバルカンの一部)の保全を求める運動が起こり、1920年4月、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会]]を組織して抵抗政府を結成したが<ref>[[#新井2009|新井2009、pp.267-269]]</ref>、オスマン帝国政府はこれを反逆と断じた<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.224]].</ref>。
一方連合国は、[[1920年]]、講和条約として[[セーヴル条約]]をメフメト6世と締結した。この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に割譲する内容であり、ギリシャにはイズミルを与えるものであった。この結果はトルコ人の更なる反発を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーヴル条約に代わる新しい講和条約([[ローザンヌ条約]])の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルの[[アンカラ政府]]を招請した。[[1922年]]、ケマルはオスマン国家の二重政府の解消を名目として[[パーディシャー]](スルタン)と[[カリフ]]の分離とともに、'''{{仮リンク|オスマン帝国の滅亡|en|Abolition of the Ottoman sultanate|label=帝政の廃止}}'''を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世は[[マルタ]]へ亡命し、オスマン帝国政府は名実共に滅亡した([[トルコ革命]])<ref name="suzuki00225">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.225]].</ref>。
翌[[1923年]]大国民議会は[[共和制]]を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家[[トルコ|トルコ共和国]]に取って代わられた。トルコ共和国は[[1924年]]、帝政の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を{{仮リンク|カリフ制の廃止|en|Abolition of the Caliphate|label=廃止}}。オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン帝権は完全に消滅した<ref name="suzuki00225"/>。
== 制度 ==
[[ファイル:Suleyman_1st_Great_1494_1566_Lorck.jpg|right|200px|thumb|四重冠を着用するスレイマン1世の像。この四重冠はスレイマンがイタリアの[[金細工職人]]につくらせたもので、[[ローマ教皇]]の[[教皇冠|三重冠]]を意識したものだと言われている。]]
オスマン帝国の国家の仕組みについては、近代歴史学の中でさまざまな評価が行われている。ヨーロッパの歴史家たちがこの国家を典型な東方的専制帝国であるとみなす一方、オスマン帝国の歴史家たちはイスラムの伝統に基づく世界国家であるとみなしてきた。また19世紀末以降には、民族主義の高まりからトルコ民族主義的な立場が強調され、オスマン帝国の起源はトルコ系の遊牧民国家にあるという議論が盛んに行われた。
20世紀前半には、ヨーロッパにおける東ローマ帝国に対する関心の高まりから、オスマン帝国の国制と東ローマ帝国の国制の比較が行われた。ここにおいて東ローマ帝国滅亡から間もない時代には[[オスマン帝国の君主]]がルーム([[ローマ帝国]])の[[カエサル (称号)|カイセル]]([[皇帝]])と自称するケースがあったことなどの史実が掘り起こされたり、帝国が[[コンスタンティノープル総主教]]の任命権を通じて東方正教徒を支配したことが東ローマの[[皇帝教皇主義]]の延長とみなされる議論がなされ、オスマン帝国は[[東ローマ帝国]]の継続であるとする、ネオ・ビザンチン説もあらわれた。(カエサルを自称した皇帝はスレイマンなどほんの一握りだった)
{{See also|ビザンティン・ハーモニー}}
このようにこの帝国の国制の起源にはさまざまな要素の存在が考えられており、「古典オスマン体制」と呼ばれる最盛期のオスマン帝国が実現した精緻な制度を考える上で興味深い論議を提供している。
オスマン帝国の国制が独自に発展を遂げ始めたのはおおよそムラト1世の頃からと考えられている<ref name="G224"/>。帝国の拡大にともない次第に整備されてきた制度は、スレイマン1世の時代にほぼ完成し、皇帝を頂点に君主専制・[[中央集権]]を実現した国家体制に結実した。これを「古典オスマン体制」という。
=== 軍制 ===
{{seealso|オスマン帝国軍|オスマン帝国海軍}}
[[ファイル:OttomanMilitaryMiddleEast.jpg|thumb|200px|近代化された後のオスマン帝国陸軍]]
軍制は、当初はムスリム・トルコ系の戦士、帰順したムスリム・トルコ系の戦士、元東ローマ帝国の軍人らを合わせた自由身分の騎兵を中心に構成され{{#tag:ref|この中でも地方に居住して徴税権を委ねられるシステム[[ティマール制]]によって軍事奉仕義務を負った騎兵を[[スィパーヒー]]と呼ぶ。|group=#}}、さらにアッバース朝で発展していたマムルーク制度のオスマン帝国版の常備軍などが編成され、常備歩兵軍としてイェニチェリが組織化されたが、これらの組み合わせにより騎兵歩兵らによる複合部隊による戦術が可能となったため、オスマン軍の軍事力が著しく向上することになり、彼らは[[カプクル]](「門の奴隷」の意)と呼ばれる常備軍団を形成した<ref name="G224-5">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.224-225]].</ref>。カプクルの人材は主にキリスト教徒の子弟を徴集する[[デヴシルメ]]制度によって供給された。カプクル軍団の最精鋭である常備歩兵軍[[イェニチェリ]]は、火器を扱うことから{{仮リンク|軍事革命 (近世)|en|Military Revolution|label=軍事革命}}の進んだ16世紀に重要性が増し、地方・中央の騎兵を駆逐して巨大な[[常備軍]]に発展する。ちなみにこの時代、欧州はまだ常備軍をほとんど持っていなかった。
[[ファイル:Ottoman Navy at the Golden Horn.jpg|thumb|left|200px|[[金角湾]]内のオスマン艦隊]]
オスマン帝国の主要海軍基地はガリポリスであったが、ここに投錨する艦隊の指揮官はガリポリスのサンジャクベイが平時には務めており、戦時に入ると海洋のベイレルベイであるカプタン・パシャが総指揮を執ることになっていた<ref name="mihashi66136">[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、p.136]].</ref>。
オスマン帝国は当初から海軍の重要性を考慮していたらしく、オスマン帝国初期に小アジアで活躍した「海のガーズィ」から帝国領土が拡大していく中、エーゲ海、地中海、黒海などに面する地域を併合した際にその地域の保有する艦艇を吸収して拡大していった。オスマン帝国が初めて造船所を建設した場所は{{仮リンク|カラミュルセル|en|Karamürsel}}であるが、のちにガリポリスを占領するとさらに規模の大きな造船所が作られたことにより、オスマン帝国はダーダルネス海峡の制海権を確保することができた。そのため、1399年にバヤズィト1世がコンスタンティノープルを包囲した際、東ローマ帝国救援に向かったフランス海軍を撃破している。ただし、1453年、コンスタンティノープルの占領に成功すると、コンスタンティノープルにさらに規模の大きな造船所が築かれたため、ガリポリスの造船所はその価値を下げることになった<ref name="mihashi66136-7">[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、pp.136-137]].</ref>。
15世紀に入るとジェノヴァ、ヴェネツィアとの関係が悪化、これと交戦したが、16世紀になるとオスマン艦隊は[[エーゲ海]]、[[地中海]]、[[イオニア海]]、[[黒海]]、[[紅海]]、[[アラビア海]]、[[ペルシア湾]]、[[インド洋]]などへ進出、事実上、イスラーム世界の防衛者となり、キリスト教世界と戦った<ref name="mihashi66137">[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、p.136]].</ref>。
=== オスマン帝国の統治システム ===
{{出典の明記|date=2021-07|section=1}}
{{seealso|オスマン帝国の行政区画}}
帝国の領土は直轄州、独立採算州、[[従属国]]からなる。属国([[クリミア・ハン国|クリミア・ハン国(クリム汗国)]]、[[ワラキア|ワラキア(エフラク)君侯国]]、[[モルダヴィア|モルダヴィア(ボーダン)君侯国]]、[[トランシルヴァニア公国|トランシルヴァニア(エルデル)君侯国]]、[[ラグザ共和国|ドゥブロブニク(ラグーザ)共和国]]、[[モンテネグロ公国]](公または主教の支配)、[[ヒジャーズ]]など)は[[君主]]の任免権を帝国中央が掌握しているのみで、原則として自治に委ねられていた。独立採算州([[エジプト・エヤレト|エジプト]]など)は州知事(総督)など要職が中央から派遣される他は、現地の有力者に政治が任せられ、州行政の余剰金を中央政府に上納するだけであった<ref name="suzuki00134">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.134]].</ref>。ヨーロッパ方面の領土において、ビザンツ帝国やブルガリア帝国時代の大貴族は没落したが、小貴族は存続を許されてオスマン帝国の制度へ組み込まれていった
オスマン帝国が発展する過程として戦士集団から君侯国、帝国という道を歩んだが、戦士集団であった当初は遊牧民的移動集団であった。特に初期の首都であるソユット、{{仮リンク|ビレジク (シャンルウルファ県)|en|Birecik|label=ビレジク}}、[[イェニシェヒル (ブルサ県)|イェニシェヒル]]([[ブルサ]]近郊)などは冬営地的性格が強く、首都と地方との明確な行政区分も存在しなかった。そして戦闘が始まれば[[ベグ|ベイ]](君主)、もしくは[[ベイレルベイ]](ベイたちのベイの意味で総司令官を指す)が指揮を取ったが、ベイレルベイはムラト1世の時代に臣下の[[ララ・シャヒーン・パシャ|ララ・シャヒーン]]が任ぜられるまでは王子(君主の息子)が務めていた{{#tag:ref|この任命には様々な説があり、ひとつにはララという重職(セルジューク朝でいうアタ=ベク)に任命されるほどの人物であったということから任命されたという説とムラト1世が本来は息子のバヤズィト(後のバヤズィト1世)を任命するつもりであったが、幼少であったため、その繋ぎとしてシャーヒンを任命したとする説がある<ref name="mihashi66128">[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、p.128]].</ref>。|group=#}}。ムラト1世の時代まで行政区分は不明確であったが、従来の通説では14世紀末、米林仁の説によれば15世紀初頭にアナトリア(アナドル)方面においてベイレルベイが任命されることによりベイレルベイが複数任命されることになった。その後、アナトリアを管轄する{{仮リンク|アナドル・ベイレルベイスィ|tr|Anadolu Eyaleti}}配下のアナドルの[[オスマン帝国の行政区画|ベイレルベイリク]](大軍管区の意味)とルメリを管轄する{{仮リンク|ルメリ・ベイレルベイスィ|tr|Rumeli Eyaleti}}配下のルメリのベイレルベイリクによって分割統治されるようになった<ref name="G246-7">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.246-247]].</ref>。
この時点ではベイレルベイは「大軍管区長官」の性格をもち、ベイレルベイリクは「大軍管区」の性格をもっており、当初のベイレルベイは軍司令官の性格が強かった。しかし、次第に帝国化していくことにより、君主専制的、中央集権的体制への進化、さらに帝国の拡大によりベイレルベイ、ベイレルベイリクはそれぞれ地方行政官的性格をも併せ持つことにより、「大軍管区」も「州」の性格を、「大軍管区長官」も「総督」としての性格をそれぞれ併せ持つようになった<ref name="G246">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.246]].</ref>。
ベイレルベイ(大軍管区長官)とベイレルベイリク(大軍管区)の下には{{仮リンク|サンジャク (行政区分)|en|Sanjak|label=サンジャク}}(小軍管区)、サンジャク・ベイ(小軍管区長)が置かれた。これは後に県、及び県長としての性格を持つようになるが、後にこれらベイレルベイリク(州)、サンジャク(県)はオスマン帝国の直轄地を形成することになった{{#tag:ref|一部の重要な都市を含むサンジャクのベイにはチェレビイ・スルターンと呼ばれる王子達が任命された<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、p.134]].</ref>。|group=#}}<ref name="G246-7">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.246-247]].</ref>。なお、ベイレルベイリクは後にエヤレト(エヤレットという表記もある)、ヴィラエットと呼称が変化する<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、p.131]].</ref>。
さらにオスマン帝国領にはイスラーム法官([[カーディー]])らが管轄する裁判区としてガザ(イスラーム法官区)が設置されていた。県はいくつかのガザ(郡という表記もされる)で形成されていたが、イスラーム法官は県知事、州知事らの指揮命令に属しておらず、全体として相互補完、相互監視を行うシステムとなっていた<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.247-248]].</ref><ref name="YT109">[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、p.109]].</ref>。そしてその下にナーヒエ(郷)、さらにその下にキョイ(村)があった<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、p.133]].</ref>。
当初、地方行政区画としてはアナドル州とルメリ州のみであったが、ブダを中心とするブディン州、トゥムシュヴァルを中心にするトゥムシュヴァル州、[[サラエヴォ]]を中心とするボスナ州が16世紀末までに設置され、それぞれその下にベイレルベイが設置された<ref name="YT109"/>。
さらに16世紀に入ると統治地域が増加したことにより、専管水域も拡大した。そのため、海洋にもベイレルベイが設置され、カプタン・パシャ(大提督)が補任した<ref name="mihashi66136"/>。
中央では、皇帝を頂点とし、大宰相([[大宰相|サドラザム]]{{enlink|Grand Vizier|a=on}})以下の宰相([[ワズィール|ヴェズィール]]{{enlink|Vizier|a=on}})がこれを補佐し、彼らと軍人法官([[カザスケル]])、財務長官({{仮リンク|デフテルダル|en|Defterdar}})、国璽尚書([[ニシャンジュ]])から構成される御前会議([[ディーヴァーヌ・ヒュマーユーン]])が最高政策決定機関として機能した。[[17世紀]]に皇帝が政治の表舞台から退くと、大宰相が皇帝の代理人として全権を掌握するようになり、宮廷内の御前会議から大宰相の公邸である大宰相府([[バーブ・アーリー]])に政治の中枢は移る。同じ頃、宮廷内の御前会議事務局から発展した官僚機構が大宰相府の所管になり、名誉職化した国璽尚書に代わって実務のトップとなった書記官長([[レイスルキュッターブ]])、大宰相府の幹部である大宰相用人([[サダーレト・ケトヒュダース]])などを頂点とする高度な官僚機構が発展した。
[[ファイル:Bab-i_Ali.jpg|right|200px|thumb|大宰相府(バーブ・アーリー)の門]]
中央政府の官僚機構は、軍人官僚(カプクル)と、法官官僚([[ウラマー]])と、書記官僚([[カーティブ|キャーティプ]])の3つの柱から成り立つ。軍人官僚のうち[[エリート]]は宮廷でスルタンに近侍する小姓や太刀持ちなどの役職を経て、イェニチェリの軍団長や県知事・州知事に採用され、キャリアの頂点に中央政府の宰相、大宰相があった。法官官僚は、[[マドラサ|メドレセ]](宗教学校)でイスラム法を修めた者が担い手であり、郡行政を司り裁判を行うカーディーの他、メドレセ教授や[[ムフティー]]の公職を与えられた。カーディーの頂点が軍人法官([[カザスケル]])であり、ムフティーの頂点がイスラムに関する事柄に関する帝国の最高権威たる「イスラムの長老」([[シェイヒュルイスラーム]])である。書記官僚は、書記局内の徒弟教育によって供給され、始めは数も少なく地位も低かったが、大宰相府のもとで官僚機構の発展した17世紀から18世紀に急速に拡大し、行政の要職に就任し宰相に至る者もあらわれるようになる。この他に、[[宦官]]を宮廷使役以外にも重用し、宦官出身の州知事や宰相も少なくない点もオスマン帝国の人的多様性を示す特徴と言える。
これらの制度は、19世紀以降の改革によって次第に[[西欧]]を真似た機構に改められていった。例えば、書記官長は外務大臣、大宰相用人は内務大臣に改組され、大宰相は御前会議を改めた閣議の長とされて事実上の[[内閣]]を率いる[[首相]]となった。
しかし、例えば西欧法が導入され、世俗法廷が開設されても一方ではシャリーア法廷がそのまま存続したように、[[イスラム国家]]としての伝統的・根幹的な制度は帝国の最末期まで廃止されることはなかった。帝国の起源がいずれにあったとしても、末期のオスマン帝国においては国家の根幹は常にイスラムに置かれていた。これらのイスラム国家的な制度に改革の手が入れられるのは、ようやく20世紀前半の統一派政権時代であり、その推進は帝国滅亡後のトルコ共和国による急速な世俗化改革をまたねばならなかった。
『オスマン帝国の行政遺産および現代中東』を執筆したカーター・ヴォーン・フィンドリーによると、1800年代初頭、オスマン帝国は、自由主義という新たな世界秩序に適応するために、「タンジマート」の時期を迎えた。オスマン帝国の支配者は、広大な土地に散らばる臣民との関係を断ち切っていたため、あらゆる方面から様々な独立思想の影響を受けやすかったのである。このような時期の戦略的な変化の一つが、再び権力を集中化することであった[https://aucegypt.summon.serialssolutions.com/#!/search?bookMark=eNqNz8tKxDAYBeCII6i1D-BGxpWrQpIm_dOlFG8w0I2uQ65DO20zNOmAPr1CV7pyeeDjHM412kxhcmcor0EQhrGoMCHk_E--RHmMPcaYlAAUwxW6bVMKo5q2TXfqhm3rfWc6Ndgw3qALr4bocrRJ8-Iy9PH89N68Frv25a153BWKcqhZ4axgxAulOXDvGBcMmOYGuAUHjFnrlAVBKSZaC18SIASMsEJxWymlywzdr71qMW7_eUzSqKSGsJe6JBXmNWY0Qw-rOc6hdyaNS3TS6RAOUf769yPvVtnHFGa5kl6alODrdJhK-p-5b6oiXVY 。] さらにフィンドリーは、市場を独占していた国家主導の企業に対する自由貿易と、1838年のインフィタ時代に出された保護法との争いがあったことも指摘している。フィンドリーによると、オスマン帝国の支配階級には、軍、宗教、奉仕という3つの重要な機能的区分があった。軍は、軍事工学学校の設立、軍内の外交術の改革、さらに服務規定の改善により、文官としてのプロ意識が育まれた、1800年代のマフムト2世とアブデュルハミト2世の時代に最も強化された。文官支配は「1908年から1950年までトルコを支配し続けた」。フィンドリーはこの遺産を、タンジマート時代に促進されたインフィタ(開かれた貿易市場)時代に起因するとしている。このようなタンジマートの「後継者」または遺産が、「ホーラーニの自由主義時代、アラブの社会主義の一時的な流行、そして冷戦後の時代」を通じて存続した。また、19世紀には文官の雇用率が高まり、行政の質が低下して破産および対外債務につながったが、一方で、不規則な採用および昇進方法はスルターンが利用した利権の保護手段であった。1838年から1839年にかけてのタンジマート時代は、イスラム社会に対する急激な西洋化と批判され、近代主義を通してオスマン帝国によるイスラムの古い価値観の復活を望む国民主義的なオスマン帝国の人々が結集した
=== オスマン帝国の人々 ===
==== 宗教面 ====
オスマン帝国が最大版図となった時、その支配下は自然的地理環境や生態的環境においても多様なものを含んでおり、さらに歴史的過去と文化的伝統も多様なものが存在した<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.135]].</ref>。
オスマン帝国南部であるアラブ圏では[[ムスリム]]が大部分であり、また、その宗教はオスマン帝国の支配イデオロギーである[[スンナ派]]が中心を成していたが、イラク南部では[[シーア派]]が多数存在しており、また、現在のレバノンに当たる地域には[[ドゥルーズ派]]が多数存在していた。しかし、これだけにとどまらず、エジプトの[[コプト正教会]]、レバノン周辺の[[マロン典礼カトリック教会|マロン派]]、シリア北部からイラク北部には[[ネストリウス派]]の流れを汲む[[アッシリア東方教会]]が少数、[[ギリシャ正教]]、[[アルメニア使徒教会]]、[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]、[[ユダヤ教]]徒などもこのアラブ圏で生活を営んでいた<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、pp.135-136]].</ref>。
そしてアナトリアでは11世紀以降のイスラム化の結果、ムスリムが過半数を占めていたが、ビザンツ以来のギリシャ正教徒、アルメニア教会派も多数存在しており、その他、キリスト教諸教派も見られ、ユダヤ教徒らも少数存在した。しかし、15世紀に[[イベリア半島]]でユダヤ教徒排斥傾向が強まると、ユダヤ教徒らが多くアナトリアに移民した<ref name="suzuki00136">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.136]].</ref>。
バルカン半島ではアナトリアからの流入、改宗によりムスリムとなる人々もいたが、キリスト教徒が大多数を占めており、正教徒が圧倒的多数であったが[[アドリア海]]沿岸ではカトリック教徒らが多数を占めていた。また、ムスリムとしてはトルコ系ムスリムと[[セルボ・クロアチア語]]を使用するボスニアのムスリム、そしてアルバニアのムスリムなどがムスリムとしての中心を成していた<ref name="suzuki00136"/>。
一方で1526年に占領されたハンガリー方面ではカトリックとプロテスタントの間で紛争が始まった時期であった。オスマン帝国は[[プロテスタント]]、カトリックどちらをも容認、対照的にハプスブルク帝国占領下であった[[フス派]]の本拠地、ボヘミアではプロテスタントが一掃されていた<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、pp.136-137]].</ref>。
こうして西欧ではキリスト教一色となって少数のユダヤ人らが許容されていたに過ぎない状態であったのと対照的にオスマン帝国下ではイスラム教という大きな枠があるとはいえども多種の宗教が許容されていた<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.137]].</ref>。
==== 民族 ====
オスマン帝国が抱え込んだものは宗教だけではなかった。その勢力範囲には同じ宗教を信仰してはいたものの各種民族が生活しており、また、言語も多種にわたった。
オスマン帝国元来の支配層はトルコ人であり、イスラム教徒であった。ただし、このトルコ人という概念も「トルコ語」を母語しているということだけではなく、従来の母語からトルコ語へ母語を変更したものも含まれていた。これはオスマン帝国における民族概念が生物学的なものではなく、文化的なものであったことを示している<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、pp.137-138]].</ref>。
オスマン帝国の南部を占めるイラクからアルジェリアにかけては[[アラビア語]]を母語として自らを[[アラブ人]]と認識する人々が多数を占めていた。しかし、西方のマグリブ地域に向かうと[[ベルベル語]]を母語とする[[ベルベル人]]、そして北イラクから北シリアへ向かうと[[シリア語]]を母語としてネストリウス派を奉じる[[アッシリア人]]が少数であるが加わった。微妙な立場としては[[コプト正教会]]でありながら[[コプト・エジプト語|コプト語]]を宗教用にしか用いず、日常にはアラビア語を用いていたコプト正教徒らが存在する<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.138]].</ref>。
また、アナトリア東部から北イラク、北シリアにはスンナ派の[[クルド人]]らが存在しており、[[クルド語]]を母語としていた<ref name="suzuki00139">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.139]].</ref>。
元東ローマ帝国領であったアナトリア及びバルカン半島では、ギリシャ語を母語として[[ギリシャ正教]]を奉じるギリシャ人らが多数を占めていた。ただし、アナトリア東部と都市部にはアルメニア語を母語としてアルメニア使徒教会派であるアルメニア人らも生活を営んでいた。バルカン半島では民族、言語の分布はかなり複雑となっていた。各地にはオスマン帝国征服後に各地に散らばったトルコ人らが存在したが、それ以前、ルーマニア方面にはトルコ語を母語とするが正教徒であるペチェネク人らも存在した<ref name="suzuki00139"/>。
バルカン半島東部になるとブルガリア語を母語として正教を奉じるブルガリア人、西北部にはセルボ・クロアチア語を母語として正教徒である南スラブ系の人々、これらの人々は正教を奉じた人々らはセルビア人、カトリックを奉じた人々らはクロアチア人という意識をそれぞれ持っていた。しかし、ボスニア北部では母語としてセルボ・クロアチア語を使用しながらもムスリムとなった人々が存在しており、これらはセルビア人、クロアチア人からは「トゥルチン(トルコ人」と呼ばれた<ref name="suzuki00139-40">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、pp.139-140]].</ref>。
アルバニアではアルバニア語を母語とするアルバニア人らが存在したが、15世紀にその多くがイスラム教へ改宗した。ただし、全てではなく、中には正教、カトリックをそのまま奉じた人々も存在する。そしてオスマン帝国がハンガリー方面を占領するとハンガリー語を母語としてカトリックを中心に、プロテスタントを含んだハンガリー人もこれに加わることになる<ref name="suzuki00141">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.141]].</ref>。
その他、ユダヤ教を信じる人々が存在したが、母語はバラバラであり、ヘブライ語はすでに典礼用、学問用の言語と化していた。オスマン帝国南部ではアラビア語、北部では東ローマ帝国時代に移住した人々はギリシャ語、15世紀末にイベリア半島から移住した人々は[[ラディーノ語]]、ハンガリー征服以後は[[イディッシュ語]]をそれぞれ母語とするユダヤ教徒らがオスマン帝国に加わることになる。ただし、彼らは母語こそ違えどもユダヤ教という枠の中でアイデンティティを保持しており、ムスリム側も宗教集団としてのユダヤ教徒(ヤフディー)として捉えていた<ref name="suzuki00141"/>。
== ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策 ==
{{main|[[ミッレト制]]}}
オスマン帝国は勢力を拡大すると共にイスラム教徒以外の人々をも支配することになった。その為の制度がミッレト制であり、[[サーサーン朝]]ペルシアなどで用いられていたものを採用した。この対象になったのは[[ユダヤ教]]徒、[[アルメニア使徒教会]]派、[[ギリシャ正教]]徒らであった<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、pp.138-139]].</ref>。また、成立時より東ローマ帝国と接してきたオスマン帝国は教会をモスクに転用した例こそあれども、東ローマ帝国臣民を強制的にムスリム化させたという証拠は見られず、むしろ、15世紀初頭以来残されている資料から東ローマ帝国臣民をそのまま支配下に組み込んだことが知られている<ref name="G236">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.236]].</ref>。
このミッレトに所属した人々は[[ジズヤ|人頭税(ジズヤ)]]の貢納義務はあったが、各自ミッレトの長、ミッレト・バシュを中心に固有の宗教、法、生活習慣を保つことが許され、自治権が与えられた<ref name="G236"/>。
これらミッレト制は[[シャーリア]]上の[[ズィンミー]]制に基づいていたと考えられており、過去には唯一神を奉じて啓示の書をもつキリスト教徒やユダヤ教徒などいわゆる「[[啓典の民]]」らはズィンマ(保護)を与えられたズィンミー(被保護民)としてシャーリアを破らない限りはその信仰、生活を保つことが許されていた。オスマン帝国はこれを受け継いでおり、元々東ローマ帝国と接してきた面から「正教を奉じ、ギリシャ語を母語とするローマ人にして正教徒」というアイデンティティの元、ムスリム優位という不平等を元にした共存であった<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.238-239]].</ref>。
このミッレト制は過去に語られた「オスマン帝国による圧政」を意味するのではなく、「オスマンの平和」いわゆる「[[パクス・オトマニカ|パックス・オトマニカ]]」{{#tag:ref|歴史家アーノルド・トインビーによる<ref name="suzuki00131">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.131]].</ref>。|group=#}}という面があったということを意味しており<ref name="G239">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.239]].</ref>、20世紀以降激化している中東の紛争、90年代の西バルカンにおけるような民族紛争・宗教紛争もなく、オスマン帝国支配下の時代、平穏な時代であった<ref name="suzuki00132">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.132]].</ref>。
=== ユダヤ教徒 ===
ユダヤ人の宗派共同体は東ローマ帝国時代からすでに存在した。1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国領となると、そのミッレトは東ローマ帝国時代と同じ待遇で扱われることを認められ、公認のラビが監督することになった。オスマン帝国はユダヤ人ということで差別することがなかったため、[[オーストリア]]、[[ハンガリー]]、[[ポーランド]]、[[ボヘミア]]、[[スペイン]]などからの移民も別け隔てなく受け入れた。ただし、これら新規に流入したユダヤ人たちは纏まりを欠いたため、オスマン帝国がハハム・バシュを任命してこれら小集団と化したユダヤ人らを統括した<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、pp.140-141]].</ref>。
なお、バヤズィト2世の時代にはユダヤ人らを厚遇するように命じた勅令を発布している<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、p.141]].</ref>。
=== アルメニア人 ===
{{seealso|アルメニア使徒教会}}
アルメニア人らは[[合性論]]を教義とする[[非カルケドン派正教会|非カルケドン派]]が多かったため、東ローマ帝国時代から異端視される傾向が強かった。そのため、東ローマ皇帝によって[[カフカース]]から[[カッパドキア]]、[[キリキア]]へ移住させられ、[[キリキア・アルメニア王国]](小アルメニア)を形成することになった。アルメニア本土はセルジューク軍、モンゴル軍、[[ティムール帝国]]などの侵略を受けたが、小アルメニアはなんとか自立を保つことができた。その後、オスマン帝国の侵略を受けたが、小アルメニア、アルメニア本土はすぐにオスマン帝国領化することもなかった。しかし、メフメト2世の時代、アルメニア人らのミッレトが形成されたが、アルメニア本土がオスマン帝国領になるのは1514年のことであった<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、pp.141-142]].</ref>。
=== ギリシャ正教徒 ===
{{seealso|ギリシャ正教}}
ギリシャ正教徒のミッレトにはギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人、ワラキア人らが所属した。彼らはバルカン半島の主要な民族であったために、メフメト2世がギリシャ正教総主教に[[ゲンナディオス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ゲンナデオス2世]]を任命してミッレト統括者にしたように重要視された。なお、ルメリ地方にミッレト制が導入されたのはメフメト2世以降であり、コンスタンティノープルが陥落するまでは導入されなかった<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、pp.142-143]].</ref>。
なお、このミッレトには上記民族以外にもアラビア語を母語とするキリスト教徒、トルコ語を母語とするキリスト教徒(カラマンル)らも含まれることになり、キリスト教徒(正教徒)としての意識を持ってはいたが、それ以上に母語を元にした民族意識も二次的ながら存在していた<ref name="G239"/>。
しかし、オスマン帝国の首都がイスタンブールであったため、イスタンブールにあった[[コンスタンティノープル総主教庁|全地総主教座]]を頂点とする正教会上層部がこの主導権を握ることになったため、ギリシャ系正教徒が中心をなし、ギリシャ系正教徒が著しく重きをなした。これに対して過去に[[ステファン・ドゥシャン]]が帝国を築いたという輝かしい過去をもつセルビア系正教徒らは反感を持っており、[[1557年]]、ボスニア出身の元正教徒で大宰相となった[[ソコルル・メフメト・パシャ]]の尽力により[[セルビア正教会|セルビア総主教座]]を回復したが、これはイスタンブールの総主教座の強い抗議により[[1766年]]に廃止された。この例を見るようにオスマン帝国支配下の正教徒社会の中ではギリシャ系の人々が強い影響力をもっていた<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.240]].</ref>。
イスタンブールの総主教を中心とする正教会はオスマン帝国内だけではなく、オスマン帝国外にも信仰上の影響力があった。コンスタンティノープル陥落以降、教育機関が消滅したが、イスタンブールの総主教座の元では聖職者養成学校が維持され、さらに[[アトス山]]の修道院も維持され、その宗教寄進もスルタンに承認されていた<ref name="G241">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.241]].</ref>。
これらのことから教会の上位聖職者はギリシャ系が占めることになったが、これは非ギリシャ系正教徒らに対して「ギリシャ化」を促進しようとする傾向として現れた。18世紀になるとアルバニア系正教徒らが[[アルバニア語]]を用いて教育することをオスマン政府に要請したが、これはギリシャ系正教会の手によって握りつぶされ<ref name="G241"/>、ファナリオテスがエフラク、ボーダンの君侯になったことにより、ルーマニア系正教徒に対してギリシャ系の優位とそのギリシャ化を推進しようとした<ref name="G246">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.246]].</ref>。
さらに法律の世界でも正教会が重要な位置を占めており、東ローマ時代には皇帝の権力の元、司法と民政を担っていたが、オスマン帝国支配となると裁判などにおいて当事者が正教徒同士である場合、正教会に委ねられることになった{{#tag:ref|一方の当事者がムスリム、非正教徒の非ムスリムの場合や、両方が正教徒であったとしても片方が望んだ場合はイスラーム法廷で裁かれた<ref name="G242">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.242]].</ref>。|group=#}}。そのため、ムスリムらの固有法がシャーリアであったのに対して、正教徒らは[[ローマ法大全|ローマ法]]が固有の法であった<ref name="G242"/>。
== 文化 ==
{{main|{{仮リンク|オスマン帝国の文化|en|Culture of the Ottoman Empire}}}}
[[ファイル:Pitcher_Iznik_Louvre_OA7595.jpg|left|200px|thumb|イズニク陶器の水差し(16世紀頃)]]
=== 建築 ===
{{Main|オスマン建築}}
[[イスラーム建築|イスラムの伝統様式]]を発展させ、[[オスマン建築]]と呼ばれる独特の様式を生み出した。
=== 陶芸 ===
{{Main|{{仮リンク|イズニク陶器|en|Iznik pottery}}}}
オスマン帝国では15世紀末、イズニクにおいて飛躍的に陶芸が発達した。これを{{仮リンク|イズニク陶器|en|Iznik pottery}}と呼ぶ。中国陶器の影響を受け、初期には青と白を基調にし、のちにイズニクならではと言われた赤色を使用したものが生まれた。これらの陶器は皿などの一般的なものだけではなく、モスクや宮殿も彩った。17世紀に入ると徐々にイズニクでの陶器製造は衰え、テクフール・サライやキュタヒヤが後を継いだがイズニクを越えることは叶わなかった<ref>[[#ビダール1996|ビダール(1996)、pp.112-113]].</ref>。
しかし、イズニク陶器の影響はオスマン帝国属州に広がり、シリア、チュニジアなどで製造されたタイルにはその影響が強くみられる<ref>[[#ビダール1996|ビダール(1996)、p.113]].</ref>。
=== 文学 ===
{{main|{{仮リンク|オスマン帝国の文学|en|Ottoman literature}}|トルコ文学}}
オスマン帝国の宮廷では詩が特権的な立場を得ていた。スルタンの多くが詩作に耽り、また、プルサ、エディルネのような旧都や後に加わったバクダットなどでも作成され、宮廷詩人らはメドレセでアラビアやペルシアの文学を学んだ。その中でもバーキーやフズーリーなどの詩人が生まれた<ref>[[#ビダール1996|ビダール(1996)、pp.175-177]].</ref>。
[[ファイル:Surname_17b.jpg|right|160px|thumb|楽人(レヴニー画)]]
=== 美術 ===
{{main|{{仮リンク|オスマン帝国の美術|fr|Art de l'empire ottoman}}}}
[[イスラム世界]]から受け継いだ[[イスラームの書法|アラビア文字の書道]]が発展し、絵画は、中国絵画の技法を取り入れた[[ミニアチュール]](細密画)が伝わった。
=== 音楽 ===
{{main|{{仮リンク|オスマン帝国の音楽|en|Ottoman music}}|トルコ音楽|メフテル}}
[[アラブ音楽]]の影響を受けた[[リュート]]系統の[[弦楽器]]や[[笛]]を用いた繊細な宮廷音楽([[オスマン古典音楽]])と、ティンパニ、[[チャルメラ]]・[[ラッパ]]や[[太鼓]]の類によって構成された勇壮な軍楽([[メフテル]])とがオスマン帝国の遺産として受け継がれている。
== 科学と技術 ==
{{main|{{仮リンク|オスマン帝国の科学技術|en|Science and technology in the Ottoman Empire}}}}
オスマン帝国は、600年の歴史の中で[[科学技術]]を大きく進歩させていた。その分野は[[数学]]、[[天文学]]、[[医学]]など幅広く及んでおり、特に天文学は同帝国において非常に重要な分野に位置付けられていた。
{{節スタブ}}
== パクス・オトマニカ ==
{{Main|パクス・オトマニカ}}
17世紀の1683年、皇帝[[メフメト4世]]の治世の元、オスマン帝国は勢力的に最大版図を築いた。オスマン帝国の歴史学者らはこのオスマン帝国の最盛期や、その後の時代を[[パクス・オトマニカ]]と呼ぶ。
== 関連作品 ==
=== 文芸作品 ===
;トルコ人の作家
:[[オルハン・パムク]] 『わたしの名は紅』藤原書店 ・・・2006年[[ノーベル文学賞]]を受賞した。<ref>[https://1000ya.isis.ne.jp/1234.html 松岡正剛による紹介]</ref>
:{{仮リンク|トゥルグット・オザクマン|tr|Turgut Özakman}} 『トルコ狂乱』三一書房 ・・・[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]](ケマル・パシャ)の伝記。映画化「[[:en:Dersimiz: Atatürk|Dersimiz: Atatürk]]」
:{{仮リンク|オスマン・ネジミ・ギュルメン|en|Osman Necmi Gürmen}} 『改宗者クルチ・アリ』藤原書店 ・・・[[クルチ・アリ]]の伝記
;ユーゴスラビアの作家
:[[イヴォ・アンドリッチ]] 『[[ドリナの橋]]』・『ボスニア物語』・『サラエボの女』 ・・・[[東方問題]]をテーマにした小説。1961年ノーベル文学賞を受賞した。
;オーストリアの作家
:[[フランツ・ヴェルフェル]] 『{{仮リンク|ムサ・ダの40日間|en|The Forty Days of Musa Dagh}}』 ・・・[[アルメニア人虐殺]]をテーマにした小説。
;イギリス人の作家
:[[ジェイソン・グッドウィン]] 『イスタンブールの群狼』ハヤカワ・ミステリ文庫 ・・・[[イェニチェリ]]をテーマにした小説
:ジェイソン・グッドウィン 『イスタンブールの毒蛇』ハヤカワ・ミステリ文庫 ・・・[[ギリシャ独立戦争]]をテーマにした小説
;日本人の作家
:[[塩野七生]] 『コンスタンティノープルの陥落』・『ロードス島攻防記』・『レパントの海戦』、各・新潮文庫(改版)
:[[陳舜臣]] 『イスタンブール 世界の都市の物語』 文藝春秋(1992年)、文春文庫(1998年)。「陳舜臣中国ライブラリー 26」で再刊(集英社, 2001年)
:[[夢枕獏]] 『シナン』中公文庫〈上・下〉 ・・・建築家[[ミマール・スィナン]]の伝記
=== 映画 ===
*[[ラスト・ハーレム]]:1999年公開。原題"Harem suaré"
*[[神聖ローマ、運命の日~オスマン帝国の進撃]]:2012年公開。原題"11 settembre 1683"
*[[シー・バトル、戦艦クイーン・エリザベスを追え!!]]:2012年公開。原題"Çanakkale 1915"
*[[バトル・オブ・オーシャン]]:2013年公開。原題"Çanakkale: Yolun Sonu"
*[[ブラック・ウォリアーズ オスマン帝国騎兵隊]]:2018年公開。原題"Deliler Fatih'in Fermani"
=== テレビドラマ ===
*[[オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜]]
=== 漫画 ===
*[[篠原千絵]]『[[夢の雫、黄金の鳥籠]]』
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group=#|2}}
=== 出典 ===
{{reflist|20em}}
== 参考文献 ==
* [[新井政美]] 『トルコ近現代史』 [[みすず書房]]、2001年。 ISBN 9784622033882。
*{{Cite book|和書|author=新井政美|authorlink=新井政美|title=オスマン帝国はなぜ崩壊したのか|year=2009|pages=229-280|publisher=[[青土社]]|isbn=9784791764907|ref=新井2009}}
* {{Cite book|和書|author=鈴木董|authorlink=鈴木董|year=1992|title=オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」|publisher=講談社現代新書|isbn=4061490974|ref=鈴木1992}}
* {{Cite book|和書|author=鈴木董|year=2000|title=オスマン帝国の解体 文化世界と国民国家|publisher=[[筑摩書房]]〈[[ちくま新書]]〉|isbn=4-480-05842-7|ref=鈴木(オスマン帝国の解体)}} - [[講談社学術文庫]]で再刊、2018年
* {{Cite book|和書|author=テレーズ・ビダール、富樫瓔子訳|editor=鈴木董監修|year=1996|title=オスマン帝国の栄光|publisher=創元社[[「知の再発見」双書]]|isbn=4422211110|ref=ビダール1996}}
* {{Cite book|和書|author=林佳世子|authorlink=林佳世子|year=1997|title=オスマン帝国の時代|publisher=山川出版社〈<small>世界史リブレット19</small>〉|isbn=4-634-34190-5|ref=林(オスマン帝国の時代)}}
* {{Cite book|和書|author=坂本勉|authorlink=坂本勉 (トルコ学者)|year=1996|title=トルコ民族主義|publisher=[[講談社現代新書]]|isbn=4061493272|ref=坂本1996}}
* {{Cite book|和書|author=小松久男|editors=[[小松久男]]+[[梅村坦]]+[[宇山智彦]]+[[帯谷知可]]+[[堀川徹]]|year=2005|title=中央ユーラシアを知る事典 - 「トルコ」の章|publisher=平凡社|isbn=4106003805|ref=小松2005}}
* {{Cite book|和書|author=ジョルジュ・カステラン、山口俊章訳|year=1994|title=バルカン <small>歴史と現在</small>|publisher=サイマル出版会|isbn=4-377-11015-2|ref=カステラン (バルカン)}}
* {{Cite book|和書|author=那谷敏郎|year=1990|title=三日月の世紀 <small>「[[大航海時代]]」のトルコ、イラン、インド</small>|publisher=[[新潮選書]]|isbn=4106003805|ref=那谷1990}}
* {{Cite book|和書|editor=桜井万里子|editor-link=桜井万里子|year=2005|title=ギリシア史|publisher=山川出版社|isbn=4-634-41470-8|ref=桜井(ギリシア史)}}
* {{Cite book|和書|author=佐藤次高編|year=2002|title=<small>世界各国史8</small>西アジア史Iアラブ|publisher=山川出版社|isbn=4-634-41380-9|ref=佐藤(西アジア史アラブ)}}
** 担当執筆者
*** 「第5章 オスマン帝国治下のアラブ地域」 [[長谷部史彦]]・私市正年
* {{Cite book|和書|author=永田雄三編|year=2002|title=<small>世界各国史9</small>西アジア史IIイラン・トルコ|publisher=山川出版社|isbn=4-634-41390-6|ref=永田(西アジア史イラン・トルコ)}}
** 担当執筆者
*** 「第3章 トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」 井谷鋼造
*** 「第5章 オスマン帝国の時代」 林佳世子
*** 「第6章 オスマン帝国の改革」 永田雄三
* {{Cite book|和書|editor=矢田俊隆|editor-link=矢田俊隆|year=1977|title=<small>世界各国史13 </small>東欧史|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-41130-X|ref=矢田(東欧史)}}
* {{Cite book|和書|author=三橋冨治男|year=1966|title=オスマン=トルコ史論|publisher=[[吉川弘文館]]〈ユーラシア文化史選書〉|ref=三橋(オスマントルコ史論)}}
* Karpat, Kemal. 1978. Ottoman Population Records and the Census of 1881/82-1893. International Journal of Middle Eastern Studies (9):237-274.
* L. Kinross, The Ottoman Centuries: The Rise and Fall of the Turkish Empire, 1979
== 関連文献 ==
* 新井政美 『オスマン vs. ヨーロッパ』 講談社選書メチエ、2002年
* [[林佳世子]] 『オスマン帝国500年の平和』 [[講談社]]〈興亡の世界史10〉、2008年/[[講談社学術文庫]]、2016年
* [[鈴木董]] 『オスマン帝国の権力とエリート』 [[東京大学出版会]]、1993年
* [[坂本勉 (トルコ学者)|坂本勉]] 『トルコ民族の世界史』 [[慶應義塾大学出版会]]、2006年
* 坂本勉・[[佐藤次高]]・鈴木董編 『パクス・イスラミカの世紀 <small>新書イスラームの世界史2</small>』 講談社現代新書(全3巻)、1993年
* アラン・パーマー『オスマン帝国衰亡史』 [[白須英子]]訳、[[中央公論新社|中央公論社]]、1998年
* 小笠原弘幸 『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』 中公新書、2018年
* 今井宏平 『トルコ現代史 オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで』 [[中公新書]]、2017年
* [[永田雄三]]・[[羽田正]] 『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15)中央公論社、1998年、[[中公文庫]]、2008年
* 永田雄三・[[加藤博]] 『西アジア(下)』(地域からの世界史8)[[朝日新聞出版]]、1993年
* [[藤由順子]] 『ハプスブルク・オスマン両帝国の外交交渉 <small>1908 – 1914</small>』 南窓社、2003年
* [[久保吉光]] 『ハンガリーからトルコへ <small>その言語及び歴史、地理</small>』 泰流社、1989年
* ウルリッヒ・クレーファー 『オスマン・トルコ帝国』 [[戸叶勝也]]訳、佑学社、1982年
* ロベール・マントラン 『トルコ史』 小山皓一郎訳、([[文庫クセジュ]])白水社、1982年
* [[三橋富治男]] 『オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝』 (清水新書)清水書院、1971年、新版1984年、再訂版2018年
* 三橋富治男 『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』 (紀伊国屋新書)紀伊国屋書店、1962年、復刻単行版1994年
* [[スティーヴン・ランシマン]] 『コンスタンティノープル陥落す』 [[護雅夫]]訳、みすず書房、1969年、新版1998年
* デイヴィド・ホサム 『トルコ人』 護雅夫訳、みすず書房、1983年
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|歴史|[[ファイル:P history.svg|34px|Portal:歴史]]}}
* [[オスマン家]]
* [[オスマン帝国の君主]]
* [[ローマ帝国]]
* [[東ローマ帝国]]
* [[トルコ]]
* [[オスマン語]]
* [[ローマ皇帝]]
* [[オスマン債務管理局]]
* [[ハレム]]
* [[プロテスタントとイスラム]]
* [[アラブ反乱]] - [[トーマス・エドワード・ロレンス]]が関わる
* {{仮リンク|第一次世界大戦下のオスマン帝国の戦闘一覧|en|List of Ottoman battles in World War I}}
* {{ill2|占領下敵国領政庁|en|Occupied Enemy Territory Administration}}(略称:OETA) - 第一次世界大戦後の戦勝国占領地の管理を目的とするイギリス・フランス・アラブの共同軍事政権。
* [[カイロ会議 (1921年)]]、{{仮リンク|シャリーフィアンの解決|en|Sharifian Solution}} - 第一次世界大戦後のオスマン帝国の扱いを決める会議と決定。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Ottoman Empire}}
* [http://www.kalemguzeli.net/kategori/osmanli-medeniyeti Osmanlı Medeniyeti - オスマン帝国] {{en icon}}
<!-- リンク切れ * [http://www.osmanli700.gen.tr/english/engindex.html Ottoman Web Site](英語)-->
* [http://www.theottomans.org/english/index.asp TheOttomans.org]{{en icon}}
<!-- リンク切れ * [http://www.kultur.gov.tr/portal/tarih_en.asp?belgeno=1258 Ottoman Empire - トルコ文化省](英語)-->
* [http://gold.natsu.gs/WG/ST/222/ottomans/history/ottomans3.html En hommage a SPI SPIへのオマージュ] -「Ottomans:The Rise of the Turkish Empire, 1453 - 1571の日本語版ルール」
* [https://www.suntory.co.jp/sfnd/asteion/re-read/005.pdf オスマン帝国の解体とヨーロッパ] - 藤波伸嘉
* {{Kotobank}}
{{Authority control}}{{Colonialism}}{{デフォルトソート:おすまんていこく}}
[[Category:オスマン帝国|*]] | 2003-03-11T20:08:00Z | 2023-12-10T04:52:23Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD |
3,841 | 半導体メモリ | 半導体メモリ(はんどうたいメモリ)は、半導体素子(特に、もっぱら集積回路)によって構成された記憶装置(メモリ)である。
記憶装置(メモリ)には各種のものがあるが、ここでは半導体メモリとそうでないものにおおざっぱに二分する。もっぱら補助記憶装置に使われる、ハードディスクに代表される、磁気面などに機械的に読み書きするものと、コンピュータ本体(特に、CPUなどのマイクロプロセッサといったプロセッサ)と同様のテクノロジを利用したものに分けられ、現代ではもっぱら後者は半導体メモリであり、主記憶装置に使われる。また主記憶装置よりもCPU寄りに位置するキャッシュメモリやレジスタなどは一般にほぼ半導体メモリで構成される。
半導体メモリは応答時間や帯域幅の点ですぐれるが、容量あたりのコスト(価格)が高く、また一般に揮発性のタイプが多いため、外部記憶(補助記憶装置)には以前は使われることは少なかったが、近年はSSDにより徐々に半導体メモリも使われつつある。また携帯機器やディジタルカメラの記録用などといった用途では、機械的なものは振動で壊れるという弱点から、半導体メモリ(主としてフラッシュメモリ)が使われている。
揮発性メモリは、電源を切ると記憶情報が失われる。
DRAMの特殊例として擬似SRAMがある。
不揮発性メモリは、電源を切っても記憶情報が保持される。書き換え可能な不揮発性メモリの多くが、書き換え動作に伴う内部の絶縁層の劣化が不可避なために、書き換え可能回数に上限が存在する。また以上の書き換え寿命とは別の話として、不揮発といってもそれぞれの原理の違いによって、半永久的に記憶情報が保持できるものと、年単位では記憶情報が失われるものが存在する(正確には、10のゼロ乗年程度から10の3乗年程度まで、種類によりさまざまだ、ということである)。
完全なリードオンリーのメモリを別にして、消去と書込みが可能なROMという扱いのため「ROM」の語が付く場合と、不揮発性のRAMという扱いのため「RAM」の語が付く場合とあり、ある程度はそれぞれのタイプの特徴の影響もあるが、それ以上に成り行きとか慣例の影響が強く、ROMかRAMかという名称に拘る意味は無い。
OTP PROM / UV-EPROMは比較的古い技術になっており、少数の特殊な用途を除けば21世紀現在では使用されることはほとんどない。FeRAM / MRAM / PRAM / ReRAMは比較的新しい技術であり、DRAMやSRAM、フラッシュメモリを代替すべく発展途上である。
本来は、ランダムアクセスのメモリと、読み出しだけのメモリという意味で、この2つは対立関係にあるものではない。しかしなぜか、RAMについて「読み書き可能」という意味でROMの対義語として扱われるようになり、一方でROMについては、PROMやUVEPROMといった追記型や物理消去が可能なタイプから発展して不揮発性メモリ的に使える素子が現れたこともあり、「フラッシュROM」など事実上ほぼ読み書き可能と言っていいものを指す場合も現れるなど、完全に混乱している。 | [
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] | 半導体メモリ(はんどうたいメモリ)は、半導体素子(特に、もっぱら集積回路)によって構成された記憶装置(メモリ)である。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2017-07-01
| 更新 = 2021年8月22日 (日) 02:55 (UTC)
}}[[ファイル:Swissbit 2GB PC2-5300U-555.jpg|代替文=|サムネイル|揮発性メモリの一種、DDR2 [[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]を搭載したPC用メモリ]]
[[ファイル:PC_Mass_storage_device_USB_flash_drives.jpg|thumb|不揮発性メモリの一種、フラッシュメモリを搭載した[[USBメモリ]]]]
'''半導体メモリ'''(はんどうたいメモリ)は、[[半導体素子]](特に、もっぱら[[集積回路]])によって構成された[[記憶装置]](メモリ)である。
== 概要 ==
[[記憶装置]](メモリ)には各種のものがあるが、ここでは半導体メモリとそうでないものにおおざっぱに二分する。もっぱら[[補助記憶装置]]に使われる、[[ハードディスクドライブ|ハードディスク]]に代表される、磁気面などに機械的に読み書きするものと、コンピュータ本体(特に、[[CPU]]などの[[マイクロプロセッサ]]といった[[プロセッサ]])と同様のテクノロジを利用したものに分けられ、現代ではもっぱら後者は半導体メモリであり、[[主記憶装置]]に使われる。また主記憶装置よりもCPU寄りに位置する[[キャッシュメモリ]]や[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]などは一般にほぼ半導体メモリで構成される。
半導体メモリは応答時間や帯域幅の点ですぐれるが、容量あたりのコスト(価格)が高く、また一般に揮発性のタイプが多いため、外部記憶(補助記憶装置)には以前は使われることは少なかったが、近年は[[ソリッドステートドライブ|SSD]]により徐々に半導体メモリも使われつつある。また[[携帯機器]]や[[ディジタルカメラ]]の記録用などといった用途では、機械的なものは振動で壊れるという弱点から、半導体メモリ(主として[[フラッシュメモリ]])が使われている。
== 分類 ==
=== 記憶保持方法による分類 ===
==== 揮発性メモリ ====
[[揮発性メモリ]]は、電源を切ると記憶情報が失われる。
* [[Static Random Access Memory|SRAM]] (Static RAM) : [[フリップフロップ]]によるスタティックな回路により、DRAMのようなリフレッシュが不要である。プロセッサのオンダイのキャッシュメモリ等に使われるタイプは一般に最も高速な部類である(単体のICとして提供されている非同期SRAMの、特に大容量のものは、昨今の感覚ではさほど高速ではない)。
* [[Dynamic Random Access Memory|DRAM]] (Dynamic RAM) : 各メモリセルが持つ微小な[[キャパシタ]]の電荷による。情報を保持させているセルについてはその全てに、一定時間ごとにリフレッシュ動作と呼ばれる再生<ref group="注釈">リークによる電荷の増減によって、HかLかが曖昧になってしまう前に、HかLかを再度はっきりさせるという一種の「量子化」である。</ref>操作を行う必要があるため、ダイナミックという名がある。
** FPM DRAM (First Page Mode DRAM)
** EDO DRAM (Extended Data Out DRAM)
** [[SDRAM]] (Synchronous DRAM) / [[DDR SDRAM]] (Double Data Rate SDRAM)
** [[RDRAM]] (Rambus DRAM)
<!--** [[1TSRAM]] (1T-SRAM,CMOSプロセスで作った高速DRAM) 分類として載せる必要があるか疑問。-->
DRAMの特殊例として[[擬似SRAM]]がある<ref group="注釈">「擬似SRAM」はDRAM回路にリフレッシュ回路などを加えることでSRAMとピン配列や信号を擬似的に互換としたもの。</ref>。
==== 不揮発性メモリ ====
[[不揮発性メモリ]]は、電源を切っても記憶情報が保持される。書き換え可能な不揮発性メモリの多くが、書き換え動作に伴う内部の絶縁層の劣化が不可避なために、書き換え可能回数に上限が存在する。また以上の書き換え寿命とは別の話として、不揮発といってもそれぞれの原理の違いによって、半永久的に記憶情報が保持できるものと、年単位では記憶情報が失われるものが存在する(正確には、10のゼロ乗年程度から10の3乗年程度まで、種類によりさまざまだ、ということである)。
完全なリードオンリーのメモリを別にして、消去と書込みが可能なROMという扱いのため「ROM」の語が付く場合と、不揮発性のRAMという扱いのため「RAM」の語が付く場合とあり、ある程度はそれぞれのタイプの特徴の影響もあるが、それ以上に成り行きとか慣例の影響が強く、ROMかRAMかという名称に拘る意味は無い。
* [[マスクROM]]
* [[PROM]] (Programmable ROM)
** [[EPROM]] (Erasable Programmable ROM)
** [[UV-EPROM]] (Ultra-Violet Erasable Programmable ROM)
** [[EEPROM]] (Electrically Erasable Programmable ROM)
*** [[フラッシュメモリ]](原理的にはEEPROMの発展と言える)
**** [[NOR型フラッシュメモリ]]
**** [[NAND型フラッシュメモリ]]
* [[強誘電体メモリ]] (Ferroelectric RAM, FeRAM, FRAM<ref group="注釈">"FRAM" は米国ラムトロン社の商標である。</ref>)
* [[磁気抵抗メモリ]] (Magnetoresistive RAM, MRAM) : MTJ(Magnetic Tunnel Junction、磁気トンネル接合)効果を用いている
* PRAM (Phase change RAM) : [[相変化記録技術]]を用い、書き込みは素子の熱変化により行う
* [[ReRAM]] (Resistive RAM, RRAM<ref group="注釈">"RRAM" は[[シャープ]]の商標である。</ref>) : 電圧印加によって電気抵抗が大きな変化する。しかしその原理は CMR (Colossal Magneto-Resistance) と呼ばれる効果を用いたもの、酸素イオンの移動による伝導パスの形成、金属のマイグレーション、偏向によるバンドギャップの変化など多岐にわたる。材料ごとに原理が異なるためReRAMとして総括されている。
=== 記憶の書き換え方法による分類 ===
* ビットやバイト、ワード単位で書き換え
** DRAM
** SRAM
** FeRAM / MRAM / PRAM / ReRAM
* ブロック単位で消去や書き込み
** フラッシュメモリ(NAND型とNOR型でブロックサイズは異なる)
* PROM類 (Programmable ROM)
** OTP PROM (One Time Programable ROM) : 1回限りの書込みが行なえ、書き込み後は消去や書き換えが不能なもの。フューズROMともほぼ同義<ref group="注釈">実際には、0のビットを1にする、あるいはその逆の、どちらかの操作が不可逆に行える、というものであるため、非常に制限は強いがある種の追記ができなくもない。いずれにしろ、本来の想定された使い方ではなく外付けの書き込み回路などの用意が必要であり、素子自身で追記する事は出来ない。</ref>
** EPROM : 数百から数千回程度の消去と再書込みが可能
*** UV-EPROM : 中央に空いた窓からチップに紫外線を照射することで消去する。消去後は再書き込み可能。紫外線を照射する<ref group="注釈">直射日光に長時間晒すのでもよい製品もある。</ref>消去装置や書き込み装置が必要
*** E-EPROM : 電気的に消去と書き込みが可能なもの。過去の製品では、消去・書き込みに高い電圧を別途供給する必要があったが、現在ではチップ内部で生成するものがほとんどである。E<sup>2</sup>PROMとも表記される。フラッシュメモリはこれの発展型である。
* 書き換え不能なもの
** マスクドROM : 集積回路のパターンとして製造時に情報が与えられ、その内容に固定で後からは変更できないもの。
OTP PROM / UV-EPROMは比較的古い技術になっており、少数の特殊な用途を除けば21世紀現在では使用されることはほとんどない。FeRAM / MRAM / PRAM / ReRAMは比較的新しい技術であり、DRAMやSRAM、フラッシュメモリを代替すべく発展途上である。
=== 記憶のアクセス方法による分類 ===
* [[ランダムアクセス]]
* [[シーケンシャルアクセス]]
* FIFO(バッファやキューなど)
* FILO(スタックなど)
=== その他の分類 ===
==== RAMとROM ====
* [[Random Access Memory]](RAM)
* [[Read only memory]](ROM)
本来は、[[ランダムアクセス]]のメモリと、読み出しだけのメモリという意味で、この2つは対立関係にあるものではない。しかしなぜか、RAMについて「読み書き可能」という意味でROMの対義語として扱われるようになり、一方でROMについては、PROMやUVEPROMといった追記型や物理消去が可能なタイプから発展して[[不揮発性メモリ]]的に使える素子が現れたこともあり、「フラッシュROM」など事実上ほぼ読み書き可能と言っていいものを指す場合も現れるなど、完全に混乱している。
* Read-write memory([[w:Read-write memory]]、RWM) - 一応「読み書きメモリ」という意味の表現が無いわけでもない(が、ほとんど一般に使われていない)
==== 用途による分類 ====
* [[フレームメモリ]] : デジタル式のビデオ表示装置での画面表示用メモリ
* [[キャッシュメモリ]] : [[CPU]]の[[主記憶装置]]アクセスの高速化用
== 脚注 ==
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===注釈===
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<!--===出典===
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[[Category:半導体メモリ|*はんとうたいめもり]] | null | 2023-06-14T01:50:08Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%B0%8E%E4%BD%93%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%83%AA |
3,843 | テレビ受像機 | テレビ受像機(テレビじゅぞうき、英: television setあるいはTV set)とは、テレビジョンの受信用の機器。テレビジョンの映像(動画)を画面に表示しスピーカー類から音を出す。テレビ受信機、テレビジョン受信機(television receiver)ともいい、略称で単にテレビやTVともいう。
送信されたテレビジョンの映像と音声の信号を受信し、それを再び映像と音声に変換し、画面に表示しスピーカーやヘッドフォン類から音を出す装置。
日本で地デジ・BS・CS放送(衛星放送)を視聴するためにはB-CASカードを差し込む。
なお受信機(チューナー)が内蔵されているものがテレビ受像機であり、受信機が内蔵されていないものは通常モニタやディスプレイと分類し、テレビ受信機とは別分類とすることが一般的である。
現在の日本ではデジタル方式であり、解像度による分類としては「4Kチューナー内蔵」「4K対応」「HD」などの種別がある。ハイビジョン放送が始まる以前はアナログ信号方式のテレビであった。
表示画面に焦点を当てた場合液晶、有機ELなどの分類がある。2000年から2005年ころはプラズマディスプレイもあり、さらに以前、2000年ころまではブラウン管方式もあった。(#表示画面の節で解説)
録画機能を搭載したテレビ受信機もある。録画機能を搭載したものは現在ではハードディスク(HDD)に録画するものが主流であり、HDD内蔵タイプと外付けHDD接続可能なタイプなどがある。かつてはビデオテープレコーダーに録画するテレビデオというものもあった。
1980年代ころまでは カラーテレビ / モノクロテレビ(白黒テレビ) という分類が行われたが、現在では原則カラーであり、この分類はテレビの歴史を説明する時に用いられる。
1926年(昭和元年)12月、高柳健次郎がブラウン管を応用した世界初の電子式テレビ受像器を開発、片仮名の「イ」の文字を表示させることに成功した。そのブラウン管の走査線数は40本だった。この時のカメラは機械式のニポー円盤。
その後、1940年(昭和15年)に開催が予定されていた東京オリンピックのテレビ中継のために研究・実験が進められていたが、日中戦争によりオリンピック開催が返上され、その後も太平洋戦争が激化することに伴い、研究が一旦中断される。
終戦後、GHQにより、テレビ研究の禁止令が出されていたが、1946年(昭和21年)から再開され、1953年(昭和28年)1月にシャープから国産第1号の白黒テレビが発売される(サイズは14インチ、価格は175,000円)。 同年2月に日本放送協会(NHK)がテレビ本放送を開始。その当時は高価だったことから、一般家庭における購入者は富裕層がほとんどであったため、同年8月に開局した日本初の民放テレビ局である日本テレビ放送網(日本テレビ・日テレ)が広告料収入と受像機の普及促進を兼ねる形で街頭テレビを設置し、当時の看板番組で、力道山戦などのプロレス中継、巨人戦が主のプロ野球中継、大相撲中継などのスポーツ中継の時間には街頭テレビに人が集まるほどの人気と広告収入が一番大きかったため、後に開局した大阪テレビ放送(OTV・現朝日放送テレビ)と中部日本放送のテレビ部門(現CBCテレビ)にも波及した。そのため、客寄せの一環で喫茶店や銭湯などにも家庭用テレビが業務用途に設置する動きも診られるようになった。家電屋の店頭に設置したテレビも事実上の街頭テレビと看做されている。後に一般家庭にも1959年(昭和34年)の皇太子明仁親王の成婚パレードを境に普及が進んだ。1950年代後半から1960年代初頭までには、白黒テレビは電気洗濯機や電気冷蔵庫などとともに「三種の神器」の一つに数えられるようになった。
1960年(昭和35年)7月、東芝から国産初のカラーテレビが発売される(サイズは21インチ、価格は52万円)。カラーテレビは1964年(昭和39年)の東京オリンピックを契機に、各メーカーが宣伝に力を入れはじめ、1960年代後半には、カラー放送が大幅に増えたことによって普及が進んだ。カラーテレビはクーラーや自動車などとともに「新・三種の神器」(3C)の一つに数えられるようになった。1973年(昭和48年)には、カラーテレビの普及率が白黒テレビを上回っている。
放送時術の進化に合わせて、1978年(昭和53年)頃からは音声多重放送対応テレビ、1990年代になるとハイビジョン放送対応テレビが登場した。
輸出も盛んに行われ、世界各地に日本メーカーのテレビが鎮座していたが、1985年のプラザ合意以降は輸出が減っていった。
2000年代になると、約半世紀に渡って大多数を占めたブラウン管テレビに代わって、液晶ディスプレイやプラズマディスプレイを使用した薄型テレビが台頭した。電子機器メーカーの業界団体、電子情報技術産業協会(JEITA)によると、2003年に液晶・プラズマといった薄型の出荷額がブラウン管を初めて上回った。これは既に国内メーカーはブラウン管テレビの国内生産を打ち切っており、将来的にその生産自体を取り止める方針である事(後述)や、小型軽量かつ省エネ・省スペースである点が消費者に受け入れられている事などが挙げられる。
ブラウン管式のテレビ受像機は、2001年以降、冷蔵庫や洗濯機、エアコンとともに家電リサイクル法の対象商品とされ、廃棄する際に粗大ゴミとして出せなくなり、メーカーごとの窓口への有料(6000〜10000円程度かかる)引き取り手続きなどが義務付けられている。なお、2009年4月より、液晶やプラズマなどの薄型テレビ受像機も、家電リサイクル法の対象に追加された。ただし、廃棄にかかる時間や手間、費用がかかるためなのか、日本各地の森林や山奥に不法投棄されるなどし、大きな問題となった。業界団体によれば、アナログ放送停波に伴い、6400万台のアナログ式受像機が廃棄されると予測されていた。
2015年、ブラウン管式のテレビ受像機の製造を日本国内のメーカーとして最後まで続けてきたシャープが、フィリピンで行なってきた製造から撤退。なお、2014年12月時点でブラウン管式のテレビ受像機の製造を行なっていたインドのビデオコンやOnidaも、2015年中をめどに撤退することが報じられた。
1990年代後半に地上デジタル放送(地デジ)への移行が決定され、新製品は地デジに対応したチューナーを搭載するようになっていった。2008年までにアナログチューナーのみのモデルは全社が生産中止となった。
ただしデジタル放送化決定後もホームセンターやディスカウントストア、大型スーパーでは、低価格を売りにしたアナログ放送しか受信できない受像機(ブラウン管式や海外メーカーの低価格液晶テレビも含む)が依然として販売されていた。地上デジタル放送には対応するが、BSデジタル放送や110度CSデジタル放送に対応しないものもあった。アナログ放送終了後はデジタルチューナー(同機能搭載ビデオ機器類含む)と接続しないとテレビ受信ができなくなるため、展示している商品にデジタル放送への対応・非対応を表示するシールを貼る事が義務付けられた(2006年6月以降は、工場出荷の時点でアナログ放送終了告知シール貼付を義務化)。
かねてから低価格帯のテレビ受信機を大規模生産販売していた韓国や台湾などの海外メーカーは、海外メーカーのサポート等での不安感や、日本国内のデジタル放送に対応できる機種の開発能力が弱かったことなどから、日本の市場はパナソニック・シャープ・ソニー・東芝など、ほぼ日本のメーカーによって占められ、各社は地デジ化に向けて大規模投資を繰り替えした。しかし2010年代には海外メーカーとの競争で、日本メーカーが世界市場で不利な状況となり、不採算事業の清算としてテレビ事業から撤退、または他社へ売却などをするケースが激増。大規模投資が祟った結果となった。
2010年代に入り、主要メーカーから、3次元ディスプレイ技術を応用した3Dテレビが発売された。しかしコンテンツ不足、3D映像を視聴するためには、専用眼鏡が必要などの理由であまり普及しなかった。若干画面が湾曲したテレビも一時流行したが同様にあまり普及しなかった。
2014年頃からは、4K 8Kテレビ放送などの技術の進歩により、テレビの更なる高画質、高音質化が進んだ。また、メーカーはこの頃から初期の薄型テレビの置き換えに伴う需要を見込んでいるとされ、インターネットに接続可能であるのはもちろん、テレビでYouTubeなどのデジタルメディアを閲覧したりすることができるなど、インターネットとつながることができるテレビが普及している。
2018年はHDR元年と言われ、より映像美を追求したハイエンドテレビが台頭した。
日本国内の全世帯のうちカラーテレビを保有する世帯の率(世帯普及率)は1982年の調査以来、98%を下回ったことがなく、2006年3月末現在の世帯普及率は99.4%となっていた。しかし、テレビ離れとブラウン管テレビが統計から排除されたことにより2014年以降落ち込みをみせた。
2005年の世界市場ではブラウン管テレビが2兆8426億9400万円とされるのに対し、液晶テレビが2兆371億1700万円(ブラウン管テレビ1億2700万台、液晶テレビ2000万台、プラズマテレビ580万台、リアプロジェクションテレビ463万台)と差が縮まり、既に液晶テレビがテレビを販売するメーカーの主力製品として販売されていた。また、販売台数も2008年にはブラウン管テレビと液晶テレビ等の薄型テレビ合計台数は逆転すると予想されていた。
2000年代以降、日本市場ではブラウン管テレビは急速にシェアを落とし、中古のみとなっている。
通常、ブラウン管の場合は管の対角寸法を、薄型テレビの場合は有効可視領域の対角寸法によって表される。単位は実質上インチ(1インチ=2.54cm)である。計量法上日本ではインチの使用が公的には認められないので、メーカーはインチの文字を避けて20「型」などと表示するが、20型とはこの場合20インチという意味である。同じ数字ならばブラウン管より薄型テレビの方が可視領域は広くなる。また、薄型テレビの場合は数字の後ろに「V(ビジュアルサイズ)」が付き(「26V」「32V」「37V」など)、ブラウン管テレビでは+2インチに相当する大きさとなる。
なお、対角寸法(インチ)から縦横寸法(cm)を導く方法は以下の通りである。
例:30インチワイドテレビのタテ寸法は、30×0.49×2.54=約37.3cmである。
現在、ほとんどのテレビは背面や表面に端子類を備え、様々な機器(HDDレコーダー、BDレコーダー、ゲーム機など)を接続可能である。
地デジ化以降一般的な入出力端子は以下である。
旧来の端子には以下のようなものがあった。レガシーデバイス用に残っていることもある。
地上波用のアンテナ端子は、1990年代まではVHF・UHF分離型(端子が別々)の物が多かった。さらに1980年代までのテレビはVHF端子が同軸75ΩF型でUHFはフィーダー直付け(300Ω)であり、1970年代以前のテレビではVHF端子も同軸・フィーダー直付けタイプであった。また地デジへの移行期にはTV&BDレコーダーのアンテナ入力端子はメーカーによりアナデジ(※110°CS/BS端子を含むと3端子があった)別々端子と、アナデジ(※110°CS/BS端子を含むと2端子になった)混合端子の二通りあった。
ビデオ機器の外部記録媒体の主流がDVDであった時代には、パーソナルコンピュータ向けのビデオカード(グラフィックスカード)と接続するためのDVI端子を搭載していた。デジタル周辺機器の接続を考慮したi.LINK端子を持つ機種もあった。Blu-ray Discの時代になると、外部映像入力インターフェイスは映像と音声を1本の接続ケーブルで伝送できるHDMI端子が主流となっている。
かつてイヤホン端子は、モノラルのミニ端子であった時代があった。
1980年代後半頃には、まるでミニコンポのように本体部分とスピーカー部分を分離した機種が一部で販売され、それには外部スピーカー用の端子があった。。
リモートコントロールのための装置やしくみである。リモコンの仕様は多様でメーカーごとに異なっている。ひとつのメーカーでも年代により仕様が異なっていることがある。
単体で家電量販店やネット通販などで販売されているサードパーティ製のリモコンは、メーカー設定を切り替えることにより多数のメーカーのテレビが操作可能であり、HDDレコーダーやDVD・BDプレーヤー類の基本的な機能まで操作可能なものも多い。録画機器のリモコンは、設定切替により同一または他社製メーカーのテレビの操作もできるものがある。
なおリモコンを紛失したりリモコンのバッテリーが切れたりしたときでも最低限の操作はできるように、電源・チャンネル・音量といった基本的なボタン類はテレビ本体側にもあることが多い。
1960年代までは電源のオン/オフ、チャンネル切り換え/選択や音量調節のためのダイヤルまたはスイッチを本体側のみに備えるものが多かったが、1970年代に赤外線方式の無線リモコンによる遠隔操作が可能な製品が登場し、1980年代に普及し始め、1990年代以降はリモコンでも操作できるタイプが当たり前となっている。
デジタル放送主体の現代では初期設定の段階で居住地域の郵便番号を入力することにより、チャンネルを含めた全ての地域情報がまとめて設定できるようになっている。
昔のテレビはチャンネルつまみを回す(初期〜1980年代まで。UHFチャンネルについてはVHFつまみを「U」に合わせた後、もう一つのUHFつまみを回した)、あるいは放送チャンネルを設定してある本体のボタンを押して(1990年代まで。初期状態はVHFチャンネルが設定されていたため、UHFチャンネルについては1局ずつ手動で設定する必要がある)目的の放送局を1局ずつ手動で探す方法が主流だった。
のちにデジタルプリセット方式(受信チャンネル項の数字書き換えと同時に画面が変わる)が普及し、電波の弱い地域でも目的の放送が簡単に探し出せるようになった。やがて居住地域の電話番号の市外局番や地域番号(メーカー・によって異なる)を入力して全局自動設定する方法も普及し、引っ越し先での再設定が簡素化された(ただし市外局番や地域番号が登録されている地域は各県の県庁所在地の基幹送信所(親局などの大型送信所)の受信地域主体のため、未登録地域では1局ずつ手動で設定する必要がある)。
なお放送なしのポジションを省き、(順送り選局時に)放送ありのポジションのみを選択できる「チャンネルスキップ」機能はアナログプリセット時代から備わっている(表示書き換え時「0」表示にするとスキップ)。さらに最近ではこれに加え、外部入力の表示を「ビデオ」のみならず接続した機器(DVDなど)に適合する表示に書き換えられる機能が加わったり、「入力切替」ボタンを押した時に接続機器のない外部入力ポジションを省き、接続機器ありのポジションのみを選択できる「入力スキップ」機能が備わったりしている。
設置方法としては、テレビ台などの上に置く方法、背面のVESA金具を利用して壁面に設置したりモニタアームで可動的に支持する方法、壁面の高い位置(天井に近い位置)に"テレビ棚"を作り設置する方法(飲食店などで採用される方法)などがある。
日本では「テレビジョン受信機」として家庭用品品質表示法の適用対象となっており電気機械器具品質表示規程に定めがある
日本のメーカーの国内生産やテレビ事業部門は2000年代に大きく変化した。2012年に東芝が国内生産を、日立は自社生産をそれぞれ終了し、2014年にパナソニックはプラズマテレビの販売を終了し、ソニーはテレビ事業を分社化し、2016年にパナソニックはテレビ用液晶パネル生産を終了し、2018年に東芝はテレビ事業をハイセンスに売却し、日立は国内生産を終了した。 | [
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"text": "現在の日本ではデジタル方式であり、解像度による分類としては「4Kチューナー内蔵」「4K対応」「HD」などの種別がある。ハイビジョン放送が始まる以前はアナログ信号方式のテレビであった。",
"title": "種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "表示画面に焦点を当てた場合液晶、有機ELなどの分類がある。2000年から2005年ころはプラズマディスプレイもあり、さらに以前、2000年ころまではブラウン管方式もあった。(#表示画面の節で解説)",
"title": "種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "録画機能を搭載したテレビ受信機もある。録画機能を搭載したものは現在ではハードディスク(HDD)に録画するものが主流であり、HDD内蔵タイプと外付けHDD接続可能なタイプなどがある。かつてはビデオテープレコーダーに録画するテレビデオというものもあった。",
"title": "種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "1980年代ころまでは カラーテレビ / モノクロテレビ(白黒テレビ) という分類が行われたが、現在では原則カラーであり、この分類はテレビの歴史を説明する時に用いられる。",
"title": "種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1926年(昭和元年)12月、高柳健次郎がブラウン管を応用した世界初の電子式テレビ受像器を開発、片仮名の「イ」の文字を表示させることに成功した。そのブラウン管の走査線数は40本だった。この時のカメラは機械式のニポー円盤。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "その後、1940年(昭和15年)に開催が予定されていた東京オリンピックのテレビ中継のために研究・実験が進められていたが、日中戦争によりオリンピック開催が返上され、その後も太平洋戦争が激化することに伴い、研究が一旦中断される。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "終戦後、GHQにより、テレビ研究の禁止令が出されていたが、1946年(昭和21年)から再開され、1953年(昭和28年)1月にシャープから国産第1号の白黒テレビが発売される(サイズは14インチ、価格は175,000円)。 同年2月に日本放送協会(NHK)がテレビ本放送を開始。その当時は高価だったことから、一般家庭における購入者は富裕層がほとんどであったため、同年8月に開局した日本初の民放テレビ局である日本テレビ放送網(日本テレビ・日テレ)が広告料収入と受像機の普及促進を兼ねる形で街頭テレビを設置し、当時の看板番組で、力道山戦などのプロレス中継、巨人戦が主のプロ野球中継、大相撲中継などのスポーツ中継の時間には街頭テレビに人が集まるほどの人気と広告収入が一番大きかったため、後に開局した大阪テレビ放送(OTV・現朝日放送テレビ)と中部日本放送のテレビ部門(現CBCテレビ)にも波及した。そのため、客寄せの一環で喫茶店や銭湯などにも家庭用テレビが業務用途に設置する動きも診られるようになった。家電屋の店頭に設置したテレビも事実上の街頭テレビと看做されている。後に一般家庭にも1959年(昭和34年)の皇太子明仁親王の成婚パレードを境に普及が進んだ。1950年代後半から1960年代初頭までには、白黒テレビは電気洗濯機や電気冷蔵庫などとともに「三種の神器」の一つに数えられるようになった。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1960年(昭和35年)7月、東芝から国産初のカラーテレビが発売される(サイズは21インチ、価格は52万円)。カラーテレビは1964年(昭和39年)の東京オリンピックを契機に、各メーカーが宣伝に力を入れはじめ、1960年代後半には、カラー放送が大幅に増えたことによって普及が進んだ。カラーテレビはクーラーや自動車などとともに「新・三種の神器」(3C)の一つに数えられるようになった。1973年(昭和48年)には、カラーテレビの普及率が白黒テレビを上回っている。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "放送時術の進化に合わせて、1978年(昭和53年)頃からは音声多重放送対応テレビ、1990年代になるとハイビジョン放送対応テレビが登場した。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "輸出も盛んに行われ、世界各地に日本メーカーのテレビが鎮座していたが、1985年のプラザ合意以降は輸出が減っていった。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "2000年代になると、約半世紀に渡って大多数を占めたブラウン管テレビに代わって、液晶ディスプレイやプラズマディスプレイを使用した薄型テレビが台頭した。電子機器メーカーの業界団体、電子情報技術産業協会(JEITA)によると、2003年に液晶・プラズマといった薄型の出荷額がブラウン管を初めて上回った。これは既に国内メーカーはブラウン管テレビの国内生産を打ち切っており、将来的にその生産自体を取り止める方針である事(後述)や、小型軽量かつ省エネ・省スペースである点が消費者に受け入れられている事などが挙げられる。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ブラウン管式のテレビ受像機は、2001年以降、冷蔵庫や洗濯機、エアコンとともに家電リサイクル法の対象商品とされ、廃棄する際に粗大ゴミとして出せなくなり、メーカーごとの窓口への有料(6000〜10000円程度かかる)引き取り手続きなどが義務付けられている。なお、2009年4月より、液晶やプラズマなどの薄型テレビ受像機も、家電リサイクル法の対象に追加された。ただし、廃棄にかかる時間や手間、費用がかかるためなのか、日本各地の森林や山奥に不法投棄されるなどし、大きな問題となった。業界団体によれば、アナログ放送停波に伴い、6400万台のアナログ式受像機が廃棄されると予測されていた。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2015年、ブラウン管式のテレビ受像機の製造を日本国内のメーカーとして最後まで続けてきたシャープが、フィリピンで行なってきた製造から撤退。なお、2014年12月時点でブラウン管式のテレビ受像機の製造を行なっていたインドのビデオコンやOnidaも、2015年中をめどに撤退することが報じられた。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1990年代後半に地上デジタル放送(地デジ)への移行が決定され、新製品は地デジに対応したチューナーを搭載するようになっていった。2008年までにアナログチューナーのみのモデルは全社が生産中止となった。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "ただしデジタル放送化決定後もホームセンターやディスカウントストア、大型スーパーでは、低価格を売りにしたアナログ放送しか受信できない受像機(ブラウン管式や海外メーカーの低価格液晶テレビも含む)が依然として販売されていた。地上デジタル放送には対応するが、BSデジタル放送や110度CSデジタル放送に対応しないものもあった。アナログ放送終了後はデジタルチューナー(同機能搭載ビデオ機器類含む)と接続しないとテレビ受信ができなくなるため、展示している商品にデジタル放送への対応・非対応を表示するシールを貼る事が義務付けられた(2006年6月以降は、工場出荷の時点でアナログ放送終了告知シール貼付を義務化)。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "かねてから低価格帯のテレビ受信機を大規模生産販売していた韓国や台湾などの海外メーカーは、海外メーカーのサポート等での不安感や、日本国内のデジタル放送に対応できる機種の開発能力が弱かったことなどから、日本の市場はパナソニック・シャープ・ソニー・東芝など、ほぼ日本のメーカーによって占められ、各社は地デジ化に向けて大規模投資を繰り替えした。しかし2010年代には海外メーカーとの競争で、日本メーカーが世界市場で不利な状況となり、不採算事業の清算としてテレビ事業から撤退、または他社へ売却などをするケースが激増。大規模投資が祟った結果となった。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2010年代に入り、主要メーカーから、3次元ディスプレイ技術を応用した3Dテレビが発売された。しかしコンテンツ不足、3D映像を視聴するためには、専用眼鏡が必要などの理由であまり普及しなかった。若干画面が湾曲したテレビも一時流行したが同様にあまり普及しなかった。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2014年頃からは、4K 8Kテレビ放送などの技術の進歩により、テレビの更なる高画質、高音質化が進んだ。また、メーカーはこの頃から初期の薄型テレビの置き換えに伴う需要を見込んでいるとされ、インターネットに接続可能であるのはもちろん、テレビでYouTubeなどのデジタルメディアを閲覧したりすることができるなど、インターネットとつながることができるテレビが普及している。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2018年はHDR元年と言われ、より映像美を追求したハイエンドテレビが台頭した。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "日本国内の全世帯のうちカラーテレビを保有する世帯の率(世帯普及率)は1982年の調査以来、98%を下回ったことがなく、2006年3月末現在の世帯普及率は99.4%となっていた。しかし、テレビ離れとブラウン管テレビが統計から排除されたことにより2014年以降落ち込みをみせた。",
"title": "日本における歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2005年の世界市場ではブラウン管テレビが2兆8426億9400万円とされるのに対し、液晶テレビが2兆371億1700万円(ブラウン管テレビ1億2700万台、液晶テレビ2000万台、プラズマテレビ580万台、リアプロジェクションテレビ463万台)と差が縮まり、既に液晶テレビがテレビを販売するメーカーの主力製品として販売されていた。また、販売台数も2008年にはブラウン管テレビと液晶テレビ等の薄型テレビ合計台数は逆転すると予想されていた。",
"title": "表示画面"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2000年代以降、日本市場ではブラウン管テレビは急速にシェアを落とし、中古のみとなっている。",
"title": "表示画面"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "通常、ブラウン管の場合は管の対角寸法を、薄型テレビの場合は有効可視領域の対角寸法によって表される。単位は実質上インチ(1インチ=2.54cm)である。計量法上日本ではインチの使用が公的には認められないので、メーカーはインチの文字を避けて20「型」などと表示するが、20型とはこの場合20インチという意味である。同じ数字ならばブラウン管より薄型テレビの方が可視領域は広くなる。また、薄型テレビの場合は数字の後ろに「V(ビジュアルサイズ)」が付き(「26V」「32V」「37V」など)、ブラウン管テレビでは+2インチに相当する大きさとなる。",
"title": "画面サイズ"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "なお、対角寸法(インチ)から縦横寸法(cm)を導く方法は以下の通りである。",
"title": "画面サイズ"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "例:30インチワイドテレビのタテ寸法は、30×0.49×2.54=約37.3cmである。",
"title": "画面サイズ"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "現在、ほとんどのテレビは背面や表面に端子類を備え、様々な機器(HDDレコーダー、BDレコーダー、ゲーム機など)を接続可能である。",
"title": "端子類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "地デジ化以降一般的な入出力端子は以下である。",
"title": "端子類"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "旧来の端子には以下のようなものがあった。レガシーデバイス用に残っていることもある。",
"title": "端子類"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "地上波用のアンテナ端子は、1990年代まではVHF・UHF分離型(端子が別々)の物が多かった。さらに1980年代までのテレビはVHF端子が同軸75ΩF型でUHFはフィーダー直付け(300Ω)であり、1970年代以前のテレビではVHF端子も同軸・フィーダー直付けタイプであった。また地デジへの移行期にはTV&BDレコーダーのアンテナ入力端子はメーカーによりアナデジ(※110°CS/BS端子を含むと3端子があった)別々端子と、アナデジ(※110°CS/BS端子を含むと2端子になった)混合端子の二通りあった。",
"title": "端子類"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ビデオ機器の外部記録媒体の主流がDVDであった時代には、パーソナルコンピュータ向けのビデオカード(グラフィックスカード)と接続するためのDVI端子を搭載していた。デジタル周辺機器の接続を考慮したi.LINK端子を持つ機種もあった。Blu-ray Discの時代になると、外部映像入力インターフェイスは映像と音声を1本の接続ケーブルで伝送できるHDMI端子が主流となっている。",
"title": "端子類"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "かつてイヤホン端子は、モノラルのミニ端子であった時代があった。",
"title": "端子類"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1980年代後半頃には、まるでミニコンポのように本体部分とスピーカー部分を分離した機種が一部で販売され、それには外部スピーカー用の端子があった。。",
"title": "端子類"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "リモートコントロールのための装置やしくみである。リモコンの仕様は多様でメーカーごとに異なっている。ひとつのメーカーでも年代により仕様が異なっていることがある。",
"title": "リモコン"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "単体で家電量販店やネット通販などで販売されているサードパーティ製のリモコンは、メーカー設定を切り替えることにより多数のメーカーのテレビが操作可能であり、HDDレコーダーやDVD・BDプレーヤー類の基本的な機能まで操作可能なものも多い。録画機器のリモコンは、設定切替により同一または他社製メーカーのテレビの操作もできるものがある。",
"title": "リモコン"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "なおリモコンを紛失したりリモコンのバッテリーが切れたりしたときでも最低限の操作はできるように、電源・チャンネル・音量といった基本的なボタン類はテレビ本体側にもあることが多い。",
"title": "リモコン"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1960年代までは電源のオン/オフ、チャンネル切り換え/選択や音量調節のためのダイヤルまたはスイッチを本体側のみに備えるものが多かったが、1970年代に赤外線方式の無線リモコンによる遠隔操作が可能な製品が登場し、1980年代に普及し始め、1990年代以降はリモコンでも操作できるタイプが当たり前となっている。",
"title": "リモコン"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "デジタル放送主体の現代では初期設定の段階で居住地域の郵便番号を入力することにより、チャンネルを含めた全ての地域情報がまとめて設定できるようになっている。",
"title": "チャンネル設定の方法"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "昔のテレビはチャンネルつまみを回す(初期〜1980年代まで。UHFチャンネルについてはVHFつまみを「U」に合わせた後、もう一つのUHFつまみを回した)、あるいは放送チャンネルを設定してある本体のボタンを押して(1990年代まで。初期状態はVHFチャンネルが設定されていたため、UHFチャンネルについては1局ずつ手動で設定する必要がある)目的の放送局を1局ずつ手動で探す方法が主流だった。",
"title": "チャンネル設定の方法"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "のちにデジタルプリセット方式(受信チャンネル項の数字書き換えと同時に画面が変わる)が普及し、電波の弱い地域でも目的の放送が簡単に探し出せるようになった。やがて居住地域の電話番号の市外局番や地域番号(メーカー・によって異なる)を入力して全局自動設定する方法も普及し、引っ越し先での再設定が簡素化された(ただし市外局番や地域番号が登録されている地域は各県の県庁所在地の基幹送信所(親局などの大型送信所)の受信地域主体のため、未登録地域では1局ずつ手動で設定する必要がある)。",
"title": "チャンネル設定の方法"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "なお放送なしのポジションを省き、(順送り選局時に)放送ありのポジションのみを選択できる「チャンネルスキップ」機能はアナログプリセット時代から備わっている(表示書き換え時「0」表示にするとスキップ)。さらに最近ではこれに加え、外部入力の表示を「ビデオ」のみならず接続した機器(DVDなど)に適合する表示に書き換えられる機能が加わったり、「入力切替」ボタンを押した時に接続機器のない外部入力ポジションを省き、接続機器ありのポジションのみを選択できる「入力スキップ」機能が備わったりしている。",
"title": "チャンネル設定の方法"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "設置方法としては、テレビ台などの上に置く方法、背面のVESA金具を利用して壁面に設置したりモニタアームで可動的に支持する方法、壁面の高い位置(天井に近い位置)に\"テレビ棚\"を作り設置する方法(飲食店などで採用される方法)などがある。",
"title": "設置方法"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "日本では「テレビジョン受信機」として家庭用品品質表示法の適用対象となっており電気機械器具品質表示規程に定めがある",
"title": "関連法規"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "日本のメーカーの国内生産やテレビ事業部門は2000年代に大きく変化した。2012年に東芝が国内生産を、日立は自社生産をそれぞれ終了し、2014年にパナソニックはプラズマテレビの販売を終了し、ソニーはテレビ事業を分社化し、2016年にパナソニックはテレビ用液晶パネル生産を終了し、2018年に東芝はテレビ事業をハイセンスに売却し、日立は国内生産を終了した。",
"title": "テレビ受信機のメーカー"
}
] | テレビ受像機とは、テレビジョンの受信用の機器。テレビジョンの映像(動画)を画面に表示しスピーカー類から音を出す。テレビ受信機、テレビジョン受信機ともいい、略称で単にテレビやTVともいう。 | {{出典の明記|date=2021-10}}
[[File:Toshiba Regza S Series.jpg|thumb|250px|液晶テレビ(2018年、[[東芝]])]]
[[File:Victor Flat Vision AV-28AD1.jpg|thumb|250px|フラットハイビジョンブラウン管ワイドテレビ(2000年、[[ビクター]])]]
'''テレビ受像機'''(テレビじゅぞうき、{{Lang-en-short|television setあるいはTV set}})とは、[[テレビジョン]]の[[受信]]用の機器。テレビジョンの映像([[動画]])を画面に表示し[[スピーカー]]類から音を出す。テレビ受信機、'''テレビジョン受信機'''(television receiver)ともいい、略称で単に'''テレビ'''や'''TV'''ともいう。
== 概要 ==
送信された[[テレビジョン]]の映像と[[音声]]の[[信号 (電気工学)|信号]]を[[受信]]し、それを再び映像と音声に変換し、画面に表示し[[スピーカー]]や[[ヘッドフォン]]類から音を出す装置。
[[日本]]で[[地デジ]]・[[BS放送|BS]]・[[CS放送]]([[衛星放送]])を視聴するためには[[B-CASカード]]を差し込む<ref group="※">なお、東経124・128度CSデジタル([[スカパー!プレミアムサービス]])は外部チューナーが必要</ref>。
なお[[受信機]]([[チューナー]])が内蔵されているものがテレビ受像機であり、受信機が内蔵されていないものは通常[[モニター]]や[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]と分類し、テレビ受信機とは別分類とすることが一般的である。
== 種類・分類 ==
現在の日本ではデジタル方式であり、解像度による分類としては「[[4K]]チューナー内蔵」「4K対応」「[[HD]]」などの種別がある。ハイビジョン放送が始まる以前はアナログ信号方式のテレビであった。
表示画面に焦点を当てた場合液晶、[[有機EL]]などの分類がある。2000年から2005年ころはプラズマディスプレイもあり、さらに以前、2000年ころまでは[[ブラウン管]]方式もあった。([[#表示画面]]の節で解説)
録画機能を搭載したテレビ受信機もある。録画機能を搭載したものは現在では[[ハードディスク]](HDD)に録画するものが主流であり、HDD内蔵タイプと外付けHDD接続可能なタイプなどがある。かつてはビデオテープレコーダーに録画する[[テレビデオ]]というものもあった。
1980年代ころまでは [[カラーテレビ]] / [[モノクローム|モノクロ]]テレビ(白黒テレビ) という分類が行われたが、現在では原則カラーであり、この分類はテレビの歴史を説明する時に用いられる。
;[[スマートテレビ]]
:[[インターネット]]に接続できるテレビ<ref>[https://my-best.com/11763]</ref>。[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]などのOSを備え、ネット経由で[[アプリケーションソフトウェア|アプリ]]をインストールしてさまざまなサービスをテレビ画面で利用することができる。[[動画共有サービス]]のアプリを利用するのが一般的。広義では[[TVチューナー]]ごと内蔵したものだが、チューナー機能を省き、[[チューナーレステレビ]]とも呼ばれるものが狭義のスマートテレビである。
; ポータブルテレビ
: 持ち運びができる小型・軽量なテレビ。現在は地デジ放送を受信可能な画面が10型-15型程度の大きさの液晶ポータブルテレビが販売されている。その他、ごく少数だが防災用品売り場では"FM/AM 受信機兼ワンセグ受像機"も販売されている。
:[[1970年代]]後半には外出先でも視聴が可能なポータブルテレビが登場し、この頃は[[ラジカセ]]との一体型で、画面は[[ブラウン管]]方式でモノクロ(白黒)であり、一応は持ち運べるがかなり重いものだった([[1978年]]に[[東芝]]が発売したラジカセ付きGT-4500<ref>{{Cite web|和書|url=https://fabcross.jp/topics/dug/20160129_gt4500.html |title=時代が生んだ重量級のポータブル情報端末機器 「TOSHIBAテレビ(ラジオカセット付) GT-4500」 |publisher=fabcross |date=2016-01-29|accessdate=2017-05-16}}</ref>などがあった)。[[1980年代]]に入ると[[液晶]]を用いることで手の平サイズにまで小型化され(最初期のモニターは白黒)、80年代半ばにはポータブルなカラー受信機が登場した。2006年に[[ワンセグ]]放送が開始してワンセグ搭載の[[携帯電話]]や[[スマートフォン]]もかなり普及したが、2010年代に[[NHK受信料]]の支払い問題を機に新製品には搭載されなくなった。
:現在ではチューナー部は据置で、画面だけはワイヤレス方式で家の中で持ち運べるタイプもある。ワイヤレステレビはチューナー機器とモニターが独立しており、両者の間で映像および音声信号を[[無線通信]]([[無線LAN]]など)により伝送する。
*ワイヤレステレビチューナーというチューナー部だけのものも販売されており、これはPCやタブレットやスマホがテレビ画面となる<ref>[https://www.pixela.co.jp/products/xit/air110w/]</ref>。
*据え置き型[[ゲーム機]]内蔵テレビというものも存在する。[[シャープ]]製のブラウン管テレビ「[[ファミコンテレビC1]]」は[[任天堂]]の[[ファミリーコンピュータ]]を、「[[SF1]]」は後継機の[[スーパーファミコン]]を内蔵したテレビであった。2000年に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が88,888円の[[価格]]で、5,000台を[[電子商取引|Web限定]]で販売した「CX-1」は、[[CPU]]に「CX-1エンジン」を搭載した[[セガ]]の[[ライセンス]]を受けた[[ドリームキャスト]][[互換機]]として扱われたブラウン管テレビであった。2010年に[[ソニー]]が製造し、[[イギリス]]のみで販売した[[ブラビア|BRAVIA]] KDL22PX300は、[[PlayStation 2]]を内蔵した液晶テレビであった。現在ではスマートテレビでAndroidアプリのスマートテレビ対応ゲームをインストールしてプレイするという方法も可能である。
== 世界における歴史 ==
{{Main|テレビ#テレビの歴史}}
[[File:Murphy TV 1951.JPG|thumb|英国[[:en:Murphy Radio|Murphy Radio]]社1951年製[[ブラウン管]]方式[[モノクローム|白黒]]テレビ]]
{{節スタブ|section=1|date=2022年12月}}
== 日本における歴史 ==
[[File:Television penetration rate in Japan from 1957 to 2015.svg|thumb|テレビの世帯普及率の推移。]]
=== アナログ時代 ===
==== 初期 ====
[[1926年]]([[昭和]]元年)12月、[[高柳健次郎]]が[[ブラウン管]]を応用した世界初の電子式テレビ受像器を開発、[[片仮名]]の「[[イ]]」の文字を表示させることに成功した。そのブラウン管の[[走査線]]数は40本だった<ref>{{Cite web|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20120626-a055/ |title=【キーマン列伝】30年の研究が実を結んだ「テレビの父」 ~高柳 健次郎氏 |date=2012-06-26 |accessdate=2023-11-20 }}</ref>。この時のカメラは機械式の[[ニプコー円板|ニポー円盤]]。
その後、[[1940年]](昭和15年)に開催が予定されていた[[1940年東京オリンピック|東京オリンピック]]のテレビ中継のために研究・実験が進められていたが、日中戦争によりオリンピック開催が返上され、その後も[[太平洋戦争]]が激化することに伴い、研究が一旦中断される。
==== 白黒テレビ ====
終戦後、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により、テレビ研究の禁止令が出されていたが、[[1946年]](昭和21年)から再開され、[[1953年]](昭和28年)1月に[[シャープ]]から国産第1号の白黒テレビが発売される(サイズは14インチ、価格は175,000円)<ref>{{Cite web|url=https://blog.sharp.co.jp/2014/03/13/1065/ |title=1953年に、国産第1号テレビの本格的量産を開始 |date=2014-03-13 |accessdate=2023-11-20 }}</ref>。 同年2月に[[日本放送協会]](NHK)がテレビ本放送を開始。その当時は高価だったことから、一般家庭における購入者は[[富裕層]]がほとんどであったため、同年8月に開局した日本初の[[民間放送|民放テレビ局]]である[[日本テレビ放送網]](日本テレビ・日テレ)<ref group="※">なお、免許申請は日テレが先であったため、NHKが急ぐ形でテレビ本放送を開始した経緯がある。</ref>が[[広告]]料収入と受像機の普及促進を兼ねる形で[[街頭テレビ]]を設置し、当時の看板番組で、[[力道山]]戦などの[[プロレス中継]]、[[読売ジャイアンツ|巨人戦]]が主の[[プロ野球中継]]、[[大相撲中継]]などの[[スポーツ中継]]の時間には街頭テレビに人が集まるほどの人気と広告収入が一番大きかったため、後に開局した[[大阪テレビ放送]](OTV・現[[朝日放送テレビ]])と[[中部日本放送]]のテレビ部門(現[[CBCテレビ]])にも波及した。そのため、客寄せの一環で[[喫茶店]]や[[銭湯]]などにも家庭用テレビが[[業務用]]途に設置する動きも診られるようになった。家電屋の店頭に設置したテレビも事実上の街頭テレビと看做されている。後に一般家庭にも[[1959年]](昭和34年)の[[皇太子]][[明仁|明仁親王]]の成婚パレードを境に普及が進んだ。[[1950年代]]後半から[[1960年代]]初頭までには、白黒テレビは[[電気洗濯機]]や[[電気冷蔵庫]]などとともに「[[三種の神器 (電化製品)|三種の神器]]」の一つに数えられるようになった。
{{quotation|「まず百人のうち九十人までは夕食後のひとときを自宅の茶の間でテレビをたのしむような生活がしたいと望んでいるのだよ。ところがテレビは二十万円もして手が出ないから、ビールかコーヒーをのんで喫茶店のテレビでまにあわせたいが、その金も不足がちだ。そこでテレビの時間になると子供遊園地が大人で押すな押すなだよ。無料のテレビがあるからさ」<br>
ちまたの消息通だけあって、うまいことをいう。これは桐生に限らないだろう。日本人の多くの人々がせめて自宅の茶の間でテレビをたのしむ生活がしたいと考えているに相違ない。しかし思えば文明も進んだ。自宅に好むがままの芸人や競技士をよんで楽しむことができたのは王侯だけであったが、いまやスイッチをひねるだけで王侯の楽しみができる。天下の王侯も今ではたった二十万円かといいたいが、あいにく拙者もまだ王侯の域に達していないのである。<br>「数年のうちにすべての家庭にテレビを」<Br>と約束してくれるような大政治家が現われてくれないものかと思う。民衆の生活水準を高めることを政治家の最上の責務と感じる人の出現ほど日本に縁のなかったものはない。|[[坂口安吾]]『桐生通信』<ref>[https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42963_34952.html 坂口安吾 桐生通信]</ref>}}
==== カラーテレビ ====
[[1960年]](昭和35年)7月、[[東芝]]から国産初のカラーテレビが発売される(サイズは21インチ、価格は52万円)<ref>{{Cite web|url=https://toshiba-mirai-kagakukan.jp/history/ichigoki/products.htm?morebox=y1960tv-more#y1960tv |title=1号機ものがたり 製品詳細 |accessdate=2023-11-20 }}</ref>。[[カラーテレビ]]は[[1964年]](昭和39年)の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]を契機に、各メーカーが宣伝に力を入れはじめ、[[1960年代]]後半には、カラー放送が大幅に増えたことによって普及が進んだ。カラーテレビは[[冷房|クーラー]]や[[自動車]]などとともに「[[三種の神器 (電化製品)#高度成長期・3Cの登場|新・三種の神器]]」(3C)の一つに数えられるようになった。[[1973年]](昭和48年)には、カラーテレビの普及率が白黒テレビを上回っている。
放送時術の進化に合わせて、[[1978年]](昭和53年)頃からは[[音声多重放送]]対応テレビ、[[1990年代]]になると[[ハイビジョン]]放送対応テレビが登場した。
輸出も盛んに行われ、世界各地に日本メーカーのテレビが鎮座していたが、1985年の[[プラザ合意]]以降は輸出が減っていった<ref name="yosoku"/>。
=== デジタル移行期 ===
==== 薄型テレビ ====
[[2000年代]]になると、約半世紀に渡って大多数を占めたブラウン管テレビに代わって、[[液晶ディスプレイ]]や[[プラズマディスプレイ]]を使用した[[薄型テレビ]]が台頭した。電子機器メーカーの業界団体、[[電子情報技術産業協会]](JEITA)によると、2003年に液晶・プラズマといった薄型の出荷額がブラウン管を初めて上回った。これは既に国内メーカーはブラウン管テレビの国内生産を打ち切っており、将来的にその生産自体を取り止める方針である事(後述)や、小型軽量かつ省エネ・省スペースである点が消費者に受け入れられている事などが挙げられる。
ブラウン管式のテレビ受像機は、[[2001年]]以降、[[冷蔵庫]]や[[洗濯機]]、[[エア・コンディショナー|エアコン]]とともに[[特定家庭用機器再商品化法|家電リサイクル法]]の対象商品とされ、廃棄する際に粗大[[ゴミ]]として出せなくなり、メーカーごとの窓口への有料(6000〜10000円程度かかる)引き取り手続きなどが義務付けられている。なお、2009年4月より、液晶やプラズマなどの薄型テレビ受像機も、家電リサイクル法の対象に追加された。ただし、廃棄にかかる時間や手間、費用がかかるためなのか、日本各地の森林や山奥に[[不法投棄]]されるなどし、大きな問題となった。業界団体によれば、アナログ放送停波に伴い、6400万台のアナログ式受像機が廃棄されると予測されていた<ref>[http://www.asahi.com/special/070110/TKY200703060311.html アサヒコム2007年3月6日「アナログテレビ最大6400万台がゴミに 地デジ移行で」]</ref>。
[[2015年]]、ブラウン管式のテレビ受像機の製造を日本国内のメーカーとして最後まで続けてきたシャープが、フィリピンで行なってきた製造から撤退。なお、2014年12月時点でブラウン管式のテレビ受像機の製造を行なっていたインドの[[:en:Videocon|ビデオコン]]や[[:en:Onida Electronics|Onida]]も、2015年中をめどに撤退することが報じられた<ref>[https://www.zaikei.co.jp/article/20141208/225586.html ブラウン管テレビの生産が世界中で終了へ、量産開始から約70年 | 財経新聞]</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/economy/20141207-OYT1T50106.html 読売新聞 2014年12月08日「昭和」の象徴…ブラウン管TVの生産終了へ]{{リンク切れ|date=2021-10}}</ref>。
==== 地デジ化 ====
1990年代後半に[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]](地デジ)への移行が決定され、新製品は地デジに対応したチューナーを搭載するようになっていった。2008年までにアナログチューナーのみのモデルは全社が生産中止となった。
ただしデジタル放送化決定後も[[ホームセンター]]や[[ディスカウントストア]]、[[総合スーパー|大型スーパー]]では、低価格を売りにしたアナログ放送しか受信できない受像機(ブラウン管式や海外メーカーの低価格液晶テレビも含む)が依然として販売されていた。地上デジタル放送には対応するが、BSデジタル放送や110度CSデジタル放送に対応しないものもあった。アナログ放送終了後はデジタルチューナー(同機能搭載ビデオ機器類含む)と接続しないとテレビ受信ができなくなるため、展示している商品にデジタル放送への対応・非対応を表示するシールを貼る事が義務付けられた(2006年6月以降は、工場出荷の時点でアナログ放送終了告知シール貼付を義務化)。
=== デジタル時代 ===
==== 海外メーカーの台頭 ====
かねてから低価格帯のテレビ受信機を大規模生産販売していた[[大韓民国|韓国]]や[[台湾]]などの海外メーカーは、海外メーカーのサポート等での不安感や、日本国内の[[デジタル放送]]に対応できる機種の開発能力が弱かったことなどから、日本の市場は[[パナソニック]]・[[シャープ]]・[[ソニー]]・[[東芝]]など、ほぼ日本のメーカーによって占められ、各社は[[地デジ]]化に向けて大規模投資を繰り替えした。しかし2010年代には海外メーカーとの競争で、日本メーカーが世界市場で不利な状況となり、不採算事業の清算としてテレビ事業から撤退、または他社へ売却などをするケースが激増。大規模投資が祟った結果となった<ref name="yosoku">[https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1103J_R10C14A7000000/ 予測できた「地デジ特需」終了 テレビ巨額投資の謎: 日本経済新聞]</ref>。
==== 新技術 ====
2010年代に入り、主要メーカーから、[[3次元ディスプレイ]]技術を応用した[[立体テレビ放送|3Dテレビ]]が発売された。しかし[[コンテンツ]]不足、3D映像を視聴するためには、専用眼鏡が必要などの理由であまり普及しなかった。若干画面が湾曲したテレビも一時流行したが同様にあまり普及しなかった<ref>[https://www.gizmodo.jp/2017/01/the-curved-tv-gimmick-might-finally-be-dead.html 曲面ディスプレイTVは死んだ。CESを現地取材している記者が語る最新のTVトレンド | ギズモード・ジャパン]</ref>。
[[2014年]]頃からは、[[4K 8Kテレビ放送]]などの技術の進歩により、テレビの更なる高画質、高音質化が進んだ。また、メーカーはこの頃から初期の薄型テレビの置き換えに伴う需要を見込んでいるとされ、[[インターネット]]に接続可能であるのはもちろん、テレビで[[YouTube]]などのデジタルメディアを閲覧したりすることができるなど、インターネットとつながることができるテレビが普及している。
2018年はHDR元年と言われ、より映像美を追求した[[ハイエンドテレビ]]が台頭した。
==== テレビ普及率の減少 ====
日本国内の全世帯のうち[[カラーテレビ]]を保有する世帯の率([[世帯普及率]])は1982年の調査以来、98%を下回ったことがなく、2006年3月末現在の世帯普及率は99.4%となっていた<ref>出典:内閣府『平成18年度消費動向調査』</ref>。しかし、[[テレビ離れ]]とブラウン管テレビが統計から排除されたことにより2014年以降落ち込みをみせた<ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/c0d93228cf1a527db923cba85fc4186b2d3e7241 二人以上世帯では96.6%…カラーテレビの普及率をさぐる(不破雷蔵) - 個人 - Yahoo!ニュース]</ref>。
== 表示画面 ==
<!--
; [[薄型テレビ]]
[[File:Flat panel display image.png|thumb|150px|薄型テレビ(フラットパネル・ディスプレイ・テレビ)]]
-->
; [[液晶ディスプレイ|液晶テレビ]]
: 登場したてのころの液晶テレビの画面サイズは携帯電話用の2インチ程度から13インチ程度で、生産時の液晶歩留まりが低く不良ピクセル(ドット)が混じりがちで低コスト化や大型化は困難といわれたが、生産技術の改良で2002年頃から30インチ前後の大型サイズの商品も登場し、2005年8月には[[シャープ]]が65インチ液晶テレビを発売した。液晶は基本的に消費電力が少ないという利点があり、さらに2010年代にバックライトを蛍光管の代わりに省電力の[[LED]]にした機種が広まったことで、さらなる省電力化に成功した。
<!--ブラウン管アナログテレビに比べればボタンを押してからの反応は遅いとされる(早くて0.5秒ほどであり、遅くても1〜2秒)。-->
; [[有機エレクトロルミネッセンス|有機EL]]
: 「EL」は「Electro Luminescence(エレクトロルミネッセンス)」の略。「EL」とは、電気的な刺激によって光が出る冷光現象の総称で、白熱電球のように、熱の副産物として得る光と区別される。
: 「EL」には、硫化亜鉛などの無機物を使う「無機ELディスプレイ」と、ジアミン類などの有機物を使う「有機ELディスプレイ」の2種類があるが、従来からある無機ELはカラー表示が難しいなどの問題があり、用途は限られていた。実用化された例としては、時計のバックライトや、医療機器の表示ディスプレイ、24時間使用し続けるコンビニエンスストアのレジのディスプレイ、スペースシャトルに搭載されたコンピュータなどがある。有機ELは無機ELに比べて「テレビに適したフルカラー表示が可能」「低い電圧で発光し、明るい」「薄く作れて、画面を巻き取るような用途にも利用できる」といった特長を備える。有機ELは電極の間に有機EL素材を挟むだけなので、液晶やプラズマに比べて構造が非常に単純である。そのため、液晶でもなく、プラズマでもない、新しい映像表示方式を採用した次世代のテレビとして注目された。
:PDA[[CLIE|クリエ]]で有機ELを使用した経験がある[[ソニー]]は、[[2007年]][[10月1日]]世界初の有機ELテレビ「XEL-1」(パネルの最薄部は約3mmで世界最薄)を12月(実際は商品を入荷した一部の家電量販店が[[11月22日]]に前倒しで販売、一般向けの販売は[[12月1日]])に発売した<ref group="※">2010年2月16日、ソニーは「XEL-1」の国内販売を終了することを発表した。販売終了の理由について、有害サイト規制法により、4月以降に出荷する製品には有害サイトへの接続制限機能が義務づけられるが、XEL-1にはその機能がないからと説明している。ただし海外での販売は継続し、大画面化や量産化の技術開発は続ける、とした。</ref>。
: 有機ELテレビは、次世代のテレビとして期待が大きいが、2010年代では素材の寿命や価格が問題とされている。
; [[プラズマディスプレイ]]
: 主に[[2000年]]頃から2005年ころに販売された。画面の大型化がしやすく(103インチ程度まで商品化されている)、かつ薄型にできるが、小型化が難しい(最小でも32V型程度)ためパーソナルTVには向きにくいとされた。従来の欠点を克服した液晶ディスプレイが登場してからは、そちらに市場シェアを奪われ衰退。最後まで家庭用プラズマテレビを販売していた[[パナソニック]]も撤退した。
; [[プラズマアドレス液晶]]
: 開発中止。
; [[表面伝導型電子放出素子ディスプレイ|SEディスプレイ]](SED)
: SEDは「Surface-conduction Electron-emitter Display」の略。[[東芝]]と[[キヤノン]]が共同で開発した、新しい薄型大画面ディスプレーの呼称。技術的には、「FED」(Field Emission Display、電界放出ディスプレー)の一種で、ブラウン管テレビと同様、映像を構成する発光体に電子を衝突させるという発光原理を用い、液晶テレビやプラズマテレビを上回る高画質、低消費電力を実現。「液晶テレビやプラズマテレビを遙かに上回る高画質」と前評判が高く、[[2005年]][[10月4日]]〜[[10月8日]]に幕張メッセで開催された、アジア最大級のエレクトロニクス・情報技術展「[[CEATEC JAPAN]] 2005」での展示でも、一目でも早く見たいというAVファンが東芝とキヤノンのブースに終日列を作るなど、注目の的となった。
: [[2004年]]10月に東芝とキヤノンが合弁で、「SED」パネルの開発・製造を行う「株式会社SED」を設立。[[2005年]]8月よりパネル量産を開始し、[[2007年]]から本格量産に移行する計画であったが、特許問題をめぐる訴訟から量産開始が遅れ、東芝のSED撤退や、液晶テレビの低価格化・高性能化もあり、[[2010年]]5月に開発中止が発表された。株式会社SEDも同年9月末で会社清算となる。
; [[プロジェクタ]]
: ブラウン管、液晶パネルなどの表示素子の映像を[[スクリーン]]に投影して見る方式。視聴者からみてスクリーンの裏側から投影する、[[リアプロジェクションテレビ|リアプロジェクション]]方式のテレビやモニターが商品化されているが、筐体が大型になるので、日本の一般家庭への普及はあまり進んでいない。なお[[映画館]]の様に、視聴者側から投影する方式をフロントプロジェクション方式というが、こちらはモニターとして製品化されるのが一般的である。
; [[リアプロジェクションテレビ]]
: {{節スタブ}}
; [[発光ダイオード|LED]]
: 大画面モニターとして実用化されて屋外広告などで使用されているが、画素ピッチを小さくするのは難しく主に液晶テレビのバックライトとして用いられている。製品化が遅れていたが2012年1月にはSONYが[[Crystal LED Display]]として発表した。
; [[ブラウン管]]
: テレビ放送黎明期から2005年ころまで使われたもの。「ブラウン管」という言葉が、「テレビ(受像機)」の代名詞として使われた。製造コストが安く、家庭用・業務用ともに生産され、車載用5インチ型程度の小型から、一般用29インチ型程度まであった。欠点は、テレビが大きな箱のような形状になり、かさばり部屋のスペースを奪いかなり邪魔で、重量は重く、持ち運びに不便で、画面の大型化が困難(最大で36インチ程度)ということであった。登場したばかりの液晶ディスプレイは性能が低く、残像や視野角の狭さなどが目立ったので、その時期では画質面ではブラウン管テレビに一定の優位性があったが、液晶ディスプレイの側の技術が進み、ブラウン管の優位性は消えた。
: もともとブラウン管の画面は、あきらかに手前に盛り上がった[[曲面]]であったが、1990年代後半よりブラウン管の画面を[[平面]]に近づけたタイプ(通称:フラットテレビ)が登場した。
: 日本では[[2001年]]より家電リサイクル法の対象となったこともあり、特に海外メーカー製および国内メーカーの海外工場製<ref group="※">既に日本国内では全メーカーがブラウン管テレビの生産を終了している。</ref>の低価格機種では廃棄コストの比率が相対的に高まって低価格のメリットが薄れ、液晶の薄型テレビの低価格化も進み、ブラウン管テレビは市場から消えていった。
:
<!--: なかには「BSデジタル搭載タイプ」や「デジタル3波チューナータイプ」も存在するが、ただし電波のデジタル移行とテレビの薄型化の時期が重なったこともあり流通量・生産数は少ない。-->
;表示方式別のシェア
2005年の世界市場ではブラウン管テレビが2兆8426億9400万円とされるのに対し、液晶テレビが2兆371億1700万円(ブラウン管テレビ1億2700万台、液晶テレビ2000万台、プラズマテレビ580万台、リアプロジェクションテレビ463万台)と差が縮まり、既に液晶テレビがテレビを販売するメーカーの主力製品として販売されていた。また、販売台数も2008年にはブラウン管テレビと液晶テレビ等の薄型テレビ合計台数は逆転すると予想されていた<ref>シェアの項目の出典:片山栄一著 『業界研究シリーズ 電機』日本経済新聞社、2006年、49頁</ref>。
2000年代以降、日本市場ではブラウン管テレビは急速にシェアを落とし、中古のみとなっている。
== 画面サイズ ==
通常、[[ブラウン管]]の場合は管の対角寸法を、[[薄型テレビ]]の場合は有効可視領域の対角寸法によって表される。単位は実質上[[インチ]](1インチ=2.54cm)である。[[計量法]]上日本ではインチの使用が公的には認められないので、メーカーはインチの文字を避けて20「型」などと表示するが、20型とはこの場合20インチという意味である。同じ数字ならばブラウン管より薄型テレビの方が可視領域は広くなる。また、薄型テレビの場合は数字の後ろに「V(ビジュアルサイズ)」が付き(「26V」「32V」「37V」など)、ブラウン管テレビでは+2インチに相当する大きさとなる。
なお、対角寸法(インチ)から縦横寸法(cm)を導く方法は以下の通りである。
; 従来型の画面横縦比4:3の受像機
: タテ:インチ数×0.6×2.54≒インチ数×1.52
: ヨコ:インチ数×0.8×2.54≒インチ数×2
; 横長型の画面横縦比16:9の受像機
: タテ:インチ数×0.49×2.54≒インチ数×1.24
: ヨコ:インチ数×0.87×2.54≒インチ数×2.2
例:30インチワイドテレビのタテ寸法は、30×0.49×2.54=約37.3cmである。
== 端子類 ==
現在、ほとんどのテレビは背面や表面に端子類を備え、様々な機器([[HDDレコーダー]]、[[BDレコーダー]]、[[ゲーム機]]など)を接続可能である。
地デジ化以降一般的な入出力端子は以下である。
* [[HDMI]]端子
* [[RF端子|F型(アンテナ)端子(地デジ、BS・110°CS)]](現在、[[同軸ケーブル|同軸]]75[[オーム|Ω]]F型端子は、地デジ用とBS用の端子があるものが多い)
* [[イヤホン]]([[ヘッドフォン|ヘッドホン]])用の[[フォーンプラグ|ステレオミニ]]端子
* [[Local Area Network|LAN]]端子(インターネット接続用)
* [[USB]]端子(外付けHDDを増設して番組録画ができる機種等)
旧来の端子には以下のようなものがあった。レガシーデバイス用に残っていることもある。
* [[コンポジット映像信号|コンポジット]]([[RCA端子|RCA]])端子
* [[コンポーネント端子]]、[[D端子]]
* [[S端子]]、[[コンポーネント端子]]
* ステレオまたはモノラルの音声端子(通常、映像端子と1対)
* [[RGB21ピン]]
* [[i.LINK]]端子
* [[Irシステム]]端子(名称は機種・メーカーによって様々)
* [[電話回線]]端子([[ダイヤルアップ]]接続用)
=== テレビの端子の歴史 ===
地上波用のアンテナ端子は、1990年代まではVHF・UHF分離型(端子が別々)の物が多かった。さらに1980年代までのテレビはVHF端子が同軸75ΩF型でUHFはフィーダー直付け(300Ω)であり、1970年代以前のテレビではVHF端子も同軸・フィーダー直付けタイプであった。また地デジへの移行期にはTV&[[BDレコーダー]]のアンテナ入力端子はメーカーによりアナデジ(※110°CS/BS端子を含むと3端子があった)別々端子と、アナデジ(※110°CS/BS端子を含むと2端子になった)混合端子の二通りあった。
ビデオ機器の外部記録媒体の主流がDVDであった時代には、[[パーソナルコンピュータ]]向けの[[ビデオカード]](グラフィックスカード)と接続するための[[Digital Visual Interface|DVI]]端子を搭載していた。デジタル周辺機器の接続を考慮したi.LINK端子を持つ機種もあった。[[Blu-ray Disc]]の時代になると、外部映像入力インターフェイスは映像と音声を1本の接続ケーブルで伝送できるHDMI端子が主流となっている。
かつてイヤホン端子は、[[モノラル]]のミニ端子であった時代があった。
[[1980年代]]後半頃には、まるで[[ミニコンポ]]のように本体部分とスピーカー部分を分離した機種が一部で販売され、それには外部スピーカー用の端子があった。<ref group="※">[[1980年代]]後半頃は、[[ミニコンポ]]のように本体部分とスピーカー部分を分離した製品が販売されたこともあった。<!--{{いつ範囲|date=2021-10|近年}}-->かつて、[[三菱電機]]や[[シャープ]]などがスピーカー分離タイプの新製品をリリースしたことがある</ref>。
<!--映像の色合い、明るさ、垂直同期等や音の左右のバランスの調整については、{{要出典範囲|date=2021-10|1990年代}}まではツマミなどによりアナログ的に調節する物が多かったが、{{いつ範囲|date=2021-10|近年}}はほとんどがボタンやリモコンを使用したデジタル化プリセット方式となっている。-->
== リモコン ==
[[ファイル:らくらくリモコン.JPG|thumb|right|[[リモコン]]]]
[[リモートコントロール]]のための装置やしくみである。リモコンの仕様は多様でメーカーごとに異なっている。ひとつのメーカーでも年代により仕様が異なっていることがある。
単体で家電量販店やネット通販などで販売されているサードパーティ製のリモコンは、メーカー設定を切り替えることにより多数のメーカーのテレビが操作可能であり、[[HDDレコーダー]]やDVD・BDプレーヤー類の基本的な機能まで操作可能なものも多い。録画機器のリモコンは、設定切替により同一または他社製メーカーのテレビの操作もできるものがある。
なおリモコンを紛失したりリモコンのバッテリーが切れたりしたときでも最低限の操作はできるように、電源・チャンネル・音量といった基本的なボタン類はテレビ本体側にもあることが多い。
;テレビのリモコンの歴史
1960年代までは電源のオン/オフ、[[チャンネル (テレビ放送)|チャンネル]]切り換え/選択や音量調節のためのダイヤルまたはスイッチを本体側のみに備えるものが多かったが、1970年代に[[赤外線]]方式の無線[[リモコン]]による遠隔操作が可能な製品が登場し、1980年代に普及し始め<ref>[https://intojapanwaraku.com/culture/114376/ テレビは画質や大きさだけじゃない!昭和のリモコンの進化が健気すぎる | 和樂web 日本文化の入り口マガジン]</ref>、1990年代以降はリモコンでも操作できるタイプが当たり前となっている。
== チャンネル設定の方法 ==
デジタル放送主体の現代では初期設定の段階で居住地域の[[日本の郵便番号|郵便番号]]を入力することにより、チャンネルを含めた全ての地域情報がまとめて設定できるようになっている。
;チャンネル設定の歴史
昔のテレビはチャンネルつまみを回す(初期〜1980年代まで。UHFチャンネルについてはVHFつまみを「U」に合わせた後、もう一つのUHFつまみを回した<ref group="※">当時は民放テレビ局の数が少なくVHF・UHF各1局のみという地域も多かったため、それらの地域ではUHFつまみは当該UHF局に事実上固定(当該局に合わせられれば通常ほぼ動かされない)されていた。</ref>)、あるいは放送チャンネルを設定してある本体のボタンを押して(1990年代まで。初期状態はVHFチャンネルが設定されていたため、UHFチャンネルについては1局ずつ手動で設定する必要がある)目的の放送局を1局ずつ手動で探す方法が主流だった。
のちにデジタルプリセット方式(受信チャンネル項の数字書き換えと同時に画面が変わる)が普及し、電波の弱い地域でも目的の放送が簡単に探し出せるようになった。やがて居住地域の電話番号の市外局番や地域番号(メーカー・によって異なる)を入力して全局自動設定する方法も普及し、引っ越し先での再設定が簡素化された(ただし市外局番や地域番号が登録されている地域は各県の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]の基幹送信所([[親局]]などの大型送信所)の受信地域主体のため、未登録地域では1局ずつ手動で設定する必要がある)。
なお放送なしのポジションを省き、(順送り選局時に)放送ありのポジションのみを選択できる「チャンネルスキップ」機能はアナログプリセット時代から備わっている(表示書き換え時「0」表示にするとスキップ)。さらに最近ではこれに加え、外部入力の表示を「ビデオ」のみならず接続した機器(DVDなど)に適合する表示に書き換えられる機能が加わったり、「入力切替」ボタンを押した時に接続機器のない外部入力ポジションを省き、接続機器ありのポジションのみを選択できる「入力スキップ」機能が備わったりしている。
== 設置方法 ==
設置方法としては、テレビ台などの上に置く方法、背面の[[VESA]]金具を利用して[[壁]]面に設置したり[[モニタアーム]]で可動的に支持する方法、壁面の高い位置(天井に近い位置)に"テレビ棚"を作り設置する方法(飲食店などで採用される方法)などがある。
== 関連法規 ==
日本では「テレビジョン受信機」として[[家庭用品品質表示法]]の適用対象となっており電気機械器具品質表示規程に定めがある<ref name="caa">{{Cite web|和書|url=http://www.caa.go.jp/hinpyo/law/law_06.html#17|title=電気機械器具品質表示規程|publisher=消費者庁|accessdate=2013-05-23}}</ref>
== テレビ受信機のメーカー ==
;世界的なメーカーの動向
;日本のメーカー
日本のメーカーの国内生産やテレビ事業部門は2000年代に大きく変化した。2012年に東芝が国内生産を、日立は自社生産をそれぞれ終了し、2014年にパナソニックはプラズマテレビの販売を終了し、ソニーはテレビ事業を分社化し、2016年にパナソニックはテレビ用液晶パネル生産を終了し、2018年に東芝はテレビ事業をハイセンスに売却し、日立は国内生産を終了した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="※"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[赤外線リモコン]]
* [[ビデオテープレコーダ]]
* [[映像機器]]
* [[三種の神器 (電化製品)]] - [[デジタル家電]]の[[デジタルカメラ]]・[[DVDレコーダー]]・[[薄型テレビ]]
* [[通信と放送の融合]]
* [[テレビデオ]]
* [[ハイビジョン]]
* [[テレビ]]
* [[カラーテレビ]]
* [[機械式テレビジョン]]
* [[チューナーレステレビ]]
<!--ノートに書いて。↓
* 2006年9月29日 (金) 08:24の版[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E5%8F%97%E5%83%8F%E6%A9%9F&oldid=7960089]過去の版で調べ物の参考になる可能性はあります。
-->
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=https://www.nhk.or.jp/strl/aboutstrl/evolution-of-tv/index.html |title=テレビは進化する 日本放送技術発達小史 |date=20020414174831}}、[[日本放送協会]]
* [http://www.kagakueizo.org/movie/industrial/303/ 『電子の技術-テレビジョン-』]《[https://www.youtube.com/watch?v=AlvRzQr3ts4 →YouTube版]》 - 『[[科学映像館]]』より。1961年に松下電器産業(現・[[パナソニック]])の企画の下で製作された広報映画。<br />《テレビ受像器の動作原理の解説と共に、当時の受像器生産現場を映し出している。[[矢代秋雄]]が音楽を担当》
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てれひしゆそうき}}
[[Category:テレビ受像機|*てれひ]]
[[Category:家電機器]]
[[Category:ディスプレイデバイス]]
[[Category:高柳健次郎]] | 2003-03-12T03:35:10Z | 2023-11-30T04:15:26Z | false | false | false | [
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3,845 | カバ | カバ(河馬、Hippopotamus amphibius)は、哺乳綱偶蹄目(鯨偶蹄目とする説もあり)カバ科カバ属に分類される偶蹄類。
サハラ砂漠以南のアフリカ大陸
アルジェリア、エジプト、エリトリア、モーリタニア、リベリアでは絶滅。
体長3.5 - 4メートル。体重はオス平均1,500kg 、メス平均1,300kg 。非常に大型のオスだと2,000kgを超えることもある。陸上動物としてはゾウ、サイに次ぐ3番目の重さとされる。分厚い脂肪と真皮・上皮で覆われるが、表皮は非常に薄い。このため毛細管現象により水分は外側へ放出してしまう。皮膚は乾燥すると裂けてしまい、水分消失量は5平方センチメートルあたり10分で12ミリグラムともされこれは人間の約3 - 5倍の水分消失量にあたる。
頭部は大型。顔の側面に鼻・眼・耳介が一直線に並んで位置する。これにより水中から周囲の様子をうかがいながら、呼吸することができる。鼻孔は内側の筋肉が発達して自由に開閉することができ、水中での浸水を防ぐことができる。下顎の犬歯は50センチメートルに達することもあり、下顎2本の重量はオス2.1キログラム、メス1.1キログラムに達することもある。一生伸び続けるが、上下の歯が噛みあい互いをすり減らすことで短く、鋭くなる。闘争時にはこの犬歯が強力な武器となる。第3・4指の間が膜で繋がり水かき状になる。
皮膚表面を保護する皮脂腺・体温調節のための汗腺を持たないが、「血の汗」などと呼ばれるピンク色の粘液を分泌する腺がある。この粘液はアルカリ性で乾燥すると皮膚表面を保護し、赤い色素により紫外線が通過しにくくなる。主成分も分離されており、ヒポスドール酸 (hipposudoric acid)、ノルヒポスドール酸 (norhipposudoric acid) と命名されている。 この粘液に細菌の増殖を防ぐ働きもあり、傷を負って泥中に入っても化膿するのを防ぐことができる。
10 - 20頭のメスと幼獣からなる群れを形成して生活するが、乾季には100 - 150頭の群れを形成することもある。オスは単独で生活するか、優位のオスは群れの周囲に縄張りを形成する。口を大きく開ける・糞をまき散らす・後肢で蹴りあげる・鼻から水を出す・唸り声をあげるなどして威嚇し縄張りを主張するが、オス同士で犬歯で噛みつくなど激しく争うこともあり命を落とすこともある。縄張りは頭や体を低くする服従姿勢をとれば他のオスも侵入することはできるが、他のオスが縄張り内で交尾することは許容しない。8年以上同じ縄張りを防衛することもあり、このうちの1頭が12年縄張りを防衛した例もある。 昼間は水中で生活し、夜間は陸上に上がり採食を行う。陸上での行動範囲は水場から3キロメートルだが、水場と採食場の途中に泥浴びを行える場所があればさらに拡大し、水場から最大で10キロメートル離れた場所で採食を行うこともある。通常体内に多量の空気を溜めこむと浮力により潜ることが困難になるが、四肢の重さにより潜水が可能になっている。水中では泳がずに、後肢を後方へ伸ばし前肢だけで水底を移動する。素早く水中を移動するときは後肢を用いることもある。潜水時間は1分で、最長で5分。陸上では短距離であれば時速30kmで走る事が出来る。
食性は植物食で、草本・根・木の葉などを食べる。一晩のうち4 - 6時間ほどをかけて、30 - 40キログラムの食物を食べる。体重と食事量の比率は、他の植物食の動物よりも低い(乾燥重量にすると体重の1 - 1.5 %、有蹄類では約2.5%)。飼育下では体重4000キロのゾウ類は1日あたり約200キログラムの食物を食べるが、体重1500キロの本種は約50キログラムの食物を食べるとされる。これは昼間に温度変化の少ない水中でほとんど動かずに、エネルギー消費を抑えているためと考えられている。
水中での睡眠時には呼吸のために無意識に浮上することがある。成体の場合、通常5分おきに浮上し、呼吸をしてまた潜水する。
天敵はライオンである。ベナンではライオンの獲物のうちカバが17%を占める。コンゴではライオンの獲物のうちカバが20%を占め、ザンビアではライオンの重要な獲物になっている。
発情期間は2 - 3日。飼育下では交尾時間は12 - 17分の例がある。妊娠期間は210 - 240日。主に水中で1回に1頭の幼獣を産む。オスは生後5歳、メスは生後4歳程度で性成熟する。平均寿命は約30年。
1864年に村上英俊によって編纂された仏和辞典『仏語明要』では、hippopotama の訳語を「川馬」としている。1872年の石橋政方訳『改正増補英語箋』では hippopotamus の訳語を「河馬」としたうえで、読みを「かば」としている。古くは hippopotamusが「海のウマ」と訳されることもあったようで、日本でも1862年の『英漢字典』・1872年の『英和字典』・1862年の『英漢字典』などでは hippopotamus の訳語を「海馬(うみうま)」としている。
ウガンダのエドワード湖・ジョージ湖では個体密度(クイーン・エリザベス国立公園で1平方キロメートルあたり31頭に達することもあった)が高く、採食活動により湖岸の森林が消失し土壌が侵食された。そのためアフリカ大陸では初めて野生動物の人為的管理計画として1962 - 1966年に生態的調査を行いつつ間引きが実施された。これにより沿岸の植生が回復し他の動物の生息数も増加したが、間引きが停止すると状況は戻ってしまった。ウガンダのクーデターによりこの試みは棚上げとなり密輸が横行するようになったが、本種の生態的知見はこうした計画による調査から得られたものも多い。
農地開発や湿地開発による生息地の破壊や水資源の競合、食用や牙用の乱獲などにより、1990年代から2000年代にかけて生息数は減少した。2017年の時点では、以後は生息数は安定していると考えられている。アフリカ東部や南部では地域によっては生息数が激減したものの、未だ生息数は多いと考えられている。一方で2003年にコンゴ民主共和国では8年間で生息数が約95 %激減したという報告もある。密猟・密輸されることもあり、特に政情が不安な地域では横行することもある。1989 - 1990年には15,000キログラム、1991 - 1992年には27,000キログラムの牙が密輸されたと推定されている。1995年にワシントン条約附属書IIに掲載されている。
日本では2021年の時点でかば科(カバ科)単位で特定動物に指定され、2019年6月には愛玩目的での飼育が禁止された(2020年6月に施行)。
コロンビアにおいては、かつてパブロ・エスコバルが自宅の動物園で飼育するために密輸した、通称“コカインカバ”の子孫たちが脱走・繁殖して問題となっている。
かつて、移動動物園をしたカバヤ食品の「カバ子」は、後に「デカ」と改名されいしかわ動物園で飼育された。東山動物園のカバの番(つがい)「重吉」(2代目)と「福子」(初代)は19頭の仔をもうけ、日本国内最多産記録を作った。技術の向上から、1997年に大阪市天王寺動物園では日本で初めてガラス越しに水中を歩くカバを観察できるカバ舎を製作した。この展示スタイルは富士サファリパークの「ワンダー・オブ・ピッポ」なども追随している。また、神戸市立王子動物園はスロープの傾斜を緩くしたバリアフリーを配慮したカバ舎を2003年に造っている。
属名 Hippopotamus は、「カバ」を意味する hippopotamus (ヒッポポタムス)をそのまま用いたもので、大プリニウス『博物誌』等にも言及のある古い言葉である。 さらに遡れば ἱπποπόταμος (ヒッポポターモス; < ἵππος 「馬」 + ποταμός 「川」)であり、当時はナイル川下流でも見られたカバに対してギリシア人が命名したものであった。なお、オランダ語では、nijlpaard(< Nijl 「ナイル川」 + paard 「馬」)という。
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] | カバは、哺乳綱偶蹄目(鯨偶蹄目とする説もあり)カバ科カバ属に分類される偶蹄類。 | {{Otheruses|動物の'''カバ'''|その他のカバ、かば|カバ (曖昧さ回避)}}
{{出典の明記|date=2016年10月}}
{{生物分類表
|省略 = 哺乳綱
|名称 = カバ
|画像=[[ファイル:Nijlpaard.jpg|250px|カバ]]
|画像キャプション = '''カバ''' {{snamei|Hippopotamus amphibius}}
|status = VU
|status_ref = <ref name="iucn">Lewison, R. & Pluháček, J. 2017. ''Hippopotamus amphibius''. The IUCN Red List of Threatened Species 2017: e.T10103A18567364. https://doi.org/10.2305/IUCN.UK.2017-2.RLTS.T10103A18567364.en. Downloaded on 02 May 2021.</ref><ref name="species+">UNEP (2021). [https://www.speciesplus.net/#/taxon_concepts/9229/legal ''Hippopotamus amphibius'']. The Species+ Website. Nairobi, Kenya. Compiled by UNEP-WCMC, Cambridge, UK. Available at: [https://www.speciesplus.net www.speciesplus.net]. [Accessed 02/05/2021<!-- dd/mm/yyyy -->]</ref>
|status_text = [[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約|ワシントン条約]]附属書II
|目 = [[偶蹄目]]/[[鯨偶蹄目]]<br />[[w:Even-toed_ungulate|Artiodactyla/Cetartiodactyla]]<!-- 鯨目を含んでも偶蹄目を変更しない説が提唱されているようなので変更しないこと -->
|科 = [[カバ科]] [[w:Hippopotamidae|Hippopotamidae]]
|属 = [[カバ属]] {{snamei|[[w:Hippopotamus_(genus)|Hippopotamus]]}}
|種 = '''カバ''' {{snamei|H. amphibius}}
|学名 = {{snamei|Hippopotamus amphibius}}<br />[[カール・フォン・リンネ|Linnaeus]] [[1758年|1758]]<ref name="iucn" /><ref name="grubb">Peter Grubb, "[http://www.departments.bucknell.edu/biology/resources/msw3/browse.asp?id=14200105 ''Hippopotamus''],". ''Mammal Species of the World'', (3rd ed.), Don E. Wilson & DeeAnn M. Reeder (ed.), Johns Hopkins University Press, 2005, Pages 637 - 722<!-- p. 645 --></ref>
|和名 = カバ<ref name="laws">Richard M. Laws 「カバ」斎藤勝訳『動物大百科 4 大型草食獣』、[[平凡社]]、1986年、62 - 67頁。</ref><ref name="sagawa">佐川義明 「安定した水中生活を営む カバ」『動物たちの地球 哺乳類II 6 イノシシ・カバ・キリンほか』第9巻 54号、[[朝日新聞社]]、1992年、164 - 166頁。</ref>
|英名 = Common hippopotamus<ref name="iucn" /><br />[[:en:Hippopotamus|Hippopotamus]]<ref name="iucn" /><br />Large hippo<ref name="iucn" />
}}
'''カバ'''(河馬、{{snamei|Hippopotamus amphibius}})は、哺乳綱[[偶蹄目]]([[鯨偶蹄目]]とする説もあり)カバ科カバ属に分類される偶蹄類。
== 分布 ==
[[サハラ砂漠]]以南の[[アフリカ大陸]]<ref name="iucn" />
[[アルジェリア]]、[[エジプト]]、[[エリトリア]]、[[モーリタニア]]、[[リベリア]]では絶滅<ref name="iucn" />。
<!--WP:NOTNEWS
コロンビアでは、麻薬王の私設動物園から脱走したカバが分布を広げ、問題化している。当局の駆除対策は地元民の反対もあり、進展していない<ref>[https://www.newsweekjapan.jp/worldvoice/matsuo/2021/10/hipopotamo.php 「麻薬王のカバ」80頭にまで増殖 ニューズウィーク、2021年10月22日]</ref>
-->
== 形態 ==
[[ファイル:Hippopotamus-1.jpg|thumb|200px|直線上に並んでいる眼・鼻孔・外耳を水中から出して周囲の様子をうかがう]]
[[ファイル:HippoJaw.jpg|thumb|200px|大きく開いた顎と歯]]
[[体長]]3.5 - 4メートル{{R|sagawa}}。体重はオス平均1,500kg 、メス平均1,300kg<ref>{{cite book|last1=Owen-Smith|first1=R. Norman|title=Megaherbivores: The Influence of Very Large Body Size on Ecology|date=1992|publisher=Cambridge University Press}}</ref>
<ref>{{cite journal|last1=Pienaar|first1=U. de V.|last2=Van Wyk|first2=P.|last3=Fairall|first3=N.|title=An experimental cropping scheme of Hippopotami in the Letaba river of the Kruger National Park|journal=Koedoe|date=1966|volume=9|issue=1|doi=10.4102/koedoe.v9i1.778|doi-access=free}}</ref> 。非常に大型のオスだと2,000kgを超えることもある。陸上動物としては[[ゾウ]]、[[サイ]]に次ぐ3番目の重さとされる。分厚い脂肪と真皮・上皮で覆われるが、表皮は非常に薄い<ref name="sagawa" /><ref name="laws" />。このため[[毛細管現象]]により水分は外側へ放出してしまう<ref name="laws" />。皮膚は乾燥すると裂けてしまい、水分消失量は5平方センチメートルあたり10分で12ミリグラム<!-- 1平方センチメートルあたり1時間で12.5ミリグラム<ref name="sagawa" /> -->ともされこれは人間の約3 - 5倍の水分消失量にあたる<ref name="laws" />。
頭部は大型<ref name="sagawa" />。顔の側面に鼻・眼・耳介が一直線に並んで位置する<ref name="sagawa" />。これにより水中から周囲の様子をうかがいながら、呼吸することができる<ref name="sagawa" />。鼻孔は内側の筋肉が発達して自由に開閉することができ、水中での浸水を防ぐことができる<ref name="sagawa" />。下顎の犬歯は50センチメートルに達することもあり<ref name=":0" />、下顎2本の重量はオス2.1キログラム、メス1.1キログラムに達することもある<ref name="laws" />。一生伸び続けるが、上下の歯が噛みあい互いをすり減らすことで短く、鋭くなる<ref name=":0" />。闘争時にはこの犬歯が強力な武器となる。第3・4指の間が膜で繋がり水かき状になる<ref name="sagawa" />。
皮膚表面を保護する[[皮脂腺]]・体温調節のための[[汗腺]]を持たないが、「血の汗」などと呼ばれるピンク色の粘液を分泌する腺がある<ref name="sagawa" /><ref name="laws" />。この粘液はアルカリ性で乾燥すると皮膚表面を保護し、赤い色素により紫外線が通過しにくくなる<ref name="sagawa" /><ref name="laws" />。主成分も分離されており、[[ヒポスドール酸]] ([[w:Hipposudoric acid|hipposudoric acid]])、ノルヒポスドール酸 ([[w:Norhipposudoric acid|norhipposudoric acid]]) と命名されている<ref>[https://web.archive.org/web/20040624040218/http://www.botanical.jp/library/news/128/index.shtml カバの赤い汗から新物質のヒポスドリック酸を分離 紫外線カット(UVカット)、細菌防止に効果?](2004年6月24日時点の[[インターネット・アーカイブ|アーカイブ]])</ref><ref>{{Cite journal |和書|author =橋本貴美子|author2=犀川陽子|author3=中田雅也|title =カバの赤い汗に関する化学|date =2006|publisher =有機合成化学協会|journal =有機合成化学協会誌|volume =64|issue =12|doi=10.5059/yukigoseikyokaishi.64.1251|pages =1251-1260|ref = }}</ref>。
この粘液に細菌の増殖を防ぐ働きもあり、傷を負って泥中に入っても化膿するのを防ぐことができる<ref name="laws" /><ref name="sagawa" />。
== 生態 ==
[[ファイル:Hippo distribution.gif|thumb|200px|{{Color|green|●}}[[2000年代]]における棲息域<br />{{Color|red|●}} かつての棲息域]]
[[ファイル:Mother and very small baby hippo.jpg|thumb|200px|カバの親子]]
[[ファイル:Hippopotamus in San Diego Zoo.jpg|thumb|200px|水より比重が大きいため、水底を歩くことができる]]
10 - 20頭のメスと幼獣からなる群れを形成して生活するが、[[乾季]]には100 - 150頭の群れを形成することもある<ref name="sagawa" />。オスは単独で生活するか、優位のオスは群れの周囲に[[縄張り]]を形成する<ref name="laws" /><ref name="sagawa" />。口を大きく開ける・糞をまき散らす・後肢で蹴りあげる・鼻から水を出す・唸り声をあげるなどして[[威嚇]]し縄張りを主張するが、オス同士で犬歯で噛みつくなど激しく争うこともあり命を落とすこともある<ref name="laws" /><ref name="sagawa" />。縄張りは頭や体を低くする服従姿勢をとれば他のオスも侵入することはできるが<ref name="sagawa"/>、他のオスが縄張り内で交尾することは許容しない<ref name="laws" />。8年以上同じ縄張りを防衛することもあり<ref name="laws"/>、このうちの1頭が12年縄張りを防衛した例もある<ref name="sagawa" />。
昼間は水中で生活し、夜間は陸上に上がり採食を行う<ref name="laws" /><ref name="sagawa" />。陸上での行動範囲は水場から3キロメートルだが、水場と採食場の途中に泥浴びを行える場所があればさらに拡大し、水場から最大で10キロメートル離れた場所で採食を行うこともある<ref name="laws" /><ref name="sagawa" />。通常体内に多量の空気を溜めこむと浮力により潜ることが困難になるが、四肢の重さにより潜水が可能になっている<ref name=":0">David Duganほか著、五十嵐涼子訳『巨大生物解剖図鑑』、[[スペースシャワーネットワーク]]、2016年、224-245頁。 ISBN 978-4-907435-73-8</ref>。水中では泳がずに、後肢を後方へ伸ばし前肢だけで水底を移動する<ref name="sagawa" />。素早く水中を移動するときは後肢を用いることもある<ref name="sagawa" />。潜水時間は1分で、最長で5分<ref name="sagawa" />。陸上では短距離であれば時速30kmで走る事が出来る<ref>{{Cite book|title=The Behavior Guide to African Mammals: including hoofed mammals, carnivores, primates|author=Estes, R.|publisher=University of California Press|pages=[https://archive.org/details/isbn_0520080858/page/222 222–226]|year=1992|isbn=978-0-520-08085-0|url=https://archive.org/details/isbn_0520080858/page/222}}</ref>。
食性は植物食で、[[草本]]・根・木の葉などを食べる<ref name="sagawa" />。一晩のうち4 - 6時間ほどをかけて、30 - 40キログラムの食物を食べる<ref name="sagawa" />。体重と食事量の比率は、他の植物食の動物よりも低い(乾燥重量にすると体重の1 - 1.5 %、有蹄類では約2.5%)<ref name="laws" />。飼育下では体重4000キロのゾウ類は1日あたり約200キログラムの食物を食べるが、体重1500キロの本種は約50キログラムの食物を食べるとされる<ref name="sagawa" />。これは昼間に温度変化の少ない水中でほとんど動かずに、エネルギー消費を抑えているためと考えられている<ref name="sagawa" /><ref name="laws" />。
水中での睡眠時には呼吸のために無意識に浮上することがある。成体の場合、通常5分おきに浮上し、呼吸をしてまた潜水する。<ref name=":0" />
天敵は[[ライオン]]である。[[ベナン]]ではライオンの獲物のうちカバが17%を占める<ref>{{Cite web|author=Leiden University|date=2011年10月25日|url=https://scholarlypublications.universiteitleiden.nl/access/item%3A2962723/download|title=Lions of West Africa : ecology of lion (Panthera leo Linnaeus1975) populations and human-lion conflicts in PendjariBiosphere Reserve, North Benin|accessdate=2022年7月26日}}</ref>。[[コンゴ]]ではライオンの獲物のうちカバが20%を占め、[[ザンビア]]ではライオンの重要な獲物になっている<ref>{{Cite web|author=R. Norman Owen-Smith|date=1992年3月|url=https://books.google.co.jp/books?id=1jT72JdLVIcC&pg=PA154&lpg#v=onepage&q&f=false|title=Megaherbivores: The Influence of Very Large Body Size on Ecology|accessdate=2022年7月28日}}</ref>。
発情期間は2 - 3日<ref name="sagawa" />。飼育下では交尾時間は12 - 17分の例がある<ref name="sagawa" />。妊娠期間は210 - 240日<ref name="sagawa" />。主に水中で1回に1頭の幼獣を産む<ref name="sagawa" />。オスは生後5歳、メスは生後4歳程度で性成熟する<ref name="sagawa" />。平均寿命は約30年<ref name="sagawa" />。
== 人間との関係 ==
1864年に[[村上英俊]]によって編纂された仏和辞典『仏語明要』では、{{lang|fr|hippopotama}} の訳語を「川馬」としている<ref name="endo">遠藤智比古 「[https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1990.119 カバの訳語考]」『英学史研究』第1990巻 22号、日本英学史学会、1989年、119 - 136頁。</ref>。1872年の[[石橋政方]]訳『改正増補英語箋』では {{lang|en|hippopotamus}} の訳語を「河馬」としたうえで、読みを「かば」としている<ref name="endo" />。古くは {{lang|en|hippopotamus}}が「海のウマ」と訳されることもあったようで、日本でも1862年の『英漢字典』・1872年の『英和字典』・1862年の『英漢字典』などでは {{lang|en|hippopotamus}} の訳語を「海馬(うみうま)」としている<ref name="endo" />。
ウガンダの[[エドワード湖]]・[[ジョージ湖 (ウガンダ)|ジョージ湖]]では個体密度([[クイーン・エリザベス国立公園]]で1平方キロメートルあたり31頭に達することもあった)が高く、採食活動により湖岸の森林が消失し土壌が侵食された<ref name="laws" />。そのためアフリカ大陸では初めて野生動物の人為的管理計画として1962 - 1966年に生態的調査を行いつつ間引きが実施された<ref name="laws" />。これにより沿岸の植生が回復し他の動物の生息数も増加したが、間引きが停止すると状況は戻ってしまった<ref name="laws" />。ウガンダのクーデターによりこの試みは棚上げとなり密輸が横行するようになったが、本種の生態的知見はこうした計画による調査から得られたものも多い<ref name="laws" />。
農地開発や湿地開発による生息地の破壊や水資源の競合、食用や牙用の乱獲などにより、1990年代から2000年代にかけて生息数は減少した<ref name="iucn" />。2017年の時点では、以後は生息数は安定していると考えられている<ref name="iucn" />。アフリカ東部や南部では地域によっては生息数が激減したものの、未だ生息数は多いと考えられている<ref name="iucn" />。一方で2003年にコンゴ民主共和国では8年間で生息数が約95 %激減したという報告もある<ref name="iucn" />。密猟・密輸されることもあり、特に政情が不安な地域では横行することもある<ref name="iucn" />。1989 - 1990年には15,000キログラム、1991 - 1992年には27,000キログラムの牙が密輸されたと推定されている<ref name="iucn" />。1995年にワシントン条約附属書IIに掲載されている<ref name="species+" />。
日本では2021年の時点でかば科(カバ科)単位で[[特定動物]]に指定され、2019年6月には愛玩目的での飼育が禁止された(2020年6月に施行)<ref>[https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/1_law/sp-list.html 特定動物リスト (動物の愛護と適切な管理)] ([https://www.env.go.jp/index.html 環境省]・2021年5月2日に利用)</ref>。
;カバ牙の利用
:[[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約|ワシントン条約]]で国際取引が禁止されている[[象牙]]の代替品として、カバの牙が[[印材|印鑑]]や工芸品の高級素材として使われることがある<ref>[https://cites.org/sites/default/files/ID_Manuals/R8_IvoryGuide_07162020_low-res.pdf Identification Guide for Ivory and Ivory Substitutes]([[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約]]、[[世界自然保護基金]]、トラフィック発効のPDF)</ref>。アフリカ大陸北東部(要するにかつて生息していたナイル川周り)の民族には、水の精[[タウエレト]]として崇められ、カバを象った面とカバの牙から作った呪い用の杖{{ill2|バース・タスク|en|Birth tusk}}を持って占いの儀式を行った<ref> Stephen Quirke: Birth Tusks:The Armory of Health in Context-Egypt-1800 BC、Middle Kingdom Studies 3. London 2016、 ISBN 9781906137496 pp.179-209</ref>。
=== コロンビア ===
{{main|コロンビアにおけるカバ}}
[[コロンビア]]においては、かつて[[パブロ・エスコバル]]が自宅の動物園で飼育するために密輸した、通称“コカインカバ”の子孫たち<ref>{{cite news|url=https://tabi-labo.com/301871/wt-cocaine-hippos-become-humans|title=米裁判所、カバを「人間」として認める|newspaper=|publisher=|date=2021-11-08|accessdate=2022-01-01}}</ref>が脱走・繁殖して問題となっている。
=== 飼育 ===
{{節スタブ}}
かつて、[[移動動物園]]をした[[カバヤ食品]]の「カバ子」は、後に「[[デカ (カバ)|デカ]]」と改名され[[いしかわ動物園]]で飼育された<ref>{{cite news |title=58歳国内最高齢のカバ死ぬ カバヤ食品、宣伝で活躍 |newspaper=47news([[共同通信]]) |date=2010-8-5 23:13 |url=http://www.47news.jp/CN/201008/CN2010080501000923.html |accessdate=2013-5-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110205124918/http://www.47news.jp/CN/201008/CN2010080501000923.html |archivedate=2011-2-5 }}</ref>。[[東山動植物園|東山動物園]]のカバの番(つがい)「重吉」(2代目)と「福子」(初代)は19頭の仔をもうけ、日本国内最多産記録を作った<ref>{{cite news |title=カバ |publisher=東山動植物園 |url=http://www.higashiyama.city.nagoya.jp/04_zoo/04_02shokai/04_02_01/04_02_01-30.html |accessdate=2013-5-11 |archiveurl=https://megalodon.jp/2013-0511-1704-15/www.higashiyama.city.nagoya.jp/04_zoo/04_02shokai/04_02_01/04_02_01-30.html |archivedate=2013-05-11}}</ref>。技術の向上から、1997年に[[大阪市天王寺動物園]]では日本で初めてガラス越しに水中を歩くカバを観察できるカバ舎を製作した<ref>{{Cite web|和書|title=アフリカサバンナゾーン完成 |author=飼育課:長瀬健二郎 |work=天王寺動物園発行情報誌『なきごえ』 vol.42-10 2006.10 Autumn |publisher=[[大阪市天王寺動物園]]web(公益社団法人[[日本動物園水族館協会]]web内) |date=2006年10月 |url=http://www.jazga.or.jp/tennoji/nakigoe/2006/10/savanna.html |accessdate=2013-5-11 |archiveurl=https://megalodon.jp/2013-0511-1723-36/www.jazga.or.jp/tennoji/nakigoe/2006/10/savanna.html |archivedate=2013-05-11}}</ref>。この展示スタイルは[[富士サファリパーク]]の「ワンダー・オブ・ピッポ」なども追随している。また、[[神戸市立王子動物園]]はスロープの傾斜を緩くした[[バリアフリー]]を配慮したカバ舎を2003年に造っている<!-- http://www.47news.jp/CN/200210/CN2002102801000430.html -->。
=== その他 ===
* [[名古屋鉄道]]関連会社の名鉄整備のCIとしてカバをモチーフにした「ヒポポタマス」というキャラクターを使用している。創業当時使用されていた[[ボンネットバス]]の整備中の姿がカバに似ていたためこのキャラクターが生まれた。また自社が名古屋発祥で中部圏に広まった事と[[名古屋市|名古屋]]の[[東山動植物園|東山動物園]]で飼育されていたカバの重吉・福子の子孫が全国の動物園に広まっていたことにあやかって、ユーザーの事業が全国に広まるようにという願いもこめられている。<ref>[https://web.archive.org/web/20150316012552/http://www.meitetsu-seibi.co.jp/logomark.html 名鉄整備ロゴマーク「ヒポポタマス」の由来](2015年3月16日時点の[[インターネット・アーカイブ|アーカイブ]]){{出典無効|date=2021年5月}}</ref>
* [[1981年]]の[[東武動物公園]]開園に当たり、[[恩賜上野動物園|上野動物園]]でカバの飼育で名を馳せ、漫画『[[ぼくの動物園日記]]』のモデルとなった[[西山登志雄]]が初代園長に就任し、「カバ園長」として親しまれた。
* 実際の生態や接触の少なさとは別に、古くから絵本やアニメ映画に擬人化して取り上げられることが多く、世界的に子どもから親しまれ、野生動物の中では著名な部類である。
== 呼称 ==
{{出典の明記|date=2021年5月|section=1}}
属名 {{snamei|Hippopotamus}} は、「カバ」を意味する {{lang|la|hippopotamus}} (ヒッポポタムス)をそのまま用いたもので、大プリニウス『[[博物誌]]』等にも言及のある古い言葉である。
さらに遡れば {{lang|grc|[[wikt:en:ἱπποπόταμος|ἱπποπόταμος]]}} (ヒッポポターモス; < {{lang|grc|[[wikt:en:ἵππος|ἵππος]]}} 「馬」 + {{lang|grc|[[wikt:en:ποταμός|ποταμός]]}} 「川」)であり、当時は[[ナイル川]]下流でも見られたカバに対してギリシア人が命名したものであった。なお、[[オランダ語]]では、{{lang|nl|[[wikt:Nl:nijlpaard|nijlpaard]]}}(< {{lang|nl|Nijl}} 「ナイル川」 + {{lang|nl|paard}} 「馬」)という。
[[日本語]]の「河馬」は近代になってこれを直接訳したか、もしくは、[[ドイツ語]]で「カバ」を意味する {{lang|de|[[wikt:de:Flusspferd|Flusspferd]]}} (< {{lang|de|Fluss}} 「川」 + {{lang|de|Pferd}} 「馬」)を訳したもの。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Hippopotamus amphibius}}
{{Species|Hippopotamus amphibius}}
{{Wiktionary|hippopotamus}}
{{哺乳類}}
{{鯨偶蹄類}}
{{デフォルトソート:かは}}
[[Category:偶蹄目]]<!-- カバ科は現生2種のみでカテゴリを作る意義が薄い、亜目は現時点で分類や和名が定まっていない、鯨偶蹄目は上記の理由から暫定的に -->
[[Category:ワシントン条約附属書II]]
[[Category:特定動物]] | 2003-03-12T03:59:44Z | 2023-10-22T12:31:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%90 |
3,847 | フラッシュメモリ | フラッシュメモリ(英: Flash Memory)は、浮遊ゲートMOSFETと呼ばれる半導体素子を利用し、浮遊ゲートに電子を蓄えることによってデータ記録を行う不揮発性メモリである。東芝の舛岡富士雄が発明した。データを消去する際に、ビット単位ではなくブロック単位でまとめて消去する方式を採ることにより、構造が簡素化し、価格が低下したため、不揮発性半導体メモリが爆発的に普及するきっかけとなった。消去を「ぱっと一括して」行う特徴から、写真のフラッシュをイメージしてフラッシュメモリと命名された。
フラッシュEEPROMやフラッシュROMとも呼ばれている。各ビットの記憶セルの基本的な構造としてはある種のEEPROMであるが、複数ビットから成るブロック内で「押し流す」ようなメカニズムと、読み書き可能な単位(ブロックサイズは数キロバイトから数十キロバイト)と速度が扱いやすい程度であることが特徴である。浮遊ゲートとシリコン基板間のゲート絶縁膜が極めて薄くなっている。
主要な種別はNAND型フラッシュメモリとNOR型フラッシュメモリの2種である。それぞれの基本的な特徴は次の通り。
書き込みがブロック単位であることはどちらも共通である。歴史的には、最初のフラッシュメモリとして発明されたのはNOR型で、続いてNAND型が発明された。いずれの発明も当時東芝の舛岡富士雄による。普及については主としてインテルによりNOR型が先行して市場に広がった。現在の大手メーカーは、NAND型がキオクシアとサンディスクとサムスン、NOR型がマイクロンとスパンションが挙げられる。
NOR型は、マイコン応用機器のシステムメモリに適しており、従来から使用されていたROMを置き換えた。ROMの交換で行われていたファームウェアの更新も、製品の筐体を開けることなく容易に行えるようになっている。
NAND型は、データストレージ用に適している。携帯電話、デジタルカメラ、デジタルオーディオプレーヤーなどの記憶媒体として広く普及しており、それによって価格も低下している。
初期のフラッシュメモリは、1セルあたりのビット数が1ビットであったため、大容量化するとダイのサイズが大きくなり、歩留まりも低下した。そこで1セルあたりのビット数を増やす為、フローティングゲートに入れる電子の数を制御し、また読み出し時には「ゲートに入った電荷に依存してゲート下へ電流を流すための電圧が変わる(Vthが変わる)現象」を利用することで、1セルあたり4段階の電圧レベルを用いて2ビットの容量を実現した物が考案され、これをマルチレベルセル(MLC)と呼ぶ。従来の1セルあたり1ビットのものは、シングルレベルセル(SLC)と呼ぶようになった(レトロニム)。セル数が同じ場合、1セルあたり2ビットのMLCはSLCの2倍の容量になる。3ビットならばSLCの3倍になり、4ビットならばSLCの4倍になる。業界の慣例としてそれぞれトリプルレベルセル(TLC)、クアドラプルレベルセル(QLC)と呼ばれている(ただしTLCの電圧レベルは8段階なので、3段階ではない)。
SLCの優位な点は速度・書き換え可能回数の面である。これはVthの多段判定が不要などによる。MLC・TLCは書き換え回数を経るにつれ中間の2値の差が小さくなり、ここでの誤りがエラーの原因になる。MLC・TLCの優位な点は大容量化である。2022年現在では各社から大容量のSSDが低価格で販売されており、HDDからの完全な換装もその速度を考えれば十分値段に見合うものになっている。
SLC型は1つの記録素子に1ビットのデータを保持する。
蓄積電荷量の検出を "Hi/Low" の2値で判断するため、記録素子の劣化やノイズといった多少の蓄積電荷量のバラツキは問題とならない。
MLC型、TLC型、QLC型といった多値NANDは、蓄積電荷量の検出を"Hi/Low"だけでなく、2つの間にいくつかの中間値を設定して、4値や8値、16値といった多値で判断する。記録素子の劣化やノイズによって少しでも蓄積電荷量に変動が生じると、保持していたデータは誤りとなる。その場合、フラッシュメモリ回路やそれを制御するコントローラ内の誤り検出訂正回路によって自動的に正しいデータに修正される(エラー訂正)。一般的に多値NANDの記録素子は、エラー訂正機能との併用が必須となり、SLC型と比べ多くの冗長エリアが必要となる。またこれらのエラー状況を監視する事により、「メモリーブロック不良」が検出され、代替メモリーブロックに切り替えられる。
例えばMLC型はSLC型と比べて書き換え可能な回数とデータ保持期間で劣るが、1セルあたりの記憶容量が倍増(4値の場合)する。同じセル数(体積)であれば大容量化が、同じ容量ならば低価格化(少セル化・小型化)が可能となり、大容量フラッシュメモリを安価に提供することが可能となる。長期間の使用や高信頼性を求めず、主に価格や小型化を重視するデジタルビデオカメラや個人用PCなどの民生用途に用いられる。
消去・書き込みのためにVppとして別電源が必要なもの(二電源系)と、単一電源で動作するもの(単電源系)がある。単電源系はチャージポンプなどの昇圧回路を内蔵している。最近では、低容量のROM等には3.3V単電源のもの、携帯電話のROM用途には1.8V単電源またはCore 1.8V・I/O 3.3Vのものが多く使われている。(書き込まれたデータの保持期間は有限である。)
フラッシュメモリの制約の一つは、ランダムアクセスにおいて、ビット単位の書き換えができないことである。
別の制限は、フラッシュメモリが、(大抵PまたはEサイクルで書き込まれる)消去サイクルの – プログラムの有限の(回)数をもっている、すなわちその回数には限りがあることである。最も商業的に利用されるフラッシュ製品は、記憶の完全な状態の品質低下が始まる前までに、おおよそ100,000のP/Eサイクルに耐えるよう保証されている。
2012年12月に、マクロニックス (英語: Macronix)の台湾人の技術者らが彼らの2012年のIEEEの国際電子装置会議で発表する趣旨を開示した。その趣旨は、'自己治癒'(英: self-healing)処理を使ってNANDフラッシュ記憶の読み込み/書き込みサイクルを10,000回から10億回へどの様に改善するかを説明するものである。その処理は、"記憶素子の小さなグループを焼き鈍しできる基盤搭載型加熱器"をもったフラッシュチップを使うものである。少なくとも10億回の書き込みサイクルを与える、その組み込まれた熱的焼き鈍しは、通常の消去サイクルを、保存された充電を消すだけでなく、チップ内部の電子的に引き起こされたストレスを補修する、局部の高温度処理で置き換えるものだった。将来有望なマクロニックスのブレークスルーはモバイル産業に有ったかも知れない、しかしながら、商業的な製品についての計画は無かった。
NANDフラッシュメモリーを読み出すのに用いられる方法は、(プログラム由来の)同じメモリブロック内での近くのセルが何度も変更することを引き起こしうる。これは'読み出し混乱'(英: disturb)として知られている。
多くのフラッシュ集積回路はボールグリッドアレイ(英語: ball grid array)の梱包として出荷され、そしてそうでないものはしばしば他のBGAの梱包の次のPCBにおいてマウントされる。BGAの梱包として搭載される、後者のPCBアセンブリ(英語: PCB Assembly)は、もしそのボールがその専用のパッドに専ら接続させるものであれば、またはもしそのBGAがやり直し(英語版)を必要とするならば、しばしばX線を当てられる。これらのX線はフラッシュチップ内のプログラムされたビットらを消しうる(プログラムされた"0"のビットは消された"1"ビットとなる)。消されるビット("1"のビット)はX線の影響を受けない。
幾つかの製造業者は現在X線防御SDとUSBメモリ装置を製造している。
フローティングゲートに充電した電子によって情報を記憶するという構造のために、書き込まれたデータの保持期間は有限である。メーカーの公称値では、書き換えによって劣化していない状態(書き換え限度の10%以下)で3年以下(TLC/QLC)・5年(MLC)・10年(SLC)、書き換え限度まで達した状態から1年となっている。これは環境の影響を受け、高温や放射線のあたる環境下においてはソフトエラー(英語版)が発生して保持期間は通常よりも短くなる(条件次第では使用不能もありうる)。
NOR型であれば一般に20年程度の保持期間を持ち、BIOSなどのファームウェアに使われている。ただし初期のフラッシュメモリ製品は既に20年以上が経過しており、保持期間が有限であることに変わりは無い。なお、これらの保持期間は最後に書き込んで以降の時間を示す。
フラッシュメモリの記憶素子は、動作原理上絶縁体となる酸化膜が貫通する電子によって劣化するため消去・書き込み可能回数が限られており、記憶素子単体の書き換え寿命は短命なものではQLCが数十回程度、TLCが数百回程度でそれぞれ限界、長くてもMLCの場合で数千回程度、SLCの場合で数万回程度である。NOR型よりもNAND型の方が劣化が激しい。この記憶素子をそのまま記憶装置として使う場合、書き込みが特定ブロックに偏るため、未使用の記憶素子がある一方で特定の記憶素子だけが劣化によって寿命が尽きるという状況が発生する。現状の製品では、書き込みの偏り対策としてコントローラを搭載して消去・書き込みが特定ブロックに集中しないようにウェアレベリングをしている。これにより書き換え寿命は論理的には伸びる。正確な計算方法はメーカーによって複数あり、例えば製品の最大容量と書き換え可能な領域等によって寿命は変わってくる。
書き込み可能回数を超えると、ストレージとして認識することができなくなったり、正常な記録ができなくなったり、正常に記録することができたとしても記録内容を維持することができず、記録した内容が壊れたり消えてしまったりする確率が上昇する。
Intelの研究によれば、63nmから72nmのプロセスルールで製造されたMLC(2bit/セル)方式NANDフラッシュメモリ8Gbitチップの場合、1万回の書き換えでエラーの起きる確率が1ビット当たり100万分の1から1000万分の1程度(即ち8Gbitならばエラーの起きるビットは平均1000から100ビット)である。
フラッシュメモリは半導体製品であり、電子回路の構成部品として回路基板上に実装された形で製品化されているものが大半である。電子回路であるがゆえにフラッシュメモリそのものの故障以外に、電子回路の他の部品(コントローラチップなどフラッシュメモリ以外の実装部品も含む)の故障の影響で使用不能に陥ることもある。
パソコン用デバイスとしてのフラッシュメモリは、当初ユーザーの操作で書き換え可能なBIOSを持ったマザーボードへの利用など表面に出ない用途だった。やがてUSBメモリなどによるフロッピーディスクの代替としての利用が始まり、書き換えに対する耐久性の向上(ハード的な技術向上やソフト的に書き換える部分を集中しないようにする工夫 - ウェアレベリング)、大容量化・低価格化・高速化が進み、徐々に大容量記憶装置としての役割を担うようになっていった。
2004年には、小容量ながらパソコンに内蔵してハードディスク (HDD) 同様ドライブとして使用できるソリッドステートドライブ(SSD)が登場。自作派のユーザーたちに浸透していった。2006年には、HDDを搭載しないでSSDを搭載するメーカー製小型ノートパソコンが登場した。2007年発売の『Windows Vista』からは、USBメモリをHDDのキャッシュメモリとして使用するWindows ReadyBoost機能、2009年発売の『Windows 7』からはSSDはHDDとは別の種類のデバイスとしてサポートされるようになっている。
ノートパソコンには機器の小型化および軽量化、省電力化、衝撃に対する強さが要求される。フラッシュメモリはハードディスクと比較してこれらの要素で優れており、さらに物理的な動作がないので静音化ができ、また高速にアクセスできるという利点も持つ。ただし低価格化が進んだとは言え、容量単価の点では依然としてハードディスクが有利であり、フラッシュメモリ搭載ノートパソコンはハードディスク搭載モデルと比較して割高な価格設定になりやすいが、2019年現在、その物理的に可動部が無いことによる耐衝撃性とHDDに比べ圧倒的な速度性能を考慮すれば、十分考慮できる価格帯まで落ち着いている。
過去の経緯により、一般的にNOR型はSRAMインターフェース (搭載bit数が増えるとアドレスバス幅が増えていく)、NAND型はDRAMインターフェース (アドレスを複数回に時間分解するマルチプレクスを行う)である。また、組み込みシステム等の分野では、I2C等のシリアルバスを採用した素子(『シリアルフラッシュメモリ』と称されることもある)も用いられている。
主としてNAND型で補助記憶装置としてパッケージされている商品の例を挙げる。これらのような商品の他に、Fusion-io(現在はサンディスク傘下)のioDriveのように、フラッシュメモリの性能を最大限に発揮するようデザインされた製品などもある。
2005年あたりまで、フラッシュメモリはハードディスクや光ディスクの容量単価とは比べ物にならないほど高額であり、この点がユーザーにとって大きな欠点であった。しかし、2006年頃になると、フラッシュメモリの価格が大幅にかつ急速に下落してゆき、価格的な欠点は段々と和らいでいった。これは、フラッシュメモリ製造会社が一斉に増産したためであった。それでもなお、フラッシュメモリの容量単価はハードディスクや光ディスクを抜き去るほどには低下していない。
この急激な価格低下はフラッシュメモリ製造メーカーの経営に大きな打撃をもたらし、大手の東芝メモリ(現・キオクシア)も打撃を受けていると報じられた。また、フラッシュメモリ専業大手のスパンションは、価格下落と世界的な景気の低迷の影響もあって採算が悪化、会社更生法の適用を申請した。 | [
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"tag": "p",
"text": "主要な種別はNAND型フラッシュメモリとNOR型フラッシュメモリの2種である。それぞれの基本的な特徴は次の通り。",
"title": "種別"
},
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"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "書き込みがブロック単位であることはどちらも共通である。歴史的には、最初のフラッシュメモリとして発明されたのはNOR型で、続いてNAND型が発明された。いずれの発明も当時東芝の舛岡富士雄による。普及については主としてインテルによりNOR型が先行して市場に広がった。現在の大手メーカーは、NAND型がキオクシアとサンディスクとサムスン、NOR型がマイクロンとスパンションが挙げられる。",
"title": "種別"
},
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"tag": "p",
"text": "NOR型は、マイコン応用機器のシステムメモリに適しており、従来から使用されていたROMを置き換えた。ROMの交換で行われていたファームウェアの更新も、製品の筐体を開けることなく容易に行えるようになっている。",
"title": "種別"
},
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"text": "NAND型は、データストレージ用に適している。携帯電話、デジタルカメラ、デジタルオーディオプレーヤーなどの記憶媒体として広く普及しており、それによって価格も低下している。",
"title": "種別"
},
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"tag": "p",
"text": "初期のフラッシュメモリは、1セルあたりのビット数が1ビットであったため、大容量化するとダイのサイズが大きくなり、歩留まりも低下した。そこで1セルあたりのビット数を増やす為、フローティングゲートに入れる電子の数を制御し、また読み出し時には「ゲートに入った電荷に依存してゲート下へ電流を流すための電圧が変わる(Vthが変わる)現象」を利用することで、1セルあたり4段階の電圧レベルを用いて2ビットの容量を実現した物が考案され、これをマルチレベルセル(MLC)と呼ぶ。従来の1セルあたり1ビットのものは、シングルレベルセル(SLC)と呼ぶようになった(レトロニム)。セル数が同じ場合、1セルあたり2ビットのMLCはSLCの2倍の容量になる。3ビットならばSLCの3倍になり、4ビットならばSLCの4倍になる。業界の慣例としてそれぞれトリプルレベルセル(TLC)、クアドラプルレベルセル(QLC)と呼ばれている(ただしTLCの電圧レベルは8段階なので、3段階ではない)。",
"title": "種別"
},
{
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"tag": "p",
"text": "SLCの優位な点は速度・書き換え可能回数の面である。これはVthの多段判定が不要などによる。MLC・TLCは書き換え回数を経るにつれ中間の2値の差が小さくなり、ここでの誤りがエラーの原因になる。MLC・TLCの優位な点は大容量化である。2022年現在では各社から大容量のSSDが低価格で販売されており、HDDからの完全な換装もその速度を考えれば十分値段に見合うものになっている。",
"title": "種別"
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"text": "SLC型は1つの記録素子に1ビットのデータを保持する。",
"title": "種別"
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"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "蓄積電荷量の検出を \"Hi/Low\" の2値で判断するため、記録素子の劣化やノイズといった多少の蓄積電荷量のバラツキは問題とならない。",
"title": "種別"
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{
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"tag": "p",
"text": "MLC型、TLC型、QLC型といった多値NANDは、蓄積電荷量の検出を\"Hi/Low\"だけでなく、2つの間にいくつかの中間値を設定して、4値や8値、16値といった多値で判断する。記録素子の劣化やノイズによって少しでも蓄積電荷量に変動が生じると、保持していたデータは誤りとなる。その場合、フラッシュメモリ回路やそれを制御するコントローラ内の誤り検出訂正回路によって自動的に正しいデータに修正される(エラー訂正)。一般的に多値NANDの記録素子は、エラー訂正機能との併用が必須となり、SLC型と比べ多くの冗長エリアが必要となる。またこれらのエラー状況を監視する事により、「メモリーブロック不良」が検出され、代替メモリーブロックに切り替えられる。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "例えばMLC型はSLC型と比べて書き換え可能な回数とデータ保持期間で劣るが、1セルあたりの記憶容量が倍増(4値の場合)する。同じセル数(体積)であれば大容量化が、同じ容量ならば低価格化(少セル化・小型化)が可能となり、大容量フラッシュメモリを安価に提供することが可能となる。長期間の使用や高信頼性を求めず、主に価格や小型化を重視するデジタルビデオカメラや個人用PCなどの民生用途に用いられる。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "消去・書き込みのためにVppとして別電源が必要なもの(二電源系)と、単一電源で動作するもの(単電源系)がある。単電源系はチャージポンプなどの昇圧回路を内蔵している。最近では、低容量のROM等には3.3V単電源のもの、携帯電話のROM用途には1.8V単電源またはCore 1.8V・I/O 3.3Vのものが多く使われている。(書き込まれたデータの保持期間は有限である。)",
"title": "種別"
},
{
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"tag": "p",
"text": "フラッシュメモリの制約の一つは、ランダムアクセスにおいて、ビット単位の書き換えができないことである。",
"title": "制約"
},
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"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "別の制限は、フラッシュメモリが、(大抵PまたはEサイクルで書き込まれる)消去サイクルの – プログラムの有限の(回)数をもっている、すなわちその回数には限りがあることである。最も商業的に利用されるフラッシュ製品は、記憶の完全な状態の品質低下が始まる前までに、おおよそ100,000のP/Eサイクルに耐えるよう保証されている。",
"title": "制約"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2012年12月に、マクロニックス (英語: Macronix)の台湾人の技術者らが彼らの2012年のIEEEの国際電子装置会議で発表する趣旨を開示した。その趣旨は、'自己治癒'(英: self-healing)処理を使ってNANDフラッシュ記憶の読み込み/書き込みサイクルを10,000回から10億回へどの様に改善するかを説明するものである。その処理は、\"記憶素子の小さなグループを焼き鈍しできる基盤搭載型加熱器\"をもったフラッシュチップを使うものである。少なくとも10億回の書き込みサイクルを与える、その組み込まれた熱的焼き鈍しは、通常の消去サイクルを、保存された充電を消すだけでなく、チップ内部の電子的に引き起こされたストレスを補修する、局部の高温度処理で置き換えるものだった。将来有望なマクロニックスのブレークスルーはモバイル産業に有ったかも知れない、しかしながら、商業的な製品についての計画は無かった。",
"title": "制約"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "NANDフラッシュメモリーを読み出すのに用いられる方法は、(プログラム由来の)同じメモリブロック内での近くのセルが何度も変更することを引き起こしうる。これは'読み出し混乱'(英: disturb)として知られている。",
"title": "制約"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "多くのフラッシュ集積回路はボールグリッドアレイ(英語: ball grid array)の梱包として出荷され、そしてそうでないものはしばしば他のBGAの梱包の次のPCBにおいてマウントされる。BGAの梱包として搭載される、後者のPCBアセンブリ(英語: PCB Assembly)は、もしそのボールがその専用のパッドに専ら接続させるものであれば、またはもしそのBGAがやり直し(英語版)を必要とするならば、しばしばX線を当てられる。これらのX線はフラッシュチップ内のプログラムされたビットらを消しうる(プログラムされた\"0\"のビットは消された\"1\"ビットとなる)。消されるビット(\"1\"のビット)はX線の影響を受けない。",
"title": "制約"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "幾つかの製造業者は現在X線防御SDとUSBメモリ装置を製造している。",
"title": "制約"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "フローティングゲートに充電した電子によって情報を記憶するという構造のために、書き込まれたデータの保持期間は有限である。メーカーの公称値では、書き換えによって劣化していない状態(書き換え限度の10%以下)で3年以下(TLC/QLC)・5年(MLC)・10年(SLC)、書き換え限度まで達した状態から1年となっている。これは環境の影響を受け、高温や放射線のあたる環境下においてはソフトエラー(英語版)が発生して保持期間は通常よりも短くなる(条件次第では使用不能もありうる)。",
"title": "保持期間"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "NOR型であれば一般に20年程度の保持期間を持ち、BIOSなどのファームウェアに使われている。ただし初期のフラッシュメモリ製品は既に20年以上が経過しており、保持期間が有限であることに変わりは無い。なお、これらの保持期間は最後に書き込んで以降の時間を示す。",
"title": "保持期間"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "フラッシュメモリの記憶素子は、動作原理上絶縁体となる酸化膜が貫通する電子によって劣化するため消去・書き込み可能回数が限られており、記憶素子単体の書き換え寿命は短命なものではQLCが数十回程度、TLCが数百回程度でそれぞれ限界、長くてもMLCの場合で数千回程度、SLCの場合で数万回程度である。NOR型よりもNAND型の方が劣化が激しい。この記憶素子をそのまま記憶装置として使う場合、書き込みが特定ブロックに偏るため、未使用の記憶素子がある一方で特定の記憶素子だけが劣化によって寿命が尽きるという状況が発生する。現状の製品では、書き込みの偏り対策としてコントローラを搭載して消去・書き込みが特定ブロックに集中しないようにウェアレベリングをしている。これにより書き換え寿命は論理的には伸びる。正確な計算方法はメーカーによって複数あり、例えば製品の最大容量と書き換え可能な領域等によって寿命は変わってくる。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "書き込み可能回数を超えると、ストレージとして認識することができなくなったり、正常な記録ができなくなったり、正常に記録することができたとしても記録内容を維持することができず、記録した内容が壊れたり消えてしまったりする確率が上昇する。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "Intelの研究によれば、63nmから72nmのプロセスルールで製造されたMLC(2bit/セル)方式NANDフラッシュメモリ8Gbitチップの場合、1万回の書き換えでエラーの起きる確率が1ビット当たり100万分の1から1000万分の1程度(即ち8Gbitならばエラーの起きるビットは平均1000から100ビット)である。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "フラッシュメモリは半導体製品であり、電子回路の構成部品として回路基板上に実装された形で製品化されているものが大半である。電子回路であるがゆえにフラッシュメモリそのものの故障以外に、電子回路の他の部品(コントローラチップなどフラッシュメモリ以外の実装部品も含む)の故障の影響で使用不能に陥ることもある。",
"title": "寿命"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "パソコン用デバイスとしてのフラッシュメモリは、当初ユーザーの操作で書き換え可能なBIOSを持ったマザーボードへの利用など表面に出ない用途だった。やがてUSBメモリなどによるフロッピーディスクの代替としての利用が始まり、書き換えに対する耐久性の向上(ハード的な技術向上やソフト的に書き換える部分を集中しないようにする工夫 - ウェアレベリング)、大容量化・低価格化・高速化が進み、徐々に大容量記憶装置としての役割を担うようになっていった。",
"title": "ハードディスクからの転換"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2004年には、小容量ながらパソコンに内蔵してハードディスク (HDD) 同様ドライブとして使用できるソリッドステートドライブ(SSD)が登場。自作派のユーザーたちに浸透していった。2006年には、HDDを搭載しないでSSDを搭載するメーカー製小型ノートパソコンが登場した。2007年発売の『Windows Vista』からは、USBメモリをHDDのキャッシュメモリとして使用するWindows ReadyBoost機能、2009年発売の『Windows 7』からはSSDはHDDとは別の種類のデバイスとしてサポートされるようになっている。",
"title": "ハードディスクからの転換"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ノートパソコンには機器の小型化および軽量化、省電力化、衝撃に対する強さが要求される。フラッシュメモリはハードディスクと比較してこれらの要素で優れており、さらに物理的な動作がないので静音化ができ、また高速にアクセスできるという利点も持つ。ただし低価格化が進んだとは言え、容量単価の点では依然としてハードディスクが有利であり、フラッシュメモリ搭載ノートパソコンはハードディスク搭載モデルと比較して割高な価格設定になりやすいが、2019年現在、その物理的に可動部が無いことによる耐衝撃性とHDDに比べ圧倒的な速度性能を考慮すれば、十分考慮できる価格帯まで落ち着いている。",
"title": "ハードディスクからの転換"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "過去の経緯により、一般的にNOR型はSRAMインターフェース (搭載bit数が増えるとアドレスバス幅が増えていく)、NAND型はDRAMインターフェース (アドレスを複数回に時間分解するマルチプレクスを行う)である。また、組み込みシステム等の分野では、I2C等のシリアルバスを採用した素子(『シリアルフラッシュメモリ』と称されることもある)も用いられている。",
"title": "インタフェース"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "主としてNAND型で補助記憶装置としてパッケージされている商品の例を挙げる。これらのような商品の他に、Fusion-io(現在はサンディスク傘下)のioDriveのように、フラッシュメモリの性能を最大限に発揮するようデザインされた製品などもある。",
"title": "商品パッケージ"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2005年あたりまで、フラッシュメモリはハードディスクや光ディスクの容量単価とは比べ物にならないほど高額であり、この点がユーザーにとって大きな欠点であった。しかし、2006年頃になると、フラッシュメモリの価格が大幅にかつ急速に下落してゆき、価格的な欠点は段々と和らいでいった。これは、フラッシュメモリ製造会社が一斉に増産したためであった。それでもなお、フラッシュメモリの容量単価はハードディスクや光ディスクを抜き去るほどには低下していない。",
"title": "容量単価およびメーカーへの影響"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "この急激な価格低下はフラッシュメモリ製造メーカーの経営に大きな打撃をもたらし、大手の東芝メモリ(現・キオクシア)も打撃を受けていると報じられた。また、フラッシュメモリ専業大手のスパンションは、価格下落と世界的な景気の低迷の影響もあって採算が悪化、会社更生法の適用を申請した。",
"title": "容量単価およびメーカーへの影響"
}
] | フラッシュメモリは、浮遊ゲートMOSFETと呼ばれる半導体素子を利用し、浮遊ゲートに電子を蓄えることによってデータ記録を行う不揮発性メモリである。東芝の舛岡富士雄が発明した。データを消去する際に、ビット単位ではなくブロック単位でまとめて消去する方式を採ることにより、構造が簡素化し、価格が低下したため、不揮発性半導体メモリが爆発的に普及するきっかけとなった。消去を「ぱっと一括して」行う特徴から、写真のフラッシュをイメージしてフラッシュメモリと命名された。 | [[ファイル:USB flash drive.JPG|サムネイル|USBメモリの内部。基板上の最も大きな[[チップセット|チップ]](黒い大きな四角形の部品)がフラッシュメモリである。その隣の2番目に大きなチップはマイクロコントローラーである。]]
'''フラッシュメモリ'''({{lang-en-short|Flash Memory}})は、[[浮遊ゲートMOSFET]]と呼ばれる[[半導体素子]]を利用し、浮遊ゲートに[[電子]]を蓄えることによって[[データ]]記録を行う[[不揮発性メモリ]]である。[[東芝]]の[[舛岡富士雄]]が発明した<ref>{{Cite web|和書|title=世紀の発明「フラッシュメモリーを作った日本人」の無念と栄光(週刊現代) @gendai_biz |url=https://gendai.media/articles/-/59572 |website=現代ビジネス |access-date=2022-05-31 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=残念な東芝で「フラッシュメモリーの父」は活かされなかった |url=https://diamond.jp/articles/-/129721 |website=ダイヤモンド・オンライン |date=2017-05-29 |access-date=2022-05-31 |language=ja}}</ref>。データを消去する際に、ビット単位ではなくブロック単位でまとめて消去する方式を採ることにより、構造が簡素化し、価格が低下したため、不揮発性半導体メモリが爆発的に普及するきっかけとなった。消去を「ぱっと一括して」行う特徴から、[[エレクトロニックフラッシュ|写真のフラッシュ]]をイメージしてフラッシュメモリと命名された<ref>http://www.takeda-foundation.jp/reports/pdf/ant0104.pdf</ref>。
==概要==
'''フラッシュEEPROM'''や'''フラッシュROM'''とも呼ばれている。各ビットの記憶セルの基本的な[[構造]]としてはある種の[[EEPROM]]であるが、複数ビットから成るブロック内で「押し流す」ようなメカニズムと<ref group="注">構造からは「押し流す」=flushという感じだが、公称はflashである。</ref>、読み書き可能な単位(ブロックサイズは数キロバイトから数十キロバイト)と速度が扱いやすい程度であることが特徴である。浮遊ゲートとシリコン基板間の[[ゲート絶縁膜]]が極めて薄くなっている。
==種別==
===NAND型とNOR型===
主要な種別は[[NAND型フラッシュメモリ]]と[[NOR型フラッシュメモリ]]の2種である。それぞれの基本的な特徴は次の通り。
====NAND型====
{{main|NAND型フラッシュメモリ}}
* ランダムアクセス読み出しの単位は1ブロック
* NOR型に比べて読み出しは低速
* NOR型に比べて書き込みは高速
* NOR型に比べて高集積化に有利
====NOR型====
{{main|NOR型フラッシュメモリ}}
* ランダムアクセス読み出しの単位はバイト
* NAND型に比べて読み出しは高速
* NAND型に比べて書き込みは低速
* NAND型に比べて高集積化に不利
====応用分野等====
書き込みがブロック単位であることはどちらも共通である。歴史的には、最初のフラッシュメモリとして発明されたのはNOR型で、続いてNAND型が発明された。いずれの発明も当時[[東芝]]の[[舛岡富士雄]]による。普及については主として[[インテル]]によりNOR型が先行して市場に広がった。現在の大手メーカーは、NAND型が[[キオクシア]]と[[サンディスク]]と[[サムスン電子|サムスン]]、NOR型が[[マイクロン・テクノロジ|マイクロン]]と[[スパンション]]が挙げられる。
NOR型は、[[マイクロコンピュータ|マイコン]]応用機器のシステムメモリに適しており、従来から使用されていたROMを置き換えた。ROMの交換で行われていた[[ファームウェア]]の更新も、製品の筐体を開けることなく容易に行えるようになっている。
NAND型は、[[補助記憶装置|データストレージ]]用に適している。[[携帯電話]]、[[デジタルカメラ]]、[[デジタルオーディオプレーヤー]]などの[[電子媒体|記憶媒体]]として広く普及しており、それによって価格も低下している。
{{Gallery|title=NAND型とNOR型の違い|width=384|height=288|lines=3
|1=File:Nand_flash_structure.svg|2={{ubl|[[NAND型フラッシュメモリ]]|ページ数分の[[セル]]が直列に接続されている。}}
|3=File:NOR_flash_layout.svg|4={{ubl|[[NOR型フラッシュメモリ]]|全ての[[セル]]がビット線とソース線に接続されている。}}
|footer=}}
===SLCとMLC===
初期のフラッシュメモリは、1セルあたりの[[ビット]]数が1ビットであったため、大容量化すると[[ダイ]]のサイズが大きくなり、歩留まりも低下した。そこで1セルあたりのビット数を増やす為、フローティングゲートに入れる[[電子]]の数を制御し、また読み出し時には「ゲートに入った電荷に依存してゲート下へ電流を流すための電圧が変わる(Vthが変わる)現象」を利用することで、1セルあたり4段階の電圧レベルを用いて2ビットの容量を実現した物が考案され、これをマルチレベルセル(MLC)と呼ぶ。従来の1セルあたり1ビットのものは、シングルレベルセル(SLC)と呼ぶようになった([[レトロニム]])。セル数が同じ場合、1セルあたり2ビットのMLCはSLCの2倍の容量になる。3ビットならばSLCの3倍になり、4ビットならばSLCの4倍になる。業界の慣例としてそれぞれトリプルレベルセル(TLC)、クアドラプルレベルセル(QLC)と呼ばれている(ただしTLCの電圧レベルは8段階なので、3段階ではない)。
SLCの優位な点は速度・書き換え可能回数の面である。これはVthの多段判定が不要などによる。MLC・TLCは書き換え回数を経るにつれ中間の2値の差が小さくなり、ここでの誤りがエラーの原因になる。MLC・TLCの優位な点は大容量化である。2022年現在では各社から大容量のSSDが低価格で販売されており、HDDからの完全な換装もその速度を考えれば十分値段に見合うものになっている。
* SLC (Single Level Cell):1個のメモリセルに1ビットを記憶、セルトランジスタのしきい電圧は2段階(消去が1つ、書き込みが1つ)
* MLC (Multi Level Cell):1個のメモリセルに2ビットを記憶、セルトランジスタのしきい電圧は4段階(消去が1つ、書き込みが3つ)
* TLC (Triple Level Cell):1個のメモリセルに3ビットを記憶、セルトランジスタのしきい電圧は8段階(消去が1つ、書き込みが7つ)
* QLC (Quadruple Level Cell):1個のメモリセルに4ビットを記憶、セルトランジスタのしきい電圧は16段階(消去が1つ、書き込みが15)
; SLC型
SLC型は1つの記録素子に1ビットのデータを保持する。
蓄積電荷量の検出を "Hi/Low" の2値で判断するため、記録素子の劣化やノイズといった多少の蓄積電荷量のバラツキは問題とならない。
* 書き換え可能な上限回数が多い
* データ保持期間が比較的長い(5年から10年)
; MLC(多値NAND)
MLC型、TLC型、QLC型といった多値NANDは、蓄積電荷量の検出を"Hi/Low"だけでなく、2つの間にいくつかの中間値を設定して、4値や8値、16値といった多値で判断する。記録素子の劣化や[[ノイズ]]によって少しでも蓄積電荷量に変動が生じると、保持していたデータは誤りとなる。その場合、フラッシュメモリ回路やそれを制御するコントローラ内の誤り検出訂正回路によって自動的に正しいデータに修正される([[エラー訂正]])。一般的に多値NANDの記録素子は、エラー訂正機能との併用が必須となり、SLC型と比べ多くの冗長エリアが必要となる。またこれらのエラー状況を監視する事により、「メモリーブロック不良」が検出され、代替メモリーブロックに切り替えられる。
例えばMLC型はSLC型と比べて書き換え可能な回数とデータ保持期間で劣るが、1セルあたりの記憶容量が倍増(4値の場合)する。同じセル数(体積)であれば大容量化が、同じ容量ならば低価格化(少セル化・小型化)が可能となり、大容量フラッシュメモリを安価に提供することが可能となる。長期間の使用や高信頼性を求めず、主に価格や小型化を重視する[[デジタルビデオカメラ]]や個人用PCなどの[[民生品|民生用途]]に用いられる。
===電源===
消去・書き込みのためにVppとして別電源が必要なもの(二電源系)と、単一電源で動作するもの(単電源系)がある。単電源系は[[チャージポンプ]]などの昇圧回路を内蔵している。最近では、低容量の[[Read Only Memory|ROM]]等には3.3V単電源のもの、携帯電話の[[Read Only Memory|ROM]]用途には1.8V単電源またはCore 1.8V・I/O 3.3Vのものが多く使われている。(書き込まれたデータの保持期間は有限である。)
==構造図==
{{Gallery|title=フラッシュメモリのセルの構造|width=384|height=288|lines=5
|1=File:Flash-Programming.svg|2={{ubl|書き込み時|ソースをGNDに接続して、ドレインとゲートに高電圧を印加する。|[[衝突電離|ホットエレクトロン]]はソース側から浮遊ゲートと基板間の[[ゲート絶縁膜]]をすり抜けて浮遊ゲートに留まる。([[トンネル効果]])}}
|3=File:Flash_erase.svg|4={{ubl|消去時|ソースを開回路状態に、ドレインに高電圧を印加し、制御ゲートをGNDに接続する。|すると、浮遊ゲート内の[[電荷]]はドレイン側に引き抜かれる。}}
|footer=}}
== 制約 ==
=== ブロック消去 ===
フラッシュメモリの制約の一つは、[[ランダムアクセス]]において、ビット単位の書き換えができないことである。
=== メモリーウェア ===
別の制限は、フラッシュメモリが、(大抵PまたはEサイクルで書き込まれる)消去サイクルの{{snd}}プログラムの有限の(回)数をもっている、すなわちその回数には限りがあることである。最も商業的に利用されるフラッシュ製品は、記憶の完全な状態の品質低下が始まる前までに、おおよそ100,000のP/Eサイクルに耐えるよう保証されている。<ref>{{cite journal |url= http://www.snia.org/sites/default/files/SSSI_NAND_Reliability_White_Paper_0.pdf |title= NAND Flash Solid State Storage for the Enterprise, An In-depth Look at Reliability |date= April 2009 |access-date= 6 December 2011 |author= Jonathan Thatcher, Fusion-io; Tom Coughlin, Coughlin Associates; Jim Handy, Objective-Analysis; Neal Ekker, Texas Memory Systems |publisher= Solid State Storage Initiative (SSSI) of the Storage Network Industry Association (SNIA) |url-status= live |archiveurl= https://web.archive.org/web/20111014033413/http://snia.org/sites/default/files/SSSI_NAND_Reliability_White_Paper_0.pdf |archive-date= 14 October 2011}}</ref>
[[2012年]]12月に、{{日本語版にない記事リンク |マクロニックス |en |Macronix}}の台湾人の技術者らが彼らの2012年のIEEEの国際電子装置会議で発表する趣旨を開示した。その趣旨は、'自己治癒'({{lang-en-short|self-healing}})処理を使ってNANDフラッシュ記憶の読み込み/書き込みサイクルを10,000回から10億回へどの様に改善するかを説明するものである。その処理は、"記憶素子の小さなグループを焼き鈍しできる基盤搭載型加熱器"をもったフラッシュチップを使うものである。<ref>{{cite web |url=http://phys.org/news/2012-12-taiwan-defeat-limits-memory.html |title=Taiwan engineers defeat limits of flash memory |work=phys.org |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20160209010327/http://phys.org/news/2012-12-taiwan-defeat-limits-memory.html |archive-date=9 February 2016 |accessdate =2022-04-08}}</ref>少なくとも10億回の書き込みサイクルを与える、その組み込まれた熱的焼き鈍しは、通常の消去サイクルを、保存された充電を消すだけでなく、チップ内部の電子的に引き起こされたストレスを補修する、局部の高温度処理で置き換えるものだった。<ref>{{cite web |url=https://www.theregister.co.uk/2012/12/03/macronix_thermal_annealing_extends_life_of_flash_memory/ |title=Flash memory made immortal by fiery heat |work=theregister.co.uk |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20170913183926/https://www.theregister.co.uk/2012/12/03/macronix_thermal_annealing_extends_life_of_flash_memory/ |archive-date=13 September 2017 |accessdate =2022-04-08}}</ref><!-- 中略 -->将来有望なマクロニックスのブレークスルーはモバイル産業に有ったかも知れない、しかしながら、商業的な製品についての計画は無かった。<ref name="yahoo1">{{cite web|url=https://news.yahoo.com/flash-memory-breakthrough-could-lead-even-more-reliable-124049340.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20121221044513/http://news.yahoo.com/flash-memory-breakthrough-could-lead-even-more-reliable-124049340.html|url-status=dead|title=Flash memory breakthrough could lead to even more reliable data storage|archive-date=21 December 2012|website=news.yahoo.com |accessdate =2022-04-08}}</ref>
=== 読み出し混乱 ===
NANDフラッシュメモリーを読み出すのに用いられる方法は、(プログラム由来の)同じメモリブロック内での近くのセルが何度も変更することを引き起こしうる。これは'読み出し[[wikt:混乱|混乱]]'({{lang-en-short|[[wikt:disturb|disturb]]}})として知られている。
=== X線の影響 ===
多くのフラッシュ集積回路は{{日本語版にない記事リンク |ボールグリッドアレイ|en |ball grid array}}の梱包として出荷され、そしてそうでないものはしばしば他のBGAの梱包の次のPCBにおいてマウントされる。BGAの梱包として搭載される、後者の{{日本語版にない記事リンク|PCBアセンブリ|en|PCB Assembly}}は、もしそのボールがその専用のパッドに専ら接続させるものであれば、またはもしそのBGAが{{仮リンク|やり直し (電子工学)|en|rework (electronics)|label =やり直し}}を必要とするならば、しばしばX線を当てられる。これらのX線はフラッシュチップ内のプログラムされたビットらを消しうる(プログラムされた"0"のビットは消された"1"ビットとなる)。消されるビット("1"のビット)はX線の影響を受けない。<ref>
Richard Blish.
[http://www.spansion.com/Support/Application%20Notes/Dose_Minimization_Xray_Inspect_AN.pdf "Dose Minimization During X-ray Inspection of Surface-Mounted Flash ICs"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160220204227/http://www.spansion.com/Support/Application%20Notes/Dose_Minimization_Xray_Inspect_AN.pdf |date=20 February 2016 }}.
p. 1.
</ref><ref>
Richard Blish.
[http://www.spansion.com/Support/Application%20Notes/X-ray_inspection_on_flash_AN.pdf "Impact of X-Ray Inspection on Spansion Flash Memory"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160304044211/http://www.spansion.com/Support/Application%20Notes/X-ray_inspection_on_flash_AN.pdf |date=4 March 2016 }}
</ref>
幾つかの製造業者は現在X線防御SD<ref>{{cite web |url= https://www.sandisk.com/home/memory-cards/sd-cards/extremepro-sd-uhs-i |title= SanDisk Extreme PRO SDHC/SDXC UHS-I Memory Card |access-date= 2016-02-03 |url-status= live |archive-url= https://web.archive.org/web/20160127214859/https://www.sandisk.com/home/memory-cards/sd-cards/extremepro-sd-uhs-i |archive-date= 27 January 2016}}</ref>とUSB<ref>{{cite web |url= http://www.samsung.com/us/computer/memory-storage-accessories/MUF-32BB/AM |title= Samsung 32GB USB 3.0 Flash Drive FIT MUF-32BB/AM |access-date= 2016-02-03 |url-status= live |archive-url= https://web.archive.org/web/20160203145010/http://www.samsung.com/us/computer/memory-storage-accessories/MUF-32BB/AM |archive-date= 3 February 2016}}</ref>メモリ装置を製造している。
==保持期間==
フローティングゲートに充電した電子によって情報を記憶するという構造のために、書き込まれたデータの保持期間は有限である。メーカーの公称値では、書き換えによって劣化していない状態(書き換え限度の10%以下)で3年以下(TLC/QLC)・5年(MLC)・10年(SLC)、書き換え限度まで達した状態から1年となっている<ref>[http://pc.nikkeibp.co.jp/article/knowhow/20100917/1027542/ (3)【フラッシュメモリー編】 長期間放置するとセル内の情報が消える《データ消失の謎》] - PC Online</ref><ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/semicon/390925.html 【福田昭のセミコン業界最前線】 NANDフラッシュメモリの信頼性を保つ技術] - PC Watch</ref><ref>[https://xtech.nikkei.com/it/atcl/column/15/040700060/041700004/?P=3 (3/5)100年持たせるデータ保存術 - 【フラッシュメモリー】長期間の放置でデータが消える] - ITpro</ref>。これは環境の影響を受け、高温や放射線のあたる環境下においては{{仮リンク|ソフトエラー|en|Soft error}}が発生<ref>[https://news.mynavi.jp/techplus/article/20081217-iedm2008flashmemory/ IEDM 2008 - フラッシュメモリにも中性子線ソフトエラーが発生]</ref>して保持期間は通常よりも短くなる(条件次第では使用不能もありうる)。
NOR型であれば一般に20年程度の保持期間を持ち<ref name="cypress">{{Cite web|url=https://community.cypress.com/docs/DOC-14333|title=NOR FLASH FAQS - KBA222273 - Cypress Developer Community|publisher=[[サイプレス・セミコンダクター|サイプレス]]|date=2018-03-26|accessdate=2018-06-07}}</ref>、BIOSなどのファームウェアに使われている。ただし初期のフラッシュメモリ製品は既に20年以上が経過しており、保持期間が有限であることに変わりは無い。なお、これらの保持期間は最後に書き込んで以降の時間を示す<ref name="cypress" />。
==寿命==
フラッシュメモリの記憶素子は、動作原理上[[絶縁体]]となる酸化膜が貫通する[[電子]]によって劣化するため消去・書き込み可能回数が限られており、記憶素子単体の書き換え寿命は短命なものではQLCが数十回程度、TLCが数百回程度でそれぞれ限界、長くてもMLCの場合で数千回程度、SLCの場合で数万回程度である<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2007/1119/mct.htm |title=MemCon Tokyo 2007レポート(フラッシュメモリ編) |publisher=Impress Watch / PC Watch |accessdate=2013年3月5日}}</ref><ref group="注">製品やメーカーによってはメモリセル単体の寿命を1万回や10万回程度の保証としている(SPANSION社のフラッシュメモリデータシートによる)</ref>。NOR型よりもNAND型の方が劣化が激しい。この記憶素子をそのまま記憶装置として使う場合、書き込みが特定ブロックに偏るため、未使用の記憶素子がある一方で特定の記憶素子だけが劣化によって寿命が尽きるという状況が発生する。現状の製品では、書き込みの偏り対策としてコントローラを搭載して消去・書き込みが特定ブロックに集中しないように[[ウェアレベリング]]をしている。これにより書き換え寿命は論理的には伸びる。正確な計算方法はメーカーによって複数あり、例えば製品の最大容量と書き換え可能な領域等によって寿命は変わってくる<ref>[http://h50146.www5.hp.com/lib/jp/ja/products/workstations/ssd_technical_white_paper.pdf SSDの耐久性] - Hewlett-Packard</ref>。
書き込み可能回数を超えると、ストレージとして認識することができなくなったり、正常な記録ができなくなったり、正常に記録することができたとしても記録内容を維持することができず、記録した内容が壊れたり消えてしまったりする確率が上昇する<ref>寿命を迎えたフラッシュメモリのレポート - [http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080204_usb_memory_life/ USBメモリの書き換え限界寿命が来ると何が起きるのか、実際に寿命が来たケースをレポート] - GIGAZINE</ref>。
Intelの研究によれば、63nmから72nmのプロセスルールで製造されたMLC(2bit/セル)方式NANDフラッシュメモリ8Gbitチップの場合、1万回の書き換えでエラーの起きる確率が1ビット当たり100万分の1から1000万分の1程度(即ち8Gbitならばエラーの起きるビットは平均1000から100ビット)である<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2008/0507/irps04.htm IntelとMicronがマルチレベルNANDフラッシュの不良を解析] - PC Watch</ref>。
フラッシュメモリは半導体製品であり、[[電子回路]]の構成部品として回路基板上に実装された形で製品化されているものが大半である。電子回路であるがゆえにフラッシュメモリそのものの故障以外に、電子回路の他の部品(コントローラチップなどフラッシュメモリ以外の実装部品も含む)の故障の影響で使用不能に陥ることもある。
==ハードディスクからの転換==
{{main|ソリッドステートドライブ}}
パソコン用[[デバイス]]としてのフラッシュメモリは、当初ユーザーの操作で書き換え可能な[[Basic Input/Output System|BIOS]]を持った[[マザーボード]]への利用など表面に出ない用途だった。やがて[[USBフラッシュドライブ|USBメモリ]]などによる[[フロッピーディスク]]の代替としての利用が始まり、書き換えに対する耐久性の向上(ハード的な技術向上やソフト的に書き換える部分を集中しないようにする工夫 - [[ウェアレベリング]])、大容量化・低価格化・高速化が進み、徐々に大容量記憶装置としての役割を担うようになっていった。
[[2004年]]には、小容量ながらパソコンに内蔵してハードディスク (HDD) 同様ドライブとして使用できる'''[[ソリッドステートドライブ]](SSD)'''が登場。自作派のユーザーたちに浸透していった。[[2006年]]には、HDDを搭載しないでSSDを搭載するメーカー製小型[[ノートパソコン]]が登場した。[[2007年]]発売の『[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]』からは、USBメモリをHDDの[[キャッシュメモリ]]として使用する[[Windows ReadyBoost]]機能、[[2009年]]発売の『[[Microsoft Windows 7|Windows 7]]』からはSSDはHDDとは別の種類のデバイスとしてサポートされるようになっている。
ノートパソコンには機器の小型化および軽量化、省電力化、衝撃に対する強さが要求される。フラッシュメモリはハードディスクと比較してこれらの要素で優れており、さらに物理的な動作がないので静音化ができ、また高速にアクセスできるという利点も持つ。ただし低価格化が進んだとは言え、容量単価の点では依然としてハードディスクが有利であり、フラッシュメモリ搭載ノートパソコンはハードディスク搭載モデルと比較して割高な価格設定になりやすいが、2019年現在、その物理的に可動部が無いことによる耐衝撃性とHDDに比べ圧倒的な速度性能を考慮すれば、十分考慮できる価格帯まで落ち着いている。
==インタフェース==
過去の経緯により、一般的にNOR型は[[スタティックランダムアクセスメモリ|SRAM]]インターフェース (搭載bit数が増えるとアドレスバス幅が増えていく)、NAND型は[[ダイナミックランダムアクセスメモリ|DRAM]]インターフェース (アドレスを複数回に時間分解するマルチプレクスを行う)である。また、[[組み込みシステム]]等の分野では、[[I²C]]等のシリアルバスを採用した素子(『シリアルフラッシュメモリ』と称されることもある)も用いられている。
==商品パッケージ==
主としてNAND型で[[補助記憶装置]]としてパッケージされている商品の例を挙げる。これらのような商品の他に、[[Fusion-io]](現在は[[サンディスク]]傘下)の[[IO Accelerator|ioDrive]]のように、フラッシュメモリの性能を最大限に発揮するようデザインされた製品などもある。
*フラッシュATAメモリーカード<ref>[https://www.weblio.jp/content/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5ATA%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89 フラッシュATAメモリーカード] - [[Weblio辞書]]</ref>
*[[USBフラッシュドライブ|USBメモリ]]
*[[メモリーカード]]
**[[SDメモリーカード]]
**[[メモリースティック]]
**[[スマートメディア]]
**[[xDピクチャーカード]]
**[[コンパクトフラッシュ]]
**[[PlayStation Vita]]専用メモリーカード
*[[ソリッドステートドライブ]]
==容量単価およびメーカーへの影響==
2005年あたりまで、フラッシュメモリはハードディスクや[[光ディスク]]の容量単価とは比べ物にならないほど高額であり、この点がユーザーにとって大きな欠点であった。しかし、2006年頃になると、フラッシュメモリの価格が大幅にかつ急速に下落してゆき、価格的な欠点は段々と和らいでいった。これは、フラッシュメモリ製造会社が一斉に増産したためであった。それでもなお、フラッシュメモリの容量単価はハードディスクや光ディスクを抜き去るほどには低下していない<ref>[http://allabout.co.jp/computer/digitalcamera/closeup/CU20060513A/ メモリーカードの価格が大暴落中!] - All About</ref>。
この急激な価格低下はフラッシュメモリ製造メーカーの経営に大きな打撃をもたらし、大手の東芝メモリ(現・[[キオクシア]])も打撃を受けていると報じられた<ref>[https://web.archive.org/web/20080922025413/http://www.47news.jp/CN/200809/CN2008091901000832.html 東芝、300億円の営業赤字に 08年中間決算] - 47news</ref><ref>[https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20080919/158249/ 東芝,NANDフラッシュ・メモリの赤字は通期で390億円] - 日経BP TechOn</ref>。また、フラッシュメモリ専業大手の[[スパンション]]は、価格下落と世界的な景気の低迷の影響もあって採算が悪化、[[会社更生法]]の適用を申請した<ref>[http://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/2921.html フラッシュメモリー製造 米国NASDAQ上場Spansion Inc.子会社 Spansion Japan株式会社 会社更生法の適用を申請 負債741億円] - 帝国データバンク</ref>。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
<references />
==参考文献==
*{{Cite book|和書|editor=舛岡富士雄|editor-link=舛岡富士雄|title=フラッシュメモリ技術ハンドブック|url=http://www.science-forum.co.jp/podbooks/0174.htm|date=1993-08|publisher=[[サイエンスフォーラム]]}}
==関連項目==
*[[東芝]]
*[[舛岡富士雄]]
*[[NAND型フラッシュメモリ]]
*[[NOR型フラッシュメモリ]]
*[[USBフラッシュドライブ]](USBメモリ)
*[[ウェアレベリング]]
*[[EEPROM]]
==外部リンク==
*[https://www.toshiba.co.jp/worldwide/index.html Toshiba : Global Top Page] {{En icon}}
{{半導体メモリ}}
{{補助記憶装置}}
{{コンピュータの構成要素}}
{{Normdaten}}
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[[Category:不揮発性メモリ]]
[[Category:日本の発明]]
[[Category:東芝]] | 2003-03-12T04:20:13Z | 2023-10-25T04:28:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%83%AA |
3,850 | シロップ | シロップ(果蜜、オランダ語: siroop [siˈroːp]、英語: syrup [ˈsɪɹəp, ˈsiːɹəp, ˈsɝəp]、 フランス語: sirop [siʁo])は、濃厚な糖液の総称で、しばしば粘稠性を伴う。
語源はアラビア語で「飲み物、ジュース」を意味する「シャラーブ」(شراب; sharāb)とこれを基にしたラテン語の「シロプス」(siropus)に由来している。シラップとも音訳される。舎利別(しゃりべつ)と当て字されることがある。
日本ではイタヤカエデからの樹液の採取が行われ、特にアイヌの人々はこれを珍重した。北海道では1885年(明治18年)に岩手県からの入植者によりカエデ糖の採取も行われた。青森県十和田ではイタヤカエデからの糖蜜の製造が行われている。
北米のカナダや五大湖周辺の地域では入植者によってサトウカエデの樹液からカエデ糖を採取するようになったが、アメリカインディアンが樹液を煮詰めて糖を取っていたのをならったものといわれている。当初はカエデ糖の生産が主力だったが、19世紀後半にサトウキビを原料とする廉価な砂糖が大量に出回ったため、メープルシロップの生産に移行していった。
砂糖を同量程度の水に溶かして、とろみが出るまで熱したものが一般的である。粘性の高さは糖に含まれるヒドロキシ基(-OH)と水の間の水素結合に起因する。工業的には、水に砂糖を溶かし、煮詰めて製造するが、香料などを加えるものと加えないものがある。水に溶かした砂糖のほかに、天然の蜜や果汁を煮詰めたもの、砂糖液にアラビアガムを加えて煮てより粘稠性を増したガムシロップのようなものもある。
フルーツシロップは、もともと果実の搾り汁を加えて果物の香りや色調を与えていたが、近現代では人工着色料や香料を加えることが多くなった。かき氷や清涼飲料水の味付けなどに用いられる。
シロップ剤は溶解すると力価や効力の低減などの問題が生じる薬剤を液状の剤形にした内服薬をいう。 | [
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] | シロップは、濃厚な糖液の総称で、しばしば粘稠性を伴う。 語源はアラビア語で「飲み物、ジュース」を意味する「シャラーブ」とこれを基にしたラテン語の「シロプス」(siropus)に由来している。シラップとも音訳される。舎利別(しゃりべつ)と当て字されることがある。 | {{otheruses}}
'''シロップ'''(果蜜<ref>[[松村明]]編 「シロップ」『大辞林 4.0』 [[三省堂]]、2019年。</ref>、{{lang-nl|siroop}} {{IPA-nl|siˈroːp|}}、{{lang-en|syrup}} {{IPA-en|ˈsɪɹəp, ˈsiːɹəp, ˈsɝəp|}}、 {{lang-fr|sirop}} {{IPA-fr|siʁo|}})は、濃厚な糖液の[[総称]]で、しばしば粘稠性を伴う。
語源は[[アラビア語]]で「飲み物、[[ジュース]]」を意味する「シャラーブ」({{lang|ar|شراب}}; {{unicode|''sharāb''}})とこれを基にした[[ラテン語]]の「シロプス」(siropus)に由来している。'''シラップ'''とも音訳される。'''舎利別'''(しゃりべつ)と[[当て字]]されることがある。
== 歴史 ==
[[日本]]では[[イタヤカエデ]]からの樹液の採取が行われ、特に[[アイヌ]]の人々はこれを珍重した<ref name="takeda">{{Cite journal|和書|author=[[武田淳]], [[李慶喆]], スィルワ サーリエ ディ |title=樹液飲用の文化誌: 伝統的利用と技術 予報 |journal=[[佐賀大学]]農学部彙報 |issn=05812801 |publisher=佐賀大学農学部 |year=2002 |month=dec |issue=87 |pages=37-51 |naid=110000452508 |url=http://id.nii.ac.jp/1730/00017881/}}</ref>。北海道では1885年(明治18年)に岩手県からの入植者によりカエデ糖の採取も行われた<ref name="takeda" />。青森県[[十和田]]ではイタヤカエデからの[[糖蜜]]の製造が行われている<ref name="takeda" />。
北米の[[カナダ]]や[[五大湖]]周辺の地域では入植者によって[[サトウカエデ]]の樹液からカエデ糖を採取するようになったが、[[アメリカインディアン]]が樹液を煮詰めて糖を取っていたのをならったものといわれている<ref name="takeda" />。当初はカエデ糖の生産が主力だったが、19世紀後半に[[サトウキビ]]を原料とする廉価な砂糖が大量に出回ったため、[[メープルシロップ]]の生産に移行していった<ref name="takeda" />。
== 料理 ==
{{出典の明記|date=2021年1月|section=1}}
=== 調理法 ===
砂糖の温度変化では、103 - 105℃程度になると、砂糖は溶けて無色透明の液状になる<ref name="aff">{{Cite web|title=砂糖の種類|url= https://www.maff.go.jp/j/pr/aff/1611/pdf/1611_06.pdf|website=aff 2016年11月号(農林水産省)|accessdate=2023-10-30|page=13}}</ref>。これよりも高い107 - 115℃程度になると[[フォンダン]](糖衣などに利用)となる<ref name="aff" />。
工業的にはシロップは、水に砂糖を溶かし、煮詰めて製造するが、[[香料]]などを加えるものと加えないものがある。水に溶かした砂糖のほかに、天然の[[蜜]]や[[果汁]]を煮詰めたもの、砂糖液に[[アラビアガム]]を加えて煮てより粘稠性を増した[[ガムシロップ]]のようなものもある。
フルーツシロップは、もともと[[果実]]の搾り汁を加えて果物の[[香り]]や[[色調]]を与えていたが、[[近現代]]では[[人工着色料]]や香料を加えることが多くなった。[[かき氷]]や[[清涼飲料水]]の味付けなどに用いられる。
=== おもなシロップ ===
* [[チョコレート・シロップ]]
* [[コーヒーシロップ]]
* [[コーンシロップ]] - 主原料が[[コーンスターチ]]
* [[メープルシロップ]]
* [[シラカバ]]シロップ (birch syrop)
* [[デーツ]]シロップ
* [[アガベ]]シロップ
* [[リンゴ]]シロップ
* [[:en:Grape syrup]]
== シロップ剤 ==
[[シロップ剤]]は溶解すると力価や効力の低減などの問題が生じる薬剤を液状の剤形にした[[内服薬]]をいう<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pharm.or.jp/dictionary/wiki.cgi?%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%97%E5%89%A4|title=シロップ剤|publisher=公益社団法人日本薬学会|date=2007-12-12|accessdate=2021-01-17}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Syrups|Syrups}}
* [[糖蜜]]
* [[異性化糖|液糖]]
* [[リンクタス剤]] (Linctus) - 咳止めシロップ薬、[[鎮咳去痰薬]]
* [[かき氷]]
* [[鶏卵素麺]] - [[沸騰]]させたシロップに[[卵黄]]液を糸状に垂らして製造
* [[水飴]]
{{剤形}}{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しろつふ}}
[[Category:甘味料]]
[[Category:シロップ|*]]
[[Category:アラビア語からの借用語]]
[[Category:ラテン語起源の言葉]] | 2003-03-12T05:48:58Z | 2023-10-30T13:11:19Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%97 |
3,851 | 天皇の一覧 | 天皇の一覧(てんのうのいちらん)は、日本の歴代天皇及びその他の天皇の一覧である。
『皇統譜』に基づくかぎり、歴代天皇は、初代神武天皇から今上徳仁まで、126代が挙げられる。この126代のうち、第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の、第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の、それぞれ重祚(一度譲位した天皇が再び位に就くこと、再祚)であるため、総数は124人となっている。
ただし、南北朝時代に、北朝(京都)で即位した天皇のうち、後小松天皇を除く光厳天皇、光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇、及び後円融天皇の5代、5人は、明治時代に歴代天皇から除外されたため、この126代の天皇には数えられないものの、宮中祭祀等においては天皇として扱われる。このため、現在に至る天皇の総数は129人と数えられることもある。
また、皇統譜以外にも様々な皇室の系譜が過去に作成されており、様々な歴代天皇の数え方があった。例えば、後小松上皇の命令で編纂され、明治以前の一般的な皇室の系譜となった『本朝皇胤紹運録』では、後醍醐天皇を除く南朝天皇を天皇と認めずに北朝天皇を歴代天皇に数え、弘文天皇および仲恭天皇を歴代に数えず、神功皇后を歴代に数えている。
なお、「天皇」(てんのう(てんわう)、すめらみこと、すめろき)という名称は、7世紀後半に在位した第40代天武天皇の頃に、それまでの「大王」(おおきみ)に代わって用いられ始めたと考えられている。また冷泉天皇(在位967年–969年)以後、光格天皇(在位1779年-1817年)の時に諡号が復活するまで、安徳天皇と後醍醐天皇を例外として、天皇号は生前も崩御後も正式には用いられなかった。例えば後水尾天皇や明正天皇は崩御後「後水尾院」「明正院」と呼ばれ、これらを一律に「後水尾天皇」「明正天皇」とすべて置き換えたのは明治維新後のことである。
初代神武天皇から第25代武烈天皇までの実在性については、諸説ある。第二次世界大戦後の考古学及び歴史学においては、初期天皇は典拠が神話等であるとみなされ、その実在性は疑問視されている。しかしながら現代でも神武天皇、第10代崇神天皇、第15代応神天皇が特に研究対象として重視されている。
古代から第二次世界大戦中までは日本では神武天皇のみならず「欠史八代」も含めて実在したと考えられてきた(第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までは、『日本書紀』に事績等に関する記述がないため、欠史八代(闕史八代)と呼ばれる)。その後も実在性を唱える者は坂本太郎、田中卓、鳥越憲三郎、林房雄、古田武彦、森清人、安本美典、竹田恒泰などが存在する。
戦後になると神武天皇及び「欠史八代」の実在は疑問視されるようになった。また神武天皇と崇神天皇の尊号が同一(ただし漢字表記は別)であることから、崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとして、崇神天皇を実在可能性がある最初の天皇とする説が一般化した。70年代までは崇神~応神までの実在を否定的にみる説が優勢であったが、1978年に稲荷山鉄剣の銘文が新聞紙上でスクープになると銘文の「意富比垝」が、崇神朝に活躍した大毘古に同定されるとする説が出て、崇神天皇以降の実在性が高まった。
津田左右吉によって、4世紀後半から5世紀初めにかけて在位したと考えられる応神天皇が初代天皇とみなされ、それ以前の天皇の実在を否定する学説が提示され、第二次世界大戦後、歴史学の主流となった。これには倭の五王を記紀に伝えられる天皇と同一視する説が有力であり、この場合、中国の史書が該当する天皇の実在を傍証することになる(ただし倭の五王を具体的にどの天皇だと見るかは諸説ある)。なお、倭王武に比定される第21代雄略天皇に関しては稲荷山鉄剣銘文の「獲加多支鹵大王」を雄略天皇の名である「大泊瀬幼武」と解し、実在の証とする説がある。これ以前から雄略天皇の実在は有力視されていたが、この発見により考古学的に実在が証明される最古の天皇となった。
戦後の歴史学界では、『古事記』や『日本書紀』における6世紀以前の記述は、不正確な伝説であると解されていた。このため、6世紀前半に在位したと考えられる第26代継体天皇の実在は確実と考えられるものの、それ以前の天皇については、雄略天皇を別として、武烈天皇までは実在の可能性が薄いという見解がある。また継体天皇以前の天皇を実在とみなす学説であっても『日本書紀』の編年を事実とは認めないことがほとんどだが、継体天皇以降は書紀その他の史料に伝えられた在位年数などの数値はかなりの程度史実とみなされている(継体天皇の即位年について書紀を信頼するかは説が分かれる。また継体崩御から第29代欽明天皇の即位までの間の編年は伝承自体に諸説がある他、欽明天皇から第33代推古天皇までは記紀の間に最低1年~数年程度のズレもあるが、継体天皇以降はほぼ史料的価値が認められている)。
歴代天皇を確定するための基準が定まったのは、大正時代末期のことである。このとき示された基準によって、「歴代天皇は126代、124人」という2023年(令和5年)現在の歴代天皇の形が確定している。
歴代天皇の厳密な確定が要請されたのは、明治時代になってからである。明治時代には、天皇を中心とする中央集権国家体制の整備が進められ、1889年(明治22年)には、その根本規範として大日本帝国憲法が公布された。同憲法では、歴代の天皇を指す「皇祖・皇宗」が、天皇の地位の正当性(正統性)と、天皇が総攬する統治権の淵源として重視された(告文、憲法發布勅語、および上諭など)。このため、歴代天皇の在りようが論じられ、その確定が行われた。
歴代天皇の確定にあたっては、江戸時代に水戸藩で編纂された『大日本史』、およびその編纂過程で発展した水戸学、尊王論の考え方が大きな影響を与えた。これらの思想に基づいてあるべき歴代天皇の姿が論じられ、歴代天皇は確定した。なお、いくつかの観点から、それまでの歴代天皇(帝)から変更された部分もある。主な基準、観点、および変更点は次の通り。
明治時代まで歴代天皇に数えられていたものの、明治時代に南北朝正閏問題が政治問題になり、歴代天皇から除外された。ただし、明治天皇の配慮により、宮中祭祀などでは天皇として扱われている。その後、南朝正統は、歴史的事実からの乖離や論理的な誤りが指摘され現在では両朝並立が原則とされるが、依然として南朝正統に基づく歴代天皇代数は修正されていない。
薨去の後に天皇の尊号を諡された者である。崇道天皇を除き、薨後にその子が天皇に即位したことによる。
日本武尊と市辺押磐皇子の二人については、本人の薨去の後その息子が即位して天皇になっているため、上記の「追尊天皇」の先行形態とみる説がある。
歴史上、天皇を自称した人物。参考文献は『天皇家歴史大事典』(別冊歴史読本、新人物往来社、2000年)211頁以下、保阪正康『天皇が十九人いた』(角川文庫、2001年)14頁以下、中見利男『偽天皇事件に秘められた日本史の謎 (別冊宝島 2192)』(宝島社、2014年)108頁以下による。
(※これらのことは同時代史料では確認できず、初出は江戸時代以降) | [
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"text": "なお、「天皇」(てんのう(てんわう)、すめらみこと、すめろき)という名称は、7世紀後半に在位した第40代天武天皇の頃に、それまでの「大王」(おおきみ)に代わって用いられ始めたと考えられている。また冷泉天皇(在位967年–969年)以後、光格天皇(在位1779年-1817年)の時に諡号が復活するまで、安徳天皇と後醍醐天皇を例外として、天皇号は生前も崩御後も正式には用いられなかった。例えば後水尾天皇や明正天皇は崩御後「後水尾院」「明正院」と呼ばれ、これらを一律に「後水尾天皇」「明正天皇」とすべて置き換えたのは明治維新後のことである。",
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"text": "初代神武天皇から第25代武烈天皇までの実在性については、諸説ある。第二次世界大戦後の考古学及び歴史学においては、初期天皇は典拠が神話等であるとみなされ、その実在性は疑問視されている。しかしながら現代でも神武天皇、第10代崇神天皇、第15代応神天皇が特に研究対象として重視されている。",
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"text": "古代から第二次世界大戦中までは日本では神武天皇のみならず「欠史八代」も含めて実在したと考えられてきた(第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までは、『日本書紀』に事績等に関する記述がないため、欠史八代(闕史八代)と呼ばれる)。その後も実在性を唱える者は坂本太郎、田中卓、鳥越憲三郎、林房雄、古田武彦、森清人、安本美典、竹田恒泰などが存在する。",
"title": "初期天皇の実在性"
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"text": "戦後になると神武天皇及び「欠史八代」の実在は疑問視されるようになった。また神武天皇と崇神天皇の尊号が同一(ただし漢字表記は別)であることから、崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとして、崇神天皇を実在可能性がある最初の天皇とする説が一般化した。70年代までは崇神~応神までの実在を否定的にみる説が優勢であったが、1978年に稲荷山鉄剣の銘文が新聞紙上でスクープになると銘文の「意富比垝」が、崇神朝に活躍した大毘古に同定されるとする説が出て、崇神天皇以降の実在性が高まった。",
"title": "初期天皇の実在性"
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"text": "津田左右吉によって、4世紀後半から5世紀初めにかけて在位したと考えられる応神天皇が初代天皇とみなされ、それ以前の天皇の実在を否定する学説が提示され、第二次世界大戦後、歴史学の主流となった。これには倭の五王を記紀に伝えられる天皇と同一視する説が有力であり、この場合、中国の史書が該当する天皇の実在を傍証することになる(ただし倭の五王を具体的にどの天皇だと見るかは諸説ある)。なお、倭王武に比定される第21代雄略天皇に関しては稲荷山鉄剣銘文の「獲加多支鹵大王」を雄略天皇の名である「大泊瀬幼武」と解し、実在の証とする説がある。これ以前から雄略天皇の実在は有力視されていたが、この発見により考古学的に実在が証明される最古の天皇となった。",
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"text": "戦後の歴史学界では、『古事記』や『日本書紀』における6世紀以前の記述は、不正確な伝説であると解されていた。このため、6世紀前半に在位したと考えられる第26代継体天皇の実在は確実と考えられるものの、それ以前の天皇については、雄略天皇を別として、武烈天皇までは実在の可能性が薄いという見解がある。また継体天皇以前の天皇を実在とみなす学説であっても『日本書紀』の編年を事実とは認めないことがほとんどだが、継体天皇以降は書紀その他の史料に伝えられた在位年数などの数値はかなりの程度史実とみなされている(継体天皇の即位年について書紀を信頼するかは説が分かれる。また継体崩御から第29代欽明天皇の即位までの間の編年は伝承自体に諸説がある他、欽明天皇から第33代推古天皇までは記紀の間に最低1年~数年程度のズレもあるが、継体天皇以降はほぼ史料的価値が認められている)。",
"title": "初期天皇の実在性"
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"text": "歴代天皇を確定するための基準が定まったのは、大正時代末期のことである。このとき示された基準によって、「歴代天皇は126代、124人」という2023年(令和5年)現在の歴代天皇の形が確定している。",
"title": "歴代天皇の確定"
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"text": "歴代天皇の厳密な確定が要請されたのは、明治時代になってからである。明治時代には、天皇を中心とする中央集権国家体制の整備が進められ、1889年(明治22年)には、その根本規範として大日本帝国憲法が公布された。同憲法では、歴代の天皇を指す「皇祖・皇宗」が、天皇の地位の正当性(正統性)と、天皇が総攬する統治権の淵源として重視された(告文、憲法發布勅語、および上諭など)。このため、歴代天皇の在りようが論じられ、その確定が行われた。",
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"text": "歴代天皇の確定にあたっては、江戸時代に水戸藩で編纂された『大日本史』、およびその編纂過程で発展した水戸学、尊王論の考え方が大きな影響を与えた。これらの思想に基づいてあるべき歴代天皇の姿が論じられ、歴代天皇は確定した。なお、いくつかの観点から、それまでの歴代天皇(帝)から変更された部分もある。主な基準、観点、および変更点は次の通り。",
"title": "歴代天皇の確定"
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"text": "明治時代まで歴代天皇に数えられていたものの、明治時代に南北朝正閏問題が政治問題になり、歴代天皇から除外された。ただし、明治天皇の配慮により、宮中祭祀などでは天皇として扱われている。その後、南朝正統は、歴史的事実からの乖離や論理的な誤りが指摘され現在では両朝並立が原則とされるが、依然として南朝正統に基づく歴代天皇代数は修正されていない。",
"title": "歴代外天皇(公式)"
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"text": "薨去の後に天皇の尊号を諡された者である。崇道天皇を除き、薨後にその子が天皇に即位したことによる。",
"title": "歴代外天皇(公式)"
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"text": "日本武尊と市辺押磐皇子の二人については、本人の薨去の後その息子が即位して天皇になっているため、上記の「追尊天皇」の先行形態とみる説がある。",
"title": "歴代外天皇(非公式)"
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"text": "歴史上、天皇を自称した人物。参考文献は『天皇家歴史大事典』(別冊歴史読本、新人物往来社、2000年)211頁以下、保阪正康『天皇が十九人いた』(角川文庫、2001年)14頁以下、中見利男『偽天皇事件に秘められた日本史の謎 (別冊宝島 2192)』(宝島社、2014年)108頁以下による。",
"title": "関連人物の一覧"
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"text": "(※これらのことは同時代史料では確認できず、初出は江戸時代以降)",
"title": "創作に登場する架空の天皇"
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] | 天皇の一覧(てんのうのいちらん)は、日本の歴代天皇及びその他の天皇の一覧である。 | '''天皇の一覧'''(てんのうのいちらん)は、[[日本]]の歴代[[天皇]]及びその他の天皇の一覧である。
== 概要 ==
『[[皇統譜]]』に基づくかぎり、歴代天皇は、初代[[神武天皇]]から今上[[徳仁]]まで、'''126代'''が挙げられる。この126代のうち、第37代[[斉明天皇]]は第35代[[斉明天皇|皇極天皇]]の、第48代[[孝謙天皇|称徳天皇]]は第46代[[孝謙天皇]]の、それぞれ[[重祚]](一度譲位した天皇が再び位に就くこと、再祚)であるため、総数は'''124人'''となっている。
ただし、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に、[[北朝 (日本)|北朝]]([[京都]])で即位した天皇のうち、[[後小松天皇]]を除く[[光厳天皇]]、[[光明天皇]]、[[崇光天皇]]、[[後光厳天皇]]、及び[[後円融天皇]]の5代、5人は、明治時代に歴代天皇から除外されたため、この126代の天皇には数えられないものの、[[宮中祭祀]]等においては天皇として扱われる。このため、現在に至る天皇の総数は'''129人'''と数えられることもある。
また、皇統譜以外にも様々な皇室の系譜が過去に作成されており、様々な歴代天皇の数え方があった。例えば、後小松上皇の命令で編纂され、[[明治]]以前の一般的な皇室の系譜となった『[[本朝皇胤紹運録]]』では、[[後醍醐天皇]]を除く[[南朝 (日本)|南朝]]天皇を天皇と認めずに北朝天皇を歴代天皇に数え、[[弘文天皇]]および[[仲恭天皇]]を歴代に数えず、[[神功皇后]]を歴代に数えている。
なお、「天皇」(てんのう(てんわう)、すめらみこと、すめろき)という名称は、[[7世紀]]後半に在位した第40代[[天武天皇]]の頃に、それまでの「[[大王 (ヤマト王権)|大王]]」(おおきみ)に代わって用いられ始めたと考えられている。また[[冷泉天皇]](在位967年–969年)以後、[[光格天皇]](在位1779年-1817年)の時に諡号が復活するまで、[[安徳天皇]]と[[後醍醐天皇]]を例外として、天皇号は生前も崩御後も正式には用いられなかった。例えば[[後水尾天皇]]や[[明正天皇]]は崩御後「後水尾院」「明正院」と呼ばれ、これらを一律に「後水尾天皇」「明正天皇」とすべて置き換えたのは[[明治維新]]後のことである<ref>渡辺浩『東アジアの王権と思想』東京大学出版会、1997年、7-8頁。</ref>。
== 初期天皇の実在性 ==
初代神武天皇から第25代[[武烈天皇]]までの実在性については、諸説ある。[[第二次世界大戦]]後の[[考古学]]及び[[歴史学]]においては、初期天皇は典拠が[[神話]]等であるとみなされ、その実在性は疑問視されている。しかしながら現代でも神武天皇、第10代[[崇神天皇]]、第15代[[応神天皇]]が特に研究対象として重視されている<ref group="注釈">歴代天皇の漢風諡号・追号に「神」の字を用いるのは、この3代3人のみである点も注目される。天皇ではないが、応神天皇の母である[[神功皇后]]も重要である。また「霊(靈)」の字を用いるのは初期では第7代[[孝霊天皇]]のみであり、和風諡号に「神」の字を用いるのは神日本磐余彦天皇(神武天皇)、第2代神渟名川耳天皇([[綏靖天皇]])の2人である。</ref>。
=== 初代神武天皇以降を実在とする説 ===
古代から[[第二次世界大戦]]中までは日本では神武天皇のみならず「[[欠史八代]]」も含めて実在したと考えられてきた(第2代[[綏靖天皇]]から第9代[[開化天皇]]までは、『[[日本書紀]]』に事績等に関する記述がないため、[[欠史八代]](闕史八代)と呼ばれる)。その後も実在性を唱える者は[[坂本太郎_(歴史学者)|坂本太郎]]、[[田中卓]]、[[鳥越憲三郎]]、[[林房雄]]、[[古田武彦]]<ref group="注釈">ただし神武天皇の[[大和朝廷]]を[[九州]]の[[邪馬台国]]の分家であると主張している。</ref>、[[森清人]]<ref>森清人『神武天皇実在論』1968年、日本教文社</ref>、[[安本美典]]、[[竹田恒泰]]などが存在する。
=== 第10代崇神天皇以降を実在とする説 ===
[[戦後]]になると神武天皇及び「欠史八代」の実在は疑問視されるようになった。また神武天皇と崇神天皇の尊号が同一(ただし漢字表記は別)であることから、崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとして、崇神天皇を実在可能性がある最初の天皇とする説が一般化した。70年代までは崇神~応神までの実在を否定的にみる説が優勢であったが、[[1978年]]に[[稲荷山古墳出土鉄剣|稲荷山鉄剣]]の銘文が新聞紙上でスクープになると銘文の「意富比垝」が、崇神朝に活躍した[[大彦命|大毘古]]に同定されるとする説が出て、崇神天皇以降の実在性が高まった。
=== 第15代応神天皇以降を実在とする説 ===
[[津田左右吉]]によって、[[4世紀]]後半から[[5世紀]]初めにかけて在位したと考えられる応神天皇が初代天皇とみなされ、それ以前の天皇の実在を否定する学説が提示され、[[第二次世界大戦]]後、歴史学の主流となった。これには[[倭の五王]]を記紀に伝えられる天皇と同一視する説が有力であり、この場合、中国の史書が該当する天皇の実在を傍証することになる(ただし倭の五王を具体的にどの天皇だと見るかは諸説ある)。なお、[[武 (倭王)|倭王武]]に比定される第21代[[雄略天皇]]に関しては[[稲荷山古墳出土鉄剣|稲荷山鉄剣]]銘文の「獲加多支鹵大王」を雄略天皇の名である「大泊瀬幼武」と解し、実在の証とする説がある。これ以前から雄略天皇の実在は有力視されていたが、この発見により考古学的に実在が証明される最古の天皇となった。
=== 第26代継体天皇以降を実在とする説 ===
[[戦後]]の歴史学界では、『[[古事記]]』や『日本書紀』における[[6世紀]]以前の記述は、不正確な伝説であると解されていた。このため、6世紀前半に在位したと考えられる第26代[[継体天皇]]の実在は確実と考えられるものの、それ以前の天皇については、雄略天皇を別として、武烈天皇までは実在の可能性が薄いという見解がある。また継体天皇以前の天皇を実在とみなす学説であっても『日本書紀』の編年を事実とは認めないことがほとんどだが、継体天皇以降は書紀その他の史料に伝えられた在位年数などの数値はかなりの程度史実とみなされている(継体天皇の即位年について書紀を信頼するかは説が分かれる。また継体崩御から第29代[[欽明天皇]]の即位までの間の編年は伝承自体に諸説がある他、欽明天皇から第33代[[推古天皇]]までは記紀の間に最低1年~数年程度のズレもあるが、継体天皇以降はほぼ史料的価値が認められている)。
== 歴代天皇の確定 ==
歴代天皇を確定するための基準が定まったのは、[[大正]]時代末期のことである。このとき示された基準によって、「歴代天皇は'''126代'''、'''124人'''」という2023年(令和5年)現在の歴代天皇の形が確定している。
歴代天皇の厳密な確定が要請されたのは、[[明治]]時代になってからである。明治時代には、天皇を中心とする中央集権国家体制の整備が進められ、[[1889年]](明治22年)には、その根本規範として[[大日本帝国憲法]]が公布された。同憲法では、歴代の天皇を指す「皇祖・皇宗」が、天皇の地位の正当性(正統性)と、天皇が総攬する統治権の淵源として重視された(告文、憲法發布勅語、および上諭など)。このため、歴代天皇の在りようが論じられ、その確定が行われた。
歴代天皇の確定にあたっては、[[江戸時代]]に[[水戸藩]]で編纂された『[[大日本史]]』、およびその編纂過程で発展した[[水戸学]]、[[尊王論]]の考え方が大きな影響を与えた。これらの思想に基づいてあるべき歴代天皇の姿が論じられ、歴代天皇は確定した。なお、いくつかの観点から、それまでの歴代天皇(帝)から変更された部分もある。主な基準、観点、および変更点は次の通り。
* 明治時代以前は、[[神功皇后]]を第15代の帝と数えた史書が多数あったが、歴代天皇から外された。『大日本史』が採った立場に基づくものである。この結果、第33代推古天皇が最初の女性天皇となった。
* 初代神武天皇から第62代[[村上天皇]]までは、崩御後の漢風[[諡|諡号・追号]]として「○○天皇」と呼ばれていたが、第63代[[冷泉天皇]]から第118代[[後桃園天皇]]までは、「○○院」(例:冷泉院)とのみ称された。(ただし、[[安徳天皇]]と[[後醍醐天皇]]を除く)。この「天皇」号が復活するのは第119代[[光格天皇]]の代からである。明治時代になり、すべての天皇を「○○天皇」と称するように改められ、以後、「○○院」という呼称は廃された<ref group="注釈">なお、第111代「後西院」を「[[後西天皇]]」と改めた点に関しては異論がある。第53代[[淳和天皇]]は譲位後[[淳和院]]に居住したが、その別名を西院といい、この天皇の異称が西院帝(さいのみかど)となった。後西院はその加後号であり、本来なら「後西院院」となるところ院の字が重複するのを避けたものと考えられている。したがって「後西院」の「院」は固有名詞の一部でありそれを機械的にのぞいて「後西」とするのは誤りではないかとするものである。ちなみにこの淳和院(西院)があった[[京都市]][[中京区]]には現在でも西院(さい)という地名が残っている。</ref>。
* [[壬申の乱]]で敗れた大友皇子は、天皇として数えられていなかったが、『[[大日本史]]』が「大友天皇」として歴代に列した。明治に入って、即位が確認されたということになり、[[1870年]](明治3年)に「[[弘文天皇]]」の諡号を追諡した。現在では非即位説が有力である。即位の是非をめぐる議論については、[[大友皇子即位説]]を参照されたい。
* 第47代「淡路廃帝」に対しては、[[1870年]](明治3年)に「[[淳仁天皇]]」の諡号を追諡した。
* [[承久の乱]]に敗れた「九条廃帝」は天皇に数えられてはいなかったが、[[1870年]](明治3年)に「[[仲恭天皇]]」の諡号を追諡した。
* [[1911年]](明治44年)には[[明治天皇]]の裁定により、[[南朝 (日本)|南朝]]の義良親王と熙成親王を正統な天皇と認め、これを[[後村上天皇]]と[[後亀山天皇]]とした<ref group="注釈">なお後亀山天皇の場合は室町幕府の強い意向もあり[[1394年]]に「太上天皇」の尊号が贈られていたが、当時はあくまでも正式な天皇ではなく[[守貞親王|後高倉院]]の先例に倣った不登極帝として扱われていた。</ref>。それまでは正統な歴代天皇として扱われていた[[光厳天皇]]・[[光明天皇]]・[[崇光天皇]]・[[後光厳天皇]]・[[後円融天皇]]の5代を[[北朝 (日本)|北朝の天皇]]として歴代天皇から外すとともに、[[後小松天皇]]の在位期間を[[1392年]](明徳3年)の[[南北朝合一]]以後のみとした。これも『大日本史』が採った立場に基づくものである。
* [[1926年]](大正15年)には[[大正天皇]](実質は[[摂政]]の[[皇太子]]裕仁親王(後の[[昭和天皇]]))の裁定で、南朝の寛成親王を「[[長慶天皇]]」とした。この寛成親王については、南朝を正統とした後も即位の是非について意見が分かれていたが、[[高野山]]に納められた願文に「太上天皇寛成」の[[宸筆]]署名があることなどの史料によってその即位が確認されたということになり、天皇としたものである。
== 歴代天皇一覧 ==
{{JIS2004|対象=節|説明=[[正字|正字体]]}}
=== 凡例 ===
* この表は、[[大正]]時代に歴代天皇として確定し、現在広く知られている「歴代天皇の一覧」である。[[宮内庁]]の公式サイトに掲載されている天皇一覧<ref name="keizu">[https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/keizu.html 構成 - 宮内庁]</ref>と同一である。
* 天皇名については、宮内庁公式サイト内の表記<ref name="keizu"/>と同一である。[[括弧#丸括弧()|丸括弧( )]]内の表記は、宮内庁サイト内の[[天皇陵]]紹介ページにおける表記<ref>[https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/001/index.html 神武天皇]から[https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/124/index.html 昭和天皇]までの124ページ。</ref>と同一であるが、JIS標準漢字([[JIS X 0208]])外の異体字が含まれているため、[[Unicode]]表のBMP([[基本多言語面]]、0面)が表示できるブラウザ環境でなければ正しく表示されない。
* 天皇名の読みについては、宮内庁サイト内の表記<ref name="keizu"/>と同一である。丸括弧( )内の表記は[[歴史的仮名遣]]に基づいた表記である。
* [[新暦]]([[グレゴリオ暦]])が施行された[[1873年]](明治6年)1月1日以前の日付については、各時代に用いられた[[旧暦]]の日付である(ただし6世紀以降の天皇の生没年・在位期間については、[[西暦]]に置き換えた年代を丸括弧( )内に掲載した)。享年は数え年、明治天皇以降は満年齢とした。<!--[[Wikipedia:年代の換算]]参照-->
* [[6世紀]]以前の天皇の生没年・在位期間については、『[[日本書紀]]』の記述を掲載した。[[継体天皇]]から[[崇峻天皇]]までは『日本書紀』に記された在位期間を'''機械的に西暦に置き換えた'''年代を丸括弧( )内に掲載した。
* 在位の欄には、第49代[[光仁天皇]]以前の天皇については[[即位]]の日付(天皇となった後、即位式が挙行された日)を示し、即位に先立って[[践祚]]した第50代[[桓武天皇]]以降の天皇については践祚の日付(天皇となった日)を示す。
* 備考欄に「女帝」とあるのは[[女性天皇]](女性天皇の詳細については当該記事を参照)。
=== 一覧表 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:70%;background:#ffffff;overflow:visible"
!scope="col" style="position:sticky; top:0" |代
<!--!scope="col" style="position:sticky; top:0" colspan=4|天皇名-->
!scope="col" style="position:sticky; top:0" |[[諡|漢風諡号]]/<br />追号
!scope="col" style="position:sticky; top:0" |読み
!scope="col" style="position:sticky; top:0" |[[諡|和風諡号]]/<br />[[御称号]]/<br />幼名/<br />別称
!scope="col" style="position:sticky; top:0" |[[諱]]
!scope="col" style="position:sticky; top:0" |画像
!scope="col" style="position:sticky; top:0" |諡号/追号の別/<br />由来
!scope="col" style="position:sticky; top:0" |在位期間<br /><small>(1872年以前は旧暦)</small>
!scope="col" style="position:sticky; top:0" |備考
!scope="col" style="position:sticky; top:0" |宮
!scope="col" style="position:sticky; top:0" |生年月日・崩御年月日<br />没年齢
|-
<!--
!scope="col" style="position:sticky; top:0" |[[諡|漢風諡号]]<br />追号
!scope="col" style="position:sticky; top:0" |読み
!scope="col" style="position:sticky; top:0" |[[諡|和風諡号]]<br />[[御称号]](幼名)<br />別称
!scope="col" style="position:sticky; top:0" |[[諱]]
-->
|-
|1||style="font-size:120%" |[[神武天皇|'''神武天皇'''<br />(神武天皇)]]||じんむ||神日本磐余彦天皇<br />狹野<br />(異称)始馭天下之天皇||彦火火出見<br />若御毛沼||[[ファイル:Tennō Jimmu image 01.jpg|70px]]||諡号<br />[[淡海三船]]による一括撰進||神武天皇元年[[1月1日_(旧暦)|1月1日]]<br /> - 同76年[[3月11日_(旧暦)|3月11日]]<br />(『日本書紀』)||
|[[磐余]]
[[橿原宮]]
|[[庚午]]年[[1月1日_(旧暦)|1月1日]]<br /> - 神武天皇76年[[3月11日_(旧暦)|3月11日]]<br />127歳没(『日本書紀』)
|-
|2||style="font-size:120%" |[[綏靖天皇|'''綏靖天皇'''<br />(綏靖天皇)]]||すいぜい||神渟名川耳天皇||||[[ファイル:Suizei thumb 1.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||綏靖天皇元年[[1月8日_(旧暦)|1月8日]]<br /> - 同33年[[5月10日_(旧暦)|5月10日]]<br />(『日本書紀』)||[[欠史八代]]の一。
|[[葛城高丘宮|葛城高岡宮]]||神武天皇29年<br /> - 綏靖天皇33年[[5月10日_(旧暦)|5月10日]]<br />84歳没(『日本書紀』)
|-
|3||style="font-size:120%" |'''[[安寧天皇|安寧天皇(安寧天皇)]]'''||あんねい||磯城津彦玉手看天皇||||[[ファイル:Tennō Annei thumb.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||綏靖天皇33年[[7月15日_(旧暦)|7月15日]]<br /> - 安寧天皇38年[[12月6日_(旧暦)|12月6日]]<br />(『日本書紀』)||欠史八代の一。
|[[片塩浮孔宮]]||綏靖天皇5年<br /> - 安寧天皇38年[[12月6日_(旧暦)|12月6日]]<br />67歳没(『日本書紀』)
|-
|4||style="font-size:120%" |[[懿徳天皇|'''懿徳天皇'''<br />(懿德天皇)]]||いとく||大日本彦耜友天皇||||[[ファイル:Tennō Itoku thumb.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||懿徳天皇元年[[2月4日_(旧暦)|2月4日]]<br /> - 同34年[[9月8日_(旧暦)|9月8日]]<br />(『日本書紀』)||欠史八代の一。
|[[軽曲峡宮]]||綏靖天皇29年<br /> - 懿徳天皇34年[[9月8日_(旧暦)|9月8日]]<br />77歳没(『日本書紀』)
|-
|5||style="font-size:120%" |'''[[孝昭天皇]]'''||こうしょう<br />(かうせう)||観松彦香殖稲天皇||||[[ファイル:Tennō Kōshō thumb.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||孝昭天皇元年[[1月9日_(旧暦)|1月9日]]<br /> - 同83年[[8月5日_(旧暦)|8月5日]]<br />(『日本書紀』)||欠史八代の一。
|[[葛城掖上宮]]||懿徳天皇5年<br /> - 孝昭天皇83年[[8月5日_(旧暦)|8月5日]]<br />114歳没(『日本書紀』)
|-
|6||style="font-size:120%" |'''[[孝安天皇]]'''||こうあん<br />(かうあん)||日本足彦国押人天皇||||[[ファイル:Tennō Kōan thumb.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||孝安天皇元年[[1月7日_(旧暦)|1月7日]]<br /> - 同102年[[1月9日_(旧暦)|1月9日]]<br />(『日本書紀』)||欠史八代の一。
|[[室秋津島宮]]||孝昭天皇49年<br /> - 孝安天皇102年[[1月9日_(旧暦)|1月9日]]<br />137歳没(『日本書紀』)
|-
|7||style="font-size:120%" |[[孝霊天皇|'''孝霊天皇'''<br />(孝靈天皇)]]||こうれい<br />(かうれい)||大日本根子彦太瓊天皇||||[[ファイル:Tennō Kōrei thumb.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||孝霊天皇元年[[1月12日_(旧暦)|1月12日]]<br /> - 同76年[[2月8日_(旧暦)|2月8日]]<br />(『日本書紀』)||欠史八代の一。
|[[黒田廬戸宮]]||孝安天皇51年<br /> - 孝霊天皇76年[[2月8日_(旧暦)|2月8日]]<br />128歳没(『日本書紀』)
|-
|8||style="font-size:120%" |'''[[孝元天皇]]'''||こうげん<br />(かうげん)||大日本根子彦国牽天皇||||[[ファイル:Tennō Kōgen thumb.gif|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||孝元天皇元年[[1月14日_(旧暦)|1月14日]]<br /> - 同57年[[9月2日_(旧暦)|9月2日]]<br />(『日本書紀』)||欠史八代の一。
|[[軽境原宮]]||孝霊天皇18年<br /> - 孝元天皇57年[[9月2日_(旧暦)|9月2日]]<br />116歳没(『日本書紀』)
|-
|9||style="font-size:120%" |'''[[開化天皇]]'''||かいか<br />(かいくゎ)||稚日本根子彦大日日天皇||||[[ファイル:Tennō Kaika thumb.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||孝元天皇57年[[11月12日_(旧暦)|11月12日]]<br /> - 開化天皇60年[[4月9日_(旧暦)|4月9日]]<br />(『日本書紀』)||欠史八代の一。
|[[春日率川宮]]||孝元天皇7年<br /> - 開化天皇60年[[4月9日_(旧暦)|4月9日]]<br />111歳没(『日本書紀』)
|-
|10||style="font-size:120%" |[[崇神天皇|'''崇神天皇'''<br />(崇神天皇)]]||すじん<br />||御間城入彦五十瓊殖天皇<br />(異称)御肇國天皇||||[[ファイル:Emperor Sujin.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||崇神天皇元年[[1月13日_(旧暦)|1月13日]]<br /> - 同68年[[12月5日_(旧暦)|12月5日]]<br />(『日本書紀』)|| style="text-align:left" |
|[[磯城瑞籬宮]]||開化天皇10年<br /> - 崇神天皇68年[[12月5日_(旧暦)|12月5日]]<br />119歳没(『日本書紀』)
|-
|11||style="font-size:120%" |'''[[垂仁天皇|垂仁天皇(埀仁天皇)]]'''||すいにん||活目入彦五十狭茅天皇||||[[ファイル:Emperor Suinin.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||垂仁天皇元年[[1月2日_(旧暦)|1月2日]]<br /> - 同99年[[7月14日_(旧暦)|7月14日]]<br />(『日本書紀』)||
|[[纒向珠城宮]]||崇神天皇29年[[1月1日_(旧暦)|1月1日]]<br /> - 垂仁天皇99年[[7月14日_(旧暦)|7月14日]]<br />139歳没(『日本書紀』)
|-
|12||style="font-size:120%" |'''[[景行天皇]]'''||けいこう<br />(けいかう)||大足彦忍代別天皇||||[[ファイル:Emperor Keikō.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||景行天皇元年[[7月11日_(旧暦)|7月11日]]<br /> - 同60年[[11月7日_(旧暦)|11月7日]]<br />(『日本書紀』)||
|[[纒向日代宮]]、[[志賀高穴穂宮]]
|垂仁天皇17年<br /> - 景行天皇60年[[11月7日_(旧暦)|11月7日]]<br />143歳没(『日本書紀』)
|-
|13||style="font-size:120%" |'''[[成務天皇]]'''||せいむ||稚足彦天皇||||[[ファイル:Emperor Seimu.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||成務天皇元年[[1月5日_(旧暦)|1月5日]]<br /> - 同60年[[6月11日_(旧暦)|6月11日]]<br />(『日本書紀』)||
|[[志賀高穴穂宮]]||景行天皇14年<br /> - 成務天皇60年[[6月11日_(旧暦)|6月11日]]<br />107歳没(『日本書紀』)
|-
|14||style="font-size:120%" |'''[[仲哀天皇]]'''||ちゅうあい||足仲彦天皇||||[[ファイル:Tennō Chūaii thumb.gif|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||仲哀天皇元年[[1月11日_(旧暦)|1月11日]]<br /> - 同9年[[2月6日_(旧暦)|2月6日]]<br />(『日本書紀』)||
|[[志賀高穴穂宮]]、等||成務天皇18年?<br /> - 仲哀天皇9年[[2月6日_(旧暦)|2月6日]]<br />53歳没(『日本書紀』)
|-
|15||style="font-size:120%" |[[応神天皇|'''応神天皇'''<br />(應神天皇)]]||おうじん||誉田天皇<br />(異称)胎中天皇||誉田別||[[ファイル:Emperor Ōjin.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||応神天皇元年[[1月1日_(旧暦)|1月1日]]<br /> - 同41年[[2月15日_(旧暦)|2月15日]]<br />(『日本書紀』)|| style="text-align:left" | 一説に[[倭の五王]]の「[[讃]]」に比定<ref name="讃">「讃」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。</ref>。
|[[軽島豊明宮]]||仲哀天皇9年[[12月14日_(旧暦)|12月14日]]<br /> - 応神天皇41年[[2月15日_(旧暦)|2月15日]]<br />111歳没(『日本書紀』)
|-
|16||style="font-size:120%" |[[仁徳天皇|'''仁徳天皇'''<br />(仁德天皇)]]||にんとく||大鷦鷯天皇||大鷦鷯||[[ファイル:Nintoku-tennō detail.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||仁徳天皇元年[[1月3日_(旧暦)|1月3日]]<br /> - 同87年[[1月16日_(旧暦)|1月16日]]<br />(『日本書紀』)|| style="text-align:left" | 一説に倭の五王の「讃」または「珍(彌、[[禰]])」に比定<ref name="讃">「讃」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。</ref>。
|[[難波高津宮]]||神功皇后57年<br /> - 仁徳天皇87年[[1月16日_(旧暦)|1月16日]]<br />(『日本書紀』)
|-
|17||style="font-size:120%" |'''[[履中天皇]]'''||りちゅう||大兄去来穂別天皇||去来穂別||[[ファイル:Emperor Richū.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||履中天皇元年[[2月1日_(旧暦)|2月1日]]<br /> - 同6年[[3月15日_(旧暦)|3月15日]]<br />(『日本書紀』)|| style="text-align:left" | 一説に倭の五王の「讃」に比定<ref name="讃">「讃」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。</ref>。
|[[磐余]]稚桜宮||仁徳天皇24年?<br /> - 履中天皇6年[[3月15日_(旧暦)|3月15日]]<br />70歳没(『日本書紀』)
|-
|18||style="font-size:120%" |'''[[反正天皇]]'''||はんぜい||多遅比瑞歯別天皇||瑞歯別|| ||諡号<br />淡海三船による一括撰進||反正天皇元年[[1月2日_(旧暦)|1月2日]]<br /> - 同5年[[1月23日_(旧暦)|1月23日]]<br />(『日本書紀』)|| style="text-align:left" | 倭の五王の「[[珍]]」への比定が有力<ref>「珍」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。</ref>。
兄弟継承の始まり。
| [[丹比柴籬宮]]||仁徳天皇39年?<br /> - 反正天皇5年[[1月23日_(旧暦)|1月23日]]<br />75歳没(『日本書紀』)
|-
|19||style="font-size:120%" |'''[[允恭天皇]]'''||いんぎょう||雄朝津間稚子宿禰天皇||稚子||[[ファイル:Emperor Ingyō.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||允恭天皇元年[[12月_(旧暦)|12月]]<br /> - 同42年[[1月14日_(旧暦)|1月14日]]<br />(『日本書紀』)|| style="text-align:left" | 倭の五王の「[[済]]」に比定<ref>「允恭天皇」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。</ref>。
|[[遠飛鳥宮]]||仁徳天皇64年?<br /> - 允恭天皇42年[[1月14日_(旧暦)|1月14日]]<br />78歳没(『日本書紀』)
|-
|20||style="font-size:120%" |'''[[安康天皇]]'''||あんこう<br />(あんかう)||穴穂天皇||穴穂||[[ファイル:Emperor Ankō.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||允恭天皇42年[[12月14日_(旧暦)|12月14日]]<br /> - 安康天皇3年[[8月9日_(旧暦)|8月9日]]<br />(『日本書紀』)|| style="text-align:left" | 倭の五王の「[[興]]」に比定<ref>「興」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。</ref>。
|[[石上穴穂宮]]||履中天皇2年?<br /> - 安康天皇3年[[8月9日_(旧暦)|8月9日]]<br />56歳没(『日本書紀』)
|-
|21||style="font-size:120%" |'''[[雄略天皇]]'''||ゆうりゃく<br />(いうりゃく)||大泊瀬幼武天皇||幼武||[[ファイル:Emperor Yūryaku.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||安康天皇3年[[11月13日_(旧暦)|11月13日]]<br /> - 雄略天皇23年[[8月7日_(旧暦)|8月7日]]<br />(『日本書紀』)|| style="text-align:left" | 倭の五王の「[[武 (倭王)|武]]」に比定<ref>「武」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。</ref>。<br />[[稲荷山古墳出土鉄剣]]・[[江田船山古墳]]出土鉄刀の<br />大王銘に比定<ref group="表外参照">雄略天皇に関して、通説では[[稲荷山古墳出土鉄剣]]の「獲加多支鹵大王」銘や[[江田船山古墳]]出土鉄刀の「獲□□□鹵大王」銘が、大王の諱の「ワカタケル」に比定される(「雄略天皇」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。)。</ref>。
|[[泊瀬朝倉宮]]||允恭天皇7年[[12月_(旧暦)|12月]]<br /> - 雄略天皇23年[[8月7日_(旧暦)|8月7日]]<br />62歳没(『日本書紀』)
|-
|22||style="font-size:120%" |[[清寧天皇|'''清寧天皇'''<br />(淸寧天皇)]]||せいねい||白髪武広国押稚日本根子天皇||白髪||[[ファイル:Orekidai seinei.png|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||清寧天皇元年[[1月15日_(旧暦)|1月15日]]<br /> - 同5年[[1月16日_(旧暦)|1月16日]]<br />(『日本書紀』)||
|[[磐余甕栗宮]]||允恭天皇33年?<br /> - 清寧天皇5年[[1月16日_(旧暦)|1月16日]]<br />41歳没(『日本書紀』)
|-
|23||style="font-size:120%" |[[顕宗天皇|'''顕宗天皇'''<br />(顯宗天皇)]]||けんぞう||弘計天皇||来目稚子||[[ファイル:Emperor Kenzō.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||顕宗天皇元年[[1月1日_(旧暦)|1月1日]]<br /> - 同3年[[4月25日_(旧暦)|4月25日]]<br />(『日本書紀』)||
|[[近飛鳥八釣宮]]||允恭天皇39年<br /> - 顕宗天皇3年[[4月25日_(旧暦)|4月25日]]<br />38歳没(『日本書紀』)
|-
|24||style="font-size:120%" |'''[[仁賢天皇]]'''||にんけん||億計天皇||大脚<br />大為||[[ファイル:Emperor Ninken.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||仁賢天皇元年[[1月5日_(旧暦)|1月5日]]<br /> - 同11年[[8月8日_(旧暦)|8月8日]]<br />(『日本書紀』)||
|[[石上広高宮]]||允恭天皇38年<br /> - 仁賢天皇11年[[8月8日_(旧暦)|8月8日]]<br />50歳没(『日本書紀』)
|-
|25||style="font-size:120%" |'''[[武烈天皇]]'''||ぶれつ||小泊瀬稚鷦鷯天皇||稚鷦鷯||||諡号<br />淡海三船による一括撰進||仁賢天皇11年[[12月_(旧暦)|12月]]<br /> - 武烈天皇8年[[12月8日_(旧暦)|12月8日]]<br />(『日本書紀』)||
|[[泊瀬列城宮]]||仁賢天皇2年<br /> - 武烈天皇8年[[12月8日_(旧暦)|12月8日]]<br />(『日本書紀』)
|-
|26||style="font-size:120%" |[[継体天皇|'''継体天皇'''<br />(繼體天皇)]]||けいたい||男大迹天皇||男大迹<br />彦太尊||[[ファイル:Statue of Emperor Keitai.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||継体天皇元年([[507年]]?)[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]<br /> - 同25年([[531年]]?)[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]又は28年([[534年]]?)|| style="text-align:left" | 真の陵とみられる<ref>「継体天皇」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。</ref>[[今城塚古墳]]で<br />発掘調査実施。
|[[磐余玉穂宮]]||允恭天皇39年([[450年]]?)<br /> - 継体天皇25年2月7日([[531年]][[3月10日]]?)又は28年([[534年]]?)<br />82歳?没(『日本書紀』)
|-
|27||style="font-size:120%" |'''[[安閑天皇]]'''||あんかん||広国押武金日天皇||勾|| ||諡号<br />淡海三船による一括撰進||継体天皇25年([[531年]]?)[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]又は28年([[534年]]?)<br /> - 安閑天皇2年([[535年]]?)[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]||
|[[勾金橋宮]]||雄略天皇10年([[466年]]?)<br /> - 安閑天皇2年12月17日([[536年]][[1月25日]]?)<br />70歳没(『日本書紀』)
|-
|28||style="font-size:120%" |'''[[宣化天皇]]'''||せんか<br />(せんくゎ)||武小広国押盾天皇||檜隈高田||||諡号<br />淡海三船による一括撰進||宣化天皇元年([[535年]]?)[[12月 (旧暦)|12月]]<br /> - 同4年([[539年]]?)[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]||
|[[檜隈廬入野宮]]||雄略天皇11年([[467年]]?)<br /> -宣化天皇4年2月10日([[539年]][[3月15日]]?)<br />73歳没(『日本書紀』)
|-
|29||style="font-size:120%" |'''[[欽明天皇]]'''||きんめい||天国排開広庭天皇||||[[ファイル:Emperor Kinmei.jpg|70px]]|||諡号<br />淡海三船による一括撰進||宣化天皇4年([[539年]])[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]<br /> - 欽明天皇32年([[571年]])[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]||
|[[難波祝津宮]]、[[磯城島金刺宮]]||継体天皇3年([[509年]]?)<br /> - 欽明天皇32年4月15日([[571年]][[5月24日]]?)<br />63歳没(『日本書紀』)
|-
|30||style="font-size:120%" |[[敏達天皇|'''敏達天皇'''<br />(敏達天皇)]]||びだつ||渟中倉太珠敷天皇||他田|| ||諡号<br />淡海三船による一括撰進||敏達天皇元年([[572年]]?)[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]<br /> - 同14年([[585年]]?)[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]||
|[[百済大井宮]]、[[訳語田幸玉宮]]||宣化天皇3年?([[538年]]?)<br /> - 敏達天皇14年8月15日([[585年]][[9月14日]]?)<br />48歳?没(『日本書紀』)
|-
|31||style="font-size:120%" |'''[[用明天皇]]'''||ようめい||橘豊日天皇||池辺||[[ファイル:Yomeitenno.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||敏達天皇14年([[585年]])[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]<br /> - 用明天皇2年([[587年]])[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]||
|[[磐余池辺雙槻宮]]||欽明天皇元年?([[546年]]?)<br /> - 用明天皇2年4月9日([[587年]][[5月21日]]?)<br />41?歳没(『日本書紀』)
|-
|32||style="font-size:120%" |'''[[崇峻天皇]]'''||すしゅん||泊瀬部天皇||泊瀬部|| ||諡号<br />淡海三船による一括撰進||用明天皇2年([[587年]])[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]<br /> - 崇峻天皇5年([[592年]])[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]||
|[[倉梯柴垣宮]]||欽明天皇14年([[553年]]?)<br /> - 崇峻天皇5年11月3日([[592年]][[12月12日]])<br />40?歳没(『日本書紀』)
|-
|33||style="font-size:120%" |'''[[推古天皇]]'''||すいこ||豊御食炊屋姫天皇||額田部||[[ファイル:Empress_Suiko_2.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||崇峻天皇5年([[592年]])[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]<br /> - 推古天皇36年([[628年]])[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]|| 初の[[女性天皇|女帝]]||[[豊浦宮]]、[[小墾田宮]]||欽明天皇15年([[554年]]?)<br /> - 推古天皇36年3月7日([[628年]][[4月15日]])<br />75歳没
|-
|34||style="font-size:120%" |'''[[舒明天皇]]'''||じょめい||息長足日広額天皇||田村||||諡号<br />淡海三船による一括撰進||舒明天皇元年([[629年]])[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]<br /> - 舒明天皇13年([[641年]])[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]||
|[[飛鳥岡本宮]]||推古天皇元年([[593年]])<br /> - 舒明天皇13年10月9日([[641年]][[11月17日]])<br />49歳没
|-
|35||style="font-size:120%" |'''[[斉明天皇|皇極天皇]]'''||こうぎょく<br />(くゎうぎょく)||天豊財重日足姫天皇||宝||[[ファイル:Empress Kogyoku-Saimei.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||皇極天皇元年([[642年]])[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]<br /> - 同4年([[645年]])[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]||女帝。
|[[飛鳥板蓋宮]]||推古天皇2年([[594年]])<br /> - 斉明天皇7年7月24日([[661年]][[8月24日]])<br />68歳没
|-
|36||style="font-size:120%" |[[孝徳天皇|'''孝徳天皇'''<br />(孝德天皇)]]||こうとく<br />(かうとく)||天万豊日天皇||軽||||諡号<br />淡海三船による一括撰進||皇極天皇4年([[645年]])[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]<br /> - [[白雉]]5年([[654年]])[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]||
|[[難波宮]]||推古天皇4年([[596年]])<br /> - 白雉5年10月10日([[654年]][[11月24日]])<br />59歳没
|-
|37||style="font-size:120%" |[[斉明天皇|'''斉明天皇'''<br />(齊明天皇)]]||さいめい||colspan=2|(皇極に同じ)||[[ファイル:Empress Kogyoku-Saimei.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||斉明天皇元年([[655年]])[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]<br /> - 同7年([[661年]])[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]||皇極天皇[[重祚]]。女帝。
|[[飛鳥川原宮]]、[[飛鳥後岡本宮]]、[[飛鳥田中宮]]、[[朝倉橘広庭宮]]||推古天皇2年([[594年]])<br /> - 斉明天皇7年7月24日([[661年]][[8月24日]])<br />68歳没
|-
|38||style="font-size:120%" |'''[[天智天皇]]'''||てんじ<br />(てんぢ)||天命開別天皇||葛城||[[ファイル:Emperor_Tenji.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||天智天皇7年([[668年]])[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]<br /> - 同10年([[671年]])[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]||<ref group="表外参照">天智天皇は[[661年]][[7月24日_(旧暦)|7月24日]]に[[称制]]したため、『日本書紀』においては天智天皇元年は皇極天皇崩御翌年の[[662年]]となっている。</ref>
|[[近江大津宮]]||推古天皇34年([[626年]])<br /> - 天智天皇10年12月3日([[672年]][[1月7日]])<br />46歳没
|-
|39||style="font-size:120%" |'''[[弘文天皇]]'''||こうぶん||||伊賀<br />大友||[[ファイル:Emperor Koubunn.jpg|70px]]||諡号<br />[[明治]]3年追諡||天智天皇10年[[671年]][[12月5日 (旧暦)|12月5日]]<br /> - 天武天皇元年([[672年]])[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]||<ref group="表外参照">弘文天皇は明治3年に追諡されて第39代天皇として認められたが、実際に即位したか否かには議論がある。</ref>
|[[近江大津宮]]||大化4年([[648年]])<br /> - 天武天皇元年7月23日([[672年]][[8月21日]])<br />25歳没
|-
|40||style="font-size:120%" |'''[[天武天皇]]'''||てんむ||天渟中原瀛真人天皇||大海人||[[ファイル:Emperor Tenmu.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||天武天皇2年([[673年]])[[2月27日 (旧暦)|2月27日]]<br /> - [[朱鳥]]元年([[686年]])[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]||
|[[飛鳥浄御原宮]]||舒明天皇3年([[631年]])?<br /> - 朱鳥元年9月9日([[686年]][[10月1日]])<br />56歳?没
|-
|41||style="font-size:120%" |'''[[持統天皇]]'''||じとう<br />(ぢとう)||大倭根子天之廣野日女尊<br />高天原廣野姫天皇||鸕野讚良||[[ファイル:Empress Jitō.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進||持統天皇4年([[690年]])[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]<br /> - 持統天皇11年([[697年]])[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]|| style="text-align:left" | 女帝。[[686年]][[9月9日 (旧暦)|9月9日]]に称制。
|[[飛鳥浄御原宮]]、[[藤原宮]]||大化元年([[645年]])<br /> - 大宝2年12月12日([[703年]][[1月13日]])<br />58歳没
|-
|42||style="font-size:120%" |'''[[文武天皇]]'''||もんむ||倭根子豊祖父天皇<br />天之真宗豊祖父天皇||珂瑠||[[ファイル:Emperor Monmu portrait.png|70px]]||諡号||文武天皇元年([[697年]])[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]<br /> - [[慶雲]]4年([[707年]])[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]||
|[[藤原京]]||天武天皇12年([[683年]])<br /> - 慶雲4年6月15日([[707年]][[7月18日]])<br />25歳没
|-
|43||style="font-size:120%" |'''[[元明天皇]]'''||げんめい||日本根子天津御代豊国成姫天皇<br />元明金命||阿閇||[[ファイル:Empress Gemmei.jpg|70px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進?||慶雲4年([[707年]])[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]<br /> - [[和銅]]8年([[715年]])[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]||女帝。
|[[藤原京]]、[[平城京]]||斉明天皇7年([[661年]])<br /> - 養老5年12月7日([[721年]][[12月29日]])<br />61歳没
|-
|44||style="font-size:120%" |'''[[元正天皇]]'''||げんしょう<br />(げんしゃう)||日本根子高瑞浄足姫天皇||氷高||[[ファイル:Empress Genshō Tsubosaka-dera.jpg|80px]]||諡号<br />淡海三船による一括撰進?||[[霊亀]]元年([[715年]])[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]<br /> - [[養老]]8年([[724年]])[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]||女帝。
|[[平城京]]||天武天皇9年([[680年]])<br /> - 天平20年4月21日([[748年]][[5月22日]])<br />69歳没
|-
|45||style="font-size:120%" |'''[[聖武天皇]]'''||しょうむ<br />(しゃうむ)||天璽国押開豊桜彦天皇<br />勝宝感神聖武皇帝||首||[[ファイル:Emperor Shomu.jpg|70px]]||諡号||[[神亀]]元年([[724年]])[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]<br /> - [[天平感宝]]元年([[749年]])[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]||
|[[難波宮]]、[[平城宮]]||大宝元年([[701年]])<br /> - 天平勝宝8歳5月2日([[756年]][[6月4日]])<br />56歳没
|-
|46||style="font-size:120%" |'''[[孝謙天皇]]'''||こうけん<br />(かうけん)||宝字称徳孝謙皇帝<br />(異称)高野天皇||阿倍||[[ファイル:Empress Koken.jpg|70px]]||(生前の尊称)||[[天平勝宝]]元年([[749年]])[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]<br /> - [[天平宝字]]2年([[758年]])[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]||女帝。
|[[平城宮]]||養老2年([[718年]])<br /> - 神護景雲4年8月4日([[770年]][[8月28日]])<br />53歳没
|-
|47||style="font-size:120%" |'''[[淳仁天皇]]'''||じゅんにん||(追諡前)廃帝/淡路廃帝||大炊||||諡号<br />明治3年追諡||天平宝字2年([[758年]])[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]<br /> - 同8年([[764年]])[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]||
|[[平城宮]]||天平5年([[733年]])<br /> - 天平神護元年10月23日([[765年]][[11月10日]])<br />33歳没
|-
|48||style="font-size:120%" |[[孝謙天皇|'''称徳天皇'''<br />(稱德天皇)]]||しょうとく||colspan=2|(孝謙に同じ)||[[ファイル:Empress Koken.jpg|70px]]||(生前の尊称)||天平宝字8年([[764年]])[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]<br /> - [[神護景雲]]4年([[770年]])[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]||孝謙天皇重祚。女帝。
|[[平城宮]]||養老2年([[718年]])<br /> - 神護景雲4年8月4日([[770年]][[8月28日]])<br />53歳没
|-
|49||style="font-size:120%" |'''[[光仁天皇]]'''||こうにん<br />(くゎうにん)||天宗高紹天皇<br />(異称)後田原天皇||白壁||||諡号||[[宝亀]]元年([[770年]])[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]<br /> - [[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]|| style="text-align:left" | 継体天皇(第26代)以降では、<br />歴代最高齢即位(62歳)。
|[[平城宮]]||和銅2年10月13日([[709年]][[11月18日]])<br /> - 天応元年12月23日([[782年]][[1月11日]])<br />73歳没
|-
|50||style="font-size:120%" |'''[[桓武天皇]]'''||かんむ<br />(くゎんむ)||日本根子皇統弥照尊<br />(異称)延暦帝/柏原帝||山部||[[ファイル:Emperor Kammu large.jpg|70px]]||諡号||[[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]<br /> - [[延暦]]25年([[806年]])[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]||
|[[平城宮]]、[[長岡宮]]、[[平安宮]]||天平9年([[737年]])<br /> - 延暦25年3月17日([[806年]][[4月9日]])<br />70歳没
|-
|51||style="font-size:120%" |'''[[平城天皇]]'''||へいぜい||日本根子天推国高彦尊<br />(異称)奈良帝||安殿||||追号<br />在所(地名)||延暦25年([[806年]])[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]<br /> - [[大同 (日本)|大同]]4年([[809年]])[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]||
|[[平安宮]]||宝亀5年8月15日([[774年]][[9月25日]])<br /> - 天長元年7月7日([[824年]][[8月5日]])<br />51歳没
|-
|52||style="font-size:120%" |'''[[嵯峨天皇]]'''||さが||(異称)弘仁帝皇||神野||[[ファイル:Emperor Saga large.jpg|70px]]||追号<br />譲位後の在所||大同4年([[809年]])[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]<br /> - [[弘仁]]14年([[823年]])[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]||
|[[平安京]]・大内裏||延暦5年9月7日([[786年]][[10月3日]])<br /> - 承和9年7月15日([[842年]][[8月24日]])<br />57歳没
|-
|53||style="font-size:120%" |'''[[淳和天皇]]'''||じゅんな<br />(じゅんわ)||日本根子天高譲弥遠尊<br />(異称)西院帝||大伴||||追号<br />譲位後の在所||弘仁14年([[823年]])[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]<br /> - [[天長]]10年([[833年]])[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]||
|[[平安京]]・大内裏||延暦5年([[786年]])<br /> - 承和7年5月8日([[840年]][[6月11日]])<br />55歳没
|-
|54||style="font-size:120%" |'''[[仁明天皇]]'''||にんみょう<br />(にんみゃう)||日本根子天璽豊聡慧尊<br />(異称)深草帝||正良||||諡号||天長10年([[833年]])[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]<br /> - [[嘉祥]]3年([[850年]])[[3月19日 (旧暦)|3月19日]]||
|[[平安京]]・大内裏||弘仁元年[[9月24日 (旧暦)|9月24日]]([[810年]][[10月25日]])<br /> - 嘉祥3年3月21日([[850年]][[5月6日]])<br />41歳没
|-
|55||style="font-size:120%" |[[文徳天皇|'''文徳天皇'''<br />(文德天皇)]]||もんとく||(異称)田邑帝||道康||[[ファイル:Emperor Montoku.jpg|70px]]||諡号||嘉祥3年([[850年]])[[3月19日 (旧暦)|3月19日]]<br /> - [[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]||
|[[平安京]]・大内裏||天長4年([[827年]])<br /> - 天安2年8月27日([[858年]][[10月7日]])<br />32歳没
|-
|56||style="font-size:120%" |[[清和天皇|'''清和天皇'''<br />(淸和天皇)]]||せいわ||(異称)水尾帝||惟仁||[[ファイル:Emperor Seiwa.jpg|70px]]||追号<br />譲位後の在所||天安2年([[858年]])[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]<br /> - [[貞観 (日本)|貞観]]18年([[876年]])[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]||
|[[平安京]]・大内裏||嘉祥3年3月25日([[850年]][[5月10日]])<br /> - 元慶4年12月4日([[881年]][[1月7日]])<br />31歳没
|-
|57||style="font-size:120%" |'''[[陽成天皇]]'''||ようぜい<br />(やうぜい)||||貞明||[[ファイル:Hyakuninisshu 013.jpg|70px]]||追号<br />譲位後の在所||貞観18年([[876年]])[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]<br /> - [[元慶]]8年([[884年]])[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]||
|[[平安京]]・大内裏||貞観10年12月16日([[869年]][[1月2日]])<br /> - 天暦3年9月29日([[949年]][[10月23日]])<br />82歳没
|-
|58||style="font-size:120%" |'''[[光孝天皇]]'''||こうこう<br />(くゎうかう)||(異称)小松帝||時康||[[ファイル:Tennō_Kōkō.jpg|70px]]||諡号||元慶8年([[884年]])[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]<br /> - [[仁和]]3年([[887年]])[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]||
|[[平安京]]・大内裏||天長7年([[830年]])<br /> - 仁和3年8月26日([[887年]][[9月17日]])<br />58歳没
|-
|59||style="font-size:120%" |'''[[宇多天皇]]'''||うだ||(異称)寛平帝||定省||[[ファイル:Emperor Uda large.jpg|70px]]||追号<br />譲位後の在所||仁和3年([[887年]])[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]<br /> - [[寛平]]9年([[897年]])[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]|| style="text-align:left" | 臣籍降下するも、後に皇族に復帰し即位。
|[[平安京]]・大内裏||貞観9年5月5日([[867年]][[6月10日]])<br /> - 承平元年7月19日([[931年]][[9月3日]])<br />65歳没
|-
|60||style="font-size:120%" |'''[[醍醐天皇]]'''||だいご||(異称)延喜帝||維城<br />敦仁||[[ファイル:Emperor Daigo.jpg|70px]]||追号<br />山陵||寛平9年([[897年]])[[7月13日 (旧暦)|7月3日]]<br /> - [[延長 (元号)|延長]]8年([[930年]])[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]|| style="text-align:left" | 出生時は臣籍、後に皇族に復帰し即位。
|[[平安京]]・大内裏||元慶9年1月18日([[885年]][[2月6日]])<br /> - 延長8年9月29日([[930年]][[10月23日]])<br />46歳没
|-
|61||style="font-size:120%" |'''[[朱雀天皇]]'''||すざく||||寛明||||追号<br />譲位後の在所||延長8年([[930年]])[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]<br /> - [[天慶]]9年([[946年]])[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]||
|[[平安京]]・大内裏||延長元年7月24日([[923年]][[9月7日]])<br /> - 天暦6年8月15日([[952年]][[9月6日]])<br />30歳没
|-
|62||style="font-size:120%" |'''[[村上天皇]]'''||むらかみ||(異称)天暦帝||成明||[[ファイル:Emperor Murakami.jpg|70px]]||追号<br />山陵||天慶9年([[946年]])[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]<br /> - [[康保]]4年([[967年]])[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]||
|[[平安京]]・大内裏||延長4年6月2日([[926年]][[7月14日]])<br /> - 康保4年5月25日([[967年]][[7月5日]])<br />42歳没
|-
|63||style="font-size:120%" |'''[[冷泉天皇]]'''||れいぜい||||憲平||||追号<br />譲位後の在所||[[康保]]4年([[967年]])[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]<br /> - [[安和]]2年([[969年]])[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]||
|[[平安京]]・大内裏||天暦4年5月24日([[950年]][[6月12日]])<br /> - 寛弘8年10月24日([[1011年]][[11月21日]])<br />62歳没
|-
|64||style="font-size:120%" |[[円融天皇|'''円融天皇'''<br />(圓融天皇)]]||えんゆう<br />(ゑんゆう)||||守平||||追号<br />在所(寺名・庵号)||安和2年([[969年]])[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]<br /> - [[永観]]2年([[984年]])[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]||
|[[平安京]]・大内裏||天徳3年3月2日([[959年]][[4月12日]])<br /> - 正暦2年2月12日([[991年]][[3月1日]])<br />33歳没
|-
|65||style="font-size:120%" |'''[[花山天皇]]'''||かざん<br />(くゎざん)||||師貞||[[ファイル:Tennō_Kazan_detail.jpg|70px]]||追号<br />在所(寺名・庵号)||永観2年([[984年]])[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]<br /> - [[寛和]]2年([[986年]])[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]||
|[[平安京]]・大内裏||安和元年10月26日([[968年]][[11月29日]])<br /> - 寛弘5年2月8日([[1008年]][[3月17日]])<br />41歳没
|-
|66||style="font-size:120%" |[[一条天皇|'''一条天皇'''<br />(一條天皇)]]||いちじょう<br />(いちでう)||||懐仁||[[ファイル:Emperor Ichijō.jpg|70px]]||追号<br />在位中の皇居の宮名||寛和2年([[986年]])[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]<br /> - [[寛弘]]8年([[1011年]])[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]||
|[[平安京]]・大内裏||天元3年6月1日([[980年]][[7月15日]])<br /> - 寛弘8年6月22日([[1011年]][[7月25日]])<br />32歳没
|-
|67||style="font-size:120%" |[[三条天皇|'''三条天皇'''<br />(三條天皇)]]||さんじょう<br />(さんでう)||||居貞||[[ファイル:Hyakuninisshu 068.jpg|70px]]||追号<br />譲位後の在所||寛弘8年([[1011年]])[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]<br /> - [[長和]]5年([[1016年]])[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]||
|[[平安京]]・大内裏||天延4年1月3日([[976年]][[2月5日]])<br /> - 寛仁元年5月9日([[1017年]][[6月5日]])<br />42歳没
|-
|68||style="font-size:120%" |[[後一条天皇|'''後一条天皇'''<br />(後一條天皇)]]||ごいちじょう<br />(ごいちでう)||||敦成||||追号<br />加後号||長和5年([[1016年]])[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]<br /> - [[長元]]9年([[1036年]])[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]||
|[[平安京]]・大内裏||寛弘5年9月11日([[1008年]][[10月12日]])<br /> - 長元9年4月17日([[1036年]][[5月15日]])<br />29歳没
|-
|69||style="font-size:120%" |'''[[後朱雀天皇]]'''||ごすざく||||敦良||||追号<br />加後号||長元9年([[1036年]])[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]<br /> - [[寛徳]]2年([[1045年]])[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]||
|[[平安京]]・大内裏||寛弘6年11月25日([[1009年]][[12月14日]])<br /> - 寛徳2年1月18日([[1045年]][[2月7日]])<br />37歳没
|-
|70||style="font-size:120%" |'''[[後冷泉天皇]]'''||ごれいぜい||||親仁||||追号<br />加後号||寛徳2年([[1045年]])[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]<br /> - [[治暦]]4年([[1068年]])[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]||
|[[平安京]]・大内裏||万寿2年8月3日([[1025年]][[8月28日]])<br /> - 治暦4年4月19日([[1068年]][[5月22日]])<br />44歳没
|-
|71||style="font-size:120%" |[[後三条天皇|'''後三条天皇'''<br />(後三條天皇)]]||ごさんじょう<br />(ごさんでう)||(異称)延久帝||尊仁||[[ファイル:Emperor Gosanjō.jpg|70px]]||追号<br />加後号||治暦4年([[1068年]])[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]<br /> - [[延久]]4年([[1072年]])[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]||
|[[平安京]]・大内裏||長元7年7月18日([[1034年]][[9月3日]])<br /> - 延久5年5月7日([[1073年]][[6月15日]])<br />40歳没
|-
|72||style="font-size:120%" |'''[[白河天皇]]'''||しらかわ<br />(しらかは)||(異称)六条帝||貞仁||[[ファイル:Emperor Shirakawa.jpg|70px]]||追号(遺諡)<br />譲位後の在所||延久4年([[1072年]])[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]<br /> - [[応徳]]3年([[1086年]])[[11月26日 (旧暦)|11月26日]]||
|[[平安京]]・大内裏||天喜元年6月19日([[1053年]][[7月7日]])<br /> - 大治4年7月7日([[1129年]][[7月24日]])<br />77歳没
|-
|73||style="font-size:120%" |'''[[堀河天皇]]'''||ほりかわ<br />(ほりかは)||||善仁||[[ファイル:堀河天皇.jpg|70px]]||追号<br />在位中の皇居の宮名||応徳3年([[1086年]])[[11月26日 (旧暦)|11月26日]]<br /> - [[嘉承]]2年([[1107年]])[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]||
|[[平安京]]・大内裏||承暦3年7月9日([[1079年]][[8月8日]])<br /> - 嘉承2年7月19日([[1107年]][[8月9日]])<br />29歳没
|-
|74||style="font-size:120%" |[[鳥羽天皇|'''鳥羽天皇'''<br />(鳥羽天皇)]]||とば||||宗仁||[[ファイル:Emperor Toba.jpg|70px]]||追号<br />譲位後の在所||嘉承2年([[1107年]])[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]<br /> - [[保安 (元号)|保安]]4年([[1123年]])[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]||
|[[平安京]]・大内裏||康和5年1月16日([[1103年]][[2月24日]])<br /> - 保元元年7月2日([[1156年]][[7月20日]])<br />54歳没
|-
|75||style="font-size:120%" |[[崇徳天皇|'''崇徳天皇'''<br />(崇德天皇)]]||すとく||(改称前)讃岐院||顕仁||[[ファイル:Emperor Sutoku2.jpg|70px]]||諡号||保安4年([[1123年]])[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]<br /> - [[永治]]元年([[1141年]])[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]||
|[[平安京]]・大内裏||元永2年5月28日([[1119年]][[7月7日]])<br /> - 長寛2年8月26日([[1164年]][[9月14日]])<br />46歳没
|-
|76||style="font-size:120%" |[[近衛天皇|'''近衛天皇'''<br />(近衞天皇)]]||このえ<br />(このゑ)||||体仁||[[ファイル:Emperor Konoe by Kōtarō Miyake.jpg|70px]]||追号<br />在位中の皇居の宮名||永治元年([[1141年]])[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]<br /> - [[久寿]]2年([[1155年]])[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]||
|[[平安京]]・大内裏||保延5年5月18日([[1139年]][[6月16日]])<br /> - 久寿2年7月23日([[1155年]][[8月22日]])<br />17歳没
|-
|77||style="font-size:120%" |'''[[後白河天皇]]'''||ごしらかわ<br />(ごしらかは)||||雅仁||[[ファイル:Emperor Go-Shirakawa2.jpg|70px]]||追号<br />加後号||[[久寿]]2年([[1155年]])[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]<br /> - [[保元]]3年([[1158年]])[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]||
|[[平安京]]・大内裏||大治2年9月11日([[1127年]][[10月18日]])<br /> - 建久3年3月13日([[1192年]][[4月26日]])<br />66歳没
|-
|78||style="font-size:120%" |[[二条天皇|'''二条天皇'''<br />(二條天皇)]]||にじょう<br />(にでう)||||守仁||[[ファイル:Emperor Nijō.jpg|70px]]||追号<br />在位中の皇居の宮名||保元3年([[1158年]])[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]<br /> - [[永万]]元年([[1165年]])[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]||
|[[平安京]]・大内裏||康治2年6月17日([[1143年]][[7月31日]])<br /> - 永万元年7月28日([[1165年]][[9月5日]])<br />23歳没
|-
|79||style="font-size:120%" |[[六条天皇|'''六条天皇'''<br />(六條天皇)]]||ろくじょう<br />(ろくでう)||||順仁||[[ファイル:Emperor Rokujō by Kōtarō Miyake.jpg|70px]]||追号<br />譲位後の在所||永万元年([[1165年]])[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]<br /> - [[仁安 (日本)|仁安]]3年([[1168年]])[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]|| style="text-align:left" | 歴代最年少即位(生後7か月)。<br />歴代最年少譲位、歴代最年少上皇(2歳)。
|[[平安京]]・大内裏||長寛2年11月14日([[1164年]][[12月28日]])<br /> - 安元2年7月17日([[1176年]][[8月23日]])<br />13歳没
|-
|80||style="font-size:120%" |'''[[高倉天皇|高倉天皇(髙倉天皇)]]'''||たかくら||||憲仁||[[ファイル:Emperor Takakura.jpg|70px]]||追号<br />譲位後の在所||仁安3年([[1168年]])[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]<br /> - [[治承]]4年([[1180年]])[[2月21日 (旧暦)|2月21日]]||
|[[平安京]]・大内裏||永暦2年9月3日([[1161年]][[9月23日]])<br /> - 治承5年1月14日([[1181年]][[1月30日]])<br />21歳没
|-
|81||style="font-size:120%" |[[安徳天皇|'''安徳天皇'''<br />(安德天皇)]]||あんとく||||言仁||[[ファイル:Emperor Antoku.jpg|70px]]||諡号||治承4年([[1180年]])[[2月21日 (旧暦)|2月21日]]<br /> - [[寿永]]4年([[1185年]])[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]|| style="text-align:left" | 後鳥羽天皇と在位一部重複。<br />歴代最年少崩御(8歳)。
|[[平安京]]・大内裏||治承2年11月12日([[1178年]][[12月22日]])<br /> - 寿永4年3月24日([[1185年]][[4月25日]])<br />8歳没
|-
|82||style="font-size:120%" |[[後鳥羽天皇|'''後鳥羽天皇'''<br />(後鳥羽天皇)]]||ごとば||(改称前)隠岐院/顕德院||尊成||[[ファイル:Emperor Go-Toba.jpg|70px]]||追号<br />加後号||寿永2年([[1183年]])[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]<br /> - [[建久]]9年([[1198年]])[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]|| style="text-align:left" | 安德天皇と在位一部重複。
|[[平安京]]・大内裏||治承4年7月14日([[1180年]][[8月6日]])<br /> - 延応元年2月22日([[1239年]][[3月28日]])<br />60歳没
|-
|83||style="font-size:120%" |'''[[土御門天皇]]'''||つちみかど||(改称前)土佐院/阿波院||為仁||[[ファイル:Emperor Tsuchimikado.jpg|70px]]||追号<br />譲位後の在所||建久9年([[1198年]])[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]<br /> - [[承元]]4年([[1210年]])[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]||
|[[平安京]]・大内裏||建久6年12月2日([[1196年]][[1月3日]])<br /> - 寛喜3年10月11日([[1231年]][[11月6日]])<br />36歳没
|-
|84||style="font-size:120%" |[[順徳天皇|'''順徳天皇'''<br />(順德天皇)]]||じゅんとく||(改称前)佐渡院||守成||[[ファイル:Emperor Juntoku large.jpg|70px]]||諡号||承元4年([[1210年]])[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]<br /> - [[承久]]3年([[1221年]])[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]||
|[[平安京]]・大内裏||建久8年9月10日([[1197年]][[10月22日]])<br /> - 仁治3年9月12日([[1242年]][[10月7日]])<br />46歳没
|-
|85||style="font-size:120%" |'''[[仲恭天皇]]'''||ちゅうきょう||(追諡前)後廃帝/九条廃帝||懐成||[[ファイル:Emperor Chūkyō by Kōtarō Miyake.jpg|70px]]||諡号<br />明治3年追諡||承久3年([[1221年]])[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]<br /> - 同3年([[1221年]])[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]|| style="text-align:left" | 在位期間最短(78日間)。
|[[平安京]]・大内裏||建保6年10月10日([[1218年]][[10月30日]])<br /> - 天福2年5月20日([[1234年]][[6月18日]])<br />17歳没
|-
|86||style="font-size:120%" |'''[[後堀河天皇]]'''||ごほりかわ<br />(ごほりかは)||||茂仁||[[ファイル:Emperor Go-Horikawa.jpg|70px]]||追号<br />加後号||承久3年([[1221年]])[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]<br /> - [[貞永]]元年([[1232年]])[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]||
|[[平安京]]・大内裏||建暦2年2月18日([[1212年]][[3月22日]])<br /> - 天福2年8月6日([[1234年]][[8月31日]])<br />23歳没
|-
|87||style="font-size:120%" |[[四条天皇|'''四条天皇'''<br />(四條天皇)]]||しじょう<br />(しでう)||||秀仁||[[ファイル:Emperor Shijō.jpg|70px]]||追号<br />在所(葬家邸宅を在所に擬す)||貞永元年([[1232年]])[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]<br /> - [[仁治]]3年([[1242年]])[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]||
|[[平安京]]・大内裏||寛喜3年2月12日([[1231年]][[3月17日]])<br /> - 仁治3年1月9日([[1242年]][[2月10日]])<br />12歳没
|-
|88||style="font-size:120%" |'''[[後嵯峨天皇]]'''||ごさが||||邦仁||[[ファイル:Emperor Go-Saga.jpg|70px]]||追号(遺諡)<br />加後号||仁治3年([[1242年]])[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]<br /> - [[寛元]]4年([[1246年]])[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]||
|[[平安京]]・大内裏||承久2年([[1220年]])2月26日<br /> - 文永9年([[1272年]])2月17日<br />53歳没
|-
|89||style="font-size:120%" |'''[[後深草天皇]]'''||ごふかくさ||||久仁||[[ファイル:Emperor Go-Fukakusa.jpg|70px]]||追号(遺諡)<br />加後号||寛元4年([[1246年]])[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]<br /> - [[正元 (日本)|正元]]元年([[1259年]])[[11月26日 (旧暦)|11月26日]]||
|[[平安京]]・大内裏||寛元元年6月10日([[1243年]][[6月28日]])<br /> - 嘉元2年7月16日([[1304年]][[8月17日]])<br />62歳没
|-
|90||style="font-size:120%" |[[亀山天皇|'''亀山天皇'''<br />(龜山天皇)]]||かめやま||||恒仁||[[ファイル:Emperor Kameyama.jpg|70px]]||追号(遺諡)<br />譲位後の在所||正元元年([[1259年]])[[11月26日 (旧暦)|11月26日]]<br /> - [[文永]]11年([[1274年]])[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]||
|[[平安京]]・大内裏||建長元年5月27日([[1249年]][[7月9日]])<br /> - 嘉元3年9月15日([[1305年]][[10月4日]])<br />57歳没
|-
|91||style="font-size:120%" |'''[[後宇多天皇]]'''||ごうだ||||世仁||[[ファイル:Emperor Go-Uda2.jpg|70px]]||追号(遺諡)<br />加後号||文永11年([[1274年]])[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]<br /> - [[弘安]]10年([[1287年]])[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]||
|[[平安京]]・大内裏||文永4年12月1日([[1267年]][[12月17日]])<br /> - 元享4年6月25日([[1324年]][[7月16日]])<br />58歳没
|-
|92||style="font-size:120%" |'''[[伏見天皇]]'''||ふしみ||||煕仁||[[ファイル:Emperor Fushimi.jpg|70px]]||追号<br />譲位後の在所||弘安10年([[1287年]])[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]<br /> - [[永仁]]6年([[1298年]])[[7月22日 (旧暦)|7月22日]]||
|[[平安京]]・大内裏||文永2年4月23日([[1265年]][[5月10日]])<br /> - 文保元年9月3日([[1317年]][[10月8日]])<br />53歳没
|-
|93||style="font-size:120%" |'''[[後伏見天皇]]'''||ごふしみ||||胤仁||[[ファイル:Emperor Go-Fushimi.jpg|70px]]||追号(遺諡)<br />加後号||永仁6年([[1298年]])[[7月22日 (旧暦)|7月22日]]<br /> - [[正安]]3年([[1301年]])[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]||
|[[平安京]]・大内裏||弘安11年3月3日([[1288年]][[4月5日]])<br /> - 延元元年4月6日([[1336年]][[5月17日]])<br />49歳没
|-
|94||style="font-size:120%" |[[後二条天皇|'''後二条天皇'''<br />(後二條天皇)]]||ごにじょう<br />(ごにでう)||||邦治||[[ファイル:Emperor Go-Nijō.jpg|70px]]||追号<br />加後号||正安3年([[1301年]])[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]<br /> - [[徳治]]3年([[1308年]])[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]||
|[[平安京]]・大内裏||弘安8年2月2日([[1285年]][[3月9日]])<br /> - 徳治3年8月25日([[1308年]][[9月10日]])<br />24歳没
|-
|95||style="font-size:120%" |'''[[花園天皇]]'''||はなぞの||||富仁||[[ファイル:Emperor Hanazono detail.jpg|70px]]||追号(遺諡)<br />譲位後の在所||[[延慶 (日本)|延慶]]元年([[1308年]])[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]<br /> - [[文保]]2年([[1318年]])[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]||
|[[平安京]]・大内裏||永仁5年7月25日([[1297年]][[8月14日]])<br /> - 正平3年11月11日([[1348年]][[12月2日]])<br />52歳没
|-
|96<br />([[南朝 (日本)|南]]1)||style="font-size:120%" |'''[[後醍醐天皇]]'''||ごだいご||||尊治||[[ファイル:Emperor Godaigo.jpg|70px]]||追号(遺諡)<br />加後号||文保2年([[1318年]])[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]<br />([[元弘]]元年([[1331年]])[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]南北朝分裂)<br /> - [[延元]]4年([[1339年]])[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]||
|[[平安京]]・大内裏</br>[[吉野行宮]]||正応元年11月2日([[1288年]][[11月26日]])<br /> - 延元4年8月16日([[1339年]][[9月19日]])<br />52歳没
|-
|97<br />(南2)||style="font-size:120%" |'''[[後村上天皇]]'''||ごむらかみ||||憲良<br />義良||[[ファイル:Emperor Go-Murakami.jpg|70px]]||追号<br />加後号、明治44年追諡||延元4年([[1339年]])[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]<br /> - [[正平 (日本)|正平]]23年([[1368年]])[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]||
|[[吉野行宮]]</br>[[賀名生行宮]]</br>[[男山八幡行宮]]</br>[[天野行宮]]</br>[[観心寺行宮]]</br>[[住吉行宮]]||嘉暦3年([[1328年]])<br /> - 正平23年3月11日([[1368年]][[3月29日]])<br />41歳没
|-
|98<br />(南3)||style="font-size:120%" |'''[[長慶天皇]]'''||ちょうけい<br />(ちゃうけい)||||寛成||||追号<br />在所(寺名・庵号)<br />[[大正]]15年追諡||正平23年([[1368年]])[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]<br /> - [[弘和]]3年([[1383年]])[[10月 (旧暦)|10月]]||
|[[住吉行宮]]</br>[[吉野行宮]]</br>[[天野行宮]]</br>[[栄山寺行宮]]||興国4年([[1343年]])<br /> - 応永元年8月1日([[1394年]][[8月27日]])<br />52歳没
|-
| nowrap="nowrap" |99<br />(南4)||style="font-size:120%" |[[後亀山天皇|'''後亀山天皇'''<br />(後龜山天皇)]]||ごかめやま||||煕成||[[ファイル:Emperor Go-Kameyama.jpg|70px]]||追号<br />加後号、明治44年追諡||弘和3年([[1383年]])[[10月 (旧暦)|10月]]<br /> - [[元中]]9年([[1392年]])[[10月5日 (旧暦)|閏10月5日]]||
|[[栄山寺行宮]]</br>[[吉野行宮]]||正平5年([[1350年]])?<br /> - 応永31年4月12日([[1424年]][[5月10日]])<br />75歳?没
|-
||[[北朝 (日本)|北]]1||style="font-size:120%"|[[光厳天皇|'''光厳天皇'''<br />(光嚴天皇)]]||こうごん<br />(くゎうごん)||(異称)正慶天子<br />持明院殿||量仁||[[ファイル:光厳法皇像.jpg|70px]]||追号(遺諡)<br />在所(寺名・庵号)||[[元徳]]3年([[1331年]])[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]<br /> - [[正慶]]2年([[1333年]])[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]||
|[[平安京]]・大内裏||正和2年7月9日([[1313年]][[8月1日]])<br /> - 貞治3年7月7日([[1364年]][[8月5日]])<br />52歳没
|-
|北2||style="font-size:120%" |'''[[光明天皇]]'''||こうみょう<br />(くゎうみゃう)||||豊仁||[[ファイル:Emperor Kōmyō.jpg|70px]]||追号(遺諡)<br />在所(寺名・庵号)||[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]<br /> - [[貞和]]4年([[1348年]])[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]||
|[[京都御所]]||元享元年12月23日([[1322年]][[1月11日]])<br /> - 康暦2年6月24日([[1380年]][[7月26日]])<br />59歳没
|-
|北3||style="font-size:120%" |'''[[崇光天皇]]'''|| すこう<br />(すくゎう)||||益仁<br />興仁||[[ファイル:Emperor Sukō by Kōtarō Miyake.jpg|70px]]||追号(遺諡 ||貞和4年([[1348年]])[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]<br /> - [[観応]]2年([[1351年]])[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]||現在の[[皇室]]と[[旧皇族]]11宮家(1947年皇籍離脱)の男系共通先祖。
|[[京都御所]]||建武元年4月22日([[1334年]][[5月25日]])<br /> - 応永5年1月13日([[1398年]][[1月31日]])<br />65歳没
|-
|北4||style="font-size:120%" |[[後光厳天皇|'''後光厳天皇'''<br />(後光嚴天皇)]]||ごこうごん<br />(ごくゎうごん)||||彌仁||[[ファイル:Emperor Go-Kōgon.jpg|70px]]||追号(遺諡)<br />加後号||観応3年([[1352年]])[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]<br /> - [[応安]]4年([[1371年]])[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]||
|[[京都御所]]||建武5年3月2日([[1338年]][[3月23日]])<br /> - 応安7年1月29日([[1374年]][[3月12日]])<br />37歳没
|-
|北5||style="font-size:120%" |[[後円融天皇|'''後円融天皇'''<br />(後圓融天皇)]]||ごえんゆう<br />(ごゑんゆう)||||緒仁||[[ファイル:Emperor Go-En'yū_detail.jpg|70px]]||追号(遺諡)<br />加後号||応安4年([[1371年]])[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]<br /> - [[永徳]]2年([[1382年]])[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]||
|[[京都御所]]||延文3年12月12日([[1359年]][[1月11日]])<br /> - 明徳4年4月26日([[1393年]][[6月6日]])<br />35歳没
|-
|北6<br />↓<br />100||style="font-size:120%" |'''[[後小松天皇]]'''||ごこまつ||||幹仁||[[ファイル:Emperor Go-Komatsu.jpg|70px]]||追号(遺諡)<br />加後号||[[永徳]]2年([[弘和]]2年)([[1382年]])[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]<br />([[明徳]]3年([[元中]]9年)([[1392年]])閏[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]南北朝統一)<br /> - [[応永]]19年([[1412年]])[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]||
|[[京都御所]]||永和3年(天授3年)6月27日([[1377年]][[8月1日]])<br /> - 永享5年10月20日([[1433年]][[12月1日]])<br />57歳没
|-
|101||style="font-size:120%" |[[称光天皇|'''称光天皇'''<br />(稱光天皇)]]||しょうこう<br />(しょうくゎう)||||躬仁<br />実仁||[[ファイル:Emperor Shōkō by Kōtarō Miyake.jpg|70px]]||追号<br />漢風諡号2つを合わせた追号(=稱德+光仁)、もしくは高祖父「光厳院」を「称」えるの意||応永19年([[1412年]])[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]<br /> - [[正長]]元年([[1428年]])[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]||
|[[京都御所]]||応永8年3月29日([[1401年]][[5月12日]])<br /> - 正長元年7月20日([[1428年]][[8月30日]])<br />28歳没
|-
|102||style="font-size:120%" |'''[[後花園天皇]]'''||ごはなぞの||||彦仁||[[ファイル:Emperor Go-Hanazono2.jpg|70px]]||追号<br />加後号||正長元年([[1428年]])[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]<br /> - [[寛正]]5年([[1464年]])[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]||
|[[京都御所]]||応永26年6月17日([[1419年]][[7月10日]])<br /> - 文明2年12月27日([[1471年]][[1月18日]])<br />53歳没
|-
|103||style="font-size:120%;white-space:nowrap;" |'''[[後土御門天皇]]'''||ごつちみかど||||成仁||[[ファイル:Emperor Go-Tsuchimikado.jpg|70px]]||追号<br />加後号||寛正5年([[1464年]])[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]<br /> - [[明応]]9年([[1500年]])[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]|||
|[[京都御所]]||嘉吉2年5月25日([[1442年]][[7月3日]])<br /> - 明応9年9月28日([[1500年]][[10月21日]])<br />59歳没
|-
|104||style="font-size:120%" |'''[[後柏原天皇]]'''||ごかしわばら<br />(ごかしはばら)||||勝仁||[[ファイル:Emperor_Go-Kashiwabara.jpg|70px]]||追号<br />加後号||明応9年([[1500年]])[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]<br /> - [[大永]]6年([[1526年]])[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]||
|[[京都御所]]||寛正5年10月20日([[1464年]][[11月19日]])<br /> - 大永6年4月7日([[1526年]][[5月18日]])<br />63歳没
|-
|105||style="font-size:120%" |'''[[後奈良天皇]]'''||ごなら||||知仁||[[ファイル:Emperor Go-Nara.jpg|70px]]||追号<br />加後号||大永6年([[1526年]])[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]<br /> -[[弘治 (日本)|弘治]]3年 ([[1557年]])[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]||
|[[京都御所]]||明応5年12月23日([[1497年]][[1月26日]])<br /> - 弘治3年9月5日([[1557年]][[9月27日]])<br />61歳没
|-
|106||style="font-size:120%" |'''[[正親町天皇]]'''||おおぎまち<br />(おほぎまち)||||方仁||[[ファイル:Emperor Ogimachi2.jpg|70px]]||追号<br />在所(二条殿)の面する町名||弘治3年([[1557年]])[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]<br /> - [[天正]]14年([[1586年]])[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]||
|[[京都御所]]||永正14年5月29日([[1517年]][[6月18日]])<br /> - 文禄2年1月5日([[1593年]][[2月6日]])<br />77歳没
|-
|107||style="font-size:120%" |'''[[後陽成天皇]]'''||ごようぜい<br />(ごやうぜい)||茶地丸||和仁<br />周仁||[[ファイル:Emperor Go-Yōzei2.jpg|70px]]||追号<br />加後号||天正14年([[1586年]])[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]<br /> - [[慶長]]16年([[1611年]])[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]||
|[[京都御所]]||元亀2年12月15日([[1571年]][[12月31日]])<br /> - 元和3年8月26日([[1617年]][[9月25日]])<br />47歳没
|-
|108||style="font-size:120%" |'''[[後水尾天皇]]'''||ごみずのお<br />(ごみづのを)||||政仁||[[ファイル:Emperor Go-Mizunoo3.jpg|70px]]||追号(遺諡)<br />加後号||慶長16年([[1611年]])[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]<br /> - [[寛永]]6年([[1629年]])[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]||
|[[京都御所]]||文禄5年6月4日([[1596年]][[6月29日]])<br /> - 延宝8年8月19日([[1680年]][[9月11日]])<br />85歳没
|-
|109||style="font-size:120%" |'''[[明正天皇]]'''||めいしょう<br />(めいしゃう)||女一宮||興子||[[ファイル:Meisho of Japan.jpg|70px]]||追号<br />漢風諡号2つを合わせた追号<br />(元明+元正)||寛永6年([[1629年]])[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]<br /> - 同20年([[1643年]])[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]||女帝。
|[[京都御所]]||元和9年11月19日([[1624年]][[1月9日]])<br /> - 元禄9年11月10日([[1696年]][[12月4日]])<br />73歳没
|-
|110||style="font-size:120%" |'''[[後光明天皇]]'''||ごこうみょう<br />(ごくゎうみゃう)||素鵞宮<br />(すがのみや)||紹仁||[[ファイル:Emperor Go-Kōmyō.jpg|70px]]||追号<br />加後号||寛永20年([[1643年]])[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]<br /> - [[承応]]3年([[1654年]])[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]||
|[[京都御所]]||寛永10年3月12日([[1633年]][[4月20日]])<br /> - 承応3年9月20日([[1654年]][[10月30日]])<br />22歳没
|-
|111||style="font-size:120%" |'''[[後西天皇]]'''||ごさい||秀宮<br>(ひでのみや)||良仁||[[ファイル:Emperor Go-Sai.jpg|70px]]||追号<br />加後号||承応3年([[1654年]])[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]<br /> - [[寛文]]3年([[1663年]])[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]||
|[[京都御所]]||寛永14年11月16日([[1638年]][[1月1日]])<br /> - 貞享2年2月22日([[1685年]][[3月26日]])<br />48歳没
|-
|112||style="font-size:120%" |[[霊元天皇|'''霊元天皇'''<br />(靈元天皇)]]||れいげん||高貴宮<br />(あてのみや)||識仁||[[ファイル:Emperor Reigen.jpg|70px]]||追号(遺諡)<br />漢風諡号2つを合わせた追号<br />(孝霊+孝元)||寛文3年([[1663年]])[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]<br /> - [[貞享]]4年([[1687年]])[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]|| style="text-align:left" | [[旧皇族]](1947年皇籍離脱)及び現皇室の[[最近共通祖先]]。
|[[京都御所]]||承応3年5月25日([[1654年]][[7月9日]])<br /> - 享保17年8月6日([[1732年]][[9月24日]])<br />79歳没
|-
|113||style="font-size:120%" |'''[[東山天皇]]'''||ひがしやま||五宮||朝仁||[[ファイル:Emperor Higashiyama.jpg|70px]]||追号<br />山陵||貞享4年([[1687年]])[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]<br /> - [[宝永]]6年([[1709年]])[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]||
|[[京都御所]]||延宝3年9月3日([[1675年]][[10月21日]])<br /> - 宝永6年12月17日([[1710年]][[1月16日]])<br />36歳没
|-
|114||style="font-size:120%" |'''[[中御門天皇]]'''||なかみかど||長宮<br />(ますのみや)||慶仁||[[ファイル:Emperor Nakamikado.jpg|70px]]||追号<br />在所に近い宮門||宝永6年([[1709年]])[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]<br /> - [[享保]]20年([[1735年]])[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]||
|[[京都御所]]||元禄14年12月17日([[1702年]][[1月14日]])<br /> - 元文2年4月11日([[1737年]][[5月10日]])<br />36歳没
|-
|115||style="font-size:120%" |[[桜町天皇|'''桜町天皇'''<br />(櫻町天皇)]]||さくらまち||若宮||昭仁||[[ファイル:Emperor Sakuramachi.jpg|70px]]||追号<br />譲位後の在所||享保20年([[1735年]])[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]<br /> - [[延享]]4年([[1747年]])[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]|| style="text-align:left" | 桜町天皇自身は「人皇'''百十六代'''孫昭仁」と署名している<ref>藤田覚『光格天皇』p.52。</ref>。
|[[京都御所]]||享保5年1月1日([[1720年]][[2月8日]])<br /> - 寛延3年4月23日([[1750年]][[5月28日]])<br />31歳没
|-
|116||style="font-size:120%" |'''[[桃園天皇]]'''||ももぞの||八穂宮<br />(やほのみや)||遐仁||[[ファイル:Emperor Momozono.jpg|70px]]||追号<br />由来不詳||延享4年([[1747年]])[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]<br /> - [[宝暦]]12年([[1762年]])[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]||
|[[京都御所]]||寛保元年2月29日([[1741年]][[4月14日]])<br /> - 宝暦12年7月12日([[1762年]][[8月31日]])<br />22歳没
|-
|117||style="font-size:120%" |[[後桜町天皇|'''後桜町天皇'''<br />(後櫻町天皇)]]||ごさくらまち||以茶宮(いさのみや)<br />緋宮(あけのみや)||智子||[[ファイル:Empress Go-Sakuramachi.jpg|70px]]||追号<br />加後号||宝暦12年([[1762年]])[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]<br /> - [[明和]]7年([[1770年]])[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]||現在、史上最後の女帝。
|[[京都御所]]||元文5年8月3日([[1740年]][[9月23日]])<br /> - 文化10年閏11月2日([[1813年]][[12月24日]])<br />74歳没
|-
|118||style="font-size:120%" |'''[[後桃園天皇]]'''||ごももぞの||||英仁||[[ファイル:Emperor Go-Momozono.jpg|70px]]||追号<br />加後号||明和7年([[1770年]])[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]<br /> - [[安永 (元号)|安永]]8年([[1779年]])[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]||
|[[京都御所]]||宝暦8年7月2日([[1758年]][[8月5日]])<br /> - 安永8年10月29日([[1779年]][[12月6日]])<br />22歳没
|-
|119||style="font-size:120%" |'''[[光格天皇]]'''||こうかく<br />(くゎうかく)||祐宮<br />(さちのみや)||師仁<br />兼仁||[[ファイル:Emperor Kōkaku.jpg|70px]]||諡号||安永8年([[1779年]])[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]<br /> - [[文化 (元号)|文化]]14年([[1817年]])[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]|| style="text-align:left" | [[閑院宮]]出身。現在、先帝の傍系たる宮家より即位した最後の天皇。なお、光格天皇自身は「神武'''百二十世'''兼仁」と署名しており、北朝を正統とする『[[本朝皇胤紹運録]]』に基づく歴代天皇代数を使用していた<ref> 「[https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Gallery/32a6ca4ba39d417e9ed5096d688b0e18?start=20&rows=20 書陵部所蔵目録・画像公開システム,ギャラリーバックナンバー,『光格天皇宸翰南無阿弥陀仏』]」 </ref>。
|[[京都御所]]||明和8年8月15日([[1771年]][[9月23日]])<br /> - 天保11年11月18日([[1840年]][[12月11日]])<br />70歳没
|-
|120||style="font-size:120%" |'''[[仁孝天皇]]'''||にんこう<br />(にんかう)||寛宮<br />(ゆたのみや)||恵仁||[[ファイル:Emperor Ninkō.jpg|70px]]||諡号||文化14年([[1817年]])[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]<br /> -[[弘化]]3年 ([[1846年]])[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]|| style="text-align:left" | 以後、徳仁まで[[皇太子]]による皇位継承。
|[[京都御所]]||寛政12年2月21日([[1800年]][[3月16日]])<br /> - 弘化3年1月26日([[1846年]][[2月21日]])<br />47歳没
|-
|121||style="font-size:120%" |'''[[孝明天皇]]'''||こうめい<br />(かうめい)||煕宮<br />(ひろのみや)||統仁||[[ファイル:Emperor_Komei_Portrait_by_Koyama_Shotaro_1902.png|70px]]||諡号||弘化3年([[1846年]])[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]<br /> - [[慶応]]2年([[1866年]])[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]|| style="text-align:left" | 孝明天皇自身は「'''百廿二代'''孫統仁」と署名している<ref> 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586903/398 宸翰栄華]』「宸筆御懐紙」 </ref>。
|[[京都御所]]||天保2年6月14日([[1831年]][[7月11日]])<br /> - 慶応2年12月25日([[1867年]][[1月30日]])<br />36歳没
|-
|122||style="font-size:120%" |'''[[明治天皇]]'''||めいじ<br />(めいぢ)||祐宮<br />(さちのみや)||睦仁||[[File:Meiji Tenno in 1873.jpg|70px]]||追号<br />[[一世一元の制]]による||慶応3年([[1867年]])[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]<br /> - [[明治]]45年([[1912年]])[[7月30日]]<ref group="表外参照">1912年7月30日は大正元年でもある。</ref> ||
|[[皇居]]||[[嘉永]]5年9月22日([[1852年]][[11月3日]])<br /> - 明治45年([[1912年]])[[7月30日]]<br />59歳没
|-
|123||style="font-size:120%" |'''[[大正天皇]]'''||たいしょう<br />(たいしゃう)||明宮<br />(はるのみや)||嘉仁||[[ファイル:Emperor Taishō.jpg|70px]]||追号<br />一世一元の制による||[[大正]]元年([[1912年]])[[7月30日]]<ref group="表外参照">1912年7月30日は明治45年でもある。</ref><br /> - 大正15年([[1926年]])[[12月25日]]<ref group="表外参照">1926年12月25日は昭和元年でもある。</ref>|| style="text-align:left" |[[大日本帝国憲法]]及び[[旧皇室典範]]に基づき即位。
|[[皇居]]||明治12年([[1879年]])<br />[[8月31日]]<br /> - 大正15年(1926年)12月25日<br />47歳没
|-
|124||style="font-size:120%" |'''[[昭和天皇]]'''||しょうわ<br />(せうわ)||迪宮<br />(みちのみや)||裕仁||[[ファイル:Emperor Showa 1956-11-face (cropped).jpg|70px]]||追号<br />一世一元の制による||[[昭和]]元年([[1926年]])[[12月25日]]<ref group="表外参照">1926年12月25日は大正15年でもある。</ref><br /> - 昭和64年([[1989年]])[[1月7日]]|| style="text-align:left" |大日本帝国憲法及び旧皇室典範に基づき即位。履中天皇(第17代)以降では、在位期間最長(62年2週間)であり、在位中に崩御した天皇としては最高齢。現在、史上最後の[[摂政]]経験者。
|[[皇居]]||明治34年([[1901年]])<br />[[4月29日]]<br /> - 昭和64年(1989年)<br />1月7日<br />87歳没
|-
|125||style="font-size:120%" |('''[[明仁|上皇]]''')<br />{{small|※追号・諡号<br />ではない}}<ref group="表外参照">[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]により定められた称号である。</ref>|| ||継宮<br />(つぐのみや)||明仁||[[ファイル:Emperor Akihito (2016).jpg |70px]]|| ||昭和64年([[1989年]])[[1月7日]]<ref group="表外参照">「[[一世一元の制]]」による「[[元号法]]」並びに「[[元号を改める政令 (昭和六十四年政令第一号)]]」の規定により、「[[平成]]」に改元したのは、翌[[1月8日|8日]]。</ref><br /> - [[平成]]31年([[2019年]])[[4月30日]] || style="text-align:left" |[[日本国憲法]]及び現[[皇室典範]]に基づいて即位した最初の天皇。また、[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]に基づいて、憲政史上初めてかつ最高齢で譲位した天皇でもある。歴代最長寿の天皇。
|[[皇居]]||昭和8年([[1933年]])<br />[[12月23日]]<br /> - 存命中<br />{{年数|1933|12|23}}歳
|-
|126||style="font-size:120%" |('''[[徳仁|今上天皇]]''')<br />{{small|※追号・諡号<br />ではない}}||| ||浩宮<br />(ひろのみや)||徳仁||[[ファイル:Naruhito and Masako visit Bogor Palace 48 (cropped).jpg|70px]]|| ||[[令和]]元年([[2019年]])[[5月1日]]<br /> - 在位中|| style="text-align:left" |戦後かつ日本国憲法及び現皇室典範下の生まれで即位した初の天皇。
|[[皇居]]||昭和35年([[1960年]])<br />[[2月23日]]<br /> - 存命中<br />{{年数|1960|2|23}}歳
|}
{{-}}
{{reflist|group="表外参照"}}
== 記録 ==
=== 在位期間の長い天皇 ===
* [[日本書紀]]が記す在位年数に疑問が呈される「初代[[神武天皇]]から第25代[[武烈天皇]]まで」をも含めた長期在位記録は次の通り。
# [[孝安天皇]](第6代): 18264日(102年)→9132日(51.0年)
# [[垂仁天皇]](第11代): 17726日(100年)→8863日(50.0年)
# [[仁徳天皇]](第16代): 15719日(87年)→7860日(43.5年)
# [[孝昭天皇]](第5代): 14818日(83年)→7409日(41.5年)
# [[神武天皇]](初代): 13584日(76年)→6792日(38.0年)
# [[孝霊天皇]](第7代): 13541日(76年)→6771日(38.0年)
# [[崇神天皇]](第10代): 12379日(68年)→6190日(34.0年)
# [[昭和天皇]](第124代): 22660日(62年)
# [[成務天皇]](第13代): 10750日(61年)→5375日(30.0年)
# [[開化天皇]](第9代): 10740日(61年)→5370日(30.5年)
# [[景行天皇]](第12代): 10710日(60年)→5355日(30.0年)
# [[孝元天皇]](第8代): 10093日(57年)→5047日(28.5年)
* 文献に書かれた年数の正確性にほぼ疑問が無いとされる欽明天皇(第29代)以降に限る場合は次の通り。
# [[昭和天皇]](第124代): 22660日(62年)
# [[明治天皇]](第122代): 16604日(45年5か月)
# [[光格天皇]](第119代): 13641日(37年4か月)
# [[後土御門天皇]](第103代): 13211日(36年2か月)
# [[後花園天皇]](第102代): 13133日(35年11か月)
# [[推古天皇]](第33代): 12875日(35年3か月)
# [[醍醐天皇]](第60代): 12127日(33年2か月)
# [[欽明天皇]](第29代): {{age in days|539|12|5|571|4|15}}日({{Age in years and months|539|12|5|571|4|15|to=none}})
# [[後奈良天皇]](第105代): 11434日(31年3か月)
# [[後小松天皇]](北朝6→第100代): 11093日<ref group="注釈">北朝天皇としての在位期間10年を含む。</ref>(30年4か月)
#[[明仁]](第125代): 11071日(30年3か月)
# [[正親町天皇]](第106代): 10613日(29年1か月)
# [[後村上天皇]](第97代): 10421日(28年6か月)
# [[仁孝天皇]](第120代): 10341日(28年3か月)
# [[後柏原天皇]](第104代): 9315日(25年6か月)
=== 長寿の天皇(天皇の宝算の長さ) ===
* [[明仁]]を除き、[[崩御]]時の満年齢。括弧内は数え年。※は退位後に崩御。
# [[景行天皇]](第12代): 143歳
# [[仁徳天皇]](第16代): 143歳
# [[垂仁天皇]](第11代): 139歳
# [[孝安天皇]](第6代): 137歳
# [[孝霊天皇]](第7代): 128歳
# [[神武天皇]](初代): 127歳
# [[崇神天皇]](第10代): 119歳
# [[孝元天皇]](第8代): 116歳
# [[孝昭天皇]](第5代): 114歳
# [[応神天皇]](第15代): 111歳
# [[成務天皇]](第13代): 107歳
# [[明仁]](第125代): {{Age in years and months|1933|12|23|age=yes|to=none}}({{年数|1932|1|1}}歳)
# [[昭和天皇]](第124代): 87歳8か月(89歳)
# [[後水尾天皇]](第108代): 84歳2か月(85歳)※
# [[綏靖天皇]](第2代): 84歳
# [[継体天皇]](第26代): 82歳
# [[陽成天皇]](第57代): 80歳9か月(82歳)※
* 文献に書かれた年数の正確性にほぼ疑問が無いとされる欽明天皇(第29代)以降に限る場合は次の通り。
# [[明仁]](第125代): {{Age in years and months|1933|12|23|age=yes|to=none}}({{年数|1932|1|1}}歳)
# [[昭和天皇]](第124代): 87歳8か月(89歳)
# [[後水尾天皇]](第108代): 84歳2か月(85歳)※
# [[陽成天皇]](第57代): 80歳9か月(82歳)※
# [[霊元天皇]](第112代): 78歳2か月(79歳)※
# [[白河天皇]](第72代): 76歳(77歳)※
# [[推古天皇]](第33代): 75歳
=== 高齢で即位(践祚)した天皇 ===
* ただし、文献の正確性が高い欽明天皇(第29代)以降に限る。即位([[践祚]])時の[[満年齢]]。括弧内は[[数え年]]。
# [[光仁天皇]](第49代): 61歳(62歳)
# [[徳仁]](第126代): 59歳(60歳)
# [[明仁]](第125代): 55歳(57歳)
# [[光孝天皇]](第58代): 54歳(55歳)
# [[孝徳天皇]](第36代): 49歳(50歳)
# [[斉明天皇|皇極天皇]](第35代): 48歳(49歳)
* なお、皇極天皇は斉明天皇(第37代)として61歳(62歳)で[[重祚]]している。
=== 在位期間の短い天皇 ===
# [[仲恭天皇]](第85代): 78日(2か月)
# [[弘文天皇]](第39代): 226日(7か月)
# [[用明天皇]](第31代): 596日(1年7か月)
# [[光厳天皇]](北朝1代): 625日(1年8か月)
# [[花山天皇]](第65代): 677日(1年10か月)
=== 年少で即位(践祚)した天皇 ===
* 即位([[践祚]])時の[[満年齢]]。括弧内は[[数え年]]。
# [[六条天皇]](第79代): 0歳7か月(2歳)
# [[安徳天皇|安德天皇]](第81代): 1歳4か月(3歳)
# [[四条天皇]](第87代): 1歳7か月(2歳)
# [[土御門天皇]](第83代): 2歳1か月(4歳)
# [[仲恭天皇]](第85代): 2歳6か月(4歳)
=== 早世した天皇 ===
* 崩御時の満年齢。括弧内は数え年。※は退位後に崩御。
# [[安徳天皇]](第81代): 6歳4か月(8歳)
# [[四条天皇]](第87代): 10歳10か月(12歳)
# [[六条天皇]](第79代): 11歳7か月(13歳)※
# [[仲恭天皇]](第85代): 15歳7か月(17歳)※
# [[近衛天皇]](第76代): 16歳2か月(17歳)
== 歴代外天皇(公式)==
=== 北朝天皇 ===
{{seealso|[[北朝 (日本)]]}}
{{seealso|[[南北朝正閏論]]}}
明治時代まで歴代天皇に数えられていたものの、明治時代に南北朝正閏問題が政治問題になり、歴代天皇から除外された。ただし、明治天皇の配慮により、[[宮中祭祀]]などでは天皇として扱われている。その後、南朝正統は、歴史的事実からの乖離や論理的な誤りが指摘され現在では両朝並立が原則とされるが、依然として南朝正統に基づく歴代天皇代数は修正されていない。
* [[光厳天皇]] ー [[後鳥羽天皇]]の先例をもとに[[後伏見上皇]]の詔宣で[[践祚]]。降伏した[[後醍醐天皇]]より伝来の三種の神器を継承し、[[即位礼]]及び[[大嘗祭]]を挙行。後醍醐天皇に廃位されるも、足利尊氏と共に[[建武政権]]を打倒し、[[光明天皇]]を即位させる。北朝に於いて15年間[[院政]]を行う。明治時代まで一般的に用いられてきた『[[本朝皇胤紹運録]]』では'''第96代天皇'''<ref name="名前なし-20231105130946">片山杜秀『尊皇攘夷―水戸学の四百年』2021、p.197。</ref>。
* [[光明天皇]] ー 光厳上皇の詔宣で践祚。後醍醐天皇より三種の神器を継承し、即位礼及び大嘗祭を挙行。[[貞和]]4年に[[崇光天皇]]へ譲位。『本朝皇胤紹運録』では'''第97代天皇'''<ref name="名前なし-20231105130946"/>。
* [[崇光天皇]] ー 光明天皇の譲位によって践祚。即位礼を挙行するも[[観応の擾乱]]勃発によって大嘗祭を挙行出来なかった。[[正平一統]]によって廃位。『本朝皇胤紹運録』では'''第98代天皇'''<ref name="名前なし-20231105130946"/>。
* [[後光厳天皇]] ー [[正平一統]]後の北朝消滅による混乱を鎮めるため、[[継体天皇]]の「群臣義立」の先例をもとに践祚。のちに即位礼及び大嘗祭を挙行する。[[持明院統]]嫡流ではない自身の皇子(後円融天皇)に譲位したため、持明院統嫡流と定められた崇光天皇系統([[伏見宮]])の皇族と後光厳天皇系統の天皇に深刻な対立が生じてしまった。『本朝皇胤紹運録』では'''第99代天皇'''<ref name="名前なし-20231105130946"/>。
* [[後円融天皇]] ー 後光厳天皇の譲位によって践祚し、即位礼及び大嘗祭を挙行する。崇光上皇を警戒しながら、自身の皇子([[後小松天皇]])に譲位し、院政を行う。『本朝皇胤紹運録』では'''第100代天皇'''<ref name="名前なし-20231105130946"/>。
=== 追尊天皇 ===
薨去の後に天皇の尊号を諡された者である。崇道天皇を除き、薨後にその子が天皇に即位したことによる。
* 岡宮天皇 - [[草壁皇子]]。40代[[天武天皇]]の[[皇太子]]で、42代[[文武天皇]]・44代[[元正天皇]]の父。即位前に病没し、「岡宮御宇天皇(おかみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「長岡天皇」とも。
* 尽敬天皇 - [[舎人親王]]。47代[[淳仁天皇]]の父。子の即位により「崇道尽敬皇帝」を追尊。「崇道尽敬皇帝(旧字体表記、崇道盡敬皇帝)」とも。
* 春日宮天皇 - [[志貴皇子]]。49代[[光仁天皇]]の父。子の即位により「春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「田原天皇」とも。
* 崇道天皇 - [[早良親王]]。50代[[桓武天皇]]の弟で廃太子([[785年]](延暦4年)[[崩御#薨去|薨去]])。[[800年]](延暦19年)、「崇道天皇」を追尊。
* 陽光天皇 - [[誠仁親王]]。107代[[後陽成天皇]]の父。106代正親町天皇の東宮だったが即位前に薨去。太上天皇、院号「陽光院」を追尊。「陽光院太上天皇」とも。
* 慶光天皇 - [[閑院宮典仁親王]]。119代[[光格天皇]]の父。[[1884年]](明治17年)、贈太上天皇、諡号「慶光天皇」を追尊。 → [[尊号一件]]
=== 追号天皇 ===
* 後高倉院 - [[守貞親王]]。86代[[後堀河天皇]]の父。[[承久の乱]]の結果、緊急に皇嗣が回ってきたが親王は既に出家していたため即位できず、子の後堀河天皇が即位する。同時に当人は天皇の父として[[治天の君]]となり、皇位を経ずして[[法皇|太上法皇]](出家していたため「法皇」)となり[[院政]]を執る。崩御後に[[院号]](後高倉院)を贈られた。[[皇統譜]]では「'''後高倉天皇'''」。
* 後亀山院 - 第99代'''[[後亀山天皇]]'''。明徳の和約の2年後、太上天皇の尊号を贈られる。北朝方の強い反発により、朝廷では異例の16日間にわたる議論が続き、最終的には足利義満の意向により実現したが、「不登極帝」(正式には天皇に即位していない者)への尊号授与であることが強調された。明治44年(1911年)に南朝が正統とされ、歴代天皇として公認されるようになった。
* 後崇光院 - [[伏見宮貞成親王]]。102代[[後花園天皇]]の父。上記の後高倉院と後亀山院の事例を先例として、生前に太上天皇尊号宣下、院号「後崇光院」。皇統譜では「'''後崇光天皇'''」。
== 歴代外天皇(非公式)==
=== 天皇だったのではないかと考えられている者 ===
* [[飯豊青皇女]] - 履中天皇の娘(孫とする異説あり)。22代[[清寧天皇]]の崩御後、23代顕宗天皇・24代[[仁賢天皇]]が皇位を譲り合っている間、天皇としての政務を行っていた。『[[先代旧事本紀大成経]]』では「[[飯豊青皇女|清貞天皇]]」の[[諡号]]が贈られている。『[[扶桑略記]]』などには「飯豊天皇」とある。
* [[間人皇女]] - 34代[[舒明天皇]]の皇女、36代[[孝徳天皇]]の[[皇后]]。37代[[斉明天皇]]の崩御後、38代[[天智天皇]]即位までの間即位していたとする説がある。『[[万葉集]]』の「中皇命(なかつすめらみこと)」は間人皇女だという。
=== 戦争中に擁立されて敗れた天皇 ===
* [[塩焼王]] - [[天武天皇]]の孫で、[[新田部親王]]の子。[[天平宝字]]8年(764年)、[[藤原仲麻呂の乱|恵美押勝の乱]]で、[[藤原仲麻呂|恵美押勝]]から「今帝」として擁立される。しかし、朝廷軍の前に恵美押勝軍は敗北、逃走中に捕縛され斬殺される。
* [[恒良親王]] - 96代[[後醍醐天皇]]の[[皇子]]。皇太子であった親王が北陸へ派遣される際に皇位と三種の神器を譲られた。「[[綸旨]]」を発給するなど天皇として活動するが、後醍醐が吉野へ逃れいわゆる[[南朝 (日本)|南朝]]を設立したことにより即位は無意味となる。詳細は「[[北陸朝廷]]」を参照。
* [[北白川宮能久親王]] - 日光[[輪王寺]][[門跡]]時代の[[1868年]](明治元年)、[[奥羽越列藩同盟]]により「東武皇帝」に推戴されたとの説がある。アメリカ公使が本国に報告しているほか、当時の新聞に同様の記事がある<ref>ニューヨーク・タイムズ 1868年10月18日号に「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(日本:北部が擁立した新帝)」とある。</ref>。
=== 伝号天皇 ===
日本武尊と市辺押磐皇子の二人については、本人の薨去の後その息子が即位して天皇になっているため、上記の「追尊天皇」の先行形態とみる説がある。
* [[ヤマトタケル|日本武尊]] - 14代[[仲哀天皇]]の父。『[[常陸国風土記]]』において「倭武天皇」、「倭建天皇」と記す例がある。
* [[神功皇后]] - 14代仲哀天皇の后で15代[[応神天皇]]の母。[[江戸時代]]までは歴代天皇の一人(15代)に数えた史書があった。江戸時代の偽書『[[大成経]]』に「神功天皇」とある。
* [[菟道稚郎子]] - 15代[[応神天皇]]皇太子。『[[播磨国風土記]]』に「宇治天皇」とある。
* [[市辺押磐皇子]] - 17代[[履中天皇]]皇子。23代[[顕宗天皇]]の父。『播磨国風土記』に市辺天皇とある。
== 関連人物の一覧 ==
=== 天皇に準ずる立場にあった者 ===
* [[蘇我馬子]]・[[蘇我蝦夷]]・[[蘇我入鹿]] - 大臣。[[蘇我氏]]は[[皇別氏族]]であり、大王家と二重三重の縁戚ではあったが、あくまで人臣であった。それにも関わらず、蘇我氏の邸宅は「宮門(みかど)」と呼ばれ、子は[[皇子]]に準じた扱いを受けた。
* [[聖徳太子]] - 『日本書紀』では「豊聡耳法大王」、「法主王」と記す例がある。『[[隋書]]』に記述された俀王[[多利思比孤]]は聖徳太子を指すとする説もある。
* [[道鏡|弓削道鏡]] - 48代[[孝謙天皇|称徳天皇]]の寵愛を受け、「[[法王]]」に就任し天皇に準ぜられた。後世の史書においては弓削法皇という表記もある。
* [[敦明親王]]('''小一条院''') - 67代[[三条天皇]]皇子。[[1016年]](長和5年)、[[東宮]]。当時の権力闘争のキーパーソンとなり、翌[[1017年]](寛仁元年)に自ら東宮を退き、交換条件の形で院号宣下を受け[[太上天皇]]に准ずる。
* [[西陣南帝]] - 南朝の[[皇胤]]。名や系譜は不明。[[応仁の乱]]の際、[[山名宗全]](西軍)により擁立されたが天皇を称した訳ではない。
* [[女院]] - [[東三条院]]に始まる女院の制度は、基本的に院すなわち太上天皇に準ずる制度である。前項の小一条院の例も女院の制に倣ったものである。
=== 日本国王(対外的に天皇に準ずる者) ===
* [[懐良親王]] - 後醍醐天皇の皇子。南朝方の征西将軍として九州に勢力を張り、[[明]]から[[倭寇]]の取り締まりを求められ「[[日本国王]]」の冊封を受ける。
* [[足利義満]] - [[室町幕府]]3代[[征夷大将軍|将軍]]。[[准后|准三宮]](三宮(皇后・皇太后・太皇太后)に準じた待遇)を受ける。以降の将軍も含め、[[明]]より「日本国王」の冊封を受ける。没後、太上天皇の宣下を受けるが[[室町幕府|幕府]]はこれを辞退する。院号「鹿苑院」。
* [[徳川氏|徳川将軍]] - 対外的な称号を「日本国大君」から一時的に「日本国王」に変更したことがある。
=== 自称天皇 ===
* [[平将門]] - [[桓武天皇]]5世孫。[[940年]](天慶3年)、関東に独立勢力を築き上げ、八幡神の託宣により「新皇」に即位するも同年敗死。
* [[金蔵主]](尊義王、空因) - 後亀山天皇の弟([[護聖院宮]][[惟成親王]])の孫?、もしくは後亀山天皇の子である小倉宮恒敦の子?。後南朝初代、[[禁闕の変]]で死去。
* [[自天王]](自天勝公) - 諱は尊秀。系譜、実名ともに不明である([[自天王]]と[[尊秀王]]は別人であるともされている)。自ら天皇を称して[[奥吉野]]で即位。[[長禄]]元年12月、[[赤松氏]]の遺臣により暗殺される([[長禄の変]])。(※後世の後南朝伝説では後南朝の2代天皇、[[後亀山天皇]]の曾孫(あるいは惟成親王の曾孫)、[[中興天皇]]の息子という設定)
* [[南天皇]](尊雅王) - 小倉宮恒敦の子?。後南朝3代。
* [[西陣南帝]] - 系譜不詳、[[小倉宮]]を称す。後南朝4代。以後、後南朝は史書より姿を消す。
=== 自称天皇(近現代)===
歴史上、天皇を自称した人物。参考文献は『天皇家歴史大事典』(別冊[[歴史読本]]、[[新人物往来社]]、2000年)211頁以下、[[保阪正康]]『天皇が十九人いた』([[角川文庫]]、2001年)14頁以下、中見利男『偽天皇事件に秘められた日本史の謎 (別冊宝島 2192)』([[宝島社]]、2014年)108頁以下による。<!--独立ページがあるか、社会的に大きな影響を与えた人物のみを収録してください。-->
* [[葦原金次郎]] - [[日露戦争]]期に葦原将軍、[[昭和]]10年代に「葦原天皇」を自称した。奇抜な言動や行動で大衆や[[新聞記者]]に人気があった[[東京都立松沢病院|松沢病院]]の[[精神病]]患者。
* [[熊沢寛道]] - 96代後亀山天皇第19世の子孫、南朝第118代の「熊沢天皇」と称し、諱を尊熟と自称する。後に法皇を自称。なお、熊沢天皇と称した人物はほかに5人いる。
* [[植本一雄]] - [[作曲家]]。南朝の皇統の継承者と霊示されたといい、[[1952年]](昭和27年)、[[明仁|明仁親王]]より80日早く[[立太子礼]]を行い、「植本天皇」と称した。[[世界あじろ木同盟]]を主宰。
* [[璽光尊]] - 戦後新たに天皇を名乗った人。元号を霊寿と改め、天皇や皇族、そして[[ダグラス・マッカーサー]]に自らの皇居参内を命じ、やがて金沢に[[遷都]]し、私造[[紙幣]]をも発行した[[新宗教|新興宗教]]の[[開祖|教祖]]。
* [[長浜豊彦]] - [[鹿児島県]][[硫黄島 (鹿児島県)|硫黄島]]で81代安徳天皇の末裔を主張。「長浜天皇」と称した。長浜天皇と称した人物はほかにも1名いる。
* [[三浦芳聖]] - [[愛知県]][[豊川市]]で、98代[[長慶天皇]]の末裔で[[後醍醐天皇]]の皇子・[[尊良親王]]の生まれ変わりだと主張し、「三浦天皇」を称した。「神風串呂」なる[[神道霊学]]を立ち上げ、「天皇は狸に祟られている」と吹聴した。
== 創作に登場する架空の天皇 ==
=== 源氏物語にあらわれる天皇 ===
* [[桐壺帝]]
* [[冷泉帝]]
* [[朱雀帝]]
* [[今上帝]]
=== 後南朝伝説にあらわれる天皇 ===
(※これらのことは'''同時代史料では確認できず、初出は江戸時代以降''')
* [[中興天皇]](金蔵主) - [[後南朝]]の初代天皇とされる。99代[[後亀山天皇]]の[[皇子]]・[[小倉宮]][[良泰親王]]の子、あるいは[[後亀山天皇]]の弟[[護聖院宮]][[惟成親王]]の孫。諱は尊義。[[嘉吉]]3年([[1443年]])9月に即位したという。[[禁闕の変]]で三種の神器のうち二つを奪うが、死去。吉野北山に[[崩御]]したとも。
* [[南天皇]] - 後南朝の3代天皇。後亀山天皇の孫、小倉宮良泰親王の皇子。諱は尊雅。長禄2年(1457年)8月、赤松家の遺臣により斬られ、その傷が元で熊野の光福寺で崩ず。
== 脚注 ==
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===注釈===
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===出典===
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== 関連項目 ==
* [[皇室の系図一覧]]
* [[本朝皇胤紹運録]] - 明治時代まで一般的であった歴代天皇代数及び系譜
* [[上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧]]
* [[日本の皇后一覧]]
* [[宮家一覧]]
* [[ヤマト王権]]
* [[倭国]]
== 外部リンク ==
* [https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/index.html 宮内庁>天皇陵] - 歴代天皇の天皇陵、および歴代天皇に関する情報の一覧
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3,852 | 宇多天皇 | 宇多天皇(うだてんのう、867年6月10日〈貞観9年5月5日〉- 931年9月3日〈承平元年7月19日〉)は、日本の第59代天皇(在位:887年9月17日〈仁和3年8月26日〉- 897年8月4日〈寛平9年7月3日〉)。 諱は定省(さだみ)。
後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にあたる天皇である(詳細は皇子女の欄参照)。
光孝天皇の第七皇子であり、母は皇太后班子女王(桓武天皇の皇子仲野親王の娘)であった。父帝光孝は、先代陽成天皇の大叔父にあたり、陽成が不祥事によって退位させられたために即位に至ったことから、自身の後は陽成の同母弟貞保親王など嫡流に皇位が戻ることを考え、元慶8年(884年)6月に26人の皇子皇女に源姓を賜い臣籍降下させた。定省王もその一人であり、源定省(みなもと の さだみ)と称した。定省が陽成に王侍従として仕えていた時、殿上の間の御椅子の前で在原業平と相撲をとり二人の体が椅子にぶつかって手すりが折れた逸話が残っている。
光孝は立太子を決することのないまま、即位から3年後の仁和3年(887年)に重態に陥った。関白藤原基経は、天皇の内意が貞保親王ではなく源定省にあるとした。貞保は皇統の嫡流に近く、また基経にとっても甥ではあったが、その母藤原高子は基経とは同母兄妹ながら不仲という事情もあったため忌避された。一方、基経自身は特に定省を気に入っていたわけではない ものの、定省は基経の仲の良い異母妹藤原淑子の猶子であり、天皇に近侍する尚侍(ないしのかみ)として後宮に強い影響力を持つ淑子が熱心に推したこともあり、朝議は決した。同母兄の源是忠を差し置いて弟の定省が皇位を継ぐことには差し障りもあったため、基経以下の群臣の上表による推薦を天皇が受け入れて皇太子に立てる形が取られた。定省は8月25日に皇族に復帰して親王宣下を受け、翌26日に立太子したが、その日のうちに光孝が崩じたため践祚し、11月17日に即位した。
宇多は即位後間もない11月21日に、基経に再び関白としての役割を果たすよう勅書を送った。しかしこの手続きの際に左大弁橘広相の起草した「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」の文言に基経が立腹し、政務を拒んで自邸に引き籠もってしまう。翌年6月になって宇多はついに折れ、勅書を取り消した上に広相を解官せざるを得なかった。寛平3年(891年)1月に基経が死去するに及んで、宇多はようやく親政を開始することができた。なお宇多が勅願寺として仁和寺を建立したのは、この阿衡事件の最中の仁和4年のことである。
宇多天皇は基経の嫡子時平を参議にする一方で、源能有など源氏や菅原道真、藤原保則といった藤原北家嫡流から離れた人物も抜擢した。この期間には遣唐使の停止、諸国への問民苦使の派遣、昇殿制の開始、日本三代実録・類聚国史の編纂、官庁の統廃合などが行われた。また文化面でも寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、これらが多くの歌人を生み出す契機となった。
宇多は寛平9年7月3日(897年8月4日)に突然皇太子敦仁親王を元服させ、即日譲位し、太上天皇となる。この宇多の突然の譲位は、かつては仏道に専心するためと考えるのが主流だったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためこれを行った、あるいは前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して己の皇統の正統性を示したなどとも考られている(後述の『大鏡』にある陽成上皇の言がその暗示と考えられている)。譲位にあたって書かれた『寛平御遺誡』には右大臣源能有の死に強い衝撃を受けたことが書かれており、これを譲位と結びつける見方もある。
新たに即位した醍醐には自らの同母妹為子内親王を正妃に立て、藤原北家嫡流が外戚となることを防ごうとした。また譲位直前の除目で菅原道真を権大納言に任じ、大納言で太政官最上席だった時平の次席としたうえで、時平と道真の双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた。しかしこの人事は権門の公家には不評で、公卿が職務を拒むという事件に発展した。道真は宇多に願ってかかる公卿らに出仕を命じてもらい、ようやく新政がスタートした。
宇多は譲位後も道真の後ろ盾となり、時平の独走を防ごうとしていたが、一方で仏道に熱中し始めた。昌泰2年(899年)10月24日には出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入って法皇となった。さらに高野山、比叡山、熊野三山にしばしば参詣し、道真の援助を十分に行えなくなった。
昌泰4年(901年)正月、道真は宇多の子で自らの婿でもある斉世親王を皇位に即けようとしていたという嫌疑で、大宰府へ左遷された。この知らせを受けた宇多は急遽内裏に向かったが、宮門は固く閉ざされ、その中で道真の処分は決定してしまった。日本史学者の河内祥輔は、宇多は自己の皇統の安定のために醍醐の皇太子決定を急ぎ、結果的に当時男子のいなかった醍醐の後継をその弟から出すことを考えるようになった。加えて醍醐が許した基経の娘・藤原穏子の入内にも反対したために、これに反発した醍醐が時平と図って法皇の代弁者とみなされた道真を失脚させたという説を提示している。
延喜元年(昌泰4年を改元)12月13日、宇多は受戒の師を益信として東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となった。これによって宇多は弟子の僧侶を取って灌頂を授ける資格を得た。宇多の弟子になった僧侶は彼の推挙によって朝廷の法会に参加し、天台宗に比べて希薄であった真言宗と朝廷との関係強化や地位の向上に資した。そして真言宗の発言力の高まりは宇多の朝廷への影響力を回復させる足がかりになったとされる。延喜21年(921年)10月27日に醍醐から真言宗を開いた空海に「弘法大師」の諡号が贈られているが、この件に関する宇多の直接関与の証拠はないものの、醍醐の勅には太上法皇(宇多)が空海を追憶している事を理由にあげている。
宇多の動きを牽制し続けていた藤原時平が延喜9年(909年)に没し、宇多に近い弟の忠平が実権を握ると、宇多の朝廷への影響力を回復させることになる。延喜15年(915年)、忠平の嫡男実頼(後の関白)が元服した際に醍醐に対して実頼への叙爵を指示している(『北山抄』巻三・拾遺雑抄上、内宴事)。その後も忠平を介する形で天皇への働きかけを行っている。
延喜13年3月13日(913年4月22日)には後院の亭子院で大掛かりな歌合「亭子院歌合」を開いた。これは国風文化の盛行の流れを後押しするものとなった。 延喜11年(911年)6月15日、亭子院の水閣を開いた時、臣から酒豪を選んで宴に招き、酒を賜り酒量を競わせた。(亭子院酒合戦)。
醍醐の健康状態が悪化していくと、宇多がその代理として政務を代行する場面が登場するようになる。そして、延長8年(930年)に醍醐が崩御すると、「天皇の遺詔」があったとして新帝朱雀天皇の摂政となった藤原忠平の要請を受ける形でその後見となっている。
承平元年7月19日(931年9月3日)に崩御。宝算65。日記に『宇多天皇御記』がある。
陽成上皇との関係は微妙だった。宇多は皇位に即く前に侍従として陽成の側に仕えており、神社行幸の際には舞を命じられたこともあった。『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話 が残っているが、陽成が復位を画策しているという風説は宇多を悩ませた。
保延年間に書かれた『長秋記』(保延元年6月7日条)によれば、陽成上皇が宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとしたために、上皇といえども勅許なく内裏に入る事は罷りならないとこれを退けたが、後に昌泰の変が起きた際には醍醐天皇に菅原道真の左遷を止めさせようとして内裏に入ろうとした宇多上皇自身がこの先例を盾にそれを阻まれたという記載がある。
ただし、宇多上皇が内裏に入るのを拒まれたのは、薬子の変の教訓から成立した原則によるもので、陽成・宇多両上皇のケースはこの原則に基づいたものとする考えもある。
宇多天皇から見て光仁天皇は男系(父方・光孝天皇)では5世祖であるが、女系(母方・班子女王)では高祖父にあたる。
宇多天皇の若年時からの妻は藤原胤子・橘義子などで、宇多天皇が臣籍降下し源氏となっていた頃に生まれた第一皇子敦仁親王(後の醍醐天皇)・第二皇子斉中親王・第三皇子斉世親王は生誕時は源氏であった。
女御藤原温子は関白藤原基経の娘で、宇多天皇即位後に入内した。女御藤原胤子が病没後、皇太子敦仁親王の養母となり、醍醐天皇即位に伴い、皇太夫人となる。晩年は東七条宮(亭子院)に住んだため、東七条后、七条后とも呼ばれた。
橘義子所生の斉世親王は、菅原道真の女を妻としたことから、後年菅原道真の誣告に際してその名が取り沙汰された。また女御菅原衍子は道真の女である。
宇多天皇の孫は、ほとんどが源氏の姓を賜り、臣籍降下した。 宇多天皇から出た源氏を宇多源氏といい、敦実親王から出た系列が最も栄えた。敦実親王の子源雅信は左大臣を務め、その娘倫子は藤原道長の正室となり、上東門院(一条天皇の中宮藤原彰子)や関白藤原頼通の母となった。朝廷貴族としての地位を維持した子孫としては、公家の庭田家や綾小路家(ともに羽林家)などがあり、また雅信から近江に土着した武家の佐々木氏が出ている。
『大和物語』において、宇多天皇は亭子院、敦慶親王は故式部卿の宮、依子内親王は「女五のみこ」、孚子内親王は「桂のみこ」として、それぞれ登場する。
通説では譲位後の在所の名称より宇多天皇と追号されたと言われているが、実際の居宅は仁和寺・亭子院・六条院を主としていたという(宇多院は元は父の光孝天皇の親王時代の邸宅で、宇多天皇はここで成長したからだという説もある)。 また、寛平法皇、亭子院(ていじのいん)、朱雀院太上天皇などの名称でも呼ばれた。
天神縁起『日蔵夢記』では、満徳法主天という神になったという。別称 日本金剛覚大王、日本金剛蔵王、日本僧本。日本太政威徳天となった菅原道真を慰撫し、その眷属が暴れまわるのを、蔵王菩薩、八幡大菩薩と共に食い止めているという。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷にある大内山陵(おおうちやまのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。
火葬後、拾骨のことがないまま土を覆って陵とされた。所在は早く失われ、江戸時代末になって現在の大内山陵に治定された。
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"text": "宇多は譲位後も道真の後ろ盾となり、時平の独走を防ごうとしていたが、一方で仏道に熱中し始めた。昌泰2年(899年)10月24日には出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入って法皇となった。さらに高野山、比叡山、熊野三山にしばしば参詣し、道真の援助を十分に行えなくなった。",
"title": "略歴"
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"text": "昌泰4年(901年)正月、道真は宇多の子で自らの婿でもある斉世親王を皇位に即けようとしていたという嫌疑で、大宰府へ左遷された。この知らせを受けた宇多は急遽内裏に向かったが、宮門は固く閉ざされ、その中で道真の処分は決定してしまった。日本史学者の河内祥輔は、宇多は自己の皇統の安定のために醍醐の皇太子決定を急ぎ、結果的に当時男子のいなかった醍醐の後継をその弟から出すことを考えるようになった。加えて醍醐が許した基経の娘・藤原穏子の入内にも反対したために、これに反発した醍醐が時平と図って法皇の代弁者とみなされた道真を失脚させたという説を提示している。",
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"text": "延喜元年(昌泰4年を改元)12月13日、宇多は受戒の師を益信として東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となった。これによって宇多は弟子の僧侶を取って灌頂を授ける資格を得た。宇多の弟子になった僧侶は彼の推挙によって朝廷の法会に参加し、天台宗に比べて希薄であった真言宗と朝廷との関係強化や地位の向上に資した。そして真言宗の発言力の高まりは宇多の朝廷への影響力を回復させる足がかりになったとされる。延喜21年(921年)10月27日に醍醐から真言宗を開いた空海に「弘法大師」の諡号が贈られているが、この件に関する宇多の直接関与の証拠はないものの、醍醐の勅には太上法皇(宇多)が空海を追憶している事を理由にあげている。",
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"text": "宇多の動きを牽制し続けていた藤原時平が延喜9年(909年)に没し、宇多に近い弟の忠平が実権を握ると、宇多の朝廷への影響力を回復させることになる。延喜15年(915年)、忠平の嫡男実頼(後の関白)が元服した際に醍醐に対して実頼への叙爵を指示している(『北山抄』巻三・拾遺雑抄上、内宴事)。その後も忠平を介する形で天皇への働きかけを行っている。",
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"text": "延喜13年3月13日(913年4月22日)には後院の亭子院で大掛かりな歌合「亭子院歌合」を開いた。これは国風文化の盛行の流れを後押しするものとなった。 延喜11年(911年)6月15日、亭子院の水閣を開いた時、臣から酒豪を選んで宴に招き、酒を賜り酒量を競わせた。(亭子院酒合戦)。",
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"text": "醍醐の健康状態が悪化していくと、宇多がその代理として政務を代行する場面が登場するようになる。そして、延長8年(930年)に醍醐が崩御すると、「天皇の遺詔」があったとして新帝朱雀天皇の摂政となった藤原忠平の要請を受ける形でその後見となっている。",
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"text": "承平元年7月19日(931年9月3日)に崩御。宝算65。日記に『宇多天皇御記』がある。",
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"text": "陽成上皇との関係は微妙だった。宇多は皇位に即く前に侍従として陽成の側に仕えており、神社行幸の際には舞を命じられたこともあった。『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話 が残っているが、陽成が復位を画策しているという風説は宇多を悩ませた。",
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"text": "保延年間に書かれた『長秋記』(保延元年6月7日条)によれば、陽成上皇が宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとしたために、上皇といえども勅許なく内裏に入る事は罷りならないとこれを退けたが、後に昌泰の変が起きた際には醍醐天皇に菅原道真の左遷を止めさせようとして内裏に入ろうとした宇多上皇自身がこの先例を盾にそれを阻まれたという記載がある。",
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"text": "ただし、宇多上皇が内裏に入るのを拒まれたのは、薬子の変の教訓から成立した原則によるもので、陽成・宇多両上皇のケースはこの原則に基づいたものとする考えもある。",
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"text": "宇多天皇から見て光仁天皇は男系(父方・光孝天皇)では5世祖であるが、女系(母方・班子女王)では高祖父にあたる。",
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"text": "宇多天皇の若年時からの妻は藤原胤子・橘義子などで、宇多天皇が臣籍降下し源氏となっていた頃に生まれた第一皇子敦仁親王(後の醍醐天皇)・第二皇子斉中親王・第三皇子斉世親王は生誕時は源氏であった。",
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"text": "女御藤原温子は関白藤原基経の娘で、宇多天皇即位後に入内した。女御藤原胤子が病没後、皇太子敦仁親王の養母となり、醍醐天皇即位に伴い、皇太夫人となる。晩年は東七条宮(亭子院)に住んだため、東七条后、七条后とも呼ばれた。",
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"text": "橘義子所生の斉世親王は、菅原道真の女を妻としたことから、後年菅原道真の誣告に際してその名が取り沙汰された。また女御菅原衍子は道真の女である。",
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"text": "宇多天皇の孫は、ほとんどが源氏の姓を賜り、臣籍降下した。 宇多天皇から出た源氏を宇多源氏といい、敦実親王から出た系列が最も栄えた。敦実親王の子源雅信は左大臣を務め、その娘倫子は藤原道長の正室となり、上東門院(一条天皇の中宮藤原彰子)や関白藤原頼通の母となった。朝廷貴族としての地位を維持した子孫としては、公家の庭田家や綾小路家(ともに羽林家)などがあり、また雅信から近江に土着した武家の佐々木氏が出ている。",
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"text": "『大和物語』において、宇多天皇は亭子院、敦慶親王は故式部卿の宮、依子内親王は「女五のみこ」、孚子内親王は「桂のみこ」として、それぞれ登場する。",
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"text": "通説では譲位後の在所の名称より宇多天皇と追号されたと言われているが、実際の居宅は仁和寺・亭子院・六条院を主としていたという(宇多院は元は父の光孝天皇の親王時代の邸宅で、宇多天皇はここで成長したからだという説もある)。 また、寛平法皇、亭子院(ていじのいん)、朱雀院太上天皇などの名称でも呼ばれた。",
"title": "諡号・追号・異名"
},
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"text": "天神縁起『日蔵夢記』では、満徳法主天という神になったという。別称 日本金剛覚大王、日本金剛蔵王、日本僧本。日本太政威徳天となった菅原道真を慰撫し、その眷属が暴れまわるのを、蔵王菩薩、八幡大菩薩と共に食い止めているという。",
"title": "諡号・追号・異名"
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"text": "陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷にある大内山陵(おおうちやまのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。",
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"text": "火葬後、拾骨のことがないまま土を覆って陵とされた。所在は早く失われ、江戸時代末になって現在の大内山陵に治定された。",
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"text": "また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。",
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}
] | 宇多天皇は、日本の第59代天皇。 諱は定省(さだみ)。 後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にあたる天皇である(詳細は皇子女の欄参照)。 | {{基礎情報 天皇
| 名 = 宇多天皇
| 代数= 第59
| 画像= Emperor_Uda_large.jpg
| 画像幅 = 230
| 説明= 宇多法皇像([[仁和寺]]蔵、[[15世紀]]<ref group="注釈">図様は、[[袈裟]]に横被を着け、右手に[[倶利伽羅剣|倶利伽羅龍剣]]・左手に[[数珠]]を持ち、[[法被]]を掛けた椅子に座す姿で、前に沓を載せた踏台と水瓶が置かれている。画面上部の左右にある色紙形には、『[[後拾遺和歌集]]』に収められた天皇の和歌「みやのたき むへもなにおひて きこえけり おつるしらあはの たまとひゝけは」が記されている([[奈良県立美術館]]編集・発行 『特別展「室町時代の肖像画」』 2000年9-10月、p.73)。</ref>)
| 在位= [[887年]][[9月17日]] - [[897年]][[8月4日]]
| 和暦在位期間 = [[仁和]]3年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]] - [[寛平]]9年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]
| 即位礼 = 887年[[12月5日]](仁和3年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]])
| 大嘗祭 = [[888年]][[12月28日]](仁和4年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]])
| 時代= [[平安時代]]
| 年号= [[仁和]]、[[寛平]]
| 首都= [[京都]]
| 皇居= [[平安京|平安宮]]
| 追号= 宇多院<br/>(宇多天皇)
| 諱= 定省
| 幼称=
| 別名= 寛平法皇、亭子院、朱雀院太上天皇、満徳法主天、日本金剛覚大王、日本金剛蔵王、日本僧本
| 印 =
| 生年= [[867年]][[6月10日]]([[貞観 (日本)|貞観]]9年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]])
| 生地=
| 没年= [[931年]][[9月3日]]([[承平 (日本)|承平]]元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]])
| 没地= [[仁和寺]]
| 大喪儀= 931年[[9月19日]](承平元年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]])
| 陵墓= 大内山陵
| 先代= [[光孝天皇]]
| 次代= [[醍醐天皇]]
| 子= [[醍醐天皇]]<br />[[敦実親王]]<br />[[真寂法親王|斉世親王]]<br /> ほか([[#后妃・皇子女|后妃・皇子女]]節参照)
| 皇后=
| 女御= [[藤原温子]]<br/>[[藤原胤子]]<br/>[[橘義子]]<br/>[[橘房子]]<br/>[[菅原衍子]]
| 更衣= [[源貞子]]<br/>[[徳姫女王]]
| 父親= [[光孝天皇]]
| 母親= [[班子女王]]
}}
'''宇多天皇'''(うだてんのう、[[867年]][[6月10日]]〈[[貞観 (日本)|貞観]]9年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]〉- [[931年]][[9月3日]]〈[[承平 (日本)|承平]]元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]〉<ref>{{Kotobank|宇多天皇}}</ref>)は、[[日本]]の第59代[[天皇]](在位:[[887年]][[9月17日]]〈[[仁和]]3年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]〉- [[897年]][[8月4日]]〈[[寛平]]9年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]〉)。 [[諱]]は'''定省'''(さだみ)。
後の[[佐々木氏]]などに代表される[[源氏#宇多源氏|宇多源氏]]の祖先にあたる天皇である(詳細は皇子女の欄参照)。
== 略歴 ==
[[Image: Note I CHING Emperor UDA.JPG|thumb|right| 150px|宇多天皇自筆周易抄 部分]]
=== 臣籍から皇位へ ===
[[光孝天皇]]の第七皇子であり、母は[[皇太后]][[班子女王]]([[桓武天皇]]の皇子[[仲野親王]]の娘)であった。父帝光孝は、先代[[陽成天皇]]の大叔父にあたり、陽成が不祥事によって退位させられたために[[即位]]に至ったことから、自身の後は陽成の同母弟[[貞保親王]]など嫡流に皇位が戻ることを考え、元慶8年(884年)6月に26人の皇子皇女に[[源氏|源姓]]を賜い[[臣籍降下]]させた。定省王もその一人であり、'''源定省'''(みなもと の さだみ)と称した。定省が陽成に王侍従として仕えていた時、殿上の間の御椅子の前で[[在原業平]]と相撲をとり二人の体が椅子にぶつかって手すりが折れた逸話が残っている<ref>『大鏡』 第一巻 五十九代 宇多天皇 十三段</ref>。また父に献上された黒猫を下賜され、これを飼育していた<ref>{{cite book|和書|title=光源氏が愛した王朝ブランド品|author=河添房江|authorlink=河添房江|publisher=[[角川書店]]|series=角川選書|year=2008|pages=202-203}}</ref>。
光孝は[[立太子]]を決することのないまま、即位から3年後の[[仁和]]3年(887年)に重態に陥った。[[関白]][[藤原基経]]は、天皇の内意が貞保親王ではなく源定省にあるとした。貞保は皇統の嫡流に近く、また基経にとっても甥ではあったが、その母[[藤原高子]]は基経とは同母兄妹ながら不仲という事情もあったため忌避された。一方、基経自身は特に定省を気に入っていたわけではない<ref>坂上、231-232p、[[角田文衛]]「尚侍藤原淑子」からの引用</ref> ものの、定省は基経の仲の良い異母妹[[藤原淑子]]の[[猶子]]であり、天皇に近侍する[[尚侍]](ないしのかみ)として[[後宮]]に強い影響力を持つ淑子が熱心に推したこともあり、朝議は決した。同母兄の[[源是忠]]を差し置いて弟の定省が皇位を継ぐことには差し障りもあったため、基経以下の群臣の[[上表]]による推薦を天皇が受け入れて皇太子に立てる形が取られた<ref>中野渡俊治「古代日本における公卿上表と皇位」『古代太上天皇の研究』(思文閣出版、2017年)238・247p</ref>。定省は8月25日に[[皇族]]に復帰して[[親王宣下]]を受け、翌26日に立太子したが、その日のうちに光孝が崩じたため[[践祚]]し、11月17日に[[即位]]した。
=== 阿衡事件 ===
{{main|阿衡事件}}
宇多は経験に乏しく、天皇の勤めを果たすためにも4代に渡って執政の任に当たってきた基経の協力は不可欠であった。宇多は11月17日付で基経に送った手紙の中で「もし基経が執政を辞退してしまうならば、自分には政治を執ることなどできないから、君主の号を抛って山林に逃げ隠れるしかないと思っている」と述べている{{sfn|古藤真平|2011|p= 359}}。
宇多は即位式後間もない11月21日に、基経に引き続き執政の任に当たるよう[[詔書]]を発した。この詔書には「関白」の語が含まれており、後の役職としての[[関白]]の語源となる。しかし基経が儀礼的に辞退した後に作成した詔書にある「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」の文言に基経が立腹し、政務を拒んで自邸に引き籠もってしまう{{sfn|古藤真平|2011|p= 357、363}}。この詔書は宇多が「朕之博士是鴻儒也(私の師は大学者である)」と信任した参議[[左大弁]][[橘広相]]が起草したものであったが、他の朝廷の学者の多くは広相の文言には問題があると一致していた{{sfn|古藤真平|2011|p= 363-365}}。翌仁和4年(888年)6月、宇多は「阿衡」の詔書を取り消した。しかし、このことは逆に広相が勅を誤ったということを宇多が認めたこととなり、かえって広相は窮地に追い込まれた{{sfn|古藤真平|2011|p= 357、363、366-367}}。基経も「阿衡」の問題が解決しないうちは参内できないと返答した。宇多は基経が光孝天皇から宇多の行く末を託され、宇多も基経を頼ったのにそれが裏切られたとして「(基経が)必ずや能う限りお仕え致します」と言ったではないかと日記に不満を書きつけている{{sfn|古藤真平|2011|p= 362}}。
宇多は基経の娘[[藤原温子]]を入内させるなどして和解に務め、10月になってようやく事態を鎮静化させた。[[寛平]]3年(891年)1月に基経が死去するに及んで、宇多は親政を開始することができた。なお宇多が[[勅願寺]]として[[仁和寺]]を建立したのは、この阿衡事件の最中の仁和4年のことである。
=== 寛平の治 ===
{{main|寛平の治}}
宇多天皇は基経の嫡子[[藤原時平|時平]]を[[参議]]にする一方で、[[源能有]]など[[源氏]]や[[菅原道真]]、[[藤原保則]]といった[[藤原北家]][[嫡流]]から離れた人物も抜擢した<ref>北山、332-333p</ref>。この期間には[[遣唐使]]の停止、諸国への[[問民苦使]]の派遣、[[昇殿]]制の開始、[[日本三代実録]]・[[類聚国史]]の編纂、官庁の統廃合などが行われた。また文化面でも[[寛平御時菊合]]や[[寛平御時后宮歌合]]などを行い、これらが多くの[[歌人]]を生み出す契機となった。
=== 譲位 ===
宇多は[[寛平]]9年7月3日(897年8月4日)に突然皇太子敦仁親王を[[元服]]させ、即日[[譲位]]し、[[太上天皇]]となる。この宇多の突然の譲位は、かつては仏道に専心するためと考えるのが主流だったが、近年では[[藤原氏]]からの政治的自由を確保するためこれを行った、あるいは前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して己の皇統の正統性を示したなどとも考られている(後述の『[[大鏡]]』にある[[陽成天皇|陽成上皇]]の言がその暗示と考えられている)。譲位にあたって書かれた『[[寛平御遺誡]]』には[[右大臣]]源能有の死に強い衝撃を受けたことが書かれており、これを譲位と結びつける見方もある。
新たに即位した醍醐には自らの同母妹[[為子内親王]]を正妃に立て、[[藤原北家]]嫡流が[[外戚]]となることを防ごうとした。また譲位直前の[[除目]]で[[菅原道真]]を[[大納言|権大納言]]に任じ、大納言で[[太政官]]最上席だった時平の次席としたうえで、時平と道真の双方に[[内覧]]を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた<ref>北山、348p</ref>。しかしこの人事は権門の[[公家]]には不評で、[[公卿]]が職務を拒むという事件に発展した。道真は宇多に願ってかかる公卿らに出仕を命じてもらい、ようやく新政がスタートした。
=== 昌泰の変 ===
宇多は譲位後も道真の後ろ盾となり、時平の独走を防ごうとしていたが、一方で仏道に熱中し始めた。[[昌泰]]2年(899年)10月24日には[[出家]]し、[[東寺]]で受戒した後、[[仁和寺]]に入って[[法皇]]となった。さらに[[高野山]]、[[比叡山]]、[[熊野三山]]にしばしば参詣し、道真の援助を十分に行えなくなった。
{{main|昌泰の変}}
[[昌泰]]4年(901年)正月、道真は宇多の子で自らの婿でもある[[真寂法親王|斉世親王]]を皇位に即けようとしていたという嫌疑で、[[大宰府]]へ左遷された。この知らせを受けた宇多は急遽[[内裏]]に向かったが、宮門は固く閉ざされ、その中で道真の処分は決定してしまった。日本史学者の[[河内祥輔]]は、宇多は自己の皇統の安定のために醍醐の皇太子決定を急ぎ、結果的に当時男子のいなかった醍醐の後継をその弟から出すことを考えるようになった。加えて醍醐が許した基経の娘・[[藤原穏子]]の入内にも反対したために、これに反発した醍醐が時平と図って法皇の代弁者とみなされた道真を失脚させたという説を提示している。
延喜元年(昌泰4年を改元)12月13日、宇多は受戒の師を[[益信]]として東寺で伝法灌頂を受けて、[[真言宗]]の[[阿闍梨]]となった。これによって宇多は弟子の僧侶を取って灌頂を授ける資格を得た。宇多の弟子になった僧侶は彼の推挙によって朝廷の[[法会]]に参加し、[[天台宗]]に比べて希薄であった真言宗と朝廷との関係強化や地位の向上に資した。そして真言宗の発言力の高まりは宇多の朝廷への影響力を回復させる足がかりになったとされる。延喜21年(921年)10月27日に醍醐から真言宗を開いた[[空海]]に「弘法大師」の諡号が贈られているが、この件に関する宇多の直接関与の証拠はないものの、醍醐の勅には太上法皇(宇多)が空海を追憶している事を理由にあげている<ref>駒井匠「宇多法皇考」根本誠二 他編『奈良平安時代の〈知〉の相関』(岩田書院、2015年) ISBN 978-4-87294-889-9</ref>。
=== 晩年 ===
宇多の動きを牽制し続けていた藤原時平が延喜9年(909年)に没し、宇多に近い弟の[[藤原忠平|忠平]]が実権を握ると、宇多の朝廷への影響力を回復させることになる。延喜15年(915年)、忠平の嫡男[[藤原実頼|実頼]](後の関白)が元服した際に醍醐に対して実頼への[[叙爵]]を指示している(『北山抄』巻三・拾遺雑抄上、内宴事)。その後も忠平を介する形で天皇への働きかけを行っている<ref>上村、2023年、P387-388.</ref>。
[[延喜]]13年3月13日(913年4月22日)には[[後院]]の[[亭子院]]で大掛かりな歌合「[[亭子院歌合]]」を開いた。これは[[国風文化]]の盛行の流れを後押しするものとなった。
[[延喜]]11年([[911年]])6月15日、亭子院の水閣を開いた時、臣から酒豪を選んで宴に招き、酒を賜り酒量を競わせた。([[酒合戦#亭子院酒合戦|亭子院酒合戦]])<ref>[[藤原明衡]]撰『[[本朝文粋]]』中の[[紀長谷雄]]「亭子院賜飲記」</ref>。
醍醐の健康状態が悪化していくと、宇多がその代理として政務を代行する場面が登場するようになる。そして、延長8年(930年)に醍醐が崩御すると、「天皇の遺詔」があったとして新帝[[朱雀天皇]]の摂政となった藤原忠平の要請を受ける形でその後見となっている<ref>上村、2023年、P394-397.</ref>。
[[承平 (日本)|承平]]元年7月19日(931年9月3日)に[[崩御]]。宝算65。日記に『[[寛平御記|宇多天皇御記]]』がある。
=== 陽成との関係 ===
[[陽成天皇|陽成上皇]]との関係は微妙だった。宇多は皇位に即く前に侍従として陽成の側に仕えており、神社[[行幸]]の際には舞を命じられたこともあった<ref>北山、273p</ref>。『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話<ref>『大鏡』 第一巻 五十九代 宇多天皇 十四段</ref> が残っているが、陽成が復位を画策しているという風説は宇多を悩ませた。
[[保延]]年間に書かれた『[[長秋記]]』(保延元年6月7日条)によれば、陽成上皇が宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとしたために、上皇といえども勅許なく内裏に入る事は罷りならないとこれを退けたが、後に昌泰の変が起きた際には醍醐天皇に菅原道真の左遷を止めさせようとして内裏に入ろうとした宇多上皇自身がこの先例を盾にそれを阻まれたという記載がある。
ただし、宇多上皇が内裏に入るのを拒まれたのは、[[薬子の変]]の教訓から成立した原則によるもので、陽成・宇多両上皇のケースはこの原則に基づいたものとする考えもある<ref>東海林亜矢子『平安時代の后と王権』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-04642-8)P27・52</ref>。
== 系譜 ==
{{ahnentafel top|宇多天皇の系譜|width=100%}}
{{ahnentafel-compact5
|style=font-size: 90%; line-height: 110%;
|border=1
|boxstyle=padding-top: 0; padding-bottom: 0;
|boxstyle_1=background-color: #fcc;
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|boxstyle_3=background-color: #ffc;
|boxstyle_4=background-color: #bfc;
|boxstyle_5=background-color: #9fe;
|1= 1. 第59代 宇多天皇
|2= 2. [[光孝天皇|第58代 光孝天皇]]
|3= 3. [[班子女王]]
|4= 4. [[仁明天皇|第54代 仁明天皇]]
|5= 5. [[藤原沢子]]
|6= 6. [[仲野親王]]
|7= 7. 当宗氏
|8= 8. [[嵯峨天皇|第52代 嵯峨天皇]]
|9= 9. [[橘嘉智子]]
|10= 10. [[藤原総継]]
|11= 11. [[藤原数子]]
|12= 12. [[桓武天皇|第50代 桓武天皇]](=16)
|13= 13. [[藤原河子]]
|16= 16. [[桓武天皇|第50代 桓武天皇]](=12)
|17= 17. [[藤原乙牟漏]]
|18= 18. [[橘清友]]
|19= 19. [[田口三千媛]]
|20= 20. [[藤原末茂]]
|22= 22. [[藤原雄友]]?
|26= 26. [[藤原大継]]
}}</center>
{{ahnentafel bottom}}
=== 系図===
{{皇室平安前期}}
== 后妃・皇子女 ==
* [[女御]]([[皇太夫人]]):[[藤原温子]](872年 - 907年) - [[藤原基経]]女
** [[均子内親王]](890年 - 910年) - [[敦慶親王]]妃
* 女御(贈[[皇太后]]):[[藤原胤子]](? - 896年) - [[藤原高藤]]女
** 敦仁親王([[醍醐天皇]])(885年 - 930年)
** [[敦慶親王]](887年 - 930年) - 二品[[式部省|式部卿]]
** [[敦固親王]](? - 926年) - 二品[[兵部省|兵部卿]]
** [[柔子内親王]](892? - 958年) - [[斎宮]](六条斎宮)
** [[敦実親王]](893年 - 967年) - [[一品親王|一品]]式部卿
* 女御:[[橘義子]] - [[橘広相]]女
** [[斉中親王]](885年 - 891年)
** [[真寂法親王|斉世親王]](真寂入道親王)(886年 - 927年) - 三品兵部卿
** [[斉邦親王]]
** [[君子内親王]](? - 902年) - [[斎院|賀茂斎院]]
* 女御:[[菅原衍子]] - [[菅原道真]]女
** [[源順子]](? - ?) - [[藤原忠平]]室(宇多天皇女を疑う説あり)
* 女御:[[橘房子]](? - 893年)
* [[更衣 (後宮)|更衣]]:[[源貞子]] - [[源昇]]女
** [[依子内親王]](895 - 936年)
* 更衣:[[徳姫女王]] - [[十世王]]女
** [[孚子内親王]](? - 958年)
* 更衣:藤原保子 - [[藤原有実]]女
** [[誨子内親王]](? - 952年) - [[元良親王]]妃
** [[季子内親王]](? - 979年)
* 更衣:源久子
* 更衣:藤原静子
* [[尚侍]]:[[藤原褒子]] - [[藤原時平]]女
** [[雅明親王]](920年 - 929年)
** [[行明親王]](926年 - 948年) - 四品[[上総国|上総]][[国司|太守]]
** [[載明親王]](? - ?)
* [[宮人]]:[[伊勢 (歌人)|伊勢]] - [[藤原継蔭]]女、[[藤原温子]][[女房]]
** [[皇子]]
* 生母不明
** [[行中親王]](? - 909年)
** 成子内親王(? - 979年)
** 源臣子
宇多天皇から見て[[光仁天皇]]は男系(父方・光孝天皇)では5世祖であるが、女系(母方・班子女王)では高祖父にあたる。
宇多天皇の若年時からの妻は[[藤原胤子]]・[[橘義子]]などで、宇多天皇が臣籍降下し源氏となっていた頃に生まれた第一皇子敦仁親王(後の[[醍醐天皇]])・第二皇子[[斉中親王]]・第三皇子[[真寂法親王|斉世親王]]は生誕時は源氏であった。
[[女御]][[藤原温子]]は[[関白]][[藤原基経]]の娘で、宇多天皇即位後に入内した。女御藤原胤子が病没後、皇太子敦仁親王の養母となり、醍醐天皇即位に伴い、[[皇太夫人]]となる。晩年は[[亭子院|東七条宮(亭子院)]]に住んだため、東七条后、七条后とも呼ばれた。
橘義子所生の斉世親王は、[[菅原道真]]の女を妻としたことから、後年菅原道真の[[誣告]]に際してその名が取り沙汰された。また女御[[菅原衍子]]は道真の女である。
宇多天皇の孫は、ほとんどが源氏の姓を賜り、臣籍降下した。 宇多天皇から出た源氏を[[源氏#宇多源氏|宇多源氏]]といい、[[敦実親王]]から出た系列が最も栄えた。敦実親王の子[[源雅信]]は[[左大臣]]を務め、その娘[[源倫子|倫子]]は[[藤原道長]]の正室となり、[[藤原彰子|上東門院]]([[一条天皇]]の[[中宮]][[藤原彰子]])や関白[[藤原頼通]]の母となった。朝廷貴族としての地位を維持した子孫としては、公家の[[庭田家]]や[[綾小路家]](ともに[[羽林家]])などがあり、また雅信から[[近江国|近江]]に土着した武家の[[佐々木氏]]が出ている。
『[[大和物語]]』において、宇多天皇は亭子院、[[敦慶親王]]は故式部卿の宮、[[依子内親王]]は「女五のみこ」、[[孚子内親王]]は「桂のみこ」として、それぞれ登場する。
== 諡号・追号・異名 ==
通説では譲位後の在所の名称より'''宇多天皇'''と[[諡|追号]]されたと言われているが、実際の居宅は[[仁和寺]]・[[亭子院]]・[[河原院|六条院]]を主としていたという(宇多院は元は父の光孝天皇の親王時代の邸宅で、宇多天皇はここで成長したからだという説もある)。 また、'''寛平法皇'''、'''亭子院'''(ていじのいん)、'''朱雀院太上天皇'''などの名称でも呼ばれた。
=== 満徳法主天 ===
天神縁起『日蔵夢記』では、'''満徳法主天'''という[[神 (神道)|神]]になったという。別称 '''日本金剛覚大王'''、'''日本金剛蔵王'''、'''日本僧本'''。[[日本太政威徳天]]となった[[菅原道真]]を慰撫し、その[[眷属]]が暴れまわるのを、[[蔵王菩薩]]、[[八幡大菩薩]]と共に食い止めているという。
== 在位中の元号 ==
* [[仁和]]
* [[寛平]]
== 陵・霊廟 ==
[[天皇陵|陵]](みささぎ)は、[[宮内庁]]により[[京都府]][[京都市]][[右京区]]鳴滝宇多野谷にある'''大内山陵'''(おおうちやまのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。
[[火葬]]後、拾骨のことがないまま土を覆って陵とされた。所在は早く失われ、[[江戸時代]]末になって現在の大内山陵に治定された。
また[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
== 宇多天皇を題材とした小説 ==
* 天邪鬼な皇子と唐の黒猫(ポプラ社):宇多天皇と黒猫の物語。
== その他==
* 京都市バスで、宇多天皇が創建した仁和寺(御室御所)の門前を通るバスの系統番号は第59代宇多天皇と同じ番号、59号系統である。
* 京都市[[北区 (京都市)|北区]]と右京区との境にある[[衣笠山 (京都府)|衣笠山]]の名は、宇多天皇が水無月の御室において「雪の眺めを見たい」と告げると、臣下の者が峰に白絹をかけ、玄冬のけしきをうつしたという故事に由来すると言われる。
== 脚注 ==
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[遠藤慶太]]『平安勅撰史書研究』([[皇學館大学]]出版部、2006年) ISBN 4876441316
* [[森田悌]]『平安時代政治史研究』([[吉川弘文館]]、1978年) ISBN 4642020888
* [[河内祥輔]]『古代政治史における天皇制の論理』([[吉川弘文館]]、1986年) ISBN 4642021612
* [[坂上康俊]]『律令国家の転換と「日本」 日本の歴史05』 ([[講談社学術文庫]]、2009年) ISBN 978-4062919050
* [[北山茂夫]]『平安京 日本の歴史4』([[中公文庫]]、1973年)
* [[上村正裕]]「平安前期太上天皇制とその行方」『日本古代王権と貴族社会』(八木書店、2023年) ISBN 978-4840622592
*{{Cite journal|和書|title = <共同研究報告>『政事要略』阿衡事所引の『宇多天皇御記』 : その基礎的考察|url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1390572174724066560|publisher = 国際日本文化研究センター|journal = 日本研究|volume = 44|doi = 10.15055/00000478|naid = 120005681433|issn = 09150900|author = 古藤真平|authorlink = 古藤真平|year = 2011|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[御室]]
* [[大和物語]]
* [[衣笠山 (京都府)|衣笠山]]
* [[黒猫]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Emperor Uda}}
* [https://web.archive.org/web/20021208000156/http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051.htm 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 宇多源氏【1】]
*『[https://rakusai.nichibun.ac.jp/kokiroku/ 摂関期古記録データベース]』[[国際日本文化研究センター]](『宇多天皇御記』の読み下し文を公開)
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3,853 | 野村あきこ | 野村 あきこ(のむら あきこ、2月28日 - )は、日本の漫画家。神奈川県出身。血液型はA型。
1990年、「90's Dandy」で第11回なかよし新人まんが賞佳作を受賞。同作で『なかよしデラックス』(講談社)1991年初夏の号にてデビュー。
『なかよし』(同)を主な執筆の場としていた。『倫敦館夜想曲』を最後に漫画家を引退し、ファンサイトにて引退宣言を行っている。
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] | 野村 あきこは、日本の漫画家。神奈川県出身。血液型はA型。 1990年、「90's Dandy」で第11回なかよし新人まんが賞佳作を受賞。同作で『なかよしデラックス』(講談社)1991年初夏の号にてデビュー。 『なかよし』(同)を主な執筆の場としていた。『倫敦館夜想曲』を最後に漫画家を引退し、ファンサイトにて引退宣言を行っている。 | {{Infobox 漫画家
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'''野村 あきこ'''(のむら あきこ、[[2月28日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[神奈川県]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]はA型。
[[1990年]]、「90's Dandy」で第11回[[なかよし新人まんが賞]]佳作を受賞。同作で『[[なかよしデラックス]]』([[講談社]])[[1991年]]初夏の号にてデビュー。
『[[なかよし]]』(同)を主な執筆の場としていた。『[[倫敦館夜想曲]]』を最後に漫画家を引退し、ファンサイトにて引退宣言を行っている。
== 作品リスト ==
=== 連載 ===
* 空よりもたかく(『[[るんるん (講談社)|るんるん]]』1993年5月号 - 1994年1月号)
* フォーチューン・サーガ(『るんるん』1994年7月号 - 1995年1月号)
* [[やまとなでしこ同盟]](『[[なかよし]]』1995年6月号 - 10月号)
* [[プライベートアイズ]](『なかよし』1995年12月号 - 1996年11月号)
* [[神様のこどもたち]](『なかよし』)
* [[すてきにディッシュアップ!]](『なかよし』1997年3月号 - 8月号)
* [[JOKER (野村あきこの漫画)|JOKER]](『なかよし』1997年12月号 - 1998年11月号)
* [[倫敦館夜想曲]](『[[Amie]]』1997年10月号 - 1999年初夏号、『[[なかよし#増刊号|なかよしふゆやすみランド]]』2000年) - 年1掲載。
=== 読切 ===
* 90's Dandy(『[[なかよし#増刊号|なかよしデラックス]]』1991年初夏の号)
* 100万ドルより愛してる(『なかよしデラックス』1991年夏の号)
* あなたとハレルヤ!(『なかよしデラックス』1991年初冬の号)
* 恋の時計はとまらない(『なかよしデラックス』1992年お正月号)
* あの夏の君の色(『なかよしデラックス』1992年秋の号)
* リング・リング・ロマンス
* サンタにあったよ
* ガールズ・ブラボー!
== 書誌情報 ==
リンクがあるものはそれを参照。
=== KCるんるん ===
* 空よりもたかく(1995年4月、ISBN 4-06-322815-0、全1巻)
** 併録「リング・リング・ロマンス」「サンタにあったよ」
* フォーチューン・サーガ(1997年3月、ISBN 4-06-322828-2、全1巻)
** 併録「ガールズ・ブラボー!」「あの夏の君の色」
=== KCなかよし ===
* [[やまとなでしこ同盟]](1996年刊、全1巻)
* [[プライベートアイズ]](1996年 - 1997年刊、全3巻)
* [[神様のこどもたち]](1997年刊、全1巻)
** 併録「あなたとハレルヤ!」
* [[すてきにディッシュアップ!]](1997年刊、全1巻)
* [[JOKER (野村あきこの漫画)|JOKER]](1998年刊、全2巻)
* [[倫敦館夜想曲]](2000年刊、全1巻)
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:神奈川県出身の人物]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E3%81%82%E3%81%8D%E3%81%93 |
3,854 | シャーロック・ホームズシリーズ | シャーロック・ホームズシリーズ(英: Sherlock Holmes)は、小説家アーサー・コナン・ドイルの作品で、シャーロック・ホームズと、友人で書き手のジョン・H・ワトスン、またはジョン・H・ワトソンの織り成す冒険小説の要素を含む推理小説である。
1887年から1927年にかけて、60編(長編4、短編56)が発表された。長編として発表した第1作、第2作は人気が出なかったが、イギリスの月刊小説誌「ストランド・マガジン」に依頼され、短編を連載したところ大変な人気となった。それ以降の作品はすべて同誌に発表された。
物語は基本的に事件の当事者、あるいは捜査に行き詰まった警察がホームズに助けを求め訪ねて来ることで始まる。ホームズが現場に調査に行き、警察の見過ごした証拠を発見し推理を働かせて事件の謎を解き、物語は終わる。ほとんどの作品がワトスンによる事件記録、という形で書かれている。変人の探偵と常識人をコンビにして相棒を物語の書き手とするスタイルは、「史上初の推理小説」といわれる『モルグ街の殺人』(エドガー・アラン・ポー、1841年)を踏襲している。
コナン・ドイルが書いた60の長短編は、熱狂的なファン(シャーロキアン)から聖書になぞらえて「正典 (Canon)」「聖典」「古年代記(サーガ)」などと呼ばれる。このCanonは、コナン・ドイル (Conan Doyle)のアナグラムでもある。「正典」に対し、聖書同様に「外典 (Apocrypha)」「経外典」「偽典」などと呼ばれる作品群がある。Apocryphaについては定義に揺れがあり、ホームズに関連したパロディやパスティーシュの全てを「外典」と呼ぶこともあれば、ドイル自身によるホームズのパロディなどに限定して「経外典」とする説、「聖典」で言及されたものの執筆されていない事件の記録(語られざる事件)を「偽典」とする説、「外典」をドイルの執筆した「戯曲(芝居の台本)」「ドイル自身によるパロディ」「ホームズが脇役で登場する作品」の三種類に大別する説などがある。
シリーズのほとんどの作品がワトスンの一人称で記述されているが、「最後の挨拶」と「マザリンの宝石」は三人称、「白面の兵士」と「ライオンのたてがみ」はホームズの一人称で記述されている。「グロリア・スコット号事件」と「マスグレーヴ家の儀式」は、ホームズがワトスンと知り合う以前の体験を語って聞かせるという体裁をとり、実質ホームズの一人称での記述になっている。また『緋色の研究』と『恐怖の谷』の後半に、かなり長く三人称で過去の出来事を語った部分がある。
以下の邦題は新潮文庫版のものである。TV化された作品など、異なる邦題は多数存在し、原典の直訳とは全く違う内容に即した題名が充てられているものもある。かっこ内は、それらのうち大きく異なっているものである。 最後の数字は事件の時系列の順番(時系列順に収録されているちくま文庫版に拠る)である。
日本は英語圏以外で、もっとも早くホームズものが紹介された国の1つである。
明治27年(1894年)の雑誌『日本人』1月号には、すでに「乞食道楽」の訳題で短編集である『シャーロック・ホームズの冒険』の「唇の曲がった男」が紹介されている。訳者名が記載されていないが、これが現在確認できる範囲で一番古い紹介である。次いで明治31年(1898年)9月7日から同年9月17日にかけ、徳冨蘆花の翻案で「秘密条約」が連載されている。これは「海軍条約」の紹介である。
長編の紹介は明治32年(1899年)には「血染の壁」の邦題で、毎日新聞に『緋色の研究』が連載されている。ホームズは本間、ワトソンは和田と日本人にされ、舞台はベルリンに変えられた(翻訳者は「無名氏」とされ、誰であったかは不詳)。
同、明治32年(1899年)には水田南陽(南陽外史)が『シャーロック・ホームズの冒険』の全12作品を『不思議の探偵』の総題で中央新聞で翻訳連載している。外遊した際にホームズものの人気を聞きつけ、帰国後にこれを訳したという。『冒険』が1892年に出版されたので、わずか7年で持ち込まれたことになる。「まだらの紐」を「毒蛇の秘密」としてしまうなど、題名でネタを割ってしまっている例もあるが、「赤毛組合」を「禿頭倶楽部」とした当時の日本人に馴染みやすく改変を行った例もある。明治末期(1907年)辺りから続々と作品が刊行され始めた。
明治期の紹介は、当時の日本人多くには英米の人名や地名あるいは文物になじみがなかったので、翻訳というよりも翻案あるいは再話というべきものが多い。舞台をイギリスから日本に、人名を堀田や和田になど、わかりやすい人名に置き換えている。また、英語教材としても扱われており、明治40年(1907年)4月には佐川春水訳註『銀行盗賊』(建文社)と訳註書が出ている。その後も、色々な訳註者が色々の出版社から短編の1作あるいは数作の訳註書を刊行している。
短編集として原書の一冊をまとめて紹介したものは、大正4年(1915年)11月の『探偵王・蛇石博士』矢野虹城訳が嚆矢であるが、これは翻訳というより翻案というべきものである。その後、大正5年(1916年)には、加藤朝鳥訳『シャーロック・ホルムス』第一編から第三編で『冒険』の諸作がすべて訳されている。大正12年から刊行された紅玉社の「万国怪奇探偵叢書」には、『深紅の一糸』(「緋色の研究」)、『ホルムスの思い出』、『四つの暗号』(「四つの署名」)、『地獄の手』(恐怖の谷)、『ホルムスの再生』(「帰還」)、『食堂の殺人』(「最後の挨拶」)と刊行されているが、短編集の訳は全編の訳ではなく割愛された作もある。紅玉社はその後改めて、「紅玉社英文全訳叢書」として『メモアズ・オブ・シャロック・ホルムス』、『リタアン・オブ・シャロック・ホルムス』、『アドベンチャアズ・オブ・シャーロック・ホルムス』、『サイン・オブ・フヲア』、『スタデイ・イン・スカアレット』を刊行している、書名はすべて原題のカタカナ書きだが内容は訳書である。
昭和5年に平凡社「世界探偵小説全集」の中の第1巻から第6巻として江戸川乱歩が『恐怖の谷・妖犬』『シャーロック・ホームズの冒険』を、三上於菟吉が『シャーロック・ホームズの記憶』『シャーロック・ホームズの帰還』を、東健而が『或るグロテスク』を、延原謙が『シャーロック・ホームズの事件簿』を担当している。昭和11年~13年には、菊池武一訳『ホームズの冒険』、『ホームズの回想』、『ホームズの帰還』が岩波文庫で刊行(戦後に改版)された。平凡社版の短編集には、原書にありながら訳されていない作があるし、訳者として名前をあげている人が必ずしも自身で訳したわけではなく、乱歩などすべて代訳であると後年自身で述懐している。また岩波文庫版もやはり作品の選択が行われている。
全作品が原書に従って訳・出版されたのは、昭和6年(1931年)から昭和8年刊行の改造社版『世界文学全集・ドイル全集』(全8巻)が最初である。このとき『シャーロック・ホームズの事件簿』刊行につき、著者ドイルの許可が得られ翻訳権が成立、ホームズ作品中この一冊のみ訳・出版できる出版社が長年限られた。また(訳者の一人)延原謙は、大正末期からドイル作品を訳し、昭和6年には『ドイル全集』を刊行開始した。
戦前からドイル翻訳を手がけていた延原が、戦後新たに取り組み、1951年月曜書房から「シャーロック・ホームズ全集」を刊行開始、翌年全13巻で完結、日本初の全60編の翻訳を個人全訳で成し遂げた。月曜書房版には「求むる男」が収載されているが、後にドイルの作ではない事がわかったので、下記の作品集には収録されていない。
新潮文庫は、1953年3月に『シャーロック・ホームズの思い出』より刊行が始まった。53年に『シャーロック・ホームズの冒険』、『同・帰還』、『同・事件簿』の各短編集、『緋色の研究』、『恐怖の谷』、『四つの署名』の各長編を、54年に『バスカヴィル家の犬』を、55年に『シャーロック・ホームズの最後の挨拶』を刊行した。文庫版は、ページ数制約のため短編集から計8編が割愛されており、55年9月に、その8編を収録した日本独自の短編集『シャーロック・ホームズの叡智』を刊行、日本初の文庫版「ホームズ全集」全10巻が完結。なお挿絵はない。延原訳は、文庫以外に別に新潮社で「全集」全6巻も刊行した。
前史でも述べたが、延原は戦前からドイル作品の主要な訳者で、訳著は戦前、すでに一部文庫化されていた。延原は全集完結後も、ホームズ作品以外のドイル作品を翻訳、57年から『ドイル傑作集』を刊行。58年、60年、61年までに全7集の傑作集を訳した。1965年に『わが思い出と冒険-コナン・ドイル自伝』(1994年に限定復刊)を訳している。新潮文庫では、延原による戦前からのドイル翻訳の集成として、ドイル作品群が揃えられていたが、ホームズ作品と『ドイル傑作集』(7巻中の3巻の全20短編)以外は、年を経て品切となった。
1977年の延原の没後も、順調に版を重ねていたが、90年代にリニューアル(息子・展による訳文の修正・改版、カバーデザイン変更)した。またホームズ作品集以外の『ドイル傑作集』(全3巻)も、2006-07年に改版、新デザインカバーとなり、重版されている。傑作集の第1巻にはホームズシリーズの外典である「消えた臨時特急」と「時計だらけの男」が収録されている。
なお、この新潮文庫版以降に刊行された文庫版全集は、すべてオリジナル通りの短編集5冊、長編4冊の全9巻で刊行したが、改版再刊版も『叡智』を含む全10巻の構成のままである。
なお延原謙と著名なシャーロッキアン長沼弘毅を記念し、各・没後に名を冠した賞があったが、1985年に第7回「日本シャーロック・ホームズ大賞」に統合され現在まで続いている(2023年第45回は日暮雅通が受賞)
最初は、新書判のハヤカワ・ミステリ(通称ポケット・ミステリ、ポケミス)シリーズで、1958年9月に、著名な英米文学翻訳家の大久保訳により『シャーロック・ホームズの事件簿』を刊行した。翌年に同シリーズで、『最後の挨拶』を、その次が63年で『同・復活』が刊行された。その後しばらく訳書は出されず、シリーズは3作で打ち止めと見られたが、第4作は18年ぶりとなる81年に『同・冒険』を、同年に『同・回想』も出版され、長編は83年に『緋色の研究』と『四つの署名』が、84年に『バスカヴィル家の犬』、85年8月に『恐怖の谷』を刊行、シリーズ発売開始以来約27年をかけて全訳が完結した。
刊行が再開された1981年にハヤカワ・ミステリ文庫での刊行も始まり、6月の『冒険』を皮切りに、同年中に『回想』、『復活』、『最後の挨拶』を再刊行した。うち『復活』『最後の挨拶』『事件簿』は文庫用に新たに訳しなおしたものである。83年に『緋色の研究』、『四つの署名』、84年『バスカヴィル家の犬』、85年『恐怖の谷』が再刊行。著作権の関係で、文庫版では未刊行だった『事件簿』も、開始以来10年目の91年に再刊行。創元推理文庫版と同時に、新たな文庫版全集が完結した。2015年に『冒険』は(上・下)に改版刊行。かなりの年月をかけ完結したハヤカワ版全集だが、ポケミス版は全点品切、文庫版も半数以上が品切(2010年現在)になっている。
ホームズ作品以外のドイル作品では、新書判のハヤカワSFシリーズで、1962年に新庄哲夫訳で『ロスト・ワールド』、63年に『マラコット海淵』(斉藤伯好訳)が出ており、1996年にハヤカワSF文庫で、加島祥造新訳で『失われた世界 ロスト・ワールド』が刊行されたが、現在は全点品切。早川書房でもホームズ作品研究、多くのパスティーシュ作品の訳書が刊行されている。特にジョン・ディクスン・カーは、三男アイドリアンと共著でシリーズの続編『シャーロック・ホームズの功績』がある。
伝記研究に、カーによる公認伝記『コナン・ドイル』(大久保康雄訳)があり、単行本で刊行後、1993年にポケミスシリーズ(数少ない伝記)で再刊、電子出版もある。また訳者日暮雅通『シャーロック・ホームズ・バイブル』(2022年)がある。
東京創元社〈創元推理文庫〉版は1960年の7月11月にかけ阿部知二訳が、『冒険』から『最後のあいさつ』までの短編集4冊と『緋色の研究』から『恐怖の谷』までの長編4冊の計8冊で断続的に出版された。阿部によるホームズシリーズの最初の翻訳は1958年に麦書房『銀星号事件』である。のち河出書房『世界文学全集 決定版』が出版され、1958年に別冊巻の一つに、阿部訳ホームズシリーズが選ばれた。阿部訳(創元旧)版は、河出旧訳版を底本に改訳を行い刊行した。しかし『事件簿』のみ、著作権契約の関係から既記した上出の各出版社に優先的な独占出版権が与えられたため、東京創元社は資本及び交渉権の関係で、これに参画する事が出来ず、故に阿部訳版の『事件簿』は未刊となった。また上述した他社が有する独占出版権の失効を待つことなく、1973年に阿部知二が病没したため『事件簿』は改訳出版が出来なかった。
1990年にドイル没後60年による著作権(および上述の独占出版権)の失効により、創元推理文庫で改めて深町真理子によりホームズシリーズ新訳版刊行を開始した。ただ当初はシリーズ全体の新訳出版の意図はなく、上述した阿部訳版の補完での『事件簿』の刊行のみだった。深町自身も『事件簿』訳にあたり、可能な限り阿部訳版をはじめとする先行訳版の尊重を試みた。深町訳版において『事件簿』を最初の訳本に置いているのは、この「阿部訳版を補完するための『事件簿』の単独出版」という経緯と理由によるもので、また東京創元社も後述する深町新訳版の刊行までは深町版『事件簿』を阿部訳版の続版に準ずる位置付けだった。2010年代に、阿部訳の初版から約半世紀を経て時代の変化に合わせるため、深町による他の8冊新訳が行われた、改めて『事件簿』も「阿部版の続版作」でなく「深町版ホームズの新訳作」として扱われるようになった。
各・文庫版が、ドイル傑作集全5巻と、冒険小説『勇将ジェラール』、SF小説『失われた世界』(中原尚哉の新訳)等、他の訳者で計全10冊刊行されたが、中原訳以外は品切。
深町訳で伝記研究、ジュリアン・シモンズ『コナン・ドイル』(創元推理文庫で再刊)があるが、各・品切。他にピエール・バイヤール『シャーロック・ホームズの誤謬 『バスカヴィル家の犬』再考』(平岡敦訳、文庫再刊)がある。
ジューン・トムスンのパスティーシュ短編集で『シャーロック・ホームズの秘密ファイル』、『シャーロック・ホームズのクロニクル』、『シャーロック・ホームズのジャーナル』、『シャーロック・ホームズのドキュメント』、研究『ホームズとワトスン 友情の研究』も、各・押田由起訳で文庫刊行。これらのトムスン版パスティーシュは東京創元社に優先翻訳出版権契約が与えられている。他に外国人・日本人作家双方ともパスティーシュ作品を多く刊行。
シリーズ全60話のうち47話を1冊に収録。有名なシドニー・パジェットによる挿絵200点を掲載。小林司、東山あかねによる解説つき。鮎川が急逝する直前の1986年9月に刊行。全点品切。
1990年代には講談社インターナショナルで原書『シャーロック・ホームズ全集』全14巻を刊行していた。全点品切。
全作品を年代順に再編成(「グロリア・スコット号事件」~「最後の挨拶」)シャーロキアンのW.S.ベアリング=グールドによる詳解な解説と注釈を収録。元版は東京図書(全21巻、1982-83年)
小林・東山は夫婦で「日本シャーロック・ホームズ・クラブ」を1977年より主宰。約40数年で「ホームズ」関連著作を(共編著・訳書・児童書・再刊も入れると)七十冊以上刊行している。大著に『シャーロック・ホームズ大事典』(編著、東京堂出版、2001年)、最新刊に『シャーロック・ホームズ入門百科』(小林エリカ・画、河出文庫、2019年)河出書房新社でも、小林・東山による訳著は『図説シャーロック・ホームズ』(増訂版〈ふくろうの本〉、2005年、新版2012年)や、『シャーロック・ホームズの推理博物館』(河出文庫、2001年)、ウィリアム・ベアリング=グールドローゼンバーク『シャーロック・ホームズ ガス灯に浮かぶその生涯』(河出文庫、1987年)ほか多数刊行され、小林・東山夫妻以外も入れると約40冊を刊行しているが、大半は品切である。
なお小林・東山版が刊行する大分前に、上記の通り河出「世界文学全集」の枠内で阿部知二訳版(創元社版の既訳)が用いられていた。
日暮雅通は、ジャック・トレイシー『シャーロック・ホームズ大百科事典』(河出書房新社、2002年)や、大著の伝記で、ダニエル・スタシャワー『コナン・ドイル伝』(東洋書林、2010年)を訳している。また、「ホームズ」が主人公になった小説作品を主に、他に「ガイダンス」や「事典」など、数十冊の関連本を訳している。光文社文庫版の前に児童書の講談社「青い鳥文庫」で、日暮まさみち訳名義で全作品・全16分冊で刊行している。児童向けの全作品の訳と成人向けの全作品の訳を両方行った初めての訳者である。
挿絵は一部掲載されているが電子版にはない。
なお旧角川文庫版訳者は、鈴木幸夫と阿部知二で、挿絵はなく、冒険、回想、生還の、三短編集と、バスカーヴィル家の犬のみ、初版表記は「シァーロク・ホウムズ」であった。
シャーロック・ホームズシリーズの著作権は、2023年1月1日にすべてパブリックドメインになったとされている。 | [
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"text": "シャーロック・ホームズシリーズ(英: Sherlock Holmes)は、小説家アーサー・コナン・ドイルの作品で、シャーロック・ホームズと、友人で書き手のジョン・H・ワトスン、またはジョン・H・ワトソンの織り成す冒険小説の要素を含む推理小説である。",
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"text": "1887年から1927年にかけて、60編(長編4、短編56)が発表された。長編として発表した第1作、第2作は人気が出なかったが、イギリスの月刊小説誌「ストランド・マガジン」に依頼され、短編を連載したところ大変な人気となった。それ以降の作品はすべて同誌に発表された。",
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"text": "物語は基本的に事件の当事者、あるいは捜査に行き詰まった警察がホームズに助けを求め訪ねて来ることで始まる。ホームズが現場に調査に行き、警察の見過ごした証拠を発見し推理を働かせて事件の謎を解き、物語は終わる。ほとんどの作品がワトスンによる事件記録、という形で書かれている。変人の探偵と常識人をコンビにして相棒を物語の書き手とするスタイルは、「史上初の推理小説」といわれる『モルグ街の殺人』(エドガー・アラン・ポー、1841年)を踏襲している。",
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"text": "コナン・ドイルが書いた60の長短編は、熱狂的なファン(シャーロキアン)から聖書になぞらえて「正典 (Canon)」「聖典」「古年代記(サーガ)」などと呼ばれる。このCanonは、コナン・ドイル (Conan Doyle)のアナグラムでもある。「正典」に対し、聖書同様に「外典 (Apocrypha)」「経外典」「偽典」などと呼ばれる作品群がある。Apocryphaについては定義に揺れがあり、ホームズに関連したパロディやパスティーシュの全てを「外典」と呼ぶこともあれば、ドイル自身によるホームズのパロディなどに限定して「経外典」とする説、「聖典」で言及されたものの執筆されていない事件の記録(語られざる事件)を「偽典」とする説、「外典」をドイルの執筆した「戯曲(芝居の台本)」「ドイル自身によるパロディ」「ホームズが脇役で登場する作品」の三種類に大別する説などがある。",
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"text": "シリーズのほとんどの作品がワトスンの一人称で記述されているが、「最後の挨拶」と「マザリンの宝石」は三人称、「白面の兵士」と「ライオンのたてがみ」はホームズの一人称で記述されている。「グロリア・スコット号事件」と「マスグレーヴ家の儀式」は、ホームズがワトスンと知り合う以前の体験を語って聞かせるという体裁をとり、実質ホームズの一人称での記述になっている。また『緋色の研究』と『恐怖の谷』の後半に、かなり長く三人称で過去の出来事を語った部分がある。",
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"text": "以下の邦題は新潮文庫版のものである。TV化された作品など、異なる邦題は多数存在し、原典の直訳とは全く違う内容に即した題名が充てられているものもある。かっこ内は、それらのうち大きく異なっているものである。 最後の数字は事件の時系列の順番(時系列順に収録されているちくま文庫版に拠る)である。",
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"text": "日本は英語圏以外で、もっとも早くホームズものが紹介された国の1つである。",
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"text": "明治27年(1894年)の雑誌『日本人』1月号には、すでに「乞食道楽」の訳題で短編集である『シャーロック・ホームズの冒険』の「唇の曲がった男」が紹介されている。訳者名が記載されていないが、これが現在確認できる範囲で一番古い紹介である。次いで明治31年(1898年)9月7日から同年9月17日にかけ、徳冨蘆花の翻案で「秘密条約」が連載されている。これは「海軍条約」の紹介である。",
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"text": "長編の紹介は明治32年(1899年)には「血染の壁」の邦題で、毎日新聞に『緋色の研究』が連載されている。ホームズは本間、ワトソンは和田と日本人にされ、舞台はベルリンに変えられた(翻訳者は「無名氏」とされ、誰であったかは不詳)。",
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"text": "同、明治32年(1899年)には水田南陽(南陽外史)が『シャーロック・ホームズの冒険』の全12作品を『不思議の探偵』の総題で中央新聞で翻訳連載している。外遊した際にホームズものの人気を聞きつけ、帰国後にこれを訳したという。『冒険』が1892年に出版されたので、わずか7年で持ち込まれたことになる。「まだらの紐」を「毒蛇の秘密」としてしまうなど、題名でネタを割ってしまっている例もあるが、「赤毛組合」を「禿頭倶楽部」とした当時の日本人に馴染みやすく改変を行った例もある。明治末期(1907年)辺りから続々と作品が刊行され始めた。",
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"text": "明治期の紹介は、当時の日本人多くには英米の人名や地名あるいは文物になじみがなかったので、翻訳というよりも翻案あるいは再話というべきものが多い。舞台をイギリスから日本に、人名を堀田や和田になど、わかりやすい人名に置き換えている。また、英語教材としても扱われており、明治40年(1907年)4月には佐川春水訳註『銀行盗賊』(建文社)と訳註書が出ている。その後も、色々な訳註者が色々の出版社から短編の1作あるいは数作の訳註書を刊行している。",
"title": "日本での出版"
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"text": "短編集として原書の一冊をまとめて紹介したものは、大正4年(1915年)11月の『探偵王・蛇石博士』矢野虹城訳が嚆矢であるが、これは翻訳というより翻案というべきものである。その後、大正5年(1916年)には、加藤朝鳥訳『シャーロック・ホルムス』第一編から第三編で『冒険』の諸作がすべて訳されている。大正12年から刊行された紅玉社の「万国怪奇探偵叢書」には、『深紅の一糸』(「緋色の研究」)、『ホルムスの思い出』、『四つの暗号』(「四つの署名」)、『地獄の手』(恐怖の谷)、『ホルムスの再生』(「帰還」)、『食堂の殺人』(「最後の挨拶」)と刊行されているが、短編集の訳は全編の訳ではなく割愛された作もある。紅玉社はその後改めて、「紅玉社英文全訳叢書」として『メモアズ・オブ・シャロック・ホルムス』、『リタアン・オブ・シャロック・ホルムス』、『アドベンチャアズ・オブ・シャーロック・ホルムス』、『サイン・オブ・フヲア』、『スタデイ・イン・スカアレット』を刊行している、書名はすべて原題のカタカナ書きだが内容は訳書である。",
"title": "日本での出版"
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"text": "昭和5年に平凡社「世界探偵小説全集」の中の第1巻から第6巻として江戸川乱歩が『恐怖の谷・妖犬』『シャーロック・ホームズの冒険』を、三上於菟吉が『シャーロック・ホームズの記憶』『シャーロック・ホームズの帰還』を、東健而が『或るグロテスク』を、延原謙が『シャーロック・ホームズの事件簿』を担当している。昭和11年~13年には、菊池武一訳『ホームズの冒険』、『ホームズの回想』、『ホームズの帰還』が岩波文庫で刊行(戦後に改版)された。平凡社版の短編集には、原書にありながら訳されていない作があるし、訳者として名前をあげている人が必ずしも自身で訳したわけではなく、乱歩などすべて代訳であると後年自身で述懐している。また岩波文庫版もやはり作品の選択が行われている。",
"title": "日本での出版"
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"text": "全作品が原書に従って訳・出版されたのは、昭和6年(1931年)から昭和8年刊行の改造社版『世界文学全集・ドイル全集』(全8巻)が最初である。このとき『シャーロック・ホームズの事件簿』刊行につき、著者ドイルの許可が得られ翻訳権が成立、ホームズ作品中この一冊のみ訳・出版できる出版社が長年限られた。また(訳者の一人)延原謙は、大正末期からドイル作品を訳し、昭和6年には『ドイル全集』を刊行開始した。",
"title": "日本での出版"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "戦前からドイル翻訳を手がけていた延原が、戦後新たに取り組み、1951年月曜書房から「シャーロック・ホームズ全集」を刊行開始、翌年全13巻で完結、日本初の全60編の翻訳を個人全訳で成し遂げた。月曜書房版には「求むる男」が収載されているが、後にドイルの作ではない事がわかったので、下記の作品集には収録されていない。",
"title": "主なシリーズ出版"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "新潮文庫は、1953年3月に『シャーロック・ホームズの思い出』より刊行が始まった。53年に『シャーロック・ホームズの冒険』、『同・帰還』、『同・事件簿』の各短編集、『緋色の研究』、『恐怖の谷』、『四つの署名』の各長編を、54年に『バスカヴィル家の犬』を、55年に『シャーロック・ホームズの最後の挨拶』を刊行した。文庫版は、ページ数制約のため短編集から計8編が割愛されており、55年9月に、その8編を収録した日本独自の短編集『シャーロック・ホームズの叡智』を刊行、日本初の文庫版「ホームズ全集」全10巻が完結。なお挿絵はない。延原訳は、文庫以外に別に新潮社で「全集」全6巻も刊行した。",
"title": "主なシリーズ出版"
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"text": "前史でも述べたが、延原は戦前からドイル作品の主要な訳者で、訳著は戦前、すでに一部文庫化されていた。延原は全集完結後も、ホームズ作品以外のドイル作品を翻訳、57年から『ドイル傑作集』を刊行。58年、60年、61年までに全7集の傑作集を訳した。1965年に『わが思い出と冒険-コナン・ドイル自伝』(1994年に限定復刊)を訳している。新潮文庫では、延原による戦前からのドイル翻訳の集成として、ドイル作品群が揃えられていたが、ホームズ作品と『ドイル傑作集』(7巻中の3巻の全20短編)以外は、年を経て品切となった。",
"title": "主なシリーズ出版"
},
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"text": "1977年の延原の没後も、順調に版を重ねていたが、90年代にリニューアル(息子・展による訳文の修正・改版、カバーデザイン変更)した。またホームズ作品集以外の『ドイル傑作集』(全3巻)も、2006-07年に改版、新デザインカバーとなり、重版されている。傑作集の第1巻にはホームズシリーズの外典である「消えた臨時特急」と「時計だらけの男」が収録されている。",
"title": "主なシリーズ出版"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "なお、この新潮文庫版以降に刊行された文庫版全集は、すべてオリジナル通りの短編集5冊、長編4冊の全9巻で刊行したが、改版再刊版も『叡智』を含む全10巻の構成のままである。",
"title": "主なシリーズ出版"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "なお延原謙と著名なシャーロッキアン長沼弘毅を記念し、各・没後に名を冠した賞があったが、1985年に第7回「日本シャーロック・ホームズ大賞」に統合され現在まで続いている(2023年第45回は日暮雅通が受賞)",
"title": "主なシリーズ出版"
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"text": "最初は、新書判のハヤカワ・ミステリ(通称ポケット・ミステリ、ポケミス)シリーズで、1958年9月に、著名な英米文学翻訳家の大久保訳により『シャーロック・ホームズの事件簿』を刊行した。翌年に同シリーズで、『最後の挨拶』を、その次が63年で『同・復活』が刊行された。その後しばらく訳書は出されず、シリーズは3作で打ち止めと見られたが、第4作は18年ぶりとなる81年に『同・冒険』を、同年に『同・回想』も出版され、長編は83年に『緋色の研究』と『四つの署名』が、84年に『バスカヴィル家の犬』、85年8月に『恐怖の谷』を刊行、シリーズ発売開始以来約27年をかけて全訳が完結した。",
"title": "主なシリーズ出版"
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"text": "刊行が再開された1981年にハヤカワ・ミステリ文庫での刊行も始まり、6月の『冒険』を皮切りに、同年中に『回想』、『復活』、『最後の挨拶』を再刊行した。うち『復活』『最後の挨拶』『事件簿』は文庫用に新たに訳しなおしたものである。83年に『緋色の研究』、『四つの署名』、84年『バスカヴィル家の犬』、85年『恐怖の谷』が再刊行。著作権の関係で、文庫版では未刊行だった『事件簿』も、開始以来10年目の91年に再刊行。創元推理文庫版と同時に、新たな文庫版全集が完結した。2015年に『冒険』は(上・下)に改版刊行。かなりの年月をかけ完結したハヤカワ版全集だが、ポケミス版は全点品切、文庫版も半数以上が品切(2010年現在)になっている。",
"title": "主なシリーズ出版"
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"text": "ホームズ作品以外のドイル作品では、新書判のハヤカワSFシリーズで、1962年に新庄哲夫訳で『ロスト・ワールド』、63年に『マラコット海淵』(斉藤伯好訳)が出ており、1996年にハヤカワSF文庫で、加島祥造新訳で『失われた世界 ロスト・ワールド』が刊行されたが、現在は全点品切。早川書房でもホームズ作品研究、多くのパスティーシュ作品の訳書が刊行されている。特にジョン・ディクスン・カーは、三男アイドリアンと共著でシリーズの続編『シャーロック・ホームズの功績』がある。",
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"text": "伝記研究に、カーによる公認伝記『コナン・ドイル』(大久保康雄訳)があり、単行本で刊行後、1993年にポケミスシリーズ(数少ない伝記)で再刊、電子出版もある。また訳者日暮雅通『シャーロック・ホームズ・バイブル』(2022年)がある。",
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"text": "東京創元社〈創元推理文庫〉版は1960年の7月11月にかけ阿部知二訳が、『冒険』から『最後のあいさつ』までの短編集4冊と『緋色の研究』から『恐怖の谷』までの長編4冊の計8冊で断続的に出版された。阿部によるホームズシリーズの最初の翻訳は1958年に麦書房『銀星号事件』である。のち河出書房『世界文学全集 決定版』が出版され、1958年に別冊巻の一つに、阿部訳ホームズシリーズが選ばれた。阿部訳(創元旧)版は、河出旧訳版を底本に改訳を行い刊行した。しかし『事件簿』のみ、著作権契約の関係から既記した上出の各出版社に優先的な独占出版権が与えられたため、東京創元社は資本及び交渉権の関係で、これに参画する事が出来ず、故に阿部訳版の『事件簿』は未刊となった。また上述した他社が有する独占出版権の失効を待つことなく、1973年に阿部知二が病没したため『事件簿』は改訳出版が出来なかった。",
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"text": "各・文庫版が、ドイル傑作集全5巻と、冒険小説『勇将ジェラール』、SF小説『失われた世界』(中原尚哉の新訳)等、他の訳者で計全10冊刊行されたが、中原訳以外は品切。",
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"text": "シャーロック・ホームズシリーズの著作権は、2023年1月1日にすべてパブリックドメインになったとされている。",
"title": "著作権"
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] | シャーロック・ホームズシリーズは、小説家アーサー・コナン・ドイルの作品で、シャーロック・ホームズと、友人で書き手のジョン・H・ワトスン、またはジョン・H・ワトソンの織り成す冒険小説の要素を含む推理小説である。 1887年から1927年にかけて、60編(長編4、短編56)が発表された。長編として発表した第1作、第2作は人気が出なかったが、イギリスの月刊小説誌「ストランド・マガジン」に依頼され、短編を連載したところ大変な人気となった。それ以降の作品はすべて同誌に発表された。 物語は基本的に事件の当事者、あるいは捜査に行き詰まった警察がホームズに助けを求め訪ねて来ることで始まる。ホームズが現場に調査に行き、警察の見過ごした証拠を発見し推理を働かせて事件の謎を解き、物語は終わる。ほとんどの作品がワトスンによる事件記録、という形で書かれている。変人の探偵と常識人をコンビにして相棒を物語の書き手とするスタイルは、「史上初の推理小説」といわれる『モルグ街の殺人』(エドガー・アラン・ポー、1841年)を踏襲している。 | {{Otheruses|シリーズ|その他の用法|シャーロック・ホームズ (曖昧さ回避)}}
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[[ファイル:Sherlock holmes pipe hat.jpg|thumb|250px|シャーロック・ホームズの帽子とパイプと虫メガネ]]
'''シャーロック・ホームズシリーズ'''({{lang-en-short|Sherlock Holmes}})は、[[小説家]][[アーサー・コナン・ドイル]]の作品で、[[シャーロック・ホームズ]]と、友人で書き手の[[ジョン・H・ワトスン]]、またはジョン・H・ワトソンの織り成す冒険小説の要素を含む[[推理小説]]である。
[[1887年]]から[[1927年]]にかけて、60編(長編4、短編56)が発表された。長編として発表した第1作、第2作は人気が出なかったが、[[イギリス]]の月刊小説誌「[[ストランド・マガジン]]」に依頼され、短編を連載したところ大変な人気となった。それ以降の作品はすべて同誌に発表された。
物語は基本的に事件の当事者、あるいは捜査に行き詰まった警察がホームズに助けを求め訪ねて来ることで始まる。ホームズが現場に調査に行き、警察の見過ごした証拠を発見し推理を働かせて事件の謎を解き<ref group="注釈">なお、ホームズ自ら待ち伏せ、追跡等で犯人をつかまえることも多い。</ref>、物語は終わる。ほとんどの作品がワトスンによる事件記録、という形で書かれている。変人の探偵と常識人をコンビにして相棒を物語の書き手とするスタイルは、「史上初の推理小説」といわれる『[[モルグ街の殺人]]』([[エドガー・アラン・ポー]]、[[1841年]])を踏襲している。
== 作品リスト ==
=== 正典と外典 ===
コナン・ドイルが書いた60の長短編は、熱狂的なファン([[シャーロキアン]])から[[聖書]]になぞらえて「'''[[正典]]''' (Canon)」「聖典」「古年代記(サーガ)」などと呼ばれる<ref>ベアリング・グールド「二人の医師と一人の探偵」小池滋訳『詳注版シャーロック・ホームズ全集1』小池滋監訳、ちくま文庫、1997年、18-19頁</ref><ref>「古年代記」への言及はない - 栗原郁夫「外典(経外典・偽典=アポクリファ)」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、156-157頁</ref><ref>「古年代記」への言及はない - 田中喜芳『シャーロッキアンの優雅な週末 ホームズ学はやめられない』中央公論社、1998年、7頁</ref><ref>「正典」のみ言及 - コナン・ドイル『ドイル傑作選I ミステリー篇』北原尚彦・西崎憲編、翔泳社、1999年、8頁、365頁</ref>。この'''Canon'''は、コナン・ドイル ('''Conan''' Doyle)のアナグラムでもある<ref>ベアリング・グールド「二人の医師と一人の探偵」小池滋訳『詳注版シャーロック・ホームズ全集1』小池滋監訳、ちくま文庫、1997年、19頁</ref>。「正典」に対し、聖書同様に「'''[[外典]]''' (Apocrypha)」「経外典」「偽典」などと呼ばれる作品群がある<ref>栗原郁夫「外典(経外典・偽典=アポクリファ)」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、156-157頁</ref>。Apocryphaについては定義に揺れがあり、ホームズに関連した[[パロディ]]や[[パスティーシュ]]の全てを「外典」と呼ぶこともあれば、ドイル自身によるホームズのパロディなどに限定して「経外典」とする説<ref>ジャック・トレイシーのアンソロジー『シャーロックホームズ-出版された経外典』による - 栗原郁夫「外典(経外典・偽典=アポクリファ)」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、156-157頁</ref>、「聖典」で言及されたものの執筆されていない事件の記録([[語られざる事件]])を「偽典」とする説<ref>ベアリング・グールド「二人の医師と一人の探偵」小池滋訳『詳注版シャーロック・ホームズ全集1』小池滋監訳、ちくま文庫、1997年、86頁</ref>、「外典」をドイルの執筆した「戯曲(芝居の台本)」「ドイル自身によるパロディ」「ホームズが脇役で登場する作品」の三種類に大別する説<ref>コナン・ドイル『ドイル傑作選I ミステリー篇』北原尚彦・西崎憲編、翔泳社、1999年、8頁</ref>などがある。
シリーズのほとんどの作品がワトスンの一人称で記述されているが、「[[最後の挨拶]]」と「[[マザリンの宝石]]」は三人称、「[[白面の兵士]]」と「[[ライオンのたてがみ]]」はホームズの一人称で記述されている。「[[グロリア・スコット号事件]]」と「[[マスグレーヴ家の儀式]]」は、ホームズがワトスンと知り合う以前の体験を語って聞かせるという体裁をとり、実質ホームズの一人称での記述になっている。また『[[緋色の研究]]』と『[[恐怖の谷]]』の後半に、かなり長く三人称で過去の出来事を語った部分がある。
=== 正典 ===
以下の邦題は[[新潮文庫]]版のものである。TV化された作品など、異なる邦題は多数存在し、原典の直訳とは全く違う内容に即した題名が充てられているものもある。かっこ内は、それらのうち大きく異なっているものである。
最後の数字は事件の時系列の順番(時系列順に収録されている<ref>https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%AB_000000000436511/item_%E8%A9%B3%E6%B3%A8%E7%89%88%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%EF%BD%A5%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E5%85%A8%E9%9B%86-1-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%87%E5%BA%AB_4399329</ref>ちくま文庫版に拠る<ref>https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002609665-00</ref><ref>https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002614027-00</ref><ref>https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002614028-00</ref><ref>https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002616861-00</ref><ref>https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002616860-00</ref><ref>https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002637990-00</ref><ref>https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002641709-00</ref><ref>https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002659134-00</ref><ref>https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002676923-00</ref><ref>https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002692053-00</ref>)である。
==== 長編 ====
* ''A Study in Scarlet'' - [[緋色の研究]](緋色の習作)(3)
* ''The Sign of Four'' - [[四つの署名]](四つのサイン)(19)
* ''The Hound of the Baskervilles'' - [[バスカヴィル家の犬]](バスカービルの魔犬)(バスカル家の犬)(20)
* ''The Valley of Fear'' - [[恐怖の谷]](16)
==== 短編集 ====
; ''The Adventures of Sherlock Holmes'' - [[シャーロック・ホームズの冒険]]
* ''A Scandal in Bohemia'' - [[ボヘミアの醜聞]](「醜聞」に「スキャンダル」のルビが振られる場合がある)(9)
* ''The Red-Headed League'' - [[赤毛組合]](赤毛連盟、赤毛クラブ)(13)
* ''A Case Of Identity'' - [[花婿失踪事件]](花婿の正体)(12)
* ''The Boscombe Valley Mystery'' - [[ボスコム渓谷の惨劇]](ボスコム谷の惨劇、ボスコム谷の謎)(22)
* ''The Five Orange Pips'' - [[オレンジの種五つ]](五つぶのオレンジの種)(11)
* ''The Man with the Twisted Lip'' - [[唇のねじれた男]](もう一つの顔)(10)
* ''The Adventure of the Blue Carbuncle'' - [[青い紅玉]](青いガーネット、青いルビー)(15)
* ''The Adventure of the Speckled Band'' - [[まだらの紐]](4)
* ''The Adventure of the Engineer's Thumb'' - [[技師の親指]](26)
* ''The Adventure of the Noble Bachelor'' - [[独身の貴族]](花嫁失踪事件)(6)
* ''The Adventure of the Beryl Coronet'' - [[緑柱石の宝冠]](30)
* ''The Adventure of the Copper Beeches'' - [[ぶな屋敷]](ぶなの木立、ぶなの木屋敷の怪)(21)
; ''The Memoirs of Sherlock Holmes'' - [[シャーロック・ホームズの思い出]](シャーロック・ホームズの回想)
* ''Silver Blaze'' - [[白銀号事件]](銀星号事件、名馬シルヴァー・ブレイズ、シルヴァー・ブレイズ)(29)
* ''The Cardboard Box'' - [[ボール箱]]<ref group="注釈" name="cardboard box">ドイル生前の版とアメリカ版とでは[[シャーロック・ホームズ最後の挨拶]]に収録されているが、近年のイギリス版では[[シャーロック・ホームズの思い出]]に収録されている。</ref>(ボール箱事件)(25)
* ''The Yellow Face'' - [[黄色い顔]](土色の顔)(17)
* ''The Stockbroker's Clerk'' - [[株式仲買店員]](株式仲買人)(23)
* ''The 'Gloria Scott''' - [[グロリア・スコット号事件]](1<ref group="注釈" name="時系列補足">これらの作品は基準をどの部位でとるかで「時系列順」が大きく変わる。ちくま文庫では『グロリア・スコット号事件』と『マスグレーヴ家の儀式』はワトソンが聞かされている過去話の部分、『覆面の下宿人』はワトソンが話を聞いている現在部分を基準にしている。</ref>)
* ''The Musgrave Ritual'' - [[マスグレーヴ家の儀式]](2<ref group="注釈" name="時系列補足"/>)
* ''The Reigate Squire''<ref group="注釈">[[ストランド・マガジン]]での)題名。''Squire''の部分が、『[[シャーロック・ホームズの思い出]]』収録時には''Squires''、アメリカ版では''Puzzle''と改題された。</ref> - [[ライゲートの大地主]](ライゲイトの地主)(8)
* ''The Crooked Man'' - [[背中の曲がった男]](かたわ男、まがった男、背の曲がった男)(27)
* ''The Resident Patient'' - [[入院患者]](寄留患者)(5)
* ''The Greek Interpreter'' - [[ギリシャ語通訳]](18)
* ''The Naval Treaty'' - [[海軍条約文書事件]](海軍条約)(24)
* ''The Final Problem'' - [[最後の事件]](31)
; ''The Return of Sherlock Holmes'' - [[シャーロック・ホームズの帰還]](シャーロック・ホームズの生還、シャーロック・ホームズの復活、シャーロック・ホームズ帰る)
* ''The Adventure of the Empty House'' - [[空き家の冒険]](32)
* ''The Adventure of the Norwood Builder'' - [[ノーウッドの建築業者]](37)
* ''The Adventure of the Dancing Men'' - [[踊る人形]](44)
* ''The Adventure of the Solitary Cyclist'' - [[孤独な自転車乗り]](美しき自転車乗り、一人ぼっちの自転車乗り)(35)
* ''The Adventure of the Priory School'' - [[プライオリ学校]](ブライアリイ・スクール)(49)
* ''The Adventure of Black Peter'' - [[ブラック・ピーター]](36)
* ''The Adventure of Charles Augustus Milverton'' - [[犯人は二人]](チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン、恐喝王ミルヴァートン、毒ヘビ紳士)(46)
* ''The Adventure of the Six Napoleons'' - [[六つのナポレオン]](六つのナポレオン像)(47)
* ''The Adventure of the Three Students'' - [[三人の学生]](34)
* ''The Adventure of the Golden Pince-Nez'' - [[金縁の鼻眼鏡]](33)
* ''The Adventure of the Missing Three-Quarter'' - [[スリークウォーター失踪]](スリークオーターの失跡)(41)
* ''The Adventure of the Abbey Grange'' - [[僧坊荘園]](アベイ農場、アベ荘園、アビィ農園、修道院屋敷)(42)
* ''The Adventure of the Second Stain'' - [[第二の汚点]](第二のしみ)(7)
; ''His Last Bow'' - [[シャーロック・ホームズ最後の挨拶]]
* ''The Adventure of Wisteria Lodge'' - [[ウィスタリア荘]](ウィステリア荘、藤荘)(28)
* ''The Cardboard Box'' - [[ボール箱]]<ref group="注釈" name="cardboard box" />
* ''The Adventure of the Red Circle'' - [[赤い輪]](54)
* ''The Adventure of the Bruce-Pardington Plans'' - [[ブルースパーティントン設計書]](ブルース・パーティントン型設計図)(38)
* ''The Adventure of the Dying Detective'' - [[瀕死の探偵]](14)
* ''The Disappearance of Lady Francis Carfax'' - [[フランシス・カーファックス姫の失踪]](レディ・フランセス・カーファックスの失踪)(52)
* ''The Adventure of the Devil's Foot'' - [[悪魔の足]](43)
* ''His Last Bow'' - [[最後の挨拶]](60)
; ''The Case-Book of Sherlock Holmes'' - [[シャーロック・ホームズの事件簿]]
* ''The Adventure of the Mazarin Stone'' - [[マザリンの宝石]](57)
* ''The Problem of Thor Bridge'' [[ソア橋]](ソア橋のなぞ、ソア橋事件)(48)
* ''The Adventure of the Creeping Man'' - [[這う男]](這う人)(58)
* ''The Adventure of the Sussex Vampire'' - [[サセックスの吸血鬼]](40)
* ''The Adventure of the Three Garridebs'' - [[三人ガリデブ]](51)
* ''The Adventure of the Illustrious Client'' - [[高名な依頼人]](53)
* ''The Adventure of the Three Gables'' - [[三破風館]](スリー・ゲイブルズ)(56)
* ''The Adventure of the Blanched Soldier'' - [[白面の兵士]](白面の騎士)(55)
* ''The Adventure of the Lion's Mane'' - [[ライオンのたてがみ]](獅子のたてがみ)(59)
* ''The Adventure of the Retired Colourman'' - [[隠居絵具師]](引退した絵具師、退職した絵具屋)(45)
* ''The Adventure of the Veiled Lodger'' - [[覆面の下宿人]](39<ref group="注釈" name="時系列補足"/>)
* ''The Adventure of Shoscombe Old Place'' - [[ショスコム荘]](ショスコム・オールド・プレイス)(50)
=== 外典 ===
;ホームズの名前は出てこないが、彼らしき人物が登場するドイル作品
* ''The Lost Special'' - [[消えた臨時列車]](消えた臨急)
* ''The Man with the Watches'' - [[時計だらけの男]]
;ドイル自身によるホームズもののパロディ
* ''The Field Bazaar'' - [[競技場バザー]]
* ''How Watson Learned the Trick'' - [[ワトスンの推理法修業]]
;ドイルの手による戯曲
* ''The Crown Diamond'' - [[王冠のダイヤモンド]](短編『[[マザリンの宝石]]』の原型)
* ''The Speckled Band'' - [[まだらの紐#外典 戯曲版『まだらの紐』と『ストーナー事件』|まだらの紐]](短編『まだらの紐』の戯曲化)
* ''The Stonor Case'' - [[まだらの紐#外典 戯曲版『まだらの紐』と『ストーナー事件』|ストーナー事件]](上記戯曲『まだらの紐』の第一稿)
* ''Angels Of Darkness'' - [[暗黒の天使たち]]<ref group="注釈">『緋色の研究』の後半部分を基にする戯曲。ドイルの遺族が公表を拒否してきた作品で、長らく出版が認められていなかったが、2001年米国[[ベイカー・ストリート・イレギュラーズ|BSI]]から出版され、日本では、2013年に笹野史隆による自費出版『コナン・ドイル小説全集 第33巻』で、第3幕の別バージョンとともに邦訳された。 - コナン・ドイル『ドイル傑作選I ミステリー篇』北原尚彦・西崎憲編、翔泳社、1999年、369頁</ref>
;ドイルの手によらないホームズ作品
* ''Sherlock Holmes'' - {{仮リンク|戯曲 シャーロック・ホームズ|en|Sherlock Holmes (play)}}([[ウィリアム・ジレット]]作 / コナン・ドイルとの合作名義)
* ''Arsene Lupin contre Herlock Sholmès'' - [[ルパン対ホームズ]]([[モーリス・ルブラン]] 作)<ref group="注釈">[[モーリス・ルブラン]]は『遅かりしシャーロック・ホームズ』([[怪盗紳士ルパン]]に収録)に無断でシャーロック・ホームズ登場させていたが、ドイルからの抗議を受け、本作ではスペルをアナグラムにした『Herlock Sholmès(エルロック・ショルメ)』とし、ワトスンはウィルソンという別人に変更している。</ref>
* ''The Case of the Man Who Was Wanted'' - [[指名手配の男]](求むる男)(ドイルの未発表作品かと思われたが別人の執筆<ref group="注釈">ただしドイルが権利を買い取って自分名義で出そうとした証拠があったので「作者本人が本編に組み込もうと一度は認めた」ものとされ、ただのパスティーシュよりワンランク上に扱われる。</ref>)
;ドイルの手によらないホームズ作品(コナン・ドイル財団公認)
* ''The House of Silk'' - 絹の家([[アンソニー・ホロヴィッツ]]作)
* ''Moriarty'' - モリアーティ(アンソニー・ホロヴィッツ作)
* ''The House at Baker Street'' - ベイカー街の女たち([[ミシェル・バークビイ]]作)
* ''The Women of Baker Street'' - ベイカー街の女たちと幽霊少年団(ミシェル・バークビイ作)
== 主な登場人物 ==
[[ファイル:durham castle.jpg|thumb|240px| [[ダラム大学]]になっているダラム城]]
*[[シャーロック・ホームズ]]
*[[ジョン・H・ワトスン]]
*[[ハドスン夫人]]
*[[ベイカー街遊撃隊]]
*[[アイリーン・アドラー]]
*[[マイクロフト・ホームズ]]
*[[メアリー・モースタン]]
*[[レストレード]][[警部]]
*[[トバイアス・グレグスン]]警部
*[[アセルニー・ジョーンズ]]警部
*[[ジェームズ・モリアーティ]] [[ダラム大学]]教授
*[[セバスチャン・モラン]]大佐
== 日本での出版 ==
=== 前史 ===
日本は英語圏以外で、もっとも早くホームズものが紹介された国の1つである。
[[明治]]27年([[1894年]])の雑誌『日本人』1月号には、すでに「乞食道楽」の訳題で短編集である『シャーロック・ホームズの冒険』の「唇の曲がった男」が紹介されている。訳者名が記載されていないが、これが現在確認できる範囲で一番古い紹介である。次いで明治31年([[1898年]])9月7日から同年9月17日にかけ、[[徳冨蘆花]]の翻案で「秘密条約」が連載されている。これは「海軍条約」の紹介である。
長編の紹介は明治32年([[1899年]])には「血染の壁」の邦題で、[[毎日新聞]]に『緋色の研究』が連載されている。ホームズは本間、ワトソンは和田と日本人にされ、舞台はベルリンに変えられた(翻訳者は「無名氏」とされ、誰であったかは不詳)。
同、明治32年([[1899年]])には[[水田南陽]](南陽外史)が『シャーロック・ホームズの冒険』の全12作品を『不思議の探偵』の総題で[[中央新聞]]で翻訳連載している<ref>[http://shworld.fan.coocan.jp/05_tin_binran/h_tin_binran.html ホームズのブリキ箱(資料室)]</ref>。外遊した際にホームズものの人気を聞きつけ、帰国後にこれを訳したという。『冒険』が[[1892年]]に出版されたので、わずか7年で持ち込まれたことになる。「まだらの紐」を「毒蛇の秘密」としてしまうなど、題名でネタを割ってしまっている例もあるが、「赤毛組合」を「禿頭倶楽部」とした当時の日本人に馴染みやすく改変を行った例もある。明治末期(1907年)辺りから続々と作品が刊行され始めた。
明治期の紹介は、当時の日本人多くには英米の人名や地名あるいは文物になじみがなかったので、翻訳というよりも翻案あるいは再話というべきものが多い。舞台をイギリスから日本に、人名を堀田や和田になど、わかりやすい人名に置き換えている。また、英語教材としても扱われており、明治40年(1907年)4月には佐川春水訳註『銀行盗賊』(建文社)と訳註書が出ている。その後も、色々な訳註者が色々の出版社から短編の1作あるいは数作の訳註書を刊行している。
=== 大正・昭和戦前・戦中期 ===
短編集として原書の一冊をまとめて紹介したものは、[[大正]]4年(1915年)11月の『探偵王・蛇石博士』矢野虹城訳が嚆矢であるが、これは翻訳というより翻案というべきものである。その後、大正5年(1916年)には、加藤朝鳥訳『シャーロック・ホルムス』第一編から第三編で『冒険』の諸作がすべて訳されている。大正12年から刊行された紅玉社の「万国怪奇探偵叢書」には、『深紅の一糸』(「緋色の研究」)、『ホルムスの思い出』、『四つの暗号』(「四つの署名」)、『地獄の手』(恐怖の谷)、『ホルムスの再生』(「帰還」)、『食堂の殺人』(「最後の挨拶」)と刊行されているが、短編集の訳は全編の訳ではなく割愛された作もある。紅玉社はその後改めて、「紅玉社英文全訳叢書」として『メモアズ・オブ・シャロック・ホルムス』、『リタアン・オブ・シャロック・ホルムス』、『アドベンチャアズ・オブ・シャーロック・ホルムス』、『サイン・オブ・フヲア』、『スタデイ・イン・スカアレット』を刊行している、書名はすべて原題のカタカナ書きだが内容は訳書である。
[[昭和]]5年に[[平凡社]]「世界探偵小説全集」の中の第1巻から第6巻として[[江戸川乱歩]]が『恐怖の谷・妖犬』『シャーロック・ホームズの冒険』を、[[三上於菟吉]]が『シャーロック・ホームズの記憶』『シャーロック・ホームズの帰還』を、[[東健而]]が『或るグロテスク』を、[[延原謙]]が『シャーロック・ホームズの事件簿』を担当している。昭和11年~13年には、[[菊池武一]]訳『[[シャーロック・ホームズの冒険|ホームズの冒険]]』、『[[シャーロック・ホームズの回想|ホームズの回想]]』、『[[シャーロック・ホームズの帰還|ホームズの帰還]]』が[[岩波文庫]]で刊行(戦後に改版)された。平凡社版の短編集には、原書にありながら訳されていない作があるし、訳者として名前をあげている人が必ずしも自身で訳したわけではなく、乱歩などすべて代訳であると後年自身で述懐している。また岩波文庫版もやはり作品の選択が行われている。
全作品が原書に従って訳・出版されたのは、昭和6年(1931年)から昭和8年刊行の改造社版『世界文学全集・ドイル全集』(全8巻)が最初である。このとき『シャーロック・ホームズの事件簿』刊行につき、著者ドイルの許可が得られ翻訳権が成立、ホームズ作品中この一冊のみ訳・出版できる出版社が長年限られた。また(訳者の一人)延原謙は、[[大正]]末期からドイル作品を訳し、昭和6年には『ドイル全集』を刊行開始した。
== 主なシリーズ出版 ==
=== 新潮文庫版 ===
*訳者 - [[延原謙]] 全10巻([[1990年代]]の改版にあたり、嗣子の[[延原展]]が修正を加えた)
戦前からドイル翻訳を手がけていた延原が、戦後新たに取り組み、1951年月曜書房から「シャーロック・ホームズ全集」を刊行開始、翌年全13巻で完結、日本初の全60編の翻訳を個人全訳で成し遂げた。月曜書房版には「[[指名手配の男|求むる男]]」が収載されているが、後にドイルの作ではない事がわかったので、下記の作品集には収録されていない。
[[新潮文庫]]は、1953年3月に『シャーロック・ホームズの思い出』より刊行が始まった。<br />53年に『シャーロック・ホームズの冒険』、『同・帰還』、『同・事件簿』の各短編集、『緋色の研究』、『恐怖の谷』、『四つの署名』の各長編を、54年に『バスカヴィル家の犬』を、55年に『シャーロック・ホームズの最後の挨拶』を刊行した。<br />文庫版は、ページ数制約のため短編集から計8編が割愛されており、55年9月に、その8編を収録した日本独自の短編集『シャーロック・ホームズの叡智』を刊行、日本初の文庫版「ホームズ全集」全10巻が完結。なお挿絵はない。延原訳は、文庫以外に別に[[新潮社]]で「全集」全6巻も刊行した。
前史でも述べたが、延原は戦前からドイル作品の主要な訳者で、訳著は戦前、すでに一部文庫化されていた。<br />延原は全集完結後も、ホームズ作品以外のドイル作品を翻訳、57年から『ドイル傑作集』を刊行。58年、60年、61年までに全7集の傑作集を訳した。1965年に『わが思い出と冒険-コナン・ドイル自伝』(1994年に限定復刊)を訳している。<br />新潮文庫では、延原による戦前からのドイル翻訳の集成として、ドイル作品群が揃えられていたが、ホームズ作品と『ドイル傑作集』(7巻中の3巻の全20短編)以外は、年を経て品切となった。
1977年の延原の没後も、順調に版を重ねていたが、90年代にリニューアル(息子・展による訳文の修正・改版、カバーデザイン変更)した。またホームズ作品集以外の『ドイル傑作集』(全3巻)も、2006-07年に改版、新デザインカバーとなり、重版されている。傑作集の第1巻にはホームズシリーズの外典である「消えた臨時特急」と「時計だらけの男」が収録されている。
なお、この新潮文庫版以降に刊行された文庫版全集は、すべてオリジナル通りの短編集5冊、長編4冊の全9巻で刊行したが、改版再刊版も『叡智』を含む全10巻の構成のままである。
なお延原謙と著名なシャーロッキアン[[長沼弘毅]]を記念し、各・没後に名を冠した賞があったが、1985年に第7回「日本シャーロック・ホームズ大賞」に統合され現在まで続いている(2023年第45回は[[日暮雅通]]が受賞)
=== ハヤカワ文庫版 ===
*訳者 [[大久保康雄]]、全9巻。[[早川書房]]。
最初は、新書判の[[ハヤカワ・ポケット・ミステリ|ハヤカワ・ミステリ]](通称ポケット・ミステリ、ポケミス)シリーズで、1958年9月に、著名な英米文学翻訳家の大久保訳により『シャーロック・ホームズの事件簿』を刊行した。翌年に同シリーズで、『最後の挨拶』を、その次が63年で『同・復活』が刊行された。<br />その後しばらく訳書は出されず、シリーズは3作で打ち止めと見られたが、第4作は18年ぶりとなる81年に『同・冒険』を、同年に『同・回想』も出版され、長編は83年に『緋色の研究』と『四つの署名』が、84年に『バスカヴィル家の犬』、85年8月に『恐怖の谷』を刊行、シリーズ発売開始以来約27年をかけて全訳が完結した。
刊行が再開された1981年に[[ハヤカワ文庫|ハヤカワ・ミステリ文庫]]での刊行も始まり、6月の『冒険』を皮切りに、同年中に『回想』、『復活』、『最後の挨拶』を再刊行した。うち『復活』『最後の挨拶』『事件簿』は文庫用に新たに訳しなおしたものである。83年に『緋色の研究』、『四つの署名』、84年『バスカヴィル家の犬』、85年『恐怖の谷』が再刊行。著作権の関係で、文庫版では未刊行だった『事件簿』も、開始以来10年目の91年に再刊行。創元推理文庫版と同時に、新たな文庫版全集が完結した。2015年に『冒険』は(上・下)に改版刊行。<br />かなりの年月をかけ完結したハヤカワ版全集だが、ポケミス版は全点品切、文庫版も半数以上が品切(2010年現在)になっている。
ホームズ作品以外のドイル作品では、新書判のハヤカワSFシリーズで、1962年に新庄哲夫訳で『ロスト・ワールド』、63年に『マラコット海淵』(斉藤伯好訳)が出ており、1996年にハヤカワSF文庫で、[[加島祥造]]新訳で『[[失われた世界|失われた世界 ロスト・ワールド]]』が刊行されたが、現在は全点品切。早川書房でもホームズ作品研究、多くの[[パスティーシュ]]作品の訳書が刊行されている。特に[[ジョン・ディクスン・カー]]は、三男アイドリアンと共著でシリーズの続編『シャーロック・ホームズの功績』がある。
伝記研究に、カーによる公認伝記『コナン・ドイル』(大久保康雄訳)があり、単行本で刊行後、1993年にポケミスシリーズ(数少ない伝記)で再刊、[[電子出版]]もある。また訳者[[日暮雅通]]『シャーロック・ホームズ・バイブル』(2022年)がある。
=== 創元推理文庫版 ===
[[東京創元社]]〈[[創元推理文庫]]〉版は[[1960年]]の7月[[11月]]にかけ[[阿部知二]]訳が、『冒険』から『最後のあいさつ』までの短編集4冊と『緋色の研究』から『恐怖の谷』までの長編4冊の計8冊で断続的に出版された。阿部によるホームズシリーズの最初の翻訳は1958年に麦書房『[[白銀号事件|銀星号事件]]』である。のち[[河出書房新社|河出書房]]『世界文学全集 決定版』が出版され、1958年に別冊巻の一つに、阿部訳ホームズシリーズ<ref>[http://ameqlist.com/0ka/kawade/zen_1953.htm 河出書房・世界文学全集(決定版)-翻訳作品集成(雨宮孝)]</ref>が選ばれた。阿部訳(創元旧)版は、河出旧訳版を底本に改訳を行い刊行した。しかし『事件簿』のみ、著作権契約の関係から既記した上出の各出版社に優先的な独占出版権が与えられたため、東京創元社は資本及び交渉権の関係で、これに参画する事が出来ず<ref name="sogen-cb484">創元推理文庫版『シャーロック・ホームズの事件簿』p.484より</ref>、故に阿部訳版の『事件簿』は未刊となった。また上述した他社が有する独占出版権の失効を待つことなく、1973年に阿部知二が病没したため『事件簿』は改訳出版が出来なかった。
1990年にドイル没後60年による著作権(および上述の独占出版権)の失効により、創元推理文庫で改めて[[深町真理子]]によりホームズシリーズ新訳版刊行を開始した。ただ当初はシリーズ全体の新訳出版の意図はなく、上述した阿部訳版の補完での『事件簿』の刊行のみだった。深町自身も『事件簿』訳にあたり、可能な限り阿部訳版をはじめとする先行訳版の尊重を試みた<ref>創元推理文庫版『シャーロック・ホームズの事件簿』、p.485、訳者あとがきより</ref>。深町訳版において『事件簿』を最初の訳本に置いているのは、この「阿部訳版を補完するための『事件簿』の単独出版」という経緯と理由によるもの<ref name="sogen-cb484" />で、また東京創元社も後述する深町新訳版の刊行までは深町版『事件簿』を阿部訳版の続版<ref>創元推理文庫版『シャーロック・ホームズの事件簿』初版カバー折返</ref>に準ずる位置付けだった。[[2010年代]]に、阿部訳の初版から約半世紀を経て時代の変化に合わせるため、深町による他の8冊新訳が行われた、改めて『事件簿』も「阿部版の続版作」でなく「深町版ホームズの新訳作」として扱われるようになった。
==== 阿部知二訳版 ====
*訳者:[[阿部知二]](旧訳版)全8巻。東京創元社。新訳版刊行につき全点絶版。
:1991年より2010年2月までは、阿部訳の改版と『[[シャーロック・ホームズの事件簿]]』深町真理子訳を含め全9巻のシリーズ版。
:2010年2月より深町によるシリーズの新訳刊行を開始。新訳出版と同時にシリーズの該当版を差し替え、2015年9月の新訳版『恐怖の谷』刊行をもって差し替えが完了した。
{{indent|
*[[バスカヴィル家の犬]] 1960.7.15(初版刊行)
*[[シャーロック・ホームズの冒険]] 1960.7.29
*[[緋色の研究]] 1960.8.12
*[[回想のシャーロック・ホームズ]] 1960.8.18
*[[シャーロック・ホームズの復活|シャーロック・ホームズの生還]] 1960.9.30(1971年1月、第25版:新訳改稿)
*[[四つの署名|四人の署名]] 1960.10.21
*[[恐怖の谷]] 1960.11.11
*[[シャーロック・ホームズ最後の挨拶|シャーロック・ホームズの最後のあいさつ]] 1960.11.18
}}
==== 深町真理子訳版 ====
*訳者:[[深町真理子]](新版)全9巻・完結。創元推理文庫
**[[シャーロック・ホームズの事件簿]] 1991.5、新版2017.4<br /> 上述の通り『冒険』新訳を刊行開始までは、旧訳シリーズ補巻での扱い。
**[[シャーロック・ホームズの冒険]] 2010.2
**[[シャーロック・ホームズの思い出|回想のシャーロック・ホームズ]] 2010.7
**[[緋色の研究]] 2010.11
**[[四つの署名|四人の署名]] 2011.7
**[[シャーロック・ホームズの復活]] 2012.6
**[[バスカヴィル家の犬]] 2013.2
**[[シャーロック・ホームズ最後の挨拶]] 2014.8
**[[恐怖の谷]] 2015.9
==== 東京創元社版の関連作品 ====
各・文庫版が、ドイル傑作集全5巻と、[[冒険小説]]『勇将ジェラール』、SF小説『失われた世界』([[中原尚哉]]の新訳)等、他の訳者で計全10冊刊行されたが、中原訳以外は品切。
深町訳で伝記研究、[[ジュリアン・シモンズ]]『コナン・ドイル』(創元推理文庫で再刊)があるが、各・品切。<br />他にピエール・バイヤール『シャーロック・ホームズの誤謬 『バスカヴィル家の犬』再考』(平岡敦訳、文庫再刊)がある。
[[ジューン・トムスン]]の[[パスティーシュ]]短編集で『シャーロック・ホームズの秘密ファイル』、『シャーロック・ホームズのクロニクル』、『シャーロック・ホームズのジャーナル』、『シャーロック・ホームズのドキュメント』、研究『ホームズとワトスン 友情の研究』も、各・押田由起訳で文庫刊行。<br />これらのトムスン版パスティーシュは東京創元社に優先翻訳出版権契約が与えられている。他に外国人・日本人作家双方ともパスティーシュ作品を多く刊行。
=== 講談社版(シャーロック・ホームズ大全) ===
*訳者 - [[鮎川信夫]]。[[講談社文庫]](全7冊)を元にしている。[[講談社]]でもパスティーシュ作品が多く刊行。
シリーズ全60話のうち47話を1冊に収録。有名な[[シドニー・パジェット]]による挿絵200点を掲載。[[小林司 (精神医学者)|小林司]]、東山あかねによる解説つき。鮎川が急逝する直前の1986年9月に刊行。全点品切。
[[1990年代]]には講談社インターナショナルで原書『シャーロック・ホームズ全集』全14巻を刊行していた。全点品切。
=== ちくま文庫版(詳注版シャーロック・ホームズ全集) ===
*訳者 - [[小池滋]]監修、全10巻+別巻。訳者は[[高山宏]]、[[中野康司]]ほか<br/>別巻:[[北原尚彦]]編『[[シャーロック・ホームズ]]事典』(文庫オリジナル)、1997-98年。全巻品切
全作品を年代順に再編成(「グロリア・スコット号事件」~「最後の挨拶」)<br />[[シャーロキアン]]のW.S.ベアリング=グールドによる詳解な解説と注釈を収録。元版は東京図書(全21巻、1982-83年)
=== 河出書房新社版(シャーロック・ホームズ全集) ===
*訳者 - [[小林司 (精神医学者)|小林司]]、[[東山あかね]]、全9巻、1999-2002年<br />原典は[[オックスフォード大学出版局]]版で「注釈・解説」も訳され、初版本[[シドニー・パジェット]]の挿画全点を収録。<br />[[河出文庫]]で新版再刊(2014年)。文庫化する際に注釈・解説の約半分が割愛された。
小林・東山は夫婦で「[[日本シャーロック・ホームズ・クラブ]]」を1977年より主宰。約40数年で「ホームズ」関連著作を(共編著・訳書・児童書・再刊も入れると)七十冊以上刊行している。大著に『シャーロック・ホームズ大事典』(編著、[[東京堂出版]]、2001年)、最新刊に『シャーロック・ホームズ入門百科』([[小林エリカ]]・画、河出文庫、2019年)<br />[[河出書房新社]]でも、小林・東山による訳著は『図説シャーロック・ホームズ』(増訂版〈ふくろうの本〉、2005年、新版2012年)や、『シャーロック・ホームズの推理博物館』(河出文庫、2001年)、ウィリアム・ベアリング=グールドローゼンバーク『シャーロック・ホームズ ガス灯に浮かぶその生涯』(河出文庫、1987年)ほか多数刊行され、小林・東山夫妻以外も入れると約40冊を刊行しているが、大半は品切である。
なお小林・東山版が刊行する大分前に、上記の通り河出「[[世界文学全集]]」の枠内で[[阿部知二]]訳版(創元社版の既訳)が用いられていた。
=== 光文社文庫版(新訳シャーロック・ホームズ全集) ===
*訳者 - [[日暮雅通]]、シリーズ全9巻。2006年1月から2008年1月に刊行、[[光文社文庫]]の新訳版。
日暮雅通は、ジャック・トレイシー『シャーロック・ホームズ大百科事典』(河出書房新社、2002年)や、大著の伝記で、ダニエル・スタシャワー『コナン・ドイル伝』([[東洋書林]]、2010年)を訳している。また、「ホームズ」が主人公になった小説作品を主に、他に「ガイダンス」や「事典」など、数十冊の関連本を訳している。<br/>光文社文庫版の前に児童書の講談社「青い鳥文庫」で、日暮まさみち訳名義で全作品・全16分冊で刊行している。児童向けの全作品の訳と成人向けの全作品の訳を両方行った初めての訳者である。
挿絵は一部掲載されているが電子版にはない。
=== 角川文庫版(シャーロック・ホームズシリーズ) ===
*訳者 - [[石田文子]](1巻目のみ)・[[駒月雅子]](2巻目以降)<br/> [[角川文庫]]の新訳版 全9巻、2010年2月から2021年9月に刊行。児童向けの[[角川つばさ文庫]]でも一部刊行。
なお旧[[角川文庫]]版訳者は、[[鈴木幸夫 (英文学者)|鈴木幸夫]]と[[阿部知二]]で、挿絵はなく、冒険、回想、生還の、三短編集と、バスカーヴィル家の犬のみ、初版表記は「シァーロク・ホウムズ」であった。
== ホームズシリーズから生まれたミステリ用語 ==
;ワトスン役
:探偵の相棒や助手を勤め、一連の活動を記録する人物。
;赤毛トリック
:「[[赤毛組合]]」に由来。[[ミスディレクション]]、はぐらかし、の一種。ドイル自身もいくつかの同工異曲作をものしているほか、[[鮎川哲也]]、[[島田荘司]]に同趣向の作品がある。
;鳴かなかった犬の推理
:「[[白銀号事件]]」に由来。事件当夜の犬の「とても奇妙な行動」からホームズは犯人を特定した。転じて「一見何の不自然もないことが、実はとても奇妙であること」。時に誤解されるが、「あの夜犬は何もしなかった」はホームズの台詞ではない。白銀号事件から36年後に、[[S・S・ヴァン=ダイン]]が推理小説の書き手に示した「[[ヴァン・ダインの二十則]]」(1928年)においては、当時においてすでに陳腐化した手法の一つとして掲げられており、一種の禁じ手となっている。
;バールストン・ギャンビット
:『[[恐怖の谷]]』の舞台となった邸の名に由来。トリックの概要自体は、ディケンズらに先駆がある。現実の捜査技術の発達で次第に姿を消した。'''バールストン先攻法'''ともいう。
;ソア橋のトリック
:「[[ソア橋|ソア橋のなぞ]]」に由来。[[S・S・ヴァン=ダイン]]、[[横溝正史]]らが後に同様のトリックを盛り込んだ作品を著している。また、ドイルの遺品がオークションにかけられようとした時、殺人事件が起こるが捜査は難航し迷宮入りと思われた。しかし、このトリックを利用して英国から流出するのを阻止しようとした自殺ではないかと警察に助言が齎されたことにより、この事件は殺人事件を偽装した自殺だと判明した。
== 著作権 ==
シャーロック・ホームズシリーズの著作権は、[[2023年]][[1月1日]]にすべて[[パブリックドメイン]]になったとされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/53297|title=「シャーロック・ホームズ」の小説等、1927年の作品が著作権切れに|accessdate=2023-01-05|publisher=ForbesJapan}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/news/20221221-public-domain-from-2023/|title=2023年1月1日に1927年以降の著作物がアメリカのパブリックドメインに、「シャーロック・ホームズ」短編集・映画「メトロポリス」・ヒッチコック作品などなど|accessdate=2023-01-01|publisher=GIGAZINE}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://yro.srad.jp/story/22/12/30/0455248/|title=「シャーロック・ホームズ」シリーズ最後の作品が間もなく米国で著作権保護期間満了|accessdate=2023-01-01|publisher=すらど}}</ref>。
== 外部リンク ==
* [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person9.html ドイル アーサー・コナン:作家別作品リスト]([[青空文庫]])
* [https://221b.jp/ ホームズシリーズ全作の日本語訳]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
<references />
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[[Category:シャーロック・ホームズ|*]]
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3,855 | ウサーマ・ビン・ラーディン | ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラディン(أسامة بن محمد بن عوض بن لادن、Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin, 1957年3月10日 - 2011年5月2日)は、サウジアラビア出身のイスラム過激派テロリスト。
サウジアラビア有数の富豪の一族に生まれたが、1994年にサウジアラビア国籍を剥奪され、以降は無国籍であった。1988年に国際テロ組織「アルカーイダ」を設立してその初代アミール(司令官)となり、以降アメリカ同時多発テロ事件をはじめとする数々のテロ事件を首謀したことで知られる。連邦捜査局(FBI)における最重要指名手配者の1人であった。
2011年5月、パキスタンのアボッターバードにおいてアメリカ海軍特殊戦開発グループが行った軍事作戦によって殺害された。
日本語では、ウサマ・ビン・ラーデン(外務省)、オサマ・ビンラディン (NHK、テレビ朝日など)、ウサマ・ビンラディン (日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ東京など)、ウサマ・ビンラーディン(読売新聞など)などとも表記される。
フスハーでのフルネームは「ウサーマ・イブン・ムハンマド・イブン・アワド・イブン・ラーディン」であり、「ビン・ラーディン(=ラーディンの息子)家のアワドの息子ムハンマドの息子ウサーマ」を意味する。
「ムハンマド」は父であるムハンマド・ビン・ラーディンを、「アワド」は祖父であるアワド・ビン・アブード・ビン・ラーディンを示しているが、「ラーディン」は曽祖父の名ではなく、曽祖父アブードの父であるラーディン・アリー・アル=カフターニー(Laden Ali al-Qahtani)を示すものである。
ウサーマの息子ウマル・ビン・ラーディン(英語版)によれば、一族に受け継がれる部族名由来の家名(ニスバ)は「アル=カフターニー (アラビア語: القحطاني, āl-Qaḥṭānī)」であるが、ウサーマの父ムハンマドが正式にこのニスバを使用することはなかった。
ムハンマド・ビン・ラーディンは22回の結婚をし54人の子供を儲けることになったが、妻子の大半は40代を過ぎて事業が拡大してからの子供たちである。また、最初の妻以外は短期間で離婚している。ウサーマ・ビン・ラーディンはムハンマドの17番目の子であった。ビン・ラーディン一族は50億ドル以上の資本を所有しており、その内、2億5000万ドル以上がウサーマに分配されていた。
ウサーマ・ビン・ラーディンは、サウジアラビアのリヤドで、建設業で財を成したイエメン出身の父ムハンマド・ビン・ラーディンと、その10番目の妻でシリア出身の母アリア・ガーネム(後のハミーダ・アル=アッタス(英語版))の間に生まれた。生年月日は、ビン・ラーディン本人が1998年のインタビューの中で1957年3月10日であると語っている。
父ムハンマドはビン・ラーディンが生まれた直後にガーネムと離婚し、彼女はその後ムハンマド・アル=アッタスと再婚して別の4人の子を儲けたため、幼少期のビン・ラーディンは実父と離れて3人の異父弟・1人の異父妹と共に生活することになった。ビン・ラーディンは敬虔なスンナ派ムスリムとして育てられ、1968年から1976年にかけてはジッダの世俗的なエリート校で教育を受けた。その後、ジッダのキング・アブドゥルアズィーズ大学に進学して経済学と経営学を学んだ。ビン・ラーディンが1979年に土木工学の学位を取得したという報告や、1981年に行政学の学位を取得したという報告が存在する一方で、学位を取得する前に大学をやめたとする報告も存在する。
大学時代、ビン・ラーディンの関心は宗教に向かい、「クルアーンおよびジハードの解釈」と慈善活動に精力的に参加したほか、詩作にも興味を示し、バーナード・モントゴメリーやシャルル・ド・ゴールの著作を好んで読んだと言われている。思想の面では、ムスリム同胞団に加入し、サイイド・クトゥブの思想に引き付けられた。さらに大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザームの教えを受け、師と仰ぐようになった(のちにビン・ラーディンは、自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている)。ビン・ラーディンは厳格なサラフィー主義から、音楽や映画などに対して不寛容であった。その一方で、競走馬に大きな関心を寄せていたほか、サッカーを好んでプレーし、英国のクラブであるアーセナルFCのファンでもあった。
ソビエト連邦がアフガニスタンに進攻した1979年、ビン・ラーディンはサウジアラビアを離れてパキスタンやアフガニスタンを初めて訪れ、ソ連軍に抵抗するムジャーヒディーンを支援するための活動を始めた。のちにビン・ラーディンは当時の心境を回想し、「アフガニスタンの人々に対する不公正な行いに憤慨を覚えた」と語っている。
1979年から1984年までの期間、ビン・ラーディンの支援活動は募金が中心であり、サウジアラビアなどの湾岸諸国を活動拠点としてアフガニスタンのムジャーヒディーンに資金や建設機械を提供していた。ビン・ラーディンはその後、パキスタンのペシャーワルで活動していた大学時代の恩師アブドゥッラー・アッザームと合流した。1984年までにアッザームと共に「マクタブ・アル=ヒダマト(MAK)」を組織して、外国からムジャーヒディーンの新兵をリクルートしてアフガニスタンに送り出す活動を始めた。1984年には自ら「ベイトゥルアンサール(支援者たちの館)」という施設をペシャワールに建設し、以降1986年までパキスタンを拠点として活動した。ビン・ラーディンがアイマン・ザワーヒリーやアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー、オマル・アブドッラフマーンなどと関係を構築したのもこの時期であった。
1986年以降、ビン・ラーディンは活動の拠点をアフガニスタン国内に移した。1986年から1987年にかけ、ビン・ラーディンはアフガニスタン東部の村ジャジ (Jaji)近郊に自らの基地を建設し、数十人のアラブ人ムジャーヒディーンを指揮下に置いた。この基地を拠点として、ビン・ラーディンとその軍団はソ連軍と交戦し、ビン・ラーディン自身も一兵士として戦闘に参加した。特に、1987年のジャジの戦い(英語版)ではソ連軍に勝利したことになり(実際には、ソ連軍の死者2名に対しゲリラ側の死者120名という惨状であった)、アラブ系の主要メディアではこの戦果が華々しく報道され、ビン・ラーディンの知名度は高まった。ビン・ラーディンがアラブ世界の一部で英雄視されるようになったのもこの時期であった。
1979年から1989年にかけ、アメリカとサウジアラビアはパキスタンの軍統合情報局 (ISI)を通じ、アフガニスタンで戦うムジャーヒディーンへ400億ドル相当の援助を行った(サイクロン作戦)。ジャーナリストのジェイソン・バーク(英語版)によれば、ビン・ラーディンが設立したMAKもアメリカから提供された資金を受け取っていた。ビン・ラーディンはまた、ISI長官のハミド・グル(英語版)中将と知り合い、関係を深めていた。アメリカはムジャーヒディーンに資金と武器を提供したが、実際の軍事訓練はISIとパキスタン陸軍が全面的に担当していた。
1988年、ビン・ラーディンはMAKから独立した新組織「アルカーイダ」を立ち上げた。ローレンス・ライトの調査によれば、アルカーイダは1988年8月11日に、ビン・ラーディン、アッザーム、およびジハード団の幹部数名による合意によって結成され、その目的はビン・ラーディンの資金とジハード団の専門知識を組み合わせることで、ソ連軍がアフガニスタンから撤退した後も世界の別の地域でジハードを継続することにあった。
1989年2月にソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了した後、ビン・ラーディンはサウジアラビアに帰国した。サウジアラビアでビン・ラーディンとその軍団は、ソ連という「強大な超大国」を倒した英雄として扱われた。帰国した後のビンラーディンは一族の建設会社(サウディ・ビンラディン・グループ)を手伝ったが、一方でサウジアラビアの体制に反抗する姿勢を示したため、当局から警戒された。
1990年8月2日、サッダーム・フセインのイラク軍がクウェートに侵攻し、サウジアラビアとの国境に到達した。サウジアラビアがイラクからの脅威に直面する中、ビン=ラーディンはファハド国王およびスルターン国防相と会談を行い、国内に異教徒のアメリカ軍を駐留させる代わりに、自らのムジャーヒディーン軍団によってサウジアラビアを防衛する計画を提案した。しかし、サウジアラビア王家はビン・ラーディンによる提案を拒絶し、最終的にはアメリカ軍のサウジアラビア駐留を認めた。1990年8月7日、アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュはアメリカ軍のサウジアラビア派遣を発表し、同軍は8月8日からサウジアラビアへの展開を開始した。
ビン・ラーディンは、非イスラム教徒がアラビア半島に常駐することは預言者ムハンマドによって禁じられていると解釈しており、メッカ・マディーナという2つの聖地を抱えるサウジアラビアに異教徒のアメリカ軍が進出したことに憤慨した。それと同時に、駐留を許したサウジアラビア王家(サウード家)を「背教者」として糾弾した。湾岸戦争が引き金となったアメリカ軍のサウジアラビア駐留は、ビン・ラーディンを急速に反米活動に傾倒させていった。
1991年、サウジアラビア王家はアメリカ軍との同盟関係への批判を繰り返すビン・ラーディンを国外追放に処した。サウジアラビアを追われたビンラーディンとその一派は、当初はアフガニスタンで亡命生活を送ったが、1992年までにスーダンに移動した。アフガニスタンに滞在中の1992年3月から4月にかけ、ビン・ラーディンは激化するアフガニスタン内戦の仲裁を試み、グルブッディーン・ヘクマティヤールに対して他のムジャーヒディーン指導者と協力するよう呼びかけていた。
スーダンに渡ったビン・ラーディンは同国の政権を担う民族イスラーム戦線と同盟関係を築くとともに、アルカーイダを国際的なテロ組織へと発展させた。 1992年12月29日、イエメンのアデンでアメリカ軍が滞在するホテルが爆破され、2人のオーストリア人旅行者が死亡した。これがビン・ラーディンが関与した最初のテロ事件とされている。1993年2月26日、ビン・ラーディンとの関係が疑われるテロリストによってニューヨークで世界貿易センター爆破事件が引き起こされ、6人が死亡した。1993年、アメリカ政府はスーダンをテロ支援国家に指定した。1994年、サウジアラビア政府はビン・ラーディンの国籍を剥奪し、サウジアラビア国内に残された彼の財産を全て凍結した。同年には、ビン・ラーディンの一族も彼との関係を断絶した(それまでウサーマは一族の財産から毎年1億ドル余りを受け取っていた)。
1996年5月、スーダンのオマル・アル=バシール政権はアメリカおよびサウジアラビアからの圧力に屈し、ビン・ラーディンを国外に追放することを決定した。ビン・ラーディンは亡命先としてアフガニスタンのジャラーラーバードを選び、5月18日にチャーター機でスーダンを離れた。アフガニスタンに帰還したビン・ラーディンとアルカーイダはターリバーン政権の庇護を受け、ビン・ラーディンはターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルと親密な関係を築いた。
1996年8月、ビン・ラーディンは最初の「ファトワー(布告)」を発し、「2つの聖なるモスクの地(サウジアラビア)の占領者」であるアメリカに対して「ジハード(聖戦)」を宣言した。このファトワーでビン・ラーディンは、異教徒のアメリカ軍をアラビア半島から駆逐し、占領されている2つの聖地(メッカとマディーナ)を解放するよう全世界のムスリムに呼びかけた。1997年5月、ジハード団の指導者であったアイマン・ザワーヒリーがアフガニスタンのビン・ラーディンに合流し、アメリカに対するジハードを共に提唱するようになった。
1997年3月、ビン・ラーディンはパキスタン人ジャーナリストのハミド・ミル(英語版)によるインタビューでアメリカは間もなく超大国ではなくなると予測してアフガニスタン、パキスタン、イラン、中華人民共和国による反米同盟を提案し、中国の新疆ウイグル自治区でのテロは中国とイスラム世界が団結することを阻みたいCIAによるものだとして関与を否定した。
1998年2月、ビン・ラーディンとザワーヒリーは「ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」を結成した上で新たな「ファトワー」を発し、世界各地でアメリカとその同盟国の国民を軍人・民間人の区別なく殺害することが、「占領されているアル=アクサー・モスク(エルサレム)と聖なるモスク(メッカ)を解放」するために、「全ムスリムに課せられた義務である」と宣言した。
1998年8月7日、アルカーイダのテロリストがタンザニアのダルエスサラームとケニアのナイロビのアメリカ大使館をほぼ同時刻に爆破し、12人のアメリカ人を含む224人を殺害した。テロ事件が発生した1998年8月7日は、アメリカ軍のサウジアラビア派遣からちょうど8年後であった。1998年8月20日、テロへの報復として、アメリカ大統領ビル・クリントンはアフガニスタンとスーダンのアルカーイダ関連施設への攻撃を命じ、トマホーク巡航ミサイルによる爆撃が実施された。1999年6月、FBIはビン・ラーディンを大使館爆破事件の容疑者として最重要指名手配犯に指定した。アメリカ政府はターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアルカーイダの引き渡しを求めたが、ターリバーンは応じなかったため、1999年10月には国際連合安全保障理事会において引き渡しを求める国際連合安全保障理事会決議1267が採択された。ターリバーン政権はこれにも応じず、アフガニスタンに対する経済制裁が発動された。
2000年10月、イエメンでアルカーイダのテロリストがアメリカ海軍の駆逐艦「コール」に自爆攻撃を仕掛け、17人の水兵を殺害した。2000年12月、国際連合安全保障理事会決議1333が採択され、ターリバーン政権に対し再度ビン・ラーディンの引き渡しが求められた。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件直後から、ビン・ラーディンには首謀者の嫌疑がかけられた。2001年9月16日、ビン・ラーディンは衛星テレビ局アルジャジーラを通じて声明を発表し、事件への関与を否定した。ビン・ラーディンはこの声明の中で、「私は攻撃の実行者ではないと強調しておく。今回の事件は別の個人によって、彼自身の動機によって実行されたように見える」などと述べた。2001年9月20日、アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュは「対テロ戦争」を宣言すると共に、アフガニスタンのターリバーン政権に対し、ビン・ラーディンを含む全てのアルカーイダ指導者を引き渡すことを要求する最後通牒を突き付けた。
ターリバーン政権はビン・ラーディンらの引き渡しを拒否し、2001年10月7日、アメリカを中心とする有志連合諸国はアフガニスタンへの空爆を開始した。2001年11月、ジャラーラーバード郊外のビン・ラーディンの隠れ家とされる場所がアメリカ軍による爆撃を受けた。その際にアメリカ軍が回収したビデオテープには、ビン・ラーディンとアルカーイダ構成員ハレド・アル=ハルビ(英語版)との会話が記録されており、会話の中でビン・ラーディンは同時多発テロを事前に知っていたことを暗に認めていた。11月末には有志連合の侵攻によってターリバーン政権が崩壊し、以降ビン・ラーディンの正確な足取りは不明となった。
2001年12月17日、ビン・ラーディンがザワーヒリーと共にアフガニスタン東部ナンガルハール州トラボラの渓谷にある洞穴に潜伏しているという情報からアメリカ・イギリス・ドイツ・北部同盟各軍が捕獲作戦(トラボラの戦い)を実施したが失敗した。その後はビン・ラーディンはターリバーン幹部らと共にパキスタンの北西辺境州の洞窟に潜伏していると考えられていた。
2004年10月、ビン・ラーディンは新たなビデオ声明をアルジャジーラを通じて発表し、自らが同時多発テロ事件に関与したことを公に認めた。18分にわたるビデオ声明の中でビンラーディンは、自分が19人の実行犯にテロ攻撃を指示したことを認め、ワールドトレードセンターのツインタワーを標的としたのは1982年にイスラエルがレバノンを侵略した際に見た光景がきっかけであったと説明した。
2004年以降、ビン・ラーディンが腎臓病に苦しみ常に人工透析の電子機器が必要であると報道され、死亡説も浮上した。これは、フランスの地方紙などが伝えたもので、腸チフスで死亡したとの記事であった。しかし、フランスのシラク大統領が、「死亡したとの情報はない」などとし、死亡説を否定した。2008年11月13日、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官(当時)は、ウサーマ・ビン・ラーディンの追跡と逮捕は現在でもCIAの最優先事項とした上で、潜伏先をアフガニスタンとパキスタンの国境地帯(トライバルエリア・FATA)ではないかという見解を示した。
2010年10月18日、CNNは北大西洋条約機構当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンが、アフガニスタン・パキスタン国境地帯の洞窟ではなく、パキスタン国内の家屋で「快適に」暮らしていると報じた。同当局者は「洞窟で暮らしているアルカーイダのメンバーは誰一人としていない」と述べた。ビン・ラーディンらは、パキスタン情報機関や地元住民に保護され、同国北西部の家屋に居住しており、付近にはアイマン・ザワーヒリーも住んでいるとされた。
2010年8月頃、配下の連絡係の行動分析からウサーマ・ビン・ラーディンの居所が突き止められた。
2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、パキスタンにおいてバラク・オバマ大統領(当時)に命じられて米国海軍特殊部隊・DEVGRUが行ったネプチューン・スピア作戦によって殺害された。
FBIの手配書によれば、ウサーマ・ビン・ラーディンは背が高く痩せており、身長は193–198cm、体重は約73kgであり、肌はオリーブ色で瞳と髪の色はブラウン、左利きで歩く際には杖を使うとされていた。死亡後に身長の測定が行われ、ビン・ラーディンの身長は6フィート4インチ (193cm)と確認された。
ビン・ラーディンは1974年にシリアのラタキアで最初の結婚をした。その後1983年に2度目、1985年に3度目、1987年に4度目、2000年に5度目の結婚をしているほか、一部の情報源によれば挙式後に結婚が無効にされた6人目の妻も存在する。ビン・ラーディンは妻たちとの間に20–26人の子供を儲けており、その多くは2001年の9/11テロの後イランに逃亡した。1997–2001年にビン・ラーディンのボディガードを務めた人物によれば、ビン・ラーディンは倹約家で父親としては厳格であり、一方で家族を狩りやピクニックに連れて行くことを楽しみにしていたという。
実父ムハンマドは1967年にサウジアラビアで飛行機事故に遭い死亡した(事故原因はアメリカ人パイロットによる着陸時の判断ミスだった)。ムハンマドの死後、長兄であるサーレム・ビン・ラーディン(英語版)が後継者として一族の長になったが、サーレムは1988年、テキサス州サンアントニオ近郊で自ら飛行機を操縦中、誤って送電線に突っ込む事故を起こして死亡した。
父のムハンマド・ビン・ラーディンは元アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュとともにカーライル投資グループの大口投資家であり役員だった。また、ウサーマの長兄のサーレムは元アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュがかつて経営していた石油会社の共同経営者であった。無論、これらはウサーマが反米に立場を転じてテロリストとなる前の話であり、また、彼ら親族はウサーマのようなテロリストではなくそのような組織との直接的関係もない。ウサーマの息子は父に対しテロ行為をやめるようメッセージを発していた。しかし、それはジェスチャーに過ぎないとの説がある。
2009年7月、アメリカのラジオ局「ナショナル・パブリック・ラジオ」が、CIA当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンの息子の1人であるサアドが、パキスタン領内で米軍の無人偵察機による爆撃で死亡した可能性があると報じた。しかし同年12月、サウジアラビア資本でイギリスの首都ロンドンで発行される新聞「アッ=シャルク・アル=アウサト」は、ウサーマの別の息子であるウマル・ビン・ラーディンの話として、死亡説がささやかれているサアドは親族らとともにイランにいたと伝えた。これによると、サアドは、兄弟姉妹であるムハンマド、ウスマーン、ハムザ、ファーティマ、イーマーン、そしてビン・ラーディンの妻の一人であるハイリーヤ、叔父にあたるバクルを含む25人の親類と共にイラン国内で治安当局の監視下で自宅軟禁に置かれていたということを、ウスマーンが電話でウマルに話したという。ただしウマルによればサアドは一ヶ月前に逃亡し、その後はイラン国内にはいないという。ビン・ラーディンの家族はそれまで、2001年のアフガン空爆後は隣国イランに逃亡したと見られていた。
2012年5月2日、ビン・ラーディンと共に潜伏生活を送っていた3人の妻と11人の子どもたちは拘留され、翌年に妻と二人の娘たちがパキスタンへの不法滞在で起訴された。別荘で45日の禁固刑を終えた後、2人の妻はサウジアラビアに、1人の妻はイエメンにそれぞれの子どもたちと強制送還されたという。
2017年1月5日、息子の一人ハムザ・ビンラディンを国際テロリストに指定したとアメリカ政府は発表した。
2019年9月14日、アメリカのトランプ大統領が、米軍の対テロ作戦によりハムザを殺害したと発表した。 | [
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"text": "ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラディン(أسامة بن محمد بن عوض بن لادن、Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin, 1957年3月10日 - 2011年5月2日)は、サウジアラビア出身のイスラム過激派テロリスト。",
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"text": "サウジアラビア有数の富豪の一族に生まれたが、1994年にサウジアラビア国籍を剥奪され、以降は無国籍であった。1988年に国際テロ組織「アルカーイダ」を設立してその初代アミール(司令官)となり、以降アメリカ同時多発テロ事件をはじめとする数々のテロ事件を首謀したことで知られる。連邦捜査局(FBI)における最重要指名手配者の1人であった。",
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"text": "2011年5月、パキスタンのアボッターバードにおいてアメリカ海軍特殊戦開発グループが行った軍事作戦によって殺害された。",
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"text": "日本語では、ウサマ・ビン・ラーデン(外務省)、オサマ・ビンラディン (NHK、テレビ朝日など)、ウサマ・ビンラディン (日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ東京など)、ウサマ・ビンラーディン(読売新聞など)などとも表記される。",
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"text": "フスハーでのフルネームは「ウサーマ・イブン・ムハンマド・イブン・アワド・イブン・ラーディン」であり、「ビン・ラーディン(=ラーディンの息子)家のアワドの息子ムハンマドの息子ウサーマ」を意味する。",
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"text": "「ムハンマド」は父であるムハンマド・ビン・ラーディンを、「アワド」は祖父であるアワド・ビン・アブード・ビン・ラーディンを示しているが、「ラーディン」は曽祖父の名ではなく、曽祖父アブードの父であるラーディン・アリー・アル=カフターニー(Laden Ali al-Qahtani)を示すものである。",
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"text": "ウサーマの息子ウマル・ビン・ラーディン(英語版)によれば、一族に受け継がれる部族名由来の家名(ニスバ)は「アル=カフターニー (アラビア語: القحطاني, āl-Qaḥṭānī)」であるが、ウサーマの父ムハンマドが正式にこのニスバを使用することはなかった。",
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"text": "ムハンマド・ビン・ラーディンは22回の結婚をし54人の子供を儲けることになったが、妻子の大半は40代を過ぎて事業が拡大してからの子供たちである。また、最初の妻以外は短期間で離婚している。ウサーマ・ビン・ラーディンはムハンマドの17番目の子であった。ビン・ラーディン一族は50億ドル以上の資本を所有しており、その内、2億5000万ドル以上がウサーマに分配されていた。",
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"text": "ウサーマ・ビン・ラーディンは、サウジアラビアのリヤドで、建設業で財を成したイエメン出身の父ムハンマド・ビン・ラーディンと、その10番目の妻でシリア出身の母アリア・ガーネム(後のハミーダ・アル=アッタス(英語版))の間に生まれた。生年月日は、ビン・ラーディン本人が1998年のインタビューの中で1957年3月10日であると語っている。",
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"text": "父ムハンマドはビン・ラーディンが生まれた直後にガーネムと離婚し、彼女はその後ムハンマド・アル=アッタスと再婚して別の4人の子を儲けたため、幼少期のビン・ラーディンは実父と離れて3人の異父弟・1人の異父妹と共に生活することになった。ビン・ラーディンは敬虔なスンナ派ムスリムとして育てられ、1968年から1976年にかけてはジッダの世俗的なエリート校で教育を受けた。その後、ジッダのキング・アブドゥルアズィーズ大学に進学して経済学と経営学を学んだ。ビン・ラーディンが1979年に土木工学の学位を取得したという報告や、1981年に行政学の学位を取得したという報告が存在する一方で、学位を取得する前に大学をやめたとする報告も存在する。",
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"text": "大学時代、ビン・ラーディンの関心は宗教に向かい、「クルアーンおよびジハードの解釈」と慈善活動に精力的に参加したほか、詩作にも興味を示し、バーナード・モントゴメリーやシャルル・ド・ゴールの著作を好んで読んだと言われている。思想の面では、ムスリム同胞団に加入し、サイイド・クトゥブの思想に引き付けられた。さらに大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザームの教えを受け、師と仰ぐようになった(のちにビン・ラーディンは、自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている)。ビン・ラーディンは厳格なサラフィー主義から、音楽や映画などに対して不寛容であった。その一方で、競走馬に大きな関心を寄せていたほか、サッカーを好んでプレーし、英国のクラブであるアーセナルFCのファンでもあった。",
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"text": "ソビエト連邦がアフガニスタンに進攻した1979年、ビン・ラーディンはサウジアラビアを離れてパキスタンやアフガニスタンを初めて訪れ、ソ連軍に抵抗するムジャーヒディーンを支援するための活動を始めた。のちにビン・ラーディンは当時の心境を回想し、「アフガニスタンの人々に対する不公正な行いに憤慨を覚えた」と語っている。",
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"text": "1979年から1984年までの期間、ビン・ラーディンの支援活動は募金が中心であり、サウジアラビアなどの湾岸諸国を活動拠点としてアフガニスタンのムジャーヒディーンに資金や建設機械を提供していた。ビン・ラーディンはその後、パキスタンのペシャーワルで活動していた大学時代の恩師アブドゥッラー・アッザームと合流した。1984年までにアッザームと共に「マクタブ・アル=ヒダマト(MAK)」を組織して、外国からムジャーヒディーンの新兵をリクルートしてアフガニスタンに送り出す活動を始めた。1984年には自ら「ベイトゥルアンサール(支援者たちの館)」という施設をペシャワールに建設し、以降1986年までパキスタンを拠点として活動した。ビン・ラーディンがアイマン・ザワーヒリーやアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー、オマル・アブドッラフマーンなどと関係を構築したのもこの時期であった。",
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"text": "1986年以降、ビン・ラーディンは活動の拠点をアフガニスタン国内に移した。1986年から1987年にかけ、ビン・ラーディンはアフガニスタン東部の村ジャジ (Jaji)近郊に自らの基地を建設し、数十人のアラブ人ムジャーヒディーンを指揮下に置いた。この基地を拠点として、ビン・ラーディンとその軍団はソ連軍と交戦し、ビン・ラーディン自身も一兵士として戦闘に参加した。特に、1987年のジャジの戦い(英語版)ではソ連軍に勝利したことになり(実際には、ソ連軍の死者2名に対しゲリラ側の死者120名という惨状であった)、アラブ系の主要メディアではこの戦果が華々しく報道され、ビン・ラーディンの知名度は高まった。ビン・ラーディンがアラブ世界の一部で英雄視されるようになったのもこの時期であった。",
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"text": "1979年から1989年にかけ、アメリカとサウジアラビアはパキスタンの軍統合情報局 (ISI)を通じ、アフガニスタンで戦うムジャーヒディーンへ400億ドル相当の援助を行った(サイクロン作戦)。ジャーナリストのジェイソン・バーク(英語版)によれば、ビン・ラーディンが設立したMAKもアメリカから提供された資金を受け取っていた。ビン・ラーディンはまた、ISI長官のハミド・グル(英語版)中将と知り合い、関係を深めていた。アメリカはムジャーヒディーンに資金と武器を提供したが、実際の軍事訓練はISIとパキスタン陸軍が全面的に担当していた。",
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"text": "1988年、ビン・ラーディンはMAKから独立した新組織「アルカーイダ」を立ち上げた。ローレンス・ライトの調査によれば、アルカーイダは1988年8月11日に、ビン・ラーディン、アッザーム、およびジハード団の幹部数名による合意によって結成され、その目的はビン・ラーディンの資金とジハード団の専門知識を組み合わせることで、ソ連軍がアフガニスタンから撤退した後も世界の別の地域でジハードを継続することにあった。",
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"text": "1989年2月にソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了した後、ビン・ラーディンはサウジアラビアに帰国した。サウジアラビアでビン・ラーディンとその軍団は、ソ連という「強大な超大国」を倒した英雄として扱われた。帰国した後のビンラーディンは一族の建設会社(サウディ・ビンラディン・グループ)を手伝ったが、一方でサウジアラビアの体制に反抗する姿勢を示したため、当局から警戒された。",
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"text": "1990年8月2日、サッダーム・フセインのイラク軍がクウェートに侵攻し、サウジアラビアとの国境に到達した。サウジアラビアがイラクからの脅威に直面する中、ビン=ラーディンはファハド国王およびスルターン国防相と会談を行い、国内に異教徒のアメリカ軍を駐留させる代わりに、自らのムジャーヒディーン軍団によってサウジアラビアを防衛する計画を提案した。しかし、サウジアラビア王家はビン・ラーディンによる提案を拒絶し、最終的にはアメリカ軍のサウジアラビア駐留を認めた。1990年8月7日、アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュはアメリカ軍のサウジアラビア派遣を発表し、同軍は8月8日からサウジアラビアへの展開を開始した。",
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"text": "ビン・ラーディンは、非イスラム教徒がアラビア半島に常駐することは預言者ムハンマドによって禁じられていると解釈しており、メッカ・マディーナという2つの聖地を抱えるサウジアラビアに異教徒のアメリカ軍が進出したことに憤慨した。それと同時に、駐留を許したサウジアラビア王家(サウード家)を「背教者」として糾弾した。湾岸戦争が引き金となったアメリカ軍のサウジアラビア駐留は、ビン・ラーディンを急速に反米活動に傾倒させていった。",
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"text": "1991年、サウジアラビア王家はアメリカ軍との同盟関係への批判を繰り返すビン・ラーディンを国外追放に処した。サウジアラビアを追われたビンラーディンとその一派は、当初はアフガニスタンで亡命生活を送ったが、1992年までにスーダンに移動した。アフガニスタンに滞在中の1992年3月から4月にかけ、ビン・ラーディンは激化するアフガニスタン内戦の仲裁を試み、グルブッディーン・ヘクマティヤールに対して他のムジャーヒディーン指導者と協力するよう呼びかけていた。",
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"text": "スーダンに渡ったビン・ラーディンは同国の政権を担う民族イスラーム戦線と同盟関係を築くとともに、アルカーイダを国際的なテロ組織へと発展させた。 1992年12月29日、イエメンのアデンでアメリカ軍が滞在するホテルが爆破され、2人のオーストリア人旅行者が死亡した。これがビン・ラーディンが関与した最初のテロ事件とされている。1993年2月26日、ビン・ラーディンとの関係が疑われるテロリストによってニューヨークで世界貿易センター爆破事件が引き起こされ、6人が死亡した。1993年、アメリカ政府はスーダンをテロ支援国家に指定した。1994年、サウジアラビア政府はビン・ラーディンの国籍を剥奪し、サウジアラビア国内に残された彼の財産を全て凍結した。同年には、ビン・ラーディンの一族も彼との関係を断絶した(それまでウサーマは一族の財産から毎年1億ドル余りを受け取っていた)。",
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"text": "1996年5月、スーダンのオマル・アル=バシール政権はアメリカおよびサウジアラビアからの圧力に屈し、ビン・ラーディンを国外に追放することを決定した。ビン・ラーディンは亡命先としてアフガニスタンのジャラーラーバードを選び、5月18日にチャーター機でスーダンを離れた。アフガニスタンに帰還したビン・ラーディンとアルカーイダはターリバーン政権の庇護を受け、ビン・ラーディンはターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルと親密な関係を築いた。",
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"text": "2001年12月17日、ビン・ラーディンがザワーヒリーと共にアフガニスタン東部ナンガルハール州トラボラの渓谷にある洞穴に潜伏しているという情報からアメリカ・イギリス・ドイツ・北部同盟各軍が捕獲作戦(トラボラの戦い)を実施したが失敗した。その後はビン・ラーディンはターリバーン幹部らと共にパキスタンの北西辺境州の洞窟に潜伏していると考えられていた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2004年10月、ビン・ラーディンは新たなビデオ声明をアルジャジーラを通じて発表し、自らが同時多発テロ事件に関与したことを公に認めた。18分にわたるビデオ声明の中でビンラーディンは、自分が19人の実行犯にテロ攻撃を指示したことを認め、ワールドトレードセンターのツインタワーを標的としたのは1982年にイスラエルがレバノンを侵略した際に見た光景がきっかけであったと説明した。",
"title": "経歴"
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"text": "2004年以降、ビン・ラーディンが腎臓病に苦しみ常に人工透析の電子機器が必要であると報道され、死亡説も浮上した。これは、フランスの地方紙などが伝えたもので、腸チフスで死亡したとの記事であった。しかし、フランスのシラク大統領が、「死亡したとの情報はない」などとし、死亡説を否定した。2008年11月13日、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官(当時)は、ウサーマ・ビン・ラーディンの追跡と逮捕は現在でもCIAの最優先事項とした上で、潜伏先をアフガニスタンとパキスタンの国境地帯(トライバルエリア・FATA)ではないかという見解を示した。",
"title": "経歴"
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"text": "2010年10月18日、CNNは北大西洋条約機構当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンが、アフガニスタン・パキスタン国境地帯の洞窟ではなく、パキスタン国内の家屋で「快適に」暮らしていると報じた。同当局者は「洞窟で暮らしているアルカーイダのメンバーは誰一人としていない」と述べた。ビン・ラーディンらは、パキスタン情報機関や地元住民に保護され、同国北西部の家屋に居住しており、付近にはアイマン・ザワーヒリーも住んでいるとされた。",
"title": "経歴"
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"text": "2010年8月頃、配下の連絡係の行動分析からウサーマ・ビン・ラーディンの居所が突き止められた。",
"title": "経歴"
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"text": "2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、パキスタンにおいてバラク・オバマ大統領(当時)に命じられて米国海軍特殊部隊・DEVGRUが行ったネプチューン・スピア作戦によって殺害された。",
"title": "経歴"
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"text": "FBIの手配書によれば、ウサーマ・ビン・ラーディンは背が高く痩せており、身長は193–198cm、体重は約73kgであり、肌はオリーブ色で瞳と髪の色はブラウン、左利きで歩く際には杖を使うとされていた。死亡後に身長の測定が行われ、ビン・ラーディンの身長は6フィート4インチ (193cm)と確認された。",
"title": "人物・家族"
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"text": "ビン・ラーディンは1974年にシリアのラタキアで最初の結婚をした。その後1983年に2度目、1985年に3度目、1987年に4度目、2000年に5度目の結婚をしているほか、一部の情報源によれば挙式後に結婚が無効にされた6人目の妻も存在する。ビン・ラーディンは妻たちとの間に20–26人の子供を儲けており、その多くは2001年の9/11テロの後イランに逃亡した。1997–2001年にビン・ラーディンのボディガードを務めた人物によれば、ビン・ラーディンは倹約家で父親としては厳格であり、一方で家族を狩りやピクニックに連れて行くことを楽しみにしていたという。",
"title": "人物・家族"
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"text": "実父ムハンマドは1967年にサウジアラビアで飛行機事故に遭い死亡した(事故原因はアメリカ人パイロットによる着陸時の判断ミスだった)。ムハンマドの死後、長兄であるサーレム・ビン・ラーディン(英語版)が後継者として一族の長になったが、サーレムは1988年、テキサス州サンアントニオ近郊で自ら飛行機を操縦中、誤って送電線に突っ込む事故を起こして死亡した。",
"title": "人物・家族"
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"text": "父のムハンマド・ビン・ラーディンは元アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュとともにカーライル投資グループの大口投資家であり役員だった。また、ウサーマの長兄のサーレムは元アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュがかつて経営していた石油会社の共同経営者であった。無論、これらはウサーマが反米に立場を転じてテロリストとなる前の話であり、また、彼ら親族はウサーマのようなテロリストではなくそのような組織との直接的関係もない。ウサーマの息子は父に対しテロ行為をやめるようメッセージを発していた。しかし、それはジェスチャーに過ぎないとの説がある。",
"title": "人物・家族"
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"text": "2009年7月、アメリカのラジオ局「ナショナル・パブリック・ラジオ」が、CIA当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンの息子の1人であるサアドが、パキスタン領内で米軍の無人偵察機による爆撃で死亡した可能性があると報じた。しかし同年12月、サウジアラビア資本でイギリスの首都ロンドンで発行される新聞「アッ=シャルク・アル=アウサト」は、ウサーマの別の息子であるウマル・ビン・ラーディンの話として、死亡説がささやかれているサアドは親族らとともにイランにいたと伝えた。これによると、サアドは、兄弟姉妹であるムハンマド、ウスマーン、ハムザ、ファーティマ、イーマーン、そしてビン・ラーディンの妻の一人であるハイリーヤ、叔父にあたるバクルを含む25人の親類と共にイラン国内で治安当局の監視下で自宅軟禁に置かれていたということを、ウスマーンが電話でウマルに話したという。ただしウマルによればサアドは一ヶ月前に逃亡し、その後はイラン国内にはいないという。ビン・ラーディンの家族はそれまで、2001年のアフガン空爆後は隣国イランに逃亡したと見られていた。",
"title": "人物・家族"
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"text": "2012年5月2日、ビン・ラーディンと共に潜伏生活を送っていた3人の妻と11人の子どもたちは拘留され、翌年に妻と二人の娘たちがパキスタンへの不法滞在で起訴された。別荘で45日の禁固刑を終えた後、2人の妻はサウジアラビアに、1人の妻はイエメンにそれぞれの子どもたちと強制送還されたという。",
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"text": "2017年1月5日、息子の一人ハムザ・ビンラディンを国際テロリストに指定したとアメリカ政府は発表した。",
"title": "人物・家族"
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"text": "2019年9月14日、アメリカのトランプ大統領が、米軍の対テロ作戦によりハムザを殺害したと発表した。",
"title": "人物・家族"
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] | ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラディンは、サウジアラビア出身のイスラム過激派テロリスト。 サウジアラビア有数の富豪の一族に生まれたが、1994年にサウジアラビア国籍を剥奪され、以降は無国籍であった。1988年に国際テロ組織「アルカーイダ」を設立してその初代アミール(司令官)となり、以降アメリカ同時多発テロ事件をはじめとする数々のテロ事件を首謀したことで知られる。連邦捜査局(FBI)における最重要指名手配者の1人であった。 2011年5月、パキスタンのアボッターバードにおいてアメリカ海軍特殊戦開発グループが行った軍事作戦によって殺害された。 | {{otheruses|テロリスト|象|ウサーマ・ビン・ラーディン (象)}}
{{Infobox officeholder
| name = ウサーマ・ビン・ラディン<br>{{lang|ar|أسامة بن لادن}}
| image = Osama bin Laden portrait.jpg
| image_size = 225px
| caption = [[1997年]]頃のウサーマ・ビン・ラディン
| office = [[アルカーイダ]]の初代[[アミール]](司令官)
| term_start = [[1988年]]
| term_end = [[2011年]][[5月2日]]
| predecessor = 無し(初代)
| successor = [[アイマン・ザワーヒリー]]
| office2 = [[マクタブ・アル=ヒダマト]]の創立者
| term_start2 = [[1984年]]
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| birth_name = ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラディン
| birth_date = {{生年月日と年齢|1957|3|10|死去}}
| birth_place = {{KSA}}・[[リヤド]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1957|3|10|2011|5|2}}
| death_place = {{PAK}}・[[アボッターバード]]
| death_cause = [[銃殺]]
| height = 1.93–1.98 m<ref>{{cite web |url=https://www.fbi.gov/wanted/wanted_terrorists/usama-bin-laden |title=Usama BIN LADEN |publisher=FBI.gov |accessdate=October 5, 2015 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160526174037/https://www.fbi.gov/wanted/wanted_terrorists/usama-bin-laden |archivedate=May 26, 2016 }}</ref>
| nationality = {{KSA}}<small>([[1957年]] - [[1994年]])</small><br>[[無国籍]]<small>([[1994年]] - [[2011年]])</small><ref name="Forbes">Dan Ackman. [https://www.forbes.com/2001/09/14/0914ladenmoney.html "The Cost Of Being Osama Bin Laden"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170729115849/https://www.forbes.com/2001/09/14/0914ladenmoney.html |date=July 29, 2017 }}. September 14, 2001. Retrieved March 15, 2011.</ref>
|spouse=Najwa Ghanhem<br>Khadijah Sharif<br>Khairiah Sabar<br>Siham Sabar<br>Amal Ahmed al-Sadah
| children = 20 - 26人
| religion = [[イスラム教]]([[ワッハーブ派]] / [[サラフィー主義]])<ref>{{Cite book |title=Pakistan's Enduring Challenges |url=https://books.google.com/books?id=XxtrBgAAQBAJ |publisher=University of Pennsylvania Press |date=February 18, 2015 |isbn=9780812246902 |first=C. Christine |last=Fair |first2=Sarah J. |last2=Watson |page=246 |quote=Osama bin Laden was a hard-core Salafi who openly espoused violence against the United States in order to achieve Salafi goals. |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160131203102/https://books.google.com/books?id=XxtrBgAAQBAJ |archivedate=January 31, 2016}}</ref><ref>{{Cite book |title=Roads to Reconciliation: Conflict and Dialogue in the Twenty-first Century |url=https://books.google.com/books?id=MDzfBQAAQBAJ |publisher=Routledge |date=December 18, 2014 |isbn=9781317460763 |first=Amy Benson |last=Brown |first2=Karen M. |last2=Poremski |page=81 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160131203102/https://books.google.com/books?id=MDzfBQAAQBAJ |archivedate=January 31, 2016}}</ref><ref>Osama Bin Laden (2007) Suzanne J. Murdico</ref><ref name=Karen>{{cite news |last=Armstrong |first=Karen |url=https://www.theguardian.com/politics/2005/jul/11/northernireland.july7 |title=The label of Catholic terror was never used about the IRA |work=The Guardian |date=July 11, 2005 |location=London |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161226235515/https://www.theguardian.com/politics/2005/jul/11/northernireland.july7 |archivedate=December 26, 2016 }}</ref>
| allegiance = {{flagicon image|Flag of al-Qaeda.svg|size=23px}} [[マクタブ・アル=ヒダマト]]<small>([[1984年]] - [[1988年]])</small> <br>
{{flagicon image|Flag of al-Qaeda.svg|size=23px}} [[アルカーイダ]]<small>([[1988年]] - [[2011年]])</small>
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| serviceyears = [[1984年]] – [[2011年]][[5月2日]]
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| battles = [[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン紛争]]<br>
* {{仮リンク|ジャジの戦い|en|Battle of Jaji}}
[[対テロ戦争]]
* [[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガニスタン紛争]]
* [[ワジリスタン紛争]]
* [[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害|海神の槍作戦]]{{KIA}}
}}
'''ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラディン'''({{lang|ar|أسامة بن محمد بن عوض بن لادن}}、Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin,<ref name=Davies2018>{{Cite book |last1=Davies |first1=William D. |last2=Dubinsky |first2=Stanley |year=2018 |title=Language Conflict and Language Rights: Ethnolinguistic Perspectives on Human Conflict |publisher=Cambridge University Press |page=74 |isbn=9781107022096 }}</ref><ref name=Panzeri/> [[1957年]][[3月10日]] - [[2011年]][[5月2日]])は、[[サウジアラビア]]出身の[[イスラーム過激派|イスラム過激派]][[テロリズム|テロリスト]]。
サウジアラビア有数の富豪の一族に生まれたが、1994年にサウジアラビア国籍を剥奪され、以降は[[無国籍]]であった。[[1988年]]に国際テロ組織「[[アルカーイダ]]」を設立してその初代[[アミール]](司令官)となり、以降[[アメリカ同時多発テロ事件]]をはじめとする数々の[[テロリズム|テロ]]事件を首謀したことで知られる<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/6932a31f8876fc2bde0e6d9b610ed7a5b9b2278f|title=アフガニスタン撤退をめぐる英国的「後始末のつけ方」(1)(六辻彰二) |publisher= Yahoo!ニュース |date=2013-02-17|accessdate=2019-12-08}}</ref>。[[連邦捜査局]](FBI)における[[FBI10大最重要指名手配|最重要指名手配]]者の1人であった。
2011年5月、[[パキスタン]]の[[アボッターバード]]において[[DEVGRU|アメリカ海軍特殊戦開発グループ]]が行った軍事作戦によって[[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害|殺害された]]。
==名前と表記==
[[日本語]]では、'''ウサマ・ビン・ラーデン'''([[外務省]])<ref name="kokuji">2011年(平成23年)2月18日、[[外務省]][[告示]]第56号「国際連合安全保障理事会決議に基づく資産凍結等の措置の対象を改正する件」</ref>、'''オサマ・ビンラディン''' ([[日本放送協会|NHK]]、[[テレビ朝日]]など)、'''ウサマ・ビンラディン''' ([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[TBSテレビ|TBS]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[テレビ東京]]など)、'''ウサマ・ビンラーディン'''([[読売新聞]]など)などとも表記される<ref>{{Cite web|和書|url=http://ja.forvo.com/word/osama_bin_laden/#ar|title=ネイティヴによる「Osama bin Laden」の発音|publisher=[[Forvo]]|accessdate=2014-05-31}}</ref>。
[[フスハー]]でのフルネームは「'''ウサーマ・イブン・ムハンマド・イブン・アワド・イブン・ラーディン'''」であり、「ビン・ラーディン(=ラーディンの息子)家のアワドの息子ムハンマドの息子ウサーマ」を意味する<ref name=Davies2018/><ref name=Panzeri>{{Cite book |author=Peter Panzeri |year=2014 |title=Killing Bin Laden: Operation Neptune Spear 2011 |publisher=Bloomsbury Publishing |page=6 |id= |isbn=9781472804105 }}</ref>。
「ムハンマド」は父であるムハンマド・ビン・ラーディンを、「アワド」は祖父であるアワド・ビン・アブード・ビン・ラーディンを示しているが、「ラーディン」は曽祖父の名ではなく、曽祖父アブードの父であるラーディン・アリー・アル=カフターニー(Laden Ali al-Qahtani)を示すものである<ref>{{cite web |url=https://www.geni.com/people/L%C4%81din-al-Qatani/6000000012479136624 |title=Lādin Ali al-Qatani |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161116225543/https://www.geni.com/people/L%C4%81din-al-Qatani/6000000012479136624 |archivedate=November 16, 2016 |accessdate=October 20, 2019}}</ref>。
ウサーマの息子{{仮リンク|ウマル・ビン・ラーディン|en|Omar bin Laden}}によれば、一族に受け継がれる部族名由来の家名(ニスバ)は「'''アル=カフターニー''' ({{lang-ar|القحطاني}}, ''āl-Qaḥṭānī'')」であるが、ウサーマの父ムハンマドが正式にこのニスバを使用することはなかった<ref>{{cite book |title=Growing up Bin Laden: Osama's Wife and Son Take Us Inside Their Secret World |last=bin Laden |first=Najwa |authorlink2=Omar bin Laden |last2=bin Laden |first2=Omar |last3=Sasson |first3=Jean |authorlink=Najwa Ghanem |authorlink3=Jean Sasson |year=2009 |publisher=St. Martin's Press |location=New York |isbn=978-0-312-56016-4 |page=301 |url=https://books.google.com/books?id=RcBwm5b8VbAC |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150407011237/http://books.google.com/books?id=RcBwm5b8VbAC |archivedate=April 7, 2015 }}</ref>。
==経歴==
===出自===
[[File:Bin Ladin.jpg|thumb|left|[[ドバイ]]にある[[サウディ・ビンラディン・グループ]]のオフィス]]
ムハンマド・ビン・ラーディンは22回の結婚をし54人の子供を儲けることになったが、妻子の大半は40代を過ぎて事業が拡大してからの子供たちである。また、最初の妻以外は短期間で離婚している。ウサーマ・ビン・ラーディンはムハンマドの17番目の子であった。ビン・ラーディン一族は50億ドル以上の[[資本]]を所有しており、その内、2億5000万ドル以上がウサーマに分配されていた<ref name=theeconomist>"[http://www.economist.com/node/18648254 Osama bin Laden] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110520023316/http://www.economist.com/node/18648254 |date=May 20, 2011 }}", ''[[エコノミスト|The Economist]]'', May 5, 2011, p. 93.</ref>{{#tag:ref|1991年の国外追放と資産凍結でその財産の多くが失われ、残された資産は2500万–3000万ドルであったとされている<ref name=theeconomist/>。|group="注"}}。
===出生から青年期まで===
ウサーマ・ビン・ラーディンは、サウジアラビアの[[リヤド]]で、建設業で財を成したイエメン出身の父[[ムハンマド・ビン・ラーディン]]と、その10番目の妻でシリア出身の母アリア・ガーネム(後の{{仮リンク|ハミーダ・アル=アッタス|en|Hamida al-Attas}})の間に生まれた<ref>{{cite web |url=http://www.infoplease.com/spot/osamabinladen.html |title=Osama bin Laden infoplease |publisher=[[Infoplease]] |author=David Johnson |accessdate=May 26, 2010 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080120224312/http://www.infoplease.com/spot/osamabinladen.html |archivedate=January 20, 2008 |url-status=live}}</ref><ref name="newyorker.com">{{Cite news |url=http://www.newyorker.com/archive/2005/12/12/051212fa_fact |title=Letter From Jedda: Young Osama- How he learned radicalism, and may have seen America |work=The New Yorker |author=Steve Coll |date=December 12, 2005 |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100117190909/http://www.newyorker.com/archive/2005/12/12/051212fa_fact |archivedate=January 17, 2010 }}</ref>。生年月日は、ビン・ラーディン本人が1998年のインタビューの中で1957年3月10日であると語っている<ref name="newyorker.com"/><ref name="glosec">{{cite web |title=Osama bin Laden |url=http://www.globalsecurity.org/security/profiles/osama_bin_laden.htm |publisher=GlobalSecurity.org |date=January 11, 2006 |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100329161357/http://www.globalsecurity.org/security/profiles/osama_bin_laden.htm |archivedate=March 29, 2010 }}</ref>。
父ムハンマドはビン・ラーディンが生まれた直後にガーネムと離婚し、彼女はその後ムハンマド・アル=アッタスと再婚して別の4人の子を儲けたため、幼少期のビン・ラーディンは実父と離れて3人の異父弟・1人の異父妹と共に生活することになった<ref name="newyorker.com" />。ビン・ラーディンは敬虔な[[スンナ派]]ムスリムとして育てられ<ref>{{Cite news |last=Beyer |first=Lisa |url=http://www.time.com/time/covers/1101010924/wosama.html |work=Time |title=The Most Wanted Man in the World |date=September 24, 2001 |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010916125854/http://www.time.com/time/covers/1101010924/wosama.html |archivedate=September 16, 2001 }}</ref>、1968年から1976年にかけては[[ジッダ]]の世俗的なエリート校で教育を受けた<ref name="newyorker.com" /><ref>{{Harvnb|Bergen|2006|pp=52}}</ref>。その後、ジッダの[[キング・アブドゥルアズィーズ大学]]に進学して[[経済学]]と[[経営学]]を学んだ<ref>''[[Messages to the World: The Statements of Osama bin Laden]]'', Verso, 2005, p. xii.</ref>。ビン・ラーディンが1979年に土木工学の学位を取得したという報告や<ref>[http://galenet.galegroup.com/ ''Encyclopedia of World Biography Supplement''] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080518084513/http://galenet.galegroup.com/ |date=May 18, 2008 }}, Vol. 22. Gale Group, 2002. (link requires username/password)</ref>、1981年に[[行政学]]の学位を取得したという報告が存在する一方で<ref>{{cite web |url=https://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/binladen/who/bio.html |title=A Biography of Osama Bin Laden |publisher=PBS Frontline |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100329153133/http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/binladen/who/bio.html |archivedate=March 29, 2010 }}</ref>、学位を取得する前に大学をやめたとする報告も存在する<ref name="gunaratna-22">{{Cite book |title=Inside Al Qaeda |author=Gunaratna, Rohan |publisher=Berkley Books |year=2003 |edition=3rd |page=[https://archive.org/details/insidealqaedaglo00guna/page/22 22] |isbn=0-231-12692-1 |url=https://archive.org/details/insidealqaedaglo00guna/page/22 }}</ref>。
大学時代、ビン・ラーディンの関心は宗教に向かい、「クルアーンおよびジハードの解釈」と[[慈善活動]]に精力的に参加したほか<ref>{{Harvnb|Wright|2006|pp=79}}</ref>、詩作にも興味を示し<ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7630934.stm |title=Analysing Osama's jihadi poetry |work=BBC News |author=Michael Hirst |date=September 24, 2008 |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090930075727/http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7630934.stm |archivedate=September 30, 2009 }}</ref>、[[バーナード・モントゴメリー]]や[[シャルル・ド・ゴール]]の著作を好んで読んだと言われている<ref name=mirror/>。思想の面では、[[ムスリム同胞団]]に加入し、[[サイイド・クトゥブ]]の思想に引き付けられた。さらに大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団の[[アブドゥッラー・アッザーム]]の教えを受け、師と仰ぐようになった(のちにビン・ラーディンは、自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている)。ビン・ラーディンは厳格な[[サラフィー主義]]から、[[音楽]]や[[映画]]などに対して不寛容であった。その一方で、競走馬に大きな関心を寄せていたほか、サッカーを好んでプレーし、英国のクラブである[[アーセナルFC]]のファンでもあった<ref name=mirror>{{Cite news |url=https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/osama-bin-ladens-bodyguard-i-had-orders-126430 |title=Osama bin Laden's bodyguard: I had orders to kill him if the Americans tried to take him alive |work=Daily Mirror |date=May 4, 2011 |accessdate=April 20, 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120610184157/http://www.mirror.co.uk/news/uk-news/osama-bin-ladens-bodyguard-i-had-orders-126430 |archivedate=June 10, 2012}}</ref>。
===アフガニスタン紛争への参加(1979–1989年)===
ソビエト連邦が[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタンに進攻]]した1979年、ビン・ラーディンはサウジアラビアを離れてパキスタンやアフガニスタンを初めて訪れ、ソ連軍に抵抗する[[ムジャーヒディーン]]を支援するための活動を始めた{{sfn|保坂|2011|pages=72–74}}。のちにビン・ラーディンは当時の心境を回想し、「アフガニスタンの人々に対する不公正な行いに憤慨を覚えた」と語っている<ref>Interview with Robert Fisk, March 22, 1997, 'The Great War For Civilisation', 2005, p.7.</ref>。
1979年から1984年までの期間、ビン・ラーディンの支援活動は[[募金]]が中心であり、サウジアラビアなどの[[湾岸協力会議|湾岸諸国]]を活動拠点としてアフガニスタンのムジャーヒディーンに資金や建設機械を提供していた{{sfn|保坂|2011|page=73}}。ビン・ラーディンはその後、パキスタンの[[ペシャーワル]]で活動していた大学時代の恩師[[アブドゥッラー・アッザーム]]と合流した。1984年までにアッザームと共に「[[マクタブ・アル=ヒダマト]](MAK)」を組織して、外国からムジャーヒディーンの新兵をリクルートしてアフガニスタンに送り出す活動を始めた<ref name="jazeera">{{cite web |title=Profile: Osama bin Laden |url=https://www.aljazeera.com/news/asia/2011/05/20115235148217423.html |publisher=Al Jazeera |date=March 18, 2018 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180901112220/https://www.aljazeera.com/news/asia/2011/05/20115235148217423.html|archivedate=September 1, 2018 |url-status=live|accessdate=October 11, 2019 }}</ref><ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/south_asia/155236.stm |title=Who is Osama Bin Laden? |work=BBC News |date=September 18, 2001 |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081224201012/http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/south_asia/155236.stm |archivedate=December 24, 2008 }}</ref>。1984年には自ら「ベイトゥルアンサール(支援者たちの館)」という施設をペシャワールに建設し、以降1986年までパキスタンを拠点として活動した{{sfn|保坂|2011|page=73}}。ビン・ラーディンが[[アイマン・ザワーヒリー]]や[[アブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー]]、[[オマル・アブドッラフマーン (テロリスト)|オマル・アブドッラフマーン]]などと関係を構築したのもこの時期であった。
1986年以降、ビン・ラーディンは活動の拠点をアフガニスタン国内に移した{{sfn|保坂|2011|page=73}}。1986年から1987年にかけ、ビン・ラーディンはアフガニスタン東部の村ジャジ (Jaji)近郊に自らの基地を建設し、数十人のアラブ人ムジャーヒディーンを指揮下に置いた<ref name="Bergen49">{{Harvnb|Bergen|2006|pp=49–51}}</ref>。この基地を拠点として、ビン・ラーディンとその軍団はソ連軍と交戦し、ビン・ラーディン自身も一兵士として戦闘に参加した。特に、1987年の{{仮リンク|ジャジの戦い|en|Battle of Jaji}}ではソ連軍に勝利したことになり(実際には、ソ連軍の死者2名に対しゲリラ側の死者120名という惨状であった)、アラブ系の主要メディアではこの戦果が華々しく報道され、ビン・ラーディンの知名度は高まった<ref name="Bergen49"/>。ビン・ラーディンがアラブ世界の一部で英雄視されるようになったのもこの時期であった<ref>Robert Fisk (2005). ''The Great War For Civilisation'', p. 4.</ref>。
1979年から1989年にかけ、アメリカとサウジアラビアはパキスタンの[[軍統合情報局]] (ISI)を通じ、アフガニスタンで戦うムジャーヒディーンへ400億ドル相当の援助を行った([[サイクロン作戦]])<ref>{{cite web |year=2009 |url=http://www.bt.com.bn/analysis/2008/12/17/story_of_us_cia_and_taliban |title=Story of US, CIA and Taliban |work=[[The Brunei Times]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131205090713/http://www.bt.com.bn/analysis/2008/12/17/story_of_us_cia_and_taliban |archivedate=December 5, 2013|accessdate=October 20, 2019}}</ref>。ジャーナリストの{{仮リンク|ジェイソン・バーク|en|Jason Burke}}によれば、ビン・ラーディンが設立したMAKもアメリカから提供された資金を受け取っていた<ref>{{cite news |title=Frankenstein the CIA created |url=https://www.theguardian.com/world/1999/jan/17/yemen.islam |work=The Guardian |date=January 17, 1999}}</ref>。ビン・ラーディンはまた、ISI長官の{{仮リンク|ハミド・グル|en|Hamid Gul}}中将と知り合い、関係を深めていた。アメリカはムジャーヒディーンに資金と武器を提供したが、実際の軍事訓練はISIと[[パキスタン陸軍]]が全面的に担当していた<ref>{{cite journal |year=1999 |url=http://www.thenation.com/article/cost-afghan-victory?page=0,1 |title=The Cost of an Afghan 'Victory' |journal=[[The Nation]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140302090727/http://www.thenation.com/article/cost-afghan-victory?page=0%2C1 |archivedate=March 2, 2014 |url-status=dead |df=}}</ref>。
====アルカーイダの結成====
{{Main|アルカーイダ}}
[[1988年]]、ビン・ラーディンはMAKから独立した新組織「[[アルカーイダ]]」を立ち上げた。[[ローレンス・ライト]]の調査によれば、アルカーイダは1988年8月11日に、ビン・ラーディン、アッザーム、および[[ジハード団]]の幹部数名による合意によって結成され、その目的はビン・ラーディンの資金とジハード団の専門知識を組み合わせることで、ソ連軍がアフガニスタンから撤退した後も世界の別の地域でジハードを継続することにあった<ref>{{cite book |url=https://books.google.com/?id=8EqWnqdsgZMC&pg=PA108&dq=August+11,+1988,+meeting+between+%22several+senior+leaders%22+of+Egyptian+Islamic+Jihad,+Abdullah+Azzam,+and+bin+Laden |title=Urban Terrorism : Myths And Realities |first=N. C |last=Asthana |page=108 |publisher=Pointer Publishers |isbn=978-81-7132-598-6 |date=January 1, 2009}}</ref>。
1989年2月に[[ソ連軍のアフガニスタンからの撤退]]が完了した後、ビン・ラーディンはサウジアラビアに帰国した<ref name="pbschronology"/>。サウジアラビアでビン・ラーディンとその軍団は、ソ連という「強大な超大国」を倒した英雄として扱われた<ref name="jazeera"/><ref>{{Harvnb|Wright|2006|pp=146}}</ref>。帰国した後のビンラーディンは一族の建設会社([[サウディ・ビンラディン・グループ]])を手伝ったが、一方でサウジアラビアの体制に反抗する姿勢を示したため、当局から警戒された<ref name="jazeera"/><ref name="pbschronology"/>。
===湾岸戦争と米軍駐留・サウジアラビアからの追放(1990–2000年)===
1990年8月2日、[[サッダーム・フセイン]]の[[イラク治安部隊#イラク軍|イラク軍]]が[[クウェート]]に侵攻し、サウジアラビアとの国境に到達した。サウジアラビアがイラクからの脅威に直面する中、ビン=ラーディンは[[ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ|ファハド]]国王およびスルターン国防相と会談を行い、国内に[[異教徒]]の[[アメリカ軍]]を駐留させる代わりに、自らのムジャーヒディーン軍団によってサウジアラビアを防衛する計画を提案した<ref>Jehl, Douglas (December 27, 2001). "A Nation Challenged: Holy war lured Saudis as rulers looked away". The New York Times. pp. A1, B4. Retrieved September 5, 2009.</ref>。しかし、サウジアラビア王家はビン・ラーディンによる提案を拒絶し、最終的にはアメリカ軍のサウジアラビア駐留を認めた<ref>{{Cite news |last=Jehl |first=Douglas |title=A Nation Challenged: Holy war lured Saudis as rulers looked Away |work=The New York Times |date=December 27, 2001 |pages=A1, B4 |url=https://www.nytimes.com/2001/12/27/world/a-nation-challenged-saudi-arabia-holy-war-lured-saudis-as-rulers-looked-away.html |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101118105250/http://www.nytimes.com/2001/12/27/world/a-nation-challenged-saudi-arabia-holy-war-lured-saudis-as-rulers-looked-away.html |archivedate=November 18, 2010 }}</ref>。1990年8月7日、アメリカ大統領[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]はアメリカ軍のサウジアラビア派遣を発表し、同軍は8月8日からサウジアラビアへの展開を開始した{{sfn|保坂|2011|page=94}}。
ビン・ラーディンは、非イスラム教徒が[[アラビア半島]]に常駐することは[[預言者ムハンマド]]によって禁じられていると解釈しており<ref name="Bergen2001">{{cite book |last=Bergen|first=Peter L.|title=Holy War, Inc.: Inside the Secret World of Osama Bin Laden |year=2001|publisher=Simon and Schuster|isbn=978-0-7432-3467-2 |page=3}}</ref>、[[メッカ]]・[[マディーナ]]という2つの聖地を抱えるサウジアラビアに異教徒のアメリカ軍が進出したことに憤慨した<ref name="cnn201107"/>。それと同時に、駐留を許したサウジアラビア王家([[サウード家]])を「背教者」として糾弾した<ref name="Bergen2001"/>。[[湾岸戦争]]が引き金となったアメリカ軍のサウジアラビア駐留は、ビン・ラーディンを急速に反米活動に傾倒させていった。
1991年、サウジアラビア王家はアメリカ軍との同盟関係への批判を繰り返すビン・ラーディンを国外追放に処した<ref name="pbschronology"/><ref name="cnn201107">{{cite web |year=2011 |title=Timeline: Osama bin Laden, over the years |url=http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/05/02/bin.laden.timeline/index.html |work=CNN |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110717222154/http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/05/02/bin.laden.timeline/index.html |archivedate=July 17, 2011|accessdate=October 17, 2019}}</ref>。サウジアラビアを追われたビンラーディンとその一派は、当初はアフガニスタンで亡命生活を送ったが、1992年までに[[スーダン]]に移動した<ref name="pbschronology"/><ref name="cnn201107"/>。アフガニスタンに滞在中の1992年3月から4月にかけ、ビン・ラーディンは激化する[[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)|アフガニスタン内戦]]の仲裁を試み、[[グルブッディーン・ヘクマティヤール]]に対して他のムジャーヒディーン指導者と協力するよう呼びかけていた{{sfnp|Gutman|2008|page=37}}。
====スーダン時代・アフガニスタンへの帰還====
[[File:Hamid Mir interviewing Osama bin Laden.jpg|thumb|アフガニスタンの[[カーブル]]でパキスタン人ジャーナリストのハミド・ミルからインタビューを受けるビン・ラーディン(1997年頃)]]
[[File:Osama_Bin_Laden_marked_deceased_on_FBI_Ten_Most_Wanted_List_May_3_2011.jpg|thumb|[[FBI10大最重要指名手配]]]]
スーダンに渡ったビン・ラーディンは同国の政権を担う[[民族イスラーム戦線]]と同盟関係を築くとともに、アルカーイダを国際的なテロ組織へと発展させた<ref name="glosec"/><ref name="cnn201107"/>。
1992年12月29日、イエメンの[[アデン]]でアメリカ軍が滞在するホテルが爆破され、2人のオーストリア人旅行者が死亡した<ref name="pbschronology"/>。これがビン・ラーディンが関与した最初のテロ事件とされている<ref name="pbschronology">{{cite web |url=https://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/binladen/etc/cron.html |title=Who is bin Laden?: Chronology |publisher=PBS |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100414023118/http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/binladen/etc/cron.html |archivedate=April 14, 2010 }}</ref>。1993年2月26日、ビン・ラーディンとの関係が疑われるテロリストによってニューヨークで[[世界貿易センター爆破事件]]が引き起こされ、6人が死亡した<ref name="cnn201107"/>。1993年、アメリカ政府はスーダンをテロ支援国家に指定した<ref name="pbschronology"/>。1994年、サウジアラビア政府はビン・ラーディンの国籍を剥奪し、サウジアラビア国内に残された彼の財産を全て凍結した<ref name="cnn201107"/>。同年には、ビン・ラーディンの一族も彼との関係を断絶した(それまでウサーマは一族の財産から毎年1億ドル余りを受け取っていた)<ref name="glosec"/><ref name="cnn201107"/>。
1996年5月、スーダンの[[オマル・アル=バシール]]政権はアメリカおよびサウジアラビアからの圧力に屈し、ビン・ラーディンを国外に追放することを決定した<ref name="pbschronology"/>。ビン・ラーディンは亡命先としてアフガニスタンの[[ジャラーラーバード]]を選び、5月18日にチャーター機でスーダンを離れた<ref>{{Cite news |url=http://articles.latimes.com/2001/dec/06/news/mn-12224 |title=Fighters Hunt Former Ally |work=Los Angeles Times |author=Megan K. Stack |date=December 6, 2001 |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090919134203/http://articles.latimes.com/2001/dec/06/news/mn-12224 |archivedate=September 19, 2009 }}</ref>。アフガニスタンに帰還したビン・ラーディンとアルカーイダは[[ターリバーン]]政権の庇護を受け、ビン・ラーディンはターリバーンの最高指導者[[ムハンマド・オマル]]と親密な関係を築いた<ref name="cnn201107"/><ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/1550419.stm |title=Profile: Mullah Mohamed Omar |date=September 18, 2001 |work=BBC News |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100728110131/http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/1550419.stm |archivedate=July 28, 2010 }}</ref>。
1996年8月、ビン・ラーディンは最初の「[[ファトワー]](布告)」を発し、「2つの聖なるモスクの地(サウジアラビア)の占領者」であるアメリカに対して「[[ジハード]](聖戦)」を宣言した<ref>{{Harvnb|Bergen|2008|p=14}}</ref>。このファトワーでビン・ラーディンは、異教徒のアメリカ軍をアラビア半島から駆逐し、占領されている2つの聖地([[メッカ]]と[[マディーナ]])を解放するよう全世界のムスリムに呼びかけた<ref name="cnn201107"/>。1997年5月、[[ジハード団]]の指導者であった[[アイマン・ザワーヒリー]]がアフガニスタンのビン・ラーディンに合流し、アメリカに対するジハードを共に提唱するようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/SW_S-asia/al-qaida.html|accessdate=2019-10-28|title=アルカイダ - 国際テロリズム要覧|work=[[公安調査庁]]}}</ref>。
1997年3月、ビン・ラーディンはパキスタン人ジャーナリストの{{仮リンク|ハミド・ミル|en|Hamid Mir}}によるインタビューでアメリカは間もなく超大国ではなくなると予測してアフガニスタン、パキスタン、[[イラン]]、[[中華人民共和国]]による反米同盟を提案し<ref>{{cite web|url=https://www.washingtonpost.com/opinions/2021/09/10/i-met-osama-bin-laden-three-times-im-sorry-say-his-story-isnt-over/|date=2021-09-11|accessdate=2021-09-10|title=Opinion: I met Osama bin Laden three times. I’m sorry to say his story isn’t over.|work=[[ワシントン・ポスト]]}}</ref>、中国の[[新疆ウイグル自治区]]でのテロは中国とイスラム世界が団結することを阻みたい[[CIA]]によるものだとして関与を否定した<ref>'Bin Ladin Charges US Involvement in China Bombings', Islamabad, 15 March 1997, as translated in FBIS, 39–41.</ref><ref>The China-Pakistan Axis: Asia's New Geopolitics. By Andrew Small . New York: Oxford University Press, 2015. 82 p.</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/09/post-97065_1.php|accessdate=2021-09-09|title=新たな超大国・中国が、アメリカに変わるテロ組織の憎悪の標的に|work=[[ニューズウィーク]]}}</ref>。
1998年2月、ビン・ラーディンとザワーヒリーは「[[ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線]]」を結成した上で新たな「ファトワー」を発し、世界各地でアメリカとその同盟国の国民を軍人・民間人の区別なく殺害することが、「占領されている[[アル=アクサー・モスク]](エルサレム)と[[マスジド・ハラーム|聖なるモスク]](メッカ)を解放」するために、「全ムスリムに課せられた義務である」と宣言した<ref>{{cite web |url=http://www.library.cornell.edu/colldev/mideast/fatw2.htm |title=World Islamic Front for Jihad Against Jews and Crusaders: Initial "Fatwa" Statement |author=Shaykh Usamah Bin-Muhammad Bin-Ladin |first2=Ayman |last2=al-Zawahiri |author3=Abu-Yasir Rifa'i Ahmad Taha |author4=Shaykh Mir Hamzah |first5=Fazlur |last5=Rahman |date=February 23, 1998 |work=al-Quds al-Arabi |language=Arabic |accessdate=May 28, 2010}}</ref><ref>{{cite web |url=https://fas.org/irp/world/para/docs/980223-fatwa.htm |title=Jihad Against Jews and Crusaders. World Islamic Front Statement |author=Shaykh Usamah Bin-Muhammad Bin-Ladin |first2=Ayman |last2=al-Zawahiri |author3=Abu-Yasir Rifa'i Ahmad Taha |author4=Shaykh Mir Hamzah |first5=Fazlur |last5=Rahman |date=February 23, 1998 |publisher=al-Quds al-Arabi |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100421110549/http://www.fas.org/irp/world/para/docs/980223-fatwa.htm |archivedate=April 21, 2010 }} English-language version of the fatwa translated by the [[Federation of American Scientists]] of the [http://www.library.cornell.edu/colldev/mideast/fatw2.htm original Arabic document published in the newspaper ''al-Quds al-Arabi'' (London, UK) on 1998-02-23, p. 3].</ref>。
1998年8月7日、アルカーイダのテロリストが[[タンザニア]]の[[ダルエスサラーム]]と[[ケニア]]の[[ナイロビ]]の[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|アメリカ大使館をほぼ同時刻に爆破し]]、12人のアメリカ人を含む224人を殺害した<ref name="cnn201310">{{cite web |year=2013 |title=1998 US Embassies in Africa Bombings Fast Facts |url=https://edition.cnn.com/2013/10/06/world/africa/africa-embassy-bombings-fast-facts/index.html |work=CNN |accessdate=October 17, 2019}}</ref>。テロ事件が発生した1998年8月7日は、アメリカ軍のサウジアラビア派遣からちょうど8年後であった{{sfn|保坂|2011|page=99}}。1998年8月20日、テロへの報復として、アメリカ大統領[[ビル・クリントン]]はアフガニスタンとスーダンのアルカーイダ関連施設への攻撃を命じ、[[トマホーク (ミサイル)|トマホーク巡航ミサイル]]による爆撃が実施された<ref name="pbscontext"/>。1999年6月、[[連邦捜査局|FBI]]はビン・ラーディンを大使館爆破事件の容疑者として[[FBI10大最重要指名手配|最重要指名手配犯]]に指定した<ref name="pbscontext">{{cite web |url=https://www.pbs.org/wgbh/frontline/article/timeline-al-qaedas-global-context/ |title=Timeline: Al Qaeda’s Global Context |publisher=PBS |date=October 3, 2002 |accessdate=October 20, 2019 }}</ref>。アメリカ政府はターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアルカーイダの引き渡しを求めたが、ターリバーンは応じなかったため、1999年10月には[[国際連合安全保障理事会]]において引き渡しを求める国際連合安全保障理事会決議1267が採択された<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/terro/anpo_1267.html 安保理決議1267(訳文) 外務省]</ref>。ターリバーン政権はこれにも応じず、アフガニスタンに対する経済制裁が発動された。
2000年10月、イエメンでアルカーイダのテロリストがアメリカ海軍の[[米艦コール襲撃事件|駆逐艦「コール」に自爆攻撃を仕掛け]]、17人の水兵を殺害した<ref name="pbscontext"/>。2000年12月、国際連合安全保障理事会決議1333が採択され、ターリバーン政権に対し再度ビン・ラーディンの引き渡しが求められた<ref name="ketsugi1333">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/terro/anpo_1333.html 安保理決議1333(訳文) 外務省]</ref>。
===アメリカ同時多発テロ事件以後(2001–2011年)===
[[File:Hamid Mir interviewing Osama bin Laden and Ayman al-Zawahiri 2001.jpg|thumb|ビン・ラーディンと[[アイマン・ザワーヒリー]](2001年)]]
[[2001年]][[9月11日]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]直後から、ビン・ラーディンには首謀者の嫌疑がかけられた<ref name="ultimatum"/>。2001年9月16日、ビン・ラーディンは衛星テレビ局[[アルジャジーラ]]を通じて声明を発表し、事件への関与を否定した<ref>{{cite news |first1=Carl |last1=Cameron |first2=Marla |last2=Lehner |first3=Paul |last3=Wagenseil |agency=Associated Press |title=Pakistan to Demand Taliban Give Up Bin Laden as Iran Seals Afghan Border |url=http://www.foxnews.com/story/0,2933,34440,00.html |publisher=Fox News Channel |date=September 16, 2001 |accessdate=May 28, 2010 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100523082548/http://www.foxnews.com/story/0,2933,34440,00.html |archivedate=May 23, 2010 }}</ref>。ビン・ラーディンはこの声明の中で、「私は攻撃の実行者ではないと強調しておく。今回の事件は別の個人によって、彼自身の動機によって実行されたように見える」などと述べた<ref name=cnndenial>{{cite news |publisher=CNN |url=http://articles.cnn.com/2001-09-16/us/inv.binladen.denial |archiveurl=https://archive.today/20130119094303/http://articles.cnn.com/2001-09-16/us/inv.binladen.denial |url-status=dead |archivedate=January 19, 2013 |title=Bin Laden says he wasn't behind attacks |date=September 16, 2001 |accessdate=January 7, 2012}}</ref>。2001年9月20日、アメリカ大統領[[ジョージ・W・ブッシュ]]は「[[対テロ戦争]]」を宣言すると共に、アフガニスタンのターリバーン政権に対し、ビン・ラーディンを含む全てのアルカーイダ指導者を引き渡すことを要求する最後通牒を突き付けた<ref name="ultimatum">{{cite news |title=The US refuses to negotiate with the Taliban |url=http://www.bbc.co.uk/history/events/the_us_refuses_to_negotiate_with_the_taliban |publisher=BBC History |accessdate=25 October 2019 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181203142713/http://www.bbc.co.uk/history/events/the_us_refuses_to_negotiate_with_the_taliban |archivedate=3 December 2018 |url-status=live |df=dmy-all }}</ref>。
ターリバーン政権はビン・ラーディンらの引き渡しを拒否し、2001年10月7日、アメリカを中心とする有志連合諸国はアフガニスタンへの空爆を開始した<ref name="ultimatum"/>。2001年11月、[[ジャラーラーバード]]郊外のビン・ラーディンの隠れ家とされる場所がアメリカ軍による爆撃を受けた<ref>[https://www.jiji.com/jc/d4?p=obl502-jlp00972775&d=d4_mili ウサマ・ビンラディン容疑者 写真特集] 時事通信(2001年11月18日)2018年1月26日閲覧</ref>。その際にアメリカ軍が回収したビデオテープには、ビン・ラーディンとアルカーイダ構成員{{仮リンク|ハレド・アル=ハルビ|en|Khaled bin Ouda bin Mohammed al-Harbi}}との会話が記録されており、会話の中でビン・ラーディンは同時多発テロを事前に知っていたことを暗に認めていた<ref>{{Cite news |title=Bin Laden on tape: Attacks 'benefited Islam greatly' |publisher=CNN |date=December 14, 2001 |url=http://edition.cnn.com/2001/US/12/13/ret.bin.laden.videotape |accessdate=September 17, 2013 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131214150849/http://edition.cnn.com/2001/US/12/13/ret.bin.laden.videotape/ |archivedate=December 14, 2013 }}</ref>。11月末には有志連合の侵攻によって[[アメリカのアフガニスタン侵攻|ターリバーン政権が崩壊]]し、以降ビン・ラーディンの正確な足取りは不明となった。
[[File:Defense.gov News Photo 672130-D-PUD18-896.jpg|thumb|アメリカ軍が2001年11月に回収したビデオテープの中で、アル=ハルビ(右)と会話するビン・ラーディン(左)]]
2001年12月17日、ビン・ラーディンがザワーヒリーと共にアフガニスタン東部[[ナンガルハール州]]トラボラの渓谷にある洞穴に潜伏しているという情報からアメリカ・[[イギリス]]・[[ドイツ]]・[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]各軍が捕獲作戦(トラボラの戦い)を実施したが失敗した{{#tag:ref|このことは[[2009年]][[11月29日]]に[[アメリカ合衆国上院外交委員会|アメリカ上院外交委員会]]にて取り上げられ、現地指揮官からの増派要請を本国が拒否したのが捕獲失敗の原因と結論付けた<ref>{{cite news|url=https://web.archive.org/web/20091202160948/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20091130-OYT1T00995.htm|title=ビンラーディン取り逃がし、増援拒否が原因…米上院|work=YOMIURI ONLINE|publisher=[[読売新聞社]]|date=2009-11-30|accessdate=2009-11-30}}</ref>。|group="注"}}。その後はビン・ラーディンはターリバーン幹部らと共にパキスタンの[[北西辺境州]]の洞窟に潜伏していると考えられていた。
2004年10月、ビン・ラーディンは新たなビデオ声明をアルジャジーラを通じて発表し、自らが同時多発テロ事件に関与したことを公に認めた<ref name="cbc-2004"/>。18分にわたるビデオ声明の中でビンラーディンは、自分が19人の実行犯にテロ攻撃を指示したことを認め<ref name="cbc-2004">{{Cite news |url=http://www.cbc.ca/world/story/2004/10/29/binladen_message041029.html |title=Bin Laden claims responsibility for 9/11 |publisher=CBC News |date=October 29, 2004 |accessdate=May 25, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061025044652/http://www.cbc.ca/world/story/2004/10/29/binladen_message041029.html |archivedate=October 25, 2006 }}</ref><ref>{{Cite news |title=Al-Jazeera: Bin Laden tape obtained in Pakistan |publisher=MSNBC |date=October 30, 2004 |url=http://www.msnbc.msn.com/id/6363306 |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121031043650/http://msnbc.msn.com/id/6363306/ |archivedate=October 31, 2012 }}—"In the tape, bin Laden—wearing traditional white robes, a turban and a tan cloak—reads from papers at a lectern against a plain brown background. Speaking quietly in an even voice, he tells the American people that he ordered the September 11 attacks because 'we are a free people' who wanted to 'regain the freedom' of their nation."</ref>、[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ワールドトレードセンター]]のツインタワーを標的としたのは1982年にイスラエルが[[レバノン内戦#イスラエル侵攻|レバノンを侵略]]した際に見た光景がきっかけであったと説明した<ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/3966817.stm |title=Excerpts: Bin Laden video |work=BBC News |date=October 29, 2004 |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101006091233/http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/3966817.stm |archivedate=October 6, 2010 }}</ref>。
2004年以降、ビン・ラーディンが[[腎臓学|腎臓病]]に苦しみ常に[[人工透析]]の電子機器が必要であると報道され、死亡説も浮上した。これは、[[フランス]]の地方紙などが伝えたもので、[[腸チフス]]で死亡したとの記事であった。しかし、フランスの[[ジャック・シラク|シラク]][[フランスの大統領|大統領]]が、「死亡したとの情報はない」などとし、死亡説を否定した。2008年11月13日、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官(当時)は、ウサーマ・ビン・ラーディンの追跡と逮捕は現在でもCIAの最優先事項とした上で、潜伏先をアフガニスタンとパキスタンの国境地帯([[トライバルエリア]]・FATA)ではないかという見解を示した<ref>[http://abcnews.go.com/Blotter/Story?id=6248595&page=1 CIA Chief: Bin Laden Alive, Worried About 'Own Security' ABCNews]</ref>。
[[2010年]][[10月18日]]、[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]は[[北大西洋条約機構]]当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンが、アフガニスタン・パキスタン国境地帯の洞窟ではなく、パキスタン国内の家屋で「快適に」暮らしていると報じた。同当局者は「洞窟で暮らしているアルカーイダのメンバーは誰一人としていない」と述べた。ビン・ラーディンらは、パキスタン情報機関や地元[[住民]]に保護され、同国北西部の家屋に[[居住]]しており、付近には[[アイマン・ザワーヒリー]]も住んでいるとされた<ref>http://sankei.jp.msn.com/world/asia/101019/asi1010190005000-n1.htm 家屋で「快適な」生活 ビンラーディン容疑者</ref>。
=== 発見と死 ===
{{Main|ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害}}
2010年8月頃、配下の連絡係の行動分析からウサーマ・ビン・ラーディンの居所が突き止められた。
2011年5月2日(米国現地時間[[5月1日]])、[[パキスタン]]において[[バラク・オバマ]]大統領(当時)に命じられて[[アメリカ海軍|米国海軍]][[特殊部隊]]・[[DEVGRU]]が行った[[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害#ネプチューン・スピア作戦|ネプチューン・スピア作戦]]によって殺害された。
==人物・家族==
FBIの手配書によれば、ウサーマ・ビン・ラーディンは背が高く痩せており、身長は193–198cm、体重は約73kgであり、肌はオリーブ色で瞳と髪の色はブラウン、左利きで歩く際には杖を使うとされていた<ref>{{cite web |url=https://www.fbi.gov/wanted/terrorists/terbinladen.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060310055924/http://www.fbi.gov/wanted/terrorists/terbinladen.htm|url-status=dead|archivedate=March 10, 2006 |title=Most Wanted Terrorist – Usama Bin Laden |publisher=FBI |accessdate=June 8, 2006}}</ref>。死亡後に身長の測定が行われ、ビン・ラーディンの身長は6フィート4インチ (193cm)と確認された<ref>{{cite web |url=https://nypost.com/2011/08/02/wanted-dead-not-alive/ |title=Wanted: dead – not alive! |author=Dan Mangan |work=New York Post |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170429000044/http://nypost.com/2011/08/02/wanted-dead-not-alive/ |archivedate=April 29, 2017 |date=August 2, 2011 |accessdate=October 20, 2019}}</ref>。
ビン・ラーディンは1974年にシリアの[[ラタキア]]で最初の結婚をした<ref>{{cite news |url=http://articles.latimes.com/2001/nov/13/news/mn-3564 |title=Osama Kin Wait and Worry |author=Michael Slackman |date=November 13, 2001 |work=Los Angeles Times |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090926011904/http://articles.latimes.com/2001/nov/13/news/mn-3564 |archivedate=September 26, 2009 }}</ref>。その後1983年に2度目、1985年に3度目、1987年に4度目、2000年に5度目の結婚をしているほか、一部の情報源によれば挙式後に結婚が無効にされた6人目の妻も存在する<ref>{{cite news |url=http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/05/05/osama.many.wives |title=Bin Laden's wives – and daughter who would 'kill enemies of Islam' |publisher=CNN Edition: International |author1=Brian Todd |author2=Tim Lister |date=May 5, 2011 |accessdate=May 5, 2011 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110506085949/http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/05/05/osama.many.wives/ |archivedate=May 6, 2011 }}</ref>。ビン・ラーディンは妻たちとの間に20–26人の子供を儲けており<ref>{{cite news |url=http://transcripts.cnn.com/TRANSCRIPTS/0203/12/ltm.10.html |title=Osama's Women |publisher=CNN |date=March 12, 2002 |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110505084546/http://transcripts.cnn.com/TRANSCRIPTS/0203/12/ltm.10.html |archivedate=May 5, 2011 }}</ref><ref>{{cite news |url=http://terrorism.about.com/od/groupsleader1/p/OsamabinLaden.htm |title=Profile: Osama bin Laden |publisher=About.com |author=Amy Zalman |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110707075153/http://terrorism.about.com/od/groupsleader1/p/OsamabinLaden.htm |archivedate=July 7, 2011 }}</ref>、その多くは2001年の9/11テロの後イランに逃亡した<ref>[https://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/middleeast/iran/7897555/Osama-bin-Ladens-family-stranded-in-Iran-son-says.html "Osama bin Laden's family 'stranded' in Iran, son says"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110312025042/http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/middleeast/iran/7897555/Osama-bin-Ladens-family-stranded-in-Iran-son-says.html |date=March 12, 2011}}, ''The Telegraph''. July 19, 2010.</ref>。1997–2001年にビン・ラーディンのボディガードを務めた人物によれば、ビン・ラーディンは倹約家で父親としては厳格であり、一方で家族を狩りやピクニックに連れて行くことを楽しみにしていたという<ref>Al-Bahri, Nasser, ''Guarding bin Laden: My Life in al-Qaeda''. pp. 150–160. Thin Man Press. London. {{ISBN2|9780956247360}}</ref>。
実父ムハンマドは1967年にサウジアラビアで飛行機事故に遭い死亡した(事故原因はアメリカ人パイロットによる着陸時の判断ミスだった)<ref>{{cite web |url=http://abcnews.go.com/US/story?id=4581571&page=1 |title=Blood Brothers: Could Osama Have Been Tamed? |publisher=ABC News |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160101093302/http://abcnews.go.com/US/story?id=4581571&page=1 |archivedate=January 1, 2016|accessdate=October 20, 2019}}</ref><ref>{{cite news |url=http://www.spiegel.de/international/world/0,1518,544921,00.html |title=Interview with US Author Steve Coll: 'Osama bin Laden is Planning Something for the US Election' |work=Der Spiegel |accessdate=January 26, 2011 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110213044611/http://www.spiegel.de/international/world/0,1518,544921,00.html |archivedate=February 13, 2011 |date=April 2, 2008 }}</ref>。ムハンマドの死後、長兄である{{仮リンク|サーレム・ビン・ラーディン|en|Salem bin Laden}}が後継者として一族の長になったが、サーレムは1988年、テキサス州[[サンアントニオ]]近郊で自ら飛行機を操縦中、誤って送電線に突っ込む事故を起こして死亡した<ref>{{cite web |url=http://www.woai.com/content/news/newslinks/story/Best-of-the-Web-Osamas-Brother-Died-in-San/fQByftuKL0WrEDALXrJ7EA.cspx|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120113114003/http://www.woai.com/content/news/newslinks/story/Best-of-the-Web-Osamas-Brother-Died-in-San/fQByftuKL0WrEDALXrJ7EA.cspx|url-status=dead|archivedate=January 13, 2012 |title=Best of the Web: Osama's Brother Died in San Antonio, Red Velvet Onion Rings-WOAI: San Antonio News |date=January 13, 2012 |accessdate=October 20, 2019}}</ref>。
父のムハンマド・ビン・ラーディンは元[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[ジョージ・H・W・ブッシュ]]とともに[[カーライル・グループ|カーライル投資グループ]]の大口投資家であり役員だった。また、ウサーマの長兄のサーレムは元アメリカ大統領[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ジョージ・W・ブッシュ]]がかつて経営していた石油会社の共同経営者であった。無論、これらはウサーマが[[反米]]に立場を転じてテロリストとなる前の話であり、また、彼ら親族はウサーマのようなテロリストではなくそのような組織との直接的関係もない。ウサーマの息子は父に対しテロ行為をやめるようメッセージを発していた。しかし、それはジェスチャーに過ぎないとの説がある<ref>[[ベンジャミン・フルフォード]]『ステルス・ウォー』 [[講談社]] [[2010年]]3月 ISBN 9784062161244, Page141</ref>。
2009年7月、アメリカのラジオ局「[[ナショナル・パブリック・ラジオ]]」が、CIA当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンの息子の1人であるサアドが、パキスタン領内で米軍の[[無人航空機|無人偵察機]]による爆撃で死亡した可能性があると報じた<ref>http://news.smh.com.au/breaking-news-world/us-strike-may-have-killed-bin-ladens-son-report-20090723-du9v.html</ref>。しかし同年12月、サウジアラビア[[資本]]でイギリスの首都[[ロンドン]]で発行される新聞「[[アッシャルクル・アウサト|アッ=シャルク・アル=アウサト]]」は、ウサーマの別の息子であるウマル・ビン・ラーディンの話として<ref>[http://www.ibtimes.com/articles/20091223/bin-ladens-wife-and-six-children-under-house-arrest-iran-report.htm bin ladens wife and six children under house arrest iran]</ref>、死亡説がささやかれているサアドは親族らとともにイランにいたと伝えた。これによると、サアドは、兄弟姉妹であるムハンマド、ウスマーン、ハムザ、ファーティマ、イーマーン、そしてビン・ラーディンの妻の一人であるハイリーヤ、叔父にあたるバクルを含む25人の親類と共に[[イラン]]国内で治安当局の監視下で自宅軟禁に置かれていたということを、ウスマーンが[[電話]]でウマルに話したという。ただしウマルによればサアドは一ヶ月前に[[逃亡]]し、その後はイラン国内にはいないという。ビン・ラーディンの家族はそれまで、2001年のアフガン空爆後は隣国イランに逃亡したと見られていた。
2012年5月2日、ビン・ラーディンと共に潜伏生活を送っていた3人の妻と11人の子どもたちは拘留され、翌年に妻と二人の娘たちがパキスタンへの不法滞在で起訴された。別荘で45日の禁固刑を終えた後、2人の妻はサウジアラビアに、1人の妻はイエメンにそれぞれの子どもたちと強制送還されたという<ref>{{Cite news|title=Bin Laden wives and children deported to Saudi Arabia|url=https://www.bbc.com/news/world-17864058|work=BBC News|date=2012-04-26|access-date=2022-04-20|language=en-GB}}</ref>。
2017年1月5日、息子の一人[[ハムザ・ビン・ラーディン|ハムザ・ビンラディン]]を国際テロリストに指定したとアメリカ政府は発表した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3113248?cx_tag=pc_rankday&cx_position=1#cxrecs_s 米、ビンラディン容疑者の息子を国際テロリストに指定] AFP通信(2017年1月6日)2017年1月7日閲覧</ref>。
2019年9月14日、アメリカの[[ドナルド・トランプ|トランプ]]大統領が、米軍の対テロ作戦によりハムザを殺害したと発表した<ref>[https://www.cnn.co.jp/usa/35142692.html ビンラディン容疑者の息子を殺害、トランプ大統領が発表] CNN 2019年9月15日</ref>。
== 活動の年譜 ==
* [[1979年]]、[[アフガニスタン]]の[[ソビエト連邦軍|ソビエト軍]]と戦うために[[アブドゥッラー・アッザーム]]の呼びかけに応じ[[パキスタン]]入りし、[[ムジャーヒディーン]]の1人となる。
* [[1988年]]、[[マクタブ・アル=ヒダマト]]が分裂。[[ペシャーワル]]で[[アルカーイダ]]を組織。
* [[1990年]]、アフガニスタンの英雄として[[サウジアラビア]]に帰国。
* [[1991年]]、[[湾岸戦争]]で、異教徒の[[アメリカ軍]]の介入や聖地[[メッカ]]のあるサウジアラビアへのアメリカ軍駐留に反発し、スルターン・ビン・アブドゥルアズィーズ・アル=サウード王子に交渉するも拒否され、反[[サウード家]]を鮮明にする。
* [[1992年]]、サウジアラビア国籍剥奪。国外追放され、[[スーダン]]に身を寄せる。スーダンで建築事業を営み[[インフラストラクチャー|インフラ]]整備に携わる。[[アルカーイダ]]の組織はこの時期この地で大幅に拡大され、国際的なネットワークが繋がり、「イスラムの教えに反する者全てに聖なる戦いを仕掛けよ」と呼びかけた。
* [[1996年]]、[[アフガニスタン]]に移動し[[イスラム原理主義]]勢力[[ターリバーン]]に客人として扱われる。豊富な資金力でアルカーイダの基地を作り、テロ訓練を行う。
* [[1998年]]、[[ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線]]結成。「アメリカと同盟国の国民を殺害せよ」という[[ファトワ]]を[[アイマン・ザワーヒリー]]と連名で出す。[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|アメリカ大使館爆破事件]]。スーダンの化学工場とアフガニスタンの訓練キャンプがアメリカ軍のミサイル攻撃を受ける。
* [[1999年]]、[[国際連合安全保障理事会]]、国際連合安全保障理事会決議1267でビン・ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを要求。ターリバーンは拒否。
* [[2000年]]、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1333でビン・ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを要求。ターリバーンは拒否。
* [[2001年]]秋、アル・カーイダのメンバーである[[モハメド・アタ]]他数名による9.11[[アメリカ同時多発テロ事件]]発生。ブッシュ政権にアメリカ同時多発テロ事件の[[正犯|首謀者]]と断定され、ターリバーンに身柄の引渡し要求がつきつけられたが、ターリバーンはこれを拒否した。
* ターリバーン政権崩壊後は消息不明だが、アフガニスタンと[[パキスタン]]の国境山岳地帯に潜伏していると推定されており、[[パキスタン軍]]の掃討作戦に包囲されているとの情報も流れた。
* [[2002年]]、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1390でビン・ラーディンとアル・カーイダ関係者およびターリバーン幹部の[[資産凍結]]を決定。
* [[2004年]][[2月28日]]、[[イラン・イスラム共和国放送]]の[[パシュトゥーン人]]向け[[ラジオ]]放送が、パキスタン国境付近でパキスタン軍が"だいぶ前に"ビン・ラーディンを拘束したとのニュースを伝えたが、[[AP通信]]/[[ロイター]]によると、パキスタン外相、[[アメリカ国防総省]]はこの情報を否定した。
* 2004年[[10月29日]]、[[カタール]]の衛星テレビ局[[アルジャジーラ]]が、その頃撮影されたといわれるウサーマの映像を放映。この中で、ウサーマと思しき男はアメリカ同時多発テロ事件を行ったことを初めて認め、更なるテロを警告した。これに対し、ブッシュ大統領は「脅しに屈しない」と強調した。
* 2005年10月に発生した[[パキスタン地震 (2005年)|パキスタン地震]]によりアメリカ諜報部が彼の消息が絶ったとし、更には人工透析の電子機器が常に必要でありながらも地震により電力が止まっているなどの情報もあるため、ドイツの新聞がビン・ラーディン死亡説を報道した。
* 2007年1月31日、米[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]は[[アラブ首長国連邦]]の[[ドバイ]]にて、ウサーマの義理の兄弟が[[マダガスカル]]で武装グループの襲撃を受け射殺されたことを明らかにした。被害者の兄弟がUAEの衛星テレビ[[アル・アラビーヤ]]に語った。
* 2011年[[5月2日]]、[[パキスタン]]のアボッターバードで米軍によって射殺される。
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Osama bin Laden}}
{{ウィキポータルリンク|イスラーム|[[画像:Allah-green.svg|34px|Portal:イスラーム]]}}
* [[中央情報局|CIA (アメリカ中央情報局)]]
* [[アルカーイダ]]
* [[イスラーム過激派]]
* [[国際指名手配]]
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
===参考文献===
{{Refbegin}}
* {{Cite book |ref={{harvid|保坂|2011}} |和書 |author=保坂修司 |year=2011 |title=新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦 |publisher=朝日新聞出版 |isbn=978-4022599803}}
* {{Cite book |last=Bergen |first=Peter |authorlink=Peter Bergen |year=2006 |title=The Osama Bin Laden I Know: An Oral History of Al Qaeda's Leader |url=https://books.google.com/?id=_XkM92XMlQ4C&printsec=frontcover&dq=Osama+bin+Laden#v=onepage&q&f=false |publisher=Simon & Schuster |isbn=0-7432-9592-7 |ref=harv}}
* {{Cite journal |last=Bergen |first=Peter |year=2008 |title=Al Qaeda, the Organization: A Five-Year Forecast |journal=[[Annals of the American Academy of Political and Social Science]] |volume=618 |pages=14–30 |jstor=40375772 |ref=harv|doi=10.1177/0002716208317599 }}
* {{cite book |ref=harv |last=Gutman |first=Roy |title=How We Missed the Story: Osama Bin Laden, the Taliban, and the Hijacking of Afghanistan |url=https://books.google.com/books?id=A9eqvc-Ru3cC&pg=PP1 |year=2008 |publisher=US Institute of Peace Press |isbn=978-1-60127-024-5}}
* {{Cite book |last=Wright |first=Lawrence |year=2006 |title=The Looming Tower: Al-Qaeda And The Road To 9/11 |url=https://books.google.com/?id=RNkj-mO-Nt8C&printsec=frontcover&dq=The+Looming+Tower:+Al-Qaeda+And+The+Road+To+9/11#v=onepage&q&f=false |publisher=New York: Knopf |isbn=1-4000-3084-6 |ref=harv}}
{{Refend}}
== 外部リンク ==
* [http://democracynow.jp/submov/20080915-1/ スティーブ・コルの新著『ビンラディン 或るアラブの一族と米国の世紀』] 動画 日本語字幕付 (デモクラシーナウ!ジャパン 2008.09.15)
{{Normdaten}}
{{Portal bar|アジア|イスラーム|宗教|軍事|人物伝}}
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[[Category:ウサーマ・ビン・ラーディン|*]]
[[Category:サウジアラビアのテロリスト]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3 |
3,856 | ジョルジュ・シムノン | ジョルジュ・シムノン(Georges Simenon, 1903年2月13日 - 1989年9月4日)は、ベルギー出身のフランス語で書く小説家、推理作家。
息子のマルク・シムノン(フランス語版)(1939 - 1999)は映画監督で、女優ミレーヌ・ドモンジョの夫であった。
103編ある、ジュール・メグレ警視(Jules Maigret, 後に警視長)が登場する一連の推理小説で有名。
世界中で最も読まれたフランスの作家は、ヴィクトル・ユゴー、ジュール・ヴェルヌについでシムノンという説があるくらいシムノン文学は世界各国で好評を博した(シムノンはベルギー生まれだが、ほとんどのフランス人は彼のことを同国人と考えている)。その売上のほとんどはメグレものだが、シムノン自身はメグレを主流な仕事とは考えておらず、あくまで自分を純文学の作家とみなしており、そのメグレ以外の代表作の一つ、"La neige était sale"(『雪は汚れていた』)はアンドレ・ジッド、フランソワ・モーリアックから絶賛された。
ジッドは"Les inconnus dans La maison"(『家の中の見知らぬ者たち』)についても「驚愕した。長い間、私にはこれほど激しい興奮をよびさまされた本がなかった。」 と称賛、"La Veuve Couderc"(『片道切符』)については、たまたま同年に書かれ出版されたカミュの『異邦人』と比較して「それよりも優れている。芸術の絶頂まで届いた作品だ。」と賛辞を惜しまず「現代フランスの最も偉大な作家。」 とまで評価した。モーリアックも"Les Anneaux De Bicetre"(『ビセートルの環』)について「シムノンが喝破している真実は、今までいかなる小説家も、これほど赤裸々に、正視に耐えないほど、あからさまに暴き出したことのない真実である。」 と驚嘆し、メグレものから影響を受けた江戸川乱歩も"L'homme de Londres"(『倫敦から来た男』)を「ドストエフスキーの心理的手法を巧みに我が物としている。純粋な犯罪小説として比類なき名作である。」 と評価している。その他ヘンリー・ミラー、アナイス・ニンなどシムノン文学に賛辞を送った作家は多い。
性豪としても知られ、十三歳半の時以来、一万人の女性と性交渉をもったという話で、そのうちの八千人は娼婦で、あとの二千人が素人の女性だったという。
ジョルジュ・シムノンは、ベルギー、リエージュのレオパール街26番地(現在は24番地)で生まれた。父はデジレ・シムノン、母はアンリエット・ブリュール。デジレ・シムノンは保険会社の会計部門で働いており、1902年4月にアンリエットと結婚した。ジョルジュ・シムノンが生まれたのは1903年2月13日だったが、迷信を気にして12日生まれとして登録している。彼の誕生にまつわるこの話は、小説「血統書(Pedigree)」の冒頭で詳しく述べられている。
シムノン家は、その先祖をリンバーグ地域に遡ることができた。彼の母方の実家はオランダ領リンバーグの出であった。母方の先祖の中で悪名高い人物の一人にガブリエル・ブリュールがいる。1720年代から首をくくられる1743年まで、リンバーグを悩ませた犯罪者であった。後にシムノンは、ブリュールを彼自身のたくさんあるペンネームの中の一つとして使用することになった。
1905年4月、ジョルジュ・シムノンが生まれてから2年後、一家はパスツール街3番地に引っ越した(現在はジョルジュ・シムノン街25番地)。リエージュのウトゥルムーズ街区の中にあった。弟のクリスチャンが1906年9月に生まれた。母親はこの弟を一番可愛がることになり、シムノンは屈辱を味わうことになった。その後、1911年2月に、一家はロワ街53番地に引っ越した。ここもウトゥルムーズ街区の中であった。こちらの家は大きかったので、下宿人を置くことができた。下宿人は見習い工や様々な国から来た学生達であったが、こうした人達が若いシムノンにより広い世界への入口となる重要なきっかけを与えたのである。この時の経験が彼の小説を特徴付けるのだが、特に、「血統書(Pedigree)」と「下宿人(Le Locataire)」にその影響が現れている。
3歳の時にシムノンはサン・ジュリエン保育園で読み方を習った。それから、1908年から1914年にかけて、サン・タンドレ学院に通う。1914年9月に、第一次世界大戦が始まってまもなく、シムノンはサン・ルイ中等学校(イエズス会の高校)に入学する。
1917年2月、シムノン一家はアメルカール街区(※ウトゥルムーズ街区のすぐ隣)の、以前郵便局だった建物に引っ越す。1919年6月、さらにもう一度転居するのだが、この時はウトゥルムーズ街区のアンセニュモン街に引っ越している。
シムノンの父親の心臓の容態を言い訳にして、シムノンは1918年6月に学生生活を終える決心をした。サン・ルイ中等学校の年度末の試験すら受けようとはしなかった。その後、シムノンは奇妙な職業を転々としながら働くことになった。
シムノン家には二つの一族がいた。ワルーンズ・マメロンズ(シムノン家)とフレミッシュ・ピーターズ(ブリュール家)である。マメロン家は、純粋なワルーン族で、リエージュのアウトレムーズに根を下ろした労働者階級の一家であった。マメロン家は移動するものすべてに対して疑念を抱く。マメロン家は安定、近隣への統合、職人や熟練工からなる中産階級への統合を象徴していた。マメロン家はシムノンの作品の中で、重要な役割を果たしたわけではなかった。ピーター家はマメロン家とは全く違っていて、家族としてのまとまりを欠き、自己中心的な動機や嫉妬からお互いに衝突していた。ピーター家、すなわち落ち着きがなく、苦悩に満ちており、社会に適応できないシムノンの母親の一族の人々は、飲酒や流浪の生活、権力といったものに逃避したいと願っていた。こうした彼らの生き様が、シムノンのごつごつした小説に登場する主人公達の原型となった。
1919年1月、15歳のシムノンは、リエージュ新聞に職を見つける。ジョセフ・デマルトーが編集していた新聞であった。シムノンが担当していたのは取るに足らない三面記事だけだったが、それがためにかえって街のいかがわしい面を探求することが可能になったのだった。政治、酒場、値段の安いホテルといったものに加え、犯罪、警察の調査、そして警察の技術について犯罪学者であるエドモンド・ロカールが話してくれる講義、こうしたものが彼の興味の対象となった。さらにシムノンは、この新聞社での経験から、素早く編集する技術を学んだのである。実際、シムノンは、ペンネームで150本以上の記事を書いている。
シムノンの処女作である「『アルシュ橋で』(Au Pont des Arches)」は1919年6月に書かれたもので、1921年に「Georges Sim」のペンネームで出版された。
この期間に、シムノンの夜遊び、すなわち、売春婦、飲んだくれること、どんちゃん騒ぎ、こうしたことは増えていった。シムノンと交際のあった人達の中には、無政府主義者、自由奔放な生活を送る芸術家達、さらには将来殺人を犯すことになる人物二人、といった人達がいた。この二人の殺人者は、「我が友人達の三つの犯罪(Les Trois crimes de mes amis.)」の中に登場する。またシムノンは、「ニシン樽(La Caque)」として知られる芸術家集団とも交流があった。彼自身がこの集団のメンバーに実際になったわけではなかったが、この集団を通じて将来妻となるレジーヌ・ランションと出会うのである。
1978年にシムノンが語った所によれば、1919年にジョルジェット・ルブランがベルギーで、『ベルギーの詩人たち』という演奏兼講演ツアーを行った際、リエージュでの催しにシムノンも観客に加わった。メーテルリンクの歌曲演奏に感激した彼は、パリで文学の道に進もうと、彼女と同じ列車に乗ろうとしたが、友人によって家に連れ戻された。まだその時には彼女がモーリス・ルブランの妹とは知らなかったという。
デジール・シムノンは1922年に亡くなる。その結果、ジョルジュ・シムノンはレジーヌ・ランション(以後、愛称だった「ティギー」を用いることとする)とともにパリに引っ越すことになった。最初はまず第17区に居を構えた。バティニョール通りからそれほど離れていない場所である。彼は街に馴染み、居酒屋、安宿、バー、レストランなどに精通することになった。さらに重要なことには、シムノンが普通の労働者階級のパリ市民達と知り合ったのである。様々なペンネームを用いて作品を著すことで、シムノンの創造性はいよいよ実を結び始める。
シムノンとティギーは、1923年3月、結婚するためごく短い期間リエージュに戻った。シムノンは、育ちはカソリックだったにもかかわらず、信仰を保ってはいなかった。ティギーの家は、完全に無宗教だった。しかし、シムノンの母親は教会での結婚式にこだわり、ティギーに、カソリックの教理問答集を勉強して、名目上だけでも信者になるよう強制した。シムノンが確固とした信仰を持っていたわけではなかったのに、シムノンの子供達は全員、カソリック教徒として洗礼を受けさせられることになった。とはいえティギーと結婚しても、シムノンが他の多くの女達とのつながりを断ち切ることにはならなかった。その中でも一番有名だと思われた女性は、ジョセフィン・ベイカーだった。
シムノンは取材の任務を受けて、1928年に長期間船旅に出ることになる。この船旅で、シムノンは船の面白さを覚えた。1929年、彼は自分の船を建造することを決心した。オストロゴス号である。シムノン、ティギー、料理人でもあり家政婦でもあるアンリエット・リベルジュ、そして彼らの飼い犬であるオラフがオストロゴス号の住民となった。そしてフランスの運河を巡る旅をした。アンリエット・リベルジュは、「ブール」(文字通り、玉、という意味で、彼女の少しずんぐりした見た目にちなんだ呼び名)、として知られる女性だが、シムノンとはこの後数十年の間恋愛関係にあった。しかし、シムノン夫妻の親しい友人であり、シムノン家の一部となっていたのである。
1930年、初めてジョルジュ・シムノンという本名名義によって、シムノンが創り出した最も有名な登場人物、メグレ警視(Commissaire Maigret)の物語『怪盗レトン』が週刊読みもの誌「リックとラック(Ric et Rac)」に登場する(書籍刊行は1931年)。ただしメグレが初めて登場する作品はペンネーム時代に書かれたジョルジュ・シム名義の『夜の列車(Train de nuit)』(書籍刊行は1930年)であり、これはシムノンがオランダを航行している時、特にいうならデルフゼイルの近辺を航海中に書かれたものだったと考えられている。メグレが初めて書かれた場所であることを記念してデルフゼイルにはメグレの像が建てられている。
1932年には、シムノンは頻繁に旅に出た。アフリカ、東ヨーロッパ、トルコ、ソビエト連邦などから記事を送っていた。世界中を旅する生活は1934年になっても終わらず、1935年まで続いた。
1932年から1936年にかけて、シムノン、ティギー、ブールは、フランス、シャラント・マリティム県マルシリにある、ラ・リシャルディエールという16世紀の大邸宅に住んでいた。この邸宅は、シムノンの小説「ドナデュの遺言(Le Testament Donadieu)」の中で触れられている。1938年の初め、シムノンはラ・ロシェルにある別荘アグネを借り、8月には(シャラント・マリティム県の中の)ニュル・シュル・メールの農家の建物を購入している。そして、ティギーとの間の一人息子、マークがここで1939年に誕生した。
シムノンは、第二次大戦中はヴァンデ県に住んでいた。戦争中の彼の行動はかなりの議論を呼ぶこととなった。学者の中には、シムノンがこれまでずっとドイツと通じていたのだという見方をするものが出てきており、その一方でこの見方を否定するものがいた。シムノンのことを、政治には関心の無い男で、本質的に日和見主義者だが、決してドイツの協力者などではない、と解釈していたのである。しかし、シムノンが現地の農場主達からドイツの協力者だと告発され、その一方で、ゲシュタポからは彼がユダヤ人ではないかと疑われて-これは「シムノン(Simenon)」という名前と「シモン(Simon)」という名前とを混同してのことだったのだが-状況はさらに混乱したものとなった。ともあれ、戦争末期にはシムノンは当局の監視下に置かれていた。というのも、ドイツの占領中に、彼は自分の著作の映画化の権利をドイツの映画スタジオと交渉して取り決めていたからである。1950年には、5年間、新作の出版を一切禁止される処分を受ける。しかし、この処分は公に告知されていなかったため、ほとんど実効のないものであった。
戦争中、シムノンは重要な作品をいくつも生み出した。「万聖節の旅人(Le Voyageur de la Toussaint)」「マエの輪(Le Cercle des Mahé)」などである。彼は重要な文通も行っている。特にアンドレ・ジイドとの文通が有名である。
1940年代初めには、シムノンは健康上の不安を抱えていたが、ある時、その地の医者が彼の心臓が重篤な状態にある(シムノンの父親のことを思い出させるが)と誤診したのである。余命数ヶ月という診断であった。また、ティギーがブールのことでシムノンにとうとう不意打ちをくらわせたのも同じ頃であった。シムノンとティギーは1949年までは夫婦でいたのだが、今では結婚といっても形だけのものになっていた。ティギーが最初に抗議したのにもかかわらず、ブールは二人とともにとどまっていたのだった。
戦争中の不確かな振る舞いにもかかわらず、ラ・ロシェールの街は結局はシムノンに栄誉を与えることとなった。1989年に、彼にちなんで埠頭の名前をつけたのである。シムノンは体調が悪く、献呈の式典には出席できなかった。しかし、2003年には、彼の息子のジョニーが父親を表彰する別の行事に参加している。
シムノンはフランスでの尋問を免れるため、1945年にティギーとマールと一緒に北米に逃れた。カナダのケベック州モントリオールの北にあるドメイン・レステレルで最新型の家を借り、その中の丸太小屋の一つ(LC5と呼ばれ現存する)で小説を三篇(そのうちの一つは「マンハッタンの三つの寝室」である)書いている。ブールはヴィザの問題で最初から一家に合流することはできなかった。
アメリカで過ごす間、シムノンは定期的にニューヨークを訪れていた。シムノンは一家で長距離の自動車旅行に出たりもしている。メーン州からフロリダ州に行ってみたり、西はカリフォルニアまで訪れている。シムノンはフロリダ、ブラデントンのアンナ・マリア島に短い期間住んだ後、アリゾナ州のノガレスに家を借りている。ここに至ってようやくブールも一家に合流することができた。シムノンの小説「瓶の底(The Bottom of the Bottle)」は、アリゾナ州ノガレスでの生活から強く影響を受けたものになっている。
砂漠に心惹かれるものがありつつも、シムノンはアリゾナを後にすることを決める。続いてカリフォルニアに留まった後、コネティカット州レイクヴィルの大きな家、シャドウ・ロック・ファームに落ち着くことにした。この街が1952年の小説「ベルの死(La Mort de Belle)」の背景となっている。
米国にいる間、シムノンと息子のマールは、比較的容易に英語での会話が話せるようになった。これはブールも同じだった。しかしティギーは英語に関しては大変難儀な思いをして、ヨーロッパに帰ることを切望するようになった。
その一方で、シムノンはデニーズ・ウィメ、17歳年下の女性と出会っている。デニーズはモントリオール出身で、1945年にニュー・ヨークでシムノンに出会った(彼女は秘書として雇われることになっていた)。そして、二人はすぐに波乱含みの、かつ、不幸な恋愛を始めてしまったのである。おびただしい数の法的問題を解決して、シムノンとティギーは1949年に離婚した。その後、シムノンとデニーズ・ウィメはレノで結婚する。1950年にネヴァダに移り、結局三人の子供が生まれた。ジョニー(1949年生まれ)、マリー・ジョー(1953年生まれ)、ピエール(1959年生まれ)である。離婚の際の取り決めの通り、ティギーはシムノンと息子マールのすぐ近くに住んだ。こうした状況は彼ら全員が1955年にヨーロッパに戻るまで続いた。
1952年、シムノンはベルギーに趣き、ベルギー王立アカデミーのメンバーに選ばれる。シムノンは、1922年以降は一度もベルギーに住んだことはなかったのだが、生涯ベルギー国民であり続けた。
シムノンの一家は、1955年にヨーロッパに戻った。最初はフランスに住み(主にコートダジュール沿岸)、その後スイスに落ち着いた。エシャンダンの借家で暮らした後、ローザンヌの北に位置するエパランジュに物件を購入した。そしてその場所に巨大な家を建てさせたのである。
シムノンとデニーズは1964年には離婚することが決定的になった。テレサは1961年からシムノン家で家政婦として働いてきたのだが、この時までにシムノンと恋愛関係にあって、彼の残りの生涯を一緒に暮らすことになる。
長きにわたって心配の種となってきたマリー・ジョーが1978年、25歳の時にパリで自殺した。この出来事はシムノンの以後の人生を暗いものにした。
監督兼プロデューサーであったジョン・ゴールドシュミットが製作した記録映画「メグレの鏡」は、ローザンヌの大邸宅で撮影されたものであり、また、犯罪心理学者との間の告白調の会話に基づいた人物紹介の形式を取っている。この映画はATVのために制作され、1981年にイギリスのITVネットワークで放送された。
1984年、シムノンは脳腫瘍の外科手術を受け、順調に回復した。しかしその後数年にわたり、彼の健康は悪化していった。シムノンが、テレビで放送された最後のインタビューに登場したのは1988年12月のことであった。
ジョルジュ・シムノンは、ローザンヌで、1989年の9月3日から4日にかけての夜中、眠ったまま亡くなった。
シムノンは偉大な遺産を残して亡くなった。そこで、彼を記念して、記念銀貨が作られることになった。シムノン生誕100年を記念して、ベルギーで2003年に銀貨が製作された。硬貨の表には彼の肖像画が描かれている。
戦前に著作が日本語に訳され高い評価を受けた。雑誌『新青年』の企画で、日本の探偵小説家の海外探偵小説のベスト10を発表するものがあり、代表作の"La Tête d'un homme"(『男の首』)が全体の9位に入った。個人では大下宇陀児、木々高太郎、角田喜久雄、渡辺啓助らがシムノンの作品を上位に挙げた。特に角田には多大な影響を与えたらしく、『高木家の惨劇』など角田が戦後に執筆した9つの小説に登場する加賀美敬介警部の人物像はメグレをモデルとしている。
日本に紹介された当初はSimenonという名字の正確な発音が不明であり、訳者によってはシメノンと表記していたが、1956年に木々高太郎がシムノン本人に会ってシムノンが正しい発音であると確認。
執筆年を記す。
メグレ警視の元部下で探偵所長のトランスと、相棒の探偵エミールの物語。全14編の連作中編として発表され、その後単行本としてまとめられた。 邦訳は四分冊。 | [
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"text": "1930年、初めてジョルジュ・シムノンという本名名義によって、シムノンが創り出した最も有名な登場人物、メグレ警視(Commissaire Maigret)の物語『怪盗レトン』が週刊読みもの誌「リックとラック(Ric et Rac)」に登場する(書籍刊行は1931年)。ただしメグレが初めて登場する作品はペンネーム時代に書かれたジョルジュ・シム名義の『夜の列車(Train de nuit)』(書籍刊行は1930年)であり、これはシムノンがオランダを航行している時、特にいうならデルフゼイルの近辺を航海中に書かれたものだったと考えられている。メグレが初めて書かれた場所であることを記念してデルフゼイルにはメグレの像が建てられている。",
"title": "経歴"
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"text": "1932年には、シムノンは頻繁に旅に出た。アフリカ、東ヨーロッパ、トルコ、ソビエト連邦などから記事を送っていた。世界中を旅する生活は1934年になっても終わらず、1935年まで続いた。",
"title": "経歴"
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"text": "1932年から1936年にかけて、シムノン、ティギー、ブールは、フランス、シャラント・マリティム県マルシリにある、ラ・リシャルディエールという16世紀の大邸宅に住んでいた。この邸宅は、シムノンの小説「ドナデュの遺言(Le Testament Donadieu)」の中で触れられている。1938年の初め、シムノンはラ・ロシェルにある別荘アグネを借り、8月には(シャラント・マリティム県の中の)ニュル・シュル・メールの農家の建物を購入している。そして、ティギーとの間の一人息子、マークがここで1939年に誕生した。",
"title": "経歴"
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"text": "シムノンは、第二次大戦中はヴァンデ県に住んでいた。戦争中の彼の行動はかなりの議論を呼ぶこととなった。学者の中には、シムノンがこれまでずっとドイツと通じていたのだという見方をするものが出てきており、その一方でこの見方を否定するものがいた。シムノンのことを、政治には関心の無い男で、本質的に日和見主義者だが、決してドイツの協力者などではない、と解釈していたのである。しかし、シムノンが現地の農場主達からドイツの協力者だと告発され、その一方で、ゲシュタポからは彼がユダヤ人ではないかと疑われて-これは「シムノン(Simenon)」という名前と「シモン(Simon)」という名前とを混同してのことだったのだが-状況はさらに混乱したものとなった。ともあれ、戦争末期にはシムノンは当局の監視下に置かれていた。というのも、ドイツの占領中に、彼は自分の著作の映画化の権利をドイツの映画スタジオと交渉して取り決めていたからである。1950年には、5年間、新作の出版を一切禁止される処分を受ける。しかし、この処分は公に告知されていなかったため、ほとんど実効のないものであった。",
"title": "経歴"
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"text": "戦争中、シムノンは重要な作品をいくつも生み出した。「万聖節の旅人(Le Voyageur de la Toussaint)」「マエの輪(Le Cercle des Mahé)」などである。彼は重要な文通も行っている。特にアンドレ・ジイドとの文通が有名である。",
"title": "経歴"
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"text": "1940年代初めには、シムノンは健康上の不安を抱えていたが、ある時、その地の医者が彼の心臓が重篤な状態にある(シムノンの父親のことを思い出させるが)と誤診したのである。余命数ヶ月という診断であった。また、ティギーがブールのことでシムノンにとうとう不意打ちをくらわせたのも同じ頃であった。シムノンとティギーは1949年までは夫婦でいたのだが、今では結婚といっても形だけのものになっていた。ティギーが最初に抗議したのにもかかわらず、ブールは二人とともにとどまっていたのだった。",
"title": "経歴"
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"text": "戦争中の不確かな振る舞いにもかかわらず、ラ・ロシェールの街は結局はシムノンに栄誉を与えることとなった。1989年に、彼にちなんで埠頭の名前をつけたのである。シムノンは体調が悪く、献呈の式典には出席できなかった。しかし、2003年には、彼の息子のジョニーが父親を表彰する別の行事に参加している。",
"title": "経歴"
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"text": "シムノンはフランスでの尋問を免れるため、1945年にティギーとマールと一緒に北米に逃れた。カナダのケベック州モントリオールの北にあるドメイン・レステレルで最新型の家を借り、その中の丸太小屋の一つ(LC5と呼ばれ現存する)で小説を三篇(そのうちの一つは「マンハッタンの三つの寝室」である)書いている。ブールはヴィザの問題で最初から一家に合流することはできなかった。",
"title": "経歴"
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"text": "アメリカで過ごす間、シムノンは定期的にニューヨークを訪れていた。シムノンは一家で長距離の自動車旅行に出たりもしている。メーン州からフロリダ州に行ってみたり、西はカリフォルニアまで訪れている。シムノンはフロリダ、ブラデントンのアンナ・マリア島に短い期間住んだ後、アリゾナ州のノガレスに家を借りている。ここに至ってようやくブールも一家に合流することができた。シムノンの小説「瓶の底(The Bottom of the Bottle)」は、アリゾナ州ノガレスでの生活から強く影響を受けたものになっている。",
"title": "経歴"
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"text": "砂漠に心惹かれるものがありつつも、シムノンはアリゾナを後にすることを決める。続いてカリフォルニアに留まった後、コネティカット州レイクヴィルの大きな家、シャドウ・ロック・ファームに落ち着くことにした。この街が1952年の小説「ベルの死(La Mort de Belle)」の背景となっている。",
"title": "経歴"
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"text": "米国にいる間、シムノンと息子のマールは、比較的容易に英語での会話が話せるようになった。これはブールも同じだった。しかしティギーは英語に関しては大変難儀な思いをして、ヨーロッパに帰ることを切望するようになった。",
"title": "経歴"
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"text": "その一方で、シムノンはデニーズ・ウィメ、17歳年下の女性と出会っている。デニーズはモントリオール出身で、1945年にニュー・ヨークでシムノンに出会った(彼女は秘書として雇われることになっていた)。そして、二人はすぐに波乱含みの、かつ、不幸な恋愛を始めてしまったのである。おびただしい数の法的問題を解決して、シムノンとティギーは1949年に離婚した。その後、シムノンとデニーズ・ウィメはレノで結婚する。1950年にネヴァダに移り、結局三人の子供が生まれた。ジョニー(1949年生まれ)、マリー・ジョー(1953年生まれ)、ピエール(1959年生まれ)である。離婚の際の取り決めの通り、ティギーはシムノンと息子マールのすぐ近くに住んだ。こうした状況は彼ら全員が1955年にヨーロッパに戻るまで続いた。",
"title": "経歴"
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"text": "1952年、シムノンはベルギーに趣き、ベルギー王立アカデミーのメンバーに選ばれる。シムノンは、1922年以降は一度もベルギーに住んだことはなかったのだが、生涯ベルギー国民であり続けた。",
"title": "経歴"
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"text": "シムノンの一家は、1955年にヨーロッパに戻った。最初はフランスに住み(主にコートダジュール沿岸)、その後スイスに落ち着いた。エシャンダンの借家で暮らした後、ローザンヌの北に位置するエパランジュに物件を購入した。そしてその場所に巨大な家を建てさせたのである。",
"title": "経歴"
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"text": "シムノンとデニーズは1964年には離婚することが決定的になった。テレサは1961年からシムノン家で家政婦として働いてきたのだが、この時までにシムノンと恋愛関係にあって、彼の残りの生涯を一緒に暮らすことになる。",
"title": "経歴"
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"text": "長きにわたって心配の種となってきたマリー・ジョーが1978年、25歳の時にパリで自殺した。この出来事はシムノンの以後の人生を暗いものにした。",
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"text": "監督兼プロデューサーであったジョン・ゴールドシュミットが製作した記録映画「メグレの鏡」は、ローザンヌの大邸宅で撮影されたものであり、また、犯罪心理学者との間の告白調の会話に基づいた人物紹介の形式を取っている。この映画はATVのために制作され、1981年にイギリスのITVネットワークで放送された。",
"title": "経歴"
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"text": "1984年、シムノンは脳腫瘍の外科手術を受け、順調に回復した。しかしその後数年にわたり、彼の健康は悪化していった。シムノンが、テレビで放送された最後のインタビューに登場したのは1988年12月のことであった。",
"title": "経歴"
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"text": "ジョルジュ・シムノンは、ローザンヌで、1989年の9月3日から4日にかけての夜中、眠ったまま亡くなった。",
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"text": "シムノンは偉大な遺産を残して亡くなった。そこで、彼を記念して、記念銀貨が作られることになった。シムノン生誕100年を記念して、ベルギーで2003年に銀貨が製作された。硬貨の表には彼の肖像画が描かれている。",
"title": "経歴"
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"text": "戦前に著作が日本語に訳され高い評価を受けた。雑誌『新青年』の企画で、日本の探偵小説家の海外探偵小説のベスト10を発表するものがあり、代表作の\"La Tête d'un homme\"(『男の首』)が全体の9位に入った。個人では大下宇陀児、木々高太郎、角田喜久雄、渡辺啓助らがシムノンの作品を上位に挙げた。特に角田には多大な影響を与えたらしく、『高木家の惨劇』など角田が戦後に執筆した9つの小説に登場する加賀美敬介警部の人物像はメグレをモデルとしている。",
"title": "日本におけるシムノン紹介"
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"text": "日本に紹介された当初はSimenonという名字の正確な発音が不明であり、訳者によってはシメノンと表記していたが、1956年に木々高太郎がシムノン本人に会ってシムノンが正しい発音であると確認。",
"title": "日本におけるシムノン紹介"
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"text": "執筆年を記す。",
"title": "メグレシリーズ"
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"text": "メグレ警視の元部下で探偵所長のトランスと、相棒の探偵エミールの物語。全14編の連作中編として発表され、その後単行本としてまとめられた。 邦訳は四分冊。",
"title": "名探偵エミールの冒険シリーズ"
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] | ジョルジュ・シムノンは、ベルギー出身のフランス語で書く小説家、推理作家。 息子のマルク・シムノンは映画監督で、女優ミレーヌ・ドモンジョの夫であった。 | {{出典の明記|date=2019年8月}}
[[ファイル:Georges_Simenon_(1963)_by_Erling_Mandelmann.jpg|thumb|ジョルジュ・シムノン(1963年)]]
'''ジョルジュ・シムノン'''('''Georges Simenon''', [[1903年]][[2月13日]] - [[1989年]][[9月4日]])は、[[ベルギー]]出身の[[フランス語]]で書く[[小説家]]、[[推理作家]]。
息子の{{仮リンク|マルク・シムノン|fr|Marc Simenon}}(1939 - 1999)は映画監督で、女優[[ミレーヌ・ドモンジョ]]の夫であった。
==人物==
103編ある、[[ジュール・メグレ]]警視(Jules Maigret, 後に警視長)が登場する一連の[[推理小説]]で有名。
世界中で最も読まれたフランスの作家は、[[ヴィクトル・ユゴー]]、[[ジュール・ヴェルヌ]]についでシムノンという説があるくらいシムノン文学は世界各国で好評を博した(シムノンはベルギー生まれだが、ほとんどのフランス人は彼のことを同国人と考えている)。その売上のほとんどはメグレものだが、シムノン自身はメグレを主流な仕事とは考えておらず、あくまで自分を純文学の作家とみなしており、そのメグレ以外の代表作の一つ、''"La neige était sale"''(『雪は汚れていた』)は[[アンドレ・ジッド]]、[[フランソワ・モーリアック]]から絶賛された。
ジッドは"Les inconnus dans La maison"(『家の中の見知らぬ者たち』)についても「驚愕した。長い間、私にはこれほど激しい興奮をよびさまされた本がなかった。」<ref>『家の中の見知らぬ者たち』(読売新聞社)解説</ref> と称賛、"La Veuve Couderc"(『片道切符』)については、たまたま同年に書かれ出版された[[アルベール・カミュ|カミュ]]の『[[異邦人 (カミュ)|異邦人]]』と比較して「それよりも優れている。芸術の絶頂まで届いた作品だ。」と賛辞を惜しまず「現代フランスの最も偉大な作家。」<ref>『片道切符』(集英社文庫)解説</ref> とまで評価した。モーリアックも"Les Anneaux De Bicetre"(『ビセートルの環』)について「シムノンが喝破している真実は、今までいかなる小説家も、これほど赤裸々に、正視に耐えないほど、あからさまに暴き出したことのない真実である。」<ref>『ベティー』(読売新聞社)解説</ref> と驚嘆し、メグレものから影響を受けた[[江戸川乱歩]]も"L'homme de Londres"(『倫敦から来た男』)を「[[ドストエフスキー]]の心理的手法を巧みに我が物としている。純粋な犯罪小説として比類なき名作である。」<ref>『倫敦から来た男』(河出書房新社)解説</ref> と評価している。その他[[ヘンリー・ミラー]]、[[アナイス・ニン]]などシムノン文学に賛辞を送った作家は多い。
性豪としても知られ、十三歳半の時以来、一万人の女性と性交渉をもったという話で、そのうちの八千人は娼婦で、あとの二千人が素人の女性だったという。
== 経歴 ==
=== 幼少期と教育 ===
ジョルジュ・シムノンは、[[ベルギー]]、[[リエージュ]]のレオパール街26番地(現在は24番地)で生まれた。父はデジレ・シムノン、母はアンリエット・ブリュール。デジレ・シムノンは保険会社の会計部門で働いており、[[1902年]][[4月]]にアンリエットと結婚した。ジョルジュ・シムノンが生まれたのは[[1903年]][[2月13日]]だったが、迷信を気にして12日生まれとして登録している。彼の誕生にまつわるこの話は、小説「[[血統書]]([[:en:Pedigree|Pedigree]])」の冒頭で詳しく述べられている。
シムノン家は、その先祖をリンバーグ地域に遡ることができた。彼の母方の実家はオランダ領リンバーグの出であった。母方の先祖の中で悪名高い人物の一人にガブリエル・ブリュールがいる。1720年代から首をくくられる[[1743年]]まで、リンバーグを悩ませた犯罪者であった。後にシムノンは、ブリュールを彼自身のたくさんある[[ペンネーム]]の中の一つとして使用することになった。
[[1905年]]4月、ジョルジュ・シムノンが生まれてから2年後、一家はパスツール街3番地に引っ越した(現在はジョルジュ・シムノン街25番地)。リエージュの[[ウトゥルムーズ]]街区の中にあった。弟のクリスチャンが[[1906年]][[9月]]に生まれた。母親はこの弟を一番可愛がることになり、シムノンは屈辱を味わうことになった。その後、[[1911年]]2月に、一家はロワ街53番地に引っ越した。ここもウトゥルムーズ街区の中であった。こちらの家は大きかったので、下宿人を置くことができた。下宿人は見習い工や様々な国から来た学生達であったが、こうした人達が若いシムノンにより広い世界への入口となる重要なきっかけを与えたのである。この時の経験が彼の小説を特徴付けるのだが、特に、「血統書(Pedigree)」と「下宿人(Le Locataire)」にその影響が現れている。
3歳の時にシムノンはサン・ジュリエン保育園で読み方を習った。それから、[[1908年]]から[[1914年]]にかけて、サン・タンドレ学院に通う。[[1914年]]9月に、[[第一次世界大戦]]が始まってまもなく、シムノンはサン・ルイ中等学校([[イエズス会]]の高校)に入学する。
[[1917年]]2月、シムノン一家は[[アメルカール]]街区(※ウトゥルムーズ街区のすぐ隣)の、以前郵便局だった建物に引っ越す。[[1919年]][[6月]]、さらにもう一度転居するのだが、この時はウトゥルムーズ街区のアンセニュモン街に引っ越している。
シムノンの父親の心臓の容態を言い訳にして、シムノンは[[1918年]]6月に学生生活を終える決心をした。サン・ルイ中等学校の年度末の試験すら受けようとはしなかった。その後、シムノンは奇妙な職業を転々としながら働くことになった。
=== マメロンとピーター ===
シムノン家には二つの一族がいた。ワルーンズ・マメロンズ(シムノン家)とフレミッシュ・ピーターズ(ブリュール家)である。マメロン家は、純粋なワルーン族で、リエージュのアウトレムーズに根を下ろした労働者階級の一家であった。マメロン家は移動するものすべてに対して疑念を抱く。マメロン家は安定、近隣への統合、職人や熟練工からなる中産階級への統合を象徴していた。マメロン家はシムノンの作品の中で、重要な役割を果たしたわけではなかった。ピーター家はマメロン家とは全く違っていて、家族としてのまとまりを欠き、自己中心的な動機や嫉妬からお互いに衝突していた。ピーター家、すなわち落ち着きがなく、苦悩に満ちており、社会に適応できないシムノンの母親の一族の人々は、飲酒や流浪の生活、権力といったものに逃避したいと願っていた。こうした彼らの生き様が、シムノンのごつごつした小説に登場する主人公達の原型となった。
=== 小説家の背景 ===
[[1919年]]1月、15歳のシムノンは、リエージュ新聞に職を見つける。[[ジョセフ・デマルトー]]が編集していた新聞であった。シムノンが担当していたのは取るに足らない[[三面記事]]だけだったが、それがためにかえって街のいかがわしい面を探求することが可能になったのだった。政治、酒場、値段の安いホテルといったものに加え、犯罪、警察の調査、そして警察の技術について犯罪学者である[[エドモンド・ロカール]]が話してくれる講義、こうしたものが彼の興味の対象となった。さらにシムノンは、この新聞社での経験から、素早く編集する技術を学んだのである。実際、シムノンは、ペンネームで150本以上の記事を書いている。
シムノンの[[処女作]]である「『[[アルシュ橋で]]』([[Au Pont des Arches]])」は1919年6月に書かれたもので、[[1921年]]に「Georges Sim」のペンネームで出版された。
この期間に、シムノンの夜遊び、すなわち、売春婦、飲んだくれること、どんちゃん騒ぎ、こうしたことは増えていった。シムノンと交際のあった人達の中には、無政府主義者、自由奔放な生活を送る芸術家達、さらには将来殺人を犯すことになる人物二人、といった人達がいた。この二人の殺人者は、「我が友人達の三つの犯罪(Les Trois crimes de mes amis.)」の中に登場する。またシムノンは、「ニシン樽(La Caque)」として知られる芸術家集団とも交流があった。彼自身がこの集団のメンバーに実際になったわけではなかったが、この集団を通じて将来妻となるレジーヌ・ランションと出会うのである。
1978年にシムノンが語った所によれば、1919年に[[ジョルジェット・ルブラン]]がベルギーで、『ベルギーの詩人たち』という演奏兼講演ツアーを行った際、リエージュでの催しにシムノンも観客に加わった。[[メーテルリンク]]の歌曲演奏に感激した彼は、パリで文学の道に進もうと、彼女と同じ列車に乗ろうとしたが、友人によって家に連れ戻された。まだその時には彼女が[[モーリス・ルブラン]]の妹とは知らなかったという<ref>Georges Simenon, ''On dit que j'ai soixante-quinze ans, Destinées, (Mes dictées)'', Presses de la Cité, 1980-1981.</ref>。
=== フランスに移って 1922-1945 ===
デジール・シムノンは[[1922年]]に亡くなる。その結果、ジョルジュ・シムノンはレジーヌ・ランション(以後、愛称だった「ティギー」を用いることとする)とともにパリに引っ越すことになった。最初はまず第17区に居を構えた。バティニョール通りからそれほど離れていない場所である。彼は街に馴染み、居酒屋、安宿、バー、レストランなどに精通することになった。さらに重要なことには、シムノンが普通の労働者階級のパリ市民達と知り合ったのである。様々なペンネームを用いて作品を著すことで、シムノンの創造性はいよいよ実を結び始める。
シムノンとティギーは、[[1923年]][[3月]]、結婚するためごく短い期間リエージュに戻った。シムノンは、育ちはカソリックだったにもかかわらず、信仰を保ってはいなかった。ティギーの家は、完全に無宗教だった。しかし、シムノンの母親は教会での結婚式にこだわり、ティギーに、カソリックの教理問答集を勉強して、名目上だけでも信者になるよう強制した。シムノンが確固とした信仰を持っていたわけではなかったのに、シムノンの子供達は全員、カソリック教徒として洗礼を受けさせられることになった。とはいえティギーと結婚しても、シムノンが他の多くの女達とのつながりを断ち切ることにはならなかった。その中でも一番有名だと思われた女性は、[[ジョセフィン・ベイカー]]だった。
シムノンは取材の任務を受けて、[[1928年]]に長期間船旅に出ることになる。この船旅で、シムノンは船の面白さを覚えた。[[1929年]]、彼は自分の船を建造することを決心した。オストロゴス号である。シムノン、ティギー、料理人でもあり家政婦でもあるアンリエット・リベルジュ、そして彼らの飼い犬であるオラフがオストロゴス号の住民となった。そしてフランスの運河を巡る旅をした。アンリエット・リベルジュは、「ブール」(文字通り、玉、という意味で、彼女の少しずんぐりした見た目にちなんだ呼び名)、として知られる女性だが、シムノンとはこの後数十年の間恋愛関係にあった。しかし、シムノン夫妻の親しい友人であり、シムノン家の一部となっていたのである。
[[1930年]]、初めてジョルジュ・シムノンという本名名義によって、シムノンが創り出した最も有名な登場人物、[[メグレ警視]](Commissaire Maigret)の物語『怪盗レトン』が週刊読みもの誌「リックとラック(Ric et Rac)」に登場する(書籍刊行は1931年)。ただしメグレが初めて登場する作品はペンネーム時代に書かれたジョルジュ・シム名義の『夜の列車(Train de nuit)』(書籍刊行は1930年)であり、これはシムノンがオランダを航行している時、特にいうなら[[デルフゼイル]]の近辺を航海中に書かれたものだったと考えられている。メグレが初めて書かれた場所であることを記念してデルフゼイルにはメグレの像が建てられている。
[[1932年]]には、シムノンは頻繁に旅に出た。[[アフリカ]]、[[東ヨーロッパ]]、[[トルコ]]、[[ソビエト連邦]]などから記事を送っていた。世界中を旅する生活は[[1934年]]になっても終わらず、[[1935年]]まで続いた。
1932年から[[1936年]]にかけて、シムノン、ティギー、ブールは、フランス、[[シャラント・マリティム]]県[[マルシリ]]にある、ラ・リシャルディエールという16世紀の大邸宅に住んでいた。この邸宅は、シムノンの小説「ドナデュの遺言(Le Testament Donadieu)」の中で触れられている。[[1938年]]の初め、シムノンはラ・ロシェルにある別荘アグネを借り、[[8月]]には(シャラント・マリティム県の中の)[[ニュル・シュル・メール]]の農家の建物を購入している。そして、ティギーとの間の一人息子、マークがここで[[1939年]]に誕生した。
シムノンは、[[第二次世界大戦|第二次大戦]]中は[[ヴァンデ]]県に住んでいた。戦争中の彼の行動はかなりの議論を呼ぶこととなった。学者の中には、シムノンがこれまでずっとドイツと通じていたのだという見方をするものが出てきており、その一方でこの見方を否定するものがいた。シムノンのことを、政治には関心の無い男で、本質的に[[日和見主義者]]だが、決して[[ドイツ]]の協力者などではない、と解釈していたのである。しかし、シムノンが現地の農場主達からドイツの協力者だと告発され、その一方で、[[ゲシュタポ]]からは彼が[[ユダヤ人]]ではないかと疑われて-これは「シムノン(Simenon)」という名前と「シモン(Simon)」という名前とを混同してのことだったのだが-状況はさらに混乱したものとなった。ともあれ、戦争末期にはシムノンは当局の監視下に置かれていた。というのも、ドイツの占領中に、彼は自分の著作の映画化の権利をドイツの映画スタジオと交渉して取り決めていたからである。[[1950年]]には、5年間、新作の出版を一切禁止される処分を受ける。しかし、この処分は公に告知されていなかったため、ほとんど実効のないものであった。
戦争中、シムノンは重要な作品をいくつも生み出した。「万聖節の旅人(Le Voyageur de la Toussaint)」「マエの輪(Le Cercle des Mahé)」などである。彼は重要な文通も行っている。特に[[アンドレ・ジイド]]との文通が有名である。
1940年代初めには、シムノンは健康上の不安を抱えていたが、ある時、その地の医者が彼の心臓が重篤な状態にある(シムノンの父親のことを思い出させるが)と誤診したのである。余命数ヶ月という診断であった。また、ティギーがブールのことでシムノンにとうとう不意打ちをくらわせたのも同じ頃であった。シムノンとティギーは1949年までは夫婦でいたのだが、今では結婚といっても形だけのものになっていた。ティギーが最初に抗議したのにもかかわらず、ブールは二人とともにとどまっていたのだった。
戦争中の不確かな振る舞いにもかかわらず、ラ・ロシェールの街は結局はシムノンに栄誉を与えることとなった。[[1989年]]に、彼にちなんで[[埠頭]]の名前をつけたのである。シムノンは体調が悪く、献呈の式典には出席できなかった。しかし、[[2003年]]には、彼の息子のジョニーが父親を表彰する別の行事に参加している。
=== 米国とカナダで 1945-1955 ===
シムノンはフランスでの尋問を免れるため、[[1945年]]にティギーとマールと一緒に北米に逃れた。[[カナダ]]の[[ケベック州]][[モントリオール]]の北にあるドメイン・レステレルで最新型の家を借り、その中の丸太小屋の一つ(LC5と呼ばれ現存する)で小説を三篇(そのうちの一つは「マンハッタンの三つの寝室」である)書いている。ブールはヴィザの問題で最初から一家に合流することはできなかった。
アメリカで過ごす間、シムノンは定期的に[[ニューヨーク]]を訪れていた。シムノンは一家で長距離の自動車旅行に出たりもしている。[[メイン州|メーン州]]から[[フロリダ州]]に行ってみたり、西は[[カリフォルニア]]まで訪れている。シムノンは[[フロリダ]]、ブラデントンの[[アンナ・マリア島]]に短い期間住んだ後、[[アリゾナ州|アリゾナ]]州の[[ノガレス]]に家を借りている。ここに至ってようやくブールも一家に合流することができた。シムノンの小説「瓶の底(The Bottom of the Bottle)」は、アリゾナ州ノガレスでの生活から強く影響を受けたものになっている。
砂漠に心惹かれるものがありつつも、シムノンはアリゾナを後にすることを決める。続いてカリフォルニアに留まった後、[[コネティカット]]州[[レイクヴィル]]の大きな家、シャドウ・ロック・ファームに落ち着くことにした。この街が[[1952年]]の小説「ベルの死(La Mort de Belle)」の背景となっている。
米国にいる間、シムノンと息子のマールは、比較的容易に英語での会話が話せるようになった。これはブールも同じだった。しかしティギーは英語に関しては大変難儀な思いをして、[[ヨーロッパ]]に帰ることを切望するようになった。
その一方で、シムノンはデニーズ・ウィメ、17歳年下の女性と出会っている。デニーズはモントリオール出身で、[[1945年]]にニュー・ヨークでシムノンに出会った(彼女は秘書として雇われることになっていた)。そして、二人はすぐに波乱含みの、かつ、不幸な恋愛を始めてしまったのである。おびただしい数の法的問題を解決して、シムノンとティギーは1949年に離婚した。その後、シムノンとデニーズ・ウィメは[[レノ]]で結婚する。1950年に[[ネバダ州|ネヴァダ]]に移り、結局三人の子供が生まれた。ジョニー([[1949年]]生まれ)、マリー・ジョー([[1953年]]生まれ)、ピエール([[1959年]]生まれ)である。離婚の際の取り決めの通り、ティギーはシムノンと息子マールのすぐ近くに住んだ。こうした状況は彼ら全員が[[1955年]]にヨーロッパに戻るまで続いた。
[[1952年]]、シムノンはベルギーに趣き、[[ベルギー王立アカデミー]]のメンバーに選ばれる。シムノンは、[[1922年]]以降は一度もベルギーに住んだことはなかったのだが、生涯ベルギー国民であり続けた。
=== ヨーロッパに帰る 1955-1989 ===
シムノンの一家は、[[1955年]]にヨーロッパに戻った。最初はフランスに住み(主に[[コートダジュール]]沿岸)、その後[[スイス]]に落ち着いた。[[エシャンダン]]の借家で暮らした後、[[ローザンヌ]]の北に位置する[[エパランジュ]]に物件を購入した。そしてその場所に巨大な家を建てさせたのである。
シムノンとデニーズは[[1964年]]には離婚することが決定的になった。テレサは[[1961年]]からシムノン家で家政婦として働いてきたのだが、この時までにシムノンと恋愛関係にあって、彼の残りの生涯を一緒に暮らすことになる。
長きにわたって心配の種となってきたマリー・ジョーが[[1978年]]、25歳の時にパリで自殺した。この出来事はシムノンの以後の人生を暗いものにした。
監督兼プロデューサーであったジョン・ゴールドシュミットが製作した記録映画「メグレの鏡」は、ローザンヌの大邸宅で撮影されたものであり、また、犯罪心理学者との間の告白調の会話に基づいた人物紹介の形式を取っている。この映画はATVのために制作され、[[1981年]]にイギリスのITVネットワークで放送された。
[[1984年]]、シムノンは[[脳腫瘍]]の外科手術を受け、順調に回復した。しかしその後数年にわたり、彼の健康は悪化していった。シムノンが、テレビで放送された最後の[[インタビュー]]に登場したのは[[1988年]]12月のことであった。
ジョルジュ・シムノンは、ローザンヌで、[[1989年]]の9月3日から4日にかけての夜中、眠ったまま亡くなった。
シムノンは偉大な遺産を残して亡くなった。そこで、彼を記念して、記念[[銀貨]]が作られることになった。シムノン生誕100年を記念して、ベルギーで[[2003年]]に銀貨が製作された。硬貨の表には彼の肖像画が描かれている。
== 日本におけるシムノン紹介 ==
[[ファイル:Georges Simenon (1963) without hat by Erling Mandelmann.jpg|thumb|ジョルジュ・シムノン(1963年)]]
戦前に著作が日本語に訳され高い評価を受けた。雑誌『[[新青年 (日本)|新青年]]』の企画で、日本の探偵小説家の海外探偵小説のベスト10を発表するものがあり、代表作の''"La Tête d'un homme"''(『[[男の首]]』)が全体の9位に入った。個人では[[大下宇陀児]]、[[木々高太郎]]、[[角田喜久雄]]、[[渡辺啓助]]らがシムノンの作品を上位に挙げた。特に角田には多大な影響を与えたらしく、『[[高木家の惨劇]]』など角田が戦後に執筆した9つの小説に登場する加賀美敬介警部の人物像はメグレをモデルとしている。
日本に紹介された当初はSimenonという名字の正確な発音が不明であり、訳者によってはシメノンと表記していたが、1956年に木々高太郎がシムノン本人に会って'''シムノン'''が正しい発音であると確認。
==メグレシリーズ==
執筆年を記す。
===長編===
*''"Pietre-le-Letton"''(1929年)
**『怪盗レトン』([[木村庄三郎 (フランス文学者)|木村庄三郎]]訳, [[東京創元社]][[[創元推理文庫]]], 1960年 / [[旺文社]][[[旺文社文庫]]], 1978年4月)
**『メグレ対怪盗』([[稲葉由紀]]訳, [[東都書房]][世界推理小説大系]20巻, 1963年)
**『怪盗レトン』(稲葉明雄訳, [[角川書店]][[[角川文庫]]], 1978年1月)
*''"Monsieur Gallet décédé"''(1930年)
**『死んだギャレ氏』([[宗左近]]訳, [[東京創元社]][[[創元推理文庫]]], 1961年)
*''"Le Pendu de Saint-Phollien"''(1930年)
**『聖フォリアン寺院の首吊男』([[伊東鋭太郎]]訳, [[春秋社]], 1937年)
**『サン・フォリアン寺院の首吊り人』([[水谷準]]訳, [[雄鶏社]][おんどり・みすてりい], 1950年 / 角川書店[角川文庫], 1957年)
**『サン・フォリアンの首吊り男』([[三好格]]訳, [[中央公論社]][世界推理名作全集]5巻, 1960年)
***改題『サン・フォリアンの首吊りの男』(中央公論社[世界推理小説名作選], 1962年)
****[[江戸川乱歩]]はこの作品を翻案して『[[幽鬼の塔]]』を執筆した。
*''"Le Charretier de la Providence"''(1930年)
**『水門』(伊東鋭太郎訳, 春秋社, 1937年)
***改題『水門の惨劇』(伊東鋭太郎訳, [[京北書房]], 1947年)
***改題『運河の秘密』(伊東鋭太郎訳, 京北書房, 1953年)
**『メグレと運河の殺人』([[田中梓]]訳, [[河出書房新社]][メグレ警視シリーズ], 1980年1月)
*''"La Tête d'un homme"''(1930年)
**『男の頭 : モンパルナスの夜』([[永戸俊雄]]訳, [[西東書林]], 1935年)
***改題『モンパルナスの夜』(春秋社, 1937年)
***改題『或る男の首』(雄鶏社[おんどり・みすてりい], 1950年 / [[早川書房]][[[ハヤカワ・ミステリ]]], 1955年)
**『[[男の首]]』([[宮崎嶺雄]]訳, 東京創元社[世界推理小説全集]19巻, 1956年 / 東京創元社[創元推理文庫], 1959年9月11日)
**『モンパルナスの夜』([[堀口大學]]訳, [[新潮社]][探偵小説文庫], 1956年)
***改題『或る男の首』(新潮社[[[新潮文庫]]], 1959年)
**『男の首』(三好格訳, 中央公論社[世界推理名作全集]5巻, 1960年 / 中央公論社[世界推理小説名作選], 1962年)
**『男の首』(宗左近訳, 角川書店[角川文庫], 1963年)
**『ある男の首』([[石川湧]]訳, [[講談社]][世界推理小説大系]7巻, 1972年)
**『男の首』(木村庄三郎訳, 旺文社[旺文社文庫], 1977年1月)
**『ある死刑囚の首』([[矢野浩三郎]]訳, [[文研出版]][文研の名作ミステリー]9巻, 1977年6月)
*''"Le Chien jaune"''(1931年)
**『黄色い犬』(永戸俊雄訳, 雄鶏社[おんどり・みすてりい], 1950年 / 早川書房[ハヤカワ・ミステリ], 1955年)
**『黄色い犬』(宮崎嶺雄訳, 東京創元社[世界推理小説全集]19巻, 1956年 / 東京創元社[創元推理文庫], 1959年9月11日 / 東京創元社[世界名作推理小説体系]3巻, 1960年)
**『黄色い犬』([[中島昭和]], 角川書店[角川文庫], 1963年)
**『黄色い犬』(矢野浩三郎訳, [[集英社]][ジュニア版世界の推理], 1972年)
**『黄色い犬』(木村庄三郎訳, 旺文社[旺文社文庫], 1976年)
*''"La Nuit du carrefour"''(1931年)
**『深夜の十字路』([[秘田余四郎]]訳, 早川書房[ハヤカワ・ミステリ], 1953年)
**『メグレと深夜の十字路』([[長島良三]]訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1980年6月)
*''"Un crime en Hollande"''(1931年)
**『オランダの犯罪』(宗左近訳, 東京創元社[創元推理文庫], 1960年)
*''"Au rendez-vous des terre-neuvas"''(1931年)
**『ニュー・ファウンドランドで逢おう』(稲葉由紀訳, [[宝石社]]『[[宝石 (雑誌)|別冊宝石]]』103号, 1960年)
**『港の酒場で』(木村庄三郎訳, 東京創元社[創元推理文庫], 1961年 / 旺文社[旺文社文庫], 1977年9月)
*''"La Danseuse du Gai-Moulin"''(1931年)
**『リェーヂユの踊子』(伊東鋭太郎訳, 春秋社, 1937年)
**『ゲー・ムーランの踊子』([[安堂信也]]訳, 東京創元社[創元推理文庫], 1959年11月27日)
*''"La Guinguette à deux sous"''(1931年)
**『三文酒場』(安堂信也訳, 東京創元社[創元推理文庫], 1960年8月5日)
*''"Le Port des brumes"''(1931年)
**『霧の港』([[松村喜雄]]訳, 早川書房[ハヤカワ・ミステリ], 1954年)
**『霧の港のメグレ』([[飯田浩三]]訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1980年2月)
*''"L'Ombre chinoise"''(1931年)
**『影絵』(松村喜雄訳, [[共栄社]]『[[探偵倶楽部]]』, 1954年)
**『影絵のように』([[望月芳郎]]訳, 東京創元社[創元推理文庫], 1960年8月5日)
**『メグレと死者の影』([[榊原晃三]]訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1980年5月)
*''"L'Affaire Saint-Fiacre"''(1932年)
**『サン・フィアクル殺人事件』
*''"Chez les Flamands"''(1932年)
**『メグレ警部と国境の町』
*''"Le Fou de Bergerac"''(1932年)
**『メグレを射った男』([[鈴木豊 (フランス文学者)|鈴木豊]]訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1979年9月)
*''"Liberty bar"''(1932年)
**『自由酒場』(伊東鋭太郎訳, [[アドア社]], 1936年)
**『紺碧海岸のメグレ』([[佐藤絵里]]訳, 論創社[論創海外ミステリ], 2015年1月)
*''"L'Écluse numeros 1"''(1933年)
**『第1号水門』
*''"Maigret"''(1933年)
**『幕をとじてから』(松村喜雄訳, 共栄社『探偵倶楽部』, 1954年)
**『メグレ再出馬』([[野中雁]]訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1980年3月)
*''"Cécile est morte"''(1939年)
**『メグレと死んだセシール』(長島良三訳, [[光文社]]『[[エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン|EQ]]』, 1991年11月)
*''"Les Caves du Majestic"''
**『メグレと超高級ホテルの地階』(長島良三訳, 光文社『EQ』, 1995年5月)
*''"La Maison du juge"''
**『メグレと判事の家の死体』(長島良三訳, 光文社『EQ』, 1988年3月)
*''"Signé Picpus"''
**『メグレと謎のピクピュス』(長島良三訳, 光文社『EQ』, 1983年7月)
*''"L'Inspecteur Cadavre"''(1941年)
**『メグレと死体刑事』(長島良三訳, [[読売新聞社]][フランス長編ミステリー傑作集]3巻, 1981年9月)
*''"Féliche est là"''
**『メグレと奇妙な女中の謎』(長島良三訳, 光文社『EQ』, 1986年5月)
*"Maigret se fâche"(1945年)
**『メグレ激怒する』(長島良三訳, 河出書房新社[[[河出文庫]]], 1988年8月)
*''"Maigret à New York"''(1946年)
**『メグレ氏ニューヨークへ行く』(長島良三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1977年4月)
*''"Les Vacances de Maigret"''(1947年)
**『メグレの休暇』(永戸俊雄訳, 早川書房[ハヤカワ・ミステリ], 1955年)
**『メグレのバカンス』(矢野浩三郎訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1980年8月)
*''"Maigret et son mort"''(1947年)
**『メグレと殺人者たち』(長島良三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1976年4月)
*''"La Première Enquête de Maigret"''(1948年)
**『メグレの初捜査』([[萩野弘巳]]訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1977年5月)
*''"Mon ami Maigret"''(1949年)
**『メグレ式捜査法』([[谷亀利一]]訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1977年7月)
*''"Maigret chez le coroner"''(1949年)
**『メグレ保安官になる』(鈴木豊訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1979年7月)
*''"L'Amie de Madame Maigret"''(1949年)
**『メグレ夫人と公園の女』([[佐宗鈴夫]]訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1977年6月)
*''"Les Mémories de Maigret"''(1950年)
**『メグレの回想録』(長島良三訳, 早川書房[世界ミステリ全集]9巻, 1973年4月30日)
*''"Maigret et la vieille dame"''(1950年)
**『メグレと老婦人』([[日影丈吉]]訳, 早川書房[ハヤカワ・ミステリ], 1961年 / 早川書房[[[ハヤカワ・ミステリ文庫]]], 1976年)
*''"Maigret au Picratt's"''(1950年)
**『モンマルトルのメグレ』(矢野浩三郎訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1977年1月)
*''"Maigret en meublé"''(1951年)
**『メグレ夫人のいない夜』(佐宗鈴夫訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年4月)
*''"Maigret et la Grande Perche"''(1951年)
**『メグレと消えた死体』(榊原晃三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1977年8月)
*''"Le Revolver de Maigret"''(1952年)
**『メグレの拳銃』(佐宗鈴夫訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1979年6月)
*''"Maigret et l'homme du banc"''(1952年)
**『メグレとベンチの男』(矢野浩三郎訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1977年12月)
*''"Maigret,Lognon et gangstars "''(1952年)
**『メグレ警視と生死不明の男』(長島良三訳, 講談社[[[河出文庫|講談社文庫]]], 1971年1月)
*''"Maigret a peur"''(1953年)
**『メグレの途中下車』(榊原晃三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1976年)
*''"Maigret se trompe"''(1953年)
**『メグレ間違う』(萩野弘巳訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1976年)
*''"Maigret à l'école"''(1953年)
**『メグレと田舎教師』([[佐伯岩夫]]訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年5月)
*''"Maigret et la jeune morte"''(1954年)
**『メグレと若い女の死』([[北村良三]]訳, 早川書房[ハヤカワ・ミステリ], 1972年)
*''"Maigret chez le ministre"''(1954年)
**『メグレと政府高官』(長島良三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1977年9月)
*''"Maigret tend un piège"''(1955年)
**『メグレ罠を張る』([[峯岸久]]訳, 早川書房[ハヤカワ・ミステリ], 1958年)
*''"Maigret et le corps sans tête"''(1955年)
**『メグレと首無し死体』(長島良三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1977年2月)
*''"Un échec de Maigret"''(1956年)
**『メグレの失態』([[大友徳明]]訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1979年11月)
*''"Maigret s'amuse"''(1956年)
**『メグレ推理を楽しむ』([[仁科祐]]訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1979年10月)
*''"Maigret voyage"''(1957年)
**『メグレとかわいい伯爵夫人』([[江口旦]]訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1979年8月)
*''"Les Scruples de Maigret"''(1957年)
**『メグレと火曜の朝の訪問者』(谷亀利一訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1976年)
*''"Maigret et les témoins récalcitrants"''(1958年)
**『メグレと口の固い証人たち』(長島良三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1976年12月)
*''"Une Confidence de Maigret"''(1959年)
**『メグレの打明け話』(長島良三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年4月)
*''"Maigret aux assises"''(1959年)
**『重罪裁判所のメグレ』([[小佐井伸二]]訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1977年10月)
*''"Maigret et les vieillards"'' (1960年)
**『メグレと老外交官の死』(長島良三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1980年1月)
*''"Maigret et le vouleur paresseux"''(1961年)
**『メグレと優雅な泥棒』(榊原晃三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1977年12月)
*''"Maigret et les braves gens"''(1961年)
**『メグレと善良な人たち』(小佐井伸二訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年8月)
*''"Maigret et le client du samedi"''(1962年)
**『メグレと妻を寝とられた男』(大友徳明訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年3月)
*''"Maigret et le clochard"''(1962年)
**『メグレとルンペン』(野中雁訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1979年5月)
*''"La Colère de Maigret"''(1962年)
**『メグレと殺された容疑者』(佐宗鈴夫訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年1月)
*''"Maigret et le fantôme"''(1963年)
**『メグレと幽霊』(佐宗鈴夫訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1976年)
*''"Maigret se defénd"''(1964年)
**『メグレたてつく』(榊原晃三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1977年3月)
*''"La Patience de Maigret"''(1965年)
**『メグレと宝石泥棒』(長島良三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年2月)
*''"Maigret et l'affaire Nahour"''(1966年)
**『メグレと賭博師の死』(矢野浩三郎訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1979年4月)
*''"Le Voleur de Maigret"''(1966年)
**『メグレの財布を掏った男』([[伊東守男]]訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年5月)
*''"Maigret à Vichy"''(1967年)
**『メグレとリラの女』(伊東守男訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年7月)
*''"Maigret hésite"''(1968年)
**『メグレと殺人予告状』(榊原晃三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年8月)
*''"L'Ami d'enfance de Maigret"''(1968年)
**『メグレの幼な友達』(田中梓訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年10月)
*''"Maigret et le tueur"''(1969年)
**『メグレと録音マニア』(佐宗鈴夫訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年6月)
*''"Maigret et le marchand de vin"''(1969年)
**『メグレとワイン商』(飯田浩三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年11月)
*''"La Folle de Maigret"''(1970年)
**『メグレと老婦人の謎』(長島良三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年7月)
*''"Maigret et l'homme tout seul"''(1971年)
**『メグレとひとりぼっちの男』(野中雁訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年9月)
*''"Maigret et l'indicateur"''(1971年)
**『メグレと匿名の密告者』(野中雁訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年6月)
*''"Maigret et Monsieur Charles"''(1972年)
**『メグレ最後の事件』(長島良三訳, 河出書房新社[メグレ警視シリーズ], 1978年9月)
===短編===
*''"Les Nouvelles Enquetes de Maigret"''(1944年, 中短編集)
**''"La Péniche aux deux pendus"''(1938年)
***「首吊り船」
**''"L'Affaire du boulevard Beaumrchais"''(1938年)
***「ボーマルシェ大通りの事件」
**''"La Fenêtre ouverte"''(1938年)
***「開いた窓」
**''"Monsieur Lundi"''(1938年)
***「月曜日の男」
**''"Jeumont, 51 minutes d'arrêt"''(1938年)
***「停車―51分間」
**''"Peine de mort"''(1938年)
***「死刑」
**''"Les Larmes de bougie"''(1938年)
***「蝋のしずく」
**''"Rue Pigalle"''(1938年)
***「ピガール通り」
**''"Une erreur de Maigret"''(1938年)
***「メグレの失敗」
**''"L'Amoureux de Madame Maigret"''(1938年)
***「メグレ夫人の恋人」
**''"La vieille Dame de Bayeux"''(1938年)
***「バイユーの老婦人」
**''"L'Auberge aux noyés"''(1938年)
***「水死人の宿」
***「メグレと溺死人の家」
**''"Stan le tueur"''(1938年)
***「殺し屋スタン」
**''"L'Etoile du nord"''(1938年)
***「北の星」
***「ホテル<北極星>」
**''"Tempête sur la Manche"''(1938年)
***「メグレの退職旅行」
**''"Mademoiselle Berthe et son amant"''(1938年)
***「メグレとおびえるお針娘」
**''"Le Notaire de Châteauneuf"''(1938年)
***「メグレと消えたミニチュア」
**''"L'Improbable Monsieur Owen"''(1938年)
***「メグレと消えたオーエン氏」
**''"Ceux du Grand Café"''(1938年)
***「メグレとグラン・カフェの常連」
*''"Un Noël de Maigret"''(1950年)
:「メグレ警視のクリスマス」
==名探偵エミールの冒険シリーズ==
メグレ警視の元部下で探偵所長のトランスと、相棒の探偵エミールの物語。全14編の連作中編として発表され、その後単行本としてまとめられた。<!--長島氏によるあとがきでアメリカからの帰国後に執筆したとあるため出版年を除去--> 邦訳は四分冊。
*''Les Dossiers de l'agence O''
:『名探偵エミールの冒険1 - 4』([[長島良三]]訳, [[読売新聞社]],1998年)
== G・7號(G-7)もの ==
*''Les Treize Énigmes'' (1932年) - 短編集。:『ダンケルクの悲劇』([[芹南冬夫]]訳, 春秋社,1937年)
**''《G7》'' (1928年) - G-7最初の短編「タクシーの中の男」。HMM'70.11掲載。HPB255「名探偵登場6」('63)に収録。(早川書房)
**''L'Inconnue d'Etretat'' (1928年) - G-7最後の短編「エトュルタの無名婦人」。「月刊探偵」'36.6掲載。
== 青年探偵ジョゼフ・ルボルニュ ==
*''Les 13 mystères'' (1932年)
:『13の秘密』([[大久保輝臣]]訳, 東京創元新社,1963年) - 探偵を趣味とする青年ルボルニュを主役にした連作。
== チビ医者の犯罪診療簿 ==
*''Le Petit Docteur'' (1938年)
:『死体が空から降ってくる』([[原千代海]]訳, ハヤカワポケットミステリ414 ,1958年)
*''L'amoureux aux pantoufles'' (1943年)
:『上靴にほれた男』([[原千代海]]訳, ハヤカワポケットミステリ438 ,1958年)
==その他のジョルジュ・シムノン名義の作品==
===長編===
*''"Le relais d'Alsace"''(1931年)
:『アルザスの宿』(原千代海訳,創元推理文庫,1960年)
*''"Le Passager du 'Polarys'"''(1932年)
:『北氷洋逃避行』(伊東鍈太郎訳,京北書房,1946年)
*''"Les fiançailles de M. Hire"''(1933年)
:『仕立て屋の恋』([[高橋啓]]訳, 早川書房,1992年)
*''"La Maison du canal"''(1933年)
:『運河の家』(森井良訳, [[瀬名秀明]]解説『運河の家 人殺し』([[幻戯書房]], 2022年)に収録)
*''"L'homme de Londres"''(1934年)
:『倫敦から来た男』(長島良三訳,河出書房新社,2009年)
*''"L'Assassin"''(1937年)
:『人殺し』(森井良訳, [[瀬名秀明]]解説『運河の家 人殺し』(幻戯書房, 2022年)に収録)
*''"Le Testament Donadieu"''(1937年)
:『ドナデュの遺言』([[手塚伸一]]訳, 集英社[シムノン選集]11巻,1970年)
:改題『ドナデュの遺書』(集英社[世界文学全集]42巻,1975年/集英社[集英社文庫]1979年1月)
*''"L'homme qui regardait passer les trains"''(1938年)
:『汽車を見送る男』(菊池武一訳,新潮社,1954年)
*''"Les inconnus dans La maison"''(1941年)
:『家の中の見知らぬ者たち』(長島良三訳,読売新聞社,1993年)
*''"La Veuve Couderc"''(1942年)
:『片道切符』([[安東次男]]訳,集英社文庫,1977年)
*''"L'aine des Ferchaux"''(1943年)
:『フェルショー家の兄』(伊藤晃訳,筑摩書房,1978年)
*''"La Fuite de monsieur Monde"''(1945年)
:『モンド氏の失踪』(長島良三訳,河出書房新社,1945年)
*''"Trois chambres a Manhattan"''(1946年)
:『マンハッタンの哀愁』(長島良三訳,河出書房新社,2010年)
*''"Lettre a mon juge"''(1947年)
:『判事への手紙』(那須辰造訳,早川書房,1956年)
*''"La neige était sale"''(1948年)
:『雪は汚れていた』(永戸俊雄訳, 早川書房[シメノン選集]1巻,1955年)
:『雪は汚れていた』([[三輪秀彦]]訳, 集英社[シムノン選集]1巻,1969年/早川書房[ハヤカワ文庫],1977年4月/[[主婦の友社]][キリスト教文学の世界]4巻,1978年8月)
*''"Le fantomes de chaplier"''(1949年)
:『帽子屋の幻影』(秘田余四郎訳,早川書房,1956年)
*''"L'enterrement de Monsieur Bouvet"''(1950年)
:『ブーベ氏の埋葬』(長島良三訳,河出書房新社,2010年)
*''"Une Vie comme neuve"''(1951年)
:『新しい人生』(粟津則雄・今田裕訳 集英社 [シムノン選集]5巻,1969年)
*''"Le temps d'anais"''(1951年)
:『アナイスのために』([[小佐井伸二]]訳,集英社[シムノン選集]3巻,1969年)
:『娼婦の時』(日影丈吉訳,早川書房,1981年)
*''"Les Freres Rico"''(1952年)
:『リコ兄弟』([[山崎庸一郎]]訳,集英社文庫,1980年)
*''"La mort de Belle"''(1952年)
:『ベルの死』(峯岸久訳,早川書房,1957年)
*''"Les T'emoins"''(1955年)
:『証人たち』(野口雄司訳,河出書房新社,2008年)
*''"En cas de malheur"''(1956年)
:『可愛い悪魔』(秘田余四郎訳,早川書房,1958年)
*''"Strip Tease"''(1958年)
:『ストリップ ティーズ』([[大久保和郎]]訳,集英社文庫,1978年)
*''"Dimanche"''(1959年)
:『日曜日』(生田耕作訳,集英社[シムノン選集]7巻,1970年)
*''"L'ours en peluche"''(1960年)
:『闇のオディッセー』(長島良三訳,河出書房新社,2008年)
*''"Le Train"''(1961年)
:『離愁』(谷亀利一訳,ハヤカワ文庫,1975年)
*''"Betty"''(1961年)
:『ベティー』(長島良三訳,読売新聞社,1992年)
*''"Les Anneaux De Bicetre"''(1963年)
:『ビセートルの環』(三輪秀彦訳,集英社文庫,1979年)
*''"La Chambre Bleue"''(1964年)
:『青の寝室』(長島良三訳,河出書房新社,2011年)
*''"Le petit saint"''(1965年)
:『ちびの聖者』(長島良三訳,河出書房新社,2008年)
*''"Pedigree"''(1948年)
*''"Le Chat"''(1967年)
:『猫』(三輪秀彦訳,創元推理文庫,1985年)
*''"L'homme au petit chien"''
:『小犬を連れた男』(長島良三訳,河出書房新社 ,2012年)
*''"Les innocents"''(1972年)
:『妻は二度死ぬ』(中井多津夫訳,晶文社,1985年)
===短編===
*''"Les Treize Coupables"''(1932年)
:短編集
:『猶太人ジリウク』(山野晃夫訳, 春秋社,1937年)
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==参考文献==
*[[ジル・アンリ]]『シムノンとメグレ警視』([[桶谷繁雄]]訳, [[河出書房新社]],1980年9月25日) ISBN 4-309-20032-X
*『名探偵エミールの冒険4』([[長島良三]]訳, [[読売新聞社]],1998年)
*[[長島良三]]『メグレ警視のパリ フランス推理小説ガイド』読売新聞社、1984年
== 脚注 ==
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しむのん しよるしゆ}}
[[Category:ジョルジュ・シムノン|*]]
[[Category:20世紀ベルギーの小説家]]
[[Category:ベルギーの推理作家]]
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3,857 | リードオンリーメンバー | リードオンリーメンバー(和製英語:Read Only Member、略称:ROM、ロム)とは、主に電子掲示板などインターネット上のコミュニティにおいて、自らは投稿せずに閲覧のみ行うことを指すインターネットスラングである。
一般に、Read Only Memory (ROM) をもじった語であると考えられている。読むだけの行為のことを指して「ROMる(ロムる)」と動詞形で用いることもある。ちなみに英語圏ではlurker(ラーカー、潜む人)と呼ばれ、ROMという語は使われない。
転じて、チャットやMMORPGなどのインターネット上のコミュニティにおいては一時退席の行為の意味も持つ(同様に用いられるAFKの項も参照)。例えば食事のために席を外すことを「飯ROM」などと称する。
一部のコミュニティでは、ROMは嫌われる場合があり、規約や案内に明記したり、パスワードを用いたりすることにより、ROMを禁止しているところもある。内輪的なコミュニティで、外部の人間に物言わず覗かれているようで気分が悪いといったような理由によるROM禁止も多い。特に、mixiなどの閲覧者の痕跡が残るSNSにおいては、ROMを読み逃げと称して嫌う利用者がいる。
一方で、ある程度の期間ROMに専念しコミュニティの雰囲気や暗黙の了解を把握した上で書き込む事が好ましいとするコミュニティもあり、そのような場では「空気を読まない」書き込みをする者に対して「(新人は)半年ロムれ」(略して「新半R」)、などと返答される場合もある。
かつてパソコン通信の時代には通信回線の制約からROMが問題視された。パソコン通信は同時に複数のユーザーがホストにアクセスするにはその数だけ電話回線の契約が必要であったが、個人運営の草の根BBSは単回線の局がほとんどで、1人がアクセスしている間、他のユーザーが利用できなかった。そのため、無料で利用させてもらいながら、回線を占有するだけで有益な情報を発信しない存在は歓迎されず、運営者や他のユーザーから非難の対象となることがしばしばであった。一方、大規模で回線に余裕のあり、従量制料金を採用して接続時間が長くなれば利用料金がよりかかる商用BBSでは問題視されることはほとんどなかった。
インターネット初期も同じくROMがサーバ負荷になるとして嫌われることがあった。例として、2001年にインターネットの電子掲示板2ちゃんねる閉鎖騒動の際に行われた分析によると、2ちゃんねるの全通信量のうち9割が投稿を伴わない閲覧のみの負荷、すなわちROMによるものであったという。 | [
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'''リードオンリーメンバー'''([[和製英語]]:'''Read Only Member'''、略称:'''ROM'''、'''ロム''')とは、主に[[電子掲示板]]など[[インターネット]]上のコミュニティにおいて、自らは投稿せずに閲覧のみ行うことを指す[[インターネットスラング]]である。
== 概要 ==
一般に、[[Read only memory|Read Only Memory]] (ROM) をもじった語であると考えられている。読むだけの行為のことを指して「'''ROMる'''(ロムる)」と動詞形で用いることもある。ちなみに{{要出典範囲|英語圏ではlurker(ラーカー、潜む人)と呼ばれ、|date=2023年8月}}ROMという語は使われない。
転じて、チャットや[[MMORPG]]などのインターネット上のコミュニティにおいては一時退席の行為の意味も持つ(同様に用いられる[[アウェイフロムキーボード|AFK]]の項も参照)。例えば食事のために席を外すことを「飯ROM」などと称する。
一部のコミュニティでは、ROMは嫌われる場合があり、規約や案内に明記したり、パスワードを用いたりすることにより、ROMを禁止しているところもある。内輪的なコミュニティで、外部の人間に物言わず覗かれているようで気分が悪いといったような理由によるROM禁止も多い。特に、[[mixi]]などの閲覧者の痕跡が残る[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]においては、ROMを[[読み逃げ]]と称して嫌う利用者がいる。
一方で、ある程度の期間ROMに専念しコミュニティの雰囲気や暗黙の了解を把握した上で書き込む事が好ましいとするコミュニティもあり、そのような場では「[[場の空気|空気を読まない]]」書き込みをする者に対して「(新人は)半年ロムれ」(略して「新半R」)、などと返答される場合もある。
かつて[[パソコン通信]]の時代には通信回線の制約からROMが問題視された。パソコン通信は同時に複数のユーザーがホストにアクセスするにはその数だけ電話回線の契約が必要であったが、個人運営の[[草の根BBS]]は単回線の局がほとんどで、1人がアクセスしている間、他のユーザーが利用できなかった。そのため、無料で利用させてもらいながら、回線を占有するだけで有益な情報を発信しない存在は歓迎されず、運営者や他のユーザーから非難の対象となることがしばしばであった<ref>藤井良彦、谷川むつみ『パソコン通信のじょ~しき』海文堂、1992年、p.135</ref>。一方、大規模で回線に余裕のあり、従量制料金を採用して接続時間が長くなれば利用料金がよりかかる商用BBSでは問題視されることはほとんどなかった。
インターネット初期も同じくROMがサーバ負荷になるとして嫌われることがあった。例として、2001年にインターネットの電子掲示板[[2ちゃんねる]]閉鎖騒動の際に行われた分析によると、{{要出典範囲|2ちゃんねるの全通信量のうち9割が投稿を伴わない閲覧のみの負荷、すなわちROMによるものであったという|date=2014年1月}}。
== ROM人口 ==
*パソコン通信 - ROMの人口はパソコン通信人口の8割<ref>麻生俊『実践パソコン通信』株式会社ビジネス・アスキー、1989年、p.133</ref>、あるいはROM人口は積極的に投稿するユーザーの5倍から6倍とも言われた<ref>小口覚『パソコン通信開拓者伝説 日本のネットワークを作った男たち』小学館、1998年、p.116</ref>。{{要出典範囲|「一件の発言があれば、その10倍のROMがいる」と言われる|date=2010年11月}}。
*[[2ちゃんねる]] - 2007年の[[日本経済新聞]]調査によると、投稿経験者が11%だったのに対して、閲覧利用者は77.4%であった<ref>『日本経済新聞』2007年6月26日付</ref><ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/3213732/ 日経「2ちゃん」調査で「祭り」 カキコ多いの12-19歳?] [[livedoor]]ニュース([[J-CASTニュース]]) 2007年6月27日</ref>。
*[[Twitter]] - 2009年の[[ハーバード大学]]の調査によると、投稿の9割が1割のユーザーによるもので、ユーザーの平均投稿回数は1回というものだった<ref>[http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-38419720090605?feedType=RSS&feedName=oddlyEnoughNews 「ツイッター」投稿の9割、1割のユーザーが発信=調査] [[ロイター]] 2009年6月5日</ref>。
== 英語圏のラーカーとの関係について ==
<!-- 海外版のラーカーにリンクされているので充実したいところです。もともとの意味に相違がある気もするので、内容が増えてきたら分割を検討してください -->
<!-- 英語圏のlurkerとの関係については検証が不十分のため記述の際には関係性について留意して出典の明記に御協力ください。-->
{{節スタブ}}
== 出典 ==
<references />
==関連項目==
*[[草の根BBS]]
*[[ダウンロードオンリーメンバー]] (DOM)
*[[リッスンオンリーメンバー]] (LOM)
*[[アウェイフロムキーボード]] (AFK)
*[[インターネットスラング]]
*[[Wikt:郷に入っては郷に従え|郷に入っては郷に従え]] - 「半年ロムれ」の意図
{{インターネットスラング}}
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[[Category:和製英語]]
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[[Category:日本のインターネットスラング]] | 2003-03-12T06:15:30Z | 2023-08-15T21:41:03Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC |
3,861 | エクアドル | エクアドル共和国(、スペイン語: República del Ecuador)、通称エクアドルは、南アメリカ大陸北西部に位置する共和制国家。北にコロンビア、東と南にペルーと国境を接し、西は太平洋に面する。本土から西に1,000キロメートルほど離れたところにガラパゴス諸島(スペイン語ではコロン諸島:Archipiélago de Colón)を領有する。首都はキトで、最大の都市はグアヤキルである。なお、国名のエクアドルはスペイン語で「赤道」を意味する。
正式名称はスペイン語でRepública del Ecuador。通称Ecuador [ekwaˈðor]。
公式の英語表記はRepublic of Ecuador。通称Ecuador [ˈɛkwədɔːr]。
日本語の表記はエクアドル共和国。通称エクアドル。
漢字表記は厄瓜多。
国名はこの国を通る赤道(スペイン語でEcuador terrestre)に由来する。スペイン帝国による植民地時代には現在のエクアドルの領域はペルー副王領の一部であり、独立戦争中にシモン・ボリーバルの采配によってコロンビア共和国(大コロンビア)に併合された後は「南部地区(Distrito del sur)」と呼ばれていた。1830年にコロンビア共和国から分離独立する際に、キト共和国と名乗ることは他の諸都市の反発を招くことが予想されたため、キト直下を通る赤道から名前をとり、エクアドルという名前で諸地域の妥協がなされた。
現在のエクアドル共和国に相当する地域には紀元前1万年ごろの人類の生存が確認されており、その後、様々な古代文明が栄えた。紀元700年から16世紀半ばまでを統合期と呼び、身分制、首長制を基盤とし、祭祀センターを備えた社会構造が存在したことが明らかになっている。
このような諸文化は最終的に、15世紀半ばにクスコを拠点に急速に拡大していたタワンティン・スウユ(ケチュア語族: Tawantin Suyu、インカ帝国)の皇帝トゥパク・インカ・ユパンキの遠征によって征服され、キトはクスコに次ぐ帝国第二の都市として栄えた。
クリストファー・コロンブス率いる船団のアメリカ大陸到達(1492年)以降、スペインによるアメリカ大陸の植民地化の脅威はインカ帝国に及んだ。皇帝ワイナ・カパックが、スペイン人によってパナマからもたらされたヨーロッパの疫病で1527年に病死すると、キトで育った皇帝アタワルパは皇位継承権などをめぐってクスコのワスカルと内戦(スペイン語版、英語版)(1529年 - 1532年)を戦い勝利したが、疲弊した帝国にまもなく上陸するスペイン人との戦いを余儀なくされた。
1531年にスペイン出身のコンキスタドールの一群を率いてインカ帝国に上陸したフランシスコ・ピサロは、優れた火器や馬を用いてインカ人との戦いを有利に進め、1532年にアタワルパを捕虜にし、1533年にタワンティン・スウユを滅ぼした。
スペイン人による征服後、現在のエクアドルに相当する地域はペルー副王領に編入され、リマの統治を受けることになった。1563年にはキトにアウディエンシアが設置された。1717年にサンタフェ・デ・ボゴタを中心にヌエバ・グラナダ副王領が設立されると、エクアドルはこの副王領に組み込まれたが、1722年には再びペルー副王領に組み込まれた。
征服と植民地化による疫病や、ミタ制による酷使により、インディオ人口は植民地時代に大きく減少し、労働力を補填するためにアフリカから黒人奴隷が連行された。その一方でスペイン系のクリオージョが社会の寡頭支配層となり、メスティーソ(混血者)や、故郷の土地を離れて流浪するインディオなどの境界的な階層も出現するようになった。また、住人のカトリック化も進んだ。
1789年に勃発したフランス革命に続くナポレオン戦争により、ヨーロッパ大陸ではフランス第一帝政が覇権を一時握った。1808年にフランス皇帝ナポレオン1世が兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王ホセ1世として即位させると、それに反発する住民蜂起を契機にスペイン独立戦争が勃発した。インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。
1809年8月10日にキトの革命評議会により、イスパノアメリカ初の自治運動が勃発した。この自治運動はペルー副王フェルナンド・アバスカル(英語版)の差し向けた王党派軍により鎮圧されたものの、同様の運動がすぐにラパス、カラカス、ブエノスアイレス、サンティアゴ・デ・チレ、サンタフェ・デ・ボゴタなど、大陸的な規模で勃発した。
1810年代からコロンビア共和国とリオ・デ・ラ・プラタ連合州(現在のアルゼンチン)が主体となって南米大陸各地の解放が進むなかで、北のベネスエラからシモン・ボリーバルとアントニオ・ホセ・デ・スクレが、南のリオ・デ・ラ・プラタ連合州からホセ・デ・サン=マルティンの率いる解放軍がエクアドルに迫ると、各都市は再び独立を宣言。1822年のピチンチャの戦い(英語版)でスクレ将軍がスペイン軍を破ると、最終的に現在のエクアドルとなっている諸地域の解放が確定した。
こうして解放された現在のエクアドルに相当する地域はシモン・ボリーバルの采配により、「南部地区(Distrito del Sur)」としてコロンビアの一部に組み込まれたが、コロンビア内での内乱や混乱によりベネスエラが独立を宣言すると、南部地区も独立を画策し、1830年5月13日にコロンビアからの独立を宣言した。しかし、初代大統領になる予定だったスクレ元帥は暗殺され、同年8月10日にフアン・ホセ・フローレス(英語版)が初代大統領に就任した。ラテンアメリカ統合の夢に破れた解放者シモン・ボリーバルは、自らの行った政治的な行為が無為に終わったことを噛み締め、痛恨の内に死去した。
独立後しばらくはヌエバ・グラナダ共和国との戦争や、エクアドル・ペルー領土紛争 (1857年 - 1860年)(スペイン語版、英語版)、保守派と自由派との間でのエクアドル内戦(グアヤキルの戦い(スペイン語版、英語版))など混乱が続いたが、1861年にガブリエル・ガルシア・モレノが政権を掌握すると、モレノは以降15年にわたる独裁政治を行った。モレノ時代にはカトリック教会を軸にした保守政治が進み、エクアドル共和国が「イエズスの聖心」に捧げられるなどの事件があったが、この時期に学校、軍隊、鉄道が整備された。また、インディオ共有地の保護などがなされた。1875年にモレノは暗殺された。
このころからエクアドルはカカオを中心としたプランテーション経済により、世界経済に従属的な立場で組み込まれていったが、コスタでのプランテーションの発達は自由主義を求めるグアヤキルの資本家層の権力の拡大をもたらした。
モレノの暗殺後、保守派と自由派による争いが続いたが、自由主義者のエロイ・アルファロ(英語版)が1895年に権力を掌握し、大統領に就任すると、以降自由主義的な政治が行われ、国家の世俗化が進んだ。アルファロは1912年に暗殺されたが、1925年までこの自由主義体制は継続した。
1925年にシエラの勢力がクーデターを起こすと、政治的な権力の重心がグアヤキルからキトに移動した。しかし政治の混乱は続き、さらに1929年に始まった世界大恐慌によりエクアドル経済が大打撃を受けると、大衆がエクアドル政治に出現してきた。1933年にポプリスモ政策に訴えたホセ・マリア・ベラスコ・イバラが労働者からの圧倒的な支持を得て大統領に就任した。ベラスコ・イバラは1935年に失脚したが、その後40年間にわたり、エクアドル政治に大きな足跡を残すことになる。
1941年にペルー軍がアマゾン地域を侵略し、エクアドル・ペルー戦争が勃発した。エクアドル軍はこの戦役に敗れ、アマゾン地域の20万 - 25万平方キロメートルの領土をリオデジャネイロ議定書で失うことになった。この戦争はこの後50年間におよびエクアドル・ペルーの両国関係を規定し、さらにはエクアドル人に国民的なアマゾンへの郷愁をもたらすことになった。
第二次世界大戦後、バナナブームにより一時的に経済的な発展がみられたものの、1960年ごろから政治的に不安定な情勢が続き、ベラスコ・イバラや軍人が大統領になる時期が続いた。またこのころから、失われたアマゾンへの郷愁により、エクアドルは「アマゾン国家」であるとする言説がみられるようになった。
この状況を打破するために、ギジェルモ・ロドリゲス・ララ(スペイン語版、英語版)将軍が決起し、軍事評議会による革命的国民主義政権が樹立された。ロドリゲス将軍は外国資本、特に開発が進められていたアマゾン地域の石油の国有化を通してエクアドル経済の自立的発展や、農地改革を行い、キューバや東側諸国との友好関係を築き、1973年には石油輸出国機構(OPEC)に加盟するなど自主外交が行われた。こうした政策により自らの政治的な立場が危うくなる寡頭支配層と結んだ軍保守派が1976年にクーデターを起こすと、ロドリゲス将軍は失脚した。
新たに政権を握ったアルフレド・ポベダ・ブルバーノ(スペイン語版、英語版)海軍中将は保守化し、外資導入が再び進められた。また、1978年に新憲法草案が国民投票によって承認された。
1979年にキリスト教民主主義の人民勢力結集党からハイメ・ロルドス・アギレーラ(スペイン語版)が当選して軍事政権から民政移管したが、エクアドルの民主政治は前途多難だった。1981年、ペルーとの紛争(en:Paquisha War)の最中にアギレーラは航空事故で死去し、副大統領のオズワルド・フルタド・ラレア(スペイン語版)が昇格。1984年の大統領選挙で当選したレオン・フェブレス・コルデーロ(英語版)は親米政権を推進したが、1987年の大地震によって多数の犠牲者を出したばかりか石油パイプラインも破壊されて経済的に苦境に陥った。
1992年にシスト・デュラン・バジェン(スペイン語版)が大統領に就任した。バジェンは1995年にアマゾンの係争地(石油埋蔵地)をめぐってペルーのアルベルト・フジモリ政権とセネパ紛争(英語版)を行ったが、敗北した。また、1993年にはロドリゲス将軍の時代に加盟した石油輸出国機構(OPEC)から脱退した。
1996年にはレバノン系のアブダラ・ブカラム(スペイン語版)が大統領に就任した。しかし、エクアドルにおける初のアラブ系大統領は奇行を繰り返したために失脚し、1998年に同じくレバノン系のハミル・マワ(スペイン語版)が大統領に就任した。マワは10月26日にブラジリア議定書でアマゾン地域を放棄することを認め、1942年以来続いたペルーとのアマゾン地域をめぐる国境紛争はエクアドルの敗北という形で幕を閉じた。
1998 - 1999年、銀行危機(Ecuador banking crisis)が発生した。財政再建策をめぐり国際通貨基金(IMF)との間で融資交渉が進んでいなかったこともあり、エクアドルは外貨資金を調達できないまま、1999年9月にブレイディ債がデフォルト(債務不履行)となり、さらにこの後にユーロ債や他の種類のブレイディ債もデフォルトした。債券を保有していた外国の機関投資家で、貸し倒れの特に大きい8機関が政府に対する顧問団を設立し、外貨準備と再生計画について説明を受けた。2000年1月5日、マワは非常事態宣言を行い、1月9日にそれまでの通貨だったスクレからアメリカ合衆国ドルに通貨を変更するドル化政策発表した。7月に政府はデフォルトした債権を単一の国際債に交換するという提案を公表した。同年9月にマワは失脚し、グスタボ・ノボア(英語版)が大統領に就任した。政治は安定せず、2003年には軍と先住民組織の支持により、ルシオ・グティエレス(英語版)が大統領に就任したが、2005年に失脚した。
2006年11月の大統領選挙で、ポプリスモ的な政策に訴えたラファエル・コレアが国民から圧倒的な支持を得て勝利し、2007年に大統領に就任した。コレアは反米を旗印に自主外交を進め、ベネスエラのチャベス政権をはじめとする世界の反米政権との友好的関係の構築や、石油出国機構(OPEC)への再加盟などに尽力した。2008年3月3日、コロンビアのウリベ親米政権が3月1日にコロンビア革命軍(FARC、反政府武装組織)征討作戦をエクアドル領内で行ったことに反発し、コロンビアに対して両国の外交関係を断絶することを通告し、公式発表した(アンデス危機)。
2008年9月28日には、大統領の連続再選容認や、経済格差是正を柱とした憲法改正案が賛成多数で承認、公布された。2009年4月26日には大統領選挙および議会選挙を含む総選挙が行われ、コレア大統領が得票率50パーセント以上を得て圧勝し、再選された。新憲法は、社会的な変革や両性の平等、複数民族制などを取り入れている。また、米国の同盟国でなく、自主的な立場を明確にしてワシントン・コンセンサスや新自由主義政策と決別することにとどまらず、南米の統合で主導的な役割を果たし、エクアドルのキトに南米諸国連合の本部を建設した。
2017年2月19日(1回目投票)、同年4月2日(2回目投票)の大統領選挙で当選したレニン・モレーノが、同年5月25日に大統領に就任した。コレア政権の副大統領を務め、コレア大統領から後継者として指名され、選挙時においても自らがコレア政権の後継者であるとして当選していたことから、反米左翼と反新自由主義を掲げたコレア路線を継続するとみられていた。しかしながら、モレーノ大統領が就任するなりエクアドル政府はそれまでの反米左翼色を親米右翼政策に180度転換し、コレア政権以前のワシントンコンセンサス重視の親グローバリズム・親米・反共・緊縮財政・新自由主義政策に回帰した。2018年3月には親米自由貿易の経済圏である太平洋同盟(加盟国=メキシコ、コロンビア、ペルー、チリ)に加盟した。一方、反米左翼政権のベネズエラとの関係は急速に悪化しており、2018年8月にはベネズエラ主導の米州ボリバル同盟(ALBA)から脱退した。2019年3月には南米諸国連合からも離脱し、チリのセバスティアン・ピニェラ大統領の主導で南米諸国連合に対抗する新たな地域連合として結成されたラテンアメリカの進歩と発展のためのフォーラム(英語版)(Prosur)に他の親米的な南米諸国とともに加盟した。
2018年9月には経済破綻状態のベネズエラから近隣の南米諸国に流出する難民対策の国際会議を提唱。ブラジルやコロンビア、アルゼンチンなど南米諸国をキトに招待して国際会議を開き、「キト宣言」を発した。
2018年10月18日にはベネズエラ大使を「ペルソナ・ノン・グラータ」に指定して国外追放に処した。
2019年2月7日にはベネズエラ暫定大統領就任を宣言した反マドゥロ派のベネズエラ国会議長フアン・グアイドをベネズエラ大統領として承認した。
2020年に入って世界中に拡大した2019新型コロナウイルスの感染はエクアドルにも波及。港湾都市のグアヤキルでは、感染を恐れて路上に多数の遺体が放置される出来事もあった。モレノ大統領は外出禁止令を敷く一方、感染拡大に対処する資金を捻出するため、大統領や閣僚、国会議員らの給与を5割削減することを明らかにした。
2020年4月末の統計では、2万3000人近くが新型ウイルスに感染して約600人が死亡しているとされるが、グアヤス州では4月上旬の死亡者数が月平均の3倍超となっており、上振れする可能性がある。
2021年2月、任期満了に伴う大統領選挙が行われたが、いずれの候補者も過半数を得ることができず、同年4月11日に決選投票が行われることとなった。1位は約32%の票を集めた反米左派のコレア前大統領が推薦するアンドレス・アラウス元知識・人的能力調整相であったが、2位は先住民の市民運動家ヤク・ペレスと元銀行頭取のギジェルモ・ラソが横並びとなるが、ラソが2位となり、アラウスとラソとの決選投票の結果、ラソが52.4%を獲得し勝利した。ラソは11人きょうだいの末っ子で、証券取引所などで15歳ごろから働き始め、後に銀行やコカ・コーラ社現地法人の経営、グアヤス州知事、エクアドル政府経済相を務めた。政治姿勢や政策としては、左右の融和、自由主義経済と雇用による貧困対策を掲げている。
大統領を元首とする共和制国家である。行政権は大統領に属し、大統領の任期は4年で、以前は再選は禁止されていたが2008年の憲法改正で再選が可能となった。現行憲法は2008年憲法である。
立法権は一院制の国民議会に属し、任期は4年、定数は137議席である。
司法権は最高裁判所に属する。
徴兵制が敷かれており、エクアドル軍は兵員約5万人を有している。エクアドル軍はエクアドル陸軍、エクアドル海軍、エクアドル空軍の三軍からなる。
過去にペルーとの紛争でアマゾン流域の領土を併合されたことや、強権的な弾圧を行った軍事政権が少ないこと、主要な政治改革がおもにクーデターによって政権を握った軍部の革新派将校によって進められたことから、国民の軍への信頼は強い。
コロンビアとの国境付近はコロンビア革命軍(FARC)の活動地域であり、危険である。また、エクアドル政府は2005年のグティエレス政権時代からFARCに庇護を与えていたが、このことが2008年のコレア政権下で再び発覚し、コロンビアとの外交問題になった。
太平洋岸の港湾都市マンタにはアメリカ空軍の基地(マンタ空軍基地)が存在し、コロンビアへの枯葉剤散布作戦などを行っていたが、2009年9月に賃貸期限が切れ、政府も更新を認めなかったことから撤退した。
1942年のペルーとの戦争でアマゾン流域の広大な領土を併合されて以来、エクアドル・ペルー間には恒常的な緊張状態が続いていたが、1998年に和平合意が結ばれてからは、エクアドルがアマゾンの領有権主張を諦める形で両国の友好関係が再開した。
アメリカ合衆国との関係も大きく、2004年には二国間自由貿易協定(FTA)の成立を目指していたが、これは2006年のコレア政権の成立によって阻止された。また、1999年のパナマ運河返還に伴ってパナマの米軍基地が太平洋岸の港湾都市マンタに移動し、マンタ空軍基地から出撃するアメリカ空軍がコロンビアへの枯葉剤散布作戦などを行っていた。現在も多くのエクアドル人がアメリカ合衆国に出稼ぎに行っている。
欧州連合(EU)の関係も重要であり、スペインやイタリアに多くのエクアドル人が出稼ぎに出ている。
2008年のデフォルトから接近した中華人民共和国はコレア政権時代にエクアドル最大の債権国となり、中国からの融資でエクアドルの財政支出の6割は賄われるようになり、エクアドルの原油は9割が中国に輸出された。また、中国から武器の購入も進め、中国の援助でエクアドル初の人工衛星「NEE-01 ペガソ(英語版)」を打ち上げたほか、エクアドル最大のコカ・コド・シンクレル水力発電所などを建設。さらに中国の協力で大規模な監視システムであるECU911を構築してエクアドルは監視社会となった。
エクアドルは2017年にモレーノが大統領に就任してから親米右翼路線に転換、反米左翼政権のベネズエラとの関係が極度に悪化している。
2022年には日本など太平洋諸国によるTPPに加盟を申請。2023年5月10日には中国との自由貿易協定(FTA)に署名した。
22の県(provincia、州と訳されることもある)に分かれる。地方行政は中央集権体制がとられており、各県知事は大統領が任命する。"-" の右側は県都。
主要な都市はキト(首都)、グアヤキルがある。
エクアドルは赤道直下にあり、北にコロンビア、東と南にペルーと国境を接し、西は太平洋に面する。本土から西に1,000キロメートルほど離れた太平洋上にガラパゴス諸島を領有する。
本土は標高によって三地域に分かれる。中央のアンデス山脈が縦断している地域をシエラ(La Sierra)、太平洋岸の亜熱帯低地をコスタ(La Costa)、東部のアマゾン川上流熱帯雨林が広がる地域をオリエンテ(El Oriente)と呼ぶ。
国内中央のシエラをアンデス山脈が南北に貫き、アンデス山脈は西部のオクシデンタル山脈(英語版)、東部のオリエンタル山脈(英語版)、および両山脈の間に位置する10の主要盆地よりなる。国内最高峰はオクシデンタル山脈のチンボラソ山(6,267メートル)である。いくつかの火山が現在も活動している。
基本的に赤道直下の熱帯だが、シエラは標高が高く、またコスタも寒流であるペルー海流(フンボルト海流)の影響により、過ごしやすい気候になっている。
2021年の名目GDP(国内総生産)は1,061億6,587万ドルで、これは2021年世界GDPランキングの64位である。2021年のGDP成長率は、4.2%と大幅に上昇した。これは前年のコロナ禍と原油価格下落の影響で-7.8%の成長率となったことに影響されており、異例な上昇率となった。アンデス共同体の加盟国、メルコスールの準加盟国である。2000年からエクアドルは自国の通貨をスクレからアメリカ合衆国ドルに切り替えた。
1999年のブラジル通貨危機の影響により、翌年2000年米ドルを法定通貨に採用した。中南米のいくつかの国ではこのような「ドル化」が定着している。エクアドルの場合、1999年に通貨スクレの信認が失われ為替相場が急落したため、2000年1月に1ドル=25,000スクレの固定相場制を導入し、同年9月には通貨スクレを放棄し米ドルを法定通貨とした。これは非常に短期間のうちに緊急対応的に実施された。ドル化を実施して以降、エクアドルのインフレ率は急速に低下し経済は安定的に推移している。しかし、その代償として自国通貨を放棄したことで独自の金融政策が実施できなくなり、エクアドル経済は米当局の都合で決まる金融政策に左右されることとなった。また、当時のエクアドルのコレア政権は、政治的に反米左翼だったにもかかわらず、自国通貨を放棄してでも物価と経済の安定を優先した非常に危機的状況だったことがわかる。なお、その後2017年に就任したモレノ大統領、2021年就任のラソ大統領はアメリカとの関係を重視しており、特にラソ大統領はIMFなどの国際金融機関との協調路線を継続し、ドル化経済を維持していくとしているとしている。
エクアドルは農業国だが、生産が輸出商品作物の栽培に偏っていることや農地の所有制度に問題が残ることなどから、必ずしも国民の生活・福祉を支えるものとはなっていない。
農地の地域分布は山地と海岸平野に二分される。降水量が少ないため農業に適さない山地で主食となる米やトウモロコシ、肥沃な海岸平野ではカカオ、コーヒー、サトウキビ、バナナなどの商品作物を栽培する。このため、輸出に占める農産物の割合が5割を超えているにもかかわらず、食糧を輸入している。大土地所有制度の弊害は大きく、人口のわずか1パーセントを占めるに過ぎない所有者が農地の4割を所有し、土地なし農民や一種の農奴として働く農民が少なくない。
しかし、2007年には革新政権が誕生し、続く2008年9月に国民投票で承認された新憲法は、食料主権を確立するために大土地所有制を禁止した。それを受けて、2009年7月に2年以上未使用の土地は政府が接収できるとする政令が発効した。それにより政府は、企業や大土地利用者が所有している未使用地を小規模農家に配分し始めた。2009年12月20日、政府は北西部地域に住む農家約1850世帯に対して、合計1万2,000ヘクタールの未使用地の所有権を譲り渡した。この土地は大手銀行が所有していたが、1999年に銀行が倒産したあとは放置されていたものである。
主食となる作物は、米(138万トン、以下2005年)、トウモロコシ(75万トン)、ばれいしょ(42万トン)、キャッサバ(12万トン)が主力。商品作物では、世界第4位のバナナ(588万トン、世界シェア8.1パーセント)、同7位のカカオ(14万トン、3.6パーセント)、コーヒー(10万トン、1.3パーセント)。世界シェアは低いもののサトウキビの生産量は566万トンに達し、単一の作物としてはバナナに次ぐ。畜産業は馬に集中している。
また、エクアドル沖は好漁場であり、コスタではエビ、マングローブガニが水揚げ、ガラパゴス沖ではマグロなどが漁獲されている。
鉱業は農業、漁業と並んでエクアドル経済を支える3本柱の一つである。埋蔵量が減少しているとはいえ、有機鉱物資源、特に石油は1920年代に開発されて以来エクアドルの主産業となり、2003年時点で輸出額の39.3パーセントを占める最大品目である。東部のオレリャナ州の油田が有力。エクアドル政府は石油が貴重な外貨獲得源であると考えており、火力発電を規制し、地形を生かした水力発電に投資している。2011年では、水力発電が発電量の58パーセントを占めており、火力発電は34パーセントでしかない。2016年には水力発電の比率を93.5パーセントにすることを目標としている。
エクアドルの油田の問題点は、主要な油田がアンデス山脈の東側に位置しながら、輸出のためには山脈の西側の港湾まで輸送しなければならないことである。輸送にはパイプラインを用いているが、地震国でもあるため、いったん損傷が起こると輸出が停止してしまう。
有機鉱物資源の品目では、石油(2,046万トン、2002年)に偏っており、天然ガス(6.8千兆ジュール)が次ぐ。石炭は採掘されていない。金属鉱物資源の種類は多く、亜鉛(100トン)、金(11トン)、銀(2トン)、銅(100トン)、鉛(200トン)のほか、錫やビスマスも確認されている。ただし、鉱業として成立しているとは言いがたい。その他の鉱物資源としては塩(9万トン)がある。
2021年時点で、エクアドルの主要輸出相手国は上位から、米国(24.0%)、中国(15.3%)、パナマ(14.9%)である。主要輸出品目は、上位に原油(27.3%)で、次にエビ(19.9%)、バナナ(13.1%)といった農林水産物となっている。以前は輸出の半分以上が原油であったが、近年非石油部門を強化し、EU以外の欧州、アジア・オセアニアなど輸出先を増やしている。2015年、原油価格低下により国際収支が悪化し、政府は次のような一連の保護主義的措置を導入した。自動車の輸入総量規制の強化、588 品目について関税率引き上げ、全輸入品に対し 5~45%の追加関税を課すなど。なお、エクアドルの2021年の石油産出量は、2,535万トンで、世界第29位となっている。
2021年のエクアドルへの日本の輸出は約478億円、エクアドルからの輸入は約1,392億円で日本の貿易赤字となっている。主な輸出品目は、熱延銅板(22.2%)などの工業品、乗用車も輸出しており(11.6%)となっている。輸入品目は上位から(78.8%)、バナナ(8.6%)、冷凍野菜(5.4%)などだ。また、日系企業の進出状況は2020年10月時点で19社、在留邦人数は301人と少ない。
キト、クエンカの歴史的な町並みや、アマゾンでのエコツアーが多くの観光客を惹きつけているが、エクアドルの観光地として特筆されるのはやはり、多様な生態系で知られるガラパゴス諸島である。また、「リタイア後に移住したい国ランキング」世界1位であり、理由として過ごしやすい気候、高度で安い医療費、物価の安さが挙げられ、リタイヤメントビザでの北米からの移住者が約4,000人いる。
首都キトにメトロ、バスと鉄道が通る。同国最大の都市であるグアヤキルにもバスがある。ドゥランに鉄道駅がある。
エクアドルは非常に多様性に富んだ国である。2007年の時点では、国内で最も多い民族集団は国民の67パーセントを占めるメスティーソであり、2番目に多いのは22パーセントを占めるインディヘナとなり、白人が12パーセント、ムラートやサンボを含んだアフリカ系エクアドル人が8パーセントを占める。また、特にイタリア、スペイン、アメリカ合衆国、カナダ、日本(在日エクアドル人)には出稼ぎエクアドル人のコミュニティがあり、2007年の時点で約250万人のエクアドル人が海外で暮らしていると推測されている。国民の多くはコスタやシエラに住み、オリエンテには国民の3 - 5パーセントほどしか居住していない。エクアドルの移民の出身地としてはスペイン、フランス、ドイツ、レバノン(レバノン系エクアドル人)、イタリアなどが挙げられる。
1950年の調査で約327万人となり、1970年のセンサスでは888万4,768人、1983年年央推計では約1,168万人になった。
公用語はスペイン語のみであるが、インディヘナによりケチュア語(キチュア語(英語版))、シュアール語(スペイン語版、英語版)が話され、特にケチュア語は「統一ケチュア語」が制定されて学校教育でも教えられている。また、オリエンテのアマゾン低地に住む先住民によって多様な言語が使用されている
カトリック教徒が国民の80パーセントであるが、近年、先住民社会を中心にプロテスタントの数が増加しつつある。ほかにはユダヤ教やイスラーム教を信仰するものが少数存在する。ユダヤ人にはセファルディムが多い。
カトリックの影響が根強く存在し、エクアドルでは妊娠中絶が強く反対されている。現状では、母親の命に重篤な危険があるときか、精神障害のある女性がレイプされたことによる妊娠しか中絶が認められていない。2019年9月には、エクアドルの首都キトにある国会前で、レイプ被害者や近親相姦に対する中絶規制を緩和する法改正案が否決されたことに対し、デモが起こっている。
5歳から14歳までを対象に、1年間の就学前教育、6年間の初等教育、3年間の前期中等教育からなる10年間の義務教育制度が敷かれる。義務教育が終わると、3年間の後期中等教育(高校)があり、高校を卒業すると高等教育(大学)への道が開ける。
エクアドルの教育水準は決して高いとはいえない。その理由としては、就学率の低さと義務教育期間における留年率と退学率の高さが挙げられる。2001年のセンサスによれば、15歳以上の人口の識字率は91パーセント(男性92.3パーセント、女性89.7パーセント)である。
主な高等教育機関としてはエクアドル中央大学(英語版)(1826年創設)、グアヤキル大学(1867年創設)、クエンカ大学(1868年創設)などが挙げられる。
1980年代以降、先住民が教育文化省内に「異文化間二言語教育局」を設置し、スペイン語と先住民言語(おもにケチュア語、シュアール語)による二言語教育が実施されており、スペイン語と先住民言語の双方を習得した先住民子弟の教育に力が注がれている。
殺人発生率は世界で18位にランクインするほど治安が悪かったが、徐々に改善されていき、2017年は57位まで下がった。現在、南米の中ではチリ、アルゼンチンに次いで3番目に発生率が低くなっており、南米の中では比較的治安が安定している。
地形の多様性に伴い、食文化も地域によって異なる。さらに、先住民の食文化と中華料理やスペイン料理、イタリア料理、フランス料理、ファストフードなどの世界各国からの移民や黒人の食文化が融合し、エクアドルの食文化は非常に地方色豊かとなっている。ただし、エクアドルはケチュア系の人々が多く暮らす国ではあるが、ペルー、ボリビアとは違ってエクアドルではコカ栽培は非合法であるため、コカ茶は飲めない。
コスタでは主に米、バナナ、ユカイモ、魚、エビ、貝類などを主食としている。中でも有名なのがセビッチェといわれる、冷たいエビや貝などのスープであり、ペルーのそれとは名前が同じだけで味は異なる。日常的なものの一つにはセコ・デ・ポロと呼ばれる、鶏肉をコメとアボカドのスライスとともに煮込んだ料理がある。その他にもアロス・コン・ポジョやアロス・コン・マリネーロなど、周辺国と似た料理が食べられている。
シエラでは芋やトウモロコシを主食とし、牛、豚などを飼ったり、ミルクを売ったり食べたりして生活している。海産物はめったに手に入らない。クイと呼ばれる天竺鼠の一種を食べる習慣がある。シエラの料理で代表的なものは豚肉のフリターダや羊肉のセコ・デ・チーボ、スープのロクロなどの名が挙げられる。
オリエンテにもユカイモを軸にした独自の食文化が存在する。乾燥したトウモロコシをゆで塩で炒め、鶏卵・牛乳・ネギで炒めた「モテ・ピージョ」、トウモロコシを寒冷地で干して豚のラードで炒る「トースタッド」、粗挽きトウモロコシを皮に包み蒸した「ウミータス」という料理がある。
エクアドルの文学は先住民の口承文学に伝統を持ち、スペイン人による征服以後も独自の発展を遂げた。独立前後の作家としては、エウヘニオ・エスペホ、ホセ・ホアキン・オルメド、フアン・モンタルボなどが有名である。
エクアドルにおける小説はミゲル・リオ・フリオの『解放された女』(1863年)によって始まった。ロマン主義の時代にはインディオをテーマにした『クマンダー』(1879年)のフアン・レオン・メラの名が特に挙げられる。エクアドルの近代小説は、シエラからコスタのプランテーションに向かう人々を描いたルイス・マルティネスの『海岸へ』(1904年)が出発点になった。フェルナンド・チャベスの『銀と青銅』(1927年)によって、エクアドルでもインディヘニスモ文学が始まった。のちに国際的にもっともよく知られたエクアドルの小説となったホルヘ・イカサの『ワシプンゴ』(1934年)では、土地を追われ、政府軍によって殺戮される悲惨さの極致としてインディオが描かれた。イカサとは対照的に、ウンベルト・マタが『塩』(1937年)で描いたインディオは、政府軍に対しての抵抗は失敗するものの、イカサのインディオ像には欠けていた人間の尊厳を持ち合わせていた。
キューバ革命後のラテンアメリカでは魔術的リアリズムが影響力を持ったが、エクアドルもその例外ではなかった。1970年代以降の現代小説においては、『マルクスと裸の女の間に』(1976)でフリオ・コルタサルに勝るとまでの反響を得たホルヘ・エンリケ・アドウムや、ベラスコ・マッケンジー、アリシア・ヤネス・コシーオ、『鷲はなぜ飛び去ってしまったのか』(1979年)でアメリカ留学帰りのインディオエリート知識人のアイデンティティの葛藤を描いたグスタボ・アルフレド・ハコメ、『塵と灰』(1979年)でピカレスクを義賊として描いたエリエセル・カルデナスなどが有名である。
エクアドルの音楽は、シエラの先住民系音楽、メスティーソ音楽、アフリカ系音楽に三大別される。また、ニューヨーク生まれのサルサや、コロンビア生まれのクンビア、バジェナート、ベネズエラ経由でもたらされたメレンゲなども広く愛好されている。
エクアドル国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が2件存在する。
エクアドルでも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1957年にプロサッカーリーグのエクアドル・セリエAが創設された。主なクラブとしては、FIFAクラブワールドカップの2008年大会で準優勝に輝いたLDUキトや、コパ・リベルタドーレスで2度の準優勝経験をもつバルセロナSCなどがある。他にもエル・ナシオナルやエメレクなどが挙げられる。
エクアドルサッカー連盟(FEF)によって構成されるサッカーエクアドル代表は、FIFAワールドカップには3度の出場歴があり、2006年大会ではベスト16の成績を収めた。コパ・アメリカでは、1959年大会と1993年大会でベスト4になった事もある。著名な選手としては、アレックス・アギナガやマンチェスター・ユナイテッドで10年に渡って活躍し続け、同クラブのキャプテンを勤めたアントニオ・バレンシア、イギリス史上最高額でチェルシーに移籍したモイセス・カイセドがいる。 | [
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"text": "エクアドル共和国(、スペイン語: República del Ecuador)、通称エクアドルは、南アメリカ大陸北西部に位置する共和制国家。北にコロンビア、東と南にペルーと国境を接し、西は太平洋に面する。本土から西に1,000キロメートルほど離れたところにガラパゴス諸島(スペイン語ではコロン諸島:Archipiélago de Colón)を領有する。首都はキトで、最大の都市はグアヤキルである。なお、国名のエクアドルはスペイン語で「赤道」を意味する。",
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"text": "正式名称はスペイン語でRepública del Ecuador。通称Ecuador [ekwaˈðor]。",
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"text": "国名はこの国を通る赤道(スペイン語でEcuador terrestre)に由来する。スペイン帝国による植民地時代には現在のエクアドルの領域はペルー副王領の一部であり、独立戦争中にシモン・ボリーバルの采配によってコロンビア共和国(大コロンビア)に併合された後は「南部地区(Distrito del sur)」と呼ばれていた。1830年にコロンビア共和国から分離独立する際に、キト共和国と名乗ることは他の諸都市の反発を招くことが予想されたため、キト直下を通る赤道から名前をとり、エクアドルという名前で諸地域の妥協がなされた。",
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"text": "現在のエクアドル共和国に相当する地域には紀元前1万年ごろの人類の生存が確認されており、その後、様々な古代文明が栄えた。紀元700年から16世紀半ばまでを統合期と呼び、身分制、首長制を基盤とし、祭祀センターを備えた社会構造が存在したことが明らかになっている。",
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"text": "クリストファー・コロンブス率いる船団のアメリカ大陸到達(1492年)以降、スペインによるアメリカ大陸の植民地化の脅威はインカ帝国に及んだ。皇帝ワイナ・カパックが、スペイン人によってパナマからもたらされたヨーロッパの疫病で1527年に病死すると、キトで育った皇帝アタワルパは皇位継承権などをめぐってクスコのワスカルと内戦(スペイン語版、英語版)(1529年 - 1532年)を戦い勝利したが、疲弊した帝国にまもなく上陸するスペイン人との戦いを余儀なくされた。",
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"text": "征服と植民地化による疫病や、ミタ制による酷使により、インディオ人口は植民地時代に大きく減少し、労働力を補填するためにアフリカから黒人奴隷が連行された。その一方でスペイン系のクリオージョが社会の寡頭支配層となり、メスティーソ(混血者)や、故郷の土地を離れて流浪するインディオなどの境界的な階層も出現するようになった。また、住人のカトリック化も進んだ。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "1789年に勃発したフランス革命に続くナポレオン戦争により、ヨーロッパ大陸ではフランス第一帝政が覇権を一時握った。1808年にフランス皇帝ナポレオン1世が兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王ホセ1世として即位させると、それに反発する住民蜂起を契機にスペイン独立戦争が勃発した。インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1809年8月10日にキトの革命評議会により、イスパノアメリカ初の自治運動が勃発した。この自治運動はペルー副王フェルナンド・アバスカル(英語版)の差し向けた王党派軍により鎮圧されたものの、同様の運動がすぐにラパス、カラカス、ブエノスアイレス、サンティアゴ・デ・チレ、サンタフェ・デ・ボゴタなど、大陸的な規模で勃発した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1810年代からコロンビア共和国とリオ・デ・ラ・プラタ連合州(現在のアルゼンチン)が主体となって南米大陸各地の解放が進むなかで、北のベネスエラからシモン・ボリーバルとアントニオ・ホセ・デ・スクレが、南のリオ・デ・ラ・プラタ連合州からホセ・デ・サン=マルティンの率いる解放軍がエクアドルに迫ると、各都市は再び独立を宣言。1822年のピチンチャの戦い(英語版)でスクレ将軍がスペイン軍を破ると、最終的に現在のエクアドルとなっている諸地域の解放が確定した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "こうして解放された現在のエクアドルに相当する地域はシモン・ボリーバルの采配により、「南部地区(Distrito del Sur)」としてコロンビアの一部に組み込まれたが、コロンビア内での内乱や混乱によりベネスエラが独立を宣言すると、南部地区も独立を画策し、1830年5月13日にコロンビアからの独立を宣言した。しかし、初代大統領になる予定だったスクレ元帥は暗殺され、同年8月10日にフアン・ホセ・フローレス(英語版)が初代大統領に就任した。ラテンアメリカ統合の夢に破れた解放者シモン・ボリーバルは、自らの行った政治的な行為が無為に終わったことを噛み締め、痛恨の内に死去した。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "独立後しばらくはヌエバ・グラナダ共和国との戦争や、エクアドル・ペルー領土紛争 (1857年 - 1860年)(スペイン語版、英語版)、保守派と自由派との間でのエクアドル内戦(グアヤキルの戦い(スペイン語版、英語版))など混乱が続いたが、1861年にガブリエル・ガルシア・モレノが政権を掌握すると、モレノは以降15年にわたる独裁政治を行った。モレノ時代にはカトリック教会を軸にした保守政治が進み、エクアドル共和国が「イエズスの聖心」に捧げられるなどの事件があったが、この時期に学校、軍隊、鉄道が整備された。また、インディオ共有地の保護などがなされた。1875年にモレノは暗殺された。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "このころからエクアドルはカカオを中心としたプランテーション経済により、世界経済に従属的な立場で組み込まれていったが、コスタでのプランテーションの発達は自由主義を求めるグアヤキルの資本家層の権力の拡大をもたらした。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "モレノの暗殺後、保守派と自由派による争いが続いたが、自由主義者のエロイ・アルファロ(英語版)が1895年に権力を掌握し、大統領に就任すると、以降自由主義的な政治が行われ、国家の世俗化が進んだ。アルファロは1912年に暗殺されたが、1925年までこの自由主義体制は継続した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1925年にシエラの勢力がクーデターを起こすと、政治的な権力の重心がグアヤキルからキトに移動した。しかし政治の混乱は続き、さらに1929年に始まった世界大恐慌によりエクアドル経済が大打撃を受けると、大衆がエクアドル政治に出現してきた。1933年にポプリスモ政策に訴えたホセ・マリア・ベラスコ・イバラが労働者からの圧倒的な支持を得て大統領に就任した。ベラスコ・イバラは1935年に失脚したが、その後40年間にわたり、エクアドル政治に大きな足跡を残すことになる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1941年にペルー軍がアマゾン地域を侵略し、エクアドル・ペルー戦争が勃発した。エクアドル軍はこの戦役に敗れ、アマゾン地域の20万 - 25万平方キロメートルの領土をリオデジャネイロ議定書で失うことになった。この戦争はこの後50年間におよびエクアドル・ペルーの両国関係を規定し、さらにはエクアドル人に国民的なアマゾンへの郷愁をもたらすことになった。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後、バナナブームにより一時的に経済的な発展がみられたものの、1960年ごろから政治的に不安定な情勢が続き、ベラスコ・イバラや軍人が大統領になる時期が続いた。またこのころから、失われたアマゾンへの郷愁により、エクアドルは「アマゾン国家」であるとする言説がみられるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "この状況を打破するために、ギジェルモ・ロドリゲス・ララ(スペイン語版、英語版)将軍が決起し、軍事評議会による革命的国民主義政権が樹立された。ロドリゲス将軍は外国資本、特に開発が進められていたアマゾン地域の石油の国有化を通してエクアドル経済の自立的発展や、農地改革を行い、キューバや東側諸国との友好関係を築き、1973年には石油輸出国機構(OPEC)に加盟するなど自主外交が行われた。こうした政策により自らの政治的な立場が危うくなる寡頭支配層と結んだ軍保守派が1976年にクーデターを起こすと、ロドリゲス将軍は失脚した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "新たに政権を握ったアルフレド・ポベダ・ブルバーノ(スペイン語版、英語版)海軍中将は保守化し、外資導入が再び進められた。また、1978年に新憲法草案が国民投票によって承認された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1979年にキリスト教民主主義の人民勢力結集党からハイメ・ロルドス・アギレーラ(スペイン語版)が当選して軍事政権から民政移管したが、エクアドルの民主政治は前途多難だった。1981年、ペルーとの紛争(en:Paquisha War)の最中にアギレーラは航空事故で死去し、副大統領のオズワルド・フルタド・ラレア(スペイン語版)が昇格。1984年の大統領選挙で当選したレオン・フェブレス・コルデーロ(英語版)は親米政権を推進したが、1987年の大地震によって多数の犠牲者を出したばかりか石油パイプラインも破壊されて経済的に苦境に陥った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "1992年にシスト・デュラン・バジェン(スペイン語版)が大統領に就任した。バジェンは1995年にアマゾンの係争地(石油埋蔵地)をめぐってペルーのアルベルト・フジモリ政権とセネパ紛争(英語版)を行ったが、敗北した。また、1993年にはロドリゲス将軍の時代に加盟した石油輸出国機構(OPEC)から脱退した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "1996年にはレバノン系のアブダラ・ブカラム(スペイン語版)が大統領に就任した。しかし、エクアドルにおける初のアラブ系大統領は奇行を繰り返したために失脚し、1998年に同じくレバノン系のハミル・マワ(スペイン語版)が大統領に就任した。マワは10月26日にブラジリア議定書でアマゾン地域を放棄することを認め、1942年以来続いたペルーとのアマゾン地域をめぐる国境紛争はエクアドルの敗北という形で幕を閉じた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "1998 - 1999年、銀行危機(Ecuador banking crisis)が発生した。財政再建策をめぐり国際通貨基金(IMF)との間で融資交渉が進んでいなかったこともあり、エクアドルは外貨資金を調達できないまま、1999年9月にブレイディ債がデフォルト(債務不履行)となり、さらにこの後にユーロ債や他の種類のブレイディ債もデフォルトした。債券を保有していた外国の機関投資家で、貸し倒れの特に大きい8機関が政府に対する顧問団を設立し、外貨準備と再生計画について説明を受けた。2000年1月5日、マワは非常事態宣言を行い、1月9日にそれまでの通貨だったスクレからアメリカ合衆国ドルに通貨を変更するドル化政策発表した。7月に政府はデフォルトした債権を単一の国際債に交換するという提案を公表した。同年9月にマワは失脚し、グスタボ・ノボア(英語版)が大統領に就任した。政治は安定せず、2003年には軍と先住民組織の支持により、ルシオ・グティエレス(英語版)が大統領に就任したが、2005年に失脚した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "2006年11月の大統領選挙で、ポプリスモ的な政策に訴えたラファエル・コレアが国民から圧倒的な支持を得て勝利し、2007年に大統領に就任した。コレアは反米を旗印に自主外交を進め、ベネスエラのチャベス政権をはじめとする世界の反米政権との友好的関係の構築や、石油出国機構(OPEC)への再加盟などに尽力した。2008年3月3日、コロンビアのウリベ親米政権が3月1日にコロンビア革命軍(FARC、反政府武装組織)征討作戦をエクアドル領内で行ったことに反発し、コロンビアに対して両国の外交関係を断絶することを通告し、公式発表した(アンデス危機)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2008年9月28日には、大統領の連続再選容認や、経済格差是正を柱とした憲法改正案が賛成多数で承認、公布された。2009年4月26日には大統領選挙および議会選挙を含む総選挙が行われ、コレア大統領が得票率50パーセント以上を得て圧勝し、再選された。新憲法は、社会的な変革や両性の平等、複数民族制などを取り入れている。また、米国の同盟国でなく、自主的な立場を明確にしてワシントン・コンセンサスや新自由主義政策と決別することにとどまらず、南米の統合で主導的な役割を果たし、エクアドルのキトに南米諸国連合の本部を建設した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2017年2月19日(1回目投票)、同年4月2日(2回目投票)の大統領選挙で当選したレニン・モレーノが、同年5月25日に大統領に就任した。コレア政権の副大統領を務め、コレア大統領から後継者として指名され、選挙時においても自らがコレア政権の後継者であるとして当選していたことから、反米左翼と反新自由主義を掲げたコレア路線を継続するとみられていた。しかしながら、モレーノ大統領が就任するなりエクアドル政府はそれまでの反米左翼色を親米右翼政策に180度転換し、コレア政権以前のワシントンコンセンサス重視の親グローバリズム・親米・反共・緊縮財政・新自由主義政策に回帰した。2018年3月には親米自由貿易の経済圏である太平洋同盟(加盟国=メキシコ、コロンビア、ペルー、チリ)に加盟した。一方、反米左翼政権のベネズエラとの関係は急速に悪化しており、2018年8月にはベネズエラ主導の米州ボリバル同盟(ALBA)から脱退した。2019年3月には南米諸国連合からも離脱し、チリのセバスティアン・ピニェラ大統領の主導で南米諸国連合に対抗する新たな地域連合として結成されたラテンアメリカの進歩と発展のためのフォーラム(英語版)(Prosur)に他の親米的な南米諸国とともに加盟した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2018年9月には経済破綻状態のベネズエラから近隣の南米諸国に流出する難民対策の国際会議を提唱。ブラジルやコロンビア、アルゼンチンなど南米諸国をキトに招待して国際会議を開き、「キト宣言」を発した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2018年10月18日にはベネズエラ大使を「ペルソナ・ノン・グラータ」に指定して国外追放に処した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2019年2月7日にはベネズエラ暫定大統領就任を宣言した反マドゥロ派のベネズエラ国会議長フアン・グアイドをベネズエラ大統領として承認した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2020年に入って世界中に拡大した2019新型コロナウイルスの感染はエクアドルにも波及。港湾都市のグアヤキルでは、感染を恐れて路上に多数の遺体が放置される出来事もあった。モレノ大統領は外出禁止令を敷く一方、感染拡大に対処する資金を捻出するため、大統領や閣僚、国会議員らの給与を5割削減することを明らかにした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2020年4月末の統計では、2万3000人近くが新型ウイルスに感染して約600人が死亡しているとされるが、グアヤス州では4月上旬の死亡者数が月平均の3倍超となっており、上振れする可能性がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2021年2月、任期満了に伴う大統領選挙が行われたが、いずれの候補者も過半数を得ることができず、同年4月11日に決選投票が行われることとなった。1位は約32%の票を集めた反米左派のコレア前大統領が推薦するアンドレス・アラウス元知識・人的能力調整相であったが、2位は先住民の市民運動家ヤク・ペレスと元銀行頭取のギジェルモ・ラソが横並びとなるが、ラソが2位となり、アラウスとラソとの決選投票の結果、ラソが52.4%を獲得し勝利した。ラソは11人きょうだいの末っ子で、証券取引所などで15歳ごろから働き始め、後に銀行やコカ・コーラ社現地法人の経営、グアヤス州知事、エクアドル政府経済相を務めた。政治姿勢や政策としては、左右の融和、自由主義経済と雇用による貧困対策を掲げている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "大統領を元首とする共和制国家である。行政権は大統領に属し、大統領の任期は4年で、以前は再選は禁止されていたが2008年の憲法改正で再選が可能となった。現行憲法は2008年憲法である。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "立法権は一院制の国民議会に属し、任期は4年、定数は137議席である。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "司法権は最高裁判所に属する。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "徴兵制が敷かれており、エクアドル軍は兵員約5万人を有している。エクアドル軍はエクアドル陸軍、エクアドル海軍、エクアドル空軍の三軍からなる。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "過去にペルーとの紛争でアマゾン流域の領土を併合されたことや、強権的な弾圧を行った軍事政権が少ないこと、主要な政治改革がおもにクーデターによって政権を握った軍部の革新派将校によって進められたことから、国民の軍への信頼は強い。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "コロンビアとの国境付近はコロンビア革命軍(FARC)の活動地域であり、危険である。また、エクアドル政府は2005年のグティエレス政権時代からFARCに庇護を与えていたが、このことが2008年のコレア政権下で再び発覚し、コロンビアとの外交問題になった。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "太平洋岸の港湾都市マンタにはアメリカ空軍の基地(マンタ空軍基地)が存在し、コロンビアへの枯葉剤散布作戦などを行っていたが、2009年9月に賃貸期限が切れ、政府も更新を認めなかったことから撤退した。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1942年のペルーとの戦争でアマゾン流域の広大な領土を併合されて以来、エクアドル・ペルー間には恒常的な緊張状態が続いていたが、1998年に和平合意が結ばれてからは、エクアドルがアマゾンの領有権主張を諦める形で両国の友好関係が再開した。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国との関係も大きく、2004年には二国間自由貿易協定(FTA)の成立を目指していたが、これは2006年のコレア政権の成立によって阻止された。また、1999年のパナマ運河返還に伴ってパナマの米軍基地が太平洋岸の港湾都市マンタに移動し、マンタ空軍基地から出撃するアメリカ空軍がコロンビアへの枯葉剤散布作戦などを行っていた。現在も多くのエクアドル人がアメリカ合衆国に出稼ぎに行っている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "欧州連合(EU)の関係も重要であり、スペインやイタリアに多くのエクアドル人が出稼ぎに出ている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2008年のデフォルトから接近した中華人民共和国はコレア政権時代にエクアドル最大の債権国となり、中国からの融資でエクアドルの財政支出の6割は賄われるようになり、エクアドルの原油は9割が中国に輸出された。また、中国から武器の購入も進め、中国の援助でエクアドル初の人工衛星「NEE-01 ペガソ(英語版)」を打ち上げたほか、エクアドル最大のコカ・コド・シンクレル水力発電所などを建設。さらに中国の協力で大規模な監視システムであるECU911を構築してエクアドルは監視社会となった。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "エクアドルは2017年にモレーノが大統領に就任してから親米右翼路線に転換、反米左翼政権のベネズエラとの関係が極度に悪化している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2022年には日本など太平洋諸国によるTPPに加盟を申請。2023年5月10日には中国との自由貿易協定(FTA)に署名した。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "22の県(provincia、州と訳されることもある)に分かれる。地方行政は中央集権体制がとられており、各県知事は大統領が任命する。\"-\" の右側は県都。",
"title": "地方行政区分"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "主要な都市はキト(首都)、グアヤキルがある。",
"title": "地方行政区分"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "エクアドルは赤道直下にあり、北にコロンビア、東と南にペルーと国境を接し、西は太平洋に面する。本土から西に1,000キロメートルほど離れた太平洋上にガラパゴス諸島を領有する。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "本土は標高によって三地域に分かれる。中央のアンデス山脈が縦断している地域をシエラ(La Sierra)、太平洋岸の亜熱帯低地をコスタ(La Costa)、東部のアマゾン川上流熱帯雨林が広がる地域をオリエンテ(El Oriente)と呼ぶ。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "国内中央のシエラをアンデス山脈が南北に貫き、アンデス山脈は西部のオクシデンタル山脈(英語版)、東部のオリエンタル山脈(英語版)、および両山脈の間に位置する10の主要盆地よりなる。国内最高峰はオクシデンタル山脈のチンボラソ山(6,267メートル)である。いくつかの火山が現在も活動している。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "基本的に赤道直下の熱帯だが、シエラは標高が高く、またコスタも寒流であるペルー海流(フンボルト海流)の影響により、過ごしやすい気候になっている。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2021年の名目GDP(国内総生産)は1,061億6,587万ドルで、これは2021年世界GDPランキングの64位である。2021年のGDP成長率は、4.2%と大幅に上昇した。これは前年のコロナ禍と原油価格下落の影響で-7.8%の成長率となったことに影響されており、異例な上昇率となった。アンデス共同体の加盟国、メルコスールの準加盟国である。2000年からエクアドルは自国の通貨をスクレからアメリカ合衆国ドルに切り替えた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1999年のブラジル通貨危機の影響により、翌年2000年米ドルを法定通貨に採用した。中南米のいくつかの国ではこのような「ドル化」が定着している。エクアドルの場合、1999年に通貨スクレの信認が失われ為替相場が急落したため、2000年1月に1ドル=25,000スクレの固定相場制を導入し、同年9月には通貨スクレを放棄し米ドルを法定通貨とした。これは非常に短期間のうちに緊急対応的に実施された。ドル化を実施して以降、エクアドルのインフレ率は急速に低下し経済は安定的に推移している。しかし、その代償として自国通貨を放棄したことで独自の金融政策が実施できなくなり、エクアドル経済は米当局の都合で決まる金融政策に左右されることとなった。また、当時のエクアドルのコレア政権は、政治的に反米左翼だったにもかかわらず、自国通貨を放棄してでも物価と経済の安定を優先した非常に危機的状況だったことがわかる。なお、その後2017年に就任したモレノ大統領、2021年就任のラソ大統領はアメリカとの関係を重視しており、特にラソ大統領はIMFなどの国際金融機関との協調路線を継続し、ドル化経済を維持していくとしているとしている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "エクアドルは農業国だが、生産が輸出商品作物の栽培に偏っていることや農地の所有制度に問題が残ることなどから、必ずしも国民の生活・福祉を支えるものとはなっていない。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "農地の地域分布は山地と海岸平野に二分される。降水量が少ないため農業に適さない山地で主食となる米やトウモロコシ、肥沃な海岸平野ではカカオ、コーヒー、サトウキビ、バナナなどの商品作物を栽培する。このため、輸出に占める農産物の割合が5割を超えているにもかかわらず、食糧を輸入している。大土地所有制度の弊害は大きく、人口のわずか1パーセントを占めるに過ぎない所有者が農地の4割を所有し、土地なし農民や一種の農奴として働く農民が少なくない。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "しかし、2007年には革新政権が誕生し、続く2008年9月に国民投票で承認された新憲法は、食料主権を確立するために大土地所有制を禁止した。それを受けて、2009年7月に2年以上未使用の土地は政府が接収できるとする政令が発効した。それにより政府は、企業や大土地利用者が所有している未使用地を小規模農家に配分し始めた。2009年12月20日、政府は北西部地域に住む農家約1850世帯に対して、合計1万2,000ヘクタールの未使用地の所有権を譲り渡した。この土地は大手銀行が所有していたが、1999年に銀行が倒産したあとは放置されていたものである。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "主食となる作物は、米(138万トン、以下2005年)、トウモロコシ(75万トン)、ばれいしょ(42万トン)、キャッサバ(12万トン)が主力。商品作物では、世界第4位のバナナ(588万トン、世界シェア8.1パーセント)、同7位のカカオ(14万トン、3.6パーセント)、コーヒー(10万トン、1.3パーセント)。世界シェアは低いもののサトウキビの生産量は566万トンに達し、単一の作物としてはバナナに次ぐ。畜産業は馬に集中している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "また、エクアドル沖は好漁場であり、コスタではエビ、マングローブガニが水揚げ、ガラパゴス沖ではマグロなどが漁獲されている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "鉱業は農業、漁業と並んでエクアドル経済を支える3本柱の一つである。埋蔵量が減少しているとはいえ、有機鉱物資源、特に石油は1920年代に開発されて以来エクアドルの主産業となり、2003年時点で輸出額の39.3パーセントを占める最大品目である。東部のオレリャナ州の油田が有力。エクアドル政府は石油が貴重な外貨獲得源であると考えており、火力発電を規制し、地形を生かした水力発電に投資している。2011年では、水力発電が発電量の58パーセントを占めており、火力発電は34パーセントでしかない。2016年には水力発電の比率を93.5パーセントにすることを目標としている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "エクアドルの油田の問題点は、主要な油田がアンデス山脈の東側に位置しながら、輸出のためには山脈の西側の港湾まで輸送しなければならないことである。輸送にはパイプラインを用いているが、地震国でもあるため、いったん損傷が起こると輸出が停止してしまう。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "有機鉱物資源の品目では、石油(2,046万トン、2002年)に偏っており、天然ガス(6.8千兆ジュール)が次ぐ。石炭は採掘されていない。金属鉱物資源の種類は多く、亜鉛(100トン)、金(11トン)、銀(2トン)、銅(100トン)、鉛(200トン)のほか、錫やビスマスも確認されている。ただし、鉱業として成立しているとは言いがたい。その他の鉱物資源としては塩(9万トン)がある。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 66,
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"text": "2021年時点で、エクアドルの主要輸出相手国は上位から、米国(24.0%)、中国(15.3%)、パナマ(14.9%)である。主要輸出品目は、上位に原油(27.3%)で、次にエビ(19.9%)、バナナ(13.1%)といった農林水産物となっている。以前は輸出の半分以上が原油であったが、近年非石油部門を強化し、EU以外の欧州、アジア・オセアニアなど輸出先を増やしている。2015年、原油価格低下により国際収支が悪化し、政府は次のような一連の保護主義的措置を導入した。自動車の輸入総量規制の強化、588 品目について関税率引き上げ、全輸入品に対し 5~45%の追加関税を課すなど。なお、エクアドルの2021年の石油産出量は、2,535万トンで、世界第29位となっている。",
"title": "経済"
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"text": "2021年のエクアドルへの日本の輸出は約478億円、エクアドルからの輸入は約1,392億円で日本の貿易赤字となっている。主な輸出品目は、熱延銅板(22.2%)などの工業品、乗用車も輸出しており(11.6%)となっている。輸入品目は上位から(78.8%)、バナナ(8.6%)、冷凍野菜(5.4%)などだ。また、日系企業の進出状況は2020年10月時点で19社、在留邦人数は301人と少ない。",
"title": "経済"
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"text": "キト、クエンカの歴史的な町並みや、アマゾンでのエコツアーが多くの観光客を惹きつけているが、エクアドルの観光地として特筆されるのはやはり、多様な生態系で知られるガラパゴス諸島である。また、「リタイア後に移住したい国ランキング」世界1位であり、理由として過ごしやすい気候、高度で安い医療費、物価の安さが挙げられ、リタイヤメントビザでの北米からの移住者が約4,000人いる。",
"title": "経済"
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"text": "首都キトにメトロ、バスと鉄道が通る。同国最大の都市であるグアヤキルにもバスがある。ドゥランに鉄道駅がある。",
"title": "経済"
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"text": "エクアドルは非常に多様性に富んだ国である。2007年の時点では、国内で最も多い民族集団は国民の67パーセントを占めるメスティーソであり、2番目に多いのは22パーセントを占めるインディヘナとなり、白人が12パーセント、ムラートやサンボを含んだアフリカ系エクアドル人が8パーセントを占める。また、特にイタリア、スペイン、アメリカ合衆国、カナダ、日本(在日エクアドル人)には出稼ぎエクアドル人のコミュニティがあり、2007年の時点で約250万人のエクアドル人が海外で暮らしていると推測されている。国民の多くはコスタやシエラに住み、オリエンテには国民の3 - 5パーセントほどしか居住していない。エクアドルの移民の出身地としてはスペイン、フランス、ドイツ、レバノン(レバノン系エクアドル人)、イタリアなどが挙げられる。",
"title": "国民"
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"text": "1950年の調査で約327万人となり、1970年のセンサスでは888万4,768人、1983年年央推計では約1,168万人になった。",
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"text": "公用語はスペイン語のみであるが、インディヘナによりケチュア語(キチュア語(英語版))、シュアール語(スペイン語版、英語版)が話され、特にケチュア語は「統一ケチュア語」が制定されて学校教育でも教えられている。また、オリエンテのアマゾン低地に住む先住民によって多様な言語が使用されている",
"title": "国民"
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"text": "カトリック教徒が国民の80パーセントであるが、近年、先住民社会を中心にプロテスタントの数が増加しつつある。ほかにはユダヤ教やイスラーム教を信仰するものが少数存在する。ユダヤ人にはセファルディムが多い。",
"title": "国民"
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"text": "カトリックの影響が根強く存在し、エクアドルでは妊娠中絶が強く反対されている。現状では、母親の命に重篤な危険があるときか、精神障害のある女性がレイプされたことによる妊娠しか中絶が認められていない。2019年9月には、エクアドルの首都キトにある国会前で、レイプ被害者や近親相姦に対する中絶規制を緩和する法改正案が否決されたことに対し、デモが起こっている。",
"title": "国民"
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"text": "5歳から14歳までを対象に、1年間の就学前教育、6年間の初等教育、3年間の前期中等教育からなる10年間の義務教育制度が敷かれる。義務教育が終わると、3年間の後期中等教育(高校)があり、高校を卒業すると高等教育(大学)への道が開ける。",
"title": "国民"
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"text": "エクアドルの教育水準は決して高いとはいえない。その理由としては、就学率の低さと義務教育期間における留年率と退学率の高さが挙げられる。2001年のセンサスによれば、15歳以上の人口の識字率は91パーセント(男性92.3パーセント、女性89.7パーセント)である。",
"title": "国民"
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"text": "主な高等教育機関としてはエクアドル中央大学(英語版)(1826年創設)、グアヤキル大学(1867年創設)、クエンカ大学(1868年創設)などが挙げられる。",
"title": "国民"
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{
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"text": "1980年代以降、先住民が教育文化省内に「異文化間二言語教育局」を設置し、スペイン語と先住民言語(おもにケチュア語、シュアール語)による二言語教育が実施されており、スペイン語と先住民言語の双方を習得した先住民子弟の教育に力が注がれている。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 79,
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"text": "殺人発生率は世界で18位にランクインするほど治安が悪かったが、徐々に改善されていき、2017年は57位まで下がった。現在、南米の中ではチリ、アルゼンチンに次いで3番目に発生率が低くなっており、南米の中では比較的治安が安定している。",
"title": "国民"
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"text": "地形の多様性に伴い、食文化も地域によって異なる。さらに、先住民の食文化と中華料理やスペイン料理、イタリア料理、フランス料理、ファストフードなどの世界各国からの移民や黒人の食文化が融合し、エクアドルの食文化は非常に地方色豊かとなっている。ただし、エクアドルはケチュア系の人々が多く暮らす国ではあるが、ペルー、ボリビアとは違ってエクアドルではコカ栽培は非合法であるため、コカ茶は飲めない。",
"title": "文化"
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"text": "コスタでは主に米、バナナ、ユカイモ、魚、エビ、貝類などを主食としている。中でも有名なのがセビッチェといわれる、冷たいエビや貝などのスープであり、ペルーのそれとは名前が同じだけで味は異なる。日常的なものの一つにはセコ・デ・ポロと呼ばれる、鶏肉をコメとアボカドのスライスとともに煮込んだ料理がある。その他にもアロス・コン・ポジョやアロス・コン・マリネーロなど、周辺国と似た料理が食べられている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 82,
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"text": "シエラでは芋やトウモロコシを主食とし、牛、豚などを飼ったり、ミルクを売ったり食べたりして生活している。海産物はめったに手に入らない。クイと呼ばれる天竺鼠の一種を食べる習慣がある。シエラの料理で代表的なものは豚肉のフリターダや羊肉のセコ・デ・チーボ、スープのロクロなどの名が挙げられる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "オリエンテにもユカイモを軸にした独自の食文化が存在する。乾燥したトウモロコシをゆで塩で炒め、鶏卵・牛乳・ネギで炒めた「モテ・ピージョ」、トウモロコシを寒冷地で干して豚のラードで炒る「トースタッド」、粗挽きトウモロコシを皮に包み蒸した「ウミータス」という料理がある。",
"title": "文化"
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{
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"tag": "p",
"text": "エクアドルの文学は先住民の口承文学に伝統を持ち、スペイン人による征服以後も独自の発展を遂げた。独立前後の作家としては、エウヘニオ・エスペホ、ホセ・ホアキン・オルメド、フアン・モンタルボなどが有名である。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "エクアドルにおける小説はミゲル・リオ・フリオの『解放された女』(1863年)によって始まった。ロマン主義の時代にはインディオをテーマにした『クマンダー』(1879年)のフアン・レオン・メラの名が特に挙げられる。エクアドルの近代小説は、シエラからコスタのプランテーションに向かう人々を描いたルイス・マルティネスの『海岸へ』(1904年)が出発点になった。フェルナンド・チャベスの『銀と青銅』(1927年)によって、エクアドルでもインディヘニスモ文学が始まった。のちに国際的にもっともよく知られたエクアドルの小説となったホルヘ・イカサの『ワシプンゴ』(1934年)では、土地を追われ、政府軍によって殺戮される悲惨さの極致としてインディオが描かれた。イカサとは対照的に、ウンベルト・マタが『塩』(1937年)で描いたインディオは、政府軍に対しての抵抗は失敗するものの、イカサのインディオ像には欠けていた人間の尊厳を持ち合わせていた。",
"title": "文化"
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"text": "キューバ革命後のラテンアメリカでは魔術的リアリズムが影響力を持ったが、エクアドルもその例外ではなかった。1970年代以降の現代小説においては、『マルクスと裸の女の間に』(1976)でフリオ・コルタサルに勝るとまでの反響を得たホルヘ・エンリケ・アドウムや、ベラスコ・マッケンジー、アリシア・ヤネス・コシーオ、『鷲はなぜ飛び去ってしまったのか』(1979年)でアメリカ留学帰りのインディオエリート知識人のアイデンティティの葛藤を描いたグスタボ・アルフレド・ハコメ、『塵と灰』(1979年)でピカレスクを義賊として描いたエリエセル・カルデナスなどが有名である。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "エクアドルの音楽は、シエラの先住民系音楽、メスティーソ音楽、アフリカ系音楽に三大別される。また、ニューヨーク生まれのサルサや、コロンビア生まれのクンビア、バジェナート、ベネズエラ経由でもたらされたメレンゲなども広く愛好されている。",
"title": "文化"
},
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"paragraph_id": 88,
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"text": "エクアドル国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が2件存在する。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "エクアドルでも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1957年にプロサッカーリーグのエクアドル・セリエAが創設された。主なクラブとしては、FIFAクラブワールドカップの2008年大会で準優勝に輝いたLDUキトや、コパ・リベルタドーレスで2度の準優勝経験をもつバルセロナSCなどがある。他にもエル・ナシオナルやエメレクなどが挙げられる。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "エクアドルサッカー連盟(FEF)によって構成されるサッカーエクアドル代表は、FIFAワールドカップには3度の出場歴があり、2006年大会ではベスト16の成績を収めた。コパ・アメリカでは、1959年大会と1993年大会でベスト4になった事もある。著名な選手としては、アレックス・アギナガやマンチェスター・ユナイテッドで10年に渡って活躍し続け、同クラブのキャプテンを勤めたアントニオ・バレンシア、イギリス史上最高額でチェルシーに移籍したモイセス・カイセドがいる。",
"title": "スポーツ"
}
] | エクアドル共和国(エクアドルきょうわこく、、通称エクアドルは、南アメリカ大陸北西部に位置する共和制国家。北にコロンビア、東と南にペルーと国境を接し、西は太平洋に面する。本土から西に1,000キロメートルほど離れたところにガラパゴス諸島を領有する。首都はキトで、最大の都市はグアヤキルである。なお、国名のエクアドルはスペイン語で「赤道」を意味する。 | {{基礎情報 国
| 略名 =エクアドル
| 日本語国名 =エクアドル共和国
| 公式国名 ={{Lang|es|'''República del Ecuador'''}}
| 国旗画像 =Flag of Ecuador.svg
| 国章画像 =[[ファイル:Coat_of_arms_of_Ecuador.svg|100px|エクアドルの国章]]
| 国章リンク =([[エクアドルの国章|国章]])
| 標語 =[[神、祖国と自由|{{Lang|es|Dios, patria y libertad}}]]{{es icon}}<br />''神、祖国と自由''
| 位置画像 =Ecuador (orthographic projection).svg
| 公用語 =[[スペイン語]]
| 首都 =[[キト]]
| 最大都市 =[[グアヤキル]]
| 元首等肩書 =[[エクアドルの大統領|大統領]]
| 元首等氏名 =[[ダニエル・ノボア]]
| 首相等肩書 =[[w:Vice President of Ecuador|副大統領]]
| 首相等氏名 ={{ill2|ベロニカ・アバド|en|Verónica Abad Rojas}}
| 面積順位 =71
| 面積大きさ =1 E11
| 面積値 =283,560
| 水面積率 =2.4%
| 人口統計年 =2020
| 人口順位 =67
| 人口大きさ =1 E7
| 人口値 =17,643,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/ec.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-11 }}</ref>
| 人口密度値 =71<ref name=population/>
| GDP統計年元 =2020
| GDP値元 =988億800万<ref name="imf2020">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=248,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate=2021-10-18}}</ref>
| GDP統計年MER =2020
| GDP順位MER =63
| GDP値MER =988億800万<ref name="imf2020" />
| GDP MER/人 =5642.74<ref name="imf2020" />
| GDP統計年 =2020
| GDP順位 =64
| GDP値 =1922億1900万<ref name="imf2020" />
| GDP/人 =10977.259<ref name="imf2020" />
| 建国形態 =[[国家の独立|独立]]<br /> - 日付
| 建国年月日 =[[スペイン]]から<br />[[1822年]][[5月24日]]
| 通貨 =[[米ドル]]
| 通貨コード =USD
| 時間帯 =(-5)
| 夏時間 =なし
| 国歌 =[[万歳、おお祖国よ|{{lang|es|¡Salve, Oh Patria!}}]]{{es icon}}<br>''万歳、おお祖国よ''<br><center>[[ファイル:Anthem of Ecuador.ogg]]
| ISO 3166-1 = EC / ECU
| ccTLD =[[.ec]]
| 国際電話番号 =593
| 注記 =
}}
{{読み仮名|'''エクアドル共和国'''|エクアドルきょうわこく|{{Lang-es|República del Ecuador}}}}、通称'''エクアドル'''は、[[南アメリカ大陸]]北西部に位置する[[共和制]][[国家]]。北に[[コロンビア]]、東と南に[[ペルー]]と国境を接し、西は[[太平洋]]に面する。本土から西に1,000キロメートルほど離れたところに[[ガラパゴス諸島]]([[スペイン語]]ではコロン諸島:{{Lang|es|Archipiélago de Colón}})を領有する。首都は[[キト]]で、最大の都市は[[グアヤキル]]である。なお、国名のエクアドルはスペイン語で「[[赤道]]」を意味する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol167/index.html |title=外務省 エクアドルという国-日本・エクアドル外交関係樹立100周年 |publisher=[[日本国外務省]] |accessdate=2018-08-20}}</ref>。
== 国名 ==
正式名称は[[スペイン語]]で{{Lang|es|República del Ecuador}}。通称{{Lang|es|Ecuador}} {{IPA-es|ekwaˈðor|}}。
公式の[[英語]]表記は{{Lang|en|Republic of Ecuador}}。通称{{Lang|en|Ecuador}} {{IPA-en|ˈɛkwədɔːr|}}。
[[日本語]]の表記は'''エクアドル共和国'''。通称'''エクアドル'''。
漢字表記は'''厄瓜多'''。
国名はこの国を通る[[赤道]](スペイン語で{{Lang|es|Ecuador terrestre}})に由来する。[[スペイン帝国]]による[[植民地]]時代には現在のエクアドルの領域は[[ペルー副王領]]の一部であり、独立戦争中に[[シモン・ボリーバル]]の采配によってコロンビア共和国([[大コロンビア]])に併合された後は「南部地区({{Lang|es|Distrito del sur}})」と呼ばれていた。1830年にコロンビア共和国から分離独立する際に、キト共和国と名乗ることは他の諸都市の反発を招くことが予想されたため、キト直下を通る赤道から名前をとり、エクアドルという名前で諸地域の妥協がなされた。
== 歴史 ==
{{main|エクアドルの歴史}}
=== 先コロンブス期 ===
{{See also|先コロンブス期|{{仮リンク|バルディヴィア文化|es|Cultura Valdivia|en|Valdivia culture}}}}
現在のエクアドル共和国に相当する地域には紀元前1万年ごろの人類の生存が確認されており、その後、様々な古代文明が栄えた。紀元700年から16世紀半ばまでを統合期と呼び、身分制、首長制を基盤とし、祭祀センターを備えた社会構造が存在したことが明らかになっている。
=== インカ帝国時代 ===
[[ファイル:Ataw_Wallpa_portrait.jpg|thumb|left|160px|キトの皇帝[[アタワルパ]]]]
[[ファイル:Ecuador ingapirca inca ruins.jpg|thumb|220px|{{仮リンク|インガピルカ|es|Ingapirca|en|Ingapirca}}の遺跡。]]
このような諸文化は最終的に、[[15世紀]]半ばに[[クスコ]]を拠点に急速に拡大していた[[インカ帝国|タワンティン・スウユ]]({{lang-qu|Tawantin Suyu}}、[[インカ帝国]])の皇帝[[トゥパク・インカ・ユパンキ]]の遠征によって征服され、[[キト]]はクスコに次ぐ帝国第二の都市として栄えた。
[[クリストファー・コロンブス]]率いる船団の[[アメリカ大陸の発見|アメリカ大陸到達]](1492年)以降、[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化]]の脅威はインカ帝国に及んだ。皇帝[[ワイナ・カパック]]が、[[スペイン人]]によって[[パナマ]]からもたらされた[[ヨーロッパ]]の疫病で1527年に病死すると、キトで育った皇帝[[アタワルパ]]は皇位継承権などをめぐってクスコの[[ワスカル]]と{{仮リンク|インカ帝国内戦|es|Guerra civil incaica|en|Inca Civil War|label=内戦}}(1529年 - 1532年)を戦い勝利したが、疲弊した帝国にまもなく上陸するスペイン人との戦いを余儀なくされた。
=== スペイン植民地時代 ===
1531年にスペイン出身の[[コンキスタドール]]の一群を率いてインカ帝国に上陸した[[フランシスコ・ピサロ]]は、優れた火器や馬を用いてインカ人との戦いを有利に進め、1532年にアタワルパを捕虜にし、[[1533年]]にタワンティン・スウユを滅ぼした。
スペイン人による征服後、現在のエクアドルに相当する地域は[[ペルー副王領]]に編入され、[[リマ]]の統治を受けることになった。1563年にはキトに[[アウディエンシア]]が設置された。1717年に[[ボゴタ|サンタフェ・デ・ボゴタ]]を中心に[[ヌエバ・グラナダ副王領]]が設立されると、エクアドルはこの副王領に組み込まれたが、1722年には再びペルー副王領に組み込まれた。
征服と植民地化による疫病や、[[ミタ制]]による酷使により、[[インディオ]]人口は植民地時代に大きく減少し、労働力を補填するために[[アフリカ]]から[[黒人]][[奴隷]]が連行された。その一方でスペイン系の[[クリオージョ]]が社会の[[寡頭制|寡頭支配層]]となり、[[メスティーソ]](混血者)や、故郷の土地を離れて流浪するインディオなどの境界的な階層も出現するようになった。また、住人の[[カトリック教会|カトリック]]化も進んだ。
=== 独立戦争と保守支配 ===
{{main|{{仮リンク|エクアドル独立戦争|en|Ecuadorian War of Independence}}}}
{{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立}}
[[ファイル:Bolivar Arturo Michelena.jpg|thumb|upright|[[ラテンアメリカ]]諸国の[[解放者]][[シモン・ボリーバル]]。]]
[[ファイル:Gran marical de ayacucho.jpg|thumb|left|160px|ボリーバルの最も優秀な部下だった[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]][[元帥]]。スクレはキトをこよなく愛した。]]
[[ファイル:gabrielgarciamoreno.jpg|thumb|upright|[[ガブリエル・ガルシア・モレノ]]は保守政治家としてエクアドルの近代化と、インディオ共有地の保護などに努めた。]]
1789年に勃発した[[フランス革命]]に続く[[ナポレオン戦争]]により、ヨーロッパ大陸では[[フランス第一帝政]]が覇権を一時握った。1808年に[[フランス皇帝]][[ナポレオン1世]]が兄の[[ジョゼフ・ボナパルト]]を[[スペイン王]]ホセ1世として即位させると、それに反発する住民蜂起を契機に[[スペイン独立戦争]]が勃発した。インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。
1809年8月10日にキトの革命評議会により、[[イスパノアメリカ]]初の自治運動が勃発した。この自治運動はペルー副王{{仮リンク|ホセ・フェルナンド・デ・アバスカル・イ・ソーザ|en|José Fernando de Abascal y Sousa|label=フェルナンド・アバスカル}}の差し向けた王党派軍により鎮圧されたものの、同様の運動がすぐに[[ラパス]]、[[カラカス]]、[[ブエノスアイレス]]、[[サンティアゴ・デ・チレ]]、[[ボゴタ|サンタフェ・デ・ボゴタ]]など、大陸的な規模で勃発した。
1810年代から[[大コロンビア|コロンビア共和国]]と[[リオ・デ・ラ・プラタ連合州]](現在の[[アルゼンチン]])が主体となって南米大陸各地の解放が進むなかで、北の[[ベネスエラ]]から[[シモン・ボリーバル]]と[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]が、南のリオ・デ・ラ・プラタ連合州から[[ホセ・デ・サン=マルティン]]の率いる解放軍がエクアドルに迫ると、各都市は再び独立を宣言。1822年の{{仮リンク|ピチンチャの戦い|en|Battle of Pichincha}}でスクレ将軍がスペイン軍を破ると、最終的に現在のエクアドルとなっている諸地域の解放が確定した。
こうして解放された現在のエクアドルに相当する地域はシモン・ボリーバルの采配により、「南部地区(Distrito del Sur)」としてコロンビアの一部に組み込まれたが、コロンビア内での内乱や混乱によりベネスエラが独立を宣言すると、南部地区も独立を画策し、1830年5月13日にコロンビアからの独立を宣言した。しかし、初代大統領になる予定だったスクレ元帥は暗殺され、同年8月10日に{{仮リンク|フアン・ホセ・フローレス|en|Juan José Flores}}が初代大統領に就任した。ラテンアメリカ統合の夢に破れた解放者シモン・ボリーバルは、自らの行った政治的な行為が無為に終わったことを噛み締め、痛恨の内に死去した。
独立後しばらくは[[ヌエバ・グラナダ共和国]]との戦争や、{{仮リンク|エクアドル・ペルー戦争 (1858年 - 1860年)|es|Guerra peruano-ecuatoriana (1858-1860)|en|Ecuadorian–Peruvian war of 1858|label=エクアドル・ペルー領土紛争 (1857年 - 1860年)}}、保守派と自由派との間での[[エクアドル内戦]]({{仮リンク|グアヤキルの戦い|es|Batalla de Guayaquil|en|Battle of Guayaquil}})など混乱が続いたが、[[1861年]]に[[ガブリエル・ガルシア・モレノ]]が政権を掌握すると、モレノは以降15年にわたる独裁政治を行った。モレノ時代にはカトリック教会を軸にした保守政治が進み、エクアドル共和国が「[[イエス・キリスト|イエズス]]の聖心」に捧げられるなどの事件があったが、この時期に学校、[[エクアドルの軍事|軍隊]]、[[エクアドルの鉄道|鉄道]]が整備された。また、インディオ共有地の保護などがなされた。1875年にモレノは暗殺された。
=== 自由主義革命 ===
[[ファイル:Eloy Alfaro.JPG|thumb|upright|left|自由主義者 {{仮リンク|エロイ・アルファロ|en|Eloy Alfaro}}]]
このころからエクアドルは[[カカオ]]を中心とした[[プランテーション]]経済により、世界経済に従属的な立場で組み込まれていったが、コスタでのプランテーションの発達は自由主義を求める[[グアヤキル]]の資本家層の権力の拡大をもたらした。
モレノの暗殺後、保守派と自由派による争いが続いたが、自由主義者の{{仮リンク|エロイ・アルファロ|en|Eloy Alfaro}}が1895年に権力を掌握し、大統領に就任すると、以降自由主義的な政治が行われ、国家の世俗化が進んだ。アルファロは1912年に暗殺されたが、1925年までこの自由主義体制は継続した。
=== 軍政とポプリスモ ===
1925年にシエラの勢力がクーデターを起こすと、政治的な権力の重心がグアヤキルからキトに移動した。しかし政治の混乱は続き、さらに1929年に始まった[[世界大恐慌]]によりエクアドル経済が大打撃を受けると、大衆がエクアドル政治に出現してきた。[[1933年]]に[[ポプリスモ]]政策に訴えた[[ホセ・マリア・ベラスコ・イバラ]]が労働者からの圧倒的な支持を得て大統領に就任した。ベラスコ・イバラは1935年に失脚したが、その後40年間にわたり、エクアドル政治に大きな足跡を残すことになる。
1941年に[[ペルー軍]]が[[アマゾン熱帯雨林|アマゾン]]地域を侵略し、[[エクアドル・ペルー戦争 (1941年-1942年)|エクアドル・ペルー戦争]]が勃発した。エクアドル軍はこの戦役に敗れ、アマゾン地域の20万 - 25万[[平方キロメートル]]の領土を[[リオデジャネイロ議定書]]で失うことになった。この戦争はこの後50年間におよびエクアドル・ペルーの両国関係を規定し、さらにはエクアドル人に国民的なアマゾンへの郷愁をもたらすことになった。
[[第二次世界大戦]]後、[[バナナ]]ブームにより一時的に経済的な発展がみられたものの、1960年ごろから政治的に不安定な情勢が続き、ベラスコ・イバラや軍人が大統領になる時期が続いた。またこのころから、失われたアマゾンへの郷愁により、エクアドルは「アマゾン国家」であるとする言説がみられるようになった。
=== 革新的軍事政権 ===
{{Main|コンドル作戦}}
[[ファイル:Guillermo Rodriguez (Ecuador).jpg|サムネイル|ロドリゲス・ララ政権下では石油会社の国有化や農地改革が行われたが、クーデターで打倒された。]]
この状況を打破するために、{{仮リンク|ギジェルモ・ロドリゲス・ララ|es|Guillermo Rodríguez Lara|en|Guillermo Rodríguez (politician)}}将軍が決起し、軍事評議会による革命的国民主義政権が樹立された。ロドリゲス将軍は外国資本、特に開発が進められていたアマゾン地域の[[石油]]の国有化を通してエクアドル経済の自立的発展や、農地改革を行い、[[キューバ]]や[[東側諸国]]との友好関係を築き、1973年には[[石油輸出国機構]](OPEC)に加盟するなど自主外交が行われた。こうした政策により自らの政治的な立場が危うくなる寡頭支配層と結んだ軍保守派が1976年に[[クーデター]]を起こすと、ロドリゲス将軍は失脚した。
新たに政権を握った{{仮リンク|アルフレド・ポベダ・ブルバーノ|es|Alfredo Poveda|en|Alfredo Poveda}}[[エクアドル海軍|海軍]][[中将]]は保守化し、外資導入が再び進められた。また、[[1978年]]に新憲法草案が国民投票によって承認された。
=== 民政移管以降 (1990年代) ===
[[ファイル:Jaime Roldós Aguilera.png|サムネイル|民政移管に伴いロルドス・アギレーラ政権が成立したが、航空事故によって中断した。]]
[[1979年]]にキリスト教民主主義の人民勢力結集党から{{仮リンク|ハイメ・ロルドス・アギレーラ|es|Jaime Roldós Aguilera}}が当選して軍事政権から民政移管したが、エクアドルの民主政治は前途多難だった。[[1981年]]、ペルーとの紛争([[:en:Paquisha War]])の最中にアギレーラは航空事故で死去し、副大統領の{{仮リンク|オズワルド・フルタド・ラレア|es|Osvaldo Hurtado Larrea}}が昇格。[[1984年]]の大統領選挙で当選した{{仮リンク|レオン・フェブレス・コルデーロ|en|León Febres Cordero}}は[[親米]]政権を推進したが、[[1987年]]の大地震によって多数の犠牲者を出したばかりか石油[[パイプライン輸送|パイプライン]]も破壊されて経済的に苦境に陥った。
[[1992年]]に{{仮リンク|シスト・デュラン・バジェン|es|Sixto Durán Ballén}}が大統領に就任した。バジェンは1995年にアマゾンの係争地(石油埋蔵地)をめぐってペルーの[[アルベルト・フジモリ]]政権と{{仮リンク|セネパ戦争|en|Cenepa War|label=セネパ紛争}}を行ったが、敗北した。また、1993年にはロドリゲス将軍の時代に加盟した石油輸出国機構(OPEC)から脱退した。
1996年には[[レバノン系エクアドル人|レバノン系]]の{{仮リンク|アブダラ・ブカラム|es|Abdalá Bucaram}}が大統領に就任した。しかし、エクアドルにおける初の[[アラブ人|アラブ系]]大統領は奇行を繰り返したために失脚し、1998年に同じくレバノン系の{{仮リンク|ハミル・マワ|es|Jamil Mahuad}}が大統領に就任した。マワは10月26日に[[ブラジリア議定書]]でアマゾン地域を放棄することを認め、1942年以来続いたペルーとのアマゾン地域をめぐる国境紛争はエクアドルの敗北という形で幕を閉じた。
===2000年代===
[[File:JamilMahuad.jpg|thumb|upright|銀行危機が原因となってハミル・マワ大統領は退陣に追い込まれた]]
1998 - 1999年、銀行危機([[:en:1998–99 Ecuador banking crisis|Ecuador banking crisis]])が発生した。財政再建策をめぐり[[国際通貨基金]](IMF)との間で融資交渉が進んでいなかったこともあり、エクアドルは外貨資金を調達できないまま、1999年9月にブレイディ債がデフォルト([[債務不履行]])となり、さらにこの後に[[ユーロ債]]や他の種類のブレイディ債もデフォルトした<ref name=aramaki>荒巻健二「SDRM IMFによる国家倒産制度提案とその評価」『開発金融研究所報』2003年3月 第15号 63-66頁</ref>。債券を保有していた外国の[[機関投資家]]で、貸し倒れの特に大きい8機関が政府に対する顧問団を設立し、外貨準備と再生計画について説明を受けた<ref name=aramaki />。[[2000年]]1月5日、マワは[[非常事態宣言]]を行い、1月9日にそれまでの通貨だった[[スクレ (通貨)|スクレ]]から[[アメリカ合衆国ドル]]に通貨を変更するドル化政策発表した。7月に政府はデフォルトした債権を単一の国際債に交換するという提案を公表した。同年9月にマワは失脚し、{{仮リンク|グスタボ・ノボア|en|Gustavo Noboa}}が大統領に就任した。政治は安定せず、2003年には軍と先住民組織の支持により、{{仮リンク|ルシオ・グティエレス|en|Lucio Gutiérrez}}が大統領に就任したが、2005年に失脚した。
2006年11月の大統領選挙で、[[ポプリスモ]]的な政策に訴えた[[ラファエル・コレア]]が国民から圧倒的な支持を得て勝利し、2007年に大統領に就任した。コレアは[[反米]]を旗印に自主外交を進め、[[ベネスエラ]]の[[ウゴ・チャベス|チャベス]]政権をはじめとする世界の反米政権との友好的関係の構築や、石油出国機構(OPEC)への再加盟などに尽力した。[[2008年]][[3月3日]]、コロンビアの[[アルバロ・ウリベ|ウリベ]]親米政権が[[3月1日]]に[[コロンビア革命軍]](FARC、反政府武装組織)征討作戦をエクアドル領内で行ったことに反発し、コロンビアに対して両国の外交関係を断絶することを通告し、公式発表した([[アンデス危機]])。
2008年[[9月28日]]には、大統領の連続再選容認や、経済格差是正を柱とした憲法改正案が賛成多数で承認、公布された。[[2009年]][[4月26日]]には大統領選挙および議会選挙を含む総選挙が行われ、コレア大統領が得票率50パーセント以上を得て圧勝し、再選された。新憲法は、社会的な変革や両性の平等、複数民族制などを取り入れている。また、米国の同盟国でなく、自主的な立場を明確にして[[ワシントン・コンセンサス]]や[[新自由主義]]政策と決別することにとどまらず、南米の統合で主導的な役割を果たし、エクアドルのキトに[[南米諸国連合]]の本部を建設した。
===2010年代===
[[File:La Asamblea Nacional condecora al Vicepresidente de la República Lenín Moreno con la presea "General Eloy Alfaro" (6879244584).jpg|thumb|upright|レニン・モレーノ大統領は左派からの支持で当選したが、一転して親米・新自由主義的政策を推進した。]]
2017年2月19日(1回目投票)、同年4月2日(2回目投票)の大統領選挙で当選した[[レニン・モレーノ]]が、同年5月25日に大統領に就任した。コレア政権の副大統領を務め、コレア大統領から後継者として指名され、選挙時においても自らがコレア政権の後継者であるとして当選していたことから、反米左翼と反新自由主義を掲げたコレア路線を継続するとみられていた。しかしながら、モレーノ大統領が就任するなりエクアドル政府はそれまでの反米左翼色を親米右翼政策に180度転換し、コレア政権以前のワシントンコンセンサス重視の親グローバリズム・親米・反共・[[緊縮財政]]・新自由主義政策に回帰した。2018年3月には親米自由貿易の経済圏である太平洋同盟(加盟国=[[メキシコ]]、コロンビア、[[ペルー]]、[[チリ]])に加盟した。一方、反米左翼政権のベネズエラとの関係は急速に悪化しており、2018年8月にはベネズエラ主導の[[米州ボリバル同盟]](ALBA)から脱退した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2018/08/4adb53fefad580e4.html|title=エクアドル、ベネズエラ主導の左派同盟ALBAから脱退 |date=2017-08-19 |publisher=[[日本貿易振興機構|ジェトロ]]|accessdate=2018-08-27}}</ref>。2019年3月には南米諸国連合からも離脱し<ref>{{cite web|url=https://elpais.com/internacional/2019/03/14/america/1552524533_446745.html|title=Ecuador se retira de Unasur y abre la puerta a nuevas iniciativas de integración|trans-title=Ecuador withdraws from Unasur and opens the door to new integration initiatives|website=El País|language=es|date=14 March 2019|access-date=2019-05-07}}</ref>、[[チリ]]の[[セバスティアン・ピニェラ]]大統領の主導で南米諸国連合に対抗する新たな地域連合として結成された{{仮リンク|ラテンアメリカの進歩と発展のためのフォーラム|en|Prosur}}(Prosur)に他の親米的な南米諸国とともに加盟した<ref>{{cite web|url=https://g1.globo.com/mundo/noticia/2019/03/22/lideres-sul-americanos-assinam-documento-para-criacao-do-prosul.ghtml|title=Líderes sul-americanos assinam documento para criação do Prosul|website= G1|date=2019-03-22|accessdate=2019-06-17|language= pt}}</ref>。
2018年9月には経済破綻状態のベネズエラから近隣の南米諸国に流出する難民対策の国際会議を提唱。ブラジルやコロンビア、アルゼンチンなど南米諸国をキトに招待して国際会議を開き、「キト宣言」を発した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35015560V00C18A9FF2000/|title= ベネズエラ難民、受け入れ国でトラブル 近隣国、国際会議で有効な対策打てず |agency=『[[日本経済新聞]]』|date=2018-09-05|accessdate=2019-03-14}}</ref>。
2018年10月18日にはベネズエラ大使を「[[ペルソナ・ノン・グラータ]]」に指定して国外追放に処した<ref>{{Cite news|url =https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36673770Z11C18A0000000/|title =エクアドル政府、ベネズエラ大使を国外追放|work = 『[[日本経済新聞]]』|date=2018-10-19|accessdate=2019-5-7}}</ref>。
2019年2月7日にはベネズエラ暫定大統領就任を宣言した反[[ニコラス・マドゥロ|マドゥロ]]派の[[国民議会 (ベネズエラ)|ベネズエラ国会]]議長[[フアン・グアイド]]をベネズエラ大統領として承認した<ref>{{Cite journal|title=モレノ政権、ベネズエラのグアイド暫定大統領への接近鮮明|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/02/0f223454ae265378.html|format=PDF|date=2019年2月22日|author=[[志賀大祐]]|publisher=日本貿易振興機構(ジェトロ)[[アジア経済研究所]]}}</ref>。
===2020年代===
2020年に入って世界中に拡大した[[2019新型コロナウイルス]]の感染はエクアドルにも波及。港湾都市の[[グアヤキル]]では、感染を恐れて路上に多数の遺体が放置される出来事もあった<ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-05 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3277237 |title= 路上に放置された遺体の数々…新型コロナまん延のエクアドル、副大統領が謝罪 |publisher= [[フランス通信社|AFP]]|accessdate=2020-05-14}}</ref>。モレノ大統領は外出禁止令を敷く一方、感染拡大に対処する資金を捻出するため、大統領や閣僚、国会議員らの給与を5割削減することを明らかにした<ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-13 |url=https://web.archive.org/web/20200413101001/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020041300488&g=int |title=エクアドル、大統領給与5割カットへ 新型コロナ対策で閣僚、議員も|publisher=[[時事通信]] |accessdate=2020-05-14}}</ref>。
2020年4月末の統計では、2万3000人近くが新型ウイルスに感染して約600人が死亡しているとされるが、[[グアヤス県|グアヤス州]]では4月上旬の死亡者数が月平均の3倍超となっており、上振れする可能性がある<ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-30 |url=https://web.archive.org/web/20200430225455/https://www.jiji.com/jc/article?k=20200430040022a&g=afp |title=医療崩壊の最前線、トイレにまで積み重ねられた遺体 エクアドル |publisher=時事通信 |accessdate=2020-05-14}}</ref>。
2021年2月、任期満了に伴う大統領選挙が行われたが、いずれの候補者も過半数を得ることができず、同年4月11日に決選投票が行われることとなった。1位は約32%の票を集めた反米左派のコレア前大統領が推薦するアンドレス・アラウス元知識・人的能力調整相であったが、2位は先住民の市民運動家ヤク・ペレスと元銀行頭取のギジェルモ・ラソが横並びとなる<ref>{{Cite web|和書|date=2021-02-08 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN081LY0Y1A200C2000000/ |title=エクアドル大統領選、決選投票へ 2位争い接戦 |publisher=『日本経済新聞』 |accessdate=2021-02-08}}</ref>が、ラソが2位となり、アラウスとラソとの決選投票の結果、ラソが52.4%を獲得し勝利した<ref name="毎日新聞20210419">[https://mainichi.jp/articles/20210419/ddm/007/030/093000c 【キーパーソン】エクアドル大統領選で当選したギジェルモ・ラソ氏(65)苦労人 経済再建へ底力]『[[毎日新聞]]』朝刊2021年4月19日(国際面)2021年4月22日閲覧</ref>。ラソは11人きょうだいの末っ子で、証券取引所などで15歳ごろから働き始め、後に銀行や[[ザ コカ・コーラ カンパニー|コカ・コーラ社]]現地法人の経営、グアヤス州知事、エクアドル政府経済相を務めた。政治姿勢や政策としては、左右の融和、自由主義経済と雇用による貧困対策を掲げている<ref name="毎日新聞20210419"/>。
== 政治 ==
{{main|{{仮リンク|エクアドルの政治|en|Politics of Ecuador}}}}
[[エクアドルの大統領|大統領]]を[[元首]]とする共和制国家である。[[行政|行政権]]は大統領に属し、大統領の任期は4年で、以前は再選は禁止されていたが2008年の憲法改正で再選が可能となった。現行憲法は2008年憲法である。
[[立法|立法権]]は[[一院制]]の[[国民議会 (エクアドル)|国民議会]]に属し、任期は4年、定数は137議席である<ref>「エクアドル共和国」『世界年鑑2016』([[共同通信社]]、2016年)379頁</ref>。
[[司法]]権は最高裁判所に属する。
== 軍事 ==
{{main|エクアドルの軍事}}
[[ファイル:Superpuma-ecu.JPG|thumb|[[エクアドル陸軍]]の[[SA 330 (航空機)|ピューマ]]ヘリコプター]]
[[徴兵制]]が敷かれており、[[エクアドル軍]]は兵員約5万人を有している。エクアドル軍は[[エクアドル陸軍]]、[[エクアドル海軍]]、[[エクアドル空軍]]の三軍からなる。
過去にペルーとの紛争でアマゾン流域の領土を併合されたことや、強権的な弾圧を行った軍事政権が少ないこと、主要な政治改革がおもにクーデターによって政権を握った軍部の革新派将校によって進められたことから、国民の軍への信頼は強い{{Sfn|新木編著(2006)|pp=62-66}}。
{{要出典範囲|date=2019年5月7日|コロンビアとの国境付近は[[コロンビア革命軍]](FARC)の活動地域であり、危険である。また、エクアドル政府は2005年のグティエレス政権時代からFARCに庇護を与えていたが、このことが2008年のコレア政権下で再び発覚し、コロンビアとの外交問題になった。}}
太平洋岸の[[港湾都市]][[マンタ (エクアドル)|マンタ]]には[[アメリカ空軍]]の基地([[マンタ空軍基地]])が存在し、コロンビアへの[[枯葉剤]]散布作戦などを行っていたが、2009年9月に賃貸期限が切れ、政府も更新を認めなかったことから撤退した。
== 国際関係 ==
{{main|{{仮リンク|エクアドルの国際関係|en|Foreign relations of Ecuador}}}}
[[1942年]]の[[エクアドル・ペルー戦争 (1941年-1942年)|ペルーとの戦争]]でアマゾン流域の広大な領土を併合されて以来、エクアドル・ペルー間には恒常的な緊張状態が続いていたが、1998年に和平合意が結ばれてからは、エクアドルがアマゾンの領有権主張を諦める形で両国の友好関係が再開した。
アメリカ合衆国との関係も大きく、2004年には二国間[[自由貿易協定]](FTA)の成立を目指していたが、これは2006年のコレア政権の成立によって阻止された。また、1999年の[[パナマ運河]]返還に伴って[[パナマ]]の米軍基地が太平洋岸の港湾都市マンタに移動し、[[マンタ空軍基地]]から出撃するアメリカ空軍がコロンビアへの枯葉剤散布作戦などを行っていた。現在も多くのエクアドル人がアメリカ合衆国に[[出稼ぎ]]に行っている。
[[欧州連合]](EU)の関係も重要であり、スペインや[[イタリア]]に多くのエクアドル人が出稼ぎに出ている。
2008年のデフォルトから接近した[[中華人民共和国]]はコレア政権時代にエクアドル最大の債権国となり、中国からの融資でエクアドルの財政支出の6割は賄われるようになり<ref>{{cite news |last= |first= |title=Amazon threatened by China-Ecuador loans for oil |publisher=China Dialogue |date=2017-03-07 |url=https://www.chinadialogue.net/article/show/single/en/9651-Amazon-threatened-by-China-Ecuador-loans-for-oil |accessdate=2018-08-06}}</ref><ref>{{cite news |last= |first= |title=ペトロエクアドル、中国石油天然気に原油輸出開始=高官 |publisher=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]] |date=2013-10-01 |url=http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702304827404579108363622004696 |accessdate=2018-08-05}}</ref>、エクアドルの原油は9割が中国に輸出された<ref>{{cite news |last= |first= |title=How China took control of Ecuador’s oil {{Pipe}} Financial Post |publisher=Financial Post |date=2013-11-26 |url=https://business.financialpost.com/commodities/energy/how-china-took-control-of-ecuadors-oil |accessdate=2018-08-22}}</ref>。また、中国から武器の購入も進め<ref>{{cite news|title=China y su agresiva política militar para Latinoamérica |url=https://www.fav-club.com/2017/01/06/china-y-su-agresiva-politica-militar-para-latinoamerica/ |publisher=FAV-Club |accessdate=2018年9月8日 |date=2017-1-6}}</ref><ref>{{cite news|title=China's Pivot To Latin America: Beijing's Growing Security Presence In America's Backyard |url=https://www.forbes.com/sites/paulcoyer/2016/02/20/chinas-pivot-to-latin-america-beijings-growing-security-presence-in-americas-backyard/ |publisher=[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]] |accessdate=2018年9月8日 |date=2016-2-20}}</ref>、中国の援助でエクアドル初の[[人工衛星]]「{{仮リンク|NEE-01 ペガソ|en|NEE-01 Pegaso}}」を打ち上げたほか、エクアドル最大のコカ・コド・シンクレル水力発電所<ref>{{cite news |last= |first= |title=New dam symbolizes Ecuador's burgeoning ties with China |publisher=EFE |date=2016-11-19 |url=https://www.efe.com/efe/english/business/new-dam-symbolizes-ecuador-s-burgeoning-ties-with-china/50000265-3101396 |accessdate=2018-08-05}}</ref>などを建設。さらに中国の協力で大規模な監視システムであるECU911を構築してエクアドルは[[監視社会]]となった<ref>{{cite news |last= |first= |title=Made in China, Exported to the World: The Surveillance State |publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]] |date=2019-04-24 |url=https://www.nytimes.com/2019/04/24/technology/ecuador-surveillance-cameras-police-government.html |accessdate=2019-05-07}}</ref><ref>{{cite news |last= |first= |title=Lenín Moreno dice que el ECU 911 se usó de manera ‘perversa’ para espionaje |publisher=El Comercio |date=2019-04-25 |url=https://www.elcomercio.com/actualidad/lenin-moreno-ecu-911-espionaje.html |accessdate=2019-05-07}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://foreignpolicy.com/2018/08/09/ecuadors-all-seeing-eye-is-made-in-china/|title=Ecuador’s All-Seeing Eye Is Made in China|publisher=[[フォーリン・ポリシー]]|language=|date=2018-08-09|accessdate=2018-08-11}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.scmp.com/news/china/diplomacy-defence/article/2129912/ecuador-fighting-crime-using-chinese-surveillance|title=Ecuador is fighting crime using Chinese surveillance technology|publisher=[[サウスチャイナ・モーニング・ポスト]]|language=|date=2018-01-22|accessdate=2018-08-05}}</ref>。
エクアドルは2017年にモレーノが大統領に就任してから親米右翼路線に転換、反米左翼政権のベネズエラとの関係が極度に悪化している。
2022年には[[日本]]など太平洋諸国による[[環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定|TPP]]に加盟を申請<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN28CCP0Y1A221C2000000/ エクアドル、TPPに加盟を申請 輸出先多様化狙う]」日本経済新聞ニュースサイト(2023年12月29日)2023年5月13日閲覧</ref>。2023年5月10日には中国との自由貿易協定(FTA)に署名した<ref>「エクアドルと中国FTA署名」『[[読売新聞]]』朝刊2023年5月12日(国際面)</ref>。
== 地方行政区分 ==
{{main|エクアドルの行政区画}}
[[ファイル:Ecuador provinces-numbers.svg|thumb|300px|エクアドルの県]]
[[ファイル:Ec-map.png|thumb|300px|エクアドルの都市位置]]
22の'''県'''(provincia、'''州'''と訳されることもある)に分かれる。地方行政は[[中央集権]]体制がとられており、各県知事は大統領が任命する。"-" の右側は県都。
=== オリエンテ(アマゾン地域) ===
* [[モロナ・サンティアゴ県]](Morona-Santiago) - [[マカス]]
* [[ナポ県]](Napo) - [[テナ]]
* [[オレリャナ県]](Orellana) - [[プエルト・フランシスコ・デ・オレリャナ]]
* [[パスタサ県]](Pastaza) - [[プージョ]]
* [[スクンビオス県]](Sucumbios) - [[ヌエバ・ロハ]]
* [[サモラ・チンチペ県]](Zamora-Chinchipe) - [[サモラ (エクアドル)|サモラ]]
=== シエラ(アンデス地域) ===
* [[アスアイ県]](Azuay) - [[クエンカ (エクアドル)]]
* [[ボリーバル県 (エクアドル)|ボリーバル県]](Bolivar) - [[グアランダ]]
* [[カニャール県]](Cañar) - [[アソゲス]]
* [[カルチ県]](Carchi) - [[トゥルカン]]
* [[コトパクシ県]](Cotopaxi) - [[ラタクンガ]]
* [[チンボラソ県]](Chimborazo) - [[リオバンバ]]
* [[インバブーラ県]](Imbabura) - [[イバラ (エクアドル)|イバラ]]
* [[ロハ県]](Loja) - [[ロハ (エクアドル)]]
* [[ピチンチャ県]](Pichincha) - [[キト]](首都)
* [[サント・ドミンゴ・デ・ロス・ツァチラス県]](Santo Domingo de los Tsáchilas) - [[サント・ドミンゴ・デ・ロス・コロラドス]]
* [[トゥングラワ県]](Tungurahua) - [[アンバト]]
=== コスタ(太平洋岸地域) ===
* [[エル・オロ県]](El Oro) - [[マチャラ]]
* [[エスメラルダス県]](Esmeraldas) - [[エスメラルダス]]
* [[グアヤス県]](Guayas) - [[グアヤキル]]
* [[ロス・リオス県]](Los Rios) - [[ババオヨ]]
* [[マナビ県]](Manabi) - [[ポルトビエホ]]
* [[サンタ・エレーナ県]](Santa Elena) - [[サンタ・エレーナ]]
=== 島嶼 ===
* [[ガラパゴス県]](Galapagos) - [[プエルト・バケリソ・モレノ]]
<gallery>
LocMap of WH Galapagos Islands.png|本土と[[ガラパゴス諸島]]
Galapagos-satellite-esislandnames.jpg|ガラパゴス諸島
</gallery>
===主要都市===
{{Main|エクアドルの都市の一覧}}
主要な都市は[[キト]](首都)、[[グアヤキル]]がある。
== 地理 ==
[[ファイル:Ecuador Topography.png|thumb|エクアドルの地形図]]
{{Main|{{仮リンク|エクアドルの地理|en|Geography of Ecuador}}}}
エクアドルは赤道直下にあり、北に[[コロンビア]]、東と南に[[ペルー]]と国境を接し、西は[[太平洋]]に面する。本土から西に1,000キロメートルほど離れた太平洋上に[[ガラパゴス諸島]]を領有する。
本土は標高によって三地域に分かれる。中央の[[アンデス山脈]]が縦断している地域を'''シエラ'''([[:es:Región Interandina del Ecuador|La Sierra]])、太平洋岸の[[亜熱帯]]低地を'''コスタ'''([[:es:Región Litoral de Ecuador|La Costa]])、東部の[[アマゾン川]]上流[[熱帯雨林]]が広がる地域を'''オリエンテ'''([[:es:Región amazónica del Ecuador|El Oriente]])と呼ぶ。
=== 山 ===
[[ファイル:Vicuña - Chimborazo, Ecuador.jpg|thumb|left|250px|[[チンボラソ|チンボラソ山]]]]
国内中央のシエラをアンデス山脈が南北に貫き、アンデス山脈は西部の{{仮リンク|オクシデンタル山脈 (エクアドル)|en|Cordillera Occidental (Ecuador)|label=オクシデンタル山脈}}、東部の{{仮リンク|オリエンタル山脈 (エクアドル)|en|Cordillera Real (Ecuador)|label=オリエンタル山脈}}、および両山脈の間に位置する10の主要[[盆地]]よりなる。国内最高峰はオクシデンタル山脈の[[チンボラソ|チンボラソ山]](6,267メートル)である。いくつかの[[火山]]が現在も活動している。{{-}}
=== 気候 ===
基本的に赤道直下の[[熱帯]]だが、シエラは[[標高]]が高く、またコスタも[[寒流]]である[[ペルー海流]](フンボルト海流)の影響により、過ごしやすい気候になっている。
== 経済 ==
{{main|{{仮リンク|エクアドルの経済|en|Economy of Ecuador}}}}[[ファイル:Quitopanoramica.jpg|thumb|エクアドルの首都[[キト]]]]2021年の名目GDP(国内総生産)は1,061億6,587万ドルで、これは2021年世界GDPランキングの64位である<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=エクアドルの統計データ |url=https://www.globalnote.jp/post-2484.html |website=GLOBAL NOTE |access-date=2023-01-15 |language=ja}}</ref>。2021年のGDP成長率は、4.2%と大幅に上昇した。これは前年のコロナ禍と原油価格下落の影響で-7.8%の成長率となったことに影響されており、異例な上昇率となった<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/ext_images/world/cs_america/ec/data/ec_202206.pdf |title=エクアドル 概況 |access-date=2023/01/15 |publisher=ジェトロ海外調査部 |date=2022年6月27日}}</ref>。[[アンデス共同体]]の加盟国、[[メルコスール]]の準加盟国である。2000年からエクアドルは自国の通貨を[[スクレ (通貨)|スクレ]]からアメリカ合衆国ドルに切り替えた。
=== ドル化政策 ===
1999年のブラジル通貨危機の影響により、翌年2000年米ドルを法定通貨に採用した。中南米のいくつかの国ではこのような「ドル化」が定着している。エクアドルの場合、1999年に通貨スクレの信認が失われ為替相場が急落したため、2000年1月に1ドル=25,000スクレの固定相場制を導入し、同年9月には通貨スクレを放棄し米ドルを法定通貨とした。これは非常に短期間のうちに緊急対応的に実施された。ドル化を実施して以降、エクアドルのインフレ率は急速に低下し経済は安定的に推移している。しかし、その代償として自国通貨を放棄したことで独自の金融政策が実施できなくなり、エクアドル経済は米当局の都合で決まる金融政策に左右されることとなった。また、当時のエクアドルのコレア政権は、政治的に反米左翼だったにもかかわらず、自国通貨を放棄してでも物価と経済の安定を優先した非常に危機的状況だったことがわかる<ref name=":0" />。なお、その後2017年に就任したモレノ大統領、2021年就任のラソ大統領はアメリカとの関係を重視しており、特にラソ大統領はIMFなどの国際金融機関との協調路線を継続し、ドル化経済を維持していくとしているとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nexi.go.jp/webmagazine/mt_file/2021052701.pdf |title=エクアドル:ラソ新政権の財政再建は前進するか |access-date=2023年1月15日 |publisher=審査部カントリーリスクグループ |author=西尾明美 |date=2021年5月26日}}</ref>。
=== 農業 ===
エクアドルは農業国だが、生産が輸出[[商品作物]]の栽培に偏っていることや農地の所有制度に問題が残ることなどから、必ずしも国民の生活・福祉を支えるものとはなっていない。
農地の地域分布は山地と海岸平野に二分される。降水量が少ないため農業に適さない山地で主食となる[[コメ|米]]や[[トウモロコシ]]、肥沃な海岸平野では[[カカオ]]、[[コーヒー]]、[[サトウキビ]]、[[バナナ]]などの商品作物を栽培する。このため、輸出に占める農産物の割合が5割を超えているにもかかわらず、食糧を輸入している。[[大土地所有制度]]の弊害は大きく、人口のわずか1パーセントを占めるに過ぎない所有者が農地の4割を所有し、土地なし農民や一種の農奴として働く農民が少なくない。
しかし、2007年には革新政権が誕生し、続く2008年9月に国民投票で承認された新憲法は、[[食料安全保障|食料主権]]を確立するために大土地所有制を禁止した。それを受けて、2009年7月に2年以上未使用の土地は政府が接収できるとする[[政令]]が発効した。それにより政府は、企業や大土地利用者が所有している未使用地を小規模農家に配分し始めた。[[2009年]][[12月20日]]、政府は北西部地域に住む農家約1850世帯に対して、合計1万2,000[[ヘクタール]]の未使用地の所有権を譲り渡した。この土地は大手銀行が所有していたが、1999年に銀行が倒産したあとは放置されていたものである<ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-12-24/2009122407_02_1.html 「未利用地を農家に分配」]『[[しんぶん赤旗]]』2009年12月24日(2021年4月22日閲覧)</ref>。
主食となる作物は、米(138万トン、以下2005年)、トウモロコシ(75万トン)、[[ジャガイモ|ばれいしょ]](42万トン)、[[キャッサバ]](12万トン)が主力。商品作物では、世界第4位のバナナ(588万トン、世界シェア8.1パーセント)、同7位の[[カカオ]](14万トン、3.6パーセント)、コーヒー(10万トン、1.3パーセント)。世界シェアは低いもののサトウキビの生産量は566万トンに達し、単一の作物としてはバナナに次ぐ。畜産業は[[ウマ|馬]]に集中している。
また、エクアドル沖は好[[漁場]]であり、コスタでは[[エビ]]、[[マングローブガニ]]が水揚げ、ガラパゴス沖では[[マグロ]]などが漁獲されている。
=== 鉱業 ===
[[ファイル:Tree map exports 2009 Ecuador.jpeg|thumb|240px|色と面積で示したエクアドルの輸出品目(2009年)。[[原油]]が大きな割合を占めている。]]
鉱業は農業、漁業と並んでエクアドル経済を支える3本柱の一つである。埋蔵量が減少しているとはいえ、有機鉱物資源、特に[[石油]]は1920年代に開発されて以来エクアドルの主産業となり、2003年時点で輸出額の39.3パーセントを占める最大品目である。東部のオレリャナ州の[[油田]]が有力。エクアドル政府は石油が貴重な外貨獲得源であると考えており、[[火力発電]]を規制し、地形を生かした[[水力発電]]に投資している。2011年では、水力発電が発電量の58パーセントを占めており、火力発電は34パーセントでしかない<ref>{{Cite web|和書
| url = https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/files/000095076.pdf
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20160624091024/http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/files/000095076.pdf
| format = PDF
| title = [円借款] 案件概要書
| publisher = 日本外務省
| date = 2015-8-25
| accessdate = 2016-5-23
| archivedate = 2016-6-24
}}</ref>。2016年には水力発電の比率を93.5パーセントにすることを目標としている<ref name=":0">{{Cite web|和書
| url = http://www.murc.jp/thinktank/economy/analysis/research/report_160127.pdf
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20160603134708/http://www.murc.jp/thinktank/economy/analysis/research/report_160127.pdf
| format = PDF
| title = エクアドル経済の現状と今後の展望 {{~}} 「ドル化」したエクアドル経済のゆくえ {{~}}
| publisher = [[三菱UFJリサーチ&コンサルティング]]
| date = 2016-1-27
| accessdate = 2016-5-23
| archivedate = 2016-6-3
}}</ref>。
エクアドルの油田の問題点は、主要な油田がアンデス山脈の東側に位置しながら、輸出のためには山脈の西側の港湾まで輸送しなければならないことである。輸送には[[パイプライン輸送|パイプライン]]を用いているが、地震国でもあるため、いったん損傷が起こると輸出が停止してしまう。
有機鉱物資源の品目では、石油(2,046万トン、2002年)に偏っており、[[天然ガス]](6.8千兆[[ジュール]])が次ぐ。[[石炭]]は採掘されていない。金属鉱物資源の種類は多く、[[亜鉛]](100トン)、[[金]](11トン)、[[銀]](2トン)、[[銅]](100トン)、[[鉛]](200トン)のほか、[[錫]]や[[ビスマス]]も確認されている。ただし、鉱業として成立しているとは言いがたい。その他の鉱物資源としては[[岩塩|塩]](9万トン)がある。
=== 貿易 ===
2021年時点で、エクアドルの主要輸出相手国は上位から、米国(24.0%)、中国(15.3%)、パナマ(14.9%)である。主要輸出品目は、上位に原油(27.3%)で、次にエビ(19.9%)、バナナ(13.1%)といった農林水産物となっている。以前は輸出の半分以上が原油であったが、近年非石油部門を強化し、EU以外の欧州、アジア・オセアニアなど輸出先を増やしている。2015年、原油価格低下により国際収支が悪化し、政府は次のような一連の保護主義的措置を導入した。自動車の輸入総量規制の強化、588 品目について関税率引き上げ、全輸入品に対し 5~45%の追加関税を課すなど<ref name=":2" />。なお、エクアドルの2021年の石油産出量は、2,535万トンで、世界第29位となっている<ref name=":1" />。
=== 対日貿易 ===
2021年のエクアドルへの日本の輸出は約478億円、エクアドルからの輸入は約1,392億円で日本の貿易赤字となっている。主な輸出品目は、熱延銅板(22.2%)などの工業品、乗用車も輸出しており(11.6%)となっている。輸入品目は上位から(78.8%)、バナナ(8.6%)、冷凍野菜(5.4%)などだ。また、日系企業の進出状況は2020年10月時点で19社、在留邦人数は301人と少ない<ref name=":2" />。
=== 観光・移住 ===
キト、クエンカの歴史的な町並みや、アマゾンでの[[エコツアー]]が多くの観光客を惹きつけているが、エクアドルの観光地として特筆されるのはやはり、多様な生態系で知られるガラパゴス諸島である。また、「リタイア後に移住したい国ランキング」世界1位であり、理由として過ごしやすい気候、高度で安い医療費、物価の安さが挙げられ、リタイヤメントビザでの北米からの移住者が約4,000人いる<ref>[http://www.businessinsider.com/ecuador-voted-the-best-place-in-the-world-to-live-in-retirement-2013-5 Ecuador Voted The Best Place In The World To Live In Retirement] [[ビジネスインサイダー|Business Insider]](2013年5月14日)2021年4月22日閲覧</ref>。
=== 交通 ===
{{main|エクアドルの鉄道}}
首都[[キト]]に[[メトロ]]、[[バス (交通機関)|バス]]と鉄道が通る。同国最大の都市である[[グアヤキル]]にもバスがある。[[ドゥラン]]に鉄道駅がある。
== 国民 ==
[[ファイル:Ecuadorian dress, Carnival del Pueblo 2010, London.jpg|thumb|伝統的な衣装に身を包んだ[[メスティーソ]]の女性]]
{{main|エクアドル人}}
エクアドルは[[多民族国家|非常に多様性に富んだ国]]である。2007年の時点では、国内で最も多い民族集団は国民の67パーセントを占める[[メスティーソ]]であり、2番目に多いのは22パーセントを占めるインディヘナとなり、[[白人]]が12パーセント、[[ムラート]]や[[サンボ]]を含んだ[[アフリカ系エクアドル人]]が8パーセントを占める。また、特にイタリア、スペイン、アメリカ合衆国、[[カナダ]]、[[日本]]([[在日エクアドル人]])には出稼ぎ[[エクアドル人]]のコミュニティがあり、2007年の時点で約250万人のエクアドル人が海外で暮らしていると推測されている。国民の多くはコスタやシエラに住み、オリエンテには国民の3 - 5パーセントほどしか居住していない。エクアドルの移民の出身地としてはスペイン、[[フランス]]、[[ドイツ]]、[[レバノン]]([[レバノン系エクアドル人]])、イタリアなどが挙げられる。
=== 人口 ===
1950年の調査で約327万人となり、1970年のセンサスでは888万4,768人、1983年年央推計では約1,168万人になった。
=== 言語 ===
{{main|{{仮リンク|エクアドルの言語|en|Languages of Ecuador}}}}
[[公用語]]は[[スペイン語]]のみであるが、インディヘナにより[[ケチュア語族|ケチュア語]]({{仮リンク|キチュア語|en|Kichwa language}})、{{仮リンク|シュアール語|es|Idioma shuar|en|Shuar language}}が話され、特にケチュア語は「統一ケチュア語」が制定されて学校教育でも教えられている。また、オリエンテのアマゾン低地に住む先住民によって多様な言語が使用されている
=== 宗教 ===
{{main|{{仮リンク|エクアドルの宗教|en|Religion in Ecuador}}}}
[[カトリック教会|カトリック]]教徒が国民の80パーセントであるが、近年、先住民社会を中心に[[プロテスタント]]の数が増加しつつある。ほかには[[ユダヤ教]]や[[イスラーム教]]を信仰するものが少数存在する。ユダヤ人には[[セファルディム]]が多い。
カトリックの影響が根強く存在し、エクアドルでは[[妊娠中絶]]が強く反対されている。現状では、母親の命に重篤な危険があるときか、精神障害のある女性が[[レイプ]]されたことによる妊娠しか中絶が認められていない。2019年9月には、エクアドルの首都キトにある国会前で、レイプ被害者や[[近親相姦]]に対する中絶規制を緩和する法改正案が否決されたことに対し、デモが起こっている<ref>{{Cite web|和書|title=エクアドルの中絶問題:女性の声は届くのか {{!}}|url=http://globalnewsview.org/archives/10683|website=GNV|accessdate=2020-01-03|language=ja}}</ref>。
=== 教育 ===
[[ファイル:Facultad de Ciencias Administrativas UCE.jpg|thumb|{{仮リンク|エクアドル中央大学|en|Central University of Ecuador}}]]
{{main|エクアドルの教育}}
5歳から14歳までを対象に、1年間の就学前教育、6年間の[[初等教育]]、3年間の[[前期中等教育]]からなる10年間の[[義務教育]]制度が敷かれる。義務教育が終わると、3年間の[[後期中等教育]](高校)があり、高校を卒業すると[[高等教育]](大学)への道が開ける。
エクアドルの教育水準は決して高いとはいえない。その理由としては、就学率の低さと義務教育期間における留年率と退学率の高さが挙げられる。2001年のセンサスによれば、15歳以上の人口の[[識字率]]は91パーセント(男性92.3パーセント、女性89.7パーセント)である<ref>[https://web.archive.org/web/20090814133558/https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ec.html CIA - The World Factbook -- Ecuador]<!-- 元のサイトは移転して残っていますが、識字率の情報は更新されています。 --></ref>。
主な高等教育機関としては{{仮リンク|エクアドル中央大学|en|Central University of Ecuador}}(1826年創設)、[[グアヤキル大学]](1867年創設)、[[クエンカ大学]](1868年創設)などが挙げられる。
1980年代以降、先住民が教育文化省内に「異文化間二言語教育局」を設置し、スペイン語と先住民言語(おもにケチュア語、シュアール語)による二言語教育が実施されており、スペイン語と先住民言語の双方を習得した先住民子弟の教育に力が注がれている。
=== 治安 ===
殺人発生率は世界で18位にランクインするほど治安が悪かったが、徐々に改善されていき、2017年は57位まで下がった。現在、南米の中ではチリ、アルゼンチンに次いで3番目に発生率が低くなっており、南米の中では比較的治安が安定している<ref>https://www.globalnote.jp/post-1697.html</ref>。
== 文化 ==
{{main|{{仮リンク|エクアドルの文化|en|Culture of Ecuador}}}}
=== 食文化 ===
{{main|{{仮リンク|エクアドル料理|en|Ecuadorian cuisine}}}}
[[ファイル:Ceviche de camarón (gastronomía Ecuatoriana).jpg|サムネイル|エクアドルの[[セビチェ|セビッチェ]]]]
地形の多様性に伴い、[[食文化]]も地域によって異なる。さらに、先住民の食文化と[[中華料理]]や[[スペイン料理]]、[[イタリア料理]]、[[フランス料理]]、[[ファストフード]]などの世界各国からの移民や黒人の食文化が融合し、エクアドルの食文化は非常に地方色豊かとなっている。ただし、エクアドルはケチュア系の人々が多く暮らす国ではあるが、[[ペルー]]、[[ボリビア]]とは違ってエクアドルでは[[コカ]]栽培は非合法であるため、コカ茶は飲めない。
コスタでは主に米、バナナ、[[ユカイモ]]、[[魚]]、エビ、[[貝類]]などを主食としている。中でも有名なのが[[セビッチェ]]といわれる、冷たいエビや貝などのスープであり、ペルーのそれとは名前が同じだけで味は異なる{{Sfn|新木編著(2006)|p=191}}。日常的なものの一つには[[セコ・デ・ポロ]]と呼ばれる、[[鶏肉]]をコメと[[アボカド]]のスライスとともに煮込んだ料理がある。その他にも[[アロス・コン・ポジョ]]や[[アロス・コン・マリネーロ]]など、周辺国と似た料理が食べられている。
シエラでは[[芋]]やトウモロコシを主食とし、[[ウシ|牛]]、[[ブタ|豚]]などを飼ったり、ミルクを売ったり食べたりして生活している。海産物はめったに手に入らない。クイと呼ばれる[[テンジクネズミ|天竺鼠]]の一種を食べる習慣がある。シエラの料理で代表的なものは[[豚肉]]の[[フリターダ]]や[[羊肉]]の[[セコ・デ・チーボ]]、スープの[[ロクロ (料理)|ロクロ]]などの名が挙げられる。
オリエンテにもユカイモを軸にした独自の食文化が存在する。乾燥したトウモロコシをゆで塩で炒め、[[鶏卵]]・[[牛乳]]・[[ネギ]]で炒めた「[[モテ・ピージョ]]」、トウモロコシを寒冷地で干して豚の[[ラード]]で炒る「[[トースタッド]]」、粗挽きトウモロコシを皮に包み蒸した「[[ウミータス]]」という料理がある。
=== 文学 ===
{{Main|{{仮リンク|エクアドル文学|es|Literatura de Ecuador}}|ラテンアメリカ文学}}
エクアドルの文学は先住民の[[口承文学]]に伝統を持ち、スペイン人による征服以後も独自の発展を遂げた。独立前後の作家としては、[[エウヘニオ・エスペホ]]、[[ホセ・ホアキン・オルメド]]、[[フアン・モンタルボ]]などが有名である。
エクアドルにおける小説はミゲル・リオ・フリオの『解放された女』(1863年)によって始まった。[[ロマン主義]]の時代にはインディオをテーマにした『クマンダー』(1879年)のフアン・レオン・メラの名が特に挙げられる。エクアドルの近代小説は、シエラからコスタのプランテーションに向かう人々を描いた[[ルイス・マルティネス (投手)|ルイス・マルティネス]]の『海岸へ』(1904年)が出発点になった。[[フェルナンド・チャベス]]の『銀と青銅』(1927年)によって、エクアドルでもインディヘニスモ文学が始まった。のちに国際的にもっともよく知られたエクアドルの小説となった{{Sfn|新木編著(2006)|p=154}}[[ホルヘ・イカサ]]の『[[ワシプンゴ]]』(1934年)では、土地を追われ、政府軍によって殺戮される悲惨さの極致としてインディオが描かれた。イカサとは対照的に、[[ウンベルト・マタ]]が『塩』(1937年)で描いたインディオは、政府軍に対しての抵抗は失敗するものの、イカサのインディオ像には欠けていた人間の尊厳を持ち合わせていた。
[[キューバ革命]]後のラテンアメリカでは[[魔術的リアリズム]]が影響力を持ったが、エクアドルもその例外ではなかった。1970年代以降の現代小説においては、『マルクスと裸の女の間に』(1976)で[[フリオ・コルタサル]]に勝るとまでの反響を得た{{Sfn|新木編著(2006)|p=155}}[[ホルヘ・エンリケ・アドウム]]や、[[ベラスコ・マッケンジー]]、[[アリシア・ヤネス・コシーオ]]、『鷲はなぜ飛び去ってしまったのか』(1979年)でアメリカ留学帰りのインディオエリート知識人のアイデンティティの葛藤を描いた[[グスタボ・アルフレド・ハコメ]]、『塵と灰』(1979年)で[[ピカレスク小説|ピカレスク]]を[[義賊]]として描いた[[エリエセル・カルデナス]]などが有名である。
=== 音楽 ===
{{main|{{仮リンク|エクアドルの音楽|en|Music of Ecuador}}}}
エクアドルの音楽は、シエラの先住民系音楽、メスティーソ音楽、アフリカ系音楽に三大別される。また、[[ニューヨーク]]生まれの[[サルサ (音楽)|サルサ]]や、コロンビア生まれの[[クンビア]]、[[バジェナート]]、ベネズエラ経由でもたらされた[[メレンゲ (音楽)|メレンゲ]]なども広く愛好されている。
=== 世界遺産 ===
{{Main|エクアドルの世界遺産}}
エクアドル国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が3件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が2件存在する。
<gallery>
ファイル:Galapagos.jpg| [[ガラパゴス諸島]] - 1978年、自然遺産、世界遺産登録第一号。ウミイグアナなどのこの諸島固有種の生物が多々生息している。
ファイル:Quito 011.jpg| [[キトの市街]] - 1978年、文化遺産、[[クスコ]]に次ぐ[[インカ帝国]]第二の都市。植民地時代を思わせるコロニアルな町並みである。
ファイル:Complejo de lagunas de Ozogoche.jpg| [[サンガイ国立公園]] - 1983年、自然遺産。
ファイル:Catedral de la Inmaculada Consepción en el Parque Calderon en Cuenca, Ecuador.jpg|[[クエンカ (エクアドル)|サンタ・アナ・デ・ロス・リオス・クエンカの歴史地区]] - 1999年、文化遺産。
</gallery>
=== 祝祭日 ===
{| class="wikitable" style=
|+ style="font-weight:bold;font-size:120%" |
! 日付
! 日本語表記
! 現地語表記
! 備考
|-
| [[1月1日]] || [[元日]] || Año Nuevo ||
|-
| [[3月]]から[[4月]] || [[聖木曜日]] || Jueves Santo ||
|-
| [[3月]]から[[4月]] || [[聖金曜日]] || Viernes Santo ||
|-
| [[5月1日]] || [[メーデー]] || Día del Trabajador ||
|-
| [[5月24日]] || [[ピチンチャの戦い|ピチンチャ戦勝記念日]]|| 24 de mayo Batalla de Pichincha ||
|-
| [[7月24日]] || [[シモン・ボリーバル]]生誕記念日 || Natalicio del Libertador Simón Bolívar ||
|-
| [[8月10日]] || 独立記念日 || Día de la Independencia ||
|-
| [[10月9日]] || [[グアヤキル]]独立記念日 || Independencia de Guayaquil ||
|-
| [[10月12日]] || スペイン人の日 || Dia de la Hispanidad (Conquista Española) ||
|-
| [[10月31日]] || 国章の日 || Dia del Escudo Nacional ||
|-
| [[11月2日]] || [[死者の日]] || Día de los Difuntos ||
|-
| [[11月3日]] || [[クエンカ (エクアドル)|クエンカ]]独立記念日 || Independencia de Cuenca ||
|-
| [[12月6日]] || キト建設の日 || Fundación Española de Quito (Conquista) ||
|-
| [[12月25日]] || [[クリスマス]] || Navidad ||
|-
| [[12月31日]] || [[大晦日]] || Fin de Año ||
|-
|}
== スポーツ ==
{{Main|{{仮リンク|エクアドルのスポーツ|en|Sport in Ecuador}}|{{仮リンク|エクアボレー|en|Ecua-volley}}}}
{{See also|オリンピックのエクアドル選手団}}
=== サッカー ===
{{Main|{{仮リンク|エクアドルのサッカー|en|Football in Ecuador}}}}
エクアドルでも他の[[ラテンアメリカ]]諸国と同様に、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっており、[[1957年]]にプロサッカーリーグの[[セリエA (エクアドル)|エクアドル・セリエA]]が創設された。主なクラブとしては、[[FIFAクラブワールドカップ]]の[[FIFAクラブワールドカップ2008|2008年大会]]で準優勝に輝いた[[LDUキト]]や、[[コパ・リベルタドーレス]]で2度の準優勝経験をもつ[[バルセロナSC]]などがある。他にも[[CDエル・ナシオナル|エル・ナシオナル]]や[[CSエメレク|エメレク]]などが挙げられる。
[[エクアドルサッカー連盟]](FEF)によって構成される[[サッカーエクアドル代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には3度の出場歴があり、[[2006 FIFAワールドカップ|2006年大会]]ではベスト16の成績を収めた。[[コパ・アメリカ]]では、[[1959年]]大会と[[コパ・アメリカ1993|1993年大会]]でベスト4になった事もある。著名な選手としては、[[アレックス・アギナガ]]や[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]で10年に渡って活躍し続け、同クラブのキャプテンを勤めた[[アントニオ・バレンシア]]、イギリス史上最高額で[[チェルシーFC|チェルシー]]に移籍した[[モイセス・カイセド]]がいる。
== 著名な出身者 ==
{{Main|エクアドル人の一覧}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2|refs=
<!--
<ref name="imf201410">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=248&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=98&pr.y=16|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2015-01-05}}</ref>
-->
}}
== 参考文献 ==
; 総合
* {{Cite book|和書|author=新木秀和編著|authorlink=新木秀和|date=2006年6月|title=エクアドルを知るための60章|series=エリア・スタディーズ|publisher=[[明石書店]]|location=[[東京]]|isbn=4-7503-2347-0|ref={{SfnRef|新木編著(2006)}} }}
; 歴史
* {{Cite book|和書|author=エドゥアルド・ガレアーノ|authorlink=エドゥアルド・ガレアーノ|translator=大久保光夫|date=1986年9月|title=[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年|収奪された大地──ラテンアメリカ五百年]]|series=|publisher=[[新評論]]|location=東京|isbn=|ref=ガレアーノ/大久保訳(1986)}}
* {{Cite book|和書|author1=中川文雄|authorlink1=中川文雄|author2=松下洋|authorlink2=松下洋|author3=遅野井茂雄|authorlink3=遅野井茂雄|date=1985年1月|title=ラテン・アメリカ現代史III|series=世界現代史34|publisher=[[山川出版社]]|location=東京|isbn=4-634-42280-8|ref=中川、松下、遅野井(1985)}}
* {{Cite book|和書|editor=増田義郎|editor-link=増田義郎|date=2000年7月|title=ラテンアメリカ史II|series=新版世界各国史26|publisher=[[山川出版社]]|location=[[東京]]|isbn=4-634-41560-7|ref=増田編(2000)}}
; 地理
* {{Cite book|和書|editor=下中彌三郎|editor-link=下中彌三郎|year=1954|title=ラテンアメリカ|series=世界文化地理体系24|publisher=[[平凡社]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=下中(1954)}}
* {{Cite book|和書|author1=P.E.ジェームズ|authorlink1=P.E.ジェームズ|translator=[[山本正三]]、[[菅野峰明]]|year=1979|title=ラテンアメリカII|publisher=[[二宮書店]]|isbn=|ref=ジェームズ/山本、菅野訳(1979)}}
* {{Cite book|和書|editor=野沢敬|editor-link=野沢敬|year=1986|title=ラテンアメリカ|series=朝日百科世界の地理12|publisher=[[朝日新聞社]]|location=[[東京]]|isbn=4-02-380006-6|ref=野沢(1986)}}
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== 関連項目 ==
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3,862 | ライトノベル |
ライトノベルは、日本で生まれた言葉で、娯楽小説のジャンルの1つ。英単語のlightとnovelを組み合わせた和製英語で、略語はラノベ。
業界内でも明確な基準は確立されておらず、はっきりとした必要条件や十分条件がない。このため「ライトノベルの定義」については様々な説がある。いずれも客観的な定義にはなっていないが「ライトノベルを発行しているレーベルから出ている」「出版社がその旨を宣言した作品である」「マンガ、萌え絵のイラストレーション、挿絵を多用し、登場人物のキャラクターイメージや世界観設定を予め固定化している」「キャラクター描写を中心に据え、漫画のノベライズのように作られている」「青少年、あるいは若年層を読者層に想定して執筆されている」「作者が自称している」などが挙げられる。
2004年に刊行された『ライトノベル完全読本』(日経BP社)では「表紙や挿絵にアニメ調のイラストを多用している若年層向けの小説」とされていた。榎本秋は自著における定義として「中学生/高校生という主なターゲットにおいて読みやすく書かれた娯楽小説」と記している。あるいは「青年期の読者を対象とし、作中人物を漫画やアニメーションを想起させる『キャラクター』として構築したうえで、それに合わせたイラストを添えて刊行される小説群」とするものもある。森博嗣は、著書『つぼねのカトリーヌ』(2014年)において「会話が多く読みやすく、絵があってわかりやすい小説」だとしている。又は「マンガ的あるいはアニメ的なイラストが添付された中高生を主要読者とするエンターテインメント小説」とするもの、「アニメ風の表紙や挿絵。改行や会話が多い文章」とするものもある。
作家側も発行レーベルや対象読者層など、ライトノベルとそれ以外の小説を必ずしも区別して執筆しているわけではない。また、出版社側も明確にライトノベルと謳っているレーベル以外では、ライトノベルとそれ以外の小説の線引きを行い、出版しているわけではない。角川書店で毎年夏に展開されている「発見。角川文庫 夏の100冊」に於いても、一般小説に混じってライトノベルが紹介されており、2010年度版以降は『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』『海の底』など、角川文庫から再刊行された作品が収録されている。
少女小説は「少女向けライトノベル」として扱われることが多い。ただし、少女小説は地の文を中心とした小説としての書き方という点で、一般文芸に近いものを要求されてきたため、男性向けライトノベルとはかなりの違いがあるという意見もある。
10代を主なターゲットとしている文学ジャンルには他にも児童文学があるが、ライトノベルと異なるのは、大人向けに書かれた文学的価値観を持ち込んでいる点、健全な世界観や倫理性のもとに構築される作品が多い点、読み手の対象年齢を考慮した上での教育的な性格が色濃い点がある。
ライトノベルから派生して、より対象年齢を高く設定したライト文芸と呼ばれるジャンルがある。SUGOI JAPANのライトノベル部門投票作品に角川文庫のキャラクター小説やメディアワークス文庫の作品が選ばれたり、早川書房『SFが読みたい!』のライトノベル紹介ページに講談社タイガ文庫の作品が載っていたりするなど、そのままライトノベルとして扱われることも多い。名称が定着していない初期には、書店棚にていわゆる「なろう系」と呼ばれる小説投稿サイトで発表された作品の書籍が、ライト文芸と冠した棚に置かれることがあった。
KADOKAWAは「ネット上で発表された作品を書籍・電子書籍化して出版する小説」を「新文芸」と名付けている。いわゆる「ネット小説」の他、VOCALOID楽曲をもとにして書かれる「ボカロ小説」や「フリーゲームのノベライズ」なども新文芸に含まれるとしている。意味合いが異なる「ライト文芸」と名称を混同されることがある。
ライトノベルの発祥は複数の説があり、1975年のソノラマ文庫の創刊という説や、新井素子や氷室冴子などの人気作家が登場した1977年という説などである。また、77年刊の三島由紀夫『夜会服』(集英社文庫)の解説で篠田一士が「『夜会服』のような小説をライト・ノヴェルとよんでみたら、どうだろうか。ライト・ノヴェル、つまり、軽い小説ということだが、もちろん、軽小、軽薄のそれではなくて、軽快、軽捷の軽である」と書いている。ライトノベル作家の中里融司は、その源流は戦前の「少年倶楽部」に載っていた一流大衆作家の少年向け長編小説だとしている。
井上伸一郎によれば1980年代後半には統一されたジャンル名はなく「ファンタジー小説」や「ヤングアダルト」に括られていたという。水野良と安田均は「RPGの世界観やストーリー」を特徴とする小説として「ゲーム小説」を定義しています。その後、角川歴彦は「ゲーム小説」の概念をメディアミックスの可能性を持つ新しいジャンルに拡大しました。
「ライトノベル」の命名は、1990年初めにパソコン通信ニフティサーブの「SFファンタジー・フォーラム」において、それまでのSFやファンタジーから独立した会議室を、会議室のシスオペであった“神北恵太”が「ソノラマ・コバルト」などのレーベルからの出版物に「ライトノベル」と名付けたことが始まりであるとされる。
従来、これらの分類に対して出版社がつけていた名称としては「ジュブナイル」「ヤングアダルト」または「ジュニア小説」などがある。しかし「ジュブナイル」は小学生向けの教育的かつ健全な物語というイメージがあり、欧米の図書館職員によるレイティングが由来の「ヤングアダルト」は日本では「ヤングのアダルト小説」とも解釈されて異なった印象を与えがちなことから、これらとは違う、気軽に扱うことの出来る名称として作られた。現在では、各種メディアでも「ジュブナイルノベル」や「ヤングアダルト小説」ではなく「ライトノベル」と呼ばれるようになり、定着している。なお「ライトノベル」という呼称は、発祥してからすぐに定着したわけではなく、一般にも呼称されるようになったのはインターネットが広く普及しそれまで以上に読者同士が交流を行うようになった2000年頃だとされている。例えば、東京BBSのファンタジーノベルボードでは、ボードで扱う話題の説明に "(富士見ファンタジア文庫・朝日ソノラマ文庫等)" とあり、今日ではライトノベルと認識される範疇を「ファンタジーノベル」と括っていた。
「ライトノベル」という呼称については、和製英語なので国際的には通用しないと誤解されていること(現在は「MANGA」「ANIME」などと同様に日本独自の分類分けとして知られている)、英語として直訳すると「軽い小説」と訳されることもあり、読者がどのように受け入れているのかを考慮することなく「ライトノベル」と呼ばれることを敬遠する出版社や作家などもいる。また、文学事典などの学術的な事典においても「ライトノベル」を採用している例は少ない。さらに図書館学の分野においては国際的な学術用語として「ヤングアダルト」が採用されている。
以前は多くが文庫本の判型であった。しかし、1990年代末以降においては読者層の変化や嗜好の細分化などから、より少ない発行部数でも採算の取りやすい新書(ノベルズ)や四六判ソフトカバーなどでの発売も増えている。とりわけ、2012年頃から四六版ソフトカバーのライトノベルレーベルの発足が相次ぎ、2012年から2015年にかけて、ライトノベルにおける新書・四六版の売上が倍増している。主として若年層を読者としているものの、その対象年齢は拡大しているとされる。中心読者層が30代から40代以上の作品もある。
内容は恋愛、SF、ファンタジー、ミステリー、ホラー、学園ラブコメと多くのものを含んでいる。ビジュアルノベル、アニメ、漫画などの作品を原作にしたノベライズ作品も多く発行されている。逆に、ライトノベルを原作とした漫画化やアニメ化、映画化やテレビゲーム化、玩具化(フィギュア等)などのメディアミックスも盛んに行われている。
近年は作品と読者年齢層の多様化が見られる。また高殿円、紅玉いづきなどライトノベルとそれ以外の小説の両方を出版する作家、乙一、冲方丁、桜庭一樹などライトノベル作家としてデビューした後、他ジャンルにも展開し、直木賞などの文学賞を受賞して文壇入りする作家の出現によって、それまでの概念から大きく広がりを見せている。
ライトノベルにとっては、挿絵によるイメージと挿絵に対する読者層からの評価は、他ジャンルの小説よりも重要な意味を持つ。これは、ライトノベル読者のうち少なくない数が、イラストレーションで作品を選択する「イラスト買い」を行っていることに起因する。「イラスト買い」が多く行われる理由は、ライトノベルがメインのターゲットとしている層は活字よりもアニメやマンガに親しんでいる層であるためとされているからである。
初期のライトノベルの挿絵担当者は、安彦良和や天野喜孝など油絵や水彩画のような絵画手法をも持ったアニメーター出身者や、永井豪などの伝奇アクション作品系の漫画家、いのまたむつみ・美樹本晴彦などアニメ業界出身の当時の若手中堅イラストレーター、都築和彦などのパソコンゲーム業界出身のイラストレーターなどが主流であった。
少女文学のジャンルでは、1987年に花井愛子が講談社X文庫ティーンズハートの創刊に際して企画から関わり、同年、『一週間のオリーブ』を第一線で活躍する人気漫画家のイラストを採用した華やかな少女小説として出版し、これが人気を集めたのに続いて、少年向けでも1990年代初頭、神坂一『スレイヤーズ』の挿絵を手掛けたあらいずみるいの登場を契機としていわゆるアニメ塗りのイラストへの変革が発生した。これはアニメを見慣れた世代の読者が増加するとともにそうした絵柄が支持を集めるようになったことと、ライトノベルの需要増加とともに短時間で大量のイラストを生産できる体制を確立する必要があったことに起因している。
1990年代後半に入るとパソコンと画像ソフトウェアの発達からCGを利用したイラストレーションが増加し、美少女ゲームなどからも人気を集める絵柄のエッセンスを取り込むなどの動きが見られた。特に電撃文庫は緒方剛志、黒星紅白、原田たけひとなど、アニメ業界やゲーム業界でも活躍する若手イラストレーターの登用で躍進し、MF文庫Jがより大衆化された美少女路線で追随した。2000年代以降はいとうのいぢ、ヤスダスズヒト、ブリキなどがヒットメーカーとして知られている。
ライトノベルでは人気イラストレーターが表紙(および挿絵)を担当すると、それだけで売り上げが伸びる効果があるとされている。榎本秋は「もちろんヒットしたのは作品が魅力的であるため」と前置きした上で、「イラストの力がそれ(売り上げ)を押し上げたのは間違いない」としている。
近年ではライトノベルと一般文芸の中間に位置するライト文芸の勃興によって、一般小説の装丁でもイラストレーターが重視されることが増えている。大多数の作品に挿絵イラストが使用されている一方で、あえて挿絵やイラストを使用しない方針をとる作品もある。これは「本屋で買うのが恥ずかしい」という中高生より上の年齢層の読者の敬遠や「イラストがあると却ってイメージが制限される」という読者に対応したものである。
明確なライトノベル専門のレーベルとしてではなく、後にレーベル中にライトノベルが含まれているとされている物を挙げる。
1986年から角川文庫で行われた「ファンタジーフェア」と、テーブルトークRPGなどを扱っていたパソコンゲーム誌『コンプティーク』を母体に、1988年に角川スニーカー文庫と富士見ファンタジア文庫が刊行される。同時に富士見書房から、テーブルトークRPGなどの非電源ゲームに特化した『ドラゴンマガジン』が創刊され、紙面の半分程度を同文庫に収録される作品などの連載に割いていた。
富士見書房は1989年からファンタジア大賞(当時はファンタジア長編小説大賞)の選考を開始し、準入選に神坂一らが選ばれた。当時のミリオンセラーを列挙すると『ロードス島戦記』、『スレイヤーズ』、『フォーチュンクエスト』、『魔術士オーフェン』、『風の大陸』などが挙げられ、「ファンタジーフェア」以来の和製ファンタジー小説を中心にヒットを飛ばしていた。
富士見ファンタジア文庫を刊行している富士見書房は、角川書店の子会社として設立された経緯から角川書店との関係が深く、元々は国文学主体の出版社であった角川書店が出版しない官能小説やアイドル写真集などの書籍を富士見書房の名前で発売するという形態を取っていた。その後、角川書店に合併されてからは角川書店富士見事業部となり、「書房」とは名乗っているものの角川書店の一部門であった。富士見書房に限らず、初期ライトノベルレーベルの大半は角川書店の傘下にあり、長く角川メディアオフィス系の角川グループがジャンルの主導権を握っていく。
大塚英志は、角川文化の台頭の背景には、朝日新聞に代表される旧「教養」の破壊を目的とした「見えない文化大革命」があり、その帰結がライトノベル、対する「反動勢力」がスタジオジブリであったとする。
1992年、経営上の対立から、角川書店の当時の社長角川春樹の弟である角川歴彦らを中心とした角川メディアオフィス系のメンバーが角川書店を退社し、メディアワークス(後にアスキー・メディアワークス)を設立した。これにより、角川スニーカー文庫からは水野良・深沢美潮・中村うさぎ・あかほりさとる等の人気作家を引き連れ、電撃文庫を創刊する。電撃文庫は当初、主婦の友社と提携し販売を行なっていたが、春樹は1993年8月29日にコカイン密輸事件で逮捕され、角川書店から事実上追放された。
これによって歴彦は、角川書店側に請われ、角川書店の社長も兼務することになった。メディアワークスもまた、1999年に主婦の友社との提携を解消して角川ホールディングス傘下となる。メディアワークスは電撃小説大賞(当初は電撃ゲーム小説大賞、ゲームシナリオを募集する意味合いが強かった)を1994年より開始し、1996年の川上稔、1997年の上遠野浩平、橋本紡といった受賞者が現れた。また『キノの旅』『とある魔術の禁書目録』など落選作拾い上げからベストセラーになるシリーズも出現し、『スレイヤーズ』『魔術士オーフェン』のヒット以来、トップの座にあった富士見ファンタジア文庫からシェアを奪っていく。
ファミ通文庫は1998年に創刊されたが、かつてログアウト文庫で不振に終わったアスペクトのライトノベル業界への事実上の再参入であった。しかし、1999年頃、経営を悪化させた当時のアスキー(旧社)はグループ再編を行い、『週刊ファミ通』を始めとするゲーム雑誌や子会社のアスペクト(現在は独立)が手がけていたファミ通文庫などのエンターテイメント系事業を、完全子会社であるエンターブレインへ集約した。その後、グループの持ち株会社であるメディアリーヴスは、ユニゾンキャピタル傘下を経て2005年に角川ホールディングスの傘下となり、旧社より社名と『月刊アスキー』他の出版事業を継承したアスキー(新社)は2008年にメディアワークスと合併し、アスキー・メディアワークスとなった。
MF文庫Jは2002年にリクルートの子会社メディアファクトリーのレーベルとして創刊され、非角川系・非一ツ橋系では最大勢力であったが、2011年に角川グループホールディングスがメディアファクトリーを買収し傘下に収めた。
このような複雑な経緯により、角川グループは少年向けライトノベルレーベルだけでも、
の5つを傘下に収め、市場の7割から8割(2007年。MF文庫Jは含まれていない)という圧倒的なシェアを誇るに至った。以降もそれぞれのブランドを存続し、競合させる中で個々の特色と方向性を打ち出すと共に、2007年には上記4レーベル(開催当時はグループ外のMF文庫Jを除く)で読者投票により大賞を決める「ライトノベルアワード」を開催した。
そのようなライトノベルの角川グループ寡占状態の中にあって、一般全国新聞への記事の掲載などにより注目されたためか、2000年代中盤から竹書房や小学館(ガガガ文庫、ルルル文庫)などの再参入(竹書房は2007年をもって再度撤退)以外にソフトバンククリエイティブ、ホビージャパン、一迅社、PHP研究所、そして講談社や京都アニメーションやポニーキャニオンも独自レーベルで新規参入した。その他にも、様々な自費出版系の出版社などもライトノベルのレーベルを出版している。
2013年10月1日、角川書店および富士見書房、アスキー・メディアワークス、エンターブレイン、メディアファクトリーの5社はKADOKAWAに吸収合併され、それぞれ社内ブランド化された。各社内ブランドのレーベルは概ね存続しているが、2015年10月に富士見書房の単行本部門(FUJIMISHOBO NOVELS)をベースに新レーベル「カドカワBOOKS」が設立されている。電撃文庫だけは創業の経緯から角川歴彦の直轄とされ、編集、営業部門が独立していたが、2015年以降はKADOKAWAへの統合が進んでいる。
時を前後するが、上記の他、ヒーロー文庫(主婦の友社)やMFブックス(メディアファクトリーおよびフロンティアワークスとの共同)といったオンライン小説の書籍化専門レーベルが出現し、特に2012年頃からは『小説家になろう』への投稿作品書籍化を手がけるレーベルが相次いで立ち上げられ、それらの作品・レーベルを総称して「なろう系」と表現されるケースも増えている。小説家になろうが旺盛を極めるより前からあった『Arcadia』や『アルファポリス』の投稿作品もなろう系という誤った区分を受けることもある程度に、知名度が高く影響力が伺える。
この影響による、ライトノベル的なテキストを扱う小説投稿サイトは。2020年までに以下のサイトが新設された。
書籍化に至ることなくサービス終了したサイトもある中、LINEノベルはオープンと同時に元・電撃文庫編集長の三木一馬を統括編集長として、LINE文庫、LINE文庫エッジを創刊し、コンテンツの提供に力を入れていた。しかし、2020年に休止している。
かねてよりオンライン小説の書籍化は存在していたが、このようにウェブ上への投稿機能を備えたサイトが林立したことで、既存・新設に関わらず投稿小説からのスカウトが急増した。
また、体裁が若干異なるが、セリフを吹き出しにして顔のイラストを表示し、スクロールやタップによって演出が加わる形態のテキストの電子書籍や小説投稿サイトも登場した。上述の『comicoノベル』や『NOVEL DAYS』でも一部の作品はこの体裁である。古くは2014年にRenta!で『絵ノベル』という電子書籍の形で見られる。トークアプリ風読み物だとか、チャットノベルだとか形容されている。『ストリエ』では投稿小説以外でも、既存の作品の試し読みがこの形態で公開されていた。『プリ小説 byGMO』(『プリ画像』の姉妹サービス)やアプリ『POCH』には夢小説として名前変換機能がある媒体もあり、オンライン投稿としてのメリットといえる。
一方で、読者の高齢化によるニーズの高まりに応え、刊行が中断し、長く未完結であった作品を改めて完結するケースや、完結した作品の続編がファンサービス的に執筆されるケースも増えている。作者が亡くなった未完作を別人の手で完結させた『ゼロの使い魔』は前者の典型で、『フルメタル・パニック!』『灼眼のシャナ』などは後者のケースに該当する。
『十二国記』や『氷菓』、『おいしいコーヒーのいれ方』など、当初はライトノベルレーベルから刊行されたものを一般文芸として売り出しているものもある。ライトノベルレーベルも一般層向けの戦略に力を入れ始めており、各レーベルはアニメ的イラストを入れないハードカバー作品(メディアワークス)や「イラストのないライトノベル」などの発売を行っている。
『十二国記』は少女向けレーベル「講談社X文庫ホワイトハート」から刊行されていたが、たとえ少女小説が装丁やキャラクターの書き方・会話文が男性向けレーベルのライトノベルと同じように見えたとしても、前述のように少女小説は一般文芸に近いレベルの書き方を要求されてきたため、こういった越境は決して不思議な現象ではない。
最近ではライトノベルを読まない層にもライトノベルへの関心は広まっており、全国新聞や雑誌でもライトノベルの書評や特集が掲載されることもある。
テレビドラマ化された『失踪HOLIDAY』や『メイド刑事』や『掟上今日子の備忘録』、映画化された『ブギーポップは笑わない』、テレビドラマ化された後に映画化された『半分の月がのぼる空』などのように、最近では実写化も目立つようになった。また、『All You Need Is Kill』は2014年にトム・クルーズ主演でハリウッドでの実写映画が公開。日本での邦題は『オール・ユー・ニード・イズ・キル』で、キャッチコピーには「日本原作、トム・クルーズ主演。」と銘打たれた。
単行本形式でのライトノベルの発表は、現在かなりの頻度で行われている。
アスキー・メディアワークスは2009年冬に高年齢層向けの「メディアワークス文庫」を設立。当レーベルから刊行された三上延の『ビブリア古書堂の事件手帖』はベストセラーとなりドラマ化もされ、後にライト文芸と呼ばれる分野の代表作となった。
2007年6月からは富士見書房がペーパーバックでのレーベルを開始した。
ファミ通文庫を擁するエンターブレインは、ファミ通文庫から出ていた桜庭一樹の『赤×ピンク』を角川文庫から新装版発売した。
2009年3月には『スレイヤーズ』、『涼宮ハルヒの憂鬱』、『鋼殻のレギオス』など角川系のライトノベルを小学生向けに読みやすくした作品や、いとうのいぢ、okama、鶴田謙二などの人気イラストレーターを起用した作品を含む「角川つばさ文庫」をグループ各社の協力出版形式で創刊した。
集英社も、小学生向けのライトノベルレーベルである「集英社みらい文庫」を2011年4月に刊行開始し、ジャンプJブックス、スーパーダッシュ文庫、コバルト文庫で反響の大きかった作品やオリジナル作品を出している。
早川書房はSF系の、東京創元社はミステリ系のライトノベル作家の作品を刊行している。早川書房は2003年開始のレーベル「次世代型作家のリアル・フィクション」(ハヤカワ文庫JA)で冲方丁、小川一水、桜坂洋、新城カズマなどSF系ライトノベル作家の作品を刊行した。また、野尻抱介の単行本刊行、『微睡みのセフィロト』や『大久保町シリーズ』、『ふわふわの泉』などライトノベルとして刊行された旧作の復刊、藤間千歳・瀬尾つかさ・野﨑まどらSF系の新鋭ライトノベル作家の新作を刊行していた。東京創元社はライトノベル作家としてデビューした桜庭一樹・米澤穂信の作品を刊行し、また谷原秋桜子のライトノベル作品を復刊、新作を刊行していた。表紙イラストには前嶋重機やミギー、竹岡美穂らライトノベル系のイラストレーターを起用していた。
2000年代後半には、桜庭一樹の直木賞、乙一、森川智喜の本格ミステリ大賞、冲方丁の本屋大賞、佐藤友哉の三島由紀夫賞、小野不由美、米澤穂信の山本周五郎賞などのように、ライトノベル出身でありながら一般の文学賞を受賞する者も増えたが、既存のライトノベルレーベルからは「卒業」扱いとなることが多く、必ずしもライトノベルの地位向上には繋がっていない。
角川スニーカー文庫や富士見ミステリー文庫は宮部みゆきの『ブレイブ・ストーリー』、綾辻行人の『Another』など、一般文芸で活躍する作家のライトノベル化などを行っている。
2010年代からは『ビブリア古書堂の事件手帖』や『珈琲店タレーランの事件簿』『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』など、ライトノベル作家を起用しイラストを前面に押し出した文芸作品が人気を博している。こうした一般文芸とライトノベルの中間に位置する作品群は「キャラノベ」や「ライト文芸」と称されており、メディアワークス文庫の他、富士見書房の富士見L文庫、新潮社の新潮文庫nex、集英社の集英社オレンジ文庫など大手出版社が続々と参入している。この他にも朝日新聞出版の朝日エアロ文庫、メディアファクトリーのMF文庫ダ・ヴィンチmewなどが存在する。また、角川ホラー文庫や宝島社文庫などのように、既存のレーベル内で刊行する会社もある。
講談社では、1990年代末から講談社ノベルスを持つ文芸雑誌『メフィスト』で、ライトノベルと一般文芸の中間的な作品が掲載されることがあったが、2003年、そうした作品群を専門に扱う雑誌『ファウスト』が創刊された。
編集長の太田克史はライトノベル界隈から『ファウスト』を立ち上げた直接的な影響として、上遠野浩平のみを挙げており、それ以前に活躍していた水野良、神坂一、あかほりさとるなどの作品群とは一切関係がない事を明言している。この背景には、先述の大塚英志が言及した「見えない文化大革命」が成功した結果、ライトノベルというジャンルにある種の「反知性主義」が蔓延したことから、カウンターとして創刊された経緯があり、大塚も太田のメンターとして活動していた。
レーベルでは2006年に創刊された講談社BOXがライトノベルとしての側面を持ち、西尾維新、奈須きのこ、竜騎士07などの作品が刊行されていた。これ以前から講談社ノベルスには、林田球や副島成記ら人気漫画家・イラストレーターを起用した作品が存在し、越前魔太郎『魔界探偵冥王星O』シリーズでは、舞城王太郎、乙一、入間人間、新城カズマらが参加して電撃文庫とのコラボレーション企画を行っている。
講談社BOXからは2010年に星海社が独立。2015年には講談社BOXを実質的に休刊し、講談社ノベルスの兄弟レーベルとなる講談社タイガを創刊した。また、古参の児童文学レーベルでライトノベル的作品がラインナップに含まれる青い鳥文庫や、小学生女児に特化したライトノベルレーベルのなかよし文庫も刊行している。
一方、新潮社や角川書店など、ライトノベル専門ではない大手出版社でもジャンルを超えた作家の作品に力を入れている。新潮社は人気漫画家のイラストを表紙にした作品の発売や、『図書館内乱』の表紙でのメディアワークスとのコラボレーション(新潮社から出版された同作者の『レインツリーの国』がメディアワークスから発売された『図書館内乱』の表紙に登場している)を行い、レーベル内レーベルとして新潮文庫Nexを創刊した。
角川書店の文芸系レーベルでも、積極的にライトノベル作家が書く他ジャンル作品を発売している。また、一般文芸誌『野性時代』『小説屋sari-sari』にも、桜庭一樹や有川浩などのライトノベル作家の作品を数多く載せている。
現在のライトノベルはアニメ・ゲーム業界とはメディアミックスを通じて、事実上不可分と言えるほどに密接な関係を構築している。挿絵やコミカライズなどを多くは漫画家が担当しているため、漫画業界との関係は更に深い。コミカライズ・スピンオフ漫画の場合には原作とは異なる人物が担当するケースがほとんどだが、まれに『よくわかる現代魔法』(宮下未紀)や『GJ部』(あるや)のように原作挿絵担当が漫画版の執筆も担当するケースもある。
そのため、ライトノベルにしてもメディアミックス展開を販売戦略の主軸に据えており、長期の人気シリーズになっている作品についてはそのほとんどが、コミカライズ及びタイアップによりアニメ化やゲーム化をされている。この傾向は特に角川系ライトノベルレーベルの作品において顕著である。ゲーム化される作品も少なくない。例として1990年代に大ヒットした富士見書房の『スレイヤーズ』などがある。アニメ・漫画・ゲームを原作として小説化され、ライトノベルのレーベルから出版される逆パターンのケースも多い。
出版社の多くはメディアミックスを重視する販売戦略の一環として、大手チェーンのアニメショップや漫画専門店などの販売データを重視している。またこれらへの重点的な配本や販売キャンペーンを行うなど、配本の特定の書店チェーンへの偏りという意味では他の文芸ジャンルとは一線を画しており、むしろ漫画本の配本方式に近いものといえる。ライトノベルの主な購買層が漫画・アニメ世代であり、この種の店舗の主たる利用者とほぼ一致するため極めて大きな効果を上げている。
アスキー・メディアワークスは、売上げの多い書店、チェーン店を重点的に配本する販売店として指定し(電撃組と呼ばれる)、ある作家の前作の売り上げ数を次作の初回配本数とする、というシステムを構築している。他のKADOKAWA社内ブランドも特約店制度を導入して優先的な配本を行なっている他、KADOKAWA以外の出版社も実績配本を行なっている。
台湾と香港では角川書店の現地法人・台湾国際角川書店がスニーカー文庫や電撃文庫の一部作品を繁体字中文に翻訳して発売している。2007年には青文出版集団が集英社と独占契約を締結し「菁英文庫」(Elite Novels) のレーベル名でスーパーダッシュ文庫・コバルト文庫のタイトルを刊行しているのを始め、日本では後発参入であるGA文庫やHJ文庫もそれぞれ、現地の出版社と独占ないし優先契約を締結している。太字は独占契約。
2008年には、台湾角川が主催する台湾でのライトノベル新人賞・台湾角川ライトノベル大賞が始まった。またそれ以前には、雑誌『ファウスト(台湾版)』で募集された浮文誌新人賞があった。この賞は元々ジャンルを限らず短編小説を募集していたが、2009年より名称を浮文字新人賞に変更し、長編のライトノベルを募集する賞として刷新された。
天聞角川において角川系作品の翻訳版が出されている。日本のライトノベルだけでなく台湾作家の著作、中国本土作家のオリジナル作品もある。天漫軽小説(中国語版)というライトノベル専門誌も存在する。新人賞を設けており、長編優秀作には日本での発表もあり得ると謳っている。その他に西尾維新の刀語なども翻訳版が出されている。
韓国では主に大元CIや鶴山文化社、ソウル文化社が日本で人気が出たタイトルを軒並み翻訳しており、一部の大型書店であれば簡単に手に入れることができる。刊行ペースもかなり早く、日本国外では最も日本産ライトノベルを受容している国の1つといえる。
鶴山文化社はライトノベルも含め幅広いジャンル小説を対象にしたファウスト小説賞を募集している。またエクストリームノベルやD&Cメディアのシードノベルでは、賞という形を取らずに、期限などを設けず国内作家のライトノベルを募集している。
アメリカでは2004年にTOKYOPOPが『スレイヤーズ』を刊行して以降、VIZ Mediaが『灼眼のシャナ』を刊行するなど紹介されたタイトルは少数で、漫画作品に比べると翻訳出版は進んでいなかったが、セブンシーズ・エンターテインメントがメディアワークスやメディアファクトリーからライセンス供与を受け2007年より「lightnovel」レーベルを新設し『しにがみのバラッド。』『ヴぁんぷ!』『かのこん』『ゼロの使い魔』などを刊行。台湾や韓国に続き2008年夏には講談社『ファウスト(アメリカ版)』が発売し、西尾維新、奈須きのこなどの作品が掲載された。
ヨーロッパではTOKYOPOPがドイツで主に角川グループ系やコバルト文庫の作品を翻訳出版している。
ロシアでは日本における略称「ラノベ」がそのまま単語 ранобэ として定着しつつある。元の語が「light novel」であるため「ланове」の方がより正確だが、既に「кавасаки」(カワサキ。カニ籠漁船の意。造船メーカー川崎重工業が由来)と同様に日本からの外来語としてローマ字表記「ranobe」の転写である「ранобэ」が主流になっている。 | [
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"text": "",
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"text": "ライトノベルは、日本で生まれた言葉で、娯楽小説のジャンルの1つ。英単語のlightとnovelを組み合わせた和製英語で、略語はラノベ。",
"title": null
},
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"paragraph_id": 2,
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"text": "業界内でも明確な基準は確立されておらず、はっきりとした必要条件や十分条件がない。このため「ライトノベルの定義」については様々な説がある。いずれも客観的な定義にはなっていないが「ライトノベルを発行しているレーベルから出ている」「出版社がその旨を宣言した作品である」「マンガ、萌え絵のイラストレーション、挿絵を多用し、登場人物のキャラクターイメージや世界観設定を予め固定化している」「キャラクター描写を中心に据え、漫画のノベライズのように作られている」「青少年、あるいは若年層を読者層に想定して執筆されている」「作者が自称している」などが挙げられる。",
"title": "定義"
},
{
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"text": "2004年に刊行された『ライトノベル完全読本』(日経BP社)では「表紙や挿絵にアニメ調のイラストを多用している若年層向けの小説」とされていた。榎本秋は自著における定義として「中学生/高校生という主なターゲットにおいて読みやすく書かれた娯楽小説」と記している。あるいは「青年期の読者を対象とし、作中人物を漫画やアニメーションを想起させる『キャラクター』として構築したうえで、それに合わせたイラストを添えて刊行される小説群」とするものもある。森博嗣は、著書『つぼねのカトリーヌ』(2014年)において「会話が多く読みやすく、絵があってわかりやすい小説」だとしている。又は「マンガ的あるいはアニメ的なイラストが添付された中高生を主要読者とするエンターテインメント小説」とするもの、「アニメ風の表紙や挿絵。改行や会話が多い文章」とするものもある。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 4,
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"text": "作家側も発行レーベルや対象読者層など、ライトノベルとそれ以外の小説を必ずしも区別して執筆しているわけではない。また、出版社側も明確にライトノベルと謳っているレーベル以外では、ライトノベルとそれ以外の小説の線引きを行い、出版しているわけではない。角川書店で毎年夏に展開されている「発見。角川文庫 夏の100冊」に於いても、一般小説に混じってライトノベルが紹介されており、2010年度版以降は『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』『海の底』など、角川文庫から再刊行された作品が収録されている。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "少女小説は「少女向けライトノベル」として扱われることが多い。ただし、少女小説は地の文を中心とした小説としての書き方という点で、一般文芸に近いものを要求されてきたため、男性向けライトノベルとはかなりの違いがあるという意見もある。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "10代を主なターゲットとしている文学ジャンルには他にも児童文学があるが、ライトノベルと異なるのは、大人向けに書かれた文学的価値観を持ち込んでいる点、健全な世界観や倫理性のもとに構築される作品が多い点、読み手の対象年齢を考慮した上での教育的な性格が色濃い点がある。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 7,
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"text": "ライトノベルから派生して、より対象年齢を高く設定したライト文芸と呼ばれるジャンルがある。SUGOI JAPANのライトノベル部門投票作品に角川文庫のキャラクター小説やメディアワークス文庫の作品が選ばれたり、早川書房『SFが読みたい!』のライトノベル紹介ページに講談社タイガ文庫の作品が載っていたりするなど、そのままライトノベルとして扱われることも多い。名称が定着していない初期には、書店棚にていわゆる「なろう系」と呼ばれる小説投稿サイトで発表された作品の書籍が、ライト文芸と冠した棚に置かれることがあった。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 8,
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"text": "KADOKAWAは「ネット上で発表された作品を書籍・電子書籍化して出版する小説」を「新文芸」と名付けている。いわゆる「ネット小説」の他、VOCALOID楽曲をもとにして書かれる「ボカロ小説」や「フリーゲームのノベライズ」なども新文芸に含まれるとしている。意味合いが異なる「ライト文芸」と名称を混同されることがある。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "ライトノベルの発祥は複数の説があり、1975年のソノラマ文庫の創刊という説や、新井素子や氷室冴子などの人気作家が登場した1977年という説などである。また、77年刊の三島由紀夫『夜会服』(集英社文庫)の解説で篠田一士が「『夜会服』のような小説をライト・ノヴェルとよんでみたら、どうだろうか。ライト・ノヴェル、つまり、軽い小説ということだが、もちろん、軽小、軽薄のそれではなくて、軽快、軽捷の軽である」と書いている。ライトノベル作家の中里融司は、その源流は戦前の「少年倶楽部」に載っていた一流大衆作家の少年向け長編小説だとしている。",
"title": "発祥"
},
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"text": "井上伸一郎によれば1980年代後半には統一されたジャンル名はなく「ファンタジー小説」や「ヤングアダルト」に括られていたという。水野良と安田均は「RPGの世界観やストーリー」を特徴とする小説として「ゲーム小説」を定義しています。その後、角川歴彦は「ゲーム小説」の概念をメディアミックスの可能性を持つ新しいジャンルに拡大しました。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "「ライトノベル」の命名は、1990年初めにパソコン通信ニフティサーブの「SFファンタジー・フォーラム」において、それまでのSFやファンタジーから独立した会議室を、会議室のシスオペであった“神北恵太”が「ソノラマ・コバルト」などのレーベルからの出版物に「ライトノベル」と名付けたことが始まりであるとされる。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "従来、これらの分類に対して出版社がつけていた名称としては「ジュブナイル」「ヤングアダルト」または「ジュニア小説」などがある。しかし「ジュブナイル」は小学生向けの教育的かつ健全な物語というイメージがあり、欧米の図書館職員によるレイティングが由来の「ヤングアダルト」は日本では「ヤングのアダルト小説」とも解釈されて異なった印象を与えがちなことから、これらとは違う、気軽に扱うことの出来る名称として作られた。現在では、各種メディアでも「ジュブナイルノベル」や「ヤングアダルト小説」ではなく「ライトノベル」と呼ばれるようになり、定着している。なお「ライトノベル」という呼称は、発祥してからすぐに定着したわけではなく、一般にも呼称されるようになったのはインターネットが広く普及しそれまで以上に読者同士が交流を行うようになった2000年頃だとされている。例えば、東京BBSのファンタジーノベルボードでは、ボードで扱う話題の説明に \"(富士見ファンタジア文庫・朝日ソノラマ文庫等)\" とあり、今日ではライトノベルと認識される範疇を「ファンタジーノベル」と括っていた。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "「ライトノベル」という呼称については、和製英語なので国際的には通用しないと誤解されていること(現在は「MANGA」「ANIME」などと同様に日本独自の分類分けとして知られている)、英語として直訳すると「軽い小説」と訳されることもあり、読者がどのように受け入れているのかを考慮することなく「ライトノベル」と呼ばれることを敬遠する出版社や作家などもいる。また、文学事典などの学術的な事典においても「ライトノベル」を採用している例は少ない。さらに図書館学の分野においては国際的な学術用語として「ヤングアダルト」が採用されている。",
"title": "名称"
},
{
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"tag": "p",
"text": "以前は多くが文庫本の判型であった。しかし、1990年代末以降においては読者層の変化や嗜好の細分化などから、より少ない発行部数でも採算の取りやすい新書(ノベルズ)や四六判ソフトカバーなどでの発売も増えている。とりわけ、2012年頃から四六版ソフトカバーのライトノベルレーベルの発足が相次ぎ、2012年から2015年にかけて、ライトノベルにおける新書・四六版の売上が倍増している。主として若年層を読者としているものの、その対象年齢は拡大しているとされる。中心読者層が30代から40代以上の作品もある。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "内容は恋愛、SF、ファンタジー、ミステリー、ホラー、学園ラブコメと多くのものを含んでいる。ビジュアルノベル、アニメ、漫画などの作品を原作にしたノベライズ作品も多く発行されている。逆に、ライトノベルを原作とした漫画化やアニメ化、映画化やテレビゲーム化、玩具化(フィギュア等)などのメディアミックスも盛んに行われている。",
"title": "特性"
},
{
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"text": "近年は作品と読者年齢層の多様化が見られる。また高殿円、紅玉いづきなどライトノベルとそれ以外の小説の両方を出版する作家、乙一、冲方丁、桜庭一樹などライトノベル作家としてデビューした後、他ジャンルにも展開し、直木賞などの文学賞を受賞して文壇入りする作家の出現によって、それまでの概念から大きく広がりを見せている。",
"title": "特性"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ライトノベルにとっては、挿絵によるイメージと挿絵に対する読者層からの評価は、他ジャンルの小説よりも重要な意味を持つ。これは、ライトノベル読者のうち少なくない数が、イラストレーションで作品を選択する「イラスト買い」を行っていることに起因する。「イラスト買い」が多く行われる理由は、ライトノベルがメインのターゲットとしている層は活字よりもアニメやマンガに親しんでいる層であるためとされているからである。",
"title": "特性"
},
{
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"tag": "p",
"text": "初期のライトノベルの挿絵担当者は、安彦良和や天野喜孝など油絵や水彩画のような絵画手法をも持ったアニメーター出身者や、永井豪などの伝奇アクション作品系の漫画家、いのまたむつみ・美樹本晴彦などアニメ業界出身の当時の若手中堅イラストレーター、都築和彦などのパソコンゲーム業界出身のイラストレーターなどが主流であった。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "少女文学のジャンルでは、1987年に花井愛子が講談社X文庫ティーンズハートの創刊に際して企画から関わり、同年、『一週間のオリーブ』を第一線で活躍する人気漫画家のイラストを採用した華やかな少女小説として出版し、これが人気を集めたのに続いて、少年向けでも1990年代初頭、神坂一『スレイヤーズ』の挿絵を手掛けたあらいずみるいの登場を契機としていわゆるアニメ塗りのイラストへの変革が発生した。これはアニメを見慣れた世代の読者が増加するとともにそうした絵柄が支持を集めるようになったことと、ライトノベルの需要増加とともに短時間で大量のイラストを生産できる体制を確立する必要があったことに起因している。",
"title": "特性"
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{
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"text": "1990年代後半に入るとパソコンと画像ソフトウェアの発達からCGを利用したイラストレーションが増加し、美少女ゲームなどからも人気を集める絵柄のエッセンスを取り込むなどの動きが見られた。特に電撃文庫は緒方剛志、黒星紅白、原田たけひとなど、アニメ業界やゲーム業界でも活躍する若手イラストレーターの登用で躍進し、MF文庫Jがより大衆化された美少女路線で追随した。2000年代以降はいとうのいぢ、ヤスダスズヒト、ブリキなどがヒットメーカーとして知られている。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ライトノベルでは人気イラストレーターが表紙(および挿絵)を担当すると、それだけで売り上げが伸びる効果があるとされている。榎本秋は「もちろんヒットしたのは作品が魅力的であるため」と前置きした上で、「イラストの力がそれ(売り上げ)を押し上げたのは間違いない」としている。",
"title": "特性"
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{
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"text": "近年ではライトノベルと一般文芸の中間に位置するライト文芸の勃興によって、一般小説の装丁でもイラストレーターが重視されることが増えている。大多数の作品に挿絵イラストが使用されている一方で、あえて挿絵やイラストを使用しない方針をとる作品もある。これは「本屋で買うのが恥ずかしい」という中高生より上の年齢層の読者の敬遠や「イラストがあると却ってイメージが制限される」という読者に対応したものである。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "明確なライトノベル専門のレーベルとしてではなく、後にレーベル中にライトノベルが含まれているとされている物を挙げる。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "1986年から角川文庫で行われた「ファンタジーフェア」と、テーブルトークRPGなどを扱っていたパソコンゲーム誌『コンプティーク』を母体に、1988年に角川スニーカー文庫と富士見ファンタジア文庫が刊行される。同時に富士見書房から、テーブルトークRPGなどの非電源ゲームに特化した『ドラゴンマガジン』が創刊され、紙面の半分程度を同文庫に収録される作品などの連載に割いていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "富士見書房は1989年からファンタジア大賞(当時はファンタジア長編小説大賞)の選考を開始し、準入選に神坂一らが選ばれた。当時のミリオンセラーを列挙すると『ロードス島戦記』、『スレイヤーズ』、『フォーチュンクエスト』、『魔術士オーフェン』、『風の大陸』などが挙げられ、「ファンタジーフェア」以来の和製ファンタジー小説を中心にヒットを飛ばしていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "富士見ファンタジア文庫を刊行している富士見書房は、角川書店の子会社として設立された経緯から角川書店との関係が深く、元々は国文学主体の出版社であった角川書店が出版しない官能小説やアイドル写真集などの書籍を富士見書房の名前で発売するという形態を取っていた。その後、角川書店に合併されてからは角川書店富士見事業部となり、「書房」とは名乗っているものの角川書店の一部門であった。富士見書房に限らず、初期ライトノベルレーベルの大半は角川書店の傘下にあり、長く角川メディアオフィス系の角川グループがジャンルの主導権を握っていく。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "大塚英志は、角川文化の台頭の背景には、朝日新聞に代表される旧「教養」の破壊を目的とした「見えない文化大革命」があり、その帰結がライトノベル、対する「反動勢力」がスタジオジブリであったとする。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1992年、経営上の対立から、角川書店の当時の社長角川春樹の弟である角川歴彦らを中心とした角川メディアオフィス系のメンバーが角川書店を退社し、メディアワークス(後にアスキー・メディアワークス)を設立した。これにより、角川スニーカー文庫からは水野良・深沢美潮・中村うさぎ・あかほりさとる等の人気作家を引き連れ、電撃文庫を創刊する。電撃文庫は当初、主婦の友社と提携し販売を行なっていたが、春樹は1993年8月29日にコカイン密輸事件で逮捕され、角川書店から事実上追放された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "これによって歴彦は、角川書店側に請われ、角川書店の社長も兼務することになった。メディアワークスもまた、1999年に主婦の友社との提携を解消して角川ホールディングス傘下となる。メディアワークスは電撃小説大賞(当初は電撃ゲーム小説大賞、ゲームシナリオを募集する意味合いが強かった)を1994年より開始し、1996年の川上稔、1997年の上遠野浩平、橋本紡といった受賞者が現れた。また『キノの旅』『とある魔術の禁書目録』など落選作拾い上げからベストセラーになるシリーズも出現し、『スレイヤーズ』『魔術士オーフェン』のヒット以来、トップの座にあった富士見ファンタジア文庫からシェアを奪っていく。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ファミ通文庫は1998年に創刊されたが、かつてログアウト文庫で不振に終わったアスペクトのライトノベル業界への事実上の再参入であった。しかし、1999年頃、経営を悪化させた当時のアスキー(旧社)はグループ再編を行い、『週刊ファミ通』を始めとするゲーム雑誌や子会社のアスペクト(現在は独立)が手がけていたファミ通文庫などのエンターテイメント系事業を、完全子会社であるエンターブレインへ集約した。その後、グループの持ち株会社であるメディアリーヴスは、ユニゾンキャピタル傘下を経て2005年に角川ホールディングスの傘下となり、旧社より社名と『月刊アスキー』他の出版事業を継承したアスキー(新社)は2008年にメディアワークスと合併し、アスキー・メディアワークスとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "MF文庫Jは2002年にリクルートの子会社メディアファクトリーのレーベルとして創刊され、非角川系・非一ツ橋系では最大勢力であったが、2011年に角川グループホールディングスがメディアファクトリーを買収し傘下に収めた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "このような複雑な経緯により、角川グループは少年向けライトノベルレーベルだけでも、",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "の5つを傘下に収め、市場の7割から8割(2007年。MF文庫Jは含まれていない)という圧倒的なシェアを誇るに至った。以降もそれぞれのブランドを存続し、競合させる中で個々の特色と方向性を打ち出すと共に、2007年には上記4レーベル(開催当時はグループ外のMF文庫Jを除く)で読者投票により大賞を決める「ライトノベルアワード」を開催した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "そのようなライトノベルの角川グループ寡占状態の中にあって、一般全国新聞への記事の掲載などにより注目されたためか、2000年代中盤から竹書房や小学館(ガガガ文庫、ルルル文庫)などの再参入(竹書房は2007年をもって再度撤退)以外にソフトバンククリエイティブ、ホビージャパン、一迅社、PHP研究所、そして講談社や京都アニメーションやポニーキャニオンも独自レーベルで新規参入した。その他にも、様々な自費出版系の出版社などもライトノベルのレーベルを出版している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2013年10月1日、角川書店および富士見書房、アスキー・メディアワークス、エンターブレイン、メディアファクトリーの5社はKADOKAWAに吸収合併され、それぞれ社内ブランド化された。各社内ブランドのレーベルは概ね存続しているが、2015年10月に富士見書房の単行本部門(FUJIMISHOBO NOVELS)をベースに新レーベル「カドカワBOOKS」が設立されている。電撃文庫だけは創業の経緯から角川歴彦の直轄とされ、編集、営業部門が独立していたが、2015年以降はKADOKAWAへの統合が進んでいる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "時を前後するが、上記の他、ヒーロー文庫(主婦の友社)やMFブックス(メディアファクトリーおよびフロンティアワークスとの共同)といったオンライン小説の書籍化専門レーベルが出現し、特に2012年頃からは『小説家になろう』への投稿作品書籍化を手がけるレーベルが相次いで立ち上げられ、それらの作品・レーベルを総称して「なろう系」と表現されるケースも増えている。小説家になろうが旺盛を極めるより前からあった『Arcadia』や『アルファポリス』の投稿作品もなろう系という誤った区分を受けることもある程度に、知名度が高く影響力が伺える。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "この影響による、ライトノベル的なテキストを扱う小説投稿サイトは。2020年までに以下のサイトが新設された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "書籍化に至ることなくサービス終了したサイトもある中、LINEノベルはオープンと同時に元・電撃文庫編集長の三木一馬を統括編集長として、LINE文庫、LINE文庫エッジを創刊し、コンテンツの提供に力を入れていた。しかし、2020年に休止している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "かねてよりオンライン小説の書籍化は存在していたが、このようにウェブ上への投稿機能を備えたサイトが林立したことで、既存・新設に関わらず投稿小説からのスカウトが急増した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "また、体裁が若干異なるが、セリフを吹き出しにして顔のイラストを表示し、スクロールやタップによって演出が加わる形態のテキストの電子書籍や小説投稿サイトも登場した。上述の『comicoノベル』や『NOVEL DAYS』でも一部の作品はこの体裁である。古くは2014年にRenta!で『絵ノベル』という電子書籍の形で見られる。トークアプリ風読み物だとか、チャットノベルだとか形容されている。『ストリエ』では投稿小説以外でも、既存の作品の試し読みがこの形態で公開されていた。『プリ小説 byGMO』(『プリ画像』の姉妹サービス)やアプリ『POCH』には夢小説として名前変換機能がある媒体もあり、オンライン投稿としてのメリットといえる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "一方で、読者の高齢化によるニーズの高まりに応え、刊行が中断し、長く未完結であった作品を改めて完結するケースや、完結した作品の続編がファンサービス的に執筆されるケースも増えている。作者が亡くなった未完作を別人の手で完結させた『ゼロの使い魔』は前者の典型で、『フルメタル・パニック!』『灼眼のシャナ』などは後者のケースに該当する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "『十二国記』や『氷菓』、『おいしいコーヒーのいれ方』など、当初はライトノベルレーベルから刊行されたものを一般文芸として売り出しているものもある。ライトノベルレーベルも一般層向けの戦略に力を入れ始めており、各レーベルはアニメ的イラストを入れないハードカバー作品(メディアワークス)や「イラストのないライトノベル」などの発売を行っている。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "『十二国記』は少女向けレーベル「講談社X文庫ホワイトハート」から刊行されていたが、たとえ少女小説が装丁やキャラクターの書き方・会話文が男性向けレーベルのライトノベルと同じように見えたとしても、前述のように少女小説は一般文芸に近いレベルの書き方を要求されてきたため、こういった越境は決して不思議な現象ではない。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "最近ではライトノベルを読まない層にもライトノベルへの関心は広まっており、全国新聞や雑誌でもライトノベルの書評や特集が掲載されることもある。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "テレビドラマ化された『失踪HOLIDAY』や『メイド刑事』や『掟上今日子の備忘録』、映画化された『ブギーポップは笑わない』、テレビドラマ化された後に映画化された『半分の月がのぼる空』などのように、最近では実写化も目立つようになった。また、『All You Need Is Kill』は2014年にトム・クルーズ主演でハリウッドでの実写映画が公開。日本での邦題は『オール・ユー・ニード・イズ・キル』で、キャッチコピーには「日本原作、トム・クルーズ主演。」と銘打たれた。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "単行本形式でのライトノベルの発表は、現在かなりの頻度で行われている。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "アスキー・メディアワークスは2009年冬に高年齢層向けの「メディアワークス文庫」を設立。当レーベルから刊行された三上延の『ビブリア古書堂の事件手帖』はベストセラーとなりドラマ化もされ、後にライト文芸と呼ばれる分野の代表作となった。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2007年6月からは富士見書房がペーパーバックでのレーベルを開始した。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ファミ通文庫を擁するエンターブレインは、ファミ通文庫から出ていた桜庭一樹の『赤×ピンク』を角川文庫から新装版発売した。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2009年3月には『スレイヤーズ』、『涼宮ハルヒの憂鬱』、『鋼殻のレギオス』など角川系のライトノベルを小学生向けに読みやすくした作品や、いとうのいぢ、okama、鶴田謙二などの人気イラストレーターを起用した作品を含む「角川つばさ文庫」をグループ各社の協力出版形式で創刊した。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "集英社も、小学生向けのライトノベルレーベルである「集英社みらい文庫」を2011年4月に刊行開始し、ジャンプJブックス、スーパーダッシュ文庫、コバルト文庫で反響の大きかった作品やオリジナル作品を出している。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
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"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "早川書房はSF系の、東京創元社はミステリ系のライトノベル作家の作品を刊行している。早川書房は2003年開始のレーベル「次世代型作家のリアル・フィクション」(ハヤカワ文庫JA)で冲方丁、小川一水、桜坂洋、新城カズマなどSF系ライトノベル作家の作品を刊行した。また、野尻抱介の単行本刊行、『微睡みのセフィロト』や『大久保町シリーズ』、『ふわふわの泉』などライトノベルとして刊行された旧作の復刊、藤間千歳・瀬尾つかさ・野﨑まどらSF系の新鋭ライトノベル作家の新作を刊行していた。東京創元社はライトノベル作家としてデビューした桜庭一樹・米澤穂信の作品を刊行し、また谷原秋桜子のライトノベル作品を復刊、新作を刊行していた。表紙イラストには前嶋重機やミギー、竹岡美穂らライトノベル系のイラストレーターを起用していた。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
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"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2000年代後半には、桜庭一樹の直木賞、乙一、森川智喜の本格ミステリ大賞、冲方丁の本屋大賞、佐藤友哉の三島由紀夫賞、小野不由美、米澤穂信の山本周五郎賞などのように、ライトノベル出身でありながら一般の文学賞を受賞する者も増えたが、既存のライトノベルレーベルからは「卒業」扱いとなることが多く、必ずしもライトノベルの地位向上には繋がっていない。",
"title": "他ジャンルとの関係"
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"paragraph_id": 54,
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"text": "角川スニーカー文庫や富士見ミステリー文庫は宮部みゆきの『ブレイブ・ストーリー』、綾辻行人の『Another』など、一般文芸で活躍する作家のライトノベル化などを行っている。",
"title": "他ジャンルとの関係"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "2010年代からは『ビブリア古書堂の事件手帖』や『珈琲店タレーランの事件簿』『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』など、ライトノベル作家を起用しイラストを前面に押し出した文芸作品が人気を博している。こうした一般文芸とライトノベルの中間に位置する作品群は「キャラノベ」や「ライト文芸」と称されており、メディアワークス文庫の他、富士見書房の富士見L文庫、新潮社の新潮文庫nex、集英社の集英社オレンジ文庫など大手出版社が続々と参入している。この他にも朝日新聞出版の朝日エアロ文庫、メディアファクトリーのMF文庫ダ・ヴィンチmewなどが存在する。また、角川ホラー文庫や宝島社文庫などのように、既存のレーベル内で刊行する会社もある。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
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"text": "講談社では、1990年代末から講談社ノベルスを持つ文芸雑誌『メフィスト』で、ライトノベルと一般文芸の中間的な作品が掲載されることがあったが、2003年、そうした作品群を専門に扱う雑誌『ファウスト』が創刊された。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
"paragraph_id": 57,
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"text": "編集長の太田克史はライトノベル界隈から『ファウスト』を立ち上げた直接的な影響として、上遠野浩平のみを挙げており、それ以前に活躍していた水野良、神坂一、あかほりさとるなどの作品群とは一切関係がない事を明言している。この背景には、先述の大塚英志が言及した「見えない文化大革命」が成功した結果、ライトノベルというジャンルにある種の「反知性主義」が蔓延したことから、カウンターとして創刊された経緯があり、大塚も太田のメンターとして活動していた。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
"paragraph_id": 58,
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"text": "レーベルでは2006年に創刊された講談社BOXがライトノベルとしての側面を持ち、西尾維新、奈須きのこ、竜騎士07などの作品が刊行されていた。これ以前から講談社ノベルスには、林田球や副島成記ら人気漫画家・イラストレーターを起用した作品が存在し、越前魔太郎『魔界探偵冥王星O』シリーズでは、舞城王太郎、乙一、入間人間、新城カズマらが参加して電撃文庫とのコラボレーション企画を行っている。",
"title": "他ジャンルとの関係"
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{
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"text": "講談社BOXからは2010年に星海社が独立。2015年には講談社BOXを実質的に休刊し、講談社ノベルスの兄弟レーベルとなる講談社タイガを創刊した。また、古参の児童文学レーベルでライトノベル的作品がラインナップに含まれる青い鳥文庫や、小学生女児に特化したライトノベルレーベルのなかよし文庫も刊行している。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
"paragraph_id": 60,
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"text": "一方、新潮社や角川書店など、ライトノベル専門ではない大手出版社でもジャンルを超えた作家の作品に力を入れている。新潮社は人気漫画家のイラストを表紙にした作品の発売や、『図書館内乱』の表紙でのメディアワークスとのコラボレーション(新潮社から出版された同作者の『レインツリーの国』がメディアワークスから発売された『図書館内乱』の表紙に登場している)を行い、レーベル内レーベルとして新潮文庫Nexを創刊した。",
"title": "他ジャンルとの関係"
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"paragraph_id": 61,
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"text": "角川書店の文芸系レーベルでも、積極的にライトノベル作家が書く他ジャンル作品を発売している。また、一般文芸誌『野性時代』『小説屋sari-sari』にも、桜庭一樹や有川浩などのライトノベル作家の作品を数多く載せている。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
"paragraph_id": 62,
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"text": "現在のライトノベルはアニメ・ゲーム業界とはメディアミックスを通じて、事実上不可分と言えるほどに密接な関係を構築している。挿絵やコミカライズなどを多くは漫画家が担当しているため、漫画業界との関係は更に深い。コミカライズ・スピンオフ漫画の場合には原作とは異なる人物が担当するケースがほとんどだが、まれに『よくわかる現代魔法』(宮下未紀)や『GJ部』(あるや)のように原作挿絵担当が漫画版の執筆も担当するケースもある。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
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"text": "そのため、ライトノベルにしてもメディアミックス展開を販売戦略の主軸に据えており、長期の人気シリーズになっている作品についてはそのほとんどが、コミカライズ及びタイアップによりアニメ化やゲーム化をされている。この傾向は特に角川系ライトノベルレーベルの作品において顕著である。ゲーム化される作品も少なくない。例として1990年代に大ヒットした富士見書房の『スレイヤーズ』などがある。アニメ・漫画・ゲームを原作として小説化され、ライトノベルのレーベルから出版される逆パターンのケースも多い。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
"paragraph_id": 64,
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"text": "出版社の多くはメディアミックスを重視する販売戦略の一環として、大手チェーンのアニメショップや漫画専門店などの販売データを重視している。またこれらへの重点的な配本や販売キャンペーンを行うなど、配本の特定の書店チェーンへの偏りという意味では他の文芸ジャンルとは一線を画しており、むしろ漫画本の配本方式に近いものといえる。ライトノベルの主な購買層が漫画・アニメ世代であり、この種の店舗の主たる利用者とほぼ一致するため極めて大きな効果を上げている。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
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"text": "アスキー・メディアワークスは、売上げの多い書店、チェーン店を重点的に配本する販売店として指定し(電撃組と呼ばれる)、ある作家の前作の売り上げ数を次作の初回配本数とする、というシステムを構築している。他のKADOKAWA社内ブランドも特約店制度を導入して優先的な配本を行なっている他、KADOKAWA以外の出版社も実績配本を行なっている。",
"title": "他ジャンルとの関係"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "台湾と香港では角川書店の現地法人・台湾国際角川書店がスニーカー文庫や電撃文庫の一部作品を繁体字中文に翻訳して発売している。2007年には青文出版集団が集英社と独占契約を締結し「菁英文庫」(Elite Novels) のレーベル名でスーパーダッシュ文庫・コバルト文庫のタイトルを刊行しているのを始め、日本では後発参入であるGA文庫やHJ文庫もそれぞれ、現地の出版社と独占ないし優先契約を締結している。太字は独占契約。",
"title": "日本国外の動向"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2008年には、台湾角川が主催する台湾でのライトノベル新人賞・台湾角川ライトノベル大賞が始まった。またそれ以前には、雑誌『ファウスト(台湾版)』で募集された浮文誌新人賞があった。この賞は元々ジャンルを限らず短編小説を募集していたが、2009年より名称を浮文字新人賞に変更し、長編のライトノベルを募集する賞として刷新された。",
"title": "日本国外の動向"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "天聞角川において角川系作品の翻訳版が出されている。日本のライトノベルだけでなく台湾作家の著作、中国本土作家のオリジナル作品もある。天漫軽小説(中国語版)というライトノベル専門誌も存在する。新人賞を設けており、長編優秀作には日本での発表もあり得ると謳っている。その他に西尾維新の刀語なども翻訳版が出されている。",
"title": "日本国外の動向"
},
{
"paragraph_id": 69,
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"text": "韓国では主に大元CIや鶴山文化社、ソウル文化社が日本で人気が出たタイトルを軒並み翻訳しており、一部の大型書店であれば簡単に手に入れることができる。刊行ペースもかなり早く、日本国外では最も日本産ライトノベルを受容している国の1つといえる。",
"title": "日本国外の動向"
},
{
"paragraph_id": 70,
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"text": "鶴山文化社はライトノベルも含め幅広いジャンル小説を対象にしたファウスト小説賞を募集している。またエクストリームノベルやD&Cメディアのシードノベルでは、賞という形を取らずに、期限などを設けず国内作家のライトノベルを募集している。",
"title": "日本国外の動向"
},
{
"paragraph_id": 71,
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"text": "アメリカでは2004年にTOKYOPOPが『スレイヤーズ』を刊行して以降、VIZ Mediaが『灼眼のシャナ』を刊行するなど紹介されたタイトルは少数で、漫画作品に比べると翻訳出版は進んでいなかったが、セブンシーズ・エンターテインメントがメディアワークスやメディアファクトリーからライセンス供与を受け2007年より「lightnovel」レーベルを新設し『しにがみのバラッド。』『ヴぁんぷ!』『かのこん』『ゼロの使い魔』などを刊行。台湾や韓国に続き2008年夏には講談社『ファウスト(アメリカ版)』が発売し、西尾維新、奈須きのこなどの作品が掲載された。",
"title": "日本国外の動向"
},
{
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"text": "ヨーロッパではTOKYOPOPがドイツで主に角川グループ系やコバルト文庫の作品を翻訳出版している。",
"title": "日本国外の動向"
},
{
"paragraph_id": 73,
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"text": "ロシアでは日本における略称「ラノベ」がそのまま単語 ранобэ として定着しつつある。元の語が「light novel」であるため「ланове」の方がより正確だが、既に「кавасаки」(カワサキ。カニ籠漁船の意。造船メーカー川崎重工業が由来)と同様に日本からの外来語としてローマ字表記「ranobe」の転写である「ранобэ」が主流になっている。",
"title": "日本国外の動向"
}
] | ライトノベルは、日本で生まれた言葉で、娯楽小説のジャンルの1つ。英単語のlightとnovelを組み合わせた和製英語で、略語はラノベ。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{Otheruses||[[なるしまゆり]]の漫画|ライトノベル (漫画)}}
[[File:Light Novel Bookstore in Macau.jpg|thumb|[[マカオ]]の[[書店]]で[[翻訳]]されて販売されている([[2014年]])]]
'''ライトノベル'''<!-- ノートでの議論に基づき、英語表記は行いません。 -->は、[[日本]]で生まれた言葉で、[[娯楽小説]]のジャンルの1つ<ref>{{Cite Kotobank|word=ライトノベル|encyclopedia=『知恵蔵』(朝日新聞出版、2008年)|accessdate=2022年3月13日}}</ref>。英単語の'''light'''と'''novel'''を組み合わせた[[和製英語]]で、[[略語]]は'''ラノベ'''<ref>{{Cite Kotobank|word=ライトノベル|encyclopedia=『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)|accessdate=2022年3月13日}}</ref>。
== 定義 ==
=== ライトノベルの定義 ===
業界内でも明確な基準は確立されておらず、はっきりとした[[必要条件]]や[[十分条件]]がない。このため「ライトノベルの定義」については様々な説がある。いずれも客観的な定義にはなっていないが「[[ライトノベル系レーベル一覧|ライトノベルを発行しているレーベル]]から出ている」「出版社がその旨を宣言した作品である」「[[漫画|マンガ]]、[[萌え絵]]の[[イラストレーション]]、挿絵を多用し、登場人物のキャラクターイメージや世界観設定を予め固定化している」「キャラクター描写を中心に据え、漫画のノベライズのように作られている」「青少年、あるいは若年層を読者層に想定して執筆されている」「作者が自称している」などが挙げられる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yc.tcu.ac.jp/~otani/research/bachelor/0632140.pdf|title=あらすじに基づくライトノベルの定義作成|publisher=東京都市大学|accessdate=2022-05-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www1.tcue.ac.jp/home1/takamatsu/104221/sotsugyou.pdf|title=ライトノベルの現状と将来|publisher=高崎経済大学|accessdate=2022-05-11}}</ref>{{信頼性要検証|date=2018-01}}。
2004年に刊行された『[[ライトノベル完全読本]]』([[日経BP]]社)では「表紙や挿絵に[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]調の[[イラストレーション|イラスト]]を多用している[[青年|若年]]層向けの小説」とされていた<ref name="lnpb1-web">{{Cite web|和書|date=|url=http://chara.nikkeibp.co.jp/chara/ln|title=ライトノベル完全読本|publisher=[[日経BP]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060614085407/http://chara.nikkeibp.co.jp/chara/ln/|archivedate=2006年6月14日|accessdate=2012-06-27|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。[[榎本秋]]は自著における定義として「中学生/高校生という主なターゲットにおいて読みやすく書かれた娯楽小説」と記している<ref name="bungakuron">榎本秋『ライトノベル文学論』2008年10月、[[NTT出版]]、ISBN 978-4-7571-4199-5。</ref>。あるいは「[[青年期]]の読者を対象とし、作中人物を漫画やアニメーションを想起させる『キャラクター』として構築したうえで、それに合わせたイラストを添えて刊行される小説群」とするものもある<ref>一柳廣孝、久米依子編著「ライトノベル・スタディーズ」青弓社</ref>。[[森博嗣]]は、著書『つぼねのカトリーヌ』(2014年)において「会話が多く読みやすく、絵があってわかりやすい小説」だとしている。又は「マンガ的あるいはアニメ的なイラストが添付された中高生を主要読者とするエンターテインメント小説」とするもの<ref>[[東浩紀]]著「ゲーム的リアリズムの誕生」p27</ref>、「アニメ風の表紙や挿絵。改行や会話が多い文章」とするものもある<ref>日本経済新聞2020年5月17日朝刊文化時評</ref>。
作家側も発行レーベルや対象読者層など、ライトノベルとそれ以外の小説を必ずしも区別して執筆しているわけではない。また、出版社側も明確にライトノベルと謳っているレーベル以外では、ライトノベルとそれ以外の小説の線引きを行い、出版しているわけではない。[[角川書店]]で毎年夏に展開されている「発見。角川文庫 夏の100冊」に於いても、一般小説に混じってライトノベルが紹介されており、2010年度版以降は『[[砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない]]』『[[海の底]]』など、角川文庫から再刊行された作品が収録されている。
==== ライトノベルと少女小説 ====
[[少女小説]]は「少女向けライトノベル」として扱われることが多い。ただし、少女小説は地の文を中心とした小説としての書き方という点で、一般文芸に近いものを要求されてきたため、男性向けライトノベルとはかなりの違いがあるという意見もある{{Sfn|大橋|2014|pp=46,49}}。
==== ライトノベルと児童文学 ====
10代を主なターゲットとしている文学ジャンルには他にも[[児童文学]]があるが、ライトノベルと異なるのは、大人向けに書かれた文学的価値観を持ち込んでいる点{{Sfn|大橋|2014|p=18}}、健全な[[世界観]]や倫理性のもとに構築される作品が多い点{{Sfn|大橋|2014|p=103}}、読み手の対象年齢を考慮した上での教育的な性格が色濃い点がある{{Sfn|新城|2006|p=42}}{{Sfn|杉浦|2008|pp=92-93}}{{Sfn|大橋|2014|p=103}}。
==== ライト文芸 ====
{{Main|ライト文芸}}
ライトノベルから派生して、より対象年齢を高く設定した[[ライト文芸]]と呼ばれるジャンルがある。SUGOI JAPANのライトノベル部門投票作品に角川文庫のキャラクター小説やメディアワークス文庫の作品が選ばれたり<ref name="sugoi2017">[http://sugoi-japan.jp/nominees/ranobe.html SUGOI JAPAN AWARD2017 ライトノベル部門、2017年3月28日閲覧]{{リンク切れ|date=2021年10月}}</ref>、早川書房『[[SFが読みたい!]]』のライトノベル紹介ページに講談社タイガ文庫の作品が載っていたりするなど<ref name="sfmag">S‐Fマガジン編集部『SFが読みたい! 2017年版』早川書房、2017年</ref>、そのままライトノベルとして扱われることも多い。名称が定着していない初期には、書店棚にていわゆる「[[なろう系]]」と呼ばれる小説投稿サイトで発表された作品の書籍が、ライト文芸と冠した棚に置かれることがあった<ref>大橋崇行・山中智省『小説の生存戦略 ライトノベル・メディア・ジェンダー』青弓社 2020年 p.69 ISBN 978-4787292551</ref>。
=== 新文芸 ===
[[KADOKAWA]]は「ネット上で発表された作品を書籍・電子書籍化して出版する小説」を「新文芸」と名付けている<ref name=kadokawa001>[https://store.kadokawa.co.jp/shop/pages/special_articles_01.aspx KADOKAWA 井上伸一郎に聞く -WEB発の新ジャンル 新文芸-]</ref>。いわゆる「ネット小説」の他、[[VOCALOID]]楽曲をもとにして書かれる「ボカロ小説」や「[[フリーゲーム]]のノベライズ」なども新文芸に含まれるとしている。意味合いが異なる「ライト文芸」と名称を混同されることがある<ref>{{Cite web|和書|title=意外と知らない「ライトノベル」ブームの現在|url=https://toyokeizai.net/articles/-/209915?page=2|page=2|website=東洋経済オンライン|author=愛咲優詩|date=2018-03-03|accessdate=2021-03-13}}</ref>。
== 発祥 ==
ライトノベルの発祥は複数の説があり、[[1975年]]の[[ソノラマ文庫]]の創刊という説や、[[新井素子]]や[[氷室冴子]]などの人気作家が登場した[[1977年]]という説などである{{R|konorabe2005}}。また、77年刊の三島由紀夫『夜会服』(集英社文庫)の解説で[[篠田一士]]が「『夜会服』のような小説をライト・ノヴェルとよんでみたら、どうだろうか。ライト・ノヴェル、つまり、軽い小説ということだが、もちろん、軽小、軽薄のそれではなくて、軽快、軽捷の軽である」と書いている。ライトノベル作家の[[中里融司]]は、その源流は戦前の「[[少年倶楽部]]」に載っていた一流大衆作家の少年向け[[少年倶楽部#長編小説|長編小説]]だとしている<ref name="lnpb2">日経キャラクターズ編集部 『ライトノベル完全読本 vol.2』 [[日経BP]]〈日経BPムック〉、2004年、ISBN 4-8222-1708-6。</ref>。
== 名称 ==
[[井上伸一郎]]によれば1980年代後半には統一されたジャンル名はなく「ファンタジー小説」や「ヤングアダルト」に括られていたという{{R|kadokawa001}}。[[水野良]]と[[安田均]]は「[[ロールプレイングゲーム|RPG]]の世界観やストーリー」を特徴とする小説として「ゲーム小説」を定義しています。その後、[[角川歴彦]]は「ゲーム小説」の概念をメディアミックスの可能性を持つ新しいジャンルに拡大しました<ref name="山中">{{Cite journal|和書|author=山中智省|title=ライトノベルという出版メディアの確立─一九九〇年代の電撃文庫の様相から─|journal= 目白大学人文学研究|issue=19|publisher=目白大学|date=2023-03-31|issn=1349-5186|pages=1-19|url=http://id.nii.ac.jp/1514/00001961/}}</ref>。
「ライトノベル」の命名は、[[1990年]]初めに[[パソコン通信]][[ニフティサーブ]]の「SFファンタジー・フォーラム」において、それまでのSFやファンタジーから独立した会議室を、会議室の[[ニフティサーブ#フォーラムマネジャーとシステムオペレーター|シスオペ]]であった“神北恵太”{{Efn|テレビアニメ『[[無敵超人ザンボット3]]』の「神北恵子」を男性形に変えたハンドル。}}が「ソノラマ・コバルト」などのレーベルからの出版物に「ライトノベル」と名付けたことが始まりであるとされる<ref name="shinka-b">「[http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20061121bk04.htm ライトノベル進化論】(下)「良質な青春小説」のような…?]」 [[読売新聞社]]、2006年11月21日、2007年9月29日閲覧。{{リンク切れ|date=2022年3月}}</ref>{{Sfn|新城|2006|p=17}}。
従来、これらの分類に対して出版社がつけていた名称としては「'''[[ジュブナイル]]'''」「'''[[ヤングアダルト]]'''」または「ジュニア小説」などがある。しかし「ジュブナイル」は小学生向けの教育的かつ健全な物語というイメージがあり、欧米の[[図書館]]職員によるレイティングが由来の「ヤングアダルト」は日本では「ヤングのアダルト小説」とも解釈されて異なった印象を与えがちなことから、これらとは違う、気軽に扱うことの出来る名称として作られた。現在では、各種メディアでも「ジュブナイルノベル」や「ヤングアダルト小説」ではなく「ライトノベル」と呼ばれるようになり、定着している<ref name="chonyumon">[[新城カズマ]] 『ライトノベル「超」入門』 [[ソフトバンク]]〈ソフトバンク新書〉、2006年、ISBN 4-7973-3338-3。</ref>。なお「ライトノベル」という呼称は、発祥してからすぐに定着したわけではなく、一般にも呼称されるようになったのはインターネットが広く普及しそれまで以上に読者同士が交流を行うようになった2000年頃だとされている{{R|bungakuron}}。例えば、[[東京BBS]]のファンタジーノベルボードでは、ボードで扱う話題の説明に "(富士見ファンタジア文庫・朝日ソノラマ文庫等)" とあり、今日ではライトノベルと認識される範疇を「ファンタジーノベル」と括っていた。
「ライトノベル」という呼称については、和製英語なので国際的には通用しないと誤解されていること(現在は「MANGA」「ANIME」などと同様に日本独自の分類分けとして知られている)、英語として直訳すると「軽い小説」と訳されることもあり、読者がどのように受け入れているのかを考慮することなく「ライトノベル」と呼ばれることを敬遠する出版社や作家などもいる{{Sfn|新城|2006|pp=35-50}}。また、文学事典などの学術的な事典においても「ライトノベル」を採用している例は少ない{{Efn|[[2004年]]に[[明治書院]]より刊行された『日本現代小説大事典』(ISBN 978-4-625-60303-7)では、コバルト文庫やスニーカー文庫を「ジュニア小説」もしくは「キャラクター小説」と分類する(P1439-1441)。}}。さらに[[図書館学]]の分野においては国際的な学術用語として「ヤングアダルト」が採用されている{{Sfn|ライトノベル研究序説|p=187}}。
== 特性 ==
=== 版型と年齢層 ===
以前は多くが[[文庫本]]の判型であった。しかし、[[1990年代]]末以降においては読者層の変化や嗜好の細分化などから、より少ない発行部数でも採算の取りやすい[[新書]]([[ノベルズ]])や[[四六判]]ソフトカバーなどでの発売も増えている。とりわけ、2012年頃から四六版ソフトカバーのライトノベルレーベルの発足が相次ぎ、2012年から2015年にかけて、ライトノベルにおける新書・四六版の売上が倍増している。主として若年層を読者としているものの、その対象年齢は拡大しているとされる<ref name="konorabe2005">『このミステリーがすごい!』編集部 『このライトノベルがすごい! 2005』 [[宝島社]]、2004年、ISBN 4-7966-4388-5。</ref>。<!--それ以前は知りませんが-->中心読者層が30代から40代以上の作品もある<ref>{{Cite news|title=第7回 エンターブレイン アクセス数より「勘と口コミ」|newspaper=新文化|date=2013-08-08|author=飯田一史|url=https://www.shinbunka.co.jp/rensai/netnovel/netnovel07.htm|accessdate=2017-07-01|publisher=新文化通信社}}</ref>。
=== 内容 ===
内容は[[恋愛小説|恋愛]]、[[サイエンス・フィクション|SF]]、[[ファンタジー]]、[[ミステリ|ミステリー]]、[[ホラー小説|ホラー]]、学園[[ラブコメ]]と多くのものを含んでいる。[[ビジュアルノベル]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、[[漫画]]などの作品を原作にした[[小説化|ノベライズ]]作品も多く発行されている。逆に、ライトノベルを原作とした[[漫画化]]や[[アニメ化]]、[[映画化]]やテレビゲーム化、玩具化(フィギュア等)などの[[メディアミックス]]も盛んに行われている{{Sfn|ライトノベル研究序説|pp=27-30}}。
近年は作品と読者年齢層の多様化が見られる。また[[高殿円]]、[[紅玉いづき]]などライトノベルとそれ以外の小説の両方を出版する作家、[[乙一]]、[[冲方丁]]、[[桜庭一樹]]などライトノベル作家としてデビューした後、他ジャンルにも展開し、[[直木三十五賞|直木賞]]などの[[文学賞]]を受賞して文壇入りする作家の出現によって、それまでの概念から大きく広がりを見せている{{Sfn|新城|2006|p=69}}。
=== 挿絵・イラストの重要性 ===
ライトノベルにとっては、[[挿絵]]によるイメージと挿絵に対する読者層からの評価は、他ジャンルの小説よりも重要な意味を持つ。これは、ライトノベル読者のうち少なくない数が、[[イラストレーション]]で作品を選択する「イラスト買い」を行っていることに起因する。「イラスト買い」が多く行われる理由は、ライトノベルがメインのターゲットとしている層は活字よりもアニメやマンガに親しんでいる層であるためとされているからである{{R|bungakuron}}。
初期のライトノベルの挿絵担当者は、[[安彦良和]]や[[天野喜孝]]など[[油絵]]や[[水彩画]]のような絵画手法をも持ったアニメーター出身者や、[[永井豪]]などの伝奇アクション作品系の[[漫画家]]、[[いのまたむつみ]]・[[美樹本晴彦]]などアニメ業界出身の当時の若手中堅イラストレーター、[[都築和彦]]などの[[パソコンゲーム]]業界出身のイラストレーターなどが主流であった。
少女文学のジャンルでは、1987年に[[花井愛子]]が[[講談社X文庫ティーンズハート]]の創刊に際して企画から関わり、同年、『一週間のオリーブ』を第一線で活躍する人気漫画家のイラストを採用した華やかな[[少女小説]]として出版し、これが人気を集めたのに続いて、少年向けでも1990年代初頭、[[神坂一]]『[[スレイヤーズ]]』の挿絵を手掛けた[[あらいずみるい]]の登場を契機としていわゆるアニメ塗りのイラストへの変革が発生した{{Sfn|新城|2006|pp=100-104}}。これはアニメを見慣れた世代の読者が増加するとともにそうした絵柄が支持を集めるようになったことと、ライトノベルの需要増加とともに短時間で大量のイラストを生産できる体制を確立する必要があったことに起因している{{Sfn|新城|2006|pp=105-109}}。
1990年代後半に入るとパソコンと画像ソフトウェアの発達からCGを利用したイラストレーションが増加し、[[美少女ゲーム]]などからも人気を集める絵柄のエッセンスを取り込むなどの動きが見られた{{Sfn|新城|2006|pp=109-116}}。特に電撃文庫は[[緒方剛志]]、[[黒星紅白]]、[[原田たけひと]]など、アニメ業界やゲーム業界でも活躍する若手イラストレーターの登用で躍進し、MF文庫Jがより大衆化された美少女路線で追随した。2000年代以降は[[いとうのいぢ]]、[[ヤスダスズヒト]]、[[ブリキ (イラストレーター)|ブリキ]]などがヒットメーカーとして知られている{{R|bungakuron}}。
ライトノベルでは人気[[イラストレーター]]が表紙(および挿絵)を担当すると、それだけで売り上げが伸びる効果があるとされている。榎本秋は「もちろんヒットしたのは作品が魅力的であるため」と前置きした上で、「イラストの力がそれ(売り上げ)を押し上げたのは間違いない」としている{{R|bungakuron}}{{Efn|ライトノベルとは異なるジャンルの事例ではあるが、2007年に[[集英社]]が過去の名作の新装版を発行するにあたって、[[太宰治]]著『[[人間失格]]』の表紙イラストに[[漫画家]]の[[小畑健]]を起用したところ、その年の『人間失格』の売り上げが異例の9万部を記録したことがある(例年は1-2万部)「[https://web.archive.org/web/20090109060155/http://mainichi.jp/enta/mantan/manga/archive/news/2007/08/20070823org00m200049000c.html 人間失格:「デスノート」の小畑健が表紙描く 異例の9万部突破]」毎日jp、2007年8月23日。}}。
近年ではライトノベルと一般文芸の中間に位置する[[ライト文芸]]の勃興によって、一般小説の装丁でもイラストレーターが重視されることが増えている。大多数の作品に挿絵イラストが使用されている一方で、あえて挿絵やイラストを使用しない方針をとる作品もある。これは「本屋で買うのが恥ずかしい」という中高生より上の年齢層の読者の敬遠や「イラストがあると却ってイメージが制限される」という読者に対応したものである{{R|bungakuron}}。
== 歴史 ==
=== 1984年以前 ===
明確なライトノベル専門のレーベルとしてではなく、後にレーベル中にライトノベルが含まれているとされている物を挙げる<ref>{{Cite |和書 |author = [[大森望]]、三村美衣 |title = ライトノベル☆めった斬り! |date = 2004 |publisher = 太田出版 |isbn = 9784872339048 |ref = harv }}</ref>。
* [[ソノラマ文庫]] - 代表作『[[クラッシャージョウ]]』([[1977年]])、『[[吸血鬼ハンターD]]』([[1983年]])、『[[妖精作戦]]』([[1984年]])、等
* [[コバルト文庫]] - 代表作『[[なんて素敵にジャパネスク]]』([[1984年]])、『[[丘の家のミッキー]]』([[1984年]])、等
=== 1984年以降 ===
1986年から[[角川文庫]]で行われた「ファンタジーフェア」と、[[テーブルトークRPG]]などを扱っていたパソコンゲーム誌『[[コンプティーク]]』を母体に、1988年に角川スニーカー文庫と富士見ファンタジア文庫が刊行される。同時に富士見書房から、[[テーブルトークRPG]]などの非電源ゲームに特化した『[[ドラゴンマガジン (富士見書房)|ドラゴンマガジン]]』が創刊され、紙面の半分程度を同文庫に収録される作品などの連載に割いていた。
富士見書房は1989年から[[ファンタジア大賞]](当時はファンタジア長編小説大賞)の選考を開始し、準入選に[[神坂一]]らが選ばれた。当時のミリオンセラーを列挙すると『[[ロードス島戦記]]』、『スレイヤーズ』、『[[フォーチュンクエスト]]』、『[[魔術士オーフェン]]』、『[[風の大陸]]』などが挙げられ、「ファンタジーフェア」以来の和製ファンタジー小説を中心にヒットを飛ばしていた。
富士見ファンタジア文庫を刊行している富士見書房は、角川書店の子会社として設立された経緯から角川書店との関係が深く、元々は[[国文学]]主体の出版社であった角川書店が出版しない官能小説やアイドル写真集などの書籍を富士見書房の名前で発売するという形態を取っていた。その後、角川書店に合併されてからは角川書店富士見事業部となり、「書房」とは名乗っているものの角川書店の一部門であった。富士見書房に限らず、初期ライトノベルレーベルの大半は角川書店の傘下にあり、長く角川メディアオフィス系の[[KADOKAWAグループ|角川グループ]]がジャンルの主導権を握っていく。
[[大塚英志]]は、角川文化の台頭の背景には、[[朝日新聞]]に代表される旧「教養」の破壊を目的とした「見えない文化大革命」があり、その帰結がライトノベル、対する「反動勢力」が[[スタジオジブリ]]であったとする<ref>[https://sai-zen-sen.jp/editors/blog/works/post-911.html 【第2回】角川歴彦とメディアミックスの時代 | 最前線 - フィクション・コミック・Webエンターテイメント]</ref>。
=== 1992年以降 ===
1992年、経営上の対立から、角川書店の当時の社長[[角川春樹]]の弟である[[角川歴彦]]らを中心とした角川メディアオフィス系のメンバーが[[角川書店]]を退社し、メディアワークス(後にアスキー・メディアワークス)を設立した。これにより、角川スニーカー文庫からは[[水野良]]・[[深沢美潮]]・[[中村うさぎ]]・[[あかほりさとる]]等の人気作家を引き連れ、電撃文庫を創刊する。電撃文庫は当初、[[主婦の友社]]と提携し販売を行なっていたが、春樹は1993年8月29日にコカイン密輸事件で逮捕され、角川書店から事実上追放された。
これによって歴彦は、角川書店側に請われ、角川書店の社長も兼務することになった。メディアワークスもまた、1999年に主婦の友社との提携を解消して角川ホールディングス傘下となる。メディアワークスは[[電撃小説大賞]](当初は電撃ゲーム小説大賞、ゲームシナリオを募集する意味合いが強かった)を1994年より開始し、1996年の[[川上稔]]、1997年の[[上遠野浩平]]、[[橋本紡]]といった受賞者が現れた。また『[[キノの旅]]』『[[とある魔術の禁書目録]]』など落選作拾い上げからベストセラーになるシリーズも出現し、『スレイヤーズ』『[[魔術士オーフェン]]』のヒット以来、トップの座にあった富士見ファンタジア文庫からシェアを奪っていく。
ファミ通文庫は1998年に創刊されたが、かつて[[ログアウト文庫]]で不振に終わった[[アスペクト (企業)|アスペクト]]のライトノベル業界への事実上の再参入であった。しかし、1999年頃、経営を悪化させた当時の[[アスキー (企業)|アスキー]](旧社)はグループ再編を行い、『[[週刊ファミ通]]』を始めとする[[ゲーム雑誌]]や子会社のアスペクト(現在は独立)が手がけていたファミ通文庫などのエンターテイメント系事業を、完全子会社である[[エンターブレイン]]へ集約した。その後、グループの持ち株会社である[[メディアリーヴス]]は、ユニゾンキャピタル傘下を経て[[2005年]]に角川ホールディングスの傘下となり、旧社より社名と『[[月刊アスキー]]』他の出版事業を継承したアスキー(新社)は2008年にメディアワークスと合併し、アスキー・メディアワークスとなった。
=== 2002年以降 ===
MF文庫Jは[[2002年]]にリクルートの子会社[[メディアファクトリー]]のレーベルとして創刊され、非角川系・非一ツ橋系では最大勢力であったが、[[2011年]]に角川グループホールディングスがメディアファクトリーを買収し傘下に収めた。
このような複雑な経緯により、[[角川グループ]]は少年向けライトノベルレーベルだけでも、
* 角川スニーカー文庫
* 富士見ファンタジア文庫
* MF文庫J
* 電撃文庫
* ファミ通文庫
の5つを傘下に収め、市場の7割<ref name="mrop200709">「オタク出版の研究」『出版月報』、2007年9月。</ref><ref name="ajpea_column_20071010">「[https://shuppankagaku.com/column/20071010/ 続々創刊、ライトノベル]」『コラム』 [[出版科学研究所]]、2007年10月10日、2022年3月13日閲覧。</ref>から8割<ref>「[http://www.shoten.co.jp/nisho/bookstore/shinbun/view.asp?PageViewNo=5675 ガガガ文庫とルルル文庫] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20071016150637/http://shoten.co.jp/nisho/bookstore/shinbun/view.asp?PageViewNo=5675 |date=2007年10月16日 }}」 全国書店新聞、2007年3月21日。</ref>(2007年。MF文庫Jは含まれていない)という圧倒的なシェアを誇るに至った。以降もそれぞれのブランドを存続し、競合させる中で個々の特色と方向性を打ち出すと共に、2007年には上記4レーベル(開催当時はグループ外のMF文庫Jを除く)で読者投票により大賞を決める「[[ライトノベルアワード]]」を開催した。
そのようなライトノベルの角川グループ寡占状態の中にあって、一般全国新聞への記事の掲載などにより注目されたためか、2000年代中盤から[[竹書房]]や[[小学館]]([[ガガガ文庫]]、[[ルルル文庫]])などの再参入(竹書房は2007年をもって再度撤退)以外に[[ソフトバンククリエイティブ]]、[[ホビージャパン]]、[[一迅社]]、[[PHP研究所]]、そして[[講談社]]や[[京都アニメーション]]や[[ポニーキャニオン]]も独自レーベルで新規参入した。その他にも、様々な自費出版系の出版社などもライトノベルのレーベルを出版している。
=== 2012年以降 ===
[[2013年]][[10月1日]]、角川書店および富士見書房、アスキー・メディアワークス、エンターブレイン、メディアファクトリーの5社はKADOKAWAに吸収合併され、それぞれ社内ブランド化された。各社内ブランドのレーベルは概ね存続しているが、2015年10月に富士見書房の単行本部門(FUJIMISHOBO NOVELS)をベースに新レーベル「[[カドカワBOOKS]]」が設立されている。電撃文庫だけは創業の経緯から角川歴彦の直轄とされ、編集、営業部門が独立していたが、2015年以降はKADOKAWAへの統合が進んでいる。
時を前後するが、上記の他、[[ヒーロー文庫]]([[主婦の友社]])や[[MFブックス]](メディアファクトリーおよび[[フロンティアワークス]]との共同)といった[[オンライン小説]]の書籍化専門レーベルが出現し、特に2012年頃からは『[[小説家になろう]]』への投稿作品書籍化を手がけるレーベルが相次いで立ち上げられ、それらの作品・レーベルを総称して「[[なろう系]]」と表現されるケースも増えている<ref>{{Cite Kotobank|word=なろう系|encyclopedia=デジタル大辞泉プラス|access-date=2020年7月9日}}</ref>。小説家になろうが旺盛を極めるより前からあった『Arcadia』や『[[アルファポリス]]』の投稿作品もなろう系という誤った区分を受けることもある{{Efn|同一作品が『小説家になろう』だけでなく『アルファポリス』などの他サイトにも投稿される場合があることも誤認を受ける要因と考えられる。}}程度に、知名度が高く影響力が伺える。
この影響による、ライトノベル的なテキストを扱う小説投稿サイトは。2020年までに以下のサイトが新設された。
*[[2015年]][[4月24日]]、[[NHN PlayArt|NHNプレイアート]]による『comicoノベル』(オンラインコミックサイト兼コミックアプリ『[[comico]]』内の投稿サイト)
*[[2016年]][[2月29日]]、[[はてな (企業)|はてな]]とKADOKAWAと共同開発による『[[カクヨム]]』
*2016年[[7月26日]]、SBクリエイティブグループのツギクル株式会社による『[[ツギクル]]』
*2016年[[12月19日]]、未来創造による『トークメーカー』(現在は講談社に運営変更し現名称は『NOVEL DAYS』)
*[[2017年]][[11月15日]] LBM Technology株式会社による『L-boom』
*[[2018年]][[1月29日]]、株式会社ノベルバによる『ノベルバ』
*2018年[[5月10日]]、UDリバース株式会社による『マグネット!』(現名称は『[[MAGNET MACROLINK]]』)
*[[2019年]][[2月25日]]、講談社による『セルバンテス』(後に同社の『NOVEL DAYS』に移行)
*2019年[[4月17日]]、[[スターツ出版]]による『ノベマ!』(ただし現在は[[ライト文芸]]中心)
*2019年[[7月18日]]、ホビージャパンによる『[[ノベルアップ+]]』
*2019年[[8月5日]]、[[LINE (企業)|LINE]]株式会社による『[[LINEノベル]]』
書籍化に至ることなくサービス終了したサイトもある中、LINEノベルはオープンと同時に元・電撃文庫編集長の[[三木一馬]]を統括編集長として、[[LINE文庫]]、[[LINE文庫エッジ]]を創刊し、コンテンツの提供に力を入れていた。しかし、2020年に休止している。
かねてよりオンライン小説の書籍化は存在していたが、このようにウェブ上への投稿機能を備えたサイトが林立したことで、既存・新設に関わらず投稿小説からのスカウトが急増した。
また、体裁が若干異なるが、セリフを吹き出しにして顔のイラストを表示し、スクロールやタップによって演出が加わる形態のテキストの電子書籍や小説投稿サイトも登場した。上述の『comicoノベル』や『NOVEL DAYS』でも一部の作品はこの体裁である。古くは2014年に[[パピレス#Renta!|Renta!]]で『絵ノベル』という電子書籍の形で見られる{{efn|更に遡れば、2012年に[[NHN Japan]]が配信した小説アカウントにユーザーが話しかける形でストーリーが送られてくる『トークノベル』が似ている。}}。トークアプリ風読み物だとか、チャットノベルだとか形容されている。『ストリエ』では投稿小説以外でも、既存の作品の試し読みがこの形態で公開されていた。『プリ小説 byGMO』(『プリ画像』の姉妹サービス)やアプリ『POCH』には夢小説として名前変換機能がある媒体{{efn|[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]『[[pixiv]]』の小説機能でも2020年4月16日から単語変換機能というのは導入されたがそれより以前から。}}もあり、オンライン投稿としてのメリットといえる。
一方で、読者の高齢化によるニーズの高まりに応え、刊行が中断し、長く未完結であった作品を改めて完結するケースや、完結した作品の続編がファンサービス的に執筆されるケースも増えている。作者が亡くなった未完作を別人の手で完結させた『[[ゼロの使い魔]]』は前者の典型で、『[[フルメタル・パニック!|フルメタル・パニック!]]』『[[灼眼のシャナ]]』などは後者のケースに該当する。
== 他ジャンルとの関係 ==
=== 一般向け展開 ===
『[[十二国記]]』や『[[〈古典部〉シリーズ|氷菓]]』、『[[おいしいコーヒーのいれ方]]』など、当初はライトノベルレーベルから刊行されたものを一般文芸として売り出しているものもある{{Efn|これらが一般人に「一般文芸」として認知されているかどうかは、正確なデータがなく不明である。}}。ライトノベルレーベルも一般層向けの戦略に力を入れ始めており、各レーベルはアニメ的イラストを入れないハードカバー作品(メディアワークス)や「イラストのないライトノベル」などの発売を行っている。
『十二国記』は少女向けレーベル「講談社X文庫ホワイトハート」から刊行されていたが、たとえ少女小説が装丁やキャラクターの書き方・会話文が男性向けレーベルのライトノベルと同じように見えたとしても、前述のように少女小説は一般文芸に近いレベルの書き方を要求されてきたため、こういった越境は決して不思議な現象ではない{{Sfn|大橋|2014|p=49}}。
最近ではライトノベルを読まない層にもライトノベルへの関心は広まっており、全国新聞や雑誌でもライトノベルの書評や特集が掲載されることもある{{Efn|例えば「ライトノベル進化論」『読売新聞』2006年11月7日・14日・21日や『クイック・ジャパン Vol.54』 [[太田出版]]、2004年など。}}。
テレビドラマ化された『[[失踪HOLIDAY]]』や『[[メイド刑事]]』や『[[忘却探偵シリーズ|掟上今日子の備忘録]]』、映画化された『[[ブギーポップシリーズ|ブギーポップは笑わない]]』、テレビドラマ化された後に映画化された『[[半分の月がのぼる空]]』などのように、最近では実写化も目立つようになった。また、『[[All You Need Is Kill]]』は2014年に[[トム・クルーズ]]主演でハリウッドでの実写映画が公開。日本での邦題は『[[オール・ユー・ニード・イズ・キル]]』で、キャッチコピーには「'''日本原作、トム・クルーズ主演。'''」と銘打たれた。
単行本形式でのライトノベルの発表は、現在かなりの頻度で行われている{{Sfn|新城|2006|p=52}}。
アスキー・メディアワークスは2009年冬に高年齢層向けの「[[メディアワークス文庫]]」を設立。当レーベルから刊行された[[三上延]]の『[[ビブリア古書堂の事件手帖]]』はベストセラーとなりドラマ化もされ、後に[[ライト文芸]]と呼ばれる分野の代表作となった<ref name="kyarabungei">{{Cite news|title=『ビブリア古書堂の事件手帖』に続く大ヒット作は出るか? いま「キャラクター文芸」がアツい|newspaper=ダ・ヴィンチNEWS|date=2015-03-04|url=https://ddnavi.com/news/229282/|accessdate=2016-06-01|publisher=KADOKAWA}}</ref>。
2007年6月からは富士見書房が[[ペーパーバック]]でのレーベルを開始した。
ファミ通文庫を擁する[[エンターブレイン]]は、ファミ通文庫から出ていた桜庭一樹の『[[赤×ピンク]]』を角川文庫から新装版発売した。
2009年3月には『スレイヤーズ』、『[[涼宮ハルヒの憂鬱]]』、『[[鋼殻のレギオス]]』など角川系のライトノベルを小学生向けに読みやすくした作品や、[[いとうのいぢ]]、[[okama]]、[[鶴田謙二]]などの人気イラストレーターを起用した作品を含む「[[角川つばさ文庫]]」をグループ各社の協力出版形式で創刊した。
集英社も、小学生向けのライトノベルレーベルである「[[集英社みらい文庫]]」を2011年4月に刊行開始し、[[ジャンプ_ジェイ_ブックス|ジャンプJブックス]]、[[スーパーダッシュ文庫]]、[[コバルト文庫]]で反響の大きかった作品やオリジナル作品を出している。
早川書房はSF系の、東京創元社はミステリ系のライトノベル作家の作品を刊行している。早川書房は2003年開始のレーベル「[[次世代型作家のリアル・フィクション]]」(ハヤカワ文庫JA)で[[冲方丁]]、[[小川一水]]、[[桜坂洋]]、[[新城カズマ]]などSF系ライトノベル作家の作品を刊行した。また、[[野尻抱介]]の単行本刊行、『微睡みのセフィロト』や『大久保町シリーズ』、『ふわふわの泉』などライトノベルとして刊行された旧作の復刊、藤間千歳・[[瀬尾つかさ]]・[[野﨑まど]]らSF系の新鋭ライトノベル作家の新作を刊行していた。東京創元社はライトノベル作家としてデビューした[[桜庭一樹]]・[[米澤穂信]]の作品を刊行し、また[[谷原秋桜子]]のライトノベル作品を復刊、新作を刊行していた。<!--特筆すべき内容ではなくなった この2社はいわゆるライトノベル系の作品を、単行本ではなく当初から文庫本で刊行することも多い。また、近年では-->表紙イラストには[[前嶋重機]]や[[ミギー]]、[[竹岡美穂]]らライトノベル系のイラストレーターを起用していた。
2000年代後半には、[[桜庭一樹]]の[[直木賞]]、[[乙一]]、[[森川智喜]]の[[本格ミステリ大賞]]、[[冲方丁]]の[[本屋大賞]]、[[佐藤友哉]]の[[三島由紀夫賞]]、[[小野不由美]]、[[米澤穂信]]の[[山本周五郎賞]]などのように、ライトノベル出身でありながら一般の文学賞を受賞する者も増えたが、既存のライトノベルレーベルからは「卒業」扱いとなることが多く、必ずしもライトノベルの地位向上には繋がっていない。
=== 一般作品のライトノベル化 ===
角川スニーカー文庫や富士見ミステリー文庫は[[宮部みゆき]]の『[[ブレイブ・ストーリー]]』、[[綾辻行人]]の『[[Another]]』など、一般文芸で活躍する作家のライトノベル化などを行っている。
2010年代からは『ビブリア古書堂の事件手帖』や『[[珈琲店タレーランの事件簿]]』『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』など、ライトノベル作家を起用しイラストを前面に押し出した文芸作品が人気を博している。こうした一般文芸とライトノベルの中間に位置する作品群は「キャラノベ<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1501O_V10C12A9000000/ マンガのような主人公が活躍、「キャラノベ」が人気のワケ] - [[日本経済新聞]]</ref>」や「[[ライト文芸]]<ref>[http://www.asahi.com/articles/DA3S11704883.html 「ライト文芸」現代の中間小説 漫画世代に向け創刊ラッシュ] - 朝日新聞デジタル{{リンク切れ|date=2022年3月}}</ref>」と称されており、メディアワークス文庫の他、[[富士見書房]]の[[富士見L文庫]]、[[新潮社]]の[[新潮文庫|新潮文庫nex]]、<!--[[講談社]]の[[講談社タイガ]]、-->[[集英社]]の[[集英社オレンジ文庫]]など大手出版社が続々と参入している。この他にも[[朝日新聞出版]]の朝日エアロ文庫、[[メディアファクトリー]]のMF文庫ダ・ヴィンチmewなどが存在する。また、[[角川ホラー文庫]]や[[宝島社文庫]]などのように、既存のレーベル内で刊行する会社もある。
=== ジャンルの枠を超えた作品 ===
講談社では、1990年代末から[[講談社ノベルス]]を持つ文芸雑誌『[[メフィスト (文芸誌)|メフィスト]]』で、ライトノベルと一般文芸の中間的な作品が掲載されることがあったが、2003年、そうした作品群を専門に扱う雑誌『[[ファウスト (文芸誌)|ファウスト]]』が創刊された。
編集長の[[太田克史]]はライトノベル界隈から『ファウスト』を立ち上げた直接的な影響として、[[上遠野浩平]]のみを挙げており、それ以前に活躍していた水野良、神坂一、あかほりさとるなどの作品群とは一切関係がない事を明言している{{Sfn|『ファウスト2006WINTER Vol.6』|2005|p=362}}。この背景には、先述の[[大塚英志]]が言及した「見えない文化大革命」が成功した結果、ライトノベルというジャンルにある種の「[[反知性主義]]」が蔓延したことから、カウンターとして創刊された経緯があり、大塚も太田のメンターとして活動していた。
レーベルでは2006年に創刊された[[講談社BOX]]がライトノベルとしての側面を持ち、[[西尾維新]]、[[奈須きのこ]]、[[竜騎士07]]などの作品が刊行されていた。これ以前から講談社ノベルスには、[[林田球]]や[[副島成記]]ら人気漫画家・イラストレーターを起用した作品が存在し、[[越前魔太郎]]『魔界探偵冥王星O』シリーズでは、[[舞城王太郎]]、[[乙一]]、[[入間人間]]、[[新城カズマ]]らが参加して電撃文庫とのコラボレーション企画を行っている。
[[講談社BOX]]からは2010年に[[星海社]]が独立。2015年には講談社BOXを実質的に休刊し、講談社ノベルスの兄弟レーベルとなる[[講談社タイガ]]を創刊した。また、古参の[[児童文学]]レーベルでライトノベル的作品がラインナップに含まれる[[青い鳥文庫]]や、小学生女児に特化したライトノベルレーベルの[[なかよし文庫]]も刊行している。
一方、[[新潮社]]や角川書店など、ライトノベル専門ではない大手出版社でもジャンルを超えた作家の作品に力を入れている。新潮社は人気漫画家のイラストを表紙にした作品の発売や、『図書館内乱』の表紙でのメディアワークスとのコラボレーション(新潮社から出版された同作者の『レインツリーの国』がメディアワークスから発売された『図書館内乱』の表紙に登場している)を行い、レーベル内レーベルとして[[新潮文庫nex|新潮文庫Nex]]を創刊した。
角川書店の文芸系レーベルでも、積極的にライトノベル作家が書く他ジャンル作品を発売している。また、一般文芸誌『[[小説野性時代|野性時代]]』『小説屋sari-sari』にも、[[桜庭一樹]]や[[有川浩]]などのライトノベル作家の作品を数多く載せている。
=== ライトノベルの販売戦略 ===
現在のライトノベルはアニメ・ゲーム業界とは[[メディアミックス]]を通じて、事実上不可分と言えるほどに密接な関係を構築している。挿絵やコミカライズなどを多くは漫画家が担当しているため、漫画業界との関係は更に深い。コミカライズ・スピンオフ漫画の場合には原作とは異なる人物が担当するケースがほとんどだが、まれに『[[よくわかる現代魔法]]』([[宮下未紀]])や『[[GJ部]]』(あるや)のように原作挿絵担当が漫画版の執筆も担当するケースもある。
そのため、ライトノベルにしてもメディアミックス展開を販売戦略の主軸に据えており、長期の人気シリーズになっている作品についてはそのほとんどが、コミカライズ及びタイアップによりアニメ化やゲーム化をされている。この傾向は特に角川系ライトノベルレーベルの作品において顕著である。ゲーム化される作品も少なくない。例として1990年代に大ヒットした富士見書房の『スレイヤーズ』などがある。アニメ・漫画・[[コンピュータゲーム|ゲーム]]を原作として小説化され、ライトノベルのレーベルから出版される逆パターンのケースも多い。
出版社の多くはメディアミックスを重視する販売戦略の一環として、大手チェーンのアニメショップや漫画専門店などの販売データを重視している。またこれらへの重点的な配本や販売キャンペーンを行うなど、配本の特定の書店チェーンへの偏りという意味では他の文芸ジャンルとは一線を画しており、むしろ漫画本の配本方式に近いものといえる。ライトノベルの主な購買層が漫画・アニメ世代であり、この種の店舗の主たる利用者とほぼ一致するため極めて大きな効果を上げている。
アスキー・メディアワークスは、売上げの多い書店、チェーン店を重点的に配本する販売店として指定し('''電撃組'''と呼ばれる)、ある作家の前作の売り上げ数を次作の初回配本数とする、というシステムを構築している{{R|lnpb1-web}}。他のKADOKAWA社内ブランドも特約店制度を導入して優先的な配本を行なっている他、KADOKAWA以外の出版社も実績配本を行なっている<ref name="mrop200505">「ライトノベル研究」『出版月報』 [[全国出版協会]]、2005年5月号。</ref>。
== 日本国外の動向 ==
[[File:Light Novel Bookstore in Macau.jpg|thumb|[[マカオ]]のライトノベル[[書店]]。]]
=== 台湾・香港 ===
[[台湾]]と[[香港]]では角川書店の現地法人・[[台湾国際角川書店]]がスニーカー文庫や電撃文庫の一部作品を[[繁体字]][[中国語|中文]]に翻訳して発売している<ref>[http://www.walkersnet.com.tw/index_fiction.asp Walkers Net・{{Lang|zh|輕小?}}]{{リンク切れ|date=2022年3月}}</ref>。[[2007年]]には[[青文出版集団]]が集英社と独占契約を締結し「菁英文庫」(''Elite Novels'') のレーベル名でスーパーダッシュ文庫・コバルト文庫のタイトルを刊行<ref>[http://blog.roodo.com/ching_win_comic/ CHiNGWiN Novel]{{リンク切れ|date=2022年3月}}</ref>しているのを始め、日本では後発参入であるGA文庫やHJ文庫もそれぞれ、現地の出版社と独占ないし優先契約を締結している。'''太字'''は独占契約。
2008年には、台湾角川が主催する台湾でのライトノベル新人賞・[[台湾角川ライトノベル大賞]]が始まった。またそれ以前には、雑誌『[[ファウスト (文芸誌)#台湾版(『浮文誌』)|ファウスト(台湾版)]]』で募集された浮文誌新人賞があった。この賞は元々ジャンルを限らず短編小説を募集していたが、2009年より名称を[[浮文字新人賞]]に変更し、長編のライトノベルを募集する賞として刷新された。
; [[青文出版集団]]
: 菁英文庫(Elite Novels) - '''スーパーダッシュ文庫・コバルト文庫'''・ジャンプj-Books
: 青文文庫(CW Novels) - ファミ通文庫・ジャンプ j-Books・EXノベルズ・なごみ文庫
: 莉莉絲文庫
; [[尖端出版]]
: [[尖端出版#浮文字|浮文字]] - 電撃文庫・富士見ミステリー文庫・ファミ通文庫・ガガガ文庫・ルルル文庫・MF文庫J・GA文庫・講談社ノベルス・'''講談社BOX'''・ハヤカワ文庫JA・徳間デュアル文庫・角川スニーカー文庫
; [[台湾国際角川書店]]
: Fantastic Novels - 角川スニーカー文庫・角川ビーンズ文庫・富士見ファンタジア文庫・富士見ミステリー文庫・電撃文庫・ファミ通文庫
: Midori Novels - 角川ビーンズ文庫・ファミ通文庫
: Ruby Series - 角川ルビー文庫
: BLOOM Series Novels
; [[東立出版社]]
: 東立軽小説(LIGHT NOVELS) - 電撃文庫・ファミ通文庫・ガガガ文庫・ルルル文庫・MF文庫J・HJ文庫・徳間デュアル文庫・富士見ミステリー文庫
: 炫小説(SHINE NOVELS) - 集英社のジャンプj-Booksと独占契約
: 酷小説(COOL NOVELS) - ジャンプ系以外のノベライズ小説
=== 中国本土 ===
[[広州天聞角川動漫|天聞角川]]において角川系作品の翻訳版が出されている。日本のライトノベルだけでなく台湾作家の著作、中国本土作家のオリジナル作品もある。{{仮リンク|天漫軽小説|zh|天漫}}というライトノベル専門誌も存在する。新人賞を設けており、長編優秀作には日本での発表もあり得ると謳っている。その他に[[西尾維新]]の[[刀語]]なども翻訳版が出されている。
=== 韓国 ===
[[大韓民国|韓国]]では主に[[大元CI]]や[[鶴山文化社]]、[[ソウル文化社]]が日本で人気が出たタイトルを軒並み翻訳しており、一部の大型書店であれば簡単に手に入れることができる。刊行ペースもかなり早く、日本国外では最も日本産ライトノベルを受容している国の1つといえる<ref>{{Cite journal|author=田泰昊|year=2016|title=韓国のライトノベル――その輸入と進化|journal=ライトノベル・フロントライン|volume=2|page=95-103}}</ref>。
鶴山文化社はライトノベルも含め幅広いジャンル小説を対象にした[[ファウスト (文芸誌)#韓国|ファウスト小説賞]]を募集している。また[[エクストリームノベル]]やD&Cメディアの[[シードノベル]]では、賞という形を取らずに、期限などを設けず国内作家のライトノベルを募集している。
; 大元CI(DAEWON CI)
: NT Novel - 角川スニーカー文庫・富士見ファンタジア文庫・富士見ミステリー文庫・電撃文庫・スーパーダッシュ文庫・MF文庫J・ファミ通文庫
:(NTは「Newtype」の意味。大元メディアは韓国語版「[[月刊ニュータイプ|Newtype]]」を発行している)
: Issue Novels - 角川スニーカー文庫・角川ビーンズ文庫・講談社X文庫ホワイトハート・C★NOVELS
; 鶴山文化社
: [[エクストリームノベル]](Extreme Novel) - 角川スニーカー文庫・電撃文庫・富士見ファンタジア文庫・富士見ミステリー文庫・ファミ通文庫・MF文庫J・スーパーダッシュ文庫・EXノベルズ。韓国オリジナル作品もある。
: [[メイクイーンノベル]](May Queen Novel) - 角川ビーンズ文庫・コバルト文庫
: [[ファウストノベルズ]](Faust Novels) - 講談社ノベルス(雑誌『[[ファウスト (文芸誌)#韓国版|ファウスト(韓国版)]]』)
: Book Holic - [[乙一]]、[[米澤穂信]]、[[桂望実]]、[[天野節子]]、[[舞城王太郎]]、[[有栖川有栖]]、[[橋本紡]]など。ライトノベル以外の作品も含む。
; ソウル文化社
: Jノベル(J-novel) - 日本の作品の翻訳のほか、韓国作家の作品も出版する
: Wink Novels - コバルト文庫・角川ビーンズ文庫
; 映像出版メディア(旧・映像ノート)
: ノベルエンジン(NovelEngine) - 韓国作家のライトノベルを出版すると同時に日本の作品を翻訳して出版している。毎年2回くらい大賞公募が行っている。
; D&Cメディア
: [[シードノベル]](Seed Novel) - 韓国作家のライトノベルを出版する。特に期限を設けず、ライトノベル作品の公募を行っている。
: Lノベル(L Novel) - 日本の作品の翻訳
; AKコミュニケーションズ
: AKノベル - MF文庫J・HJ文庫
=== 北米 ===
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では[[2004年]]に[[TOKYOPOP]]が『スレイヤーズ』を刊行して以降、[[ビズメディア|VIZ Media]]が『[[灼眼のシャナ]]』を刊行するなど紹介されたタイトルは少数で、漫画作品に比べると翻訳出版は進んでいなかったが、[[セブンシーズ・エンターテインメント]]がメディアワークスやメディアファクトリーからライセンス供与を受け2007年より'''「lightnovel」レーベル'''を新設し『[[しにがみのバラッド。]]』『[[ヴぁんぷ!]]』『[[かのこん]]』『[[ゼロの使い魔]]』などを刊行<ref>[http://www.gomanga.com/news/press_026.php gomanga.com「SEVEN SEAS ENTERTAINMENT LAUNCHES NEW "LIGHT NOVEL" IMPRINT」]</ref>。台湾や韓国に続き2008年夏には講談社『[[ファウスト (文芸誌)#アメリカ版|ファウスト(アメリカ版)]]』が発売し、[[西尾維新]]、[[奈須きのこ]]などの作品が掲載された。
; TOKYOPOP
: TOKYOPOP Novels - 角川スニーカー文庫・富士見ファンタジア文庫・富士見ミステリー文庫・電撃文庫・ハヤカワ文庫JA
; Seven Seas Entertainment
: lightnovel - 電撃文庫・MF文庫J
=== ヨーロッパ ===
[[ヨーロッパ]]ではTOKYOPOPが[[ドイツ]]で主に角川グループ系やコバルト文庫の作品を翻訳出版している<ref>[http://www.tokyopop.de/ TOKYOPOP] - 「Romane」参照。</ref>。
; [[カールセン出版社|Carlsen]]
: Nippon Novel<ref>[http://www.carlsen.de/web/manga/nippon_novel manga carlsen]{{リンク切れ|date=2022年3月}}</ref>
; TOKYOPOP
: TOKYOPOP Romane - 角川スニーカー文庫・角川ルビー文庫・電撃文庫・ファミ通文庫・コバルト文庫
=== ロシア ===
[[ロシア]]では日本における略称「'''ラノベ'''」がそのまま単語 {{Lang|ru|ранобэ}} として定着しつつある。元の語が「'''l'''ight '''nove'''l」であるため「{{Lang|ru|ланове}}」の方がより正確だが、既に「{{Lang|ru|кавасаки}}」(カワサキ。カニ籠[[漁船]]の意。造船メーカー[[川崎重工業]]が由来)と同様に日本からの外来語として[[ローマ字]]表記「ranobe」の転写である「{{Lang|ru|ранобэ}}」が主流になっている<ref>[http://www.j-by.net/index.php?showtopic=297 {{Lang|ru|Словарь Аниме-Терминологии}}](アニメ用語事典)の「{{Lang|ru|ранобэ}}」を参照。{{リンク切れ|date=2022年3月}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|colwidth=30em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book ja-jp|editor=一柳廣孝、久米依子|year=2009|title=ライトノベル研究序説|url=http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-9188-2|publisher=[[青弓社]]|isbn=978-4-7872-9188-2|ref={{Sfnref|ライトノベル研究序説}}}}
* [[榎本秋]] 『ライトノベル文学論』 [[NTT出版]]、2008年。ISBN 978-4-7571-4199-5。
* [[大森望]]・三村美衣 『ライトノベル☆めった斬り!』 [[太田出版]]、2004年。ISBN 978-4-87233-904-8。
* {{Cite book ja-jp|author=[[新城カズマ]]|year=2006|title=ライトノベル「超」入門|url=http://www.sbcr.jp/products/4797333383.html|publisher=[[SBクリエイティブ|ソフトバンククリエイティブ]]|series=ソフトバンク新書|isbn=978-4797333381|ref={{Sfnref|新城|2006}}}}
* {{Cite book ja-jp|author=杉浦由美子|year=2008|title=ケータイ小説のリアル|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書ラクレ]]|isbn=978-4121502797|ref={{Sfnref|杉浦|2008}}}}
* {{Cite book ja-jp|author=[[東浩紀]]|year=2007|title=ゲーム的リアリズムの誕生〜動物化するポストモダン2|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000147343|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|isbn=978-4061498839|ref={{Sfnref|東|2007}}}}
* {{Cite book ja-jp|author=大橋崇行|year=2014|title=ライトノベルから見た少女/少年小説史:現代日本の物語文化を見直すために|url=http://kasamashoin.jp/2014/09/post_3009.html|publisher=[[笠間書院]]|isbn=978-4305707437|ref={{Sfnref|大橋|2014}}}}
== 関連文献 ==
* {{Citation|和書|author=石井ぜんじ、太田祥暉、松浦恵介|date=2022-01-01|title=ライトノベルの新潮流|publisher=スタンダーズ株式会社|isbn=978-4866365367 }}
== 関連項目 ==
*[[なろう系]]
=== 小説の大枠の分類 ===
* [[純文学]]
* [[大衆小説]]
* [[中間小説]]
* [[児童文学]]
=== 小説のジャンルによる分類 ===
* [[ジュブナイル]]
* [[ヤングアダルト]]
* [[ライト文芸]]
* [[少女小説]]
* [[ジュブナイルポルノ|エロライトノベル]]
* [[ティーンズラブ#小説|ティーンズラブ]]
* [[ボーイズラブ#BL小説|ボーイズラブ]]
* [[小説化#ライトノベル|ノベライズ]]
* [[リプレイ (TRPG)]]
* [[ケータイ小説]]
* [[オンライン小説]]
=== その他 ===
* [[メディアミックス]]
* [[オンライン作家]]
* [[ゼロ・ジャンル]]
* [[セカイ系]]
=== ガイドブック ===
* [[このライトノベルがすごい!]]
=== 一覧 ===
* [[ライトノベル系レーベル一覧]]
* [[ライトノベル作家一覧]]
* [[ライトノベルの挿絵画家一覧]]
* [[ライトノベルのアニメ化作品一覧]]
* [[ライトノベルのゲーム化作品一覧]]
* [[ライトノベルの漫画化作品一覧]]
* [[ライトノベルの実写化作品一覧]]
* [[ライトノベルのドラマCD化作品一覧]]
* [[ライトノベル雑誌]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:らいとのへる}}
[[Category:ライトノベル|*]]
[[Category:おたく]]
[[Category:戦後日本の文学]]
[[Category:和製英語]] | 2003-03-12T08:14:13Z | 2023-11-12T04:03:28Z | false | false | false | [
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"Template:Citation"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8E%E3%83%99%E3%83%AB |
3,863 | 日本国 (曖昧さ回避) | 日本国(にほんこく、にっぽんこく) | [
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] | 日本国(にほんこく、にっぽんこく) 日本国、日本(にほんこく、にっぽんこく) - 東アジアに位置する島国。
日本国 (山)(にほんこく) - 新潟県と山形県の境に位置する山。
日本国(にっぽんこく) - 山形県にある小字名。山形県鶴岡市大宝寺字日本国。 座標: 引数の形式が認識できません | '''日本国'''(にほんこく、にっぽんこく)
* 日本国、[[日本]](にほんこく、にっぽんこく) - [[東アジア]]に位置する島国。
* [[日本国 (山)]](にほんこく) - [[新潟県]]と[[山形県]]の境に位置する山。
* 日本国(にっぽんこく) - [[山形県]]にある[[小字]]名。山形県[[鶴岡市]][[大宝寺村|大宝寺]][[小字|字]]日本国。 {{ウィキ座標度分秒|38|44|52.89|N|139|49|37.86|E|}}
== 関連項目 ==
* [[日本 (曖昧さ回避)]]
* [[NIPPON]]
* [[ジャパン (曖昧さ回避)]]
* [[特別:前方一致ページ一覧/日本国]]
{{Aimai}} | 2003-03-12T08:20:57Z | 2023-10-14T09:10:30Z | true | false | false | [
"Template:ウィキ座標度分秒",
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF) |
3,864 | 半導体素子 | 半導体素子(はんどうたいそし、英: semiconductor device)とは、半導体で作られた電子回路の構成要素である。半導体デバイスともいう。
種類ごとに電気的特性と機能を持っており、基本素子として整流機能を有するダイオード、増幅機能を有するトランジスタ、スイッチング機能を有するサイリスタ等がある。 またシステム的なものとして、トランジスタの論理回路を集積させて高度な演算機能を実現する集積回路(IC・LSI)、CCD・CMOSを利用した光電変換機能を集積した固体撮像素子などがある。 これらについて半導体素子・半導体デバイスは動作原理を表す概念的モデルから、具体的な製品まで、様々なレベルのものを指す。
コンピュータ、携帯電話等の電子機器でその中心的機能を担っている。さらに機械分野でも制御機能の高度化に伴い自動車や各種産業機器にも組込まれている。
世界の電子機器メーカーの半導体需要は2018年において4,766億ドルであった。
半導体素子が普及する以前は電気回路における能動素子として電子管(真空管など)が使われていた。 しかし半導体素子には次のような特徴があり、特定の用途・領域を除き電子管を代替した。
当初真空管に比べて不利とされていた弱点についても、それを補う方法が開発された。
2018年現在では単元素のシリコン、化合物半導体としてヒ化ガリウム (GaAs)、窒化ガリウム (GaN)、炭化珪素 (SiC)等がよく用いられる。
半導体材料の伝導性は通常多数キャリア(majority carrier)(N型半導体では電子、P型半導体では正孔)の移動により発現する。多数キャリアの存在密度は結晶構造中の自由電子の過不足を生じさせる不純物に依存する。しかし、トランジスタなど多くの半導体素子では、動作するためには少数キャリア(minority carrier)N型半導体では正孔、P型半導体では電子が必要である。
半導体素子には、トランジスタ、ダイオード(整流器)、発光ダイオード (LED) 等がある。こういった単体の半導体素子は「ディスクリート半導体」(個別半導体)と呼ばれる個別部品として生産・使用されているが、多数の半導体素子を一括して作成した集積回路 (IC, LSI) の方が流通量や産業規模としても大きな位置を占めている。集積回路になると、トランジスタやダイオードといった能動素子に加えて、抵抗やコンデンサといった素子も半導体素子として構築される。
パワーエレクトロニクスにおいては、電力機器用の電力用半導体素子があり、高電圧、高電流を扱うことができる。
2端子素子は通常「ダイオード」と呼ばれる。
素子のオン状態およびオフ状態を外部から与える信号によって任意に切り替えられることが出来るものを自己消弧素子という。
もっとも初期のタイプである。ゲルマニウムなどの半導体表面に針を刺して各端子にする物である。1945年にダイオードが、1948年にトランジスタが開発された。点接触形ダイオードは端子間容量が小さく、高周波特性が良いので検波用ダイオードとして広く用いられ、今日でも特定用途に生産されている。他方、点接触形トランジスタは、トランジスタ発明当時の姿であり、エミッタ端子とコレクタ端子との間隔を微小に保つことの困難さや、動作の不安定さなどからまもなく接合型トランジスタに取って代わられた。 この方式以外の半導体は、原則としてすべて接合型構造に分類される。
純粋な半導体の単結晶を溶融半導体中に入れ、ゆっくり引き上げ棒状に成長させるものである。
ゲルマニウムトランジスタ全盛期に一般的だった製法である。ゲルマニウムの薄いN型単結晶を、アクセプタとなるインジウム等の金属粒で両面から挟んで熱接合し、合金部分から拡散したアクセプタによってPNP構造を形成したもの。(NPN型もあったが、Siトランジスタでは使われなかったと思われる)
断面が台地(メサ)状で、厚み方向に電流を流すものである。PN接合ダイオードの場合PN、バイポーラトランジスタの場合PNP/NPN、サイリスタの場合PNPN構造を形成する。
2000年代では、大電力用パワーデバイスのみに使用されている。
同一平面上に端子用電極を形成したものである。電流経路を短くすることが可能で高周波特性が良いなどの特徴がある。
また、微細加工により多くの素子を並べて写真技術の応用で製造できるためばらつきが少なく大量生産に向く。この特徴を生かしてモノリシック集積回路が発明された。
ファブレスとは、自社内に製造部門を持たずに開発や設計を行い、他社に製造を委託すること、またはその会社を指す。詳細はファブレスを参照。 | [
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"title": "材料とその性質"
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"title": "材料とその性質"
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"text": "半導体素子には、トランジスタ、ダイオード(整流器)、発光ダイオード (LED) 等がある。こういった単体の半導体素子は「ディスクリート半導体」(個別半導体)と呼ばれる個別部品として生産・使用されているが、多数の半導体素子を一括して作成した集積回路 (IC, LSI) の方が流通量や産業規模としても大きな位置を占めている。集積回路になると、トランジスタやダイオードといった能動素子に加えて、抵抗やコンデンサといった素子も半導体素子として構築される。",
"title": "半導体素子の例"
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"text": "パワーエレクトロニクスにおいては、電力機器用の電力用半導体素子があり、高電圧、高電流を扱うことができる。",
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"text": "2端子素子は通常「ダイオード」と呼ばれる。",
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"text": "素子のオン状態およびオフ状態を外部から与える信号によって任意に切り替えられることが出来るものを自己消弧素子という。",
"title": "半導体素子の例"
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"text": "もっとも初期のタイプである。ゲルマニウムなどの半導体表面に針を刺して各端子にする物である。1945年にダイオードが、1948年にトランジスタが開発された。点接触形ダイオードは端子間容量が小さく、高周波特性が良いので検波用ダイオードとして広く用いられ、今日でも特定用途に生産されている。他方、点接触形トランジスタは、トランジスタ発明当時の姿であり、エミッタ端子とコレクタ端子との間隔を微小に保つことの困難さや、動作の不安定さなどからまもなく接合型トランジスタに取って代わられた。 この方式以外の半導体は、原則としてすべて接合型構造に分類される。",
"title": "構造の歴史"
},
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"text": "純粋な半導体の単結晶を溶融半導体中に入れ、ゆっくり引き上げ棒状に成長させるものである。",
"title": "構造の歴史"
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"text": "ゲルマニウムトランジスタ全盛期に一般的だった製法である。ゲルマニウムの薄いN型単結晶を、アクセプタとなるインジウム等の金属粒で両面から挟んで熱接合し、合金部分から拡散したアクセプタによってPNP構造を形成したもの。(NPN型もあったが、Siトランジスタでは使われなかったと思われる)",
"title": "構造の歴史"
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"text": "断面が台地(メサ)状で、厚み方向に電流を流すものである。PN接合ダイオードの場合PN、バイポーラトランジスタの場合PNP/NPN、サイリスタの場合PNPN構造を形成する。",
"title": "構造の歴史"
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"text": "2000年代では、大電力用パワーデバイスのみに使用されている。",
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"text": "同一平面上に端子用電極を形成したものである。電流経路を短くすることが可能で高周波特性が良いなどの特徴がある。",
"title": "構造の歴史"
},
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"tag": "p",
"text": "また、微細加工により多くの素子を並べて写真技術の応用で製造できるためばらつきが少なく大量生産に向く。この特徴を生かしてモノリシック集積回路が発明された。",
"title": "構造の歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "ファブレスとは、自社内に製造部門を持たずに開発や設計を行い、他社に製造を委託すること、またはその会社を指す。詳細はファブレスを参照。",
"title": "主なファブレス半導体ベンダー"
}
] | 半導体素子とは、半導体で作られた電子回路の構成要素である。半導体デバイスともいう。 種類ごとに電気的特性と機能を持っており、基本素子として整流機能を有するダイオード、増幅機能を有するトランジスタ、スイッチング機能を有するサイリスタ等がある。
またシステム的なものとして、トランジスタの論理回路を集積させて高度な演算機能を実現する集積回路(IC・LSI)、CCD・CMOSを利用した光電変換機能を集積した固体撮像素子などがある。
これらについて半導体素子・半導体デバイスは動作原理を表す概念的モデルから、具体的な製品まで、様々なレベルのものを指す。 コンピュータ、携帯電話等の電子機器でその中心的機能を担っている。さらに機械分野でも制御機能の高度化に伴い自動車や各種産業機器にも組込まれている。 世界の電子機器メーカーの半導体需要は2018年において4,766億ドルであった。 | {{出典の明記|date=2021年3月}}
'''半導体素子'''(はんどうたいそし、[[英語|英]]: semiconductor device)とは、[[半導体]]で作られた電子回路の構成要素である。半導体デバイスともいう。
種類ごとに電気的特性と機能を持っており、基本素子として[[整流]]機能を有する[[ダイオード]]、[[増幅]]機能を有する[[トランジスタ]]、スイッチング機能を有する[[サイリスタ]]等がある。
またシステム的なものとして、トランジスタの論理回路を集積させて高度な演算機能を実現する[[集積回路]](IC・LSI)、[[CCDイメージセンサ#CCD|CCD]]・[[CMOS]]を利用した光電変換機能を集積した[[固体撮像素子]]などがある。
これらについて半導体素子・半導体デバイスは動作原理を表す概念的モデルから、具体的な製品まで、様々なレベルのものを指す。
[[コンピュータ]]、[[携帯電話]]等の[[電子機器]]でその中心的機能を担っている。さらに機械分野でも制御機能の高度化に伴い[[自動車]]や各種産業機器にも組込まれている。
世界の電子機器メーカーの半導体需要は2018年において4,766億ドルであった<ref>{{Cite web|和書|title=ガートナー速報 - 2018年、世界の半導体消費を牽引する上位10社に中国の電子機器メーカー4社がランクイン|url=https://www.gartner.com/jp/newsroom/press-releases/pr-20190205|website=Gartner|accessdate=2019-05-06|language=ja}}</ref>。
<table width="290" align="right" style="font-size: 12px; border:1px solid #8888aa;" cellspacing="2" cellpadding="2">
<tr>
<td align="center" bgcolor="#dddddd" colspan="2">半導体素子(集積回路)製作の大まかな流れ</td>
</tr>
<tr>
<td align=center>[[ファイル:Clean room.jpg|100px]]</td>
<td valign=top>'''[[クリーンルーム]]''':<br>半導体を利用した電子機器はホコリに弱いため、作業はこのような清浄な環境下で行われる。</td>
</tr>
<tr>
<td width="100" align="center">[[ファイル:Monokristalines Silizium für die Waferherstellung.jpg|100px]]</td>
<td valign=top>'''[[インゴット|シリコンインゴット]]'''(左の長い円柱)をスライスして、'''[[ウェハー]]'''(下の薄い円盤)を作る。<br/>[[画像:Silicon wafer with mirror finish.jpg|160px|center]]</td>
</tr>
<tr>
<td align=center>[[ファイル:12-inch silicon wafer.jpg|代替文=|124x124px]]</td>
<td valign=top>回路の実装が済んだウェハー。碁盤の目状に見えるのは同一の回路(ダイ)が並んでいるため。これを[[ダイヤモンドカッター]]で切り分ける。</td>
</tr>
<tr>
<td align=center>[[ファイル:AMD@7nm(12nmIOD)@Zen2@Matisse@Ryzen 5 3600@100-000000031 BF 1923SUT 9HM6935R90062 DSC04844-DSC04924 - ZS-DMap (48319199101).jpg|代替文=|124x124px]]</td>
<td valign=top>ウェハーから切り分けられたダイ。複雑に入り組んだ回路が見える。</td>
</tr>
<tr>
<td align=center>[[ファイル:256kbit 16kbit EPROM SRAM Wafer Scale Integration PSD311 (2).jpg|代替文=|124x124px]]</td>
<td valign="top">最終的な状態。
これはモールド(封止)がされていないチップの例。中心にウェハーから切り分けられたダイが実装されている。
</td>
</tr><tr>
<td align="center">[[ファイル:Raspberry Pi 3 (24986543980).png|代替文=|124x124ピクセル]]</td>
<td rowspan="2" valign="top">その後、スマートフォンやテレビといった様々な電子機器内部に搭載される。</td>
</tr>
</table>
== 特徴 ==
半導体素子が普及する以前は電気回路における能動素子として[[電子管]]([[真空管]]など)が使われていた。
しかし半導体素子には次のような特徴があり、特定の用途・領域を除き電子管を代替した。
* 固体素子であり、真空管のように真空空間の確保、熱電子放出の機構を必要としない。
* 小型化、集積化が可能である。電力消費が少ない。
* 製造工程において組み立て作業を回避可能で、量産、生産性向上に適している。
* 機械的機構が無いため [[振動]]や[[加速度]]の機械的条件に強く、低温動作も含めて長寿命化、信頼性確保の観点で有利である。
当初真空管に比べて不利とされていた弱点についても、それを補う方法が開発された。
* 温度による特性の変化が大きいので、補償回路が必要である。→補償回路を含んだ集積回路の登場。
* 電気的なストレス(過負荷、過電圧、過電流など)に弱い。→[[回路設計]]上の工夫や各種保護回路との併用。
== 材料とその性質 ==
{{main|半導体#物性}}
2018年現在では単元素の[[シリコン]]、化合物半導体として[[ヒ化ガリウム]] (GaAs)、[[窒化ガリウム]] (GaN)、[[炭化珪素]] (SiC)等がよく用いられる。
[[半導体]]材料の伝導性は通常多数キャリア(majority carrier)([[N型半導体]]では[[電子]]、[[P型半導体]]では[[正孔]])の移動により発現する。多数キャリアの存在密度は結晶構造中の[[自由電子]]の過不足を生じさせる不純物に依存する。しかし、[[トランジスタ]]など多くの半導体素子では、動作するためには少数キャリア(minority carrier)N型半導体では正孔、P型半導体では電子が必要である。
== 半導体素子の例 ==
半導体素子には、[[トランジスタ]]、[[ダイオード]](整流器)、[[発光ダイオード]] (LED) 等がある。こういった単体の半導体素子は「ディスクリート半導体」(個別半導体)と呼ばれる個別部品として生産・使用されているが、多数の半導体素子を一括して作成した[[集積回路]] (IC, LSI) の方が流通量や産業規模としても大きな位置を占めている。集積回路になると、トランジスタやダイオードといった能動素子に加えて、抵抗やコンデンサといった素子も半導体素子として構築される。
[[パワーエレクトロニクス]]においては、電力機器用の[[電力用半導体素子]]があり、高電圧、高電流を扱うことができる。
=== 2端子素子 ===
2端子素子は通常「ダイオード」と呼ばれる。
*[[定電圧ダイオード]](ツェナーダイオード)
*[[可変容量ダイオード]]
*[[発光ダイオード]] (LED)
* [[PINダイオード]]
*[[ショットキーバリアダイオード]](SBD)
*[[レーザーダイオード]]
*[[フォトダイオード]]
*[[太陽電池]]
* サージ保護用ダイオード
*[[ダイアック]]
*[[バリスタ (電子部品)|バリスタ]]
* エサキダイオード([[トンネルダイオード]])
=== 3端子素子 ===
素子のオン状態およびオフ状態を外部から与える信号によって任意に切り替えられることが出来るものを[[自己消弧素子]]という。
; トランジスタ
*[[バイポーラトランジスタ]]
*[[電界効果トランジスタ]] (FET)
*[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ]] (IGBT)
*[[ユニジャンクショントランジスタ]] (UJT)
*[[フォトトランジスタ]]
*[[CCDイメージセンサ]](固体撮像素子)
;[[サイリスタ]] (SCR)
*[[ゲートターンオフサイリスタ]] (GTO)
*[[トライアック]] (TRIAC)
== 分類 ==
=== 集積度による分類 ===
* 個別半導体:[[トランジスタ]]、[[ダイオード]]など
* [[集積回路]](IC)
** 小規模集積回路(SSI):<100素子/チップ
** 中規模集積回路(MSI):100~1,000素子/チップ
** 大規模集積回路(LSI):1,000~100,000素子/チップ
** 超大規模集積回路(VLSI):>100,000素子/チップ
=== 基板構成による分類 ===
* モノリシックIC([[シリコン基板]]、[[SOI]]基板)
* [[ハイブリッドIC]](厚膜IC、薄膜IC)
* [[SOI]]基板によるデバイス
=== 構造による分類 ===
* [[バイポーラ]]型(npn構造、pnp構造)
* [[MOS]]型(nMOS構造、pMOS構造、[[CMOS]]構造
* {{仮リンク|BiCMOS|en|BiCMOS}}構造(バイポーラとCMOSの混載)
=== 機能による分類 ===
* デジタル用デバイス
** メモリ
*** [[Random Access Memory|RAM]]:[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]、[[Static Random Access Memory|SRAM]]、[[FeRAM]]
*** [[Read only memory|ROM]]:[[EPROM]]、[[EEPROM]]、[[マスクROM]]、[[フラッシュメモリ]]
** ロジック([[MPU]]、[[汎用ロジックIC]])
** メモリ・ロジック混載:[[システムLSI]]([[System-on-a-chip]])
* アナログ用デバイス:[[民生用]]、産業用
* デジタル・アナログ混載デバイス
=== 開発形態による分類 ===
* 標準(汎用)デバイス:メモリ、MPU、汎用ロジックなど
* カスタムデバイス:[[ASIC]](フルカスタム仕様)
* セミカスタムデバイス:[[ゲートアレイ]]、[[PLA]]、セルベースICなど
=== 生産形態による分類 ===
* 多品種少数生産方式デバイス:[[ASIC]]、[[カスタムIC]]、[[ロジックIC]]
* 少品種多量生産方式デバイス:メモリ、MPUなど
* 受託生産方式デバイス:[[ファウンドリ]]
== 構造の歴史 ==
=== 点接触形 ===
もっとも初期のタイプである。[[ゲルマニウム]]などの半導体表面に針を刺して各端子にする物である。1945年に[[ダイオード]]が、1948年にトランジスタが開発された。点接触形ダイオードは端子間容量が小さく、高周波特性が良いので検波用ダイオードとして広く用いられ、今日でも特定用途に生産されている。他方、点接触形トランジスタは、トランジスタ発明当時の姿であり、エミッタ端子とコレクタ端子との間隔を微小に保つことの困難さや、動作の不安定さなどからまもなく接合型トランジスタに取って代わられた。
この方式以外の半導体は、原則としてすべて接合型構造に分類される。
=== 結晶成長形 ===
純粋な半導体の単結晶を溶融半導体中に入れ、ゆっくり引き上げ棒状に成長させるものである。
; レートグローン形
: ドナー不純物とアクセプタ不純物をともに少量含ませた溶液から引き上げるものである。引き上げる速度を速くするとP型半導体が成長し、遅くするとN型半導体が成長する。ベース領域が厚くなるため高周波特性を良くすることが困難である。
; グローン拡散形
: 引き上げる過程で溶融半導体中に加える不純物を変化させると結晶の場所によりP型あるいはN型半導体が成長する。これによりダイオードの場合PN、トランジスタの場合P-N-P(あるいはN-P-N)構造を作るものである。
=== 合金接合形(アロイ形) ===
ゲルマニウムトランジスタ全盛期に一般的だった製法である。ゲルマニウムの薄いN型単結晶を、アクセプタとなるインジウム等の金属粒で両面から挟んで熱接合し、合金部分から拡散したアクセプタによってPNP構造を形成したもの。(NPN型もあったが、Siトランジスタでは使われなかったと思われる)
* ドリフトトランジスタ
* 表面障壁形
* マイクロアロイ形
* マイクロアロイ拡散形
=== メサ形 ===
断面が台地(メサ)状で、厚み方向に電流を流すものである。PN接合ダイオードの場合PN、バイポーラトランジスタの場合PNP/NPN、サイリスタの場合PNPN構造を形成する。
2000年代では、大電力用[[パワーデバイス]]のみに使用されている。
=== プレーナ形 ===
同一平面上に端子用電極を形成したものである。電流経路を短くすることが可能で高周波特性が良いなどの特徴がある。
また、微細加工により多くの素子を並べて写真技術の応用で製造できるためばらつきが少なく大量生産に向く。この特徴を生かしてモノリシック[[集積回路]]が発明された。
=== プロセスによる分類 ===
; 拡散接合形
: 半導体基板に[[拡散]]や[[イオン注入]]などで不純物を含ませるものである。
; エピタキシャル形
: 低い抵抗値の半導体基板の表面に薄い高抵抗の結晶層を形成するものである。
; SOI (silicon on insulator)
{{Main|SOI}}
: [[絶縁体]]上に[[シリコン]]のプレーナ形半導体素子を形成する技術である。絶縁体上の薄膜を利用するので、基板下部からの漏れ電流が少なく、耐放射線性能が向上する。システム[[液晶ディスプレイ]]・漏れ電流が少なく高速動作が可能なCMOS-IC・高耐圧MOS-IC・耐放射線素子の製作に使用される。絶縁体には人工的に作られた[[サファイア]]が使われることもある(silicon on sapphire:SOS)。{{要出典範囲|絶縁体に熱伝導性の高い[[ダイヤモンド]]基板を使った素子は大出力[[発光ダイオード]]で2015年現在一般的であり、特に超高温となる[[半導体レーザー]]は耐熱性の高い[[窒化物半導体]]とダイアモンド基板のペアで製造される物が主流である。|date=2015年2月}}
== 主な半導体製造メーカー ==
=== 日本 ===
* [[ソニー]] - [[ソニーセミコンダクタソリューションズ]]
* [[東芝]]
* [[ルネサス エレクトロニクス]]
: [[日立製作所]]と[[三菱電機]]の半導体部門が合併して設立された[[ルネサス テクノロジ]]に[[NECエレクトロニクス]]がさらに合併して設立された。
* ヌヴォトン テクノロジージャパン - 旧[[パナソニック]]
* [[富士通]]
* [[オン・セミコンダクター|オン・セミコンダクター・ホールディングス]] - 旧・三洋半導体
* [[シャープ]]
* [[京セラ]]
* [[沖電気工業]]
* [[セイコーエプソン]]
* [[ローム]]
* [[サンケン電気]]
* [[富士電機システムズ]]
=== 大韓民国 ===
* [[サムスン電子]]
* [[LGエレクトロニクス]]
* [[SKハイニックス]]
=== 台湾 ===
* [[TSMC]]
* [[UMC]]
* [[ALi (企業)|ALi]]
* [[Realtek]]
* [[ウィンボンド・エレクトロニクス]]
* [[ヌヴォトン]]
=== 米国 ===
* [[インテル]]
* [[テキサス・インスツルメンツ]]
* [[マイクロン・テクノロジ]]
* [[スパンション]]
* [[フェアチャイルドセミコンダクター]]
* [[アナログ・デバイセズ]]
* [[GLOBALFOUNDRIES]]
=== ヨーロッパ ===
* [[STマイクロエレクトロニクス]]
* [[NXPセミコンダクターズ]]
:[[フィリップス]]の半導体部門が分社化して誕生
* [[インフィニオン・テクノロジーズ]]
:[[シーメンス]]の半導体部門が分社化して誕生
* [[キマンダ]]
:インフィニオン・テクノロジーズの半導体メモリー部門が分社化して誕生
== 主なファブレス半導体ベンダー ==
ファブレスとは、自社内に製造部門を持たずに開発や設計を行い、他社に製造を委託すること、またはその会社を指す。詳細は[[ファブレス]]を参照。
=== 米国 ===
* [[Synaptics|シナプティクス]]
*[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ]]
* [[クアルコム]]
* [[コネクサント]]
* [[ザイリンクス]]
* [[サンディスク]]
* [[NVIDIA]]<!-- NVIDIAはファブレスなので「半導体素子」メーカーとは言えない。同様にクアルコム、ブロードコム、Marvell、メディアテック等も掲載していない。 cf. NVIDIAの年次財務報告書 pp 16-17 http://media.corporate-ir.net/media_files/irol/11/116466/reports/FY2007_10K.pdf -->
* [[ブロードコム]]
* [[マーヴェル・テクノロジ]]
=== 台湾 ===
* [[MediaTek|メディアテック]]
== かつて存在した半導体メーカーおよびベンダー ==
* [[アルテラ]]
: [[インテル]]によって買収され、[[FPGA]]部門になった
* [[IDT]]
: [[ルネサス エレクトロニクス]]によって買収された
* [[LSIコーポレーション|LSIコーポレーション(旧社名:LSIロジック)]]
: [[アバゴ・テクノロジー]]によって買収された
* [[フリースケール・セミコンダクタ]]
: NXPセミコンダクターズに吸収合併された
* [[ナショナル セミコンダクター]]
: テキサス・インスツルメンツによって買収された
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
*{{cite book ja-jp
|author=前田和夫
|title=現場の即戦力 はじめての半導体プロセス
|publisher=技術評論社
|year=2016
|isbn=978-4-7741-4749-9
}}
== 関連項目 ==
* [[真空管]]
* [[半導体の低消費電力技術]]
{{半導体}}
{{Electronic components}}
[[Category:半導体素子|*]] | 2003-03-12T08:29:29Z | 2023-11-15T08:35:28Z | false | false | false | [
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"Template:半導体",
"Template:出典の明記",
"Template:仮リンク",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%B0%8E%E4%BD%93%E7%B4%A0%E5%AD%90 |
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] | IDE Integrated Drive Electronics - パソコンにハードディスク等を接続するためのインターフェース規格。Advanced Technology Attachment(ATA)を参照。
インターネット民主党は、ハンガリーの政党。
統合開発環境 - ソフトウェア開発環境。
アジア経済研究所
IDE大学協会 - 日本の大学関係者の任意団体。
元F1ドライバー、井出有治の通称。
インスリン分解酵素 | {{wiktionary}}
'''IDE'''
* [[Advanced Technology Attachment#IDE|Integrated Drive Electronics]] - パソコンにハードディスク等を接続するためのインターフェース規格。[[Advanced Technology Attachment]](ATA)を参照。
* [[インターネット民主党]] (洪:Internetes DEmokrácia pártja 英:party of Internet DEmocracy)は、[[ハンガリー]]の政党。
* [[統合開発環境]] (Integrated Development Environment) - [[ソフトウェア]]開発環境。
* [[アジア経済研究所]](IDE, Institute of Developing Economies)
* [[IDE大学協会]] (Institute for Development of Higher Education) - 日本の大学関係者の任意団体。
* 元F1ドライバー、[[井出有治]]の通称。
* [[インスリン分解酵素]] (insulin degrading enzyme)
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Advanced Technology Attachment - パソコンとハードディスク等を接続するインターフェイス
Analog Telephony Adapter - 普通の電話をIP電話として使うためのアダプタ
南極のISO 3166-1国名コード。“南極”を意味する「Antarctica」より。
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Advanced Tactical Aircraft - アメリカ海軍が1980年代後半に開発した先進技術攻撃機(計画)。A-12 アヴェンジャーII として制式化されたが1991年に計画中止。
テクノエイド協会
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エリア・ツーリズム・エージェンシー
アレン・テレスコープ・アレイ - アメリカにある電波望遠鏡
アミトロール (aminotriazole)
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* [[Averaged t-matrix Approximation]]([[バンド計算]]の一手法)
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* [[Analog Telephony Adapter]] - 普通の電話を[[IP電話]]として使うためのアダプタ
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* [[テクノエイド協会]](Association for Technical Aids)
* 自動車の[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]で、[[国際ナンバー]]につけられる地名のひとつ。日本の地名の「秋田('''A'''ki'''Ta''')」にあたる。
* [[エリア・ツーリズム・エージェンシー]](Area Tourism Agency)
* [[アレン・テレスコープ・アレイ]] (Allen Telescope Array) - アメリカにある電波望遠鏡
* [[アミトロール]] ('''a'''mino'''t'''ri'''a'''zole)
* 米国テコンドー協会 (American Taekwondo Association) - 1969年に設立されたアメリカのテコンドー団体。
* 航空輸送予備隊([[:en:Air Transport Auxiliary|Air Transport Auxiliary]]) - 1940年から1945年にかけて活動した[[イギリス空軍]]の航空機の輸送部隊。予備輸送部隊、航空輸送補助隊とも。
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3,868 | アラビア語 | アラビア語(アラビアご、亜剌比亜語、اللغة العربية, UNGEGN式:al-lughatu l-ʻarabīyah, アッ=ルガトゥル=アラビーヤ、العَرَبِيَّة, al-ʻarabiyyah [ʔalʕaraˈbij.ja] ( 音声ファイル)、عَرَبِيّ ʻarabī [ˈʕarabiː, ʕaraˈbij] ( 音声ファイル))は、アフロ・アジア語族のセム語派に属する言語の一つ。主に西アジアや北アフリカのアラブ世界で話されている。ISO 639による言語コードは、2字が ar 、3字が ara で表される。
世界で3番目に多くの国と地域で使用されている言語であり、アラビア半島やその周辺、サハラ砂漠以北のアフリカ北部の領域を中心に27か国で公用語とされている。また、国連の公用語においては、後から追加された唯一の言語でもある。
「アラビア語」は、もともとアラビア半島で話されていたが、北アフリカやイラク、シリア方面まで広がった。現代において使用されているアラビア語は、次の2つに大きく分類されている。
フスハー(正則アラビア語)はアラブ諸国の共通語であり、アラビア文字で書かれる。起源は西暦4世紀ごろのアラビア半島にさかのぼるといわれ、イスラーム文明の出現と拡大にともなって北アフリカにまで使用地域が広がり、現在まで言語として大きく変わらずに使われている。
イスラームの聖典であるクルアーンは古典アラビア語で書かれているが、これはムハンマドがいたヒジャーズ地方のアラビア語をかなり反映していると考えられる。クルアーンの記述によれば、イスラームを伝えるために神が選んだのがアラビア語だったことから、ムスリムはこれを「アッラーの言葉」としてとらえている。クルアーン(コーラン)はアラビア語で詠唱して音韻をふむように書かれ、またアラビア語原典がアッラーが人類に与えたオリジナル版とされるため、翻訳は教義上原則禁じられる。クルアーンの勉強や暗誦は敬虔なイスラム教徒の必須の義務とされるが、クルアーンを学ぶためには必然的にアラビア語を読めなくてはならず、アフリカからトルコ、インド、東南アジアにかけてのイスラム圏では、アラビア語がイスラム知識人層の共通語として通用している。
『マカーマート』〈訳は平凡社東洋文庫全3巻〉のような古典に見られる書き言葉は、とくにオスマン帝国の時代に一時期衰退したが、話し言葉は続けて用いられていた。文語は近代になってより簡単なものとして練り直され、近代以降の新しい概念に対応する新語が大量に追加されることで、現代において使用されている現代標準アラビア語が成立した。こうしてフスハーはアラビア語において公的な面を代表する言語となり、宗教関係のほかに、学術関係や書籍・雑誌・新聞などの文章はもちろん、公的な場での会話やテレビニュースなどの改まった場においても使用されるようになった。公的な言語であるためアラビア語の教育もすべてフスハーで行われているが、逆に言えばフスハーは学校で「習う」アラビア語である。文語であり、あくまでも公式な場で使用されるものであるため、日常会話においてフスハーが使用されることはない。
一方、方言は日常会話で用いられる話し言葉を指す。現代の話し言葉としてのアラビア語は、国・地域によって異なる地域変種(ラハジャ)に分かれ、これには正字法が無い。日常会話はこの話し言葉で話されるが、私信などではこれを文字化して表現する。また、大衆向けの小説や演劇、詩歌は現代口語の諸変種で書かれる。
湾岸方言、ヒジャーズ方言、イラク方言、シリア方言(英語版)、レバノン方言、パレスチナ方言、エジプト方言、スーダン方言、マグリブ方言(英語版)、ハッサニヤ方言などに大別され、それぞれの地域のなかでも違いがある。地域によっては、宗派ごとに話されるアラビア語に差異があるなどする。また、生活形態によっても、地域を越えてそれぞれ共通の特徴がある。遊牧民方言、農村方言、都市方言の3つに分けられる。
現代アラブ世界での現代標準アラビア語と方言の関係は、中世のカトリック教会地域におけるラテン語とロマンス諸語の関係に似ている。後者が前者から派生し、フランス語、イタリア語、スペイン語など多くの変種に分かれていること。前者が日常語としては死語であるが、公的な話し言葉、書き言葉として通用し、後者は基本的に書かれることはまれであることが、その理由である。このことから、言語学においてアラビア語は二言語使い分けの典型的な例とされる。
エジプト方言、シリア方言、レバノン方言などはマスメディアで多用されるためアラブ世界各地で理解される一方、異なる地域同士の住民では方言での会話に支障が出ることもある。また、書き言葉が日常で話されることはほぼ皆無であり、読み書き・演説や報道番組での使用に限定される。従って、非ネイティヴが現地でスムーズな日常の会話を行うためには当地の話し言葉を習得する必要があり、読み書きも習得する場合には現代標準アラビア語と重ねて学習しなければならない。
多くの単語は、三つの子音を語根として分析することができる。そこに、母音や接頭辞、接尾辞、接中辞を付けて、語彙を派生したり、活用したりする。形態論的には屈折語である。
アラビア語の表記には、通常はアラビア文字が用いられる。フスハーはアラビア文字による正書法を持ち、アーンミーヤも文字化する際は一般にアラビア文字が用いられる。ただし、マルタ語はラテン文字による正書法を持つ。以下は、アラビア文字の主な特徴である。
アラビア語を公用語としている国家のうち、アラブ首長国連邦、イエメン、オマーン、カタール、クウェート、サウジアラビア、シリア、バーレーン、パレスチナ、ヨルダン、レバノン、エジプト、リビア、チュニジアにおいては国民のほとんどがアラブ人で構成されており、公用語としてのフスハーと日常語としてのアーンミーヤのみを使用している。これはイスラム教徒以外のアラブ人も同様で、たとえばレバノンにはマロン派などのキリスト教徒も多数存在するが、民族的にはアラブ人であるためそのほとんどはフスハーとアラビア語レバノン方言を話す。アルジェリアにおいては国民の大半がアラビア語を話すものの、カビール語などのベルベル語諸語話者も存在する。レバノン、アルジェリアでは旧宗主国語のフランス語も通じる。ただし同国の公用語はアラビア語のみとなっている。アラブ人多数の上でベルベル人がかなりの数存在するのは隣国のモロッコにおいても同様であるが、モロッコでは公用語はアラビア語とベルベル語の2言語体制となっている。モロッコと領有権を争っている西サハラではアラビア語と共にスペイン語も使われる。イラクにおいては北部にクルド人が居住しているためにクルド語も公用語となっているが、アラビア語話者は多数派を占めている。モーリタニアはアラビア語を使用するムーア人が多数を占め、アラビア語が公用語となっているが、南部を中心にアラビア語を使用しない黒人も多く、また旧フランス領だったためフランス語の影響力も強い。スーダンもアラブ系が多数を占めるものの、西部のフール人などのようにアラビア語を使用しない民族も多く存在し、紛争が絶えない。公用語はアラビア語と英語の二言語使用となっている。
こうしたアラブ人が多数を占める国家に対し、住民のほとんどがソマリ語を話すソマリ人であるソマリアや、同じくアファル人とイッサ人が多数を占めるジブチ、スワヒリ語に近いコモロ語を主に使用するコモロなどのような、日常語としてアラビア語をほとんど使用しない地域においてもアラビア語が公用語とされることがある。これはこれら諸国がアラブ諸国との経済的・文化的結びつきが強く、またイスラム教徒がほとんどであるため典礼用言語であるフスハーを理解できるものが多く存在するためである。
アラビア語を公用語としている国家は増加傾向にある。これは、かつてイギリスやフランスの植民地だったアラブ人国家が独立後、公用語を英語やフランス語からアラビア語に変更する傾向が強いためである。特にアフリカにおいては、アラビア語圏以外のほとんどの新独立国が旧宗主国の公用語の使用を継続していることと明確な対比をなしている。こうした公用語の切り替えはアラブ人国家すべてで行われたものの、その深度や速度には国によって違いがみられた。旧英領諸国ではほとんどの国で公用語のアラビア語切り替えが実施されたものの、旧フランス領諸国ではモロッコやモーリタニアのように公用語をフランス語とアラビア語の2言語とする国家がいくつか存在し、アルジェリアのように積極的に言語切り替えが行われた国との差異が目立った。またアルジェリアにおいても、教育課程のアラビア語化は進んだものの官僚など政府の指導層がフランス語話者によって占有されている状況を打破することはできなかった。アラビア語教育によって大衆のアラビア語化は進んだものの、エリート層はフランス語話者のままだったため、この二言語の話者間に階層的な対立が生じた。さらにアルジェリアにおけるアラビア語化はイスラム主義と結びついていたために、イスラム主義の台頭を招き、1990年代のアルジェリア内戦へとつながっていくこととなった。
マルタ共和国のマルタ語は、現代アラビア語口語の一変種である。語彙などの面でヨーロッパ諸語、特にイタリア語からの借用が多く、またラテン文字で綴られる。現代アラビア語口語諸語の中で国家の公用語となっているのはマルタ・アラビア語のみである。
英国委任統治領時代のパレスチナにおいては、英語、アラビア語、ならびにヘブライ語の3か国語が公用語とされた。そして、1948年のイスラエル建国後は、アラビア語とヘブライ語のみがイスラエルの公用語とされ、英語は公用語ではなくなった。しかしながら、ユダヤ系イスラエル人の児童や生徒を対象とした初等教育ならびに中等教育機関においては、公用語であるアラビア語よりも公用語ではない英語の教育を重視している。アラブ系イスラエル人の児童や生徒を対象とした初等教育ならびに中等教育機関においては、ユダヤ系イスラエル人よりもアラビア語やアラブ文学などに割り当てられる時間数が多い。また、イスラエルにおける雇用条件において、多くの場合は「ヘブライ語と英語が話せること」が語学的な条件として課されており、公用語であるアラビア語は全く理解できなくても、イスラエル社会においては特に問題視されない。それ故、イスラエルにおけるアラビア語は、公式には公用語であるにもかかわらず、事実上はアラブ系イスラエル人というマイノリティのみが用いる言語になっている。イスラエルのアラブ人のかなりが、アラビア語のほかにヘブライ語も使用することができる。また、現在のイスラエルにおける通貨や切手などは、ヘブライ語、アラビア語、ならびに、英語の3か国語で記載される。このような状況は建国以来70年近く続いてきたが、ベンヤミン・ネタニヤフ政権は2017年5月7日にアラビア語を公用語から外して国語へと格下げし、ヘブライ語のみを公用語とする閣議決定を行った。この閣議決定に対し、同国のアラブ人政党からは強い反発が起こった。
イスラム教においてアラビア語は典礼用言語となっており、アラビア語のもの以外はクルアーンとして扱われないため、礼拝においては必ずアラビア語によってクルアーンを唱えることとなる。ただしクルアーンが翻訳されたものが注釈書として多くの言語圏において出版されているため、イスラム教徒にとってアラビア語は礼拝において必要であっても、内容の理解までは必ずしも必要ではない。このためアラビア語ができないイスラム教徒も非常に多く存在する。ただしクルアーンの内容を詳しく知るためにはアラビア語の知識は不可欠であり、このためイスラム教諸国においては熱心な信徒を中心に薄く広くアラビア語話者が存在する。
このほか、少数民族としてアラブ人が居住している地域においてもアラビア語は使用されている。トルコ南東部のハタイ県、マルディン県、スィイルト県、シャンルウルファ県、イランの南西部にあるフーゼスターン州にはアラブ人が多く住み、アラビア語が多く話されている。
アラビア語は世界で4番目の話者人口を持ち、さらにその話者が一地方に集住しているため、言語として大きな影響力を持つ。このため、アラビア語は多くの国際機関において公用語とされている。なかでもアラブ連盟はアラブ人国家の地域協力機構であるため、アラビア語は唯一の公用語となっている。イスラム協力機構も、イスラム教の典礼用言語がアラビア語でありイスラム教圏のほとんどにアラビア語が広まっているためにアラビア語の影響力は大きく、英語、フランス語とともに公用語の一つとなっている。アフリカ連合においても、大陸北部を中心にアラビア語諸国は一大勢力を保っているため、英語、フランス語、ポルトガル語、スワヒリ語とともに公用語とされている。アラビア語使用諸国は数も多くひとつの文明圏を形成しているため、国際連合においても1973年にアラビア語は公用語に追加され、英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語とともに6つの公用語のひとつとされている。
「アル」で始まる言葉が多いのは、al- が定冠詞だからである。
アラビア語から大きな影響を受けた言語は多く存在する。
特に北アフリカや西アフリカ、東アフリカの海岸部においては、それまで文字を持っていなかった言語がイスラム教およびその典礼用言語であるアラビア語の影響を受けて語法を整備し、文字を導入したケースが多く存在する。ハウサ語、ソマリ語などはこうした言語であり、現代では表記法はラテン文字に改められたものの、アラビア語からの借用語は非常に多く存在している。インド洋の季節風交易によってアラブ人商人が多く訪れた東アフリカの海岸部においては、バントゥー諸語の語幹に語彙の35%から40%にものぼる大量のアラビア語からの借用語を取り入れたスワヒリ語が16世紀ごろまでには成立し、地域の商業言語として広く使用されるようになった。
このほか、ペルシア語、トルコ語を含むテュルク諸語、スペイン語、ヒンドゥスターニー語、マレー語などの言語は古くから独自の文字を持っていたが、イスラム教の伝播によってアラビア文字を使用するようになり、同時に大量の語彙がアラビア語から流入した。これらの言語は現代でもアラビア語からの借用語が多い。ただしペルシア語を除き、現在はそれぞれ別の文字で表記されている。
アラビア語の統制機関としては、最も古いダマスカス・アラビア語アカデミー(1919年創立)や、カイロにあるアラブ語学院(1932年創立)をはじめ、いくつかの国家に設けられたアラビア語アカデミーがその役割を担っている。こうした統制機関は科学分野を除いて外国語からの借用語をできるだけ制限し、新たな概念に対しては単語の意味の拡張などアラビア語内の対応によって処理する傾向が強い。 | [
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"text": "アラビア語(アラビアご、亜剌比亜語、اللغة العربية, UNGEGN式:al-lughatu l-ʻarabīyah, アッ=ルガトゥル=アラビーヤ、العَرَبِيَّة, al-ʻarabiyyah [ʔalʕaraˈbij.ja] ( 音声ファイル)、عَرَبِيّ ʻarabī [ˈʕarabiː, ʕaraˈbij] ( 音声ファイル))は、アフロ・アジア語族のセム語派に属する言語の一つ。主に西アジアや北アフリカのアラブ世界で話されている。ISO 639による言語コードは、2字が ar 、3字が ara で表される。",
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"text": "世界で3番目に多くの国と地域で使用されている言語であり、アラビア半島やその周辺、サハラ砂漠以北のアフリカ北部の領域を中心に27か国で公用語とされている。また、国連の公用語においては、後から追加された唯一の言語でもある。",
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"text": "「アラビア語」は、もともとアラビア半島で話されていたが、北アフリカやイラク、シリア方面まで広がった。現代において使用されているアラビア語は、次の2つに大きく分類されている。",
"title": "概要"
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"text": "フスハー(正則アラビア語)はアラブ諸国の共通語であり、アラビア文字で書かれる。起源は西暦4世紀ごろのアラビア半島にさかのぼるといわれ、イスラーム文明の出現と拡大にともなって北アフリカにまで使用地域が広がり、現在まで言語として大きく変わらずに使われている。",
"title": "概要"
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"text": "イスラームの聖典であるクルアーンは古典アラビア語で書かれているが、これはムハンマドがいたヒジャーズ地方のアラビア語をかなり反映していると考えられる。クルアーンの記述によれば、イスラームを伝えるために神が選んだのがアラビア語だったことから、ムスリムはこれを「アッラーの言葉」としてとらえている。クルアーン(コーラン)はアラビア語で詠唱して音韻をふむように書かれ、またアラビア語原典がアッラーが人類に与えたオリジナル版とされるため、翻訳は教義上原則禁じられる。クルアーンの勉強や暗誦は敬虔なイスラム教徒の必須の義務とされるが、クルアーンを学ぶためには必然的にアラビア語を読めなくてはならず、アフリカからトルコ、インド、東南アジアにかけてのイスラム圏では、アラビア語がイスラム知識人層の共通語として通用している。",
"title": "概要"
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"text": "『マカーマート』〈訳は平凡社東洋文庫全3巻〉のような古典に見られる書き言葉は、とくにオスマン帝国の時代に一時期衰退したが、話し言葉は続けて用いられていた。文語は近代になってより簡単なものとして練り直され、近代以降の新しい概念に対応する新語が大量に追加されることで、現代において使用されている現代標準アラビア語が成立した。こうしてフスハーはアラビア語において公的な面を代表する言語となり、宗教関係のほかに、学術関係や書籍・雑誌・新聞などの文章はもちろん、公的な場での会話やテレビニュースなどの改まった場においても使用されるようになった。公的な言語であるためアラビア語の教育もすべてフスハーで行われているが、逆に言えばフスハーは学校で「習う」アラビア語である。文語であり、あくまでも公式な場で使用されるものであるため、日常会話においてフスハーが使用されることはない。",
"title": "概要"
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"text": "一方、方言は日常会話で用いられる話し言葉を指す。現代の話し言葉としてのアラビア語は、国・地域によって異なる地域変種(ラハジャ)に分かれ、これには正字法が無い。日常会話はこの話し言葉で話されるが、私信などではこれを文字化して表現する。また、大衆向けの小説や演劇、詩歌は現代口語の諸変種で書かれる。",
"title": "概要"
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"text": "湾岸方言、ヒジャーズ方言、イラク方言、シリア方言(英語版)、レバノン方言、パレスチナ方言、エジプト方言、スーダン方言、マグリブ方言(英語版)、ハッサニヤ方言などに大別され、それぞれの地域のなかでも違いがある。地域によっては、宗派ごとに話されるアラビア語に差異があるなどする。また、生活形態によっても、地域を越えてそれぞれ共通の特徴がある。遊牧民方言、農村方言、都市方言の3つに分けられる。",
"title": "概要"
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"text": "現代アラブ世界での現代標準アラビア語と方言の関係は、中世のカトリック教会地域におけるラテン語とロマンス諸語の関係に似ている。後者が前者から派生し、フランス語、イタリア語、スペイン語など多くの変種に分かれていること。前者が日常語としては死語であるが、公的な話し言葉、書き言葉として通用し、後者は基本的に書かれることはまれであることが、その理由である。このことから、言語学においてアラビア語は二言語使い分けの典型的な例とされる。",
"title": "概要"
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"text": "エジプト方言、シリア方言、レバノン方言などはマスメディアで多用されるためアラブ世界各地で理解される一方、異なる地域同士の住民では方言での会話に支障が出ることもある。また、書き言葉が日常で話されることはほぼ皆無であり、読み書き・演説や報道番組での使用に限定される。従って、非ネイティヴが現地でスムーズな日常の会話を行うためには当地の話し言葉を習得する必要があり、読み書きも習得する場合には現代標準アラビア語と重ねて学習しなければならない。",
"title": "概要"
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"text": "多くの単語は、三つの子音を語根として分析することができる。そこに、母音や接頭辞、接尾辞、接中辞を付けて、語彙を派生したり、活用したりする。形態論的には屈折語である。",
"title": "アラビア語の特徴"
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"text": "アラビア語の表記には、通常はアラビア文字が用いられる。フスハーはアラビア文字による正書法を持ち、アーンミーヤも文字化する際は一般にアラビア文字が用いられる。ただし、マルタ語はラテン文字による正書法を持つ。以下は、アラビア文字の主な特徴である。",
"title": "アラビア語の特徴"
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"text": "アラビア語を公用語としている国家のうち、アラブ首長国連邦、イエメン、オマーン、カタール、クウェート、サウジアラビア、シリア、バーレーン、パレスチナ、ヨルダン、レバノン、エジプト、リビア、チュニジアにおいては国民のほとんどがアラブ人で構成されており、公用語としてのフスハーと日常語としてのアーンミーヤのみを使用している。これはイスラム教徒以外のアラブ人も同様で、たとえばレバノンにはマロン派などのキリスト教徒も多数存在するが、民族的にはアラブ人であるためそのほとんどはフスハーとアラビア語レバノン方言を話す。アルジェリアにおいては国民の大半がアラビア語を話すものの、カビール語などのベルベル語諸語話者も存在する。レバノン、アルジェリアでは旧宗主国語のフランス語も通じる。ただし同国の公用語はアラビア語のみとなっている。アラブ人多数の上でベルベル人がかなりの数存在するのは隣国のモロッコにおいても同様であるが、モロッコでは公用語はアラビア語とベルベル語の2言語体制となっている。モロッコと領有権を争っている西サハラではアラビア語と共にスペイン語も使われる。イラクにおいては北部にクルド人が居住しているためにクルド語も公用語となっているが、アラビア語話者は多数派を占めている。モーリタニアはアラビア語を使用するムーア人が多数を占め、アラビア語が公用語となっているが、南部を中心にアラビア語を使用しない黒人も多く、また旧フランス領だったためフランス語の影響力も強い。スーダンもアラブ系が多数を占めるものの、西部のフール人などのようにアラビア語を使用しない民族も多く存在し、紛争が絶えない。公用語はアラビア語と英語の二言語使用となっている。",
"title": "言語分布"
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"text": "こうしたアラブ人が多数を占める国家に対し、住民のほとんどがソマリ語を話すソマリ人であるソマリアや、同じくアファル人とイッサ人が多数を占めるジブチ、スワヒリ語に近いコモロ語を主に使用するコモロなどのような、日常語としてアラビア語をほとんど使用しない地域においてもアラビア語が公用語とされることがある。これはこれら諸国がアラブ諸国との経済的・文化的結びつきが強く、またイスラム教徒がほとんどであるため典礼用言語であるフスハーを理解できるものが多く存在するためである。",
"title": "言語分布"
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"text": "アラビア語を公用語としている国家は増加傾向にある。これは、かつてイギリスやフランスの植民地だったアラブ人国家が独立後、公用語を英語やフランス語からアラビア語に変更する傾向が強いためである。特にアフリカにおいては、アラビア語圏以外のほとんどの新独立国が旧宗主国の公用語の使用を継続していることと明確な対比をなしている。こうした公用語の切り替えはアラブ人国家すべてで行われたものの、その深度や速度には国によって違いがみられた。旧英領諸国ではほとんどの国で公用語のアラビア語切り替えが実施されたものの、旧フランス領諸国ではモロッコやモーリタニアのように公用語をフランス語とアラビア語の2言語とする国家がいくつか存在し、アルジェリアのように積極的に言語切り替えが行われた国との差異が目立った。またアルジェリアにおいても、教育課程のアラビア語化は進んだものの官僚など政府の指導層がフランス語話者によって占有されている状況を打破することはできなかった。アラビア語教育によって大衆のアラビア語化は進んだものの、エリート層はフランス語話者のままだったため、この二言語の話者間に階層的な対立が生じた。さらにアルジェリアにおけるアラビア語化はイスラム主義と結びついていたために、イスラム主義の台頭を招き、1990年代のアルジェリア内戦へとつながっていくこととなった。",
"title": "言語分布"
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"text": "マルタ共和国のマルタ語は、現代アラビア語口語の一変種である。語彙などの面でヨーロッパ諸語、特にイタリア語からの借用が多く、またラテン文字で綴られる。現代アラビア語口語諸語の中で国家の公用語となっているのはマルタ・アラビア語のみである。",
"title": "言語分布"
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"text": "英国委任統治領時代のパレスチナにおいては、英語、アラビア語、ならびにヘブライ語の3か国語が公用語とされた。そして、1948年のイスラエル建国後は、アラビア語とヘブライ語のみがイスラエルの公用語とされ、英語は公用語ではなくなった。しかしながら、ユダヤ系イスラエル人の児童や生徒を対象とした初等教育ならびに中等教育機関においては、公用語であるアラビア語よりも公用語ではない英語の教育を重視している。アラブ系イスラエル人の児童や生徒を対象とした初等教育ならびに中等教育機関においては、ユダヤ系イスラエル人よりもアラビア語やアラブ文学などに割り当てられる時間数が多い。また、イスラエルにおける雇用条件において、多くの場合は「ヘブライ語と英語が話せること」が語学的な条件として課されており、公用語であるアラビア語は全く理解できなくても、イスラエル社会においては特に問題視されない。それ故、イスラエルにおけるアラビア語は、公式には公用語であるにもかかわらず、事実上はアラブ系イスラエル人というマイノリティのみが用いる言語になっている。イスラエルのアラブ人のかなりが、アラビア語のほかにヘブライ語も使用することができる。また、現在のイスラエルにおける通貨や切手などは、ヘブライ語、アラビア語、ならびに、英語の3か国語で記載される。このような状況は建国以来70年近く続いてきたが、ベンヤミン・ネタニヤフ政権は2017年5月7日にアラビア語を公用語から外して国語へと格下げし、ヘブライ語のみを公用語とする閣議決定を行った。この閣議決定に対し、同国のアラブ人政党からは強い反発が起こった。",
"title": "言語分布"
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"text": "イスラム教においてアラビア語は典礼用言語となっており、アラビア語のもの以外はクルアーンとして扱われないため、礼拝においては必ずアラビア語によってクルアーンを唱えることとなる。ただしクルアーンが翻訳されたものが注釈書として多くの言語圏において出版されているため、イスラム教徒にとってアラビア語は礼拝において必要であっても、内容の理解までは必ずしも必要ではない。このためアラビア語ができないイスラム教徒も非常に多く存在する。ただしクルアーンの内容を詳しく知るためにはアラビア語の知識は不可欠であり、このためイスラム教諸国においては熱心な信徒を中心に薄く広くアラビア語話者が存在する。",
"title": "言語分布"
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"text": "このほか、少数民族としてアラブ人が居住している地域においてもアラビア語は使用されている。トルコ南東部のハタイ県、マルディン県、スィイルト県、シャンルウルファ県、イランの南西部にあるフーゼスターン州にはアラブ人が多く住み、アラビア語が多く話されている。",
"title": "言語分布"
},
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"text": "アラビア語は世界で4番目の話者人口を持ち、さらにその話者が一地方に集住しているため、言語として大きな影響力を持つ。このため、アラビア語は多くの国際機関において公用語とされている。なかでもアラブ連盟はアラブ人国家の地域協力機構であるため、アラビア語は唯一の公用語となっている。イスラム協力機構も、イスラム教の典礼用言語がアラビア語でありイスラム教圏のほとんどにアラビア語が広まっているためにアラビア語の影響力は大きく、英語、フランス語とともに公用語の一つとなっている。アフリカ連合においても、大陸北部を中心にアラビア語諸国は一大勢力を保っているため、英語、フランス語、ポルトガル語、スワヒリ語とともに公用語とされている。アラビア語使用諸国は数も多くひとつの文明圏を形成しているため、国際連合においても1973年にアラビア語は公用語に追加され、英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語とともに6つの公用語のひとつとされている。",
"title": "言語分布"
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"text": "「アル」で始まる言葉が多いのは、al- が定冠詞だからである。",
"title": "他言語への影響"
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"text": "アラビア語から大きな影響を受けた言語は多く存在する。",
"title": "他言語への影響"
},
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"text": "特に北アフリカや西アフリカ、東アフリカの海岸部においては、それまで文字を持っていなかった言語がイスラム教およびその典礼用言語であるアラビア語の影響を受けて語法を整備し、文字を導入したケースが多く存在する。ハウサ語、ソマリ語などはこうした言語であり、現代では表記法はラテン文字に改められたものの、アラビア語からの借用語は非常に多く存在している。インド洋の季節風交易によってアラブ人商人が多く訪れた東アフリカの海岸部においては、バントゥー諸語の語幹に語彙の35%から40%にものぼる大量のアラビア語からの借用語を取り入れたスワヒリ語が16世紀ごろまでには成立し、地域の商業言語として広く使用されるようになった。",
"title": "他言語への影響"
},
{
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"text": "このほか、ペルシア語、トルコ語を含むテュルク諸語、スペイン語、ヒンドゥスターニー語、マレー語などの言語は古くから独自の文字を持っていたが、イスラム教の伝播によってアラビア文字を使用するようになり、同時に大量の語彙がアラビア語から流入した。これらの言語は現代でもアラビア語からの借用語が多い。ただしペルシア語を除き、現在はそれぞれ別の文字で表記されている。",
"title": "他言語への影響"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "アラビア語の統制機関としては、最も古いダマスカス・アラビア語アカデミー(1919年創立)や、カイロにあるアラブ語学院(1932年創立)をはじめ、いくつかの国家に設けられたアラビア語アカデミーがその役割を担っている。こうした統制機関は科学分野を除いて外国語からの借用語をできるだけ制限し、新たな概念に対しては単語の意味の拡張などアラビア語内の対応によって処理する傾向が強い。",
"title": "統制機関"
}
] | アラビア語は、アフロ・アジア語族のセム語派に属する言語の一つ。主に西アジアや北アフリカのアラブ世界で話されている。ISO 639による言語コードは、2字が ar 、3字が ara で表される。 世界で3番目に多くの国と地域で使用されている言語であり、アラビア半島やその周辺、サハラ砂漠以北のアフリカ北部の領域を中心に27か国で公用語とされている。また、国連の公用語においては、後から追加された唯一の言語でもある。 | {{特殊文字}}
{{Infobox Language|name=アラビア語
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|pronunciation = {{IPA|alːuɣatu‿lʕarabiːja}}
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[[アラブ首長国連邦]]、[[アルジェリア]]、[[イエメン]]、[[イスラエル]]、[[イラク]]、[[イラン]]、[[エジプト]]、[[エリトリア]]、[[オマーン]]、[[カタール]]、[[ガンビア]]、[[クウェート]]、[[コモロ]]、[[サウジアラビア]]、[[西サハラ]]、[[シリア]]、[[スーダン]]、[[ソマリア]]([[ソマリランド]]含む)、[[チャド]]、[[チュニジア]]、[[パレスチナ]]([[ガザ地区]]・[[ヨルダン川西岸地区]])、[[バーレーン]]、[[マリ共和国|マリ]]、[[モーリタニア]]、[[モロッコ]]、[[ヨルダン]]、[[リビア]]、[[レバノン]]
|region=[[中東|西アジア]]、[[アフリカ]]
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|rank7-8(母語話者)
|fam1=[[アフロ・アジア語族]]
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|fam4={{仮リンク|中央セム語|en|Central Semitic languages}}
|script=[[アラビア文字]]
|nation=[[アラブ首長国連邦]]、[[アルジェリア]]、[[イエメン]]、[[イラク]]、[[エジプト]]、[[エリトリア]]、[[オマーン]]、[[カタール]]、[[クウェート]]、[[コモロ]]、[[サウジアラビア]]、[[西サハラ]]、[[シリア]]、[[スーダン]]、[[ソマリア]]、[[ソマリランド]]、[[チャド]]、[[チュニジア]]、[[パレスチナ国]]、[[バーレーン]]、[[モーリタニア]]、[[モロッコ]]、[[ヨルダン]]、[[リビア]]、[[レバノン]]
<br />国際機関: [[国際連合]]、[[アラブ連盟]]、[[イスラム協力機構]]、[[アフリカ連合]]
|agency={{flagicon|EGY}} [[アラビア語アカデミー]]
|iso1=ar
|iso2=ara
|iso3=ara
|lc1=arq|ld1=アラビア語アルジェリア方言
|lc2=aao|ld2=アラビア語サハラ方言
|lc3=bbz|ld3=Babalia Creole Arabic |ll3=none
|lc4=abv|ld4=アラビア語バーレーン方言
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|map=[[ファイル:Arabic speaking world.svg|thumbnail|center|300px|アラビア語が公用語の国・地域<br />緑:アラビア語が唯一の公用語<br />青:アラビア語がいくつかの公用語の一つ<br />水色:アラビア語が地域/マイノリティ言語]]
}}
'''アラビア語'''(アラビアご、亜剌比亜語、{{lang|ar|'''اللغة العربية'''}}, [[国際連合地名標準化会議|UNGEGN]]式:{{lang|ar-Latn|al-lughatu l-ʻarabīyah}}, アッ=ルガトゥル=アラビーヤ、{{lang|ar|'''العَرَبِيَّة'''}}, {{transl|ar|al-ʻarabiyyah}} {{IPA-ar|ʔalʕaraˈbij.ja||Al_arabic.ogg}}、{{lang|ar|'''عَرَبِيّ'''|}} {{transl|ar|ALA|ʻarabī}} {{IPA-ar|ˈʕarabiː, ʕaraˈbij||Arabi.ogg}})は、[[アフロ・アジア語族]]の[[セム語派]]に属する言語の一つ。主に[[西アジア]]や[[北アフリカ]]の[[アラブ世界]]で話されている。[[ISO 639]]による言語コードは、2字が '''ar''' 、3字が '''ara''' で表される。
<!--古くは亜拉比亜(アラビア)が翻訳書(1880年代)にみえますが、近代は一般的にアラビア語と表記されます。現代中国語での表現(阿拉伯)とかつての日本語の表現(亜拉比亜)の違いに係る記述ですが、日本語版であれば読者に誤解を生じさせぬよう配慮し、中国語において重要な記述であれば中国語版へ転載してください。→ [[日本語]]では'''亜語'''あるいは'''亜'''と表記される。 -->
世界で3番目に多くの国と地域で使用されている言語であり、アラビア半島やその周辺、[[サハラ砂漠]]以北のアフリカ北部の領域を中心に27か国で公用語とされている。また、[[国際連合|国連]]の[[公用語]]においては、後から追加された唯一の言語でもある。
== 概要 ==
「アラビア語」は、もともと[[アラビア半島]]で話されていたが、北アフリカやイラク、シリア方面まで広がった。現代において使用されているアラビア語は、次の2つに大きく分類されている。
* 文語(昔のアラビア語、もしくはクルアーンに使用されている):[[フスハー]](正則アラビア語・現代標準アラビア語 (MSA<ref group="注釈">Modern Standard Arabic</ref>) とも。[[古典アラビア語]]を基盤とし、現代世界に対応する語彙を大きく加えたもの)
* 口語:[[アーンミーヤ]](各地の[[方言]]に分かれる)
=== フスハー ===
'''フスハー'''(正則アラビア語)はアラブ諸国の[[共通語]]であり、[[アラビア文字]]で書かれる。起源は西暦[[4世紀]]ごろの[[アラビア半島]]にさかのぼるといわれ、[[イスラーム文明]]の出現と拡大にともなって[[北アフリカ]]にまで使用地域が広がり、現在まで言語として大きく変わらずに使われている。
[[イスラーム]]の聖典である[[クルアーン]]は古典アラビア語で書かれているが、これはムハンマドがいた[[ヒジャーズ]]地方のアラビア語をかなり反映していると考えられる。'''クルアーン'''の記述によれば、イスラームを伝えるために神が選んだのがアラビア語だったことから、[[ムスリム]]はこれを「[[アッラー]]の言葉」としてとらえている。[[クルアーン]](コーラン)はアラビア語で詠唱して[[音韻]]をふむように書かれ、またアラビア語原典がアッラーが人類に与えたオリジナル版とされるため、翻訳は教義上原則禁じられる<ref group="注釈">関連する記事に[[クルアーン#クルアーン解釈学(タフスィール学)|タフスィール]]がある。</ref>。クルアーンの勉強や暗誦は敬虔なイスラム教徒の必須の義務とされるが、クルアーンを学ぶためには必然的にアラビア語を読めなくてはならず、アフリカから[[トルコ]]、[[インド]]、[[東南アジア]]にかけてのイスラム圏では、アラビア語がイスラム[[知識人]]層の共通語として通用している。
『[[マカーマ|マカーマート]]』〈訳は[[平凡社東洋文庫]]全3巻〉のような古典に見られる書き言葉は、とくに[[オスマン帝国]]の時代に一時期衰退したが、話し言葉は続けて用いられていた。文語は近代になってより簡単なものとして練り直され、近代以降の新しい概念に対応する新語が大量に追加されることで、現代において使用されている現代標準アラビア語が成立した<ref>「イスラーム世界のことばと文化」(世界のことばと文化シリーズ)p84-85 佐藤次高・岡田恵美子編著 早稲田大学国際言語文化研究所 成文堂 2008年3月31日初版第1刷</ref>。こうしてフスハーはアラビア語において公的な面を代表する言語となり、宗教関係のほかに、学術関係や[[書籍]]・[[雑誌]]・[[新聞]]などの文章はもちろん、公的な場での会話やテレビニュースなどの改まった場においても使用されるようになった<ref>「イスラーム世界のことばと文化」(世界のことばと文化シリーズ)p85-86 佐藤次高・岡田恵美子編著 早稲田大学国際言語文化研究所 成文堂 2008年3月31日初版第1刷</ref>。公的な言語であるためアラビア語の教育もすべてフスハーで行われているが、逆に言えばフスハーは学校で「習う」アラビア語である。文語であり、あくまでも公式な場で使用されるものであるため、日常会話においてフスハーが使用されることはない。
=== 方言 ===
一方、方言は日常会話で用いられる話し言葉を指す。現代の話し言葉としてのアラビア語は、国・地域によって異なる[[言語変種|地域変種]](ラハジャ)に分かれ、これには[[正字法]]が無い。日常会話はこの話し言葉で話されるが、私信などではこれを文字化して表現する。また、大衆向けの小説や演劇、詩歌は現代口語の諸変種で書かれる。
[[アラビア語湾岸方言|湾岸方言]]、[[アラビア語ヒジャーズ方言|ヒジャーズ方言]]、[[アラビア語イラク方言|イラク方言]]、{{仮リンク|アラビア語シリア方言|en|Syrian Arabic|label=シリア方言}}、[[アラビア語レバノン方言|レバノン方言]]、[[アラビア語パレスチナ方言|パレスチナ方言]]、[[アラビア語エジプト方言|エジプト方言]]、[[アラビア語スーダン方言|スーダン方言]]、{{仮リンク|アラビア語マグリブ方言|en|Maghrebi Arabic|label=マグリブ方言}}、[[アラビア語ハッサニヤ方言|ハッサニヤ方言]]などに大別され、それぞれの地域のなかでも違いがある。地域によっては、宗派ごとに話されるアラビア語に差異があるなどする。また、生活形態によっても、地域を越えてそれぞれ共通の特徴がある。遊牧民方言、農村方言、都市方言の3つに分けられる。
現代アラブ世界での現代標準アラビア語と方言の関係は、[[中世]]の[[カトリック教会]]地域における[[ラテン語]]と[[ロマンス諸語]]の関係に似ている。後者が前者から派生し、[[フランス語]]、[[イタリア語]]、[[スペイン語]]など多くの変種に分かれていること。前者が日常語としては死語であるが、公的な話し言葉、書き言葉として通用し、後者は基本的に書かれることはまれであることが、その理由である。このことから、[[言語学]]においてアラビア語は[[ダイグロシア|二言語使い分け]]の典型的な例とされる。
エジプト方言、シリア方言、レバノン方言などは[[マスメディア]]で多用されるためアラブ世界各地で理解される一方、異なる地域同士の住民では方言での会話に支障が出ることもある。また、書き言葉が日常で話されることはほぼ皆無であり、読み書き・演説や報道番組での使用に限定される。従って、非ネイティヴが現地でスムーズな日常の会話を行うためには当地の話し言葉を習得する必要があり、読み書きも習得する場合には現代標準アラビア語と重ねて学習しなければならない。
== アラビア語の特徴 ==
多くの単語は、三つの[[子音]]を[[語根]]として分析することができる。そこに、[[母音]]や[[接頭辞]]、[[接尾辞]]、[[接中辞]]を付けて、[[語彙]]を派生したり、[[活用]]したりする。[[形態論]]的には[[屈折語]]である。
=== 文字 ===
{{main|アラビア文字}}
アラビア語の表記には、通常は[[アラビア文字]]が用いられる。[[フスハー]]はアラビア文字による正書法を持ち、[[アーンミーヤ]]も文字化する際は一般にアラビア文字が用いられる。ただし、[[マルタ語]]は[[ラテン文字]]による正書法を持つ。以下は、アラビア文字の主な特徴である。
* 文字一覧は[[アラビア文字]]の項を参照。それぞれの'''独立形'''が左右の文字と繋がっていく(ただし例外が6文字ある)。
* 右から左へと読む。数字は左から右に綴られる。
* 多くの書体が存在する。「[[イスラームの書法]]」を参照。
* '''文語'''([[フスハー]])はもっぱら[[アラビア文字]]で表される。アラビア文字の[[アルファベット]]は28文字<ref group="注釈">学説によっては[[ハムザ]]を1文字と数えて29文字とする。また、27文字とすることもある。</ref>からなり、[[大文字]]と[[小文字]]の区別はない。
* '''口語'''([[アーンミーヤ]])には[[正書法]]がない。
* [[綴り字法]]は一部を除き子音字のみを用いるため、母音の情報は、読む側が補って読まなければならない。[[コーラン]]や子供向けの読み物には、正確な発音を示すために'''母音符号'''などの符号([[シャクル]])が付記される。[[イスラームの書法|書道作品]]においても、母音符号は装飾を兼ねて付記されることが多い。まれに、成人対象の詩や小説であっても、自著に母音符号を付記する作家もいる。
=== 発音 ===
{{main|アラビア語の音韻}}
* 子音には[[喉]]の奥のほうで {{IPA|k}} や {{IPA|ɡ}} などを発音するような独特の発音がある。
* 母音は[[音韻論]]的には {{ipa|a}}、{{ipa|i}}、{{ipa|u}} の3つの[[短母音]]とその[[長母音]]、[[二重母音]] ({{ipa|ai}}、{{ipa|au}}) を弁別する。
* 発音例 - [https://m.youtube.com/watch?v=rHTv9FuhBkE アラビア語 曜日]
=== 文法 ===
{{main|アラビア語の文法}}
* [[定冠詞]]、[[前置詞]]が存在し、[[名詞]]と[[形容詞]](アラビア語では名詞に分類される)は格(主格・属格・対格)・[[性 (文法)|性]](男性・女性)・数(単数・双数・複数)によって変化する。
* 女性形、男性・女性複数形には基本となる規則形があるもののそれ以外にもとりうる形が無数に存在するため、個別に記憶しなければならないものが多い。例えば、{{lang|ar|مُدَرِّسٌ}} ({{lang|ar-Latn|mudarrisun}}, 先生) の複数形は規則形であり、語尾に {{lang|ar-Latn|-ūna}} を付けて、{{lang|ar|مُدَرِّسُونَ}} ({{lang|ar-Latn|mudarrisūna}}) になるが、{{lang|ar|صَدِيقٌ}}({{lang|ar-Latn|ṣadīqun}}, 友人)の複数は不規則形であるため、{{lang|ar-Latn|صَدِيقُونَ }} ({{lang|ar-Latn|ṣadīqūna}}) とはならず、{{lang|ar|أَصْدِقَاءُ}} ({{lang|ar-Latn|'aṣdiqā'u}}) になる。
* [[動詞]]は'''3人称男性単数完了形'''を原形とし、語根順配列の辞典では、その形で引くことになる。原型を'''基本型'''、'''第一型'''ともいう。これに加えて、第二型から第十五型までの'''派生型'''が存在するが、現代アラビア語は原則として第十型まで用い、第十一型以降は色の変化などといった限られた場合にしか用いられず、第九型は原則として色彩や人体の障害に関する意味を持つ単語である(ただし、派生型は西欧の学者が考案した学習概念であり、アラビア語を母語とする者は用いない)。[[ハンス・ヴェーア]]による『[[現代文語アラビア語辞典]]』をはじめとして、多くの辞書は語根順に語が配列されているため、派生型の動詞を辞書で参照するには、動詞からその語根すなわち原形を抽出しなければならず、これが、アラビア語を母語としない初学者にとっての辞書引きを困難にしている。
== 方言 ==
{{See also|en:Varieties of Arabic}}
[[ファイル:Arabic Varieties Map.svg|center|thumb|800px|アラビア語諸方言の分布図]]
*Arabic, Ancient North†【[http://multitree.org/codes/xna xna]】—[[古代北アラビア語]]†
*Arabic, Andalusian†【[http://multitree.org/codes/xaa xaa]】—[[アル・アンダルス=アラビア語]]
*Arabic, Algerian Saharan【[http://multitree.org/codes/aao aao]】—[[アラビア語サハラ方言]]
*Arabic,Central Asian 【[http://multitree.org/codes/ara ]】 -[[アラビア語中央アジア方言]]
*Arabic, Tajiki【[http://multitree.org/codes/abh abh]】—[[アラビア語タジク方言]]
*Arabic, Baharna【[http://multitree.org/codes/abv abv]】—[[アラビア語ヒジャーズ方言]]
*Arabic, Mesopotamian【[http://multitree.org/codes/acm acm]】—[[アラビア語イラク方言]]
*Arabic, Ta'izzi-Adeni【[http://multitree.org/codes/acq acq]】—[[アラビア語南イエメン方言]]
*Arabic, Hijazi【[http://multitree.org/codes/acw acw]】—[[アラビア語ヒジャーズ方言]]
*Arabic, Omani【[http://multitree.org/codes/acx acx]】—[[アラビア語オマーン方言]]
*Arabic, Dhofari【[http://multitree.org/codes/adf adf]】—[[アラビア語ドファール方言]]
*Arabic, Tunisian【[http://multitree.org/codes/aeb aeb]】—[[アラビア語チュニジア方言]]
*Arabic, Saidi【[http://multitree.org/codes/aec aec]】—[[アラビア語サイード方言]]
*Arabic, Gulf【[http://multitree.org/codes/afb afb]】—[[アラビア語湾岸方言]]
* {{仮リンク|アラビア語レヴァント方言|en|Levantine Arabic}}
**Arabic, South Levantine【[http://multitree.org/codes/ajp ajp]】—[[アラビア語南レヴァント方言]]
***[[アラビア語レバノン方言]]
***[[アラビア語ヨルダン方言]]
***[[アラビア語パレスチナ方言]]
***{{仮リンク|アラビア語シリア方言|en|Syrian Arabic}}
**Arabic, North Levantine【[http://multitree.org/codes/apc apc]】—[[アラビア語北レヴァント方言]]
***{{仮リンク|アラビア語北シリア方言|en|North Syrian Arabic}}
**Arabic, Cypriot【[http://multitree.org/codes/acy acy]】—[[アラビア語キプロス方言]]
**Arabic, Eastern Egyptian Bedawi【[http://multitree.org/codes/avl avl]】—{{仮リンク|アラビア語東部エジプト・ベダウィ方言|en|Bedawi Arabic}}
*Arabic, Sudanese【[http://multitree.org/codes/apd apd]】—[[アラビア語スーダン方言]]
*Arabic, Standard【[http://multitree.org/codes/arb arb]】—標準アラビア語
*Arabic, Algerian【[http://multitree.org/codes/arq arq]】—[[アラビア語アルジェリア方言]]
*Arabic, Najdi【[http://multitree.org/codes/ars ars]】—[[アラビア語ナジュド方言]]
*Arabic, Moroccan【[http://multitree.org/codes/ary ary]】—[[アラビア語モロッコ方言]]
*Arabic, Egyptian【[http://multitree.org/codes/arz arz]】—[[アラビア語エジプト方言]]
*Arabic, Uzbeki【[http://multitree.org/codes/auz auz]】—[[アラビア語ウズベク方言]]
*Arabic, Hadrami【[http://multitree.org/codes/ayh ayh]】—[[アラビア語ハドラマウト方言]]
*Arabic, Libyan【[http://multitree.org/codes/ayl ayl]】—[[アラビア語リビア方言]]
*Arabic, Sanaani【[http://multitree.org/codes/ayn ayn]】—[[アラビア語北イエメン方言]]
*Arabic, North Mesopotamian【[http://multitree.org/codes/ayp ayp]】—[[アラビア語北メソポタミア方言]]
*Hassaniyya【[http://multitree.org/codes/mey mey]】—[[アラビア語ハッサニア方言]]
*Maltese【[http://multitree.org/codes/mlt mlt]】—[[マルタ語]]
*Arabic, Chadian【[http://multitree.org/codes/shu shu]】—[[アラビア語チャド方言]]〔Shuwa Arabic:シュワー・アラビア語〕
*Arabic, Shihhi【[http://multitree.org/codes/ssh ssh]】—[[アラビア語シフフ方言]]
*Arabic, Siculo†【[http://multitree.org/codes/sqr sqr]】—[[アラビア語シチリア方言]]†
*Judeo-Arabic【[http://multitree.org/codes/jrb jrb]】—[[ユダヤ・アラビア語|ユダヤ=アラビア語]]
**Arabic, Judeo-Iraqi【[http://multitree.org/codes/yhd yhd]】—[[ユダヤ=イラク・アラビア語]]
**Arabic, Judeo-Moroccan【[http://multitree.org/codes/aju aju]】—[[ユダヤ=モロッコ・アラビア語]]
**Arabic, Judeo-Tripolitanian【[http://multitree.org/codes/yud yud]】—[[ユダヤ=トリポリタニア・アラビア語]]
**Arabic, Judeo-Tunisian【[http://multitree.org/codes/ajt ajt]】—[[ユダヤ=チュニジア・アラビア語]]
**Arabic, Judeo-Yemeni【[http://multitree.org/codes/jye jye]】—[[ユダヤ=イエメン・アラビア語]]
== 言語分布 ==
[[File:Arabic Dispersion.svg|thumb|300px|アラビア語話者の分布。濃い緑はアラビア語話者が多数を占める地域、薄い緑は少数のアラビア語話者が居住する地域を指す]]
=== 現代標準アラビア語を公用語とする国家 ===
; [[アジア]]
: {{flagicon|ARE}} [[アラブ首長国連邦]] - {{flagicon|YEM}} [[イエメン|イエメン共和国]] - {{flagicon|IRQ}} [[イラク|イラク共和国]] -{{flagicon|OMN}} [[オマーン|オマーン国]] - <br>{{flagicon|QAT}} [[カタール|カタール国]] - {{flagicon|KWT}} [[クウェート|クウェート国]] - {{flagicon|SAU}} [[サウジアラビア|サウジアラビア王国]] - {{flagicon|SYR}} [[シリア|シリア・アラブ共和国]] - <br>{{flagicon|BHR}} [[バーレーン|バーレーン王国]] - {{flagicon|Palestine}} [[パレスチナ国]] - {{flagicon|JOR}} [[ヨルダン|ヨルダン・ハシミテ王国]] - {{flagicon|LBN}} [[レバノン|レバノン共和国]]
; [[アフリカ]]
: {{flagicon|DZA}} [[アルジェリア|アルジェリア民主人民共和国]] - {{flagicon|EGY}} [[エジプト|エジプト・アラブ共和国]] - {{flagicon|ERI}} [[エリトリア|エリトリア国]] - {{flagicon|COM}} [[コモロ|コモロ連合]] - <br>{{flagicon|ESH}} [[サハラ・アラブ民主共和国|西サハラ]] - {{flagicon|DJI}} [[ジブチ|ジブチ共和国]] - {{flagicon|SDN}} [[スーダン|スーダン共和国]] - {{flagicon|SOM}} [[ソマリア]] - {{Flagicon|ソマリランド}} [[ソマリランド]] - {{flagicon|TCD}} [[チャド|チャド共和国]] - {{flagicon|TUN}} [[チュニジア|チュニジア共和国]] - <br>{{flagicon|MRT}} [[モーリタニア|モーリタニア・イスラム共和国]] - {{flagicon|MAR}} [[モロッコ|モロッコ王国]] - {{flagicon|LBY}} [[リビア|リビア国]]
アラビア語を公用語としている国家のうち、アラブ首長国連邦、イエメン、オマーン、カタール、クウェート、サウジアラビア、シリア、バーレーン、パレスチナ、ヨルダン、レバノン、エジプト、リビア、チュニジアにおいては国民のほとんどが[[アラブ人]]で構成されており、公用語としてのフスハーと日常語としてのアーンミーヤのみを使用している。これはイスラム教徒以外のアラブ人も同様で、たとえばレバノンには[[マロン派]]などの[[キリスト教徒]]も多数存在するが、民族的にはアラブ人であるためそのほとんどはフスハーとアラビア語レバノン方言を話す。アルジェリアにおいては国民の大半がアラビア語を話すものの、[[カビール語]]などの[[ベルベル語]]諸語話者も存在する。レバノン、アルジェリアでは旧宗主国語の[[フランス語]]も通じる。ただし同国の公用語はアラビア語のみとなっている<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/algeria/data.html#section1 「アルジェリア基礎データ」日本国外務省 2017年6月21日閲覧</ref>。アラブ人多数の上で[[ベルベル人]]がかなりの数存在するのは隣国のモロッコにおいても同様であるが、モロッコでは公用語はアラビア語とベルベル語の2言語体制となっている<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/morocco/data.html 「モロッコ基礎データ」日本国外務省 2017年6月21日閲覧</ref>。モロッコと領有権を争っている西サハラではアラビア語と共に[[スペイン語]]も使われる。イラクにおいては北部に[[クルド人]]が居住しているために[[クルド語]]も公用語となっているが、アラビア語話者は多数派を占めている<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/data.html#section1 「イラク基礎データ」日本国外務省 2017年6月21日閲覧</ref>。モーリタニアはアラビア語を使用する[[ムーア人]]が多数を占め、アラビア語が公用語となっているが、南部を中心にアラビア語を使用しない黒人も多く、また旧フランス領だったためフランス語の影響力も強い。スーダンもアラブ系が多数を占めるものの、西部の[[フール人]]などのようにアラビア語を使用しない民族も多く存在し、紛争が絶えない。公用語はアラビア語と英語の二言語使用となっている。
こうしたアラブ人が多数を占める国家に対し、住民のほとんどが[[ソマリ語]]を話す[[ソマリ人]]であるソマリアや、同じく[[アファル人]]と[[イッサ人]]が多数を占めるジブチ、スワヒリ語に近い[[コモロ語]]を主に使用するコモロなどのような、日常語としてアラビア語をほとんど使用しない地域においてもアラビア語が公用語とされることがある。これはこれら諸国がアラブ諸国との経済的・文化的結びつきが強く、またイスラム教徒がほとんどであるため典礼用言語であるフスハーを理解できるものが多く存在するためである。
アラビア語を公用語としている国家は増加傾向にある。これは、かつてイギリスやフランスの植民地だったアラブ人国家が独立後、公用語を英語やフランス語からアラビア語に変更する傾向が強いためである。特にアフリカにおいては、アラビア語圏以外のほとんどの新独立国が旧宗主国の公用語の使用を継続していることと明確な対比をなしている。こうした公用語の切り替えはアラブ人国家すべてで行われたものの、その深度や速度には国によって違いがみられた。旧英領諸国ではほとんどの国で公用語のアラビア語切り替えが実施されたものの、旧フランス領諸国ではモロッコやモーリタニアのように公用語をフランス語とアラビア語の2言語とする国家がいくつか存在し、アルジェリアのように積極的に言語切り替えが行われた国との差異が目立った。またアルジェリアにおいても、教育課程のアラビア語化は進んだものの官僚など政府の指導層がフランス語話者によって占有されている状況を打破することはできなかった<ref>「アルジェリアを知るための62章」p357 私市正年編著 明石書店 2009年4月30日初版第1刷</ref>。アラビア語教育によって大衆のアラビア語化は進んだものの、エリート層はフランス語話者のままだったため、この二言語の話者間に階層的な対立が生じた<ref>「アルジェリアを知るための62章」p153 私市正年編著 明石書店 2009年4月30日初版第1刷</ref>。さらにアルジェリアにおけるアラビア語化は[[イスラム主義]]と結びついていたために、イスラム主義の台頭を招き<ref>「アルジェリアを知るための62章」p358 私市正年編著 明石書店 2009年4月30日初版第1刷</ref>、1990年代の[[アルジェリア内戦]]へとつながっていくこととなった。
=== 現代口語アラビア語を公用語とする国 ===
[[マルタ|マルタ共和国]]の[[マルタ語]]は、現代アラビア語口語の一変種である。語彙などの面でヨーロッパ諸語、特に[[イタリア語]]からの借用が多く、また[[ラテン文字]]で綴られる<ref>「アラビア語の世界 歴史と現在」p415-416 ケース・フェルステーヘ著 長渡陽一訳 三省堂 2015年9月20日第1刷</ref>。現代アラビア語口語諸語の中で国家の公用語となっているのはマルタ・アラビア語のみである。
===イスラエルにおけるアラビア語の状況===
[[File:Map of Arabic speaking localities in Israel.png|thumb|250px|イスラエルにおけるアラビア語自治体の分布]]
[[イギリス委任統治領パレスチナ|英国委任統治領時代のパレスチナ]]においては、英語、アラビア語、ならびに[[ヘブライ語]]の3か国語が公用語とされた。そして、[[1948年]]のイスラエル建国後は、アラビア語とヘブライ語のみがイスラエルの公用語とされ<ref>http://mfa.gov.il/MFA_Graphics/MFA%20Gallery/Documents%20languages/FactsJapanese08.pdf 「イスラエルの情報」p142 イスラエル外務省 2017年6月21日閲覧</ref>、英語は公用語ではなくなった。しかしながら、ユダヤ系イスラエル人の児童や生徒を対象とした初等教育ならびに中等教育機関においては、公用語であるアラビア語よりも公用語ではない英語の教育を重視している。[[イスラエルのアラブ系市民|アラブ系イスラエル人]]の児童や生徒を対象とした初等教育ならびに中等教育機関においては、ユダヤ系イスラエル人よりもアラビア語やアラブ文学などに割り当てられる時間数が多い。また、イスラエルにおける雇用条件において、多くの場合は「ヘブライ語と英語が話せること」が語学的な条件として課されており、公用語であるアラビア語は全く理解できなくても、イスラエル社会においては特に問題視されない。それ故、イスラエルにおけるアラビア語は、公式には公用語であるにもかかわらず、事実上はアラブ系イスラエル人というマイノリティのみが用いる言語になっている。イスラエルのアラブ人のかなりが、アラビア語のほかにヘブライ語も使用することができる<ref>「イスラエルを知るための60章」p342 立山良司編著 明石書店 2012年7月31日初版第1刷 </ref>。また、現在のイスラエルにおける通貨や切手などは、ヘブライ語、アラビア語、ならびに、英語の3か国語で記載される。このような状況は建国以来70年近く続いてきたが、[[ベンヤミン・ネタニヤフ]]政権は[[2017年]]5月7日にアラビア語を公用語から外して[[国語]]へと格下げし、ヘブライ語のみを公用語とする閣議決定を行った。この閣議決定に対し、同国のアラブ人政党からは強い反発が起こった<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3127540 「イスラエル、アラビア語を公用語から外す法案を閣議決定」AFPBB 2017年05月08日 2017年6月21日閲覧</ref>。
===その他諸国におけるアラビア語===
[[File:Mother language in 1965 Turkey census - Arabic.png|thumb|300px|[[トルコ]]各県におけるアラビア語を母語とする住民の割合([[1965年]]統計)]]
[[File:Map of Arabian-inhabited provinces of Iran, according to a poll in 2010.PNG|thumb|250px|[[イラン]]各州におけるアラビア語を母語とする住民の割合([[2010年]]統計)]]
イスラム教においてアラビア語は典礼用言語となっており、アラビア語のもの以外は[[クルアーン]]として扱われないため、礼拝においては必ずアラビア語によってクルアーンを唱えることとなる。ただしクルアーンが翻訳されたものが注釈書として多くの言語圏において出版されているため、イスラム教徒にとってアラビア語は礼拝において必要であっても、内容の理解までは必ずしも必要ではない。このためアラビア語ができないイスラム教徒も非常に多く存在する。ただしクルアーンの内容を詳しく知るためにはアラビア語の知識は不可欠であり、このためイスラム教諸国においては熱心な信徒を中心に薄く広くアラビア語話者が存在する。
このほか、少数民族としてアラブ人が居住している地域においてもアラビア語は使用されている。トルコ南東部の[[ハタイ県]]、[[マルディン県]]、[[スィイルト県]]、[[シャンルウルファ県]]、イランの南西部にある[[フーゼスターン州]]にはアラブ人が多く住み、アラビア語が多く話されている<ref>『イランを知るための65章』 岡田久美子・北原圭一、鈴木珠里編著 明石書店 2009年11月20日 p.74 ISBN 9784750319803</ref>。
=== アラビア語を公用語とする国際機関 ===
アラビア語は世界で4番目の話者人口を持ち、さらにその話者が一地方に集住しているため、言語として大きな影響力を持つ。このため、アラビア語は多くの国際機関において公用語とされている。なかでも[[アラブ連盟]]はアラブ人国家の地域協力機構であるため、アラビア語は唯一の公用語となっている。[[イスラム協力機構]]も、イスラム教の典礼用言語がアラビア語でありイスラム教圏のほとんどにアラビア語が広まっているためにアラビア語の影響力は大きく、英語、フランス語とともに公用語の一つとなっている。[[アフリカ連合]]においても、大陸北部を中心にアラビア語諸国は一大勢力を保っているため、英語、フランス語、[[ポルトガル語]]、[[スワヒリ語]]とともに公用語とされている。アラビア語使用諸国は数も多くひとつの文明圏を形成しているため、[[国際連合]]においても[[1973年]]にアラビア語は公用語に追加され<ref>http://www.unic.or.jp/info/un/charter/membership_language/ 「加盟国と公用語」 国際連合広報センター 2017年6月21日閲覧</ref>、英語、フランス語、[[ロシア語]]、[[中国語]]、[[スペイン語]]とともに6つの公用語のひとつとされている。
== 他言語への影響 ==
=== アラビア語を起源とする語彙 ===
{{See also|Category:アラビア語の語句}}
* [[トタン]]、じょうろ、[[コーヒー]]、[[ラケット]]、[[シロップ]]、[[アルコール]]、[[アルカリ]]、[[ソーダ]]、[[シャーベット]]、[[チェス]]、[[チェック]](小切手)、[[ソファー]]、[[モンスーン]]、アベレージ([[平均値]])、[[ジャケット]]、[[0|ゼロ]](零)、タリフ(関税率) 、[[リスク]]、[[アルゴリズム]]、[[アドベ]]、[[タマリンド]]、[[コットン (曖昧さ回避)|コットン]]、[[サフラン]]、[[海軍大将|アドミラル]]、[[センナ]]、[[シュガー]](砂糖)、[[ラクダ|キャメル]](ラクダ)、[[カラット]]、[[ガーゼ]]、[[カンフル]](樟脳)、[[ギプス]]など。
* 科学用語にはアラビア語起源の用語が多く、とりわけ化学に多い。これは中世から近世にかけてのアラビア語圏が科学分野において発展しており、当時の欧州が積極的にその知識と語彙を取り入れたためである。
* 星の名前
** [[アルタイル]](「飛ぶ鷲」という熟語の「飛ぶ」という部分。単独では「鳥」という意味)
** [[アルデバラン]](従うもの、後に続くもの。[[プレアデス星団]]に続いて地平線より昇ることから)
** [[アルゴル]](「[[グール]]の頭」という熟語の「グールの」という部分)
** [[アルビレオ]](「雌鳥のくちばし」の意味の語が西洋人の誤訳と誤解を経て)
** [[ベガ|ヴェガ]](「降り立つ鷲」という熟語の「降り立つ」という部分)
** [[デネブ]](「鶏の尾」という熟語の「尾」という部分)
** [[フォーマルハウト]](大魚の口)
** [[ベテルギウス]](巨人の腋の下)
** [[リゲル]](脚)
* その他
** [[0|ゼロ]]
** [[酸|アシッド]]
** [[グール]]
「アル」で始まる言葉が多いのは、'''{{lang|ar-Latn|al-}}''' が[[定冠詞]]だからである。{{see also|[[アラビア語の冠詞]]}}
=== 影響を受けた諸言語 ===
アラビア語から大きな影響を受けた言語は多く存在する。
特に[[北アフリカ]]や[[西アフリカ]]、[[東アフリカ]]の海岸部においては、それまで文字を持っていなかった言語がイスラム教およびその典礼用言語であるアラビア語の影響を受けて語法を整備し、文字を導入したケースが多く存在する。[[ハウサ語]]、[[ソマリ語]]などはこうした言語であり、現代では表記法は[[ラテン文字]]に改められたものの、アラビア語からの借用語は非常に多く存在している。[[インド洋]]の季節風交易によってアラブ人商人が多く訪れた東アフリカの海岸部においては、[[バントゥー諸語]]の語幹に語彙の35%から40%にものぼる大量のアラビア語からの借用語を取り入れた[[スワヒリ語]]が16世紀ごろまでには成立し、地域の商業言語として広く使用されるようになった。
このほか、[[ペルシア語]]、[[トルコ語]]を含む[[テュルク諸語]]、[[スペイン語]]、[[ヒンドゥスターニー語]]、[[マレー語]]などの言語は古くから独自の文字を持っていたが、イスラム教の伝播によってアラビア文字を使用するようになり、同時に大量の語彙がアラビア語から流入した。これらの言語は現代でもアラビア語からの[[借用語]]が多い。ただしペルシア語を除き、現在はそれぞれ別の文字で表記されている。
== 統制機関 ==
アラビア語の統制機関としては、最も古い[[ダマスカス]]・アラビア語アカデミー([[1919年]]創立)<ref name="ReferenceA">「アラビア語の世界 歴史と現在」p345 ケース・フェルステーヘ著 長渡陽一訳 三省堂 2015年9月20日第1刷</ref>や、[[カイロ]]にある[[アラブ語学院]]([[1932年]]創立)<ref name="ReferenceA"/>をはじめ、いくつかの国家に設けられたアラビア語アカデミーがその役割を担っている。こうした統制機関は科学分野を除いて外国語からの借用語をできるだけ制限し、新たな概念に対しては単語の意味の拡張などアラビア語内の対応によって処理する傾向が強い<ref>「アラビア語の世界 歴史と現在」p348-354 ケース・フェルステーヘ著 長渡陽一訳 三省堂 2015年9月20日第1刷</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 『現代アラビア語入門』黒柳恒男、飯森嘉助(大学書林)
* 『アラビア語入門』[[池田修 (アラブ文学者)|池田修]](岩波書店、絶版)
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|言語学|[[画像:Logo sillabazione.png|none|38px]]}}
* [[ネイティブスピーカーの数が多い言語の一覧]]
* [[国際連合安全保障理事会決議528]]
== 外部リンク ==
{{wiktionary}}
{{wiktionarycat}}
{{Wikipedia|ar}}
{{Wikipedia|arz|アラビア語エジプト方言}}
* [http://www.tufs.ac.jp/common/fs/asw/ara/ 東京外国語大学アラビア語専攻公式ホームページ]
* [http://www.arabic-exam.org/ NPO法人 日本アラビア語検定協会]
* [http://arabic.gooside.com/ アラビア語ちゃんねる]
* [http://www.gaikoku.info/arabic/ 外国語広場:アラビア語]
* [http://www.ogurano.net/dic/ 了解:日本語-アラビア語/アラビア語-日本語辞典] {{ar icon}}
* [http://glottolog.org/resource/languoid/id/arab1395 Glottolog - Arabic] {{en icon}}([[マックス・プランク進化人類学研究所]]によるデーターベース)
* [http://www.gulfarabic.com/ Learn Arabic (with audio)] {{en icon}}
* {{Kotobank}}
{{アラビア語}}
{{国際連合公用語}}
{{アフリカ連合の言語}}
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3,870 | ドイツ語 | ドイツ語(ドイツご、独: Deutsch、deutsche Sprache)は、インド・ヨーロッパ語族・ゲルマン語派の西ゲルマン語群に属する言語である。 主にドイツ語アルファベットで綴られる。
話者人口は約1億3000万人、そのうち約1億人が第一言語としている。漢字では独逸語と書き、一般に独語(どくご)あるいは独と略す。ISO 639による言語コードは2字が de、3字が deu である。
現在インターネットの使用人口の全体の約3パーセントがドイツ語であり、英語、中国語、スペイン語、日本語、ポルトガル語に次ぐ第6の言語である。ウェブページ数においては全サイトのうち約6パーセントがドイツ語のページであり、英語に次ぐ第2の言語である。EU圏内では、母語人口は域内最大であり、話者人口は、英語に次いで2番目に多い。
しかし、ドイツ、オーストリアは海岸線が少なく植民地政策が歴史的に欧州内東方へ行われたこともあり、英語、フランス語、スペイン語のように世界語化はしておらず、基本的に同一民族による母語地域と、これに隣接した旧支配民族の使用地域がほとんどを占めている。
上記の事情と、両国の大幅な領土縮小(かつてのドイツ人国家であった神聖ローマ帝国、ハプスブルク帝国などから独立して誕生した国も多い)も影響し、欧州の多くの国で今でも母語として使用されている。
以上の4か国は国民のほとんどをドイツ語の母語話者が占めている。
スイスにおいてはドイツ語の母語話者は全人口の64%を占め、スイス最大の言語集団となっている。ドイツ語はベルンやチューリヒを中心とする国土の中央部および東部で広く話されている。
ベルギーにおけるドイツ語話者は人口の1%を下回り、全く一般的な言語ではない。しかし、ベルギーにおけるドイツ語話者は1919年にヴェルサイユ条約によってドイツから割譲されたベルギー東端の地域に集中しているため、独自の言語共同体であるドイツ語共同体を持ち、フランス語、オランダ語とともに独自の言語共同体を持つ3つの言語のひとつとなっている。
トレンティーノ=アルト・アディジェ州はかつてオーストリア帝国領であり、なかでも北部のアルト・アディジェ(ボルツァーノ自治県)はかつて南チロルと呼ばれたようにドイツ語圏であるチロルの一部分となっていた関係上ドイツ語話者が多数を占め、ドイツ語もイタリア語と並び公用語となっている。
この両地域はドイツ系のアルザス人が人口の大部分を占め、アルザス=ロレーヌとして長くドイツ・フランス両国の係争地となっていた地域である。
ナミビアは第一次世界大戦まではドイツ領南西アフリカとしてドイツの植民地となっており、第一次大戦後南アフリカの委任統治領となっても、ドイツ人入植者は首都ウィントフックを中心にドイツ語のコミュニティを保ち、現地の白人社会においてはアフリカーンス語と並び有力言語となっていた。ナミビア独立後ドイツ語の地位は低下したが、なおも入植者の子孫らによってドイツ語は話されている。またドイツ系以外の国民も商業語としてドイツ語を学んでいる。
ドイツ語の方言は、大きく分けて北部方言(低地ドイツ語:Niederdeutsch)と中部・南部方言(高地ドイツ語:Hochdeutsch)に分けられる。地方分権が他の西欧諸国に比べて遥かに進められているドイツでは方言の公的地位が高く、中には低ザクセン語のように独自の言語として保護されているケースも存在する。とはいえドイツ国内の保護は概ねドイツ語の一方言としての扱いに留まっている感が否めず、これに不満を持つ者と現状を支持する者との間で激しい議論が交わされている。
現在標準ドイツ語と呼ばれるものは、書き言葉としては主にテューリンゲン地方などで話されていた東中部方言(テューリンゲン・オーバーザクセン方言)を基にした言葉で、この特徴をもつルター訳聖書のドイツ語が広まったことによって標準文語の地位を獲得した。このため、「高地ドイツ語(Hochdeutsch)」という言葉は「標準ドイツ語」という意味でも用いられる。ただし、発音に関する標準語の規範は19世紀末になってテオドール・ジープス(de:Theodor Siebs)の「舞台ドイツ語」(de:Bühnendeutsch)を権威として確立され、ジープスが低地ドイツ語の発音に強く傾倒したため、発音に関しては低地ドイツ語の地域であるハノーファーの都市部の発音が最も標準語に近いと言われている。今日外国語としてドイツ語を学ぶ場合、この標準ドイツ語を学習することになるが、ドイツ本国では完璧な標準ドイツ語を母語とする話者は少なく、どの地域も(たとえテューリンゲン地方やハノーファーであったとしても)ある程度の「訛り」が存在する。
中部・南部方言は、「第二次子音推移」ないし「高地ドイツ語子音推移」と呼ばれる子音変化が起こったが、北部方言では起こらなかったので、子音に規則的な違いが見られる。中・南部方言はさらに中部ドイツ語(Mitteldeutsch)と上部(南部)ドイツ語(Oberdeutsch)に分けられる。
低地ドイツ語は中部ドイツ語・上部ドイツ語と方言連続体を形成しており、かつては同じ言語と見なされていた。だが今日は第二次子音推移を経ていないことなどを始めとする大きな相違点から、明確に他言語であると考える傾向が強い。また、低地フランク語は他の低地ドイツ語(低ザクセン語、東低地ドイツ語)と比べアングロ・フリジア語群との共通点が少ないことから、低地フランク語を低地ドイツ語に含めず別の言語グループとする場合がある。
「ドイツ語」という語は786年 theodiscus(テオディスクス) というラテン語型で初めて文献に登場するが、これは「民衆の」という意味を表す古高ドイツ語の形容詞 diutisc から派生している。このテオディスクスはチュートン人(Teutone=トイトーネ、ドイツ語辞書によると、ゲルマン系で古高ドイツ人の先祖とされる)のラテン語形ともされる。
高地ドイツ語は時代順に、
とおよそ四つの段階に分類されている。
これに対し、低地ドイツ語は
の三期に分類されている。
ドイツ語の原型となる西ゲルマン祖語はゲルマン祖語から分化し、紀元前2〜3世紀ころに完成していただろうと考えられている。紀元後500年ごろまでに第二次子音推移が起こり、高地ドイツ語と低地ドイツ語との差異が明確になった。こうして「古高ドイツ語」時代が始まるが、この当時はまだ全ドイツ的な標準ドイツ語は存在しなかった。いわゆる「古高ドイツ語」は当時の高地ドイツ語のさまざまな方言の総称であるにすぎない。現在までかなりの数の古高ドイツ語による文書が残っているが、その多くについては作者がわからない。有名なものでは9世紀初めの叙事詩『ムースピリ』や『ヴェッソブルンの祈祷書』、オトフリート・フォン・ヴァイセンブルクによる『福音書』などがある。また、当時の書き言葉ではラテン語が優位を占めていたが、多くのラテン語文書の翻訳も作られた。例えば『イシドール』、『タチアーン』、また、ザンクトガレンの僧侶ノートカーによる旧約聖書の詩篇などが挙げられる。
11世紀に入るとドイツ語による文献は増え、僧侶に代わって宮廷の騎士たちが言語の担い手となってきた。ミンネザングと呼ばれる吟遊詩人たちは自らの詩がなるべく広く理解されるよう、多くの方言の共通点を集約してドイツ中部より内陸部で大多数に通じるような中高ドイツ語を形成した。中高ドイツ語は古高ドイツ語と比べて母音が減少し、語尾の変化も単純になっているが、まだ新高ドイツ語よりは複雑なものだった。
中世末期から流布した民衆本は分かりやすいドイツ語で書かれていたが、まだ正書法もなく地方ごとに独自のやり方で表記していた。初期新高ドイツ語は表記にも一定の法則性を与える方向に向かって形成され、1522年ころ完成したドイツ語訳新約聖書(通称『九月聖書』)をはじめとするルター訳聖書によって発展した。
17世紀にはドイツ人の民族としての自覚が高まり、知識人の間では統一されたドイツ語を求める国語浄化運動が盛んになった。実りを結ぶ会の結成がその例である。近代ドイツ語の正書法はこの頃より整備されはじめる(名詞語頭を大文字にするなどの工夫は、この頃生じた)。この思潮はロマン主義の時代に引き継がれ、グリム兄弟による辞書の編集やコンラート・ドゥーデンの正書法辞典などによって新高ドイツ語が形成された。しかし1998年8月1日に導入された正書法についてはいまだに論議があり、グリム兄弟の辞書が完成したのは着手から100年以上経った1961年だったことも考えると、他の全ての言語と同じように、ドイツ語もいまだ形成過程にあると言えるだろう。
元々、統一以前の連合諸侯時代のドイツ語では、民族をあらわす Teutsch (トイチュ)が同じ言語を解す民族の間で共通の言語名とみなされていたようである。オランダ語では Duits(ドゥイツ)という。これが江戸時代に日本に入り、「ドイツ」になった。
言語学上、英語もドイツ語と同じインド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属し、2千年ほど前に共通の祖先から分岐したと考えられるため、共通点が多い。しかし、両語がたどった歴史的背景から(とりわけ中世以降)、相違が広がった。以下に主なものを記す。
近代の日本は、帝政ドイツ、ヴァイマル共和政、ナチス・ドイツを通じて、ドイツから様々な影響を受けた。西洋医学を輸入する際にドイツ人教師を招いた影響もあり、多くの医学用語がドイツ語から借用され、かつてカルテはすべてドイツ語で書いていた。
1960年代(昭和30〜40年代)までは、例えば補酵素(コエンザイム)をコエンチーム、ウイルスをヴィールスなどとドイツ語式に学習されていたが、現在ではそれぞれ英語・ラテン語読みが一般化している。工学等でもドイツにならう部分は多く、鉄道用語などをはじめとして、ドイツ語発祥の用語が多く使用された。
戦前の日本の教育では英語に次ぐ重要な外国語として見なされ、たとえば旧制高校では文甲、理甲クラスが英語を、文乙、理乙クラスがドイツ語を第1外国語として、他方を第2外国語として学んだ。フランス語を第1外国語、英語を第2外国語としたのは、文丙、理丙クラスであるが、設置している高校は少なかった。
エネルギーやアレルギーなどの物理学・化学用語、パトローネ、レフなどの写真用語(カメラもドイツ語発音である)、さらにはアインザッツやタクトなどのクラシック音楽用語(音名なども、ドイツ語名(アー、ベー、ツェー..)を使う人が多い)、ピッケル、リュックサック、ザイル、ツェルト、シュラフ、ヒュッテのような登山・山岳用語、プルークボーゲン、ゲレンデ、ストック等のスキー用語などにも使われている。これらはいずれもドイツあるいはオーストリアで盛んだったものを日本に移入した結果である。例えば、クラシック音楽はドイツ・オーストリアからJ.Sバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった著名な作曲家・演奏家が輩出し、クラシック音楽の中心とされてきたことによる。ベートーヴェンの歓喜の歌は、日本でもドイツ語で歌われることが多い。また、日本にスキーを紹介したのはオーストリア・ハンガリー帝国の軍人のレルヒ少佐である。
また、昔の政治や社会運動に関係する用語にはドイツ語に由来するものが多かった(パルタイ、ブント、ケルン、ゲバルト、内ゲバ、フューラー等)。これは当時の日本の左翼思想に影響を与えたマルクス主義のマルクスやエンゲルスの原著や、マルクス等に影響を与えたヘーゲルをはじめとするドイツ観念論やヘーゲル左派などのドイツ系の哲学の原著、右翼思想に影響を与えたアドルフ・ヒトラー『我が闘争』などナチズムの原著がドイツ語で記述されていたことの影響である。
その他、ドイツ語に由来する日本語には以下のようなものがある。
日本語で用いられているドイツ語由来の語は必ずしも本来の意味を正しく反映していない、あるいは幾つかある意味のうち一つのみが用いられていることがあるので、ドイツ語を話すもしくは学ぶ際には注意が必要である。
ドイツ語では、一般名詞、代名詞、冠詞、形容詞に主格・属格・与格・対格の区別があるが、日本のドイツ語教育ではこれらを伝統的に1格(主格)・2格(属格)・3格(与格)・4格(対格)と呼ぶ。 ただし、この呼称はドイツ語圏をはじめ欧米ではほとんど使われない。また、この名称は他言語と共通性がないので、比較言語学、言語類型論の観点からは勧められないとされる。
英語と同じラテン文字にウムラウト(変母音、Ä, ä; Ö, ö; Ü, ü)とエスツェット(ß、ギリシア文字の β (ベータ)とは異なる)を加えた30文字を使用する。なお ß は語頭に来ることがないため、元来大文字は存在しなかった。ウムラウトやエスツェットが表示できないときは、
と代用表記することになっている。表題やマンガの台詞などで単語をすべて大文字にする場合、ß は “SS”、またはエスツェットの大文字 “ẞ” で表記する。
なお第二次世界大戦終了後まで、ブラックレターの一種であるフラクトゥール(ドイツ文字、亀の子文字とも)が印刷に、これを基にしたジュッターリーン体が筆記に用いられていたが、現在では装飾用などに使われる程度である。
ドイツ語音韻論を参照のこと。
ドイツ語は、他の西洋の現代語と比べて格が重要な役割を持つ。名詞や代名詞の語形で、格変化が生じる。ドイツ語の格には主格(1格、Nominativ)、属格(2格、Genitiv)、与格(3格、Dativ)、対格(4格、Akkusativ)がある。
ドイツ語の表現集を参照のこと。 | [
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"text": "英語と同じラテン文字にウムラウト(変母音、Ä, ä; Ö, ö; Ü, ü)とエスツェット(ß、ギリシア文字の β (ベータ)とは異なる)を加えた30文字を使用する。なお ß は語頭に来ることがないため、元来大文字は存在しなかった。ウムラウトやエスツェットが表示できないときは、",
"title": "文字"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "と代用表記することになっている。表題やマンガの台詞などで単語をすべて大文字にする場合、ß は “SS”、またはエスツェットの大文字 “ẞ” で表記する。",
"title": "文字"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "なお第二次世界大戦終了後まで、ブラックレターの一種であるフラクトゥール(ドイツ文字、亀の子文字とも)が印刷に、これを基にしたジュッターリーン体が筆記に用いられていたが、現在では装飾用などに使われる程度である。",
"title": "文字"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ドイツ語音韻論を参照のこと。",
"title": "音韻"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ドイツ語は、他の西洋の現代語と比べて格が重要な役割を持つ。名詞や代名詞の語形で、格変化が生じる。ドイツ語の格には主格(1格、Nominativ)、属格(2格、Genitiv)、与格(3格、Dativ)、対格(4格、Akkusativ)がある。",
"title": "文法"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ドイツ語の表現集を参照のこと。",
"title": "表現"
}
] | ドイツ語は、インド・ヨーロッパ語族・ゲルマン語派の西ゲルマン語群に属する言語である。
主にドイツ語アルファベットで綴られる。 話者人口は約1億3000万人、そのうち約1億人が第一言語としている。漢字では独逸語と書き、一般に独語(どくご)あるいは独と略す。ISO 639による言語コードは2字が de、3字が deu である。 現在インターネットの使用人口の全体の約3パーセントがドイツ語であり、英語、中国語、スペイン語、日本語、ポルトガル語に次ぐ第6の言語である。ウェブページ数においては全サイトのうち約6パーセントがドイツ語のページであり、英語に次ぐ第2の言語である。EU圏内では、母語人口は域内最大であり、話者人口は、英語に次いで2番目に多い。 しかし、ドイツ、オーストリアは海岸線が少なく植民地政策が歴史的に欧州内東方へ行われたこともあり、英語、フランス語、スペイン語のように世界語化はしておらず、基本的に同一民族による母語地域と、これに隣接した旧支配民族の使用地域がほとんどを占めている。 上記の事情と、両国の大幅な領土縮小(かつてのドイツ人国家であった神聖ローマ帝国、ハプスブルク帝国などから独立して誕生した国も多い)も影響し、欧州の多くの国で今でも母語として使用されている。 | {{色}}
{{Infobox Language
|name=ドイツ語
|nativename={{lang|de|Deutsch}}
|pronunciation={{IPA|dɔʏʧ}}
|states=[[ドイツ]]、[[スイス]]、[[オーストリア]]とその他38カ国
|region=[[ヨーロッパ]]、[[アフリカ]]南部など
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|nation=<small>{{DEU}}<br />{{AUT}}<br />{{CHE}}(ドイツ語圏)<br />{{LIE}}<br />{{LUX}}<br />{{BEL}}([[ドイツ語共同体]])<br />[[ファイル:Flag of Trentino-South Tyrol.svg|border|25x20px]] [[トレンティーノ=アルト・アディジェ州]]([[イタリア]])<br />[[ファイル:Flag of Alsace.svg|border|25x20px]] [[アルザス地域圏|アルザス地方]]([[フランス]])<br />[[ファイル:Lorraine.svg|border|25x20px]] [[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ地方]](フランス)</small>
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|map=[[ファイル:Legal statuses of German in Europe.svg|center|300px|分布]]<br>凡例は画像ページ参照
}}
'''ドイツ語'''(ドイツご、{{lang-de-short|Deutsch、deutsche Sprache}})は、[[インド・ヨーロッパ語族]]・[[ゲルマン語派]]の[[西ゲルマン語群]]に属する[[言語]]である。
主に[[ドイツ語アルファベット]]で綴られる。
話者人口は約1億3000万人、そのうち約1億人が[[第一言語]]としている<ref>[http://www.ethnologue.com/show_language.asp?code=GER Ethnologue report for language code GER]</ref>。[[漢字]]では独逸語と書き、一般に'''独語'''(どくご)あるいは'''独'''と略す。[[ISO 639]]による言語コードは2字が '''<code>de</code>'''、3字が '''<code>deu</code>''' である。
現在[[インターネット]]の使用人口の全体の約3パーセントがドイツ語であり、[[英語]]、[[中国語]]、[[スペイン語]]、[[日本語]]、[[ポルトガル語]]に次ぐ第6の言語である。ウェブページ数においては全サイトのうち約6パーセントがドイツ語のページであり、英語に次ぐ第2の言語である<ref>[[:en:German language]]、
[http://www.netz-tipp.de/sprachen.html {{lang|de|Sprachen im Internet - aktuelle Studie}}]</ref>。[[欧州連合|EU]]圏内では、母語人口は域内最大<ref group="注">[[ヨーロッパ]]全土では[[ロシア語]]に次いで多い。</ref>であり、話者人口は、英語に次いで2番目に多い<ref>[http://ec.europa.eu/public_opinion/archives/ebs/ebs_243_sum_en.pdf {{lang|en|Europeans and their Languages}}] {{lang|en|European Commission Public Opinion}} 調査期間2005年11-12月、刊行2006年2月、4頁。</ref>。
しかし、ドイツ、オーストリアは海岸線が少なく植民地政策が歴史的に欧州内東方へ行われたこともあり、英語、[[フランス語]]、スペイン語のように世界語化はしておらず、基本的に同一民族による母語地域と、これに隣接した旧支配民族の使用地域がほとんどを占めている。
上記の事情と、両国の大幅な領土縮小(かつてのドイツ人国家であった[[神聖ローマ帝国]]、[[ハプスブルク帝国]]などから独立して誕生した国も多い)も影響し、欧州の多くの国で今でも母語として使用されている。
== ドイツ語圏 ==
=== ドイツ語を公用語としている国 ===
* {{DEU}}
* {{AUT}}
* {{LIE}}
* {{LUX}}(他に[[ルクセンブルク語]]、[[フランス語]]と併用)
以上の4か国は国民のほとんどをドイツ語の母語話者が占めている。
* {{CHE}}(他に[[イタリア語]]、[[フランス語]]、[[ロマンシュ語]])
スイスにおいてはドイツ語の母語話者は全人口の64%を占め、スイス最大の言語集団となっている。ドイツ語は[[ベルン]]や[[チューリヒ]]を中心とする国土の中央部および東部で広く話されている。
* {{BEL}}(他に[[フランス語]]、[[オランダ語]])
ベルギーにおけるドイツ語話者は人口の1%を下回り、全く一般的な言語ではない。しかし、ベルギーにおけるドイツ語話者は[[1919年]]に[[ヴェルサイユ条約]]によってドイツから割譲されたベルギー東端の地域に集中しているため、独自の言語共同体である[[ドイツ語共同体]]を持ち、フランス語、オランダ語とともに独自の言語共同体を持つ3つの言語のひとつとなっている。
=== ドイツ語をかつて公用語としていた国 ===
* {{NAM}} 1884年から1990年のドイツ領時代および南アフリカ領時代は公用語であった。
=== 公用語ではないが、ドイツ語が使用されている地域 ===
[[ファイル:Knowledge of German EU map.svg|thumb|300px|<!-- right -->none|EU加盟国及びトルコにおける住民のドイツ語への理解度<br />黒色が母語地域、以下50%以上、20-49%、10-19%、5-9%、5%未満(灰色はEU非加盟国・地域)]]
[[ファイル:Legal statuses of German in the world.svg|right|525x525px|thumb|'''ドイツ語圏の分布''' 公用語であり第一言語である地域(黄色)、公用語だが第一言語ではない地域(赤色)、国民的、又は教養的言語として用いられている(青紫)、マイノリティー言語としてドイツ語が法的に認められている(青紫の四角)、5万人以上のマイノリティーにドイツ語、又はその方言が用いられているが、法的に認められていない(水色)]]
* {{ITA}}:[[トレンティーノ=アルト・アディジェ州|トレンティーノ=アルト・アディジェ州]]([[南チロル]])地方(旧{{AUT1804}}領)州の公用語
トレンティーノ=アルト・アディジェ州はかつてオーストリア帝国領であり、なかでも北部のアルト・アディジェ([[ボルツァーノ自治県]])はかつて南チロルと呼ばれたようにドイツ語圏である[[チロル州|チロル]]の一部分となっていた関係上ドイツ語話者が多数を占め、ドイツ語もイタリア語と並び公用語となっている。
* {{Flagicon|Alsace}} [[アルザス地域圏]]([[アルザス語]])(ドイツ語では、[[:de:Elsass|Elsass]] エルザス)
* {{Flagicon|Lorraine}} [[ロレーヌ地域圏]]の[[モゼル県]][http://www.ethnologue.com/show_map.asp?name=France&seq=1]({{FRA}}:約120万人)
この両地域はドイツ系の[[アルザス人]]が人口の大部分を占め、[[アルザス=ロレーヌ]]として長くドイツ・フランス両国の係争地となっていた地域である。
* {{DNK}}:[[ユトランド半島]]最南部の一部地域
* かつて{{AUT1526}}([[オーストリア大公国]])や{{PRU1803}}の支配下にあった[[中央ヨーロッパ]]、[[東ヨーロッパ]]一帯
** {{HRV}}
** {{SVK}}
** {{SVN}}
** {{CZE}}
** {{HUN}}(約13万人)
** {{POL}}(約15万人)
** {{ROU}}(約6万人)
** {{SRB}}:[[ヴォイヴォディナ]]自治州
* {{BRA}}
* {{ARG}}
* {{KAZ}}([[ヴォルガ・ドイツ人]]約18万人)
* {{CMR}}(旧ドイツ植民地、約23万人<!-- https://de.wikipedia.org/wiki/Deutsche_Sprache_in_Kamerun -->)
* {{TOG}}(旧ドイツ植民地、約10万人<!-- https://de.wikipedia.org/wiki/Deutsche_Sprache_in_Togo -->)
* {{NAM}}(旧ドイツ植民地、約3万人<!-- https://de.wikipedia.org/wiki/Deutsche_Sprache_in_Namibia --> 及びナミビアの中等・高等教育を受けている国民)
ナミビアは[[第一次世界大戦]]までは[[ドイツ領南西アフリカ]]としてドイツの植民地となっており、第一次大戦後[[南アフリカ]]の委任統治領となっても、[[ドイツ人]]入植者は首都[[ウィントフック]]を中心にドイツ語のコミュニティを保ち、現地の[[白人]]社会においては[[アフリカーンス語]]と並び有力言語となっていた。ナミビア独立後ドイツ語の地位は低下したが、なおも入植者の子孫らによってドイツ語は話されている。またドイツ系以外の国民も商業語としてドイツ語を学んでいる。
* {{PRY}}(約16万人)
* {{USA}}の[[アメリカ合衆国中西部|中西部]]や、同国[[ペンシルベニア州]]などに話者集団がいる。
* {{CAN}}(約44万人)
* {{TUR}}
<!--
* [http://www.bartleby.com/151/ {{lang|en|The World Factbook}}]
* [http://www.ethnologue.com/show_language.asp?code=GER {{lang|en|Ethnologue report for language code GER}}]
-->
== 方言 ==
<!-- 何やらcommonsの説明で、使うな、という表示が出ましたので、コメントアウト。-->
<!-- [[File:GermanDialectAreas.png|thumb|500px|none|'''現代の自然言語としてのドイツ語の方言地図''' 北部ドイツ語(黄色)、南部ドイツ語のうち中央ドイツ語(肌色)、南部ドイツ語のうち高地ドイツ語の3つに大別できる。他にフリージア語(薄緑)などがある。地図上では34種類に分類されている。]]-->
<!-- [[File:Deutsche Mundarten seit 1945.png]]も参照せよ。-->
ドイツ語の[[方言]]は、大きく分けて北部方言([[低地ドイツ語]]:{{lang|de|[[:de:Niederdeutsch|Niederdeutsch]]}})と中部・南部方言([[高地ドイツ語]]:{{lang|de|[[:de:Hochdeutsche Dialekte|Hochdeutsch]]}})に分けられる。地方分権が他の西欧諸国に比べて遥かに進められているドイツでは方言の公的地位が高く、中には[[低ザクセン語]]のように独自の言語として保護されているケースも存在する。とはいえドイツ国内の保護は概ねドイツ語の一方言としての扱いに留まっている感が否めず、これに不満を持つ者と現状を支持する者との間で激しい議論が交わされている。
現在'''標準ドイツ語'''と呼ばれるものは、書き言葉としては主に[[テューリンゲン州|テューリンゲン地方]]などで話されていた東中部方言([[テューリンゲン・オーバーザクセン方言]])を基にした言葉で、この特徴をもつ[[ルター聖書|ルター訳聖書]]のドイツ語が広まったことによって標準文語の地位を獲得した。このため、「高地ドイツ語({{lang|de|Hochdeutsch}})」という言葉は「標準ドイツ語」という意味でも用いられる。ただし、発音に関する標準語の規範は19世紀末になってテオドール・ジープス({{lang|de|[[:de:Theodor Siebs]]}})の「[[舞台ドイツ語]]」({{lang|de|[[:de:Bühnendeutsch]]}})を権威として確立され、ジープスが低地ドイツ語の発音に強く傾倒した<ref>『言語学大事典セレクション ヨーロッパの言語』 [[三省堂]]、1998年、284頁。</ref>ため、発音に関しては低地ドイツ語の地域である[[ハノーファー]]の都市部の発音が最も標準語に近いと言われている。今日[[外国語]]としてドイツ語を学ぶ場合、この標準ドイツ語を学習することになるが、ドイツ本国では完璧な標準ドイツ語を母語とする話者は少なく、どの地域も(たとえテューリンゲン地方やハノーファーであったとしても)ある程度の「訛り」が存在する。
=== 中部・南部方言(高地ドイツ語 {{lang|de|Hochdeutsch}}) ===
[[ファイル:Deutsche Dialekte.PNG|400px|thumb|right|ドイツ語、オランダ語の方言分布図]]
中部・南部方言は、「[[第二次子音推移]]」ないし「高地ドイツ語子音推移」と呼ばれる[[子音]]変化が起こったが、北部方言では起こらなかったので、子音に規則的な違いが見られる<ref>例えば、[[ファウスト・チェルチニャーニ| Fausto Cercignani]], ''The Consonants of German: Synchrony and Diachrony''. Milano, Cisalpino, 1979. ISBN 978-8820501853.</ref>。中・南部方言はさらに中部ドイツ語({{lang|de|[[:de:Mitteldeutsch|Mitteldeutsch]]}})と上部(南部)ドイツ語({{lang|de|[[:de:Oberdeutsch|Oberdeutsch]]}})に分けられる。
*高地ドイツ語({{lang|de|Hochdeutsch}})
**[[中部ドイツ語]]({{lang|de|Mitteldeutsch}})
***西中部ドイツ語({{lang|de|Westmitteldeutsch}})
****[[中部フランケン語|中部フランケン諸語]]({{lang|de|[[:de:Mittelfränkisch|Mittelfränkisch]]}}) - 中部フランク方言、「[[フランケン語]]」([[フランク語]])に分類される。
*****[[モーゼル・フランケン語]]({{lang|de|Moselfränkisch}}) - モーゼルフランク方言
******[[ルクセンブルク語]]({{lang|de|Lëtzebuergesch}})
*****[[リプアーリ語]]
******[[ケルン語]]({{lang|de|Kölsch}})
*****[[:de:Siebenbürgersächsisch|ジーベンビュルガー・ザクセン語]]({{lang|de|Siebenbürgersächsisch}}) - [[ルーマニア]]・[[トランシルヴァニア]]で[[トランシルヴァニア・ザクセン人]]によって話される。「ザクセン」の名があるが、実際には中部フランケン語の系統である。
****[[ラインフランケン語]]({{lang|de|[[:de:Rheinfränkisch|Rheinfränkisch]]}}) - ラインフランク方言
*****[[:de:Hessisch|ヘッセン語]]({{lang|de|Hessisch}})
*****[[:de:Lothringisch (Fränkisch)|ロートリンゲンフランケン語]]({{lang|de|Lothringisch}}) - ロートリンゲンフランク方言
*****[[プファルツ語|プファルツ方言]]({{lang|de|Pfälzisch}})
***東中部ドイツ語({{lang|de|Ostmitteldeutsch}})
****[[テューリンゲン・オーバーザクセン語|テューリンゲン方言]]({{lang|de|Thüringisch}}) - 「上ザクセン語({{lang|de|Obersächsisch}})」とも呼ばれ、書き言葉の'''標準ドイツ語'''のベースとなった。
****ベルリン方言({{lang|de|Berlin-Brandenburgisch}}) - [[ベルリン]]で話される。
****ラウジッツ方言({{lang|de|Lausitzische}}) - [[ブランデンブルク州]]南部で話される。
****高地プロシア方言({{lang|de|Ermländisch}}) - [[フランクフルト・アン・デア・オーダー]]で話される。
****[[低シレジア語|低シレジア方言]]({{lang|de|Schläsch}}) - [[ポーランド]][[シレジア]]地方、[[チェコ]][[ボヘミア]]地方、ブランデンブルク州の一部で話される。
***[[ヴィラモヴィアン語]]({{lang|de|Wilmesaurisch}}) - ポーランド南西部の[[ビェルスコ=ビャワ]]近郊の町[[ヴィラモヴィツェ]]で話される。
**[[上部ドイツ語]]({{lang|de|Oberdeutsch}})
***[[上部フランケン語|上部フランケン諸語]]({{lang|de|[[:de:Oberfränkisch|Oberfränkisch]]}}) - 上部フランク方言、「フランケン語」に分類される。
****[[東フランケン語]]({{lang|de|[[:de:Ostfränkische Dialektgruppe|Ostfränkisch]]}}) - 主に[[ケムニッツ行政管区|ケムニッツ地方]]、[[バイエルン州]]北部にある[[ウンターフランケン]]、[[ミッテルフランケン]]、[[オーバーフランケン]]といった現在の[[フランケン地方]]で話される。
*****[[:de:Vogtländisch|フォクトラント方言]]({{lang|de|Vogtländisch}})
*****[[:de:Erzgebirgisch|エルツ方言]]({{lang|de|Erzgebirgisch}})
****[[南フランケン語]]({{lang|de|[[:de:Süd-Rheinfränkische Dialektgruppe|Südfränkisch]]}}) - 「南ライン・フランケン語」とも呼ばれ、主に[[プファルツ地方]]([[ラインラント|ライン地方]])南東部、[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]北部にある[[ハイルブロン=フランケン地域連合|ハイルブロンフランケン地方]]、[[カールスルーエ行政管区|カールスルーエ地方]]、[[ライン=ネッカー広域連合|ラインネッカー地方]]などで話される。
*****[[ヴュルテンベルク語|ヴュルテンベルク方言]](Württembergisch) - [[ヴュルテンベルク]]地方を中心に話される。
***[[バイエルン・オーストリア語|バイエルン諸方言]]({{lang|de|Bairisch}})- [[ミュンヘン]] - [[オーストリアドイツ語]]圏と[[チロル]]地方と相互に影響していると指摘される。「[[バイエルン・オーストリア語]]」という独立言語として扱うこともある。
****北バイエルン方言({{lang|de|Nordbairisch}}) - [[レーゲンスブルク]]など、バイエルン州中部で話される。
****中央バイエルン方言({{lang|de|Mittelbairisch}}) - [[ミュンヘン|ミュンヒェン]]、[[ザルツブルク]]、[[ヴィーン]]など、バイエルン州南部と[[オーストリア]]北部で話される。
****南バイエルン方言({{lang|de|Südbairisch}}) - [[インスブルック]]と[[リエンツ]]および[[グラーツ]]など、オーストリア南部で話される。
*****[[ゴットシェー語]]({{lang|de|Gottscheerisch}}) - [[スロベニア]]中部の[[カルニオラ]]地方と南部の[[コチェーヴィエ]]地方で話される。
*****[[モケーニ語]]({{lang|de|Mochenische}}) - [[北イタリア|イタリア北部]]の[[トレント自治県]]で話される。
***[[アレマン語|アレマン諸方言]]({{lang|de|Alemanisch}}) - [[シュトゥットガルト]] - [[スイスドイツ語]]圏と[[アルザス]]地方と相互に影響していると指摘され、[[オーストリア]]西部・[[フォアアールベルク州]]などで話される。
****[[シュヴァーベン語|シュヴァーベン方言]]({{lang|de|Schwäbisch}}) - [[シュヴァーベン]]地方で話される。
****[[スイス・ドイツ語|スイス諸方言]]({{lang|de|Schwyzerdütsch}})
****[[ヴァリス語|ヴァリス方言]]({{lang|de|Walliserdeutsch}})
****[[アルザス語|アルザス方言]]({{lang|de|Elsässerdeutsch}})
<!--****[[フォアアールベルク語]]({{lang|de|Vorarlbergerisch}}) - フォアアールベルク州で話される方言の総称であり、言語学上の分類ではない。-->
****[[ペンシルベニアドイツ語|ペンシルベニア・アレマン語]]({{lang|de|Pennsilfaanialemanisch}}) - [[アメリカ合衆国]]の[[ペンシルベニア州]]、[[アメリカ合衆国中西部|中西部]]で話される。
<!--**[[バーデン語]]({{lang|de|Badisch}}) - [[バーデン (領邦)|バーデン地方]]で話される方言の総称であり、言語学上の分類ではない。-->
**[[イディッシュ語]] - [[アシュケナジム]]([[ユダヤ系]]の[[ディアスポラ]])の言語。
=== 北部方言(低地ドイツ語 {{lang|de|Niederdeutsch}}) ===
[[ファイル:Deutsche Dialekte 1910.png|400px|thumb|right|1910年の時点でのドイツ語・オランダ語の方言分布図。1945年以降の[[ドイツ人追放]]より前のドイツ領や周辺諸国領を含む]]
[[低地ドイツ語]]は中部ドイツ語・上部ドイツ語と[[方言連続体]]を形成しており、かつては同じ言語と見なされていた。だが今日は[[第二次子音推移]]を経ていないことなどを始めとする大きな相違点から、明確に他言語であると考える傾向が強い。また、[[低地フランク語]]は他の低地ドイツ語([[低ザクセン語]]、東低地ドイツ語)と比べ[[アングロ・フリジア語群]]との共通点が少ないことから、低地フランク語を低地ドイツ語に含めず別の[[言語]]グループとする場合がある。
* 低地ドイツ語({{lang|de|Niederdeutsch}})
**[[低ザクセン語]]({{lang|de|Niedersächsisch}}) - 「西低地ドイツ語」({{lang|de|Westniederdeutsch}})とも呼ぶ。[[欧州連合|EU]]から地域言語の地位を得ている。[[低地フランク語]]に属する[[オランダ語]]との言語連続体に属すると考えられている。
***ヴェストファーレン方言({{lang|de|Westfälisch}})
****[[オランダ低ザクセン語]]({{lang|de|Nedersaksisch}}) - 低ザクセン語諸方言のうち、オランダ領内で話されるもの。「低地フランク語」に属する狭義のオランダ語とは別区分。
*****[[フローニン語]]({{lang|de|Gronings}})
***オストファーレン方言({{lang|de|Ostfälisch}}) - [[ハノーファー]]都市部が最も発音に関する[[標準語]]に近いとされる([[舞台ドイツ語]]も参照)。
***北低ザクセン方言({{lang|de|Nordniedersächsisch}}) - [[ハンブルク]]、[[キール (ドイツ)|キール]]などで話される。
**東低地ドイツ語({{lang|de|Ostniederdeutsch}})
***フォアポンメルン方言({{lang|de|Vorpommersch}}) - [[ロストック]]、[[シュヴェリーン]]などで話される。
***中部ポンメルン方言({{lang|de|Mittelpommersch}})
***東ポンメルン方言({{lang|de|Ostpommersch}})
***マルク・ブランデンブルク方言({{lang|de|Mark-brandenburgisch}})
***低地プロイセン方言({{lang|de|Niederpreußisch}}) - [[バルト語派]]の影響が指摘されている。
****[[メノナイト低地ドイツ語]](Plautdietsch)
**[[低地フランク語]]({{lang|de|Niederfränkisch}}) - 「低地フランコニア語」、「低地フランケン語」とも呼ばれる。
***[[オランダ語]]({{lang|de|Niederländisch}})
****[[アフリカーンス語]]({{lang|de|Afrikaans}})
***[[フラマン語]]({{lang|de|Flämische Dialekte}})
****[[西フラマン語]]({{lang|de|Westflämisch}})
***[[ゼーランド語|ゼーラント語]]({{lang|de|Seeländisch}})
***[[リンブルフ語]]({{lang|de|Limburgs}}) - ドイツでは低地フランク語の一つと捉えるが、オランダ、ベルギーでは西中部ドイツ語と一つと捉えられ、見解が分かれている。
== 歴史 ==
[[ファイル:AlthochdeutscheSprachräume962 Box.jpg|right|250px|thumb|[[962年]]の[[神聖ローマ帝国]]におけるドイツ語の分布([[東方殖民]]以前の分布)]]
[[ファイル:Verbreitungsgebiet der deutschen Sprache neu.PNG|right|250px|thumb|ドイツ語話者の分布は、第二次大戦におけるドイツの敗北により、大きく変化した。図は1910年の国勢調査をもとにした'''1945年までの分布'''(紺色)]]
[[ファイル:Verbreitungsgebiet der deutschen Sprache 2010.png|right|250px|thumb|図は'''1950年時点の分布'''(紺色) ポーランド・チェコからはドイツ語話者がほぼ一掃されている。しかしながら、ドイツ語話者は少数民族として東欧各地に残った(空色)]]
「ドイツ語」という語は[[786年]] {{lang|la|theodiscus}}(テオディスクス) という[[ラテン語]]型で初めて文献に登場するが、これは「民衆の」という意味を表す古高ドイツ語の[[形容詞]] {{lang|de|diutisc}} から派生している。このテオディスクスは[[テウトネス族|チュートン人]]({{lang|de|Teutone}}=トイトーネ、ドイツ語辞書によると、ゲルマン系で古高ドイツ人の先祖とされる)のラテン語形ともされる。
高地ドイツ語は時代順に、
* [[750年]] - 1050年 [[古高ドイツ語]]
* [[1050年]] - 1350年 [[中高ドイツ語]]
* [[1350年]] - 1650年 [[初期新高ドイツ語]]
* [[1650年]] - 現代 [[新高ドイツ語]](現代ドイツ語)
とおよそ四つの段階に分類されている。
これに対し、低地ドイツ語は
* [[800年]] - 1200年 [[古ザクセン語|古低ドイツ語]]
* [[1200年]] - 1650年 中低ドイツ語
* 1650年 - 新低ドイツ語
の三期に分類されている。
ドイツ語の原型となる[[西ゲルマン語群#歴史|西ゲルマン祖語]]は[[ゲルマン祖語]]から分化し、紀元前2〜3世紀ころに完成していただろうと考えられている。紀元後[[500年]]ごろまでに[[第二次子音推移]]が起こり、高地ドイツ語と低地ドイツ語との差異が明確になった。こうして「古高ドイツ語」時代が始まるが、この当時はまだ全ドイツ的な標準ドイツ語は存在しなかった。いわゆる「古高ドイツ語」は当時の高地ドイツ語のさまざまな方言の総称であるにすぎない。現在までかなりの数の古高ドイツ語による文書が残っているが、その多くについては作者がわからない。有名なものでは9世紀初めの叙事詩『[[ムースピリ]]』や『[[ヴェッソブルンの祈祷書]]』、オトフリート・フォン・ヴァイセンブルクによる『福音書』などがある。また、当時の書き言葉では[[ラテン語]]が優位を占めていたが、多くのラテン語文書の翻訳も作られた。例えば『イシドール』、『タチアーン』、また、[[ザンクトガレン]]の僧侶[[ノートカー]]による[[旧約聖書]]の詩篇などが挙げられる。
[[11世紀]]に入るとドイツ語による文献は増え、[[僧侶]]に代わって宮廷の[[騎士]]たちが[[言語]]の担い手となってきた。[[ミンネザング]]と呼ばれる[[吟遊詩人]]たちは自らの詩がなるべく広く理解されるよう、多くの[[方言]]の共通点を集約してドイツ中部より内陸部で大多数に通じるような中高ドイツ語を形成した。中高ドイツ語は古高ドイツ語と比べて母音が減少し、語尾の変化も単純になっているが、まだ新高ドイツ語よりは複雑なものだった。
中世末期から流布した民衆本は分かりやすいドイツ語で書かれていたが、まだ正書法もなく地方ごとに独自のやり方で表記していた。初期新高ドイツ語は表記にも一定の法則性を与える方向に向かって形成され、[[1522年]]ころ完成したドイツ語訳[[新約聖書]](通称『九月聖書』)をはじめとする[[ルター聖書|ルター訳聖書]]によって発展した。
[[17世紀]]にはドイツ人の民族としての自覚が高まり、知識人の間では統一されたドイツ語を求める国語浄化運動が盛んになった。[[実りを結ぶ会]]の結成がその例である。近代ドイツ語の正書法はこの頃より整備されはじめる(名詞語頭を大文字にするなどの工夫は、この頃生じた)。この思潮は[[ロマン主義]]の時代に引き継がれ、[[グリム兄弟]]による辞書の編集や[[コンラート・ドゥーデン]]の[[正書法]]辞典などによって新高ドイツ語が形成された。しかし[[1996年のドイツ語正書法改革|1998年8月1日に導入された正書法]]についてはいまだに論議があり、グリム兄弟の辞書が完成したのは着手から100年以上経った1961年だったことも考えると、他の全ての言語と同じように、ドイツ語もいまだ形成過程にあると言えるだろう。
元々、統一以前の連合諸侯時代のドイツ語では、民族をあらわす '''{{lang|de|Teutsch}}''' (トイチュ)が同じ言語を解す民族の間で共通の言語名とみなされていたようである<ref>ドイツ語語源漫筆 / [[渡辺格司]]著, 大学書林, 1963.2</ref>。オランダ語では {{lang|nl|Duits}}(ドゥイツ)という。これが[[江戸時代]]に日本に入り、「ドイツ」になった。
== 英語との差異 ==
言語学上、[[英語]]もドイツ語と同じ[[インド・ヨーロッパ語族]]の[[ゲルマン語派]]に属し、2千年ほど前に共通の祖先から分岐したと考えられるため、共通点が多い。しかし、両語がたどった歴史的背景から(とりわけ[[中世]]以降)、相違が広がった。以下に主なものを記す。
* 英語は[[大母音推移]]を蒙ってつづりと発音の乖離が大きく、また[[イングランド]]が[[フランス語]]話者の[[ノルマン朝|ノルマン人王朝]]の支配などを受けたり、[[ケルト人|ケルト系]]の[[ウェールズ]]・[[スコットランド]]・[[アイルランド]]を支配したりしたため、他言語から長年にわたり語彙を借入した。よって発音の例外が非常に多い(アルファベットの読み方と違う読み方をする語彙が相当数存在する)が、ドイツ語の場合はつづりと発音の関係は規則的である。いくつかの例外(例: eu を {{IPA|ɔʏ}} と発音する等)を除いてアルファベットのつづり通りに発音するものが多い。詳しくは[[ドイツ語音韻論]]を参照のこと。
* 英語では[[代名詞]]以外は[[格変化]]しないが、ドイツ語では一般[[名詞]]およびそれに結びつく[[冠詞]]、[[形容詞]]にも[[主格]]・[[属格]]・[[与格]]・[[対格]]の格変化が残っている。ただし近年口語を中心に属格の衰退が著しく、英語の of に相当する前置詞 von が代用されたり、属格を用いる前置詞に与格を用いることが認められるようになってきている。
* 英語では名詞の[[性 (文法)|性]]は消滅したが、ドイツ語では男性名詞・女性名詞・中性名詞を区別する。
* 英語では[[動詞]]の人称変化は3人称単数現在の -s(例: {{lang|en|make}} → {{lang|en|makes}})と {{lang|en|be}} 動詞とを除いて全て消失したが、ドイツ語では4〜5通りに活用する(例: {{lang|de|ich gehe}}、{{lang|de|du gehst}}、{{lang|de|er/sie/es geht}}、{{lang|de|wir/Sie gehen}}、{{lang|de|ihr geht}})。
* 英語では衰退した[[接続法]](例: {{lang|en|I suggest that he go there at once.}})が、ドイツ語では幅広く使われる。
* 英語では基本的に[[主語]]+[[動詞]]+[[目的語]]の[[SVO型]]だが、ドイツ語では動詞の位置が2番目(平叙文)、1番目(疑問文・命令文)、あるいは文末(副詞節など)というように変化する。本質的には日本語と同じ主語+目的語+動詞という[[SOV型]]である。[[V2語順]]を参照のこと。
* 英語では複合できる名詞の数が限られるのに対し、ドイツ語では複合名詞がよく使われており、とても長い単語がある。例として、「''Donaudampfschiffahrtselektrizitätenhauptbetriebswerkbauunterbeamtengesellschaft''」([[ドナウ汽船電気事業本工場工事部門下級官吏組合]])などが挙げられる。辞書にない単語が作られる場合もある。
== 日本との関係 ==
=== 日本におけるドイツ語の影響 ===
{{wiktionarycat|日本語 ドイツ語由来}}
近代の[[日本]]は、[[ドイツ帝国|帝政ドイツ]]、[[ヴァイマル共和政]]、[[ナチス・ドイツ]]を通じて、ドイツから様々な影響を受けた。[[西洋医学]]を輸入する際にドイツ人教師を招いた影響もあり、多くの[[医学]]用語がドイツ語から借用され、かつて[[カルテ]]はすべてドイツ語で書いていた<!--そもそも、カルテの語源はドイツ語であり({{lang|de|Karte}})、[[英語]]でいう{{lang|en|card}}([[カード]])である-->。
1960年代(昭和30〜40年代)までは、例えば[[補酵素|補酵素(コエンザイム)]]をコエンチーム、[[ウイルス]]をヴィールスなどとドイツ語式に学習されていたが、現在ではそれぞれ英語・ラテン語読みが一般化している。工学等でもドイツにならう部分は多く、鉄道用語などをはじめとして、ドイツ語発祥の用語が多く使用された。
戦前の日本の教育では英語に次ぐ重要な外国語として見なされ、たとえば旧制高校では文甲、理甲クラスが英語を、文乙、理乙クラスがドイツ語を第1外国語として、他方を第2外国語として学んだ。フランス語を第1外国語、英語を第2外国語としたのは、文丙、理丙クラスであるが、設置している高校は少なかった。
[[エネルギー]]や[[アレルギー]]などの物理学・化学用語、[[パトローネ]]、[[レフレックスカメラ|レフ]]などの写真用語([[カメラ]]もドイツ語発音である)、さらには[[アインザッツ]]や[[指揮棒|タクト]]などの[[クラシック音楽]]用語([[音名]]なども、ドイツ語名(アー、ベー、ツェー..)を使う人が多い)、[[ピッケル]]、[[リュックサック]]、[[クライミングロープ|ザイル]]、[[ツェルト]]、[[寝袋|シュラフ]]、[[ヒュッテ]]のような[[登山用語一覧|登山・山岳用語]]、[[アルペンスキー#プルークボーゲン|プルークボーゲン]]、[[ゲレンデ]]、[[ストック (スキー)|ストック]]等の[[スキー]]用語などにも使われている。これらはいずれもドイツあるいはオーストリアで盛んだったものを日本に移入した結果である。例えば、クラシック音楽はドイツ・オーストリアから[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.Sバッハ]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]といった著名な作曲家・演奏家が輩出し、クラシック音楽の中心とされてきたことによる。ベートーヴェンの[[歓喜の歌]]は、日本でもドイツ語で歌われることが多い。また、日本にスキーを紹介したのはオーストリア・ハンガリー帝国の軍人の[[テオドール・エードラー・フォン・レルヒ|レルヒ少佐]]である。
また、昔の[[政治]]や[[社会運動]]に関係する用語にはドイツ語に由来するものが多かった([[パルタイ]]、[[ブント]]、[[ケルン]]、[[ゲバルト]]、[[内ゲバ]]、[[フューラー]]等)。これは当時の日本の左翼思想に影響を与えた[[マルクス主義]]の[[カール・マルクス|マルクス]]や[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]の原著や、マルクス等に影響を与えた[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]をはじめとする[[ドイツ観念論]]や[[ヘーゲル左派]]などのドイツ系の哲学の原著、右翼思想に影響を与えた[[アドルフ・ヒトラー]]『[[我が闘争]]』など[[ナチズム]]の原著がドイツ語で記述されていたことの影響である。
その他、ドイツ語に由来する[[日本語]]には以下のようなものがある。
* [[アルバイト]]<ref group="注">ただしこれはドイツ語では「(専業としての)仕事」「労働」という意味であり、日本語で用いられる「アルバイト」は一般に {{lang|de|Job}} という。</ref>
* [[グミ]](元々は[[ゴム]]を意味する)
* [[ゼッケン]]
* [[テーゼ]]
* [[メルヘン]]
* [[コンメンタール]]
* [[ゲネプロ]](「ゲネラルプローベ」("{{lang|de|Generalprobe}}")が省略されたもの)
* [[ワクチン]]、[[カメラ]]なども英語(ヴァクシン、キャメラ)ではなくドイツ語の発音に則して用いられている言葉である。
日本語で用いられているドイツ語由来の語は必ずしも本来の意味を正しく反映していない、あるいは幾つかある意味のうち一つのみが用いられていることがあるので、ドイツ語を話すもしくは学ぶ際には注意が必要である。
=== 日本におけるドイツ語学習 ===
ドイツ語では、一般[[名詞]]、[[代名詞]]、[[冠詞]]、[[形容詞]]に[[主格]]・[[属格]]・[[与格]]・[[対格]]の区別があるが、日本のドイツ語教育ではこれらを伝統的に1格(主格)・2格(属格)・3格(与格)・4格(対格)と呼ぶ。
ただし、この呼称はドイツ語圏をはじめ欧米ではほとんど使われない。また、この名称は他言語と共通性がないので、[[比較言語学]]、[[言語類型論]]の観点からは勧められないとされる。
== 文字 ==
[[英語]]と同じ[[ラテン文字]]に[[ウムラウト]](変母音、[[Ä]], ä; [[Ö]], ö; [[Ü]], ü)とエスツェット([[ß]]、[[ギリシア文字]]の {{lang|el|[[β]]}} (ベータ)とは異なる)を加えた[[ドイツ語アルファベット|30文字]]を使用する。なお ß は語頭に来ることがないため、元来大文字は存在しなかった。ウムラウトやエスツェットが表示できないときは、
* Ä = AE / Ae<!-- 単語をすべて大文字で表記する場合は“AE”“OE”“UE”“SS”、語頭の場合は“Ae”“Oe”“Ue”だと思われるが、未確認。 -->
* ä = ae
* Ö = OE / Oe
* ö = oe
* Ü = UE / Ue
* ü = ue
* ß = SS / ss(旧正書法ではSZ / szも認められていたが、新正書法では除外された)
と代用表記することになっている。表題やマンガの台詞などで単語をすべて大文字にする場合、ß は “SS”、またはエスツェットの大文字 “ẞ<!-- [[ß]]や[[Template:ドイツ語アルファベット]]ではフォントを明示的に指定している。きちんと表示させるためかと推測するが、ノートやコメントなどでの説明は見当たらず、適否は不明(書体自体を問題とする場合以外にフォントを指定することは望ましくない)。 -->” で表記する。<!-- https://en.wikipedia.org/wiki/Capital_ẞ によれば、2010年以降、公文書で地名をすべて大文字にする場合は“SS”ではなくエスツェットの大文字を使用するよう定められたとのこと。出典も示されているが、経緯等を把握していないため、今のところ言及していない。 -->
{{ドイツ語アルファベット}}
なお[[第二次世界大戦]]終了後まで、[[ブラックレター]]の一種である[[フラクトゥール]](ドイツ文字、亀の子文字とも)が印刷に、これを基にした[[ジュッターリーン体]]が筆記に用いられていたが、現在では装飾用などに使われる程度である。
== 数体系 ==
{{columns-list|colwidth=20em|
*1: {{lang|de|eins}}
*2: {{lang|de|zwei}}
*3: {{lang|de|drei}}
*4: {{lang|de|vier}}
*5: {{lang|de|fünf}}
*6: {{lang|de|sechs}}
*7: {{lang|de|sieben}}
*8: {{lang|de|acht}}
*9: {{lang|de|neun}}
*10: {{lang|de|zehn}}
*11: {{lang|de|elf}}
*12: {{lang|de|zwölf}}
*13: {{lang|de|dreizehn}}
*20: {{lang|de|zwanzig}}
*21: {{lang|de|einundzwanzig}}
*22: {{lang|de|zweiundzwanzig}}
*23: {{lang|de|dreiundzwanzig}}
*30: {{lang|de|dreißig}}
*31: {{lang|de|einunddreißig}}
*32: {{lang|de|zweiunddreißig}}
*40: {{lang|de|vierzig}}
*41: {{lang|de|einundvierzig}}
*42: {{lang|de|zweiundvierzig}}
*43: {{lang|de|dreiundvierzig}}
*50: {{lang|de|fünfzig}}
*60: {{lang|de|sechzig}}
*70: {{lang|de|siebzig}}
*80: {{lang|de|achtzig}}
*90: {{lang|de|neunzig}}
*100: {{lang|de|hundert}}
*200: {{lang|de|zweihundert}}
*1,000: {{lang|de|tausend}}
}}
== 音韻 ==
''[[ドイツ語音韻論]]を参照のこと。''
== 文法 ==
{{Main|ドイツ語の文法}}
=== 格 ===
ドイツ語は、他の西洋の現代語と比べて[[格]]が重要な役割を持つ。名詞や代名詞の語形で、格変化が生じる。ドイツ語の格には[[主格]](1格、Nominativ)、[[属格]](2格、Genitiv)、[[与格]](3格、Dativ)、[[対格]](4格、Akkusativ)がある。
=== 代名詞 ===
=== 動詞 ===
=== 名詞 ===
=== 形容詞 ===
=== 命令法 ===
== 表現 ==
''[[b:ドイツ語/表現集|ドイツ語の表現集]]を参照のこと。''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[ドイツ語会話]](テレビ)
* [[アフリカーンス語]]
* [[ドイツ語から英語への借用]]
* [[ネイティブスピーカーの数が多い言語の一覧]]
* [[ドナウ汽船電気事業本工場工事部門下級官吏組合]]({{lang|de|Donaudampfschifffahrtselektrizitätenhauptbetriebswerkbauunterbeamtengesellschaft}}) ドイツ語で一番長い単語。
* [[デングリッシュ]]
* [[ドイツ語から日本語への借用]]
* [[ドイツの流行語大賞]]、{{ill2|今年の良くない言葉|de|Unwort des Jahres (Deutschland)}}
* {{ill2|スイスの流行語大賞|de|Wort des Jahres (Schweiz)}}
* {{ill2|オーストリアの流行語大賞|de|Österreichisches Wort des Jahres}}
== 外部リンク ==
{{Wikipedia|de}}
{{Wikibooks|ドイツ語|ドイツ語}}
{{Wiktionarycat|ドイツ語}}
* [https://www.ethnologue.com/language/deu {{lang|de|Ethnologue report for Standard German}}]
* [https://www.101languages.net/german/ {{lang|en|German 101}}] {{lang|en|Free information on the German language}}(英語)
* [https://deutschtraining.org/wortschatz-deutsch/ {{lang|de|Wortschatz Deutsch}}] ライプツィヒ大学の独独オンライン辞典プロジェクト(ドイツ語)
* [http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/de/ 東外大言語モジュール(ドイツ語)] 発音、会話、文法、語彙の順に学べる。ページの構成が分かりにくいため、カードだけでなく、例文なども参考に。
* [https://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2006dir/n2666dir/n2666_04.htm 教養としての医者語]
* {{Kotobank}}
{{ゲルマン語派}}
{{ドイツの主要項目}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:といつこ}}
[[Category:ドイツ語|*]]
[[Category:西ゲルマン語群]]
[[Category:ドイツの言語]]
[[Category:オーストリアの言語]]
[[Category:リヒテンシュタインの言語]]
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3,872 | 交通 | 交通(こうつう)とは、人や物が物理的に行き交うこと。経済目的の実現に基本的必然的に伴う経済的物理現象で様々な態様で連続的に発生している。「交通」は広義には思想の場所的移動(通信)も含む概念である。ただし、一般に「交通」という場合には通信を含まない語として使われる場合がほとんどであり、例えば学問上も交通工学や交通経済学、交通地理学といった学問領域は通信を対象に含めない。
「交通」は人や物の場所的な移動のことを指す言葉で、空間的に離隔された地理的な障壁を乗り越える行為だとも言われている。交通は、人間の生活を営む上であっては当たり前の存在であり、人間社会の発展のためには必要不可欠な存在でもある。技術の進展に伴い交通機関も進化してきており、移動できる範囲は大きく広がってきている。交通という経済活動は、物を移動する必要性という交通需要とそれを移動させる交通労務の供給の上に成立するとされる。
交通は移動の対象から旅客交通と貨物交通に分けられる。旅客交通における交通需要としては、日常的な通勤・通学・通院などから観光まで様々なものがある。また、交通は移動の場所から陸上交通、水上交通、航空交通に分けられる。
交通の手段・方法として整備された体系を交通機関または交通システムと呼ぶ。交通機関は、人間社会の発達に従って、より高度な手段を提供するように発達してきた。逆に交通機関における技術革新が人間社会の姿を大きく変化させてきた側面もある。
交通機関には、通路、運搬具、動力の三要素があるとされる。
かつて交通手段は人足、牛馬、ラクダといったもので運搬具と動力が未分化であったが、運搬具と動力源の分離によって自然的制約を受けることが少なくなり交通の発達に画期的な進歩をもたらしたとされる。
今日の交通機関は、ITS、鉄道の運行計画、道路の信号制御、航空管制などを代表とする運行制御システム、また、運賃、収益管理、マーケティングなどの営業システムの点で著しい発達を遂げている。
交通機関には次のような特性がある。
交通にはさまざまな分類が存在する。まず、輸送する対象によって、旅客交通と貨物交通に分類される。旅客交通はさらに、個人が私的に移動する私的交通と、公共交通とに分けられる。公共交通はさらに貸切輸送と乗合輸送に分けられるが、通常は公共交通と言えば乗合輸送のことを指し、貸切輸送は広義の場合にのみ公共交通に含まれる。
旅客輸送は、短距離交通と長距離交通とに大きく分けられ、様相を異にする。短距離交通でもっとも大きな割合を占めるものは自家用車であり、公共交通の整備されていない地方部ではさらにその割合は増加する。一方で、とくに都市部においては大量輸送が必須となるため自家用車の割合は減り、鉄道や地下鉄、バスといった公共交通機関の割合が増加する。長距離輸送に関しては、バスを含む自動車の優位性は距離とともに逓減していく一方、300kmから500km程度の都市間輸送においては鉄道、とくに高速鉄道が優位性を示すようになる。700km以上の旅客輸送においては、主要交通機関の中で最も高速な飛行機の優位性が確立している。船舶は低速であるため、特殊な場合を除き旅客輸送においては重要性を持たない。ただし小規模離島においては船舶以外の交通手段は存在しないことが多い。
貨物輸送においては、近距離輸送では自動車(トラック)輸送が非常に優位である。トラックは出荷から配送までを直接行うことができるため積み替えが最小限で済み、また状況に応じ弾力的な運用が可能であるなど利便性が高い。大量の物資の長距離輸送では自動車より鉄道に優位性があるが、末端部の輸送においては自動車との連携がほぼ必須である。長距離・大量の貨物輸送において最も大きな割合を占めるものは船舶であり、運行コストが非常に安価であるため広く使用される。飛行機は運行コストが高いため、高価かつ迅速な輸送が求められる貨物に使用される程度である。また、複数の交通機関を積み替えなしで一貫輸送する、いわゆるインターモーダル輸送が推進されており、輸送の貨物コンテナ化が進んだ。
最も基本的な交通手段は徒歩であるが、1日40キロメートル程度の移動距離が限界である。時代の経過とともに技術が進化し、馬車、帆船、鉄道、自動車、航空機が発明され続けてきた。交通手段の進化は、同時に行動できる範囲を格段に広げることにつながり、人の文化交流や物の物流の広域化をもたらしてきた。現代社会において主力となる交通機関は、自動車(道路)、列車(鉄道)、船舶、飛行機であり、それぞれに一長一短があるため、この4種を組み合わせた交通体系が構築されている。
1時間で移動できる距離は、徒歩が3 - 6キロメートル、自転車が15 - 25キロメートル、自動車が40 - 100キロメートル、高速鉄道が300キロメートル前後、飛行機で800キロメートル前後が目安である。
陸上交通の輸送手段としては、古く人や動物の力を利用したものが広く利用されたが、今日では鉄道や自動車が主たる交通機関となっている。
徒歩は現代でも近距離交通においては重要な交通手段であり、また公共交通機関や他の輸送機械を使用する場合でも歩行は必須である。人力を原動力とする交通機関も古くから存在し、駕籠や人力車、人車軌道などはかつて盛んに用いられていた。人が荷物を背負い直接輸送を行うことは現代でも行われており、また大八車、リヤカー、ショッピングカート、バゲージカート、シルバーカーといった台車を使用することも多い。自転車は整備された路面であれば単純な人力より数倍の速度が可能であるため、都市交通では大きな割合を占めており、より多くの荷物を載せられるようにしたカーゴバイクを使用したり、三輪車に台車をひかせて貨物輸送に使用されることもある。歩行困難な障害者の移動用具としては車椅子が広く使用される。
人力の次に使用された動力は、家畜である。人や物を直接乗せる際は駄獣、台車などを引かせて使用する場合は輓獣と呼ばれる。交通用の家畜として最も用いられたものはウマである。ウマに引かせる馬車は西洋で広く用いられ、19世紀には乗合馬車が都市交通の要となり、レールの上を走る鉄道馬車へと移行して1920年頃まで運行していた。そのほかにもウシやロバ、ラバなどが世界的に広く役畜として使用され、ウシに引かせる牛車も存在した。特殊な地域の交通に用いられたものとしては、乾燥地帯でラクダの導入によって乾燥地帯を越える交易ルートの設定が可能となり、「砂漠の舟」と呼ばれるほどの重要性を持っていた。寒冷地においてはトナカイやイヌを役畜として、犬ぞりのようにそりを引かせていた。ただしこうした畜力使用は自動車の普及とともに衰退し、20世紀後半からは特殊な場合を除きほぼ使用されなくなった。
動力機関を持つ陸上交通は、軌道を走るものと道路上を走るものに二分される。
軌道を走るものとして最も重要なものは、二本のレールの上を走る鉄道列車である。鉄道は大量輸送に適した交通機関であり、通勤・通学輸送や都市間輸送に強みを持つ。都市交通としては、地下を走る地下鉄や路上を走る路面電車、ライトレールなども重要である。技術改良も進んでおり、新幹線をはじめとする高速鉄道が世界各地に建設されている。1本のみの軌道上を走る列車はモノレールと呼ばれる。軌道から浮上させて運行する浮上式鉄道も、磁気浮上式鉄道と空気浮上式鉄道の2種類が存在する。ケーブルカーや、ロープウェイやチェアリフトといった索道も広義には鉄道の一種である。このほか、エレベーターやエスカレーターなども一定の軌道上を動く交通機関である。ベルトコンベアは鉄鉱石や石灰石などの重量物の輸送や、工場内輸送や手荷物輸送などに使用されるほか、動く歩道として人の移動にも使用される。
道路上を走るものとして最も重要なものは自動車である。自動車は自家用自動車や貨物自動車、バスなど用途によっていくつかの種類に分かれ、利便性が高く小規模で柔軟な運用が可能であることが強みである。原動機付き二輪車はオートバイと総称され、自動車よりもさらに近場で利用する手軽な乗り物として広く使用される。このほか特殊な状況や場所で使用する原動機付き車両としては、ゴルフカート、セグウェイ、電動車いす、シニアカー、スノーモービルなどがある。
最も原始的な水上交通機関は水流を利用するか人力で舟を操作するものであり、ドラゴンボートやカヌー、ガレー船といった櫂やパドルで漕ぐもののほか、艪で漕ぐものがある。足でペダルを踏んで進む足漕ぎボートもこの系譜に属する。運河などにおいては帆走が難しいため、隣接して曳舟道が必ず設けられ、陸上から人や動物が舟を曳く曳舟が行われていた。次いで、風を帆に受けて進む帆船が発明され、近代に至るまで海上交通の主役となっていた。汽船の進歩によって純帆船はほとんど商用に使用されなくなったが、スポーツ用のヨットなどではいまだに利用されている。
現代の水上交通機関はほとんどが内燃機関を搭載している。大型商用船舶はその用途により旅客船、貨物船、貨客船に分かれ、自動車ごと旅客を運送する貨客船はフェリーと呼ばれる。一般の船舶より高速なものは高速船と総称され、水中翼船やホバークラフトなどが使用される。また、橋を架けるほどの交通量のない短距離航路においては、小型船舶による渡し船が運行している。
空運には飛行機が主に使用される。飛行機は発着に滑走路が必要であり、天候の影響を受けやすくコストが高いものの、その高速性で遠距離旅客輸送の主力となっている。このほか、回転翼を利用するヘリコプターも、滑走路が必要なく狭い土地での離着陸が可能であるため、小規模な旅客や貨物の輸送に使用されている。
交通の発達とその円滑な運営は経済にとって不可欠である。道路・鉄道・港湾・空港などはインフラストラクチャーのひとつであり、経済の基盤となっている。旅客および貨物の運輸業は経済の重要な一部分であり、さらに交通に用いるための自動車・鉄道車両・船舶・飛行機といった輸送機械の製造は大規模産業として経済に占める割合も大きい。また、公共事業による交通インフラの整備はそれ自体が重要な経済活動となっている。
貨物の大量輸送においてもっともコストが低いものは海運であり、さらに公海には海洋の自由が存在するため、公海へのアクセスがある国家はコストが低く隣国の政治情勢に左右されない安定した貿易ルートを確立することができる。このため、一般に内陸国は海洋を持つ国家に対して低い経済成長を余儀なくされる。スイスのように近隣国の経済が良く開発され、交通インフラも整っている場合は経済を成長させることも可能であるが、とくにアフリカでは海洋国の交通インフラや市場がまったく整備されていないため、それに依存せざるを得ない内陸国はより貧しくなることが多い。
グローバリゼーションの進展とともに、旅客・貨物ともに交通量は増大の一途をたどっている。観光目的の海外旅行やビジネス客などを主とする自国外への旅行者の総数は、1960年の1億人未満から、2015年には11億9,000万人にまで増大した。このうち出発国の近隣諸国への旅行客が77%を占め圧倒的に多いものの、遠隔地諸国への旅行者の割合は増大しつつある。一方で、事故や戦争、疫病や災害によって交通が寸断されることは珍しくなく、この場合経済に大きな影響が及ぶ。2020年にはCOVID-19のパンデミックが起きて世界各国が出入国制限や都市封鎖、行動制限を実施した結果交通量が大幅に減少し、2020年3月末には世界全体の航空便数が前年同期比で37%にまで激減、世界の大都市でも交通量が軒並み30%程度にまで激減し、経済に大きな打撃を与えた。
運輸部門における二酸化炭素排出は大きなものである。運輸部門のエネルギー消費のほとんどは石油によって占められており、2016年度には同部門の総エネルギー消費の90%以上は石油によってまかなわれていた。これは、自動車や飛行機、船舶などの燃料が石油によってほぼ占められていることによる。電気やエタノールなどによる代替燃料開発も進められているものの石油に取って代わることは困難であり、2040年度予測でもこの状況にそれほどの変化はないと考えられている。また、二酸化炭素以外にも自動車の排気ガスには各種汚染物質が含まれており、大気汚染の主因のひとつとなっている。道路周辺の騒音・振動の問題も大きい。こうした問題の解決策として、自動車交通を削減し各種公共交通機関の利用を促進することや、近距離においては徒歩や自転車といったさらに環境汚染の少ない交通手段への移行などが提唱されている。
文明が生まれる以前は、人々は狩猟によって食料を得、それを自分達だけで消費するだけであったので、遠距離を移動したり大量の荷物を運んだりする必要はほとんど無かった。しかし、農耕や牧畜が始まると、状況は一変する。計画的な食物の生産と貯蔵が可能となり、生産の効率化が進むと、共同体で消費する分より多く生産できるようになった。やがて共同体同士で必要な物資の物々交換が始まり、初めて交通が生まれた。また牧畜では家畜の食料を求めて移動しなければならず、一箇所に定住できないため大量の荷物を運ぶ必要があった。
物々交換を個別に行うのは不便であるため、地理的に離れた場所の取引を一箇所で行うための市場が成立し、物資を市場に運ぶ物流が生まれた。市場はやがて都市に発展し、都市を拠点として、自身は生産せず取引と物流だけを専門に行う商業を営むものが現れた。このように、交通の変化は経済の発達と不可分のものである。そして交通の仕組みは、経済活動の要求やインフラの状況に合わせて進化するように求められた。
もっとも基本的な交通手段は、人間そのものが歩行することである。しかし、人間が歩くだけでは移動距離が限られ、一人の人間が持てる荷物はさほど多くない。
一方、動物を利用した輸送は古くから行われた。主に馬やラクダや牛、あるいはそれらの近隣種が家畜化されて利用され、動物を利用することで、人間が単独で行動するときの数倍のスピードや貨物輸送量を得られるようになった。特に長期間にわたって水を飲まずに行動できるラクダは『砂漠の舟』とも呼ばれ、アラブ世界では自動車が普及するまで重要な輸送手段であった。
また、原始的な交通手段としては、舟の存在が挙げられる。すでにメソポタミアでは先史時代に河川交通において帆掛け船が利用されていたことが知られている。さらに紀元前2500年頃にはラガシュ市の碑文において、ペルシャ湾を越えて海洋交易が行われていたことが記されている。帆船による長距離外洋航海は季節風を利用しながら世界各地で行われており、なかでも積極的に帆船航海が行われた南太平洋においては、遠洋に浮かぶ島々の植民が進められ、6世紀頃にはポリネシア東端のイースター島にまで植民している。帆船は非常に効率的な交通手段であり、蒸気機関が実用化された19世紀においてもしばらくの間は優位性を保ち、1860年代にはクリッパー(快速帆船)によって帆船の発展は頂点に達している。
車輪は紀元前3500年ころ、東ヨーロッパからシュメールのうちのどこかで発明され、その後急速にユーラシア大陸の各地に広まった。この年代のメソポタミアではロバの家畜化も行われており、ロバに引かせた荷車を利用する陸上交通もはじまっていた。一方で、マヤ文明など新大陸の文明においては車輪の存在は知られていたものの、実用化した痕跡はない。
秦始皇帝は車軌の統一を行った。車軌とは馬車についた2つの車輪の幅のことである。当時は車輪が通ってできる轍がレールのような役割をしており、車はこの轍にはまるように走っていたと考えられている。車軌の異なる馬車が同じ道を通ることは困難であるため、これを統一して流通を容易にした。
ローマ帝国時代には、ローマから各地に向かう石畳の道路が整備された。これらはローマ街道と呼ばれる。「帝国内の各地にいち早く軍隊を派遣することが出来る」という軍事目的であったが、ここから「すべての道はローマに通ず」という言葉も生まれた。ドイツの観光街道の1つ「ロマンチック街道」は、そのローマ街道が起源である。また、イタリアの「アッピア街道」もローマ街道を起源としており、石畳などはほぼ当時のままの形で残されている。ローマ街道のほかにも、当時それぞれの地域で覇権を握った国家によって建設された街道がいくつか存在する。日本では江戸時代に五街道が制定され、江戸を中心とした各地への交通網が出来た。国土に遍く整備された街道は中央集権国家の存立には不可欠なものであった。
一方、街道の成立に伴って、その沿道には都市が生まれた。例えば、道路が川を横切る地点(渡津)は交通が滞留しやすく、都市が成立しやすい。また、古くからある街道は、後の時代において新設される主要な交通路のルートに選定されている場合が多く、高速鉄道や高速道路の多くは古くからの街道沿いに建設されている場合が多い。そのため、街道沿いの都市は現在も交通の要衝であり続けていることがほとんどであり、今や大都市に成長している例も少なくない。一方で、移動可能な速度によって都市の間隔は決まるために、交通インフラの高速化によって、都市間の競争が起こり古くからの都市が衰退する場合もある。
陸上の街道に対し、水上交通では運河が各地で整備された。とくに18世紀末のイギリスでは「運河熱」と呼ばれる運河建設ブームが巻き起こり、これによって発達した運河網は安定した大量輸送を各地で確保し、イギリスにおいて産業革命を推進する基盤のひとつとなった。
近代における交通は、機械を利用した交通手段の発達なしに語ることはできない。その先駆けとなったのは、蒸気機関の発明である。蒸気機関の発明は海陸の2つの輸送機械、すなわち蒸気機関車と蒸気船を出現させ、以後の交通を一変させた。
今日のような原動機の動力を用いた鉄道の出現は1804年のトレビシックによる蒸気機関車の発明を待たなければならない。ただこの時点ではまだ実用に耐えるものでは無かった。実用化はスチーブンソン親子によってなされ、1830年、蒸気機関車による世界初の旅客鉄道がリヴァプール-マンチェスターに開通した。その有用性はすぐに認められ、以降、世界中で鉄道建設が進められることになった。ヨーロッパやアメリカでは19世紀中頃、日本を含むその他の地域では19世紀末から20世紀初頭にかけて、空前の鉄道建設ラッシュが起こり、現在も運行される主要な路線のほとんどはこの時代に、極めて短期間のうちに完成された。
水上交通においては、1807年にロバート・フルトンが蒸気外輪船の営業運航に成功した。当初の蒸気船は波に弱く、河川などの内陸水運に主に使用されていたが、1840年代に入るとより高速を得られ安定性も高いスクリュープロペラが主流となり、さらに1860年代に高性能の船舶用蒸気機関が登場することで、蒸気船は全盛期にあった帆船を駆逐して主要な海洋交通手段となった。
また、産業革命とともに都市は大規模化し、都市交通の整備が必須となった。19世紀前半にはヨーロッパ各都市で乗合馬車の運行がはじまり、鉄道馬車を経て1890年頃以降は路面電車が各都市に敷設されるようになった。この時期には地下鉄の建設も始まり、1900年頃には自動車によるバスの運行もはじまって、市民に身近な交通機関となった。
鉄道が登場するまで、旅行は多くの危険を伴う行為であった。悪路を徒歩や馬車で長時間かけて移動する必要があり、かかる費用も莫大であった。ごく限られた層を例外として、現在では一般的なレクリエーションとしての旅行はまず考えられなかった。しかし、鉄道網の発達は長距離の移動を極めて容易に、しかも安価に実現した。産業革命が生み出した一定の余暇を持つ中産階級の成長に伴って、旅行が余暇を楽しむための趣味として初めて認識されるようになった。
19世紀末に内燃機関が発明されると、交通はさらに進歩した。石油という液体燃料を使用し、軽くて強力な内燃機関の登場によって、主に個人向けに使用される輸送機関である自動車の普及や、空中を飛ぶ輸送機関である飛行機の発明が可能となった。19世紀末にはガソリン自動車が発明され、当初は高価だったものの1908年にアメリカでフォード・モデルTが発売されると、一般大衆への普及が進んだ。一方、1903年にライト兄弟によって飛行機が発明されたのち、飛行機は急速に発達を遂げ、第一次世界大戦後には旅客機の定期運行がはじまり、1927年にはチャールズ・リンドバーグが大西洋横断単独無着陸飛行を成功させた。
第二次世界大戦後には世界各国でも道路の整備が進み、自動車価格が中流階級が購入可能なものになるとモータリゼーションが進展して、鉄道の衰退や、都市の郊外化といった社会への変化も引き起こすことになった。飛行機の改良も進み、1960年代にはジェットエンジンの本格導入によって飛行機の大型化と高速化が進んだ。また、世界中で地球温暖化問題が表面化する中で、化石燃料であるガソリンを利用して二酸化炭素などの温室効果ガスを排出する自動車の利用方法が問われるようになってきている。 | [
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"text": "交通(こうつう)とは、人や物が物理的に行き交うこと。経済目的の実現に基本的必然的に伴う経済的物理現象で様々な態様で連続的に発生している。「交通」は広義には思想の場所的移動(通信)も含む概念である。ただし、一般に「交通」という場合には通信を含まない語として使われる場合がほとんどであり、例えば学問上も交通工学や交通経済学、交通地理学といった学問領域は通信を対象に含めない。",
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"text": "「交通」は人や物の場所的な移動のことを指す言葉で、空間的に離隔された地理的な障壁を乗り越える行為だとも言われている。交通は、人間の生活を営む上であっては当たり前の存在であり、人間社会の発展のためには必要不可欠な存在でもある。技術の進展に伴い交通機関も進化してきており、移動できる範囲は大きく広がってきている。交通という経済活動は、物を移動する必要性という交通需要とそれを移動させる交通労務の供給の上に成立するとされる。",
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"text": "交通は移動の対象から旅客交通と貨物交通に分けられる。旅客交通における交通需要としては、日常的な通勤・通学・通院などから観光まで様々なものがある。また、交通は移動の場所から陸上交通、水上交通、航空交通に分けられる。",
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"text": "交通の手段・方法として整備された体系を交通機関または交通システムと呼ぶ。交通機関は、人間社会の発達に従って、より高度な手段を提供するように発達してきた。逆に交通機関における技術革新が人間社会の姿を大きく変化させてきた側面もある。",
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"text": "交通機関には、通路、運搬具、動力の三要素があるとされる。",
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"text": "かつて交通手段は人足、牛馬、ラクダといったもので運搬具と動力が未分化であったが、運搬具と動力源の分離によって自然的制約を受けることが少なくなり交通の発達に画期的な進歩をもたらしたとされる。",
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"text": "今日の交通機関は、ITS、鉄道の運行計画、道路の信号制御、航空管制などを代表とする運行制御システム、また、運賃、収益管理、マーケティングなどの営業システムの点で著しい発達を遂げている。",
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"text": "交通機関には次のような特性がある。",
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"text": "交通にはさまざまな分類が存在する。まず、輸送する対象によって、旅客交通と貨物交通に分類される。旅客交通はさらに、個人が私的に移動する私的交通と、公共交通とに分けられる。公共交通はさらに貸切輸送と乗合輸送に分けられるが、通常は公共交通と言えば乗合輸送のことを指し、貸切輸送は広義の場合にのみ公共交通に含まれる。",
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"text": "旅客輸送は、短距離交通と長距離交通とに大きく分けられ、様相を異にする。短距離交通でもっとも大きな割合を占めるものは自家用車であり、公共交通の整備されていない地方部ではさらにその割合は増加する。一方で、とくに都市部においては大量輸送が必須となるため自家用車の割合は減り、鉄道や地下鉄、バスといった公共交通機関の割合が増加する。長距離輸送に関しては、バスを含む自動車の優位性は距離とともに逓減していく一方、300kmから500km程度の都市間輸送においては鉄道、とくに高速鉄道が優位性を示すようになる。700km以上の旅客輸送においては、主要交通機関の中で最も高速な飛行機の優位性が確立している。船舶は低速であるため、特殊な場合を除き旅客輸送においては重要性を持たない。ただし小規模離島においては船舶以外の交通手段は存在しないことが多い。",
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"text": "貨物輸送においては、近距離輸送では自動車(トラック)輸送が非常に優位である。トラックは出荷から配送までを直接行うことができるため積み替えが最小限で済み、また状況に応じ弾力的な運用が可能であるなど利便性が高い。大量の物資の長距離輸送では自動車より鉄道に優位性があるが、末端部の輸送においては自動車との連携がほぼ必須である。長距離・大量の貨物輸送において最も大きな割合を占めるものは船舶であり、運行コストが非常に安価であるため広く使用される。飛行機は運行コストが高いため、高価かつ迅速な輸送が求められる貨物に使用される程度である。また、複数の交通機関を積み替えなしで一貫輸送する、いわゆるインターモーダル輸送が推進されており、輸送の貨物コンテナ化が進んだ。",
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"text": "最も基本的な交通手段は徒歩であるが、1日40キロメートル程度の移動距離が限界である。時代の経過とともに技術が進化し、馬車、帆船、鉄道、自動車、航空機が発明され続けてきた。交通手段の進化は、同時に行動できる範囲を格段に広げることにつながり、人の文化交流や物の物流の広域化をもたらしてきた。現代社会において主力となる交通機関は、自動車(道路)、列車(鉄道)、船舶、飛行機であり、それぞれに一長一短があるため、この4種を組み合わせた交通体系が構築されている。",
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"text": "1時間で移動できる距離は、徒歩が3 - 6キロメートル、自転車が15 - 25キロメートル、自動車が40 - 100キロメートル、高速鉄道が300キロメートル前後、飛行機で800キロメートル前後が目安である。",
"title": "交通手段"
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"text": "陸上交通の輸送手段としては、古く人や動物の力を利用したものが広く利用されたが、今日では鉄道や自動車が主たる交通機関となっている。",
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"text": "徒歩は現代でも近距離交通においては重要な交通手段であり、また公共交通機関や他の輸送機械を使用する場合でも歩行は必須である。人力を原動力とする交通機関も古くから存在し、駕籠や人力車、人車軌道などはかつて盛んに用いられていた。人が荷物を背負い直接輸送を行うことは現代でも行われており、また大八車、リヤカー、ショッピングカート、バゲージカート、シルバーカーといった台車を使用することも多い。自転車は整備された路面であれば単純な人力より数倍の速度が可能であるため、都市交通では大きな割合を占めており、より多くの荷物を載せられるようにしたカーゴバイクを使用したり、三輪車に台車をひかせて貨物輸送に使用されることもある。歩行困難な障害者の移動用具としては車椅子が広く使用される。",
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"text": "人力の次に使用された動力は、家畜である。人や物を直接乗せる際は駄獣、台車などを引かせて使用する場合は輓獣と呼ばれる。交通用の家畜として最も用いられたものはウマである。ウマに引かせる馬車は西洋で広く用いられ、19世紀には乗合馬車が都市交通の要となり、レールの上を走る鉄道馬車へと移行して1920年頃まで運行していた。そのほかにもウシやロバ、ラバなどが世界的に広く役畜として使用され、ウシに引かせる牛車も存在した。特殊な地域の交通に用いられたものとしては、乾燥地帯でラクダの導入によって乾燥地帯を越える交易ルートの設定が可能となり、「砂漠の舟」と呼ばれるほどの重要性を持っていた。寒冷地においてはトナカイやイヌを役畜として、犬ぞりのようにそりを引かせていた。ただしこうした畜力使用は自動車の普及とともに衰退し、20世紀後半からは特殊な場合を除きほぼ使用されなくなった。",
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"text": "動力機関を持つ陸上交通は、軌道を走るものと道路上を走るものに二分される。",
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"text": "軌道を走るものとして最も重要なものは、二本のレールの上を走る鉄道列車である。鉄道は大量輸送に適した交通機関であり、通勤・通学輸送や都市間輸送に強みを持つ。都市交通としては、地下を走る地下鉄や路上を走る路面電車、ライトレールなども重要である。技術改良も進んでおり、新幹線をはじめとする高速鉄道が世界各地に建設されている。1本のみの軌道上を走る列車はモノレールと呼ばれる。軌道から浮上させて運行する浮上式鉄道も、磁気浮上式鉄道と空気浮上式鉄道の2種類が存在する。ケーブルカーや、ロープウェイやチェアリフトといった索道も広義には鉄道の一種である。このほか、エレベーターやエスカレーターなども一定の軌道上を動く交通機関である。ベルトコンベアは鉄鉱石や石灰石などの重量物の輸送や、工場内輸送や手荷物輸送などに使用されるほか、動く歩道として人の移動にも使用される。",
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"text": "道路上を走るものとして最も重要なものは自動車である。自動車は自家用自動車や貨物自動車、バスなど用途によっていくつかの種類に分かれ、利便性が高く小規模で柔軟な運用が可能であることが強みである。原動機付き二輪車はオートバイと総称され、自動車よりもさらに近場で利用する手軽な乗り物として広く使用される。このほか特殊な状況や場所で使用する原動機付き車両としては、ゴルフカート、セグウェイ、電動車いす、シニアカー、スノーモービルなどがある。",
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"text": "最も原始的な水上交通機関は水流を利用するか人力で舟を操作するものであり、ドラゴンボートやカヌー、ガレー船といった櫂やパドルで漕ぐもののほか、艪で漕ぐものがある。足でペダルを踏んで進む足漕ぎボートもこの系譜に属する。運河などにおいては帆走が難しいため、隣接して曳舟道が必ず設けられ、陸上から人や動物が舟を曳く曳舟が行われていた。次いで、風を帆に受けて進む帆船が発明され、近代に至るまで海上交通の主役となっていた。汽船の進歩によって純帆船はほとんど商用に使用されなくなったが、スポーツ用のヨットなどではいまだに利用されている。",
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"text": "現代の水上交通機関はほとんどが内燃機関を搭載している。大型商用船舶はその用途により旅客船、貨物船、貨客船に分かれ、自動車ごと旅客を運送する貨客船はフェリーと呼ばれる。一般の船舶より高速なものは高速船と総称され、水中翼船やホバークラフトなどが使用される。また、橋を架けるほどの交通量のない短距離航路においては、小型船舶による渡し船が運行している。",
"title": "交通手段"
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"text": "空運には飛行機が主に使用される。飛行機は発着に滑走路が必要であり、天候の影響を受けやすくコストが高いものの、その高速性で遠距離旅客輸送の主力となっている。このほか、回転翼を利用するヘリコプターも、滑走路が必要なく狭い土地での離着陸が可能であるため、小規模な旅客や貨物の輸送に使用されている。",
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"text": "交通の発達とその円滑な運営は経済にとって不可欠である。道路・鉄道・港湾・空港などはインフラストラクチャーのひとつであり、経済の基盤となっている。旅客および貨物の運輸業は経済の重要な一部分であり、さらに交通に用いるための自動車・鉄道車両・船舶・飛行機といった輸送機械の製造は大規模産業として経済に占める割合も大きい。また、公共事業による交通インフラの整備はそれ自体が重要な経済活動となっている。",
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"text": "貨物の大量輸送においてもっともコストが低いものは海運であり、さらに公海には海洋の自由が存在するため、公海へのアクセスがある国家はコストが低く隣国の政治情勢に左右されない安定した貿易ルートを確立することができる。このため、一般に内陸国は海洋を持つ国家に対して低い経済成長を余儀なくされる。スイスのように近隣国の経済が良く開発され、交通インフラも整っている場合は経済を成長させることも可能であるが、とくにアフリカでは海洋国の交通インフラや市場がまったく整備されていないため、それに依存せざるを得ない内陸国はより貧しくなることが多い。",
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"text": "グローバリゼーションの進展とともに、旅客・貨物ともに交通量は増大の一途をたどっている。観光目的の海外旅行やビジネス客などを主とする自国外への旅行者の総数は、1960年の1億人未満から、2015年には11億9,000万人にまで増大した。このうち出発国の近隣諸国への旅行客が77%を占め圧倒的に多いものの、遠隔地諸国への旅行者の割合は増大しつつある。一方で、事故や戦争、疫病や災害によって交通が寸断されることは珍しくなく、この場合経済に大きな影響が及ぶ。2020年にはCOVID-19のパンデミックが起きて世界各国が出入国制限や都市封鎖、行動制限を実施した結果交通量が大幅に減少し、2020年3月末には世界全体の航空便数が前年同期比で37%にまで激減、世界の大都市でも交通量が軒並み30%程度にまで激減し、経済に大きな打撃を与えた。",
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"text": "運輸部門における二酸化炭素排出は大きなものである。運輸部門のエネルギー消費のほとんどは石油によって占められており、2016年度には同部門の総エネルギー消費の90%以上は石油によってまかなわれていた。これは、自動車や飛行機、船舶などの燃料が石油によってほぼ占められていることによる。電気やエタノールなどによる代替燃料開発も進められているものの石油に取って代わることは困難であり、2040年度予測でもこの状況にそれほどの変化はないと考えられている。また、二酸化炭素以外にも自動車の排気ガスには各種汚染物質が含まれており、大気汚染の主因のひとつとなっている。道路周辺の騒音・振動の問題も大きい。こうした問題の解決策として、自動車交通を削減し各種公共交通機関の利用を促進することや、近距離においては徒歩や自転車といったさらに環境汚染の少ない交通手段への移行などが提唱されている。",
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"text": "文明が生まれる以前は、人々は狩猟によって食料を得、それを自分達だけで消費するだけであったので、遠距離を移動したり大量の荷物を運んだりする必要はほとんど無かった。しかし、農耕や牧畜が始まると、状況は一変する。計画的な食物の生産と貯蔵が可能となり、生産の効率化が進むと、共同体で消費する分より多く生産できるようになった。やがて共同体同士で必要な物資の物々交換が始まり、初めて交通が生まれた。また牧畜では家畜の食料を求めて移動しなければならず、一箇所に定住できないため大量の荷物を運ぶ必要があった。",
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"text": "物々交換を個別に行うのは不便であるため、地理的に離れた場所の取引を一箇所で行うための市場が成立し、物資を市場に運ぶ物流が生まれた。市場はやがて都市に発展し、都市を拠点として、自身は生産せず取引と物流だけを専門に行う商業を営むものが現れた。このように、交通の変化は経済の発達と不可分のものである。そして交通の仕組みは、経済活動の要求やインフラの状況に合わせて進化するように求められた。",
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"text": "もっとも基本的な交通手段は、人間そのものが歩行することである。しかし、人間が歩くだけでは移動距離が限られ、一人の人間が持てる荷物はさほど多くない。",
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"text": "一方、動物を利用した輸送は古くから行われた。主に馬やラクダや牛、あるいはそれらの近隣種が家畜化されて利用され、動物を利用することで、人間が単独で行動するときの数倍のスピードや貨物輸送量を得られるようになった。特に長期間にわたって水を飲まずに行動できるラクダは『砂漠の舟』とも呼ばれ、アラブ世界では自動車が普及するまで重要な輸送手段であった。",
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"text": "また、原始的な交通手段としては、舟の存在が挙げられる。すでにメソポタミアでは先史時代に河川交通において帆掛け船が利用されていたことが知られている。さらに紀元前2500年頃にはラガシュ市の碑文において、ペルシャ湾を越えて海洋交易が行われていたことが記されている。帆船による長距離外洋航海は季節風を利用しながら世界各地で行われており、なかでも積極的に帆船航海が行われた南太平洋においては、遠洋に浮かぶ島々の植民が進められ、6世紀頃にはポリネシア東端のイースター島にまで植民している。帆船は非常に効率的な交通手段であり、蒸気機関が実用化された19世紀においてもしばらくの間は優位性を保ち、1860年代にはクリッパー(快速帆船)によって帆船の発展は頂点に達している。",
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"text": "車輪は紀元前3500年ころ、東ヨーロッパからシュメールのうちのどこかで発明され、その後急速にユーラシア大陸の各地に広まった。この年代のメソポタミアではロバの家畜化も行われており、ロバに引かせた荷車を利用する陸上交通もはじまっていた。一方で、マヤ文明など新大陸の文明においては車輪の存在は知られていたものの、実用化した痕跡はない。",
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"text": "秦始皇帝は車軌の統一を行った。車軌とは馬車についた2つの車輪の幅のことである。当時は車輪が通ってできる轍がレールのような役割をしており、車はこの轍にはまるように走っていたと考えられている。車軌の異なる馬車が同じ道を通ることは困難であるため、これを統一して流通を容易にした。",
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"text": "ローマ帝国時代には、ローマから各地に向かう石畳の道路が整備された。これらはローマ街道と呼ばれる。「帝国内の各地にいち早く軍隊を派遣することが出来る」という軍事目的であったが、ここから「すべての道はローマに通ず」という言葉も生まれた。ドイツの観光街道の1つ「ロマンチック街道」は、そのローマ街道が起源である。また、イタリアの「アッピア街道」もローマ街道を起源としており、石畳などはほぼ当時のままの形で残されている。ローマ街道のほかにも、当時それぞれの地域で覇権を握った国家によって建設された街道がいくつか存在する。日本では江戸時代に五街道が制定され、江戸を中心とした各地への交通網が出来た。国土に遍く整備された街道は中央集権国家の存立には不可欠なものであった。",
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"text": "一方、街道の成立に伴って、その沿道には都市が生まれた。例えば、道路が川を横切る地点(渡津)は交通が滞留しやすく、都市が成立しやすい。また、古くからある街道は、後の時代において新設される主要な交通路のルートに選定されている場合が多く、高速鉄道や高速道路の多くは古くからの街道沿いに建設されている場合が多い。そのため、街道沿いの都市は現在も交通の要衝であり続けていることがほとんどであり、今や大都市に成長している例も少なくない。一方で、移動可能な速度によって都市の間隔は決まるために、交通インフラの高速化によって、都市間の競争が起こり古くからの都市が衰退する場合もある。",
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"text": "陸上の街道に対し、水上交通では運河が各地で整備された。とくに18世紀末のイギリスでは「運河熱」と呼ばれる運河建設ブームが巻き起こり、これによって発達した運河網は安定した大量輸送を各地で確保し、イギリスにおいて産業革命を推進する基盤のひとつとなった。",
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"text": "水上交通においては、1807年にロバート・フルトンが蒸気外輪船の営業運航に成功した。当初の蒸気船は波に弱く、河川などの内陸水運に主に使用されていたが、1840年代に入るとより高速を得られ安定性も高いスクリュープロペラが主流となり、さらに1860年代に高性能の船舶用蒸気機関が登場することで、蒸気船は全盛期にあった帆船を駆逐して主要な海洋交通手段となった。",
"title": "交通の歴史"
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"text": "また、産業革命とともに都市は大規模化し、都市交通の整備が必須となった。19世紀前半にはヨーロッパ各都市で乗合馬車の運行がはじまり、鉄道馬車を経て1890年頃以降は路面電車が各都市に敷設されるようになった。この時期には地下鉄の建設も始まり、1900年頃には自動車によるバスの運行もはじまって、市民に身近な交通機関となった。",
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"text": "鉄道が登場するまで、旅行は多くの危険を伴う行為であった。悪路を徒歩や馬車で長時間かけて移動する必要があり、かかる費用も莫大であった。ごく限られた層を例外として、現在では一般的なレクリエーションとしての旅行はまず考えられなかった。しかし、鉄道網の発達は長距離の移動を極めて容易に、しかも安価に実現した。産業革命が生み出した一定の余暇を持つ中産階級の成長に伴って、旅行が余暇を楽しむための趣味として初めて認識されるようになった。",
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"text": "19世紀末に内燃機関が発明されると、交通はさらに進歩した。石油という液体燃料を使用し、軽くて強力な内燃機関の登場によって、主に個人向けに使用される輸送機関である自動車の普及や、空中を飛ぶ輸送機関である飛行機の発明が可能となった。19世紀末にはガソリン自動車が発明され、当初は高価だったものの1908年にアメリカでフォード・モデルTが発売されると、一般大衆への普及が進んだ。一方、1903年にライト兄弟によって飛行機が発明されたのち、飛行機は急速に発達を遂げ、第一次世界大戦後には旅客機の定期運行がはじまり、1927年にはチャールズ・リンドバーグが大西洋横断単独無着陸飛行を成功させた。",
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"text": "第二次世界大戦後には世界各国でも道路の整備が進み、自動車価格が中流階級が購入可能なものになるとモータリゼーションが進展して、鉄道の衰退や、都市の郊外化といった社会への変化も引き起こすことになった。飛行機の改良も進み、1960年代にはジェットエンジンの本格導入によって飛行機の大型化と高速化が進んだ。また、世界中で地球温暖化問題が表面化する中で、化石燃料であるガソリンを利用して二酸化炭素などの温室効果ガスを排出する自動車の利用方法が問われるようになってきている。",
"title": "交通の歴史"
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] | 交通(こうつう)とは、人や物が物理的に行き交うこと。経済目的の実現に基本的必然的に伴う経済的物理現象で様々な態様で連続的に発生している。「交通」は広義には思想の場所的移動(通信)も含む概念である。ただし、一般に「交通」という場合には通信を含まない語として使われる場合がほとんどであり、例えば学問上も交通工学や交通経済学、交通地理学といった学問領域は通信を対象に含めない。 「交通」は人や物の場所的な移動のことを指す言葉で、空間的に離隔された地理的な障壁を乗り越える行為だとも言われている。交通は、人間の生活を営む上であっては当たり前の存在であり、人間社会の発展のためには必要不可欠な存在でもある。技術の進展に伴い交通機関も進化してきており、移動できる範囲は大きく広がってきている。交通という経済活動は、物を移動する必要性という交通需要とそれを移動させる交通労務の供給の上に成立するとされる。 交通は移動の対象から旅客交通と貨物交通に分けられる。旅客交通における交通需要としては、日常的な通勤・通学・通院などから観光まで様々なものがある。また、交通は移動の場所から陸上交通、水上交通、航空交通に分けられる。 | {{otheruses|交通一般|日本における交通|日本の交通}}
[[File:Bild från familjen von Hallwyls resa genom Egypten och Sudan, 5 november 1900 – 29 mars 1901 - Hallwylska museet - 91661.tif|thumb|エジプトの海上交通]]
'''交通'''(こうつう)とは、[[人間|人]]や物が物理的に行き交うこと<ref name="峯岸2018"/>。経済目的の実現に基本的必然的に伴う経済的物理現象で様々な態様で連続的に発生している<ref>{{Cite journal|和書|author=生田保夫 |title=私的交通の意味 |journal=流通経済大学論集 |issn=03850854 |publisher=流通経済大学 |year=1979 |month=jul |volume=14 |issue=1 |pages=48-72 |naid=110007188049 |url=http://id.nii.ac.jp/1473/00003832/ |accessdate=2021-03-18}}<</ref>。「交通」は広義には思想の場所的移動('''[[通信]]''')も含む概念である<ref name="jinbunchiri_p212">靑野寿郎・保柳睦美監修『人文地理事典』 p.212 1951年 古今書院</ref>。ただし、一般に「交通」という場合には通信を含まない語として使われる場合がほとんどであり、例えば学問上も[[交通工学]]や[[交通経済学]]、[[交通地理学]]といった学問領域は通信を対象に含めない。
「交通」は人や物の場所的な移動のことを指す言葉で、空間的に離隔された地理的な障壁を乗り越える行為だとも言われている<ref name="峯岸2018"/>。交通は、人間の生活を営む上であっては当たり前の存在であり、人間社会の発展のためには必要不可欠な存在でもある<ref name="峯岸2018"/>。技術の進展に伴い交通機関も進化してきており、移動できる範囲は大きく広がってきている<ref name="峯岸2018"/>。交通という経済活動は、物を移動する必要性という'''交通需要'''とそれを移動させる'''交通労務'''の供給の上に成立するとされる<ref name="jinbunchiri_p212"/>。
交通は移動の対象から旅客交通と貨物交通に分けられる<ref name="jinbunchiri_p212"/>。旅客交通における交通需要としては、日常的な[[通勤]]・[[通学]]・通院などから[[観光]]まで様々なものがある。また、交通は移動の場所から陸上交通、水上交通、航空交通に分けられる<ref name="jinbunchiri_p212"/>。
== 交通機関 ==
交通の手段・方法として整備された体系を'''交通機関'''または'''交通システム'''と呼ぶ。交通機関は、人間社会の発達に従って、より高度な手段を提供するように発達してきた。逆に交通機関における[[技術革新]]が人間社会の姿を大きく変化させてきた側面もある。
=== 交通機関の要素 ===
交通機関には、通路、運搬具、動力の三要素があるとされる<ref name="jinbunchiri_p213">靑野寿郎・保柳睦美監修『人文地理事典』 p.213 1951年 古今書院</ref>。
; 通路
: [[鉄道路線]]、[[道路]]、[[航路]]、[[航空路]]などを指す。鉄道の線路・舗装路・運河のように著しい工事が必要なものと航路や航空路のようにほぼ自然のままのものとがある<ref name="jinbunchiri_p213"/>。単一もしくは複数の交通機関によって網の目のようにめぐらされた交通路を交通網(交通ネットワーク)という。またこうした通路は鉄道や道路のように大規模なインフラ整備が必要であるものが多く、通路自体の建設の必要ない海運や空運においても、発着点および他の交通機関へのアクセスポイントとして港湾や空港の整備は必須であるため<ref>「新版 交通とビジネス【改訂版】」(交通論おもしろゼミナール1)p5 澤喜司郎・上羽博人著 成山堂書店 平成24年6月28日改訂初版発行</ref>、多くの場合こうした交通インフラには公的機関による直接整備が行われ、民間によって建設される場合においても国や地方公共団体による指導や統制が行われることが多い<ref>「地域交通の計画 政策と工学」p22-23 竹内伝史・川上洋司・磯部友彦・嶋田喜昭・三村泰広共著 鹿島出版会 2011年10月10日発行</ref>。
; 運搬具
: 現代の交通機関の代表例として[[車両]]、[[航空機]]、[[船舶]]などがある。
; 動力
: 交通機関の動力としては、人力・畜力・風力・水力など自然的なものと、蒸気力・石油燃焼爆発力・電力など人工的なものとがある<ref name="jinbunchiri_p213"/>。歴史的には交通機関は動力面において馬車から蒸気機関車・電車などへ、帆船から蒸気船・モーターボートなどへと機械化が進んだ。
かつて交通手段は[[人足]]、牛馬、[[ラクダ]]といったもので運搬具と動力が未分化であったが、運搬具と動力源の分離によって自然的制約を受けることが少なくなり交通の発達に画期的な進歩をもたらしたとされる<ref name="jinbunchiri_p213"/>。
今日の交通機関は、[[高度道路交通システム|ITS]]、[[鉄道]]の運行計画、道路の[[交通信号機|信号]]制御、[[航空交通管制|航空管制]]などを代表とする運行制御システム、また、[[運賃]]、収益管理、[[マーケティング]]などの営業システムの点で著しい発達を遂げている。
=== 交通機関の特性 ===
交通機関には次のような特性がある。
; 公共性
: 交通網が高度に発達した現代社会においては人や物は交通網を利用して円滑に移動することを前提とするようになった。交通機関の一部がストップするだけでも[[社会問題]]となるのは、多くの人が通勤・通学といった日常生活や業務を交通機関に頼っているからである。交通は人間生活の根幹にかかわる重大事であり、ここに交通の公共性が認められ、交通業に対する保護・助長・監督・統制あるいは交通の秩序と安全の維持といった交通政策・交通行政が行われる<ref name="jinbunchiri_p212"/>。
; 投資規模
: 一般に交通機関を整備するには巨額の費用がかかる。空間的に移動することが交通の目的であるため、広域な設備が必要になる。また、通勤ラッシュのように集中的な需要も発生するため、大容量の確保が過剰な投資に繋がりやすい。更に、これらの施設や交通具は、他の用途への転用が難しいため、[[埋没費用]]が大きくなる。
; 耐用年数
: 一般に交通機関に使用される施設の耐用年数は長い。[[コンクリート]]、[[土|盛土]]、[[鋼]]などの材料でできた施設は、長い将来にわたって使用されることになる。将来の需要予測には大きな不確定要素が伴うので、投資の意思決定が困難になる。
== 交通の分類 ==
交通にはさまざまな分類が存在する。まず、輸送する対象によって、旅客交通と貨物交通に分類される。旅客交通はさらに、個人が私的に移動する私的交通と、[[公共交通]]とに分けられる。公共交通はさらに貸切輸送と乗合輸送に分けられるが、通常は公共交通と言えば乗合輸送のことを指し、貸切輸送は広義の場合にのみ公共交通に含まれる<ref>「地域交通の計画 政策と工学」p20 竹内伝史・川上洋司・磯部友彦・嶋田喜昭・三村泰広共著 鹿島出版会 2011年10月10日発行</ref>。
=== 旅客輸送 ===
旅客輸送は、短距離交通と長距離交通とに大きく分けられ、様相を異にする。短距離交通でもっとも大きな割合を占めるものは自家用車であり、公共交通の整備されていない地方部ではさらにその割合は増加する。一方で、とくに都市部においては大量輸送が必須となるため自家用車の割合は減り、鉄道や地下鉄、バスといった公共交通機関の割合が増加する。長距離輸送に関しては、バスを含む自動車の優位性は距離とともに逓減していく一方、300kmから500km程度の都市間輸送においては鉄道、とくに高速鉄道が優位性を示すようになる<ref name="名前なし-1">「交通工学総論」p10 高田邦道 成山堂書店 平成23年3月28日初版発行</ref>。700km以上の旅客輸送においては、主要交通機関の中で最も高速な飛行機の優位性が確立している<ref>「交通工学総論」p11 高田邦道 成山堂書店 平成23年3月28日初版発行</ref>。船舶は低速であるため、特殊な場合を除き旅客輸送においては重要性を持たない。ただし小規模[[離島]]においては船舶以外の交通手段は存在しないことが多い<ref>「新版 交通とビジネス【改訂版】」(交通論おもしろゼミナール1)p144 澤喜司郎・上羽博人著 成山堂書店 平成24年6月28日改訂初版発行</ref>。
=== 貨物輸送 ===
貨物輸送においては、近距離輸送では自動車(トラック)輸送が非常に優位である。トラックは出荷から配送までを直接行うことができるため積み替えが最小限で済み、また状況に応じ弾力的な運用が可能であるなど利便性が高い<ref>「交通市場と社会資本の経済学」p108-109 杉山武彦監修 竹内健蔵・根本敏則・山内弘隆編 有斐閣 2010年10月1日初版第1刷発行</ref>。大量の物資の長距離輸送では自動車より鉄道に優位性があるが<ref>「交通市場と社会資本の経済学」p68 杉山武彦監修 竹内健蔵・根本敏則・山内弘隆編 有斐閣 2010年10月1日初版第1刷発行</ref>、末端部の輸送においては自動車との連携がほぼ必須である<ref name="名前なし-2">「交通工学総論」p10-11 高田邦道 成山堂書店 平成23年3月28日初版発行</ref>。長距離・大量の貨物輸送において最も大きな割合を占めるものは船舶であり、運行コストが非常に安価であるため広く使用される。飛行機は運行コストが高いため、高価かつ迅速な輸送が求められる貨物に使用される程度である<ref name="名前なし-2"/>。また、複数の交通機関を積み替えなしで一貫輸送する、いわゆる[[インターモーダル輸送]]が推進されており、輸送の[[貨物コンテナ]]化が進んだ<ref>「交通市場と社会資本の経済学」p257-258 杉山武彦監修 竹内健蔵・根本敏則・山内弘隆編 有斐閣 2010年10月1日初版第1刷発行</ref>。
== 交通手段 ==
最も基本的な交通手段は[[歩行|徒歩]]であるが、1日40[[キロメートル]]程度の移動距離が限界である<ref name="峯岸2018"/>。時代の経過とともに技術が進化し、馬車、帆船、鉄道、自動車、航空機が発明され続けてきた。交通手段の進化は、同時に行動できる範囲を格段に広げることにつながり、人の文化交流や物の物流の広域化をもたらしてきた<ref name="峯岸2018"/>。現代社会において主力となる交通機関は、自動車(道路)、列車(鉄道)、船舶、飛行機であり、それぞれに一長一短があるため、この4種を組み合わせた交通体系が構築されている<ref name="名前なし-2"/>。
1時間で移動できる距離は、徒歩が3 - 6キロメートル、自転車が15 - 25キロメートル、自動車が40 - 100キロメートル、高速鉄道が300キロメートル前後、飛行機で800キロメートル前後が目安である<ref name="峯岸2018"/>。
===陸上交通機関===
陸上交通の輸送手段としては、古く人や動物の力を利用したものが広く利用されたが、今日では鉄道や自動車が主たる交通機関となっている<ref name="jinbunchiri_p266">靑野寿郎・保柳睦美監修『人文地理事典』 p.266 1951年 古今書院</ref>。
==== 人力・畜力 ====
[[ファイル:Wheels for everybody.JPG|サムネイル]]
徒歩は現代でも近距離交通においては重要な交通手段であり、また公共交通機関や他の輸送機械を使用する場合でも[[歩行]]は必須である。人力を原動力とする交通機関も古くから存在し、[[駕籠]]や[[人力車]]、[[人車軌道]]などはかつて盛んに用いられていた<ref>「観光旅行と楽しい乗り物」(交通論おもしろゼミナール5)p107-111 澤喜司郎 成山堂書店 平成22年12月28日初版発行</ref>。人が荷物を背負い直接輸送を行うことは現代でも行われており、また[[大八車]]、[[リヤカー]]、[[ショッピングカート]]、バゲージカート、[[シルバーカー]]といった[[台車]]を使用することも多い。[[自転車]]は整備された路面であれば単純な人力より数倍の速度が可能であるため、都市交通では大きな割合を占めており、より多くの荷物を載せられるようにした[[カーゴバイク]]を使用したり、[[三輪車]]に台車をひかせて貨物輸送に使用されることもある<ref>「物流ビジネスと輸送技術【改訂版】」(交通論おもしろゼミナール6)p27-30 澤喜司郎 成山堂書店 平成29年2月28日改訂初版発行</ref>。歩行困難な障害者の移動用具としては[[車椅子]]が広く使用される。
人力の次に使用された動力は、[[家畜]]である。人や物を直接乗せる際は[[駄獣]]、台車などを引かせて使用する場合は[[輓獣]]と呼ばれる。交通用の家畜として最も用いられたものは[[ウマ]]である。ウマに引かせる[[馬車]]は西洋で広く用いられ、19世紀には[[乗合馬車]]が都市交通の要となり、レールの上を走る[[鉄道馬車]]へと移行して1920年頃まで運行していた<ref>「都市交通の世界史 出現するメトロポリスとバス・鉄道網の拡大」p8-13 小池滋・和久田康雄編 悠書館 2012年4月10日第1刷発行</ref>。そのほかにも[[ウシ]]や[[ロバ]]、[[ラバ]]などが世界的に広く役畜として使用され、ウシに引かせる[[牛車]]も存在した。特殊な地域の交通に用いられたものとしては、乾燥地帯で[[ラクダ]]の導入によって乾燥地帯を越える交易ルートの設定が可能となり、「砂漠の舟」と呼ばれるほどの重要性を持っていた<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p151 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。寒冷地においては[[トナカイ]]や[[イヌ]]を役畜として、[[犬ぞり]]のように[[そり]]を引かせていた。ただしこうした畜力使用は自動車の普及とともに衰退し、20世紀後半からは特殊な場合を除きほぼ使用されなくなった。
==== 動力機関 ====
動力機関を持つ陸上交通は、軌道を走るものと道路上を走るものに二分される。
軌道を走るものとして最も重要なものは、二本の[[レール]]の上を走る[[鉄道]][[列車]]である。鉄道は大量輸送に適した交通機関であり、通勤・通学輸送や都市間輸送に強みを持つ<ref name="名前なし-1"/>。都市交通としては、地下を走る[[地下鉄]]や路上を走る[[路面電車]]、[[ライトレール]]なども重要である。技術改良も進んでおり、[[新幹線]]をはじめとする[[高速鉄道]]が世界各地に建設されている。1本のみの軌道上を走る列車は[[モノレール]]と呼ばれる。軌道から浮上させて運行する浮上式鉄道も、[[磁気浮上式鉄道]]と[[空気浮上式鉄道]]の2種類が存在する。[[ケーブルカー]]や、ロープウェイや[[チェアリフト]]といった[[索道]]も広義には鉄道の一種である。このほか、[[エレベーター]]や[[エスカレーター]]なども一定の軌道上を動く交通機関である。[[ベルトコンベア]]は[[鉄鉱石]]や[[石灰石]]などの重量物の輸送や<ref>「物流ビジネスと輸送技術【改訂版】」(交通論おもしろゼミナール6)p181-182 澤喜司郎 成山堂書店 平成29年2月28日改訂初版発行</ref>、工場内輸送や手荷物輸送などに使用されるほか、[[動く歩道]]として人の移動にも使用される<ref>「物流ビジネスと輸送技術【改訂版】」(交通論おもしろゼミナール6)p233-234 澤喜司郎 成山堂書店 平成29年2月28日改訂初版発行</ref>。
道路上を走るものとして最も重要なものは[[自動車]]である。自動車は[[自家用自動車]]や[[貨物自動車]]、[[バス (交通機関)|バス]]など用途によっていくつかの種類に分かれ、利便性が高く小規模で柔軟な運用が可能であることが強みである。原動機付き二輪車は[[オートバイ]]と総称され、自動車よりもさらに近場で利用する手軽な乗り物として広く使用される<ref>「交通工学総論」p28-29 高田邦道 成山堂書店 平成23年3月28日初版発行</ref>。このほか特殊な状況や場所で使用する原動機付き車両としては、ゴルフカート、[[セグウェイ]]、[[電動車いす]]、[[シニアカー]]、[[スノーモービル]]などがある。
===水上交通機関===
最も原始的な水上交通機関は水流を利用するか人力で舟を操作するものであり、[[ドラゴンボート]]や[[カヌー]]、[[ガレー船]]といった[[櫂]]や[[パドル]]で漕ぐもののほか、[[艪]]で漕ぐものがある。足で[[ペダル]]を踏んで進む[[足漕ぎボート]]もこの系譜に属する。運河などにおいては帆走が難しいため、隣接して[[曳舟道]]が必ず設けられ、陸上から人や動物が舟を曳く[[曳舟]]が行われていた。次いで、[[風]]を[[帆]]に受けて進む[[帆船]]が発明され、近代に至るまで海上交通の主役となっていた。汽船の進歩によって純帆船はほとんど商用に使用されなくなったが<ref>「大帆船時代 快速帆船クリッパー物語」p194 杉浦昭典 中公新書 昭和54年6月25日発行</ref>、スポーツ用の[[ヨット]]などではいまだに利用されている。
現代の水上交通機関はほとんどが[[内燃機関]]を搭載している。大型商用[[船舶]]はその用途により[[旅客船]]、[[貨物船]]、[[貨客船]]に分かれ<ref>「新版 交通とビジネス【改訂版】」(交通論おもしろゼミナール1)p138 澤喜司郎・上羽博人著 成山堂書店 平成24年6月28日改訂初版発行</ref>、自動車ごと旅客を運送する貨客船は[[フェリー]]と呼ばれる<ref>「新版 交通とビジネス【改訂版】」(交通論おもしろゼミナール1)p135 澤喜司郎・上羽博人著 成山堂書店 平成24年6月28日改訂初版発行</ref>。一般の船舶より高速なものは[[高速船]]と総称され、[[水中翼船]]や[[ホバークラフト]]などが使用される。また、橋を架けるほどの交通量のない短距離航路においては、小型船舶による[[渡し船]]が運行している<ref>「新版 交通とビジネス【改訂版】」(交通論おもしろゼミナール1)p138-140 澤喜司郎・上羽博人著 成山堂書店 平成24年6月28日改訂初版発行</ref>。
===航空交通機関===
空運には[[飛行機]]が主に使用される。飛行機は発着に[[滑走路]]が必要であり、天候の影響を受けやすくコストが高いものの、その高速性で遠距離旅客輸送の主力となっている。このほか、[[回転翼]]を利用する[[ヘリコプター]]も、滑走路が必要なく狭い土地での離着陸が可能であるため、小規模な旅客や貨物の輸送に使用されている。{{要出典|date=2022年11月}}
== 影響 ==
{{Main|{{ill|持続可能な輸送|en|Sustainable transport}}}}
=== 経済 ===
交通の発達とその円滑な運営は経済にとって不可欠である。道路・鉄道・港湾・空港などは[[インフラストラクチャー]]のひとつであり、経済の基盤となっている。旅客および貨物の運輸業は経済の重要な一部分であり、さらに交通に用いるための自動車・鉄道車両・船舶・飛行機といった輸送機械の製造は大規模産業として経済に占める割合も大きい。また、公共事業による交通インフラの整備はそれ自体が重要な経済活動となっている<ref>「地域交通の計画 政策と工学」p2-4 竹内伝史・川上洋司・磯部友彦・嶋田喜昭・三村泰広共著 鹿島出版会 2011年10月10日発行</ref>。
貨物の大量輸送においてもっともコストが低いものは海運であり、さらに[[公海]]には[[海洋の自由]]が存在するため、公海へのアクセスがある国家はコストが低く隣国の政治情勢に左右されない安定した貿易ルートを確立することができる。このため、一般に[[内陸国]]は海洋を持つ国家に対して低い経済成長を余儀なくされる。[[スイス]]のように近隣国の経済が良く開発され、交通インフラも整っている場合は経済を成長させることも可能であるが、とくに[[アフリカ]]では海洋国の交通インフラや市場がまったく整備されていないため、それに依存せざるを得ない内陸国はより貧しくなることが多い<ref>「最底辺の10億人 最も貧しい国々のために本当になすべきことは何か?」p92-96 ポール・コリアー 中谷和男訳 日経BP社 2008年6月30日第1版第1刷発行</ref>。
[[グローバリゼーション]]の進展とともに、旅客・貨物ともに交通量は増大の一途をたどっている。[[観光]]目的の海外旅行やビジネス客などを主とする自国外への旅行者の総数は、1960年の1億人未満から、2015年には11億9,000万人にまで増大した。このうち出発国の近隣諸国への旅行客が77%を占め圧倒的に多いものの、遠隔地諸国への旅行者の割合は増大しつつある<ref>「グローバル時代のツーリズム」p93-95 呉羽正昭(「グローバリゼーション 縮小する世界」所収 矢ヶ﨑典隆・山下清海・加賀美雅弘編 朝倉書店 2018年3月5日初版第1刷)</ref>。一方で、[[事故]]や[[戦争]]、[[疫病]]や災害によって交通が寸断されることは珍しくなく、この場合経済に大きな影響が及ぶ。2020年には[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|COVID-19のパンデミック]]が起きて世界各国が出入国制限や[[都市封鎖]]、行動制限を実施した結果交通量が大幅に減少し、2020年3月末には世界全体の航空便数が前年同期比で37%にまで激減、世界の大都市でも交通量が軒並み30%程度にまで激減し<ref>https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-52217073 「【図表で見る】 封鎖される世界 新型ウイルス対策に各地で行動制限」BBC 2020年4月9日 2021年3月30日閲覧</ref>、経済に大きな打撃を与えた。
=== 計画 ===
{{Main|交通計画}}
=== 環境 ===
{{Main|{{ill|輸送の環境への影響|en|Environmental impact of transport}}}}
運輸部門における二酸化炭素排出は大きなものである。運輸部門のエネルギー消費のほとんどは[[石油]]によって占められており、2016年度には同部門の総エネルギー消費の90%以上は石油によってまかなわれていた<ref>「エネルギーの未来 脱・炭素エネルギーに向けて」p33 馬奈木俊介編著 中央経済社 2019年3月10日第1版第1刷発行</ref>。これは、自動車や飛行機、船舶などの燃料が石油によってほぼ占められていることによる。電気や[[エタノール]]などによる代替燃料開発も進められているものの石油に取って代わることは困難であり、2040年度予測でもこの状況にそれほどの変化はないと考えられている<ref>「エネルギーの未来 脱・炭素エネルギーに向けて」p8 馬奈木俊介編著 中央経済社 2019年3月10日第1版第1刷発行</ref>。また、二酸化炭素以外にも自動車の排気ガスには各種汚染物質が含まれており、[[大気汚染]]の主因のひとつとなっている<ref>「地域交通の計画 政策と工学」p14-15 竹内伝史・川上洋司・磯部友彦・嶋田喜昭・三村泰広共著 鹿島出版会 2011年10月10日発行</ref>。道路周辺の騒音・振動の問題も大きい<ref>「地域交通の計画 政策と工学」p15-16 竹内伝史・川上洋司・磯部友彦・嶋田喜昭・三村泰広共著 鹿島出版会 2011年10月10日発行</ref>。こうした問題の解決策として、自動車交通を削減し各種公共交通機関の利用を促進することや、近距離においては徒歩や自転車といったさらに環境汚染の少ない交通手段への移行などが提唱されている<ref>「地域交通の計画 政策と工学」p39-40 竹内伝史・川上洋司・磯部友彦・嶋田喜昭・三村泰広共著 鹿島出版会 2011年10月10日発行</ref>。
== 交通の歴史 ==
=== 交通の起源 ===
[[文明]]が生まれる以前は、人々は[[狩猟]]によって食料を得、それを自分達だけで[[消費]]するだけであったので、遠距離を移動したり大量の荷物を運んだりする必要はほとんど無かった。しかし、[[農耕]]や[[牧畜]]が始まると、状況は一変する。計画的な食物の生産と貯蔵が可能となり、生産の効率化が進むと、[[共同体]]で消費する分より多く生産できるようになった。やがて共同体同士で必要な物資の物々交換が始まり、初めて'''交通'''が生まれた。また牧畜では家畜の食料を求めて移動しなければならず、一箇所に定住できないため大量の荷物を運ぶ必要があった。
物々交換を個別に行うのは不便であるため、地理的に離れた場所の取引を一箇所で行うための市場が成立し、物資を市場に運ぶ[[物流]]が生まれた。市場はやがて都市に発展し、都市を拠点として、自身は生産せず取引と物流だけを専門に行う商業を営むものが現れた。このように、交通の変化は経済の発達と不可分のものである。そして交通の仕組みは、経済活動の要求やインフラの状況に合わせて進化するように求められた。
=== 初期の交通 ===
もっとも基本的な交通手段は、[[人間]]そのものが[[歩行]]することである。しかし、人間が歩くだけでは移動距離が限られ、一人の人間が持てる荷物はさほど多くない。
一方、動物を利用した輸送は古くから行われた。主に[[ウマ|馬]]や[[ラクダ]]や[[ウシ|牛]]、あるいはそれらの近隣種が[[家畜化]]されて利用され、動物を利用することで、人間が単独で行動するときの数倍のスピードや貨物輸送量を得られるようになった。特に長期間にわたって水を飲まずに行動できるラクダは『[[砂漠]]の舟』とも呼ばれ、[[アラブ]]世界では自動車が普及するまで重要な輸送手段であった。
また、原始的な交通手段としては、[[船|舟]]の存在が挙げられる。すでにメソポタミアでは先史時代に河川交通において帆掛け船が利用されていたことが知られている<ref>「都市の起源 古代の先進地域西アジアを掘る」p47 小泉龍人 講談社 2016年3月10日第1刷発行</ref>。さらに紀元前2500年頃には[[ラガシュ]]市の碑文において、ペルシャ湾を越えて海洋交易が行われていたことが記されている<ref>「文明の誕生」p93 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>。帆船による長距離外洋航海は[[季節風]]を利用しながら世界各地で行われており、なかでも積極的に帆船航海が行われた[[南太平洋]]においては、遠洋に浮かぶ島々の植民が進められ、6世紀頃には[[ポリネシア]]東端の[[イースター島]]にまで植民している<ref>「南太平洋を知るための58章 メラネシア ポリネシア」p52-54 吉岡政徳・石森大知編著 明石書店 2010年9月25日初版第1刷</ref>。[[帆船]]は非常に効率的な交通手段であり、[[蒸気機関]]が実用化された19世紀においてもしばらくの間は優位性を保ち、1860年代には[[クリッパー (船)|クリッパー]](快速帆船)によって帆船の発展は頂点に達している<ref>「大帆船時代 快速帆船クリッパー物語」p4 杉浦昭典 中公新書 昭和54年6月25日発行</ref>。
=== 車輪の発明 ===
[[File:Bronocice drawn.png|thumb|[[:en:Bronocice_pot|Bronocice ポット]] - 車輪付き車両である可能性のある最も初期の既知の画像, [[クラクフ]], ポーランド([[車輪#歴史|車輪の歴史]])]]
[[車輪]]は紀元前3500年ころ、東ヨーロッパから[[シュメール]]のうちのどこかで発明され、その後急速に[[ユーラシア大陸]]の各地に広まった<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p135 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。この年代のメソポタミアでは[[ロバ]]の[[家畜化]]も行われており、ロバに引かせた[[荷車]]を利用する陸上交通もはじまっていた<ref>「都市の起源 古代の先進地域西アジアを掘る」p158 小泉龍人 講談社 2016年3月10日第1刷発行</ref>。一方で、[[マヤ文明]]など[[新大陸]]の文明においては車輪の存在は知られていたものの、実用化した痕跡はない<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p137 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。
[[秦]][[始皇帝]]は[[車軌]]の統一を行った。車軌とは[[馬車]]についた2つの車輪の幅のことである。当時は車輪が通ってできる轍が[[軌条|レール]]のような役割をしており、車はこの轍にはまるように走っていたと考えられている。車軌の異なる馬車が同じ道を通ることは困難であるため、これを統一して流通を容易にした。
=== 街道と運河の整備 ===
[[File:RomaViaAppiaAntica03.JPG|left|thumb|[[ローマ街道]]の一例、[[アッピア街道]]]]
[[ローマ帝国]]時代には、[[ローマ]]から各地に向かう[[石畳]]の[[道路]]が整備された。これらは[[ローマ街道]]と呼ばれる。「帝国内の各地にいち早く軍隊を派遣することが出来る」という軍事目的であったが、ここから「すべての道はローマに通ず」という言葉も生まれた。ドイツの観光街道の1つ「[[ロマンチック街道]]」は、そのローマ街道が起源である。また、イタリアの「[[アッピア街道]]」もローマ街道を起源としており、石畳などはほぼ当時のままの形で残されている<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p144-145 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。ローマ街道のほかにも、当時それぞれの地域で覇権を握った[[国家]]によって建設された街道がいくつか存在する。日本では[[江戸時代]]に[[五街道]]が制定され、江戸を中心とした各地への交通網が出来た。国土に遍く整備された街道は[[中央集権]]国家の存立には不可欠なものであった。
一方、街道の成立に伴って、その沿道には都市が生まれた。例えば、道路が川を横切る地点(渡津)は交通が滞留しやすく、都市が成立しやすい。また、古くからある街道は、後の時代において新設される主要な交通路のルートに選定されている場合が多く、[[高速鉄道]]や[[高速道路]]の多くは古くからの街道沿いに建設されている場合が多い。そのため、街道沿いの都市は現在も交通の要衝であり続けていることがほとんどであり、今や大都市に成長している例も少なくない。一方で、移動可能な速度によって都市の間隔は決まるために、交通インフラの高速化によって、都市間の競争が起こり古くからの都市が衰退する場合もある。
陸上の街道に対し、水上交通では[[運河]]が各地で整備された。とくに18世紀末のイギリスでは「[[運河熱]]」と呼ばれる運河建設ブームが巻き起こり、これによって発達した運河網は安定した大量輸送を各地で確保し、イギリスにおいて産業革命を推進する基盤のひとつとなった<ref>「商業史」p172 石坂昭雄、壽永欣三郎、諸田實、山下幸夫著 有斐閣 1980年11月20日初版第1刷</ref>。
=== 鉄道と蒸気船 ===
[[File:Steam locomotive rocket.png|thumb|[[リバプール・アンド・マンチェスター鉄道]]に使用された[[ロケット号|蒸気機関車]]]]
近代における交通は、[[機械]]を利用した交通手段の発達なしに語ることはできない。その先駆けとなったのは、[[蒸気機関]]の発明である。蒸気機関の発明は海陸の2つの輸送機械、すなわち蒸気機関車と[[蒸気船]]を出現させ、以後の交通を一変させた<ref>「エネルギーの物語 わたしたちにとってエネルギーとは何なのか」p117-119 マイケル・E・ウェバー著 柴田譲治訳 原書房 2020年7月22日第1刷</ref>。
今日のような[[原動機]]の動力を用いた鉄道の出現は[[1804年]]の[[リチャード・トレビシック|トレビシック]]による[[蒸気機関車]]の発明を待たなければならない。ただこの時点ではまだ実用に耐えるものでは無かった。実用化は[[ジョージ・スチーブンソン|スチーブンソン親子]]によってなされ、[[1830年]]、蒸気機関車による世界初の旅客鉄道が[[リヴァプール]]-[[マンチェスター]]に開通した<ref name="名前なし-3">「日本鉄道史 幕末・明治編」p2 老川慶喜 中公新書 2014年5月25日発行</ref>。その有用性はすぐに認められ、以降、世界中で鉄道建設が進められることになった。ヨーロッパやアメリカでは19世紀中頃<ref name="名前なし-3"/>、日本を含むその他の地域では19世紀末から20世紀初頭にかけて、空前の鉄道建設ラッシュが起こり<ref>「鉄路17万マイルの興亡 鉄道から見た帝国主義」p3 クラレンス・B.デイヴィス, ケネス・E.ウィルバーン・Jr. 編著 原田勝正・多田博一監訳 日本経済評論社 1996年9月25日第1刷</ref>、現在も運行される主要な路線のほとんどはこの時代に、極めて短期間のうちに完成された。
水上交通においては、1807年に[[ロバート・フルトン]]が蒸気[[外輪船]]の営業運航に成功した<ref>「世界一周の誕生――グローバリズムの起源」p46 園田英弘 文春新書 平成15年7月20日第1刷発行</ref>。当初の蒸気船は波に弱く、河川などの内陸水運に主に使用されていたが、1840年代に入るとより高速を得られ安定性も高い[[スクリュープロペラ]]が主流となり<ref>「アジアの海の大英帝国」p39 横井勝彦 講談社 2004年3月10日第1刷発行</ref>、さらに1860年代に高性能の船舶用蒸気機関が登場することで<ref>「アジアの海の大英帝国」p42 横井勝彦 講談社 2004年3月10日第1刷発行</ref>、蒸気船は全盛期にあった帆船を駆逐して主要な海洋交通手段となった。
また、[[産業革命]]とともに都市は大規模化し、都市交通の整備が必須となった。19世紀前半にはヨーロッパ各都市で[[乗合馬車]]の運行がはじまり、[[鉄道馬車]]を経て1890年頃以降は[[路面電車]]が各都市に敷設されるようになった。この時期には[[地下鉄]]の建設も始まり、1900年頃には自動車によるバスの運行もはじまって、市民に身近な[[交通機関]]となった<ref>「都市交通の世界史 出現するメトロポリスとバス・鉄道網の拡大」p9-14 小池滋・和久田康雄編 悠書館 2012年4月10日第1刷発行</ref>。
鉄道が登場するまで、[[旅行]]は多くの危険を伴う行為であった。悪路を徒歩や馬車で長時間かけて移動する必要があり、かかる費用も莫大であった。ごく限られた層を例外として、現在では一般的な[[レクリエーション]]としての旅行はまず考えられなかった。しかし、鉄道網の発達は長距離の移動を極めて容易に、しかも安価に実現した。[[産業革命]]が生み出した一定の[[余暇]]を持つ[[中産階級]]の成長に伴って、旅行が余暇を楽しむための[[趣味]]として初めて認識されるようになった。
=== 自動車と飛行機の発明 ===
[[File:1885Benz.jpg|thumb|[[カール・ベンツ]]発明の[[ベンツ・パテント・モトールヴァーゲン|自動車]]|左]]
[[File:First flight2.jpg|thumb|1903年、[[ライト兄弟]]による初飛行]]
19世紀末に[[内燃機関]]が発明されると、交通はさらに進歩した。石油という液体燃料を使用し、軽くて強力な内燃機関の登場によって、主に個人向けに使用される輸送機関である自動車の普及や<ref>「エネルギーの物語 わたしたちにとってエネルギーとは何なのか」p121-122 マイケル・E・ウェバー著 柴田譲治訳 原書房 2020年7月22日第1刷</ref>、空中を飛ぶ輸送機関である飛行機の発明が可能となった<ref>「エネルギーの物語 わたしたちにとってエネルギーとは何なのか」p128-129 マイケル・E・ウェバー著 柴田譲治訳 原書房 2020年7月22日第1刷</ref>。19世紀末にはガソリン自動車が発明され、当初は高価だったものの[[1908年]]にアメリカで[[フォード・モデルT]]が発売されると、一般大衆への普及が進んだ。一方、1903年に[[ライト兄弟]]によって飛行機が発明されたのち、飛行機は急速に発達を遂げ、第一次世界大戦後には旅客機の定期運行がはじまり、1927年には[[チャールズ・リンドバーグ]]が[[大西洋横断飛行|大西洋横断単独無着陸飛行]]を成功させた<ref>「交通工学総論」p16 高田邦道 成山堂書店 平成23年3月28日初版発行</ref>。
第二次世界大戦後には世界各国でも道路の整備が進み、自動車価格が中流階級が購入可能なものになると[[モータリゼーション]]が進展して、鉄道の衰退や、都市の[[郊外化]]といった社会への変化も引き起こすことになった。飛行機の改良も進み、1960年代には[[ジェットエンジン]]の本格導入によって飛行機の大型化と高速化が進んだ<ref>「新版 交通とビジネス【改訂版】」(交通論おもしろゼミナール1)p71 澤喜司郎・上羽博人著 成山堂書店 平成24年6月28日改訂初版発行</ref>。また、世界中で[[地球温暖化]]問題が表面化する中で、[[化石燃料]]である[[ガソリン]]を利用して[[二酸化炭素]]などの[[温室効果ガス]]を排出する自動車の利用方法が問われるようになってきている。
== 脚注 ==
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<ref name="峯岸2018">{{Cite book |和書|author=峯岸邦夫編著 |authorlink= |date=2018-10-24 |title=トコトンやさしい道路の本 |series=今日からモノ知りシリーズ|publisher=[[日刊工業新聞社]] |isbn=978-4-526-07891-0 |<!--ref={{sfnref|峯岸邦夫|2018}} -->|pages=10 - 11}}</ref>
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== 関連項目 ==
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* [[公共交通機関]]
* [[w:Environmental impact of aviation|Environmental impact of aviation]]
* [[w:Energy efficiency in transportation|Fuel efficiency in transportation]]
* [[w:List of emerging technologies#Transportation|List of emerging transportation technologies]]
* [[w:Outline of transport|Outline of transport]]
* [[w:Wikipedia:Books|Wikipedia Books]]: [[w:Wikipedia:Books/Transport|Transport]]
* [[w:IEEE Intelligent Transportation Systems Society|IEEE Intelligent Transportation Systems Society]]
* ''[[w:Journal of Transport and Land Use|Journal of Transport and Land Use]]''
== 外部リンク ==
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[[Category:交通|*]]
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3,875 | ブルース | ブルース(Blues、英語発音・[blú:z])は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽の1ジャンルである。19世紀後半ごろに米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー (農作業の際の叫び声)や、ワーク・ソング(労働歌)などから発展したものといわれている。ジャズが楽器による演奏が主体なのに対して、ギターを伴奏に用いた歌が主役である。アコースティック・ギターの弾き語りを基本としたデルタ・ブルース、カントリー・ブルース、エレクトリック・ギターを使用したバンド形式に発展したシカゴ・ブルースなど多様に展開している。
悲しみ・憂鬱の感情は英語では「ブルー(blue)」の色でたとえられることに由来している。ブルースは悲しみ・憂鬱の他に「恋の喜び、セクシャルな内容、時事問題、白人社会や人種差別への反発」など、喜怒哀楽、あらゆる感情を表現している。ジョン・リー・フッカーは「ブルース・メイクス・ミー・ハッピー」と語っていた。後にラップが「黒人のCNN」と呼ばれたことを、先取りした音楽との見方もできる。20世紀以降のポピュラー音楽に幅広く影響を与え、ジャズやロックンロールのルーツのひとつとしても知られている。1900年代にも白人がブルースを楽譜化した例があり、また1912年のフィドル奏者ハート・ワンドによる「ダラス・ブルース」は、ブルースをコピーした楽譜が著作権保護された初期の例とされている。
ブルースは自由な音楽表現だが、ルールも多い。ブルースの基本的な構成として、12小節形式(ブルース形式)で綴られる場合が多い。12小節形式の基本はA・A・Bの形式をとる。つまり、4小節の同じ歌詞を2度繰り返し、最後の4小節で締めの歌詞を歌う。これがワンコーラスとなる。 ブルース形式(12小節形式)のコード進行
これらのローマ数字は、コード度数を表している。これが例えばキーがC(ハ長調)だとすると以下の通りとなる。
歌詞は、身近な出来事、感情を表現したものが多い。日常の幸せなことや憂鬱なこと(blues)を12小節に乗せて歌う。アメリカ南部の黒人は楽器を手に入れることもたいへんだった。初期のブルースやジャズの音楽家は、白人の捨てた楽器を拾って演奏したという逸話も残っている。初期のブルースはアコースティック・ギターの弾き語りによるものが多かった。
ブルースは基本、ブルー・ノート・スケールと呼ばれているスケール(音階)で演奏された。ブルー・ノート・スケールはメジャー・スケール(長音階)にブルー・ノートと呼ばれる短3度(移動ドレミの♭ミ)、短7度(移動ドレミの♭シ)を加えた音階である。当時の西洋学理上では短3度、短7度ともマイナー(短調)固有の音であり、通常はメジャー(長調)では使用されなかった。また、マイナー(短調)固有の音ではないが、短5度(移動ドレミの♭ソ)も準ブルー・ノートと呼ばれブルースでは多用されている。ブルースのシャッフルまたはウォーキング・ベース・ギターは、反復によりグルーヴを生み出す。ブルースの特徴であるシャッフルは、スウィング・ジャズ、ブギウギ、R&B、ソウル、ロックンロール、ロカビリーなどで使用された。また、ブラインド・ブレイクやブラインド・ボーイ・フラーは、フィンガー・ピッキングの名手としても知られた。
19世紀後半ごろに米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われている。
1903年、ミシシッピ州のデルタ地帯を旅行中だった黒人中産階級のW・C・ハンディ(英語版)が、同州タトワイラーで黒人によるブルースの生演奏に遭遇した。この後、彼は楽曲を楽譜にして発表し、ブルースは世間に知られることになった。だが、ハンディはブルースを楽譜におこしただけであり、ブルースの父とすることには批判が多い。この年をブルースの生誕の年とする見方もあり、2003年はブルース生誕100年を記念してアメリカ合衆国議会により、「ブルースの年」と宣言された。
1920年、メイミー・スミスがオーケー・レーベルに初レコーディング。これがブルースのレコーディングとしては初と言われている。彼女の"Crazy Blues"は、初年度75,000枚を売り上げるヒットを記録した。また現在、知名度の高い戦前のブルース・シンガーはロバート・ジョンソンだが、当時はチャーリー・パットンの方が、黒人の間での人気が高かった。
戦前のアメリカにおいて、ブルースは米国深南部からセントルイス、シカゴ、ニューヨークなどへ北上し、各地でスタイルを変えながら発展した。元々ギターの弾き語り中心であったが、都市部に展開するにつれ、ピアノとギターのデュオ形式、バンド形式など、より都会的な洗練された形式へと変わって行った。都市部で展開されたブルースのスタイルをシティ・ブルースという。代表的なミュージシャンは、リロイ・カーなど。しかし都会にあこがれる反面、故郷への想いが強く詩に影響を与えている歌が多い。
シカゴでは、1950年ごろからエレクトリックのバンドによるブルースが登場した。デルタ・ブルースを基調とした泥臭いサウンドで、戦前のシティ・ブルースとは一線を画すものであった。このサウンドはシカゴ・ブルースと呼ばれるようになった。その代表格となるのが、マディ・ウォーターズである。ロックンロールの巨匠、チャック・ベリーもこの頃のブルースに大きく影響を受け、後のロックバンドにも受け継がれているといえる。
1950年代前半にはメンフィスからデビューしていたB.B.キングがモダン・ブルースを確立。 モダンブルースは、よりダウンホームなデルタ・ブルース~シカゴ・ブルースより、テキサス・ブルース及びジャンプ・ブルース等に影響された管楽器を含む洗練されたバンド・サウンドを基調とし、エレキ・ギターによるダイナミックなチョーキングを核にしたスクイーズ・ギターとゴスペルの唱法を持ち込んだ歌を特徴とする。 B.B.が切り開いたモダン・ブルースの影響はシカゴにも及び、当時のシカゴの若手ブルースマン達にも影響を与えた。 このモダン・ブルースに影響を受けたシカゴの若手ブルース・マン達(オーティス・ラッシュ、マジック・サム、バディ・ガイ等)の音楽をモダン・シカゴ・ブルースと呼ぶ。
1960年代には、イギリスにアメリカから多くのブルースのレコードが輸入され、同国でブルース・ロックのブームが起きた。その流れの中で、ローリング・ストーンズ、フリートウッド・マック、クリーム、アニマルズなど、ブルースに影響を受けたバンドが多く登場し、ブルース・ロックが隆盛となった。
日本の歌謡曲の中には、楽譜がブルース形式でなくとも、タイトルに「ブルース」の付く曲が多く存在する(例:「別れのブルース」「昭和ブルース」など)が、メロディや編曲はアメリカの黒人由来のブルースとは異なる。
日本において本来の意味でのブルースの流行の端緒として、1960年代後半から1970年代前半にブルース・ブームが起こったとされる。1971年、B.B.キングが初来日を果たす。1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of Sleepy John Estes)」がオリコン・チャートに食い込むヒットとなった。1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバルは第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。
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"text": "上記ブームを受け、京都、大阪を中心にウエスト・ロード・ブルース・バンド、憂歌団、ブレイクダウンなど、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが形成されていく。",
"title": "日本のブルース・シーン"
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] | ブルース(Blues、英語発音・[blú:z])は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽の1ジャンルである。19世紀後半ごろに米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー
(農作業の際の叫び声)や、ワーク・ソング(労働歌)などから発展したものといわれている。ジャズが楽器による演奏が主体なのに対して、ギターを伴奏に用いた歌が主役である。アコースティック・ギターの弾き語りを基本としたデルタ・ブルース、カントリー・ブルース、エレクトリック・ギターを使用したバンド形式に発展したシカゴ・ブルースなど多様に展開している。 | {{Otheruses}}
{{Infobox Music genre
| name = ブルース
|bgcolor = #0000E1
|color = yellow
| stylistic_origins = アフリカ系アメリカ人による[[フォークミュージック]]<br />[[ゴスペル (音楽)]]<br />[[労働歌]]<br />{{仮リンク|スピリチュアル・ミュージック|en|Spiritual music|preserve=1}}
| cultural_origins = 19世紀後半のアメリカ合衆国南部
| instruments = [[ギター]]、[[ピアノ]]、[[ハーモニカ]]、[[エレクトリックベース|ベースギター]]、[[ドラムセット|ドラム]]、[[サクソフォーン|サックス]]、[[ボーカル]]、[[トランペット]]、[[トロンボーン]]
| popularity = 20世紀前半から各地域で流行
| derivatives =[[カントリー・ミュージック]]、[[ジャズ]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]、[[ソウル・ミュージック]]、[[ロックンロール]]
| subgenrelist = :en:List of blues genres
| subgenres = [[:en:Boogie-woogie|ブギウギ]]、[[:en:Classic female blues|クラシック・フィメール・ブルース]]、[[:en:Country blues|カントリー・ブルース]]、[[デルタ・ブルース]]、[[:en:Electric blues|エレクトリック・ブルース]]、[[:en:Fife and drum blues|ファイフ・アンド・ドラム・ブルース]]、[[ジャンプ・ブルース]]、[[:en:Piano blues|ピアノ・ブルース]]
| fusiongenres = [[ブルースロック]]、[[:en:Jazz blues|ジャズ・ブルース]]、[[:en:Punk blues|パンク・ブルース]]、[[:en:Soul blues|ソウル・ブルース]]
| regional_scenes = [[:en:British blues|ブリティッシュ・ブルース]]、[[:en:Canadian blues|カナディアン・ブルース]]、[[シカゴ・ブルース]]、[[:en:Music of Detroit#Blues|デトロイト・ブルース]]、[[:en:East Coast blues|イーストコースト・ブルース]]、[[:en:Kansas City blues (music)|カンザスシティー・ブルース]]、[[:en:Louisiana blues|ルイジアナ・ブルース]]、[[:en:Memphis blues|メンフィス・ブルース]]、[[:en:New Orleans blues|ニューオーリンズ・ブルース]]、[[:en:Piedmont blues|ピードモント・ブルース]]、[[:en:St. Louis blues|セントルイス・ブルース]]、[[:en:Swamp blues|スワンプ・ブルース]]、[[:en:Texas blues|テキサス・ブルース]]、[[:en:West Coast blues|ウェストコースト・ブルース]]
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| other_topics = {{仮リンク|ブルースの音楽家一覧|en|List of blues musicians|label=音楽家一覧}}、{{仮リンク|ブルースの音階|en|Blues scale|label=音階}}、[[ジャグ・バンド]]、{{仮リンク|ブルースの起源|en|Origins of the blues|label=起源}}
}}
'''ブルース'''('''Blues'''、英語発音・[blú:z]<ref>ニュースクール英和辞典 p.124。研究社</ref><ref group="注釈">[[ピーター・バラカン]]はブルースについては必ず、ブルー‘'''ズ'''’と発音している。</ref>)は、[[アメリカ合衆国|米国]][[ディープサウス|深南部]]で[[アフリカ系アメリカ人]]の間から発生した[[音楽]]の1ジャンルである。[[19世紀]]後半ごろに米国深南部で[[霊歌|黒人霊歌]]、[[フィールドハラー]]
(農作業の際の叫び声)や、ワーク・ソング([[労働歌]])などから発展したものといわれている。[[ジャズ]]が楽器による演奏が主体なのに対して、[[ギター]]を[[伴奏]]に用いた歌が主役である<ref>https://allabout.co.jp/gm/gc/455201/all/</ref>。[[アコースティック・ギター]]の弾き語りを基本とした[[デルタ・ブルース]]<ref>https://www.allmusic.com/style/delta-blues-ma0000002549</ref>、[[カントリー・ブルース]]<ref>https://www.allmusic.com/subgenre/country-blues-ma0000002533</ref>、[[エレクトリック・ギター]]を使用した[[バンド (音楽)|バンド形式]]に発展した[[シカゴ・ブルース]]<ref>https://www.allmusic.com/style/chicago-blues-ma0000002504</ref>など多様に展開している。
== 概要 ==
[[ファイル:Bessie Smith (1936) by Carl Van Vechten.jpg|thumb|right|230px|ベッシー・スミス [[1936年]]2月<br />[[カール・ヴァン・ヴェクテン]]撮影]]
悲しみ・憂鬱の感情は[[英語]]では「[[青|ブルー]](''blue'')」の色でたとえられることに由来している。<ref>[[#ベルガミーニ|ベルガミーニ(2000)p.55]]</ref>ブルースは悲しみ・憂鬱の他に「恋の喜び、セクシャルな内容、時事問題、白人社会や[[人種差別]]への反発」など、喜怒哀楽、あらゆる感情を表現している。[[ジョン・リー・フッカー]]は「ブルース・メイクス・ミー・ハッピー」と語っていた。後にラップが「黒人のCNN」と呼ばれたことを、先取りした音楽との見方もできる。[[20世紀]]以降の[[ポピュラー音楽]]に幅広く影響を与え、[[ジャズ]]や[[ロックンロール]]のルーツのひとつとしても知られている。1900年代にも白人がブルースを楽譜化した例があり、また1912年のフィドル奏者ハート・ワンドによる「ダラス・ブルース」は、ブルースをコピーした楽譜が[[著作権]]保護された初期の例とされている<ref>Davis, Francis (1995). ''The History of the Blues''. New York: Hyperion.</ref><ref>Partridge, Eric (2002). ''A Dictionary of Slang and Unconventional English''. Routledge. {{ISBN2|978-0-415-29189-7}}.</ref>。
ブルースは自由な音楽表現だが、ルールも多い。ブルースの基本的な構成として、12[[小節]]形式([[ブルース形式]])で綴られる場合が多い。12小節形式の基本はA・A・Bの形式をとる。つまり、4小節の同じ歌詞を2度繰り返し、最後の4小節で締めの歌詞を歌う。これがワンコーラスとなる。
ブルース形式(12小節形式)のコード進行
{| border=1 cellspacing=0 class=wikitable
|align="center" width="80px" | I
|align="center" width="80px" | I または IV
|align="center" width="80px" | I
|align="center" width="80px" | I
|-
|align="center" width="80px" | IV
|align="center" width="80px" | IV
|align="center" width="80px" | I
|align="center" width="80px" | I
|-
|align="center" width="80px" | V
|align="center" width="80px" | IV または V
|align="center" width="80px" | I
|align="center" width="80px" | I または V
|}
これらのローマ数字は、[[和音|コード]]度数を表している。これが例えばキーがC(ハ長調)だとすると以下の通りとなる。
{| border=1 cellspacing=0 class=wikitable
|align="center" width="80px" | C
|align="center" width="80px" | C または F
|align="center" width="80px" | C
|align="center" width="80px" | C
|-
|align="center" width="80px" | F
|align="center" width="80px" | F
|align="center" width="80px" | C
|align="center" width="80px" | C
|-
|align="center" width="80px" | G
|align="center" width="80px" | F または G
|align="center" width="80px" | C
|align="center" width="80px" | C または G
|}
歌詞は、身近な出来事、感情を表現したものが多い。日常の幸せなことや憂鬱なこと(blues)を12小節に乗せて歌う。[[アメリカ合衆国南部|アメリカ南部]]の黒人は楽器を手に入れることもたいへんだった。初期のブルースやジャズの音楽家は、白人の捨てた楽器を拾って演奏したという逸話も残っている。初期のブルースはアコースティック・ギターの弾き語りによるものが多かった。
ブルースは基本、[[ブルー・ノート・スケール]]と呼ばれているスケール([[音階]])で演奏された。[[ブルー・ノート・スケール]]はメジャー・スケール([[長音階]])にブルー・ノートと呼ばれる短3度(移動ドレミの♭ミ)、短7度(移動ドレミの♭シ)を加えた[[音階]]である。当時の西洋学理上では短3度、短7度ともマイナー([[短調]])固有の音であり、通常はメジャー([[長調]])では使用されなかった。また、マイナー([[短調]])固有の音ではないが、短5度(移動ドレミの♭ソ)も準ブルー・ノートと呼ばれブルースでは多用されている。<ref>『初心者のためのブルース・ギターハンドブック ISBN 4-401-14143-1/浦田泰宏著/シンコー・ミュージック』p.10,p.11</ref><ref>『ポピュラー・音楽理論 ISBN 978-4-8456-1148-5/北川裕編著/リットーミュージック』 p.194,p.195</ref><br>ブルースのシャッフルまたはウォーキング・[[ベース・ギター]]は、反復により[[グルーヴ]]を生み出す。ブルースの特徴であるシャッフルは、[[スウィング・ジャズ]]、ブギウギ、[[R&B]]、ソウル、ロックンロール、ロカビリーなどで使用された。また、[[ブラインド・ブレイク]]や[[ブラインド・ボーイ・フラー]]は、フィンガー・ピッキングの名手としても知られた<ref>{{cite web|url=http://jasobrecht.com/blind-boy-fuller-life-recording-sessions-welfare-records/|title=Blind Boy Fuller: His Life, Recording Sessions, and Welfare Records|website = Jas Obrecht Music Archive|publisher=Jasobrecht.com| access-date=02 January 2022}}</ref>。
== 歴史 ==
[[ファイル:W. C. Handy - The "St. Louis Blues" - First page.jpg|250px|right|thumb|W.C.ハンディの"[[セントルイス・ブルース (曲)|St. Louis Blues]]"の譜面 (1914)]]
[[19世紀]]後半ごろに[[アメリカ合衆国|米国]][[ディープサウス|深南部]]で[[霊歌|黒人霊歌]]、フィールドハラー([[労働歌]])などから発展したものと言われている<ref>『男の隠れ家』 2011年1月号 ロック&ポップスのルーツ、黒人音楽を知りたい pp.24, 47</ref>。
[[1903年]]、[[ミシシッピ州]]の[[デルタ地帯]]を旅行中だった黒人中産階級の{{仮リンク|W・C・ハンディ|en|W. C. Handy|label=W・C・ハンディ}}が、同州[[タトワイラー]]で黒人によるブルースの生演奏に遭遇した。この後、彼は楽曲を楽譜にして発表し、ブルースは世間に知られることになった。だが、ハンディはブルースを楽譜におこしただけであり、ブルースの父とすることには批判が多い。この年をブルースの生誕の年とする見方もあり、[[2003年]]はブルース生誕100年を記念して[[アメリカ合衆国議会]]により、「ブルースの年」と宣言された<ref>『男の隠れ家』 2011年1月号 ロック&ポップスのルーツ、黒人音楽を知りたい pp.46, 47</ref>。
[[1920年]]、[[メイミー・スミス]]がオーケー・レーベルに初レコーディング。これがブルースのレコーディングとしては初と言われている。彼女の"Crazy Blues"は、初年度75,000枚を売り上げるヒットを記録した<ref name=p48>『男の隠れ家』 2011年1月号 ロック&ポップスのルーツ、黒人音楽を知りたい p.48</ref>。また現在、知名度の高い戦前のブルース・シンガーは[[ロバート・ジョンソン]]<ref>https://www.discogs.com/artist/272142-Robert-Johnson</ref>だが、当時は[[チャーリー・パットン]]の方が、黒人の間での人気が高かった。
戦前のアメリカにおいて、ブルースは[[アメリカ合衆国|米国]][[ディープサウス|深南部]]から[[セントルイス]]、[[シカゴ]]、[[ニューヨーク]]などへ北上し、各地でスタイルを変えながら発展した。元々ギターの弾き語り中心であったが、都市部に展開するにつれ、ピアノとギターのデュオ形式、バンド形式など、より都会的な洗練された形式へと変わって行った。都市部で展開されたブルースのスタイルをシティ・ブルースという。代表的なミュージシャンは、[[リロイ・カー]]など。しかし都会にあこがれる反面、故郷への想いが強く詩に影響を与えている歌が多い。<ref name=p48>『男の隠れ家』 2011年1月号 ロック&ポップスのルーツ、黒人音楽を知りたい p.48</ref>
シカゴでは、[[1950年]]ごろからエレクトリックのバンドによるブルースが登場した。[[デルタ・ブルース]]を基調とした泥臭いサウンドで、戦前のシティ・ブルースとは一線を画すものであった。このサウンドはシカゴ・ブルースと呼ばれるようになった。その代表格となるのが、[[マディ・ウォーターズ]]である。ロックンロールの巨匠、[[チャック・ベリー]]もこの頃のブルースに大きく影響を受け、後のロックバンドにも受け継がれているといえる。<ref>『男の隠れ家』 2011年1月号 ロック&ポップスのルーツ、黒人音楽を知りたい pp.48, 49, 54</ref>
1950年代前半にはメンフィスからデビューしていた[[B.B.キング]]が[[モダン・ブルース]]を確立。 [[モダンブルース]]は、よりダウンホームな[[デルタ・ブルース]]~[[シカゴ・ブルース]]より、[[テキサス・ブルース]]及び[[ジャンプ・ブルース]]等に影響された管楽器を含む洗練されたバンド・サウンドを基調とし、エレキ・ギターによるダイナミックなチョーキングを核にしたスクイーズ・ギターとゴスペルの唱法を持ち込んだ歌を特徴とする<ref>『ブルース&ソウル・レコーズ No.34 /ブルース・インターアクションズ』 p.24</ref>。 B.B.が切り開いたモダン・ブルースの影響はシカゴにも及び、当時のシカゴの若手ブルースマン達にも影響を与えた。 このモダン・ブルースに影響を受けたシカゴの若手ブルース・マン達([[オーティス・ラッシュ]]、[[マジック・サム]]、[[バディ・ガイ]]等)の音楽をモダン・シカゴ・ブルースと呼ぶ。<ref>『BLUES GUITAR BOOK /シンコー・ミュージック』 p.59</ref>
[[1960年代]]には、[[イギリス]]にアメリカから多くのブルースのレコードが輸入され、同国でブルース・ロックのブームが起きた。その流れの中で、[[ローリング・ストーンズ]]、[[フリートウッド・マック]]、クリーム、アニマルズなど、ブルースに影響を受けたバンドが多く登場し、ブルース・ロックが隆盛となった<ref>『男の隠れ家』 2011年1月号 ロック&ポップスのルーツ、黒人音楽を知りたい pp.78, 79</ref>。
== 代表的なブルース・アーティスト ==
<!--お願い:既にリストが長くなっており、代表的なアーティストを挙げる目的としては充分と思われます。新たに追加する場合は、特に有名なブルースマンだけでお願いします。-->
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
=== 戦前ブルース(デルタ、カントリー・ブルース) ===
* [[ジェシー・フラー]]
* [[チャーリー・パットン]]<ref>「ブラック・ミュージック」ピーター・バラカン選、p.178、学習研究社</ref>
* [[ブッカ・ホワイト]]
* [[ブラインド・レモン・ジェファーソン]]<ref>バラカン、p.169</ref>
* [[ブラインド・ブレイク]]<ref>「ブラック・ミュージック」ピーター・バラカン選、p.161。学研</ref>
* [[ブラインド・ウィリー・マクテル]]
* [[ブラインド・ウィリー・ジョンソン]](ゴスペル・ブルース)
* [[ベッシー・スミス]]
* [[レッドベリー]]
* [[ロバート・ジョンソン]]
=== シカゴ・ブルース ===
[[ファイル:Buddy_Guy_1998.jpg|230px|right|thumb|バディ・ガイ]]
* [[アイク・ターナー]]
* [[アルバート・キング]]
* [[アール・フッカー]]
* [[ウィリー・ディクソン]]
* [[エルモア・ジェームス]]
* [[オーティス・スパン]]
* [[オーティス・ラッシュ]]
* [[サニー・ボーイ・ウィリアムスンII]]
* [[J.B.ルノア]]
* [[ジミー・リード]]
* [[ジョン・リー・フッカー]]
* [[ハウリン・ウルフ]]
* [[ハウンド・ドッグ・テイラー]]
* [[バディ・ガイ]]
* [[ヒューバート・サムリン]]
* [[フェントン・ロビンソン]]
* [[マジック・サム]]
* [[マディ・ウォーターズ]]
* [[マット・マーフィー]]
* [[リトル・ウォルター]]
{{Col-break}}
=== スワンプ・ブルース ===
* [[スリム・ハーポ]]<ref>{{cite web |url=https://www.allmusic.com/artist/slim-harpo-mn0000028166/biography |title=Slim Harpo{{snd}}Biography |last=Koda |first=Cub |author-link=Cub Koda |work=AllMusic | access-date=2021-12-8}}</ref>
=== テキサス・ブルース ===
* [[アルバート・コリンズ]]
* [[T-ボーン・ウォーカー]]
* [[フレディ・キング]]
* [[ライトニン・ホプキンス]]
=== ファンク・ブルース ===
* [[ジェイムズ・コットン]]
* [[ジュニア・ウェルズ]]
* [[リトル・サニー]]
=== 1980年代以後のアーティスト ===
* [[ケブ・モ]]
* [[ロバート・クレイ]]
=== ジャンプ・ブルース ===
* [[ルイ・ジョーダン]]
=== ジャズ・ブルース ===
* [[チャールズ・ブラウン]]
* [[パーシー・メイフィールド]]
* [[フィービ・スノウ]]
=== その他 ===
* [[ギター・スリム]]
* [[クラレンス・"ゲイトマウス"・ブラウン]]
* [[スヌークス・イーグリン]]
* [[スリーピー・ジョン・エステス]]
* [[タジ・マハール]]
* [[ナッピー・ブラウン]]
* [[ビッグ・ビル・ブルーンジー]]
* [[B.B.キング]]
* [[ボビー・ブランド]](ボビー・ブルー・ブランド)
* [[ロバート・ロックウッド・ジュニア]]
{{Col-end}}
== 日本のブルース・シーン ==
日本の[[歌謡曲]]の中には、楽譜がブルース形式でなくとも、タイトルに「ブルース」の付く曲が多く存在する(例:「[[別れのブルース]]」「[[昭和ブルース]]」など)が、[[メロディ]]や[[編曲]]はアメリカの黒人由来のブルースとは異なる。
日本において本来の意味でのブルースの流行の端緒として、1960年代後半から1970年代前半にブルース・ブームが起こったとされる。[[1971年]]、[[B.B.キング]]が初来日を果たす。[[1973年]]に[[スリーピー・ジョン・エスティス]]の「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of Sleepy John Estes)」がオリコン・チャートに食い込むヒットとなった。[[1974年]]、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバルは第3回まで開催され、エスティスを始め[[ロバート・ロックウッド・ジュニア]]&[[エイセズ]]、[[オーティス・ラッシュ]]らの来日が実現した。
上記ブームを受け、京都、大阪を中心に[[ウエスト・ロード・ブルース・バンド]]、[[憂歌団]]、[[ブレイクダウン (バンド)|ブレイクダウン]]など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが形成されていく。
== 日本のブルース・ミュージシャン ==
<!-- 50音順で。-->
* [[吾妻光良]]
* [[有吉須美人]]
* [[ウエスト・ロード・ブルース・バンド]]
* [[大木トオル]]
* [[菊田俊介]]
* [[小出斉]]
* [[近藤房之助]]
* [[妹尾隆一郎]]
* [[ブレイクダウン (バンド)|ブレイクダウン]]
* [[山岸潤史]]
* [[憂歌団]]
** [[木村充揮]]
** [[内田勘太郎]]
== ブルース関連書籍 ==
* ポール・オリヴァー『ブルースの歴史』米口胡=[[増田悦佐]]訳、[[日暮泰文]]解説、[https://www.doyosha.com 土曜社]、2020年
* ポール・オリヴァー『ブルースと話し込む』日暮泰文訳、[https://www.doyosha.com 土曜社]、2016年
== ブルース関連映画 ==
* [[ワッツタックス/スタックス・コンサート]] - Wattstax([[1973年]])/[[メル・スチュアート]]監督(ソウルが中心)
* [[:en:Leadbelly_(film)|Leadbelly]]([[1976年]])/[[ゴードン・パークス]]監督([[レッドベリー]]の伝記映画)
* [[ブルース・ブラザース]] - The Blues Brothers([[1980年]])/[[ジョン・ランディス]]監督
* [[クロスロード (1986年の映画)|クロスロード]] - Crossroad([[1986年]])/[[ウォルター・ヒル]]監督、[[ラルフ・マッチオ]]主演
* [[モ'・ベター・ブルース]] - Mo' Better Blues([[1990年]])/[[スパイク・リー]]監督、[[デンゼル・ワシントン]]主演
* [[ディープ・ブルース]] - Deep Blues([[1991年]])/[[ロバート・マッジ]]監督
* [[ブルースランド〜ブルースの誕生〜]] - Bluesland: A Portrait In American Music([[1993年]])/[[ケン・マンデル]]監督
* [[ブルース・ブラザース2000]] - Blues Brothers 2000([[1998年]])/[[ジョン・ランディス]]監督
* [[ブルース・ムービー・プロジェクト]]([[マーティン・スコセッシ]]製作総指揮)([[2003年]])
** [[フィール・ライク・ゴーイング・ホーム]] - Feel Like Going Home/[[マーティン・スコセッシ]]監督
** [[ソウル・オブ・マン]] - The Soul Of A Man/[[ヴィム・ヴェンダーズ]]監督
** [[ロード・トゥ・メンフィス]] - The Road To Memphis/[[リチャード・ピアース (映画監督)|リチャード・ピアース]]監督
** [[デビルズ・ファイアー]] - Warming By The Devil's Fire/[[チャールズ・バーネット (映画監督)|チャールズ・バーネット]]監督
** [[ゴッドファーザー&サン]] - The Godfathers And Sons/[[マーク・レヴィン]]監督
** [[レッド、ホワイト&ブルース]] - Red, White & Blues/[[マイク・フィギス]]監督
** [[ピアノ・ブルース]] - Piano Blues/[[クリント・イーストウッド]]監督
* [[ライトニング・イン・ア・ボトル]] - Lightning In A Bottle([[2004年]])/[[アントワーン・フークア]]監督
* [[Ray/レイ]] - Ray([[2004年]])/[[テイラー・ハックフォード]]監督、[[ジェイミー・フォックス]]主演
* [[ブルース・イン・ニューヨーク]] - Lackawanna Blues([[2005年]])
* [[オー・ブラザー!]] - O Brother, Where Art Thou?([[2000年]])/[[ジョエル・コーエン]]監督、[[ジョージ・クルーニー]]主演
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== ビブリオグラフィ ==
* 『男の隠れ家』 2011年1月号 ロック&ポップスを産んだ黒人音楽の世界 GOSPEL BLUES SOUL JAZZ 朝日新聞出版 (株)グローバルプラネット pp.46-57:妹尾みえ, 78-79, 18-19, 20-23:ピーター・バラカン, 24-27:鈴木啓志, 58-63:[[大森一輝]], 40-45:原田和典
<!--
* {{cite journal|author=Barlow, William|title=Cashing In|journal=Split File: African Americans in the Mass Media|year=1993|page=31}}
* Bransford, Steve. [https://southernspaces.org/2004/blues-lower-chattahoochee-valley "Blues in the Lower Chattahoochee Valley"] ''Southern Spaces'' 2004
* {{cite book|author=Clarke, Donald|title=The Rise and Fall of Popular Music|publisher=[[St. Martin's Press]]|year=1995|isbn=978-0-312-11573-9}}
* {{cite book|title=Nothing But the Blues: The Music and the Musicians|editor=[[Lawrence Cohn]]|publisher=Abbeville Publishing Group (Abbeville Press, Inc.)|year=1993|isbn=978-1-55859-271-1}}
* {{cite book|author=Dicaire, David|title=Blues Singers: Biographies of 50 Legendary Artists of the Early 20th Century|publisher=McFarland|year=1999|isbn=978-0-7864-0606-7}}
* {{cite book|author=Ewen, David|title=Panorama of American Popular Music|publisher=Prentice Hall|year=1957|isbn=978-0-13-648360-1}}
-->
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|音楽|[[画像:Xmms.png|45px|Portal:音楽]]}}
* [[デルタ・ブルース]]
* [[シカゴ・ブルース]]
* [[カントリー・ブルース]]
* [[ブルー・ノート・スケール]]
* [[アメリカ合衆国南部]]
* [[アメリカ合衆国の音楽]]
* [[ブギ]]
* [[ジャンプ・ブルース]]
* [[ブルースロック|ブルース・ロック]]
* [[スキッフル]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Blues}}
* {{Kotobank|ブルース(ポピュラー音楽)}}
{{音楽}}
{{ブルース}}
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:ふるうす}}
[[Category:音楽のジャンル]]
[[Category:ブルース|!]]
[[Category:R&B]]
[[Category:アメリカ合衆国の音楽]]
[[Category:ロック]]
[[Category:アフリカ系アメリカ人の文化]]
[[Category:アフリカ系アメリカ人の歴史]] | 2003-03-12T16:20:03Z | 2023-12-17T21:21:16Z | false | false | false | [
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3,877 | 首都の一覧 | 首都の一覧(しゅとのいちらん)は、現存する世界の国の首都を五十音順に並べた一覧。
首都名・国名は原則として『2003年版 世界の国一覧表』(外務省編集協力、(財)世界の動き社)に準拠した(イギリス、中国などを除く)。掲載基準は国の一覧と同様(バチカン、モナコ、香港は除く)。 | [
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== 一覧 ==
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!!!首都名!!国名!!!!備考
|-あlwlwpwl
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|-
|{{Abbr|{{None|Astan}}■|Astana}}||[[アスタナ]]||{{Flagicon|KAZ}} [[カザフスタン]]||I||最大都市は[[アルマトイ]](旧首都)。
|-
|{{Abbr|{{None|Asmar}}■|Asmara}}||[[アスマラ]]||{{Flagicon|ERI}} [[エリトリア]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Asunc}}■|Asunción}}||[[アスンシオン]]||{{Flagicon|PAR}} [[パラグアイ]]||S
||
|-
|{{Abbr|{{None|Addis}}■|Addis Ababa}}||[[アディスアベバ]]||{{Flagicon|ETH}} [[エチオピア]]||F|||
|-
|{{Abbr|{{None|Athen}}■|Athens}}||[[アテネ]]||{{Flagicon|GRE}} [[ギリシャ]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Apia }}■|Apia}}||[[アピア]]||{{Flagicon|SAM}} [[サモア]]||{{None|V}}O||
|-
|{{Abbr|{{None|Abuja}}■|Abuja}}||[[アブジャ]]||{{Flagicon|NGR}} [[ナイジェリア]]||F||最大都市は[[ラゴス]](旧首都)。
|-
|{{Abbr|{{None|Abu D}}■|Abu Dhabi}}||[[アブダビ]]||{{Flagicon|UAE}} [[アラブ首長国連邦]]||Q||最大都市は[[ドバイ]]。
|-
|{{Abbr|{{None|Amste}}■|Amsterdam}}||[[アムステルダム]]<br />(政庁所在地[[デン・ハーグ]])||{{Flagicon|NED}} [[オランダ]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Algie}}■|Algiers}}||[[アルジェ]]||{{Flagicon|ALG}} [[アルジェリア]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Ankar}}■|Ankara}}||[[アンカラ]]||{{Flagicon|TUR}} [[トルコ]]||Q||最大都市は[[イスタンブール]](ローマ帝国・オスマン帝国時代の首都)。
|-
|{{Abbr|{{None|Antan}}■|Antananarivo}}||[[アンタナナリボ]]||{{Flagicon|MAD}} [[マダガスカル]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Andor}}■|Andorra la Vella}}||[[アンドラ・ラ・ベリャ]]||{{Flagicon|AND}} [[アンドラ]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Amman}}■|Amman}}||[[アンマン]]||{{Flagicon|JOR}} [[ヨルダン]]||Q||
|-
|{{Abbr|{{None|Islam}}■|Islamabad}}||[[イスラマバード]]||{{Flagicon|PAK}} [[パキスタン]]||A||最大都市は[[カラチ]](旧首都)。
|-
|{{Abbr|{{None|Vienn}}■|Vienna}}||[[ウィーン]]||{{Flagicon|AUT}} [[オーストリア]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Vient}}■|Vientiane}}||[[ヴィエンチャン]]||{{Flagicon|LAO}} [[ラオス]]||A||
|-
|{{Abbr|{{None|Victo}}■|Victoria}}||[[ヴィクトリア (セーシェル)|ヴィクトリア]]||{{Flagicon|SEY}} [[セーシェル]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Vilni}}■|Vilnius}}||[[ヴィリニュス]]||{{Flagicon|LTU}} [[リトアニア]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Windh}}■|Windhoek}}||[[ウィントフック]]||{{Flagicon|NAM}} [[ナミビア]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Welli}}■|Wellington}}||[[ウェリントン]]||{{Flagicon|NZL}} [[ニュージーランド]]||{{None|V}}O||最大都市は[[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]](旧首都)。
|-
|{{Abbr|{{None|Ulaan}}■|Ulaanbaatar}}||[[ウランバートル]]||{{Flagicon|MGL}} [[モンゴル国|モンゴル]]||A||
|-
|{{Abbr|{{None|Jerus}}■|Jerusalem}}||[[エルサレム]]<ref group="注釈">[[第一次中東戦争]](1948年)の休戦協定により東西に分裂しているが、[[第三次中東戦争]](1967年)以降はどちらもイスラエルが実効支配している([[パレスチナ問題]]・[[パレスチナ自治政府]]等も参照)。</ref>([[エルサレムの地位|論争中]])||{{Flagicon|ISR}} [[イスラエル]]||{{None|B}}Q||イスラエルはエルサレムを首都と宣言しており、アメリカ合衆国など少数の国がこれを承認している<ref name="The World Factbook" />。<br/>一方で[[日本]]・[[国際連合]]など大多数はイスラエルの主張を認めず、[[テルアビブ]]を首都とみなしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/israel/data.html |title=イスラエル国 基礎データ |publisher=外務省 |date=2021-09-27 |accessdate=2022-02-21}}</ref>。
|-
|{{Abbr|{{None|Yerev}}■|Yerevan}}||[[エレバン]]||{{Flagicon|ARM}} [[アルメニア]]||I||
|-
|{{Abbr|{{None|Oslo }}■|Oslo}}||[[オスロ]]||{{Flagicon|NOR}} [[ノルウェー]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Ottaw}}■|Ottawa}}||[[オタワ]]||{{Flagicon|CAN}} [[カナダ]]||N||最大都市は[[トロント]](旧首都)。
|-
|{{Abbr|{{None|Cairo}}■|Cairo}}||[[カイロ]]||{{Flagicon|EGY}} [[エジプト]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Castr}}■|Castries}}||[[カストリーズ]]||{{Flagicon|LCA}} [[セントルシア]]||N||
|-
|{{Abbr|{{None|Kathm}}■|Kathmandu}}||[[カトマンズ]]||{{Flagicon|NEP}} [[ネパール]]||A||
|-
|{{Abbr|{{None|Kabul}}■|Kabul}}||[[カーブル|カブール]]||{{Flagicon|AFG}} [[アフガニスタン]]||Q||
|-
|{{Abbr|{{None|Carac}}■|Caracas}}||[[カラカス]]||{{Flagicon|VEN}} [[ベネズエラ]]||S||
|-
|{{Abbr|{{None|Kampa}}■|Kampala}}||[[カンパラ]]||{{Flagicon|UGA}} [[ウガンダ]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Kiev }}■|Kiev}}||[[キーウ]] (旧称:キエフ)||{{Flagicon|UKR}} [[ウクライナ]]||I||
|-
|{{Abbr|{{None|Kigal}}■|Kigali}}||[[キガリ]]||{{Flagicon|RWA}} [[ルワンダ]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Chiși}}■|Chișinău}}||[[キシナウ]]||{{Flagicon|MDA}} [[モルドバ]]||I||
|-
|{{Abbr|{{None|Giteg}}■|Gitega}}||[[ギテガ]]||{{Flagicon|BDI}} [[ブルンジ]]||F||最大都市は[[ブジュンブラ]](旧首都)。2019年1月に政治の首都をギテガ、経済の首都をブジュンブラとする法案が可決された<ref name="The World Factbook">{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/field/capital |title=The World Factbook - Capital |publisher=[[中央情報局]] |accessdate=2022-05-20}}</ref>。
|-
|{{Abbr|{{None|Quito}}■|Quito}}||[[キト]]||{{Flagicon|ECU}} [[エクアドル]]||S|| style="white-space:nowrap;" |最大都市は[[グアヤキル]]。
|-
|{{Abbr|{{None|Canbe}}■|Canberra}}||[[キャンベラ]]||{{Flagicon|AUS}} [[オーストラリア]]||{{None|V}}O||最大都市は[[シドニー]]。
|-
|{{Abbr|{{None|King2}}■|Kingstown}}||[[キングスタウン]]||nowrap|{{Flagicon|VIN}} [[セントビンセント・グレナディーン]]||N||
|-
|{{Abbr|{{None|King1}}■|Kingston}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]||{{Flagicon|JAM}} [[ジャマイカ]]||N||
|-
|{{Abbr|{{None|Kinsh}}■|Kinshasa}}||[[キンシャサ]]||{{Flagicon|COD}} [[コンゴ民主共和国]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Guate}}■|Guatemala City}}||[[グアテマラシティ]]||{{Flagicon|GUA}} [[グアテマラ]]||N||
|-
|{{Abbr|{{None|Kuala}}■|Kuala Lumpur}}||[[クアラルンプール]]||{{Flagicon|MAS}} [[マレーシア]]||A||行政府の多くと最高裁判所は[[プトラジャヤ]]に移転しているが、同市は首都ではなく「連邦政府行政センター」とされている<ref name="The World Factbook" />。
|-
|{{Abbr|{{None|Kuwai}}■|Kuwait City}}||[[クウェート市|クウェート]]||{{Flagicon|KUW}} [[クウェート]]||{{None|B}}Q||
|-
|{{Abbr|{{None|Conak}}■|Conakry}}||[[コナクリ]]||{{Flagicon|GUI}} [[ギニア]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Copen}}■|Copenhagen}}||[[コペンハーゲン]]||{{Flagicon|DEN}} [[デンマーク]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Zagre}}■|Zagreb}}||[[ザグレブ]]||{{Flagicon|CRO}} [[クロアチア]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Sana'}}■|Sana'a}}||[[サナア]]||{{Flagicon|YEM}} [[イエメン]]||Q||
|-
|{{Abbr|{{None|Saraj}}■|Sarajevo}}||[[サラエヴォ]]||{{Flagicon|BIH}} [[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|San S}}■|San Salvador}}||[[サンサルバドル]]||{{Flagicon|ESA}} [[エルサルバドル]]||N||
|-
|{{Abbr|{{None|Santi}}■|Santiago}}||[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]||{{Flagicon|CHI}} [[チリ]]||S||議会の所在地は[[バルパライソ]]<ref name="The World Factbook" />
|-
|{{Abbr|{{None|Santo}}■|Santo Domingo}}||[[サントドミンゴ]]||{{Flagicon|DOM}} [[ドミニカ共和国]]||N||
|-
|{{Abbr|{{None|São T}}■|São Tomé}}||[[サントメ]]||{{Flagicon|STP}} [[サントメ・プリンシペ]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|San J}}■|San José}}||[[サンホセ (コスタリカ)|サンホセ]]||{{Flagicon|CRC}} [[コスタリカ]]||N||
|-
|{{Abbr|{{None|San M}}■|San Marino}}||[[サンマリノ市|サンマリノ]]||{{Flagicon|SMR}} [[サンマリノ]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Juba }}■|Juba}}||[[ジュバ]]||{{None|ミナミスタン}}{{Flagicon|南部スーダン}} [[南スーダン]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Djibo}}■|Djibouti}}||[[ジブチ市|ジブチ]]||{{Flagicon|DJI}} [[ジブチ]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Jakar}}■|Jakarta}}||[[ジャカルタ]]||{{Flagicon|INA}} [[インドネシア]]||A||2024年に[[ヌサンタラ (都市)|ヌサンタラ]]へ移転予定。
|-
|{{Abbr|{{None|Georg}}■|Georgetown}}||[[ジョージタウン (ガイアナ)|ジョージタウン]]||{{Flagicon|GUY}} [[ガイアナ]]||S||
|-
|{{Abbr|{{None|Singa}}■|Singapore}}||シンガポール||{{Flagicon|SIN}} [[シンガポール]]||A||[[都市国家]]
|-
|{{Abbr|{{None|Sucre}}■|Sucre}}||[[スクレ (ボリビア)|スクレ]]<br />(立法府・行政府所在地[[ラパス]])||{{Flagicon|BOL}} [[ボリビア]]||S||経済の中心都市は[[サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ]]。
|-
|{{Abbr|{{None|Skopj}}■|Skopje}}||[[スコピエ]]||{{Flagicon|MKD}} [[マケドニア共和国|北マケドニア]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Stock}}■|Stockholm}}||[[ストックホルム]]||{{Flagicon|SWE}} [[スウェーデン]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Suva }}■|Suva}}||[[スバ]]||{{Flagicon|FIJ}} [[フィジー]]||{{None|V}}O||
|-
|{{Abbr|{{None|Sri J}}■|Sri Jayawardenepura Kotte}}||[[スリジャヤワルダナプラコッテ]]||{{Flagicon|SRI}} [[スリランカ]]||A||最大都市は[[コロンボ]](旧首都)。
|-
|{{Abbr|{{None|St. G}}■|St. George's}}||[[セントジョージズ]]||{{Flagicon|GRN}} [[グレナダ]]||N||
|-
|{{Abbr|{{None|St. J}}■|St. John's}}||[[セントジョンズ]]||{{Flagicon|ATG}} [[アンティグア・バーブーダ]]||N||
|-
|{{Abbr|{{None|Seoul}}■|Seoul}}||[[ソウル特別市|ソウル]]||{{None|ダイカンミンコク}}{{Flagicon|KOR}} [[大韓民国]]||A||
|-
|{{Abbr|{{None|Sofia}}■|Sofia}}||[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]||{{Flagicon|BUL}} [[ブルガリア]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Taipei}}■|Taipei}}||[[台北市|台北]](タイペイ)||{{ROC}}||A||元国連加盟国。最大都市は[[新北市|新北]]。
|-
|{{Abbr|{{None|Dakar}}■|Dakar}}||[[ダカール]]||{{Flagicon|SEN}} [[セネガル]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Tashk}}■|Tashkent}}||[[タシュケント]]||{{Flagicon|UZB}} [[ウズベキスタン]]||I||
|-
|{{Abbr|{{None|Dhaka}}■|Dhaka}}||[[ダッカ]]||{{Flagicon|BAN}} [[バングラデシュ]]||A||
|-
|{{Abbr|{{None|Dubli}}■|Dublin}}||[[ダブリン]]||{{Flagicon|IRL}} [[アイルランド]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Damas}}■|Damascus}}||[[ダマスカス]]||{{Flagicon|SYR}} [[シリア]]||{{None|B}}Q||
|-
|{{Abbr|{{None|Taraw}}■|Tarawa}}||[[タラワ]]||{{Flagicon|KIR}} [[キリバス]]||{{None|V}}O||
|-
|{{Abbr|{{None|Talli}}■|Tallinn}}||[[タリン]]||{{Flagicon|EST}} [[エストニア]]||E|||
|-
|{{Abbr|{{None|Tunis}}■|Tunis}}||[[チュニス]]||{{Flagicon|TUN}} [[チュニジア]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Tiran}}■|Tirana}}||[[ティラナ]]||{{Flagicon|ALB}} [[アルバニア]]||E|||
|-
|{{Abbr|{{None|Dili }}■|Dili}}||[[ディリ]]||{{None|ヒガシ}}{{Flagicon|TLS}} [[東ティモール]]||A||
|-
|{{Abbr|{{None|Thimp}}■|Thimphu}}||[[ティンプー]]||{{Flagicon|BHU}} [[ブータン]]||A||
|-
|{{Abbr|{{None|Teguc}}■|Tegucigalpa}}||[[テグシガルパ]]||{{Flagicon|HON}} [[ホンジュラス]]||N||憲法上は双子都市の{{仮リンク|コマヤグエラ|es|Comayagüela}}と共同で首都を構成するが、実際はテグシガルパ側に全ての政府機関が集中している<ref name="The World Factbook" />。
|-
|{{Abbr|{{None|Tehra}}■|Tehran}}||[[テヘラン]]||{{Flagicon|IRI}} [[イラン]]||{{None|B}}Q||
|-
|{{Abbr|{{None|Tokyo}}■|Tokyo}}||{{None|トウキヨウ}}[[東京都|東京]]||{{None|ニホン}}{{Flagicon|JPN}} [[日本]]||A||''「[[日本の首都]]」も参照''
|-
|{{Abbr|{{None|Dusha}}■|Dushanbe}}||[[ドゥシャンベ]]||{{Flagicon|TJK}} [[タジキスタン]]||I||
|-
|{{Abbr|{{None|Doha }}■|Doha}}||[[ドーハ]]||{{Flagicon|QAT}} [[カタール]]||{{None|B}}Q||
|-
|{{Abbr|{{None|Dodom}}■|Dodoma}}||[[ドドマ]]<br />(政庁所在地[[ダルエスサラーム]])||{{Flagicon|TAN}} [[タンザニア]]||F||最大都市は[[ダルエスサラーム]](旧首都)。
|-
|{{Abbr|{{None|Tbili}}■|Tbilisi}}||[[トビリシ]]||{{Flagicon|GEO}} [[ジョージア (国)|ジョージア]]||I||
|-
|{{Abbr|{{None|Tripo}}■|Tripoli}}||[[トリポリ]]||{{Flagicon|LBA}} [[リビア]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Nairo}}■|Nairobi}}||[[ナイロビ]]||{{Flagicon|KEN}} [[ケニア]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Nassa}}■|Nassau}}||[[ナッソー]]||{{Flagicon|BAH}} [[バハマ]]||N||
|-
|{{Abbr|{{None|Niame}}■|Niamey}}||[[ニアメ]]||{{Flagicon|NIG}} [[ニジェール]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Nicos}}■|Nicosia}}||[[ニコシア]]||{{Flagicon|CYP}} [[キプロス]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|New D}}■|New Delhi}}||[[ニューデリー]]||{{Flagicon|IND}} [[インド]]||A||[[デリー|デリー連邦直轄地]]の一行政区。最大都市は[[ムンバイ]]。
|-
|{{Abbr|{{None|Nouak}}■|Nouakchott}}||[[ヌアクショット]]||{{Flagicon|MTN}} [[モーリタニア]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Nukuʻ}}■|Nukuʻalofa}}||[[ヌクアロファ]]||{{Flagicon|TGA}} [[トンガ]]||{{None|V}}O||
|-
|{{Abbr|{{None|Naypy}}■|Naypyidaw}}||[[ネピドー]]||{{Flagicon|MYA}} [[ミャンマー]]||A||最大都市は[[ヤンゴン]](旧首都の旧称ラングーン)。
|-
|{{Abbr|{{None|Baku }}■|Baku}}||[[バクー]]||{{Flagicon|AZE}} [[アゼルバイジャン]]||I||
|-
|{{Abbr|{{None|Baghd}}■|Baghdad}}||[[バグダード]]||{{Flagicon|IRQ}} [[イラク]]||{{None|B}}Q||
|-
|{{Abbr|{{None|Basse}}■|Basseterre}}||[[バセテール]]||{{Flagicon|SKN}} [[セントクリストファー・ネイビス]]||N||
|-
|{{Abbr|{{None|Panam}}■|Panama City}}||[[パナマ市|パナマシティ]]||{{Flagicon|PAN}} [[パナマ]]||S||
|-
|{{Abbr|{{None|Hanoi}}■|Hanoi}}||[[ハノイ]]||{{Flagicon|VIE}} [[ベトナム]]||A||最大都市は[[ホーチミン市|ホーチミン]]([[ベトナム共和国]]と旧[[南ベトナム|南ベトナム共和国]]時代の首都の旧称サイゴン)。
|-
|{{Abbr|{{None|Havan}}■|Havana}}||[[ハバナ]]||{{Flagicon|CUB}} [[キューバ]]||N||
|-
|{{Abbr|{{None|Gabor}}■|Gaborone}}||[[ハボローネ]]||{{Flagicon|BOT}} [[ボツワナ]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Bamak}}■|Bamako}}||[[バマコ]]||{{Flagicon|MLI}} [[マリ共和国|マリ]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Param}}■|Paramaribo}}||[[パラマリボ]]||{{Flagicon|SUR}} [[スリナム]]||S||
|-
|{{Abbr|{{None|Harar}}■|Harare}}||[[ハラレ]]||{{Flagicon|ZIM}} [[ジンバブエ]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Paris}}■|Paris}}||[[パリ]]||{{Flagicon|FRA}} [[フランス]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Palik}}■|Palikir}}||[[パリキール]]||{{Flagicon|FSM}} [[ミクロネシア連邦]]||{{None|V}}O||
|-
|{{Abbr|{{None|Khart}}■|Khartoum}}||[[ハルツーム]]||{{Flagicon|SUD}} [[スーダン]]||F||最大都市は[[オムドゥルマン]]。
|-
|{{Abbr|{{None|Valle}}■|Valletta}}||[[バレッタ]]||{{Flagicon|MLT}} [[マルタ]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Bangu}}■|Bangui}}||[[バンギ]]||{{None|チュウオウ}}{{Flagicon|CAF}} [[中央アフリカ共和国]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Bangk}}■|Bangkok}}||[[バンコク]]||{{Flagicon|THA}} [[タイ王国|タイ]]||A||
|-
|{{Abbr|{{None|Banju}}■|Banjul}}||[[バンジュール]]||{{Flagicon|GAM}} [[ガンビア]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Banda}}■|Bandar Seri Begawan}}||[[バンダルスリブガワン]]||{{Flagicon|BRU}} [[ブルネイ]]||A||
|-
|{{Abbr|{{None|Bissa}}■|Bissau}}||[[ビサウ]]||{{Flagicon|GBS}} [[ギニアビサウ]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Bishk}}■|Bishkek}}||[[ビシュケク]]||{{Flagicon|KGZ}} [[キルギス]]||I||
|-
|{{Abbr|{{None|Pyong}}■|Pyongyang}}||{{None|ピョンヤン}}[[平壌直轄市|平壌]](ピョンヤン)||{{None|チヨウセン}}{{Flagicon|PRK}} [[朝鮮民主主義人民共和国]]||A||
|-
|{{Abbr|{{None|Vaduz}}■|Vaduz}}||[[ファドゥーツ]]||{{Flagicon|LIE}} [[リヒテンシュタイン]]||E||最大都市は[[シャーン]]。
|-
|{{Abbr|{{None|Bueno}}■|Buenos Aires}}||[[ブエノスアイレス]]||{{Flagicon|ARG}} [[アルゼンチン]]||S||
|-
|{{Abbr|{{None|Bucha}}■|Bucharest}}||[[ブカレスト]]||{{Flagicon|ROU}} [[ルーマニア]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Budap}}■|Budapest}}||[[ブダペスト]]||{{Flagicon|HUN}} [[ハンガリー]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Funaf}}■|Funafuti}}||[[フナフチ|フナフティ]]||{{Flagicon|TUV}} [[ツバル]]||{{None|V}}O||
|-
|{{Abbr|{{None|Phnom}}■|Phnom Penh}}||[[プノンペン]]||{{Flagicon|CAM}} [[カンボジア]]||A||
|-
|{{Abbr|{{None|Praia}}■|Praia}}||[[プライア]]||{{Flagicon|CPV}} [[カーボベルデ]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Brazz}}■|Brazzaville}}||[[ブラザヴィル]]||{{Flagicon|CGO}} [[コンゴ共和国]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Brasí}}■|Brasília}}||[[ブラジリア]]||{{Flagicon|BRA}} [[ブラジル]]||S||最大都市は[[サンパウロ]]。
|-
|{{Abbr|{{None|Brati}}■|Bratislava}}||[[ブラチスラバ]]||{{Flagicon|SVK}} [[スロバキア]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Pragu}}■|Prague}}||[[プラハ]]||{{Flagicon|CZE}} [[チェコ]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Freet}}■|Freetown}}||[[フリータウン]]||{{Flagicon|SLE}} [[シエラレオネ]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Bridg}}■|Bridgetown}}||[[ブリッジタウン]]||{{Flagicon|BAR}} [[バルバドス]]||N||
|-
|{{Abbr|{{None|Bruss}}■|Brussels}}||[[ブリュッセル]]||{{Flagicon|BEL}} [[ベルギー]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Preto}}■|Pretoria}}||[[プレトリア]](行政首都)<br />[[ケープタウン]](立法首都)<br />[[ブルームフォンテーン|ブルームフォンテン]](司法首都)||{{None|ミナミアフリカ}}{{Flagicon|RSA}} [[南アフリカ共和国]]||F||プレトリアは[[ツワネ|ツワネ都市圏]]の一行政区。最大都市は[[ヨハネスブルグ]]。
|-
|{{Abbr|{{None|Beiru}}■|Beirut}}||[[ベイルート]]||{{Flagicon|LIB}} [[レバノン]]||{{None|B}}Q||
|-
|{{Abbr|{{None|Belgr}}■|Belgrade}}||[[ベオグラード]]||{{Flagicon|SRB}} [[セルビア]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Beiji}}■|Beijing}}||{{None|ペキン}}[[北京市|北京]](ペキン)||{{None|チュウカ}}{{Flagicon|CHN}} [[中華人民共和国]]||A||経済中枢都市は[[上海市|上海]]。''「[[中国の首都]]」も参照''
|-
|{{Abbr|{{None|Helsi}}■|Helsinki}}||[[ヘルシンキ]]||{{Flagicon|FIN}} [[フィンランド]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Belmo}}■|Belmopan}}||[[ベルモパン]]||{{Flagicon|BIZ}} [[ベリーズ]]||N||最大都市は[[ベリーズシティ]](旧首都)。
|-
|{{Abbr|{{None|Berli}}■|Berlin}}||[[ベルリン]]||{{Flagicon|GER}} [[ドイツ]]||E||経済の中心都市は[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]。
|-
|{{Abbr|{{None|Bern }}■|Bern}}||[[ベルン]]||{{Flagicon|SUI}} [[スイス]]||E||経済の中心都市は[[チューリッヒ]]。
|-
|{{Abbr|{{None|Bogot}}■|Bogotá}}||[[ボゴタ]]||{{Flagicon|COL}} [[コロンビア]]||S||
|-
|{{Abbr|{{None|Cetin}}■|Cetinje}}||[[ポドゴリツァ]]<br />||{{Flagicon|MNE}} [[モンテネグロ]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Porto}}■|Port of Spain}}||nowrap|[[ポートオブスペイン]]||{{Flagicon|TRI}} [[トリニダード・トバゴ]]||N||最大都市は[[サンフェルナンド (トリニダード・トバゴ) |サンフェルナンド]]。
|-
|{{Abbr|{{None|PortV}}■|Port Vila}}||[[ポートビラ]]||{{Flagicon|VAN}} [[バヌアツ]]||{{None|V}}O||
|-
|{{Abbr|{{None|PortM}}■|Port Moresby}}||[[ポートモレスビー]]||{{Flagicon|PNG}} [[パプアニューギニア]]||{{None|V}}O||
|-
|{{Abbr|{{None|PortL}}■|Port Louis}}||[[ポートルイス]]||{{Flagicon|MRI}} [[モーリシャス]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Honia}}■|Honiara}}||[[ホニアラ]]||{{Flagicon|SOL}} [[ソロモン諸島]]||{{None|V}}O||
|-
|{{Abbr|{{None|PortN}}■|Porto-Novo}}||[[ポルトノボ]]<br />(政庁所在地[[コトヌー]])||{{Flagicon|BEN}} [[ベナン]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Porta}}■|Port-au-Prince}}||[[ポルトープランス]]||{{Flagicon|HAI}} [[ハイチ]]||N||
|-
|{{Abbr|{{None|Majur}}■|Majuro}}||[[マジュロ]]||{{Flagicon|MHL}} [[マーシャル諸島]]||{{None|V}}O||
|-
|{{Abbr|{{None|Musca}}■|Muscat}}||[[マスカット]]||{{Flagicon|OMA}} [[オマーン]]||{{None|B}}Q||
|-
|{{Abbr|{{None|Maser}}■|Maseru}}||[[マセル]]||{{Flagicon|LES}} [[レソト]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Madri}}■|Madrid}}||[[マドリード]]||{{Flagicon|ESP}} [[スペイン]]||E||
|-
|{{Abbr|{{None|Manag}}■|Managua}}||[[マナグア]]||{{Flagicon|NCA}} [[ニカラグア]]||N||
|-
|{{Abbr|{{None|Manam}}■|Manama}}||[[マナーマ]]||{{Flagicon|BHR}} [[バーレーン]]||{{None|B}}Q||
|-
|{{Abbr|{{None|Manil}}■|Manila}}||[[マニラ]]||{{Flagicon|PHI}} [[フィリピン]]||A||
|-
|{{Abbr|{{None|Maput}}■|Maputo}}||[[マプト]]||{{Flagicon|MOZ}} [[モザンビーク]]||F||
|-
|{{Abbr|{{None|Malab}}■|Malabo}}||[[マラボ]]||{{None|セキドウ}}{{Flagicon|GEQ}} [[赤道ギニア]]||F||新首都として[[ラパス (赤道ギニア)|ラパス]](旧称:オヤラ)を建設中<ref name="The World Factbook" />。
|-
|{{Abbr|{{None|Melek}}■|Melekeok (Ngerulmud)}}||[[マルキョク]]||{{Flagicon|PLW}} [[パラオ]]||{{None|V}}O||最大都市は[[コロール (都市)|コロール]](旧首都)。
|-
|{{Abbr|{{None|Malé }}■|Malé}}||[[マレ]]||{{Flagicon|MDV}} [[モルディブ]]||A||
|-
|{{Abbr|{{None|Minsk}}■|Minsk}}||[[ミンスク]]||{{Flagicon|BLR}} [[ベラルーシ]]||I||
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|{{Abbr|{{None|Mbaba}}■|Mbabane}}||[[ムババーネ]]||{{Flagicon|SWZ}} [[エスワティニ王国]]||F||王宮および議会の所在地は[[ロバンバ]]<ref name="The World Factbook" />。
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|{{Abbr|{{None|Mexic}}■|Mexico City}}||[[メキシコシティ]]||{{Flagicon|MEX}} [[メキシコ]]||N||
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|{{Abbr|{{None|Mogad}}■|Mogadishu}}||[[モガディシュ]]||{{Flagicon|SOM}} [[ソマリア]]||F||
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|{{Abbr|{{None|Mosco}}■|Moscow}}||[[モスクワ]]||{{Flagicon|RUS}} [[ロシア]]||I||
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|{{Abbr|{{None|Monro}}■|Monrovia}}||[[モンロビア]]||{{Flagicon|LBR}} [[リベリア]]||F||
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|{{Abbr|{{None|Yaoun}}■|Yaoundé}}||[[ヤウンデ]]||{{Flagicon|CMR}} [[カメルーン]]||F||最大都市は[[ドゥアラ]]。
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|{{Abbr|{{None|Yamou}}■|Yamoussoukro}}||[[ヤムスクロ]]<br/>(政庁所在地[[アビジャン]])||{{Flagicon|CIV}} [[コートジボワール]]||F||アビジャンが経済の首都に指定されている<ref name="The World Factbook" />。ただし最高裁判所・国会下院・大統領官邸はアビジャンに残ったままである。
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|{{Abbr|{{None|Yaren}}■|Yaren}}||[[ヤレン地区|ヤレン]]||{{Flagicon|NRU}} [[ナウル]]||{{None|V}}O||ヤレンには首都機能が置かれているが、地方自治体がないため公式の首都は定めていない。
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|{{Abbr|{{None|Rabat}}■|Rabat}}||[[ラバト]]||{{Flagicon|MAR}} [[モロッコ]]||F||最大都市は[[カサブランカ]]。
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|{{Abbr|{{None|Riga }}■|Riga}}||[[リガ]]||{{Flagicon|LAT}} [[ラトビア]]||E||
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|{{Abbr|{{None|Luand}}■|Luanda}}||[[ルアンダ]]||{{Flagicon|ANG}} [[アンゴラ]]||F|||
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|{{Abbr|{{None|Luxem}}■|Luxembourg}}||[[ルクセンブルク市|ルクセンブルク]]||{{Flagicon|LUX}} [[ルクセンブルク]]||E||
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|{{Abbr|{{None|Lusak}}■|Lusaka}}||[[ルサカ]]||{{Flagicon|ZAM}} [[ザンビア]]||F||
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|{{Abbr|{{None|Reykj}}■|Reykjavík}}||[[レイキャヴィーク]]||{{Flagicon|ISL}} [[アイスランド]]||E||
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|{{Abbr|{{None|Rosea}}■|Roseau}}||[[ロゾー]]||{{Flagicon|DMA}} [[ドミニカ国]]||N||
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|{{Abbr|{{None|Rome }}■|Rome}}||[[ローマ]]||{{Flagicon|ITA}} [[イタリア]]||E||経済の中心都市は[[ミラノ]]。
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|{{Abbr|{{None|Lomé }}■|Lomé}}||[[ロメ]]||{{Flagicon|TOG}} [[トーゴ]]||F||
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|{{Abbr|{{None|Londo}}■|London}}||[[ロンドン]]||{{Flagicon|GBR}} [[イギリス]]||E||
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|{{Abbr|{{None|Ouaga}}■|Ouagadougou}}||[[ワガドゥグー]]||{{Flagicon|BUR}} [[ブルキナファソ]]||F||
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|{{Abbr|{{None|Washi}}■|Washington}}||[[ワシントンD.C.]]||{{Flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国]]||N||最大都市は[[ニューヨーク]]。''「[[アメリカ合衆国の首都の一覧]]」も参照''
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|{{Abbr|{{None|Warsa}}■|Warsaw}}||[[ワルシャワ]]||{{Flagicon|POL}} [[ポーランド]]||E||
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|{{Abbr|{{None|N'Dja}}■|N'Djamena}}||[[ンジャメナ]]||{{Flagicon|CHA}} [[チャド]]||F||
|}
== 国家の承認がない国 ==
{| class="wikitable sortable"
!首都名!!国名!!備考
|-
|[[アイウン]]||{{Display none|サハラ・アラブ民主共和国}}{{Flagicon|ESH}} [[サハラ・アラブ民主共和国]]||事実上の首都は[[ティファリティ]]
|-
|[[アバルア]]||{{Flagicon|クック諸島}} [[クック諸島]]||
|-
|[[アロフィ]]||{{Flagicon|ニウエ}} [[ニウエ]]||
|-
|[[エルサレム]]([[東エルサレム]])||{{Flagicon|PLE}} [[パレスチナ]][[パレスチナ自治政府|(自治政府)]]||事実上の首都は[[ラマッラー]]
|-
|[[スフミ]]||{{Flagicon|アブハジア}} [[アブハジア]]||
|-
|[[ツヒンヴァリ]]||{{Display none|ミナミ}}{{Flagicon|南オセチア}} [[南オセチア]]||
|-
|[[ティラスポリ]]||{{Display none|エンドニエストル}}{{Flagicon|沿ドニエストル共和国}} [[沿ドニエストル共和国|沿ドニエストル]]||
|-
|[[ハルゲイサ]]||{{Flagicon|ソマリランド}} [[ソマリランド]]||
|-
|[[プリシュティナ]]||{{Flagicon|KOS}} [[コソボ]]||
|-
|[[ニコシア]](北レフコシャ、北ニコシア)||{{Display none|キタキプロス}}{{Flagicon|TRNC}} [[北キプロス・トルコ共和国|北キプロス]]||
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references/>
== 関連項目 ==
* [[かつての首都の一覧]]
* [[日本の首都]]
* [[中国の首都]]
* [[アメリカ合衆国の首都の一覧]]
* [[インドネシアの首都]]
* [[国の一覧]]
* [[国の一覧 (大陸別)]]
* [[世界地図]]
{{デフォルトソート:しゆとのいちらん}}
[[Category:各国の首都|*]]
[[Category:地理の一覧|しゆと]]
[[Category:各国の一覧|しゆと]] | 2003-03-12T16:36:38Z | 2023-12-31T09:46:47Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%83%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
3,880 | 南アジア | 南アジア(みなみアジア、英語: South Asia, Southern Asia)は、アジアの南部を指す地域区分である。一般的には中央アジアより南側、東南アジアより西側、西アジアより東側に位置し、インド洋の島国を含む地域を指す。
総面積は 4,480,000km2(日本の約13-4倍ほど) 。現人口は19億人を超えており、2050年には22億人程まで増大するとの予測がある。中でもインドの人口増加率は凄まじく、2023年に中国の人口を追い抜き世界一になった。2050年の人口内訳は、インドが15億7000万人、パキスタンが3億6000万人、バングラデシュでは1億3000万人、ネパールでは4000万人程とされる。
面積・人口共に大半をインドが占める。しばしば、「インドは国というより、大陸である」として言及されるが、それはイギリス東インド会社が、ムガル帝国やマイソール王国、500以上あった藩王国を統合させた経緯が大きい。また、インド・パキスタン・バングラデシュ・ミャンマーは、かつてイギリス領インド帝国から分離独立した国々である。そのため、公用語・準公用語は英語を使う国が多い。また、それ以外の国もイギリスの植民地や保護国だった経緯から、現在もイギリス連邦に加盟する等関係が深い。
地形は、北ではヒマラヤ山脈とカラコルム山脈、西ではスライマン山脈とインダス川やタール砂漠、東ではプラフマプトラ川やアラカン山脈、そして半島部分はベンガル湾・アラビア海・インド洋などが存在する地域である。しかし、この地域は昔から孤立していたのではなく、紀元前1500年頃以降から多くの外来民族(アーリア人、アレクサンドロス3世(大王)のマケドニア軍、大月氏、クシャーナ朝、テュルク人系ムスリムなど)がインドに流入し、新文化形成に加わった。また周囲の海も西アジアや地中海地域との交易や文化交流を助けた。さらに、仏教やヒンドゥー教がインド洋諸地域や東南アジア地域に拡散する上で効果的であった。
上記の各国は、南アジア地域協力連合(South Asian Association for Regional Cooperation、略称SAARC)を結成。現在はアフガニスタンも加盟しておりイランはオブザーバーとして参加している。この地域に参加している日本のNGOは、2005年9月から実施された調査(国際協力NGOセンター、279団体回答)では、ネパール43団体・インド40団体・スリランカ33団体・バングラデシュ31団体・パキスタン18団体であり、過去の調査との比較では活動団体の数がネパールとスリランカでは増えたが、インドとバングラデシュは減少した。
アフガニスタンの南部は、パキスタン北部と同じ民族のパシュトゥーン人。南アジアとの関係が深く南部もしくは全土を南アジアに含むこともある。また、イランのペルシア人及びタジキスタン共和国のゴルノ・バダフシャン自治州のパミール人は、イラン系アーリア人であり、イスラム教シーア派である。これらの民族はインド系アーリア人と人種的な側面で近く、主要民族がアラブ人である西アジアや主要民族がイスラム教スンナ派を信仰する中央アジアとは文化が異なるため、南アジアに含まれる場合がある。更に、チベットは文化的に南アジアとの交流が深く、南アジアに区分される場合がある。
地球温暖化の深刻な影響により、将来的には全世界で最も早く夏の暑さが人類にとっての生存の限界(湿球温度35度)に達して居住不能になると予測されている。
クリケットは南アジアで最も人気のあるスポーツである。この地域の面積・人口の大半を占めるインドでは圧倒的に一番人気のスポーツであり、最も象徴的な現代エンターテインメントとも言われ、ボリウッド映画より人気が高いと評される。ナショナルチームのインド代表は世界屈指の強豪チームであり、クリケット・ワールドカップで2度の優勝経験がある。インドの歴代のテレビ視聴者数もクリケットの試合が上位を占めており、とりわけライバル関係にあるパキスタンとの一戦は絶大な盛り上がりを見せる。2023年には国際クリケット評議会が発表する世界ランキングにおいて全3形式で同時に1位になるいう偉業を達成した。インドのプロクリケットリーグであるインディアン・プレミアリーグ(IPL)は、1試合当たり放映権料でサッカーのプレミアリーグを超えている。パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、ネパール、アフガニスタンでもクリケットが一番人気スポーツである。サッカーも人気スポーツであり、インドのインディアン・スーパーリーグやパキスタンのパキスタン・プレミアリーグなど複数の国でプロリーグが発展している。 | [
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] | 南アジアは、アジアの南部を指す地域区分である。一般的には中央アジアより南側、東南アジアより西側、西アジアより東側に位置し、インド洋の島国を含む地域を指す。 | [[File:South Asia (ed)update.PNG|thumb|南アジアの範域を示した地図 <br>当該地域の範疇には様々な定義が現在も存在しており、広くは国連により統計上の便宜のために作成された地理区分に基づく定義も含んでいる<ref>{{cite web|url= http://unstats.un.org/unsd/methods/m49/m49.htm|title= Standard Country or Area Codes for Statistical Use |publisher=Millenniumindicators.un.org|access-date=15 April 2023|archive-url=https://web.archive.org/web/20170711220015/https://unstats.un.org/unsd/methods/m49/m49.htm |archive-date=11 July 2017|url-status=live}}</ref><ref group="注釈">これらは国または地域の政治上での観念や概念、並びにその他の所属に関する仮定を意味するものではないことを付け加えておく。</ref>。]]
[[Image:United Nations geographical subregions.png|thumb|225px|[[国連による世界地理区分]]<ref>{{Cite web |url=https://unstats.un.org/unsd/methodology/m49/#geo-regions |title=Methodology |access-date=2022-10-07 |website=UNSD |work=Standard country or area codes for statistical use (M49) |publisher=United Nations Statistics Division |quote=Geographic Regions}}</ref>]]
'''南アジア'''(みなみアジア、{{lang-en|South Asia, Southern Asia}})は、[[アジア]]の南部を指す地域区分である。一般的には[[中央アジア]]より南側、[[東南アジア]]より西側、[[西アジア]]より東側に位置し、[[インド洋]]の島国を含む地域を指す。
== 概要 ==
総[[面積]]は 4,480,000km²(日本の約13-4倍ほど) 。現[[人口]]は19億人を超えており、2050年には22億人程まで増大するとの予測がある。中でも[[インド]]の人口増加率は凄まじく、2023年に[[中華人民共和国|中国]]の人口を追い抜き世界一になった<ref>[https://jp.reuters.com/article/asia-population-idJPKBN2WG08N インド人口が世界最多に、年央ごろ中国を290万人上回る=国連] ロイター 2023年10月14日閲覧。</ref>。2050年の人口内訳は、インドが15億7000万人、[[パキスタン]]が3億6000万人、[[バングラデシュ]]では1億3000万人、[[ネパール]]では4000万人程とされる。
[[File:South Asia UN.png|thumb|南アジアの地図]]
[[File:South Asia urban map.svg|thumb|南アジアの都市地図]]
[[Image:Location-Asia-UNsubregions.png|thumb|225px|[[国際連合]]によるアジアの地域の分類
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面積・人口共に大半をインドが占める。しばしば、「インドは国というより、[[インド亜大陸|大陸]]である」として言及されるが、それは[[イギリス東インド会社]]が、[[ムガル帝国]]や[[マイソール王国]]、500以上あった[[藩王国]]を統合させた経緯が大きい。また、インド・パキスタン・バングラデシュ・[[ミャンマー]]は、かつて[[イギリス領インド帝国]]から分離独立した国々である。そのため、[[公用語]]・[[準公用語]]は[[英語]]を使う国が多い。また、それ以外の国もイギリスの[[植民地]]や[[保護国]]だった経緯から、現在も[[イギリス連邦]]に加盟する等関係が深い。
地形は、北では[[ヒマラヤ山脈]]と[[カラコルム山脈]]、西では[[スライマーン山脈|スライマン山脈]]と[[インダス川]]や[[タール砂漠]]、東ではプラフマプトラ川や[[アラカン山脈]]、そして半島部分は[[ベンガル湾]]・[[アラビア海]]・[[インド洋]]などが存在する地域である。しかし、この地域は昔から孤立していたのではなく、紀元前1500年頃以降から多くの外来民族([[アーリア人]]、[[アレクサンドロス3世]](大王)の[[マケドニア]]軍、[[大月氏]]、[[クシャーナ朝]]、[[テュルク人]]系[[ムスリム]]など)がインドに流入し、新文化形成に加わった。また周囲の海も[[西アジア]]や[[地中海]]地域との交易や文化交流を助けた。さらに、[[仏教]]や[[ヒンドゥー教]]がインド洋諸地域や[[東南アジア]]地域に拡散する上で効果的であった<ref>内藤雅雄・中村平治編『南アジアの歴史 -複合的社会の歴史と文化-』有斐閣 2006年7月 1-2頁</ref>。
上記の各国は、[[南アジア地域協力連合]](South Asian Association for Regional Cooperation、略称SAARC)を結成。現在は[[アフガニスタン]]も加盟しており[[イラン]]はオブザーバーとして参加している。この地域に参加している日本のNGOは、2005年9月から実施された調査(国際協力NGOセンター、279団体回答)では、ネパール43団体・インド40団体・スリランカ33団体・バングラデシュ31団体・パキスタン18団体であり、過去の調査との比較では活動団体の数がネパールとスリランカでは増えたが、インドとバングラデシュは減少した。
アフガニスタンの南部は、パキスタン北部と同じ民族の[[パシュトゥーン人]]。南アジアとの関係が深く南部もしくは全土を南アジアに含むこともある。また、イランの[[ペルシア人]]及び[[タジキスタン共和国]]の[[ゴルノ・バダフシャン自治州]]の[[パミール人]]は、イラン系アーリア人であり、[[イスラム教]][[シーア派]]である。これらの民族は[[インド・アーリア人|インド系アーリア人]]と人種的な側面で近く、主要民族が[[アラブ人]]である西アジアや主要民族が[[イスラム教]][[スンナ派]]を信仰する[[中央アジア]]とは文化が異なるため、南アジアに含まれる場合がある。更に、[[チベット]]は文化的に南アジアとの交流が深く、南アジアに区分される場合がある。
[[地球温暖化]]の深刻な影響により、将来的には全世界で最も早く夏の暑さが人類にとっての生存の限界([[湿球温度]]35度)に達して居住不能になると予測されている。
== 該当地域・国家リスト ==
* {{AFG}}<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/afghanistan/qa.html|title=
アフガニスタンQ&A(FAQ)|accessdate=2022-05-01}}</ref><ref group="注釈" name="m49">外務省による解説では、西アジアに分類されている。</ref>
* {{BAN}}
* {{BHU}}
* {{IND}}
* {{IRN}}<ref group="注釈" name="m49">外務省による解説では、西アジアに分類されている。</ref>
* {{MDV}}
* {{NEP}}
* {{PAK}}
* {{SRI}}
== 言語 ==
* [[印欧語族]]
** [[インド語派]] :[[ヒンディー語]]、[[ウルドゥー語]]、[[ネパール語]]、[[ベンガル語]]、[[シンハラ語]]、[[ディベヒ語]]など
** [[イラン語派]] :[[パシュトー語]]、[[ダリー語]]など
* [[アルタイ諸語]] :[[ハザーラ人|ハザーラ語]]など
* [[ドラヴィダ語族]] :[[タミル語]]など
* [[オーストロアジア語族]]
** [[ムンダ語派]]
* [[シナ・チベット語族]]
** [[チベット・ビルマ語派]]
* [[クスンダ語]]
* [[ニハリ語]]
* [[ブルシャスキー語]]
== スポーツ ==
[[ファイル:Narendra_Modi_Stadium_view_from_the_gallery.jpg|thumb|250px|クリケット専用スタジアムの[[ナレンドラ・モディ・スタジアム]]。収容人数は13万2000人<ref>[https://www.espncricinfo.com/cricket-grounds/narendra-modi-stadium-motera-ahmedabad-57851 Narendra Modi Stadium] ESPN cricinfo 2023年10月14日閲覧。</ref>。]]
[[クリケット]]は南アジアで最も人気のあるスポーツである。この地域の面積・人口の大半を占めるインドでは圧倒的に一番人気のスポーツであり<ref>[https://www.cnbctv18.com/sports/ipl-only-third-most-popular-cricket-event-in-india-international-competitions-more-favoured-survey-reveals-3311121.htm IPL only third-most popular cricket event in India, international competitions more favoured, survey reveals] CNBC TV18 2019年7月6日閲覧。</ref><ref>[https://www.hakuhodo.co.jp/uploads/2016/09/global_habit.pdf アジア15都市生活者の好きなスポーツ、スポーツイベント] 博報堂 2019年7月6日閲覧。</ref>、最も象徴的な現代エンターテインメントとも言われ、[[ボリウッド]]映画より人気が高いと評される<ref>[https://www.ft.com/content/bb671712-c8e8-45cd-86dc-a5d4e675004b What India needs is more cricket and less Bollywood] Financial Times 2023年9月16日閲覧。</ref>。ナショナルチームの[[クリケットインド代表|インド代表]]は世界屈指の強豪チームであり、[[クリケット・ワールドカップ]]で2度の優勝経験がある。インドの歴代のテレビ視聴者数もクリケットの試合が上位を占めており、とりわけライバル関係にあるパキスタンとの一戦は絶大な盛り上がりを見せる。2023年には[[国際クリケット評議会]]が発表する世界ランキングにおいて全3形式で同時に1位になるいう偉業を達成した<ref>[https://wisden.com/series-stories/india-v-australia-2023/india-become-second-team-in-history-to-top-icc-rankings-in-all-three-formats India become second team in history to top ICC rankings in all three formats] WISDEN 2023年9月29日閲覧。</ref>。インドのプロクリケットリーグである[[インディアン・プレミアリーグ]](IPL)は、1試合当たり放映権料で[[サッカー]]の[[プレミアリーグ]]を超えている<ref name="revenue">[https://economictimes.indiatimes.com/news/sports/ipl-media-rights-sold-for-rs-48390-crore-for-a-five-year-period-bcci-secretary-jay-shah/articleshow/92208961.cms IPL media rights sold for Rs 48,390 crore for a 5 year period: BCCI Secretary Jay Shah]The Economic Times 2023年9月16日閲覧。</ref>。パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、ネパール、アフガニスタンでもクリケットが一番人気スポーツである<ref>[https://www.aaastateofplay.com/the-most-popular-sport-in-every-country/ THE MOST POPULAR SPORT IN EVERY COUNTRY] AAA STATE OF PLAY 2023年9月27日閲覧。</ref>。サッカーも人気スポーツであり、インドの[[インディアン・スーパーリーグ]]やパキスタンの[[パキスタン・プレミアリーグ]]など複数の国でプロリーグが発展している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
{{Commons category|South Asia}}
{{ウィキプロジェクトリンク|南アジア|[[ファイル:India_78.40398E_20.74980N.jpg|43px]]}}
* [[南アジア史]]
インドの6地域
* [[北インド]]
* [[中央インド]]
* [[西インド]]
* [[南インド]]
* [[東インド]]
* [[北東インド]]
分割地域
* [[パンジャーブ]]
* [[ベンガル地方]]
{{アジア}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:みなみあしあ}}
[[Category:南アジア|*]]
[[Category:アジアの地域]] | 2003-03-12T16:57:00Z | 2023-11-15T09:10:48Z | false | false | false | [
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3,881 | 東南アジア | 東南アジア(とうなんアジア、英語: Southeast Asia, Southeastern Asia)は、アジアのうち南シナ海周辺に位置している国々を指す地域区分である。インドシナ半島、マレー半島、インドネシア諸島、フィリピン諸島アジアと島嶼部東南アジアに分けられる。
東南アジアという用語は比較的新しく、初出は1830年代である。当時の地理学や歴史学が国家論や支配論に偏っていたこともあり、当初は考古学や民族学用語としてのみ普及した。地理概念として一般化したのは、1942年に連合国軍が「東南アジア司令部」をセイロンに設置し、戦後処理を進める連合軍の作戦領域名として政治的にも公式化されるようになってからである。ただし、現在でもイギリス英語やフランス語では、東南アジアという概念に島嶼部を含めないことが多い。日本の旅行案内書などでは「香港・マカオ・台湾など」を含めていることもあるが、通常は東アジアの扱いとなる。
平均気温25度以上で、大部分がケッペンの気候区分でいう熱帯であり、熱帯特有の急な雷雨、スコールが雨季に多く見られる。湿潤熱帯に属する島嶼部では一年中降水量が多いが、大陸部やインドシナ半島はモンスーンの影響を受けてサバナ気候となり、雨季と乾季がはっきりしている。
東南アジアに属する国家を、英語表記順に国名 - 首都の順で表記する。
東南アジア諸国の各国の歴史については、以下を参照。
東南アジアの歴史は、各国の歴史として著述されることが多い。しかし特にマレー半島および島嶼部では、各国の領域は19世紀から20世紀初めにかけて、欧米列強が植民地主義に基づき東南アジアを分割した結果生じたものが後に独立国家として認められたものであり、政治的色彩が非常に濃いといえる。
東南アジアの歴史は、そのような政治的な現代国家の歴史を離れ、伝統的な政治圏、つまり、政治的・文化的中心都市とその周辺の圏的な空間の歴史、別な言葉で言えば歴史圏を対象とするものである。また、元来この地域は封建主義、中央集権、皇帝専制とは違った、マンダラ論といった説で解き明かされる重層的な権力構造がみられた地域であることも近年では重要視されている。また日本との関係も、一部の先住民が渡来したことや太平洋戦争において各国に進入し、その後高度経済成長期に多数の企業が進出するなど、非常に深いものがある。
東南アジアの人類文化は、2~3万年前の後期旧石器時代から始めることができる。それは、大陸部でも島嶼部でも洞穴や岩陰で人間が生活した痕跡を得られるからである。
大陸部では、ベトナム北部のソンヴィー文化、ホアンビン文化、バクソン文化、ダブート文化とたどることができる。ソンヴィー文化は、礫の周囲を打ち欠いた石器を主とする。旧ヴィンフー省のソンヴィー遺跡で発見され、放射性炭素年代測定では2万~1万2000年前である。磨製石器を伴わないことから旧石器時代に属する。次にホアビン文化は、ベトナムホアビン省の洞窟・岩陰遺跡群から名づけられた文化。原初的な形態の石器に加えスマトリアスなどの進んだ形態が特徴であり、部分的に磨製した石器も現れる。食料残滓に貝殻(淡水のタニシやカタツムリ)、獣骨の層が伴う。
年代測定では、ほぼ1万1000から7500年前で、中石器文化に位置する。この文化は大陸部全域からマレー半島、スマトラ島まで広く分布する。ランソン省バクソン山地に見られるバクソン文化は、刃部磨製石斧が主体である。時によって土器を伴う。タインホア省タブート遺跡は、淡水の大きな貝塚遺跡で、石器の変化はあまり見られないが、重要な変化は土器の出現である。全体の形が分かるものは少ないが、そこの丸い深鉢形である。厚手軟質で無文様、叩き締め技法で叩く棒に巻いた繊維の跡が全体についている。この技法は中国から南下した。放射線炭素年代では約6000年前である。ゲアン省クインヴァン遺跡は海の貝からなる大きな貝塚で、大きな石を打ち割った石器や少量の全磨製石斧、粗雑な尖底の土器を伴う。放射性炭素年代は4700年前である。
東南アジアは基本的に多くの民族が農耕民族である。ベトナムでは4000年ほど前から農耕を始め、現在のタイ王国の周辺でも紀元前300年頃には農耕が始まっていた。カンボジアでも4世紀頃にもなると、東南アジア有数の稲作地帯となっていた。現在でも東南アジアは世界有数の農業国家群である。
東南アジアは、(フィリピンを除き)中国とインドの交易ルートの中間地帯にあり、中継点として古くから発展し、中国ないしインドからの文化的影響下のもとに各地に伝統的国家が成立することになり(インド化)、その後、それぞれが独自の歴史的発展を遂げた。古代インド人は、この地を「黄金州」ないし「黄金の地(スヴァルナブーミ/スワンナプーム(सुवर्णभूमि/สุวรรณภูมิ))」と呼び、中国人は「南海」と称していた。
東南アジア海域の政治勢力は、扶南を経由して中国南朝の各朝と交渉してきたが、6世紀の前半には、南シナ海、マレー半島、マラッカ海峡、ジャワ島、バリ島にそれぞれ国が形成され、中国南朝と直接交渉をもつようになり、積極的に朝貢するようになった。しかし、中国人の東南アジアに対する認識は、依然として島嶼部または大陸部沿岸の港市国家群の世界であった。
4世紀末からインド思想が、東南アジアの王権システムそのものに影響を与えた。4世紀から6世紀にかけて、東南アジア各地に南インド系のアルファベットを用いた碑文群が出現してくる。島嶼部では4世紀に東カリマンタンのクタイ王国からムーラヴァルマン碑文、西ジャワのボゴール周辺からブールナヴァルマン碑文が出土する。メコンデルタでは5~6世紀には、「扶南碑文」と総称される碑文群が出土する。またオケオをはじめとする各地で発見されるインド系の神像、仏像はインド思想の大規模な流入を証明している。
19世紀、東南アジア諸国では欧米列強による植民地化が進められた。以下に見るように各地によってさまざまな支配体制がとられたが、共通点として「二重経済」、「複合社会」、「分割・間接支配」の三点がしばしば挙げられる。すなわち、近代資本主義経済と伝統的農業経済の併存、民族的多様性に基づく社会構成、旧支配層による秩序温存とそれを利用した分割・間接支配の三点である。
地域別に植民地化の特徴を見ていくと、まずジャワ・スマトラ周辺(大スンダ列島南部)では、19世紀初頭には特定の港湾や沿岸部などのみが支配されていたが、次第にイギリス・オランダ間の支配権競争が激しくなり始めた。オランダ政府は、ジャワ島でサトウキビ、コーヒー、タバコなどを強制的に栽培させ、現地の農民は搾取によって貧窮に追い込まれた。それに伴い、各地で抵抗戦争が19世紀末から20世紀初頭まで頻発した。
ボルネオ島北部・西部では、ブルネイのスルタンが、部族反乱の鎮圧者に褒美として地方統治権を与えていたことから、現在のサラワク州に白人王による国家・サラワク王国が成立し、また現在のサバ州はシーク教徒保護名目で乗り込んだイギリスによって植民地化された。ボルネオ島南部では、客家によるアジア初の共和国である蘭芳公司が存在していたが、蘭芳公司の対外政策は清王朝の権威を利用したものであり、アヘン戦争で清が敗れるとオランダに攻められ滅亡した。
フィリピン諸島では、族長ラプ=ラプが巧みな戦術により一旦はマゼランの軍隊を破ったが、次第にスペイン勢力に浸食され、ブルネイの敗北でイスラムの権威が弱まったことがそれを決定づけた。スペイン統治下では、スペイン人を中心とした大土地所有者の下で小作農民が過酷な労働を強いられるアシエンダ制が横行していた。新興地主や知識人階級はこうした社会矛盾に反抗し、フィリピン同盟(1892年結成)などの民族主義運動を起こした。1898年の米西戦争に勝利したアメリカの協力の下、エミリオ・アギナルドはフィリピンの独立宣言を発表し、初代大統領に就任した。しかしその後、領有を主張するアメリカに弾圧され、アギナルドは捕らえられた。
マレー半島は1511年のポルトガルによるマラッカ征服を期に植民地化され、のちにイギリスのものとなった。シンガポールはイギリスの貿易・軍事の拠点として繁栄した。
カンボジアは前世紀からベトナム・タイ両国からの激しい圧迫に悩まされ、幾度も国土消失の危機があったために、メコン川を境に国土が両国に分割されることを恐れたアン・ドゥオン王とノロドム王により、自らフランスの保護国となった。
ベトナムは、最後の王朝である阮朝の建国の際にフランスを始めとする勢力の助力を得たことが後に仇となり、一部はフランスの保護国、また一部は直轄植民地となっていった。
ラオスでは、タイの隷属化にあったルアンパバーン、ヴィエンチャン、チャンパサックの各王国が仏泰戦争の結果としてフランスの領土となっていった。
ミャンマーは、三度に渡るイギリスの侵略(英緬戦争)を受け、英領インド帝国の一州に組み込まれた。
タイは、イギリス、フランスの侵略に悩まされるが、政治や教育などの近代化政策と巧みな外交、領土割譲といった代償によって、東南アジアで唯一独立を保ち、英仏の緩衝国家となった。
このような植民地支配の確立は現地民の反発を招き、19世紀末から20世紀初めにかけて、遅速の差があるが東南アジア世界にナショナリズムの芽が生まれてきていた。
「東南アジア」の呼称が広く用いられるようになったきっかけは、1942年に連合国軍が「東南アジア司令部」を設置したときである。日本軍の作戦区域であるイギリス領ビルマおよびマラヤ、フランス領インドシナ、オランダ領東インド、アメリカ領フィリピンの4植民地およびタイ王国を包括するような概念がなく、このときに「東南アジア」なる用語が取り上げられた。さらに、太平洋戦争後には、戦後処理を進める連合軍の作戦領域名として政治的にも公式化されることになった。この後、米国を中心とする「東南アジア」研究者たちによって広く用いられるようになり、やがて一般的にも使われるようになった。なお、戦中期の日本にも「東南アジヤ」の呼称を用いる研究者がいたが、戦前、戦中の日本においては、現在の太平洋地域を含めて「南方」や「南洋」と呼ぶ事が多かった。
1967年8月には、インドネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・タイの5か国によって東南アジア諸国連合(アセアン)が成立。当初は、冷戦構造との自律的関係および地域紛争の自主的、平和的解決を目的としており(とはいえ、加盟国はいずれも反共であった)、とりわけ1975年のサイゴン陥落以後の緊張関係を乗り切ったことで、国際社会でも注目を浴びるようになった。その後は、各国の強権的な経済開発を背景とした経済関係の緊密化に伴い、貿易・資源・技術などを中心とした域内経済協力の枠組み整備(域内特恵制度の拡充や関税引下げなど)が進められるようになった。
1986年のフィリピンの2月革命、1998年のスハルト辞任などに見られる東南アジアの民主化運動が急速に進行し、東南アジア諸国家で自国の政治的、文化的な国民形成の動きを早めている。1990年代以降、政治的大衆主義や民衆的な文化ナショナリズム構築の流れが顕著になった。特に1999年のカンボジア加盟によるASEAN10の成立は、国際的および東南アジア諸国間相互で国家領域が確定し、承認された。1999年以降の東南アジア史研究は、東南アジア諸国家の形成過程を中心に据えるようになった。
東南アジア諸国にて創作されたものを除く。
ベトナム戦争を扱った映画も参照。 | [
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] | 東南アジアは、アジアのうち南シナ海周辺に位置している国々を指す地域区分である。インドシナ半島、マレー半島、インドネシア諸島、フィリピン諸島アジアと島嶼部東南アジアに分けられる。 | {{otheruses|アジアの区画|東南アジアの地域協力組織|東南アジア諸国連合}}
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'''東南アジア'''(とうなんアジア、{{lang-en|Southeast Asia, Southeastern Asia}})は、[[アジア]]のうち[[南シナ海]]周辺に位置している国々を指す地域区分である。[[インドシナ半島]]、[[マレー半島]]、[[インドネシア|インドネシア諸島]]、[[フィリピン|フィリピン諸島]]アジアと[[海域東南アジア|島嶼部東南アジア]]に分けられる。
[[File:United Nations geographical subregions.png|thumb|225px|[[国連による世界地理区分]]<ref>[http://unstats.un.org/unsd/methods/m49/m49regin.htm United Nations Statistics Division- Standard Country and Area Codes Classifications (M49)]</ref>]]
== 概要 ==
東南アジアという用語は比較的新しく、初出は1830年代である。当時の地理学や歴史学が国家論や支配論に偏っていたこともあり、当初は考古学や民族学用語としてのみ普及した<ref>桃木 (1996) p.30</ref>。地理概念として一般化したのは、1942年に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍が「東南アジア司令部」を[[セイロン]]に設置し、戦後処理を進める連合軍の作戦領域名として政治的にも公式化されるようになってからである。ただし、現在でもイギリス英語やフランス語では、東南アジアという概念に島嶼部を含めないことが多い<ref>桃木 (1996) p.2</ref>。日本の旅行案内書などでは「[[香港]]・[[マカオ]]・[[中華民国|台湾]]など」を含めていることもあるが、通常は[[東アジア]]の扱いとなる。
== 地理 ==
[[ファイル:Southeast asia.jpg|right|250px|thumb|東南アジアの地図]]
[[ファイル:LocationSoutheastAsia.PNG|thumb|right|250px|東南アジアの範域]]
[[Image:Location-Asia-UNsubregions.png|thumb|225px|[[国際連合]]によるアジアの地域の分類
{{legend|#0000E0|[[北アジア]]}}
{{legend|#E000E0|[[中央アジア]]}}
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{{legend|#FFFF20|[[東アジア]]}}
{{legend|#FFC000|'''東南アジア'''}}
]]
=== 気候 ===
平均気温25度以上で、大部分が[[ケッペンの気候区分]]でいう[[熱帯]]<ref group="注釈">最寒月の平均気温が、摂氏18度以上の地域</ref>であり、熱帯特有の急な雷雨、[[スコール]]が雨季に多く見られる。湿潤熱帯に属する島嶼部では一年中降水量が多いが、大陸部や[[インドシナ半島]]は[[モンスーン]]<ref group="注釈">夏季には南西モンスーンが、冬季には北東(北西)モンスーンが多雨をもたらす。</ref>の影響を受けて[[サバナ気候]]となり、雨季と乾季がはっきりしている。
=== 環境分類 ===
; 熱帯雨林 : フィリピン諸島からボルネオ、スラウェシの北半、ジャワ西部、スマトラにかけての島嶼部、アラカン地域沿岸、マレー半島西岸。常時25℃を上回る高温と、年間2000 mmから4000 mmの多雨で、植物の宝庫。
; 熱帯高地 : パマス(南スマトラ州)、ミナンカバウ(西スマトラ州)などのスマトラ背梁山脈の中の盆地は、1500メートル前後の高度で、湿度が高いが冷涼な気候。古くから人が居住し、集約的稲作が行われている。
; 沿岸低地 : 熱帯雨林帯の沿岸は、砂丘以外は泥炭林と[[マングローブ]]林で農業に不適であるが、砂丘地帯とともに漁業・海運の基地である。
; サバンナ平原 : 大陸東南アジアでは、乾いた北東モンスーンの影響で、冬季には強い乾季があり、雨季に茂り乾季に落葉する雨緑林が多い。ビルマ平原では、南西モンスーンの影響で乾燥地帯になる。古い時代から平原畑作が進み、周りの山地からの流水を利用した灌漑が発達している。東北タイのコラート平原、カンボジア平原では、雨季と乾季の降水量に差があるが、雨緑林が形成される。夏季には長期に降水があり、天水稲作が広がっている。
; デルタ : 三大デルタ(イワラジ、チャオプラヤー、メコン)は[[サバナ気候|サバンナ気候]]である。乾季にはほとんど降雨がない。しかし、雨季には河川が洪水を引き起こすほどである。
=== 国名リスト ===
東南アジアに属する国家を、英語表記順に[[国名]] - [[首都]]の順で表記する。
* {{BRN}} - [[バンダルスリブガワン]]
* {{KHM}}(カンプチア) - [[プノンペン]]
* {{IDN}} - [[ジャカルタ]] ([[パプア島]]の[[パプア州]]、[[西パプア州]]は[[オセアニア]]地域に属す)
* {{LAO}} - [[ヴィエンチャン]]
* {{MYS}} - [[クアラルンプール]]
* {{MMR}}(ビルマ) - [[ネピドー]]
* {{PHL}}(ピリピナス) - [[マニラ]]
* {{SGP}} - シンガポール([[都市国家]])
* {{THA}} - [[バンコク]]
* {{TLS}} - [[ディリ]]([[ティモール島]]の原住民は[[メラネシア]]系でオセアニア地域と民族的に近縁)
* {{VNM}} - [[ハノイ]] (ベトナムは[[漢字文化圏]]に属しており、稀に[[東アジア]]に含む場合がある)
== 東南アジアの歴史 ==
''東南アジア諸国の各国の歴史については、以下を参照。''
: [[インドネシアの歴史]] - [[カンボジアの歴史]] - [[シンガポールの歴史]] - [[タイの歴史]] - [[フィリピンの歴史]] - [[ブルネイの歴史]] - [[ベトナムの歴史]] - [[マレーシアの歴史]] - [[ミャンマーの歴史]] - [[ラオスの歴史]] - [[東ティモールの歴史]]- [[バミューダの歴史]]
=== 東南アジアの原歴史 ===
東南アジアの歴史は、各国の歴史として著述されることが多い。しかし特にマレー半島および島嶼部では、各国の領域は[[19世紀]]から[[20世紀]]初めにかけて、[[欧米]]列強が[[植民地]]主義に基づき東南アジアを分割した結果生じたものが後に独立国家として認められたものであり、政治的色彩が非常に濃いといえる。
東南アジアの歴史は、そのような政治的な現代国家の歴史を離れ、伝統的な政治圏、つまり、政治的・文化的中心都市とその周辺の圏的な空間の歴史、別な言葉で言えば'''歴史圏'''を対象とするものである。また、元来この地域は[[封建主義]]、[[中央集権]]、[[皇帝]]専制とは違った、[[マンダラ論]]といった説で解き明かされる重層的な権力構造がみられた地域であることも近年では重要視されている。また[[日本]]との関係も、一部の[[先住民]]が渡来したことや[[太平洋戦争]]において各国に進入し、その後[[高度経済成長期]]に多数の企業が進出するなど、非常に深いものがある。
==== 石器時代 ====
東南アジアの人類文化は、2~3万年前の後期[[旧石器時代]]から始めることができる。それは、大陸部でも島嶼部でも洞穴や岩陰で人間が生活した痕跡を得られるからである。
大陸部では、ベトナム北部のソンヴィー文化、ホアンビン文化、バクソン文化、ダブート文化とたどることができる。'''ソンヴィー文化'''は、礫の周囲を打ち欠いた石器を主とする。旧[[ヴィンフー]]省の[[ソンヴィー遺跡]]で発見され、[[放射性炭素年代測定]]では2万~1万2000年前である。[[磨製石器]]を伴わないことから[[旧石器時代]]に属する。次に'''ホアビン文化'''は、ベトナムホアビン省の洞窟・岩陰遺跡群から名づけられた文化。原初的な形態の石器に加えスマトリアスなどの進んだ形態が特徴であり、部分的に磨製した石器も現れる。食料残滓に貝殻(淡水の[[タニシ]]や[[カタツムリ]])、獣骨の層が伴う。
年代測定では、ほぼ1万1000から7500年前で、[[中石器時代|中石器文化]]に位置する。この文化は大陸部全域からマレー半島、[[スマトラ島]]まで広く分布する。ランソン省バクソン山地に見られる'''バクソン文化'''は、[[石器|刃部磨製石斧]]が主体である。時によって[[土器]]を伴う。タインホア省'''タブート'''遺跡は、淡水の大きな[[貝塚]]遺跡で、石器の変化はあまり見られないが、重要な変化は土器の出現である。全体の形が分かるものは少ないが、そこの丸い深鉢形である。厚手軟質で無文様、叩き締め技法で叩く棒に巻いた繊維の跡が全体についている。この技法は中国から南下した。放射線炭素年代では約6000年前である。ゲアン省'''クインヴァン'''遺跡は海の貝からなる大きな貝塚で、大きな石を打ち割った石器や少量の全磨製石斧、粗雑な尖底の土器を伴う。放射性炭素年代は4700年前である。
==== 農耕 ====
東南アジアは基本的に多くの民族が[[農耕民族]]である。ベトナムでは4000年ほど前から農耕を始め、現在のタイ王国の周辺でも紀元前300年頃には農耕が始まっていた。カンボジアでも4世紀頃にもなると、東南アジア有数の稲作地帯となっていた。現在でも東南アジアは世界有数の農業国家群である。
=== 中国、インドの影響と伝統的国家の成立 ===
東南アジアは、(フィリピンを除き)中国とインドの交易ルートの中間地帯にあり、中継点として古くから発展し、中国ないしインドからの文化的影響下のもとに各地に伝統的国家が成立することになり([[インド化 (東南アジア)|インド化]])、その後、それぞれが独自の歴史的発展を遂げた。古代インド人は、この地を「黄金州」ないし「黄金の地(スヴァルナブーミ/スワンナプーム(सुवर्णभूमि/สุวรรณภูมิ))」と呼び、中国人は「南海」と称していた。
東南アジア海域の政治勢力は、[[扶南国|扶南]]を経由して[[南北朝時代 (中国)#南朝|中国南朝]]の各朝と交渉してきたが、6世紀の前半には、南シナ海、マレー半島、マラッカ海峡、ジャワ島、バリ島にそれぞれ国が形成され、中国南朝<ref group="注釈">南朝梁武帝(502~549)の治世</ref>と直接交渉をもつようになり、積極的に朝貢するようになった。しかし、中国人の東南アジアに対する認識は、依然として島嶼部または大陸部沿岸の[[港市国家]]群の世界であった。
4世紀末からインド思想が、東南アジアの王権システムそのものに影響を与えた。4世紀から6世紀にかけて、東南アジア各地に南インド系のアルファベットを用いた碑文群が出現してくる。島嶼部では4世紀に東カリマンタンの[[クタイ王国]]からムーラヴァルマン碑文、西ジャワのボゴール周辺からブールナヴァルマン碑文が出土する。メコンデルタでは5~6世紀には、「扶南碑文」と総称される碑文群が出土する。また[[オケオ]]をはじめとする各地で発見されるインド系の神像、仏像はインド思想の大規模な流入を証明している。
=== 欧米列強による植民地化 ===
[[19世紀]]、東南アジア諸国では欧米列強による[[植民地]]化が進められた。以下に見るように各地によってさまざまな支配体制がとられたが、共通点として「[[二重経済]]」、「複合社会」、「分割・[[間接支配]]」の三点がしばしば挙げられる。すなわち、近代資本主義経済と伝統的農業経済の併存、民族的多様性に基づく社会構成、旧支配層による秩序温存とそれを利用した分割・間接支配の三点である。
地域別に植民地化の特徴を見ていくと、まずジャワ・スマトラ周辺([[大スンダ列島]]南部)では、19世紀初頭には特定の港湾や沿岸部などのみが支配されていたが、次第に[[イギリス]]・[[オランダ]]間の支配権競争が激しくなり始めた。オランダ政府は、[[ジャワ島]]で[[サトウキビ]]、[[コーヒー]]、[[タバコ]]などを強制的に栽培させ、現地の農民は搾取によって貧窮に追い込まれた。それに伴い、各地で抵抗戦争が19世紀末から[[20世紀]]初頭まで頻発した。
ボルネオ島北部・西部では、[[ブルネイ]]のスルタンが、部族反乱の鎮圧者に褒美として地方統治権を与えていたことから、現在のサラワク州に白人王による国家・[[サラワク王国]]が成立し、また現在のサバ州はシーク教徒保護名目で乗り込んだイギリスによって植民地化された。ボルネオ島南部では、客家によるアジア初の共和国である[[蘭芳公司]]が存在していたが、蘭芳公司の対外政策は[[清]]王朝の権威を利用したものであり、[[アヘン戦争]]で清が敗れるとオランダに攻められ滅亡した。
フィリピン諸島では、族長[[ラプ=ラプ]]が巧みな戦術により一旦は[[フェルディナンド・マゼラン|マゼラン]]の軍隊を破ったが、次第にスペイン勢力に浸食され、ブルネイの敗北でイスラムの権威が弱まったことがそれを決定づけた。スペイン統治下では、[[スペイン]]人を中心とした大土地所有者の下で[[小作]]農民が過酷な労働を強いられる[[アシエンダ制]]が横行していた。新興地主や知識人階級はこうした社会矛盾に反抗し、[[フィリピン同盟]]([[1892年]]結成)などの民族主義運動を起こした。[[1898年]]の[[米西戦争]]に勝利した[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の協力の下、[[エミリオ・アギナルド]]はフィリピンの独立宣言を発表し、初代大統領に就任した。しかしその後、領有を主張するアメリカに弾圧され、アギナルドは捕らえられた。
[[マレー半島]]は1511年のポルトガルによるマラッカ征服を期に植民地化され、のちにイギリスのものとなった。シンガポールはイギリスの貿易・軍事の拠点として繁栄した。
カンボジアは前世紀からベトナム・タイ両国からの激しい圧迫に悩まされ、幾度も国土消失の危機があったために、[[メコン川]]を境に国土が両国に分割されることを恐れた[[アン・ドゥオン]]王と[[ノロドム]]王により、自らフランスの保護国となった。
ベトナムは、最後の王朝である[[阮朝]]の建国の際にフランスを始めとする勢力の助力を得たことが後に仇となり、一部はフランスの保護国、また一部は直轄植民地となっていった。
ラオスでは、タイの隷属化にあったルアンパバーン、ヴィエンチャン、チャンパサックの各王国が仏泰戦争の結果としてフランスの領土となっていった。
ミャンマーは、三度に渡るイギリスの侵略([[英緬戦争]])を受け、英領インド帝国の一州に組み込まれた。
タイは、イギリス、[[フランス]]の侵略に悩まされるが、政治や教育などの近代化政策と巧みな外交、[[割譲|領土割譲]]といった代償によって、東南アジアで唯一独立を保ち、英仏の緩衝国家となった。
このような植民地支配の確立は現地民の反発を招き、19世紀末から20世紀初めにかけて、遅速の差があるが東南アジア世界にナショナリズムの芽が生まれてきていた。
=== 太平洋戦争 ===
「東南アジア」の呼称が広く用いられるようになったきっかけは、1942年に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍が「東南アジア司令部」を設置したときである。日本軍の作戦区域であるイギリス領ビルマおよびマラヤ、フランス領インドシナ、オランダ領東インド、アメリカ領フィリピンの4植民地およびタイ王国を包括するような概念がなく、このときに「東南アジア」なる用語が取り上げられた。さらに、[[太平洋戦争]]後には、戦後処理を進める連合軍の作戦領域名として政治的にも公式化されることになった。この後、米国を中心とする「東南アジア」研究者たちによって広く用いられるようになり、やがて一般的にも使われるようになった<ref>池端(1994: 3-7)</ref>。なお、戦中期の日本にも「東南アジヤ」の呼称を用いる研究者がいたが、戦前、戦中の日本においては、現在の太平洋地域を含めて「南方」や「南洋」と呼ぶ事が多かった。
=== アセアン(ASEAN)成立以後の東南アジア諸国の協調体制 ===
{{main|東南アジア諸国連合}}
[[1967年]]8月には、インドネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・タイの5か国によって東南アジア諸国連合(アセアン)が成立。当初は、[[冷戦]]構造との自律的関係および[[地域紛争]]の自主的、平和的解決を目的としており(とはいえ、加盟国はいずれも[[反共]]であった)、とりわけ[[1975年]]の[[ホーチミン市|サイゴン]]陥落以後の緊張関係を乗り切ったことで、国際社会でも注目を浴びるようになった。その後は、各国の強権的な経済開発を背景とした経済関係の緊密化に伴い、貿易・資源・技術などを中心とした域内経済協力の枠組み整備(域内特恵制度の拡充や関税引下げなど)が進められるようになった。
[[1986年]]のフィリピンの2月革命、[[1998年]]の[[スハルト]]辞任などに見られる東南アジアの民主化運動が急速に進行し、東南アジア諸国家で自国の政治的、文化的な国民形成の動きを早めている。1990年代以降、政治的大衆主義や民衆的な文化ナショナリズム構築の流れが顕著になった。特に[[1999年]]のカンボジア加盟による[[東南アジア諸国連合|ASEAN10]]の成立は、国際的および東南アジア諸国間相互で国家領域が確定し、承認された。1999年以降の東南アジア史研究は、東南アジア諸国家の形成過程を中心に据えるようになった。
== 言語 ==
* [[シナ・チベット語族]] - [[ビルマ語]]など
* [[オーストロアジア語族]] - [[ベトナム語]]、[[クメール語]]など
* [[タイ・カダイ語族]] - [[タイ語]]、[[ラーオ語]]など
* [[オーストロネシア語族]] - [[フィリピノ語]]、[[マレー語]]、[[インドネシア語]]、[[テトゥン語]]など
* [[モン・ミエン語族]] - [[ミャオ語]]、[[ヤオ語]]など
* [[パプア諸語]] - ニューギニア島
== 東南アジアを舞台とする作品 ==
東南アジア諸国にて創作されたものを除く。
* [[サヨナライツカ]](タイ)
* [[大使閣下の料理人]](ベトナム)
* [[ディエンビエンフー (漫画)|ディエンビエンフー]](ベトナム)
* [[ビルマの竪琴]](ミャンマー)
* [[ランボー/最後の戦場]](ミャンマー)
* [[ミュージカル南十字星]](インドネシア)
* [[ブンガワンソロ]](インドネシア)
* [[ルパン三世 セブンデイズ・ラプソディ]](タイ)
* [[地雷を踏んだらサヨウナラ]](カンボジア)
'''[[ベトナム戦争を扱った映画]]'''も参照。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 池端雪浦(1994)「東南アジア史へのアプローチ」池端雪浦編『変わる東南アジア史像』山川出版.
* 永積昭(1977)『東南アジアの歴史 新書東洋史 (7)』 [[講談社]].
* 桃木至朗(1996)『歴史世界としての東南アジア』山川出版社 ISBN 978-4-63-434120-3
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|東南アジア|[[File:SE-asia.png|45px|Portal:東南アジア]]}}
* [[東南アジア諸国連合]](ASEAN)- 東南アジア10カ国([[2005年]]時点)が加盟
* [[東洋区]] - 東南アジアを含む[[生物地理区]]
== 外部リンク ==
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* {{Kotobank|東南アジア史}}
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3,882 | 中近東 | 中近東(ちゅうきんとう、英: The Near and Middle East)は、中東と近東の総称である。主に19世紀においての一般的な呼称であり、「中東」の概念はオスマン帝国の崩壊を背景に19世紀から20世紀初頭に登場した。歴史的には「中東」の範囲も大きく変化しており、19世紀の後半から第一次世界大戦にかけての「近東」の概念は、第二次世界大戦後の「中東」の範囲とかなり重なる地域を指していた。
極東・中東・近東の呼称はヨーロッパからの距離で分けられた呼称であるが、19世紀にはヨーロッパにより近い地域を「中近東(Near and Middle East)」という呼び方が一般的であった。一方、「中東」を最初に使用した人物は米国の海軍軍人アルフレッド・セイヤー・マハンで1902年のことといわれているが、その範囲は曖昧であり、厳密な定義をして用いるようになったのはイギリスの政治行政官である。
19世紀の後半から第一次世界大戦にかけての「近東」の概念は、トルコやアラブ世界にバルカン半島を含む地域を言った。一方、「近東」と並行して用いられる場合の「中東」の概念は、第二次世界大戦後に定着したものとは大きく異なるもので、イランやコーカサス、アフガニスタン、中央アジアだけでなく、広義にはインドシナ半島やトルキスタンに至る地域を含むことがあった。
第二次世界大戦後は中東と近東の区別が曖昧になり、ニューヨーク・タイムズは同じ地域に2つの呼称を使用していたが1954年に「中東」に表現を統一した。また、アメリカも1957年のアイゼンハワー・ドクトリンで公式文書として初めて「中東」を使用し、1958年の国務省の見解で「中東」と「近東」は交換可能な用語と説明された。ただし、「中東」と「中近東」は微妙な違いがあるという指摘もある。
日本の外務省による報告書には、北アフリカからトルコ、アフガニスタンに到る国家群を「中近東」としている例がみられる。
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] | 中近東は、中東と近東の総称である。主に19世紀においての一般的な呼称であり、「中東」の概念はオスマン帝国の崩壊を背景に19世紀から20世紀初頭に登場した。歴史的には「中東」の範囲も大きく変化しており、19世紀の後半から第一次世界大戦にかけての「近東」の概念は、第二次世界大戦後の「中東」の範囲とかなり重なる地域を指していた。 | {{参照方法|date=2023-4}}
[[File:Arab Israeli Conflict 5.png|250px|thumb]]
'''中近東'''(ちゅうきんとう、{{lang-en-short|The Near and Middle East}})は、[[中東]]と[[近東]]の総称である。主に19世紀においての一般的な呼称であり、「中東」の概念は[[オスマン帝国]]の崩壊を背景に19世紀から20世紀初頭に登場した<ref name="kurita" /><ref name="ikeuchi" />。歴史的には「中東」の範囲も大きく変化しており、19世紀の後半から[[第一次世界大戦]]にかけての「近東」の概念は、[[第二次世界大戦後]]の「中東」の範囲とかなり重なる地域を指していた<ref name="ikeuchi" />。
== 概念 ==
[[極東]]・中東・近東の呼称はヨーロッパからの距離で分けられた呼称であるが、19世紀にはヨーロッパにより近い地域を「中近東(Near and Middle East)」という呼び方が一般的であった<ref name="kurita">{{Cite journal |和書|author= 栗田禎子 |title=中東情勢と日本・世界のゆくえ |url=https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/103404/13kurita.pdf|publisher= 千葉大学 |journal= 公共研究 |volume=13 |issue=1 |pages=178 }}</ref>。一方、「中東」を最初に使用した人物は米国の海軍軍人[[アルフレッド・セイヤー・マハン]]で1902年のことといわれているが、その範囲は曖昧であり、厳密な定義をして用いるようになったのは[[イギリス]]の政治行政官である<ref name="kurita" /><ref name="ikeuchi">{{Cite web|和書|author=池内恵|url=https://www.jccme.or.jp/11/pdf/2018-07/josei02.pdf |title=「中東」概念の変容 中国・インドの台頭と「西アジア」の復活?|work=中東協力センターニュース 2018・7|accessdate=2020-07-02}}</ref>。
19世紀の後半から第一次世界大戦にかけての「近東」の概念は、[[トルコ]]やアラブ世界に[[バルカン半島]]を含む地域を言った<ref name="ikeuchi" />。一方、「近東」と並行して用いられる場合の「中東」の概念は、第二次世界大戦後に定着したものとは大きく異なるもので、[[イラン]]や[[コーカサス]]、[[アフガニスタン]]、[[中央アジア]]だけでなく、広義には[[インドシナ半島]]や[[トルキスタン]]に至る地域を含むことがあった<ref name="ikeuchi" /><ref name="hatanaka">{{Cite web|和書|author=畑中美樹|url=https://www.chukeiren.or.jp/wp/wp-content/uploads/2020/01/iinkai_202001.pdf |title=最近の中東情勢と世界経済への波及|work=中経連 2020.1|publisher= 中部経済連合会 |accessdate=2020-07-02}}</ref>。
第二次世界大戦後は中東と近東の区別が曖昧になり、[[ニューヨーク・タイムズ]]は同じ地域に2つの呼称を使用していたが1954年に「中東」に表現を統一した<ref name="hatanaka" />。また、アメリカも1957年のアイゼンハワー・ドクトリンで公式文書として初めて「中東」を使用し、1958年の[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]の見解で「中東」と「近東」は交換可能な用語と説明された<ref name="ikeuchi" />。ただし、「中東」と「中近東」は微妙な違いがあるという指摘もある<ref name="kurita" />。
日本の[[外務省]]による報告書には、[[北アフリカ]]からトルコ、アフガニスタンに到る国家群を「中近東」としている例がみられる<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1995_2/h07-5.htm 日本外交への期待 -新たな時代の祖創造に向けて (V. 中近東)] 『外交青書』 平成8年版(第38号)、外務省、1995年6月</ref>。
== 国家の一覧 ==
以下の分類は一例であり、国 - 首都の順に載せる。
*中東および近東のどちらにも属する国
**{{ISR}} - [[エルサレム]]、[[テルアビブ]]
**{{IRQ}} - [[バグダード|バグダッド]]
**{{SYR}} - [[ダマスカス]]
**{{TUR}} - [[アンカラ]]
**{{PSE}} - [[ラマッラー]]、[[ガザ]]
**{{JOR}} - [[アンマン]]
**{{LBN}} - [[ベイルート]]
*中東に属する国
**{{ARE}} - [[アブダビ]]
**{{YEM}} - [[サナア]]、[[アデン]]([[臨時首都]])
**{{IRN}} - [[テヘラン]]
**{{EGY}}<ref group="注釈">近東にも含む場合もある。</ref> - [[カイロ]]
**{{OMN}} - [[マスカット]]
**{{QAT}} - [[ドーハ]]
**{{KWT}} - [[クウェート市|クウェート]]
**{{SAU}} - [[リヤド]]
**{{BHR}} - [[マナーマ]]
** 拡大中東<ref group="注釈">[[G8]]により提案された拡大中東。</ref>
***{{AFG}} - [[カーブル|カブール]]
***{{DZA}} - [[アルジェ]]
***{{CYP}} - [[ニコシア]]
***{{TRNC}} - [[レフコシャ]]
***{{SDN}} - [[ハルツーム]]
***{{TUN}} - [[チュニス]]
***{{ESH2}} - [[アイウン]]<small>(名目上の首都)</small>、[[ティファリティ]]<small>(暫定的な首都)</small>、[[ティンドゥフ]]<small>(事実上の首都)</small>
***{{DJI}} - [[ジブチ市|ジブチ]]
***{{SOM}} - [[モガディシュ]]
***{{PAK}} - [[イスラマバード]]
***{{MAR}} - [[ラバト]]
***{{MRT}} - [[ヌアクショット]]
***{{LBY}} - [[トリポリ]]
*近東に属する国
**{{AZE}} - [[バクー]]
**{{ARM}} - [[エレバン]]
**{{GEO}} - [[トビリシ]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
* [[近東]]
* [[中東]]
== 外部リンク ==
{{WikinewsPortal}}
* [http://www.meccj.or.jp 中近東文化センター]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちゆうきんとう}}
[[Category:中東|*ちゆうきんとう]]
[[Category:アジアの地域]]
[[Category:アフリカの地域]] | 2003-03-12T16:58:21Z | 2023-11-12T00:24:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%BF%91%E6%9D%B1 |
3,883 | 西アジア | 西アジア(にしアジア、英語: West Asia, Western Asia)は、アジア西部を指す地域区分である。一般的にはアラビア半島およびその周辺の地域を指し、中央アジアおよび南アジアより西側、地中海より東側で、ヨーロッパとはボスポラス海峡に、アフリカとはスエズ運河によって隔てられている。
今日の欧米では、中東とほぼ同じ領域を指す場合が多い。国家としては、イラン(イラン・イスラム共和国)、イラク(イラク共和国)、トルコ(トルコ共和国)、キプロス(キプロス共和国)、シリア(シリア・アラブ共和国)、レバノン(レバノン共和国)、イスラエル(イスラエル国)、ヨルダン(ヨルダン・ハシミテ王国)、サウジアラビア(サウジアラビア王国)、クウェート(クウェート国)、バーレーン(バーレーン王国)、カタール(カタール国)、アラブ首長国連邦、オマーン(オマーン国)、イエメン(イエメン共和国)、パレスチナおよびエジプト(エジプト・アラブ共和国)の一部がここに属す。
また、黒海とカスピ海の間にある(コーカサス山脈の南側)旧ソ連のアゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア(グルジア)を含めることも多く、これらの国々を含めない場合は西南アジアと呼んで区別することもある。国連の定義した区分ではアフガニスタンとイランを南アジアに含むが、日本の外務省による解説ではアフガニスタンを西アジアに分類している。
アフガニスタンは、マザーリシャリーフを中心とする北部では中央アジア最南端の宗教都市がありウズベキスタンと関係が深い。ヘラートを中心とする北西部ではイランにまたがるホラーサーン地方の一部で、イランと関係が深い。カーブルを中心とする南部はカイバル峠を通じて南アジアのパキスタン、インドと繋がりが深い。しかし、普通は19世紀にイギリスの統治下に入ったインド亜大陸を南アジア、北のロシアと清の支配下にあった地域を中央アジアと呼ぶ。アフガニスタンは両国の緩衝帯として独立国のまま残された。
西アジアに該当する地域・国家については以下の通りである。 | [
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] | 西アジアは、アジア西部を指す地域区分である。一般的にはアラビア半島およびその周辺の地域を指し、中央アジアおよび南アジアより西側、地中海より東側で、ヨーロッパとはボスポラス海峡に、アフリカとはスエズ運河によって隔てられている。 | {{出典の明記|date=2021/04/05}}
[[File:Western Asia (orthographic projection).svg|thumb|225px|西アジアの地図]]
[[Image:United Nations geographical subregions.png|thumb|225px|[[国連による世界地理区分]]<ref>{{Cite web |url=https://unstats.un.org/unsd/methodology/m49/ |title=UNSD―Methodology |publisher=United Nations |accessdate=2021-05-02}}</ref>]]
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'''西アジア'''(にしアジア、{{lang-en|West Asia, Western Asia}})は、[[アジア]]西部を指す地域区分である。一般的には[[アラビア半島]]およびその周辺の地域を指し、[[中央アジア]]および[[南アジア]]より西側、[[地中海]]より東側で、[[ヨーロッパ]]とは[[ボスポラス海峡]]に、[[アフリカ]]とは[[スエズ運河]]によって隔てられている<ref>コトバンク [https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2-109347 西アジア]</ref>。
== 概要 ==
今日の[[欧米]]では、[[中東]]とほぼ同じ領域を指す場合が多い。[[国家]]としては、[[イラン]](イラン・イスラム共和国)、[[イラク]](イラク共和国)、[[トルコ]](トルコ共和国)、[[キプロス]](キプロス共和国)、[[シリア]](シリア・アラブ共和国)、[[レバノン]](レバノン共和国)、[[イスラエル]](イスラエル国)、[[ヨルダン]](ヨルダン・ハシミテ王国)、[[サウジアラビア]](サウジアラビア王国)、[[クウェート]](クウェート国)、[[バーレーン]](バーレーン王国)、[[カタール]](カタール国)、[[アラブ首長国連邦]]、[[オマーン]](オマーン国)、[[イエメン]](イエメン共和国)、[[パレスチナ]]および[[エジプト]](エジプト・アラブ共和国)の一部がここに属す。
また、[[黒海]]と[[カスピ海]]の間にある([[コーカサス山脈]]の南側)旧[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[アゼルバイジャン]]、[[アルメニア]]、[[ジョージア (国)|ジョージア]](グルジア)を含めることも多く、これらの国々を含めない場合は[[西南アジア]]と呼んで区別することもある。[[国際連合|国連]]の定義した区分ではアフガニスタンとイランを南アジアに含むが、[[日本]]の[[外務省]]による解説ではアフガニスタンを西アジアに分類している<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/afghanistan/qa.html|title=
アフガニスタンQ&A(FAQ)|accessdate=2022-05-01}}</ref>。
アフガニスタンは、[[マザーリシャリーフ]]を中心とする北部では[[中央アジア]]最南端の[[宗教都市]]があり[[ウズベキスタン]]と関係が深い。[[ヘラート]]を中心とする北西部では[[イラン]]にまたがる[[ホラーサーン]]地方の一部で、イランと関係が深い。[[カーブル]]を中心とする南部は[[カイバル峠]]を通じて南アジアの[[パキスタン]]、[[インド]]と繋がりが深い。しかし、普通は[[19世紀]]に[[イギリス]]の統治下に入った[[インド亜大陸]]を南アジア、北の[[ロシア帝国|ロシア]]と[[清]]の支配下にあった地域を中央アジアと呼ぶ。アフガニスタンは両国の[[緩衝地帯|緩衝帯]]として[[独立国]]のまま残された。
== 該当地域・国家リスト ==
西アジアに該当する地域・国家については以下の通りである。
* {{AFG}}(国連の区分では南アジアに含まれる)
* {{ARE}}
* {{ARM}}([[ソビエト連邦|旧ソ連]]諸国のためヨーロッパに含まれる場合もある)
* {{AZE}}(旧ソ連諸国のためヨーロッパに含まれる場合もある)
* {{BHR}}
* {{CYP}}(ヨーロッパに含まれることもあり、[[欧州連合|EU]]にも加盟している)
** [[File:Flag of the Turkish Republic of Northern Cyprus.svg|25px]] [[北キプロス・トルコ共和国]](事実上の独立国)
** [[File:Flag of the United Kingdom.svg|25px]][[File:Flag of the Dhekelia Garrison.svg|25px]] [[アクロティリおよびデケリア]](イギリスの海外領土)
* {{EGY}}([[スエズ運河]]より西側がアフリカに属する)
* {{GEO}}(旧ソ連諸国のためヨーロッパに含まれる場合もある)
* {{IRN}}(国連の区分では南アジアに含まれる)
* {{IRQ}}
** {{KRD}}
* {{ISR}}
* {{JOR}}
* {{KWT}}
* {{LBN}}
* {{OMN}}
* {{PSE}}
* {{SAU}}
* {{SYR}}
* {{TUR}}([[ボスポラス海峡]]より西側はヨーロッパに属し、ヨーロッパに含まれる事もある)
* {{QAT}}
* {{YEM}}
== 言語 ==
* [[アフロ・アジア語族]]:[[アラビア語]]、[[ヘブライ語]]など
* [[インド・ヨーロッパ語族]]:[[ペルシャ語]]、[[クルド語]]、[[アルメニア語]]など
* [[カフカス諸語]]:[[グルジア語]]など
* [[チュルク語族|テュルク諸語]]:[[トルコ語]]、[[アゼルバイジャン語]]など
== 民族 ==
{{main|中東の民族}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons category|Western Asia}}
* [[中東]]
* [[西南アジア]]
* [[小アジア]]
* [[西アジア・中東史]]
* [[色目人]]
== 外部リンク ==
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/middleeast.html 地域別インデックス(中東)] - [[外務省]]
{{アジア}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:にしあしあ}}
[[Category:西アジア|*]]
[[Category:アジアの地域]] | 2003-03-12T16:58:33Z | 2023-12-02T04:20:59Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2 |
3,884 | 中央アジア | 中央アジア(ちゅうおうアジア、英語: Central Asia)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。
広義には、「アジアの中央部」を意味し、トルキスタン地域のほか、カザフステップ、ジュンガル盆地、チベット、モンゴル高原、アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む。UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアのシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。
トルキスタン地域は東西の2ヶ所に分けられていて、それぞれ「西トルキスタン」「東トルキスタン」と呼ばれている。
西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)。
東トルキスタンは清に併合されて新疆省となり、中華人民共和国のもと、1955年以降新疆ウイグル自治区となっている。
中央アジアの概念はドイツのアレクサンダー・フォン・フンボルトが1843年に提唱した。その他、古生物学などでは、モンゴルを中央アジア、中央アジア5か国を中部アジアと言って区別することがある。
ソビエト連邦は、現代の中央アジア5か国からカザフスタンを除いた地域にあたる、キルギスССР、タジクССР、トルクメンССР、ウズベクССРの4共和国をСредняя Азияと定めていた。一方、より広い範囲(歴史的ロシアに含まれない範囲)を示すЦентральная Азияという語もあった。これらはともに中央アジア (Central Asia) と訳された。
ソビエト連邦の崩壊後、中央アジア5か国はカザフスタンが中央アジアに含まれると宣言した。これが現在もっともよく使われる中央アジアの定義である。
旧ソ連の文献では「スレドニャヤ・アジア(ミドルアジア)」と「ツェントラリナヤ・アジア(中央アジア)」とが使い分けられてもいた。「ソ連中央アジア(ソビエツカヤ・スレドニャヤ・アジア)」という言い方もあった。
UNESCOは、より広い範囲を中央アジアと定めている。それには中央アジア5か国のほか、中国の新疆ウイグル自治区、モンゴル地域(モンゴル国、内蒙古自治区など)、チベット地域(チベット自治区、青海省など)、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インドのジャム・カシミール、ロシアのシベリア南部が含まれる。なお、この範囲が定められたのはソ連崩壊前である。
日本をはじめとする東洋史研究においては従来、中央アジアという概念は、次の3つの観点から用いられてきた。
このような「東西」軸の見方に対して、歴史家間野英二は中央アジア住民が意識していたのはむしろ、北方遊牧民との関係であり、南北軸の見方を提唱しながら、東のゴビ砂漠、西のカスピ海、南のコペト・ダウ、ヒンドゥークシュ山脈、コンロン山脈、北のアルタイ山脈とカザーフ草原に囲まれた地域を、中央アジアとした。
日本の外務省においては、中央アジア5か国は欧州局中央アジア・コーカサス室の管轄となっている。これは旧ソ連諸国が欧州局の管轄である為である。
トルキスタンには、以下の国がある。いずれの国名も「スタン (stan)」で終わっているが、これは「国」を表す語であり、それぞれ特定の民族の国を意味している。
中央アジアの歴史は、「中央アジア」をどう見るかによって様相を異にするが、一般に、ユーラシア大陸内陸部を拠点とする遊牧民族、およびオアシス国家の歴史を指す。
歴史上、中央アジアの遊牧民は、北アジアのモンゴル高原から中央アジア・イラン高原・アゼルバイジャン・カフカス・キプチャク草原・アナトリアを経て東ヨーロッパのバルカンまでを活動領域としてきた。匈奴・サカ・スキタイの時代から、パルティア・鮮卑・突厥・ウイグル・セルジューク・モンゴル帝国などを経て近代に至るまでユーラシア大陸全域の歴史に関わり、遊牧生活によって涵養された馬の育成技術と騎射の技術、卓越した移動力、騎兵戦術に裏打ちされた軍事力、そして交易で歴史を動かしてきた。遊牧民を介してユーラシア大陸の東西はシルクロードなどを用いて交流し、中国の火薬などの技術がモンゴル帝国を通じてヨーロッパに伝わってもいる。 | [
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] | 中央アジアは、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。 | {{出典の明記|date=2022年6月}}
[[File:Central Asia (orthographic projection).svg|thumb|200px|中央アジア]]
[[ファイル:Central Asia borders.png|frame|中央アジアのいくつかの定義。狭い順に<br/>
{{legend|#B08127|ソ連の定義}}{{legend|#DBA63F|現代的な定義}}{{legend|#F8C768|UNESCOの定義}}]]
[[ファイル:Central Asia world region2.png|thumb|中央アジアの位置]]
'''中央アジア'''(ちゅうおうアジア、{{lang-en|Central Asia}})は、[[ユーラシア#ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]また[[アジア]]中央部の[[内陸]]地域である。[[18世紀]]から[[19世紀]]にかけては一般に[[トルキスタン]]<ref group="注釈">'''トルキスタン'''とは「[[チュルク系民族|テュルク]]の土地」を意味し、その名が示す通りにテュルク([[突厥]]他)系民族が居住しており、現今において当該民族の拠点地域は[[トルキスタン#領域|西トルキスタン]]と[[東トルキスタン]]の東西に分割されている。</ref>を指したが<ref>ブリタニカ国際大百科事典、TBSブリタニカ。1995年。</ref>、現在でも使用される。
== 概要 ==
広義には、「アジアの中央部」を意味し、トルキスタン地域のほか、[[カザフステップ]]、[[ジュンガル盆地]]、[[チベット]]、[[モンゴル高原]]、[[アフガニスタン]]北部、[[イラン]]東部、[[南ロシア草原]]を含む<ref name="世界大百科事典・間野">世界大百科事典、平凡社、間野英二執筆記事「中央アジア」</ref>。[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]]はトルキスタン以外にも、[[モンゴル]]地域、[[チベット]]地域、[[アフガニスタン]]、[[イラン]]北東部、[[パキスタン]]北部、[[インド]]北部、[[ロシア]]の[[シベリア]]南部などを中央アジア概念の中に含めている。
{{See also|中央ユーラシア}}
トルキスタン地域は東西の2ヶ所に分けられていて、それぞれ「西トルキスタン」「東トルキスタン」と呼ばれている。
西トルキスタンには、[[ソビエト連邦|旧ソ連]]諸国のうち[[カザフスタン]]、[[キルギス]]、[[タジキスタン]]、[[トルクメニスタン]]、[[ウズベキスタン]]の5か国が含まれる<small>(以下、中央アジア5か国と記す)</small>。
東トルキスタンは[[清]]に併合されて[[新疆省]]となり、[[中華人民共和国]]のもと、1955年以降[[新疆ウイグル自治区]]となっている<ref group="注釈">「中国領トルキスタン」ならびに'''ウイグリスタン'''ともいう。</ref>。
== 定義 ==
[[File:United Nations geographical subregions.png|thumb|225px|[[国連による世界地理区分]]<ref>[http://unstats.un.org/unsd/methods/m49/m49regin.htm UNSD — Methodology]</ref>]]
[[Image:Location-Asia-UNsubregions.png|thumb|225px|[[国際連合]]によるアジアの地域の分類
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{{legend|#FFC000|[[東南アジア]]}}]]
中央アジアの概念は[[ドイツ]]の[[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]が[[1843年]]に提唱した。その他、[[古生物学]]などでは、[[モンゴル国|モンゴル]]を中央アジア、中央アジア5か国を'''中部アジア'''と言って区別することがある。
===旧ソ連における定義===
ソビエト連邦は、現代の中央アジア5か国からカザフスタンを除いた地域にあたる、[[キルギス・ソビエト社会主義共和国|キルギス{{lang|ru|ССР}}]]、[[タジク・ソビエト社会主義共和国|タジク{{lang|ru|ССР}}]]、[[トルクメン・ソビエト社会主義共和国|トルクメン{{lang|ru|ССР}}]]、[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国|ウズベク{{lang|ru|ССР}}]]の4[[共和国]]を{{lang|ru|Средняя Азия}}と定めていた。一方、より広い範囲([[歴史的ロシア]]に含まれない範囲)を示す{{lang|ru|Центральная Азия}}という語もあった。これらはともに中央アジア (Central Asia) と訳された。
[[ソビエト連邦の崩壊]]後、'''中央アジア'''5か国は[[カザフスタン]]が'''中央アジア'''に含まれると宣言した。これが現在もっともよく使われる'''中央アジア'''の定義である。
旧ソ連の文献では「スレドニャヤ・アジア(ミドルアジア)」と「ツェントラリナヤ・アジア(中央アジア)」とが使い分けられてもいた<ref name="世界大百科事典・間野" />。「ソ連中央アジア(ソビエツカヤ・スレドニャヤ・アジア)」という言い方もあった。
=== UNESCOにおける定義 ===
[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]]は、より広い範囲を中央アジアと定めている。それには中央アジア5か国のほか、[[中華人民共和国|中国]]の[[新疆ウイグル自治区]]、[[モンゴル]]地域([[モンゴル国]]、[[内モンゴル自治区|内蒙古自治区]]など)、[[チベット]]地域([[チベット自治区]]、[[青海省]]など)、[[アフガニスタン]]、[[イラン]]北東部、[[パキスタン]]北部、[[インド]]の[[ジャム・カシミール]]、[[ロシア]]の[[シベリア]]南部が含まれる。なお、この範囲が定められたのはソ連崩壊前である。
=== 東洋史研究における定義など ===
日本をはじめとする[[東洋史]]研究においては従来、中央アジアという概念は、次の3つの観点から用いられてきた<ref name="中央アジアの歴史、間野" />。
# [[シルクロード]]などの東西交渉史
# 中国による西域統治史
# トルコ民族史
このような「東西」軸の見方に対して、歴史家[[間野英二]]は中央アジア住民が意識していたのはむしろ、北方遊牧民との関係であり、南北軸の見方を提唱しながら、東の[[ゴビ砂漠]]、西の[[カスピ海]]、南の[[コペト・ダウ]]、[[ヒンドゥークシュ山脈]]、[[コンロン山脈]]、北の[[アルタイ山脈]]と[[カザーフ草原]]に囲まれた地域を、中央アジアとした<ref>間野英二「中央アジアの歴史」講談社,1977年、11頁</ref>。
=== 日本の外務省における管轄 ===
日本の[[外務省]]においては、中央アジア5か国は[[欧州局]]中央アジア・コーカサス室の管轄となっている。これは[[旧ソ連諸国]]が欧州局の管轄である為である<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/sosiki/oushu.html 欧州局|外務省] - 直下の中央アジア・コーカサス室が管轄。</ref>。
== トルキスタン ==
トルキスタンには、以下の国がある。いずれの国名も「[[スターン (地名)|スタン]] (stan)」で終わっているが、これは「国」を表す語であり、それぞれ特定の民族の国を意味している。
* {{KAZ}} - [[カザフ人]]の[[国]]。[[ウラル山脈]]より西側は[[ヨーロッパ]]地域に属している。北部地域を[[北アジア]]に含む場合もある。
* {{KGZ}}([[クルグズスタン]]) - [[キルギス人|クルグズ人]](キルギス人)の国
* {{TJK}} - [[タジク人]]の国。[[ゴルノ・バダフシャン自治州]]は民族的には[[南アジア]]に近く、地理的区分では[[西アジア]]に属す。
* {{TKM}} - [[トルクメン人]]の国
* {{UZB}} - [[ウズベク人]]の国
** {{flag|UZ-QR}} - [[カラカルパク人]]の[[自治共和国]]
== 歴史 ==
{{main|中央アジア史}}
[[File:Central Asia.svg|thumb|350px|中央アジアの国]]
中央アジアの歴史は、「中央アジア」をどう見るかによって様相を異にするが、一般に、ユーラシア大陸内陸部を拠点とする[[遊牧民族]]、および[[オアシス国家]]<ref name="中央アジアの歴史、間野">間野英二「中央アジアの歴史」講談社</ref>の歴史を指す。
歴史上、中央アジアの遊牧民は、[[北アジア]]の[[モンゴル高原]]から中央アジア・[[イラン高原]]・[[アゼルバイジャン]]・[[カフカス]]・[[キプチャク草原]]・[[アナトリア]]を経て[[東ヨーロッパ]]の[[バルカン半島|バルカン]]までを活動領域としてきた。[[匈奴]]・[[サカ]]・[[スキタイ]]の時代から、[[パルティア]]・[[鮮卑]]・[[突厥]]・[[ウイグル]]・[[セルジューク]]・[[モンゴル帝国]]などを経て近代に至るまで[[ユーラシア大陸]]全域の歴史に関わり、遊牧生活によって[[涵養]]された[[馬]]の育成技術と[[騎射]]の技術、卓越した移動力、[[騎兵]]戦術に裏打ちされた軍事力、そして[[交易]]で歴史を動かしてきた。遊牧民を介してユーラシア大陸の東西は[[シルクロード]]などを用いて交流し、[[中国]]の[[火薬]]などの技術が[[モンゴル帝国]]を通じてヨーロッパに伝わってもいる<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=中央アジア史とは |url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E5%8F%B2-1562726 |website=コトバンク |access-date=2022-06-12 |language=ja |last= |publisher=[[日本大百科全書]] (ニッポニカ)}}</ref>。
== 言語 ==
* [[チュルク語族]] - [[カザフ語]]、[[キルギス語]]、[[ウズベク語]]、[[ウイグル語]]、[[トルクメン語]]など
* [[インド・ヨーロッパ語族]]
** [[イラン語派]] - [[タジク語]]など
** [[スラブ語派]] - [[ロシア語]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
<!--
== 参考文献 ==
-->
== 関連項目 ==
* [[グレート・ゲーム]]
* [[マー・ワラー・アンナフル]]
* [[ソグディアナ]]
* [[トゥーラーン]]
* [[色目人]]
* [[西域]]
* [[社会主義法]]
* [[中央アジア協力機構]]
* {{仮リンク|中央アジア地域経済協力機構|en|Central Asia Regional Economic Cooperation Program}}
* [[中央アジア出身者の一覧]]
* {{仮リンク|中央アジアの人口統計|en|Demography of Central Asia}}
* {{仮リンク|中央アジアの映画|en|Cinema of Central Asia}}
* {{仮リンク|中央アジアのスポーツ|en|Sports in Central Asia}}
* {{仮リンク|中央アジアの農業|en|Agriculture in Central Asia}}
* [[中央アジアの美術]]
* {{仮リンク|中央アジアの建築|en|Architecture of Central Asia}}
* {{仮リンク|中央アジアにおける被服|en|Central Asian clothing}}
== 外部リンク ==
* {{Wikivoyage-inline|ja:中央アジア|中央アジア}}
* [http://econgeog.misc.hit-u.ac.jp/excursion/03CentralAsia/index.html 一橋大学経済学部 水岡ゼミナール巡検報告 中央アジア2003夏]
* 斎藤稔、「[https://hdl.handle.net/10114/936 ソ連解体後の中央アジア諸国]」『経済志林』 1997年 65巻 1号 p.111-140, 法政大学経済学部学会, {{ncid|AN00071028}}
* [http://www.ide.go.jp/Japanese/Links/Central_asia/ JETROアジア経済研究所 中央アジアリンク集]
* [http://www.jacas.jp 日本中央アジア学会]
* [http://www.cacri.org 中央アジア・コーカサス研究所]
* {{PDFlink|[http://www.jica.go.jp/publication/archives/jbic/pdf/centralasia_j.pdf 国際協力銀行 中央アジアへの円借款業務]}}
* {{Kotobank}}
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[[Category:中央アジア|*]]
[[Category:中央ユーラシア史|*ちゆうおうあしあ]]
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プリーズ・プリーズ・ミー (曲) - ビートルズの楽曲 | '''プリーズ・プリーズ・ミー'''(Please Please Me)
* [[プリーズ・プリーズ・ミー (アルバム)]] - [[ビートルズ]]のアルバム
* [[プリーズ・プリーズ・ミー (曲)]] - ビートルズの楽曲
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3,894 | 日本郵政公社 | 日本郵政公社(にっぽんゆうせいこうしゃ、英名:Japan Post)は、2003年(平成15年)4月1日から2007年(平成19年)9月30日までの4年半にわたり、日本で郵政三事業(郵便・郵便貯金・簡易保険)を行っていた国営の特殊法人である。コーポレートスローガンは「真っ向サービス」。
2007年(平成19年)10月1日、郵政民営化に伴い日本郵政グループとして日本郵政株式会社、郵便事業株式会社、郵便局株式会社、株式会社ゆうちょ銀行、株式会社かんぽ生命保険へ分割され、日本郵政公社は解散した。これにより、内務省・逓信省以来130年以上にわたり国営によって行われてきた時代の郵政事業は幕を閉じた。
2003年(平成15年)4月1日に日本郵政公社法に基づき、政府の全額出資により総務省の外郭団体として発足された。同時に同施行法の規定に従い、それまで郵政省の郵政関連部門の後継である郵政事業庁(総務省の外局)が行っていた各郵政事業の事務に関し国が有する権利及び義務、並びに簡易保険福祉事業団の資産および債務を承継した。
監督する総務省郵政企画管理局は同郵政行政局となった。同時に郵便貯金・簡易生命保険業務に関する検査の一部を日本郵政公社法により金融庁に委任することになった。
当公社の役職員は、日本郵政公社法第50条で国家公務員の身分が与えられ、役員は特別職、職員は一般職とされた(これは異例であり、本来、公社の役職員は公務員ではなく公社員とされるのが普通である)。
廃止された2007年(平成19年)9月時点において、世界最大の金融機関であった。資産運用もグローバルだった。
なお、日本郵政公社が廃止される時点で保有していた郵便貯金契約および簡易生命保険契約(旧契約)については、独立行政法人郵便貯金簡易生命保険管理・郵便局ネットワーク支援機構(郵政管理・支援機構)が継承し、契約が終了するまで政府保証が残る。
都道府県は支社が所在していた都道府県である。郵政三事業は明治時代から国営で行われてきたこともあり、支社の配置は必ずしも現在の地域情勢を反映したものではなかった。
当公社発足以前より、各種業務受託を行う実質的な関連企業群が存在していたが、出資制限のためいずれも当公社(及び郵政省・郵政事業庁)との直接の資本関係はなかった。
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] | 日本郵政公社は、2003年(平成15年)4月1日から2007年(平成19年)9月30日までの4年半にわたり、日本で郵政三事業(郵便・郵便貯金・簡易保険)を行っていた国営の特殊法人である。コーポレートスローガンは「真っ向サービス」。 2007年(平成19年)10月1日、郵政民営化に伴い日本郵政グループとして日本郵政株式会社、郵便事業株式会社、郵便局株式会社、株式会社ゆうちょ銀行、株式会社かんぽ生命保険へ分割され、日本郵政公社は解散した。これにより、内務省・逓信省以来130年以上にわたり国営によって行われてきた時代の郵政事業は幕を閉じた。 | {{Otheruseslist|2007年9月30日まで存在した公社(特殊法人)|郵政民営化により発足した日本郵政グループの持株会社|日本郵政}}
{{出典の明記|date=2007年10月}}
{{Infobox 組織
|名称 = 日本郵政公社
|正式名称 =
|英文名称 = Japan Post
|ロゴ = [[File:Postal_Mark_(Japan).svg|70px]]
----[[File:Japan Post (Public Corporation).png|250px]]
|ロゴサイズ =
|ロゴ説明 =
|画像 =
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|画像説明 =
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|地図サイズ =
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|地図2サイズ =
|地図2説明 =
|略称 = 郵政公社
|愛称 =
|名の由来 =
|標語 =
|前身 =
|合併先 =
|後継 = [[日本郵政|日本郵政株式会社]](日本郵政グループ)
|設立 = [[2003年]][[4月1日]]
|設立者 =
|設立地 =
|解散 = [[2007年]][[10月1日]]
|合併元 =
|種類 = [[特殊法人]]
|地位 =
|目的 =
|本部 = [[東京都]][[千代田区]][[霞が関#霞が関一丁目|霞が関一丁目]]3番2号
|所在地 =
| 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 =
| 経度度 = |経度分 = |経度秒 =
|会員数 =
|事務局長 =
|幹部呼称 = <!-- 既定値:「会長」 -->
|幹部氏名 =
|人物 = <!-- 重要人物 -->
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|加盟 =
|提携 =
|関連組織 =
|予算 =
|スタッフ = <!-- 職員数 -->
|ボランティア =
|ウェブサイト =
|補足 = <!-- 特記事項 -->
|旧称 =
|注記 = <!-- 注記欄 -->
}}
{{基礎情報 銀行
|
|英項名 = Japan Post
|英名 = Japan Post
|銀行 = 日本郵政公社
|統一金融機関コード = 9900
|SWIFTコード = JPPSJPJ1
|代表者種別 = [[総裁]]
|店舗数 = 国内約2万4700局<br />([[郵便局]]数)
|設立日 = [[2003年]][[4月1日]]
|郵便番号 = 〒100-8798
|所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[霞が関#霞が関一丁目|霞が関一丁目]]3番2号<ref group="注">日本郵政公社では「本部」と呼称</ref>
|特記事項 = [[2007年]](平成19年)[[10月1日]]に<br />[[日本郵政|日本郵政グループ]]に郵政三事業を移管し廃止された
}}
{{ウィキプロジェクトリンク|日本郵政グループ}}
'''日本郵政公社'''(にっぽんゆうせいこうしゃ、英名:'''Japan Post''')は、[[2003年]]([[2003年の日本|平成15年]])[[4月1日]]から[[2007年]]([[2007年の日本|平成19年]])[[9月30日]]までの4年半にわたり、[[日本]]で[[郵政三事業]]([[郵便]]・[[郵便貯金]]・[[簡易保険]])を行っていた国営の[[特殊法人]]である。コーポレート[[スローガン]]は「真っ向サービス」。
2007年(平成19年)[[10月1日]]、[[郵政民営化]]に伴い'''日本郵政グループ'''として[[日本郵政|日本郵政株式会社]]、[[郵便事業|郵便事業株式会社]]{{Efn2|name=jppost2012|郵便事業株式会社・郵便局株式会社は[[2012年]]10月に統合し[[日本郵便|日本郵便株式会社]]となる。}}、[[郵便局 (企業)|郵便局株式会社]]{{Efn2|name=jppost2012}}、[[ゆうちょ銀行|株式会社ゆうちょ銀行]]、[[かんぽ生命保険|株式会社かんぽ生命保険]]へ分割され、日本郵政公社は解散した。これにより、[[内務省 (日本)|内務省]]・[[逓信省]]以来130年以上にわたり国営によって行われてきた時代の郵政事業は幕を閉じた。
==概要==
[[Image:Japan Post.jpg|thumb|240px|日本郵政公社 本社屋]]
[[Image:Nihonyuseikosha.jpg|thumb|240px|日本郵政公社 本社入口]]
[[File:Postoffice logo.gif|thumb|郵便局ロゴマーク]]
[[2003年]](平成15年)4月1日に[[日本郵政公社法]]に基づき、政府の全額出資により[[総務省]]の[[外郭団体]]として発足された。同時に同施行法の規定に従い、それまで[[郵政省]]の郵政関連部門の後継である[[郵政事業庁]]([[総務省]]の外局)が行っていた各郵政事業の事務に関し国が有する権利及び義務、並びに[[簡易保険福祉事業団]]の資産および債務を承継した。
監督する総務省[[郵政企画管理局]]は同[[郵政行政局]]となった。同時に郵便貯金・簡易生命保険業務に関する検査の一部を[[日本郵政公社法]]により[[金融庁]]に委任することになった。
当公社の役職員は、日本郵政公社法第50条で[[国家公務員]]の身分が与えられ、役員は[[特別職]]、職員は[[一般職]]とされた(これは異例であり、本来、公社の役職員は公務員ではなく公社員とされるのが普通である)。
廃止された[[2007年]](平成19年)9月時点において、世界最大の[[金融機関]]であった。資産運用もグローバルだった{{efn2|2003年11月に公募していた[[投資顧問会社]]及び資産管理銀行の選定を公表している。
:まず[[郵便貯金]]について。
::・投資顧問会社8社(国内株式:[[シュローダー]]投信投資顧問株式会社、大和住銀投信投資顧問株式会社、[[日興アセットマネジメント]]株式会社、[[三井住友アセットマネジメント]]株式会社、[[メリルリンチ]]・インベストメント・マネージャーズ株式会社、[[UFJ]]アセットマネジメント株式会社。外国株式:興銀第一ライフ・アセットマネジメント株式会社、[[ゴールドマン・サックス]]・アセット・マネジメント株式会社。)
::・資産管理銀行4社([[資産管理サービス信託銀行]]、[[ステート・ストリート]]信託銀行、[[日本トラスティ・サービス信託銀行]]、[[日本マスタートラスト信託銀行]])
:次に[[簡易生命保険]]について。
::・投資顧問会社8社(国内株式:ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント株式会社、シュローダー投信投資顧問株式会社、大和住銀投信投資顧問株式会社、[[富士投信投資顧問]]株式会社、メリルリンチ・インベストメント・マネージャーズ株式会社。外国株式:興銀第一ライフ・アセットマネジメント株式会社、ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント株式会社、大和住銀投信投資顧問株式会社、[[東京海上アセットマネジメント]]投信株式会社、メリルリンチ・インベストメント・マネージャーズ株式会社。外国債券:興銀第一ライフ・アセットマネジメント株式会社、ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント株式会社、富士投信投資顧問株式会社、[[三井住友アセットマネジメント]]株式会社。)
::・資産管理銀行2社(資産管理サービス信託銀行、ステート・ストリート信託銀行)
:出典の下記プレスリリースは「ユーザー名」「パスワード」が求められるが、どちらとも半角英文字の「guest」を入力することにより閲覧できる。
:日本郵政公社 [http://www.japanpost.jp/pressrelease/past/document/pressrelease/japanese/kawase/040331j301.html 投資顧問会社及び資産管理銀行の選定について] 2004年3月31日
:運用状況は「金銭の信託の委託先別時価残高及び運用実績」と「金銭の信託の委託先別報酬額」を参照されたい。 日本郵政 [http://www.japanpost.jp/financial/past/disclosure/ 旧日本郵政公社ディスクロージャー誌]}}。
なお、日本郵政公社が廃止される時点で保有していた[[郵便貯金]]契約および[[簡易保険|簡易生命保険]]契約(旧契約)については、[[独立行政法人]][[郵便貯金簡易生命保険管理・郵便局ネットワーク支援機構]](郵政管理・支援機構)が継承し、契約が終了するまで政府保証が残る。
===民営化までの歩み===
*[[2005年]](平成17年)[[10月14日]] - 郵政民営化関連法可決・成立
*[[2006年]](平成18年)
**[[1月23日]] - 民営化の企画準備を行う「日本郵政株式会社」が発足
**[[9月1日]] - ゆうちょ銀行の準備会社として「株式会社ゆうちょ」が、かんぽ生命保険の準備会社として「株式会社かんぽ」がそれぞれ設立される
*[[2007年]](平成19年)
**[[9月10日]] - 民営化計画が内閣によって承認される
**[[9月28日]] - 通常の窓口営業が終了
**[[9月30日]]
***終日 郵政公社が直接設置した[[現金自動預払機]](ATM)の稼動を休止
***12時半 民営化準備のため[[ゆうゆう窓口]]を閉鎖、公社としての窓口営業を完全終了
***20時 郵便貯金ATMの取扱の通常終了時間。この時点をもって、日本郵政公社としての事業は完全に終える
**[[10月1日]] - 日本郵政株式会社が[[持株会社]]としてグループ経営を開始。その下に「郵便事業株式会社」並びに「郵便局株式会社」が設立。株式会社ゆうちょは「株式会社ゆうちょ銀行」に、株式会社かんぽは「株式会社かんぽ生命保険」にそれぞれ社名変更。[[郵政三事業]]が移管され、日本郵政公社は廃止された。
===総裁===
;総裁
*初代:[[生田正治]](2003.4 - 2006.3)
*第2代:[[西川善文]](2006.4 - 2007.9)
;副総裁
*[[高橋俊裕]](2003.4 - 2007.3)
*[[團宏明]](2003.4 - 2007.9)
*[[高木祥吉]](2007.4 - 2007.9)
===支社===
'''都道府県'''は支社が所在していた都道府県である。郵政三事業は明治時代から国営で行われてきたこともあり、支社の配置は必ずしも現在の地域情勢を反映したものではなかった。
;北海道支社(札幌市中央区)
:'''[[北海道]]'''
;東北支社(仙台市青葉区)
:[[青森県]] - [[岩手県]] - '''[[宮城県]]''' - [[秋田県]] - [[山形県]] - [[福島県]]
;関東支社(さいたま市中央区)
:[[茨城県]] - [[栃木県]] - [[群馬県]] - '''[[埼玉県]]''' - [[千葉県]]
;'''東京支社(東京都港区''':[[2005年]](平成17年)[[5月6日]]に千代田区より移転''')'''
:'''[[東京都]]'''
;南関東支社(横浜市西区)
:'''[[神奈川県]]''' - [[山梨県]]
;北陸支社(金沢市)
:[[富山県]] - '''[[石川県]]''' - [[福井県]]
;信越支社(長野市)
:[[新潟県]] - '''[[長野県]]'''
;東海支社(名古屋市中区)
:[[岐阜県]] - [[静岡県]] - '''[[愛知県]]''' - [[三重県]]
;近畿支社(大阪市中央区)
:[[滋賀県]] - [[京都府]] - '''[[大阪府]]''' - [[兵庫県]] - [[奈良県]] - [[和歌山県]]
;中国支社(広島市中区)
:[[鳥取県]] - [[島根県]] - [[岡山県]] - '''[[広島県]]''' - [[山口県]]
;四国支社(松山市)
:[[徳島県]] - [[香川県]] - '''[[愛媛県]]''' - [[高知県]]
;九州支社(熊本市)
:[[福岡県]] - [[佐賀県]] - [[長崎県]] - '''[[熊本県]]''' - [[大分県]] - [[宮崎県]] - [[鹿児島県]]
;'''沖縄支社(那覇市''':[[2004年]](平成16年)[[7月1日]]に沖縄事務所から昇格''')'''
:'''[[沖縄県]]'''
===付属・関連団体===
*[[郵政大学校]]・中央郵政研修所
*[[逓信総合博物館]](ていぱーく)
*[[郵政総合研究所]]
*[[東京逓信病院]]
*[[札幌逓信病院]]
*[[仙台逓信病院]]
*横浜逓信病院
*[[新潟逓信病院]]
*富山逓信病院
*[[名古屋逓信病院]]
*[[京都逓信病院]]
*[[大阪北逓信病院]]
*[[神戸逓信病院]]
*[[広島逓信病院]]
*[[徳島逓信病院]]
*[[福岡逓信病院]]
*鹿児島逓信病院
== 関連会社 ==
当公社発足以前より、各種業務受託を行う実質的な関連企業群が存在していたが、出資制限のためいずれも当公社(及び郵政省・郵政事業庁)との直接の資本関係はなかった。
=== システム保守・開発 ===
*日本オンライン整備
*ぱるオンライン
*[[日本郵政インフォメーションテクノロジー|ピーエヌシー]]
*日本情報通信開発
*日本電子総合サービス
=== 郵便物輸送 ===
民営化後は、中核的な企業14社が合併し、[[日本郵便|日本郵便株式会社]]の完全子会社である[[日本郵便輸送]]となった。
*[[日本郵便逓送]]
*北海道郵便逓送(札幌・小樽・倶知安・苫小牧・室蘭・岩見沢・旭川・稚内・函館・長万部・網走・帯広・釧路)
*北見郵便逓送(北見・紋別・遠軽)
*北海道エアメール
*青森郵便自動車(青森・弘前)
*南福島郵便輸送
*常磐郵便輸送
*群馬郵便逓送
*東京郵便輸送
*日本エアメール
*千葉郵便輸送
*関東郵便輸送
*神奈川郵便輸送
*[[東海輸送]](資本上は[[東海自動車]][小田急グループ]関連会社)
*新潟郵便輸送
*上越郵便輸送
*南信郵便逓送
*福井郵便逓送
*名古屋郵便輸送
*大阪郵便輸送
*阪和郵便輸送
*日大運送
*[[奈良郵便輸送]](資本上は[[奈良交通]][近鉄グループ]関連会社)
*神姫逓送(兵庫県姫路市周辺 資本上は[[神姫バス]]関連会社)
*岡山郵便輸送
*山口郵便逓送
*成邦
*宮崎郵便逓送
*鹿児島郵便逓送(資本上は[[いわさきコーポレーション|いわさきグループ]])
*沖縄郵便逓送
*[[日本高速物流]]
*東北高速道郵便輸送
*東京高速郵便輸送
*北陸高速道郵便輸送
*東海高速郵便輸送
*北海道高速郵便輸送
*近畿高速郵便輸送
*大阪エアメール
*中国高速郵便輸送
*四国高速道郵便輸送
*九州高速郵便輸送
=== 局舎管理・物品納入 ===
*メルファム
=== 損害保険代理業 ===
*青和
==備考==
*[[2007年]](平成19年)5月の[[ゴールデンウィーク]]時の[[現金自動預払機]]の稼動休止の案内CMと郵政民営化の案内CMは[[倍賞千恵子]]がナレーションした。
==関連団体==
===外郭団体===
*[[郵政福祉]]
*郵便貯金振興会
*国際ボランティア貯金普及協会
===労働組合===
*[[日本郵政公社労働組合]](旧 全逓信労働組合)([[日本労働組合総連合会|連合]]系)
*[[全日本郵政労働組合]]([[日本労働組合総連合会|連合]]系)
*[[郵政産業労働組合]]([[全国労働組合総連合|全労連]]系)
*[[郵政労働者ユニオン]]([[全国労働組合連絡協議会 (1989-)|全労協]]系)
*郵政倉敷労働組合([[独立]]系)
*郵政非正規ユニオン([[全国一般労働組合全国協議会]]系)
*NPO法人ゆうせい非正規労働センター
===その他===
*[[全国特定郵便局長会]]
==職員採用試験==
*郵政総合職
*郵政一般職
*郵政短時間職(扱いは非常勤職員)
== 不祥事 ==
* [[Winny#被害実態|ファイル共有ソフトの使用]]による[[Antinny#被害の状況|コンピュータウィルス感染]]と[[情報漏洩]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
== 参考文献 ==
*日本郵政公社のディスクロージャー誌 『日本郵政公社2004』~『同2007』 日本郵政公社広報部門広報部発行
==関連項目==
{{wikinews|日本郵政公社、郵便局を再編}}
*[[日本郵政|日本郵政株式会社]]
*[[郵政三事業]]
*[[郵便]]
*[[郵便局]]
*[[郵便貯金]]
*[[簡易保険]]
*[[郵政監察制度]]
*[[郵政民営化]]
*[[郵便記号|郵便記号(〒)]](日本郵政公社のシンボルマーク)
*[[総務省]] - [[郵政行政部]]
*[[万国郵便連合]]
*[[特定郵便局]]
*[[こども郵便局]]
*[[ゆうメイト]]
*[[訓練道場]]
*[[Japan Post System]]
*[[千代田霞が関郵便局]] - 本社ビル内にある[[郵便局]]。[[2007年]](平成19年)[[7月30日]]に改称されるまでは日本郵政公社内郵便局であった。
*[[橋本龍太郎]]
*[[アメリカ合衆国郵便公社]]
== 外部リンク ==
*[http://jpgroup.jp/index.html 日本郵政グループ]
*[https://www.japanpost.jp/index.html 日本郵政]
**[http://www.japanpost.jp/financial/past/index.html 日本郵政サイト内の旧公社に関する情報]
{{日本郵政グループ}}
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[[Category:総務省]]
[[Category:金融庁]]
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[[Category:日本の保険業者|廃につほんゆうせいこうしや]]
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[[Category:2003年設立の企業]]
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3,897 | 小西康陽 | 小西 康陽(こにし やすはる、1959年2月3日 - )は、日本の音楽家。北海道札幌市生まれ(ただし、1990年代の文献では「東京都生まれ」とされているものもある)。幼少期から中学途中までは東京都渋谷区で育つ。北海道札幌南高等学校卒業、青山学院大学卒業。妻は、レディメイド・エンタテインメントの代表取締役で文筆家の長谷部千彩。
印刷業を営む両親の息子として札幌に生まれる。父親は釧路市、母親は東京都出身。両親の意向により、3歳の時に東京都渋谷区恵比寿の母親の実家に移り、母方の祖母と2人の伯母に育てられる。港区立神応小学校卒業。小学校5年生の頃に音楽に目覚め、以降レコード・コレクションを始める。また、漫画にも熱中し、雑誌『COM』や『ガロ』、24年組の少女漫画などを読み耽る。中学2年の時に札幌市に移り、高校時代まで過ごした。
1年の浪人の後、青山学院大学経営学部に入学。サザンオールスターズを生んだ音楽サークル「ベターデイズ」に所属。後に8 1/2に参加する鈴木智文や、ピチカート・ファイヴを共に結成する高浪慶太郎、鴨宮諒、宮田繁男らと知り合う。
大学3年生の頃から映画マニアになり、ミュージシャンデビューする25歳までの間、名画座を渡り歩き年間200本もの映画を観る。大学卒業時には、日活の助監督試験を受験した。
筒美京平に憧れて、仲間と作っていた「デモテープ制作集団」を、1984年にピチカート・ファイヴと命名し、細野晴臣のレーベルノン・スタンダードから1985年メジャー・デビュー。以降、幾度ものメンバーチェンジを繰り返しながら、2001年に解散するまでリーダーとして在籍した。2人編成時代は「ピチカート・ファイヴで2番目に人気のあるメンバー」と自虐的な発言もしていた。
ピチカート・ファイヴ解散後もそのマニアックな才能とキャラクターを活かし、ドラマや映画のサントラの他、CM曲や数々のリミックスアルバムに多数参加している。ヨーロッパやアメリカを中心に、海外での人気も高いミュージシャンでもあり、プロモーション・ビデオなどでのアートワークや映画評論、コラムなど多彩な活動を行っている。
2009年12月に、ビクターエンタテインメントへ移籍し、新レーベルREADYMADE-VICTOR INCORPORATED COMPANYの略である(レディメイドが/ビクターで/いろいろ出しますの意味を持つ)「READYMADE V.I.C.」を設立。2010年3月にはリミックスワーク集である『ATTRACTIONS! KONISHI YASUHARU Remixies 1996-2010』をリリースし、2011年3月31日、ユニバーサルミュージックに「PIZZICATO ONE」プロジェクトを立ち上げ、自身初のソロアルバム「11のとても悲しい歌」を5月25日にリリースした。
「1974年以降の音楽は聴かない」と公言するものの、無類のレコードコレクターとして、また、その独特のリミックスセンスを生かして、趣味をかねて東京都内(例:渋谷OTOなど)や海外のクラブでDJを務めることも多く、音楽業界のみならず、クラブ業界でも大物の1人として認識されている。DJとしては須永辰緒と大変親しく、須永同様「レコード番長」の名を冠する大物DJである。 2011年11月16日にDJ Duo NOEL & GALLAGHER 名義でDJ NOELこと 辻一臣とともに『Play Loud』をリリース。各CD・レコード店で軒並みSOLD OUT。雑誌「groove」にもソロ・インタビューや対談で登場した。 | [
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] | 小西 康陽は、日本の音楽家。北海道札幌市生まれ(ただし、1990年代の文献では「東京都生まれ」とされているものもある)。幼少期から中学途中までは東京都渋谷区で育つ。北海道札幌南高等学校卒業、青山学院大学卒業。妻は、レディメイド・エンタテインメントの代表取締役で文筆家の長谷部千彩。 | {{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 -->
| 名前 = 小西 康陽
| 画像 =
| 画像説明 =
| 画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 -->
| 画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
| 背景色 = maker<!-- singer/group/bandなど -->
| 出生名 = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 -->
| 別名 =
| 出生 = {{生年月日と年齢|1959|2|3}}
| 出身地 = {{JPN1947}}[[北海道]][[札幌市]]
| 死没 = <!-- 個人のみ --><!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} -->
| 学歴 = [[青山学院大学]]経営学部
| ジャンル = [[渋谷系]]
| 職業 = [[作詞家]]<br>[[作曲家]]<br>[[編曲家]]<br>[[音楽プロデューサー]]<br>[[ベーシスト]]
| 担当楽器 = [[ベース (弦楽器)|ベース]]<br>[[ギター]]<br>[[キーボード (楽器)|キーボード]]<br />[[ボーカル]]
| 活動期間 = [[1978年]] -
| レーベル =
| 事務所 =
| 共同作業者 = [[ピチカート・ファイヴ]]([[1985年]] - [[2001年]])
| 公式サイト = {{URL|https://www.readymade.co.jp/|readymade.co.jp}}
| メンバー = <!-- グループのみ -->
| 旧メンバー = <!-- グループのみ -->
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}}
'''小西 康陽'''(こにし やすはる、[[1959年]][[2月3日]] - )は、[[日本]]の[[音楽家]]。[[北海道]][[札幌市]]生まれ<ref>[http://www.hmv.co.jp/news/article/1105100024/ HMV&BOOKS online 【インタビュー】小西康陽.]</ref>(ただし、1990年代の文献では「[[東京都]]生まれ」とされているものもある<ref>『[[SPA!]]』、1995年7月19日号、128頁</ref>)。幼少期から中学途中までは[[東京都]][[渋谷区]]で育つ<ref name="bokuha72">『ぼくは散歩と雑学が好きだった。』 72ページ。</ref>。[[北海道札幌南高等学校]]卒業、[[青山学院大学]]卒業。妻は、[[レディメイド・エンタテインメント]]の代表取締役で文筆家の[[長谷部千彩]]。
== プロフィール ==
=== デビュー以前 ===
印刷業を営む両親の息子として[[札幌市|札幌]]に生まれる。父親は[[釧路市]]、母親は[[東京都]]出身<ref>『[[北海道新聞]]』 1997年4月12日</ref>。両親の意向により、3歳の時に[[東京都]][[渋谷区]][[恵比寿 (渋谷区)|恵比寿]]の母親の実家に移り、母方の祖母と2人の伯母に育てられる<ref name="bokuha72"/>。[[港区立神応小学校]]卒業<ref name="bokuha70">『ぼくは散歩と雑学が好きだった。』 70ページ。</ref>。小学校5年生の頃に音楽に目覚め、以降レコード・コレクションを始める。また、漫画にも熱中し、雑誌『[[COM (雑誌)|COM]]』や『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』、[[24年組]]の少女漫画などを読み耽る。中学2年の時に札幌市に移り、高校時代まで過ごした<ref name="bokuha72"/>。
1年の浪人の後、[[青山学院大学]]経営学部に入学。[[サザンオールスターズ]]を生んだ音楽サークル「ベターデイズ」に所属。後に[[8 1/2 (バンド) |8 1/2]]に参加する[[鈴木智文]]や、ピチカート・ファイヴを共に結成する[[高浪慶太郎]]、[[鴨宮諒]]、[[宮田繁男]]らと知り合う。
大学3年生の頃から映画マニアになり、ミュージシャンデビューする25歳までの間、[[名画座]]を渡り歩き年間200本もの映画を観る。大学卒業時には、[[日活]]の[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]試験を受験した。
=== ピチカート・ファイヴ ===
[[筒美京平]]に憧れて、仲間と作っていた「デモテープ制作集団」を、1984年に[[ピチカート・ファイヴ]]と命名し、[[細野晴臣]]のレーベル[[ノン・スタンダード]]から[[1985年]]メジャー・デビュー。以降、幾度ものメンバーチェンジを繰り返しながら、[[2001年]]に解散するまでリーダーとして在籍した。2人編成時代は「ピチカート・ファイヴで2番目に人気のあるメンバー」と自虐的な発言もしていた<ref>アルバム『HAPPY END OF THE WORLD』の[[隠しトラック|シークレットトラック]]における発言など</ref>。
=== ピチカート・ファイヴ解散後 ===
ピチカート・ファイヴ解散後もそのマニアックな才能とキャラクターを活かし、ドラマや映画のサントラの他、CM曲や数々の[[リミックス]][[アルバム]]に多数参加している。[[ヨーロッパ]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を中心に、海外での人気も高いミュージシャンでもあり、[[ミュージック・ビデオ|プロモーション・ビデオ]]などでのアートワークや映画評論、コラムなど多彩な活動を行っている。
2009年12月に、[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント]]へ移籍し、新レーベルREADYMADE-VICTOR INCORPORATED COMPANYの略である(レディメイドが/ビクターで/いろいろ出しますの意味を持つ)「'''READYMADE V.I.C.'''」を設立。2010年3月にはリミックスワーク集である『[[ATTRACTIONS! KONISHI YASUHARU Remixies 1996-2010]]』をリリースし、2011年3月31日、[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]に「'''PIZZICATO ONE'''」プロジェクトを立ち上げ、自身初のソロアルバム「11のとても悲しい歌」を5月25日にリリースした。
==== アルバム ====
* [[裸の王様・王様のアイデア〜小西康陽の仕事1987-1994(ソニー・ミュージック編)]]、{{Start date|1995|11|1}}
* [[ATTRACTIONS! KONISHI YASUHARU Remixies 1996-2010]]、2010年3月
* 11のとても悲しい歌 (PIZZICATO ONE)、2011年5月
* わたくしの二十世紀 (PIZZICATO ONE)、2015年6月
* [[素晴らしいアイデア 小西康陽の仕事1986-2018]]、2018年6月6日 - 5CD:MHCL-30501 ※小西がこれまでに作詞、作曲、編曲で携わった歴代作品の中から90曲を収録したコンピレーションボックス。[[ブルースペックCD|Blu-spec CD2]]による完全生産限定盤<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/281103 |title=小西康陽「素晴らしいアイデア」にNegicco、小倉優子らの貴重デモ音源 |work=[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |publisher=株式会社ナターシャ |accessdate=2018-05-07 |date=2018-05-08}}</ref>。
*前夜 ピチカート・ワン・イン・パースン (PIZZICATO ONE)、2020年6月
=== DJ ===
「1974年以降の音楽は聴かない」と公言するものの、無類のレコードコレクターとして、また、その独特のリミックスセンスを生かして、趣味をかねて[[東京都]]内(例:[[渋谷]]OTOなど)や海外の[[クラブ]]で[[ディスクジョッキー|DJ]]を務めることも多く、音楽業界のみならず、クラブ業界でも大物の1人として認識されている。DJとしては[[須永辰緒]]と大変親しく、須永同様「'''レコード番長'''」の名を冠する大物DJである。
2011年11月16日にDJ Duo [[NOEL & GALLAGHER]] 名義で[[DJ NOEL]]こと [[辻一臣]]とともに『Play Loud』をリリース。各CD・レコード店で軒並みSOLD OUT。雑誌「groove」にもソロ・インタビューや対談で登場した。
== プロデュースしたアーティスト ==
* [[akiko (ジャズ歌手)|akiko]]
* [[YeLLOW Generation]] -『Dual』
* [[エイジアエンジニア]]
* [[Every Little Thing]]
* [[小倉優子]] - 『[[オンナのコ♡オトコのコ]]』
* [[香取慎吾]](※[[慎吾ママ]]および[[両津勘吉|両さん]]名義)
* [[かまやつひろし]]
* [[ザ・コレクターズ|ザ・コレクターズ(THE COLLECTORS)]] - 『[[COLLECTOR NUMBER.5]]』
* [[ポカスカジャン]] - 「[[ガリガリ君]]のうた」
* [[チェブラーシカ]]
* [[Chappie]] - 『The International Chappie's Cheer-leading Team』
* [[TOKIO]] - 『[[TOK10]]』<small>(「[[涙くんさよなら]]」「[[よろしく哀愁]]」「[[パラダイス銀河]]」)</small>
* [[中シゲヲ]]
* [[夏木マリ]] - 『13シャンソンズ』『パロール』『戦争は終わった』
* [[Negicco]] - 『[[アイドルばかり聴かないで]]』
* [[野宮真貴]]
* [[野本かりあ]]
* [[BAZAAR (バンド)|BAZAAR]]
* [[花田裕之]]
* [[林未紀]]
* [[Hippy Hippy Shakes]]
* [[弘田三枝子]]
* [[和田アキ子]] - 『フリー・ソウル』
* [[The Phantom Gift]] - 『ザ・ファントムギフトの世界』
* [[深田恭子]] - 『[[キミノヒトミニコイシテル]]』・『[[ルート246]]』
* [[MEG (歌手・ファッションデザイナー)|MEG]] - 『[[ルージュの伝言]]』『夏が終わる』『[[私がオバさんになっても]]』
* [[水森亜土]] - 『すきすきソングス』
=== 楽曲提供 ===
<!--アルバム向け楽曲などCDタイトル全体へのプロデュースが及ばないもの-->
* [[小泉今日子]] - 「CDJ」(『[[KOIZUMI IN THE HOUSE]]』収録)
* [[戸川京子]] - 「動物園の鰐」(『涙。』収録)
* [[松本伊代]] - 「有給休暇」(『Private file』収録)、「カーマイン・ローション」(『Mariage〜もう若くないから』収録)
* [[カルロス・トシキ&オメガトライブ]] - 「Bad Girl」※作詞
* [[三浦理恵子]] - 「日曜はダメよ」※作詞・作曲
* [[クレイジーケンバンド]] - 「ショック療法」
* [[クレモンティーヌ]] - 「Un Homme Et Une Femme (Readymade One Man DJ Show Mix)」
* [[小山田圭吾|コーネリアス]] - 「HOW DO YOU FEEL?」(「[[69/96]]」収録)※作詞
* [[細川ふみえ]] -「スキスキスー」
* [[SMAP]] - 「[[SMAP 015/Drink! Smap!|theme of 015]]」
* [[SMOOTH ACE]]
* [[ZARD]]
* 香取慎吾 - 「慎吾ママのおはロック」※作詞・作曲
* [[TV.Jesus|T.V.Jesus]]
* [[中谷美紀]] - 「逢いびきの森で」
* [[観月ありさ]] - 「遠い記憶」※作曲、「パリの恋人/トーキョーの恋人」、「Friend and Lover」、「甘い記憶」※作曲・編曲(全て『ARISA III LOOK』収録)
* [[池田聡]] - 「A love supreme - 至上の愛」
* [[及川光博]] - 「ザッツ・エンタテインメント。」
* [[加藤紀子]] - 「いつか王子様が」※作詞・作曲・編曲
* [[ミズノマリ]]([[paris match]])
* [[水森亜土]]
* [[宮村優子 (声優)|宮村優子]]
* [[YOU THE ROCK★]]
* [[吉村由美]]([[PUFFY]])
* [[吉岡忍 (歌手)|吉岡忍]]
* [[小林恵美]]
* [[篠原ともえ]] - 「[[MEGAPHONE SPEAK|メトロの娘]]」
* [[ジュディ・オング]]
* [[陣内孝則]]
* [[speena]]
* [[米川英之]] - 「Shadow of Your Smile」・「真夜中へ8マイル」([[Sweet Voyage]]収録)、「夜の匂い」※作詞
* [[美少女戦士セーラームーンCrystal|ちびうさ]] (CV.福圓美里) - 「乙女のススメ」(作詞:こだまさおり・小西康陽 作曲・編曲:小西康陽)
* [[CULEN#新しい地図|新しい地図]]([[稲垣吾郎]]・[[草彅剛]]・[[香取慎吾]])-「[[72時間ホンネテレビ#72|72]]」([[72時間ホンネテレビ]]・テーマソング)
* [[MELLOW MELLOW]] - 「最高傑作」※作詞・作曲・編曲
* [[松浦亜弥]] - 「[[ね〜え?]]」※編曲
== 劇伴作曲 ==
* [[喰いタン (テレビドラマ)|喰いタン -食通探偵の推理紀行-]]
* [[シュガシュガルーン|シュガシュガルーン -SUGAR×2 RUNE-]]
* [[シティボーイズ]]・ライブ - 1992-1997年,1999年の舞台公演
* [[正義の味方 (漫画)|正義の味方]]
* [[少年頭脳カトリ]]
* [[不機嫌なジーン]](※サントラ作品では未収録である)
* [[アキハバラ@DEEP]]
* [[TALK LIKE SINGING]](※音楽監督、作曲担当。脚本、作詞:[[三谷幸喜]]、主演:[[香取慎吾]])
* [[ONE PIECE FILM STRONG WORLD]]・オープニングテーマ曲担当。
* [[デカワンコ]]
* [[東京全力少女]]
* [[戦力外捜査官#テレビドラマ|戦力外捜査官]]
* [[でぶせん]]
* [[二月の勝者-絶対合格の教室-#テレビドラマ|二月の勝者-絶対合格の教室-]]<ref name="add">{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/news/detail/1048625/|title=柳楽優弥主演ドラマ「二月の勝者」放送開始日&追加キャスト解禁!『無事に撮影の日が迎えられてうれしく思います』|website=[[ザテレビジョン|WEBザテレビジョン]]|work=[[KADOKAWA]]|date=2021-09-01|accessdate=2021-09-01}}</ref>
== 主なリミックス作品 ==
* [[m-flo]] - 「Hands(readymade JBL mix 2000 by Konishi Yasuharu)」「One Sugar Dream(Readymade Pot-Pourri of the Beats by KONISHI YASUHARU)」
* [[エレキハチマキ]] - 「(It's a)Gloomy day(It's a Groovy readymade bikker mix by Yasuharu Konishi)」
* [[カヒミ・カリィ|Kahimi karie]] - 「One thousand 20th Century Chairs(Remixed by Konishi Yasuharu)」
* [[キリンジ]] - 「君の胸に抱かれたい〜エイリアンズ(readymade 524 mix double by KONISHI yasuharu)」
* [[クレモンティーヌ]] - 「男と女(Readymade one man DJ show mix by KONISHI YASUHARU)」「ラ・フレット(Readymade ORGAN BAR MIX by KONISHI YASUHARU)」
* [[小山田圭吾|コーネリアス]] - 「Count 5,6,7,8.(remixed by KONISHI YASUHARU)」
* [[coba]] - 「K jungle(the Sound of Readymade Mix by 初代Konishi Yasuharu)」
* [[ザ・コレクターズ|THE COLLECTORS]] - 「シャドウマン 〜Konishi,Yasuharu remix〜」
* [[高中正義]] - 「BLUE LAGOON(readymade 524 mix:YASUHARU KONISHI)」
* [[松平健]] - 「マツケンサンバII "READYMADE SHOGUN MIX2004" Remixed by KONISHI yasuharu」「マツケンサンバ3(readymade SHOGUN MIX 2005 by KONISHI yasuharu)」「マツケンのAWA踊り(Readymade暴れん坊 jump up 2006 Remixed by KONISHI yasuharu)」
* [[モダンチョキチョキズ]] - 「自転車に乗って、(remixed by KONISHI yasuharu)」
* [[ジャクソン5]] - 「I Want You Back(readymade 524 mix:YASUHARU KONISHI)」「ABC(readymade super 524 mix:KONISHI yasuharu)」
* [[テレックス (ベルギーのバンド)|TELEX]] - 「Twist A Saint-Tropez(Readymade ; Twist A Tokyo Mix)」
* [[トム・ジョーンズ (歌手)|トム・ジョーンズ]] - 「Tom Jones International(READYMADE 524 mix by KONISHI yasuharu)」
* [[ZARD]] - 「Can’t take my eyes off of you」「Can’t take my eyes off of you(readymade wizard mix)」
* [[イエロー・マジック・オーケストラ|YMO]] - 「テクノポリス(THE READYMADE/DARLIN' OF DISCOTIQUE TRACK by KONISHI YASUHARU)」
* [[猫沢エミ]] - 「Robot(the readymade mon ami robotique remix by KONISHI yasuharu)」
* [[PUFFY]] - 「サーキットの娘(The Readymade JBL Mix '99 by KONISHI YAUSHARU)」「これが私の生きる道(The Readymade. Darlin' of Discotheque Track by KONISHI YASUHARU)」「ブギウギNo.5(readymade all that jazz 2003 by KONISHI YAUSHARU)」「Your love is a drug(readymade acid tect 2003 by KONISHI YASUHARU)」「HiHi(readymade toon jingle 2005 by KONISHI yasuharu)」
* [[弘田三枝子]] - 「レオのうた(readymade JBL mix by KONISHI YAUSHARU)」
* [[福富幸宏]] - 「Brasilia 2000(Readymade All That Jazz by Yasuharu Konishi)」
* [[breat]] - 「愛の言葉(readymade 524 mix by Yasuharu Konishi)」
* [[スプリームス|ダイアナ・ロス&ザ・スプリームス]] - 「You Can't Hurry Love(READYMADE RE-EDIT by KONISHI yasuharu)」
* [[エイジアエンジニア]] - 「Grooving Loop(READYMADE WEEKEND MIX 2005 by KONISHI yasuharu)」「MOMI MOMI Fantastic(readymade モミモmix by KONISHI yasuharu)」
* [[ECD (ミュージシャン)|ECD]] - 「DIRECT DRIVE(Part 2/the readymade all that jazz〜あるいはコニシの猟盤日記ミックス by KONISHI YASUHARU」
* [[SOUL SCREAM]] - 「続自由街道(readymade all that jazz by KONISHI yasuharu)」
* [[ジェームス・ブラウン]] - 「Sex Machine(Readymade Jazz Defector by KONISHI yasuharu)」
* [[エラ・フィッツジェラルド]] - 「Cool Breeze(Readymade All That Jazz/feat.akiko by KONISHI yasuharu)」
* [[NONA REEVES]] - 「DJ!DJ!〜届かぬ思い〜(readymade 524 Classics by KONISHI yasuharu)」
* [[ORIGINAL LOVE]] - 「羽根とピストル(readymade bellisima '99 mix byKONISHI YASUHARU)」「水の音楽/Hum a Tune(the readymade JBL mix by KONISHI yasuharu)」
* [[クレイジーケンバンド]] - 「葉山ツイスト(readymade ye'ye' track by KONISHI YASUHARU)」「ハンサムなプレイボーイ(readymade 524 mix by KONISHI YASUHARU)」
* [[DOMINO88]] - 「GO GO CLUB(readymade super 524 mix by yasuharu konishi)」
* [[スケボーキング]] - 「太陽(The readymade JBL Mix by Yasuharu Konishi)」
* [[フィンガー5]] - 「恋のダイヤル6700(readymade 0524-6700 MIX by KONISHI YASUHARU)」
* [[ユニコーン (バンド)|ユニコーン]] - 「大迷惑(Readymade 大mix by KONISHI yasuharu)」
* [[和田アキ子]] - 「[[帰り来ぬ青春]](readymade mix 2004 by KONISHI yasuharu)」「トゥモロー〜ジョージアで行きましょう編〜(Readymade Alternate Mix by KONISHI yasuharu)」
* [[globe]] - 「[[FREEDOM (globeの曲)|FREEDOM]](524 Mix)」
* [[ももいろクローバーZ]] - 「[[僕等のセンチュリー|ももクロ・特盛り(12月限定)]]」「ももクロ・メガ盛り」
== ラジオ ==
* [[SOUND AVENUE 905]](木曜日担当、[[TBSラジオ]]、2015年10月1日 - 2016年3月23日)
== 著書 ==
* これは恋ではない 小西康陽のコラム1984-1996([[幻冬舎]])
* 東京の合唱([[L'EDITION READYMADE 2000]])
* トウキョウ・モナムール ピチカート・ファイヴのグラフィック・デザイン1985‐2001(ピエ・ブックス)
* ぼくは散歩と雑学が好きだった。小西康陽のコラム1993-2008([[朝日新聞社]])
* いつもレコードのことばかり考えている人のために。([[常盤響]]との共著、アスキー・メディアワークス)
* マーシャル・マクルーハン広告代理店。小西康陽。([[学研ホールディングス|学研]])
* 僕らのヒットパレード([[片岡義男]]との共著)([[国書刊行会]])
* いま見ているのが夢なら止めろ、止めて写真に撮れ。 小西康陽責任編集・[[大映]]映画スチール写真集([[山田宏一]]著, [[山田参助]]著, [[遠藤倫子]]著, 小西康陽 (監修) DU BOOKS)
* わたくしのビートルズ 小西康陽のコラム1992-2019 ([[朝日新聞出版]])
== 参考文献 ==
* 小西康陽『ぼくは散歩と雑学が好きだった。小西康陽のコラム1993-2008』 - 朝日新聞社
* [[山田五郎]]対談集『20世紀少年白書』 - 世界文化社
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{Official website|https://www.readymade.co.jp/}} - READYMADE ENTERTAINMENT
* {{URL|https://www.universal-music.co.jp/pizzicato1/|ピチカート・ワン <nowiki>|</nowiki> PIZZICATO ONE}} - UNIVERSAL MUSIC JAPAN
* {{URL|https://www.sonymusic.co.jp/artist/YasuharuKonishi/|小西康陽}} - ソニーミュージック オフィシャルサイト
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3,898 | みずほ銀行 | 株式会社みずほ銀行(みずほぎんこう、英: Mizuho Bank, Ltd.、略:みずほ、MHBK)は、東京都千代田区大手町に本店を置く、みずほフィナンシャルグループ(MHFG)傘下の都市銀行。三菱UFJ銀行(三菱UFJフィナンシャル・グループ〈MUFG〉)、三井住友銀行(三井住友フィナンシャルグループ〈SMFG〉、SMBCグループ)とともに3大メガバンクの一角を占める。国内銀行の中では、ゆうちょ銀行を除きすべての都道府県に支店がある唯一の銀行である。また、国内の上場企業の約7割と取引がある。
法手続き上は、2013年にみずほコーポレート銀行に吸収合併され解散した以前の法人(旧みずほ銀行)と、以降の法人(旧みずほコーポレート銀行)は別の法人格であるが、どちらもみずほフィナンシャルグループ傘下の銀行で、かつ、商号・ブランドロゴ・金融機関コード・過半の店舗などが連続しているため、本記事では「みずほ銀行」を名乗った法人について連続して扱う。また、本記事では原則として、2013年まで「みずほ銀行」を名乗った旧法人については「旧みずほ銀行」、現在「みずほ銀行」を名乗っている法人については「当行」と記す。
2011年に発生した東日本大震災の義援金に関連する旧みずほ銀行の大規模システムトラブルの原因究明のために設置された第三者委員会の意見を踏まえ、同年5月、グループ一体運営に向けたガバナンス強化策として、旧みずほ銀行とみずほコーポレート銀行を2013年春をめどに合併させることを発表した。
2013年7月1日、みずほフィナンシャルグループの経営戦略である「One MIZUHO戦略」(銀行・信託・証券一体戦略)の下、旧みずほ銀行は(法人格として)みずほコーポレート銀行に吸収合併された(法人格とSWIFTコードなどはみずほコーポレート銀行側、統一金融機関コードなどは、旧みずほ銀行側を継承)。それに併せて、行名をみずほ銀行に改称した。これにより、同行はみずほフィナンシャルグループにおける中核銀行となった。
なお、本店は千代田区丸の内一丁目のみずほコーポレート銀行本店(旧日本興業銀行本店ビル)を継承したが、2014年5月7日に千代田区大手町の大手町タワーへ移転した。
2002年、当時みずほホールディングス傘下であった第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行の分割・合併により、旧みずほ銀行(存続行は旧第一勧業銀行で、みずほ統合準備銀行を吸収合併)とみずほコーポレート銀行(存続行は旧富士銀で、旧興銀を吸収合併)が誕生した。第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行は、何れも20世紀の日本における最大級の銀行であった。前身となる第一勧業銀行は、渋沢栄一が日本最初の銀行として設立した第一国立銀行を源流とするため、その名残で統一金融機関コードは「0001」を継承している。また、前身となる富士銀行は芙蓉グループ、第一勧業銀行は第一勧銀グループの中核企業であり、2つの融資系列を母体とした企業グループに所属している。三大メガバンクで唯一、前身行に三菱・三井・住友の戦前の三大財閥を含まない(ただし、富士銀行は安田財閥の流れを汲む)。
行名のみずほ(瑞穂)とは、「みずみずしい稲の穂」の意とされ、「瑞穂国」(葦原千五百秋瑞穂国)は、日本書紀に登場した日本の美称でもある。日本を代表する金融機関を目指すとのことで、この商号とされた。
みずほコーポレート銀行と旧みずほ銀行の合併後の当行は、みずほコーポレート銀行の法人格、および富士銀行の前身である安田銀行が、系列10行と大合併をするために準備会社として設立した保善銀行の法人格を引き継いだものとなっていたため、1923年5月7日を設立年月日としている。(旧みずほ銀行は、法人格としては旧第一勧業銀行を引き継いだものとなっていたため、日本勧業銀行の設立年月日である1897年6月7日を設立年月日としていた。)
みずほフィナンシャルグループ内で、グローバルリテール部門の中核とし個人および中堅・中小企業や、地方自治体を対象とする銀行と位置づけられていた。大手法人や金融機関、海外業務に関しては、同グループ傘下であるみずほコーポレート銀行が業務対象としていた。
旧みずほ銀行は主にリテール業務を主体、みずほコーポレート銀行はホールセール業務を主体としていたが、本来はみずほコーポレート銀行が管掌する(21世紀になってから政令指定都市に昇格した市や中核市以下の都市などでの)ホールセール業務を旧みずほ銀行が行うケースや、みずほコーポレート銀行がリテール業務を担う場合があるなど、明確な線引きはなかったとされる。
2013年6月30日まで、本店は千代田区内幸町のみずほ銀行内幸町本部ビル(旧第一勧業銀行本店ビル)に置かれていた。なお、同店の窓口(口座店)名称は、2012年10月以降「東京営業部」と称している。
2005年、新商品開発などによる経費率・収益力の改善、不良債権の最終処理や、公的資金の早期完済などを掲げた「Channel to Discovery」プランを発表した。これ以降は、重複店舗の一段の統廃合・再配置を進めた。また、不良債権処理も加速化し、みずほフィナンシャルグループ設立時に計上した巨額の赤字処理を以ってほぼ終え、公的資金の返済(旧興銀の旧住宅金融専門会社への不良債権処理に関する追徴課税の取り消しによる税還付2800億円を充当)等により、信用力も一時に比べ向上した。
2006年7月4日には、三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)に続いて公的資金は全額完済され、同年11月8日、親会社であるみずほフィナンシャルグループがニューヨーク証券取引所(NYSE)に上場した。バブル経済崩壊後はじめて邦銀グループがNYSEへの上場を果たした。
日本勧業銀行(第一勧業銀行の前身)が大正時代に全国各地、台湾(台北、新竹、台中、台南、高雄支店)に設立されていた農工銀行からの事業譲渡や、農工銀行の吸収合併に伴う受け皿支店の開設などの理由に加えて、戦後には、旧勧銀の宝くじ業務の取り扱いもされていたため、3大メガバンクで唯一全ての都道府県庁所在地・政令指定都市に必ず1つ以上の店舗を有している。
旧富士銀の業務を引き継いで、東京都・東京23区・大阪市・北九州市の指定金融機関とされている。
東京都の島嶼地域においては、都の指定金融機関である関係上、大島町(伊豆大島)には築地支店・大島特別出張所が、八丈町(八丈島)に浜松町支店・八丈島特別出張所がそれぞれ設置されている。かつては、三宅村(三宅島)に東京中央支店・三宅島出張所が設置されていた。
第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行はいずれも東京に本店を置く都市銀行と長期信用銀行であった。このように前身行に関西都銀(在阪三大都市銀行)が含まれなかったので、これらが含まれる三菱UFJ銀行(旧三和銀行)・三井住友銀行(旧住友銀行)・りそな銀行(旧大和銀行)と比較すると関西地区の経営基盤や店舗網は弱い。このためメガバンク・都市銀行の中では東京都や神奈川県などの首都圏に店舗網・経営基盤が集中している。
富裕層向けのプライベートバンキングへも参入し、みずほ銀行に5億円以上の資産をもつ顧客を対象にみずほプライベートウェルスマネジメントへの紹介を進めている。
2012年1月以降をめどに、みずほ信託銀行が旧みずほ銀行を所属行とする銀行代理店として同行の口座開設取次を行い、その代わりにみずほ信託銀行のキャッシュカードとATMを2012年3月までに廃止し、みずほ信託銀行の信託代理店としてのみずほ銀行を利用した場合の手数料優遇などを行う方針であることが明らかになっている。これは、「みずほグループ口座」というパッケージで提供され(旧みずほ銀行とみずほ信託銀行の口座を、法人をまたいで紐付けするというもので、顧客情報も紐付けした会社間で共有される形となる)、後に、みずほ証券の証券口座も、みずほグループ口座に含むことができるようになり(これにより、みずほ信託銀行との取引が無くとも、旧みずほ銀行とみずほ証券による組み合わせでも、グループ口座が成立する)、みずほ証券と取引があるがみずほ銀行とはない顧客のために、みずほ証券が銀行代理店として、みずほ信託銀行同様、みずほ銀行の口座開設取次を行うようになった。なおみずほ信託銀行のキャッシュカードとATMの廃止についてはその後一部修正され、ATMは廃止され、みずほ銀行ATMの利用とされたが、キャッシュカードは廃止されていない。
みずほマイレージクラブ会員を対象としたオンライン証券仲介サービスで、マネックス証券と提携している。マネックスのナイター取引も取り扱い、利用するとマイレージポイントも貯まる。
信販分野では、旧第一勧銀・富士銀時代から親密であったクレディセゾンやオリコとも業務提携している。こちらは保証業務などが中心であり、他のメガバンクと消費者金融の間に見られる関係(資本参加、「銀行系ローン」の設立等)とは一線を画す。そもそもみずほ側は「消費者金融との提携効果は期待できない」としており、このため「みずほ銀行系キャッシング」のようなサービスは存在しない。
2005年4月、米国金融機関のワコビア(東部地盤・2008年後者に吸収)・ウェルズ・ファーゴ(西部地盤)とトレードファイナンスや投資信託販売などで提携を開始した。
2019年8月、中小企業の事業承継ニーズへの支援強化のため、M&Aキャピタルパートナーズ株式会社と業務提携を開始した。
普通預金の利息は、2月・8月の第3土曜日の翌営業日付で付与される(総合口座普通預金の貸越利息の決済も同日に行われる)。
貯蓄預金の利息は、毎月第2土曜日の翌営業日(原則として月曜日だが、祝日による変動あり)付で付与される。
なお、店舗の統廃合に関する詳細については、公式サイトの「店舗統合・移転のお知らせ」及び「店舗統合検索」を参照のこと。
固有の業務として、旧勧銀からの経緯として宝くじの作成、販売、当選金の支払いなど業務を引き続き受託している。
旧興銀の業務を引き継ぎ、旧興銀店舗またはその承継店舗では、金融債の「割引みずほ銀行債券(ワリコー)」「割引みずほ銀行債券保護預り専用(ワリコーアルファ)」「利付みずほ銀行債券(リッキー)」「利付みずほ銀行債券利子一括払(リッキーワイド)」を発売していたが、2007年(平成19年)3月後半債(3月27日)で発行を終了した。
2007年3月後半債(3月27日)で先の4種の金融債は発行終了、財形貯蓄型金融債も特例期限から1年前倒しして、2011年(平成23年)3月後半債の発行にて終了した。また、金融債の保護預かりに利用する「金融債総合口座」も、2013年2月24日で廃止され、翌日より、一般の総合口座や普通預金・定期預金へ、規定上変更された。
ATMコーナーに設置されている「両替機」は、みずほ銀行に口座を開設している人向けの専用機(みずほ銀行のキャッシュカード、あるいは大量の両替を行う利用者に発行される両替機専用カードが必要)である。口座を開設していない人(みずほ銀行のキャッシュカード無し)は、窓口での対応となる(これは、他の都銀でも同様のケースが見られるが、他行では、両替手数料用の硬貨投入口が別に取り付けられているケースもある)。
旧みずほ銀行では、振込に関しては、みずほコーポレート銀行宛の振込手数料は窓口、みずほATMコーナーの他、ネットバンキングサービスであるみずほダイレクト等も含めて、旧みずほ銀行全てのチャネルからの振込で当行扱となっていた。
イオン銀行(後述の内容も参照)・千葉興業銀行・大垣共立銀行・三十三銀行の各行ATMでは利用手数料が徴収されない(時間内は無料、時間外は要手数料。イオン銀行を除き、みずほマイレージクラブの優遇対象外)。他行手数料無料で扱う東京スター銀行(2019年12月より要手数料)、およびかつて存在したゼロバンクのATMも、みずほ銀行のキャッシュカードで出金可能である。また、ゆうちょ銀行のATMでは、キャッシュカードでの入金(紙幣のみ。要手数料)も可能である。
JR東日本が駅構内などに設置されているATM「ビューアルッテ」(要手数料)や、イオン(総合スーパー)をはじめとするイオングループの各店舗等に設置されている「イオン銀行」のATMが利用可能である(下記に詳述)。
更に、2008年8月20日からは阪急電鉄と北大阪急行電鉄が駅構内などに設置されているATM「Patsat」(池田泉州銀行提供、ステーションネットワーク関西運営)においても利用する事ができ、平日の日中帯に限り提携利用手数料がかからない(みずほマイレージクラブ優遇対象外)。
旧みずほ銀行側からの発表はなかったが、2006年3月26日より、新銀行東京との相互出金提携を行っている(要手数料)。更に、商工中金・新生銀行・あおぞら銀行でも引き出しができる(要手数料)。同様に、旧みずほ銀行側からの発表はなかったが、2011年6月27日からは、SBJ銀行(新韓銀行の日本法人)のキャッシュカードによる当行ATM入出金利用提携(片利用)を行っている(SBJ銀行所定の手数料が適用)。当初は5月9日に利用提携を開始する予定だったが、直前になって旧みずほ銀行側の都合により延期されていた。2014年2月10日からは、楽天銀行のキャッシュカードによる当行ATM入出金利用提携(片利用)を行っている(楽天銀行所定の手数料が適用)。
イオン銀行との接続開始時には、同行ATM利用時は手数料が徴収され、みずほマイレージクラブの優遇対象外となっていたが、2013年12月8日の「戦略的提携」の開始に伴い、同行とみずほ銀行の共同設置扱いとなり、みずほ銀行のキャッシュカード利用時は、自行ATMと同様となる。ただし、優遇対象となる振込手数料(ATM統括支店経由であるため、みずほ銀行のいずれの支店宛も本支店扱いとなる)は、いったん引き落とされるものの、後日返金される。
2020年3月よりうれしい特典の優遇内容改定によりイオン銀行ATMで振り込んだ場合でも振込手数料の優遇は廃止された。
同行はコンビニATMのイーネット・ローソン銀行・セブン銀行と個別提携しており、同行独自のATMサービスを提供する。イーネット及びローソンATMでは、入出金、残高照会、振込、暗証番号変更のサービスが利用できる。2006年(平成18年)7月23日よりセブン銀行と提携し、同社ATMにおける独自サービスを開始した。現在みずほ銀行の口座はセブン銀行では入出金、残高照会の3サービスを利用できる。
2020年3月よりうれしい特典の優遇内容が改定されたことでコンビニATMのイーネットのみが優遇の対象となり、ローソン銀行のATM・セブン銀行のATMを利用した場合は月1回目から手数料が発生するようになった。なおイーネットATMにおける利用手数料ならびに時間外手数料は所定の条件を満たすことにより最大月3回まで無料になる。
2004年8月16日より、「みずほバリュープログラム」の後継商品として、取引によっては優遇のある「みずほマイレージクラブ」を開始した。ポイントカード制を大手銀行では初めて本格的に展開、非金利収入面での顧客獲得機会を拡大するサービスとして、2004年の日経優秀製品・サービス賞(日経金融新聞賞)を受賞した。開始から2年半を経た2006年12月時点で会員数は250万人を突破しており、半年に50万人のペースで増加している。
富裕層向けの会員サービス。みずほ銀行に1000万円以上の円資産を有するなどの条件を満たす顧客に対して入会案内が送られる(なお、詳細条件は、各支店ごとに確認のこと)。入会すると、マイレージクラブのサービスに加えて、以下のような優遇サービスが提供される。
なお、「みずほプレミアムクラブコンシェルジュデスク」は、JTBが運営している。
クレディセゾンと提携した「みずほマイレージクラブカード」とJR東日本と提携した「みずほSuicaカード」がある。いずれもみずほマイレージクラブに入会していなければ申し込む事は出来ない。
2017年には、クレディセゾンとの提携内容の見直しと、オリエントコーポレーションおよびジェーシービーとの追加提携が発表され、クレディセゾン発行のセゾンカードおよびUCカードに加え、オリコ(VISA/MasterCard)のカードとJCB提携のカードならびにJCBデビットカードが追加されている。
2022年7月11日より、みずほJCBデビット(キャッシュカード)一体型とみずほJCBデビットカード(単体型カード)発行開始した。 既に(旧)みずほJCBデビットカード(単体)お持ちの方は、一度解約手続き必要です。みずほクレジットカード同様。
解約せずに更新時期来ますと自動的に新カード(単体)が送られてくる。
概要は次表の通りである。
※1 初年度の年会費は無料。2007年10月26日を以って新規発行終了。
※2 2008年0月17日をもって新規発行終了。
※3 初年度の年会費は無料。翌年度以降の年会費は、前年度のショッピングの利用額が合計10万円以上の場合は無料。2008年(平成20年)9月末をもって新規募集終了。カードに記載された有効期限をもってサービスを終了することが、みずほ銀行とJR東日本の両社より発表されている。
みずほマイレージクラブカードは、UCと《セゾン》がある。UCは、一般とセレクトでハローキティデザインのカードや通帳も選べる。
UCと《セゾン》ともにETC支払用の子カードの発行ができる。iDとQUICPayについては、おサイフケータイのみに対応している。
みずほマイレージクラブカードを利用した際に貯まるポイントは、マイレージポイントである。基本的に1000円につき1ポイント貯まるが、《セゾン》アメリカン・エキスプレス・カードを海外で利用した場合は2倍貯まる。また、パートナーズサービスがあり、日本のパートナー企業で利用した場合は2 - 5倍、海外のパートナー企業で利用した場合は2倍それぞれ貯まるが、《セゾン》アメリカン・エキスプレス・カードを海外のパートナー企業で利用した場合は3倍貯まる。ただし、iDとQUICPayを利用した場合はパートナーズサービスの対象外である。
一方、みずほSuicaカードを利用した際に貯まるポイントは、JR東日本のビューサンクスポイントであり、基本的に1000円につき2ポイント貯まるが、JR東日本のVIEWプラスの対象商品の場合は1000円につき6ポイント貯まる。なお、ビューサンクスポイントは、マイレージポイントに交換する事が出来、ビューサンクスポイント2000ポイントをマイレージポイント1000ポイントに交換する事ができる。
しかし、2009年4月からはみずほマイレージポイントは廃止となり、クレディセゾンの永久不滅ポイントに変更された。
みずほSuicaカードは、JR東日本のSuicaを搭載しているが、Suica定期券には対応していない。ただし、みずほSuicaカードでモバイルSuicaに会員登録した場合は、モバイルSuicaのSuica定期券を利用する事ができる。
2006年8月28日から、キャッシュカード取引のセキュリティ向上のために指静脈を利用した生体認証機能付のICキャッシュカードの発行を開始。ただし、同年10月1日までは、生体認証機能付ICキャッシュカードへの生体認証情報の書き込みを行っていないので、実際の利用開始は、同年10月2日からになる。なお、これ以降に発行されたICキャッシュカードは原則生体認証に対応したものとなる。
申し込みから利用まで全てペーパレスで完結するスマホ決済アプリ。みずほ銀行に口座を持つ個人(日本国内在住の15歳以上、中学生を除く)であれば誰でも利用できる。JCBと連携しており、アプリ内に口座から直接支払いが出来るバーチャルデビットカードを即時発行し、コンビニやスーパー、ファミレス等のQUICPay+で支払うことができる。既にみずほJCBカードを持っている場合は、カード情報をアプリに追加することでスマホ決済としても使える。年会費等はかからない。
Android版と同様、申し込みから利用まで全てペーパレスで完結するスマホ決済アプリのiOS版。Android版と異なり、JR東日本と連携。発行されるカードはMizuho Suica(前述のみずほSuicaとは別サービス)。Suicaとして利用でき、IC相互利用可能エリアであれば全国どこでも使える。年会費等はかからない。
アプリ上で口座から直接チャージできるため、クレジットカードを持たない人やチャージできる場所が限られている人にも使いやすい。
みずほ銀行に加え、全国の90以上の地方銀行(2020年2月時点)と口座接続が可能なQR・バーコード決済/送金サービス。2019年3月から提供されている。ユーザー間での送金、接続済みの銀行口座への入出金(チャージ/口座戻し)手数料が無料。
2022年7月20日よりJ-Coin PayからモバイルSuicaへのチャージが可能になる。
2002年(平成14年)4月1日の合併再編(旧第一勧業銀行・旧富士銀行・旧日本興業銀行の3行を、リテールバンキング事業を継承する旧みずほ銀行と、ホールセールバンキング事業を継承する旧みずほコーポレート銀行の2行に再編)の当日から、合併再編前の3行のシステムを連携するリレーコンピュータのバグにより、旧みずほ銀行とみずほコーポレート銀行にて大規模なシステム障害が発生し、預金者や利用者に大混乱を来すこととなった。
同月1日に10万5千件の未処理が発生。2日はイオンカード、4日はセゾンカード・ビューカード、5日はUCカード(※勧銀クレジット・富士銀クレジットなどが統合されてから最初)といった、旧みずほホールディングスと結びつきの強いクレジットカード会社の口座引落し日で、クレディセゾンは引き落とし不能でも信用情報の支払遅延扱いにはしない旨を含んだ、独自の「お詫び文」を発表する。
未処理件数は、5日に250万件余り・二重引き落としが3万件まで積み上がり、個人に対しての影響が広がる。
現金自動支払機の稼働トラブルに関しては4月上旬に解消されたが、口座振替に関してはシステムが増強される5月まで、システムセンターの人海戦術によるバッチデータの手作業での確認や、準備が引き落とし日に備えて日夜行われる綱渡りの状況が続いた。収納企業・公共団体に対しては、通常より早期に口振データの送付を要請した。
また、コンピュータシステムの改修に関わっていた富士通ターミナルシステムズ(ATMベンダー)のシステムエンジニアが、デスマーチにより過労自殺する事態となり、2003年(平成15年)に労働災害が認定されている。
東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)直後の2011年(平成23年)3月15日(火曜日)未明、テレビ局が旧みずほ銀行東京中央支店に開設していた義援金受付口座への振り込み件数が、フロアリミッター設定上限数を超えたことにより、夜間バッチ処理が予定時刻の朝5時までに終わらず、約38万件の処理が積み残された。
この異常終了により、16日営業時間帯のオンラインシステム起動が遅れ、未処理の決済データがサーバに積み上がって勘定系システムが不安定になり、大規模なシステム障害へと発展した。ATMの一部が使用できなくなり、さらに処理の積み残しが増えていくという悪循環に陥り、17日には勘定系システムが強制終了した。ピーク時には116万件(約8296億円)の未処理取引を発生させた。
旧みずほ銀行側は後に、具体的な原因について、「東日本大震災義援金の振り込みの一部店舗への集中」と説明した。
また、この際、事後処理として二重に振り込まれた金銭の回収を行ったが、確認を怠り、事前連絡なしに正規の振り込みまで回収していたことが発覚した。
他、このトラブルに便乗し、同行が顧客に対して行った臨時支払いを悪用して25万円を騙し取ったとして、詐欺罪容疑での逮捕者が出ている。この被疑者は、同行の店舗数店から、合計で百数十万円を騙し取った疑いがある。
旧みずほ銀行は、3月19日(土曜日)から3月21日(月曜日・春分の日)の3連休期間中に、全ATMを休止して、バッチ処理の積み残しを処理したが、障害が収束した3月24日まで、9日間に渡ってシステム障害が続いた。
このシステムトラブルで、金融庁から同年5月31日に、銀行法に基づく「業務改善命令」が、旧みずほ銀行の親会社であるみずほフィナンシャルグループと伴に下された。業務改善命令の理由として、システムのコンティンジェンシープランの整備や情報技術投資戦略、適材適所の人材配置やグループ内連携態勢などで、みずほ経営陣の機能発揮に問題があるとし、みずほフィナンシャルグループの一体感の醸成への取り組みが十分でなく、みずほの企業風土に課題があると指摘した。
この結果、頭取の西堀利とIT・システムグループ担当の常務執行役員萩原忠幸が6月20日付で引責辞任し、2度の大規模トラブルからの信頼回復、再発防止策として、グループ経営の効率化と意思決定の迅速化が必要と判断され、たすきがけ人事の解消、旧みずほ銀行・旧みずほコーポレート銀行の合併による「2バンク制」解消、勘定系システム全面刷新の要因となった。
2015年(平成27年)1月5日(月曜日)、システム障害により、法人向けインターネットバンキング「みずほe-ビジネスサイト」が利用できなくなるトラブルが発生。法人取引の振込や送金などが期日通りに行われなければ、企業間の信用問題につながりかねない恐れがあるため、顧客は電話越しや店舗に出向く対応を強いられた。なお、週刊ダイヤモンドの取材によると、表沙汰にはなっていないが同様のシステム障害が2014年にも発生していた。
2021年(令和3年)2月28日(日曜日)より3月12日(金曜日)の僅か13日間で、当行はそれぞれ原因の異なるシステムトラブルを4回連続で引き起こした。なお、当行と同じ勘定系システム「MINORI」を用いているみずほ信託銀行では、これらのトラブルは発生していない。
金融庁は、当行が僅か13日間で4回のシステムトラブルを相次いで引き起こした事態を重くみて、当行と親会社のみずほフィナンシャルグループに対し立ち入り検査、検査結果を踏まえ行政処分を検討する予定である。
当行は、3月12日に藤原弘治頭取が記者会見をした。このなかで藤原頭取は「原因究明と再発防止が、私に課せられた最大の責任だ」と述べ、引責自任を否定した。また、全国銀行協会の次期会長(2021年4月から2年)に就任予定である、みずほフィナンシャルグループの坂井辰史社長については「次期会長職を務めていく」と述べ、会長の就任辞退、社長職の辞任を否定した。
当行の親会社であるみずほフィナンシャルグループは、3月17日のニュースリリースにおいて、4月1日に予定していた当行の藤原弘治頭取の会長就任及び加藤勝彦常務の頭取就任を、当行が発生させたシステム障害に対応するため取り消すと発表した。なお加藤勝彦常務は、代表取締役副頭取になる。
当行の親会社であるみずほフィナンシャルグループの坂井辰史社長は、3月17日午後5時から都内で記者会見を開いて、障害の原因究明や再発防止策の策定について説明した。責任の取り方については「原因究明や再発防止策の策定後に適切に考えたい」と述べたのみ。4月に予定されていた坂井辰史社長全国銀行協会の会長への就任については「就任を見合わせる方向で相談したい」と表明。取消となった4月1日の当行の頭取交代人事については「加藤氏が頭取になるのは基本的な方向感だ」と述べ、交代は既定のままで時期の延期であることを示唆した。報道によれば、トラブルについて、坂井社長が公の場で説明するのは、これが初めてである。なお、全国銀行協会の会長については、3月18日に、全国銀行協会から公式に「みずほフィナンシャルグループの坂井社長より、足元の度重なるシステム障害の原因究明と改善対応策に専念するため、全銀協会長への就任は当面の間見合わせるとの申し出があった、来年度の体制については、4月1日に坂井社長へ交代することを内定していたが、全銀協の現行体制を当面維持する」と発表があり、三毛会長(三菱UFJ銀行頭取、4月からは三菱UFJフィナンシャル・グループ会長)が4月以降も続投することになった。
2021年(令和3年)2月28日(日曜日)、定期預金に絡むデータ更新作業に伴い、ATMとインターネットバンキングにおける一部取引が利用不可となるシステムトラブルを発生させた。ATMより通帳やキャッシュカードが戻らず備え付けの電話もつながらない深刻な被害も多数発生させた。みずほ以外のATM利用で生じた手数料は後日返金とする報道されているが、当行Webサイトでは「本件に関して代替手段により発生した費用についてはお取引店か下記問い合わせ先にご相談ください」と発表しており、自発的返金は行うとの表明はなく、相談後の対応についても何ら明らかにしていない。また日本経済新聞によれば、「28日夜の段階で説明の記者会見は開いていない」、「記者が支店に取材に行った際、利用者が『4時間以上待たされているのに誰も来ない』という状態であった」。
当行は、3月1日午後6時に、本店で記者会見を行い、5395台のATMの80%にあたる4318台に障害が発生し、預金通帳やキャッシュカードがATMからとりだせなくなった件数は合わせて5244件と公表した。なお、この報道では「システム障害の影響でコンビニなどのATMを使った利用客には、かかった手数料を全額返金するほか、ATMに残っていた預金通帳などの返却を進めていく」としているが、当行Webサイトの記載は、2日12時30分の段階で「ご相談ください」のままであった)。J-CASTトレンドの報道によると、「1日にみずほ銀行の広報担当者に取材したところ、いずれも一律で定められたものは存在しないという。利用者からの相談の中で適宜判断していくとした。」となっている。また公式ウェブサイトで「後日弊行よりご連絡、ご返却をいたします(他行キャッシュカードは、当該他行経由でご返却となります)」とあるだけでいつ返却するかの明示はなく、他行のカードは他行経由としている。またトラブルの原因について「定期預金のデータ移行の45万件に月末の取り引きの25万件が重なり、システムの一部に負担が生じオーバーフローした」と藤原頭取が説明」しており、「(システムの)キャパシティーが不十分だったことが今回のトラブルを引き起こした」とも説明した。経営責任については「最優先事項は顧客へのおわびと安定稼働だ。経営責任は当然ながらある。しっかり受け止めていきたい」と発言したが、日本経済新聞の報道した一問一答には、それ以上の具体的な進退等については掲載されていない。なお、藤原頭取は、2021年3月末で頭取を退任して4月1日からみずほ銀行会長になることが内定していた。
時事通信の報道によると、2月27・28日の両日、一定期間取引のない定期預金(不稼働定期預金)の口座のデータを45万件ずつ移行する作業を実施した。ただ、28日は通常の取引が集中し、システムの容量がオーバーした。定期預金の積み立てなど通常の取引量が多い月末に、システムを増強せずに臨時のデータ移行作業を行った「想定の甘さ」があった。これだけなら定期預金の取引不能件数であり当初463件であった。しかし、2019年に導入した新システムの「自衛機能」により、基幹システムがATMとの連携を一部遮断しATMの処理速度が低下。取引の異常を検知したATMが、カードや通帳を次々と飲み込む事態となった。ATM備え付けの電話からの問い合わせで警備員が駆けつけるが、休日ということもあり、人員不足で同時多発的な被害への対応が不能となった。
3月8日時点の当行Webサイトでは、頭取名で「ATMにキャッシュカード、通帳等が取り込まれたお客さまにつきましては、できるだけ早くお手元にお届けできるよう、お一人ずつ弊行よりご連絡・ご返却を進めて」とし、手数料についても「後日返金」を記載した。ただしいつまでとは記載がない。またトラブルの原因、具体的な対策の記載はなく、「システム、またその運用における要因も含め検証し、再発防止策の策定・徹底」と述べた。
取り込んだ通帳・キャッシュカード(5244件)の約2割が2日時点で、未返却であるとともに、顧客と連絡が取れなかったり、警備会社に保管中のカードや通帳の回収に時間がかかっている。返却完了の時期は未定と報道された。報道された説明によれば、「顧客と連絡が取れなかったり、警備会社に保管中のカードや通帳をみずほが回収する時間がかかったりしている返却完了の時期は未定である」。返却状況については、3月4日時点ででは、3日までの状態で1割の500件ほど未返却である。報道では、理由として「一部に連絡が取れない顧客がいるなど」としている。
金融庁は3月2日夜、銀行法に基づき報告徴求命令を当行及び親会社のみずほフィナンシャルグループに出し、原因や再発防止策などの報告を今月末までにするように命じた。金融庁のWebサイトの報道発表資料には、この件の掲載はない。
3月4日、読売新聞、時事通信は、「みずほ銀行は4日、2月28日に発生させた現金自動預払機(ATM)の大規模障害について、デジタル通帳への移行に向けた口座情報の移し替え作業が原因の一端だったと明らかにした。」と報じた。時事通信の報道では「通常のデータ更新作業25万件にデジタル口座へのデータ移行作業45万件が重なり、基幹システムの容量不足に陥った。」とあり、また読売新聞は「2月28日に全国各地で発生した大規模な現金自動預払機(ATM)の障害は、今年1月に導入した「デジタル通帳」へ預金などのデータを移行する作業の中で発生したことを明らかにした」として定期預金のデータ移行は無関係のような報道となっている。件数的には、定期預金に絡むデータ更新作業よりデジタル通帳への移行に向けた口座情報の移し替え作業の件数が多いが障害に寄与の度合いは明らかではない。また、当行が明らかにしたとしているが、当行Webサイトでは一切言及はなく、「2月28日に発生した定期性預金のデータ更新作業に起因するシステムトラブル」のままである。また、3月1日の頭取の記者会見で、この「デジタル口座へのデータ移行作業」については言及がないが、銀行がこの時点で把握していなかったか、把握しても頭取には情報が伝わっていない若しくは隠蔽したかは明らかでない。
当行は、3月6日の当行Webサイトでは「99%超のお客さまに、ご返却の対応を取らせていただきました」と初めて当行Webサイトで返却状況を告知した。手数料の返金については、「後日返金」としており、いまだに返金していないことを明らかにした。
3月5日、朝日新聞は、遠藤正之・静岡大学情報学部教授(金融情報システム)のインタビューを掲載した。このなかで遠藤は、
と3つの課題を指摘し、いずれも顧客本位でないことに問題があると述べた。
3月9日、朝日新聞は、年度末に作業を行った理由について、みずほ幹部が「時期を決めた当初の考え方は、印紙税(が理由)だった」とも打ち明けたと報道した。。紙の通帳は印紙税が年200円かかるが、この基準は4月。3月までに減らすと税額を抑えられる目算であり、約2400万の口座のほぼ半数が、数年後に切り替わると見込み、単純計算で年24億円の印紙税軽減となる。
2月28日に引き起こしたシステムトラブルに伴い、当行のキャッシュカードで他の金融機関のATM等を利用した場合に発生した手数料の返金を、3月16日から3月18日にかけて行うと、3月15日に当行Webサイトで告知された。
3月25日の報道によると、みずほ銀行は、2月28日と3月3日に発生したシステム障害で現金自動預払機(ATM)に通帳などがのみ込まれた人に「おわびの品」として5千円分のクオカードを届けることを決め、藤原弘治頭取が「これまで同様のご愛顧を」と呼び掛ける文書を添え、順次配布している。
2021年(令和3年)3月3日(水曜日)19時58分、ハードウエアの不具合によりシステムセンター間のネットワーク瞬断が発生するシステムトラブルを発生させた。3分後の20時1分に復旧したが、28拠点29台のATMがこの影響で停止し、僅か3日前に引き起こしたシステムトラブルと同様、ATMより通帳やキャッシュカードが戻らない深刻な被害を29件発生させた。当行の公表によると「2月28日に発生した定期性預金のデータ更新作業に起因するシステムトラブルとは別の要因」であると発表した。小規模のトラブルだが、僅か3日前に引き起こしたシステムトラブルと同様、ATMより通帳やキャッシュカードが戻らない深刻な被害を連続して発生させたこともあり「みずほ銀行、またもシステム障害」、「みずほ銀行 またATM一時障害 最大3時間使えず」、「みずほ銀行また障害 ATM29台一時停止、カード戻らず」と報道された。
このトラブルでATMに取り込まれたカードや通帳については、時事通信は、4日午前10時時点で過半が返却されたと報道した。当行は、3月6日に「カード返却等のお客さま対応も完了」と発表した。
3月3日に引き起こしたシステムトラブルについても、金融庁は銀行法に基づき報告徴求命令を出した。
2021年(令和3年)3月7日(日曜日)午前9時ごろから、カードローンのプログラムの更新作業に伴い、一部でエラーを関知した。この影響で、インターネットバンキングやATMで定期預金の一部取引ができなくなったが、同日午後1時30分頃に復旧した。当行によると「9名のお客さまの取引不成立を検知、既に個別にご連絡のうえ対応。ATMでは、お客さまがお困りの場合に備え、各拠点には行員を待機させ、個別に対応いたしました。なお、不成立となった取引はない。」としている。
3月7日に引き起こしたシステムトラブルについても、金融庁は銀行法に基づき報告徴求命令を出した。なお、これについては各報道とも、3日と7日のものについて11日(一部12日)にまとめて報道している。同じ日に命令したか、別の日であったかは各報道に具体的な命令の日がなく不明である。
2021年(令和3年)3月11日(木曜日)午後11時40分ごろ、データセンターのハード機器に障害が発生し、バックアップ機能への切り替えにも失敗し、送金の処理ができなくなった。送金の集中処理が完了したのは12日午後7時45分ごろだった。全国各地の支店などで、企業間の海外送金の一部に遅延が生じなど、約300件に影響が出た。12日に当行が発表したと各報道が伝えた 。日経新聞は、影響の詳細について「企業が国内にある取引先の口座にドル建てで振り込む場合、依頼を受けた銀行は午後1時までに振込先の銀行にデータを送信する必要がある。今回の障害でデータの送信が完了したのは午後6時。振り込みが翌日付となれば、企業間の取引で実損が出る恐れがある。みずほ銀行は当日付にできるよう相手方の銀行と調整する。」と解説した。
影響の詳細は、3月15日に当行Webサイトで告知された。これによると「国内他行向けの送金263件について、当日付の送金ができない状況」であった。
なお当行は、このシステムトラブルによる送金遅延は計500億円に上ったと発表している。
6月14日、今回当行で相次いだATMなどのシステム障害について調べていた第三者委員会の報告書の概要が分かったと伝えられた。システム自体に根本的な欠陥はなく、人員配置や設定面で運用が未熟だったことが原因と結論付ける。顧客対応の不十分さが問題を深刻化させたことも指摘する。同月15日にも報告書を公表する予定と共同通信が報道した。報告書は、6月15日にみずほフィナンシャルグループより発表された。なおみずほ銀行HPでは、この発表を受けて、株式会社みずほ銀行におけるシステム障害にかかる原因究明・再発防止についてを発表したが、みずほ銀行HPからは報告書へのアクセスはリンクを含め一切なく、利用者が、みずほフィナンシャルグループにアクセスするしかない状態である。
またこれに関連して、みずほフィナンシャルグループ取締役社長 坂井辰史が、報酬月額の50%減額×6ヶ月、みずほ銀行取締役頭取 藤原弘治が、報酬月額の50%×減額4ヶ月などの役員処分がされたが、やはりフィナンシャルグループHPでのみ公表されている。
なお、藤原頭取が同年6月末で退任することが報じられていたが、再発防止に取り組む観点から当面の間続投することを6月15日に明らかにした。
2021年(令和3年)8月20日(金曜日)、今年だけで5度目になるシステム障害で始業時から12時頃まですべての店舗窓口で入出金や振り込みなどの手続きが出来なくなった。今回は、みずほ銀行と同じ勘定系システム「MINORI」を用いているみずほ信託銀行においても、同様なトラブルが発生した。原因は、DBサーバーのハード故障し、バックアップ機器に故障が波及とされた。なおみずほ銀行は、公式HPにおいて「代替手段により発生した費用等につきましては、個別にご対応させていただきますので店舗または下記のフリーダイヤルへご相談」とのみ発表し、前回同様、補償を明言していない。今回のトラブルについても金融庁は銀行法に基づく報告徴求命令を出した。
2021年(令和3年)8月23日(月曜日)、週末の金曜日に引き続き今年だけで6度目になるシステム障害で全国で最大130台のATMが一時使えなくなった。
2021年(令和3年)9月8日(水曜日)、今年だけで7度目になるシステム障害で同日午前9時半ごろから、ハードの不具合により一部の現金自動預払機(ATM)とインターネットサービス「みずほダイレクト」が一時的に利用できない状態となった。一時利用不可となったATMは最大100台で、そのうち27台で現金の取り込みが発生した。システムの一部を再起動することですでにすべて復旧済みである。
2021年(令和3年)9月22日(水曜日)、金融庁は、銀行法第26条第1項に基づき株式会社みずほ銀行に、及び銀行法第52条の33第1項に基づき、株式会社みずほフィナンシャルグループに対し、システムの改修や保守点検計画の提出を求める業務改善命令を発出した。当面のシステム更改及び更新等の計画についての報告も求めており、日本経済新聞は、「金融庁が同行のシステムを実質管理」と報道したが、麻生太郎金融相は9月24日の閣議後の記者会見で、「みずほ銀行が自らシステム更改などを適切に管理することを求めている」、金融庁がみずほのシステムを「共同管理」するなどと一部で報じられたことについて、「一緒にやる事実はない」と否定した。
2021年(令和3年)9月30日(木曜日)、今年だけで8度目になるシステム障害387件の外国為替取引に遅れが出た。主に法人顧客の送金が滞り、80件は翌日に持ち越しとなった。詳細な原因は特定できていないが、企業の決済が集中する上半期の末日とはいえ、決済が集中し負荷が大きくなったことが一因とされており、時事通信は、金融関係者の見解として「更新ではなく、システムや機器のもろさが要因であれば問題は根深い」と報じた。
2021年(令和3年)11月26日(金曜日)、金融庁は、銀行法第26条第1項に基づき株式会社みずほ銀行に、及び銀行法第52条の33第1項に基づき、株式会社みずほフィナンシャルグループに対し、再発防止策を速やかに実行すること、業務改善計画を策定し、提出を求める等の業務改善命令を発出した。
2021年(令和3年)11月26日(金曜日)、財務省は、外国為替及び外国貿易法第17条の2第1項の規定に基づき、株式会社みずほ銀行に、資産凍結等経済制裁に関する外国為替及び外国貿易法及び同法に基づく命令の規定を確実に遵守するための実効性のある改善・再発防止策の策定等し、提出を求める等の是正措置命令を発出した。日経クロステックによれば、処分の対象となった事案については、9月30日のシステムトラブルの際に、外為送金は午後3時の「カットオフタイム」までに完了させる必要があるが、一部の外為送金がそれに間に合わなくなる恐れがでてきたため、CCO(最高コンプライアンス責任者)がアンチ・マネー・ロンダリング・システム(AML)によるチェックを省略しても法令に沿った対応ができると主張し、AMLによるチェックを省略する方針を決断し、実際に349件の外為送金がAMLによるチェックを経ずに実行されたものである。日経クロステックは『CCOやCIOが出席する非常対策PTで外為法に違反する決断をしたことが、「役職員の知識不足」や「関係部署間のコミュニケーション不足」に該当する。誤った決断を下した背景に「平時からの連携不足」があった。加えてAMLを省略して外為取引を実行できてしまうシステムであったことが「システム管理態勢の脆弱性」に該当する。』と論評した。
金融庁による処分を受けて、坂井 辰史みずほフィナンシャルグループ取締役 兼 執行役社長(代表執行役)が「一連のシステム障害等に関する経営責任を明確にし、経営執行体制の刷新が必要と判断したため」として退任をすると発表したが、退任は、2022年4月1日付であり、なお4か月以上、在任するとしている。みずほ銀行の藤原 弘治取締役頭取も、2022年4月1日付で退任と発表された。こちらは、単なる異動の発表であり、理由は記載されていない。また取締役としては2022年6月の任期満了まで在任する。
また、坂井は全国銀行協会の会長職に就任することが内定していたが、これらの問題や坂井の引責辞任を受けて、辞退することを明らかにした。そのため、メガバンク3行による輪番制でみずほ銀行の後に担当する予定だった2行が前倒しで会長職を担当することになり、2021年7月から2022年6月まで三井住友銀行頭取の高島誠、2022年7月から2023年3月まで三菱UFJ銀行頭取の半沢淳一がそれぞれ就任することになった。
2021年12月15日、みずほ銀行は、毎年1月末時点で1年以上通帳へ記帳されていない口座について、強制的に通帳を廃止しデジタル口座に切り替える作業を、「みずほe-口座」のより一層の機能向上を図るためという理由で2022年分も見合わせると発表した。2021年2月末の大規模トラブルの原因となった作業である。再開時期は未定とされている。
2021年12月30日午後、現金自動預払機(ATM)やインターネットバンキングによる他行宛ての振り込みが一時、利用できなくなるトラブルが発生した。システムの人為的な設定ミスが原因とみられている。
2022年1月11日午前8時ごろから法人向けのインターネットバンキングのシステムで障害があり、ログインしづらいトラブルが発生した。原因は、設定ミスによるデータベースサーバ処理の遅延。
2022年2月11日、午前9時ごろから一部のATMが使えなくなるトラブルが発生した。ATMが1台しかない関東などの9カ所で使用できなくなった。復旧のため、11日午後3時半から全国111カ所のATMを停止した。
2022年10月17日午前、午前9時半ごろから法人の振り込みや取引明細の照会などを扱う「みずほビジネスWEB」などで不具合が発生し、一部の法人向けのインターネットバンキングにつながりにくくなるシステム障害が起きた。正午ごろに復旧した。
以上のように、みずほ銀行はこれまでに、特に2021年以降、立て続けにシステムのトラブルを引き起こし、これが信用失墜の原因となっているが、かつての合併前の第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行が全く異なる3つのシステムを持っており、このような合併ではいずれか1つのシステムのみを使って残る2つは廃止すべきところを、3つのシステムを無理やり統合するという不適切な方法を取ったことがそもそもの原因との指摘がある。みずほ銀行で未だに使われ続けている古いコンピュータシステムの開発者の退職や死去、システム構造のブラックボックス化も相まって、誰一人みずほ銀行のシステムの全貌を把握している人がいない状態となっていることもあり、ITの同業者からも、これではシステムの根本的な修正はもはや不可能との指摘があり、かといってこれだけ巨大なシステムではゼロからの構築も現実的でない。2022年1月のトラブルにおいては、他行へ取引を移すことを自ら推奨するメールを送信した。
2006年7月に銀座支店にニセの夜間金庫が設置される事件が発生した。大阪ニセ夜間金庫事件を模倣したとされている。
2013年9月27日、2012年12月から調査を行っていた金融庁は、グループの信販会社オリエントコーポレーションを通じた自動車ローンなどで、暴力団を含む反社会的勢力取引の存在を知りながら放置したとして、みずほ銀行に業務改善命令を発動した。取引内容は暴力団組員らが中古車を買った際のローンが中心で、取引件数は230件、融資額は2億9千万円に上った。
この融資は、旧第一勧業銀行と繋がりの深いオリエントコーポレーションとの提携ローンで、2010年9月にみずほ銀行による審査が開始され、同年10月に暴力団組員への融資が行われていたことが内部で判明したとされる。情報は当時法令遵守担当役員であった旧第一勧業銀行出身の代表取締役副頭取や常務、執行役員などにまで上げられており、銀行本体のトップクラスの幹部が関わっていることが判明した。当初は取締役会などにはかけられていないとし、銀行のナンバー1である頭取は一切関与していないとの説明を行っていたが、10月8日の会見で、発覚当時の西堀利頭取をはじめ後任の塚本隆史頭取、佐藤康博頭取など歴代頭取までもが暴力団組員への融資を「知りうる立場」にあったことを認めた。
これを受け、翌9日に金融庁は異例の再度の報告書を求めて銀行法に基づく報告徴求命令を出し、10日には菅義偉内閣官房長官が会見で「金融庁への報告が違っていたのは極めて遺憾だ」と述べた。また経済同友会の長谷川閑史代表幹事は「金融機関として、あるまじき状況だ」と批判、信託協会の若林辰雄会長は「再発防止に向けて、銀行業界全体で真剣に考える必要がある」とした。
命令の発動を受け、同行は法令順守担当だった旧第一勧業銀行出身の常務執行役員の更迭をはじめ、減給などの社内処分を実施するほか、再発防止策も10月中にまとめことを明らかにした。10月8日には中込秀樹元名古屋高等裁判所長官が委員長を務める提携ローン業務適正化に関する特別調査委員会が設置された。オリエントコーポレーションでも、10月15日にみずほ銀行出身の斎藤雅之社長を委員長とする反社態勢強化委員会が設置され、16日には、割賦販売法に基づきオリエントコーポレーションに対する調査を行っていた経済産業省に対し、データベース強化のためオリエントコーポレーションとみずほ銀行のシステムを接続するなどの再発防止策をまとめた報告書が提出された。
以前より佐藤頭取兼社長はみずほグループ内の旧日本興業銀行、旧第一勧業銀行、旧富士銀行の人事統合を行う方針を示していたが、本不正融資問題では旧第一勧業銀行グループが人事から外される可能性が生じ、また金融庁による業務改善命令に先立つ2013年3月には旧富士銀行出身者全員がみずほフィナンシャルグループ副社長やみずほ銀行副頭取から外される人事も行われており、元大蔵省大臣官房金融検査部金融検査官の高橋洋一は、事件発覚や、頭取関与の証拠発覚の端緒は、旧日本興業銀行出身の佐藤頭取兼社長に対抗する他派閥からのリークではないかとする。
警視庁は2015年3月24日、元男性審査役と男性会社員2名の3人を詐欺の疑いで逮捕したと発表した。元審査役はぎょうせいの株式購入資金を集める名目で出資者を募っていた。2014年10月7日、元審査役は、ほかの顧客からも、同じような手口で多額の金をだまし取ったとして、損害賠償訴訟を起こされていた。みずほ銀行は実際に2005年、経営陣買収資金を出資して株式買収に関与している。ただし同社の株式は2012年12月、麻生の系列会社がみずほ銀行の買収価格の半値以下で取得し、ぎょうせいは麻生グループ傘下に入った。
2006年(平成18年)9月までは、資産運用篇(大杉漣「10年後も笑おう」)、住宅ローン篇(稲森いずみ「20年後も笑おう」)、新社会人篇(平岡祐太「未来を手にして笑おう」)の各篇をテレビCM放送していた。
2006年(平成18年)10月、CM展開を一新。「HAPPY BANK DAY to you」をメッセージとして、団塊世代の緒形拳、大家族を抱えてマイホームを購入した唐沢寿明、パンフレットでサービスを調べる「賢母」鈴木京香、母親思いで留学するためにアルバイトでお金を貯める井上真央らの出演による新CMシリーズが開始されたが、2008年10月に緒形の死去により事実上打ち切った。
2008年(平成20年)から5年間、阪神甲子園球場のリニューアルに際して、球場1・3塁フィールドシート2,400席に「みずほ銀行シート」と命名権契約を締結。
2009年(平成21年)から2015年(平成27年)夏までは井上真央が出演。2015年(平成27年)11月からは、玉山鉄二、鈴木亮平、福士蒼汰ら3人が、みずほフィナンシャルグループの各CMに出演している。 | [
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"text": "法手続き上は、2013年にみずほコーポレート銀行に吸収合併され解散した以前の法人(旧みずほ銀行)と、以降の法人(旧みずほコーポレート銀行)は別の法人格であるが、どちらもみずほフィナンシャルグループ傘下の銀行で、かつ、商号・ブランドロゴ・金融機関コード・過半の店舗などが連続しているため、本記事では「みずほ銀行」を名乗った法人について連続して扱う。また、本記事では原則として、2013年まで「みずほ銀行」を名乗った旧法人については「旧みずほ銀行」、現在「みずほ銀行」を名乗っている法人については「当行」と記す。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "2011年に発生した東日本大震災の義援金に関連する旧みずほ銀行の大規模システムトラブルの原因究明のために設置された第三者委員会の意見を踏まえ、同年5月、グループ一体運営に向けたガバナンス強化策として、旧みずほ銀行とみずほコーポレート銀行を2013年春をめどに合併させることを発表した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "2013年7月1日、みずほフィナンシャルグループの経営戦略である「One MIZUHO戦略」(銀行・信託・証券一体戦略)の下、旧みずほ銀行は(法人格として)みずほコーポレート銀行に吸収合併された(法人格とSWIFTコードなどはみずほコーポレート銀行側、統一金融機関コードなどは、旧みずほ銀行側を継承)。それに併せて、行名をみずほ銀行に改称した。これにより、同行はみずほフィナンシャルグループにおける中核銀行となった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "なお、本店は千代田区丸の内一丁目のみずほコーポレート銀行本店(旧日本興業銀行本店ビル)を継承したが、2014年5月7日に千代田区大手町の大手町タワーへ移転した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "2002年、当時みずほホールディングス傘下であった第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行の分割・合併により、旧みずほ銀行(存続行は旧第一勧業銀行で、みずほ統合準備銀行を吸収合併)とみずほコーポレート銀行(存続行は旧富士銀で、旧興銀を吸収合併)が誕生した。第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行は、何れも20世紀の日本における最大級の銀行であった。前身となる第一勧業銀行は、渋沢栄一が日本最初の銀行として設立した第一国立銀行を源流とするため、その名残で統一金融機関コードは「0001」を継承している。また、前身となる富士銀行は芙蓉グループ、第一勧業銀行は第一勧銀グループの中核企業であり、2つの融資系列を母体とした企業グループに所属している。三大メガバンクで唯一、前身行に三菱・三井・住友の戦前の三大財閥を含まない(ただし、富士銀行は安田財閥の流れを汲む)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "行名のみずほ(瑞穂)とは、「みずみずしい稲の穂」の意とされ、「瑞穂国」(葦原千五百秋瑞穂国)は、日本書紀に登場した日本の美称でもある。日本を代表する金融機関を目指すとのことで、この商号とされた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "みずほコーポレート銀行と旧みずほ銀行の合併後の当行は、みずほコーポレート銀行の法人格、および富士銀行の前身である安田銀行が、系列10行と大合併をするために準備会社として設立した保善銀行の法人格を引き継いだものとなっていたため、1923年5月7日を設立年月日としている。(旧みずほ銀行は、法人格としては旧第一勧業銀行を引き継いだものとなっていたため、日本勧業銀行の設立年月日である1897年6月7日を設立年月日としていた。)",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "みずほフィナンシャルグループ内で、グローバルリテール部門の中核とし個人および中堅・中小企業や、地方自治体を対象とする銀行と位置づけられていた。大手法人や金融機関、海外業務に関しては、同グループ傘下であるみずほコーポレート銀行が業務対象としていた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "旧みずほ銀行は主にリテール業務を主体、みずほコーポレート銀行はホールセール業務を主体としていたが、本来はみずほコーポレート銀行が管掌する(21世紀になってから政令指定都市に昇格した市や中核市以下の都市などでの)ホールセール業務を旧みずほ銀行が行うケースや、みずほコーポレート銀行がリテール業務を担う場合があるなど、明確な線引きはなかったとされる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "2013年6月30日まで、本店は千代田区内幸町のみずほ銀行内幸町本部ビル(旧第一勧業銀行本店ビル)に置かれていた。なお、同店の窓口(口座店)名称は、2012年10月以降「東京営業部」と称している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "2005年、新商品開発などによる経費率・収益力の改善、不良債権の最終処理や、公的資金の早期完済などを掲げた「Channel to Discovery」プランを発表した。これ以降は、重複店舗の一段の統廃合・再配置を進めた。また、不良債権処理も加速化し、みずほフィナンシャルグループ設立時に計上した巨額の赤字処理を以ってほぼ終え、公的資金の返済(旧興銀の旧住宅金融専門会社への不良債権処理に関する追徴課税の取り消しによる税還付2800億円を充当)等により、信用力も一時に比べ向上した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "2006年7月4日には、三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)に続いて公的資金は全額完済され、同年11月8日、親会社であるみずほフィナンシャルグループがニューヨーク証券取引所(NYSE)に上場した。バブル経済崩壊後はじめて邦銀グループがNYSEへの上場を果たした。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "日本勧業銀行(第一勧業銀行の前身)が大正時代に全国各地、台湾(台北、新竹、台中、台南、高雄支店)に設立されていた農工銀行からの事業譲渡や、農工銀行の吸収合併に伴う受け皿支店の開設などの理由に加えて、戦後には、旧勧銀の宝くじ業務の取り扱いもされていたため、3大メガバンクで唯一全ての都道府県庁所在地・政令指定都市に必ず1つ以上の店舗を有している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "旧富士銀の業務を引き継いで、東京都・東京23区・大阪市・北九州市の指定金融機関とされている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "東京都の島嶼地域においては、都の指定金融機関である関係上、大島町(伊豆大島)には築地支店・大島特別出張所が、八丈町(八丈島)に浜松町支店・八丈島特別出張所がそれぞれ設置されている。かつては、三宅村(三宅島)に東京中央支店・三宅島出張所が設置されていた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行はいずれも東京に本店を置く都市銀行と長期信用銀行であった。このように前身行に関西都銀(在阪三大都市銀行)が含まれなかったので、これらが含まれる三菱UFJ銀行(旧三和銀行)・三井住友銀行(旧住友銀行)・りそな銀行(旧大和銀行)と比較すると関西地区の経営基盤や店舗網は弱い。このためメガバンク・都市銀行の中では東京都や神奈川県などの首都圏に店舗網・経営基盤が集中している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "富裕層向けのプライベートバンキングへも参入し、みずほ銀行に5億円以上の資産をもつ顧客を対象にみずほプライベートウェルスマネジメントへの紹介を進めている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2012年1月以降をめどに、みずほ信託銀行が旧みずほ銀行を所属行とする銀行代理店として同行の口座開設取次を行い、その代わりにみずほ信託銀行のキャッシュカードとATMを2012年3月までに廃止し、みずほ信託銀行の信託代理店としてのみずほ銀行を利用した場合の手数料優遇などを行う方針であることが明らかになっている。これは、「みずほグループ口座」というパッケージで提供され(旧みずほ銀行とみずほ信託銀行の口座を、法人をまたいで紐付けするというもので、顧客情報も紐付けした会社間で共有される形となる)、後に、みずほ証券の証券口座も、みずほグループ口座に含むことができるようになり(これにより、みずほ信託銀行との取引が無くとも、旧みずほ銀行とみずほ証券による組み合わせでも、グループ口座が成立する)、みずほ証券と取引があるがみずほ銀行とはない顧客のために、みずほ証券が銀行代理店として、みずほ信託銀行同様、みずほ銀行の口座開設取次を行うようになった。なおみずほ信託銀行のキャッシュカードとATMの廃止についてはその後一部修正され、ATMは廃止され、みずほ銀行ATMの利用とされたが、キャッシュカードは廃止されていない。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "みずほマイレージクラブ会員を対象としたオンライン証券仲介サービスで、マネックス証券と提携している。マネックスのナイター取引も取り扱い、利用するとマイレージポイントも貯まる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "信販分野では、旧第一勧銀・富士銀時代から親密であったクレディセゾンやオリコとも業務提携している。こちらは保証業務などが中心であり、他のメガバンクと消費者金融の間に見られる関係(資本参加、「銀行系ローン」の設立等)とは一線を画す。そもそもみずほ側は「消費者金融との提携効果は期待できない」としており、このため「みずほ銀行系キャッシング」のようなサービスは存在しない。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2005年4月、米国金融機関のワコビア(東部地盤・2008年後者に吸収)・ウェルズ・ファーゴ(西部地盤)とトレードファイナンスや投資信託販売などで提携を開始した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2019年8月、中小企業の事業承継ニーズへの支援強化のため、M&Aキャピタルパートナーズ株式会社と業務提携を開始した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "普通預金の利息は、2月・8月の第3土曜日の翌営業日付で付与される(総合口座普通預金の貸越利息の決済も同日に行われる)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "貯蓄預金の利息は、毎月第2土曜日の翌営業日(原則として月曜日だが、祝日による変動あり)付で付与される。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "なお、店舗の統廃合に関する詳細については、公式サイトの「店舗統合・移転のお知らせ」及び「店舗統合検索」を参照のこと。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "固有の業務として、旧勧銀からの経緯として宝くじの作成、販売、当選金の支払いなど業務を引き続き受託している。",
"title": "特徴的な業務"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "旧興銀の業務を引き継ぎ、旧興銀店舗またはその承継店舗では、金融債の「割引みずほ銀行債券(ワリコー)」「割引みずほ銀行債券保護預り専用(ワリコーアルファ)」「利付みずほ銀行債券(リッキー)」「利付みずほ銀行債券利子一括払(リッキーワイド)」を発売していたが、2007年(平成19年)3月後半債(3月27日)で発行を終了した。",
"title": "特徴的な業務"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2007年3月後半債(3月27日)で先の4種の金融債は発行終了、財形貯蓄型金融債も特例期限から1年前倒しして、2011年(平成23年)3月後半債の発行にて終了した。また、金融債の保護預かりに利用する「金融債総合口座」も、2013年2月24日で廃止され、翌日より、一般の総合口座や普通預金・定期預金へ、規定上変更された。",
"title": "特徴的な業務"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ATMコーナーに設置されている「両替機」は、みずほ銀行に口座を開設している人向けの専用機(みずほ銀行のキャッシュカード、あるいは大量の両替を行う利用者に発行される両替機専用カードが必要)である。口座を開設していない人(みずほ銀行のキャッシュカード無し)は、窓口での対応となる(これは、他の都銀でも同様のケースが見られるが、他行では、両替手数料用の硬貨投入口が別に取り付けられているケースもある)。",
"title": "特徴的な業務"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "旧みずほ銀行では、振込に関しては、みずほコーポレート銀行宛の振込手数料は窓口、みずほATMコーナーの他、ネットバンキングサービスであるみずほダイレクト等も含めて、旧みずほ銀行全てのチャネルからの振込で当行扱となっていた。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "イオン銀行(後述の内容も参照)・千葉興業銀行・大垣共立銀行・三十三銀行の各行ATMでは利用手数料が徴収されない(時間内は無料、時間外は要手数料。イオン銀行を除き、みずほマイレージクラブの優遇対象外)。他行手数料無料で扱う東京スター銀行(2019年12月より要手数料)、およびかつて存在したゼロバンクのATMも、みずほ銀行のキャッシュカードで出金可能である。また、ゆうちょ銀行のATMでは、キャッシュカードでの入金(紙幣のみ。要手数料)も可能である。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "JR東日本が駅構内などに設置されているATM「ビューアルッテ」(要手数料)や、イオン(総合スーパー)をはじめとするイオングループの各店舗等に設置されている「イオン銀行」のATMが利用可能である(下記に詳述)。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "更に、2008年8月20日からは阪急電鉄と北大阪急行電鉄が駅構内などに設置されているATM「Patsat」(池田泉州銀行提供、ステーションネットワーク関西運営)においても利用する事ができ、平日の日中帯に限り提携利用手数料がかからない(みずほマイレージクラブ優遇対象外)。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "旧みずほ銀行側からの発表はなかったが、2006年3月26日より、新銀行東京との相互出金提携を行っている(要手数料)。更に、商工中金・新生銀行・あおぞら銀行でも引き出しができる(要手数料)。同様に、旧みずほ銀行側からの発表はなかったが、2011年6月27日からは、SBJ銀行(新韓銀行の日本法人)のキャッシュカードによる当行ATM入出金利用提携(片利用)を行っている(SBJ銀行所定の手数料が適用)。当初は5月9日に利用提携を開始する予定だったが、直前になって旧みずほ銀行側の都合により延期されていた。2014年2月10日からは、楽天銀行のキャッシュカードによる当行ATM入出金利用提携(片利用)を行っている(楽天銀行所定の手数料が適用)。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "イオン銀行との接続開始時には、同行ATM利用時は手数料が徴収され、みずほマイレージクラブの優遇対象外となっていたが、2013年12月8日の「戦略的提携」の開始に伴い、同行とみずほ銀行の共同設置扱いとなり、みずほ銀行のキャッシュカード利用時は、自行ATMと同様となる。ただし、優遇対象となる振込手数料(ATM統括支店経由であるため、みずほ銀行のいずれの支店宛も本支店扱いとなる)は、いったん引き落とされるものの、後日返金される。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2020年3月よりうれしい特典の優遇内容改定によりイオン銀行ATMで振り込んだ場合でも振込手数料の優遇は廃止された。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "同行はコンビニATMのイーネット・ローソン銀行・セブン銀行と個別提携しており、同行独自のATMサービスを提供する。イーネット及びローソンATMでは、入出金、残高照会、振込、暗証番号変更のサービスが利用できる。2006年(平成18年)7月23日よりセブン銀行と提携し、同社ATMにおける独自サービスを開始した。現在みずほ銀行の口座はセブン銀行では入出金、残高照会の3サービスを利用できる。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2020年3月よりうれしい特典の優遇内容が改定されたことでコンビニATMのイーネットのみが優遇の対象となり、ローソン銀行のATM・セブン銀行のATMを利用した場合は月1回目から手数料が発生するようになった。なおイーネットATMにおける利用手数料ならびに時間外手数料は所定の条件を満たすことにより最大月3回まで無料になる。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2004年8月16日より、「みずほバリュープログラム」の後継商品として、取引によっては優遇のある「みずほマイレージクラブ」を開始した。ポイントカード制を大手銀行では初めて本格的に展開、非金利収入面での顧客獲得機会を拡大するサービスとして、2004年の日経優秀製品・サービス賞(日経金融新聞賞)を受賞した。開始から2年半を経た2006年12月時点で会員数は250万人を突破しており、半年に50万人のペースで増加している。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "富裕層向けの会員サービス。みずほ銀行に1000万円以上の円資産を有するなどの条件を満たす顧客に対して入会案内が送られる(なお、詳細条件は、各支店ごとに確認のこと)。入会すると、マイレージクラブのサービスに加えて、以下のような優遇サービスが提供される。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "なお、「みずほプレミアムクラブコンシェルジュデスク」は、JTBが運営している。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "クレディセゾンと提携した「みずほマイレージクラブカード」とJR東日本と提携した「みずほSuicaカード」がある。いずれもみずほマイレージクラブに入会していなければ申し込む事は出来ない。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2017年には、クレディセゾンとの提携内容の見直しと、オリエントコーポレーションおよびジェーシービーとの追加提携が発表され、クレディセゾン発行のセゾンカードおよびUCカードに加え、オリコ(VISA/MasterCard)のカードとJCB提携のカードならびにJCBデビットカードが追加されている。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2022年7月11日より、みずほJCBデビット(キャッシュカード)一体型とみずほJCBデビットカード(単体型カード)発行開始した。 既に(旧)みずほJCBデビットカード(単体)お持ちの方は、一度解約手続き必要です。みずほクレジットカード同様。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "解約せずに更新時期来ますと自動的に新カード(単体)が送られてくる。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "概要は次表の通りである。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "※1 初年度の年会費は無料。2007年10月26日を以って新規発行終了。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "※2 2008年0月17日をもって新規発行終了。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "※3 初年度の年会費は無料。翌年度以降の年会費は、前年度のショッピングの利用額が合計10万円以上の場合は無料。2008年(平成20年)9月末をもって新規募集終了。カードに記載された有効期限をもってサービスを終了することが、みずほ銀行とJR東日本の両社より発表されている。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "みずほマイレージクラブカードは、UCと《セゾン》がある。UCは、一般とセレクトでハローキティデザインのカードや通帳も選べる。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "UCと《セゾン》ともにETC支払用の子カードの発行ができる。iDとQUICPayについては、おサイフケータイのみに対応している。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "みずほマイレージクラブカードを利用した際に貯まるポイントは、マイレージポイントである。基本的に1000円につき1ポイント貯まるが、《セゾン》アメリカン・エキスプレス・カードを海外で利用した場合は2倍貯まる。また、パートナーズサービスがあり、日本のパートナー企業で利用した場合は2 - 5倍、海外のパートナー企業で利用した場合は2倍それぞれ貯まるが、《セゾン》アメリカン・エキスプレス・カードを海外のパートナー企業で利用した場合は3倍貯まる。ただし、iDとQUICPayを利用した場合はパートナーズサービスの対象外である。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "一方、みずほSuicaカードを利用した際に貯まるポイントは、JR東日本のビューサンクスポイントであり、基本的に1000円につき2ポイント貯まるが、JR東日本のVIEWプラスの対象商品の場合は1000円につき6ポイント貯まる。なお、ビューサンクスポイントは、マイレージポイントに交換する事が出来、ビューサンクスポイント2000ポイントをマイレージポイント1000ポイントに交換する事ができる。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "しかし、2009年4月からはみずほマイレージポイントは廃止となり、クレディセゾンの永久不滅ポイントに変更された。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "みずほSuicaカードは、JR東日本のSuicaを搭載しているが、Suica定期券には対応していない。ただし、みずほSuicaカードでモバイルSuicaに会員登録した場合は、モバイルSuicaのSuica定期券を利用する事ができる。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2006年8月28日から、キャッシュカード取引のセキュリティ向上のために指静脈を利用した生体認証機能付のICキャッシュカードの発行を開始。ただし、同年10月1日までは、生体認証機能付ICキャッシュカードへの生体認証情報の書き込みを行っていないので、実際の利用開始は、同年10月2日からになる。なお、これ以降に発行されたICキャッシュカードは原則生体認証に対応したものとなる。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "申し込みから利用まで全てペーパレスで完結するスマホ決済アプリ。みずほ銀行に口座を持つ個人(日本国内在住の15歳以上、中学生を除く)であれば誰でも利用できる。JCBと連携しており、アプリ内に口座から直接支払いが出来るバーチャルデビットカードを即時発行し、コンビニやスーパー、ファミレス等のQUICPay+で支払うことができる。既にみずほJCBカードを持っている場合は、カード情報をアプリに追加することでスマホ決済としても使える。年会費等はかからない。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "Android版と同様、申し込みから利用まで全てペーパレスで完結するスマホ決済アプリのiOS版。Android版と異なり、JR東日本と連携。発行されるカードはMizuho Suica(前述のみずほSuicaとは別サービス)。Suicaとして利用でき、IC相互利用可能エリアであれば全国どこでも使える。年会費等はかからない。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "アプリ上で口座から直接チャージできるため、クレジットカードを持たない人やチャージできる場所が限られている人にも使いやすい。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "みずほ銀行に加え、全国の90以上の地方銀行(2020年2月時点)と口座接続が可能なQR・バーコード決済/送金サービス。2019年3月から提供されている。ユーザー間での送金、接続済みの銀行口座への入出金(チャージ/口座戻し)手数料が無料。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2022年7月20日よりJ-Coin PayからモバイルSuicaへのチャージが可能になる。",
"title": "決済サービス"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2002年(平成14年)4月1日の合併再編(旧第一勧業銀行・旧富士銀行・旧日本興業銀行の3行を、リテールバンキング事業を継承する旧みずほ銀行と、ホールセールバンキング事業を継承する旧みずほコーポレート銀行の2行に再編)の当日から、合併再編前の3行のシステムを連携するリレーコンピュータのバグにより、旧みずほ銀行とみずほコーポレート銀行にて大規模なシステム障害が発生し、預金者や利用者に大混乱を来すこととなった。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "同月1日に10万5千件の未処理が発生。2日はイオンカード、4日はセゾンカード・ビューカード、5日はUCカード(※勧銀クレジット・富士銀クレジットなどが統合されてから最初)といった、旧みずほホールディングスと結びつきの強いクレジットカード会社の口座引落し日で、クレディセゾンは引き落とし不能でも信用情報の支払遅延扱いにはしない旨を含んだ、独自の「お詫び文」を発表する。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "未処理件数は、5日に250万件余り・二重引き落としが3万件まで積み上がり、個人に対しての影響が広がる。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "現金自動支払機の稼働トラブルに関しては4月上旬に解消されたが、口座振替に関してはシステムが増強される5月まで、システムセンターの人海戦術によるバッチデータの手作業での確認や、準備が引き落とし日に備えて日夜行われる綱渡りの状況が続いた。収納企業・公共団体に対しては、通常より早期に口振データの送付を要請した。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "また、コンピュータシステムの改修に関わっていた富士通ターミナルシステムズ(ATMベンダー)のシステムエンジニアが、デスマーチにより過労自殺する事態となり、2003年(平成15年)に労働災害が認定されている。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)直後の2011年(平成23年)3月15日(火曜日)未明、テレビ局が旧みずほ銀行東京中央支店に開設していた義援金受付口座への振り込み件数が、フロアリミッター設定上限数を超えたことにより、夜間バッチ処理が予定時刻の朝5時までに終わらず、約38万件の処理が積み残された。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "この異常終了により、16日営業時間帯のオンラインシステム起動が遅れ、未処理の決済データがサーバに積み上がって勘定系システムが不安定になり、大規模なシステム障害へと発展した。ATMの一部が使用できなくなり、さらに処理の積み残しが増えていくという悪循環に陥り、17日には勘定系システムが強制終了した。ピーク時には116万件(約8296億円)の未処理取引を発生させた。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "旧みずほ銀行側は後に、具体的な原因について、「東日本大震災義援金の振り込みの一部店舗への集中」と説明した。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "また、この際、事後処理として二重に振り込まれた金銭の回収を行ったが、確認を怠り、事前連絡なしに正規の振り込みまで回収していたことが発覚した。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "他、このトラブルに便乗し、同行が顧客に対して行った臨時支払いを悪用して25万円を騙し取ったとして、詐欺罪容疑での逮捕者が出ている。この被疑者は、同行の店舗数店から、合計で百数十万円を騙し取った疑いがある。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "旧みずほ銀行は、3月19日(土曜日)から3月21日(月曜日・春分の日)の3連休期間中に、全ATMを休止して、バッチ処理の積み残しを処理したが、障害が収束した3月24日まで、9日間に渡ってシステム障害が続いた。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "このシステムトラブルで、金融庁から同年5月31日に、銀行法に基づく「業務改善命令」が、旧みずほ銀行の親会社であるみずほフィナンシャルグループと伴に下された。業務改善命令の理由として、システムのコンティンジェンシープランの整備や情報技術投資戦略、適材適所の人材配置やグループ内連携態勢などで、みずほ経営陣の機能発揮に問題があるとし、みずほフィナンシャルグループの一体感の醸成への取り組みが十分でなく、みずほの企業風土に課題があると指摘した。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "この結果、頭取の西堀利とIT・システムグループ担当の常務執行役員萩原忠幸が6月20日付で引責辞任し、2度の大規模トラブルからの信頼回復、再発防止策として、グループ経営の効率化と意思決定の迅速化が必要と判断され、たすきがけ人事の解消、旧みずほ銀行・旧みずほコーポレート銀行の合併による「2バンク制」解消、勘定系システム全面刷新の要因となった。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2015年(平成27年)1月5日(月曜日)、システム障害により、法人向けインターネットバンキング「みずほe-ビジネスサイト」が利用できなくなるトラブルが発生。法人取引の振込や送金などが期日通りに行われなければ、企業間の信用問題につながりかねない恐れがあるため、顧客は電話越しや店舗に出向く対応を強いられた。なお、週刊ダイヤモンドの取材によると、表沙汰にはなっていないが同様のシステム障害が2014年にも発生していた。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)2月28日(日曜日)より3月12日(金曜日)の僅か13日間で、当行はそれぞれ原因の異なるシステムトラブルを4回連続で引き起こした。なお、当行と同じ勘定系システム「MINORI」を用いているみずほ信託銀行では、これらのトラブルは発生していない。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "金融庁は、当行が僅か13日間で4回のシステムトラブルを相次いで引き起こした事態を重くみて、当行と親会社のみずほフィナンシャルグループに対し立ち入り検査、検査結果を踏まえ行政処分を検討する予定である。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "当行は、3月12日に藤原弘治頭取が記者会見をした。このなかで藤原頭取は「原因究明と再発防止が、私に課せられた最大の責任だ」と述べ、引責自任を否定した。また、全国銀行協会の次期会長(2021年4月から2年)に就任予定である、みずほフィナンシャルグループの坂井辰史社長については「次期会長職を務めていく」と述べ、会長の就任辞退、社長職の辞任を否定した。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "当行の親会社であるみずほフィナンシャルグループは、3月17日のニュースリリースにおいて、4月1日に予定していた当行の藤原弘治頭取の会長就任及び加藤勝彦常務の頭取就任を、当行が発生させたシステム障害に対応するため取り消すと発表した。なお加藤勝彦常務は、代表取締役副頭取になる。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "当行の親会社であるみずほフィナンシャルグループの坂井辰史社長は、3月17日午後5時から都内で記者会見を開いて、障害の原因究明や再発防止策の策定について説明した。責任の取り方については「原因究明や再発防止策の策定後に適切に考えたい」と述べたのみ。4月に予定されていた坂井辰史社長全国銀行協会の会長への就任については「就任を見合わせる方向で相談したい」と表明。取消となった4月1日の当行の頭取交代人事については「加藤氏が頭取になるのは基本的な方向感だ」と述べ、交代は既定のままで時期の延期であることを示唆した。報道によれば、トラブルについて、坂井社長が公の場で説明するのは、これが初めてである。なお、全国銀行協会の会長については、3月18日に、全国銀行協会から公式に「みずほフィナンシャルグループの坂井社長より、足元の度重なるシステム障害の原因究明と改善対応策に専念するため、全銀協会長への就任は当面の間見合わせるとの申し出があった、来年度の体制については、4月1日に坂井社長へ交代することを内定していたが、全銀協の現行体制を当面維持する」と発表があり、三毛会長(三菱UFJ銀行頭取、4月からは三菱UFJフィナンシャル・グループ会長)が4月以降も続投することになった。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)2月28日(日曜日)、定期預金に絡むデータ更新作業に伴い、ATMとインターネットバンキングにおける一部取引が利用不可となるシステムトラブルを発生させた。ATMより通帳やキャッシュカードが戻らず備え付けの電話もつながらない深刻な被害も多数発生させた。みずほ以外のATM利用で生じた手数料は後日返金とする報道されているが、当行Webサイトでは「本件に関して代替手段により発生した費用についてはお取引店か下記問い合わせ先にご相談ください」と発表しており、自発的返金は行うとの表明はなく、相談後の対応についても何ら明らかにしていない。また日本経済新聞によれば、「28日夜の段階で説明の記者会見は開いていない」、「記者が支店に取材に行った際、利用者が『4時間以上待たされているのに誰も来ない』という状態であった」。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "当行は、3月1日午後6時に、本店で記者会見を行い、5395台のATMの80%にあたる4318台に障害が発生し、預金通帳やキャッシュカードがATMからとりだせなくなった件数は合わせて5244件と公表した。なお、この報道では「システム障害の影響でコンビニなどのATMを使った利用客には、かかった手数料を全額返金するほか、ATMに残っていた預金通帳などの返却を進めていく」としているが、当行Webサイトの記載は、2日12時30分の段階で「ご相談ください」のままであった)。J-CASTトレンドの報道によると、「1日にみずほ銀行の広報担当者に取材したところ、いずれも一律で定められたものは存在しないという。利用者からの相談の中で適宜判断していくとした。」となっている。また公式ウェブサイトで「後日弊行よりご連絡、ご返却をいたします(他行キャッシュカードは、当該他行経由でご返却となります)」とあるだけでいつ返却するかの明示はなく、他行のカードは他行経由としている。またトラブルの原因について「定期預金のデータ移行の45万件に月末の取り引きの25万件が重なり、システムの一部に負担が生じオーバーフローした」と藤原頭取が説明」しており、「(システムの)キャパシティーが不十分だったことが今回のトラブルを引き起こした」とも説明した。経営責任については「最優先事項は顧客へのおわびと安定稼働だ。経営責任は当然ながらある。しっかり受け止めていきたい」と発言したが、日本経済新聞の報道した一問一答には、それ以上の具体的な進退等については掲載されていない。なお、藤原頭取は、2021年3月末で頭取を退任して4月1日からみずほ銀行会長になることが内定していた。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "時事通信の報道によると、2月27・28日の両日、一定期間取引のない定期預金(不稼働定期預金)の口座のデータを45万件ずつ移行する作業を実施した。ただ、28日は通常の取引が集中し、システムの容量がオーバーした。定期預金の積み立てなど通常の取引量が多い月末に、システムを増強せずに臨時のデータ移行作業を行った「想定の甘さ」があった。これだけなら定期預金の取引不能件数であり当初463件であった。しかし、2019年に導入した新システムの「自衛機能」により、基幹システムがATMとの連携を一部遮断しATMの処理速度が低下。取引の異常を検知したATMが、カードや通帳を次々と飲み込む事態となった。ATM備え付けの電話からの問い合わせで警備員が駆けつけるが、休日ということもあり、人員不足で同時多発的な被害への対応が不能となった。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "3月8日時点の当行Webサイトでは、頭取名で「ATMにキャッシュカード、通帳等が取り込まれたお客さまにつきましては、できるだけ早くお手元にお届けできるよう、お一人ずつ弊行よりご連絡・ご返却を進めて」とし、手数料についても「後日返金」を記載した。ただしいつまでとは記載がない。またトラブルの原因、具体的な対策の記載はなく、「システム、またその運用における要因も含め検証し、再発防止策の策定・徹底」と述べた。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "取り込んだ通帳・キャッシュカード(5244件)の約2割が2日時点で、未返却であるとともに、顧客と連絡が取れなかったり、警備会社に保管中のカードや通帳の回収に時間がかかっている。返却完了の時期は未定と報道された。報道された説明によれば、「顧客と連絡が取れなかったり、警備会社に保管中のカードや通帳をみずほが回収する時間がかかったりしている返却完了の時期は未定である」。返却状況については、3月4日時点ででは、3日までの状態で1割の500件ほど未返却である。報道では、理由として「一部に連絡が取れない顧客がいるなど」としている。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "金融庁は3月2日夜、銀行法に基づき報告徴求命令を当行及び親会社のみずほフィナンシャルグループに出し、原因や再発防止策などの報告を今月末までにするように命じた。金融庁のWebサイトの報道発表資料には、この件の掲載はない。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "3月4日、読売新聞、時事通信は、「みずほ銀行は4日、2月28日に発生させた現金自動預払機(ATM)の大規模障害について、デジタル通帳への移行に向けた口座情報の移し替え作業が原因の一端だったと明らかにした。」と報じた。時事通信の報道では「通常のデータ更新作業25万件にデジタル口座へのデータ移行作業45万件が重なり、基幹システムの容量不足に陥った。」とあり、また読売新聞は「2月28日に全国各地で発生した大規模な現金自動預払機(ATM)の障害は、今年1月に導入した「デジタル通帳」へ預金などのデータを移行する作業の中で発生したことを明らかにした」として定期預金のデータ移行は無関係のような報道となっている。件数的には、定期預金に絡むデータ更新作業よりデジタル通帳への移行に向けた口座情報の移し替え作業の件数が多いが障害に寄与の度合いは明らかではない。また、当行が明らかにしたとしているが、当行Webサイトでは一切言及はなく、「2月28日に発生した定期性預金のデータ更新作業に起因するシステムトラブル」のままである。また、3月1日の頭取の記者会見で、この「デジタル口座へのデータ移行作業」については言及がないが、銀行がこの時点で把握していなかったか、把握しても頭取には情報が伝わっていない若しくは隠蔽したかは明らかでない。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "当行は、3月6日の当行Webサイトでは「99%超のお客さまに、ご返却の対応を取らせていただきました」と初めて当行Webサイトで返却状況を告知した。手数料の返金については、「後日返金」としており、いまだに返金していないことを明らかにした。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "3月5日、朝日新聞は、遠藤正之・静岡大学情報学部教授(金融情報システム)のインタビューを掲載した。このなかで遠藤は、",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "と3つの課題を指摘し、いずれも顧客本位でないことに問題があると述べた。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "3月9日、朝日新聞は、年度末に作業を行った理由について、みずほ幹部が「時期を決めた当初の考え方は、印紙税(が理由)だった」とも打ち明けたと報道した。。紙の通帳は印紙税が年200円かかるが、この基準は4月。3月までに減らすと税額を抑えられる目算であり、約2400万の口座のほぼ半数が、数年後に切り替わると見込み、単純計算で年24億円の印紙税軽減となる。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "2月28日に引き起こしたシステムトラブルに伴い、当行のキャッシュカードで他の金融機関のATM等を利用した場合に発生した手数料の返金を、3月16日から3月18日にかけて行うと、3月15日に当行Webサイトで告知された。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "3月25日の報道によると、みずほ銀行は、2月28日と3月3日に発生したシステム障害で現金自動預払機(ATM)に通帳などがのみ込まれた人に「おわびの品」として5千円分のクオカードを届けることを決め、藤原弘治頭取が「これまで同様のご愛顧を」と呼び掛ける文書を添え、順次配布している。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)3月3日(水曜日)19時58分、ハードウエアの不具合によりシステムセンター間のネットワーク瞬断が発生するシステムトラブルを発生させた。3分後の20時1分に復旧したが、28拠点29台のATMがこの影響で停止し、僅か3日前に引き起こしたシステムトラブルと同様、ATMより通帳やキャッシュカードが戻らない深刻な被害を29件発生させた。当行の公表によると「2月28日に発生した定期性預金のデータ更新作業に起因するシステムトラブルとは別の要因」であると発表した。小規模のトラブルだが、僅か3日前に引き起こしたシステムトラブルと同様、ATMより通帳やキャッシュカードが戻らない深刻な被害を連続して発生させたこともあり「みずほ銀行、またもシステム障害」、「みずほ銀行 またATM一時障害 最大3時間使えず」、「みずほ銀行また障害 ATM29台一時停止、カード戻らず」と報道された。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "このトラブルでATMに取り込まれたカードや通帳については、時事通信は、4日午前10時時点で過半が返却されたと報道した。当行は、3月6日に「カード返却等のお客さま対応も完了」と発表した。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "3月3日に引き起こしたシステムトラブルについても、金融庁は銀行法に基づき報告徴求命令を出した。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)3月7日(日曜日)午前9時ごろから、カードローンのプログラムの更新作業に伴い、一部でエラーを関知した。この影響で、インターネットバンキングやATMで定期預金の一部取引ができなくなったが、同日午後1時30分頃に復旧した。当行によると「9名のお客さまの取引不成立を検知、既に個別にご連絡のうえ対応。ATMでは、お客さまがお困りの場合に備え、各拠点には行員を待機させ、個別に対応いたしました。なお、不成立となった取引はない。」としている。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "3月7日に引き起こしたシステムトラブルについても、金融庁は銀行法に基づき報告徴求命令を出した。なお、これについては各報道とも、3日と7日のものについて11日(一部12日)にまとめて報道している。同じ日に命令したか、別の日であったかは各報道に具体的な命令の日がなく不明である。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)3月11日(木曜日)午後11時40分ごろ、データセンターのハード機器に障害が発生し、バックアップ機能への切り替えにも失敗し、送金の処理ができなくなった。送金の集中処理が完了したのは12日午後7時45分ごろだった。全国各地の支店などで、企業間の海外送金の一部に遅延が生じなど、約300件に影響が出た。12日に当行が発表したと各報道が伝えた 。日経新聞は、影響の詳細について「企業が国内にある取引先の口座にドル建てで振り込む場合、依頼を受けた銀行は午後1時までに振込先の銀行にデータを送信する必要がある。今回の障害でデータの送信が完了したのは午後6時。振り込みが翌日付となれば、企業間の取引で実損が出る恐れがある。みずほ銀行は当日付にできるよう相手方の銀行と調整する。」と解説した。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "影響の詳細は、3月15日に当行Webサイトで告知された。これによると「国内他行向けの送金263件について、当日付の送金ができない状況」であった。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "なお当行は、このシステムトラブルによる送金遅延は計500億円に上ったと発表している。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "6月14日、今回当行で相次いだATMなどのシステム障害について調べていた第三者委員会の報告書の概要が分かったと伝えられた。システム自体に根本的な欠陥はなく、人員配置や設定面で運用が未熟だったことが原因と結論付ける。顧客対応の不十分さが問題を深刻化させたことも指摘する。同月15日にも報告書を公表する予定と共同通信が報道した。報告書は、6月15日にみずほフィナンシャルグループより発表された。なおみずほ銀行HPでは、この発表を受けて、株式会社みずほ銀行におけるシステム障害にかかる原因究明・再発防止についてを発表したが、みずほ銀行HPからは報告書へのアクセスはリンクを含め一切なく、利用者が、みずほフィナンシャルグループにアクセスするしかない状態である。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "またこれに関連して、みずほフィナンシャルグループ取締役社長 坂井辰史が、報酬月額の50%減額×6ヶ月、みずほ銀行取締役頭取 藤原弘治が、報酬月額の50%×減額4ヶ月などの役員処分がされたが、やはりフィナンシャルグループHPでのみ公表されている。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "なお、藤原頭取が同年6月末で退任することが報じられていたが、再発防止に取り組む観点から当面の間続投することを6月15日に明らかにした。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)8月20日(金曜日)、今年だけで5度目になるシステム障害で始業時から12時頃まですべての店舗窓口で入出金や振り込みなどの手続きが出来なくなった。今回は、みずほ銀行と同じ勘定系システム「MINORI」を用いているみずほ信託銀行においても、同様なトラブルが発生した。原因は、DBサーバーのハード故障し、バックアップ機器に故障が波及とされた。なおみずほ銀行は、公式HPにおいて「代替手段により発生した費用等につきましては、個別にご対応させていただきますので店舗または下記のフリーダイヤルへご相談」とのみ発表し、前回同様、補償を明言していない。今回のトラブルについても金融庁は銀行法に基づく報告徴求命令を出した。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)8月23日(月曜日)、週末の金曜日に引き続き今年だけで6度目になるシステム障害で全国で最大130台のATMが一時使えなくなった。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)9月8日(水曜日)、今年だけで7度目になるシステム障害で同日午前9時半ごろから、ハードの不具合により一部の現金自動預払機(ATM)とインターネットサービス「みずほダイレクト」が一時的に利用できない状態となった。一時利用不可となったATMは最大100台で、そのうち27台で現金の取り込みが発生した。システムの一部を再起動することですでにすべて復旧済みである。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)9月22日(水曜日)、金融庁は、銀行法第26条第1項に基づき株式会社みずほ銀行に、及び銀行法第52条の33第1項に基づき、株式会社みずほフィナンシャルグループに対し、システムの改修や保守点検計画の提出を求める業務改善命令を発出した。当面のシステム更改及び更新等の計画についての報告も求めており、日本経済新聞は、「金融庁が同行のシステムを実質管理」と報道したが、麻生太郎金融相は9月24日の閣議後の記者会見で、「みずほ銀行が自らシステム更改などを適切に管理することを求めている」、金融庁がみずほのシステムを「共同管理」するなどと一部で報じられたことについて、「一緒にやる事実はない」と否定した。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)9月30日(木曜日)、今年だけで8度目になるシステム障害387件の外国為替取引に遅れが出た。主に法人顧客の送金が滞り、80件は翌日に持ち越しとなった。詳細な原因は特定できていないが、企業の決済が集中する上半期の末日とはいえ、決済が集中し負荷が大きくなったことが一因とされており、時事通信は、金融関係者の見解として「更新ではなく、システムや機器のもろさが要因であれば問題は根深い」と報じた。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)11月26日(金曜日)、金融庁は、銀行法第26条第1項に基づき株式会社みずほ銀行に、及び銀行法第52条の33第1項に基づき、株式会社みずほフィナンシャルグループに対し、再発防止策を速やかに実行すること、業務改善計画を策定し、提出を求める等の業務改善命令を発出した。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)11月26日(金曜日)、財務省は、外国為替及び外国貿易法第17条の2第1項の規定に基づき、株式会社みずほ銀行に、資産凍結等経済制裁に関する外国為替及び外国貿易法及び同法に基づく命令の規定を確実に遵守するための実効性のある改善・再発防止策の策定等し、提出を求める等の是正措置命令を発出した。日経クロステックによれば、処分の対象となった事案については、9月30日のシステムトラブルの際に、外為送金は午後3時の「カットオフタイム」までに完了させる必要があるが、一部の外為送金がそれに間に合わなくなる恐れがでてきたため、CCO(最高コンプライアンス責任者)がアンチ・マネー・ロンダリング・システム(AML)によるチェックを省略しても法令に沿った対応ができると主張し、AMLによるチェックを省略する方針を決断し、実際に349件の外為送金がAMLによるチェックを経ずに実行されたものである。日経クロステックは『CCOやCIOが出席する非常対策PTで外為法に違反する決断をしたことが、「役職員の知識不足」や「関係部署間のコミュニケーション不足」に該当する。誤った決断を下した背景に「平時からの連携不足」があった。加えてAMLを省略して外為取引を実行できてしまうシステムであったことが「システム管理態勢の脆弱性」に該当する。』と論評した。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "金融庁による処分を受けて、坂井 辰史みずほフィナンシャルグループ取締役 兼 執行役社長(代表執行役)が「一連のシステム障害等に関する経営責任を明確にし、経営執行体制の刷新が必要と判断したため」として退任をすると発表したが、退任は、2022年4月1日付であり、なお4か月以上、在任するとしている。みずほ銀行の藤原 弘治取締役頭取も、2022年4月1日付で退任と発表された。こちらは、単なる異動の発表であり、理由は記載されていない。また取締役としては2022年6月の任期満了まで在任する。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "また、坂井は全国銀行協会の会長職に就任することが内定していたが、これらの問題や坂井の引責辞任を受けて、辞退することを明らかにした。そのため、メガバンク3行による輪番制でみずほ銀行の後に担当する予定だった2行が前倒しで会長職を担当することになり、2021年7月から2022年6月まで三井住友銀行頭取の高島誠、2022年7月から2023年3月まで三菱UFJ銀行頭取の半沢淳一がそれぞれ就任することになった。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "2021年12月15日、みずほ銀行は、毎年1月末時点で1年以上通帳へ記帳されていない口座について、強制的に通帳を廃止しデジタル口座に切り替える作業を、「みずほe-口座」のより一層の機能向上を図るためという理由で2022年分も見合わせると発表した。2021年2月末の大規模トラブルの原因となった作業である。再開時期は未定とされている。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "2021年12月30日午後、現金自動預払機(ATM)やインターネットバンキングによる他行宛ての振り込みが一時、利用できなくなるトラブルが発生した。システムの人為的な設定ミスが原因とみられている。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "2022年1月11日午前8時ごろから法人向けのインターネットバンキングのシステムで障害があり、ログインしづらいトラブルが発生した。原因は、設定ミスによるデータベースサーバ処理の遅延。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "2022年2月11日、午前9時ごろから一部のATMが使えなくなるトラブルが発生した。ATMが1台しかない関東などの9カ所で使用できなくなった。復旧のため、11日午後3時半から全国111カ所のATMを停止した。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "2022年10月17日午前、午前9時半ごろから法人の振り込みや取引明細の照会などを扱う「みずほビジネスWEB」などで不具合が発生し、一部の法人向けのインターネットバンキングにつながりにくくなるシステム障害が起きた。正午ごろに復旧した。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "以上のように、みずほ銀行はこれまでに、特に2021年以降、立て続けにシステムのトラブルを引き起こし、これが信用失墜の原因となっているが、かつての合併前の第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行が全く異なる3つのシステムを持っており、このような合併ではいずれか1つのシステムのみを使って残る2つは廃止すべきところを、3つのシステムを無理やり統合するという不適切な方法を取ったことがそもそもの原因との指摘がある。みずほ銀行で未だに使われ続けている古いコンピュータシステムの開発者の退職や死去、システム構造のブラックボックス化も相まって、誰一人みずほ銀行のシステムの全貌を把握している人がいない状態となっていることもあり、ITの同業者からも、これではシステムの根本的な修正はもはや不可能との指摘があり、かといってこれだけ巨大なシステムではゼロからの構築も現実的でない。2022年1月のトラブルにおいては、他行へ取引を移すことを自ら推奨するメールを送信した。",
"title": "勘定系システムと度重なるシステム障害"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "2006年7月に銀座支店にニセの夜間金庫が設置される事件が発生した。大阪ニセ夜間金庫事件を模倣したとされている。",
"title": "不祥事・事件"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "2013年9月27日、2012年12月から調査を行っていた金融庁は、グループの信販会社オリエントコーポレーションを通じた自動車ローンなどで、暴力団を含む反社会的勢力取引の存在を知りながら放置したとして、みずほ銀行に業務改善命令を発動した。取引内容は暴力団組員らが中古車を買った際のローンが中心で、取引件数は230件、融資額は2億9千万円に上った。",
"title": "不祥事・事件"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "この融資は、旧第一勧業銀行と繋がりの深いオリエントコーポレーションとの提携ローンで、2010年9月にみずほ銀行による審査が開始され、同年10月に暴力団組員への融資が行われていたことが内部で判明したとされる。情報は当時法令遵守担当役員であった旧第一勧業銀行出身の代表取締役副頭取や常務、執行役員などにまで上げられており、銀行本体のトップクラスの幹部が関わっていることが判明した。当初は取締役会などにはかけられていないとし、銀行のナンバー1である頭取は一切関与していないとの説明を行っていたが、10月8日の会見で、発覚当時の西堀利頭取をはじめ後任の塚本隆史頭取、佐藤康博頭取など歴代頭取までもが暴力団組員への融資を「知りうる立場」にあったことを認めた。",
"title": "不祥事・事件"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "これを受け、翌9日に金融庁は異例の再度の報告書を求めて銀行法に基づく報告徴求命令を出し、10日には菅義偉内閣官房長官が会見で「金融庁への報告が違っていたのは極めて遺憾だ」と述べた。また経済同友会の長谷川閑史代表幹事は「金融機関として、あるまじき状況だ」と批判、信託協会の若林辰雄会長は「再発防止に向けて、銀行業界全体で真剣に考える必要がある」とした。",
"title": "不祥事・事件"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "命令の発動を受け、同行は法令順守担当だった旧第一勧業銀行出身の常務執行役員の更迭をはじめ、減給などの社内処分を実施するほか、再発防止策も10月中にまとめことを明らかにした。10月8日には中込秀樹元名古屋高等裁判所長官が委員長を務める提携ローン業務適正化に関する特別調査委員会が設置された。オリエントコーポレーションでも、10月15日にみずほ銀行出身の斎藤雅之社長を委員長とする反社態勢強化委員会が設置され、16日には、割賦販売法に基づきオリエントコーポレーションに対する調査を行っていた経済産業省に対し、データベース強化のためオリエントコーポレーションとみずほ銀行のシステムを接続するなどの再発防止策をまとめた報告書が提出された。",
"title": "不祥事・事件"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "以前より佐藤頭取兼社長はみずほグループ内の旧日本興業銀行、旧第一勧業銀行、旧富士銀行の人事統合を行う方針を示していたが、本不正融資問題では旧第一勧業銀行グループが人事から外される可能性が生じ、また金融庁による業務改善命令に先立つ2013年3月には旧富士銀行出身者全員がみずほフィナンシャルグループ副社長やみずほ銀行副頭取から外される人事も行われており、元大蔵省大臣官房金融検査部金融検査官の高橋洋一は、事件発覚や、頭取関与の証拠発覚の端緒は、旧日本興業銀行出身の佐藤頭取兼社長に対抗する他派閥からのリークではないかとする。",
"title": "不祥事・事件"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "警視庁は2015年3月24日、元男性審査役と男性会社員2名の3人を詐欺の疑いで逮捕したと発表した。元審査役はぎょうせいの株式購入資金を集める名目で出資者を募っていた。2014年10月7日、元審査役は、ほかの顧客からも、同じような手口で多額の金をだまし取ったとして、損害賠償訴訟を起こされていた。みずほ銀行は実際に2005年、経営陣買収資金を出資して株式買収に関与している。ただし同社の株式は2012年12月、麻生の系列会社がみずほ銀行の買収価格の半値以下で取得し、ぎょうせいは麻生グループ傘下に入った。",
"title": "不祥事・事件"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "2006年(平成18年)9月までは、資産運用篇(大杉漣「10年後も笑おう」)、住宅ローン篇(稲森いずみ「20年後も笑おう」)、新社会人篇(平岡祐太「未来を手にして笑おう」)の各篇をテレビCM放送していた。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "2006年(平成18年)10月、CM展開を一新。「HAPPY BANK DAY to you」をメッセージとして、団塊世代の緒形拳、大家族を抱えてマイホームを購入した唐沢寿明、パンフレットでサービスを調べる「賢母」鈴木京香、母親思いで留学するためにアルバイトでお金を貯める井上真央らの出演による新CMシリーズが開始されたが、2008年10月に緒形の死去により事実上打ち切った。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)から5年間、阪神甲子園球場のリニューアルに際して、球場1・3塁フィールドシート2,400席に「みずほ銀行シート」と命名権契約を締結。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "2009年(平成21年)から2015年(平成27年)夏までは井上真央が出演。2015年(平成27年)11月からは、玉山鉄二、鈴木亮平、福士蒼汰ら3人が、みずほフィナンシャルグループの各CMに出演している。",
"title": "その他"
}
] | 株式会社みずほ銀行は、東京都千代田区大手町に本店を置く、みずほフィナンシャルグループ(MHFG)傘下の都市銀行。三菱UFJ銀行(三菱UFJフィナンシャル・グループ〈MUFG〉)、三井住友銀行(三井住友フィナンシャルグループ〈SMFG〉、SMBCグループ)とともに3大メガバンクの一角を占める。国内銀行の中では、ゆうちょ銀行を除きすべての都道府県に支店がある唯一の銀行である。また、国内の上場企業の約7割と取引がある。 法手続き上は、2013年にみずほコーポレート銀行に吸収合併され解散した以前の法人(旧みずほ銀行)と、以降の法人(旧みずほコーポレート銀行)は別の法人格であるが、どちらもみずほフィナンシャルグループ傘下の銀行で、かつ、商号・ブランドロゴ・金融機関コード・過半の店舗などが連続しているため、本記事では「みずほ銀行」を名乗った法人について連続して扱う。また、本記事では原則として、2013年まで「みずほ銀行」を名乗った旧法人については「旧みずほ銀行」、現在「みずほ銀行」を名乗っている法人については「当行」と記す。 | {{Pathnav|みずほフィナンシャルグループ|frame=1}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年3月
| 更新 = 2021年3月
| 独自研究 = 2021年3月
}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社みずほ銀行
| 英文社名 = Mizuho Bank, Ltd.
| ロゴ = [[File:Mizuho logo.svg|230px]]
| 画像 = [[File:The Otemachi Tower.JPG|300px]]
| 画像説明 = 本店の入居する[[大手町タワー]]
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 機関設計 = [[監査等委員会設置会社]]<ref>[https://www.mizuhobank.co.jp/company/info/profile/organization.html 組織図] - 株式会社みずほ銀行</ref>
| 市場情報 = 非上場
| 略称 = MHBK, みずほ
| 国籍 = {{JPN}}
| 本店郵便番号 = 100-8176
| 本店所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]]一丁目5番5号([[大手町タワー]])
| 本店緯度度 = 35
| 本店緯度分 = 41
| 本店緯度秒 = 7.9
| 本店N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本店経度度 = 139
| 本店経度分 = 45
| 本店経度秒 = 55.3
| 本店E(東経)及びW(西経) = E
| 本店地図国コード = JP
| 設立 = [[1923年]]([[大正]]12年)[[5月7日]]<br />([[富士銀行|株式会社保善銀行]])
| 業種 = 7050
| 法人番号 = 6010001008845
| 統一金融機関コード = [[第一勧業銀行|0001]]
| SWIFTコード = [[みずほコーポレート銀行|MHCBJPJT]]
| 事業内容 = [[銀行業]]
| 代表者 = [[加藤勝彦]](代表取締役[[頭取]])<br />[[若林資典]](代表取締役副頭取)
| 資本金 = 1兆4,040億6,500万円
| 発行済株式総数 =
| 売上高 = 連結:3兆3,028億48百万円
| 営業利益 =
| 経常利益 = 連結:5,404億3百万円
| 純利益 = 連結:3,872億83百万円
| 純資産 = 連結:7兆6,622億51百万円
| 総資産 = 連結:193兆7,354億81百万円
| 従業員数 = 連結:24,652人<ref group="注釈">従業員数は、社外への出向者を除き、社外から受け入れた出向者を含む。また、海外の現地採用者を含み、執行役員、嘱託および臨時従業員を含まない。</ref>
| 決算期 = 3月31日
| 主要株主 = [[みずほフィナンシャルグループ]]:100%
| 主要子会社 =
| 関係する人物 =
| 外部リンク = [https://www.mizuhobank.co.jp/ 株式会社みずほ銀行]
| 特記事項 = 数値は、2019年3月期有価証券報告書による<ref name="名前なし-1">{{PDFlink|[https://www.mizuho-fg.co.jp/investors/financial/report/yuho_201903/pdf/bk_fy.pdf 2019年3月期有価証券報告書]}}</ref>。<br/>[[古河グループ|古河三水会]]の理事会社である。
<references group="注釈" />
}}
{{基礎情報 銀行
|銀行 = みずほ銀行
|英名 =
|英項名 = Mizuho Bank
|統一金融機関コード = '''[[第一銀行|0001]]'''
|SWIFTコード = '''MHBKJPJT'''( - 2013/6)<br/>'''MHCBJPJT'''(2013/7 - )<ref>[https://www.mizuhobank.co.jp/bk_cb_tougou/faq/index.html みずほ銀行:みずほコーポレート銀行との合併に関するよくあるご質問]</ref>
|氏名 =
|代表者種別 =
|法人番号 = 6010001008845
|店舗数 = 国内ネットワーク:461<br/>海外ネットワーク:82<ref>[https://www.mizuhobank.co.jp/company/info/profile/index.html 会社概要] - みずほ銀行</ref><ref group="注釈">2022年3月31日現在</ref>
|従業員数 =
|資本金 =
|総資産 =
|貸出金残高 = 76兆473億63百万円
|預金残高 = 119兆4,112億23百万円
|設立日 =
|郵便番号 =
|所在地 =
|外部リンク =
|特記事項 = <references group="注釈" />貸出金残高、預金残高は、2019年3月期有価証券報告書による<ref name="名前なし-1"/>。個人の口座数は、約2400万口座<ref>[https://www.mizuho-fg.co.jp/saiyou/company/keyfigures/index.html みずほFG:数字で知る<みずほ>]</ref>。
}}
'''株式会社みずほ銀行'''(みずほぎんこう、{{Lang-en-short|Mizuho Bank, Ltd.}}、略:'''みずほ'''、'''MHBK''')は、[[東京都]][[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]]に本店を置く、[[みずほフィナンシャルグループ]](MHFG)傘下の[[都市銀行]]。[[三菱UFJ銀行]]([[三菱UFJフィナンシャル・グループ]]〈MUFG〉)、[[三井住友銀行]]([[三井住友フィナンシャルグループ]]〈SMFG〉、SMBCグループ<ref>{{Cite web|和書|title=ビジュアル・アイデンティティ : 三井住友フィナンシャルグループ |url=https://www.smfg.co.jp/company/info/vi.html |website=www.smfg.co.jp |access-date=2022-07-26}}</ref>)とともに3大[[メガバンク]]の一角を占める<ref>{{Cite web|和書|title=【バンクマップ】メガバンク|金融用語集 |url=https://www.homemate-research-finance.com/useful/glossary/finance/1525201/ |website=www.homemate-research-finance.com |access-date=2022-05-30}}</ref>。国内銀行の中では、[[ゆうちょ銀行]]を除きすべての[[都道府県]]に支店がある唯一の銀行である。また、国内の上場企業の約7割と取引がある。
法手続き上は、[[2013年]]に[[みずほコーポレート銀行]]に吸収合併され解散した以前の法人(旧みずほ銀行)と、以降の法人(旧みずほコーポレート銀行)は別の法人格であるが、どちらもみずほフィナンシャルグループ傘下の銀行で、かつ、商号・ブランドロゴ・金融機関コード・過半の店舗などが連続しているため、本記事では「みずほ銀行」を名乗った法人について連続して扱う。また、本記事では原則として、2013年まで「みずほ銀行」を名乗った旧法人については「旧みずほ銀行」、現在「みずほ銀行」を名乗っている法人については「当行」と記す。
== 概要 ==
[[2011年]]に発生した[[東日本大震災]]の義援金に関連する旧みずほ銀行の大規模システムトラブルの原因究明のために設置された第三者委員会の意見を踏まえ、同年5月、グループ一体運営に向けたガバナンス強化策として、旧みずほ銀行とみずほコーポレート銀行を[[2013年]]春をめどに合併させることを発表した<ref name="OneMizuho1">{{Cite news |title=みずほ銀とみずほFGに業務改善命令、システム障害で=金融庁 |newspaper=ロイター |date=2011-05-31 |url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-21453420110531 |accessdate=2021-03-23 }}</ref><ref name="OneMizuho2">{{Cite news |title=みずほ銀とコーポ銀、13年にも合併 システム障害受け体制一新 |newspaper=[[MSN産経ニュース]] |date=2011-05-18 |url=http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110518/fnc11051808180000-n1.htm |accessdate=2011-05-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110521084224/http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110518/fnc11051808180000-n1.htm |archivedate=2011年5月21日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。
2013年7月1日、みずほフィナンシャルグループの経営戦略である「'''One MIZUHO戦略'''」(銀行・信託・証券一体戦略)の下、旧みずほ銀行は(法人格として)みずほコーポレート銀行に吸収合併された(法人格と[[SWIFTコード]]などはみずほコーポレート銀行側、[[統一金融機関コード]]などは、旧みずほ銀行側を継承)。それに併せて、行名をみずほ銀行に改称した。これにより、同行はみずほフィナンシャルグループにおける中核銀行となった。
なお、本店は[[千代田区]][[丸の内]]一丁目の[[みずほ銀行前本店ビル|みずほコーポレート銀行本店]](旧日本興業銀行本店ビル)を継承したが、[[2014年]]5月7日に千代田区[[大手町 (千代田区)|大手町]]の[[大手町タワー]]へ移転した。
=== 設立の経緯 ===
[[2002年]]、当時[[みずほフィナンシャルストラテジー|みずほホールディングス]]傘下であった'''[[第一勧業銀行]]'''・'''[[富士銀行]]'''・'''[[日本興業銀行]]'''の[[会社分割|分割]]・[[合併 (企業)|合併]]により、旧みずほ銀行(存続行は旧第一勧業銀行で、[[みずほ統合準備銀行]]を吸収合併)と[[みずほコーポレート銀行]](存続行は旧富士銀で、旧興銀を吸収合併)が誕生した。第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行は、何れも[[20世紀]]の日本における<!--「最大級」という表現は、預金量等の客観数値で裏付けられるが「超一流」というのは主観的記述であるので、非表示にします。|超一流かつ-->最大級の銀行であった。前身となる第一勧業銀行は、[[渋沢栄一]]が日本最初の銀行として設立した[[第一国立銀行]]を源流とするため、その名残で[[統一金融機関コード]]は「0001」を継承している。また、前身となる富士銀行は[[芙蓉グループ]]、第一勧業銀行は[[第一勧銀グループ]]の中核企業であり、2つの融資系列を母体とした企業グループに所属している。三大メガバンクで唯一、前身行に[[三菱財閥|三菱]]・[[三井財閥|三井]]・[[住友財閥|住友]]の戦前の三大[[財閥]]を含まない(ただし、富士銀行は[[安田財閥]]の流れを汲む)。
行名の'''[[みずほ]]([[瑞穂]])'''とは、「みずみずしい稲の穂」の意とされ、「瑞穂国」(葦原千五百秋瑞穂国)は、[[日本書紀]]に登場した日本の美称でもある。日本を代表する金融機関を目指す<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mizuho-fg.co.jp/company/policy/brand/b_name.html|title=みずほFG:名前の由来|accessdate=2021-03-22|last=|first=Mizuho Financial Group,|website=www.mizuho-fg.co.jp|publisher=|language=ja}}</ref>とのことで、この商号とされた。
みずほコーポレート銀行と旧みずほ銀行の合併後の当行は、みずほコーポレート銀行の法人格、および富士銀行の前身である安田銀行が、系列10行と大合併をするために準備会社として設立した保善銀行の法人格を引き継いだものとなっていたため、[[1923年]][[5月7日]]を設立年月日としている。(旧みずほ銀行は、法人格としては旧第一勧業銀行を引き継いだものとなっていたため、日本勧業銀行の設立年月日である[[1897年]][[6月7日]]を設立年月日としていた。)
=== 2002年から2013年までの旧みずほ銀行 ===
みずほフィナンシャルグループ内で、グローバルリテール部門の中核とし個人および[[中小企業|中堅・中小企業]]や、[[地方公共団体|地方自治体]]を対象とする銀行と位置づけられていた。大手法人や金融機関、海外業務に関しては、同グループ傘下である[[みずほコーポレート銀行]]が業務対象としていた。
旧みずほ銀行は主にリテール業務を主体、みずほコーポレート銀行はホールセール業務を主体としていたが、本来はみずほコーポレート銀行が管掌する(21世紀になってから政令指定都市に昇格した市や中核市以下の都市などでの)ホールセール業務を旧みずほ銀行が行うケースや、みずほコーポレート銀行がリテール業務を担う場合があるなど、明確な線引きはなかったとされる。
2013年6月30日まで、本店は千代田区[[内幸町]]の[[みずほ銀行内幸町本部ビル]](旧第一勧業銀行本店ビル)に置かれていた。なお、同店の窓口(口座店)名称は、2012年10月以降「東京営業部」と称している。
=== 公的資金 ===
[[2005年]]、新商品開発などによる経費率・収益力の改善、[[不良債権]]の最終処理や、[[公的資金]]の早期完済などを掲げた「Channel to Discovery」プランを発表した。これ以降は、重複店舗の一段の統廃合・再配置を進めた。また、不良債権処理も加速化し、みずほフィナンシャルグループ設立時に計上した巨額の赤字処理を以ってほぼ終え、公的資金の返済(旧興銀の旧[[住宅金融専門会社]]への不良債権処理に関する追徴課税の取り消しによる税還付2800億円を充当)等により、信用力も一時に比べ向上した。
[[2006年]][[7月4日]]には、[[三菱UFJフィナンシャル・グループ]](MUFG)に続いて公的資金は全額完済され、同年[[11月8日]]、親会社であるみずほフィナンシャルグループが[[ニューヨーク証券取引所]](NYSE)に上場した。[[バブル景気|バブル経済]]崩壊後はじめて邦銀グループがNYSEへの上場を果たした。
=== 地域的基盤 ===
[[日本勧業銀行]](第一勧業銀行の前身)が大正時代に全国各地、台湾(台北、新竹、台中、台南、高雄支店)に設立されていた[[農工銀行]]からの事業譲渡や、農工銀行の吸収合併に伴う受け皿支店の開設などの理由に加えて、戦後には、旧勧銀の[[宝くじ]]業務の取り扱いもされていたため、3大メガバンクで唯一全ての[[都道府県庁所在地]]・[[政令指定都市]]に必ず1つ以上の店舗を有している<!-- ただし、郡山支店がある郡山市のように、旧富士銀店で旧DKB店がなかった都市がある点には注意(都道府県庁所在地は、例外なく旧DKB店が存在した。盛岡支店のように富士銀行側が建物を含めて存続したケースを含む)。なお、特例市レベルでは支店のある市と、支店閉鎖の理由やイオンの中(イオン銀行ATM)などに無人(機械)出張所のみの市があるなどバラつきがある。※「ATM・店舗検索」にて確認。--><ref group="注釈">2016年現在で日本国内で人口30万人以上の都市で未出店であるのは愛知県春日井市のみであったが、2020年10月12日に、岡崎支店と豊田支店が名古屋支店内に移転し、人口30万人以上の豊田市と岡崎市から店舗が消滅した。愛知県では、名古屋市を含め人口30万人以上の市は6つあるがそのうち半分に支店が存在しなくなっている。</ref>。
旧富士銀の業務を引き継いで、[[東京都]]・[[東京都区部|東京23区]]・[[大阪市]]・[[北九州市]]の[[指定金融機関]]とされている{{Refnest|group="注釈"|大阪市は[[三菱UFJ銀行]]、[[三井住友銀行]]および[[りそな銀行]]との4行輪番制。北九州市は[[福岡銀行]]との2行輪番制([[2015年]]度からは[[西日本シティ銀行]]、[[北九州銀行]]を加えた4行輪番制に移行<ref>{{Cite press release|和書|date=2014-5-16|url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000169402.pdf|title=指定金融機関の見直し経過について|format=PDF|publisher=北九州市会計室|accessdate=2014-6-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140522085133/https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000169402.pdf|archivedate=2014年5月22日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/region/news/140619/fkk14061902060002-n1.htm|title=新たに西日本シティ、北九州銀 北九州市指定金融機関|newspaper=MSN産経ニュース|date=2014-06-19|accessdate=2014-06-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140619042359/http://sankei.jp.msn.com/region/news/140619/fkk14061902060002-n1.htm|archivedate=2014年6月19日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>)。}}。
東京都の島嶼地域においては、都の指定金融機関である関係上、[[大島町]]([[伊豆大島]])には築地支店・大島特別出張所が、[[八丈町]]([[八丈島]])に浜松町支店・八丈島特別出張所がそれぞれ設置されている。かつては、[[三宅村]]([[三宅島]])に東京中央支店・三宅島出張所が設置されていた<ref group="注釈">旧[[富士銀行]]時代には、[[小笠原村]]の[[父島]]にも、税金や保険料などの納付専用窓口としての指定金融機関[[出納派出所]]が存在した。伊豆諸島及び小笠原諸島の町村の指定金融機関は、主に[[七島信用組合]]による引受が多い。なお、三宅島出張所については、[[2011年]]([[平成]]23年)[[11月21日]]、母店である東京中央支店へ統合された。</ref>。
第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行はいずれも東京に本店を置く都市銀行と長期信用銀行であった。このように前身行に関西都銀(在阪三大都市銀行)が含まれなかったので、これらが含まれる[[三菱UFJ銀行]](旧[[三和銀行]])・[[三井住友銀行]](旧[[住友銀行]])<ref group="注釈">この他、[[兵庫県]]を地盤としていた[[神戸銀行]]も前身としている。</ref>・[[りそな銀行]](旧[[大和銀行]])と比較すると[[関西]]地区の経営基盤や店舗網は弱い。このためメガバンク・都市銀行の中では東京都や神奈川県などの[[首都圏 (日本)|首都圏]]に店舗網・経営基盤が集中している。
=== 企業間提携 ===
富裕層向けの[[プライベートバンキング]]へも参入し、みずほ銀行に5億円以上の資産をもつ顧客を対象に[[みずほプライベートウェルスマネジメント]]への紹介を進めている。
[[2012年]]1月以降をめどに、みずほ信託銀行が旧みずほ銀行を所属行とする[[銀行代理店]]として同行の口座開設取次を行い、その代わりに[[みずほ信託銀行]]の[[キャッシュカード]]と[[現金自動預け払い機|ATM]]を[[2012年]]3月までに廃止し、みずほ信託銀行の信託代理店としてのみずほ銀行を利用した場合の手数料優遇などを行う方針であることが明らかになっている。これは、「みずほグループ口座」というパッケージで提供され(旧みずほ銀行とみずほ信託銀行の口座を、法人をまたいで紐付けするというもので、顧客情報も紐付けした会社間で共有される形となる)、後に、[[みずほ証券]]の証券口座も、みずほグループ口座に含むことができるようになり(これにより、みずほ信託銀行との取引が無くとも、旧みずほ銀行とみずほ証券による組み合わせでも、グループ口座が成立する)、みずほ証券と取引があるがみずほ銀行とはない顧客のために、みずほ証券が銀行代理店として、みずほ信託銀行同様、みずほ銀行の口座開設取次を行うようになった。なおみずほ信託銀行の[[キャッシュカード]]と[[現金自動預け払い機|ATM]]の廃止についてはその後一部修正され、ATMは廃止され、みずほ銀行ATMの利用とされたが、キャッシュカードは廃止されていない<ref>{{Cite web|和書|title=店舗・ATMのご案内|url=https://shop.www.mizuho-tb.co.jp/b/mizuho_tb/|website=みずほ信託銀行|date=2021-03-06|accessdate=2021-03-09|language=ja}}</ref>。
みずほマイレージクラブ会員を対象としたオンライン証券仲介サービスで、[[マネックス証券]]と提携している。マネックスのナイター取引も取り扱い、利用するとマイレージポイントも貯まる。
[[信用販売|信販]]分野では、旧第一勧銀・富士銀時代から親密であった[[クレディセゾン]]や[[オリエントコーポレーション|オリコ]]とも業務提携している。こちらは保証業務などが中心であり、他のメガバンクと[[消費者金融]]の間に見られる関係(資本参加、「銀行系ローン」の設立等)とは一線を画す。そもそも{{要出典範囲|みずほ側は「消費者金融との提携効果は期待できない」としており|date=2021年3月}}、このため「みずほ銀行系キャッシング」のようなサービスは存在しない。
[[2005年]]4月、[[アメリカ合衆国|米国]]金融機関の[[ワコビア]](東部地盤・2008年後者に吸収)・[[ウェルズ・ファーゴ]](西部地盤)とトレードファイナンスや投資信託販売などで提携を開始した。
[[2019年]]8月、中小企業の[[事業承継]]ニーズへの支援強化のため、[[M&Aキャピタルパートナーズ]]株式会社と業務提携を開始した。
=== 利息決済時期 ===
普通預金の利息は、2月・8月の第3土曜日の翌営業日付で付与される(総合口座普通預金の貸越利息の決済も同日に行われる)。
貯蓄預金の利息は、毎月第2土曜日の翌営業日(原則として月曜日だが、祝日による変動あり)付で付与される。
== 沿革 ==
{{Main2|3行分割統合前の沿革については、[[第一勧業銀行]]、[[富士銀行]]、[[日本興業銀行]]を、2002年4月から2013年6月までの、法人格上の現みずほ銀行の沿革については[[みずほコーポレート銀行]]を}}
=== 旧みずほ銀行 ===
* [[2000年]](平成12年)[[9月29日]] - 第一勧業銀行、富士銀行及び日本興業銀行が[[株式移転]]により株式会社[[みずほフィナンシャルストラテジー|みずほホールディングス]]を設立し、3行はその完全子会社となる。
* [[2002年]](平成14年)[[4月1日]] - 第一勧業銀行を存続銀行として株式会社[[みずほ統合準備銀行]](日本興業銀行のコンシューマー(リテール)バンキング業務を[[2002年]](平成14年)4月1日分割)と合併し、併せて富士銀行よりコンシューマー(リテール)バンキング業務を承継して、'''株式会社みずほ銀行'''と商号変更。直後に[[サーバ]]の大規模システムトラブルに見舞われる。
* [[2005年]](平成17年)5月 - 宗教団体[[創価学会]]の会員を含むグループによる巨額融資詐欺事件が発覚、2003年から2年間に渡り、およそ14億円の詐欺被害に遭う。{{main|創価学会を騙った巨額融資詐欺事件}}
* [[2005年]](平成17年)[[10月1日]] - グループの再編成により、みずほホールディングスの子会社からグループ持ち株会社の[[みずほフィナンシャルグループ]]の子会社となる。
* [[2007年]](平成19年)[[7月17日]] - 仙台支店が[[仙台ファーストタワー]]高層棟に移転。
* [[2008年]](平成20年)[[7月22日]] - みずほ銀行大手町本部ビル建てかえに伴い、東京中央支店(旧富士銀行・本店窓口)を日本橋TGビルに設置した仮店舗に移転。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月15日]] - [[3月11日]]に発生した[[東日本大震災]]の[[義援金]]用預金口座に、10,000件以上に及ぶ大量の振込があった影響で、[[サーバ]]の[[バッチ処理]]が追い付かず、旧みずほ銀行として2度目の大規模システムトラブルを発生させた。
** [[5月31日]] - [[金融庁]]から、2011年3月に起きたシステムトラブルの再発防止を求める、[[銀行法]]に基づく業務改善命令を受け、同年6月に業務改善計画を提出した。
** [[9月1日]] - [[三角合併|三角株式交換方式]]により、[[みずほインベスターズ証券]]を完全子会社化。
* [[2012年]][[10月21日]] - 本店の窓口名称および口座店名称を、東京営業部(英文名称は、''Tokyo Main Office'')に改称。
* [[2013年]][[7月1日]] - [[みずほコーポレート銀行]]に吸収合併され解散。
=== 現みずほ銀行 ===
* [[2013年]][[7月1日]] - '''株式会社[[みずほコーポレート銀行]]'''が旧みずほ銀行を吸収合併し、'''株式会社みずほ銀行'''に商号変更。本店はみずほコーポレート銀行を継承。
* [[2014年]][[5月7日]] - 本店を[[大手町タワー]]に移転<ref>{{Cite web|和書|date=2013年8月29日|url=http://pdf.irpocket.com/C8804/qnwX/aqR9/It3Y.pdf|title=「大手町タワー」一次竣工のお知らせ|format=PDF|publisher=東京建物 大成建設|accessdate=2013-10-1}}</ref><ref group="注釈">旧富士銀行本店だった東京中央支店は2013年11月に、旧興銀行本店のコンシューマ部門等を継承した丸の内中央支店は2014年5月7日に、それぞれ同地に移転し、内幸町営業部(旧第一勧銀本店よりスピンオフ)・大手町営業部(旧富士銀本店よりスピンオフ)を含めた5口座店の[[ブランチインブランチ]]の形を取る。</ref>。本店窓口は、大手町タワーの6階に設置。これにより、2,3,5Fは2支店<ref group="注釈">[[2014年]][[11月25日]]より、筋向いに所在した丸之内支店も取り込んだため、3店舗同居となった。</ref>のブランチインブランチ、6Fは本店と2営業部の都合3拠点によるブランチインブランチとなる。
* [[2015年]][[1月5日]] - システム障害により、法人向けインターネットバンキング「みずほe-ビジネスサイト」が利用できなくなるトラブルが発生<ref name="trouble20150115">{{cite News | url = https://diamond.jp/articles/-/65036 | title = みずほでまたシステム障害 仕事始めの企業が冷や汗 | newspaper = [[週刊ダイヤモンド]] | date = 2015-01-15 | accessdate = 2021-03-22 }}</ref>。
* [[2016年]][[9月15日]] - [[ソフトバンク]]と[[フィンテック]]レンディングサービスの合弁子会社株式会社[[J.Score]]の設立合意<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/release/pdf/20160915release_jp.pdf |title=新しいレンディングサービス開始に向けた合弁会社設立について |publisher=みずほ銀行 |date=2016-09-15|accessdate=2017-07-28}}</ref>。
* [[2019年]][[5月15日]] - この日発表されたみずほフィナンシャルグループの5ヵ年経営計画において、グループ全体での国内拠点を向こう5ヶ年で2017年比130拠点減とする方針を発表<ref>{{PDFlink|[https://www.mizuho-fg.co.jp/release/pdf/20190515release_jp_1.pdf 5ヵ年経営計画]}} - みずほフィナンシャルグループ 2019年5月15日</ref>。
なお、店舗の統廃合に関する詳細については、公式サイトの「[https://www.mizuhobank.co.jp/tenpoinfo/tougou/index.html 店舗統合・移転のお知らせ]」及び「[https://www.mizuhobank.co.jp/tenpoinfo/tougou/tougou_kensaku/index.html 店舗統合検索]」を参照のこと。
* [[2021年]]
** [[2月28日]] - システム障害により、当行ATMの約8割にあたる4318台が利用不能に陥り、ATMに入れた5244枚の通帳やキャッシュカードが戻らなくなる深刻な被害を発生させた。備え付けのインターホンも繋がらず、ATMの前で数時間待たされる人も続出。日曜のため行員による対応が一切無く、利用客同士や警察官などが(トラブルを知らずに)後から来る利用客への対応を行った。
** [[3月3日]] - システム障害により、当行ATM28拠点29台が利用不能に陥り、ATMに入れた通帳やキャッシュカードが戻らなくなる深刻な被害を再び発生させた。
** [[3月7日]] - システム障害により、インターネットバンキングや当行ATMで定期預金の一部取引ができなくなるトラブルが発生。
** [[3月11日]]〜[[3月12日|12日]] - システム障害により、国内他行向けの外貨建て送金(計263件・約500億円分)が遅延するトラブルが発生。
** [[7月11日]] - [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)グループのクレジットカード会社である[[ビューカード]]との業務提携開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/card/news/pdf/20210712.pdf#_ga=2.134346417.1577826085.1626066911-186738383.1626066911|title=ビューカードとみずほ銀行のATM分野における提携強化について|accessdate=2021-07-14|website=株式会社ビューカード・株式会社みずほ銀行|date=2021-07-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行、ビューカードのATM利用が18時まで手数料無料に|url=https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1337986.html|website=Impress Watch|date=2021-07-14|accessdate=2021-07-14}}</ref>。
** [[8月20日]] - 窓口で取引を行うシステムで機器の障害が発生。一時窓口での振り込みや入金などの取り引きができない状態になった<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行でシステム障害 全国の店舗窓口で取り引きできず|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210820/k10013213351000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-09-30|last=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行 システム障害全面復旧 記者会見開き原因など説明へ|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210820/k10013214051000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-09-30|last=日本放送協会}}</ref>。
** [[8月23日]] - ATM130台で通信環境の不具合により現金が引き出せなくなるなどのトラブルが発生<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行 東京や大阪などATM130台 一時使えなくなるトラブル|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210823/k10013218921000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-09-30|last=日本放送協会}}</ref>。
** [[9月8日]] - ATM100台で基幹システムにトラブルが発生。通信ネットワークが短い時間寸断されたが、予備の機器が起動しまもなく復旧した<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行ATMトラブル 原因は基幹システム機器の不具合|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210909/k10013250711000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-09-30|last=日本放送協会}}</ref>。
** [[9月22日]] - [[金融庁]]からシステム更新に関する業務改善命令が発出された<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行及びみずほフィナンシャルグループに対する行政処分について|url=https://www.fsa.go.jp/news/r3/ginkou/20210922.html|website=www.fsa.go.jp|accessdate=2022-01-13|language=ja}}</ref>。
** [[9月30日]] - システムの不具合により387件の外国為替取引に遅れが出た。多くは同日中に処理が完了する見込みだが、一部は翌日に持ち越すとのこと<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行 システム不具合 外国為替取引の送金 387件に遅れ|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210930/k10013285161000.html?utm_int=word_contents_list-items_001&word_result=IT%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88|website=NHKニュース|accessdate=2021-09-30|last=日本放送協会}}</ref>。
** 11月26日 - 金融庁から一連のシステム障害の対応に関する業務改善命令、[[財務省]]から[[外国為替及び外国貿易法]]に基づく是正措置命令を受ける<ref>{{Cite web|和書|title=みずほFG:金融庁および財務省による行政処分について|url=https://www.mizuho-fg.co.jp/release/20211126release_jp.html|website=www.mizuho-fg.co.jp|accessdate=2022-01-11}}</ref>。
<!--出典がなく、報告命令の記事で「報告の内容次第では、 業務改善命令などの行政処分を科す可能性」とする報道はあるが、金融庁の示唆とする報道は確認できないので非表示|立て続けのトラブルに対して、金融庁は業務停止命令を検討することを示唆した。-->
* [[2022年]]
** [[1月11日]] - 法人向けネットバンキングで一時障害が発生<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行、法人向けネットバンキングで一時障害|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB110UG0R10C22A1000000/|website=日本経済新聞|date=2022-01-11|accessdate=2022-01-11|language=ja}}</ref>。
** [[8月16日]] - 日銀に預けている当座預金のうち、約9030億円に[[マイナス金利]]が適用されていたことが判明した<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行にマイナス金利適用 運用難で日銀当座預金増 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB1555B0V10C22A8000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-08-16 |access-date=2022-08-16 |language=ja}}</ref>。「[[短期国債]]の[[利回り]]が下がったことを受けた経済的合理性に基づく判断」としている。
== 特徴的な業務 ==
=== 宝くじ ===
固有の業務として、旧勧銀からの経緯として[[宝くじ]]の<!--発行するのは、都道府県、政令指定都市であって、みずほ銀行ではない|発行、-->作成、販売、当選金の支払いなど業務を引き続き受託している。
=== 金融債 ===
旧興銀の業務を引き継ぎ、旧興銀店舗またはその承継店舗では、[[金融債]]の「割引みずほ銀行債券([[ワリコー]])」「割引みずほ銀行債券保護預り専用([[ワリコーアルファ]])」「利付みずほ銀行債券([[リッキー (みずほ銀行)|リッキー]])」「利付みずほ銀行債券利子一括払([[リッキーワイド]])」を発売していたが、[[2007年]](平成19年)3月後半債([[3月27日]])で発行を終了した。
[[2007年]]3月後半債(3月27日)で先の4種の金融債は発行終了、財形貯蓄型金融債も特例期限から1年前倒しして、[[2011年]](平成23年)3月後半債の発行にて終了した。また、金融債の保護預かりに利用する「金融債総合口座」も、[[2013年]][[2月24日]]で廃止され、翌日より、一般の総合口座や普通預金・定期預金へ、規定上変更された。
=== 両替 ===
ATMコーナーに設置されている「両替機」は、みずほ銀行に口座を開設している人向けの専用機(みずほ銀行のキャッシュカード<ref>両替機はICキャッシュカード非対応のため、クレジット一体カードなどは逆方向に挿入が必要。</ref>、あるいは大量の両替を行う利用者に発行される両替機専用カードが必要<ref>入金ないしは出金のいずれかの多い方の枚数に応じて、両替手数料が紐付口座から引き落とされる。</ref>)である。口座を開設していない人(みずほ銀行のキャッシュカード無し)は、窓口での対応となる(これは、他の都銀でも同様のケースが見られるが、他行では、両替手数料用の硬貨投入口が別に取り付けられているケースもある)。
== 決済サービス ==
=== みずほATMコーナー・みずほダイレクト ===
旧みずほ銀行では、振込に関しては、みずほコーポレート銀行宛の振込手数料は窓口、[[みずほATMコーナー]]の他、[[ネットバンキング]]サービスであるみずほダイレクト等も含めて、旧みずほ銀行全てのチャネルからの振込で当行扱となっていた。
==== キャッシュカード利用提携 ====
[[イオン銀行]](後述の内容も参照)・[[千葉興業銀行]]・[[大垣共立銀行]]・[[三十三銀行]]の各行ATMでは利用手数料が徴収されない(時間内は無料、時間外は要手数料。イオン銀行を除き、みずほマイレージクラブの優遇対象外)。他行手数料無料で扱う[[東京スター銀行]](2019年12月より要手数料)、およびかつて存在した[[ゼロバンク]]のATMも、みずほ銀行のキャッシュカードで出金可能である。また、[[ゆうちょ銀行]]のATMでは、キャッシュカードでの入金(紙幣のみ。要手数料)も可能である。
[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]が駅構内などに設置されているATM「[[ビューアルッテ]]」(要手数料)や、[[イオン (店舗ブランド)|イオン(総合スーパー)]]をはじめとする[[イオングループ]]の各店舗等に設置されている「[[イオン銀行]]」のATMが利用可能である(下記に詳述)。
更に、[[2008年]][[8月20日]]からは[[阪急電鉄]]と[[北大阪急行電鉄]]が駅構内などに設置されているATM「[[ステーションネットワーク関西|Patsat]]」([[池田泉州銀行]]提供、[[ステーションネットワーク関西]]運営)においても利用する事ができ、平日の日中帯に限り提携利用手数料がかからない(みずほマイレージクラブ優遇対象外)。
旧みずほ銀行側からの発表はなかったが、[[2006年]][[3月26日]]より、[[新銀行東京]]との相互出金提携を行っている(要手数料)。更に、商工中金・新生銀行・あおぞら銀行でも引き出しができる(要手数料)。同様に、旧みずほ銀行側からの発表はなかったが、[[2011年]][[6月27日]]からは、[[SBJ銀行]]([[新韓銀行]]の日本法人)のキャッシュカードによる当行ATM入出金利用提携(片利用)を行っている(SBJ銀行所定の手数料が適用)<ref>{{PDFlink|[http://www.sbjbank.co.jp/announcing/press/pdf/20110624_press_info78_1.pdf みずほ銀行とのATM利用提携サービスの開始のお知らせ]|SBJ銀行プレスリリース:2011年6月24日発表}}</ref>。当初は[[5月9日]]に利用提携を開始する予定だったが、直前になって旧みずほ銀行側の都合により延期されていた<ref>{{PDFlink|[http://www.sbjbank.co.jp/announcing/press/pdf/20110502_press_info73_1.pdf みずほ銀行とのATM利用提携サービスの開始時期延期のお知らせ]|SBJ銀行プレスリリース:2011年5月2日発表}}</ref>。[[2014年]][[2月10日]]からは、[[楽天銀行]]のキャッシュカードによる当行ATM入出金利用提携(片利用)を行っている(楽天銀行所定の手数料が適用)<ref>{{Cite web|和書|date=2014-02-10 |url=https://www.rakuten-bank.co.jp/press/2014/140210.html |title=みずほ銀行とのATM提携を開始 |publisher=[[楽天銀行]] |accessdate=2015-04-18}}</ref>。
==== イオン銀行との戦略的提携による直接接続 ====
[[イオン銀行]]との接続開始時には、同行ATM利用時は手数料が徴収され、みずほマイレージクラブの優遇対象外となっていたが、2013年12月8日の「戦略的提携」の開始に伴い、同行とみずほ銀行の共同設置扱いとなり、みずほ銀行のキャッシュカード利用時は、自行ATMと同様となる<ref>{{Cite web|和書|date=2013-12-8|url=https://www.aeonbank.co.jp/file.jsp?company/release/data/2013/pdf/n2013100301.pdf|title=みずほ銀行とのATM分野における戦略的提携について|format=PDF|publisher=イオンフィナンシャルサービス株式会社 株式会社イオン銀行|accessdate=2014-2-16}}</ref>。ただし、優遇対象となる振込手数料(ATM統括支店経由であるため、みずほ銀行のいずれの支店宛も本支店扱いとなる)は、いったん引き落とされるものの、後日返金される。
2020年3月よりうれしい特典の優遇内容改定によりイオン銀行ATMで振り込んだ場合でも振込手数料の優遇は廃止された<ref>[https://www.mizuhobank.co.jp/useful/atm/network.html イオン銀行ATMでも、平日時間内無料でご利用いただけるようになりました。] - みずほ銀行</ref>。
==== コンビニATM ====
同行は[[コンビニATM]]の[[イーネット]]・[[ローソンATM|ローソン銀行]]・[[セブン銀行]]と個別提携しており、同行独自のATMサービスを提供する。イーネット及びローソンATMでは、入出金、残高照会、振込、暗証番号変更のサービスが利用できる。[[2006年]](平成18年)[[7月23日]]よりセブン銀行と提携し、同社ATMにおける独自サービスを開始した。現在みずほ銀行の口座はセブン銀行では入出金、残高照会の3サービスを利用できる。
2020年3月よりうれしい特典の優遇内容が改定されたことで[[コンビニATM]]の[[イーネット]]のみが優遇の対象となり、ローソン銀行のATM・セブン銀行のATMを利用した場合は月1回目から手数料が発生するようになった。なおイーネットATMにおける利用手数料ならびに時間外手数料は所定の条件を満たすことにより最大月3回まで無料になる。{{Main|[https://www.mizuhobank.co.jp/fee/time_conveni_atm.html 公式サイトのコンビニATM(イーネット・ローソン銀行・セブン銀行)ご利用時間と手数料]}}
=== みずほマイレージクラブ ===
{{Main2|みずほマイレージクラブカードについては[[#クレジットカード]]を}}
[[2004年]][[8月16日]]より、「みずほバリュープログラム」の後継商品として、取引によっては優遇のある「'''みずほマイレージクラブ'''」を開始した。ポイントカード制を大手銀行では初めて本格的に展開、非金利収入面での顧客獲得機会を拡大するサービスとして、[[2004年]]の[[日本経済新聞|日経優秀製品・サービス賞]]([[日経金融新聞]]賞)を受賞した。開始から2年半を経た[[2006年]]12月時点で会員数は250万人を突破しており、半年に50万人のペースで増加している。
=== みずほプレミアムクラブ ===
富裕層向けの会員サービス。みずほ銀行に1000万円以上の円資産を有するなどの条件を満たす顧客に対して入会案内が送られる(なお、詳細条件は、各支店ごとに確認のこと)。入会すると、マイレージクラブのサービスに加えて、以下のような優遇サービスが提供される。
* 店舗内の会員専用スペース「プレミアムサロン」での資産運用相談
* ICキャッシュカードの発行手数料無料
* 各種金融サービスにおける優遇
* 各種提携企業・レストラン・ホテル・ゴルフ場などでの優遇サービスや予約代行
なお、「みずほプレミアムクラブ[[コンシェルジュ]]デスク」は、[[JTB]]が運営している。
=== クレジットカード ===
{{See also|みずほSuicaカード}}
[[クレディセゾン]]と提携した「みずほマイレージクラブカード」と[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]と提携した「みずほSuicaカード」がある。いずれも[[#みずほマイレージクラブ|みずほマイレージクラブ]]に入会していなければ申し込む事は出来ない。
[[2017年]]には、[[クレディセゾン]]との提携内容の見直しと、[[オリエントコーポレーション]]および[[ジェーシービー]]との追加提携が発表され、クレディセゾン発行のセゾンカードおよびUCカードに加え、オリコ(VISA/MasterCard)のカードとJCB提携のカードならびにJCBデビットカードが追加されている。
[[2022年]][[7月11日]]より、みずほJCBデビット(キャッシュカード)一体型とみずほJCBデビットカード(単体型カード)発行開始した。
既に(旧)みずほJCBデビットカード(単体)お持ちの方は、一度解約手続き必要です。みずほクレジットカード同様。
解約せずに更新時期来ますと自動的に新カード(単体)が送られてくる。
概要は次表の通りである。
{|class="wikitable"
!クレジットカードの名称
!colspan="2"|国際ブランド・種類
!年会費
!発行会社
!備考
|-
|rowspan="4"|みずほマイレージクラブカード(UC)
|rowspan="4"|MasterCard
|[[ゴールドカード|ゴールド]]
|style="text-align: right"|11000円
|rowspan="9"|クレディセゾン
|
|-
|セレクト
|style="text-align: right"|1837円
|※1
|-
|一般
|rowspan="2" style="text-align: right"|無料
|
|-
|ANA
|
|-
|rowspan="5"|みずほマイレージクラブカード《セゾン》
|rowspan="2"|VISA
|一般
|rowspan="4" style="text-align: right"|無料
|
|-
|Suica
|
|-
|colspan="2"|[[ジェーシービー|JCB]]
|
|-
|colspan="2"|[[アメリカン・エキスプレス|AMERICAN EXPRESS]]ベーシック
|
|-
|colspan="2"|AMERICAN EXPRESS
|style="text-align: right"|3150円
|※2
|-
|みずほSuicaカード
|colspan="2"|VISA
|style="text-align: right"|500円
|東日本旅客鉄道
|※3
|}
* 年会費は税込。
※1 初年度の年会費は無料。[[2007年]][[10月26日]]を以って新規発行終了。
※2 [[2008年]]0月17日をもって新規発行終了。
※3 初年度の年会費は無料。翌年度以降の年会費は、前年度のショッピングの利用額が合計10万円以上の場合は無料。[[2008年]](平成20年)9月末をもって新規募集終了。カードに記載された有効期限をもってサービスを終了することが、みずほ銀行とJR東日本の両社より発表されている。
みずほマイレージクラブカードは、UCと《セゾン》がある。UCは、一般とセレクトで[[ハローキティ]]デザインのカードや通帳も選べる。
UCと《セゾン》ともに[[ETC]]支払用の子カードの発行ができる。[[iD (クレジット決済サービス)|iD]]と[[QUICPay]]については、[[おサイフケータイ]]のみに対応している。
==== ポイント ====
みずほマイレージクラブカードを利用した際に貯まるポイントは、マイレージポイントである。基本的に1000円につき1ポイント貯まるが、《セゾン》アメリカン・エキスプレス・カードを海外で利用した場合は2倍貯まる。また、パートナーズサービスがあり、日本のパートナー企業で利用した場合は2 - 5倍、海外のパートナー企業で利用した場合は2倍それぞれ貯まるが、《セゾン》アメリカン・エキスプレス・カードを海外のパートナー企業で利用した場合は3倍貯まる。ただし、iDとQUICPayを利用した場合はパートナーズサービスの対象外である。
一方、みずほSuicaカードを利用した際に貯まるポイントは、JR東日本のビューサンクスポイントであり、基本的に1000円につき2ポイント貯まるが、JR東日本のVIEWプラスの対象商品の場合は1000円につき6ポイント貯まる。なお、ビューサンクスポイントは、マイレージポイントに交換する事が出来、ビューサンクスポイント2000ポイントをマイレージポイント1000ポイントに交換する事ができる。
しかし、2009年4月からはみずほマイレージポイントは廃止となり、クレディセゾンの永久不滅ポイントに変更された。
==== Suica ====
みずほSuicaカードは、JR東日本の[[Suica]]を搭載しているが、Suica定期券には対応していない。ただし、みずほSuicaカードで[[モバイルSuica]]に会員登録した場合は、モバイルSuicaのSuica定期券を利用する事ができる。
: Suicaを搭載していないみずほマイレージクラブカードも同様であり、従前はモバイルSuicaの利用料は有料であったが、2020年から無料化され、相違がなくなった。
=== 生体認証機能付ICキャッシュカード ===
[[2006年]][[8月28日]]から、キャッシュカード取引のセキュリティ向上のために[[生体認証#生体認証に利用される生体情報|指静脈を利用した生体認証]]機能付の[[ICカード|ICキャッシュカード]]の発行を開始。ただし、同年[[10月1日]]までは、生体認証機能付ICキャッシュカードへの生体認証情報の書き込みを行っていないので、実際の利用開始は、同年[[10月2日]]からになる。なお、これ以降に発行されたICキャッシュカードは原則生体認証に対応したものとなる。
=== ドコモ ケータイ送金 ===
{{Main|ドコモ ケータイ送金}}
=== みずほWallet(みずほウォレット) ===
==== Android版 ====
申し込みから利用まで全てペーパレスで完結するスマホ決済アプリ<ref name=":0" />。みずほ銀行に口座を持つ個人(日本国内在住の15歳以上、中学生を除く)であれば誰でも利用できる<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/retail/mizuhoapp/wallet/index.html|title=みずほWallet for Android {{!}} みずほ銀行|accessdate=2018-09-02|last=|first=Mizuho Bank,|website=www.mizuhobank.co.jp|publisher=|language=ja}}</ref>。[[ジェーシービー|JCB]]と連携しており、アプリ内に口座から直接支払いが出来るバーチャルデビットカードを即時発行し、コンビニやスーパー、ファミレス等の[[QUICPay|QUICPay+]]で支払うことができる。既にみずほJCBカードを持っている場合は、カード情報をアプリに追加することでスマホ決済としても使える。年会費等はかからない。
==== iOS版 ====
Android版と同様、申し込みから利用まで全てペーパレスで完結するスマホ決済アプリのiOS版。Android版と異なり、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]と連携。発行されるカードはMizuho Suica(前述のみずほSuicaとは別サービス)。[[Suica]]として利用でき、[[交通系ICカード全国相互利用サービス|IC相互利用可能エリア]]であれば全国どこでも使える。年会費等はかからない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/retail/mizuhoapp/wallet/iOS/index.html|title=みずほWallet for iOS {{!}} みずほ銀行|accessdate=2018-09-02|last=|first=Mizuho Bank,|website=www.mizuhobank.co.jp|publisher=|language=ja}}</ref>。
アプリ上で口座から直接チャージできるため、クレジットカードを持たない人やチャージできる場所が限られている人にも使いやすい。
=== J-Coin Pay ===
みずほ銀行に加え、全国の90以上の[[地方銀行]](2020年2月時点)<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行のQRコード決済「Jコインペイ」。後発ながら「勝機あり」の理由とは? - 価格.comマガジン|url=https://kakakumag.com/money/?id=15015|website=kakaku.com|accessdate=2020-06-21|language=ja}}</ref>と口座接続が可能な[[QR・バーコード決済]]/[[送金]]サービス。[[2019年]]3月から提供されている。ユーザー間での送金、接続済みの銀行口座への入出金(チャージ/口座戻し)手数料が無料。
2022年7月20日よりJ-Coin PayからモバイルSuicaへのチャージが可能になる。
== 勘定系システムと度重なるシステム障害 ==
=== 勘定系システムの変遷 ===
* 2000年9月から2004年11月までの間は、旧第一勧業銀行の店舗(旧みずほ銀行が発足した2002年4月以降は旧日本興業銀行の店舗を含む。識別マーク{{Color|red|■}})では''旧第一勧業銀行''の「{{en|STEPS}}」をベースとした勘定系システムを、また旧[[富士銀行]]の店舗(識別マーク{{Color|blue|●}})では''旧富士銀行''の「{{en|TOP}}」をベースとした勘定系システムを用いていた。
* 2004年12月より2013年6月までの間は、当行の前身の一つである旧みずほ銀行では旧''[[第一勧業銀行]]''の「{{en|STEPS}}」ベースとした勘定系システムを用いていた。
* 2013年7月より2019年6月までの間は、当行の旧みずほ銀行の店舗では旧''[[第一勧業銀行]]''の「{{en|STEPS}}」をベースとした勘定系システムを、また当行の旧[[みずほコーポレート銀行]]の店舗(識別マーク{{Color|blue|◆}})では旧''[[日本興業銀行]]''の「{{en|C-base}}」をベースとした勘定系システムを用いていた。
* 旧みずほコーポレート銀行店舗においては、同店管轄のATMが設置されていなかった。東京法人営業部、兜町証券営業部以外の店舗では同じ建物に併存する、または近隣にある旧みずほ銀行店舗管理によるATM<ref group="注釈">東京都区部以外の店舗では○○法人支店と併設する○○支店(○○には同一の都市名が入る)、本店には同一建物に併設する丸の内中央支店(旧興銀本店)・東京中央支店(旧富士銀本店)・丸之内支店のATM。区部の店舗のうち、[[新宿区]]のコーポ店舗は、旧興銀前身の新宿南口支店とコーポ店舗の新宿法人支店が同じビル内に設置される形となった</ref>が設置されていた。また、旧みずほコーポレート銀行の店舗では、既存の顧客の口座移管(旧みずほコーポレート銀行の店舗間に限る)や口座の増設を除き、当面、新規の口座開設は原則行わないとされていた。
* 2019年7月より、みずほフィナンシャルグループの経営戦略である「'''One MIZUHO戦略'''」(銀行・信託・証券一体戦略)の下、当行及び[[みずほ信託銀行]]では、同じ勘定系システム「{{en|MINORI}}」を用いている。
=== 勘定系システム「{{en|MINORI}}」開発・移行の経緯 ===
* [[2011年]](平成23年)5月、同年に発生した[[東日本大震災]]の義援金に関連する旧みずほ銀行の大規模システムトラブルの原因究明のために設置された第三者委員会の意見を踏まえ、グループ一体運営に向けたガバナンス強化策として、旧みずほ銀行とみずほコーポレート銀行を[[2013年]](平成25年)春をめどに合併させることを発表した<ref name="OneMizuho1" /><ref name="OneMizuho2" />。
* 翌月の2011年(平成23年)6月より、新みずほ銀行(旧みずほ銀行・みずほコーポレート銀行)、みずほ信託銀行のシステム統合プロジェクトが本格化した。当初、[[2016年]]([[平成]]28年)[[春]]にシステム統合は予定されていたが、開発に時間がかかっているとして延期された<ref>{{Cite news |title=みずほ銀、システム統合1年延期 17年春に|author= |agency=|newspaper=47NEWS|publisher=[[共同通信社]]|date=2014-2-27|url=https://www.47news.jp/CN/201402/CN2014022701001285.html|accessdate=2014-3-13}}</ref><ref name="nikkei-itpro">{{Cite news |url=https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20140227/539841/|title=みずほ銀行の次期勘定系システム、1年間延期の方針が明らかに |author= |agency=|newspaper=[[日経コンピュータ]]|publisher=[[日経BP]]|date=2014-2-27|accessdate=2014-3-13}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://shukan.bunshun.jp/articles/-/3808|title=システム統合延期で他行が虎視眈々みずほのジレンマ|author=|agency=|newspaper=[[週刊文春]]|publisher=[[文藝春秋]]|date=2014-3-27|accessdate=2014-3-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140328113225/http://shukan.bunshun.jp/articles/-/3808|archivedate=2014年3月28日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。当時、総投資額は3000億円を上回る見通しであると報じられていた<ref>{{Cite news |title=ニュースの深層 統合と刷新を一挙、みずほ銀が挑む最難プロジェクト みずほ銀行「次期勘定系システム」の全貌(上) |author= |agency=|newspaper=|publisher=日本経済新聞|date=2015-12-10 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO94328910U5A121C1000000/ |accessdate=2016-4-30}}</ref>。月刊誌『[[選択 (雑誌)|選択]]』では、総投資額は4000億円を上回り、完成が絶望的であると報道された<ref>{{Cite news |author= |title=みずほ「システム更新」が絶望的に | url=https://www.sentaku.co.jp/articles/view/16013 |agency=|newspaper= [[選択 (雑誌)|選択]] |publisher= 選択出版 |date=2016-07 |accessdate=2016-07-06}}</ref>。
* [[2016年]]11月12日、[[日本経済新聞]]により外国為替業務のシステムで実施中の動作確認テストを延長する必要があるため、新システムの運用開始は2018年夏以降にずれ込むと報じられた<ref>{{Cite news |title=みずほ銀、システム統合再延期 動作テスト延長 運用18年以降|author= |agency=|newspaper=|publisher=日本経済新聞|date=2016-11-12 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLZO09463300R11C16A1EE8000/ |accessdate=2016-11-12}}</ref><ref>{{Cite news |title=みずほFGのシステム統合を再延期 数カ月遅れる見込み|author= |agency=|newspaper=|publisher=朝日新聞|date=2016-11-12 |url=https://www.asahi.com/articles/ASJCD340KJCDULFA001.html |accessdate=2016-11-12}}</ref>。そのプロジェクトの難航さに、着工から100年以上が経過しても今なお建設途中で完成までには300年以上を要すると言われていた[[スペイン]]・[[バルセロナ]]の[[世界遺産]]「[[サグラダ・ファミリア]]」に因んで「'''IT業界のサグラダ・ファミリア'''」「'''金融界のサグラダ・ファミリア'''」と揶揄された<ref>{{Cite web|和書|url=https://kai-you.net/article/71874|title=「IT業界のサグラダファミリア」ついに完成 難航極めたみずほ銀行システムに迫る実用書|accessdate=2021-03-10|publisher=KAI-YOU.net|date=2020-02-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2021/03221345/|title=みずほ銀行、4回のトラブルにあ然、原因は「金融界のサグラダ・ファミリア」|accessdate=2021-03-23|publisher=デイリー新潮|date=2021-03-22}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)に「{{en|MINORI}}」へのシステム移行1回目が[[6月9日]](土曜日)22時から[[6月11日]](月曜日)8時まで行われたのを皮切りに<ref name="nikkei20180611"/>、週末の休日に全てのサービスが使えなくなる同様の作業を、[[2019年]]まで9回に分割して実施された<ref name="nikkei20180611">{{cite news| author =| url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31592120R10C18A6MM0000/ | title = みずほ、新勘定系システムへの移行開始 障害起きず| newspaper = [[日本経済新聞]]| publisher = [[日本経済新聞社]]| date = 2018-06-11| accessdate = 2018-08-12 }}</ref>。
=== 2002年4月に旧みずほ銀行とみずほコーポレート銀行が引き起こしたトラブル ===
[[2002年]]([[平成]]14年)[[4月1日]]の合併再編(旧[[第一勧業銀行]]・旧[[富士銀行]]・旧[[日本興業銀行]]の3行を、リテールバンキング事業を継承する旧みずほ銀行と、ホールセールバンキング事業を継承する旧[[みずほコーポレート銀行]]の2行に再編)の当日から、合併再編前の3行のシステムを連携するリレーコンピュータの[[バグ]]により、旧みずほ銀行とみずほコーポレート銀行にて大規模なシステム障害が発生し、預金者や利用者に大混乱を来すこととなった<ref name="bj">{{Cite news |title=みずほ銀行社員が告白、システム障害と不祥事続出のずさんな社内体質…海外で不適切行為も|author= |agency=|newspaper=ビジネスジャーナル|date=2012-6-15|url=https://biz-journal.jp/2012/06/post_262.html|accessdate=2013-10-1}}</ref>。
* 旧みずほ銀行のATMの停止(通信エラー)が大半の店舗で断続的に発生(前月にも旧第一勧銀店で小規模な停止が発生していた)。
* ATMで現金の預け入れ操作をすると取引未完了のまま(残高反映されず)となり、現金が返却されない。
* ATMで預金引き出しの操作をすると、残高が反映されているのに現金が出金されずエラーとなる。
* メインコンピュータおよび[[全銀協標準プロトコル|全銀協ネット]]への接続が不安定となり、ATMが稼働していても振込操作が行えない。
* 旧みずほ銀行キャッシュカードで[[E-net]]・[[BANCS]]・[[MICS]]提携ATMでの取引が出来ない。
* 銀行振込入金の日数単位での遅延。
* 法人が従業員の旧みずほ銀行の複数口座宛に給与振込(総合振込)を行うと、指定金額通りの入金が行われずに送金資金の範囲内で偏りが発生。(Aに30万円・Bに25万円・Cに20万円の振込を指定したのに、Aに1万円・Bに59万円・Cに15万円入金される等。)
* 口座自動振替(引き落とし)が行われない、または二重に引き落とされている([[バッチ処理]]データの処理件数に追いつかず、発生したものとされる)。
同月1日に10万5千件の未処理が発生。2日は[[イオンカード]]、4日は[[セゾンカード]]・[[ビューカード]]、5日は[[UCカード]](※勧銀クレジット・富士銀クレジットなどが統合されてから最初)といった、旧みずほホールディングスと結びつきの強い[[クレジットカード (日本)|クレジットカード会社]]の口座引落し日で、[[クレディセゾン]]は引き落とし不能でも[[信用情報]]の支払遅延扱いにはしない旨を含んだ、独自の「お詫び文」を発表する。
未処理件数は、5日に250万件余り・二重引き落としが3万件まで積み上がり、個人に対しての影響が広がる。
[[現金自動支払機]]の稼働トラブルに関しては4月上旬に解消されたが、口座振替に関してはシステムが増強される5月まで、システムセンターの[[人海戦術]]によるバッチデータの手作業での確認や、準備が引き落とし日に備えて日夜行われる綱渡りの状況が続いた。収納企業・公共団体に対しては、通常より早期に口振データの送付を要請した。
また、[[コンピュータシステム]]の改修に関わっていた[[富士通ターミナルシステムズ]](ATMベンダー)の[[システムエンジニア]]が、[[デスマーチ]]により[[過労死|過労自殺]]する事態となり、2003年(平成15年)に[[労働災害]]が認定されている。
=== 2011年3月に旧みずほ銀行が引き起こしたトラブル ===
[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])直後の[[2011年]](平成23年)[[3月15日]](火曜日)未明、テレビ局が旧みずほ銀行東京中央支店に開設していた[[義援金]]受付口座への振り込み件数が、フロアリミッター設定上限数を超えたことにより、夜間[[バッチ処理]]が予定時刻の朝5時までに終わらず、約38万件の処理が積み残された<ref>{{Cite news |title=みずほ銀行、大規模障害を招いた「夜間バッチ処理」 |newspaper=日本経済新聞 |date=2011-03-19 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZZO25303720Z10C11A3000000/ }}</ref><ref name="IT-PRO110331">{{Cite news | author1 = 中田 敦 | author2 = 大和田 尚孝 | url = https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20110329/358832/?ST=management&P=2 | title = みずほ銀行、障害の発端は人為ミス | newspaper = ITpro | publisher = [[日経BP]] | date = 2011-03-31 | accessdate = 2017-06-22 }}</ref>。
この異常終了により、[[3月16日|16日]]営業時間帯のオンラインシステム起動が遅れ、未処理の決済データが[[サーバ]]に積み上がって勘定系システムが不安定になり、大規模なシステム障害へと発展した。[[現金自動支払機|ATM]]の一部が使用できなくなり、さらに処理の積み残しが増えていくという悪循環に陥り、[[3月17日|17日]]には[[勘定系システム]]が[[クラッシュ (コンピュータ)|強制終了]]した。ピーク時には116万件(約8296億円)の未処理取引を発生させた<ref>{{Cite news |title=みずほ銀障害:新たに6万件処理 残りは72万件に |newspaper=毎日新聞 |date=2011-03-20 |url=http://mainichi.jp/select/biz/news/20110321k0000m020063000c.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110321085901/http://mainichi.jp/select/biz/news/20110321k0000m020063000c.html |archivedate=2011年3月21日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。
旧みずほ銀行側は後に、具体的な原因について、「[[東日本大震災]]義援金の振り込みの一部店舗への集中」と説明した<ref name="bj" /><ref>{{Cite news|title=みずほ障害 あまりにお粗末すぎる|newspaper=北海道新聞|date=2011-03-31|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/282397.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110404025333/http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/282397.html|archivedate=2011年4月4日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。
また、この際、事後処理として二重に振り込まれた金銭の回収を行ったが、確認を怠り、事前連絡なしに正規の振り込みまで回収していたことが発覚した<ref>{{Cite news|title=みずほ 正常振り込み 無断回収|newspaper=東京新聞|date=2011-04-08|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2011040802000020.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110411190116/http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2011040802000020.html|archivedate=2011年4月11日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。
他、このトラブルに便乗し、同行が顧客に対して行った臨時支払いを悪用して25万円を騙し取ったとして、[[詐欺罪]]容疑での[[逮捕]]者が出ている。この[[被疑者]]は、同行の店舗数店から、合計で百数十万円を騙し取った疑いがある<ref>[http://mainichi.jp/select/jiken/archive/news/2011/08/09/20110809ddm041040084000c.html 詐欺:みずほ銀臨時払い悪用、25万円詐取容疑の男逮捕--京都] 毎日新聞 2011年8月9日{{リンク切れ|date=2013年10月}}</ref>。
旧みずほ銀行は、3月19日(土曜日)から3月21日(月曜日・[[春分の日]])の3連休期間中に、全[[現金自動支払機|ATM]]を休止して、バッチ処理の積み残しを処理したが<ref name="IT-PRO110331"/>、障害が収束した[[3月24日]]まで、9日間に渡ってシステム障害が続いた。
このシステムトラブルで、[[金融庁]]から同年[[5月31日]]に、[[銀行法]]に基づく「[[業務改善命令]]」が、旧みずほ銀行の親会社である[[みずほフィナンシャルグループ]]と伴に下された<ref>{{Cite press release | 和書 | url = https://www.fsa.go.jp/news/22/ginkou/20110531-5.html | title = みずほ銀行及びみずほフィナンシャルグループに対する行政処分について | publisher = [[金融庁]] | date = 2011-05-31 | accessdate = 2016-02-13 }}</ref>。業務改善命令の理由として、システムのコンティンジェンシープランの整備や[[情報技術]]投資戦略、適材適所の人材配置やグループ内連携態勢などで、みずほ経営陣の機能発揮に問題があるとし、みずほフィナンシャルグループの一体感の醸成への取り組みが十分でなく、みずほの企業風土に課題があると指摘した<ref>{{cite News | url = https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-21453220110531 | title = みずほ銀とみずほFGに業務改善命令、システム障害で=金融庁 | newspaper = [[ロイター]] | date = 2011-05-31 | accessdate = 2016-02-13 }}</ref>。
この結果、頭取の[[西堀利]]とIT・システムグループ担当の常務執行役員萩原忠幸が[[6月20日]]付で引責辞任し、2度の大規模トラブルからの信頼回復、再発防止策として、グループ経営の効率化と意思決定の迅速化が必要と判断され、[[たすきがけ人事]]の解消、旧みずほ銀行・旧[[みずほコーポレート銀行]]の合併による「2バンク制」解消、勘定系システム全面刷新の要因となった。
=== 2015年1月に引き起こしたトラブル ===
[[2015年]](平成27年)[[1月5日]](月曜日)、システム障害により、法人向け[[インターネットバンキング]]「みずほe-ビジネスサイト」が利用できなくなるトラブルが発生。法人取引の振込や送金などが期日通りに行われなければ、企業間の信用問題につながりかねない恐れがあるため、顧客は電話越しや店舗に出向く対応を強いられた。なお、[[週刊ダイヤモンド]]の取材によると、表沙汰にはなっていないが同様のシステム障害が2014年にも発生していた<ref name="trouble20150115" />。
=== 2021年2月〜3月の間、相次いで引き起こした4回のトラブル ===
[[2021年]](令和3年)[[2月28日]](日曜日)より[[3月12日]](金曜日)の僅か13日間で、当行はそれぞれ原因の異なるシステムトラブルを4回連続で引き起こした。なお、当行と同じ勘定系システム「{{en|MINORI}}」を用いている[[みずほ信託銀行]]では、これらのトラブルは発生していない。
金融庁は、当行が僅か13日間で4回のシステムトラブルを相次いで引き起こした事態を重くみて、当行と親会社のみずほフィナンシャルグループに対し立ち入り検査、検査結果を踏まえ行政処分を検討する予定である<ref>{{cite News | url = https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210316-OYT1T50357/ | title = 「因果関係を見いだせない」障害4回、みずほに金融庁が立ち入りへ | newspaper = [[読売新聞]] | date = 2021-03-17 | accessdate = 2021-03-21 }}</ref>。
当行は、3月12日に藤原弘治頭取が記者会見をした。このなかで藤原頭取は「原因究明と再発防止が、私に課せられた最大の責任だ」と述べ、引責自任を否定した<ref name="nikkei20210312" /><ref name="zizi20210312" />。また、[[全国銀行協会]]の次期会長(2021年4月から2年)に就任予定である、みずほフィナンシャルグループの坂井辰史社長については「次期会長職を務めていく」と述べ<ref name="zizi20210312" />、会長の就任辞退、社長職の辞任を否定した。
当行の親会社であるみずほフィナンシャルグループは、3月17日のニュースリリースにおいて、4月1日に予定していた当行の藤原弘治頭取の会長就任及び加藤勝彦常務の頭取就任<ref name="mizuho20210219" />を、当行が発生させたシステム障害に対応するため取り消すと発表した<ref name="mizuho20210317">{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/release/pdf/20210317release_jp.pdf|title=役員異動のお知らせ|website=みずほ銀行|date=2021-03-17|accessdate=2020-03-18|language=ja}}</ref>。なお加藤勝彦常務は、代表取締役副頭取になる<ref name="mizuho20210317"/>。
当行の親会社であるみずほフィナンシャルグループの坂井辰史社長は、3月17日午後5時から都内で記者会見を開いて、障害の原因究明や再発防止策の策定について説明した<ref name="nikkei20210317">{{Cite web|和書|title=みずほ、システム障害で第三者委 頭取人事を取り消し|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODF16CGQ0W1A310C2000000/|website=日本経済新聞|date=2021-03-17|accessdate=2021-03-18|language=ja}}</ref>。責任の取り方については「原因究明や再発防止策の策定後に適切に考えたい」と述べたのみ<ref name="nikkei20210317" />。4月に予定されていた坂井辰史社長全国銀行協会の会長への就任については「就任を見合わせる方向で相談したい」と表明<ref name="nikkei20210317" />。取消となった4月1日の当行の頭取交代人事については「加藤氏が頭取になるのは基本的な方向感だ」と述べ、交代は既定のままで時期の延期であることを示唆した<ref name="nikkei20210317" />。報道によれば、トラブルについて、坂井社長が公の場で説明するのは、これが初めてである<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀頭取交代を取り消し システム障害で、第三者委設置―坂井社長謝罪|url=https://web.archive.org/web/20210317064614/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021031700861&g=eco|website=時事ドットコム|date=2021-03-17|accessdate=2021-03-18|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=みずほFG社長、会見でシステム障害を陳謝…「外部目線が不可欠と考えている」|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210317-OYT1T50187/|website=読売新聞|author=|accessdate=2021-03-17|language=ja|publisher=読売新聞社|date=2021-03-18}}</ref>。なお、全国銀行協会の会長については、3月18日に、全国銀行協会から公式に「みずほフィナンシャルグループの坂井社長より、足元の度重なるシステム障害の原因究明と改善対応策に専念するため、全銀協会長への就任は当面の間見合わせるとの申し出があった、来年度の体制については、4月1日に坂井社長へ交代することを内定していたが、全銀協の現行体制を当面維持する」と発表があり、三毛会長(三菱UFJ銀行頭取、4月からは三菱UFJフィナンシャル・グループ会長)が4月以降も続投することになった<ref>{{Cite web|和書|title=三毛会長記者会見(三菱UFJ銀行頭取)|url=https://www.zenginkyo.or.jp/news/conference/2021/210318/|website=|author=全国銀行協会|accessdate=2021-03-19|language=ja|publisher=TBS|date=2021-03-18}}</ref>。
* '''2021年2月28日に引き起こしたシステムトラブル'''
{{Indent|[[2021年]](令和3年)[[2月28日]](日曜日)、定期預金に絡むデータ更新作業に伴い、ATMとインターネットバンキングにおける一部取引が利用不可となるシステムトラブルを発生させた。ATMより通帳やキャッシュカードが戻らず備え付けの電話もつながらない深刻な被害も多数発生させた<ref name="asahi20210228">{{Cite web|和書|title=みずほ銀行のATM、全国で障害 ネットバンキングも|url=https://www.asahi.com/articles/ASP2X4WVJP2XULFA00J.html|website=朝日新聞デジタル|author=箱谷真司|accessdate=2021-03-01|language=ja|publisher=朝日新聞社|date=202021-02-28}}</ref><ref name="nikkei20210228">{{Cite web|和書|title=「4時間待っても誰も来ない」 みずほATM障害で混乱|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODF2821O0Y1A220C2000000/|website=日本経済新聞電子版|author=|accessdate=2021-03-01|language=ja|publisher=日本経済新聞社|date=2021-02-28}}</ref><ref name="mainiti20210228">{{Cite web|和書|title=みずほ銀ATM、カードや通帳が戻らぬ障害 1日朝復旧目指す|url=https://mainichi.jp/articles/20210228/k00/00m/020/157000c|website=毎日新聞|author=山口敦雄|accessdate=2021-03-01|language=ja|publisher=毎日新聞社|date=2021-02-28}}</ref>。みずほ以外のATM利用で生じた手数料は後日返金とする報道されているが<ref name="asahi20210228" /><ref name="nikkei20210228" /><ref name="mainiti20210228" />、当行Webサイトでは「本件に関して代替手段により発生した費用についてはお取引店か下記問い合わせ先にご相談ください」<ref name="mizuho2021">[https://www.mizuhobank.co.jp/index.html みずほ銀行]</ref>と発表しており、自発的返金は行うとの表明はなく、相談後の対応についても何ら明らかにしていない。また日本経済新聞によれば、「28日夜の段階で説明の記者会見は開いていない」<ref name="nikkei20210228" />、「記者が支店に取材に行った際、利用者が『4時間以上待たされているのに誰も来ない』という状態であった」<ref name="nikkei20210228" />。
当行は、3月1日午後6時に、本店で記者会見を行い、5395台のATMの80%にあたる4318台に障害が発生し、預金通帳やキャッシュカードがATMからとりだせなくなった件数は合わせて5244件と公表した<ref name="NHK20210301">{{Cite web|和書|title=みずほ銀行ATMシステム障害 頭取が会見で陳謝 手数料全額返金|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210301/k10012892171000.html|website=NHK|author=|accessdate=2021-03-01|language=ja|publisher=日本放送協会社|date=202021-03-01}}</ref>。なお、この報道では「システム障害の影響でコンビニなどのATMを使った利用客には、かかった手数料を全額返金するほか、ATMに残っていた預金通帳などの返却を進めていく」としているが、当行Webサイトの記載は、2日12時30分の段階で「ご相談ください」のままであった<ref name="mizuho20210301">{{Cite web|和書|title=【復旧】2月28日|url=https://web.archive.org/web/20210301103026/https://www.mizuhobank.co.jp/index.html|website=みずほ銀行|date=|accessdate=2020-03-10|language=ja}}</ref>)。J-CASTトレンドの報道によると、「1日にみずほ銀行の広報担当者に取材したところ、いずれも一律で定められたものは存在しないという。利用者からの相談の中で適宜判断していくとした。」となっている<ref name="jacst20210301">{{Cite web|和書|title=みずほ銀行システム障害で受験生ヒヤヒヤ 入学金振り込めなかったらヤバい|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Jcast_trend_406128/?p=2|website=|author=|accessdate=2021-03-02
|language=ja|publisher=J-CASTトレンド|date=202021-03-01}}</ref>。また公式ウェブサイト<ref name="mizuho20210301" />で「後日弊行よりご連絡、ご返却をいたします(他行キャッシュカードは、当該他行経由でご返却となります)」とあるだけでいつ返却するかの明示はなく、他行のカードは他行経由としている。またトラブルの原因について「定期預金のデータ移行の45万件に月末の取り引きの25万件が重なり、システムの一部に負担が生じオーバーフローした」と[[藤原弘治|藤原頭取]]が説明」<ref name="nikkei20210301">{{Cite web|和書|title=藤原頭取「みずほが全責任」 ATM障害、一問一答|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODF0174X0R00C21A3000000/|website=日本経済新聞|date=2021-03-01|accessdate=2021-03-10|language=ja}}</ref>しており、「(システムの)キャパシティーが不十分だったことが今回のトラブルを引き起こした」とも説明した<ref name="nikkei20210301" />。経営責任については「最優先事項は顧客へのおわびと安定稼働だ。経営責任は当然ながらある。しっかり受け止めていきたい」と発言した<ref name="nikkei20210301" />が、日本経済新聞の報道した一問一答には<ref name="nikkei20210301" />、それ以上の具体的な進退等については掲載されていない。なお、藤原頭取は、2021年3月末で頭取を退任して4月1日からみずほ銀行会長になることが内定していた<ref name="mizuho20210219">{{Cite web|和書|title=役員異動のお知らせ|url=https://www.mizuhobank.co.jp/release/pdf/20210219release_jp.pdf|website=みずほフィナンシャルグループ|date=2021-02-19|accessdate=2021-03-02|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行頭取に55歳の加藤氏 証券社長は浜本氏|url=https://www.sankei.com/article/20210219-LAQ7KF2XLRKSDHZRGEAVATUBXA/|website=産経ニュース|date=2021-02-19|accessdate=2021-02-21|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。
時事通信の報道によると、2月27・28日の両日、一定期間取引のない定期預金(不稼働定期預金)の口座のデータを45万件ずつ移行する作業を実施した。ただ、28日は通常の取引が集中し、システムの容量がオーバーした。定期預金の積み立てなど通常の取引量が多い月末に、システムを増強せずに臨時のデータ移行作業を行った「想定の甘さ」があった。これだけなら定期預金の取引不能件数であり当初463件であった。しかし、2019年に導入した新システムの「自衛機能」により、基幹システムがATMとの連携を一部遮断しATMの処理速度が低下。取引の異常を検知したATMが、カードや通帳を次々と飲み込む事態となった。ATM備え付けの電話からの問い合わせで警備員が駆けつけるが、休日ということもあり、人員不足で同時多発的な被害への対応が不能となった<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ、甘い想定重ね被害拡大 ATM障害、顧客目線の業務体制課題|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2021030201178&g=ecol|website=時事ドットコム|date=2021-03-03|accessdate=2021-03-03|language=ja}}</ref>。
3月8日時点の当行Webサイトでは<ref name="mizuho20210308">{{Cite web|和書|title=2月28日 日曜日に発生した定期性預金のデータ更新作業に起因するシステムトラブル|url=https://web.archive.org/web/20210307202742/https://www.mizuhobank.co.jp/index.html|website=みずほ銀行|date=|accessdate=2020-03-10|language=ja}}</ref>、頭取名で「ATMにキャッシュカード、通帳等が取り込まれたお客さまにつきましては、できるだけ早くお手元にお届けできるよう、お一人ずつ弊行よりご連絡・ご返却を進めて」とし、手数料についても「後日返金」を記載した。ただしいつまでとは記載がない。またトラブルの原因、具体的な対策の記載はなく、「システム、またその運用における要因も含め検証し、再発防止策の策定・徹底」と述べた。
取り込んだ通帳・キャッシュカード(5244件)の約2割が2日時点で、未返却であるとともに、顧客と連絡が取れなかったり、警備会社に保管中のカードや通帳の回収に時間がかかっている。返却完了の時期は未定と報道された<ref name="asahi20210303">{{Cite web|和書|title=みずほATM障害、2割が未返却 他行カード取り込みも|url=https://www.asahi.com/articles/ASP336FMSP33ULFA013.html?pn=4|website=朝日新聞デジタル|date=2021-03-03|accessdate=2021-03-03|language=ja}}</ref>。報道された説明によれば、「顧客と連絡が取れなかったり、警備会社に保管中のカードや通帳をみずほが回収する時間がかかったりしている返却完了の時期は未定である」。返却状況については、3月4日時点で<ref name="zizi20210301" />では、3日までの状態で1割の500件ほど未返却である。報道では、理由として「一部に連絡が取れない顧客がいるなど」としている<ref name="zizi20210301" />。
金融庁は3月2日夜、銀行法に基づき報告徴求命令を当行及び親会社のみずほフィナンシャルグループに出し、原因や再発防止策などの報告を今月末までにするように命じた<ref name="asahi20210303" />。金融庁のWebサイト<ref>{{Cite web|和書|title=報道発表資料|url=https://www.fsa.go.jp/|website=https://www.fsa.go.jp/|date=|accessdate=2021-03-10|language=ja}}</ref>の報道発表資料には、この件の掲載はない。
3月4日、読売新聞<ref>{{Cite web|和書|title=「みずほATM障害、「デジタル通帳」移行で発生|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210304-OYT1T50182/|website=読売新聞|author=|accessdate=2021-03-04|language=ja|publisher=読売新聞社|date=2021-03-04}}</ref>、時事通信<ref name="zizi20210301">{{Cite web|和書|title=「デジタル通帳」移行が一因 2月のATM障害―みずほ銀|url=https://web.archive.org/web/20210304062313/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021030400911&g=eco|website=時事ドットコム|date=2021-03-03|accessdate=2021-03-03|language=ja}}</ref>は、「みずほ銀行は4日、2月28日に発生させた現金自動預払機(ATM)の大規模障害について、デジタル通帳への移行に向けた口座情報の移し替え作業が原因の一端だったと明らかにした。」と報じた。時事通信の報道では「通常のデータ更新作業25万件にデジタル口座へのデータ移行作業45万件が重なり、基幹システムの容量不足に陥った。」とあり、また読売新聞は「2月28日に全国各地で発生した大規模な現金自動預払機(ATM)の障害は、今年1月に導入した「デジタル通帳」へ預金などのデータを移行する作業の中で発生したことを明らかにした」として定期預金のデータ移行は無関係のような報道となっている。件数的には、定期預金に絡むデータ更新作業よりデジタル通帳への移行に向けた口座情報の移し替え作業の件数が多いが障害に寄与の度合いは明らかではない。また、当行が明らかにしたとしているが、当行Webサイトでは一切言及はなく、「2月28日に発生した定期性預金のデータ更新作業に起因するシステムトラブル」のままである。また、3月1日の頭取の記者会見で、この「デジタル口座へのデータ移行作業」については言及がないが、銀行がこの時点で把握していなかったか、把握しても頭取には情報が伝わっていない若しくは隠蔽したかは明らかでない。
当行は、3月6日の当行Webサイトでは「99%超のお客さまに、ご返却の対応を取らせていただきました」と初めて当行Webサイトで返却状況を告知した。手数料の返金については、「後日返金」としており、いまだに返金していないことを明らかにした。
3月5日、朝日新聞は、遠藤正之・静岡大学情報学部教授(金融情報システム)のインタビューを掲載した。このなかで遠藤は、
# なぜ取引が集中する月末に作業をしたのか
# 本体の勘定系システムを守るためにATM取引を制限した運用は妥当だったのか
# カード取り込みへの対応は顧客本位だったか
と3つの課題を指摘し、いずれも顧客本位でないことに問題があると述べた<ref>{{Cite web|和書|title=みずほATM障害なぜ システム専門家がみる三つの課題|url=https://www.asahi.com/articles/ASP347429P34ULFA02Y.html?pn=8|website=朝日新聞デジタル|date=2021-03-05|accessdate=2021-03-08|language=ja}}</ref>。
3月9日、朝日新聞は、年度末{{efn|記事の表現通り。この記事では2月28日の作業だけでなく、通帳無効化のため行う一連の作業を指して「年度末」の作業としている。}}に作業を行った理由について、みずほ幹部が「時期を決めた当初の考え方は、印紙税(が理由)だった」とも打ち明けたと報道した。<ref name="asahi20210309">{{Cite web|和書|title=みずほATM障害に印紙税の影 避けられなかった年度末|url=https://www.asahi.com/articles/ASP3875X0P37ULFA001.html?iref=comtop_7_05|website=朝日新聞|date=2021-03-09|accessdate=2021-03-10|language=ja}}</ref>。紙の通帳は印紙税が年200円かかるが、この基準は4月。3月までに減らすと税額を抑えられる目算であり、約2400万の口座のほぼ半数が、数年後に切り替わると見込み、単純計算で年24億円の印紙税軽減となる<ref name="asahi20210309" />。
2月28日に引き起こしたシステムトラブルに伴い、当行のキャッシュカードで他の金融機関のATM等を利用した場合に発生した手数料の返金を、3月16日から3月18日にかけて行うと、3月15日に当行Webサイトで告知<ref name="mizuho20210315">{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/retail/oshirase/oshirase_20210315.html|title=2月28日分の手数料の返金について|website=みずほ銀行|date=2021-03-15|accessdate=2020-03-15|language=ja}}</ref>された。}}
3月25日の報道によると、みずほ銀行は、2月28日と3月3日に発生したシステム障害で現金自動預払機(ATM)に通帳などがのみ込まれた人に「おわびの品」として5千円分のクオカードを届けることを決め、藤原弘治頭取が「これまで同様のご愛顧を」と呼び掛ける文書を添え、順次配布している<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行、システム障害のおわびにクオカード配布へ 5千円分|url=https://www.sankei.com/article/20210325-X22KGFY4F5LWTNO4ZOXNVN6WOA/|website=産経新聞|date=2021-03-25|accessdate=2021-03-26|language=ja}}</ref>。
* '''2021年3月3日に引き起こしたシステムトラブル'''
{{Indent|2021年(令和3年)3月3日(水曜日)19時58分、ハードウエアの不具合によりシステムセンター間のネットワーク瞬断が発生するシステムトラブルを発生させた。3分後の20時1分に復旧したが、28拠点29台のATMがこの影響で停止し、僅か3日前に引き起こしたシステムトラブルと同様、ATMより通帳やキャッシュカードが戻らない深刻な被害を29件発生させた<ref name="zizi20210301" />。当行の公表によると「2月28日に発生した定期性預金のデータ更新作業に起因するシステムトラブルとは別の要因」であると発表した<ref name="mizuho2021" />。小規模のトラブルだが、僅か3日前に引き起こしたシステムトラブルと同様、ATMより通帳やキャッシュカードが戻らない深刻な被害を連続して発生させたこともあり「みずほ銀行、またもシステム障害」<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行、またもシステム障害。28拠点でATM一時停止、キャッシュカード戻らず。原因は?|url=https://www.msn.com/ja-jp/news/money/e3-81-bf-e3-81-9a-e3-81-bb-e9-8a-80-e8-a1-8c-e3-80-81-e3-81-be-e3-81-9f-e3-82-82-e3-82-b7-e3-82-b9-e3-83-86-e3-83-a0-e9-9a-9c-e5-ae-b3-e3-80-8228-e6-8b-a0-e7-82-b9-e3-81-a7atm-e4-b8-80-e6-99-82-e5-81-9c-e6-ad-a2-e3-80-81-e3-82-ad-e3-83-a3-e3-83-83-e3-82-b7-e3/ar-BB1edlBK|website=Microsoft News|date=2021-03-04|accessdate=2021-03-04|language=ja}}</ref>、「みずほ銀行 またATM一時障害 最大3時間使えず」<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行 またATM一時障害 最大3時間使えず|url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_economy/articles/000208831.html|website=テレ朝ニュース|date=2021-03-04|accessdate=2021-03-04|language=ja}}</ref>、「みずほ銀行また障害 ATM29台一時停止、カード戻らず」<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行 またATM一時障害 最大3時間使えず|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODF03DMO0T00C21A3000000/|website=日本経済新聞|date=2021-03-04|accessdate=2021-03-04|language=ja}}</ref>と報道された。
このトラブルでATMに取り込まれたカードや通帳については、時事通信は、4日午前10時時点で過半が返却されたと報道した<ref name="zizi20210301" />。当行は、3月6日に「カード返却等のお客さま対応も完了」と発表した。
3月3日に引き起こしたシステムトラブルについても、金融庁は銀行法に基づき報告徴求命令を出した<ref name="asahi20210311" >{{Cite web|和書|title=みずほ障害、追加の報告命令|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14830422.html?pn=2|website=朝日新聞デジタル|author=|accessdate=2021-03-12|language=ja|publisher=朝日新聞社|date=202021-03-12}}</ref><ref name="zizi202103011">{{Cite web|和書|title=みずほに追加の報告命令 短期間に3回、相次ぐ障害で―金融庁|url=https://web.archive.org/web/20210311123309/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021031101302&g=eco|website=時事ドットコム|date=2021-03-11|accessdate=2021-03-12|language=ja}}</ref><ref name="yomi20210311">{{Cite web|和書|title=「みずほ銀に異例の1週間に3度の報告命令…金融庁|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210311-OYT1T50206/|website=読売新聞|author=|accessdate=2021-03-12|language=ja|publisher=読売新聞社|date=2021-03-11}}</ref>。}}
* '''2021年3月7日に引き起こしたシステムトラブル'''
{{Indent|2021年(令和3年)3月7日(日曜日)午前9時ごろから、カードローンのプログラムの更新作業に伴い、一部でエラーを関知した。この影響で、インターネットバンキングやATMで定期預金の一部取引ができなくなったが、同日午後1時30分頃に復旧した<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀でまたトラブル…ATMなどで一時、定期預金の一部取引できず|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210307-OYT1T50132/|website=読売新聞|author=|accessdate=2021-03-08|language=ja|publisher=読売新聞社|date=2021-03-07}}</ref>。当行によると「9名のお客さまの取引不成立を検知、既に個別にご連絡のうえ対応。ATMでは、お客さまがお困りの場合に備え、各拠点には行員を待機させ、個別に対応いたしました。なお、不成立となった取引はない。」としている。
3月7日に引き起こしたシステムトラブルについても、金融庁は銀行法に基づき報告徴求命令を出した<ref name="asahi20210311" /><ref name="zizi202103011"></ref><ref name="yomi20210311"></ref>。なお、これについては各報道とも、3日と7日のものについて11日(一部12日)にまとめて報道している。同じ日に命令したか、別の日であったかは各報道に具体的な命令の日がなく不明である。}}
* '''2021年3月11日から12日に引き起こしたシステムトラブル'''
{{Indent|2021年(令和3年)3月11日(木曜日)午後11時40分ごろ、データセンターのハード機器に障害が発生し、バックアップ機能への切り替えにも失敗し、送金の処理ができなくなった。送金の集中処理が完了したのは12日午後7時45分ごろだった。全国各地の支店などで、企業間の海外送金の一部に遅延が生じなど、約300件に影響が出た。12日に当行が発表したと各報道が伝えた<ref name="asahi20210312">{{Cite web|和書|title=みずほ銀、海外送金に遅れ 2週間足らずでトラブル4回|url=https://www.asahi.com/articles/ASP3D6SQBP3DULFA030.html?iref=comtop_7_06|website=朝日新聞|date=2021-03-12|accessdate=2021-03-12|language=ja}}</ref>
<ref name="mainiti20210312">{{Cite web|和書|title=みずほ銀行またトラブル 海外送金一部滞るシステム障害|url=https://mainichi.jp/articles/20210312/k00/00m/020/265000c|website=毎日新聞|date=2021-03-12|accessdate=2021-03-12|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀で海外送金にも遅れ、300件に影響…2週間で4回のトラブル|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210312-OYT1T50232/|website=読売新聞|author=|accessdate=2021-03-12|language=ja|publisher=読売新聞社|date=2021-03-12}}</ref><ref name="nikkei20210312">{{Cite web|和書|title=みずほ銀行で新たな障害、外貨送金300件に遅れ|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODF12AP30S1A310C2000000/|website=日本経済新聞|date=2021-03-12|accessdate=2021-03-13|language=ja}}</ref><ref name="zizi20210312">{{Cite web|和書|title=みずほ銀、外貨建て送金に遅れ 2週間で4度目障害―藤原頭取が再び謝罪|url=https://web.archive.org/web/20210312110131/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021031201197&g=eco|website=時事ドットコム|date=2021-03-12|accessdate=2021-03-13|language=ja}}</ref>。日経新聞は、影響の詳細について「企業が国内にある取引先の口座にドル建てで振り込む場合、依頼を受けた銀行は午後1時までに振込先の銀行にデータを送信する必要がある。今回の障害でデータの送信が完了したのは午後6時。振り込みが翌日付となれば、企業間の取引で実損が出る恐れがある。みずほ銀行は当日付にできるよう相手方の銀行と調整する。<ref name="nikkei20210312" />」と解説した。}}
影響の詳細は、3月15日に当行Webサイトで告知<ref name="mizuho20210315a">{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/index.html|title=外為取引等の一部遅延の発生について(3月15日(14時00分現在))|website=みずほ銀行|date=2021-03-15|accessdate=2020-03-15|language=ja}}</ref>された。これによると「国内他行向けの送金263件について、当日付の送金ができない状況」であった。
なお当行は、このシステムトラブルによる送金遅延は計500億円に上ったと発表している<ref>{{cite News | url = https://www.sankei.com/article/20210319-XR7QMQX5KFKRTKKJGRPX534VJ4/ | title = 送金遅延は計500億円 みずほ銀、中旬の障害で | newspaper = [[産経新聞]] | date = 2021-03-19 | accessdate = 2021-03-21 }}</ref>。
6月14日、今回当行で相次いだATMなどのシステム障害について調べていた第三者委員会の報告書の概要が分かったと伝えられた。システム自体に根本的な欠陥はなく、人員配置や設定面で運用が未熟だったことが原因と結論付ける。顧客対応の不十分さが問題を深刻化させたことも指摘する。同月15日にも報告書を公表する予定と共同通信が報道した<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ、システム運用未熟 ATM障害で第三者委が報告|url=https://web.archive.org/web/20210614132345/https://nordot.app/777155282016354304|work=一般社団法人共同通信社|date=2021-06-14|accessdate=2021-06-15}}</ref>。報告書は、6月15日にみずほフィナンシャルグループより発表された<ref name="mizuhoreport">{{Cite web|和書|url=https://www.mizuho-fg.co.jp/release/pdf/20210615release_3_jp.pdf|title=調査報告書(公表版)|website=みずほフィナンシャルグループ|date=2021-06-15|accessdate=2020-06-15|language=ja}}</ref>。なおみずほ銀行HPでは、この発表を受けて、株式会社みずほ銀行におけるシステム障害にかかる原因究明・再発防止について<ref name="mizuhoreport2">{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/release/pdf/20210615_2release_jp.pdf|title=株式会社みずほ銀行におけるシステム障害にかかる原因究明・再発防止について|website=株式会社みずほ銀行|date=2021-06-15|accessdate=2020-06-15|language=ja}}</ref>を発表したが、みずほ銀行HPからは報告書へのアクセスはリンクを含め一切なく、利用者が、みずほフィナンシャルグループにアクセスするしかない状態である。
またこれに関連して、みずほフィナンシャルグループ取締役社長 坂井辰史が、報酬月額の50%減額×6ヶ月、みずほ銀行取締役頭取 藤原弘治が、報酬月額の50%×減額4ヶ月などの役員処分がされた<ref name="mizuhoreport3">{{Cite web|和書|url=https://www.mizuho-fg.co.jp/release/pdf/20210615_2release_jp_2.pdf|title=役員処分について|website=みずほフィナンシャルグループ|date=2021-06-15|accessdate=2021-06-15|language=ja}}</ref>が、やはりフィナンシャルグループHPでのみ公表されている。
なお、藤原頭取が同年6月末で退任することが報じられていたが<ref>{{Cite news2|title=みずほ銀頭取、システム障害引責で退任へ…会長就任も見送り検討|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210610-OYT1T50232/|newspaper=読売新聞オンライン|date=2021-06-10|accessdate=2021-06-10|publisher=読売新聞社}}</ref>、再発防止に取り組む観点から当面の間続投することを6月15日に明らかにした<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ、役員11人処分 社長は減俸6カ月―藤原頭取は当面続投・システム障害|url=https://web.archive.org/web/20210615093731/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021061500779&g=eco|website=時事通信|accessdate=2021-06-16|date=2021-06-15}}</ref>。
=== 2021年8月〜9月の間、相次いで引き起こした4回のトラブルと業務改善命令 ===
* '''2021年8月20日に引き起こしたシステムトラブル'''
[[2021年]](令和3年)[[8月20日]](金曜日)、今年だけで5度目になるシステム障害で始業時から12時頃まですべての店舗窓口で入出金や振り込みなどの手続きが出来なくなった<ref name="nikkei20210820">{{Cite web|和書|title=みずほ銀行のシステム障害が復旧 午後5時から記者会見|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB200S20Q1A820C2000000/|website=日本経済新聞|date=2021-08-20|accessdate=2021-08-23|language=ja}}</ref>。今回は、みずほ銀行と同じ勘定系システム「{{en|MINORI}}」を用いている[[みずほ信託銀行]]においても、同様なトラブルが発生した<ref name="nikkeitex20210820">{{Cite web|和書|title=みずほ銀行「5度目」のシステム障害、原因はDBサーバーのハード故障|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00001/05941/|website=日経XTECH|date=2021-08-20|accessdate=2021-08-23|language=ja}}</ref>。原因は、DBサーバーのハード故障し、バックアップ機器に故障が波及とされた<ref name="nikkeitex20210820" />。なおみずほ銀行は、公式HPにおいて「代替手段により発生した費用等につきましては、個別にご対応させていただきますので店舗または下記のフリーダイヤルへご相談」とのみ発表し、前回同様、補償を明言していない<ref name="mizuho2021820">{{Cite web|和書|title=【復旧】店頭でのお取引の再開について(8月23日 月曜日午前9時00分現在)|url=https://www.mizuhobank.co.jp/corporate/index.html|website=みずほ銀行|date=|accessdate=2020-03-10|language=ja}}</ref>。今回のトラブルについても金融庁は銀行法に基づく報告徴求命令を出した<ref name="asahi20210822">{{Cite web|和書|title=金融庁、みずほ銀に報告命令 新たなシステム障害で|url=https://www.asahi.com/articles/ASP8Q621MP8QULFA005.html|website=朝日新聞|date=2021-08-22|accessdate=2021-08-23|language=ja}}</ref>。
* '''2021年8月23日に引き起こしたシステムトラブル'''
[[2021年]](令和3年)[[8月23日]](月曜日)、週末の金曜日に引き続き今年だけで6度目になるシステム障害で全国で最大130台のATMが一時使えなくなった<ref name="nikkei20210823">{{Cite web|和書|title=みずほ銀行、ATM130台一時使えず 今年6回目の障害|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB235AT0T20C21A8000000/|website=日本経済新聞|date=2021-08-23|accessdate=2021-08-23|language=ja}}</ref>。
* '''2021年9月8日に引き起こしたシステムトラブル'''
[[2021年]](令和3年)[[9月8日]](水曜日)、今年だけで7度目になるシステム障害で同日午前9時半ごろから、ハードの不具合により一部の現金自動預払機(ATM)とインターネットサービス「みずほダイレクト」が一時的に利用できない状態となった。一時利用不可となったATMは最大100台で、そのうち27台で現金の取り込みが発生した<ref name="nikkei202100908">{{Cite web|和書|title=みずほ銀行、ATM100台が一時停止 復旧済み|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB082160Y1A900C2000000/?unlock=1|website=日本経済新聞|date=2021-09-08|accessdate=2021-09-08|language=ja}}</ref>。システムの一部を再起動することですでにすべて復旧済みである。
*'''業務改善命令'''
[[2021年]](令和3年)[[9月22日]](水曜日)、金融庁は、銀行法第26条第1項に基づき株式会社みずほ銀行に、及び銀行法第52条の33第1項に基づき、株式会社みずほフィナンシャルグループに対し、システムの改修や保守点検計画の提出を求める業務改善命令を発出した<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行及びみずほフィナンシャルグループに対する行政処分について|url=https://www.fsa.go.jp/news/r3/ginkou/20210922.html|website=金融庁|date=2021-09-22|accessdate=2021-09-22|language=ja}}</ref>。当面のシステム更改及び更新等の計画についての報告も求めており、日本経済新聞は、「金融庁が同行のシステムを実質管理」と報道したが<ref>{{Cite web|和書|title=金融庁、みずほに業務改善命令 システムを実質管理|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB2259D0S1A920C2000000/|website=日本経済新聞|date=2021-09-22|accessdate=2021-09-22|language=ja}}</ref>、麻生太郎金融相は9月24日の閣議後の記者会見で、「みずほ銀行が自らシステム更改などを適切に管理することを求めている」、金融庁がみずほのシステムを「共同管理」するなどと一部で報じられたことについて、「一緒にやる事実はない」と否定した<ref>{{Cite web|和書|title=みずほのシステム「金融庁が管理」報道を否定 改善命令で麻生金融相|url=https://www.asahi.com/articles/ASP9S55TGP9SULFA016.html|website=朝日新聞|date=2021-09-24|accessdate=2021-09-26|language=ja}}</ref>。
* '''2021年9月30日に引き起こしたシステムトラブル'''
[[2021年]](令和3年)[[9月30日]](木曜日)、今年だけで8度目になるシステム障害387件の外国為替取引に遅れが出た。主に法人顧客の送金が滞り、80件は翌日に持ち越しとなった。詳細な原因は特定できていないが、企業の決済が集中する上半期の末日とはいえ、決済が集中し負荷が大きくなったことが一因とされており<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行、外為取引387件遅れ 今年8度目システム障害|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB307Y20Q1A930C2000000/|website=日本経済新聞|date=2021-09-30|accessdate=2021-09-08|language=ja}}</ref>、時事通信は、金融関係者の見解として「更新ではなく、システムや機器のもろさが要因であれば問題は根深い」と報じた<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ、止まらぬシステム障害 金融庁「処分直後」重大視|url=https://web.archive.org/web/20210930223218/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021093001195&g=eco|website=時事ドットコムニュース|date=2021-10-01|accessdate=2021-09-08|language=ja}}</ref>。
* '''業務改善命令'''
[[2021年]](令和3年)[[11月26日]](金曜日)、金融庁は、銀行法第26条第1項に基づき株式会社みずほ銀行に、及び銀行法第52条の33第1項に基づき、株式会社みずほフィナンシャルグループに対し、再発防止策を速やかに実行すること、業務改善計画を策定し、提出を求める等の業務改善命令を発出した<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行及びみずほフィナンシャルグループに対する行政処分について|url=https://www.fsa.go.jp/news/r3/ginkou/20211126/20211126.html|website=金融庁|date=2021-11-26|accessdate=2021-11-29|language=ja}}</ref>。
* '''是正措置命令'''
[[2021年]](令和3年)[[11月26日]](金曜日)、財務省は、外国為替及び外国貿易法第17条の2第1項の規定に基づき、株式会社みずほ銀行に、資産凍結等経済制裁に関する外国為替及び外国貿易法及び同法に基づく命令の規定を確実に遵守するための実効性のある改善・再発防止策の策定等し、提出を求める等の是正措置命令を発出した<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀⾏に対する⾏政処分について|url=https://www.mof.go.jp/policy/international_policy/gaitame_kawase/press_release/20211126.html|website=財務省|date=2021-11-26|accessdate=2021-12-07|language=ja}}</ref>。日経クロステックによれば、処分の対象となった事案については、9月30日のシステムトラブルの際に、外為送金は午後3時の「カットオフタイム」までに完了させる必要があるが、一部の外為送金がそれに間に合わなくなる恐れがでてきたため、CCO(最高コンプライアンス責任者)がアンチ・マネー・ロンダリング・システム(AML)によるチェックを省略しても法令に沿った対応ができると主張し、AMLによるチェックを省略する方針を決断し、実際に349件の外為送金がAMLによるチェックを経ずに実行されたものである<ref name="teno">{{Cite web|和書|title=金融庁が厳しく糾弾、みずほ銀行システム障害の原因・背景・真因|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01873/120200001/|website=日経クロステック|date=2021-12-06|accessdate=2021-12-07|language=ja}}</ref>。日経クロステックは『CCOやCIOが出席する非常対策PTで外為法に違反する決断をしたことが、「役職員の知識不足」や「関係部署間のコミュニケーション不足」に該当する。誤った決断を下した背景に「平時からの連携不足」があった。加えてAMLを省略して外為取引を実行できてしまうシステムであったことが「システム管理態勢の脆弱性」に該当する。』<ref name="teno" />と論評した。
=== 役員の退任 ===
金融庁による処分を受けて、坂井 辰史みずほフィナンシャルグループ取締役 兼 執行役社長(代表執行役)が「一連のシステム障害等に関する経営責任を明確にし、経営執行体制の刷新が必要と判断したため」として退任をすると発表したが、退任は、2022年4月1日付であり、なお4か月以上、在任するとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mizuho-fg.co.jp/release/20211126_2release_jp.html|title=代表執行役の異動に関するお知らせ|website=みずほフィナンシャルグループ|date=2021-11-26|accessdate=2021-11-29|language=ja}}</ref>。みずほ銀行の藤原 弘治取締役頭取も、2022年4月1日付で退任と発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mizuho-fg.co.jp/release/20211126_3release_jp.html|title=役員異動のお知らせ|website=みずほフィナンシャルグループ|date=2021-11-26|accessdate=2021-11-29|language=ja}}</ref>。こちらは、単なる異動の発表であり、理由は記載されていない。また取締役としては2022年6月の任期満了まで在任する。
また、坂井は[[全国銀行協会]]の会長職に就任することが内定していたが、これらの問題や坂井の引責辞任を受けて、辞退することを明らかにした。そのため、メガバンク3行による輪番制でみずほ銀行の後に担当する予定だった2行が前倒しで会長職を担当することになり、2021年7月から2022年6月まで三井住友銀行頭取の高島誠、2022年7月から2023年3月まで三菱UFJ銀行頭取の[[半沢淳一]]がそれぞれ就任することになった<ref>{{Cite web|和書|title=全銀協次期会長に三菱UFJ銀の半沢頭取内定 来年7月就任|url=https://www.sankei.com/article/20211216-3IYBA2KCABOZRFEPXIO27Z55UE/|website=産経新聞|date=2021-12-16|accessdate=2021-12-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=三菱UFJ銀行の半沢頭取、全銀協会長に内定…「輪番」みずほからの就任見送る|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20211217-OYT1T50086/|website=読売新聞|date=2021-12-17|accessdate=2021-12-17}}</ref>。
=== デジタル口座への強制移行の中止 ===
2021年12月15日、みずほ銀行は、毎年1月末時点で1年以上通帳へ記帳されていない口座について、強制的に通帳を廃止しデジタル口座に切り替える作業を、「みずほe-口座」のより一層の機能向上を図るためという理由で2022年分も見合わせると発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/release/pdf/20211215release_jp.pdf?rt_bn=bk_top_info|title=「みずほe-口座」への自動切替の停止について |website=みずほ銀行|date=2021-11-26|accessdate=2021-12-15|language=ja}}</ref>。2021年2月末の大規模トラブルの原因となった作業である。再開時期は未定とされている。
=== 2021年12月〜2022年2月の間、相次いで引き起こした3回のトラブル ===
* '''2021年12月30日に引き起こしたシステムトラブル'''
2021年12月30日午後、現金自動預払機(ATM)やインターネットバンキングによる他行宛ての振り込みが一時、利用できなくなるトラブルが発生した。システムの人為的な設定ミスが原因とみられている<ref>{{Cite web|和書|title=みずほでまた不具合 他行宛て振り込みできず|url=https://web.archive.org/web/20211230103217/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021123000672&g=eco&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=edit|website=時事ドットコムニュース|date=2021-12-30|accessdate=2021-12-30|language=ja}}</ref>。
* '''2022年1月11日に引き起こしたシステムトラブル'''
[[2022年]]1月11日午前8時ごろから法人向けのインターネットバンキングのシステムで障害があり、ログインしづらいトラブルが発生した<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀でシステム障害 法人向けネットバンキングで|url=https://web.archive.org/web/20220111023554/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022011100417&g=eco&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=edit|website=時事ドットコムニュース|date=2022-01-11|accessdate=2022-01-11|language=ja}}</ref>。原因は、設定ミスによるデータベースサーバ処理の遅延<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行で年末年始に2度のシステム障害、原因は設定ミス|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01157/020900054/|website=日経クロステック|date=2022-02-24|accessdate=2022-11-20|language=ja}}</ref>。
* '''2022年2月11日に引き起こしたシステムトラブル'''
2022年2月11日、午前9時ごろから一部のATMが使えなくなるトラブルが発生した。ATMが1台しかない関東などの9カ所で使用できなくなった。復旧のため、11日午後3時半から全国111カ所のATMを停止した<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀でまたATM障害 全国111カ所がメンテナンスのため停止|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ2C5Q0LQ2CULFA007.html?iref=comtop_7_02|website=朝日新聞デジタル|date=2022-02-11|accessdate=2022-02-11|language=ja}}</ref>。
=== 2022年10月の法人ネットバンキングのトラブル ===
2022年10月17日午前、午前9時半ごろから法人の振り込みや取引明細の照会などを扱う「みずほビジネスWEB」などで不具合が発生し、一部の法人向けのインターネットバンキングにつながりにくくなるシステム障害が起きた。正午ごろに復旧した<ref>{{Cite web|和書|title=みずほ銀行で一時システム障害、法人ネットバンキング|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB1720L0X11C22A0000000/|website=日本経済新聞|date=2022-10-17|accessdate=2022-10-18|language=ja}}</ref>。
=== 以上のシステムのトラブルに関する背景 ===
以上のように、みずほ銀行はこれまでに、特に2021年以降、立て続けにシステムのトラブルを引き起こし、これが信用失墜の原因となっているが、かつての合併前の第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行が全く異なる3つのシステムを持っており、このような合併ではいずれか1つのシステムのみを使って残る2つは廃止すべきところを、3つのシステムを無理やり統合するという不適切な方法を取ったことがそもそもの原因との指摘がある<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/718b317c6e069314ae0b119694c3fd2781d0a59b みずほ銀行のシステム障害の原因は「3つのシステムを合わせてしまった」こと]</ref>。みずほ銀行で未だに使われ続けている古いコンピュータシステムの開発者の退職や死去、システム構造のブラックボックス化も相まって、誰一人みずほ銀行のシステムの全貌を把握している人がいない状態となっていることもあり<ref>[https://gendai.media/articles/-/87384 これから「みずほ銀行」に起こる、ヤバすぎる現実…システムの「爆弾」を誰も処理できない]</ref>、ITの同業者からも、これではシステムの根本的な修正はもはや不可能との指摘があり<ref>[https://diamond.jp/articles/-/283454 みずほシステム障害「あれ、絶対直すの無理」と同業者が断言する理由【IT業界インサイダー座談会4】]</ref>、かといってこれだけ巨大なシステムではゼロからの構築も現実的でない。2022年1月のトラブルにおいては、他行へ取引を移すことを自ら推奨するメールを送信した。
== FinTechの取組み ==
* 2014年11月 - [[日本アイ・ビー・エム]]の[[ワトソン (コンピュータ)|Watson]]を活用し、コールセンター等でタイムリーに有益な情報を提示するシステムを共同で構築することに合意。2015年2月に導入開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/special/mizuho_fintech/news/watson/index.html|title=Watsonテクノロジーのコールセンター導入で次世代チャネルの構築 {{!}} みずほ銀行|accessdate=2018-09-01|last=|first=|website=www.mizuhobank.co.jp|publisher=|language=ja}}</ref>。オペレーターが応対する音声を認識し、オペレーターのモニター上にリアルタイムで回答候補を表示。[[人工知能]]による学習で徐々に精度を上げ、現在では200席以上でIBM Watsonを活用<ref>{{Cite news|title=みずほ銀行のコールセンターで人工知能を積極的に使った取り組み PepperとIBM Watsonの導入事例を動画で公開 {{!}} ロボスタ - ロボット情報WEBマガジン|url=https://robotstart.info/2016/09/29/mizuho-watson-yt.html|accessdate=2018-09-01|language=ja|work=ロボスタ}}</ref>。
* 2015年7月 - [[ソフトバンクロボティクス]]と協業し、[[Pepper (ロボット)|Pepper]]を導入<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/special/mizuho_fintech/news/pepper/index.html|title=Pepperを活用した、新しい店舗サービスの創造 {{!}} みずほ銀行|accessdate=2018-09-01|last=|first=|website=www.mizuhobank.co.jp|publisher=|language=ja}}</ref>
* 2015年10月 - 資産運用ロボットアドバイザリーのSMART FOLIOをリリース。インターネット上で、利用者のリスク許容度に合わせた投資信託のポートフォリオを無料で提案するサービス<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/retail/products/fund/smartfolio/index.html|title=資産運用ロボ「SMART FOLIO」 {{!}} みずほ銀行|accessdate=2018-09-02|last=|first=|website=www.mizuhobank.co.jp|publisher=|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/release/pdf/20161205release_jp.pdf|title=FinTechを活用したモバイルサービス 「MCPC award 2016特別賞」を受賞|accessdate=2018年9月2日|publisher=株式会社みずほ銀行}}</ref>
* 2016年 - {{要出典範囲|date=2018年9月|[[メガバンク]]の中で最も早く}}[[Application Programming Interface|API]]の公開を開始。
* 2017年 - 株式会社Blue labを設立。みずほ銀行、Wil LLCが設立、後にWil LLCが保有する一部の株式を[[伊藤忠商事|伊藤忠商事株式会社]]、[[損保ジャパン日本興亜|損害保険ジャパン日本興亜株式会社]]、[[第一生命保険|第一生命保険株式会社]]、[[農林中央金庫]]、[[丸紅|丸紅株式会社]]、[[三井住友信託銀行|三井住友信託銀行株式会社]]などに譲渡するスキーム。海外も含めた決済プラットフォーム構築、人工知能やビッグデータを活用した事務作業自動化のためのソフトウェア開発、サプライチェーンマネジメントやトレードファイナンスにおける業務効率化を目的としたブロックチェーンの商用化といったFinTech領域のみならず、各株主の事業領域をはじめとするIoT全般を対象として、次世代のビジネスモデル創造・事業化を目的<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mizuho-fg.co.jp/release/20170710release_jp.html|title=みずほFG:【FinTech】新たな事業創出を目的とする合弁会社設立について|accessdate=2018-09-02|last=|first=Mizuho Financial Group,|website=www.mizuho-fg.co.jp|publisher=|language=ja}}</ref>。
* 2018年3月 - 店舗を有する邦銀として初めてウォレットアプリ<みずほ Wallet for Android>をリリース<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/release/pdf/20180213release_jp.pdf|title=非接触によるスマホデビット決済への取り組みについて|accessdate=2018年9月2日|publisher=株式会社みずほ銀行}}</ref>。JCBと連携したスマホデビットカードの発行により、みずほ銀行の口座があればアプリ上でバーチャルデビットカードを即時発行し、連携した普通預金口座から即時決済できる仕組みを開発。また、既にみずほJCBカードを保有している場合には、カード情報をウォレットに追加できる。支払い方式はQUICPay+。
* 2018年8月 - [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]版に続き、<みずほ [[Wallet]] for iOS>をリリース<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/release/pdf/20180801release_jp.pdf|title=みずほ銀行とJR東日本が「Mizuho Suica」を提供開始|accessdate=2018年9月2日|publisher=株式会社みずほ銀行}}</ref>。[[東日本旅客鉄道|東日本旅客鉄道株式会社]]、[[Apple]]と連携し、ウォレット上にMizuho Suicaをアプリ上で即時発行できる(前述のみずほSuicaとは別サービス)。Android版と同様に、みずほ銀行に普通預金口座があれば利用可能。[[Suica]]であるため、チャージできる上限金額は20,000円。みずほ銀行休業日でも、チャージしている残高は[[Suica]]として利用でき、[[交通系ICカード全国相互利用サービス|IC相互利用可能エリア]]であれば、全国どこでも使える。日本におけるキャッシュレス化の推進を目標にしているため、定期券・グリーン券・特急券は利用できないが、乗車券としての利用は可能。
* [[2021年]][[1月18日]]以降に新規開設された個人名義口座の通帳については、開設時および繰越の際に、通帳発行手数料として1100円が徴収(70歳以上の個人については対象外)され、通帳発行を希望しない場合は、インターネットバンキングやキャッシュカード等で取引等を行う形となる。従来からの利用者については、通帳発行手数料の徴収はないが、2021年以降、毎年1月末の時点で通帳記帳の利用がないと判断された口座については、同年3月頃に通帳を無効化するとしていた。無効化された場合は、希望により新たな通帳が無料で再発行される。満行や磁気不良に伴う繰越も従来通り無料とされる(従来からの利用者も、通帳を発行しない取引に変更も可能)。なお、通帳を発行しない取引の場合、取引明細の確認は、ネット上で可能であるが、最大でも10年であり、実際にいつまでできるか案内がない(当行Webサイトでは、申し込みの前々月から最大10年間できますとあるだけであり、下限はなく、少なくとも申し込みの3ヶ月より古い分は確認不能。極端な話、今月と先月しかできないことも、否定はしていない。通帳から切り替えた場合、もはや記帳はできない。)。時事通信の3月4日の報道<ref name="zizi20210301" />では「移し替え作業は2月下旬から3月上旬まで6回に分けて終わらせる予定だったが、今回のトラブルを受け、実施時期を改めて判断する。」となっており、通帳の無効化も延期の見込みであったが、3月5日に当行Webサイトに「実施のタイミングを当面の間、見合わせる{{efn|原文のまま。日本語としては不自然で「実施を当面の間、見合わせる」あるいは「実施のタイミングを当面の間、延期する」とすべきであろう。}}」と告知した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/release/pdf/20210305release_jp.pdf|title=「みずほ e-口座」への自動切替時期の見直しについて |accessdate=2021-03-05 |date=2021-03-05|publisher=株式会社みずほ銀行}}</ref>。また「再開時期につきましてはあらためてご案内いたします。」としている。
== 不祥事・事件 ==
=== ニセ夜間金庫事件 ===
{{Main|大阪ニセ夜間金庫事件#模倣犯}}
[[2006年]]7月に銀座支店にニセの[[夜間金庫]]が設置される事件が発生した。[[大阪ニセ夜間金庫事件]]を模倣したとされている。
=== 暴力団との関係 ===
{{Main|みずほ銀行暴力団融資事件}}
[[2013年]][[9月27日]]、2012年12月から調査を行っていた[[金融庁]]は、グループの[[信販会社]][[オリエントコーポレーション]]を通じた自動車ローンなどで、[[暴力団]]を含む[[反社会的勢力]]取引の存在を知りながら放置したとして、みずほ銀行に[[業務改善命令]]を発動した<ref>[https://www.fsa.go.jp/news/25/ginkou/20131226-1.html みずほ銀行及びみずほフィナンシャルグループに対する行政処分について]</ref><ref>{{Cite news |title=みずほ銀行に業務改善命令、提携ローンに反社会的勢力との取引|author= |agency=|newspaper=ロイターニュース |date=2013-9-27|url=https://jp.reuters.com/article/domesticJPNews/idJPTYE98Q06I20130927|accessdate=2013-10-1}}</ref><ref>{{Cite news |title=金融庁、みずほ銀に業務改善命令 反社会的勢力と取引|author= |agency=|newspaper=[[共同通信]]|date=2013-9-28|url=https://www.47news.jp/CN/201309/CN2013092701001586.html|accessdate=2013-10-1}}</ref><ref name="kinyu">{{Cite news |title=株式会社みずほ銀行に対する行政処分について|author= |agency=|newspaper=[[金融庁]]|date=2013年9月27日|url=https://www.fsa.go.jp/news/25/ginkou/20130927-3.html|accessdate=2013-10-1}}</ref>。取引内容は暴力団組員らが中古車を買った際のローンが中心で、取引件数は230件、融資額は2億9千万円に上った<ref>{{Cite news |title=みずほ銀、反社勢力との取引を温存させた社内体制と、ずさんな不祥事対応の背景|author= |agency=|newspaper=ビジネスジャーナル |date=2013-10-1|url=https://biz-journal.jp/2013/10/post_3024.html|accessdate=2013-10-8}}</ref>。
この融資は、旧[[第一勧業銀行]]と繋がりの深いオリエントコーポレーションとの提携ローンで、2010年9月にみずほ銀行による審査が開始され、同年10月に暴力団組員への融資が行われていたことが内部で判明したとされる。情報は<ref>[https://dot.asahi.com/articles/-/120281 「暴力団融資のみずほ銀行 内情はまるで「半沢直樹」?」] ブルームバーグ 2013/10/10</ref>当時[[法令遵守]]担当役員であった旧第一勧業銀行出身の代表取締役副頭取や常務、執行役員などにまで上げられており、銀行本体のトップクラスの幹部が関わっていることが判明した<ref>{{Cite news|title=みずほ銀、副頭取や常務ら歴代4役員が組員融資、会見で認める|author=|agency=[[ハフィントンポスト]]|newspaper=[[朝日新聞デジタル]]|date=2013-10-4|url=https://www.huffingtonpost.jp/2013/10/04/mizuhobank_n_4047251.html?utm_hp_ref=japanl|accessdate=2013-10-8|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131017103045/http://www.huffingtonpost.jp/2013/10/04/mizuhobank_n_4047251.html?utm_hp_ref=japanl|archivedate=2013年10月17日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。当初は[[取締役会]]などにはかけられていないとし、銀行のナンバー1である頭取は一切関与していないとの説明を行っていたが、10月8日の会見で、発覚当時の[[西堀利]]頭取をはじめ後任の[[塚本隆史]]頭取、[[佐藤康博]]頭取など歴代頭取までもが暴力団組員への融資を「知りうる立場」にあったことを認めた<ref>[https://www.47news.jp/47topics/e/246590.php 「【Q&Aみずほ銀行の暴力団融資問題 】 審査は信販会社任せ 事実と異なる報告」] 共同通信 2013/10/12</ref>。
これを受け、翌9日に金融庁は異例の再度の報告書を求めて[[銀行法]]に基づく報告徴求命令を出し<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNASFL100MW_Q3A011C1000000/ 「官房長官、みずほに報告徴求命令「極めて遺憾」 不快感示す」] 日経QUICKニュース 2013/10/10 </ref>、10日には[[菅義偉]][[内閣官房長官]]が会見で「金融庁への報告が違っていたのは極めて遺憾だ」と述べた<ref>[https://www.bloomberg.co.jp/news/123-MUE8XN6TTDS801.html 「金融庁:みずほ役員の問題認識の経緯など追加報告を命令」] ブルームバーグ 10月10日</ref>。また[[経済同友会]]の[[長谷川閑史]]代表幹事は「金融機関として、あるまじき状況だ」と批判<ref>[http://news.tbs.co.jp/20131016/newseye/tbs_newseye2031651.html 「経済同友会代表幹事「金融機関として、あるまじき状況」」] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131017223729/http://news.tbs.co.jp/20131016/newseye/tbs_newseye2031651.html |date=2013年10月17日 }} TBS 2013年10月16日</ref>、[[信託協会]]の[[若林辰雄]]会長は「再発防止に向けて、銀行業界全体で真剣に考える必要がある」とした<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNASFL170OT_X11C13A0000000/ 「信託協会長、みずほ問題「業界全体で再発防止」」] 日経QUICKニュース 2013/10/17</ref>。
命令の発動を受け、同行は法令順守担当だった旧第一勧業銀行出身の常務執行役員の更迭<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20131005-OHT1T00088.htm 「反社会的勢力に融資、みずほ銀歴代4役が把握、放置」] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131017171536/http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20131005-OHT1T00088.htm |date=2013年10月17日 }} スポーツ報知 2013年10月5日</ref>をはじめ、減給などの社内処分を実施するほか、再発防止策も10月中にまとめことを明らかにした。10月8日には[[中込秀樹]]元[[名古屋高等裁判所]]長官が委員長を務める提携ローン業務適正化に関する特別調査委員会が設置された<ref>[https://www.mizuhobank.co.jp/company/release/2013/pdf/news131008.pdf 「提携ローン業務適正化に関する特別調査委員会の設置について」] 株式会社みずほ銀行 2013年10月8日</ref>。オリエントコーポレーションでも、10月15日にみずほ銀行出身の[[斎藤雅之]]社長を委員長とする反社態勢強化委員会が設置され<ref>[https://jp.wsj.com/articles/JJ12294415803135433332719928510070707681663 「オリコ、経産省に報告書=暴力団融資の再発防止策など .」] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131019084236/http://jp.wsj.com/article/JJ12294415803135433332719928510070707681663.html |date=2013年10月19日 }} ウォールストリート・ジャーナル 2013年10月16日</ref>、16日には、[[割賦販売法]]に基づきオリエントコーポレーションに対する調査を行っていた[[経済産業省]]に対し、データベース強化のためオリエントコーポレーションとみずほ銀行のシステムを接続するなどの再発防止策をまとめた報告書が提出された<ref>[https://jp.wsj.com/articles/JJ11785176532558484024818908354580790292675 「みずほ銀と共同で審査強化=暴力団融資問題で?オリコ」] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131017085545/http://jp.wsj.com/article/JJ11785176532558484024818908354580790292675.html |date=2013年10月17日 }} ウォールストリート・ジャーナル 2013年10月15日</ref><ref name="kinyu" /><ref>{{Cite news |title=みずほ銀、社内処分へ 暴力団融資問題|author= |agency=|newspaper=共同通信|date=2013-9-29 |url=https://www.47news.jp/CN/201309/CN2013092901001963.html|accessdate=2013-10-1}}</ref>。
以前より佐藤頭取兼社長はみずほグループ内の旧[[日本興業銀行]]、旧第一勧業銀行、旧[[富士銀行]]の人事統合を行う方針を示していたが、本不正融資問題では旧第一勧業銀行グループが人事から外される可能性が生じ、また金融庁による業務改善命令に先立つ2013年3月には旧富士銀行出身者全員がみずほフィナンシャルグループ副社長やみずほ銀行副頭取から外される人事も行われており、元大蔵省大臣官房金融検査部金融検査官の[[高橋洋一 (経済学者)|高橋洋一]]は、事件発覚や、頭取関与の証拠発覚の端緒は、旧日本興業銀行出身の佐藤頭取兼社長に対抗する他派閥からのリークではないかとする<ref>[https://www.j-cast.com/2013/10/10185937.html?p=2 「高橋洋一の自民党ウォッチ 暴力団融資「発覚」の裏に人事抗争か みずほ銀「旧3行」人事のドロドロ劇」] J-castニュース 2013/10/10 </ref>。
=== 投資詐欺事件 ===
{{see also|佐藤昇 (ジャーナリスト)#ボクシング関係}}
[[警視庁]]は[[2015年]][[3月24日]]、元男性審査役と男性会社員2名の3人を[[詐欺]]の疑いで逮捕したと発表した<ref>[https://web.archive.org/web/20150418102227/https://www.sankeibiz.jp/compliance/news/150324/cpb1503241856002-n1.htm 「月利3%の配当」と嘘、元みずほ銀本店審査役ら逮捕 1億1500万円詐欺容疑、被害数十億円か] [[産経新聞]]Biz 2015年3月24日</ref>。元審査役は[[ぎょうせい]]の株式購入資金を集める名目で出資者を募っていた<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLZO92071060V20C15A9CC0000/ みずほ銀元幹部に懲役7年判決 東京地裁、投資話で2億円詐取] [[日本経済新聞]] 2015年9月25日</ref>。2014年10月7日、元審査役は、ほかの顧客からも、同じような手口で多額の金をだまし取ったとして、[[損害賠償]]訴訟を起こされていた<ref>[https://news.ntv.co.jp/category/society/260827 投資話で巨額損失 みずほ元行員を集団提訴][[日本テレビ放送網]] 2014年10月7日</ref><ref>[https://www.asahi.com/articles/ASHBG3TYXHBGUTIL010.html 出世欲と金で身を崩した行員(きょうも傍聴席にいます)] [[朝日新聞]]デジタル 2015年10月16日</ref>。みずほ銀行は実際に2005年、経営陣買収資金を出資して株式買収に関与している。ただし同社の株式は2012年12月、[[麻生 (企業)|麻生]]の系列会社がみずほ銀行の買収価格の半値以下で取得し、ぎょうせいは麻生グループ傘下に入った<ref>[https://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2015/04/14/%e3%81%bf%e3%81%9a%e3%81%bb%e9%8a%80%e8%a1%8c%e6%9c%ac%e5%ba%97%e3%81%a7%e7%b9%b0%e3%82%8a%e5%ba%83%e3%81%92%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%9f%e3%80%8c%e8%a9%90%e6%ac%ba%e3%80%8d%e4%ba%8b/ “みずほ銀行”本店で繰り広げられた「詐欺」事件――元審査役逮捕で銀行の責任は] [[週刊金曜日]]オンライン 2015年4月14日 AM10:21</ref>。
== その他 ==
=== 広告 ===
[[2006年]](平成18年)9月までは、資産運用篇([[大杉漣]]「10年後も笑おう」)、住宅ローン篇([[稲森いずみ]]「20年後も笑おう」)、新社会人篇([[平岡祐太]]「未来を手にして笑おう」)の各篇をテレビCM放送していた。
[[2006年]](平成18年)10月、CM展開を一新。「{{en|HAPPY BANK DAY to you}}」をメッセージとして、[[団塊の世代|団塊世代]]の[[緒形拳]]、大家族を抱えてマイホームを購入した[[唐沢寿明]]、[[パンフレット]]でサービスを調べる「賢母」[[鈴木京香]]、母親思いで留学するために[[アルバイト]]でお金を貯める[[井上真央]]らの出演による新CMシリーズが開始されたが、2008年10月に緒形の死去により事実上打ち切った<ref group="注釈">当時のホームページでは、緒方の死去直後に当時の全CM出演者の姿が消去された。</ref>。
[[2008年]](平成20年)から5年間、[[阪神甲子園球場]]のリニューアルに際して、球場1・3塁フィールドシート2,400席に「みずほ銀行シート」と命名権契約を締結<ref>{{Cite web|和書|title=甲子園球場に、TOSHIBAシートとみずほ銀行シートが誕生|url=https://www.sbbit.jp/article/cont1/15483|date=2007-12-19|work=ビジネス+IT|accessdate=2017-01-03}}</ref>。
[[2009年]](平成21年)から[[2015年]](平成27年)夏までは井上真央が出演。2015年(平成27年)11月からは、[[玉山鉄二]]、[[鈴木亮平 (俳優)|鈴木亮平]]、[[福士蒼汰]]ら3人が、[[みずほフィナンシャルグループ]]の各CMに出演している<ref>[https://www.mizuho-fg.co.jp/onemizuho/ 「One MIZUHO CMスペシャルサイト」]</ref>。
=== 提供番組 ===
* [[JNN報道特集]] - [[TBSテレビ|TBS]]
* [[女神のアンテナ]] - [[テレビ朝日]]
* [[土曜スペシャル (テレビ東京)|土曜スペシャル]] - [[テレビ東京]]
* [[日曜ビッグバラエティ (テレビ東京)|日曜ビッグバラエティ]] - テレビ東京
* [[ドリーム・プレス社]] - TBS
* [[和風総本家]] - [[テレビ大阪]]
* [[日経スペシャル カンブリア宮殿]] - テレビ東京
* [[世界まる見え!テレビ特捜部]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]
* [[ボクらの時代]] - [[フジテレビジョン|フジテレビ]]
== ギャラリー ==
{{Gallery
|width=200px
|height=150px
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|画像:Mizuho Bank Kyoto Chuo Branch Japan01-r.jpg|京都中央支店([[京都市]]中京区〈烏丸三条〉)。[[1906年]](明治39年)竣工の[[辰野金吾|辰野式建築]]を再建した。
|File:Mizuho Bank Head Office.JPG|[[みずほ銀行内幸町本部ビル]](旧みずほ銀行本店、現:東京営業部)
|画像:Mizuho Bank Ginza Chuo Branch.jpg|銀座中央支店
|画像:Signboards in Yebisu Garden Place.jpg|[[恵比寿ガーデンプレイス|恵比寿ガーデン]]出張所
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
{{colbegin|2}}
{{Reflist}}
{{colend}}
== 関連項目 ==
{{Commons}}
* [[第一勧業信用組合]]
* [[みずほ銀行暴力団融資事件]]
* [[創価学会を騙った巨額融資詐欺事件]]
== 外部リンク ==
* [https://www.mizuhobank.co.jp/index.html みずほ銀行 公式サイト]
* {{YouTube|user=MizuhoBKOfficial|みずほ銀行 公式}}
* {{Twitter|mizuho_promo|みずほ銀行(広告専用)}}
* {{Twitter|mizuho_debit|みずほデビット}}
* {{NHK放送史|D0009030292_00000|金融再編 メガバンクみずほ銀行誕生(1999年)}}
* {{cite news | author = ITproアーカイブス | url = https://xtech.nikkei.com/it/atcl/column/17/040700124/072700005/ | title = みずほ銀行 システム統合/システム障害 関連記事 | newspaper = ITpro | publisher = [[日経BP]] | accessdate = 2017-07-30 }}
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3,899 | 銀行 | 銀行(ぎんこう、英: bank)は、金融機関の一種。預金の受入れ、資金の貸出し(融資)、為替取引などを行う。また、銀行券の発行を行うこともある。実際に行える業務内容・「銀行」の範囲は国により異なる。広義には中央銀行、特殊銀行などの政策金融機関、預貯金取扱金融機関などを含む。
日本の法令では、銀行とは、銀行法上の銀行(普通銀行)を意味し、外国銀行支店を含むときと含まないときがある。また、長期信用銀行は長期信用銀行法以外の法律の適用においては銀行とみなされる。日本銀行や特殊銀行、協同組織金融機関および株式会社商工組合中央金庫は含まない。普通銀行も長期信用銀行も、会社法に基づいて設立される株式会社形態である。
他方、米国においては、「銀行」(bank)には、国法銀行(national bank)と州法銀行(state bank)があり、それぞれ連邦および各州の銀行法に基づき設立される営利目的の法人(body corporate)である。連邦準備銀行、貯蓄貸付組合(saving and loan association)や信用組合(credit union)、産業融資会社(industrial loan company)、法定信託(Statutory Trust)などとは区別されるが、広義にはこれらを含む。
「金融仲介」「信用創造」「決済機能」の3つを総称して銀行の3大機能という。これらの機能は銀行の主要業務である「預金」「融資」「為替」および銀行の信用によって実現されている。3大機能において、「金融仲介」と「信用創造」は各銀行が常に単独で行える業務である。ただし「決済機能」は、複数銀行間の決済が手形交換所というラウンドテーブルで機能しており、かつてその処理が煩雑を極めたことから現代とみに合理化し、国際決済は寡占産業となった。なお、原則として部分準備銀行でなければ、つまりナローバンクは決済以外の機能を持つことができない。
銀行の業務目的は、第一義的には、市場経済の根幹である通貨の発行である。ここにいう通貨は、中央銀行の発行する銀行券などの現金通貨に限らない。貨幣機能説によれば、通貨は通貨としての機能を果たすがゆえに通貨であり、交換手段であると同時に価値保蔵手段であり、価値尺度であるという機能をもつ。銀行の受け入れる預金は、まさにこうした通貨としての機能を果たすがゆえに経済社会において重要な預金通貨として流通している。
預金通貨は銀行の負債であるので、預金通貨の価値の安定のためには、銀行の資産が安定的な価値を有するものでなければならない。このため、金融庁をはじめとする銀行監督当局は、定期検査を通じて、銀行の資産は安全かという点をチェックする。また、銀行監督当局は風評被害が起きないよう監督している。
銀行業務を行うにあたっては、信用が重要な位置をしめる。そのため、経営が悪くなっても活動を続けることが出来る他の産業とは根本的に異なり、経営が悪くなれば信用がなくなり、取り付け騒ぎに発展して破綻したり、批判を受けながら政府の救済を受けたりする。それ自体は預金保険制度、健全性規制、ベイルイン(株主・債権者負担)といった諸制度により防がれる。
銀行業務の技術的側面は銀行のオンラインシステムで成り立っている現状がある。
アメリカ合衆国や中華人民共和国、日本では銀行と証券会社との兼業を認めない。このような政策を「銀証分離」という。アメリカでは1929年の世界恐慌をきっかけにグラス・スティーガル法が制定されてから銀行による証券業務が制限されている。同法制定の背景には、1銀行が証券業務も行っていたことが大恐慌の一因となった、2預金者の資金を運用している銀行による証券業務を制限することによって、預金者の保護を徹底する必要がある、3貸出業務と証券業務とは利益が相反する傾向がある、という見方があった。しかし第二次世界大戦後は銀行と証券会社が一体となったユニバーサル・バンクを主流とする欧州各国でブレトンウッズ協定に対する不満が鬱積していった。彼らはユーロカレンシーを利用した銀行間取引を活発化させ、機関投資家と共にユーロ債市場を拡充した。その結果、日米欧三極同時並行で銀証分離が緩められていった。
銀証分離は独占を禁止する目的もあるが、同様の観点から銀行業と商業の分離(銀商分離)を行う国もある。米国では投資銀行を除いて銀行業から商業への参入も商業から銀行業への参入もどちらも認められない(ノーウェイ規制)。欧米の企業統治は政策で機関投資家に委ねられている。日本では、商業から銀行業への参入は非金融事業会社による銀行子会社の保有という形で認められているが、銀行業から商業への参入(銀行やそのグループ企業による非金融事業)は持株会社としてのベンチャーキャピタルに限られる(ワンウェイ規制)。欧州では、自己資本に応じた投資制限の範囲内であれば、相互に参入が認められる(ツーウェイ規制)。ソシエテ・ジェネラルのような欧州銀行同盟の代表格やベルギー総合会社を例とする伝統である。
アメリカでは現在グラム・リーチ・ブライリー法によって役員兼任が許容されるなど、銀証分離は極度に緩和されている。この制度は、モーゲージによる信用創造をMBS販売で下支えするビジネスモデルを許したので、世界金融危機を招来した。
そこで2011年にグラス・スティーガル法の再導入法案が両院に提出された。翌年7月4日フィナンシャル・タイムズが分離を主張した。社説の背景は多様である。2012年5月10日に発表されたJPモルガンの20億ドルにのぼる損失、バークレイズのLIBOR金利操作、米上院調査会が2012年7月16日に報告したHSBC・ワコビア・シティバンク・リッグス銀行の資金洗浄、そしてロスチャイルドのリストラ方針が銀証分離と考えられていること。法案の採決はウォールストリートの投資家に阻まれている。
2018年3月29日、公正取引委員会は、ドイツ銀行とメリルリンチが米ドル建て国際機関債の売買について受注調整したと認定、その行為が不当な取引制限にあたると発表した。
日本においては1948年、アメリカ対日協議会が発足して財閥解体の調整に乗り出し、また旧証券取引法が制定された。同法65条において銀行(預貯金取扱金融機関)が金融商品取引行為を業として行うことは、投資目的や信託契約に基づく場合などを除いて禁止されていた。禁止規定は公共債に適用されないが、公共債を対象として銀行の営みうる業務範囲は旧銀行法で明文規定がなかった。それで公社債をメガバンクが窓口となって外債として発行した。これがユーロダラーとの接点となる。外債だけでは公社債の資金需要をまかないきれないので、昭和30年代は投資信託に保有させる作戦がとられた。1955年、大蔵省は証券19社に対して次のような資金調達を認めた。顧客に売った金融債を引き渡さずに有償で借用し(運用預かり)、これを担保として銀行などから資金を借り入れる行為である。インターバンク短期金融市場からの借り入れは利子のかさむ原因となった。この行為は1998年7月現在禁止されている。強引な大衆貯蓄の動員は証券不況を引き起こした。日本共同証券の設立過程で、銀行は証券業界へ人材を進出させるなどして事実的に支配した。旧財閥系の銀行がオーバーローンで生保と事業法人を系列化した(法人資本主義)。
日銀が特融に奔走していたころ、ニューヨーク州は陥落間近であった。1960年代初め、ニューヨーク州議会は公社債発行の根拠となる精神規定を採択した。州の住宅金融機関などは公共インフラのために公社債を発行しまくった。州の負債は十年で三倍となり、総額150億ドル以上となった。州の長期負債の2/3以上が州の全信用によっては保証されない人道債(Moral Obligation Bond)であり、その残高は全米で発行された無保証債券残高の1/4を占めた。
株式の持ち合いが日本証券市場の拡大を妨げたので、グローバルな成長をとげた機関投資家が政治的圧力をかけてきた(日米円・ドル委員会)。1985年、住友銀行が買収したゴッタルト銀行(Gotthard-Bank)が、イトマン発行外債の主幹事をやるということで銀証分離は形骸化しだした。日英金融協議がそれに追い討ちをかけた。1990年12月には、銀行と信託、保険の相互参入を認める法案が可決された。そして1993年4月の金融制度改革関連法施行に伴い、銀行・信託・証券の相互参入が認められたことから実質的に銀証分離が撤廃された。さらに金融ビッグバンにより銀行等の投資信託の窓口販売の導入(1998年12月から解禁)が導入されるなどして、現在は登録金融機関ならば一定の証券業務を営めるようになっている。
英語のバンク(bank)という語はイタリア語のbanco(机、ベンチ)に由来する。これはフィレンツェの銀行家たちによってルネサンスの時代に使われた言葉で、彼らは緑色の布で覆われた机の上で取引を行うのを常としていた。立脇和夫によれば、明治時代にバンク(bank)を銀行と訳したのは、英華辞典の記載に由来するとしたが、通説ではない。香港上海銀行(滙豐銀行、1865年設立)などが創業当初から中国語名に銀行を使用している。行は漢語で店を意味し、また金ではなく銀であるのは当時東アジアでは銀が共通の価値として通用していたためである(銀貨を参照)。日本で翻訳が確定したのは、日本銀行の説明によれば、国立銀行法(National Bank Act)におけるBankの訳出を銀行にすると定めたときであった。また、銀よりも金の方が価値が高いことから、この時「金行」とする案もあったが、語呂が良いから「銀行」とされたといわれる。
金融機能の起源としては両替商が古くからあり、フェニキア人による両替商が知られていた。古くはハムラビ法典には商人の貸借についての規定が詳細に記述されており、また哲学者タレスのオリーブ搾油機の逸話などで知られるように、古代から高度な金融取引・契約はいくつも存在していたと考えられるが、一方で貨幣の取り扱いや貸借には宗教上の禁忌が存在している社会があり、例えばユダヤ教の神殿では神殿貨幣が使用され、信者は礼拝のさいにローマ皇帝の刻印がされた貨幣を神殿貨幣に両替し献納しなければならなかった。ユダヤ・キリスト・イスラム教では原則として利息を取る貸付は禁止されていたので、融資や貸借は原則として無利子(売掛・買掛)であった。これらの社会においては交易上の利益は認められていたので実質上の利子は中間マージンに含まれていた。両替商が貨幣の両替において金額の数%で得る利益は手数料であった。
貸付・投資機能が高度に発達したのは中世イタリア、ヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェにおいてである。遠隔地交易が発達し、信用による売掛・買掛売買が発達し、有力商人が小口商人や船乗りの決済を代行することから荷為替あるいは小口融資が行われるようになった。中世イタリアのジェノバ共和国の議会は、国債の元利支払のための税収を、投資家の組成するシンジケート(Compera)に預けた。1164年には11人の投資家によって11年を期間としたシンジケートが設定されていた。このシンジケートを母体に設立されたサン・ジョルジョ銀行はヨーロッパ最古の銀行とされている。ヴェネツィア共和国の議会は1262年、既存の債務を一つの基金に整理し、債務支払いのために特定の物品税を担保に年5%の金利を支払う事を約束したが、これは出資証券の形態を取り登記簿の所有名義を書き換える事で出資証券の売買が可能なものであった。中世イタリアの都市国家ではそれぞれの都市の基金、すなわち本来の意味でのファンドが、債務支払の担保にあてられた税を管理した。
13世紀頃の北イタリアではキリスト教徒が消費者金融から一斉に撤退し始めるがその理由ははっきりしない。15世紀にはユダヤ教のユダヤ人金融が隆盛を極めた。しかし15世紀後半には次第に衰退した。ユダヤ人が貧民に高利貸付をして苦しめているとフランチェスコ会の修道士が説教したので、都市国家ペルージャは最初の公益質屋(モンテ・ディ・ピエタ monte di pietà)を作り低利で貸付を始めた。それまで徴利禁止論を標榜していたキリスト教会は、第5ラテラン公会議で言い逃れをした。すなわちモンテの利子は正当であり、禁じられた徴利にあたらないとしたのである。
北イタリアからバルト海にかけ、商人の経済活動が高度化してゆくなかで次第に金融に特化する商人が登場しはじめる。商業銀行と商社は業態的につながりが深いといわれている。シティ・オブ・ロンドンにはマーチャント・バンク(Merchant bank)の伝統があり、これは交易商人たちが次第に金融に特化していったものである。日本の総合商社はマーチャントバンクに大変類似しているとも言われる。現在のような形態の銀行が誕生したのは、中世末期のイギリスにおいてである。
日本でも江戸時代には両替商があり、また大商人による大名貸しなど融資業や決済代行業務を請け負った。初の商業銀行は、明治維新後に誕生した第一国立銀行(第一勧業銀行を経て、現在のみずほ銀行)となっている。
イギリスの場合、1650年代には個人銀行の業務がロンドンの商人たちにすでに受け入れられており、満期為替手形の決済に関連した貨幣取り扱い業務の記録が見られるという。彼らの主要な決済手段は金(ゴールド)であった。貨幣経済の興隆に伴い商業取引が増大し、多額の金を抱える者が出てきた。金を手元に抱え込むリスクを懸念した金所有者は、ロンドンでも一番頑丈な金庫を持つとされた金細工商ゴールドスミスに金を預けることにした。
ゴールドスミスは金を預かる際に、預り証を金所有者に渡した(「金匠手形」)。これは正貨の預金証書であったから、紙幣でありながら交換価値を持つことが出来た。そこで所有者はキリのいい単位で金を預け、その預り証をそのまま取引に用いる(債権譲渡する)ことがあった。これは決済業務の起こりとなった。
しばらくして、ゴールドスミスは自分に預けられている金が常に一定量を下回らないことに気付いた。先のように預かり証が決済に用いられるだけ一定量が引き出されずに滞留したのである。ゴールドスミスは、この滞留資金を貸し出しても預金支払い不能にならない(破たんしない)と考えて運用するようになった。
こうして貸し出した金は再び預けられたり、預けさせられたりした。ここで派生的預金を生じた。このうち滞留の見込まれる割合が再び貸し出しに回された。そして派生的預金の再貸し出しはくりかえされた。このようにして発行され続けた預り証の総額は、金庫に保管された正貨の総額と比べて桁違いに多くなった。これは信用創造であった。通貨供給量を増加させて貨幣経済の成長を促した。信用創造は現代の金融機関が行っても景気を刺激する。ただし、現代の派生的預金が預金口座のデータであるのに対し、当時の派生的預金は紙幣であった。
やがてイギリス全土に同業者が現れ、とくにドイツやオランダから商人たちが流入し決済業務を開始することがイギリスのマーチャントバンクすなわち商業銀行の母体となった。当初はそれぞれが国王から独自に特許を取り預り証を発行していた。市場には多種多様な紙幣が流通していた。フランス革命前後および19世紀初頭にかけて、紙幣の多様性は金融システムをしばしば混乱させた。また、金融業者が結託して敵対する金融機関の預り証(銀行券)を蒐集し、これを一度に持ち込み正貨の払い戻しを要求して破たんさせるという手口がよく行われた。そこで1844年のピール条例(当時の日本における呼称は英蘭銀行条例)により、イングランド銀行(イギリスの中央銀行、英蘭銀行)以外での銀行券の発行が禁止された。中央銀行以外は商売替えを迫られて、預り証を金融仲介する貯蓄銀行あるいは商業銀行として発展した。ピール条例の改正については日本の官報にも報じられた。
中央銀行に管理され、今や現金となった預り証の交換価値を保証しているのは、資産を預かる側の払い戻し能力であり、つまり中央銀行の保有する正貨や有価証券である。このような現金通貨は、時に政府による紙幣濫発や中央銀行による国債大量引き受けなどが原因して著しく交換価値を失った(インフレーション)。一方の貯蓄銀行と商業銀行では、現金通貨量に対して預金通貨量の上回る金額が信用創造で増すにつれて、銀行は預金引き出しに備えるようになった。これは時として信用収縮へ発展した。信用収縮のときに経済活動は低調となり、金融危機へつながることもあった。さらに19世紀から20世紀初めまでは、金融危機に端を発する恐慌が頻発した(1927年の日本における昭和金融恐慌など)。第二次大戦以降はケインズ政策の採用などもあり、先進資本主義国は恐慌を克服したとされていたが、近年のリーマン・ショックを端緒とする世界金融危機などが恐慌と表現されることもある。
第二次世界大戦後の世界において、銀行の不祥事は摘発されても各行の責任として処理されることが一般的であった。2003年秋に複数行によるミューチュアル・ファンドの不正取引が見つかったものの、規制に対する影響は限定的であった。世界金融危機が起こってからは色々な角度から金融業の実態が調べられたので、不祥事における銀行同士の関係が当局や市場関係者に露見していった。すでに書いたLIBORの不正操作は特にバークレイズだけが行ったものではなく、むしろ制裁金はドイツ銀行などのユニバーサルバンクが支払った。この事件と並行して、外為相場の不正操作も国際問題となった(Forex scandal)。主犯格(Richard Usher, Rohan Ramchandani, Matt Gardiner)のうち二人がイングランド銀行の要人であった。これについてシティグループなど少なくとも15行が捜査を受けた。別件だが同時期に、バンク・オブ・ニューヨーク・メロンも外為相場を不正操作した疑いで証券取引委員会の捜査を受けている。2018年11月、ブラックロックやパシフィック・インベストメント・マネジメント、ノルウェー中央銀行など16の機関投資家が、シティグループ、クレディ・スイス、バークレイズ、BNPパリバ、ドイツ銀行、ゴールドマン・サックス、三菱UFJフィナンシャル・グループ、ロイヤル・バンク・オブ・カナダ、HSBC、JPモルガン・チェース、モルガン・スタンレー、ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド、ソジェン、スタンダード・チャータード銀行、UBSを外為指標(クロージング・スポット・レート)不正操作の疑いで訴えた。同年、欧州では552億ユーロにものぼる脱税も指摘されている。 | [
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"text": "銀行(ぎんこう、英: bank)は、金融機関の一種。預金の受入れ、資金の貸出し(融資)、為替取引などを行う。また、銀行券の発行を行うこともある。実際に行える業務内容・「銀行」の範囲は国により異なる。広義には中央銀行、特殊銀行などの政策金融機関、預貯金取扱金融機関などを含む。",
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"text": "日本の法令では、銀行とは、銀行法上の銀行(普通銀行)を意味し、外国銀行支店を含むときと含まないときがある。また、長期信用銀行は長期信用銀行法以外の法律の適用においては銀行とみなされる。日本銀行や特殊銀行、協同組織金融機関および株式会社商工組合中央金庫は含まない。普通銀行も長期信用銀行も、会社法に基づいて設立される株式会社形態である。",
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"text": "他方、米国においては、「銀行」(bank)には、国法銀行(national bank)と州法銀行(state bank)があり、それぞれ連邦および各州の銀行法に基づき設立される営利目的の法人(body corporate)である。連邦準備銀行、貯蓄貸付組合(saving and loan association)や信用組合(credit union)、産業融資会社(industrial loan company)、法定信託(Statutory Trust)などとは区別されるが、広義にはこれらを含む。",
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"text": "「金融仲介」「信用創造」「決済機能」の3つを総称して銀行の3大機能という。これらの機能は銀行の主要業務である「預金」「融資」「為替」および銀行の信用によって実現されている。3大機能において、「金融仲介」と「信用創造」は各銀行が常に単独で行える業務である。ただし「決済機能」は、複数銀行間の決済が手形交換所というラウンドテーブルで機能しており、かつてその処理が煩雑を極めたことから現代とみに合理化し、国際決済は寡占産業となった。なお、原則として部分準備銀行でなければ、つまりナローバンクは決済以外の機能を持つことができない。",
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"text": "銀行の業務目的は、第一義的には、市場経済の根幹である通貨の発行である。ここにいう通貨は、中央銀行の発行する銀行券などの現金通貨に限らない。貨幣機能説によれば、通貨は通貨としての機能を果たすがゆえに通貨であり、交換手段であると同時に価値保蔵手段であり、価値尺度であるという機能をもつ。銀行の受け入れる預金は、まさにこうした通貨としての機能を果たすがゆえに経済社会において重要な預金通貨として流通している。",
"title": "銀行の業務"
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"text": "預金通貨は銀行の負債であるので、預金通貨の価値の安定のためには、銀行の資産が安定的な価値を有するものでなければならない。このため、金融庁をはじめとする銀行監督当局は、定期検査を通じて、銀行の資産は安全かという点をチェックする。また、銀行監督当局は風評被害が起きないよう監督している。",
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"tag": "p",
"text": "ゴールドスミスは金を預かる際に、預り証を金所有者に渡した(「金匠手形」)。これは正貨の預金証書であったから、紙幣でありながら交換価値を持つことが出来た。そこで所有者はキリのいい単位で金を預け、その預り証をそのまま取引に用いる(債権譲渡する)ことがあった。これは決済業務の起こりとなった。",
"title": "銀行の起源"
},
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "しばらくして、ゴールドスミスは自分に預けられている金が常に一定量を下回らないことに気付いた。先のように預かり証が決済に用いられるだけ一定量が引き出されずに滞留したのである。ゴールドスミスは、この滞留資金を貸し出しても預金支払い不能にならない(破たんしない)と考えて運用するようになった。",
"title": "銀行の起源"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "こうして貸し出した金は再び預けられたり、預けさせられたりした。ここで派生的預金を生じた。このうち滞留の見込まれる割合が再び貸し出しに回された。そして派生的預金の再貸し出しはくりかえされた。このようにして発行され続けた預り証の総額は、金庫に保管された正貨の総額と比べて桁違いに多くなった。これは信用創造であった。通貨供給量を増加させて貨幣経済の成長を促した。信用創造は現代の金融機関が行っても景気を刺激する。ただし、現代の派生的預金が預金口座のデータであるのに対し、当時の派生的預金は紙幣であった。",
"title": "銀行の起源"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "やがてイギリス全土に同業者が現れ、とくにドイツやオランダから商人たちが流入し決済業務を開始することがイギリスのマーチャントバンクすなわち商業銀行の母体となった。当初はそれぞれが国王から独自に特許を取り預り証を発行していた。市場には多種多様な紙幣が流通していた。フランス革命前後および19世紀初頭にかけて、紙幣の多様性は金融システムをしばしば混乱させた。また、金融業者が結託して敵対する金融機関の預り証(銀行券)を蒐集し、これを一度に持ち込み正貨の払い戻しを要求して破たんさせるという手口がよく行われた。そこで1844年のピール条例(当時の日本における呼称は英蘭銀行条例)により、イングランド銀行(イギリスの中央銀行、英蘭銀行)以外での銀行券の発行が禁止された。中央銀行以外は商売替えを迫られて、預り証を金融仲介する貯蓄銀行あるいは商業銀行として発展した。ピール条例の改正については日本の官報にも報じられた。",
"title": "銀行の起源"
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"text": "中央銀行に管理され、今や現金となった預り証の交換価値を保証しているのは、資産を預かる側の払い戻し能力であり、つまり中央銀行の保有する正貨や有価証券である。このような現金通貨は、時に政府による紙幣濫発や中央銀行による国債大量引き受けなどが原因して著しく交換価値を失った(インフレーション)。一方の貯蓄銀行と商業銀行では、現金通貨量に対して預金通貨量の上回る金額が信用創造で増すにつれて、銀行は預金引き出しに備えるようになった。これは時として信用収縮へ発展した。信用収縮のときに経済活動は低調となり、金融危機へつながることもあった。さらに19世紀から20世紀初めまでは、金融危機に端を発する恐慌が頻発した(1927年の日本における昭和金融恐慌など)。第二次大戦以降はケインズ政策の採用などもあり、先進資本主義国は恐慌を克服したとされていたが、近年のリーマン・ショックを端緒とする世界金融危機などが恐慌と表現されることもある。",
"title": "銀行の起源"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後の世界において、銀行の不祥事は摘発されても各行の責任として処理されることが一般的であった。2003年秋に複数行によるミューチュアル・ファンドの不正取引が見つかったものの、規制に対する影響は限定的であった。世界金融危機が起こってからは色々な角度から金融業の実態が調べられたので、不祥事における銀行同士の関係が当局や市場関係者に露見していった。すでに書いたLIBORの不正操作は特にバークレイズだけが行ったものではなく、むしろ制裁金はドイツ銀行などのユニバーサルバンクが支払った。この事件と並行して、外為相場の不正操作も国際問題となった(Forex scandal)。主犯格(Richard Usher, Rohan Ramchandani, Matt Gardiner)のうち二人がイングランド銀行の要人であった。これについてシティグループなど少なくとも15行が捜査を受けた。別件だが同時期に、バンク・オブ・ニューヨーク・メロンも外為相場を不正操作した疑いで証券取引委員会の捜査を受けている。2018年11月、ブラックロックやパシフィック・インベストメント・マネジメント、ノルウェー中央銀行など16の機関投資家が、シティグループ、クレディ・スイス、バークレイズ、BNPパリバ、ドイツ銀行、ゴールドマン・サックス、三菱UFJフィナンシャル・グループ、ロイヤル・バンク・オブ・カナダ、HSBC、JPモルガン・チェース、モルガン・スタンレー、ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド、ソジェン、スタンダード・チャータード銀行、UBSを外為指標(クロージング・スポット・レート)不正操作の疑いで訴えた。同年、欧州では552億ユーロにものぼる脱税も指摘されている。",
"title": "銀行の不祥事"
}
] | 銀行は、金融機関の一種。預金の受入れ、資金の貸出し(融資)、為替取引などを行う。また、銀行券の発行を行うこともある。実際に行える業務内容・「銀行」の範囲は国により異なる。広義には中央銀行、特殊銀行などの政策金融機関、預貯金取扱金融機関などを含む。 | [[File:CIMB Bank Bendahara Street Branch.JPG|thumb|銀行(写真は[[CIMB]])]]
'''銀行'''(ぎんこう、{{lang-en-short|bank}})は、[[金融機関]]の一種。[[預金]]の受入れ、[[融資|資金の貸出し(融資)]]、[[為替取引]]などを行う。また、[[紙幣|銀行券]]の発行を行うこともある。実際に行える業務内容・「銀行」の範囲は国により異なる。広義には[[中央銀行]]、[[特殊銀行]]などの[[政策金融機関]]、[[預貯金取扱金融機関]]などを含む。
== 法的形態 ==
日本の法令では、銀行とは、[[銀行法]]上の銀行([[普通銀行]])を意味し、外国銀行支店を含むときと含まないときがある。また、[[長期信用銀行]]は[[長期信用銀行法]]以外の法律の適用においては銀行とみなされる。[[日本銀行]]や[[特殊銀行]]、[[協同組織金融機関]]および[[株式会社商工組合中央金庫]]は含まない。普通銀行も長期信用銀行も、会社法に基づいて設立される[[株式会社 (日本)|株式会社]]形態である。
他方、米国においては、「銀行」(bank)には、国法銀行(national bank)と州法銀行(state bank)があり、それぞれ連邦および各州の銀行法に基づき設立される営利目的の法人(body corporate)である。[[連邦準備銀行]]、[[貯蓄貸付組合]](saving and loan association)や[[信用組合]](credit union)、産業融資会社(industrial loan company)、法定信託(Statutory Trust)などとは区別されるが、広義にはこれらを含む。
== 銀行の3大機能 ==
「金融仲介」「信用創造」「決済機能」の3つを総称して銀行の3大機能という{{要出典|date=2021年3月}}。これらの機能は銀行の主要業務である「預金」「融資」「[[為替]]」および銀行の信用によって実現されている。3大機能において、「金融仲介」と「信用創造」は各銀行が常に単独で行える業務である。ただし「決済機能」は、複数銀行間の決済が[[手形交換所]]というラウンドテーブルで機能しており、かつてその処理が煩雑を極めたことから現代とみに合理化し、国際決済は寡占産業となった<ref group=注釈>なお、日本国内では[[資金決済法]]が施行され、登録制の[[資金移動業者]]が[[電子マネー]]などを媒体に決済事業を展開している。</ref>。なお、原則として[[部分準備銀行制度|部分準備銀行]]でなければ、つまり[[ナローバンク]]は決済以外の機能を持つことができない。
*資金の貸し手と借り手の仲介をすることを「金融仲介」といい、銀行は預け入れられた資金(預金)を貸し出すことでこれを行っている(→「[[間接金融]]」)。これは資産変換の上成り立つサービスである<ref name="system">酒井良清 鹿野嘉昭 『金融システム』 有斐閣 2011年 銀行の機能</ref>。多くの債権者から短期・小口の資金を預かり、滞留資金を確保した上で、長期・大口の貸し出しをするのである。サービスの対価に考えられるのは、普通、低利子で預かって高利子で貸し付けるときの利ざやである。例外として、[[イスラム銀行]]は利率を事前に定めることなく、事業から利潤が得られてはじめて出資者にそれを還元する。この関係でイスラム銀行は銀証分離の沿革に登場しない。
*銀行から貸し出された資金はやがて再び銀行に預けられ、その預金は再度貸し出しに回される。これが繰り返されることで銀行全体の預金残高が漸増することを「[[信用創造]]」という。漸増分を派生的預金と呼ぶが<ref name="system" />、これは流通する[[預金通貨]]の大部分を占める。預金を払い戻すことができるようにする建前で、信用創造は[[支払準備率]]や[[バーゼル合意|バーゼル規制]]で制限される<ref group=注釈>実際のところ、バーゼル規制は銀行の機関化に作用した。</ref>。
*銀行の預金はまた、財・サービスの取引にかかわる支払いと受け取りにも利用される。A社がB社から100万円の商品を購入し、B社がA社から40万円のサービスを受けた場合、銀行の預金口座ではA社の口座からB社の口座へ差額60万円の移動が行われるだけである。この「決済機能」は、預金通貨の流動性・確実性・受領性の上に成り立っている<ref name="system" />。この点、日本では[[民法]]511条「その後に」の解釈において無制限説(第三債務者は、差押債務者に対して、差押え時に反対債権を有していれば、対抗できるとする)を判例とする。この意味で決済機能は司法に保護されている。
== 銀行の業務 ==
銀行の業務目的は、第一義的には、市場経済の根幹である通貨の発行である。ここにいう通貨は、中央銀行の発行する[[紙幣|銀行券]]などの[[現金|現金通貨]]に限らない。[[貨幣]]機能説によれば、通貨は通貨としての機能を果たすがゆえに通貨であり、交換手段であると同時に価値保蔵手段であり、[[ユニット・オブ・アカウント|価値尺度]]であるという機能をもつ。銀行の受け入れる預金は、まさにこうした通貨としての機能を果たすがゆえに経済社会において重要な預金通貨として流通している<ref group=注釈>またそれゆえに、政府当局としても、預金通貨の安定を経済政策の根幹においている。</ref>。
預金通貨は銀行の負債であるので、預金通貨の価値の安定のためには、銀行の資産が安定的な価値を有するものでなければならない。このため、[[金融庁]]をはじめとする銀行監督当局は、定期検査を通じて、銀行の資産は安全かという点をチェックする。また、銀行監督当局は風評被害が起きないよう監督している<ref>金融庁 [https://www.fsa.go.jp/common/law/guide/chusho/02c.html II -3-7-5 風評に関する危機管理体制] 中小・地域金融機関向けの総合的な監督指針 平成26年4月</ref><ref>金融庁 [https://www.fsa.go.jp/common/law/guide/city/03d2.html#03_08 III -8-5 風評に関する危機管理体制] 主要行等向けの総合的な監督指針 平成26年4月</ref>。
銀行業務を行うにあたっては、[[信用]]が重要な位置をしめる。そのため、経営が悪くなっても活動を続けることが出来る他の産業とは根本的に異なり、経営が悪くなれば信用がなくなり、[[取り付け騒ぎ]]に発展して破綻したり、批判を受けながら政府の救済を受けたりする。それ自体は預金保険制度、健全性規制、ベイルイン(株主・債権者負担)といった諸制度により防がれる<ref group=注釈>しかし、より直接に経営責任を問う制度は十分に整備されていない。</ref>。
: 「[[1907年恐慌#プジョー委員会|銀行の経営は信用があって成り立つか、融資する価値がないと判断されて成り立たなくなるかのどちらかだ]]」([[モルガン・スタンレー]]、ローレンス・マットキン)<ref>「ベアー買収の動揺、欧州に波及 破綻の危機にある金融機関はいくつあるのか」『日経ビジネスオンライン』日経BP社、2008年3月27日付配信</ref>より引用{{Refnest|group=注釈|1907年恐慌で[[ジョン・モルガン]]の放った台詞が参考になる。歴史理解は投資の成功に欠かせない<ref>''[[:en:CFA Institute|CFA Institute]] Magazine'', "[http://www.cfapubs.org/doi/pdf/10.2469/cfm.v26.n5.6 Should Financial History Matter to Investors?]", Sept/Oct 2015, p. 17.
:CFA([[Chartered Financial Analyst]])資格者の主要な就職先は、[[UBS]]・[[JPモルガン]]・[[シティグループ]]・[[モルガンスタンレー]]・[[ブラックロック]]である。ECF, "[http://news.efinancialcareers.com/us-en/189859/biggest-employers-cfa-charterholders-globally/ The biggest employers of CFA charterholders globally]", 10 November 2014</ref>。}}
銀行業務の技術的側面は[[銀行のオンラインシステム]]で成り立っている現状がある。
== 銀証分離 ==
{{main|銀証分離}}
=== 三極並行緩和の結果 ===
[[アメリカ合衆国]]や[[中華人民共和国]]、[[日本]]では銀行と[[証券会社]]との兼業を認めない<ref>{{Citation
| url=https://www.ft.com/content/ba857be6-f88f-11dd-aae8-000077b07658
| accessdate=2009年02月11日 | title=China to stick with US bonds
| place=paragraph 9 | journal=The Financial Times}}</ref>。このような政策を「'''銀証分離'''」という。アメリカでは1929年の[[世界恐慌]]をきっかけに[[グラス・スティーガル法]]が制定されてから銀行による証券業務が制限されている{{Refnest|group=注釈|かつてグラス・スティーガル法は、銀行業務と証券業務の間で分離を維持する中国のような米国圏外の金融システムに影響した<ref>{{Citation
| url=http://www.worldbank.org.cn/english/content/insinvnote.pdf
|format=PDF| title=Developing Institutional Investors in the People's Republic of China
| place=paragraph 24}}</ref><ref>{{Citation
| last=Langlois
| first=John D.
| journal=China Quarterly
| title=The WTO and China's Financial System
| doi=10.1017/S0009443901000341
| year=2001
| volume=167
| pages=610–629}}</ref>(金融商品取引法65条のモデルにもなった<ref name="laboratory" />)。2008年からの[[世界金融危機 (2007年-2010年)|金融危機]]の余波において、中国での投資銀行と商業銀行の分離を維持することに対する支持は、依然として根強い<ref>{{Citation
| url=https://www.ft.com/content/ba857be6-f88f-11dd-aae8-000077b07658
| accessdate=2009年02月11日 | title=China to stick with US bonds
| place=paragraph 9 | journal=The Financial Times}}</ref>。}}。同法制定の背景には、①銀行が証券業務も行っていたことが大恐慌の一因となった、②預金者の資金を運用している銀行による証券業務を制限することによって、預金者の保護を徹底する必要がある、③貸出業務と証券業務とは利益が相反する傾向がある、という見方があった<ref>黒田昌裕、玉置紀夫 『実学日本の銀行』 慶應義塾大学出版会 1996年 83頁</ref>。しかし[[第二次世界大戦後]]は銀行と証券会社が一体となったユニバーサル・バンクを主流とする欧州各国で[[ブレトンウッズ協定]]に対する不満が鬱積していった<ref group=注釈>ヨーロッパ諸国などでは銀行による証券業務が許容されている(ユニバーサル・バンキング)。たとえばドイツの場合、実質的には証券会社がない。この点、[[ドイツ銀行]]が世界級のマーチャント・バンクとして機能している。</ref>。彼らは[[ユーロカレンシー]]を利用した[[銀行間取引]]を活発化させ、[[機関投資家]]と共に[[ユーロ債]]市場を拡充した。その結果、日米欧三極同時並行で銀証分離が緩められていった。
銀証分離は[[独占]]を禁止する目的もあるが、同様の観点から銀行業と商業の分離(銀商分離)を行う国もある<ref>[[国立国会図書館]]調査および立法考査局 [https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8347714_po_02570205.pdf?contentNo=1 【フランス】 銀行業務の分離による銀行制度改革] 2013年11月</ref>。米国では[[投資銀行]]を除いて銀行業から商業への参入も商業から銀行業への参入もどちらも認められない(ノーウェイ規制)。欧米の企業統治は政策で機関投資家に委ねられている。日本では、商業から銀行業への参入は非金融事業会社による銀行子会社の保有という形で認められているが、銀行業から商業への参入(銀行やそのグループ企業による非金融事業)は[[持株会社]]としての[[ベンチャーキャピタル]]に限られる(ワンウェイ規制)。欧州では、自己資本に応じた投資制限の範囲内であれば、相互に参入が認められる(ツーウェイ規制)。[[ソシエテ・ジェネラル]]のような欧州銀行同盟の代表格や[[ベルギー国立銀行|ベルギー総合会社]]を例とする伝統である。
アメリカでは現在[[グラム・リーチ・ブライリー法]]によって役員兼任が許容されるなど、銀証分離は極度に緩和されている。この制度は、[[モーゲージ]]による信用創造を[[不動産担保証券|MBS]]販売で下支えするビジネスモデルを許したので、[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]を招来した。
そこで2011年にグラス・スティーガル法の再導入法案が両院に提出された。翌年7月4日[[フィナンシャル・タイムズ]]が分離を主張した。社説の背景は多様である。2012年5月10日に発表された[[JPモルガン]]の20億ドルにのぼる損失、[[バークレイズ]]の[[LIBOR]]金利操作、米上院調査会が2012年7月16日に報告した[[HSBC]]・[[ワコビア]]・[[シティバンク]]・[[第二合衆国銀行|リッグス銀行]]の[[資金洗浄]]、そして[[ロスチャイルド]]のリストラ方針が銀証分離と考えられていること。法案の採決は[[ウォールストリート]]の投資家に阻まれている。<ref>キャノングローバル戦略研究所 [http://www.canon-igs.org/column/pdf/120813_kotegawa.pdf 現在の経済危機について(8):最近の世界経済上の4事件とその影響] 2012/8/13</ref>
2018年3月29日、[[公正取引委員会]]は、[[ドイツ銀行]]と[[メリルリンチ]]が米ドル建て国際機関債の売買について受注調整したと認定、その行為が不当な取引制限にあたると発表した<ref>[[毎日新聞]]電子版 「公取委ドイツ銀行など独禁法違反認定 国際機関債売買で」 2018年3月29日</ref>。
=== 公社債からの緩和 ===
[[日本]]においては1948年、[[アメリカ対日協議会]]が発足して[[財閥解体]]の調整に乗り出し<ref>John G. Roberts, Mitsui: Three Centuries of Japanese Buisiness, Weatherhill, New York/Tokyo, 1973. pp.394-426. 安藤良雄 三井禮子監訳 ダイヤモンド社 1976年 pp.303-330.</ref>、また旧[[証券取引法]]が制定された。同法65条において銀行([[預貯金取扱金融機関]])が金融商品取引行為を業として行うことは、投資目的や信託契約に基づく場合などを除いて禁止されていた<ref name="laboratory" />。禁止規定は公共債に適用されないが、公共債を対象として銀行の営みうる業務範囲は旧銀行法で明文規定がなかった<ref name="laboratory"> 黒田巌編 『わが国の金融制度』 日本銀行金融研究所 1997年 P 19</ref>。それで公社債を[[メガバンク]]が窓口となって[[外債]]として発行した。これがユーロダラーとの接点となる。外債だけでは公社債の資金需要をまかないきれないので、昭和30年代は[[投資信託]]に保有させる作戦がとられた。1955年、[[大蔵省]]は証券19社に対して次のような資金調達を認めた。顧客に売った[[金融債]]を引き渡さずに有償で借用し(運用預かり)、これを担保として銀行などから資金を借り入れる行為である。[[インターバンク]]短期金融市場からの借り入れは利子のかさむ原因となった<ref group=注釈>当時の大蔵省による見解。</ref>。この行為は1998年7月現在禁止されている<ref>草野厚 『山一證券破綻と危機管理』 朝日新聞社 1998年7月 30頁</ref>。強引な大衆貯蓄の動員は[[証券不況]]を引き起こした。[[日本共同証券]]の設立過程で、銀行は証券業界へ人材を進出させるなどして事実的に支配した。旧財閥系の銀行がオーバーローンで生保と事業法人を系列化した(法人資本主義)。
[[日銀]]が特融に奔走していたころ、[[ニューヨーク州]]は陥落間近であった。1960年代初め、ニューヨーク州議会は公社債発行の根拠となる精神規定を採択した。州の住宅金融機関などは公共インフラのために公社債を発行しまくった。州の負債は十年で三倍となり、総額150億ドル以上となった。州の長期負債の2/3以上が州の全信用によっては保証されない人道債(Moral Obligation Bond)であり、その残高は全米で発行された無保証債券残高の1/4を占めた。<ref>[[ニューヨーク・タイムズ]] 1975年12月13日</ref>
[[株式の持ち合い]]が日本証券市場の拡大を妨げたので、グローバルな成長をとげた機関投資家が政治的圧力をかけてきた([[オフショア市場#東証のユーロ市場化|日米円・ドル委員会]])。1985年、[[住友銀行]]が買収したゴッタルト銀行(Gotthard-Bank)が、[[イトマン]]発行外債の主幹事をやるということで銀証分離は形骸化しだした。日英金融協議がそれに追い討ちをかけた。1990年12月には、銀行と信託、保険の相互参入を認める法案が可決された<ref>黒田昌裕、玉置紀夫 『実学日本の銀行』 慶應義塾大学出版会 1996年 107頁</ref>。そして1993年4月の金融制度改革関連法施行に伴い、銀行・信託・証券の相互参入が認められたことから実質的に銀証分離が撤廃された<ref name="laboratory" />。さらに[[金融ビッグバン]]により銀行等の投資信託の窓口販売の導入(1998年12月から解禁)が導入されるなどして<ref>[https://www.fsa.go.jp/p_mof/low/1f001.htm 大蔵省/金融システム改革法案について]</ref>、現在は[[登録金融機関]]ならば一定の証券業務を営めるようになっている。
== 銀行の起源 ==
=== 両替商 ===
英語の'''バンク'''(bank)という語は[[イタリア語]]の''banco''(机、ベンチ)に由来する。これは[[フィレンツェ]]の銀行家たちによって[[ルネサンス]]の時代に使われた言葉で、彼らは緑色の布で覆われた机の上で取引を行うのを常としていた。[[立脇和夫]]によれば、明治時代にバンク(bank)を銀行と訳したのは、[[中国語|英華辞典]]の記載に由来するとしたが<ref name="立脇">立脇和夫、「[https://hdl.handle.net/10069/26110 BANKの訳語と国立銀行条例について]」『経済学部研究年報』 1985年 1巻 p.1-20, {{hdl|10069/26110}}, 長崎大学経済学部</ref>、通説ではない。[[香港上海銀行]](滙豐銀行、[[1865年]]設立)などが創業当初から中国語名に'''銀行'''を使用している。'''行'''は漢語で店を意味し、また'''金'''ではなく'''銀'''であるのは当時東アジアでは[[銀]]が共通の価値として通用していたためである([[銀貨]]を参照)<ref>{{Cite book|和書|editor=山口佳紀|editor-link=山口佳紀|title = 暮らしのことば新語源辞典|year = 2008|publisher = 講談社|page = 293}}</ref>。日本で翻訳が確定したのは、日本銀行の説明によれば、国立銀行法(National Bank Act)におけるBankの訳出を銀行にすると定めたときであった。また、[[銀]]よりも[[金]]の方が価値が高いことから、この時「金行」とする案もあったが、語呂が良いから「銀行」とされたといわれる<ref>日本銀行ホームページ/[http://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/index.htm 教えて!にちぎん]/[http://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/j09.htm 銀行はなぜ「銀行」というのですか?]</ref>。
金融機能の起源としては[[両替商]]が古くからあり、[[フェニキア人]]による両替商が知られていた。古くは[[ハムラビ法典]]には商人の貸借についての規定が詳細に記述されており、また哲学者[[タレス]]のオリーブ搾油機の逸話などで知られるように、古代から高度な金融取引・契約はいくつも存在していたと考えられるが、一方で貨幣の取り扱いや貸借には宗教上の禁忌が存在している社会があり、例えばユダヤ教の神殿では神殿貨幣が使用され、信者は礼拝のさいにローマ皇帝の刻印がされた貨幣を神殿貨幣に両替し献納しなければならなかった。ユダヤ・キリスト・イスラム教では原則として利息を取る貸付は禁止されていたので、融資や貸借は原則として無利子([[売掛]]・[[買掛]])であった<ref group=注釈>ユダヤでは同宗以外への利付貸付は容認されていた</ref>。これらの社会においては交易上の利益は認められていたので実質上の利子は中間[[マージン]]に含まれていた。両替商が貨幣の両替において金額の数%で得る利益は手数料であった。
貸付・投資機能が高度に発達したのは中世イタリア、ヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェにおいてである。遠隔地交易が発達し、信用による売掛・買掛売買が発達し、有力商人が小口商人や船乗りの決済を代行することから荷為替あるいは小口融資が行われるようになった。中世イタリアの[[ジェノバ共和国]]の議会は、[[国債]]の元利支払のための税収を、投資家の組成する[[シンジケート]](Compera)に預けた。1164年には11人の投資家によって11年を期間としたシンジケートが設定されていた。このシンジケートを母体に設立された[[サン・ジョルジョ銀行]]はヨーロッパ最古の銀行とされている。[[ヴェネツィア共和国]]の議会は1262年、既存の債務を一つの基金に整理し、債務支払いのために特定の物品税を[[担保]]に年5%の金利を支払う事を約束したが、これは出資証券の形態を取り登記簿の所有[[私権|名義]]を書き換える事で出資証券の売買が可能なものであった。中世イタリアの都市国家ではそれぞれの都市の基金、すなわち本来の意味でのファンドが、債務支払の担保にあてられた税を管理した。
13世紀頃の北イタリアではキリスト教徒が消費者金融から一斉に撤退し始めるがその理由ははっきりしない。15世紀にはユダヤ教の[[ユダヤ人]]金融が隆盛を極めた。しかし15世紀後半には次第に衰退した。ユダヤ人が貧民に高利貸付をして苦しめていると[[フランチェスコ会]]の修道士が説教したので、都市国家[[ペルージャ]]は最初の公益質屋([[モンテ・ディ・ピエタ]] monte di pietà<ref>今も経営されている[[:en:Nacional Monte de Piedad]] は、[[メキシコシティ包囲戦]]で[[レオナルド・マルケス]]に金を押収されている。</ref>)を作り低利で貸付を始めた。それまで徴利禁止論を標榜していたキリスト教会は、[[第5ラテラン公会議]]で言い逃れをした。すなわちモンテの利子は正当であり、禁じられた徴利にあたらないとしたのである<ref>「中世イタリアのユダヤ人金融」大黒俊二(大阪市立大学大学院文学研究科 2004.3.9)[http://www.tufs.ac.jp/21coe/area/insatsu/pmg_workshop_040309_oguro.pdf][http://www.tufs.ac.jp/21coe/area/insatsu/han_02_insatsu_03.html モロッコのダーウード図書館との協定を締結、共同事業を立ち上げる] 東京外国語大学:「史資料ハブ地域文化研究拠点」</ref><ref>大黒俊二 「[https://hdl.handle.net/11094/921 欲嘘と貪欲 : 西欧中世の商業・商人観]」 博士論文 14401乙第08902号, 2004年、大阪大学、 {{naid|500000272119}}、P.105以降に詳しい。</ref>。
北イタリアからバルト海にかけ、商人の経済活動が高度化してゆくなかで次第に金融に特化する商人が登場しはじめる。商業銀行と[[商社]]は業態的につながりが深いといわれている。[[シティ・オブ・ロンドン]]にはマーチャント・バンク([[:en:Merchant bank|Merchant bank]])の伝統があり、これは交易商人たちが次第に金融に特化していったものである。日本の総合商社はマーチャントバンクに大変類似しているとも言われる<ref>{{Cite journal|和書 |author=山本利久 |title=マーチャント・バンク |journal=新潟産業大学経済学部紀要 |issn=13411551 |publisher=新潟産業大学東アジア経済文化研究所 |year=2005 |month=jun |issue=29 |pages=89-110 |naid=40007090299 |url=https://www.nsu.ac.jp/wp-content/uploads/2017/01/29-5yamamoto.pdf |format=PDF}}</ref>。現在のような形態の銀行が誕生したのは、中世末期のイギリスにおいてである。
日本でも[[江戸時代]]には[[両替商]]があり、また大商人による[[大名貸し]]など融資業や決済代行業務を請け負った。初の商業銀行は、明治維新後に誕生した[[第一銀行|第一国立銀行]]([[第一勧業銀行]]を経て、現在の[[みずほ銀行]])となっている。
=== ゴールドスミス ===
イギリスの場合、1650年代には個人銀行の業務がロンドンの商人たちにすでに受け入れられており、満期為替手形の決済に関連した貨幣取り扱い業務の記録が見られるという<ref>{{Cite journal|和書 |author=北野友士 |title=銀行業の発展と銀行自己資本の意義 : イギリスを事例として |journal=経営研究 |issn=0451-5986 |publisher=大阪市立大学経営学会 |year=2007 |month=nov |volume=58 |issue=3 |pages=55-73 |naid=110006535007 |url=https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_KJ00004809583}}</ref>。彼らの主要な決済手段は[[金]](ゴールド)であった。[[貨幣経済]]の興隆に伴い商業取引が増大し、多額の金を抱える者が出てきた。金を手元に抱え込むリスクを懸念した金所有者は、[[ロンドン]]でも一番頑丈な[[金庫]]を持つとされた金細工商[[金細工職人|ゴールドスミス]]に金を預けることにした。
ゴールドスミスは金を預かる際に、預り証を金所有者に渡した(「金匠手形」)。これは[[正貨]]の預金[[証書]]であったから、紙幣でありながら交換価値を持つことが出来た。そこで所有者はキリのいい単位で金を預け、その預り証をそのまま取引に用いる([[債権譲渡]]する)ことがあった。これは決済業務の起こりとなった。
しばらくして、ゴールドスミスは自分に預けられている金が常に一定量を下回らないことに気付いた。先のように預かり証が決済に用いられるだけ一定量が引き出されずに滞留したのである。ゴールドスミスは、この滞留資金を貸し出しても預金支払い不能にならない(破たんしない)と考えて運用するようになった。
こうして貸し出した金は再び預けられたり、預けさせられたりした。ここで派生的預金を生じた。このうち滞留の見込まれる割合が再び貸し出しに回された。そして派生的預金の再貸し出しはくりかえされた。このようにして発行され続けた預り証の総額は、金庫に保管された正貨の総額と比べて桁違いに多くなった。これは信用創造であった。[[通貨供給量]]を増加させて貨幣経済の成長を促した。信用創造は現代の金融機関が行っても景気を刺激する。ただし、現代の派生的預金が預金口座のデータであるのに対し、当時の派生的預金は紙幣であった。
やがてイギリス全土に同業者が現れ、とくにドイツやオランダから商人たちが流入し決済業務を開始することがイギリスのマーチャントバンクすなわち商業銀行の母体となった。当初はそれぞれが国王から独自に特許を取り預り証を発行していた。市場には多種多様な紙幣が流通していた。フランス革命前後および19世紀初頭にかけて、紙幣の多様性は金融システムをしばしば混乱させた。また、金融業者が結託して敵対する金融機関の預り証(銀行券)を蒐集し、これを一度に持ち込み正貨の払い戻しを要求して破たんさせるという手口がよく行われた。そこで[[1844年]]の[[ピール銀行条例|ピール条例]](当時の日本における呼称は英蘭銀行条例)により、[[イングランド銀行]](イギリスの[[中央銀行]]、'''英蘭銀行''')以外での銀行券の発行が禁止された。中央銀行以外は商売替えを迫られて、預り証を金融仲介する[[貯蓄銀行]]あるいは[[商業銀行]]として発展した。[[w:Bank_of_England_Act|ピール条例の改正]]については日本の[[官報]]にも報じられた{{sfn|官報|1890|p=312}}。
中央銀行に管理され、今や現金となった預り証の交換価値を保証しているのは、資産を預かる側の払い戻し能力であり、つまり中央銀行の保有する正貨や有価証券である。このような現金通貨は、時に政府による紙幣濫発や中央銀行による国債大量引き受けなどが原因して著しく交換価値を失った([[インフレーション]])。一方の貯蓄銀行と商業銀行では、現金通貨量に対して預金通貨量の上回る金額が信用創造で増すにつれて、銀行は預金引き出しに備えるようになった。これは時として[[信用収縮]]へ発展した。信用収縮のときに経済活動は低調となり、[[金融危機]]へつながることもあった。さらに[[19世紀]]から[[20世紀]]初めまでは、金融危機に端を発する[[恐慌]]が頻発した(1927年の[[日本]]における[[昭和金融恐慌]]など)。[[第二次世界大戦|第二次大戦]]以降は[[ケインズ政策]]の採用などもあり、先進資本主義国は恐慌を克服したとされていたが、近年の[[リーマン・ショック]]を端緒とする[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]などが恐慌と表現されることもある。{{see also|金本位制|管理通貨制度}}<!--出典には具体的な史料が望まれる-->
== 銀行の不祥事 ==
第二次世界大戦後の世界において、銀行の不祥事は摘発されても各行の責任として処理されることが一般的であった。2003年秋に複数行による[[ミューチュアル・ファンド]]の不正取引が見つかったものの、規制に対する影響は限定的であった。世界金融危機が起こってからは色々な角度から金融業の実態が調べられたので、不祥事における銀行同士の関係が当局や市場関係者に露見していった。すでに書いた[[LIBOR]]の不正操作は特にバークレイズだけが行ったものではなく、むしろ制裁金は[[ドイツ銀行]]などのユニバーサルバンクが支払った。この事件と並行して、外為相場の不正操作も国際問題となった([[:en:Forex scandal|Forex scandal]])。主犯格(Richard Usher, Rohan Ramchandani, Matt Gardiner)のうち二人がイングランド銀行の要人であった。これについて[[シティグループ]]など少なくとも15行が捜査を受けた。別件だが同時期に、[[バンク・オブ・ニューヨーク・メロン]]も外為相場を不正操作した疑いで証券取引委員会の捜査を受けている。2018年11月、[[ブラックロック]]や[[パシフィック・インベストメント・マネジメント]]、[[ノルウェー中央銀行]]など16の機関投資家が、シティグループ、[[クレディ・スイス]]、バークレイズ、[[BNPパリバ]]、ドイツ銀行、[[ゴールドマン・サックス]]、[[三菱UFJフィナンシャル・グループ]]、[[ロイヤル・バンク・オブ・カナダ]]、HSBC、JPモルガン・チェース、[[モルガン・スタンレー]]、[[ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド]]、[[ソジェン]]、[[スタンダード・チャータード銀行]]、[[UBS]]を外為指標(クロージング・スポット・レート)不正操作の疑いで訴えた<ref>朝日新聞 [https://web.archive.org/web/20190105042955/http://www.asahi.com/business/reuters/CRBKCN1ND0BV.html 大手機関投資家が16金融機関を提訴、外為指標の不正操作巡り] 2018年11月8日</ref><ref>Reuters, [https://www.reuters.com/article/uk-forex-lawsuit/big-investors-sue-16-banks-in-u-s-over-currency-market-rigging-idUSKCN1NC34J Big investors sue 16 banks in U.S. over currency market rigging], November 8, 2018</ref>。同年、欧州では552億ユーロにものぼる脱税も指摘されている<ref>European Union Anti-Corruption, [https://euanticorruption.com/2018/10/22/eu-banks-guilty-of-huge-tax-fraud/ EU banks guilty of huge tax fraud], October 22, 2018</ref>。
日本では、[[2023年]]頃、[[千葉銀行]]など数行が、[[仕組み債]]といった元本保証のない金融商品を顧客に売りつけて損をださせたとして、[[金融庁]]から行政処分をうけている。
ほかにも、[[外貨預金]]、外貨建て[[生命保険]]、[[投資信託]]ほか元本割れもある商品を積極的に勧誘、販売しトラブルが多発している。
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=官報|authorlink=官報| translator=| title=[https://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E8%8B%B1%E8%98%AD%E9%8A%80%E8%A1%8C%E3%80%80%E5%AE%98%E5%A0%B1&viewRestricted=0&viewRestricted=2&viewRestricted=3 英蘭銀行公定歩合]、他| page=| publisher=[[印刷局|大蔵省印刷局]]| location =| year=1890| isbn=| ref=harv}}
* エドウィン・グリーン 『図説銀行の歴史』 原書房 1994年
* Fair Finance Guide International『Transparency & Accountability in the Financial Sector』<ref>[http://fairfinanceguide.org/ Fair Finance Guide International | Fair Finance Guide International]</ref><ref>[http://fairfinance.jp/ Home | Fair Finance Guide Japan]</ref>
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[銀行の一覧]]
* [[日本の銀行一覧]]
* [[国立銀行]]
* [[世界銀行]]
* [[国際決済銀行]]
* [[イスラム銀行]]
* [[スイス銀行]]
* [[銀行持株会社]]
* [[信用事業]] - [[農協]]・[[漁業協同組合|漁協]]等における[[貯金]]・[[貸付け]]などに関する事業のこと
== 外部リンク ==
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* [https://www.zenginkyo.or.jp/ 全国銀行協会]
* {{Kotobank}}
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3,900 | ATM | ATM, atm, A.T.M. | [
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] | ATM, atm, A.T.M. 圧力の単位記号(atm)。海面での大気圧を1単位とした。気圧の単位・標準気圧を参照。
銀行や郵便局の現金自動預け払い機の通称。ステーションATM、コンビニATMなどもある。
上記から転じて、お金をいくらでも出してくれる配偶者や恋人を表すネットスラング。
非同期転送モードの略称。通信におけるデータリンクプロトコルのひとつ。ATMセルネットワークのことも指す。
アドビが開発・販売しているDTPにおけるフォント管理ユーティリティ・Adobe Type Managerのこと。ATMフォントを意味する場合もある。
対戦車ミサイルの略称。
航空交通管理。福岡市に航空交通管理センターという同業務を司る施設が存在する。
オプション取引において、オプション行使価格と商品価格が一致している状態の略称。
交替性チューリング機械
ミラノの市バスや地下鉄を運営する会社アジエンダ・トラスポルティ・ミラネージの略。
水戸芸術館の愛称「アートタワーミト」。
アクション・セミコンダクターによって開発された半導体のブランド名称 (ATMxxxx)。
A2Mの略。
ATM (2012年の映画)
ATM (タンパク質) - DNAの二本鎖切断によってリクルートされて活性化されるセリン/スレオニンキナーゼ。
Air traffic management (ATM) | '''ATM''', '''atm''', '''A.T.M.'''
{{混同|KTM}}
* [[圧力]]の単位記号({{en|atm}})。海面での大気圧を1単位とした。[[気圧#単位としての気圧|気圧の単位]]・[[標準気圧]]を参照。
* 銀行や郵便局の[[現金自動預け払い機]]の[[通称]]({{en|Automated / '''A'''utomatic '''T'''eller '''M'''achine}}:自動出納機の略称)。[[ステーションATM]]、[[コンビニATM]]などもある。
**上記から転じて、お金をいくらでも出してくれる[[配偶者]]や[[恋人]]を表す[[ネットスラング]]。
* [[Asynchronous Transfer Mode|非同期転送モード]]({{en|'''A'''synchronous '''T'''ransfer '''M'''ode}})の略称。通信におけるデータリンクプロトコルのひとつ。ATMセルネットワークのことも指す。
* [[アドビ]]が開発・販売している[[DTP]]における[[フォント]]管理ユーティリティ・[[Adobe Type Manager|'''A'''dobe '''T'''ype '''M'''anager]]のこと。ATMフォントを意味する場合もある。
* [[対戦車ミサイル]]({{en|'''A'''nti '''T'''ank '''M'''issile}})の略称。
* {{仮リンク|航空交通管理|en|Air traffic management}}({{en|'''A'''ir '''T'''raffic '''M'''anagement}})。福岡市に[[航空交通管理センター]]という同業務を司る施設が存在する。
* [[オプション取引]]において、オプション行使価格と商品価格が一致している状態({{en|'''A'''t '''T'''he '''M'''oney}})の略称。
* [[交替性チューリング機械]]({{en|'''A'''lternating '''T'''uring '''M'''achine}})
* [[ミラノ]]の市バスや地下鉄を運営する会社{{仮リンク|アジエンダ・トラスポルティ・ミラネージ|en|Azienda Trasporti Milanesi}}({{en|'''A'''zienda '''T'''rasporti '''M'''ilanesi}})の略。
* [[水戸芸術館]]の愛称「アートタワーミト」({{en|'''A'''rt '''T'''ower '''M'''ito}})。
* [[アクション・セミコンダクター]]によって開発された半導体のブランド名称 ({{en|ATMxxxx}})。
* {{仮リンク|A2M|en|Ass to mouth}}({{en|'''A'''ss '''T'''o '''M'''outh}})の略。
* [[ATM (2012年の映画)]]
* [[ATM (タンパク質)]] - [[デオキシリボ核酸|DNA]]の二本鎖切断によってリクルートされて活性化される[[セリン・スレオニンキナーゼ|セリン/スレオニンキナーゼ]]('''a'''taxia '''t'''elangiectasia '''m'''utated)。
* [[エア・トラフィック・マネジメント|Air traffic management (ATM)]]
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3,902 | 金融 | 金融(きんゆう)または、ファイナンス(英: finance)は、お金、通貨、資本資産にかかる実践と取組み。経済と関連するが、経済はお金、資産、商品・サービスにおける生産、分配、消費の実践であり、同義ではない(金融経済の実践は、この両領域を繋げる取組みである)。金融活動は様々な領域の金融システムで行われ、大きく個人、企業、公共における金融に分類することができる。
一般に、資金余剰者から資金不足者へ資金を融通することをいう。しかし、歴史に残る金融は合理化の手段である。したがって合理的に解釈すれば、ここにいう「不足」とは絶対量のそれではなく、単純に資金需要を指すことになる。
様々な経済主体が活動を行う際、常に資金が不足する者と資金が余剰する者とが生じる。金融は、その両者を結び、資金が必要とされるところへ配分させる機能をもち、これにより両者には金銭上の債権債務関係が生じる。
金融活動は、資金の「調達」・「配分」・「投資・融資」の3区分として捉えられている。
1国内の政府・企業・金融機関・非営利団体などの組織から個人に至るまで、あるいは国境を越えて異なる通貨単位間で為替を通じて国外の諸経済主体との間で、さまざまな経済主体が資金を調達し使用することによって生じる、経済の資金流通全体のことを指して「広義の金融」と呼ぶ。総称して「金融システム」と呼ばれることもある。また、空間上の資金の流れを指す「為替」に対する概念として、時間上の資金の流れを指して「金融」と称される場合もある。
いわゆる「広義の金融」ないし「金融システム」には、政府や自治体の財政、企業活動から個人の家計まで、1国内はもとより複数国の経済主体間において金融の一部として含まれるため、「金融は経済の動脈」「金融は経済の血液」などと称されるほど、経済の安定・発展に欠かせない重要なものと捉えられている。
このため、各国とも、金融に関する諸法律による裏付がなされたり、行政の金融部門(金融行政)による金融活動への管理・監督がなされるのが普通である。
多くの政府や行政機関は「広義の金融」ないし「金融システム」の安定化を目して、適宜金融政策を発動するのが普通だが、後述の金融ビッグバン以降には特に金融のグローバル化が進み、複数国が協調して金融政策を行うケースが少なからず見られるようになった。 また、現在ではこの「広義の金融」の規模・グローバル化は非常に大きくなっており、1国の財政危機による国債信用度低下あるいは1国の大手投資銀行の破綻などが世界中の金融情勢を悪化させ、遠い他国の中小企業が被融資資金を引き上げられたり個人金融にまで影響を及ぼすなどの例が見られるほどになっている。
事業として金融を行っている組織などの活動については狭義の金融とされるが、一般的に「金融」と言えば、この狭義の金融を指すことが多い。
業として金融を行っている、いわゆる金融業(きんゆうぎょう)には、銀行・保険・証券会社・投資銀行・リース・信販会社・貸金業などがあり、これらを総称として金融機関と呼ぶ。これらは、自身で業務を行うほか仲介・助言を行う業態も存在する。日本においては、業として金融を行う際には金融庁や都道府県知事など行政による認可および監督を受けねばならない。
金融機関(金融法人)は営利団体であるから、利益を目的として営業を行っている。資金を拠出した側の利益は金利、配当が代表的である。投資の形態としては、株式・不動産・企業価値のキャピタル・ゲインなどの利益がある。また、金融を仲介した者は、利ざやとして手数料などの役務益を得る。
金融機関にとっての借手の「資金不足」とは、単に経営状態が悪化したためではなく、投資活動の結果起きる資金需要を指すことがほとんどである。これは、融通された資金は何らかの形で貸し手へ利益をもたらすことが前提とされるためであり、利益を度外視した特別な救済を行う場合や、企業再生させて転売することによる利益を見込める場合を除いては、真に経済状態が悪化した経済主体に対して、純粋に新規に資金を融通する金融機関はない。
形態(貸手と借手の関係)により、おおまかに2つに区分される。
貸手と借手が直接に出資契約を結び、資金を融通する形態のことを直接金融と呼ぶ。
貸手と借手の直接の出資契約がなく、間接的に貸手と借手の関係が発生する形態のことを間接金融と呼ぶ。
たとえば、銀行などに定期預金(金銭消費寄託契約)をする者は、その預金に対する利子収入を目的として預金しており、また保険に加入して保険料を支払う者は、その万一の時に保障を受ける対価として保険料を支払っている。しかし、定期預金が満期になるまでの間や、保険事故が発生するまでの間(「無事」に保険事故が発生しない人も多い)までには相当な時間差があり、銀行や保険会社はこの間を利用して資金の運用(融資や投資など)行うため、その運用先の借手(貸付先や投資先)に対して、預金者や保険加入者は間接的に貸手として融通していることとなる。銀行と消費貸借を結びローンを組んだ者は、あくまで銀行から融資を受けたという実感が強いが、その資金の裏付けは、あくまで預金者から金銭消費寄託契約に基づいて集められた預金であり、銀行ローンを組んだ者は、間接的に預金者から融通してもらっていることとなる。
資金の調達手段によって、以下のように分類される。
家計にまつわる金融について論じる領域で以下のようなものがあげられる。日本では預金と保険によることが多かったが、近年、「貯蓄から投資へ」との小泉純一郎の方針やフィナンシャル・プランナーの資格取得者が広まり、実践分野での議論や活動が活発化している。
個人の金融行動は教育投資、不動産や自動車など高額な生活必需品の購入、保険商品の購入、証券投資、退職後の生活資金のための資産形成などである。なお、金融行動には結果としての借入金の返済が含まれる。
企業金融は、企業が経済活動を行う上で必要となる資金をまかなう金融について論じる領域である。大企業だけではなく、CDOなどを通じた中小企業の金融についても論じられる。一般的にリスクの最小化とリターンの最大化を定量的に明示しつつ行うものである。
与信とは取引先や顧客に対して、財やサービスを提供する際に即時決済せず後日まとめて支払いを受けることを認めることを言う。
1980年代、イギリスではサッチャーにより、ビッグバンと呼ばれる大規模な規制緩和が行われた。これにより、シティ・オブ・ロンドンには外資系金融機関が進出。イギリスの金融機関は厳しい競争に見舞われることとなった。買収・合併によりイギリスの金融機関はきわめて少数となり、シティは外国勢による取引所と化した(ウィンブルドン現象)。
日本では、1996年に橋本龍太郎首相の指示により、日本の金融市場を2001年までにニューヨーク、ロンドンとならぶ国際金融市場として再生させるための金融システム改革が行われた。これを、日本版金融ビッグバンと呼び、フリー、フェア、グローバルの3原則が採用された。
この改革により、日本の金融市場は急速にオープンで競争的になり、いまや証券仲介手数料などは世界で最も低コストのクラスになっている。
金融を研究対象とする経済学の分野を金融経済学と言う。資金(貨幣)の概念、時間の概念、リスクの考え方やそれらの相互関係を解明するものである。資産価格理論とコーポレート・ファイナンスが金融経済学の2大領域とされる。
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"text": "日本では、1996年に橋本龍太郎首相の指示により、日本の金融市場を2001年までにニューヨーク、ロンドンとならぶ国際金融市場として再生させるための金融システム改革が行われた。これを、日本版金融ビッグバンと呼び、フリー、フェア、グローバルの3原則が採用された。",
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] | 金融(きんゆう)または、ファイナンスは、お金、通貨、資本資産にかかる実践と取組み。経済と関連するが、経済はお金、資産、商品・サービスにおける生産、分配、消費の実践であり、同義ではない(金融経済の実践は、この両領域を繋げる取組みである)。金融活動は様々な領域の金融システムで行われ、大きく個人、企業、公共における金融に分類することができる。 一般に、資金余剰者から資金不足者へ資金を融通することをいう。しかし、歴史に残る金融は合理化の手段である。したがって合理的に解釈すれば、ここにいう「不足」とは絶対量のそれではなく、単純に資金需要を指すことになる。 | {{出典の明記|date=2021年2月}}
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'''金融'''(きんゆう)または、'''ファイナンス'''({{lang-en-short|finance}})は、[[お金]]、[[通貨]]、[[:en:Capital_asset|資本資産]]にかかる実践と取組み。[[経済]]と関連するが、経済はお金、資産、商品・サービスにおける[[生産]]、[[分配]]、[[消費]]の実践であり、同義ではない(金融経済の実践は、この両領域を繋げる取組みである)。金融活動は様々な領域の金融システムで行われ、大きく個人、企業、公共における金融に分類することができる。
一般に、資金余剰者から資金不足者へ資金を融通することをいう。しかし、歴史に残る金融は合理化の手段である。したがって合理的に解釈すれば、ここにいう「不足」とは絶対量のそれではなく、単純に資金需要を指すことになる。{{要出典|date=2021年2月}}
{{TOC limit}}
== 意義と区分 ==
様々な[[経済]]主体が活動を行う際、常に資金が不足する者と資金が余剰する者とが生じる。金融は、その両者を結び、資金が必要とされるところへ配分させる機能をもち、これにより両者には金銭上の[[債権]][[債務]]関係が生じる。
金融活動は、資金の「調達」・「配分」・「[[投資]]・[[融資]]」の3区分として捉えられている。
=== 広義の金融 ===
1国内の[[政府]]・[[企業]]・[[金融機関]]・[[非営利団体]]などの[[組織 (社会科学)|組織]]から[[個人]]に至るまで、あるいは国境を越えて異なる通貨単位間で[[為替]]を通じて国外の諸経済主体との間で、さまざまな経済主体が資金を調達し使用することによって生じる、[[経済]]の資金流通全体のことを指して「'''広義の金融'''」と呼ぶ。総称して「'''金融システム'''」と呼ばれることもある。また、空間上の資金の流れを指す「為替」に対する概念として、時間上の資金の流れを指して「金融」と称される場合もある。
いわゆる「広義の金融」ないし「金融システム」には、政府や自治体の[[財政]]、企業活動から個人の[[家計]]まで、1国内はもとより複数国の経済主体間において金融の一部として含まれるため、「金融は経済の動脈」「金融は経済の血液」などと称されるほど、経済の安定・発展に欠かせない重要なものと捉えられている。
このため、各国とも、金融に関する諸[[法律]]による裏付がなされたり、[[行政]]の金融部門('''金融行政''')による金融活動への[[管理]]・[[監督]]がなされるのが普通である。
多くの政府や行政機関は「広義の金融」ないし「金融システム」の安定化を目して、適宜[[金融政策]]を発動するのが普通だが、後述の[[金融ビッグバン]]以降には特に金融のグローバル化が進み、複数国が協調して金融政策を行うケースが少なからず見られるようになった。
また、現在ではこの「広義の金融」の規模・グローバル化は非常に大きくなっており、1国の財政危機による国債信用度低下あるいは1国の大手投資銀行の破綻などが世界中の金融情勢を悪化させ、遠い他国の中小企業が被融資資金を引き上げられたり個人金融にまで影響を及ぼすなどの例が見られるほどになっている。
=== 狭義の金融(業としての金融) ===
事業として金融を行っている組織などの活動については'''狭義の金融'''とされるが、一般的に「金融」と言えば、この狭義の金融を指すことが多い。
業として金融を行っている、いわゆる'''金融業'''(きんゆうぎょう)には、[[銀行]]・[[保険]]・[[証券会社]]・[[投資銀行]]・[[リース]]・[[信販会社]]・[[貸金業]]などがあり、これらを総称として[[金融機関]]と呼ぶ。これらは、自身で業務を行うほか仲介・助言を行う業態も存在する。日本においては、業として金融を行う際には[[金融庁]]や[[都道府県知事]]など[[行政]]による[[認可]]および[[監督]]を受けねばならない。
金融機関(金融法人)は営利団体であるから、利益を目的として営業を行っている。資金を拠出した側の利益は金利、配当が代表的である。投資の形態としては、株式・不動産・企業価値の[[キャピタル・ゲイン]]などの利益がある。また、金融を仲介した者は、利ざやとして[[手数料]]などの役務益を得る。
金融機関にとっての借手の「資金不足」とは、単に経営状態が悪化したためではなく、投資活動の結果起きる資金需要を指すことがほとんどである。これは、融通された資金は何らかの形で貸し手へ利益をもたらすことが前提とされるためであり、利益を度外視した特別な救済を行う場合や、企業再生させて転売することによる利益を見込める場合を除いては、真に経済状態が悪化した経済主体に対して、純粋に新規に資金を融通する金融機関はない。
=== 金融の区分 ===
==== 形態による区分 ====
形態(貸手と借手の関係)により、おおまかに2つに区分される。
===== 直接金融 =====
貸手と借手が直接に出資契約を結び、資金を融通する形態のことを[[直接金融]]と呼ぶ。
* 直接金融の例
**[[株式]]の発行
**[[債券]]([[国債]]・[[地方債]]・[[社債]]・[[私募債]]など)の発行
**[[デリバティブ]]の取引(金融派生商品の取引)
**[[消費貸借|金銭消費貸借契約]]の締結
===== 間接金融 =====
{{関連記事|部分準備銀行制度}}
貸手と借手の直接の出資契約がなく、間接的に貸手と借手の関係が発生する形態のことを[[間接金融]]と呼ぶ。
たとえば、銀行などに定期預金(金銭消費寄託契約)をする者は、その預金に対する利子収入を目的として預金しており、また保険に加入して保険料を支払う者は、その万一の時に保障を受ける対価として保険料を支払っている。しかし、定期預金が満期になるまでの間や、保険事故が発生するまでの間(「無事」に保険事故が発生しない人も多い)までには相当な時間差があり、銀行や保険会社はこの間を利用して資金の運用(融資や投資など)行うため、その運用先の借手(貸付先や投資先)に対して、預金者や保険加入者は間接的に貸手として融通していることとなる。銀行と[[消費貸借]]を結びローンを組んだ者は、あくまで銀行から融資を受けたという実感が強いが、その資金の裏付けは、あくまで預金者から金銭消費寄託契約に基づいて集められた預金であり、銀行ローンを組んだ者は、間接的に預金者から融通してもらっていることとなる。
* 間接金融の例
**[[銀行]]借入
==== 調達手段による区分 ====
資金の調達手段によって、以下のように分類される。
*[[純資産|自己資本]]
**[[出資]]([[株式]]など)
*[[負債#「負債」と「他人資本」|他人資本]]
**[[融資]]([[銀行]]借入など)
**[[債券]]
== 領域 ==
=== 個人金融 ===
家計にまつわる金融について論じる領域で以下のようなものがあげられる。日本では[[預金]]と[[保険]]によることが多かったが、近年、「[[貯蓄]]から[[投資]]へ」との[[小泉純一郎]]の方針やフィナンシャル・プランナーの資格取得者が広まり、実践分野での議論や活動が活発化している。
* 将来のライフプランでいつ、どの程度の資金が必要で、必要資金をどのように調達するか
* その資金は貯金によるべきなのか、借り入れによるべきなのか
* ライフプランニング上、個人が安全資産として保有すべき資産の量はどの程度か、保険の適正購入レベルはどの程度か
* 家計における遺産相続のあるべき金額とはどの程度か
* 課税が家計の金融行動にどのような影響を及ぼすのか
* [[信用収縮]]が家計の資産形成や運用に与える影響
* 不透明な将来の経済環境における資産形成の方法
個人の金融行動は教育投資、不動産や自動車など高額な生活必需品の購入、保険商品の購入、証券投資、退職後の生活資金のための資産形成などである。なお、金融行動には結果としての借入金の返済が含まれる。
=== 企業金融 ===
{{Main|コーポレート・ファイナンス}}
企業金融は、企業が経済活動を行う上で必要となる資金をまかなう金融について論じる領域である。大企業だけではなく、CDOなどを通じた中小企業の金融についても論じられる。一般的にリスクの最小化とリターンの最大化を定量的に明示しつつ行うものである。
==== 資本調達 ====
===== 資本調達の手法 =====
* 超長期資本調達(最終弁済まで7年超)
** [[証券化]]
** [[匿名組合]]出資
** [[ベンチャーキャピタル]]
** [[私募債]](en:Debenture)
** [[セールス&リースバック]]
** [[プロジェクト・ファイナンス]]
* 中長期資本調達(最終弁済まで2年超7年以下)
** [[タームローン]]
** ファイナンスリース
** [[ハイヤーパーチェス]](en:Hire purchase)
** オペレーティングリース
* 短期資本調達(最終弁済まで2年以下)
** 当座貸越
** [[信用取引]]
** [[割賦]]
** [[ファクタリング]]
====== 資本市場からの調達 ======
* 長期資本調達
** [[株式]]
** [[新株予約権付社債]]
====== 金融市場からの調達 ======
* 金融市場からの短期資金調達
** [[オープンアカウントクレジット]]
** 当座貸越
** [[ショートタームローン]]
** コマーシャルペーパー(CP)
** 売掛債権等の証券化
===== 借入資本による調達 =====
* 負債による調達(主として社債)
** 償還社債
** [[永久債]]
** コマーシャルペーパー
** ハードコア債(高利の無期限コーラブルCP)
===== 株主資本による調達 =====
* 株主からの調達(純資産の部が増加する取引)
** [[優先株]]
** [[ハイブリッド債]]
** [[子会社業績連動株]]([[ソニー]]がかつて発行)
** [[種類株]]
===== 借入資本と株主資本の違い =====
* 借入資本
** リターンについて会社の業績変動の影響を受けない
** 経営参加権がない
** 会社倒産時に優先して弁済を受けられる
* 株主資本
** リターンについて会社の業績変動の影響を受ける
** 経営参加権がある
** 会社倒産時には最後に弁済を受ける
===== 固定資本と運転資本の違い =====
{{リンクのみの節|date=2013年11月30日 (土) 23:49 (UTC)}}
{{See|固定資本|運転資本}}
===== その他 =====
*[[クラウドファンディング]]
==== 短期金融資産の管理と運用 ====
===== 与信(売掛債権) =====
与信とは取引先や顧客に対して、財やサービスを提供する際に即時決済せず後日まとめて支払いを受けることを認めることを言う。
====== 与信取引のメリット ======
* より多くの取引先、顧客を獲得できる
* 後払いを認めることにより、多少高値でも取引が成立する
* 取引先、顧客に繰り返し利用してもらえることで[[のれん (会計)|のれん]]が発生する
* 取引先や顧客が先に財やサービスを取得でき、後日に支払いができるメリットを享受できる
* 農家でたとえると、種籾や農機具を先に購入して支払いを収穫後に行うようなことができる
* 農産品、工業製品の流通及びサービスを促進する
* 延払いは宣伝ツールとして利用が可能
* 売上高を増加させるように働く
====== 与信取引のデメリット ======
* 売掛債権の貸倒リスク
* 高額の金利手数料を負担させる可能性
* 消費者の支払能力を超えて購入させるリスク
* 必要運転資本が多くなる
* 自社の倒産リスクの増加
====== 与信の形式 ======
* 販売当事者による与信
** 通常の与信販売
** 割賦販売
** 為替手形の利用
** クレジットカードの利用
* 契約当事者の与信
* 小口債権の証券化、ファクタリング
====== 与信に影響を及ぼす要素 ======
* 企業の業態、業容
* 財政状態
* 製品の耐久性
* 生産から出荷までのリードタイム
* 業界の競合と主要な競争相手の信用状態
* 国の経済情勢
* 金融機関との関係
* 売上割引制度
* 債務者の業種と財政状態
====== 与信の回収 ======
* 延滞をチェックする
* 顧客リスト、得意先元帳の名寄せをする
* 通常のレシートに延滞についての注意書を添付する
* 請求書を送付する
* 一度の請求で入金がない場合、数回、請求を繰り返す
* 訴訟の可能性について警告する
====== 有効な与信管理のメリット ======
* 売上高を増加させる
* 債権の貸倒を減少させる
* 利益を増加させる
* 筋の良い顧客を増加させる
====== 取引信用度の情報筋 ======
* 信用取引上の照会先
* 銀行信用照会先
* クレジット代理店
* 地元商工会議所
* 雇用先(個人の場合)
* 信用状発行依頼書
====== 与信業務を行う部署の役割 ======
* 訴訟事務
* 決算書の作成に必要な債権残高の報告や貸倒引当金の見積もり等の手続き
* 与信設定のための方針と手続きの周知徹底
* 個別の与信限度額の設定
* 得意先元帳を管理し請求書を確実に送付する
* 綿密な調査を掛売先に対して行う
* すべての取引記録の管理
* 売掛金の入金を確実にチェックする
* 与信管理情報や改善情報を適時にマネジメントに報告する
== 歴史 ==
=== 金融ビッグバン ===
1980年代、[[イギリス]]では[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]により、[[ビッグバン (金融市場)|ビッグバン]]と呼ばれる大規模な規制緩和が行われた。これにより、[[シティ・オブ・ロンドン]]には外資系金融機関が進出。イギリスの金融機関は厳しい競争に見舞われることとなった。買収・合併によりイギリスの金融機関はきわめて少数となり、シティは外国勢による取引所と化した([[ウィンブルドン現象]])。
日本では、[[1996年]]に[[橋本龍太郎]]首相の指示により、日本の金融市場を[[2001年]]までに[[ニューヨーク]]、[[ロンドン]]とならぶ[[国際金融市場]]として再生させるための金融システム改革が行われた。これを、日本版'''[[金融ビッグバン]]'''と呼び、フリー、フェア、グローバルの3原則が採用された。
この改革により、日本の金融市場は急速にオープンで競争的になり、いまや証券仲介手数料などは世界で最も低コストのクラスになっている。
== 金融経済学 ==
{{Main|金融経済学}}
金融を研究対象とする[[経済学]]の分野を[[金融経済学]]と言う。資金(貨幣)の概念、時間の概念、リスクの考え方やそれらの相互関係を解明するものである。資産価格理論とコーポレート・ファイナンスが金融経済学の2大領域とされる。
金融経済学は、経済学、[[数学]]、[[工学]]にまたがる学際分野としても位置づけることもできる。数理的側面の強いものは[[数理ファイナンス]]と呼ばれ、工学的側面の強いものは[[金融工学]]と呼ばれる。
<!-- == 脚注 == -->
<!-- {{脚注ヘルプ}} -->
<!-- === 注釈 === -->
<!-- {{Reflist|group="注釈"}} -->
<!-- === 出典 === -->
<!-- {{Reflist|2}} -->
== 関連項目 ==
{{wiktionary}}
{{commons category}}
{{Collier's Poster|year=1921|Finance}}
{{Div col}}
*[[金融の用語一覧]]
*[[経済]]
*[[資本]]
*[[投資]]
*[[インベスター・リレーションズ|IR]]
*[[融資]]
*[[国際金融]]
*[[金融センター]]
*[[金融機関]]
*[[金融政策]]
*[[証券取引等監視委員会]]
*{{仮リンク|日本の金融システム|en|Japanese financial system}}
*[[金融経済学]] - [[数理ファイナンス]] - [[金融工学]]
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
*{{kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きんゆう}}
[[Category:金融|*]] | 2003-03-13T01:35:22Z | 2023-10-16T09:35:21Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%9E%8D |
3,903 | 市中銀行 | 市中銀行(しちゅうぎんこう)とは、経済学において用いられる用語で、中央銀行に対して、一般の預金者から金銭を預かり、事業者などに貸し出す銀行を指す。なお、市中銀行はcommercial bankと訳されるが、米国や中国などの銀行制度上の業態分類である商業銀行にもcommercial bankを使う。
一般にいう「銀行」のことで、市銀と略される。業務としては預金口座を主体にした振込、自動引き落としや、両替、融資等を行う。融資以外の窓口業務の大半はATMやインターネットで自動化され、手数料等も差別化されている。
全国キャッシュサービス(MICS)、BANCSなどのネットワークで全国の銀行が接続されているので、オンラインで瞬時に振込などの処理ができるようになった。 郵便局ATMと相互接続している銀行も多い。 | [
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] | 市中銀行(しちゅうぎんこう)とは、経済学において用いられる用語で、中央銀行に対して、一般の預金者から金銭を預かり、事業者などに貸し出す銀行を指す。なお、市中銀行はcommercial bankと訳されるが、米国や中国などの銀行制度上の業態分類である商業銀行にもcommercial bankを使う。 | {{Otheruses|経済学上の市中銀行|銀行制度上の商業銀行|商業銀行}}
{{銀行業}}
'''市中銀行'''(しちゅうぎんこう)とは、[[経済学]]において用いられる用語で、[[中央銀行]]に対して、一般の預金者から[[金銭]]を預かり、事業者などに貸し出す[[銀行]]を指す。なお、市中銀行は''commercial bank''と訳されるが<ref>{{Cite book|和書|title=ビジネス英語 The Word3000 |publisher=語研 |year=2004 |page=173 }}</ref>、[[アメリカ合衆国|米国]]や[[中華人民共和国|中国]]などの銀行制度上の業態分類である商業銀行にも''commercial bank''を使う<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fsa.go.jp/common/about/research/kaigaiseido.pdf|title=諸外国における金融制度の概要報告書(大和総研)|publisher=金融庁|accessdate=2021-09-10}}</ref>。
== 機能 ==
一般にいう「銀行」のことで、'''市銀'''と略される。業務としては預金口座を主体にした振込、自動引き落としや、両替、融資等を行う。融資以外の窓口業務の大半は[[現金自動預け払い機|ATM]]や[[インターネット]]で自動化され、手数料等も差別化されている。
全国キャッシュサービス([[MICS]])、[[BANCS]]などのネットワークで全国の銀行が接続されているので、オンラインで瞬時に振込などの処理ができるようになった。
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== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==関連項目==
*[[預貯金取扱金融機関]]
*[[普通銀行]]
*[[長期信用銀行]]
== 外部リンク ==
*[https://www.zenginkyo.or.jp/ 全国銀行協会]
*[https://www.chiginkyo.or.jp/ 全国地方銀行協会]
*[https://www.dainichiginkyo.or.jp/ 第二地方銀行協会]
{{プライベートエクイティ}}
[[Category:銀行|しちゆうきんこう]]
[[Category:日本の銀行|しちゆうきんこう]] | 2003-03-13T01:45:20Z | 2023-11-20T23:58:45Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E4%B8%AD%E9%8A%80%E8%A1%8C |
3,904 | 中央銀行 | 中央銀行(ちゅうおうぎんこう、英: Central bank)とは、国家や一定の地域の金融システムの中核となる機関である。通貨価値の安定化などの金融政策も司るために「通貨の番人」とも呼ばれる。中央銀行は、その国・地域で通貨として利用される銀行券を発行し(発券銀行)、また、市中銀行に対しては預金を受け入れるとともに「最後の貸し手」として資金を貸し出す(銀行の銀行)とともに、国の預金を受け入れることで政府の資金を管理する(政府の銀行)。銀行券を発行する中央銀行は、金融政策を通じた物価の安定に対して責任を負っている。中央銀行の政策の基本となるのは、マクロ経済学である。政策金利の決定など中央銀行の政策内容は、どの国も機密保持がされている。
現金・預貯金の量は、民間の経済主体の活動によって決まるため、中央銀行が直接マネーサプライの水準を決めることはできない。そのため、中央銀行はマネーサプライに影響を与えるために、マネタリーベースを利用する。中央銀行はマネタリーベースの操作によって、民間銀行の貨幣量の乗数効果を通じ経済全体のマネーサプライを操作する。
中央銀行は、ショックから国民の経済厚生を守るために行動する。中央銀行の金融政策が本来の効果を発揮するためには、その政策に対する「市場の信頼」を確保しなければならない。中央銀行の最適な金融政策を考える上で重要なのは「コミットメント」であり、中央銀行は金融政策の目標達成について力強い態度を示す必要がある。
世界最古の中央銀行は1668年に設立されたスウェーデンのリクスバンクであるとされる。1694年にはイギリスのイングランド銀行が設立された。イングランド銀行は対フランス戦のための資金調達目的で設立された王国政府の銀行であったが、19世紀初頭までは単なる大銀行の1つの位置付けであり、当時は特権認可された複数の銀行が独自の銀行券を発行していた。イギリスでは19世紀の初頭に金融恐慌が頻発し、多くの銀行が破綻して銀行券が無価値になる混乱が発生したため、1844年にイギリス首相ロバート・ピールの名を冠したピール銀行条例(正式名称:イングランド銀行設立特許状の修正法)が制定され、イングランド銀行以外の銀行による発行業務が禁止された。
これらの自然発生型の中央銀行に対して、1882年に設立された日本の日本銀行や1913年に設立されたアメリカ合衆国の連邦準備制度などは当初から物価の安定や通貨の発行業務を目的として設立されたものである。中央銀行の数は1900年には18行であった。その後、1920年代から急増し、1960年までに約50ヶ国に、1990年には160行を超える状況となった。
日本における唯一の中央銀行は日本銀行である。日本銀行法で定められている。
本土復帰前の沖縄ではアメリカの軍票であるB円や通貨である米ドルが流通したが、特殊銀行であった琉球銀行は通貨発行や金融機関の監督などの権限を有しており、中央銀行的な役割を持っていた(ただし、通貨発行権については一度も行使されることが無かった)。なお、これらの権限の多くは後に行政機関に権限移譲されたほか、最終的には復帰直前に普通銀行に転換した。
中央銀行は政府から独立しており、金融に関して独自の判断をするという位置づけを与えられている。政府から独立した存在であることが求められるのは、政府が通貨価値の保持を怠り、目先の諸問題に対応することを避けるためである。中央銀行は通常は一つの通貨に対して一つ存在する。中央銀行はこの通貨量を調整する権限を持つため大きな影響力を持つ。
1960年代に世界的に経済政策が行なわれるようになった。ケインズ政策においては財政政策として歳出を増大させるとクラウディングアウトが発生し、乗数効果に制約が掛かる。しかし、中央銀行が適切に量的金融緩和政策を行なえば、クラウディングアウトは発生せず、財政政策が最大の効果を発揮する。このポリシーミックスは供給力に未稼働の余剰部分がある場合は有効であるが、供給力が限界に達すればその政策効果は実質GDP増大ではなく物価上昇(インフレーション)の積極的な要因となる。
民主主義の政府は、物価の安定よりも完全雇用を志向する性質があるため、インフレが起きる可能性があっても財政政策の効果発現のため中央銀行へ金融緩和を求めることになる。もし、中央銀行に政府の要求を断る力が無ければ、最終的にインフレとそれに伴う資産の再分配(インフレリスク)及び潜在成長力を損なう可能性がある。このため、中央銀行は政府から独立する必要が有り、政府の要求如何に関わらず、通貨価値を保持することが求められる(通貨の番人)。
政府のインフレバイアスに対する中央銀行の独立性が低かったり、中央銀行がインフレ抑制に積極的でなかったりする国の通貨は信認され難い。
ドイツ(1990年の東西統一前は西ドイツ)の中央銀行だったブンデスバンクは過去のハイパーインフレへの反省から、通貨価値の保持を最優先としていた。ブンデスバンクの影響を強く受けている1998年設立の欧州中央銀行(ECB)も「物価の安定」が第一義的目的となっている。
一方、アメリカのFRBはその政策目標が「物価の安定」と「最大の雇用」となっている。これは、世界恐慌で25%とも言われる完全失業率を記録した経験からである。実際、1970年代中頃まではFRBはほぼ財政政策による高金利の火消し役となっており、1970年代における高インフレの原因を作っていた。このため、ブンデスバンクとFRBは金融政策の方向性について衝突することが多かった。
イングランド銀行は、1997年に独立性を獲得する。イングランド銀行の独立性は「金融政策の運用手段はイングランド銀行に任せる」というもので、政策の目標は実質的に政府が決めている。
日本銀行は、1997年6月18日に全部改正された日本銀行法で独立性と透明性の向上が図られ、第3条で「日本銀行の通貨及び金融の調節における自主性は、尊重されなければならない。」と定められた。
経済学者の松尾匡は「欧米では、保守系は中央銀行の独立性を重視する一方で、リベラル系は中央銀行の独立性を改めようとする傾向にある」と指摘している。
経済学者の植田和男は「中央銀行に対する外部からの圧力により、適切な政策運営がなされず、物価安定に失敗したケースも多い。その多くは戦争やその他の要因による大規模な財政ファイナンスのため、適切な引き締めができなかったケースである。こうした経験を踏まえ各国は、中央銀行の独立性を高めたり、物価目標(インフレターゲット)を明示的に定めたりし、政府が不適切な政策運営を中央銀行に強いることを阻止するためのしくみを導入していった」と指摘している。
エコノミストの小峰隆夫は「中央銀行の独立性は、政治的介入によるインフレ政策を防ぐためにある」と指摘している。
経済学者の田中秀臣は「どの国においても、政府と中央銀行はお互いに目的をもって協調し合わなければならない。それは当たり前過ぎて条文として書いていないくらい常識的な ことである」と述べている。
経済学者の原田泰は「物価安定の定義は、政府が決めるべきである」と指摘している。
経済学者のジョン・ブライアン・テイラーは、中央銀行の独立性について、金融政策のルールと対比させながら、中央銀行の独立性、特に金融政策の独立性が常に政府・議会から政治的圧力にさらされるため、金融政策のルールを導入すべきであると論じている。植田和男は「政府目標を明確にさせることは、将来の中央銀行の政策運営に関する不確実性を減らし、政策やショックに対する市場の反応を安定化させるため、金融政策の効果を強めるという好影響が期待できる」と指摘している。
経済学者のジョセフ・E・スティグリッツは、中央銀行の独立は不要であると主張している。
フリードリヒ・ハイエクは、現代の民主主義社会ではいかなる政府も通貨当局の独立性を保つことは出来ないとしている。
中央銀行の独立性が弊害を齎す(もたらす)場合がある。中央銀行が雇用よりもインフレ抑制を志向した場合、景気対策を実施する政府の意向に対立して、独立性を持つ中央銀行が金融引締めにまわることで財政政策の効果が相殺され、デフレーションが続き、失業率が高止まりすることや、それに伴う潜在成長力低下のリスクがある。
景気循環の責任を中央銀行だけが負うわけではなく、また自国の通貨価値の下落を避け、インフレ率を低く保つべきであるという立場を取ることは、中央銀行としては当然のことであるが、国際化された現代経済では、市場が予想していない時機での金利引き上げは景気萎縮効果よりも債券・株式市場や為替市場への影響が迅速かつ多大であり、債券価格の急落や為替の急上昇などが予期せぬ市場の混乱を招き、批判の対象とされることになる。2000年に、日本銀行は政府の反対を押し切りゼロ金利政策を解除し、市場に多大な混乱を招きデフレを加速させてしまった。
経済学者のミルトン・フリードマンは、連邦準備制度理事会(FRB)の議事録を丹念に調べ、著書『米国金融史』で「結果がよければそのことを自分の手柄とする一方、悪ければその責任から逃れようとすることは人間の常である」と記している。
経済学者のポール・クルーグマンは、「我々は中央銀行の独立性を擁護してきた。しかし、この独立した中央銀行が失敗による面目失墜を恐れるあまり、自国経済のためになることすら、やらない存在となっていることが不況の大きな原因になっている。国を問わず、根本的には組織に問題がある。(組織の人間が)自分の組織上の地位や組織そのものを守ろうとしている。中央銀行独立性への介入に関しては、躊躇すべきではない」と述べている。
ジョセフ・E・スティグリッツは「中央銀行に独立性があるかどうかが問題ではなく、重要なのは中央銀行のトップの資質だ。経済を成長させ、社会を安定させ、所得格差の是正に取り組むといった社会全体に貢献する目的を持つことが重要だ」「国民からかけ離れたところで、『中央銀行としての役目を果たしている』と言っているだけでは、説明責任を果たしたことにはならない。中央銀行は、究極的にはその国の国民に仕えている」と述べている。
ロイター通信のフェリックス・サーモンは「国際的な協調政策行動を取る際には、中央銀行は独立であってはならないし、一般に中銀の独立性が高いほど、政策効果も弱い。名目的な独立性は良いことだ」「純粋に独立していた最後の中央銀行家は、2つもの巨大なバブルを蒸して多くの点で国際金融危機の主犯であった(あまりにも自由放任であり過ぎ、金利を長く低い水準に留め置き過ぎた)アラン・グリーンスパンである。中央銀行の独立性は不幸なことに、もし同じ金融政策を大統領が実施させていたら却って得られなかったであろう信頼性を、彼に与えた」と述べている。
中央銀行の独立性がもたらした弊害の最悪の事例として、第一次世界大戦後のヴァイマル共和政のハイパーインフレーションが挙げられる。当時のドイツ国の中央銀行であるライヒスバンクは政府からの独立性は高く、総裁は第二帝政期を引き継いで終身制であり、宰相には任命権は有っても罷免権は無く、国会(ライヒスターク)は総裁人事に関与できなかった。
そのため、私企業の手形割引を濫発して通貨が大増発(いわゆる「パピエルマルク」)され、1兆倍のインフレーションが発生し、日常の経済活動遂行にも障害が発生した。政府はハイパーインフレーション抑制のため、当時のライヒスバンク総裁ルドルフ・ハーヴェンシュタイン(ドイツ語版)の罷免を考えたが、終身制に阻まれ実現できなかった。
1923年11月20日にルドルフ・ハーヴェンシュタインは急死するが、その1週間前に国内の土地を担保とする新通貨の発行に拠るインフレーションの収束を主張してきたダルムシュタット及び国家銀行(ドイツ語版)(Darmstädter und Nationalbank)頭取ホレス・グリーリー・ヒャルマル・シャハト(ドイツ民主党の結党メンバーでもあった)が、フリードリヒ・エーベルト大統領より新設された国家通貨委員(Reichswährungskommissar)に任命された。シャハトの協力に拠ってレンテン銀行(Deutsche Rentenbank )が設立され、国内の土地を担保とする新通貨レンテンマルクの発行により、インフレーションが収束した。シャハトは同年12月にライヒスバンク総裁に就任している。
ベン・バーナンキは「目標の独立性(goal independence)と手段の独立性(instrument independence)の違いは有用だ。中央銀行が自由に目標を設定できるという目標の独立性を民主主義社会で正当化することは困難である。しかし、中央銀行が干渉を受けずに適切な金融政策を実施できるような手段の独立性は、経済安定のために極めて重要だ」とし、独立性について手段の独立性だけを指している。
経済学者のジョン・ブライアン・テイラーはアメリカの事例を通して「過去半世紀におけるマクロ経済のパフォーマンスの変化はルールに基づく金融政策の遵守の変化及び金融政策の事実上の独立性の変化と密接に関連していた。しかし、法律上の中央銀行の独立性の変化とはあまり関連が見られなかった。形式上のFRBの独立はルールに基づいた枠組みが存在しない状況下において金融政策の良い結果に結び付かないようである」との旨を述べている。
経済学者の浜田宏一は「中央銀行の独立性とは、政策手段を自由に選べるという意味。国民経済全体に影響を与えるような政策目標まで決めることを意味しているわけではない」と述べている。
経済学者の高橋洋一は「中央銀行の独立性については、中央銀行は政府と目標を共有するが、その達成手段は中央銀行に任せ、政府が口出ししないとなっているのが世界標準である」と述べている。
エコノミストの飯塚尚己は、「金融政策の目標は、選挙によって国民の信を得た議会の場で決めるというのがグローバル・スタンダードである。中央銀行の独立性とは、金融政策の手段に関する独立性であり、金融政策の目標は政府が決めるというのが基本」と述べている。
経済学者の伊藤元重は「政府が中央銀行の行動にしばしば口を挟めば、中央銀行の独立性は失われる。ただ、ターゲットの設定については中央銀行の独立性はない。政府がそれに関与する。しかし、いったんターゲットを設定した後の金融政策の運営については、政府は口を挟まない。ターゲットを実現することを求めるだけである。それなら中央銀行の独立性は失われない」と指摘している。
日本銀行副総裁である若田部昌澄は「日本では、中央銀行の独立性について大きな誤解がある。民主制の下では、政策担当者は国民に対して政策の説明と結果責任を負っている。中央銀行も例外ではない。この制度設計の欠陥は、国家のガバナンスの観点からすれば深刻である。さもなければ日本銀行はかつての関東軍のようになりかねない」と指摘している。
田中秀臣は「日本銀行は、法律上、政府とは独立した機関である。当然、民主主義の統制下に入っているわけである。国民や政府に対して何も責任を取らない、何をやってもいい組織という事ではない。日本銀行は、日本経済を健全に成長させなければならないという責務を負っている」「法律では、日本銀行の政府からの独立は謳われているが、それは政府と目的をすり合わせた上での、手段に関する独立性である。目的を一緒にするのは、日本銀行の独立性を脅かすことではない」と指摘している。
明治大学国際総合研究所フェローの岡部直明は「日銀法には『政府との連携は重要である』と明記されている。日銀だけが政府との連携を無視すれば、それは『独善』となる」と指摘している。
経済学者の池尾和人は「政治が目標を決め、日銀には目標達成の手段だけ独立性を持たせ、あとは日銀の責任だ、というのでは政治の責任を日銀に転嫁するご都合主義ではないか」と述べている。また池尾は「社会保障負担が増大する一方で、増税・財政緊縮には限度があり、中央銀行だけがそうした状況から独立していられるわけではないというのも、現実である」と述べている。
浜田宏一は「1998年に新日本銀行法が施行されて以降、日本経済は世界各国の中でほとんど最悪といっていいマクロ経済のパフォーマンスを続けてきた」「(法改正後の)日銀法は欠陥のある法律だ。権限がすべて日銀へ行ってしまい、政府がほとんど口出しできない。日銀が目標と手段の独立性を併せ持つ、世界でまれなシステムにしたことが、長期のデフレに国民が苦しめられてきた原因である」と指摘している。
元日銀審議委員の中原伸之は「日銀の独立性は戦前の陸軍の統帥権と似ている。統帥権は明治憲法に根拠があるが、日銀の独立は憲法に根拠がない。独立を保証するのは実績のはずだが、実際には日銀の独立性が高まるにつれて円高が進み日本経済は沈んだ」「独立とは自分の手で勝ち取るもの。(デフレ脱却など)実績も上げていないのに、偉そうな顔で独立性を主張しても認められない」と述べている。 | [
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"text": "中央銀行(ちゅうおうぎんこう、英: Central bank)とは、国家や一定の地域の金融システムの中核となる機関である。通貨価値の安定化などの金融政策も司るために「通貨の番人」とも呼ばれる。中央銀行は、その国・地域で通貨として利用される銀行券を発行し(発券銀行)、また、市中銀行に対しては預金を受け入れるとともに「最後の貸し手」として資金を貸し出す(銀行の銀行)とともに、国の預金を受け入れることで政府の資金を管理する(政府の銀行)。銀行券を発行する中央銀行は、金融政策を通じた物価の安定に対して責任を負っている。中央銀行の政策の基本となるのは、マクロ経済学である。政策金利の決定など中央銀行の政策内容は、どの国も機密保持がされている。",
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"text": "現金・預貯金の量は、民間の経済主体の活動によって決まるため、中央銀行が直接マネーサプライの水準を決めることはできない。そのため、中央銀行はマネーサプライに影響を与えるために、マネタリーベースを利用する。中央銀行はマネタリーベースの操作によって、民間銀行の貨幣量の乗数効果を通じ経済全体のマネーサプライを操作する。",
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"text": "中央銀行は、ショックから国民の経済厚生を守るために行動する。中央銀行の金融政策が本来の効果を発揮するためには、その政策に対する「市場の信頼」を確保しなければならない。中央銀行の最適な金融政策を考える上で重要なのは「コミットメント」であり、中央銀行は金融政策の目標達成について力強い態度を示す必要がある。",
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"text": "世界最古の中央銀行は1668年に設立されたスウェーデンのリクスバンクであるとされる。1694年にはイギリスのイングランド銀行が設立された。イングランド銀行は対フランス戦のための資金調達目的で設立された王国政府の銀行であったが、19世紀初頭までは単なる大銀行の1つの位置付けであり、当時は特権認可された複数の銀行が独自の銀行券を発行していた。イギリスでは19世紀の初頭に金融恐慌が頻発し、多くの銀行が破綻して銀行券が無価値になる混乱が発生したため、1844年にイギリス首相ロバート・ピールの名を冠したピール銀行条例(正式名称:イングランド銀行設立特許状の修正法)が制定され、イングランド銀行以外の銀行による発行業務が禁止された。",
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"text": "これらの自然発生型の中央銀行に対して、1882年に設立された日本の日本銀行や1913年に設立されたアメリカ合衆国の連邦準備制度などは当初から物価の安定や通貨の発行業務を目的として設立されたものである。中央銀行の数は1900年には18行であった。その後、1920年代から急増し、1960年までに約50ヶ国に、1990年には160行を超える状況となった。",
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"text": "日本における唯一の中央銀行は日本銀行である。日本銀行法で定められている。",
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"text": "本土復帰前の沖縄ではアメリカの軍票であるB円や通貨である米ドルが流通したが、特殊銀行であった琉球銀行は通貨発行や金融機関の監督などの権限を有しており、中央銀行的な役割を持っていた(ただし、通貨発行権については一度も行使されることが無かった)。なお、これらの権限の多くは後に行政機関に権限移譲されたほか、最終的には復帰直前に普通銀行に転換した。",
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"text": "中央銀行は政府から独立しており、金融に関して独自の判断をするという位置づけを与えられている。政府から独立した存在であることが求められるのは、政府が通貨価値の保持を怠り、目先の諸問題に対応することを避けるためである。中央銀行は通常は一つの通貨に対して一つ存在する。中央銀行はこの通貨量を調整する権限を持つため大きな影響力を持つ。",
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"text": "1960年代に世界的に経済政策が行なわれるようになった。ケインズ政策においては財政政策として歳出を増大させるとクラウディングアウトが発生し、乗数効果に制約が掛かる。しかし、中央銀行が適切に量的金融緩和政策を行なえば、クラウディングアウトは発生せず、財政政策が最大の効果を発揮する。このポリシーミックスは供給力に未稼働の余剰部分がある場合は有効であるが、供給力が限界に達すればその政策効果は実質GDP増大ではなく物価上昇(インフレーション)の積極的な要因となる。",
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"text": "民主主義の政府は、物価の安定よりも完全雇用を志向する性質があるため、インフレが起きる可能性があっても財政政策の効果発現のため中央銀行へ金融緩和を求めることになる。もし、中央銀行に政府の要求を断る力が無ければ、最終的にインフレとそれに伴う資産の再分配(インフレリスク)及び潜在成長力を損なう可能性がある。このため、中央銀行は政府から独立する必要が有り、政府の要求如何に関わらず、通貨価値を保持することが求められる(通貨の番人)。",
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"text": "政府のインフレバイアスに対する中央銀行の独立性が低かったり、中央銀行がインフレ抑制に積極的でなかったりする国の通貨は信認され難い。",
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"text": "ドイツ(1990年の東西統一前は西ドイツ)の中央銀行だったブンデスバンクは過去のハイパーインフレへの反省から、通貨価値の保持を最優先としていた。ブンデスバンクの影響を強く受けている1998年設立の欧州中央銀行(ECB)も「物価の安定」が第一義的目的となっている。",
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"text": "一方、アメリカのFRBはその政策目標が「物価の安定」と「最大の雇用」となっている。これは、世界恐慌で25%とも言われる完全失業率を記録した経験からである。実際、1970年代中頃まではFRBはほぼ財政政策による高金利の火消し役となっており、1970年代における高インフレの原因を作っていた。このため、ブンデスバンクとFRBは金融政策の方向性について衝突することが多かった。",
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"text": "イングランド銀行は、1997年に独立性を獲得する。イングランド銀行の独立性は「金融政策の運用手段はイングランド銀行に任せる」というもので、政策の目標は実質的に政府が決めている。",
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"text": "日本銀行は、1997年6月18日に全部改正された日本銀行法で独立性と透明性の向上が図られ、第3条で「日本銀行の通貨及び金融の調節における自主性は、尊重されなければならない。」と定められた。",
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"text": "経済学者の松尾匡は「欧米では、保守系は中央銀行の独立性を重視する一方で、リベラル系は中央銀行の独立性を改めようとする傾向にある」と指摘している。",
"title": "独立性の弊害と見解"
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"text": "経済学者の植田和男は「中央銀行に対する外部からの圧力により、適切な政策運営がなされず、物価安定に失敗したケースも多い。その多くは戦争やその他の要因による大規模な財政ファイナンスのため、適切な引き締めができなかったケースである。こうした経験を踏まえ各国は、中央銀行の独立性を高めたり、物価目標(インフレターゲット)を明示的に定めたりし、政府が不適切な政策運営を中央銀行に強いることを阻止するためのしくみを導入していった」と指摘している。",
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"text": "エコノミストの小峰隆夫は「中央銀行の独立性は、政治的介入によるインフレ政策を防ぐためにある」と指摘している。",
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] | 中央銀行とは、国家や一定の地域の金融システムの中核となる機関である。通貨価値の安定化などの金融政策も司るために「通貨の番人」とも呼ばれる。中央銀行は、その国・地域で通貨として利用される銀行券を発行し(発券銀行)、また、市中銀行に対しては預金を受け入れるとともに「最後の貸し手」として資金を貸し出す(銀行の銀行)とともに、国の預金を受け入れることで政府の資金を管理する(政府の銀行)。銀行券を発行する中央銀行は、金融政策を通じた物価の安定に対して責任を負っている。中央銀行の政策の基本となるのは、マクロ経済学である。政策金利の決定など中央銀行の政策内容は、どの国も機密保持がされている。 現金・預貯金の量は、民間の経済主体の活動によって決まるため、中央銀行が直接マネーサプライの水準を決めることはできない。そのため、中央銀行はマネーサプライに影響を与えるために、マネタリーベースを利用する。中央銀行はマネタリーベースの操作によって、民間銀行の貨幣量の乗数効果を通じ経済全体のマネーサプライを操作する。 中央銀行は、ショックから国民の経済厚生を守るために行動する。中央銀行の金融政策が本来の効果を発揮するためには、その政策に対する「市場の信頼」を確保しなければならない。中央銀行の最適な金融政策を考える上で重要なのは「コミットメント」であり、中央銀行は金融政策の目標達成について力強い態度を示す必要がある。 | {{財政}}
{{銀行業}}
'''中央銀行'''(ちゅうおうぎんこう、{{Lang-en-short|Central bank}})とは、[[国家]]や一定の地域の金融システムの中核となる機関である。[[通貨]]価値の安定化などの[[金融政策]]も司るために「通貨の番人」とも呼ばれる。中央銀行は、その国・地域で通貨として利用される銀行券を発行し(発券銀行)<ref name="deflahukyo9">田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、9頁。</ref>、また、[[市中銀行]]に対しては預金を受け入れるとともに「[[最後の貸し手]]」として資金を貸し出す(銀行の銀行)とともに、国の預金を受け入れることで政府の資金を管理する(政府の銀行)。銀行券を発行する中央銀行は、金融政策を通じた物価の安定に対して責任を負っている<ref name="deflahukyo9" />。中央銀行の政策の基本となるのは、[[マクロ経済学]]である<ref>田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、206頁。</ref>。[[政策金利]]の決定など中央銀行の政策内容は、どの国も機密保持がされている<ref>田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、200頁。</ref>。
現金・預貯金の量は、民間の経済主体の活動によって決まるため、中央銀行が直接[[マネーサプライ]]の水準を決めることはできない<ref>田中秀臣 『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』 講談社〈講談社BIZ〉、2006年、62頁。</ref>。そのため、中央銀行はマネーサプライに影響を与えるために、[[マネタリーベース]]を利用する<ref name="benbernanke63">田中秀臣 『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』 講談社〈講談社BIZ〉、2006年、63頁。</ref>。中央銀行はマネタリーベースの操作によって、民間銀行の貨幣量の[[乗数効果]]を通じ経済全体のマネーサプライを操作する<ref name="benbernanke63" />。
中央銀行は、[[ショック (経済)|ショック]]から国民の経済厚生を守るために行動する<ref>田中秀臣 『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』 講談社〈講談社BIZ〉、2006年、163頁。</ref>。中央銀行の金融政策が本来の効果を発揮するためには、その政策に対する「市場の信頼」を確保しなければならない<ref>田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、52頁。</ref>。中央銀行の最適な金融政策を考える上で重要なのは「コミットメント」であり、中央銀行は金融政策の目標達成について力強い態度を示す必要がある<ref>田中秀臣 『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』 講談社〈講談社BIZ〉、2006年、164頁。</ref>。
== 起源 ==
世界最古の中央銀行は[[1668年]]に設立された[[スウェーデン]]の[[スウェーデン国立銀行|リクスバンク]]であるとされる。[[1694年]]には[[イギリス]]の[[イングランド銀行]]が設立された。イングランド銀行は対[[フランス]]戦のための資金調達目的で設立された[[王国]]政府の銀行であったが、[[19世紀]]初頭までは単なる大銀行の1つの位置付けであり、当時は特権認可された複数の銀行が独自の銀行券を発行していた。イギリスでは19世紀の初頭に金融[[恐慌]]が頻発し、多くの銀行が[[破綻]]して銀行券が無価値になる混乱が発生したため、[[1844年]]にイギリス[[首相]][[ロバート・ピール]]の名を冠した[[銀行条例 (ピール条例)|ピール銀行条例]](正式名称:イングランド銀行設立特許状の修正法)が制定され、イングランド銀行以外の銀行による発行業務が禁止された。
これらの自然発生型の中央銀行に対して、[[1882年]]に設立された[[日本]]の[[日本銀行]]や[[1913年]]に設立された[[アメリカ合衆国]]の[[連邦準備制度]]などは当初から[[物価]]の安定や通貨の発行業務を目的として設立されたものである<ref group="注釈">ただし、日本やアメリカでも、中央銀行設立前には、複数の発券銀行(国立銀行、国法銀行)からなる分散方式銀行制度を採用しており、その後に中央銀行制度に移行するという過程を経ている。またアメリカでは[[第一合衆国銀行]]や[[第二合衆国銀行]]などの公認銀行が期間限定で存在したが、分権主義者の反対によりそれぞれ20年で公認期間が終了していた。</ref>。中央銀行の数は[[1900年]]には18行であった。その後、[[1920年代]]から急増し、[[1960年]]までに約50ヶ国に、[[1990年]]には160行を超える状況となった<ref>{{PDFlink|[http://www.eco.nihon-u.ac.jp/center/economic/publication/report/pdf/29/29okina.pdf 貨幣と中央銀行の歴史からみた物価と金融政策]}} {{ja icon}} [[翁邦雄]] [[日本大学]][[経済学部]][http://www.eco.nihon-u.ac.jp/center/economic/index.html 経済科学研究所][[研究会]]</ref>。
{{see also|銀行#銀行の起源}}
== 日本 ==
日本における唯一の中央銀行は[[日本銀行]]である。[[日本銀行法]]で定められている。
[[本土復帰]]前の沖縄では[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[軍票]]である[[B円]]や通貨である[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]が流通したが、[[琉球銀行 (特殊銀行)|特殊銀行]]であった[[琉球銀行 (特殊銀行)|琉球銀行]]は通貨発行や金融機関の監督などの権限を有しており、中央銀行的な役割を持っていた(ただし、通貨発行権については一度も行使されることが無かった)。なお、これらの権限の多くは後に行政機関に権限移譲されたほか、最終的には復帰直前に[[普通銀行]]に転換した。
== 独立性 ==
中央銀行は政府から独立しており、金融に関して独自の判断をするという位置づけを与えられている<ref>竹中平蔵 『竹中平蔵の「日本が生きる」経済学』 ぎょうせい・第2版、2001年、179頁。</ref>。政府から独立した存在であることが求められるのは、政府が通貨価値の保持を怠り、目先の諸問題に対応することを避けるためである<ref>高橋洋一 『高橋教授の経済超入門』 アスペクト、2011年、18頁。</ref>。中央銀行は通常は一つの通貨に対して一つ存在する。中央銀行はこの通貨量を調整する権限を持つため大きな影響力を持つ。
[[1960年代]]に世界的に[[経済政策]]が行なわれるようになった。ケインズ政策においては[[財政政策]]として歳出を増大させると[[クラウディングアウト]]が発生し、[[乗数効果]]に制約が掛かる。しかし、中央銀行が適切に[[量的金融緩和政策]]を行なえば、クラウディングアウトは発生せず、財政政策が最大の効果を発揮する。この[[ポリシーミックス]]は供給力に未稼働の余剰部分がある場合は有効であるが、供給力が限界に達すればその政策効果は実質[[国内総生産|GDP]]増大ではなく物価上昇([[インフレーション]])の積極的な要因となる。
[[民主主義]]の政府は、物価の安定よりも[[完全雇用]]を志向する性質があるため、インフレが起きる可能性があっても財政政策の効果発現のため中央銀行へ金融緩和を求めることになる。もし、中央銀行に政府の要求を断る力が無ければ、最終的にインフレとそれに伴う資産の再分配([[インフレリスク]])及び潜在成長力を損なう可能性がある。このため、中央銀行は政府から独立する必要が有り、政府の要求如何に関わらず、通貨価値を保持することが求められる(通貨の番人)。
政府のインフレ[[バイアス]]に対する中央銀行の独立性が低かったり、中央銀行がインフレ抑制に積極的でなかったりする国の通貨は信認され難い。
[[ドイツ]](1990年の[[ドイツ再統一|東西統一]]前は[[西ドイツ]])の中央銀行だった[[ドイツ連邦銀行|ブンデスバンク]]は過去の[[ハイパーインフレ]]への反省から、通貨価値の保持を最優先としていた。ブンデスバンクの影響を強く受けている1998年設立の[[欧州中央銀行]](ECB)も「物価の安定」が第一義的目的となっている。
一方、アメリカのFRBはその政策目標が「物価の安定」と「最大の雇用」となっている。これは、[[世界恐慌]]で25%とも言われる完全失業率を記録した経験からである。実際、[[1970年代]]中頃まではFRBはほぼ財政政策による高金利の火消し役となっており、[[1970年代]]における高インフレの原因を作っていた。このため、ブンデスバンクとFRBは金融政策の方向性について衝突することが多かった。
イングランド銀行は、1997年に独立性を獲得する。イングランド銀行の独立性は「金融政策の運用手段はイングランド銀行に任せる」というもので、政策の目標は実質的に政府が決めている<ref>[http://shuchi.php.co.jp/article/642 民主党で大恐慌?]PHPビジネスオンライン 衆知 2009年2月10日</ref>。
日本銀行は、1997年6月18日に全部改正された[[日本銀行法]]で独立性と透明性の向上が図られ<ref>[https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/outline/a05.htm/ 1997年(平成9年)の日本銀行法改正(1998年施行)のポイントは何ですか? : 日本銀行 Bank of Japan]</ref>、第3条で「日本銀行の通貨及び金融の調節における自主性は、尊重されなければならない。」と定められた。
== 独立性の弊害と見解 ==
経済学者の[[松尾匡]]は「欧米では、保守系は中央銀行の独立性を重視する一方で、リベラル系は中央銀行の独立性を改めようとする傾向にある」と指摘している<ref>田中秀臣編著 『日本経済は復活するか』 藤原書店、2013年、174-175頁。</ref>。
経済学者の[[植田和男]]は「中央銀行に対する外部からの圧力により、適切な政策運営がなされず、物価安定に失敗したケースも多い。その多くは戦争やその他の要因による大規模な財政ファイナンスのため、適切な引き締めができなかったケースである。こうした経験を踏まえ各国は、中央銀行の独立性を高めたり、物価目標([[インフレターゲット]])を明示的に定めたりし、政府が不適切な政策運営を中央銀行に強いることを阻止するためのしくみを導入していった」と指摘している<ref>日本経済新聞社編 『マネーの経済学』 日本経済新聞社〈日経文庫〉、2004年、129頁。</ref>。
エコノミストの[[小峰隆夫]]は「中央銀行の独立性は、政治的介入によるインフレ政策を防ぐためにある」と指摘している<ref>小峰隆夫 『ビジュアル 日本経済の基本』 日本経済新聞社・第4版〈日経文庫ビジュアル〉、2010年、92頁。</ref>。
経済学者の[[田中秀臣]]は「どの国においても、政府と中央銀行はお互いに目的をもって協調し合わなければならない。それは当たり前過ぎて条文として書いていないくらい常識的な
ことである」と述べている<ref name="softbank2010910">[http://www.sbbit.jp/article/cont1/22302 【田中秀臣氏インタビュー】日本をデフレから救うのは、凡庸だが最良の処方箋の「リフレ政策」] ソフトバンク ビジネス+IT 2010年9月10日</ref>。
経済学者の[[原田泰]]は「物価安定の定義は、政府が決めるべきである」と指摘している<ref>田中秀臣編著 『日本経済は復活するか』 藤原書店、2013年、109頁。</ref>。
経済学者の[[ジョン・ブライアン・テイラー]]は、中央銀行の独立性について、金融政策のルールと対比させながら、中央銀行の独立性、特に金融政策の独立性が常に政府・議会から政治的圧力にさらされるため、金融政策のルールを導入すべきであると論じている<ref>[http://president.jp/articles/-/10528 日銀の独立性が失われれば、インフレ率は高くなる]PRESIDENT Online プレジデント 2013年9月10日</ref>。植田和男は「政府目標を明確にさせることは、将来の中央銀行の政策運営に関する[[不確実性]]を減らし、政策やショックに対する市場の反応を安定化させるため、金融政策の効果を強めるという好影響が期待できる」と指摘している<ref>日本経済新聞社編 『マネーの経済学』 日本経済新聞社〈日経文庫〉、2004年、129-130頁。</ref>。
経済学者の[[ジョセフ・E・スティグリッツ]]は、中央銀行の独立は不要であると主張している<ref>田中秀臣編著 『日本経済は復活するか』 藤原書店、2013年、176頁。</ref>。
[[フリードリヒ・ハイエク]]は、現代の民主主義社会ではいかなる政府も通貨当局の独立性を保つことは出来ないとしている<ref>日本経済新聞社編 『マネーの経済学』 日本経済新聞社〈日経文庫〉、2004年、79頁。</ref>。
=== 弊害 ===
中央銀行の独立性が弊害を齎す(もたらす)場合がある。中央銀行が[[雇用]]よりもインフレ抑制を志向した場合、景気対策を実施する政府の意向に対立して、独立性を持つ中央銀行が金融引締めにまわることで財政政策の効果が相殺され、[[デフレーション]]が続き、失業率が高止まりすることや、それに伴う潜在成長力低下のリスクがある。
景気循環の責任を中央銀行だけが負うわけではなく、また自国の通貨価値の下落を避け、インフレ率を低く保つべきであるという立場を取ることは、中央銀行としては当然のことであるが、[[グローバリゼーション|国際化]]された現代経済では、[[市場]]が予想していない時機での金利引き上げは景気[[萎縮効果]]よりも[[債券]]・[[株式]]市場や[[為替]]市場への影響が迅速かつ多大であり、債券価格の急落や為替の急上昇などが予期せぬ市場の混乱を招き、批判の対象とされることになる。[[2000年]]に、日本銀行は政府の反対を押し切り[[ゼロ金利政策]]を解除し<ref>{{PDFlink|[http://www.boj.or.jp/mopo/mpmsche_minu/record_2000/gjrk000811a.pdf 金融政策決定会合議事録等(2000年8月11日議事録)]}} {{ja icon}}</ref>、市場に多大な混乱を招きデフレを加速させてしまった。
経済学者の[[ミルトン・フリードマン]]は、[[連邦準備制度|連邦準備制度理事会]](FRB)の議事録を丹念に調べ、著書『米国金融史』で「結果がよければそのことを自分の手柄とする一方、悪ければその責任から逃れようとすることは人間の常である」と記している<ref>日本経済新聞社編 『経済学の巨人 危機と闘う-達人が読み解く先人の知恵』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2012年、93頁。</ref>。
経済学者の[[ポール・クルーグマン]]は、「我々は中央銀行の独立性を擁護してきた。しかし、この独立した中央銀行が失敗による面目失墜を恐れるあまり、自国経済のためになることすら、やらない存在となっていることが不況の大きな原因になっている。国を問わず、根本的には組織に問題がある。(組織の人間が)自分の組織上の地位や組織そのものを守ろうとしている。中央銀行独立性への介入に関しては、躊躇すべきではない」と述べている<ref>[https://gendai.media/articles/-/994 独占インタビュー ノーベル賞経済学者 P・クルーグマン 「間違いだらけの日本経済 考え方がダメ」] 現代ビジネス 2010年8月20日</ref>。
ジョセフ・E・スティグリッツは「中央銀行に独立性があるかどうかが問題ではなく、重要なのは中央銀行のトップの資質だ。経済を成長させ、社会を安定させ、所得格差の是正に取り組むといった社会全体に貢献する目的を持つことが重要だ」「国民からかけ離れたところで、『中央銀行としての役目を果たしている』と言っているだけでは、説明責任を果たしたことにはならない。中央銀行は、究極的にはその国の国民に仕えている」と述べている<ref>[https://archive.is/20130423091355/http://www.nhk.or.jp/bizplus/history/2013/03/detail20130321.html 日銀 黒田新体制始動 “物価目標 2%実現を”]NHK Bizプラス 2013年3月21日</ref>。
[[ロイター]]通信の[[:en:Felix Salmon|フェリックス・サーモン]]は「国際的な協調政策行動を取る際には、中央銀行は独立であってはならないし、一般に中銀の独立性が高いほど、政策効果も弱い。名目的な独立性は良いことだ」「純粋に独立していた最後の中央銀行家は、2つもの巨大なバブルを蒸して多くの点で国際金融危機の主犯であった(あまりにも自由放任であり過ぎ、金利を長く低い水準に留め置き過ぎた)[[アラン・グリーンスパン]]である。中央銀行の独立性は不幸なことに、もし同じ金融政策を大統領が実施させていたら却って得られなかったであろう信頼性を、彼に与えた」と述べている<ref>[http://blogs.reuters.com/felix-salmon/2013/01/22/dont-worry-about-currency-wars/ Don't worry about currency wars] {{en icon}} [[ロイター]] 2013年1月22日</ref>。
==== ドイツの例 ====
中央銀行の独立性がもたらした弊害の最悪の事例として、[[第一次世界大戦]]後の[[ヴァイマル共和政のハイパーインフレーション]]が挙げられる。当時の[[ドイツ国]]の中央銀行である[[ライヒスバンク]]は政府からの独立性は高く、[[総裁]]は[[ドイツ帝国|第二帝政期]]を引き継いで終身制であり、[[ドイツの首相|宰相]]には任命権は有っても罷免権は無く、[[国会 (ドイツ)|国会(ライヒスターク)]]は総裁人事に関与できなかった。
そのため、私企業の[[手形割引]]を濫発して通貨が大増発(いわゆる「[[パピエルマルク]]」)され、1兆倍の[[インフレーション]]が発生し、日常の経済活動遂行にも障害が発生した。政府はハイパーインフレーション抑制のため、当時のライヒスバンク総裁{{仮リンク|ルドルフ・ハーヴェンシュタイン|de|Rudolf Havenstein}}の罷免を考えたが、終身制に阻まれ実現できなかった。
[[1923年]][[11月20日]]にルドルフ・ハーヴェンシュタインは急死するが、その1週間前に国内の土地を[[担保]]とする新通貨の発行に拠るインフレーションの収束を主張してきた{{仮リンク|ダルムシュタット及び国家銀行|de|Darmstädter und Nationalbank}}(''Darmstädter und Nationalbank'')[[頭取]][[ヒャルマル・シャハト|ホレス・グリーリー・ヒャルマル・シャハト]]([[ドイツ民主党]]の結党メンバーでもあった)が、[[フリードリヒ・エーベルト]][[大統領]]より新設された国家通貨委員(Reichswährungskommissar)に任命された。シャハトの協力に拠って[[ドイツ農林金融公庫|レンテン銀行]](''Deutsche Rentenbank'' )が設立され、国内の土地を担保とする新通貨[[レンテンマルク]]の発行により、インフレーションが収束した。シャハトは同年12月にライヒスバンク総裁に就任している。
=== 「目標の独立性」と「手段の独立性」 ===
ベン・バーナンキは「'''目標の独立性'''(goal independence)と'''手段の独立性'''(instrument independence)の違いは有用だ。中央銀行が自由に目標を設定できるという目標の独立性を民主主義社会で正当化することは困難である。しかし、中央銀行が干渉を受けずに適切な金融政策を実施できるような手段の独立性は、経済安定のために極めて重要だ」とし、独立性について手段の独立性だけを指している<ref>[https://gendai.media/articles/-/34098 バーナンキ議長も否定した中央銀行「目標の独立性」に固執する野田首相では景気はよくならない!「安倍期待相場」ではやくも市場が動き始めた] 現代ビジネス 2012年11月19日</ref><ref>[http://synodos.jp/economy/2118 ドル安ではない。円高こそ問題だ。]SYNODOS -シノドス- 2010年9月2日</ref>。
経済学者の[[ジョン・ブライアン・テイラー]]はアメリカの事例を通して「過去半世紀におけるマクロ経済のパフォーマンスの変化はルールに基づく金融政策の遵守の変化及び金融政策の事実上の独立性の変化と密接に関連していた。しかし、法律上の中央銀行の独立性の変化とはあまり関連が見られなかった。形式上のFRBの独立はルールに基づいた枠組みが存在しない状況下において金融政策の良い結果に結び付かないようである」との旨を述べている<ref>{{PDFlink|[http://www-siepr.stanford.edu/repec/sip/12-009.pdf The Effectiveness of Central Bank Independence Versus Policy Rules]}} {{en icon}}</ref>。
経済学者の[[浜田宏一]]は「中央銀行の独立性とは、政策手段を自由に選べるという意味。国民経済全体に影響を与えるような政策目標まで決めることを意味しているわけではない」と述べている<ref>[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE8BQ04C20121227 インタビュー:日銀は無制限緩和を、物価目標2─3%が適切=浜田宏一教授]Reuters 2012年12月28日</ref>。
経済学者の[[高橋洋一 (経済学者)|高橋洋一]]は「中央銀行の独立性については、中央銀行は政府と目標を共有するが、その達成手段は中央銀行に任せ、政府が口出ししないとなっているのが[[世界標準]]である」と述べている<ref>[http://shuchi.php.co.jp/article/592 埋蔵金6兆円で好景気に] PHPビジネスオンライン 衆知 2008年9月16日</ref>。
エコノミストの[[飯塚尚己]]は、「金融政策の目標は、選挙によって国民の信を得た議会の場で決めるというのが[[世界標準|グローバル・スタンダード]]である。中央銀行の独立性とは、金融政策の手段に関する独立性であり、金融政策の目標は政府が決めるというのが基本」と述べている<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-L179BJ0YHQ0X01.html 民主:デフレ脱却へ数値目標、政府・日銀連携を―公約素案] Bloomberg 2010年4月21日</ref>。
経済学者の[[伊藤元重]]は「政府が中央銀行の行動にしばしば口を挟めば、中央銀行の独立性は失われる。ただ、ターゲットの設定については中央銀行の独立性はない。政府がそれに関与する。しかし、いったんターゲットを設定した後の金融政策の運営については、政府は口を挟まない。ターゲットを実現することを求めるだけである。それなら中央銀行の独立性は失われない」と指摘している<ref>[http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20121224/334925/?ST=business&P=1 インフレ・ターゲティングはデフレ脱却の特効薬となるのか]nikkei BPnet(日経BPネット) 2012年12月27日</ref>。
{{see also|インフレターゲット}}
==== 日本銀行について ====
日本銀行[[副総裁]]である[[若田部昌澄]]は「日本では、中央銀行の独立性について大きな誤解がある。民主制の下では、政策担当者は国民に対して政策の説明と結果責任を負っている。中央銀行も例外ではない。この制度設計の欠陥は、国家の[[コーポレート・ガバナンス|ガバナンス]]の観点からすれば深刻である。さもなければ日本銀行はかつての[[関東軍]]のようになりかねない」と指摘している<ref>[http://shuchi.php.co.jp/article/563 日銀新総裁はゼロ金利に復帰を]PHPビジネスオンライン 衆知 2008年5月8日</ref>。
田中秀臣は「日本銀行は、法律上、政府とは独立した機関である。当然、民主主義の統制下に入っているわけである。国民や政府に対して何も責任を取らない、何をやってもいい組織という事ではない。日本銀行は、日本経済を健全に成長させなければならないという責務を負っている<ref name="softbank2010910" />」「法律では、日本銀行の政府からの独立は謳われているが、それは政府と目的をすり合わせた上での、手段に関する独立性である。目的を一緒にするのは、日本銀行の独立性を脅かすことではない<ref>[http://www.mammo.tv/interview/archives/no254.html #254 無知につけ込まれて生きることのないために必要なこと。 - 田中 秀臣 さん(上武大学ビジネス情報学部教授)]mammo.tv</ref>」と指摘している。
[[明治大学]]国際総合研究所フェローの[[岡部直明]]は「日銀法には『政府との連携は重要である』と明記されている。日銀だけが政府との連携を無視すれば、それは『独善』となる」と指摘している<ref>岡部直明 『ベーシック日本経済入門』 日本経済新聞社・第4版〈日経文庫〉、2009年、125-126頁。</ref>。
経済学者の[[池尾和人]]は「政治が目標を決め、日銀には目標達成の手段だけ独立性を持たせ、あとは日銀の責任だ、というのでは政治の責任を日銀に転嫁するご都合主義ではないか」と述べている<ref>[http://www.47news.jp/47topics/e/170063.php 【中央銀行企画】④高望みはいけない 政治は日銀に責任転嫁]47NEWS(よんななニュース) 2010年8月13日</ref>。また池尾は「社会保障負担が増大する一方で、増税・財政緊縮には限度があり、中央銀行だけがそうした状況から独立していられるわけではないというのも、現実である」と述べている<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/11991 財政ファイナンスをやってはいけない]東洋経済オンライン 2012年12月5日</ref>。
浜田宏一は「1998年に新日本銀行法が施行されて以降、日本経済は世界各国の中でほとんど最悪といっていいマクロ経済のパフォーマンスを続けてきた<ref name="rieti20126">[https://www.rieti.go.jp/jp/special/p_a_w/016.html 日本銀行を後戻りさせてはならない]RIETI 2012年6月</ref>」「(法改正後の)日銀法は欠陥のある法律だ。権限がすべて日銀へ行ってしまい、政府がほとんど口出しできない。日銀が目標と手段の独立性を併せ持つ、世界でまれなシステムにしたことが、長期のデフレに国民が苦しめられてきた原因である<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/12839 「白川総裁は誠実だったが、国民を苦しめた」 浜田宏一 イェール大学名誉教授独占インタビュー]東洋経済オンライン 2013年2月8日</ref>」と指摘している。
元日銀審議委員の[[中原伸之]]は「日銀の独立性は戦前の陸軍の[[統帥権]]と似ている。統帥権は[[明治憲法]]に根拠があるが、日銀の独立は憲法に根拠がない。独立を保証するのは実績のはずだが、実際には日銀の独立性が高まるにつれて円高が進み日本経済は沈んだ<ref>[http://jp.reuters.com/article/vcJPboj/idJPTYE8AT07B20121130 次期政権は日銀法改正し、雇用最大化を目標に=中原元日銀審議委員]Reuters 2012年11月30日</ref>」「独立とは自分の手で勝ち取るもの。(デフレ脱却など)実績も上げていないのに、偉そうな顔で独立性を主張しても認められない<ref>[https://web.archive.org/web/20130202181834/http://mainichi.jp/select/news/20130117ddm008010136000c.html アベノミクス・安倍経済政策:期待と課題 金融緩和まだ足りぬ 元日銀審議委員・中原伸之氏]毎日jp(毎日新聞) 2013年1月17日(2013年2月2日のインターネットアーカイブ)</ref>」と述べている。
== 各国の中央銀行一覧 ==
[[File:Marriner S. Eccles Federal Reserve Board Building.jpg|thumb|200px|[[連邦準備制度|FRB]]のあるエクルズ・ビル]]
[[File:London.bankofengland.arp.jpg|thumb|200px|[[イングランド銀行]]]]
[[File:Frankfurt_EZB.Nordwest-2.20141228.jpg|thumb|200px|[[欧州中央銀行]]新本店]]
[[File:Schweizerische Nationalbank Bern.jpg|thumb|200px|[[スイス国立銀行]]]]
[[File:Bank of Japan 2010.jpg|thumb|200px|[[日本銀行]]本店]]
<!--五十音順 -->
* [[アイスランド]] - [[アイスランド中央銀行]]({{lang-is|Seðlabanki Íslands}})
* [[アメリカ合衆国]] - 単一組織としての中央銀行は存在せず<ref group="注釈">[[バンク・オブ・アメリカ]]がアメリカの中央銀行と言われる事があるが、中央銀行ではない</ref>、[[連邦準備制度]](FRS)が中央銀行制度として存在している。FRSは[[連邦公開市場委員会]](FOMC)、[[連邦準備制度理事会]](通称FedまたはFRB―こちらのBは''Board'')、及び12の[[連邦準備銀行]](FRB―こちらのBが''Bank'')で構成される。
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* [[部分準備銀行制度]]
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3,906 | 日本銀行券 | 日本銀行券(にほんぎんこうけん、にっぽんぎんこうけん)は、日本の中央銀行である日本銀行が発行する紙幣。
日本銀行は、日本銀行法を根拠に、日本銀行券を発行し(市中に払い出し)通貨として流通させている。具体的には、日本銀行の取引先金融機関が日本銀行に保有している当座預金を引き出し、日本銀行券を受け取ることによって、市中に流通し、この時点で日本銀行券が発行されたことになる。日本銀行券には日本国内で法定通貨として無制限に通用する強制通用力が付与されている。
過去に発行されていた日本銀行券の中には各種法令により既に失効しているもの(失効券)がある。失効券以外は、古い日本銀行券であっても現在発行中の券と同様に法定通貨として有効である。有効券の中には「日本銀行兌換銀券」と表記されているものもあるが、現在は不換紙幣扱いのため、本位銀貨(一円銀貨)と引き換えることはできない。なお「日本銀行兌換券」と表記されているものは、発行当時本位金貨と引き換えることができたが、のちに不換紙幣扱いとされた時期を経て(一部は通用期間全てにわたって事実上の不換紙幣だった)、現在では全て失効券となっている。
現在発行中の日本銀行券は、独立行政法人国立印刷局によって製造され、日本銀行に納入されている。2009年度(平成21年度)の計33億枚の日本銀行券製造費は約509億円であり、1枚当たり15.4円となる。
日本銀行に戻った日本銀行券のうち、損傷・汚染の度合いが少なく再度の流通に適していると判断されたものは再び金融機関を通じて市中に流通する。一方、流通に適さないほど損傷や汚染などの激しい日本銀行券(損券。このうちテープ等が貼られているなど損傷などの度合いが特にひどいものは日銀用語で「赤丸券」と呼ばれる)は、復元不能な大きさに裁断された上で廃棄処分される。この日本銀行券の裁断屑の多くは焼却処分されているが、一部は製紙会社に渡されて、住宅用外壁材、固形燃料、トイレットペーパー、貯金箱、靴・スリッパの中敷きや書類箱、写真立て、バインダー、ファイルなどの日用雑貨・事務用品などにリサイクルされているものもある。
現在、主に流通しているのは2004年(平成16年)発行開始のE券(一万円券・五千円券・千円券)および2000年(平成12年)発行開始のD二千円券である。
日本銀行や国立印刷局ではそれぞれの日本銀行券(紙幣)を「一万円券」「千円券」などと称している。一般的な通称として「一万円札」「千円札」などとも呼ばれる。
日本銀行券に関する年表を以下に示す。なお、日本銀行券と並行して流通し、同様の紙幣通貨として区別なく使用された小額政府紙幣についても、便宜上下記の年表に掲載する。
下線は現在有効な券を示す。各券種の冒頭の符号(旧、改造、甲、い、Aなど)については後述の#様式符号参照。
明治維新以降、改造紙幣などの政府紙幣や民間銀行が発行した国立銀行紙幣が発行されていたが、紙幣を濫発した結果インフレーションが発生するなどの問題が発生していた。これを収拾するために政府から独立した中央銀行として日本銀行が創設され、唯一の発券銀行として事実上の銀本位制に基づく「日本銀行兌換銀券」が発行されることとなった。当初は200円から1円まで7券種を発行する計画であったが、当時の紙幣製造能力や需要を勘案した結果200円、50円、20円は製造対象から外され、100円、10円、5円、1円の4券種のみが発行された。
金本位制の確立に伴い、日本銀行が発行する銀行券は金兌換券としての「日本銀行兌換券」に移行した。1899年(明治32年)末には旧来の雑多な紙幣を失効し、日本国内で流通する紙幣の日本銀行券への一本化が完了した。その後は写真技術や印刷技術の向上に伴い精巧な偽造券が発見されるようになったことや、経済発展とともに紙幣発行高が増大したことなどからこれに対応する新紙幣が順次登場していった。
1927年(昭和2年)に発生した昭和金融恐慌の際には、その沈静化のために史上稀に見る裏面の印刷が省略された乙貳百圓券紙幣が急造されることとなった。
1923年(大正12年)の関東大震災により滅失した兌換券の整理のために旧紙幣は回収されることとなり、交換対象となる乙百圓券・丙拾圓券・丁五圓券が1930年(昭和5年)に発行された。このシリーズの日本銀行兌換券では一定のテーマに基いた統一性のあるデザインが入念な検討のもとに施され、技術的な観点からも当時の紙幣製造の最高技術を結集して製造されたものであり、デザイン面・印刷技術面の両面で世界的に遜色のない水準の紙幣であった。回収対象となる旧紙幣については1931年(昭和6年)12月までに全体の9割以上が回収され、旧紙幣失効後の1939年(昭和14年)4月時点の最終的な未回収率は発行高の3%程度という結果となった。
1931年(昭和6年)の金兌換停止を受けて、1942年(昭和17年)には法的にも管理通貨制度に移行した。これに伴い不換紙幣としての「日本銀行券」が発行されることとなるが、第二次世界大戦の影響により発行される銀行券は次第に品質を落とした簡素なものとなり、やがて戦況の悪化と共に従前では考えられなかったような劣悪な品質の銀行券が粗製濫造されるに至った。大戦末期から終戦直後にかけては製造設備や材料の確保すら事欠くようになり、一層の仕様簡素化のために印刷方式や紙幣用紙など度重なる仕様変更が頻繁に行われ、果ては製造されながらも発行に至らない未発行券が複数発生するなど混乱した状況が窺える。
第二次世界大戦終戦後の猛烈なハイパーインフレーションの抑制策として新円切替が行われることとなり、切替用の新円としてデザインを一新したA号券が緊急に発行された。しかしながら新円切替をもってしてもインフレーションを食い止めることはできず、1円未満の法定通貨(紙幣・硬貨)は無意味なものとなり廃止されることとなった。また切迫した状況下で発行されたA号券は簡易な仕様により粗製されたもので偽造が絶えなかったことから、本格的な紙幣としてB号券が投入され、その後は高度経済成長の進展とともに五千円紙幣・一万円紙幣といった高額紙幣が順次登場していった。1984年以降は偽造防止力の維持向上のために概ね20年おきに改刷が行われており、印刷技術の向上に応じて改刷の度に新たな偽造防止対策が搭載されている。キャッシュレス化が進みつつある2010年代以降も、日本銀行券の流通量は継続的に増加し続けている状況にある。
券名の最初の文字は発行された時期によって紙幣を分類する符号で、正式には様式符号という。A券、B券またはA号券、B号券などと呼ばれ、概ね次の通りである。カッコ書きは未発行を示す。
額面金額ごとに整理すると下記の通りとなる。*は2024年度(令和6年度)発行予定のものである。
なお、A券以降は発行開始時期が近い券種を1つの単位として同じ様式符号が付与されているが、それ以前は単純に額面金額ごとの発行順(計画されていたが未発行の券種を含む)に符号が付与されていた。このため、同じ様式符号であっても近い時期の発行とは限らない点に留意する必要がある。下表は、各券種の様式符号を発行開始時期・発行契機ごとに整理したものである。*は2024年度(令和6年度)発行予定のものを示す。
ここでは、発行されたものと呼称は同一だがデザインが異なるもの(不採用となったデザイン)についても扱う。下記の日本の未発行紙幣は、発行を前提として製造された分は全て廃棄処分されて現存しておらず、見本券が少数現存するのみとなっている。
日本銀行券の原材料には、和紙と同じく三椏(ミツマタ)と、耐久性向上のためマニラ麻が使用されている。これは、繊維が頑丈で独特の手触りがあるために、偽造の防止にも効果があるためである。第二次世界大戦末期や終戦直後のインフレ時には、三椏の生産が追いつかないため、三椏の割合を減らしたり、通常のパルプを使用していたこともあったが、耐久性に難がある上に大量の偽札が出回り、経済や社会の混乱を招いたために、「粗悪な紙は通貨の信用を落とす」として取りやめとなった。
国内産の「局納みつまた」は、2000年代までは国内での自給自足を維持しており、2005年(平成17年)の時点で島根県・岡山県・高知県・徳島県・愛媛県・山口県の6県が国立印刷局と生産契約を結んでいた。各県に「局納みつまた生産協力会」といった生産者団体が組織されており、局納価格は山口県を除く5県が毎年輪番で印刷局長と交渉して決定された。しかし、生産地の過疎化や農家の高齢化、後継者不足により、2005年度(平成17年度)以降は生産量が激減し、2016年(平成28年)では岡山県、徳島県、島根県の3県だけで生産されており、出荷もこの3県の農協に限られる。
これに対応するために、2010年度(平成22年度)以降は中華人民共和国、ネパール産の三椏の輸入で不足分を補うようになっており、その結果、2016年度(平成28年度)に使った三椏の白皮のうち約9割が外国産となった。外国産三椏は国内産と比べて調達価格が25%程度と安く、経費節減につながる利点がある。その反面、輸入先の災害などによる調達のリスクもある。ネパールにおいて三椏の生産地が2015年(平成27年)の大地震で大きな被害を受けた実例もあり、三椏の安定供給を保つために、国立印刷局は国内で新たな出荷元を探している。
ラテン文字(アルファベット)と算用数字の組み合わせによる通し番号という形式である。各券種の日本銀行券1枚ずつ固有のものである。ただし、記番号の組み合わせを全て使い切ってしまった場合、あるいは紙幣の仕様をマイナーチェンジする場合、印刷色を変えて再度同じ記番号が使われている。アルファベット26文字のうち、「I」(アイ)と「O」(オー)は、数字の「1」「0」と紛らわしいため使用されない。従って使用されるアルファベットは24文字となる。
結局、同一印刷色の記番号で (24×900,000×24)+(24×24×900,000×24) = 12,960,000,000 (129億6千万)枚まで製造・発行できることになる。記番号を数字に例えるなら、上記 1. 2. 3. のうち、最も上位の桁は 1. で、次が 3. 最下位の桁が 2. である。例えば、E千円券を小田原工場で製造する場合、「AA900000H」の次に製造すべきは「AA000001J」であり、「AA900000N」の次は「BA000001H」である。同一デザインの紙幣の製造中に、記番号の組み合わせの枯渇などの理由により記番号の色が変わる場合、記番号の色は上記の 1. より更に上位の桁とみなすこともできる。
これまでに記番号の色が変更された紙幣は次の通り。なお、変更の理由は、 記番号の組み合わせの枯渇、 紙幣の仕様のマイナーチェンジ、である。
この形式の記番号は、C一万円券とC五千円券では左上・右上・左下・右下の4か所、それ以外の紙幣では左上と右下の2か所に印刷されている。
記番号の書体については、印刷局独自の特殊なものが採用されている。C号券 - E号券では、同じ書体が採用されている券種でグループ分けすると、次の箇条書きのようになる。
C号券4種(このうちC千円券については黒記番号のもの)については、沖縄の本土復帰に伴う通貨交換(第五次通貨交換)用の特殊記号券が存在し、記番号の英字の組み合わせのうちごく一部の特定のものがこれに当たるが、その現存数は非常に少ない。
2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券では、「AA000001AA」のように、左側にアルファベット2桁、中央に数字6桁、右側にもアルファベット2桁という構成となる予定。
この形式の記番号は、B券からE券までの紙幣のうちC一万円券とC五千円券以外のものと同様、紙幣の左上と右下の2か所に印刷されている。
B券より前の日本銀行券の記番号は基本的に「組番号(記号)・通し番号」という形式であった。この場合も通し番号は基本的に、B券以降のアルファベットに挟まれた数字6桁と同様、000001から900000までの90万通りであったが、一部の券種では不良券との差し替え用に900001以降の通し番号が印刷されることがあった(補刷券)。
1887年(明治20年)に、日本武尊・武内宿禰・藤原鎌足・聖徳太子・和気清麻呂・坂上田村麻呂・菅原道真の7人を日本銀行券の肖像候補として選定した。いずれも紙幣肖像の彫刻に必要となる写真や明確な肖像画が残っていない人物であるため、当時お雇い外国人として来日し、日本の紙幣製造の技術指導に当たっていたイタリア人で画家のエドアルド・キヨッソーネが、文献資料や絵画・彫刻などから各人の事蹟や性格、容姿などを研究し風貌を脳裏に描いてから、そのイメージに似合う実在の(当時生きていたあるいは写真が残っていた)別の人物を探し、その人物をモデルとして描いたとされる。 その後、戦前の日本銀行券の肖像には前述の候補の7人のうち、坂上田村麻呂以外の6人が採用されている。
1946年(昭和21年)に大蔵省印刷局は、光明皇后・聖徳太子・貝原益軒・菅原道真・松方正義・板垣退助・木戸孝允・大久保利通・野口英世・渋沢栄一・岩倉具視・二宮尊徳・福沢諭吉・青木昆陽・夏目漱石・吉原重俊・新井白石・伊能忠敬・勝安房・三条実美の20人を紙幣の肖像候補としてリストアップした事が確認されている。
戦後、B号券以降は、聖徳太子以外は写真が現存している近代の人物が採用されるようになった。A百円券やB券、C券では聖徳太子と近代政治家の肖像が採用された。聖徳太子は高額券に採用されたため、「高額券=聖徳太子」のイメージは昭和生まれ世代にはなじみ深いものである。1984年(昭和59年)のD券以降は、D二千円券を除きいわゆる文化人が肖像に採用されている。D二千円券は表が人物の肖像ではなく、建築物を像としている点で特異である。
なお、D五千円券でピックアップされた新渡戸稲造は1981年(昭和56年)の紙幣刷新決定当時に在任中の鈴木善幸内閣総理大臣と同じ出身地であったり、E一万円券にピックアップされた福澤諭吉は2001年(平成13年)の紙幣刷新決定当時に在任中の小泉純一郎内閣総理大臣・塩川正十郎財務大臣の出身校である慶應義塾大学の創設者であったほか、2024年(令和6年)に発行される新たな一万円券にピックアップされた渋沢栄一は2019年(令和元年)の紙幣刷新発表当時に在任中であった安倍晋三内閣総理大臣・麻生太郎財務大臣の親戚にあたる人物であるなど、デザイン決定時の首相や大臣に関連する人物が取り上げられるケースもある。
また、肖像の人名については、B号券以降では肖像が描かれていないD二千円券以外の全券種に記載されているが、B号券より前の券種には記載されていないものが多く、改造券4種と甲百圓券・甲拾圓券・甲五圓券に記載されている程度であり、これらの紙幣に描かれている武内宿禰・菅原道真・和気清麻呂・藤原鎌足の紙幣券面の人名表記は、それぞれ「武内大臣」「菅原道真公」「和氣清麻呂卿」「藤原鎌足公」となっている。
下線は現在有効な券を示す。
以下の人物の肖像は2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券で採用される予定である。
戦前の日本銀行券では、券面に印刷されている肖像の人物と関わりの深い神社などが図案の題材として多く採用されていた。戦後に発行された日本銀行券では、国会議事堂や富士山など、日本を象徴する建築物や風景、動植物などが採用されることが多い。2000年代以降のD二千円券やE号券、2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券では、著名な芸術作品なども題材として採用されるようになっている。
なお、肖像には改造券4種やB号券以降の各券種などにおいて人名が付記されているのとは異なり、肖像以外の図案については題材についての注記は記載されていないものがほとんどである。ただし、甲百圓券・甲拾圓券・甲五圓券の3券種に限って題材の神社名が注記として記載されている。
下線は現在有効な券を示す。
なお、上記の他に、彩紋や地模様の一部として菊花や桜花、宝相華などのデザインが取り入れられた券種が存在する。また、乙百圓券を筆頭に、丙拾圓券、い号券やB号券の一部券種などでは法隆寺や正倉院に関連する文化財を基にしたデザインが地模様や輪郭などに多数採用されていた。
以下の図案は2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券で採用される予定である。
D券以降の日本銀行券では、視覚障害者が触覚で容易に券種を識別できるように識別マークが施されている。
二千円券以外のD券では、透かしにより各券の表面から見て左下隅に施されており、D一万円券は点字の「う」を模した「丸印が横に2つ」、D五千円券は点字の「い」を模した「丸印が縦に2つ」、D千円券は点字の「あ」を模した「丸印が1つ」となっている。
D二千円券およびE券では、深凹版印刷により左下と右下の両隅に施されており、D二千円券は点字の「に」を模した「丸印が縦に3つ」、E一万円券は「左下隅L字・右下隅逆L字」、E五千円券は「八角形」、E千円券は「横棒」となっている。2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券でも深凹版印刷により施される予定だが、斜線の連続模様の印刷位置を券種ごとに変える方式(一万円券は左右隅、五千円券は上下隅、千円券は右上隅・左下隅)となる予定である。
この他、表面に貼付されたホログラムの表層はその他の印刷面と触感が異なる透明層で覆われていることから、こちらも触覚で券種を識別する際に使用される。2014年(平成26年)5月12日以降発行のE五千円券は、券種の識別性の向上のためにE一万円券(楕円状)と異なる形状(角丸四角状)の透明層に変更されており、この方法でも券種の識別が可能となった。2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券でも、券種ごとにホログラムの位置を変えるなどして識別可能なように設計されている。
B券以降の日本銀行券には、全て表側に「総裁之印」、裏側に「発券局長」という印章が印刷されている。1993年(平成5年)12月1日のミニ改刷後のD券以降では、表側の「総裁之印」(D券では裏側の「発券局長」も)については、偽造防止技術の一つとして特殊発光インキが採用され、ブラックライトで照らすと蛍光する仕掛けになっている。
「総裁之印」は流通印、「発券局長」は歯止印と呼ばれる。B券より前の日本銀行券では、現在発行中の紙幣と同じ表側「総裁之印」裏側「発券局長」のもののほか、「総裁之印」「発券局長」両方が表側に印刷されているもの、表側の「総裁之印」のみ印刷されているもの、裏側が「発券局長」ではなく「文書局長」(種類によっては「発行局長」あるいは「金庫局長」が合わせて印刷されている)となっているものなどが存在し、日本銀行券のうち最初に発行された日本銀行兌換銀券の旧券(大黒札)では表側が日銀マークの周囲に「日本銀行総裁之章」の文字のあるものと「文書局長」の割印、裏側が「金庫局長」となっていた。
なお、日本以外の多くの国の紙幣とは異なり、券面に発行者の署名(サイン)は記載されていない。
以下の一覧では、特記しないものは印章のデザインが○の中に篆書体の文字が入っているものとなっている。「発行局長」については文字のデザインに2種あるので、篆書体の文字が外側の丸い縁に接しているものを、縁に接していないものをと表記して区別している。
全ての日本銀行券の表面には、題号(表題)として「日本銀行券(あるいは日本銀行兌換券、日本銀行兌換銀券)」、額面金額が漢数字表記で「~円/銭(圓/錢)」、発行元銀行名として「日本銀行」という文言が記載されている。額面金額の漢数字のうち、「一」、「二」、「十」については大字による表記となっており、それぞれ「壱(壹)」、「弐(貳)」、「拾」と表記されている。なお、額面金額は全ての券種で隷書体により表記されているほか、B五十円券以降に発行された日本銀行券は、題号と発行元銀行名も隷書体により表記されている。
また、B券以降に発行された日本銀行券については、裏面に英字表記で額面金額と発行元銀行名がそれぞれ「~ YEN/SEN」、「NIPPON GINKO」と記載されている。その一方で、第二次世界大戦中および終戦直後に発行された日本銀行券の一部など、両面とも英字表記がない日本銀行券も存在する。なお、2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券には、日本銀行券史上初めて英語による発行元銀行名も「BANK OF JAPAN」と記載される。
下表は英字表記による額面金額・発行元銀行名の記載の有無をまとめたものである。
A券の一部券種を除き、日本銀行券の表面下部に銘板(製造者名)が記載されている。発行開始当初から一貫して現在の国立印刷局で製造が行われているものの、組織変更や改称などにより製造者の名称が変遷していることから、銘板の記載も下表の通り移り変わっている。
なお、発行中に製造者名が変更されても製造開始時の銘板のまま継続して発行されるケースが多かったが、D二千円券を除くD券では、製造者の改組により製造中に2回銘板の記載が変更されている。D二千円券の銘板については、後述の通り普及せず製造が中止となっていることもあり、2000年(平成12年)と2003年(平成15年)に「大蔵省印刷局製造」として製造されたのみである。
かつて発行された日本銀行兌換銀券(現在有効な旧一円券・改造一円券含む)および日本銀行兌換券には、それぞれ「此券引かへ𛂋銀貨~圓相渡可申候也」、「此券引換ニ金貨~圓相渡可申候(也)」という兌換文言が記されていた。このほか明治期にデザインされた紙幣では、英語の兌換文言として「(Nippon Ginko) Promises to Pay the Bearer on Demand ~ Yen in Silver/Gold」、発行根拠文言として「明治十七年五月廿六日太政官布告第十八號兌換銀行券條例ヲ遵奉シ(テ)發行スルモノ也」(改造券4種・甲五圓券・甲拾圓券・甲百圓券では仮名部分は平仮名表記)、更に偽造変造罰則文言として「兌換銀行券條例第十二條 兌換銀行券ノ偽造變造ニ係ル罪ハ刑法偽造紙幣ノ各本條ニ照シテ處断ス」などという文言が記されていた。また、日本銀行兌換券では一部の券種を除き、割印のように券面内外に跨るように印字された「日本銀行」の断切文字が裏面右端に配置されていた。
但し、兌換銀券については、1897年(明治30年)の貨幣法と同時に国内での本位銀貨の流通が禁止となり銀兌換が停止されて金兌換券扱いとなり(旧一円券・改造一円券については事実上の不換紙幣となり)、1946年(昭和21年)3月2日までに、旧一円券・改造一円券を除き失効した。また、兌換券については、1931年(昭和6年)の緊急勅令で金輸出停止と同時に金兌換が停止された。その後も法律上は金本位制が維持され、兌換券が発行されているが、実質的には不換紙幣の扱いのまま1946年(昭和21年)3月2日を以って失効となった。
以下の一覧は、兌換文言、発行根拠文言、偽造変造罰則文言および断切文字の記載有無についてまとめたものである。は、兌換文言の引換え対象が銀貨(Silver)であるもの、特記なきものは金貨(Gold)であるものを示す。
第二次世界大戦前に発行された日本銀行兌換券3券種(甲五圓券、甲拾圓券、および甲百圓券)を除き、製造年は記載されていない。硬貨と異なり、記番号により製造時期が特定可能であることと、耐用年数が短いため製造年を入れる意義が薄いのがその理由である。なお、甲五圓券、甲拾圓券、および甲百圓券については、裏面左端に元号表記で製造年が記載されている。
1946年(昭和21年)に実施された新円切替の際、新円の紙幣(A号券)の供給不足を補うため、旧円の紙幣表面右上に切手や収入印紙よりも一回り小さい証紙(證紙)を貼付して暫定的に新円の紙幣の代用として使用する措置が取られていた。
製造期間は1946年(昭和21年)1月から2月までであるが、製造時点では預金封鎖を伴う新円切替を実施することが一般に知られないよう極秘裏に検討されていたため、「無記名証紙」という名目で証紙の利用用途を伏せた状態で製造を行っている。
証紙の様式は1946年(昭和21年)2月20日の大蔵省告示第30号「日本銀行券預入令ノ特例ノ件第一條第二項ノ規定ニ依ル證紙ノ種類及樣式略圖」において定められている。その証紙と貼付対象となった紙幣は次の通り。
上表に掲げた紙幣は本来1946年(昭和21年)3月2日に通用停止となったものである。これらの証紙貼付券は、当時「S券(Stamped noteの略)」と呼ばれていた。十分な量の新円の紙幣(A号券)が供給されたことにより、証紙貼付券は1946年(昭和21年)10月末に通用停止となった。
日本銀行や市中銀行だけでは膨大な量の証紙貼付作業を行うことは不可能であったため、郵便局などの金融機関や自治会などにも委託が行われたほか、新円切替の窓口では証紙貼付券のみならず証紙自体が直接市民に手渡されることもあった。
200円および1000円の証紙貼付券は現存数が極めて少ない。
戦後の混乱期のため、以上の他にも当時通用停止になっていたはずの甲拾圓券・乙拾圓券に証紙が貼られたものや、乙貳拾圓券に10円証紙が2枚貼られたものなども存在するが、これらが通用したかどうかは不明である。
日本銀行券の札束は、取り纏めた枚数の少ないものから多いものへと順に、次のようなものがある。
硬貨の量目と異なり、日本銀行券は、紙ということもあり、重量が正確に何gとの規定はないが、現在発行中の4種の場合は、おおよその目安として1枚あたり約1gとなる。東京の貨幣博物館や日本銀行大阪支店の体験コーナーなどでは1億円(1万円札1万枚、模擬券)の重さを体験できるコーナーがあり、その重さは約10kgとなっている。
日本銀行券では、偽造防止技術として透かし、凹版印刷、三椏(ミツマタ)の紙幣用紙などが伝統的に採用されてきた。印刷面では画線の緻密化、人物肖像など主模様の大型化、印刷色数の増加、模様が途中から色の変わるグラデーション印刷の採用などが行われ、透かしについても図柄の大型化やより鮮明なすき入れ模様に改良されるなど継続的に偽造防止力の向上が図られてきたが、基本的には従来の延長線上にある偽造防止対策が1990年代まで採用され続けていた。
1990年代末期以降、複写機やイメージスキャナ、プリンター、コンピュータの画像処理ソフトウェアなどを使用した偽造券が海外で増え始めており、日本に波及することを未然に防ぐために下記のような新たな偽造防止技術が採用され始めた。諸外国では新たな偽造防止技術を盛り込んだ紙幣が1990年代末期以降次々と発行されており、日本だけが旧世代の印刷技術により紙幣の発行を続けると国際的な偽造団による標的とされる恐れがあることを踏まえ、これ以降に発行開始されたものからは概ね20年程度の間隔で実施される改刷の度に新たな偽造防止技術を追加搭載することで偽造防止力を維持向上している。
以下の偽造防止技術は、ミニ改刷以降のD券各券種(D一万円券・D五千円券・D千円券のうち記番号が褐色・暗緑色のもの)で新たに採用され、以降に発行開始されたD二千円券およびE券各券種(E一万円券・E五千円券・E千円券)にも搭載されている。
以下の偽造防止技術は、D二千円券において従来の偽造防止技術に加えて新たに採用され、以降に発行開始されたE券各券種にも搭載されている。
以下の偽造防止技術は、E券各券種において従来の偽造防止技術に加えて新たに採用された。
なお、E券各券種でも搭載されていた、マイクロ文字、特殊発光インキ、深凹版印刷、潜像模様、パールインク、すき入れバーパターン等の偽造防止技術も引き続き採用される。
上述の偽造防止技術の採用状況は下表の通りである。○は採用、●はごく一部を除く券種で採用、△はマイクロ文字の微細の程度を問題にしないならば一部の券種で採用、-は非採用のものを示す。
偽造防止の為、B券発行以降は約20年に一度、デザインが変更されている。変更の際には常に最新技術を導入し、偽札対策を施している。デザインの変更がなくても、後から偽造防止策が導入されることもある。1993年(平成5年)12月1日以降改刷発行されたD一万円券、D五千円券およびD千円券(記番号が褐色、暗緑色であるD券)は、従前のD券とデザインは同じであるが、前述する通り「マイクロ文字」「特殊発光インキ」などの偽造防止策が新規に導入(ミニ改刷)された。
2000年(平成12年)には二千円券が新たに発行された。この二千円券は記念紙幣ではなく一般に流通することを想定して発行された紙幣である。しかしこの二千円券は結局普及しないまま現在に至っている。理由としては以下のような事情が考えられる。
日本銀行は「二千円券の利便性」を主張している、あるいは "していた" が、上述のように、二千円券を普及流通させることは2021年(令和3年)現在できないでいる。日本銀行からの発券枚数自体は、五千円券のそれを超えていることも一時期あったが、各地の銀行の金庫で眠っているのが実情であり、市中流通枚数は少ない。二千円券にゆかりの深い沖縄県においては、盛んに普及キャンペーンが行われたことと、本土復帰以前は20ドル札を含む米ドル紙幣が法定通貨であったこともあり、流通量は他都道府県に比べて高い時期があった。政府・日銀・沖縄と無関係の著名人でも、音楽評論家・指揮者の宇野功芳や新聞記者・政治評論家の橋本五郎のように「むしろ五千円札のほうが不便であり、二千円札は使いやすく美しい」(宇野)・「二千円札に込められた思いやデザインの美しさ、便利さは評価できる。普及しないのは普及施策の不十分さ故」(橋本)と主張している例もある。 D二千円券は、現在発行中の紙幣であるので、金融機関の窓口で出金・両替する時は、在庫があれば、二千円券にして欲しい旨申請すれば供給される。また金融機関の両替機でも二千円券の出金を選択できる機種があり、ATMでも一部の機種(主に沖縄県のもの)では二千円券を出金できる。
2004年(平成16年)11月には20年ぶりに一万円券・五千円券・千円券が新しいデザイン(E券)に更新された。こちらは二千円券とは異なり、従来からあった券種であり心理的に受け入れやすかったこと、ATMや自動販売機では識別装置のプログラムの更新だけで済むため入出金対応が迅速になされたこと、またD券(二千円券を除く)の偽造が社会問題となっていたことなどにより、急速に普及した。
2019年(平成31年)4月9日、日本政府は、2024年度(令和6年度)上期を目途に千円券・五千円券・一万円券を改刷すると発表した。
日本銀行の本支店窓口において、破損(破れなどの損傷や、汚染など)や磨損(すり減りなど)により通用や使用に支障が出た日本銀行券(紙幣)について交換業務(引換え)を行っている。損傷していなくても、現在発行されていない旧紙幣は同様にこの交換業務(引換え)の対象となる。
破損などの事由には故意、過失など理由を問わない。震災・災害などの発生時は、焼損、汚損などした紙幣などの交換業務が集中することがある。なお、有害物質(放射性物質、毒劇物、化学兵器や生物兵器その他)により汚染された紙幣については、日本銀行への届け出前に、当該有害物質の所管官庁などに相談する必要がある。
窓口に出向き届け出る事が必要であり、郵送などの対応は行わない。また、日本銀行本支店では、引き換えに要する時間その他の事務上の理由から、来店前に事前に電話などをする事を推奨している。
これらの損傷時交換対応などは、日本銀行券であると言う建前上、日本銀行窓口でも直接行う事が定められている。その一方で日本銀行窓口では両替業務を行っていないので、例えば損傷などで通用や使用に支障が具体的に出ている訳ではない紙幣を日本銀行窓口で交換する事はできない(特に新札入手目的の利用は不可)。
また、これらの損傷時交換対応などは、少量・損傷判定が明確であれば、銀行法上の銀行窓口においても対応する場合がある。ただし銀行法上の銀行における交換業務は義務対応ではないので、銀行によって対応が異なる(大量であったり損傷判定が明確でない場合に、銀行が日銀鑑定に回付し、後日口座に入金対応までしてもらえる場合がある。ただしこれも義務対応ではない)。ゆうちょ銀行窓口においては両替業務を行っていない関係上、損傷紙幣の交換も行っていない。
紙幣の滅消した部分を除いた残存部分の面積により、引換え価額が異なる。単純に2枚に破れたような場合は、破れ目が合うことが確認できれば全額(100%)交換となる。
なお、残存部分は裏・表両面が分離していないことが要件であり、仮に紙幣を漉いて裏と表の2枚に分離した場合などは、全面積が滅消したものとして扱う(全額失効)。焼損や汚染、細片化などがあっても、紙幣の一部と確認できる部分については残存部分として扱う。また、2片以上に細片化されていても模様の一致や記番号の確認により同一紙幣の一部であると確認できる場合は、一紙幣の残存部分として扱う。
引換え基準における2/3と2/5という分数は、通分すると10/15と6/15となり、足すと16/15で1より大きくなるため、紙幣を切断・分割し残りを別の紙幣のものだとして、元の額面より多くの金額を得ることはできないようになっている。 | [
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"text": "日本銀行券(にほんぎんこうけん、にっぽんぎんこうけん)は、日本の中央銀行である日本銀行が発行する紙幣。",
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"text": "日本銀行は、日本銀行法を根拠に、日本銀行券を発行し(市中に払い出し)通貨として流通させている。具体的には、日本銀行の取引先金融機関が日本銀行に保有している当座預金を引き出し、日本銀行券を受け取ることによって、市中に流通し、この時点で日本銀行券が発行されたことになる。日本銀行券には日本国内で法定通貨として無制限に通用する強制通用力が付与されている。",
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"text": "過去に発行されていた日本銀行券の中には各種法令により既に失効しているもの(失効券)がある。失効券以外は、古い日本銀行券であっても現在発行中の券と同様に法定通貨として有効である。有効券の中には「日本銀行兌換銀券」と表記されているものもあるが、現在は不換紙幣扱いのため、本位銀貨(一円銀貨)と引き換えることはできない。なお「日本銀行兌換券」と表記されているものは、発行当時本位金貨と引き換えることができたが、のちに不換紙幣扱いとされた時期を経て(一部は通用期間全てにわたって事実上の不換紙幣だった)、現在では全て失効券となっている。",
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"text": "現在発行中の日本銀行券は、独立行政法人国立印刷局によって製造され、日本銀行に納入されている。2009年度(平成21年度)の計33億枚の日本銀行券製造費は約509億円であり、1枚当たり15.4円となる。",
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"text": "日本銀行に戻った日本銀行券のうち、損傷・汚染の度合いが少なく再度の流通に適していると判断されたものは再び金融機関を通じて市中に流通する。一方、流通に適さないほど損傷や汚染などの激しい日本銀行券(損券。このうちテープ等が貼られているなど損傷などの度合いが特にひどいものは日銀用語で「赤丸券」と呼ばれる)は、復元不能な大きさに裁断された上で廃棄処分される。この日本銀行券の裁断屑の多くは焼却処分されているが、一部は製紙会社に渡されて、住宅用外壁材、固形燃料、トイレットペーパー、貯金箱、靴・スリッパの中敷きや書類箱、写真立て、バインダー、ファイルなどの日用雑貨・事務用品などにリサイクルされているものもある。",
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"text": "現在、主に流通しているのは2004年(平成16年)発行開始のE券(一万円券・五千円券・千円券)および2000年(平成12年)発行開始のD二千円券である。",
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"text": "日本銀行や国立印刷局ではそれぞれの日本銀行券(紙幣)を「一万円券」「千円券」などと称している。一般的な通称として「一万円札」「千円札」などとも呼ばれる。",
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"text": "日本銀行券に関する年表を以下に示す。なお、日本銀行券と並行して流通し、同様の紙幣通貨として区別なく使用された小額政府紙幣についても、便宜上下記の年表に掲載する。",
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"text": "下線は現在有効な券を示す。各券種の冒頭の符号(旧、改造、甲、い、Aなど)については後述の#様式符号参照。",
"title": "歴史"
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"text": "明治維新以降、改造紙幣などの政府紙幣や民間銀行が発行した国立銀行紙幣が発行されていたが、紙幣を濫発した結果インフレーションが発生するなどの問題が発生していた。これを収拾するために政府から独立した中央銀行として日本銀行が創設され、唯一の発券銀行として事実上の銀本位制に基づく「日本銀行兌換銀券」が発行されることとなった。当初は200円から1円まで7券種を発行する計画であったが、当時の紙幣製造能力や需要を勘案した結果200円、50円、20円は製造対象から外され、100円、10円、5円、1円の4券種のみが発行された。",
"title": "歴史"
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"text": "金本位制の確立に伴い、日本銀行が発行する銀行券は金兌換券としての「日本銀行兌換券」に移行した。1899年(明治32年)末には旧来の雑多な紙幣を失効し、日本国内で流通する紙幣の日本銀行券への一本化が完了した。その後は写真技術や印刷技術の向上に伴い精巧な偽造券が発見されるようになったことや、経済発展とともに紙幣発行高が増大したことなどからこれに対応する新紙幣が順次登場していった。",
"title": "歴史"
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"text": "1927年(昭和2年)に発生した昭和金融恐慌の際には、その沈静化のために史上稀に見る裏面の印刷が省略された乙貳百圓券紙幣が急造されることとなった。",
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"paragraph_id": 12,
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"text": "1923年(大正12年)の関東大震災により滅失した兌換券の整理のために旧紙幣は回収されることとなり、交換対象となる乙百圓券・丙拾圓券・丁五圓券が1930年(昭和5年)に発行された。このシリーズの日本銀行兌換券では一定のテーマに基いた統一性のあるデザインが入念な検討のもとに施され、技術的な観点からも当時の紙幣製造の最高技術を結集して製造されたものであり、デザイン面・印刷技術面の両面で世界的に遜色のない水準の紙幣であった。回収対象となる旧紙幣については1931年(昭和6年)12月までに全体の9割以上が回収され、旧紙幣失効後の1939年(昭和14年)4月時点の最終的な未回収率は発行高の3%程度という結果となった。",
"title": "歴史"
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"text": "1931年(昭和6年)の金兌換停止を受けて、1942年(昭和17年)には法的にも管理通貨制度に移行した。これに伴い不換紙幣としての「日本銀行券」が発行されることとなるが、第二次世界大戦の影響により発行される銀行券は次第に品質を落とした簡素なものとなり、やがて戦況の悪化と共に従前では考えられなかったような劣悪な品質の銀行券が粗製濫造されるに至った。大戦末期から終戦直後にかけては製造設備や材料の確保すら事欠くようになり、一層の仕様簡素化のために印刷方式や紙幣用紙など度重なる仕様変更が頻繁に行われ、果ては製造されながらも発行に至らない未発行券が複数発生するなど混乱した状況が窺える。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦終戦後の猛烈なハイパーインフレーションの抑制策として新円切替が行われることとなり、切替用の新円としてデザインを一新したA号券が緊急に発行された。しかしながら新円切替をもってしてもインフレーションを食い止めることはできず、1円未満の法定通貨(紙幣・硬貨)は無意味なものとなり廃止されることとなった。また切迫した状況下で発行されたA号券は簡易な仕様により粗製されたもので偽造が絶えなかったことから、本格的な紙幣としてB号券が投入され、その後は高度経済成長の進展とともに五千円紙幣・一万円紙幣といった高額紙幣が順次登場していった。1984年以降は偽造防止力の維持向上のために概ね20年おきに改刷が行われており、印刷技術の向上に応じて改刷の度に新たな偽造防止対策が搭載されている。キャッシュレス化が進みつつある2010年代以降も、日本銀行券の流通量は継続的に増加し続けている状況にある。",
"title": "歴史"
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"text": "券名の最初の文字は発行された時期によって紙幣を分類する符号で、正式には様式符号という。A券、B券またはA号券、B号券などと呼ばれ、概ね次の通りである。カッコ書きは未発行を示す。",
"title": "日本銀行券一覧"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "額面金額ごとに整理すると下記の通りとなる。*は2024年度(令和6年度)発行予定のものである。",
"title": "日本銀行券一覧"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "なお、A券以降は発行開始時期が近い券種を1つの単位として同じ様式符号が付与されているが、それ以前は単純に額面金額ごとの発行順(計画されていたが未発行の券種を含む)に符号が付与されていた。このため、同じ様式符号であっても近い時期の発行とは限らない点に留意する必要がある。下表は、各券種の様式符号を発行開始時期・発行契機ごとに整理したものである。*は2024年度(令和6年度)発行予定のものを示す。",
"title": "日本銀行券一覧"
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"text": "ここでは、発行されたものと呼称は同一だがデザインが異なるもの(不採用となったデザイン)についても扱う。下記の日本の未発行紙幣は、発行を前提として製造された分は全て廃棄処分されて現存しておらず、見本券が少数現存するのみとなっている。",
"title": "日本銀行券一覧"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "日本銀行券の原材料には、和紙と同じく三椏(ミツマタ)と、耐久性向上のためマニラ麻が使用されている。これは、繊維が頑丈で独特の手触りがあるために、偽造の防止にも効果があるためである。第二次世界大戦末期や終戦直後のインフレ時には、三椏の生産が追いつかないため、三椏の割合を減らしたり、通常のパルプを使用していたこともあったが、耐久性に難がある上に大量の偽札が出回り、経済や社会の混乱を招いたために、「粗悪な紙は通貨の信用を落とす」として取りやめとなった。",
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "国内産の「局納みつまた」は、2000年代までは国内での自給自足を維持しており、2005年(平成17年)の時点で島根県・岡山県・高知県・徳島県・愛媛県・山口県の6県が国立印刷局と生産契約を結んでいた。各県に「局納みつまた生産協力会」といった生産者団体が組織されており、局納価格は山口県を除く5県が毎年輪番で印刷局長と交渉して決定された。しかし、生産地の過疎化や農家の高齢化、後継者不足により、2005年度(平成17年度)以降は生産量が激減し、2016年(平成28年)では岡山県、徳島県、島根県の3県だけで生産されており、出荷もこの3県の農協に限られる。",
"title": "日本銀行券の様式"
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"tag": "p",
"text": "これに対応するために、2010年度(平成22年度)以降は中華人民共和国、ネパール産の三椏の輸入で不足分を補うようになっており、その結果、2016年度(平成28年度)に使った三椏の白皮のうち約9割が外国産となった。外国産三椏は国内産と比べて調達価格が25%程度と安く、経費節減につながる利点がある。その反面、輸入先の災害などによる調達のリスクもある。ネパールにおいて三椏の生産地が2015年(平成27年)の大地震で大きな被害を受けた実例もあり、三椏の安定供給を保つために、国立印刷局は国内で新たな出荷元を探している。",
"title": "日本銀行券の様式"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ラテン文字(アルファベット)と算用数字の組み合わせによる通し番号という形式である。各券種の日本銀行券1枚ずつ固有のものである。ただし、記番号の組み合わせを全て使い切ってしまった場合、あるいは紙幣の仕様をマイナーチェンジする場合、印刷色を変えて再度同じ記番号が使われている。アルファベット26文字のうち、「I」(アイ)と「O」(オー)は、数字の「1」「0」と紛らわしいため使用されない。従って使用されるアルファベットは24文字となる。",
"title": "日本銀行券の様式"
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{
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"tag": "p",
"text": "結局、同一印刷色の記番号で (24×900,000×24)+(24×24×900,000×24) = 12,960,000,000 (129億6千万)枚まで製造・発行できることになる。記番号を数字に例えるなら、上記 1. 2. 3. のうち、最も上位の桁は 1. で、次が 3. 最下位の桁が 2. である。例えば、E千円券を小田原工場で製造する場合、「AA900000H」の次に製造すべきは「AA000001J」であり、「AA900000N」の次は「BA000001H」である。同一デザインの紙幣の製造中に、記番号の組み合わせの枯渇などの理由により記番号の色が変わる場合、記番号の色は上記の 1. より更に上位の桁とみなすこともできる。",
"title": "日本銀行券の様式"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "これまでに記番号の色が変更された紙幣は次の通り。なお、変更の理由は、 記番号の組み合わせの枯渇、 紙幣の仕様のマイナーチェンジ、である。",
"title": "日本銀行券の様式"
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{
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"tag": "p",
"text": "この形式の記番号は、C一万円券とC五千円券では左上・右上・左下・右下の4か所、それ以外の紙幣では左上と右下の2か所に印刷されている。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "記番号の書体については、印刷局独自の特殊なものが採用されている。C号券 - E号券では、同じ書体が採用されている券種でグループ分けすると、次の箇条書きのようになる。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "C号券4種(このうちC千円券については黒記番号のもの)については、沖縄の本土復帰に伴う通貨交換(第五次通貨交換)用の特殊記号券が存在し、記番号の英字の組み合わせのうちごく一部の特定のものがこれに当たるが、その現存数は非常に少ない。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券では、「AA000001AA」のように、左側にアルファベット2桁、中央に数字6桁、右側にもアルファベット2桁という構成となる予定。",
"title": "日本銀行券の様式"
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"tag": "p",
"text": "この形式の記番号は、B券からE券までの紙幣のうちC一万円券とC五千円券以外のものと同様、紙幣の左上と右下の2か所に印刷されている。",
"title": "日本銀行券の様式"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "B券より前の日本銀行券の記番号は基本的に「組番号(記号)・通し番号」という形式であった。この場合も通し番号は基本的に、B券以降のアルファベットに挟まれた数字6桁と同様、000001から900000までの90万通りであったが、一部の券種では不良券との差し替え用に900001以降の通し番号が印刷されることがあった(補刷券)。",
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1887年(明治20年)に、日本武尊・武内宿禰・藤原鎌足・聖徳太子・和気清麻呂・坂上田村麻呂・菅原道真の7人を日本銀行券の肖像候補として選定した。いずれも紙幣肖像の彫刻に必要となる写真や明確な肖像画が残っていない人物であるため、当時お雇い外国人として来日し、日本の紙幣製造の技術指導に当たっていたイタリア人で画家のエドアルド・キヨッソーネが、文献資料や絵画・彫刻などから各人の事蹟や性格、容姿などを研究し風貌を脳裏に描いてから、そのイメージに似合う実在の(当時生きていたあるいは写真が残っていた)別の人物を探し、その人物をモデルとして描いたとされる。 その後、戦前の日本銀行券の肖像には前述の候補の7人のうち、坂上田村麻呂以外の6人が採用されている。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1946年(昭和21年)に大蔵省印刷局は、光明皇后・聖徳太子・貝原益軒・菅原道真・松方正義・板垣退助・木戸孝允・大久保利通・野口英世・渋沢栄一・岩倉具視・二宮尊徳・福沢諭吉・青木昆陽・夏目漱石・吉原重俊・新井白石・伊能忠敬・勝安房・三条実美の20人を紙幣の肖像候補としてリストアップした事が確認されている。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "戦後、B号券以降は、聖徳太子以外は写真が現存している近代の人物が採用されるようになった。A百円券やB券、C券では聖徳太子と近代政治家の肖像が採用された。聖徳太子は高額券に採用されたため、「高額券=聖徳太子」のイメージは昭和生まれ世代にはなじみ深いものである。1984年(昭和59年)のD券以降は、D二千円券を除きいわゆる文化人が肖像に採用されている。D二千円券は表が人物の肖像ではなく、建築物を像としている点で特異である。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "なお、D五千円券でピックアップされた新渡戸稲造は1981年(昭和56年)の紙幣刷新決定当時に在任中の鈴木善幸内閣総理大臣と同じ出身地であったり、E一万円券にピックアップされた福澤諭吉は2001年(平成13年)の紙幣刷新決定当時に在任中の小泉純一郎内閣総理大臣・塩川正十郎財務大臣の出身校である慶應義塾大学の創設者であったほか、2024年(令和6年)に発行される新たな一万円券にピックアップされた渋沢栄一は2019年(令和元年)の紙幣刷新発表当時に在任中であった安倍晋三内閣総理大臣・麻生太郎財務大臣の親戚にあたる人物であるなど、デザイン決定時の首相や大臣に関連する人物が取り上げられるケースもある。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "また、肖像の人名については、B号券以降では肖像が描かれていないD二千円券以外の全券種に記載されているが、B号券より前の券種には記載されていないものが多く、改造券4種と甲百圓券・甲拾圓券・甲五圓券に記載されている程度であり、これらの紙幣に描かれている武内宿禰・菅原道真・和気清麻呂・藤原鎌足の紙幣券面の人名表記は、それぞれ「武内大臣」「菅原道真公」「和氣清麻呂卿」「藤原鎌足公」となっている。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "下線は現在有効な券を示す。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "以下の人物の肖像は2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券で採用される予定である。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "戦前の日本銀行券では、券面に印刷されている肖像の人物と関わりの深い神社などが図案の題材として多く採用されていた。戦後に発行された日本銀行券では、国会議事堂や富士山など、日本を象徴する建築物や風景、動植物などが採用されることが多い。2000年代以降のD二千円券やE号券、2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券では、著名な芸術作品なども題材として採用されるようになっている。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "なお、肖像には改造券4種やB号券以降の各券種などにおいて人名が付記されているのとは異なり、肖像以外の図案については題材についての注記は記載されていないものがほとんどである。ただし、甲百圓券・甲拾圓券・甲五圓券の3券種に限って題材の神社名が注記として記載されている。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "下線は現在有効な券を示す。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "なお、上記の他に、彩紋や地模様の一部として菊花や桜花、宝相華などのデザインが取り入れられた券種が存在する。また、乙百圓券を筆頭に、丙拾圓券、い号券やB号券の一部券種などでは法隆寺や正倉院に関連する文化財を基にしたデザインが地模様や輪郭などに多数採用されていた。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "以下の図案は2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券で採用される予定である。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "D券以降の日本銀行券では、視覚障害者が触覚で容易に券種を識別できるように識別マークが施されている。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "二千円券以外のD券では、透かしにより各券の表面から見て左下隅に施されており、D一万円券は点字の「う」を模した「丸印が横に2つ」、D五千円券は点字の「い」を模した「丸印が縦に2つ」、D千円券は点字の「あ」を模した「丸印が1つ」となっている。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "D二千円券およびE券では、深凹版印刷により左下と右下の両隅に施されており、D二千円券は点字の「に」を模した「丸印が縦に3つ」、E一万円券は「左下隅L字・右下隅逆L字」、E五千円券は「八角形」、E千円券は「横棒」となっている。2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券でも深凹版印刷により施される予定だが、斜線の連続模様の印刷位置を券種ごとに変える方式(一万円券は左右隅、五千円券は上下隅、千円券は右上隅・左下隅)となる予定である。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "この他、表面に貼付されたホログラムの表層はその他の印刷面と触感が異なる透明層で覆われていることから、こちらも触覚で券種を識別する際に使用される。2014年(平成26年)5月12日以降発行のE五千円券は、券種の識別性の向上のためにE一万円券(楕円状)と異なる形状(角丸四角状)の透明層に変更されており、この方法でも券種の識別が可能となった。2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券でも、券種ごとにホログラムの位置を変えるなどして識別可能なように設計されている。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "B券以降の日本銀行券には、全て表側に「総裁之印」、裏側に「発券局長」という印章が印刷されている。1993年(平成5年)12月1日のミニ改刷後のD券以降では、表側の「総裁之印」(D券では裏側の「発券局長」も)については、偽造防止技術の一つとして特殊発光インキが採用され、ブラックライトで照らすと蛍光する仕掛けになっている。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "「総裁之印」は流通印、「発券局長」は歯止印と呼ばれる。B券より前の日本銀行券では、現在発行中の紙幣と同じ表側「総裁之印」裏側「発券局長」のもののほか、「総裁之印」「発券局長」両方が表側に印刷されているもの、表側の「総裁之印」のみ印刷されているもの、裏側が「発券局長」ではなく「文書局長」(種類によっては「発行局長」あるいは「金庫局長」が合わせて印刷されている)となっているものなどが存在し、日本銀行券のうち最初に発行された日本銀行兌換銀券の旧券(大黒札)では表側が日銀マークの周囲に「日本銀行総裁之章」の文字のあるものと「文書局長」の割印、裏側が「金庫局長」となっていた。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "なお、日本以外の多くの国の紙幣とは異なり、券面に発行者の署名(サイン)は記載されていない。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "以下の一覧では、特記しないものは印章のデザインが○の中に篆書体の文字が入っているものとなっている。「発行局長」については文字のデザインに2種あるので、篆書体の文字が外側の丸い縁に接しているものを、縁に接していないものをと表記して区別している。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "全ての日本銀行券の表面には、題号(表題)として「日本銀行券(あるいは日本銀行兌換券、日本銀行兌換銀券)」、額面金額が漢数字表記で「~円/銭(圓/錢)」、発行元銀行名として「日本銀行」という文言が記載されている。額面金額の漢数字のうち、「一」、「二」、「十」については大字による表記となっており、それぞれ「壱(壹)」、「弐(貳)」、「拾」と表記されている。なお、額面金額は全ての券種で隷書体により表記されているほか、B五十円券以降に発行された日本銀行券は、題号と発行元銀行名も隷書体により表記されている。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "また、B券以降に発行された日本銀行券については、裏面に英字表記で額面金額と発行元銀行名がそれぞれ「~ YEN/SEN」、「NIPPON GINKO」と記載されている。その一方で、第二次世界大戦中および終戦直後に発行された日本銀行券の一部など、両面とも英字表記がない日本銀行券も存在する。なお、2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券には、日本銀行券史上初めて英語による発行元銀行名も「BANK OF JAPAN」と記載される。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "下表は英字表記による額面金額・発行元銀行名の記載の有無をまとめたものである。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "A券の一部券種を除き、日本銀行券の表面下部に銘板(製造者名)が記載されている。発行開始当初から一貫して現在の国立印刷局で製造が行われているものの、組織変更や改称などにより製造者の名称が変遷していることから、銘板の記載も下表の通り移り変わっている。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "なお、発行中に製造者名が変更されても製造開始時の銘板のまま継続して発行されるケースが多かったが、D二千円券を除くD券では、製造者の改組により製造中に2回銘板の記載が変更されている。D二千円券の銘板については、後述の通り普及せず製造が中止となっていることもあり、2000年(平成12年)と2003年(平成15年)に「大蔵省印刷局製造」として製造されたのみである。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "かつて発行された日本銀行兌換銀券(現在有効な旧一円券・改造一円券含む)および日本銀行兌換券には、それぞれ「此券引かへ𛂋銀貨~圓相渡可申候也」、「此券引換ニ金貨~圓相渡可申候(也)」という兌換文言が記されていた。このほか明治期にデザインされた紙幣では、英語の兌換文言として「(Nippon Ginko) Promises to Pay the Bearer on Demand ~ Yen in Silver/Gold」、発行根拠文言として「明治十七年五月廿六日太政官布告第十八號兌換銀行券條例ヲ遵奉シ(テ)發行スルモノ也」(改造券4種・甲五圓券・甲拾圓券・甲百圓券では仮名部分は平仮名表記)、更に偽造変造罰則文言として「兌換銀行券條例第十二條 兌換銀行券ノ偽造變造ニ係ル罪ハ刑法偽造紙幣ノ各本條ニ照シテ處断ス」などという文言が記されていた。また、日本銀行兌換券では一部の券種を除き、割印のように券面内外に跨るように印字された「日本銀行」の断切文字が裏面右端に配置されていた。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "但し、兌換銀券については、1897年(明治30年)の貨幣法と同時に国内での本位銀貨の流通が禁止となり銀兌換が停止されて金兌換券扱いとなり(旧一円券・改造一円券については事実上の不換紙幣となり)、1946年(昭和21年)3月2日までに、旧一円券・改造一円券を除き失効した。また、兌換券については、1931年(昭和6年)の緊急勅令で金輸出停止と同時に金兌換が停止された。その後も法律上は金本位制が維持され、兌換券が発行されているが、実質的には不換紙幣の扱いのまま1946年(昭和21年)3月2日を以って失効となった。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "以下の一覧は、兌換文言、発行根拠文言、偽造変造罰則文言および断切文字の記載有無についてまとめたものである。は、兌換文言の引換え対象が銀貨(Silver)であるもの、特記なきものは金貨(Gold)であるものを示す。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦前に発行された日本銀行兌換券3券種(甲五圓券、甲拾圓券、および甲百圓券)を除き、製造年は記載されていない。硬貨と異なり、記番号により製造時期が特定可能であることと、耐用年数が短いため製造年を入れる意義が薄いのがその理由である。なお、甲五圓券、甲拾圓券、および甲百圓券については、裏面左端に元号表記で製造年が記載されている。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1946年(昭和21年)に実施された新円切替の際、新円の紙幣(A号券)の供給不足を補うため、旧円の紙幣表面右上に切手や収入印紙よりも一回り小さい証紙(證紙)を貼付して暫定的に新円の紙幣の代用として使用する措置が取られていた。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "製造期間は1946年(昭和21年)1月から2月までであるが、製造時点では預金封鎖を伴う新円切替を実施することが一般に知られないよう極秘裏に検討されていたため、「無記名証紙」という名目で証紙の利用用途を伏せた状態で製造を行っている。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "証紙の様式は1946年(昭和21年)2月20日の大蔵省告示第30号「日本銀行券預入令ノ特例ノ件第一條第二項ノ規定ニ依ル證紙ノ種類及樣式略圖」において定められている。その証紙と貼付対象となった紙幣は次の通り。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "上表に掲げた紙幣は本来1946年(昭和21年)3月2日に通用停止となったものである。これらの証紙貼付券は、当時「S券(Stamped noteの略)」と呼ばれていた。十分な量の新円の紙幣(A号券)が供給されたことにより、証紙貼付券は1946年(昭和21年)10月末に通用停止となった。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "日本銀行や市中銀行だけでは膨大な量の証紙貼付作業を行うことは不可能であったため、郵便局などの金融機関や自治会などにも委託が行われたほか、新円切替の窓口では証紙貼付券のみならず証紙自体が直接市民に手渡されることもあった。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "200円および1000円の証紙貼付券は現存数が極めて少ない。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "戦後の混乱期のため、以上の他にも当時通用停止になっていたはずの甲拾圓券・乙拾圓券に証紙が貼られたものや、乙貳拾圓券に10円証紙が2枚貼られたものなども存在するが、これらが通用したかどうかは不明である。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "日本銀行券の札束は、取り纏めた枚数の少ないものから多いものへと順に、次のようなものがある。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "硬貨の量目と異なり、日本銀行券は、紙ということもあり、重量が正確に何gとの規定はないが、現在発行中の4種の場合は、おおよその目安として1枚あたり約1gとなる。東京の貨幣博物館や日本銀行大阪支店の体験コーナーなどでは1億円(1万円札1万枚、模擬券)の重さを体験できるコーナーがあり、その重さは約10kgとなっている。",
"title": "日本銀行券の様式"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "日本銀行券では、偽造防止技術として透かし、凹版印刷、三椏(ミツマタ)の紙幣用紙などが伝統的に採用されてきた。印刷面では画線の緻密化、人物肖像など主模様の大型化、印刷色数の増加、模様が途中から色の変わるグラデーション印刷の採用などが行われ、透かしについても図柄の大型化やより鮮明なすき入れ模様に改良されるなど継続的に偽造防止力の向上が図られてきたが、基本的には従来の延長線上にある偽造防止対策が1990年代まで採用され続けていた。",
"title": "日本銀行券の偽造防止技術"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "1990年代末期以降、複写機やイメージスキャナ、プリンター、コンピュータの画像処理ソフトウェアなどを使用した偽造券が海外で増え始めており、日本に波及することを未然に防ぐために下記のような新たな偽造防止技術が採用され始めた。諸外国では新たな偽造防止技術を盛り込んだ紙幣が1990年代末期以降次々と発行されており、日本だけが旧世代の印刷技術により紙幣の発行を続けると国際的な偽造団による標的とされる恐れがあることを踏まえ、これ以降に発行開始されたものからは概ね20年程度の間隔で実施される改刷の度に新たな偽造防止技術を追加搭載することで偽造防止力を維持向上している。",
"title": "日本銀行券の偽造防止技術"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "以下の偽造防止技術は、ミニ改刷以降のD券各券種(D一万円券・D五千円券・D千円券のうち記番号が褐色・暗緑色のもの)で新たに採用され、以降に発行開始されたD二千円券およびE券各券種(E一万円券・E五千円券・E千円券)にも搭載されている。",
"title": "日本銀行券の偽造防止技術"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "以下の偽造防止技術は、D二千円券において従来の偽造防止技術に加えて新たに採用され、以降に発行開始されたE券各券種にも搭載されている。",
"title": "日本銀行券の偽造防止技術"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "以下の偽造防止技術は、E券各券種において従来の偽造防止技術に加えて新たに採用された。",
"title": "日本銀行券の偽造防止技術"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "なお、E券各券種でも搭載されていた、マイクロ文字、特殊発光インキ、深凹版印刷、潜像模様、パールインク、すき入れバーパターン等の偽造防止技術も引き続き採用される。",
"title": "日本銀行券の偽造防止技術"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "上述の偽造防止技術の採用状況は下表の通りである。○は採用、●はごく一部を除く券種で採用、△はマイクロ文字の微細の程度を問題にしないならば一部の券種で採用、-は非採用のものを示す。",
"title": "日本銀行券の偽造防止技術"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "偽造防止の為、B券発行以降は約20年に一度、デザインが変更されている。変更の際には常に最新技術を導入し、偽札対策を施している。デザインの変更がなくても、後から偽造防止策が導入されることもある。1993年(平成5年)12月1日以降改刷発行されたD一万円券、D五千円券およびD千円券(記番号が褐色、暗緑色であるD券)は、従前のD券とデザインは同じであるが、前述する通り「マイクロ文字」「特殊発光インキ」などの偽造防止策が新規に導入(ミニ改刷)された。",
"title": "日本銀行券の改刷や新規発行"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2000年(平成12年)には二千円券が新たに発行された。この二千円券は記念紙幣ではなく一般に流通することを想定して発行された紙幣である。しかしこの二千円券は結局普及しないまま現在に至っている。理由としては以下のような事情が考えられる。",
"title": "日本銀行券の改刷や新規発行"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "日本銀行は「二千円券の利便性」を主張している、あるいは \"していた\" が、上述のように、二千円券を普及流通させることは2021年(令和3年)現在できないでいる。日本銀行からの発券枚数自体は、五千円券のそれを超えていることも一時期あったが、各地の銀行の金庫で眠っているのが実情であり、市中流通枚数は少ない。二千円券にゆかりの深い沖縄県においては、盛んに普及キャンペーンが行われたことと、本土復帰以前は20ドル札を含む米ドル紙幣が法定通貨であったこともあり、流通量は他都道府県に比べて高い時期があった。政府・日銀・沖縄と無関係の著名人でも、音楽評論家・指揮者の宇野功芳や新聞記者・政治評論家の橋本五郎のように「むしろ五千円札のほうが不便であり、二千円札は使いやすく美しい」(宇野)・「二千円札に込められた思いやデザインの美しさ、便利さは評価できる。普及しないのは普及施策の不十分さ故」(橋本)と主張している例もある。 D二千円券は、現在発行中の紙幣であるので、金融機関の窓口で出金・両替する時は、在庫があれば、二千円券にして欲しい旨申請すれば供給される。また金融機関の両替機でも二千円券の出金を選択できる機種があり、ATMでも一部の機種(主に沖縄県のもの)では二千円券を出金できる。",
"title": "日本銀行券の改刷や新規発行"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "2004年(平成16年)11月には20年ぶりに一万円券・五千円券・千円券が新しいデザイン(E券)に更新された。こちらは二千円券とは異なり、従来からあった券種であり心理的に受け入れやすかったこと、ATMや自動販売機では識別装置のプログラムの更新だけで済むため入出金対応が迅速になされたこと、またD券(二千円券を除く)の偽造が社会問題となっていたことなどにより、急速に普及した。",
"title": "日本銀行券の改刷や新規発行"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "2019年(平成31年)4月9日、日本政府は、2024年度(令和6年度)上期を目途に千円券・五千円券・一万円券を改刷すると発表した。",
"title": "日本銀行券の改刷や新規発行"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "日本銀行の本支店窓口において、破損(破れなどの損傷や、汚染など)や磨損(すり減りなど)により通用や使用に支障が出た日本銀行券(紙幣)について交換業務(引換え)を行っている。損傷していなくても、現在発行されていない旧紙幣は同様にこの交換業務(引換え)の対象となる。",
"title": "損傷時の交換"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "破損などの事由には故意、過失など理由を問わない。震災・災害などの発生時は、焼損、汚損などした紙幣などの交換業務が集中することがある。なお、有害物質(放射性物質、毒劇物、化学兵器や生物兵器その他)により汚染された紙幣については、日本銀行への届け出前に、当該有害物質の所管官庁などに相談する必要がある。",
"title": "損傷時の交換"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "窓口に出向き届け出る事が必要であり、郵送などの対応は行わない。また、日本銀行本支店では、引き換えに要する時間その他の事務上の理由から、来店前に事前に電話などをする事を推奨している。",
"title": "損傷時の交換"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "これらの損傷時交換対応などは、日本銀行券であると言う建前上、日本銀行窓口でも直接行う事が定められている。その一方で日本銀行窓口では両替業務を行っていないので、例えば損傷などで通用や使用に支障が具体的に出ている訳ではない紙幣を日本銀行窓口で交換する事はできない(特に新札入手目的の利用は不可)。",
"title": "損傷時の交換"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "また、これらの損傷時交換対応などは、少量・損傷判定が明確であれば、銀行法上の銀行窓口においても対応する場合がある。ただし銀行法上の銀行における交換業務は義務対応ではないので、銀行によって対応が異なる(大量であったり損傷判定が明確でない場合に、銀行が日銀鑑定に回付し、後日口座に入金対応までしてもらえる場合がある。ただしこれも義務対応ではない)。ゆうちょ銀行窓口においては両替業務を行っていない関係上、損傷紙幣の交換も行っていない。",
"title": "損傷時の交換"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "紙幣の滅消した部分を除いた残存部分の面積により、引換え価額が異なる。単純に2枚に破れたような場合は、破れ目が合うことが確認できれば全額(100%)交換となる。",
"title": "損傷時の交換"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "なお、残存部分は裏・表両面が分離していないことが要件であり、仮に紙幣を漉いて裏と表の2枚に分離した場合などは、全面積が滅消したものとして扱う(全額失効)。焼損や汚染、細片化などがあっても、紙幣の一部と確認できる部分については残存部分として扱う。また、2片以上に細片化されていても模様の一致や記番号の確認により同一紙幣の一部であると確認できる場合は、一紙幣の残存部分として扱う。",
"title": "損傷時の交換"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "引換え基準における2/3と2/5という分数は、通分すると10/15と6/15となり、足すと16/15で1より大きくなるため、紙幣を切断・分割し残りを別の紙幣のものだとして、元の額面より多くの金額を得ることはできないようになっている。",
"title": "損傷時の交換"
}
] | 日本銀行券(にほんぎんこうけん、にっぽんぎんこうけん)は、日本の中央銀行である日本銀行が発行する紙幣。 | [[ファイル:10000_yen_banknote_(Series_E),_obverse.png|thumb|240px|right|E一万円券]]
'''日本銀行券'''(にほんぎんこうけん、にっぽんぎんこうけん)は、[[日本]]の[[中央銀行]]である[[日本銀行]]が発行する[[紙幣]]。
== 概説 ==
[[ファイル:Bank of Japan silver convertible one yen banknote 1885.jpg|thumb|240px|right]]
[[ファイル:Old 1 Yen Bank of Japan silver convertible note - reverse.jpg|thumb|240px|right|[[日本銀行]][[兌換紙幣|兌換]]銀券一円券(旧一円券)、通称大黒一円。肖像:[[大黒天]]と鼠。1885年(明治18年)発行開始。現在日本国で通用する貨幣([[法定通貨|法貨]])としては[[硬貨]]を含め最古。[[銀本位制]]であった発行当時は、[[銀貨]]との引き換えが約束されていた。兌換文言:「此券引かへ尓銀貨壹圓相渡可申候也 NIPPON GINKO Promises to Pay the Bearer on Demand One Yen in Silver」。1958年(昭和33年)発行停止(1899年(明治32年)以降は回収対象であり、支払停止日以前から事実上発行されていなかったと推測される)。発行高約4500万枚。現在は不換紙幣(額面1円の日本銀行券)として通用。]]
[[ファイル:Revised_1_Yen_Bank_of_Japan_Silver_convertible_-_front.jpg|thumb|240px|right]]
[[ファイル:Revised_1_Yen_Bank_of_Japan_Silver_convertible_-_back.jpg|thumb|240px|right|日本銀行兌換銀券一円券(改造一円券)。1889年(明治22年)発行開始。肖像:[[武内宿禰]]。[[大黒天]]像の旧券には欠点があった。用紙に[[コンニャク]]粉を混ぜたことで虫や鼠に食害されたり、印刷に[[鉛白]]を使用したことで温泉地の[[硫化水素]]と反応し黒変することがあった。それら欠点を解消して発行されたのがこの一円券を含むいわゆる改造券である。この一円券については、1916年(大正5年)の新規発行分から記番号が漢数字から[[アラビア数字]]に変更された(肖像も僅かに異なる)。1943年(昭和18年)の改刷まで長期にわたり製造された。1958年(昭和33年)発行停止。現在は不換紙幣(額面1円の日本銀行券)として通用。]]
[[日本銀行]]は、[[日本銀行法]]を根拠に、日本銀行券を発行し(市中に払い出し)[[通貨]]として流通させている。具体的には、日本銀行の取引先金融機関が日本銀行に保有している当座預金を引き出し、日本銀行券を受け取ることによって、市中に流通し、この時点で日本銀行券が発行されたことになる。日本銀行券には日本国内で[[法定通貨]]として無制限に通用する[[強制通用力]]が付与されている。
過去に発行されていた日本銀行券の中には各種法令により既に失効しているもの(失効券)がある。失効券以外は、古い日本銀行券であっても現在発行中の券と同様に法定通貨として有効である。有効券の中には「日本銀行[[兌換紙幣|兌換]]銀券」と表記されているものもある{{efn|[[一円紙幣#旧一円券|旧一円券]]と[[一円紙幣#改造一円券|改造一円券]]の2種類。発行当時、1897年(明治30年)までは本位銀貨(一円銀貨)と引き換えることができた。}}が、現在は[[不換紙幣]]扱いのため、[[本位銀貨]]([[一円銀貨]])と引き換えることはできない{{efn|1897年(明治30年)の[[貨幣法]]で銀兌換が停止された。}}。なお「日本銀行兌換券」と表記されているものは、発行当時[[本位金貨]]と引き換えることができたが、のちに不換紙幣扱いとされた時期を経て(一部{{efn|[[五円紙幣#い号券|い五圓券]]・[[二百円紙幣#丙号券|丙貳百圓券]]・[[二百円紙幣#丁号券|丁貳百圓券]]・[[千円紙幣#甲号券|甲千圓券]]の4券種(実質的な発行開始時点で既に金貨への兌換が停止されていた)}}は通用期間全てにわたって事実上の不換紙幣だった)、現在では全て失効券となっている。
現在発行中の日本銀行券は、[[独立行政法人]][[国立印刷局]]によって製造され、日本銀行に納入されている。[[2009年]]度(平成21年度)の計33億枚の日本銀行券製造費は約509億円であり、1枚当たり15.4円となる<ref>{{PDFlink|[http://www.boj.or.jp/about/account/data/zai1005a.pdf 第125回事業年度財務諸表等(日本銀行)p4]}}{{リンク切れ|date=2021年2月}}</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/order/bn_order.pdf 平成27年度の銀行券発注高(日本銀行) - 平成16年度までの発注高を閲覧可能]}}</ref>。
日本銀行に戻った日本銀行券のうち、損傷・汚染の度合いが少なく再度の流通に適していると判断されたものは再び金融機関を通じて市中に流通する。一方、流通に適さないほど損傷や汚染などの激しい日本銀行券(損券。このうちテープ等が貼られているなど損傷などの度合いが特にひどいものは日銀用語で「赤丸券」と呼ばれる<ref>{{cite web2|df=ja|language=ja |url=https://www5.boj.or.jp/hakken/kanjouten/kanjouten.pdf |format=pdf |title=日本銀行が行う現金の受払に関する細則 (勘定店における現金受払用) |publisher=日本銀行 |access-date=2023-11-24 }}</ref>)は、復元不能な大きさに裁断された上で廃棄処分される。この日本銀行券の裁断屑の多くは焼却処分されているが、一部は製紙会社に渡されて、住宅用外壁材、固形燃料、トイレットペーパー、貯金箱、靴・スリッパの中敷きや書類箱、写真立て、バインダー、ファイルなどの日用雑貨・事務用品などにリサイクルされているものもある。
現在、主に流通しているのは[[2004年]](平成16年)発行開始のE券([[一万円紙幣|一万円券]]・[[五千円紙幣|五千円券]]・[[千円紙幣|千円券]])および[[2000年]](平成12年)発行開始のD[[二千円紙幣|二千円券]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/valid/issue.htm|title=現在発行されている銀行券・貨幣|accessdate=2021-10-03|publisher=日本銀行}}</ref>。
日本銀行や国立印刷局ではそれぞれの日本銀行券(紙幣)を「一万円券」「千円券」などと称している。一般的な通称として「一万円札」「千円札」などとも呼ばれる。
== 歴史 ==
日本銀行券に関する年表を以下に示す<ref>{{cite web|url=https://www.boj.or.jp/about/outline/history/index.htm|title=沿革|publisher=日本銀行|accessdate=2021-02-24}}</ref>。なお、日本銀行券と並行して流通し、同様の紙幣通貨として区別なく使用された[[小額政府紙幣]]<ref group="注釈">名目上は[[日本の硬貨|硬貨]]の代替として発行</ref>についても、便宜上下記の年表に掲載する。
<u>下線</u>は現在有効な券を示す。各券種の冒頭の符号(旧、改造、甲、い、Aなど)については後述の[[#様式符号]]参照。
=== 銀本位制による兌換銀券の発行 ===
[[明治維新]]以降、[[改造紙幣]]などの[[政府紙幣]]や民間銀行が発行した[[国立銀行紙幣]]が発行されていたが、紙幣を濫発した結果[[インフレーション]]が発生するなどの問題が発生していた<ref name="kgd98">{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2015|month=6|title=紙幣肖像の近現代史|publisher=吉川弘文館|page=98-99|isbn=978-4-64-203845-4}}</ref>。これを収拾するために政府から独立した[[中央銀行]]として[[日本銀行]]が創設され、唯一の発券銀行として[[銀本位制#日本における事実上の銀本位制|事実上の銀本位制]]に基づく「日本銀行兌換銀券」が発行されることとなった<ref name="kgd98"/>。当初は200円から1円まで7券種を発行する計画であったが、当時の紙幣製造能力や需要を勘案した結果200円、50円、20円は製造対象から外され、100円、10円、5円、1円の4券種のみが発行された<ref>{{Cite book|和書|author=日本銀行調査局|year=1975|title=図録日本の貨幣 8 近代兌換制度の確立と動揺|publisher=東洋経済新報社|page=142-151}}</ref>。
* [[1884年]]([[明治]]17年)[[5月26日]]:「兌換銀行券条例<ref group="注釈">明治17年5月26日太政官布告第18号</ref>」施行により、[[銀本位制#日本における事実上の銀本位制|事実上の銀本位制]]を確立。日本銀行による兌換銀行券として「日本銀行兌換銀券」が発行可能となる<ref>1884年(明治17年)5月26日太政官布告第18号「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2943474/1 兌換銀行券條例]」</ref>。
* [[1885年]](明治18年)[[5月9日]]:[[十円紙幣#旧十円券|旧拾圓券]]発行開始<ref name="p51">{{Cite book|和書|author=日本銀行金融研究所|title=日本貨幣年表|publisher=日本銀行金融研究所|date=1994年|page=P.51|isbn=9784930909381}}</ref>。
* 1885年(明治18年)[[9月8日]]:[[百円紙幣#旧百圓券|旧百圓券]]、<u>[[一円紙幣#旧一円券|旧一円券]]</u>発行開始<ref name="p51"/>。
* [[1886年]](明治19年)[[1月4日]]:[[五円紙幣#旧五円券|旧五圓券]]発行開始<ref name="p52">{{Cite book|和書|author=日本銀行金融研究所|title=日本貨幣年表|publisher=日本銀行金融研究所|date=1994年|page=P.52|isbn=9784930909381}}</ref>。
* [[1888年]](明治21年)[[12月3日]]:[[五円紙幣#改造五円券|改造五圓券]]発行開始<ref name="p53">{{Cite book|和書|author=日本銀行金融研究所|title=日本貨幣年表|publisher=日本銀行金融研究所|date=1994年|page=P.53|isbn=9784930909381}}</ref>。
* [[1889年]](明治22年)[[5月1日]]:<u>[[一円紙幣#改造一円券|改造一円券]]</u>発行開始<ref name="p53"/>。
* [[1890年]](明治23年)[[9月12日]]:[[十円紙幣#改造十円券|改造拾圓券]]発行開始<ref name="p54">{{Cite book|和書|author=日本銀行金融研究所|title=日本貨幣年表|publisher=日本銀行金融研究所|date=1994年|page=P.54|isbn=9784930909381}}</ref>。
* [[1891年]](明治24年)[[11月15日]]:[[百円紙幣#改造百圓券|改造百圓券]]発行開始<ref name="p54"/>。
=== 金本位制による兌換券の発行 ===
[[ファイル:Series Otsu 100 Yen Bank of Japan note - obverse.jpg|thumb|240px|right]]
[[ファイル:Series Otsu 100 Yen Bank of Japan note - reverse.jpg|thumb|240px|right|日本銀行兌換券百円券(乙百円券)。肖像:[[聖徳太子]]。1930年(昭和5年)発行開始。高額券の人物肖像として度々登場した聖徳太子が採用された初の紙幣である。地模様、輪郭、[[透かし]]に至るまで、聖徳太子と関連性のある意匠が多数散りばめられており歴代の日本銀行券の中でも特に緻密で凝ったデザインとなっている。当時の最高額面の紙幣として、精巧で緻密な凹版印刷や、多色刷りの地模様、鮮明な白黒透かしなど、戦前の最先端の紙幣印刷技術がふんだんに盛り込まれている。1946年(昭和21年)失効。]]
[[金本位制]]の確立に伴い、日本銀行が発行する銀行券は金兌換券としての「日本銀行兌換券」に移行した<ref>{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2015|month=6|title=紙幣肖像の近現代史|publisher=吉川弘文館|page=120-121|isbn=978-4-64-203845-4}}</ref>。[[1899年]](明治32年)末には旧来の雑多な紙幣を失効し、日本国内で流通する紙幣の日本銀行券への一本化が完了した<ref>{{Cite book|和書|author=日本銀行調査局|year=1975|title=図録日本の貨幣 8 近代兌換制度の確立と動揺|publisher=東洋経済新報社|page=163-165}}</ref>。その後は[[写真]]技術や印刷技術の向上に伴い精巧な偽造券が発見されるようになったことや<ref>{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2015|month=6|title=紙幣肖像の近現代史|publisher=吉川弘文館|page=130|isbn=978-4-64-203845-4}}</ref>、経済発展とともに紙幣発行高が増大したことなどからこれに対応する新紙幣が順次登場していった<ref>{{Cite book|和書|author=日本銀行調査局|year=1975|title=図録日本の貨幣 8 近代兌換制度の確立と動揺|publisher=東洋経済新報社|page=171-173}}</ref>。
[[1927年]]([[昭和]]2年)に発生した[[昭和金融恐慌]]の際には、その沈静化のために史上稀に見る裏面の印刷が省略された[[二百円紙幣#乙号券|乙貳百圓券]]紙幣が急造されることとなった<ref>{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2015|month=6|title=紙幣肖像の近現代史|publisher=吉川弘文館|page=140-143|isbn=978-4-64-203845-4}}</ref>。
[[1923年]](大正12年)の[[関東大震災]]により滅失した兌換券の整理のために旧紙幣は回収されることとなり、交換対象となる[[百円紙幣#乙百圓券|乙百圓券]]・[[十円紙幣#丙号券|丙拾圓券]]・[[五円紙幣#丁号券|丁五圓券]]が[[1930年]](昭和5年)に発行された<ref name="kgd144">{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2015|month=6|title=紙幣肖像の近現代史|publisher=吉川弘文館|page=144-146|isbn=978-4-64-203845-4}}</ref>。このシリーズの日本銀行兌換券では一定のテーマに基いた統一性のあるデザインが入念な検討のもとに施され、技術的な観点からも当時の紙幣製造の最高技術を結集して製造されたものであり、デザイン面・印刷技術面の両面で世界的に遜色のない水準の紙幣であった<ref name="kgd144"/>。回収対象となる旧紙幣については[[1931年]](昭和6年)12月までに全体の9割以上が回収され、旧紙幣失効後の[[1939年]](昭和14年)4月時点の最終的な未回収率は発行高の3%程度という結果となった<ref>{{Cite book|和書|author=植村峻|year=1989|month=11|title=紙幣肖像の歴史|page=129-132|publisher=東京美術|isbn=9784808705435}}</ref>。
* [[1897年]](明治30年)[[10月1日]]:「[[貨幣法]]<ref group="注釈">明治30年3月29日法律第16号</ref>」施行および「兌換銀行券条例」の改正<ref group="注釈">明治30年3月29日法律第18号</ref>により事実上の銀本位制から[[金本位制]]に移行。これに伴い「日本銀行兌換銀券」から「日本銀行兌換券」に移行し、既存の兌換銀券は金兌換券として扱われる<ref>1897年(明治30年)3月29日法律第16號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2947405/4 貨幣法]」</ref><ref>1897年(明治30年)3月29日法律第18號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2947405/5 兌換銀行券條例中改正]」</ref>。
* [[1899年]](明治32年)[[3月20日]]:[[百円紙幣#旧百圓券|旧百圓券]]、[[十円紙幣#旧十円券|旧拾圓券]]、[[五円紙幣#旧五円券|旧五圓券]]、<u>[[一円紙幣#旧一円券|旧一円券]]</u>が日本銀行による回収対象となる<ref name="daken149">{{Cite book|和書|author=日本銀行調査局|year=1975|title=図録日本の貨幣 8 近代兌換制度の確立と動揺|page=149|publisher=東洋経済新報社|isbn=}}</ref>。
* 1899年(明治32年)[[4月1日]]:[[五円紙幣#甲号券|甲五圓券]]発行開始<ref name="ko5">1899年(明治32年)3月18日大蔵省告示第10號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948002/3 兌換銀行券中改正]」</ref>。
* 1899年(明治32年)10月1日:[[十円紙幣#甲号券|甲拾圓券]]発行開始<ref name="ko10">1899年(明治32年)9月16日大蔵省告示第51號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948155/2 兌換銀行券ノ内拾圓券改造發行]」</ref>。
* 1899年(明治32年)[[12月9日]]:「国立銀行紙幣ノ通用及引換期限ニ関スル法律<ref group="注釈">明治29年3月9日法律第8号</ref>」により[[紙幣整理]]が実施され日本銀行券発行開始以前に発行されていた旧来の紙幣である[[国立銀行紙幣]]失効<ref>1896年(明治29年)3月9日法律第8号「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2947083/2 國立銀行紙幣ノ通用及引換期限ニ關スル法律]」</ref>。
* 1899年(明治32年)[[12月31日]]:「政府発行紙幣通用廃止ニ関スル法律<ref group="注釈">明治31年6月11日法律第6号</ref>」により紙幣整理が実施され日本銀行券発行開始以前に発行されていた旧来の紙幣である[[明治通宝]]および[[改造紙幣]]失効<ref>1898年(明治31年)6月11日法律第6号「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2947772/1 政府發行紙幣通用廢止ニ關スル件]」</ref>。これにより日本国内で使用される紙幣は日本銀行券に一本化。
* [[1900年]](明治33年)[[12月25日]]:[[百円紙幣#甲百圓券|甲百圓券]]発行開始<ref name="ko100">1900年(明治33年)12月19日大蔵省告示第55號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948535/1 百圓兌換銀行券發行]」</ref>。
* [[1910年]](明治43年)[[9月1日]]:[[五円紙幣#乙号券|乙五圓券]]発行開始<ref name="otsu5">1910年(明治43年)8月11日大蔵省告示第107號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2951494/1 兌換銀行券五圓券見本略圖]」</ref>。
* [[1915年]]([[大正]]4年)5月1日:[[十円紙幣#乙号券|乙拾圓券]]発行開始<ref name="otsu10">1915年(大正4年)4月24日大蔵省告示第44號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2952923/2 兌換銀行券條例ニ依リ日本銀行ヨリ發行スル兌換銀行券ノ内拾圓券改造發行竝ニ其見本略圖]」</ref>。
* [[1916年]](大正5年)[[12月15日]]:[[五円紙幣#丙号券|丙五圓券]]発行開始<ref name="hei5">1916年(大正5年)12月1日大蔵省告示第163號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953413/1 兌換銀行券五圓券見本略圖]」</ref>。
* [[1917年]](大正6年)[[11月8日]]:[[小額政府紙幣#大正小額政府紙幣|大正小額政府紙幣 五拾錢券・貳拾錢券]]発行開始、[[小額政府紙幣#大正小額政府紙幣|大正小額政府紙幣 拾錢券]]告示上の発行開始<ref>1917年(大正6年)11月9日大蔵省告示第177號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953696/2 小額紙幣發行]」</ref>。
* 1917年(大正6年)[[11月20日]]:[[二十円紙幣#甲号券|甲貳拾圓券]]発行開始<ref name="ko20">1917年(大正6年)11月9日大蔵省告示第176號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953696/1 兌換銀行券貳拾圓券發行見本略圖]」</ref>。
* 1917年(大正6年)[[12月6日]]:大正小額政府紙幣 拾錢券実質的な発行開始<ref name="p65">{{Cite book|和書|author=日本銀行金融研究所|title=日本貨幣年表|publisher=日本銀行金融研究所|date=1994年|page=65|isbn=9784930909381}}</ref>。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月25日]]:[[昭和金融恐慌]]の沈静化のため[[二百円紙幣#乙号券|乙貳百圓券]]発行開始<ref name="otsu200">1927年(昭和2年)4月24日大蔵省告示第66號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956553/1 日本銀行發行兌換銀行券ノ内貳百圓券發行]」</ref>{{Refnest|group="注釈"|同時に[[五十円紙幣#未発行紙幣|甲五拾圓券]]も1927年(昭和2年)[[4月26日]]から発行すると告示<ref group="注釈">昭和2年4月24年大蔵省告示第67号</ref>されていたが、事態沈静化のため不発行。}}。
* 1927年(昭和2年)[[5月12日]]:[[二百円紙幣#丙号券|丙貳百圓券]]告示上の発行開始<ref name="shizo" group="注釈">市中での流通はせず緊急時に備え日本銀行に死蔵</ref><ref name="hei200">1927年(昭和2年)5月10日大蔵省告示第85號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956566/2 日本銀行發行兌換銀行券ノ内貮百圓券發行]」</ref>。
* [[1930年]](昭和5年)[[1月11日]]:[[百円紙幣#乙百圓券|乙百圓券]]発行開始<ref name="otsu100">1929年(昭和4年)12月28日大蔵省告示第224號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957367/6 兌換銀行券中百圓券改造]」</ref>。
* 1930年(昭和5年)[[3月1日]]:[[五円紙幣#丁号券|丁五圓券]]発行開始<ref name="tei5">1930年(昭和5年)2月18日大蔵省告示第36號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957406/1 兌換銀行券中五圓券改造]」</ref>。
* 1930年(昭和5年)[[5月21日]]:[[十円紙幣#丙号券|丙拾圓券]]発行開始<ref name="hei10">1930年(昭和5年)5月15日大蔵省告示第102號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957477/2 兌換銀行券改造]」</ref>。
* [[1931年]](昭和6年)[[7月21日]]:[[二十円紙幣#乙号券|乙貳拾圓券]]発行開始<ref name="otsu20">1931年(昭和6年)7月15日大蔵省告示第102號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957830/2 兌換銀行券中改造]」</ref>。
* 1931年(昭和6年)[[12月17日]]:「[[金解禁#ドル買事件と金解禁の挫折|金貨兌換停止に関する緊急勅令]]<ref group="注釈">昭和6年12月17日勅令第291号</ref>」施行により金兌換を停止し事実上[[管理通貨制度]]に移行<ref name="kindakanteishi">1931年(昭和6年)12月17日勅令第291號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957960/18 銀行券ノ金貨兌換ニ關スル件]」</ref>。
* [[1938年]](昭和13年)[[7月5日]]:[[小額政府紙幣#小額政府紙幣_(富士桜)|小額政府紙幣 五拾錢券(富士桜)]]発行開始<ref name="p75">{{Cite book|和書|author=日本銀行金融研究所|title=日本貨幣年表|publisher=日本銀行金融研究所|date=1994年|page=75|isbn=9784930909381}}</ref>。
* [[1939年]](昭和14年)[[3月31日]]:「[[兌換銀行券整理法]]<ref group="注釈">昭和2年4月1日法律第46号</ref>」により[[関東大震災]]([[1923年]](大正12年))以前から発行されていた五円以上の日本銀行券13券種(旧百圓券、改造百圓券、甲百圓券、甲貳拾圓券、旧拾圓券、改造拾圓券、甲拾圓券、乙拾圓券、旧五圓券、改造五圓券、甲五圓券、乙五圓券、および丙五圓券)失効<ref name="dakan">1927年(昭和2年)4月1日法律第46號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956533/4 兌換銀行券整理法]」</ref>。
* [[1942年]](昭和17年)[[1月6日]]:[[二百円紙幣#丁号券|丁貳百圓券]]告示上の発行開始<ref name="shizo" group="注釈"/>、[[五円紙幣#い号券|い五圓券]]発行開始<ref name="yi5">1942年(昭和17年)1月4日大蔵省告示第1號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2960996/11 兌換銀行券五圓券及貳百圓券改造發行]」</ref>。
* 1942年(昭和17年)[[4月20日]]:[[千円紙幣#甲号券|甲千圓券]]告示上の発行開始<ref name="shizo" group="注釈"/><ref name="ko1000">1942年(昭和17年)4月16日大蔵省告示第178號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2961080/4 兌換銀行券千圓券發行]」</ref>。
=== 管理通貨制度による不換紙幣の発行 ===
[[1931年]](昭和6年)の金兌換停止を受けて、[[1942年]](昭和17年)には法的にも[[管理通貨制度]]に移行した<ref name="kgd171">{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2015|month=6|title=紙幣肖像の近現代史|publisher=吉川弘文館|page=171-174|isbn=978-4-64-203845-4}}</ref>。これに伴い[[不換紙幣]]としての「日本銀行券」が発行されることとなるが、[[第二次世界大戦]]の影響により発行される銀行券は次第に品質を落とした簡素なものとなり、やがて戦況の悪化と共に従前では考えられなかったような劣悪な品質の銀行券が粗製濫造されるに至った<ref name="kgd171"/>。大戦末期から終戦直後にかけては製造設備や材料の確保すら事欠くようになり、一層の仕様簡素化のために印刷方式や紙幣用紙など度重なる仕様変更が頻繁に行われ<ref>{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2015|month=6|title=紙幣肖像の近現代史|publisher=吉川弘文館|page=168-169|isbn=978-4-64-203845-4}}</ref>、果ては製造されながらも発行に至らない[[#参考:未発行券|未発行券]]が複数発生するなど混乱した状況が窺える<ref>{{Cite book|和書|author=日本銀行調査局|year=1975|title=図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨|publisher=東洋経済新報社|page=196-200}}</ref>。
* 1942年(昭和17年)5月1日:事実上有名無実化していた金本位制を旧「[[日本銀行法]]<ref group="注釈">昭和17年2月24日法律第67号</ref>」施行により廃止。これに伴い正式に管理通貨制度による[[不換紙幣]]としての「日本銀行券」に移行し、既存の有効な兌換券は不換紙幣として扱われる<ref name="nichiginho">1942年(昭和17年)5月1日法律第67號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2961038/4 日本銀行法]」</ref>。
* 1942年(昭和17年)[[12月8日]]:[[小額政府紙幣#小額政府紙幣_(靖国神社)|小額政府紙幣 五拾錢券(靖国神社)]]発行開始<ref name="p81">{{Cite book|和書|author=日本銀行金融研究所|title=日本貨幣年表|publisher=日本銀行金融研究所|date=1994年|page=81|isbn=9784930909381}}</ref>。
* [[1943年]](昭和18年)12月15日:[[十円紙幣#い号券|い拾圓券]]、[[五円紙幣#ろ号券|ろ五圓券]]、および<u>[[一円紙幣#い号券|い一円券]]</u>発行開始<ref name="yi10">1943年(昭和18年)12月14日大蔵省告示第558號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2961581/3 日本銀行券拾圓券等ノ樣式略圖]」</ref>。
* [[1944年]](昭和19年)[[3月20日]]:[[百円紙幣#い百圓券|い百圓券]]発行開始<ref name="yi100">1944年(昭和19年)3月18日大蔵省告示第107號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2961658/4 日本銀行券百圓券ノ樣式略圖]」</ref>。
* 1944年(昭和19年)[[11月1日]]:[[十銭紙幣#い号券|い拾錢券]]、[[五銭紙幣#い号券|い五錢券]]発行開始<ref name="yi10sn">1944年(昭和19年)10月25日大蔵省告示第489號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2961838/1 日本銀行券ノ種類ニ拾錢券及五錢券追加發行]」</ref>。
* [[1945年]](昭和20年)[[4月16日]]:丁貳百圓券実質的な発行開始<ref name="p85">{{Cite book|和書|author=日本銀行金融研究所|title=日本貨幣年表|publisher=日本銀行金融研究所|date=1994年|page=85|isbn=9784930909381}}</ref>。
* 1945年(昭和20年)[[8月16日]]:丙貳百圓券実質的な発行開始<ref name="p87">{{Cite book|和書|author=日本銀行金融研究所|title=日本貨幣年表|publisher=日本銀行金融研究所|date=1994年|page=87|isbn=9784930909381}}</ref>。
* 1945年(昭和20年)[[8月17日]]:甲千圓券実質的な発行開始<ref name="p87"/>、[[百円紙幣#ろ百圓券|ろ百圓券]]、[[十円紙幣#ろ号券|ろ拾圓券]]発行開始<ref name="ro100">1945年(昭和20年)8月17日大蔵省告示第332號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962080/1 日本銀行券百圓券及拾圓券ノ樣式ヲ定メ從來ノモノト併用方]」</ref>。
=== 第二次世界大戦後の新円切替とそれ以降 ===
[[ファイル:Small_face_value_Bank_of_Japan_notes.jpg|thumb|240px|right|[[第二次世界大戦]]中と戦後に発行された小額日本銀行券。戦争の結果金属が不足し、[[硬貨]]の代替として発行された。戦中と戦後の券の意匠の違いに注目されたい。<br />(1) い五銭券(1944年(昭和19年))、[[楠木正成]]銅像。<br />(2) い拾銭券(1944年(昭和19年))、[[八紘之基柱|八紘一宇塔]]。<br />(3) A五銭券(1948年(昭和23年))、[[ウメ|梅]]。<br />(4) A拾銭券(1947年(昭和22年))、[[鳩]]。<br />A券発行当時は、[[紙幣]]の意匠決定にも[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の許可が必要であった。戦後の急激な[[インフレーション]]を背景に、いずれも1953年(昭和28年)「[[小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律]]」により失効。]]
第二次世界大戦終戦後の猛烈な[[ハイパーインフレーション]]の抑制策として[[新円切替]]が行われることとなり、切替用の新円としてデザインを一新した[[A号券]]が緊急に発行された<ref>{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2015|month=6|title=紙幣肖像の近現代史|publisher=吉川弘文館|page=185-186|isbn=978-4-64-203845-4}}</ref>。しかしながら新円切替をもってしてもインフレーションを食い止めることはできず、1円未満の[[法定通貨]]([[紙幣]]・[[硬貨]])は無意味なものとなり廃止されることとなった<ref>{{Cite book|和書|author=日本銀行調査局|year=1975|title=図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨|publisher=東洋経済新報社|page=268-273}}</ref>。また切迫した状況下で発行されたA号券は簡易な仕様により粗製されたもので偽造が絶えなかったことから、本格的な紙幣として[[B号券]]が投入され<ref>{{Cite book|和書|author=日本銀行調査局|year=1975|title=図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨|publisher=東洋経済新報社|page=210-211}}</ref>、その後は[[高度経済成長]]の進展とともに[[五千円紙幣]]・[[一万円紙幣]]といった高額紙幣が順次登場していった<ref>{{Cite book|和書|author=日本銀行調査局|year=1975|title=図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨|publisher=東洋経済新報社|page=218-219}}</ref>。1984年以降は偽造防止力の維持向上のために概ね20年おきに改刷が行われており、印刷技術の向上に応じて改刷の度に新たな偽造防止対策が搭載されている<ref>{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2015|month=6|title=紙幣肖像の近現代史|publisher=吉川弘文館|page=232-234|isbn=978-4-64-203845-4}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2015|month=6|title=紙幣肖像の近現代史|publisher=吉川弘文館|page=261-264|isbn=978-4-64-203845-4}}</ref>。[[キャッシュレス社会|キャッシュレス化]]が進みつつある[[2010年代]]以降も、日本銀行券の流通量は継続的に増加し続けている状況にある<ref name="finance201906">{{Cite web|和書|url=https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/201906/201906c.pdf |title=広報誌 ファイナンス |publisher=財務省 |date=2019-06 |accessdate=2021-09-26}}</ref>。
* [[1946年]](昭和21年)[[2月17日]]:「[[預金封鎖#日本における預金封鎖|金融緊急措置令]]<ref group="注釈">昭和21年2月17日勅令第83号</ref>」により[[預金封鎖]]を伴う[[新円切替]]実施<ref>1946年(昭和21年)2月17日勅令第83號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962234/1 金融緊急措置令]」</ref>。
* 1946年(昭和21年)[[2月25日]]:暫定的に新円とみなす[[日本銀行券#証紙|証紙]]貼付券(千圓、貳百圓、百圓、および拾圓)発行開始<ref>{{Cite book|和書|author=日本銀行金融研究所|year=1994|month=6|title=日本貨幣年表|page=91-92|publisher=日本銀行金融研究所|isbn=978-4-93-090938-1}}</ref>、<u>[[百円紙幣#A百圓券|A百円券]]</u>、<u>[[十円紙幣#A号券|A十円券]]</u>告示上の発行開始<ref name="a100">1946年(昭和21年)2月17日大蔵省告示第23號「[https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-19460217-0023-14.pdf 日本銀行券百圓券及拾圓券樣式ノ件]」</ref>。
* 1946年(昭和21年)3月1日:<u>A百円券</u>、<u>A十円券</u>実質的な発行開始<ref name="a-ken">{{Cite book|和書|author=日本銀行金融研究所|year=1994|month=6|title=日本貨幣年表|page=91-92|publisher=日本銀行金融研究所|isbn=978-4-93-090938-1}}</ref>。
* 1946年(昭和21年)[[3月2日]]:「[[新円切替|日本銀行券預入令]]<ref group="注釈">昭和21年2月17日勅令第84号</ref>」により金融緊急措置令の公布以前から発行されていた五円以上の日本銀行券14券種(甲千圓券、乙貳百圓券、丙貳百圓券、丁貳百圓券、乙百圓券、い百圓券、ろ百圓券、乙貳拾圓券、丙拾圓券、い拾圓券、ろ拾圓券、丁五圓券、い五圓券およびろ五圓券)は証紙貼付券を除き失効<ref name="shin-en">1946年(昭和21年)2月17日勅令第84號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962234/1 日本銀行券預入令]」、ならびに1946年(昭和21年)2月17日大蔵省令第13號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962234/5 日本銀行券預入令施行規則]」</ref>。
* 1946年(昭和21年)[[3月5日]]:<u>[[五円紙幣#A号券|A五円券]]</u>告示上の発行開始<ref name="a5">1946年(昭和21年)3月5日大蔵省告示第97號「[https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-19460305-0097-14.pdf 日本銀行券五圓券ノ樣式ノ件]」</ref>。
* 1946年(昭和21年)[[3月8日]]:<u>A五円券</u>実質的な発行開始<ref name="a-ken"/>。
* 1946年(昭和21年)[[3月19日]]:<u>[[一円紙幣#A号券|A一円券]]</u>告示上の発行開始<ref name="a1">1946年(昭和21年)3月19日大蔵省告示第123號「[https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-19460319-0123-14.pdf 日本銀行券壹圓券ノ樣式ノ件]」</ref>。
* 1946年(昭和21年)[[3月20日]]:<u>A一円券</u>実質的な発行開始<ref name="a-ken"/>。
* 1946年(昭和21年)[[10月31日]]:証紙貼付券(千圓、貳百圓、百圓、および拾圓)失効<ref name="shoshi-end">1946年(昭和21年)9月12日大蔵省告示第687號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962413/2 日本銀行券預入令の特例の件第一條第一項に規定する日]」</ref>。
* [[1947年]](昭和22年)[[9月5日]]:[[十銭紙幣#A号券|A拾錢券]]発行開始<ref name="a10sn">1947年(昭和22年)9月5日大蔵省告示第205號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962713/3 日本銀行券拾銭券の樣式]」</ref>。
* [[1948年]](昭和23年)[[3月10日]]:[[小額政府紙幣#小額政府紙幣_(板垣五十銭)|小額政府紙幣 五拾銭券(板垣五十銭)]]発行開始<ref>{{Cite book|和書|author=大蔵省印刷局|year=1984|month=11|title=日本銀行券製造100年・歴史と技術|page=304-305|publisher=大蔵省印刷局|isbn=}}</ref>。
* 1948年(昭和23年)[[5月25日]]:[[五銭紙幣#A号券|A五銭券]]発行開始<ref name="a5sn">1948年(昭和23年)5月25日大蔵省告示第157号「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962938/2 昭和二十三年五月二十五日から発行する日本銀行券五銭の樣式]」</ref>。
* 1948年(昭和23年)[[8月31日]]:「[[小額紙幣整理法]]<ref group="注釈">昭和23年5月13日法律第42号</ref>」により1945年(昭和20年)以前から発行されていた小額政府紙幣5券種(大正小額政府紙幣 五拾錢券・貳拾錢券・拾錢券、小額政府紙幣 五拾錢券(富士桜)、および小額政府紙幣 五拾錢券(靖国神社))失効<ref name="shogakushihei">1948年(昭和23年)5月13日法律第42号「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962928/1 小額紙幣整理法]」</ref>。
* [[1950年]](昭和25年)[[1月7日]]:<u>[[千円紙幣#B号券|B千円券]]</u>発行開始<ref name="b1000">1949年(昭和24年)12月28日大蔵省告示第1048号「[https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-19491228-1048-14.pdf 昭和二十五年一月七日から発行する日本銀行券千円の様式を定める件]」</ref>。
* [[1951年]](昭和26年)[[4月2日]]:<u>[[五百円紙幣#B号券|B五百円券]]</u>発行開始<ref name="b500">1951年(昭和26年)3月27日大蔵省告示第404号「[https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-19510327-0404-14.pdf 昭和二十六年四月二日から発行する日本銀行券五百円の樣式を定める件]」</ref>。
* 1951年(昭和26年)[[12月1日]]:<u>[[五十円紙幣#B号券|B五十円券]]</u>発行開始<ref name="b50">1951年(昭和26年)11月24日大蔵省告示第1752号「[https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-19511124-1752-14.pdf 昭和二十六年十二月一日から発行する日本銀行券五拾円の様式を定める件]」</ref>。
* [[1953年]](昭和28年)12月1日:<u>[[百円紙幣#B百円券|B百円券]]</u>発行開始<ref name="b100">1953年(昭和28年)11月27日大蔵省告示第2244号「[https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-19531127-2244-14.pdf 昭和二十八年十二月一日から発行する日本銀行券百円の様式を定める件]」</ref>。
* 1953年(昭和28年)12月31日:「[[小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律|小額通貨整理法]]<ref group="注釈">昭和28年7月15日法律第60号</ref>」により'''[[銭]]'''・'''[[厘]]'''単位の通貨廃止。一円未満の日本銀行券4券種(い拾錢券、A拾錢券、い五錢券、およびA五銭券)、ならびに小額政府紙幣1券種(小額政府紙幣 五拾銭券(板垣五十銭))失効<ref name="shogakutsuka">1953年(昭和28年)7月15日法律第60号「[[小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律]]」</ref>。
* [[1955年]](昭和30年)[[4月1日]]:<u>A十円券</u>、<u>A五円券</u>の日本銀行からの支払停止<ref name="有効10">{{Cite web|和書|title=現在発行されていないが有効な銀行券 十円券|url=https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/valid/past_issue/pbn_10.htm|website=日本銀行|accessdate=2021-06-19|language=ja}}</ref><ref name="有効5">{{Cite web|和書|title=現在発行されていないが有効な銀行券 五円券|url=https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/valid/past_issue/pbn_5.htm|website=日本銀行|accessdate=2021-06-19|language=ja}}</ref>。
* [[1956年]](昭和31年)[[6月5日]]:<u>A百円券</u>の日本銀行からの支払停止<ref name="有効100">{{Cite web|和書|title=現在発行されていないが有効な銀行券 百円券|url=https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/valid/past_issue/pbn_100.htm|website=日本銀行|accessdate=2021-06-19|language=ja}}</ref>。
* [[1957年]](昭和32年)10月1日:<u>[[五千円紙幣#C号券|C五千円券]]</u>発行開始<ref name="c5000">1957年(昭和32年)9月17日大蔵省告示第200号「[https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-19570917-0200-14.pdf 昭和三十二年十月一日から発行する日本銀行券五千円の様式を定める件]」</ref>。
* [[1958年]](昭和33年)10月1日:<u>旧一円券</u>、<u>改造一円券</u>、<u>い一円券</u>、<u>A一円券</u>、および<u>B五十円券</u>の日本銀行からの支払停止<ref name="有効1">{{Cite web|和書|title=現在発行されていないが有効な銀行券 一円券|url=https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/valid/past_issue/pbn_1.htm|website=日本銀行|accessdate=2021-06-19|language=ja}}</ref><ref name="有効50">{{Cite web|和書|title=現在発行されていないが有効な銀行券 五十円券|url=https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/valid/past_issue/pbn_50.htm|website=日本銀行|accessdate=2021-06-19|language=ja}}</ref>。
* 1958年(昭和33年)12月1日:<u>[[一万円紙幣#C号券|C一万円券]]</u>発行開始<ref name="c10000">1958年(昭和33年)11月20日大蔵省告示第237号「[https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-19581120-0237-14.pdf 十二月一日から発行する日本銀行券壱万円の様式を定める件]」</ref>。
* [[1963年]](昭和38年)[[11月1日]]:<u>[[千円紙幣#C号券|C千円券]]</u>発行開始<ref name="c1000">1963年(昭和38年)10月19日日本銀行公告「新様式千円券発行期日公告」</ref>。
* [[1965年]](昭和40年)[[1月4日]]:<u>B千円券</u>の日本銀行からの支払停止<ref name="有効1000">{{Cite web|和書|title=現在発行されていないが有効な銀行券 千円券|url=https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/valid/past_issue/pbn_1000.htm|website=日本銀行|accessdate=2021-06-19|language=ja}}</ref>。
* [[1969年]](昭和44年)11月1日:<u>[[五百円紙幣#C号券|C五百円券]]</u>発行開始<ref name="c500">1969年(昭和44年)10月1日日本銀行公告「新様式五百円券発行期日公告」</ref>。
* [[1971年]](昭和46年)1月4日:<u>B五百円券</u>の日本銀行からの支払停止<ref name="有効500">{{Cite web|和書|title=現在発行されていないが有効な銀行券 五百円券|url=https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/valid/past_issue/pbn_500.htm|website=日本銀行|accessdate=2021-06-19|language=ja}}</ref>。
* [[1974年]](昭和49年)[[8月1日]]:<u>B百円券</u>の日本銀行からの支払停止<ref name="有効100"/>。
* [[1984年]](昭和59年)11月1日:<u>[[一万円紙幣#D号券|D一万円券]]</u>、<u>[[五千円紙幣#D号券|D五千円券]]</u>、および<u>[[千円紙幣#D号券|D千円券]]</u>発行開始<ref name="d10000">1984年(昭和59年)6月25日大蔵省告示第76号「[https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-19840625-0076-14.pdf 昭和五十九年十一月一日から発行する日本銀行券壱万円、五千円及び千円の様式を定める件]」</ref>。
* [[1986年]](昭和61年)1月4日:<u>C一万円券</u>、<u>C五千円券</u>、および<u>C千円券</u>の日本銀行からの支払停止<ref name="有効1000"/><ref name="有効5000">{{Cite web|和書|title=現在発行されていないが有効な銀行券 五千円券|url=http://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/valid/past_issue/pbn_5000.htm/ |website=日本銀行|accessdate=2021-06-19|language=ja}}</ref><ref name="有効10000">{{Cite web|和書|title=現在発行されていないが有効な銀行券 一万円券|url=http://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/valid/past_issue/pbn_10000.htm/ |website=日本銀行|accessdate=2021-06-19|language=ja}}</ref>。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[12月1日]]:偽造防止力を向上した<u>D一万円券</u>、<u>D五千円券</u>、および<u>D千円券</u>の一部改造券発行開始([[日本銀行券#ミニ改刷されたD券(1993年12月1日発行開始)から採用されたもの|ミニ改刷]])<ref name="d10000-ka">1993年(平成5年)6月24日大蔵省告示第134号「[https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-19930624-0134-14.pdf 平成五年十二月一日から発行する日本銀行券壱万円、五千円及び千円の様式を定める件]」</ref>。
* [[1994年]](平成6年)4月1日:<u>C五百円券</u>の日本銀行からの支払停止<ref name="有効500"/>。
* [[2000年]](平成12年)[[7月19日]]:<u>[[二千円紙幣#D号券|D二千円券]]</u>発行開始<ref name="d2000">2000年(平成12年)4月26日大蔵省告示第117号「[https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-20000426-0117-14.pdf 平成十二年七月十九日から発行する日本銀行券二千円の様式を定める件]」</ref>。
* [[2004年]](平成16年)11月1日:<u>[[一万円紙幣#E号券|E一万円券]]</u>、<u>[[五千円紙幣#E号券|E五千円券]]</u>、および<u>[[千円紙幣#E号券|E千円券]]</u>発行開始<ref name="e10000">2004年(平成16年)8月13日財務省告示第374号「[https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-20040813-0374-14.pdf 平成十六年十一月一日から発行を開始する日本銀行券壱万円、五千円及び千円の様式を定める件]」</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[4月2日]]:<u>D一万円券</u>、<u>D五千円券</u>、および<u>D千円券</u>の日本銀行からの支払停止<ref name="有効1000"/><ref name="有効5000"/><ref name="有効10000"/>。
* [[2014年]](平成26年)5月12日:券種識別性を向上した<u>E五千円券</u>の一部改造券発行開始<ref name="e5000-ka">2013年(平成25年)12月3日財務省告示第374号「[https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-20131203-374.pdf 平成二十六年五月十二日から発行を開始する日本銀行券五千円の様式を定める件]」</ref>。
* [[2024年]]([[令和]]6年)7月:[[一万円紙幣#2024年度発行予定の新紙幣|新一万円券]]、[[五千円紙幣#2024年度発行予定の新紙幣|新五千円券]]、および[[千円紙幣#2024年度発行予定の新紙幣|新千円券]]発行開始予定<ref name="mof20190409">{{Cite web|和書|title=新しい日本銀行券及び五百円貨幣を発行します|url=https://www.mof.go.jp/policy/currency/bill/20190409.html|website=財務省|accessdate=2019-04-09|language=ja}}</ref>。
== 日本銀行券一覧 ==
=== 様式符号 ===
券名の最初の文字は発行された時期によって紙幣を分類する符号で、正式には'''様式符号'''という<ref>{{Cite web|和書|title=日本銀行調査季報 2004年 秋(10月) - 日本銀行券の改刷|url=https://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2004/data/ron0410b.pdf|website=日本銀行|accessdate=2021-03-09|language=ja}}</ref>。A券、B券またはA号券、B号券などと呼ばれ、概ね次の通りである。カッコ書きは未発行を示す。
*日本銀行兌換銀券<ref group="注釈">発行開始から1897年(明治30年)(金本位制移行)まで</ref> :旧・改造
*日本銀行兌換券(昭和初期まで<ref group="注釈">1897年(明治30年)(金本位制移行)から1942年(昭和17年)頃まで</ref>) :甲・乙・丙・丁
*日本銀行券(不換紙幣・戦時中<ref group="注釈">1942年(昭和17年)頃から1946年(昭和21年)(新円切替)まで</ref>) :い・ろ・(は)
*日本銀行券(不換紙幣・戦後<ref group="注釈">1946年(昭和21年)(新円切替)以降</ref>) :[[A号券|A]]・[[B号券|B]]・[[C号券|C]]・[[D号券|D]]・[[E号券|E]]
額面金額ごとに整理すると下記の通りとなる。*は2024年度(令和6年度)発行予定のものである。
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
*([[十万円紙幣|十万円券]] :D)
*([[五万円紙幣|五万円券]] :D)
*[[一万円紙幣|一万円券]] :(B)・C・D・E・*
*[[五千円紙幣|五千円券]] :C・D・E・*
*[[二千円紙幣|二千円券]] :D
*[[千円紙幣|千円券]] :甲・(い)・(A[2種あり])・B・C・D・E・*
*[[五百円紙幣|五百円券]] :(い)・(A)・B・C
*[[二百円紙幣|二百円券]] :(甲)・乙・丙・丁
{{Col-2}}
*[[百円紙幣|百円券]] :旧・改造・甲・乙・い・ろ・A・B
*[[五十円紙幣|五十円券]] :(甲)・B
*[[二十円紙幣|二十円券]] :甲・乙
*[[十円紙幣|十円券]] :旧・改造・甲・乙・丙・い・ろ・(は)・A・(B)
*[[五円紙幣|五円券]] :旧・改造・甲・乙・丙・丁・い・ろ・A・(B)
*[[一円紙幣|一円券]] :旧・改造・い・A・(B)
*[[十銭紙幣|十銭券]] :い・A
*[[五銭紙幣|五銭券]] :い・A
{{Col-end}}
なお、A券以降は発行開始時期が近い券種を1つの単位として同じ様式符号が付与されているが、それ以前は単純に額面金額ごとの発行順(計画されていたが未発行の券種を含む)に符号が付与されていた。このため、同じ様式符号であっても近い時期の発行とは限らない点に留意する必要がある<ref group="注釈">一例として、同じ甲号券でも甲五圓券と甲千圓券では40年以上発行開始時期が異なる。</ref>。下表は、各券種の様式符号を発行開始時期・発行契機ごとに整理したものである。*は2024年度(令和6年度)発行予定のものを示す。
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;"
|-
! style="text-align:center; width:5em;"|発行<br>開始時期
! style="text-align:center; width:1em;"|名称
! colspan="2"|分類・発行契機
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|五銭
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|十銭
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|一円
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|五円
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|十円
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|二十円
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|五十円
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|百円
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|二百円
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|五百円
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|千円
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|二千円
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|五千円
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|一万円
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|五万円
! style="text-align:center; width:3.5em; white-space:nowrap"|十万円
|-
| style="text-align:left"|1885年 - <br>1886年||rowspan="2"|{{縦書き|日本銀行兌換銀券}}||colspan="2" style="text-align:left"|銀本位制による兌換銀券の新紙幣|| || ||{{font color|Black|Gold|<u>旧</u>}}||{{font color|Black|LightCoral|旧<sup>''1''</sup>}}||{{font color|Black|LightCoral|旧<sup>''1''</sup>}}|| || ||{{font color|Black|LightCoral|旧<sup>''1''</sup>}}|| || || || || || || ||
|-
| style="text-align:left"|1888年 - <br>1891年||colspan="2" style="text-align:left"|用紙・インクなどの技術的欠陥の改良|| || ||{{font color|Black|Gold|<u>改造</u>}}||{{font color|Black|LightCoral|改造<sup>''1''</sup>}}||{{font color|Black|LightCoral|改造<sup>''1''</sup>}}|| || ||{{font color|Black|LightCoral|改造<sup>''1''</sup>}}|| || || || || || || ||
|-
| style="text-align:left"|1899年 - <br>1900年||rowspan="8"|{{縦書き|日本銀行兌換券}}||colspan="2" style="text-align:left"|金本位制による兌換券の新紙幣|| || ||↓||{{font color|Black|LightCoral|甲<sup>''1''</sup>}}||{{font color|Black|LightCoral|甲<sup>''1''</sup>}}|| || ||{{font color|Black|LightCoral|甲<sup>''1''</sup>}}|| || || || || || || ||
|-
| style="text-align:left"|1910年 - <br>1916年||colspan="2" style="text-align:left"|偽造防止対策強化|| || ||↓||{{font color|Black|LightCoral|乙<sup>''1''}}</sup><br>{{font color|Black|LightCoral|丙<sup>''1''</sup>}}||{{font color|Black|LightCoral|乙<sup>''1''</sup>}}|| || ||↓|| || || || || || || ||
|-
| style="text-align:left"|1917年||colspan="2" style="text-align:left"|新規額面追加|| || ||↓|||↓||↓||{{font color|Black|LightCoral|甲<sup>''1''</sup>}}|| ||↓|| || || || || || || ||
|-
| style="text-align:left"|1923年||colspan="2" style="text-align:left"|関東大震災による紙幣不足対応用の非常用紙幣|| || ||↓|||↓||↓||↓|| ||↓||{{font color|Black|DarkGray|(甲)}}|| || || || || || ||
|-
| style="text-align:left"|1927年||colspan="2" style="text-align:left"|昭和金融恐慌沈静化用の非常用紙幣|| || ||↓|||↓||↓||↓||{{font color|Black|DarkGray|(甲)}}||↓||{{font color|Black|LightSkyBlue|乙<sup>''2''</sup>}}<br>{{font color|Black|LightSkyBlue|丙<sup>''2''■</sup>}}|| || || || || || ||
|-
| style="text-align:left"|1930年 - <br>1931年||colspan="2" style="text-align:left"|兌換銀行券整理法による新紙幣|| || ||↓|||{{font color|Black|LightSkyBlue|丁<sup>''2''</sup>}}||{{font color|Black|LightSkyBlue|丙<sup>''2''</sup>}}||{{font color|Black|LightSkyBlue|乙<sup>''2''</sup>}}|| ||{{font color|Black|LightSkyBlue|乙<sup>''2''</sup>}}|| || || || || || || ||
|-
| style="text-align:left" rowspan="2"|1942年||colspan="2" style="text-align:left"|製造効率向上|| || ||↓||{{font color|Black|LightSkyBlue|い<sup>''2''</sup>}}||↓|| || ||↓|| || || || || || || ||
|-
|colspan="2" style="text-align:left"|将来の非常時に向けた備蓄用紙幣|| || ||↓||↓||↓|| || ||↓||{{font color|Black|LightSkyBlue|丁<sup>''2''■</sup>}}|| ||{{font color|Black|LightSkyBlue|甲<sup>''2''■</sup>}}|| || || || ||
|-
| style="text-align:left"|1943年 - <br>1944年||rowspan="10"|{{縦書き|日本銀行券}}||colspan="2" style="text-align:left"|管理通貨制度による不換紙幣の新紙幣|| || ||{{font color|Black|Gold|<u>い</u>}}||{{font color|Black|LightSkyBlue|ろ<sup>''2''</sup>}}||{{font color|Black|LightSkyBlue|い<sup>''2''</sup>}}|| || ||{{font color|Black|LightSkyBlue|い<sup>''2''</sup>}}|| || || || || || || ||
|-
| style="text-align:left"|1944年||colspan="2" style="text-align:left"|硬貨用材料枯渇による小額紙幣||{{font color|Black|GreenYellow|い<sup>''3''</sup>}}||{{font color|Black|GreenYellow|い<sup>''3''</sup>}}||↓||↓||↓|| || ||↓|| || || || || || || ||
|-
| style="text-align:left"|1945年||colspan="2" style="text-align:left"|敗戦によるインフレ対応用の非常用紙幣||↓||↓||↓||↓||{{font color|Black|LightSkyBlue|ろ<sup>''2''</sup>}}<br>{{font color|Black|DarkGray|(は)}}|| || ||{{font color|Black|LightSkyBlue|ろ<sup>''2''</sup>}}||{{font color|White|Black|丁<sup>''2''</sup>}}<br>{{font color|White|Black|丙<sup>''2''</sup>}}||{{font color|Black|DarkGray|(い)}}||{{font color|White|Black|甲<sup>''2''</sup>}}<br>{{font color|Black|DarkGray|(い)}}|| || || || ||
|-
| style="text-align:left"|1946年 - <br>1948年||colspan="2" style="text-align:left"|新円切替による新紙幣、戦時中の図案刷新〔A券〕||{{font color|Black|GreenYellow|A<sup>''3''</sup>}}||{{font color|Black|GreenYellow|A<sup>''3''</sup>}}||{{font color|Black|Gold|<u>A</u>}}||{{font color|Black|Gold|<u>A</u>}}||{{font color|Black|Gold|<u>A</u>}}|| || ||{{font color|Black|Gold|<u>A</u>}}|| ||{{font color|Black|DarkGray|(A)}}||{{font color|Black|DarkGray|(A)<sup>+</sup>}}|| || || || ||
|-
| style="text-align:left"|1950年 - <br>1953年||colspan="2" style="text-align:left"|偽造防止対策強化、インフレ対応〔B券〕|| || ||{{font color|Black|DarkGray|(B)}}||{{font color|Black|DarkGray|(B)}}||{{font color|Black|DarkGray|(B)}}|| ||{{font color|Black|Gold|<u>B</u>}}||{{font color|Black|Gold|<u>B</u>}}|| ||{{font color|Black|Gold|<u>B</u>}}||{{font color|Black|Gold|<u>B</u>}}|| || ||{{font color|Black|DarkGray|(B)}}|| ||
|-
| style="text-align:left"|1957年 - <br>1969年||colspan="2" style="text-align:left"|偽造防止対策強化、高額券追加〔C券〕|| || || || || || || ||↓|| ||{{font color|Black|Gold|<u>C</u>}}||{{font color|Black|Gold|<u>C</u>}}|| ||{{font color|Black|Gold|<u>C</u>}}||{{font color|Black|Gold|<u>C</u>}}|| ||
|-
| style="text-align:left"|1984年||colspan="2" style="text-align:left"|偽造防止対策強化、券面小型化〔D券〕|| || || || || || || || || ||↓||{{font color|Black|Gold|<u>D</u>}}|| ||{{font color|Black|Gold|<u>D</u>}}||{{font color|Black|Gold|<u>D</u>}}||{{font color|Black|DarkGray|(D)}}||{{font color|Black|DarkGray|(D)}}
|-
| style="text-align:left"|2000年||colspan="2" style="text-align:left"|新規額面追加〔D券〕|| || || || || || || || || || ||↓||{{font color|Black|Gold|<u>D</u>}}||↓||↓|| ||
|-
| style="text-align:left"|2004年||colspan="2" style="text-align:left"|偽造防止対策強化〔E券〕|| || || || || || || || || || ||{{font color|Black|Gold|<u>E</u>}}||↓||{{font color|Black|Gold|<u>E</u>}}||{{font color|Black|Gold|<u>E</u>}}|| ||
|-
| style="text-align:left"|2024年度<br>(予定)||colspan="2" style="text-align:left"|偽造防止対策強化|| || || || || || || || || || ||*||↓||*||*|| ||
|}
* {{font color|Black|Gold|<u>下線</u>}}:有効券
* ↓:改刷が行われず従前の券種が継続して製造・発行されているもの
* {{font color|Black|LightCoral|<sup>''1''</sup>}}:兌換銀行券整理法により1939年(昭和14年)3月31日限りで失効、通用停止
* {{font color|Black|LightSkyBlue|<sup>''2''</sup>}}:日本銀行券預入令により1946年(昭和21年)3月2日限りで失効、通用停止
* {{font color|Black|GreenYellow|<sup>''3''</sup>}}:小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律により1953年(昭和28年)12月31日限りで失効、通用停止
* {{font color|Black|DarkGray|(カッコ書き)}}:未発行
* <sup>■</sup>:発行開始の告示のみで、市中での流通は行わず日本銀行に死蔵
* {{font color|White|Black|白字}}:日本銀行に死蔵されていた券種の実質的な発行開始時期
* <sup>+</sup>:2種類あり
=== 現在発行中の券 ===
{| class="wikitable sortable"
|-
! 券種!! 通称<ref>日本貨幣カタログ{{要ページ番号|date=2019年12月}}</ref> !! 額面<br />(円) !! style="white-space:nowrap width:5.5em;" | 発行<br />開始日 !! 表の図案 !! 裏の図案 !! サイズ<br />(mm)
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[一万円紙幣#E号券|E一万円券]]'''<br />[[File:10000 yen banknote (Series E), obverse.png|112px]] [[File:10000 yen banknote (Series E), reverse.png|112px]]
|| 福沢新1万円 || align="right" | 10000 || rowspan="3" | [[2004年]]<br />(平成16年)<br />[[11月1日]] || [[福澤諭吉]] || [[平等院]]鳳凰堂の[[鳳凰]]像 || 76×160
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五千円紙幣#E号券|E五千円券]]'''<br />[[File:5000 Yenes (2004) (Anverso).jpg|110px]] [[File:5000 Yenes (2004) (Reverso).jpg|110px]] || 樋口5000円 || align="right" | 5000 || [[樋口一葉]] || [[尾形光琳]]筆「[[燕子花図]]」 || 76×156
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[千円紙幣#E号券|E千円券]]'''<br />[[File:1000 yen banknote 2004.jpg|105px]] [[File:1000 yen banknote (Series E), reverse.png|105px]] || 野口1000円 || align="right" | 1000 ||[[野口英世]]||[[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]([[本栖湖]]に映る[[逆さ富士]])<br />[[サクラ|桜]]|| 76×150
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[二千円紙幣|D二千円券]]'''<br />[[File:2000 yen banknote (Series D), obverse.png|108px]] [[File:2000 yen banknote (Series D), reverse.png|108px]] || 首里城2000円 || align="right" | 2000 || [[2000年]]<br />(平成12年)<br />[[7月19日]] || [[首里城]][[守礼門]] || [[紫式部]]<br />[[源氏物語絵巻]]第38帖「鈴虫」の絵図と詞書([[光源氏]]、[[冷泉帝]]) || 76×154
|-
|}
* この表の「券種」表記は、最近の日本銀行と財務省の文書の表記に従っている。実際の券面の表記では、「一」は「壱」、「二」は「弐」となっている。券の名称は全て「日本銀行券」。
* D二千円券については、後述の通り普及しなかったこともあり、2000年(平成12年)と2003年(平成15年)に製造されたのみでその後は製造されていない。
* [[飲料]]・[[たばこ]]等の[[自動販売機]]や路線バスの両替機などでは千円紙幣のみに対応しているものが一般的であるが、[[鉄道駅]]の券売機などでは全紙幣に対応しているものも多い。
* 2024年(令和6年)上期を目途として新紙幣が発行されるのを前に、2022年(令和4年)9月までにE号券3券種の製造が終了した<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/0e26f3a0b02c20f3bcdd12e5222ee84cfaa8fcd2 「福沢諭吉」製造終了 新紙幣の量産開始] YAHOO!ニュース 2022年11月5日閲覧</ref>。よって[[2023年]]現在、現在発行中の日本の紙幣で新規製造されているものはなく、[[日本の硬貨]]を見ても、[[五十円硬貨]](五十円白銅貨)、[[五円硬貨]](五円黄銅貨)、[[一円硬貨]](一円アルミニウム貨)はミントセット用のみの製造となっている。よって未発行の分を除けば、現在流通用として新規製造されている[[法定通貨]]は、[[五百円硬貨]](五百円バイカラー・クラッド貨)、[[百円硬貨]](百円白銅貨)、[[十円硬貨]](十円青銅貨)の3種しかない。
=== 現在発行されていないが有効な券 ===
{| class="wikitable sortable"
|-
! 券種 !! style="text-align:center; width:1em;"| 名称 !! 通称<ref name="名前なし-1">日本貨幣カタログ{{要ページ番号|date=2019年7月}}</ref> !! 額面<br />(円) !! style="white-space:nowrap; width:5.5em;" | 発行<br />開始日 !! style="white-space:nowrap; width:5.5em;" | 支払<br />停止日 !! 表の図案 !! 裏の図案 !! サイズ<br />(mm)
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[一万円紙幣#D号券|D一万円券]]'''<br />[[File:Series D 10K Yen Bank of Japan note - front.jpg|112px]] [[File:Series D 10K Yen Bank of Japan note - back.jpg|112px]] || style="text-align:center" rowspan="16" | {{縦書き|日本銀行券}} || 福沢旧1万円 || align="right" | 10000 || rowspan="3" | [[1984年]]<br />(昭和59年)<br />[[11月1日]] || rowspan="3" | [[2007年]]<br />(平成19年)<br />[[4月2日]] || [[福澤諭吉]] || [[キジ|雉]] || 76×160
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五千円紙幣#D号券|D五千円券]]'''<br />[[File:Series D 5K Yen bank of japan note - front.jpg|109px]] [[File:Series D 5K Yen bank of japan note - back.jpg|109px]] || 新渡戸5000円 || align="right" | 5000 || [[新渡戸稲造]]<br />[[地球]] || [[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]([[本栖湖]]に映る[[逆さ富士]])<br />[[アカマツ|赤松]] || 76×155
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[千円紙幣#D号券|D千円券]]'''<br />[[File:Series D 1K Yen Bank of Japan note - front.jpg|105px]] [[File:Series D 1K Yen Bank of Japan note - back.jpg|105px]] || 夏目1000円 || align="right" | 1000 || [[夏目漱石]] || [[タンチョウ]] || 76×150
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五百円紙幣#C号券|C五百円券]]'''<br />[[File:Series C 500 Yen Bank of Japan note - front.jpg|111px]] [[File:Series C 500 Yen Bank of Japan note - back.jpg|111px]] || 岩倉新500円 || align="right" | 500 || [[1969年]]<br />(昭和44年)<br />[[11月1日]] || [[1994年]]<br />(平成6年)<br />[[4月1日]] || [[岩倉具視]] || 富士山([[雁ヶ腹摺山]]から望む富士山) || 72×159
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[千円紙幣#C号券|C千円券]]'''<br />[[File:Series C 1K Yen Bank of Japan note - front.jpg|115px]] [[File:Series C 1K Yen Bank of Japan note - back.jpg|115px]] || 伊藤1000円 ||align="right" | 1000 || [[1963年]]<br />(昭和38年)<br />[[11月1日]] || rowspan="3" | [[1986年]]<br />(昭和61年)<br />[[1月4日]] || [[伊藤博文]] || [[日本銀行本店|日本銀行本店本館]] || 76×164
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[一万円紙幣#C号券|C一万円券]]'''<br />[[File:Series_C_10K_Yen_Bank_of_Japan_note_-_front.jpg|122px]] [[File:Series_C_10K_Yen_Bank_of_Japan_note_-_back.jpg|122px]] || 聖徳1万円 || align="right" | 10000 || [[1958年]]<br />(昭和33年)<br />[[12月1日]] || [[聖徳太子]] || [[鳳凰]] || 84×174
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五千円紙幣#C号券|C五千円券]]'''<br />[[File:Series C 5K Yen Bank of Japan note - front.jpg|118px]] [[File:Series C 5K Yen Bank of Japan note - back.jpg|118px]] || 聖徳5000円 || align="right" | 5000 || [[1957年]]<br />(昭和32年)<br />[[10月1日]] || 聖徳太子 || 日本銀行本店本館 || 80×169
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[百円紙幣#B百円券|B百円券]]'''<br />[[File:SeriesB100Yen Bank of Japan note.jpg|104px]] [[File:SeriesB100Yen Bank of Japan note - back.jpg|104px]] || 板垣100円 || align="right" | 100 || [[1953年]]<br />(昭和28年)<br />[[12月1日]] || [[1974年]]<br />(昭和49年)<br />[[8月1日]] || [[板垣退助]] || [[国会議事堂]] || 76×148
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五十円紙幣#B号券|B五十円券]]'''<br />[[File:Series B 50 Yen Bank of Japan note - front.jpg|101px]] [[File:Series B 50 Yen Bank of Japan note - back.jpg|101px]] || 高橋50円 || align="right" | 50 || [[1951年]]<br />(昭和26年)<br />[[12月1日]] || [[1958年]]<br />(昭和33年)<br />[[10月1日]] || [[高橋是清]] || 日本銀行本店本館 || 68×144
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五百円紙幣#B号券|B五百円券]]'''<br />[[File:Series B 500 Yen Bank of Japan note - front.jpg|109px]] [[File:Series B 500 Yen Bank of Japan note - back.jpg|109px]] || 岩倉旧500円 || align="right" | 500 || [[1951年]]<br />(昭和26年)<br />[[4月2日]] || [[1971年]]<br />(昭和46年)<br />[[1月4日]] || [[岩倉具視]] || 富士山(雁ヶ腹摺山から望む富士山) || 76×156
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[千円紙幣#B号券|B千円券]]'''<br />[[File:Series B 1000 Yen Bank of Japan note - front.jpg|115px]] [[File:Series B 1000 Yen Bank of Japan note - back.jpg|115px]] || 聖徳1000円 || align="right" | 1000 || [[1950年]]<br />(昭和25年)<br />[[1月7日]] || [[1965年]]<br />(昭和40年)<br />[[1月4日]] || 聖徳太子 || [[法隆寺]]夢殿 || 76×164
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[一円紙幣#A号券|A一円券]]'''<br />[[File:Series A 1 Yen Bank of Japan note - front.jpeg|87px]] [[File:Series A 1Yen Bank of Japan note - back.jpg|87px]] || 二宮1円 || align="right" | 1 || [[1946年]]<br />(昭和21年)<br />[[3月20日]]<br /># || [[1958年]]<br />(昭和33年)<br />[[10月1日]] || [[二宮尊徳]]<br />[[ニワトリ]]<br />[[麦]]・[[稲]]などの食料 || 彩紋 || 68×124
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五円紙幣#A号券|A五円券]]'''<br />[[File:Series A 5 Yen Bank of Japan note - front.jpg|92px]] [[File:Series A 5 Yen Bank of Japan note - back.jpg|92px]] || 彩紋(文様)5円 || align="right" | 5 || [[1946年]]<br />(昭和21年)<br />[[3月8日]]<br />## || [[1955年]]<br />(昭和30年)<br />[[4月1日]] || 彩紋 || 彩紋 || 68×132
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[百円紙幣#A百圓券|A百円券]]'''<br />[[File:Series A 100 Yen Bank of Japan note - front.jpg|113px]] [[File:Series A 100 Yen Bank of Japan note - Back.jpg|113px]] || 4次100円 || align="right" | 100 || rowspan="2" | [[1946年]]<br />(昭和21年)<br />[[3月1日]]<br />### || [[1956年]]<br />(昭和31年)<br />[[6月5日]] || 聖徳太子<br />法隆寺夢殿<br />新円標識([[彩雲|瑞雲]]) || [[法隆寺]]西院伽藍全景 || 93×162
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[十円紙幣#A号券|A十円券]]'''<br />[[File:Series A 10 Yen Bank of Japan note - front.jpg|98px]] [[File:Series A 10 Yen Bank of Japan note - back.jpg|98px]] || 議事堂10円 || align="right" | 10 || [[1955年]]<br />(昭和30年)<br />[[4月1日]] || [[国会議事堂]]<br />[[鳳凰]] || 彩紋 || 76×140
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[一円紙幣#い号券|い一円券]]'''<br />[[File:WWII Japanese 1 yen bill, front.jpg|87px]] [[File:WWII Japanese 1 yen bill, back.jpg|87px]] || 中央武内1円 || align="right" | 1 || [[1943年]]<br />(昭和18年)<br />[[12月15日]] || rowspan="3" | [[1958年]]<br />(昭和33年)<br />[[10月1日]] || [[武内宿禰]] || [[宇倍神社]]拝殿 || 70×122
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[一円紙幣#改造一円券|改造一円券]]'''<br />[[File:Revised_1_Yen_Bank_of_Japan_Silver_convertible_-_front.jpg|101px]] [[File:Revised_1_Yen_Bank_of_Japan_Silver_convertible_-_back.jpg|101px]] || style="text-align:center" rowspan="2" | {{縦書き|日本銀行兌換銀券}} || nowrap | 漢数字1円<br />アラビア数字1円 || align="right" | 1 || [[1889年]]<br />(明治22年)<br />[[5月1日]] || 武内宿禰<br />兌換文言(日本語)<br />発行根拠文言<br />偽造変造罰則文言 || [[一円銀貨]]<br />兌換文言(英語)|| 85×145
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[一円紙幣#旧一円券|旧一円券]]'''<br />[[File:Bank_of_Japan_silver_convertible_one_yen_banknote_1885.jpg|92px]] [[File:Old_1_Yen_Bank_of_Japan_silver_convertible_note_-_reverse.jpg|92px]] || 大黒1円 || style="text-align:right;" | 1 || [[1885年]]<br />(明治18年)<br />[[9月8日]] ||[[大黒天]]<br />一円銀貨<br />兌換文言(日本語、英語)<br />発行根拠文言 || 彩紋<br />偽造変造罰則文言 || 78×135
|}
*<sup>#</sup> [[大蔵省]][[告示]](昭和21年第123号)では、[[1946年]](昭和21年)[[3月19日]]発行開始となっていた。
*<sup>##</sup> 大蔵省告示(昭和21年第97号)では、1946年(昭和21年)[[3月5日]]発行開始となっていた。
*<sup>###</sup> 大蔵省告示(昭和21年第23号)では、1946年(昭和21年)[[2月25日]]発行開始となっていた。
*この表の「券種」表記は、最近の日本銀行と財務省の文書の表記に従っている。実際の券面の表記では、「一」は「壹」または「壱」、「十」は「拾」、「円」は「[[圓]]」または「円」となっている。
*「支払停止日」は、日本銀行から市中銀行へ当該券種の支払いを停止した日のことを指す。
*戦前に流通した日本銀行券の中で1円の額面のもののみが残されたのは、1円が日本における基本通貨単位であることへの配慮に基づくとされている。
*これらの紙幣のうち日本銀行兌換銀券は、現在法的には不換紙幣の扱いで使用できることになっており、銀貨と交換することはできない。
*これらの旧紙幣は現在も法的には有効であるが、実際には既に回収が進み、現在市中ではほとんど、あるいはまったく流通していない。旧一円券などは[[古銭]]的価値が評価され取引されている。B五拾円券は戦後の紙幣であるが発行枚数がやや少ない(約3.6億枚)ので数千円の値が付くことがある。各C券、各D券、B百円券などは大量に現存しているので古銭商が買取することはほぼない(ただし、未使用でかつ珍番号あるいはエラーなどの場合はこの限りではない)。また、現在の自動販売機等の一般的な各種機器ではこれらの紙幣は基本的には使用できず、D号券が使用可能なものがごく一部残存している程度である。
*これらの旧紙幣は、市中に通貨として流通している場合、それが日本銀行に戻った時点で、損傷・汚染の激しい日本銀行券と同様に復元不能な大きさに裁断された上で廃棄処分される。
=== 失効した券 ===
{| class="wikitable sortable"
|-
! 券種 !! style="text-align:center; width:1em;"| 名称 !! 通称<ref name="名前なし-1"/> !! 額面<br />(円) !! style="white-space:nowrap width:5.5em;" | 発行<br />開始日 !! style="white-space:nowrap width:5.5em;" | 失効日 <sup>§</sup><br />(根拠法令) !! 表の図案 !! 裏の図案 !! サイズ<br />(mm)
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五銭紙幣#A号券|A五銭券]]''' || style="text-align:center" rowspan="4" | {{縦書き|日本銀行券}} || 梅5銭 || align="right" | 0.05 || [[1948年]]<br />(昭和23年)<br />[[5月25日]] || rowspan="2" | [[1953年]]<br />(昭和28年)<br />[[12月31日]]<br />(a) || [[ウメ|梅]] || 彩紋 || 48×94
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[十銭紙幣#A号券|A拾錢券]]''' || 鳩10銭 || align="right" | 0.1 || [[1947年]]<br />(昭和22年)<br />[[9月5日]] || [[鳩]] || [[国会議事堂]] || 52×100
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[百円紙幣#ろ百圓券|ろ百圓券]]''' || 3次100円 || align="right" | 100 || rowspan="2" | [[1945年]]<br />(昭和20年)<br />[[8月17日]] || rowspan="5" | [[1946年]]<br />(昭和21年)<br />[[3月2日]]<br />(b) || [[聖徳太子]] || [[法隆寺]]西院伽藍全景 || 93×162
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[十円紙幣#ろ号券|ろ拾圓券]]''' || 4次10円 || align="right" | 10 || [[和気清麻呂]] || [[護王神社]]本殿 || 81×142
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[千円紙幣#甲号券|甲千圓券]]''' || style="text-align:center" rowspan="3" | {{縦書き|日本銀行兌換券}} || 日本武尊1000円 || align="right" | 1000 || [[1945年]]<br />(昭和20年)<br />[[8月17日]]<br />* || [[ヤマトタケル|日本武尊]]<br />[[建部大社|建部神社]]本殿 || 彩紋 || 100×172
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[二百円紙幣#丙号券|丙貳百圓券]]''' || 裏赤200円 || align="right" | 200 || 1945年<br />(昭和20年)<br />[[8月16日]]<br />** || [[武内宿禰]] || 彩紋 || 97×188
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[二百円紙幣#丁号券|丁貳百圓券]]''' || 藤原200円 || align="right" | 200 || 1945年<br />(昭和20年)<br />[[4月16日]]<br />*** || [[藤原鎌足]]<br />[[談山神社]]拝殿 || [[談山神社]]十三重塔 || 97×165
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[十銭紙幣#い号券|い拾錢券]]''' || style="text-align:center" rowspan="5" | {{縦書き|日本銀行券}} || 八紘一宇10銭 || align="right" | 0.1 || rowspan="2" | [[1944年]]<br />(昭和19年)<br />[[11月1日]] || rowspan="2" | 1953年<br />(昭和28年)<br />12月31日<br />(a) || [[八紘之基柱|八紘一宇塔]] || 彩紋 || 51×106
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" |'''[[五銭紙幣#い号券|い五錢券]]''' || 楠公5銭 || align="right" | 0.05 || [[楠木正成]] || 彩紋 || 48×100
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[百円紙幣#い百圓券|い百圓券]]''' || 2次100円 || align="right" | 100 || [[1944年]]<br />(昭和19年)<br />[[3月20日]] || rowspan="9" | 1946年<br />(昭和21年)<br />3月2日<br />(b) || 聖徳太子<br />法隆寺夢殿 || 法隆寺西院伽藍全景 || 93×163
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[十円紙幣#い号券|い拾圓券]]''' || 2次10円 <small>(通し番号'''有''')</small>
3次10円 <small>(通し番号'''無''')</small>
| align="right" | 10 || rowspan="2" | [[1943年]]<br />(昭和18年)<br />[[12月15日]] || [[和気清麻呂]] || 護王神社本殿 || 81×142
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五円紙幣#ろ号券|ろ五圓券]]''' || 3次5円 <small>(通し番号'''有''')</small>
4次5円 <small>(通し番号'''無''')</small>
| align="right" | 5 || [[菅原道真]]<br />[[北野天満宮|北野神社]]拝殿 || 彩紋 || 76×132
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五円紙幣#い号券|い五圓券]]''' || style="text-align:center" rowspan="13" | {{縦書き|日本銀行兌換券}} || 2次5円 || align="right" | 5 || [[1942年]]<br />(昭和17年)<br />[[1月6日]] || 菅原道真<br />北野神社拝殿 || 彩紋 || 76×132
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[二十円紙幣#乙号券|乙貳拾圓券]]''' || タテ書き20円 || align="right" | 20 || [[1931年]]<br />(昭和6年)<br />[[7月21日]] || 藤原鎌足<br />談山神社十三重塔 || [[談山神社]]拝殿 || 87×152
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[十円紙幣#丙号券|丙拾圓券]]''' || 1次10円 || align="right" | 10 || [[1930年]]<br />(昭和5年)<br />[[5月21日]] || 和気清麻呂 || 護王神社本殿 || 81×142
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五円紙幣#丁号券|丁五圓券]]''' || 1次5円 || align="right" | 5 || [[1930年]]<br />(昭和5年)<br />[[3月1日]] || 菅原道真<br />北野神社拝殿 || 彩紋 || 76×132
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[百円紙幣#乙百圓券|乙百圓券]]''' || 1次100円 || align="right" | 100 || [[1930年]]<br />(昭和5年)<br />[[1月11日]] || 聖徳太子<br />法隆寺夢殿 || 法隆寺西院伽藍全景 || 93×162
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[二百円紙幣#乙号券|乙貳百圓券]]''' || 裏白200円 || align="right" | 200 || [[1927年]]<br />(昭和2年)<br />[[4月25日]] || 彩紋 || 印刷なし || 73×123
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[二十円紙幣#甲号券|甲貳拾圓券]]''' || 横書き20円 || align="right" | 20 || [[1917年]]<br />(大正6年)<br />[[11月20日]] || rowspan="13" | [[1939年]]<br />(昭和14年)<br />[[3月31日]]<br />(c) || 菅原道真 || 北野神社拝殿 || 86×149
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五円紙幣#丙号券|丙五圓券]]''' || 大正武内5円 || align="right" | 5 || [[1916年]]<br />(大正5年)<br />[[12月15日]] || 武内宿禰<br />[[宇倍神社]]拝殿 || 彩紋 || 73×130
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[十円紙幣#乙号券|乙拾圓券]]''' || 左和気10円 || align="right" | 10 || [[1915年]]<br />(大正4年)<br />[[5月1日]] || 和気清麻呂<br />護王神社本殿 || 彩紋 || 89×139
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五円紙幣#乙号券|乙五圓券]]''' || 透し大黒5円 || align="right" | 5 || [[1910年]]<br />(明治43年)<br />[[9月1日]] || 菅原道真 || 北野神社拝殿 || 78×136
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[百円紙幣#甲百圓券|甲百圓券]]''' || 裏紫100円 || align="right" | 100 || [[1900年]]<br />(明治33年)<br />[[12月25日]] || 藤原鎌足<br />談山神社全景 || 日本銀行本店本館 || 104×180
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[十円紙幣#甲号券|甲拾圓券]]''' || 裏猪10円 || align="right" | 10 || [[1899年]]<br />(明治32年)<br />[[10月1日]] || 和気清麻呂<br />護王神社拝殿 || [[イノシシ|猪]] || 96×159
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五円紙幣#甲号券|甲五圓券]]''' || 中央武内5円 || align="right" | 5 || [[1899年]]<br />(明治32年)<br />[[4月1日]] || 武内宿禰<br />宇倍神社全景 || 彩紋 || 85×146
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[百円紙幣#改造百圓券|改造百圓券]]''' || style="text-align:center" rowspan="6" | {{縦書き|日本銀行兌換銀券}} || めがね100円 || align="right" | 100 || [[1891年]]<br />(明治24年)<br />[[11月15日]] || 藤原鎌足 || 彩紋 || 130×210
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[十円紙幣#改造十円券|改造拾圓券]]''' || 表猪10円 || align="right" | 10 || [[1890年]]<br />(明治23年)<br />[[9月12日]] || 和気清麻呂<br />猪 || 彩紋 || 100×169
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五円紙幣#改造五円券|改造五圓券]]''' || 分銅5円 || align="right" | 5 || [[1888年]]<br />(明治21年)<br />[[12月3日]] || 菅原道真<br />分銅 || 彩紋 || 95×159
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五円紙幣#旧五円券|旧五圓券]]''' || 裏大黒5円 || align="right" | 5 || [[1886年]]<br />(明治19年)<br />[[1月4日]] || 彩紋 || 大黒天 || 87×152
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[百円紙幣#旧百圓券|旧百圓券]]''' || 大黒100円 || align="right" | 100 || [[1885年]]<br />(明治18年)<br />[[9月8日]] || 大黒天 || 彩紋 || 116×186
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[十円紙幣#旧十円券|旧拾圓券]]''' || 大黒10円 || align="right" | 10 || [[1885年]]<br />(明治18年)<br />[[5月9日]] || 大黒天 || 彩紋 || 93×156
|}
*<sup>§</sup> 有効であった最後の日。この翌日以降の効力を失った。
*<sup>*</sup> [[大蔵省]][[告示]](昭和17年第178号)では、[[1942年]](昭和17年)[[4月20日]]発行開始となっていた。印刷局から日本銀行への納入期間は[[1941年]](昭和16年)12月 - [[1943年]](昭和18年)9月。製造枚数は810万枚。実際の発行(使用開始)までの間、日本銀行に死蔵されていた。
*<sup>**</sup> 大蔵省告示(昭和2年第85号)では、[[1927年]](昭和2年)[[5月12日]]発行開始となっていた。印刷局から日本銀行への納入期間は[[1927年]](昭和2年)4月 - 同年同月。製造枚数は750万枚。実際の発行(使用開始)までの間、日本銀行に死蔵されていた。
*<sup>***</sup> 大蔵省告示(昭和17年第1号)では、[[1942年]](昭和17年)[[1月6日]]発行開始となっていた。印刷局から日本銀行への納入期間は[[1938年]](昭和13年)4月 - 同年10月。製造枚数は4410万枚。実際の発行(使用開始)までの間、日本銀行に死蔵されていた。
*<sup>a</sup> [[小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律]](昭和28年7月15日 法律第60号)
*<sup>b</sup> [[新円切替|日本銀行券預入令]](昭和21年2月17日 勅令第84号)
*<sup>c</sup> [[兌換銀行券整理法]](昭和2年4月1日 法律第46号)
*この表の「券種」表記は、当該券面の表記を尊重した。「壹」は「一(壱)」、「貳」は「二(弐)」、「拾」は「十」、「錢」は「銭」、「圓」は「円」にそれぞれ相当する。
*このうち、明治・大正時代の紙幣や、昭和戦前・戦時中の高額券などは、古銭的価値が評価され取引されている。旧百圓券や改造百圓券は現存数が数枚ほどしかないと推測されており、少なすぎて取引例はほぼ皆無である(よって相場価格がない)。乙貳百圓券なども現存数が非常に少ないといわれる。一方、銭単位の券や昭和初期~戦時中の状態の悪い額面100円以下の券などは、買取の際には取引対象とされない、あるいは大量にまとめての安い値段での買取となるのが一般である。
=== 参考:未発行券 ===
ここでは、発行されたものと呼称は同一だがデザインが異なるもの(不採用となったデザイン)についても扱う。下記の日本の未発行紙幣は、発行を前提として製造された分は全て廃棄処分されて現存しておらず、見本券が少数現存するのみとなっている。
==== 製造および発行開始の告示が行われたものの実際には発行されなかった新券種 ====
*'''[[五十円紙幣#未発行紙幣|甲五拾圓券]]'''は[[1927年]](昭和2年)の[[昭和金融恐慌]]の際に、[[取り付け騒ぎ]]の沈静化を目的として急遽大蔵省告示で制定され製造されたが、発行前に騒ぎが沈静化したため発行されなかった<ref name="dakan175-177">{{Cite book|和書|author=日本銀行調査局|year=1975|title=図録日本の貨幣 8 近代兌換制度の確立と動揺|page=175-177|publisher=東洋経済新報社|isbn=}}</ref>。表面が彩紋のみ、裏面が無印刷といういかにも急ごしらえの紙幣であった<ref name="dakan175-177"/>。なお同時期に発行された乙貳百圓券も同様に裏面が無印刷であったが、こちらは実際に発行された<ref name="dakan175-177"/>。
==== 製造には着手したものの発行開始の告示が行われなかった新券種 ====
*'''[[二百円紙幣#未発行紙幣|甲貳百圓券]]'''(武内宿禰)は[[1923年]](大正12年)の[[関東大震災]]の直後に紙幣不足の懸念から、[[横浜正金銀行]]券のデザインや既製の武内宿禰の肖像を流用して製造された<ref name="dakan173-175"/>。印刷局が甚大な被害を受けたことから大阪の[[昌栄印刷|昌栄堂印刷所]]に委託して急遽印刷されたが、懸念された紙幣の不足はなく印刷局も復旧したため、発行されずに処分された<ref name="dakan173-175">{{Cite book|和書|author=日本銀行調査局|year=1975|title=図録日本の貨幣 8 近代兌換制度の確立と動揺|page=173-175|publisher=東洋経済新報社|isbn=}}</ref>。のちに発行された丙貳百圓券のデザインは、この甲貳百圓券のデザインを流用・一部改変したものとなっている<ref name="dakan173-175"/>。
*'''[[十円紙幣#未発行紙幣|は拾圓券]]'''(和気清麻呂)・'''[[千円紙幣#未発行紙幣|い千圓券]]'''(日本武尊)・'''[[五百円紙幣#未発行紙幣|い五百圓券]]'''(武内宿禰)は、[[1945年]](昭和20年)の終戦直前に緊急時の紙幣需要に対応するために紙幣の製造効率を高めた紙幣として企画され、終戦直後の混乱の中製造された<ref name="nazo196"/>。しかしながら余りにも作りが貧弱であり銀行券としては不適当とみなされ、大蔵省告示も行われないまま発行中止となった<ref name="nazo196">{{Cite book|和書|author=日本銀行調査局|year=1975|title=図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨|page=196-200|publisher=東洋経済新報社|isbn=}}</ref>。規格やデザイン等に関しては、は拾圓券はサイズをろ拾圓券より小型化したもの、い千圓券は甲千圓券のデザインを流用・一部改変したもの、い五百圓券は印刷局が手掛けた他の紙幣の版面を繋ぎ合わせたデザインとなっている<ref>{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2019|month=1|title=日本紙幣の肖像やデザインの謎|page=165-166|publisher=日本貨幣商協同組合|isbn=978-4-93-081024-3}}</ref>。
*'''[[千円紙幣#未発行紙幣|A千圓券(2次案)]]'''(日本武尊)については、後述の[[日本銀行券#デザインの検討は行われたものの製造が行われなかった新券種|A千圓券(1次案)]]の検討後に再度発行が企画され[[1946年]](昭和21年)に製造が行われた<ref name="nazo169"/>。しかし甲千圓券の図案・原版を再利用し、新円標識の加刷と地模様の彩色変更を行った程度のものであったため、既に兌換制度が廃止されていたにもかかわらず「日本銀行'''兌換'''券」の文字と兌換文言(此券引換に[[金貨]]千圓相渡可申候)が残っているという不都合があった<ref name="nazo169"/>。また依然インフレーション助長の懸念もあったため、告示もされず発行見送りとなった<ref name="nazo169">{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2019|month=1|title=日本紙幣の肖像やデザインの謎|page=169-170|publisher=日本貨幣商協同組合|isbn=978-4-93-081024-3}}</ref>。
==== デザインの検討は行われたものの製造が行われなかった新券種 ====
*1945年(昭和20年)の終戦直後から、他のA券と同様に'''[[千円紙幣#未発行紙幣|A千圓券(1次案)]]・[[五百円紙幣#未発行紙幣|A五百圓券]]'''の発行の準備が進められていた。このときの図案原案は、[[十二神将|伐折羅大将]]像(千圓券)、[[弥勒菩薩]]像(五百圓券)というものであった。しかし[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]からこれら高額券は[[インフレーション]]助長の可能性があると指摘され、さらに肖像にもクレームがつき告示も製造も取りやめとなった<ref name="nazo62">{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2019|month=1|title=日本紙幣の肖像やデザインの謎|page=62-66|publisher=日本貨幣商協同組合|isbn=978-4-93-081024-3}}</ref>。なお、このときの千圓券の(肖像以外の)図案はA十円券に流用された<ref name="nazo62"/>。
* '''[[十円紙幣#未発行紙幣|B拾円券]]'''([[大久保利通]])、'''[[五円紙幣#未発行紙幣|B五円券]]'''(福沢諭吉)および'''[[一円紙幣#未発行紙幣|B壱円券]]'''(二宮尊徳)のデザインが1946年(昭和21年)にB号券として準備されていたが、インフレーションの進行により高額券から優先して発行している間に[[十円硬貨|十円青銅貨]]・[[五円硬貨|五円黄銅貨]]・[[一円硬貨|一円アルミ貨]]が発行されたためこれらの紙幣は製造されなかった<ref name="kanri210">{{Cite book|和書|author=日本銀行調査局|year=1975|month=6|title=図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の貨幣|page=210-214|publisher=東洋経済新報社|isbn=}}</ref>。B号券としては高額の千円券から五十円券までの4券種のみが発行された<ref name="kanri210"/>。
*'''[[一万円紙幣#未発行紙幣|B壱万円券]](A案)'''([[法隆寺]]西院伽藍全景、笏なしの聖徳太子)は、[[1953年]](昭和28年)に考案されたが高額券発行によるインフレーション助長の懸念が根強く製造には至らなかった<ref name="b10000">{{Cite news | title = 一万円札年末にお目見え | newspaper = 朝日新聞 朝刊 | location = 東京 | pages = 7 | date = 1953-09-03 | url = | accessdate = }}</ref>。そのB案(笏持ちの聖徳太子)がC壱万円券として1958年(昭和33年)に発行された。A案の透かしはC五千円券の透かしとして採用された<ref name="b10000"/>。
* D号券には発行された3種類の他に、'''[[一万円紙幣#さらに高額の未発行紙幣|D拾万円券]]'''および'''[[一万円紙幣#さらに高額の未発行紙幣|D五万円券]]'''の発行が検討されていた<ref name="aera">{{Cite journal|和書|date = 1988-12-06|title = 追跡・聖徳太子拾万円札プラン 日の目見なかったデザイン再現|journal = アエラ|pages = 6}}</ref>。それぞれ聖徳太子と野口英世のデザインだったが、これも結局製造が行われなかった<ref name="aera"/>。
==== 発行された券種とは別デザインで不採用となったもの ====
*'''乙百圓券(A案)'''(藤原鎌足)は1923年(大正12年)に製造準備が行われたものの、未完成の原版や試刷券、検討資料も含め関東大震災の影響で全て焼失してしまい発行されず、結局1930年(昭和5年)にB案のデザインの乙百圓券が発行された<ref name="dakan184">{{Cite book|和書|author=日本銀行調査局|year=1975|title=図録日本の貨幣 8 近代兌換制度の確立と動揺|page=184|publisher=東洋経済新報社|isbn=}}</ref>。表面右側に藤原鎌足の肖像、左側に談山神社の風景を描いたもので、用紙には菊・桐の図柄の透かしと染色した蚕糸を漉き込んだものであった<ref name="dakan184"/>。
*'''C千円券(A案・B案)'''(A案は聖徳太子続投、B案は[[渋沢栄一]])については、A案は聖徳太子の続投はおかしいとの理由で不採用、B案の渋沢栄一も最終選考に残ったものの、当時は偽造防止に、主に肖像にヒゲがある人物が用いられていたため不採用となり、最終的にC案の伊藤博文が採用された<ref>{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2015|month=6|title=紙幣肖像の近現代史|publisher=吉川弘文館|page=224-228|isbn=978-4-64-203845-4}}</ref>。採用を見送られたデザインは[[お札と切手の博物館]]の展示物で確認することが可能である。
=== 今後発行予定の券 ===
{| class="wikitable sortable"
|-
! 券種 !! 額面<br />(円) !! 表の図案 !! 裏の図案 !! サイズ<br />(mm) !! 出典
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[一万円紙幣#2024年度発行予定の新紙幣|一万円券]]'''<br />[[File:New 10000 yen banknote obverse.png|112px]] [[File:New 10000 yen banknote reverse.png|112px]] || align="right" | 10000 || [[渋沢栄一]] || [[東京駅]](丸の内駅舎) || 76×160 || rowspan = 3|<ref name="mof20190409" />
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[五千円紙幣#2024年度発行予定の新紙幣|五千円券]]'''<br />[[File:New 5000 yen banknote obverse.png|110px]] [[File:New 5000 yen banknote reverse.png|110px]] || align="right" | 5000 || [[津田梅子]] || [[フジ (植物)|フジ]](藤) || 76×156
|-
| style="white-space:nowrap; text-align:center" | '''[[千円紙幣#2024年度発行予定の新紙幣|千円券]]'''<br />[[File:New 1000 yen banknote obverse.png|105px]] [[File:New 1000 yen banknote reverse.png|105px]] || align="right" | 1000 || [[北里柴三郎]] || [[葛飾北斎]]筆 『[[富嶽三十六景]]「[[神奈川沖浪裏]]」』 || 76×150
|-
|}
* この表の「券種」表記は、最近の日本銀行と財務省の文書の表記に従っている。実際の券面の表記(漢数字)では、「一」は「壱」となっている。券の名称は全て「日本銀行券」。
* [[2021年]](令和3年)9月1日より新一万円券、9月10日より新千円券、11月26日より新五千円券の製造が開始された。発行予定日の2年半以上前から製造が開始されたのは、自動販売機やATMその他の新紙幣を扱う各種機器の改修の際にテストを入念にし、障害やトラブルが起きないようにするためとされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASP916DKBP91ULFA00J.html|title=新1万円札の実物を初披露、流通は24年度上期めど|publisher=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-09-02}}</ref>。現在国立印刷局では、発行中のE号券は既に製造が終了し、2024年度発行予定の改刷券のみ印刷されている。
* [[2023年]](令和5年)[[4月14日]]、日本銀行はこれらの新紙幣の見本券を東京・日本橋の日銀本店で報道陣に公開した<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/66b5567d362ca9150c62ba8fa0295558a6c9f084 新紙幣見本券、お披露目 来年度上期発行 日銀]</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[6月24日]]、これらの新紙幣は[[2024年]](令和6年)7月に発行する方向で調整していることが報道された<ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2023062400014&g=eco 新紙幣、来年7月にも発行 財務省と日銀] 時事通信 2023年06月24日00時36分</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[12月12日]]、これらの新紙幣は[[2024年]](令和6年)7月3日に発行する予定であることが発表された<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/eb0f52fe32a3789cedb0e02a75f344aefed9a171 20年ぶりの紙幣刷新、渋沢栄一の1万円札など来年7月3日に発行…日銀発表] Yahoo!ニュース 2023年12月12日(2023年12月13日閲覧)</ref>。
== 日本銀行券の様式 ==
=== 材料 ===
日本銀行券の原材料には、[[和紙]]と同じく[[三椏]](ミツマタ)と、耐久性向上のため[[マニラアサ|マニラ麻]]が使用されている。これは、[[繊維]]が頑丈で独特の手触りがあるために、[[偽造]]の防止にも効果があるためである。[[第二次世界大戦]]末期や終戦直後の[[インフレーション|インフレ]]時には、三椏の生産が追いつかないため、三椏の割合を減らしたり、通常の[[パルプ]]を使用していたこともあったが、耐久性に難がある上に大量の[[偽札]]が出回り、経済や社会の混乱を招いたために、「粗悪な紙は通貨の信用を落とす」として取りやめとなった。
国内産の「局納みつまた」は、[[2000年代]]までは国内での自給自足を維持しており、[[2005年]](平成17年)の時点で[[島根県]]・[[岡山県]]・[[高知県]]・[[徳島県]]・[[愛媛県]]・[[山口県]]の6県が国立印刷局と生産契約を結んでいた。各県に「局納みつまた生産協力会」といった生産者団体が組織されており、局納価格は山口県を除く5県が毎年輪番で印刷局長と交渉して決定された<ref>{{Cite web|和書|url=http://nittokusin.jp/wp/bunkazai_iji/washi/washi3/|title=和紙原料の生産・流通状況|publisher=日本特用林産振興会|accessdate=2017-06-13}}</ref>。しかし、生産地の過疎化や農家の高齢化、後継者不足により、2005年度(平成17年度)以降は生産量が激減し<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jsapa.or.jp/tokusan/tokusanchousa/nousakumotuchousah22.pdf|title=特産農産物に関する生産情報調査結果(平成 24 年)|publisher=公益財団法人日本特産農産物協会|accessdate=2017-06-13}}</ref>、[[2016年]](平成28年)では岡山県、徳島県、島根県の3県だけで生産されており、出荷もこの3県の[[農業協同組合|農協]]に限られる。
これに対応するために、[[2010年]]度(平成22年度)以降は[[中華人民共和国]]、[[ネパール]]産の三椏の輸入で不足分を補うようになっており、その結果、2016年度(平成28年度)に使った三椏の白皮のうち約9割が外国産となった。外国産三椏は国内産と比べて調達価格が25%程度と安く、経費節減につながる利点がある。その反面、輸入先の災害などによる調達のリスクもある。ネパールにおいて三椏の生産地が2015年(平成27年)の[[ネパール地震 (2015年)|大地震]]で大きな被害を受けた実例もあり、三椏の安定供給を保つために、国立印刷局は国内で新たな出荷元を探している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20160725000082/print|title=ミツマタ出荷で集落再生 京都・福知山、紙幣原料に|publisher=京都新聞社|accessdate=2017-06-13}}</ref>。
=== 記番号 ===
==== B券, C券, D券, E券 ====
[[ファイル:Boj_notes.serial_number.jpg|thumb|240px|right|(1) E千円券の記番号。この記番号から滝野川工場で製造された「5,400,145(=900,000×6+145)枚目」のE千円券であることが分かる。(2) 左からC,D,E千円券の記番号のやや特殊な「2」の字体。E五千円券でも採用。]]
[[ラテン文字]]([[アルファベット]])と[[算用数字]]の組み合わせによる通し番号という形式である。各券種の日本銀行券1枚ずつ固有のものである。ただし、記番号の組み合わせを全て使い切ってしまった場合、あるいは紙幣の仕様をマイナーチェンジする場合、印刷色を変えて再度同じ記番号が使われている。アルファベット26文字のうち、「I」(アイ)と「O」(オー)は、数字の「1」「0」と紛らわしいため使用されない。従って使用されるアルファベットは24文字となる<ref name="jiten258">{{Cite book|和書|author=|year=2005|title=日本紙幣収集事典|page=258,286頁|publisher=原点社|isbn=}}</ref>。
# 左端のアルファベットは1文字または2文字であり、概ね2文字のものより1文字のものが製造時期が早い。1文字のものについては、概ね A, B, C ... Z の順番で製造される。2文字である場合、額面五千円以上の券は概ね AA, AB, AC ... BA, BB, BC ... ZX, ZY, ZZ の順に製造され、額面二千円以下の券は概ね AA, BA, CA ... AB, BB, CB ... XZ, YZ, ZZ の順に製造される。なぜ「概ね」なのかというと、印刷局の工場が4か所あり、各工場間の券製造のスケジュール調整がいかになされているかは当局者しか知り得ないからである。しかし製造時期の早晩を判断する大体の目安にはなる<ref name="jiten258"/>。
# アルファベットに挟まれた数字6桁については、000001から900000までの90万通りであり、基本的には1つのアルファベットの組み合わせ(記号)につき90万枚製造されている。ただし各券種の最終組など、一部の記号で製造枚数が90万枚に満たないものが存在する<ref name="jiten258"/>。
# 右端のアルファベット1文字を「末尾記号」といい、製造した工場を表すが、例外も有り得る。概ね以下の通りになっている<ref name="jiten258"/>(<ref>[http://chigasakiws.web.fc2.com/kiban-jyunban.htm 記番号の順番(B~E号券:紙幣)]((新)近現代・日本のお金(貨幣、紙幣))</ref>も参照)。
{|class="wikitable"
|-
!製造工場
!B号券4種<br />C号券4種
!D一万円券<br />D五千円券<br />D千円券<br />(ミニ改刷前)
!D一万円券<br />D五千円券<br />D千円券<br />(以上ミニ改刷後)<br />D二千円券<br />E号券3種
|-
|滝野川工場([[東京都]][[北区 (東京都)|北区]])||A-H||A-G||A-G
|-
|小田原工場([[神奈川県]][[小田原市]])||J-N,P-R||H,J-N,P||H,J-N
|-
|静岡工場([[静岡県]][[静岡市]][[駿河区]])||S-V||Q-T||P-S
|-
|彦根工場([[滋賀県]][[彦根市]])||W-Z||U-Z||T-Z
|-
|}
結局、同一印刷色の記番号で (24×900,000×24)+(24×24×900,000×24) = 12,960,000,000 (129億6千万)枚まで製造・発行できることになる。記番号を数字に例えるなら、上記 1. 2. 3. のうち、最も上位の桁は 1. で、次が 3. 最下位の桁が 2. である。例えば、E千円券を小田原工場で製造する場合、「AA900000H」の次に製造すべきは「AA000001J」であり、「AA900000N」の次は「BA000001H」である。同一デザインの紙幣の製造中に、記番号の組み合わせの枯渇などの理由により記番号の色が変わる場合、記番号の色は上記の 1. より更に上位の桁とみなすこともできる。
これまでに記番号の色が変更された紙幣は次の通り<ref>[https://www.npb.go.jp/ja/intro/faq/use.html 独立行政法人 国立印刷局 - 現在でも使えるお札]</ref>。なお、変更の理由は、''<sup>a</sup>'' 記番号の組み合わせの枯渇、 ''<sup>b</sup>'' 紙幣の仕様のマイナーチェンジ、である。
* C千円券(伊藤): '''<span style="color:black">黒色</span>'''(1963年(昭和38年)11月)→ <sup>''a''</sup> '''<span style="color:blue">青色</span>'''(1976年(昭和51年)7月)
* D一万円券(福澤): '''<span style="color:black">黒色</span>'''(1984年(昭和59年)11月)→ <sup>''b''</sup> '''<span style="color:maroon">褐色</span>'''(1993年(平成5年)12月)
* D五千円券(新渡戸): '''<span style="color:black">黒色</span>'''(1984年(昭和59年)11月)→ <sup>''b''</sup> '''<span style="color:maroon">褐色</span>'''(1993年(平成5年)12月)
* D千円券(夏目): '''<span style="color:black">黒色</span>'''(1984年(昭和59年)11月)→ ''<sup>a</sup>'' '''<span style="color:blue">青色</span>'''(1990年(平成2年)11月)→ <sup>''b''</sup> '''<span style="color:maroon">褐色</span>'''(1993年(平成5年)12月)→ ''<sup>a</sup>'' '''<span style="color:DarkGreen">暗緑色</span>'''(2000年(平成12年)4月)
* E一万円券(福澤): '''<span style="color:black">黒色</span>'''(2004年(平成16年)11月)→ ''<sup>a</sup>'' '''<span style="color:maroon">褐色</span>'''(2011年(平成23年)7月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-20110426-0141-14.pdf|title=平成二十三年七月十九日から発行を開始する日本銀行券壱万円及び千円の様式を定める件(平成23年 財務省告示第141号)|date=2011-04-26|accessdate=2020-10-02|publisher=財務省}}</ref>
* E五千円券(樋口): '''<span style="color:black">黒色</span>'''(2004年(平成16年)11月)→ <sup>''b''</sup> '''<span style="color:maroon">褐色</span>'''(2014年(平成26年)5月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-20110426-0141-14.pdf |title=平成二十六年五月十二日から発行を開始する日本銀行券五千円の様式を定める件(平成25年 財務省告示第374号)| date=2013-12-03 | accessdate=2020-10-02 }}</ref>
* E千円券(野口): '''<span style="color:black">黒色</span>'''(2004年(平成16年)11月)→ ''<sup>a</sup>'' '''<span style="color:maroon">褐色</span>'''(2011年(平成23年)7月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-20110426-0141-14.pdf|title=平成二十三年七月十九日から発行を開始する日本銀行券壱万円及び千円の様式を定める件(平成23年 財務省告示第141号)|date=2011-04-26|accessdate=2020-10-02|publisher=財務省}}</ref> → ''<sup>a</sup>'' '''<span style="color:navy">紺色</span>'''(2019年(平成31年)3月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-20181018-0279.pdf |title=平成三十一年三月十八日から発行を開始する日本銀行券千円の様式を定める件(平成30年 財務省告示第279号)| date=2018-10-18 | accessdate=2020-10-02 }}</ref>
この形式の記番号は、C一万円券とC五千円券では左上・右上・左下・右下の4か所、それ以外の紙幣では左上と右下の2か所に印刷されている。
記番号の書体については、印刷局独自の特殊なものが採用されている。C号券 - E号券では、同じ書体が採用されている券種でグループ分けすると、次の箇条書きのようになる。
* C一万円券・C五千円券・D一万円券
* C五百円券・D五千円券
* C千円券・D千円券・E五千円券・E千円券{{efn|このグループの紙幣では、画像に示すように数字の「2」の字体がやや特殊なものとなっている。}}
* D二千円券・E一万円券
C号券4種(このうちC千円券については黒記番号のもの)については、[[沖縄]]の[[沖縄返還|本土復帰]]に伴う[[ニクソン・ショック#沖縄の通貨交換|通貨交換]]([[B円#第五次通貨交換|第五次通貨交換]])用の特殊記号券が存在し、記番号の英字の組み合わせのうちごく一部の特定のものがこれに当たるが、その現存数は非常に少ない。
==== 2024年度発行予定の改刷券で新たに採用される形式 ====
2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券では、「AA000001AA」のように、左側にアルファベット2桁、中央に数字6桁、右側にもアルファベット2桁という構成となる予定<ref name="mof20190409" />。
この形式の記番号は、B券からE券までの紙幣のうちC一万円券とC五千円券以外のものと同様、紙幣の左上と右下の2か所に印刷されている。
==== 旧形式 ====
B券より前の日本銀行券の記番号は基本的に「組番号(記号)・通し番号」という形式であった。この場合も通し番号は基本的に、B券以降の[[アルファベット]]に挟まれた数字6桁と同様、000001から900000までの90万通りであったが、一部の券種{{efn|[[百円紙幣#い百圓券|い百圓券]](2次100円)・[[十円紙幣#い号券|い拾圓券]]前期(2次10円)・[[五円紙幣#ろ号券|ろ五圓券]]前期(3次5円)・[[一円紙幣#い号券|い一円券]](中央武内1円)前期・[[百円紙幣#A百圓券|A百円券]](4次100円)}}では不良券との差し替え用に900001以降の通し番号が印刷されることがあった(補刷券)。
;A券 (A号券)
:A券の記号は4桁以上の数字で構成され、先頭の桁は常に「1」となっており、日本銀行券であることを表している。末尾の2桁は製造工場を表しており、先頭1桁と末尾2桁を除いた部分が組番号となる。なお通し番号は100円券のみに印刷されており、その100円券は1組につき90万枚製造されている。通し番号のない10円以下の券種については、1組につき500万枚製造されている。ちなみに、日本銀行券ではないが、A券と同時期に発行された[[小額政府紙幣]]の板垣50銭の記号は、先頭の桁が政府紙幣を表す「2」となっている以外はA券と同様の形式である。ただし一部の組で製造枚数が500万枚(90万枚)に満たないものが存在する<ref name="jiten244">{{Cite book|和書|author=|year=2005|title=日本紙幣収集事典|page=244|publisher=原点社|isbn=}}</ref>。
:A券の記号下2桁の表を以下に示す。○は製造されている(存在する)ことを示す<ref name="jiten244"/>。
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!製造工場
!記号下2桁
!A百円券
!A十円券
!A五円券
!A一円券
!政府紙幣<br />板垣五十銭券<br />{{efn|日本銀行券ではないが、記番号のルールが日本銀行券A号券と同様のため便宜的にここに列した。}}
!A十銭券
!A五銭券
|-
|style="text-align:left"|大蔵省印刷局滝野川工場||12||○||○||○||○||○||○||
|-
|style="text-align:left"|大蔵省印刷局酒匂工場||22||○||○||○||○|| || ||
|-
|style="text-align:left"|大蔵省印刷局静岡工場||32||○||○|| ||○|| ||○||
|-
|style="text-align:left"|大蔵省印刷局彦根工場||42||○||○|| ||○|| || ||
|-
|style="text-align:left"|凸版印刷板橋工場||13||○||○|| ||○||○||○||○
|-
|style="text-align:left"|凸版印刷富士工場||23||○||○|| || ||○|| ||
|-
|style="text-align:left"|凸版印刷大阪工場||33||○||○|| || ||○||○||
|-
|style="text-align:left"|大日本印刷市ヶ谷工場||14|| ||○|| || || || ||
|-
|style="text-align:left"|大日本印刷秋田工場||24|| ||○|| || || || ||
|-
|style="text-align:left"|大日本印刷新発田工場||34|| ||○|| || || || ||
|-
|style="text-align:left"|大日本印刷榎町工場||44||○|| || ||○||○|| ||
|-
|style="text-align:left"|共同印刷小石川工場||15||○||○||○||○||○||○||
|-
|style="text-align:left"|東京証券印刷王子工場||16||○||○|| ||○||○||○||
|-
|style="text-align:left"|東京証券印刷小田原工場||26||○|| ||○||○||○||○||
|-
|style="text-align:left"|東京証券印刷武生工場||36|| ||○|| || || || ||
|-
|style="text-align:left"|帝国印刷芝工場||17||○|| ||○|| ||○|| ||
|-
|}
;更に過去の日本銀行券
:記号は基本的に組番号に波括弧をつけたものとなっており、記番号の進行はまず{1}から始まり、通し番号が900000まで(補刷券がある場合はこの限りではない)いくと次は{2}となり、以下通し番号を使い切るごとに{3}、{4}と次へ移っていくという単純なものであった。戦時中などの一部の券種{{efn|[[二百円紙幣#乙号券|乙貳百圓券]]・[[十円紙幣#い号券|い拾圓券]]後期(3次10円)・[[五円紙幣#ろ号券|ろ五圓券]]後期(4次5円)・[[一円紙幣#い号券|い一円券]](中央武内1円)後期・[[十銭紙幣#い号券|い拾錢券]]・[[五銭紙幣#い号券|い五錢券]]・[[百円紙幣#ろ百圓券|ろ百圓券]](3次100円)・[[十円紙幣#ろ号券|ろ拾圓券]](4次10円)}}については、通し番号が印刷されておらず記号のみの表記となっており、1組あたりの製造枚数も90万枚ではなく、券種によってさまざまに設定されていた。また明治期の日本銀行兌換銀券や日本銀行兌換券の場合は、記号番号とも漢数字のものや、記号がいろは順の[[変体仮名]]で通し番号が漢数字のものが存在した。漢数字は「〇[[大字 (数字)|壹貳叄]]四五六七八九」(ただし甲拾圓券・甲五圓券の後期のものでは2に対応するものは「弍」)を使い、記号は「第壹號」のように前後に「第」と「號」を付けて表示された(変体仮名の場合は後ろに「號」を付けるのみ)。漢数字記番号の紙幣については、券種によって通し番号の桁数や1組あたりの製造枚数(最大通し番号)が異なっている。
=== 肖像 ===
[[1887年]]([[明治]]20年)に、[[日本武尊]]・[[武内宿禰]]・[[藤原鎌足]]・[[聖徳太子]]・[[和気清麻呂]]・[[坂上田村麻呂]]・[[菅原道真]]の7人を日本銀行券の肖像候補として選定した。いずれも紙幣肖像の彫刻に必要となる写真や明確な肖像画が残っていない人物であるため、当時[[お雇い外国人]]として来日し、日本の紙幣製造の技術指導に当たっていた[[イタリア]]人で画家の[[エドアルド・キヨッソーネ]]が、文献資料や絵画・彫刻などから各人の事蹟や性格、容姿などを研究し風貌を脳裏に描いてから、そのイメージに似合う実在の(当時生きていたあるいは写真が残っていた)別の人物を探し、その人物をモデルとして描いたとされる<ref>{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2015|month=6|title=紙幣肖像の近現代史|page=108|publisher=吉川弘文館|isbn=9784642038454}}</ref>。 その後、戦前の日本銀行券の肖像には前述の候補の7人のうち、坂上田村麻呂以外の6人が採用されている<ref>{{Cite book|和書|author=|year=2005|title=日本紙幣収集事典|page=117-119|publisher=原点社|isbn=}}</ref>。
[[1946年]]([[昭和]]21年)に[[大蔵省]][[印刷局]]は、[[光明皇后]]・聖徳太子・[[貝原益軒]]・[[菅原道真]]・[[松方正義]]・[[板垣退助]]・[[木戸孝允]]・[[大久保利通]]・[[野口英世]]・[[渋沢栄一]]・[[岩倉具視]]・[[二宮尊徳]]・[[福沢諭吉]]・[[青木昆陽]]・[[夏目漱石]]・[[吉原重俊]]・[[新井白石]]・[[伊能忠敬]]・[[勝海舟|勝安房]]・[[三条実美]]の20人を紙幣の肖像候補としてリストアップした事が確認されている<ref>{{Cite book|和書|author=植村峻|year=1989|month=12|title=紙幣肖像の歴史|series=選書|page=182|publisher=東京美術|isbn=4808705435}}</ref>。
戦後、B号券以降は、聖徳太子以外は写真が現存している近代の人物が採用されるようになった。A百円券やB券、C券では[[聖徳太子]]と近代政治家の[[肖像]]が採用された。聖徳太子は高額券に採用されたため、「高額券=聖徳太子」のイメージは昭和生まれ世代にはなじみ深いものである。[[1984年]](昭和59年)のD券以降は、D二千円券を除きいわゆる[[文化人]]が肖像に採用されている。D二千円券は表が人物の肖像ではなく、建築物を像としている点で特異である{{efn|裏面には源氏物語の登場人物の[[光源氏]]、[[冷泉帝]]、および作者の紫式部の肖像が描かれている。}}。
なお、D五千円券でピックアップされた[[新渡戸稲造]]は[[1981年]](昭和56年)の紙幣刷新決定当時に在任中の[[鈴木善幸]][[内閣総理大臣]]と同じ出身地であったり、E一万円券にピックアップされた福澤諭吉は[[2001年]](平成13年)の紙幣刷新決定当時に在任中の[[小泉純一郎]]内閣総理大臣・[[塩川正十郎]][[財務大臣 (日本)|財務大臣]]の出身校である[[慶應義塾大学]]の創設者であったほか、[[2024年]](令和6年)に発行される新たな一万円券にピックアップされた[[渋沢栄一]]は[[2019年]](令和元年)の紙幣刷新発表当時に在任中であった[[安倍晋三]]内閣総理大臣・[[麻生太郎]]財務大臣の親戚にあたる人物であるなど、デザイン決定時の[[首相]]や[[大臣]]に関連する人物が取り上げられるケースもある。
また、肖像の人名については、B号券以降では肖像が描かれていないD二千円券<ref group="注釈">表面は肖像ではなく首里城守礼門の図柄であり、裏面の紫式部の図柄(肖像ではない)に人名が記載されている。</ref>以外の全券種に記載されているが、B号券より前の券種には記載されていないものが多く、改造券4種と甲百圓券・甲拾圓券・甲五圓券に記載されている程度であり、これらの紙幣に描かれている武内宿禰・菅原道真・和気清麻呂・藤原鎌足の紙幣券面の人名表記は、それぞれ「武内[[大臣 (古代日本)|大臣]]」「菅原道真公」「和氣清麻呂卿」「藤原鎌足公」となっている<ref name="rekigi310">{{Cite book|和書|author=大蔵省印刷局|year=1984|month=11|title=日本銀行券製造100年・歴史と技術|page=310|publisher=大蔵省印刷局|isbn=}}</ref>。
==== 日本銀行券の肖像になった人物など ====
[[ファイル:Shotoku Taishi BOJC5K.jpg|thumb|right|128px|聖徳太子(C五千円券)]]
<u>下線</u>は現在有効な券を示す。
* [[大黒天]](旧拾圓、<u>旧一円</u>、旧百圓、旧五圓)
* [[菅原道真]](改造五圓、乙五圓、甲貳拾圓、丁五圓、い五圓、ろ五圓)
* [[和気清麻呂]](改造拾圓、甲拾圓、乙拾圓、丙拾圓、い拾圓、ろ拾圓)
* [[藤原鎌足]](改造百圓、甲百圓、乙貳拾圓、丁貳百圓)
* [[武内宿禰]](<u>改造一円</u>、甲五圓、丙五圓、丙貳百圓、<u>い一円</u>)
* [[聖徳太子]](乙百圓、い百圓、ろ百圓、<u>A百円</u>、<u>B千円</u>、<u>C五千円</u>、<u>C一万円</u>)※原画は[[唐本御影]]
* [[楠木正成]](い五錢)※[[皇居外苑|皇居前広場]]の銅像
* [[ヤマトタケル|日本武尊]](甲千圓)
* [[二宮尊徳]](<u>A一円</u>)
* [[岩倉具視]](<u>B五百円</u>、<u>C五百円</u>)
* [[高橋是清]](<u>B五十円</u>)
* [[板垣退助]](<u>B百円</u>)
* [[伊藤博文]](<u>C千円</u>)
* [[福澤諭吉]](<u>D一万円</u>、<u>E一万円</u>)
* [[新渡戸稲造]](<u>D五千円</u>)
* [[夏目漱石]](<u>D千円</u>)
* [[紫式部]](<u>D二千円</u>)※ただし、肖像としてではなく裏面の図柄として採用。原画は[[紫式部日記絵巻]]。
* [[樋口一葉]](<u>E五千円</u>)
* [[野口英世]](<u>E千円</u>)
==== 今後日本銀行券の肖像になる予定の人物 ====
以下の人物の肖像は2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券で採用される予定である。
* [[渋沢栄一]](一万円)<ref name="mof20190409" />
* [[津田梅子]](五千円)<ref name="mof20190409" />
* [[北里柴三郎]](千円)<ref name="mof20190409" />
=== 人物以外の図案 ===
戦前の日本銀行券では、券面に印刷されている肖像の人物と関わりの深い[[神社]]などが図案の題材として多く採用されていた。戦後に発行された日本銀行券では、[[国会議事堂]]や[[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]など、日本を象徴する建築物や風景、動植物などが採用されることが多い。[[2000年]]代以降のD二千円券やE号券、2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券では、著名な芸術作品なども題材として採用されるようになっている。
なお、肖像には改造券4種やB号券以降の各券種などにおいて人名が付記されているのとは異なり、肖像以外の図案については題材についての注記は記載されていないものがほとんどである。ただし、甲百圓券・甲拾圓券・甲五圓券の3券種に限って題材の神社名が注記として記載されている<ref name="rekigi310"/>。
==== 日本銀行券の図案に採用された題材 ====
<u>下線</u>は現在有効な券を示す。
; 建築物
* [[宇倍神社]]
**全景(甲五圓)
**拝殿(丙五圓、<u>い一円</u>)
* [[護王神社]]
**拝殿(甲拾圓)
**本殿(乙拾圓、丙拾圓、い拾圓、ろ拾圓)
* [[談山神社]]
**全景(甲百圓)
**拝殿(乙貳拾圓、丁貳百圓)
**十三重塔(乙貳拾圓、丁貳百圓)
* [[日本銀行本店|日本銀行本店本館]](甲百圓、<u>B五十円</u>、<u>C五千円</u>、<u>C千円</u>)
* [[北野天満宮|北野神社]]〈現:北野天満宮〉拝殿(乙五圓、甲貳拾圓、丁五圓、い五圓、ろ五圓)
* [[法隆寺]]
**西院伽藍全景(乙百圓、い百圓、ろ百圓、<u>A百円</u>)
**夢殿(乙百圓、い百圓、<u>A百円</u>、<u>B千円</u>)
* [[八紘之基柱|八紘一宇塔]]〈現:平和の塔〉(い拾錢)
* [[建部大社|建部神社]]〈現:建部大社〉本殿(甲千圓)
* [[国会議事堂]](<u>A十円</u>、A拾錢、<u>B百円</u>)
* [[首里城]][[守礼門]](<u>D二千円</u>)
; 風景
* [[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]
**[[雁ヶ腹摺山]]から望む富士山(<u>B五百円</u>、<u>C五百円</u>)※原画は名取久作撮影の写真
**[[本栖湖]]に映る[[逆さ富士]](<u>D五千円</u>、<u>E千円</u>)※原画は[[岡田紅陽]]撮影の写真「湖畔の春」
; 動物
* [[イノシシ|猪]] (改造拾圓、甲拾圓)
* [[鳳凰]](<u>A十円</u>、<u>C一万円</u>)
* [[ニワトリ]](<u>A一円</u>)
* [[鳩]](A拾錢)
* [[キジ|雉]](<u>D一万円</u>)
* [[タンチョウ]](<u>D千円</u>)
; 植物
* [[ウメ|梅]](A五銭)
* [[アカマツ|赤松]](<u>D五千円</u>)
* [[サクラ|桜]](<u>E千円</u>)
; 絵画・彫刻
* [[源氏物語絵巻]]第38帖「[[鈴虫_(源氏物語)|鈴虫]]」の絵図と詞書(<u>D二千円</u>)※[[源氏物語]]の登場人物の[[光源氏]]、[[冷泉帝]]が描かれている
* [[平等院]]鳳凰堂[[鳳凰]]像(<u>E一万円</u>)
* [[尾形光琳]]筆「[[燕子花図]]」(<u>E五千円</u>)
; その他
* [[分銅]](改造五圓)
* [[一円銀貨|一圓銀貨]](<u>旧一円</u>、<u>改造一円</u>)
* [[麦]]・[[稲]]などの食料(<u>A一円</u>)
* [[地球]](<u>D五千円</u>)※[[太平洋]]を中心として描かれている
なお、上記の他に、彩紋や地模様の一部として[[キク|菊花]]{{efn|C千円券、D二千円券など}}や桜花{{efn|C千円券、C五百円券、D二千円券、E千円券など}}、宝相華{{efn|C千円券、E一万円券など}}などのデザインが取り入れられた券種が存在する。また、乙百圓券を筆頭に、丙拾圓券、い号券やB号券の一部券種などでは法隆寺や[[正倉院]]に関連する[[文化財]]を基にしたデザインが地模様や輪郭などに多数採用されていた。
==== 今後日本銀行券の図案に採用される予定の題材 ====
以下の図案は2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券で採用される予定である。
* [[東京駅]](丸の内駅舎)(一万円)<ref name="mof20190409" />
* [[フジ (植物)|フジ]](藤)(五千円)<ref name="mof20190409" />
* [[葛飾北斎]]筆 「[[富嶽三十六景]]([[神奈川沖浪裏]])」(千円)<ref name="mof20190409" />
=== 識別マーク ===
D券以降の日本銀行券では、[[視覚障害者]]が[[皮膚感覚|触覚]]で容易に券種を識別できるように識別マークが施されている。
二千円券以外のD券では、透かしにより各券の表面から見て左下隅に施されており、D一万円券は[[点字]]の「う」を模した「丸印が横に2つ」、D五千円券は点字の「い」を模した「丸印が縦に2つ」、D千円券は点字の「あ」を模した「丸印が1つ」となっている。
D二千円券およびE券では、深凹版印刷により左下と右下の両隅に施されており、D二千円券は点字の「に」を模した「丸印が縦に3つ」、E一万円券は「左下隅L字・右下隅逆L字」、E五千円券は「八角形」、E千円券は「横棒」となっている。2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券でも深凹版印刷により施される予定だが、斜線の連続模様の印刷位置を券種ごとに変える方式(一万円券は左右隅、五千円券は上下隅、千円券は右上隅・左下隅)となる予定である。
この他、表面に貼付された[[ホログラム]]の表層はその他の印刷面と触感が異なる透明層で覆われていることから、こちらも触覚で券種を識別する際に使用される。[[2014年]](平成26年)5月12日以降発行のE五千円券は、券種の識別性の向上のためにE一万円券(楕円状)と異なる形状(角丸四角状)の透明層に変更されており、この方法でも券種の識別が可能となった<ref>{{Cite press release|和書|title=新様式の日本銀行券5千円券の発行開始日を決定しました |publisher=財務省 |date=2013-12-02 |url=https://www.mof.go.jp/policy/currency/bill/issued/20131202.htm |accessdate=2020-12-23}}</ref>。2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券でも、券種ごとにホログラムの位置を変えるなどして識別可能なように設計されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/201906/201906c.pdf |title=新しい紙幣・硬貨発行の意義と最新技術 |work=広報誌 ファイナンス |author=向山勇 |publisher=財務省 |year=2019 |month=06 |accessdate=2021-09-28 |page=6 }}</ref>。
{|class="wikitable"
|-
!colspan = 2 ; rowspan= 2 |券種
!colspan = 3 |識別マーク
!colspan = 2 |ホログラム(透明層の形状・タイプ)
|-
!表面から見た位置
!形状
!方式
!位置
!形状
|-
| nowrap |兌換銀券<br />兌換券<br />不換紙幣||C号券以前の全券種||(なし)||(なし)||(なし)||(なし)||(なし)
|-
| rowspan = 11 ; nowrap |不換紙幣<br />(戦後発行)||D一万円券||左下隅||丸印が横に2つ||透かし||(なし)||(なし)
|-
| D五千円券||左下隅||丸印が縦に2つ||透かし||(なし)||(なし)
|-
| D千円券||左下隅||丸印が1つ||透かし||(なし)||(なし)
|-
| D二千円券||左右下両隅||丸印が縦に3つ||深凹版印刷||(なし)||(なし)
|-
| E一万円券||左右下両隅||左下隅L字<br />右下隅逆L字||深凹版印刷||表面左下||楕円形のパッチタイプ
|-
| rowspan = 2 |E五千円券|| rowspan = 2 |左右下両隅|| rowspan = 2 |八角形|| rowspan = 2 |深凹版印刷|| rowspan = 2 |表面左下||楕円形のパッチタイプ
|-
| 角丸四角形のパッチタイプ{{efn|2014年(平成26年)5月12日発行分から}}
|-
| E千円券||左右下両隅||横棒||深凹版印刷||(なし)||(なし)
|-
| 新一万円券<br />(2024年度(令和6年度)発行予定)||左右隅||斜線の連続模様||深凹版印刷||表面左側端寄り||帯状のストライプタイプ
|-
| 新五千円券<br />(2024年度(令和6年度)発行予定)||上下隅||斜線の連続模様||深凹版印刷||表面左側中央寄り||帯状のストライプタイプ
|-
| 新千円券<br />(2024年度(令和6年度)発行予定)||右上隅・左下隅||斜線の連続模様||深凹版印刷||表面左下||俵形のパッチタイプ
|}
=== 印章 ===
B券以降の日本銀行券には、全て表側に「総裁之印」、裏側に「発券局長」という[[印章]]が印刷されている。1993年(平成5年)12月1日のミニ改刷後のD券以降では、表側の「総裁之印」(D券では裏側の「発券局長」も)については、偽造防止技術の一つとして[[ルミライト印刷|特殊発光インキ]]が採用され、[[ブラックライト]]で照らすと[[蛍光]]する仕掛けになっている。
「総裁之印」は流通印、「発券局長」は歯止印と呼ばれる。B券より前の日本銀行券では、現在発行中の紙幣と同じ表側「総裁之印」裏側「発券局長」のもののほか、「総裁之印」「発券局長」両方が表側に印刷されているもの{{efn|戦時中から終戦直後にかけての紙幣にこれが多いのは、印刷工程を簡略化するためである。}}、表側の「総裁之印」のみ印刷されているもの、裏側が「発券局長」ではなく「文書局長」(種類によっては「発行局長」あるいは「金庫局長」が合わせて印刷されている)となっているものなどが存在し、日本銀行券のうち最初に発行された日本銀行兌換銀券の旧券(大黒札)では表側が日銀マークの周囲に「日本銀行総裁之章」の文字のあるものと「文書局長」の[[割印]]<ref name="wariin" group="注釈">この旧券の文書局長の割印については、製造時に原符と呼ばれる発行控えが紙幣右側についており、当時の運用としては、発行時にこれを切り離して発行の上、紙幣の回収時に文書局長の割印を照合していた。以前に発行されていた[[国立銀行紙幣]]([[国立銀行紙幣#不換紙幣|不換紙幣]])の記録局長・発行銀行の割印および[[改造紙幣]]の記録局長の割印についても同様の運用がなされていた。しかし発行枚数が増大するに従いこの運用は無理が出てきたことから、改造券以降では廃されている。</ref>、裏側が「金庫局長」となっていた。
なお、日本以外の多くの国の紙幣とは異なり、券面に発行者の[[署名]](サイン)は記載されていない{{efn|日本の他、[[大韓民国ウォン#流通貨幣|韓国]]、[[人民元#流通している紙幣|中国]]、[[新台湾ドル#硬貨・紙幣の一覧|台湾]]において発行されている紙幣についても印章のみで署名なしのデザインとなっている。}}。
以下の一覧では、特記しないものは印章のデザインが○の中に[[篆書体]]の文字が入っているものとなっている。「発行局長」については文字のデザインに2種あるので、篆書体の文字が外側の丸い縁に接しているもの{{efn|いわゆる[[印章#書体|印相体]]と呼ばれる書体に近いデザイン。}}を<sup>(1)</sup>、縁に接していないもの{{efn|「総裁之印」の印章の書体に近いデザイン。}}を<sup>(2)</sup>と表記して区別している。
{|class="wikitable"
|-
!colspan = 2 ; rowspan= 2 |券種
!colspan = 2 |印章
|-
!表面
!裏面
|-
| rowspan = 2 ; nowrap |兌換銀券||旧券4種||日本銀行総裁之章(日銀マークの周囲に文字)<br />文書局長(隷書・文字の周囲に竜の模様・割印)<ref name="wariin" group="注釈"/>||金庫局長(隷書・文字の周囲に竜の模様)
|-
| 改造券4種||総裁之印||文書局長<br />金庫局長
|-
| rowspan = 5 ; nowrap |兌換券||甲五圓券・甲拾圓券・甲百圓券・乙五圓券||総裁之印||文書局長<br />発行局長<sup>(1)</sup>
|-
| 乙拾圓券・丙五圓券・甲貳拾圓券||総裁之印||文書局長
|-
| 乙貳百圓券||総裁之印||(なし)
|-
| 乙百圓券・丁五圓券・丙拾圓券・乙貳拾圓券・丙貳百圓券||総裁之印||文書局長
|-
| い五圓券・丁貳百圓券・甲千圓券||総裁之印||文書局長<br />発行局長<sup>(2)</sup>
|-
| rowspan = 2 ; nowrap |不換紙幣||い百圓券||総裁之印||発券局長
|-
| い拾圓券・ろ五圓券・い壹圓券・い拾錢券・い五錢券・ろ百圓券・ろ拾圓券||総裁之印<br />発券局長||(なし)
|-
| rowspan = 7 ; nowrap |不換紙幣<br />(戦後発行)||A百圓券||総裁之印||発券局長
|-
| A拾圓券・A五圓券・A壹圓券||総裁之印<br />発券局長||(なし)
|-
| A拾錢券・A五銭券||総裁之印||(なし)
|-
| B号券4種・C号券4種・D一万円券(ミニ改刷前)・D五千円券(ミニ改刷前)・D千円券(ミニ改刷前)||総裁之印||発券局長
|-
| D一万円券(ミニ改刷後)・D五千円券(ミニ改刷後)・D千円券(ミニ改刷後)・D二千円券||総裁之印(特殊発光インキ)||発券局長(特殊発光インキ)
|-
| E号券3種||総裁之印(特殊発光インキ)||発券局長
|-
| 改刷券(2024年度(令和6年度)発行予定)3種||総裁之印(特殊発光インキ)||発券局長
|}
=== 券面記載の文言 ===
==== 題号・額面金額・発行元銀行名 ====
全ての日本銀行券の表面には、'''題号'''(表題)として「日本銀行券(あるいは日本銀行兌換券、日本銀行兌換銀券)」、'''額面金額'''が漢数字表記で「~円/銭(圓/錢)」、'''発行元銀行名'''として「日本銀行」という文言が記載されている。額面金額の漢数字のうち、「一」、「二」、「十」については[[大字_(数字)|大字]]による表記となっており、それぞれ「壱(壹)」、「弐(貳)」、「拾」と表記されている。なお、額面金額は全ての券種で[[隷書体]]により表記されているほか、B五十円券以降に発行された日本銀行券は、題号と発行元銀行名も隷書体により表記されている。
また、B券以降に発行された日本銀行券については、裏面に英字表記で額面金額と発行元銀行名がそれぞれ「~ YEN/SEN」、「NIPPON GINKO」と記載されている。その一方で、第二次世界大戦中および終戦直後に発行された日本銀行券の一部など、両面とも英字表記がない日本銀行券も存在する。なお、2024年度(令和6年度)発行予定の改刷券には、日本銀行券史上初めて英語による発行元銀行名も「BANK OF JAPAN」と記載される。
下表は英字表記による額面金額・発行元銀行名の記載の有無をまとめたものである。
{|class="wikitable"
|-
! colspan = 2; rowspan = 2 |券種
! rowspan= 2; nowrap |額面金額<br />(英語)<br />{{efn|「~ YEN/SEN」}}
! colspan = 2; nowrap |発行元銀行名
! rowspan = 2; nowrap |その他の表記
|-
! nowrap |(ローマ字)<br />{{efn|「NIPPON GINKO」}}
! nowrap |(英語)<br />{{efn|「BANK OF JAPAN」}}
|-
| rowspan = 5 ; nowrap |兌換銀券||旧拾圓券||両面||(なし)||(なし)||
|-
| 旧百圓券||両面||両面||(なし)||
|-
| 旧壹圓券||裏面||両面||(なし)||
|-
| 旧五圓券||表面||表面||(なし)||
|-
| 改造券4種||裏面||裏面||(なし)||
|-
| rowspan = 3 ; nowrap |兌換券||甲五圓券・甲拾圓券・甲百圓券・乙五圓券・乙拾圓券・丙五圓券・甲貳拾圓券||裏面||裏面||(なし)||
|-
| 乙貳百圓券||(なし)||(なし)||(なし)||
|-
| 乙百圓券・丁五圓券・丙拾圓券・乙貳拾圓券・い五圓券・丁貳百圓券・丙貳百圓券・甲千圓券||裏面||(なし)||(なし)||
|-
| nowrap |不換紙幣||い号券(い五圓券以外の5種)・ろ号券3種||(なし)||(なし)||(なし)||
|-
| rowspan = 5 ; nowrap |不換紙幣<br />(戦後発行)||A拾圓券||(なし)||(なし)||(なし)||表面に「¥10」<br />裏面に「NIPPON」
|-
| A百圓券||(なし)||(なし)||(なし)||
|-
| A五圓券・A壹圓券||両面||(なし)||(なし)||
|-
| A拾錢券・A五銭券・B号券4券種・C号券4券種・D号券4券種・E号券3券種||裏面||裏面||(なし)||
|-
| 改刷券(2024年度(令和6年度)発行予定)3種||裏面||裏面||表面||
|}
==== 銘板(製造者名) ====
A券の一部券種を除き、日本銀行券の表面下部に銘板(製造者名)が記載されている。発行開始当初から一貫して現在の[[国立印刷局]]で製造が行われているものの、組織変更や改称などにより製造者の名称が変遷していることから、銘板の記載も下表の通り移り変わっている{{efn|第二次世界大戦末期および戦後の混乱期に、印刷局の委託により民間の印刷所において印刷されているが、民間印刷分についても銘板の記載は印刷局製造分と同様である(但し、A券については記番号により印刷所を判別可能。また、い十錢券およびい五錢券は委託された民間印刷所にて全量を製造。)。}}。
なお、発行中に製造者名が変更されても製造開始時の銘板のまま継続して発行されるケースが多かったが、D二千円券を除くD券では、製造者の改組により製造中に2回銘板の記載が変更されている。D二千円券の銘板については、後述の通り普及せず製造が中止となっていることもあり、[[2000年]](平成12年)と[[2003年]](平成15年)に「大蔵省印刷局製造」として製造されたのみである。
{|class="wikitable"
|-
!colspan = 2 |券種
! nowrap |銘板記載
|-
| nowrap |兌換銀券||旧券4種・改造券4種||大日本帝國政府大藏省印刷局製造
|-
| rowspan = 4 ; nowrap |兌換券||甲五圓券・甲拾圓券・甲百圓券・乙五圓券・乙拾圓券・丙五圓券・甲貳拾圓券||大日本帝國政府印刷局製造
|-
| 乙貳百圓券・乙百圓券・丁五圓券・丙拾圓券・乙貳拾圓券・丙貳百圓券||大日本帝國政府内閣印刷局製造
|-
| い五圓券・甲千圓券||内閣印刷局製造
|-
| 丁貳百圓券||大日本帝國内閣印刷局製造
|-
| rowspan = 2 ; nowrap |不換紙幣||い拾圓券・ろ五圓券||内閣印刷局製造
|-
| い壹圓券・い百圓券・い拾錢券・い五錢券・ろ百圓券・ろ拾圓券||大日本帝國印刷局製造
|-
| rowspan = 9 ; nowrap |不換紙幣<br />(戦後発行)||A拾圓券・A五圓券・A壹圓券||(なし)
|-
| A百圓券||大日本帝國印刷局製造
|-
| A拾錢券・A五銭券||印刷局製造
|-
| B号券(B百円券以外の3種)||日本政府印刷庁製造
|-
| B百円券・C号券4種・D二千円券||大蔵省印刷局製造
|-
| rowspan = 3 |D号券(D二千円券以外の3種)||大蔵省印刷局製造
|-
|財務省印刷局製造<ref group="注釈">2001年(平成13年)5月14日発行分から</ref>
|-
|国立印刷局製造<ref group="注釈">2003年(平成15年)7月1日発行分から</ref>
|-
| E号券3種・改刷券(2024年度(令和6年度)発行予定)3種||国立印刷局製造
|}
==== 日本銀行兌換銀券・日本銀行兌換券の各種文言 ====
かつて発行された日本銀行兌換銀券(現在有効な[[一円紙幣#旧一円券|旧一円券]]・[[一円紙幣#改造一円券|改造一円券]]含む)および日本銀行兌換券{{efn|1871年(明治4年)の[[新貨条例]]以降、1988年(昭和63年)の[[通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律]]に至るまで制度上は金本位制であり、単に兌換と言った時には金兌換を指す。}}には、それぞれ「此券引かへ𛂋銀貨~圓相渡可申候也」、「此券引換ニ金貨~圓相渡可申候(也)」という'''兌換文言'''が記されていた。このほか明治期にデザインされた紙幣では、英語の兌換文言として「(Nippon Ginko) Promises to Pay the Bearer on Demand ~ Yen in Silver/Gold」、'''発行根拠文言'''として「明治十七年五月廿六日太政官布告第十八號兌換銀行券條例ヲ遵奉シ(テ)發行スルモノ也」(改造券4種・甲五圓券・甲拾圓券・甲百圓券では仮名部分は平仮名表記)、更に'''偽造変造罰則文言'''として「兌換銀行券條例第十二條 兌換銀行券ノ偽造變造ニ係ル罪ハ刑法偽造紙幣ノ各本條ニ照シテ處断ス」などという文言が記されていた。また、日本銀行兌換券では一部の券種を除き、割印のように券面内外に跨るように印字された「日本銀行」の'''断切文字'''が裏面右端に配置されていた。
但し、兌換銀券については、1897年(明治30年)の[[貨幣法]]と同時に国内での[[一円銀貨|本位銀貨]]の流通が禁止となり銀兌換が停止されて金兌換券扱いとなり(旧一円券・改造一円券については事実上の不換紙幣となり)、1946年(昭和21年)3月2日までに、旧一円券・改造一円券を除き失効した。また、兌換券については、1931年(昭和6年)の緊急勅令で[[金解禁|金輸出停止]]と同時に金兌換が停止された。その後も法律上は金本位制が維持され、兌換券が発行されているが、実質的には不換紙幣の扱いのまま1946年(昭和21年)3月2日を以って失効となった。
以下の一覧は、兌換文言、発行根拠文言、偽造変造罰則文言および断切文字の記載有無についてまとめたものである。<sup>S</sup>は、兌換文言の引換え対象が銀貨(Silver)であるもの、特記なきものは金貨(Gold)であるものを示す。
{|class="wikitable"
|-
!colspan = 2 ; rowspan= 2 |券種
! nowrap ; colspan = 2 |兌換文言
! nowrap ; rowspan = 2 |発行根拠<br />文言
! nowrap ; rowspan = 2 |偽造変造<br />罰則文言
! nowrap ; rowspan = 2 |断切文字
|-
! nowrap |(日本語)
! nowrap |(英語)
|-
| rowspan = 4 ; nowrap |兌換銀券||旧拾圓券||表面 <sup>S</sup>||(なし)||表面||裏面||(なし)
|-
| 旧百圓券・旧壹圓券||表面 <sup>S</sup>||表面 <sup>S</sup>||表面||裏面||(なし)
|-
| 旧五圓券||表面 <sup>S</sup>||表面 <sup>S</sup>||表面||表面||(なし)
|-
| 改造券4種||表面 <sup>S</sup>||裏面 <sup>S</sup>||表面||表面||(なし)
|-
| rowspan = 6 ; nowrap |兌換券||甲五圓券||裏面||裏面||裏面||表面||裏面
|-
| 甲拾圓券・甲百圓券||表面||裏面||表面||表面||裏面
|-
| 乙五圓券||表面||裏面||(なし)||(なし)||(なし)
|-
| 乙拾圓券・丙五圓券・甲貳拾圓券||表面||裏面||(なし)||(なし)||裏面
|-
| 乙貳百圓券・丙貳百圓券||表面||(なし)||(なし)||(なし)||(なし)
|-
| 乙百圓券・丁五圓券・丙拾圓券・乙貳拾圓券・い五圓券・丁貳百圓券・甲千圓券||表面||(なし)||(なし)||(なし)||裏面
|-
| nowrap |不換紙幣||い号券(い五圓券以外の5種)・ろ号券以降の全券種||(なし)||(なし)||(なし)||(なし)||(なし)
|}
==== 製造年 ====
第二次世界大戦前に発行された日本銀行兌換券3券種([[五円紙幣#甲号券|甲五圓券]]、[[十円紙幣#甲号券|甲拾圓券]]、および[[百円紙幣#甲百圓券|甲百圓券]])を除き、製造年は記載されていない{{efn|ただし、硬貨の代用として発行された[[小額政府紙幣]]については第二次世界大戦後発行の一部券種を除き製造年が記載されている。}}。硬貨と異なり、記番号により製造時期が特定可能であることと、耐用年数が短いため製造年を入れる意義が薄いのがその理由である。なお、甲五圓券、甲拾圓券、および甲百圓券については、裏面左端に元号表記で製造年が記載されている。
=== 証紙 ===
[[ファイル:Series_Hei_10_Yen_Bank_of_Japan_note_-_obverse.jpg|thumb|240px|right|証紙が貼付された丙拾圓券。右上に貼付されている切手のようなものが証紙である。]]
[[1946年]](昭和21年)に実施された[[新円切替]]の際、新円の紙幣([[A号券]])の供給不足を補うため、旧円の紙幣表面右上に[[切手]]や[[収入印紙]]よりも一回り小さい証紙(證紙)を貼付して暫定的に新円の紙幣の代用として使用する措置が取られていた<ref name="shoshi2">{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2019|month=1|title=日本紙幣の肖像やデザインの謎|page=166-169|publisher=日本貨幣商協同組合|isbn=978-4-93-081024-3|ref = harv}}</ref>。
製造期間は1946年(昭和21年)[[1月]]から[[2月]]まで<ref name="handbook">{{Cite book|和書|author=大蔵省印刷局|year=1994|month=6|title=日本のお金 近代通貨ハンドブック|page=242-255|publisher=大蔵省印刷局|isbn=9784173121601}}</ref>であるが、製造時点では預金封鎖を伴う新円切替を実施することが一般に知られないよう極秘裏に検討されていたため、「無記名証紙」という名目で証紙の利用用途を伏せた状態で製造を行っている<ref name="shoshi2"/>。
証紙の様式は1946年(昭和21年)2月20日の大蔵省告示第30号「日本銀行券預入令ノ特例ノ件第一條第二項ノ規定ニ依ル證紙ノ種類及樣式略圖」<ref name="shoshi">1946年(昭和21年)2月20日大蔵省告示第30號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962237/3 日本銀行券預入令ノ特例ノ件第一條第二項ノ規定ニ依ル證紙ノ種類及樣式略圖]」</ref>において定められている。その証紙と貼付対象となった紙幣は次の通り。
{|class="wikitable"
|-
!額面
!刷色<br /><ref name="shoshi"/>
!寸法<br /><ref name="shoshi"/><br />([[ミリメートル|mm]])
!透かし<br /><ref name="shoshi"/>
!製造枚数<br /><ref name="handbook"/>
!日本銀行への納入期間<br /><ref>{{Cite book|和書|author=日本銀行調査局|year=1975|title=図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨|page=205|publisher=東洋経済新報社|isbn=}}</ref>
!貼付対象紙幣
|-
|10円(拾圓)||藍色||24×14||(なし)||style="text-align:right"|9億枚||1946年(昭和21年)<br>[[2月6日]] - [[3月9日]]||丙拾圓券・い拾圓券・ろ拾圓券
|-
|100円(百圓)||緑色||24×14||波型模様||style="text-align:right"|10億枚||1946年(昭和21年)<br>[[2月1日]] - [[3月29日]]||乙百圓券・い百圓券・ろ百圓券
|-
|200円(貳百圓)||暗紫色||24×14||波型模様||style="text-align:right"|8000万枚||1946年(昭和21年)<br>[[2月14日]] - [[2月22日]]||丙貳百圓券・丁貳百圓券
|-
|1000円(千圓)||紅色||24×14||波型模様||style="text-align:right"|2000万枚||1946年(昭和21年)<br>2月14日 - 2月14日||甲千圓券
|}
上表に掲げた紙幣は本来1946年(昭和21年)3月2日に通用停止となったものである<ref name="shin-en">1946年(昭和21年)2月17日勅令第84號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962234/1 日本銀行券預入令]」、ならびに1946年(昭和21年)2月17日大蔵省令第13號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962234/5 日本銀行券預入令施行規則]」</ref>。これらの証紙貼付券は、当時「S券(Stamped noteの略)」と呼ばれていた<ref name="shoshi2"/>。十分な量の新円の紙幣(A号券)が供給されたことにより、証紙貼付券は1946年(昭和21年)10月末<ref name="shoshi-end">1946年(昭和21年)9月12日大蔵省告示第687號「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962413/2 日本銀行券預入令の特例の件第一條第一項に規定する日]」</ref>に通用停止となった<ref name="shoshi2"/>。
日本銀行や市中銀行だけでは膨大な量の証紙貼付作業を行うことは不可能であったため、郵便局などの金融機関や自治会などにも委託が行われたほか<ref name="shoshi2"/>、新円切替の窓口では証紙貼付券のみならず証紙自体が直接市民に手渡されることもあった<ref group="注釈">当時の新円切替窓口の写真に、交換に訪れた市民に対して証紙の貼付位置を指示する張り紙が掲出されていることが確認できる。</ref>。
200円および1000円の証紙貼付券は現存数が極めて少ない。
戦後の混乱期のため、以上の他にも当時通用停止になっていたはずの甲拾圓券・乙拾圓券に証紙が貼られたものや、乙貳拾圓券に10円証紙が2枚貼られたものなども存在するが、これらが通用したかどうかは不明である。
=== 札束 ===
{{See also|帯封}}
日本銀行券の札束は、取り纏めた枚数の少ないものから多いものへと順に、次のようなものがある。
* 小束(把) - 100枚を取り纏めたもの
* 大束(束) - 小束(把)10束を封包したもの、1000枚
* 十束封 - 大束(束)10束を封包したもの、1万枚
* パレット積40十束封 - 十束封40パックをパレットに取り纏めたもの、40万枚
=== 重量 ===
硬貨の量目と異なり、日本銀行券は、紙ということもあり、重量が正確に何gとの規定はないが、現在発行中の4種の場合は、おおよその目安として1枚あたり約1gとなる。東京の[[貨幣博物館]]や日本銀行大阪支店の体験コーナーなどでは1億円(1万円札1万枚、模擬券)の重さを体験できるコーナーがあり、その重さは約10kgとなっている。
== 日本銀行券の偽造防止技術 ==
日本銀行券では、偽造防止技術として[[透かし]]、[[凹版印刷]]、[[ミツマタ|三椏]](ミツマタ)の紙幣用紙などが伝統的に採用されてきた。印刷面では画線の緻密化、人物肖像など主模様の大型化、印刷色数の増加、模様が途中から色の変わる[[グラデーション]]印刷の採用などが行われ、透かしについても図柄の大型化やより鮮明なすき入れ模様に改良されるなど継続的に偽造防止力の向上が図られてきたが、基本的には従来の延長線上にある偽造防止対策が[[1990年代]]まで採用され続けていた。
1990年代末期以降、[[複写機]]や[[イメージスキャナ]]、[[プリンター]]、[[コンピュータ]]の[[画像処理]][[ソフトウェア]]などを使用した偽造券が海外で増え始めており、日本に波及することを未然に防ぐために下記のような新たな偽造防止技術が採用され始めた<ref>{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2015|month=6|title=紙幣肖像の近現代史|publisher=吉川弘文館|isbn=978-4-64-203845-4|page=250-252}}</ref>。諸外国では新たな偽造防止技術を盛り込んだ紙幣が1990年代末期以降次々と発行されており、日本だけが旧世代の印刷技術により紙幣の発行を続けると国際的な偽造団による標的とされる恐れがあることを踏まえ、これ以降に発行開始されたものからは概ね20年程度の間隔で実施される改刷の度に新たな偽造防止技術を追加搭載することで偽造防止力を維持向上している<ref>{{Cite book|和書|author=植村峻|year=2015|month=6|title=紙幣肖像の近現代史|publisher=吉川弘文館|isbn=978-4-64-203845-4|page=250-252,261-264}}</ref>。
=== 発行開始当初から採用されているもの ===
;すき入れ(透かし)
:透かし部分を厚く漉き上げる特殊なすき入れである「'''黒透かし'''(凸透かし)」と、透かし部分を薄く漉き上げる「'''白透かし'''(凹透かし)」という技術が用いられている。すき入れ部分を透かすと、黒透かしの部分は周囲より黒く、白透かしの部分は周囲より白く見える。また、黒透かしと白透かしを組み合わせた透かしを「白黒透かし(凹凸透かし)」といい、濃淡のグラデーションを特にはっきりと表現できるため、すき入れにより絵画のような表現をすることが可能となっている。
:一部の券種を除き、日本銀行券には券種ごとの定位置に黒透かしまたは白黒透かしによるすき入れがされている。政府、国立印刷局、および政府の許可を受けた者以外による黒透かしを施した紙の製造は「[[すき入紙製造取締法]]」により禁止されている。
:[[昭和金融恐慌]]時や[[第二次世界大戦]]末期から終戦直後の混乱期に発行された一部の券種{{efn|[[二百円紙幣#乙号券|乙貳百圓券]]・[[二百円紙幣#丙号券|丙貳百圓券]]・[[十円紙幣#い号券|い拾圓券]]末期(3次10円後期)・[[一円紙幣#い号券|い一円券]]後期・[[十銭紙幣#い号券|い拾錢券]]・[[五銭紙幣#い号券|い五錢券]]・[[百円紙幣#ろ百圓券|ろ百圓券]]・[[十円紙幣#ろ号券|ろ拾圓券]]・[[百円紙幣#A百圓券|A百円券]]の大部分など}}については黒透かしと比較して製造が容易な白透かしのみとなっているほか、これらの白透かしのみの券種については製造効率を向上することを目的としてすき入れの位置が不定位置の「ちらし透かし」が採用されている。
:なお、例外的に終戦後の混乱期に発行された[[百円紙幣#A百圓券|A百円券]]を除く[[A号券]]5券種{{efn|[[十円紙幣#A号券|A十円券]]・[[五円紙幣#A号券|A五円券]]・[[一円紙幣#A号券|A一円券]]・[[十銭紙幣#A号券|A拾錢券]]・[[五銭紙幣#A号券|A五銭券]]}}はすき入れが省略されている{{efn|同時期に発行された五十銭の[[小額政府紙幣#小額政府紙幣 (板垣五十銭)|小額政府紙幣]]も、同様にすき入れがない。}}。
:C券以降の日本銀行券では、すき入れ部分は印刷がなく空白となっており、透かしを容易に確認できるようになっている。過去には[[五円紙幣#乙号券|乙五圓券]]で試みられたが、印刷漏れを疑われるなどデザインが不評であったことから、B券まではすき入れ位置にも地模様などが印刷されていたため、透かしを確認し難い券種も存在していた。
:D券以降の日本銀行券では、透かしには紙幣表面右側の主模様と同じ題材が採用されており、[[二千円紙幣#D号券|D二千円券]]以外は人物の肖像となっている。二千円券を除くD券では、[[視覚障害者]]が触覚で容易に券種を識別できるよう券の表面から見て左下隅に各券種固有のパターンとしてもすき入れされている{{efn|D二千円券、およびそれ以降に発行された券種は深凹版印刷を利用したパターンに変更されている。}}。
:現在有効な券のすき入れ(透かし)の図案は下記の通り。
:* 「日本銀行券」の文字(旧一円)
:* 「銀貨壹圓」の文字(改造一円)
:* 「壹圓」の文字(い一円(後期製造分を除く))
:* [[キリ|桐]](改造一円、い一円(製造時期により2種類の図案)、A百円(大部分)、B百円)
:* 天平裂の模様(A百円(一部))
:* 「日銀」の文字(B千円)
:* [[サクラ|桜花]](B千円、C五百円)
:* [[野菊]](B五百円)
:* 額面金額の数字(B五百円、B五十円、B百円、C五千円)
:* [[日本銀行]]行章(B五十円)
:* [[聖徳太子]](C五千円)※紙幣表面中央の肖像とは異なり笏無し
:* [[法隆寺]]夢殿(C一万円)
:* [[伊藤博文]](C千円)※紙幣表面右側の肖像とは異なり横顔
:* 波線(C五百円)
:* 視覚障害者用の識別マーク(D一万円、D五千円、D千円)※ひらがなの点字(詳細は[[#識別マーク|識別マーク]]参照)
:* [[福澤諭吉]](D一万円、E一万円)
:* [[新渡戸稲造]](D五千円)※紙幣表面右側の印刷とは左右反転
:* [[夏目漱石]](D千円)
:* [[首里城]][[守礼門]](D二千円)※紙幣表面右側の印刷とは別角度
:* すき入れバーパターン(E一万円、E五千円、E千円)※縦棒(詳細は[[#E券から採用されたもの|すき入れバーパターン]]参照)
:* [[樋口一葉]](E五千円)
:* [[野口英世]](E千円)
;凹版印刷
:微細線を印刷するための印刷技術。そのための原版の作成では、金属の板に[[ビュラン]]と呼ばれる特殊な彫刻刀を用いて微細な画線を刻んでいる。一部の券種を除き、ほとんどの日本銀行券にて採用されている。ただし、[[昭和金融恐慌]]時や[[第二次世界大戦]]末期から終戦直後の混乱期に発行された一部の券種{{efn|[[二百円紙幣#乙号券|乙貳百圓券]]・[[二百円紙幣#丙号券|丙貳百圓券]]・[[一円紙幣#い号券|い一円券]]・[[十銭紙幣#い号券|い拾錢券]]・[[五銭紙幣#い号券|い五錢券]]・[[百円紙幣#ろ百圓券|ろ百圓券]]・[[十円紙幣#ろ号券|ろ拾圓券]]・[[A号券]]([[百円紙幣#A百圓券|A百円券]]以外の5種)}}は手間のかかる凹版印刷を用いず簡易な[[印刷#凸版|凸版印刷]]や[[オフセット印刷]]で印刷されている。
;紙幣用紙
:三椏(ミツマタ)と[[マニラアサ|マニラ麻]]を使用した紙幣専用の用紙が使用されている。詳細は「[[#材料]]」を参照。
;彩紋
:多くの異なった歯車の組み合わせで描かれる曲線のパターンで、偽造防止と共に装飾の役割も持つ。「彩紋」の語は広義では肖像・風景・文字などを除く図柄をいうこともある。
=== ミニ改刷されたD券(1993年12月1日発行開始)から採用されたもの ===
以下の偽造防止技術は、ミニ改刷以降のD券各券種(D一万円券・D五千円券・D千円券のうち記番号が褐色・暗緑色のもの)で新たに採用され、以降に発行開始されたD二千円券およびE券各券種(E一万円券・E五千円券・E千円券)にも搭載されている。
;[[マイクロ文字]]
:肉眼では認識できないか、かろうじて認識できる程度の微小な文字を、文様に紛れさせている。ミニ改刷以降のD券やE券には凹版印刷の版面に「NIPPON GINKO」が使われており、更にD二千円券やE券ではドライオフセット印刷による地模様に「NIPPON GINKO」が、E券ではこれらに加えて額面金額の数字が使われている。ただし、微細の程度を問題にしないならば、これより前の日本銀行券(明治期を含む)にもマイクロ文字は採用されている。
;[[ルミライト印刷|特殊発光インキ]]
:[[紫外線]]や[[近紫外線]]だけの[[ブラックライト]]を照射すると、[[蛍光]]を発するインクによる印刷。インク自ら[[発光]]するわけではない。蛍光を発する部分は、表面の[[印章]](総裁之印)部分(オレンジ色蛍光、D券では裏面の印章(発券局長)部分も赤色蛍光)と地紋の一部(D二千円券とE券、黄緑色蛍光・オレンジ色蛍光(券種により異なる))である。
=== D二千円券から採用されたもの ===
以下の偽造防止技術は、D二千円券において従来の偽造防止技術に加えて新たに採用され、以降に発行開始されたE券各券種にも搭載されている。
;深凹版印刷
:凹版印刷刷版の凹部をさらに深くし、結果として券に転写されたインクが触って分かるほどに盛り上がっている印刷である。表面の漢数字とアラビア数字による額面表示、「日本銀行」「日本銀行券」の文字、後述の「潜像模様」などとして印刷されている。視覚障害者が触覚で容易に券種を識別できるよう券の左右下端に配置された視覚障害者用の識別マーク(例えばD二千円券では点字の「に」を模した「丸印が縦に3つ」)も、この技法で印刷されている。
;[[潜像]]模様
:深凹版印刷技術の応用であり、印刷されたインクの縞状凹凸により表現される模様。券を傾け[[入射角]]を大きくして見るとより明瞭にその模様が目視できるもの。表面では券の左下部(E五千円券は下部)に額面金額として印刷されている。また裏面には「NIPPON」の文字の潜像がある。
;パールインク
:見る角度によってピンク色の真珠様光沢が目視できるインクによる印刷。券の左右両端に配置されている。E千円券ではさらに、左下の潜像模様に重ねて「千円」の文字として印刷されている。
;[[ユーリオン]]
:銀行券のデジタルデータ画像を[[画像処理ソフトウェア]]やカラー[[複写機]]が検出しやすくするために描かれたシンボル。
;光学的変化インク(OVI)(D二千円券のみ)
:D二千円券の表面右上にある額面表示 "2000" は、券を見る角度によって紫色、青緑色などに色が変化して見える。なおE券以降の券種には搭載されていない。
=== E券から採用されたもの ===
以下の偽造防止技術は、E券各券種において従来の偽造防止技術に加えて新たに採用された。
;すき入れバーパターン
: 縦棒形状のすき入れ。E一万円券は3本、E五千円券は2本、E千円券は1本の縦棒が肖像の右側付近に配置されている。
;パッチタイプのホログラム(E一万円券、E五千円券のみ)
:[[ホログラム]]参照。光の反射角度に応じて額面金額の数字、日本銀行行章、桜花などに表示が変化する。
=== 2024年度発行予定の改刷券から採用されるもの ===
;高精細すき入れ
: 現行のすき入れに加えて、新たに高精細なすき入れ模様が導入される。これは従来同様の肖像のすき入れの背後に緻密な格子模様をすき入れたものである<ref name="finance202110">{{Cite web|和書|url=https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/202110/202110d.pdf |title=新日本銀行券印刷開始式について |work=広報誌 ファイナンス |author=西方建一、堀納隆成 |publisher=財務省 |year=2021 |month=10 |accessdate=2021-11-22|ref = harv}}</ref>。
;3Dホログラム
: 3D画像が回転する最先端のホログラム。見る角度によりホログラムに施された肖像の顔の向きが連続的に変化しているように見える。3Dホログラムの銀行券への採用は世界初となる<ref name="finance202110"/>。
;ストライプタイプのホログラム(五千円券、一万円券)
: E一万円券、E五千円券(2004年(平成16年)発行)のものとは異なり、ホログラムの形状が縦長の帯状となっている。ホログラムの図柄は前述の3Dホログラムである<ref name="finance202110"/>。
;パッチタイプのホログラム(千円券)
: 既にE一万円券、E五千円券(2004年(平成16年)発行)で採用されている。それらと同時に発行開始されたE千円券(2004年(平成16年)発行)では採用されていなかった。なお、ホログラムの図柄はE一万円券、E五千円券とは異なり前述の3Dホログラムとなっている<ref name="finance202110"/>。
なお、E券各券種でも搭載されていた、マイクロ文字、特殊発光インキ、深凹版印刷、潜像模様、パールインク、すき入れバーパターン等の偽造防止技術も引き続き採用される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/n_note/data/n_note1.pdf |title=偽造防止技術~4つの「分かる」~ |work= |author= |publisher=日本銀行 |year= |month= |accessdate=2022-02-11|ref = harv}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/n_note/data/n_note3.pdf |title=新しい日本銀行券と現行の日本銀行券の比較 |work= |author= |publisher=日本銀行 |year= |month= |accessdate=2022-02-11|ref = harv}}</ref>。
=== 採用状況 ===
上述の偽造防止技術の採用状況は下表の通りである。○は採用、●はごく一部{{efn|主に昭和金融恐慌や、第二次世界大戦末期から終戦直後に発行開始された券種。}}を除く券種で採用、△はマイクロ文字の微細の程度を問題にしないならば一部の券種で採用、-は非採用のものを示す。
{|class="wikitable"
|-
!colspan = 2 ; rowspan= 2 |券種
! nowrap ; colspan = 3 |すき入れ
! nowrap ; colspan = 2 |版式
! nowrap ; rowspan = 2 |{{縦書き|紙幣用紙}}
! nowrap ; rowspan = 2 |{{縦書き|彩紋}}
! nowrap ; colspan = 6 |特殊印刷
! nowrap ; colspan = 3 |ホログラム
|-
! nowrap |{{縦書き|通常のすき入れ(透かし)}}
! nowrap |{{縦書き|すき入れバーパターン}}
! nowrap |{{縦書き|高精細すき入れ}}
! nowrap |{{縦書き|凹版印刷}}
! nowrap |{{縦書き|深凹版印刷}}
! nowrap |{{縦書き|マイクロ文字}}
! nowrap |{{縦書き|特殊発光インキ}}
! nowrap |{{縦書き|潜像模様}}
! nowrap |{{縦書き|パールインク}}
! nowrap |{{縦書き|ユーリオン}}
! nowrap |{{縦書き|光学的変化インク(OVI)}}
! nowrap |{{縦書き|パッチタイプのホログラム}}
! nowrap |{{縦書き|ストライプタイプのホログラム}}
! nowrap |{{縦書き|3Dホログラム}}
|-
| nowrap |兌換銀券<br />兌換券<br />不換紙幣||C号券以前の全券種|| ● || - || - || ● || - || ● || ○ || △ || - || - || - || - || - || - || - || -
|-
| rowspan = 7 ; nowrap |不換紙幣<br />(戦後発行)||D一万円券(ミニ改刷前)・D五千円券(ミニ改刷前)・D千円券(ミニ改刷前)|| ○ || - || - || ○ || - || ○ || ○ || - || - || - || - || - || - || - || - || -
|-
| D一万円券(ミニ改刷後)・D五千円券(ミニ改刷後)・D千円券(ミニ改刷後)|| ○ || - || - || ○ || - || ○ || ○ || ○ || ○ || - || - || - || - || - || - || -
|-
| D二千円券|| ○ || - || - || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || - || - || -
|-
| E一万円券・E五千円券|| ○ || ○ || - || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || - || ○ || - || -
|-
| E千円券|| ○ || ○ || - || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || - || - || - || -
|-
| 新一万円券・新五千円券(2024年度(令和6年度)発行予定)|| ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || - || - || ○ || ○
|-
| 新千円券(2024年度(令和6年度)発行予定)|| ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || ○ || - || ○ || - || ○
|-
|}
== 日本銀行券の改刷や新規発行 ==
[[偽造]]防止の為、B券発行以降は約20年に一度、デザインが変更されている。変更の際には常に最新技術を導入し、[[偽札]]対策を施している。デザインの変更がなくても、後から偽造防止策が導入されることもある。[[1993年]](平成5年)12月1日以降改刷発行されたD一万円券、D五千円券およびD千円券(記番号が褐色、暗緑色であるD券)は、従前のD券とデザインは同じであるが、前述する通り「マイクロ文字」「特殊発光インキ」などの偽造防止策が新規に導入(ミニ改刷)された。
=== D二千円券およびE券の発行 ===
[[2000年]](平成12年)には[[二千円紙幣|二千円券]]が新たに発行された。この二千円券は記念紙幣ではなく一般に流通することを想定して発行された紙幣である。しかしこの二千円券は結局普及しないまま現在に至っている。理由としては以下のような事情が考えられる。
*現代の日本では硬貨と紙幣は「1」と「5」のつく単位であるという認識が一般[[消費者]]に浸透しており、そのため、二千円券は使い慣れない券種であった。
*店側が二千円券を受け取っても、一万円券同様[[キャッシュレジスター|レジ]]の下段に入れられてしまうなど、お釣りとして二千円券が供給されることなく[[銀行]]に還流してしまうことが多かった。発行当初から、お釣りとして客に出さないことを方針とする店が多かった。
*[[乗車券]]類の[[自動販売機]]、[[食券]]販売機、[[ゲームセンター|遊技場]]・[[パチンコ]]店・[[公営競技]]場などの[[両替]]機・自動販売機などの一部では比較的早期に二千円券の入金対応がなされ、主に銀行の両替機では出金対応もなされた。一方、自動販売機の過半数を占めている[[飲料]]や[[たばこ]]を中心とした100円〜400円程度の商品を販売する自動販売機の二千円券入金対応は、あまり進まなかった。
*発行開始当時、[[現金自動預け払い機|ATM]]・両替機・自動販売機などの各種機器の入れ替えが必要となることから、二千円券の新規発行は機器製造業の需要を促し景気回復の起爆剤になると期待する向きもあった。しかしこのような出納機器を導入する企業の立場からすれば、これまでになかった額面券ゆえ、機器更新のみならず保守・運用にも新たなコスト負担が必要な(かつ、普及するか否か先行き不透明な)二千円券の入出金対応については、発行開始当時の沈滞した景気の中では慎重にならざるをえなかった。
* 一方で[[コンビニエンスストア|コンビニ]]ATMでは積極的に導入が進められた。筐体が小さく札を入れる箱の容量が限られる中で千円券に対して同額で半分の容量で済む二千円券は好都合であった。
* しかし、上述のような各種機器が二千円券対応であった場合も耐用年数を迎え、更新されるにあたって二千円券'''非'''対応になることも多い。
{{See also|二千円紙幣#普及しない現状とその理由}}
日本銀行は「二千円券の利便性」を主張している、あるいは "していた" が、上述のように、二千円券を普及流通させることは2021年(令和3年)現在できないでいる。日本銀行からの発券枚数自体は、五千円券のそれを超えていることも一時期あったが、各地の銀行の金庫で眠っているのが実情であり、市中流通枚数は少ない。二千円券にゆかりの深い[[沖縄県]]においては、盛んに普及キャンペーンが行われたことと、本土復帰以前は20ドル札を含む米ドル紙幣が法定通貨であったこともあり、流通量は他都道府県に比べて高い時期があった<ref>{{cite news |title=2千円札流通量 300万枚突破 |newspaper=琉球新報 |date=2007-01-10|url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-20328-storytopic-4.html}}</ref>。政府・日銀・沖縄と無関係の著名人でも、[[音楽評論家]]・[[指揮者]]の[[宇野功芳]]や[[新聞記者]]・[[政治評論家]]の[[橋本五郎]]のように「むしろ五千円札のほうが不便であり、二千円札は使いやすく美しい」(宇野)<ref>宇野功芳「宇野功芳 楽に寄す」[[音楽之友社]]、2010年、P240~242</ref>・「二千円札に込められた思いやデザインの美しさ、便利さは評価できる。普及しないのは普及施策の不十分さ故」(橋本)<ref>橋本五郎「総理の器量」[[中公新書ラクレ]]、2012年、P170~171</ref>と主張している例もある。
D二千円券は、現在発行中の紙幣であるので、金融機関の窓口で出金・両替する時は、在庫があれば、二千円券にして欲しい旨申請すれば供給される。また金融機関の両替機でも二千円券の出金を選択できる機種があり、ATMでも一部の機種(主に沖縄県のもの)では二千円券を出金できる。
2004年(平成16年)11月には20年ぶりに一万円券・五千円券・千円券が新しいデザイン(E券)に更新された。こちらは二千円券とは異なり、従来からあった券種であり心理的に受け入れやすかったこと、ATMや自動販売機では識別装置のプログラムの更新だけで済むため入出金対応が迅速になされたこと、またD券(二千円券を除く)の偽造が社会問題となっていたことなどにより、急速に普及した。
=== 2024年度発行予定の改刷券 ===
2019年(平成31年)4月9日、[[日本政府]]は、2024年度(令和6年度)上期を目途に千円券・五千円券・一万円券を改刷すると発表した<ref name="mof20190409">{{Cite web|和書|title=新しい日本銀行券及び五百円貨幣を発行します|url=https://www.mof.go.jp/policy/currency/bill/20190409.html|website=財務省|accessdate=2019-04-09|language=ja}}</ref>。
;表面の肖像画(予定)
;*千円券 [[北里柴三郎]]
;*五千円券 [[津田梅子]]
;*一万円券 [[渋沢栄一]]
== 損傷時の交換 ==
[[日本銀行]]の本支店窓口において、破損(破れなどの損傷や、汚染など)や磨損(すり減りなど)により通用や使用に支障が出た日本銀行券(紙幣)について交換業務(引換え)を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.boj.or.jp/about/services/bn/hikikae.htm|title=日本銀行が行う損傷現金の引換えについて : 日本銀行 Bank of Japan|accessdate=2019-01-12|website=www.boj.or.jp}}</ref>。損傷していなくても、現在発行されていない旧紙幣は同様にこの交換業務(引換え)の対象となる{{要出典|date=2019年1月}}{{要検証||date=2019年1月}}<!-- 「現在発行されていない旧紙幣」の範囲が判然としません。出典明記と共に詳細の検討をお願いします(ノートにて。) -->。
破損などの事由には故意、過失など理由を問わない{{efn|なお、故意の'''[[日本の硬貨|硬貨]]'''の損傷は[[貨幣損傷等取締法]]により処罰される}}。[[震災]]・[[災害]]などの発生時は、焼損、汚損などした紙幣などの交換業務が集中することがある。なお、有害物質([[放射性物質]]、毒劇物、[[化学兵器]]や[[生物兵器]]その他)により汚染された紙幣については、日本銀行への届け出前に、当該有害物質の所管官庁などに相談する必要がある。
窓口に出向き届け出る事が必要であり、郵送などの対応は行わない。また、日本銀行本支店では、引き換えに要する時間その他の事務上の理由から{{efn|届け出当日中に全部を交換できない場合もある}}、来店前に事前に電話などをする事を推奨している。
これらの損傷時交換対応などは、日本銀行券であると言う建前上、日本銀行窓口'''でも'''直接行う事が定められている。その一方で日本銀行窓口では両替業務を行っていないので<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.boj.or.jp/fukuoka/QA.html|title=Q&A・日本銀行福岡支店|accessdate=2019-01-12|website=www3.boj.or.jp}}</ref>、例えば損傷などで通用や使用に支障が具体的に出ている'''訳ではない'''紙幣を日本銀行窓口で交換する事はできない(特に新札入手目的の利用は不可)。
また、これらの損傷時交換対応などは、少量・損傷判定が明確であれば、銀行法上の[[銀行]]<ref name=":0" group="注釈">([[普通銀行]]など。ゆうちょ銀行を除く)</ref>窓口においても対応する場合がある。ただし銀行法上の銀行<ref name=":0" group="注釈"/>における交換業務は'''義務対応ではない'''ので、銀行によって対応が異なる(大量であったり損傷判定が明確でない場合に、銀行が日銀鑑定に回付し、後日口座に入金対応までしてもらえる場合がある。ただしこれも義務対応ではない)。[[ゆうちょ銀行]]窓口においては両替業務を行っていない関係上、損傷紙幣の交換も行っていない。
=== 損傷銀行券の引換え基準 ===
紙幣の滅消した部分を除いた残存部分の面積により、引換え価額が異なる。単純に2枚に破れたような場合は、破れ目が合うことが確認できれば全額(100%)交換となる。
なお、残存部分は裏・表両面が分離していないことが要件であり、仮に紙幣を漉いて裏と表の2枚に分離した場合などは、全面積が滅消したものとして扱う(全額失効)。焼損や汚染、細片化などがあっても、紙幣の一部と確認できる部分については残存部分として扱う。また、2片以上に細片化されていても模様の一致や記番号の確認により同一紙幣の一部であると確認できる場合は、一紙幣の残存部分として扱う{{efn|細片をピンセットなどにより集めて面積を調べると言う事も行われると言う風説もあるが、実際は担当者の裁量による部分も大きい。日銀本支店窓口では、なるべく届出者により破片の収集整理、乾燥、保全を求めている。}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.boj.or.jp/about/services/bn/sonsyo.htm|title=損傷銀行券の引換基準 : 日本銀行 Bank of Japan|accessdate=2019-01-12|website=www.boj.or.jp}}</ref>。
<!-- WP:TVWATCHで一旦除去。テレビラジオ以外の文書ソースを持ってきてください
また、例えば1000円札4枚を破損した場合、全額交換が認められたとしても、交換されて返されるのは2000円札2枚となる。これは、日本銀行のルールで最小枚数で返すのが決まりとなっているため。また1000円未満の紙幣は新たに発行されていないため、例えば1000円札1枚を破損して半額交換となった場合や、損傷していない500円札1枚を交換する場合などは、交換されて返されるのは500円硬貨1枚となる。 -->
引換え基準における2/3と2/5という分数は、通分すると10/15と6/15となり、足すと16/15で1より大きくなるため、紙幣を切断・分割し残りを別の紙幣のものだとして、元の額面より多くの金額を得ることはできないようになっている。
;残存面積が元の3分の2以上の場合
:全額(100%)の円貨と交換
;残存面積が元の5分の2以上3分の2未満の場合
:半額(50%)の円貨と交換{{efn|この場合、1円未満の端数は切り捨てとなる。すなわち、五円紙幣(A五円券)は2円となり、一円紙幣は失効となる。}}
;残存面積が元の5分の2未満の場合
:全額失効(0%){{efn|この場合、失効と判定された紙幣はそのまま返却される。}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=利光三津夫、 植村峻、田宮健三|year=2004|month=6|title=カラー版 日本通貨図鑑|publisher=日本専門図書出版|isbn=978-4-93-150707-4}}
* {{Cite book|和書|author=植村峻|year=2015|month=6|title=紙幣肖像の近現代史|publisher=吉川弘文館|isbn=978-4-64-203845-4}}
* {{Cite book|和書|author=植村峻|year=2019|month=1|title=日本紙幣の肖像やデザインの謎|publisher=日本貨幣商協同組合|isbn=978-4-93-081024-3}}
* {{Cite book|和書|author=大蔵省印刷局|year=1994|month=6|title=日本のお金 近代通貨ハンドブック|publisher=大蔵省印刷局|isbn=978-4-17-312160-1}}
* {{Cite book|和書|author=石原幸一郎|year=2005|month=5|title=日本紙幣収集事典|publisher=原点社|isbn=978-4-99-020202-6}}
== 関連項目 ==
* [[硬貨]]
* [[通貨]]
* [[貨幣]]
* [[紙幣]]
* [[円 (通貨)]]
* [[日本の硬貨]]
* [[小額政府紙幣]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Banknotes of Japan}}
* [https://www.mof.go.jp/policy/currency/bill/index.html 日本の紙幣] - 財務省
* [https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/index.htm 銀行券・貨幣]([[日本銀行]])
* [https://www.npb.go.jp/ 国立印刷局]
* [https://manabow.com/zatsugaku/column17/2.html お札に登場する動物たち(2)](man@bow)
{{日本銀行券}}
{{日本の通貨}}
{{デフォルトソート:につほんきんこうけん}}
[[Category:日本銀行券|*]] | 2003-03-13T02:06:01Z | 2023-12-12T17:05:10Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%8A%80%E8%A1%8C%E5%88%B8 |
3,907 | 都市銀行 | 都市銀行(としぎんこう)は、普通銀行のなかで、東京や大阪などの大都市に本店を構え、広域展開している日本の銀行である。略して都銀(とぎん)。法的根拠はなく、明確な基準を持たない一方で、その対象は限定されており、現在は5行(定義によっては4行)が該当する。
都市銀行は、1968年10月から始まった大蔵大臣の諮問機関「金融制度調査会」第1分科会における「普通銀行の諸問題」の審議にて、「普通銀行のうち、6大都市またはそれに準ずる都市を本拠として、全国的にまたは数地方にまたがる広域的営業基盤を持つ銀行」のことと定義された。
当時、都市銀行に分類されたのは、第一銀行、三井銀行、富士銀行、三菱銀行、協和銀行、日本勧業銀行、三和銀行、住友銀行、大和銀行、東海銀行、北海道拓殖銀行、神戸銀行、東京銀行(外国為替専門銀行)の13行(統一金融機関コード順)である。
1968年に日本相互銀行が相互銀行から普通銀行に転換し、太陽銀行に商号変更して都市銀行に加わった。1969年には埼玉銀行が地方銀行から都市銀行に転換し、国内の都市銀行は15行体制となった。
1971年に第一銀行と日本勧業銀行が合併して第一勧業銀行が、1973年に神戸銀行と太陽銀行が合併して太陽神戸銀行が誕生し、その後は長らく13行体制となっていたが、北海道拓殖銀行の破綻や都市銀行同士の合併・再編により、2013年以降は現在のみずほ銀行、三菱UFJ銀行、三井住友銀行、りそな銀行、および埼玉りそな銀行の5行体制となった。
このことから、都市銀行は大手銀行である場合が多く、現在では莫大な預金残高を抱えるいわゆるメガバンクとその系列銀行、匹敵する銀行が占める。
また、大手銀行であってもSBI新生銀行・あおぞら銀行は旧長期信用銀行法による長信銀の後継銀行であること、各信託銀行は金融機関の信託業務の兼営等に関する法律による銀行、ゆうちょ銀行は国営現業の郵便貯金を出自とする特殊性から、都市銀行と定義されない。
帝国データバンクが企業概要ファイル「COSMOS2」に収録されている企業146万社(特殊法人・個人事業主を含む)を対象に行った「全国メーンバンク調査」(2016年12月)によると、都市銀行5行をメインバンクとする企業シェアは20.06%である。地域別では、関東地方で3位まで三菱UFJ銀行、みずほ銀行、三井住友銀行の3行が独占、埼玉りそな銀行(5位)、りそな銀行(9位)も10位以内に入る。近畿地方でも三井住友銀行、三菱UFJ銀行、りそな銀行が3位まで独占し、りそな銀行系列の近畿大阪銀行が8位、みずほ銀行も10位にランクインしている。そのほかの地域では、中部地方において東海銀行を母体とする三菱UFJ銀行が1位である他は、有力地方銀行や一部の信用金庫・信用協同組合がそれぞれの地域で強みを見せており、都市銀行は関東と近畿で強い傾向にあると言える。
以下、全国順位10位までの銀行を示す(太字は都市銀行)。なお、10位までの順位は2009年の初回調査より変動はなく、三菱UFJ銀行(旧三菱東京UFJ銀行)の首位は8年連続である。
2013年7月以降、都市銀行は次の5行に限定されている。埼玉りそな銀行は都市銀行に含める場合とそうでない場合がある。すべて前述の13行の流れを汲む銀行で、これ以外の銀行は都市銀行と呼ばない慣例が存在する(店舗数は2012年3月末時点。日本国外の店舗を含む)。
埼玉りそな銀行は前身である旧埼玉銀行・旧あさひ銀行が都市銀行であったため「都市銀行」とされるが、あさひ銀行の埼玉県店舗網を分割して設立された銀行であるため店舗網は埼玉県内に限定されている。大企業のみを顧客とするみずほコーポレート銀行(当時)は都市銀行とされていたのに対し、長期信用銀行から転換したSBI新生銀行やあおぞら銀行は「大都市に本店を構え、全国展開している」という条件を満たすが、出自の関係から都市銀行とされないなど、近年の銀行再編成によって「都市銀行」の基準は曖昧化しつつある。
全国地方銀行協会(地銀協)・第二地方銀行協会(第二地銀協)のいずれにも属していない普通銀行とみなす見方もあるが、これは銀行の運営方針などの問題もあるため、明確な定義でない。ただし「都銀懇話会」という、日本経済団体連合会加盟の任意団体は存在し、全国銀行協会のプレス発表でも「都銀懇、地銀協、第二地銀協、信託協は」というような言い方をしている(なお、埼玉りそな銀行は都銀懇話会の会員ではない)。
全国銀行協会などの発行物、日本銀行の定義、財務省の分類では、埼玉りそな銀行とみずほコーポレート銀行(当時)を「都市銀行」として扱っている。しかし、金融庁のウェブサイトで公開している「免許・許可・登録等を受けている業者一覧」では、みずほコーポレート銀行(当時)を金融庁所管の「都市銀行」、新生銀行(当時)及びあおぞら銀行を金融庁所管の「その他」とする一方、埼玉りそな銀行を関東財務局所管の「その他」としているなど定義は分かれている。
本項では埼玉りそな銀行及びみずほコーポレート銀行(後にみずほ銀行と合併)を都市銀行として扱う。
1942年の金融統制団体令施行に際して、普通銀行統制会に加入した銀行グループにその起源を求めることもできる。
※神戸銀行は前身行のひとつとして岡崎財閥傘下の神戸岡崎銀行も関係している。
金融行政での統計資料等においては都市銀行を普通銀行のうちの本庁直轄銀行(ただし業態が従来型のもの)と同義語であるかのごとく使用している。
銀行法第59条第2項では、金融庁長官は権限の一部を財務局長(財務支局長を含む)に委任することができると規定されている。これは金融庁自体に地方支分部局がないため、発足の際の母体となった財務省の地方支分部局に委ねているためである。この規定に基づき、銀行法施行令第17条の2第1項では個別の権限を列挙して(銀行業の免許、銀行の合併等、経営の基本的事項以外は全部)長官権限を財務局長に委任しているが、同条第4項により、金融庁長官の指定するものには適用しない、換言すれば、金融庁長官の指定した金融機関については財務局長に委任せず金融庁長官自身が権限を行使することと規定された。
この規定に基づいて、「銀行法施行令第17条の2第1項から第3項までの規定を適用しない金融庁長官の権限等を定める件」(平成14年金融庁告示第35号)が制定されて、この中で、みずほ銀行・みずほコーポレート銀行(当時)・三井住友銀行・三菱東京UFJ銀行・りそな銀行の5行が「本庁直轄銀行」とされ、これが行政上、「都市銀行」と表現されている。その他、長期信用銀行から移行した2行(新生銀行(当時)、あおぞら銀行)、新たな形態の銀行や信託兼営銀行も本庁直轄銀行だが、これらは都市銀行とはされない。また、埼玉りそな銀行は本庁直轄銀行ではないため、金融庁の作成資料では都市銀行としては扱われていないが、全国地方銀行協会・第二地方銀行協会のいずれにも加入していないので、地方銀行・第二地方銀行には分類されず、関東財務局所管の「その他」というジャンルに分類されている。
これに伴い、金融庁の組織において監督局銀行第一課と同銀行第二課との間の監督対象銀行の区分は、銀行第二課は「社団法人全国地方銀行協会又は社団法人第二地方銀行協会の会員その他金融庁長官が定める者」(金融庁組織令第21条第1項第1号イ)、銀行第一課はそれ以外の銀行業を営む者(金融庁組織令第20条第1項第1号イ)と区分している。
BANCSは、都市銀行間を接続するCD/ATMの相互接続ネットワーク。 | [
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"text": "銀行法第59条第2項では、金融庁長官は権限の一部を財務局長(財務支局長を含む)に委任することができると規定されている。これは金融庁自体に地方支分部局がないため、発足の際の母体となった財務省の地方支分部局に委ねているためである。この規定に基づき、銀行法施行令第17条の2第1項では個別の権限を列挙して(銀行業の免許、銀行の合併等、経営の基本的事項以外は全部)長官権限を財務局長に委任しているが、同条第4項により、金融庁長官の指定するものには適用しない、換言すれば、金融庁長官の指定した金融機関については財務局長に委任せず金融庁長官自身が権限を行使することと規定された。",
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"text": "この規定に基づいて、「銀行法施行令第17条の2第1項から第3項までの規定を適用しない金融庁長官の権限等を定める件」(平成14年金融庁告示第35号)が制定されて、この中で、みずほ銀行・みずほコーポレート銀行(当時)・三井住友銀行・三菱東京UFJ銀行・りそな銀行の5行が「本庁直轄銀行」とされ、これが行政上、「都市銀行」と表現されている。その他、長期信用銀行から移行した2行(新生銀行(当時)、あおぞら銀行)、新たな形態の銀行や信託兼営銀行も本庁直轄銀行だが、これらは都市銀行とはされない。また、埼玉りそな銀行は本庁直轄銀行ではないため、金融庁の作成資料では都市銀行としては扱われていないが、全国地方銀行協会・第二地方銀行協会のいずれにも加入していないので、地方銀行・第二地方銀行には分類されず、関東財務局所管の「その他」というジャンルに分類されている。",
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"title": "行政上の都市銀行"
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"text": "BANCSは、都市銀行間を接続するCD/ATMの相互接続ネットワーク。",
"title": "かつてBANCS加盟13都市銀行の現状"
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] | 都市銀行(としぎんこう)は、普通銀行のなかで、東京や大阪などの大都市に本店を構え、広域展開している日本の銀行である。略して都銀(とぎん)。法的根拠はなく、明確な基準を持たない一方で、その対象は限定されており、現在は5行(定義によっては4行)が該当する。 | {{Otheruses|日本の都市銀行|米国や中国などの商業銀行|商業銀行|}}
{{独自研究|date=2012年11月}}
'''都市銀行'''(としぎんこう)は、[[普通銀行]]のなかで、[[東京都区部|東京]]や[[大阪市|大阪]]などの大都市に[[本店]]を構え、広域展開している[[日本]]の[[銀行]]である。略して'''都銀'''(とぎん)。法的根拠はなく、明確な基準を持たない一方で、その対象は限定されており、現在は5行(定義によっては4行)が該当する。
[[画像:City banks in Japan.JPG|thumb|250px|日本の主な都市銀行の看板]]
== 概要 ==
都市銀行は、[[1968年]][[10月]]から始まった[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]の諮問機関「[[金融制度調査会]]」第1分科会における「普通銀行の諸問題」の審議にて、「普通銀行のうち、'''[[六大都市|6大都市]]またはそれに準ずる都市を本拠として、全国的にまたは数地方にまたがる広域的営業基盤を持つ'''銀行」のことと定義された<ref>マーケティング・エクセレンス著『図解30分で「銀行のしくみ」がすっきりわかる本』38頁、ISBN 978-4-7980-2565-0</ref>。
当時、都市銀行に分類されたのは、[[第一銀行]]、[[三井銀行]]、[[富士銀行]]、[[三菱銀行]]、[[協和銀行]]、[[日本勧業銀行]]、[[三和銀行]]、[[住友銀行]]、[[大和銀行]]、[[東海銀行]]、[[北海道拓殖銀行]]、[[神戸銀行]]、[[東京銀行]](外国為替専門銀行)の13行([[統一金融機関コード]]順)である。
[[1968年]]に日本相互銀行が[[相互銀行]]から普通銀行に転換し、[[太陽銀行]]に[[商号]]変更して都市銀行に加わった。[[1969年]]には[[埼玉銀行]]が[[地方銀行]]から都市銀行に転換し、国内の都市銀行は15行体制となった。
[[1971年]]に第一銀行と日本勧業銀行が合併して[[第一勧業銀行]]が、[[1973年]]に神戸銀行と太陽銀行が合併して[[太陽神戸銀行]]が誕生し、その後は長らく13行体制となっていたが、北海道拓殖銀行の破綻や都市銀行同士の合併・再編により、[[2013年]]以降は現在の[[みずほ銀行]]、[[三菱UFJ銀行]]、[[三井住友銀行]]、[[りそな銀行]]、および[[埼玉りそな銀行]]の5行体制となった。
このことから、都市銀行は[[大企業|大手]]銀行である場合が多く、現在では莫大な[[預金]]残高を抱えるいわゆる[[メガバンク]]とその系列銀行、匹敵する銀行が占める。
また、大手銀行であっても[[SBI新生銀行]]・[[あおぞら銀行]]は旧[[長期信用銀行]]法による長信銀の後継銀行であること、各信託銀行は[[金融機関の信託業務の兼営等に関する法律]]による銀行、[[ゆうちょ銀行]]は国営現業の[[郵便貯金]]を出自とする特殊性から、都市銀行と定義されない。
== 顧客企業獲得状況 ==
[[帝国データバンク]]が企業概要ファイル「COSMOS2」に収録されている企業146万社(特殊法人・個人事業主を含む)を対象に行った「全国メーンバンク調査」(2016年12月)によると、都市銀行5行をメインバンクとする企業シェアは20.06%である。地域別では、[[関東地方]]で3位まで三菱UFJ銀行、みずほ銀行、三井住友銀行の3行が独占、埼玉りそな銀行(5位)、りそな銀行(9位)も10位以内に入る。[[近畿地方]]でも三井住友銀行、三菱UFJ銀行、りそな銀行が3位まで独占し、りそな銀行系列の近畿大阪銀行が8位、みずほ銀行も10位にランクインしている。そのほかの地域では、[[中部地方]]において[[東海銀行]]を母体とする三菱UFJ銀行が1位である他は、有力地方銀行や一部の[[信用金庫]]・[[信用協同組合]]がそれぞれの地域で強みを見せており、都市銀行は関東と近畿で強い傾向にあると言える。
以下、全国順位10位までの銀行を示す('''太字'''は都市銀行)。なお、10位までの順位は2009年の初回調査より変動はなく、三菱UFJ銀行(旧三菱東京UFJ銀行)の首位は8年連続である<ref>『帝国ニュース』 No.14390 「全国メーンバンク調査(2016年)」 3-6頁 2016年12月5日</ref>。
{|class="wikitable"
|-
!順位 !! 銀行名!!社数 !! シェア(%)
|-
| 1 ||'''[[三菱UFJ銀行]]'''||102,453||7.01
|-
| 2 ||'''[[三井住友銀行]]'''||79,916||5.47
|-
| 3 ||'''[[みずほ銀行]]'''||63,648||4.35
|-
| 4||'''[[りそな銀行]]'''||30,293||2.07
|-
| 5||[[北洋銀行]]||24,911||1.70
|-
| 6||[[千葉銀行]]||20,979||1.43
|-
| 7||[[西日本シティ銀行]]||20,011||1.37
|-
| 8||[[福岡銀行]]||19,976||1.37
|-
| 9||'''[[埼玉りそな銀行]]'''||17,031||1.13
|-
| 10||[[静岡銀行]]||16,561||1.13
|-
|}
== 現在の都市銀行一覧 ==
2013年7月以降、都市銀行は次の5行に限定されている。埼玉りそな銀行は都市銀行に含める場合とそうでない場合がある。すべて前述の13行の流れを汲む銀行で、これ以外の銀行は都市銀行と呼ばない慣例が存在する(店舗数は2012年3月末時点。日本国外の店舗を含む)。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
! 銀行名 !! グループ!!ロゴマーク !! [[統一金融機関コード|銀行コード]] !! 本店所在地 !! 店舗数!!進出都道府県 !! その他の国内グループ行
|-
| [[みずほ銀行]]||[[みずほフィナンシャルグループ]]||
[[ファイル:Mizuho logo.svg|200px]]
||0001||rowspan="3"|東京都千代田区||459||47||[[みずほ信託銀行]]<br/>[[日本カストディ銀行]]
|-
| [[三菱UFJ銀行]]||[[三菱UFJフィナンシャル・グループ]]||
[[ファイル:Mitsubishi UFJ Financial Group.svg|200px]]
||0005||818||31||[[三菱UFJ信託銀行]]<br/>[[日本マスタートラスト信託銀行]]<br/>[[auじぶん銀行]]
|-
| [[三井住友銀行]]||[[三井住友フィナンシャルグループ|SMBCグループ]]<ref group="注">2018年4月からグループの名称を「SMBCグループ」に改め、「[[三井住友フィナンシャルグループ]]」は[[金融持株会社|持株会社]]の名前としてのみ使用されている([https://www.smfg.co.jp/company/info/vi.html 三井住友フィナンシャルグループ公式サイトより「ビジュアル・アイデンティティ」])</ref>||
[[ファイル:Sumitomo Mitsui Banking Logo.svg|200px]]
||0009||679||34||[[SMBC信託銀行]]<br/>[[PayPay銀行]]
|-
| [[りそな銀行]]||rowspan="2"|[[りそなホールディングス|りそなグループ]]||
[[ファイル:Resona Bank logo.svg|200px]]
||0010||大阪府大阪市中央区||347||26||rowspan="2"|[[日本カストディ銀行]]<br/>[[関西みらい銀行]]<br/>[[みなと銀行]]
|-
| [[埼玉りそな銀行]]||
[[ファイル:Saitama Resona Bank Logo.svg|200px]]
||0017||埼玉県さいたま市浦和区||132||2
|}
== 曖昧化する基準 ==
埼玉りそな銀行は前身である旧[[埼玉銀行]]・旧[[あさひ銀行]]が都市銀行であった<ref group="注">[https://www.mof.go.jp/pri/publication/policy_history/series/s49-63/06/06_2_1_01.pdf 昭和49~54年度の金融行政]([[財務省]])の第1章「2.金融機関の参入・退出・合併等」では「三井、三菱、住友、富士、第一勧業、三和、東海、大和、太陽神戸、協和、北海道拓殖、埼玉の12行を「都市銀行」としている。</ref>ため「都市銀行」とされるが、あさひ銀行の埼玉県店舗網を分割して設立された銀行であるため店舗網は埼玉県内に限定されている。大企業のみを顧客とする[[みずほコーポレート銀行]](当時)<ref group="注">登記上は旧[[富士銀行]]が改称した銀行だが、本店所在地や業務内容は長期信用銀行だった[[日本興業銀行]]を引き継いだ形になっている。</ref>は都市銀行とされていたのに対し、[[長期信用銀行]]から転換したSBI新生銀行やあおぞら銀行は「大都市に本店を構え、全国展開している」という条件を満たすが、出自の関係から都市銀行とされないなど、近年の銀行再編成によって「都市銀行」の基準は曖昧化しつつある。
[[全国地方銀行協会]](地銀協)・[[第二地方銀行協会]](第二地銀協)のいずれにも属していない普通銀行とみなす見方もあるが、これは銀行の運営方針などの問題もあるため<ref group="注">[[ネット銀行]]やコンビニATM系の[[セブン銀行]]なども地銀協、第二地銀協には加盟していない</ref>、明確な定義でない。ただし「[[都銀懇話会]]」という、[[日本経済団体連合会]]加盟の任意団体は存在し、[[全国銀行協会]]のプレス発表でも「都銀懇、地銀協、第二地銀協、信託協は」<ref>[http://www.zenginkyo.or.jp/abstract/news/conference/detail/nid/3423/ 三木会長記者会見(東京三菱銀行頭取)](全国銀行協会 2003年10月21日)</ref>というような言い方をしている(なお、埼玉りそな銀行は都銀懇話会の会員ではない<ref group="注">[https://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kaigi/meeting/2013/wg2/boeki/140304/summary0304.pdf 第9回貿易・投資等ワーキング・グループ 議事概要]([[内閣府]] 2014年)では、都銀懇話会の代表として参加したりそな銀行所属の人物が「都銀懇話会は3メガバンクとりそな銀行の4行で構成する団体でありまして」と説明している。</ref>)。
全国銀行協会などの発行物、[[日本銀行]]の定義<ref>[http://www.boj.or.jp/statistics/outline/note/financial.htm/ 用語の定義]、日本銀行</ref>、[[財務省]]の分類<ref>[https://www.mof.go.jp/jgbs/topics/bond/bidders/index.htm 国債に係る入札参加者一覧]、財務省</ref>では、埼玉りそな銀行とみずほコーポレート銀行(当時)を「都市銀行」として扱っている。しかし、[[金融庁]]の[[ウェブサイト]]で公開している「免許・許可・登録等を受けている業者一覧<ref>[https://www.fsa.go.jp/menkyo/menkyoj/ginkou.pdf 銀行免許一覧(都市銀行・信託銀行・その他)]、金融庁</ref>」では、みずほコーポレート銀行(当時)を金融庁所管の「都市銀行」、新生銀行(当時)及びあおぞら銀行を金融庁所管の「その他」とする一方、埼玉りそな銀行を[[関東財務局]]所管の「その他」としているなど定義は分かれている。
本項では埼玉りそな銀行及びみずほコーポレート銀行(後にみずほ銀行と合併)を都市銀行として扱う。
== 普通銀行統制会 ==
[[1942年]]の金融統制団体令施行に際して、普通銀行統制会に加入した銀行グループにその起源を求めることもできる。
*旧[[財閥]]系銀行 - [[三井銀行]]([[三井財閥]]系)、[[三菱銀行]]([[三菱財閥]]系)、[[住友銀行]]([[住友財閥]]系)、[[富士銀行]](旧安田銀行・[[安田財閥]]系)、[[第一銀行]]([[渋沢財閥]]系)、[[大和銀行]](旧野村銀行・[[野村財閥]]系)
*旧[[特殊銀行 (日本金融史)|特殊銀行]] - [[日本勧業銀行]]、[[北海道拓殖銀行]]、[[東京銀行]]([[横浜正金銀行]]の資産を承継)
*旧[[地方銀行]]等で業容が拡大したもの - [[三和銀行]]、[[東海銀行]]、※[[神戸銀行]]、[[埼玉銀行]]、[[協和銀行]](旧日本貯蓄銀行)、[[太陽銀行]](旧日本相互銀行)
※神戸銀行は前身行のひとつとして[[岡崎財閥]]傘下の神戸岡崎銀行も関係している。
== 行政上の都市銀行 ==
金融行政での統計資料等においては都市銀行を普通銀行のうちの本庁直轄銀行(ただし業態が従来型のもの)と同義語であるかのごとく使用している。
[[銀行法]]第59条第2項では、[[金融庁長官]]は権限の一部を財務局長(財務支局長を含む)に委任することができると規定されている。これは金融庁自体に[[地方支分部局]]がないため、発足の際の母体となった財務省の地方支分部局に委ねているためである。この規定に基づき、銀行法施行令第17条の2第1項では個別の権限を列挙して(銀行業の免許、銀行の合併等、経営の基本的事項以外は全部)長官権限を財務局長に委任しているが、同条第4項により、金融庁長官の指定するものには適用しない、換言すれば、金融庁長官の指定した金融機関については財務局長に委任せず金融庁長官自身が権限を行使することと規定された。
この規定に基づいて、「銀行法施行令第17条の2第1項から第3項までの規定を適用しない金融庁長官の権限等を定める件」([[2002年|平成14年]]金融庁告示第35号)が制定されて、この中で、みずほ銀行・みずほコーポレート銀行(当時)・三井住友銀行・三菱東京UFJ銀行・りそな銀行の5行が「本庁直轄銀行」とされ、これが行政上、「都市銀行」と表現されている。その他、長期信用銀行から移行した2行(新生銀行(当時)、あおぞら銀行)、[[新たな形態の銀行]]や信託兼営銀行も本庁直轄銀行だが、これらは都市銀行とはされない。また、埼玉りそな銀行は本庁直轄銀行ではないため、金融庁の作成資料では都市銀行としては扱われていないが、全国地方銀行協会・第二地方銀行協会のいずれにも加入していないので、地方銀行・[[第二地方銀行]]には分類されず、関東財務局所管の「その他」というジャンルに分類されている。
これに伴い、金融庁の組織において監督局銀行第一課と同銀行第二課との間の監督対象銀行の区分は、銀行第二課は「社団法人全国地方銀行協会又は社団法人第二地方銀行協会の会員その他金融庁長官が定める者」(金融庁組織令第21条第1項第1号イ)、銀行第一課はそれ以外の銀行業を営む者(金融庁組織令第20条第1項第1号イ)と区分している。
== 都市銀行のあゆみ ==
{| class="wikitable" border="1" cellpadding="3" cellspacing="0" style="font-size:small"
|-
! 財閥・政府系銀行誕生<br />([[1873年]] - [[1939年]])
! 戦時統制<br />([[1940年]] - [[1945年]])
! 戦後改革・財閥解体<br />([[1946年]] - [[1951年]])
! 財閥名復帰・長期金融整備・高度成長<br />([[1952年]] - [[1970年]])
! 高度成長終焉・安定成長・バブル経済<br />([[1971年]] - [[1989年]])
! [[金融ビッグバン]]<br />([[1990年]] - [[1999年]])
! colspan="2" | 不良債権処理<br />([[2000年]] - )
|-
| colspan="2" | [[三菱銀行]]<br />([[1919年]] - [[1948年]])
| 千代田銀行<br />(1948年 - [[1953年]])
| colspan="2" | 三菱銀行(1953年 - [[1996年]])
| colspan="2" rowspan="2" | [[東京三菱銀行]]<br />(1996年 - [[2006年]])
| rowspan="4" style="background:#ffe0e0" | 三菱東京UFJ銀行<br />(2006年 - [[2018年]])<br />[[三菱UFJ銀行]]<br />(2018年 - )
|-
| colspan="2" style="background:#eee" | [[横浜正金銀行]]<br />([[1879年]] - [[1946年]])<br />(1946年[[閉鎖機関]]指定、東京銀行に業務承継)
| colspan="3" style="background:#eee" | [[東京銀行]](1946年 - 1996年)
|-
| colspan="6" | [[三和銀行]]([[1933年]] - [[2002年]])
| rowspan="2" | [[UFJ銀行]]<br />(2002年 - 2006年)
|-
| [[愛知銀行 (東海銀行の前身)|愛知銀行]]<br>[[伊藤銀行]]<br>[[名古屋銀行 (東海銀行の前身)|名古屋銀行]]<br>([[1890年代]] - [[1941年]])
| colspan="5" | [[東海銀行]](1941年 - 2002年)
|-
| colspan="3" style="background:#eee" | 相互無尽([[1917年]] - [[1951年]])
| colspan="2" style="background:#eee" | 第一相互銀行(1951年 - [[1989年]])
| style="background:#eee" | [[太平洋銀行]]<br />(1989年 - [[1996年]])<br />([[1996年]]破綻、わかしお銀行へ営業譲渡)
| style="background:#eee" | [[わかしお銀行]]<br />(1996年 - [[2003年]])
| rowspan="5" style="background:#e0ffe0" | [[三井住友銀行]]<br /> (2003年 - )<br />(わかしお銀行から商号変更)
|-
| colspan="2" | [[住友銀行]]<br />([[1895年]] - [[1948年]])
| 大阪銀行<br />(1948年 - [[1952年]])
| colspan="3" | 住友銀行(1952年 - [[2001年]])
| rowspan="4" style="background:#e0ffe0" | [[三井住友銀行]]<br />(2001年 - [[2003年]])
|-
| colspan="4" | [[神戸銀行]]([[1936年]] - [[1973年]])
| rowspan="2" | [[太陽神戸銀行]]<br />([[1973年]] - [[1990年]])
| rowspan="3" |太陽神戸三井銀行<br />([[1990年]] - [[1992年]])<br /> [[さくら銀行]]<br />(1992年 - 2001年)
|-
| [[無尽会社]]5社<br />( - [[1940年]])
| 大日本[[無尽]]<br />(1940年 - 1948年)
| 日本無尽<br />(1948年 - [[1951年]])
| 日本相互銀行<br />([[1951年]] - [[1968年]])<br />[[太陽銀行]]<br />(1968年 - [[1973年]])
|-
| [[三井銀行]]<br />([[1876年]] - [[1943年]])
| rowspan="2" | [[帝国銀行]]<br />(1943年 - [[1948年]])
| 帝国銀行<br />(1948年 - [[1954年]])
| colspan="2" | 三井銀行(1954年 - 1989年)
|-
| [[第一銀行]]<br />([[1873年]] - [[1943年]])
| colspan="2" | 第一銀行([[1948年]] - [[1971年]])
| colspan="2" rowspan="2" | [[第一勧業銀行]](1971年 - [[2002年]])
| colspan="1" rowspan="4" style="background:#e0e0ff" | [[みずほ銀行]] /<br />[[みずほコーポレート銀行]]<br />(2002年 - [[2013年]])
| colspan="2" rowspan="4" style="background:#e0e0ff" | [[みずほ銀行]]<br />(2013年 - )
|-
| colspan="2" style="background:#eee" | [[日本勧業銀行]]<br />([[1897年]] - [[1950年]])
| colspan="2" | 日本勧業銀行<br />(1950年 - [[1971年]])
|-
| colspan="2" | 安田銀行<br />([[1876年]] - [[1948年]])
| colspan="4" | [[富士銀行]](1948年 - 2002年)
|-
| colspan="6" style="background:#eee" | [[日本興業銀行]]([[1902年]] - 2002年)
|-
| [[貯蓄銀行]]9行<br>([[1890年代]] - [[1945年]])
| 日本貯蓄銀行<br />(1945年 - [[1948年]])
| colspan="3" | [[協和銀行]](1948年 - [[1991年]])
| colspan="2" rowspan="2" | 協和埼玉銀行<br />(1991年 - [[1992年]])<br />[[あさひ銀行]]<br />(1992年 - [[2003年]])
| rowspan="3" style="background:#ffffe0" | [[りそな銀行]] /<br />[[埼玉りそな銀行]]<br />(2003年 - )
|-
| [[八十五銀行]]<br>[[武州銀行]]<br>[[忍商業銀行]]<br>[[飯能銀行]]<br>([[1890年代]] - [[1943年]])
| colspan="4" | [[埼玉銀行]](1943年 - 1991年)
|-
| colspan="2" | 野村銀行<br />([[1918年]] - 1948年)
| colspan="5" | [[大和銀行]](1948年 - 2003年)
|-
| colspan="2" style="background:#eee" | [[北海道拓殖銀行]]<br />([[1900年]] - [[1950年]])
| colspan="4" | 北海道拓殖銀行(1950年 - [[1997年]])<br />(1997年破綻、[[北洋銀行]]と[[中央三井信託銀行|中央信託銀行]]に営業譲渡)
| colspan="2" | ([[2006年]]法人格消滅)
|-
| colspan="3" style="background:#eee" | (勧銀・拓銀の長期金融を承継)
| colspan="3" style="background:#eee" | [[日本長期信用銀行]]<br />([[1952年]] - [[2000年]])<br />([[1998年]]破綻、2000年投資組合ニューLTCBパートナーズ([[リップルウッド・ホールディングス|リップルウッド]])に売却)
| colspan="2" | 新生銀行<br />(2000年 - 2023年)<br />[[SBI新生銀行]]<br />(2023年 - )
|}
# 埼玉銀行は成立当初は地方銀行。[[1969年]]に都市銀行へと転換した。
# 背景濃灰は[[特殊銀行 (日本金融史)|特殊銀行]]または[[長期信用銀行]]・[[外国為替]]専業銀行・第二地方銀行等。
# 住友銀行は1986年[[平和相互銀行]]と、三井住友銀行は2003年[[わかしお銀行]]と合併している。
# りそな銀行は旧大和・あさひの埼玉県外店舗を、埼玉りそな銀行は同じく埼玉県内店舗を引き継いでいる。また、りそな銀行は2005年に[[奈良銀行]]と合併している。
# SBI新生銀行は都銀の部門譲渡によって設立された長信銀の後継行のため、この図表に掲載しているが、都市銀行には含まない。
# カッコ内は銀行の存在期間。
== かつてBANCS加盟13都市銀行の現状 ==
[[BANCS]]は、都市銀行間を接続する[[現金自動預け払い機|CD/ATM]]の相互接続ネットワーク。
* [[みずほ銀行]]
**[[第一勧業銀行]]
**[[富士銀行]]
* [[三菱UFJ銀行]]
**[[三菱銀行]]
**[[三和銀行]]
**[[東海銀行]]
**[[東京銀行]]
* [[三井住友銀行]]
**[[三井銀行]]
**[[太陽神戸銀行]]
**[[住友銀行]]
* [[りそな銀行]]
**[[大和銀行]]
**[[協和銀行]]
**[[埼玉銀行]](埼玉県外店舗)
* [[埼玉りそな銀行]]
**[[埼玉銀行]](埼玉県内店舗)
* [[北海道拓殖銀行]](破綻後、[[北洋銀行]]と[[中央三井信託銀行|中央信託銀行]]へ営業譲渡)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[メガバンク]]
* [[BANCS]]
== 外部リンク ==
* [https://www.zenginkyo.or.jp/ 全国銀行協会]
{{都市銀行}}
{{bank-stub}}
{{economy-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:としきんこう}}
[[Category:都市銀行|*]]
[[Category:都市]] | 2003-03-13T02:32:00Z | 2023-10-23T05:07:42Z | false | false | false | [
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:都市銀行",
"Template:Bank-stub",
"Template:Economy-stub",
"Template:Normdaten",
"Template:Otheruses",
"Template:独自研究"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%B8%82%E9%8A%80%E8%A1%8C |
3,908 | メガバンク | メガバンク(英語: megabank, mega bank)とは、巨大な収益規模や資産を有する銀行・銀行グループ、あるいは1兆ドル以上の総資産を持つ銀行グループのことである。統合・合併で誕生した巨大銀行を指す場合もある。
明確な定義づけがされていない一方で、一般に日本のメガバンクは、三和銀行を元にする三菱UFJ銀行、住友銀行を元にする三井住友銀行、みずほ銀行の3行だとされており、これらは都市銀行の合従連衡によって生まれた。
バブル景気が崩壊した1990年代以降、日本では銀行(邦銀)はいずれも過剰融資による不良債権で急速に体力を失っていった。また同時に、総会屋に対する利益供与事件(小池隆一事件)が明らかになったり、その不透明な融資体制、護送船団方式により喪失した国際競争力などもあり、こうした問題の解決に迫られた。
これらの諸問題の包括的な是正のため1996年、第2次橋本内閣はその政策の柱に「金融制度改革」いわゆる金融ビッグバンを提唱。1998年には私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)が改正され持株会社の設立が可能になり、統合のための制度的環境が整備された。
一方で1997年には北海道拓殖銀行と山一證券が、翌1998年には日本長期信用銀行と日本債券信用銀行が破綻し、社会からの金融に対する信頼は大きく低下。「銀行が潰れる」という事態が現実のものとなり、その他の大手銀行にも経営不安がささやかれるようになる。
こうした危機感の中、銀行の統合による規模の経済性、多角化による経済性、コスト削減効果等により見込まれる経営改善効果を期待した邦銀は、1999年以降雪崩を打って再編へ走り出す。こうして1970年代から1980年代に「都銀13行」「大手20行」と呼ばれた各行は、段階的な合併劇を繰り返した末、2006年には三大メガバンク(三菱UFJフィナンシャル・グループ、三井住友フィナンシャルグループ、みずほフィナンシャルグループ)、四大銀行(三菱東京UFJ銀行、三井住友銀行、みずほ銀行、りそな銀行)体制に落ち着いた。盤石と思われていた一流銀行の統合劇は、日本国民にも大きな衝撃を与えた。
企業の株式持ち合いなど日本独自の慣行を取っており、メガバンクは2015年6月時点で株を合計6兆5000億円(取得原価ベース)も保有していたが、アベノミクスの成長戦略の中の企業統治強化に伴い、金融庁から持ち合い株売却の規制を受けている。
前身の1つ、三菱東京フィナンシャル・グループは、1996年に東京銀行と三菱銀行の合併によって生まれた東京三菱銀行を中核としたグループである。三菱銀行時代から「官僚的な行風」とされ効率性には乏しい反面、堅実な財務体質で知られ、「安定性」が何より重視された金融不安の時期には最優良都銀と目された。他行の金融持株会社による多角化に触発され、2001年、系列の三菱信託銀行、日本信託銀行とともに「三菱東京」を設立した。
一方もう1つの前身、UFJホールディングスは、UFJ銀行を中核としたグループである。もとは東海銀行とあさひ銀行の合併が構想されていたのだが、ここに上位都銀では再編出遅れ組だった三和銀行が参加。当初東海・あさひが地域密着型でリテール中心の事業モデルを志向していたのに対し、三和はコーポレートファイナンスや海外業務も総合的に手がける「マネーセンターバンク」を目指す。こうした意見の相違や、埼玉銀行を前身とするあさひが、大阪地盤の三和に主導権を取られることを嫌ったこともあり、最終的にあさひは計画から離脱。三和系列の東洋信託銀行を交え、2001年「UFJ」を旗揚げした。
しかしながら、積極的な体質の三和がバブル期に築いた不良債権は大きく(とくにダイエーに対する融資に関してはUFJ成立後1兆円超となってしまう)、更には合併相手である東海銀行陣営を冷遇した事による紛争が勃発、他のメガバンクが経営改善を進める中、紛争が響き後れを取ってしまい、積極的な資本増強策を行っていなかったためか取り残された状態となる(不良債権解消は行ってはいたが金融庁から業務改善命令を出されるなど選択肢が制限されていた上、現金資産が上昇した訳でもなかった)。更には2003年には金融庁検査における不良債権隠しが発覚し、兼ねてから旧大蔵省に対して強みを持っていた当時の副頭取であった岡崎により議事録改竄などの挑発行動に出た結果、東海陣営からの内部告発による全容発覚を含め金融庁の逆鱗に触れてしまった(UFJ銀行#金融庁との対立と特別検査も参照)。結果UFJに対する風当たりは厳しくなり、不良債権の引き当てなどで4,000億円の赤字を抱え込む事になってしまったため、傘下のUFJ信託銀行を住友信託銀行に売却すると発表。それでもなお解決は見込めず、三菱東京に救済合併される形となった。UFJの救済役には後から三井住友フィナンシャルグループも名乗りを上げたが、競り負けた。
この結果、総資産で当時世界最大の三菱UFJ銀行が誕生した。旧東京三菱・UFJがそれぞれ首都圏・東海圏・近畿圏を地盤とした三大都市圏をカバーする一方、三和が得意としていた海外業務にも力を持ち、全体的なバランスは優れる。反面、行風も地盤もまったく異なる銀行同士の寄り合い所帯とも言え、これらがどのように融和されるかが課題である。また、傘下の三菱UFJ証券の投資銀行部門の強化も課題である。三菱UFJ銀行、三菱UFJ信託銀行、三菱UFJ証券ホールディングス、三菱UFJリース、三菱UFJニコスなど主要5社が中核となり、世界屈指の総合金融グループを目指している。
2002年発足。2001年の住友銀行とさくら銀行の合併による三井住友銀行を中核としたグループ。
さくら銀行は1990年、三井銀行と太陽神戸銀行(太陽銀行と神戸銀行が1973年に合併)が合併し「太陽神戸三井銀行」として誕生、1992年に改名したもの。三井銀行は三井グループの中核だったが、戦後まもない帝国銀行の再分割で他の財閥系銀行に比べて規模が小さく、三井グループの金庫番としての機能を十分果たせなかった。そこで業容拡大のため、中位行ながら多くの店舗を持っていた太陽神戸銀行と合併した。当初は合併効果が期待されたが、合併直後のバブル崩壊に加え、太陽神戸銀行時代から続く旧行出身者間の対立に三井銀行が加わったことによって非効率な経営がとられ、実力はほとんど発揮されなかった。
1997年の金融危機では、経営危機がささやかれ、巨額の公的資金注入を受けたほか、トヨタ自動車や三井グループ各社などへ増資を要請する事態にまで陥った。製造業が一社単独で銀行支援に動くというのは異例の事態であった。こうしてさくら銀行は当面の危機を脱したが、これを機に旧三井が経営の主導権を握るようになった。
一方、住友銀行は長らく住友グループの中核で、先進的・効率的経営の一方、取引先企業の経営が傾き始めると容赦なく融資を引き上げるので「逃げの住友」と批判され、経済誌の顧客イメージランキングでは、常に他行の後塵を拝していた(この体質が災いした出来事として、1950年にトヨタ自動車への融資参加行で唯一融資を打ち切って貸し剥がしを行った出来事がある。これが原因でさくら銀行との合併まで長らくトヨタはじめ名古屋財界から不興を買う事になった。住友銀行#終戦と財閥解体・大阪銀行を参照)。その利益第一主義の体質ゆえバブル期の積極融資によってバブル崩壊で膨大な不良債権を生み出すことになり、さらに暴力団・総会屋絡みの不正融資である"イトマン事件"、光進事件の1つ"蛇の目ミシン恐喝事件"等の不祥事が続発し、もはや住銀単独では処理が不可能であった。そこで、さくら銀行との合併を決断する。
2002年、持株会社「SMFG」を設立。この背景は財務状況の改善がある。続いて2003年、第二地方銀行のわかしお銀行を存続会社として合併し、三井住友銀行に改称。これは有価証券の含み損を解消するためであった。
3大メガバンクの中ではもっとも営業経費が少ないため、利益率・収益力の高い銀行である。カードローン、インターネットバンキング、各種リスク性商品販売などリテール・コンサルティング戦略に強みがある。米シティグループ傘下の日興コーディアル証券を傘下に収めるなど、アライアンスの強化で法人・個人両面で営業力の強化を目指している。かつては傘下に信託銀行を持たなかった点などグループの総合力で遅れを取っており、米国金融持株会社(FHC)の資格取得、ニューヨーク証券取引所への上場を含め総合力の強化が課題であったが、ニューヨーク証券取引所へは2011年11月1日付けで上場。これに伴いFHCに関しても規制厳格化後に取得出来る事から、規制上のフリーハンドマージンが期待出来る。今後の課題としては、従来サポートが弱いとされていたリテール業務への強化に関し、日興コーディアル証券を買収し発足したSMBC日興証券がサポート出来るかが課題となる。
メガバンクの中では、唯一全国銀行協会の持株会社会員に加盟していない。
みずほ銀行を中核とするグループ。第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行を前身とする。
第一勧業銀行は1971年、第一銀行と日本勧業銀行の合併で誕生した。当時日本最大の総資産を誇った富士銀行を抜き、規模では都銀首位となったが、旧第一派と旧勧銀派の融和は進まなかった。「対等合併」を気にする余り、非効率的な人事や経営方針が取られ、その体力は規模ほどには強くなかった。1997年には野村證券とともに、総会屋への利益供与事件で本店が家宅捜索を受け、社会的イメージは決定的に悪化してしまった。
富士銀行は安田財閥の中心であった安田銀行が、戦後の解体で改名したもの。長らく都銀の名門であったが、1970年代から地盤沈下が始まる。営業を積極的に押し進める住友銀行に対抗し、「FS戦争」(「富士住友戦争」ともいう)と呼ばれる熾烈な貸出競争に走ったが、最終的にはほぼ敗北。その上、これがバブル期に重なり、多額の不良債権ばかりが残る結果となった。
加えて同時期、親密だった山一證券が破綻、系列の安田信託銀行も経営が不安定となる。安田信託を子会社化し再建を図るが、富士独力では限界があり、第一勧銀傘下の第一勧業信託銀行と富士傘下の富士信託銀行が合併。これに安田信託銀行の業務の一部を譲渡した。ここで第一勧銀と富士に関係が生まれ、みずほフィナンシャルグループ誕生の契機となる。
1999年、この2行に日本興業銀行が加わり、みずほフィナンシャルグループの設立が発表された。興銀は長期信用銀行の雄として名を馳せ、バブル期には日本企業の時価総額で第1位(すなわち全世界で時価総額第1位)の座にあった。しかし、その重厚長大産業を主要顧客とした長期融資の時代はもはや終わりを告げ、野村證券との提携で投資銀行への転換を図るが、同じく長信銀の日本長期信用銀行(長銀)、日本債券信用銀行(日債銀)は既に破綻。予断を許さない状況の中、政府金融当局の意向も働いたとされ、第一勧銀・富士に身を委ねる形となった。
参加行に注入された公的資金は3兆円近くに達し、2002年のみずほ銀行発足直後にATM障害が発生、総会屋事件を引きずる顧客情報流出など、当初のイメージは芳しくなかった。りそな・UFJとともに国有化が噂され、取引企業を引受先とする1兆円の巨額増資を行い、2002年から2003年にかけ冬の時代であった。しかし結果的に増資は功を奏し、株価は底値から18倍近く上昇し、2006年には公的資金を完済、財務は三菱UFJ以上の優良体質となった。しかし、2008年以降の世界的な金融危機の中で投資銀行部門の損失が拡大、メガバンクの中で中核的自己資本比率の引き上げを求める新BIS規制への対応が最も遅れているなど、経営基盤が盤石とは言い難い。また、商業銀行部門だけでなく証券業務(新みずほ証券+みずほインベスターズ証券)でも融合が進まず効率性の点にも課題があり、2013年初頭に証券部門を統一(みずほ証券+みずほインベスターズ証券の合併)により一層の強化を図っている。
東証1部上場企業の7割と取引を持っており、旧興銀のノウハウを活かしたコーポレートファイナンスに強みを持つ。一方、リテールの収益性が依然として低いのが課題である。また2011年には東日本大震災の募金が原因で再びシステム障害を発生させ、信頼が再度低下。信頼回復も課題となり、2013年7月にみずほコーポレート銀行と合併、中核はみずほ銀行に一本化された。
2019年に新システム「MINORI」への移行が完了したとされるが、みずほ銀行はこれまでに、特に2021年以降、ATMの停止など、立て続けにシステムのトラブルを引き起こしている。これは合併の際に合併前の3行の全く別々のシステムのうち、いずれか1つのシステムのみを採用すべきところを、3つのシステムを無理やり統合するという不適切な方法を取ったことがそもそもの原因との指摘があり、古いコンピュータシステムの開発者の退職や死去、システム構造のブラックボックス化もあって、ITの同業者からも、システムの根本的な修正はもはや不可能との指摘がある。
三大メガバンクのほか、2002年に発足したりそな銀行と埼玉りそな銀行を中核とするりそなホールディングスがある。
他行と合併無く自主独往を貫いてきた信託併営行である大和銀行とあさひ銀行(協和銀行と埼玉銀行が1991年に合併)が前身である。
UFJ銀行がメガバンク総資産第4位として東京三菱、りそなの中間に位置した頃は、りそなも含め「5大メガバンク」と称されることもあったが、UFJが東京三菱と統合し、りそなと第3位の三井住友との間の開きが大きくなってからは、メガバンクとしては扱われることは少なくなった。大メガバンクが2006年度に公的資金を完済、あるいは完済を計画するなか、りそなは2兆円近い公的資金の返済で遅れを取り、2015年6月に完済した。
窓口営業を17時まで取り扱うサービスの提供、信託併営行ならではの企業年金の受託や不動産関連のビジネス、信託スキームを使った相続コンサルティングなど他行にはない独自のサービスもあり着目されている。
自らを「メガバンクグループに次ぐ日本で第4位の金融グループ」と紹介しており、自身をメガバンクとは位置づけていない。
三井住友信託銀行を擁する三井住友トラスト・ホールディングスは、他の主要銀行と比すると規模が小さく、都市銀行との再編にも加わらなかったため、メガバンクとして扱われない。
金融ビッグバンによる再編で、他の大手信託銀行(現在の三菱UFJ信託銀行・みずほ信託銀行)が相次いでメガバンクグループの持株会社傘下に収まる中、あくまで信託銀行専業での生き残りを希求した中央三井トラスト・ホールディングスと住友信託銀行が経営統合する形で2011年に設立された。その後、2012年には傘下の信託銀行3行が合併して三井住友信託銀行が誕生し、信託銀行業界で首位となる規模となる、国内唯一の独立系「メガ信託銀行」となった(三井住友フィナンシャルグループは、三井住友トラスト・ホールディングスとの資本関係はなく、2013年にソシエテ・ジェネラル系列のソシエテ・ジェネラル信託銀行を買収してSMBC信託銀行に改称することで信託銀行業界に参入した)。
日本長期信用銀行が破綻後再建したSBI新生銀行は、規模が小さくメガバンクとして扱われない。
日本債券信用銀行が破綻後再建したあおぞら銀行は、規模が小さくメガバンクとして扱われない。
2007年の郵政民営化の実現によって、総資産額日本最大の銀行として発足したゆうちょ銀行は、国営現業の郵便貯金(金融機関ではあったが銀行とみなされなかった)を出自とする特殊性から都市銀行とみなされていないため、メガバンクとみなされていない(これもあって全国銀行協会に加盟していなかったが、2011年10月27日に「特例会員」として加盟した)。
SBIホールディングス社長の北尾吉孝は2019年9月に国内外の様々なフィンテックや共同システムなどを活用して地域の金融機関と共同で「第4のメガバンク構想」を実現していくことを発表。メガバンクや有力地銀などと共同で持株会社を設立し、10行程度の地方銀行がその傘下に加わることで調整している。SBIは既に島根銀行や筑邦銀行(福岡県)などとの資本提携を発表している。
各地の地方銀行に出資しているとはいえ、その出資は業務提携の範囲に留まり、中核となる銀行は存在しない状態が続いていたが、2021年、かねてから筆頭株主であった新生銀行に対して敵対的TOBを仕掛け、最終的に新生銀行の経営陣とも調整のうえ、2021年12月17日、新生銀行を連結子会社化とし、2023年1月4日、SBI新生銀行に商号変更した。ただし、SBIホールディングスが出資している銀行の総資産額をすべて足したとしても24兆円程度で、メガバンクではないりそな銀行にも及んでいない規模である。
いずれも2022年4月現在。ローン相談のみの店舗に限り出店している場合も出店地域とみなす。みずほ銀行は全都道府県に出店している(「みずほ銀行#地域的基盤」も参照のこと)。
世界でも金融機関の統合再編は進み、各国を代表する大手銀行が少数に絞られつつある。ただ、「メガバンク」という呼称はほとんど使われない。古いものは近代から、国際金融市場を通して国債引受等の金融仲介を担ってきた。 | [
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"text": "1999年、この2行に日本興業銀行が加わり、みずほフィナンシャルグループの設立が発表された。興銀は長期信用銀行の雄として名を馳せ、バブル期には日本企業の時価総額で第1位(すなわち全世界で時価総額第1位)の座にあった。しかし、その重厚長大産業を主要顧客とした長期融資の時代はもはや終わりを告げ、野村證券との提携で投資銀行への転換を図るが、同じく長信銀の日本長期信用銀行(長銀)、日本債券信用銀行(日債銀)は既に破綻。予断を許さない状況の中、政府金融当局の意向も働いたとされ、第一勧銀・富士に身を委ねる形となった。",
"title": "日本のメガバンク"
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"text": "参加行に注入された公的資金は3兆円近くに達し、2002年のみずほ銀行発足直後にATM障害が発生、総会屋事件を引きずる顧客情報流出など、当初のイメージは芳しくなかった。りそな・UFJとともに国有化が噂され、取引企業を引受先とする1兆円の巨額増資を行い、2002年から2003年にかけ冬の時代であった。しかし結果的に増資は功を奏し、株価は底値から18倍近く上昇し、2006年には公的資金を完済、財務は三菱UFJ以上の優良体質となった。しかし、2008年以降の世界的な金融危機の中で投資銀行部門の損失が拡大、メガバンクの中で中核的自己資本比率の引き上げを求める新BIS規制への対応が最も遅れているなど、経営基盤が盤石とは言い難い。また、商業銀行部門だけでなく証券業務(新みずほ証券+みずほインベスターズ証券)でも融合が進まず効率性の点にも課題があり、2013年初頭に証券部門を統一(みずほ証券+みずほインベスターズ証券の合併)により一層の強化を図っている。",
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"text": "東証1部上場企業の7割と取引を持っており、旧興銀のノウハウを活かしたコーポレートファイナンスに強みを持つ。一方、リテールの収益性が依然として低いのが課題である。また2011年には東日本大震災の募金が原因で再びシステム障害を発生させ、信頼が再度低下。信頼回復も課題となり、2013年7月にみずほコーポレート銀行と合併、中核はみずほ銀行に一本化された。",
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"text": "2019年に新システム「MINORI」への移行が完了したとされるが、みずほ銀行はこれまでに、特に2021年以降、ATMの停止など、立て続けにシステムのトラブルを引き起こしている。これは合併の際に合併前の3行の全く別々のシステムのうち、いずれか1つのシステムのみを採用すべきところを、3つのシステムを無理やり統合するという不適切な方法を取ったことがそもそもの原因との指摘があり、古いコンピュータシステムの開発者の退職や死去、システム構造のブラックボックス化もあって、ITの同業者からも、システムの根本的な修正はもはや不可能との指摘がある。",
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"text": "三大メガバンクのほか、2002年に発足したりそな銀行と埼玉りそな銀行を中核とするりそなホールディングスがある。",
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"text": "他行と合併無く自主独往を貫いてきた信託併営行である大和銀行とあさひ銀行(協和銀行と埼玉銀行が1991年に合併)が前身である。",
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"text": "UFJ銀行がメガバンク総資産第4位として東京三菱、りそなの中間に位置した頃は、りそなも含め「5大メガバンク」と称されることもあったが、UFJが東京三菱と統合し、りそなと第3位の三井住友との間の開きが大きくなってからは、メガバンクとしては扱われることは少なくなった。大メガバンクが2006年度に公的資金を完済、あるいは完済を計画するなか、りそなは2兆円近い公的資金の返済で遅れを取り、2015年6月に完済した。",
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"text": "窓口営業を17時まで取り扱うサービスの提供、信託併営行ならではの企業年金の受託や不動産関連のビジネス、信託スキームを使った相続コンサルティングなど他行にはない独自のサービスもあり着目されている。",
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"text": "自らを「メガバンクグループに次ぐ日本で第4位の金融グループ」と紹介しており、自身をメガバンクとは位置づけていない。",
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"text": "三井住友信託銀行を擁する三井住友トラスト・ホールディングスは、他の主要銀行と比すると規模が小さく、都市銀行との再編にも加わらなかったため、メガバンクとして扱われない。",
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"text": "金融ビッグバンによる再編で、他の大手信託銀行(現在の三菱UFJ信託銀行・みずほ信託銀行)が相次いでメガバンクグループの持株会社傘下に収まる中、あくまで信託銀行専業での生き残りを希求した中央三井トラスト・ホールディングスと住友信託銀行が経営統合する形で2011年に設立された。その後、2012年には傘下の信託銀行3行が合併して三井住友信託銀行が誕生し、信託銀行業界で首位となる規模となる、国内唯一の独立系「メガ信託銀行」となった(三井住友フィナンシャルグループは、三井住友トラスト・ホールディングスとの資本関係はなく、2013年にソシエテ・ジェネラル系列のソシエテ・ジェネラル信託銀行を買収してSMBC信託銀行に改称することで信託銀行業界に参入した)。",
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"text": "日本長期信用銀行が破綻後再建したSBI新生銀行は、規模が小さくメガバンクとして扱われない。",
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"text": "日本債券信用銀行が破綻後再建したあおぞら銀行は、規模が小さくメガバンクとして扱われない。",
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"text": "2007年の郵政民営化の実現によって、総資産額日本最大の銀行として発足したゆうちょ銀行は、国営現業の郵便貯金(金融機関ではあったが銀行とみなされなかった)を出自とする特殊性から都市銀行とみなされていないため、メガバンクとみなされていない(これもあって全国銀行協会に加盟していなかったが、2011年10月27日に「特例会員」として加盟した)。",
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"text": "SBIホールディングス社長の北尾吉孝は2019年9月に国内外の様々なフィンテックや共同システムなどを活用して地域の金融機関と共同で「第4のメガバンク構想」を実現していくことを発表。メガバンクや有力地銀などと共同で持株会社を設立し、10行程度の地方銀行がその傘下に加わることで調整している。SBIは既に島根銀行や筑邦銀行(福岡県)などとの資本提携を発表している。",
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"text": "各地の地方銀行に出資しているとはいえ、その出資は業務提携の範囲に留まり、中核となる銀行は存在しない状態が続いていたが、2021年、かねてから筆頭株主であった新生銀行に対して敵対的TOBを仕掛け、最終的に新生銀行の経営陣とも調整のうえ、2021年12月17日、新生銀行を連結子会社化とし、2023年1月4日、SBI新生銀行に商号変更した。ただし、SBIホールディングスが出資している銀行の総資産額をすべて足したとしても24兆円程度で、メガバンクではないりそな銀行にも及んでいない規模である。",
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"text": "いずれも2022年4月現在。ローン相談のみの店舗に限り出店している場合も出店地域とみなす。みずほ銀行は全都道府県に出店している(「みずほ銀行#地域的基盤」も参照のこと)。",
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"text": "世界でも金融機関の統合再編は進み、各国を代表する大手銀行が少数に絞られつつある。ただ、「メガバンク」という呼称はほとんど使われない。古いものは近代から、国際金融市場を通して国債引受等の金融仲介を担ってきた。",
"title": "世界のメガバンク"
}
] | メガバンクとは、巨大な収益規模や資産を有する銀行・銀行グループ、あるいは1兆ドル以上の総資産を持つ銀行グループのことである。統合・合併で誕生した巨大銀行を指す場合もある。 | {{出典の明記| date = 2018年9月}}
{{銀行業}}
[[File:Mega banks in Japan.jpg|thumb|日本の四大銀行の看板<ref group="注釈">りそな銀行は自らを「メガバンク」と定義していない。</ref>]]
'''メガバンク'''({{lang-en|megabank}}<ref name="nipponica"/>, {{lang|en|mega bank}}<ref name="seisen"/>)は、巨大な[[収益]]規模や[[資産]]を有する[[銀行]]・銀行グループ<ref name="gaikoku">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF-9234#E5.A4.96.E5.9B.BD.E7.82.BA.E6.9B.BF.E7.94.A8.E8.AA.9E.E9.9B.86 外国為替用語集] [[コトバンク]]. 2019年2月22日閲覧。</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF-9234#SCII.jp.E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.94.A8.E8.AA.9E.E8.BE.9E.E5.85.B8 ASCII.jpデジタル用語辞典] [[コトバンク]]. 2019年2月22日閲覧。</ref>、あるいは1兆ドル以上の[[総資産]]を持つ銀行グループのことである<ref name="nipponica">矢野武. [https://kotobank.jp/word/%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF-9234#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)] [[コトバンク]]. 2019年2月22日閲覧。</ref>。統合・合併で誕生した'''巨大銀行'''を指す場合もある<ref name="seisen">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF-9234#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 精選版 日本国語大辞典] [[コトバンク]]. 2019年2月22日閲覧。</ref>。
== 日本のメガバンク ==
明確な定義づけがされていない一方で、一般に日本のメガバンクは、[[三和銀行]]を元にする[[三菱UFJ銀行]]、[[住友銀行]]を元にする[[三井住友銀行]]、[[みずほ銀行]]の3行だとされており、これらは[[都市銀行]]の合従連衡によって生まれた。
[[バブル景気]]が崩壊した[[1990年代]]以降、[[日本]]では[[銀行]](邦銀)はいずれも過剰[[融資]]による[[不良債権]]で急速に体力を失っていった。また同時に、[[総会屋]]に対する利益供与事件([[小池隆一事件]])が明らかになったり、その不透明な融資体制、[[護送船団方式]]により喪失した国際競争力などもあり、こうした問題の解決に迫られた。
これらの諸問題の包括的な是正のため[[1996年]]、[[第2次橋本内閣]]はその政策の柱に「金融制度改革」いわゆる[[金融ビッグバン]]を提唱。[[1998年]]には[[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律]](独占禁止法)が改正され[[持株会社]]の設立が可能になり、統合のための制度的環境が整備された<ref group="注釈">こうした[[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律|独禁法]]の改正と、そもそも[[財閥解体]]によるメガバンク制の形成は[[アメリカ対日協議会]]の圧力によるものである。
:抜け道となった文言は、「トップのいない企業結合体」 John G. Roberts, Mitsui: Three Centuries of Japanese Buisiness, Weatherhill, New York/Tokyo, 1973. pp.394-426. 安藤良雄 三井禮子監訳 ダイヤモンド社 1976年 pp.303-330.</ref>。
一方で[[1997年]]には[[北海道拓殖銀行]]と[[山一證券]]が、翌1998年には[[日本長期信用銀行]]と[[日本債券信用銀行]]が破綻し、社会からの金融に対する信頼は大きく低下。「銀行が潰れる」という事態が現実のものとなり、その他の大手銀行にも経営不安がささやかれるようになる。
こうした危機感の中、銀行の統合による規模の経済性、多角化による経済性、コスト削減効果等により見込まれる経営改善効果を期待した邦銀は、[[1999年]]以降雪崩を打って再編へ走り出す。こうして[[1970年代]]から[[1980年代]]に「都銀13行」「大手20行<ref group="注釈">都銀11行、長信銀3行、信託銀6行</ref>」と呼ばれた各行は、段階的な合併劇を繰り返した末、[[2006年]]には三大メガバンク([[三菱UFJフィナンシャル・グループ]]、[[三井住友フィナンシャルグループ]]、[[みずほフィナンシャルグループ]])、四大銀行([[三菱UFJ銀行|三菱東京UFJ銀行]]、[[三井住友銀行]]、[[みずほ銀行]]、[[りそな銀行]])体制に落ち着いた。盤石と思われていた一流銀行の統合劇は、日本国民にも大きな衝撃を与えた。
企業の[[株式持ち合い]]など日本独自の慣行を取っており、メガバンクは[[2015年]]6月時点で株を合計6兆5000億円(取得原価ベース)も保有していたが、[[アベノミクス]]の成長戦略の中の[[企業統治]]強化に伴い、[[金融庁]]から持ち合い株売却の規制を受けている<ref>{{Cite news|title=メガバンクが再び持ち合い株の大量売却 金融庁が渋る銀行に鞭を振う理由|newspaper=[[J-CAST ニュース]]|date=2015-10-13|url=https://www.j-cast.com/2015/10/13247363.html?p=all|access-date=2022-8-29}}</ref>。
=== 三菱UFJフィナンシャル・グループ ===
[[ファイル:Bank of Tokyo-Mitsubishi UFJ 2018.jpg|thumb|150px|三菱UFJフィナンシャル・グループ本社]]
[[File:History of MUFG Bank.jpg|thumb|三菱UFJ銀行にいたるまでの主要な合併]]
{{Main|三菱UFJフィナンシャル・グループ}}
前身の1つ、三菱東京フィナンシャル・グループは、[[1996年]]に'''[[東京銀行]]'''と'''[[三菱銀行]]'''の合併によって生まれた'''[[東京三菱銀行]]'''を中核としたグループである。三菱銀行時代から「[[官僚]]的な行風」とされ[[効率性]]には乏しい反面、堅実な財務体質で知られ、「安定性」が何より重視された金融不安の時期には最優良都銀と目された。他行の[[金融持株会社]]による[[多角化]]に触発され、[[2001年]]、系列の[[三菱UFJ信託銀行|三菱信託銀行]]、[[日本信託銀行]]とともに「三菱東京」を設立した。
一方もう1つの前身、[[UFJホールディングス]]は、'''[[UFJ銀行]]'''を中核としたグループである。もとは'''[[東海銀行]]'''と[[あさひ銀行]]の合併が構想されていたのだが、ここに上位都銀では再編出遅れ組だった'''[[三和銀行]]'''が参加。当初東海・あさひが地域密着型で[[リテール]]中心の事業モデルを志向していたのに対し、三和はコーポレートファイナンスや海外業務も総合的に手がける「マネーセンターバンク」を目指す。こうした意見の相違や、[[埼玉銀行]]を前身とするあさひが、[[大阪]]地盤の三和に主導権を取られることを嫌ったこともあり、最終的にあさひは計画から離脱。三和系列の[[東洋信託銀行]]を交え、[[2001年]]「UFJ」を旗揚げした。
しかしながら、積極的な体質の三和がバブル期に築いた[[不良債権]]は大きく(とくに[[ダイエー]]に対する融資に関してはUFJ成立後1兆円超となってしまう)、更には合併相手である東海銀行陣営を冷遇した事による紛争が勃発、他のメガバンクが経営改善を進める中、紛争が響き後れを取ってしまい、積極的な資本増強策を行っていなかったためか取り残された状態となる(不良債権解消は行ってはいたが[[金融庁]]から[[業務改善命令]]を出されるなど選択肢が制限されていた上、現金資産が上昇した訳でもなかった)。更には[[2003年]]には金融庁検査における不良債権隠しが発覚し、兼ねてから旧大蔵省に対して強みを持っていた当時の副[[頭取]]であった岡崎により議事録[[改竄]]などの挑発行動に出た結果、東海陣営からの[[内部告発]]による全容発覚を含め金融庁の逆鱗に触れてしまった([[UFJ銀行#金融庁との対立と特別検査]]も参照)。結果UFJに対する風当たりは厳しくなり、不良債権の引き当てなどで4,000億円の赤字を抱え込む事になってしまったため、傘下のUFJ信託銀行を[[住友信託銀行]]に売却すると発表。それでもなお解決は見込めず、三菱東京に救済合併される形となった。UFJの救済役には後から[[三井住友フィナンシャルグループ]]も名乗りを上げたが、競り負けた。
この結果、総資産で当時世界最大の三菱UFJ銀行が誕生した。旧東京三菱・UFJがそれぞれ[[首都圏 (日本)|首都圏]]・[[東海地方|東海圏]]・[[近畿地方|近畿圏]]を地盤とした[[三大都市圏]]をカバーする一方、三和が得意としていた海外業務にも力を持ち、全体的なバランスは優れる。反面、行風も地盤もまったく異なる銀行同士の寄り合い所帯とも言え、これらがどのように融和されるかが課題である。また、傘下の[[三菱UFJモルガン・スタンレー証券|三菱UFJ証券]]の[[投資銀行]]部門の強化も課題である。三菱UFJ銀行、三菱UFJ信託銀行、三菱UFJ証券ホールディングス、三菱UFJリース、三菱UFJニコスなど主要5社が中核となり、世界屈指の総合金融グループを目指している。
=== 三井住友フィナンシャルグループ ===
[[ファイル:SMBC Head Office Building.JPG|thumb|150px|三井住友フィナンシャルグループ本社]]
{{Main|三井住友フィナンシャルグループ}}
[[2002年]]発足。[[2001年]]の'''[[住友銀行]]'''と'''[[さくら銀行]]'''の合併による'''[[三井住友銀行]]'''を中核としたグループ。
さくら銀行は[[1990年]]、'''[[三井銀行]]'''と'''[[太陽神戸銀行]]'''('''[[太陽銀行]]'''と'''[[神戸銀行]]'''が[[1973年]]に合併)が合併し「'''太陽神戸三井銀行'''」として誕生、[[1992年]]に改名したもの。三井銀行は[[三井グループ]]の中核だったが、戦後まもない[[帝国銀行]]の再分割で他の財閥系銀行に比べて規模が小さく、三井グループの金庫番としての機能を十分果たせなかった。そこで業容拡大のため、中位行ながら多くの店舗を持っていた太陽神戸銀行と合併した。当初は合併効果が期待されたが、合併直後の[[バブル崩壊]]に加え、太陽神戸銀行時代から続く旧行出身者間の対立に三井銀行が加わったことによって非効率な経営がとられ、実力はほとんど発揮されなかった。
1997年の金融危機では、経営危機がささやかれ、巨額の公的資金注入を受けたほか、'''[[トヨタ自動車]]'''や三井グループ各社などへ増資を要請する事態にまで陥った。製造業が一社単独で銀行支援に動くというのは異例の事態であった。こうしてさくら銀行は当面の危機を脱したが、これを機に旧三井が経営の主導権を握るようになった。
一方、住友銀行は長らく[[住友グループ]]の中核で、先進的・効率的経営の一方、取引先企業の経営が傾き始めると容赦なく融資を引き上げるので「逃げの住友」と批判され、経済誌の顧客イメージランキングでは、常に他行の後塵を拝していた(この体質が災いした出来事として、1950年に[[トヨタ自動車]]への融資参加行で唯一融資を打ち切って貸し剥がしを行った出来事がある。これが原因でさくら銀行との合併まで長らくトヨタはじめ名古屋財界から不興を買う事になった。[[住友銀行#終戦と財閥解体・大阪銀行]]を参照)。その利益第一主義の体質ゆえバブル期の積極融資によってバブル崩壊で膨大な不良債権を生み出すことになり、さらに暴力団・総会屋絡みの不正融資である"[[イトマン事件]]"、[[光進事件]]の1つ"蛇の目ミシン恐喝事件"等の不祥事が続発し、もはや住銀単独では処理が不可能であった。そこで、さくら銀行との合併を決断する。
[[2002年]]、持株会社「SMFG」を設立。この背景は財務状況の改善がある。続いて[[2003年]]、[[第二地方銀行]]の'''[[わかしお銀行]]'''を存続会社として合併し、三井住友銀行に改称。これは有価証券の含み損を解消するためであった。
3大メガバンクの中ではもっとも営業経費が少ないため、利益率・収益力の高い銀行である。[[カードローン]]、[[インターネットバンキング]]、各種リスク性商品販売などリテール・コンサルティング戦略に強みがある。米シティグループ傘下の日興コーディアル証券を傘下に収めるなど、アライアンスの強化で法人・個人両面で営業力の強化を目指している。かつては傘下に[[信託銀行]]を持たなかった<ref group="注釈">[[2012年]][[4月1日]]に発足した[[三井住友信託銀行]]は[[三井住友トラスト・ホールディングス]]の金融機関であり、三井住友銀行及びSMFGとは業務・資本関係がない。SMFGとしては[[2013年]]に[[ソシエテ・ジェネラル]]信託銀行を買収して[[SMBC信託銀行]]とし、[[シティバンク銀行]]のリテール部門買収も併せて[[プライベート・バンキング]]事業の強化を図っている。</ref>点などグループの総合力で遅れを取っており、米国金融持株会社(FHC)の資格取得、[[ニューヨーク証券取引所]]への上場を含め総合力の強化が課題であったが、ニューヨーク証券取引所へは[[2011年]][[11月1日]]付けで上場。これに伴いFHCに関しても規制厳格化後に取得出来る事から、規制上のフリーハンドマージンが期待出来る。今後の課題としては、従来サポートが弱いとされていたリテール業務への強化に関し、日興コーディアル証券を買収し発足した[[SMBC日興証券]]がサポート出来るかが課題となる。
メガバンクの中では、唯一[[全国銀行協会]]の持株会社会員に加盟していない。
=== みずほフィナンシャルグループ ===
[[ファイル:The Otemachi Tower.JPG|thumb|150px|みずほフィナンシャルグループ本社]]
{{Main|みずほフィナンシャルグループ}}
'''[[みずほ銀行]]'''を中核とするグループ。'''[[第一勧業銀行]]'''、'''[[富士銀行]]'''、'''[[日本興業銀行]]'''を前身とする。
第一勧業銀行は[[1971年]]、'''[[第一銀行]]'''と'''[[日本勧業銀行]]'''の合併で誕生した。当時日本最大の総資産を誇った富士銀行を抜き、規模では都銀首位となったが、旧第一派と旧勧銀派の融和は進まなかった。「対等合併」を気にする余り、非効率的な人事や経営方針が取られ、その体力は規模ほどには強くなかった。[[1997年]]には[[野村證券]]とともに、総会屋への[[小池隆一事件|利益供与事件]]で本店が[[捜索|家宅捜索]]を受け、社会的イメージは決定的に悪化してしまった。
富士銀行は[[安田財閥]]の中心であった安田銀行が、戦後の解体で改名したもの。長らく都銀の名門であったが、1970年代から地盤沈下が始まる。営業を積極的に押し進める住友銀行に対抗し、「FS戦争」(「富士住友戦争」ともいう)と呼ばれる熾烈な貸出競争に走ったが、最終的にはほぼ敗北。その上、これがバブル期に重なり、多額の不良債権ばかりが残る結果となった。
加えて同時期、親密だった[[山一證券]]が破綻、系列の[[安田信託銀行]]も経営が不安定となる。安田信託を子会社化し再建を図るが、富士独力では限界があり、第一勧銀傘下の[[第一勧業信託銀行]]と富士傘下の[[富士信託銀行]]が合併。これに安田信託銀行の業務の一部を譲渡した。ここで第一勧銀と富士に関係が生まれ、みずほフィナンシャルグループ誕生の契機となる。
[[1999年]]、この2行に日本興業銀行が加わり、みずほフィナンシャルグループの設立が発表された。興銀は[[長期信用銀行]]の雄として名を馳せ、バブル期には日本企業の時価総額で第1位(すなわち'''全世界で時価総額第1位''')の座にあった。しかし、その重厚長大産業を主要顧客とした長期融資の時代はもはや終わりを告げ、野村證券との提携で投資銀行への転換を図るが、同じく長信銀の[[日本長期信用銀行]](長銀)、[[日本債券信用銀行]](日債銀)は既に破綻。予断を許さない状況の中、政府金融当局の意向も働いたとされ、第一勧銀・富士に身を委ねる形となった。
参加行に注入された公的資金は3兆円近くに達し、[[2002年]]の'''みずほ銀行発足直後'''にATM障害が発生、総会屋事件を引きずる顧客情報流出など、当初のイメージは芳しくなかった。りそな・UFJとともに国有化が噂され、取引企業を引受先とする1兆円の巨額[[募集株式|増資]]を行い、2002年から2003年にかけ冬の時代であった。しかし結果的に増資は功を奏し、株価は底値から18倍近く上昇し、2006年には公的資金を完済、財務は三菱UFJ以上の優良体質となった。しかし、2008年以降の世界的な金融危機の中で投資銀行部門の損失が拡大、メガバンクの中で中核的自己資本比率の引き上げを求める新BIS規制への対応が最も遅れているなど、経営基盤が盤石とは言い難い。また、商業銀行部門だけでなく証券業務(新みずほ証券+みずほインベスターズ証券)でも融合が進まず効率性の点にも課題があり、2013年初頭に証券部門を統一([[みずほ証券]]+[[みずほインベスターズ証券]]の合併)により一層の強化を図っている。
[[東京証券取引所|東証1部]]上場企業の7割と取引を持っており、旧興銀のノウハウを活かしたコーポレートファイナンスに強みを持つ。一方、リテールの収益性が依然として低いのが課題である。また[[2011年]]には[[東日本大震災]]の募金が原因で再びシステム障害を発生させ、信頼が再度低下。信頼回復も課題となり、[[2013年]]7月に[[みずほコーポレート銀行]]と合併、中核はみずほ銀行に一本化された。
[[2019年]]に新システム「MINORI」への移行が完了したとされるが、みずほ銀行はこれまでに、特に[[2021年]]以降、ATMの停止など、立て続けにシステムのトラブルを引き起こしている。これは合併の際に合併前の3行の全く別々のシステムのうち、いずれか1つのシステムのみを採用すべきところを、3つのシステムを無理やり統合するという不適切な方法を取ったことがそもそもの原因との指摘があり<ref>{{Cite news|title=みずほ銀行のシステム障害の原因は「3つのシステムを合わせてしまった」こと|newspaper=[[ニッポン放送]]|date=2021-9-22|url=https://news.1242.com/article/315988/|access-date=2022-8-29}}</ref>、古いコンピュータシステムの開発者の退職や死去、システム構造のブラックボックス化もあって<ref>{{Cite news|title=これから「みずほ銀行」に起こる、ヤバすぎる現実…システムの「爆弾」を誰も処理できない|newspaper=[[週刊現代]]|date=2021-9-17|url=https://gendai.media/articles/-/87384/|access-date=2022-8-29}}</ref>、ITの同業者からも、システムの根本的な修正はもはや不可能との指摘がある<ref>{{Cite news|title=みずほシステム障害「あれ、絶対直すの無理」と同業者が断言する理由【IT業界インサイダー座談会4】|newspaper=[[週刊ダイヤモンド]]|date=2021-10-8|author=鈴木洋子|url=https://diamond.jp/articles/-/283454/|access-date=2022-8-29}}{{要購読}}</ref>。
=== メガバンクとして扱われないもの ===
==== りそなホールディングス ====
[[ファイル:Fukagawa gatharia 2009.JPG|thumb|150px|りそなホールディングス本社]]
三大メガバンクのほか、2002年に発足した'''[[りそな銀行]]'''と'''[[埼玉りそな銀行]]'''を中核とする'''[[りそなホールディングス]]'''がある。
他行と合併無く自主独往を貫いてきた信託併営行である'''[[大和銀行]]'''と'''[[あさひ銀行]]'''([[協和銀行]]と[[埼玉銀行]]が[[1991年]]に合併)が前身である。
UFJ銀行がメガバンク総資産第4位として東京三菱、りそなの中間に位置した頃は、りそなも含め「5大メガバンク」と称されることもあったが、UFJが東京三菱と統合し、りそなと第3位の三井住友との間の開きが大きくなってからは、メガバンクとしては扱われることは少なくなった。大メガバンクが2006年度に公的資金を完済、あるいは完済を計画するなか、りそなは2兆円近い公的資金の返済で遅れを取り、2015年6月に完済した<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/20150625_1a.pdf 公的資金の完済について]}} りそなホールディングス 2015年6月25日</ref>。
窓口営業を17時まで取り扱うサービスの提供、信託併営行ならではの企業年金の受託や不動産関連のビジネス、信託スキームを使った相続コンサルティングなど他行にはない独自のサービスもあり着目されている。
自らを「'''メガバンクグループに次ぐ日本で第4位の金融グループ'''」と紹介しており、自身をメガバンクとは位置づけていない。
==== 三井住友トラスト・ホールディングス ====
'''[[三井住友信託銀行]]'''を擁する'''[[三井住友トラスト・ホールディングス]]'''は、他の主要銀行と比すると規模が小さく、都市銀行との再編にも加わらなかったため、メガバンクとして扱われない。
金融ビッグバンによる再編で、他の大手信託銀行(現在の[[三菱UFJ信託銀行]]・[[みずほ信託銀行]])が相次いでメガバンクグループの持株会社傘下に収まる中、あくまで信託銀行専業での生き残りを希求した[[中央三井トラスト・ホールディングス]]と[[住友信託銀行]]が経営統合する形で2011年に設立された。その後、2012年には傘下の信託銀行3行が合併して[[三井住友信託銀行]]が誕生し、信託銀行業界で首位となる規模となる、国内唯一の独立系「メガ信託銀行」となった(三井住友フィナンシャルグループは、三井住友トラスト・ホールディングスとの資本関係はなく、2013年に[[ソシエテ・ジェネラル]]系列のソシエテ・ジェネラル信託銀行を買収して[[SMBC信託銀行]]に改称することで信託銀行業界に参入した)。
==== SBI新生銀行 ====
'''日本長期信用銀行'''が破綻後再建した'''[[SBI新生銀行]]'''は、規模が小さくメガバンクとして扱われない。
==== あおぞら銀行 ====
'''日本債券信用銀行'''が破綻後再建した'''[[あおぞら銀行]]'''は、規模が小さくメガバンクとして扱われない。
==== ゆうちょ銀行 ====
[[2007年]]の[[郵政民営化]]の実現によって、'''総資産額日本最大の銀行'''として発足した'''[[ゆうちょ銀行]]'''は、国営現業の[[郵便貯金]](金融機関ではあったが銀行とみなされなかった)を出自とする特殊性から[[都市銀行]]とみなされていないため、メガバンクとみなされていない(これもあって[[全国銀行協会]]に加盟していなかったが、2011年[[10月27日]]に「特例会員」として加盟した)。
==== SBIホールディングス ====
'''[[SBIホールディングス]]'''社長の[[北尾吉孝]]は2019年9月に国内外の様々なフィンテックや共同システムなどを活用して地域の金融機関と共同で「第4のメガバンク構想」を実現していくことを発表<ref>{{Cite news|title=SBIHDの北尾社長「第4のメガバンク構想を実現する」|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2019-9-3|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49361790T00C19A9EE9000/|access-date=2022-8-29}}</ref>。メガバンクや有力地銀などと共同で持株会社を設立し、10行程度の[[地方銀行]]がその傘下に加わることで調整している<ref>{{Cite news|title=SBI北尾氏「第4のメガバンク」に10行程度の地銀が参加へ|newspaper=[[産経新聞]]|date=2020-1-17|url=https://www.sankei.com/article/20200117-IOFP7A6YI5JGTGXFL55LPJ3QWQ/|access-date=2022-8-29}}</ref>。SBIは既に[[島根銀行]]や[[筑邦銀行]]([[福岡県]])などとの資本提携を発表している<ref>{{Cite news|title=SBIと資本業務提携、試される島根銀|newspaper=日本経済新聞|date=2019-9-6|author=西村正巳|author2=田口翔一朗|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49516110W9A900C1LC0000/|access-date=2022-8-29}}</ref><ref>{{Cite news|title=SBIが筑邦銀行と資本提携 地銀出資は3行目に|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2020-1-20|author=田幸香純|url=https://www.asahi.com/articles/ASN1N5300N1KTIPE00L.html|access-date=2022-8-29}}{{要購読}}</ref>。
各地の地方銀行に出資しているとはいえ、その出資は業務提携の範囲に留まり、中核となる銀行は存在しない状態が続いていたが、[[2021年]]、かねてから筆頭株主であった新生銀行に対して敵対的TOBを仕掛け、最終的に新生銀行の経営陣とも調整のうえ、2021年[[12月17日]]、新生銀行を連結子会社化とし、[[2023年]][[1月4日]]、SBI新生銀行に商号変更した。ただし、SBIホールディングスが出資している銀行の総資産額をすべて足したとしても24兆円程度で、メガバンクではないりそな銀行にも及んでいない規模である。
=== 未出店地域 ===
いずれも2022年4月現在。ローン相談のみの店舗に限り出店している場合も出店地域とみなす。みずほ銀行は全都道府県に出店している(「[[みずほ銀行#地域的基盤]]」も参照のこと)。
<!--●は前身行時代に店舗を有していた地域。○は発足以降に撤退した地域。
; 三菱UFJ・三井住友・りそな(または埼玉りそな)ともに未出店
: [[青森県]]、[[秋田県]]、[[山形県]]、[[鳥取県]]、[[島根県]]、[[宮崎県]]、[[沖縄県]]
; 三菱UFJが未出店
: [[青森県]]、●[[秋田県]]、[[山形県]]、〇[[栃木県]]、〇[[群馬県]]、[[山梨県]]、[[長野県]]、[[富山県]]、●[[福井県]]、●[[島根県]]、●[[鳥取県]]、●[[高知県]]、[[愛媛県]]、[[佐賀県]]、[[大分県]]、[[宮崎県]]、[[鹿児島県]]、[[沖縄県]]
; 三井住友が未出店
: ●[[青森県]]、[[秋田県]]、[[山形県]]、[[岩手県]]、[[福島県]]、●[[三重県]]、●[[島根県]]、●[[鳥取県]]、[[徳島県]]、[[高知県]]、●[[長崎県]]、[[宮崎県]]、[[沖縄県]]
; りそなグループが未出店
: ●[[青森県]]、[[岩手県]]、[[秋田県]]、[[山形県]]、●[[富山県]]、●[[石川県]]、●[[福井県]]、●[[岐阜県]]、[[鳥取県]]、●[[島根県]]、●[[岡山県]]、●[[山口県]]、●[[徳島県]]、●[[香川県]]、●[[愛媛県]]、○[[高知県]]、●[[佐賀県]]、○[[長崎県]]、●[[大分県]]、●[[宮崎県]]、●[[鹿児島県]]、[[沖縄県]]
: 「[[りそな銀行#沿革]]」も参照のこと-->
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|+'''メガバンクおよびりそなグループの未出店地域'''
!地域!!三菱UFJ!!三井住友!!りそなG
|-
|''[[青森県]]''||未出店||colspan="2"|●未出店
|-
|''[[岩手県]]''||×未出店||未出店||▲未出店
|-
|''[[秋田県]]''||●未出店||colspan="2"|未出店
|-
|''[[山形県]]''||colspan="2"|未出店||▲未出店
|-
|[[福島県]]||×未出店||未出店||▲出店
|-
|[[栃木県]]||×△未出店||出店||▲出店
|-
|[[群馬県]]||×△未出店||出店||▲出店
|-
|[[山梨県]]||未出店||出店||▲出店
|-
|[[富山県]]||未出店||出店||●▲未出店
|-
|[[石川県]]||colspan="2"|出店||●▲未出店
|-
|[[福井県]]||●未出店||出店||●未出店
|-
|[[長野県]]||未出店||出店||▲出店
|-
|[[岐阜県]]||colspan="2"|出店||●▲未出店
|-
|[[三重県]]||出店||●未出店||▲出店
|-
|''[[鳥取県]]''||colspan="2"|●未出店||未出店
|-
|''[[島根県]]''||colspan="3"|●未出店
|-
|[[岡山県]]||colspan="2"|出店||●未出店
|-
|[[山口県]]||colspan="2"|出店||●未出店
|-
|[[徳島県]]||出店||未出店||●未出店
|-
|[[香川県]]||colspan="2"|出店||●未出店
|-
|[[愛媛県]]||未出店||出店||●未出店
|-
|''[[高知県]]''||●未出店||未出店||×△未出店
|-
|[[佐賀県]]||未出店||出店||●未出店
|-
|[[長崎県]]||出店||●未出店||×未出店
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|[[大分県]]||未出店||出店||●未出店
|-
|''[[宮崎県]]''||colspan="2"|未出店||●未出店
|-
|[[鹿児島県]]||未出店||出店||●未出店
|-
|''[[沖縄県]]''||colspan="3"|未出店
|}
: ※斜字体<!-- ■環境依存、要記号化 -->は三菱UFJ銀行・三井住友銀行・りそなグループ(りそな銀行・埼玉りそな銀行)ともに未出店の地域。
: ※●は前身行時代に店舗を有していた地域。
: ※×は発足以降に撤退した地域。
: ※△は[[現金自動預け払い機]](ATM)無人出張所のみ存在する地域。
: ※▲はココニモATM・[[BankTime]]ATMが設置されている地域。上表の他、[[北海道]]・[[宮城県]]・[[茨城県]]・[[埼玉県]]・[[千葉県]]・[[東京都]]・[[神奈川県]]・[[新潟県]]・[[静岡県]]・[[愛知県]]・[[滋賀県]]・[[京都府]]・[[大阪府]]・[[兵庫県]]・[[奈良県]]・[[和歌山県]]も該当する。
== 世界のメガバンク ==
世界でも[[金融機関]]の統合再編は進み、各[[国]]を代表する大手[[銀行]]が少数に絞られつつある。ただ、「メガバンク」という呼称はほとんど使われない。古いものは[[近代]]から、[[国際金融市場]]を通して[[国債]]引受等の[[金融]]仲介を担ってきた。
* [[日本]]三大銀行:[[三菱UFJ銀行]]、[[三井住友銀行]]、[[みずほ銀行]]
* [[シンガポール]]三大銀行:[[DBS銀行|DBS]]、[[オーバーシー・チャイニーズ銀行|OCBC]]、[[ユナイテッド・オーバーシーズ銀行|UOB]](2015年実績)<ref>{{Cite web |url=http://www.it1me.com/learn?s=List_of_largest_banks_in_Southeast_Asia |title=List of largest banks in Southeast Asia |access-date=2022-8-29 |website=it1me.com |language=en |archive-url=https://web.archive.org/web/20160603134519/http://www.it1me.com/learn?s=List_of_largest_banks_in_Southeast_Asia |archive-date=2016-6-3 |deadlinkdate=2022-8}}</ref>)
*[[中華人民共和国|中国]]四大商業銀行:[[中国工商銀行|中国工商銀行、]][[中国建設銀行]]、[[中国農業銀行|中国農業銀行、]][[中国銀行 (中華人民共和国)|中国銀行]]
* [[イギリス]]四大商業銀行:[[バークレイズ]]、[[HSBCホールディングス|HSBC]]、[[ロイヤルバンク・オブ・スコットランド]]、[[ロイズ・バンキング・グループ]]
* [[ドイツ]]三大銀行:[[ドイツ銀行]]、[[コメルツ銀行]]、[[ドレスナー銀行]](コメルツ銀行により買収)
* [[フランス]]三大銀行:[[クレディ・アグリコル]]、[[BNPパリバ]]、[[ソシエテ・ジェネラル]]
* [[イタリア]]四大銀行:[[ウニクレディト]]グループ、[[インテーザ・サンパオロ]]銀行、[[バンコBPM]]、[[モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行]]
* [[スイス]]二大銀行:[[UBS]]、[[クレディ・スイス]]
* [[アメリカ合衆国|アメリカ]]三大銀行:[[シティグループ]]、[[JPモルガン・チェース]]、[[バンク・オブ・アメリカ]]
* [[カナダ五大銀行]]:[[カナダ・ロイヤル銀行]]、[[モントリオール銀行]]、[[トロント・ドミニオン銀行]]、[[ノバスコシア銀行]]、[[CIBC]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[銀行]]
* [[都市銀行]]
* [[四大銀行]]
* [[金融持株会社]]
* [[大きすぎて潰せない|「大きすぎて潰せない」]]
{{都市銀行}}
{{DEFAULTSORT:めかはんく}}
[[Category:都市銀行]]
[[Category:規模の経済]] | 2003-03-13T02:36:11Z | 2023-10-07T04:33:55Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF |
3,910 | 競馬の競走一覧 | 競馬の競走一覧(けいばのきょうそういちらん)とは競馬の競走についての一覧である。
格付けは国際グレードおよび日本国内でのグレード制に基づく。騎手招待競走を除く。
中央競馬のダートの競走はダートグレード格付け委員会によっても同一のグレードに認定されている。ここでは重複して掲載することを避ける目的で、注釈することで別途掲載しない。なお2007年から2009年まで重賞競走の格付け表記は国際グレード競走はG、それ以外の重賞競走はJpnと表すがどちらも格付けの呼称は総称として“ジーワン”・“ジーツー”・“ジースリー”となる。
中央競馬の前身である国営競馬以前を含む。
地域によっては、主催者によるグレードが制定されている。詳しくは各記事を参照。 | [
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格付けは[[競馬の競走格付け#「国際グレード」|国際グレード]]および[[競馬の競走格付け#グレード制|日本国内でのグレード制]]に基づく。[[騎手招待競走]]を除く。
== 日本における競走一覧 ==
=== 中央競馬の平地競走 ===
[[中央競馬]]のダートの競走は[[ダートグレード競走|ダートグレード]]格付け委員会によっても同一のグレードに認定されている。ここでは重複して掲載することを避ける目的で、注釈することで別途掲載しない。なお[[2007年]]から[[2009年]]まで重賞競走の格付け表記は国際グレード競走はG、それ以外の重賞競走はJpnと表すがどちらも格付けの呼称は総称として“ジーワン”・“ジーツー”・“ジースリー”となる。
==== 中央競馬の平地競走記事の一覧 ====
* 施行条件等については2023年の情報に基づく<ref>[https://www.jra.go.jp/keiba/program/2023/pdf/jusyo_1.pdf 令和5年度重賞競走一覧] 日本中央競馬会、2023年2月9日閲覧</ref>。
* 一覧にないオープン特別競走については[[中央競馬のオープン特別競走]]を参照。
{| class="wikitable sortable" style="font-size:90%"
!開催月!!競走名!!JRA格付!!国際格付<ref>[http://www.tjcis.com/pdf/icsc14/ICSC-partI_Japan.pdf 2014 International Cataloguing Standards Book Japan] 2014年12月8日閲覧。</ref>!![[ダートグレード競走|統一格付]]!!1着賞金!!競馬場!!馬場!![[距離 (競馬)|距離]]!!齢!!性
|-
|{{Sort|0105|1}}||[[中山金杯]]||{{Sort|003|GIII}}||{{Sort|003|G3}}||||{{0}}4300||[[中山競馬場|中山]]||芝||2000||{{Sort|06|4歳上}}||{{Sort|0|-}}
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|-
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|{{Sort|0304|3}}||[[チューリップ賞]]||{{Sort|002|GII}}||{{Sort|002|G2}}||||{{0}}5200||[[阪神競馬場|阪神]]||芝||1600||{{Sort|03|3歳}}||{{Sort|4|牝}}
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|-
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|{{Sort|1104|11}}||[[ファンタジーステークス]]||{{Sort|003|GIII}}||{{Sort|003|G3}}||||{{0}}2900||[[京都競馬場|京都]]||芝||1400||{{Sort|01|2歳}}||{{Sort|4|牝}}
|-
|{{Sort|1104|11}}||[[京王杯2歳ステークス]]||{{Sort|002|GII}}||{{Sort|002|G2}}||||{{0}}3800||[[東京競馬場|東京]]||芝||1400||{{Sort|01|2歳}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1105|11}}||[[アルゼンチン共和国杯]]||{{Sort|002|GII}}||{{Sort|002|G2}}||||{{0}}5700||[[東京競馬場|東京]]||芝||2500||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1105|11}}||[[みやこステークス]]||{{Sort|003|GIII}}||{{Sort|003|G3}}||GIII||{{0}}4000||[[京都競馬場|京都]]||ダート||1800||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1111|11}}||[[武蔵野ステークス]]||{{Sort|003|GIII}}||{{Sort|003|G3}}||GIII||{{0}}4000||[[東京競馬場|東京]]||ダート||1600||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1111|11}}||[[デイリー杯2歳ステークス]]||{{Sort|002|GII}}||{{Sort|002|G2}}||||{{0}}3800||[[京都競馬場|京都]]||芝||1600||{{Sort|01|2歳}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1112|11}}||'''[[エリザベス女王杯]]'''||{{Sort|001|GI}}||{{Sort|001|G1}}||||13000||[[京都競馬場|京都]]||芝||2200||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|4|牝}}
|-
|{{Sort|1112|11}}||[[福島記念]]||{{Sort|003|GIII}}||{{Sort|003|G3}}||||{{0}}4300||[[福島競馬場|福島]]||芝||2000||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1112|11}}||[[福島2歳ステークス]]||{{Sort|005|OP}}||{{Sort|006|-}}||||{{0}}1600||[[福島競馬場|福島]]||芝||1200||{{Sort|01|2歳}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1118|11}}||[[東京スポーツ杯2歳ステークス]]||{{Sort|002|GII}}||{{Sort|002|G2}}||||{{0}}3800||[[東京競馬場|東京]]||芝||1800||{{Sort|01|2歳}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1119|11}}||'''[[マイルチャンピオンシップ]]'''||{{Sort|001|GI}}||{{Sort|001|G1}}||||18000||[[京都競馬場|京都]]||芝||1600||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1125|11}}||[[京都2歳ステークス]]||{{Sort|003|GIII}}||{{Sort|003|G3}}||||{{0}}3300||[[京都競馬場|京都]]||芝||2000||{{Sort|01|2歳}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1125|11}}||[[キャピタルステークス]]||{{Sort|005|OP}}||{{Sort|005|L}}||||{{0}}2500||[[東京競馬場|東京]]||芝||1600||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1126|11}}||'''[[ジャパンカップ]]'''||{{Sort|001|GI}}||{{Sort|001|G1}}||||50000||[[東京競馬場|東京]]||芝||2400||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|0|-}}
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|{{Sort|1126|11}}||[[京阪杯]]||{{Sort|003|GIII}}||{{Sort|003|G3}}||||{{0}}4100||[[京都競馬場|京都]]||芝||1200||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1202|12}}||[[ステイヤーズステークス]]||{{Sort|002|GII}}||{{Sort|002|G2}}||||{{0}}6200||[[中山競馬場|中山]]||芝||3600||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1202|12}}||[[チャレンジカップ (中央競馬)|チャレンジカップ]]||{{Sort|003|GIII}}||{{Sort|003|G3}}||||{{0}}4300||[[阪神競馬場|阪神]]||芝||2000||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1203|12}}||'''[[チャンピオンズカップ (中央競馬)|チャンピオンズカップ]]'''||{{Sort|001|GI}}||{{Sort|001|G1}}||GI||12000||[[中京競馬場|中京]]||ダート||1800||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1209|12}}||[[中日新聞杯]]||{{Sort|003|GIII}}||{{Sort|003|G3}}||||{{0}}4300||[[中京競馬場|中京]]||芝||2000||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1210|12}}||[[カペラステークス]]||{{Sort|003|GIII}}||{{Sort|003|G3}}||GIII||{{0}}3800||[[中山競馬場|中山]]||ダート||1200||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1210|12}}||'''[[阪神ジュベナイルフィリーズ]]'''||{{Sort|001|GI}}||{{Sort|001|G1}}||||{{0}}6500||[[阪神競馬場|阪神]]||芝||1600||{{Sort|01|2歳}}||{{Sort|4|牝}}
|-
|{{Sort|1216|12}}||[[ターコイズステークス]]||{{Sort|003|GIII}}||{{Sort|003|G3}}||||{{0}}3800||[[中山競馬場|中山]]||芝||1600||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|4|牝}}
|-
|{{Sort|1217|12}}||'''[[朝日杯フューチュリティステークス]]'''||{{Sort|001|GI}}||{{Sort|001|G1}}||||{{0}}7000||[[阪神競馬場|阪神]]||芝||1600||{{Sort|01|2歳}}||{{Sort|3|牡牝}}
|-
|{{Sort|1223|12}}||[[阪神カップ]]||{{Sort|002|GII}}||{{Sort|002|G2}}||||{{0}}6700||[[阪神競馬場|阪神]]||芝||1400||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1224|12}}||'''[[有馬記念]]'''||{{Sort|001|GI}}||{{Sort|001|G1}}||||50000||[[中山競馬場|中山]]||芝||2500||{{Sort|04|3歳上}}||{{Sort|0|-}}
|-
|{{Sort|1228|12}}||'''[[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルステークス]]'''||{{Sort|001|GI}}||{{Sort|001|G1}}||||{{0}}7000||[[中山競馬場|中山]]||芝||2000||{{Sort|01|2歳}}||{{Sort|3|牡牝}}
|}
<references group="†"/>
=== 中央競馬の主要障害競走 ===
; 障害グレード1(J・GI)
* [[中山グランドジャンプ]]
* [[中山大障害]]
; 障害グレード2(J・GII)
* [[阪神スプリングジャンプ]]
* [[京都ハイジャンプ]]
* [[東京ハイジャンプ]]
; 障害グレード3(J・GIII)
* [[東京ジャンプステークス]]
* [[小倉サマージャンプ]]
* [[新潟ジャンプステークス]]
* [[阪神ジャンプステークス]]
* [[京都ジャンプステークス]]
; その他の障害競走
* [[ペガサスジャンプステークス]](オープン特別、中山グランドジャンプのステップレースとして同競走に参戦する予定の外国馬も出走可)
* [[イルミネーションジャンプステークス]](オープン特別)
=== 中央競馬の廃止・休止競走 ===
中央競馬の前身である[[国営競馬]]以前を含む。
; サラブレッド系
* [[各内国抽籤濠州産馬混合競走]]([[1932年]]廃止・目黒記念の前身)
* [[中山四千米]]([[1936年]]廃止)
* [[帝室御賞典]]([[1937年]]廃止・天皇賞の前身)
* [[優勝内国産馬連合競走]](1937年廃止・戦前の最高賞金額の競走)
* [[中山四歳馬特別]](1937年廃止)
* [[農林省賞典競走]](1937年廃止)
* [[横浜農林省賞典四・五歳呼馬]]([[1943年]]廃止)
* [[横浜特別|横浜記念]]([[1944年]]廃止)
* [[京都4歳ステークス]]([[1954年]]廃止・京都4歳特別の前身)
* [[中山特別]]([[1955年]]廃止)
* [[ジュニヤーステークス]]([[1956年]]廃止)
* [[阪神特別]](1956年廃止・大阪杯の前身)
* [[阪神記念]](1956年廃止・阪急杯(宝塚杯)の前身)
* [[東京記念 (中央競馬)|東京記念]]([[1963年]]廃止・弥生賞の前身)
* [[中京大賞典]]([[1970年]]廃止・高松宮記念(高松宮杯)の前身)
* [[日本最長距離ステークス]]([[1975年]]廃止・条件戦)
* [[ビクトリアカップ]](1975年廃止・エリザベス女王杯の前身)
* [[福島大賞典]]([[1978年]]廃止・新潟大賞典の前身)
* [[クモハタ記念]]([[1980年]]廃止)
* [[地方競馬招待競走]]([[1985年]]廃止)
* [[ペガサスステークス]]([[1991年]]廃止・GIII・アーリントンカップの前身)
* [[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]([[1995年]]廃止・GII・ダービートライアル)
* [[サファイヤステークス]](1995年廃止・GIII・エリザベス女王杯トライアル)
* [[ジョッキーズグランプリ]](1995年廃止・条件戦)
* [[阪神障害ステークス]]([[1998年]]廃止・阪神スプリングジャンプ及び阪神ジャンプステークスの前身)
* [[東京障害特別]](1998年廃止・東京ジャンプステークス及び東京ハイジャンプの前身)
* [[京都大障害]](1998年廃止・京都ハイジャンプ及び京都ジャンプステークスの前身)
* [[京都4歳特別]]([[1999年]]廃止・GIII)
* [[カブトヤマ記念]]([[2003年]]廃止・GIII)
* [[クリスタルカップ]]([[2005年]]廃止・GIII)
* [[ガーネットステークス]]([[2008年]]廃止・GIII)
; アングロアラブ系
* [[アラブ大障害]]([[1965年]]廃止)
* [[中山アラブ障害特別]](1965年廃止)
* [[東京アラブ障害特別]](1965年廃止)
* [[読売カップ]]([[1973年]]廃止)
* [[シュンエイ記念]]([[1995年]]廃止)
* [[セイユウ記念]](1995年廃止。[[1996年]]から地方競馬に移行)
* [[タマツバキ記念]](1995年廃止。1996年から地方競馬に移行)
* [[アラブ王冠 (中央競馬)|アラブ王冠]](1995年廃止)
* [[アラブ大賞典]](1995年廃止)
=== 地方競馬の主要競走 ===
地域によっては、主催者によるグレードが制定されている。詳しくは各記事を参照。
==== 地方競馬で行われるダートグレード競走の主要競走 ====
; 国際グレード1(GI)
* [[東京大賞典]]
; 統一ジーワン(JpnI)
* [[川崎記念]]
* [[かしわ記念]]
* [[帝王賞]]
* [[ジャパンダートダービー]]
* [[マイルチャンピオンシップ南部杯]]
* [[JBCレディスクラシック]](2011年新設)
* [[JBCスプリント]]
* [[JBCクラシック]]
* [[全日本2歳優駿]]
; 統一ジーツー(JpnII)
* [[エンプレス杯]]
* [[ダイオライト記念]]
* [[兵庫チャンピオンシップ]]
* [[さきたま杯]]
* [[関東オークス]]
* [[日本テレビ盃]]
* [[東京盃]]
* [[レディスプレリュード]](2011年新設)
* [[浦和記念]]
* [[兵庫ジュニアグランプリ]]
* [[名古屋グランプリ]]
; 統一ジースリー(JpnIII)
{|
|style="vertical-align:top"|
* [[TCK女王盃]]
* [[佐賀記念]]
* [[黒船賞]]
* [[名古屋大賞典]]
* [[マリーンカップ]]
* [[東京スプリント]](2009年新設)
* [[かきつばた記念]]
* [[北海道スプリントカップ]]
* [[スパーキングレディーカップ]]
|style="vertical-align:top"|
* [[マーキュリーカップ]]
* [[クラスターカップ]]
* [[ブリーダーズゴールドカップ]]
* [[サマーチャンピオン]]
* [[テレ玉杯オーバルスプリント]]
* [[白山大賞典]]
* [[エーデルワイス賞]]
* [[JBC2歳優駿]]
* [[クイーン賞]]
* [[兵庫ゴールドトロフィー]]
|}
==== その他の地方競馬の主要競走 ====
<!--記事のあるものだけをリストアップしています-->
{|
|style="vertical-align:top"|
; ホッカイドウ競馬
* [[道営記念]]
* [[ステイヤーズカップ]]
* [[北海優駿]](ダービー)
* [[ブリーダーズゴールドジュニアカップ]]
* [[コスモバルク記念]]
* [[赤レンガ記念]]
* [[星雲賞 (競馬のレース)|星雲賞]]
* [[瑞穂賞]]
* [[道営スプリント]]
* [[北斗盃]]
* [[王冠賞]]
* [[栄冠賞]]
* [[エトワール賞]]
* [[ノースクイーンカップ]]
* [[リリーカップ]]
* [[イノセントカップ]]
* [[サンライズカップ]]
* [[フローラルカップ]]
; ばんえい競馬
* [[帯広記念]]
* [[ばんえい記念]]
* [[天馬賞]]
* [[ばんえいダービー]]
* [[ばんえいオークス]]
* [[イレネー記念]]
* [[ばんえい十勝オッズ・パーク杯]]
* [[ばんえいグランプリ]]
* [[岩見沢記念]]
* [[北見記念]]
* [[ヒロインズカップ]]
* [[チャンピオンカップ]]
* [[銀河賞]]
* [[ばんえい菊花賞]]
* [[旭川記念]]
* [[北斗賞]]
* [[柏林賞]]
* [[クインカップ]]
* [[黒ユリ賞]]
* [[ばんえい大賞典]]
* [[ばんえいプリンセス賞]]
|style="vertical-align:top"|
; 岩手県競馬組合
* [[桐花賞]]
* [[不来方賞]]
* [[ダイヤモンドカップ]]
* [[ひまわり賞 (岩手競馬)|ひまわり賞]](オークス)
* [[東北優駿]]
; 浦和競馬場
* [[桜花賞 (浦和競馬)|桜花賞]]
* [[ニューイヤーカップ]]
; 船橋競馬場
* [[東京湾カップ]]
* [[報知グランプリカップ]]
* [[習志野きらっとスプリント]]
* [[若潮スプリント]]
* [[京成盃グランドマイラーズ]]
* [[船橋記念]]
* [[ブルーバードカップ]]
; 大井競馬場
* [[羽田盃]]
* [[東京プリンセス賞]]
* [[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]]
* [[東京2歳優駿牝馬]]
* [[大井記念]]
* [[黒潮盃]]
* [[東京記念]]
* [[ハイセイコー記念]]
* [[京浜盃]]
* [[サンタアニタトロフィー]]
* [[東京シンデレラマイル]]
* [[雲取賞]]
; 川崎競馬場
* [[ロジータ記念]]
; 金沢競馬場
* [[MRO金賞]]
* [[石川ダービー]]
* [[北國王冠]]
; 笠松競馬場
* [[オグリキャップ記念]]
* [[笠松グランプリ]]
* [[ライデンリーダー記念]]
|style="vertical-align:top"|
; 愛知県競馬組合
* [[東海ダービー]](旧・名古屋優駿)
* [[東海菊花賞]]
; 兵庫県競馬組合
* [[新春賞 (園田競馬場)|新春賞]]
* [[六甲盃]]
* [[兵庫大賞典]]
* [[摂津盃]]
* [[姫山菊花賞]]
* [[楠賞]]
* [[兵庫クイーンカップ]]
* [[園田金盃]]
* [[園田チャレンジカップ]]
* [[園田クイーンセレクション|兵庫クイーンセレクション]]
* [[園田ユースカップ|兵庫ユースカップ]]
* [[菊水賞]]
* [[兵庫ダービー]]
* [[のじぎく賞]]
* [[園田ジュニアカップ]]
* [[兵庫若駒賞]]
* [[園田プリンセスカップ]]
; 高知競馬場
* [[高知優駿]]
* [[建依別賞]]
* [[福永洋一記念]]
* [[高知県知事賞]]
; 佐賀競馬場
* [[九州ダービー栄城賞]]
* [[霧島賞]]
* [[たんぽぽ賞]]
|}
=== 地方競馬の廃止・休止競走 ===
* [[中央競馬招待競走]](1985年廃止)
* [[名古屋市制100周年記念]]([[1989年]]のみ)
* [[アラブダービー]](1996年廃止)
* [[全日本アラブ争覇]](1996年廃止)
* [[全日本アラブ大賞典]](1996年廃止)
* [[全日本アラブクイーンカップ]]([[2000年]]廃止)
* [[山陽杯]](2000年廃止)
* [[スーパーチャンピオンシップ]](旧・スーパーダートダービー。[[2001年]]廃止)
* [[東京王冠賞]](2001年廃止)
* [[朱鷺大賞典]]([[2002年]]廃止)
* [[楠賞全日本アラブ優駿]](2003年廃止)
* [[グランシャリオカップ]](2003年休止)
* [[さくらんぼ記念]](2003年廃止)
* [[フクパーク記念]](2003年廃止)
* [[群馬記念]]([[2004年]]廃止)
* [[サラブレッドチャレンジカップ]](2004年休止)
* [[全日本アラブグランプリ]](2004年廃止)
* [[全日本サラブレッドカップ]](2004年廃止)
* [[全日本2歳アラブ優駿]](2004年廃止)
* [[セイユウ記念]](2005年廃止)
* [[とちぎマロニエカップ]](2005年廃止)
* [[春霞賞]](2007年休止)
* [[北海道2歳優駿]](2019年休止)
* [[ダービーグランプリ]](2023年廃止)
== 世界各国の主要な競走一覧 ==
=== オーストラリア ===
* [[メルボルンカップ]]
* [[コックスプレート]]
* [[オーストラリアンダービー]]
* [[ゴールデンスリッパーステークス]]
* [[ザBMW|タンクレッドステークス]]
* [[コーフィールドカップ]]
* [[マッキノンステークス]]
* [[オーストラリアンカップ]]
* [[コーフィールドステークス]]
* [[インタードミニオン]](繋駕速歩競走・ニュージーランドとの持ち回り)
* [[ヴィクトリアダービー]]
*[[チッピングノートンステークス]]
*[[ウィンクスステークス]]
* [[ジ・エベレスト]](2017年新設)
* [[ジ・オールスターマイル]](2019年新設)
=== ニュージーランド ===
* [[ニュージーランドダービー]]
* [[グレートノーザンスティープルチェイス]]
* [[アヴォンデールカップ]]
* [[マナワツサイヤーズプロデュースステークス]]
* [[ダイヤモンドステークス (ニュージーランド)|ダイヤモンドステークス]]
* [[レイルウェイステークス (ニュージーランド)|レイルウェイステークス]]
* [[イースターハンデキャップ]]
* [[ザビールクラシック]]
* [[ニュージーランドステークス]]
* [[オークランドカップ]]
* [[ウェイトフォーエイジクラシック|ハウヌイファームWFAクラシック]]
* [[ブリーダーズステークス (ニュージーランド)|ブリーダーズステークス]]
* [[ハービーダイクステークス]]
* [[ニュージーランドオークス]]
* [[テレグラフハンデキャップ]]
* [[ワイカトスプリント]]
* [[キャプテンクックステークス]]
* [[ソーンドンマイル]]
* [[ウェリントンカップ]]
* [[スプリングクラシック]]
* [[チャレンジステークス (ニュージーランド)|チャレンジステークス]]
* [[ウィンザーパークプレート]]
* [[ニュージーランド2000ギニー]]
* [[ニュージーランド1000ギニー]]
* [[レヴィンクラシック]]
=== フランス ===
* [[凱旋門賞]]
* [[プール・デッセ・デ・プーリッシュ|プール・デッセ・デ・プーリッシュ(フランス1000ギニー)]]
* [[プール・デッセ・デ・プーラン|プール・デッセ・デ・プーラン(フランス2000ギニー)]]
* [[ディアヌ賞|ディアヌ賞(フランスオークス)]]
* [[ジョッケクルブ賞|ジョッケクルブ賞(フランスダービー)]]
* [[ロワイヤルオーク賞]]
* [[パリ大賞典|パリ大賞]]
* [[サンクルー大賞]]
* [[ロートシルト賞]]
* [[オペラ賞]]
*[[ガネー賞]]
* [[ムーラン・ド・ロンシャン賞]]
* [[ジャック・ル・マロワ賞]]
* [[ヴェルメイユ賞]]
* [[アベイ・ド・ロンシャン賞]]
* [[モーリス・ド・ゲスト賞]]
* [[アラビアンワールドカップ]]([[アラブ種|純血アラブ]]G1)
* [[パリ大障害]](G1・障害競走)
* [[アメリカ賞]](G1・繋駕速歩競走・トロット)
* [[フランス賞]](G1・繋駕速歩競走・トロット)
=== ドイツ ===
* [[バーデン大賞]]
* [[ディアナ賞|ディアナ賞(ドイツオークス)]]
* [[ドイチェスダービー]]
* [[ドイツ1000ギニー]]
* [[メールミュルヘンスレネン]](ドイツ2000ギニー)
* [[ドイチェスセントレジャー]]
* [[バイエルン大賞]]
* [[バイエルンツフトレネン]]
* [[ウニオンレネン]]
* [[オイロパ賞]]
* [[ベルリン大賞]]
=== アイルランド ===
* [[アイリッシュ2000ギニー]]
* [[アイリッシュダービー]]
* [[アイリッシュセントレジャー]]
* [[アイリッシュ1000ギニー]]
* [[アイリッシュオークス]]
* [[アイリッシュチャンピオンステークス]]
* [[タタソールズゴールドカップ]]
* [[アイリッシュグランドナショナル]]
=== イギリス ===
* [[2000ギニーステークス]]
* [[ダービーステークス]]
* [[セントレジャーステークス]]
* [[1000ギニーステークス]]
* [[オークス|オークスステークス]]
* [[コロネーションカップ]]
* [[ロイヤルアスコット開催]]
** [[セントジェームズパレスステークス]]
** [[クイーンアンステークス]]
** [[キングズスタンドステークス]]
** [[プリンスオブウェールズステークス (イギリス)|プリンスオブウェールズステークス]]
** [[ゴールドカップ]]
** [[コモンウェルスカップ (競馬)|コモンウェルスカップ]]([[2015年]]新設)
** [[コロネーションステークス]]
** [[プラチナジュビリーステークス|クイーンエリザベス2世ジュビリーステークス]]
* [[エクリプスステークス]]
* [[ジュライカップ|ジュライカップステークス]]
* [[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]
* [[サセックスステークス]]
* [[ヨークシャーオークス]]
* [[インターナショナルステークス]]
* [[クイーンエリザベス2世ステークス]]
* [[チャンピオンステークス]]
* [[ドンカスターカップ]](G2)
* [[グッドウッドカップ]]<ref>[http://www.britishhorseracing.com/press_releases/european-pattern-committee-announces-changes-2017-european-programme/ European Pattern Committee announces changes to the 2017 European Programme / 01 Feb 17] britishhorseracing.com、2017年2月2日閲覧</ref>
* [[グランドナショナルミーティング]]
** [[グランドナショナル]]
** [[メリングチェイス]]
* [[スコティッシュグランドナショナル]]
* [[ウェルシュナショナル]]
* [[チェルトナムフェスティバル]]
** [[チャンピオンハードル]]
** [[クイーンマザーチャンピオンチェイス]]
** [[ワールドハードル]]
** [[チェルトナムゴールドカップ]]
* [[キングジョージ6世チェイス]]
* [[ヘネシーコニャックゴールドカップ|ラドブロークストロフィー]]
* [[ベット365ゴールドカップ]]
* [[ベットフェアチェイス]]
=== イタリア ===
* [[イタリア共和国大統領賞]]
* [[パリオーリ賞]](イタリア2000ギニー)
* [[デルビーイタリアーノ#デルビーイタリアーノ(平地競走)|デルビーイタリアーノ]] (イタリアダービー)
* [[デルビーイタリアーノ#デルビーイタリアーノ(繋駕速歩競走)|デルビーイタリアーノ]](G1・繋駕速歩競走・トロット)
* [[レジーナエレナ賞]](イタリア1000ギニー)
* [[オークスイタリアーノ]]
* [[セントレジャーイタリアーノ]]
* [[ミラノ大賞典|ミラノ大賞]]
* [[ヴィットーリオ・ディ・カープア賞]]
* [[ジョッキークラブ大賞 (イタリア)|ジョッキークラブ大賞]]
* [[ローマ賞 (競馬のレース)|ローマ賞]]
* [[グランクリテリウム (イタリア)|グランクリテリウム]]
* [[リディアテシオ賞]]
* [[ローマ国際]](G1・繋駕速歩競走・トロット)
* [[ロッテリア大賞]](G1・繋駕速歩競走・トロット)
* [[ヨーロッパ賞]](G1・繋駕速歩競走・トロット)
* [[ミラノ・デッレ・ナツィオーニ大賞]](G1・繋駕速歩競走・トロット)
=== スペイン ===
* [[マドリード大賞]]
* [[ダービーエスパニョール賞]]
=== オランダ ===
* ネーデルラントダービー
* ヘングステン・プロダクテンレン賞
* メリーズ・プロダクテンレン賞
* ダイアナ賞
=== ベルギー ===
* ダービーベルヒエ
* クルニー賞
* フェデリオサード賞
=== スイス ===
* ヘルウェティアダービー
* ヘルウェティアセントレジャー
=== スウェーデン ===
* [[タビーオープンスプリントチャンピオンシップ]](G3)
* [[ストックホルムインターナショナルカップ]](G3)
* [[スヴェンスクダービー]](G外)
* [[スヴェンスクダービー (繋駕速歩競走)|スヴェンスクダービー]](G1・繋駕速歩競走・トロット)
* [[エリトロップ]](G1・繋駕速歩競走・トロット)
=== デンマーク ===
* [[スカンジナビアオープンチャンピオンシップ]](G3)
* [[デニッシュダービー]]
=== ノルウェー ===
* [[ノルウェーダービー]](G外)
* [[ポーラーミリオンカップ]](G3)
* [[オスロ大賞]](G1・繋駕速歩競走・トロット)
=== フィンランド ===
* Finlandia Ajo(G1・繋駕速歩競走・トロット)
* Kymi Grand Prix(G1・繋駕速歩競走・トロット)
* Kuninkuusravit(G1・繋駕速歩競走・トロット)
=== ロシア ===
* ファーストクラウン
* ボルソージュヘチニージュ賞
* ボリショイシエソユツニー賞
* ボリショイ賞
* ブディオニー記念
* ナシボフカップ
* ロシア連邦農業大臣賞
=== ウクライナ ===
* ボルソージュヘチニージュ賞
* ウクライナ大賞
* コマンドメンツ賞
=== ポーランド ===
* ポーランドダービー・ナグロダ
* ナグロダ・ウィエルカ・ワルシャワスカ賞
* ナグロダ・モコトウスカ賞
* ナグロダ・イフォティ賞
* ナグロダ・クリテリウム賞
* ナグロダ・ワルシャワ国際グランプリ
=== セルビア ===
* コストラック賞
* セルビアダービートライアルステークス
* セルビアダービー
* セルビアオークス
* セルビアセントレジャー
* サーシン国際トルカ
* ベオグラードグランプリ
* セルビアカーネックスカップ
=== ハンガリー ===
* マジャールダービー
* ミレニアム賞
* キンチェム賞
=== オーストリア ===
* ダービーウィーン
* オーストリアンダービー
=== チェコ ===
* [[ヴェルカパルドゥビツカ]]
* チェスコダービー
=== スロバキア ===
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=== ルーマニア ===
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=== キプロス ===
* キプロス2000ギニー
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* エクリプス賞
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* ジューンカップ
* マラソンステークス
=== カナダ ===
* [[キングスプレート|キングズプレート]](G外)
* [[プリンスオブウェールズステークス (カナダ)|プリンスオブウェールズステークス]](G外)
* [[ブリーダーズステークス]](G外)
* [[バイソンシティステークス]](G外)
* [[ウッドバインオークス]](G外)
* [[ワンダーウェアステークス]](G外)
* [[カナディアンインターナショナル|カナディアンインターナショナルステークス]]
* [[ウッドバインマイルステークス]]
* [[E.P.テイラーステークス]]
* [[ノーザンダンサーターフステークス]]
* [[ナタルマステークス]]<ref>[http://www.drf.com/news/canada-upgrades-natalma-stakes-grade-1 Canada upgrades Natalma Stakes to Grade 1] drf.com、2016年8月29日閲覧</ref>
* [[ニアークティックステークス]]
*[[サマーステークス (カナダ)|サマーステークス]]
*[[ハイランダーステークス]]
* [[ノースアメリカカップ]](繋駕速歩競走・ペース)
* [[カナディアントロットクラシック]](繋駕速歩競走・トロット)
* [[カナディアンペーシングダービー]](繋駕速歩競走・ペース)
* [[トロットモンディアル]](繋駕速歩競走・トロット)
=== アメリカ ===
* [[ブリーダーズカップ・ワールド・サラブレッド・チャンピオンシップ|ブリーダーズカップ]]
** [[ブリーダーズカップ・クラシック]]
** [[ブリーダーズカップ・ターフ]]
** [[ブリーダーズカップ・フィリー&メアターフ]]
** [[ブリーダーズカップ・マイル]]
** [[ブリーダーズカップ・スプリント]]
** [[ブリーダーズカップ・ディスタフ]](2008年から2012年まではブリーダーズカップ・レディーズクラシックの名称で施行)
** [[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイル]]
** [[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイルフィリーズ]]
** [[ブリーダーズカップ・ダートマイル]](2007年新設)
** [[ブリーダーズカップ・フィリー&メアスプリント]](2007年新設)
** [[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイルターフ]](2007年新設)
** [[ブリーダーズカップ・ターフスプリント]](2008年新設)
** [[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイルフィリーズターフ]](2008年新設)
** [[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイルターフスプリント]](2018年新設)
* [[ケンタッキーダービー]]
* [[プリークネスステークス]]
* [[ベルモントステークス]]
* [[トラヴァーズステークス]]
* [[ケンタッキーオークス]]
* [[サンタアニタハンデキャップ]]
* [[ピムリコスペシャルハンデキャップ]]
* [[ハリウッドゴールドカップステークス]]
* [[パシフィッククラシックステークス]]
* [[ジョッキークラブゴールドカップステークス]]
* [[アメリカンオークスステークス]]
* [[サンシャインミリオンズ]](全競走G外)
* [[ペガサスワールドカップ]](2017年新設)<ref>[http://news.sp.netkeiba.com/?pid=tarekomi_view&no=5755 米国で世界最高賞金1200万ドルのレース創設] netkeiba.com、2016年7月20日閲覧</ref><ref>[http://www.jairs.jp/contents/newsprot/2016/31/3.html ペガサスワールドカップ、G1レースと格付けられる(アメリカ)] ジャパンスタッドブックインターナショナル、2016年8月4日閲覧</ref>
*[[ペガサスワールドカップターフ]](2019年新設)
* [[ハンブルトニアン]](繋駕速歩競走・トロット)
* [[ヨンカーズトロット]](繋駕速歩競走・トロット)
* [[ケンタッキーフューチュリティ]](繋駕速歩競走・トロット)
* [[ワールドトロッティングダービー]](繋駕速歩競走・トロット)
* [[ブリーダーズクラウン]](繋駕速歩競走)
* [[リトルブラウンジャグ (競馬のレース)|リトルブラウンジャグ]](繋駕速歩競走・ペース)
* [[メッセンジャーステークス]](繋駕速歩競走・ペース)
* [[ケインペース]](繋駕速歩競走・ペース)
* [[ウッドロー・ウィルソン (競馬)|ウッドロー・ウィルソン]](繋駕速歩競走・ペース)
* [[メドウランズ]](繋駕速歩競走・ペース)
* [[ウィリアム・R・ホートン・メモリアルステークス]](繋駕速歩競走・ペース)
* [[チャンピオンオブチャンピオンズ]](G1・直線440ヤード・[[クォーターホース]]系)
=== メキシコ ===
* ジュヴェニールチャンピオンシップ
* ダニエル・カルデナスクラシック
* ロマ・デ・ソテーロ
* ダービーメヒカーノス
=== プエルトリコ ===
* ファン感謝の日大賞
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* プエルトリコ競馬連合大賞
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* ジョセ・コール・ヴァイダル大賞
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* エドワード・コーティーノ・インシュア大賞
* アクシオン・デ・グラシアス大賞
* アントニオ・フェルナンデス・カストリロン大賞
* エンジェル・トーマス・カルデーロ大賞
* コパ・クレアドレス・ポトリロス
* コパ・ポトリロス
* ラモン・ロベットJr大賞
* ユージーン・マリア・デ・ホストス大賞
* アントニオ・R・マトス大賞
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* コパ・ポトランカス
* ジョセ・ケルソ・バーボサ大賞
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* ロベルト・クレメンテ大賞
* ウィソ・G大賞
* ジョセ・デ・ディエゴ大賞
* ルイス・ムニョース・マーティン大賞
=== ドミニカ共和国 ===
* クレアドレス・ヴァージョン・ポトリロス
* クレアドレス・ヴァージョン・ポトランカス
* ラモン・M・メラー賞
* フランシスコ・デル・ロザリオ・サンチェス賞
* ジョアン・パブロ・デュアーテ賞
* カリル・ハチェ賞
=== ジャマイカ ===
* ジャメイカダービー
* ジャメイカオークス
* ジャメイカセントレジャー
* ジャメイカ2000ギニー
* ジャメイカ1000ギニー
=== バルバドス ===
* バルバドスダービー
* ブリーダーズステークスプラストロフィー
* ホープフルステークスプラストロフィー
=== トリニダード・トバゴ ===
* スチュワーズカップ
* トリニダード・トバゴゴールドカップ
* サンタローサクラシック
* イースターギニー
* ミッドサマークラシック
* ロイヤルオークダービーステークス
* トリニダード・トバゴ独立記念カップ
* アリマレースクラブカップ
* トリニダード・トバゴ大統領カップ
* カリブビアンチャンピオンステークス
=== パナマ ===
* フランシスコ・アリアス・バレーデス賞
* パナマ共和国クラシック100周年大賞
* パナマ共和国大統領賞
* 母の日賞
* 独立記念日賞
=== 香港 ===
* [[クイーンエリザベス2世カップ (香港)|クイーンエリザベス2世カップ]]
* [[チャンピオンズマイル]]
* [[香港カップ]]
* [[香港ヴァーズ]]
* [[香港マイル]]
* [[香港スプリント]]
* [[香港ダービー]](国内重賞)
* [[クイーンズシルヴァージュビリーカップ]]
* [[センテナリースプリントカップ]]<ref>[http://www.racingpost.com/horses/result_home.sd?race_id=595229&r_date=2014-01-26&popup=yes#results_top_tabs=re_&results_bottom_tabs=ANALYSIS 2014年センテナリースプリントカップレース結果] - レーシングポスト 2015年3月29日閲覧</ref><ref>[http://www.jairs.jp/contents/w_news/2016/4/1.html 香港が国際セリ名簿基準書のパートI国に昇格(香港)] ジャパンスタッドブックインターナショナル、2016年7月19日閲覧</ref>
* [[チェアマンズスプリントプライズ]]<ref>[http://www.hkjc.com/english/corporate/racing_news_item.asp?in_file=/english/news/2015-10/news_2015100401319.html&b_cid=EWRNRNE Hong Kong’s Chairman’s Sprint Prize to fill Asian G1 sprint void]香港ジョッキークラブ、2015年11月25日閲覧</ref>
* [[香港スチュワーズカップ]]
* [[香港ゴールドカップ]]
* [[香港チャンピオンズ&チャターカップ]]
* [[香港クラシックマイル]](国内重賞)
* [[香港クラシックカップ]](国内重賞)
=== マカオ(中国) ===
* ディレクターズカップ
* HKDNマカオゴールドカップ
* マカオダービー
=== 韓国 ===
* [[コリアンダービー]](国内G1/パート2)
* [[コリアンオークス]](国内G2/パート2)
* [[大統領杯 (韓国競馬)|大統領杯]](国内G1/パート2)
* [[グランプリ (韓国競馬)|グランプリ]](国内G1/パート2)
* [[コリアカップ (競馬)|コリアカップ]](G3/パート2)
* [[コリアスプリント]](G3/パート2)
=== トルコ ===
*[[ボスポラスカップ]]
*[[トプカプトロフィー]]
*[[イスタンブールトロフィー]]
*[[エルケック・タイ・デネメ]](トルコ2000ギニー)
*[[ディシ・タイ・デネメ]](トルコ1000ギニー)
*[[クスラック賞]](トルコオークス)
*[[ガジ賞]](ガジダービー)
*[[アヴラシア賞]](ユーラシア賞)
*[[アンカラ賞]](トルコセントレジャー)
*[[トルコジョッキークラブ賞]](ジョッキークラブカップ)
*[[チャルディラン賞]]
*[[トルコ大統領賞]](プレジデンシーカップ)
*[[マラズギルトトロフィー]]
*[[トルコ大国民議会賞]]
*[[農業森林省賞]]
*[[ハタイ賞]]
*[[トルコ共和国賞]]
=== ドバイ(アラブ首長国連邦) ===
* [[ドバイワールドカップ]]
* [[ドバイシーマクラシック]]
* [[ドバイターフ]]<ref>[http://www.hochi.co.jp/horserace/20150116-OHT1T50043.html ドバイデューティフリーがドバイ・ターフに名称変更] スポーツ報知 2015年1月21日閲覧</ref>
* [[ドバイゴールデンシャヒーン]]
* [[ゴドルフィンマイル]]
* [[UAEダービー]]
* [[アルクォズスプリント]]
* [[ドバイカハイラクラシック]](純血アラブG1)
* [[ドバイゴールドカップ]]
* [[マクトゥームマイル]]
* [[マクトゥームクラシック]]
* [[マクトゥームチャレンジラウンド3|マクトゥームチャレンジ]]
* [[ジェベルハッタ]]
=== アブダビ(アラブ首長国連邦) ===
* アブダビチャンピオンシップ
* [[ナショナルデーカップ]](純血アラブG1)
* [[UAE大統領カップ]](純血アラブG1)
* [[リワオアシス]](純血アラブG1)
=== バーレーン ===
* H.H.ザ・クラウンプリンスカップ
* バーレーンインターナショナルトロフィー
=== カタール ===
* エミールズトロフィー(国内G1/パート2)
* カタールダービー(国内G1/パート2)
* [[エミールズソード]](純血アラブG1)
=== サウジアラビア ===
* [[1351ターフスプリント]]
*二聖モスクの守護者カップ
* アブドゥルアジズ国王カップ
* [[サウジカップ]]
* [[ネオムターフカップ]]
* [[レッドシーターフハンデキャップ]]
* [[サウジダービー]]
* [[リヤドダートスプリント]]
=== シンガポール ===
* [[シンガポール航空インターナショナルカップ]]
* [[クリスフライヤーインターナショナルスプリント]]
* [[シンガポールゴールドカップ]]
* [[クイーンエリザベス2世カップ (シンガポール)|クイーンエリザベス2世カップ]]<ref>[http://www.turfclub.com.sg/Racing/RacingCalendarAndFixtures/Pages/FeatureRaceDetails.aspx?RN=Queen+Elizabeth+II+Cup+ クイーンエリザベス2世カップ歴代優勝馬] シンガポールターフクラブ(英語)</ref>
* [[ラッフルズカップ]]
* [[ライオンシティカップ]]
* [[シンガポールダービー]]
* [[クランジマイル]]
* [[パトロンズボウル|チャリティーボウル]]
* [[シンガポールギニー]]
* [[シンガポールカップ (競馬)|シンガポールカップ]]<ref>[http://jra.jp/topics/column/racing/pdf/20150301.pdf レーシングトピックス(2015年3月1日)] - 日本中央競馬会 2015年3月2日閲覧</ref>
=== マレーシア ===
* ペラ・ゴールドヴァーズ
* コロネーション・カップ
* ペラ・ダービー
* ツンク・ゴールドカップ
* スランゴール・ゴールドカップ
* ピアラ・エマス・スルタン・スランゴール
* ペナン・スプリントトロフィー
* ペナン・ゴールドカップ
=== タイ ===
* チャクリーカップ
* ハーマジェスティザクィーンズカップ
* ヒズマジェスティザキングズカップ
* タイダービー
=== フィリピン ===
* ノーリッシュ・ザ・チルドレンステークス
* ホープフルステークス
* ホースマンズカップ
* サンラザロスプリント
=== インド ===
* インドターフ招待カップ
* スプリンターズカップ
* スーパーマイルカップ
* ステイヤーズトロフィー
* RCTCミリオン
* カルカッタダービー
* ブリーダーズマルチミリオン
* インド2000ギニー
* インド1000ギニー
* インドダービー
* インドセントレジャー
* インドオークス
* プネーダービー
* デカンダービー
* ゴルコンダダービー
* インド大統領ゴールドカップ
* キングフィッシャーダービーバンガロール
* コルトトライアルステークス
* フィリーズトライアルステークス
* バンガロールダービー
* マイソールダービー
* 南インドダービー
* 南インドオークス
* ニルギリダービー
=== アルゼンチン ===
* [[カルロスペレグリーニ大賞]]
* [[ナシオナル大賞]]
* [[ジョッキークラブ大賞 (アルゼンチン)|ジョッキークラブ大賞]]
* [[ポージャ・デ・ポトリロス]]
* [[エストレジャス大賞]]
** [[エストレジャス大賞クラシック]]
** [[エストレジャス大賞スプリント]]
** [[エストレジャス大賞ディスタフ]]
** [[エストレジャス大賞マイル]]
** [[エストレジャス大賞ジュヴェナイル]]
** [[エストレジャス大賞ジュヴェナイルフィリーズ]]
** [[エストレジャス大賞ジュニアスプリント]]
* [[アルゼンチングランクリテリウム]]
* [[ラウル&ラウル・E・チェヴァリエ大賞]]
* [[エリセオ・ラミレス大賞]]
* [[ポトランカス大賞]]
* [[2000ギニー大賞]]
* [[1000ギニー大賞]]
* [[エンリケアセバル大賞]]
* [[スイパチャ大賞]]
* [[フェリクス・デ・アルザガ・ウンセ大賞]]
* [[サンイシドロ大賞]]
* [[ホアキン・S・デアンチョレナ大賞]]
* [[ミゲル・A・マルティネスデオズ大賞]]
* [[ラス・アメリカス大賞]]
* [[5月25日大賞]]
* [[コパ・デ・プラタ]]
* [[コパ・デ・オロ]]
* [[サンチャゴルーロ大賞]]
* [[モンテヴィデオ大賞]]
* [[サトゥルニノ・J・ウンセ大賞]]
* [[ホルヘデアトゥーチャ大賞]]
* [[ポージャ・デ・ポトランカス]]
* [[セレクシオン大賞]]
* [[ブエノスアイレス国際大賞]]
* [[マイプ大賞]]
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* [[アルゼンチン共和国国際大賞]]
* [[ヒルベルトレレナ大賞]]
* [[クレアドレス大賞]]
* [[サンマルティン将軍大賞]]
* [[オノール大賞]]
* [[プロヴィンシア・ド・ブエノスアイレス大賞]]
* [[セレクシオン・デ・ポトランカス]]
* [[ホアキン・V・ゴンザレス国際大賞]]
* [[ダルドロチャ国際大賞]]
=== ブラジル ===
* [[イメンシティ大賞]]
* [[エンリケ・デ・トレド・ララ大賞]]
* [[ブラジル大賞]]
* [[サンパウロ大賞]]
* [[ABCPCCマシアスマシリン大賞]]
* [[リオデジャネイロABCPCC大賞]]
* [[ブラジルジョッキークラブ大賞]]
* [[リオデジャネイロ州大賞]]
* [[フランシスコパウラマチャド大賞]]
* [[リオ・デ・ポーラマチャド大賞]]
* [[クルセイ・ド・スル賞]]
* [[エンリケポッソーロ大賞]]
* [[リオデジャネイロディアナ大賞]]
* [[ゼリア・ゴンザーガ・ペシュート・デ・カストロ大賞]]
* [[モルシアノジア・グイアルモレイラ大賞]]
* [[サコー少佐大賞]]
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* [[ロベルト・エ・ネルソン・リマルディシーブラ大賞]]
* [[ファーウェル大賞]]
* [[イピランガ大賞]]
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* [[サンパウロジョッキークラブ大賞]]
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* [[バラオジ・デ・ピラシカバ大賞]]
* [[マルガリーダポラックララ大賞]]
* [[サンパウロディアナ大賞]]
* [[ホセ・グァテモジン・ノゲイラ大賞]]
* [[共和国宣言記念日大賞]]
* [[サンパウロABCPCC大賞]]
* [[サンパウロ共和国大統領賞]]
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=== ウルグアイ ===
* [[ホセ・ペドロ・ラミレス大賞]]
* [[ジョッキークラブ大賞 (ウルグアイ)|ジョッキークラブ大賞]]
* [[ナシオナル大賞 (ウルグアイ)|ナシオナル大賞]]
* [[ポージャ・デ・ポトリロス (ウルグアイ)|ポージャ・デ・ポトリロス]]
* [[ポージャ・デ・ポトランカス (ウルグアイ)|ポージャ・デ・ポトランカス]]
* [[セレクシオン大賞 (ウルグアイ)|セレクシオン大賞]]
* [[ペドロピネイリャ大賞]]
* [[モンテビデオ市大賞]]
=== コロンビア ===
* エルキンエチャバリッア大賞
* ダービーアンティオキア
* ポージャ・デ・ポトリロス
* ポージャ・デ・ポトランカス
* ラス・オークス
* コパ・クリアドレス・クラシコ
* コンパレーシオン大賞
=== エクアドル ===
* サー・ベンジャミン・ロセールズ・アスピアズ賞
* エクアドル共和国大統領賞
=== ペルー ===
* [[ダービーナシオナル]]
* ペルー・ジョッキークラブ大賞
* パンプローナ大賞
* ポリャデポトランカス
* エンリケアユーロパルド大賞
* ポリャデポトリリョス
* リカルドオルティスデゼバリョース大賞
* ナシオナル大賞アウグストB.レギーア
=== ベネズエラ ===
* コンパレーシオン大賞
* アントニオ・ホセ・デ・スクレ賞
* カラカスシティ賞
* ホセ・アントニオ・パエス
* クリアナシオナル
* ベネズエラ・ボリバル共和国賞
* ラ・リンコナーダ競馬場大賞
* 愛馬プレンサナシオナル
* ヨハンキン・クレスポ将軍大賞
* シモン・ボリバル国際大賞
* ラ・リンコナーダ競馬場開設記念
* コパ・デ・オロ・デ・ベネズエラ
* ベネズエラ共和国大統領賞
* 軍事賞
* ピピカ・ナシオナル
=== チリ ===
* ミルギニー
* ポリャ・デ・ポトリリョス
* ポリャ・デ・ポトランカス
* ドスミルギニー
* ナシオナル・リカルド・ライオン
* チリグランクリテリウム
* エル・エンサーヨ
* アルベルト・ソラリ・マグナスコ賞
* [[ラスオークス]]
* チリセントレジャー
* [[エルダービー]]
* チリ競馬場大賞
* コパ・デ・プラタ賞
* サンティアゴ馬事協会賞
* アルベルト・ヴィアル・インファンテ賞
* タンテオ・デ・ポトランカス
* アルトゥロ・ライオン・ペーニャ賞
* タンテオ・デ・ポトリリョス
=== チュニジア ===
* チュニジア共和国大統領賞
* チャレンジメント国際
=== エジプト ===
* アブダビ国際カップ
* H.H.サイー・ザイード・ビン・スルタン・アル・ナーヤンカップ
* ジ・アル・ナーヤンカップ
* ジ・アル・ナーヤン国際カップ
=== アルジェリア ===
* 2歳クリテリウム
* 大統領グランプリ
* A.Q.P.S.グランプリ
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* シーフ・エル・アラブ賞
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=== モーリシャス ===
* バービーカップ
* ダッチネスオブヨークカップ
=== ケニア ===
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* H.V.ピリートロフィー
* ケニアギニー
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* ケニアセントレジャー
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* スチュワーズカップ
* ネイションスーパースプリント
* ロイヤルエアフォースカップ
* ウフルカップ
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* ルイスカップ
* ケニアゴールドカップ
* ケニアッタカップ
* DCDMカップ
* シヴィルサービスゴールドカップ
* シティオブナイロビカップ
* ナイロビマーチャンツピュース
* イタリアンカップ
* スパニッシュカップ
* デュークオブマンチェスターカップ
* グラハムトロフィー
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* ケニアポリスカップ
* ブリガードオブガードトロフィー
=== ジンバブエ ===
* [[OKグランドチャレンジ]]
* [[トラストバンクターフチャンピオンシップステークス]]
* [[キャスルタンカード]]
* [[サラブレッドブリーダーズチャンピオンジュヴェナイルステークス]]
* [[ジンバブエギニー]]
* [[BAMMジンバブエ2000]]
* [[ジンバブエダービー]]
* [[ウンジムフルハンデキャップ]]
* [[ゴールドカップスプリント]]
* [[ジンバブエ共和国カップ]]
* [[サラブレッドブリーダーズシャンパンステークス]]
* [[ジンバブエオークス]]
* [[イピトンベステークス]]
* [[ブリーダーズチャンピオンカップ]]
=== 南アフリカ ===
* [[サウスアフリカンナーサリー]]
* [[ハウテンフィリーズギニー]]
* [[ハウテンギニー]]
* [[ゴールデンホースシュー (南アフリカ)|ゴールデンホースシュー]]
* [[ゴールデンスリッパー]]
* [[セクウィニフィリーズステークス]]
* [[サウスアフリカンダービー]]
* [[ケープタウンメット]]
* [[ダーバンジュライ]]
* [[チャンピオンズカップ (南アフリカ)|チャンピオンズカップ]]
* [[サウスアフリカンクラシック]]
* [[サウスアフリカンフィリーズクラシック]]
* [[ザ・マーチャンツ]]
* [[サウスアフリカンオークス]]
* [[ホースチェスナットステークス]]
* [[サマーカップ (南アフリカ)|サマーカップ]]
* [[チャンピオンズチャレンジ]]
* [[コンピュータフォームスプリント]]
* [[エンプレスクラブステークス]]
* [[ケープギニー]]
* [[ケープダービー]]
* [[ケープフィリーズギニー]]
* [[ケープフライングチャンピオンシップ]]
* [[キングスプレート (南アフリカ)|キングズプレート]]
* [[マジョルカステークス]]
* [[パドックステークス]]
* [[プレミアズチャンピオンステークス]]
* [[マーキュリースプリント]]
* [[ゴールドチャレンジ]]
* [[デイリーニューズ2000]]
* [[ウーラヴィントン2000]]
* [[ゴールドカップ (南アフリカ)|ゴールドカップ]]
* [[ガーデンプロヴィンスステークス]]
* [[ゴールドメダリオン]]
* [[アランロバートソンチャンピオンシップ]]
* [[ゴールデンホーススプリント]]
* [[サウスアフリカンフィリーズスプリント]]
=== その他の海外競馬の競走 ===
* [[ラテンアメリカジョッキークラブ国際大賞]](アルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイ、ペルー、ベネズエラによる持ち回り)
* [[カリブ国際クラシック]](域内G1・カリブ海諸国による持ち回り)
* [[カリブスプリントカップ]](同上)
* [[カリブ牝馬カップ]](同上)
* [[カリブ競馬連盟カップ]](同上)
* [[中欧ブリーダーズカップ・スプリント]](ポーランド、ハンガリー、オーストリア、チェコ、スロバキアによる持ち回り)
* [[中欧ブリーダーズカップ・マイル]](同上)
* [[中欧ブリーダーズカップ・クラシック]](同上)
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[競馬]]
* [[競馬の競走]]
* [[競馬の競走格付け]]
* [[中央競馬の冠競走一覧]]
* [[交換競走]]
* [[国際競走]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jra.go.jp/index.html JRA]
* [https://www.keiba.go.jp/index.html 地方競馬情報サイト]
* [http://www.banei-keiba.or.jp/index.html ばんえい競馬]
* [http://www.jair.jrao.ne.jp/index.html 競馬国際交流協会]
* {{Wayback|url=http://www5d.biglobe.ne.jp/~rna/index.html |title=レース名アーカイブス |date=20030312183335}}
[[Category:競馬の競走|*いちらん]]
[[Category:競馬関連一覧|けいはかんれんいちらん]] | 2003-03-13T03:17:18Z | 2023-10-01T12:31:34Z | false | false | false | [
"Template:Sort",
"Template:0",
"Template:Wayback"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B6%E9%A6%AC%E3%81%AE%E7%AB%B6%E8%B5%B0%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
3,911 | りそな銀行 | 株式会社りそな銀行(りそなぎんこう、英語: Resona Bank, Limited)は、大阪府大阪市中央区に本店を置く、りそなホールディングス傘下の都市銀行。大阪府の単独指定金融機関。
旧野村財閥の財閥系都市銀行である大和銀行と、旧貯蓄銀行の協和銀行および地方銀行の埼玉銀行を源流とする都市銀行であるあさひ銀行の合併により誕生した。国内においては3大メガバンクに次ぐ規模を有する銀行であり、りそなグループの中核を担う。存続会社は大和銀行であり、金融機関番号や本店所在地、SWIFTコードも大和銀行からそのまま引き継いでいる。
行名の「りそな」とはラテン語の「Resona(=共鳴せよ、響きわたれ:動詞 Resono の二人称単数命令法現在形)」から取られており、「お客さまの声に耳を傾け、共鳴し、響き合いながら、お客さまとの間に揺るぎない絆を築いていこう」という意図が込められている。りそなホールディングスのWebサイトにも、このことが述べられている。
旧大和銀行は戦前の旧商号である野村銀行時代より一貫して、信託併営を継続している唯一の都市銀行であり、りそな銀行となった今でも唯一の存在である。信託業務を営むため、宅地建物取引業法第77条の信託会社・信託銀行に関する特例が適用されており、宅建業の届出番号は国土交通大臣届出第5号となっている。信託部門は、りそな信託銀行(旧・大和銀信託銀行)として一時分社化したが、2009年に再統合されている。
大手証券会社の野村證券(野村ホールディングス)は大和銀行の証券部が分離・独立して誕生した。旧大和銀時代から国会の議員会館内に衆議院支店(店番:328)・参議院支店(店番:329)を持つ銀行であるため、国会議員に対する融資などを通じて永田町との関係が深い銀行とされる。
2023年3月現在、全国に324店舗を展開しているが他の都市銀行に比べ店舗数は少ない。47都道府県のうち25都道府県に店舗を展開する。店舗統廃合を進めており、法人営業店舗や店頭サービス店舗等に分類されている。
大和銀行、あさひ銀行合併前の2003年(平成15年)3月に、埼玉県内の旧あさひ銀行の店舗は埼玉りそな銀行として分離され、さいたま営業部(埼玉銀行本店→協和埼玉銀行浦和営業部→あさひ銀行浦和営業部→あさひ銀行さいたま営業部)については、埼玉りそな銀行のさいたま営業部(本店)となっている。八重洲に所在した旧埼玉銀東京営業部は、りそな銀東京中央支店として現在も存続しているが、現在は日本橋に移転し、空中店舗となっている。
旧奈良銀店舗については、その後、桜川東支店(旧大阪支店)が2006年(平成18年)6月19日付で近接の桜川支店に統合されたが、それ以外の廃止予定は2007年(平成19年)に入るまでなかった。
2005年12月まではりそな銀行 (開始当初は大和銀であったが、あさひ銀との合併により2003年3月に行名改称)に販売業務を委託し運営されていた。大和銀行からノウハウを学ぶためである。実際の売りさばき管理業務は日本スポーツ振興くじ株式会社に再委託されていた。
野村徳七によって大阪野村銀行として創立(昭和に入り野村銀行と改称)、野村財閥の中核銀行として金融激戦地帯である大阪市に本拠地を置いた。戦後財閥解体により野村銀行から商号変更し、大和銀行となる。旧大和銀行は在阪三大都市銀行の一角(残り2つは三和銀行・住友銀行)であった。
(旧安田銀行の富士銀行への商号変更も同様の経緯。住友銀行は財閥解体により大阪銀行と商号を変えるが、その後住友銀行に戻している。)
信託部門併営の唯一の都市銀行であり、信託機能のツール多様性から、大蔵省から「他の都市銀行と同じスタートラインにない。」とみなされ、他の都市銀行のような店舗展開が認められなかった(都市銀行:多店舗展開、信託銀行:少店舗展開)。
徳七の「自主独往」の精神に基づき、どの銀行とも合併をせず交わらなかったことから、都市銀行の規模としては北海道拓殖銀行に次いで下から2番目の規模であった。しかしながら、信託部門は好調であり、年金信託受託残高、遺言信託などは全信託銀行中トップであった。
1995年(平成7年)に同行ニューヨーク支店において、いわゆる大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件が発覚。当時としては、邦銀最大の店舗網を有していたアメリカ合衆国から撤退を余儀なくされたうえ、巨額の罰金も課せられた。この結果、米国内の店舗を住友銀行に譲渡する形で撤退。それと前後して同行との合併が日本経済新聞で報道された。
これにより大和プルダニア銀行(現在のりそなプルダニア銀行)と数ヶ所の駐在員事務所を除いて、国際業務から撤退した。国際金融市場の中心地であるニューヨークからの追放は、当時純利益の3割を米国市場から得ていた同行にとっては、極めて大きな痛手となった。
大和銀行はこのような状況を背にして、総花的経営を見直し、筋肉質な経営基盤の構築に邁進、個人や中小企業を主要な取引対象とし親密な地方銀行をグループ内に取り込む「スーパーリージョナルバンク」構想を打ち出し難局の打開に取り組むこととなった。
先述したように、大阪府の指定金融機関を単独で受託している他、大阪府内の自治体の多くでも指定金融機関を受け持っている。
首都圏の地方銀行との合併を模索する旧埼玉銀行派閥と、他の上位・中位都銀との合併を模索する旧協和銀行派閥の対立が深刻化していたほか、バブル期の拡大戦略が裏目に出て、多額の不良債権を生みだしていた。2001年(平成13年)5月末に海外拠点を東京三菱銀行(現三菱UFJ銀行)へ譲渡することで合意するなどして、リストラの加速化が進んだ。また、旧埼玉銀行→旧あさひ銀行が指定金融機関の指定を受けていた流れから、りそな銀行が小平市、東村山市、清瀬市、東大和市、武蔵村山市、青梅市、あきる野市など多摩地区の一部市の指定金融機関となっている。
2001年(平成13年)12月、大和銀行は同行の親密地方銀行である近畿大阪銀行と奈良銀行と共に、株式移転により金融持株会社大和銀ホールディングスを設立。各行はその傘下に入りした。同時に、大和銀行が兼営する信託部門のうち、法人向けの年金信託業務を新設した大和銀信託銀行に分割した。続いて2002年(平成14年)3月には、あさひ銀行が株式交換により大和銀ホールディングスの傘下となった。そして、2003年(平成15年)3月には、あさひ銀行の埼玉県内の営業拠点と資産を埼玉りそな銀行に会社分割し、残ったあさひ銀行は大和銀行と合併する形でりそな銀行が誕生した。
みずほ銀行とみずほコーポレート銀行に続き、りそな銀行と埼玉りそな銀行は、世界的に見ても例の少ない合併分割による経営統合を行った。これは、大阪に本店を置く大和銀行にあさひ銀行が吸収されることで、埼玉県内において圧倒的な規模を誇るあさひ銀行の収益基盤が縮小することや、経営方針変更等による地域経済への影響、危惧を考慮し地域に対するコミットメントを明らかにしたものであると言われる。同時に、合併分割によって合併差益による自己資本の増強効果があり、悪化する経営を一時的に救う効果があった。しかし、このような複雑な経営統合方法は後述するシステム問題を含め、スケールメリットを阻害する要因となり、現在もなお経営形態の見直しが議論されている。
発足直後の2003年(平成15年)4月22日、同行の監査を担当する監査法人のうち、合併前の決算を審査するため、新日本監査法人と共同監査を行っていた朝日監査法人(現在の有限責任あずさ監査法人)が、繰延税金資産の取扱をめぐり同行の共同監査を辞退し、決算監査が大幅に遅延する異常事態となった。
残った新日本監査法人は、5月に入り繰延税金資産組み入れの前提となる将来の収益性を疑問視し、りそな銀行の主張する他の都市銀行と同じ繰延税金資産5年分を否定して、3年分の組み入れしか認めない方針を明らかにした。
その判断には現在も多くの議論の余地があるが、この判断に基づくと同行の自己資本比率は、国内基準である4%を下回る、2%台に転落する可能性が出た。そのため5月17日に至り、政府に対して預金保険法第102条第1項第1号に基づく資本注入(第1号処置)を申請した。同日緊急招集された政府・日本銀行による金融危機対応会議において、同行の申請を認め、資本注入並びに同行に対する早期是正措置・業務改善命令が発動された。
政府による、総額1兆9660億円の公的資金注入(正確には預金保険機構による株式取得)は、従来の優先株による無議決権資本注入に加え、額の巨額さや経営再建への影響力を勘案された結果、普通株での資本注入が行われたために、預金保険機構の持ち株の比率が上がり、一時りそな銀行は事実上預金保険機構が筆頭株主となる異常事態が発生、これを実質国有化と呼んでいる。
なおこの実質国有化に関して、当時、竹中平蔵金融担当大臣は、都市銀行であっても区別せず破綻させる旨を事あるごとに発言しており、破綻処理した足利銀行との扱いの差を疑問視する者も多い。特に5月17日に読売テレビで放送された報道番組「ウェークアップ!」に出演していた経済評論家植草一秀が、「もし、りそな銀行を破綻させるという方針で動くのであれば、株主責任を当然問わなければならないので大問題になる。週明けの株式市場は、混乱に見舞われる危険性が大きい」と番組内で発言し、直後の番組放送時間内に金融庁から「政策当局がりそなを救済する。万全を期すので混乱は起きない」との電話連絡を受けたことを、司会者が番組終了時に明らかにしたため、植草は疑問を呈した(番組が生放送だったためこのような事態となった)。りそな銀行に対する公的資金注入による救済は従前の通りであり、番組終了後の同日発表された。
また、この破綻寸前のりそな銀行の経営状況を受け、当時、市場ではりそなホールディングス株の投売りが行われ、株価は暴落していた。そのような中、まるで公的資金注入による実質国有化に関する、竹中の方針転換を予測していたかのように、りそなの株価暴落の過程で、株価の反発を見込み、しっかりとりそな株を買い占めていたのが外資系投資ファンドだった。結局、この竹中の方針転換による公的資金注入の発表を受け、りそな株の価額は急騰。この局面で売り抜けた外資系投資ファンドは莫大な利益を手にした。この動きについて、竹中の行動を外資系投資ファンドは知っていて取引を行ったとするインサイダー取引疑惑がある。今日に至るまでこのインサイダー取引疑惑はくすぶり続けており、金融業界ではりそなの公的資金注入における最大の闇となっている。
りそなへの公的資金注入は本来預金保険法が想定していない金融機関側の要請によって資本注入を行ったために、従来の公的資金注入とは異なり、予防的公的資金注入と呼ばれる。
予防的公的資金注入は、金融機関が過小資本に陥ることによる経営破綻を回避するために行うもので、当時の預金保険法は金融機関による申請や、その適用要件に関して明確な基準が存在しなかった。そのため、申請当時には適用に関して一部から違法性が指摘された。また、金融機関が自主的に公的資金の注入を、予防的かつ自主的に申請できる必要性が認識されたために、後に預金保険法改正の要因となった。加えて、監査法人による決算の否認は、株主や預金者を保護する監査法人の重要性を再認識させ、その後の足利銀行の破綻に見られるように外部監査制度の責任強化につながった。さらには、エンロン事件以降重要視されるようになった内部統制システムの充実にも影響を与えたと言え、日本版SOX法である新会社法制定に与えた影響は無視できない。
当時、企業の業績不安と不良債権処理の遅れ、政府の緊縮財政、財政再建政策及び金融機関に対しての厳罰主義から、日本企業の株価は下落を続けていたが、それまでの方針に反してりそな銀行に対して政府が採った機動的な資本注入は、金融機関の不良債権の抜本的処理に向けた小泉政権の強力な意思であると評価され、その後株価は上昇に転じた。
この時りそな銀行を従前の通り破綻処理していれば、日本経済は間違いなく恐慌になっていたと言われる。
経営体制に関しては、多額の公的資金を注入した経緯から、内部からの経営陣に加え、JR東日本出身の細谷英二会長をはじめとして外部企業から招聘した経営陣による新経営体制が確立された。これは、伝統的に外部から経営陣を招くことのなかった金融機関にとっては画期的な出来事であり、大企業の経営再建におけるモデルケースとして期待された。また経営制度では、委員会等設置会社への移行が図られた。
大和銀行は、1994年(平成6年)にIBM製メインフレームで稼動する勘定系システム“ニュートン”(NEWTON)に続き、1996年(平成8年)には情報系システム“ダーウィン”(DARWIN)を稼動させ、第3次オンラインシステムへの移行を終了した。経費節減を目的に自社の保有する勘定系/情報系システムをIBMとの折半出資である「ディーアンドアイ情報システム」(D&I)に移管し、都市銀行としては初めてオンラインシステムをアウトソーシングする戦略を取った。
その後、大和銀行を中核に地域銀行をグループ化する過程において、近畿大阪銀行など傘下銀行にNEWTON/DARWINを水平展開し、グループ間のシステム投資を軽減するシステム戦略が採用され、奈良銀行を皮切りに、近畿大阪銀行への導入が図られることになった。あさひ銀行との経営統合後には、旧あさひ銀行が開発した総合オンラインシステム“キャップ”(CAP。勘定系・情報系共にIBM製メインフレームで稼動。前身は旧協和銀行のオンラインシステム)を破棄し、新たに誕生するりそな銀行/埼玉りそな銀行にもNEWTON/DARWINを採用することが決定された。さらに、りそな銀行・埼玉りそな銀行が誕生した2003年(平成15年)3月には、次期NEWTON/DARWINの完成が間に合わないため、CAPをりそな銀行向けと埼玉りそな銀行向けに2分割(勘定分割)した上で、CAPを現行NEWTON/DARWINとリレーシステムで仮統合した後に、次期NEWTON/DARWINに順次移行するという複雑なシステム統合が計画された。
しかし、2003年(平成15年)の実質的な国有化後、細谷英二会長を中心とする新経営陣は、規模も営業内容も異なる全傘下銀行にNEWTON/DARWINを水平展開するシステム戦略を、主にコスト的な問題から疑問視し、また技術的にも勘定系/情報系システムが不可分な設計であるNEWTON/DARWINは、24時間稼動対応、ハブ・アンド・スポーク型システム(旧来の勘定系中心のシステム構成ではなく、勘定系や情報系の機能をオブジェクト化して切り出し、ハブと呼ばれるデータ統合システムによって接続された多数のサーバに分割する方式)への対応が困難であることを理由に、傘下銀行の次期NEWTON/DARWINへの移行計画を破棄し、りそな銀行と埼玉りそな銀行については、破棄が予定されていた旧あさひ銀行のCAPへの統合を決定した。これに伴い、りそなホールディングスが保有するD&I株式の95%をIBMに譲渡し、IBMとのアウトソーシング契約を解消した。一方、アウトソーシング先として新たにNTTデータが選定され、CAPを運用するあさひ銀ソフトウェア(現NTTデータソフィア)の株式の95%をNTTデータに譲渡した。
CAPをベースとした「統合システム」への移行は、2005年(平成17年)5月から店舗別に5回(旧あさひ銀のシステムの変更を含めると合計6回)に分けて行われ、同年9月12日に全ての店舗においてシステム統合が完了した。また、奈良銀行は「奈良りそな銀行」とする見込みでの当初計画のもと、2003年(平成15年)7月にNEWTON/DARWINへの移行を終えていたが、りそな国有化に伴う経営戦略転換の結果、2006年(平成18年)に奈良銀行自体がりそな銀行へ吸収合併され、この合併と同時に「統合システム」に移行した。近畿大阪銀行は、当初計画でのNEWTON/DARWINへの移行を始める前にりそな国有化となり当初計画は白紙化、旧近畿銀行から引き継いで利用していた独自のシステム(日立メインフレーム)を、NTTデータにアウトソースした上で継続使用して営業していたが、2008年(平成20年)7月22日に「統合システム」へ移行し、同日以後に発行した通帳については当行ATMおよび埼玉りそな銀行ATMでも共通書式として取り扱いが可能となった(ただし、これら2行とは通帳自体は別仕様であるため、繰越は近畿大阪銀行窓口でのみ可能。また、別仕様ゆえに、りそなグループで近畿大阪銀行のみが「総合口座通帳」を発行していることになる。また、廃止店の通帳・カードを継承店名のものに変更せずに利用していたケースおよび旧近畿銀行名のものを継続利用していたケースは強制切替の対象となった)。「統合システム」への移行が終了したりそな銀行においても、信託系システムは依然として並行稼動しているNEWTON/DARWINの周辺システムを利用しており、旧りそな信託銀行を含めて「統合システム」への最終的な信託系システムの移行・統合に関しては白紙状態である。
情報系システムについても、NEWTON/DARWINの周辺システムを利用していたが、2014年8月より切離しが開始され、同11月17日にNTTデータが構築したオープン系システムへのリプレースが完了した。勘定系である「統合システム」についても、2015年1月5日にリプレースが完了している。
NEWTON/DARWINは2007年(平成19年)10月1日に郵政民営化によって発足するゆうちょ銀行において、全銀システムへの接続や為替処理、信託業務の展開のために暫定的に採用が決定している。
※初代は頭取、2代目以降は社長と呼称。
りそな銀行および埼玉りそな銀行では、総合口座を「りそなリテール口座」と呼称し、通帳を預金種類毎に分割している。なお、通帳自体はりそな銀行・埼玉りそな銀行共通であり、通帳表紙と見開き部の口座番号・名義人と併せて、勘定を置く銀行名が印字されるようになっており、法人(銀行)印影は「りそなグループ」となっている。通帳種類は以下の通り。
2004年(平成16年)より、りそな銀行・埼玉りそな銀行共通で取り扱いが開始された通帳無発行型の普通預金口座である。通帳明細に代わるステートメントの郵送を行わず、りそなダイレクト(インターネットバンキング)上で閲覧する形式では都市銀行初であった。残高によって預金金利が変わる(残高段階型金利)「TIMO普通預金」を採用している。当初は残高などの取引内容に関わらず自行ATMの時間外手数料が無料となる点が特徴であったが、2015年4月で終了した。
インターネットバンキングである「りそなマイゲート」を運営している。
給与振込やローン利用、資産残高といった銀行取引に応じてキャッシュバックやポイント移行が可能となるポイントサービスを行っている。
2018年7月9日から東日本旅客鉄道(JR東日本)グループの「ビューアルッテATM」384台で平日午前8時45分から午後6時の間、引出し手数料が無料で利用できる。エキナカATMが無料で使えるのはりそな銀行、埼玉りそな銀行のみである。
今まで、生体認証型キャッシュカードは、新規発行依頼時に税込1,000円を支払い、5年後の更新応当月前に更新発行にも発行手数料を税込1,000円を支払って発行していたが、2008年(平成20年)から、新規発行及び更新(前回発行分からの)発行には手数料を徴収しなくなった。このため、現在は特に希望しない限りは、生体認証対応ICキャッシュカードが発行され、従来の磁気ストライプカードは発行されない(事前に取引店に問い合わせをして可とされればこの限りではない)。また、生体認証付カードの発行を口座開設する場合と、現在使用している磁気のみのキャッシュカードからの切換発行をする場合のみ、店頭での即時発行を行うサービスを始めたが、一部の営業店(インストアブランチ系統の営業店等を除く)で発行を行える様になったが、本人確認書類によっては(運転免許証やパスポート等の公的機関が発行する写真付の物に限定)即時発行を行う事となった。但し、本人確認書類を持参した場合等でも即時発行の手続を行えるとは限らないので、取引店ないしは電話受付センター(りそなコミュニケーションダイヤル)等に詳細を確認する必要がある。
現在は、生体認証登録をした場合、生体認証に対応したグループ内のATMであれば、暗証番号の入力を省略することも可能となっている。なお、メールオーダでの口座開設の場合、「生体認証ICカード」か後述の「りそなカード+S」が発行され、なおかつ、TIMOで開設される。2016年より、埼玉りそな銀行および当社の一部支店で、印鑑登録を行わない店舗を設定した。
クレジット一体型のキャッシュカード。上述の「生体認証ICキャッシュカード」と、クレジットカード(りそなカードがクレディセゾンと提携して発行、国際ブランドはVISAのみ。券面の名称は "Resona Card +S")機能を併せ持つ。年会費は無料である。有効期限は、発行日または切替日の5年後応当日。
近畿地方の若者を初めとするリスナーに支持の高いFM局「FM802」と提携し、FM802が実施しているアートプロジェクト「digmeout」(ディグ・ミー・アウト)に参加している高山泰治(K2―黒田征太郎・長友啓典―出身)などのアーティスト達がオリジナルデザインした普通預金キャッシュカードである。名称はりそな銀行のRESONAとARTを合わせたもの。りそなカードでも採用されていた。 ただし、2009年(平成21年)1月30日を以て新規募集は終了している。
当初は通常の有通帳口座、近畿地方の旧大和銀行支店でのみの採用であったが、後に無通帳型預金口座「TIMO」や旧あさひ店でも扱っている。2004年(平成16年)3月末にスタジオジブリがデザインした「ひびきが丘物語」のキャッシュカードが廃止され、デザインキャッシュカードはRESONARTのみになった。
預金口座の新規開設か、現在開設の口座のキャッシュカードを交換してもらうことで入手可能である。 旧大和、あさひ(前身行の協和銀行・埼玉銀行・協和埼玉銀行含む)のキャッシュカードから交換する場合は無料。りそな銀行キャッシュカードからの場合は有料。 デザインが年数回更新され、古いデザインのカードは新たに入手できない。また、当初は近畿の旧大和銀行店舗での枚数限定だった。この企画は女性には人気が高いといわれ、新規顧客獲得に成功した。
2016年8月3日(JALマイレージバンク提携サービスは、同年3月21日に先行実施)にサービスを開始した、りそな銀行のインターネット専用口座。2016年8月現在、支店はアルファ支店・ベータ支店のいずれかが割り当てられる。口座の開設から振込・取引確認など、ほぼすべてのサービスをスマートフォンのアプリから行う。
無通帳の総合口座とVisaデビットカード(オリジナル、またはJMB)がセットとなっているため、開設2年目以降はVisaデビットカードの会費が発生するが、一般のりそな銀行で発行されるVisaデビットカードと違い、年間1回の利用があれば会費の支払いが免除される他、デザインもりそなVisaデビットカード〈JMB〉が黒色、りそなVisaデビットカード〈オリジナル〉がりそにゃ柄になっている。
普通預金については、毎日の最終残高1,000円以上について付利単位を100円として、2月・8月の第2金曜日時点で毎日の店頭表示の利率で計算され、翌土曜日付で付与される。
貯蓄預金については、毎日の最終残高1,000円以上について付利単位を1円として、毎月の第2金曜日時点で毎日の最終残高が店頭表示の基準残高以上利率又は基準残高未満利率の別に計算され、翌土曜日付で付与される。 | [
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"text": "先述したように、大阪府の指定金融機関を単独で受託している他、大阪府内の自治体の多くでも指定金融機関を受け持っている。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "首都圏の地方銀行との合併を模索する旧埼玉銀行派閥と、他の上位・中位都銀との合併を模索する旧協和銀行派閥の対立が深刻化していたほか、バブル期の拡大戦略が裏目に出て、多額の不良債権を生みだしていた。2001年(平成13年)5月末に海外拠点を東京三菱銀行(現三菱UFJ銀行)へ譲渡することで合意するなどして、リストラの加速化が進んだ。また、旧埼玉銀行→旧あさひ銀行が指定金融機関の指定を受けていた流れから、りそな銀行が小平市、東村山市、清瀬市、東大和市、武蔵村山市、青梅市、あきる野市など多摩地区の一部市の指定金融機関となっている。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2001年(平成13年)12月、大和銀行は同行の親密地方銀行である近畿大阪銀行と奈良銀行と共に、株式移転により金融持株会社大和銀ホールディングスを設立。各行はその傘下に入りした。同時に、大和銀行が兼営する信託部門のうち、法人向けの年金信託業務を新設した大和銀信託銀行に分割した。続いて2002年(平成14年)3月には、あさひ銀行が株式交換により大和銀ホールディングスの傘下となった。そして、2003年(平成15年)3月には、あさひ銀行の埼玉県内の営業拠点と資産を埼玉りそな銀行に会社分割し、残ったあさひ銀行は大和銀行と合併する形でりそな銀行が誕生した。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "みずほ銀行とみずほコーポレート銀行に続き、りそな銀行と埼玉りそな銀行は、世界的に見ても例の少ない合併分割による経営統合を行った。これは、大阪に本店を置く大和銀行にあさひ銀行が吸収されることで、埼玉県内において圧倒的な規模を誇るあさひ銀行の収益基盤が縮小することや、経営方針変更等による地域経済への影響、危惧を考慮し地域に対するコミットメントを明らかにしたものであると言われる。同時に、合併分割によって合併差益による自己資本の増強効果があり、悪化する経営を一時的に救う効果があった。しかし、このような複雑な経営統合方法は後述するシステム問題を含め、スケールメリットを阻害する要因となり、現在もなお経営形態の見直しが議論されている。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "発足直後の2003年(平成15年)4月22日、同行の監査を担当する監査法人のうち、合併前の決算を審査するため、新日本監査法人と共同監査を行っていた朝日監査法人(現在の有限責任あずさ監査法人)が、繰延税金資産の取扱をめぐり同行の共同監査を辞退し、決算監査が大幅に遅延する異常事態となった。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "残った新日本監査法人は、5月に入り繰延税金資産組み入れの前提となる将来の収益性を疑問視し、りそな銀行の主張する他の都市銀行と同じ繰延税金資産5年分を否定して、3年分の組み入れしか認めない方針を明らかにした。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "その判断には現在も多くの議論の余地があるが、この判断に基づくと同行の自己資本比率は、国内基準である4%を下回る、2%台に転落する可能性が出た。そのため5月17日に至り、政府に対して預金保険法第102条第1項第1号に基づく資本注入(第1号処置)を申請した。同日緊急招集された政府・日本銀行による金融危機対応会議において、同行の申請を認め、資本注入並びに同行に対する早期是正措置・業務改善命令が発動された。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "政府による、総額1兆9660億円の公的資金注入(正確には預金保険機構による株式取得)は、従来の優先株による無議決権資本注入に加え、額の巨額さや経営再建への影響力を勘案された結果、普通株での資本注入が行われたために、預金保険機構の持ち株の比率が上がり、一時りそな銀行は事実上預金保険機構が筆頭株主となる異常事態が発生、これを実質国有化と呼んでいる。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "なおこの実質国有化に関して、当時、竹中平蔵金融担当大臣は、都市銀行であっても区別せず破綻させる旨を事あるごとに発言しており、破綻処理した足利銀行との扱いの差を疑問視する者も多い。特に5月17日に読売テレビで放送された報道番組「ウェークアップ!」に出演していた経済評論家植草一秀が、「もし、りそな銀行を破綻させるという方針で動くのであれば、株主責任を当然問わなければならないので大問題になる。週明けの株式市場は、混乱に見舞われる危険性が大きい」と番組内で発言し、直後の番組放送時間内に金融庁から「政策当局がりそなを救済する。万全を期すので混乱は起きない」との電話連絡を受けたことを、司会者が番組終了時に明らかにしたため、植草は疑問を呈した(番組が生放送だったためこのような事態となった)。りそな銀行に対する公的資金注入による救済は従前の通りであり、番組終了後の同日発表された。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "また、この破綻寸前のりそな銀行の経営状況を受け、当時、市場ではりそなホールディングス株の投売りが行われ、株価は暴落していた。そのような中、まるで公的資金注入による実質国有化に関する、竹中の方針転換を予測していたかのように、りそなの株価暴落の過程で、株価の反発を見込み、しっかりとりそな株を買い占めていたのが外資系投資ファンドだった。結局、この竹中の方針転換による公的資金注入の発表を受け、りそな株の価額は急騰。この局面で売り抜けた外資系投資ファンドは莫大な利益を手にした。この動きについて、竹中の行動を外資系投資ファンドは知っていて取引を行ったとするインサイダー取引疑惑がある。今日に至るまでこのインサイダー取引疑惑はくすぶり続けており、金融業界ではりそなの公的資金注入における最大の闇となっている。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "りそなへの公的資金注入は本来預金保険法が想定していない金融機関側の要請によって資本注入を行ったために、従来の公的資金注入とは異なり、予防的公的資金注入と呼ばれる。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "予防的公的資金注入は、金融機関が過小資本に陥ることによる経営破綻を回避するために行うもので、当時の預金保険法は金融機関による申請や、その適用要件に関して明確な基準が存在しなかった。そのため、申請当時には適用に関して一部から違法性が指摘された。また、金融機関が自主的に公的資金の注入を、予防的かつ自主的に申請できる必要性が認識されたために、後に預金保険法改正の要因となった。加えて、監査法人による決算の否認は、株主や預金者を保護する監査法人の重要性を再認識させ、その後の足利銀行の破綻に見られるように外部監査制度の責任強化につながった。さらには、エンロン事件以降重要視されるようになった内部統制システムの充実にも影響を与えたと言え、日本版SOX法である新会社法制定に与えた影響は無視できない。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "当時、企業の業績不安と不良債権処理の遅れ、政府の緊縮財政、財政再建政策及び金融機関に対しての厳罰主義から、日本企業の株価は下落を続けていたが、それまでの方針に反してりそな銀行に対して政府が採った機動的な資本注入は、金融機関の不良債権の抜本的処理に向けた小泉政権の強力な意思であると評価され、その後株価は上昇に転じた。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "この時りそな銀行を従前の通り破綻処理していれば、日本経済は間違いなく恐慌になっていたと言われる。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "経営体制に関しては、多額の公的資金を注入した経緯から、内部からの経営陣に加え、JR東日本出身の細谷英二会長をはじめとして外部企業から招聘した経営陣による新経営体制が確立された。これは、伝統的に外部から経営陣を招くことのなかった金融機関にとっては画期的な出来事であり、大企業の経営再建におけるモデルケースとして期待された。また経営制度では、委員会等設置会社への移行が図られた。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "大和銀行は、1994年(平成6年)にIBM製メインフレームで稼動する勘定系システム“ニュートン”(NEWTON)に続き、1996年(平成8年)には情報系システム“ダーウィン”(DARWIN)を稼動させ、第3次オンラインシステムへの移行を終了した。経費節減を目的に自社の保有する勘定系/情報系システムをIBMとの折半出資である「ディーアンドアイ情報システム」(D&I)に移管し、都市銀行としては初めてオンラインシステムをアウトソーシングする戦略を取った。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "その後、大和銀行を中核に地域銀行をグループ化する過程において、近畿大阪銀行など傘下銀行にNEWTON/DARWINを水平展開し、グループ間のシステム投資を軽減するシステム戦略が採用され、奈良銀行を皮切りに、近畿大阪銀行への導入が図られることになった。あさひ銀行との経営統合後には、旧あさひ銀行が開発した総合オンラインシステム“キャップ”(CAP。勘定系・情報系共にIBM製メインフレームで稼動。前身は旧協和銀行のオンラインシステム)を破棄し、新たに誕生するりそな銀行/埼玉りそな銀行にもNEWTON/DARWINを採用することが決定された。さらに、りそな銀行・埼玉りそな銀行が誕生した2003年(平成15年)3月には、次期NEWTON/DARWINの完成が間に合わないため、CAPをりそな銀行向けと埼玉りそな銀行向けに2分割(勘定分割)した上で、CAPを現行NEWTON/DARWINとリレーシステムで仮統合した後に、次期NEWTON/DARWINに順次移行するという複雑なシステム統合が計画された。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "しかし、2003年(平成15年)の実質的な国有化後、細谷英二会長を中心とする新経営陣は、規模も営業内容も異なる全傘下銀行にNEWTON/DARWINを水平展開するシステム戦略を、主にコスト的な問題から疑問視し、また技術的にも勘定系/情報系システムが不可分な設計であるNEWTON/DARWINは、24時間稼動対応、ハブ・アンド・スポーク型システム(旧来の勘定系中心のシステム構成ではなく、勘定系や情報系の機能をオブジェクト化して切り出し、ハブと呼ばれるデータ統合システムによって接続された多数のサーバに分割する方式)への対応が困難であることを理由に、傘下銀行の次期NEWTON/DARWINへの移行計画を破棄し、りそな銀行と埼玉りそな銀行については、破棄が予定されていた旧あさひ銀行のCAPへの統合を決定した。これに伴い、りそなホールディングスが保有するD&I株式の95%をIBMに譲渡し、IBMとのアウトソーシング契約を解消した。一方、アウトソーシング先として新たにNTTデータが選定され、CAPを運用するあさひ銀ソフトウェア(現NTTデータソフィア)の株式の95%をNTTデータに譲渡した。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "CAPをベースとした「統合システム」への移行は、2005年(平成17年)5月から店舗別に5回(旧あさひ銀のシステムの変更を含めると合計6回)に分けて行われ、同年9月12日に全ての店舗においてシステム統合が完了した。また、奈良銀行は「奈良りそな銀行」とする見込みでの当初計画のもと、2003年(平成15年)7月にNEWTON/DARWINへの移行を終えていたが、りそな国有化に伴う経営戦略転換の結果、2006年(平成18年)に奈良銀行自体がりそな銀行へ吸収合併され、この合併と同時に「統合システム」に移行した。近畿大阪銀行は、当初計画でのNEWTON/DARWINへの移行を始める前にりそな国有化となり当初計画は白紙化、旧近畿銀行から引き継いで利用していた独自のシステム(日立メインフレーム)を、NTTデータにアウトソースした上で継続使用して営業していたが、2008年(平成20年)7月22日に「統合システム」へ移行し、同日以後に発行した通帳については当行ATMおよび埼玉りそな銀行ATMでも共通書式として取り扱いが可能となった(ただし、これら2行とは通帳自体は別仕様であるため、繰越は近畿大阪銀行窓口でのみ可能。また、別仕様ゆえに、りそなグループで近畿大阪銀行のみが「総合口座通帳」を発行していることになる。また、廃止店の通帳・カードを継承店名のものに変更せずに利用していたケースおよび旧近畿銀行名のものを継続利用していたケースは強制切替の対象となった)。「統合システム」への移行が終了したりそな銀行においても、信託系システムは依然として並行稼動しているNEWTON/DARWINの周辺システムを利用しており、旧りそな信託銀行を含めて「統合システム」への最終的な信託系システムの移行・統合に関しては白紙状態である。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "情報系システムについても、NEWTON/DARWINの周辺システムを利用していたが、2014年8月より切離しが開始され、同11月17日にNTTデータが構築したオープン系システムへのリプレースが完了した。勘定系である「統合システム」についても、2015年1月5日にリプレースが完了している。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "NEWTON/DARWINは2007年(平成19年)10月1日に郵政民営化によって発足するゆうちょ銀行において、全銀システムへの接続や為替処理、信託業務の展開のために暫定的に採用が決定している。",
"title": "経営統合までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "※初代は頭取、2代目以降は社長と呼称。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "りそな銀行および埼玉りそな銀行では、総合口座を「りそなリテール口座」と呼称し、通帳を預金種類毎に分割している。なお、通帳自体はりそな銀行・埼玉りそな銀行共通であり、通帳表紙と見開き部の口座番号・名義人と併せて、勘定を置く銀行名が印字されるようになっており、法人(銀行)印影は「りそなグループ」となっている。通帳種類は以下の通り。",
"title": "主な商品・サービス"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2004年(平成16年)より、りそな銀行・埼玉りそな銀行共通で取り扱いが開始された通帳無発行型の普通預金口座である。通帳明細に代わるステートメントの郵送を行わず、りそなダイレクト(インターネットバンキング)上で閲覧する形式では都市銀行初であった。残高によって預金金利が変わる(残高段階型金利)「TIMO普通預金」を採用している。当初は残高などの取引内容に関わらず自行ATMの時間外手数料が無料となる点が特徴であったが、2015年4月で終了した。",
"title": "主な商品・サービス"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "インターネットバンキングである「りそなマイゲート」を運営している。",
"title": "主な商品・サービス"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "給与振込やローン利用、資産残高といった銀行取引に応じてキャッシュバックやポイント移行が可能となるポイントサービスを行っている。",
"title": "主な商品・サービス"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2018年7月9日から東日本旅客鉄道(JR東日本)グループの「ビューアルッテATM」384台で平日午前8時45分から午後6時の間、引出し手数料が無料で利用できる。エキナカATMが無料で使えるのはりそな銀行、埼玉りそな銀行のみである。",
"title": "主な商品・サービス"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "今まで、生体認証型キャッシュカードは、新規発行依頼時に税込1,000円を支払い、5年後の更新応当月前に更新発行にも発行手数料を税込1,000円を支払って発行していたが、2008年(平成20年)から、新規発行及び更新(前回発行分からの)発行には手数料を徴収しなくなった。このため、現在は特に希望しない限りは、生体認証対応ICキャッシュカードが発行され、従来の磁気ストライプカードは発行されない(事前に取引店に問い合わせをして可とされればこの限りではない)。また、生体認証付カードの発行を口座開設する場合と、現在使用している磁気のみのキャッシュカードからの切換発行をする場合のみ、店頭での即時発行を行うサービスを始めたが、一部の営業店(インストアブランチ系統の営業店等を除く)で発行を行える様になったが、本人確認書類によっては(運転免許証やパスポート等の公的機関が発行する写真付の物に限定)即時発行を行う事となった。但し、本人確認書類を持参した場合等でも即時発行の手続を行えるとは限らないので、取引店ないしは電話受付センター(りそなコミュニケーションダイヤル)等に詳細を確認する必要がある。",
"title": "主な商品・サービス"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "現在は、生体認証登録をした場合、生体認証に対応したグループ内のATMであれば、暗証番号の入力を省略することも可能となっている。なお、メールオーダでの口座開設の場合、「生体認証ICカード」か後述の「りそなカード+S」が発行され、なおかつ、TIMOで開設される。2016年より、埼玉りそな銀行および当社の一部支店で、印鑑登録を行わない店舗を設定した。",
"title": "主な商品・サービス"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "クレジット一体型のキャッシュカード。上述の「生体認証ICキャッシュカード」と、クレジットカード(りそなカードがクレディセゾンと提携して発行、国際ブランドはVISAのみ。券面の名称は \"Resona Card +S\")機能を併せ持つ。年会費は無料である。有効期限は、発行日または切替日の5年後応当日。",
"title": "主な商品・サービス"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "近畿地方の若者を初めとするリスナーに支持の高いFM局「FM802」と提携し、FM802が実施しているアートプロジェクト「digmeout」(ディグ・ミー・アウト)に参加している高山泰治(K2―黒田征太郎・長友啓典―出身)などのアーティスト達がオリジナルデザインした普通預金キャッシュカードである。名称はりそな銀行のRESONAとARTを合わせたもの。りそなカードでも採用されていた。 ただし、2009年(平成21年)1月30日を以て新規募集は終了している。",
"title": "主な商品・サービス"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "当初は通常の有通帳口座、近畿地方の旧大和銀行支店でのみの採用であったが、後に無通帳型預金口座「TIMO」や旧あさひ店でも扱っている。2004年(平成16年)3月末にスタジオジブリがデザインした「ひびきが丘物語」のキャッシュカードが廃止され、デザインキャッシュカードはRESONARTのみになった。",
"title": "主な商品・サービス"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "預金口座の新規開設か、現在開設の口座のキャッシュカードを交換してもらうことで入手可能である。 旧大和、あさひ(前身行の協和銀行・埼玉銀行・協和埼玉銀行含む)のキャッシュカードから交換する場合は無料。りそな銀行キャッシュカードからの場合は有料。 デザインが年数回更新され、古いデザインのカードは新たに入手できない。また、当初は近畿の旧大和銀行店舗での枚数限定だった。この企画は女性には人気が高いといわれ、新規顧客獲得に成功した。",
"title": "主な商品・サービス"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2016年8月3日(JALマイレージバンク提携サービスは、同年3月21日に先行実施)にサービスを開始した、りそな銀行のインターネット専用口座。2016年8月現在、支店はアルファ支店・ベータ支店のいずれかが割り当てられる。口座の開設から振込・取引確認など、ほぼすべてのサービスをスマートフォンのアプリから行う。",
"title": "主な商品・サービス"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "無通帳の総合口座とVisaデビットカード(オリジナル、またはJMB)がセットとなっているため、開設2年目以降はVisaデビットカードの会費が発生するが、一般のりそな銀行で発行されるVisaデビットカードと違い、年間1回の利用があれば会費の支払いが免除される他、デザインもりそなVisaデビットカード〈JMB〉が黒色、りそなVisaデビットカード〈オリジナル〉がりそにゃ柄になっている。",
"title": "主な商品・サービス"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "普通預金については、毎日の最終残高1,000円以上について付利単位を100円として、2月・8月の第2金曜日時点で毎日の店頭表示の利率で計算され、翌土曜日付で付与される。",
"title": "利息付与時期"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "貯蓄預金については、毎日の最終残高1,000円以上について付利単位を1円として、毎月の第2金曜日時点で毎日の最終残高が店頭表示の基準残高以上利率又は基準残高未満利率の別に計算され、翌土曜日付で付与される。",
"title": "利息付与時期"
}
] | 株式会社りそな銀行は、大阪府大阪市中央区に本店を置く、りそなホールディングス傘下の都市銀行。大阪府の単独指定金融機関。 | {{Otheruses||さいたま市浦和区に本店があるりそな銀行|埼玉りそな銀行}}
{{Pathnav|りそなホールディングス|frame=1}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社りそな銀行
| 英文社名 = Resona Bank, Limited
| ロゴ = [[File:Resona Bank logo.svg|250px]]
| 画像 = [[File:Resona-Bank-hq-01.jpg|300px]]
| 画像説明 = [[りそな銀行本社ビル]]
| 種類 = [[株式会社]]
| 機関設計 = [[監査等委員会設置会社]]<ref>[https://www.resonabank.co.jp/about/gaiyo/index.html 会社概要] - 株式会社りそな銀行</ref>
| 市場情報 =
| 略称 = りそな
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 540-8610
| 本社所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]][[備後町 (大阪市)|備後町]]二丁目2番1号
| 本社緯度度 = 34
| 本社緯度分 = 41
| 本社緯度秒 = 5.3
| 本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 135
| 本社経度分 = 30
| 本社経度秒 = 21.8
| 本社E(東経)及びW(西経) = E
| 本社地図国コード = JP
| 本店所在地 =
| 設立 = [[1918年]]([[大正]]7年)[[5月15日]]<br/>([[大和銀行|株式会社大阪野村銀行]])
| 業種 = 7050
| 統一金融機関コード = 0010
| SWIFTコード = DIWAJPJT
| 事業内容 = 銀行・信託業務
| 代表者 = [[岩永省一 (実業家)|岩永省一]]([[代表取締役]][[社長]])
| 資本金 = 2,799億2,800万円
| 発行済株式総数 = 1,349億7,938万3,058株<br/>(2023年3月期)
| 経常利益 = 連結:1,395億19百万円<br/>(2023年3月期)
| 純利益 = 連結:980億31百万円<br/>(2023年3月期)
| 純資産 = 連結:1兆5,447億84百万円<br/>(2023年3月期)
| 総資産 = 連結:42兆7,985億50百万円<br/>(2023年3月期)
| 従業員数 = 連結:8,566人<br/>単体:8,206人<br/>(2023年3月期)
| 決算期 = 3月31日
| 会計監査人 = [[有限責任監査法人トーマツ]]
| 主要株主 = [[りそなホールディングス]]:100%
| 主要子会社 = [[#関連会社|下記参照]]
| 関係する人物 = [[池田博之]](副会長)<br>[[中村重治]](元副社長)
| 外部リンク = https://www.resonabank.co.jp/
| 信託勘定財産 = 28兆8,688億57百万円
}}
{{基礎情報 銀行
| 銀行 = りそな銀行
| 英名= Resona Bank,Limited
| 英項名 =
| 統一金融機関コード = 0010
| SWIFTコード = DIWAJPJT
| 代表者氏名 =
| 代表者種別 =
| 氏名 =
| 店舗数 = '''国内324'''(本支店・出張所)<br/>'''海外4'''(駐在員事務所)
| 資本金 =
| 総資産 =
| 貸出金残高 = '''22兆6,557億07百万円'''
| 預金残高 = '''34兆950億57百万円'''
| 設立日 =
| 郵便番号 =
| 所在地 =
| 外部リンク =
| 特記事項 = 経営情報はすべて2023年3月期。
|信託財産残高=28兆8,688億円}}
'''株式会社りそな銀行'''(りそなぎんこう、{{Lang-en|Resona Bank, Limited}})は、[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]に本店を置く、[[りそなホールディングス]]傘下の[[都市銀行]]。大阪府の単独[[指定金融機関]]。
== 概要 ==
旧[[野村財閥]]の[[財閥]]系都市銀行である'''[[大和銀行]]'''と、旧[[貯蓄銀行]]の[[協和銀行]]および[[地方銀行]]の[[埼玉銀行]]を源流とする都市銀行である'''[[あさひ銀行]]'''の[[合併 (企業)|合併]]により誕生した。国内においては3大[[メガバンク]]に次ぐ規模を有する銀行であり、りそなグループの[[中核]]を担う。存続会社は大和銀行であり、[[統一金融機関コード|金融機関番号]]や本店所在地、[[ISO 9362|SWIFTコード]]も大和銀行からそのまま引き継いでいる。
行名の「りそな」とは[[ラテン語]]の「{{Lang|la|Resona}}(=[[共鳴]]せよ、響きわたれ:動詞 {{Lang|la|Resono}} の[[二人称]][[単数形|単数]][[命令法]][[現在形]])」から取られており、「お客さまの声に耳を傾け、共鳴し、響き合いながら、お客さまとの間に揺るぎない絆を築いていこう」という意図が込められている。りそなホールディングスのWebサイトにも、このことが述べられている<ref>[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/about/brand/concept.html ブランド戦略:ブランドコンセプト(名前の由来)] りそなホールディングス公式サイト</ref><ref group="注釈">かつて日産ディーゼル(現・[[UDトラックス]])が製造・販売していた大型トラックである「[[日産ディーゼル・レゾナ|レゾナ]]」の綴りも「RESONA」であるが、こちらは[[英語]]の「{{Lang|en|Resonance}}」から取られている({{Lang|en|Resonance}} の語源もラテン語の {{Lang|la|Resono}} であり「共鳴する、響きわたる」を意味する)。</ref>。
旧大和銀行は戦前の旧商号である野村銀行時代より一貫して、'''信託併営'''を継続している唯一の都市銀行であり、りそな銀行となった今でも唯一の存在である。信託業務を営むため、[[宅地建物取引業法]]第77条の信託会社・信託銀行に関する特例が適用されており、宅建業の届出番号は国土交通大臣届出第5号となっている。信託部門は、[[りそな信託銀行]](旧・大和銀信託銀行)として一時分社化したが、[[2009年]]に再統合されている。
大手[[証券会社]]の[[野村證券]]([[野村ホールディングス]])は大和銀行の証券部が分離・独立して誕生した。旧大和銀時代から[[国会議事堂|国会]]の[[議員会館]]内に[[衆議院]]支店(店番:328)・[[参議院]]支店(店番:329)を持つ銀行であるため、国会議員に対する融資などを通じて[[永田町]]との関係が深い銀行とされる。
== 営業拠点 ==
2023年3月現在、全国に324店舗を展開しているが他の都市銀行に比べ店舗数は少ない。47都道府県のうち25都道府県に店舗を展開する。店舗統廃合を進めており、法人営業店舗や店頭サービス店舗等に分類されている。
* [[埼玉県]]内は旧大和銀行店舗の朝霞台支店のみ(埼玉県の旧あさひ銀行店舗は[[埼玉りそな銀行]])
* [[四国]]は高知支店の廃止以後は店舗外ATMのみとなっており有人店舗は存在しない。
* [[政令指定都市]]の中では[[新潟市]]、[[静岡市]]、[[岡山市]]に店舗がない<ref group="注釈">[[静岡市]]については[[2010年]]に撤退(浜松支店に統合)。[[岡山市]]と[[新潟市]]は協和銀行時代に[[太陽神戸銀行]](現:[[三井住友銀行]])に譲渡。[[新潟県]]については[[長岡市]]に支店を置く。</ref>。
*大阪営業部(本店)
**[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]にある[[りそなグループ大阪本社ビル]](旧大和銀本店)に置かれている。登記上の本店もこちらに置く。以前は、持株会社の本社(2本社制のため、登記上の本店)も置かれていたが、持株会社の登記上の本店は現在、東京都に移転している。りそな銀の前身行のひとつである大和銀行(野村銀行)の創業時より長きに渡って同一所在地に置かれている本店である。財閥解体で名称変更した旧野村銀行は野村財閥の中軸であり、野村合名(旧野村財閥)も同住所に住所を置いていた。
*東京営業部
**[[東京都]][[千代田区]][[丸の内]]にある[[JPタワー]]に置かれている。埼玉りそな銀行東京支店も同じ場所にある<ref name="resonatokyo2022">[https://www.saitamaresona.co.jp/kojin/oshirase/download_c/files/20220617_tokyoeigyobu_iten.pdf りそな銀行『東京営業部』および埼玉りそな銀行『東京支店』の移転について](2022年6月 りそな銀行・埼玉りそな銀行)</ref>。以前は、旧あさひ銀本店(旧[[協和銀行]]本店)が入居していた[[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]]の[[りそな・マルハビル]]に東京本部・[[埼玉りそな銀行]]東京支店と共に置かれていたが、[[2010年]]にビルを[[三菱地所]]・[[新日本石油]](現・[[ENEOS]])へ売却。賃料コスト削減のため、都市銀行の東京中枢拠点としては異例の千代田区外にある住友不動産飯田橋ファーストビルに移転したが、2022年11月に再び移転した<ref name="resonatokyo2022" />。
*新都心営業部
**[[東京都]][[新宿区]][[西新宿]]にある西新宿パークウエストビルに置かれている。旧あさひ銀行新都心営業部。後に新宿新都心支店(旧大和銀行新宿新都心支店)を統合した。さらに、新宿支店(旧あさひ銀行新宿支店)の窓口も[[ブランチインブランチ]]として取り込んでいる(法人営業は従来地に存置)。
*新奈良営業部
**[[奈良県]][[奈良市]]にある[[JR奈良駅NKビル]]に置かれている。同行の前身行のひとつである[[奈良銀行]]本店営業部が、合併に伴い、2006年1月1日に新奈良営業部に改称した。なお、奈良支店(旧あさひ店)との店舗統合から現在地移転までの新奈良営業部は暫定的にりそな銀行旧奈良支店跡地に置かれており、旧奈良銀本店は解体された。
=== 以前存在した拠点 ===
*大手町営業部
**[[東京都]][[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]]の[[大手町野村ビル]]に置かれていた。
**旧野村銀行東京支店時代([[丸ノ内野村ビルディング|丸の内野村ビル]])の旧大和銀行の東京営業部である。
**合併直前に大手町営業部に改称。東京営業部と[[ブランチインブランチ]]後、正式に統合された。本店同様、旧大阪野村銀行時代から同一所在地で歴史的に長く入居していたが、東京本部と統合と同時に消滅し、共同自社ビルも売却された。
*大阪中央営業部
**[[大阪府]][[中央区 (大阪市)|中央区]]伏見町のあさひ銀大阪ビルに置かれていた。旧あさひ銀(旧協和 / 旧大阪貯蓄銀行本店)の大阪営業部である。合併直前に大阪中央営業部に改称。大阪営業部とブランチインブランチ後、正式に統合され自社ビルも売却された。
大和銀行、あさひ銀行合併前の[[2003年]](平成15年)3月に、埼玉県内の旧あさひ銀行の店舗は[[埼玉りそな銀行]]として分離され、さいたま営業部(埼玉銀行本店→協和埼玉銀行浦和営業部→あさひ銀行浦和営業部→あさひ銀行さいたま営業部)については、[[埼玉りそな銀行]]のさいたま営業部(本店)となっている。[[八重洲]]に所在した旧埼玉銀東京営業部は、りそな銀東京中央支店として現在も存続しているが、現在は日本橋に移転し、[[空中店舗]]となっている。
旧奈良銀店舗については、その後、桜川東支店(旧大阪支店)が2006年(平成18年)6月19日付で近接の桜川支店に統合されたが、それ以外の廃止予定は[[2007年]](平成19年)に入るまでなかった。
== スポーツ振興くじ(toto) ==
2005年12月まではりそな銀行 (開始当初は大和銀であったが、あさひ銀との合併により2003年3月に行名改称)に販売業務を委託し運営されていた。大和銀行からノウハウを学ぶためである。実際の売りさばき管理業務は日本スポーツ振興くじ株式会社に再委託されていた<ref>{{Cite news|title=144億円要求、りそな銀 toto業務委託料|author=|agency=[[共同通信]]|newspaper=[[47NEWS]]|date=2006-04-19|url=http://www.47news.jp/CN/200604/CN2006041901000909.html|accessdate=2013-09-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130927001058/http://www.47news.jp/CN/200604/CN2006041901000909.html|archivedate=2013年9月27日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。
== 経営統合までの経緯 ==
=== 大和銀行 ===
[[野村徳七 (二代)|野村徳七]]によって大阪野村銀行として創立(昭和に入り野村銀行と改称)、野村財閥の中核銀行として金融激戦地帯である[[大阪市]]に本拠地を置いた。戦後財閥解体により野村銀行から商号変更し、大和銀行となる。旧大和銀行は在阪三大都市銀行の一角(残り2つは三和銀行・住友銀行)であった。
(旧安田銀行の富士銀行への商号変更も同様の経緯。住友銀行は財閥解体により大阪銀行と商号を変えるが、その後住友銀行に戻している。)
信託部門併営の唯一の都市銀行であり、信託機能のツール多様性から、[[大蔵省]]から「他の都市銀行と同じスタートラインにない。」とみなされ、他の都市銀行のような店舗展開が認められなかった(都市銀行:多店舗展開、信託銀行:少店舗展開)。
徳七の「自主独往」の精神に基づき、どの銀行とも合併をせず交わらなかったことから、都市銀行の規模としては[[北海道拓殖銀行]]に次いで下から2番目の規模であった。しかしながら、信託部門は好調であり、年金信託受託残高、遺言信託などは全信託銀行中トップであった。
[[1995年]](平成7年)に同行ニューヨーク支店において、いわゆる[[大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件]]が発覚。当時としては、邦銀最大の店舗網を有していた[[アメリカ合衆国]]から撤退を余儀なくされたうえ、巨額の罰金も課せられた。この結果、米国内の店舗を[[住友銀行]]に譲渡する形で撤退。それと前後して同行との合併が[[日本経済新聞]]で報道された。
これにより大和プルダニア銀行(現在の[[りそなプルダニア銀行]])と数ヶ所の駐在員事務所を除いて、国際業務から撤退した。国際金融市場の中心地であるニューヨークからの追放は、当時純利益の3割を米国市場から得ていた同行にとっては、極めて大きな痛手となった。
大和銀行はこのような状況を背にして、総花的経営を見直し、筋肉質な経営基盤の構築に邁進、個人や中小企業を主要な取引対象とし親密な[[地方銀行]]をグループ内に取り込む「[[スーパーリージョナルバンク]]」構想を打ち出し難局の打開に取り組むこととなった。
先述したように、大阪府の指定金融機関を単独で受託している他、大阪府内の自治体の多くでも指定金融機関を受け持っている<ref>大阪市は三菱UFJ銀行、三井住友銀行、みずほ銀行と4行で輪番制で担当。大阪府下では[[東大阪市]]、[[枚方市]]、[[八尾市]]、[[茨木市]]などが単独でりそな銀行が指定金融機関を受託。他行・信用金庫との輪番で受け持つ自治体もある。</ref>。
{{see|大和銀行}}
=== あさひ銀行 ===
首都圏の[[地方銀行]]との合併を模索する旧[[埼玉銀行]]派閥と、他の上位・中位都銀との合併を模索する旧[[協和銀行]]派閥の対立が深刻化していたほか、[[バブル期]]の拡大戦略が裏目に出て、多額の[[不良債権]]を生みだしていた。[[2001年]](平成13年)5月末に海外拠点を[[東京三菱銀行]](現[[三菱UFJ銀行]])へ譲渡することで合意するなどして、[[リストラ]]の加速化が進んだ。また、旧埼玉銀行→旧あさひ銀行が指定金融機関の指定を受けていた流れから、りそな銀行が[[小平市]]、[[東村山市]]、[[清瀬市]]、[[東大和市]]、[[武蔵村山市]]、[[青梅市]]、[[あきる野市]]など[[多摩地区]]の一部市の指定金融機関となっている。
{{see|あさひ銀行}}
=== {{Anchors|実質国有化|りそなショック}} りそなグループの誕生から実質国有化へ ===
[[2001年]](平成13年)12月、大和銀行は同行の親密地方銀行である近畿大阪銀行と奈良銀行と共に、株式移転により[[金融持株会社]]大和銀ホールディングスを設立。各行はその傘下に入りした。同時に、大和銀行が兼営する信託部門のうち、法人向けの年金信託業務を新設した大和銀信託銀行に分割した。続いて[[2002年]](平成14年)3月には、あさひ銀行が株式交換により大和銀ホールディングスの傘下となった。そして、[[2003年]](平成15年)3月には、あさひ銀行の埼玉県内の営業拠点と資産を埼玉りそな銀行に[[会社分割]]し、残ったあさひ銀行は大和銀行と合併する形でりそな銀行が誕生した<ref>{{Cite news |title=りそな銀が営業開始 大阪、さいたま|author= |agency=共同通信|newspaper=47NEWS |date=2003-03-03 |url=https://web.archive.org/web/20130927001436/http://www.47news.jp/CN/200303/CN2003030301000067.html|accessdate=2013-09-25}}</ref>。
みずほ銀行と[[みずほコーポレート銀行]]に続き、りそな銀行と埼玉りそな銀行は、世界的に見ても例の少ない合併分割による経営統合を行った。これは、大阪に本店を置く大和銀行にあさひ銀行が吸収されることで、埼玉県内において圧倒的な規模を誇るあさひ銀行の収益基盤が縮小することや、経営方針変更等による地域経済への影響、危惧を考慮し地域に対するコミットメントを明らかにしたものであると言われる。同時に、合併分割によって合併差益による自己資本の増強効果があり、悪化する経営を一時的に救う効果があった。しかし、このような複雑な経営統合方法は後述するシステム問題を含め、スケールメリットを阻害する要因となり、現在もなお経営形態の見直しが議論されている<ref>{{Cite news |title=再燃する埼玉りそな独立運動と公的資金残高8716億円返済後の行方|author= |agency=|newspaper= ビジネスジャーナル|date=2013-02-12 |url=http://biz-journal.jp/2013/02/post_1490.html|accessdate=2013-09-25}}</ref><ref>{{Cite news |title=りそな公的資金返済で浮上する再編の観測|author= |agency=|newspaper=東洋経済オンライン |date=2007-06-27 |url=http://toyokeizai.net/articles/-/230|accessdate=2013-09-25}}</ref>。
発足直後の[[2003年]](平成15年)[[4月22日]]、同行の監査を担当する[[監査法人]]のうち、合併前の決算を審査するため、[[新日本監査法人]]と共同監査を行っていた朝日監査法人(現在の[[有限責任あずさ監査法人]])が、[[繰延税金資産]]の取扱をめぐり同行の共同監査を辞退し、決算監査が大幅に遅延する異常事態となった。
残った新日本監査法人は、5月に入り繰延税金資産組み入れの前提となる将来の収益性を疑問視し、りそな銀行の主張する他の都市銀行と同じ繰延税金資産5年分を否定して、3年分の組み入れしか認めない方針を明らかにした。
その判断には現在も多くの議論の余地があるが、この判断に基づくと同行の自己資本比率は、国内基準である4%を下回る、2%台に転落する可能性が出た。そのため5月17日に至り、政府に対して[[預金保険法]]第102条第1項第1号に基づく資本注入(第1号処置)を申請した。同日緊急招集された政府・[[日本銀行]]による金融危機対応会議において、同行の申請を認め、資本注入並びに同行に対する早期是正措置・業務改善命令が発動された<ref>{{Cite news |title=株式会社りそな銀行に対する資本増強の決定等について|author= |agency=|newspaper=金融庁 |date=2003年6月10日 |url=https://www.fsa.go.jp/news/newsj/14/ginkou/f-20030610-1.html|accessdate=2013-09-25}}</ref>。
政府による、総額1兆9660億円の[[公的資金]]注入(正確には[[預金保険機構]]による株式取得)は<ref>{{Cite news |title=りそな銀に公的資金決定 1兆円台半ばから2兆円 |author= |agency=共同通信|newspaper= 47NEWS |date=2003-05-17 |url=https://web.archive.org/web/20130927001100/http://www.47news.jp/CN/200305/CN2003051701000505.html|accessdate=2013-09-25}}</ref>、従来の[[優先株]]による無議決権資本注入に加え、額の巨額さや経営再建への影響力を勘案された結果、[[普通株]]での資本注入が行われたために、預金保険機構の持ち株の比率が上がり、一時りそな銀行は事実上預金保険機構が筆頭株主となる異常事態が発生、これを実質国有化と呼んでいる。
なおこの実質国有化に関して、当時、[[竹中平蔵]]金融担当大臣は、都市銀行であっても区別せず破綻させる旨を事あるごとに発言<ref name=Biz-Journal_20141029_Resona_Takneka.Heizou-Insider.Trading/>しており、破綻処理した[[足利銀行]]との扱いの差を疑問視する者も多い。特に5月17日に[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]で放送された報道番組「[[ウェークアップ!]]」に出演していた経済評論家[[植草一秀]]が、「もし、りそな銀行を破綻させるという方針で動くのであれば、株主責任を当然問わなければならないので大問題になる。週明けの株式市場は、混乱に見舞われる危険性が大きい」と番組内で発言し、直後の番組放送時間内に[[金融庁]]から「政策当局がりそなを救済する。万全を期すので混乱は起きない」との電話連絡を受けたことを、司会者が番組終了時に明らかにしたため、植草は疑問を呈した(番組が生放送だったためこのような事態となった)。りそな銀行に対する公的資金注入による救済は従前の通りであり、番組終了後の同日発表された。
また、この破綻寸前のりそな銀行の経営状況を受け、当時、市場ではりそなホールディングス株の投売りが行われ、株価は暴落していた<ref name=Biz-Journal_20141029_Resona_Takneka.Heizou-Insider.Trading/>。そのような中、まるで公的資金注入による実質国有化に関する、竹中の方針転換を予測していたかのように、りそなの株価暴落の過程で、株価の反発を見込み、しっかりとりそな株を買い占めていたのが外資系投資ファンドだった<ref name=Biz-Journal_20141029_Resona_Takneka.Heizou-Insider.Trading/>。結局、この竹中の方針転換による公的資金注入の発表を受け、りそな株の価額は急騰<ref name=Biz-Journal_20141029_Resona_Takneka.Heizou-Insider.Trading/>。この局面で売り抜けた外資系投資ファンドは莫大な利益を手にした<ref name=Biz-Journal_20141029_Resona_Takneka.Heizou-Insider.Trading/>。この動きについて、竹中の行動を外資系投資ファンドは知っていて取引を行ったとするインサイダー取引疑惑がある<ref name=Biz-Journal_20141029_Resona_Takneka.Heizou-Insider.Trading/>。今日に至るまでこのインサイダー取引疑惑はくすぶり続けており<ref name=Biz-Journal_20141029_Resona_Takneka.Heizou-Insider.Trading/>、金融業界ではりそなの公的資金注入における最大の闇となっている<ref name=Biz-Journal_20141029_Resona_Takneka.Heizou-Insider.Trading>[http://biz-journal.jp/2014/10/post_6463.html りそな国有化終了で高まる、りそな主導の地銀再編加速観測 くすぶる11年前の疑惑] ビジネスジャーナル 2014年10月29日配信 2016年12月10日確認</ref>。
=== 初の予防的公的資金注入 ===
りそなへの公的資金注入は本来[[預金保険法]]が想定していない金融機関側の要請によって資本注入を行ったために、従来の公的資金注入とは異なり、予防的公的資金注入と呼ばれる。
予防的公的資金注入は、金融機関が過小資本に陥ることによる経営破綻を回避するために行うもので、当時の預金保険法は金融機関による申請や、その適用要件に関して明確な基準が存在しなかった。そのため、申請当時には適用に関して一部から違法性が指摘された。また、金融機関が自主的に公的資金の注入を、予防的かつ自主的に申請できる必要性が認識されたために、後に預金保険法改正の要因となった。加えて、監査法人による決算の否認は、株主や預金者を保護する監査法人の重要性を再認識させ、その後の[[足利銀行]]の破綻に見られるように外部監査制度の責任強化につながった。さらには、[[エンロン]]事件以降重要視されるようになった[[内部統制システム]]の充実にも影響を与えたと言え、日本版[[SOX法]]である新[[会社法]]制定に与えた影響は無視できない。
当時、企業の業績不安と不良債権処理の遅れ、政府の緊縮財政、財政再建政策及び金融機関に対しての厳罰主義から、日本企業の株価は下落を続けていたが、それまでの方針に反してりそな銀行に対して政府が採った機動的な資本注入は、金融機関の不良債権の抜本的処理に向けた[[小泉純一郎内閣|小泉政権]]の強力な意思であると評価され、その後株価は上昇に転じた。
この時りそな銀行を従前の通り破綻処理していれば、日本経済は間違いなく[[恐慌]]になっていたと言われる。
経営体制に関しては、多額の公的資金を注入した経緯から、内部からの経営陣に加え、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]出身の[[細谷英二]]会長をはじめとして外部企業から招聘した経営陣による新経営体制が確立された<ref>{{Cite news |title=りそな会長にJRの細谷氏 |author= |agency=共同通信|newspaper= 47NEWS |date=2003-05-30 |url=https://web.archive.org/web/20091014175356/http://www.47news.jp/CN/200305/CN2003053001000271.html|accessdate=2013-09-25}}</ref>。これは、伝統的に外部から経営陣を招くことのなかった金融機関にとっては画期的な出来事であり、大企業の経営再建におけるモデルケースとして期待された。また経営制度では、委員会等設置会社への移行が図られた。
=== オンラインシステムの統合に関する経緯 ===
大和銀行は、[[1994年]](平成6年)に[[IBM]]製[[メインフレーム]]で稼動する勘定系システム“ニュートン”(NEWTON)に続き、[[1996年]](平成8年)には情報系システム“ダーウィン”(DARWIN)を稼動させ、第3次オンラインシステムへの移行を終了した。経費節減を目的に自社の保有する勘定系/情報系システムをIBMとの折半出資である「ディーアンドアイ情報システム」(D&I)に移管し、都市銀行としては初めてオンラインシステムを[[アウトソーシング]]する戦略を取った。
その後、大和銀行を中核に地域銀行をグループ化する過程において、近畿大阪銀行など傘下銀行にNEWTON/DARWINを水平展開し、グループ間のシステム投資を軽減するシステム戦略が採用され、奈良銀行を皮切りに、近畿大阪銀行への導入が図られることになった。あさひ銀行との経営統合後には、旧あさひ銀行が開発した総合オンラインシステム“キャップ”(CAP。勘定系・情報系共にIBM製メインフレームで稼動。前身は旧協和銀行のオンラインシステム)を破棄し、新たに誕生するりそな銀行/埼玉りそな銀行にもNEWTON/DARWINを採用することが決定された。さらに、りそな銀行・埼玉りそな銀行が誕生した[[2003年]](平成15年)3月には、次期NEWTON/DARWINの完成が間に合わないため、CAPをりそな銀行向けと埼玉りそな銀行向けに2分割(勘定分割)した上で、CAPを現行NEWTON/DARWINとリレーシステムで仮統合した後に、次期NEWTON/DARWINに順次移行するという複雑なシステム統合が計画された<ref>{{Cite news |title=「りそな」のシステム再編は偉業 |author= |agency=|newspaper= 日経コンピュータ |date=2003-03-27 |url=https://xtech.nikkei.com/it/free/NC/yajima/20030324/1/|accessdate=2013-09-25}}</ref>。
しかし、[[2003年]](平成15年)の実質的な国有化後、細谷英二会長を中心とする新経営陣は、規模も営業内容も異なる全傘下銀行にNEWTON/DARWINを水平展開するシステム戦略を、主にコスト的な問題から疑問視し、また技術的にも勘定系/情報系システムが不可分な設計であるNEWTON/DARWINは、24時間稼動対応、ハブ・アンド・スポーク型システム(旧来の勘定系中心のシステム構成ではなく、勘定系や情報系の機能をオブジェクト化して切り出し、ハブと呼ばれるデータ統合システムによって接続された多数のサーバに分割する方式)への対応が困難であることを理由に、傘下銀行の次期NEWTON/DARWINへの移行計画を破棄し、りそな銀行と埼玉りそな銀行については、破棄が予定されていた旧あさひ銀行のCAPへの統合を決定した。これに伴い、りそなホールディングスが保有するD&I株式の95%をIBMに譲渡し、IBMとのアウトソーシング契約を解消した。一方、アウトソーシング先として新たに[[NTTデータ]]が選定され、CAPを運用するあさひ銀ソフトウェア(現NTTデータソフィア)の株式の95%をNTTデータに譲渡した。
CAPをベースとした「統合システム」への移行は、[[2005年]](平成17年)5月から店舗別に5回(旧あさひ銀のシステムの変更を含めると合計6回)に分けて行われ、同年9月12日に全ての店舗においてシステム統合が完了した<ref>{{Cite news |title=りそな、システム統合完了 障害報告なし |author= |agency=共同通信|newspaper= 47NEWS |date=2005-09-12 |url=https://web.archive.org/web/20130927001102/http://www.47news.jp/CN/200509/CN2005091201001866.html|accessdate=2013-09-25}}</ref>。また、奈良銀行は「奈良りそな銀行」とする見込みでの当初計画のもと、[[2003年]](平成15年)7月にNEWTON/DARWINへの移行を終えていたが、りそな国有化に伴う経営戦略転換の結果、[[2006年]](平成18年)に奈良銀行自体がりそな銀行へ吸収合併され、この合併と同時に「統合システム」に移行した。近畿大阪銀行は、当初計画でのNEWTON/DARWINへの移行を始める前にりそな国有化となり当初計画は白紙化、旧近畿銀行から引き継いで利用していた独自のシステム([[日立製作所|日立]]メインフレーム)を、NTTデータにアウトソースした上で継続使用して営業していたが、[[2008年]](平成20年)[[7月22日]]に「統合システム」へ移行し、同日以後に発行した通帳については当行ATMおよび埼玉りそな銀行ATMでも共通書式として取り扱いが可能となった(ただし、これら2行とは通帳自体は別仕様であるため、繰越は近畿大阪銀行窓口でのみ可能。また、別仕様ゆえに、りそなグループで近畿大阪銀行のみが「総合口座通帳」を発行していることになる。また、廃止店の通帳・カードを継承店名のものに変更せずに利用していたケースおよび旧近畿銀行名のものを継続利用していたケースは強制切替の対象となった)。「統合システム」への移行が終了したりそな銀行においても、信託系システムは依然として並行稼動しているNEWTON/DARWINの周辺システムを利用しており、旧りそな信託銀行を含めて「統合システム」への最終的な信託系システムの移行・統合に関しては白紙状態である。
情報系システムについても、NEWTON/DARWINの周辺システムを利用していたが、[[2014年]]8月より切離しが開始され、同[[11月17日]]にNTTデータが構築したオープン系システムへのリプレースが完了した<ref>{{Cite news|title=りそなグループ「新情報系システム」をオープン基盤で稼動|publisher=株式会社NTTデータ|date=2014-12-22|url=http://www.nttdata.com/jp/ja/news/services_info/2014/2014122201.html|accessdate=2014-12-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141228103605/http://www.nttdata.com/jp/ja/news/services_info/2014/2014122201.html|archivedate=2014-12-28}}</ref><ref>「りそな、情報系システムを刷新」『日本経済新聞電子版』2014年12月22日</ref>。勘定系である「統合システム」についても、[[2015年]]1月5日にリプレースが完了している。
=== 旧大和銀行システムの売却、ゆうちょ銀行での採用 ===
NEWTON/DARWINは[[2007年]](平成19年)[[10月1日]]に[[郵政民営化]]によって発足する[[ゆうちょ銀行]]において、[[全銀システム]]への接続や為替処理、信託業務の展開のために暫定的に採用が決定している<ref>{{Cite news |title=日本郵政が経営計画を提出、貯金システムの全銀接続を明記 |author= |agency=|newspaper= 日経コンピュータ |date=2006-07-31 |url=https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20060731/244708/|accessdate=2013-09-25}}</ref><ref>{{Cite news |title=「ゆうちょ銀行の全銀システム接続は2008年5月」、日本郵政の西川社長が見通し |author= |agency=|newspaper= 日経コンピュータ |date=2007-04-27 |url=https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20070427/269814/|accessdate=2013-09-25}}</ref>。
== 沿革 ==
{{Main2|統合前の沿革については「[[大和銀行]]」「[[あさひ銀行]]」「[[協和銀行]]」「[[埼玉銀行]]」を}}
* [[2001年]](平成13年)12月 - 大和銀行が、近畿大阪銀行及び奈良銀行との株式移転により、株式会社大和銀ホールディングス(現在の株式会社りそなホールディングス)を設立し、3行はその完全子会社となる。同時に大和銀行の信託業務を分割し、大和銀信託銀行を設立。
* [[2002年]](平成14年)
** 3月1日 - あさひ銀行が株式交換により、株式会社大和銀ホールディングスの完全子会社となる。
** 6月18日 - あさひ信託銀行が株式会社大和銀ホールディングスの完全子会社となる。
** 10月1日 - 大和銀行を存続会社としてあさひ信託銀行を合併。同時に大和銀信託銀行がりそな信託銀行に改称。
* [[2003年]](平成15年)
** 3月1日 - 埼玉りそな銀行へあさひ銀行の埼玉県内の営業を譲渡。大和銀行があさひ銀行を合併し、'''株式会社りそな銀行'''に商号変更。
** 7月1日 - 預金保険機構による株式の引受けにより、りそなホールディングスの完全子会社でなくなる。
** 8月7日 - りそなホールディングスと株式交換し、再び同社の完全子会社となる。
* [[2006年]](平成18年)1月1日 - 株式会社奈良銀行を吸収合併(合併後の営業開始日は[[1月4日]])、[[東京工科大学]]と地域発展のための包括的連携に関する協定が締結<ref group="注釈">
* 「産学官連携」として、東京工科大学と小学生向け金融経済eラーニング教材「りそなキッズマネーアカデミー」を共同開発した。
** また同大に[[八王子市]]も参加し、前述の金融教育システム共同開発を礎として金融経済教育の協調学習モデル調査研究事業を共同研究している。</ref>。
* [[2007年]](平成19年)11月 - りそな銀行・埼玉りそな銀行・近畿大阪銀行相互間の時間外手数料を無料化<ref>[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/190619_1a.pdf 【りそな・埼玉りそな・近畿大阪】ATM時間外手数料無料化について](pdf)りそなホールディングス2007年6月19日</ref>。
* [[2009年]](平成21年)
** 3月9日 - 新奈良営業部が大安寺支店を統合の上、JR奈良駅NKビルへ移転。
** 4月1日 - りそな信託銀行株式会社を吸収合併。
** 11月24日 - 東京本部の移転に先立ち、東京営業部を東京都千代田区大手町の[[りそな・マルハビル]]より、東京都文京区後楽の住友不動産飯田橋ファーストビル7Fへ移転。これに伴い、[[空中店舗]]化。
* [[2010年]](平成22年)
** 3月15日 - 高知支店を廃止。これにより都市銀行で唯一四国に有人店舗の無い銀行となった。
** 5月6日 - 東京本部を[[深川ギャザリア]]へ移転。
* [[2011年]](平成23年)
** 2月15日 - [[大阪府咲洲庁舎]]内に、有人出張所・大手支店咲洲出張所(空中店舗)を開設。
** 3月14日 - [[東日本大震災による電力危機]]に対応するため、仙台支店と浜松支店以外の店舗窓口営業時間を通常の17時までから15時閉店に短縮する措置を実施<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/230314_1a.pdf 「計画停電」への対応ならびに営業時間の変更について]}}</ref>。3月28日に首都圏以外の店舗は通常営業時間に戻した<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/resonabank/jishin/pdf/20110325b.pdf 部店舗における営業時間の変更について]}}</ref>。
** 3月22日 - 東日本大震災による電力危機に対応するため、店舗外のりそなクイックロビーを休止<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/resonabank/jishin/pdf/20110318.pdf ATM稼働時間の短縮・休止について]}}</ref>。同年5月23日に再開した<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/resonabank/jishin/pdf/20110513.pdf 営業を休止していたATMの再開について]}}</ref>。
* [[2012年]](平成24年)9月25日 - [[川崎市]][[幸区]]の新川崎スクエア1階に「新川崎支店」を開設。
* [[2014年]](平成26年)4月1日 - [[大阪市]][[阿倍野区]]の[[あべのハルカス]]32階に阿倍野橋支店セブンデイズプラザあべのハルカス出張所、あべのハルカスローンプラザを開設。
* [[2015年]](平成27年)
** 3月31日 - [[ホーチミン市|ホーチミン]]駐在員事務所開設。
** 4月6日 - 埼玉りそな銀、近畿大阪銀と共にグループ3行間において休日、祝日も含めて24時間の振込決済を実現化<ref>{{Cite news |title=りそな、振り込み24時間に 来年4月、グループ3行 |author= |agency=|newspaper=共同通信 |date=2014-10-26 |url=https://web.archive.org/web/20141230115748/http://www.47news.jp/CN/201410/CN2014102601001315.html|accessdate=2014-12-30}}</ref>。
** 6月25日 ‐ 親会社であるりそなホールディングスが公的資金を完済<ref>{{Cite web|和書|title=公的資金の完済について|りそなグループのあゆみ|りそなホールディングス |url=https://www.resona-gr.co.jp/holdings/about/hd_gaiyou/ayumi_kouteki.html |website=りそなホールディングス |access-date=2023-08-21 |language=ja}}</ref>。
** 11月15日 - 約3年ぶりの新店舗として豊洲支店(東京都[[江東区]])を開設<ref>{{Cite news |title=りそな銀、印鑑なしで口座開設 東京・豊洲に新型店舗 |author= |agency=|newspaper=日本経済新聞 |date=2015-11-15 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASGC15H07_V11C15A1NN7000/|accessdate=2016-05-31}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)
** 3月21日 - 大手行では初の個人向け無担保ローンの借り入れ手続きから審査及び融資の実行をネットで完結可能なサービスをグループ3行で開始<ref>{{Cite news |title=りそな、個人ローン手続きネット完結 審査から実行まで|author= |agency=|newspaper=日本経済新聞 |date=2016-03-22 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASGC19H01_S6A320C1EAF000/|accessdate=2016-05-31}}</ref>。
** 5月16日 - [[カルチュア・コンビニエンス・クラブ|CCC]]との提携によって同社が大阪府[[枚方市]]で運営を手掛ける複合施設「[[枚方T-SITE]]」に枚方支店を移転開業<ref>{{Cite news |title=深呼吸するとお金でなく文化の匂い…りそな銀が書斎風店舗を開設|author= |agency=|newspaper=産経ニュース |date=2016-05-16 |url=https://www.sankei.com/article/20160516-J7MFJT2PRBL7NI53AZEFDLL2DA/|accessdate=2016-05-31}}</ref><ref>{{Cite news|title=りそな銀と連携、滞在型「蔦屋書店」今春枚方で開店 待ち時間も退屈知らず|newspaper=産経WEST|date=2016-03-23|url=http://www.sankei.com/west/news/160323/wst1603230115-n1.html|accessdate=2016-05-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160326020130/http://www.sankei.com/west/news/160323/wst1603230115-n1.html|archivedate=2016-03-26}}</ref>。
*[[2018年]](平成30年)
** 8月8日 - あきる野支店五日市出張所において、大手銀行としては異例の平日休業(毎週水曜)を実施<ref>{{cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO3357235030072018EE9000/|title=「平日休業」銀行で拡大も りそな、8月に都内で開始|newspaper=日本経済新聞|date=2018-07-30|accessdate=2018-07-30}}</ref>。
*[[2019年]](平成31年)
**3月までにりそな銀行、埼玉りそな銀行の全支店において住宅ローンや口座開設などの手続きで印鑑を押すことを原則として取りやめる方針が明らかとなる。近畿大阪銀行はシステムの準備が整い次第開始予定<ref>{{Cite news|title=りそな銀、印鑑やめます 大手行初、3年後めど|newspaper=朝日新聞デジタル|date=2016-05-20|url=http://www.asahi.com/articles/ASJ5M514FJ5MULFA018.html|accessdate=2016-05-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160615173836/http://www.asahi.com/articles/ASJ5M514FJ5MULFA018.html|archivedate=2016-06-15}}</ref>。
*[[2020年]](令和2年)
**8月24日 - 高槻富田支店が関西みらい銀行の富田支店の機能を取り込んで2行で店舗共同化。以後、10数店舗<!-- 千里中央・四条畷・交野・初芝・瓢箪山・豊中服部・鶴橋・生野・長居・難波など(順不同) -->を順次<!-- 関西みらい銀行と -->共同化。<!-- 当行の業務を関西みらい銀行へ(又はその逆の形で)受委託をしている。 -->
=== 母体行 ===
==== 大和銀行 ====
{{See|大和銀行}}
==== 協和銀行 ====
{{See|協和銀行}}
==== 埼玉銀行 ====
{{See|埼玉銀行}}
==== 奈良銀行 ====
{{See|奈良銀行}}
==== りそな信託銀行 ====
{{See|りそな信託銀行}}
=== 歴代頭取・社長 ===
{|class=wikitable
|-
!代数||氏名||在任期間||出身校||出身行
|-
|初代||[[勝田泰久]]||2003年3月 - 2003年5月||[[早稲田大学]]第一法学部||[[大和銀行]]
|-
|第2代||[[野村正朗]]||2003年5月 - 2007年6月||[[大阪大学]]基礎工学部||[[大和銀行]]
|-
|第3代||[[水田廣行]]||2007年6月 - 2009年6月||[[東京大学]]文学部||[[協和銀行]]
|-
|第4代||[[岩田直樹]]||2009年6月 - 2013年4月||[[香川大学]]経済学部||[[大和銀行]]
|-
|第5代||[[東和浩]]||2013年4月 - 2020年4月||[[上智大学]]経済学部||[[埼玉銀行]]
|-
|第6代||[[岩永省一 (実業家)|岩永省一]]||2020年4月 - ||[[明治大学]]経営学部||[[大和銀行]]
|}
※初代は頭取、2代目以降は社長と呼称。
==関連会社==
*連結子会社
**[[りそなプルダニア銀行]]
**りそな・インドネシア・ファイナンス
**りそなマーチャントバンクアジア
*持分法適用関連会社
**[[日本カストディ銀行]]
== 海外拠点 ==
* {{HKG}}
** [[香港]]駐在員事務所
* {{CHN}}
** [[上海]]駐在員事務所
* {{THA}}
** [[バンコック]]駐在員事務所
* {{SIN}}
**りそなマーチャントバンクアジア
* {{INA}}
** [[りそなプルダニア銀行]]
** りそなプルダニア銀行チカラン出張所
** りそなプルダニア銀行カラワン出張所
** りそなプルダニア銀行MM2100出張所
** りそなプルダニア銀行スラバヤ支店
** りそなプルダニア銀行バンドン支店
** りそな・インドネシア・ファイナンス
* {{VIE}}
** [[ホーチミン市|ホーチミン]]駐在員事務所
== 海外提携銀行 ==
*{{USA}}
**[[バンク・オブ・ザ・ウェスト]]
* {{HKG}}
** [[東亜銀行]]
* {{CHN}}
**東亜銀行
** [[中国銀行 (中華人民共和国)|中国銀行]]
** [[中国建設銀行]]
** [[中国工商銀行]]
**[[交通銀行]]
*{{KOR}}
**KEBハナ銀行
*{{TWN}}
**[[兆豊国際商業銀行]]
* {{THA}}
** [[バンコク銀行]]
*{{VNM}}
**[[サコム銀行]]
**ベトナム投資開発銀行
*{{MMR}}
**ミャンマー・アペックス銀行
*{{LAO}}
**パブリック銀行
*{{KHM}}
**パブリック銀行
*{{PHL}}
**リサール商業銀行
**フィリピン経済区庁
*{{MYS}}
**[[パブリック銀行]]
*{{SGP}}
**[[ユナイテッド・オーバーシーズ銀行]]
* {{IND}}
** [[インドステイト銀行]]
**アクシス銀行
**イエス銀行
== 主な商品・サービス ==
=== 総合口座 ===
りそな銀行および埼玉りそな銀行では、[[総合口座]]を「'''りそなリテール口座'''」と呼称し、通帳を預金種類毎に分割している<ref group="注釈">
* [[2004年]](平成16年)4月1日以降開設された[[口座]](旧奈良銀行だった支店は、合併以後の営業日である[[2006年]](平成18年)[[1月4日]]以降に開設された口座)では、2年間入出金がなく、かつ残高が1万円未満の口座について、'''休眠口座管理手数料'''として1,200円を徴収することとなった。</ref>。なお、通帳自体はりそな銀行・埼玉りそな銀行共通であり、通帳表紙と見開き部の口座番号・名義人と併せて、勘定を置く銀行名が印字されるようになっており<ref group="注釈">冊子は異なるが、システム統合後の近畿大阪銀行においても同様のレイアウトとなっている。</ref>、法人(銀行)印影は「りそなグループ」となっている。通帳種類は以下の通り。
* '''くらしの通帳''' - 2009年7月6日発行分から「総合口座[[普通預金]]」のみの通帳となっている。記帳頁数は13頁ある。この通帳に「ゆとりの通帳」や「証券口座([[公共債]]保護預かり座相当)」をセットすると、それらの預入残高を担保にして一定額まで「自動貸越サービス」による自動融資([[当座貸越]])が受けられる。
** 2009年7月3日以前発行の「くらしの通帳」は貯蓄預金兼用型となっており、普通預金が1 - 8ページ目、貯蓄預金が<ref group="注釈">
* りそな銀行と埼玉りそな銀行は[[都市銀行]]で初めて、[[貯蓄預金]]の新規口座開設を2004年(平成16年)4月1日付けで取りやめた。
: [[2006年]](平成18年)[[4月17日]]からは三井住友銀行も新規開設を停止した。
* システム統合後(旧あさひ店は[[2005年]](平成17年)[[5月6日]]以降発行分より)に発行されている「くらしの通帳」(表紙はクリーム色)にも、「貯蓄預金の新規口座開設は、平成16年4月1日より中止しております」という記述がある。
: また、金利もHP上では未公表となっている(三井住友銀行は新規受付停止後も公表している)。</ref>9 - 11ページ目であった。
* '''ゆとりの通帳''' - 総合口座担保定期預金と積立(積立定期預金)で構成され、定期預金が1 - 6ページ目、積立が7 - 11ページ目に記入される。通常、通帳作成時に総合口座定期預金として「くらしの通帳」へセットされるため、預入額の90%・最高200万円まで「くらしの通帳(総合口座普通預金)」の自動貸越サービスが利用できる。
* 貯蓄預金通帳 - 2009年7月6日以降に通帳繰越・紛失などで「くらしの通帳」を発行する場合、新たな「くらしの通帳(総合口座普通預金のみ)」より貯蓄預金が分離される事になったため、改めて発行されるようになった。
=== TIMO ===
[[2004年]](平成16年)より、りそな銀行・埼玉りそな銀行共通で取り扱いが開始された通帳無発行型の普通預金口座である。通帳明細に代わるステートメントの郵送を行わず、りそなダイレクト(インターネットバンキング)上で閲覧する形式では都市銀行初であった。残高によって預金金利が変わる(残高段階型金利)「TIMO普通預金」を採用している。当初は残高などの取引内容に関わらず自行ATMの時間外手数料が無料となる点が特徴であったが、2015年4月で終了した。
=== りそなマイゲート ===
[[インターネットバンキング]]である「りそなマイゲート」<ref>[http://www.resona-gr.co.jp/resonabank/direct/index.html りそなマイゲート] りそな銀行 公式サイト</ref>を運営している。
=== りそなクラブ ===
給与振込やローン利用、資産残高といった銀行取引に応じてキャッシュバックやポイント移行が可能となる[[ポイントサービス]]を行っている<ref>[http://www.resona-gr.co.jp/resonabank/club/index.html りそなクラブ] りそな銀行公式サイト</ref>。
=== ビューアルッテATM ===
[[2018年]]7月9日から[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)グループの「[[ビューアルッテ]]ATM」384台で平日午前8時45分から午後6時の間、引出し手数料が無料で利用できる。エキナカATMが無料で使えるのはりそな銀行、埼玉りそな銀行のみである。<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL5K5G6ZL5KULFA01C.html りそな、街のATM無料化進める エキナカやコンビニ]</ref>
=== キャッシュカード ===
==== 生体認証ICキャッシュカード(一般カード) ====
今まで、生体認証型キャッシュカードは、新規発行依頼時に税込1,000円を支払い、5年後の更新応当月前に更新発行にも発行手数料を税込1,000円を支払って発行していたが、[[2008年]](平成20年)から、新規発行及び更新(前回発行分からの)発行には手数料を徴収しなくなった。このため、現在は特に希望しない限りは、生体認証対応ICキャッシュカードが発行され、従来の磁気ストライプカードは発行されない(事前に取引店に問い合わせをして可とされればこの限りではない)。また、生体認証付カードの発行を口座開設する場合と、現在使用している磁気のみのキャッシュカードからの切換発行をする場合のみ、店頭での即時発行を行うサービスを始めたが、一部の営業店(インストアブランチ系統の営業店等を除く)で発行を行える様になったが、本人確認書類によっては(運転免許証やパスポート等の公的機関が発行する写真付の物に限定)即時発行を行う事となった。但し、本人確認書類を持参した場合等でも即時発行の手続を行えるとは限らないので、取引店ないしは電話受付センター(りそなコミュニケーションダイヤル)等に詳細を確認する必要がある。
現在は、生体認証登録をした場合、生体認証に対応したグループ内のATMであれば、暗証番号の入力を省略することも可能となっている。なお、メールオーダでの口座開設の場合、「生体認証ICカード」か後述の「りそなカード+S」が発行され、なおかつ、TIMOで開設される。[[2016年]]より、埼玉りそな銀行および当社の一部支店で、印鑑登録を行わない店舗を設定した。
==== りそなカード《セゾン》一体型ICキャッシュカード ====
クレジット一体型のキャッシュカード。上述の「生体認証ICキャッシュカード」と、クレジットカード([[りそなカード]]が[[クレディセゾン]]と提携して発行、国際ブランドはVISAのみ。券面の名称は "Resona Card +S")機能を併せ持つ。年会費は無料である。有効期限は、発行日または切替日の5年後応当日。
==== RESONARTカード ====
近畿地方の若者を初めとするリスナーに支持の高いFM局「[[FM802]]」と提携し、FM802が実施しているアートプロジェクト「[[digmeout]]」(ディグ・ミー・アウト)に参加している[http://www.cutout-jag.com/ '''高山泰治''']([http://www.k2-d.co.jp/ K2―黒田征太郎・長友啓典―]{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}出身)などの[[アーティスト]]達がオリジナルデザインした普通預金キャッシュカードである。名称はりそな銀行のRESONAとARTを合わせたもの。[[りそなカード]]でも採用されていた。<br />
ただし、'''[[2009年]](平成21年)[[1月30日]]を以て新規募集は終了している'''。
当初は通常の有通帳口座、近畿地方の旧大和銀行支店でのみの採用であったが、後に無通帳型預金口座「TIMO」や旧あさひ店でも扱っている。[[2004年]](平成16年)3月末に[[スタジオジブリ]]がデザインした「ひびきが丘物語」のキャッシュカードが廃止され、デザインキャッシュカードはRESONARTのみになった。
預金口座の新規開設か、現在開設の口座のキャッシュカードを交換してもらうことで入手可能である。
旧大和、あさひ(前身行の協和銀行・埼玉銀行・協和埼玉銀行含む)のキャッシュカードから交換する場合は無料。りそな銀行キャッシュカードからの場合は有料。<br />
デザインが年数回更新され、古いデザインのカードは新たに入手できない。また、当初は近畿の旧大和銀行店舗での枚数限定だった。この企画は女性には人気が高いといわれ、新規顧客獲得に成功した<ref>[https://web.archive.org/web/20080721044253/http://www.47news.jp/CN/200405/CN2004051001002305.html 斬新なデザイン女性に人気 りそな銀キャッシュカード]</ref>。
==== 国際キャッシュカード・Visaデビットカード ====
* [[2011年]](平成23年)[[5月25日]]より、りそなVisa[[デビットカード]]〈JMB〉<ref>[http://www.resona-gr.co.jp/resonabank/kojin/service/hiraku/visa_debit/index.html りそなVisaデビットカード] りそな銀行 公式サイト</ref>の発行受付を開始した。
* [[2013年]](平成24年)7月22日、りそなVisaデビットカード〈オリジナル〉の取り扱いを開始した<ref>{{Cite web|和書|date=2013-07-18|url=http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/20130718_1a.pdf|title=りそなVisaデビットカード〈オリジナル〉」の取扱開始について|format=PDF|publisher=株式会社りそな銀行|accessdate=2013-12-21}}</ref>。このタイプのカードは、先行していたJMB提携カードにはなかった、[[埼玉りそな銀行]]および[[近畿大阪銀行]]においてもサービスが開始された。
* [[2017年]](平成29年)10月1日、りそなVisaデビットカードの商品性を変更し、名称もりそなデビットカードに変更。年会費を原則無料とし、新たに[[Visa payWave]]を搭載した。
=== りそなスマート口座 ===
2016年8月3日([[JALマイレージバンク]]提携サービスは、同年3月21日に先行実施)にサービスを開始した、りそな銀行のインターネット専用口座。2016年8月現在、支店はアルファ支店・ベータ支店のいずれかが割り当てられる。口座の開設から振込・取引確認など、ほぼすべてのサービスをスマートフォンのアプリから行う。
無通帳の総合口座とVisaデビットカード(オリジナル、またはJMB)がセットとなっているため、開設2年目以降はVisaデビットカードの会費が発生するが、一般のりそな銀行で発行されるVisaデビットカードと違い、年間1回の利用があれば会費の支払いが免除される他、デザインもりそなVisaデビットカード〈JMB〉が黒色、りそなVisaデビットカード〈オリジナル〉が[[りそにゃ]]柄になっている。
== 利息付与時期 ==
普通預金については、毎日の最終残高1,000円以上について付利単位を100円として、2月・8月の第2金曜日時点で毎日の店頭表示の利率で計算され、翌土曜日付で付与される。
貯蓄預金については、毎日の最終残高1,000円以上について付利単位を1円として、毎月の第2金曜日時点で毎日の最終残高が店頭表示の基準残高以上利率又は基準残高未満利率の別に計算され、翌土曜日付で付与される。
== 不祥事・事件・トラブル ==
=== 顧客情報紛失 ===
*2005年6月30日 - 28店舗で約10万名の顧客情報を記録したコムフィッシュを紛失したことが判明<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/170630_3a.pdf お客さま情報の紛失について]}}</ref>。
*2006年1月24日 - 顧客情報が収録されたMO、マイクロフィルムを紛失したことが判明<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/180124_1a.pdf お客さま情報が収録されたMO、マイクロフィルムの紛失について]}}</ref>。
*2006年7月18日 - 43店舗で171,612名の顧客情報を記録したコムフィッシュを紛失したことが判明<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/180718_1a.pdf お客さま情報の紛失について]}}</ref>。
*2007年7月9日 - 27店舗で約98万件の顧客情報が記載されている資料を紛失したことが判明<ref>[http://www.resona-gr.co.jp/resonabank/kojin/gochui/detail/070709/ お客さま情報の紛失について]</ref>。
*2008年2月20日 - 近鉄学園前支店において、ATM利用者延べ15,184人の顧客情報が記録されたCD-Rを紛失したことが判明<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/200220_1a.pdf 近鉄学園前支店でのお客さま情報が記載されたCD-Rの紛失について]}}</ref>。
*2008年5月13日 - 新百合ケ丘支店で本人確認記録書など1772件を紛失したことが判明<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/200513_1a.pdf 新百合ケ丘支店でのお客さま情報の紛失について]}}</ref>。
*2009年7月22日 - 113店舗で伝票、ATMジャーナルなど計約33万件を紛失したことが判明<ref>[http://www.resona-gr.co.jp/resonabank/kojin/oshirase/2009/detail/090722/ お客さま情報の紛失について]{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。
*2012年1月18日 - 10店舗で「指定金銭信託全口座残高等一覧表」など2218件を紛失したことが判明<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/240118_1a.pdf お客さま情報の紛失について]}}</ref>。
*2012年2月29日 - 3店舗で「税公金納付書控え」など2248件を紛失したことが判明<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/240229_3a.pdf お客さま情報の紛失について]}}</ref>。
*2013年7月30日 - 長瀬支店において、手形・小切手明細や税公金・公共料金 納付書明細1973件を記録したマイクロフィルムを紛失したことが判明<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/20130730_3a.pdf 長瀬支店でのお客さま情報の紛失について]}}</ref>。
*2014年4月2日 - 千里丘支店、神戸岡本支店において、'''普通預金の印鑑届'''395件を紛失したことが判明<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/20140402_1a.pdf 千里丘支店、神戸岡本支店でのお客さま情報の紛失について]}}</ref>。
*2014年4月24日 - 大阪府高石市より受託している口座振替業務で、介護保険料口座振替結果データ13件(10名)を誤って他の地方公共団体に伝送<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/20140424_1a.pdf 口座振替結果データの伝送先相違による情報漏えい事案の発生について]}}</ref>。
*2014年7月7日 - くずは支店において、顧客情報を含む公金納付書の控え163件を紛失していることが判明<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/20140707_1a.pdf くずは支店でのお客さま情報の紛失について]}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/20140711_1a.pdf 「くずは支店でのお客さま情報の紛失について」の補足について]}}</ref>。
=== 顧客情報流出 ===
*2015年6月8日 - 中目黒支店に来店した特定の顧客情報が中目黒支店に勤務していた従業員の娘のTwitterを通して漏洩していることが判明<ref>{{PDFlink|[http://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/newsrelease/pdf/20150608_1a.pdf お詫びとご報告]}}</ref><ref>{{Cite news|title=アイドル関ジャニの大倉さん来店、ツイッターで投稿 りそな銀行が謝罪|newspaper=産経WEST|date=2015-06-09|url=http://www.sankei.com/west/news/150609/wst1506090029-n1.html|accessdate=2015-07-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150711140943/http://www.sankei.com/west/news/150609/wst1506090029-n1.html|archivedate=2015-07-11}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=銀行で芸能人の個人情報が漏洩--なぜ若者はTwitter炎上を起こすのか|url=https://japan.cnet.com/article/35065729/|website=CNET Japan|date=2015-06-13|accessdate=2021-01-26|language=ja}}</ref>。また今回この騒動を起こした従業員は過去に、来店した別の特定顧客の免許証の写しを無断で自宅に持ち帰っていたことも明らかになった<ref>{{Cite news|title=関ジャニ・大倉&SMAP・中居のりそな銀行情報漏洩、「すんげ叩かれてる」発言で犯人再炎上|newspaper=サイゾーウーマン|date=2015-06-10|url=https://www.cyzowoman.com/2015/06/post_16280_1.html|accessdate=2015-07-21}}</ref><ref>{{Cite news|title=「関ジャニ∞大倉くんご来店」炎上の衝撃……りそな銀を揺るがした情報漏洩の「想定外」|author=産経新聞|newspaper=[[ITmedia|ITmedia NEWS]]|date=2015-06-23|url=http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1506/23/news049.html|accessdate=2015-07-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150626102514/http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1506/23/news049.html|archivedate=2015-06-26}}</ref><ref name=":0" />。
=== 印紙税の納税漏れ ===
* [[大阪国税局]]が行った[[税務調査]]で、同行が[[2009年]]9月までの約3年間に亘り、[[印紙税]]約2億5000万円の納付漏れを指摘されていたことが、[[2010年]]6月に発覚した。[[収入印紙]]が必要な書類約60万枚について印紙を張らなかった模様である。受取書への収入印紙の貼付は、[[印紙税法]]で義務付けられているが、事務上のミスで張り忘れていた。また、[[融資]]の案内文書などについても、同行は印紙税は不要と解釈していたが、同国税局は印紙税の対象になると指摘。[[りそなホールディングス]]は「事務のミスや認識の相違で、意図的なものではない」と主張している<ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100608k0000e040042000c.html |title=りそな銀:印紙税2億5000万円納付漏れ 国税局指摘 |newspaper=毎日jp |publisher=毎日新聞社 |date=2010-06-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100609135510/http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100608k0000e040042000c.html |archivedate=2010年6月9日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0801B_Y0A600C1CC0000/ |title=りそな銀行が2億5000万円納付漏れ、印紙税 大阪国税局が指摘 |newspaper=日本経済新聞 電子版 |publisher=日本経済新聞社 |date=2010-06-08}}</ref>。
* また同行は、2010年から[[2012年]]までの3年間についても、印紙税約7500万円分の納付漏れを同国税局から指摘されていたことが、[[2013年]]4月に判明している<ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/select/news/20130426ddm041020114000c.html |title=りそな銀:印紙税納付漏れ 30万枚、7500万円分 大阪国税指摘 |newspaper=毎日jp |publisher=毎日新聞社 |date=2013-04-26 }}{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[佐々木実 (ノンフィクション作家)|佐々木実]] 『市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像』 講談社、2013年。ISBN 4062184230
== 関連項目 ==
* [[いい遺言の日]]([[11月15日]])
* [[ブリタモリ大百科事典]]
* [[スタンプラリー#りそなめぐり]] - 趣味活動のひとつ。
* [[ありがとう浜村淳です]] - [[浜村淳]]本人による生[[コマーシャルメッセージ|CM]]が放送されている。
* [[ミナミ活性化委員会]] - [[産経新聞社]]が発起。[[大阪]]の活性化を目的とする。
* [[ムロツヨシ]] - [[広告]]キャラクターを務める。
== 外部リンク ==
* [https://www.resonabank.co.jp/ りそな銀行] - 公式サイト
{{りそなホールディングス}}
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{{都市銀行}}
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[[Category:都市銀行]]
[[Category:日本の信託兼営金融機関]]
[[Category:1918年設立の企業]]
[[Category:大阪市中央区の企業]]
[[Category:りそなホールディングス|きんこう]]
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[[Category:不動産鑑定業者]]
[[Category:船場]]
[[Category:20世紀の日本の設立]] | 2003-03-13T04:07:49Z | 2023-12-09T09:03:05Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8A%E3%81%9D%E3%81%AA%E9%8A%80%E8%A1%8C |
3,912 | ChaSen | ChaSen(茶筌)は、形態素解析ツールのひとつ。奈良先端科学技術大学院大学松本研究室で開発された。
ベースとなった形態素解析ツールは JUMAN であるが、統計的な手法を用いており、解析速度と使い勝手の向上を目指している。現在はIPA品詞体系を使用しており、JUMAN とはその方向性が異なっている。
開発元が所在する奈良県生駒市高山町では茶筌が特産品であり、本ツールの名称はこの茶筌に由来する。 | [
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] | ChaSen(茶筌)は、形態素解析ツールのひとつ。奈良先端科学技術大学院大学松本研究室で開発された。 ベースとなった形態素解析ツールは JUMAN であるが、統計的な手法を用いており、解析速度と使い勝手の向上を目指している。現在はIPA品詞体系を使用しており、JUMAN とはその方向性が異なっている。 開発元が所在する奈良県生駒市高山町では茶筌が特産品であり、本ツールの名称はこの茶筌に由来する。 | {{Infobox Software
|名称 = ChaSen
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|開発元 = 奈良先端科学技術大学院大学松本研究室
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}}
'''ChaSen'''('''茶筌''')は、[[形態素解析]]ツールのひとつ。[[奈良先端科学技術大学院大学]]松本研究室で開発された。
ベースとなった形態素解析ツールは [[JUMAN]] であるが、統計的な手法を用いており、解析速度と使い勝手の向上を目指している。現在は[[IPA品詞体系]]を使用しており、JUMAN とはその方向性が異なっている。
開発元が所在する[[奈良県]][[生駒市]][[高山町 (生駒市)|高山町]]では[[高山茶筌|茶筌]]が[[経済産業大臣指定伝統的工芸品#奈良県|特産品]]であり、本ツールの名称はこの茶筌に由来する<ref>{{Cite web|和書|url=http://chasen-legacy.sourceforge.jp/|title=ChaSen -- 形態素解析器|accessdate=2013-01-27}}</ref>。
== 参考文献 ==
<references />
== 関連項目 ==
*[[形態素解析]]
*[[MeCab]]
== 外部リンク ==
*[https://chasen-legacy.osdn.jp/ chasen legacy] (最新バージョンの一次配布元)
*[https://ja.osdn.net/projects/chasen-legacy/ chasen legacy ソースコード] (最新バージョンの一次配布元)
*[https://ja.osdn.net/projects/chasen-legacy/docs/chasen-2.4.0-manual-j.pdf/ja/2/chasen-2.4.0-manual-j.pdf.pdf 形態素解析システム『茶筌』version 2.4.0使用説明書]
*[http://chasen.naist.jp/hiki/ChaSen/ ChaSen's Wiki] (旧ChaSenホームページ)(リンク切れ)
*[http://cl.naist.jp/ 奈良先端科学技術大学院大学 松本研究室]
{{Computer-stub|CHASEN}}
[[Category:自然言語処理|CHASEN]] | 2003-03-13T04:19:51Z | 2023-09-24T03:53:34Z | false | false | false | [
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3,913 | JUMAN | JUMANは、日本語の形態素解析システム。京都大学黒橋・褚・村脇研究室で開発されている。2016年に後継のディープラーニングによる Juman++ が公開された。
人手で整備した辞書に基づいており、ChaSenの元となったシステム。 | [
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| 出典の明記 = 2019年10月
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{{Infobox Software
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| スクリーンショット = <!-- スクリーンショット。[[ファイル:example.png|100px]]のようにウィキ構文で指定する -->
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{{Infobox Software
| 名称 = JUMAN
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'''JUMAN'''は、日本語の[[形態素解析]]システム。[[京都大学]]黒橋・褚・村脇研究室で開発されている。2016年に後継の[[ディープラーニング]]による Juman++ が公開された。
人手で整備した辞書に基づいており、[[ChaSen]]の元となったシステム。
== 外部リンク ==
*[http://nlp.ist.i.kyoto-u.ac.jp/ 京都大学 黒橋・褚・村脇研究室]
*[http://nlp.ist.i.kyoto-u.ac.jp/?JUMAN 日本語形態素解析システム JUMAN]
*[http://nlp.ist.i.kyoto-u.ac.jp/?JUMAN%2B%2B JUMAN++ - KUROHASHI-CHU-MURAWAKI LAB]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/JUMAN |
3,914 | 新たな形態の銀行 | 新たな形態の銀行(あらたなけいたいのぎんこう)は、都市銀行や地方銀行、信託銀行など従来の伝統的な銀行にはない業務を行う銀行を指す、金融庁の分類用語である。
2000年9月26日に事業免許を取得し10月12日に営業を開始したジャパンネット銀行(現:PayPay銀行)開業以降に設立された銀行に多い。
いずれも実店舗数を最低限に抑え(基本的には対面窓口のない、組織上だけの預金口座のある本店営業部のみ)、入出金業務は提携先・出資元銀行や郵便局、コンビニエンスストアなどの現金自動預け払い機 (ATM) やインターネットバンキングを利用している。また、維持経費のかかる預金通帳は発行されず、インターネットバンキングやスマホアプリで明細を表示するほか、利用明細書を別途郵送することで代替している場合が多い。こうした手法によって運営コストを低くすることで、従来型の銀行に比べて、各種手数料の安さや預金金利の高さなどに優位性をもたせるなどの特徴を持つ。
業態としては以下のようなものがある。金融庁の分類では、かつての長期信用銀行であるSBI新生銀行とあおぞら銀行、外国銀行の日本法人であるSBJ銀行も、新たな形態の銀行が分類される「その他」の区分に含まれている。
既存の都市銀行や地方銀行、信用金庫などの従来型金融機関とは異なり、一部を除き日本銀行の代理店業務を行っていない。そのため、国庫金の受入・支払や政府有価証券の取扱いは行うことが出来ない。ただし、セブン銀行や大和ネクスト銀行などの一部の銀行を除き、国庫金当座振込事務の契約を結んでいるため、確定申告による国税の還付や、国家公務員の給与の受取、年金や雇用保険などの公的機関からの振込用口座に指定することが出来るようになっている。
Pay-easyはPayPay銀行と楽天銀行が対応しているが、ほとんどの新たな形態の銀行は対応していない。
インターネット専業銀行は、利用者に対し直接現金や証券証書類の受け払いを行う実店舗を原則的に設置せず、営業上必要な拠点のみを設置し、電話やインターネットを介した取引に特化した銀行。略してインターネット銀行、ネット銀行とも言う。
実店舗が少なく預金通帳も発行されないため、取り引きはネットバンキングで行う。キャッシュカード、ATMで取り引きできるところもある。実店舗が少ないため人件費や店舗運営コストが小さく、「手数料が安い、預金金利が高い」などの特徴がある。
金融庁の指針では「コンビニ等の店舗網にATMを設置し主に決済サービスの提供を行う銀行」と表記している。
中小企業へ融資を主体とする銀行は、一般の銀行より広く中小企業融資を推進し、中小企業の事業展開や新事業開発を支援する事を企図した銀行である。
かつて新銀行東京(現在は、きらぼし銀行に吸収合併され、法人格が消滅)と日本振興銀行(経営破綻のため清算済)の2行が存在したが、いずれも現存しない。
また、この用語ができる以前の1996年に経営破綻し、引き取り手が現れなかった阪和銀行の預金払い戻しのみを行っていた紀伊預金管理銀行(2002年解散)もこれにあたる(同行が第二地方銀行協会の会員ではなかったため)。 | [
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] | 新たな形態の銀行(あらたなけいたいのぎんこう)は、都市銀行や地方銀行、信託銀行など従来の伝統的な銀行にはない業務を行う銀行を指す、金融庁の分類用語である。 2000年9月26日に事業免許を取得し10月12日に営業を開始したジャパンネット銀行(現:PayPay銀行)開業以降に設立された銀行に多い。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年3月
| 更新 = 2021年3月
}}
'''新たな形態の銀行'''(あらたなけいたいのぎんこう)は、[[都市銀行]]や[[地方銀行]]、[[信託銀行]]など従来の伝統的な[[銀行]]にはない業務を行う銀行を指す、[[金融庁]]の分類用語である。
[[2000年]]9月26日に事業免許を取得し10月12日に営業を開始したジャパンネット銀行(現:[[PayPay銀行]])開業以降に設立された銀行に多い。
== 概要 ==
いずれも実店舗数を最低限に抑え(基本的には対面窓口のない、組織上だけの[[預金]]口座のある本店営業部のみ)、入出金業務は提携先・出資元銀行や[[郵便局]]、[[コンビニエンスストア]]などの[[現金自動預け払い機]] (ATM) や[[インターネットバンキング]]を利用している。また、維持経費のかかる[[預金通帳]]は発行されず、インターネットバンキングやスマホアプリで明細を表示するほか、利用明細書を別途郵送することで代替している場合が多い。こうした手法によって運営コストを低くすることで、従来型の銀行に比べて、各種手数料の安さや預金金利の高さなどに優位性をもたせるなどの特徴を持つ。
=== 分類 ===
業態としては以下のようなものがある。[[金融庁]]の分類では、かつての[[長期信用銀行]]である[[SBI新生銀行]]と[[あおぞら銀行]]、[[外国銀行]]の日本法人である[[SBJ銀行]]も、新たな形態の銀行が分類される「その他」の区分に含まれている。<!--[[シティバンク銀行]]は、営業譲渡して解散したので削除。-->
* [[ネット銀行|インターネット専業銀行]]
* [[店|商業施設]]との連携を主体にする銀行
* [[中小企業]]への[[融資]]を主体にする銀行
* 破綻した銀行の業務を一時的に引き継ぐ事を主体にする銀行
=== 国庫金取扱業務やPay-easy ===
既存の都市銀行や地方銀行、[[信用金庫]]などの従来型金融機関とは異なり、一部を除き[[日本銀行]]の代理店業務を行っていない。そのため、[[国庫|国庫金]]の受入・支払や政府有価証券の取扱いは行うことが出来ない。ただし、[[セブン銀行]]や[[大和ネクスト銀行]]などの一部の銀行を除き、国庫金当座振込事務の契約を結んでいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.boj.or.jp/about/services/kokko/index.htm |title=国庫金・国債の窓口 |accessdate=2023-01-11}}</ref>ため、[[確定申告]]による[[国税]]の還付や、[[国家公務員]]の[[給与]]の受取、[[年金]]<ref group="注釈">ローソン銀行では年金の受取は出来ない。[https://www.lawsonbank.jp/news/pdf/20190401_01_news.pdf 国庫金振込(年金を除く)の取扱い開始について](2019年4月1日)</ref>や[[雇用保険]]などの公的機関からの振込用口座に指定することが出来るようになっている。
[[Pay-easy]]は[[PayPay銀行]]と[[楽天銀行]]が対応しているが<ref>[https://www.pay-easy.jp/faq/002/019.html ネット銀行などでもペイジーは使えますか?|よくあるご質問|いつでも、どこでも、ペイジー。]</ref>、ほとんどの新たな形態の銀行は対応していない。
== インターネット専業銀行 ==
{{main|ネット銀行}}
'''インターネット専業銀行'''は、利用者に対し直接現金や証券証書類の受け払いを行う実店舗を原則的に設置せず、営業上必要な拠点のみを設置し、電話や[[インターネット]]を介した取引に特化した銀行。略して'''インターネット銀行'''、'''ネット銀行'''とも言う。
実店舗が少なく預金通帳も発行されないため、取り引きは[[ネットバンキング]]で行う。[[キャッシュカード]]、[[現金自動預け払い機|ATM]]で取り引きできるところもある。実店舗が少ないため人件費や店舗運営コストが小さく、「手数料が安い、預金金利が高い」などの特徴がある。
== 商業施設との連携を主体にする銀行 ==
金融庁の指針<ref>[https://www.fsa.go.jp/common/law/guide/city/07.html 主要行等向けの総合的な監督指針 金融庁HP]</ref>では「コンビニ等の店舗網にATMを設置し主に決済サービスの提供を行う銀行」と表記している。
; [[セブン銀行]](旧・アイワイバンク銀行)
: 利用者や提携金融機関からの手数料を収益とするフィービジネスを主たる[[ビジネスモデル]]とする。[[現金自動預け払い機|ATM]]網の全国展開。[[親会社]]である[[セブン&アイ・ホールディングス]]傘下の[[イトーヨーカ堂]]([[スーパーマーケット]])、[[セブン-イレブン]]([[コンビニエンスストア]])、[[デニーズ (日本)|デニーズ]]([[ファミリーレストラン]])、[[そごう・西武]]([[百貨店]])などの店舗内にATMを展開しているほか、証券会社支店ATMのセブン銀行ATMへの置換も実施された。
; [[イオン銀行]]
: [[ショッピングセンター]]利用の個人を対象とした銀行。親会社である[[イオングループ]]の主に[[イオン (店舗ブランド)|イオン]]や[[ミニストップ]]の各店舗内にATMを展開するほか、大型ショッピングセンターに[[インストアブランチ]]として実店舗も開設している。[[2012年]]3月31日付で[[イオンコミュニティ銀行]]を吸収合併し、同社の拠点を継承した「法人営業部」を設置し、法人・個人事業主事業に進出。個人向け事業は従来の事業に併せた。
; [[ローソン銀行]]
: [[2016年]]11月25日、ローソンが95%、[[三菱UFJ銀行|三菱東京UFJ銀行]]が5%を出資し、ローソンバンク設立準備株式会社を資本金10億円で設立<ref>{{Cite press release|和書|title=ローソンバンク設立準備株式会社の設立について|author= |agency=|publisher=株式会社ローソン |date=2016-11-25|url=http://www.lawson.co.jp/company/news/detail/1285045_2504.html|accessdate=2017-5-16}}</ref>。[[2018年]]3月、[[金融庁]]に銀行業取得に向けた予備審査を[[申請]]<ref>{{cite news |title=セブン銀、イオン銀の次は… 「ローソン銀行」開業へ|author= |agency=|publisher=朝日新聞デジタル |date=2018-3-26|url=https://www.asahi.com/articles/ASL3V62WFL3VULFA02P.html?iref=pc_ss_date|accessdate=2018-3-31}}</ref>。同年6月26日に銀行業免許予備審査が終了<ref>{{Cite press release|和書|title=(開示事項の経過)ローソンバンク設立準備株式会社における銀行業免許の予備審査終了について|author= |agency=|publisher=ローソン |date=2018-6-26|url=http://www.lawson.co.jp/company/news/detail/1336520_2504.html|accessdate=2018-7-1}}</ref>、8月10日付で銀行業の[[免許]]を交付<ref>{{cite news |title=「ローソン銀」免許交付 10月サービス開始|author= |agency=|publisher=日本経済新聞 |date=2018-8-10|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO34039560Q8A810C1EAF000/|accessdate=2018-8-10}}</ref>。同年10月15日から「ローソン銀行」として業務を開始<ref>{{cite news |title=「ローソン銀行」に金融庁が免許 7年ぶり新規参入|author= |agency=|publisher=朝日新聞デジタル|date=2018-8-10|url=https://www.asahi.com/articles/ASL8B4FSFL8BULFA014.html?iref=comtop_8_07|accessdate=2018-8-10}}</ref>。
== 中小企業への融資を主体にする銀行 ==
中小企業へ融資を主体とする銀行は、一般の銀行より広く中小企業融資を推進し、中小企業の事業展開や新事業開発を支援する事を企図した銀行である。
かつて[[新銀行東京]](現在は、[[きらぼし銀行]]に吸収合併され、法人格が消滅)と[[日本振興銀行]]([[経営破綻]]のため清算済)の2行が存在したが、いずれも現存しない。
== 破綻した銀行の業務を一時的に引き継ぐ事を主体にする銀行 ==
; [[承継銀行|日本承継銀行]]
: 破綻した各地[[第二地方銀行]]の業務を継承し業務を開始。
; [[承継銀行|第二日本承継銀行]]
: 破綻した[[日本振興銀行]]の業務を継承し業務を開始。[[2011年]]12月26日を以てイオン銀行傘下に入り[[イオンコミュニティ銀行]]に改称。[[2012年]]3月31日にイオン銀行に吸収合併され消滅。
; [[整理回収機構]]
: 2011年の法改正により承継銀行機能を付与されることとなった。
また、この用語ができる以前の1996年に経営破綻し、引き取り手が現れなかった[[阪和銀行]]の預金払い戻しのみを行っていた'''紀伊預金管理銀行'''(2002年解散)もこれにあたる(同行が[[第二地方銀行協会]]の会員ではなかったため)。
== 脚注 ==
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=== 注 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[ネット銀行]]
* [[デビットカード]]
* [[ATM提携]]
* [[ネット支店]]
* [[銀行代理店]]
* [[オリックス銀行]] - [[1993年]]に設立された山一信託銀行を前身とすることから[[信託銀行]]の分類となっているが、[[1998年]]に[[オリックス (企業)|オリックス]]が買収した後、インターネット専用の高金利の預金口座を提供するなど、ネットを通じたリテール業務に注力している。
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[[Category:新たな形態の銀行|*]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%9F%E3%81%AA%E5%BD%A2%E6%85%8B%E3%81%AE%E9%8A%80%E8%A1%8C |
3,916 | 東京地下鉄 |
東京地下鉄株式会社(とうきょうちかてつ、英: Tokyo Metro Co., Ltd.)は、東京地下鉄株式会社法に基づき、東京都区部およびその周辺地域(埼玉県と千葉県の一部)で地下鉄を経営する鉄道事業者である。愛称は東京メトロ(とうきょうメトロ)。
帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の民営化により2004年に発足した特殊会社で、日本の大手私鉄の一つである。東京の地下鉄路線のうち、銀座線を始めとする帝都高速度交通営団から継承した8路線と、東京地下鉄発足後に開業した副都心線1路線の合計9路線を運営している。
東洋初の地下鉄路線(現在の銀座線)を開業した東京地下鉄道と東京高速鉄道を源流とする。日中戦争から太平洋戦争へと戦火が拡大する戦時体制中の1941年(昭和16年)に設立された特殊法人(営団)である帝都高速度交通営団(交通営団)を、平成期の国の行政改革の一環として民営化するにあたり、同営団の事業を承継する特殊会社として、2004年(平成16年)4月1日、東京地下鉄株式会社法に基づいて設立された。9路線11系統、総計195.0 km(営業キロ)の地下鉄路線を運営するほか、不動産事業などの関連事業を営む。また海外事業として、ベトナムで地下鉄コンサルティングの現地法人を設立しているほか、フィリピンでのマニラ地下鉄施工管理、ミャンマーでの都市鉄道整備にあたる準備調査を手掛けている。
設立の経緯もあり、設立時に発行された株式は営団時代の出資者がそのまま引き継いでおり、現在の株主は旧国鉄の出資金を承継した日本国政府(名義上は財務大臣)と、東京都となっている。このように完全に公的資本会社であるが、民営化前の営団時代から日本民営鉄道協会に加盟しており、民営化後は16社目の大手私鉄とみなされている。日本の大手私鉄の中では唯一の地下鉄事業者で、莫大な通勤・通学需要を持つ東京都心の地下鉄路線を9路線も保有していることから車両数、鉄道営業収益、輸送人員は大手私鉄で最も多い。
東京地下鉄以外にも、東京では東京都交通局が東京都区部を中心に都営地下鉄として地下鉄事業を行なっている。
2009年(平成21年)度までに株式を上場することを目標としていた が、2009年に2010年(平成22年)度以降へ延期されており、公式サイト上では「できる限り早期の株式上場を目指します」(2012年時点)、「早期の上場と安定配当を可能とする......」(2020年時点) と上場を目標としているものの、その時期は明言されていない。
なお、2021年7月に国土交通省の交通政策審議会が本企業の完全民営化早期実現を求める答申が出されたことを受けて、国土交通大臣の赤羽一嘉と東京都知事の小池百合子は上場に向けてそれぞれの保有株を同時に半分ずつ売却する準備を進めていくことで同月に合意。財務省も同年12月に政府保有株を一部売却する方針であることを発表し、2022年3月に財務省と東京都が主幹事証券会社の選定を開始することが発表された。なお、政府保有株の売却益は東日本大震災の復興予算に充当される予定になっている。
東京メトログループ理念は「東京を走らせる力」。2021年(令和3年)12月からのキャッチコピーは「Find my Tokyo. ひさしぶりっ!」である。
2016年(平成28年)4月から8代目のイメージキャラクターとして女優の石原さとみを起用している(歴代のキャッチコピーとイメージキャラクターは「キャッチコピー」および「イメージキャラクター」の節を参照)。
正式名称の「東京地下鉄」および愛称の「東京メトロ」はいずれも営団末期に社内(団内)で募集したもののなかから採用された。「メトロ」という言葉は(イギリスやアメリカ合衆国を除く)世界各地で「地下鉄」の意味として用いられているが、これは1863年にイギリスの首都ロンドンで世界初の地下鉄を開業させたメトロポリタン鉄道に由来する。東京地下鉄では、前身の営団時代から地下鉄路線網を「メトロネットワーク」と呼び路線図に記載していたほか、駅売店の「Metro's」(メトロス)、オリジナルキャラクターでアリの「メトロン」、ドメイン名「www.tokyometro.jp」(営団時代は「www.tokyometro.go.jp」)など「メトロ」という語を多用している。また「メトロカード」というプリペイドカードや「SFメトロカード」という名称でパスネット対応カードを発行していた。「東京メトロ」は、東京地下鉄の登録商標となっている(第4609287号、第4762836号、第5154559号)。このうち、第4609287号は、先に個人により商標登録されていたため、東京地下鉄が知財裁判を提訴したが、最終的には東京地下鉄がこの個人に権利譲渡金を支払い、商標を買い取っている。
シンボルマークは、営団時代の「S」(地下鉄の「SUBWAY」のほかにSAFETY(安全)、SECURITY(正確)、SPEEDY(迅速)、SERVICE(サービス)の「S」の意味を含む)を図案化したものから、メトロ (METRO) の「M」を図案化した「ハートM」を採用している。これは、アテネオリンピックのシンボルマーク開発も手掛けた英国のデザイン会社ウルフオリンズ社に依頼したものである。
コーポレートカラーは、シンボルマークの背景色でもある「ブライトブルー」。「東京メトロ」の背景色は「ダークブルー」とし、ブライトブルーを常にメインとしながらも両色を並べて表示する。シンボルマークと愛称を知ってもらうために、基本的に2つのボックスと2つの色を常に並べて表示し、これをコミュニケーションマークと制定した。
東京の地下鉄の歴史は、1927年(昭和2年)に東京地下鉄道株式会社が、早川徳次により浅草駅 - 上野駅間(現在の銀座線の一部)を開業したことによって始まった。その後、新橋駅までの延伸と1938年(昭和13年)に部分開業した東京高速鉄道の新橋駅 - 渋谷駅間との1939年(昭和14年)の相互直通運転開始を経て、日中戦争下の政府による交通事業の統制(陸上交通事業調整法)によって東京市内の乗合バスと軌道は東京市へ、地下鉄両社は1941年(昭和16年)9月1日に新たに設立された帝都高速度交通営団に引き継がれた。
営団とは戦争遂行のための統制管理目的の組織である。帝都高速度交通営団は住宅営団、食糧営団などとともにその営団の一つであり、その運営は帝都高速度交通営団法に規定されている。日本は日中戦争から太平洋戦争へ突入して敗北。終戦後、GHQの指令によって、他のほとんどの営団は解体されたが、帝都高速度交通営団はその運営が戦争目的ではないと認められ存続された。このため、新線建設の資金調達に関しては財政投融資が活用され、公団に近い形で運営が行われてきた。また公共企業体ながら日本民営鉄道協会(民鉄協)に加盟した。
戦後は、日本国有鉄道(国鉄分割民営化以降は日本国有鉄道清算事業団、のちに日本政府)と東京都が出資する特殊法人という位置付けにあったが、1986年(昭和61年)6月10日の臨時行政改革推進審議会の答申で、営団地下鉄民営化の基本方針が打ち出された。その後も1995年(平成7年)2月24日と2001年(平成13年)12月19日の閣議決定を経て、2002年(平成14年)12月18日に東京地下鉄株式会社法が公布され、2004年(平成16年)4月1日に東京地下鉄株式会社となった。株式会社化後も、出資比率は引き続き政府53.4%と東京都46.6%となっており、2008年(平成20年)6月14日の副都心線開業後に株式を上場して、完全民営化を目指すとしている。
1995年(平成7年)3月20日、オウム真理教による無差別テロ事件である地下鉄サリン事件が発生した。当日は営団地下鉄全線で一時運休、中でも化学兵器にも使われる致死性有毒物質サリンを散布された日比谷線は終日運休した。霞ケ関駅などの事件現場となった駅は、3-6日間営業を中止した。
東京地下鉄発足と同時に「お客様センター」を開設するとともに、利用客の質問に対応する「サービスマネージャー」を主要駅に配置。翌2005年12月から表参道駅を皮切りに商業施設「エチカ」の展開を始め、収益力とサービスの向上を図っている。
車内の自動放送も変更され、新たに英語による案内放送が開始された。さらに、新しい案内サインシステムの導入を進めている(詳細は「サインシステム」の節を参照)。
また、フリーペーパーにも力を入れており、外部の編集・発行分を含めて自社系列の定期刊行フリーペーパーを7誌発行して各駅の専用ラックにて配布しているほか(筆頭は広報紙『メトロニュース』。民営化に伴うリニューアルで『TOKYO METRO NEWS』。『メトロニュース』当時は現業部門の裏話なども掲載していた)、2006年秋からは、専用ラックをリニューアルさせると同時に、他社にも門戸を開放して、全部で6社18紙誌の配布を行っている。
そして、発足当時よりテレビのミニ番組『東京日和』を日本テレビで放送するなど、沿線以外からも旅客誘致に努めている。
こうした営業努力を続けていたところに新型コロナウイルス感染症が流行して2020年以降は乗客数が低迷し、減便を実施している。
銀座線と丸ノ内線は標準軌(軌間1,435 mm)・第三軌条方式(直流600 V)、それ以外の路線は他社線との相互乗り入れを行う必要性などから狭軌(軌間1,067 mm)・架空電車線方式(直流1,500 V)による電気鉄道となっている。また、車両の大きさも銀座線が小型車(16 m級)、丸ノ内線が中型車(18 m級)、その他の線区が大型車(20 m級)と、建設時期や乗り入れ先事業者の要望から線区ごとに異なっている。
多くの鉄道路線では基本的に東京から郊外へ向かう方向を「下り」、その逆方向を「上り」としているが、東京都心部を貫通する東京地下鉄では上り・下りはそぐわないことから、届出上の起点駅から終点駅に向かう方向を「A線」、その逆方向を「B線」と呼称している。その「A線」「B線」の呼称は一般の旅客には馴染みはないものの、基本的に駅のホームの乗り場番号(番線)の若い方がA線となっており、例えば銀座線の場合は渋谷方面が1番線、浅草方面が2番線となっているので渋谷方面がA線、浅草方面がB線となる。ただし、一部例外もあり、半蔵門線は渋谷駅 - 青山一丁目駅間で並走する銀座線との整合をとるため、ホームの乗り場番号(番線)の若い方がB線となっている。駅の自動放送ではA線が女声、B線が男声となっている。また、列車番号では上下で奇数偶数の区別をしていないため、直通のない銀座・丸ノ内線を除いて「A○○XXS」「B○○XXK」(○○はその列車の始発「時」、XXは運用番号、末尾のアルファベットは車両の所属元の符号)のように頭にA・Bが付く。なお、東京地下鉄では最初に開通した区間に近い方の終端駅を起点駅としており、例えば銀座線の場合は浅草駅 - 上野駅間が最初に開通し、そこから渋谷方面へと伸びていったので浅草駅が起点駅となる。これにも例外があり、南北線は駒込駅 - 赤羽岩淵駅間が最初に開通したものの、目黒駅が起点駅となっている。
2004年(平成16年)の発足時に導入された駅番号(駅ナンバリング)は、基本的に西・南から東・北方面に向かって振られており、路線によっては起点ではなく終点側の駅が「01」である場合もある。上表では左側の駅が起点である。なお、各線の記事の駅一覧では駅番号順で記載している。
2018年(平成30年)12月時点で、東京都に23ある特別区のうち、東京メトロの路線もしくは駅(他社管理駅含む)が存在しない区は大田区・世田谷区・葛飾区である。ただし、これら3区にも他社線への乗り入れの形で東京メトロの車両が乗り入れている。
今後の新線開業については、当初の営団の目標である「地下鉄網の整備」に目途が立ち、民営化を目指すために東京地下鉄が設立されたという経緯を勘案し、副都心線以降は行わない方針であったが、2017年(平成29年)に就任した第3代社長の山村明義は「今後新線建設に対する協力を求められる場合には、東京地下鉄の都市鉄道ネットワークの一部を構成する事業者としての立場から、当社の経営に悪影響を及ぼさない範囲内において行う」という方針であるとも語っており、新線建設の再開を示唆していた。
2021年(令和3年)、交通政策審議会による「東京圏における今後の地下鉄ネットワークのあり方等について」(第371号答申) において、東京8号線延伸(豊洲駅 - 住吉駅)、および都心部・品川地下鉄構想(品川駅 - 白金高輪駅)について、従来東京メトロには適用されていなかった地下高速鉄道整備事業費補助や鉄道建設・運輸施設整備支援機構による都市鉄道融資の活用を前提として、事業主体の役割を求めるのが適当とした。
これを受けて、東京メトロは2022年(令和4年)1月28日、有楽町線延伸(豊洲駅 - 住吉駅間4.8 km)、および南北線延伸(品川駅 - 白金高輪駅2.5 km)の鉄道事業許可を国土交通大臣に申請している。
東京メトロでは、銀座線・丸ノ内線を除く7路線で他社線との相互直通運転を行っている。ここではその概要のみ示す。詳細は各路線の記事を参照のこと。
東京メトロの所有車両は、東武鉄道(日比谷線・有楽町線・半蔵門線・副都心線)、東急電鉄(半蔵門線・南北線・副都心線)、横浜高速鉄道(副都心線)、JR東日本(東西線・千代田線)、小田急電鉄(千代田線)、西武鉄道(有楽町線・副都心線)、東葉高速鉄道(東西線)、埼玉高速鉄道(南北線)と相互乗り入れを行っており、埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県までの広範囲で運転されている。ただし、茨城県内の乗り入れ駅は取手駅のみであり、乗り入れも平日の通勤時間帯に限定される。また、南北線・副都心線は相模鉄道とも相互乗り入れを行っているが、東京メトロの所有車両は相模鉄道へ乗り入れていない。
以下の()内の駅名は通常のダイヤにおける最長直通運転区間(臨時列車、有料特急列車を除く)で、一部時間帯のみしか直通運転を行わない区間もある。[ ]内の英字は当該社所属車両に割り当てられる運用番号の末尾の記号(列車記号)で、この英字によって所属を区別する。なお、東京メトロの所有車両の識別符号はメトロを示す「M」ではなく、営団時代から引き続き「S」が使われている。各鉄道会社の所属車両の表示は東武と東葉高速が「T」、東急・横浜高速・JR東日本は「K」、小田急は「E」、相鉄は「G」、西武と埼玉高速は「M」である。
路線カラー(ラインカラー)を初めて導入したのは営団時代の1970年7月。当時開業していた銀座線、丸ノ内線、日比谷線、東西線、千代田線の5路線と、都営の浅草線、三田線の2路線を走る車両の色などを基準に、営団地下鉄(現・東京メトロ)と東京都で路線カラーを決めた。また、この時点で計画中だった有楽町線と半蔵門線、南北線、都営新宿線についても、この5路線と同時に路線カラーを決定した。副都心線は1985年に追加で決めた。カラーは2014年に変更が決定され、微妙に変えられた。2016年にかけて路線図や駅のサインへの変更実施がされている。
各路線のRGBカラーコードとカラーの由来は以下の通り(色の名称は当時の説明で使われていた名称で記載。カラーコードは2014年の変更前→変更後。変更後のカラーコードは東京メトロオープンデータ開発者サイトのガイドラインによる)。
営団地下鉄時代からその時代毎の最新技術を取り込んだ車両を設計・開発し、東京地下鉄移管後もその方針を受け継いでいる。但し、台車については2000年の日比谷線での脱線事故以降、輪重が極端に不均衡になった状態で曲線通過時に車輪のせり上がり現象による脱線が起こりやすいことを考え、東京地下鉄発足後の新規開発車両および一部増備車は全て輪重調整や管理の容易なボルスタ付台車を採用している。
なお、5000系ステンレス車の運用終了以降、自社車両は全てアルミ製となっている。また、2018年(平成30年)10月に03系の電機子チョッパ制御車が廃車となり、営業車両は全てVVVFインバータ制御に統一された。
営団地下鉄時代の1990年代以降、自社で運用を終えた車両を国内外の鉄道事業者に譲渡を進めるケースが多い。特筆すべき点として、一部の譲渡車両を譲渡先から買い戻しており、これらは技術伝承の一環として教材として使用するほか、イベントで公開も行われている。
以下の車両は、2004年の東京地下鉄発足後に運用された、または導入される予定のものである。営団地下鉄時代に運用を終了した過去の車両については「帝都高速度交通営団#車両」を参照。
以下は営団時代も含む。
東京メトロ発足後の新系列車両の製造メーカーについては競争入札となっており、入札結果により落札したメーカーが製造を担当している。当初は日立製作所のみだったが、南北線用9000系5次車を日本車輌製造で製造して以降は、一部系列を除いて、系列毎に特定の車両メーカー1社に一括発注する傾向にある。
大人普通旅客運賃(小児半額・ICカードの場合は1円未満の端数切り捨て、切符利用の場合は10円未満の端数切り上げ)。鉄道駅バリアフリー料金制度による料金10円の加算を含む。2023年(令和5年)3月18日改定。
有効期間内の24時間に限り、東京地下鉄線全線が乗り降り自由な磁気券式の「東京メトロ24時間券」(大人600円、小児300円)がある。当日券と前売券の2種類があり、当日券は自動券売機と定期券売り場で、前売券は発売日から6か月間以内の使用開始時刻から24時間のみ有効で定期券売り場のみ販売されている。なお、自動券売機で販売する24時間券(発売当日の利用開始から24時間限り有効)はPASMO・Suicaでも購入可能で、他社が管理する駅(東西線中野駅・西船橋駅、日比谷線北千住駅・中目黒駅、千代田線代々木上原駅、半蔵門線/副都心線渋谷駅・和光市駅、南北線目黒駅)を含む東京地下鉄線全駅で購入できる。また、2022年11月からは50枚および100枚セットをAmazon.co.jpでも販売している。なお、2016年3月25日までは発売額が同額で「東京地下鉄一日乗車券」が販売されており、「使用当日のみ有効」だった。
PASMO(定期券情報が付加されたものを除く)へ情報を記録するタイプのフリー乗車券として、2017年4月1日より「東京メトロPASMO一日乗車券」(同額)が発売され、2020年3月14日からはPASMOにも「東京メトロ24時間券」が搭載可能となった。
このほか、都営地下鉄と組み合わせた「東京メトロ・都営地下鉄共通一日乗車券」(磁気券式とPASMO記録式がある)や、23区内の都営交通(都営地下鉄・都営バス(多摩地域を含む)・都電荒川線・「日暮里・舎人ライナー」)やJR線と組み合わせた「東京フリーきっぷ」、「○○東京メトロパス」として各私鉄などと組み合わせた一日乗車券も販売されている。
また、東京への訪問者や学生の修学旅行のために、1 - 3日間有効(2016年3月26日より24 - 72時間有効に改定)のオープンチケット「Tokyo Subway Ticket」も販売されている。なお、オープンチケットは、当初は関東1都6県および山梨県を除く全国の旅行代理店で東京方面向けの旅行商品(JR乗車券等を含む)とのセット販売のみだったが、2020年2月21日からは北海道・東北・北信越・四国・九州・沖縄の1道23県、2022年11月1日からは関東1都6県および山梨県を除く全国のローソン、セブン-イレブン、ファミリーマート及びミニストップで引換券の購入が可能になった(利用当日に東京メトロもしくは都営地下鉄の駅でチケットと引き換える)。これ以外に、熱海以西からの「エクスプレス予約」および「スマートEX」利用者に対しても発売される。
民営化以後、映画や美術館などのイベントなどの図柄を印刷した一日乗車券が枚数限定で発行されている(2006年春のドラえもん、同年夏のディズニー、同年冬の「さようなら東西線5000系」、2012年5月の東京スカイツリーグランドオープンなど)。SFメトロカードの記念図柄カードは2007年2月をもって新規発売を終了した。2007年秋の「第24回全国都市緑化ふなばしフェア おとぎの国の花フェスタinふなばし」に併せて東葉高速鉄道とのセット一日乗車券を発売するほか、ぐるっとパスとのセット一日乗車券も同時期から発売された。さらに100以上の都内のスポットに一日乗車券を提示するだけで割引などを受けられる「ちかとく」サービスも利用することも可能である。
このほか、2023年2月28日までは回数券が発売されていた。回数券は「同一運賃帯に有効」という方式(券面には運賃のみが記載されており、入場時に入場駅名が印字される。乗り越しの場合は差額のみ精算する)を採用し、利用可能な時間帯、曜日が異なる3種類があり、普通回数券(11枚綴り)、時差回数券(12枚綴り/平日10時-16時の入場か精算および土曜・休日の全時間帯に有効)、土休日回数券(14枚綴り)があった。いずれも普通片道運賃の10倍で販売され発売日から3か月間有効。なお、綾瀬駅-北千住駅間の相互発着については両駅でのみ(北千住駅は千代田線のみ)当該区間の140円回数券(普通回数券・時差回数券・土休日回数券)を発売していた。
千代田線内を運行する小田急ロマンスカーによる特急列車に適用。ただし、千代田線内停車駅間の発売はされない。
S-TRAIN(副都心線・有楽町線)およびTHライナー(日比谷線)に適用。ただし、それぞれの線内停車駅間の発売はされない。
発足時より新しい案内サインシステムの導入を進めている。東京都渋谷区のデザイン会社・アール・イー・アイ がデザインを手がけたもので、旧営団地下鉄のサインシステムが検討された1975年当時から「利用者の高齢化」「国際都市化」「鉄道の複雑化」が進展したことを受け、全般的にユニバーサルデザインを取り入れつつも、サインの数を増やさず、かつ大型化もせずに表示の重点整備や簡略化をすすめ、字体もぼやけた状態でも誤読の少ない書体を選定している。
発足時は大手町駅と銀座駅に試験的に設置され、2005年10月から本格導入を開始、2006年3月までに乗り換え駅を中心に83駅に、残る駅も副都心線接続予定駅と他社管轄駅を除き2007年3月末までに導入された。半蔵門線渋谷駅(2008年6月に開業した副都心線も)は、2007年12月2日の東急への業務移管に伴い、東急様式のサインシステムが設置された。
有楽町線の地下鉄成増駅 - 池袋駅間の各駅と新宿三丁目駅・明治神宮前駅は、2008年6月14日の副都心線開業に合わせてさらに新しい案内サインシステムが設置された。トピー工業が納入したLED誘導サインが用いられており、薄型化と省電力を実現している。ただし、副都心線開業後も駅名標や改装工事中のエリアには、更新されずに残っているサイン類があったが、2010年3月6日に明治神宮前駅が「明治神宮前〈原宿〉駅」と案内を改めるのに伴い、駅名標は更新されている。
次駅案内は、当初は原則駅発車時のみだったが2014年頃から順次駅到着時も行うようになり、同時に駅ナンバリングも案内されるようになった。ただし、自動放送が未更新の車両は到着時の放送を車掌が肉声で行っている。営団時代、冷房車が導入され始めた頃は非冷房車でも聞き取りやすくするため駅到着時のみだったが、自動放送導入車は発車時・到着時両方あった。
日本語放送は森谷真弓、英語放送は亀井佐代子が担当している(ただし他社から直通する特急およびライナー列車を除く )。2004年の民営化から2017年までは英語放送をクリステル・チアリが担当していた(日本語は森谷真弓)。
また、2019年より乗務員による肉声放送も日本語・英語の2カ国語で実施している。
2006年頃より駅の看板・車内の案内表示器の英字表記(ラテン文字表記)に対して長音符(マクロン)が使われなくなり、以前から存在する長音符が付いている看板類と混在している。しかし、他社の路線名・駅名などは使われている。
近年の路線別一日平均輸送人員は以下のとおりである。
2020年度は 各駅の乗降人員ランキング 2020年度 より。それ以外は 関東交通広告協議会、東京都統計年鑑、埼玉県統計年鑑、千葉県統計年鑑 より。
は、右欄の乗降人員と比較して増()、減()を表す。
上位30位の半数は、2路線以上が乗り入れる駅または他路線と相互直通運転を行っている駅である。2018年度時点で一日平均乗降人員が30万人を超えている駅は渋谷駅、北千住駅、池袋駅、綾瀬駅、大手町駅の5駅である。
渋谷駅は銀座線、半蔵門線、副都心線の3路線が乗り入れ、半蔵門線は東急田園都市線に、副都心線は東急東横線にそれぞれ相互直通運転を行っている。山手線との接続駅でもあり、副都心線の開業前から一日平均乗降人員が60万人を超えていた。乗降人員は増加傾向が続いていたが、副都心線の開業と東急東横線の地下化に伴う相互直通運転の開始により乗降人員はさらに増加し、2016年度から2019年度まで一日平均乗降人員が100万人を超えた。
北千住駅は日比谷線、千代田線の2路線が乗り入れ、日比谷線は東武伊勢崎線に相互直通運転を行っている。山手線との接続駅ではないが、1990年代のピーク時は一日平均乗降人員が70万人を超えていた。運輸大臣がラッシュ時の視察に訪れるほど混雑が激しかった時期もあり、1992年度から1996年度にかけて改良工事が行われた。半蔵門線の押上駅延伸に伴い、同駅でも東武伊勢崎線との相互直通運転を開始したほか、つくばエクスプレスの開業により乗降人員は減少し、混雑は緩和されている。
池袋駅は丸ノ内線、有楽町線、副都心線の3路線が乗り入れる。有楽町線と副都心線は同駅から和光市駅まで共用区間となっている。西武池袋線と東武東上本線に接続するが、西武池袋線は小竹向原駅で、東武東上本線は和光市駅で有楽町線と副都心線に相互直通運転を行っている。
綾瀬駅は千代田線の単独駅であるが、同駅で常磐緩行線に相互直通運転を行っている。同駅から北千住駅までは常磐快速線との併走区間であり、この区間は特定運賃が設定されている。これは国鉄が通勤五方面作戦で常磐線を複々線化する際に工事費の抑制を求められていたこと、営団が綾瀬車両基地までの線路を敷設する時期が重なり、現在の形態となったことによる。
大手町駅は丸ノ内線、東西線、千代田線、半蔵門線の4路線が乗り入れる。千代田線の西側に都営三田線が並走しているが、日比谷通りの道路幅員を考慮して、東西線交差地点の北側に千代田線のホーム、南側に三田線のホームを建設した。駅周辺はメガバンクの本店等が所在するオフィス街であり、世界有数の中心業務地区である。
「Echika(エチカ)」のような駅併設の駅ナカ小売・飲食店のほか、沿線を中心にオフィスビル、ホテル、住宅、ゴルフ練習場、レンタル収納スペースを展開している。オフィスビルは「メトロシティー」、マンションタイプの集合住宅は「メトロステージ」のブランド名がある。
東京地下鉄公式サイト「グループ企業 - 東京メトログループ一覧」も参照。
有価証券報告書によれば、労働組合の状況は以下の通り。 | [
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"text": "",
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"text": "東京地下鉄株式会社(とうきょうちかてつ、英: Tokyo Metro Co., Ltd.)は、東京地下鉄株式会社法に基づき、東京都区部およびその周辺地域(埼玉県と千葉県の一部)で地下鉄を経営する鉄道事業者である。愛称は東京メトロ(とうきょうメトロ)。",
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},
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"text": "帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の民営化により2004年に発足した特殊会社で、日本の大手私鉄の一つである。東京の地下鉄路線のうち、銀座線を始めとする帝都高速度交通営団から継承した8路線と、東京地下鉄発足後に開業した副都心線1路線の合計9路線を運営している。",
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"text": "東洋初の地下鉄路線(現在の銀座線)を開業した東京地下鉄道と東京高速鉄道を源流とする。日中戦争から太平洋戦争へと戦火が拡大する戦時体制中の1941年(昭和16年)に設立された特殊法人(営団)である帝都高速度交通営団(交通営団)を、平成期の国の行政改革の一環として民営化するにあたり、同営団の事業を承継する特殊会社として、2004年(平成16年)4月1日、東京地下鉄株式会社法に基づいて設立された。9路線11系統、総計195.0 km(営業キロ)の地下鉄路線を運営するほか、不動産事業などの関連事業を営む。また海外事業として、ベトナムで地下鉄コンサルティングの現地法人を設立しているほか、フィリピンでのマニラ地下鉄施工管理、ミャンマーでの都市鉄道整備にあたる準備調査を手掛けている。",
"title": "概要"
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"text": "設立の経緯もあり、設立時に発行された株式は営団時代の出資者がそのまま引き継いでおり、現在の株主は旧国鉄の出資金を承継した日本国政府(名義上は財務大臣)と、東京都となっている。このように完全に公的資本会社であるが、民営化前の営団時代から日本民営鉄道協会に加盟しており、民営化後は16社目の大手私鉄とみなされている。日本の大手私鉄の中では唯一の地下鉄事業者で、莫大な通勤・通学需要を持つ東京都心の地下鉄路線を9路線も保有していることから車両数、鉄道営業収益、輸送人員は大手私鉄で最も多い。",
"title": "概要"
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{
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"text": "東京地下鉄以外にも、東京では東京都交通局が東京都区部を中心に都営地下鉄として地下鉄事業を行なっている。",
"title": "概要"
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"text": "2009年(平成21年)度までに株式を上場することを目標としていた が、2009年に2010年(平成22年)度以降へ延期されており、公式サイト上では「できる限り早期の株式上場を目指します」(2012年時点)、「早期の上場と安定配当を可能とする......」(2020年時点) と上場を目標としているものの、その時期は明言されていない。",
"title": "概要"
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"text": "なお、2021年7月に国土交通省の交通政策審議会が本企業の完全民営化早期実現を求める答申が出されたことを受けて、国土交通大臣の赤羽一嘉と東京都知事の小池百合子は上場に向けてそれぞれの保有株を同時に半分ずつ売却する準備を進めていくことで同月に合意。財務省も同年12月に政府保有株を一部売却する方針であることを発表し、2022年3月に財務省と東京都が主幹事証券会社の選定を開始することが発表された。なお、政府保有株の売却益は東日本大震災の復興予算に充当される予定になっている。",
"title": "概要"
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"tag": "p",
"text": "東京メトログループ理念は「東京を走らせる力」。2021年(令和3年)12月からのキャッチコピーは「Find my Tokyo. ひさしぶりっ!」である。",
"title": "概要"
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{
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"text": "2016年(平成28年)4月から8代目のイメージキャラクターとして女優の石原さとみを起用している(歴代のキャッチコピーとイメージキャラクターは「キャッチコピー」および「イメージキャラクター」の節を参照)。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 10,
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"text": "正式名称の「東京地下鉄」および愛称の「東京メトロ」はいずれも営団末期に社内(団内)で募集したもののなかから採用された。「メトロ」という言葉は(イギリスやアメリカ合衆国を除く)世界各地で「地下鉄」の意味として用いられているが、これは1863年にイギリスの首都ロンドンで世界初の地下鉄を開業させたメトロポリタン鉄道に由来する。東京地下鉄では、前身の営団時代から地下鉄路線網を「メトロネットワーク」と呼び路線図に記載していたほか、駅売店の「Metro's」(メトロス)、オリジナルキャラクターでアリの「メトロン」、ドメイン名「www.tokyometro.jp」(営団時代は「www.tokyometro.go.jp」)など「メトロ」という語を多用している。また「メトロカード」というプリペイドカードや「SFメトロカード」という名称でパスネット対応カードを発行していた。「東京メトロ」は、東京地下鉄の登録商標となっている(第4609287号、第4762836号、第5154559号)。このうち、第4609287号は、先に個人により商標登録されていたため、東京地下鉄が知財裁判を提訴したが、最終的には東京地下鉄がこの個人に権利譲渡金を支払い、商標を買い取っている。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "シンボルマークは、営団時代の「S」(地下鉄の「SUBWAY」のほかにSAFETY(安全)、SECURITY(正確)、SPEEDY(迅速)、SERVICE(サービス)の「S」の意味を含む)を図案化したものから、メトロ (METRO) の「M」を図案化した「ハートM」を採用している。これは、アテネオリンピックのシンボルマーク開発も手掛けた英国のデザイン会社ウルフオリンズ社に依頼したものである。",
"title": "概要"
},
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"text": "コーポレートカラーは、シンボルマークの背景色でもある「ブライトブルー」。「東京メトロ」の背景色は「ダークブルー」とし、ブライトブルーを常にメインとしながらも両色を並べて表示する。シンボルマークと愛称を知ってもらうために、基本的に2つのボックスと2つの色を常に並べて表示し、これをコミュニケーションマークと制定した。",
"title": "概要"
},
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"paragraph_id": 13,
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"text": "東京の地下鉄の歴史は、1927年(昭和2年)に東京地下鉄道株式会社が、早川徳次により浅草駅 - 上野駅間(現在の銀座線の一部)を開業したことによって始まった。その後、新橋駅までの延伸と1938年(昭和13年)に部分開業した東京高速鉄道の新橋駅 - 渋谷駅間との1939年(昭和14年)の相互直通運転開始を経て、日中戦争下の政府による交通事業の統制(陸上交通事業調整法)によって東京市内の乗合バスと軌道は東京市へ、地下鉄両社は1941年(昭和16年)9月1日に新たに設立された帝都高速度交通営団に引き継がれた。",
"title": "歴史"
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"text": "営団とは戦争遂行のための統制管理目的の組織である。帝都高速度交通営団は住宅営団、食糧営団などとともにその営団の一つであり、その運営は帝都高速度交通営団法に規定されている。日本は日中戦争から太平洋戦争へ突入して敗北。終戦後、GHQの指令によって、他のほとんどの営団は解体されたが、帝都高速度交通営団はその運営が戦争目的ではないと認められ存続された。このため、新線建設の資金調達に関しては財政投融資が活用され、公団に近い形で運営が行われてきた。また公共企業体ながら日本民営鉄道協会(民鉄協)に加盟した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "戦後は、日本国有鉄道(国鉄分割民営化以降は日本国有鉄道清算事業団、のちに日本政府)と東京都が出資する特殊法人という位置付けにあったが、1986年(昭和61年)6月10日の臨時行政改革推進審議会の答申で、営団地下鉄民営化の基本方針が打ち出された。その後も1995年(平成7年)2月24日と2001年(平成13年)12月19日の閣議決定を経て、2002年(平成14年)12月18日に東京地下鉄株式会社法が公布され、2004年(平成16年)4月1日に東京地下鉄株式会社となった。株式会社化後も、出資比率は引き続き政府53.4%と東京都46.6%となっており、2008年(平成20年)6月14日の副都心線開業後に株式を上場して、完全民営化を目指すとしている。",
"title": "歴史"
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"text": "1995年(平成7年)3月20日、オウム真理教による無差別テロ事件である地下鉄サリン事件が発生した。当日は営団地下鉄全線で一時運休、中でも化学兵器にも使われる致死性有毒物質サリンを散布された日比谷線は終日運休した。霞ケ関駅などの事件現場となった駅は、3-6日間営業を中止した。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "東京地下鉄発足と同時に「お客様センター」を開設するとともに、利用客の質問に対応する「サービスマネージャー」を主要駅に配置。翌2005年12月から表参道駅を皮切りに商業施設「エチカ」の展開を始め、収益力とサービスの向上を図っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "車内の自動放送も変更され、新たに英語による案内放送が開始された。さらに、新しい案内サインシステムの導入を進めている(詳細は「サインシステム」の節を参照)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また、フリーペーパーにも力を入れており、外部の編集・発行分を含めて自社系列の定期刊行フリーペーパーを7誌発行して各駅の専用ラックにて配布しているほか(筆頭は広報紙『メトロニュース』。民営化に伴うリニューアルで『TOKYO METRO NEWS』。『メトロニュース』当時は現業部門の裏話なども掲載していた)、2006年秋からは、専用ラックをリニューアルさせると同時に、他社にも門戸を開放して、全部で6社18紙誌の配布を行っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "そして、発足当時よりテレビのミニ番組『東京日和』を日本テレビで放送するなど、沿線以外からも旅客誘致に努めている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "こうした営業努力を続けていたところに新型コロナウイルス感染症が流行して2020年以降は乗客数が低迷し、減便を実施している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "銀座線と丸ノ内線は標準軌(軌間1,435 mm)・第三軌条方式(直流600 V)、それ以外の路線は他社線との相互乗り入れを行う必要性などから狭軌(軌間1,067 mm)・架空電車線方式(直流1,500 V)による電気鉄道となっている。また、車両の大きさも銀座線が小型車(16 m級)、丸ノ内線が中型車(18 m級)、その他の線区が大型車(20 m級)と、建設時期や乗り入れ先事業者の要望から線区ごとに異なっている。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "多くの鉄道路線では基本的に東京から郊外へ向かう方向を「下り」、その逆方向を「上り」としているが、東京都心部を貫通する東京地下鉄では上り・下りはそぐわないことから、届出上の起点駅から終点駅に向かう方向を「A線」、その逆方向を「B線」と呼称している。その「A線」「B線」の呼称は一般の旅客には馴染みはないものの、基本的に駅のホームの乗り場番号(番線)の若い方がA線となっており、例えば銀座線の場合は渋谷方面が1番線、浅草方面が2番線となっているので渋谷方面がA線、浅草方面がB線となる。ただし、一部例外もあり、半蔵門線は渋谷駅 - 青山一丁目駅間で並走する銀座線との整合をとるため、ホームの乗り場番号(番線)の若い方がB線となっている。駅の自動放送ではA線が女声、B線が男声となっている。また、列車番号では上下で奇数偶数の区別をしていないため、直通のない銀座・丸ノ内線を除いて「A○○XXS」「B○○XXK」(○○はその列車の始発「時」、XXは運用番号、末尾のアルファベットは車両の所属元の符号)のように頭にA・Bが付く。なお、東京地下鉄では最初に開通した区間に近い方の終端駅を起点駅としており、例えば銀座線の場合は浅草駅 - 上野駅間が最初に開通し、そこから渋谷方面へと伸びていったので浅草駅が起点駅となる。これにも例外があり、南北線は駒込駅 - 赤羽岩淵駅間が最初に開通したものの、目黒駅が起点駅となっている。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2004年(平成16年)の発足時に導入された駅番号(駅ナンバリング)は、基本的に西・南から東・北方面に向かって振られており、路線によっては起点ではなく終点側の駅が「01」である場合もある。上表では左側の駅が起点である。なお、各線の記事の駅一覧では駅番号順で記載している。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2018年(平成30年)12月時点で、東京都に23ある特別区のうち、東京メトロの路線もしくは駅(他社管理駅含む)が存在しない区は大田区・世田谷区・葛飾区である。ただし、これら3区にも他社線への乗り入れの形で東京メトロの車両が乗り入れている。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "今後の新線開業については、当初の営団の目標である「地下鉄網の整備」に目途が立ち、民営化を目指すために東京地下鉄が設立されたという経緯を勘案し、副都心線以降は行わない方針であったが、2017年(平成29年)に就任した第3代社長の山村明義は「今後新線建設に対する協力を求められる場合には、東京地下鉄の都市鉄道ネットワークの一部を構成する事業者としての立場から、当社の経営に悪影響を及ぼさない範囲内において行う」という方針であるとも語っており、新線建設の再開を示唆していた。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)、交通政策審議会による「東京圏における今後の地下鉄ネットワークのあり方等について」(第371号答申) において、東京8号線延伸(豊洲駅 - 住吉駅)、および都心部・品川地下鉄構想(品川駅 - 白金高輪駅)について、従来東京メトロには適用されていなかった地下高速鉄道整備事業費補助や鉄道建設・運輸施設整備支援機構による都市鉄道融資の活用を前提として、事業主体の役割を求めるのが適当とした。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "これを受けて、東京メトロは2022年(令和4年)1月28日、有楽町線延伸(豊洲駅 - 住吉駅間4.8 km)、および南北線延伸(品川駅 - 白金高輪駅2.5 km)の鉄道事業許可を国土交通大臣に申請している。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "東京メトロでは、銀座線・丸ノ内線を除く7路線で他社線との相互直通運転を行っている。ここではその概要のみ示す。詳細は各路線の記事を参照のこと。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "東京メトロの所有車両は、東武鉄道(日比谷線・有楽町線・半蔵門線・副都心線)、東急電鉄(半蔵門線・南北線・副都心線)、横浜高速鉄道(副都心線)、JR東日本(東西線・千代田線)、小田急電鉄(千代田線)、西武鉄道(有楽町線・副都心線)、東葉高速鉄道(東西線)、埼玉高速鉄道(南北線)と相互乗り入れを行っており、埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県までの広範囲で運転されている。ただし、茨城県内の乗り入れ駅は取手駅のみであり、乗り入れも平日の通勤時間帯に限定される。また、南北線・副都心線は相模鉄道とも相互乗り入れを行っているが、東京メトロの所有車両は相模鉄道へ乗り入れていない。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "以下の()内の駅名は通常のダイヤにおける最長直通運転区間(臨時列車、有料特急列車を除く)で、一部時間帯のみしか直通運転を行わない区間もある。[ ]内の英字は当該社所属車両に割り当てられる運用番号の末尾の記号(列車記号)で、この英字によって所属を区別する。なお、東京メトロの所有車両の識別符号はメトロを示す「M」ではなく、営団時代から引き続き「S」が使われている。各鉄道会社の所属車両の表示は東武と東葉高速が「T」、東急・横浜高速・JR東日本は「K」、小田急は「E」、相鉄は「G」、西武と埼玉高速は「M」である。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "路線カラー(ラインカラー)を初めて導入したのは営団時代の1970年7月。当時開業していた銀座線、丸ノ内線、日比谷線、東西線、千代田線の5路線と、都営の浅草線、三田線の2路線を走る車両の色などを基準に、営団地下鉄(現・東京メトロ)と東京都で路線カラーを決めた。また、この時点で計画中だった有楽町線と半蔵門線、南北線、都営新宿線についても、この5路線と同時に路線カラーを決定した。副都心線は1985年に追加で決めた。カラーは2014年に変更が決定され、微妙に変えられた。2016年にかけて路線図や駅のサインへの変更実施がされている。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "各路線のRGBカラーコードとカラーの由来は以下の通り(色の名称は当時の説明で使われていた名称で記載。カラーコードは2014年の変更前→変更後。変更後のカラーコードは東京メトロオープンデータ開発者サイトのガイドラインによる)。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "営団地下鉄時代からその時代毎の最新技術を取り込んだ車両を設計・開発し、東京地下鉄移管後もその方針を受け継いでいる。但し、台車については2000年の日比谷線での脱線事故以降、輪重が極端に不均衡になった状態で曲線通過時に車輪のせり上がり現象による脱線が起こりやすいことを考え、東京地下鉄発足後の新規開発車両および一部増備車は全て輪重調整や管理の容易なボルスタ付台車を採用している。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "なお、5000系ステンレス車の運用終了以降、自社車両は全てアルミ製となっている。また、2018年(平成30年)10月に03系の電機子チョッパ制御車が廃車となり、営業車両は全てVVVFインバータ制御に統一された。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "営団地下鉄時代の1990年代以降、自社で運用を終えた車両を国内外の鉄道事業者に譲渡を進めるケースが多い。特筆すべき点として、一部の譲渡車両を譲渡先から買い戻しており、これらは技術伝承の一環として教材として使用するほか、イベントで公開も行われている。",
"title": "車両"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "以下の車両は、2004年の東京地下鉄発足後に運用された、または導入される予定のものである。営団地下鉄時代に運用を終了した過去の車両については「帝都高速度交通営団#車両」を参照。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "以下は営団時代も含む。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "東京メトロ発足後の新系列車両の製造メーカーについては競争入札となっており、入札結果により落札したメーカーが製造を担当している。当初は日立製作所のみだったが、南北線用9000系5次車を日本車輌製造で製造して以降は、一部系列を除いて、系列毎に特定の車両メーカー1社に一括発注する傾向にある。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "大人普通旅客運賃(小児半額・ICカードの場合は1円未満の端数切り捨て、切符利用の場合は10円未満の端数切り上げ)。鉄道駅バリアフリー料金制度による料金10円の加算を含む。2023年(令和5年)3月18日改定。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "有効期間内の24時間に限り、東京地下鉄線全線が乗り降り自由な磁気券式の「東京メトロ24時間券」(大人600円、小児300円)がある。当日券と前売券の2種類があり、当日券は自動券売機と定期券売り場で、前売券は発売日から6か月間以内の使用開始時刻から24時間のみ有効で定期券売り場のみ販売されている。なお、自動券売機で販売する24時間券(発売当日の利用開始から24時間限り有効)はPASMO・Suicaでも購入可能で、他社が管理する駅(東西線中野駅・西船橋駅、日比谷線北千住駅・中目黒駅、千代田線代々木上原駅、半蔵門線/副都心線渋谷駅・和光市駅、南北線目黒駅)を含む東京地下鉄線全駅で購入できる。また、2022年11月からは50枚および100枚セットをAmazon.co.jpでも販売している。なお、2016年3月25日までは発売額が同額で「東京地下鉄一日乗車券」が販売されており、「使用当日のみ有効」だった。",
"title": "運賃"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "PASMO(定期券情報が付加されたものを除く)へ情報を記録するタイプのフリー乗車券として、2017年4月1日より「東京メトロPASMO一日乗車券」(同額)が発売され、2020年3月14日からはPASMOにも「東京メトロ24時間券」が搭載可能となった。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "このほか、都営地下鉄と組み合わせた「東京メトロ・都営地下鉄共通一日乗車券」(磁気券式とPASMO記録式がある)や、23区内の都営交通(都営地下鉄・都営バス(多摩地域を含む)・都電荒川線・「日暮里・舎人ライナー」)やJR線と組み合わせた「東京フリーきっぷ」、「○○東京メトロパス」として各私鉄などと組み合わせた一日乗車券も販売されている。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "また、東京への訪問者や学生の修学旅行のために、1 - 3日間有効(2016年3月26日より24 - 72時間有効に改定)のオープンチケット「Tokyo Subway Ticket」も販売されている。なお、オープンチケットは、当初は関東1都6県および山梨県を除く全国の旅行代理店で東京方面向けの旅行商品(JR乗車券等を含む)とのセット販売のみだったが、2020年2月21日からは北海道・東北・北信越・四国・九州・沖縄の1道23県、2022年11月1日からは関東1都6県および山梨県を除く全国のローソン、セブン-イレブン、ファミリーマート及びミニストップで引換券の購入が可能になった(利用当日に東京メトロもしくは都営地下鉄の駅でチケットと引き換える)。これ以外に、熱海以西からの「エクスプレス予約」および「スマートEX」利用者に対しても発売される。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "民営化以後、映画や美術館などのイベントなどの図柄を印刷した一日乗車券が枚数限定で発行されている(2006年春のドラえもん、同年夏のディズニー、同年冬の「さようなら東西線5000系」、2012年5月の東京スカイツリーグランドオープンなど)。SFメトロカードの記念図柄カードは2007年2月をもって新規発売を終了した。2007年秋の「第24回全国都市緑化ふなばしフェア おとぎの国の花フェスタinふなばし」に併せて東葉高速鉄道とのセット一日乗車券を発売するほか、ぐるっとパスとのセット一日乗車券も同時期から発売された。さらに100以上の都内のスポットに一日乗車券を提示するだけで割引などを受けられる「ちかとく」サービスも利用することも可能である。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "このほか、2023年2月28日までは回数券が発売されていた。回数券は「同一運賃帯に有効」という方式(券面には運賃のみが記載されており、入場時に入場駅名が印字される。乗り越しの場合は差額のみ精算する)を採用し、利用可能な時間帯、曜日が異なる3種類があり、普通回数券(11枚綴り)、時差回数券(12枚綴り/平日10時-16時の入場か精算および土曜・休日の全時間帯に有効)、土休日回数券(14枚綴り)があった。いずれも普通片道運賃の10倍で販売され発売日から3か月間有効。なお、綾瀬駅-北千住駅間の相互発着については両駅でのみ(北千住駅は千代田線のみ)当該区間の140円回数券(普通回数券・時差回数券・土休日回数券)を発売していた。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "千代田線内を運行する小田急ロマンスカーによる特急列車に適用。ただし、千代田線内停車駅間の発売はされない。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "S-TRAIN(副都心線・有楽町線)およびTHライナー(日比谷線)に適用。ただし、それぞれの線内停車駅間の発売はされない。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "発足時より新しい案内サインシステムの導入を進めている。東京都渋谷区のデザイン会社・アール・イー・アイ がデザインを手がけたもので、旧営団地下鉄のサインシステムが検討された1975年当時から「利用者の高齢化」「国際都市化」「鉄道の複雑化」が進展したことを受け、全般的にユニバーサルデザインを取り入れつつも、サインの数を増やさず、かつ大型化もせずに表示の重点整備や簡略化をすすめ、字体もぼやけた状態でも誤読の少ない書体を選定している。",
"title": "旅客案内"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "発足時は大手町駅と銀座駅に試験的に設置され、2005年10月から本格導入を開始、2006年3月までに乗り換え駅を中心に83駅に、残る駅も副都心線接続予定駅と他社管轄駅を除き2007年3月末までに導入された。半蔵門線渋谷駅(2008年6月に開業した副都心線も)は、2007年12月2日の東急への業務移管に伴い、東急様式のサインシステムが設置された。",
"title": "旅客案内"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "有楽町線の地下鉄成増駅 - 池袋駅間の各駅と新宿三丁目駅・明治神宮前駅は、2008年6月14日の副都心線開業に合わせてさらに新しい案内サインシステムが設置された。トピー工業が納入したLED誘導サインが用いられており、薄型化と省電力を実現している。ただし、副都心線開業後も駅名標や改装工事中のエリアには、更新されずに残っているサイン類があったが、2010年3月6日に明治神宮前駅が「明治神宮前〈原宿〉駅」と案内を改めるのに伴い、駅名標は更新されている。",
"title": "旅客案内"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "次駅案内は、当初は原則駅発車時のみだったが2014年頃から順次駅到着時も行うようになり、同時に駅ナンバリングも案内されるようになった。ただし、自動放送が未更新の車両は到着時の放送を車掌が肉声で行っている。営団時代、冷房車が導入され始めた頃は非冷房車でも聞き取りやすくするため駅到着時のみだったが、自動放送導入車は発車時・到着時両方あった。",
"title": "旅客案内"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "日本語放送は森谷真弓、英語放送は亀井佐代子が担当している(ただし他社から直通する特急およびライナー列車を除く )。2004年の民営化から2017年までは英語放送をクリステル・チアリが担当していた(日本語は森谷真弓)。",
"title": "旅客案内"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "また、2019年より乗務員による肉声放送も日本語・英語の2カ国語で実施している。",
"title": "旅客案内"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2006年頃より駅の看板・車内の案内表示器の英字表記(ラテン文字表記)に対して長音符(マクロン)が使われなくなり、以前から存在する長音符が付いている看板類と混在している。しかし、他社の路線名・駅名などは使われている。",
"title": "旅客案内"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "近年の路線別一日平均輸送人員は以下のとおりである。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2020年度は 各駅の乗降人員ランキング 2020年度 より。それ以外は 関東交通広告協議会、東京都統計年鑑、埼玉県統計年鑑、千葉県統計年鑑 より。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "は、右欄の乗降人員と比較して増()、減()を表す。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "上位30位の半数は、2路線以上が乗り入れる駅または他路線と相互直通運転を行っている駅である。2018年度時点で一日平均乗降人員が30万人を超えている駅は渋谷駅、北千住駅、池袋駅、綾瀬駅、大手町駅の5駅である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "渋谷駅は銀座線、半蔵門線、副都心線の3路線が乗り入れ、半蔵門線は東急田園都市線に、副都心線は東急東横線にそれぞれ相互直通運転を行っている。山手線との接続駅でもあり、副都心線の開業前から一日平均乗降人員が60万人を超えていた。乗降人員は増加傾向が続いていたが、副都心線の開業と東急東横線の地下化に伴う相互直通運転の開始により乗降人員はさらに増加し、2016年度から2019年度まで一日平均乗降人員が100万人を超えた。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "北千住駅は日比谷線、千代田線の2路線が乗り入れ、日比谷線は東武伊勢崎線に相互直通運転を行っている。山手線との接続駅ではないが、1990年代のピーク時は一日平均乗降人員が70万人を超えていた。運輸大臣がラッシュ時の視察に訪れるほど混雑が激しかった時期もあり、1992年度から1996年度にかけて改良工事が行われた。半蔵門線の押上駅延伸に伴い、同駅でも東武伊勢崎線との相互直通運転を開始したほか、つくばエクスプレスの開業により乗降人員は減少し、混雑は緩和されている。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "池袋駅は丸ノ内線、有楽町線、副都心線の3路線が乗り入れる。有楽町線と副都心線は同駅から和光市駅まで共用区間となっている。西武池袋線と東武東上本線に接続するが、西武池袋線は小竹向原駅で、東武東上本線は和光市駅で有楽町線と副都心線に相互直通運転を行っている。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "綾瀬駅は千代田線の単独駅であるが、同駅で常磐緩行線に相互直通運転を行っている。同駅から北千住駅までは常磐快速線との併走区間であり、この区間は特定運賃が設定されている。これは国鉄が通勤五方面作戦で常磐線を複々線化する際に工事費の抑制を求められていたこと、営団が綾瀬車両基地までの線路を敷設する時期が重なり、現在の形態となったことによる。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "大手町駅は丸ノ内線、東西線、千代田線、半蔵門線の4路線が乗り入れる。千代田線の西側に都営三田線が並走しているが、日比谷通りの道路幅員を考慮して、東西線交差地点の北側に千代田線のホーム、南側に三田線のホームを建設した。駅周辺はメガバンクの本店等が所在するオフィス街であり、世界有数の中心業務地区である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "「Echika(エチカ)」のような駅併設の駅ナカ小売・飲食店のほか、沿線を中心にオフィスビル、ホテル、住宅、ゴルフ練習場、レンタル収納スペースを展開している。オフィスビルは「メトロシティー」、マンションタイプの集合住宅は「メトロステージ」のブランド名がある。",
"title": "関連事業"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "東京地下鉄公式サイト「グループ企業 - 東京メトログループ一覧」も参照。",
"title": "関連企業・団体"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "有価証券報告書によれば、労働組合の状況は以下の通り。",
"title": "関連企業・団体"
}
] | 東京地下鉄株式会社は、東京地下鉄株式会社法に基づき、東京都区部およびその周辺地域(埼玉県と千葉県の一部)で地下鉄を経営する鉄道事業者である。愛称は東京メトロ(とうきょうメトロ)。 帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の民営化により2004年に発足した特殊会社で、日本の大手私鉄の一つである。東京の地下鉄路線のうち、銀座線を始めとする帝都高速度交通営団から継承した8路線と、東京地下鉄発足後に開業した副都心線1路線の合計9路線を運営している。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{Otheruseslist|2004年に設立された東京の地下鉄運営会社|前身団体|帝都高速度交通営団|1941年まで存在した地下鉄運営会社|東京地下鉄道|[[都営地下鉄]]なども含めた東京の地下鉄全般|東京の地下鉄}}
{{Redirect5|テレビ放送局|東京メトロポリタンテレビジョン|東京メトロ}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 東京地下鉄株式会社
|英文社名 = Tokyo Metro Co., Ltd.
|ロゴ = [[File:Tokyo Metro combined logo.svg|200px]]
|画像 = [[ファイル:Tokyo Metro Office Building.jpg|250px]]
|画像説明 = 東京メトロ本社
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]<br />{{Nowrap|[[東京地下鉄株式会社法]]による[[特殊会社]]}}
|市場情報 = 非上場([[株式公開|上場]]計画あり)<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO37534060Y8A101C1EE8000/ 宙に浮く東京メトロ上場 財務省、迫る「期限」に焦り]『[[日本経済新聞]]』電子版(2018年11月26日)2018年12月26日閲覧</ref>
|略称 = 東京メトロ
|国籍 = {{JPN}}
|本社郵便番号 = 110-8614
|本社所在地 = [[東京都]][[台東区]][[東上野]]三丁目19番6号
|本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 42|本社緯度秒 = 41.5|本社N(北緯)及びS(南緯) = N
|本社経度度 = 139|本社経度分 = 46|本社経度秒 = 40.5|本社E(東経)及びW(西経) = E
|座標右上表示 = Yes
|本社地図国コード = JP
|設立 = [[2004年]]([[平成]]16年)[[4月1日]]<ref name="沿革">[https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/history/index.html 会社情報 > 沿革] 東京地下鉄ホームページ(2022年7月18日閲覧)</ref>
|業種 = 陸運業
|事業内容 = 旅客鉄道事業 他
|代表者 = [[代表取締役]][[会長]] [[川澄俊文]]<br />代表取締役[[社長]] [[山村明義 (鉄道技術者)|山村明義]]
|資本金 = 581億円<br />(2023年3月31日現在)<ref name="kessan">{{Cite report |author=東京地下鉄株式会社 |authorlink= |date=2023-06-29 |title=『第19期(2022年4月1日 - 2023年3月31日)[[有価証券報告書]]』}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|発行済株式総数 = 5億8100万株<br />(2023年3月31日現在)<ref name="kessan" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|売上高 = 連結: 3453億7000万円<br />単独: 3270億4200万円<br />(2023年3月期)<ref name="kessan" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|営業利益 = 連結: 277億7700万円<br />単独: 234億2300万円<br />(2023年3月期)<ref name="kessan" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|経常利益= 連結: 196億9400万円<br />単独: 164億3100万円<br />(2023年3月期)<ref name="kessan" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|純利益 = 連結: 277億7100万円<br />単独: 266億1400万円<br />(2023年3月期)<ref name="kessan" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|純資産 = 連結: 6333億4400万円<br />単独: 5986億3100万円<br />(2023年3月31日現在)<ref name="kessan" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|総資産 = 連結: 2兆0028億2100万円<br />単独: 1兆9845億0300万円<br />(2023年3月31日現在)<ref name="kessan" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|従業員数 = 連結: 11,571人<br />単独: 9,721人<br />(2023年3月31日現在)<ref name="kessan" />
|決算期 = [[3月31日]]
|会計監査人 = [[有限責任監査法人トーマツ]]<ref name="kessan" />
|主要株主 = [[財務大臣 (日本)|財務大臣]] 53.42%<br />[[東京都]] 46.58%<br />(2023年3月31日現在)<ref name="kessan" />
|主要子会社 = [[メトロコマース]] 100.0%<br />[[メトロプロパティーズ]] 100.0%<br />(いずれも[[連結子会社]])<br />[[はとバス]] 10.0%([[持分法|持分法適用会社]])<ref name="kessan" />
|関係する人物 = [[安富正文]](元副社長、会長)<br />[[比留間英人]](元副会長)<br />[[奥義光]](元社長、現取締役[[相談役]])
|外部リンク = https://www.tokyometro.jp/
|特記事項 =
}}
'''東京地下鉄株式会社'''(とうきょうちかてつ、{{Lang-en-short|Tokyo Metro Co., Ltd.}}<ref>東京地下鉄株式会社 [[定款]] 第1章第1条2項</ref>)は、[[東京地下鉄株式会社法]]に基づき、[[東京都区部]]およびその周辺地域([[埼玉県]]と[[千葉県]]の一部)で[[地下鉄]]を経営する[[鉄道事業者]]である{{Refnest|group="注釈"|[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]の[[和光市駅]]は埼玉県、[[東京メトロ東西線|東西線]]の[[浦安駅 (千葉県)|浦安駅]]以東は千葉県に所在する。東京地下鉄株式会社法(平成14年法律第188号)<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=414AC0000000188 |title=東京地下鉄株式会社法(平成14年法律第188号) |quote=2002年12月18日施行分 |date=2002-12-18 |accessdate=2019-12-24}}</ref>第1条では「東京都の[[特別区]]の存する区域及びその付近の主として地下において、鉄道事業及びこれに附帯する事業を経営することを目的とする株式会社」と規定されている。}}。[[愛称]]は'''東京メトロ'''(とうきょうメトロ)。
[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)の[[民営化]]により2004年に発足した[[特殊会社]]で、日本の[[大手私鉄]]の一つである。[[東京の地下鉄]]路線のうち、[[東京メトロ銀座線|銀座線]]を始めとする帝都高速度交通営団から継承した8路線と、東京地下鉄発足後に開業した[[東京メトロ副都心線|副都心線]]<ref group="注釈">一部区間は営団時代に有楽町線新線として先行開業。</ref>1路線の合計9路線を運営している。
== 概要 ==
{{See also|帝都高速度交通営団#営団の廃止・株式会社化}}
[[東洋]]初の地下鉄路線(現在の[[東京メトロ銀座線|銀座線]])を開業した[[東京地下鉄道]]と[[東京高速鉄道]]を源流とする<ref name="沿革"/>。[[日中戦争]]から[[太平洋戦争]]へと戦火が拡大する戦時体制中の[[1941年]]([[昭和]]16年)に設立された[[特殊法人]]([[営団]])である[[帝都高速度交通営団]](交通営団)を、[[平成]]期の国の[[行政改革]]の一環として民営化するにあたり、同営団の事業を承継する[[特殊会社]]として、[[2004年]](平成16年)[[4月1日]]<ref name="沿革"/>、[[東京地下鉄株式会社法]]に基づいて設立された。9路線11系統、総計195.0 km([[営業キロ]])の地下鉄路線を運営するほか、不動産事業などの関連事業を営む。また海外事業として、[[ベトナム]]で地下鉄コンサルティングの現地法人を設立している<ref>[https://www.tokyometro.jp/news/2017/188261.html ベトナム国において現地法人を設立します] 東京地下鉄ニュースリリース(2017年3月27日)2018年12月26日閲覧</ref>ほか、[[フィリピン]]でのマニラ地下鉄施工管理、[[ミャンマー]]での都市鉄道整備にあたる準備調査を手掛けている。
設立の経緯もあり、設立時に発行された[[株式]]は営団時代の[[出資]]者がそのまま引き継いでおり、現在の株主は旧[[日本国有鉄道|国鉄]]の出資金を承継した[[日本国政府]](名義上は[[財務大臣 (日本)|財務大臣]])と、[[東京都]]となっている。このように完全に公的資本会社であるが、民営化前の営団時代から[[日本民営鉄道協会]]に加盟しており、民営化後は16社目の[[大手私鉄]]とみなされている。日本の大手私鉄の中では唯一の地下鉄事業者で、莫大な通勤・通学需要を持つ[[東京都心]]の地下鉄路線を9路線も保有していることから車両数、鉄道営業収益、輸送人員は大手私鉄で最も多い。
東京地下鉄以外にも、東京では[[東京都交通局]]が東京都区部を中心に[[都営地下鉄]]として地下鉄事業を行なっている。
=== 上場 ===
[[2009年]](平成21年)度までに株式を[[株式公開|上場]]することを目標としていた<ref>{{Cite web|和書|date=2007-03-28 |url=http://www.tokyometro.jp/corporate/profile/management_plan/index.html |title=東京メトログループ中期経営計画「Step Up Tokyo Metro Plan 2009」 |publisher=東京地下鉄 |accessdate=2007-06-29}}</ref> が、2009年に[[2010年]](平成22年)度以降へ延期されており<ref>{{Cite web|和書|date=2009-10-14 |url=http://www.business-i.jp/news/ind-page/news/200910140068a.nwc |title=東京メトロ、10年度に上場を延期 |publisher=[[日本工業新聞]]新社 |accessdate=2009-11-04}}</ref>、公式サイト上では「できる限り早期の株式上場を目指します」(2012年時点)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyometro.jp/corporate/profile/strategy/index.html |title=経営戦略 - 持続的な企業価値の向上を目指して |publisher=東京地下鉄 |accessdate=2020-04-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121015170730/http://www.tokyometro.jp/corporate/profile/strategy/index.html |archivedate=2012-10-15}}</ref>、「早期の上場と安定配当を可能とする……」(2020年時点)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/vision/index.html |title=経営ビジョン |publisher=東京地下鉄 |accessdate=2020-04-11}}</ref> と上場を目標としているものの、その時期は明言されていない。
なお、2021年7月に[[国土交通省]]の[[交通政策審議会]]が本企業の完全民営化早期実現を求める答申が出されたことを受けて、[[国土交通大臣]]の[[赤羽一嘉]]と[[東京都知事]]の[[小池百合子]]は上場に向けてそれぞれの保有株を同時に半分ずつ売却する準備を進めていくことで同月に合意<ref>{{Cite web|和書|title=東京メトロ上場へ、国と都が保有株売却で合意---有楽町線・南北線は延伸 |url=https://response.jp/article/2021/07/16/347731.html |website=レスポンス([[Response.]]jp) |accessdate=2022-03-31 |date=2021-07-16}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=政府、東京メトロ株を一部売却へ 財制審に諮問 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA089W50Y1A201C2000000/ |website=[[日本経済新聞]] |date=2021-12-08 |accessdate=2022-03-31}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=メトロ売却、主幹事選定へ 財務省、都が共同審査 |url=https://web.archive.org/web/20220328144657/https://nordot.app/881090941783998464?c=39546741839462401 |website=共同通信 |date=2022-03-28 |accessdate=2022-03-31}}</ref>。[[財務省 (日本)|財務省]]も同年12月に政府保有株を一部売却する方針であることを発表し、2022年3月に財務省と東京都が主幹事[[証券会社]]の選定を開始することが発表された<ref name=":0" /><ref name=":1" />。なお、政府保有株の売却益は[[東日本大震災]]の復興予算に<!-- 、都保有株の売却益は基本的に都内の鉄道[[ミッシングリンク]]の解消<ref group="注釈">有楽町線分岐線(豊住線)、南北線品川延伸、都営大江戸線大泉学園町延伸、多摩モノレール(町田・箱根ヶ崎)延伸など</ref>の為の整備(建設補助)予算として、それぞれ -->充当される予定になっている<ref name=":0" />。
=== 理念・キャッチコピー ===
東京メトログループ理念は「東京を走らせる力」。[[2021年]]([[令和]]3年)[[12月]]からの[[キャッチコピー]]は「Find my Tokyo. ひさしぶりっ!」である<ref name="tokyometro20211213" />。
[[2016年]](平成28年)4月から8代目の[[キャラクター|イメージキャラクター]]として[[俳優|女優]]の[[石原さとみ]]を起用している(歴代のキャッチコピーとイメージキャラクターは「[[#キャッチコピー|キャッチコピー]]」および「[[#イメージキャラクター|イメージキャラクター]]」の節を参照)。
=== 愛称とシンボルマーク ===
正式名称の「'''東京地下鉄'''」および愛称の「'''東京メトロ'''」はいずれも営団末期に社内(団内)で募集したもののなかから採用された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.recruiting-site.com/tokyometro/special/unknown01.html|title=知られざる東京メトロ コーポレートアイデンティティ|work=東京メトロ 2012年度総合職採用サイト|publisher=東京地下鉄|accessdate=2013-03-23}}</ref>。「メトロ」という言葉は([[イギリス]]や[[アメリカ合衆国]]を除く<ref group="注釈">イギリスでは「Underground」「Tube」、アメリカでは「Subway」が地下鉄の意味として用いられる。</ref>)世界各地で「地下鉄」の意味として用いられているが、これは1863年にイギリスの首都[[ロンドン]]で世界初の地下鉄を開業させた[[メトロポリタン鉄道]]に由来する<ref>『深迷怪鉄道用語辞典』313ページ ISBN 4-907727-18-6</ref>。東京地下鉄では、前身の営団時代から地下鉄路線網を「メトロネットワーク」と呼び[[路線図]]に記載していたほか、駅売店の「Metro's」(メトロス)、オリジナルキャラクターで[[アリ]]の「メトロン」、[[ドメイン名]]「www.tokyometro.jp」(営団時代は「www.tokyometro.go.jp」)など「メトロ」という語を多用している。また「[[メトロカード (東京)|メトロカード]]」という[[プリペイドカード]]や「[[メトロカード (東京)|SFメトロカード]]」という名称で[[パスネット]]対応カードを発行していた。「東京メトロ」は、東京地下鉄の登録[[商標]]となっている(第4609287号、第4762836号、第5154559号)。このうち、第4609287号は、先に個人により商標登録されていたため、東京地下鉄が[[知的財産権|知財]]裁判を提訴したが、最終的には東京地下鉄がこの個人に権利譲渡金を支払い、商標を買い取っている<ref>[http://syohyo-jp.com/mame/osaka_syohyo.html 大阪府が商標出願した「大阪地下鉄」「大阪メトロ」への波紋] - 社長の商標登録サイト(みなとみらい特許事務所)、2019年10月3日閲覧。</ref>。
[[シンボルマーク]]は、営団時代の「S」(地下鉄の「SUBWAY」のほかにSAFETY(安全)、SECURITY(正確)、SPEEDY(迅速)、SERVICE(サービス)の「S」の意味を含む<ref name="Ogikubo-Const-51">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、p.51。</ref>)を図案化したものから、メトロ (METRO) の「'''M'''」を図案化した「ハートM」を採用している。これは、[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]のシンボルマーク開発も手掛けた英国のデザイン会社[[ウルフ・オリンズ|ウルフオリンズ]]社に依頼したものである<ref>[https://web.archive.org/web/20050417163729/http://www.worldtimes.co.jp/j/tokyo/mn040201.html 愛称は「東京メトロ」/営団地下鉄−民営化で制服も一新]『[[世界日報 (日本)|世界日報]]』2004年2月2日(2019年10月3日閲覧)</ref>。
[[コーポレートカラー]]は、シンボルマークの背景色でもある「ブライトブルー」。「東京メトロ」の背景色は「ダークブルー」とし、ブライトブルーを常にメインとしながらも両色を並べて表示する。シンボルマークと愛称を知ってもらうために、基本的に2つのボックスと2つの色を常に並べて表示し、これをコミュニケーションマークと制定した。
== 歴史 ==
[[ファイル:Tokyo metro history map.gif|frame|東京の地下鉄、すなわち'''東京地下鉄'''と[[都営地下鉄]]の路線網の変遷。ただし、JR・私鉄など他の鉄道は2008年時点のもので固定。右下の数字は[[西暦]]年。]]
東京の地下鉄の歴史は、[[1927年]]([[昭和]]2年)に[[東京地下鉄道]]株式会社が、[[早川徳次 (東京地下鉄道)|早川徳次]]により[[浅草駅]] - [[上野駅]]間(現在の[[東京メトロ銀座線|銀座線]]の一部)を開業したことによって始まった。その後、[[新橋駅]]までの延伸と[[1938年]](昭和13年)に部分開業した[[東京高速鉄道]]の新橋駅 - [[渋谷駅]]間との[[1939年]](昭和14年)の相互[[直通運転]]開始を経て、[[日中戦争]]下の政府による交通事業の統制([[陸上交通事業調整法]])によって東京市内の[[都営バス|乗合バス]]と[[東京都電車|軌道]]は[[東京市]]へ、地下鉄両社は[[1941年]](昭和16年)[[9月1日]]に新たに設立された帝都高速度交通営団に引き継がれた。
[[営団]]とは戦争遂行のための統制管理目的の組織である。帝都高速度交通営団は[[住宅営団]]、[[食糧営団]]などとともにその営団の一つであり、その運営は[[帝都高速度交通営団法]]に規定されている。日本は日中戦争から[[太平洋戦争]]へ突入して[[日本の敗戦|敗北]]。終戦後、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の指令によって、他のほとんどの営団は解体されたが、帝都高速度交通営団はその運営が戦争目的ではないと認められ存続された。このため、新線建設の資金調達に関しては[[財政投融資]]が活用され、[[公団]]に近い形で運営が行われてきた。また公共企業体ながら[[日本民営鉄道協会]](民鉄協)に加盟した。
[[戦後]]は、[[日本国有鉄道]]([[国鉄分割民営化]]以降は[[日本国有鉄道清算事業団]]、のちに日本政府)と東京都が出資する[[特殊法人]]という位置付けにあったが、[[1986年]](昭和61年)[[6月10日]]の[[臨時行政改革推進審議会]]の答申で、営団地下鉄民営化の基本方針が打ち出された。その後も[[1995年]]([[平成]]7年)2月24日と[[2001年]](平成13年)[[12月19日]]の[[閣議決定]]を経て、[[2002年]](平成14年)[[12月18日]]に[[東京地下鉄株式会社法]]が公布され、2004年(平成16年)4月1日に東京地下鉄株式会社となった。株式会社化後も、出資比率は引き続き政府53.4%と東京都46.6%となっており、[[2008年]](平成20年)[[6月14日]]の副都心線開業後に株式を上場して、完全民営化を目指すとしている。
[[1995年]](平成7年)[[3月20日]]、[[オウム真理教]]による無差別テロ事件である[[地下鉄サリン事件]]が発生した。当日は営団地下鉄全線で一時運休、中でも[[化学兵器]]にも使われる致死性有毒物質[[サリン]]を散布された[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]は終日運休した。[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]などの事件現場となった駅は、3-6日間営業を中止した。
東京地下鉄発足と同時に「お客様センター」を開設するとともに、利用客の質問に対応する「サービスマネージャー」を主要駅に配置<ref name="沿革"/>。翌2005年12月から[[表参道駅]]を皮切りに商業施設「[[エチカ (商業施設)|エチカ]]」の展開を始め<ref name="沿革"/>、収益力とサービスの向上を図っている。
車内の自動放送も変更され、新たに[[英語]]による案内放送が開始された。さらに、新しい[[サインシステム|案内サインシステム]]の導入を進めている(詳細は「[[#サインシステム|サインシステム]]」の節を参照)。
また、[[フリーペーパー]]にも力を入れており、外部の編集・発行分を含めて自社系列の定期刊行フリーペーパーを7誌発行して各駅の専用ラックにて配布しているほか(筆頭は広報紙『メトロニュース』。民営化に伴うリニューアルで『TOKYO METRO NEWS』。『メトロニュース』当時は[[現業]]部門の裏話なども掲載していた)、2006年秋からは、専用ラックをリニューアルさせると同時に、他社にも門戸を開放して、全部で6社18紙誌の配布を行っている。
そして、発足当時よりテレビの[[ミニ番組]]『[[東京日和 (テレビ番組)|東京日和]]』を[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で放送するなど、沿線以外からも旅客誘致に努めている。
こうした営業努力を続けていたところに[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルス感染症が流行]]して2020年以降は乗客数が低迷し、減便を実施している<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC0761K0X00C22A7000000/ 「銀座線・丸ノ内線など減便 東京メトロ、平日9時台2割減も」] 日本経済新聞ニュースサイト(2022年7月7日)2022年7月18日閲覧</ref>。
=== 年表 ===
{{Main2|各路線の詳しい沿革・乗り入れ区間の変遷などは各路線の記事の沿革・歴史の項を}}
==== 前史 ====
* [[1927年]]([[昭和]]2年) [[東京地下鉄道]]が[[東京メトロ銀座線|銀座線]]最初の区間である浅草駅 - 上野駅間を開業(12月30日)<ref name="沿革"/>。
* [[1938年]](昭和13年) [[東京高速鉄道]]開業。
* [[1939年]](昭和14年) 銀座線全線開通、東京地下鉄道と東京高速鉄道が浅草駅 - [[渋谷駅]]間で[[直通運転]]を開始(9月16日)<ref name="沿革"/>。
* [[1941年]](昭和16年) [[帝都高速度交通営団]]が発足(7月4日)。
* [[1951年]](昭和26年) [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]が着工(4月20日)<ref name="沿革"/>、新路線建設が始まる。
* [[1954年]](昭和29年) 丸ノ内線のうち[[池袋駅]] - [[御茶ノ水駅]]が開業(1月20日)<ref name="沿革"/>(戦後初の新設路線)。
* [[1955年]](昭和30年) ロゴマークを制定(3月1日)<ref name="沿革"/>
* [[1961年]](昭和36年) [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]のうち、[[南千住駅]] - [[仲御徒町駅]]間が開業(3月28日)<ref name="沿革"/>。[[東京メトロ丸ノ内線|荻窪線]]が開業し、同時に旅客[[運賃]]を対キロ区間制とする(11月1日)<ref>{{Cite book |和書 |title=帝都高速度交通営団史 |publisher=東京地下鉄株式会社 |date=2004-12 |pages=579-580}}</ref>。
* [[1962年]](昭和37年) 荻窪線の[[方南町駅]]までの[[支線|分岐線]]が開通(3月23日)<ref name="沿革"/>し、現在の丸ノ内線が全線開通。日比谷線が[[東武伊勢崎線]]と相互直通運転開始(5月31日)<ref name="沿革"/>。
* [[1964年]](昭和39年) 日比谷線が全線開業し、[[中目黒駅]]で接続する[[東急東横線]]と相互直通運転開始(8月29日)<ref name="沿革"/>。 [[東京メトロ東西線|東西線]]が[[高田馬場駅]] - [[九段下駅]]間で開業(12月23日)<ref name="沿革"/>。
* [[1966年]](昭和41年) 東西線が[[日本国有鉄道]](国鉄)[[中央・総武緩行線|中央線]]と相互直通運転開始(10月1日)<ref name="沿革"/>。
* [[1969年]](昭和44年) 東西線全線開通、営団地下鉄として初めて千葉県へ路線を延ばす。国鉄[[中央・総武緩行線|総武線]]と相互直通運転開始。[[東京メトロ千代田線|千代田線]]開業(12月20日)。営団で5番目の路線開業となった。
* [[1970年]](昭和45年) 路線カラー(ラインカラー)を導入。
* [[1971年]](昭和46年) 千代田線が国鉄[[常磐緩行線|常磐線]]と相互直通運転開始、千葉県へ乗り入れると共に[[営団6000系電車|6000系]]電車の運転開始。
* [[1972年]](昭和47年) 荻窪線の名称を廃止し、丸ノ内線に統一。
* [[1974年]](昭和49年) マナーポスター開始。第1号は[[森昌子]]と[[原ひさ子]]を起用した「少年老イ易ク楽成リ難シ」(9月)。[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]開業(10月30日)。
* [[1975年]](昭和50年) 営団全路線の先頭車両に[[優先席|シルバーシート]]を導入。
* [[1978年]](昭和53年) 千代田線全線開通。[[小田急小田原線]]と相互直通運転開始。[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]開業(8月1日)。当時は路線距離が短いため営団は車両を所有せず、東急の車両で[[東急田園都市線|新玉川線・田園都市線]]から直通運転。営団が建設し1977年4月7日に東急新玉川線の駅として開業していた半蔵門線渋谷駅の管理を乗り入れ先の東急から移管。
* [[1981年]](昭和56年) 半蔵門線で[[営団8000系電車|8000系]]電車運転開始。
* [[1982年]](昭和57年) 千代田線が国鉄常磐線の乗り入れ区間を延長、[[茨城県]]の[[取手駅]]まで乗り入れる。
* [[1983年]](昭和58年) 有楽町線が[[西武有楽町線]]への直通運転開始。
* [[1984年]](昭和59年) 銀座線で[[営団01系電車|01系]]電車運転開始。
* [[1987年]](昭和62年) [[国鉄分割民営化]]により東西線と千代田線の直通先は[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)になる。有楽町線が営団地下鉄として初めて[[埼玉県]]へ路線を延伸、[[東武東上本線|東武東上線]]との相互直通運転開始。東西線でも8000系電車運転開始。
* [[1988年]](昭和63年) 有楽町線全線開通。日比谷線で[[営団03系電車|03系]]電車、丸ノ内線で[[営団02系電車|02系]]電車、東西線で[[営団05系電車|05系]]電車運転開始。[[メトロカード (東京)|メトロカード]]を発売。
* [[1991年]]([[平成]]3年) [[東京メトロ南北線|南北線]]開業(11月29日)、平成初の地下鉄路線として開業。[[営団9000系電車|9000系]]電車運転開始。NSメトロカードを発売。
* [[1993年]](平成5年) 千代田線で[[営団06系電車|06系]]電車、有楽町線で[[営団07系電車|07系]]電車運転開始。銀座線の[[営団2000形電車|2000形]]電車を全廃。
* [[1994年]](平成6年) 有楽町線新線開業、平成に入り2番目の路線開業となる。日比谷線の[[営団3000系電車|3000系]]電車を全廃。
* [[1995年]](平成7年) [[地下鉄サリン事件]]により全路線が午前中の運転を休止。駅係員2名が[[殉職]]。また、丸ノ内・日比谷・千代田の各線は1週間近く運転を休止。自動改札機の全駅への導入が完了。
* [[1996年]](平成8年) 東西線が[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]と相互直通運転開始。丸ノ内線の[[営団500形電車|500形]]電車を全廃。営団全車両で冷房化達成。SFメトロカードを発売。シルバーシートを全車両に拡大。
* [[1998年]](平成10年) 有楽町線が[[西武池袋線]]と相互直通運転開始(3月26日)<ref name="沿革"/>。
* [[1999年]](平成11年) シルバーシートを[[優先席]]に変更。
* [[2000年]](平成12年) 東西線で新05系電車運転開始。南北線が全線開通し、[[東急目黒線]]と相互直通運転開始。[[パスネット]]を導入。
* [[2001年]](平成13年) 南北線が[[埼玉高速鉄道線]]と相互直通運転開始(3月28日)<ref name="沿革"/>。
* [[2002年]](平成14年) 千代田線が[[小田急多摩線]]と相互直通運転開始。
* [[2003年]](平成15年) 半蔵門線が全線開通し、それに伴い東武伊勢崎線・[[東武日光線|日光線]]と相互直通運転開始(3月19日)<ref name="沿革"/>。営団最後の車両系列となった[[営団08系電車|08系]]電車運転開始。
==== 東京地下鉄発足後 ====
* [[2004年]](平成16年) 帝都高速度交通営団が民営化されて東京地下鉄が発足。愛称は「東京メトロ」。同時に1990年5月31日認定の[[相模鉄道]]以来14年振りの大手私鉄(16社目)となる。また、東京地下鉄発足直前より、テレビ[[コマーシャルメッセージ|CM]]を開始。
* [[2006年]](平成18年) 有楽町線で、東京地下鉄発足後最初の車両系列となる[[東京メトロ10000系電車|10000系]]電車運転開始。営団時代からの特徴であった160円区間・190円区間専用の券売機を廃止。
* [[2007年]](平成19年) 東西線の[[営団5000系電車|5000系]]電車を全廃。[[PASMO]]を導入、同時に[[Suica]]相互利用開始。あわせて[[提携カード]]「Tokyo Metro To Me Card」を発行。半蔵門線渋谷駅の管理を乗り入れ先の東急に移管。[[早期地震警報システム]]を運用開始<ref>{{Cite news |title=東京メトロと京成 早期地震警報の運用開始 |newspaper=『[[交通新聞]]』 |publisher=交通新聞社 |page=1 |date=2007-10-02 }}</ref>(10月1日)。
* [[2008年]](平成20年) パスネットの発売終了。千代田線で[[小田急ロマンスカー]]の乗り入れによる日本初の地下鉄での有料[[特急列車|特急]]運行開始(3月15日)。[[東京メトロ副都心線|副都心線]]が全線開業し、副都心線が東武東上線・西武有楽町線・西武池袋線との相互直通運転を開始(6月14日)。
* [[2010年]](平成22年) 東西線で[[東京メトロ15000系電車|15000系]]、千代田線で[[東京メトロ16000系電車|16000系]]電車運転開始。
* [[2011年]](平成23年) [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])が発生し、各地で[[帰宅困難者]]が続出し、乗客が滞留する。帰宅困難者を救済して乗客滞留を解消するため、翌日にかけて[[終夜運転]]を行う(3月11日)。[[東日本大震災による電力危機]]で[[東京電力]]が[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]を実施。これに伴い、各線で節電ダイヤが適用され、同年9月10日まで減便もしくは直通運転の中止などの処置がなされる(3月13日)。[[モバイルアプリケーション|スマートフォンアプリ]]「東京メトロアプリ」公開(5月30日)<ref>{{Cite press release|和書|title=東京メトロ公式スマートフォンアプリ、5/30公開!|publisher=東京地下鉄|date=2011-05-26|url=https://www.tokyometro.jp/news/2011/pdf/metroNews20110526_01.pdf|format=PDF|accessdate=2021-07-24}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|2021年1月28日に「東京メトロmy!アプリ」と統合<ref>{{Cite press release|和書|title=「東京メトロmy!アプリ」と「東京メトロアプリ」を統合します!|url=https://www.tokyometro.jp/news/2021/209161.html |publisher=東京地下鉄|date=2021-01-26|accessdate=2021-07-24}}</ref>。}}。
* [[2012年]](平成24年) 銀座線で[[東京メトロ1000系電車|1000系]]電車運転開始(4月11日)。
* [[2013年]](平成25年) 副都心線が東急東横線・[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]と相互直通運転開始、同時に日比谷線と東急東横線との相互直通運転を廃止(3月16日)。[[交通系ICカード全国相互利用サービス|IC乗車カード全国相互利用]]開始で、[[Kitaca]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[ICOCA]]、[[PiTaPa]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が利用開始になる<ref group="注釈" name="Well_IC_Card">割引用manaca、障がい者用nimoca、割引用はやかけんは相互利用対象外。</ref>(3月23日)。
* [[2014年]](平成26年) ラインカラーの変更が決定。路線図や駅のサインなどへの変更は2015年から2016年にかけて実施される。
* [[2016年]](平成28年) 千代田線、JR常磐線、小田急線における3社直通運転がJR・小田急の車両でも開始(3月26日)。銀座線を皮切りに車内無料[[公衆無線LAN|Wi-Fiサービス]]の提供開始(12月1日)<ref>{{Cite press release|和書|title=訪日外国人のお客様向け無料Wi-Fiサービスを銀座線車両内に導入します!|publisher=東京地下鉄|date=2016-11-29|url=https://www.tokyometro.jp/news/2016/157766.html|access-date=2022-07-14}}</ref>
* [[2017年]](平成29年) 日比谷線で20m級片側4ドア7両編成の13000系電車の本格営業運転を開始(3月25日)。03系置き換え完了後に各駅に順次ホームドア設置予定<ref>[http://railf.jp/news/2017/03/26/204500.html 東京メトロ13000系が本格的な営業運転を開始] [[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]](交友社)railf.jp(2017年3月26日配信)2019年10月3日閲覧</ref>。
* [[2018年]](平成30年) 利便性向上のため、[[水天宮前駅]] - [[人形町駅]]、[[築地駅]] - [[新富町駅]]の連絡業務([[乗換駅]])を設定(3月17日)<ref>{{Cite web|和書|title=3月17日(土)から新たな乗換駅の設定を開始します |url=http://www.tokyometro.jp/news/2018/191341.html |publisher=東京地下鉄 |date=2018-02-15 |accessdate=2018-02-18}}</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年) [[日本電信電話]] (NTT) と鉄道保守や混雑緩和で協業を発表(7月29日)<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47917780Z20C19A7TJ1000/ 「NTTと東京メトロ、鉄道保守や駅の混雑緩和で協業」] [[日本経済新聞]]ニュースサイト(2019年7月29日)2019年10月3日閲覧</ref>。
* [[2020年]](令和2年) [[スマートフォン]]用充電器の有料貸し出しを開始(2月6日)<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55179710T00C20A2L83000/ 「東京メトロ、スマホ充電器貸し出し 有楽町駅などで」] 日本経済新聞ニュースサイト(2020年2月3日配信)2020年7月22日閲覧</ref>。[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルス感染症の流行]]を受けて、車両の抗ウイルス・抗菌加工を開始(7月2日から)<ref>[https://www.tokyometro.jp/news/2020/208131.html お客様に安心して地下鉄をご利用いただくために全車両への抗ウイルス・抗菌処置を実施します] 東京地下鉄ニュースリリース(2020年7月9日)2020年10月24日閲覧。</ref>。大都市型[[Mobility as a Service|MaaS]]「my! 東京MaaS」の取り組みの一環としてスマートフォンアプリ「東京メトロmy!アプリ」を公開(8月27日)<ref>{{Cite press release|和書|title=「my! 東京MaaS」いよいよ発進、新アプリ「東京メトロmy!アプリ」登場!|publisher=東京地下鉄|date=2020-08-27|url=https://www.tokyometro.jp/news/2020/208346.html|accessdate=2021-07-24}}</ref>。2020年度設備投資の当初計画1690億円から1400億円への減額を発表(9月30日)<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO64427340Q0A930C2000000/ 東京メトロ、コロナ響き設備投資2割圧縮 20年度計画]」日本経済新聞ニュースサイト(2020年9月30日配信)2020年10月24日閲覧</ref>。
* [[2021年]](令和3年) 新型コロナウイルス感染防止策などとして、「東京メトロmy!アプリ」で、丸ノ内線(一部除く)と銀座線の「号車ごとのリアルタイム混雑状況」の配信開始(7月14日)<ref>{{Cite web|和書|title=リアルタイムに実測・予測した号車ごとの混雑状況を東京メトロmy!アプリで配信します!|url=https://www.tokyometro.jp/news/2021/210901.html |publisher=東京地下鉄 |date=2021-07-14 |accessdate=2021-07-23}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年) 駅のゴミ箱を全面撤去<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASQ1H61Y3Q1FUTIL03X.html「消えるゴミ箱…首都圏の駅で続々と、メトロは17日から全面撤去」][[朝日新聞デジタル]](2022年1月16日)2022年5月7日閲覧</ref>(1月17日)。ホームドアを2025年度までに全線に設置するなどの設備投資計画と、その原資として2021年創設の[[鉄道駅バリアフリー料金制度]]に基づき運賃に10円上乗せ(2023年実施予定)を発表(4月25日)<ref>[https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220425_24.pdf 鉄道駅バリアフリー料金制度を活用し円滑な移動の実現に取り組みます~2025年度までのホームドア全線整備をはじめ整備を着実に推進~]東京メトロプレスリリース(2022年4月25日)2022年5月7日閲覧</ref>。[[エヌ・ティ・ティ・ブロードバンドプラットフォーム|NTT BP]]との契約満了に伴い車両内での無料Wi-Fiサービスを一部終了。訪日外国人用の「[[ワイヤ・アンド・ワイヤレス#TRAVEL JAPAN Wi-Fi|TRAVEL JAPAN Wi-Fi]]」と、有料の「[[Wi2 300]]」と駅構内でのサービスは継続(6月30日)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/info/files/220606_JP_WifiDiscontinuation.pdf |format=PDF |title=東京メトロ車両内で提供しているWi-Fiサービスの一部終了について |access-date=2022-07-14 |publisher=東京地下鉄 |date=2022-06-06}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年) 南北線と副都心線が東急東横線・東急目黒線経由で[[東急新横浜線]]および[[相模鉄道#現有路線|相鉄線]]と相互直通運転開始(3月18日)。
== 路線 ==
[[ファイル:Tokyo metro map ja - Tokyo Metro lines.png|thumb|none|500px|東京地下鉄の路線図]]
<!-- 色を変更される際は、できれば各路線の記事中の路線記号マークの色・駅一覧の帯色、[[日本の鉄道ラインカラー一覧]]の路線色、各路線のテンプレート[[Template:東京メトロ○○線]]のラインカラーも変更してください。
表示環境(装置の違いや色数など)によって色の見え方が違います。RGB値までこだわっても他の環境で同じ色調に見えるとは限りません。-->
{| class="wikitable sortable" style="font-size:90%"
|-
!色<!--東京メトロ・都営共通の構内・周辺案内公式掲示で確認済-->
!記号
!data-sort-type="number"|路線番号
!style="width:5em"|路線名
!class="unsortable"|区間
!data-sort-type="number"|キロ程
!軌間
!電気方式
|-
|style="background:#b5b5ac; color:white; text-align:center"|シルバー
|style="text-align:center" data-sort-value="H"|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|24px|H]]
|style="text-align:center"|2号線
|data-sort-value="ひびや"|[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]
|{{駅番号r|H|22|#b5b5ac|4}} [[北千住駅]] - {{駅番号r|H|01|#b5b5ac|4}} [[中目黒駅]]
|style="text-align:right"|20.3 km
|狭軌
|架空線
|-
|style="background:#ff9500; color:white; text-align:center"|オレンジ
|style="text-align:center" data-sort-value="G"|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|24px|G]]
|style="text-align:center"|3号線
|data-sort-value="ぎんざ"|[[東京メトロ銀座線|銀座線]]
|{{駅番号r|G|19|#ff9500|4}} [[浅草駅]] - {{駅番号r|G|01|#ff9500|4}} [[渋谷駅]]
|style="text-align:right"|14.2 km
|標準軌
|第三軌条
|-
|style="background:#f62e36; color:white; text-align:center" rowspan="2"|レッド
|style="text-align:center" data-sort-value="M"|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|24px|M]]
|rowspan="2" style="text-align:center"|4号線
|rowspan="2" data-sort-value="まるのうち"|[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]
|本線:{{駅番号r|M|25|#f62e36|4}} [[池袋駅]] - {{駅番号r|M|01|#f62e36|4}} [[荻窪駅]]
|style="text-align:right"|24.2 km
|rowspan="2"|標準軌
|rowspan="2"|第三軌条
|-
|style="text-align:center" data-sort-value="m"|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi branch Line.svg|24px|Mb]]
|分岐線:{{駅番号r|M|06|#f62e36|4}} [[中野坂上駅]] - {{駅番号r|Mb|03|#f62e36|4}} [[方南町駅]]
|style="text-align:right"|3.2 km
|-
|style="background:#009bbf; color:white; text-align:center"|スカイ
|style="text-align:center" data-sort-value="T"|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|24px|T]]
|style="text-align:center"|5号線
|data-sort-value="とうざい"|[[東京メトロ東西線|東西線]]
|{{駅番号r|T|01|#009bbf|4}} [[中野駅 (東京都)|中野駅]] - {{駅番号r|T|23|#009bbf|4}} [[西船橋駅]]
|style="text-align:right"|30.8 km
|狭軌
|架空線
|-
|style="background:#00ac9b; color:white; text-align:center"|エメラルド
|style="text-align:center" data-sort-value="N"|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|24px|N]]
|style="text-align:center"|7号線
|data-sort-value="なんぼく"|[[東京メトロ南北線|南北線]]
|{{駅番号r|N|01|#00ac9b|4}} [[目黒駅]] - {{駅番号r|N|19|#00ac9b|4}} [[赤羽岩淵駅]]
|style="text-align:right"|21.3 km
|狭軌
|架空線
|-
|style="background:#c1a470; color:white; text-align:center"|ゴールド
|style="text-align:center" data-sort-value="Y"|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|24px|Y]]
|style="text-align:center"|8号線
|data-sort-value="ゆうらくちょう"|[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]
|{{駅番号r|Y|01|#c1a470|4}} [[和光市駅]] - {{駅番号r|Y|24|#c1a470|4}} [[新木場駅]]
|style="text-align:right"|28.3 km
|狭軌
|架空線
|-
|rowspan="2" style="background:#00bb85; color:white; text-align:center"|グリーン
|rowspan="2" style="text-align:center" data-sort-value="C"|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|24px|C]]
|rowspan="2" style="text-align:center"|9号線
|rowspan="2" data-sort-value="ちよだ"|[[東京メトロ千代田線|千代田線]]
|本線:{{駅番号r|C|19|#00bb85|4}} [[綾瀬駅]] - {{駅番号r|C|01|#00bb85|4}} [[代々木上原駅]]
|style="text-align:right"|21.9 km
|rowspan="2"|狭軌
|rowspan="2"|架空線
|-
|支線:{{駅番号r|C|19|#00bb85|4}} 綾瀬駅 - {{駅番号r|C|20|#00bb85|4}} [[北綾瀬駅]]
|style="text-align:right"|2.1 km
|-
|style="background:#8f76d6; color:white; text-align:center"|パープル
|style="text-align:center" data-sort-value="Z"|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|24px|Z]]
|style="text-align:center"|11号線
|data-sort-value="はんぞうもん"|[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]
|{{駅番号r|Z|01|#8f76d6|4}} 渋谷駅 - {{駅番号r|Z|14|#8f76d6|4}} [[押上駅]]
|style="text-align:right"|16.8 km
|狭軌
|架空線
|-
|style="background:#9c5e31; color:white; text-align:center"|ブラウン
|style="text-align:center" data-sort-value="F"|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|24px|F]]
|style="text-align:center"|13号線
|data-sort-value="ふくとしん"|[[東京メトロ副都心線|副都心線]]
|{{駅番号r|F|01|#9c5e31|4}} 和光市駅 - {{駅番号r|F|16|#9c5e31|4}} 渋谷駅(後注)
|style="text-align:right"|11.9 km
|狭軌
|架空線
|}
* 路線番号は、都市交通審議会が1968年([[昭和]]43年)4月10日に[[運輸大臣]]に提出した[[都市交通審議会答申第10号]]で示めされた路線名を現在まで踏襲したものである。この答申では建設および運営事業者は規定しておらず、この答申に沿って営団を初め他事業者([[東京都交通局]]、[[東京急行電鉄]])が免許申請を行ったため、上表の路線番号に記載のない番号(1・6・10・12号線)がある。また番号はこの答申の1つ前の答申である[[都市交通審議会答申第6号]](1962年〈昭和37年〉6月8日提出)における番号とは異なった番号を振っており、答申6号から答申10号では、千代田線が8号線から9号線へ、有楽町線が10号線から8号線へ、都営新宿線が9号線から10号線へ変更されている。
* 有楽町線のうち和光市駅 - [[小竹向原駅]]間は、東京圏鉄道網整備計画などでは13号線(副都心線)の一部となっており、東京地下鉄によると副都心線の起点駅は和光市駅となっている。そのため、和光市駅 - 小竹向原駅間は有楽町線と副都心線の共用区間となっている。なお、副都心線開業前は、先行開業していた小竹向原駅 - 新線池袋駅(現・池袋駅)間を[[東京メトロ副都心線|有楽町線新線]]として営業していた。
* 副都心線の[[営業キロ]]は小竹向原駅 - 渋谷駅間のもので、有楽町線との共用区間は含まない。
銀座線と丸ノ内線は[[標準軌]](軌間1,435 mm)・[[第三軌条方式]]([[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]])、それ以外の路線は他社線との[[直通運転|相互乗り入れ]]を行う必要性などから[[狭軌]](軌間1,067 mm)・[[架空電車線方式]](直流1,500 V)による電気鉄道となっている。また、車両の大きさも銀座線が小型車(16 m級)、丸ノ内線が中型車(18 m級)、その他の線区が大型車(20 m級)と、建設時期や乗り入れ先事業者の要望から線区ごとに異なっている。
多くの鉄道路線では基本的に東京から郊外へ向かう方向を「下り」、その逆方向を「上り」としているが、東京都心部を貫通する東京地下鉄では上り・下りはそぐわないことから、届出上の起点駅から終点駅に向かう方向を「A線」、その逆方向を「B線」と呼称している。その「A線」「B線」の呼称は一般の旅客には馴染みはないものの、基本的に駅のホームの乗り場番号(番線)の若い方がA線となっており、例えば銀座線の場合は[[渋谷駅|渋谷]]方面が1番線、[[浅草駅|浅草]]方面が2番線となっているので渋谷方面がA線、浅草方面がB線となる。ただし、一部例外もあり、半蔵門線は渋谷駅 - [[青山一丁目駅]]間で並走する銀座線との整合をとるため、ホームの乗り場番号(番線)の若い方がB線となっている。駅の自動放送ではA線が女声、B線が男声となっている。また、[[列車番号]]では上下で奇数偶数の区別をしていないため、直通のない銀座・丸ノ内線を除いて「A○○XXS」「B○○XXK」(○○はその列車の始発「時」、XXは[[運用 (鉄道)|運用]]番号、末尾のアルファベットは車両の所属元の符号)のように頭にA・Bが付く。なお、東京地下鉄では最初に開通した区間に近い方の終端駅を起点駅としており、例えば銀座線の場合は浅草駅 - [[上野駅]]間が最初に開通し、そこから渋谷方面へと伸びていったので浅草駅が起点駅となる。これにも例外があり、南北線は[[駒込駅]] - [[赤羽岩淵駅]]間が最初に開通したものの、[[目黒駅]]が起点駅となっている。
2004年(平成16年)の発足時に導入された駅番号([[駅ナンバリング]])は、基本的に西・南から東・北方面に向かって振られており、路線によっては起点ではなく終点側の駅が「01」である場合もある。上表では左側の駅が起点である。なお、各線の記事の駅一覧では駅番号順で記載している。
2018年(平成30年)12月時点で、東京都に23ある[[特別区]]のうち、東京メトロの路線もしくは駅(他社管理駅含む)が存在しない区は[[大田区]]・[[世田谷区]]・[[葛飾区]]である<ref group="注釈">うち大田区は都営地下鉄の路線・駅は存在する([[都営地下鉄浅草線|浅草線]]の[[馬込駅]]と[[西馬込駅]])。また、綾瀬駅は免許申請・建設当初は葛飾区であったが開業前に足立区への区境変更に伴う移管が行われた結果、葛飾区に駅が存在しなくなっている。世田谷区は東京メトロ・都営地下鉄以外の地下路線ながら[[東急田園都市線]](11号線、[[池尻大橋駅]] - [[二子玉川駅]]間が世田谷区内)がある。</ref>。ただし、これら3区にも他社線への乗り入れの形で東京メトロの車両が乗り入れている。
=== 新線整備 ===
今後の新線開業については、当初の営団の目標である「地下鉄網の整備」に目途が立ち、民営化を目指すために東京地下鉄が設立されたという経緯を勘案し、副都心線以降は行わない方針であったが、2017年(平成29年)に就任した第3代社長の[[山村明義 (鉄道技術者)|山村明義]]は「今後新線建設に対する協力を求められる場合には、東京地下鉄の都市鉄道ネットワークの一部を構成する事業者としての立場から、当社の経営に悪影響を及ぼさない範囲内において行う」という方針であるとも語っており、新線建設の再開を示唆していた<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/13562353/ 東京メトロの山村明義社長が課題や方針を語る「私も地下で迷う」] [[ライブドアニュース]](2017年9月4日6時0分配信)2018年3月22日閲覧</ref>。
2021年(令和3年)、[[交通政策審議会]]による「東京圏における今後の地下鉄ネットワークのあり方等について」(第371号答申)<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/content/001414998.pdf|title=東京圏における今後の地下鉄ネットワークのあり方等について|author=交通政策審議会|work=国土交通省|date=2021-07-15|accessdate=2022-03-19}}</ref> において、東京8号線延伸([[豊洲駅]] - [[住吉駅 (東京都)|住吉駅]])、および[[東京メトロ南北線#延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)|都心部・品川地下鉄構想]]([[品川駅]] - [[白金高輪駅]])について、従来東京メトロには適用されていなかった地下高速鉄道整備事業費補助や[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]による都市鉄道融資の活用を前提として、事業主体の役割を求めるのが適当とした。
これを受けて、東京メトロは2022年(令和4年)1月28日、有楽町線延伸(豊洲駅 - 住吉駅間4.8 km)、および南北線延伸(品川駅 - 白金高輪駅2.5 km)の鉄道事業許可を国土交通大臣に申請している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2022/212166.html|title=有楽町線延伸(豊洲・住吉間)及び南北線延伸(品川・白金高輪間)の鉄道事業許可を申請しました。|work=東京地下鉄|date=2022-01-28|accessdate=2021-03-19}}</ref>。
=== 直通運転区間 ===
東京メトロでは、銀座線・丸ノ内線を除く7路線で他社線との[[直通運転|相互直通運転]]を行っている。ここではその概要のみ示す。詳細は各路線の記事を参照のこと。
東京メトロの所有車両は、[[東武鉄道]](日比谷線・有楽町線・半蔵門線・副都心線)、[[東急電鉄]](半蔵門線・南北線・副都心線)、[[横浜高速鉄道]](副都心線)、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]](東西線・千代田線)、[[小田急電鉄]](千代田線)、[[西武鉄道]](有楽町線・副都心線)、[[東葉高速鉄道]](東西線)、[[埼玉高速鉄道]](南北線)と相互乗り入れを行っており、[[埼玉県]]、[[千葉県]]、[[神奈川県]]、[[茨城県]]までの広範囲で運転されている。ただし、茨城県内の乗り入れ駅は[[取手駅]]のみであり、乗り入れも平日の通勤時間帯に限定される。また、南北線・副都心線は[[相模鉄道]]とも相互乗り入れを行っているが、東京メトロの所有車両は相模鉄道へ乗り入れていない。
以下の()内の駅名は'''通常のダイヤにおける最長直通運転区間'''([[臨時列車]]、有料特急列車を除く)で、一部時間帯のみしか直通運転を行わない区間もある。[ ]内の英字は当該社所属車両に割り当てられる運用番号の末尾の記号(列車記号)で、この英字によって所属を区別する。なお、東京メトロの所有車両の識別符号はメトロを示す「M」ではなく、営団時代から引き続き「S」が使われている。各鉄道会社の所属車両の表示は東武と東葉高速が「T」<ref group="注釈">南北線の白金高輪駅から目黒駅までを共用する三田線からの東急目黒線・東急新横浜線への直通列車の都営地下鉄車も「T」である。</ref>、東急・横浜高速・JR東日本は「K」、小田急は「E」、相鉄は「G」、西武と埼玉高速は「M」である。
* [[東武日光線]]・[[東武伊勢崎線|伊勢崎線(東武スカイツリーライン)]] ([[南栗橋駅]])[T] - '''日比谷線'''
** 2013年(平成25年)3月15日までは[[東急東横線]] [[菊名駅]]まで相互直通運転を行っていたが、3社直通運転は行われなかった。
** これとは別に[[THライナー]]が東武伊勢崎線 [[久喜駅]]まで運行されている。
* JR[[中央本線|中央線]]([[中央・総武緩行線|各駅停車]])([[三鷹駅]])[K] - '''東西線''' - [[東葉高速鉄道東葉高速線]]([[東葉勝田台駅]])[T]、JR[[総武本線|総武線]](各駅停車)([[津田沼駅]])[K]
** 3社直通運転は東京メトロの車両のみで運用される(JRの車両が東葉高速線へ、あるいはその逆の運用はない。なお、JR東日本 - 東西線 - JR東日本の運用はJR・東京メトロ両社の車両で行われている)。
* JR[[常磐線]]([[常磐緩行線|各駅停車]])([[取手駅]])[K] - '''千代田線''' - [[小田急小田原線]]([[伊勢原駅]])[E]
** 3社直通運転は営団時代の開始時から、長らく東京メトロの車両に限り行われていたが、2016年(平成28年)3月26日ダイヤ改正からJR東日本・小田急の車両でも開始された<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20151220-a158/ 「小田急線・東京メトロ千代田線、ダイヤ改正で直通列車・ロマンスカー増発!」] [[マイナビニュース]](2015年12月20日配信)2016年3月19日閲覧</ref>。なお、綾瀬駅 - 北綾瀬駅にはJR東日本・小田急の車両も乗り入れるが、北綾瀬駅発着の常磐線直通列車は他社車両も含め設定されていない。
** 2022年(令和4年)3月12日のダイヤ改正以前は、[[小田急多摩線]] [[唐木田駅]]まで乗り入れる列車も設定されていた。また同改正以降、取手駅 - 伊勢原駅間を通し運転する列車はなく、最長運転区間は[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]] - 伊勢原駅間となっている。
** これとは別に[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]が北千住駅から小田急小田原線経由で[[小田急江ノ島線|江ノ島線]] [[片瀬江ノ島駅]]、[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山鉄道]] [[箱根湯本駅]]まで運行されている。
* [[東武東上本線|東武東上線]]([[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園駅]])[T]、[[西武池袋線]]・[[西武有楽町線]]([[飯能駅]])[M] - '''有楽町線'''
* 東武東上線([[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]])[T]、西武池袋線・西武有楽町線(飯能駅)[M] - '''副都心線''' - 東急東横線[K] - [[横浜高速鉄道みなとみらい線]]([[元町・中華街駅]])[K]
* 東武東上線(小川町駅)[T] - '''副都心線''' - 東急東横線・[[東急新横浜線]][K] - [[相鉄新横浜線]]・[[相鉄本線|本線]]・[[相鉄いずみ野線|いずみ野線]]([[海老名駅]]・[[湘南台駅]])[G]
** 6社直通運転は東急の車両のみで行われる(東武・西武・東京メトロ・横浜高速鉄道の車両が相鉄へ、相鉄の車両が東武・西武・横浜高速鉄道へ乗り入れる運用はない)。
** 臨時列車として[[西武狭山線]] [[西武球場前駅]]発着も運行される。詳細は[[西武有楽町線#西武ドームへの観客輸送]]を参照。
** このほか土休日に有料座席指定列車[[S-TRAIN]]が[[西武秩父線]] [[西武秩父駅]] - 横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅間で運行されている。
** <!--有楽町線・副都心線ともに-->西武の車両の東武への直通運転、あるいはその逆は行われないが、西武への直通運転区間ではない小竹向原駅 - 和光市駅間に西武の車両が乗り入れる運用はある。
** 東急および横浜高速鉄道、相模鉄道の車両の有楽町線への乗り入れは通常ダイヤでは行われない。
** 東急新横浜線およびそれと接続する相模鉄道各線への乗り入れについては、2023年3月18日より開始した。ただし、西武鉄道は相模鉄道各線への直通運転は行っていない。
* [[東急田園都市線]]([[中央林間駅]])[K] - '''半蔵門線''' - 東武伊勢崎線(久喜駅)・日光線(南栗橋駅)[T]
** 各社車両による3社直通運転が行われている。
* 相鉄いずみ野線・本線・相鉄新横浜線(湘南台駅・海老名駅)[G] - 東急新横浜線・[[東急目黒線|目黒線]][K] - '''南北線''' - [[埼玉高速鉄道線]]([[浦和美園駅]])[M]
** 4社直通運転は東急・相鉄の車両のみで行われる(東京メトロ・埼玉高速鉄道の車両が相鉄へ乗り入れる運用はない)。
** 南北線は[[都営地下鉄三田線|都営三田線]]([[東京都交通局]])と線路を共用している区間(目黒駅 - 白金高輪駅間)があるが、これは直通運転扱いではなく、また都営地下鉄の車両が南北線・埼玉高速鉄道へ、あるいはその逆の運用はない。
** 東急新横浜線およびそれと接続する相模鉄道各線への乗り入れについては、2023年3月18日より開始した。ただし、南北線から相模鉄道各線への乗り入れは全日朝夕時間帯のみ実施であり、日中時間帯は南北線からは東急新横浜線までの乗り入れで、相模鉄道各線への乗り入れは実施していない。
=== ラインカラー ===
路線カラー(ラインカラー)を初めて導入したのは営団時代の[[1970年]]7月{{sfn|小林拓矢|2018|p= 2}}。当時開業していた銀座線、丸ノ内線、日比谷線、東西線、千代田線の5路線と、都営の浅草線、三田線の2路線を走る車両の色などを基準に、営団地下鉄(現・東京メトロ)と東京都で路線カラーを決めた。また、この時点で計画中だった有楽町線と半蔵門線、南北線、都営新宿線についても、この5路線と同時に路線カラーを決定した。副都心線は1985年に追加で決めた<ref name="traffic">{{Cite web|和書|website= 乗りものニュース|author= 青山陽市郎|date= 2016-07-29|title= 【乗りもの豆知識】東京メトロの路線カラーはどのようにして決まった?|url= https://trafficnews.jp/post/55325|accessdate= 2018-12-04}}</ref>。カラーは2014年に変更が決定され、微妙に変えられた。2016年にかけて路線図や駅のサインへの変更実施がされている。
各路線の[[RGB]]カラーコードとカラーの由来は以下の通り(色の名称は当時の説明で使われていた名称で記載。カラーコードは2014年の変更前→変更後。変更後のカラーコードは東京メトロオープンデータ開発者サイトのガイドラインによる<ref>[https://developer.tokyometroapp.jp/guideline ガイドライン] - 東京メトロオープンデータ開発者サイト(2021年5月23日閲覧)</ref>)。
* 銀座線/オレンジ (#f39700{{Color sample|#f39700|border=none|size=0.8em}} → #ff9500{{Color sample|#ff9500|border=none|size=0.8em}}):[[ベルリン地下鉄]]の車体色 {{sfn|小林拓矢|2018|p= 3}}
* 丸ノ内線/赤 (#e60012{{Color sample|#e60012|border=none|size=0.8em}} → #f62e36{{Color sample|#f62e36|border=none|size=0.8em}}):英国のタバコの包装の色 {{sfn|小林拓矢|2018|p= 3}}
* 日比谷線/グレー (#9caeb7{{Color sample|#9caeb7|border=none|size=0.8em}} → #b5b5ac{{Color sample|#b5b5ac|border=none|size=0.8em}}):[[セミステンレス車両|ステンレス車体]]の銀色からグレーに変更 {{sfn|小林拓矢|2018|p= 3}}
* 東西線/水色 (#00a7db{{Color sample|#00a7db|border=none|size=0.8em}} → #009bbf{{Color sample|#009bbf|border=none|size=0.8em}}):ステンレス車を使用した日比谷線との区別のために追加された[[ハイライト (たばこ)]]の帯 <ref name="traffic" />
* 千代田線/緑 (#009944{{Color sample|#009944|border=none|size=0.8em}} → #00bb85{{Color sample|#00bb85|border=none|size=0.8em}}): 直通(予定)先の[[常磐緩行線]]のラインカラーから <ref name="traffic" />
* 有楽町線/金色 (#d7c447{{Color sample|#d7c447|border=none|size=0.8em}} → #c1a470{{Color sample|#c1a470|border=none|size=0.8em}}):オフィス街のイメージ{{sfn|小林拓矢|2018|p= 3}}
* 半蔵門線/薄紫 (#9b7cb6{{Color sample|#9b7cb6|border=none|size=0.8em}} → #8f76d6{{Color sample|#8f76d6|border=none|size=0.8em}}):ほかと重ならない目立つ色 {{sfn|小林拓矢|2018|p= 3}}
* 南北線/エメラルドグリーン (#00ada9{{Color sample|#00ada9|border=none|size=0.8em}} → #00ac9b{{Color sample|#00ac9b|border=none|size=0.8em}}):沿線の日本庭園 {{sfn|小林拓矢|2018|p= 3}}
* 副都心線/茶 (#bb641d{{Color sample|#bb641d|border=none|size=0.8em}} → #9c5e31{{Color sample|#9c5e31|border=none|size=0.8em}}):ほかと重ならない目立つ色 {{sfn|小林拓矢|2018|p= 3}}
== 歴代経営陣 ==
* 歴代社長
** 初代 [[梅﨑壽]] 2004年4月1日 - 2011年6月28日
** 第2代 [[奥義光]] 2011年6月29日 - 2017年6月28日
** 第3代 [[山村明義 (鉄道技術者)|山村明義]] 2017年6月29日 -
* 歴代会長
** 初代 [[濱中昭一郎]]
** 第2代 [[吉田二郎 (鉄道経営者)|吉田二郎]]
** 第3代 [[安富正文]]
** 第4代 [[本田勝]]
== 車両 ==
営団地下鉄時代からその時代毎の最新技術を取り込んだ車両を設計・開発し、東京地下鉄移管後もその方針を受け継いでいる。但し、[[鉄道車両の台車|台車]]については2000年の[[営団日比谷線脱線衝突事故|日比谷線での脱線事故]]以降、輪重が極端に不均衡になった状態で曲線通過時に車輪のせり上がり現象による脱線が起こりやすいことを考え、東京地下鉄発足後の新規開発車両および一部増備車は全て輪重調整や管理の容易な[[ボルスタアンカー|ボルスタ付台車]]を採用している。
なお、5000系[[セミステンレス車両|ステンレス車]]の運用終了以降、自社車両は全て[[アルミニウム合金製の鉄道車両|アルミ製]]となっている。また、2018年(平成30年)10月に03系の[[電機子チョッパ制御]]車が廃車となり、営業車両は全て[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]に統一された。
営団地下鉄時代の1990年代以降、自社で運用を終えた車両を国内外の鉄道事業者に譲渡を進めるケースが多い。特筆すべき点として、一部の譲渡車両を譲渡先から買い戻しており、これらは技術伝承の一環として教材として使用するほか、イベントで公開も行われている。
以下の車両は、2004年の東京地下鉄発足後に運用された、または導入される予定のものである。営団地下鉄時代に運用を終了した過去の車両については「[[帝都高速度交通営団#車両]]」を参照。
; 銀座線
:* [[営団01系電車|01系]](2017年に運用終了)
:* [[東京メトロ1000系電車|1000系]]
; 丸ノ内線
:* [[営団02系電車|02系]](方南町支線用の80番台は2022年に運用終了)
:* [[東京メトロ2000系電車|2000系]]
; 日比谷線
:* [[営団03系電車|03系]](2020年に運用終了)
:* [[東京メトロ13000系電車|13000系]]<ref>[http://www.tokyometro.jp/news/2015/713.html 東京メトロ日比谷線・東武スカイツリーライン新型車両の形式と基本仕様が決定] - 東京地下鉄(2015年6月17日)2019年10月3日閲覧。</ref>
; 東西線
:* [[営団5000系電車|5000系]](2007年に運用終了)
:* [[営団05系電車|05系]]
:* [[営団07系電車|07系]](新造配置は全車有楽町線)
:* [[東京メトロ15000系電車|15000系]]
; 千代田線
:* [[営団5000系電車|5000系]](北綾瀬支線用。2014年に運用終了)
:* [[営団6000系電車|6000系]](2018年に運用終了)
:* [[営団05系電車|05系]](北綾瀬支線用)
:* [[営団06系電車|06系]](2015年に運用終了)<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2015/08/06.html 【東京地下鉄】06系、新木場へ] - 鉄道ホビダス RMニュース(2015年8月13日)2019年10月3日得閲覧。</ref><ref>[http://railf.jp/news/2015/09/25/180000.html 東京メトロ06系の解体が始まる] - 交友社「鉄道ファン」 railf.jp鉄道ニュース(2015年9月25日)2019年10月3日閲覧。</ref>
:* [[東京メトロ16000系電車|16000系]]
; 有楽町線・副都心線
:* [[営団7000系電車|7000系]](2022年に運用終了)
:* 07系(副都心線開業前の2007年に有楽町線での運用終了<ref group="注釈">現在は東西線で運用。</ref>)
:* [[東京メトロ10000系電車|10000系]]
:* [[東京メトロ17000系電車|17000系]]
; 半蔵門線
:* [[営団8000系電車|8000系]]
:* [[営団08系電車|08系]]
:* [[東京メトロ18000系電車|18000系]]<ref name="press20210807">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews210807_41.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210806184706/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews210807_41.pdf|format=PDF|language=日本語|title=半蔵門線新型車両18000系いよいよデビュー! 2021年8月7日(土)より運行開始します!|publisher=東京地下鉄|date=2021-08-07|accessdate=2021-08-07|archivedate=2021-08-06}}</ref><ref name="乗りもの_20190326">{{Cite web|和書|date=2021-07-19 |url=https://kawasaki.keizai.biz/headline/1064/|title=東京メトロ新型車両18000系が8月より順次デビュー パープルで統一した明るい車内に |website=川崎経済新聞 |accessdate=2021-07-23}}</ref>
; 南北線
:* [[営団9000系電車|9000系]]
<gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:90%;"><!-- 過去の車両だからといって除去しないでください。また、過剰掲載を防ぐため、形態差に関係なく路線における形式画像は1枚におさめて下さい-->
ファイル:Tokyometro01.jpg|銀座線 01系
ファイル:Tokyo Metro 1000 ginza line.JPG|銀座線 1000系
ファイル:Tokyo-Metro-Series02.jpg|丸ノ内線 02系
ファイル:Marunouchi-Line Series2000-2025.jpg|丸ノ内線 2000系
ファイル:Metro-03series.jpg|日比谷線 03系
ファイル:Tokyo-Metro-Series13000-13111.jpg|日比谷線 13000系
ファイル:Model 5000-Stainless Steel of Teito Rapid Transit Authority.JPG|東西線 5000系
ファイル:Tokyo-Metro-Series05-120.jpg|東西線 05系
ファイル:Tokyo-Metro-Series07.jpg|東西線(元有楽町線)07系
ファイル:Tokyo-Metro-Series15000 15109.jpg|東西線 15000系
ファイル:Model 5000-Chiyoda of Teito Rapid Transit Authority.JPG|千代田線 5000系
ファイル:Tokyometro 6000 Chiyoda.jpg|千代田線 6000系
ファイル:Model 06 of Teito Rapid Transit Authority.JPG|千代田線 06系
ファイル:東京メトロ16000系16021編成.jpg|千代田線 16000系
ファイル:Tokyo-Metro-Series7000 7130.jpg|有楽町線・副都心線 7000系
ファイル:Tokyometro07002.JPG|有楽町線 07系
ファイル:Tokyo-Metro-Series10000 10130F.jpg|有楽町線・副都心線 10000系
ファイル:Tokyo-metro Series17000-17103.jpg|有楽町線・副都心線 17000系
ファイル:東京メトロ半蔵門線8000系電車.jpg|半蔵門線 8000系
ファイル:Tokyo-Metro-Series08-103F.jpg|半蔵門線 08系
ファイル:Tokyo-Metro Series18000-18102 Test-Run.jpg|半蔵門線 18000系
ファイル:Tokyo-Metro-Series9000-Lot-2.jpg|南北線 9000系(1〜4次車)
ファイル:TokyoMetro9000.JPG|alt=|南北線 9000系(5次車)
</gallery>
=== 東京地下鉄向け車両を製造したメーカー ===
以下は営団時代も含む。
* [[東急車輛製造]](現・[[総合車両製作所|総合車両製作所横浜事業所]])
* [[汽車製造]]
* [[日本車輌製造]] - 南北線用[[営団9000系電車|9000系]]5次車、銀座線用[[東京メトロ1000系電車|1000系]]全車、丸ノ内線用[[東京メトロ2000系電車|2000系]]32編成<ref>[https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00468987 「日本車両製造、東京メトロから受注 新型車両32編成192両」]『[[日刊工業新聞]]』2018年4月10日(2020年8月8日閲覧)</ref><!-- 残りの編成の受注は未確定 -->の製造を担当。
* [[近畿車輛]] - 日比谷線用[[東京メトロ13000系電車|13000系]]全車<ref group="注釈">同時に[[東武鉄道]][[東武70000系電車|70000系]]([[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]・[[東武日光線|日光線]]・[[東京メトロ日比谷線|地下鉄日比谷線]]乗り入れ用)全車の製造も担当する。</ref>、副都心線・有楽町線用17000系8両編成、丸ノ内線用2000系の製造を担当。
* [[帝國車輛工業]]
* [[川崎車両|川崎重工業車両カンパニー]] - 千代田線[[東京メトロ16000系電車|16000系]]1・2・5次車の製造を担当。
* [[日立製作所笠戸事業所]] - 東西線用[[営団05系電車|05系]]13次車・[[東京メトロ15000系電車|15000系]]全車、有楽町線・副都心線用[[東京メトロ10000系電車|10000系]]全車、千代田線用16000系3・4次車、副都心線・有楽町線用17000系10両編成、半蔵門線用18000系の製造を担当。
* 富士重工業(現・[[SUBARU]])
東京メトロ発足後の新系列車両の製造メーカーについては[[競争入札]]となっており、入札結果により落札したメーカーが製造を担当している<ref>鉄道友の会『RAIL FAN』No.754「車輛設計担当者に聞く 東京地下鉄13000系」東京地下鉄車両部車両企画課 3頁。</ref>。当初は日立製作所のみだったが、南北線用9000系5次車を日本車輌製造で製造して以降は、一部系列<ref group="注釈">[[東京メトロ千代田線|千代田線]]用16000系は川崎重工業・日立製作所2社の共同受注・製造。[[東京メトロ副都心線|副都心線]]・[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]用17000系は10両編成は日立製作所、8両編成は近畿車輛で製造。[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]用[[東京メトロ2000系電車|2000系]]は日本車輌製造・近畿車輛で製造。</ref>を除いて、系列毎に特定の車両メーカー1社に一括発注する傾向にある。
== 運賃 ==
大人普通旅客[[運賃]](小児半額・ICカードの場合は1円未満の端数切り捨て、切符利用の場合は10円未満の端数切り上げ)<ref>[https://www.tokyometro.jp/ticket/terms/pdf/ryokyaku_eigyo_210624.pdf 旅客営業規程] 第51条 2022年5月3日閲覧。</ref><ref>[https://www.tokyometro.jp/ticket/terms/pdf/ic_card_220314.pdf ICカード乗車券取扱規則] 第6条 2022年5月3日閲覧。</ref>。[[鉄道駅バリアフリー料金制度]]による料金10円の加算を含む。2023年(令和5年)3月18日改定<ref>{{Cite web|和書|title=「鉄道駅バリアフリー料金」の収受開始日について |publisher=東京地下鉄 |url=https://www.tokyometro.jp/info/files/shuju_kaishibi_oshirase7.pdf |format=PDF |date=2022-12-22 |accessdate=2023-03-18}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align: center"
|-
!rowspan="2"|キロ程
!style="text-align:center" colspan="2"|運賃(円)
|-
!ICカード
!切符利用
|-
|初乗り6 km||178||180
|-
|7 – 11 km||209||210
|-
|12 – 19 km||252||260
|-
|20 – 27 km||293||300
|-
|28 – 40 km||324||330
|}
* 以下の区間を相互発着または通過する場合、[[営業キロ]]にかかわらず、次の運賃計算キロ程に基づき運賃を計算する(東京地下鉄旅客営業規程第13条)。括弧内が運賃計算上経由したとみなされる路線および区間(営業キロと運賃計算キロが同一となる路線および区間)。この区間では、どの経路の定期券も使用できる(2・3路線の区間は、事実上、線路別[[複々線]]・三複線のような扱い)。ただし、綾瀬駅 - [[北千住駅]]間は、正式には東京地下鉄の単独籍の区間であるが、東日本旅客鉄道の区間として運賃計算することもでき、事実上2つの鉄道事業者の共用区間であるとみなされる。いずれの場合も東日本旅客鉄道が規定した駅間距離2.5 kmとみなして計算する。[[溜池山王駅]] - [[虎ノ門駅]]間は銀座線の単独区間であるが、実際の営業キロは0.8 kmである。
** 千代田線 綾瀬駅 - 北千住駅 2.5 km(JR常磐線) <!-- 旅客営業規程第13条の表の並び順に準じる。以下同じ -->
** 千代田線 [[日比谷駅]] - [[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]] 1.2 km(日比谷線)
** 千代田線 霞ケ関駅 - [[国会議事堂前駅]] 0.7 km(丸ノ内線)
** 半蔵門線 [[青山一丁目駅]] - 永田町駅 1.3 km(銀座線 青山一丁目駅 - 赤坂見附駅)
** 副都心線 小竹向原駅 - [[千川駅]] 1.0 km(有楽町線)
** 副都心線 [[要町駅]] - [[池袋駅]] 1.2 km(有楽町線)
** 銀座線 溜池山王駅 - 虎ノ門駅 0.6 km
** 銀座線 [[赤坂見附駅]] - 溜池山王駅、南北線 [[永田町駅]] - 溜池山王駅 0.9 km(丸ノ内線 赤坂見附駅 - 国会議事堂前駅)
** 南北線 [[四ツ谷駅]] - 永田町駅 1.3 km(丸ノ内線 四ツ谷駅 - 赤坂見附駅)
** 銀座線 [[渋谷駅]] - [[表参道駅]] 1.3 km(半蔵門線)
* 以下の区間はいずれの経路も営業キロが等しく、運賃計算キロも等しい([[目黒駅]] - [[白金高輪駅]]間を除き、事実上、線路別複々線のような扱い)。この区間においても、任意の経路で定期券を使用できる。
** 青山一丁目駅 - 表参道駅 1.4 km(銀座線([[外苑前駅]]停車、両駅間とも0.7 km)・半蔵門線)
** 市ケ谷駅 - 飯田橋駅 1.1 km(有楽町線・南北線)
** 目黒駅 - [[白金台駅]] - 白金高輪駅 1.3 km・1.0 km(南北線・都営三田線)
* 以下の区間では、日比谷線(日比谷駅)経由の定期券で丸ノ内線にも乗車できる(その逆は不可)。
** 銀座駅 - 霞ケ関駅 1.6 km(両駅から日比谷駅間はそれぞれ0.4 km・1.2 km、丸ノ内線経由は1.0 km)
* 運賃は原則的に実際の乗車区間のキロ数に基づいて算出するが(東京地下鉄旅客営業規程第43条)、普通旅客運賃は実際の乗車区間にかかわらず、乗車区間の最短経路のキロ数に基づいて算出する(同45条・82条)。ただし、途中で東京メトロ線同士の改札外乗換をする場合、乗車駅から改札外乗換をする駅までの運賃が目的地までの運賃よりも高いときは、乗車駅からその改札外乗換をする駅までの運賃が必要である(同83条)。また、東京メトロの路線同士を改札を出て乗り換える場合は、きっぷ・ICカードともに'''60分'''以内に乗り換えなければ運賃は通算されない(60分を超えると運賃計算がそこで打ち切られ、その駅からまた新たな乗車として運賃が必要となる)<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/5dd3751942166712a7d85b7fa75bf25f_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514061131/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/5dd3751942166712a7d85b7fa75bf25f_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロ線でのお乗換えがさらに便利になります! 新たな乗換駅の設定(虎ノ門駅⇔虎ノ門ヒルズ駅、銀座駅⇔銀座一丁目駅)改札外乗換時間を30分から60分に拡大|publisher=東京地下鉄|date=2020-05-14|accessdate=2020-06-08|archivedate=2020-05-14}}</ref>。
** 例:新宿御苑前駅 - 東銀座駅間は丸ノ内線・日比谷線利用として、銀座駅乗り換えで6.2 km、霞ケ関駅乗り換えで6.8 kmであるが、普通旅客運賃は6.0 km 以下の178円(切符は180円)となる。これは、赤坂見附駅 - 銀座駅間の最短経路が有楽町線永田町駅 - 有楽町駅間と日比谷線日比谷駅 - 銀座駅間となり、新宿御苑前駅 - 東銀座駅間が5.9 kmで計算されるからである。
** 例:護国寺駅 - 御茶ノ水駅間は、護国寺駅から池袋駅乗り換えで御茶ノ水駅へ向かう場合は178円であるが、御茶ノ水駅から池袋駅乗り換えで護国寺駅へ向かう場合は209円となる。これは、入場駅から改札外乗り換えを行う池袋駅までの運賃によって差が生じるためである<ref group="注釈">護国寺駅 - 池袋駅間は2.0 km、御茶ノ水駅 - 池袋駅間は6.4 km。</ref>。なお、御茶ノ水駅 - 護国寺駅間の最短ルートは、後楽園駅・飯田橋駅経由の5.9kmである。
* 都営地下鉄との乗り継ぎには割引がある。東京地下鉄全駅と都営地下鉄全駅が対象で、最も安い経路の運賃から70円値引き。[[PASMO]]・[[Suica]]使用時も対象となる<ref group="注釈">[[パスネット]]も対象であった。</ref>。
* 千代田線綾瀬駅 - 北千住駅間(営業キロ:2.6 km、運賃計算キロ:2.5 km)の相互発着は146円(切符は150円)の特定運賃。また、前後のJR常磐線にまたがる場合は、同区間をJR線 (2.5 km) として取り扱う。この区間はJR常磐線と運賃計算上の二重戸籍区間となっており、東京地下鉄で唯一JRの乗車券が使用できる。また、この区間ではPASMOのサービス開始前、ICカード全国相互利用サービス開始前から、SuicaおよびSuicaと相互利用可能なICカード乗車券も使用できた。
* 南北線目黒駅 - 白金高輪駅間のみの乗車の場合は、線路・ホームを[[都営地下鉄三田線|都営三田線]]と共有しているため、都営地下鉄の乗車券でも乗車することができる。同区間のみの利用の場合、普通運賃は東京メトロ・都営地下鉄とも同額であるが、白金高輪駅以遠にまたがる場合は、全区間を引き続き利用する方(あるいは乗ってきた方)の運賃として適用する。
* 近距離では関東大手私鉄他社に比べてやや割高な一方、中・遠距離は割安である。
** 例1:中野駅から西船橋駅まで324円(切符は330円)。同区間をJR東日本で利用すると580円であり、両駅の周辺駅への利用や通過連絡運輸を適用した場合でも地下鉄線経由の方が安くなるケースが多い。
** 例2:和光市駅から[[西船橋駅]]まで324円(切符は330円。有楽町線と東西線を利用、飯田橋駅乗り換え)。他のルートでは、
**: A [[東武東上本線|東武東上線]]、JR[[武蔵野線]]利用([[朝霞台駅]]・[[北朝霞駅]]乗り換え)では981円(切符は990円)。
**: B 東武東上線、JR[[山手線]]・[[中央・総武緩行線|総武線]]利用(池袋駅、[[秋葉原駅]]乗り換え)では744円(切符は760円)。
**: であり、所要時間の差もA、Bともに東京地下鉄のみのルートと比較して、数分から10分ほどしかない。
=== フリー乗車券 ===
[[File:東京地下鉄 東京メトロ・都営地下鉄共通一日乗車券 本券.png|thumb|東京地下鉄 東京メトロ・都営地下鉄共通一日乗車券]]
有効期間内の24時間に限り、東京地下鉄線全線が乗り降り自由な磁気券式の「'''[[東京メトロ24時間券]]'''」(大人600円、小児300円<ref group="注釈">2015年2月10日発売分から従来の大人710円、小児360円から値下げされた。</ref>)がある。当日券と前売券の2種類があり、当日券は[[自動券売機]]と[[定期乗車券|定期券]]売り場で、前売券は発売日から6か月間以内の使用開始時刻から24時間のみ有効で定期券売り場のみ販売されている。なお、自動券売機で販売する24時間券(発売当日の利用開始から24時間限り有効)はPASMO・Suicaでも購入可能で、他社が管理する駅(東西線中野駅・西船橋駅、日比谷線北千住駅・中目黒駅、千代田線代々木上原駅、半蔵門線/副都心線渋谷駅・和光市駅、南北線目黒駅)を含む東京地下鉄線全駅で購入できる。また、2022年11月からは50枚および100枚セットを[[Amazon.co.jp]]でも販売している。なお、2016年3月25日までは発売額が同額で「'''東京地下鉄一日乗車券'''」が販売されており、「使用当日のみ有効」だった<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20160206-a059/ 東京メトロ、1日乗車券を24時間有効に変更 - 価格は600円で据え置き] マイナビニュース 2016年2月6日、同3月19日閲覧。</ref>。
[[PASMO]](定期券情報が付加されたものを除く)へ情報を記録するタイプのフリー乗車券として、2017年4月1日より「東京メトロPASMO一日乗車券」(同額)が発売され、2020年3月14日からはPASMOにも「東京メトロ24時間券」が搭載可能となった<ref>[https://www.tokyometro.jp/news/2020/205816.html 東京メトロ24時間券・Tokyo Subway Ticket・東京フリーきっぷがICカード乗車券「PASMO」でもご利用いただけます!] - 東京メトロ 2020年2月26日(2020年3月9日閲覧)</ref>。
このほか、[[都営地下鉄]]と組み合わせた「'''東京メトロ・都営地下鉄共通一日乗車券'''」(磁気券式とPASMO記録式がある)や、23区内の都営交通(都営地下鉄・[[都営バス]]([[多摩地域]]を含む)・[[都電荒川線]]・「[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]」)やJR線と組み合わせた「[[東京フリーきっぷ]]」、「○○[[東京メトロパス]]」として各私鉄などと組み合わせた一日乗車券も販売されている。
また、東京への訪問者や学生の[[修学旅行]]のために、1 - 3日間有効(2016年3月26日より24 - 72時間有効に改定)のオープンチケット「[[Tokyo Subway Ticket]]」も販売されている。なお、オープンチケットは、当初は関東1都6県および山梨県を除く全国の旅行代理店で東京方面向けの旅行商品(JR乗車券等を含む)とのセット販売のみだったが、2020年2月21日からは北海道・東北・北信越・四国・九州・沖縄の1道23県<ref>[https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1235569.html 東京メトロ、旅行者向けの乗車券「Tokyo Subway Ticket」を一部地域のコンビニで取り扱い開始] - トラベルWatch 2020年2月17日(2020年3月8日閲覧)</ref>、2022年11月1日からは関東1都6県および山梨県を除く全国の[[ローソン]]、[[セブン-イレブン]]、[[ファミリーマート]]及び[[ミニストップ]]で引換券の購入が可能になった(利用当日に東京メトロもしくは都営地下鉄の駅でチケットと引き換える)<ref>[https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1451423.html 首都圏地下鉄が最大72時間乗り放題の乗車券、コンビニ販売を全国に拡大] - Impress Watch 2022年10月28日(2023年4月18日閲覧)</ref>。これ以外に、熱海以西からの「[[エクスプレス予約]]」および「スマートEX」利用者に対しても発売される<ref group="注釈">発売箇所は東京メトロの定期券うりば(東京駅、日本橋駅、新宿駅、池袋駅)と中央区観光情報センター([[京橋エドグラン]]B1F)、[[バスタ新宿]]3F東京観光情報センター内の佐川急便 SHINJUKU SERVICE CENTER。</ref>。
民営化以後、[[映画]]や[[美術館]]などのイベントなどの図柄を印刷した一日乗車券が枚数限定で発行されている(2006年春の[[ドラえもん]]、同年夏の[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]、同年冬の「さようなら東西線5000系」、2012年5月の[[東京スカイツリー]]グランドオープンなど)。SFメトロカードの記念図柄カードは2007年2月をもって新規発売を終了した。2007年秋の「第24回全国都市緑化ふなばしフェア おとぎの国の花フェスタinふなばし」に併せて[[東葉高速鉄道]]とのセット一日乗車券を発売するほか、[[東京・ミュージアムぐるっとパス|ぐるっとパス]]とのセット一日乗車券も同時期から発売された。さらに100以上の都内のスポットに一日乗車券を提示するだけで割引などを受けられる「ちかとく」サービスも利用することも可能である。
このほか、2023年2月28日までは[[回数乗車券|回数券]]が発売されていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bcnretail.com/market/detail/20221026_301338.html|title=東京メトロ、一部を除き回数券廃止、ポイント還元にランク制導入|publisher=BCN+R|date=2022-10-26|accessdate=2022-12-08}}</ref>。回数券は「同一運賃帯に有効」という方式(券面には運賃のみが記載されており、入場時に入場駅名が印字される。乗り越しの場合は差額のみ精算する)を採用し、利用可能な時間帯、曜日が異なる3種類があり、普通回数券(11枚綴り)、時差回数券(12枚綴り/平日10時-16時の入場か精算および土曜・休日の全時間帯に有効)、土休日回数券(14枚綴り)があった。いずれも普通片道運賃の10倍で販売され発売日から3か月間有効。なお、綾瀬駅-北千住駅間の相互発着については両駅でのみ(北千住駅は千代田線のみ)当該区間の140円回数券(普通回数券・時差回数券・土休日回数券)を発売していた。
=== 特急料金 ===
千代田線内を運行する[[小田急ロマンスカー]]による特急列車に適用。ただし、千代田線内停車駅間の発売はされない。
* 事前販売:210円(小児:110円)<ref>旅客営業規程 第70条</ref>
* 車内販売:310円(小児:160円)<ref>旅客営業規程 第40条第4項、第70条第2項</ref>
=== 座席指定料金 ===
[[S-TRAIN]](副都心線・有楽町線)および[[THライナー]](日比谷線)に適用。ただし、それぞれの線内停車駅間の発売はされない。
* 事前販売:210円(小児:110円)<ref>旅客営業規程 第40条の2、第70条の2</ref>
* 車内販売:上記料金および他社線の料金の合計に200円を加算する<ref>旅客営業規程 第40条の2第3項、第70条の2第2項</ref>
== 旅客案内 ==
=== サインシステム ===
発足時より新しい[[サインシステム|案内サインシステム]]の導入を進めている。東京都渋谷区のデザイン会社・[http://www.rei-jp.com/REI/index.html アール・イー・アイ] がデザインを手がけたもので、旧営団地下鉄のサインシステムが検討された1975年当時から「利用者の高齢化」「国際都市化」「鉄道の複雑化」が進展したことを受け、全般的に[[ユニバーサルデザイン]]を取り入れつつも、サインの数を増やさず、かつ大型化もせずに表示の重点整備や簡略化をすすめ、字体もぼやけた状態でも誤読の少ない書体を選定している<ref>[http://www.rei-jp.com/REI/tokyometro.html 東京メトロ 旅客案内サインシステム基準制作] - アール・イー・アイ公式サイト内(2019年10月3日閲覧)。</ref>。
発足時は[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]と[[銀座駅]]に試験的に設置され<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-13_2.html|title=お客様の心に響くサービスを目指して 「東京メトロ」の新しいサービスが始まります。(別紙)|publisher=営団地下鉄|date=2004-03-11|accessdate=2012-09-16}}</ref>、[[2005年]]10月から本格導入を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2005/2005-32.html|title=新しい旅客案内サインシステムをスタート! - 平成18年度中に全駅に展開|publisher=東京メトロ|date=2005-10-03|accessdate=2012-09-16}}</ref>、[[2006年]]3月までに乗り換え駅を中心に83駅に、残る駅も副都心線接続予定駅と他社管轄駅を除き[[2007年]]3月末までに導入された。半蔵門線[[渋谷駅]](2008年6月に開業した副都心線も)は、2007年12月2日の東急への業務移管に伴い、東急様式のサインシステムが設置された。
有楽町線の[[地下鉄成増駅]] - 池袋駅間の各駅と[[新宿三丁目駅]]・[[明治神宮前駅]]は、[[2008年]][[6月14日]]の副都心線開業に合わせてさらに新しい案内サインシステムが設置された。[[トピー工業]]が納入した[[発光ダイオード|LED]]誘導サインが用いられており、薄型化と省電力を実現している<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.topy.co.jp/release/archives/2008/06/16/entry369.html|title=東京メトロ 副都心線に超薄型LED誘導サイン680面を納入!!|publisher=トピー工業|date=2008-06-16|accessdate=2012-09-16}}</ref>。ただし、副都心線開業後も[[駅名標]]や改装工事中のエリアには、更新されずに残っているサイン類があったが、2010年3月6日に明治神宮前駅が「明治神宮前〈原宿〉駅」と案内を改めるのに伴い、駅名標は更新されている。
=== 車内放送 ===
次駅案内は、当初は原則駅発車時のみだったが2014年頃から順次駅到着時も行うようになり<ref group="注釈">乗り換え案内は駅発車時のみでラッシュ時は省略。</ref>、同時に駅ナンバリングも案内されるようになった。ただし、自動放送が未更新の車両は到着時の放送を[[車掌]]が肉声で行っている。営団時代、冷房車が導入され始めた頃は非冷房車でも聞き取りやすくするため駅到着時のみだったが、自動放送導入車は発車時・到着時両方あった。
日本語放送は[[森谷真弓]]、英語放送は[[亀井佐代子]]が担当している<ref>{{Cite web |url=http://office-sakky.com/2017/12/06/東京メトロの英語ナレーションを担当することに/|title=東京メトロの英語ナレーションを担当することになりました! |publisher=オフィスサッキー|date=2017-12-06|accessdate=2018-02-03}}</ref>(ただし他社から直通する特急およびライナー列車を除く<ref group="注釈">[[小田急60000形電車|小田急60000形]]で運行される「[[ロマンスカー|特急ロマンスカー]]」(千代田線)では[[西村文江]]が、[[西武40000系電車|西武40000系]]で運行される「[[S-TRAIN]]」(平日は有楽町線、土休日は副都心線)では石毛美奈子が、[[東武70000系電車|東武70090型]]で運行される「[[THライナー]]」(日比谷線)では[[久野知美]]がそれぞれ日本語放送を担当しており、英語放送はいずれもクリステル・チアリが担当している。</ref> )。2004年の民営化から2017年までは英語放送を[[クリステル・チアリ]]が担当していた(日本語は森谷真弓)<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/trivia-105/ |title=鉄道トリビア 105 車内放送に意外な有名人が関わっている |publisher=マイナビニュース |date=2011-07-02 |accessdate=2015-05-13}}</ref>。
また、2019年より乗務員による肉声放送も日本語・英語の2カ国語で実施している<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_content/000673939.pdf 災害時における訪日外国人旅行者への 情報提供等に関する調査 事 例 集] - 総務省</ref><ref>[https://www.tokyometro.jp/safety/customer/promise/index.html 東京メトロの約束 2021年度]</ref>。
=== 案内表示の英字表記 ===
[[2006年]]頃より駅の[[看板]]・車内の案内表示器の英字表記([[ラテン文字]]表記)に対して[[長音符]]([[マクロン]])が使われなくなり、以前から存在する長音符が付いている看板類と混在している。しかし、他社の路線名・駅名などは使われている。
== 利用状況 ==
=== 一日平均輸送人員 ===
近年の路線別一日平均輸送人員は以下のとおりである。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:80%"
|-
|+東京地下鉄の路線別一日平均輸送人員
|-style="text-align:center;"
!style="width:10em;"|年度
!style="width:5em;"|銀座線
!style="width:5em;"|丸ノ内線
!style="width:5em;"|日比谷線
!style="width:5em;"|東西線
!style="width:5em;"|千代田線
!style="width:5em;"|有楽町線
!style="width:5em;"|半蔵門線
!style="width:5em;"|南北線
!style="width:5em;"|副都心線
!備考
|-
|1985年(昭和60年)
| 1,137,068 || 1,180,476 || 1,144,378 || 1,158,731 || 1,067,695 || 522,879 || 247,849 || ||
|
|-
|1986年(昭和61年)
| 1,169,087 || 1,208,202 || 1,175,367 || 1,210,369 || 1,102,616 || 551,142 || 267,619 || ||
|
|-
|1987年(昭和62年)
| 1,180,647 || 1,215,590 || 1,191,226 || 1,248,833 || 1,124,415 || 583,379 || 278,224 || ||
|style="text-align:left"|1987年8月25日、有楽町線和光市駅 - 営団成増駅間開業
|-
|1988年(昭和63年)
| 1,185,997 || 1,230,838 || 1,227,454 || 1,281,572 || 1,163,482 || 674,783 || 307,561 || ||
|style="text-align:left"|1988年6月8日、有楽町線新富町駅 - 新木場駅間開業<br />1989年1月26日、半蔵門線半蔵門駅 - 三越前駅間開業
|-
|1989年(平成元年)
| 1,139,383 || 1,220,715 || 1,231,356 || 1,246,430 || 1,184,150 || 753,230 || 431,619 || ||
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
| 1,131,164 || 1,228,008 || 1,252,334 || 1,248,758 || 1,206,109 || 748,536 || 471,616 || ||
|style="text-align:left"|1990年11月28日、半蔵門線三越前駅 - 水天宮前駅間開業
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
| 1,111,218 || 1,223,043 || 1,248,959 || 1,250,945 || 1,208,740 || 749,079 || 511,546 || 19,725 ||
|style="text-align:left"|1991年11月29日、南北線駒込駅 - 赤羽岩淵駅間開業
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
| 1,092,293 || 1,209,673 || 1,243,846 || 1,265,224 || 1,213,597 || 762,345 || 533,304 || 22,468 ||
|
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
| 1,061,706 || 1,187,704 || 1,224,956 || 1,268,304 || 1,200,745 || 765,509 || 536,865 || 25,087 ||
|
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
| 1,035,594 || 1,170,032 || 1,210,002 || 1,250,158 || 1,188,468 || 759,109 || 541,665 || 26,246 ||
|style="text-align:left"|1994年12月7日、有楽町線新線小竹向原駅 - 池袋駅間開業
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| 1,019,199 || 1,146,879 || 1,197,035 || 1,232,486 || 1,164,729 || 763,549 || 547,907 || 27,355 ||
|style="text-align:left"|1996年3月26日、南北線四ツ谷駅 - 駒込駅間開業
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| 1,018,942 || 1,157,789 || 1,185,021 || 1,242,219 || 1,154,408 || 761,665 || 550,180 || 89,536 ||
|
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
| 1,024,523 || 1,144,054 || 1,162,917 || 1,238,600 || 1,138,884 || 760,109 || 553,939 || 118,580 ||
|style="text-align:left"|1997年9月30日、南北線溜池山王 - 四ツ谷駅間開業<br />1998年3月26日、有楽町線が西武池袋線との相互直通運転開始
|-
|1998年(平成10年)
| 1,040,597 || 1,133,969 || 1,154,947 || 1,239,145 || 1,125,994 || 761,728 || 565,695 || 147,106 ||
|
|-
|1999年(平成11年)
| 1,016,806 || 1,111,726 || 1,122,062 || 1,209,262 || 1,099,120 || 744,751 || 559,535 || 152,655 ||
|
|-
|2000年(平成12年)
| 1,028,005 || 1,103,326 || 1,098,550 || 1,215,306 || 1,085,068 || 751,506 || 570,065 || 201,723 ||
|style="text-align:left"|2000年9月26日、南北線目黒駅 - 溜池山王駅間開業
|-
|2001年(平成13年)
| 1,024,728 || 1,083,010 || 1,069,704 || 1,212,161 || 1,073,958 || 756,860 || 584,679 || 293,164 ||
|
|-
|2002年(平成14年)
| 1,011,616 || 1,072,731 || 1,055,632 || 1,209,578 || 1,064,210 || 754,597 || 596,312 || 314,734 ||
|style="text-align:left"|2003年3月19日、半蔵門線水天宮前駅 - 押上駅間開業
|-
|2003年(平成15年)
| 1,007,304 || 1,066,250 || 1,053,440 || 1,207,251 || 1,047,660 || 754,517 || 699,396 || 337,047 ||
|
|-
|2004年(平成16年)
| 1,002,932 || 1,064,464 || 1,054,272 || 1,211,718 || 1,050,804 || 759,749 || 728,515 || 359,001 ||
|
|-
|2005年(平成17年)
| 1,016,086 || 1,067,435 || 1,063,113 || 1,218,173 || 1,050,660 || 778,543 || 752,613 || 381,519 ||
|
|-
|2006年(平成18年)
| 1,033,567 || 1,075,643 || 1,083,506 || 1,245,385 || 1,052,155 || 821,638 || 797,983 || 400,291 ||
|
|-
|2007年(平成19年)
| 1,073,212 || 1,100,478 || 1,134,818 || 1,325,015 || 1,166,998 || 880,024 || 850,076 || 433,271 ||
|style="text-align:left"|2008年3月15日、千代田線「メトロさがみ」「メトロはこね」「メトロホームウェイ」運転開始
|-
|2008年(平成20年)
| 1,051,507 || 1,102,068 || 1,119,595 || 1,335,177 || 1,142,080 || 903,186 || 854,457 || 444,059 || 259,170
|style="text-align:left"|2008年6月14日、副都心線池袋駅 - 渋谷駅間開業
|-
|2009年(平成21年)
| 1,020,371 || 1,093,564 || 1,093,753 || 1,320,588 || 1,138,963 || 917,324 || 857,857 || 446,217 || 308,156
|
|-
|2010年(平成22年)
| 1,006,102 || 1,089,257 || 1,073,900 || 1,321,656 || 1,131,739 || 927,104 || 858,836 || 449,267 || 330,096
|
|-
|2011年(平成23年)
| 996,244 || 1,081,798 || 1,051,761 || 1,302,459 || 1,104,473 || 925,031 || 850,591 || 447,756 || 334,172
|
|-
|2012年(平成24年)
| 1,038,601 || 1,135,853 || 1,081,526 || 1,321,870 || 1,126,387 || 958,973 || 896,738 || 464,052 || 366,094
|style="text-align:left"|2013年3月16日、副都心線が東急東横線との相互直通運転開始
|-
|2013年(平成25年)
| 1,045,970 || 1,207,127 || 1,125,871 || 1,348,223 || 1,160,589 || 1,009,337 || 941,923 || 482,024 || 476,149
|
|-
|2014年(平成26年)
| 1,059,061 || 1,232,267 || 1,132,520 || 1,365,166 || 1,179,673 || 1,027,974 || 960,626 || 497,076 || 501,392
|
|-
|2015年(平成27年)
| 1,087,122 || 1,281,172 || 1,157,715 || 1,406,323 || 1,210,574 || 1,075,653 || 998,383 || 518,929 || 530,442
|
|-
|2016年(平成28年)
| 1,108,999 || 1,316,238 || 1,180,839 || 1,430,224 || 1,241,023 || 1,103,083 || 1,026,840 || 537,036 || 552,697
|style="text-align:left"|2017年3月25日、有楽町線・副都心線「S-TRAIN」運転開始
|-
|2017年(平成29年)
| 1,138,566 || 1,351,483 || 1,206,982 || 1,450,463 || 1,268,688 || 1,130,084 || 1,053,644 || 561,032 || 573,055
|
|-
|2018年(平成30年)
| 1,149,104 || 1,377,467 || 1,235,783 || 1,467,499 || 1,300,686 || 1,159,641 || 1,076,953 || 579,067 || 589,641
|
|-
|2019年(令和元年)
| 1,113,378 || 1,398,323 || 1,213,592 || 1,439,550 || 1,323,020 || 1,165,922 || 1,070,028 || 582,756 || 600,733
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| 668,189 || 913,103 || 817,351 || 997,596 || 901,678 || 789,270 || 685,354 || 373,364 || 400,382
|style="text-align:left"|2020年6月6日、日比谷線「THライナー」運転開始
|-
|}
=== 一日平均乗降人員上位30駅 ===
2020年度は [http://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html 各駅の乗降人員ランキング 2020年度] より。それ以外は [http://www.train-media.net/index.html 関東交通広告協議会]、[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑]、[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/ 埼玉県統計年鑑]、[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] より。
{{↑}}{{↓}}は、右欄の乗降人員と比較して増({{↑}})、減({{↓}})を表す。
{|class="wikitable" style="font-size:80%;"
|-
!style="width:1em;"|順位
!style="width:7em;"|駅名
!style="width:6em;"|路線名
!style="width:8em;"|所在地
!2020年度!!2018年度!!2015年度!!2010年度!!2005年度!!2000年度
!特記事項
|-
!rowspan="3"|1
|rowspan="3"|[[渋谷駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|16px|G]] 銀座線
|rowspan="3"|[[東京都]][[渋谷区]]
|{{↓}} 121,153
|{{↑}} 224,896
|{{↓}} 216,687
|{{↓}} 219,748
|{{↑}} 225,441
|{{0}}219,502
|
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|16px|Z]] 半蔵門線
|rowspan="2"|{{↓}} 538,261
|rowspan="2"|{{↑}} 843,344
|rowspan="2"|{{↑}} 786,932
|rowspan="2"|{{0}} 584,127
|{{↑}} 434,122
|{{0}}383,399
|[[東急田園都市線]]との直通人員を含む。
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|16px|F]] 副都心線
|colspan="2" style="text-align:center"|未開業
|[[東急東横線]](および[[横浜高速鉄道みなとみらい線]])との直通人員を含む。
|-
!rowspan="2"|2
|rowspan="2"|[[北千住駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|16px|H]] 日比谷線
|rowspan="2"|東京都[[足立区]]
|{{↓}} 224,670
|{{↑}} 304,635
|{{↓}} 290,330
|{{↓}} 292,545
|{{↓}} 311,599
|{{0}}340,218
|[[東武伊勢崎線]](および[[東武日光線|日光線]])との直通人員を含む。
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|16px|C]] 千代田線
|{{↓}} 209,601
|{{↑}} 292,684
|{{↓}} 289,001
|{{↓}} 293,307
|{{↓}} 333,876
|{{0}}351,230
|
|-
!rowspan="3"|3
|rowspan="3"|[[池袋駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|16px|M]] 丸ノ内線
|rowspan="3"|東京都[[豊島区]]
|rowspan="3"|{{↓}} 376,997
|rowspan="3"|{{↑}} 575,043
|rowspan="3"|{{↑}} 548,839
|rowspan="3"|{{0}} 476,336
|rowspan="2"|{{↓}} 468,526
|rowspan="2"|{{0}}485,133
|rowspan="3"|
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|16px|Y]] 有楽町線
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|16px|F]] 副都心線
|colspan="2" style="text-align:center"|未開業
|-
!4
|[[綾瀬駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|16px|C]] 千代田線
|東京都足立区
|{{↓}} 334,709
|{{↑}} 454,734
|{{↓}} 440,825
|{{↓}} 446,839
|{{↓}} 480,138
|{{0}}508,155
|[[常磐緩行線]]との直通人員を含む。
|-
!rowspan="4"|5
|rowspan="4"|[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|16px|M]] 丸ノ内線
|rowspan="4"|東京都[[千代田区]]
|rowspan="4"|{{↓}} 232,003
|rowspan="4"|{{↑}} 356,634
|rowspan="4"|{{↑}} 313,620
|rowspan="4"|{{↑}} 274,618
|rowspan="4"|{{↓}} 274,843
|rowspan="4"|{{0}}287,714
|rowspan="4"|
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|16px|T]] 東西線
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|16px|C]] 千代田線
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|16px|Z]] 半蔵門線
|-
!6
|[[西船橋駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|16px|T]] 東西線
|[[千葉県]][[船橋市]]
|{{↓}} 212,994
|{{↑}} 295,943
|{{↑}} 285,186
|{{↑}} 276,164
|{{↓}} 234,157
|{{0}}241,994
|[[東葉高速鉄道東葉高速線]]、[[中央・総武緩行線]]との直通人員を含む。
|-
!7
|[[代々木上原駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|16px|C]] 千代田線
|東京都渋谷区
|{{↓}} 199,709
|{{↑}} 292,774
|{{↑}} 259,259
|{{↑}} 227,020
|{{↑}} 182,036
|{{0}}170,886
|[[小田急小田原線]](および[[小田急多摩線|多摩線]])との直通人員を含む。
|-
!8
|[[新宿駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|16px|M]] 丸ノ内線
|東京都[[新宿区]]
|{{↓}} 155,619
|{{↑}} 239,794
|{{↑}} 231,340
|{{↓}} 215,468
|{{↓}} 238,421
|{{0}}266,409
|
|-
!9
|[[中目黒駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|16px|H]] 日比谷線
|東京都[[目黒区]]
|{{↓}} 149,844
|{{↑}} 230,956
|{{↑}} 221,142
|{{↑}} 185,535
|{{↑}} 162,301
|{{0}}158,437
|
|-
!rowspan="3"|10
|rowspan="3"|[[銀座駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|16px|G]] 銀座線
|rowspan="3"|東京都[[中央区 (東京都)|中央区]]
|rowspan="3"|{{↓}} 149,432
|rowspan="3"|{{↑}} 265,325
|rowspan="3"|{{↓}} 245,208
|rowspan="3"|{{↓}} 248,371
|rowspan="3"|{{↓}} 269,751
|rowspan="3"|{{0}}276,899
|rowspan="3"|
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|16px|M]] 丸ノ内線
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|16px|H]] 日比谷線
|-
!11
|[[新橋駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|16px|G]] 銀座線
|東京都[[港区 (東京都)|港区]]
|{{↓}} 146,702
|{{↑}} 253,678
|{{↑}} 241,041
|{{↑}} 216,159
|{{↓}} 203,693
|{{0}}211,093
|
|-
!12
|[[豊洲駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|16px|Y]] 有楽町線
|東京都[[江東区]]
|{{↓}} 140,612
|{{↑}} 227,384
|{{↑}} 200,533
|{{↑}} 138,876
|{{↑}} {{0}}58,197
|{{00}}52,363
|
|-
!rowspan="2"|13
|rowspan="2"|[[小竹向原駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|16px|Y]] 有楽町線
|rowspan="2"|東京都[[練馬区]]
|rowspan="2"|{{↓}} 138,670
|rowspan="2"|{{↑}} 187,580
|rowspan="2"|{{↑}} 166,878
|rowspan="2"|{{0}} 134,113
|{{↑}} {{0}}78,734
|{{00}}68,938
|rowspan="2"|[[西武有楽町線]](および[[西武池袋線|池袋線]])との直通人員を含む。
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|16px|F]] 副都心線
|colspan="2" style="text-align:center"|未開業
|-
!rowspan="2"|14
|rowspan="2"|[[和光市駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|16px|Y]] 有楽町線
|rowspan="2"|[[埼玉県]][[和光市]]
|rowspan="2"|{{↓}} 136,092
|rowspan="2"|{{↑}} 190,268
|rowspan="2"|{{↑}} 176,216
|rowspan="2"|{{0}} 156,404
|{{↑}} 104,180
|{{00}}98,979
|rowspan="2"|[[東武東上本線]]との直通人員を含む。
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|16px|F]] 副都心線
|colspan="2" style="text-align:center"|未開業
|-
!rowspan="2"|15
|rowspan="2"|[[上野駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|16px|G]] 銀座線
|rowspan="2"|東京都[[台東区]]
|rowspan="2"|{{↓}} 130,271
|rowspan="2"|{{↑}} 215,821
|rowspan="2"|{{↑}} 207,240
|rowspan="2"|{{↓}} 204,449
|rowspan="2"|{{↓}} 207,129
|rowspan="2"|{{0}}219,557
|rowspan="2"|
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|16px|H]] 日比谷線
|-
!rowspan="2"|16
|rowspan="2"|[[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|16px|G]] 銀座線
|rowspan="2"|東京都中央区
|rowspan="2"|{{↓}} 128,624
|rowspan="2"|{{↑}} 196,307
|rowspan="2"|{{↑}} 174,752
|rowspan="2"|{{↓}} 169,946
|rowspan="2"|{{↓}} 164,617
|rowspan="2"|{{0}}174,703
|rowspan="2"|
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|16px|T]] 東西線
|-
!17
|[[押上駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|16px|Z]] 半蔵門線
|東京都[[墨田区]]
|{{↓}} 126,120
|{{↑}} 183,987
|{{↑}} 162,910
|{{↑}} 120,091
|{{00}} 78,744
|style="text-align:center"|未開業
|東武伊勢崎線(および日光線)との直通人員を含む。
|-
!18
|[[高田馬場駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|16px|T]] 東西線
|東京都新宿区
|{{↓}} 125,620
|{{↑}} 204,848
|{{↑}} 196,613
|{{↑}} 184,754
|{{↓}} 174,300
|{{0}}181,590
|
|-
!19
|[[東京駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|16px|M]] 丸ノ内線
|東京都千代田区
|{{↓}} 124,759
|{{↑}} 218,275
|{{↑}} 196,687
|{{↑}} 156,008
|{{↓}} 138,446
|{{0}}141,057
|
|-
!20
|[[西日暮里駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|16px|C]] 千代田線
|東京都[[荒川区]]
|{{↓}} 121,799
|{{↑}} 170,389
|{{↑}} 166,157
|{{↑}} 157,802
|{{↓}} 138,446
|{{0}}157,034
|
|-
!rowspan="3"|21
|rowspan="3"|[[飯田橋駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|16px|T]] 東西線
|東京都千代田区
|rowspan="3"|{{↓}} 116,578
|rowspan="3"|{{↑}} 198,296
|rowspan="3"|{{↑}} 186,299
|rowspan="3"|{{↑}} 167,960
|rowspan="3"|{{↑}} 154,277
|rowspan="3"|{{0}}139,622
|rowspan="3"|
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|16px|Y]] 有楽町線
|rowspan="2"|東京都新宿区
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|16px|N]] 南北線
|-
!rowspan="3"|22
|rowspan="3"|[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|16px|M]] 丸ノ内線
|rowspan="3"|東京都千代田区
|rowspan="3"|{{↓}} 113,846
|rowspan="3"|{{↑}} 152,818
|rowspan="3"|{{↑}} 146,162
|rowspan="3"|{{↑}} 129,036
|rowspan="3"|{{↓}} 120,195
|rowspan="3"|{{0}}125,311
|rowspan="3"|
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|16px|H]] 日比谷線
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|16px|C]] 千代田線
|-
!rowspan="3"|23
|rowspan="3"|[[表参道駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|16px|G]] 銀座線
|rowspan="3"|東京都港区
|rowspan="3"|{{↓}} 113,687
|rowspan="3"|{{↑}} 186,923
|rowspan="3"|{{↑}} 174,394
|rowspan="3"|{{↑}} 146,476
|rowspan="3"|{{↑}} 134,651
|rowspan="3"|{{0}}122,369
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|16px|C]] 千代田線
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|16px|Z]] 半蔵門線
|-
!24
|[[中野駅 (東京都)|中野駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|16px|T]] 東西線
|東京都[[中野区]]
|{{↓}} 109,528
|{{↑}} 163,908
|{{↑}} 153,746
|{{↑}} 135,706
|{{↓}} 111,084
|{{0}}116,598
|中央・総武緩行線との直通人員を含む。
|-
!rowspan="2"|25
|rowspan="2"|[[九段下駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|16px|T]] 東西線
|rowspan="2"|東京都千代田区
|rowspan="2"|{{↓}} 108,891
|rowspan="2"|{{↑}} 181,417
|rowspan="2"|{{↑}} 166,390
|rowspan="2"|{{↑}} 143,931
|rowspan="2"|{{↓}} 126,343
|rowspan="2"|{{0}}133,384
|rowspan="2"|
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|16px|Z]] 半蔵門線
|-
!26
|[[有楽町駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|16px|Y]] 有楽町線
|東京都千代田区
|{{↓}} 106,508
|{{↑}} 177,367
|{{↑}} 167,929
|{{↑}} 147,259
|{{↓}} 125,755
|{{0}}131,552
|
|-
!rowspan="2"|27
|rowspan="2"|[[新宿三丁目駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|16px|M]] 丸ノ内線
|rowspan="2"|東京都新宿区
|rowspan="2"|{{↓}} 100,585
|rowspan="2"|{{↑}} 167,437
|rowspan="2"|{{↑}} 149,796
|rowspan="2"|{{00}} 99,359
|{{↓}} {{0}}46,987
|{{00}}49,807
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|16px|F]] 副都心線
|colspan="2" style="text-align:center"|未開業
|-
!rowspan="2"|28
|rowspan="2"|[[市ケ谷駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|16px|Y]] 有楽町線
|rowspan="2"|東京都新宿区
|rowspan="2"|{{↓}} {{0}}98,209
|rowspan="2"|{{↑}} 150,760
|rowspan="2"|{{↑}} 139,608
|rowspan="2"|{{↑}} 126,997
|rowspan="2"|{{↑}} 113,876
|rowspan="2"|{{0}}113,715
|rowspan="2"|
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|16px|N]] 南北線
|-
!29
|[[東陽町駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|16px|T]] 東西線
|東京都江東区
|{{↓}} {{0}}97,648
|{{↑}} 124,790
|{{↓}} 122,916
|{{↑}} 129,076
|{{↑}} 114,370
|{{0}}108,530
|
|-
!rowspan="4"|30
|rowspan="2"|[[国会議事堂前駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|16px|M]] 丸ノ内線
|rowspan="4"|東京都[[千代田区]]
|rowspan="4"|{{↓}} {{0}}93,128
|rowspan="4"|{{↑}} 161,573
|rowspan="4"|{{↑}} 140,867
|rowspan="4"|{{↑}} 127,591
|rowspan="4"|{{↓}} 118,749
|rowspan="4"|{{0}}114,125
|rowspan="4"|
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|16px|C]] 千代田線
|-
|rowspan="2"|[[溜池山王駅]]
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|16px|G]] 銀座線
|-
|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|16px|N]] 南北線
|-
|}
上位30位の半数は、2路線以上が乗り入れる駅または他路線と相互直通運転を行っている駅である。2018年度時点で一日平均乗降人員が30万人を超えている駅は渋谷駅、北千住駅、池袋駅、綾瀬駅、大手町駅の5駅である。
渋谷駅は銀座線、半蔵門線、副都心線の3路線が乗り入れ、半蔵門線は東急田園都市線に、副都心線は東急東横線にそれぞれ相互直通運転を行っている。[[山手線]]との接続駅でもあり、副都心線の開業前から一日平均乗降人員が60万人を超えていた。乗降人員は増加傾向が続いていたが、副都心線の開業と東急東横線の地下化に伴う相互直通運転の開始により乗降人員はさらに増加し、2016年度から2019年度まで一日平均乗降人員が100万人を超えた。
北千住駅は日比谷線、千代田線の2路線が乗り入れ、日比谷線は東武伊勢崎線に相互直通運転を行っている。山手線との接続駅ではないが、1990年代のピーク時は一日平均乗降人員が70万人を超えていた。運輸大臣がラッシュ時の視察に訪れるほど混雑が激しかった時期もあり、1992年度から1996年度にかけて改良工事が行われた。半蔵門線の押上駅延伸に伴い、同駅でも東武伊勢崎線との相互直通運転を開始したほか、[[つくばエクスプレス]]の開業により乗降人員は減少し、混雑は緩和されている。
池袋駅は丸ノ内線、有楽町線、副都心線の3路線が乗り入れる。有楽町線と副都心線は同駅から和光市駅まで共用区間となっている。西武池袋線と東武東上本線に接続するが、西武池袋線は小竹向原駅で、東武東上本線は和光市駅で有楽町線と副都心線に相互直通運転を行っている。
綾瀬駅は千代田線の単独駅であるが、同駅で常磐緩行線に相互直通運転を行っている。同駅から北千住駅までは[[常磐快速線]]との併走区間であり、この区間は特定運賃が設定されている。これは国鉄が[[通勤五方面作戦]]で常磐線を複々線化する際に工事費の抑制を求められていたこと、営団が[[綾瀬車両基地]]までの線路を敷設する時期が重なり、現在の形態となったことによる。
大手町駅は丸ノ内線、東西線、千代田線、半蔵門線の4路線が乗り入れる。千代田線の西側に[[都営地下鉄三田線|都営三田線]]が並走しているが、[[日比谷通り]]の道路幅員を考慮して、東西線交差地点の北側に千代田線のホーム、南側に三田線のホームを建設した。駅周辺は[[メガバンク]]の本店等が所在する[[オフィス街]]であり、世界有数の[[中心業務地区]]である。
== 広報 ==
=== キャッチコピー ===
* 2004年度 - 「東京ポジティブで行こう」「ココロも動かす地下鉄へ。」
* 2005年度 - 「東京スピード」「東京のスピードで楽しもう。」→「東京はポジティブに楽しもう。」([[JR福知山線脱線事故]]が発生したため、キャッチコピーが変更となった)
* 2006年度 - 「東京□.net」「東京の楽しみをつなぐチカラ。」
* 2007年度、2010年度 - 「TOKYO HEART」「メトロが心をつないでく。」(キャッチコピーの再利用は初めて)<ref name="tokyometro20100330">[http://www.tokyometro.jp/news/2010/2010-19.html 4月1日(木)よりTVCM放送開始 東京メトロの新キャラクターは新垣結衣さん!] - 東京地下鉄(2010年3月30日)2019年10月3日閲覧。</ref>
* 2008年度 - 「DO! TOKYO HEART」
* 2009年度 - 「TOKYO HEART」「東京にもっとハートを。」{{efn|「TOKYO HEART」「TOKYO WONDERGROUND」「We are the Tokyo Navigator」のCMディレクションは[[箭内道彦]]が担当。}}
* 2011年度 - 「TOKYO WONDERGROUND」([[東日本大震災]]の影響により開始が約1か月遅れた)<ref name="tokyometro20120427">{{PDFlink|[http://www.tokyometro.jp/news/2011/pdf/metroNews20110427_01.pdf 東京メトロの新キャンペーン「TOKYO WONDERGROUND 」5月9日スタート! キャラクターには杏さんを起用]}} - 東京地下鉄、2011年4月27日</ref>
* 2012年度 - 「We are the Tokyo Navigator」<ref name="tokyometro20120328">{{PDFlink|[http://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20120328_01.pdf 東京メトロの広告キャンペーン「We are the Tokyo Navigator」4/1スタート! イメージキャラクターには「武井 咲さん」を起用]}} - 東京地下鉄、2012年3月28日</ref>
* 2013年度、2014年度 - 「Color your days.」<ref name="tokyometro20130328">{{PDFlink|[http://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130328_cmcampaign.pdf 東京メトロの広告キャンペーン「Color your days.」が4/1からスタート! キャンペーンキャラクターには 堀北 真希さん を起用]}} - 東京地下鉄、2013年3月28日</ref><ref name="tokyometro20140327">{{PDFlink|[http://www.tokyometro.jp/news/2014/pdf/metroNews20140327_color.pdf 東京メトロの企業広告「Color your days.」が2年目に!4/1からスタート! キャンペーンキャラクターは堀北真希さん]}} - 東京地下鉄、2014年3月27日</ref>
* 2015年度 - 「Find my Tokyo.」「メトロでみつかる、わたしの東京。」<ref name="tokyometro20150327">[http://www.tokyometro.jp/news/2015/680.html 企業広告 Find my Tokyo. がスタート!] - 東京地下鉄、2015年3月27日</ref>
* 2016年度 - 「Find my Tokyo.」「メトロで見つけた、お気に入りの東京。」
* 2017年度 - 「Find my Tokyo.」「メトロでひろがる、お気に入りの東京。」
* 2018年度 - 「Find my Tokyo.」「メトロでつながる、ひとりひとりの東京。」
* 2019年度 - 「Find my Tokyo.」「メトロでひびきあう、ひとりひとりの東京。」
* 2020年度 - なし
* 2021年度(12月以降) - 「Find my Tokyo.」<ref name="tokyometro20211213">{{PDFlink|[https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews211213_1.pdf 石原さとみさん出演・東京メトロ「Find my Tokyo.」が約2年ぶりに再開!12月13日(月)より、新CM「Find my Tokyo. ひさしぶりっ!」篇を公開!]}} - 東京地下鉄、2021年12月13日</ref>「みんなでみつける、これからの東京。」
=== イメージキャラクター ===
* 初代(2004年度) - [[山田孝之]]・[[井川遥]]
* 2代目(2005年度 - 2006年度) - [[山田優 (モデル)|山田優]]
* 3代目(2007年度 - 2009年度) - [[宮﨑あおい]]
* 4代目(2010年度) - [[新垣結衣]]<ref name="tokyometro20100330" />
* 5代目(2011年度) - [[杏 (女優)|杏]]<ref name="tokyometro20120427" />
* 6代目(2012年度) - [[武井咲]]<ref name="tokyometro20120328" />
* 7代目(2013年度 - 2015年度) - [[堀北真希]]<ref name="tokyometro20130328" /><ref name="tokyometro20140327" /><ref name="tokyometro20150327" />
* 8代目(2016年度 - ) - [[石原さとみ]]<ref name="tokyometro20160331">[http://www.tokyometro.jp/news/2016/155701.html 東京メトロ「Find my Tokyo.」新キャンペーンのイメージキャラクターが石原さとみさんに決定!] - 東京地下鉄(2016年4月1日)2019年10月3日閲覧。</ref>
* すすメトロ!(2016年度 - 2018年度)<ref>ファミリー層に向けて鉄道事業を中心とした企業理念・企業姿勢及び各種取組みを紹介する広報企画。</ref> - [[ドラえもん]]<ref name="tokyometro20160329">[http://www.tokyometro.jp/news/2016/155517.html 東京メトロとドラえもんの「すすメトロ!」キャンペーンがスタート!] - 東京地下鉄(2016年3月29日)2019年10月3日閲覧。</ref><ref group="注釈">前身の営団地下鉄時代にも、乗車マナーポスターで起用実績がある。</ref>
* 東西線・新橋・豊洲 OFF PEAK PROJECT{{efn|時差出勤を促す広報企画。}}(2019年度 - 2020年度、芸人時代) - [[ダンディ坂野]]・[[小島よしお]]・[[髭男爵]]<ref>[http://www.metro-ad.co.jp/case/detail/id_238.html 東京メトロ オフピークプロジェクト「ピークを知る男。」キャンペーン] - メトロ アド エージェンシー(2020年9月7日)2020年11月11日閲覧。</ref>・[[スギちゃん]]。
* 東西線OFF PEAK PROJECT(2021年度 -、キャラクター時代)- [[あしたのジョー]]<ref>[https://www.metpo.jp/offpeak/ 東西線オフピークプロジェクト] - メトポ 2021年7月23日閲覧。</ref>
=== CMソング ===
* 2010年度 - 「[[福笑い/現実という名の怪物と戦う者たち|福笑い]]」([[高橋優]])
* 2011年度 - 「[[大発見|新しい文明開化]]」([[東京事変]])
* 2012年度 - 「[[月光 (斉藤和義の曲)|メトロに乗って]]」([[斉藤和義]])<ref name="tokyometro20120328" />
* 2013年度 - 「[[POP CLASSICO|Hey girl! 近くても]]」([[松任谷由実]])<ref name="tokyometro20130328" />
* 2014年度 - 「[[YANKEE (アルバム)|アイネクライネ]]」([[米津玄師]]<ref name="tokyometro20140327" />)
* 2015年度 - 「[[好きってなんだろう…涙/となりのメトロ|となりのメトロ]]」([[YUKI (歌手)|YUKI]])<ref name="tokyometro20150327" />
* 2016年度 - 「my town」 ([[YEN TOWN BAND]] feat. [[降谷建志|Kj]] ([[Dragon Ash]]))<ref name="tokyometro20160331" />、「[[こだま、ことだま。]]」 ([[Bank Band]]) 、「[[Takeshi Kobayashi meets Very Special Music Bloods#収録曲|reunion]]」([[back number]]と[[秦基博]]と[[小林武史]])、「[[もうすぐ着くから待っててね|陽]]」([[クリープハイプ]] × 谷口鮪 ([[KANA-BOON]]))
* 2017年度 - 「Happy Life」([[中島美嘉]] × [[Salyu]])<ref>[http://www.tokyometro.jp/news/2017/188326.html 東京メトロ「Find my Tokyo.」 3月31日(金)より新CM「浦安_もう1つのテーマパーク」篇を先行公開!] - 東京地下鉄(2017年3月31日)2019年10月3日閲覧。</ref>、「[[to U#to U (Tokyo Metro version)|to U (Tokyo Metro version)]]」 (Bank Band with Salyu) 、「[[Takeshi Kobayashi meets Very Special Music Bloods#収録曲|太陽に背いて]]」([[佐藤千亜妃]]と[[金子ノブアキ]]と小林武史)、「[[ハートアップ]]」([[絢香]] × [[三浦大知]])
* 2018年度 - 「[[KABUTO|ハナウタ]]」([[[Alexandros]|[Alexandros]]] × [[最果タヒ]])、「これでいいんだよ」([[安藤裕子 (歌手)|安藤裕子]] feat. [[TOKU]])、「メトロ」([[JUJU]] × [[松尾潔]] × 小林武史)、「メトロノーツ」([[スキマスイッチ]]と[[矢野まき]])
* 2019年度 - 「ドラマ」([[DAOKO]] × 小林武史)、「Classic」([[Little Glee Monster]] × 小林武史)、「ぼくの街に遊びにきてよ」([[スガシカオ]]×小林武史)、「曇り夜空は雨の予報」([[SHISHAMO]] × 小林武史)
* 2021年度 - 「メトロノーツ」([[スキマスイッチ]])<ref name="tokyometro20211213" />
=== マスコットキャラクター ===
; メトポン
: 2007年から所有車両の[[ドアステッカー]]に使用されている[[タヌキ]]のキャラクター。メトポンの妻「ちかポン」、その子供「ポン太」も存在する。主な特徴は以下の通り<ref>{{Cite web|和書
| date = 2009-09-29
| url =https://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-51.html
| title =「メトポン!みてポン!歩いてポン!スタンプラリー」を実施!
| publisher = 東京地下鉄
| accessdate = 2010-02-04
}}</ref>。
:* 地方出身で大人になってから上京
:* 趣味は東京食べ歩き(特に[[下町]]が大好き)
:* 特技は[[野球]]
:* 大好物は[[カレー]]と[[ビール]]
: 2015年より順次ドアステッカーが新たなもの(メトポンを含め、キャラクターを使用しないもの)に更新されたため姿を消していったが、以降もイベント<ref name=metopon>{{Cite web|和書
| date = 2020-08-11
| url =https://tetsudo-shimbun.com/article/topic/entry-2846.html
| title =東京メトロ「17000系」お披露目 有楽町線・副都心線の新型車両
| publisher = 鉄道新聞
| accessdate = 2020-08-12
}}</ref> やマナーポスター、[[LINEスタンプ]]などで使用されている。
: <!-- このコロンだけの行は消さないでください。「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照-->
; 一日太郎
: [[東京地下鉄一日乗車券]]のキャラクター。頭部に「1」の文字がある。全身白色。
; ぎんちゃん・まるちゃん
: [[地下鉄博物館]]のキャラクター。卵形の体に羽が生えている妖精。ぎんちゃんは銀座線、まるちゃんは丸ノ内線からそれぞれ抜け出てきた設定。
; 駅乃みちか(えきの みちか)
: 東京メトロサービスマネージャーのイメージキャラクター。ショートヘアーで、東京メトロの制服を着ている。主な特徴は以下の通り<ref>{{Cite web|和書
| date = 2016-05-28
| url =http://ranking.enjoytokyo.jp/fp/yorimichika/
| title =東京メトロ地域応援企画「東京よりみちか」
| publisher = 東京地下鉄
| accessdate = 2016-05-28
}}</ref>。
:* 趣味:メトロ沿線の穴場探し
:* 好きなもの:アーバンライフ、田舎暮らし、[[バーニャ・カウダ]]
:* 嫌いなもの:都会の喧騒、[[ニホンマムシ|蟲]]、[[セロリ]]
: 2020年7月に次述の「駅街かける」が登場してからは自然消滅した形になっている。
; 駅街かける(えきまち かける)
: 東京メトロが大好きな少年。[[2020年]]7月に[[有楽町駅]]に掲出されて使用が開始された<ref>{{Cite web|和書|date = 2020-06-30| url =https://twitter.com/tokyometro_info/status/1277874533878214658| title =東京メトロTwitterでの投稿| publisher = 東京地下鉄| accessdate = 2020-08-12}}</ref>。
=== CMソング作詞・作曲者 ===
* [[菅野よう子]](2004年度[[コマーシャルメッセージ|CM]]ソング『From Metropolis』を作曲)
* [[リチャード・ロジャース (作曲家)|リチャード・ロジャース]](2005年度CMソング『Happy Talk』を作曲)
* [[PES]]([[RIP SLYME]]のメンバー。2007年度CMソング「Tales」を作曲)
* [[峯田和伸]]([[銀杏BOYZ]]のメンバー。2008年度CMソング『銀河鉄道の夜 第二章 〜ジョバンニに伝えよ、ここにいるよと〜』を作曲)
* [[阿部義晴]]([[ユニコーン (バンド)|ユニコーン]]のメンバー。2009年度CMソング『[[シャンブル|HELLO]]』を作詞・作曲)
* [[高橋優]](2010年度CMソング『[[福笑い/現実という名の怪物と戦う者たち|福笑い]]』を作詞・作曲)
* [[東京事変]]
** [[椎名林檎]](2011年度CMソング『[[大発見|新しい文明開化]]』を作詞)
** [[伊澤一葉]]・椎名林檎(同上・作曲)
* [[斉藤和義]](2012年度CMソング『[[月光 (斉藤和義の曲)|メトロに乗って]]』を作詞・作曲)
* [[松任谷由実]](2013年度CMソング『Hey girl! 近くても』を作詞・作曲)
* [[米津玄師]](2014年度CMソング『アイネクライネ』を作詞・作曲)
=== 東京メトロがスポンサーの番組・イベント ===
* [[東京日和 (テレビ番組)|東京日和]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の5分ミニ番組、一社提供、既に終了)
* [[メトログ]]([[TBSテレビ|TBS]]の5分ミニ番組、一社提供、既に終了)
* [[ウチくる!?]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系、関東地区のみ、2006年4月から2007年3月まで提供) - ホームページ連動CM「東京□.net」を放送していた。
* [[東京国際マラソン]](2005年・2006年のスポンサー)→[[東京マラソン]](2007年の開始時からスポンサー、全国ネット)<ref>{{Cite web|和書|title=「東京メトロ」CM、実は貴重? 東京マラソンで全国放送→関東以外の視聴者釘付けに |url=https://www.j-cast.com/2022/03/10432804.html?p=all |website=J-CASTニュース |date=2022-03-10 |accessdate=2022-03-12}}</ref>
* [[2019年のマラソングランドチャンピオンシップ|マラソングランドチャンピオンシップ]](2019年、[[2020年東京オリンピック]]・男女マラソン日本代表選考会)
== 関連事業 ==
=== 不動産事業 ===
「[https://www.echika-echikafit.com/ Echika(エチカ)]」のような駅併設の[[駅ナカ]]小売・飲食店のほか、沿線を中心にオフィスビル、ホテル、住宅、ゴルフ練習場、レンタル収納スペースを展開している。オフィスビルは「メトロシティー」、マンションタイプの集合住宅は「メトロステージ」のブランド名がある<ref>[https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/related_business/estate/index.html 不動産事業] - 東京地下鉄(2019年10月3日閲覧)。</ref>。
== 関連企業・団体 ==
東京地下鉄公式サイト「[https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/group/index.html グループ企業 - 東京メトログループ一覧]」も参照。
=== グループ企業 ===
* [[メトロ車両|メトロ車両株式会社]]<ref>[https://www.metosha.co.jp/ メトロ車両株式会社]</ref> - [[日本の鉄道車両検査|鉄道車両検査]]・改修工事
* [[メトロアドエージェンシー|株式会社メトロアドエージェンシー]]<ref>[https://www.metro-ad.co.jp/ 株式会社メトロアドエージェンシー]</ref> - [[Tokyo Metro ビジョン]]の運用など[[広告代理店|広告代理業]]、東京地下鉄沿線を中心とした東京の地域情報サイト「[[アーバンライフメトロ]]」の運営<ref>[https://urbanlife.tokyo/company/ 運営会社] アーバンライフメトロ URBAN LIFE METRO</ref>
* [[メトロ開発|メトロ開発株式会社]]<ref>[https://www.metro-dev.co.jp/ メトロ開発株式会社]</ref> - [[建築コンサルタント|土木・建築コンサルタント]]、[[高架鉄道|鉄道高架]]下の開発・運営管理
* [[メトロコマース|株式会社メトロコマース]]<ref>[https://www.metocan.co.jp/ 株式会社メトロコマース]</ref> - 駅[[売店]]等の物販、サービス業務および駅務業務
* [[メトロプロパティーズ|株式会社メトロプロパティーズ]][https://www.metro-pro.jp 株式会社メトロプロパティーズ] - [[駅ナカ]]商業施設([[エチカ (商業施設)|エチカ]]、メトロピア、メトロエム等)および[[外食事業]](駅そば「そば処めとろ庵」等){{efn|2015年4月1日付でメトロフードサービスの外食事業を承継。}}の運営管理
* [[東京メトロ都市開発|東京メトロ都市開発株式会社]]<ref>[https://www.tmud.jp/ 東京メトロ都市開発株式会社]</ref> - 不動産開発、オフィスビル等の賃貸・運営管理、[[東陽町駅]]近くの[[ゴルフ場#ゴルフ練習場|ゴルフ練習場]]{{efn|2013年4月1日付でメトロスポーツを吸収合併。}}の運営。過去には[[メトロ食堂街]]も運営していた。
* [[メトロライフサポート|株式会社メトロライフサポート]] - 東京地下鉄の従業員向け施設([[社宅]]・[[社員食堂]]・職場内[[自動販売機]])管理業務<ref> [https://www.metrolife.jp/shop/index.html 事業内容] 株式会社メトロライフサポート</ref>
* 株式会社メトロセルビス<ref>[https://www.metro-service.co.jp/ 株式会社メトロセルビス]</ref> - 駅構内等の清掃業務および警備業務
* 株式会社メトロステーションファシリティーズ<ref>[https://www.metro-stfa.jp/ 株式会社メトロステーションファシリティーズ]</ref> - 駅設備保守管理業務
* 株式会社メトロレールファシリティーズ<ref>[https://www.metrorailfa.co.jp/ 株式会社メトロレールファシリティーズ]</ref> - 工務関係保守業務
* 株式会社地下鉄メインテナンス<ref>[https://www.chikamen.co.jp/ 株式会社地下鉄メインテナンス]</ref> - 電気関係保守業務
* 株式会社メトロビジネスアソシエ<ref>[https://www.metro-b-associe.jp 株式会社メトロビジネスアソシエ]</ref> - [[人事]]・[[会計|経理]]・システムサービスに関する事務業務
* 株式会社メトロフルール - [[特例子会社]]、東京地下鉄従業員向け[[福利厚生]]施設等の清掃業務
* VIETNAM TOKYO METRO ONE MEMBER LIMITED LIABILITY COMPANY - [[ベトナム]]都市鉄道整備事業の支援
=== 公益法人 ===
* [[公益財団法人]][[メトロ文化財団]]<ref>[https://www.metrocf.or.jp/ 公益財団法人メトロ文化財団]</ref> - [[地下鉄博物館]]の運営等
=== 過去のグループ企業 ===
* レッツエンジョイ東京 - 「[[アーバンライフメトロ]]」と同コンセプトの東京の地域情報サイト。[[2004年]]に東京地下鉄と[[エヌケービー]]の[[合弁事業|共同事業]]としてサービス開始後、[[2007年]]に[[ぐるなび|株式会社ぐるなび]]へ事業譲渡、[[2019年]]9月に「株式会社レッツエンジョイ東京 (Let's ENJOY TOKYO, Inc. ) として会社設立<ref>[https://www.enjoytokyo.jp/corporate/about/ ABOUT - 沿革] 株式会社レッツエンジョイ東京</ref>。
=== 労働組合 ===
[[有価証券報告書]]によれば、[[労働組合]]の状況は以下の通り<ref name="kessan" />。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!名称
!上部組織
|-
|東京地下鉄労働組合
|[[日本私鉄労働組合総連合会]]
|}
== その他 ==
{{雑多な内容の箇条書き|date=2023-10|section=1}}
[[ファイル:Metorowifi.JPG|thumb|170px|駅内での公衆無線LAN案内板]]
* 株式会社[[日本格付研究所]]による[[信用格付け|格付け]]は「'''AAA'''」となっている。(2019年11月8日時点)<ref>{{PDFlink|[https://www.jcr.co.jp/download/0ecfbcf8c883cf0cb963d82f836b6c7ccfbf4bf3f6fc2965fb/19d0785.pdf 株式会社日本格付研究所による格付け(2020年12月8日閲覧)]}}</ref>
* 駅の水飲み施設が各社で減っているなか、東京地下鉄では多くの駅に[[冷水機]]が設置されていたが、2014年度に全廃した<ref name="trafficnews20170718">[http://trafficnews.jp/post/76376/ 東京メトロの「冷水機」、消えた? 蛇口タイプの水飲み場全廃で気になるその行方] - 乗りものニュース(2017年7月18日)2019年10月3日閲覧。</ref>。蛇口タイプの水飲み場も2018年5月までに全廃している<ref name="trafficnews20170718" />。
* 1998年10月に丸ノ内線新宿三丁目駅で、駅構内での[[携帯電話]]の使用が可能になり、2003年8月より全駅の構内で携帯電話が使えるようになった。2012年3月30日には南北線本駒込 - 赤羽岩淵間のトンネル内で携帯電話が使えるようになり、以後順次提供区間を拡大し、2013年3月21日に全線{{Refnest|group=注釈|連絡線の工事を行っていた有楽町線・副都心線小竹向原駅 - 千川駅間は、2017年8月23日から<ref>[https://j-town.net/2017/08/29247999.html?p=all ついに繋がったぞ! 有楽町線・副都心線「千川~小竹向原」のケータイ圏外解消] Jタウンネット(2017年8月29日)</ref>。}}の列車内で携帯電話の利用が可能となった<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/592175.html 東京メトロ、3月21日に全線エリア化] - ケータイWatch(2013年3月18日)2019年10月3日閲覧</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130318_mobile.pdf 平成25年3月21日(木)正午より、東京メトロの全線で携帯電話が利用可能に!]}} - 東京地下鉄、2013年3月18日</ref>。
* ほぼ全駅で[[NTTドコモ]]の[[docomo Wi-Fi]]、[[東日本電信電話|NTT東日本]]の[[フレッツ#フレッツ・スポット|フレッツ・スポット]](以上2004年12月より)、[[ソフトバンク|ソフトバンクモバイル]]の[[ソフトバンクWi-Fiスポット]](2011年11月1日より<ref>[http://www.softbankmobile.co.jp/ja/news/press/2011/20111025_01/ 東京メトロ全線の駅構内で「ソフトバンクWi-Fiスポット」を提供開始]、ソフトバンクモバイル(2010年10月25日)2019年10月3日閲覧。</ref>)といった[[公衆無線LAN]]サービスが利用できる(2013年7月末までは[[NTTコミュニケーションズ]]の[[ホットスポット (NTT)|HotSpot]]も利用可能だった)。[[2013年]][[2月14日]]から2014年11月まで[[エヌ・ティ・ティ・ブロードバンドプラットフォーム|NTTブロードバンドプラットフォーム]]と共同で、銀座線の全駅などで構内無線LANを使用した無料インターネット接続サービスや情報配信サービス「[[MANTA]]」の試験提供を行っていた<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20130212/455723/ 東京メトロとNTTBP、駅構内無線LANの無償化と情報配信の試験を実施]、[[日経BP|日経 xTECH]](2013年2月13日)2019年10月3日閲覧。</ref><ref>[https://xtech.nikkei.com/it/atcl/news/14/112602037/ 東京の地下鉄143駅で訪日外国人向け無料Wi-Fi、「MANTA」はサービス終了]、[[日経BP|日経 xTECH]](2014年11月26日)2019年10月3日閲覧。</ref>。また[[UQコミュニケーションズ]]の[[WiMAX]]通信設備を設置することで合意、2012年3月31日中野富士見町駅の駅構内でWiMAXサービスの提供を開始、2013年5月28日に全線の駅構内・トンネル内にてWiMAXサービスが使えるようになった<ref>[http://www.uqwimax.jp/annai/news_release/201305221.html 平成25年5月28日(火)正午より、東京メトロの全線でWiMAX(ワイマックス)が利用可能に!] - 東京地下鉄、UQコミュニケーションズ(2013年5月22日)2019年10月3日閲覧。</ref>。
* PASMO導入に合わせ、2007年から[[ハウスカード]]「[[Tokyo Metro To Me CARD]]」の発行を開始した。[[PASMO#オートチャージ|PASMOオートチャージサービス]]に対応するほか、PASMO残高引き去り回数ごとにポイントが付与される独自のポイントサービス「[[Tokyo Metro To Me CARD#メトロポイント|メトロポイント]]」を導入している。
* 2018年度より、都営地下鉄と共に順次全車両の車内に[[監視カメラ|防犯カメラ]]の設置を開始した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2017/188156.html|title =東京メトロ全車両内へのセキュリティカメラ設置を推進します|publisher=東京地下鉄|date=2017-03-14|accessdate=2017-03-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20170315-a362/|title=東京メトロは乗降ドア上部、都営地下鉄は天井 - 全車両に防犯カメラ設置へ|publisher=マイナビニュース |date=2017-03-15|accessdate=2017-03-19}}</ref>。
* 営団時代から地下鉄施設の部外者による撮影は容認されていなかったが、2012年の1000系登場を機に施設内の撮影が解禁された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.railforum.jp/ftrain/app/bbs.php?act_view=true&Xbno=58&Xvno=254|title=【お知らせ】東京メトロ施設内での写真撮影が解禁になりました|accessdate=2020-11-29|publisher=鉄道フォーラム|date=2012-04-18}}</ref>。尤も、営団時代から駅構内やウェブサイト等に撮影禁止の旨が掲示されたことは無く、鉄道趣味誌の読者投稿でも施設内で撮影した写真の掲載が規制されたことはない<ref group="注釈">鉄道趣味誌などで掲載が規制されたものには、[[日本銀行]]が保有していた現金輸送車の[[国鉄マニ30形客車|マニ30]]の例がある。</ref>。更に東京メトロ発足後はそれまで実施していなかった[[車両基地]]の一般公開など、撮影を前提としたイベントが開催されるようになっていた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite web|和書|website= 東洋経済オンライン|author= 小林拓矢|date= 2018-10-17|title= 銀座線はなぜオレンジ?地下鉄「路線色」の謎|url= https://toyokeizai.net/articles/-/243510|accessdate= 2018-12-04|ref= Harv}}
* 中村建治『メトロ誕生〜地下鉄を拓いた早川徳次と五島慶太の攻防』交通新聞社、2007年7月、ISBN 978-4330-93607-9
== 関連項目 ==
* [[日本の地下鉄]] / [[東京の地下鉄]]
* [[大手私鉄]] / [[関東私鉄]]
* [[東京地下鉄道]] / [[東京高速鉄道]] - 営団地下鉄のルーツ。
* [[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄) - 東京地下鉄の前身。
* [[都営地下鉄]] - [[東京都交通局]]が主に東京都内で運営する地下鉄。[[都営地下鉄#東京地下鉄(東京メトロ)との統合議論|東京地下鉄との統合議論]]がある。
* [[出口番号]]
* [[メトロプロムナード]] / [[メトロ食堂街]]
* [[メトロビアスS.A.]] - [[アルゼンチン]]の首都[[ブエノスアイレス]]地下鉄
* [[大阪市高速電気軌道]] (Osaka Metro) - 東京地下鉄と同じく、公営地下鉄事業者([[大阪市営地下鉄]])の民営化によって発足した地下鉄運営会社。
== 外部リンク ==
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{{Wikinewscat|東京地下鉄}}
* [https://www.tokyometro.jp/ 東京メトロ公式サイト]
* {{Twitter|tokyometro_info|東京メトロ【公式】}}
* {{YouTube|user=TokyoMetroOfficial|東京メトロ公式チャンネル}}
* {{Instagram|challenge_find_my_tokyo|東京メトロ/Find my Tokyo}}
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3,918 | 直通運転 | 鉄道における直通運転(ちょくつううんてん)とは、複数の路線・区間や鉄道事業者にまたがって旅客列車を運転することである。列車の乗り入れと表現されることもある。英語ではtrackage rightsまたはthrough serviceと表現する。
日本では、大都市の地下鉄が郊外への私鉄路線と直通運転するものや、JR・国鉄から経営分離された第三セクターがJRと直通運転するものなどが代表的である。その形態は一様でなく、事実上一体的に運行されているが運営事業者が異なるために直通運転と表現されるもの から、特急などの限られた列車のみが乗り入れているものまでさまざまである。
ヨーロッパやアジアにおいては複数の国にまたがって国際列車が運行されている。一方で、日本で見られるような地下鉄と郊外鉄道との直通運転は行われていない都市も多く、あるいは地下鉄と郊外鉄道が一体的に運営されている例もある。
貨物列車に対して使われることもあるが、貨物列車は通常複数の路線にまたがって広域的に運行されることから、旅客列車の場合と比較すると一般的な用法ではない。なお、1960年代までの車扱貨物による鉄道貨物輸送が主流の時代、私鉄が所有する貨車が国鉄の貨物列車に連結されて、国鉄線上を運行したケースも多く、「直通貨車」と呼ばれた。→貨車#所有者別の分類を参照
同一路線内であっても、通常乗り換えが必要な区間を通して運転することを指して使われる例もある。
日本においては、ほとんどの鉄道事業者が施設・車両の保有と列車の運行の両方を担っていることから、事業者間の直通運転で用いられる車両を保有する事業者の違いを区別して表現することがあり、相互の事業者の車両を用いるものを相互乗り入れ(相互直通運転、双方向直通運転)、片方の事業者の車両が一方的に他方の事業者の路線へ乗り入れて運行するもの、自社の路線の車両は乗り入れないが、他社の車両が自社の路線に乗り入れることを片乗り入れ(片方向直通運転、一方向直通運転)という。また、3事業者以上の鉄道事業者が直通運転を実施するものの、例えば事業者A・事業者B・事業者Cの3事業者による直通運転で、事業者Aと事業者Cの所有車両を使用せずに事業者Bの所有車両のみの乗り入れをする場合は、事業者Aと事業者C間では相互乗り入れや片乗り入れにはならないことから、この場合は変則乗り入れ(変則直通運転、変則的直通運転)とも称す。なお、3事業者以上の鉄道事業者が直通運転に絡む場合は、相互乗り入れと片乗り入れ、また場合によっては変則乗り入れとを組み合わせる事例もあり、日本の首都圏での実施例を挙げると、京成電鉄では都営地下鉄浅草線や京急、芝山鉄道および北総鉄道との間では相互乗り入れの形態であるが、新京成電鉄とは片乗り入れとなっている。また、相鉄ではJR東日本と東急との間では相互乗り入れであるが、都営地下鉄三田線や東京メトロ南北線・副都心線および埼玉高速鉄道とは、当面の間は自社車両のみの片乗り入れとなっている。また、東武東上本線との直通運転を実施するが、相鉄と東武との間では両者車両の相互および東京メトロの車両による直通は実施されず、その間にある東急の車両のみが両路線間を跨って運転する変則乗り入れの状態である。
例として2013年3月16日に開始された東急東横線・東京メトロ副都心線の直通運転を挙げる。この直通運転では、従前より行われていた直通運転とあわせ、横浜高速鉄道みなとみらい線・東武東上線・西武有楽町線・西武池袋線の各線が結ばれた。東武東上線沿線の川越市を訪れた観光客は630万人を超え、これは川越を舞台にしたNHKの連続テレビ小説「つばさ」が放送された2009年を上回る過去最高のものである。川越市の観光課によると、2013年4月から12月は神奈川県からの観光客が全体の約13%を占め、前年比で約6ポイント増えたという。一方で横浜市への観光客も増加し、横浜高速鉄道によると、2013年4月から2014年2月までのみなとみらい線内の6駅の利用者数は前年比で約9.4%増加の約6370万人となり、沿線に大型商業施設を抱えるみなとみらい駅は約20%、元町・中華街駅は約7.6%増加した。みなとみらい線沿線のホテル宿泊者や横浜駅周辺の百貨店利用者も増加した。これに加え、沿線の私立学校の受験者の増加や、比較的割安だった東上線沿線の不動産価格の上昇も伴い、埼玉西部や神奈川で沿線の商業面にプラスの効果を生み出した。
直通運転にあたっては、単に線路を接続させるだけでなく、地上設備や車両などの規格の統一や、運転業務・営業の取り扱いにおける事業者間の取り決めが必要となる。
直通運転にあたっては、実施する両路線の軌間や電化方式などの規格を揃えるのが通常である。しかし、現に営業している路線においてこれらを変更するには多大なコストがかかるため、車両の側で複数の方式に対応できるようにすることで、地上設備の大規模な改修を避ける例も多く見られる。
直通運転を実施する路線の軌間が異なる場合は、軌間をどちらか一方に合わせて改軌する(京成電鉄など)か、両方の車両が走行できるように三線軌化(箱根登山線など)が行われる。車両側で対応する例としては、スペイン・フランス国境のタルゴのように軌間可変車両を導入したり、中国とロシア・モンゴルの国境のように台車の交換により直通を実施するものがある。この場合、接続部にはそのための地上設備が設けられる。
電化方式が異なる場合には、電化方式を一方に合わせて変更するか、複数の異なる電化方式でも走行できる設備を備えた車両(複電圧車や交流直流両用車両等)を導入して対応する。また、非電化区間へは電車はそのままでは乗り入れられないが、電車を機関車で牽引することによって直通運転を実施する例がある。この場合、車内照明や空調等のサービス電源をまかなうため、発電機の搭載や電源車の連結が行われる。
また、直通運転する区間では案内表示の交換・新設がなされるほか、直通路線間の接続駅では、線路配線や信号設備の変更、ホームの新設などが行われる。直通運転により乗り入れてくる車両の規格に対応させるために路線全体の地上設備(直々セクションの設置など)を改修する場合もある。運用の変更に伴い車両基地の改修・新設・移転などを実施する場合もある。
直通運転に使用される車両は、乗り入れ先路線の設備や運行形態に対応したものが必要である。具体的には、車両限界の要請による車両の大きさや、扉の数や位置、加減速度や最高速度など車両の性能などが挙げられるほか、軌間や電化方式の違いを車両側で対応するための装置などもある。また、当該の事業者間の取り決めにより、車両の操作方法 など、これら以外のさまざまな点についても一定の定めを設ける。
しかし、車両規格については相手の路線へ乗り入れられることが最低限の条件であって、完全な統一が必須というわけではなく、異なる車両規格で相互乗り入れを行うこともあり、日本では阪神電気鉄道と近畿日本鉄道との間、福井鉄道とえちぜん鉄道との間、他路線を介して乗り入れする例としては東京急行電鉄(東急電鉄)東横線と東京メトロ日比谷線を介して東武鉄道伊勢崎線との間(東急東横線は当時18m級車両、東武伊勢崎線は20m級車両での運行、東横線の20m級車両は1969年の東急8000系が最初)での事例が挙げられる。ただし、東横線と日比谷線との直通運転は2013年3月15日を以て終了している。
また、信号方式や保安装置(ATS・ATC等)、列車無線の通信方式などが異なる場合、すべての事業者に対応できるよう同じ機能を異なる方式で複数搭載する必要が発生する。場合によっては、これらの設備を直通事業者間で統一した上で直通運転を行うこともある。
非常時の救援に備え、連結器も各者で共通化することが理想ではあるが、困難な場合は異なる連結器同士をつなぐための中間連結器を車両側および地上側に常備するが、あるいは専用の牽引用車両を用意することもある。
なお、一部の車両のみを直通運転に対応させ、残りの車両は直通運転させず自社線内のみを運行させるという方法も採られている。
直通運転においては、乗務員や駅員などの係員の業務の取り扱いも定める必要がある。
乗務員(運転士・車掌等)の列車への乗務は大きく2つの方法に分けられ、具体的には、それぞれの事業者の乗務員が自事業者の管轄する区間のみを乗務し境界駅で交代する方式と、それぞれの事業者の乗務員が自事業者の車両に乗務し、相手方の路線まで通して運行する方式とである。前者の方式では、各乗務員が相手の事業者の車両の操作に習熟することと、境界駅での乗務の引き継ぎの方式を定めることとが必要となる。後者の方式では、各乗務員が相手の事業者の区間の路線の特徴や取り扱い方式などに習熟することが必要となる。日本においては、両方の方式が用いられてきたが、後者の方式をとった路線において阪急神戸線六甲駅列車衝突事故および信楽高原鐵道列車衝突事故といった重大事故が発生したことから、多くの路線において前者の方式へ切り替えられた。境界駅はそのまま通り越して、相手方の駅で交代する方式もある。阪神なんば線と近鉄奈良線(阪神単独駅の桜川駅で交代)や、北陸新幹線(JR東日本単独駅の長野駅で交代)などが挙げられる。
また、運転指令においては直通事業者同士で緊密な連携が必要となるほか、境界駅での駅業務の管轄、各駅での連絡乗車券類の発売、乗り入れ先での拾得物取扱いなどについても定められる。
直通運転では、複数の事業者(会社)がそれぞれの区間を互いの車両によって運行するため、何らかの方法で経費の精算または相殺を行う必要がある。日本においては、ほとんどの場合線路などの施設の保有・車両の保有と列車の運行のすべてを区間ごとに一つの事業者が担う形態で運営されていることから、各事業者が直通相手の事業者に車両を貸し出して運行するという形を取っており、この際に車両使用料を収受することになる。実際には、双方の支払うべき車両使用料が同じになるよう調整し、支払いを相殺することがよく行われる。このため、時として相手方の路線内だけを往復する運用や運用の持ち替えが見られる。かつては走行キロの貸し借りで精算をしていたが、税務上物々交換は適切でないとのことで、現在は1車1キロ走行あたりの車両使用料を算出するようになり、毎月の走行距離の車両使用料に消費税額を加えたものを相手会社に支払うことで、会社間で料金のやり取りをしている。
一方、施設を保有している会社と車両を保有し列車を運行する会社が異なる場合には、運行会社が保有会社に対して線路使用料を支払う形になる。
日本国外においては、列車を運行する会社が他社の鉄道路線を走行する契約を線路使用権(せんろしようけん)ということがある。この契約では、前者が後者のどの区間で運行し、営業を行うかが子細に定められる。前者は後者の路線を走行するが、貨客を問わず営業はしない契約形態もあり、それをオーバーヘッド・トラッケージ・ライト (Overhead trackage rights) またはインシデンシャル・トラッケージ・ライト (Incidental trackage rights) という。時には、後者は自社での運行を取りやめ、前者の列車のみが運行されることがある。これは、路線の一部をリースさせているのと同義となる。
線路使用権は、必要に応じて一時的な契約であったり、長期に及ぶ場合もある。一時的に線路使用権を設定するときの例としては、災害により自社路線が被災した場合に、被災していない平行他社路線を使用して列車を運行する、というものがある。長期契約の例としては、他社路線を使用したほうが利益が高くなる場合や、他社路線を使用すると短絡できる場合がある。
日本における直通運転は、大都市の地下鉄が郊外への私鉄路線と直通運転するものや、JR・国鉄から経営分離された第三セクターがJRと直通運転するものなどが代表的である。大都市においては、運輸大臣の諮問機関である運輸政策審議会(現在の国土交通大臣の諮問機関交通政策審議会に相当)の答申により、路線建設時には直通運転を前提として計画がなされる。
日本において特徴的な直通運転の形態としては、都心部にターミナル駅を持つ私鉄と地下鉄とが直通する際に、ターミナル駅そのものではなく、数駅郊外側の駅で地下鉄の路線と接続して直通しているというものがあり、東京や大阪などで例が見られる。
また、同一事業者内ではあるが、東京や大阪のJRでは複数の路線間で直通運転を行っており、都心部をまたいだ一体的な列車運行や、広域的な中距離列車の運行がなされている。代表的な例としては東京の中央・総武緩行線や上野東京ライン、大阪のJR東西線・学研都市線などが挙げられる。
直通運転の歴史は明治時代に遡る。1950年代以前にも奈良電気鉄道(→近鉄京都線)と近畿日本鉄道奈良線・橿原線、および奈良電と京阪神急行電鉄京阪線(→京阪電気鉄道)などの異事業者での直通運転はあったが、本格的に異事業者間で直通運転開始をしたのは高度経済成長期全盛の1960年代に入ってからである。
民鉄と地下鉄との相互乗り入れ黎明期は営団日比谷線のように各駅停車による直通運転を原則としていた。地下鉄に民鉄の優等列車が定期列車で初めて乗り入れたのは京成電鉄が1964年10月1日ダイヤ改正で都営地下鉄浅草線に通勤準急(現在廃止)を乗り入れさせたのが最初である。
ただし、かつては同一会社の路線が別会社に分割されて新たに直通運転となった例や、これとは逆に、かつては別会社同士の直通運転だったものが、同一会社の路線となり直通運転でなくなった例も存在する。この他にも、一旦は直通運転を廃止したものの、運営形態の変更により営業上および書類上は再び直通運転となった例もあり また、車両の譲渡などの理由により、それまで片乗り入れだったものが相互乗り入れに変更された例もある。
日本において、定期列車で行われている事業者間の直通運転の実施路線を示す。
地下鉄が関係するものについては後述
地下鉄が関係するものについては後述
アメリカ合衆国では、ユニオン・ステーション(共同使用駅)が線路使用権が設定されている例のひとつである。ユニオン・ステーションはたいていの場合、入換専業鉄道が保有しており、線路使用権も入換専業鉄道や、入換専業鉄道に出資している鉄道が使用する。
アメリカ合衆国においては、線路使用権の契約は陸上交通委員会に登録されており、公文書として閲覧できる。
近来の韓国の鉄道界では「直通」という用語の曖昧さを回避するために、日本での「直通運転」(직통운전)に相当することは「直結運行」(직결운행)または「直結運転」(직결운전)と、「急行」のことは「急行」(급행)または「急行運転」(급행운전)といっている。
中国の鉄道(国鉄)における旅客輸送は長距離輸送が中心であるため、線路間の直通運転は日常茶飯事である。さらに高速鉄道網も形成されており、高速鉄道同士、あるいは高速鉄道と在来線との間での直通運転も多くある。
一方、中国では日本における国電のような都市近郊電車網が皆無のため、国鉄 - 地下鉄の直通運転は全くない。一部地下鉄の線路と国鉄線路は物理上つながっているが、直通列車は設定されていない。
各会社同士が緊密に協力しないため、地下鉄と国鉄の直通列車を設定していない。 | [
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"text": "同一路線内であっても、通常乗り換えが必要な区間を通して運転することを指して使われる例もある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "日本においては、ほとんどの鉄道事業者が施設・車両の保有と列車の運行の両方を担っていることから、事業者間の直通運転で用いられる車両を保有する事業者の違いを区別して表現することがあり、相互の事業者の車両を用いるものを相互乗り入れ(相互直通運転、双方向直通運転)、片方の事業者の車両が一方的に他方の事業者の路線へ乗り入れて運行するもの、自社の路線の車両は乗り入れないが、他社の車両が自社の路線に乗り入れることを片乗り入れ(片方向直通運転、一方向直通運転)という。また、3事業者以上の鉄道事業者が直通運転を実施するものの、例えば事業者A・事業者B・事業者Cの3事業者による直通運転で、事業者Aと事業者Cの所有車両を使用せずに事業者Bの所有車両のみの乗り入れをする場合は、事業者Aと事業者C間では相互乗り入れや片乗り入れにはならないことから、この場合は変則乗り入れ(変則直通運転、変則的直通運転)とも称す。なお、3事業者以上の鉄道事業者が直通運転に絡む場合は、相互乗り入れと片乗り入れ、また場合によっては変則乗り入れとを組み合わせる事例もあり、日本の首都圏での実施例を挙げると、京成電鉄では都営地下鉄浅草線や京急、芝山鉄道および北総鉄道との間では相互乗り入れの形態であるが、新京成電鉄とは片乗り入れとなっている。また、相鉄ではJR東日本と東急との間では相互乗り入れであるが、都営地下鉄三田線や東京メトロ南北線・副都心線および埼玉高速鉄道とは、当面の間は自社車両のみの片乗り入れとなっている。また、東武東上本線との直通運転を実施するが、相鉄と東武との間では両者車両の相互および東京メトロの車両による直通は実施されず、その間にある東急の車両のみが両路線間を跨って運転する変則乗り入れの状態である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "例として2013年3月16日に開始された東急東横線・東京メトロ副都心線の直通運転を挙げる。この直通運転では、従前より行われていた直通運転とあわせ、横浜高速鉄道みなとみらい線・東武東上線・西武有楽町線・西武池袋線の各線が結ばれた。東武東上線沿線の川越市を訪れた観光客は630万人を超え、これは川越を舞台にしたNHKの連続テレビ小説「つばさ」が放送された2009年を上回る過去最高のものである。川越市の観光課によると、2013年4月から12月は神奈川県からの観光客が全体の約13%を占め、前年比で約6ポイント増えたという。一方で横浜市への観光客も増加し、横浜高速鉄道によると、2013年4月から2014年2月までのみなとみらい線内の6駅の利用者数は前年比で約9.4%増加の約6370万人となり、沿線に大型商業施設を抱えるみなとみらい駅は約20%、元町・中華街駅は約7.6%増加した。みなとみらい線沿線のホテル宿泊者や横浜駅周辺の百貨店利用者も増加した。これに加え、沿線の私立学校の受験者の増加や、比較的割安だった東上線沿線の不動産価格の上昇も伴い、埼玉西部や神奈川で沿線の商業面にプラスの効果を生み出した。",
"title": "効果"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "直通運転にあたっては、単に線路を接続させるだけでなく、地上設備や車両などの規格の統一や、運転業務・営業の取り扱いにおける事業者間の取り決めが必要となる。",
"title": "直通運転の要件"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "直通運転にあたっては、実施する両路線の軌間や電化方式などの規格を揃えるのが通常である。しかし、現に営業している路線においてこれらを変更するには多大なコストがかかるため、車両の側で複数の方式に対応できるようにすることで、地上設備の大規模な改修を避ける例も多く見られる。",
"title": "直通運転の要件"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "直通運転を実施する路線の軌間が異なる場合は、軌間をどちらか一方に合わせて改軌する(京成電鉄など)か、両方の車両が走行できるように三線軌化(箱根登山線など)が行われる。車両側で対応する例としては、スペイン・フランス国境のタルゴのように軌間可変車両を導入したり、中国とロシア・モンゴルの国境のように台車の交換により直通を実施するものがある。この場合、接続部にはそのための地上設備が設けられる。",
"title": "直通運転の要件"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "電化方式が異なる場合には、電化方式を一方に合わせて変更するか、複数の異なる電化方式でも走行できる設備を備えた車両(複電圧車や交流直流両用車両等)を導入して対応する。また、非電化区間へは電車はそのままでは乗り入れられないが、電車を機関車で牽引することによって直通運転を実施する例がある。この場合、車内照明や空調等のサービス電源をまかなうため、発電機の搭載や電源車の連結が行われる。",
"title": "直通運転の要件"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "また、直通運転する区間では案内表示の交換・新設がなされるほか、直通路線間の接続駅では、線路配線や信号設備の変更、ホームの新設などが行われる。直通運転により乗り入れてくる車両の規格に対応させるために路線全体の地上設備(直々セクションの設置など)を改修する場合もある。運用の変更に伴い車両基地の改修・新設・移転などを実施する場合もある。",
"title": "直通運転の要件"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "直通運転に使用される車両は、乗り入れ先路線の設備や運行形態に対応したものが必要である。具体的には、車両限界の要請による車両の大きさや、扉の数や位置、加減速度や最高速度など車両の性能などが挙げられるほか、軌間や電化方式の違いを車両側で対応するための装置などもある。また、当該の事業者間の取り決めにより、車両の操作方法 など、これら以外のさまざまな点についても一定の定めを設ける。",
"title": "直通運転の要件"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "しかし、車両規格については相手の路線へ乗り入れられることが最低限の条件であって、完全な統一が必須というわけではなく、異なる車両規格で相互乗り入れを行うこともあり、日本では阪神電気鉄道と近畿日本鉄道との間、福井鉄道とえちぜん鉄道との間、他路線を介して乗り入れする例としては東京急行電鉄(東急電鉄)東横線と東京メトロ日比谷線を介して東武鉄道伊勢崎線との間(東急東横線は当時18m級車両、東武伊勢崎線は20m級車両での運行、東横線の20m級車両は1969年の東急8000系が最初)での事例が挙げられる。ただし、東横線と日比谷線との直通運転は2013年3月15日を以て終了している。",
"title": "直通運転の要件"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "また、信号方式や保安装置(ATS・ATC等)、列車無線の通信方式などが異なる場合、すべての事業者に対応できるよう同じ機能を異なる方式で複数搭載する必要が発生する。場合によっては、これらの設備を直通事業者間で統一した上で直通運転を行うこともある。",
"title": "直通運転の要件"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "非常時の救援に備え、連結器も各者で共通化することが理想ではあるが、困難な場合は異なる連結器同士をつなぐための中間連結器を車両側および地上側に常備するが、あるいは専用の牽引用車両を用意することもある。",
"title": "直通運転の要件"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "なお、一部の車両のみを直通運転に対応させ、残りの車両は直通運転させず自社線内のみを運行させるという方法も採られている。",
"title": "直通運転の要件"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "直通運転においては、乗務員や駅員などの係員の業務の取り扱いも定める必要がある。",
"title": "直通運転の要件"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "乗務員(運転士・車掌等)の列車への乗務は大きく2つの方法に分けられ、具体的には、それぞれの事業者の乗務員が自事業者の管轄する区間のみを乗務し境界駅で交代する方式と、それぞれの事業者の乗務員が自事業者の車両に乗務し、相手方の路線まで通して運行する方式とである。前者の方式では、各乗務員が相手の事業者の車両の操作に習熟することと、境界駅での乗務の引き継ぎの方式を定めることとが必要となる。後者の方式では、各乗務員が相手の事業者の区間の路線の特徴や取り扱い方式などに習熟することが必要となる。日本においては、両方の方式が用いられてきたが、後者の方式をとった路線において阪急神戸線六甲駅列車衝突事故および信楽高原鐵道列車衝突事故といった重大事故が発生したことから、多くの路線において前者の方式へ切り替えられた。境界駅はそのまま通り越して、相手方の駅で交代する方式もある。阪神なんば線と近鉄奈良線(阪神単独駅の桜川駅で交代)や、北陸新幹線(JR東日本単独駅の長野駅で交代)などが挙げられる。",
"title": "直通運転の要件"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また、運転指令においては直通事業者同士で緊密な連携が必要となるほか、境界駅での駅業務の管轄、各駅での連絡乗車券類の発売、乗り入れ先での拾得物取扱いなどについても定められる。",
"title": "直通運転の要件"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "直通運転では、複数の事業者(会社)がそれぞれの区間を互いの車両によって運行するため、何らかの方法で経費の精算または相殺を行う必要がある。日本においては、ほとんどの場合線路などの施設の保有・車両の保有と列車の運行のすべてを区間ごとに一つの事業者が担う形態で運営されていることから、各事業者が直通相手の事業者に車両を貸し出して運行するという形を取っており、この際に車両使用料を収受することになる。実際には、双方の支払うべき車両使用料が同じになるよう調整し、支払いを相殺することがよく行われる。このため、時として相手方の路線内だけを往復する運用や運用の持ち替えが見られる。かつては走行キロの貸し借りで精算をしていたが、税務上物々交換は適切でないとのことで、現在は1車1キロ走行あたりの車両使用料を算出するようになり、毎月の走行距離の車両使用料に消費税額を加えたものを相手会社に支払うことで、会社間で料金のやり取りをしている。",
"title": "車両使用料・線路使用料"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "一方、施設を保有している会社と車両を保有し列車を運行する会社が異なる場合には、運行会社が保有会社に対して線路使用料を支払う形になる。",
"title": "車両使用料・線路使用料"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "日本国外においては、列車を運行する会社が他社の鉄道路線を走行する契約を線路使用権(せんろしようけん)ということがある。この契約では、前者が後者のどの区間で運行し、営業を行うかが子細に定められる。前者は後者の路線を走行するが、貨客を問わず営業はしない契約形態もあり、それをオーバーヘッド・トラッケージ・ライト (Overhead trackage rights) またはインシデンシャル・トラッケージ・ライト (Incidental trackage rights) という。時には、後者は自社での運行を取りやめ、前者の列車のみが運行されることがある。これは、路線の一部をリースさせているのと同義となる。",
"title": "車両使用料・線路使用料"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "線路使用権は、必要に応じて一時的な契約であったり、長期に及ぶ場合もある。一時的に線路使用権を設定するときの例としては、災害により自社路線が被災した場合に、被災していない平行他社路線を使用して列車を運行する、というものがある。長期契約の例としては、他社路線を使用したほうが利益が高くなる場合や、他社路線を使用すると短絡できる場合がある。",
"title": "車両使用料・線路使用料"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "日本における直通運転は、大都市の地下鉄が郊外への私鉄路線と直通運転するものや、JR・国鉄から経営分離された第三セクターがJRと直通運転するものなどが代表的である。大都市においては、運輸大臣の諮問機関である運輸政策審議会(現在の国土交通大臣の諮問機関交通政策審議会に相当)の答申により、路線建設時には直通運転を前提として計画がなされる。",
"title": "日本における直通運転"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "日本において特徴的な直通運転の形態としては、都心部にターミナル駅を持つ私鉄と地下鉄とが直通する際に、ターミナル駅そのものではなく、数駅郊外側の駅で地下鉄の路線と接続して直通しているというものがあり、東京や大阪などで例が見られる。",
"title": "日本における直通運転"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "また、同一事業者内ではあるが、東京や大阪のJRでは複数の路線間で直通運転を行っており、都心部をまたいだ一体的な列車運行や、広域的な中距離列車の運行がなされている。代表的な例としては東京の中央・総武緩行線や上野東京ライン、大阪のJR東西線・学研都市線などが挙げられる。",
"title": "日本における直通運転"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "直通運転の歴史は明治時代に遡る。1950年代以前にも奈良電気鉄道(→近鉄京都線)と近畿日本鉄道奈良線・橿原線、および奈良電と京阪神急行電鉄京阪線(→京阪電気鉄道)などの異事業者での直通運転はあったが、本格的に異事業者間で直通運転開始をしたのは高度経済成長期全盛の1960年代に入ってからである。",
"title": "日本における直通運転"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "民鉄と地下鉄との相互乗り入れ黎明期は営団日比谷線のように各駅停車による直通運転を原則としていた。地下鉄に民鉄の優等列車が定期列車で初めて乗り入れたのは京成電鉄が1964年10月1日ダイヤ改正で都営地下鉄浅草線に通勤準急(現在廃止)を乗り入れさせたのが最初である。",
"title": "日本における直通運転"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ただし、かつては同一会社の路線が別会社に分割されて新たに直通運転となった例や、これとは逆に、かつては別会社同士の直通運転だったものが、同一会社の路線となり直通運転でなくなった例も存在する。この他にも、一旦は直通運転を廃止したものの、運営形態の変更により営業上および書類上は再び直通運転となった例もあり また、車両の譲渡などの理由により、それまで片乗り入れだったものが相互乗り入れに変更された例もある。",
"title": "日本における直通運転"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "日本において、定期列車で行われている事業者間の直通運転の実施路線を示す。",
"title": "日本における直通運転"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "地下鉄が関係するものについては後述",
"title": "日本における直通運転"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "地下鉄が関係するものについては後述",
"title": "日本における直通運転"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国では、ユニオン・ステーション(共同使用駅)が線路使用権が設定されている例のひとつである。ユニオン・ステーションはたいていの場合、入換専業鉄道が保有しており、線路使用権も入換専業鉄道や、入換専業鉄道に出資している鉄道が使用する。",
"title": "アメリカ合衆国における直通運転"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国においては、線路使用権の契約は陸上交通委員会に登録されており、公文書として閲覧できる。",
"title": "アメリカ合衆国における直通運転"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "近来の韓国の鉄道界では「直通」という用語の曖昧さを回避するために、日本での「直通運転」(직통운전)に相当することは「直結運行」(직결운행)または「直結運転」(직결운전)と、「急行」のことは「急行」(급행)または「急行運転」(급행운전)といっている。",
"title": "韓国における直通運転"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "中国の鉄道(国鉄)における旅客輸送は長距離輸送が中心であるため、線路間の直通運転は日常茶飯事である。さらに高速鉄道網も形成されており、高速鉄道同士、あるいは高速鉄道と在来線との間での直通運転も多くある。",
"title": "中国における直通運転"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "一方、中国では日本における国電のような都市近郊電車網が皆無のため、国鉄 - 地下鉄の直通運転は全くない。一部地下鉄の線路と国鉄線路は物理上つながっているが、直通列車は設定されていない。",
"title": "中国における直通運転"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "各会社同士が緊密に協力しないため、地下鉄と国鉄の直通列車を設定していない。",
"title": "中国における直通運転"
}
] | 鉄道における直通運転(ちょくつううんてん)とは、複数の路線・区間や鉄道事業者にまたがって旅客列車を運転することである。列車の乗り入れと表現されることもある。英語ではtrackage rightsまたはthrough serviceと表現する。 | {{Otheruses|列車の乗り入れ|新幹線と在来線間の直通運転|新在直通運転}}
{{出典の明記|date=2012年8月}}
[[ファイル:JRE-EC253-Tobu-100.jpg|thumb|280px|right|JR東日本の路線へ直通運転する東武鉄道「[[東武100系電車|100系特急電車スペーシア]]」(右)]]
[[ファイル:Sanyo-5000_Kintetsu-9020_Hanshin-8000_hanshin-amagasaki.JPG|thumb|280px|right|[[阪神電気鉄道]][[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]での3社の鉄道車両が並ぶ光景。左から[[山陽電気鉄道5000系電車|山陽5000系]]、[[近鉄9020系電車|近鉄9020系]]、[[阪神8000系電車|阪神8000系]]が並んでいる。]]
[[鉄道]]における'''直通運転'''(ちょくつううんてん)とは、複数の路線・区間や[[鉄道事業者]]にまたがって[[旅客列車]]を[[運転]]することである。列車の'''乗り入れ'''と表現されることもある。英語では'''trackage rights'''または'''{{Interlang|en|through service}}'''と表現する。
== 概要 ==
日本では、大都市の[[地下鉄]]が郊外への[[私鉄]]路線と直通運転するものや、[[JR]]・[[日本国有鉄道|国鉄]]から経営分離された[[第三セクター鉄道|第三セクター]]がJRと直通運転するものなどが代表的である。その形態は一様でなく、事実上一体的に運行されているが運営事業者が異なるために直通運転と表現されるもの<ref group="注">例:[[東京メトロ千代田線]]と[[常磐緩行線|JR常磐線各駅停車]]等</ref> から、[[特別急行列車|特急]]などの限られた列車のみが乗り入れているものまでさまざまである。
ヨーロッパやアジアにおいては複数の国にまたがって[[国際列車]]が運行されている。一方で、日本で見られるような地下鉄と郊外鉄道との直通運転は行われていない都市も多く、あるいは地下鉄と郊外鉄道が一体的に運営されている例もある。
[[貨物列車]]に対して使われることもあるが、貨物列車は通常複数の路線にまたがって広域的に運行されることから、旅客列車の場合と比較すると一般的な用法ではない。なお、1960年代までの[[車扱貨物]]による鉄道貨物輸送が主流の時代、私鉄が所有する貨車が国鉄の貨物列車に連結されて、国鉄線上を運行したケースも多く、「直通貨車」と呼ばれた<ref>{{Cite web|和書|url=https://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=find-c&=&=&=&=&=&=&ccl_term=001%20%3D%205144441&adjacent=N&x=0&y=0&con_lng=jpn&pds_handle=&pds_handle= |title=連絡運輸の直通貨車について |accessdate=2016-09-15|author=永井卯三郎(日本国有鉄道輸送局)|publisher=国立国会図書館 蔵書検索申込システム}}</ref>。→[[貨車#所有者別の分類]]を参照
同一路線内であっても、通常乗り換えが必要な区間を通して運転することを指して使われる例もある。
日本においては、ほとんどの鉄道事業者が施設・車両の保有と列車の運行の両方を担っていることから、事業者間の直通運転で用いられる車両を保有する事業者の違いを区別して表現することがあり、相互の事業者の車両を用いるものを'''相互乗り入れ'''('''相互直通運転'''、'''双方向直通運転''')、片方の事業者の車両が一方的に他方の事業者の路線へ乗り入れて運行するもの、自社の路線の車両は乗り入れないが、他社の車両が自社の路線に乗り入れることを'''片乗り入れ'''('''片方向直通運転'''、'''一方向直通運転''')という。また、3事業者以上の鉄道事業者が直通運転を実施するものの、例えば事業者A・事業者B・事業者Cの3事業者による直通運転で、事業者Aと事業者Cの所有車両を使用せずに事業者Bの所有車両のみの乗り入れをする場合は、事業者Aと事業者C間では相互乗り入れや片乗り入れにはならないことから、この場合は'''変則乗り入れ'''('''変則直通運転'''、'''変則的直通運転''')とも称す。なお、3事業者以上の鉄道事業者が直通運転に絡む場合は、相互乗り入れと片乗り入れ、また場合によっては変則乗り入れとを組み合わせる事例もあり、日本の首都圏での実施例を挙げると、京成電鉄では都営地下鉄浅草線や京急、芝山鉄道および北総鉄道との間では相互乗り入れの形態であるが、新京成電鉄とは片乗り入れとなっている。また、相鉄ではJR東日本と東急との間では相互乗り入れであるが、都営地下鉄三田線や東京メトロ南北線・副都心線および埼玉高速鉄道とは、当面の間は自社車両のみの片乗り入れとなっている。また、東武東上本線との直通運転を実施するが、相鉄と東武との間では両者車両の相互および東京メトロの車両による直通は実施されず、その間にある東急の車両のみが両路線間を跨って運転する変則乗り入れの状態である。
== 効果 ==
例として[[2013年]][[3月16日]]に開始された[[東急東横線]]・[[東京メトロ副都心線]]の直通運転を挙げる。この直通運転では、従前より行われていた直通運転とあわせ、[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]・[[東武東上本線|東武東上線]]・[[西武有楽町線]]・[[西武池袋線]]の各線が結ばれた。東武東上線沿線の[[川越市]]を訪れた観光客は630万人を超え、これは川越を舞台にした[[日本放送協会|NHK]]の[[連続テレビ小説]]「[[つばさ (2009年のテレビドラマ)|つばさ]]」が放送された[[2009年]]を上回る過去最高のものである。川越市の観光課によると、2013年4月から12月は神奈川県からの観光客が全体の約13%を占め、前年比で約6ポイント増えたという。一方で[[横浜市]]への観光客も増加し、横浜高速鉄道によると、2013年4月から[[2014年]]2月までのみなとみらい線内の6駅の利用者数は前年比で約9.4%増加の約6370万人となり、沿線に大型商業施設を抱える[[みなとみらい駅]]は約20%、[[元町・中華街駅]]は約7.6%増加した。みなとみらい線沿線のホテル宿泊者や[[横浜駅]]周辺の百貨店利用者も増加した。これに加え、沿線の私立学校の受験者の増加や、比較的割安だった東上線沿線の不動産価格の上昇も伴い、埼玉西部や神奈川で沿線の商業面にプラスの効果を生み出した<ref name="asahi20140314">「川越=横浜 直通効果 東急東横線=副都心線 運転1年」[[朝日新聞]]2014年3月14日東京版夕刊1面</ref>。
== 直通運転の要件 ==
直通運転にあたっては、単に線路を接続させるだけでなく、地上設備や車両などの規格の統一や、運転業務・営業の取り扱いにおける事業者間の取り決めが必要となる。
=== 地上設備 ===
直通運転にあたっては、実施する両路線の[[軌間]]や[[鉄道の電化|電化方式]]などの規格を揃えるのが通常である。しかし、現に営業している路線においてこれらを変更するには多大なコストがかかるため、車両の側で複数の方式に対応できるようにすることで、地上設備の大規模な改修を避ける例も多く見られる。
直通運転を実施する路線の軌間が異なる場合は、軌間をどちらか一方に合わせて[[改軌]]する(京成電鉄など)か、両方の車両が走行できるように[[三線軌]]化([[w:ja:箱根登山鉄道|箱根登山線]]など)が行われる。車両側で対応する例としては、[[スペイン]]・[[フランス]]国境の[[タルゴ]]のように[[軌間可変電車|軌間可変車両]]を導入したり、[[中華人民共和国|中国]]と[[ロシア]]・[[モンゴル国|モンゴル]]の国境のように[[鉄道車両の台車|台車]]の交換により直通を実施するものがある。この場合、接続部にはそのための地上設備が設けられる。
電化方式が異なる場合には、電化方式を一方に合わせて変更するか、複数の異なる電化方式でも走行できる設備を備えた車両([[複電圧車]]や[[交直流電車|交流直流両用車両等]])を導入して対応する。また、非電化区間へは電車はそのままでは乗り入れられないが、電車を機関車で牽引することによって直通運転を実施する例がある。この場合、車内照明や空調等のサービス電源をまかなうため、[[発電機]]の搭載や[[電源車]]の連結が行われる。
また、直通運転する区間では案内表示の交換・新設がなされるほか、直通路線間の接続駅では、線路配線や信号設備の変更、ホームの新設などが行われる。直通運転により乗り入れてくる車両の規格に対応させるために路線全体の地上設備(直々セクションの設置など)を改修する場合もある。運用の変更に伴い[[車両基地]]の改修・新設・移転などを実施する場合もある。
=== 車両 ===
直通運転に使用される車両は、乗り入れ先路線の設備や運行形態に対応したものが必要である。具体的には、[[車両限界]]の要請による車両の大きさや、扉の数や位置、加減速度や最高速度など車両の性能などが挙げられるほか、軌間や電化方式の違いを車両側で対応するための装置などもある。また、当該の事業者間の取り決めにより、車両の操作方法<ref group="注">一例として、[[マスター・コントローラー|マスコン]]の形状の統一化がある。[[マスター・コントローラー#直通運転とマスコン形状の統一]]も参照。</ref> など、これら以外のさまざまな点についても一定の定めを設ける<ref group="注">細かいところでは、[[名鉄100系電車]]の乗務員室の扉のヒンジを、[[名古屋市営地下鉄]]の車両に合わせて車端(先頭)側にした例がある([[名鉄3500系電車 (2代)|3500系]]以前の名鉄の車両は、閑散線区用の[[名鉄キハ10形気動車|レールバス]]を除いて、[[スーサイドドア|客室側に乗務員室の扉のヒンジがあった]])。また「[[名鉄特急#高山本線直通列車|北アルプス]]」用の車両([[名鉄キハ8000系気動車|キハ8000]]・[[名鉄キハ8500系気動車|キハ8500]])も、[[日本国有鉄道|国鉄]]([[東海旅客鉄道|JR]])の車両に合わせて、車端(先頭)側に乗務員室の扉のヒンジがあった。</ref>。
しかし、車両規格については相手の路線へ乗り入れられることが最低限の条件であって、完全な統一が必須というわけではなく、異なる車両規格で相互乗り入れを行うこともあり、日本では阪神電気鉄道と近畿日本鉄道との間、福井鉄道とえちぜん鉄道との間、他路線を介して乗り入れする例としては東京急行電鉄(東急電鉄)東横線と東京メトロ日比谷線を介して東武鉄道伊勢崎線との間(東急東横線は当時18m級車両、東武伊勢崎線は20m級車両での運行、東横線の20m級車両は1969年の東急8000系が最初)での事例が挙げられる。ただし、東横線と日比谷線との直通運転は2013年3月15日を以て終了している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/130122.pdf |title=3月16日(土)に東横線のダイヤを改正します |access-date=2022年10月2日 |publisher=東急}}</ref>。
また、[[信号保安|信号]]方式や[[自動列車保安装置|保安装置]]([[自動列車停止装置|ATS]]・[[自動列車制御装置|ATC]]等)、[[列車無線]]の通信方式などが異なる場合、すべての事業者に対応できるよう同じ機能を異なる方式で複数搭載する必要が発生する。場合によっては、これらの設備を直通事業者間で統一した上で直通運転を行うこともある<ref group="注">都営地下鉄1号線(現[[都営地下鉄浅草線|浅草線]])と[[京成電鉄]]・[[京浜急行電鉄]]との直通運転に際しては、保安装置は1号型ATS、列車無線は同規格の誘導無線に統一された。その後に追加された直通区間(現[[北総鉄道]]・[[京成成田空港線]])も同様。また保安装置の更新時も同一規格の車上装置を用いることが出来るC-ATSが採用された</ref>。
非常時の救援に備え、[[連結器]]も各者で共通化することが理想ではあるが、困難な場合は異なる連結器同士をつなぐための中間連結器を車両側および地上側に常備するが、あるいは専用の牽引用車両を用意することもある。
なお、一部の車両のみを直通運転に対応させ、残りの車両は直通運転させず自社線内のみを運行させるという方法も採られている<ref group="注">例:[[小田急電鉄]]<sub>等</sub></ref>。
=== 業務の取り扱い ===
直通運転においては、乗務員や駅員などの係員の業務の取り扱いも定める必要がある。
乗務員([[運転士]]・[[車掌]]等)の列車への乗務は大きく2つの方法に分けられ、具体的には、それぞれの事業者の乗務員が自事業者の管轄する区間のみを乗務し[[境界駅]]で[[乗務員交代|交代]]する方式と、それぞれの事業者の乗務員が自事業者の車両に乗務し、相手方の路線まで通して運行する方式とである。前者の方式では、各乗務員が相手の事業者の車両の操作に習熟することと、境界駅での乗務の引き継ぎの方式を定めることとが必要となる。後者の方式では、各乗務員が相手の事業者の区間の路線の特徴や取り扱い方式などに習熟することが必要となる。日本においては、両方の方式が用いられてきたが、後者の方式をとった路線において[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#阪急神戸線六甲駅列車衝突事故|阪急神戸線六甲駅列車衝突事故]]および[[信楽高原鐵道列車衝突事故]]といった重大事故が発生したことから、多くの路線において前者の方式へ切り替えられた。境界駅はそのまま通り越して、相手方の駅で交代する方式もある。[[阪神なんば線]]と[[近鉄奈良線]](阪神単独駅の[[桜川駅 (大阪府)|桜川駅]]で交代)や、[[北陸新幹線]](JR東日本単独駅の[[長野駅]]で交代)などが挙げられる。
また、[[運転指令]]においては直通事業者同士で緊密な連携が必要となるほか、境界駅での駅業務の管轄、各駅での[[連絡運輸|連絡乗車券]]類の発売、乗り入れ先での[[拾得物]]取扱いなどについても定められる<ref group="注">例えば、[[東京メトロ南北線]]全線開業時([[2000年]])時点の各種契約書については、次の文献で確認できる。- {{Cite web|和書|url=https://metroarchive.jp/ebook_nanbokusen/index_h5.html|title=東京地下鉄道 南北線建設史|publisher=[[帝都高速度交通営団]](公益財団法人メトロ文化財団・メトロアーカイブアルバム)|date=2002-03-31|accessdate=2020-07-05|pages=279 - 314}}</ref>。
== 車両使用料・線路使用料 ==
{{See also|車両使用料|線路使用料}}
直通運転では、複数の事業者(会社)がそれぞれの区間を互いの車両によって運行するため、何らかの方法で経費の精算または相殺を行う必要がある。日本においては、ほとんどの場合線路などの施設の保有・車両の保有と列車の運行のすべてを区間ごとに一つの事業者が担う形態で運営されていることから、各事業者が直通相手の事業者に車両を貸し出して運行するという形を取っており、この際に車両使用料を収受することになる。実際には、双方の支払うべき車両使用料が同じになるよう調整し、支払いを相殺することがよく行われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1603/18/news041_3.html|title=北海道新幹線、JR北海道のH5系電車が2本しか稼働しないワケ|accessdate=2016-06-13|author=杉山淳一|date=2016-03-18|publisher=[[ITmedia]] ビジネスオンライン}}</ref>。このため、時として相手方の路線内だけを往復する運用や運用の持ち替えが見られる。かつては走行キロの貸し借りで精算をしていたが、税務上物々交換は適切でないとのことで、現在は1車1キロ走行あたりの車両使用料を算出するようになり、毎月の走行距離の車両使用料に消費税額を加えたものを相手会社に支払うことで、会社間で料金のやり取りをしている<ref>『かや鉄BOOK3東急電鉄 車輌と技術の系譜』荻原俊夫著、かや書房、2019年9月10日、108頁。ISBN 978-4-906124-85-5。</ref>。
一方、施設を保有している会社と車両を保有し列車を運行する会社が異なる場合には、運行会社が保有会社に対して線路使用料を支払う形になる。
=== 線路使用権 ===
日本国外においては、列車を運行する会社が他社の鉄道路線を走行する契約を'''線路使用権'''(せんろしようけん)ということがある。この契約では、前者が後者のどの区間で運行し、営業を行うかが子細に定められる。前者は後者の路線を走行するが、貨客を問わず営業はしない契約形態もあり、それを'''オーバーヘッド・トラッケージ・ライト''' (Overhead trackage rights) または'''インシデンシャル・トラッケージ・ライト''' (Incidental trackage rights) という。時には、後者は自社での運行を取りやめ、前者の列車のみが運行されることがある。これは、路線の一部をリースさせているのと同義となる。
線路使用権は、必要に応じて一時的な契約であったり、長期に及ぶ場合もある。一時的に線路使用権を設定するときの例としては、災害により自社路線が被災した場合に、被災していない平行他社路線を使用して列車を運行する、というものがある。長期契約の例としては、他社路線を使用したほうが利益が高くなる場合や、他社路線を使用すると短絡できる場合がある。
== 日本における直通運転 ==
日本における直通運転は、大都市の[[地下鉄]]が郊外への[[私鉄]]路線と直通運転するものや、[[JR]]・[[日本国有鉄道|国鉄]]から経営分離された[[第三セクター鉄道|第三セクター]]がJRと直通運転するものなどが代表的である。大都市においては、[[運輸大臣]]の諮問機関である[[運輸政策審議会]](現在の[[国土交通大臣]]の諮問機関[[交通政策審議会]]に相当)の答申により、路線建設時には直通運転を前提として計画がなされる。
日本において特徴的な直通運転の形態としては、都心部に[[ターミナル駅]]を持つ私鉄と地下鉄とが直通する際に、ターミナル駅そのものではなく、数駅郊外側の駅で地下鉄の路線と接続して直通しているというものがあり、東京や大阪などで例が見られる。
また、同一事業者内ではあるが、東京や大阪のJRでは複数の路線間で直通運転を行っており、都心部をまたいだ一体的な列車運行や、広域的な中距離列車の運行がなされている。代表的な例としては東京の[[中央・総武緩行線]]や[[上野東京ライン]]、大阪の[[JR東西線]]・[[片町線|学研都市線]]などが挙げられる。
=== 日本における直通運転の歴史 ===
直通運転の歴史は明治時代に遡る。[[1950年代]]以前にも[[奈良電気鉄道]](→[[近鉄京都線]])と[[近畿日本鉄道]][[近鉄奈良線|奈良線]]・[[近鉄橿原線|橿原線]]、および奈良電と[[京阪本線|京阪神急行電鉄京阪線]](→[[京阪電気鉄道]])などの異事業者での直通運転はあったが、本格的に異事業者間で直通運転開始をしたのは[[高度経済成長]]期全盛の[[1960年代]]に入ってからである。
民鉄と地下鉄との相互乗り入れ黎明期は営団地下鉄[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]のように各駅停車による直通運転を原則としていた。地下鉄に民鉄の優等列車が定期列車で初めて乗り入れたのは[[京成電鉄]]が[[1964年]][[10月1日]]ダイヤ改正で[[都営地下鉄浅草線]]に通勤準急(現在廃止)を乗り入れさせたのが最初である<ref>鉄道ピクトリアル 2007年3月臨時増刊号「京成電鉄」[[藤井浩二]]「京成の列車ダイヤに取り組んだ日々」 鉄道図書刊行会。</ref>。
ただし、かつては同一会社の路線が別会社に分割されて新たに直通運転となった例や、これとは逆に、かつては別会社同士の直通運転だったものが、同一会社の路線となり直通運転でなくなった例も存在する<ref group="注">前者は国鉄が分割民営化によって別会社となった例や、新幹線の開業により[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]から経営分離された[[しなの鉄道]]・[[IGRいわて銀河鉄道]]・[[青い森鉄道]]といった[[並行在来線]]の例がある。後者は[[千葉急行電鉄]][[京成千原線|千葉急行線]]が[[京成電鉄]]に、[[大阪港トランスポートシステム]](OTS)が当時の[[大阪市交通局]](現在の[[大阪市高速電気軌道]])に編入されたり、[[北神急行電鉄]]が[[神戸市交通局]]に、JR山田線の[[三陸鉄道リアス線]]に移管されたりし解消された例がある。</ref>。この他にも、一旦は直通運転を廃止したものの、運営形態の変更により営業上および書類上は再び直通運転となった例もあり<ref group="注">神戸高速鉄道の運営形態変更により山陽電気鉄道→阪急電鉄への直通運転の事実上の復活の例がある。</ref> また、車両の譲渡などの理由により、それまで片乗り入れだったものが相互乗り入れに変更された例もある<ref group="注">2014年8月1日より阪急6000系電車の1編成が能勢電鉄へ譲渡されたことによるものなど</ref>。
==== 日本における直通運転の年表 ====
* [[1904年]]([[明治]]37年)[[4月5日]]:[[東武亀戸線]]が開業。[[亀戸駅]]を介して総武鉄道線(現・JR[[総武本線]])両国橋駅(現・[[両国駅]])まで直通運転を開始。
* [[1910年]](明治43年)[[3月27日]]:東武亀戸線 - 総武本線の直通運転を廃止。
* [[1925年]](大正14年)3月11日:[[京浜電鉄]]と[[東京市電]]の相互直通運転を開始。京浜は北品川駅北方より[[都電品川線|市電品川線]]を経由して分岐し(京浜)高輪駅へ、市電は北品川駅へ乗り入れた。
* [[1926年]]([[大正15年]])
** [[4月1日]]:[[愛知電気鉄道]]豊橋線(後の[[名鉄名古屋本線]]・[[名鉄小坂井支線]])が部分開業。[[小坂井駅]]を介して[[豊川鉄道]][[豊川駅 (愛知県)|豊川駅]]まで直通運転を開始。
** [[9月1日]]:[[黒野駅]]を介して[[名鉄谷汲線#歴史|谷汲鉄道]]が[[美濃電気軌道]]北方線(後の[[名鉄揖斐線]])[[忠節駅]]まで直通運転を開始。
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[10月1日]]:[[碧海電気鉄道]](現・[[名鉄西尾線]]西尾以北)が全線開業。[[西尾駅]]を介して愛知電気鉄道西尾線(現・名鉄西尾線西尾以南)[[吉良吉田駅]]まで相互直通運転を開始。
* [[1929年]](昭和4年)[[10月27日]]:参宮急行電鉄本線(現・[[近鉄大阪線]])が部分開業。[[桜井駅 (奈良県)|桜井駅]]を介して大阪電気軌道桜井線と直通運転を開始。
* [[1931年]](昭和6年)[[4月1日]]:[[知多鉄道]](現・[[名鉄河和線]])が部分開業。[[太田川駅]]を介して愛知電気鉄道常滑線[[神宮前駅]]まで直通運転を開始。
* [[1933年]](昭和8年)4月1日:京浜電鉄 - 東京市電の相互直通運転を廃止。京浜電鉄は自社路線を敷設し省線[[品川駅]]に接続した。
* [[1939年]](昭和14年)[[9月16日]]:[[新橋駅]]を介して[[東京地下鉄道]]と[[東京高速鉄道]]の直通運転を開始。地下鉄間で初めての直通運転となったが、後に[[帝都高速度交通営団]]に統合され、営団地下鉄銀座線(現・[[東京メトロ銀座線]])となる。
* [[1945年]](昭和20年)[[12月21日]]:[[丹波橋駅]]を介して[[京阪神急行電鉄|京阪神急行]]京阪線(現・[[京阪本線]]) - [[奈良電気鉄道]]線(現・[[近鉄京都線]])と直通運転を開始。
* [[1954年]](昭和29年)[[12月25日]]:名鉄小坂井支線が廃止され飯田線豊川方面への直通運転廃止。
* [[1960年]](昭和35年)[[12月4日]]:[[都営地下鉄浅草線]]が部分開業。[[押上駅]]を介して[[京成押上線]]・[[京成本線]]と直通運転を開始。地下鉄と郊外の民鉄事業者による初の直通運転となる。
* [[1961年]](昭和36年)[[12月10日]]:[[伊豆急行線]]が全線開業。[[伊東駅]]を介して国鉄伊東線(現・JR[[伊東線]])と直通運転を開始。
* [[1962年]](昭和37年)[[5月31日]]:営団地下鉄日比谷線(現・[[東京メトロ日比谷線]])が[[北千住駅]]まで延伸開業。同駅を介して[[東武伊勢崎線]]と直通運転を開始。
* [[1964年]](昭和39年)[[8月29日]]:営団地下鉄日比谷線が全線開業。[[中目黒駅]]を介して[[東急東横線]]と直通運転を開始。
* [[1966年]](昭和41年)[[4月28日]]:[[中野駅 (東京都)|中野駅]]を介して国鉄[[中央本線]](現・JR[[中央・総武緩行線]]) - 営団地下鉄東西線(現・[[東京メトロ東西線]])と相互直通運転を開始。
* [[1968年]](昭和43年)
** [[4月7日]]
*** 神戸高速鉄道東西線が開業。[[阪急神戸本線]]・[[阪神本線]]・[[山陽電気鉄道本線]]と相互直通運転を開始。
*** 神戸高速鉄道南北線が開業。[[湊川駅]]を介して[[神戸電鉄有馬線]]と相互直通運転を開始。
** [[6月21日]]:[[京急本線]]・[[都営地下鉄浅草線]]が[[泉岳寺駅]]まで延伸開業。同駅を介し相互直通運転を開始。
** [[12月20日]]:京阪本線・宇治線 - 近鉄京都線・奈良線の相互直通運転を廃止。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[4月8日]]:[[西船橋駅]]を介して国鉄総武本線 - 営団地下鉄東西線と相互直通運転を開始。
** [[12月6日]]:[[大阪市営地下鉄]][[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]]が部分開業。[[天神橋筋六丁目駅]]を介して[[阪急千里線]]・[[阪急京都本線]]と相互直通運転を開始。
* [[1970年]](昭和45年)[[2月24日]]:[[北大阪急行電鉄南北線]]が開業。[[江坂駅]]を介して大阪市営地下鉄[[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]と相互直通運転を開始。
* [[1971年]](昭和46年)
** [[4月1日]]:大阪府都市開発泉北高速鉄道線(現・[[泉北高速鉄道]][[泉北高速鉄道線]])が部分開業。[[中百舌鳥駅]]を介して[[南海高野線]]と相互直通運転を開始。
** [[4月20日]]:営団地下鉄千代田線(現・[[東京メトロ千代田線]])が[[綾瀬駅]]まで部分開業。同駅を介して国鉄常磐緩行線(現・JR[[常磐緩行線]])と相互直通運転を開始。
* [[1978年]](昭和53年)
** [[3月31日]]:営団地下鉄千代田線が全線開業。[[代々木上原駅]]を介して[[小田急小田原線]]と相互直通運転を開始(国鉄 - 小田急間の直通列車も営団の車両による変則乗り入れで設定)。
** [[8月1日]]:営団地下鉄半蔵門線(現・[[東京メトロ半蔵門線]])が部分開業。[[渋谷駅]]を介して東急新玉川線(現・[[東急田園都市線]])と相互直通運転を開始。
* [[1979年]](昭和54年)
** [[3月9日]]:[[北総鉄道北総線]]が部分開業。[[北初富駅]]を介して[[新京成電鉄新京成線]]と直通運転を開始。
** [[7月29日]]:名鉄豊田新線(現・[[名鉄豊田線]])が全線開業。[[赤池駅 (愛知県)|赤池駅]]を介して[[名古屋市営地下鉄鶴舞線]]と相互直通運転を開始。
* [[1980年]](昭和55年)[[3月16日]]:[[都営地下鉄新宿線]]が[[新宿駅]]まで延伸開業。同駅を介して[[京王新線]]と相互直通運転を開始。
* [[1983年]](昭和58年)
** [[3月22日]]:福岡市地下鉄1号線(現・[[福岡市地下鉄空港線]])が[[姪浜駅]]まで延伸開業。同駅を介して国鉄筑肥線(現・JR[[筑肥線]])と相互直通運転を開始。
** [[10月1日]]:[[西武有楽町線]]が部分開業。[[小竹向原駅]]を介して営団地下鉄有楽町線(現・[[東京メトロ有楽町線]])と相互直通運転を開始。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:[[鹿島臨海鉄道大洗鹿島線]]が開業。北鹿島駅(現・[[鹿島サッカースタジアム駅]])を介して国鉄[[鹿島線]]と直通運転を開始。
* [[1986年]](昭和61年)
** [[10月1日]]:近鉄東大阪線(現・[[近鉄けいはんな線]])が部分開業。[[長田駅 (大阪府)|長田駅]]を介して大阪市営地下鉄[[Osaka Metro中央線|中央線]]と相互直通運転を開始。
** [[10月9日]]:[[野岩鉄道会津鬼怒川線]]が全線開業。[[新藤原駅]]を介して[[東武鬼怒川線]]と相互直通運転を開始。
* [[1987年]](昭和62年)[[8月25日]]:営団地下鉄有楽町線が[[和光市駅]]まで延伸開業。同駅を介して[[東武東上本線]]と相互直通運転を開始。
* [[1988年]](昭和63年)
** [[4月2日]]:[[北神急行電鉄]][[神戸市営地下鉄北神線|北神線]]が開業。[[新神戸駅]]を介して[[神戸市営地下鉄西神・山手線]]と相互直通運転を開始<ref>[http://www.hokushinkyuko.co.jp/office/nenpu.html 年譜] - 北神急行電鉄</ref>。
** [[8月28日]]:[[竹田駅 (京都府)|竹田駅]]を介して[[近鉄京都線]] - [[京都市営地下鉄烏丸線]]の相互直通運転を開始。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月31日]]:北総鉄道北総線が[[京成高砂駅]]まで延伸開業。同駅を介して[[京成本線]]と方向直通運転を開始(このうち京急本線とは1993年に相互直通運転に変更後、1995年4月に一度片方向直通運転に戻るも同年7月より再度相互直通運転に復帰)。
* [[1992年]](平成4年)
** [[3月26日]]:[[阿佐海岸鉄道阿佐東線]]が開業。[[海部駅]]を介してJR[[牟岐線]]と相互直通運転を開始。
** [[7月8日]]:北総鉄道北総線 - 新京成電鉄新京成線の相互直通運転を終了。
* [[1993年]](平成5年)[[8月12日]]:名古屋市営地下鉄鶴舞線が全線開業。[[上小田井駅]]を介して[[名鉄犬山線]]と相互直通運転を開始。
* [[1994年]](平成6年)[[12月3日]]:[[智頭急行智頭線]]が開業。[[上郡駅]]を介してJR[[山陽本線]]と、[[智頭駅]]を介してJR[[因美線]]と相互直通運転を開始。
* [[1996年]](平成8年)[[4月27日]]:[[東葉高速鉄道東葉高速線]]が開業。西船橋駅を介して営団地下鉄東西線と相互直通運転を開始。
* [[1997年]](平成9年)
** 3月22日:[[北越急行ほくほく線]]が開業。[[六日町駅]]を介してJR[[上越線]]と、[[犀潟駅]]を介してJR[[信越本線]]と相互直通運転を開始。
** [[10月12日]]:[[京都市営地下鉄東西線]]が部分開業。[[御陵駅]]を介して[[京阪京津線]]と直通運転を開始([[京都市交通局50系電車]]は京津線に乗り入れないため、片乗り入れとなる)。
** [[11月17日]]:[[川西能勢口駅]]を介して[[阪急宝塚本線]] - [[能勢電鉄妙見線]]・[[能勢電鉄日生線|日生線]]との直通運転を片乗り入れで開始(2014年8月1日より変則的な相互乗り入れに変更)。
** [[12月18日]]:[[大阪港トランスポートシステム]]テクノポート線とニュートラムテクノポート線の営業を開始。前者は[[大阪港駅]]を介して大阪市営地下鉄中央線と近鉄東大阪線(現・近鉄けいはんな線)と、後者は[[中ふ頭駅]]を介して[[Osaka Metro南港ポートタウン線|ニュートラム南港ポートタウン線]]と直通運転を開始。特に後者は日本では初かつ現在に至るまで唯一となっている新交通システムでの直通運転であった。
* [[2000年]](平成12年)[[9月26日]]:営団地下鉄南北線(現・[[東京メトロ南北線]])・[[都営地下鉄三田線]]が全線開業。[[目黒駅]]を介して[[東急目黒線]]と相互直通運転を開始。
* [[2001年]](平成13年)[[3月28日]]:[[埼玉高速鉄道線]]が開業。[[赤羽岩淵駅]]を介して営団地下鉄南北線と相互直通運転を開始。
* [[2002年]](平成14年)
** [[7月1日]]:[[土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線]]が開業。[[後免駅]]を介してJR[[土讃線]]と相互直通運転を開始。
** 10月27日:[[芝山鉄道線]]が開業。[[東成田駅]]を介して[[京成東成田線]]と相互直通運転を開始。
** [[12月1日]]:[[東京臨海高速鉄道りんかい線]]が全線開業。[[大崎駅]]を介してJR[[埼京線]]と相互直通運転を開始。
* [[2003年]](平成15年)
** [[3月19日]]:営団地下鉄半蔵門線が押上駅まで延伸開業。同駅を介して東武伊勢崎線と相互直通運転を開始。
** 3月27日:[[名古屋市営地下鉄上飯田線]]が開業。[[上飯田駅]]を介して[[名鉄小牧線]]と相互直通運転を開始。
* [[2004年]](平成16年)[[2月1日]]:[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]が開業。[[横浜駅]]を介して東急東横線と相互直通運転を開始。
* [[2005年]](平成17年)7月1日:大阪港トランスポートシステムの運営形態変更により大阪市交通局の路線に組み込まれたため、両事業者間(および近鉄東大阪線)との相互直通運転は消滅。日本唯一の新交通システム路線での相互直通運転も終焉となった。
* [[2006年]](平成18年)
** [[3月18日]]:[[栗橋駅]]を介してJR[[宇都宮線]] - [[東武日光線]]の直通運転を特急列車に限定して開始。
** 12月10日:[[京成津田沼駅]]を介して新京成電鉄新京成線 - [[京成千葉線]]の直通運転を開始。
* [[2007年]](平成19年)3月18日:[[仙台空港鉄道仙台空港線]]が開業。[[名取駅]]を介してJR[[東北本線]]と相互直通運転を開始。
* [[2008年]](平成20年)6月14日:[[東京メトロ副都心線]]が開業。小竹向原駅を介して西武有楽町線経由西武池袋線と、和光市駅を介して東武東上本線と相互直通運転を開始。
* [[2009年]](平成21年)[[3月20日]]:[[阪神なんば線]]が開業。[[大阪難波駅]]を介して[[近鉄難波線]]経由で[[近鉄奈良線]]と相互直通運転を開始。
* [[2010年]](平成22年)
** [[7月17日]]:[[京成成田空港線]](成田スカイアクセス)が開業。京成高砂駅を介して相互直通運転を開始。北総鉄道北総線は全線が同線との共用区間となるが、旅客案内上は[[印旛日本医大駅]]を介して北総鉄道北総線区間と京成成田空港線との区間に分けられる。
** 10月1日:[[神戸高速鉄道]]の運営形態変更により阪急・阪神・神戸電鉄の路線に組み込まれ、神戸高速鉄道南北線は[[神戸電鉄神戸高速線]]に改称されたため、神戸電鉄は他事業者への直通運転が消滅。同様に神戸高速鉄道東西線は[[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]までの本線区間が[[阪神神戸高速線]]に、その支線である(阪急)[[三宮駅]](現・<阪急>神戸三宮駅)までの東西線の支線は[[阪急神戸高速線]]にそれぞれ改称され、[[西代駅]]で接続の[[山陽電気鉄道本線]]を含めて神戸高速鉄道への相互直通運転が消滅。この関係で山陽電気鉄道の(阪急)三宮駅発着列車については阪急への直通運転が片方向直通運転の形態ながらも復活した。
* [[2013年]](平成25年)3月16日
** 東急東横線渋谷駅が地下化。同駅を介して[[東京メトロ副都心線]]の相互直通運転を開始。
** 東急東横線 - 東京メトロ日比谷線の直通運転を終了。地下鉄と郊外の民鉄事業者による初の相互直通運転終了となる<ref group="注">ただし、日比谷線の車両の検査・分解業務が[[鷺沼車両基地]]で行われているため、中目黒駅から東急東横線・目黒線・大井町線を経由し、田園都市線鷺沼駅へ回送する運用は残っている。</ref>。
* [[2015年]](平成27年)3月14日:[[直江津駅]]を介して北越急行ほくほく線 - (JR信越本線) - [[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン]]の直通運転を開始。
* [[2016年]](平成28年)
** 3月26日:東京メトロ千代田線を介して[[JR東日本E233系電車]]の小田急線への、[[小田急4000形電車 (2代)]]のJR東日本常磐線への相互乗り入れを開始。それまでは3社直通の運用には東京メトロ車を使用した変則直通運転であった。
** 3月27日:[[田原町駅 (福井県)|田原町駅]]を介して[[福井鉄道福武線]] - [[えちぜん鉄道三国芦原線]]の相互直通運転を開始。
* [[2017年]](平成29年)[[3月4日]]
** [[青い森鉄道線]] - [[奥羽本線]]の直通運転を終了。
* [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]
** 青い森鉄道線 - [[八戸線]]の直通運転を終了。
* [[2019年]](平成31年、[[令和]]元年)
** [[3月16日]]:[[牟岐線]] - [[阿佐海岸鉄道阿佐東線]]の相互直通運転を終了。
** [[11月30日]]:[[相鉄新横浜線]]が部分開業。[[羽沢横浜国大駅]]を介して[[相鉄本線]] - JR埼京線(一部JR[[川越線]])の相互直通運転を開始<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190906_ho01.pdf |title=2019年11月ダイヤ改正について |accessdate=2019-12-01 |date=2019-09-06 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= }}</ref><ref group="注">なお、同日より他社局線との直通運転を行っていない[[大手私鉄]]は[[西日本鉄道]]のみとなった。ただし、西鉄は過去に[[筑豊電気鉄道]]との相互直通運転を実施していたので、現存する大手私鉄は全社が何らかの形で直通運転を実施した経験がある。</ref>。[[相鉄・JR直通線]]も参照。
* [[2020年]](令和2年)
** 3月14日:[[佐世保駅]]を介した[[松浦鉄道]][[松浦鉄道西九州線|西九州線]]から[[九州旅客鉄道|JR九州]][[佐世保線]]への直通運転を休止<ref>{{Cite web|和書|url= http://matutetu.com/publics/index/1/detail=1/b_id=3/r_id=228#block3-228 |title=令和2年3月14日ダイヤ改正についてのお知らせ |accessdate=2020-03-18 |date=2020-03-10 |publisher=松浦鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200312013855/http://matutetu.com/publics/index/1/detail=1/b_id=3/r_id=228 |archivedate=2020-03-12 |deadlinkdate= }}</ref>。
** 6月1日:北神急行電鉄の運営移譲により北神線が神戸市交通局の路線に組み込まれたため、両事業者間との相互直通運転は消滅<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.city.kobe.lg.jp/a89954/kurashi/access/kotsukyoku/kotsu/hokushinkyuukou.html |title=北神急行線と市営地下鉄との一体的運行(市営化)について |accessdate=2020-04-12 |date=2020-04-02 |publisher=神戸市交通局 }}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** [[3月17日]]:北越急行ほくほく線 - (JR信越本線) - えちごトキめき鉄道妙高はねうまラインの直通運転を終了。
** 3月18日:相鉄新横浜線が全線開業及び[[東急新横浜線]]が開業。[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]を介して東急東横線・東急目黒線の相互直通運転を、都営地下鉄三田線・東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道埼玉スタジアム線・東京メトロ副都心線との片方向直通運転を、東武東上本線との変則直通運転をそれぞれ開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20221216-1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221216064059/https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20221216-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=相鉄・東急直通線 開業日に関するお知らせ|publisher=相模鉄道/東急電鉄/鉄道建設・運輸施設整備支援機構|date=2022-12-16|accessdate=2022-12-16|archivedate=2022-12-16}}</ref><ref name="sotetsu-tokyu20221216">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20221216-2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221216070954/https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20221216-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月18日(土)相鉄新横浜線・東急新横浜線開業に伴い形成される 広域鉄道ネットワークの直通運転形態および主な所要時間について|publisher=相模鉄道/東急電鉄/東京地下鉄/東京都交通局/埼玉高速鉄道/東武鉄道/西武鉄道|date=2022-12-16|accessdate=2022-12-16|archivedate=2022-12-16}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20221216-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月18日(土)東横線・目黒線・田園都市線など東急線6路線でダイヤ改正を実施~同日に東急新横浜線が開業します~|publisher=東急電鉄|date=2022-12-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://cdn.sotetsu.co.jp/media/2022/pressrelease/pdf/r22-194-rcr.pdf |title=2023年3月18日(土)開業 相鉄・東急直通線 運行計画(運行区間・列車本数)のお知らせ|accessdate=2022-12-16|date=2022-12-16|format=PDF|publisher=相模鉄道}}</ref>。[[神奈川東部方面線]]も参照。
** [[7月15日]]:[[熊本地震 (2016年)|2016年熊本地震]]により被災していた[[南阿蘇鉄道高森線]]が全区間復旧。復旧に合わせ朝方の2本が[[豊肥本線]][[肥後大津駅]]まで乗り入れ<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mt-torokko.com/2023/05/19/6199/ |title=7月15日ダイヤ改正(全線運転再開)について |accessdate=2023-07-15 |date=2023-05-19 |publisher=南阿蘇鉄道 }}</ref>。
=== 日本における直通運転の事例 ===
日本において、定期列車で行われている事業者間の直通運転の実施路線を示す。<!--同名のgroupで<references />を複数作成するとそれぞれ一つ前の<references />との間にある<ref>のみがリストされる仕様を利用しています-->
==== JR同士 ====
*下表のほかに、寝台特急「[[サンライズ瀬戸]]」がJR東日本(東海道本線) - JR東海(東海道本線) - JR西日本(東海道本線・山陽本線・宇野線・本四備讃線) - JR四国(本四備讃線・予讃線)の4社を、「[[サンライズ出雲]]」が上記にある東日本・東海・西日本3社の東海道・山陽本線のほかにJR西日本の伯備線・山陰本線へ直通運転を行っている。
{| class="wikitable"
! style="white-space:nowrap" | 事業者名
! style="white-space:nowrap" | 路線名
! style="white-space:nowrap" | 境界駅
! style="white-space:nowrap" | 事業者名
! style="white-space:nowrap" | 路線名
! style="white-space:nowrap" | 備考
|-
| [[東日本旅客鉄道|JR東日本]] || [[東北新幹線]] || [[新青森駅]] || [[北海道旅客鉄道|JR北海道]] || [[北海道新幹線]] ||
|-
| JR東日本 || [[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]] || [[熱海駅]] || [[東海旅客鉄道|JR東海]]<small> - [[伊豆箱根鉄道]]</small> || [[東海道線 (静岡地区)|東海道本線]]<small> - [[伊豆箱根鉄道駿豆線|駿豆線]]</small>|| JR東日本の車両のみ<ref group="*">伊豆箱根鉄道への乗り入れは特急「[[踊り子 (列車)|踊り子]]」のみ。</ref>
|-
| JR東日本 || ([[信越本線]] - )[[篠ノ井線]] - [[中央本線]](中央東線) || [[辰野駅]] || JR東海 || [[飯田線]] || <ref group="*"><nowiki/>
* 「篠ノ井線 - 塩尻駅 - 中央本線 - 岡谷駅 - 中央本線(辰野支線) - 辰野駅 - 飯田線」という形態で運行。
* 信越本線への乗り入れはJR東日本の車両のみ。</ref>
|-
| JR東日本 || (信越本線 - )篠ノ井線 || [[塩尻駅]] || JR東海 || 中央本線(中央西線) ||<ref group="*">信越本線への乗り入れはJR東海の車両による特急「[[しなの (列車)|しなの]]」のみ。</ref>
|-
| JR東日本 || [[北陸新幹線]] || [[上越妙高駅]] || [[西日本旅客鉄道|JR西日本]] || 北陸新幹線 ||
|-
| JR東海 || [[東海道線 (名古屋地区)|東海道本線]] - [[高山本線]] || [[猪谷駅]] || JR西日本 || 高山本線 || JR東海の車両による特急「[[ひだ (列車)|ひだ]]」のみ。
|-
| rowspan="2" | JR東海
| rowspan="2" | 東海道本線
| rowspan="2" | [[米原駅]]
| rowspan="2" | JR西日本
| 東海道本線([[琵琶湖線]] - [[JR京都線]])
| rowspan="2" | <ref group="*">JR東海の車両による特急「[[ひだ (列車)|ひだ]]」およびJR西日本の車両による特急「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」のみ。</ref>
|-
| [[北陸本線]]
|-
| <small>伊勢鉄道 - </small>JR東海 || <small>[[関西本線]] - [[伊勢鉄道伊勢線|伊勢線]] - </small>[[紀勢本線]] || [[新宮駅]] || JR西日本 || 紀勢本線(きのくに線) || JR東海の車両による特急「[[南紀 (列車)|南紀]]」のみ
|-
| JR東海 || [[東海道新幹線]] || [[新大阪駅]] || JR西日本 || [[山陽新幹線]] ||16両編成の「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」「[[ひかり (列車)|ひかり]]」のみ。
|-
| JR西日本 || [[宇野線]] - [[本四備讃線]] || [[児島駅]] || [[四国旅客鉄道|JR四国]] || | 本四備讃線 - [[予讃線]]( - [[土讃線]]/[[高徳線]])|| <ref group="*">[[瀬戸大橋線]]。JR西日本の車両による乗り入れは快速「[[マリンライナー]]」のみ。土讃線方面へは特急「[[南風 (列車)|南風]]」、高徳線方面へは特急「[[うずしお (列車)|うずしお]]」のみ。</ref>
|-
| JR西日本 || 山陽新幹線 || [[博多駅]] || [[九州旅客鉄道|JR九州]] || [[九州新幹線]] ||8両編成の「[[さくら (新幹線)|さくら]]」「[[みずほ (列車)|みずほ]]」「[[つばめ (JR九州)|つばめ]]」のみ。
|-
| colspan="6" style="width:0em;" | {{Reflist|group=*}}
|}
==== JRと私鉄・第三セクター ====
地下鉄が関係するものについては[[#地下鉄とJR・私鉄|後述]]
{| class="wikitable"
! style="white-space:nowrap" | 事業者名
! style="white-space:nowrap" | 路線名
! style="white-space:nowrap" | 境界駅
! style="white-space:nowrap" | 事業者名
! style="white-space:nowrap" | 路線名
! style="white-space:nowrap" | 備考
|-
| [[北海道旅客鉄道|JR北海道]] || [[函館本線]] || [[五稜郭駅]] || [[道南いさりび鉄道]] || [[道南いさりび鉄道線]] || 道南いさりび鉄道の車両のみ<ref group="*" name="jr" /><ref group="*">[[函館駅]]までの1駅だけ函館本線へ乗り入れる。</ref>
|-
| JR東日本 || [[大湊線]] || [[野辺地駅]] || [[青い森鉄道]] || [[青い森鉄道線]] || JR東日本の車両のみ<ref group="*" name="jr" />
|-
| JR東日本 || [[花輪線]] || [[好摩駅]]
| rowspan="2" | [[IGRいわて銀河鉄道]]
| rowspan="2" | [[いわて銀河鉄道線]]
| rowspan="2" | <ref group="*" name="jr" /><ref group="*"><nowiki/>
* 花輪線方面への乗り入れはJR東日本の車両のみ。
* 盛岡方面の1本のみ「花輪線 - 好摩駅 - いわて銀河鉄道線 - 盛岡駅 - 東北本線」という形態で、東北本線[[日詰駅]]まで乗り入れる。</ref>
|-
| JR東日本 || [[東北本線]] || [[盛岡駅]]
|-
| JR東日本 || 東北本線 || [[名取駅]] || [[仙台空港鉄道]] || [[仙台空港鉄道仙台空港線|仙台空港線]] || <ref group="*">[[仙台空港アクセス線]]。</ref>
|-
| JR東日本 || 東北本線 || [[槻木駅]] || [[阿武隈急行]] || [[阿武隈急行線]] || 阿武隈急行の車両のみ<ref group="*">阿武隈急行線の一部区間は元国鉄。</ref>
|-
| JR東日本 || <small>[[磐越西線]] - </small>[[只見線]] || [[西若松駅]] || [[会津鉄道]]<small> - [[野岩鉄道]] - [[東武鉄道]]</small> || [[会津鉄道会津線|会津線]]<small> - (野岩鉄道)[[野岩鉄道会津鬼怒川線|会津鬼怒川線]] - (東武)[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]] - [[東武日光線|日光線]]</small> || 会津鉄道の車両のみ<ref group="*"><nowiki />
* 会津鉄道は元JR東日本。
* 磐越西線・野岩鉄道・東武鉄道への乗り入れは快速「[[AIZUマウントエクスプレス]]」のみで、特に磐越西線への乗り入れは臨時の延長運転のみ。
* 会津鉄道と野岩鉄道の境界駅は[[会津高原尾瀬口駅]]。
* 野岩鉄道と東武鉄道の境界駅は[[新藤原駅]]。</ref>
|-
| JR東日本 || [[鹿島線]] || [[鹿島サッカースタジアム駅]] || [[鹿島臨海鉄道]] || [[鹿島臨海鉄道大洗鹿島線|大洗鹿島線]] || <ref group="*">鹿島サッカースタジアム駅は臨時駅である。大洗鹿島線の列車が隣駅の[[鹿島神宮駅]]まで乗り入れており、事実上同線の一部となっている。</ref>
|-
| JR東日本 || [[山手線|山手(貨物)線]] - 東北本線([[宇都宮線]]) || [[栗橋駅]] || 東武鉄道 || [[東武日光線|日光線]] - [[東武鬼怒川線|鬼怒川線]] || 「[[日光 (列車)|日光・きぬがわ]]」ほか特急列車のみ
|-
| rowspan="2" | JR東日本
| rowspan="2" | [[川越線]] - [[埼京線]](東北本線支線 - [[赤羽線]] - 山手(貨物)線) - [[東海道本線]]([[品鶴線]] - [[東海道貨物線]])
| [[大崎駅]] || [[東京臨海高速鉄道]] || [[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]] || <ref group="*" name="saikyo">
<nowiki />
* 東京臨海高速鉄道・相鉄の車両は互いの路線を運行できない。
* 東京臨海高速鉄道りんかい線から埼京線・川越線は一体的に運行されており、[[駅ナンバリング]]も連番となっている。
* 相鉄車の池袋駅以北の乗り入れは板橋駅まで回送列車で入線するが、それ以外の列車では通常は行われない。
* JR東日本車は相鉄の[[かしわ台車両センター]]での留置・滞泊が設定されている(後述する東急車とは異なり、JR東日本車の相鉄線内での留置・滞泊場所は同所のみである。またJR東日本車のかしわ台駅発着列車はすべて回送で設定)。</ref>
|-
| [[羽沢横浜国大駅]] || [[相模鉄道]] || [[相鉄新横浜線]] - [[相鉄本線|本線]] || <ref group="*" name="saikyo" /><ref group="*">[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]。</ref>
|-
| JR東日本 || [[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]] - [[伊東線]] || [[伊東駅]] || [[伊豆急行]] || [[伊豆急行線]] || <ref group="*">普通列車は伊東線 - 伊豆急行線のみで、東海道本線へ乗り入れるのは特急列車のみ。また、JR東日本の車両による普通列車の直通列車は運転されない。</ref>
|-
| [[東海旅客鉄道|JR東海]] || [[御殿場線]] || [[松田駅]] || [[小田急電鉄]] || [[小田急小田原線|小田原線]] || 小田急の車両による特急「[[ふじさん]]」のみ
|-
| <small>JR東日本 - </small>JR東海 || [[東海道本線]] || [[三島駅]] || [[伊豆箱根鉄道]] || [[伊豆箱根鉄道駿豆線|駿豆線]] || JR東日本の車両による特急「踊り子」のみ
|-
| JR東日本 || ([[総武本線]] - )[[中央本線]]([[中央線快速]]) || [[大月駅]] || [[富士山麓電気鉄道]] || [[富士山麓電気鉄道富士急行線|大月線 - 河口湖線]] || JR東日本の車両のみ<ref group="*">総武本線への乗り入れは特急「[[富士回遊]]」のみ。</ref>
|-
| JR東日本 || [[上越線]] || [[六日町駅]]
| rowspan="2" | [[北越急行]]
| rowspan="2" | [[北越急行ほくほく線|ほくほく線]]
| rowspan="2" | 北越急行の車両のみ<ref group="*" name="jr" /><ref group="*">「上越線 - 六日町駅 - ほくほく線 - 犀潟駅 - 信越本線」という形態で運行。</ref>
|-
| JR東日本 || [[信越本線]] || [[犀潟駅]]
|-
| JR東日本 || 信越本線 || [[直江津駅]] || [[えちごトキめき鉄道]] || [[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン|妙高はねうまライン]] || <ref group="*" name="jr" /><ref group="*">特急「[[しらゆき (列車)|しらゆき]]」はJR東日本の車両のみ。普通列車はえちごトキめき鉄道の車両のみ。</ref>
|-
| JR東日本 || [[飯山線]] || [[豊野駅]] || [[しなの鉄道]] || [[しなの鉄道北しなの線|北しなの線]] || JR東日本の車両のみ<ref group="*" name="jr" />
|-
| JR東日本 || 信越本線 || [[篠ノ井駅]] || しなの鉄道 || [[しなの鉄道線]] || しなの鉄道の車両のみ<ref group="*" name="jr" />
|-
| [[西日本旅客鉄道|JR西日本]] || [[城端線]] || [[高岡駅]] || [[あいの風とやま鉄道]] || [[あいの風とやま鉄道線]] || JR西日本の車両のみ<ref group="*" name="jr" /><ref group="*">休日は運転されない。</ref>
|-
| JR西日本 || [[東海道本線]]([[JR京都線]]) - [[湖西線]] - [[北陸本線]] || [[金沢駅]]
| rowspan="2" | [[IRいしかわ鉄道]]
| rowspan="2" | [[IRいしかわ鉄道線]]
| rowspan="2" | <ref group="*" name="jr" /><ref group="*">北陸本線への乗り入れは「北陸本線 - IRいしかわ鉄道線 - 七尾線」という形態で、JR西日本の車両による特急「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」のみ。</ref>
|-
| JR西日本 || [[七尾線]] || [[津幡駅]]
|-
| JR東海 || [[中央線 (名古屋地区)|中央本線]] || [[高蔵寺駅]] || [[愛知環状鉄道]] || [[愛知環状鉄道線]] || JR東海の車両のみ<ref group="*">愛知環状鉄道線の一部区間は元JR東海だが、直通運転は第三セクター化後に[[2005年日本国際博覧会]](愛・地球博)をきっかけに開始された。</ref>
|-
| JR東海 || [[関西線 (名古屋地区)|関西本線]] || [[河原田駅]]
| rowspan="2" | [[伊勢鉄道]]
| rowspan="2" | [[伊勢鉄道伊勢線|伊勢線]]
| rowspan="2" | <ref group="*" name="jr" /><ref group="*">普通列車は伊勢鉄道の車両のみで、関西本線[[四日市駅]]まで2駅だけ乗り入れる。紀勢本線方面へはJR東海の車両のみが乗り入れ、「関西本線 - 河原田駅 - 伊勢線 - 津駅 - 紀勢本線」という形態で運行されている。JR西日本への乗り入れは特急「[[南紀 (列車)|南紀]]」のみ。参宮線への乗り入れは快速「[[みえ (列車)|みえ]]」のみ。</ref>
|-
| <small>JR西日本 - </small>JR東海 || ([[参宮線]] - )[[紀勢本線]] || [[津駅]]
|-
| JR西日本 || [[山陰本線]] || [[福知山駅]] || [[京都丹後鉄道]] || [[京都丹後鉄道宮福線|宮福線]] - [[京都丹後鉄道宮豊線|宮豊線]] ||特急「[[はしだて (列車)|はしだて]]」のみ
|-
| JR西日本 || (東海道本線 - )[[山陽本線]]([[JR神戸線]]) || [[上郡駅]]
| rowspan="2" | [[智頭急行]]
| rowspan="2" | [[智頭急行智頭線|智頭線]]
| rowspan="2" | <ref group="*" name="jr" /><ref group="*">普通列車は智頭急行の車両のみで、因美線にのみ乗り入れる。山陽本線への乗り入れは智頭急行の車両による特急「[[スーパーはくと]]」とJR西日本の車両による特急「[[いなば (列車)|スーパーいなば]]」のみ。東海道本線方面への乗り入れは特急「スーパーはくと」のみ。</ref>
|-
| JR西日本 || [[山陰本線]] - [[因美線]] || [[智頭駅]]
|-
| JR西日本 || 因美線 || [[郡家駅]] || [[若桜鉄道]] || [[若桜鉄道若桜線|若桜線]] || <ref group="*" name="jr" /><ref group="*">[[2020年]][[3月14日]]ダイヤ改正でJR西日本の車両の乗り入れが廃止され、それ以降は若桜鉄道の車両のみ。</ref>
|-
| JR西日本 || [[福塩線]] || [[神辺駅]] || [[井原鉄道]] || [[井原鉄道井原線|井原線]] || 井原鉄道の車両のみ<ref group="注">[[総社駅]] - [[清音駅]]間は井原鉄道が第二種[[鉄道事業者]]として第一種鉄道事業者であるJR西日本[[伯備線]]の線路を共用しており、直通運転とは異なる。</ref>
|-
| JR西日本 || [[岩徳線]] || [[川西駅 (山口県)|川西駅]] || [[錦川鉄道]] || [[錦川鉄道錦川清流線|錦川清流線]] || 錦川鉄道の車両のみ<ref group="*" name="jr" /><ref group="*">[[岩国駅]]までの2駅だけ岩徳線へ乗り入れる。</ref>
|-
| [[四国旅客鉄道|JR四国]] || [[土讃線]] || [[後免駅]] || [[土佐くろしお鉄道]] || [[土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線|ごめん・なはり線]] || <ref group="*">土佐くろしお鉄道の車両の乗り入れは後免駅 - [[高知駅]]間。高知駅 - [[土佐山田駅]]間の運用もある。</ref>
|-
| JR四国 || 土讃線 || [[窪川駅]] || 土佐くろしお鉄道 || [[土佐くろしお鉄道中村線|中村線]] - [[土佐くろしお鉄道宿毛線|宿毛線]] || 特急列車のみ<ref group="*">中村線は元JR四国。</ref>
|-
| JR四国 || [[予土線]] || [[若井駅]] || 土佐くろしお鉄道 || 中村線 || JR四国の車両のみ<ref group="*" name="jr" /><ref group="*">窪川駅までの1駅だけ土佐くろしお鉄道へ乗り入れる。</ref>
|-
| [[九州旅客鉄道|JR九州]] || [[鹿児島本線]] || [[八代駅]]・[[川内駅 (鹿児島県)|川内駅]] || [[肥薩おれんじ鉄道]] || [[肥薩おれんじ鉄道線]] || <ref group="*" name="jr" /><ref group="注">普段は肥薩おれんじ鉄道の車両のみであるが、毎週木曜日にJR九州車両による特急「[[36ぷらす3]]」が乗り入れる。2016年に「[[ななつ星 in 九州]]」が肥薩おれんじ鉄道線経由で運転された。また検測列車としてJR九州の車両が乗り入れることがある。</ref>
|-
| JR九州 || [[豊肥本線]] || [[立野駅 (熊本県)|立野駅]] || [[南阿蘇鉄道]] || [[南阿蘇鉄道高森線|高森線]] || 南阿蘇鉄道の車両のみ<ref group="*" name="jr" /><ref group="*">[[肥後大津駅]]までの2駅だけ豊肥本線へ乗り入れる。</ref>
|-
| colspan="6" style="width:0em;" | {{Reflist|group=*|refs=<ref group="*" name="jr">第三セクター側の路線が元国鉄・JRの路線であり、[[特定地方交通線]]や[[整備新幹線]]開業による並行在来線などの理由で経営分離されたもの。</ref>}}
|}
==== 私鉄・第三セクター同士 ====
地下鉄が関係するものについては[[#地下鉄とJR・私鉄|後述]]
{| class="wikitable"
! style="white-space:nowrap" | 事業者名
! style="white-space:nowrap" | 路線名
! style="white-space:nowrap" | 境界駅
! style="white-space:nowrap" | 事業者名
! style="white-space:nowrap" | 路線名
! style="white-space:nowrap" | 備考
|-
| [[IGRいわて銀河鉄道]] || [[いわて銀河鉄道線]] || [[目時駅]] || [[青い森鉄道]] || [[青い森鉄道線]] ||
|-
| [[東武鉄道]] || [[東武伊勢崎線|伊勢崎線]] - [[東武日光線|日光線]] - [[東武鬼怒川線|鬼怒川線]] || [[新藤原駅]]
| rowspan="2" | [[野岩鉄道]]
| rowspan="2" | [[野岩鉄道会津鬼怒川線|会津鬼怒川線]]
| rowspan="2" | <ref group="*">東武鉄道 - 野岩鉄道 - 会津鉄道の3社間で、特急「[[けごん|リバティ会津]]」(東武車)及び快速「[[AIZUマウントエクスプレス]]」(会津鉄道車)で直通運転している。会津鉄道からJR東日本へは会津鉄道の車両のみの片乗り入れ(磐越西線へは土休日の快速「AIZUマウントエクスプレス」臨時延長運転のみ)。</ref>
|-
|<small>[[東日本旅客鉄道|JR東日本]] - </small>[[会津鉄道]] ||<small>[[磐越西線]] - [[只見線]] - </small>[[会津鉄道会津線|会津線]] || [[会津高原尾瀬口駅]]
|-
| [[新京成電鉄]] || [[新京成電鉄新京成線|新京成線]] || [[京成津田沼駅]] || [[京成電鉄]] || [[京成千葉線|千葉線]] || 新京成の車両のみ
|-
| [[西武鉄道]] || [[西武池袋線|池袋線]] - [[西武秩父線]] || [[御花畑駅]]・[[西武秩父駅]] || [[秩父鉄道]] || [[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]] || 西武の車両のみ
|-
|<small>[[東京地下鉄]](東京メトロ) - </small>[[小田急電鉄]] ||<small>[[東京メトロ千代田線|千代田線]] - </small>[[小田急小田原線|小田原線]] || [[小田原駅]] || [[箱根登山鉄道]] || [[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線(箱根登山線)]] || 小田急の車両のみ<ref group="*">特急[[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]]が中心で、東京メトロ千代田線へ乗り入れる列車も運行される。特急以外の列車はごく一部を除き直通運転していないが、小田急の車両による箱根登山鉄道線内の折り返し運行がされている。<br/>東京メトロと小田急の境界駅は[[代々木上原駅]]。</ref>
|-
| [[えちごトキめき鉄道]] || [[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン|日本海ひすいライン]] || [[市振駅]]
| rowspan="2" | [[あいの風とやま鉄道]]
| rowspan="2" | [[あいの風とやま鉄道線]]
| rowspan="2" |<ref group="*">えちごトキめき鉄道の車両は[[新井駅 (新潟県)|新井駅]] - [[泊駅 (富山県)|泊駅]]間、あいの風とやま鉄道の車両は[[糸魚川駅]] - [[金沢駅]]間、IRいしかわ鉄道の車両は[[富山駅]] - 金沢駅間での運行。下り1本のみ[[えちごトキめき鉄道|妙高はねうまライン]]新井駅へ乗り入れる。</ref>
|-
| [[IRいしかわ鉄道]] || [[IRいしかわ鉄道線]] || [[倶利伽羅駅]]
|-
| [[福井鉄道]] || [[福井鉄道福武線|福武線]] || [[田原町駅 (福井県)|田原町駅]] || [[えちぜん鉄道]] || [[えちぜん鉄道三国芦原線|三国芦原線]] || <ref group="*">低床車のみの直通で、えちぜん鉄道側は田原町駅 - [[鷲塚針原駅]]間のみの運用。但し、回送としては[[福井口駅]] - 田原町駅間にも乗り入れる。</ref>
|-
|[[阪急電鉄]] || [[阪急宝塚本線|宝塚本線]] || [[川西能勢口駅]] || [[能勢電鉄]] || [[能勢電鉄妙見線|妙見線]] - [[能勢電鉄日生線|日生線]] || <ref group="*">料金不要の特急列車「[[日生エクスプレス]]」のみ。以前は阪急電鉄の車両による片乗り入れだったが、2014年8月1日に阪急電鉄の車両([[阪急6000系電車|6000系]])の1編成が能勢電鉄に譲渡され、変則的な相互乗り入れとなった。ただし、能勢電鉄に譲渡された車両は阪急宝塚線の他の車両とともに運用されており、本数の少ない直通運転列車で運用されることはまれである。</ref>
|-
| [[阪神電気鉄道]] || [[阪神本線|本線]] - [[阪神なんば線]] || [[大阪難波駅]] || [[近畿日本鉄道]] || [[近鉄難波線|難波線]] - [[近鉄大阪線|大阪線]] - [[近鉄奈良線|奈良線]] || <ref group="*"><nowiki />
* 近鉄の車両は、阪神との直通運転に使われない車両でも阪神の[[桜川駅 (大阪府)|桜川駅]]までの1駅間のみ回送列車として乗り入れる。
* 近鉄・阪神なんば線は10両編成の列車が運転されるが、阪神本線は8両編成以下のみ対応のため、途中の[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]で増解結する列車がある。
* 阪神の車両によるごく一部の列車は、神戸高速線[[新開地駅]]発で運行されていた時期もあった。
* 関西での大手私鉄同士の直通運転は、[[#日本における直通運転の歴史|前述]]した、奈良電気鉄道を[[1963年]]に吸収した近畿日本鉄道([[近鉄京都線|京都線]]・奈良線)と京阪電気鉄道([[京阪本線|本線]]・[[京阪宇治線|宇治線]])との[[1968年]]の直通運転終了以来41年ぶりである。
* 近鉄車は20m車、阪神車は18mと車体長が異なっているが、車両規格を統一せずに行われている直通運転であり、日本では此処のみの珍しいケースである。
</ref>
|-
| 阪神電気鉄道 || 本線 - [[阪神神戸高速線]](旧・神戸高速鉄道東西線)|| [[西代駅]] || [[山陽電気鉄道]] || [[山陽電気鉄道本線|本線]] || <ref group="*">「[[直通特急 (阪神・山陽)|直通特急]]」も参照。なお、阪神本線・阪神神戸高速線を経由して、[[阪神なんば線]]および近鉄線と山陽電鉄とを直通する定期運用は存在しない。</ref>
|-
| 阪急電鉄 || [[阪急神戸高速線]](旧・神戸高速鉄道東西線支線) || [[新開地駅]] || 阪神電気鉄道(神戸高速鉄道東西線) - 山陽電気鉄道 || 阪神神戸高速線 - 山陽本線 || <ref group="*">1998年2月15日に一旦廃止されたが2010年10月1日に事実上の復活。山陽電気鉄道の車両が神戸市中心部へ神戸高速鉄道(第三種鉄道事業者。路線の保有のみを行っており、運行主体は阪急・阪神)の路線を経由して乗り入れるもの。阪神と山陽の境界駅は西代駅。</ref>
|-
| [[南海電気鉄道]] || [[南海高野線|高野線]] || [[中百舌鳥駅]] || [[泉北高速鉄道]] || [[泉北高速鉄道線]] ||
|-
| colspan="6" style="width:0em;" | {{Reflist|group=*}}
|}
==== 地下鉄とJR・私鉄 ====
<!-- 駅ナンバリングが若い方が左になるよう、また地下鉄路線が中央の欄になるようにしています -->
{| class="wikitable"
! style="white-space:nowrap" | 事業者名
! style="white-space:nowrap" | 路線名
! style="white-space:nowrap" | 境界駅
! style="white-space:nowrap" | 事業者名
! style="white-space:nowrap" | 路線名
! style="white-space:nowrap" | 境界駅
! style="white-space:nowrap" | 事業者名
! style="white-space:nowrap" | 路線名
! style="white-space:nowrap" | 備考
|-
| rowspan="2" | [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]
| rowspan="2" | [[中央・総武緩行線|中央線(各駅停車)]]
| rowspan="2" | [[中野駅 (東京都)|中野駅]]
| rowspan="2" | [[東京地下鉄]](東京メトロ)
| rowspan="2" | [[東京メトロ東西線|東西線]]
| rowspan="2" | [[西船橋駅]]
| JR東日本 || [[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]
| rowspan="2" |<ref group="*"><nowiki />
* 東葉高速鉄道東葉高速線と東京メトロ東西線は一体的に運行されている。
* JR東日本・東葉高速鉄道の車両は互いの路線で運行できない。東京メトロの車両は3社いずれの路線も運行できる。これによりJR東日本と東葉高速鉄道とを直通する列車は東京メトロの車両のみの変則直通運転となっている。
* 西船橋駅からの総武線乗り入れは平日朝夕のみ行われる。
</ref>
|-
| [[東葉高速鉄道]] || [[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]
|-
| [[小田急電鉄]] || [[小田急多摩線|多摩線]] - [[小田急小田原線|小田原線]] || [[代々木上原駅]] || 東京地下鉄 || [[東京メトロ千代田線|千代田線]] || [[綾瀬駅]] || JR東日本 || [[常磐緩行線|常磐線(各駅停車)]] || <ref group="*"><nowiki />
* 常磐線(各駅停車)と東京メトロ千代田線は一体的に運行されており、[[駅ナンバリング]]も連番となっている。
* 小田急の特急列車([[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]])の一部列車が東京メトロ千代田線へ乗り入れている。千代田線と[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山鉄道線]]とを直通する列車も小田急車のみ使用の変則乗り入れで運行されている。
</ref>
|-
| rowspan="3" | [[相模鉄道]] - [[東急電鉄]]
| rowspan="3" | (相模鉄道)<br/>[[相鉄いずみ野線|いずみ野線]] - [[相鉄本線]] - [[相鉄新横浜線]] - (東急電鉄)<br/>[[東急新横浜線]] - [[東急目黒線|目黒線]]・[[東急東横線|東横線]]
| rowspan="2" | [[目黒駅]]
| 東京地下鉄 || [[東京メトロ南北線|南北線]] || [[赤羽岩淵駅]] || [[埼玉高速鉄道]] || [[埼玉高速鉄道線|埼玉高速鉄道線(埼玉スタジアム線)]]
| rowspan="2" | <ref group="*">
* 東京メトロ・埼玉高速鉄道の車両は都営地下鉄・相鉄に、都営地下鉄の車両は東京メトロ・埼玉高速鉄道・相鉄にそれぞれ入線できない。
* 目黒駅 - [[白金高輪駅]]間は東京メトロ南北線・都営三田線の共用区間。
* 東急・相鉄相互間を運用する車両(東京メトロ・埼玉高速鉄道・都営地下鉄への直通含む)は東急車・相鉄車の8両編成のみ。
* 東急と相鉄の境界駅は[[新横浜駅]]。
* 東京都交通局では、相互直通運転の事業者数を勘定する場合は、公式には「社局」とは称さず「者」としており、都営地下鉄に乗り入れる、および線路を共用する鉄道事業者側も「者」を使用する事例がある。
</ref>
|-
| [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]]) || [[都営地下鉄三田線|三田線]] || || ||
|-
| rowspan="3" |(副都心線)[[渋谷駅]]
| rowspan="3" | 東京地下鉄
| rowspan="3" | [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]
| rowspan="2" | [[和光市駅]]
| rowspan="2" | [[東武鉄道]]
| rowspan="2" | [[東武東上本線|東上線]]
| rowspan="3" | <ref group="*"><nowiki />
* 西武有楽町線から東京メトロ有楽町線・副都心線は一体的に運行されている。
* 東京メトロ副都心線から東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線も一体的に運行されている。
* 和光市駅 - 小竹向原駅間は東京メトロ有楽町線・副都心線の共用区間となっており、駅ナンバリングの番号も共通となっている。
* 東武・西武・相鉄の車両は互いの路線を運行できない。また東京メトロの車両は相鉄に入線できない。
* 東京メトロ・東急・横浜高速鉄道の8両編成は、東武の乗り入れ区間が[[志木駅]]までとなっている。
* 東京メトロ・東急の10両編成は、西武の乗り入れ区間が回送列車に限り[[武蔵丘信号場]]までとなっている(営業運転は[[飯能駅]]まで)。
* 東急・相鉄・横浜高速鉄道の車両は原則として東京メトロ有楽町線(副都心線との共用区間を除く)へは入線しない。
* 東急・相鉄相互間を運用する車両(東京メトロへの直通含む)は東急車・相鉄車の10両編成のみ。
* 相鉄の車両は原則として東急東横線[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]より横浜方面及び横浜高速鉄道みなとみらい線へは入線しない。
* 東急と横浜高速鉄道の境界駅は[[横浜駅]]。
* 東急と相鉄の境界駅は新横浜駅。
* 東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線内は、通常時に10両編成が停車できない駅があり、10両編成は各停での運用ができない。
* 休日の[[S-TRAIN]]のみ[[西武秩父線]]へ直通運転する。
* [[西武ドーム]]での野球・イベント開催時のみ[[西武狭山線]]へ直通運転列車が運転される。
* 東急車は直通運転区間外に当たる相鉄本線[[西谷駅]] - 横浜駅にも入線し、[[星川駅 (神奈川県)|星川駅]]と[[相模大塚駅]]の電留線で昼間留置や夜間滞泊も実施している([[かしわ台車両センター]]について東急車の入出庫があるかは不明。[[相鉄厚木線]]や[[西横浜駅]]などの電留線は入線対応してはいるものの、東急車の入線および留置や滞泊はない)。
</ref>
|-
| rowspan="2" |[[横浜高速鉄道]] - 東急電鉄
| rowspan="2" |(横浜高速鉄道)<br/>[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]] - (東急電鉄)<br/>東横線
|-
| [[小竹向原駅]] || [[西武鉄道]] || [[西武有楽町線]] - [[西武池袋線|池袋線]]
|-
| || || || 東京地下鉄 || [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]] || [[北千住駅]]
| rowspan="2" | 東武鉄道
| rowspan="2" | [[東武伊勢崎線|伊勢崎線(東武スカイツリーライン)]] - [[東武日光線|日光線]] ||<ref group="*"><nowiki />
* 東武伊勢崎線・東武日光線(THライナーと普通列車)と東京メトロ日比谷線は一体的に運行されている。
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|-
| 東急電鉄 || [[東急田園都市線|田園都市線]] || 渋谷駅 || 東京地下鉄 || [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]] || [[押上駅]] ||<ref group="*"><nowiki />
* 東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線(急行・準急列車)と東京メトロ半蔵門線は一体的に運行されている。
* 東急田園都市線と東京メトロ半蔵門線も一体的に運行されている。
</ref>
|-
| [[京浜急行電鉄]] || [[京急久里浜線|久里浜線]]・[[京急逗子線|逗子線]]・[[京急空港線|空港線]] - [[京急本線|本線]] || [[泉岳寺駅]] || 東京都交通局 || [[都営地下鉄浅草線|浅草線]] || 押上駅 || [[京成電鉄]] - [[北総鉄道]]・[[芝山鉄道]] || [[京成押上線|押上線]] - [[京成本線]] - [[京成成田空港線|成田空港線(成田スカイアクセス線)]]・[[北総鉄道北総線|北総線]]・[[京成東成田線|東成田線]] - [[芝山鉄道線]] || <ref group="*"><nowiki />
* 京成と北総鉄道の境界駅は[[京成高砂駅]]であるが、[[印旛日本医大駅]]を超える列車は北総鉄道の列車扱いではなく線路を共用している京成の列車扱いとなり、乗務員も引き続き京成が管轄している。
* 京成と芝山鉄道の境界駅は[[東成田駅]]。
* 京成押上線と都営浅草線はほぼ一体的に運行されている。
* 京成の一部車両は京急へ、京急の一部車両は都営地下鉄ほか他者へ、それぞれ乗り入れできない。
* 京成成田空港線(北総線共用区間を除く)は京成・京急・都営地下鉄の一部車両のみが入線できる。
* 京急の車両は大師線以外の京急線・都営浅草線・京成押上線・京成本線・成田空港線・北総線の各線での乗り入れで運用される。
* 都営地下鉄の車両は芝山鉄道線などを除いた直通運転区間のほぼ全域で運用される。
* 京成・芝山鉄道の車両は京成線・芝山鉄道線・都営浅草線の各線および京急線[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]まで(京成車の一部のみ[[京急久里浜駅]])の乗り入れで運用される。
* 北総鉄道および同社路線用の車両を保有する[[千葉ニュータウン鉄道]]の車両は北総線・京成押上線・都営浅草線の各線および京急線羽田空港までの乗り入れで運用される。
* 東京都交通局では、相互直通運転の事業者数を勘定する場合は、公式には「社局」とは称さず「者」としており、都営地下鉄に乗り入れる鉄道事業者側も「者」を使用する事例がある。
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|-
| [[京王電鉄]] || [[京王高尾線|高尾線]]・[[京王相模原線|相模原線]] - [[京王線]] - [[京王新線]] || [[新宿駅]]([[新線新宿駅]]) || 東京都交通局 || [[都営地下鉄新宿線|新宿線]] || || || || <ref group="*">
* 京王新線は都営新宿線と一体的に運行されている。
* 都営地下鉄の車両は[[京王競馬場線|競馬場線]]および[[京王動物園線|動物園線]]と京王線[[北野駅 (東京都)|北野駅]] - [[京王八王子駅]]間で走行キロ数の精算を兼ねての列車として運用されていたことがあった。
* 都営地下鉄の車両は笹塚駅 - 京王線新宿駅間でも運用されている。
* 東京都交通局では、相互直通運転の事業者数を勘定する場合は、公式には「社局」とは称さず「者」としており、都営地下鉄に乗り入れる鉄道事業者側も「者」を使用する事例がある。
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|-
| [[名古屋鉄道]] || [[名鉄犬山線|犬山線]] || [[上小田井駅]] || [[名古屋市交通局]]([[名古屋市営地下鉄]]) || [[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]] || [[赤池駅 (愛知県)|赤池駅]] || 名古屋鉄道 ||[[名鉄豊田線|豊田線]] - [[名鉄三河線|三河線]] ||<ref group="*">名鉄三河・豊田線から名古屋市営地下鉄鶴舞線は一体的に運行されている。
</ref>
|-
| 名古屋鉄道 || [[名鉄小牧線|小牧線]] || [[上飯田駅]] || 名古屋市交通局 || [[名古屋市営地下鉄上飯田線|上飯田線]] || || || ||<ref group="*">一体的に運行されている。
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|-
| [[京阪電気鉄道]] || [[京阪京津線|京津線]] || [[御陵駅]] || [[京都市交通局]]([[京都市営地下鉄]]) || [[京都市営地下鉄東西線|東西線]] || || || || 京阪の車両のみ
|-
| [[近畿日本鉄道]] || [[近鉄奈良線|奈良線]] - [[近鉄京都線|京都線]] || [[竹田駅 (京都府)|竹田駅]] || 京都市交通局 || [[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]] || || || || <ref group="*">近鉄線内で普通列車として運用される列車は京都線[[新田辺駅]]までの運行。急行列車のみ奈良線[[近鉄奈良駅]]まで運行。</ref>
|-
| 近畿日本鉄道 || [[近鉄けいはんな線|けいはんな線]] || [[長田駅 (大阪府)|長田駅]] || [[大阪市高速電気軌道]](Osaka Metro) || [[Osaka Metro中央線|中央線]] || || || || <ref group="*">
* 一体的に運行されており、[[駅ナンバリング]]も連番となっている。
* 一体的な運転系統から、共通の愛称として[[ゆめはんな]]という愛称が付けられている。
* 中央線の[[コスモスクエア駅]] - [[大阪港駅]]間はかつては[[大阪港トランスポートシステム]]の管轄路線であった。
</ref>
|-
| [[北大阪急行電鉄]] || [[北大阪急行電鉄南北線|南北線]] || [[江坂駅]] || 大阪市高速電気軌道 || [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]] || || || || <ref group="*">一体的に運行されており、駅ナンバリングも連番となっている。</ref>
|-
| [[阪急電鉄]] ||[[阪急京都本線|京都本線]] - [[阪急千里線|千里線]] || [[天神橋筋六丁目駅]] || 大阪市高速電気軌道 || [[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]] || || || || <ref group="*">[[淡路駅]] - [[北千里駅]]間の運用もある。阪急線内準急となる列車および[[京都河原町駅]]まで乗り入れる列車は阪急の車両のみで運行される。</ref>
|-
| [[九州旅客鉄道|JR九州]] ||[[唐津線]] - [[筑肥線]] || [[姪浜駅]] || [[福岡市交通局]](福岡市地下鉄) || [[福岡市地下鉄空港線|空港線]] || || || || <ref group="*">筑肥線[[筑前深江駅]]を越えて運行される列車はJR九州の車両のみ。筑肥線は姪浜駅発着の列車が存在せず、同駅では全列車が地下鉄空港線と直通運転する。空港線と直通運転している[[福岡市地下鉄箱崎線]]と筑肥線との直通は行われていない。</ref>
|-
| colspan="9" style="width:0em;" | {{Reflist|group=*}}
|}
== アメリカ合衆国における直通運転 ==
{{節スタブ}}
[[アメリカ合衆国]]では、[[共同使用駅#ユニオンステーション|ユニオン・ステーション(共同使用駅)]]が[[#線路使用権|線路使用権]]が設定されている例のひとつである。ユニオン・ステーションはたいていの場合、[[入換専業鉄道]]が保有しており、線路使用権も入換専業鉄道や、入換専業鉄道に出資している鉄道が使用する。
アメリカ合衆国においては、線路使用権の契約は[[陸上交通委員会]]に登録されており、公文書として閲覧できる。
== 韓国における直通運転 ==
{{節スタブ}}
近来の[[大韓民国|韓国]]の鉄道界では「直通」という用語の曖昧さを回避するために、日本での「直通運転」({{lang|ko|직통운전}})に相当することは「直結運行」({{lang|ko|직결운행}})または「直結運転」({{lang|ko|직결운전}})と、「急行」のことは「急行」({{lang|ko|급행}})または「急行運転」({{lang|ko|급행운전}})といっている。
=== 韓国における直通運転の事例 ===
* [[首都圏電鉄1号線]]
** [[京元線]][[逍遥山駅]] - [[ソウル交通公社1号線]] - [[京仁線]]<ref group="注">[[ソウル交通公社]]の[[ソウル特別市地下鉄公社1000系電車 (初代)|1000系]]・[[ソウル特別市地下鉄公社1000系電車 (2代)|新1000系]]は通常、[[楊州駅]]までの乗り入れである。</ref>
** ソウル交通公社1号線[[清凉里駅]] - [[長項線]][[新昌駅]]<ref group="注">[[韓国鉄道公社|KORAIL]]の[[韓国鉄道1000系電車|1000系]]は通常、[[餅店駅]]までの乗り入れである。[[韓国鉄道5000系電車|5000系]]は全区間走行。ソウル交通公社1000系・新1000系は通常、餅店駅までの乗り入れである。</ref>
* [[首都圏電鉄3号線]]
** [[ソウル交通公社3号線]] - [[一山線]]
* [[首都圏電鉄4号線]]
** [[榛接線]] - [[ソウル交通公社4号線]] - [[果川線]] - [[安山線]]<ref group="注">[[交直流電車|交直流用]]であるKORAIL[[韓国鉄道2000系電車|2000系]]とソウル交通公社[[ソウル特別市地下鉄公社4000系電車|4050系]]が[[安山線]]・[[果川線]]へ乗り入れ、[[直流電化|直流区間専用]]であるソウル交通公社[[ソウル特別市地下鉄公社4000系電車|4000系]]は、ソウル交通公社4号線内のみで運用されている。</ref>
== 香港における直通運転 ==
* 北西部を走る路面電車[[軽鉄 (香港)]]では、同じく[[兆康駅]]と[[屯門碼頭駅]]を結び、杯渡・市中心を経由する614P系統と、良景・石排を経由する615P系統が終日にわたり直通運転を実施している。どちらかの系統を運行する列車が終点に到着後、運行系統を変更してそのまま直通し、終点に到着すると再び変更して運行することを繰り返し、実質環状運転を実施している。
** 例:'''兆康'''→(614P系統で運行)→杯渡→市中心→'''屯門碼頭'''→(615P系統に変更)→石排→良景→'''兆康'''→(再び614P系統に変更)→(以降繰り返し)
*ほかに、朝ラッシュ限定ではあるが途中駅で運行系統を変更する列車も数本ながら存在する。
== 中国における直通運転 ==
{{節スタブ}}
[[中華人民共和国の鉄道|中国の鉄道]](国鉄)における旅客輸送は長距離輸送が中心であるため、線路間の直通運転は日常茶飯事である。さらに[[高速鉄道]]網も形成されており、高速鉄道同士、あるいは高速鉄道と在来線との間での直通運転も多くある。
一方、中国では日本における[[国電]]のような都市近郊電車網が皆無のため、国鉄 - 地下鉄の直通運転は全くない。一部地下鉄の線路と国鉄線路は物理上つながっているが、直通列車は設定されていない。
各会社同士が緊密に協力しないため、地下鉄と国鉄の直通列車を設定していない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[国際列車]]
* [[コードシェア便]]
* [[地下鉄対応車両]]
* [[地下鉄等旅客車]]
* [[境界駅]]
{{公共交通}}
{{デフォルトソート:ちよくつううんてん}}
[[Category:鉄道のサービス]]
[[Category:鉄道運転業務]]
[[Category:規模の経済]] | 2003-03-13T04:59:21Z | 2023-12-25T17:31:08Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E9%80%9A%E9%81%8B%E8%BB%A2 |
3,919 | Suica |
Suica(スイカ)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京モノレール・東京臨海高速鉄道が発行するサイバネ規格準拠のICカード乗車券である。後者はそれぞれ「モノレールSuica」・「りんかいSuica」の名称で発行。
2001年に導入開始。ソニーの非接触型ICカードFeliCaの技術を用いた乗車カード・電子マネーで、プリペイド方式の乗車券の機能をはじめ、定期券、駅売店等全国の交通系ICカード対応商店での支払いに使えるSuica電子マネーの機能を併せ持つ。JR東日本の規約においては「ICチップを内蔵するカード等に記録された金銭的価値等」と定義されている。ソニーの非接触型ICカードFeliCaの技術を用いた交通系ICカードの先駆けであり、その後ICOCA(JR西日本)やPASMO(関東私鉄)といったJR他社や大手私鉄を中心として全国でFelicaの技術を用いた交通系ICカードが拡大導入されていった。2013年には交通系ICカード全国相互利用サービスを開始し、定期券を除く乗車券機能や電子マネーが全国の対応する交通機関・店舗で利用可能となった。
かつてJRグループでは、自動券売機で乗車券などの購入に使用できる磁気式プリペイドカードのオレンジカードを発売していた。またJR東日本ではオレンジカードに加え、カードを直接自動改札機に投入して運賃精算に使用できる磁気式プリペイド乗車カード(ストアードフェアシステム)のイオカードのサービスを1991年から首都圏で実施していたが、これに替わるシステムとして2001年からJR東日本管内のエリアで順次導入されたものである。2021年時点での発行枚数は約8,700万枚にのぼる。2006年にはモバイルSuicaを導入し、2016年にはiOS(iPhone)向けのApple Pay、2018年にはAndroid向けのGoogle Payにも対応した(モバイルSuica発行枚数は2023年時点で2,000万枚にもなる)。2021年時点での発行枚数は約8,700万枚にも及び、交通系ICカードの中では最多である。
「Suica」の名称はJR東日本の登録商標(登録番号第4430532号)である。「Suica」は「Super Urban Intelligent CArd (スーパー・アーバン・インテリジェント・カード)」に由来するもので(頭字語)、同時に「スイスイ行けるICカード」の意味も持たせている。
また、親しみやすくするため果実のスイカと語呂合わせし(バクロニム)、カード表面の緑色のデザインもスイカ風としている。ロゴマークも、JR東日本のイメージカラーである緑と線路(旧国鉄路線を表す地図記号)でスイカを表現している。ロゴマークでは「ic」の部分が反転表記されており、ICカードであることをアピールしている。
イメージキャラクターはペンギンで、イラストレーターのさかざきちはるがデザインした。
Suicaカードの裏面の右下に記載される番号は「JE」で始まる17桁の英数字であるが、この「JE」はJR東日本の英語表記「JR East」から採ったものである。モバイルSuica(詳細は後述)にも、この「JE」で始まる個別の番号が振り分けられている。
技術的には、ソニーが開発した非接触型ICカード技術である「FeliCa」を採用している。非接触型のため、パスケースや鞄などから取り出す必要はなく、パスケースごとタッチしても利用できる。なお、読み取り可能範囲が半径10cm程度あるので空中を通しても利用可能な場合があるが、Suicaと改札機との通信時間を確保するため、Suicaやパスケースなどを読み取り機に(かざすのではなく)タッチさせて改札機を通過する使い方、すなわち「タッチ&ゴー」をJR東日本では推奨している。カードを機械に反応させる方法が人によって様々であることは実験段階から判明していたため、その統一を目指す方法として導入当初は「タッチ&ゴー」のキャッチフレーズを宣伝で使用し、正しい使い方の定着を図った。
FeliCaはすべて13.56MHz帯の周波数の無線を使用して通信・発電するため、通信可能圏内にある複数のFeliCaが通信可能となる。アンチコリジョンに対応していれば複数枚のカードを重ねても干渉しないとされており、本カードは対応しているが、電子マネーカードの「Edy」(現:楽天Edy)は非対応で、本カードとEdyを重ねて使用しようとすると相互に干渉することがある。さらに、複数枚のFeliCaが読み取り機からの電波を奪い合い、通信に必要なエネルギーを供給できずにエラーを起こしてしまうことがある。また、IC運転免許証とも相互干渉を起こし、エラーとなる場合もある。
当初はJR東日本の首都圏エリアでのみ利用可能であったが、2007年3月18日から「PASMO」との相互利用が開始され、その後、利用可能区間の拡大並びに日本各地のICカードとの相互利用の開始が行われた。
2013年3月23日には全国10種類の交通系ICカードの相互利用サービスが開始され、PASMO・Kitaca・TOICA・manaca・ICOCA・PiTaPa・SUGOCA・nimoca・はやかけんとの間で相互利用が可能となった。相互利用エリアは北海道から九州地方まで日本の広範囲に広がり、前掲のICカードをどれか1種類所有していれば、相互利用サービスを実施している各社局の鉄道・バスに乗車することができる(ただし相互利用カードのエリア内であってもシステムの都合上、一部利用できない鉄道・バス事業者がある)。
このうちPiTaPaを除く9種類については、電子マネー機能の相互利用サービスも行われている。なおPiTaPaは法律上クレジットカードに準ずる扱いで、加えて相互利用開始時までにシステムの改修が間に合わないため、電子マネー機能の相互利用は当分の間実施されない(詳細は後述)。
Suicaのサービスエリアについては下記の利用可能エリアを参照。発行3社のSuicaは基本的な機能に変わりはないが、カード・定期券の発売や払い戻しはそれぞれの発行事業者でのみ行う。発行をしない発売事業者については自社でカード・Suica定期券の発売はせず、一部でJR東日本発行のSuicaを発売する。紛失・盗難時の取り扱いにも制限があったり取り扱いのない場合もある。発売しない事業者では導入(チャージ等の取扱)のみ。
ストアードフェア(SF)部分はJR東日本が発行。
カードの呼称と色は発行各社によって異なる。基本的に銀色の地にSuicaのロゴが入ったデザインである。JR東日本発行のカードは黄緑色、東京臨海高速鉄道は水色、東京モノレールの旧デザインカードは橙色のアクセントが入ったカードである。
JR東日本では、2008年(平成20年)11月からペンギンの絵柄と電子マネー対応マークの位置を変更した。モノレールSuicaは2009年(平成21年)4月6日からデザインを一新し、銀地に緑の絵(擬人化したモノレール)が描かれた新デザインのSuicaカードに変更した。りんかいSuicaは2010年(平成22年)10月8日から電子マネー対応マークの位置を右上に変更し、右下にりんかるの絵柄が入ったデザインに変更した。いずれも、電子マネー対応マークの下に、緑色の丸が2個付いている。
Suicaのカードには以下の種類がある。
上記の各Suica乗車券にはリライト機能がついており、Suicaカード(無記名式)に後から個人情報を登録すればMy Suica(記名式)に、さらにMy Suicaに定期券を追加購入してSuica定期券に変更することもできる。また、Suica定期券から定期券部分を払い戻してMy Suicaに変更することも可能だが、Suica定期券やMy SuicaからSuicaカード(無記名式)に変更することはできない。
また、「こども用Suica」には有効期限があり(小学校卒業年の3月31日⇒満12歳に達する日(誕生日前日)以後の最初の3月31日まで有効)、期限が過ぎると使用できなくなる。引き続き、大人用として利用する場合は、取り扱い窓口や多機能券売機で大人用に変更する手続を行う必要がある。
Suicaカード(無記名式)は2007年(平成19年)3月17日までJR東日本ではSuicaイオカードと呼称していたが、翌18日からのサービス変更を機に発売終了となった。なお、同日まで東京モノレール・東京臨海高速鉄道が発行していたSF専用カードは、元々「モノレールSuicaカード」「りんかいSuicaカード」という名称であった。これらのカードは、識別用の切り欠きが2か所あった(当時からの定期券および現行のSuicaカードは記名式Suicaとカードを共用しているため切り欠きが1か所となっている)。
Suicaイオカードおよび2007年(平成19年)3月17日以前に発売したモノレールSuica・りんかいSuica(いずれもカード右側に切り欠きが2箇所ある)は、現在販売されている無記名式のSuicaカードとほぼ同様に利用できるが、リライト機能がないため、My SuicaやSuica定期券などの記名式カードに転用することはできない。
2007年(平成19年)3月17日以前に発行された定期券専用カード(カード右側の切り欠きが1箇所ある)は、定期券情報を消去することでMy Suicaとして使用でき、新たな定期券情報を付加することも可能である。
2003年(平成15年)以前の旧Suicaカード(定期券用・イオカード類共に)は電子マネー機能が無いため、電子マネーサービスは利用できない。このほか電子マネーシステムを使用している事業者(Suicaエリアの佐渡汽船、各ICカードエリアのタクシー事業者等)でも利用できないほか、乗車券システムを使用している事業者の一部(Suicaエリアのジェイアールバス関東等)でも利用できない場合がある。それ以外の事業者においても、機能や取扱いの一部に制限を有する場合がある。なお、2008年(平成20年)4月以降はJR駅の機器でのチャージ、履歴表示、定期券機能追加ができず、機器に挿入すると新カードへの交換を要求する画面が表示される。電子マネー非対応の旧カードに定期券機能を追加する場合は、みどりの窓口で対応可能である。
また、2008年(平成20年)以前の電子マネーマークに緑丸の記載がないカードのうち、記名式カードではSuicaインターネットサービスなどの現行サービスが利用できない。
これらの旧SuicaカードはJRの主な駅の自動券売機、多機能券売機、みどりの窓口で手数料無料で現行のカードに交換できる。
一般向けに発売されているSuicaカードのほか、以下の物も同様に利用可能である。
Suicaカードは、Suicaエリア内・新幹線停車駅の主要駅に設置されたみどりの窓口や多機能券売機、キヨスク、NewDays、一部の指定席券売機で発売されている。Suica定期券は、みどりの窓口、指定席券売機、多機能券売機で発売されている。なお、一般向けには「購入」「発売」と表現しているが、規約上Suicaカードの「所有権」はカード発行各社に帰属しており、正確には「貸与」となる。
新規購入時にはデポジット(預り金)500円が購入者から徴収され、発売額のうちデポジット分を差し引いた分が、乗車券および電子マネーの充当分となる。デポジット制はカードの使い捨てを防止する観点から用いられているもので、カードを返却・払い戻した際には全額返金される(後述)。
SuicaおよびモノレールSuicaの発売額は1,000円、2,000円、3,000円、4,000円、5,000円、10,000円の6種類(デポジット500円を含む、500円を引いた額がチャージ額に入る)が設定されており、新規購入時のチャージ残額が指定可能とされている。なおりんかいSuicaの発売額は窓口では1,000円(チャージ額500円+デポジット500円)、自動定期券発売機では2,000円(チャージ額1,500円+デポジット500円)、地域連携ICカードは各カードによって発売額が異なる。
また定期券を新規購入する場合は、定期運賃とデポジットを合算した額が発売額となるが、既に所持しているSuicaに定期券機能を追加する場合は、デポジットは必要とされない。Suicaエリアからエリア外の区間にまたがる定期券の場合はSuicaではなく、通常の磁気式定期券が発行される。SuicaエリアからTOICAエリアの区間にまたがる定期券の場合はJR東日本側ではSuica定期券の発行が可能。
カードのチャージ(入金)は、自動券売機(緑色)・多機能券売機(黒色、設置されていない駅もある)・チャージ専用機(ピンク色、設置されていない駅もある)・自動精算機・キオスク・NewDaysや一部大手コンビニエンスストア(ファミリーマート、ミニストップ、ローソン、セブン-イレブン、スリーエフ、セイコーマート)•セブン銀行ATM(2019年6月開始)を始めとするSuicaに対応した一部店舗(→「Suicaショッピングサービス」を参照)、PASMOなど相互利用可能な他社局線の駅にある券売機や入金機などで対応している。最大20,000円までの入金に対応し、同じカードの繰り返し使用を可能としている。自動券売機での1回当たりの入金金額は500円・1,000円・2,000円・3,000円・5,000円・10,000円である。乗り越しの場合は自動精算機や改札窓口で10円単位の入金が可能である。なお、JR以外のPASMO事業者の券売機では、10円単位での入金ができるものもある。
みどりの窓口や東京モノレールの一部の駅を除く改札口の窓口、オレンジカード、旧磁気式イオカードでの入金には非対応である。また、ビューカード以外のクレジットカードは多機能券売機(黒色)にて定期券購入時に同時に入金する場合に限り対応しており、また磁気定期券からSuica定期券への発行替え時も可能となっている。以前は西日本旅客鉄道(JR西日本)のICOCA地域内のみどりの窓口において一般クレジットカードでの入金に対応していたが、SMART ICOCAの一般クレジットカード取扱開始に伴い、2008年(平成20年)6月30日をもって取扱終了となった。
利用履歴は、センターサーバに記録されている直近100件の利用履歴と、Suicaカードに記録されている直近20件の利用履歴と3件の詳細履歴がある。このうち、センターサーバに記録されている直近100件の利用履歴は、駅の自動券売機とカード発売機で印字が可能である。この履歴は最大で100件まで何回も印字できる。ただし、センターサーバがメンテナンスなどで停止(定例メンテナンス・毎日0時50分 - 5時)していると印字することができない。なお、一部の駅ではPASMOと同様に直近20件まで印字でき、再印字も可能である。また、Suicaカードに記録されている直近20件の利用履歴も駅の自動券売機とカード発売機で表示できるほか、PASMOエリアの機器では履歴がカードに残っている間は何度でも履歴印字が可能である。ただし、利用から26週間を経過した履歴は印字されない。そのほかにも、FeliCa用リーダライタ(パソリなど)とソニーから提供されたり、または同梱・組み込み済みの専用ソフトを使用したりして読み出すこともできる。カード上の利用履歴を記憶する領域には相互認証不要でリードアクセス可能なサービスファイルがオーバーラップされており、暗号鍵なしで利用履歴の読み出しが可能であるが、ライトアクセスには相互認証が必要である。さらに、一部の有志により履歴表示用フリーソフトも開発・配布されている。
利用履歴には日付・入場駅・出場駅・残額・通番などが記録され、入・出場のほか、入金した時や電子マネーとして物品購入した時にも記録が追加される。
Suicaには、さらに3件の詳細な利用履歴が記録されており、改札通過時刻(時分まで)や金額が記録されている。これは定期券での通過情報も含まれていて、こちらも有志が作成した一部のフリーソフトを利用し読み出すことが可能である。
My SuicaおよびSuica定期券は氏名などの個人情報が登録されているため、取扱駅で本人確認書類を提示した上で紛失したカードのID番号を申告すると、定期券(有効な場合)と入金金額を保証して再発行される。再発行の際には手数料520円と預り金500円の合計1,020円が必要である。紛失したカードが発見された場合は、みどりの窓口に届け出た上で預り金の500円が返却される。一方、Suicaカード(無記名式)には紛失時の残高保証はない。
カードの返却・払い戻しの際には、デポジットが無手数料で返金されるほか、定期券部分の払い戻し可能額やSF部分の残額がある場合、それらの金額から払い戻し手数料として220円を差し引いた額がデポジットとあわせて返金される(10円未満は10円単位に切り上げ)。残額が220円以下の場合はデポジットのみの返金となる 。残額が払い戻し手数料より少ないときでも(220円未満であっても)デポジットは全額返金される。返却および払い戻しは各発行会社で行う(例:モノレールSuicaをJR東日本の窓口で払い戻すことはできない)。不正乗車などの不正行為があった場合やSuicaを紛失した場合は、デポジットは返却されない。
記名式Suica・モバイルSuicaは、一定期間利用またはチャージしない場合、ロックが掛かり、残額があったとしてもそのままでは自動改札を通過できず、または電子マネーが利用できなくなる。「一定期間」については公表されていない。このカード一時停止は、次項のカード有効期限とは異なる。
解除方法は、次のいずれか
最後に機器などでカードを利用した日から10年間利用がない場合、失効となりカードそのものが無効となる。
失効したカードは、Suicaエリア内のJR東日本各駅のみどりの窓口において、新しいカードに交換し残額を移し替えるか、手数料を差し引いて残額とデポジットを払い戻すことができる。ただしどちらの方法でも古いカードは記念カードなどであっても回収されることになる。
なお、訪日観光客向けに発売する「Welcome Suica(短期用)」は、「発売から28日間有効」、「Welcome Suica(長期用)」および企業や地方自治体など法人向けに発売する「Suica Light」は、「発行日から最大6ヶ月間のレファレンスペーパーに記載の期日まで有効」と違いがあるものの、いずれのカードも残額の払いもどしは行えない。
交通系ICカード全国相互利用サービスに基づくSuicaエリア外での利用は各ICカードの利用条件に従うため、ここではSuicaエリアでの利用について記す。
改札口を通る際には、カード読み取り部にSuicaを軽くタッチする。乗車駅のタッチ時に初乗り運賃相当額がチャージ(入金)されているか、または有効な定期券情報があるかを確認する。この時点でチャージ金額は引き去らない。降車駅のタッチ時に乗車した区間の運賃が全額精算される。徴収金額と残額は、その都度改札機のディスプレイに表示される。2007年3月17日までは、入場時に初乗り運賃が差し引かれ、降車時に乗車区間の運賃と初乗り運賃との差額が差し引かれるシステムを採用していたが、PASMOとの相互利用に伴い現行方法に改められた。
Suica定期券の場合は、定期区間外を利用する場合でも、Suica乗車券としての利用方法を準用する形で使用できる。そのため、定期区間外と区間内をまたがる際の精算も、出場駅の自動改札機にタッチすることで自動的に行われる。自動精算機におけるチャージ額を利用しての精算は、定期券情報・入場記録のないICカードに限り可能である(基本的には磁気式イオカードやオレンジカードと同様の扱いとなる)。
SuicaエリアでSuica等のICカードを利用して各鉄道路線に乗車した場合は、出場するまで出場駅が確定しないため、基本的に振替輸送を受けることができないが、Suica定期券の有効期間内で券面表示区間内での乗車に限りそれを受けることができる。ICカードで入場後、輸送混乱で出場せざるを得なくなった時は、駅係員の設定で有人改札または自動改札機で入場処理を取り消さなければならない。また、通常時には入場券のような同一駅での入・出場はできない。入・出場駅が同じの場合、実際乗車経路を申告し、相当の運賃を支払わなければならない。2021年3月13日からJR東日本の駅で入場券(「タッチでエキナカ」)としての使用を開始した。ただし、簡易Suica改札機(右写真)および新幹線改札口では、引き続き入場券としての使用はできない。
なお、事業者によっても取扱いが異なる場合がある。
主に使用可能エリアの郊外にある小さな駅では自動改札機が設置されていないことが多いが、この場合は簡易Suica改札機にタッチして入・出場する。タッチしないと入場処理が記録されたままで次回から利用できない。ただし、簡易Suica改札機が設置されている多くの駅では自動精算機が設置されていないため、チャージ金額(残高)が不足の場合は駅係員に申し出て精算する必要があるが、無人駅など一部の駅では改札外の自動券売機・簡易チャージ機(一部の駅のみ)や場合によっては駅近在の交通系IC対応コンビニエンスストアで不足分をチャージし、改めて改札機にタッチすることで精算できる。それも困難な場合、後日別の駅の有人改札で申告し精算となる。なお、有人改札や後日精算の場合は実際の乗車経路の正規運賃を現金で精算となりSF運賃やSF残額の適用はできない。
普通乗車券なら途中下車できる101km以上の利用(東京や新潟・仙台の大都市近郊区間内を除く)であっても、Suicaで入場した場合は、途中駅で下車した時点で運賃計算は打ち切りとなり、再度入場した駅から計算し直す形となる(Suica定期券等の定期券区間内を除く。区間によっては必ずしも割高になるとは限らない)。但し、首都圏エリアと新潟エリア・仙台エリアは、Suica利用区間の在来線全域が大都市近郊区間に当たる為、Suicaではなく普通乗車券を利用したとしても原則的に途中下車出来ないことに変わりはない。
普通乗車券にある割引制度(学生割引・ジパング倶楽部等)は事前に割引証(大人の休日倶楽部は専用クレジット決済)で割引切符を買うことで成立するので、Suicaのチャージでは割引が効かない。なお障害者割引については下車駅で申告することで対応可能である。
Suicaエリア内の駅から入場し、エリア外の駅にて出場(精算)する際は、駅員が利用履歴等を確認できるSuica用携帯表示器を使って入場記録を確認した上で現金で精算を行う。この場合、Suicaに出場記録を書き込めないため、出場証明書を発行してもらい、次回利用時にSuicaエリア内の駅窓口などで出場処理を行う必要がある。なお、Suicaエリア内でもシステムに対応していない一部の駅や改札口では利用できない場合がある。
また、Suicaエリア内の駅から入場し、他社線に磁気きっぷで乗り換える際には、連絡用自動改札機へ先に磁気きっぷを投入し、その後Suicaをタッチすることで連絡用自動改札機を利用できる(一部改札機を除く)。
入場駅・出場駅の両方がSuicaが使える駅であっても、エリアをまたいだ利用はできない。また、一旦Suicaエリア外を使用する場合でも「Suicaエリア内だけを通過した場合の最短経路」を利用したと見なして計算されるため、実際の乗車経路よりも割高な運賃を差し引かれる場合がある。
Suicaで入場し、東北/上越/北陸/山形新幹線を新幹線乗換改札経由で利用する場合に、運賃自動精算を行う仕組みが、2008年(平成20年)3月に導入された。
具体的には、Suicaで入場し、乗換駅にある新幹線乗換改札機で、新幹線で使用する乗車券を投入、次にSuicaをタッチすると、乗換駅までの運賃が自動精算される。なお、新幹線で使用する乗車券の発駅が特定都区市内(東京都区内・東京山手線内・横浜市内・仙台市内)に該当する場合は、特定都区市内との境界駅までの運賃で自動精算される。また、特定都区市内の駅からSuicaで入場し新幹線に乗り換えた場合は、新幹線乗換駅でSuicaの入場情報が自動的に取り消される(最初から新幹線の乗車券で入場したのと同じ処理がなされる)。なお、新幹線乗車券の発着駅が最初から特定都区市内にある場合は、Suicaを利用しないようアナウンスされている。
Suica定期券で定期区間内に新幹線停車駅が2駅以上含まれている場合は、その区間の新幹線を別途特急券を用意せずに利用できる(新幹線下車駅の乗り換え改札で自由席特急料金相当額がチャージ額から引き去りされる)。
多くの情報を非接触で通信可能なFeliCaの利点を活用し、JR東日本では首都圏エリア内の普通列車グリーン車自由席でSuicaを利用したグリーン車システムを導入している。これは所持しているICカードにグリーン券の情報を書き込み、カード自体をグリーン券として使用するシステムで、乗車前に磁気グリーン券を購入した場合の「事前料金」と同額で乗車できるほか、車内改札が省略されるなど、より快適にグリーン車を利用できる。
このサービスは2020年4月現在、JR東日本の東京近郊各線(湘南新宿ライン・上野東京ライン・宇都宮線・高崎線・上越線・両毛線・東海道線・伊東線・横須賀線・総武本線・成田線・内房線・外房線・常磐線)の普通列車グリーン車自由席で実施されており、Suica(モバイルSuicaはクレジットカード情報登録済みのもののみ)のほかPASMO(モバイルPASMOを除く)、TOICA、Kitacaの4種類のICカードでのみ利用可能である。その他の相互利用可能なICカードとEASYモバイルSuica・モバイルPASMOでは利用できない。
JR東日本が発行するカード型Suica(My Suica・Welcome Suica含む)・モバイルSuica(Android・iOS)及び定期券情報非搭載の地域連携ICカードでは、特別企画乗車券をSuica等に書き込んで使用することが出来る。Suicaの定期券機能を利用するもので、他社発行のSuica(りんかいSuicaなど)や有効な定期券情報のあるSuica、記念Suica、Suicaイオカードには搭載不可。またモバイルSuicaでは大人用のみ利用できる。
以下の切符が搭載可能。カード型ではフリー区間内駅の指定券・定期券が発行可能な券売機、モバイル型ではモバイルSuicaアプリで購入(Suicaへの書き込み)を行う。カード型では券面にIC企画乗車券の内容が印字される。ただし、Welcome Suicaは券面に印字されずレファレンスペーパーでの対応となる。
これらのIC企画乗車券でフリー区間外にまたがって利用した場合、乗車経路にかかわらず乗車駅または下車駅から最短となるフリー区間出入口駅との区間で精算される。例として、都区内パスまたは東京フリーきっぷを搭載したSuicaで利用当日に大宮駅から上野駅まで利用した場合、大宮駅から最短の出入口駅である浮間舟渡駅までの運賃がSuicaのSF残額から精算される。
通常、交通系ICカードは入場券として使用することは出来ない(券売機で入場券を購入する必要がある)が、JR東日本のSuicaエリアのうち、自動改札機を有する在来線駅では、同一駅の自動改札機で入場後2時間以内に出場した場合、当該駅の入場券相当額を差し引いて出場出来るIC入場サービス「タッチでエキナカ」を行っている。
利用に際しては、以下の条件がある。
Suicaエリアのバスはジェイアールバス関東とジェイアールバス東北と岩手県北自動車(みちのりバス東北)の一部路線のみである。
運賃前払い方式の区間では、乗車時に乗車口のカードリーダーにSuicaを軽くタッチするとチャージ金額から運賃が引き去られ、精算が完了する。降車時にはカードリーダーにSuicaをタッチする必要はない。運賃後払い方式の区間では、乗車口のカードリーダーにSuicaを軽くタッチする。初乗り運賃相当額がチャージ(入金)されているか、または有効な定期券情報があるかを確認する。この時点でチャージ金額は引き去らない。降車口のタッチ時に乗車した区間の運賃が全額精算される。いずれの場合も支払金額と残額が、その都度運賃精算機のディスプレイに表示される。
また、Suicaには、PASMOエリアのバス定期券機能やバスIC一日乗車券の情報を搭載することもできる。これらの扱いについての詳細はPASMO#バス・路面電車での利用を参照。
SAPICAとの共通利用に当たってはSAPICAエリアが「Suica札幌エリア」として設定されているが、本項では割愛する(SAPICA#利用可能な事業者・路線参照)。
「首都圏エリア」「仙台エリア」「新潟エリア」「盛岡エリア」「青森エリア」「秋田エリア」の6エリアに分けられる。原則としてエリア内完結の乗車(事業者間を跨ぐ利用を含む)のみ利用可能。それぞれ中心駅(東京駅・仙台駅・新潟駅・盛岡駅・青森駅・秋田駅)からおおむね 100 – 200 km 程度の範囲に設定されている。この他、「沖縄エリア」(沖縄都市モノレール)、「札幌エリア」(SAPICAと並行導入)がある。
このエリアのJR東日本線はおおむね東京近郊区間と一致する。「関東地方と周辺県の1都9県にわたる。ただし、JR東日本の烏山線、久留里線では利用できない。
このエリアのJR東日本線はおおむね仙台近郊区間に一致するが、エリアの縁部では利用可能駅が絞られている。宮城県、山形県、福島県の3県にわたる。
おおむね新潟近郊区間に一致する。全て新潟県内。
首都圏・仙台・新潟エリアとは異なり大都市近郊区間には指定されていない。全て岩手県内。
首都圏・仙台・新潟エリアとは異なり大都市近郊区間には指定されていない。全て青森県内。
首都圏・仙台・新潟エリアとは異なり大都市近郊区間には指定されていない。全て秋田県内。
出張や観光などで来訪するSuica所持者向けサービスの色彩が強く、チャージやSF乗車は可能であるもののSuica定期券を発売しないなどサービスの制限がある。全て沖縄県の沖縄本島内。
ジェイアールバス関東の以下の高速路線・一般路線にSF残額で乗車可能。高速路線は共同運行他社便でも利用可(一部の臨時便、みと号の茨城交通運行便、新宿 - 本庄・伊勢崎線の群馬中央バス運行委託便を除く)
Suicaと以下のカードを発行する事業者のエリアで相互利用・片利用が可能になっている。また、各ICカードと完全互換仕様で別名で発行されるICカード(例:nimocaに対するめじろんnimoca、でんでんnimoca、ICAS nimoca)も利用可能である(詳細は各ICカードの頁を参照)。ただし、一部事業者が発行している特割用カードは各社とも相互利用の対象外となっているほか、それ以外にも取扱いに制限がある。
地域の事業者の場合、地域独自サービスと全国の相互利用を両立させることは導入費用や運用面(独自サービスの改廃の必要など)の問題があり、上記のように相互利用に制限が多かった。このため、地域のバス事業者が運行するバスの定期券や各種割引などの地域独自サービスの機能に加えて、Suica エリアおよび Suica と相互利用を行っているエリアで利用可能な乗車券や電子マネーなどのSuica サービスが1枚で利用可能な 2in1 カードとしての地域連携ICカードが開発された。Suica カードとして完全な機能があるため、Suicaとして上記の相互利用が可能。2021年3月より、栃木県で「totra」、岩手県で「Iwate Green Pass」がそれぞれサービスを開始し、2022年2月から5月にかけて、さらに関東・東北地方の5県で新たに9種類の地域連携ICカードのサービスが開始される。
Suicaを電子マネーとして利用するサービスは、2003年(平成15年)11月よりVIEW Suica会員限定でSuica電子マネーモニターを実施した結果、これが好評だったため、翌2004年(平成16年)3月22日より正式にSuicaショッピングサービス(後に、Suica電子マネーに改称)としてスタートした。この電子マネーサービスについても、2013年(平成25年)3月23日の交通系ICカード全国相互利用サービス開始に伴い、PiTaPaを除く全国9種類のICカードが利用できる。
JRバスグループをはじめとする高速バスチケット予約サービスのWebサイト「高速バスネット」では2010年(平成22年)11月24日から、チケット購入にSuicaネット決済が利用できるシステムを、当時取り扱っていた120路線のうち90路線を皮切りにサービスを開始した。
決済には、後述のSuicaインターネットサービスもしくはモバイルSuicaが利用できる。
なお、この事前予約制高速バスの利用方法は電子マネーによるネット決済で予め乗車券を購入するものであり、バス車内での精算は利用できない。ただし一部の路線・便では事前予約制の指定席と、当日精算の自由席の2種類の座席を設置している場合があり、後者では路線バスの細項で前述の通り、ICカードが利用できる場合がある。
本カードの機能を搭載したクレジット機能付きのカードには、VIEWカードの機能にSuica定期券の機能を追加した標準のVIEW Suicaを筆頭に、駅ビル・旅行商品・航空会社などのポイント・会員管理機能とSuicaイオカードの機能を統合したダブルフェイスカード、銀行キャッシュカードとビューカード機能、Suicaイオカードを一体化したジョイントカードがある。
VIEW Suicaカードでは500円の預かり金(デポジット)は不要である。チャージ(入金)は現金のほか、クレジットカード機能を用いて現金を使わずにチャージすることも可能で、2006年(平成18年)10月1日からは自動改札機を通過する時に自動入金される「オートチャージ」サービスも開始されている。2009年(平成21年)7月27日からはインターネットに接続されたパソコンからPaSoRiを用いてチャージできる「Suicaインターネットサービス」を開始した。
JR東日本では多様な情報を搭載できるICカードの特性を活用し、身分証明書(IDカード)にSuica機能を付加した学生証・社員証のサービスを行っている。
通常のSuicaと同様に乗車券や電子マネー、定期券として利用できるだけでなく、学校では証明書発行認証や出欠席確認、図書館システム等、企業ではビルの入退館管理、勤務実績管理等、法人ごとの独自機能を搭載することができ、電子マネーシステムによる校内・社内の物販や飲食の決済などにも活用することができる。またIDカードの管理を一括して外部へ委託することで、法人側はコスト削減などのメリットを得ることができる。
JR東日本はまず自社の本社入館証としてSuicaの実証試験を実施した上で、2005年(平成17年)11月7日、三菱電機を皮切りにSuica付社員証の提供を開始した。これは同社の本社移転に合わせて導入したもので、同社が入居する東京ビルディングの入退館管理システムに対応している。またカードフェイスには顔写真もプリントされているが、個人用に顔写真を印刷したSuicaを発行するのはこれが初めてであった。
また明治大学では2008年(平成20年)11月から、Suica付学生証の発行を開始した。学生証のサービスはその後も東京造形大学などで順次開始されている。
一方、東急電鉄ではこのサービスと同様の「PASMO機能付ICカード」のサービスを2010年(平成22年)3月から開始し、さらに2011年(平成23年)3月からはSuica付学生証・社員証とPASMO付学生証・社員証の相互提供サービスが開始され、ひとつの法人でSuica付かPASMO付のどちらかを学生・社員が自由に選択できるようになるなど、利便性が高まっている。
またキオスクやNEWDAYSなどではタイムカードとして勤務実績管理が行われている。
ゆうちょ銀行では2009年(平成21年)4月20日から、キャッシュカードにSuica機能を搭載した「ゆうちょICキャッシュカードSuica」を発行している。
クレジット機能のないカード型Suicaとしては初の採用例で、新規入手時のデポジットは必要ない。2009年(平成21年)開始時、新規もしくは磁気カード(日本郵政公社名以前に発行されたカード)からの変更の場合、手数料は無料だが、既に使用しているICキャッシュカード(日本郵政公社時代のカードを含む)から切り替える場合は手数料が1,030円(2014年4月現在)必要となっている。またキャッシュカードに搭載されているSuica機能はMy Suicaと同じ扱いとなるため、紛失時には再発行が可能である。届け出は、Suica対応駅のみどりの窓口とゆうちょ銀行の双方に行う必要がある(後者の書類提出は、郵便局の貯金窓口でも対応可能)。新カードは、みどりの窓口への紛失届出時点での残高がチャージされた状態で届けられる。
通常のSuicaと同様、現金をチャージすれば乗車券や電子マネーとして使用できるが、定期券情報は搭載できない。またキャッシュカードの残高からSuicaへの銀行チャージはできない。
当初、Suica付キャッシュカードの申し込みを受付できるのはSuicaエリア内のゆうちょ銀行および郵便局の貯金窓口に限られていたが、2011年(平成23年)1月4日からJR東日本の営業エリアに含まれる各都県全域に拡大している。なお、同行ではICキャッシュカードとしてEdy搭載カードも発行していたが、これについては2010年(平成22年)2月26日受付分をもって発行を終了した。
Suipoは、2006年(平成18年)7月から2010年(平成22年)6月まで実施された、Suicaとポスター、携帯電話の3つを組み合わせた広告システムである。
ポスターに付属するリーダにSuica、モバイルSuica、PASMOをタッチすると、事前に登録した携帯電話のメールアドレス宛てにキャンペーン情報などのメールが配信され、商品の詳細情報をWebサイトで閲覧したり、プレゼントの抽選などができるもので、2006年(平成18年)7月31日から新宿駅の松下電器(現・パナソニック)のキャンペーンより展開が開始され、翌2007年(平成19年)4月2日からは池袋駅、上野駅、東京駅、新橋駅、渋谷駅の5駅を加えた計6駅に設置箇所が拡大された。
このSuipoの情報提供システムに関する計算機間の情報転送等の技術はNECなどが特許を取得しており、特許庁は2008年(平成20年)3月7日付で「情報提供システム、広告センター、および情報提供方法」の名称で登録している(出願番号2001-094507、登録番号4089166)。
その後、表示灯が運営する駅周辺地図「Navita」と組み合わせたサービス「Navita with Suipo」も実施されたが、Suipoのサービスは2010年(平成22年)6月下旬に終了した。
JR東日本・JR東海でのモバイルSuica会員のみのサービスとして、アプリから所定の操作を行うことで、乗車時に携帯電話を、東北・北海道・山形・秋田・上越・北陸の各新幹線の自動改札機にタッチするだけのチケットレスで利用することが可能である。
なお2020年3月14日からはえきねっとおよびe5489の新サービス「新幹線eチケットサービス」が利用可能となる。こちらはモバイルSuicaの他、カードタイプのSuicaや交通系ICカード全国相互利用サービスの対象カードでも利用できる。
ほかに、JR東海の「エクスプレス予約」への入会・登録を行えば、東海道・山陽新幹線のネット予約・チケットレスサービス(EX-ICサービス)が利用できる。この場合は、モバイルSuicaをVIEWカード〈TypeIIおよび法人カードを除く〉で登録・決済しており、エクスプレス予約の決済もVIEWカードで利用する、という条件の会員が、事前にモバイルSuicaで操作し「ビュー・エクスプレス特約」へ登録するか、JR東海エクスプレスカードまたは「J-WESTカード・エクスプレス」に入会し、モバイルSuicaを乗車用の交通系ICカードに登録することが必要である。いずれの場合も、モバイルSuicaの年会費とは別に、ビュー・エクスプレス特約(VIEWカードでの決済)、またはエクスプレスカード等の年会費が別途徴収される(1,000円+消費税)。
なおJR東日本の各新幹線と、東海道・山陽新幹線(EX-ICサービス)では、予約・乗車時に行うモバイルSuicaの操作が異なる。
2017年9月30日に、東海道新幹線・山陽新幹線(東京-博多)(九州新幹線-鹿児島中央=2022年6月25日延伸予定)でSuicaなどのIC乗車カードで乗車するシステムスマートEXを導入、ただし新幹線はSFではなく、ネット予約でカード番号を登録して・クレジットカードでの決済になる。年会費無料で利用でき、EX-ICと同様(ただし、EX-IC自体は、従来通りの提供を継続)な利用方法になる。
また2018年4月1日よりJR東日本の新幹線一部区間(東京-盛岡・新潟・上越妙高・ガーラ湯沢間、盛岡-新青森・盛岡-秋田・福島-新庄の相互間)で新幹線自動改札機にタッチすることでSF残高を利用して新幹線の普通車自由席(盛岡以北は指定席の空席)に乗車できる「タッチでGo!新幹線」のサービスが開始された。このサービスはSuicaおよびSuicaと相互利用可能なICカードであれば利用可能である。
首都圏主要駅を中心に、現金・Suica(相互利用可能な全カード)にも対応したキーレスロッカーの設置が進んでいる。操作はタッチパネルで行い、レシートも発行される。現金払いでカギを使うときと同様に、預けるときにタッチしたカードで引き出す時にタッチすると取り出せる仕組み。Suicaのみでレシートが出ないタイプもある。
埼玉県さいたま市大宮区にある鉄道博物館では、2007年(平成19年)10月14日の開館からSuica電子マネーサービスを利用した入退館システムを導入していたが、入館ゲートの更新に伴う入館方法の変更により当サービスは2019年(令和元年)12月10日をもって終了した。
このシステムは入館時に入館チケット販売機でSuica等のICカードで入館料を決済し、入館情報をカードに登録する。ICカードをそのまま入館チケットとして使用し、改札機にタッチして入館する。また退館時には、改札機に入館時に登録したICカードをタッチして退館する。同館は入場や体験展示の予約のほとんどがICカードによる登録制となっているため、Suica等を所持していない入館者には入館券の代わりに、電子マネー非対応の貸出用入館ICカードが貸与され、退館時に有人窓口で返却する方式をとっていた。システム変更後は、券売機で現金またはSuica等を使用して入館チケットを購入し、入館ゲートで係員にチケットを見せて入館する方式に改められた。
以前と同様に館内のレストラン・ミュージアムショップ・自動販売機でもSuica等の電子マネーによる決済が利用できる。なお相互利用しているICカードのうちPiTaPaは電子マネー相互利用対象外なので、電子マネー決済の利用ができない。また、しばらく使えなかったmanacaは利用できるようになった。
2009年(平成21年)シーズンから、JR東日本が株式を保有するJリーグ・ジェフユナイテッド市原・千葉のシーズンチケットとして使用が開始された。
シーズンシート購入者には、ジェフ千葉オリジナルのカードフェイスがプリントされた「Suica機能付ワンタッチパスICカード」と席種・席番が記載された「情報カード」が配布される。フクダ電子アリーナ開催のホームゲームでは、入場ゲートでカードリーダーにワンタッチパスをタッチして入場を認証し、入場後はシート位置のスタンド入口で係員に情報カードを提示して自席へ入場する流れとなる。このため入場の際にはワンタッチパスと情報カードの両方を携行する必要がある。なおワンタッチパスは現金をチャージすれば、通常のSuicaと同様に乗車券機能や電子マネー機能を利用できる。「シーズンチケットの価格+デポジット(500円)」で発売されるが、カードは継続使用するため、次シーズンもシーズンシートを継続購入すればデポジットは不要である。小中学生用は発売されていない。
なおJR東日本は2009年(平成21年)から、ジェフ千葉のユニフォームの背中部分スポンサーを務めており、Suicaのロゴタイプがプリントされている。2018年(平成30年)からは鎖骨部分スポンサーも併せて勤めている(表記は「JR東日本」)。
インターネットを経由してクレジットカードから手持ちのSuicaへチャージしたり、インターネットでの物品購入にSuica決済が利用できるシステムで、2009年(平成21年)7月27日にサービスが開始された。
このサービスを利用するには利用登録が必要で、チャージ・決済にはパソコンにFeliCaポート/パソリなどのカードリーダライタを接続することが必要である。
サービスで利用できるSuicaは記名式カード(Suica付きビューカード、My Suica、Suica定期券、Suica付学生証・社員証、ゆうちょICキャッシュカードSuica)のみで、無記名式カードは利用できない。このうちMy SuicaとSuica定期券については、電子マネーマーク下に緑色の丸の記載がある2008年(平成20年)11月以降に発行されたもののみ利用可能で、それ以前に発行された旧カードでは利用できない。またモバイルSuica、モノレールSuica、りんかいSuica、相互利用を実施しているICカードでも利用できない。なお、決済に使用できるクレジットカードはビューカードのみである。
このサービスでSuicaにチャージできる金額は、1,000円以上であれば1円単位で指定可能である。また、チャージ上限の20,000円まで一度にチャージする「満タンチャージ」機能もある。
2019年(令和元年)5月、JR東日本は同サービスについて同年8月から2021年2月頃にかけて順次終了していくことを発表した。そして2021年2月9日、Suicaインターネットサービスの提供を完全に終了した。
日立製作所が、2013年(平成25年)7月1日より、JR東日本のSuicaの利用履歴をビッグデータ解析技術で活用し、駅エリアのマーケティング情報として企業に提供するサービス「日立 交通系ICカード分析情報提供サービス」を開始した。首都圏のJR東日本・私鉄約1800駅を対象として、Suicaの利用履歴や記名式Suicaに登録された年齢・性別から駅の利用者の性別・年代別構成、乗降時間帯などの各種利用情報を平日・休日別に集計・分析し、可視化したリポートを毎月提供する。PASMOなど相互利用カードのデータは集計・分析の対象にならない。
しかし、日立製作所側からはこのサービスが開始前に発表されたものの、JR東日本側が公式に何も発表しなかったため、国土交通省が個人情報保護法に抵触しないか事情を聞き、「事前に利用者に説明すべきだった」と注意したことが全国紙に報道された。
JR東日本では、日立への提供時にSuicaのIDを他の番号に振り直しSuicaIDとの紐づけができないようになっていること、利用者の氏名・電話番号や、電子マネーでの購買履歴を提供していないことなどから、「個人情報には該当せず、法的に問題はない」としているが、7月25日に「よくいただくお問い合わせ」として、この件に関するプレスリリースを発表し、説明が不十分だったことを謝罪し、希望者を売却対象から除外(オプトアウト)することを発表した。
その後、有識者会議を設置して今後の対応を検討し、結論が出るまでは社外へのデータ提供は行わないことを発表した。
JR東日本は2022年5月から個人が特定されない形で首都圏を中心とした利用客が多い約600駅のデータを自治体や企業などに提供する「駅カルテ」のサービスを開始することを同年3月16日に発表した。
将来的には、JR東日本の全路線でSuicaを使えるようにし、そのために必要な磁気券のIC化を行い、Suicaの東日本管内全国展開を目指すとしている。これに関連して、2023年5月27日からセンターサーバー方式を採用した上で北東北3県(青森県・秋田県・岩手県)の一部路線でSuicaが利用可能となった。同年夏以降首都圏・仙台・新潟エリアおいても従来方式との併用の上導入し、2026年度中に完全移行予定。完全移行後はJR東日本管内のSuicaエリアの統合などを計画していることも発表されている。
2022年7月22日に仙台エリアとして山形県内の奥羽本線(山形線)のかみのやま温泉駅 - 村山駅間と左沢線の北山形駅 - 寒河江駅間各駅のSuica対応が2024年春以降と発表された。その後2024年3月16日よりサービス開始することが発表された。
2023年6月20日に首都圏エリアとして長野県内の篠ノ井線の松本駅 - 篠ノ井駅間と信越本線の篠ノ井駅 - 長野駅間、大糸線の松本駅 - 穂高駅間各駅のSuica対応が2025年春以降と発表された。
JR東日本をはじめとする関東地方の鉄道バス事業者等の関東ICカード相互利用協議会は、2023年3月頃からの予定で障害者用ICカードの導入を2022年9月14日に発表した。
その後2022年12月22日にサービス開始予定日が2023年3月18日であると発表された。 | [
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"text": "Suica(スイカ)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京モノレール・東京臨海高速鉄道が発行するサイバネ規格準拠のICカード乗車券である。後者はそれぞれ「モノレールSuica」・「りんかいSuica」の名称で発行。",
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"text": "2001年に導入開始。ソニーの非接触型ICカードFeliCaの技術を用いた乗車カード・電子マネーで、プリペイド方式の乗車券の機能をはじめ、定期券、駅売店等全国の交通系ICカード対応商店での支払いに使えるSuica電子マネーの機能を併せ持つ。JR東日本の規約においては「ICチップを内蔵するカード等に記録された金銭的価値等」と定義されている。ソニーの非接触型ICカードFeliCaの技術を用いた交通系ICカードの先駆けであり、その後ICOCA(JR西日本)やPASMO(関東私鉄)といったJR他社や大手私鉄を中心として全国でFelicaの技術を用いた交通系ICカードが拡大導入されていった。2013年には交通系ICカード全国相互利用サービスを開始し、定期券を除く乗車券機能や電子マネーが全国の対応する交通機関・店舗で利用可能となった。",
"title": "概要"
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"text": "かつてJRグループでは、自動券売機で乗車券などの購入に使用できる磁気式プリペイドカードのオレンジカードを発売していた。またJR東日本ではオレンジカードに加え、カードを直接自動改札機に投入して運賃精算に使用できる磁気式プリペイド乗車カード(ストアードフェアシステム)のイオカードのサービスを1991年から首都圏で実施していたが、これに替わるシステムとして2001年からJR東日本管内のエリアで順次導入されたものである。2021年時点での発行枚数は約8,700万枚にのぼる。2006年にはモバイルSuicaを導入し、2016年にはiOS(iPhone)向けのApple Pay、2018年にはAndroid向けのGoogle Payにも対応した(モバイルSuica発行枚数は2023年時点で2,000万枚にもなる)。2021年時点での発行枚数は約8,700万枚にも及び、交通系ICカードの中では最多である。",
"title": "概要"
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"text": "「Suica」の名称はJR東日本の登録商標(登録番号第4430532号)である。「Suica」は「Super Urban Intelligent CArd (スーパー・アーバン・インテリジェント・カード)」に由来するもので(頭字語)、同時に「スイスイ行けるICカード」の意味も持たせている。",
"title": "概要"
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"text": "また、親しみやすくするため果実のスイカと語呂合わせし(バクロニム)、カード表面の緑色のデザインもスイカ風としている。ロゴマークも、JR東日本のイメージカラーである緑と線路(旧国鉄路線を表す地図記号)でスイカを表現している。ロゴマークでは「ic」の部分が反転表記されており、ICカードであることをアピールしている。",
"title": "概要"
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"text": "イメージキャラクターはペンギンで、イラストレーターのさかざきちはるがデザインした。",
"title": "概要"
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"text": "Suicaカードの裏面の右下に記載される番号は「JE」で始まる17桁の英数字であるが、この「JE」はJR東日本の英語表記「JR East」から採ったものである。モバイルSuica(詳細は後述)にも、この「JE」で始まる個別の番号が振り分けられている。",
"title": "概要"
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"text": "技術的には、ソニーが開発した非接触型ICカード技術である「FeliCa」を採用している。非接触型のため、パスケースや鞄などから取り出す必要はなく、パスケースごとタッチしても利用できる。なお、読み取り可能範囲が半径10cm程度あるので空中を通しても利用可能な場合があるが、Suicaと改札機との通信時間を確保するため、Suicaやパスケースなどを読み取り機に(かざすのではなく)タッチさせて改札機を通過する使い方、すなわち「タッチ&ゴー」をJR東日本では推奨している。カードを機械に反応させる方法が人によって様々であることは実験段階から判明していたため、その統一を目指す方法として導入当初は「タッチ&ゴー」のキャッチフレーズを宣伝で使用し、正しい使い方の定着を図った。",
"title": "概要"
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"text": "FeliCaはすべて13.56MHz帯の周波数の無線を使用して通信・発電するため、通信可能圏内にある複数のFeliCaが通信可能となる。アンチコリジョンに対応していれば複数枚のカードを重ねても干渉しないとされており、本カードは対応しているが、電子マネーカードの「Edy」(現:楽天Edy)は非対応で、本カードとEdyを重ねて使用しようとすると相互に干渉することがある。さらに、複数枚のFeliCaが読み取り機からの電波を奪い合い、通信に必要なエネルギーを供給できずにエラーを起こしてしまうことがある。また、IC運転免許証とも相互干渉を起こし、エラーとなる場合もある。",
"title": "概要"
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"text": "当初はJR東日本の首都圏エリアでのみ利用可能であったが、2007年3月18日から「PASMO」との相互利用が開始され、その後、利用可能区間の拡大並びに日本各地のICカードとの相互利用の開始が行われた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "2013年3月23日には全国10種類の交通系ICカードの相互利用サービスが開始され、PASMO・Kitaca・TOICA・manaca・ICOCA・PiTaPa・SUGOCA・nimoca・はやかけんとの間で相互利用が可能となった。相互利用エリアは北海道から九州地方まで日本の広範囲に広がり、前掲のICカードをどれか1種類所有していれば、相互利用サービスを実施している各社局の鉄道・バスに乗車することができる(ただし相互利用カードのエリア内であってもシステムの都合上、一部利用できない鉄道・バス事業者がある)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "このうちPiTaPaを除く9種類については、電子マネー機能の相互利用サービスも行われている。なおPiTaPaは法律上クレジットカードに準ずる扱いで、加えて相互利用開始時までにシステムの改修が間に合わないため、電子マネー機能の相互利用は当分の間実施されない(詳細は後述)。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 13,
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"text": "Suicaのサービスエリアについては下記の利用可能エリアを参照。発行3社のSuicaは基本的な機能に変わりはないが、カード・定期券の発売や払い戻しはそれぞれの発行事業者でのみ行う。発行をしない発売事業者については自社でカード・Suica定期券の発売はせず、一部でJR東日本発行のSuicaを発売する。紛失・盗難時の取り扱いにも制限があったり取り扱いのない場合もある。発売しない事業者では導入(チャージ等の取扱)のみ。",
"title": "取扱事業者一覧"
},
{
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"text": "ストアードフェア(SF)部分はJR東日本が発行。",
"title": "取扱事業者一覧"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "カードの呼称と色は発行各社によって異なる。基本的に銀色の地にSuicaのロゴが入ったデザインである。JR東日本発行のカードは黄緑色、東京臨海高速鉄道は水色、東京モノレールの旧デザインカードは橙色のアクセントが入ったカードである。",
"title": "種類"
},
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"tag": "p",
"text": "JR東日本では、2008年(平成20年)11月からペンギンの絵柄と電子マネー対応マークの位置を変更した。モノレールSuicaは2009年(平成21年)4月6日からデザインを一新し、銀地に緑の絵(擬人化したモノレール)が描かれた新デザインのSuicaカードに変更した。りんかいSuicaは2010年(平成22年)10月8日から電子マネー対応マークの位置を右上に変更し、右下にりんかるの絵柄が入ったデザインに変更した。いずれも、電子マネー対応マークの下に、緑色の丸が2個付いている。",
"title": "種類"
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{
"paragraph_id": 17,
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"text": "Suicaのカードには以下の種類がある。",
"title": "種類"
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{
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"text": "上記の各Suica乗車券にはリライト機能がついており、Suicaカード(無記名式)に後から個人情報を登録すればMy Suica(記名式)に、さらにMy Suicaに定期券を追加購入してSuica定期券に変更することもできる。また、Suica定期券から定期券部分を払い戻してMy Suicaに変更することも可能だが、Suica定期券やMy SuicaからSuicaカード(無記名式)に変更することはできない。",
"title": "種類"
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"text": "また、「こども用Suica」には有効期限があり(小学校卒業年の3月31日⇒満12歳に達する日(誕生日前日)以後の最初の3月31日まで有効)、期限が過ぎると使用できなくなる。引き続き、大人用として利用する場合は、取り扱い窓口や多機能券売機で大人用に変更する手続を行う必要がある。",
"title": "種類"
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{
"paragraph_id": 20,
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"text": "Suicaカード(無記名式)は2007年(平成19年)3月17日までJR東日本ではSuicaイオカードと呼称していたが、翌18日からのサービス変更を機に発売終了となった。なお、同日まで東京モノレール・東京臨海高速鉄道が発行していたSF専用カードは、元々「モノレールSuicaカード」「りんかいSuicaカード」という名称であった。これらのカードは、識別用の切り欠きが2か所あった(当時からの定期券および現行のSuicaカードは記名式Suicaとカードを共用しているため切り欠きが1か所となっている)。",
"title": "種類"
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{
"paragraph_id": 21,
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"text": "Suicaイオカードおよび2007年(平成19年)3月17日以前に発売したモノレールSuica・りんかいSuica(いずれもカード右側に切り欠きが2箇所ある)は、現在販売されている無記名式のSuicaカードとほぼ同様に利用できるが、リライト機能がないため、My SuicaやSuica定期券などの記名式カードに転用することはできない。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "2007年(平成19年)3月17日以前に発行された定期券専用カード(カード右側の切り欠きが1箇所ある)は、定期券情報を消去することでMy Suicaとして使用でき、新たな定期券情報を付加することも可能である。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "2003年(平成15年)以前の旧Suicaカード(定期券用・イオカード類共に)は電子マネー機能が無いため、電子マネーサービスは利用できない。このほか電子マネーシステムを使用している事業者(Suicaエリアの佐渡汽船、各ICカードエリアのタクシー事業者等)でも利用できないほか、乗車券システムを使用している事業者の一部(Suicaエリアのジェイアールバス関東等)でも利用できない場合がある。それ以外の事業者においても、機能や取扱いの一部に制限を有する場合がある。なお、2008年(平成20年)4月以降はJR駅の機器でのチャージ、履歴表示、定期券機能追加ができず、機器に挿入すると新カードへの交換を要求する画面が表示される。電子マネー非対応の旧カードに定期券機能を追加する場合は、みどりの窓口で対応可能である。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "また、2008年(平成20年)以前の電子マネーマークに緑丸の記載がないカードのうち、記名式カードではSuicaインターネットサービスなどの現行サービスが利用できない。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "これらの旧SuicaカードはJRの主な駅の自動券売機、多機能券売機、みどりの窓口で手数料無料で現行のカードに交換できる。",
"title": "種類"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "一般向けに発売されているSuicaカードのほか、以下の物も同様に利用可能である。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "Suicaカードは、Suicaエリア内・新幹線停車駅の主要駅に設置されたみどりの窓口や多機能券売機、キヨスク、NewDays、一部の指定席券売機で発売されている。Suica定期券は、みどりの窓口、指定席券売機、多機能券売機で発売されている。なお、一般向けには「購入」「発売」と表現しているが、規約上Suicaカードの「所有権」はカード発行各社に帰属しており、正確には「貸与」となる。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "新規購入時にはデポジット(預り金)500円が購入者から徴収され、発売額のうちデポジット分を差し引いた分が、乗車券および電子マネーの充当分となる。デポジット制はカードの使い捨てを防止する観点から用いられているもので、カードを返却・払い戻した際には全額返金される(後述)。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "SuicaおよびモノレールSuicaの発売額は1,000円、2,000円、3,000円、4,000円、5,000円、10,000円の6種類(デポジット500円を含む、500円を引いた額がチャージ額に入る)が設定されており、新規購入時のチャージ残額が指定可能とされている。なおりんかいSuicaの発売額は窓口では1,000円(チャージ額500円+デポジット500円)、自動定期券発売機では2,000円(チャージ額1,500円+デポジット500円)、地域連携ICカードは各カードによって発売額が異なる。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "また定期券を新規購入する場合は、定期運賃とデポジットを合算した額が発売額となるが、既に所持しているSuicaに定期券機能を追加する場合は、デポジットは必要とされない。Suicaエリアからエリア外の区間にまたがる定期券の場合はSuicaではなく、通常の磁気式定期券が発行される。SuicaエリアからTOICAエリアの区間にまたがる定期券の場合はJR東日本側ではSuica定期券の発行が可能。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "カードのチャージ(入金)は、自動券売機(緑色)・多機能券売機(黒色、設置されていない駅もある)・チャージ専用機(ピンク色、設置されていない駅もある)・自動精算機・キオスク・NewDaysや一部大手コンビニエンスストア(ファミリーマート、ミニストップ、ローソン、セブン-イレブン、スリーエフ、セイコーマート)•セブン銀行ATM(2019年6月開始)を始めとするSuicaに対応した一部店舗(→「Suicaショッピングサービス」を参照)、PASMOなど相互利用可能な他社局線の駅にある券売機や入金機などで対応している。最大20,000円までの入金に対応し、同じカードの繰り返し使用を可能としている。自動券売機での1回当たりの入金金額は500円・1,000円・2,000円・3,000円・5,000円・10,000円である。乗り越しの場合は自動精算機や改札窓口で10円単位の入金が可能である。なお、JR以外のPASMO事業者の券売機では、10円単位での入金ができるものもある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "みどりの窓口や東京モノレールの一部の駅を除く改札口の窓口、オレンジカード、旧磁気式イオカードでの入金には非対応である。また、ビューカード以外のクレジットカードは多機能券売機(黒色)にて定期券購入時に同時に入金する場合に限り対応しており、また磁気定期券からSuica定期券への発行替え時も可能となっている。以前は西日本旅客鉄道(JR西日本)のICOCA地域内のみどりの窓口において一般クレジットカードでの入金に対応していたが、SMART ICOCAの一般クレジットカード取扱開始に伴い、2008年(平成20年)6月30日をもって取扱終了となった。",
"title": "システム"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "利用履歴は、センターサーバに記録されている直近100件の利用履歴と、Suicaカードに記録されている直近20件の利用履歴と3件の詳細履歴がある。このうち、センターサーバに記録されている直近100件の利用履歴は、駅の自動券売機とカード発売機で印字が可能である。この履歴は最大で100件まで何回も印字できる。ただし、センターサーバがメンテナンスなどで停止(定例メンテナンス・毎日0時50分 - 5時)していると印字することができない。なお、一部の駅ではPASMOと同様に直近20件まで印字でき、再印字も可能である。また、Suicaカードに記録されている直近20件の利用履歴も駅の自動券売機とカード発売機で表示できるほか、PASMOエリアの機器では履歴がカードに残っている間は何度でも履歴印字が可能である。ただし、利用から26週間を経過した履歴は印字されない。そのほかにも、FeliCa用リーダライタ(パソリなど)とソニーから提供されたり、または同梱・組み込み済みの専用ソフトを使用したりして読み出すこともできる。カード上の利用履歴を記憶する領域には相互認証不要でリードアクセス可能なサービスファイルがオーバーラップされており、暗号鍵なしで利用履歴の読み出しが可能であるが、ライトアクセスには相互認証が必要である。さらに、一部の有志により履歴表示用フリーソフトも開発・配布されている。",
"title": "システム"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "利用履歴には日付・入場駅・出場駅・残額・通番などが記録され、入・出場のほか、入金した時や電子マネーとして物品購入した時にも記録が追加される。",
"title": "システム"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "Suicaには、さらに3件の詳細な利用履歴が記録されており、改札通過時刻(時分まで)や金額が記録されている。これは定期券での通過情報も含まれていて、こちらも有志が作成した一部のフリーソフトを利用し読み出すことが可能である。",
"title": "システム"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "My SuicaおよびSuica定期券は氏名などの個人情報が登録されているため、取扱駅で本人確認書類を提示した上で紛失したカードのID番号を申告すると、定期券(有効な場合)と入金金額を保証して再発行される。再発行の際には手数料520円と預り金500円の合計1,020円が必要である。紛失したカードが発見された場合は、みどりの窓口に届け出た上で預り金の500円が返却される。一方、Suicaカード(無記名式)には紛失時の残高保証はない。",
"title": "システム"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "カードの返却・払い戻しの際には、デポジットが無手数料で返金されるほか、定期券部分の払い戻し可能額やSF部分の残額がある場合、それらの金額から払い戻し手数料として220円を差し引いた額がデポジットとあわせて返金される(10円未満は10円単位に切り上げ)。残額が220円以下の場合はデポジットのみの返金となる 。残額が払い戻し手数料より少ないときでも(220円未満であっても)デポジットは全額返金される。返却および払い戻しは各発行会社で行う(例:モノレールSuicaをJR東日本の窓口で払い戻すことはできない)。不正乗車などの不正行為があった場合やSuicaを紛失した場合は、デポジットは返却されない。",
"title": "システム"
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "記名式Suica・モバイルSuicaは、一定期間利用またはチャージしない場合、ロックが掛かり、残額があったとしてもそのままでは自動改札を通過できず、または電子マネーが利用できなくなる。「一定期間」については公表されていない。このカード一時停止は、次項のカード有効期限とは異なる。",
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"text": "解除方法は、次のいずれか",
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"text": "最後に機器などでカードを利用した日から10年間利用がない場合、失効となりカードそのものが無効となる。",
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"text": "失効したカードは、Suicaエリア内のJR東日本各駅のみどりの窓口において、新しいカードに交換し残額を移し替えるか、手数料を差し引いて残額とデポジットを払い戻すことができる。ただしどちらの方法でも古いカードは記念カードなどであっても回収されることになる。",
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "なお、訪日観光客向けに発売する「Welcome Suica(短期用)」は、「発売から28日間有効」、「Welcome Suica(長期用)」および企業や地方自治体など法人向けに発売する「Suica Light」は、「発行日から最大6ヶ月間のレファレンスペーパーに記載の期日まで有効」と違いがあるものの、いずれのカードも残額の払いもどしは行えない。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "交通系ICカード全国相互利用サービスに基づくSuicaエリア外での利用は各ICカードの利用条件に従うため、ここではSuicaエリアでの利用について記す。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "改札口を通る際には、カード読み取り部にSuicaを軽くタッチする。乗車駅のタッチ時に初乗り運賃相当額がチャージ(入金)されているか、または有効な定期券情報があるかを確認する。この時点でチャージ金額は引き去らない。降車駅のタッチ時に乗車した区間の運賃が全額精算される。徴収金額と残額は、その都度改札機のディスプレイに表示される。2007年3月17日までは、入場時に初乗り運賃が差し引かれ、降車時に乗車区間の運賃と初乗り運賃との差額が差し引かれるシステムを採用していたが、PASMOとの相互利用に伴い現行方法に改められた。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "Suica定期券の場合は、定期区間外を利用する場合でも、Suica乗車券としての利用方法を準用する形で使用できる。そのため、定期区間外と区間内をまたがる際の精算も、出場駅の自動改札機にタッチすることで自動的に行われる。自動精算機におけるチャージ額を利用しての精算は、定期券情報・入場記録のないICカードに限り可能である(基本的には磁気式イオカードやオレンジカードと同様の扱いとなる)。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "SuicaエリアでSuica等のICカードを利用して各鉄道路線に乗車した場合は、出場するまで出場駅が確定しないため、基本的に振替輸送を受けることができないが、Suica定期券の有効期間内で券面表示区間内での乗車に限りそれを受けることができる。ICカードで入場後、輸送混乱で出場せざるを得なくなった時は、駅係員の設定で有人改札または自動改札機で入場処理を取り消さなければならない。また、通常時には入場券のような同一駅での入・出場はできない。入・出場駅が同じの場合、実際乗車経路を申告し、相当の運賃を支払わなければならない。2021年3月13日からJR東日本の駅で入場券(「タッチでエキナカ」)としての使用を開始した。ただし、簡易Suica改札機(右写真)および新幹線改札口では、引き続き入場券としての使用はできない。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "なお、事業者によっても取扱いが異なる場合がある。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "主に使用可能エリアの郊外にある小さな駅では自動改札機が設置されていないことが多いが、この場合は簡易Suica改札機にタッチして入・出場する。タッチしないと入場処理が記録されたままで次回から利用できない。ただし、簡易Suica改札機が設置されている多くの駅では自動精算機が設置されていないため、チャージ金額(残高)が不足の場合は駅係員に申し出て精算する必要があるが、無人駅など一部の駅では改札外の自動券売機・簡易チャージ機(一部の駅のみ)や場合によっては駅近在の交通系IC対応コンビニエンスストアで不足分をチャージし、改めて改札機にタッチすることで精算できる。それも困難な場合、後日別の駅の有人改札で申告し精算となる。なお、有人改札や後日精算の場合は実際の乗車経路の正規運賃を現金で精算となりSF運賃やSF残額の適用はできない。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "普通乗車券なら途中下車できる101km以上の利用(東京や新潟・仙台の大都市近郊区間内を除く)であっても、Suicaで入場した場合は、途中駅で下車した時点で運賃計算は打ち切りとなり、再度入場した駅から計算し直す形となる(Suica定期券等の定期券区間内を除く。区間によっては必ずしも割高になるとは限らない)。但し、首都圏エリアと新潟エリア・仙台エリアは、Suica利用区間の在来線全域が大都市近郊区間に当たる為、Suicaではなく普通乗車券を利用したとしても原則的に途中下車出来ないことに変わりはない。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "普通乗車券にある割引制度(学生割引・ジパング倶楽部等)は事前に割引証(大人の休日倶楽部は専用クレジット決済)で割引切符を買うことで成立するので、Suicaのチャージでは割引が効かない。なお障害者割引については下車駅で申告することで対応可能である。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "Suicaエリア内の駅から入場し、エリア外の駅にて出場(精算)する際は、駅員が利用履歴等を確認できるSuica用携帯表示器を使って入場記録を確認した上で現金で精算を行う。この場合、Suicaに出場記録を書き込めないため、出場証明書を発行してもらい、次回利用時にSuicaエリア内の駅窓口などで出場処理を行う必要がある。なお、Suicaエリア内でもシステムに対応していない一部の駅や改札口では利用できない場合がある。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "また、Suicaエリア内の駅から入場し、他社線に磁気きっぷで乗り換える際には、連絡用自動改札機へ先に磁気きっぷを投入し、その後Suicaをタッチすることで連絡用自動改札機を利用できる(一部改札機を除く)。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "入場駅・出場駅の両方がSuicaが使える駅であっても、エリアをまたいだ利用はできない。また、一旦Suicaエリア外を使用する場合でも「Suicaエリア内だけを通過した場合の最短経路」を利用したと見なして計算されるため、実際の乗車経路よりも割高な運賃を差し引かれる場合がある。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "Suicaで入場し、東北/上越/北陸/山形新幹線を新幹線乗換改札経由で利用する場合に、運賃自動精算を行う仕組みが、2008年(平成20年)3月に導入された。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "具体的には、Suicaで入場し、乗換駅にある新幹線乗換改札機で、新幹線で使用する乗車券を投入、次にSuicaをタッチすると、乗換駅までの運賃が自動精算される。なお、新幹線で使用する乗車券の発駅が特定都区市内(東京都区内・東京山手線内・横浜市内・仙台市内)に該当する場合は、特定都区市内との境界駅までの運賃で自動精算される。また、特定都区市内の駅からSuicaで入場し新幹線に乗り換えた場合は、新幹線乗換駅でSuicaの入場情報が自動的に取り消される(最初から新幹線の乗車券で入場したのと同じ処理がなされる)。なお、新幹線乗車券の発着駅が最初から特定都区市内にある場合は、Suicaを利用しないようアナウンスされている。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "Suica定期券で定期区間内に新幹線停車駅が2駅以上含まれている場合は、その区間の新幹線を別途特急券を用意せずに利用できる(新幹線下車駅の乗り換え改札で自由席特急料金相当額がチャージ額から引き去りされる)。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "多くの情報を非接触で通信可能なFeliCaの利点を活用し、JR東日本では首都圏エリア内の普通列車グリーン車自由席でSuicaを利用したグリーン車システムを導入している。これは所持しているICカードにグリーン券の情報を書き込み、カード自体をグリーン券として使用するシステムで、乗車前に磁気グリーン券を購入した場合の「事前料金」と同額で乗車できるほか、車内改札が省略されるなど、より快適にグリーン車を利用できる。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "このサービスは2020年4月現在、JR東日本の東京近郊各線(湘南新宿ライン・上野東京ライン・宇都宮線・高崎線・上越線・両毛線・東海道線・伊東線・横須賀線・総武本線・成田線・内房線・外房線・常磐線)の普通列車グリーン車自由席で実施されており、Suica(モバイルSuicaはクレジットカード情報登録済みのもののみ)のほかPASMO(モバイルPASMOを除く)、TOICA、Kitacaの4種類のICカードでのみ利用可能である。その他の相互利用可能なICカードとEASYモバイルSuica・モバイルPASMOでは利用できない。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "JR東日本が発行するカード型Suica(My Suica・Welcome Suica含む)・モバイルSuica(Android・iOS)及び定期券情報非搭載の地域連携ICカードでは、特別企画乗車券をSuica等に書き込んで使用することが出来る。Suicaの定期券機能を利用するもので、他社発行のSuica(りんかいSuicaなど)や有効な定期券情報のあるSuica、記念Suica、Suicaイオカードには搭載不可。またモバイルSuicaでは大人用のみ利用できる。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "以下の切符が搭載可能。カード型ではフリー区間内駅の指定券・定期券が発行可能な券売機、モバイル型ではモバイルSuicaアプリで購入(Suicaへの書き込み)を行う。カード型では券面にIC企画乗車券の内容が印字される。ただし、Welcome Suicaは券面に印字されずレファレンスペーパーでの対応となる。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "これらのIC企画乗車券でフリー区間外にまたがって利用した場合、乗車経路にかかわらず乗車駅または下車駅から最短となるフリー区間出入口駅との区間で精算される。例として、都区内パスまたは東京フリーきっぷを搭載したSuicaで利用当日に大宮駅から上野駅まで利用した場合、大宮駅から最短の出入口駅である浮間舟渡駅までの運賃がSuicaのSF残額から精算される。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "通常、交通系ICカードは入場券として使用することは出来ない(券売機で入場券を購入する必要がある)が、JR東日本のSuicaエリアのうち、自動改札機を有する在来線駅では、同一駅の自動改札機で入場後2時間以内に出場した場合、当該駅の入場券相当額を差し引いて出場出来るIC入場サービス「タッチでエキナカ」を行っている。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "利用に際しては、以下の条件がある。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "Suicaエリアのバスはジェイアールバス関東とジェイアールバス東北と岩手県北自動車(みちのりバス東北)の一部路線のみである。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "運賃前払い方式の区間では、乗車時に乗車口のカードリーダーにSuicaを軽くタッチするとチャージ金額から運賃が引き去られ、精算が完了する。降車時にはカードリーダーにSuicaをタッチする必要はない。運賃後払い方式の区間では、乗車口のカードリーダーにSuicaを軽くタッチする。初乗り運賃相当額がチャージ(入金)されているか、または有効な定期券情報があるかを確認する。この時点でチャージ金額は引き去らない。降車口のタッチ時に乗車した区間の運賃が全額精算される。いずれの場合も支払金額と残額が、その都度運賃精算機のディスプレイに表示される。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "また、Suicaには、PASMOエリアのバス定期券機能やバスIC一日乗車券の情報を搭載することもできる。これらの扱いについての詳細はPASMO#バス・路面電車での利用を参照。",
"title": "乗車券機能の利用方法"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "SAPICAとの共通利用に当たってはSAPICAエリアが「Suica札幌エリア」として設定されているが、本項では割愛する(SAPICA#利用可能な事業者・路線参照)。",
"title": "利用可能エリア"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "「首都圏エリア」「仙台エリア」「新潟エリア」「盛岡エリア」「青森エリア」「秋田エリア」の6エリアに分けられる。原則としてエリア内完結の乗車(事業者間を跨ぐ利用を含む)のみ利用可能。それぞれ中心駅(東京駅・仙台駅・新潟駅・盛岡駅・青森駅・秋田駅)からおおむね 100 – 200 km 程度の範囲に設定されている。この他、「沖縄エリア」(沖縄都市モノレール)、「札幌エリア」(SAPICAと並行導入)がある。",
"title": "利用可能エリア"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "このエリアのJR東日本線はおおむね東京近郊区間と一致する。「関東地方と周辺県の1都9県にわたる。ただし、JR東日本の烏山線、久留里線では利用できない。",
"title": "利用可能エリア"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "このエリアのJR東日本線はおおむね仙台近郊区間に一致するが、エリアの縁部では利用可能駅が絞られている。宮城県、山形県、福島県の3県にわたる。",
"title": "利用可能エリア"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "おおむね新潟近郊区間に一致する。全て新潟県内。",
"title": "利用可能エリア"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "首都圏・仙台・新潟エリアとは異なり大都市近郊区間には指定されていない。全て岩手県内。",
"title": "利用可能エリア"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "首都圏・仙台・新潟エリアとは異なり大都市近郊区間には指定されていない。全て青森県内。",
"title": "利用可能エリア"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "首都圏・仙台・新潟エリアとは異なり大都市近郊区間には指定されていない。全て秋田県内。",
"title": "利用可能エリア"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "出張や観光などで来訪するSuica所持者向けサービスの色彩が強く、チャージやSF乗車は可能であるもののSuica定期券を発売しないなどサービスの制限がある。全て沖縄県の沖縄本島内。",
"title": "利用可能エリア"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "ジェイアールバス関東の以下の高速路線・一般路線にSF残額で乗車可能。高速路線は共同運行他社便でも利用可(一部の臨時便、みと号の茨城交通運行便、新宿 - 本庄・伊勢崎線の群馬中央バス運行委託便を除く)",
"title": "利用可能エリア"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "Suicaと以下のカードを発行する事業者のエリアで相互利用・片利用が可能になっている。また、各ICカードと完全互換仕様で別名で発行されるICカード(例:nimocaに対するめじろんnimoca、でんでんnimoca、ICAS nimoca)も利用可能である(詳細は各ICカードの頁を参照)。ただし、一部事業者が発行している特割用カードは各社とも相互利用の対象外となっているほか、それ以外にも取扱いに制限がある。",
"title": "相互利用"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "地域の事業者の場合、地域独自サービスと全国の相互利用を両立させることは導入費用や運用面(独自サービスの改廃の必要など)の問題があり、上記のように相互利用に制限が多かった。このため、地域のバス事業者が運行するバスの定期券や各種割引などの地域独自サービスの機能に加えて、Suica エリアおよび Suica と相互利用を行っているエリアで利用可能な乗車券や電子マネーなどのSuica サービスが1枚で利用可能な 2in1 カードとしての地域連携ICカードが開発された。Suica カードとして完全な機能があるため、Suicaとして上記の相互利用が可能。2021年3月より、栃木県で「totra」、岩手県で「Iwate Green Pass」がそれぞれサービスを開始し、2022年2月から5月にかけて、さらに関東・東北地方の5県で新たに9種類の地域連携ICカードのサービスが開始される。",
"title": "相互利用"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "Suicaを電子マネーとして利用するサービスは、2003年(平成15年)11月よりVIEW Suica会員限定でSuica電子マネーモニターを実施した結果、これが好評だったため、翌2004年(平成16年)3月22日より正式にSuicaショッピングサービス(後に、Suica電子マネーに改称)としてスタートした。この電子マネーサービスについても、2013年(平成25年)3月23日の交通系ICカード全国相互利用サービス開始に伴い、PiTaPaを除く全国9種類のICカードが利用できる。",
"title": "Suica電子マネー"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "JRバスグループをはじめとする高速バスチケット予約サービスのWebサイト「高速バスネット」では2010年(平成22年)11月24日から、チケット購入にSuicaネット決済が利用できるシステムを、当時取り扱っていた120路線のうち90路線を皮切りにサービスを開始した。",
"title": "Suica電子マネー"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "決済には、後述のSuicaインターネットサービスもしくはモバイルSuicaが利用できる。",
"title": "Suica電子マネー"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "なお、この事前予約制高速バスの利用方法は電子マネーによるネット決済で予め乗車券を購入するものであり、バス車内での精算は利用できない。ただし一部の路線・便では事前予約制の指定席と、当日精算の自由席の2種類の座席を設置している場合があり、後者では路線バスの細項で前述の通り、ICカードが利用できる場合がある。",
"title": "Suica電子マネー"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "本カードの機能を搭載したクレジット機能付きのカードには、VIEWカードの機能にSuica定期券の機能を追加した標準のVIEW Suicaを筆頭に、駅ビル・旅行商品・航空会社などのポイント・会員管理機能とSuicaイオカードの機能を統合したダブルフェイスカード、銀行キャッシュカードとビューカード機能、Suicaイオカードを一体化したジョイントカードがある。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "VIEW Suicaカードでは500円の預かり金(デポジット)は不要である。チャージ(入金)は現金のほか、クレジットカード機能を用いて現金を使わずにチャージすることも可能で、2006年(平成18年)10月1日からは自動改札機を通過する時に自動入金される「オートチャージ」サービスも開始されている。2009年(平成21年)7月27日からはインターネットに接続されたパソコンからPaSoRiを用いてチャージできる「Suicaインターネットサービス」を開始した。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "JR東日本では多様な情報を搭載できるICカードの特性を活用し、身分証明書(IDカード)にSuica機能を付加した学生証・社員証のサービスを行っている。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "通常のSuicaと同様に乗車券や電子マネー、定期券として利用できるだけでなく、学校では証明書発行認証や出欠席確認、図書館システム等、企業ではビルの入退館管理、勤務実績管理等、法人ごとの独自機能を搭載することができ、電子マネーシステムによる校内・社内の物販や飲食の決済などにも活用することができる。またIDカードの管理を一括して外部へ委託することで、法人側はコスト削減などのメリットを得ることができる。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "JR東日本はまず自社の本社入館証としてSuicaの実証試験を実施した上で、2005年(平成17年)11月7日、三菱電機を皮切りにSuica付社員証の提供を開始した。これは同社の本社移転に合わせて導入したもので、同社が入居する東京ビルディングの入退館管理システムに対応している。またカードフェイスには顔写真もプリントされているが、個人用に顔写真を印刷したSuicaを発行するのはこれが初めてであった。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "また明治大学では2008年(平成20年)11月から、Suica付学生証の発行を開始した。学生証のサービスはその後も東京造形大学などで順次開始されている。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "一方、東急電鉄ではこのサービスと同様の「PASMO機能付ICカード」のサービスを2010年(平成22年)3月から開始し、さらに2011年(平成23年)3月からはSuica付学生証・社員証とPASMO付学生証・社員証の相互提供サービスが開始され、ひとつの法人でSuica付かPASMO付のどちらかを学生・社員が自由に選択できるようになるなど、利便性が高まっている。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "またキオスクやNEWDAYSなどではタイムカードとして勤務実績管理が行われている。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "ゆうちょ銀行では2009年(平成21年)4月20日から、キャッシュカードにSuica機能を搭載した「ゆうちょICキャッシュカードSuica」を発行している。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "クレジット機能のないカード型Suicaとしては初の採用例で、新規入手時のデポジットは必要ない。2009年(平成21年)開始時、新規もしくは磁気カード(日本郵政公社名以前に発行されたカード)からの変更の場合、手数料は無料だが、既に使用しているICキャッシュカード(日本郵政公社時代のカードを含む)から切り替える場合は手数料が1,030円(2014年4月現在)必要となっている。またキャッシュカードに搭載されているSuica機能はMy Suicaと同じ扱いとなるため、紛失時には再発行が可能である。届け出は、Suica対応駅のみどりの窓口とゆうちょ銀行の双方に行う必要がある(後者の書類提出は、郵便局の貯金窓口でも対応可能)。新カードは、みどりの窓口への紛失届出時点での残高がチャージされた状態で届けられる。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "通常のSuicaと同様、現金をチャージすれば乗車券や電子マネーとして使用できるが、定期券情報は搭載できない。またキャッシュカードの残高からSuicaへの銀行チャージはできない。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "当初、Suica付キャッシュカードの申し込みを受付できるのはSuicaエリア内のゆうちょ銀行および郵便局の貯金窓口に限られていたが、2011年(平成23年)1月4日からJR東日本の営業エリアに含まれる各都県全域に拡大している。なお、同行ではICキャッシュカードとしてEdy搭載カードも発行していたが、これについては2010年(平成22年)2月26日受付分をもって発行を終了した。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "Suipoは、2006年(平成18年)7月から2010年(平成22年)6月まで実施された、Suicaとポスター、携帯電話の3つを組み合わせた広告システムである。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "ポスターに付属するリーダにSuica、モバイルSuica、PASMOをタッチすると、事前に登録した携帯電話のメールアドレス宛てにキャンペーン情報などのメールが配信され、商品の詳細情報をWebサイトで閲覧したり、プレゼントの抽選などができるもので、2006年(平成18年)7月31日から新宿駅の松下電器(現・パナソニック)のキャンペーンより展開が開始され、翌2007年(平成19年)4月2日からは池袋駅、上野駅、東京駅、新橋駅、渋谷駅の5駅を加えた計6駅に設置箇所が拡大された。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "このSuipoの情報提供システムに関する計算機間の情報転送等の技術はNECなどが特許を取得しており、特許庁は2008年(平成20年)3月7日付で「情報提供システム、広告センター、および情報提供方法」の名称で登録している(出願番号2001-094507、登録番号4089166)。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "その後、表示灯が運営する駅周辺地図「Navita」と組み合わせたサービス「Navita with Suipo」も実施されたが、Suipoのサービスは2010年(平成22年)6月下旬に終了した。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "JR東日本・JR東海でのモバイルSuica会員のみのサービスとして、アプリから所定の操作を行うことで、乗車時に携帯電話を、東北・北海道・山形・秋田・上越・北陸の各新幹線の自動改札機にタッチするだけのチケットレスで利用することが可能である。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "なお2020年3月14日からはえきねっとおよびe5489の新サービス「新幹線eチケットサービス」が利用可能となる。こちらはモバイルSuicaの他、カードタイプのSuicaや交通系ICカード全国相互利用サービスの対象カードでも利用できる。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "ほかに、JR東海の「エクスプレス予約」への入会・登録を行えば、東海道・山陽新幹線のネット予約・チケットレスサービス(EX-ICサービス)が利用できる。この場合は、モバイルSuicaをVIEWカード〈TypeIIおよび法人カードを除く〉で登録・決済しており、エクスプレス予約の決済もVIEWカードで利用する、という条件の会員が、事前にモバイルSuicaで操作し「ビュー・エクスプレス特約」へ登録するか、JR東海エクスプレスカードまたは「J-WESTカード・エクスプレス」に入会し、モバイルSuicaを乗車用の交通系ICカードに登録することが必要である。いずれの場合も、モバイルSuicaの年会費とは別に、ビュー・エクスプレス特約(VIEWカードでの決済)、またはエクスプレスカード等の年会費が別途徴収される(1,000円+消費税)。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "なおJR東日本の各新幹線と、東海道・山陽新幹線(EX-ICサービス)では、予約・乗車時に行うモバイルSuicaの操作が異なる。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "2017年9月30日に、東海道新幹線・山陽新幹線(東京-博多)(九州新幹線-鹿児島中央=2022年6月25日延伸予定)でSuicaなどのIC乗車カードで乗車するシステムスマートEXを導入、ただし新幹線はSFではなく、ネット予約でカード番号を登録して・クレジットカードでの決済になる。年会費無料で利用でき、EX-ICと同様(ただし、EX-IC自体は、従来通りの提供を継続)な利用方法になる。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "また2018年4月1日よりJR東日本の新幹線一部区間(東京-盛岡・新潟・上越妙高・ガーラ湯沢間、盛岡-新青森・盛岡-秋田・福島-新庄の相互間)で新幹線自動改札機にタッチすることでSF残高を利用して新幹線の普通車自由席(盛岡以北は指定席の空席)に乗車できる「タッチでGo!新幹線」のサービスが開始された。このサービスはSuicaおよびSuicaと相互利用可能なICカードであれば利用可能である。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "首都圏主要駅を中心に、現金・Suica(相互利用可能な全カード)にも対応したキーレスロッカーの設置が進んでいる。操作はタッチパネルで行い、レシートも発行される。現金払いでカギを使うときと同様に、預けるときにタッチしたカードで引き出す時にタッチすると取り出せる仕組み。Suicaのみでレシートが出ないタイプもある。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "埼玉県さいたま市大宮区にある鉄道博物館では、2007年(平成19年)10月14日の開館からSuica電子マネーサービスを利用した入退館システムを導入していたが、入館ゲートの更新に伴う入館方法の変更により当サービスは2019年(令和元年)12月10日をもって終了した。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "このシステムは入館時に入館チケット販売機でSuica等のICカードで入館料を決済し、入館情報をカードに登録する。ICカードをそのまま入館チケットとして使用し、改札機にタッチして入館する。また退館時には、改札機に入館時に登録したICカードをタッチして退館する。同館は入場や体験展示の予約のほとんどがICカードによる登録制となっているため、Suica等を所持していない入館者には入館券の代わりに、電子マネー非対応の貸出用入館ICカードが貸与され、退館時に有人窓口で返却する方式をとっていた。システム変更後は、券売機で現金またはSuica等を使用して入館チケットを購入し、入館ゲートで係員にチケットを見せて入館する方式に改められた。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "以前と同様に館内のレストラン・ミュージアムショップ・自動販売機でもSuica等の電子マネーによる決済が利用できる。なお相互利用しているICカードのうちPiTaPaは電子マネー相互利用対象外なので、電子マネー決済の利用ができない。また、しばらく使えなかったmanacaは利用できるようになった。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "2009年(平成21年)シーズンから、JR東日本が株式を保有するJリーグ・ジェフユナイテッド市原・千葉のシーズンチケットとして使用が開始された。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "シーズンシート購入者には、ジェフ千葉オリジナルのカードフェイスがプリントされた「Suica機能付ワンタッチパスICカード」と席種・席番が記載された「情報カード」が配布される。フクダ電子アリーナ開催のホームゲームでは、入場ゲートでカードリーダーにワンタッチパスをタッチして入場を認証し、入場後はシート位置のスタンド入口で係員に情報カードを提示して自席へ入場する流れとなる。このため入場の際にはワンタッチパスと情報カードの両方を携行する必要がある。なおワンタッチパスは現金をチャージすれば、通常のSuicaと同様に乗車券機能や電子マネー機能を利用できる。「シーズンチケットの価格+デポジット(500円)」で発売されるが、カードは継続使用するため、次シーズンもシーズンシートを継続購入すればデポジットは不要である。小中学生用は発売されていない。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "なおJR東日本は2009年(平成21年)から、ジェフ千葉のユニフォームの背中部分スポンサーを務めており、Suicaのロゴタイプがプリントされている。2018年(平成30年)からは鎖骨部分スポンサーも併せて勤めている(表記は「JR東日本」)。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "インターネットを経由してクレジットカードから手持ちのSuicaへチャージしたり、インターネットでの物品購入にSuica決済が利用できるシステムで、2009年(平成21年)7月27日にサービスが開始された。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "このサービスを利用するには利用登録が必要で、チャージ・決済にはパソコンにFeliCaポート/パソリなどのカードリーダライタを接続することが必要である。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "サービスで利用できるSuicaは記名式カード(Suica付きビューカード、My Suica、Suica定期券、Suica付学生証・社員証、ゆうちょICキャッシュカードSuica)のみで、無記名式カードは利用できない。このうちMy SuicaとSuica定期券については、電子マネーマーク下に緑色の丸の記載がある2008年(平成20年)11月以降に発行されたもののみ利用可能で、それ以前に発行された旧カードでは利用できない。またモバイルSuica、モノレールSuica、りんかいSuica、相互利用を実施しているICカードでも利用できない。なお、決済に使用できるクレジットカードはビューカードのみである。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "このサービスでSuicaにチャージできる金額は、1,000円以上であれば1円単位で指定可能である。また、チャージ上限の20,000円まで一度にチャージする「満タンチャージ」機能もある。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "2019年(令和元年)5月、JR東日本は同サービスについて同年8月から2021年2月頃にかけて順次終了していくことを発表した。そして2021年2月9日、Suicaインターネットサービスの提供を完全に終了した。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "日立製作所が、2013年(平成25年)7月1日より、JR東日本のSuicaの利用履歴をビッグデータ解析技術で活用し、駅エリアのマーケティング情報として企業に提供するサービス「日立 交通系ICカード分析情報提供サービス」を開始した。首都圏のJR東日本・私鉄約1800駅を対象として、Suicaの利用履歴や記名式Suicaに登録された年齢・性別から駅の利用者の性別・年代別構成、乗降時間帯などの各種利用情報を平日・休日別に集計・分析し、可視化したリポートを毎月提供する。PASMOなど相互利用カードのデータは集計・分析の対象にならない。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "しかし、日立製作所側からはこのサービスが開始前に発表されたものの、JR東日本側が公式に何も発表しなかったため、国土交通省が個人情報保護法に抵触しないか事情を聞き、「事前に利用者に説明すべきだった」と注意したことが全国紙に報道された。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "JR東日本では、日立への提供時にSuicaのIDを他の番号に振り直しSuicaIDとの紐づけができないようになっていること、利用者の氏名・電話番号や、電子マネーでの購買履歴を提供していないことなどから、「個人情報には該当せず、法的に問題はない」としているが、7月25日に「よくいただくお問い合わせ」として、この件に関するプレスリリースを発表し、説明が不十分だったことを謝罪し、希望者を売却対象から除外(オプトアウト)することを発表した。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "その後、有識者会議を設置して今後の対応を検討し、結論が出るまでは社外へのデータ提供は行わないことを発表した。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "JR東日本は2022年5月から個人が特定されない形で首都圏を中心とした利用客が多い約600駅のデータを自治体や企業などに提供する「駅カルテ」のサービスを開始することを同年3月16日に発表した。",
"title": "機能の拡充"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "将来的には、JR東日本の全路線でSuicaを使えるようにし、そのために必要な磁気券のIC化を行い、Suicaの東日本管内全国展開を目指すとしている。これに関連して、2023年5月27日からセンターサーバー方式を採用した上で北東北3県(青森県・秋田県・岩手県)の一部路線でSuicaが利用可能となった。同年夏以降首都圏・仙台・新潟エリアおいても従来方式との併用の上導入し、2026年度中に完全移行予定。完全移行後はJR東日本管内のSuicaエリアの統合などを計画していることも発表されている。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "2022年7月22日に仙台エリアとして山形県内の奥羽本線(山形線)のかみのやま温泉駅 - 村山駅間と左沢線の北山形駅 - 寒河江駅間各駅のSuica対応が2024年春以降と発表された。その後2024年3月16日よりサービス開始することが発表された。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "2023年6月20日に首都圏エリアとして長野県内の篠ノ井線の松本駅 - 篠ノ井駅間と信越本線の篠ノ井駅 - 長野駅間、大糸線の松本駅 - 穂高駅間各駅のSuica対応が2025年春以降と発表された。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "JR東日本をはじめとする関東地方の鉄道バス事業者等の関東ICカード相互利用協議会は、2023年3月頃からの予定で障害者用ICカードの導入を2022年9月14日に発表した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "その後2022年12月22日にサービス開始予定日が2023年3月18日であると発表された。",
"title": "沿革"
}
] | Suica(スイカ)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京モノレール・東京臨海高速鉄道が発行するサイバネ規格準拠のICカード乗車券である。後者はそれぞれ「モノレールSuica」・「りんかいSuica」の名称で発行。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{出典の明記|date=2009年12月}}
{{Infobox electronic payment
| box_width = 300px
| name = Suica
| other_name = スイカ
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| native_name_lang =
| color = 7abc4e
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| logo = File:Suica logo.svg
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| caption = Suica カード型
| location= 首都圏エリア<br />仙台エリア<br />新潟エリア<br />盛岡エリア<br />青森エリア<br />秋田エリア<br />札幌エリア([[SAPICA]]エリア)<br />沖縄エリア <br />[[その他]]相互・片利用エリア
| launched = [[2001年]]
| service_1 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
| service_2 = [[東京モノレール]]
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| manager= [[東日本旅客鉄道]]<br />(JR東日本)
| homepage= https://www.jreast.co.jp/suica/
}}
[[ファイル:Mobile Suica 03.jpg|thumb|改札通過時の自動改札機の画面]]
'''Suica'''(スイカ)は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京モノレール]]・[[東京臨海高速鉄道]]が発行する[[日本鉄道技術協会|サイバネ規格]]準拠の[[ICカード]][[乗車券]]である。後者はそれぞれ「'''モノレールSuica'''」・「'''りんかいSuica'''」の名称で発行。
== 概要 ==
[[ファイル:iccard.gif|thumb|「タッチ&ゴー」の動き]]
[[2001年]]に導入開始。[[ソニー]]の非接触型ICカード[[FeliCa]]の技術を用いた[[乗車カード]]・[[電子マネー]]で、[[プリペイド]]方式の乗車券の機能をはじめ、[[定期乗車券|定期券]]、駅売店等全国の交通系ICカード対応商店での支払いに使える[[Suica電子マネー]]の機能を併せ持つ。JR東日本の規約<ref>東日本旅客鉄道株式会社 ICカード乗車券取扱規則 第1条</ref>においては「[[集積回路|ICチップ]]を内蔵するカード等に記録された金銭的価値等」と定義されている<ref group="PR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/suica/etc/rule/index.html|title=Suicaに関する規約・特約 東日本旅客鉄道株式会社ICカード乗車券取扱規則 第1編 総則|work=Suica公式サイト|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2018-11-03}}</ref>。ソニーの非接触型ICカードFeliCaの技術を用いた交通系ICカードの先駆けであり、その後[[ICOCA]]([[西日本旅客鉄道|JR西日本]])や[[PASMO]]([[関東私鉄]])といった[[JR]]他社や[[大手私鉄]]を中心として全国でFelicaの技術を用いた交通系ICカードが拡大導入されていった。[[2013年]]には[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]を開始し、定期券を除く乗車券機能や電子マネーが全国の対応する交通機関・店舗で利用可能となった。
かつてJRグループでは、[[自動券売機]]で[[乗車券]]などの購入に使用できる磁気式[[プリペイドカード]]の[[オレンジカード]]を発売していた。またJR東日本ではオレンジカードに加え、カードを直接[[自動改札機]]に投入して運賃精算に使用できる磁気式プリペイド乗車カード([[乗車カード|ストアードフェアシステム]])の[[イオカード]]のサービスを[[1991年]]から首都圏で実施していたが、これに替わるシステムとして[[2001年]]からJR東日本管内のエリアで順次導入されたものである。[[2021年]]時点での発行枚数は約8,700万枚にのぼる<ref>{{Cite web|和書|title=「Suica」20周年、発行枚数8759万枚…東京駅に記念グッズ展示 |url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20211118-OYT1T50150/ |website=読売新聞オンライン |date=2021-11-18 |access-date=2022-12-14 |language=ja}}</ref>。[[2006年]]には[[モバイルSuica]]を導入し、2016年には[[iOS]]([[iPhone]])向けの[[Apple Pay]]、2018年には[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]向けの[[Google Pay]]にも対応した(モバイルSuica発行枚数は[[2020年|2023年]]時点で2,000万枚にもなる)。[[2021年]]時点での発行枚数は約8,700万枚にも及び、交通系ICカードの中では最多である<ref>{{Cite web|和書|title=「Suica」20周年、発行枚数8759万枚…東京駅に記念グッズ展示 |url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20211118-OYT1T50150/ |website=読売新聞オンライン |date=2021-11-18 |access-date=2023-09-06 |language=ja}}</ref>。
=== 名称とロゴ ===
「Suica」の名称はJR東日本の[[商標|登録商標]](登録番号第4430532号)である。「Suica」は「'''S'''uper '''U'''rban ''' I'''ntelligent '''CA'''rd (スーパー・アーバン・インテリジェント・カード)」に由来するもので<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=ICカード出改札システム (“Suica”) の導入と今後の展開について |url =http://www.jterc.or.jp/topics/jyohokakenkyukai/jouhouka/130517-1.pdf |page=22|format=PDF|author=東日本旅客鉄道株式会社 常務取締役 井上健 |website=一般財団法人[[運輸総合研究所]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190504082737/http://www.jterc.or.jp/topics/jyohokakenkyukai/jouhouka/130517-1.pdf|date=2001-05-17|archivedate = 2019-05-04|accessdate=2021-06-28}}</ref><ref name="takai" group="PR">{{Cite web|和書|author=高井 利之|date=2003-08|url=http://www.jreast.co.jp/development/tech/pdf_4/24-31.pdf|title=Interpretive Article - ICカード出改札システム "Suica" 開発記|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道株式会社|accessdate=2009-12-01}}</ref>([[頭字語]])、同時に「スイスイ行けるICカード」の意味も持たせている<ref name=":0" /><ref name="jreast19991005" group="PR" />。
また、親しみやすくするため[[果実]]の[[スイカ]]と語呂合わせし([[バクロニム]])、カード表面の緑色のデザインもスイカ風としている。[[ロゴタイプ|ロゴマーク]]も、JR東日本のイメージカラーである[[緑]]と線路(旧[[国鉄]]路線を表す[[地図記号]])でスイカを表現している。ロゴマークでは「ic」の部分が反転表記されており、ICカードであることをアピールしている。
イメージキャラクターは[[Suicaのペンギン|ペンギン]]で、[[イラストレーター]]の[[さかざきちはる]]がデザインした。{{Main2|キャラクター|Suicaのペンギン}}
Suicaカードの裏面の右下に記載される番号は「JE」で始まる17桁の英数字であるが、この「JE」はJR東日本の英語表記「'''J'''R '''E'''ast」から採ったものである。モバイルSuica(詳細は後述)にも、この「JE」で始まる個別の番号が振り分けられている。
=== FeliCa ===
{{See also|FeliCa}}
技術的には、[[ソニー]]が開発した非接触型ICカード技術である「[[FeliCa]]」を採用している。非接触型のため、パスケースや鞄などから取り出す必要はなく、パスケースごとタッチしても利用できる。なお、読み取り可能範囲が半径10cm程度あるので空中を通しても利用可能な場合があるが、Suicaと改札機との通信時間を確保するため、Suicaやパスケースなどを読み取り機に(かざすのではなく)タッチさせて改札機を通過する使い方、すなわち「'''[[タッチ&ゴー]]'''」をJR東日本では推奨している。カードを機械に反応させる方法が人によって様々であることは実験段階から判明していたため、その統一を目指す方法として導入当初は「タッチ&ゴー」のキャッチフレーズを宣伝で使用し、正しい使い方の定着を図った。
FeliCaはすべて[[RFID|13.56MHz帯]]の周波数の[[電波|無線]]を使用して通信・発電するため、通信可能圏内にある複数のFeliCaが通信可能となる。アンチコリジョンに対応していれば複数枚のカードを重ねても干渉しないとされており、本カードは対応しているが、電子マネーカードの「Edy」(現:[[楽天Edy]])は非対応で、本カードと[[Edy]]を重ねて使用しようとすると相互に干渉することがある。さらに、複数枚のFeliCaが読み取り機からの電波を奪い合い、通信に必要なエネルギーを供給できずにエラーを起こしてしまうことがある。また、IC[[運転免許証]]とも相互干渉を起こし、エラーとなる場合もある。
=== 交通系ICカードの相互利用 ===
{{main|首都圏ICカード相互利用サービス|交通系ICカード全国相互利用サービス}}
当初はJR東日本の首都圏エリアでのみ利用可能であったが、[[2007年]][[3月18日]]から「[[PASMO]]」との相互利用が開始され、その後、利用可能区間の[[拡大]]並びに日本各地のICカードとの相互利用の開始が行われた。
[[2013年]][[3月23日]]には全国10種類の交通系ICカードの相互利用サービスが開始され、PASMO・[[Kitaca]]・[[TOICA]]・[[manaca]]・[[ICOCA]]・[[PiTaPa]]・[[SUGOCA]]・[[nimoca]]・[[はやかけん]]との間で相互利用が可能となった<ref name="jre20110518" group="PR">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.jreast.co.jp/press/2011/20110512.pdf|title=交通系ICカードの相互利用サービスを実施することに合意しました|publisher=北海道旅客鉄道株式会社、PASMO協議会、東日本旅客鉄道株式会社、名古屋市交通局、名古屋鉄道株式会社、東海旅客鉄道株式会社、スルッとKANSAI協議会、西日本旅客鉄道株式会社、福岡市交通局、西日本鉄道株式会社、九州旅客鉄道株式会社|date=2011-05-18|accessdate=2011-05-18}}</ref><ref group="PR">[http://www.jreast.co.jp/press/2012/20121213.pdf 交通系ICカードの全国相互利用サービスがいよいよ始まります!] - 2012年12月18日 各社連名のプレスリリース</ref>。相互利用エリアは北海道から九州地方まで日本の広範囲に広がり、前掲のICカードをどれか1種類所有していれば、相互利用サービスを実施している各社局の鉄道・バスに乗車することができる(ただし相互利用カードのエリア内であってもシステムの都合上、一部利用できない鉄道・バス事業者がある{{Efn2|name="Well"|福祉割引用icsca、割引用manaca、障がい者用nimoca、割引用はやかけんは相互利用・片利用の対象外となっている。}})。
このうちPiTaPaを除く9種類については、電子マネー機能の相互利用サービスも行われている。なおPiTaPaは法律上[[クレジットカード]]に準ずる扱いで、加えて相互利用開始時までにシステムの改修が間に合わないため、電子マネー機能の相互利用は当分の間実施されない(詳細は後述)。
== 取扱事業者一覧 ==
Suicaのサービスエリアについては下記の[[#利用可能エリア|利用可能エリア]]を参照。発行3社のSuicaは基本的な機能に変わりはないが、カード・定期券の発売や払い戻しはそれぞれの発行事業者でのみ行う。発行をしない発売事業者については自社でカード・Suica定期券の発売はせず、一部でJR東日本発行のSuicaを発売する。紛失・盗難時の取り扱いにも制限があったり取り扱いのない場合もある。発売しない事業者では導入(チャージ等の取扱)のみ。
=== 発行事業者 ===
[[ストアードフェア]](SF)部分はJR東日本が発行。
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
* [[東京モノレール]] - モノレールSuica
* [[東京臨海高速鉄道]] - りんかいSuica
=== JR東日本発行のカードを発売する事業者 ===
* [[富士山麓電気鉄道]]<ref group="PR">[https://www.fujikyu-railway.jp/column/suica.php 富士急行線で「Suica」がご利用いただけます。]</ref>
*:分社化前の[[富士急行]]では、2020年10月の[[富士急モビリティ]]分社化までバス事業においてはPASMOに加盟しており、唯一のSuica・PASMO両加盟だった。
=== 自社では発売しない事業者 ===
* [[埼玉新都市交通]]
* [[伊豆急行]]{{Efn2|[[2021年]]([[令和]]3年)[[10月25日]]まではJR東日本発行のSuicaカード(無記名式)の発売を行っていた<ref group="PR" name="Izukyu_Suica">{{Cite web|和書|url=https://www.izukyu.co.jp/news/detail.php?CN=326439 |format= |title=Suicaカード発売終了について |publisher=伊豆急行 |accessdate=2021-10-26 |date=2021-10-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211026112608/https://www.izukyu.co.jp/news/detail.php?CN=326439 |archivedate=2021-10-26 |deadlinkdate= }}</ref>。}}
* [[仙台空港鉄道]]
* [[沖縄都市モノレール]]
*:別途[[OKICA]]を導入済み。他のSuicaエリアには接しておらず、同社に限らず[[沖縄本島]]ではSuicaカードの入手もできない。
* [[ジェイアールバス関東]]
* [[ジェイアールバス東北]]
*:上記2社は別途スマートフォンアプリによるスマホ定期券を導入
* [[岩手県北自動車]](みちのりバス東北)
== 種類 ==
=== Suicaカード ===
カードの呼称と色は発行各社によって異なる。基本的に銀色の地にSuicaのロゴが入ったデザインである。JR東日本発行のカードは黄緑色、東京臨海高速鉄道は水色、東京モノレールの旧デザインカードは橙色のアクセントが入ったカードである。
JR東日本では、2008年(平成20年)11月からペンギンの絵柄と電子マネー対応マークの位置を変更した。モノレールSuicaは2009年(平成21年)4月6日からデザインを一新し、銀地に緑の絵(擬人化したモノレール)が描かれた新デザインのSuicaカードに変更した。りんかいSuicaは2010年(平成22年)10月8日から電子マネー対応マークの位置を右上に変更し、右下にりんかるの絵柄が入ったデザインに変更した。いずれも、電子マネー対応マークの下に、緑色の丸が2個付いている。
Suicaのカードには以下の種類がある。
; Suicaカード(無記名式)
: 氏名などの[[個人情報]]は登録しないで、鉄道乗車時の運賃精算や[[Suicaショッピングサービス]]加盟店舗での商品代金の支払いに利用できる。大人用のみ発売している。小児も利用することができるが、運賃がすべて大人用として扱われるため、下記の小児用My Suicaが別に設けられている。なお、デザイン面が通常と異なる記念カードについてはSuica・PASMO相互利用記念Suicaカードを除いて、リライト機能のない無記名専用カードで発行している。
: 半導体不足により2023年6月8日の初電より原則として販売休止となっている{{Efn2|name="販売中止"|ただし、2023年5月27日よりサービスを開始した「盛岡エリア」・「秋田エリア」・「青森エリア」では販売が継続されるほか、6月2日の時点ではMy Suica(記名式)やWelcome Suicaなどの販売は継続される<ref name="jreast20230602" group="PR">{{Cite press release |title=無記名の「Suica」・「PASMO」カード発売の一時中止に関するお知らせ |publisher=東日本旅客鉄道、PASMO協議会、東京モノレール、東京臨海高速鉄道 |date=2023-06-02 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/20230602_ho01.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-04 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>とされていたが、記名式Suica・PASMOについても定期券販売や紛失・障害再発行カードの確保を目的として2023年8月2日以降順次販売中止となるとしている他、Welcome Suicaは販売制限がされる<ref name="jreast20230731" group="PR">{{Cite press release |title=記名式の「Suica」及び「PASMO」カード発売の一時中止に関するお知らせ |publisher=東日本旅客鉄道・PASMO協議会・東京モノレール・東京臨海高速鉄道 |date=2023-07-31 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/20230731_ho02.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-07-31 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。}}。
; My Suica(記名式)
: 購入時に氏名(カタカナ)、生年月日、電話番号などの個人情報を登録するSuicaで、Suicaカードの表面に氏名がカタカナで印字されており、その本人以外は使用できない。個人情報を登録することにより、万一の紛失時に使用停止措置と残高を保証した再発行が有償で受けられる。大人用のほか、小児運賃を差し引くこども用My Suicaがある。既に小児用の他社発行のSuicaやPASMOを所持している場合は購入できない。
: 半導体不足により2023年8月2日より原則として販売休止となっている{{Efn2|name="販売中止"}}。
; Suica定期券
: My Suicaに加えて、定期券情報を持つもの。大人用と小児用があり、大人用には通勤定期券のほか、中・高・大学生別の通学定期券もある。発行時点ではSFがない。定期券としての有効期間を過ぎても自動精算機能は利用できる(ただし、自動精算機での精算取扱いに制限がある)。逆に、定期券の有効期間終了と同時に自動精算機能を停止させる機能を付けることもできる。また、複数の定期券情報を付加することも可能である。ICカードによる[[定期乗車券#新幹線定期乗車券|新幹線定期券]]であるSuica FREX定期券およびSuica FREXパル定期券も発行されている。
; Suica連絡定期券
: Suica定期券に加えて、JR東日本線と連絡他社線にまたがる区間を1枚の定期券とするもの。発駅・着駅がともに連絡他社線の駅となる連絡定期券は、当該他社側のICカード連絡定期券となり、Suica連絡定期券としては発売できない。当初は基本的に磁気での連絡定期券として発行可能なもののみに限られていたが、2012年(平成24年)3月17日からはJR定期券上の区間から連絡する他社線のみの定期券を2枚目の定期券情報として付加する「Suica二区間連絡定期券」の発売を開始した<ref group="PR">[https://web.archive.org/web/20120314021807/http://www.jreast.co.jp/suica/new_s/info_2kukan.html JR東日本線と私鉄・地下鉄線の定期券を1枚のSuicaでお求めいただける範囲が広がります。] - JR東日本 2012年3月5日。[http://www.jreast.co.jp/suica/new_s/info_2kukan.html オリジナル] の2012年3月14日時点におけるアーカイブ。 2020年12月28日閲覧。</ref>。取り扱い事業者は2023年3月現在、34社局で、以下の事業者との連絡定期券を発行している<ref group="PR">[https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/ JR東日本:JR線と私鉄・地下鉄線の定期券を一枚のSuicaで。]</ref>。
::東海旅客鉄道・伊豆箱根鉄道(大雄山線のみ)・江ノ島電鉄・小田急電鉄・関東鉄道・京王電鉄・京成電鉄・京浜急行電鉄・埼玉高速鉄道・埼玉新都市交通・相模鉄道・首都圏新都市鉄道・新京成電鉄・西武鉄道・多摩都市モノレール・千葉都市モノレール・東急電鉄・東京地下鉄・東京都交通局・東京モノレール・東京臨海高速鉄道・東武鉄道・東葉高速鉄道・箱根登山鉄道・北総鉄道・ゆりかもめ・横浜高速鉄道・横浜市交通局・横浜シーサイドライン・仙台空港鉄道・伊豆急行・富士急行・仙台市交通局・湘南モノレール・秩父鉄道。
上記の各Suica乗車券にはリライト機能がついており、Suicaカード(無記名式)に後から個人情報を登録すればMy Suica(記名式)に、さらにMy Suicaに定期券を追加購入してSuica定期券に変更することもできる。また、Suica定期券から定期券部分を払い戻してMy Suicaに変更することも可能だが、Suica定期券やMy SuicaからSuicaカード(無記名式)に変更することはできない。
また、「こども用Suica」には有効期限があり(小学校卒業年の3月31日⇒満12歳に達する日(誕生日前日)以後の最初の3月31日まで有効)、期限が過ぎると使用できなくなる。引き続き、大人用として利用する場合は、取り扱い窓口や[[多機能券売機]]で大人用に変更する手続を行う必要がある。
Suicaカード(無記名式)は2007年(平成19年)[[3月17日]]までJR東日本では'''Suicaイオカード'''と呼称していたが、翌18日からのサービス変更を機に発売終了となった。なお、同日まで東京モノレール・東京臨海高速鉄道が発行していたSF専用カードは、元々「モノレールSuicaカード」「りんかいSuicaカード」という名称であった。これらのカードは、識別用の切り欠きが2か所あった(当時からの定期券および現行のSuicaカードは記名式Suicaとカードを共用しているため切り欠きが1か所となっている)。
=== 旧カードの取り扱い ===
Suicaイオカードおよび2007年(平成19年)3月17日以前に発売したモノレールSuica・りんかいSuica(いずれもカード右側に切り欠きが2箇所ある)は、現在販売されている無記名式のSuicaカードとほぼ同様に利用できるが、リライト機能がないため、My SuicaやSuica定期券などの記名式カードに転用することはできない。
2007年(平成19年)3月17日以前に発行された定期券専用カード(カード右側の切り欠きが1箇所ある)は、定期券情報を消去することでMy Suicaとして使用でき、新たな定期券情報を付加することも可能である。
2003年(平成15年)以前の旧Suicaカード(定期券用・イオカード類共に)は電子マネー機能が無いため、電子マネーサービスは利用できない。このほか電子マネーシステムを使用している事業者(Suicaエリアの佐渡汽船、各ICカードエリアのタクシー事業者等)でも利用できないほか、乗車券システムを使用している事業者の一部(Suicaエリアのジェイアールバス関東等)でも利用できない場合がある。それ以外の事業者においても、機能や取扱いの一部に制限を有する場合がある。なお、2008年(平成20年)4月以降はJR駅の機器でのチャージ、履歴表示、定期券機能追加ができず、機器に挿入すると新カードへの交換を要求する画面が表示される。電子マネー非対応の旧カードに定期券機能を追加する場合は、みどりの窓口で対応可能である。
また、2008年(平成20年)以前の電子マネーマークに緑丸の記載がないカードのうち、記名式カードではSuicaインターネットサービスなどの現行サービスが利用できない。
これらの旧SuicaカードはJRの主な駅の自動券売機、多機能券売機、[[みどりの窓口]]で手数料無料で現行のカードに交換できる。
=== その他のSuica ===
一般向けに発売されているSuicaカードのほか、以下の物も同様に利用可能である。
; [[モバイルSuica]]
: 携帯電話([[おサイフケータイ]])にSuicaカードのICカード機能を持たせたもの。物理的に新規のカードを発行しないため、デポジットが発生しないが基本的に年会費が必要であった(現在は無料)。携帯電話の機能を利用したオンラインチャージ(入金)や利用履歴および残額の確認、定期券・新幹線特急券・Suicaグリーン券の購入・利用などの機能が提供されており、カード型よりサービス面における利便性が向上している。一方、カード型と形状が異なることなどから一部機能について制限のある場合もある。詳細は同項参照のこと。
; Suica機能付きクレジットカード・キャッシュカード
: [[ビューカード|VIEWカード]](東日本旅客鉄道)をはじめ、クレジットカード会社や銀行各社よりSuica機能を付加したクレジットカード・キャッシュカードが発行されている。これらもSuicaカードと同様に利用できるが、カード表面の印字の都合でSuica定期券機能などに制限がある場合がある。
: {{Main|#機能の拡充|VIEW Suicaカード}}
; Suica機能付き社員証・学生証等
: {{Main|#機能の拡充}}
; [[地域連携ICカード]]
: Suicaと各地域の交通系ICカード機能を1枚にまとめたカード。地域交通事業者が発行する。
: 栃木県([[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]]が発行)と岩手県([[岩手県交通]]が発行)で導入が始まり、以後東日本各地で相次いで導入されている。
; Welcome Suica
: 「短期利用のインバウンド旅客向けICカード」として、[[訪日外国人旅行]]者向けに販売されるSuica<ref group="PR">{{Cite press release |title=訪日外国人旅行者向けICカードの販売を開始します! |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2019-02-15 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/20190221.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2020-01-13 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。赤地に白い桜の図柄を用いたオリジナルデザインを採用する。2019年9月1日発売開始。
: 規約上<ref group="PR" name="welcome Suica">{{Cite web|和書|url= https://origin2-www.jreast.co.jp/suicaall/rule/welcomesuica.html |title=東日本旅客鉄道株式会社訪日外国人旅行者等向けICカード乗車券取扱規則|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-12-13|accessdate=2022-01-13}}</ref>は「短期用」「Suica企画乗車券付き」「長期用」の3種類があり、「短期用」のみJR東日本の訪日外国人旅行者向け窓口「JR EAST Travel Service Center」で販売される(「Suica企画乗車券付き」「長期用」は旅行会社等を通じて販売)。
: デポジット不要で、あらかじめ定額(1,000円、2,000円、3,000円、4,000円、5,000円、10,000円)がチャージされたものを販売する。追加チャージも可能だが、「短期用」「Suica企画乗車券用」は利用開始日を含む28日間の有効期間設定があり<ref group="PR" name="welcome Suica"/>、使用後も入金(チャージ)残額の払いもどしは原則として行わない{{Efn2|name="welcome_Suica2"|有効期限満了の14日以前で、不測の事態によりカードが破損した場合に限ってSF残高及び企画乗車券部分の払い戻し手続きが可能<ref group="PR" name="welcome Suica"/>。}}。「長期用」の有効期限は最大6か月。
: 「Suica企画乗車券付き」は、発売時に指定された特別企画乗車券の機能を同梱することができる。利用開始時に企画乗車券の有効区間内の自動改札を通過するか、券売機で利用開始日の設定を行う必要がある<ref group="PR" name="welcome Suica"/>。
: 使用時に、有効期間や旅客の種類等を記したレファレンスペーパーを所持する必要があり、必要に応じて提示しなければならない。
; Suica Light
: 地方自治体における交通費補助事業や、短期の団体旅行([[修学旅行]]など)における交通決済手段として活用することを想定して、地方自治体・旅行代理店等法人向け限定で販売されるSuica。2022年1月12日付けで発売が公表された<ref group="PR">{{Cite press release |title=新たなICカード「Suica Light」の販売を開始します! |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2019-02-15 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20220112_ho01.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2020-01-13 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。規約上<ref group="PR" name="welcome Suica"/>は Welcome Suica の一種として扱われている。
: 販売時にデポジットを不要とする代わりに、利用開始日から最大6か月の有効期限が設けられる<ref group="PR" name="welcome Suica"/>。使用後も入金(チャージ)残額の払いもどしは原則として行わない{{Efn2|name="welcome_Suica2"}}。
: 使用時に、有効期間や旅客の種類等を記したレファレンスペーパーを所持する必要があり、必要に応じて提示しなければならない。
: [[千葉県]][[四街道市]]が「まち・ひと・しごと創生推進事業」の一環として四街道市出身の学生向けに地域の特産品とデジタルギフトを届ける「四街道ふるさとの味お届け便支援事業」において「Suica Light」が活用される予定としている。
== システム ==
=== カードの発売 ===
Suicaカードは、Suicaエリア内・新幹線停車駅の主要駅に設置された[[みどりの窓口]]や多機能券売機、[[キヨスク]]、[[NewDays]]、一部の指定席券売機で発売されている。Suica定期券は、みどりの窓口、指定席券売機、多機能券売機で発売されている{{Efn2|したがって、Suicaエリア内でも、みどりの窓口、指定席券売機、多機能券売機のいずれも設置されていない無人駅、一部業務委託駅や他社管理の駅(例として都内では[[綾瀬駅]]や[[分倍河原駅]])では、SuicaカードやSuica定期券が購入できない。また、新規のSuica通学定期券は有人のみどりの窓口でしか購入できない。また、新幹線停車駅でも浦佐駅・越後湯沢駅・飯山駅はみどりの窓口を設置していないため購入できない}}。なお、一般向けには「購入」「発売」と表現しているが、規約上Suicaカードの「所有権」はカード発行各社に帰属しており、正確には「貸与」となる{{Efn2|ただし、モバイルSuica(モバイルデバイスにおけるSuica)は「モバイルデバイスにおけるSuica利用規約」によりデポジットを収受しておらず所有権も利用者に帰属するとされている。}}。
新規購入時には[[デポジット]](預り金)500円が購入者から徴収され{{Efn2|訪日観光客向けに発売する「Welcome Suica」と企業や地方自治体など法人向けに発売する「Suica Light」は除く}}、発売額のうちデポジット分を差し引いた分が、乗車券および電子マネーの充当分となる。デポジット制はカードの使い捨てを防止する観点から用いられているもので、カードを返却・払い戻した際には全額返金される([[#カードの返却・払い戻し|後述]])。
SuicaおよびモノレールSuicaの発売額は1,000円、2,000円、3,000円、4,000円、5,000円、10,000円の6種類(デポジット500円を含む、500円を引いた額がチャージ額に入る)が設定されており、新規購入時のチャージ残額が指定可能とされている。なおりんかいSuicaの発売額は窓口では1,000円(チャージ額500円+デポジット500円)、自動定期券発売機では2,000円(チャージ額1,500円+デポジット500円)、[[地域連携ICカード]]は各カードによって発売額が異なる。
また定期券を新規購入する場合は、定期運賃とデポジットを合算した額が発売額となるが、既に所持しているSuicaに定期券機能を追加する場合は、デポジットは必要とされない。Suicaエリアからエリア外の区間にまたがる定期券の場合はSuicaではなく、通常の磁気式定期券が発行される。Suicaエリアから[[TOICA]]エリアの区間にまたがる定期券の場合はJR東日本側ではSuica定期券の発行が可能<ref group="PR">{{Cite web|和書|title=TOICAエリアにまたがるSuica定期券|url=https://www.jreast.co.jp/suica/howtoget/toica_matagari/|publisher=東日本旅客鉄道|format=|date=|accessdate=2021-08-03}}</ref>。
=== チャージ ===
カードのチャージ(入金)は、[[自動券売機]](緑色)・[[自動券売機|多機能券売機]](黒色、設置されていない駅もある)・[[自動券売機|チャージ専用機]](ピンク色、設置されていない駅もある)・[[自動精算機]]・[[キヨスク|キオスク]]・[[NewDays]]や一部大手[[コンビニエンスストア]]([[ファミリーマート]]、[[ミニストップ]]、[[ローソン]]、[[セブン-イレブン]]、[[スリーエフ]]、[[セイコーマート]])•セブン銀行ATM(2019年6月開始)を始めとするSuicaに対応した一部店舗(→「[[Suicaショッピングサービス]]」を参照)、[[PASMO]]など相互利用可能な他社局線の駅にある券売機や入金機などで対応している。最大20,000円までの入金に対応し、同じカードの繰り返し使用を可能としている。自動券売機での1回当たりの入金金額は500円・1,000円・2,000円・3,000円・5,000円・10,000円である。乗り越しの場合は自動精算機や改札窓口で10円単位の入金が可能である<ref group="PR">{{Cite web|和書|date=2014-04-01 |url=https://www.jreast.co.jp/kaitei2014/pdf/suica_1.pdf |title=2014年4月1日よりSuicaのご利用方法が一部変わります。 |format=PDF |publisher=JR東日本 |accessdate=2016-08-24}}</ref>。なお、JR以外のPASMO事業者の券売機では、10円単位での入金ができるものもある<ref>{{Cite web|和書|date=2015-04-01 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/column/stapablog/695349.html |title=スタパ齋藤の「スタパブログ」 交通系ICカードに「10円単位」でチャージ♪ |publisher=ケータイ Watch (インプレス) |accessdate=2016-08-24}}</ref>。
[[みどりの窓口]]や東京モノレールの一部の駅を除く改札口の窓口、[[オレンジカード]]、旧磁気式[[イオカード]]での入金には非対応である。また、ビューカード以外のクレジットカードは多機能券売機(黒色)にて定期券購入時に同時に入金する場合に限り対応しており、また磁気定期券からSuica定期券への発行替え時も可能となっている。以前は[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[ICOCA]]地域内のみどりの窓口において一般クレジットカードでの入金に対応していたが、SMART ICOCAの一般クレジットカード取扱開始に伴い、2008年(平成20年)6月30日をもって取扱終了となった。
=== 利用履歴閲覧 ===
[[利用履歴]]は、センターサーバに記録されている直近100件の利用履歴と、Suicaカードに記録されている直近20件の利用履歴と3件の詳細履歴がある。このうち、センターサーバに記録されている直近100件の利用履歴は、駅の自動券売機とカード発売機で印字が可能である。この履歴は最大で100件まで何回も印字できる。ただし、センターサーバがメンテナンスなどで停止(定例メンテナンス・毎日0時50分 - 5時)していると印字することができない。なお、一部の駅ではPASMOと同様に直近20件まで印字でき、再印字も可能である。また、Suicaカードに記録されている直近20件の利用履歴も駅の自動券売機とカード発売機で表示できるほか、PASMOエリアの機器では履歴がカードに残っている間は何度でも履歴印字が可能である。ただし、利用から26週間を経過した履歴は印字されない。そのほかにも、FeliCa用リーダライタ([[PaSoRi|パソリ]]など)とソニーから提供されたり、または同梱・組み込み済みの専用ソフトを使用したりして読み出すこともできる。カード上の利用履歴を記憶する領域には相互認証不要でリードアクセス可能なサービスファイルがオーバーラップされており、暗号鍵なしで利用履歴の読み出しが可能であるが、ライトアクセスには相互認証が必要である。さらに、一部の有志により履歴表示用フリーソフトも開発・配布されている。
利用履歴には日付・入場駅・出場駅・残額・通番などが記録され、入・出場のほか、入金した時や電子マネーとして物品購入した時にも記録が追加される。
Suicaには、さらに3件の詳細な利用履歴が記録されており、改札通過時刻(時分まで)や金額が記録されている。これは定期券での通過情報も含まれていて、こちらも有志が作成した一部のフリーソフトを利用し読み出すことが可能である<ref group="PR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/suica/use/record/index.html|title=JR東日本:Suica>利用方法>履歴表示・印字・残額表示|publisher=東日本旅客鉄道株式会社|accessdate=2009-12-01}}</ref>。
=== 紛失時 ===
My SuicaおよびSuica定期券は氏名などの個人情報が登録されているため、取扱駅で本人確認書類を提示した上で紛失したカードのID番号を申告すると、定期券(有効な場合)と入金金額を保証して再発行される。再発行の際には[[手数料]]520円と預り金500円の合計1,020円が必要である。紛失したカードが発見された場合は、みどりの窓口に届け出た上で預り金の500円が返却される。一方、Suicaカード(無記名式)には紛失時の残高保証はない。
=== カードの返却・払い戻し ===
カードの返却・払い戻しの際には、デポジットが無手数料で返金されるほか、定期券部分の払い戻し可能額やSF部分の残額がある場合、それらの金額から払い戻し手数料として220円を差し引いた額がデポジットとあわせて返金される(10円未満は10円単位に切り上げ)。残額が220円以下の場合はデポジットのみの返金となる
<ref group="PR">[http://www.jreast.co.jp/suica/procedure/repayment.html 各種手続き > 払いもどし]</ref>。残額が払い戻し手数料より少ないときでも(220円未満であっても)デポジットは全額返金される。返却および払い戻しは各発行会社で行う(例:モノレールSuicaをJR東日本の窓口で払い戻すことはできない)。[[不正乗車]]などの不正行為があった場合やSuicaを紛失した場合は、デポジットは返却されない。
=== カードの効力一時停止 ===
記名式Suica・モバイルSuicaは、一定期間利用またはチャージしない場合、ロックが掛かり、残額があったとしてもそのままでは自動改札を通過できず、または電子マネーが利用できなくなる<ref group="PR">「東日本旅客鉄道株式会社Suica電子マネー取扱規則」[http://www.jreast.co.jp/suica/area/shopping/rule.html] 第6条(Suica電子マネーが利用できない場合)第5項</ref>。「一定期間」については公表されていない。このカード一時停止は、次項のカード有効期限とは異なる。
解除方法は、次のいずれか
* Suicaチャージが可能な自動券売機で更に追加チャージし、または自動券売機でカード利用により切符を購入する
* 駅の有人窓口でロック解除を申し出る(※簡易Suica改札機では入場は可能、出場不可)
* クレジットカード紐付けのSuicaの場合、クレジットカードからチャージ
=== カードの有効期限 ===
最後に機器などでカードを利用した日から10年間利用がない場合、[[消滅時効|失効]]となりカードそのものが無効となる。
失効したカードは、Suicaエリア内のJR東日本各駅のみどりの窓口において、新しいカードに交換し残額を移し替えるか、手数料を差し引いて残額とデポジットを払い戻すことができる。ただしどちらの方法でも古いカードは記念カードなどであっても回収されることになる<ref group="PR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/suica/new_s/info_tenyears.html|title=JR東日本:Suica>長期間利用していないSuicaをお持ちのお客さまへ|accessdate=2011-10-26|publisher=東日本旅客鉄道株式会社}}</ref>。
なお、訪日観光客向けに発売する「Welcome Suica(短期用)」は、「発売から28日間有効」、「Welcome Suica(長期用)」および企業や地方自治体など法人向けに発売する「Suica Light」は、「発行日から最大6ヶ月間のレファレンスペーパーに記載の期日まで有効」と違いがあるものの、いずれのカードも残額の払いもどしは行えない<ref group="PR" name="welcome Suica" /><ref group="PR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/20190221.pdf|title=訪日外国人旅行者向け IC カードの販売を開始します!|accessdate=2019-06-05|publisher=東日本旅客鉄道株式会社}}</ref>。
== 乗車券機能の利用方法 ==
[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]に基づくSuicaエリア外での利用は各ICカードの利用条件に従うため、ここではSuicaエリアでの利用について記す。
=== 鉄道での利用 ===
[[File:KuzuokaEkiKaisatsuguchi2005-5.jpg|thumb|2001年に設置を開始した初代の簡易Suica改札機([[仙山線]][[葛岡駅]]にて、[[2005年]][[5月]])]]
[[ファイル:簡易Suica改札機.jpg|thumb|現在設置されている2代目の簡易Suica改札機([[常磐線]][[磐城太田駅]]にて、[[2022年]][[7月]])]]
[[ファイル:Keikyu・JR East Hatchō-nawate Station Transfer Gates.jpg|thumb|JR東日本[[八丁畷駅]]の簡易Suica改札機<br />黄色の機械は乗車用の簡易ICカード改札機。青色の機械は下車用の簡易ICカード改札機]]
改札口を通る際には、カード読み取り部にSuicaを軽くタッチする。乗車駅のタッチ時に初乗り運賃相当額がチャージ(入金)されているか、または有効な定期券情報があるかを確認する。この時点でチャージ金額は引き去らない。降車駅のタッチ時に乗車した区間の運賃が全額精算される。徴収金額と残額は、その都度改札機のディスプレイに表示される。2007年3月17日までは、入場時に初乗り運賃が差し引かれ、降車時に乗車区間の運賃と初乗り運賃との差額が差し引かれるシステムを採用していたが、PASMOとの相互利用に伴い現行方法に改められた。
Suica定期券の場合は、定期区間外を利用する場合でも、Suica乗車券としての利用方法を準用する形で使用できる{{Efn2|すなわち、定期区間外については、仮にSuica乗車券であれば支払うであろう運賃を、Suica定期券のSF残高から支払うことで、乗車できる。(東日本旅客鉄道株式会社ICカード乗車券取扱規則(以下「Suica規則」という)29条2項)}}。そのため、定期区間外と区間内をまたがる際の精算も、出場駅の自動改札機にタッチすることで自動的に行われる{{Efn2|Suica規則28条。ただし、定期区間の大回りなど特殊な場合は、自動改札機ではなく駅係員による手動処理となる。Suica規則23条4項5号}}。自動精算機におけるチャージ額を利用しての精算は、定期券情報・入場記録のないICカードに限り可能である(基本的には磁気式イオカードやオレンジカードと同様の扱いとなる)。
SuicaエリアでSuica等のICカードを利用して各鉄道路線に乗車した場合は、出場するまで出場駅が確定しないため、基本的に[[振替輸送]]を受けることができないが、Suica定期券の有効期間内で券面表示区間内での乗車に限りそれを受けることができる。ICカードで入場後、輸送混乱で出場せざるを得なくなった時は、駅係員の設定で有人改札または[[自動改札機]]で入場処理を取り消さなければならない。また、通常時には入場券のような同一駅での入・出場はできない。入・出場駅が同じの場合、実際乗車経路を申告し、相当の運賃を支払わなければならない。2021年3月13日からJR東日本の駅で入場券(「タッチでエキナカ」)としての使用を開始した<ref group="PR" name="jrepress/20210119" />。ただし、簡易Suica改札機(右写真)および新幹線改札口では、引き続き入場券としての使用はできない<ref group="PR" name="jrepress/20210119" />。
なお、事業者によっても取扱いが異なる場合がある。
主に使用可能エリアの郊外にある小さな駅では自動改札機が設置されていないことが多いが、この場合は簡易Suica改札機にタッチして入・出場する。タッチしないと入場処理が記録されたままで次回から利用できない。ただし、簡易Suica改札機が設置されている多くの駅では自動精算機が設置されていないため、チャージ金額(残高)が不足の場合は駅係員に申し出て精算する必要があるが、無人駅など一部の駅では改札外の自動券売機・簡易チャージ機(一部の駅のみ)や場合によっては駅近在の交通系IC対応[[コンビニエンスストア]]で不足分をチャージし、改めて改札機にタッチすることで精算できる。それも困難な場合、後日別の駅の有人改札で申告し精算となる。なお、有人改札や後日精算の場合は実際の乗車経路の正規運賃を現金で精算となりSF運賃やSF残額の適用はできない。
普通乗車券なら途中下車できる101km以上の利用(東京や新潟・仙台の[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]内を除く)であっても、Suicaで入場した場合は、途中駅で下車した時点で運賃計算は打ち切りとなり、再度入場した駅から計算し直す形となる(Suica定期券等の定期券区間内を除く。区間によっては必ずしも割高になるとは限らない)。但し、首都圏エリアと新潟エリア・仙台エリアは、Suica利用区間の在来線全域が大都市近郊区間に当たる為{{Efn2|概ねSuicaの対応エリア拡大と並行して大都市近郊区間が拡大されていった([[大都市近郊区間 (JR)#目的|大都市近郊区間#目的]])}}、Suicaではなく普通乗車券を利用したとしても原則的に途中下車出来ないことに変わりはない{{Efn2|但し、普通乗車券においては、意図的に経路の一部に在来線と並行する新幹線区間(大都市近郊区間に含まれない)を含めて大都市近郊区間の特例の対象外とした上で、[[選択乗車]]の特例により並行する在来線を使用することで大都市近郊区間内完結の利用にもかかわらず途中下車が可能となる場合がある。}}。
普通乗車券にある割引制度([[学生割引]]・[[ジパング倶楽部]]等)は事前に割引証([[大人の休日倶楽部]]は専用クレジット決済)で割引切符を買うことで成立するので、Suicaのチャージでは割引が効かない。なお障害者割引については下車駅で申告することで対応可能<ref group="PR">[https://www.jreast.co.jp/suica/whats/service.html]</ref>である。
==== Suicaエリア外へ出る時の制限 ====
Suicaエリア内の駅から入場し、エリア外の駅にて出場(精算)する際は、駅員が利用履歴等を確認できるSuica用携帯表示器を使って入場記録を確認した上で現金で精算を行う。この場合、Suicaに出場記録を書き込めないため、出場証明書を発行してもらい、次回利用時にSuicaエリア内の駅窓口などで出場処理を行う必要がある。なお、Suicaエリア内でもシステムに対応していない一部の駅や改札口では利用できない場合がある。
また、Suicaエリア内の駅から入場し、他社線に磁気きっぷで乗り換える際には、連絡用自動改札機へ先に磁気きっぷを投入し、その後Suicaをタッチすることで連絡用自動改札機を利用できる(一部改札機を除く)。
入場駅・出場駅の両方がSuicaが使える駅であっても、エリアをまたいだ利用はできない。また、一旦Suicaエリア外を使用する場合でも「Suicaエリア内だけを通過した場合の最短経路」を利用したと見なして計算されるため、実際の乗車経路よりも割高な運賃を差し引かれる場合がある。
; 例
:* [[原ノ町駅]] - [[三春駅]]間([[いわき駅]]経由ではなく[[岩沼駅]]経由で算出)、[[いわき駅]] - [[黒磯駅]]([[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]経由ではなく[[小山駅]]経由で算出)
:* [[甲府駅]] - [[熱海駅]]間([[富士駅]]経由ではなく[[小田原駅]]経由で算出)
:* [[水戸駅]] - [[鹿島神宮駅]]間([[鹿島サッカースタジアム駅]]経由ではなく[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]経由で算出)
==== 新幹線に乗り換える場合の運賃自動精算 ====
Suicaで入場し、東北/上越/北陸/山形新幹線を新幹線乗換改札経由で利用する場合に、運賃自動精算を行う仕組みが、2008年(平成20年)3月に導入された<ref group="PR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/suica/use/gate/through03.html|title=新幹線乗換改札機の通り方|website=Suica公式サイト|accessdate=2020-11-13}}</ref>。
具体的には、Suicaで入場し、乗換駅にある新幹線乗換改札機で、新幹線で使用する乗車券を投入、次にSuicaをタッチすると、乗換駅までの運賃が自動精算される。なお、新幹線で使用する乗車券の発駅が[[特定都区市内]](東京都区内・[[東京山手線内]]・横浜市内・仙台市内)に該当する場合は、特定都区市内との境界駅までの運賃で自動精算される。また、特定都区市内の駅からSuicaで入場し新幹線に乗り換えた場合は、新幹線乗換駅でSuicaの入場情報が自動的に取り消される(最初から新幹線の乗車券で入場したのと同じ処理がなされる)。なお、新幹線乗車券の発着駅が最初から特定都区市内にある場合は、Suicaを利用しないようアナウンスされている。
Suica定期券で定期区間内に新幹線停車駅が2駅以上含まれている場合は、その区間の新幹線を別途特急券を用意せずに利用できる(新幹線下車駅の乗り換え改札で自由席特急料金相当額がチャージ額から引き去りされる)。
==== グリーン車Suicaシステム ====
[[ファイル:Ueno Station 021.JPG|thumb|200px|[[プラットホーム|ホーム]]上に設置されたICカード専用グリーン券販売機([[上野駅]])]]
[[ファイル:Green-Car-Suica-Reader.jpg|thumb|200px|グリーン車の車内座席上部に設置されたリーダライタ。左側(窓側)席は着席後Suicaをタッチしたので緑ランプが点灯中。右側席(通路側)は空席なので赤ランプが点灯中。]]
多くの情報を非接触で通信可能なFeliCaの利点を活用し、JR東日本では首都圏エリア内の[[普通列車]][[グリーン車]]自由席でSuicaを利用したグリーン車システムを導入している。これは所持しているICカードにグリーン券の情報を書き込み、カード自体をグリーン券として使用するシステムで、乗車前に磁気グリーン券を購入した場合の「事前料金」と同額で乗車できるほか、車内改札が省略されるなど、より快適にグリーン車を利用できる。
このサービスは2020年4月現在、JR東日本の東京近郊各線([[湘南新宿ライン]]・[[上野東京ライン]]・[[宇都宮線]]・[[高崎線]]・[[上越線]]・[[両毛線]]・[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]・[[伊東線]]・[[横須賀線]]・[[総武本線]]・[[成田線]]・[[内房線]]・[[外房線]]・[[常磐線]])の普通列車グリーン車自由席で実施されており、Suica([[モバイルSuica]]はクレジットカード情報登録済みのもののみ)のほか[[PASMO]]([[モバイルPASMO]]を除く)、[[TOICA]]、[[Kitaca]]の4種類のICカードでのみ利用可能である。その他の相互利用可能なICカードとEASYモバイルSuica・[[モバイルPASMO]]では利用できない<ref group="PR">[http://www.jreast.co.jp/tabidoki/green/index.html 旅どきnet - 普通列車グリーン車ご利用案内] - JR東日本・えきねっと</ref><ref group="PR">{{Cite web|和書|title=普通列車グリーン車の利用|利用方法|Suica:JR東日本 |url=http://www.jreast.co.jp/suica/use/green/index.html |website=Suica:JR東日本 |access-date=2023-04-14 |language=ja}}</ref><ref group="PR">[http://www.jreast.co.jp/mobilesuica/use/green/index.html モバイルSuica - Suicaグリーン券] - JR東日本</ref>。
; 利用方法
:ICカードの場合はグリーン車に乗車する前に、駅の自動券売機で「Suicaグリーン券」をICカードのチャージ残額で購入し、利用可能なグリーン券情報をICカードに記録する。Suicaグリーン券はグリーン車を連結する列車停車駅の自動券売機、もしくはホーム上のグリーン券販売機で発売しており、磁気グリーン券(きっぷ)は発行されない。モバイルSuicaの場合はアプリケーションのトップメニューから「Suicaグリーン券購入・払戻」を選択し、乗車区間を指定して購入手続きを行い、グリーン券情報を記録する。この場合の決済はチャージ残額ではなくクレジットカード引き落としとなる。
:Suicaグリーン定期券は、購入した時点でグリーン券情報が搭載されているので、上記のように利用の都度グリーン券情報を書き込む必要はない。
:グリーン車に乗車後、グリーン券情報の入ったICカード・モバイルSuicaを、着席する座席上部に設置されたリーダライタ(グリーン券情報読み取り部)に乗客自らタッチさせる。この際、インジケーターのランプ表示が空席を示す「赤色」から着席を示す「緑色」に変わる。緑色ランプの点灯時は車内改札が省略される。
:同一列車内で座席を移動してもその都度座席上部のリーダライタにカードをタッチすればよい。この場合、同一カードが別の座席でタッチされた時点で情報が自動更新され、移動前の座席のランプが赤色に変わるため、逐一タッチする必要はない。ただし、改札を出ずに別の列車に乗り換える場合は、乗り換え前に再びタッチしてランプを赤色にし、乗り換え先の列車の座席でもタッチしてランプを緑色にする必要がある。なお、降車する(改札を出る)場合はリーダライタにタッチする必要はなく、購入区間を過ぎた時点で情報が自動更新され、ランプは赤色に変わる。
; 利用上の特徴
:Suicaグリーン券は当日利用分のみが発売され、有効期間は購入当日の終電までの1回限りである。またグリーン券情報はICカード1枚につき1名分の乗車1回分のみ有効で、1枚のICカードでグリーン券を2枚以上購入することはできない。最初に購入したグリーン券を未使用のまま新たにグリーン券を購入すると、最初のグリーン券情報は消去され無効となる。
:グリーン車内で着席後に赤色ランプが点灯したままの場合(タッチ操作を失念した場合、購入区間を過ぎて着席している場合、磁気グリーン券利用の場合等)や、グリーン車内を立席で利用している場合は、グリーンアテンダント(グリーン車乗務員)が車内改札を行うが、ICカードの場合は携帯式カードリーダーでグリーン券情報の確認を行う。この際にグリーン券を所持していない場合は、事前料金よりも割高な「車内料金」を支払うことになる。また購入区間を過ぎて乗り越し、差額が生じた場合は精算が必要となり、決済はいずれも現金のみである。
:グリーン車内で有効なICカードは、事前に上記の購入手続きをしたうえでグリーン券情報が記録されたもののみである。したがってグリーン料金分のチャージ残額があるICカードでも、グリーン券情報が無い場合はリーダライタにタッチしても無効となる。
:券売機やグリーン券販売機が故障して利用できない場合は販売機横に係員が立っている場合があり、「券売機故障のため事前料金でグリーン券を発券する」旨の依頼書が渡される場合がある。これをグリーンアテンダント等に提示すると、車内でグリーン券を事前料金で購入することが可能となる。ただし、この場合の精算は現金のみで、ICカードでは精算できない。
:なお<!--東海道本線の[[国鉄185系電車|185系]]で運転されていた列車(2013年3月15日まで運転の東京7時24分発普通伊東行き521M)や-->「[[湘南ライナー]]」(2021年3月12日まで運行)などライナー系車両のグリーン車にはカードリーダライタが設置されていないが、乗務員が乗車口もしくは座席にて携帯式カードリーダーで車内改札を行っていた<ref group="PR">{{Cite web|和書|title=グリーン車システムのご利用方法|普通車グリーン券の利用|利用方法|Suica:JR東日本 |url=http://www.jreast.co.jp/suica/use/green/use_system.html |website=Suica:JR東日本 |access-date=2023-04-14 |language=ja}}</ref>。
:[[臨時駅]]の[[偕楽園駅]]から乗車する場合、同駅発のSuicaグリーン券は発売しておらず、同駅でもSuicaグリーン券は購入出来ない。また、モバイルSuicaでも同駅を発着駅に指定することはできないが、赤塚駅から下車駅までのグリーン券を購入すれば利用可能である。また臨時駅で営業キロが設定されていないため、下り列車で赤塚駅以南から同駅まで乗車する場合は[[水戸駅]]までの運賃および料金が必要である。なお、上り列車は上りホームが設置されていないため全列車停車しない。
:JR東日本以外の事業者線のグリーン券はSuicaグリーン券での発売はしておらず、原則として磁気グリーン券(きっぷ)のみの対応となる。JR東日本線からJR東海線へ直通する普通列車においては、[[湯河原駅]]以東から沼津駅方面へ向かう列車で、かつ発駅からJR東海線各駅(函南駅・三島駅・沼津駅)までのグリーン料金が熱海駅までの料金と同額の場合に限り、事前にJR東日本の車掌・アテンダントに申し出ることで対応が可能である。
;JRE POINTからの交換
:2018年3月17日より、JRE POINTの交換特典として(JRE POINT用)Suicaグリーン券に交換できるサービスが開始された。あらかじめJRE POINTのサイトまたはスマートフォンアプリから交換申し込みを行い、カードタイプのSuicaは申込みの翌日から30日以内に券売機で受け取り及び利用区間の指定を行う。モバイルSuica(EASYモバイルSuica、アプリケーション登録をしていないApple PayのSuicaは除く)は申込みの当日から31日以内にモバイルSuicaのアプリ内で利用区間の指定を行う。なお、上述のグリーン車Suicaシステムでは利用できる湘南ライナーなどのグリーン車にリーダーが設置されていない列車やグリーン車Suicaシステムのエリア外となるJR東海線各駅(函南駅・三島駅・沼津駅)にまたがる利用はできない<ref group="PR">[https://www.jrepoint.jp/point/spend/suica-green/ (JRE POINT用)Suicaグリーン券に交換する] - JR東日本 JRE POINT</ref>。
==== IC企画乗車券 ====
JR東日本が発行するカード型Suica(My Suica・Welcome Suica含む)・モバイルSuica(Android・iOS)及び定期券情報非搭載の地域連携ICカードでは、[[特別企画乗車券]]をSuica等に書き込んで使用することが出来る。Suicaの定期券機能を利用するもので、他社発行のSuica(りんかいSuicaなど)や有効な定期券情報のあるSuica、記念Suica、Suicaイオカードには搭載不可。またモバイルSuicaでは大人用のみ利用できる。
以下の切符が搭載可能<ref group="PR" >{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/suica/ic_otoku/|title=おトクなきっぷがSuicaでもご利用いただけます|website=Suica公式サイト|accessdate=2022-01-13}}</ref>。カード型ではフリー区間内駅の指定券・定期券が発行可能な券売機、モバイル型ではモバイルSuicaアプリで購入(Suicaへの書き込み)を行う。カード型では券面にIC企画乗車券の内容が印字される。ただし、Welcome Suicaは券面に印字されずレファレンスペーパーでの対応となる。
* のんびりホリデーSuicaパス(ICカード版[[休日おでかけパス]])
* [[都区内パス]]
* [[東京フリーきっぷ]]
* [[ヨコハマ・みなとみらいパス]]
これらのIC企画乗車券でフリー区間外にまたがって利用した場合、乗車経路にかかわらず乗車駅または下車駅から最短となるフリー区間出入口駅との区間で精算される。例として、都区内パスまたは東京フリーきっぷを搭載したSuicaで利用当日に大宮駅から上野駅まで利用した場合、大宮駅から最短の出入口駅である浮間舟渡駅までの運賃がSuicaのSF残額から精算される。
==== タッチでエキナカ ====
通常、交通系ICカードは[[入場券]]として使用することは出来ない(券売機で入場券を購入する必要がある)が、JR東日本のSuicaエリアのうち、自動改札機を有する在来線駅では、同一駅の自動改札機で入場後2時間以内に出場した場合、当該駅の入場券相当額を差し引いて出場出来るIC入場サービス「タッチでエキナカ」を行っている。
利用に際しては、以下の条件がある<ref group="PR" >{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/suica/use/touchdeekinaka/|title=IC入場サービス「タッチでエキナカ」|website=Suica公式サイト|accessdate=2022-01-13}}</ref>。
* 新幹線改札内は利用出来ない(別途入場券を購入する必要あり)。従って、新幹線単独駅では本サービスを利用出来ない。
* 簡易自動改札機での入場は可能だが、簡易自動改札機での出場(精算)は出来ない。従って、簡易自動改札機しか設置されていない駅では本サービスを利用出来ない。
* JR東日本以外が管理する駅や他社連絡改札口、他社と共有する改札口では本サービスを利用出来ない。
=== バスでの利用 ===
Suicaエリアのバスは[[ジェイアールバス関東]]と[[ジェイアールバス東北]]と[[岩手県北自動車]](みちのりバス東北)の一部路線のみである。
運賃前払い方式の区間では、乗車時に乗車口のカードリーダーにSuicaを軽くタッチするとチャージ金額から運賃が引き去られ、精算が完了する。降車時にはカードリーダーにSuicaをタッチする必要はない。運賃後払い方式の区間では、乗車口のカードリーダーにSuicaを軽くタッチする。初乗り運賃相当額がチャージ(入金)されているか、または有効な定期券情報があるかを確認する。この時点でチャージ金額は引き去らない。降車口のタッチ時に乗車した区間の運賃が全額精算される。いずれの場合も支払金額と残額が、その都度運賃精算機のディスプレイに表示される。
また、Suicaには、PASMOエリアのバス定期券機能やバスIC一日乗車券の情報を搭載することもできる。これらの扱いについての詳細は[[PASMO#バス・路面電車での利用]]を参照。
== 利用可能エリア ==
[[SAPICA]]との共通利用に当たってはSAPICAエリアが「Suica札幌エリア」として設定されている<ref group="PR">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/suica/area/hokkaido/pdf/hokkaidomap.pdf 札幌エリア(SAPICAエリア)] - 東日本旅客鉄道 2020年5月4日閲覧。}}</ref>が、本項では割愛する([[SAPICA#利用可能な事業者・路線]]参照)。
=== 鉄軌道事業者 ===
「'''首都圏エリア'''」「'''仙台エリア'''」「'''新潟エリア'''」「'''盛岡エリア'''」「'''青森エリア'''」「'''秋田エリア'''」の6エリアに分けられる。原則としてエリア内完結の乗車(事業者間を跨ぐ利用を含む)のみ利用可能<ref group="PR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/suica/area/|title=Suica > 利用可能エリア|accessdate=2020-03-18|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。それぞれ中心駅(東京駅・仙台駅・新潟駅・盛岡駅・青森駅・秋田駅)からおおむね 100 – 200 km 程度の範囲に設定されている。この他、「沖縄エリア」(沖縄都市モノレール)、「札幌エリア」(SAPICAと並行導入)がある。
* 以下において、路線名は正式名称で記し、案内上の名称は【】内に付記する。区間等に関する付記がないものは当該社全線全駅で利用可能。
* 「Suica一部対応駅」(Suica利用可能駅が前後に連続していない駅)では、Suicaの発売・再発行・払い戻しは行わず、この駅を含む区間を含むSuica定期券も発売しない<ref group="PR">[http://www.jreast.co.jp/suica/area/kakudai.html Suica一部対応駅について] - 東日本旅客鉄道</ref><ref group="PR">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2014/20140513.pdf 吾妻線にSuicaの一部サービスをご利用いただける駅が増えます]}} - 2014年5月26日 東日本旅客鉄道</ref>。
* 以下の記述の「新幹線区間」は[[タッチでGo!新幹線]]対応区間とは異なる。
==== 首都圏エリア ====
[[File:東京近郊区間.svg|thumb|東京近郊区間路線図]]
このエリアのJR東日本線はおおむね[[大都市近郊区間 (JR)#東京近郊区間|東京近郊区間]]と一致する<ref name="shutoken" group="PR">[http://www.jreast.co.jp/suica/area/tokyo/index.html Suica首都圏エリア] - JR東日本</ref>。「関東地方と周辺県の1都9県にわたる。ただし、JR東日本の[[烏山線]]、[[久留里線]]では利用できない。
;JR東日本
:* [[東海道本線]]【[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]・[[京浜東北線]]・[[横須賀・総武快速線]]・[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]】{{Efn|group=区間等|JR東日本の東海道本線全線。[[熱海駅]]または[[国府津駅]]を越えてTOICAエリアにまたがるSF利用は不可}}
:* [[山手線]]
:* [[赤羽線]]【[[埼京線]]】
:* [[南武線]]
:* [[京葉線]]
:* [[鶴見線]]
:* [[武蔵野線]]
:* [[横浜線]]
:* [[根岸線]]
:* [[横須賀線]]
:* [[相模線]]
:* [[伊東線]]
:* [[中央本線]]【[[中央線快速]]・[[中央・総武緩行線]]・中央線】{{Efn|group=区間等|支線を含むJR東日本の中央本線(いわゆる中央東線)全線。ただし[[川岸駅]]・[[辰野駅]]・[[信濃川島駅]]・[[小野駅 (長野県)|小野駅]]での乗降不可}}
:* [[青梅線]]
:* [[五日市線]]
:* [[八高線]]
:* [[東北本線]]【京浜東北線・[[宇都宮線]]・埼京線・東北線】:[[東京駅]] - [[黒磯駅]]間(支線を含む)
:** 東北本線【東北新幹線】:東京駅 - [[那須塩原駅]]間{{Efn|name="shinkansen"|定期乗車券のみ使用可能。}}
:* [[常磐線]]【[[常磐緩行線|常磐線各駅停車]]・[[常磐快速線]]】:日暮里駅 - [[浪江駅]]間
:* [[川越線]]
:* [[高崎線]]
:* [[上越線]]:[[高崎駅]] - [[水上駅]]間
:** 高崎線・上越線【上越新幹線】:[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[上毛高原駅]]間{{Efn|name="shinkansen"}}
:* [[両毛線]]
:* [[水戸線]]
:* [[日光線]]
:* [[信越本線]]:高崎駅 - [[横川駅 (群馬県)|横川駅]]間
:* [[総武本線]]【横須賀・総武快速線・中央・総武緩行線・総武線】
:* [[外房線]]
:* [[内房線]]
:* [[成田線]]
:* [[東金線]]
:* [[鹿島線]]
:* [[篠ノ井線]]:[[塩尻駅]] - [[松本駅]]間
:* [[小海線]]:[[小淵沢駅]] - [[野辺山駅]]間{{Efn|group=区間等|小淵沢駅・[[清里駅]]・野辺山駅でのみ乗降取り扱い}}
:* [[水郡線]]:[[水戸駅]] - [[常陸大子駅]]、[[上菅谷駅]] - [[常陸太田駅]]{{Efn|group=区間等|水戸駅・[[常陸大宮駅]]・常陸大子駅・上菅谷駅・常陸太田駅でのみ乗降取り扱い}}
:* [[吾妻線]] : [[渋川駅]] - [[万座・鹿沢口駅]]間{{Efn|group=区間等|渋川駅・[[中之条駅]]・[[長野原草津口駅]]・万座・鹿沢口駅でのみ乗降取り扱い}}
:* [[北陸新幹線]]:高崎駅 - [[上越妙高駅]]間{{Efn|group=区間等|name="shinkansen"}}
;[[東京モノレール]]
:* [[東京モノレール羽田空港線]]全線<ref name="shutoken" group="PR" />
;[[東京臨海高速鉄道]](TWR)
:* [[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]全線<ref name="shutoken" group="PR" />
;[[埼玉新都市交通]]
:* [[埼玉新都市交通伊奈線|伊奈線(ニューシャトル)]]全線<ref name="shutoken" group="PR" />
;[[伊豆急行]]
:* [[伊豆急行線]]全線<ref name="shutoken" group="PR" />
;[[富士山麓電気鉄道]](富士急行線)
:* [[富士山麓電気鉄道富士急行線|大月線・河口湖線]]全線<ref name="shutoken" group="PR" /><ref group="PR" name="fujikyu20141219" />
==== 仙台エリア ====
[[ファイル:仙台近郊区間の路線図(2020年現在).png|代替文=|サムネイル|236x236ピクセル|仙台近郊区間略図]]
このエリアのJR東日本線はおおむね[[大都市近郊区間 (JR)#仙台近郊区間|仙台近郊区間]]に一致する<ref name="sendai" group="PR">[http://www.jreast.co.jp/suica/area/sendai/index.html Suica仙台エリア] - JR東日本</ref>が、エリアの縁部では利用可能駅が絞られている。宮城県、山形県、福島県の3県にわたる。
;JR東日本
:* 東北本線【東北線・[[利府線]]・[[仙石東北ライン]]】:[[矢吹駅]] - [[平泉駅]]間{{Efn|group=区間等|[[小牛田駅]]以北は[[一ノ関駅]]・平泉駅でのみ乗降取り扱い}}及び利府線・仙石東北ライン全線全駅
:** 【東北新幹線】:郡山駅 - 古川駅{{Efn|name="shinkansen"}}
:* 常磐線:[[小高駅]] - [[岩沼駅]]間
:* [[仙山線]]:全線{{Efn|group=区間等|[[愛子駅]]以西は[[作並駅]]・[[山寺駅]]でのみ乗降取り扱い。[[羽前千歳駅]]での乗降不可}}
:* [[仙石線]]
:* [[石巻線]]:小牛田駅 - [[石巻駅]]間{{Efn|group=区間等|name=pass|通過利用のみ可能}}
:* [[磐越東線]]:[[船引駅]] - [[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]間
:* [[磐越西線]]:郡山駅 - [[喜多方駅]]間{{Efn|group=区間等|[[郡山富田駅]]以西は[[磐梯熱海駅]]・[[猪苗代駅]]・[[会津若松駅]]・喜多方駅でのみ乗降取り扱い}}
:* [[奥羽本線]]([[山形線]]):[[福島駅 (福島県)|福島駅]] - [[新庄駅]]間{{Efn|group=区間等|[[山形駅]]でのみ乗降取り扱い。新庄駅での乗降不可。}}{{Efn|name="Tsubasa"|group=区間等|奥羽本線(在来線)特別急行列車「つばさ号」の利用は不可。}}
:* [[陸羽東線]]:全線{{Efn|group=区間等|[[古川駅]]以西は[[鳴子温泉駅]]でのみ乗降取り扱い。新庄駅での乗降不可}}
;[[仙台空港鉄道]]
:* [[仙台空港鉄道仙台空港線|仙台空港線]]全線<ref name="sendai" group="PR" />
==== 新潟エリア ====
[[File:新潟近郊区間.png|thumb|right|300px|新潟近郊区間略図]]
おおむね[[大都市近郊区間 (JR)#新潟近郊区間|新潟近郊区間]]に一致する<ref name="niigata" group="PR">[http://www.jreast.co.jp/suica/area/niigata/index.html Suica新潟エリア] - JR東日本</ref>。全て新潟県内。
;JR東日本
:* 磐越西線:[[五泉駅]] - [[新津駅]]間
:* [[羽越本線]]:新津駅 - [[村上駅 (新潟県)|村上駅]]間{{Efn|group=区間等|[[新発田駅]]以北は[[中条駅]]・[[坂町駅]]・村上駅でのみ乗降取り扱い}}
:* [[白新線]]
:* 信越本線:[[直江津駅]] - [[新潟駅]]間{{Efn|group=区間等|[[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]]以南は直江津駅・[[柏崎駅]]でのみ乗降取り扱い}}
:* [[越後線]]:全線{{Efn|group=区間等|柏崎駅 - [[吉田駅 (新潟県)|吉田駅]]間は通過利用のみ取り扱い}}
:* [[弥彦線]]
:* 上越線:[[小千谷駅]] - 宮内駅間{{Efn|group=区間等|name=pass}}
:** 【上越新幹線】:[[長岡駅]] - 新潟駅{{Efn|name="shinkansen"}}
==== 盛岡エリア ====
[[ファイル:Suica Northern Tohoku.png|サムネイル|Suicaの盛岡エリア・青森エリア・秋田エリア]]
首都圏・仙台・新潟エリアとは異なり[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]には指定されていない<ref name="morioka" group="PR">[http://www.jreast.co.jp/suica/area/morioka/index.html Suica盛岡エリア] - JR東日本</ref>。全て岩手県内。
;JR東日本
:* 東北本線:[[北上駅]] - [[盛岡駅]]間
:** 東北本線【東北新幹線】:北上駅 - 盛岡間{{Efn|name="shinkansen"}}
:* [[釜石線]]:[[花巻駅]] - [[新花巻駅]]間
:* [[田沢湖線]]:[[雫石駅]] - 盛岡駅間{{Efn|name="Komachi"|田沢湖線・奥羽本線(在来線)特別急行列車「こまち号」の利用は、定期乗車券のみ使用可能。<!--根拠不明のためコメントアウト--><!--ただし、盛岡駅ホーム上での乗り換えを含めて東北新幹線との通し乗車不可。-->}}
==== 青森エリア ====
首都圏・仙台・新潟エリアとは異なり大都市近郊区間には指定されていない<ref name="aomori" group="PR">[http://www.jreast.co.jp/suica/area/aomori/index.html Suica青森エリア] - JR東日本</ref>。全て青森県内。
;JR東日本
:* 奥羽本線:[[青森駅]] - [[弘前駅]]間
==== 秋田エリア ====
首都圏・仙台・新潟エリアとは異なり大都市近郊区間には指定されていない<ref name="akita" group="PR">[http://www.jreast.co.jp/suica/area/akita/index.html Suica秋田エリア] - JR東日本</ref>。全て秋田県内。
;JR東日本
:* 羽越本線:[[新屋駅 (秋田県)|新屋駅]] - [[秋田駅]]間
:* 奥羽本線:[[和田駅]] - [[追分駅 (秋田県)|追分駅]]間{{Efn|田沢湖線・奥羽本線(在来線)特別急行列車「こまち号」は、[[大曲駅 (秋田県)|大曲駅]] - 秋田駅間は無停車のため利用不可。}}
:* [[男鹿線]]
==== 沖縄エリア ====
出張や観光などで来訪するSuica所持者向けサービスの色彩が強く、チャージやSF乗車は可能であるもののSuica定期券を発売しないなどサービスの制限がある。全て沖縄県の沖縄本島内。
;[[沖縄都市モノレール]](ゆいレール)
:* [[沖縄都市モノレール線]]:全線<ref group="PR" name="yui-rail"/>
==== 区間・除外駅等の付記・注釈 ====
{{notelist|group=区間等}}
=== ジェイアールバス関東 ===
[[ジェイアールバス関東]]の以下の高速路線・一般路線にSF残額で乗車可能。高速路線は共同運行他社便でも利用可(一部の臨時便、みと号の茨城交通運行便、新宿 - 本庄・伊勢崎線の群馬中央バス運行委託便を除く)
;高速路線<ref name="shutoken" group="PR" /><ref group="PR">[http://www.jrbuskanto.co.jp/timebook/ 高速バス時刻表] - JRバス関東</ref>
:*新宿・東京 - 佐野線([[マロニエ新宿号|マロニエ新宿号・東京号]])
:*新宿 - 本庄・伊勢崎線
:*東京 - 石岡・水戸線([[常磐高速バス#みと号|みと号]])
:*[[東京 - 富里・多古線]]
:*東京 - 鹿島線([[かしま号]])
:*東京 - 神栖・波崎線([[はさき号]])
:*東京 - つくば線([[つくば号]])
;一般路線<ref name="shutoken" group="PR" />
:* [[ジェイアールバス関東土浦支店|土浦支店]]管内(イオンモール土浦線・ひたち野うしく - つくばセンター線・あみプレミアム・アウトレット線)
:* [[ジェイアールバス関東佐野支店|佐野支店]]管内(東古河妻線・[[佐野市生活路線バス]])
:* [[ジェイアールバス関東長野原支店|長野原支店]]管内(志賀草津高原線)
:* [[ジェイアールバス関東東関東支店|東関東支店]]管内(多古線)
:** [[ジェイアールバス関東宇都宮支店|宇都宮支店]]管内・[[ジェイアールバス関東西那須野支店|西那須野支店]]管内は地域連携ICカード「totra」のエリアとしてSuicaが利用可能
=== ジェイアールバス東北 ===
;高速路線
:* [[ジェイアールバス東北#高速|仙台 - 古川線]]
:* [[アーバン号|仙台 - 盛岡線(アーバン号)]]
;一般路線
:* [[ジェイアールバス東北青森支店|青森支店]]管内([[十和田北線]]「みずうみ号」、[[十和田東線]]「おいらせ号」、[[十和田北線#横内線|横内線]]、青森空港線)<ref group="PR" name="jrbus-aomori" >{{PDFlink|[https://www.jrbustohoku.co.jp/uploads/files/20210304_ICカード使用開始.pdf 青森県内の一部バス路線において交通系ICカードがご利用いただけるようになります]}} - JRバス東北・2021年3月4日リリース</ref>
:** 横内線、青森空港線は2022年3月12日より地域連携ICカード「AOPASS」の対象路線となった(Suicaは引き続き利用可能)。
:** [[ジェイアールバス東北盛岡支店|盛岡支店]]管内(早坂高原線・平庭高原線(白樺号)のみ)・[[ジェイアールバス東北二戸支店|二戸支店]]管内(白樺号・スワロー号のみ)は地域連携ICカード「iGUCA」のエリアとしてSuicaが利用可能<ref group="PR" name="iwatekenpoku-iguca">[http://www.iwate-kenpokubus.co.jp/archives/21698/#type 地域連携ICカード「iGUCA(イグカ)」ご利用ガイド] - 岩手県北交通</ref>。
=== 岩手県北自動車 ===
:* 仙台宮城営業所管内(みちのりバス東北「[[岩手県北自動車#宮城県内|利府駅前 - イオンモール新利府南館線]]」)<ref group="PR">{{Cite web|url=https://shinrifu-aeonmall.com/static/detail/access|title=イオンモール新利府 南館公式ホームページ :: アクセス|accessdate=2023-11-02|publisher=イオンモール新利府 南館}}</ref>
:** [[岩手県北自動車|本社]]管内([[岩手県北自動車|岩手県北バス]])は地域連携ICカード「iGUCA」のエリアとしてSuicaが利用可能<ref group="PR" name="iwatekenpoku-iguca" />。
:** [[南部バス|南部支社]]管内([[南部バス]])は地域連携ICカード「ハチカ」のエリアとしてSuicaが利用可能<ref group="PR" name="hachica">{{Cite web |title=HOME |url=https://www.city.hachinohe.aomori.jp/section/hachica/ |website=八戸圏域地域連携 ICカード 「ハチカ」 |access-date=2022-06-03 |language=ja}}</ref>。
== 相互利用 ==
[[ファイル:ICCard Connection.svg|thumb|right|250px|相互利用関係(クリックで拡大)]]
[[ファイル:PASMO Automatic Ticket Gate.jpg|thumb|200px|PASMO・Suica専用自動改札機([[小田急江ノ島線]][[藤沢駅]])]]
{{See also|交通系ICカード全国相互利用サービス#交通系ICカードの相互利用関係}}
Suicaと以下のカードを発行する事業者のエリアで相互利用・片利用が可能になっている。また、各ICカードと完全互換仕様で別名で発行されるICカード(例:nimocaに対するめじろんnimoca、でんでんnimoca、ICAS nimoca)も利用可能である(詳細は各ICカードの頁を参照)。ただし、一部事業者が発行している特割用カードは各社とも相互利用の対象外となっているほか、それ以外にも取扱いに制限がある{{Efn2|name="wari"|交通事業者により、身体・知的障害者の割引の対象が異なるため。}}。
;凡例
:◎:乗車券機能・電子マネー機能とも相互利用可能
:○:乗車券機能のみ相互利用可能、電子マネーは相互利用不可
:△:Suicaほか10種類のICカードは乗車券機能の利用可能、利用先のICカードは他のICカードエリアでは利用不可
{| class="wikitable sortable" style="width:70%;" style="font-size:70%;"
! class="unsortable" nowrap="nowrap" |カード
! class="unsortable" nowrap="nowrap" |発行者
! class="unsortable" nowrap="nowrap" |利用<br />可能<br />範囲
!乗車運賃払い<br />相互利用開始
!電子マネー<br />相互利用開始
! class="unsortable" nowrap="nowrap" |備考・典拠
|-
|[[PASMO]]||パスモ加盟各社局||◎||2007年(平成19年)3月18日||2007年(平成19年)3月18日||
|-
|[[Kitaca]]||JR北海道||◎||2009年(平成21年)3月14日||2009年(平成21年)3月14日||
|-
|[[TOICA]]||JR東海||◎||2008年(平成20年)3月29日|| style="white-space:nowrap" |2010年(平成22年)3月13日||{{mn|Con_1|備考:1}}<ref group="PR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2009/20091216.pdf|title=平成22年3月13日(土)「Suica」「TOICA」「ICOCA」の電子マネー相互利用をスタート!|format=PDF|publisher=東海旅客鉄道株式会社|accessdate=2009-12-21}}</ref>
|-
|[[ICOCA]]||JR西日本||◎||2004年(平成16年)8月1日||2008年(平成20年)3月18日||
|-
|[[SUGOCA]]||JR九州||◎|| style="white-space:nowrap" |2010年(平成22年)3月13日||2010年(平成22年)3月13日||<ref name="jreast20080207" group="PR">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2007_2/20080205.pdf 「九州IC乗車券・電子マネー相互利用に関する協議会」の発足について]}} - 2008年2月7日</ref><ref name="jreast20091222" group="PR">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2009/20091220.pdf Suica、SUGOCA、nimoca、はやかけん相互利用サービス開始日の決定について]}} - 2009年(平成21年)12月22日</ref>
|-
|[[nimoca]]{{Efn2|name="Well"}}||ニモカ加盟各社||◎||2010年(平成22年)3月13日||2010年(平成22年)3月13日||<ref name="jreast20080207" group="PR" /><ref name="jreast20091222" group="PR" />
|-
| style="white-space:nowrap" |[[はやかけん]]{{Efn2|name="Well"}}||福岡市交通局||◎||2010年(平成22年)3月13日||2010年(平成22年)3月13日||<ref name="jreast20080207" group="PR" /><ref name="jreast20091222" group="PR" />
|-
|[[PiTaPa]]||スルッとKANSAI加盟各社局||○||2013年(平成25年)3月23日||{{n/a}}||{{mn|Con_2|備考:2}}<ref name="jre20110518" group="PR" /><ref group="PR">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2010/20101215.pdf 「交通系ICカードの相互利用サービスの検討を開始しました」]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2010年(平成22年)12月20日</ref>
|-
|[[manaca]]{{Efn2|name="Well"}}||名古屋交通開発機構<br />エムアイシー加盟各社局||◎||2013年(平成25年)3月23日||2013年(平成25年)3月23日||<ref name="jre20110518" group="PR" /><ref group="PR">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2009/20090612.pdf IC乗車券の相互利用サービスの検討を開始しました]}} - 平成21年6月11日</ref>
|-
|[[りゅーと]]||新潟交通||△||2013年(平成25年)3月23日||{{n/a}}||{{mn|Con_3|備考:3}}
|-
|[[LuLuCa]]||静岡鉄道||△||2013年(平成25年)3月23日||{{n/a}}||{{mn|Con_4|備考:4}}
|-
|[[SAPICA]]|| style="white-space:nowrap" |札幌総合情報センター加盟各社局||△||2013年(平成25年)6月22日||{{n/a}}||{{mn|Con_5|備考:5}}
|-
|[[熊本地域振興ICカード]]||肥銀コンピュータサービス加盟各社||△||2016年(平成28年)3月23日||{{n/a}}||{{mn|Con_6|備考:6}}<ref group="PR">{{Cite press release |title=熊本県内路線バス(電鉄電車含む)における「SUGOCA」等の 全国相互利用 10 社の交通系ICカード利用サービス開始について |publisher=一般社団法人熊本県バス協会・九州旅客鉄道、九州産交バス、産交バス、熊本電気鉄道、熊本バス、熊本都市バス |date=2016-02-01 |url=http://www.kyusanko.co.jp/sankobus_top/sites/all/themes/SankobusTop/pdf/ICCARD20160323-2.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>
|-
|[[icsca]]{{Efn2|name="Well"}}||仙台市交通局||△||2016年(平成28年)3月26日||{{n/a}}||{{mn|Con_7|備考:7}}<ref name="icsca" group="PR">[http://www.miyakou.co.jp/cms/uploadfiles/output/56779286-f478-4e5b-8a78-281dc0a80299/ 「icsca」と「Suica」の仙台圏における相互利用サービスの開始日について] - 2015年12月21日 仙台市交通局・宮城交通・東日本旅客鉄道仙台支社</ref>
|-
|[[emica]]||三重交通||△||2016年(平成28年)4月1日||{{n/a}}||{{mn|Con_8|備考8}}<ref group="PR">{{Cite press release |title=ICカード「emica(エミカ)」及び 全国の交通系ICカードの利用開始について |publisher=三重交通 |date=2016-02-29 |url=http://www.sanco.co.jp/other/release160229.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>
|-
|[[IruCa]]|| 高松琴平電気鉄道 ||△||2018年(平成30年)3月3日||{{n/a}}||{{mn|Con_9|備考9}}<ref group="PR">{{Cite press release |title=IruCaエリアにおける交通系ICカードのご利用開始日について |publisher=高松琴平電気鉄道株式会社、西日本旅客鉄道株式会社 |date=2018-01-22 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/01/page_11744.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2018-02-05 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>
|-
|[[PASPY]]|| 公益社団法人広島県バス協会 ||△||2018年(平成30年)3月17日||{{n/a}}||{{mn|Con_9|備考9}}<ref group="PR">{{Cite press release |title=PASPYエリアにおける交通系ICカードのご利用開始日について |publisher=公益社団法人広島県バス協会 |date=2018-02-27 |url=http://www.paspy.jp/enterprise/images/press20180227a.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>
|-
|[[Tポイント#エヌタスTカード|エヌタスTカード]]|| 株式会社エヌタス ||△||2020年(令和2年)2月16日||{{n/a}}||{{mn|Con_6|備考6}}<ref group="PR">{{Cite press release |title=長崎バス及びさいかい交通における全国相互利用対象の交通系ICカードのご利用開始について |publisher=長崎自動車/九州旅客鉄道 |date=2020-02-05 |url=https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2020/02/05/200205Newsreleasenagasaki.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2020-02-16 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200206155230/https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2020/02/05/200205Newsreleasenagasaki.pdf |archive-date=2020-02-06 |quote= |ref=}}</ref>
|}
;備考
*{{mnb|Con_1|1}}TOICAとは[[国府津駅]]・[[熱海駅]]でエリアがつながっているが、両者を跨いだ利用は定期券での利用に限られる(SFでの連続利用不可)。
*{{mnb|Con_2|2}}PiTaPaは法律上[[クレジットカード]]に準ずる扱いとなっていることや、相互利用開始時までにシステムの改修が間に合わないことなどから、電子マネーサービスは利用できない。
*{{mnb|Con_3|3}}Suica新潟エリアとして利用可。臨時バスの一部便を除く<ref group="PR">{{PDFlink|[http://www.niigata-kotsu.co.jp/ryuto/release/101216_iccard.pdf ICカード「りゅーと」の導入について]}} - 新潟交通 平成22年12月16日</ref><ref group="PR">{{Cite press release |title=新潟交通路線バスにおける「Suica」等のサービス開始について |publisher=新潟交通、東日本旅客鉄道新潟支社、新潟市 |date=2012-12-19 |url=http://www.niigata-kotsu.co.jp/ryuto/release/121218_ryutosuica.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。運賃精算のみの取り扱いで、チャージは取り扱わないほか、りゅーとのポイントサービス、乗り継ぎ割引「のり割30」は対象外となるなど機能に一部制限がある。(乗り継ぎ割引「まち割60」は、新潟市発行の「のりかえ現金カード」を併用することで適用対象となる) また、りゅーとはエリア内であってもJRで利用できない。
*{{mnb|Con_4|4}}PiTaPaエリアとして利用可。電車・バスの各種割引サービスは対象外となるなど機能に一部制限がある。またチャージの取扱いは窓口(新静岡駅、草薙駅、新清水駅、しずてつジャストライン新静岡バスセンターの4箇所)のみに限り、電車各駅の券売機及びバス車内でのチャージは当面取り扱わない<ref group="PR">{{Cite web|和書|url=http://www.justline.co.jp/rosenn/rosen201303191530.html |title=ICカード乗車券」利用サービスについて|publisher=しずてつジャストライン株式会社|accessdate=2013-03-29}}</ref>。
*{{mnb|Con_5|5}}Suica札幌エリアとして利用可。SAPICAのポイントサービスは対象外となるなど機能に一部制限がある。また、SAPICAの同カード非加盟事業者での利用及び電子マネーサービスの利用はできない<ref name="jre20110518" group="PR" /><ref group="PR">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2010/20110112.pdf 「SAPICAエリアにおけるKitacaおよびSuicaの利用サービスの開始について」]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2011年1月25日</ref><ref group="PR">{{PDFlink|[http://www.sapica.jp/view/docs/2013031401_press.pdf バス・市電でのSAPICAのサービス開始及びSAPICAエリアにおけるKitaca・Suica等の利用サービス開始について] }} 札幌ICカード協議会(2013年3月14日)</ref>。
*{{mnb|Con_6|6}}SUGOCAエリアとして利用可。
*{{mnb|Con_7|7}}Suica仙台エリアとして利用可。同エリア限定でicscaと相互利用可。なお、福祉割引用icscaは相互利用の対象外。
*{{mnb|Con_8|8}}PiTaPaエリアとして利用可。
*{{mnb|Con_9|9}}ICOCAエリアとして利用可。
地域の事業者の場合、地域独自サービスと全国の相互利用を両立させることは導入費用や運用面(独自サービスの改廃の必要など)の問題があり、上記のように相互利用に制限が多かった。このため、地域のバス事業者が運行するバスの定期券や各種割引などの地域独自サービスの機能に加えて、Suica エリアおよび Suica と相互利用を行っているエリアで利用可能な乗車券や電子マネーなどのSuica サービスが1枚で利用可能な 2in1 カードとしての[[地域連携ICカード]]が開発された。Suica カードとして完全な機能があるため、Suicaとして上記の相互利用が可能。2021年3月より、栃木県で「totra」、岩手県で「Iwate Green Pass」がそれぞれサービスを開始し、2022年2月から5月にかけて、さらに関東・東北地方の5県で新たに9種類の地域連携ICカードのサービスが開始される<ref group="PR">{{Cite press release |title=Suica 機能を持つ地域連携 IC カードのサービスが広がります! |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2022-02-16 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20220216_ho01.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
{| class="wikitable sortable" style="width:70%;" style="font-size:80%;"
! class="unsortable" nowrap="nowrap" |カード
! class="unsortable" nowrap="nowrap" |発行者
!相互利用開始
! class="unsortable" nowrap="nowrap" |備考・典拠
|-
|rowspan="2"|AOPASS(アオパス)||青森市企業局交通部、青森市||2022年(令和4年)3月5日||
|-
|ジェイアールバス東北||2022年(令和4年)3月12日||
|-
|MegoICa(メゴイカ)||弘南バス||2023年(令和5年)2月25日||
|-
|Iwate Green Pass(イワテグリーンパス)||岩手県交通||2021年(令和3年)3月27日||
|-
|ハチカ||八戸市交通部、岩手県北自動車||2022年(令和4年)2月26日||
|-
|Towada SkyBlue Pass(トワダスカイブルーパス)||十和田観光電鉄||2022年(令和4年)4月29日||{{mn|Con_10|備考:10}}
|-
|rowspan="2"|iGUCA(イグカ)||岩手県北自動車||2022年(令和4年)2月19日||
|-
|ジェイアールバス東北||2022年(令和4年)3月12日||
|-
|[[odeca]](オデカ)||東日本旅客鉄道||2023年(令和5年)7月1日||{{mn|Con_11|備考:11}}
|-
|AkiCA(アキカ)||秋田中央交通、秋田市||2022年(令和4年)3月26日||
|-
|Shuhoku Orange Pass(シュウホク オレンジパス)||秋北バス||2022年(令和4年)3月12日||
|-
|yamako cherica(ヤマコウ チェリカ)||山交バス、山交ハイヤー、米沢市||2022年(令和4年)5月14日||
|-
|shoko cherica(ショウコウ チェリカ)||庄内交通||2022年(令和4年)5月14日||
|-
|nolbé(ノルべ)||上信電鉄、群馬中央バス、日本中央バス、日本中央交通、群馬バス、矢島タクシー、永井運輸㈱||2022年(令和4年)3月12日||
|-
|rowspan="2"|totra(トトラ)||関東自動車、ジェイアールバス関東||2021年(令和3年)3月21日||
|-
|宇都宮ライトレール||2023年(令和5年)8月26日||
|}
*{{mnb|Con_10|10}}※自社でのカード発売日を記載。SuicaおよびSuicaと相互利用可能な交通系ICカードでの乗車サービスは2022年3月5日より先行して開始。
*{{mnb|Con_11|11}}※地域連携ICカードへのリニューアル日を記載。独自カードとしては2013年8月5日開始。
{{See also|地域連携ICカード}}
== Suica電子マネー ==
{{Main|Suica電子マネー}}
Suicaを[[電子マネー]]として利用するサービスは、[[2003年]](平成15年)[[11月]]よりVIEW Suica会員限定でSuica電子マネーモニターを実施した結果、これが好評だったため、翌[[2004年]](平成16年)[[3月22日]]より正式に'''Suicaショッピングサービス'''(後に、'''[[Suica電子マネー]]'''に改称)としてスタートした。この電子マネーサービスについても、[[2013年]](平成25年)3月23日の[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]開始に伴い、[[PiTaPa]]を除く全国9種類のICカードが利用できる。
=== 予約制高速バス ===
[[JRバス]]グループをはじめとする高速バスチケット予約サービスのWebサイト「[[高速バスネット]]」では[[2010年]](平成22年)[[11月24日]]から、チケット購入にSuicaネット決済が利用できるシステムを、当時取り扱っていた120路線のうち90路線を皮切りにサービスを開始した<ref group="PR">{{PDFlink|[http://www.jrbuskanto.co.jp/topics/20101117_suicainternetservice.pdf 高速バスチケット予約・購入サービス「高速バスネット」でSuica がご利用いただけるようになります]}} - JRバス関東 2010年11月17日</ref>。
決済には、後述の[[#Suicaインターネットサービス|Suicaインターネットサービス]]もしくは[[モバイルSuica]]が利用できる。
なお、この事前予約制高速バスの利用方法は電子マネーによるネット決済で予め乗車券を購入するものであり、バス車内での精算は利用できない。ただし一部の路線・便では事前予約制の指定席と、当日精算の自由席の2種類の座席を設置している場合があり、後者では路線バスの細項で前述の通り、ICカードが利用できる場合がある<ref name="response20101205">[http://response.jp/ レスポンス自動車ニュース] 内{{Cite web|和書|url = http://response.jp/article/2010/11/17/148132.html|title = JRバス関東、高速バスネットでSuica決済を開始|accessdate = 2010-12-05}}</ref>。
== 機能の拡充 ==
=== クレジットカード機能の付加(他社との提携) ===
本カードの機能を搭載した[[クレジットカード|クレジット]]機能付きの[[カード]]には、[[VIEWカード]]の機能にSuica定期券の機能を追加した標準の'''VIEW Suica'''を筆頭に、駅ビル・旅行商品・航空会社などのポイント・会員管理機能とSuicaイオカードの機能を統合したダブルフェイスカード、銀行キャッシュカードとビューカード機能、Suicaイオカードを一体化したジョイントカードがある。
[[VIEW Suicaカード]]では500円の預かり金(デポジット)は不要である。チャージ(入金)は現金のほか、クレジットカード機能を用いて現金を使わずにチャージすることも可能で、[[2006年]](平成18年)[[10月1日]]からは[[自動改札機]]を通過する時に自動入金される「オートチャージ」サービスも開始されている。[[2009年]](平成21年)[[7月27日]]からはインターネットに接続されたパソコンから[[PaSoRi]]を用いてチャージできる「Suicaインターネットサービス」を開始した。
{{Main|VIEW Suicaカード}}
=== Suica付学生証・社員証 ===
JR東日本では多様な情報を搭載できるICカードの特性を活用し、[[身分証明書]](IDカード)にSuica機能を付加した学生証・社員証のサービスを行っている。
通常のSuicaと同様に乗車券や電子マネー、定期券として利用できるだけでなく、学校では証明書発行認証や出欠席確認、図書館システム等、企業ではビルの入退館管理、勤務実績管理等、法人ごとの独自機能を搭載することができ、電子マネーシステムによる校内・社内の物販や飲食の決済などにも活用することができる。またIDカードの管理を一括して外部へ委託することで、法人側はコスト削減などのメリットを得ることができる。
JR東日本はまず自社の本社入館証としてSuicaの実証試験を実施した上で、[[2005年]](平成17年)[[11月7日]]、[[三菱電機]]を皮切りにSuica付社員証の提供を開始した。これは同社の本社移転に合わせて導入したもので、同社が入居する[[東京ビルディング (丸の内)|東京ビルディング]]の入退館管理システムに対応している。またカードフェイスには顔写真もプリントされているが、個人用に顔写真を印刷したSuicaを発行するのはこれが初めてであった。
また[[明治大学]]では2008年(平成20年)11月から、Suica付学生証の発行を開始した。学生証のサービスはその後も[[東京造形大学]]などで順次開始されている。
一方、[[東急電鉄]]ではこのサービスと同様の「PASMO機能付ICカード」のサービスを2010年(平成22年)3月から開始し、さらに2011年(平成23年)3月からはSuica付学生証・社員証とPASMO付学生証・社員証の相互提供サービスが開始され、ひとつの法人でSuica付かPASMO付のどちらかを学生・社員が自由に選択できるようになるなど、利便性が高まっている<ref group="PR">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2010/20101110.pdf 「Suica付学生証(社員証)と「PASMO付学生証(社員証)」の相互提供、2011年3月のサービス開始を決定]}} - 2010年11月16日(JR東日本、東急電鉄、サクサ、東急建設)</ref>。
また[[キヨスク|キオスク]]や[[NEWDAYS]]などでは[[タイムカード]]として勤務実績管理が行われている。<!--タイムレコーダはアマノのAGX200が採用されている。-->
=== Suica付キャッシュカード ===
[[ゆうちょ銀行]]では[[2009年]](平成21年)[[4月20日]]から、[[キャッシュカード]]にSuica機能を搭載した「ゆうちょICキャッシュカードSuica」を発行している<ref group="PR">{{Cite press release |title=「ゆうちょIC キャッシュカードSuica」の取扱開始について |publisher=ゆうちょ銀行、東日本旅客鉄道 |date=2009-03-18 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2008/20090312.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
クレジット機能のないカード型Suicaとしては初の採用例で、新規入手時のデポジットは必要ない。2009年(平成21年)開始時、新規もしくは磁気カード([[日本郵政公社]]名以前<!-- 厳密には、日本郵政公社がICキャッシュカードの発行開始をする前に発行したカード。 -->に発行されたカード)からの変更の場合、手数料は無料だが、既に使用しているICキャッシュカード(日本郵政公社時代のカードを含む)から切り替える場合は手数料が1,030円([[2014年]]4月現在)必要となっている。またキャッシュカードに搭載されているSuica機能はMy Suicaと同じ扱いとなるため、紛失時には再発行が可能である。届け出は、Suica対応駅のみどりの窓口とゆうちょ銀行の双方に行う必要がある(後者の書類提出は、郵便局の貯金窓口でも対応可能)。新カードは、みどりの窓口への紛失届出時点での残高がチャージされた状態で届けられる。
通常のSuicaと同様、現金をチャージすれば乗車券や電子マネーとして使用できるが、定期券情報は搭載できない。またキャッシュカードの残高からSuicaへの銀行チャージはできない。
当初、Suica付キャッシュカードの申し込みを受付できるのはSuicaエリア内のゆうちょ銀行および郵便局の貯金窓口に限られていたが、[[2011年]](平成23年)[[1月4日]]からJR東日本の営業エリアに含まれる各都県全域{{Efn2|[[北海道]]を除く[[東日本]]全域と[[静岡県]]が該当エリア。}}に拡大している。なお、同行ではICキャッシュカードとして[[楽天Edy|Edy]]搭載カードも発行していたが、これについては2010年(平成22年)2月26日受付分をもって発行を終了した<ref group="PR">[http://www.jp-bank.japanpost.jp/kojin/tukau/card/kj_tk_crd_emoney.html ゆうちょ銀行 電子マネー搭載キャッシュカード]</ref>。
=== SuiPo ===
Suipoは、[[2006年]](平成18年)7月から[[2010年]](平成22年)6月まで実施された、Suicaとポスター、携帯電話の3つを組み合わせた広告システムである。
ポスターに付属するリーダにSuica、モバイルSuica、PASMOをタッチすると、事前に登録した[[携帯電話]]の[[メールアドレス]]宛てにキャンペーン情報などのメールが配信され、商品の詳細情報をWebサイトで閲覧したり、プレゼントの抽選などができるもので、2006年(平成18年)[[7月31日]]から[[新宿駅]]の[[パナソニック|松下電器(現・パナソニック)]]のキャンペーンより展開が開始され、翌2007年(平成19年)[[4月2日]]からは[[池袋駅]]、[[上野駅]]、[[東京駅]]、[[新橋駅]]、[[渋谷駅]]の5駅を加えた計6駅に設置箇所が拡大された。
このSuipoの情報提供システムに関する計算機間の情報転送等の技術は[[日本電気|NEC]]などが特許を取得しており、[[特許庁]]は[[2008年]](平成20年)[[3月7日]]付で「情報提供システム、広告センター、および情報提供方法」の名称で登録している(出願番号2001-094507、登録番号4089166)。
その後、[[表示灯 (企業)|表示灯]]が運営する駅周辺地図「Navita」と組み合わせたサービス「Navita with Suipo」も実施されたが、Suipoのサービスは2010年(平成22年)6月下旬に終了した<ref group="PR">[http://www.poster.suica.jp/pc/index.html Suicaポスター『Suipo』終了しました] - ジェイアール東日本企画 - 2013年3月27日閲覧</ref>。
=== 新幹線のチケットレスサービス ===
JR東日本・JR東海でのモバイルSuica会員のみのサービスとして、アプリから所定の操作を行うことで、乗車時に携帯電話を、東北・北海道・山形・秋田・上越・北陸の各新幹線の自動改札機にタッチするだけのチケットレスで利用することが可能である。
{{See also|モバイルSuica#モバイルSuica特急券}}
なお2020年3月14日からはえきねっとおよびe5489の新サービス「新幹線eチケットサービス」が利用可能となる。こちらはモバイルSuicaの他、カードタイプのSuicaや[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]の対象カードでも利用できる<ref name= "shinkanseneticket">{{Cite press release |title=「新幹線eチケットサービス」が始まります! |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2020-02-04 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2020-02-12 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
{{See also|えきねっと#新幹線eチケットサービス}}
ほかに、JR東海の「[[エクスプレス予約]]」への入会・登録を行えば、東海道・山陽新幹線のネット予約・チケットレスサービス(EX-ICサービス)が利用できる。この場合は、モバイルSuicaをVIEWカード〈TypeIIおよび法人カードを除く〉で登録・決済しており、エクスプレス予約の決済もVIEWカードで利用する、という条件の会員が、事前にモバイルSuicaで操作し「ビュー・エクスプレス特約」へ登録するか、[[JR東海エクスプレスカード]]または「[[J-WESTカード]]・エクスプレス」に入会し、モバイルSuicaを乗車用の交通系ICカードに登録することが必要である。いずれの場合も、モバイルSuicaの年会費とは別に、ビュー・エクスプレス特約(VIEWカードでの決済)、またはエクスプレスカード等の年会費が別途徴収される(1,000円+消費税)。
なおJR東日本の各新幹線と、東海道・山陽新幹線(EX-ICサービス)では、予約・乗車時に行うモバイルSuicaの操作が異なる。
{{Main|モバイルSuica#新幹線のチケットレスサービス}}
2017年9月30日に、[[東海道新幹線]]・[[山陽新幹線]](東京-博多)([[九州新幹線]]-鹿児島中央=2022年6月25日延伸予定)でSuicaなどのIC乗車カードで乗車するシステム[[スマートEX]]を導入、ただし新幹線はSFではなく、[[ネット予約]]でカード番号を登録して・[[クレジットカード]]での決済{{Efn2|SFでは、チャージ可能額(20,000円)を超える区間もある。}}になる。年会費無料で利用でき、[[EX-IC]]と同様(ただし、EX-IC自体は、従来通りの提供を継続)な利用方法になる<ref group="PR">{{Cite press release |title=東海道・山陽新幹線の新しいチケットレスサービスを導入します |publisher=東海旅客鉄道、西日本旅客鉄道 |date=2016-01-28 |url=http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000029289.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
また2018年4月1日よりJR東日本の新幹線一部区間(東京-盛岡・新潟・上越妙高・ガーラ湯沢間、盛岡-新青森・盛岡-秋田・福島-新庄の相互間)で新幹線自動改札機にタッチすることでSF残高を利用して新幹線の普通車自由席(盛岡以北は指定席の空席)に乗車できる「タッチでGo!新幹線」のサービスが開始された。このサービスはSuicaおよびSuicaと相互利用可能なICカードであれば利用可能である。
{{Main|タッチでGo!新幹線}}
=== キーレスロッカー(Suica対応ロッカー) ===
[[ファイル:Keyless locker 001.JPG|thumb|200px|キーレスロッカー]]
首都圏主要駅を中心に、現金・Suica(相互利用可能な全カード)にも対応したキーレス[[ロッカー]]の設置が進んでいる。操作は[[タッチパネル]]で行い、[[領収書|レシート]]も発行される。現金払いでカギを使うときと同様に、預けるときにタッチしたカードで引き出す時にタッチすると取り出せる仕組み。Suicaのみでレシートが出ないタイプもある。
=== 鉄道博物館における入・退館システム ===
[[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]]にある[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]では、[[2007年]](平成19年)[[10月14日]]の開館からSuica電子マネーサービスを利用した入退館システムを導入していたが、入館ゲートの更新に伴う入館方法の変更により当サービスは[[2019年]](令和元年)[[12月10日]]をもって終了した<ref name="2019-12-11">{{Cite press release |title=入館方法の変更について |publisher=鉄道博物館 |date=2019-11-27 |url=http://www.railway-museum.jp/news/pdf/20191127_2.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2020-01-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200120133329/http://www.railway-museum.jp/news/pdf/20191127_2.pdf |archive-date=2020-01-20 |quote= |ref=}}</ref>。
このシステムは入館時に入館チケット販売機でSuica等のICカードで入館料を決済し、入館情報をカードに登録する。ICカードをそのまま入館チケットとして使用し、改札機にタッチして入館する。また退館時には、改札機に入館時に登録したICカードをタッチして退館する。同館は入場や体験展示の予約のほとんどがICカードによる登録制となっているため、Suica等を所持していない入館者には入館券の代わりに、電子マネー非対応の貸出用入館ICカードが貸与され、退館時に有人窓口で返却する方式をとっていた。システム変更後は、券売機で現金またはSuica等を使用して入館チケットを購入し、入館ゲートで係員にチケットを見せて入館する方式に改められた<ref name="2019-12-11"/>。
以前と同様に館内のレストラン・ミュージアムショップ・[[自動販売機]]でもSuica等の電子マネーによる決済が利用できる。なお相互利用しているICカードのうちPiTaPaは電子マネー相互利用対象外なので、電子マネー決済の利用ができない。また、しばらく使えなかったmanacaは利用できるようになった。
=== ジェフ千葉シーズンチケット ===
2009年(平成21年)シーズンから、JR東日本が株式を保有する[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]・[[ジェフユナイテッド市原・千葉]]の[[シーズンシート|シーズンチケット]]として使用が開始された<ref group="PR">[http://www.so-net.ne.jp/JEFUNITED/ticket/09_season_seat.html ジェフユナイテッド市原・千葉オフィシャルホームページ 2009年シーズンシーズンチケット情報](2008年12月6日閲覧)</ref><ref group="PR">[http://www.so-net.ne.jp/JEFUNITED/tools/cgi-bin/view_news.cgi?action=view&nid=4233 2009シーズンより「シーズンシート」がSuica対応になります!] 同ページプレスリリース 2008年11月18日</ref>。
シーズンシート購入者には、ジェフ千葉オリジナルのカードフェイスがプリントされた「Suica機能付[[ワンタッチパス]]ICカード」と席種・席番が記載された「情報カード」が配布される。[[フクダ電子アリーナ]]開催のホームゲームでは、入場ゲートでカードリーダーにワンタッチパスをタッチして入場を認証し、入場後はシート位置のスタンド入口で係員に情報カードを提示して自席へ入場する流れとなる。このため入場の際にはワンタッチパスと情報カードの両方を携行する必要がある。なおワンタッチパスは現金をチャージすれば、通常のSuicaと同様に乗車券機能や電子マネー機能を利用できる。「シーズンチケットの価格+デポジット(500円)」で発売されるが、カードは継続使用するため、次シーズンもシーズンシートを継続購入すればデポジットは不要である。小中学生用は発売されていない。
なおJR東日本は2009年(平成21年)から、ジェフ千葉のユニフォームの背中部分スポンサーを務めており、Suicaのロゴタイプがプリントされている。2018年(平成30年)からは鎖骨部分スポンサーも併せて勤めている(表記は「JR東日本」)。
=== Suicaインターネットサービス ===
インターネットを経由してクレジットカードから手持ちのSuicaへチャージしたり、インターネットでの物品購入にSuica決済が利用できるシステムで、2009年(平成21年)7月27日にサービスが開始された。
このサービスを利用するには利用登録が必要で、チャージ・決済にはパソコンにFeliCaポート/パソリなどのカードリーダライタを接続することが必要である。
サービスで利用できるSuicaは記名式カード(Suica付きビューカード、My Suica、Suica定期券、Suica付学生証・社員証、ゆうちょICキャッシュカードSuica)のみで、無記名式カードは利用できない。このうちMy SuicaとSuica定期券については、電子マネーマーク下に緑色の丸の記載がある2008年(平成20年)11月以降に発行されたもののみ利用可能で、それ以前に発行された旧カードでは利用できない。またモバイルSuica、モノレールSuica、りんかいSuica、相互利用を実施しているICカードでも利用できない。なお、決済に使用できるクレジットカードはビューカードのみである。
このサービスでSuicaにチャージできる金額は、1,000円以上であれば1円単位で指定可能である。また、チャージ上限の20,000円まで一度にチャージする「満タンチャージ」機能もある<ref group="PR">[http://www.jreast.co.jp/suicainternetservice/index.html Suicaインターネットサービス] - JR東日本</ref>。
2019年(令和元年)5月、JR東日本は同サービスについて同年8月から2021年2月頃にかけて順次終了していくことを発表した<ref group="PR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/suicainternetservice/information/info_20190527serviceend.html |title=【重要なお知らせ】Suicaインターネットサービスの終了について |publisher=JR東日本 |date=2019-05-24 |accessdate=2019-06-03}}</ref>。そして2021年2月9日、Suicaインターネットサービスの提供を完全に終了した。
=== JRホテルメンバーズカード ===
{{main|JRホテルグループ#JRホテルメンバーズ}}
=== 日立 交通系ICカード分析情報提供サービス ===
[[日立製作所]]が、[[2013年]](平成25年)[[7月1日]]より、JR東日本のSuicaの利用履歴を[[ビッグデータ]]解析技術で活用し、駅エリアの[[マーケティング]]情報として企業に提供するサービス「日立 交通系ICカード分析情報提供サービス」を開始した<ref group="PR">[http://www.hitachi.co.jp/products/it/bigdata/field/statica/ 交通系ICカード分析情報提供サービス] - 日立製作所</ref><ref group="PR">{{Cite press release |title=交通系ICカードのビッグデータ利活用による駅エリアマーケティング情報提供サービスを開始 |publisher=日立製作所 |date=2013-06-27 |url=http://www.hitachi.co.jp/New/cnews/month/2013/06/0627a.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref><ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1306/27/news149.html 日立、Suicaビッグデータから駅利用状況を分析するサービス] - 2013年6月27日 ITmediaニュース</ref>。首都圏のJR東日本・私鉄約1800駅を対象として、Suicaの利用履歴や記名式Suicaに登録された年齢・性別から駅の利用者の性別・年代別構成、乗降時間帯などの各種利用情報を平日・休日別に集計・分析し、可視化したリポートを毎月提供する。[[PASMO]]など相互利用カードのデータは集計・分析の対象にならない。
しかし、日立製作所側からはこのサービスが開始前に発表されたものの、JR東日本側が公式に何も発表しなかったため、[[国土交通省]]が[[個人情報の保護に関する法律|個人情報保護法]]に抵触しないか事情を聞き、「事前に利用者に説明すべきだった」と注意したことが[[全国紙]]に報道された<ref>[https://web.archive.org/web/20130721155000/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130718-OYT1T00726.htm Suica履歴、販売していた…乗客に説明せず] - 読売新聞、2013年7月18日</ref>。
JR東日本では、日立への提供時にSuicaのIDを他の番号に振り直しSuicaIDとの紐づけができないようになっていること、利用者の[[氏名]]・[[電話番号]]や、[[電子マネー]]での購買履歴を提供していないことなどから、「[[個人情報]]には該当せず、法的に問題はない」としているが<ref>{{Cite news |和書 |title=JR東日本、Suicaデータの社外提供について詳細を公表 希望者は提供データから除外も |newspaper=Business Media 誠 |date=2013-07-25 |author=吉岡綾乃 |authorlink= |url=https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1307/19/news141.html |access-date=2023-06-08 |format= |agency= |location=東京都千代田区 |publisher=アイティメディア株式会社 |language=ja |trans-title= |quote= |archive-url= |archive-date= |ref= |postscript=}}</ref>、7月25日に「よくいただくお問い合わせ」として、この件に関する[[プレスリリース]]を発表し、説明が不十分だったことを謝罪し、希望者を売却対象から除外([[オプトアウト]])することを発表した<ref group="PR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/pdf/20130725_suica.pdf |title=Suicaに関するデータの社外への提供についてよくいただくお問い合わせ |trans-title= |accessdate=2023-06-08 |author= |authorlink= |coauthors= |date=2013-07-25 |format= |website= |work= |publisher=東日本旅客鉄道 |page= |pages= |quote= |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130810032913/http://www.jreast.co.jp/pdf/20130725_suica.pdf |archivedate=2013-08-10 |deadlinkdate=2023-06-08 |url-status=unfit |doi= |hdl= |ref=}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=JR東日本、Suicaデータの社外提供について詳細を公表 希望者は提供データから除外も |newspaper=ITmediaニュース |date=2013-07-25 |author=ITmedia |authorlink= |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1307/25/news140.html |access-date=2023-06-08 |format= |agency= |location=東京都千代田区 |publisher=アイティメディア株式会社 |language=ja |trans-title= |quote= |archive-url= |archive-date= |ref= |postscript=}}</ref>。
その後、有識者会議を設置して今後の対応を検討し、結論が出るまでは社外へのデータ提供は行わないことを発表した<ref group="PR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/pdf/suica_data.pdf |title=Suica に関するデータの社外への提供についてよくいただくお問い合わせ |trans-title= |accessdate=2023-06-08 |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date=2013-09-20 |format=PDF |website=JR東日本ホームページ |work= |publisher=東日本旅客鉄道 |page= |pages= |quote= |language=ja |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= |url-status= |doi= |hdl= |ref=}}</ref>。
=== 駅カルテ ===
JR東日本は2022年5月から個人が特定されない形で首都圏を中心とした利用客が多い約600駅のデータを自治体や企業などに提供する「駅カルテ」のサービスを開始することを同年3月16日に発表した<ref>{{Cite web|和書|title=Suicaビッグデータ「駅カルテ」発売、首都圏600駅 |url=https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1395834.html |website=Impress Watch |date=2022-03-16 |accessdate=2022-03-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=スイカのデータ、5月から販売 JR東日本 |url=https://web.archive.org/web/20220316103424/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022031601099&g=eco |website=時事通信 |accessdate=2022-03-23 |date=2022-03-16}}</ref>。
== 沿革 ==
{{See also|Suicaショッピングサービス#歴史|VIEW Suicaカード#概歴|交通系ICカード全国相互利用サービス#沿革|モバイルSuica#歴史|地域連携ICカード}}
* [[1994年]]([[平成]]6年)2月14日 - 3月15日<ref name=":0" /> - 第1次試験(8駅<ref name=":0" />・9コーナー<ref name=":0" />・18通路<ref name=":0" />)。通信速度「70kbps<ref name=":0" />」・マイクロ波帯(2.4 GHz)・バッテリ内蔵<ref name="takai" group="PR" />
* [[1995年]](平成7年)4月3日 - 10月2日<ref name=":0" /> - 第2次試験(13駅<ref name=":0" />・14コーナー<ref name=":0" />・30通路<ref name=":0" />)。以下、通信速度「250kbps<ref name=":0" />」・超短波帯(32 MHz)・バッテリ内蔵<ref name="takai" group="PR" />
* [[1997年]](平成9年)4月21日 - 11月25日<ref name=":0" /> - 第3次試験(12駅<ref name=":0" />・15コーナー<ref name=":0" />・32通路<ref name=":0" />)。短波帯(13.56 MHz)・バッテリレス<ref name="takai" group="PR" />
* [[1999年]](平成11年)
** [[5月14日]] - ICカード出改札システムの2001年1月導入を発表<ref group="PR">{{Cite press release |title=ICカード出改札システムの導入について |publisher=東日本旅客鉄道 |date=1999-05-14 |url=http://www.jreast.co.jp/press/1999_1/19990503/index.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>
** [[10月5日]] - ICカード出改札システムの名称を「Suica」に決定<ref name="jreast19991005" group="PR">{{Cite press release |title=2001年1月、「スイカ(Suica)」誕生! |publisher=東日本旅客鉄道 |date=1999-10-05 |url=http://www.jreast.co.jp/press/1999_2/19991002/index.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
* [[2000年]](平成12年)[[2月25日]] - 導入時期の半年 - 1年程度延期を発表<ref group="PR">{{Cite press release |title=ICカード出改札システムの導入時期の見直しについて |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2000-02-25 |url=http://www.jreast.co.jp/press/1999_2/20000206/index.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>
* [[2001年]](平成13年)
** [[4月8日]] - [[埼京線]]・[[川越線]]([[恵比寿駅]] - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[川越駅]]間27駅)で[[7月8日]]までの3か月間、10,000人公募によるモニターテストを実施(Suica[[定期券]]8,500人・Suicaイオカード1,500人)<ref group="PR">{{Cite press release |title=ICカード出改札システムのモニターテストの実施について |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2001-01-12 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2000_2/20010106/index.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref><ref group="PR">{{Cite press release |title=埼京線Suicaモニターテストの実施状況 |publisher=東日本旅客鉄道 |date= |url=http://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/main_03.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref><ref name="takai" group="PR" />
** [[9月4日]] - [[東京近郊区間]](首都圏)のSuica導入日を[[2001年]][[11月18日]]と公式発表<ref name="jreast20010904" group="PR">{{Cite press release |title=2001年11月18日(日)「Suica(スイカ)」デビュー! |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2001-09-04 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/index.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>
** [[11月18日]] - 東京近郊区間(首都圏)424駅でサービス開始<ref name="jreast20010904" group="PR" />。Suicaデビュー記念Suica[[イオカード]]を限定100,000枚発売<ref name="jreast20010904" group="PR" />
* [[2002年]](平成14年)
** [[2月8日]] - 利用区間に[[青梅線]][[青梅駅]]以西と[[八高線]][[高麗川駅]]以北を追加、計448駅に拡大<ref group="PR">{{Cite press release |title=Suica200万人突破 |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2002-01-18 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2001_2/20020107/index.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>
** [[3月22日]] - 利用区間に[[鶴見線]]と[[南武線|南武支線]][[川崎新町駅]]を追加、計461駅に拡大
** [[4月21日]] - [[東京モノレール]]が「モノレールSuica」の発売を開始し、相互利用開始
** [[8月1日]] - 利用駅に[[相模線]][[厚木駅]]を追加、計462駅に拡大
** [[10月]] - 利用駅に[[八高線]][[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]]を追加、計463駅に拡大
** [[12月1日]] - [[東京臨海高速鉄道]]が「りんかいSuica」の発売を開始し、相互利用開始
** [[12月10日]] - 利用駅に[[南武支線]][[八丁畷駅]]と[[常磐緩行線]][[綾瀬駅]]を追加し、計465駅に拡大。[[臨時駅]]と乗り換え改札口の一部を除きエリア内全駅対応完了
* [[2003年]](平成15年)
** [[7月1日]] - Suicaイオカードと[[VIEWカード]](JR東日本の発行するクレジットカード)が一体となった「[[VIEW Suicaカード]]」を発行開始
** [[10月12日]] - [[新幹線]]を利用できるSuica[[FREX]][[定期券]]が登場<ref>{{Cite journal|和書 |date = 2004-01-01 |title = 鉄道記録帳2003年10月 |journal = RAIL FAN |issue = 1 |volume = 51 |publisher = 鉄道友の会 |page = 18 }}</ref>。同時に新幹線停車駅が2駅以上含まれる従来のSuica定期券を用いて定期券範囲内での新幹線の利用(イオカード機能のチャージ金額で新幹線特急料金を差し引く)が可能に([[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線]][[東京駅]] - [[宇都宮駅]]・[[高崎駅]]間)。
** [[10月26日]] - [[仙台都市圏]]でのサービスを開始
* [[2004年]](平成16年)
** 7月 - 既存の[[改札口]]から磁気券投入機構をなくしたSuica専用改札が[[東日本旅客鉄道横浜支社|JR東日本横浜支社]]担当の5駅に試験導入される<ref group="PR">{{Cite press release |title=Suicaエリア主要駅に「Suica専用通路」を導入いたします |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2005-02-07 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2004_2/20050201.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
** [[8月1日]] - [[西日本旅客鉄道]]の[[ICOCA]]と相互利用開始。Suica・[[ICOCA]]相互利用記念Suicaイオカードを限定50,000枚発売
** [[10月16日]] - [[東京近郊区間]]の拡大に併せて利用範囲を拡大([[伊東線]][[伊東駅]]・[[中央本線]][[韮崎駅]]・[[上越線]][[渋川駅]]・[[宇都宮線]][[黒磯駅]]・[[常磐線]][[日立駅]]・[[外房線]][[大原駅 (千葉県)|大原駅]]の範囲内)。同時に[[湘南新宿ライン]]、[[宇都宮線]]、[[高崎線]]の普通列車の[[グリーン車]]にグリーン車Suicaシステムを導入。横浜支社管内の全駅に導入完了。
** [[10月26日]] - 発行枚数が1000万枚を突破
** [[11月18日]] - 1000万枚突破記念Suica[[イオカード]]を限定20,000枚発売
* [[2005年]](平成17年)
** 2月 - Suica専用改札が新宿駅に正式導入される。
** [[11月1日]] - [[日本放送協会|NHK]]「[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]]」で、Suicaの開発秘話が紹介された。
** [[11月7日]] - [[三菱電機]]がSuicaと社員証が一体化した「社員証Suica」の利用を開始
* [[2006年]](平成18年)
** [[1月21日]] - [[新潟都市圏]]でのサービスを開始
** [[1月28日]] - [[モバイルSuica]]のサービスを開始
** [[3月18日]] - [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]・伊東線、[[横須賀線]]、[[総武快速線|総武線(快速)]]([[成田線]]・[[内房線]]・[[外房線]]直通列車を含む)および宇都宮線[[宇都宮駅]] - [[黒磯駅]]間にグリーン車Suicaシステムを導入
** [[12月1日]] - 0時丁度を期して[[日本信号]]製の自動改札機(エリア内184駅)で「Suica定期券」「[[VIEW Suicaカード]]」「[[モバイルSuica]]」の通過を拒否する誤判定障害事故が発生した。4時38分にプログラム修正作業を完了し、5時10分までに全駅で復旧した。Suicaシステムの大規模な事故は初めて。
* [[2007年]](平成19年)
** [[3月17日]] SuicaイオカードをSuicaカード(無記名式)とmySuica(記名式)の発売変更に伴いSuicaイオカードの発売終了
** [[3月18日]] - [[PASMO]]のサービス開始に併せて'''[[首都圏ICカード相互利用サービス]]'''を開始(PASMO導入事業者については[[PASMO#導入事業者一覧|該当項]]を参照のこと)。[[埼玉新都市交通]](ニューシャトル)・[[仙台空港鉄道]]・[[ジェイアールバス関東]]でもサービス開始。My Suica(大人用・小児用)導入。SuicaイオカードをSuicaカード(無記名式)に名称変更。[[常磐線]](日立以北を除く)にグリーン車Suicaシステムを導入。再発行手数料を1,000円から500円に値下げ。入場時の初乗り運賃相当額減算中止。Suica・PASMO相互利用記念Suica[[カード]]を限定100,000枚をsuicaエリアの74駅で発売
** [[10月12日]] - 日本信号製の自動改札機が、駅からの遠隔操作により電源が入らないというトラブルが発生したことにより、JR東日本は混乱を避けるため同社製以外のものも含め首都圏の自動改札の運用を午前6時ごろから停止した。この影響は、[[PASMO]]導入事業者においても発生した。午前7時50分ごろから、個別の自動改札機の電源を入れることで復旧が可能なことが明らかになり、午前10時ごろまですべて復旧した。約260万人の利用者に影響が及んだが、列車の運行自体は正常に行われた
** [[10月16日]] - ビル入退館管理システムにおけるICOCAとの相互利用開始
* [[2008年]](平成20年)
** [[3月15日]] - 東京近郊区間・新潟近郊区間の拡大に合わせてエリアを拡大。日光線宇都宮 - 日光駅間・常磐線日立駅 - 高萩駅間・信越本線東三条駅 - 長岡駅間・弥彦線東三条駅 - 吉田駅(新潟県) - 弥彦駅間・磐越西線新津駅 - 五泉駅間・羽越本線新津駅 - 新発田駅間。PASMO事業者との[[連絡運輸|連絡定期券]]販売区間を拡大(これにより、磁気定期券では設定されなかった新たな連絡駅も設定された)。
** [[3月18日]] - ICOCA電子マネーサービスとの相互利用開始
** [[3月29日]] - [[東海旅客鉄道]]の[[TOICA]]との相互利用を開始。Suica・TOICA・[[ICOCA]]相互利用記念Suicaカード50,000枚をSuicaエリアの64駅で発売
** [[11月4日]] - [[明治大学]]がSuicaと一体化した学生証の配布を開始
* [[2009年]](平成21年)
** [[3月14日]] - 東京近郊区間・新潟近郊区間・仙台都市圏エリアの拡大に合わせてエリアを拡大。上越線渋川駅 - [[水上駅]]間・[[信越本線]]高崎駅 - [[横川駅 (群馬県)|横川駅]]間・常磐線高萩駅 - [[いわき駅]]間および山下駅 - [[原ノ町駅]]間・総武本線[[成東駅]] - [[銚子駅]]間・成田線[[成田駅]] - [[松岸駅]]間・外房線大原駅 - [[安房鴨川駅]]間・[[内房線]][[君津駅]] - 安房鴨川駅間・上越新幹線高崎駅 - [[上毛高原駅]]間および[[長岡駅]] - [[新潟駅]]間・長野新幹線高崎駅 - [[安中榛名駅]]間・東北新幹線郡山駅 - 仙台駅間・東北本線[[白石駅 (宮城県)|白石駅]] - 矢吹駅間・[[磐越東線]]郡山駅 - 船引駅間。[[北海道旅客鉄道]]の[[Kitaca]]との相互利用を開始。Suica・Kitaca相互利用記念Suicaカード50,000枚をSuicaエリアの44駅で発売。常磐線エリア拡大記念Suicaカード4,000枚、仙台・福島・郡山エリア拡大記念Suicaカード4,000枚、千葉エリア拡大記念Suicaカード4,000枚、群馬エリア拡大記念Suicaカード3,000枚を当該エリアの駅で発売
** 3月以降 - 首都圏・名古屋地区を中心に、「Suica」「QUICPay」の共用端末を順次導入
** [[7月25日]] - [[VIEW Suicaカード]]を用いての、My Suica(Suica定期券、ゆうちょICキャッシュカードSuica、学生証・社員証Suica含む)へのオートチャージを開始
** [[7月27日]] - 「Suicaインターネットサービス」を開始
** [[10月15日]] - 発行枚数が3000万枚を突破
* [[2010年]](平成22年)3月13日 - TOICA電子マネーサービスとの相互利用開始<ref group="PR">{{Cite press release |title=平成22年春、「Suica」「TOICA」「ICOCA」の電子マネー相互利用を開始 |publisher=東日本旅客鉄道、東海旅客鉄道、西日本旅客鉄道 |date=2009-03-24 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2008/20090315.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>、[[SUGOCA]]([[九州旅客鉄道]])・[[nimoca]]([[西日本鉄道]]他)・[[はやかけん]]([[福岡市交通局]])との相互利用開始<ref group="PR">{{Cite press release |title=首都圏と九州がICカードでますます便利に! |publisher=東日本旅客鉄道、九州旅客鉄道、西日本鉄道、福岡市交通局 |date=2008-04-18 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2008/20080409.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref><ref name="jreast20091222" group="PR" />。[[伊豆急行]]全線で導入<ref group="PR">{{Cite press release |title=Suicaサービスの開始について |publisher=伊豆急行 |date=2009-01-14 |url=http://www.izukyu.co.jp/ir/newsletter/210114.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110728183236/http://www.izukyu.co.jp/ir/newsletter/210114.pdf |archive-date=2011-07-28 |quote= |ref=}}</ref>。SUGOCA・nimoca・はやかけん相互利用記念Suicaカード30,000枚をSuicaエリアの30駅で発売。
* [[2011年]](平成23年)
** 3月18日 - 全国の[[セブン-イレブン]]で使用可能になった(名古屋地区のmanaca導入店舗を除く)。
** 5月23日 - [[ヤマト運輸]]の直営店で使用可能になった。
* [[2012年]](平成24年)
** 2月1日 - 全国の[[すかいらーく]]グループ各店で使用可能になった。
** 8月12日 - [[トミーウォーカー]]運営の[[プレイバイウェブ|PBW]]『[[サイキックハーツ]]』サービスインに伴い使用可能になった。
* [[2013年]](平成25年)
** 3月23日 - [[交通系ICカード全国相互利用サービス]]開始<ref name="jreast20110518" group="PR">{{Cite press release |title=交通系ICカードの相互利用サービスを実施することに合意しました |publisher=北海道旅客鉄道、PASMO協議会、東日本旅客鉄道、名古屋市交通局、名古屋鉄道、東海旅客鉄道、スルッとKANSAI協議会、西日本旅客鉄道、福岡市交通局、西日本鉄道、九州旅客鉄道 |date=2011-05-18 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2011/20110512.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-08 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=10の交通系ICカード相互利用開始へ、2013年3月から4275駅・20万店舗を1枚で |newspaper=ITpro |date=2012-12-18 |author=清嶋直樹 |authorlink= |url=https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20121218/445183/ |access-date=2013-02-25 |format= |agency= |location=東京都港区 |publisher=日経BP |isbn= |issn= |oclc= |pmid= |pmd= |bibcode= |doi= |id= |page= |pages= |at= |language=ja |trans-title= |quote= |archive-url= |archive-date= |ref= |postscript=}}</ref>(manaca、PiTaPaは新規サービス開始)。同日、新潟交通グループの[[りゅーと]]エリア内の鉄道・路線バスにおいてSuica等のサービスを開始(片利用)。また、[[佐渡汽船]]においても両津航路([[新潟港]] - [[両津港]]間)のうちカーフェリー2等・大人運賃の精算時に限りSuica等のサービスを開始(Suica電子マネーサービスとして)<ref group="PR">{{Cite press release |title=新潟両津航路における「Suica電子マネーサービス」開始について |publisher=佐渡汽船、東日本旅客鉄道新潟支社、新潟県、佐渡航路活性化協議会 |date=2013-02-12 |url=http://www.jrniigata.co.jp/press/20130212sadokisen-suica.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2013-02-15 |archive-url=https://web.archive.org/web/20130319052629/http://www.jrniigata.co.jp/press/20130212sadokisen-suica.pdf |archive-date=2013-03-19 |quote= |ref=}}</ref>。交通系ICカード全国相互利用サービス開始記念Suicaカード30,000枚をSuicaエリア内31駅で発売。
** 6月22日 - [[札幌総合情報センター]]が発行し、[[札幌市交通局]]などの4事業者で共通利用する[[SAPICA]]への片利用を開始。電子マネー利用の乗り入れは、Kitacaと双方で利用できる店舗を除き不可。
** 7月1日 - 日立製作所が「日立 交通系ICカード分析情報提供サービス」を開始。
** 時期不明 - [[スタジオYOU]]主催の[[同人誌即売会]]『'''コミックライブ'''』『'''おでかけライブ'''』『'''オンリーフェスタ'''』『'''オンリーライブ'''』『'''ナツイベ・フユイベ・カプイベ'''』『'''アイドルMIX・ヒロインMIX'''』『'''仙台・広島コミケ'''』のパンフレット販売ブースで使用可能になった。
* [[2014年]](平成26年)
** [[3月15日]] - 台湾の非接触型IC乗車カード「[[一カー通]]」(I-Pass)の発行会社と業務提携についての意向書に調印した<ref>{{Cite news |和書 |title=日台関連企業がMOU締結、台湾でのSuica使用も夢ではない? |newspaper=フォーカス台湾 |date=2014-03-15 |url=https://japan.focustaiwan.tw/economy/201403150005 |access-date=2023-06-07 |format= |agency= |location=台北市 |publisher=中央通訊社 |isbn= |issn= |oclc= |pmid= |pmd= |bibcode= |doi= |id= |page= |pages= |at= |language= |trans-title= |quote= |archive-url= |archive-date= |ref= |postscript=}}</ref>。
** [[4月1日]] - 東京近郊区間・新潟近郊区間・仙台近郊区間の拡大に合わせて一部の駅でSuicaのサービスを開始。また同日、[[消費税]]率の5%から8%への引き上げに伴い、Suica、PASMOエリアの管内で1円単位のIC運賃を導入。
** [[10月1日]] - [[吾妻線]]のうち[[中之条駅]]、[[長野原草津口駅]]、[[万座・鹿沢口駅]]でSuicaのサービスを開始<ref group="PR">{{Cite press release |title=吾妻線に Suica の一部サービスをご利用いただける駅が増えます |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2014-05-26 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2014/20140513.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-07 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
** [[12月20日]] - [[東京駅]]開業100周年に合わせ、同駅で東京駅開業100周年記念Suicaを15,000枚限定で発売したが、前日にあたる[[12月19日]]から駅前に想定を上回る9000人以上が押し寄せ混乱したため、約8000枚を売った時点で発売中止となった<ref>{{Cite news |和書 |title=東京駅スイカ、想定甘く9千人殺到 腕も動かせない混雑 |newspaper=朝日新聞デジタル |date=2014-12-21 |author=中野寛 |authorlink= |author2=高橋友佳理 |authorlink2= |url=http://www.asahi.com/articles/ASGDN6J33GDNUTIL01H.html |access-date=2023-06-07 |format= |agency= |location=東京都中央区 |publisher=朝日新聞社 |isbn= |issn= |oclc= |pmid= |pmd= |bibcode= |doi= |id= |page= |pages= |at= |language=ja |trans-title= |quote= |archive-url=https://web.archive.org/web/20141221023618/http://www.asahi.com/articles/ASGDN6J33GDNUTIL01H.html |archive-date=2014-12-21 |ref= |postscript=}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)
** [[1月28日]]-[[2月9日]] - 前年12月20日に発売が中断された東京駅開業100周年記念Suicaをインターネットと郵送での申し込みで受付。期間内の申込者全員に販売。最終的に申込受付は226.5万件、499.1万枚にのぼった。抽選で対象者を選び10万枚を2014年度(平成26年度)内に発送し、残りは再度発送時期を抽選によって決定し、2015年(平成27年)6月から2016年度(平成28年度内)3月に発送<ref group="PR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/suica100/ |title=「東京駅開業100周年記念Suica」発売のお知らせ |trans-title= |accessdate=2015-01-28<!--不明のため仮記載--> |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date=2015-01-28 |year= |month= |format= |website=JR東日本ホームページ |work= |publisher=東日本旅客鉄道 |page= |pages= |quote= |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150131080049/http://www.jreast.co.jp/suica100/sp |archivedate=2015-01-28 |deadlinkdate=2023-06-07 |url-status=unfit |doi= |hdl= |ref=}}</ref><ref group="PR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/aas/20150218suica100.html/ |title= 「東京駅開業100周年記念Suica」の申込受付状況について |trans-title= |accessdate=2015-02-18<!--不明のため仮記載--> |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date=2015-02-18 |year= |month= |format= |website=JR東日本ウェブサイト |work= |publisher=東日本旅客鉄道 |page= |pages= |quote= |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150218063027/https://www.jreast.co.jp/aas/20150218suica100.html/ |archivedate=2015-02-18 |deadlinkdate=2023-06-07 |url-status=unfit |doi= |hdl= |ref=}}</ref>。
** [[3月14日]]
*** [[富士山麓電気鉄道富士急行線|富士急行線]]でSuicaのサービスを開始<ref group="PR" name="fujikyu20141219">{{Cite press release |title=富士急行線「Suica」サービスの開始について 〜平成27年3月14日(土)より、首都圏から富士山エリアへ、1枚のICカードでお越しいただけます。〜 |publisher=富士急行 |date=2014-12-19 |url=https://www.fujikyu.co.jp/data/news_pdf/pdf_file2_1419208394.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2021-01-19 |archive-url=https://web.archive.org/web/20171027113526/http://www.fujikyu.co.jp/data/news_pdf/pdf_file2_1419208394.pdf |archive-date=2017-10-27 |quote= |ref=}}</ref>。
*** [[気仙沼線・大船渡線BRT]]でサービス開始<ref group="PR">{{Cite press release |title=気仙沼線BRT・大船渡線BRTで「Suica」が使えるようになります! |publisher=東日本旅客鉄道仙台支社・盛岡支社 |date=2014-12-19 |url=https://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1418973323_1.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-07 |archive-url=https://web.archive.org/web/20141225172212/https://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1418973323_1.pdf |archive-date=2014-12-25 |quote= |ref=}}</ref>。気仙沼線・大船渡線BRT用のICカード[[odeca]]への片利用の形をとる。
** [[8月1日]] - JRバス関東の古河線および志賀高原草津線でサービス開始<ref group="PR">{{Cite press release |title=【8月1日】志賀草津高原線へのSuica導入及び一部区間の運賃改定について |publisher=ジェイアールバス関東 |date=2015-07-30 |url=http://www.jrbuskanto.co.jp/topics01/81.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-07 |archive-url=https://web.archive.org/web/20150930232958/http://www.jrbuskanto.co.jp/topics01/81.html |archive-date=2015-09-30 |quote= |ref=}}</ref><ref group="PR">{{Cite press release |title=【8月1日】古河線にSuicaを導入します |publisher=ジェイアールバス関東 |date=2015-07-30 |url=http://www.jrbuskanto.co.jp/topics/suica.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-07 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160603192747/http://www.jrbuskanto.co.jp/topics01/suica.html |archive-date=2016-06-03 |quote= |ref=}}</ref>。
** [[8月16日]] - トミーウォーカー運営のPBW『[[ケルベロスブレイド]]』サービスインに伴い追加。
** [[9月1日]] - JRバス関東の多古線でサービス開始<ref group="PR">{{Cite press release |title=【9月1日】多古線にSuicaを導入します |publisher=ジェイアールバス関東 |date=2015-08-12 |url=http://www.jrbuskanto.co.jp/topics01/91suica.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-07 |archive-url=https://web.archive.org/web/20150831010521/http://www.jrbuskanto.co.jp/topics01/91suica.html |archive-date=2015-08-31 |quote= |ref=}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)
** 3月26日 - [[仙台市交通局]]が発行する[[icsca]]との仙台都市圏相互利用サービスを開始([[新幹線]]、電子マネー非対応)<ref name="icsca" group="PR" />。[[北陸新幹線]]・安中榛名駅 - 上越妙高駅と東北新幹線・仙台駅 - 古川駅間、陸羽東線・[[北浦駅]]と[[陸前谷地駅]]でSuicaのサービスを開始。[[古川駅]]でSuica及びSuica定期券の発売、払い戻し、再発行サービスなど、全てのSuicaサービスが開始<ref group="PR">{{Cite press release |title=Suica FREX 定期券をご利用いただける駅が増えます |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2015-12-21 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2015/20151214.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-07 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
** 10月25日 - 「[[Apple Pay]]のSuica」がサービス開始。
*[[2017年]](平成29年)4月1日 - 韮崎 - 松本間の全駅(辰野駅経由は除く)及び郡山 - [[郡山富田駅|郡山富田]]間でSuicaのサービスが開始。同時に松本、塩尻、岡谷、下諏訪、上諏訪、茅野、富士見、小淵沢、長坂、宮内の各駅でタッチ&ゴーによる乗車に加えて、Suica及びSuica定期券の発売や払いもどし、再発行サービス等、全てのSuica サービスが開始<ref group="PR">{{Cite press release |title=Suica をご利用いただける駅が増えます |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2016-12-02 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2016/20161203.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-07 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。八王子支社管内の全駅に導入完了。
* [[2018年]](平成30年)
** 4月1日 - 全国相互利用対象ICカードの10種類(Suica、PASMO、Kitaca、TOICA、manaca、ICOCA、PiTaPa、SUGOCA、nimoca、はやかけん)のみで新幹線の普通車自由席を利用できる新サービス「[[タッチでGo!新幹線]]」を東北新幹線:[[東京駅|東京]] - [[那須塩原駅|那須塩原]]間、上越新幹線:東京 - [[上毛高原駅|上毛高原]]間、北陸新幹線:東京 - [[安中榛名駅|安中榛名]]間で導入。
** 5月24日 - [[Google Pay]]版Suicaのサービス開始。
** 8月1日 - [[みずほ銀行]]と提携した「Mizuho Suica」のサービス開始<ref group="PR">{{Cite press release |title=みずほ銀行と JR 東日本が「Mizuho Suica」を提供開始 |publisher=みずほ銀行・東日本旅客鉄道 |date=2018-08-01 |url=https://www.mizuhobank.co.jp/release/pdf/20180801release_jp.pdf |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2019-06-02 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
** 12月14日 - トミーウォーカー運営のPBW『[[第六猟兵]]』サービスインに伴い追加。
* [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年)
**[[3月1日]] - [[ジェイアールバス東北]]の高速バス[[ジェイアールバス東北#高速|仙台 - 古川線]]でサービス開始(Suica仙台エリアに含まれず、icscaは使用不可)<ref group="PR">{{Cite press release |title=2019年3月1日から「仙台~古川線」でSuica等をご利用いただけます |publisher=ジェイアールバス東北 |date=2019-01-16 |url=https://www.jrbustohoku.co.jp/information/detail.php?id=775 |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2019-03-02 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190302090646/https://www.jrbustohoku.co.jp/information/detail.php?id=775 |archive-date=2019-03-02 |quote= |ref=}}</ref>。
** [[9月1日]] - 定期券を搭載していないカード型Suicaに一部の周遊型[[特別企画乗車券]]を搭載できるサービスを開始<ref group="PR">{{Cite press release |title=おトクなきっぷが Suica でご利用いただけます! |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2019-06-04 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190604.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2019-06-22 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。対象は「のんびりホリデーSuicaパス」([[休日おでかけパス]]のSuica版だが一部エリアが異なる)、「[[都区内パス]]」、「[[ヨコハマ・みなとみらいパス]]」、「鎌倉・江ノ島パス」。また、同日から訪日外国人向けにデポジットなし・チャージ残額の払い戻し無しの「Welcome Suica」を一部の駅にて発売。
** [[11月30日]] ‐ [[相鉄新横浜線]]との[[直通運転|相互直通運転]]開始と同時に[[東海道貨物線]]([[相鉄・JR直通線]])鶴見駅(旅客案内上は[[武蔵小杉駅]]) - [[羽沢横浜国大駅]]間でSuicaサービス開始。
** [[12月11日]] - [[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]の入館方法変更に伴い、鉄道博物館の入館証機能サービスを終了<ref name="2019-12-11"/>。
* [[2020年]](令和2年)
**[[3月10日]] - [[沖縄都市モノレール線]](ゆいレール)でサービスを開始<ref group="PR" name="yui-rail">{{Cite press release |title=「Suica」サービスを開始します |publisher=沖縄都市モノレール |date=2020-02-20 |url=https://www.yui-rail.co.jp/common/uploads/656e84ca9c8c145822f3427adab4d2e8-1.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2020-02-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200220044719/https://www.yui-rail.co.jp/common/uploads/656e84ca9c8c145822f3427adab4d2e8-1.pdf |archive-date=2020-02-20 |quote= |ref=}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/537240|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200220052718/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/537240|title= 3月10日から沖縄で「Suica」使えるように モノレールでスタート|newspaper=沖縄タイムス|date=2020-02-20|accessdate=2020-02-20|archivedate=2020-02-20}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1077403.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200220053007/https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1077403.html|title=3月10日から沖縄で「Suica」利用可能に モノレールで|newspaper=琉球新報|date=2020-02-20|accessdate=2020-02-20|archivedate=2020-02-20}}</ref><ref name="2020-03-10-okinawatimes">{{Cite news|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/545305|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200310231333/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/545305|title=Suica、「ゆいレール」での使用始まる 国内外の観光客に便利に|newspaper=沖縄タイムス|date=2020-03-10|accessdate=2020-03-11|archivedate=2020-03-10}}</ref><ref name="2020-03-10-ryukyushimpo">{{Cite news|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1087706.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200310230629/https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1087706.html|title=ゆいレールでSuicaの利用開始 那覇空港駅で記念セレモニー 「シームレスに乗車できるように」|newspaper=琉球新報|date=2020-03-10|accessdate=2020-03-11|archivedate=2020-03-10}}</ref>。
**[[3月14日]]
***[[鹿島線]]全線にSuicaエリアを拡大<ref name="2019-12-13-chiba" group="PR">{{Cite press release |title=2020年3月ダイヤ改正について |publisher=東日本旅客鉄道千葉支社 |date=2019-12-13 |url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1912_daikai.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2020-01-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20191213072558/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1912_daikai.pdf |archive-date=2019-12-13 |quote= |ref=}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=鹿島神宮駅でSuicaをPR JR鹿島線 新たに5駅、全駅OK |newspaper=茨城新聞クロスアイ |date=2020-03-15 |author=藤崎徹 |authorlink= |url=https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=15841805828504 |access-date=2020-03-19 |location=茨城県水戸市 |publisher=茨城新聞社 |isbn= |issn= |oclc= |pmid= |pmd= |bibcode= |doi= |id= |page= |pages= |at= |language=ja |trans-title= |quote= |archive-url=https://web.archive.org/web/20200315232610/https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=15841805828504 |archive-date=2020-03-15 |ref= |postscript=}}</ref>。
*** [[常磐線]]いわき駅 - 浪江駅間をSuica首都圏エリアに、小高駅 - 原ノ町駅間をSuica仙台エリアに拡大<ref group="PR">{{Cite press release |title=常磐線(富岡駅~浪江駅間)の運転再開について |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2020-01-17 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200117_ho01.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2020-01-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200117080118/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200117_ho01.pdf |archive-date=2020-01-17 |quote=2020 年3月14日(土)より、常磐線の首都圏エリアおよび仙台エリアのご利用可能エリアを拡大し、15駅において新たにSuicaをご利用いただけるようになります。 |ref=}}</ref><ref name="いわき民報20200314">{{Cite news |和書 |title=出発進行!浜通りの未来へ 常磐線9年ぶり全線開通 |newspaper=いわき民報 |date=2020-03-14 |url=http://www.iwaki-minpo.co.jp/app/wp-content/uploads/2020/03/20200314.html |access-date=2020-03-19 |location=福島県いわき市 |publisher=いわき民報社 |isbn= |issn= |oclc= |pmid= |pmd= |bibcode= |doi= |id= |page= |pages= |at= |language=ja |quote=14日からは、JR東日本の交通系ICカード「SUICA(スイカ)」のエリアも拡大した。いわき―浪江駅間が首都圏エリア、小高駅(南相馬市)以北が仙台エリアとなり、これをまたいでは利用できない。 |archive-url= |archive-date= |ref= |postscript=}}</ref>([[桃内駅]]は未導入)。
*** 南武線[[小田栄駅]]及び両毛線[[あしかがフラワーパーク駅]]の本設化(隣接駅間営業キロの設定)に伴い、小田栄駅 - [[川崎新町駅]]間・あしかがフラワーパーク駅 - [[富田駅 (栃木県)|富田駅]]間のSuica利用が可能となる<ref name="2020-01-28" group="PR">{{Cite press release |title=南武線「小田栄駅」本設化のお知らせ |publisher=東日本旅客鉄道横浜支社 |date=2020-01-28 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200128_ho01.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2020-01-28 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200128073251/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200128_ho01.pdf |archive-date=2020-01-28 |quote= |ref=}}</ref><ref name="press/20200131-01info" group="PR">{{Cite press release |title=「あしかがフラワーパーク駅」ご利用の際の運賃・料金の取扱い変更について |publisher=東日本旅客鉄道高崎支社 |date=2020-01-31 |url=https://www.jreast.co.jp/takasaki/news/pdf/20200131-01info.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2020-01-31 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
***新幹線の新しいチケットレスサービスの[[えきねっと#新幹線eチケットサービス|新幹線eチケットサービス]]サービス開始<ref name= "shinkanseneticket" />。
***周遊型特別企画乗車券のカード型Suica搭載サービスに新たに「[[東京フリーきっぷ]]」を追加<ref group="PR">{{Cite press release |title=「東京フリーきっぷ」が Suica でご利用いただけます! |publisher=東日本旅客鉄道東京支社 |date=2020-02-26 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20200226_to01.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2020-02-26 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
**[[3月31日]] - 周遊型特別企画乗車券「鎌倉・江ノ島パス」の発売終了に伴い、同パスのカード型Suica搭載サービスも同日で終了<ref group="PR">{{Cite press release |title=おトクなきっぷ「鎌倉・江ノ島パス」の発売終了について |publisher=東日本旅客鉄道横浜支社 |date=2020-02-20 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/yokohama/20200220_y01.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2020-02-21 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
**[[5月25日]] - [[楽天グループ#楽天グループ本体の事業|楽天ペイ]]と提携して、専用アプリ内でSuicaの発行やチャージが出来るようになった<ref group="PR">{{Cite press release |title=楽天とJR東日本、キャッシュレス化の推進に向けて連携 |publisher=楽天ペイメント・東日本旅客鉄道 |date=2019-06-05 |url=https://corp.rakuten.co.jp/news/press/2019/0605_03.html?year=2019&month=6&category=ec |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2019-06-22 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref><ref group="PR">{{Cite press release |title=楽天と JR東日本、「楽天ペイ」アプリで「Suica」の発行やチャージ、「Suica」による支払いを可能に |publisher=楽天ペイメント・東日本旅客鉄道 |date=2020-05-25 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200525_ho01.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2020-05-26 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
**[[7月15日]] - プロ野球・[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の本拠地である[[宮城球場|楽天生命パーク宮城]]内の各売店など(一部を除く)の決済サービスとしてSuicaを導入{{Efn2|当初は2020年3月20日の対[[オリックス・バファローズ|オリックス]]戦から導入予定だったが、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]による影響で、プロ野球公式戦の開幕が延期になったことや開幕後も[[無観客試合]]が実施されたこともあり、導入時期が一旦未定となった<ref>{{Cite web|和書|title=楽天、本拠地で交通系電子マネーも導入 開幕から 昨季からキャッシュレス化|url=https://www.daily.co.jp/baseball/2020/01/30/0013074773.shtml|website=デイリースポーツ|accessdate=2020-01-30|date=2020-01-30}}</ref><ref group="PR">{{Cite web|和書|title=2020シーズン プロ野球開催延期期間及び払い戻しについて|url=https://www.rakuteneagles.jp/news/detail/00002824.html|website=楽天イーグルス オフィシャルサイト|accessdate=2020-03-16|date=2020-03-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=プロ野球、6月19日開幕 当面無観客で120試合予定|url=https://www.asahi.com/articles/ASN5T5QNGN5SUTQP00H.html|website=朝日新聞|accessdate=2020-07-22|publisher=|date=2020-05-25}}</ref>。その後、同年7月14日開催の対[[埼玉西武ライオンズ|西武]]戦から観客を入れての公式戦を開催することを決定したため、同日からSuicaの決済サービスが導入されることになったが、当日は雨により試合前中止となったため、翌15日からの導入となった<ref group="PR">{{Cite web|和書|title=【7/4(土)~順次発売!】7/14(火)~19(日)埼玉西武戦チケット販売概要決定!|url=https://www.rakuteneagles.jp/news/detail/00002998.html|website=楽天イーグルス オフィシャルサイト|accessdate=2020-07-22|publisher=|date=2020-07-02}}</ref><ref group="PR">{{Cite web|和書|title=7/14(火)埼玉西武戦 雨天中止のお知らせ|url=https://www.rakuteneagles.jp/news/detail/00003024.html|website=楽天イーグルス オフィシャルサイト|accessdate=2020-07-22|publisher=|date=2020-07-14}}</ref>。}}<ref>{{Cite web|和書|title=楽天本拠地でSuica導入 昨季キャッシュレス化|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202001300000243.html|website=日刊スポーツ|accessdate=2020-01-30|publisher=|date=2020-01-30}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)
**3月13日
*** JR東海のTOICAエリアが熱海駅・国府津駅まで拡大しSuicaエリアと接続するのを機に、SuicaエリアとTOICAエリアをまたがった在来線IC定期券の発売を開始(ただし、エリアをまたがったSF残高での利用は引き続き不可とする)。同時に、Suicaに並行する区間の[[定期乗車券#新幹線定期乗車券|新幹線定期券「FREX」「FREXパル」]]をSuicaで販売すると共に、[[東海道新幹線]]についてはTOICAエリアでのみで行っている[[TOICA#定期券による新幹線の利用|在来線IC定期券による「新幹線乗車サービス」]]を東京駅 - [[新岩国駅]]間まで拡充<ref group="PR" name="TOICA20210119">{{Cite press release |title=在来線および新幹線におけるIC定期券のサービス向上について 〜2021年3月13日(土)からサービスを開始します!〜 |publisher=東日本旅客鉄道、東海旅客鉄道、西日本旅客鉄道 |date=2021-01-19 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210119_ho03.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2021-01-19 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210119050250/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210119_ho03.pdf |archive-date=2021-01-19 |quote= |ref=}}</ref>。
***「[[タッチでGo!新幹線]]」の利用可能エリアをJR東日本管内の新幹線全区間(東北・上越・[[秋田新幹線|秋田]]・[[山形新幹線]]の全線と北陸新幹線 東京駅 - [[上越妙高駅]]間)に拡張<ref group="PR">{{Cite press release |title=タッチでGo!新幹線 サービスエリア拡大について |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2020-11-12 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |accessdate=2020-11-12 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。<!--出典資料中にダイヤ改正日の記載あり-->
*** IC入場サービス「タッチでエキナカ」を開始<ref group="PR" name="jrepress/20210119">{{Cite press release |title=IC入場サービス「タッチでエキナカ」の開始について |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2021-01-19 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210119_ho02.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |accessdate=2021-01-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210119090122/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210119_ho02.pdf |archivedate=2021-01-19 |quote= |ref=}}</ref>。
**3月21日 - Suicaと[[地域連携ICカード|地域交通系ICカード]]の機能を一体化した[[地域連携ICカード]]「totra」を[[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]]、ジェイアールバス関東の一部路線に導入。将来的には、[[宇都宮ライトレール]]に導入予定<ref group="PR" name="totra/press20201224">{{Cite press release |title=地域連携ICカード「totra(トトラ)」サービス開始日及びサービス内容について |publisher=宇都宮ICカード導入検討協議会 |date=2020-12-24 |url=https://www.kantobus.co.jp/common/sysfile/topics/ID00000670binary3.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2021-01-19 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201231040131/https://www.kantobus.co.jp/common/sysfile/topics/ID00000670binary3.pdf |archive-date=2020-12-31 |quote= |ref=}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/430681|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210322063244/https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/430681|title=ICカード「トトラ」発売 栃木県内のバス、鉄道、LRT 1枚で完結|newspaper=下野新聞|date=2021-03-22|accessdate=2021-03-22|archivedate=2021-03-22}}</ref>。
**3月27日
*** ジェイアールバス東北青森支店の管轄路線(青森空港線・横内線・みずうみ号・おいらせ号)でのサービスを開始<ref group="PR" name="jrbus-aomori" />。
*** [[岩手県交通]]が[[地域連携ICカード]]「Iwate Green Pass」を導入<ref group="PR" name="Iwateic20210225">{{Cite press release |title=地域連携ICカード「Iwate Green Pass」発行開始について |publisher=岩手県交通 |date=2021-02-25 |url=http://www.iwatekenkotsu.co.jp/pdf/newsrelease/newsrelease_20210225.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2021-03-04 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210225201829/http://www.iwatekenkotsu.co.jp/pdf/newsrelease/newsrelease_20210225.pdf |archive-date=2021-02-25 |quote= |ref=}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.iwate-np.co.jp/article/2021/3/28/94317|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210330044903/https://www.iwate-np.co.jp/article/2021/3/28/94317|title=バスICカード「発進」 県交通、計11路線で利用可能|newspaper=岩手日報|date=2021-03-28|accessdate=2021-03-30|archivedate=2021-03-30}}</ref>。
**10月25日 - この日をもって、伊豆急行におけるJR東日本発行のSuicaカード(無記名式)の発売を終了<ref group="PR" name="Izukyu_Suica" />。
*[[2022年]](令和4年)
**[[2月19日]] - <!---午前--->9時から、[[岩手県北自動車|岩手県北自動車(岩手県北バス)]]が地域連携ICカード「iGUCA」を導入<ref group="PR" name="iwatekenpoku-iguca"/>。
**[[2月26日]] - [[八戸市営バス|八戸市交通部]]及び[[岩手県北自動車|岩手県北自動車、]][[南部バス]]に[[地域連携ICカード]]「ハチカ」導入。
**[[3月5日]] - [[青森市営バス|青森市交通部]](青森市営バス)及び青森市市バスと「ねぷたん号」([[青森観光バス]]が運行)に地域連携IC[[地域連携ICカード|カード]]「AOPASS」導入。
**3月12日
*** [[群馬県]]内バス事業者7社が運行する64のバス路線において[[地域連携ICカード]]「nolbé」ノルベ導入
*** [[秋田県]]の[[秋北バス]]は地域連携ICカード Shuhoku Orange Pass/シュウホク オレンジパスを導入
**3月26日 - [[秋田県]]内の[[秋田中央交通]]株式会社が[[地域連携ICカード]] AkiCA(アキカ)導入
**4月29日 - [[青森県]]内の[[十和田観光電鉄]]は「Towada SkyBlue Pass」(十和田スカイブルーパス)導入
**5月14日 - [[山形県]]内の[[山交バス (山形県)|山交バス]]株式会社、[[庄内交通]]株式会社が[[地域連携ICカード]]「cherica(チェリカ)」導入
* [[2023年]](令和5年)
** [[2月25日]] - 青森県内の[[弘南バス]]が[[地域連携ICカード#MegoICa|MegoICa]]を導入。
** 5月27日 - 青森県・秋田県・岩手県の一部路線でサービス開始<ref group="PR" name="press20210406" /><ref group="PR" name="press20221212" />。
** 6月8日 - 半導体不足の影響により、5月27日に導入された青森県・秋田県・岩手県を除いて、無記名式Suicaカードの発売を休止<ref name="jreast20230602" group="PR" />。
** 7月1日 - 気仙沼線・大船渡線BRTの「odeca」が地域連携ICカードへリニューアル。
** 8月2日 - 半導体不足の影響により、5月27日に導入された青森県・秋田県・岩手県を除いて、記名式Suicaカードの発売を休止<ref name="jreast20230731" group="PR" />。
=== 今後の予定 ===
==== エリアの拡大 ====
将来的には、JR東日本の全路線でSuicaを使えるようにし、そのために必要な磁気券のIC化を行い<ref group="PR">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20111203004921/http://www.jreast.co.jp/investor/gv2020/pdf/01.pdf グループ経営ビジョン2020]}} - 2008年3月31日(2011年12月3日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>、Suicaの東日本管内全国展開を目指すとしている。これに関連して、2023年5月27日からセンターサーバー方式を採用した上で[[北東北]]3県([[青森県]]・[[秋田県]]・[[岩手県]])の一部路線でSuicaが利用可能となった{{Efn2|それぞれ「青森エリア」・「秋田エリア」・「盛岡エリア」の3エリア制となり、エリア跨ぎは出来ない。}}<ref group="PR" name="press20210406">{{Cite press release |title=北東北3県におけるSuicaご利用エリアの拡大について 〜2023年春以降、青森・岩手・秋田の各エリアでSuicaをご利用いただけるようになります〜 |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2021-04-06 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho02.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2021-04-06 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210406050454/https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho02.pdf |archive-date=2021-04-06 |quote= |ref=}}</ref><ref group="PR" name="press20221212">{{Cite press release |title=2023年5月27日北東北3エリアでSuicaがデビューします! |publisher=東日本旅客鉄道盛岡支社・秋田支社 |date=2022-12-12 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/morioka/20221212_mr01.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2022-12-12 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221212054051/https://www.jreast.co.jp/press/2022/morioka/20221212_mr01.pdf |archive-date=2022-12-12 |quote= |ref=}}</ref>。同年夏以降首都圏・仙台・新潟エリアおいても従来方式との併用の上導入し、2026年度中に完全移行予定。完全移行後はJR東日本管内のSuicaエリアの統合などを計画していることも発表されている。
2022年7月22日に仙台エリアとして山形県内の[[奥羽本線]]([[山形線]])の[[かみのやま温泉駅]] - [[村山駅 (山形県)|村山駅]]間と[[左沢線]]の[[北山形駅]] - [[寒河江駅]]間各駅のSuica対応が2024年春以降と発表された{{Efn2|山形駅には2014年に導入済み<ref group="PR">{{Cite press release |title=Suica の一部サービスをご利用いただける駅が増えます |publisher=東日本旅客鉄道株式会社 |date=2013-11-29 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2013/20131114.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-05 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>}}<ref group="PR" name="jre_s_press20220722">{{Cite press release |title=山形県におけるSuicaご利用駅の拡大について |publisher=東日本旅客鉄道仙台支社<!--プレスリリース発行当時--> |date=2022-07-22 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/sendai/20220722_s01.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-02-05 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。その後2024年3月16日よりサービス開始することが発表された<ref group="PR" name="jre_s_press20231215">{{Cite press release |title=山形県の Suica 利用がますます便利になります! |publisher=東日本旅客鉄道東北本部<!--プレスリリース発行当時--> |date=2023-12-15 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/sendai/20231215_s03.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-12-15 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
2023年6月20日に首都圏エリアとして長野県内の篠ノ井線の松本駅 - [[篠ノ井駅]]間と信越本線の篠ノ井駅 - [[長野駅]]間、[[大糸線]]の松本駅 - [[穂高駅]]間各駅のSuica対応が2025年春以降と発表された<ref group="PR" name="jre_n_press20230620">{{cite press release|title=長野県における Suica ご利用駅の拡大について|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/nagano/20230620_na01.pdf |format=PDF |language=ja |publisher=東日本旅客鉄道長野支社|date=2023-06-20|accessdate=2023-06-20}}</ref>。
==== 障害者用Suica・PASMOサービスの開始 ====
{{main|首都圏ICカード相互利用サービス}}
JR東日本をはじめとする関東地方の鉄道バス事業者等の関東ICカード相互利用協議会は、2023年3月頃からの予定で障害者用ICカード{{Efn2|JR東日本などの鉄道路線において障害者割引運賃の対象となっている第1種の[[身体障害者手帳]]・第1種の[[療育手帳]]の所持者が介護人と同伴して乗車する場合に限る特殊なICカード。}}の導入を2022年9月14日に発表した。
その後2022年12月22日にサービス開始予定日が2023年3月18日であると発表された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==== 一次資料または記事主題の関係者による情報源 ====
{{Reflist|group="PR"|2}}
== 関連項目 ==
{{ICカード乗車券|co=[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・[[東京モノレール|TMR]]・[[東京臨海高速鉄道|TWR]]|index=すいか}}
* [[モバイルSuica]]
* [[Suica電子マネー]]
* [[えきねっと]]
* [[JRE POINT|JREポイント]]
* [[ジェイアール東日本メカトロニクス]]
* [[ビューカード]]
** [[VIEW Suicaカード|ビュースイカカード]]
** [[ビックカメラSuicaカード]]
*[[PASMO]]([[関東私鉄]]など)
*[[椎橋章夫]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Suica}}
*各社Suicaページ
**[https://www.jreast.co.jp/suica/ JR東日本]
***[https://form.qooker.jp/Q/auto/ja/jogai/main/ データの社外への提供分からの除外のご要望]
***[https://www.jreast.co.jp/mobilesuica/index.html/ モバイルSuica]
**[https://www.tokyo-monorail.co.jp/tickets/suica/ 東京モノレール]
**[https://www.twr.co.jp/route/tabid/129/Default.aspx TWR]
**[https://www.izukyu.co.jp/train/suica.php 伊豆急]
**[http://www.fujikyu-railway.jp/column/suica.php 富士急行線]
**[https://www.yui-rail.co.jp/ticketinfo/suica/ ゆいレール]
*提携カード
**[https://www.jal.co.jp/jp/ja/jalcard/card/suica.html JALカードSuica]
**[https://www.jreast.co.jp/card/first/viewsuica.html 「ビュー・スイカ」カード]
**[https://www.biccamera.com/bc/c/super/okaimono/point/teikei/suica/index.jsp ビックカメラSuicaカード]
**[https://www.jreast.co.jp/card/first/lumine.html ルミネカード]
**[https://www.aeon.co.jp/card/lineup/aeonsuica/ イオンSuicaカード]
**[https://www.smbc-card.com/nyukai/affiliate/anasuica/index.jsp ANA VISA Suicaカード]
{{Suica}}
{{電子マネー}}
{{JR東日本}}
{{JR}}
{{デフォルトソート:すいか}}
[[Category:Suica|*]]
[[Category:非接触型決済]]
[[Category:日本の登録商標]] | 2003-03-13T05:02:12Z | 2023-12-30T11:20:56Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Suica |
3,920 | 路線バス | 路線バス(ろせんバス)とは、予め設定した路線上を運行するバス。高速道路を主体に走行する長距離路線バス(都市間高速バス)については、「高速バス」も併せて参照のこと。本項では主に、一般道を主として走行する一般路線バスについて述べる。
日本の道路運送法においては、バス事業は乗合バス、貸切バス、特定バスの3種類に区分される。以下、日本における路線バス(乗合バス)について記述する。
日本における路線バスとは、国土交通省より道路運送法第4条に規定される「一般乗合旅客自動車運送事業」の許可を受けた一般乗合旅客自動車運送事業者によって行われる路線定期運行(道路運送法施行規則3条の3)の一種である。
路線定期運行(道路運送法施行規則3条の3)を行うものには、路線バスのほか、高速バスやコミュニティバスなどもある。このうち「一般乗合旅客自動車運送事業」における乗合バス(路線バス)の定義とは
ものをいう。
一般乗合旅客自動車運送事業を行うには許可(事業許可)が必要である。道路運送法4条に規定される「不特定多数の旅客を乗り合わせて運送する一般旅客自動車運送事業」を総称して「4条乗合」という。「4条乗合」には路線バスのほか、高速バス、コミュニティバス、デマンド交通、乗合タクシーなどが含まれる。路線定期運行の場合は路線延長や運賃料金について認可制(上限認可制)になっている。また停留所の新設や変更は事後届出制である。
なお、一般には「路線バス」と呼ばれることもあるが、道路運送法79条に定める自家用有償旅客運送(自治体バスなどの市町村運営有償運送、公共交通空白地有償運送、福祉有償運送)などは一般旅客自動車運送事業(道路運送事業法第4条)とは区別されており、登録制である。
旅客自動車運送事業運輸規則第12条により、所定の発車時刻より前に発車させること(早発)が禁止されているため、停留所に早着した場合は、停留所から乗車する客及び車内に乗客がいなくても停車して時間調整を行う。ただし、クローズドドアシステム導入路線で降車のみの扱いとなる停留所に早着した場合は、乗客の降車が済み次第、時間調整を行わずに所定の発車時刻より前に発車可能である。
過疎地の路線では、起点のバス停から利用客の大半が乗車し、後は途中からの乗車はほとんどなく降車のみが続く場合が多い。このため、乗客がいなくなった時点で乗務員が勝手に運行を打ち切る、いわゆるバス停飛ばしが行われることがある。こうした行為が発覚した場合には、所管運輸局から道路運送法に基づく行政処分を受けるほか、地元自治体から補助金を受けて運行している場合は、返還請求が行われる問題も生じる。なお道路運送法上では、あらかじめ所要の手続きを踏まえた上で運行を打ち切ることを可能としている。
2015年6月、ヤマト運輸が岩手県北自動車の路線バスを利用した貨客混載輸送を開始。2017年9月には、国土交通省により路線バスにおける貨客混載の規制緩和が拡大された。
現在の路線バスは、地方都市を中心にモータリゼーションや少子高齢化、過疎化の進行により、かなり苦しい運営状況におかれている。
この様な赤字路線の運営は貸切バス事業の黒字分で補填してきたが、道路運送法の改正でバス事業の新規参入が緩和されたため過当競争に陥り、多くのバス会社において赤字路線を維持できなくなった。法改正で路線の減便・廃止は基本的に住民同意なしで行うことができるようになり路線の廃止、減便が相次いでいる。また経営環境の悪化から倒産するバス会社なども出てきている。また、鉄道路線等の廃止に伴う代替バス路線の場合、元々経営が厳しかった鉄道路線が廃止になって代わりに設定された路線が大半(例外が名鉄起線の代行バス)で、バス転換後も利用者の減少が続いた結果、慢性的な赤字が改善せず、鉄道代替であったはずのバス路線もまた廃線となるケースが相次いでいる。そのため、廃線を回避するために公的資金の投入を受けたり、非正規雇用の乗務員を積極的に利用する、廃止した路線のバス停標識の上にシールを貼って新路線に使い回すなど、経費を節減できるところは徹底的に切り詰めて、どうにか路線を維持しているところも多い。
国土交通省では2017年時点、利用者数が1日15人以上150人以下の赤字路線に対して「地域公共交通確保維持事業」により支援を行っている。
収益の改善では、車体全体を広告に供するラッピング車両や、空港連絡路線の強化、地域ごとの分社、運行業務の他社への委託などが行われている。
大都市においては、地下鉄路線網の拡充に合わせて路線網が縮小された地区が多い。その他、大都市においては交通渋滞によるダイヤの定時性維持(平均時速15kmでダイヤを基本的に組んでいる)が最大の課題となる。これについては、最近では、バスレーンの設置や公共車両優先システム(PTPS)の導入、名古屋ガイドウェイバスのようにバス専用通路建設(ガイドウェイバスは案内軌条式鉄道扱いのためバス専用道路ではなく、専用軌道となる)など、道路混雑と渋滞により定時運行が妨げられやすいというバスの短所を、積極的に改善するための試みもなされている。
そのほか、自治体が支援する「コミュニティバス」というアプローチも行なわれている。東京都武蔵野市の「ムーバス」が成功例として知られる。コミュニティバスも運行されない過疎地では、児童・学生のみスクールバスで送迎したり、住民が公共交通空白地有償運送事業を営んだりして路線バスを代替している地区もある。
また、大阪市バスの「赤バス」のように、小型バスによる均一料金での細かな地域への入り込みや、100円バスと呼ばれる形態での利用増を図る地域もある。時刻表の配布により利用者が増加した例もある。
鉄道会社系のバスはその会社の自動車部門(直営)からの分社が多い。自社直営バスの営業エリアの一部を分離する形での部分的な分社化は1970年代以降、南海電気鉄道や西日本鉄道、京成電鉄などで実施された例があるが、1990年代以降、バス事業を全面的に分社化する事業者が増えている。しかし、労働組合との関係などの事情で分社・子会社化が進まないケースもある。
自社の車両運行に必要な車両整備の為に、バス事業者が自社なり関連会社なりで自動車整備工場を所有し、バスの車検も自前で行っていることも多い。専用の整備工場が無い場合でも、特定の車庫や拠点を整備して自動車整備工場としての認証を取得し車検・整備・修理や小規模な改造を手掛けるのはこの業界では珍しいものではない。また、設備・人員の有効利用や売上確保の一策として、自社グループに関係する車両のみならず地元タクシー事業者・運送業者や一般ユーザーの自家用車・大型自動車などの車検・整備を幅広く手掛けるなど、路線バスの会社が自動車の整備業・修理業としての一面を持つことも少なくない。また、自動車運転に必要な自動車損害賠償責任保険や自動車保険を中心にした各種保険の代理店業や、自動車販売業、ガソリンスタンドなど、自動車に関連する様々なビジネスをバス会社が直営していることもある。
直通バスが廃止された場合、利便性低下を抑えるため存続しているバス路線間で乗り継ぎ割引を実施する例もある。
日本の路線バスにおいては基本的には路線内の全ての停留所に停車する、鉄道でいえば各駅停車に相当する運行がほとんどであるが、観光地を抱える路線、長距離を走る都市間や地方路線、時間帯を限定(朝夕ラッシュ時や昼間時間帯など)した都市部の路線などで特急・急行などの優等種別便を運行している路線がある。
使用車両については通常の路線バスタイプ(下記参照)に加え、ミニバスやマイクロバス、高速、観光・貸切タイプを使うところもあり、路線・運行会社によってまちまちである。
急行バスも参照。
現在、日本のほとんど全ての路線バスは、大型自動車第二種運転免許を持った運転手一人だけが乗務するワンマン運転のいわゆるワンマンバスとして運行されている(ただし、車両の回送や試運転等で旅客運送を伴わない場合は、第一種運転免許で運転することができる)。1970年代前半頃までは、運賃の収受やドアの開閉、踏切などでの安全確認やバックの際の誘導などを行う車掌が乗車するツーマンであったが、人件費節減のため、1980年代にはほとんどワンマン運行になった。そのため、現在の路線バス用車両は基本的にワンマン仕様で車掌用設備は省略されている。
日本の路線バスの車両の多くは、車両左側の前方および中間の2ヶ所にドアが設けられていることが多い。地域や事業者、路線によっては前方と後方の2ヶ所にドアが設けられている車両(一部の都市)、前方1ヶ所だけドアが設けられている車両(主に地方部)、前方・中間・後方の3ヶ所にドアが設けられている車両(大都市の一部事業者)もある。しかし、いわゆるバリアフリーへの対応で、近年ではノンステップやワンステップ車両が導入されるようになり、構造の関係から前方と中間の2ヶ所にドアがある形態に集約されつつある。
2022年現在、新型コロナウイルス感染拡大防止観点から、バス事業者によっては最前列を着席禁止としているところもある。
前方ドアは運転席の脇にあり、前方ドアを利用する乗降時に運賃の精算がなされるため、精算機(運賃箱)が置かれていることが一般的である。
座席は多くの席が進行方向に向いているが、車両左側の前後のドアの間の座席(多くは優先座席)は側面を向いていることも多い。乗客数が特に多い路線ではほとんどの座席を横向きに設置し、乗車定員を増加させていることもある。
かつては路面と客室の間に大きな段差があり、車椅子や高齢者の利用に難があったが、近年になって車体や設備の改善も進み、車椅子のリフトアップが出来たり、乗降時に空気圧を利用して車体が下がる仕組みを備えたり、ノンステップバスのように客室の床面を低くし、車体前方・中央(ごく一部は後方も)の入り口部分に床面との段差をなくして乗り降りを楽にしたバスも増えるなど、バリアフリー化が進んでいる。しかし、路線環境などにより車椅子での乗降を断る運転手や事業者も少なくない。 なお、バス事業者が正当な理由なく車椅子利用者等の障害者の乗車を拒否した場合、2016年4月1日に施行された障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(障害者差別禁止法)で禁止される「障害を理由とした不当な差別」とみなされる可能性がある。加えて事業者が公営バス等の場合は、同法にて行政機関に対する法的義務(民間事業者は努力義務)として課せられた合理的配慮の提供を怠ったとみなされる可能性もある。
かつては古くなった観光バス車両に方向幕や運賃表示器・運賃箱などの路線バス用の機器を取り付けて路線バスに転用する例が多かったが、観光バスのハイデッカー化や路線バスのバリアフリー化により、このような改造例は少なくなっている。近年では2012年(平成24年)3月16日をもって運行終了した京都市交通局の定期観光バスに使用していた車両を、水族館シャトル(京都駅前~梅小路公園間アクセス路線)に用いた例がある。
路線バスでは道路交通法により、原則としてバス停留所(バス停)や駅前などに設けられたバスターミナルで乗降する。乗降客が極端に少ない区間等の特に認められた区間では、バス停以外の場所であっても運転手に合図をすれば乗降できる「フリー乗降制」となっている場合もある。
運賃は均一料金制の場合と、距離に応じて金額が上がって行く対キロ制・区間制の場合とがある。前者は大都市に多く、後者はそれ以外の中小都市や地方部に多くみられる。
均一料金制の場合は、運転手のいる前方のドアから乗車して運賃を支払い、後方または中央のドアから降車する「前乗り後降り先払い」が多く採用され、東京都の均一運賃地域、神奈川県横浜市や川崎市、愛知県名古屋市、沖縄県那覇市(民間事業者の那覇バス)、兵庫県伊丹市や尼崎市などが該当する。中小都市や地方部でも、コミュニティバスなどでごくまれに採用される場合がある。
対キロ制・区間制の場合は、後方または中央のドアから乗車し、前方のドアから降車する際に運賃を支払う「後乗り前降り後払い」が基本となる。日本国内ではこの乗降方式が圧倒的に多く、大阪府大阪市や兵庫県神戸市といった関西の大都市や、長野県松本市(民間事業者のアルピコ交通)のように、均一運賃地域の路線であってもこの方式を採用しているケースも少なくない。
なお、前扉のみで中扉や後扉を持たない「トップドア車」と呼ばれるバスや、箱根登山バス(神奈川県)や弘南バス(青森県)のように、中扉や後扉が存在するにもかかわらず乗降に使用しない事業者も存在する。このような場合は均一料金制(先払い)と対キロ制・区間制(後払い)を問わず、乗降方式は「前乗り前降り」となる。
後払い方式の場合の一般的な支払い方法は、乗車する際に乗車場所ごとに番号が振られた整理券を取るか、PASMO等の交通系ICカードを入口側のカードリーダーにタッチして乗車記録をする。降車の際に、運賃表で確認した整理券の番号に応じた運賃を運転席横の運賃箱に入れるか、ICカードを運賃箱側のカードリーダーにタッチして運賃を支払う。
また「信用乗車方式」といわれる、行き先を運転手に告げ、行き先までの運賃を乗車時に運賃箱に入れる方式も存在している(神奈川中央交通の横浜市内路線、東京ベイシティ交通、大利根交通などはこの方式で「前乗り後降り先払い」である)。また、現在も採用している路線は非常に少ないが、整理券を取らずに乗車し、降車時に乗車停留所を告げて運賃を支払う方法もある。
特殊なケースとしては、営業運行中に途中停留所を境に乗降方式が変わる路線も過去に存在しており、神奈川中央交通大和営業所が運行していた町71系統が該当していた。この路線は町田バスセンター(東京都町田市)と中山駅(神奈川県横浜市緑区)を結んでいたが、途中の青葉台駅(同市青葉区)を境に町田側は「前乗り前降り後払い」方式、中山側は「前乗り後降り先払い」方式として運行していた。
他の公共交通機関と比較する。
(熊本市のバスの右折が多い交差点ではこれを見越し、バスの停留所から交差点の間の一部分にバスを除外した停止禁止部分の路面標示を設けている。特にバスが集中する熊本市中央区の4箇所の交差点ではこれを避けるため、一番左のバスレーンから右折し、一般車は左から2番目の通行帯から左折する。4箇所のうちバス専用の交通信号機があるのは、熊本市中央区手取本町の交差点のみである。他の3箇所は交通信号機に青色の灯火の矢印が併設されている。)
アメリカ合衆国では長距離高速バスである「グレイハウンド」が有名だが、都市間輸送はバスと列車、旅客機がしのぎを削るボストン - ニューヨーク市 - ワシントンD.C.間など一部の区間を除いて、ほぼ旅客機の独擅場である。
ニューヨークやロサンゼルスなどの大都市や地方の都市部では、都市内や都心と郊外を結ぶ路線バス(トランジットバス)が多く設定されており、多くが1ドル25セント - 5ドル程度の運賃で運行されている。同一交通局内のバスと地下鉄、ライトレール・路面電車への乗り換えには、1 - 2時間有効な乗換券が発行され、追加料金は発生しない。車体のフロントにバイクラック(自転車取り付け台)があるバスもある。ニューヨーク市などごく一部の大都市の例を除き、都市内-近郊の路線バスの主な利用者は、自家用車を所有できない貧困層である。都心部での公共交通機関の利用を促すために、大都市郊外のバスターミナル・地下鉄駅には、無料駐車場を併設しているところも多い。米国では通勤交通費の支給は一般的ではないが、駐車場コスト削減のために、交通局と契約を結んで従業員のバス利用を無料にする企業もある。
アメリカのなかでは例外的に一般住民や旅行者にも広く使われるニューヨーク市都市交通局のバスは、同市の地下鉄と同様に、24時間運行され、料金は均一体系である。同市内には12,499ヶ所のバス停があり、全てのバスが障害者・車椅子のための昇降機を備えている。アメリカ各都市における、都市内バスの年間利用者数(2004年)は以下の通り。
都市内交通機関として路面電車とともに路線バスが設定されている。都市内への自家用車の乗り入れを抑制(パークアンドライド)するため、都心部の限定された区間では無料で利用できる施策が行われている都市も多い。また、ロンドン名物の二階バスが有名であるが、2005年12月9日、車イスでは乗り込むことができず、障害者に配慮した公共交通機関を2016年までに整備するよう求めた欧州連合(EU)統一基準はクリアできない等のバリアフリー化などの問題から、旧型車は一般用としては姿を消した。 しかし、観光用としては走っている。
大韓民国の路線バスにもかつて車掌が添乗していたが、今ではワンマンバスが主流になっている。路線バスは乗客自身が料金を支払うという意味で「自律バス」と称されたこともあった。路線バスには一般バスとは別に原則として座席数限定で乗客を受け入れる座席バスの区分がある。
シンガポールではバスは第一の公共交通機関となっており、年間約300万人前後の利用者で推移している。2001年の公共交通の分担率はバス事業約6割に対して地下鉄事業約2割だったが、2012年の公共交通の分担率はバス事業約4割強に対して地下鉄事業約3割強となった。
シンガポールではバスの運行形態は乗合バス(Basic Bus Services)、乗合プラスバス(Basic-Plus Bus Services)、補足的バス(Supplementary Bus Services)、プレミアムバス(Premium Bus Services)、特別バス(Special Bus Services)、シャトルバス(Shuttle Bus Services)の6種類に分けられている。
乗合バス(Basic Bus Services)と乗合プラスバス(Basic-Plus Bus Services)には次のような違いがある。
なお、補足的バス(Supplementary Bus Services)は、1974年に導入された制度で利用者の多い路線(スキームB)やスクールバスで朝と夕方の通勤時間帯に運行される急行バスである。
シンガポールでバス事業を行うには事前に路線や時刻表を申請して公共交通会議からバスサービス免許(Bus Service License:BSL)を取得する必要がある。10路線以上の営業運転を行う事業者はサービス基準を満たした上で、バスサービス事業者免許(Bus Service Operator’s License:BSOL)を取得しなければならない。
2014年現在、SBS Transit Ltd. と SMRT Buses Ltd. の2社のみが乗合バスと乗合プラスバスのバスサービス事業者免許を与えられている。2社の公共交通事業者以外のバス事業者は一般バス事業者としてそれ以外の運行形態のバス事業を行っている。 | [
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"text": "かつては路面と客室の間に大きな段差があり、車椅子や高齢者の利用に難があったが、近年になって車体や設備の改善も進み、車椅子のリフトアップが出来たり、乗降時に空気圧を利用して車体が下がる仕組みを備えたり、ノンステップバスのように客室の床面を低くし、車体前方・中央(ごく一部は後方も)の入り口部分に床面との段差をなくして乗り降りを楽にしたバスも増えるなど、バリアフリー化が進んでいる。しかし、路線環境などにより車椅子での乗降を断る運転手や事業者も少なくない。 なお、バス事業者が正当な理由なく車椅子利用者等の障害者の乗車を拒否した場合、2016年4月1日に施行された障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(障害者差別禁止法)で禁止される「障害を理由とした不当な差別」とみなされる可能性がある。加えて事業者が公営バス等の場合は、同法にて行政機関に対する法的義務(民間事業者は努力義務)として課せられた合理的配慮の提供を怠ったとみなされる可能性もある。",
"title": "日本の路線バス"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "かつては古くなった観光バス車両に方向幕や運賃表示器・運賃箱などの路線バス用の機器を取り付けて路線バスに転用する例が多かったが、観光バスのハイデッカー化や路線バスのバリアフリー化により、このような改造例は少なくなっている。近年では2012年(平成24年)3月16日をもって運行終了した京都市交通局の定期観光バスに使用していた車両を、水族館シャトル(京都駅前~梅小路公園間アクセス路線)に用いた例がある。",
"title": "日本の路線バス"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "路線バスでは道路交通法により、原則としてバス停留所(バス停)や駅前などに設けられたバスターミナルで乗降する。乗降客が極端に少ない区間等の特に認められた区間では、バス停以外の場所であっても運転手に合図をすれば乗降できる「フリー乗降制」となっている場合もある。",
"title": "日本の路線バス"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "運賃は均一料金制の場合と、距離に応じて金額が上がって行く対キロ制・区間制の場合とがある。前者は大都市に多く、後者はそれ以外の中小都市や地方部に多くみられる。",
"title": "日本の路線バス"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "均一料金制の場合は、運転手のいる前方のドアから乗車して運賃を支払い、後方または中央のドアから降車する「前乗り後降り先払い」が多く採用され、東京都の均一運賃地域、神奈川県横浜市や川崎市、愛知県名古屋市、沖縄県那覇市(民間事業者の那覇バス)、兵庫県伊丹市や尼崎市などが該当する。中小都市や地方部でも、コミュニティバスなどでごくまれに採用される場合がある。",
"title": "日本の路線バス"
},
{
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"text": "対キロ制・区間制の場合は、後方または中央のドアから乗車し、前方のドアから降車する際に運賃を支払う「後乗り前降り後払い」が基本となる。日本国内ではこの乗降方式が圧倒的に多く、大阪府大阪市や兵庫県神戸市といった関西の大都市や、長野県松本市(民間事業者のアルピコ交通)のように、均一運賃地域の路線であってもこの方式を採用しているケースも少なくない。",
"title": "日本の路線バス"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "なお、前扉のみで中扉や後扉を持たない「トップドア車」と呼ばれるバスや、箱根登山バス(神奈川県)や弘南バス(青森県)のように、中扉や後扉が存在するにもかかわらず乗降に使用しない事業者も存在する。このような場合は均一料金制(先払い)と対キロ制・区間制(後払い)を問わず、乗降方式は「前乗り前降り」となる。",
"title": "日本の路線バス"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "後払い方式の場合の一般的な支払い方法は、乗車する際に乗車場所ごとに番号が振られた整理券を取るか、PASMO等の交通系ICカードを入口側のカードリーダーにタッチして乗車記録をする。降車の際に、運賃表で確認した整理券の番号に応じた運賃を運転席横の運賃箱に入れるか、ICカードを運賃箱側のカードリーダーにタッチして運賃を支払う。",
"title": "日本の路線バス"
},
{
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"text": "また「信用乗車方式」といわれる、行き先を運転手に告げ、行き先までの運賃を乗車時に運賃箱に入れる方式も存在している(神奈川中央交通の横浜市内路線、東京ベイシティ交通、大利根交通などはこの方式で「前乗り後降り先払い」である)。また、現在も採用している路線は非常に少ないが、整理券を取らずに乗車し、降車時に乗車停留所を告げて運賃を支払う方法もある。",
"title": "日本の路線バス"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "特殊なケースとしては、営業運行中に途中停留所を境に乗降方式が変わる路線も過去に存在しており、神奈川中央交通大和営業所が運行していた町71系統が該当していた。この路線は町田バスセンター(東京都町田市)と中山駅(神奈川県横浜市緑区)を結んでいたが、途中の青葉台駅(同市青葉区)を境に町田側は「前乗り前降り後払い」方式、中山側は「前乗り後降り先払い」方式として運行していた。",
"title": "日本の路線バス"
},
{
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"text": "他の公共交通機関と比較する。",
"title": "日本の路線バス"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "(熊本市のバスの右折が多い交差点ではこれを見越し、バスの停留所から交差点の間の一部分にバスを除外した停止禁止部分の路面標示を設けている。特にバスが集中する熊本市中央区の4箇所の交差点ではこれを避けるため、一番左のバスレーンから右折し、一般車は左から2番目の通行帯から左折する。4箇所のうちバス専用の交通信号機があるのは、熊本市中央区手取本町の交差点のみである。他の3箇所は交通信号機に青色の灯火の矢印が併設されている。)",
"title": "日本の路線バス"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国では長距離高速バスである「グレイハウンド」が有名だが、都市間輸送はバスと列車、旅客機がしのぎを削るボストン - ニューヨーク市 - ワシントンD.C.間など一部の区間を除いて、ほぼ旅客機の独擅場である。",
"title": "アメリカ合衆国の路線バス"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ニューヨークやロサンゼルスなどの大都市や地方の都市部では、都市内や都心と郊外を結ぶ路線バス(トランジットバス)が多く設定されており、多くが1ドル25セント - 5ドル程度の運賃で運行されている。同一交通局内のバスと地下鉄、ライトレール・路面電車への乗り換えには、1 - 2時間有効な乗換券が発行され、追加料金は発生しない。車体のフロントにバイクラック(自転車取り付け台)があるバスもある。ニューヨーク市などごく一部の大都市の例を除き、都市内-近郊の路線バスの主な利用者は、自家用車を所有できない貧困層である。都心部での公共交通機関の利用を促すために、大都市郊外のバスターミナル・地下鉄駅には、無料駐車場を併設しているところも多い。米国では通勤交通費の支給は一般的ではないが、駐車場コスト削減のために、交通局と契約を結んで従業員のバス利用を無料にする企業もある。",
"title": "アメリカ合衆国の路線バス"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "アメリカのなかでは例外的に一般住民や旅行者にも広く使われるニューヨーク市都市交通局のバスは、同市の地下鉄と同様に、24時間運行され、料金は均一体系である。同市内には12,499ヶ所のバス停があり、全てのバスが障害者・車椅子のための昇降機を備えている。アメリカ各都市における、都市内バスの年間利用者数(2004年)は以下の通り。",
"title": "アメリカ合衆国の路線バス"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "都市内交通機関として路面電車とともに路線バスが設定されている。都市内への自家用車の乗り入れを抑制(パークアンドライド)するため、都心部の限定された区間では無料で利用できる施策が行われている都市も多い。また、ロンドン名物の二階バスが有名であるが、2005年12月9日、車イスでは乗り込むことができず、障害者に配慮した公共交通機関を2016年までに整備するよう求めた欧州連合(EU)統一基準はクリアできない等のバリアフリー化などの問題から、旧型車は一般用としては姿を消した。 しかし、観光用としては走っている。",
"title": "ヨーロッパの路線バス"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "大韓民国の路線バスにもかつて車掌が添乗していたが、今ではワンマンバスが主流になっている。路線バスは乗客自身が料金を支払うという意味で「自律バス」と称されたこともあった。路線バスには一般バスとは別に原則として座席数限定で乗客を受け入れる座席バスの区分がある。",
"title": "韓国の路線バス"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "シンガポールではバスは第一の公共交通機関となっており、年間約300万人前後の利用者で推移している。2001年の公共交通の分担率はバス事業約6割に対して地下鉄事業約2割だったが、2012年の公共交通の分担率はバス事業約4割強に対して地下鉄事業約3割強となった。",
"title": "シンガポールの路線バス"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "シンガポールではバスの運行形態は乗合バス(Basic Bus Services)、乗合プラスバス(Basic-Plus Bus Services)、補足的バス(Supplementary Bus Services)、プレミアムバス(Premium Bus Services)、特別バス(Special Bus Services)、シャトルバス(Shuttle Bus Services)の6種類に分けられている。",
"title": "シンガポールの路線バス"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "乗合バス(Basic Bus Services)と乗合プラスバス(Basic-Plus Bus Services)には次のような違いがある。",
"title": "シンガポールの路線バス"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "なお、補足的バス(Supplementary Bus Services)は、1974年に導入された制度で利用者の多い路線(スキームB)やスクールバスで朝と夕方の通勤時間帯に運行される急行バスである。",
"title": "シンガポールの路線バス"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "シンガポールでバス事業を行うには事前に路線や時刻表を申請して公共交通会議からバスサービス免許(Bus Service License:BSL)を取得する必要がある。10路線以上の営業運転を行う事業者はサービス基準を満たした上で、バスサービス事業者免許(Bus Service Operator’s License:BSOL)を取得しなければならない。",
"title": "シンガポールの路線バス"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2014年現在、SBS Transit Ltd. と SMRT Buses Ltd. の2社のみが乗合バスと乗合プラスバスのバスサービス事業者免許を与えられている。2社の公共交通事業者以外のバス事業者は一般バス事業者としてそれ以外の運行形態のバス事業を行っている。",
"title": "シンガポールの路線バス"
}
] | 路線バス(ろせんバス)とは、予め設定した路線上を運行するバス。高速道路を主体に走行する長距離路線バス(都市間高速バス)については、「高速バス」も併せて参照のこと。本項では主に、一般道を主として走行する一般路線バスについて述べる。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2015年7月
| 独自研究 = 2015年7月
| 参照方法 = 2018年6月
| 雑多な内容の箇条書き = 2018年6月
| 更新 = 2018年6月
}}
'''路線バス'''(ろせんバス)とは、予め設定した路線上を運行する[[バス (交通機関)|バス]]。[[高速道路]]を主体に走行する長距離路線バス(都市間高速バス)については、「'''[[高速バス]]'''」も併せて参照のこと。本項では主に、一般道を主として走行する一般路線バスについて述べる。
== 日本の路線バス ==
{{更新|section=1|date=2018年6月}}
=== 道路運送法における路線バス ===
[[日本]]の[[道路運送法]]においては、[[日本のバス|バス事業]]は'''乗合バス'''<ref>国土交通省公式ホームページ 一般乗合旅客自動車運送事業(乗合バス、路線バス)</ref>、'''[[貸切バス]]'''、'''[[特定バス]]'''の3種類に区分される。以下、日本における路線バス(乗合バス)について記述する。
==== 定義 ====
[[ファイル:KanagawaChuoKotsu ta48.JPG|サムネイル|一例]]
日本における路線バスとは、[[国土交通省]]より[[道路運送法]]第4条<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=326AC0000000183 |title=第二章 旅客自動車運送業 (一般旅客自動車運送事業の許可)第四条|website=e-Gov法令検索 |publisher=国土交通省 |accessdate=2023-02-10}}</ref>に規定される「一般乗合旅客自動車運送事業」の許可を受けた一般乗合旅客自動車運送事業者によって行われる路線定期運行(道路運送法施行規則3条の3)の一種である<ref name="kanto" />。
路線定期運行(道路運送法施行規則3条の3)を行うものには、路線バスのほか、[[高速バス]]や[[コミュニティバス]]などもある<ref name="kanto">{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/content/000164269.pdf|title=道路運送法の基礎知識について|website=|publisher=関東運輸局 自動車交通部 旅客第一課|accessdate=2022-01-09}}</ref>。このうち「一般乗合旅客自動車運送事業」における乗合バス(路線バス)の定義とは<ref>[https://wwwtb.mlit.go.jp/chubu/gifu/yusou/bus/noriai.htm 一般乗合旅客自動車運送事業(乗合バス、路線バス)とは] 国土交通省[[中部運輸局]][[岐阜運輸支局]]公式サイト(2020年10月29日閲覧)</ref>
* 不特定多数の旅客を運送するもの。
* [[運賃]]を収受する有償運送であるもの。
* 定期運行するもの。
* バス路線([[運行系統]])を定めているもの。
* 一般的には、運行系統の起終点または[[バス停留所]]で乗降する([[フリー乗降制]]などを採用することもある)。
ものをいう。
{| class="wikitable"
|+ 一般旅客自動車運送事業の種類<ref name="kanto" />
! 種別 !! 運行の態様 !! 運行形態の例
|-
| rowspan="3" | 一般乗合旅客自動車運送事業
| 路線定期運行 || 路線バス、高速バス、コミュニティバス、乗合タクシーなど
|-
| 路線不定期運行 || rowspan="2" | コミュニティバス、デマンド型交通、乗合タクシーなど
|-
| 区域運行
|-
| colspan="2" | 一般貸切旅客自動車運送事業
| 貸切バス
|-
| colspan="2" | 一般乗用旅客自動車運送事業
| タクシー
|}
一般乗合旅客自動車運送事業を行うには許可(事業許可)が必要である<ref name="kanto" />。道路運送法4条に規定される「不特定多数の旅客を乗り合わせて運送する一般旅客自動車運送事業」を総称して「4条乗合」という<ref name="kanto" />。「4条乗合」には路線バスのほか、高速バス、コミュニティバス、デマンド交通、乗合タクシーなどが含まれる<ref name="kanto" />。路線定期運行の場合は路線延長や運賃料金について認可制(上限認可制)になっている<ref name="kanto" />。また停留所の新設や変更は事後届出制である<ref name="kanto" />。
なお、一般には「路線バス」と呼ばれることもあるが、道路運送法79条に定める[[自家用有償旅客運送]](自治体バスなどの市町村運営有償運送、公共交通空白地有償運送、[[福祉有償運送]])などは一般旅客自動車運送事業(道路運送事業法第4条)とは区別されており、登録制である<ref name="kanto" />。
==== 運行 ====
[[旅客自動車運送事業運輸規則]]第12条により、所定の発車時刻より前に発車させること(早発)が禁止されているため、停留所に早着した場合は、停留所から乗車する客及び車内に乗客がいなくても停車して時間調整を行う。ただし、[[クローズドドアシステム]]導入路線で降車のみの扱いとなる停留所に早着した場合は、乗客の降車が済み次第、時間調整を行わずに所定の発車時刻より前に発車可能である。
[[過疎]]地の路線では、起点のバス停から利用客の大半が乗車し、後は途中からの乗車はほとんどなく降車のみが続く場合が多い。このため、乗客がいなくなった時点で乗務員が勝手に運行を打ち切る、いわゆる[[バス停飛ばし]]が行われることがある。こうした行為が発覚した場合には、所管[[運輸局]]から道路運送法に基づく[[行政行為|行政処分]]を受けるほか、地元[[地方公共団体|自治体]]から[[補助金]]を受けて運行している場合<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASKDQ5DW6KDQUJUB00H.html 路線バス、終点前で打ち切り半年超「早く帰りたかった」][[朝日新聞デジタル]](2017年12月23日)2017年12月25日閲覧</ref>は、返還請求が行われる問題も生じる。なお道路運送法上では、あらかじめ所要の手続きを踏まえた上で運行を打ち切ることを可能としている<ref>「[https://mainichi.jp/articles/20171112/k00/00e/040/176000c 岐阜バス、終点手前で運行打ち切り 行政指導受ける]」『[[毎日新聞]]』2017年11月12日(2017年12月25日閲覧)</ref>。
[[2015年]]6月、[[ヤマト運輸]]が[[岩手県北自動車]]の路線バスを利用した[[貨客混載]]輸送を開始。[[2017年]]9月には、国土交通省により路線バスにおける貨客混載の[[規制緩和]]が拡大された<ref>「[https://www.dbj.jp/topics/region/industry/files/0000030511_file2.pdf 地域公共交通における新たな動き~貨客混在を中心に~]」『[[日本政策投資銀行]]』2018年6月(2021年7月31日閲覧)</ref>。
=== バスの運営 ===
現在の路線バスは、地方都市を中心に[[モータリゼーション]]や少子高齢化、[[過疎]]化の進行により、かなり苦しい運営状況におかれている。
この様な赤字路線の運営は貸切バス事業の黒字分で補填してきたが、[[道路運送法]]の改正でバス事業の新規参入が緩和されたため過当競争に陥り、多くのバス会社において赤字路線を維持できなくなった。法改正で路線の減便・廃止は基本的に住民同意なしで行うことができるようになり路線の廃止、減便が相次いでいる。また経営環境の悪化から[[倒産]]するバス会社なども出てきている。また、[[鉄道路線]]等の廃止に伴う'''[[バス代行|代替バス路線]]'''の場合、元々経営が厳しかった鉄道路線が廃止になって代わりに設定された路線が大半(例外が[[名鉄起線]]の代行バス)で、バス転換後も利用者の減少が続いた結果、慢性的な赤字が改善せず、鉄道代替であったはずのバス路線もまた廃線となるケースが相次いでいる。そのため、廃線を回避するために公的資金の投入を受けたり、非正規雇用の乗務員を積極的に利用する、廃止した路線のバス停標識の上にシールを貼って新路線に使い回すなど、経費を節減できるところは徹底的に切り詰めて、どうにか路線を維持しているところも多い。
[[国土交通省]]では2017年時点、利用者数が1日15人以上150人以下の赤字路線に対して「地域公共交通確保維持事業」により支援を行っている<ref>{{Cite web|和書|date=2017年11月8日 |url= https://mainichi.jp/articles/20171109/k00/00m/040/043000c|title=税金無駄遣い 過疎地バスで利用者「水増し」 |publisher=『毎日新聞』 |accessdate=2018-11-16}}</ref>。
収益の改善では、車体全体を[[広告]]に供する[[ラッピング車両]]や、[[空港]]連絡路線の強化、地域ごとの分社、運行業務の他社への委託などが行われている。
大都市においては、[[地下鉄]]路線網の拡充に合わせて路線網が縮小された地区が多い。その他、大都市においては[[交通渋滞]]による[[ダイヤグラム|ダイヤ]]の定時性維持(平均時速15[[キロメートル毎時|km]]でダイヤを基本的に組んでいる)が最大の課題となる。これについては、最近では、[[バスレーン]]の設置や[[公共車両優先システム]](PTPS)の導入、[[名古屋ガイドウェイバス]]のようにバス専用通路建設([[ガイドウェイバス]]は[[案内軌条式鉄道|案内軌条式'''鉄道''']]扱いのため[[バス専用道路]]ではなく、[[専用軌道]]となる)など、道路混雑と渋滞により定時運行が妨げられやすいというバスの短所を、積極的に改善するための試みもなされている。
そのほか、自治体が支援する「[[コミュニティバス]]」というアプローチも行なわれている。[[東京都]][[武蔵野市]]の「[[ムーバス]]」が成功例として知られる。コミュニティバスも運行されない過疎地では、児童・学生のみ[[スクールバス]]で送迎したり、住民が[[公共交通]]空白地有償運送事業を営んだりして路線バスを代替している地区もある<ref>[[愛媛県]][[八幡浜市]][[日土村|日土地区]]の例。出典:[https://yawatahama-iju.com/news/3073/ 定住支援員の「やわたはま・あれこれ」~日土地区編①]八幡浜市移住・定住支援ポータルサイト(2018年11月2日)2020年10月29日閲覧</ref>。
また、[[大阪市]]バスの「[[赤バス]]」のように、小型バスによる均一料金での細かな地域への入り込みや、[[100円バス]]と呼ばれる形態での利用増を図る地域もある。[[時刻表]]の配布により利用者が増加した例もある。
鉄道会社系のバスはその会社の自動車部門(直営)からの分社が多い。自社直営バスの営業エリアの一部を分離する形での部分的な分社化は1970年代以降、[[南海電気鉄道]]や[[西日本鉄道]]、[[京成電鉄]]などで実施された例があるが、1990年代以降、バス事業を全面的に分社化する事業者が増えている。しかし、[[労働組合]]との関係などの事情で分社・子会社化が進まないケースもある。
自社の車両運行に必要な車両整備の為に、バス事業者が自社なり関連会社なりで[[自動車整備工場]]を所有し、バスの[[車検]]も自前で行っていることも多い<ref group="注">[[北海道中央バス]]における小樽整備工場での[[小樽市|小樽]]地区及び[[ニセコバス]]の整備、札幌工場での[[札幌市|札幌]]地区及び[[札幌第一観光バス]]の整備、空知工場における[[空知総合振興局|空知]]地区・[[旭川市|旭川]]営業所及び子会社の[[空知中央バス]]の車両整備も受託する例等。</ref>。専用の整備工場が無い場合でも、特定の車庫や拠点を整備して自動車整備工場としての認証を取得し車検・整備・修理や小規模な改造を手掛けるのはこの業界では珍しいものではない。また、設備・人員の有効利用や売上確保の一策として、自社グループに関係する車両のみならず地元タクシー事業者・運送業者や一般ユーザーの自家用車・大型自動車などの車検・整備を幅広く手掛けるなど、路線バスの会社が自動車の整備業・修理業としての一面を持つことも少なくない。また、自動車運転に必要な[[自動車損害賠償責任保険]]や[[自動車保険]]を中心にした各種[[保険]]の代理店業<ref group="注">[[三重交通]]や[[昭和自動車]]など多数。</ref>や、自動車販売業<ref group="注">例としては[[草軽交通]]など。</ref>、[[ガソリンスタンド]]<ref group="注">例としては[[小田急バス]]など。</ref>など、自動車に関連する様々なビジネスをバス会社が直営していることもある。
直通バスが廃止された場合、利便性低下を抑えるため存続しているバス路線間で乗り継ぎ割引を実施する例もある。
<gallery>
ファイル:Toeibus L-F458.JPG|ラッピングバスの例([[東京都交通局]])
ファイル:Fuji-Express T2472 Chii-Bus.jpg|コミュニティバスの例(東京都[[港区 (東京都)|港区]]「[[ちぃばす]]」)
ファイル:Keiobus-east A49815 100yenbus.jpg|100円バスの例([[京王バス東]])
</gallery>
=== 路線バスにおける優等種別 ===
日本の路線バスにおいては基本的には路線内の全ての停留所に停車する、鉄道でいえば[[各駅停車]]に相当する運行がほとんどであるが、[[観光]]地を抱える路線、長距離を走る都市間や地方路線、時間帯を限定(朝夕[[ラッシュ時]]や昼間時間帯など)した都市部の路線などで特急・急行などの優等種別便を運行している路線がある。
使用車両については通常の路線バスタイプ(下記参照)に加え、[[マイクロバス|ミニバスやマイクロバス]]、[[高速バス|高速]]、[[観光バス|観光]]・[[貸切バス|貸切]]タイプを使うところもあり、路線・運行会社によってまちまちである。
[[急行バス]]も参照。
=== 車両の特徴 ===
現在、日本のほとんど全ての路線バスは、[[第二種運転免許|大型自動車第二種運転免許]]を持った[[運転手]]一人だけが乗務する[[ワンマン運転]]のいわゆる'''ワンマンバス'''として運行されている(ただし、車両の[[回送]]や[[試運転]]等で旅客運送を伴わない場合は、[[第一種運転免許]]で運転することができる)。[[1970年代]]前半頃までは、運賃の収受やドアの開閉、[[踏切]]などでの安全確認やバックの際の誘導などを行う[[車掌]]が乗車するツーマンであったが、人件費節減のため、[[1980年代]]にはほとんどワンマン運行になった。そのため、現在の路線バス用車両は基本的にワンマン仕様で車掌用設備は省略されている。
日本の路線バスの車両の多くは、車両左側の前方および中間の2ヶ所にドアが設けられていることが多い。地域や事業者、路線によっては前方と後方の2ヶ所にドアが設けられている車両(一部の都市)、前方1ヶ所だけドアが設けられている車両(主に地方部)、前方・中間・後方の3ヶ所にドアが設けられている車両(大都市の一部事業者)もある。しかし、いわゆる[[バリアフリー]]への対応で、近年ではノンステップやワンステップ車両が導入されるようになり、構造の関係から前方と中間の2ヶ所にドアがある形態に集約されつつある。
2022年現在、[[新型コロナウイルス]]感染拡大防止観点から、バス事業者によっては最前列を着席禁止としているところもある。
<gallery>
ファイル:Tokyubus-M744-kuro02-20071010.jpg|[[東急バス]]<br />前中2扉バス
ファイル:U-MP218M 1.jpg|[[京阪京都交通]]<br />前後2扉バス
ファイル:KC-MP317KT-Tozan-B900.jpg|[[箱根登山バス]]<br />前扉バス
ファイル:Tobus A-W293 low-floor prototype.jpg|[[都営バス]]<br />前中後3扉バス
</gallery>
前方ドアは運転席の脇にあり、前方ドアを利用する乗降時に運賃の精算がなされるため、精算機([[運賃箱]])が置かれていることが一般的である。
座席は多くの席が進行方向に向いているが、車両左側の前後のドアの間の座席(多くは[[優先席|優先座席]])は側面を向いていることも多い。乗客数が特に多い路線ではほとんどの座席を横向きに設置し、乗車定員を増加させていることもある。
{{See also|日本のバスの座席}}
かつては路面と客室の間に大きな段差があり、[[車椅子]]や高齢者の利用に難があったが、近年になって車体や設備の改善も進み、車椅子のリフトアップが出来たり、乗降時に空気圧を利用して車体が下がる仕組みを備えたり、[[ノンステップバス]]のように客室の床面を低くし、車体前方・中央(ごく一部は後方も)の入り口部分に床面との段差をなくして乗り降りを楽にしたバスも増えるなど、バリアフリー化が進んでいる。しかし、路線環境などにより車椅子での乗降を断る運転手や事業者も少なくない<ref>「[https://www.chibanippo.co.jp/news/national/399544 千葉交通が謝罪 車椅子利用者のバス乗車拒否]」『[[千葉日報]]』2017年4月7日</ref><ref>「[https://www.chibanippo.co.jp/news/national/399332 車椅子理由にバス乗車拒否 千葉県委員会に男性申し立て バス会社に配慮助言 成田]」『千葉日報』2017年4月6日</ref>。
なお、バス事業者が正当な理由なく車椅子利用者等の[[障害者]]の乗車を拒否した場合、[[2016年]][[4月1日]]に施行された[[障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律]](障害者差別禁止法)で禁止される「障害を理由とした不当な差別」とみなされる可能性がある。加えて事業者が[[公営バス]]等の場合は、同法にて行政機関に対する法的義務(民間事業者は[[努力義務]])として課せられた[[合理的配慮]]の提供を怠ったとみなされる可能性もある。
かつては古くなった観光バス車両に[[方向幕]]や[[運賃]]表示器・運賃箱などの路線バス用の機器を取り付けて路線バスに転用する例が多かったが、観光バスの[[ハイデッカー]]化や路線バスのバリアフリー化により、このような改造例は少なくなっている。近年では2012年([[平成]]24年)3月16日をもって運行終了した[[京都市交通局]]の定期観光バスに使用していた車両を、[[京都水族館|水族館]][[シャトルバス|シャトル]]([[京都駅]]前~[[梅小路公園]]間アクセス路線)に用いた例がある。
<gallery>
ファイル:Showazidosya fuzizyuu.jpg|[[昭和自動車]]<br />前面・側面に方向幕を設置
ファイル:Sandenkotsu RA50 FHI 3B.jpg|[[サンデン交通]]<br />前面に方向幕を設置、側面中央部に乗車用ドアを設置(増設)
</gallery>
=== 乗車・降車方法 ===
{{see also|ワンマン運転#乗客の乗降方法}}
路線バスでは道路交通法により、原則として[[バス停留所]](バス停)や駅前などに設けられた[[バスターミナル]]で乗降する。乗降客が極端に少ない区間等の特に認められた区間では、バス停以外の場所であっても運転手に合図をすれば乗降できる「[[フリー乗降制]]」となっている場合もある。
運賃は'''均一料金制'''の場合と、距離に応じて金額が上がって行く'''対キロ制・区間制'''の場合とがある。前者は大都市に多く、後者はそれ以外の中小都市や地方部に多くみられる。
均一料金制の場合は、運転手のいる前方のドアから乗車して運賃を支払い、後方または中央のドアから降車する<ref group="注">終点のみ前方のドアからも降車できることもある。</ref>「'''前乗り後降り先払い'''」が多く採用され、[[東京都]]の均一運賃地域<!--[[特別区]]+4市-->、[[神奈川県]][[横浜市]]<!--一部例外あり-->や[[川崎市]]、[[愛知県]][[名古屋市]]、[[沖縄県]][[那覇市]](民間事業者の[[那覇バス]])、[[兵庫県]][[伊丹市]]や[[尼崎市]]などが該当する。中小都市や地方部でも、[[コミュニティバス]]などでごくまれに採用される場合がある。
対キロ制・区間制の場合は、後方または中央のドアから乗車<ref group="注">後述の整理券が発行されない始発地のみ、前方のドアから乗車できる場合もある。</ref>し、前方のドアから降車する際に運賃を支払う「'''後乗り前降り後払い'''」が基本となる。日本国内ではこの乗降方式が圧倒的に多く、[[大阪府]][[大阪市]]や兵庫県[[神戸市]]といった[[関西]]の大都市や、[[長野県]][[松本市]](民間事業者の[[アルピコ交通]])のように、均一運賃地域の路線であってもこの方式を採用しているケースも少なくない。
なお、前扉のみで中扉や後扉を持たない「トップドア車」と呼ばれる[[バス (車両)|バス]]や、[[箱根登山バス]](神奈川県)や[[弘南バス]]([[青森県]])のように、中扉や後扉が存在するにもかかわらず乗降に使用しない事業者も存在する。このような場合は均一料金制(先払い)と対キロ制・区間制(後払い)を問わず、乗降方式は「'''前乗り前降り'''」となる。
後払い方式の場合の一般的な支払い方法は、乗車する際に乗車場所ごとに番号が振られた[[乗車整理券|整理券]]を取るか、[[PASMO]]等の[[乗車カード#ICカード乗車券|交通系ICカード]]を入口側のカードリーダーにタッチして乗車記録をする。降車の際に、運賃表で確認した整理券の番号に応じた運賃を運転席横の運賃箱に入れるか、ICカードを運賃箱側のカードリーダーにタッチして運賃を支払う。
また「信用乗車方式」といわれる、行き先を運転手に告げ、行き先までの運賃を乗車時に運賃箱に入れる方式も存在している(神奈川中央交通の横浜市内路線、東京ベイシティ交通、[[大利根交通自動車|大利根交通]]などはこの方式で「'''前乗り後降り先払い'''」である)。また、現在も採用している路線は非常に少ないが、整理券を取らずに乗車し、降車時に乗車停留所を告げて運賃を支払う方法もある。
特殊なケースとしては、営業運行中に途中停留所を境に乗降方式が変わる路線も過去に存在しており、[[神奈川中央交通]][[神奈川中央交通東・大和営業所|大和営業所]]が運行していた[[神奈川中央交通東・大和営業所#廃止・移管路線|町71系統]]が該当していた。この路線は[[町田バスセンター]]([[東京都]][[町田市]])と[[中山駅 (神奈川県)|中山駅]](神奈川県横浜市[[緑区 (横浜市)|緑区]])を結んでいたが、途中の[[青葉台駅]](同市[[青葉区 (横浜市)|青葉区]])を境に町田側は「'''前乗り前降り後払い'''」方式、中山側は「'''前乗り後降り先払い'''」方式として運行していた。
=== 長所と短所 ===
{{独自研究|section=1|date=2019年9月}}
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2019年9月}}
他の[[公共交通機関]]と比較する。
; 長所
* バス停間の距離が鉄道の駅間距離に比べて短い
: 特に[[フリー乗降制]]区間が採用されていると、バス停以外でも乗降できる利点がある。
* [[高速道路]]の料金車種区分で有利
: 車長9[[メートル|m]]以上・乗車定員30人以上又は車両総重量8[[トン|t]]以上のバスでも[[高速道路]]の料金車種区分が「大型車」扱い<ref>[http://faq2.driveplaza.com/faq/attachment/9_1.pdf 基本的な料金車種区分表] ドラぷら([[東日本高速道路]]が運営)。高速道路によっては料金車種区分が異なる場合がある。</ref>。
: 車長9m以上・車両総重量8t以上又は乗車定員30人以上の路線バス以外のバスは「特大車」扱い。
; 短所
* [[交通渋滞]]に弱い
: [[バスレーン]]の無い道路では渋滞に弱い・渋滞の原因になる。また[[日本の高速道路]]にはバスレーンが無い。
: 渋滞に巻き込まれると、運行に遅延が生じる。また、バス停に停車するバスが原因で渋滞を起こしてしまうこともある。
:[[File:UtsunomiyaStawest-Bus.jpg|thumb|[[大通り (宇都宮市)]]におけるバスの団子運転。]] [[福岡市]]や[[北九州市]]、[[熊本市]]中心部、[[宇都宮市]]の[[大通り (宇都宮市)|大通り]]のように、バスの台数が極端に多く、また運転系統が市の中心部に集中しているため「バスが渋滞を引き起こす原因」となっている例もある。ただし、このような事態を回避するために、[[西鉄バス]]の中距離路線では[[都市高速道路]]を利用する路線が多い。宇都宮市では[[宇都宮ライトレール|ライトレールの整備]]を契機に、大通りを走行するバス路線を周辺道路へ分散し、渋滞の解消を図る<ref>=LRT駅西を延伸 大通りバス路線も再編 宇都宮市検討 下野新聞2017年7月12日朝刊</ref>。
: バスは原則として道路の一番左の車線を走るため、[[交差点]]の右折の場合は手前のバス停の位置によっては一番左の車線から右の車線に横切ることになり、道路全体を塞ぐことがある。
([[熊本市]]のバスの右折が多い交差点ではこれを見越し、バスの停留所から交差点の間の一部分にバスを除外した停止禁止部分の[[日本の路面標示|路面標示]]を設けている。特にバスが集中する熊本市[[中央区 (熊本市)|中央区]]の4箇所の交差点ではこれを避けるため、一番左のバスレーンから右折し、一般車は左から2番目の通行帯から左折する。4箇所のうちバス専用の[[日本の交通信号機|交通信号機]]があるのは、熊本市中央区手取本町の交差点のみである。他の3箇所は交通信号機に青色の灯火の矢印が併設されている。)
* バス運転手の不足
{{See also|2024年問題}}
: [[第二種運転免許|大型二種免許]]取得者の絶対的な不足により、慢性的な運転手不足に陥っている。さらに新型コロナウイルスによる利用者の減少も加わり、本数の減便、運行区間の短縮、路線の廃止<ref>{{Cite web|和書|author=|date=2023-11-24|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231124/k10014267761000.html|title=バス路線 全国8600キロ余が廃止 要因の4割が“運転手不足”|website=NHK NEWSWEB|publisher=[[日本放送協会]]|accessdate=2023-11-26}}</ref>やさらにバス事業からの撤退を表明した事業者([[磐梯東都バス]]<ref>{{Cite web|和書|author=|date=2023-08-08|url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/20230808/6050023460.html|title=「磐梯東都バス」撤退後は別のバス会社が事業を引き継ぐ|website=福島NEWSWEB|publisher=[[日本放送協会]]|accessdate=2023-11-26}}</ref>、[[金剛自動車]]<ref>{{Cite web|和書|author=|date=2023-09-11|url=https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20230911/2000077770.html|title=大阪 富田林などで運行の「金剛バス」 路線バス事業廃止へ|website=関西NEWSWEB|publisher=[[日本放送協会]]|accessdate=2023-11-26}}</ref>)も出ている。
: 普通自動車免許から大型二種運転免許を取得する「養成制度」を取り入れ、運転手不足の解消に努めている事業者もある<ref>[https://www.kanto-bus.co.jp/recruit/driver/ バス運転士採用情報] [[関東バス]](2017年10月24日閲覧)</ref><ref>[http://www.keikyu-bus.co.jp/recruit/driver/training.html 養成運転士(募集要項)] [[京浜急行バス]](2017年10月24日閲覧)</ref><ref>[http://www.akita-chuoukotsu.co.jp/recruitinfo-unten.html バス運転士募集] [[秋田中央交通]](2017年10月25日閲覧)</ref>。
* [[交通事故]]
: バスが関連する交通事故は少なくない。道路は一般的に混合交通であり、他車の無謀運転や歩行者等の飛び出しなどによる事故は避けきれない。
: これに加え、交通事情から遅れを取り戻すための回復運転<ref>{{Cite web|和書|url=https://moqul.net/column/1453 |title=バスの回復運転を行う際に気を付けるべきこと |publisher=MOQUL |date=2023-06-30 |accessdate=2023-09-19}}</ref>、劣悪な労働条件あるいはバスサービスの供給過剰や競争激化などにより、公共交通機関のバスでさえ無謀運転に陥ってしまう場合がある。実際にバスが速度超過になる事例が一部のバス会社で起きている<ref>{{Cite web|和書|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-807566.html|title=乗客苦情「危ない」 沖縄本島東海岸の路線バス、速度超過に急ブレーキ頻繁 運転手、定時「間に合わない」|accessdate=2021年9月11日|publisher=[[琉球新報]]|date=2018年9月25日}}</ref>。
* [[環境問題]]
: バスも自動車であり、[[化石燃料]]を使用([[電気自動車|EVバス]]などを除く)して[[排気ガス]]を大気中へ出すため、[[大気汚染]]や[[酸性雨]]、[[地球温暖化]]などの環境問題は避けて通れない。
: [[ハイブリッドカー|ハイブリッドシステム]]を搭載したバスや燃料に[[天然ガス自動車|天然ガス]]を使用するバス、また通常のディーゼルバスにおいても[[尿素SCRシステム]]と呼ばれる環境対応システムを導入したバスが多くなっており、このような車両の導入で[[窒素酸化物]]など有害排出物低減の取組みがなされている。近年では[[燃料電池]]バスや[[電動バス]]の導入も一部事業者で進められている。
<gallery>
ファイル:KeiseiBus4002.jpeg|[[京成バス]]<br />[[連節バス]]「[[シーガル幕張]]」
ファイル:YokohamaCityBus 6-3879.jpg|[[横浜市営バス]]<br />[[ハイブリッドカー|ハイブリッド]]バス
ファイル:TBCK 1067 ergamio-CNG.jpg|[[東京ベイシティ交通]]<br />[[天然ガス自動車|CNG]]バス
ファイル:QV6A8132.jpg|[[西武バス]]<br />[[燃料電池]]バス
ファイル:Iwateken-kotsu-m288.jpg|[[岩手県交通]]<br />電動バス
</gallery>
=== 補足事項 ===
* 一般的には[[系統番号]]がある路線については「系統」と称しているが、事業者によっては「- 番」([[琉球バス交通]]、[[近鉄バス]])や「- 号経路」([[京阪バス]])が正式の呼称となっていることもある。詳細は[[系統番号 (バス)|当該記事]]を参照。
* 多くの地域において運転手の間では、運行中の同僚とすれ違った際に手を挙げて挨拶を交わすことが慣例となっている(同一事業者または親会社と子会社同士)。通常運行を行っている(すなわち、[[バスジャック]]などの非常事態が発生していない)ことを運転手間で確認する意味も含めて行う場合もある。地域によっては異なる事業者間でも行われる場合(主に都市間バスの共同運行会社や資本等で関係する会社等)もあった。しかし、[[2010年代]]以降、利用客などから[[ながら運転|脇見運転]]や片手運転になるとクレームを受ける場合もあり{{Efn2|実際に運転手同士での挨拶を行ったことに起因する[[交通事故]]も発生しており、2003年に東京都内で、2021年に[[福岡県]][[北九州市]]でそれぞれ歩行者や自転車運転手が死亡している<ref>{{Cite web|和書|title=西鉄の路線バス死亡事故 同じ会社のバスに会釈の習慣が原因か |url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/kitakyushu/20230630/5020013640.html |website=NHK北九州のニュース |access-date=2023-08-10 |publisher=NHK NEWS WEB |author=日本放送協会 |date=2023-06-30}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=事故に繋がる“危険行為” バス運転中の“挨拶”依然横行 覆面調査で半数確認 都営バスでは20年ほど前から“挨拶”を禁止 |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/654260?display=1 |website=TBS NEWS DIG |date=2023-08-09 |access-date=2023-08-10 |author=TBSテレビ}}</ref>。}}<ref>例:{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210713215147/https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/seisaku/koho/hotline/record/201709/A201700117.html|url=https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/seisaku/koho/hotline/record/201709/A201700117.html|date=2017-09-15|title=バス運転手の慣習について|publisher=[[島根県]]([[松江市交通局]])|archivedate=2021-07-13|accessdate=2021-09-07}}</ref>、[[国土交通省]]や[[日本バス協会]]なども挙手挨拶の自粛を求めていることから<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201115115055/https://www.mlit.go.jp/jidosha/anzen/03safety/resourse/data/bus_honpen.pdf|format=pdf|url=https://www.mlit.go.jp/jidosha/anzen/03safety/resourse/data/bus_honpen.pdf|date=2018-06|title=自動車運送事業者が事業用自動車の運転者に対して行う一般的な指導及び監督の実施マニュアル・バス事業者編・第2編本編|publisher=国土交通省自動車局安全政策課|archivedate=2020-11-15|accessdate=2021-09-07|page=28}}</ref>、禁止する事業者が多くなった<ref name=":0" /><ref>例:{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210907092404/https://www.hakone-tozanbus.co.jp/company/file/2021_anzen.pdf|format=pdf|url=https://www.hakone-tozanbus.co.jp/company/file/2021_anzen.pdf|date=2021-07-08|title=2021安全報告書|publisher=[[箱根登山バス]]|archivedate=2021-09-07|accessdate=2021-09-07|pages=3 - 4}}</ref><ref>例:{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210204060611/https://www.city.yokohama.lg.jp/shikai/kiroku/katsudo/h25-h24/katsudogaiyo-h24-j-8.files/0035_20180814.pdf|format=pdf|url=https://www.city.yokohama.lg.jp/shikai/kiroku/katsudo/h25-h24/katsudogaiyo-h24-j-8.files/0035_20180814.pdf|archivedate=2021-02-04|accessdate=2021-09-07|date=2013-02-19|title=バス運賃の不適切な取り扱いに対する再発防止等の取り組みについて(報告)(横浜市営バス乗務員ハンドブック含む)|publisher=[[横浜市交通局]]|page=61(ハンドブック50頁)}}</ref>。
=== 乗合バス事業者 ===
* [[北海道の乗合バス事業者]]
* [[東北地方の乗合バス事業者]]
* [[関東地方の乗合バス事業者]]
* [[中部地方の乗合バス事業者]]
* [[近畿地方の乗合バス事業者]]
* [[中国地方の乗合バス事業者]]
* [[四国地方の乗合バス事業者]]
* [[九州地方の乗合バス事業者]]
* [[:Category:日本のバス事業者]]
== アメリカ合衆国の路線バス ==
[[アメリカ合衆国]]では長距離高速バスである「[[グレイハウンド (バス)|グレイハウンド]]」が有名だが、都市間輸送はバスと列車、[[旅客機]]がしのぎを削る[[ボストン]] - [[ニューヨーク市]] - [[ワシントンD.C.]]間など一部の区間を除いて、ほぼ旅客機の独擅場である。
ニューヨークや[[ロサンゼルス]]などの大都市や地方の都市部では、都市内や都心と郊外を結ぶ路線バス(トランジットバス)が多く設定されており、多くが1[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]25セント - 5ドル程度の運賃で運行されている。同一交通局内のバスと[[地下鉄]]、[[ライトレール]]・[[路面電車]]への乗り換えには、1 - 2時間有効な乗換券が発行され、追加料金は発生しない。車体のフロントにバイクラック([[自転車]]取り付け台)があるバスもある。ニューヨーク市などごく一部の大都市の例を除き、都市内-近郊の路線バスの主な利用者は、[[自家用車]]を所有できない[[貧困層]]である。都心部での公共交通機関の利用を促すために、大都市郊外のバスターミナル・地下鉄駅には、無料駐車場を併設しているところも多い。米国では通勤交通費の支給は一般的ではないが、駐車場コスト削減のために、交通局と契約を結んで従業員のバス利用を無料にする企業もある。
アメリカのなかでは例外的に一般住民や旅行者にも広く使われる[[ニューヨーク市都市交通局]]のバスは、同市の地下鉄と同様に、24時間運行され、料金は均一体系である。同市内には12,499ヶ所のバス停があり、全てのバスが障害者・車椅子のための昇降機を備えている。アメリカ各都市における、都市内バスの年間利用者数(2004年)は以下の通り[http://www.mta.info/nyct/facts/ffbus.htm]。
# ニューヨーク 7.40億人
# ロサンゼルス 3.67億人
# [[シカゴ]] 2.94億人
# [[フィラデルフィア]] 1.63億人
== ヨーロッパの路線バス ==
都市内交通機関として路面電車とともに路線バスが設定されている。都市内への自家用車の乗り入れを抑制([[パークアンドライド]])するため、都心部の限定された区間では無料で利用できる施策が行われている都市も多い。また、[[ロンドン]]名物の二階バスが有名であるが、[[2005年]]12月9日、車イスでは乗り込むことができず、障害者に配慮した公共交通機関を2016年までに整備するよう求めた[[欧州連合]](EU)統一基準はクリアできない等のバリアフリー化などの問題から、旧型車は一般用としては姿を消した。
しかし、観光用としては走っている。
== 韓国の路線バス ==
[[大韓民国]]の路線バスにもかつて車掌が添乗していたが、今ではワンマンバスが主流になっている<ref name="stepup">増田忠幸『韓国語ステップアップ20』(三修社、2007年)14頁</ref>。路線バスは乗客自身が料金を支払うという意味で「自律バス」と称されたこともあった<ref name="stepup" />。路線バスには一般バスとは別に原則として座席数限定で乗客を受け入れる座席バスの区分がある<ref name="stepup" />。
== シンガポールの路線バス ==
[[シンガポール]]ではバスは第一の公共交通機関となっており、年間約300万人前後の利用者で推移している<ref name="Singapore" />。2001年の公共交通の分担率はバス事業約6割に対して地下鉄事業約2割だったが、2012年の公共交通の分担率はバス事業約4割強に対して地下鉄事業約3割強となった<ref name="Singapore" />。
=== 運行形態 ===
シンガポールではバスの運行形態は乗合バス(Basic Bus Services)、乗合プラスバス(Basic-Plus Bus Services)、補足的バス(Supplementary Bus Services)、プレミアムバス(Premium Bus Services)、特別バス(Special Bus Services)、シャトルバス(Shuttle Bus Services)の6種類に分けられている<ref name="Singapore">{{Cite web|和書|author=仲田知弘|date=|url=https://www.itej.or.jp/assets/seika/jijyou/201403_00.pdf|title=シンガポールにおけるバス事業の仕組みと取り組み|website=|publisher=交通経済研究所|accessdate=2022-01-09|deadlinkdate=2023-11-09}}</ref>。
乗合バス(Basic Bus Services)と乗合プラスバス(Basic-Plus Bus Services)には次のような違いがある。
* 乗合バス(Basic Bus Services)
** 朝から夜まで毎日運行されるもので、定時制やユニバーサル・サービス(USO)のため約400mごとにバス停が設置される<ref name="Singapore" />。
* 乗合プラスバス(Basic-Plus Bus Services)
** 平日の朝と夕方の通勤時間帯に運行される急行バスで、時間は乗合バスより約20%短縮されており、利用料金も乗合バスよりも高く設定されている<ref name="Singapore" />。
なお、補足的バス(Supplementary Bus Services)は、1974年に導入された制度で利用者の多い路線(スキームB)やスクールバスで朝と夕方の通勤時間帯に運行される急行バスである<ref name="Singapore" />。
=== 乗合バス事業者 ===
シンガポールでバス事業を行うには事前に路線や時刻表を申請して公共交通会議からバスサービス免許(Bus Service License:BSL)を取得する必要がある<ref name="Singapore" />。10路線以上の営業運転を行う事業者はサービス基準を満たした上で、バスサービス事業者免許(Bus Service Operator’s License:BSOL)を取得しなければならない<ref name="Singapore" />。
2014年現在、SBS Transit Ltd. と SMRT Buses Ltd. の2社のみが乗合バスと乗合プラスバスのバスサービス事業者免許を与えられている<ref name="Singapore" />。2社の公共交通事業者以外のバス事業者は一般バス事業者としてそれ以外の運行形態のバス事業を行っている<ref name="Singapore" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2018年6月|section=1}}
* [[鈴木文彦]]『路線バスの現在・未来』グランプリ出版、2001年。ISBN 978-4876872176
* 鈴木文彦『路線バスの現在・未来 part2』グランプリ出版、2001年。ISBN 978-4876872275
== 関連項目 ==
{{関連項目過剰|date=2022-05}}
=== 車両 ===
* [[ノンステップバス]]
* [[ワンステップバス]]
* [[ツーステップバス]]
* [[低床バス]]
* [[レールバス]]
=== 運行方式 ===
* [[バス・ラピッド・トランジット]](BRT)
** [[ガイドウェイバス]]
* [[日本の深夜バス|深夜バス・深夜急行バス]]
* [[フリー乗降制]]
* [[デマンドバス]]
* [[コミュニティバス]]
* [[リムジンバス]]
* [[十津川村営バス|十津川方式]]
* [[運行管理委託]]
* [[住民参加型路線]]
* [[廃止代替バス]]
* [[シャトルバス]]
* [[スクールバス]]
=== 路線バスをメインにした旅番組 ===
* [[ローカル路線バス乗り継ぎの旅]]([[テレビ東京]])
* [[のんびりゆったり 路線バスの旅]]([[NHK総合]]、定期放送終了)
* [[路線バスで寄り道の旅]]([[テレビ朝日]])
* [[タカトシ&温水が行く小さな旅シリーズ]]([[フジテレビ]])
=== 路線バスをメインにした番組のコーナー ===
* [[バスサンド]]([[帰れマンデー見っけ隊!!]]、テレビ朝日)
=== その他 ===
* [[オムニバスタウン]]
* [[都市新バスシステム]]
* [[基幹バス]]
* [[ゾーンバス]]
* [[フィーダーバス]]
* [[狭隘路線]]
* [[バスロケーションシステム]]
* [[バスターミナル]]
* [[パークアンドライド]]
* [[モビリティ・マネジメント]]
* [[交通工学]]
* [[二次交通]]
== 外部リンク ==
* [https://www.bus.or.jp/ 日本バス協会]
{{バス}}
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[[Category:乗合バス事業|*]]
[[Category:バス路線|*]]
[[Category:公共交通]] | 2003-03-13T05:18:18Z | 2023-12-15T07:07:53Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B7%AF%E7%B7%9A%E3%83%90%E3%82%B9 |
3,921 | 東急 | 東急株式会社(とうきゅう、英: TOKYU CORPORATION)は、東京都渋谷区に本社を置き、不動産事業、交通事業、ホテル・リゾート事業、生活サービス事業を手がける東急グループの中核をなす事業持株会社である。
略称は「東急株」(とうきゅうかぶ。東急電鉄の略称「東急」との区別のため、株式会社の略称である「株(かぶ)」を入れている)。大手私鉄の東急電鉄や東急百貨店、東急ホテルズなどを傘下に持つ。純然たる持株会社ではなく、直営で不動産賃貸業などを展開している(総合不動産事業を展開する関連会社の東急不動産とは棲み分けがされている)。このため、社名にホールディングスとは入っておらず、あくまでも東急グループの中核企業かつ統括会社という位置付けである。
旧社名は東京急行電鉄株式会社(とうきょうきゅうこうでんてつ)。2019年9月2日に現社名に変更した。現在は東急電鉄の略称となった「東急」の名称は、東京急行電鉄時代からの略称でもある(「東京急行」→「東急」、2006年まで東京急行電鉄本体が「東京急行」を対外的に使用していた)。
渋沢栄一が東京府荏原郡(現在の東京都区部南西部=品川区、目黒区、大田区および世田谷区の一部)の宅地開発とその住民のための交通網と生活基盤整備のために創設した田園都市株式会社を源流とする企業である。東急グループ各社の統括の他、東急不動産などとともに東急グループの拠点である渋谷の開発を戦前から行なってきたほか、他のグループ外企業とともに空港(仙台空港、富士山静岡空港)のコンセッション事業に共同参画しており、公式サイトでは事業内容を「不動産事業」としている。
旧社名の「東京急行電鉄」が示すとおり、かつては東京都南西部から神奈川県東部において路線を展開して鉄軌道事業を行っていたが、2019年10月1日に同事業を「東急電鉄株式会社」に会社分割方式で分社化している(詳細後述)。「東急電鉄」の名称は、2006年1月1日から当時の東京急行電鉄が「東京急行」に代わって使用を開始した公式な通称による。この名残で、証券コードにおける業種分類では、現在でも「陸運業」に分類されている。
ただし、東急グループ全体として見た場合には、鉄軌道事業の収益に比べて不動産事業やホテル事業などそれ以外の収益がはるかに上回っており、連結決算で見た東急グループ全体の営業収益(売上高に相当)は毎年1兆円を超える。グループ企業には、路線バスなど交通、不動産開発、小売業、ホテル・リゾートなどに221社8法人が名を連ねる(2017年3月末時点)。東急株式会社は、分社化以前から東急グループの事業中核会社(事業持株会社)=統括会社として認識されており、「東急本社」あるいは旧社名の「東京急行電鉄」に由来する「電鉄本社」と表現されることが多かった。
1947年から1972年まで、プロ野球チームの「東急(急映・東映)フライヤーズ」(北海道日本ハムファイターズの前身)を所有していた。1964年まで、映画製作・配給を手掛ける東映(旧・東横映画)は東急グループの傘下であった。また、かつてグループ企業に日本エアシステム(JAS、現・日本航空株式会社)があったことから、同社の株式移転などにより設立されたJALグループの持株会社である株式会社日本航空の筆頭株主だったが、2009年12月から2010年1月までに同社株を売却し、資本関係は解消している。
東京証券取引所一部上場で、日経225(日経平均株価)の構成銘柄である。女性活躍推進に優れている企業を選定・発表している経済産業省と東京証券取引所との共同企画である「なでしこ銘柄」に第一回(2012年度)から6年連続で選定されている。
2019年3月27日に行われた取締役会において、経営体制の最適化を目的として鉄道事業の分社化を次回株主総会に諮ることを決議した。源流企業である田園都市株式会社の創立101周年の記念日に当たる2019年9月2日に商号を「東急株式会社」に変更した。同年10月1日をもって鉄軌道事業を「東急電鉄株式会社」(4月25日に「東急電鉄分割準備株式会社」として設立、9月2日付で商号変更、英: TOKYU RAILWAYS Co., Ltd.)に分割され、鉄軌道事業においても「東京急行電鉄」の商号・呼称は用いられなくなる。なお、東急株式会社の英文社名には引き続き「TOKYU CORPORATION」を用いるほか、分社後の東急株式会社には直営で東急沿線を中心とした不動産事業・その他事業が残り、引き続き事業会社としての機能を有するため、他の大手私鉄の持株会社(相鉄・近鉄G・阪急阪神・京阪)とは違い、純然たる持ち株会社を意味する「ホールディングス」等の名称は用いないことにしている。これにより、大手私鉄で「東京」を冠するのは東京地下鉄(東京メトロ)のみ、「急行」がつくのは京浜急行電鉄(京急電鉄)のみとなった。
1943年に東京急行電鉄が刊行した『東京横浜電鉄沿革史』によると、東急の“創設者”は東急の母体企業“田園都市創設者”という表現で渋沢栄一となっている。また、渋沢の子である渋沢秀雄も田園都市株式会社の取締役支配人、及び東急電鉄の常任監査役などをつとめていた。
しかし、東急の事実上の“創業者”は五島慶太と認識されている。これは、東急の源流企業である田園都市株式会社を実質的に経営していた小林一三(現在の阪急電鉄の創業者)がその子会社である目黒蒲田電鉄に、当時、鉄道省の高級官吏であった五島慶太を経営陣に招聘し、それ以降、五島慶太を中心に、同社が東京横浜電鉄、東京急行電鉄と変遷し、現在の東急グループが形成されたからである。
とは言え、東武鉄道の根津家(根津嘉一郎)や西武鉄道の堤家(堤康次郎) とは異なり、五島は資本による会社支配は行わなかった。つまり五島家の東急の持株比率は低く、個人株主では国際興業の小佐野賢治が筆頭であった。また、五島慶太の後継者五島昇も資本による会社支配を行わなかったことから、五島慶太・昇父子の経営者としての手腕や、パーソナリティでグループが結束を保ってきた歴史を有する。五島昇の後継者として目された昇の長男五島哲は、本田技研工業を経て東急取締役に就任し、東急建設社長を務めたが、五島昇に望まれながらも東急本社の社長には就任せずに他界した。現在、東急グループの経営陣に五島家出身者はいない。
現在の社紋は目黒蒲田電鉄時代から数えて4代目、東京急行電鉄時代から数えて2代目にあたる。大東急が成立した1943年(昭和17年)5月1日に制定された先代社紋は杉浦非水による考案で、中央には鉄道を表すレールの断面を、会社の飛躍を表す羽根をその両側に配置し、羽根が束縛を意味する円を突き破る姿は会社の更なる発展を意味している。
現在の社紋は創立50周年を記念して1973年(昭和48年)5月に制定された。中央の楕円は地球を、白抜きの逆三角形は東急の「T」の図案化であるとともに「三角錐体論」による三角錐体の俯瞰図を表し、その先端部が楕円の円周に接することで事業網が各地に拡大していく様を表現している。下部にある3本の弓状の弧は楕円を含めて三角錘体論の構成要素である東急グループの交通・開発・流通・健康産業の4部門を指し、外側に向かって広がっていく形はグループの成長、拡大、発展を表している。
この社紋は東急グループの統一マークとしての側面もあり、上部の文字を「TOKYU CORPORATION」とする東急株式会社社紋の他にもグループ各社の英名を組み込んだバリエーションがある。また、それら各社社紋の他に文字を「TOKYU GROUP」としたグループ統一マークがある。
2019年の再編までの歴史の詳細については東急電鉄#歴史を参照
※出身校の空欄は最終在籍大学不明。
東急沿線での住宅開発は主に東急不動産が担っている。東急沿線のみならず、沿線外の地域でも住宅開発を行っている。
主な自社開発ブランド
東急沿線
東急沿線外 | [
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"text": "東急株式会社(とうきゅう、英: TOKYU CORPORATION)は、東京都渋谷区に本社を置き、不動産事業、交通事業、ホテル・リゾート事業、生活サービス事業を手がける東急グループの中核をなす事業持株会社である。",
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"text": "旧社名は東京急行電鉄株式会社(とうきょうきゅうこうでんてつ)。2019年9月2日に現社名に変更した。現在は東急電鉄の略称となった「東急」の名称は、東京急行電鉄時代からの略称でもある(「東京急行」→「東急」、2006年まで東京急行電鉄本体が「東京急行」を対外的に使用していた)。",
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"text": "旧社名の「東京急行電鉄」が示すとおり、かつては東京都南西部から神奈川県東部において路線を展開して鉄軌道事業を行っていたが、2019年10月1日に同事業を「東急電鉄株式会社」に会社分割方式で分社化している(詳細後述)。「東急電鉄」の名称は、2006年1月1日から当時の東京急行電鉄が「東京急行」に代わって使用を開始した公式な通称による。この名残で、証券コードにおける業種分類では、現在でも「陸運業」に分類されている。",
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"text": "東京証券取引所一部上場で、日経225(日経平均株価)の構成銘柄である。女性活躍推進に優れている企業を選定・発表している経済産業省と東京証券取引所との共同企画である「なでしこ銘柄」に第一回(2012年度)から6年連続で選定されている。",
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"text": "2019年3月27日に行われた取締役会において、経営体制の最適化を目的として鉄道事業の分社化を次回株主総会に諮ることを決議した。源流企業である田園都市株式会社の創立101周年の記念日に当たる2019年9月2日に商号を「東急株式会社」に変更した。同年10月1日をもって鉄軌道事業を「東急電鉄株式会社」(4月25日に「東急電鉄分割準備株式会社」として設立、9月2日付で商号変更、英: TOKYU RAILWAYS Co., Ltd.)に分割され、鉄軌道事業においても「東京急行電鉄」の商号・呼称は用いられなくなる。なお、東急株式会社の英文社名には引き続き「TOKYU CORPORATION」を用いるほか、分社後の東急株式会社には直営で東急沿線を中心とした不動産事業・その他事業が残り、引き続き事業会社としての機能を有するため、他の大手私鉄の持株会社(相鉄・近鉄G・阪急阪神・京阪)とは違い、純然たる持ち株会社を意味する「ホールディングス」等の名称は用いないことにしている。これにより、大手私鉄で「東京」を冠するのは東京地下鉄(東京メトロ)のみ、「急行」がつくのは京浜急行電鉄(京急電鉄)のみとなった。",
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"text": "1943年に東京急行電鉄が刊行した『東京横浜電鉄沿革史』によると、東急の“創設者”は東急の母体企業“田園都市創設者”という表現で渋沢栄一となっている。また、渋沢の子である渋沢秀雄も田園都市株式会社の取締役支配人、及び東急電鉄の常任監査役などをつとめていた。",
"title": "東急と五島家"
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"text": "しかし、東急の事実上の“創業者”は五島慶太と認識されている。これは、東急の源流企業である田園都市株式会社を実質的に経営していた小林一三(現在の阪急電鉄の創業者)がその子会社である目黒蒲田電鉄に、当時、鉄道省の高級官吏であった五島慶太を経営陣に招聘し、それ以降、五島慶太を中心に、同社が東京横浜電鉄、東京急行電鉄と変遷し、現在の東急グループが形成されたからである。",
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"text": "とは言え、東武鉄道の根津家(根津嘉一郎)や西武鉄道の堤家(堤康次郎) とは異なり、五島は資本による会社支配は行わなかった。つまり五島家の東急の持株比率は低く、個人株主では国際興業の小佐野賢治が筆頭であった。また、五島慶太の後継者五島昇も資本による会社支配を行わなかったことから、五島慶太・昇父子の経営者としての手腕や、パーソナリティでグループが結束を保ってきた歴史を有する。五島昇の後継者として目された昇の長男五島哲は、本田技研工業を経て東急取締役に就任し、東急建設社長を務めたが、五島昇に望まれながらも東急本社の社長には就任せずに他界した。現在、東急グループの経営陣に五島家出身者はいない。",
"title": "東急と五島家"
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"text": "現在の社紋は目黒蒲田電鉄時代から数えて4代目、東京急行電鉄時代から数えて2代目にあたる。大東急が成立した1943年(昭和17年)5月1日に制定された先代社紋は杉浦非水による考案で、中央には鉄道を表すレールの断面を、会社の飛躍を表す羽根をその両側に配置し、羽根が束縛を意味する円を突き破る姿は会社の更なる発展を意味している。",
"title": "社紋"
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"text": "現在の社紋は創立50周年を記念して1973年(昭和48年)5月に制定された。中央の楕円は地球を、白抜きの逆三角形は東急の「T」の図案化であるとともに「三角錐体論」による三角錐体の俯瞰図を表し、その先端部が楕円の円周に接することで事業網が各地に拡大していく様を表現している。下部にある3本の弓状の弧は楕円を含めて三角錘体論の構成要素である東急グループの交通・開発・流通・健康産業の4部門を指し、外側に向かって広がっていく形はグループの成長、拡大、発展を表している。",
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"text": "この社紋は東急グループの統一マークとしての側面もあり、上部の文字を「TOKYU CORPORATION」とする東急株式会社社紋の他にもグループ各社の英名を組み込んだバリエーションがある。また、それら各社社紋の他に文字を「TOKYU GROUP」としたグループ統一マークがある。",
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"text": "2019年の再編までの歴史の詳細については東急電鉄#歴史を参照",
"title": "沿革"
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"text": "※出身校の空欄は最終在籍大学不明。",
"title": "沿革"
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"text": "東急沿線での住宅開発は主に東急不動産が担っている。東急沿線のみならず、沿線外の地域でも住宅開発を行っている。",
"title": "住宅開発事業"
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"text": "主な自社開発ブランド",
"title": "住宅開発事業"
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"title": "住宅開発事業"
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"text": "東急沿線外",
"title": "住宅開発事業"
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] | 東急株式会社は、東京都渋谷区に本社を置き、不動産事業、交通事業、ホテル・リゾート事業、生活サービス事業を手がける東急グループの中核をなす事業持株会社である。 略称は「東急株」(とうきゅうかぶ。東急電鉄の略称「東急」との区別のため、株式会社の略称である「株」を入れている)。大手私鉄の東急電鉄や東急百貨店、東急ホテルズなどを傘下に持つ。純然たる持株会社ではなく、直営で不動産賃貸業などを展開している(総合不動産事業を展開する関連会社の東急不動産とは棲み分けがされている)。このため、社名にホールディングスとは入っておらず、あくまでも東急グループの中核企業かつ統括会社という位置付けである。 旧社名は東京急行電鉄株式会社(とうきょうきゅうこうでんてつ)。2019年9月2日に現社名に変更した。現在は東急電鉄の略称となった「東急」の名称は、東京急行電鉄時代からの略称でもある(「東京急行」→「東急」、2006年まで東京急行電鉄本体が「東京急行」を対外的に使用していた)。 | {{Otheruseslist|2019年9月に東京急行電鉄から商号を変更した会社|同社が2019年9月まで運営していた鉄軌道事業およびこれを継承した子会社|東急電鉄|1947年から1954年まで同社が母体として運営していたプロ野球球団「'''東急フライヤーズ'''」|北海道日本ハムファイターズ}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 東急株式会社
| 英文社名 = TOKYU CORPORATION
| ロゴ = [[File:Tokyu Corporation Logo.svg|200px]]
| 画像 = [[File:Tokyuhonsha.jpg|300px]]
| 画像説明 = 東急本社
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 機関設計 = [[監査役会設置会社]]<ref>[https://www.tokyu.co.jp/ir/manage/governance.html コーポレート・ガバナンス] - 東急株式会社</ref>
| 市場情報 = {{上場情報 | 東証プライム | 9005 | 1949年5月16日}}
| 略称 = 東急株
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 150-8511
| 本社所在地 = [[東京都]][[渋谷区]][[南平台町]]5番6号
| 本社緯度度 = 35
| 本社緯度分 = 39
| 本社緯度秒 = 18.1
| 本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 139
| 本社経度分 = 41
| 本社経度秒 = 52.4
| 本社E(東経)及びW(西経) = E
| 座標右上表示 = Yes
| 本社地図国コード = JP
| 設立 = [[1922年]]([[大正]]11年)[[9月2日]]<br/>(目黒蒲田電鉄株式会社)
| 業種 = 5050<!-- 東京証券取引所業種分類では陸運業に分類 -->
| 事業内容 = [[持株会社|事業持株会社]](不動産業<ref name="Ms.Fudo"/>ほか)
| 代表者 = [[野本弘文]]([[代表取締役]][[会長]])<br />[[髙橋和夫 (実業家)|髙橋和夫]]([[代表取締役]]副会長)<br />[[堀江正博 (実業家)|堀江正博]](代表取締役[[社長]]兼社長[[執行役員]])
| 資本金 = 1217億2400万円<br/>(2021年3月31日現在)<ref name="fy">{{Cite report |和書 |author=東急株式会社 |date=2021-06-29 |title=第152期(2020年4月1日 - 2021年3月31日)有価証券報告書}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 発行済株式総数 = 6億2486万9876株<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 売上高 = 連結: 9359億2700万円<br />単独: 1392億7100万円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 営業利益 = 連結: △316億5800万円<br />単独: 154億8300万円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 経常利益 = 連結: △268億2400万円<br />単独: 258億5800万円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純利益 = 連結: △582億7600万円<br />単独: △269億8900万円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純資産 = 連結: 7525億3800万円<br />単独: 5229億1200万円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 総資産 = 連結: 2兆4760億6100万円<br />単独: 1兆9321億5800万円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 従業員数 = 連結: 24,655人<br />単独: 1,461人<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 決算期 = [[3月31日]]
| 会計監査人 = [[EY新日本有限責任監査法人]]<ref name="fy" />
| 主要株主 = [[日本マスタートラスト信託銀行]](信託口) 8.04%<br />[[第一生命保険]] 5.55%<br />[[日本カストディ銀行]](信託口) 4.32%<br />[[日本生命保険]] 3.89%<br />[[三井住友信託銀行]] 3.70%<br />[[みずほ銀行]] 1.64%<br />[[太陽生命保険]] 1.58%<br />[[三菱UFJ信託銀行]] 1.55%<br />[[三菱UFJ銀行]] 1.48%<br />日本カストディ銀行(信託口7) 1.39%<br />(2021年3月31日現在)<!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 主要子会社 = [[東急電鉄]] 100%<br />[[伊豆急ホールディングス]] 100%<br />[[上田電鉄]] 100%(間接所有割合)<br />[[じょうてつ]] 68.9%<br />[[東急バス]] 100%<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><br />その他については[[東急グループ]]参照
| 関係する人物 = {{Plainlist|
* [[渋沢栄一]](田園都市創設者)
* [[矢野恒太]](田園都市大株主)
* [[小林一三]](田園都市経営者)
* [[五島慶太]](事実上の創業者)
* [[五島昇]](元社長)
* [[田中勇]](元副社長・事実上の経営者)
* [[大川博]](元副社長)
* [[横田二郎]](元社長)
* [[清水仁 (実業家)|清水仁]](元社長)
* [[上條清文]](元社長)
* [[三宮四郎]](元専務取締役)
}}
| 外部リンク = {{Official URL}}
| 特記事項 = 2019年9月2日に東京急行電鉄株式会社から商号変更。2019年10月1日に鉄軌道事業は子会社の東急電鉄株式会社が引き継いだ。
}}
'''東急株式会社'''(とうきゅう、{{Lang-en-short|TOKYU CORPORATION}}<ref>東急株式会社 定款 第1章第1条</ref>)は、[[東京都]][[渋谷区]]に本社を置き、[[不動産]]事業、[[公共交通|交通]]事業、[[ホテル]]・リゾート事業、生活サービス事業を手がける[[東急グループ]]の中核をなす[[持株会社|事業持株会社]]である<ref name="about-group">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/company/about/|title=東急グループとは|website=東急株式会社公式サイト|accessdate=2019-12-28}}</ref>。
略称は「東急株」(とうきゅうかぶ。東急電鉄の略称「東急」との区別のため、株式会社の略称である「株(かぶ)」を入れている)。[[大手私鉄]]の[[東急電鉄]]や[[東急百貨店]]、[[東急ホテルズ]]などを傘下に持つ。純然たる持株会社ではなく、直営で[[不動産]][[賃貸]]業などを展開している<ref name="Ms.Fudo"/>(総合不動産事業を展開する[[関連会社]]の[[東急不動産]]とは棲み分けがされている<ref>[https://www.tokyu.co.jp/ir/upload_file/m002-m002_11/Tokyu_Integratedreport_2019_8.pdf 主な子会社・関係会社]</ref>)。このため、社名にホールディングスとは入っておらず、あくまでも東急グループの中核企業かつ統括会社という位置付けである。
旧社名は'''東京急行電鉄株式会社'''(とうきょうきゅうこうでんてつ)。[[2019年]][[9月2日]]に現社名に変更した。現在は東急電鉄の略称となった「東急」の名称は、東京急行電鉄時代からの略称でもある(「'''東'''京'''急'''行」→「東急」、2006年まで東京急行電鉄本体が「東京急行」を対外的に使用していた)。
== 概説 ==
[[渋沢栄一]]が[[東京府]][[荏原郡]](現在の東京都区部南西部=[[品川区]]、[[目黒区]]、[[大田区]]および[[世田谷区]]の一部)の[[宅地開発]]とその住民のための[[交通網]]と[[生活基盤]]整備のために創設した'''[[田園都市 (企業)|田園都市株式会社]]'''を源流とする企業である{{sfn|渋沢栄一記念財団|ref=shibusawa53}}。東急グループ各社の統括の他、[[東急不動産]]などとともに東急グループの拠点である[[渋谷]]の開発を戦前から行なってきたほか、他のグループ外企業とともに[[空港]]([[仙台空港]]、[[静岡空港|富士山静岡空港]])の[[コンセッション方式|コンセッション事業]]に共同参画しており、公式サイト<ref name="Ms.Fudo">[https://www.tokyu.co.jp/company/outline/ 会社概要] - 東急株式会社</ref>では事業内容を「[[不動産会社|不動産事業]]」としている。
旧社名の「東京急行電鉄」が示すとおり、かつては[[東京都]]南西部から[[神奈川県]]東部において路線を展開して[[鉄道事業者|鉄軌道事業]]を行っていたが、2019年[[10月1日]]に同事業を「'''[[東急電鉄]]株式会社'''」に[[会社分割]]方式で分社化している<ref name="nikkei20190327" /><ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49312000S9A900C1TJ2000/|title=「電鉄」外す東急の成算 社名変更、不動産を中核に |newspaper=日本経済新聞 |date=2019-09-02 |accessdate=2019-09-04}}</ref>(詳細後述)。「東急電鉄」の名称は、[[2006年]][[1月1日]]から当時の東京急行電鉄が「'''東京急行'''」に代わって使用を開始した公式な通称による<ref group="注釈">同じく関東の大手私鉄[[京浜急行電鉄]](略称:京急)も、かつて公式通称は「京浜急行」だったが、現在は「京急電鉄」となっている。</ref>。この名残で、[[証券コード]]における業種分類では、現在でも「[[運輸業|陸運業]]」に分類されている。
ただし、東急グループ全体として見た場合には、鉄軌道事業の収益に比べて[[不動産]]事業や[[ホテル]]事業などそれ以外の収益がはるかに上回っており、連結決算で見た東急グループ全体の営業収益([[売上高]]に相当)は毎年1兆円を超える。グループ企業には、[[路線バス]]など交通、不動産開発、[[小売業]]、ホテル・[[リゾート]]などに221社8法人が名を連ねる(2017年3月末時点){{R|about-group}}。東急株式会社は、分社化以前から東急グループの事業中核会社([[事業持株会社]])=統括会社として認識されており、「東急本社」あるいは旧社名の「東京急行電鉄」に由来する「電鉄本社」と表現されることが多かった。
[[1947年]]から[[1972年]]まで、[[日本プロ野球|プロ野球]]チームの「東急(急映・東映)フライヤーズ」([[北海道日本ハムファイターズ]]の前身)を所有していた。[[1964年]]まで、映画製作・配給を手掛ける[[東映]](旧・東横映画)は東急グループの傘下であった<ref group="注釈">当時東映のオーナーだった[[大川博]]と東急側との間に溝ができ、東映側が独立した。大川の没後、東急派の[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]が東映の取締役を務めるなど、東急との関係は部分的に残った。</ref>。また、かつてグループ企業に[[日本エアシステム]](JAS、現・[[日本航空|日本航空株式会社]])があったことから、同社の株式移転などにより設立されたJALグループの持株会社である[[日本航空 (持株会社)|株式会社日本航空]]の筆頭[[株主]]だったが、2009年12月から[[2010年]]1月までに同社株を売却し、資本関係は解消している。
[[東京証券取引所]]一部上場で、[[日経平均株価|日経225(日経平均株価)]]の構成銘柄である。[[女性活躍推進]]に優れている企業を選定・発表している[[経済産業省]]と東京証券取引所との共同企画である「なでしこ銘柄」に第一回(2012年度)から6年連続で選定されている<ref>[https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinzai/diversity/nadeshiko.html 女性活躍に優れた上場企業を選定「なでしこ銘柄」] 経済産業省 2018年9月18日。6年連続選定は東急と[[KDDI]]との2社のみ。</ref>。
=== 鉄軌道事業の分割 ===
2019年3月27日に行われた取締役会において、経営体制の最適化を目的として鉄道事業の分社化を次回株主総会に諮ることを決議した<ref name="release20190327">{{PDFlink|[https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20190327-1.pdf 商号変更および定款一部変更、子会社(鉄道事業の分社化に向けた分割準備会社)の設立に関するお知らせ]}} - 東京急行電鉄、2019年3月27日</ref>。源流企業である田園都市株式会社の創立101周年の記念日<ref group="注釈">田園都市株式会社から分離し子会社となった目黒蒲田電鉄の設立日は1922年(大正11年)9月2日である。</ref>に当たる2019年9月2日に商号を「'''東急株式会社'''」に変更した。同年10月1日をもって鉄軌道事業を「'''[[東急電鉄|東急電鉄株式会社]]'''」(4月25日に「東急電鉄分割準備株式会社」として設立、9月2日付で商号変更、{{Lang-en-short|TOKYU RAILWAYS Co., Ltd.|links=no}})に分割され、鉄軌道事業においても「東京急行電鉄」の商号・呼称は用いられなくなる。なお、東急株式会社の英文社名には引き続き「{{Lang|en|TOKYU CORPORATION}}」を用いるほか、分社後の東急株式会社には直営で東急沿線を中心とした不動産事業・その他事業が残り、引き続き事業会社としての機能を有するため、他の大手私鉄の持株会社([[西武ホールディングス|西武HD]]・[[相鉄ホールディングス|相鉄HD]]・[[近鉄グループホールディングス|近鉄GHD]]・[[阪急阪神ホールディングス|阪急阪神HD]]・[[京阪ホールディングス|京阪HD]])とは違い、純然たる持ち株会社を意味する「ホールディングス」等の名称は用いないことにしている<ref name="nikkei20190327">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42980790X20C19A3TJ2000/|title=東急電鉄、社名「東急」に 9月から |newspaper=日本経済新聞 |date=2019-03-27 |accessdate=2019-03-28}}</ref>。これにより、大手私鉄で「東京」を冠するのは[[東京地下鉄]](東京メトロ)のみ、「急行」がつくのは[[京浜急行電鉄]](京急・京急電鉄)のみとなった<ref group="注釈">かつては[[京阪神急行電鉄]](阪急)も該当、[[準大手私鉄|準大手]]含むと[[北大阪急行電鉄]](北急・北大阪急行)も該当。</ref>。
== 東急と五島家 ==
{{See also|五島慶太}}
1943年に東京急行電鉄が刊行した『東京横浜電鉄沿革史』によると、東急の“創設者”は東急の母体企業“田園都市創設者”という表現で[[渋沢栄一]]となっている<ref name="東京急行電鉄株式会社総務部文書課 1943">{{harvnb|東京急行電鉄株式会社総務部文書課|1943}} 口絵より</ref>。また、渋沢の子である[[渋沢秀雄]]も[[田園都市 (企業)|田園都市株式会社]]の取締役支配人、及び東急電鉄の常任監査役などをつとめていた。
しかし、東急の事実上の“創業者”は[[五島慶太]]と認識されている。これは、東急の源流企業である田園都市株式会社を実質的に経営していた[[小林一三]](現在の[[阪急電鉄]]の創業者)がその子会社である[[目黒蒲田電鉄]]に、当時、[[鉄道省]]の高級官吏であった五島慶太を経営陣に招聘し、それ以降、五島慶太を中心に、同社が[[東京横浜電鉄]]、東京急行電鉄と変遷し、現在の[[東急グループ]]が形成されたからである。
とは言え、[[東武鉄道]]の根津家([[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]])や[[西武鉄道]]の堤家([[堤康次郎]])<ref>『堤義明 闇の帝国 西武グループの総帥はいかにして失墜したか』七尾和晃、光文社、2005年(平成17年)2月10日</ref><ref group="注釈">堤家は、国土計画(後の[[コクド]]、株式非上場、2006年[[プリンスホテル]]に吸収合併され解散)を名義株(株式の虚偽記載)により支配し相続税を払わず、そのコクドの子会社であった西武鉄道の株の過半数を、これも名義株を使い実効支配することにより[[西武グループ|西武鉄道グループ]]を私物化していた。<br />『西武事件「堤家」支配と日本社会』吉野源太郎、日本経済新聞社、2005年5月20日。<br />『西武争奪-資産2兆円をめぐる攻防』安西巧、日本経済新聞社、2006年4月20日。</ref><ref group="注釈">「コクド株や西武株を信頼出来る人々に、分散して持たせておいて、後で[[堤義明|義明]]の元に全部戻してもらったのであった」「堤康次郎は選挙に金を注ぎ込まなければならないと考えた。陸運局の公聴会を利用して、選挙民を動員して公聴会に連れて行き、その謝礼という名目で金を渡した」株式の名義株(虚偽記載)の方法や選挙における買収の方法が西武の専属弁護士によって具体的に書かれている。 - 中島忠三郎『西武王国–その炎と影』サンデー社、2004年12月10日</ref> とは異なり、五島は資本による会社支配は行わなかった<ref group="注釈">五島は資本による会社支配は行わなかったため、[[ファミリー企業]](同族経営企業)ではなかったが、[[池上電気鉄道|池上電鉄]]、[[東急玉川線|玉川電鉄]]、[[京浜急行電鉄|京浜電鉄]]、[[京王電鉄|京王電軌]]などの会社を、あたかも札束(資本)をもって白昼強盗を働くように買収し「強盗慶太」と異名を頂戴した。 - 『私の履歴書』第一集 P20、[[日本経済新聞社]]1957年2月10日</ref>。つまり五島家の東急の持株比率は低く、個人株主では[[国際興業]]の[[小佐野賢治]]が筆頭であった。また、五島慶太の後継者[[五島昇]]も資本による会社支配を行わなかったことから、五島慶太・昇父子の経営者としての手腕や、[[人格|パーソナリティ]]でグループが結束を保ってきた歴史を有する。五島昇の後継者として目された昇の長男[[五島哲]]は、[[本田技研工業]]を経て東急取締役に就任し、[[東急建設]]社長を務めたが、五島昇に望まれながらも東急本社の社長には就任せずに他界した。現在、東急グループの経営陣に五島家出身者はいない。
== 社紋 ==
現在の社紋は[[目黒蒲田電鉄]]時代から数えて4代目、東京急行電鉄時代から数えて2代目にあたる。[[大東急]]が成立した1943年(昭和17年)5月1日に制定された先代社紋は[[杉浦非水]]による考案で、中央には鉄道を表すレールの断面を、会社の飛躍を表す羽根をその両側に配置し、羽根が束縛を意味する円を突き破る姿は会社の更なる発展を意味している<ref name=symbol>{{Cite web|和書|date=2014-08|url=http://www.jametro.or.jp/upload/subway/nxJMjuzWPKRK.pdf|author=東京急行電鉄|title=東急電鉄のシンボルマーク|work=SUBWAY 日本地下鉄協会報 第202号|format=PDF|publisher=[[日本地下鉄協会]]|accessdate=2018-10-06|pages=51-52}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=京浜急行電鉄株式会社社史編集班(編)|year=1980|title=京浜急行八十年史|publisher=京浜急行電鉄|page=293}}</ref>。
現在の社紋は創立50周年を記念して1973年(昭和48年)5月に制定された。中央の楕円は地球を、白抜きの逆三角形は東急の「T」の図案化であるとともに「三角錐体論」による三角錐体の俯瞰図を表し、その先端部が楕円の円周に接することで事業網が各地に拡大していく様を表現している。下部にある3本の弓状の弧は楕円を含めて三角錘体論の構成要素である東急グループの交通・開発・流通・健康産業の4部門を指し、外側に向かって広がっていく形はグループの成長、拡大、発展を表している<ref name=symbol/>。
この社紋は東急グループの統一マークとしての側面もあり、上部の文字を「TOKYU CORPORATION」とする東急株式会社社紋の他にもグループ各社の英名を組み込んだバリエーションがある。また、それら各社社紋の他に文字を「TOKYU GROUP」としたグループ統一マークがある<ref name=symbol/>。
<gallery>
TKK logomark.svg|社紋(先代)<br />(1943年5月 - 1973年4月)
TokyuLogotype.svg|社紋(現行)
Tokyu Group Logo.svg|グループ統一マーク
TokyuLandLogotype.svg|グループ会社の例 - 東急不動産
IzukyuLogotype.svg|グループ会社の例 - 伊豆急行
</gallery>
== 沿革 ==
2019年の再編までの歴史の詳細については[[東急電鉄#歴史]]を参照
* [[1918年]]([[大正]]7年)[[9月2日]] '''[[田園都市 (企業)|田園都市株式会社]]'''設立。
* [[1922年]](大正11年)
** 9月2日 田園都市株式会社の鉄道部門を分離独立させ'''[[目黒蒲田電鉄]]'''設立。
** 10月2日 [[五島慶太]]が目黒蒲田電鉄の専務取締役に就任。
* [[1924年]](大正13年)[[10月25日]] 武蔵電気鉄道が社名変更し(旧)'''[[東京横浜電鉄]]'''発足。
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[5月5日]] 目黒蒲田電鉄が田園都市株式会社を合併。
* [[1934年]](昭和9年)[[10月1日]] 目黒蒲田電鉄が[[池上電気鉄道]]を合併。
** 11月1日 (旧)東京横浜電鉄、[[東急百貨店東横店|東横百貨店]]を開業。
* [[1936年]](昭和11年)[[12月24日]] 五島慶太が電鉄両社の取締役社長に就任。
* [[1937年]](昭和12年)[[12月1日]] 目黒自動車運輸および芝浦自動車を合併。
* [[1938年]](昭和13年)[[4月1日]](旧) 東京横浜電鉄が[[玉川電気鉄道]]を合併。
* [[1939年]](昭和14年)
** 10月1日 目黒蒲田電鉄が(旧)東京横浜電鉄を吸収合併。
** [[10月16日]] 目黒蒲田電鉄が(新)'''東京横浜電鉄'''に商号変更。
* [[1942年]](昭和17年)[[5月1日]] [[京浜急行電鉄|京浜電気鉄道]]および、[[小田急電鉄]]を合併、(旧)'''東京急行電鉄'''に商号変更。
* [[1944年]](昭和19年)
** [[2月19日]] 五島慶太が[[運輸通信省 (日本)|運輸通信大臣]]<!--リダイレクト修正-->就任に伴い、社長を辞任。
** [[5月31日]] [[京王電鉄|京王電気軌道]]を合併。
* [[1948年]](昭和23年)
** 5月1日 会社再編成に伴い百貨店業を分離、東横百貨店(現:東急百貨店)を設立。
** [[6月1日]] 会社再編成により京浜急行電鉄(品川、横浜支社)、小田急電鉄(新宿支社)、京王帝都電鉄(京王支社、後の京王電鉄)を設立。渋谷支社と目黒支社が残留し再編後の東京急行電鉄を形成。
* [[1973年]](昭和48年)
** 5月1日 現行の社章が制定される。この社章色にちなみ、以後の新車も[[赤]]をシンボルカラーに採用。
** 11月1日 [[東急ホテルズ|イン事業]]の直営第1号店として京都東急インを開業。
* [[1980年]](昭和55年)9月2日 各地域における[[東急グループ]]の組織である「東急会」の再編および「東急会連合会」の発足。
* [[1991年]]([[平成]]3年)
** 5月21日 [[東急バス]]を設立。
** 10月1日 自動車事業を分離独立、東急バスが営業開始。
* [[1992年]](平成4年)[[7月14日]] 東急[[南平台町]]ビル(現:本社ビル)が竣工。
* [[1990年]](平成2年)[[3月16日]] 五島記念文化財団を設立。
* [[1995年]](平成7年)12月31日 第1回[[東急ジルベスターコンサート]]をBunkamura[[オーチャードホール]]で開催。
* [[1998年]](平成10年)7月1日 環境活動を全社的な統一テーマとして取り組むために、環境活動推進委員会を設置。
* [[2000年]](平成12年)[[1月7日]] [[東急百貨店日本橋店]]跡地(1999年1月閉店)の再開発計画の促進を東京急行、[[三井不動産]]で合意。
* [[2002年]](平成14年)[[1月4日]] 東急グループ[[企業コンプライアンス|コンプライアンス]]指針を制定。
* [[2003年]](平成15年)
** 4月1日
*** 事業[[持株会社]]化に向けた機構改革を実施、事業部門を鉄道事業、都市生活事業の2本部体制に。
*** ホテル事業を東急ホテルチェーンに営業譲渡。
** 10月1日 東急建設が建設事業と不動産事業に会社を分割、建設事業を継承するTCホールディングスが商号を東急建設に変更し、東証一部に再上場。
* [[2018年]](平成30年)3月27日 渋谷地区での[[駅ビル]]更新など鉄道沿線開発に重点を置く中期経営計画(2018-2020年度)を発表<ref>[https://www.tokyu.co.jp/ir/manage/midplan.html 新中期経営計画]東京急行電鉄(2018年3月31日閲覧)</ref><ref>「沿線開発で25%増益狙う/東急、駅ビル更新軸に/3カ年計画」『[[日経産業新聞]]』2018年3月28日(総合面)</ref>。
* [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年)
** 4月25日 会社分割([[#鉄軌道事業の分割]]を参照)に備え、「東急電鉄分割準備株式会社」を設立<ref name="TK190327">[https://toyokeizai.net/articles/-/273518 東急電鉄が社名変更、電鉄を外して「東急」だけ](東洋経済オンライン、2019年3月27日)</ref>。
** 5月8日 駅の自動券売機で現金が引き出せる[[キャッシュアウト]]サービスを開始<ref>{{Cite press release|和書|format=PDF|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20190424-1.pdf|title=日本初!スマートフォンを活用した駅における銀行預貯金引き出しサービス 5月8日(水)から、東急線各駅の券売機でキャッシュアウト・サービスを開始!|publisher=東京急行電鉄|date=2019-04-24|accessdate=2019-05-07}}</ref>。
** 5月20日 [[松竹ブロードキャスティング]]と合弁で[[BSデジタル放送]]の新規参入を開始。
** 9月2日 商号を「東急株式会社」に変更<ref name="TK190327"/>。東急電鉄分割準備株式会社は商号を「東急電鉄株式会社」に変更<ref name="release20190327"/><ref name="TK190327"/>。
** 10月1日 東急電鉄株式会社に東急株式会社の鉄軌道事業を吸収分割する[[会社分割]]を行い、東急電鉄株式会社の本社を渋谷区[[神泉町]]の[[渋谷ファーストプレイス]]に移転。
* [[2020年]](令和2年)
** 7月22日 松竹ブロードキャスティングとの合弁会社「[[BS松竹東急]]株式会社」を設立<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000480.000010686.html|title=2021年度、新たなBS放送局を開局 松竹と東急が「BS松竹東急株式会社」を設立します |accessdate=2020年7月22日|publisher=東急}}</ref>(比率は松竹ブロードキャスティングが60%、当社が40%)。
* [[2022年]](令和4年)
** 3月26日 「'''BS松竹東急'''」がBSデジタル放送開始<ref>{{Cite web|和書|title=BS松竹東急が2022年3月26日に開局、チャンネル番号やロゴを発表|url=https://natalie.mu/stage/news/460634|website=ステージナタリー|accessdate=2022-01-06|date=2022-01-06}}</ref>。
** 4月15日に公開された東宝の映画「[[名探偵コナン ハロウィンの花嫁]]」の特別協力として携わる。渋谷が舞台であり、渋谷区も特別協力
=== 歴代経営陣 ===
{|class="wikitable"
|+style="text-align:left"|歴代社長
|-
!代!!style="width:6em"|氏名!!在任期間!!出身校!!備考
|-
|style="text-align:center"|初||竹田政智||1922年10月2日 - 1923年6月27日|| ||創業者[[渋沢栄一]]の四男[[渋沢秀雄]]の義父、東京造園社長、[[農商務省 (日本)|農商務省]]出身
|-
|style="text-align:center"|2||市原求||1923年6月27日 - 1927年3月20日|| ||
|-
|style="text-align:center"|3||[[矢野恒太]]||1927年4月14日 - 1928年5月7日||[[第三高等学校 (旧制)|第三高等中学校]]医科<ref group="注釈">後の岡山医専、現・[[岡山大学]]医学部</ref>||[[第一生命]]創業者、[[田園都市 (企業)|田園都市株式会社]]大株主、現在でも第一生命が東急(株)の筆頭株主
|-
| ||(空席)|| style="white-space:nowrap" |1928年5月8日 - 1936年12月23日|| ||この間取締役社長は空席、五島慶太が事実上の経営者
|-
|style="text-align:center"|4||[[五島慶太]]||1936年12月24日 - 1944年2月19日||[[東京帝国大学法学部]]||[[鉄道省]]出身、[[運輸通信省 (日本)|運輸通信大臣]]([[東條内閣]])
|-
|style="text-align:center"|5||篠原三千郎||1944年2月21日 - 1945年3月12日||東京帝国大学法学部<ref group="注釈">東京帝国大学法学部独法を首席卒業、五島慶太の同級生でもあった。同期で仏法を首席卒業した[[芦田均]]は後の総理大臣。</ref>||田園都市株式会社大株主[[服部金太郎]]の女婿
|-
|style="text-align:center"|6||[[平山孝]]||1945年3月12日 - 1945年8月20日||東京帝国大学||鉄道省総務局長
|-
|style="text-align:center"|7||小宮次郎||1945年8月20日 - 1946年3月1日|| ||
|-
|style="text-align:center"|8||[[小林中]]||1946年3月1日 - 1947年10月16日||[[早稲田大学政治経済学部]]中退||[[富国生命]]社長
|-
|style="text-align:center"|9||井田正一||1947年10月16日 - 1948年12月27日||東京帝国大学法学部{{sfn|人事興信所|1948|loc=イ3頁|ref=jinji-15-jo}}||京浜電気鉄道出身、[[京浜急行電鉄]]社長
|-
|style="text-align:center"|10||鈴木幸七||1948年12月27日 - 1954年5月6日|| ||
|-
|style="text-align:center"|11||[[五島昇]]||1954年5月6日 - 1987年12月25日||[[東京帝国大学経済学部]]||[[東芝]]、[[日本商工会議所]]会頭
|-
|style="text-align:center"|12||[[横田二郎]]|| style="white-space:nowrap" |1987年12月25日 - 1995年4月28日|| style="white-space:nowrap" |[[東京帝国大学工学部]](電気)||
|-
|style="text-align:center"|13||[[清水仁 (実業家)|清水仁]]||1995年4月28日 - 2001年6月28日||[[一橋大学経済学部]]||
|-
|style="text-align:center"|14||[[上條清文]]||2001年6月28日 - 2005年6月29日||[[早稲田大学政治経済学部]]||
|-
|style="text-align:center"|15||[[越村敏昭]]||2005年6月29日 - 2011年4月1日||[[早稲田大学法学部]]||
|-
|style="text-align:center"|16||[[野本弘文]]||2011年4月1日 - 2018年4月1日||[[早稲田大学理工学部]](土木)||[[東急不動産]]、[[イッツ・コミュニケーションズ]](旧東急ケーブルテレビジョン)元社長
|-
|style="text-align:center"|17||[[髙橋和夫 (実業家)|髙橋和夫]]||2018年4月1日 - 2023年6月29日||[[一橋大学法学部]]||
|-
|18
|堀江正博
|2023年6月29日 - 現職
|慶應義塾大学法学部
|
|}
※出身校の空欄は最終在籍大学不明。
== 住宅開発事業 ==
{{See also|東急不動産}}
東急沿線での住宅開発は主に東急不動産が担っている。東急沿線のみならず、沿線外の地域でも住宅開発を行っている。
主な自社開発ブランド
* マンション「DRESSER(ドレッセ)」
** 一棟まるごとリノベーションマンション「DRESSER Reno(ドレッセリノ)」
* 一戸建て住宅「NEUE(ノイエ)」
* 賃貸住宅「STYLEO(スタイリオ)」
* シニア向け住宅「Wellna(ウェリナ)」、「Wellna Care(ウェリナケア)」
東急沿線
* [[多摩田園都市]]
** ジェネヒルあざみ野(横浜市青葉区荏子田・すすき野地区、2003年から)
** イデアリーナ(横浜市[[青葉区 (横浜市)|青葉区]][[あざみ野南]]地区、2007年から)
** ノイエあざみ野(2008年から)
** ノイエたまプラーザ(2008年から)
東急沿線外
* 湘南めぐみが丘(神奈川県[[平塚市]])
* 東急二俣川ニュータウン(神奈川県[[横浜市]])
* 小郡・筑紫野ニュータウン([[福岡県]]、美しが丘プレステージアベニューで[[都市景観大賞]]受賞)
* 千福ニュータウン([[静岡県]][[裾野市]])
== 主要グループ企業 ==
{{See|東急グループ}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|}}
== 参考文献 ==
* {{cite|url=https://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/53.html|title="渋沢栄一伝記資料" 第53巻 目次詳細 第13節 土木・築港・土地会社 第3款 田園都市株式会社|publisher=渋沢栄一記念財団|accessdate=2015-12-01|ref=shibusawa53}}
* {{Cite book|和書|editor= 東京急行電鉄株式会社総務部文書課|title= 東京横濱電鐵沿革史|date= 1943-03|publisher= 東京急行電鉄|location= |url= {{NDLDC|1124913}}|ref = harv}}
* {{Citation|和書|author = 人事興信所 編|authorlink = | translator = | title = 人事興信録 第15版 上| publisher = 人事興信所| series = | volume = | edition = | date = 1948| pages = | url = {{NDLDC|2997934}}| doi = | id = | isbn = | ncid = |ref = jinji-15-jo}}
* {{Cite book|和書|editor= 東京急行電鐵株式會社|title= 東京急行三十年の歩み|date= 1952-10|publisher= 東京急行電鉄|location= |ref = harv}}
* {{Cite book|和書|editor= 東京急行電鉄株式会社社史編纂事務局|title= 東京急行電鉄50年史|date= 1973-04|publisher= 東京急行電鉄|location= |ref = harv}}
* {{Cite book|和書|editor= 東京急行電鉄(株)田園都市事業部|title= 多摩田園都市 : 開発35年の記録|date= 1988-10|publisher= 東京急行電鉄|location= |ref = harv}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道事業者一覧]]
* [[山田宏臣]] - [[陸上競技]]選手、東京急行電鉄社員でもあった。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Tokyu Corporation}}
{{Multimedia|東急電鉄の画像}}
* {{Official website|https://www.tokyu.co.jp/index.html}}
* {{Instagram|tokyu_corporation}}
{{東急グループ}}
{{グローバル・コンパクト・ジャパン・ネットワーク会員}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:とうきゆう}}
[[Category:東急電鉄|*とうきようきゆうこうてんてつ]]
[[Category:東急グループ|*とうきようきゆうこうてんてつ]]
[[Category:事業持株会社]]
[[Category:渋谷区の企業]]
[[Category:東証プライム上場企業]]
[[Category:1949年上場の企業]]
[[Category:多摩田園都市]]
[[Category:東映フライヤーズ]]
[[Category:日経平均株価]]
[[Category:1922年設立の企業]]
[[Category:グローリア賞]]
[[Category:渋谷]]
[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]] | 2003-03-13T05:24:31Z | 2023-12-10T16:23:11Z | false | false | false | [
"Template:Harvnb",
"Template:Cite press release",
"Template:Instagram",
"Template:基礎情報 会社",
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"Template:See also",
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"Template:東急グループ",
"Template:グローバル・コンパクト・ジャパン・ネットワーク会員",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A5 |
3,923 | 鉄道事業者 | 鉄道事業者(てつどうじぎょうしゃ、英語: railway operator)は、日本の鉄道事業法において鉄道事業の許可を受けた者をいう(鉄道事業法第7条)。国土交通省が所管する法律には鉄道事業法のほかに軌道法がある。鉄道事業法上の鉄道事業者と軌道法上の軌道経営者を総称して「鉄軌道事業者」という。
鉄道事業法では、鉄道事業を経営しようとする者は、国土交通大臣の許可を受けることとされている(鉄道事業法第3条)。鉄道事業の許可は、事業者単位ではなく、路線及び鉄道事業の種別単位ごとに行われる。
鉄道事業法上の鉄道と軌道法上の軌道では敷設位置に違いがあり(軌道は道路に敷設されるのに対し、鉄道は原則として道路には敷設できない)、車両長や速度制限にも大きな違いがある。ただし、鉄道・軌道の両路線を兼営していて鉄道事業法上の鉄道事業者と軌道法上の軌道経営者の双方にあたる事業者も多い。また、新交通システムのように同一の路線に鉄道事業法上の適用区間と軌道法上の適用区間が混在しているケースもある。軌道法による軌道経営者については「軌道法」を参照。
鉄道事業法第2条により、第一種鉄道事業(上下一体方式)、第二種鉄道事業(上下分離方式で運送・経営のみ)、第三種鉄道事業(上下分離方式で施設の整備・保有のみ)に分けられる。
鉄道による旅客または貨物の運送(列車の運行)を行う事業であるもの。
鉄道施設一式を保有するとともに列車の運行も行う。ほとんどの鉄道事業者が該当する。
なお、鉄道事業法第59条第1項の規定により鉄道建設・運輸施設整備支援機構と日本高速道路保有・債務返済機構が行う第三種鉄道事業に該当する業務については、同法の規定が適用除外されており、これらから鉄道施設を借り受けて列車の運行を行う事業は、第一種鉄道事業とみなされる(鉄道事業法第59条第2項)ことになっている。
自らが敷設した鉄道線路以外の、(第一種や第三種鉄道事業者が保有する)鉄道線路を使用(借用)して、旅客または貨物の運送を行う事業である。
ただし、他事業者線への直通運転や、運転業務の受託など、他事業者の線路に列車を走らせていても自らの営業路線として運賃を収受しないものは第二種鉄道事業ではない。
第二種鉄道事業者の路線のうち、施設保有事業者が第一種鉄道事業者であるのは以下の例がある。施設保有事業者が第三種鉄道事業者の例は第三種鉄道事業者の節の表を参照。
鉄道線路を第一種鉄道事業を経営する者に譲渡する目的をもって敷設する事業、及び鉄道線路を敷設して該当鉄道線路を第二種鉄道事業を経営する者に専ら使用させる事業。
北総線の小室以東の千葉ニュータウン鉄道や神戸高速鉄道のほか、新線建設の際に鉄道施設の建設・保有を行う第三種鉄道事業者として設立される事業者が該当する。後者の例としてはJR東西線の施設を保有する関西高速鉄道や、既設貨物線を旅客線化した区間を含むおおさか東線の施設を保有する大阪外環状鉄道があり、この2例は実際の運行を行うJR西日本が第二種鉄道事業者である。
神戸高速鉄道は鉄道事業法成立以前から施設のみ保有する形で阪急電鉄・阪神電気鉄道・山陽電気鉄道・神戸電鉄が乗り入れてくる形を取っていた。同法成立以後は神戸高速鉄道が第三種鉄道事業者、乗り入れ各社が重複して第二種鉄道事業者となっていたが、後に整理されて山陽は全線の、阪急は新開地以西の第二種事業を廃止している。駅営業は神戸高速鉄道が逆委託される形で行っていたが、これも整理以後阪急レールウェイサービスへの委託となった。神戸高速鉄道はこのほか北神線を北神急行電鉄から譲渡されて各々第三種・第二種鉄道事業者となっていた(北神線は2020年6月に神戸市交通局に譲渡され神戸市営地下鉄北神線となった)。
上下分離方式を取るに当たって地方自治体が第三種鉄道事業者としてインフラを保有する事例もある。
鉄道事業の許可を受けようとする者は、予定する路線、経営しようとする鉄道事業の種別(第一種鉄道事業、第二種鉄道事業、第三種鉄道事業)、事業基本計画等の必要な申請書を国土交通大臣に提出しなければならない(鉄道事業法4条)。
なお、第三種鉄道事業の許可は、当該事業により敷設される鉄道線路に係る第一種鉄道事業又は第二種鉄道事業の許可と同時に行われる(鉄道事業法5条3項)。
国土交通大臣は、鉄道事業の許可をしようとするときに、次の基準に適合するかどうかを審査する(鉄道事業法5条1項)。
景観の鑑賞、遊戯施設への移動その他の観光の目的を有する旅客の運送を専ら行うもの。
鉄道事業法第5条第2項で「特定の目的を有する旅客の運送を行うもの」として規定されている鉄道事業で、具体的には鉄道事業法施行規則第6条の2に規定されている。遊園地への客の送迎のための鉄道など、公共性の低いものについてより簡略化された手続きで鉄道事業が行えるようにしたものである。通常の鉄道事業の許可権限は国土交通大臣にあるが、特定目的鉄道事業については地方運輸局長に委任される。
2000年3月の鉄道事業法改正によって新設された区分である。最初の適用例は、2005年に2005年日本国際博覧会の会場内で運行された2005年日本国際博覧会協会愛・地球博線である。しかし、これは経営期間が博覧会の会期中に限定されたIMTSによる路線であった。
2009年4月26日、福岡県北九州市の門司港レトロ地区内の門司港 - 和布刈公園間で平成筑豊鉄道が第二種鉄道事業者、北九州市が第三種鉄道事業者として運行する門司港レトロ観光線(やまぎんレトロライン)がこの区分の適用を受ける初の普通鉄道の路線・常設路線として開業した。
このほかに1997年に廃止された信越本線横川 - 軽井沢間(碓氷峠)の一部で、「園内遊具」として鉄道車両を運行させている碓氷峠交流記念財団が、横川 - 軽井沢間の全区間について特定目的鉄道事業の申請を予定している(詳しくは「碓氷峠」・「碓氷峠鉄道文化むら」を参照)。
なお、これらと同様に観光目的でトロッコ列車を運行している嵯峨野観光鉄道、黒部峡谷鉄道は開業時点で特定目的鉄道という概念がなかったこともあり、それぞれ単なる第二種鉄道事業者、第一種鉄道事業者であり、特定目的鉄道事業者ではない。なお、黒部峡谷鉄道は親会社である関西電力が資材輸送のために敷設した専用鉄道を起源としており、現在もなおその使命を有している。
日本の鉄道事業者は民間資本による私企業のほか、公営企業、特殊法人、第三セクター、宗教法人、財団法人、社団法人がある。現在は個人事業、有限会社、合名会社、合資会社、合同会社はない。
鉄道事業者の経営形態は以下のとおり区分される(以下には軌道経営者の許可も受けている事業者を含む。また、便宜的に軌道経営者の許可のみを受けている事業者を含む)。
日本の鉄道事業者のほとんどが株式会社であり、このうち25社が株式公開(上場)をしている。なお、大手鉄道事業者がその系列鉄道事業者の株式を保有し子会社化している例は多く、完全子会社化しているケースと、そうではなく一定比率の株式を有しているにすぎない場合に分かれる。
地方公営企業(交通局。公営交通の一形態)、あるいは地方公共団体が直接経営する企業形態で、次の19事業者がある。
戦後、鉄軌道事業を行っていたものの、現在では廃止した公営事業者は
大都市(政令指定都市)の地下鉄が公営企業によって経営されているのは、地下高速鉄道整備事業費補助制度に基づく地下鉄建設費の補助金が、原則として地方公共団体及び旧営団だけに支給されたためである。
現在、鉄道(軌道)事業を行う事業者に「独立行政法人等登記令(旧特殊法人登記令)」の別表に掲げる法人に含まれる狭義の特殊法人は存在しないが、新設・目的の変更・廃止が総務省による審査の対象となる広義の特殊法人に次の特殊会社(株式会社)が含まれる。
過去に鉄道(軌道)事業を行っていた次の特殊法人があった。
次のJR3社は、改正JR会社法公布前日の2001年6月21日まで特殊会社であった。
また、JR九州は、改正JR会社法公布前日の2016年3月31日まで特殊会社であった。
なお、過去に期間限定免許を受け、鉄道(軌道)事業を行った次の博覧会協会も、財団法人である。
過去に以下の経営形態で鉄道(軌道)事業を行っていた事業者があった。
このほか、昭和初期(1920年代)までの時代には、個人経営(人車軌道など)、合名会社、合資会社、協同組合(協業組合)の小規模な鉄道事業者も存在した。
1987年3月31日まで、法的に国鉄と私鉄という二つの区分が存在した。国鉄は、日本国有鉄道法に基づき公社としての日本国有鉄道が経営した鉄道である。これに対し地方鉄道法または軌道法に基づき民間企業および公営企業が経営した国鉄以外の鉄道・軌道を私鉄(または民鉄)と呼び、私鉄の路線は会社線(社線)と呼んだ。
国鉄の分割民営化により、すべての鉄道事業者が鉄道事業法および軌道法に管轄されることになった。JR(グループ)は一般的には私鉄(民鉄)とは呼ばないが、JR東日本・西日本・東海・九州に関しては完全民営化された「民間企業」のため、実際は私鉄(民鉄)の一種であるといえる。また、それ以外のJRグループ各社は「公私合同企業」である。「会社線」という呼称についても、JRの乗車券に例えば「東日本会社線」のように書かれてはいるものの、今でも単に「会社線」「社線」と呼ぶ場合は、JR以外の路線をさして使われる場合が多い。
旧国鉄の特定地方交通線の転換または整備新幹線開業に際して経営分離された並行在来線の受け皿として、また日本鉄道建設公団(現・鉄道建設・運輸施設整備支援機構)の地方AB線(地方開発線・地方幹線)の経営主体として設立された第三セクターの鉄道事業者についても、地図記号では私鉄とされているなど、一般的には私鉄に含まれる。ただし、別途第三セクターとして別の区分をすることもある。これは、営業路線の歴史的区分によるものであり、例外もあるが、時刻表でもJR路線の関連ページに記載されていることが多い。ただし、同じ第三セクターの鉄道事業者でも、旧国鉄からの転換あるいは継承ではない鉄道会社、例えば、大都市圏の新交通システムやモノレール各社、臨海工業地帯の貨物鉄道(臨海鉄道)会社、大都市周辺の都市開発に伴う通勤新線を敷設するために設立された北総鉄道・愛知高速交通・北大阪急行電鉄などの鉄道会社、万葉線・えちぜん鉄道の元々の私鉄路線を引き継いだ鉄道会社などは、この区分によらず私鉄として扱われることが多い。
この他にも、国や都道府県・市町村が出資していて形式的には第三セクターだが、実際には民営とされる事業者も存在する。
なお、JR及び旧国鉄線を引き継いだ第三セクター各社は青い森鉄道を除き、ほとんどの民営鉄道会社が加盟する社団法人日本民営鉄道協会に加盟していない。ただし入会は任意であり、旧国鉄線やJR線を引き継いだ鉄道会社も入会は可能である。
地図記号では国鉄線と私鉄線で区分されていたが、現在でも「JR」と「JR以外の鉄道」(第三セクター鉄道を含む)で分けられている。
JRを除く私鉄についても、日本民営鉄道協会(民鉄協)に加盟する大規模な鉄道事業者を大手私鉄(大手民鉄)と呼び、他の私鉄会社とは区別している。現在は東京地下鉄(東京メトロ)を含めた16社を指す。帝都高速度交通営団の民営化による東京地下鉄発足前は、国土交通省鉄道局などの統計資料などでは帝都高速度交通営団を除いた15社を大手私鉄としていた(ただし、帝都高速度交通営団は民鉄協に加盟していた)。
大手私鉄を除く私鉄は中小私鉄(中小民鉄)と呼ばれる。このうち、中小私鉄の中でも規模の大きい私鉄を準大手私鉄(準大手民鉄)と呼ぶことがある。準大手私鉄の明確な定義はないが、現在は5社が準大手私鉄とされている。準大手私鉄と中小私鉄については、地方私鉄(地方民鉄)と定義され、この中で都市近郊の大都市高速鉄道と地方旅客鉄道の2つに分類される場合もある。
大手私鉄の承認は業界団体である民鉄協が行っており、協会非加盟の鉄道事業者は事業規模の多寡にかかわらず「大手私鉄」とはみなされない。
これらの区分は労働争議の過程で特定事業者を「大手」と呼んだことに端を発している。そのため「中小私鉄」とされる事業者は必ずしも中小企業とはいえず、大企業に分類される事業者でも中小私鉄とされる場合がある。一例を挙げると、首都圏新都市鉄道(つくばエクスプレス)や大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) は、国土交通省の資料(2021年4月)では2社とも中小民鉄(中小私鉄)に区分されている。この2社は民鉄協に加盟しておらず、大手私鉄となる要件を満たしていない。
また、大手私鉄・準大手私鉄という場合、企業自体やグループの規模だけでなく、鉄道事業の規模が占める割合が重視される。一例として、静岡県の遠州鉄道や静岡鉄道、山梨県の富士急行などは連結売上高は高いものの、グループ全体の利益に占める鉄道事業の割合は低い。こうした鉄道事業者は準大手私鉄とはみなされていない。
鉄道事業者の中には、大井川鐵道、真岡鐵道、和歌山電鐵など、あえて旧字体・異体字の「鐵」を用いて表記する例が見られる。これは「鉄」の漢字が「金を失う」と書くため、縁起が悪いからだといわれる。また名古屋電氣銕道など、古字である「銕」を用いた事業者もあった。
現在四国旅客鉄道(JR四国)を除くJR各社では、ロゴにおいて「鉄」のつくりの部分を「失」から「矢」にした「鉃」を用いて、「鉃道」と表記している。これは「金が矢のように集まる」よう願ったためや、当時の日本国有鉄道の赤字経営を見て「金を失うことを避けないとつぶれる」からという理由があったとされる。かつては近畿日本鉄道(近鉄)や、そのグループ企業でも同様の字を使用していた。
しかし「鉃道」の字を見たこどもがそれに影響されて誤記する可能性があることが、教育的に好ましくないという意見もある。近鉄グループが1967年に使用を停止したのも、沿線住民からの指摘が理由である。なお本来「鉃」は矢の先端に付ける鏃(やじり)という意味の字であり、国語辞典では明治や大正に発行されたもの以外ではほぼ掲載されていない(これらの文字については、ウィクショナリーの「鉄」および「鉃」の項目も参照)。
鉄道事業者の多くが、鉄道事業だけではなく、直営あるいは子会社などで、各種の関連事業や異業種の事業を行っている。これは公共交通という性格上、鉄道事業のみでは利益を生み出しにくいためであり、特に宅地開発の不動産業と商業施設の展開は、鉄道や駅の開発とセットで行うケースが多い。日本においては、阪急電鉄の創業者小林一三が鉄道事業と不動産・流通・娯楽産業などを組み合わせたビジネスモデルを成功させ、各地の私鉄や民営化後のJR各社の手本になっている。
以下のような事例がある。中には銚子電気鉄道のぬれ煎餅製造のように、本業の赤字を埋めるために異業種に参入した例もあるが、鉄道会社というブランドが企業にとってプラスになっているため、赤字であっても鉄道事業を継続している。
※主な例
元来は鉄道事業者ではない異業種の事業者が、直営あるいは子会社などで鉄道事業を行う、もしくは経営破綻した鉄道事業者の再建支援を行っている例として以下のようなものがある。中には紀州鉄道のように「鉄道会社」というネームバリューを得るために既存の鉄道会社を買収し、自社の社名を買収会社のそれに変更したケースも存在する。
かつては、炭鉱鉄道のように鉱業会社が運営する鉄道も多かった。こうした鉄道の例として、太平洋石炭販売輸送が挙げられる。また、岩手開発鉄道、秩父鉄道、三岐鉄道は太平洋セメントが大株主であり、セメント製品及び原料の輸送を手掛けている。
鉱業会社が運営する鉱山鉄道や営林署や林業者が運営する森林鉄道、かつて北海道に存在した簡易軌道(←殖民軌道)は鉄道事業法及び前身の地方鉄道法や軌道法とは異なる法令により運営される鉄道である。したがってこれらの鉄道の運営者は法律的には鉄道事業者とは呼べない。これらの鉄道は現在では鉱業・林業の衰退、モータリゼーションの発達などにより、ほぼその役割を終えた。
かつて自衛隊では有事の際の輸送手段として国鉄の鉄道網を利用するため、陸上自衛隊に鉄道車両を運用する第101建設隊が存在したが、道路網の発達と大型輸送機の配備により解体した。海上自衛隊が呉弾薬整備補給所内での弾薬の運搬にディーゼル機関車を利用していたが 2010年頃に使用が中止され、国が運用する鉄道車両と路線が無くなった。 | [
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"text": "国鉄の分割民営化により、すべての鉄道事業者が鉄道事業法および軌道法に管轄されることになった。JR(グループ)は一般的には私鉄(民鉄)とは呼ばないが、JR東日本・西日本・東海・九州に関しては完全民営化された「民間企業」のため、実際は私鉄(民鉄)の一種であるといえる。また、それ以外のJRグループ各社は「公私合同企業」である。「会社線」という呼称についても、JRの乗車券に例えば「東日本会社線」のように書かれてはいるものの、今でも単に「会社線」「社線」と呼ぶ場合は、JR以外の路線をさして使われる場合が多い。",
"title": "鉄軌道事業者の経営形態"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "旧国鉄の特定地方交通線の転換または整備新幹線開業に際して経営分離された並行在来線の受け皿として、また日本鉄道建設公団(現・鉄道建設・運輸施設整備支援機構)の地方AB線(地方開発線・地方幹線)の経営主体として設立された第三セクターの鉄道事業者についても、地図記号では私鉄とされているなど、一般的には私鉄に含まれる。ただし、別途第三セクターとして別の区分をすることもある。これは、営業路線の歴史的区分によるものであり、例外もあるが、時刻表でもJR路線の関連ページに記載されていることが多い。ただし、同じ第三セクターの鉄道事業者でも、旧国鉄からの転換あるいは継承ではない鉄道会社、例えば、大都市圏の新交通システムやモノレール各社、臨海工業地帯の貨物鉄道(臨海鉄道)会社、大都市周辺の都市開発に伴う通勤新線を敷設するために設立された北総鉄道・愛知高速交通・北大阪急行電鉄などの鉄道会社、万葉線・えちぜん鉄道の元々の私鉄路線を引き継いだ鉄道会社などは、この区分によらず私鉄として扱われることが多い。",
"title": "鉄軌道事業者の経営形態"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "この他にも、国や都道府県・市町村が出資していて形式的には第三セクターだが、実際には民営とされる事業者も存在する。",
"title": "鉄軌道事業者の経営形態"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "なお、JR及び旧国鉄線を引き継いだ第三セクター各社は青い森鉄道を除き、ほとんどの民営鉄道会社が加盟する社団法人日本民営鉄道協会に加盟していない。ただし入会は任意であり、旧国鉄線やJR線を引き継いだ鉄道会社も入会は可能である。",
"title": "鉄軌道事業者の経営形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "地図記号では国鉄線と私鉄線で区分されていたが、現在でも「JR」と「JR以外の鉄道」(第三セクター鉄道を含む)で分けられている。",
"title": "鉄軌道事業者の経営形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "JRを除く私鉄についても、日本民営鉄道協会(民鉄協)に加盟する大規模な鉄道事業者を大手私鉄(大手民鉄)と呼び、他の私鉄会社とは区別している。現在は東京地下鉄(東京メトロ)を含めた16社を指す。帝都高速度交通営団の民営化による東京地下鉄発足前は、国土交通省鉄道局などの統計資料などでは帝都高速度交通営団を除いた15社を大手私鉄としていた(ただし、帝都高速度交通営団は民鉄協に加盟していた)。",
"title": "鉄軌道事業者の経営形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "大手私鉄を除く私鉄は中小私鉄(中小民鉄)と呼ばれる。このうち、中小私鉄の中でも規模の大きい私鉄を準大手私鉄(準大手民鉄)と呼ぶことがある。準大手私鉄の明確な定義はないが、現在は5社が準大手私鉄とされている。準大手私鉄と中小私鉄については、地方私鉄(地方民鉄)と定義され、この中で都市近郊の大都市高速鉄道と地方旅客鉄道の2つに分類される場合もある。",
"title": "鉄軌道事業者の経営形態"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "大手私鉄の承認は業界団体である民鉄協が行っており、協会非加盟の鉄道事業者は事業規模の多寡にかかわらず「大手私鉄」とはみなされない。",
"title": "鉄軌道事業者の経営形態"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "これらの区分は労働争議の過程で特定事業者を「大手」と呼んだことに端を発している。そのため「中小私鉄」とされる事業者は必ずしも中小企業とはいえず、大企業に分類される事業者でも中小私鉄とされる場合がある。一例を挙げると、首都圏新都市鉄道(つくばエクスプレス)や大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) は、国土交通省の資料(2021年4月)では2社とも中小民鉄(中小私鉄)に区分されている。この2社は民鉄協に加盟しておらず、大手私鉄となる要件を満たしていない。",
"title": "鉄軌道事業者の経営形態"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "また、大手私鉄・準大手私鉄という場合、企業自体やグループの規模だけでなく、鉄道事業の規模が占める割合が重視される。一例として、静岡県の遠州鉄道や静岡鉄道、山梨県の富士急行などは連結売上高は高いものの、グループ全体の利益に占める鉄道事業の割合は低い。こうした鉄道事業者は準大手私鉄とはみなされていない。",
"title": "鉄軌道事業者の経営形態"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "鉄道事業者の中には、大井川鐵道、真岡鐵道、和歌山電鐵など、あえて旧字体・異体字の「鐵」を用いて表記する例が見られる。これは「鉄」の漢字が「金を失う」と書くため、縁起が悪いからだといわれる。また名古屋電氣銕道など、古字である「銕」を用いた事業者もあった。",
"title": "鉄道事業者の商号の漢字表記"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "現在四国旅客鉄道(JR四国)を除くJR各社では、ロゴにおいて「鉄」のつくりの部分を「失」から「矢」にした「鉃」を用いて、「鉃道」と表記している。これは「金が矢のように集まる」よう願ったためや、当時の日本国有鉄道の赤字経営を見て「金を失うことを避けないとつぶれる」からという理由があったとされる。かつては近畿日本鉄道(近鉄)や、そのグループ企業でも同様の字を使用していた。",
"title": "鉄道事業者の商号の漢字表記"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "しかし「鉃道」の字を見たこどもがそれに影響されて誤記する可能性があることが、教育的に好ましくないという意見もある。近鉄グループが1967年に使用を停止したのも、沿線住民からの指摘が理由である。なお本来「鉃」は矢の先端に付ける鏃(やじり)という意味の字であり、国語辞典では明治や大正に発行されたもの以外ではほぼ掲載されていない(これらの文字については、ウィクショナリーの「鉄」および「鉃」の項目も参照)。",
"title": "鉄道事業者の商号の漢字表記"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "鉄道事業者の多くが、鉄道事業だけではなく、直営あるいは子会社などで、各種の関連事業や異業種の事業を行っている。これは公共交通という性格上、鉄道事業のみでは利益を生み出しにくいためであり、特に宅地開発の不動産業と商業施設の展開は、鉄道や駅の開発とセットで行うケースが多い。日本においては、阪急電鉄の創業者小林一三が鉄道事業と不動産・流通・娯楽産業などを組み合わせたビジネスモデルを成功させ、各地の私鉄や民営化後のJR各社の手本になっている。",
"title": "異業種との関係"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "以下のような事例がある。中には銚子電気鉄道のぬれ煎餅製造のように、本業の赤字を埋めるために異業種に参入した例もあるが、鉄道会社というブランドが企業にとってプラスになっているため、赤字であっても鉄道事業を継続している。",
"title": "異業種との関係"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "※主な例",
"title": "異業種との関係"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "元来は鉄道事業者ではない異業種の事業者が、直営あるいは子会社などで鉄道事業を行う、もしくは経営破綻した鉄道事業者の再建支援を行っている例として以下のようなものがある。中には紀州鉄道のように「鉄道会社」というネームバリューを得るために既存の鉄道会社を買収し、自社の社名を買収会社のそれに変更したケースも存在する。",
"title": "異業種との関係"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "かつては、炭鉱鉄道のように鉱業会社が運営する鉄道も多かった。こうした鉄道の例として、太平洋石炭販売輸送が挙げられる。また、岩手開発鉄道、秩父鉄道、三岐鉄道は太平洋セメントが大株主であり、セメント製品及び原料の輸送を手掛けている。",
"title": "異業種との関係"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "鉱業会社が運営する鉱山鉄道や営林署や林業者が運営する森林鉄道、かつて北海道に存在した簡易軌道(←殖民軌道)は鉄道事業法及び前身の地方鉄道法や軌道法とは異なる法令により運営される鉄道である。したがってこれらの鉄道の運営者は法律的には鉄道事業者とは呼べない。これらの鉄道は現在では鉱業・林業の衰退、モータリゼーションの発達などにより、ほぼその役割を終えた。",
"title": "鉄道事業法に基づかない鉄道運営者"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "かつて自衛隊では有事の際の輸送手段として国鉄の鉄道網を利用するため、陸上自衛隊に鉄道車両を運用する第101建設隊が存在したが、道路網の発達と大型輸送機の配備により解体した。海上自衛隊が呉弾薬整備補給所内での弾薬の運搬にディーゼル機関車を利用していたが 2010年頃に使用が中止され、国が運用する鉄道車両と路線が無くなった。",
"title": "鉄道事業法に基づかない鉄道運営者"
}
] | 鉄道事業者は、日本の鉄道事業法において鉄道事業の許可を受けた者をいう(鉄道事業法第7条)。国土交通省が所管する法律には鉄道事業法のほかに軌道法がある。鉄道事業法上の鉄道事業者と軌道法上の軌道経営者を総称して「鉄軌道事業者」という。 鉄道事業法では、鉄道事業を経営しようとする者は、国土交通大臣の許可を受けることとされている(鉄道事業法第3条)。鉄道事業の許可は、事業者単位ではなく、路線及び鉄道事業の種別単位ごとに行われる。 鉄道事業法上の鉄道と軌道法上の軌道では敷設位置に違いがあり(軌道は道路に敷設されるのに対し、鉄道は原則として道路には敷設できない)、車両長や速度制限にも大きな違いがある。ただし、鉄道・軌道の両路線を兼営していて鉄道事業法上の鉄道事業者と軌道法上の軌道経営者の双方にあたる事業者も多い。また、新交通システムのように同一の路線に鉄道事業法上の適用区間と軌道法上の適用区間が混在しているケースもある。軌道法による軌道経営者については「軌道法」を参照。 | {{Otheruses|日本の鉄道事業法に基づく鉄道事業者|各国の鉄道事業体|鉄道事業体}}
{{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}}
{| class="wikitable floatright" style="text-align:right; font-size:90%; margin:1em"
|+日本の鉄軌道事業者<br>(開業済。2023年4月1日現在)<ref name=OPS>{{Cite report|和書|title=鉄道事業者一覧 |publisher=国土交通省 |date=2023-04-01 |url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/tetsudo_list.html}}</ref>
|-
!colspan=2|種別 || 事業者数
|-
|{{rh}} rowspan=5| 普通鉄道 || [[JR]]旅客 || 6
|-
| [[大手私鉄|大手]]・[[準大手私鉄]] || 21
|-
| [[公営交通|公営]] || 11
|-
| 中小民鉄 || 133
|-
| [[鉄道貨物輸送|貨物鉄道]] || 10
|-
|{{rh}} colspan=2| [[日本のモノレール|モノレール]] || 9
|-
|{{rh}} colspan=2| [[新交通システム]] || 9
|-
|{{rh}} colspan=2| [[ケーブルカー|鋼索鉄道]]・[[トロリーバス|無軌条電車]] || 23
|-
|{{rh}} colspan=2| 合計 || 214
|}
'''鉄道事業者'''(てつどうじぎょうしゃ、{{Lang-en|railway operator}})は、[[日本]]の[[鉄道事業法]]において[[鉄道]]事業の許可を受けた者をいう(鉄道事業法第7条)。国土交通省が所管する法律には鉄道事業法のほかに[[軌道法]]がある<ref name="houkokusyo_8-1" />。鉄道事業法上の鉄道事業者と軌道法上の軌道経営者を総称して「'''鉄軌道事業者'''」という<ref name="OPS" />。
鉄道事業法では、鉄道事業を経営しようとする者は、[[国土交通大臣]]の[[許可]]を受けることとされている(鉄道事業法第3条)<ref name="houkokusyo_8-1">{{Cite web|和書|url= https://www8.cao.go.jp/okinawa/6/67_27houkokusyo_8-1.pdf |title= 鉄軌道に関する制度の研究 |publisher= 内閣府 |accessdate=2020-01-07}}</ref>。鉄道事業の許可は、事業者単位ではなく、路線及び鉄道事業の種別単位ごとに行われる<ref name="houkokusyo_8-1" />。
鉄道事業法上の鉄道と軌道法上の[[軌道 (鉄道)|軌道]]では敷設位置に違いがあり(軌道は道路に敷設されるのに対し、鉄道は原則として道路には敷設できない)、[[車両長]]や速度制限にも大きな違いがある<ref name="houkokusyo_8-1" />。ただし、鉄道・軌道の両路線を兼営していて鉄道事業法上の鉄道事業者と軌道法上の軌道経営者の双方にあたる事業者も多い<ref name="OPS" />。また、[[新交通システム]]のように同一の[[鉄道路線|路線]]に鉄道事業法上の適用区間と軌道法上の適用区間が混在しているケースもある<ref name="houkokusyo_8-1" />。軌道法による軌道経営者については「[[軌道法]]」を参照。
{{main2|一覧|日本の鉄道事業者一覧}}
== 鉄道事業の区分 ==
鉄道事業法第2条により、第一種鉄道事業(上下一体方式)、第二種鉄道事業(上下分離方式で運送・経営のみ)、第三種鉄道事業(上下分離方式で施設の整備・保有のみ)に分けられる<ref name="houkokusyo_8-1" />。
=== {{Anchors|第1種鉄道事業|第一種鉄道事業|第1種鉄道事業者|第一種鉄道事業者}}第一種鉄道事業 ===
[[鉄道]]による[[旅客]]または[[鉄道貨物|貨物]]の[[運送]](列車の運行)を行う事業であるもの。
鉄道施設一式を保有するとともに列車の運行も行う。ほとんどの鉄道事業者が該当する。
なお、鉄道事業法第59条第1項の規定により[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]と[[日本高速道路保有・債務返済機構]]が行う第三種鉄道事業に該当する業務については、同法の規定が適用除外されており、これらから鉄道施設を借り受けて列車の運行を行う事業は、第一種鉄道事業とみなされる(鉄道事業法第59条第2項)ことになっている。
=== {{Anchors|第2種鉄道事業|第二種鉄道事業|第2種鉄道事業者|第二種鉄道事業者}}第二種鉄道事業 ===
自らが敷設した鉄道線路以外の、(第一種や第三種鉄道事業者が保有する)鉄道線路を使用(借用)して、旅客または貨物の運送を行う事業である。
ただし、他事業者線への[[直通運転]]や、運転業務の受託など、他事業者の線路に列車を走らせていても自らの営業路線として運賃を収受しないものは第二種鉄道事業ではない。
第二種鉄道事業者の路線のうち、施設保有事業者が第一種鉄道事業者であるのは以下の例がある。施設保有事業者が第三種鉄道事業者の例は[[#第三種鉄道事業者|第三種鉄道事業者]]の節の表を参照。
<!-- 第一種鉄道事業者としての路線名は備考欄に入れています。-->
{|class="wikitable" style="font-size:85%"
|+第二種鉄道事業者(第一種鉄道事業者の線路を使用するもの。2017年4月1日現在)
!style="width:9em;"|第二種鉄道事業者!!路線名!!区間!!営業キロ!!style="width:9em;"|第一種鉄道事業者!!備考
|-
|[[日本貨物鉄道]]<br>(JR貨物)||colspan="5"|営業路線のほとんど(多くはJR旅客各社等が第一種。詳しくは「[[日本貨物鉄道]]」のページを参照)
|-
|[[京成電鉄]]||[[京成成田空港線|成田空港線]]||[[京成高砂駅]] - [[小室駅]]||style="text-align:right"|19.8 km||[[北総鉄道]]||北総鉄道[[北総鉄道北総線|北総線]]と共用。<br>小室駅 - 成田空港駅間は第三種鉄道事業者である[[千葉ニュータウン鉄道]]・[[成田高速鉄道アクセス]]・[[成田空港高速鉄道]]の線路を使用(次節の表を参照)。
|-
|[[東京都交通局]]||[[都営地下鉄三田線|三田線]]||[[白金高輪駅]] - [[目黒駅]]||style="text-align:right"|2.3 km||[[東京地下鉄]]<br>(東京メトロ)||東京メトロ[[東京メトロ南北線|南北線]]と共用。
|-
|[[東海交通事業]]||[[東海交通事業城北線|城北線]]||[[勝川駅]] - [[枇杷島駅]]||style="text-align:right"|11.2 km||[[東海旅客鉄道]]<br>(JR東海)||JR東海は列車の運行をしていない。
|-
|[[のと鉄道]]||[[のと鉄道七尾線|七尾線]]||[[七尾駅]] - [[和倉温泉駅]]||style="text-align:right"|5.1 km||[[西日本旅客鉄道]]<br>(JR西日本)||JR西日本の[[七尾線]]と共用。JR西日本はこの区間で特急列車のみ、のと鉄道は普通列車のみ運行している。<br>のと鉄道は和倉温泉駅 - 穴水駅間の第二種鉄道事業者でもあるが、同区間はJR西日本が第三種鉄道事業者。
|-
|[[嵯峨野観光鉄道]]|| style="white-space:nowrap" |[[嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線|嵯峨野観光線]]||[[トロッコ嵯峨駅]] - [[トロッコ亀岡駅]]||style="text-align:right"|7.3 km||西日本旅客鉄道<br>(JR西日本)||JR西日本としての線籍は全区間が[[山陰本線]]のままだが、JR西日本は列車を運行していない。<br>JR西日本では[[嵯峨嵐山駅]] - [[馬堀駅]]間の別線線増扱いとなっており、JR西日本の営業キロにこの区間は計上されていない。
|-
|[[井原鉄道]]||[[井原鉄道井原線|井原線]]||[[総社駅]] - [[清音駅]]||style="text-align:right"|3.4 km||西日本旅客鉄道<br>(JR西日本)||JR西日本[[伯備線]]と共用。
|-
|}
=== {{Anchors|第3種鉄道事業|第三種鉄道事業|第3種鉄道事業者|第三種鉄道事業者}}第三種鉄道事業 ===
鉄道線路を第一種鉄道事業を経営する者に譲渡する目的をもって敷設する事業、及び鉄道線路を敷設して該当鉄道線路を第二種鉄道事業を経営する者に専ら使用させる事業。
[[北総鉄道北総線|北総線]]の[[小室駅|小室]]以東の[[千葉ニュータウン鉄道]]や[[神戸高速鉄道]]のほか、新線建設の際に鉄道施設の建設・保有を行う第三種鉄道事業者として設立される事業者が該当する。後者の例としては[[JR東西線]]の施設を保有する[[関西高速鉄道]]や、既設貨物線を旅客線化した区間を含む[[おおさか東線]]の施設を保有する[[大阪外環状鉄道]]があり、この2例は実際の運行を行う[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]が第二種鉄道事業者である。
神戸高速鉄道は鉄道事業法成立以前から施設のみ保有する形で[[阪急電鉄]]・[[阪神電気鉄道]]・[[山陽電気鉄道]]・[[神戸電鉄]]が乗り入れてくる形を取っていた。同法成立以後は神戸高速鉄道が第三種鉄道事業者、乗り入れ各社が重複して第二種鉄道事業者となっていたが、後に整理されて山陽は全線の、阪急は[[新開地駅|新開地]]以西の第二種事業を廃止している。駅営業は神戸高速鉄道が逆委託される形で行っていたが、これも整理以後[[阪急レールウェイサービス]]への委託となった。神戸高速鉄道はこのほか[[神戸市営地下鉄北神線|北神線]]を[[北神急行電鉄]]から譲渡されて各々第三種・第二種鉄道事業者となっていた(北神線は2020年6月に神戸市交通局に譲渡され[[神戸市営地下鉄北神線]]となった)。
[[上下分離方式]]を取るに当たって地方自治体が第三種鉄道事業者としてインフラを保有する事例もある。
{|class="wikitable" style="font-size:85%"
|+第三種鉄道事業者とその線路を使用する第二種鉄道事業者(2023年4月1日現在)
!style="width:14em;"|第三種鉄道事業者
!style="width:10em;"|第二種鉄道事業者!!路線名!!style="width:10em;"|区間!!営業キロ
!備考
|-
|rowspan="2"|[[青森県]]
|[[青い森鉄道]]||rowspan="2"|[[青い森鉄道線]]||rowspan="2"|[[目時駅]] - [[青森駅]]||rowspan="2" style="text-align:right"|121.9 km
|rowspan="2"|
|-
|[[日本貨物鉄道]]<br>(JR貨物)
|-
|[[福島県]]
|[[東日本旅客鉄道]]<br>(JR東日本)
|[[只見線]]
|[[会津川口駅]] - [[只見駅]]
|style="text-align:right"|27.6 km
|
|-
|rowspan="2"|[[千葉ニュータウン鉄道]]
|[[北総鉄道]]||[[北総鉄道北総線|北総線]]||rowspan="2"|[[小室駅]] - [[印旛日本医大駅]]||rowspan="2" style="text-align:right"|12.5 km
|rowspan="2"|北総鉄道と京成電鉄に営業キロ重複計上<br>千葉ニュータウン鉄道も車両を所有
|-
|rowspan="4"|[[京成電鉄]]||rowspan="3"|[[京成成田空港線|成田空港線]]
|-
|[[成田高速鉄道アクセス]]
|印旛日本医大駅 - 成田空港高速鉄道線接続点||style="text-align:right"|10.7 km
|第三種鉄道事業者側の路線名は「成田高速鉄道アクセス線」
|-
|rowspan="3"|[[成田空港高速鉄道]]
|成田高速鉄道アクセス線接続点 - 成田空港駅||style="text-align:right"|8.4 km
|rowspan="2"|第三種鉄道事業者側の路線名は「成田空港高速鉄道線」<br />成田空港駅寄り1.5kmは重複
|-
|[[京成本線|本線]]||[[駒井野信号場]] - [[成田空港駅]]||style="text-align:right"|2.1 km
|-
|東日本旅客鉄道<br>(JR東日本)||[[成田線]]||JR成田線分岐点 - 成田空港駅||style="text-align:right"|8.7 km
|第三種鉄道事業者側の路線名は「成田空港高速鉄道線」
|-
|[[横浜高速鉄道]]
|[[東急電鉄]]|| style="white-space:nowrap" |[[東急こどもの国線|こどもの国線]]||[[長津田駅]] - [[こどもの国駅 (神奈川県)|こどもの国駅]]||style="text-align:right"|3.4 km
|
|-
|rowspan="2"|[[上飯田連絡線]]
|[[名古屋鉄道]]||[[名鉄小牧線|小牧線]]||[[味鋺駅]] - [[上飯田駅]]||style="text-align:right"|2.3 km
|rowspan="2"|第三種鉄道事業者側の路線名は「上飯田連絡線」
|-
|[[名古屋市交通局]]||[[名古屋市営地下鉄上飯田線|上飯田線]]||上飯田駅 - [[平安通駅]]||style="text-align:right"|0.8 km
|-
|[[中部国際空港連絡鉄道]]
|名古屋鉄道||[[名鉄空港線|空港線]]||[[常滑駅]] - [[中部国際空港駅]]||style="text-align:right"|4.2 km
|
|-
|[[西日本旅客鉄道]]<br>(JR西日本)
|[[のと鉄道]]||[[のと鉄道七尾線|七尾線]]||[[和倉温泉駅]] - [[穴水駅]]||style="text-align:right"|28.0 km
|
|-
|rowspan="2"|[[四日市市]]
|rowspan="2"|[[四日市あすなろう鉄道]]||[[四日市あすなろう鉄道内部線|内部線]]||[[近鉄四日市駅|あすなろう四日市駅]] - [[内部駅]]||style="text-align:right"|5.7 km
|
|-
|[[四日市あすなろう鉄道八王子線|八王子線]]||[[日永駅]] - [[西日野駅]]||style="text-align:right"|1.3 km
|
|-
|[[養老線管理機構]]
|[[養老鉄道]]||[[養老鉄道養老線|養老線]]||[[桑名駅]] - [[揖斐駅]]||style="text-align:right"|57.5 km
|
|-
|[[伊賀市]]
|[[伊賀鉄道]]||[[伊賀鉄道伊賀線|伊賀線]]||[[伊賀上野駅]] - [[伊賀神戸駅]]||style="text-align:right"|16.6 km
|
|-
|[[甲賀市]]
|[[信楽高原鐵道]]||[[信楽高原鐵道信楽線|信楽線]]||[[貴生川駅]] - [[信楽駅]]||style="text-align:right"|14.7 km
|
|-
|rowspan="2"|[[北近畿タンゴ鉄道]]
|rowspan="2"|[[WILLER TRAINS]]<br>(京都丹後鉄道)||[[北近畿タンゴ鉄道宮津線|宮津線]]||[[西舞鶴駅]] - [[豊岡駅 (兵庫県)|豊岡駅]]||style="text-align:right"|83.6 km
|
|-
|[[京都丹後鉄道宮福線|宮福線]]||[[宮津駅]] - [[福知山駅]]||style="text-align:right"|30.4 km
|
|-
|[[奈良生駒高速鉄道]]
|近畿日本鉄道||[[近鉄けいはんな線|けいはんな線]]||[[生駒駅]] - [[学研奈良登美ヶ丘駅]]||style="text-align:right"|8.6 km
|
|-
|rowspan="2"|[[大阪港トランスポートシステム]]
|rowspan="2"|[[大阪市高速電気軌道]]<br>(Osaka Metro)||[[Osaka Metro中央線|中央線]]||[[大阪港駅]] - [[コスモスクエア駅]]||style="text-align:right"|2.4 km
|
|-
|[[Osaka Metro南港ポートタウン線|南港ポートタウン線]]||コスモスクエア駅 - [[トレードセンター前駅]]||style="text-align:right"|0.6 km
|
|-
|[[中之島高速鉄道]]
|[[京阪電気鉄道]]||[[京阪中之島線|中之島線]]||[[天満橋駅]] - [[中之島駅]]||style="text-align:right"|3.0 km
|
|-
|[[西大阪高速鉄道]]
|[[阪神電気鉄道]]||[[阪神なんば線]]||[[西九条駅]] - [[大阪難波駅]]||style="text-align:right"|3.8 km
|第三種鉄道事業者側の路線名は「西大阪延伸線」<br />[[桜川駅 (大阪府)|桜川駅]] - 大阪難波駅間は近畿日本鉄道の乗務員が運転業務を行うが、近畿日本鉄道は第二種鉄道事業者ではない。
|-
|rowspan="2"|[[大阪外環状鉄道]]
|西日本旅客鉄道<br>(JR西日本)||rowspan="2"|[[おおさか東線]]||[[新大阪駅]] - [[久宝寺駅]]|| style="text-align:right" |20.2 km
|
|-
|日本貨物鉄道<br>(JR貨物)||[[神崎川信号場]] - [[正覚寺信号場]]|| style="text-align:right" |15.4 km
|
|-
|[[関西高速鉄道]]
|西日本旅客鉄道<br>(JR西日本)||[[JR東西線]]||[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]] - [[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]||style="text-align:right"|12.5 km
|
|-
|rowspan="2"|[[新関西国際空港]]
|西日本旅客鉄道<br>(JR西日本)||[[関西空港線]]||rowspan="2"|[[りんくうタウン駅]] - [[関西空港駅]]||rowspan="2" style="text-align:right"|6.9 km
|rowspan="2"|第三種鉄道事業者側の路線名は「空港連絡鉄道線」 <br />JR西日本と南海電鉄に営業キロ重複計上
|-
|[[南海電気鉄道]]||[[南海空港線|空港線]]
|-
|[[和歌山県]]
|南海電気鉄道||[[南海和歌山港線|和歌山港線]]||[[久保町駅|県社分界点]] - [[和歌山港駅]]||style="text-align:right"|2.0 km
|
|-
|rowspan="3"|[[神戸高速鉄道]]
|阪神電気鉄道||[[阪神神戸高速線|神戸高速線]]||[[西代駅]] - [[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]||style="text-align:right"|5.0 km
|rowspan="2"|第三種鉄道事業者側の路線名は「東西線」<br />新開地駅 - [[高速神戸駅]]間0.6kmは阪急・阪神両者の第二種鉄道事業区間<br />2010年までは[[山陽電気鉄道]]も当該区間の第二種鉄道事業者
|-
|[[阪急電鉄]]||[[阪急神戸高速線|神戸高速線]]||[[新開地駅]] - [[三宮駅|神戸三宮駅]]||style="text-align:right"|2.8 km
|-
|[[神戸電鉄]]||[[神戸電鉄神戸高速線|神戸高速線]]||新開地駅 - [[湊川駅]]||style="text-align:right"|0.4 km
|第三種鉄道事業者側の路線名は「南北線」
|-
|[[八頭町]]
|rowspan="2"|[[若桜鉄道]]||rowspan="2"|[[若桜鉄道若桜線|若桜線]]||[[郡家駅]] - 若桜町若桜線接続点||style="text-align:right"|16.5 km
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|[[若桜町]]
|八頭町若桜線接続点 - [[若桜駅]]||style="text-align:right"|2.7 km
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|rowspan="2"|[[北九州市]]
|[[平成筑豊鉄道]]||[[平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線|門司港レトロ観光線]]||[[九州鉄道記念館駅]] - [[関門海峡めかり駅]]||style="text-align:right"|2.1 km
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|[[皿倉登山鉄道]]|| style="white-space:nowrap" |[[皿倉山ケーブルカー|帆柱ケーブル線]]||山麓駅 - 山上駅||style="text-align:right"|1.1 km
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|-
|[[佐賀・長崎鉄道管理センター]]
|[[九州旅客鉄道]]<br>(JR九州)||[[長崎本線]]||[[江北駅 (佐賀県)|江北駅]] - [[諫早駅]]||style="text-align:right"|60.8 km
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|-
|南阿蘇鉄道管理機構<ref>{{Cite press release|和書|title=南阿蘇鉄道の鉄道事業再構築実施計画の認定について|publisher=国土交通省九州運輸局|date=2023-03-10|url=https://wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/content/000291008.pdf|format=PDF|access-date=2023-04-03}}</ref>
|[[南阿蘇鉄道]]||[[南阿蘇鉄道高森線|高森線]]||[[立野駅 (熊本県)|立野駅]] - [[高森駅]]||style="text-align:right"|17.7 km
|
<!-- 富山都心線は、「軌道法」による「軌道線」で、富山市と富山地方鉄道は「軌道整備事業者」と「軌道運送事業者」の関係。「鉄道事業法」による「鉄道事業者」ではない。-->
|}
== 鉄道事業の許可 ==
鉄道事業の許可を受けようとする者は、予定する路線、経営しようとする鉄道事業の種別(第一種鉄道事業、第二種鉄道事業、第三種鉄道事業)、事業基本計画等の必要な申請書を国土交通大臣に提出しなければならない(鉄道事業法4条)<ref name="houkokusyo_8-1" />。
* 第一種鉄道事業及び第二種鉄道事業の許可は、業務の範囲を旅客運送又は貨物運送に限定して行うことができる(鉄道事業法3条3項)。
* 一時的な需要のための鉄道事業の許可は、期間を限定して行うことができる(鉄道事業法3条4項)。
なお、第三種鉄道事業の許可は、当該事業により敷設される鉄道線路に係る第一種鉄道事業又は第二種鉄道事業の許可と同時に行われる(鉄道事業法5条3項)。
=== 鉄道事業の許可基準 ===
国土交通大臣は、鉄道事業の許可をしようとするときに、次の基準に適合するかどうかを審査する(鉄道事業法5条1項)<ref name="houkokusyo_8-1" />。
# その事業の計画が経営上適切なものであること。
# その事業の計画が輸送の安全上適切なものであること。
# 前二号に掲げるもののほか、その事業の遂行上適切な計画を有するものであること。
# その事業を自ら適確に遂行するに足る能力を有するものであること。
=== 特定目的鉄道事業 ===
景観の鑑賞、遊戯施設への移動その他の観光の目的を有する旅客の運送を専ら行うもの。
鉄道事業法第5条第2項で「特定の目的を有する旅客の運送を行うもの」として規定されている鉄道事業で、具体的には鉄道事業法施行規則第6条の2に規定されている。遊園地への客の送迎のための鉄道など、公共性の低いものについてより簡略化された手続きで鉄道事業が行えるようにしたものである。通常の鉄道事業の許可権限は国土交通大臣にあるが、特定目的鉄道事業については地方運輸局長に委任される。
[[2000年]]3月の鉄道事業法改正によって新設された区分である。最初の適用例は、[[2005年]]に[[2005年日本国際博覧会]]の会場内で運行された[[2005年日本国際博覧会協会愛・地球博線]]である<ref>{{PDFlink|[http://www.itej.or.jp/archive/jijyou/200809_00.pdf イギリスの保存鉄道の特徴と事例紹介]}} - 財団法人運輸調査局 海外交通事情</ref>。しかし、これは経営期間が博覧会の会期中に限定された[[IMTS]]による路線であった。
[[2009年]][[4月26日]]、[[福岡県]][[北九州市]]の[[門司港レトロ]]地区内の門司港 - 和布刈公園間で[[平成筑豊鉄道]]が第二種鉄道事業者、北九州市が第三種鉄道事業者として運行する[[平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線|門司港レトロ観光線]](やまぎんレトロライン)がこの区分の適用を受ける初の普通鉄道の路線・常設路線として開業した。
このほかに[[1997年]]に廃止された[[信越本線]][[横川駅 (群馬県)|横川]] - [[軽井沢駅|軽井沢]]間([[碓氷峠]])の一部で、「園内遊具」として鉄道車両を運行させている[[碓氷峠交流記念財団]]が、横川 - 軽井沢間の全区間について特定目的鉄道事業の申請を予定している(詳しくは「[[碓氷峠]]」・「[[碓氷峠鉄道文化むら]]」を参照)。
なお、これらと同様に観光目的でトロッコ列車を運行している[[嵯峨野観光鉄道]]、[[黒部峡谷鉄道]]は開業時点で特定目的鉄道という概念がなかったこともあり、それぞれ単なる第二種鉄道事業者、第一種鉄道事業者であり、特定目的鉄道事業者ではない。なお、黒部峡谷鉄道は親会社である関西電力が資材輸送のために敷設した[[専用鉄道]]を起源としており、現在もなおその使命を有している。
== 鉄軌道事業者の経営形態 ==
日本の鉄道事業者は民間資本による[[私企業]]のほか、[[公営企業]]、[[特殊法人]]、[[第三セクター]]、[[宗教法人]]、[[財団法人]]、[[社団法人]]がある。現在は[[個人事業主|個人事業]]、[[有限会社]]、[[合名会社]]、[[合資会社]]、[[合同会社]]はない。
鉄道事業者の経営形態は以下のとおり区分される(以下には軌道経営者の許可も受けている事業者を含む。また、便宜的に軌道経営者の許可のみを受けている事業者を含む)。
=== 株式会社 ===
日本の鉄道事業者のほとんどが[[株式会社]]であり、このうち25社が[[株式公開]](上場)をしている。なお、大手鉄道事業者がその系列鉄道事業者の株式を保有し子会社化している例は多く、完全子会社化しているケースと、そうではなく一定比率の株式を有しているにすぎない場合に分かれる。
==== 上場企業 ====
*[[東日本旅客鉄道]]([[東京証券取引所|東証プライム]])
*[[東海旅客鉄道]](東証プライム、[[名古屋証券取引所|名証プレミア]])
*[[西日本旅客鉄道]](東証プライム)
*[[九州旅客鉄道]](東証プライム、[[福岡証券取引所|福証]])
*[[京王電鉄]](東証プライム)
*[[京成電鉄]](東証プライム)
*[[新京成電鉄]](東証スタンダード、京成電鉄の持分法適用関連会社)
*[[東武鉄道]](東証プライム)
*[[西武ホールディングス]](2014年4月23日東証一部上場。事実上の再上場)
**[[西武鉄道]](1957年東証一部上場。[[有価証券報告書]]の[[西武鉄道#証券取引法違反事件|虚偽記載発覚]]で2004年12月17日付で上場廃止。2006年3月西武ホールディングスの子会社となる)
***[[伊豆箱根鉄道]](東証二部に上場していたが、有価証券報告書の虚偽記載発覚で2004年12月26日に上場廃止。現在は西武鉄道が株式の84.51%を保有)
*[[東急]](東証プライム)旧・東京急行電鉄が2019年10月1日に持株会社化し、社名変更。
**[[東急電鉄]] (鉄道及び軌道)※ 旧・東京急行電鉄(現・東急)の鉄道部門が100%子会社として分離した。
**[[伊豆急ホールディングス]]※[[東急グループ]]。2012年3月1日に伊豆急行の株式移転で設立。
***[[伊豆急行]](東証二部に上場していたが、2004年10月1日、東京急行電鉄の100%子会社となり上場廃止。2012年3月に伊豆急ホールディングスの子会社となる)
*[[京浜急行電鉄]](東証プライム)
*[[小田急電鉄]](東証プライム)
**[[小田急箱根ホールディングス]] ※[[小田急グループ]]。東証一部に上場していたが小田急電鉄の子会社となり2003年7月28日上場廃止。旧・箱根登山鉄道が2004年10月1日に持株会社化し、社名変更。
***[[箱根登山鉄道]] ※2004年10月1日、旧・箱根登山鉄道(現・小田急箱根ホールディングス)より100%子会社として分離。
**[[江ノ島電鉄]](東証二部に上場していたが、1979年に[[小田急電鉄]]の連結対象となり、6月30日に上場廃止。現在は100%子会社)
*[[相鉄ホールディングス]](東証プライム)旧・相模鉄道が2009年9月16日に持株会社化し、社名変更。
**[[相模鉄道]] ※ 旧・相模鉄道(現・相鉄ホールディングス)の鉄道部門が100%子会社として分離した。
*[[秩父鉄道]] (東証スタンダード)
*[[富士急行]](東証プライム)
**[[富士山麓電気鉄道]]※ 旧・富士急行の鉄道部門が100%子会社として分離した。
*[[名古屋鉄道]](鉄道及び軌道)(東証プライム、名証プレミア)
*[[南海電気鉄道]](東証プライム)
*[[近鉄グループホールディングス]](東証プライム)※旧・近畿日本鉄道が2015年4月1日に持株会社化し、社名変更。
**[[近畿日本鉄道]] (鉄道及び軌道)※2015年4月1日、旧・近畿日本鉄道(現・近鉄グループホールディングス)より100%子会社として分離。
*[[京阪ホールディングス]](東証プライム)※旧・京阪電気鉄道が2016年4月1日に持株会社化し、社名変更。
**[[京阪電気鉄道]] (鉄道及び軌道)※2016年4月1日、旧・京阪電気鉄道(現・京阪ホールディングス)より100%子会社として分離。
**[[京福電気鉄道]] (鉄道及び軌道)(東証スタンダード、[[京阪ホールディングス]]が43.16%の株式を保有する親会社でもある。旧大証)
*[[阪急阪神ホールディングス]](東証プライム)※旧阪急電鉄。2005年4月1日、持株会社化で阪急ホールディングスに社名変更。2006年10月1日、阪急阪神ホールディングスに社名変更。
**[[阪急電鉄]] ※ 2005年4月1日、旧・阪急電鉄(現・阪急阪神ホールディングス)より100%子会社として分離。
**[[阪神電気鉄道]](東証一部、大証一部に上場していたが2006年9月26日にいずれも上場廃止。同年10月1日に阪急阪神ホールディングスの100%子会社となった。)
*[[神戸電鉄]](東証プライム、阪急阪神ホールディングスが27.30%の株式を保有する持分法適用会社。旧大証)
*[[山陽電気鉄道]](東証プライム、旧[[大阪証券取引所|大証]]。阪神電気鉄道が17.38%の株式を保有しているが、[[阪急阪神東宝グループ|阪急阪神ホールディングスグループ]]には参加していない。)
*[[西日本鉄道]](東証プライム、福証)※2006年12月3日大証一部上場廃止
*[[広島電鉄]](鉄道及び軌道)(東証スタンダード、旧[[広島証券取引所|広証]])
=== 公営企業 ===
[[地方公営企業]](交通局。[[公営交通]]の一形態)、あるいは[[地方公共団体]]が直接経営する企業形態で、次の19事業者がある。
*[[札幌市交通局]](鉄道及び軌道(軌道整備事業者))
*[[函館市企業局交通部]](軌道)
*[[青森県]](第三種事業者→[[青い森鉄道線]]参照)
*[[仙台市交通局]]
*[[福島県]](第三種事業者→[[只見線]]参照)
*[[東京都交通局]](鉄道及び軌道)
*[[横浜市交通局]]
*[[名古屋市交通局]]
*[[四日市市]](第三種事業者→[[四日市あすなろう鉄道内部線]]・[[四日市あすなろう鉄道八王子線|八王子線]]参照)
*[[伊賀市]](第三種事業者→[[伊賀鉄道伊賀線]]参照)
*[[甲賀市]](第三種事業者→[[信楽高原鐵道信楽線]]参照)
*[[京都市交通局]]
*[[神戸市交通局]]
*[[和歌山県]](第三種事業者→[[南海和歌山港線]]参照)
*[[若桜町]]・[[八頭町]](第三種事業者→[[若桜鉄道若桜線]]参照)
*[[北九州市]](第三種事業者→[[平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線]]・[[皿倉登山鉄道]]参照。過去には旧若松市に由来する貨物専業軌道を運営。[[北九州市交通局]]を参照)
*[[福岡市交通局]](地下鉄)
*[[熊本市交通局]](軌道)
*[[鹿児島市交通局]](軌道)
戦後、鉄軌道事業を行っていたものの、現在では廃止した公営事業者は
*[[秋田市]](軌道。[[秋田市電]]を参照)
*[[川崎市]](軌道。[[川崎市電]]を参照)
*[[大阪市]](地下鉄は[[大阪港トランスポートシステム]]から移管された[[Osaka Metro中央線|中央線]]大阪港 - コスモスクエア間(第二種鉄道事業)を除き軌道。新交通システムである[[Osaka Metro南港ポートタウン線|ニュートラム]]には当初より鉄道及び軌道が混在。[[大阪市交通局]]を参照。2018年4月に民営化され[[大阪市高速電気軌道]]に移管)
*[[姫路市]](跨座式鉄道。[[姫路市交通局モノレール線]]を参照)
*[[倉敷市]]([[倉敷市交通局]](消滅)で運営。[[1970年]]4月に[[水島臨海鉄道]]に移管)
*[[玉野市]]([[玉野市営電気鉄道]]を参照)
*[[呉市]](軌道。[[呉市電]]を参照)
*[[荒尾市]]([[荒尾市営電気鉄道]]を参照)
大都市([[政令指定都市]])の地下鉄が公営企業によって経営されているのは、地下高速鉄道整備事業費補助制度に基づく地下鉄建設費の補助金が、原則として地方公共団体及び旧[[帝都高速度交通営団|営団]]だけに支給されたためである。
=== 特殊法人 ===
現在、鉄道(軌道)事業を行う事業者に「独立行政法人等登記令(旧特殊法人登記令)」の別表に掲げる法人に含まれる'''狭義の[[特殊法人]]'''は存在しないが、新設・目的の変更・廃止が[[総務省]]による審査の対象となる'''広義の特殊法人'''に次の[[特殊会社]](株式会社)が含まれる。
*[[北海道旅客鉄道]]
*[[四国旅客鉄道]]
*[[日本貨物鉄道]]
*[[東京地下鉄]]
*[[新関西国際空港]](第三種事業者→[[関西空港線]]、[[南海空港線]]を参照)
過去に鉄道(軌道)事業を行っていた次の特殊法人があった。
*[[帝都高速度交通営団]](2004年4月1日に解散。[[日本の政治|政府]]と[[東京都]]が出資する新会社東京地下鉄に事業を承継)
*都市基盤整備公団(第三種事業者)(2004年7月1日に解散。[[住宅・都市整備公団]]を改組。新設した独立行政法人[[都市再生機構]]に鉄道以外の事業を承継。鉄道施設については、[[京成電鉄]]が全額出資した新会社[[千葉ニュータウン鉄道]]に譲渡)
次のJR3社は、改正[[旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律|JR会社法]]公布前日の2001年6月21日まで特殊会社であった。
*[[東日本旅客鉄道]](2002年6月21日に[[日本鉄道建設公団]]の保有株式を売却し完全民営化)
*[[西日本旅客鉄道]](2004年3月12日に独立行政法人[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]の保有株式を売却し完全民営化)
*[[東海旅客鉄道]](2006年4月5日に独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構の保有株式を売却し完全民営化)
また、JR九州は、改正JR会社法公布前日の2016年3月31日まで特殊会社であった。
*[[九州旅客鉄道]](2016年10月25日に独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構の保有株式を売却し完全民営化)
=== 財団法人 ===
* [[札幌市交通事業振興公社]]([[札幌市電]])(軌道(軌道運送事業者))
* [[道の駅みんまや#管理団体|青函トンネル記念館]]
* [[神戸住環境整備公社]]
なお、過去に期間限定免許を受け、鉄道(軌道)事業を行った次の博覧会協会も、[[財団法人]]である。
* [[日本万国博覧会]]協会([[1970年]]、大阪、跨座式鉄道=[[モノレール]])
* [[沖縄国際海洋博覧会]]協会([[1975年|1975]]-[[1976年]]、案内軌条式軌道=[[新交通システム]])
* [[横浜博覧会]]協会([[1989年]]、普通鉄道=廃止された貨物線を開催期間のみ復活)
* [[アジア太平洋博覧会]]協会(1989年、福岡、案内軌条式軌道=[[ガイドウェイバス]])
* [[2005年日本国際博覧会]]協会([[2005年]]、愛知、磁気誘導式鉄道=[[IMTS]])
=== 社団法人 ===
* [[養老線管理機構]]([[養老鉄道養老線]]の第三種事業者)
* [[佐賀・長崎鉄道管理センター]]([[長崎本線]]の一部区間の第三種事業者)
* [[名古屋市交通局協力会]] - [[名古屋市交通局]]の[[外郭団体]]。[[名古屋市]]にかつてあった[[名古屋市交通局協力会東山公園モノレール|東山公園モノレール]]を1964年から1974年まで運営していた。
=== その他の経営形態 ===
*[[宗教法人]]
**[[鞍馬寺]] - [[京都市]]で[[鞍馬山鋼索鉄道]](ケーブルカー)を運営。
過去に以下の経営形態で鉄道(軌道)事業を行っていた事業者があった。
*[[社会福祉法人]]
**[[こどもの国 (横浜市)|こどもの国協会]] - [[横浜市]]にある[[東急こどもの国線|こどもの国線]]の第三種鉄道事業を行っていたが<!--(第二種は[[東急電鉄]])-->、通勤路線化のため、[[1997年]]に第三種鉄道事業を[[横浜高速鉄道]]に譲渡した。
このほか、[[昭和]]初期([[1920年代]])までの時代には、[[個人]]経営([[人車軌道]]など)、[[合名会社]]、[[合資会社]]、[[協同組合]](協業組合)の小規模な鉄道事業者も存在した。
=== JRと私鉄、第三セクターの区分 ===
[[1987年]][[3月31日]]まで、法的に'''国鉄'''と'''私鉄'''という二つの区分が存在した。国鉄は、[[日本国有鉄道法]]に基づき公社としての[[日本国有鉄道]]が経営した鉄道である。これに対し[[地方鉄道法]]または[[軌道法]]に基づき民間企業および公営企業が経営した国鉄以外の鉄道・軌道を[[私鉄]](または'''民鉄''')と呼び、私鉄の路線は'''会社線'''('''社線''')と呼んだ。
国鉄の[[国鉄分割民営化|分割民営化]]により、すべての鉄道事業者が鉄道事業法および軌道法に管轄されることになった。'''JR'''('''グループ''')は一般的には私鉄(民鉄)とは呼ばないが、JR東日本・西日本・東海・九州に関しては完全民営化された「[[企業|民間企業]]」のため、実際は私鉄(民鉄)の一種であるといえる<ref group="注">JR6社とも発足時は政府が[[日本鉄道建設公団]]を通じて株式を保有し、JR北海道・JR四国は2019年現在も日本鉄道建設公団の後身の[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]を通じて株式を保有しているため、完全な民営ではない。</ref>。また、それ以外のJRグループ各社は「[[公私合同企業]]」である。「会社線」という呼称についても、JRの乗車券に例えば「東日本会社線」のように書かれてはいるものの、今でも単に「会社線」「社線」と呼ぶ場合は、JR以外の路線をさして使われる場合が多い。
旧国鉄の[[特定地方交通線]]の転換または[[整備新幹線]]開業に際して経営分離された並行[[在来線]]の受け皿として、また[[日本鉄道建設公団]](現・[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])の地方AB線(地方開発線・地方幹線)の経営主体として設立された[[第三セクター鉄道|'''第三セクター'''の鉄道事業者]]についても、[[地図記号]]では私鉄とされているなど、一般的には私鉄に含まれる。ただし、別途'''第三セクター'''として別の区分をすることもある。これは、営業路線の歴史的区分によるものであり、例外もあるが、時刻表でもJR路線の関連ページに記載されていることが多い。ただし、同じ第三セクターの鉄道事業者でも、旧国鉄からの転換あるいは継承ではない鉄道会社、例えば、大都市圏の[[新交通システム]]や[[モノレール]]各社、臨海工業地帯の貨物鉄道([[臨海鉄道]])会社、大都市周辺の都市開発に伴う通勤新線を敷設するために設立された[[北総鉄道]]・[[愛知高速交通]]・[[北大阪急行電鉄]]などの鉄道会社、[[万葉線 (企業)|万葉線]]・[[えちぜん鉄道]]の元々の私鉄路線を引き継いだ鉄道会社などは、この区分によらず私鉄として扱われることが多い。
この他にも、国や都道府県・市町村が出資していて形式的には第三セクターだが、実際には民営とされる事業者も存在する。
* [[京福電気鉄道]] - 大株主に[[財務大臣 (日本)|財務大臣]]が名を連ねていたことがあったが、これはかつての個人大株主が死去したことに伴い、[[相続税]]の[[物納]]として同社の株式が納められたことによるものであり、経営参加を目的としていなかった(2022年現在は株式を売却したため純民間資本に戻っている)。
* [[富山地方鉄道]] - [[陸上交通事業調整法]]に基づいて富山県内の私営・公営の鉄軌道・バス事業者をすべて合併して発足しており、設立の経緯から[[富山県]]・[[富山市]]も出資している(2020年に別の第三セクター会社の[[富山ライトレール]]を合併した)。
* [[島原鉄道]] - [[雲仙岳|雲仙普賢岳]]の[[噴火]]災害からの復旧に当たって増資を募った際に[[長崎県]]や沿線自治体が引き受けた<ref group="注">2018年に県内のバス会社である[[長崎自動車]]が子会社化したが、県・自治体の出資も残っている。</ref>。
なお、JR及び旧国鉄線を引き継いだ第三セクター各社は[[青い森鉄道]]を除き、ほとんどの民営鉄道会社が加盟する社団法人[[日本民営鉄道協会]]に加盟していない<ref group="注">それらの第三セクター各社の労働組合も同様に、[[日本私鉄労働組合総連合会]]には加盟していない。</ref>。ただし入会は任意であり、旧国鉄線やJR線を引き継いだ鉄道会社も入会は可能である<ref group="注">JR線を引き継いだ鉄道会社としては青い森鉄道の他に、第三セクターではないが[[嵯峨野観光鉄道]](JR西日本から[[山陰本線]]の旧線を引き継いで観光路線として営業)も民鉄協に加盟している。</ref>。
[[地図記号]]では国鉄線と私鉄線で区分されていたが、現在でも「JR」と「JR以外の鉄道」(第三セクター鉄道を含む)で分けられている。
=== 大手私鉄・準大手私鉄・中小私鉄の区分 ===
{{Main|大手私鉄|準大手私鉄}}
[[JR]]を除く私鉄についても、[[日本民営鉄道協会]](民鉄協)に加盟する大規模な鉄道事業者を'''[[大手私鉄]]'''(大手民鉄)と呼び、他の私鉄会社とは区別している。現在は[[東京地下鉄]](東京メトロ)を含めた16社を指す。[[帝都高速度交通営団]]の[[民営化]]による東京地下鉄発足前は、[[国土交通省]]鉄道局などの統計資料などでは帝都高速度交通営団を除いた15社を大手私鉄としていた(ただし、帝都高速度交通営団は民鉄協に加盟していた)。
大手私鉄を除く私鉄は'''中小私鉄'''(中小民鉄)と呼ばれる。このうち、中小私鉄の中でも規模の大きい私鉄を'''[[準大手私鉄]]'''(準大手民鉄)と呼ぶことがある。準大手私鉄の明確な定義はないが、現在は5社が準大手私鉄とされている。準大手私鉄と中小私鉄については、'''地方私鉄'''(地方民鉄)と定義され、この中で都市近郊の'''大都市高速鉄道'''と'''地方旅客鉄道'''の2つに分類される場合もある<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/singikai/koutusin/koutu/chiiki/3/images/05.pdf 地方民鉄の現状と課題、社団法人日本民営鉄道協会]}} 平成18年(2006年)11月14日、国土交通省公式サイト</ref>。
大手私鉄の承認は[[業界団体]]である民鉄協が行っており、協会非加盟の鉄道事業者は事業規模の多寡にかかわらず「大手私鉄」とはみなされない<ref name="diamond">[https://diamond.jp/articles/-/238755 相鉄が大手となって30年、かたや大阪メトロが中小を抜け出せない理由] [[週刊ダイヤモンド|ダイヤモンド・オンライン]]、[[ダイヤモンド社]]、2020年6月1日、2021年9月9日閲覧。</ref>。
これらの区分は労働争議の過程で特定事業者を「大手」と呼んだことに端を発している。そのため「中小私鉄」とされる事業者は必ずしも[[中小企業]]とはいえず、[[大企業]]に分類される事業者でも中小私鉄とされる場合がある。一例を挙げると、[[首都圏新都市鉄道]]([[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]])や[[大阪市高速電気軌道]] (Osaka Metro) <ref name="diamond" />は、国土交通省の資料(2021年4月)では2社とも中小民鉄(中小私鉄)に区分されている<ref name=OPS />。この2社は民鉄協に加盟しておらず<ref>[https://www.mintetsu.or.jp/corporates/ 民鉄各社紹介 加盟会社のご紹介] 日本民営鉄道協会、2021年9月9日閲覧。</ref>、大手私鉄となる要件を満たしていない。
また、大手私鉄・準大手私鉄という場合、企業自体やグループの規模だけでなく、鉄道事業の規模が占める割合が重視される。一例として、[[静岡県]]の[[遠州鉄道]]や[[静岡鉄道]]<ref>[https://diamond.jp/articles/-/204992 「鉄道以外」で99%を稼ぐユニーク私鉄、遠州鉄道と静岡鉄道を大解剖!] ダイヤモンド・オンライン、ダイヤモンド社、2019年6月10日、2021年9月9日閲覧。</ref>、[[山梨県]]の[[富士急行]]などは[[連結決算|連結]][[売上高]]は高いものの、グループ全体の[[利益]]に占める鉄道事業の割合は低い<ref name="diamond" />。こうした鉄道事業者は準大手私鉄とはみなされていない。
== 鉄道事業者の商号の漢字表記 ==
{{JIS2004|対象=節}}
[[File:Kominato logomark.svg|thumb|right|250px|小湊'''鐵'''道]]
[[File:東海旅客鉄道Ico logo 02.svg|thumb|right|250px|東海旅客'''{{JIS2004フォント|鉃}}'''道]]
鉄道事業者の中には、[[大井川鐵道]]、[[真岡鐵道]]、[[和歌山電鐵]]など、あえて[[旧字体]]・[[異体字]]の「'''鐵'''」を用いて表記する例が見られる。これは「'''鉄'''」の漢字が「金を失う」と書くため、縁起が悪いからだといわれる。また[[名古屋電気鉄道|名古屋電氣銕道]]など、[[wikt:古字|古字]]である「'''銕'''」を用いた事業者もあった。
現在[[四国旅客鉄道]](JR四国)を除く[[JR]]各社では、[[ロゴタイプ|ロゴ]]において「鉄」のつくりの部分を「失」から「矢」にした「'''{{JIS2004フォント|鉃}}'''」を用いて、「{{JIS2004フォント|鉃道}}」と表記している。これは「金が矢のように集まる」よう願ったためや、当時の[[日本国有鉄道]]の赤字経営を見て「金を失うことを避けないとつぶれる」からという理由があったとされる。かつては[[近畿日本鉄道]](近鉄)や、そのグループ企業でも同様の字を使用していた。
しかし「{{JIS2004フォント|鉃道}}」の字を見たこどもがそれに影響されて誤記する可能性があることが、教育的に好ましくないという意見もある。近鉄グループが1967年に使用を停止したのも、沿線住民からの指摘が理由である。なお本来「{{JIS2004フォント|鉃}}」は矢の先端に付ける[[矢#鏃(矢尻=やじり)|鏃(やじり)]]という意味の字であり、国語辞典では明治や大正に発行されたもの以外ではほぼ掲載されていない<ref>「[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]」1987年6月号、[[交友社]]。</ref>(これらの文字については、[[ウィクショナリー]]の「[[wikt:鉄|鉄]]」および「[[wikt:鉃|{{JIS2004フォント|鉃}}]]」の項目も参照)。
<gallery widths="150px" perrow="2" style="font-size:90%;" caption="社紋に見られる「鉄」の異表記">
ファイル:Kakamigahara logomark.svg|旁が「矢」表記の[[名鉄各務原線|各務原鉄道]]
ファイル:Nara Railway logomark.svg|古字を用いた[[奈良鉄道]]
</gallery>
== 異業種との関係 ==
=== 異業種への参入 ===
鉄道事業者の多くが、鉄道事業だけではなく、直営あるいは子会社などで、各種の関連事業や異業種の事業を行っている。これは公共交通という性格上、鉄道事業のみでは利益を生み出しにくいためであり、特に宅地開発の不動産業と商業施設の展開は、鉄道や駅の開発とセットで行うケースが多い。日本においては、[[阪急電鉄]]の創業者[[小林一三]]が鉄道事業と不動産・流通・娯楽産業などを組み合わせたビジネスモデルを成功させ、各地の私鉄や民営化後のJR各社の手本になっている<ref>[http://www.hankyu-bunka.or.jp/about/itsuo/ 小林一三について]([[阪急文化財団]])</ref><ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Trafficnews_85229/ 阪急の創業者「小林一三」 いまにつながる私鉄経営の基礎を築いたアイデア]([[excite]]ニュース 2019年4月10日)</ref>。
以下のような事例がある。中には[[銚子電気鉄道]]の[[ぬれ煎餅]]製造のように、本業の赤字を埋めるために異業種に参入した例もあるが、鉄道会社という[[ブランド]]が企業にとってプラスになっているため、赤字であっても鉄道事業を継続している。
※主な例
*鉄道以外の[[交通]]([[運輸業|運輸]])事業
**[[バス (交通機関)|各種バス]]事業([[路線バス]]、[[高速バス]]、[[観光バス]])
**[[タクシー]]事業
**[[陸運]]([[貨物自動車]]運送)事業
***[[東武運輸]]、[[ジェイアール東日本物流]]、日本国外では[[ドイツ鉄道]]グループの[[DBシェンカー]]など。
**[[船舶]](水運)事業 - [[南海フェリー]]、[[JR西日本宮島フェリー]]など
**[[航空]][[運送]]事業
***[[エア・フレイト・フォワーダー|航空貨物の取り扱い]]では[[西日本鉄道]]の国際物流事業本部や[[近鉄エクスプレス]]、[[阪急阪神エクスプレス]]など
***旅客輸送では[[東急グループ]]に属していたかつての[[日本エアシステム]]。また、名古屋鉄道は[[ANAホールディングス]]の大株主である<ref>[https://www.ana.co.jp/group/investors/stock/situation.html 株式の状況](ANAホールディングス)</ref>。
***[[ヘリコプター]]輸送では[[名鉄グループ]]の[[中日本航空]]など
***[[富山地方鉄道]]グループの[[富山地鉄サービス]]のように、[[空港]]の[[グランドハンドリング|地上業務]]を航空会社から受託している場合もある<ref>[http://www.chitetsu-s.com/aviation/index.html 富山地鉄サービス航空部]</ref>。
**[[旅行会社]] - [[日本旅行]](JR西日本グループ)、[[近畿日本ツーリスト]]([[KNT-CTホールディングス]])、[[阪急交通社]]、[[東武トップツアーズ]]、[[小田急トラベル]]、[[京王観光]]など
*[[不動産会社|不動産事業]]
**[[マンション]]や[[住宅]]、[[オフィスビル]]などの開発([[デベロッパー (開発業者)|デベロッパー]])や[[不動産]]の販売
**[[鉄道駅]]構内(いわゆる[[駅ナカ]])や高架下などの賃貸
**[[ショッピングモール]]・[[複合商業施設]]の運営 - [[東京ソラマチ]]([[東武グループ]])、[[渋谷スクランブルスクエア]](東急・東京メトロ・JR東日本)、[[渋谷マークシティ]](京王電鉄・東急・東京メトロ)、[[東京ガーデンテラス紀尾井町]]([[西武グループ]])、[[阪急西宮ガーデンズ]](阪急電鉄)など
*[[建設業|土木・建設事業]] - [[東急建設]]、[[南海辰村建設]]、[[京王建設]]など
*[[鉄道車両]]の製造・メンテナンス
*:形態としては[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[総合車両製作所新津事業所|新津車両製作所]]のように自社直営だったもの、[[東急車輛製造]]などのように子会社を設立したもの(2012年にJR東日本へ事業譲渡し、現在はJR東日本100%子会社の[[総合車両製作所]]。前記の新津車両製作所も2014年に総合車両製作所に移管し同社の新津事業所となっている)、[[近畿日本鉄道]](近鉄)が終戦後子会社化し、現在は持分法適用関連会社として[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]も出資する[[近畿車輛]](旧・田中車輛)や、[[東海旅客鉄道|JR東海]]が2008年に子会社化した[[日本車輌製造]]のように既存の車輌メーカーを傘下に収めたものがある。
*[[小売|小売業]]
**[[百貨店]] - [[エイチ・ツー・オー リテイリング|阪急阪神百貨店]]([[阪急百貨店]]・[[阪神百貨店]])、[[東武百貨店]]、[[東急百貨店]]、[[近鉄百貨店]]、[[小田急百貨店]]、[[京成百貨店]]など、大手民鉄16社のうち西武・東京地下鉄(東京メトロ)・相鉄・南海・西鉄以外<ref group="注">自社グループには百貨店事業を持っていない場合でも、相鉄・南海が[[髙島屋]]、西鉄が[[岩田屋三越]]をそれぞれ自社のターミナル駅に入居させている。</ref>の各社はグループに百貨店事業を持っているほか、[[山陽百貨店|山陽]]・[[遠鉄百貨店|遠鉄]]・[[一畑百貨店|一畑]]・[[伊予鉄髙島屋|伊予鉄]]のように準大手や中小私鉄でも系列に百貨店事業を持っている事業者がある。[[そごう・西武]]が運営する「[[西武の店舗一覧|西武]]」(旧[[西武百貨店]])も1971年までは[[西武グループ|西武鉄道と同じグループ]]に属していた。日本の百貨店は[[呉服店]]を起源とするものと、鉄道会社が設立した電鉄系百貨店に分かれる。阪急百貨店は上述のように小林一三が日本で初めて鉄道事業と流通事業を融合させたものであり<ref>[https://www.hankyu-hanshin-dept.co.jp/founder.html 創業者・小林一三と阪急百貨店](阪急阪神百貨店)</ref>、阪急阪神百貨店を統括する[[エイチ・ツー・オー リテイリング|H2Oリテイリング]]は電鉄系百貨店の中では突出した規模を持つ(百貨店業界大手5社の一角)。分割民営化したJR各社は自前で独自には百貨店は展開してはいないものの、[[ジェイアール京都伊勢丹]](JR西日本・[[三越伊勢丹ホールディングス|三越伊勢丹HD]])や[[ジェイアール名古屋タカシマヤ]](JR東海・[[髙島屋]])など他の大手百貨店と提携している。
**[[スーパーマーケット]] - [[東武ストア]]、[[東急ストア]]、[[阪急オアシス]]、[[京王ストア]]など。
**[[コンビニエンスストア]] - JR東日本の[[NewDays]]など。JR西日本グループの[[ハート・イン]]などのように、大手コンビニエンスストアの[[フランチャイズ|フランチャイジー]]になっているケースもある。
*[[飲食店|食堂]]、[[レストラン]]、[[ファーストフード]]、[[喫茶店]]などの[[外食産業]] - [[JR東日本クロスステーション]]、[[東急グルメフロント]]、[[阪急阪神レストランズ]]など
*[[食品]]製造業
**JR東日本クロスステーションの弁当製造や、[[銚子電気鉄道]]の[[ぬれ煎餅]]製造
*[[レジャー]]事業
**[[遊園地]]や[[テーマパーク]]、[[動物園]]、[[水族館]]
***[[西武園ゆうえんち]]、[[東武動物公園]]、[[ひらかたパーク]]など。[[東京ディズニーリゾート]]の運営会社[[オリエンタルランド]]も京成電鉄の[[持分法適用会社]]である。
**[[スーパー銭湯]]などの経営
**[[温泉]]や[[スキー場]]など観光[[リゾート]]地の開発、経営 - [[苗場スキー場]]・[[富良野スキー場]]など(西武グループ)、[[ガーラ湯沢スキー場]](JR東日本)、[[蓼科東急スキー場]]など(東急)、[[京王高尾山温泉]]
**[[有料道路]]の運営
***[[鬼押ハイウェー]]・[[万座ハイウェー]](西武グループ)、かつて[[東急グループ]]だった[[箱根ターンパイク]]など
**[[ホテル]]事業 - [[バブル崩壊]]後はビジネスホテルチェーンが多い。
***[[プリンスホテル]](西武グループ)、[[JR東日本ホテルズ]]、[[阪急阪神ホテルズ|阪急阪神第一ホテルグループ]]、[[都ホテルズ&リゾーツ]](近鉄グループ)など。プリンスホテルは国内のホテル業界で首位。
**[[スポーツクラブ]](フィットネスクラブ)の経営 - [[ジェイアール東日本スポーツ]](ジェクサー)、[[アトリオ|東急スポーツシステム]](アトリオ)
**[[劇団]]([[宝塚歌劇団]]やかつての[[OSK日本歌劇団]])、[[映画]]製作・配給([[東宝]])、[[劇場]]・[[映画館]]の運営([[TOHOシネマズ]])
**プロスポーツチームの経営
***[[プロ野球]]球団
***:過去には京阪以外の関西大手私鉄はプロ野球球団を持っていた。現在は、阪神が[[阪神タイガース]]を単独で所有し続けているのを除き、いずれも球団を手放している。
***:関西以外では、西武が[[埼玉西武ライオンズ]]を2009年から単独で所有している<ref group="注">それ以前(1978年オフの球団買収と本拠地移転以後)も西武ライオンズ(2008年から埼玉西武ライオンズ)と名乗っていたが、実際の親会社は[[コクド]](現・[[プリンスホテル]])であった。</ref>。他にも東急は[[北海道日本ハムファイターズ|東急フライヤーズ]]、[[日本国有鉄道|国鉄]]は[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]、西鉄は[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]というプロ野球球団を所有していた。現在はそれぞれ、[[北海道日本ハムファイターズ]]<ref group="注">北海道移転後は[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]も出資。</ref>、[[東京ヤクルトスワローズ]]、埼玉西武ライオンズに継承されている。また、小田急では2リーグ分裂時にプロ野球球団を所有する計画が具体的になされ、阪神と同じセントラル・リーグに加盟することを表明し、チーム名も検討するなど、球団所有の一歩手前まで達していた<ref>朝日新聞 1949年11月27日付朝刊</ref> が、寸前で中止した。
<!--***国鉄およびヤクルトでのスワローズ([[英語|英]]:swallow=[[ツバメ]])の名称は、球団発足当時国鉄が[[東海道本線|東海道線]]で運行していた[[優等列車]]の[[特別急行列車|特急つばめ]]の名に由来する。-->
***:一時期(1951 - 1953年)、[[中日ドラゴンズ]]が[[中日新聞社]]と[[名古屋鉄道]]の共同経営となり、「名古屋ドラゴンズ」と名乗っていた。また、[[広島東洋カープ]]も、経営が東洋工業(現・[[マツダ]])を中心とした体制に移行する以前の広島財界共同出資時代に、[[広島電鉄]]も資本参加し、役員も派遣していた<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/50y/nen/990427.html 中国新聞社ホームページ・CARP年表、1955年]</ref>。
***:更に以前は京成が[[読売ジャイアンツ]]の筆頭株主、武蔵野鉄道と合併前の旧・西武鉄道は[[翼軍|東京セネタース]]の後援、[[京浜急行電鉄]]も[[日本女子野球連盟|女子プロ野球球団]]である[[京浜ジャイアンツ]]の所有をそれぞれ行っていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/corporate/history/his/his-3.shtml |title=歩み1948-1957 |access-date=2022-08-05 |archive-url=https://web.archive.org/web/20080426122722/https://www.keikyu.co.jp/corporate/history/his/his-3.shtml |website=京浜急行電鉄株式会社 |archive-date=2008-04-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=プロ野球巨人軍、ららぽーと、IKEAもここで誕生した…じつはスゴい“JR南船橋駅”の歴史「消えた船橋オートレース場は今…」 |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/847953 |website=Number Web |access-date=2022-08-05 |author=鼠入昌史 |date=2021-05-03 |page=5}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=夏の甲子園明日開幕! 高校野球もプロ野球も「鉄道会社」がつくったって本当? |url=https://merkmal-biz.jp/post/17279 |website=Merkmal(メルクマール) |date=2022-08-05 |access-date=2022-08-05 |author=小川裕夫 |page=3}}</ref>。
***プロサッカーチーム
****[[ジェフユナイテッド市原・千葉]](JR東日本と古河電気工業の合弁)
*[[広告代理店|広告代理業]] - [[東急エージェンシー]]、[[小田急エージェンシー]]など
*[[民間放送|民放]][[日本のテレビジョン放送局|テレビ局]] - 阪急阪神HD傘下の[[関西テレビ放送]]([[フジニュースネットワーク|FNN]]/[[フジネットワーク|FNS]][[準キー局]])など。出資で関係のある局は少なくない。
*[[ケーブルテレビ]] (CATV) - 東急グループの[[イッツ・コミュニケーションズ]]、[[近鉄ケーブルネットワーク]]など
*[[貸金業]](キャッシング)、[[クレジットカード (日本)|クレジットカード]] - [[ビューカード]](JR東日本)、[[東急カード]]など。JR西日本と小田急は自社でクレジットカードを発行している。
*[[電力会社|電力事業]]
*:日本においては[[戦前]]の電力統制以前には[[発電]]・[[配電]]の大口利用先として電力会社が電鉄事業に進出する([[東京電燈]]・[[京都電燈]]など)一方で、電鉄会社が地域の配電業者として電力事業を兼業していた事業者もあり、事業者によっては電力事業の収益が鉄道事業の収益を大きく凌駕する例もあった。関西地区の電気事業の詳細については[[関西私鉄の電力供給事業]]を参照。現在でも[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]や東京都交通局が発電事業を行っている<ref>[https://www.jreast.co.jp/shinanogawa/discharge.html 信濃川発電所について]</ref><ref>[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/other/hatsuden/index.html 東京都交通局 発電事業]</ref>。また2010年代に入り[[九州旅客鉄道|JR九州]]や近畿日本鉄道などが売電を目的に遊休地への[[日本の太陽光発電所|太陽光発電所]]建設を行っている<ref>[http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20120619-OYS1T00250.htm JR九州、都城にメガソーラー建設へ] - 読売新聞、2012年6月19日。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20130509054836/http://www.47news.jp/CN/201203/CN2012030801001007.html 近鉄、太陽光発電事業に参入へ 三重で2万キロワット級建設] - 共同通信、2012年3月8日。</ref>。
* 自動車関連事業
** [[自動車ディーラー]] - 過去に存在した[[近鉄モータース]]は日本における[[輸入車]]販売の老舗として知られていた。この他、大手私鉄では東急・京急・相鉄・京王・近鉄が過去に[[日産自動車]]のディーラーを経営していたほか、中小私鉄では[[静岡鉄道]]・[[遠州鉄道]]が静岡県内の[[トヨタ自動車]]のディーラーを経営している。また、[[マツダ]]が新たな販売網「[[ユーノス]]」を立ち上げると、JR北海道・JR西日本・JR九州が参入した。JR東日本もこれに影響されて「[[ジェイアール東日本自動車販売]]」を立ち上げて[[ボルボ・カーズ|ボルボ]]と[[サターン (自動車)|サターン]]の販売を手がけたが数年で撤退した。
** [[自動車整備業]]
** [[レンタカー]] - JR系列の[[駅レンタカー]]や、静岡鉄道・遠州鉄道系で[[トヨタレンタリース]]のフランチャイズに参画する例など。過去には大手私鉄系で[[ニッポンレンタカー]]のフランチャイジーとなる例が見られた。
=== 異業種からの参入 ===
元来は鉄道事業者ではない異業種の事業者が、直営あるいは子会社などで鉄道事業を行う、もしくは経営破綻した鉄道事業者の再建支援を行っている例として以下のようなものがある。中には[[紀州鉄道]]のように「鉄道会社」というネームバリューを得るために既存の鉄道会社を買収し、自社の社名を買収会社のそれに変更したケースも存在する。
* 参入者自身が直営で鉄道事業を行っているもの、行っていたもの
**[[山万]] - 本業は[[不動産会社]]。[[千葉県]]に同社が開発したニュータウンへの交通の便を図るため、新交通システム・[[山万ユーカリが丘線|ユーカリが丘線]]を運営。
** [[関西電力]] - 本業は[[電力会社]]。2018年まで[[長野県]]で[[関電トンネル電気バス#トロリーバス時代|関電トンネルトロリーバス]]を運営していた。1971年までは[[富山県]]で[[黒部峡谷鉄道本線]]も直営していたが、同年から子会社の[[黒部峡谷鉄道]]に分離した。トロリーバス廃止で旅客鉄道事業からいったん撤退することになるが、近い将来[[関西電力黒部専用鉄道]]などの欅平・黒部ダムルートを開放する予定で、その際は旅客鉄道事業として事実上復活する。
** [[鞍馬寺]] - 京都にある寺院。参拝者の利便を図るため、[[鞍馬山鋼索鉄道]]というケーブルカーを運行している<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=日本唯一、お寺が運営する鉄道 距離も日本最短 しかし「乗ることを勧められない」ワケ |url=https://trafficnews.jp/post/81433 |website=乗りものニュース |date=2018-09-18 |access-date=2023-06-04 |page=2}}</ref>。なお、[[宗教法人法]]により、営利目的の事業として課税されるのを回避するため、一定金額を寺院に寄進する代わりにケーブルカーの運賃は無償とする形態を取っている<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=宗教法人の税制優遇はなぜ? 「銃撃」後に広がる疑問の声 |url=https://mainichi.jp/articles/20220925/k00/00m/040/084000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-06-04 |date=2022-09-26 |author=高田奈実}}</ref>。
** [[箕面温泉|大阪観光]] - [[大阪府]]で箕面温泉観光ホテルを運営している会社。1965年から1993年まで宿泊者や温泉利用者のために[[箕面温泉#箕面鋼索鉄道線(ケーブルカー)|箕面鋼索鉄道]]というケーブルカーを運営していた。
** [[岡本製作所]] - 本業は[[遊具]]製造業。2003年から2018年まで[[別府ラクテンチケーブル線]]というケーブルカーの運営を[[大分県]]で行っていた。ただし、一般の鉄道路線と異なり事実上、山上に所在する同社経営の遊園地への来園者専用となっている。なお、このケーブルカーは遊園地とともに、2003年まで同県でホテルを経営していた別府国際観光が運営していた。2018年からは地元資本の[[ラクテンチ]]が遊園地とともにケーブルカーを運営している。
** [[下北交通]] - 当時の社名は「下北バス」。国鉄[[下北交通大畑線|大畑線]]が第1次[[特定地方交通線]]に指定された際に[[南部縦貫鉄道]]が引き受け意向を示した事から、経営エリア防衛の一環として[[1985年]]に鉄道経営に参入。しかし赤字のため[[2001年]]をもって廃止・撤退した。
* 鉄道事業を行うために設立した子会社で間接的に運営するもの、する予定であったもの、していたもの
** [[舞浜リゾートライン]] - 千葉県[[浦安市]]にある[[モノレール]]、[[舞浜リゾートラインディズニーリゾートライン|ディズニーリゾートライン]]を運営管理する[[第一種鉄道事業者]]。[[東京ディズニーリゾート]]を経営・運営する[[オリエンタルランド]]の完全子会社であり、全ての駅の全ての出入口がオリエンタルランドの所有地内にある。そのため、東京ディズニーリゾート来場者の施設間移動の便宜をはかることが運行の主目的である。なお、オリエンタルランドの筆頭株主は大手私鉄の[[京成電鉄]]であり、[[京成グループ]]の企業でもある。そのため車両の検査業務などで京成とは協力関係にある。
** [[ドリーム開発]] - 1967年から長期営業休止だった[[ドリーム開発ドリームランド線]]を[[ダイエー]]100%の子会社である同社が営業再開しようとしたが、親会社のダイエーの経営が傾き2003年に営業再開を断念した。
** [[湘南モノレール]] - [[神奈川県]]内を走るモノレール。[[三菱重工業]]が、懸垂式モノレールの技術開発・拡販のために敷設した。開業から半世紀以上が過ぎてから、公共交通の経営再建を手がける[[経営共創基盤]]の傘下に移っている。
* 既存の鉄道事業者を買収し、経営傘下に置いて鉄道事業に参入したもの
** [[紀州鉄道]] - 1928年に御坊臨港鉄道として開業した路線。災害やモータリゼーションの進展によって廃止の危機に追い込まれていたものを、1972年に東京の[[磐梯急行電鉄|磐梯電鉄不動産]]が約1億円で買収。翌年1月、「紀州鉄道」に社名を変更。現在は不動産・ゴルフ場・リゾート開発会社の鶴屋産業の傘下となっている。
** [[銚子電気鉄道]] - 1990年に経営権が[[千葉交通]]から[[東金市]]の建設業・内野屋工務店に移転。子会社「銚電恒産」を設立してその子会社となった。しかし、[[1998年]]に同社が自己破産申請をしたため、現在では[[銚子市]]・[[千葉県]]が経営支援を行っている。
** 2005 - 2006年には、投資ファンドの「[[村上ファンド]]」が阪神の株式を取得、経営に乗り出そうとした例がある。
* 経営再建のため異業種の企業やその出身者が経営参画・経営支援しているもの
** [[東京モノレール]] - 建設費がかさんだゆえの高運賃もあって経営危機に瀕し、[[日立グループ]]のもとで再建。長らく[[日立物流]]の子会社であったが、のちに[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の子会社となっている(ただし、[[日立製作所]]も12%の株を保持(2012年3月現在))。
** [[水間鉄道]] - [[バブル期]]の過大投資がたたり、2005年に会社更生法の適用を申請。大阪市に本社をおく外食チェーン・[[グルメ杵屋]]が支援企業に決定し、経営再建がなされた。現在、グルメ杵屋の100%子会社である。
** [[高松琴平電気鉄道]] - 自社ターミナルに建設した[[コトデンそごう]]がそごうグループ破綻の影響で破産し、その影響で2001年に民事再生法の適用を申請して経営破綻した。地元に本社を置く大手食品加工メーカー、[[テーブルマーク|加ト吉]]の支援の元で経営再建をした。
** [[しなの鉄道]] - 長野県の第三セクター鉄道。経営再建のために、最初は格安航空券販売で知られる旅行代理店[[エイチ・アイ・エス]]、次に格安航空会社の[[スカイマーク]]から社長を迎えて経営再建を果たした。資本関係上の提携や買収をした訳ではなく、厳密には「異業種からの参入」とは言い難いものの、2代続けて航空関連業界関係者から経営者を招聘して経営再建した。
* 行政が地方鉄道存続のために、経営企業を公募したもの
** [[和歌山電鐵]] - 廃線となる南海貴志川線を、和歌山市などの自治体が公的な財政補助を前提に存続させることになった。しかし、沿線自治体の財政状況の関係で第三セクター設立は困難だったために、経営企業を公募した。不動産会社や[[外食産業]]など何社か異業種からの応募もあり、異業種からの参入の可能性もあった。最終的には、他地域の鉄軌道事業者である[[岡山電気軌道]]が経営することに決まった。
** [[WILLER TRAINS]] - 慢性的な赤字に苦しむ[[第三セクター]]の[[北近畿タンゴ鉄道]]の運営を行うために設立された、旅行業などを営む[[WILLER]]の子会社。<!--北近畿タンゴ鉄道は鉄道施設を保有する第三種鉄道事業者として存続している。-->
かつては、炭鉱鉄道のように[[鉱業]]会社が運営する鉄道も多かった。こうした鉄道の例として、[[太平洋石炭販売輸送]]が挙げられる。また、[[岩手開発鉄道]]、[[秩父鉄道]]、[[三岐鉄道]]は[[太平洋セメント]]が大株主であり、セメント製品及び原料の輸送を手掛けている。
== 鉄道事業法に基づかない鉄道運営者 ==
[[鉱業]]会社が運営する[[鉱山鉄道]]や[[営林署]]や[[林業]]者が運営する[[森林鉄道]]、かつて北海道に存在した[[殖民軌道|簡易軌道(←殖民軌道)]]は[[鉄道事業法]]及び前身の[[地方鉄道法]]や[[軌道法]]とは異なる[[法令]]により運営される鉄道である。したがってこれらの鉄道の運営者は法律的には鉄道事業者とは呼べない。これらの鉄道は現在では鉱業・林業の衰退、モータリゼーションの発達などにより、ほぼその役割を終えた。
かつて[[自衛隊]]では有事の際の輸送手段として国鉄の鉄道網を利用するため、陸上自衛隊に鉄道車両を運用する[[第101建設隊]]が存在したが、道路網の発達と大型輸送機の配備により解体した。[[海上自衛隊]]が呉弾薬整備補給所内での弾薬の運搬に[[ディーゼル機関車]]を利用していたが<ref name="gs1">[https://www.mod.go.jp/msdf/kamf/sono6.html 呉弾薬整備補給所 弾補所豆知識 ⑥ 機関車の紹介]</ref> 2010年頃に使用が中止され、国が運用する鉄道車両と路線が無くなった。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
*[[日本の鉄道事業者一覧]]
*[[日本の鉄道]]
*[[旅客営業規則]]・[[旅客営業取扱基準規程]]
*[[鉄道事業会計規則]]
== 外部リンク ==
* [http://www.mintetsu.or.jp/ 日本民営鉄道協会]
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[[Category:鉄道事業者|*]] | 2003-03-13T07:57:56Z | 2023-12-09T19:58:24Z | false | false | false | [
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3,924 | 乗車カード | 乗車カード(じょうしゃカード)とは、乗車券カードを指し、鉄道やバスなどの公共交通機関を利用する際に運賃支払いのため利用できる、磁気ストライプカードやICカードなどによるプリペイド式またはポストペイ式(後払い式)のカードである。バス専用のカードは「バスカード」と呼ばれる。
公共交通機関を利用する際、乗車時・降車時に読取機に情報を読み取らせるだけで運賃の支払いが可能なカードである。通常のプリペイドカードと同様に事前に代金を支払って購入し、残額がゼロになるまで繰り返し利用できる。ICカードの場合はチャージ(積み増し)して繰り返しカードを使用することもできる。
バス・路面電車においては、乗降客が整理券を取る、小銭を両替する、運賃を確認し運賃箱に入れるなどの煩わしさから解放される利点がある。鉄道においては、乗客は出札口や自動券売機に並んで乗車券を購入する必要がなく、事業者側は自動券売機の設置台数を減らせるなどの利点がある。さらに非接触型ICカードの場合、カードを財布などから出し入れする必要すらない。
乗車カードによってはプレミアム(割増)やポイントが付くこともあるほか(後述)、カードを利用して乗車情報を記録しておくことができるので、乗車カード利用者限定の乗り継ぎ割引制度を設けている事業者もある。
読み取り機・自動改札機で直接使用する他に、乗車カードによっては、自動券売機での乗車券・料金券(特急券など)の購入や自動精算機での不足運賃の精算(乗り越し)などにも使用できる場合もある。
鉄道切符のデータ格納方法は、紙券(硬券または軟券)、磁気券、ストアードフェアカード、非接触ICカード、デジタルチケットと変遷してきた。乗車カードには、磁気カード、ストアードフェアカード、非接触ICカード、デジタルチケットの方式がある。
なお、乗車券には支払証明の機能(利用者が支払った料金と利用条件の証明)と情報表示の機能(利用者が区間、経由、日時、有効期限、列車や座席の指定)があり、デジタルチケットでは両方の機能をモバイル端末のアプリケーションプログラムで処理する。また、ストアードフェアカード(SFカード)では情報表示の機能として使用履歴も扱うことができる。
磁気カードを使用する方式。紙片やプラスチックカードに磁気インクを塗布し、磁気エンコードされたデータを記録して自動改札機等で読み取る。乗車カード導入当初はこの方式が多かった。
乗降の際、読み取り機あるいは読み取り機能のある自動改札機に挿入する。カードの種類によっては、裏の磁気面に乗車日や乗車時刻、利用区間、支払額などの情報が印字されるものもある。カードは使い捨てで、残額を使い切ったら処分して再び新しいカードを購入する。
なお、日本のゆいレール、北九州モノレールではQRコードによる読み取り方式を採用している。
ストアードフェアカード(SFカード)は運賃として予め支払われた額を記録しておき、自動改札機で乗車区間に応じて運賃をカード残高から差し引いていく方式である。乗車回数を貯めておくストアードライドシステム (stored ride system) もある。
入場記録が存在することが前提になるので、すべての改札に情報書き込みが可能な自動改札機かそれに準ずる装置が必要とされる。バスの場合は車内に備え付けられたカードリーダーが自動改札機の代わりとなる。
鉄道事業者によっては無人駅でカードの取扱いを行わない場合や、自動改札機のない有人駅で駅係員に申し出て入出場処理を行う場合もある。不正乗車を防ぐため、自動改札機でカードの入場処理と出場処理を交互に行わなければ改札機を通過できなくしている事業者もある。
非接触型ICカード(以下、単に「ICカード」)を用いる方式。CPUを組み込んだ非接触型のカードを用いる方式で無線でデータの授受を行う方式である。
日本のICカード乗車券(後述)が使える交通機関、八達通が使える香港の交通機関、オイスターカードが使えるロンドン交通局など、多くの鉄道駅や路線バス等において、入場の際に駅の自動改札機または簡易ICリーダーにタッチし、出場の際に再びこれらにタッチすることで簡単に使用できる。路面電車や路線バスにおいては、駅や停留所にはICリーダーが設置されておらず、車両の乗降ドア付近のICリーダーに乗り降りの際にタッチすることで使用できる。
ICカードでは同じカードを使い続けることが前提で、残額を使い切ったときは駅やバスターミナルなどに設けられた自動券売機やチャージ機によりチャージ(積み増し)して再使用する。利用額にデポジットを加算した額で発売していることが多く、不要になったときはカードを発行元に返却するとデポジットが戻る。
事業者によってはICカードに定期券や一日乗車券などを搭載することができる。クレジットカードと一体となったものやクレジットカードに紐付けできるものもある。紐付けされたクレジットカードを利用すると残高が一定金額を下回った場合にクレジットカードを通じて自動でチャージ(オートチャージ)出来るように設定できるものもある。
カードの発行事業者や種類によっては、利用区間の運賃や利用回数に応じてポイントが加算されるもの、カード利用者に限り利用区間の通常運賃より安い額が引き去られるもの、入金した金額より少し高い額が積み増しされるものもある。
クレジットカード(EMVコンタクトレス決済に対応のもの)を乗車券のように用いる方式。
デジタルチケットはモバイル端末の通信機能を利用して乗車券の購入等を行うもので、乗車券の購入だけでなく列車の座席予約なども行うことができるものもある。IC乗車カードと同等のICチップ(FeliCaやNFCなど)を携帯電話やスマートフォンに搭載して利用し、運賃の支払いが可能になる場合がある。
デジタルチケットの導入により、窓口や券売機での混雑の回避でき、端末をかざすだけで改札を通過することができる。また、モバイル端末を使ってチケット(指定券など)をどこからでも購入できるサービス、ゲート通過時にモバイル端末に駅からの情報(乗車案内等)を提供するサービスなどを行うシステムの導入も可能となる。
日本のモバイルSuica、香港の八達通 (Octopus)、台湾の悠遊カード (悠遊卡、EasyCard)、シンガポールのEZ-link、韓国のTマネーなどでモバイル利用が可能なサービスが存在する。2020年春にモバイルPASMOがサービス開始。
日本ではモバイルサービスはフィーチャーフォン携帯電話およびPHSの一部機種でおサイフケータイ対応としてモバイルSuicaなどが利用可能である。スマートフォンが主流となり、iPhoneは一部旧世代端末では利用できなかったが、FeliCa搭載iPhoneの登場によりモバイルSuicaなどが利用可能となった(Apple Pay Suica)。Android端末ではおサイフケータイ対応端末の一部でモバイルSuicaなど、またはGoogle Pay Suicaとして利用可能である。2020年春にAndroid端末に対応したモバイルPASMOがサービス開始。
紙券など従来の乗車券の場合、購入手段の問題、携行の手間の問題、紛失リスクがある。
購入手段は紙券など従来の乗車券の場合、駅や旅行代理店など購入場所が限られる。電話やインターネットでの予約も可能だが換券は駅などで行う必要がある。デジタルチケットの場合、実媒体としての切符は不要で予約券、一回券、期間券、回数券などの乗車券をモバイル端末の通信機能で購入できる。また、デジタルチケットの場合、購入した予約券、一回券、期間券、回数券などの乗車券はモバイル端末に保存されるため、携行の手間や紛失リスクを低減できる。
さらに自動改札機連動情報配信サービスの構想では、モバイル端末に定期券のID番号のほかに利用者の電子メールアドレスや希望する情報を登録できるようにし、広告主は交通機関を利用する利用者の場所や時間に合わせて広告を配信することが可能となり、鉄道会社などの交通機関は運賃だけでなく広告料収入を得ることもできるとしている。
交通事業者によるプリペイドカードの例として、1985年に当時の日本国有鉄道(国鉄)がオレンジカードを発売したほか、他の交通事業者でも同様のカードが発売された。これらは乗車カードではなく、自動券売機に投入して乗車券を購入する金券方式のプリペイドカード(間接式)で、カードをそのまま自動改札機に投入することはできなかった。
路線バスにおける磁気バスカードは、1980年代以降、均一運賃制の路線での導入例があったが、本格的かつ大規模な導入例としては、1988年5月9日に神奈川中央交通が導入した「神奈中バスカード」が多区間運賃制では日本初のものである。システムは三陽電機製作所(現:レシップ)との共同開発で、のちのバス共通カードやPASMO・Suicaにおけるバス利用特典サービスにも引き継がれるプレミアム(割引)付きであった。その後、バス共通カードに統合されて発行終了している。これを嚆矢として各地のバス事業者でバスカードの導入が進んだ。
翌1989年10月4日、奈良交通が磁気式バスカードを導入。多区間運賃路線についても導入した。バスカードが利用可能な車両には、神奈川中央交通と同様に丸い「バスカード」のマークを車両前面に装着しており、このマークがある車両のみで利用できた。
1990年には、長崎自動車が磁気式バスカード対応の自動精算式運賃箱を導入。翌1991年1月末までに全車で設置完了した。整理券に印刷されたバーコードを運賃箱で読み取り、バスカードから差し引く方式である。
なお、神奈川中央交通と長崎自動車のバスカード導入にあたっては、運輸省から「昭和63年度バス交通活性化補助」が交付されていた。バスカード導入で補助対象になったのはこれらが日本初の事例である。
鉄道事業者では、名古屋市交通局が1988年3月1日に「リリーカード」を発売、4月1日から名古屋市営地下鉄全線で使用開始した。ただしリリーカードで地下鉄に乗車する際は、カードを直接自動改札機に投入することはできず、自動券売機にリリーカードを投入して切符を購入する方式であった(オレンジカードと同様)。翌1989年9月10日の市営地下鉄桜通線開業と同時に、地下鉄回数券を磁気カード化し「回数券カード」となった。これが名古屋市営地下鉄では初となる、自動改札機に直接投入できる磁気式乗車カードである。リリーカードの利用は名古屋市営バスにも拡大され、1989年10月2日より基幹バス1号系統に試験導入、1991年10月1日には市営バス全線に導入された。バスでは運賃箱の磁気カードリーダーに直接挿入して支払可能であった。翌1992年には名鉄バスと共同運行する基幹バス2号系統で、リリーカードと名古屋鉄道の「パノラマカード」の共通利用が可能となった。その後、1998年5月6日にストアードフェア方式のユリカを発売したため発行終了している。
また1989年12月には、遠州鉄道の磁気式乗車カード「ETカード」がサービス開始した(ETは Entetsu Trafficの略)。ETカードもリリーカードと同様に当初は鉄道のみであったが、1992年2月20日には遠鉄バスにも拡大された。リリーカードと同じく鉄道では自動券売機で切符を購入し、バスでは運賃箱に直接挿入して運賃を支払う方式であった。後述のIC乗車カード「EG1CARD(イージーワンカード)」(2002年試験導入、2003年本格導入)および「ナイスパス」(2004年にEG1CARDから移行する形で本格導入)に伴い廃止されている。
1991年3月1日、東日本旅客鉄道(JR東日本)は、自動改札機に直接投入できるストアードフェア方式のイオカードを山手線内の一部の駅で利用開始し、その後首都圏の各駅に導入を進めていった。
1991年10月には、新潟交通で「バスカード」のサービスが開始された。同社のICカードバス乗車券「りゅーと」利用促進のため、2013年9月30日をもってサービス終了している。
1992年3月16日、福島交通は福島支社管内の路線バスで磁気式バスカードシステムを導入し、福島市中心部の特定路線で運用される専用の中型車で磁気式バスカードの利用が可能となった。2001年に郡山支社管内でバスICカードが導入された後も併存していたが、新バスICカード「NORUCA」に代替され2010年に廃止されている。
バスカードについては、同一地域内での各事業者の乗車カードの共通化が早くから各地で進められ、首都圏1都3県(東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県)におけるバス共通カードのように広域的に共通化されたものもあった。バス共通カードは、1992年3月には横浜市・川崎市内の均一運賃区間で共通利用が始まり(横浜市営バス・川崎市バス・神奈川中央交通・江ノ島電鉄の4社局)、横浜市交通局のマリンカードとの共通利用も図られた。1994年10月には東京都区内均一運賃区間(東京23区・武蔵野市・三鷹市・調布市・狛江市)の各社局にも共通利用の範囲が広がり、その後段階的に東京多摩地域や埼玉県・千葉県の多区間運賃制の地区でも利用可能となった。PASMOへの移行に伴い、バス共通カードは2010年内に各社局での販売・利用が停止されている。
また広島県でも、1993年3月25日に広島電鉄(バスのみ)・広島バス・広島交通・芸陽バス・備北交通・中国ジェイアールバスのバス事業者6社で共通利用可能な磁気式乗車カード「6社共通バスカード」を導入。翌1994年8月20日には広島高速交通(アストラムライン)が参入、1997年3月31日には広島電鉄が電車線にも導入し、バスと鉄軌道での共通利用となった。また1996年8月31日には公営事業者である呉市交通局も参入している。
関西の私鉄・公営事業者では、1992年4月1日に阪急電鉄が「ラガールカード」でのストアードフェアシステムを開始。こちらは自社線全駅で使用可能となった日本初のストアードフェアシステムとなった。1994年4月1日、ラガールカードと能勢電鉄の「パストラルカード」が共通利用開始。さらに1996年3月20日、阪神電気鉄道、大阪市交通局、北大阪急行電鉄の3社局がこれに参加し、関西5社局共同で「スルッとKANSAI」を開始した(スルッとKANSAIはシステム名で、カード名称は各社局で異なる)。これは日本初の広域の複数事業者での鉄道・バス共通利用システムであり、のちにポストペイ型ICカードPiTaPaへつながっていく。
関東ではイオカード発売と同年の1991年11月29日、帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)から南北線の駒込駅 - 赤羽岩淵駅間の開業時にストアードフェアシステムのNSメトロカードが発売され、将来の共通化を視野にイオカードと同じシステムを採用した。当時は南北線限定のカードであった(NSは「南北=North・South」と「New Service」を掛けている)。また1993年11月1日に東京都交通局のTカードが発売されたが、都電・都営バス用カードは神奈中バスカードと同じシステム、都営地下鉄用カードはイオカードと同じシステムを採用し、互換性はなかった。都電・都バス用カードはバス共通カードの都区内均一区間への利用拡大に伴い廃止されたが、1996年3月26日に都営地下鉄と営団地下鉄が共通ストアードフェアシステムを開始し、営団からはSFメトロカードが発売されている(SFはストアードフェアの略)。これをベースとして2000年10月14日にパスネットがサービス開始し、当初は首都圏17社局が参加した。イオカードベースのシステムであったが、JR東日本はSuicaを開発中としてパスネット協議会に参加しなかった。首都圏の公営・民営事業者は、パスネットとバス共通カードを統合する形でPASMOへ移行することになる。
日本国内では1996年度から1999年度にかけて、ICカードを使用した汎用電子乗車券の開発プロジェクトが官民一体となって行われ、政府(国土交通省)と民間の鉄道事業者や機器メーカーなどにより共同研究が行われた。その結果を踏まえ、旧国鉄の流れを汲む日本鉄道サイバネティクス協議会により、2000年3月に交通系ICカードの共通規格(通称「サイバネ規格」)が制定された。これはソニーが開発した非接触型ICカード規格「FeliCa」(フェリカ、Type-C)を採用した規格であり、翌2001年にはサイバネ規格に準拠した交通系ICカードであるSuicaが登場した。その後はサイバネ規格が日本の交通系ICカードの事実上の標準となり、交通系ICカード全国相互利用サービスへつながっていく。
1997年9月1日、香港の公共交通機関に八達通(オクトパス)が導入された。初のFeliCaを搭載した交通系ICカードであった。
日本でも同1997年10月1日、静岡県磐田郡豊田町(現:磐田市)のコミュニティバス「ユーバス」(廃止、運行は遠鉄バスに委託)で、日本初のICカード乗車券である「ユーバスカード」が導入された。ユーバスカードはFeliCaとは通信方式が異なるフィリップス社提唱の非接触型ICカード「ISO14443 Type-A」を採用していた。これを皮切りに全国各地で交通系ICカードが広まってゆくことになる。またユーバスは遠州地方で初めてのコミュニティバスでもあった。
1998年7月28日、東急バス子会社の東急トランセ代官山循環線の運行開始と同時に、専用のバスICカード乗車券「トランセカード」が導入される。これはFeliCaを搭載した日本初の交通系ICカードであった。
1998年8月28日、スカイレール広島短距離交通瀬野線 みどり口 - みどり中央間が全線開業。同年9月、スカイレールサービスが新交通システムスカイレールにIC定期券「スカイレールICカード」導入(FeliCaを採用)。これは鉄軌道における日本初の非接触式ICカード乗車券であった。
1999年11月、道北バスでICカード乗車券「Doカード」導入(FeliCaを採用)。北海道では初の交通系ICカード導入で、磁気カードの「バスカード」も同時にサービス開始している。2014年11月のシステム更新を経て、2015年2月1日より旭川電気軌道の「Asaca CARD」と相互利用を開始した。
2000年2月28日、山梨交通で「バスICカード」導入開始(実証実験は1999年10月から)。FeliCaを採用。当初から全社的に導入したバスICカードとしては日本初となる。また2002年4月1日にはクレジットカード一体型の「バスOMCカードもサービス開始。OMCカードとの提携カードでマスターカードブランドである。山梨交通はこれを「世界初の交通系ICカード一体型クレジットカード」としている(山梨交通#日本初のバスICカード本格導入も参照)。
2001年3月、札幌都市圏において「S.M.A.P.カード」実証実験開始。FeliCaを採用。札幌市交通局(札幌市営地下鉄)のICカード乗車券でもあったが、それにとどまらず地域通貨的な性格を持つものであり、PiTaPaで実装されたポストペイ型電子マネーとしての実験なども行われた。実証実験は2004年3月に終了、2009年1月30日よりSAPICAが導入されたが、ポストペイシステムは採用されなかった。
同2001年4月2日、福島交通で「バスICカード」導入開始。郡山支社管内の郡山駅前発着の一般路線8路線で運用開始、同年10月1日には郡山市内の一般路線全路線へ運用拡大。東北地方では初の交通系ICカード導入であり、ユーバスカードと同じType-Aを採用していた。のちに親会社がみちのりホールディングスに変わったこともあり、FeliCaに規格を統一するため2010年10月30日より新バスICカード「NORUCA」を導入し、ICカードシステムを更新した(福島交通#バスカード(磁気式・IC)も参照)。
同2001年9月、北九州市交通局でひまわりバスカードを導入(FeliCaを採用)。九州での交通系ICカード先行導入となる。ICカードシステムは小田原機器製。
2001年11月18日、JR東日本が首都圏424駅で、サイバネ規格準拠の非接触型ICカード乗車券Suicaをサービス開始。
2002年1月21日、共通ICカード「長崎スマートカード」が利用開始。Felicaを採用。紙式のバス共通回数券を電子化する形で移行し、日本初の共通バスICカードとなった。2005年3月までにバス事業者の全車両に順次搭載。のちに路面電車や鉄道にも拡大され、長崎県内の10社局が参加した。導入にあたっては山梨交通の「バスICカード」が参考とされた。また2005年12月には「モバイル長崎スマートカード」もサービス開始、日本初のおサイフケータイ対応共通バスICカードとなった。
同2002年3月1日、遠州鉄道の電車および遠鉄バスで「EG1CARD(イージーワンカード)」の実証実験を開始。サイバネ規格準拠、FeliCaを採用。翌2003年4月1日より遠鉄バスで「EG1CARD」が本格運用開始(本格運用はバスのみ)。2004年8月20日より「ナイスパス」に移行、遠鉄の電車・バス全線で運用開始。鉄道・バス共通の本格的なIC乗車カードとしては日本初となった。またナイスパスでは2009年9月1日、Suica・PASMO・nimocaに続き、日本のIC乗車カードで4番目にオートチャージサービスを開始したが、バス車両でのオートチャージは日本初となっている。
同2002年7月7日、東京急行電鉄世田谷線専用のICカード乗車券「せたまる」サービス開始。FeliCaを採用。「せたまる回数券」「せたまる定期券」の2種類が存在し、ポイントサービスもあり地域通貨としての利用も試みられた。
2003年11月1日、JR西日本のICOCAがアーバンネットワーク圏内でサービス開始、以降順次エリアを拡大する。
2004年8月1日、スルッとKANSAIによるPiTaPaがサービス開始。当初は阪急電鉄・能勢電鉄・京阪電気鉄道の鉄道3社で導入された。ポストペイ方式を採用した点が特徴となっている(PiTaPa#ポストペイ方式の採用も参照)。
2005年8月23日、伊予鉄道が「ICい~カード」とおサイフケータイ対応の「モバイルICい~かーど」を導入。磁気式「い~カード」から移行したものだが、おサイフケータイ対応のIC乗車カードとしては日本初となる(モバイル長崎スマートカードは同年12月サービス開始)。伊予鉄道・伊予鉄バスに加え、伊予鉄タクシーでも共通利用できる、電子マネー機能も付加し、伊予鉄髙島屋などグループ企業でのショッピングにも利用可能とした。
2006年1月21日には関西圏でICOCA・PiTaPaの相互利用が開始された。同年2月1日には大阪市交通局・阪神電気鉄道・大阪モノレール・北大阪急行電鉄で追加導入、同時に阪急バス・神姫バスの一部路線にも導入され、バスでの利用が開始された。
同2006年1月28日、JR東日本でおサイフケータイ機能を使用したモバイルSuicaがサービス開始した。
2007年3月18日、パスネットとバス共通カードを統合する形でPASMOがサービス開始。同時に首都圏ICカード相互利用サービスとして、Suicaとの相互利用が開始されている。
2013年3月23日、交通系ICカード全国相互利用サービス開始。Suica・PASMO・ICOCA・PiTaPa・kitaca・TOICA・manaca・SUGOCA・nimoca・はやかけんとの相互利用が可能になる。以降も全国相互利用サービス参加事業者は増加しており、地方の私鉄・バス事業者を含めた多数のICカード乗車券の全国相互利用が進んでいる。
日本のものについては後述する。(→#日本の乗車カード制度、#日本のICカード乗車券)
資金決済法により、1000万円を越える金券(前払式証票)を発行した者(事業者)は、通常は残高の半分以上を法務局に供託しなければならないが、乗車カードの場合は(乗車券と解釈されるので)供託は不要となっている。電子マネー機能付き乗車カードなど、カードに金券的性格がある場合は、供託金の供託義務が発生する場合がある。
乗車カードには有効期限を設定しているものがある。すなわち、SFとしてチャージするなどしても、その後利用せずに一定の期間を経過するとその価値が滅失する場合がある。特に繰り返し使用できるICカードにおいては注意が必要である。
多くの交通系ICカードは、10年間一度も利用がない場合も失効すると規定されているが、実際の取り扱いはカードにより異なる。
乗車カードについて紛失・盗難が起きた場合には、事業者によって対応が異なるが、例としてSuicaやPASMO、その他Suica準拠の乗車カードについては、通常、記名式・定期券については再発行に応じる事が多い(手数料を取られる場合がある)。無記名式の場合には失効(再発行なし)となる事が多い。
破損等の障害(読取不良等)が発生した場合は、事業者により対応が異なる。
大規模災害などによる大規模な停電や通信障害が発生したような場合、乗車カードの電子マネー機能や、IC乗車カードのオートチャージ機能などは、それが復旧するまでは機能せず、その価値を行使できなくなる。もっとも、そのような場合には鉄道や駅設備のほとんどは運休や休止し、バスについてはシステムによるがIC乗車カードでも(オートチャージを除き)対応できる場合がある。磁気カードは原則対応可能である。
自動券売機にて乗車券等と引き換える、単なるプリペイドカード(間接式)タイプとしては、JRグループ各社が取り扱うオレンジカードがある。かつて大手私鉄など各所で発行されたが、近年はSF機能カードへの移行が進んでおり、発行する会社は少なくなっている。SF機能付きの乗車カードにおいても、残高不足や複数人乗車、小児料金などの特殊な場合の運賃等に対応するため、プリペイドカード同様に自動券売機で乗車券等と引き換えることができる。
又、乗車カードはJR東日本の「タッチでエキナカ」等の一部のサービスを除いて入場券として利用できないカード・事業者がほとんどである。
日本では1980年代 - 1990年代以降、バスや鉄道などの運賃収受システムとして、日本国内各地で導入されるようになった。また日本では2001年からは非接触型ICカードによる物が普及しつつある。
営団地下鉄とその後身の東京メトロで用いられた乗車カード「SFメトロカード」や改札に表示される「SF」は、このStored Fare(ストアードフェア、カードに運賃を入れる前払い)の頭文字に由来する。以下本項目でもストアードフェアを「SF」と略する。
松浦鉄道など、一部日本のローカル線では駅にICリーダーが設置されておらず、後述のバスや路面電車のように車両の乗降ドア付近のICリーダーに乗り降りの際にタッチすることで使用できる。ただしSuicaエリアである横浜駅でICカードをタッチして入場し、TOICAエリアである静岡駅でICカードをタッチすることは不可能(下車した駅で精算を行うか、ICカード利用エリアの境目となる駅での途中下車が必要)。
また、富山地方鉄道では有人駅で自動改札機や簡易ICリーダーにタッチし、無人駅で車両の乗降ドア付近にあるICリーダーにタッチする併用方式をとっている。TOICAエリアなど一部を除き、入場するためにはカードに少額の残金が残っている必要があり、例えばSuicaやPASMOでは残金に初乗り運賃分が、ICOCAは1円以上、PiTaPa、IruCaでは10円が残っていないと入場できない(出場する前にチャージする必要がある)。
バスや路面電車は運賃均一の場合、乗る際または降りる際に一度ICリーダーにタッチするだけで使用できる。距離制など運賃が不均一な場合は、乗る際にICリーダーにタッチし、降りる際にもICリーダーにタッチすることで使用できる。
船舶やその他の交通機関では、電子マネー扱いとなっている場合もあり、ICカードでチケット料金や利用料金を払うという形となる。このため、電子マネー部分の方式が異なるPiTaPaでは全国相互利用ができないケースもある。
磁気カードでは同種のカードを地域内の各事業者が導入することで複数事業者での共通利用を実現した例が多いが、ICカード乗車券の場合はそれだけではなく、ICカード乗車券を別のICカード乗車券のサービス提供エリアで利用できるサービスが実施されている例がある。例えば、カードAを使用しカードBのエリアを、かつカードBを使用しカードAのエリアで相互に利用できる相互利用(Suica・ICOCA・TOICAエリアなど)がほとんどであるが、カードAを使用しカードBのエリアで利用できるが、カードBを使用しカードAのエリアで利用できない、いわゆる片利用(ICOCA→PASPYなど)の場合もある。2013年3月23日からは、Kitaca・Suica・PASMO・TOICA・manaca・ICOCA・PiTaPa・SUGOCA・nimoca・はやかけんの10種類のカードについて、乗車カードとしての相互利用を開始している(交通系ICカード全国相互利用サービス)。
これらは事業者同士の提携によるため、相互利用(以下、片利用を含む)の可否には組み合わせがある。また、乗車券として(交通)・電子マネーとしての相互利用可否にもそれぞれ組み合わせがある(図参照)。カード利用時に受けられるサービスの一部について、相互利用の他のカードではそのサービスを受けられないことがある。
なお、鉄道の場合は多くの事業者で、乗る駅・途中の経路・降りる駅いずれも(ICカード乗車券の)同一サービス提供エリア内にある事を前提としている(前述の相互利用ができる場合であっても、サービス提供エリアをまたぐ利用はできない場合が多い)。そのような場合には、現金等またはICカード乗車券を使用して、通常の乗車券等を購入することになる。
なお、交通系ICカード全国相互利用サービスにおいて、電子マネーサービスについては、PiTaPaを除く9種類のICカード乗車券での相互利用となっている。これは、PiTaPaの決済方法がポストペイ(後払い)であり、店舗のICカードリーダの仕組みが違うためである。そのため、既存のPiTaPa導入店舗にICOCAの導入が、また一部のICOCA導入店舗にPiTaPaの導入が進められている。
ICカードの所有権は発行事業者に帰属しており、事業者・発行者から利用者に対する「貸与」となっている。しかし案内上はICカード乗車券に対しても事業者・発行者自身が「購入」「販売」「発売」などの語を用いる場合が多い。貸与にあたり交通機関の利用に使える利用額のほかにデポジットが収受され、ICカードを事業者に返却するとデポジットが返却される。
2012年3月、一部の交通系ICカード提供会社で、インターネットから乗車履歴を照会できるサービスの一時休止が相次いだ。PASMOとSAPICAでは3月1日、nimocaでは3月2日に照会サービスの停止に踏み切った。このうち、PASMOは同年5月18日に照会サービスの終了を発表した。ICカード番号と、カード登録者の個人情報(氏名、電話番号、生年月日など一般的な個人情報)をウェブから入力するだけで、誰でも乗車履歴を照会できる点が問題とされている。
ほとんどの鉄道事業者では1000円単位でのチャージとなっているが、JR西日本及びJR東日本の一部の券売機および乗越精算機では500円単位、京都市営地下鉄と東京メトロ、東急電鉄の券売機および乗越精算機では10円単位でのチャージも受け付けている。また、チャージ残高不足の場合には乗越精算機で不足分のみチャージできる会社もある。
以下に日本のICカード乗車券の一覧を示す。太字[お]のものはおサイフケータイ等のSF機能対応、★印のものは「交通系ICカード全国相互利用サービス」による相互利用が可能なカード等(以下単に「全国相互対応カード等」と略す)である。乗車カードそのものではないサービス名については「」書きする。
なお、複数の事業者にまたがって運用されているカードの事業者詳細については当該項目を参照されたい。(箇条書きの入れ子について片利用関係等を示す)
各新幹線路線で利用可能なIC乗車カードサービスは現状、EX-ICサービスに登録したカード等、モバイルSuica特急券(2020年3月24日以降は「新幹線eチケットサービス」)、またはタッチでGo!新幹線に限られる。新幹線各路線での利用条件や新在乗継条件も含め詳細は各々の項目を参照のこと。
新在乗継の在来線部分の運賃自動精算については、取扱可否も含め詳細は該当エリアのカード項目を参照のこと。
上記のエリアでは、いずれも全国相互対応カード等の片利用が可能である。
鹿児島地区では、かごしま共通乗車カードである下記2種のIC乗車カードが相互利用可能である。
商業系電子マネーで利用できる鉄道・バス・船舶を下記に示す。また、全国各地のタクシー事業者(一部事業者、一部車両)で利用可能な場合がある。すべておサイフケータイなどの電子マネー機能にも対応する。なお、SF機能ではないため、厳密には乗車カードには該当しない。
試験導入のみのものは含まない。
発行終了後の取り扱いなどの詳細は、項目があるものは該当項目を参照。 | [
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"text": "乗車カード(じょうしゃカード)とは、乗車券カードを指し、鉄道やバスなどの公共交通機関を利用する際に運賃支払いのため利用できる、磁気ストライプカードやICカードなどによるプリペイド式またはポストペイ式(後払い式)のカードである。バス専用のカードは「バスカード」と呼ばれる。",
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"text": "公共交通機関を利用する際、乗車時・降車時に読取機に情報を読み取らせるだけで運賃の支払いが可能なカードである。通常のプリペイドカードと同様に事前に代金を支払って購入し、残額がゼロになるまで繰り返し利用できる。ICカードの場合はチャージ(積み増し)して繰り返しカードを使用することもできる。",
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"text": "バス・路面電車においては、乗降客が整理券を取る、小銭を両替する、運賃を確認し運賃箱に入れるなどの煩わしさから解放される利点がある。鉄道においては、乗客は出札口や自動券売機に並んで乗車券を購入する必要がなく、事業者側は自動券売機の設置台数を減らせるなどの利点がある。さらに非接触型ICカードの場合、カードを財布などから出し入れする必要すらない。",
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"text": "乗車カードによってはプレミアム(割増)やポイントが付くこともあるほか(後述)、カードを利用して乗車情報を記録しておくことができるので、乗車カード利用者限定の乗り継ぎ割引制度を設けている事業者もある。",
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"text": "読み取り機・自動改札機で直接使用する他に、乗車カードによっては、自動券売機での乗車券・料金券(特急券など)の購入や自動精算機での不足運賃の精算(乗り越し)などにも使用できる場合もある。",
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"text": "鉄道切符のデータ格納方法は、紙券(硬券または軟券)、磁気券、ストアードフェアカード、非接触ICカード、デジタルチケットと変遷してきた。乗車カードには、磁気カード、ストアードフェアカード、非接触ICカード、デジタルチケットの方式がある。",
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"text": "なお、乗車券には支払証明の機能(利用者が支払った料金と利用条件の証明)と情報表示の機能(利用者が区間、経由、日時、有効期限、列車や座席の指定)があり、デジタルチケットでは両方の機能をモバイル端末のアプリケーションプログラムで処理する。また、ストアードフェアカード(SFカード)では情報表示の機能として使用履歴も扱うことができる。",
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"text": "磁気カードを使用する方式。紙片やプラスチックカードに磁気インクを塗布し、磁気エンコードされたデータを記録して自動改札機等で読み取る。乗車カード導入当初はこの方式が多かった。",
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"text": "乗降の際、読み取り機あるいは読み取り機能のある自動改札機に挿入する。カードの種類によっては、裏の磁気面に乗車日や乗車時刻、利用区間、支払額などの情報が印字されるものもある。カードは使い捨てで、残額を使い切ったら処分して再び新しいカードを購入する。",
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"text": "なお、日本のゆいレール、北九州モノレールではQRコードによる読み取り方式を採用している。",
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"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "ストアードフェアカード(SFカード)は運賃として予め支払われた額を記録しておき、自動改札機で乗車区間に応じて運賃をカード残高から差し引いていく方式である。乗車回数を貯めておくストアードライドシステム (stored ride system) もある。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "入場記録が存在することが前提になるので、すべての改札に情報書き込みが可能な自動改札機かそれに準ずる装置が必要とされる。バスの場合は車内に備え付けられたカードリーダーが自動改札機の代わりとなる。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "鉄道事業者によっては無人駅でカードの取扱いを行わない場合や、自動改札機のない有人駅で駅係員に申し出て入出場処理を行う場合もある。不正乗車を防ぐため、自動改札機でカードの入場処理と出場処理を交互に行わなければ改札機を通過できなくしている事業者もある。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "非接触型ICカード(以下、単に「ICカード」)を用いる方式。CPUを組み込んだ非接触型のカードを用いる方式で無線でデータの授受を行う方式である。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "日本のICカード乗車券(後述)が使える交通機関、八達通が使える香港の交通機関、オイスターカードが使えるロンドン交通局など、多くの鉄道駅や路線バス等において、入場の際に駅の自動改札機または簡易ICリーダーにタッチし、出場の際に再びこれらにタッチすることで簡単に使用できる。路面電車や路線バスにおいては、駅や停留所にはICリーダーが設置されておらず、車両の乗降ドア付近のICリーダーに乗り降りの際にタッチすることで使用できる。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ICカードでは同じカードを使い続けることが前提で、残額を使い切ったときは駅やバスターミナルなどに設けられた自動券売機やチャージ機によりチャージ(積み増し)して再使用する。利用額にデポジットを加算した額で発売していることが多く、不要になったときはカードを発行元に返却するとデポジットが戻る。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "事業者によってはICカードに定期券や一日乗車券などを搭載することができる。クレジットカードと一体となったものやクレジットカードに紐付けできるものもある。紐付けされたクレジットカードを利用すると残高が一定金額を下回った場合にクレジットカードを通じて自動でチャージ(オートチャージ)出来るように設定できるものもある。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "カードの発行事業者や種類によっては、利用区間の運賃や利用回数に応じてポイントが加算されるもの、カード利用者に限り利用区間の通常運賃より安い額が引き去られるもの、入金した金額より少し高い額が積み増しされるものもある。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "クレジットカード(EMVコンタクトレス決済に対応のもの)を乗車券のように用いる方式。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "デジタルチケットはモバイル端末の通信機能を利用して乗車券の購入等を行うもので、乗車券の購入だけでなく列車の座席予約なども行うことができるものもある。IC乗車カードと同等のICチップ(FeliCaやNFCなど)を携帯電話やスマートフォンに搭載して利用し、運賃の支払いが可能になる場合がある。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "デジタルチケットの導入により、窓口や券売機での混雑の回避でき、端末をかざすだけで改札を通過することができる。また、モバイル端末を使ってチケット(指定券など)をどこからでも購入できるサービス、ゲート通過時にモバイル端末に駅からの情報(乗車案内等)を提供するサービスなどを行うシステムの導入も可能となる。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "日本のモバイルSuica、香港の八達通 (Octopus)、台湾の悠遊カード (悠遊卡、EasyCard)、シンガポールのEZ-link、韓国のTマネーなどでモバイル利用が可能なサービスが存在する。2020年春にモバイルPASMOがサービス開始。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "日本ではモバイルサービスはフィーチャーフォン携帯電話およびPHSの一部機種でおサイフケータイ対応としてモバイルSuicaなどが利用可能である。スマートフォンが主流となり、iPhoneは一部旧世代端末では利用できなかったが、FeliCa搭載iPhoneの登場によりモバイルSuicaなどが利用可能となった(Apple Pay Suica)。Android端末ではおサイフケータイ対応端末の一部でモバイルSuicaなど、またはGoogle Pay Suicaとして利用可能である。2020年春にAndroid端末に対応したモバイルPASMOがサービス開始。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "紙券など従来の乗車券の場合、購入手段の問題、携行の手間の問題、紛失リスクがある。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "購入手段は紙券など従来の乗車券の場合、駅や旅行代理店など購入場所が限られる。電話やインターネットでの予約も可能だが換券は駅などで行う必要がある。デジタルチケットの場合、実媒体としての切符は不要で予約券、一回券、期間券、回数券などの乗車券をモバイル端末の通信機能で購入できる。また、デジタルチケットの場合、購入した予約券、一回券、期間券、回数券などの乗車券はモバイル端末に保存されるため、携行の手間や紛失リスクを低減できる。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "さらに自動改札機連動情報配信サービスの構想では、モバイル端末に定期券のID番号のほかに利用者の電子メールアドレスや希望する情報を登録できるようにし、広告主は交通機関を利用する利用者の場所や時間に合わせて広告を配信することが可能となり、鉄道会社などの交通機関は運賃だけでなく広告料収入を得ることもできるとしている。",
"title": "方式"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "交通事業者によるプリペイドカードの例として、1985年に当時の日本国有鉄道(国鉄)がオレンジカードを発売したほか、他の交通事業者でも同様のカードが発売された。これらは乗車カードではなく、自動券売機に投入して乗車券を購入する金券方式のプリペイドカード(間接式)で、カードをそのまま自動改札機に投入することはできなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "路線バスにおける磁気バスカードは、1980年代以降、均一運賃制の路線での導入例があったが、本格的かつ大規模な導入例としては、1988年5月9日に神奈川中央交通が導入した「神奈中バスカード」が多区間運賃制では日本初のものである。システムは三陽電機製作所(現:レシップ)との共同開発で、のちのバス共通カードやPASMO・Suicaにおけるバス利用特典サービスにも引き継がれるプレミアム(割引)付きであった。その後、バス共通カードに統合されて発行終了している。これを嚆矢として各地のバス事業者でバスカードの導入が進んだ。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "翌1989年10月4日、奈良交通が磁気式バスカードを導入。多区間運賃路線についても導入した。バスカードが利用可能な車両には、神奈川中央交通と同様に丸い「バスカード」のマークを車両前面に装着しており、このマークがある車両のみで利用できた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1990年には、長崎自動車が磁気式バスカード対応の自動精算式運賃箱を導入。翌1991年1月末までに全車で設置完了した。整理券に印刷されたバーコードを運賃箱で読み取り、バスカードから差し引く方式である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "なお、神奈川中央交通と長崎自動車のバスカード導入にあたっては、運輸省から「昭和63年度バス交通活性化補助」が交付されていた。バスカード導入で補助対象になったのはこれらが日本初の事例である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "鉄道事業者では、名古屋市交通局が1988年3月1日に「リリーカード」を発売、4月1日から名古屋市営地下鉄全線で使用開始した。ただしリリーカードで地下鉄に乗車する際は、カードを直接自動改札機に投入することはできず、自動券売機にリリーカードを投入して切符を購入する方式であった(オレンジカードと同様)。翌1989年9月10日の市営地下鉄桜通線開業と同時に、地下鉄回数券を磁気カード化し「回数券カード」となった。これが名古屋市営地下鉄では初となる、自動改札機に直接投入できる磁気式乗車カードである。リリーカードの利用は名古屋市営バスにも拡大され、1989年10月2日より基幹バス1号系統に試験導入、1991年10月1日には市営バス全線に導入された。バスでは運賃箱の磁気カードリーダーに直接挿入して支払可能であった。翌1992年には名鉄バスと共同運行する基幹バス2号系統で、リリーカードと名古屋鉄道の「パノラマカード」の共通利用が可能となった。その後、1998年5月6日にストアードフェア方式のユリカを発売したため発行終了している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "また1989年12月には、遠州鉄道の磁気式乗車カード「ETカード」がサービス開始した(ETは Entetsu Trafficの略)。ETカードもリリーカードと同様に当初は鉄道のみであったが、1992年2月20日には遠鉄バスにも拡大された。リリーカードと同じく鉄道では自動券売機で切符を購入し、バスでは運賃箱に直接挿入して運賃を支払う方式であった。後述のIC乗車カード「EG1CARD(イージーワンカード)」(2002年試験導入、2003年本格導入)および「ナイスパス」(2004年にEG1CARDから移行する形で本格導入)に伴い廃止されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1991年3月1日、東日本旅客鉄道(JR東日本)は、自動改札機に直接投入できるストアードフェア方式のイオカードを山手線内の一部の駅で利用開始し、その後首都圏の各駅に導入を進めていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1991年10月には、新潟交通で「バスカード」のサービスが開始された。同社のICカードバス乗車券「りゅーと」利用促進のため、2013年9月30日をもってサービス終了している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1992年3月16日、福島交通は福島支社管内の路線バスで磁気式バスカードシステムを導入し、福島市中心部の特定路線で運用される専用の中型車で磁気式バスカードの利用が可能となった。2001年に郡山支社管内でバスICカードが導入された後も併存していたが、新バスICカード「NORUCA」に代替され2010年に廃止されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "バスカードについては、同一地域内での各事業者の乗車カードの共通化が早くから各地で進められ、首都圏1都3県(東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県)におけるバス共通カードのように広域的に共通化されたものもあった。バス共通カードは、1992年3月には横浜市・川崎市内の均一運賃区間で共通利用が始まり(横浜市営バス・川崎市バス・神奈川中央交通・江ノ島電鉄の4社局)、横浜市交通局のマリンカードとの共通利用も図られた。1994年10月には東京都区内均一運賃区間(東京23区・武蔵野市・三鷹市・調布市・狛江市)の各社局にも共通利用の範囲が広がり、その後段階的に東京多摩地域や埼玉県・千葉県の多区間運賃制の地区でも利用可能となった。PASMOへの移行に伴い、バス共通カードは2010年内に各社局での販売・利用が停止されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "また広島県でも、1993年3月25日に広島電鉄(バスのみ)・広島バス・広島交通・芸陽バス・備北交通・中国ジェイアールバスのバス事業者6社で共通利用可能な磁気式乗車カード「6社共通バスカード」を導入。翌1994年8月20日には広島高速交通(アストラムライン)が参入、1997年3月31日には広島電鉄が電車線にも導入し、バスと鉄軌道での共通利用となった。また1996年8月31日には公営事業者である呉市交通局も参入している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "関西の私鉄・公営事業者では、1992年4月1日に阪急電鉄が「ラガールカード」でのストアードフェアシステムを開始。こちらは自社線全駅で使用可能となった日本初のストアードフェアシステムとなった。1994年4月1日、ラガールカードと能勢電鉄の「パストラルカード」が共通利用開始。さらに1996年3月20日、阪神電気鉄道、大阪市交通局、北大阪急行電鉄の3社局がこれに参加し、関西5社局共同で「スルッとKANSAI」を開始した(スルッとKANSAIはシステム名で、カード名称は各社局で異なる)。これは日本初の広域の複数事業者での鉄道・バス共通利用システムであり、のちにポストペイ型ICカードPiTaPaへつながっていく。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "関東ではイオカード発売と同年の1991年11月29日、帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)から南北線の駒込駅 - 赤羽岩淵駅間の開業時にストアードフェアシステムのNSメトロカードが発売され、将来の共通化を視野にイオカードと同じシステムを採用した。当時は南北線限定のカードであった(NSは「南北=North・South」と「New Service」を掛けている)。また1993年11月1日に東京都交通局のTカードが発売されたが、都電・都営バス用カードは神奈中バスカードと同じシステム、都営地下鉄用カードはイオカードと同じシステムを採用し、互換性はなかった。都電・都バス用カードはバス共通カードの都区内均一区間への利用拡大に伴い廃止されたが、1996年3月26日に都営地下鉄と営団地下鉄が共通ストアードフェアシステムを開始し、営団からはSFメトロカードが発売されている(SFはストアードフェアの略)。これをベースとして2000年10月14日にパスネットがサービス開始し、当初は首都圏17社局が参加した。イオカードベースのシステムであったが、JR東日本はSuicaを開発中としてパスネット協議会に参加しなかった。首都圏の公営・民営事業者は、パスネットとバス共通カードを統合する形でPASMOへ移行することになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "日本国内では1996年度から1999年度にかけて、ICカードを使用した汎用電子乗車券の開発プロジェクトが官民一体となって行われ、政府(国土交通省)と民間の鉄道事業者や機器メーカーなどにより共同研究が行われた。その結果を踏まえ、旧国鉄の流れを汲む日本鉄道サイバネティクス協議会により、2000年3月に交通系ICカードの共通規格(通称「サイバネ規格」)が制定された。これはソニーが開発した非接触型ICカード規格「FeliCa」(フェリカ、Type-C)を採用した規格であり、翌2001年にはサイバネ規格に準拠した交通系ICカードであるSuicaが登場した。その後はサイバネ規格が日本の交通系ICカードの事実上の標準となり、交通系ICカード全国相互利用サービスへつながっていく。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1997年9月1日、香港の公共交通機関に八達通(オクトパス)が導入された。初のFeliCaを搭載した交通系ICカードであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "日本でも同1997年10月1日、静岡県磐田郡豊田町(現:磐田市)のコミュニティバス「ユーバス」(廃止、運行は遠鉄バスに委託)で、日本初のICカード乗車券である「ユーバスカード」が導入された。ユーバスカードはFeliCaとは通信方式が異なるフィリップス社提唱の非接触型ICカード「ISO14443 Type-A」を採用していた。これを皮切りに全国各地で交通系ICカードが広まってゆくことになる。またユーバスは遠州地方で初めてのコミュニティバスでもあった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1998年7月28日、東急バス子会社の東急トランセ代官山循環線の運行開始と同時に、専用のバスICカード乗車券「トランセカード」が導入される。これはFeliCaを搭載した日本初の交通系ICカードであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1998年8月28日、スカイレール広島短距離交通瀬野線 みどり口 - みどり中央間が全線開業。同年9月、スカイレールサービスが新交通システムスカイレールにIC定期券「スカイレールICカード」導入(FeliCaを採用)。これは鉄軌道における日本初の非接触式ICカード乗車券であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1999年11月、道北バスでICカード乗車券「Doカード」導入(FeliCaを採用)。北海道では初の交通系ICカード導入で、磁気カードの「バスカード」も同時にサービス開始している。2014年11月のシステム更新を経て、2015年2月1日より旭川電気軌道の「Asaca CARD」と相互利用を開始した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2000年2月28日、山梨交通で「バスICカード」導入開始(実証実験は1999年10月から)。FeliCaを採用。当初から全社的に導入したバスICカードとしては日本初となる。また2002年4月1日にはクレジットカード一体型の「バスOMCカードもサービス開始。OMCカードとの提携カードでマスターカードブランドである。山梨交通はこれを「世界初の交通系ICカード一体型クレジットカード」としている(山梨交通#日本初のバスICカード本格導入も参照)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2001年3月、札幌都市圏において「S.M.A.P.カード」実証実験開始。FeliCaを採用。札幌市交通局(札幌市営地下鉄)のICカード乗車券でもあったが、それにとどまらず地域通貨的な性格を持つものであり、PiTaPaで実装されたポストペイ型電子マネーとしての実験なども行われた。実証実験は2004年3月に終了、2009年1月30日よりSAPICAが導入されたが、ポストペイシステムは採用されなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "同2001年4月2日、福島交通で「バスICカード」導入開始。郡山支社管内の郡山駅前発着の一般路線8路線で運用開始、同年10月1日には郡山市内の一般路線全路線へ運用拡大。東北地方では初の交通系ICカード導入であり、ユーバスカードと同じType-Aを採用していた。のちに親会社がみちのりホールディングスに変わったこともあり、FeliCaに規格を統一するため2010年10月30日より新バスICカード「NORUCA」を導入し、ICカードシステムを更新した(福島交通#バスカード(磁気式・IC)も参照)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "同2001年9月、北九州市交通局でひまわりバスカードを導入(FeliCaを採用)。九州での交通系ICカード先行導入となる。ICカードシステムは小田原機器製。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2001年11月18日、JR東日本が首都圏424駅で、サイバネ規格準拠の非接触型ICカード乗車券Suicaをサービス開始。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2002年1月21日、共通ICカード「長崎スマートカード」が利用開始。Felicaを採用。紙式のバス共通回数券を電子化する形で移行し、日本初の共通バスICカードとなった。2005年3月までにバス事業者の全車両に順次搭載。のちに路面電車や鉄道にも拡大され、長崎県内の10社局が参加した。導入にあたっては山梨交通の「バスICカード」が参考とされた。また2005年12月には「モバイル長崎スマートカード」もサービス開始、日本初のおサイフケータイ対応共通バスICカードとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "同2002年3月1日、遠州鉄道の電車および遠鉄バスで「EG1CARD(イージーワンカード)」の実証実験を開始。サイバネ規格準拠、FeliCaを採用。翌2003年4月1日より遠鉄バスで「EG1CARD」が本格運用開始(本格運用はバスのみ)。2004年8月20日より「ナイスパス」に移行、遠鉄の電車・バス全線で運用開始。鉄道・バス共通の本格的なIC乗車カードとしては日本初となった。またナイスパスでは2009年9月1日、Suica・PASMO・nimocaに続き、日本のIC乗車カードで4番目にオートチャージサービスを開始したが、バス車両でのオートチャージは日本初となっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "同2002年7月7日、東京急行電鉄世田谷線専用のICカード乗車券「せたまる」サービス開始。FeliCaを採用。「せたまる回数券」「せたまる定期券」の2種類が存在し、ポイントサービスもあり地域通貨としての利用も試みられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2003年11月1日、JR西日本のICOCAがアーバンネットワーク圏内でサービス開始、以降順次エリアを拡大する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2004年8月1日、スルッとKANSAIによるPiTaPaがサービス開始。当初は阪急電鉄・能勢電鉄・京阪電気鉄道の鉄道3社で導入された。ポストペイ方式を採用した点が特徴となっている(PiTaPa#ポストペイ方式の採用も参照)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2005年8月23日、伊予鉄道が「ICい~カード」とおサイフケータイ対応の「モバイルICい~かーど」を導入。磁気式「い~カード」から移行したものだが、おサイフケータイ対応のIC乗車カードとしては日本初となる(モバイル長崎スマートカードは同年12月サービス開始)。伊予鉄道・伊予鉄バスに加え、伊予鉄タクシーでも共通利用できる、電子マネー機能も付加し、伊予鉄髙島屋などグループ企業でのショッピングにも利用可能とした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2006年1月21日には関西圏でICOCA・PiTaPaの相互利用が開始された。同年2月1日には大阪市交通局・阪神電気鉄道・大阪モノレール・北大阪急行電鉄で追加導入、同時に阪急バス・神姫バスの一部路線にも導入され、バスでの利用が開始された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "同2006年1月28日、JR東日本でおサイフケータイ機能を使用したモバイルSuicaがサービス開始した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2007年3月18日、パスネットとバス共通カードを統合する形でPASMOがサービス開始。同時に首都圏ICカード相互利用サービスとして、Suicaとの相互利用が開始されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2013年3月23日、交通系ICカード全国相互利用サービス開始。Suica・PASMO・ICOCA・PiTaPa・kitaca・TOICA・manaca・SUGOCA・nimoca・はやかけんとの相互利用が可能になる。以降も全国相互利用サービス参加事業者は増加しており、地方の私鉄・バス事業者を含めた多数のICカード乗車券の全国相互利用が進んでいる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "日本のものについては後述する。(→#日本の乗車カード制度、#日本のICカード乗車券)",
"title": "各国の乗車カード一覧"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "資金決済法により、1000万円を越える金券(前払式証票)を発行した者(事業者)は、通常は残高の半分以上を法務局に供託しなければならないが、乗車カードの場合は(乗車券と解釈されるので)供託は不要となっている。電子マネー機能付き乗車カードなど、カードに金券的性格がある場合は、供託金の供託義務が発生する場合がある。",
"title": "日本の乗車カード制度"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "乗車カードには有効期限を設定しているものがある。すなわち、SFとしてチャージするなどしても、その後利用せずに一定の期間を経過するとその価値が滅失する場合がある。特に繰り返し使用できるICカードにおいては注意が必要である。",
"title": "日本の乗車カード制度"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "多くの交通系ICカードは、10年間一度も利用がない場合も失効すると規定されているが、実際の取り扱いはカードにより異なる。",
"title": "日本の乗車カード制度"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "乗車カードについて紛失・盗難が起きた場合には、事業者によって対応が異なるが、例としてSuicaやPASMO、その他Suica準拠の乗車カードについては、通常、記名式・定期券については再発行に応じる事が多い(手数料を取られる場合がある)。無記名式の場合には失効(再発行なし)となる事が多い。",
"title": "日本の乗車カード制度"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "破損等の障害(読取不良等)が発生した場合は、事業者により対応が異なる。",
"title": "日本の乗車カード制度"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "大規模災害などによる大規模な停電や通信障害が発生したような場合、乗車カードの電子マネー機能や、IC乗車カードのオートチャージ機能などは、それが復旧するまでは機能せず、その価値を行使できなくなる。もっとも、そのような場合には鉄道や駅設備のほとんどは運休や休止し、バスについてはシステムによるがIC乗車カードでも(オートチャージを除き)対応できる場合がある。磁気カードは原則対応可能である。",
"title": "日本の乗車カード制度"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "自動券売機にて乗車券等と引き換える、単なるプリペイドカード(間接式)タイプとしては、JRグループ各社が取り扱うオレンジカードがある。かつて大手私鉄など各所で発行されたが、近年はSF機能カードへの移行が進んでおり、発行する会社は少なくなっている。SF機能付きの乗車カードにおいても、残高不足や複数人乗車、小児料金などの特殊な場合の運賃等に対応するため、プリペイドカード同様に自動券売機で乗車券等と引き換えることができる。",
"title": "日本の乗車カード制度"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "又、乗車カードはJR東日本の「タッチでエキナカ」等の一部のサービスを除いて入場券として利用できないカード・事業者がほとんどである。",
"title": "日本の乗車カード制度"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "日本では1980年代 - 1990年代以降、バスや鉄道などの運賃収受システムとして、日本国内各地で導入されるようになった。また日本では2001年からは非接触型ICカードによる物が普及しつつある。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "営団地下鉄とその後身の東京メトロで用いられた乗車カード「SFメトロカード」や改札に表示される「SF」は、このStored Fare(ストアードフェア、カードに運賃を入れる前払い)の頭文字に由来する。以下本項目でもストアードフェアを「SF」と略する。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "松浦鉄道など、一部日本のローカル線では駅にICリーダーが設置されておらず、後述のバスや路面電車のように車両の乗降ドア付近のICリーダーに乗り降りの際にタッチすることで使用できる。ただしSuicaエリアである横浜駅でICカードをタッチして入場し、TOICAエリアである静岡駅でICカードをタッチすることは不可能(下車した駅で精算を行うか、ICカード利用エリアの境目となる駅での途中下車が必要)。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "また、富山地方鉄道では有人駅で自動改札機や簡易ICリーダーにタッチし、無人駅で車両の乗降ドア付近にあるICリーダーにタッチする併用方式をとっている。TOICAエリアなど一部を除き、入場するためにはカードに少額の残金が残っている必要があり、例えばSuicaやPASMOでは残金に初乗り運賃分が、ICOCAは1円以上、PiTaPa、IruCaでは10円が残っていないと入場できない(出場する前にチャージする必要がある)。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "バスや路面電車は運賃均一の場合、乗る際または降りる際に一度ICリーダーにタッチするだけで使用できる。距離制など運賃が不均一な場合は、乗る際にICリーダーにタッチし、降りる際にもICリーダーにタッチすることで使用できる。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "船舶やその他の交通機関では、電子マネー扱いとなっている場合もあり、ICカードでチケット料金や利用料金を払うという形となる。このため、電子マネー部分の方式が異なるPiTaPaでは全国相互利用ができないケースもある。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "磁気カードでは同種のカードを地域内の各事業者が導入することで複数事業者での共通利用を実現した例が多いが、ICカード乗車券の場合はそれだけではなく、ICカード乗車券を別のICカード乗車券のサービス提供エリアで利用できるサービスが実施されている例がある。例えば、カードAを使用しカードBのエリアを、かつカードBを使用しカードAのエリアで相互に利用できる相互利用(Suica・ICOCA・TOICAエリアなど)がほとんどであるが、カードAを使用しカードBのエリアで利用できるが、カードBを使用しカードAのエリアで利用できない、いわゆる片利用(ICOCA→PASPYなど)の場合もある。2013年3月23日からは、Kitaca・Suica・PASMO・TOICA・manaca・ICOCA・PiTaPa・SUGOCA・nimoca・はやかけんの10種類のカードについて、乗車カードとしての相互利用を開始している(交通系ICカード全国相互利用サービス)。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "これらは事業者同士の提携によるため、相互利用(以下、片利用を含む)の可否には組み合わせがある。また、乗車券として(交通)・電子マネーとしての相互利用可否にもそれぞれ組み合わせがある(図参照)。カード利用時に受けられるサービスの一部について、相互利用の他のカードではそのサービスを受けられないことがある。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "なお、鉄道の場合は多くの事業者で、乗る駅・途中の経路・降りる駅いずれも(ICカード乗車券の)同一サービス提供エリア内にある事を前提としている(前述の相互利用ができる場合であっても、サービス提供エリアをまたぐ利用はできない場合が多い)。そのような場合には、現金等またはICカード乗車券を使用して、通常の乗車券等を購入することになる。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "なお、交通系ICカード全国相互利用サービスにおいて、電子マネーサービスについては、PiTaPaを除く9種類のICカード乗車券での相互利用となっている。これは、PiTaPaの決済方法がポストペイ(後払い)であり、店舗のICカードリーダの仕組みが違うためである。そのため、既存のPiTaPa導入店舗にICOCAの導入が、また一部のICOCA導入店舗にPiTaPaの導入が進められている。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "ICカードの所有権は発行事業者に帰属しており、事業者・発行者から利用者に対する「貸与」となっている。しかし案内上はICカード乗車券に対しても事業者・発行者自身が「購入」「販売」「発売」などの語を用いる場合が多い。貸与にあたり交通機関の利用に使える利用額のほかにデポジットが収受され、ICカードを事業者に返却するとデポジットが返却される。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "2012年3月、一部の交通系ICカード提供会社で、インターネットから乗車履歴を照会できるサービスの一時休止が相次いだ。PASMOとSAPICAでは3月1日、nimocaでは3月2日に照会サービスの停止に踏み切った。このうち、PASMOは同年5月18日に照会サービスの終了を発表した。ICカード番号と、カード登録者の個人情報(氏名、電話番号、生年月日など一般的な個人情報)をウェブから入力するだけで、誰でも乗車履歴を照会できる点が問題とされている。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ほとんどの鉄道事業者では1000円単位でのチャージとなっているが、JR西日本及びJR東日本の一部の券売機および乗越精算機では500円単位、京都市営地下鉄と東京メトロ、東急電鉄の券売機および乗越精算機では10円単位でのチャージも受け付けている。また、チャージ残高不足の場合には乗越精算機で不足分のみチャージできる会社もある。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "以下に日本のICカード乗車券の一覧を示す。太字[お]のものはおサイフケータイ等のSF機能対応、★印のものは「交通系ICカード全国相互利用サービス」による相互利用が可能なカード等(以下単に「全国相互対応カード等」と略す)である。乗車カードそのものではないサービス名については「」書きする。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "なお、複数の事業者にまたがって運用されているカードの事業者詳細については当該項目を参照されたい。(箇条書きの入れ子について片利用関係等を示す)",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "各新幹線路線で利用可能なIC乗車カードサービスは現状、EX-ICサービスに登録したカード等、モバイルSuica特急券(2020年3月24日以降は「新幹線eチケットサービス」)、またはタッチでGo!新幹線に限られる。新幹線各路線での利用条件や新在乗継条件も含め詳細は各々の項目を参照のこと。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "新在乗継の在来線部分の運賃自動精算については、取扱可否も含め詳細は該当エリアのカード項目を参照のこと。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "上記のエリアでは、いずれも全国相互対応カード等の片利用が可能である。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "鹿児島地区では、かごしま共通乗車カードである下記2種のIC乗車カードが相互利用可能である。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "商業系電子マネーで利用できる鉄道・バス・船舶を下記に示す。また、全国各地のタクシー事業者(一部事業者、一部車両)で利用可能な場合がある。すべておサイフケータイなどの電子マネー機能にも対応する。なお、SF機能ではないため、厳密には乗車カードには該当しない。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "試験導入のみのものは含まない。",
"title": "日本のICカード乗車券"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "発行終了後の取り扱いなどの詳細は、項目があるものは該当項目を参照。",
"title": "日本の磁気カード乗車券"
}
] | 乗車カード(じょうしゃカード)とは、乗車券カードを指し、鉄道やバスなどの公共交通機関を利用する際に運賃支払いのため利用できる、磁気ストライプカードやICカードなどによるプリペイド式またはポストペイ式(後払い式)のカードである。バス専用のカードは「バスカード」と呼ばれる。 | {{複数の問題
|出典の明記 = 2018年3月
|更新 = 2021年3月
|独自研究 = 2018年3月
}}
'''乗車カード'''(じょうしゃカード)とは、[[乗車券]]カードを指し、[[鉄道]]や[[バス (交通機関)|バス]]などの[[公共交通機関]]を利用する際に[[運賃]]支払いのため利用できる、[[磁気ストライプカード]]や[[ICカード]]などによる[[プリペイドカード|プリペイド式]]または[[ポストペイ型電子マネー|ポストペイ式]](後払い式)のカードである。バス専用のカードは「[[バスカード]]」と呼ばれる。
== 概説 ==
公共交通機関を利用する際、乗車時・降車時に読取機に情報を読み取らせるだけで運賃の支払いが可能なカードである。通常のプリペイドカードと同様に事前に代金を支払って購入し、残額がゼロになるまで繰り返し利用できる。ICカードの場合はチャージ(積み増し)して繰り返しカードを使用することもできる。
バス・[[路面電車]]においては、乗降客が[[乗車整理券|整理券]]を取る、小銭を[[両替]]する、運賃を確認し[[運賃箱]]に入れるなどの煩わしさから解放される利点がある。鉄道においては、乗客は出札口や[[自動券売機]]に並んで[[乗車券]]を購入する必要がなく、事業者側は自動券売機の設置台数を減らせるなどの利点がある。さらに非接触型ICカードの場合、カードを財布などから出し入れする必要すらない。
乗車カードによってはプレミアム(割増)やポイントが付くこともあるほか(後述)、カードを利用して乗車情報を記録しておくことができるので、乗車カード利用者限定の[[乗り継ぎ料金制度|乗り継ぎ割引制度]]を設けている事業者もある。
読み取り機・自動改札機で直接使用する他に、乗車カードによっては、[[自動券売機]]での[[乗車券]]・料金券([[特別急行券|特急券]]など)の購入や[[自動精算機]]での[[不足運賃]]の精算(乗り越し)などにも使用できる場合もある。
== 方式 ==
鉄道切符のデータ格納方法は、紙券([[硬券]]または[[軟券]])、磁気券、ストアードフェアカード、非接触ICカード、デジタルチケットと変遷してきた<ref name="nakao" />。乗車カードには、磁気カード、ストアードフェアカード、非接触ICカード、デジタルチケットの方式がある。
なお、乗車券には支払証明の機能(利用者が支払った料金と利用条件の証明)と情報表示の機能(利用者が区間、経由、日時、有効期限、列車や座席の指定)があり、デジタルチケットでは両方の機能をモバイル端末のアプリケーションプログラムで処理する<ref name="nakao" />。また、ストアードフェアカード(SFカード)では情報表示の機能として使用履歴も扱うことができる<ref name="nakao" />。
=== 磁気カード ===
{{Vertical_images_list
|寄せ=
|幅= 180px
|枠幅=
| 1=SF Panorama Card.jpg
| 2=磁気カードの例([[名古屋鉄道]]の[[SFパノラマカード]]:2012年2月29日で取扱終了)
| 3=ラガールカード磁気面の変遷.jpg
| 4=磁気カードの裏面の例([[阪急電鉄]]の[[ラガールカード]])。乗車した日付・入場時刻・事業者・乗車駅・降車駅・残額が印字されている。
}}
磁気カードを使用する方式。紙片やプラスチックカードに磁気インクを塗布し、磁気エンコードされたデータを記録して自動改札機等で読み取る<ref name="nakao" />。乗車カード導入当初はこの方式が多かった。
乗降の際、読み取り機あるいは読み取り機能のある自動改札機に挿入する。カードの種類によっては、裏の磁気面に乗車日や乗車時刻、利用区間、支払額などの情報が印字されるものもある。カードは使い捨てで、残額を使い切ったら処分して再び新しいカードを購入する。
なお、日本の[[沖縄都市モノレール線|ゆいレール]]、[[北九州高速鉄道小倉線|北九州モノレール]]では[[QRコード]]による読み取り方式を採用している。
=== ストアードフェアカード ===
ストアードフェアカード(SFカード)は運賃として予め支払われた額を記録しておき、自動改札機で乗車区間に応じて運賃をカード残高から差し引いていく方式である<ref name="nakao">{{Cite journal|和書 |author=中尾寿朗, 荒尾真樹, 藤本幸一, 細野正彦, 谷口正宏, 石川達也 |url=http://id.nii.ac.jp/1001/00044004/ |title=モバイル端末を利用した鉄道デジタルチケットシステムの開発 |journal=情報処理学会研究報告. MBL[モバイルコンピューティングとワイヤレス通信] |issn=09196072 |publisher=情報処理学会 |year=2001 |month=sep |volume=18 |pages=15-22 |naid=110004028951 |accessdate=2021-04-30}}</ref>。乗車回数を貯めておく'''ストアードライドシステム''' (stored ride system) もある。
入場記録が存在することが前提になるので、すべての改札に情報書き込みが可能な自動改札機かそれに準ずる装置が必要とされる。バスの場合は車内に備え付けられたカードリーダーが自動改札機の代わりとなる。
鉄道事業者によっては[[無人駅]]でカードの取扱いを行わない場合や、自動改札機のない有人駅で駅係員に申し出て入出場処理を行う場合もある。[[不正乗車]]を防ぐため、自動改札機でカードの入場処理と出場処理を交互に行わなければ改札機を通過できなくしている事業者もある。
=== 非接触型ICカード ===
[[ファイル:iccard.gif|thumb|200px|自動改札機の通り方 (IC、[[GIFアニメ]]動画)]]
{{see also|ICカード#公共交通での導入}}
{{Vertical_images_list
|寄せ=
|幅= 180px
|枠幅=
| 5=TOICA - obverse.jpg
| 6=IC乗車券の例([[東海旅客鉄道|JR東海]]の[[TOICA]])
}}
非接触型[[ICカード]]''(以下、単に「ICカード」)''を用いる方式。CPUを組み込んだ非接触型のカードを用いる方式で無線でデータの授受を行う方式である<ref name="nakao" />。
日本のICカード乗車券(後述)が使える交通機関、[[八達通]]が使える香港の交通機関、[[オイスターカード]]が使えるロンドン交通局など、多くの鉄道駅や路線バス等において、入場の際に駅の自動改札機または簡易ICリーダーにタッチし、出場の際に再びこれらにタッチすることで簡単に使用できる<ref name="suica">[http://www.jreast.co.jp/suica/use/gate/through01.html 自動改札機の通り方] - JR東日本</ref><ref name="icoca">[http://www.jr-odekake.net/icoca/guide/train/ticketgate.html 自動改札機の通り方] - JRおでかけネット</ref>。路面電車や路線バスにおいては、駅や停留所にはICリーダーが設置されておらず、車両の乗降ドア付近のICリーダーに乗り降りの際にタッチすることで使用できる<ref>{{PDFlink|[http://www.matutetu.com/kipu/smartcard.pdf]}} - 長崎スマートカード</ref>。
ICカードでは同じカードを使い続けることが前提で、残額を使い切ったときは駅やバスターミナルなどに設けられた自動券売機や[[チャージ機]]によりチャージ(積み増し)して再使用する。利用額に[[デポジット]]を加算した額で発売していることが多く、不要になったときはカードを発行元に返却するとデポジットが戻る。
事業者によってはICカードに[[定期乗車券|定期券]]や[[一日乗車券]]などを搭載することができる。[[クレジットカード]]と一体となったものやクレジットカードに紐付けできるものもある。紐付けされたクレジットカードを利用すると残高が一定金額を下回った場合にクレジットカードを通じて自動でチャージ([[オートチャージ]])出来るように設定できるものもある。
カードの発行事業者や種類によっては、利用区間の運賃や利用回数に応じてポイントが加算されるもの、カード利用者に限り利用区間の通常運賃より安い額が引き去られるもの、入金した金額より少し高い額が積み増しされるものもある。
===クレジットカード決済([[非接触型決済]])===
[[File:EMVCoContactlessIndicator.svg|thumb|80px|コンタクトレス決済のシンボル]]
[[クレジットカード]]([[EMVコンタクトレス決済]]に対応のもの)を乗車券のように用いる方式。
=== デジタルチケット ===
デジタルチケットはモバイル端末の通信機能を利用して乗車券の購入等を行うもので、乗車券の購入だけでなく列車の座席予約なども行うことができるものもある<ref name="nakao" />。IC乗車カードと同等のICチップ([[FeliCa]]や[[近距離無線通信|NFC]]など)を[[携帯電話]]や[[スマートフォン]]に搭載して利用し、運賃の支払いが可能になる場合がある。
==== モバイル端末の利用 ====
デジタルチケットの導入により、窓口や券売機での混雑の回避でき、端末をかざすだけで改札を通過することができる<ref name="nakao" />。また、モバイル端末を使ってチケット(指定券など)をどこからでも購入できるサービス、ゲート通過時にモバイル端末に駅からの情報(乗車案内等)を提供するサービスなどを行うシステムの導入も可能となる<ref name="nakao" />。
==== モバイル端末の対応 ====
日本の[[モバイルSuica]]、香港の[[八達通]] (Octopus)、台湾の[[悠遊カード]] (悠遊卡、EasyCard)、シンガポールの[[EZ-link]]、韓国の[[Tマネー]]などでモバイル利用が可能なサービスが存在する<ref>{{Cite web|和書|title=ニューヨークの交通系IC事情から日本の「キャッシュレス」ブームを考察する:モバイル決済最前線 - Engadget Japanese|url=https://japanese.engadget.com/2018/03/07/ic/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180308065945/http://japanese.engadget.com/2018/03/07/ic/|archivedate=2018-03-08|deadlinkdate=2022-05-01|website=Engadget JP|accessdate=2020-01-21|language=ja-jp|first=鈴木淳也 (Junya|last=Suzuki)}}</ref>。2020年春に[[モバイルPASMO]]がサービス開始<ref name=":1">https://www.pasmo.co.jp/pressrelease/pdf/mobilePASMO_PressRelease_Jan21%2C2020.pdf</ref>。
日本ではモバイルサービスは[[フィーチャーフォン]]携帯電話およびPHSの一部機種で[[おサイフケータイ]]対応として[[モバイルSuica]]などが利用可能である<ref group="注">2020年ごろより、フィーチャーフォン携帯電話およびPHSではサポート終了となる予定。</ref>。スマートフォンが主流となり、iPhoneは一部旧世代端末では利用できなかったが、[[FeliCa]]搭載iPhoneの登場によりモバイルSuicaなどが利用可能となった([[モバイルSuica|Apple Pay Suica]])。Android端末ではおサイフケータイ対応端末の一部でモバイルSuicaなど、または[[モバイルSuica|Google Pay Suica]]として利用可能である。2020年春にAndroid端末に対応した[[モバイルPASMO]]がサービス開始<ref name=":1" />。
{{See also|モバイルSuica|モバイルPASMO}}
==== デジタルチケットの利点 ====
紙券など従来の乗車券の場合、購入手段の問題、携行の手間の問題、紛失リスクがある<ref name="nakao" />。
購入手段は紙券など従来の乗車券の場合、駅や旅行代理店など購入場所が限られる<ref name="nakao" />。[[電話]]や[[インターネット]]での予約も可能だが換券は駅などで行う必要がある<ref name="nakao" />。デジタルチケットの場合、実媒体としての切符は不要で予約券、一回券、期間券、回数券などの乗車券をモバイル端末の通信機能で購入できる<ref name="nakao" />。また、デジタルチケットの場合、購入した予約券、一回券、期間券、回数券などの乗車券はモバイル端末に保存されるため、携行の手間や紛失リスクを低減できる<ref name="nakao" />。
さらに自動改札機連動情報配信サービスの構想では、モバイル端末に定期券のID番号のほかに利用者の電子メールアドレスや希望する情報を登録できるようにし、広告主は交通機関を利用する利用者の場所や時間に合わせて広告を配信することが可能となり、鉄道会社などの交通機関は運賃だけでなく広告料収入を得ることもできるとしている<ref name="nakao" />。
== 歴史 ==
<!--世界での歴史も加筆必要-->
=== 磁気カード乗車券の歴史 ===
{{see also|バスカード|バス共通カード|パスネット|スルッとKANSAI}}
==== 各事業者の導入の歴史 ====
交通事業者による[[プリペイドカード]]の例として、[[1985年]]に当時の[[日本国有鉄道]](国鉄)が[[オレンジカード]]を発売したほか、他の交通事業者でも同様のカードが発売された。これらは乗車カードではなく、[[自動券売機]]に投入して乗車券を購入する金券方式のプリペイドカード(間接式)で、カードをそのまま[[自動改札機]]に投入することはできなかった。
[[路線バス]]における磁気[[バスカード]]は、{{どこ範囲|[[1980年代]]以降、均一運賃制の路線での導入例があったが|date=2019年8月}}、本格的かつ大規模な導入例としては、[[1988年]][[5月9日]]に[[神奈川中央交通]]が導入した「'''神奈中バスカード'''」が[[運賃制度#区間制|多区間運賃制]]では日本初のものである。システムは[[三陽電機製作所]](現:[[レシップ]])との共同開発で、のちの[[バス共通カード]]や[[PASMO]]・[[Suica]]における[[PASMO#バス利用特典サービス(終了)|バス利用特典サービス]]にも引き継がれる[[プレミアム]](割引)付きであった。その後、[[バス共通カード]]に統合されて発行終了している。これを嚆矢として各地のバス事業者でバスカードの導入が進んだ。
{{Main|神奈川中央交通#多区間運賃制路線では日本初のバスカード導入}}
翌[[1989年]][[10月4日]]<ref name="card">奈良交通発行「とってもトレンディ~ 奈良交通バスカード新登場 平成元年10月14日実施」宣伝[[リーフレット]]より。</ref>、[[奈良交通]]が磁気式バスカードを導入<ref name="card" />。多区間運賃路線についても導入した。バスカードが利用可能な車両には、神奈川中央交通と同様に丸い「バスカード」のマークを車両前面に装着しており、このマークがある車両のみで利用できた<ref name="card" />。
[[1990年]]には、[[長崎自動車]]が磁気式バスカード対応の自動精算式[[運賃箱]]を導入<ref name=":5">{{Cite book|和書|title=[[バス・ジャパン]] 第9号「乗合バスへのカードシステム導入とバス交通活性化について」|date=1988年7月|publisher=[[BJエディターズ|バス・ジャパン刊行会]]|last=鈴木敏|pages=50-52|isbn=4795277648|year=}}</ref>。翌[[1991年]]1月末までに全車で設置完了した<ref name=":5" />。[[乗車整理券|整理券]]に印刷された[[バーコード]]を運賃箱で読み取り、バスカードから差し引く方式である<ref name=":5" />。
なお、神奈川中央交通と長崎自動車のバスカード導入にあたっては、[[国土交通省|運輸省]]から「[[1988年|昭和63年]]度バス交通活性化補助」が交付されていた<ref name=":5" />。バスカード導入で[[補助金|補助]]対象になったのはこれらが日本初の事例である<ref name=":5" />。
鉄道事業者では、[[名古屋市交通局]]が[[1988年]][[3月1日]]に「[[リリーカード]]」を発売、[[4月1日]]から[[名古屋市営地下鉄]]全線で使用開始した。ただしリリーカードで地下鉄に乗車する際は、カードを直接[[自動改札機]]に投入することはできず、[[自動券売機]]にリリーカードを投入して切符を購入する方式であった(オレンジカードと同様)。翌[[1989年]][[9月10日]]の市営地下鉄[[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]]開業と同時に、地下鉄[[回数乗車券|回数券]]を磁気カード化し「[[リリーカード|回数券カード]]」となった。これが名古屋市営地下鉄では初となる、自動改札機に直接投入できる磁気式乗車カードである。リリーカードの利用は[[名古屋市営バス]]にも拡大され、1989年[[10月2日]]より[[基幹バス (名古屋市)|基幹バス]]1号系統に試験導入、[[1991年]][[10月1日]]には市営バス全線に導入された。バスでは[[運賃箱]]の磁気カードリーダーに直接挿入して支払可能であった。翌[[1992年]]には[[名鉄バス]]と共同運行する基幹バス2号系統で、リリーカードと[[名古屋鉄道]]の「[[パノラマカード]]」の[[共通乗車制度|共通利用]]が可能となった。その後、[[1998年]][[5月6日]]にストアードフェア方式の[[ユリカ]]を発売したため発行終了している。
また[[1989年]]12月には、[[遠州鉄道]]の磁気式乗車カード「[[ETカード]]」がサービス開始した(ETは Entetsu Trafficの略)。ETカードもリリーカードと同様に当初は鉄道のみであったが、[[1992年]][[2月20日]]には[[遠鉄バス]]にも拡大された。リリーカードと同じく鉄道では自動券売機で切符を購入し、バスでは運賃箱に直接挿入して運賃を支払う方式であった。後述のIC乗車カード「[[ナイスパス_(遠州鉄道)#EG1CARD|EG1CARD(イージーワンカード)]]」(2002年試験導入、2003年本格導入)および「[[ナイスパス (遠州鉄道)|ナイスパス]]」(2004年にEG1CARDから移行する形で本格導入)に伴い廃止されている。
[[1991年]][[3月1日]]、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)は、自動改札機に直接投入できるストアードフェア方式の[[イオカード]]を[[山手線]]内の一部の駅で利用開始し、その後首都圏の各駅に導入を進めていった。
[[1991年]]10月には、[[新潟交通]]で「[[バスカード (新潟交通)|バスカード]]」のサービスが開始された。同社のICカードバス乗車券「[[りゅーと]]」利用促進のため、[[2013年]][[9月30日]]をもってサービス終了している。
[[1992年]][[3月16日]]、[[福島交通]]は[[福島交通福島支社|福島支社]]管内の路線バスで磁気式[[乗車カード#東北|バスカード]]システムを導入し、福島市中心部の特定路線で運用される専用の中型車で磁気式バスカードの利用が可能となった。[[2001年]]に[[福島交通郡山支社|郡山支社]]管内で[[バスICカード (福島交通)|バスICカード]]が導入された後も併存していたが、新バスICカード「[[NORUCA]]」に代替され[[2010年]]に廃止されている。
==== 磁気式乗車カードの共通化 ====
[[バスカード]]については、同一地域内での各事業者の乗車カードの共通化が早くから各地で進められ、[[首都圏 (日本)|首都圏]]1都3県([[東京都]]・[[神奈川県]]・[[埼玉県]]・[[千葉県]])における[[バス共通カード]]のように広域的に共通化されたものもあった。バス共通カードは、[[1992年]]3月には[[横浜市]]・[[川崎市]]内の均一運賃区間で共通利用が始まり([[横浜市営バス]]・[[川崎市バス]]・神奈川中央交通・[[江ノ島電鉄]]の4社局)、[[横浜市交通局]]の[[マリンカード]]との共通利用も図られた。[[1994年]]10月には[[東京都]]区内均一運賃区間([[東京都区部|東京23区]]・[[武蔵野市]]・[[三鷹市]]・[[調布市]]・[[狛江市]])の各社局にも共通利用の範囲が広がり、その後段階的に東京[[多摩地域]]や埼玉県・千葉県の多区間運賃制の地区でも利用可能となった。PASMOへの移行に伴い、バス共通カードは[[2010年]]内に各社局での販売・利用が停止されている。
また[[広島県]]でも、[[1993年]][[3月25日]]に[[広島電鉄]](バスのみ)・[[広島バス]]・[[広島交通]]・[[芸陽バス]]・[[備北交通]]・[[中国ジェイアールバス]]のバス事業者6社で共通利用可能な磁気式乗車カード「[[バスカード (広島県)|6社共通バスカード]]」を導入。翌[[1994年]][[8月20日]]には[[広島高速交通]]([[アストラムライン]])が参入、[[1997年]][[3月31日]]には広島電鉄が電車線にも導入し、バスと鉄軌道での共通利用となった。また[[1996年]][[8月31日]]には[[公営バス|公営事業者]]である[[呉市交通局]]も参入している。
[[関西]]の[[私鉄]]・公営事業者では、[[1992年]][[4月1日]]に[[阪急電鉄]]が「[[ラガールカード]]」でのストアードフェアシステムを開始。こちらは自社線全駅で使用可能となった日本初のストアードフェアシステムとなった。[[1994年]][[4月1日]]、ラガールカードと[[能勢電鉄]]の「パストラルカード」が共通利用開始。さらに[[1996年]][[3月20日]]、[[阪神電気鉄道]]、[[大阪市交通局]]、[[北大阪急行電鉄]]の3社局がこれに参加し、関西5社局共同で「[[スルッとKANSAI]]」を開始した(スルッとKANSAIはシステム名で、カード名称は各社局で異なる)。これは日本初の広域の複数事業者での鉄道・バス共通利用システムであり、のちに[[ポストペイ]]型ICカード[[PiTaPa]]へつながっていく。
[[関東地方|関東]]ではイオカード発売と同年の1991年[[11月29日]]、[[帝都高速度交通営団]](現・[[東京メトロ]])から[[東京メトロ南北線|南北線]]の[[駒込駅]] - [[赤羽岩淵駅]]間の開業時にストアードフェアシステムの[[メトロカード_(東京)#NSメトロカード|NSメトロカード]]が発売され、将来の共通化を視野にイオカードと同じシステムを採用した。当時は南北線限定のカードであった(NSは「南北=North・South」と「New Service」を掛けている)。また[[1993年]][[11月1日]]に[[東京都交通局]]の[[Tカード]]が発売されたが、[[都電]]・[[都営バス]]用カードは神奈中バスカードと同じシステム、[[都営地下鉄]]用カードはイオカードと同じシステムを採用し、互換性はなかった。都電・都バス用カードはバス共通カードの都区内均一区間への利用拡大に伴い廃止されたが、[[1996年]][[3月26日]]に都営地下鉄と営団地下鉄が共通ストアードフェアシステムを開始し、営団からは[[メトロカード_(東京)#SFメトロカード|SFメトロカード]]が発売されている(SFはストアードフェアの略)。これをベースとして[[2000年]][[10月14日]]に[[パスネット]]がサービス開始し、当初は首都圏17社局が参加した。イオカードベースのシステムであったが、JR東日本は[[Suica]]を開発中としてパスネット協議会に参加しなかった。首都圏の公営・民営事業者は、パスネットとバス共通カードを統合する形で[[PASMO]]へ移行することになる。
=== ICカード乗車券の歴史 ===
{{see also|交通系ICカード全国相互利用サービス}}
日本国内では1996年度から1999年度にかけて、ICカードを使用した汎用電子乗車券の開発プロジェクトが官民一体となって行われ、[[日本国政府|政府]]([[国土交通省]])と民間の鉄道事業者や機器メーカーなどにより共同研究が行われた。その結果を踏まえ、旧[[日本国有鉄道|国鉄]]の流れを汲む[[日本鉄道技術協会|日本鉄道サイバネティクス協議会]]により、[[2000年]]3月に交通系ICカードの共通規格(通称「'''[[日本鉄道技術協会|サイバネ規格]]'''」)が制定された。これは[[ソニー]]が開発した非接触型[[ICカード]]規格「'''[[FeliCa]]'''」(フェリカ、Type-C)を採用した規格であり、翌[[2001年]]にはサイバネ規格に準拠した交通系ICカードである[[Suica]]が登場した。その後はサイバネ規格が日本の交通系ICカードの[[デファクトスタンダード|事実上の標準]]となり、[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]へつながっていく<ref name="mlit">{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/toukeijouhou/toukei04/geturei/01/geturei04_015.pdf 交通系ICカードの普及と設備投資の状況について]}} [[国土交通省]]、2019年9月9日閲覧。</ref>。
[[1997年]][[9月1日]]、[[香港]]の[[公共交通機関]]に[[八達通]](オクトパス)が導入された。初のFeliCaを搭載した交通系ICカードであった<ref>{{Cite press release | 和書 | url = http://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press/200510/05-055/index.html | title = Sony Japan ソニーの非接触ICカード技術 FeliCa(フェリカ) ICチップの累計出荷100,000,000個を達成 | publisher = [[ソニー]] | date = 2005-10-19 | accessdate = 2017-05-14 }}</ref>。
==== 日本の各事業者での導入 ====
日本でも同1997年[[10月1日]]、[[静岡県]][[磐田郡]][[豊田町 (静岡県)|豊田町]](現:[[磐田市]])の[[コミュニティバス]]「[[磐田市バス|ユーバス]]」(廃止、運行は[[遠鉄バス]]に委託)で、日本初のICカード乗車券である「[[ユーバスカード]]」が導入された<ref name="mlit" />。ユーバスカードはFeliCaとは通信方式が異なる[[フィリップス]]社提唱の非接触型ICカード「[[MIFARE|ISO14443 Type-A]]」を採用していた。これを皮切りに全国各地で交通系ICカードが広まってゆくことになる<ref name="mlit" />。またユーバスは[[遠州]]地方で初めてのコミュニティバスでもあった。
[[1998年]][[7月28日]]、[[東急バス]]子会社の[[東急トランセ]][[東急トランセ#代官山循環線|代官山循環線]]の運行開始と同時に、専用のバスICカード乗車券「[[トランセカード]]」が導入される。これはFeliCaを搭載した日本初の交通系ICカードであった<ref name="mlit" />。
[[1998年]][[8月28日]]、[[スカイレールサービス広島短距離交通瀬野線|スカイレール]][[スカイレールサービス広島短距離交通瀬野線|広島短距離交通瀬野線]] みどり口 - みどり中央間が全線開業。同年9月、[[スカイレールサービス]]が[[新交通システム]][[スカイレールサービス広島短距離交通瀬野線|スカイレール]]にIC[[定期乗車券|定期券]]「スカイレールICカード」導入(FeliCaを採用)<ref name="mlit" />。これは鉄軌道における日本初の非接触式ICカード乗車券であった<ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/tetudo/iccard/sky.pdf スカイレールICカード]}}(国土交通省)</ref>。
[[1999年]]11月、[[道北バス]]でICカード乗車券「[[Doカード]]」導入(FeliCaを採用)<ref name="mlit" /><ref name="hokkaido-np-1999-11-2">“かざすだけ、運賃支払い ICカード導入 今月末から旭川市内で 道北バス”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1999年11月2日)</ref>。[[北海道]]では初の交通系ICカード導入で、磁気カードの「バスカード」も同時にサービス開始している。[[2014年]]11月のシステム更新を経て、[[2015年]][[2月1日]]より[[旭川電気軌道]]の「[[Asaca CARD]]」と相互利用を開始した<ref>旭川電気軌道と道北バス 来春にもIC乗車券共用化へ [[北海道新聞]] 2014年4月26日</ref>。
[[2000年]][[2月28日]]、[[山梨交通]]で「[[バスICカード (山梨交通)|バスICカード]]」導入開始(実証実験は[[1999年]]10月から)。FeliCaを採用<ref name="mlit" />。当初から全社的に導入したバスICカードとしては日本初となる。また[[2002年]][[4月1日]]には[[クレジットカード]]一体型の「[[バスICカード_(山梨交通)#バスOMCカード|バスOMCカード]]もサービス開始。[[OMCカード]]との提携カードで[[マスターカード]][[ブランド]]である。山梨交通はこれを「世界初の交通系ICカード一体型クレジットカード」としている([[山梨交通#日本初のバスICカード本格導入]]も参照)。
[[2001年]]3月、[[札幌都市圏]]において「[[S.M.A.P.カード]]」実証実験開始<ref name="mlit" />。FeliCaを採用<ref name="mlit" />。[[札幌市交通局]]([[札幌市営地下鉄]])のICカード乗車券でもあったが、それにとどまらず[[地域通貨]]的な性格を持つものであり、PiTaPaで実装された[[ポストペイ型電子マネー]]としての実験なども行われた。実証実験は[[2004年]]3月に終了、[[2009年]][[1月30日]]より[[SAPICA]]が導入されたが、ポストペイシステムは採用されなかった。
同2001年[[4月2日]]、[[福島交通]]で「[[バスICカード (福島交通)|バスICカード]]」導入開始。[[福島交通郡山支社|郡山支社]]管内の[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]前発着の一般路線8路線で運用開始、同年[[10月1日]]には[[郡山市]]内の一般路線全路線へ運用拡大。[[東北地方]]では初の交通系ICカード導入であり、ユーバスカードと同じType-Aを採用していた<ref name="mlit" />。のちに親会社が[[みちのりホールディングス]]に変わったこともあり、FeliCaに規格を統一するため[[2010年]][[10月30日]]より新バスICカード「[[NORUCA]]」を導入し<ref name="fukushima-koutu100910">[http://www.fukushima-koutu.co.jp/x/modules/bulletin1/index.php?page=article&storyid=135 新型ICカード名称決定について] 福島交通ニュース 2010年9月10日、2010年9月11日閲覧。</ref>、ICカードシステムを更新した([[福島交通#バスカード(磁気式・IC)]]も参照)。
同2001年9月、[[北九州市交通局]]で[[北九州市交通局#ひまわりバスカード|ひまわりバスカード]]を導入(FeliCaを採用)<ref name="mlit" /><ref name="faq">[http://www.call-center.city.kitakyushu.jp/ttlfaq/faq/faq_detail.asp?baID=3&FAQID=1627 ICバスカード(ひまわりバスカード)について知りたい。(カードの種類と金額について) ]</ref>。[[九州]]での交通系ICカード先行導入となる<ref>[https://wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/gyoumu/kannkyou/file25.htm I. 地球温暖化対策に対する取組み 2. 環境負荷の小さい交通体系の構築 (2) 公共交通機関の利用促進] 平成25年度九州運輸局交通環境対策アクションプラン</ref>。ICカードシステムは[[小田原機器]]製。
[[2001年]][[11月18日]]、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]が[[首都圏 (日本)|首都圏]]424駅で、サイバネ規格準拠の非接触型ICカード乗車券[[Suica]]をサービス開始。
[[2002年]][[1月21日]]、共通ICカード「[[長崎スマートカード]]」が利用開始<ref name=":6">{{Cite web|和書|title=激戦地、ゆえの「FeliCa / おサイフケータイ対応」──長崎県バス協会に聞く|url=https://www.itmedia.co.jp/bizmobile/articles/0512/26/news042.html|website=ITmedia ビジネスオンライン|accessdate=2020-12-29|language=ja|publisher=|date=2005-12-26}}</ref>。Felicaを採用<ref name=":6" />。紙式のバス共通回数券を電子化する形で移行し、日本初の共通バスICカードとなった<ref name=":6" />。[[2005年]]3月までにバス事業者の全車両に順次搭載。のちに路面電車や鉄道にも拡大され、[[長崎県]]内の10社局が参加した。導入にあたっては山梨交通の「[[バスICカード (山梨交通)|バスICカード]]」が参考とされた<ref name=":6" />。また2005年12月には「モバイル長崎スマートカード」もサービス開始、日本初の[[おサイフケータイ]]対応共通バスICカードとなった<ref name=":6" />。
同2002年[[3月1日]]、遠州鉄道の電車および遠鉄バスで「[[ナイスパス_(遠州鉄道)#EG1CARD|EG1CARD(イージーワンカード)]]」の実証実験を開始。サイバネ規格準拠、FeliCaを採用<ref name="mlit" />。翌[[2003年]][[4月1日]]より遠鉄バスで「EG1CARD」が本格運用開始(本格運用はバスのみ)。[[2004年]][[8月20日]]より「[[ナイスパス (遠州鉄道)|ナイスパス]]」に移行、遠鉄の電車・バス全線で運用開始。鉄道・バス共通の本格的なIC乗車カードとしては日本初となった。またナイスパスでは[[2009年]][[9月1日]]、[[Suica]]・[[PASMO]]・[[nimoca]]に続き、日本のIC乗車カードで4番目に[[オートチャージ]]サービスを開始したが、バス車両でのオートチャージは日本初となっている。
同2002年[[7月7日]]、[[東京急行電鉄]][[東急世田谷線|世田谷線]]専用のICカード乗車券「[[せたまる]]」サービス開始<ref name="JRC600">{{Cite journal|和書 |title=鉄道記録帳 |journal = RAIL FAN |date = 2002年10月号 |issue = 10 |volume = 49 |publisher = 鉄道友の会 |page = 22 }}</ref>。FeliCaを採用<ref name="mlit" />。「せたまる回数券」「せたまる定期券」の2種類が存在し、[[ポイントサービス]]もあり地域通貨としての利用も試みられた。
[[2003年]][[11月1日]]、[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の[[ICOCA]]が[[アーバンネットワーク]]圏内でサービス開始、以降順次エリアを拡大する。
[[2004年]][[8月1日]]、スルッとKANSAIによる[[PiTaPa]]がサービス開始。当初は阪急電鉄・能勢電鉄・[[京阪電気鉄道]]の鉄道3社で導入された。[[ポストペイ型電子マネー|ポストペイ]]方式を採用した点が特徴となっている([[PiTaPa#ポストペイ方式の採用]]も参照)。
[[2005年]]8月23日、[[伊予鉄道]]が「[[ICい〜カード|ICい~カード]]」とおサイフケータイ対応の「モバイルICい~かーど」を導入。磁気式「[[い〜カード|い~カード]]」から移行したものだが、おサイフケータイ対応のIC乗車カードとしては日本初となる<ref>{{Cite web|和書|title=全国初、おサイフケータイで電車に乗れる──伊予鉄道|url=https://www.itmedia.co.jp/bizmobile/articles/0507/19/news089.html|website=ITmedia ビジネスオンライン|accessdate=2020-12-29|language=ja}}</ref>(モバイル長崎スマートカードは同年12月サービス開始)。伊予鉄道・[[伊予鉄バス]]に加え、[[伊予鉄タクシー]]でも共通利用できる<ref name=":7">{{Cite web|和書|title=伊予鉄道はなぜ、「FeliCa採用」に踏み切ったのか (前編)|url=https://www.itmedia.co.jp/bizmobile/articles/0508/30/news037.html|website=ITmedia ビジネスオンライン|accessdate=2020-12-29|language=ja}}</ref>、[[電子マネー]]機能も付加し、[[伊予鉄髙島屋]]などグループ企業でのショッピングにも利用可能とした<ref name=":7" />。
[[2006年]][[1月21日]]には関西圏で[[ICOCA]]・[[PiTaPa]]の相互利用が開始された。同年[[2月1日]]には[[大阪市交通局]]・[[阪神電気鉄道]]・[[大阪モノレール]]・[[北大阪急行電鉄]]で追加導入、同時に[[阪急バス]]・[[神姫バス]]の一部路線にも導入され、バスでの利用が開始された。
同2006年[[1月28日]]、JR東日本でおサイフケータイ機能を使用した[[モバイルSuica]]がサービス開始した。
[[2007年]][[3月18日]]、パスネットとバス共通カードを統合する形で[[PASMO]]がサービス開始。同時に[[首都圏ICカード相互利用サービス]]として、Suicaとの相互利用が開始されている。
[[2013年]][[3月23日]]、[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]開始。Suica・PASMO・ICOCA・PiTaPa・[[kitaca]]・[[TOICA]]・[[manaca]]・[[SUGOCA]]・[[nimoca]]・[[はやかけん]]との相互利用が可能になる。以降も全国相互利用サービス参加事業者は増加しており、地方の私鉄・バス事業者を含めた多数のICカード乗車券の全国相互利用が進んでいる。
== 各国の乗車カード一覧 ==
日本のものについては後述する。(→[[#日本の乗車カード制度]]、[[#日本のICカード乗車券]])
=== ICカード乗車券 ===
* [[台湾]]
** [[悠遊カード]]([[台北市政府]]、[[台北捷運公司]]、[[台北富邦銀行]]、[[台北市市区公車]]を運行する15のバス会社等が出資する[[:zh:悠遊卡公司|悠遊卡公司]]が発行)
** [[一カー通|一カー通(一{{lang|zh|卡}}通、iPASS)]]([[:zh:高雄市政府|高雄市政府]]、[[高雄捷運公司]]、[[:zh:聯邦銀行|聯邦銀行]]、[[:zh:台南市政府|台南市政府]]等が出資する[[:zh:一卡通公司|一卡通公司]]が発行)
** [[icash]]([[統一企業]]グループの[[:zh:愛金卡公司|愛金卡公司]]が発行)
** [[HappyCash]]({{仮リンク|遠東グループ|zh|遠東集團 (台灣)}}グループの[[:zh:遠鑫電子票證|遠鑫電子票證公司]]が発行)
*:概ねすべてのカードが[[台北捷運]]、[[桃園捷運]]、[[高雄捷運]]、[[台湾鉄路管理局]]といった鉄道各路線、台北市市区公車、[[高雄市公車]]、[[国光汽車客運|國光客運]]といった各バス会社、[[高雄市輪船]]等のフェリーで使用が可能であるが、カードによっては対応していない場合もある。
{{seealso|台湾の電子マネー一覧}}
* [[大韓民国]]
** [[コレールメンバーシップカード]]([[韓国鉄道公社]])
** [[Tマネー]](韓国スマートカード株式会社〈ソウル地区〉)
** [[cashbee]](EZL Corporation)
** [[ハンクミカード]] : [[大田広域市]]の路線バスと都市鉄道(韓国スマートカード株式会社)
* [[香港]]
** [[八達通|オクトパス]](八達通{{lang|zh|卡}}有限公司)
* [[マレーシア]]
**[[タッチンゴー]]([[クアラルンプール]])
** [[マイラピッド]](クアラルンプール)
* [[タイ王国|タイ]]
**[[ラビット・カード]]([[バンコク]])
** [[バンコクメトロカード]](バンコク)
* [[シンガポール]]
** [[EZ-link]]
* [[オーストラリア]]
** [[ゴーカード]](ブリスベン・[[トランスリンク (クイーンズランド州)|トランスリンク]]連合)
** [[スマートライダー]](パース)
** [[オパールカード]](シドニー)
** [[myki]](メルボルン)
** MyWay (キャンベラ)
* [[ニュージーランド]]
** [[スナッパー]](ウェリントン)
** [[トラベルカード]](ウェリントン・マナコーチラインズ社)
** [[ATホップカード]](オークランド)
** [[GOカード]](ダニーデン・クイーンズタウン)
** [[メトロカード(カンタベリー)]](クライストチャーチ)
** [[バスイットカード]](ハミルトン)
* [[中華人民共和国]]
** 北京市政交通一卡通:[[北京市]]の路線バス、地下鉄
** [[上海公共交通カード]]:[[上海市]]のタクシー、路線バス、地下鉄、フェリーなど。[[無錫市]]・[[蘇州市]]・[[杭州市]]の大衆タクシー、崇明島の大衆タクシー。
** [[琴島通]](青島市琴島通卡股份有限公司):[[青島市]]の路線バス、地下鉄、タクシー、フェリーなど。[[日照市]]・[[濰坊市]]・[[煙台市]]の路線バス。
** [[羊城通]](広州羊城通有限公司):[[広州市]]の路線バス、地下鉄
** [[深圳通]](深圳通有限公司):[[深圳市]]内の路線バス、地下鉄
* [[イギリス]]
** [[オイスターカード]](ロンドン交通局)
* [[フランス]]
**[[ナヴィーゴ]]([[パリ]])
**Carte Técély([[リヨン]])
* [[オランダ]]
**[[OV-Chipkaart|OVチップカード]]
* [[ベルギー]]
**MOBIBカード([[ブリュッセル]])
* [[アメリカ合衆国]]
**{{仮リンク|スマートリップ|en|Smartrip}}([[ワシントンD.C.]]ほか)
**[[ベントラ]]([[シカゴ]])
**{{仮リンク|オルカカード|en|ORCA card}}([[シアトル]])
**[[クリッパーカード]]([[サンフランシスコ]])
**{{仮リンク|TAPカード|en|Transit Access Pass}}([[ロサンゼルス]])正式名称:Transit Access Pass
* [[カナダ]]
** コンパスカード([[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]])
**OPUS([[モントリオール]])
**プレストカード([[トロント]])
*[[アルゼンチン]]
**スーベ([[ブエノスアイレス]])
* [[ロシア]]
**{{仮リンク|トロイカカード|ru|Тройка (транспортная карта)}}([[モスクワ]])
**{{仮リンク|パドロージニク|ru| Подорожник (транспортная карта)}}([[サンクトペテルブルク]])
**{{仮リンク|エカルタ|ru|Екарта}}([[エカテリンブルク]])
* [[トルコ]]
** [[イスタンブールカード]]
* [[アラブ首長国連邦]]
**nolカード([[ドバイ]])
=== 磁気カード乗車券 ===
* [[アメリカ合衆国]]
** [[メトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティ#メトロカード|メトロカード]]([[ニューヨーク]])
== 日本の乗車カード制度 ==
=== 供託義務 ===
[[資金決済に関する法律|資金決済法]]により、1000万円を越える[[金券]](前払式証票)を発行した者(事業者)は、通常は残高の半分以上を法務局に供託しなければならないが、乗車カードの場合は(乗車券と解釈されるので)供託は不要となっている。[[電子マネー]]機能付き乗車カードなど、カードに金券的性格がある場合は、供託金の供託義務が発生する場合がある。
=== 有効期限 ===
{{see also|電子マネー#電子マネーの有効期限}}
乗車カードには有効期限を設定しているものがある。すなわち、SFとしてチャージするなどしても、その後利用せずに一定の期間を経過するとその価値が滅失する場合がある。特に繰り返し使用できるICカードにおいては注意が必要である。
多くの交通系ICカードは、10年間一度も利用がない場合も失効すると規定されているが、実際の取り扱いはカードにより異なる<ref>[https://www.iza.ne.jp/article/20190501-QS5PEOEZC5N4DJI3AIQGTCFL5Y/ キャッシュレス決済の“落とし穴” 電子マネー残高2年で消滅も!? 「眠ったICカード」に要注意] - 2019年5月1日 IZA(産経デジタル)</ref>。
* [[Suica]]は、当該カードが利用停止(無効化)と言う扱いになる。残額がある場合は、記名・無記名を問わず新しいSuicaに移し替え処理が可能である<ref group="注">なお、この場合無効化されたSuicaはJRにより回収される。これは記念Suicaカードであっても同様なので注意が必要。</ref>。新たなカード発行が伴わなければデポジットも戻る。なお、[[東京モノレール]]発行の「モノレールSuica」も同様の扱い<ref>{{PDFlink|[http://www.tokyo-monorail.co.jp/news/pdf/press_20120510.pdf 長期間利用していないモノレール Suica カードをお持ちのお客さまへ]}} - 東京モノレール</ref>。一方、[[東京臨海高速鉄道]]発行の「りんかいSuica」については、特に有効期間を設けていない<ref>[https://www.twr.co.jp/route/tabid/129/Default.aspx りんかいSuica] - 東京臨海高速鉄道</ref>。
* [[PASMO]]は、デポジットも含めて失効する。
* [[TOICA]]は、システム上使用できない状態にならない限りはそのまま使用できる<ref>[https://faq.jr-central.co.jp/detail/faq000242.html よくいただくご質問 > TOICAについて] - 東海旅客鉄道</ref>。[[ICOCA]]についても問題なく利用できる。
=== 紛失等の場合 ===
{{see also|電子マネー#電子マネーの紛失等のリスク}}
乗車カードについて紛失・盗難が起きた場合には、事業者によって対応が異なるが、例として[[Suica]]や[[PASMO]]、その他Suica準拠の乗車カードについては、通常、記名式・定期券については再発行に応じる事が多い(手数料を取られる場合がある)。無記名式の場合には失効(再発行なし)となる事が多い。
破損等の障害(読取不良等)が発生した場合は、事業者により対応が異なる。
大規模災害などによる大規模な停電や通信障害が発生したような場合、乗車カードの電子マネー機能や、IC乗車カードのオートチャージ機能などは、それが復旧するまでは機能せず、その価値を行使できなくなる<ref>{{Cite news|title=災害時に弱いキャッシュレス社会、現金が重要に。セイコーマートの事例より(久保田博幸) - Yahoo!ニュース|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/kubotahiroyuki/20180908-00096089|accessdate=2018-09-13|language=ja-JP|work=Yahoo!ニュース 個人}}</ref>。もっとも、そのような場合には鉄道や駅設備のほとんどは運休や休止し、バスについてはシステムによるがIC乗車カードでも(オートチャージを除き)対応できる場合がある。磁気カードは原則対応可能である。
=== その他 ===
自動券売機にて乗車券等と引き換える、単なる[[プリペイドカード]](間接式)タイプとしては、[[JR|JRグループ]]各社が取り扱う[[オレンジカード]]がある。かつて大手私鉄など各所で発行されたが、近年はSF機能カードへの移行が進んでおり、発行する会社は少なくなっている。SF機能付きの乗車カードにおいても、残高不足や複数人乗車、小児料金などの特殊な場合の運賃等に対応するため<ref group="注">多くのSF機能では運賃支払いは、大人料金となる。</ref>、プリペイドカード同様に自動券売機で乗車券等と引き換えることができる<ref group="注">なおバスや路面電車などの車内収受式による運賃支払いの場合、支払い時に申告すれば1枚の乗車カードでこれらの支払いができることがある。</ref>。
又、乗車カードは[[JR東日本]]の「タッチでエキナカ」<ref>https://www.jreast.co.jp/suica/use/touchdeekinaka/</ref>等の一部のサービスを除いて入場券として利用できないカード・事業者がほとんどである。
== 日本のICカード乗車券 ==
[[日本]]では[[1980年代]] - [[1990年代]]以降、[[バス (交通機関)|バス]]や[[鉄道]]などの[[運賃]][[収受]]システムとして、日本国内各地で導入されるようになった。また日本では2001年からは非接触型[[ICカード]]による物が普及しつつある。
[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]とその後身の[[東京地下鉄|東京メトロ]]で用いられた乗車カード「[[SFメトロカード]]」や改札に表示される「SF」は、この'''S'''tored '''F'''are(ストアードフェア、カードに運賃を入れる[[前払い]])の[[頭文字]]に由来する。以下本項目でもストアードフェアを「SF」と略する。
=== 利用方法 ===
[[松浦鉄道]]など、一部日本の[[ローカル線]]では[[鉄道駅|駅]]にICリーダーが設置されておらず、後述の[[バス (交通機関)|バス]]や[[路面電車]]のように車両の乗降ドア付近のICリーダーに乗り降りの際にタッチすることで使用できる。ただしSuicaエリアである[[横浜駅]]でICカードをタッチして入場し、TOICAエリアである[[静岡駅]]でICカードをタッチすることは不可能(下車した駅で精算を行うか、ICカード利用エリアの境目となる駅での途中下車が必要)。
また、[[富山地方鉄道]]では[[有人駅]]で[[自動改札機]]や簡易[[ICリーダー]]にタッチし、[[無人駅]]で車両の乗降ドア付近にあるICリーダーにタッチする併用方式をとっている<ref>{{PDFlink|[http://www.chitetsu.co.jp/ic/i201210_goannai.pdf]}} - [[Ecomyca]]ご利用案内、[[富山地方鉄道]]</ref>。[[TOICA]]エリアなど一部を除き、入場するためにはカードに少額の残金が残っている必要があり、例えば[[Suica]]や[[PASMO]]では残金に初乗り運賃分が<ref name="suica" />、ICOCAは1円以上、[[PiTaPa]]、[[IruCa]]では10円が残っていないと入場できない(出場する前にチャージする必要がある)<ref name="icoca" /><ref>[http://www.kotoden.co.jp/publichtm/iruca/train/index.html IruCaで電車に乗る] - [[ことでんグループ]]</ref>。
バスや路面電車は[[運賃均一]]の場合、乗る際または降りる際に一度ICリーダーにタッチするだけで使用できる。距離制など運賃が不均一な場合は、乗る際にICリーダーにタッチし、降りる際にもICリーダーにタッチすることで使用できる<ref>[http://www.pasmo.co.jp/howtouse/bus.html バスでのご利用方法] - PASMO公式サイト</ref>。
[[船舶]]やその他の交通機関では、電子マネー扱いとなっている場合もあり、ICカードでチケット料金や利用料金を払うという形となる。このため、電子マネー部分の方式が異なる[[PiTaPa]]では[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用]]ができないケースもある。
=== ICカード間の相互利用・片利用 ===
[[File:ICCard_Connection.svg|thumb|right|300px|ICカード間の相互利用関係(クリックで拡大)。]]
{{See also|交通系ICカード全国相互利用サービス}}
磁気カードでは同種のカードを地域内の各事業者が導入することで複数事業者での共通利用を実現した例が多いが、ICカード乗車券の場合はそれだけではなく、ICカード乗車券を別のICカード乗車券のサービス提供エリアで利用できるサービスが実施されている例がある。例えば、カードAを使用しカードBのエリアを、かつカードBを使用しカードAのエリアで相互に利用できる'''相互利用'''(Suica・ICOCA・TOICAエリアなど)がほとんどであるが、カードAを使用しカードBのエリアで利用できるが、カードBを使用しカードAのエリアで利用できない、いわゆる'''片利用'''(ICOCA→PASPYなど)の場合もある。2013年3月23日からは、[[Kitaca]]・[[Suica]]・[[PASMO]]・[[TOICA]]・[[manaca]]・[[ICOCA]]・[[PiTaPa]]・[[SUGOCA]]・[[nimoca]]・[[はやかけん]]の10種類のカードについて、乗車カードとしての相互利用を開始している([[交通系ICカード全国相互利用サービス]])。
これらは事業者同士の提携によるため、相互利用(以下、片利用を含む)の可否には組み合わせがある。また、乗車券として(交通)・電子マネーとしての相互利用可否にもそれぞれ組み合わせがある(図参照)。カード利用時に受けられるサービスの一部について、相互利用の他のカードではそのサービスを受けられないことがある。
なお、鉄道の場合は多くの事業者で、乗る駅・途中の経路・降りる駅いずれも(ICカード乗車券の)同一サービス提供エリア内にある事を前提としている(前述の相互利用ができる場合であっても、サービス提供エリアをまたぐ利用はできない場合が多い)。そのような場合には、現金等またはICカード乗車券を使用して、通常の乗車券等を購入することになる。
なお、交通系ICカード全国相互利用サービスにおいて、[[電子マネー]]サービスについては、PiTaPaを除く9種類のICカード乗車券での相互利用となっている。これは、PiTaPaの決済方法が[[ポストペイ]](後払い)であり、店舗のICカードリーダの仕組みが違うためである。そのため、既存のPiTaPa導入店舗にICOCAの導入が、また一部のICOCA導入店舗にPiTaPaの導入が進められている<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000153745.html 交通局などのPiTaPaの電子マネーの相互利用についてのお願い] : 大阪市市政 第8回(平成23年11月24日){{リンク切れ|date=2013年3月}}</ref>。
=== カードの所有権について ===
ICカードの所有権は発行事業者に帰属しており、事業者・発行者から利用者に対する「貸与」となっている。しかし案内上はICカード乗車券に対しても事業者・発行者自身が「購入」「販売」「発売」などの語を用いる場合が多い。貸与にあたり交通機関の利用に使える利用額のほかに[[デポジット]]が収受され、ICカードを事業者に返却するとデポジットが返却される。
=== 乗車履歴照会サービスの問題 ===
2012年3月、一部の交通系ICカード提供会社で、インターネットから乗車履歴を照会できるサービスの一時休止が相次いだ。PASMO<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/516279.html 「PASMO」の履歴を他人に見られる仕様を見直しへ、照会サービス一時停止 ]</ref>とSAPICAでは[[3月1日]]、nimoca<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/517805.html 札幌「SAPICA」や福岡「nimoca」でも、履歴をネットで他人から見られる仕様]</ref>では[[3月2日]]に照会サービスの停止に踏み切った。このうち、PASMOは同年[[5月18日]]に照会サービスの終了を発表した<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/533864.html PASMO、ウェブでの履歴照会サービス、再開を断念]</ref>。ICカード番号と、カード登録者の個人情報(氏名、電話番号、生年月日など一般的な個人情報)をウェブから入力するだけで、誰でも乗車履歴を照会できる点が問題とされている。
=== チャージについて ===
ほとんどの鉄道事業者では1000円単位でのチャージとなっているが、JR西日本及びJR東日本の一部の券売機および乗越精算機では500円単位、京都市営地下鉄と東京メトロ、東急電鉄の券売機および乗越精算機では10円単位でのチャージも受け付けている。また、チャージ残高不足の場合には乗越精算機で不足分のみチャージできる会社もある。
=== 各地域のICカード乗車券一覧 ===
以下に日本のICカード乗車券の一覧を示す。'''太字'''[お]<!--反映されないことがあるので太字だけで区別しない-->のものは[[おサイフケータイ]]等<ref name=":0" group="注">[[FeliCa]]搭載[[iPhone]]を含む。以下同じ</ref>のSF機能対応、★印のものは「[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]」による相互利用が可能なカード等(以下単に「全国相互対応カード等」と略す)である<ref group="注">決済システム接続の面では、[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]にある10のICカード(2017年時点)が中心となり、10のICカードについては原則相互利用となる。これら10のICカードのうちのいずれか1つと、地域ICカードがシステム接続するパターンもありその場合、相互利用ICカードに対し片利用の関係となる。</ref>。乗車カードそのものではないサービス名については「」書きする。
なお、複数の事業者にまたがって運用されているカードの事業者詳細については当該項目を参照されたい。(箇条書きの入れ子について片利用関係等<ref group="注">正確には、(1) 同一のバリューイシュアで発行事業体が異なる場合の、メインとサブブランド(亜種)との関係、または(2) [[交通系ICカード全国相互利用サービス]]との間で片利用となる地域ICカードの、システム相互接続先( [https://www.mlit.go.jp/common/001097046.pdf] p.19)を示す。</ref>を示す)
各[[新幹線]]路線で利用可能なIC乗車カードサービスは現状、[[EX-IC]]サービスに登録したカード等、[[モバイルSuica]]特急券(2020年3月24日以降は「[[えきねっと|新幹線eチケットサービス]]」<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=スマホで予約してICカードのタッチで乗車する「新幹線eチケットサービス」|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1233259.html|website=トラベル Watch|date=2020-02-04|accessdate=2020-02-22|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref>)、または[[タッチでGo!新幹線]]に限られる。新幹線各路線での利用条件や新在乗継条件も含め詳細は各々の項目を参照のこと。
新在乗継の在来線部分の運賃自動精算については、取扱可否も含め詳細は該当エリアのカード項目を参照のこと。
==== 北海道 ====
* ★[[Kitaca]]([[北海道旅客鉄道]]〈札幌地区〉)...裏面の記号は、JH。
* [[SAPICA]]([[札幌市交通局]]・[[ジェイ・アール北海道バス]]・[[じょうてつ]]・[[北海道中央バス]]) - 2013年6月22日より[[札幌市電]]およびバス3社の札幌地区[[路線バス]]と[[高速バス]](いずれも一部を除く)での利用を開始。あわせて同日より、Kitaca・[[Suica]]などの全国相互対応カード等の片利用も開始([[電子マネー]]は対象外)。...裏面の記号は、SP。
* [[バスカード (北海道北見バス)|バスカード]]([[北海道北見バス]])
* ★[[nimoca|ICAS nimoca]]([[函館市企業局]]、[[函館バス]]) - 2017年3月15日に発行開始、同25日に利用開始。...裏面の記号は、NR。
:旭川地区では、下記2種のIC乗車カードが相互利用可能である。
* [[Doカード]]([[道北バス]])
* [[Asaca CARD]]([[旭川電気軌道]]) - 2012年11月1日発行開始。
==== 東北 ====
* ★Suica/'''モバイルSuica'''[お]([[東日本旅客鉄道]]〈仙台・盛岡・秋田・青森地区〉・[[仙台空港鉄道]]・[[ジェイアールバス東北]]([[ジェイアールバス東北仙台支店|仙台支店]]、[[ジェイアールバス東北青森支店|青森支店]]))...裏面の記号は、JE。
**[[icsca]]([[仙台市交通局]]) - [[2014年]][[12月6日]]に[[仙台市地下鉄南北線|地下鉄南北線]]に導入開始。[[2015年]][[12月6日]]に[[仙台市営バス]]・[[宮城交通]]バスおよび新規開業の[[仙台市地下鉄東西線|地下鉄東西線]]に導入開始(カード自体は[[2014年]][[12月1日]]より発行開始)。また、2016年3月26日よりSuica仙台圏エリアのみでの相互利用およびSuica以外の全国相互対応カード等の片利用も開始(電子マネーを除く。また、下記の地域連携ICカードを発行する事業者が運行する高速バス、上記のジェイアールバス東北では利用不可)。...裏面の記号は、SK。
** [[地域連携ICカード]] - Suica機能付き、「全国相互利用サービス」にも対応。...裏面の記号は、EとJE両種併記。
*** ハチカ([[八戸市交通部]]、[[南部バス|岩手県北自動車南部支社]]) - 2022年2月26日サービス開始。
*** AOPASS([[青森市企業局交通部]]、[[青森市市バス]]、ジェイアールバス東北青森支店管内の内青森空港線・横内線のみ) - 2022年3月5日サービス開始。
*** Towada SkyBlue Pass([[十和田観光電鉄]]) - 2022年4月29日サービス開始。
*** MegoICa([[弘南バス]]) - 2023年2月25日サービス開始。
*** Iwate Green Pass([[岩手県交通]]) - 2021年3月27日サービス開始。
*** iGUCA([[岩手県北自動車]]、ジェイアールバス東北([[ジェイアールバス東北盛岡支店|盛岡支店]]・[[ジェイアールバス東北二戸支店|二戸支店]])) - 2022年2月19日サービス開始。
*** [[odeca]](東日本旅客鉄道〈[[気仙沼線]]・[[大船渡線]][[バス・ラピッド・トランジット|BRT]]区間〉) - 2015年3月14日より、Suica(全国相互対応カード等を含む)の片利用を開始。2023年7月1日に地域連携ICカードへリニューアル<ref group="注">独自カード時代の裏面の記号は、EB。</ref>。
*** Shuhoku Orange Pass([[秋北バス]]) - 2022年3月12日サービス開始。
*** AkiCA([[秋田中央交通]]、秋田市マイタウン・バス) - 2022年3月26日サービス開始。
*** yamako cherica([[山交バス (山形県)|山交バス]]、[[山形市コミュニティバス|べにちゃんバス]]、[[米沢市市民バス|米沢市民バス]]) - 2022年5月14日サービス開始。
*** shoko cherica([[庄内交通]]) - 2022年5月14日サービス開始。
* [[NORUCA]](ノルカ)([[福島交通]])...裏面の記号は、FK。
==== 関東 ====
* ★[[Suica]]/'''[[モバイルSuica]]'''[お](東日本旅客鉄道〈首都圏地区〉・[[ジェイアールバス関東]]・[[東京モノレール]]・[[東京臨海高速鉄道]]・[[富士急行]]・[[埼玉新都市交通]])...裏面の記号は、発行3社いずれもJE。
** [[地域連携ICカード]] - Suica機能付き、「全国相互利用サービス」にも対応。...裏面の記号は、EとJE両種併記。
*** totra([[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]]・ジェイアールバス関東([[ジェイアールバス関東西那須野支店|西那須野支店]]・[[ジェイアールバス関東宇都宮支店|宇都宮支店]]) ・[[宇都宮ライトレール]](開業同時導入予定)) 2021年3月21日サービス開始。
*** nolbé([[上信観光バス]]、[[群馬中央バス]]、[[日本中央バス|日本中央バス、日本中央交通]]、[[群馬バス]]、[[矢島タクシー]]、[[永井運輸]]) 2022年3月12日サービス開始。
* ★[[PASMO]]/'''[[モバイルPASMO]]'''[お]([[東京地下鉄|東京メトロ]]・[[京王電鉄]]・[[京成電鉄]]・[[新京成電鉄]]・[[京浜急行電鉄]]・[[相模鉄道]]・[[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]]・[[東武鉄道]]・[[東急電鉄]]・[[小田急電鉄]]・[[東京地下鉄]]・[[東京都交通局]]〈[[都営地下鉄]]・[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]・[[都電荒川線]]・[[都営バス]]〉・[[西武鉄道]]など) - 一部の事業者は「全国相互利用サービス」の対象外。...裏面の記号は、PB。
* [[でんてつハイカード]] (旧・[[日立電鉄交通サービス]])
* [[いばっピ]]([[茨城交通]]) 2015年12月1日サービス開始...裏面の記号は、IB。
==== 中部 ====
* ★Suica/'''モバイルSuica'''[お](東日本旅客鉄道〈新潟地区・首都圏地区にあたる[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]][[熱海駅]]、[[伊東線]]〉・[[伊豆急行]])...裏面の記号は、JE。
** [[りゅーと]]([[新潟交通]]・[[新潟交通観光バス]]) - <!--[[2011年]][[3月26日]]のサービス開始を予定していたが、3月11日に発生した[[東日本大震災]]の影響により、カードの発売は4月17日に、またサービス開始は4月24日に延期された。--> 2013年3月23日より、Suica(全国相互対応カード等を含む)の片利用を開始。...裏面の記号は、NB。
* ★[[TOICA]]([[東海旅客鉄道]]〈名古屋地区・[[東海旅客鉄道静岡支社|静岡地区]]〉・[[愛知環状鉄道]])...裏面の記号は、JC。
* ★[[manaca]]([[名古屋鉄道]]・[[名古屋市交通局]]・[[豊橋鉄道]]・[[名古屋臨海高速鉄道]]・[[名鉄バス]]・[[名古屋ガイドウェイバス]]・[[愛知高速交通]]・[[名鉄海上観光船]]) ...裏面の記号は、TP。
* ★[[PiTaPa]]([[スルッとKANSAI]]加盟事業者)...裏面の記号は、SU。
** [[LuLuCa]]([[静岡鉄道]]・[[しずてつジャストライン]]) - PiTaPa・[[ICOCA]]との間で片利用扱い。2013年3月23日からは、Suica・TOICAなど全国相互対応カード等の片利用を開始。・・・裏面の記号はST
** [[emica]]([[三重交通]]・[[三交伊勢志摩交通]]・[[三重急行自動車]]・[[八風バス]]) - [[2016年]][[4月1日]]より発行開始。同時にTOICA・manaca・ICOCA・PiTaPaなど全国相互対応カード等の片利用を開始 裏面の記号は、MK。
* ★PASMO([[富士急静岡バス]]・[[富士急シティバス]]・[[小田急ハイウェイバス]]・[[富士急行|富士急行バス]]・[[伊豆箱根鉄道]]・[[山梨交通]])...裏面の記号は、PB。
* [[ナイスパス_(遠州鉄道)|ナイスパス]]([[遠州鉄道]])...裏面の記号は、ET。
* [[KURURU]](くるる)([[アルピコ交通]]・[[長電バス]]・[[ぐるりん号 (長野市)|ぐるりん号]]) ‐ 2012年10月27日発行開始<ref>[http://www.city.nagano.nagano.jp/soshiki/kotuseisaku/45950.html]「長野市バス共通ICカード」(くるる)が始まります:長野市・交通政策課ホームページ 2011年12月28日付。</ref><ref>ICカード導入・10月27日に開始:[[信濃毎日新聞]]2012年6月21日付。</ref>。…裏面の記号は、NA<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ic-kururu.jp/meisai01.php|title=『KURURU』ポイント照会(タイトル直下の説明文に裏面の記号の記載あり)|publisher=長野市公共交通活性化・再生協議会|accessdate=2019-05-23}}</ref>。
* [[ayuca]]([[岐阜乗合自動車]])...裏面の記号は、GB。
*★[[ICOCA]]([[西日本旅客鉄道]]〈北陸エリア〉・[[あいの風とやま鉄道]]・[[IRいしかわ鉄道]]・[[近畿日本鉄道]]) - <!-- 細かい事項は各事業者、各路線、各ICカード項目に書いて下さい -->近畿日本鉄道はPiTaPa対応だが、[[2012年]][[12月1日]]より[[ICOCA]]の販売やICOCA定期券の発行を開始した。...裏面の記号は、JW。
** あいの風とやま鉄道では[[2016年]]から「Ainokaze ICOCA」を、IRいしかわ鉄道では[[2017年]]から「IRいしかわ鉄道ICOCA」を発行しているが、これらはICOCAの特別デザイン扱いとなっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://ainokaze.co.jp/1995|title=ICOCA定期券等サービス開始およびPRチラシの配布について|publisher=あいの風とやま鉄道|date=2016-01-29|accessdate=2016-03-03}}</ref><ref>[http://www.ishikawa-railway.jp/info/248 ICカード乗車券「ICOCA」サービス開始のお知らせ] IRいしかわ鉄道、2017年1月31日</ref>。
**[[ecomyca]]([[富山地方鉄道]]([[富山地方鉄道富山軌道線|富山軌道線]]・路線バス・鉄道線)-2010年3月14日導入、同日よりpasscaとの相互利用開始。2021年10月10日より富山軌道線に限りICOCAなど全国相互利用対応カードとの片利用開始。
* [[ICa]](アイカ)([[北陸鉄道]]〈バスが中心〉)
==== 近畿 ====
* ★ICOCA(西日本旅客鉄道〈[[アーバンネットワーク]]圏内〉および[[京阪電気鉄道]]〈[[京阪大津線|大津線]]系統を除く各駅〉、近畿日本鉄道)...裏面の記号は、JW。
* ★[[PiTaPa]](スルッとKANSAI加盟事業者) - 原則として[[クレジットカード]]付(ポストペイ方式)。一部の事業者、および電子マネーは「[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス]]」の対象外。...裏面の記号は、SU。
**[[itappy]]([[伊丹市交通局]])...裏面の記号は、IT。
** [[CI-CA]](シーカ)([[奈良交通]])...裏面の記号は、NK。
** [[NicoPa]]([[神姫バス]]) - '''モバイルNicoPa'''[お]は、2012年12月31日に利用終了。...裏面の記号は、SH。
** らんでんカード([[京福電気鉄道]]〈[[京福電気鉄道嵐山本線|嵐山本線]]・[[京福電気鉄道北野線|北野線]]〉)...裏面の記号は、KF。
** [[hanica]]([[阪急バス]]・[[阪急田園バス]]・[[阪神バス]]) - [[2012年]][[4月1日]]より発行開始<ref>[http://www.hanshin-bus.co.jp/ic-card/index.html H24/4/1 阪急・阪神バス共通ICカード「hanica」(ハニカ) 新登場!] 阪神バス ニュースリリース 2012年1月20日</ref>。...裏面の記号は、HH。
** [[なっち (IC乗車カード)|なっち]]([[南海バス]]・[[南海ウイングバス金岡]]・[[南海ウイングバス南部]]・[[南海りんかんバス]]) - 2016年10月1日より発行開始。...裏面の記号は、BN。
** Tsukica([[高槻市交通部]]) - 2018年10月1日より発行開始。...裏面の記号は、TK。
** kinoca([[和歌山バス]]・[[和歌山バス那賀]])...裏面の記号は、WK。
上記のエリアでは、いずれも全国相互対応カード等の片利用が可能である。
==== 中国・四国 ====
* ★ICOCA(西日本旅客鉄道〈岡山・広島・山陰エリア〉)・SHIKOKU ICOCA([[四国旅客鉄道]]〈香川エリア〉)...裏面の記号は、SHIKOKU ICOCAを含め、JW。
** [[PASPY]](広島地区の鉄道・バス・船舶事業者・[[いわくにバス]]) - 全国相互対応カード等の片利用が可能。...裏面の記号は発行会社によって異なり、10種類ある(2017年時点で、発行中のものは7種類。具体的な記号については、[[PASPY]]を参照)
* ★[[PiTaPa]](スルッとKANSAI加盟事業者)...裏面の記号は、SU。
** [[Hareca]]([[岡山電気軌道]]・[[両備ホールディングス]]・[[東備バス]]・[[下津井電鉄]]・[[中鉄バス]]〈一部路線のみ全国相互対応カード等は利用が可能〉・[[宇野自動車]]〈全国相互対応カード等は利用不可〉) - PiTaPa(全国相互対応カード等を含む)の片利用が可能。...裏面の記号は、発行会社によって異なり、5種類ある。
* ★[[SUGOCA]]([[九州旅客鉄道]]) - [[山陽本線]] [[下関駅]] - [[門司駅]]間で利用可能。
*スカイレールICカード([[スカイレールサービス]])
* [[IruCa]](香川県内の電車・バス事業者<ref>[[高松琴平電気鉄道]]・[[ことでんバス]]・[[小豆島オリーブバス]]・[[大川バス]]</ref>・香川県内の全航路<ref>[[内海フェリー]] [[草壁港]]~[[高松港]]、[[高松港]] - [[小豆島]]航路、[[四国フェリー]] [[土庄港]]~[[高松港]]</ref>・レンタサイクル等) - [[高松琴平電気鉄道]]・[[ことでんバス]]に限り全国相互対応カード等の片利用が可能。それ以外の事業者は全国相互対応カード等非対応。...裏面の記号は、KD。
* [[ICい〜カード]]([[伊予鉄道]]・[[石崎汽船]]・[[中島汽船]]など) - '''モバイルICい〜カード'''[お]は2016年3月31日でサービス終了。...裏面の記号は、IY。
* [[ですか]] (高知県内の電車・バス事業者<ref>[[とさでん交通]]・[[県交北部交通]]・[[高知東部交通]]・[[高知高陵交通]]・[[高知駅前観光]]・[[高知西南交通]]・[[ジェイアール四国バス]]・[[四万十交通]]・[[いの町営バス]]・[[土佐市ドラゴンバス]]</ref>)- [[高知駅前観光]]は空港連絡バスに限り利用可能。[[ジェイアール四国バス]]は大栃線に限り利用可能。[[四万十交通]]は高速バスを除く全線で利用可能。...裏面の記号は、DE。
==== 九州・沖縄 ====
* ★[[SUGOCA]]([[九州旅客鉄道]]〈福岡・佐賀・熊本・大分エリア〉および〈長崎・宮崎・鹿児島エリア)の主要路線〉) - <!-- 細かい事項は各事業者、各路線、各ICカード項目に書いて下さい -->各エリア間をまたぐ利用は不可。...裏面の記号は、JK。
** ★mono SUGOCA([[北九州高速鉄道]]) - 2015年10月1日から利用を開始。JR九州のSUGOCAのシステムを採用するのに合わせ、新しい導入カードの名称が決まった<ref>[http://www2.kitakyushu-monorail.co.jp/news/detail.php?id=175 北九州モノレール発行予定のICカード乗車券「SUGOCA」の愛称及びデザイン決定について] 北九州モノレール お知らせ 2014年11月26日</ref>。
** [[熊本地域振興ICカード]](「くまモンのIC CARD」)([[九州産交バス]]・産交バス・[[熊本電気鉄道]]・[[熊本バス]]・[[熊本都市バス]]) - 2015年4月1日発行開始<ref>[http://kumanichi.com/news/local/main/20121128009.shtml ICカード乗車券「導入を」75% 熊本市調査]熊本日日新聞 2012年11月28日</ref><ref>[http://www.kyusanko.co.jp/sankobus_top/sites/all/themes/SankobusTop/pdf/ic_2014.11.18.pdf 熊本地域振興ICカード」の導入について]九州産交バス株式会社
産交バス株式会社 2014年11月19日</ref>。2016年3月23日、全国相互対応カード等の片利用開始<ref name="kumanichi20130619" />。ただし、でんでんnimoca(熊本市電エリア)とは相互利用とし、2015年8月7日より先行して片利用を開始。...裏面の記号は、KM<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kumamotodentetsu.co.jp/ticket/ic/pdf/app_form.pdf |title=熊本電鉄公式サイト内「『くまモンのICカード』申込書(記名式)」ページ(左下『販売会社記入欄』の下の『裏面カード番号』の下に記載有り) |format=PDF |publisher=熊本電気鉄道株式会社 |date=2021-06-17 |accessdate=2021-06-17}}</ref>。
**
* ★[[はやかけん]]([[福岡市交通局]])...裏面の記号は、FC。
* ★[[nimoca]](株式会社ニモカ([[西日本鉄道]]・[[昭和自動車]]・[[筑豊電気鉄道]]・[[佐賀市交通局]]))...裏面の記号は、NR。
** ★tsu-tsu nimoca([[佐賀市交通局]]) - 佐賀県が発行するオリジナルnimocaで2017年9月から発売。
** ★[[めじろんnimoca]] ([[大分バス]]・[[大分交通]]・[[亀の井バス]]:運営は、大分ICカード開発) - 現在は同カードの在庫がなくなり、案内上では「めじろんnimoca」の呼称を残しながらも西鉄などと同一デザインのnimocaを発行している。
** ★でんでんnimoca([[熊本市交通局|熊本市電]]) - 2014年3月28日より運用開始。西鉄のnimocaをベースとしたICカード<ref>[http://www.kotsu-kumamoto.jp/Content/asp/topics/topics_detail.asp?PageID=2&ID=514&type=1 熊本市電ICカードの名称決定について] - 熊本市交通局2013年10月28日</ref><ref name="nishitetsu20131028">{{PDFlink|[http://www.nishitetsu.co.jp/release/2013/13_106.pdf 熊本市電でnimocaがご利用いただけるようになります!]|株式会社ニモカ 2013年10月28日}}</ref><ref name="kumanichi20130619">[http://kumanichi.com/news/local/main/20130619006.shtml 片利用式交通カード、全額は負担せず 熊本市長] - 熊本日日新聞2013年6月19日</ref>。
** ★みやこうnimoca([[宮崎交通]]) - 2015年11月14日より運用開始。後述の[[宮交バスカ]]の利用は2016年3月31日をもって終了した<ref>[http://www.miyakoh.co.jp/news/2015/10/20151114nimoca.html 2015年11月14日(土)より、交通系ICカード『nimoca(ニモカ)』のサービスを開始いたします。]宮崎交通 お知らせ 2015年10月23日</ref>。
** ★nagasaki nimoca([[松浦鉄道]]・[[長崎電気軌道]]) - 2020年3月1日より運用開始<ref>{{cite news|url=https://this.kiji.is/607034056722105441?c=39546741839462401|title=「ナガサキニモカ」 松浦鉄道での利用始まる 長崎電気軌道は記念カード販売|newspaper=長崎新聞|date=2020-03-02|accessdate=2020-03-05}}</ref>。長崎⇔福岡間の高速バスを運行している[[九州急行バス]]で2020年3月27日から<ref name="pr20200221">{{Cite press release|和書|url=http://www.nishitetsu.ne.jp/kyushugo/db/wp-content/uploads/2020/02/01e31ef99244bac6f20d6dfaf2c24157.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200609160651/http://www.nishitetsu.ne.jp/kyushugo/db/wp-content/uploads/2020/02/01e31ef99244bac6f20d6dfaf2c24157.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年3月27日(金)サービス開始! 九州号でnagasaki nimocaがご利用いただけるようになります|publisher=九州急行バス/ニモカ|date=2020-02-21|accessdate=2020-06-09|archivedate=2020-06-09}}</ref>、[[長崎県交通局]]・[[長崎県央バス]]の各社で2020年6月21日から、[[西肥自動車]]・[[させぼバス]]の各社で2020年6月28日から<ref name="release20200131">{{Cite press release|和書|url=https://www.nimoca.jp/files/optionallink/長崎エリアnimocaサービス開始決定.pdf|title=2020年3月から順次サービス開始! 長崎県内の交通事業者7社局でnimocaがご利用いただけるようになります|publisher=ニモカ|date=2020-01-31|accessdate=2020-03-23}}</ref>「nagasaki nimoca」を導入した。
* [[Tポイント#エヌタスTカード|エヌタスTカード]]([[長崎自動車|長崎バス]]、[[さいかい交通]]) - 2019年9月16日より運用開始。2020年2月16日からは全国相互対応カード等の片利用開始<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=長崎スマートカードの後継 “2つのカード” 相互利用の見通し立たず | 長崎新聞|url=https://this.kiji.is/517895336772944993|website=長崎新聞|date=2019-06-30|accessdate=2019-09-22|language=ja|last=長崎新聞}}</ref>。
* [[OKICA]]([[沖縄都市モノレール]]・[[琉球バス交通]]・[[沖縄バス]]・[[那覇バス]]・[[東陽バス]]) - 沖縄都市モノレール全線と、沖縄本島内の大半のバス路線。...裏面の記号は、OK<ref>{{Cite web|和書|url=https://info.okica.jp/wp-content/themes/main/pdf/okica_guidebook2019.pdf |title=OKICA公式サイト内『PDF版ご利用ガイド』17ページ(右上『利用登録方法』項番3に記載有り) |format=PDF |publisher=沖縄ICカード株式会社 |date=2021-06-17 |accessdate=2021-06-17}}</ref>。
** 沖縄都市モノレールは2020年3月10日から単独でSuicaを導入<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=ゆいレール、3月10日から「Suica」ほか交通系ICカードに対応|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1236346.html|website=トラベル Watch|date=2020-02-20|accessdate=2020-02-22|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref><ref name=":4">https://www.yui-rail.co.jp/common/uploads/656e84ca9c8c145822f3427adab4d2e8-1.pdf</ref>。
鹿児島地区では、[[かごしま共通乗車カード]]である下記2種のIC乗車カードが相互利用可能である。
* [[いわさきICカード]]([[鹿児島交通]]・[[いわさきバスネットワーク]]など)
* [[ラピカ (IC乗車カード)|ラピカ]](「RapICa<ref>[https://nangoku-kotsu.com/rapica/ かごしま共通乗車カードRapica(ラピカ)]</ref>」)([[鹿児島市交通局]]・[[南国交通]]・[[JR九州バス]]〈鹿児島地区〉・[[桜島フェリー]])
** 桜島フェリーでは、[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]におけるPiTaPaを除く9種類のカード・[[楽天Edy]]・[[WAON]]・[[nanaco]]・[[QUICPay]]・[[Apple Pay]]を利用可能。
==== 広域 ====
* EX予約サービス(旧「[[EX-IC]]」) 関連するカード類や、'''モバイルSuica'''[お]対応可否、サービス・割引率その他の詳細は「[[EX-IC]]」の項目を参照のこと。
** 「エクスプレス予約」([[東海旅客鉄道]]・[[西日本旅客鉄道]])- [[東海道・山陽新幹線]]用。
*** [[JR東海エクスプレス・カード]]、または[[J-WESTカード]](エクスプレスのみ)への入会が必要。
** 「プラスEX」(統合された「エクスプレス予約プラスEX会員」含む)([[東海旅客鉄道]])- 東海道新幹線のみ。
*** 特定ブランドのクレジットカード(JCB、三井住友、三菱UFJニコス、イオン、Amex、セディナ、SuMi TRUST CLUB、トヨタファイナンス)が必要。
** 「スマートEX」([[東海旅客鉄道]]・[[西日本旅客鉄道]])- [[東海道・山陽新幹線]]用。
*** 国際ブランドクレジットカード(Visa、MasterCard、JCB、Amex、Diners)の登録が必要。[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互対応カード等]]を利用する(認証としての利用であり、SF機能は利用しない)。
* [[モバイルSuica]]特急券([[東日本旅客鉄道]]) - [[東北新幹線|東北]]・[[北海道新幹線|北海道]]・[[上越新幹線|上越]]・[[北陸新幹線]]用。
** 2020年3月14日以降は「[[えきねっと|新幹線eチケットサービス]]」となる<ref name=":2" />
*[[タッチでGo!新幹線]](同上)-東北・上越・山形・秋田新幹線全線と北陸**新幹線の一部区間で、全国相互利用対応カードなどを利用し自由席にSF乗車可能。
==== 商業系電子マネー ====
商業系電子マネーで利用できる鉄道・バス・船舶を下記に示す。また、全国各地のタクシー事業者(一部事業者、一部車両)で利用可能な場合がある。すべて[[おサイフケータイ]]など<ref name=":0" group="注" />の電子マネー機能にも対応する。なお、SF機能ではないため、厳密には乗車カードには該当しない。
* [[十勝バス]] - 帯広市西地区コミュニティバス、大空団地線、自衛隊稲田線、畜大線にて、[[WAON]]を利用可能。
* [[くしろバス]] - たくぼく循環線、イオン線、イオン釧路線にて、WAONを利用可能。
* [[阿寒バス]] - 鶴野ニュータウン線、高専まりも線にて、WAONを利用可能。
* [[kmモビリティサービス]] - 路線バス全線で[[iD (クレジット決済サービス)|iD]]を利用可能。
* [[平成エンタープライズ]] - [[イオンモール羽生|イオンモール羽生線]]にて、[[WAON]]を利用可能。
* [[えちぜん鉄道]]・[[福井鉄道]] - 一部駅の窓口開設時間帯に、[[nanaco]]・[[QUICPay]]を利用可能<ref>{{Cite news|url = https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1125325|title = えち鉄がキャッシュレス決済導入 乗車券の購入、ジュラカなどで|newspaper = 福井新聞ONLINE|archiveurl = https://web.archive.org/web/20200717175409/https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1125325|date = 2020-07-17|archivedate = 2020-07-17|accessdate = 2021-07-27}}</ref>。
* [[岐阜乗合自動車|岐阜バス]] - [[イオンモール各務原|イオンモール各務原線]]でWAONを利用可能。
* [[三岐鉄道]]バス - [[イオンモール東員]]線にて、WAONを利用可能だったが、2022年2月4日付取扱終了<ref>[http://toin-aeonmall.com/static/detail/access-routebus イオンモール東員]</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=イオンモール東員線(三岐バス)における電子マネー WAON 取扱終了のお知らせ|publisher=三岐鉄道|date=2022-2-4|url=https://www.sangirail.co.jp/contents/annai/news/waonsyuryo.pdf|format=PDF|accessdate=2022-2-5}}</ref>。
* ケイルック - [[京都らくなんエクスプレス]]と京大病院ライナー(hoop)にて、WAONを利用可能。
* [[淡路ジェノバライン]] - 窓口開設時間帯に、[[楽天Edy]]・WAON・nanaco・iDを利用可能。
* [[鳥取市]]コミュニティバス「[[くる梨]]」([[日ノ丸自動車]]・[[日本交通 (鳥取県)|日本交通]]の2社共同で運行受託)- [[楽天Edy]]・WAON・iD・QUICPayを利用可能<ref>[http://mainichi.jp/area/tottori/news/20120908ddlk31040373000c.html 循環バス「くる梨」:来年4月から電子マネーを導入へ 両替省ける利点も/毎日新聞鳥取支局 2012年9月8日掲載(2012年9月22日閲覧)。]</ref>。
* [[那覇バス]] - 那覇市内線にてiDを利用可能。
* [[沖縄本島のバス路線#888:やんばる急行バス 空港線|やんばる急行バス]] - 楽天Edyを利用可能。
==== クレジットカード会社の非接触サービス ====
<!-- 実証実験中の事業者は記載しないでください -->
* [[Visa]]のタッチ決済
** [[北都交通 (北海道)|北都交通]] - 空港連絡バスの全系統で利用可能<ref>{{Cite press release|和書|url = https://www.hokto.co.jp/pdf/visa_touch.pdf|title = Visaのタッチ決済 運用開始のお知らせ~4月15日より空港連絡バス全系統で利用可能に~|publisher = 北都交通|date = 2021-04-14|accessdate = 2021-07-27|format = PDF}}</ref>。
** [[経営共創基盤#みちのりホールディングス|みちのりホールディングス]]
*** [[岩手県北自動車]] - [[106急行バス]]で利用可能。
*** 福島交通・[[会津乗合自動車]](会津バス) - 会津若松・福島 - [[仙台空港]]線、郡山 - [[福島空港]]線(福島交通のみ)で利用可能<ref>{{Cite press release|和書|url = https://www.michinori.co.jp/pdf/20201023_PR_michinori.pdf|title = 福島交通・会津バス:高速バス・路線バスにおけるキャッシュレス決済の展開|publisher = みちのりホールディングス・福島交通・会津乗合自動車・小田原機器|date = 2020-10-23|accessdate = 2021-07-27|format = PDF}}</ref>。
*** [[茨城交通]] - 勝田・東海 - 東京線で利用可能(日本で初めての導入事業者)<ref>{{Cite press release|和書|url = https://www.visa.co.jp/about-visa/newsroom/press-releases/nr-jp-200721.html|title = 日本で初めて公共交通機関の車内にVisaのタッチ決済を導入!|publisher = 三井住友カード・ビザ・ワールドワイド・ジャパン|date = 2020-07-21|accessdate = 2021-07-27}}</ref>。
** 京福バス・[[京福リムジンバス]] - [[小松飛行場|小松空港]]連絡バス・[[一乗谷朝倉氏遺跡|一乗谷朝倉]]特急バスで利用可能<ref>{{Cite press release|和書|url = https://www.hokkokubank.co.jp/other/news/2021/pdf/20210312.pdf|title = 北陸地方初、バスで「Visaのタッチ決済」導入。2021年3月20日よりサービス利用開始いたします。|publisher = 京福バス・北國銀行・北国クレジットサービス・QUADRAC・ビザ・ワールドワイド・ジャパン|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210312033413/https://www.hokkokubank.co.jp/other/news/2021/pdf/20210312.pdf|date = 2021-03-12|archivedate = 2021-03-12|accessdate = 2021-07-27}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/353905|title = 京福バスにタッチ決済 北國銀 非接触、外国人需要で|newspaper = 北國新聞|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210313123545/https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/353905|date = 2021-03-12|archivedate = 2021-03-13|accessdate = 2021-07-27}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://www.nikkei.com/article/DGXZQOJB127BY0S1A310C2000000/|title = 北国銀行、福井のバスでVisaのタッチ決済導入|newspaper = 日本経済新聞|date = 2021-03-12|accessdate = 2021-07-27}}</ref>。
** 長電バス - 急行バス[[志賀高原]]線で利用可能。
** [[WILLER TRAINS]](京都丹後鉄道) - 全路線で利用可能(鉄道においては日本初)<ref>{{Cite press release|和書|url = https://www.smbc.co.jp/news/pdf/j20201120_01.pdf|title = 日本初、鉄道でVisaのタッチ決済を導入~タッチするだけで乗車可能!第一弾は京都丹後鉄道で~|publisher = 三井住友銀行|date = 2020-11-20|accessdate = 2021-07-27|format = PDF}}</ref>。
=== 発行予定のカード ===
<!-- 具体的な導入計画を伴わない、検討・構想段階のものを追加しないでください -->
{{出典の明記| date = 2018年3月| section = 1}}
<!-- 検討段階 *(名称未定)([[秋田市]]) - [[秋田中央交通]]や秋田市マイタウン・バス事業者各社と共同で2018年度中の導入を検討<ref>[http://www.sakigake.jp/p/akita/topics.jsp?kc=20160129h 秋田市内路線バスにIC乗車券 中央交通、18年度にも]秋田魁新報 2016年1月29日</ref>。バス会社主導ではなく、秋田市がバス会社に働きかける形となっている模様であり、秋田市内路線のみに限定される見込み。 -->
* (名称未定)([[船木鉄道]]・[[ブルーライン交通]]) - 2020年度に導入を予定。また、Suica・PASMOなど「全国相互利用サービス」対応の各カードによる片利用を可能とする予定。
<!-- 進展がない模様 * ICOCA([[万葉線]]) - 2014年度以降発行開始予定<ref>[http://www.city.takaoka.toyama.jp/sekatsu/0601/koukyou-koutuu/mannyousenn/mankatsukyo/completion/00-08.pdf 万葉線活性化総合連携計画P.25]</ref>。[[氷見市]]長は、ICOCAを導入したいと発言している<ref>[http://www.knb.ne.jp/news/detail/?sid=397 夏野市長、万葉線に「ICOCA」導入を]北日本放送 2013年7月30日</ref>が、2017年2月時点では、未導入。導入した場合も、JR西日本本家と同じものになるか、「Ainokaze ICOCA」のような、独自のカードを発行するかは未定。 -->
<!-- 具体的な計画がない * (名称未定)([[しなの鉄道]]) - 導入に向けての検討を開始<ref>[http://www.shinanorailway.co.jp/new/kyougikai/pdf/H24/20120523_06zoukyaku2.pdf しなの鉄道増客推進チーム「年間輸送人員1千万人以上確保に向けた増客作戦」別紙]</ref>。 -->
<!-- 具体的な計画がない * (名称未定)([[近江鉄道]]) - 鉄道路線への導入に向けての検討を開始<ref>[http://www.pref.shiga.lg.jp/c/kotsu-s/files/kasseikakeikaku2.pdf 滋賀県交通政策課「近江鉄道活性化計画(平成24年3月策定)その2」11頁]</ref>。 -->
<!-- 構想段階 * [[2021年]]を目処に、東日本旅客鉄道など3社が、[[Suica]]と地域系交通ICカードを一体にしたカード(Suicaの基本機能に加え、地域独自のポイント付与の機能等も付加される)を発行開始し、東日本エリアの未導入などの地域に導入させることが検討されている。 -->
=== 過去に発行されていたICカード ===
試験導入のみのものは含まない。
* [[ナイスパス (遠州鉄道)|EG1カード]]([[遠州鉄道]]) - [[ナイスパス (遠州鉄道)|ナイスパス]]へ移行する形で消滅。ナイスパスとは異なりリライト機能は無かった。また定期券も発行されていなかった。
**[[ユーバスカード]]([[静岡県]][[磐田郡]][[豊田町 (静岡県)|豊田町]]=現・[[磐田市]]) - 機器の老朽化により販売・利用共に終了。代替として'''ユーバス回数券'''を販売するほか、利用停止以降は[[ナイスパス (遠州鉄道)|ナイスパス]]が利用可能。
* [[トランセカード]]([[東急トランセ]]) - [[PASMO]]導入に伴う。代替として'''代官山循環線専用カード'''を販売。
*タウンバスカード([[平和交通 (千葉県)|平和交通]]) - 同社の深夜急行バスで使用可能であった。[[PASMO]]導入に伴う。
*ICカード回数券([[関東鉄道]])- [[関東鉄道取手営業所|取手営業所]]管内で利用可能であった。2010年3月31日をもって利用終了。一般路線バスにおける[[PASMO]]は2017年9月16日までに導入完了。
* [[バスICカード (福島交通)|バスICカード]](福島交通〈郡山・須賀川地区〉)- 2010年10月30日より、同社の(全エリアを対象とした)新しいIC乗車カード「[[NORUCA]](ノルカ)」が導入されたことで、同年11月1日に発売終了、翌2011年7月31日に利用終了となった。
* [[せたまる]]([[東京急行電鉄]][[東急世田谷線|世田谷線]])PASMO・Suicaとの間で片利用扱い - [[2012年]][[3月16日]]販売終了、同年[[9月30日]]利用終了。
* [[宮交バスカ]](宮崎交通) - みやこうnimoca導入に伴い、2016年3月31日をもって利用を終了した<ref>[http://www.miyakoh.co.jp/news/imgs/%A5%CB%A5%E2%A5%AB%A5%EA%A5%EA%A1%BC%A5%B92015.6.12%A2%A8%B5%DC%BA%EA%B8%F2%C4%CC%CD%CD%A1%DA%C0%B5%A1%DB.pdf 「nimoca」平成27年秋県下一斉サービス開始!]宮崎交通 お知らせ 2015年6月12日</ref>。
* [[バスICカード (山梨交通)|バスICカード]]([[山梨交通]]グループ各社)- 2000年2月28日サービス開始。PASMOに代替され、2016年12月11日利用終了。
* [[passca]](パスカ)([[富山ライトレール]])...裏面の記号は、TL。 - 2006年4月29日導入、2010年3月14日よりecomycaとの相互利用開始。2020年2月21日に富山ライトレールと富山地方鉄道が合併したことにより2019年10月31日に発売終了。機能はecomycaに統合、発売終了後も当面使用可能。
* [[長崎スマートカード]](長崎自動車、さいかい交通、長崎電気軌道、松浦鉄道、長崎県交通局、長崎県央バス、佐世保市交通局、させぼバス、西肥自動車、島原鉄道)- 2020年に廃止され、「nimoca」に移行<ref>{{Cite web|和書|title=長崎電気軌道や松浦鉄道など7社局「nimoca」導入へ 全国相互利用サービスに対応|url=https://trafficnews.jp/post/80153|website=乗りものニュース|accessdate=2019-09-22|language=ja}}</ref><ref name=":0" />。
* 近江鉄道バスICカード([[近江鉄道]]) - 大津営業所管内の路線バスの一部([[大津市]]の瀬田地区と[[草津市]]内の一部路線)に導入。2021年3月31日で取扱を終了し、ICOCAに移行。
* ICOUSA(イコウサ)([[まちづくり福井]])- [[2011年]][[3月20日]]に[[福井市]]内の[[コミュニティバス]]「[[すまいる]]」([[京福バス]]が運行受託)に導入。[[2021年]][[9月30日]]をもって取扱を終了<ref>{{Cite press release|和書|title=ICカード ICOUSA(イコウサ)取扱い終了及び払戻し実施のご案内|publisher=[[まちづくり福井]]|date=|url=http://www.ftmo.co.jp/000_adm/data/20217182415.pdf|format=PDF|accessdate=2022-2-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220118035208/http://www.ftmo.co.jp/000_adm/data/20217182415.pdf|archivedate=2022-1-18}}</ref>。
* [[北九州市交通局#ひまわりバスカード(廃止)|ひまわりバスカード]](北九州市交通局)-2001年(平成13年)9月、乗車カードとして[[小田原機器]]製の[[ICカード]]「'''ひまわりバスカード'''」が導入された<ref name=faq>[http://www.call-center.city.kitakyushu.jp/ttlfaq/faq/faq_detail.asp?baID=3&FAQID=1627 ICバスカード(ひまわりバスカード)について知りたい。(カードの種類と金額について) ]</ref>。[[2021年]][[10月30日]]に利用終了。nimocaに移行。
== 日本の磁気カード乗車券 ==
=== 現行カード ===
* [[バスカード_(道南バス)|バスカード]]([[道南バス]])
* バスカード([[糸魚川バス]])
* 回数カード([[大阪市交通局]]→[[大阪シティバス]]・大阪市高速電気軌道)
* [[パールカード11]]([[近畿日本鉄道]])
* NEW Uラインカード([[神戸市交通局]])
* なんかいバスカード〈キッズカード〉([[南海バス]]・[[南海ウイングバス金岡]]・[[南海ウイングバス南部]])
* [[岡山県共通バスカード|中鉄バス専用バスカード]]([[中鉄北部バス]])
:※[[中鉄バス]]〈一部路線を除く〉利用終了
* 備北バス専用バスカード([[備北バス]])
=== ICカード導入によって廃止のカード ===
* [[バスカード_(岩手県交通・岩手県北自動車)|岩手県交通専用バスカード]]([[岩手県交通]]・[[早池峰バス]]・[[奥州市営バス]])
* バスカード([[新常磐交通]])
* [[山口県共通バスカード]]([[船木鉄道]]・[[防長交通]]・[[ブルーライン交通]])
:※ [[岩国市交通局]]・[[いわくにバス]]発行のバスカードは利用不可。
:※ [[サンデン交通]]・[[宇部市交通局]]・中国ジェイアールバス〈山口県内路線〉 利用終了
=== 過去に発行されていた磁気カード乗車券 ===
発行終了後の取り扱いなどの詳細は、項目があるものは該当項目を参照。
==== 全国共通 ====
* [[オレンジカード]](JRグループ) 間接式([[自動券売機]]での[[切符]]への引き換えによる利用)自動券売機での利用は当面可能。
==== 北海道 ====
* [[ジェイ・アールバスカード]]([[ジェイ・アール北海道バス]])
* [[じょうてつバスカード]]([[じょうてつ]])
* [[共通ウィズユーカード]](札幌市交通局)
* [[中央バスカード]]([[北海道中央バス]])
* [[札樽間高速バス共通カード]](北海道中央バス、ジェイ・アール北海道バス)
* [[Doカード|ドゥカード、バスカード、マイカード]](道北バス)
* [[苫小牧市営バス#トマッピーカード|トマッピーカード]]([[苫小牧市営バス|苫小牧市交通部]])
* [[旭川電気軌道#バスカードシステム|シャトルカード]]([[旭川電気軌道]]) - クレジットカード直接または紐付けされた専用カードによるポストペイ方式
* [[バス・市電共通乗車カード]]([[函館バス]])
* [[イカすカード]]([[函館市企業局]][[函館市企業局交通部|交通部]])
==== 東北 ====
* [[バスカード (青森市営バス)]]([[青森市営バス]])
* 岩手県北バス専用バスカード([[岩手県北自動車]]・[[岩泉自動車運輸]])
* [[スキップカード]]([[仙台市交通局]]・[[宮城交通]])
* [[ジョイカード]](同上)
* [[バスカード (仙台市営バス)|バスカード]](仙台市交通局)
* [[メルシーカード]](宮城交通)
* (旧)バスカード([[福島交通]]〈福島市内の特定路線のみ〉)
* (新)バスカード「棚倉・鮫川・塙・矢祭地区専用」(同上)
* (新)バスカード「相馬・南相馬地区専用」(同上)
==== 関東 ====
* [[3社共通バスカード (栃木県)]]([[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]]・[[東野交通]]・[[ジェイアールバス関東]]〈宇都宮地区〉)
* [[イオカード]](東日本旅客鉄道〈[[首都圏 (日本)|首都圏]]地区〉)
* [[パスネット]](パスネット協議会加盟各社局)
** [[SKカード]]([[新京成電鉄]])
** [[ルトランカード]]([[京浜急行電鉄]])
** [[ぽけっとカード|SFポケットカード]](相模鉄道)
** [[とーぶカード|SFとーぶカード]](東武鉄道)
** [[レオカード|SFレオカード]](西武鉄道)
** [[多摩モノレールカード]](多摩都市モノレール)
** [[ほくそうパッスルカード]](北総開発鉄道→[[北総鉄道]])
** [[かもめカード]]([[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]])
** [[首都圏新都市鉄道#TXカード|TXカード]](首都圏新都市鉄道)
** [[ディズニーリゾートライン・カード]]([[舞浜リゾートライン]])
** [[メトロカード (東京)#NSメトロカード|NSメトロカード]]・[[メトロカード (東京)#SFメトロカード|SFメトロカード]]([[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]→[[東京地下鉄|東京地下鉄(東京メトロ)]])
** [[Tカード]]([[東京都交通局]])
* [[ロマンスカード]](小田急電鉄)
* [[フレッシュカード]](埼玉新都市交通)
* [[レオカード]](西武鉄道)
* [[メトロカード (東京)|メトロカード]](営団地下鉄)
* [[とーぶカード]](東武鉄道)
* バスカード・にこにこカード<65>([[日立電鉄交通サービス]])
* モノレールカード([[千葉都市モノレール]])
* [[神奈川中央交通#神奈中バスカード|神奈中バスカード]]([[神奈川中央交通]])
* [[バス共通カード]](東京都交通局・横浜市交通局・神奈川中央交通・東急バス・京王バス・西武バス他、関東地区バス各社)
** [[マリンカード|マリンカード・Yカード]]([[横浜市交通局]])
** 京急バスカード([[京浜急行バス]]・羽田京急バス・横浜京急バス・湘南京急バス)
** 京王バスカード([[京王電鉄バス]]・京王バス東・京王バス中央・京王バス南・京王バス小金井)
** [[トランセカード|代官山循環線専用バスカード]]([[東急トランセ]]代官山循環線、トランセカード廃止代替)
* [[ぐんネット]]([[関越交通]]・[[群馬バス]]・[[群馬中央バス]]・[[日本中央バス]]・[[永井運輸]]・[[上信電鉄]]バス)
* 尾瀬カード(関越交通〈利根・沼田地区のみ〉)
==== 中部 ====
* [[バスカード_(新潟交通)|バスカード]]([[新潟交通]])
* [[新潟県内高速バス共通カード]](新潟交通・[[越後交通]]・[[頸城自動車]]・[[蒲原鉄道]]の新潟県内の高速バスと新潟交通・[[会津乗合自動車]]が運行する[[会津若松 - 新潟線]])
* [[バスカード (富士急行)|バスカード]]([[富士急行]]グループ各社)
* [[パサールカード]]([[静岡鉄道]]・[[しずてつジャストライン]]・[[秋葉バスサービス]])
* [[ETカード]]([[遠州鉄道]])
* [[トラムカード]]([[富山地方鉄道富山軌道線]])
* バスカード([[岐阜乗合自動車]])
* [[パノラマカード]]・[[パノラマプラスカード]](名古屋鉄道)
* [[リリーカード]](名古屋市交通局)
* [[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]]
**[[SFパノラマカード]](名古屋鉄道など)
**[[ユリカ]](名古屋市交通局)
**[[あおなみカード]](名古屋臨海高速鉄道)
* [[ゆとりーとカード]]([[名古屋ガイドウェイバス]])
* [[SFパノラマカード#名鉄バスカード|バスカード]]([[名鉄バス]])
* バスカード([[知多バス]])
* [[リニモカード]]([[愛知高速交通]])
* [[三交バスカード]]([[三重交通]])
==== 近畿 ====
* [[スルッとKANSAI]]
** [[阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード]]([[阪急電鉄]]・[[阪神電気鉄道]]・[[能勢電鉄]]・[[北大阪急行電鉄]])
* 回数カード([[高槻市交通部]])
* [[京阪グループ共通バスカード]]([[京阪バス]]・[[京都京阪バス]]・[[京阪京都交通]])
* 市バスカード([[伊丹市交通局]])
* [[パールカード]](近畿日本鉄道)
* [[Jスルーカード]](西日本旅客鉄道〈大阪地区〉・近畿日本鉄道(大阪地区)・[[明石市交通部]]・[[近鉄バス]])
* [[ハープカード]](阪神電気鉄道)
* [[タウンカード]](大阪市交通局)
* [[マイチケット]](南海電気鉄道)
* [[Kカード]](京阪電気鉄道)
* バスカード([[奈良交通]])
* のり鯛カード([[明石市交通部]])
* 阪急・阪神共通バスカード([[阪急バス]]・[[阪急田園バス]]・[[阪神バス]])
** 2012年5月31日に発売終了。阪急バス・阪急田園バスの2社では、同年9月30日に利用終了。阪神バスはその後も使用可能だったが[[2015年]]9月30日限りで取り扱い終了。スルッとKANSAI2days・3daysチケットは阪急バス同様、提示により引き続き利用可能である<ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin-bus.co.jp/files/whatsnew/2015.card.pdf 磁気カードサービスの終了について]|阪神バス 2015年8月13日}}</ref>。
**下記2種のカードは、上記の「阪急・阪神共通バスカード」に代わる形で発売を終了した。
*** 回数カード(阪急バス・阪急田園バス) 2012年9月30日に利用終了(唐櫃営業所管轄の路線は2013年4月30日で利用終了)。
*** バスカード(阪神電気鉄道 - 阪神バス) 2012年10月1日以降も、当面利用可能。
* 回数カード(阪神バス〈旧[[尼崎市交通局]]の路線〉)
* 市バス専用カード(京都市交通局)
* バスカード([[和歌山バス]]・[[和歌山バス那賀]])
* バスカード([[南海りんかんバス]])
* 近鉄バス回数カード([[近鉄バス]])
* 市バスカード(神戸市交通局) 利用終了予定[https://www.city.kobe.lg.jp/a90404/buss2touch.html]
* 山陽バスカード([[山陽電気鉄道]]) 利用終了予定[http://www.sanyo-bus.co.jp/media/1600311570_96458100.pdf]
* [[トラフィカ京カード]]([[京都市交通局]])
==== 中国・四国 ====
* [[岡山県共通バスカード]]([[両備ホールディングス]]・[[東備バス]]・[[岡山電気軌道]]・[[下津井電鉄]]・中国ジェイアールバス〈岡山県内路線〉・[[井笠鉄道]]・[[宇野自動車]]) ※ [[中鉄バス]]・[[備北バス]]の発行のバスカードは現在、各社専用バスカードとして使用可能<ref group="注">中鉄バス発行のバスカードは中鉄北部バスのみ利用可能。</ref>
** 宇野バス専用バスカード(宇野自動車)
** 井笠バス専用バスカード(井笠鉄道)
* [[バスカード (広島県)|バスカード]]・パセオカード・アストラムカード([[広島電鉄]]・[[中国ジェイアールバス]]〈広島県内路線〉・[[広島交通]]・[[広島バス]]・[[芸陽バス]]・[[呉市交通局]]・[[広島高速交通]])
* いさりびカード(広島電鉄・中国ジェイアールバス・[[石見交通]])
* 広島県・島根県共通バスカード(中国ジェイアールバス)
* [[共通バスカード (島根県)]]([[松江市交通局]]・[[一畑バス]]・[[石見交通]]・[[イワミツアー]] ・[[日ノ丸自動車]]〈島根県内路線〉・中国ジェイアールバス〈島根県内路線〉)
* [[い〜カード]]([[伊予鉄道]])
==== 九州・沖縄 ====
* [[バスカード_(西鉄バス)|バスカード]]([[西日本鉄道]]およびその分離子会社の路線バス)
* [[よかネットカード]](西日本鉄道・[[福岡市交通局]])
* [[ワイワイカード]]([[九州旅客鉄道]]〈福岡地区〉・福岡市交通局)
* [[えふカード]](福岡市交通局)
* バスカード(長崎自動車)
* [[大分共通バスカード]]([[大分バス]]・[[大分交通]]・[[亀の井バス]])
* [[TO熊カード]]([[熊本市交通局]]・[[九州産交バス]]・[[熊本電気鉄道]]・[[熊本都市バス]]・[[熊本バス]])
* [[ゆいカード]]([[沖縄都市モノレール]])
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
{{commonscat|Smart cards in public transport}}
* [[交通系ICカード全国相互利用サービス]]
* [[首都圏ICカード相互利用サービス]]
* [[バスカード]]
* [[バス共通カード]] / [[パスネット]]
* [[スルッとKANSAI]]
* [[プリペイドカード]] / [[ICカード#公共交通での導入]]
* [[電子マネー]] / [[ポストペイ型電子マネー]]
* [[企業通貨]] / [[ポイントプログラム]]
* [[共通乗車制度]] - 乗車券の共通利用制度について
* [[乗車券]] / [[回数乗車券]] / [[切符]]
== 外部リンク ==
* [https://www.mintetsu.or.jp/knowledge/term/198.html 鉄道用語辞典 ストアードフェアシステム] - [[日本民営鉄道協会]]公式サイト
{{公共交通}}
{{DEFAULTSORT:しようしやかと}}
[[Category:乗車カード|*]] | 2003-03-13T08:02:04Z | 2023-12-06T14:07:31Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%97%E8%BB%8A%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89 |
3,926 | パンチラ | パンチラとは、(主に)女性用の短い下穿き(パンティー)がチラリと見えてしまうことを意味する語句。
チラリズムの一種とされ、1951年の流行語である。女優の浅香光代が舞台での立ち回りの際に太腿をチラリと見せたことから発生した語句であり「ちょっとだけ見えることから気づかれていなかった欲求を励起し、想像力がかき立てられる」といった効果を引き起こすものである。広告、演出手法で言うところの「ティーザー」(teaser / 焦らし)が該当する。そこから転じて、パンチラとは主に男女や状況などを特に限定せず「意識してモロに見せる」のではなく「見せるつもりはないが、何らかの拍子でちょっとだけ見えてしまった」ものを意味する。ただし「極端に短い」「ある程度パンツが見えるのは覚悟の上のミニスカート」「極端なローライズのジーンズ」など、明確な区分は難しい。
また、チラリどころではなくモロに見えてしまっているような状況を「パンモロ」と呼ぶ場合がある。ズボンから下着がはみ出して見える状態は指さず、専らスカートについて、しかも裾がめくれて見えている状態のみを指す。
別の概念としては、パンチラに近いほど際どい露出をしながらパンツを描かずに、下着そのものを履いているかをあいまいに描写する「はいてない」という漫画やアニメならではの方法もある。
注目されるようになった時期は不明である。1986年版『現代用語の基礎知識』で初掲載されたが、実際は1970年代より使われている。日本では和服の時代には基本的に下穿きは着用しないものであり、裾がまくれた場合にはパンティーではなく性器が見える状況であった。しかし、この頃からの羞恥心の変遷について研究した井上章一によれば、当時は「見えてしまうこと」はさして大変なことではなく、日常的な風景であったとされる。また、そのような視点から白木屋の火事のエピソードを否定している。
その後、洋装に切り替わって女性が下穿きを着用するようになり、次第にパンティーが見えることが受け止められるようになるが、明確な時期は不明である。少なくとも1960年代にはアンダースコートなどのスポーツ用下着は、見せても良い下着として社会的コンセンサスができていた。
1930年代のアメリカでは、既にマックス・フライシャーが手掛けたキャラクターベティ・ブープが、風によってパンティが見える演出が出来上がっており、1950年代のハリウッドを代表する女優マリリン・モンローの出演した映画『七年目の浮気』(1955年)においてはスカートが大きくまくれあがるシーンがあり、話題を呼んだ。日本では1969年に小川ローザが出演して「オー!モーレツ」のキャッチコピーで一世を風靡した丸善石油(現:コスモ石油)のテレビCMで、ミニスカートがめくれるシーンがあり、話題になった。また、それに前後して1968年から連載が始まった永井豪の漫画作品『ハレンチ学園』に影響されてのスカートめくりが流行した。遅くともこの時期には、既に「パンチラ」という概念がある程度定着していたと考えることができる。
1970年代から1980年代にはパンチラが人々の関心を集める効果が注目され、青少年向け雑誌のグラビアだけでなくテレビCMの常套手段となり、テレビドラマなどにもしばしば登場した。その後に雑誌のグラビアなどが過激な方向にシフトしたこと、ミニスカートが一般に浸透して見える可能性がある場合には見えてもいいものを重ね穿きする習慣が普及したことなどの事情が重なり、パンチラ自体の注目度は低下したように思えた。
1993年、NHK社員が取材腕章を悪用して甲子園の応援中の女生徒のスカートの中を盗撮し、兵庫県迷惑防止条例で書類送検される事件が起き、撮影は犯罪であると判断された。パンチラが異性の性的な視線を集めることが周知されて嫌悪感を持つ人が増えたため、不特定多数を対象としたテレビなどの媒体ではあまり見られなくなっている。男性の視線を諧謔的に描いた作品としては、グループ魂による「パンチラ・オブ・ジョイトイ」(2004年『荒ぶる日本の魂たち 』収録楽曲)があった。
漫画においては、パンチラは健康的なエロティシズムの象徴として多くの漫画家が作中で使用された。中でも金井たつおはその作品『ホールインワン』において漫画におけるパンチラ描写をほぼ完成させた人物として『サルまん』等で高く評価されている。
アニメにおいては、その視聴者層も意識してパンチラが性的な意味で使用されることは抑えられてきた。小学生またはその前後に相当する年齢の女児に関するパンチラやパンモロは、その女児の「元気の良さ」の象徴として一般的な演出方法であり、類例は多かった。アニメーション映画の『ミッキー・マウスシリーズ』(1928年~)のヒロインミニーマウスや、『パンダコパンダ』(1972年・1973年)の主人公のミミ子、テレビアニメ『ムーミン』(1969年・1972年)のミイなどが例として挙げられる。また、『サザエさん』(1969年 - )のワカメ(原作の描写にもよる)なども同様である。
ただし、これらの作品において見えるパンツは俗に「かぼちゃパンツ」と呼ばれるもので、露骨に性欲を煽るものでなかったのに対し、マックス・フライシャーのベティ・ブープや、『ドラえもん』(1979年 -)の源しずかは身体のラインを想起させるものもあった。バトルアニメにおいても、ミニスカート姿の女性キャラクターがバトルで身体を激しく動かすシーンであれば、パンチラ描写は当然のように存在している(『科学忍者隊ガッチャマン』の白鳥のジュンなど)。1997年にOVA『AIKa』が制作されると、それまでは受動的であったパンチラを能動的にパンツを見せるという演出手法が取られると同時に、臀部における肉感やパンツの皺などの精密な描写が用いられている。『ゴリラーマン』11巻では、高校の女子テニス部の部員が、白のポロシャツの上にジャンパーを着込み、白のスコート、白のソックスに運動靴の恰好で登場。女子テニス部員のひとりがおしゃべりしている最中にベンチから立ち上がって、白のスコートを自ら捲り上げて、自分の白のアンダースコートを見せている姿が描写されたケースもある。
2000年代に入り、テレビアニメでのパンチラ表現は『サザエさん』や『クレヨンしんちゃん』を除くと、あまり見られなくなった。これには「未成年者による犯罪の増加」や(実際の犯罪発生率はほぼ横這い、メディア効果論も参照)日本のアニメが海外でも数多く放映されるようになり、自主規制が高まったことなどが背景にあるとされる。初期にはパンチラが存在し、商品化された人形やぬいぐるみでもパンツ丸見えだった『ちびまる子ちゃん』や『ブラック・ジャック』のピノコなどからも、その種の表現がなくなっている。
2019年現在では、アニメにおけるパンチラは最初から視聴者に見せることを意図した、深夜アニメや商品化されたテレビアニメおよびOVA、有料の有線・衛星放送に限られつつある(『いちご100%』など)。劇場公開作品ではイベントとして大胆なパンチラやパンモロが描かれることも少なくなく、地上波放送時に編集や削除を施されることはまずない(ただし、「ドラえもん のび太のひみつ道具博物館」では規制が行われた)が、2015年後期からは地上波の深夜帯でもパンチラを描くことは難しくなっている。
倫理コードによりパンチラ描写が難しくなった代わりに、上節に記載されている「はいてない」描写でカバーするところも増えているが、当然ながら平面作画でのみ通用する方法であり、立体のフィギュアではスカートの中を描写しないことは不可能であるため、作中で明かされなかったスカートの中がフィギュア発売によって明らかになる流れが出来上がっている。。
実写作品では、漫画やアニメのように意図的に描写を控えることが不可能であるため、スカート姿で大きな動きをすることのないストーリーにするか、そうせざるを得ない場合は撮影のアングルや編集、もしくは衣装そのものにパンチラ防止の工夫がされる。特に多いのは明らかに見せパンと分かる下着を着用する方法だが、サービスショットを作るためにパンツに外観が似ていて一見しただけでは見せパンと分からない下着を着用することもある。例として2012年に放送されたテレビドラマ『メグたんって魔法つかえるの?』では、スカートをたくし上げてパンツを見せることがストーリー上重要な要素となっていたため、大胆なパンモロが描かれた。
アダルトゲームではごく日常的に描かれることはあるが、家庭用ゲームではあまり描かれることはなかった。一時期、セガサターン用のゲームソフトで「X指定(18禁)」「推奨年齢18歳以上」の区分でパンチラや半裸までは容認されていた(下級生など)。
2002年に家庭用ゲームソフトの審査を行う業界団体コンピュータエンターテインメントレーティング機構(CERO)が設立されたのを機に、同団体による審査でパンチラも対象になったことと、各ゲーム機のメーカー(任天堂、セガ、ソニー・コンピュータエンタテインメント、マイクロソフト)によって異なっていた表現の規制がほぼ統一されたことで、家庭用ゲームでも少しずつ見られつつある(パンチラやその他性欲を想起させる描写によって「B(12才以上対象)」「C(15才以上対象)」に、より露骨な描写だと「D(17才以上対象)」に区分されることもある)。 | [
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] | パンチラとは、(主に)女性用の短い下穿き(パンティー)がチラリと見えてしまうことを意味する語句。 | {{性的}}
{{脚注の不足|date=2016-01-07}}
[[File:Lily Yuen in Vancouver 2006-08-25.jpg|right|thumb|250px]]
'''パンチラ'''とは、(主に)[[女性]]用の短い[[下着|下穿き]]([[パンティー]])がチラリと見えてしまうことを意味する語句<ref>{{Cite Kotobank|word=パンちら|encyclopedia=デジタル大辞泉|accessdate=2022-12-17}}</ref>。
== 概要 ==
'''[[チラリズム]]'''の一種とされ、[[1951年]]の[[流行語]]である。[[俳優|女優]]の[[浅香光代]]が舞台での立ち回りの際に太腿をチラリと見せたことから発生した語句であり「ちょっとだけ見えることから気づかれていなかった欲求を励起し、想像力がかき立てられる」といった効果を引き起こすものである。広告、演出手法で言うところの「ティーザー」(teaser / 焦らし)が該当する。そこから転じて、パンチラとは主に男女や状況などを特に限定せず「意識してモロに見せる」のではなく「見せるつもりはないが、何らかの拍子でちょっとだけ見えてしまった」ものを意味する。ただし「極端に短い」「ある程度パンツが見えるのは覚悟の上の[[ミニスカート]]」「極端な[[ローライズ]]の[[ジーンズ]]」など、明確な区分は難しい。
また、チラリどころではなくモロに見えてしまっているような状況を「'''パンモロ'''」と呼ぶ場合がある。[[ズボン]]から下着がはみ出して見える状態は指さず、専ら[[スカート]]について、しかも裾がめくれて見えている状態のみを指す。
別の概念としては、パンチラに近いほど際どい露出をしながらパンツを描かずに、下着そのものを履いているかをあいまいに描写する「'''はいてない'''」という漫画やアニメならではの方法もある。
== 歴史 ==
注目されるようになった時期は不明である。[[1986年]]版『[[現代用語の基礎知識]]』で初掲載されたが、実際は[[1970年代]]より使われている。日本では[[和服]]の時代には基本的に下穿きは着用しないものであり、裾がまくれた場合にはパンティーではなく[[性器]]が見える状況であった。しかし、この頃からの[[羞恥心]]の変遷について研究した[[井上章一]]によれば、当時は「見えてしまうこと」はさして大変なことではなく、日常的な風景であったとされる。また、そのような視点から[[白木屋 (デパート)#白木屋大火|白木屋の火事]]のエピソードを否定している。
その後、洋装に切り替わって女性が下穿きを着用するようになり、次第にパンティーが見えることが受け止められるようになるが、明確な時期は不明である。少なくとも1960年代には[[アンダースコート]]などのスポーツ用下着は、見せても良い下着として社会的コンセンサスができていた。
1930年代の[[アメリカ]]では、既に[[マックス・フライシャー]]が手掛けたキャラクター[[ベティ・ブープ]]が、風によってパンティが見える演出が出来上がっており、1950年代の[[ハリウッド]]を代表する[[俳優#性別での分類|女優]][[マリリン・モンロー]]の出演した映画『[[七年目の浮気]]』([[1955年]])においてはスカートが大きくまくれあがるシーンがあり、話題を呼んだ。日本では[[1969年]]に[[小川ローザ]]が出演して「オー!モーレツ」の[[キャッチコピー]]で一世を風靡した[[丸善石油]](現:[[コスモ石油]])の[[コマーシャルメッセージ|テレビCM]]で、[[ミニスカート]]がめくれるシーンがあり、話題になった。また、それに前後して[[1968年]]から連載が始まった[[永井豪]]の[[漫画]]作品『[[ハレンチ学園]]』に影響されての[[スカートめくり]]が流行した。遅くともこの時期には、既に「パンチラ」という概念がある程度定着していたと考えることができる。
1970年代から[[1980年代]]にはパンチラが人々の関心を集める効果が注目され、青少年向け[[雑誌]]の[[グラビア写真|グラビア]]だけでなくテレビCMの常套手段となり、[[テレビドラマ]]などにもしばしば登場した。その後に雑誌のグラビアなどが過激な方向にシフトしたこと、ミニスカートが一般に浸透して見える可能性がある場合には見えてもいいものを重ね穿きする習慣が普及したことなどの事情が重なり、パンチラ自体の注目度は低下したように思えた。
1993年、NHK社員が取材腕章を悪用して甲子園の応援中の女生徒のスカートの中を盗撮し、兵庫県[[迷惑防止条例]]で[[書類送検]]される事件が起き、撮影は犯罪であると判断された<ref>{{Cite journal|和書 |author = [[池川玲子]] |date = 2012 |title = 甲子園のパンチラ:女子応援団から見る高校野球の歴史 |journal = 着衣する身体と女性の周縁化 |publisher = 恩文閣出版 |isbn = 9784784216161 |ref = harv }}pp.339-357</ref>。パンチラが異性の性的な視線を集めることが周知されて嫌悪感を持つ人が増えたため、不特定多数を対象としたテレビなどの媒体ではあまり見られなくなっている。男性の視線を諧謔的に描いた作品としては、[[グループ魂]]による「パンチラ・オブ・ジョイトイ」([[2004年]]『荒ぶる日本の魂たち 』収録楽曲)があった。
== 漫画・アニメなどでの表現 ==
漫画においては、パンチラは健康的なエロティシズムの象徴として多くの漫画家が作中で使用された。中でも[[金井たつお]]はその作品『ホールインワン』において漫画におけるパンチラ描写をほぼ完成させた人物として『[[サルでも描けるまんが教室|サルまん]]』等で高く評価されている。
アニメにおいては、その視聴者層も意識してパンチラが性的な意味で使用されることは抑えられてきた。小学生またはその前後に相当する年齢の女児に関するパンチラやパンモロは、その女児の「元気の良さ」の象徴として一般的な演出方法であり、類例は多かった。[[アニメーション映画]]の『[[ミッキーマウス|ミッキー・マウス]]シリーズ』(1928年~)のヒロイン[[ミニーマウス]]や、『[[パンダコパンダ]]』([[1972年]]・[[1973年]])の主人公のミミ子、[[テレビアニメ]]『[[ムーミン]]』([[1969年]]・1972年)のミイなどが例として挙げられる。また、『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』(1969年 - )の[[サザエさんの登場人物#磯野ワカメ|ワカメ]](原作の描写にもよる)なども同様である。
ただし、これらの作品において見える[[パンツ]]は俗に「[[かぼちゃパンツ]]」と呼ばれるもので、露骨に性欲を煽るものでなかったのに対し、[[マックス・フライシャー]]の[[ベティ・ブープ]]や、『[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]]』([[1979年]] -)の[[源静香|源しずか]]は身体のラインを想起させるものもあった。バトルアニメにおいても、ミニスカート姿の女性キャラクターがバトルで身体を激しく動かすシーンであれば、パンチラ描写は当然のように存在している(『[[科学忍者隊ガッチャマン]]』の白鳥のジュンなど)。1997年に[[OVA]]『[[AIKa]]』が制作されると、それまでは受動的であったパンチラを能動的にパンツを見せるという演出手法が取られると同時に、臀部における肉感やパンツの皺などの精密な描写が用いられている。『[[ゴリラーマン]]』11巻では、高校の女子[[テニス]]部の部員が、白の[[ポロシャツ]]の上に[[ジャンパー (衣服)|ジャンパー]]を着込み、白の[[スコート]]、白の[[ソックス]]に運動靴の恰好で登場。女子テニス部員のひとりがおしゃべりしている最中に[[ベンチ]]から立ち上がって、白のスコートを自ら捲り上げて、自分の白の[[アンダースコート]]を見せている姿が描写されたケースもある。
[[2000年代]]に入り、テレビアニメでのパンチラ表現は『サザエさん』や『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]』を除くと、あまり見られなくなった。これには「未成年者による犯罪の増加」や(実際の犯罪発生率はほぼ横這い、[[メディア効果論]]も参照)日本のアニメが海外でも数多く放映されるようになり、[[表現の自主規制#映像作品|自主規制]]が高まったことなどが背景にあるとされる。初期にはパンチラが存在し、商品化された人形や[[ぬいぐるみ]]でもパンツ丸見えだった『[[ちびまる子ちゃん]]』や『[[ブラック・ジャック (テレビアニメ)|ブラック・ジャック]]』の[[ピノコ]]などからも、その種の表現がなくなっている。
2019年現在では、アニメにおけるパンチラは最初から視聴者に見せることを意図した、[[深夜アニメ]]や商品化されたテレビアニメおよびOVA、有料の有線・[[衛星放送]]に限られつつある(『[[いちご100%]]』など)。劇場公開作品ではイベントとして大胆なパンチラやパンモロが描かれることも少なくなく、地上波放送時に編集や削除を施されることはまずない(ただし、「[[ドラえもん のび太のひみつ道具博物館]]」では規制が行われた)が、2015年後期からは地上波の深夜帯でもパンチラを描くことは難しくなっている。
倫理コードによりパンチラ描写が難しくなった代わりに、上節に記載されている「はいてない」描写でカバーするところも増えているが、当然ながら平面作画でのみ通用する方法であり、立体のフィギュアではスカートの中を描写しないことは不可能であるため、作中で明かされなかったスカートの中がフィギュア発売によって明らかになる流れが出来上がっている{{efn2| 例:『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』の[[ルナマリア・ホーク]]など}}。
== 実写作品での表現 ==
実写作品では、漫画やアニメのように意図的に描写を控えることが不可能であるため、スカート姿で大きな動きをすることのないストーリーにするか、そうせざるを得ない場合は撮影のアングルや編集、もしくは衣装そのものにパンチラ防止の工夫がされる。特に多いのは明らかに[[見せパン]]と分かる下着を着用する方法だが、サービスショットを作るためにパンツに外観が似ていて一見しただけでは見せパンと分からない下着を着用することもある。例として2012年に放送されたテレビドラマ『[[メグたんって魔法つかえるの?]]』では、スカートをたくし上げてパンツを見せることがストーリー上重要な要素となっていたため、大胆なパンモロが描かれた。
== コンピュータゲームでの表現 ==
{{節スタブ}}
[[アダルトゲーム]]ではごく日常的に描かれることはあるが、家庭用ゲームではあまり描かれることはなかった。一時期、[[セガサターン]]用のゲームソフトで「X指定(18禁)」「推奨年齢18歳以上」の区分でパンチラや半裸までは容認されていた([[下級生 (ゲーム)|下級生]]など)。
[[2002年]]に家庭用ゲームソフトの審査を行う業界団体[[コンピュータエンターテインメントレーティング機構]](CERO)が設立されたのを機に、同団体による審査でパンチラも対象になったことと、各ゲーム機のメーカー([[任天堂]]、[[セガ]]、[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]、[[マイクロソフト]])によって異なっていた表現の規制がほぼ統一されたことで、家庭用ゲームでも少しずつ見られつつある(パンチラやその他[[性欲]]を想起させる描写によって「[[CEROレーティング12才以上対象ソフトの一覧|B(12才以上対象)]]」「[[CEROレーティング15才以上対象ソフトの一覧|C(15才以上対象)]]」に、より露骨な描写だと「[[CEROレーティング17才以上対象ソフトの一覧|D(17才以上対象)]]」に区分されることもある{{efn2|CEROでは、たとえ「[[CEROレーティング18才以上のみ対象ソフトの一覧|Z(18才以上のみ対象)]]」でも、露骨な性描写を含めることを禁止している。}})。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2019年11月22日}}<!--※推奨されている出典の例:{{Sfn|青木|2000|p=ページ番号}}-->
*<!--あおき-->{{Cite book |和書 |author=青木英夫|authorlink=青木英夫 |date=2000-11-09 |title=下着の文化史 |edition= |publisher=[[雄山閣出版]] |isbn=4-639-01713-8 |oclc=48564262 |ref={{SfnRef|青木|2000}} }}ISBN 978-4639017134。
*<!--いのうえ-->{{Cite book |和書 |author=井上章一|authorlink=井上章一 |date=2002-05 |title=パンツが見える。 羞恥心の現代史 |edition= |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=[[朝日選書]] 700 |isbn=4-02-259800-X |oclc=675013472 |ref={{SfnRef|井上|2002}} }}ISBN 978-4-02-259800-4。
*<!--うえの-->{{Cite book |和書 |author=上野千鶴子|authorlink=上野千鶴子 |date=1989-08 |title=スカートの下の劇場 {{small|ひとはどうしてパンティにこだわるのか}} |publisher=[[河出書房新社]] |series=[[河出文庫]] う3-1 |isbn=4-309-24109-3 |oclc=673331844 |ref={{SfnRef|上野|1989}} }}ISBN 978-4-309-24109-8。
*<!--はやし-->{{Cite book |和書 |author=林美一|authorlink=林美一 |date=2001-01-11 |title=時代風俗考証事典 |edition=新装版 |publisher=河出書房新社 |isbn=4-309-22367-2 |oclc=54397654 |ref={{SfnRef|林|2001}} }}ISBN 978-4-309-22367-4。
*<!--ボス-->{{Cite book |和書 |author=メダルト・ボス|authorlink=メダルト・ボス |translator=[[村上仁]]・[[吉田和夫 (精神病理学者)|吉田和夫]] |date=1957-06 |title=性的倒錯─恋愛の精神病理学 |origdate=1952 |publisher=[[みすず書房]] |asin=B000JBWMWE |ref={{SfnRef|ボス|1957}} }}
** 新装版:{{Cite book |和書 |author=メダルト・ボス |translator=村上仁・吉田和夫 |date=1998-06-02 |title=性的倒錯─恋愛の精神病理学 |url=https://www.msz.co.jp/book/detail/04929/ |edition=新装 |publisher=みすず書房 |isbn=4-622-04929-5 |oclc=675844374 |ref={{SfnRef||}} }}ISBN 978-4-622-04929-6。
** 原著:{{Cite book |last=Boss |first=Medard |author=Medard Boss |authorlink=メダルト・ボス |date=1952 |title=Sinn und Gehalt der sexuellen Perversionen |location=Huber |publisher=Auflage: 2., erw. u. neu bearb. Aufl. |language=de |asin=B0000BGQQ7 |ref={{SfnRef||1952}} }}
*<!--ワコール-->{{Cite book |和書 |editor=ワコール宣伝部|editor-link=ワコール |date=1986-09 |title=実用版 下着おもしろ雑学事典 |publisher=[[講談社]] |isbn=4-06-202559-0 |oclc=673259468 |ref={{SfnRef|ワコール宣伝部|1986}} }}ISBN 978-4-06-202559-1。
*<!--APA-->{{Cite book |last= |first= |author= |authorlink= |date=2005 |title=Diagnostic and statistical manual of mental disorders : DSM-IV-TR |edition=4 |location=[[アーリントン郡 (バージニア州)|Arlington]], [[バージニア州|Va.]] |publisher=[[アメリカ精神医学会|American Psychiatric Association]] |language=en |isbn=0890420246 |oclc= |ref={{SfnRef|APA|2005}} }}ISBN 9780890420256.
<!--※以下のものは、ISBNを読み取るとここに表記されている内容と食い違っているため、正しく変換できない。タイトルは "Perversion and Modern Japan: Psychoanalysis, Literature, Culture" のはず。要確認。-->
* Jonathan E. Abel, "Packaging Desires: The Unmentionables of Japanese Film,” Perversion and Modern Japan: Psychoanalysis, Literature, Culture edited by Keith Vincent and Nina Cornyetz, Routledge, 2009. 272-307.ISBN 0415691435 ISBN 978-0415691437.
== 関連項目 ==
* [[植草一秀]]
* [[田代まさし]]
* [[チラリズム]]
* [[ブリチラ]]
* [[見せパン]]
* [[腰パン]]
* [[スカート]]
* [[ミニスカート]]
* [[スカートめくり]]
* [[下着フェティシズム]]
* [[アンダースコート]]
* [[アップスカート]]
* [[パンチライン (アニメ)]] - パンチラと[[パンチライン]]を掛けた作品。
{{DEFAULTSORT:はんちら}}
[[Category:ファッションに関するフェティシズム]]
[[Category:下着]]
[[Category:萌え]]
[[Category:日本のセクシュアリティ用語]]
[[Category:流行語]]
[[Category:略語]] | 2003-03-13T08:08:41Z | 2023-11-30T12:27:25Z | false | true | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A9 |
3,927 | 地球科学 | 地球科学(ちきゅうかがく、英語: earth science、geoscience)とは、地球を研究対象とした自然科学の一分野であり、その内容は地球の構造や環境、地球史など多岐にわたる。近年では太陽系に関する研究(惑星科学)も含めて地球惑星科学(英語: earth and planetary science)ということが多くなってきている。地学(ちがく)は地球科学の略称である。
ギリシャ時代では、地球に関する研究は石炭の発掘と密接に関係していた。18世紀では地質学が発達・確立した。しかし比較的進歩は遅く、19世紀の終わり頃から地球物理学や地球化学が発展した。1960年代にプレートテクトニクスが発達した。しかしながら地球に関してはまだ解明されていないことが多い。また、近年、関心が高まった環境問題、地震予知、火星探査などに直接関わる分野として注目され始めている学問である。
地球科学あるいは地球惑星科学は、ひとつの学問体系というよりは地球に関する様々な学問分野の総称であり、地質学・鉱物学・地球物理学・地球化学などに細分化されている。またその研究対象も、分野によって大気圏・表層環境・生命圏・地球内部・太陽系など多様である。
例えば地質学分野では、江戸時代「奇石」(特徴的な形態や性質を有する石)に興味を持つ趣味が本草学者や民間人(木内石亭、木村蒹葭堂、平賀源内など)に広がったとされる。これは、地質、鉱物、古生物学的な側面のみならず、医薬や芸術などの広い分野からの視点も含まれたものであったとする研究がある。
明治時代に西洋地質学が導入されると奇石趣味は前近代的として否定された。以降は地質、古生物、鉱物学的な側面のみが研究対象となり現在に繋がった。明治期から大正期までは桜島や磐梯山などの顕著な火山噴火や1891年濃尾地震や1923年大正関東地震などの地震災害によって関連分野が広がると共に発展し細分化されていった。
堆積学(地層学)分野の研究は、1920年代後半から1930年代にかけ発展し国際的な評価を得ていた。1951年には堆積学分野の学会誌『漣痕』が刊行された。
地学(ちがく)という言葉は、幕末にgeographyの訳語として提唱されたものであるが、明治になってgeographyを「地理学」、geologyを「地質学」と訳すのが普遍的になった。
広義には「地球科学」とほぼ同義に用いられることがある。
一般に、地質学(地質科学)、地球化学、地球物理学という分類がなされることが多い。
日本の文部科学省は、分科「地球惑星科学」を以下の細目に分類し、以下のキーワードを設定している。
以下に、地球科学あるいは地球惑星科学と総称される主な研究分野を挙げる。これらは必ずしも独立の用語ではなく、同義あるいは互いを包括する語として用いられることが頻繁にある。 | [
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] | 地球科学とは、地球を研究対象とした自然科学の一分野であり、その内容は地球の構造や環境、地球史など多岐にわたる。近年では太陽系に関する研究(惑星科学)も含めて地球惑星科学ということが多くなってきている。地学(ちがく)は地球科学の略称である。 | {{Redirect|地学|学校教育における理科の地学分野|理科}}
{{Otheruses||地学団体研究会が刊行する雑誌『地球科学』|地学団体研究会|化学的手法により地球やその構成物質の状態や変化などを研究する、地球科学の一分野|地球化学}}
{{出典の明記|date=2017年7月}}
'''地球科学'''(ちきゅうかがく、{{Lang-en|earth science}}、{{Lang|en|geoscience}})とは、[[地球]]を研究対象とした[[自然科学]]の一分野であり{{sfn|西村|2010|pp=まえがき}}{{sfn|鹿園|2009|p=7}}、その内容は[[地球の構造]]や[[環境]]、[[地球史年表|地球史]]など{{sfn|西村|2010|pp=まえがき}}多岐にわたる{{sfn|鹿園|2009|p=7}}。近年では[[太陽系]]に関する研究([[惑星科学]])も含めて'''地球惑星科学'''({{Lang-en|earth and planetary science}})ということが多くなってきている<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.sci.u-toyama.ac.jp/earth/intro_p1.html |title = 地球科学とは~はじめに~ |accessdate = 2017-08-12}}富山大学理学部地球科学科</ref>。'''地学'''(ちがく)は地球科学の略称である{{sfn|関口|2003|pp=1}}。
== 学史 ==
[[ギリシア時代|ギリシャ時代]]では、地球に関する研究は[[石炭]]の[[発掘]]と密接に関係していた{{sfn|鹿園|2009|pp=9-12}}。18世紀では<!-- [[地層]]の[[層序]]や[[堆積]]構造などを解明する →出典に明記なし。[[地質学]]を参照すればよいだろう-->[[地質学]]が発達・確立した。しかし比較的進歩は遅く、19世紀の終わり頃から[[地球物理学]]や[[地球化学]]が発展した{{sfn|鹿園|2009|pp=9-12}}。1960年代に[[プレートテクトニクス]]が発達した{{sfn|鹿園|2009|pp=9-12}}。しかしながら地球に関してはまだ解明されていないことが多い。また、近年、関心が高まった[[環境問題]]<ref>{{Cite book ja-jp
| editor = 松岡憲知, 田中博, 杉田倫明, 村山祐司, 手塚章, 恩田裕一
| year = 2007
| title = 地球環境学―地球環境を調査・分析・診断するための30章―
| publisher = 古今書院
| isbn = 978-4-7722-5203-4
| page = 1
}}</ref>、[[地震予知]]、[[火星探査]]などに直接関わる分野として注目され始めている学問である。
地球科学あるいは地球惑星科学は、ひとつの学問体系というよりは地球に関する様々な学問分野の総称であり、[[地質学]]・[[鉱物学]]・[[地球物理学]]・[[地球化学]]などに細分化されている。またその研究対象も、分野によって[[大気圏]]・表層環境・[[生命圏]]・地球内部・[[太陽系]]など多様である。
=== 日本における学史 ===
例えば[[地質学]]分野では、江戸時代「[[奇石]]」(特徴的な形態や性質を有する石)に興味を持つ趣味が[[本草学者]]や民間人([[木内石亭]]、[[木村蒹葭堂]]、[[平賀源内]]など)に広がったとされる<ref name=Ito /><ref>林絢子、「[http://id.nii.ac.jp/1109/00000863/ 江戸における地方文化の流入 : 『北越雪譜』出版をめぐって]」『常民文化』 2006年 29号 p.41-73, {{naid|110006569172}}, 成城大学</ref>。これは、地質、鉱物、古生物学的な側面のみならず、医薬や芸術などの広い分野からの視点も含まれたものであったとする研究がある<ref name=Ito>伊藤謙, 宇都宮聡, 小原正顕 ほか、「[https://doi.org/10.15055/00005572 <研究資料>日本の地質学黎明期における歴史的地質資料 : 梅谷亨化石標本群(大阪大学適塾記念センター蔵)についての考察]」『日本研究』 2015年 51巻 p.157-167, {{doi|10.15055/00005572}}, 国際日本文化研究センター</ref>。
明治時代に西洋地質学が導入されると奇石趣味は前近代的として否定された<ref name=Ito />。以降は地質、古生物、鉱物学的な側面のみが研究対象となり現在に繋がった<ref name=Ito />。明治期から大正期までは[[桜島#大正大噴火|桜島]]や[[1888年の磐梯山噴火|磐梯山]]<ref>米地文夫、「[https://doi.org/10.5026/jgeography.100.183 磐梯山噴火と地学の “英雄時代”]」 『地学雑誌』 1991年 100巻 1号 p.183, {{doi|10.5026/jgeography.100.183}}</ref>などの顕著な火山噴火や1891年[[濃尾地震]]や1923年[[関東地震|大正関東地震]]などの地震災害<ref>宇佐美龍夫、浜松音蔵、「[https://doi.org/10.4294/zisin1948.20.4_1 第1篇 日本の地震および地震学の歴史]」 『地震 第2輯』 1968年 20巻 4号 p.1-34, {{doi|10.4294/zisin1948.20.4_1}}</ref><ref>宇佐美龍夫、「[https://doi.org/10.4294/zisin1948.34.special_1 第1部 日本の地震学の歩み 第1章 わが国の地震学のあゆみ]」 『地震 第2輯』 1981年 34巻 special号 p.1-36, {{doi|10.4294/zisin1948.34.special_1}}</ref><ref>和達清夫、「[https://doi.org/10.2151/jmsj1923.6.1_1 深海地震の特異性及び三種類の地震に就いて]」 『気象集誌.第2輯』 1928年 6巻 1号 p.1-43, {{doi|10.2151/jmsj1923.6.1_1}}</ref>によって関連分野が広がると共に発展し細分化されていった。
堆積学(地層学)分野の研究は、1920年代後半から1930年代にかけ発展し国際的な評価を得ていた<ref>岡田博有、「[https://doi.org/10.4096/jssj1995.48.5 日本の堆積学小史]」 『堆積学研究』 1998年 48巻 48号 p.5-12, {{doi|10.4096/jssj1995.48.5}}, 日本堆積学会</ref>。1951年には堆積学分野の学会誌『漣痕』が刊行された<ref>「[https://doi.org/10.14860/jssj1951.1.1 漣痕 No.1]」 『漣痕』 1951年 1巻 1号 p.1-8, {{doi|10.14860/jssj1951.1.1}}, 日本堆積学会</ref>。
== 地学 ==
'''地学'''(ちがく)という言葉は、[[幕末]]に{{Lang|en|geography}}の訳語として提唱されたものであるが、[[明治]]になって{{Lang|en|geography}}を「[[地理学]]」、{{Lang|en|geology}}を「地質学」と訳すのが普遍的になった{{Sfn|地学団体研究会|1996|p=801}}。
広義には「地球科学」とほぼ同義に用いられることがある{{Sfn|地学団体研究会|1996|p=801}}。
== 分野 ==
一般に、[[地質学]](地質科学)、[[地球化学]]、[[地球物理学]]という分類がなされることが多い<ref>例えば、[[早稲田大学教育学部]]地球科学専修による説明(http://www.waseda.jp/prj-edu-earthsci/outline/ol_j.html<nowiki/>)。</ref>。
=== 文部科学省による分類 ===
日本の[[文部科学省]]は、分科「[[地球惑星科学]]」を以下の細目に分類し、以下のキーワードを設定している<ref>{{Cite web|和書|title=系・分野・分科・細目表:文部科学省 |url=https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/toushin/attach/1337808.htm |website=www.mext.go.jp |access-date=2022-07-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「系・分野・分科・細目表」付表キーワード一覧:文部科学省 |url=https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/toushin/attach/1337810.htm |website=www.mext.go.jp |access-date=2022-07-17}}</ref>。
* [[固体地球]][[惑星物理学]] -(A)地震現象、(B)火山現象、(C)地殻変動・海底変動、(D)地磁気、(E)重力、(F)観測手法、(G)プレートテクトニクス、(H)内部構造、(J)内部変動・物性、(K)固体惑星・衛星・小惑星、(L)惑星形成・進化、(M)固体惑星探査、(N)地震災害・予測
* [[気象学|気象]]・[[海洋物理学|海洋物理]]・[[陸水学]] - (A)気象、(B)海洋物理、(C)陸域水循環・物質循環、(D)水収支、(E)地球環境システム、(F)地球流体力学、(G)気候、(H)惑星大気、(J)大気海洋相互作用
* [[超高層物理学]] - (A)太陽地球システム・宇宙天気、(B)太陽風・惑星間空間、(C)地球惑星磁気圏、(D)地球惑星電離圏、(E)地球惑星上層大気、(F)宇宙プラズマ、(G)地磁気変動、(H)プラズマ波動
* [[地質学]] - (A)地層、(B)地殻、(C)環境地質、(D)テクトニクス、(E)地質時代、(F)地球史、(G)応用地質、(H)惑星地質学、(J)第四紀学、(K)地質災害・地質ハザード
* [[層序学|層位]]・[[古生物学]] - (A)層序、(B)古環境、(C)化石、(D)系統・進化・多様性、(E)古生態、(F)古生物地理、(G)機能・形態、(H)古海洋
* [[岩石学|岩石]]・[[鉱物学|鉱物]]・[[鉱床学]] - (A)地球惑星物質、(B)地球惑星進化、(C)地殻・マントル・核、(D)マグマ・火成岩、(E)変成岩、(F)天然・人工結晶、(G)元素分別濃集過程、(H)鉱物資源、(J)鉱床形成、(K)鉱物物理、(L)生体・環境鉱物
* [[地球化学|地球]][[宇宙化学]] - (A)元素分布、(B)同位体・放射年代、(C)物質循環、(D)地殻・マントル化学、(E)地球外物質化学、(F)大気圏・水圏化学、(G)生物圏地球化学
* [[プラズマ|プラズマ科学]] - (A)プラズマ基礎、(B)プラズマ応用、(C)プラズマ計測、(D)プラズマ物理、(E)放電、(F)反応性プラズマ、(G)宇宙・天体プラズマ、(H)核燃焼プラズマ、(J)プラズマ化学、(K)プラズマ制御・レーザー
=== 一覧 ===
以下に、地球科学あるいは地球惑星科学と総称される主な研究分野を挙げる。これらは必ずしも独立の用語ではなく、同義あるいは互いを包括する語として用いられることが頻繁にある。
* [[地質学]] ({{Lang|en|geology}})
* [[地史学]] ({{Lang|en|historical geology}})
* [[古生物学]] ({{Lang|en|paleontology}})
* [[層序学]] (層位学、{{Lang|en|stratigraphy}})
* [[堆積学]] ({{Lang|en|sedimentology}})
* [[構造地質学]] ({{Lang|en|structural geology}})
* [[岩石学]] ({{Lang|en|petrology}})
* [[鉱物学]] ({{Lang|en|mineralogy}})
* [[鉱床学]] ({{Lang|en|economic geology}}, {{Lang|en|science of mineral deposit}})
* [[地球化学]] ({{Lang|en|geochemistry}})
* [[地球物理学]] ({{Lang|en|geophysics}})
* [[地球電磁気学]]
* [[地震学]] ({{Lang|en|seismology}})
* [[火山学]] ({{Lang|en|volcanology}})
* [[海洋学]] ({{Lang|en|oceanography}})
* [[海洋物理学]] ({{Lang|en|physical oceanography}})
* [[海洋化学]] ({{Lang|en|chemical oceanography}})
* [[海洋生物学]] ({{Lang|en|biological oceanography}}, {{Lang|en|marine biology}})
* [[海洋地質学]] ({{Lang|en|marine geology}})
* [[気象学]] ({{Lang|en|meteorology}})
* [[大気物理学]]
* [[大気化学]]
* [[自然地理学]] ({{Lang|en|physical geography}})
* [[地形学]] ({{Lang|en|geomorphology}}, {{Lang|en|topography}})
* [[水文学]] ({{Lang|en|hydrology}})
* [[気候学]] ({{Lang|en|climatology}})
* [[地域地理学]] - [[地誌学]]のうち[[自然]]について研究するもの
* [[測地学]] ({{Lang|en|geodesy}})
* [[土壌学]] ({{Lang|en|pedology}}, {{Lang|en|soil science}})
* [[雪氷学]] ({{Lang|en|glaciology}}) - 水の固体状態に対する総合総合/学際分野
* [[地球環境科学]] - 地理、地形、地質、海洋などなどの総合/学際分野
* [[地球工学]]
* [[惑星科学]] ({{Lang|en|planetary science}})
* [[惑星地質学]] ({{Lang|en|planetary geology}})
== ギャラリー ==
{{Gallery|title=地球科学関連の図や写真|width=200px
|File:The Earth seen from Apollo 17.jpg|地球科学の研究対象となる地球の外観。これはこれで美しくて、人々を感動させ、地球をもっと知りたいという気持ちを人々の間で掻き立てはするが、実は、地球の外観の写真は地球科学ではない。
|File:Tectonic plate boundaries pl.png|[[プレート・テクトニクス]]の説明
|File:Tectonic plates rotation IT.png|
|File:237 Ma plate tectonic reconstruction.jpg|
|File:Earth poster.svg|地球のコアに関する科学
|File:Safronov's model for core formation.png|科学なので、'''[[仮説]]'''を提唱する、ということも行う。ここに挙げたのはあくまで一例であるが、コアの形成過程に関するサフロフによる仮説(サフロフによるモデル)の例。
|File:EarthCore.GIF|
|File:Earth-crust-cutaway-be-tarask.svg|
|File:Ice core extracted at Talos Dome showing an ash layer corresponding to the Toba eruption.jpg|地下や氷を実際に垂直に掘ってサンプルを取り出して行う調査
|File:Atmosphere composition diagram-no.svg|地球の[[大気]]に関する科学
|File:Map_of_of_the_Kuju_and_Hanamure_volcanic_field.jpg|[[九重山|火山]]地域の地形・地質図
|File:Column atmosphere of Earth 02.svg|地球の大気に関する科学
|File:Halogene Chemistry in the Atmosphere.png|
|File:Ammoniac atmosphère from NASA airs 20170316.png|
|File:Earth Global Circulation2-no.svg|
|File:VFPt Earths Magnetic Field Confusion overlay.svg|
|File:Openstax college-physics 22.4 earth-magnet.jpg|
|File:L shell global dipole.png|
|File:Geomagnetismus.png|[[地球電磁気学]]関連の図
|File:Geodynamo Between Reversals.gif|地球電磁気学関連のコンピュータ[[シミュレーション]]
|File:Genomics GTL Program Payoffs.jpg|アース・システム・サイエンス([[:en:Earth system science]])
}}
=== 関連分野 ===
* [[天文学]] ({{Lang|en|astronomy}}) - [[宇宙物理学]](天体物理学、{{Lang|en|astrophysics}}) - [[宇宙科学]] ({{Lang|en|space science}})
* [[土木工学]] ({{Lang|en|civil engineering}})
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
* {{Cite book|1 =和書|author =[[文部省]]編|title =[[学術用語集]] 地学編|url =http://sciterm.nii.ac.jp/cgi-bin/reference.cgi|year =1984|publisher =[[日本学術振興会]]|isbn =4-8181-8401-2|pages =}}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}
* {{Cite book|和書|last=関口|first=武|last2=伊藤|first2=久雄|year=2003|title=くわしい地学の新研究|publisher=[[洛陽社]]|isbn=4-8442-0011-9|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=鹿園|first=直建|year=2009|title=地球惑星システム科学入門|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4-13-062714-6|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=西村|first=祐二郎|year=2010|title=基礎地球科学 第2版|publisher=[[朝倉書店]]|isbn=978-4-254-16056-7|ref=harv}}
* {{Citation|和書|edhitor=地学団体研究会|year=1996|title=新版 地学事典|publisher=[[平凡社]]|isbn=4-582-11506-3|ref={{Sfnref|地学団体研究会|1996}}}}
* {{Citation|和書| author=日本地学史編纂委員会・東京地学協会| date=2001| title=日本地学の展開(大正13 年~昭和20 年)その2| url =https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8766602_po_p362-392.pdf| volume=110(3)| volume-title=[[地学雑誌]]| publisher=[[東京地学協会]] | page=362-392| quote=| ref =harv}}
== 関連項目 ==
{{ウィキプロジェクトリンク|地球科学}}
{{ウィキポータルリンク|地球科学}}
* [[地球科学に関する記事の一覧]]、[[気象学・気候学に関する記事の一覧]]
* [[地球科学者]]、[[古生物学関連人物一覧]]、[[気象学者の一覧]]
* [[国際地質科学連合]]、[[日本地球惑星科学連合]]
* [[気象学]]、[[Portal:気象と気候]]
* [[天文学]]、[[Portal:天文学]]
* [[地理学]] - [[自然地理学]]、[[Portal:地理学]]
* [[理科#地学]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{wiktionary}}
{{wikibooks}}
* {{Cite web|和書|url = http://www.gsj.jp/|title = 産総研 地質調査総合センター / Geological Survey of Japan, AIST|accessdate = 2011-02-15}}
* {{Cite web|url = http://www.jpgu.org/|title = 日本地球惑星科学連合 Japan Geoscience Union|accessdate = 2011-02-15}}
* {{Cite web|url = http://www.iugs.org/|title = International Union of Geological Sciences (IUGS)|work = |publisher = |accessdate = 2011-02-15}}
* {{kotobank|地球科学-672303|[[日本大百科全書]](ニッポニカ)|地球科学}}
* {{Cite web|和書|url = https://www.s-yamaga.jp/index.htm|title = 山賀 進のWeb site|work = |publisher = |accessdate = 2022-04-09}}
* [https://www.youtube.com/playlist?list=PLf_ipOSbWC86I1N9ATZJkPz1ym9KbPo5c SIAM Geosciences Webinar Series (YouTube)]
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[[Category:地球科学|*]]
[[Category:理学]] | 2003-03-13T08:18:58Z | 2023-11-16T12:58:25Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E7%A7%91%E5%AD%A6 |
3,929 | アラブ人 | アラブ人(アラブじん、العرب،عربي)は、おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々。
7世紀にムハンマド(マホメット)によってイスラム教が開かれ、中東・北アフリカを中心に勢力を拡大した。
もともとアラビア人をアラブと呼ぶが、日本では誤訳から始まった呼び方で定着した。
ムハンマド以前、アラブ人は統一された社会共同体もなく、部族社会を形成していた。部族はたびたび水資源や利権を巡って争い、破壊や略奪といった無法な行為を行っていたものの、戦では詩の優劣で勝敗を決めることがあるという非常に発達した精神文化も備えていた。ムハンマドによるイスラム教の創始以降、イスラム教のもとでイスラム文化は最高潮に達し、イスラム世界では錬金術を原点に各種の科学や数学、哲学が発展し、文学の発展もあった。しかし17~18世紀ごろを境にして、後にヨーロッパで起きた科学革命や産業革命に後れを取るようになった。
「アラブ人」という概念は人種的存在とは言えない。むしろセム語(アラビア語)という言語を共有する人々としてであったり、聖書に窺える、ある人物を始祖とするという共通概念で規定される。アラブ人は旧約聖書に登場するアブラハムが妻サラの女中であるハガルとの間に生ませた長男のイシュマエルを祖とするイシュマエル人の子孫と称し、イサクの次男ヤコブの子孫であるユダヤ人とは別の民族になったとしている。民族的概念と人種的概念が一致しないという点で、アラブ人とユダヤ人は共通するといえる。最初のアラブ人はアラビア半島の住民である(いわゆる「アラビア人」は、イスラム教徒でもある彼等およびその子孫全般のみを指す)が、イスラム教の聖典のクルアーンはムハンマドを通じてアラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉とされているため、イスラム教の拡大によってベルベル人やエジプト人、そしてメソポタミア人(イラク人)などの近隣の多くの人々が言語的に同化し、アラブ人となった。その後、20世紀初頭にオスマン帝国や欧州列強の植民地支配に対する抵抗運動の中で汎アラブ主義が勃興し、アラビア語話者の間に「アラブ人」という民族意識が補強された。
ただし、キリスト教徒のアラブ人にはアラブ人としての民族意識は宗派によってばらつきがあり、東方正教会の信者には(パレスチナ難民内にも多くの信者がいることもあり)有力な汎アラブ主義指導者(ジョージ・ハバシュなどのように一部は「テロリスト」とされることもあった)になる者もいる。
その一方で、レバノンのマロン派の信者は古代フェニキアの子孫としての民族意識が、イラクなどのアッシリア人は古代バビロニア、アッシリアの子孫としての民族意識が、エジプトのコプト正教会の信者はコプト語の話者であることから古代エジプトの子孫としての民族意識が強い。
現在ではシリア人、パレスチナ人、エジプト人、マグリブのアラビア語系住民、身体的形質の上では黒人とされる人々を含むスーダンやモーリタニアなどの「ブラックアフリカ」におけるアラビア語話者、さらにベルベル系の諸民族やソマリ人などアラビア語以外の言語を母語とする者までがアラブ人として自己規定する場合もある。ただし、典型的なコーカソイドのアラブ人は、ネグロイドのアラビア語話者をアラブ人と認めないことが多い。
ベドウィンなど、遊牧民や砂漠の民のイメージもあるがこれは一面的な解釈にすぎない。彼らは多くの穀倉地帯を抱えた農耕民族でもあり、インド洋を股にかけた海洋民族でもある。イスラム文化は高度に発達した都市文明の産物であり、西欧を中心に発祥した近代科学にも大きな影響を与えている。
アラブ人を特徴づける遺伝子はY染色体ハプログループJ1である。このタイプは現在アラブ人の分布する中東~北アフリカで高頻度にみられる。特に北アフリカではアラブ人の入植により急速にJ1が広まったものと推定される。 人種的なアラブ人は上記の通りなのだが人種的なアラブ人 つまりアラビア半島出自のアラブ人はサウジアラビア オマーン アラブ首長国連邦 カタール バーレーン クウェート ヨルダン(現在パレスチナ系 メソポタミア系の難民が7割を占める)、エジプト チュニジア モロッコ アルジェリアで多い。シリア イラク レバノン はメソポタミア系やイラン トルコ系、リビアはベルベル人 、イエメンは原始アラブ人だが文化的にはアラブ人と定義づけられている。 | [
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] | アラブ人(アラブじん、العرب،عربي)は、おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々。 7世紀にムハンマド(マホメット)によってイスラム教が開かれ、中東・北アフリカを中心に勢力を拡大した。 もともとアラビア人をアラブと呼ぶが、日本では誤訳から始まった呼び方で定着した。 | {{Redirect|アラブ}}
{{出典の明記|date=2012年3月}}
{{Infobox 民族
|民族 = アラブ人
|民族語名称 =العرب al-ʿarab
|画像 = [[File:Arab infobox.jpg|300px]]
|画像の説明 = 代表的なアラブ人<br />
上から1段目: [[ピリップス・アラブス]]、 [[ダマスコのイオアン]]、[[キンディー]]、[[ハンサー]]<br />
2段目: [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]、[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]、{{仮リンク|アスマーン|en|Asmahan}}、{{仮リンク|メイ・ジアデ|en|May Ziade}}
|人口 = 約3億5000万人から4億2200万人<ref>[http://au.encarta.msn.com/encyclopedia_761576546/Arabic_Language.html Arabic Language - ninemsn Encarta<!-- Bot generated title -->]</ref>
|pop1 = 339,510,535人
|region1 = {{flag|Arab League}}
|pop2 = 15,000,000人<ref>[http://www.brazzil.com/2004/html/articles/sep04/p118sep04.htm Brazil - Brasil - BRAZZIL - News from Brazil - Arabs: They are 12 Million in Brazil - Brazilian Immigration - September 2004<!-- Bot generated title -->]</ref>
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|pop3 = 6,500,000人<ref>http://www.variety.com/article/VR1117979837.html?categoryid=2879&cs=1</ref>
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|pop6 = 3,200,000人<ref name="La República, 2022">{{cite web|url=https://www.larepublica.co/analisis/simon-gaviria-munoz-401830/colombia-y-medio-oriente-3350223 |title=Colombia y Medio Oriente |access-date=2 July 2022}}</ref>
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|pop7 =700,000人 - 2,000,000人<ref>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ir.html Iran, [[CIA factbook]]] (1% Arabic-speakers and 3% ethnic Arabs)</ref>
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|言語 = [[アラビア語]]、[[南アラビア諸語]]、[[アーンミーヤ]]
|宗教 = 主に[[イスラム教]]、[[キリスト教]]や[[ユダヤ教]]がごく少数存在する。
|関連 =
}}
'''アラブ人'''(アラブじん、العرب،عربي)は、おもに[[アラビア半島]]や[[西アジア]]、[[北アフリカ]]などの[[アラブ世界|アラブ諸国]]に居住し、[[アラビア語]]を話し、アラブ文化を受容している人々。
[[7世紀]]に[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]](マホメット)によって[[イスラム教]]が開かれ、[[中東]]・[[北アフリカ]]を中心に勢力を拡大した。
もともとアラビア人をアラブと呼ぶが、日本では誤訳から始まった呼び方で定着した。
== 概要 ==
[[File:Ghassan Massoud.jpg|thumb|right|250px|[[キングダム・オブ・ヘブン]]の[[サラディン]]役で有名なシリア人俳優ガッサーン・マスウード]]
ムハンマド以前、アラブ人は統一された社会共同体もなく、部族社会を形成していた。部族はたびたび水資源や利権を巡って争い、破壊や略奪といった無法な行為を行っていたものの、戦では詩の優劣で勝敗を決めることがあるという非常に発達した精神文化も備えていた。[[ムハンマド]]による[[イスラム教]]の創始以降、イスラム教のもとで[[イスラーム文化|イスラム文化]]は最高潮に達し、イスラム世界では[[錬金術]]を原点に各種の[[科学]]や[[数学]]、[[哲学]]が発展し、[[文学]]の発展もあった。しかし17~18世紀ごろを境にして、後に[[ヨーロッパ]]で起きた[[科学革命]]や[[産業革命]]に後れを取るようになった。
「アラブ人」という概念は人種的存在とは言えない。むしろ[[セム語]]([[アラビア語]])という言語を共有する人々としてであったり、聖書に窺える、ある人物を始祖とするという共通概念で規定される。アラブ人は[[旧約聖書]]に登場する[[アブラハム]]が妻[[サラ]]の女中である[[ハガル]]との間に生ませた長男の[[イシュマエル]]を祖とするイシュマエル人の子孫と称し、[[イサク]]の次男[[ヤコブ]]の子孫である[[ユダヤ人]]とは別の民族になったとしている。民族的概念と人種的概念が一致しないという点で、アラブ人とユダヤ人は共通するといえる。最初のアラブ人はアラビア半島の住民である(いわゆる「アラビア人」は、イスラム教徒でもある彼等およびその子孫全般のみを指す)が、イスラム教の聖典の[[クルアーン]]はムハンマドを通じてアラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉とされているため、イスラム教の拡大によって[[ベルベル人]]や[[エジプト人]]、そしてメソポタミア人(イラク人)などの近隣の多くの人々が言語的に同化し、アラブ人となった。その後、[[20世紀]]初頭に[[オスマン帝国]]や欧州列強の[[植民地]]支配に対する抵抗運動の中で[[汎アラブ主義]]が勃興し、アラビア語話者の間に「アラブ人」という民族意識が補強された。
ただし、[[キリスト教徒]]のアラブ人にはアラブ人としての民族意識は宗派によってばらつきがあり、[[東方正教会]]の信者には([[パレスチナ問題|パレスチナ難民]]内にも多くの信者がいることもあり)有力な[[汎アラブ主義]]指導者([[ジョージ・ハバシュ]]などのように一部は「[[テロリスト]]」とされることもあった)になる者もいる。
その一方で、レバノンの[[マロン派]]の信者は古代[[フェニキア]]の子孫としての民族意識が、イラクなどの[[アッシリア人]]は古代バビロニア、アッシリアの子孫としての民族意識が、エジプトの[[コプト正教会]]の信者は[[コプト語]]の話者であることから古代エジプトの子孫としての民族意識が強い。
現在では[[シリア人]]、[[パレスチナ人]]、[[エジプト人]]、[[マグリブ]]のアラビア語系住民、身体的形質の上では[[黒人]]とされる人々を含む[[スーダン]]や[[モーリタニア]]などの「[[ブラックアフリカ]]」における[[アラビア語]]話者、さらにベルベル系の諸民族やソマリ人などアラビア語以外の言語を母語とする者までがアラブ人として自己規定する場合もある。ただし、典型的な[[コーカソイド]]のアラブ人は、[[ネグロイド]]のアラビア語話者をアラブ人と認めないことが多い。
[[ベドウィン]]など、[[遊牧民]]や砂漠の民のイメージもあるがこれは一面的な解釈にすぎない。彼らは多くの穀倉地帯を抱えた[[農耕民族]]でもあり、インド洋を股にかけた海洋民族でもある。イスラム文化は高度に発達した[[都市]]文明の産物であり、[[西欧]]を中心に発祥した近代科学にも大きな影響を与えている。
==遺伝子==
アラブ人を特徴づける遺伝子は[[ハプログループJ (Y染色体)|Y染色体ハプログループJ1]]である。このタイプは現在アラブ人の分布する中東~北アフリカで高頻度にみられる。特に北アフリカではアラブ人の入植により急速にJ1が広まったものと推定される。
人種的なアラブ人は上記の通りなのだが人種的なアラブ人 つまりアラビア半島出自のアラブ人はサウジアラビア オマーン アラブ首長国連邦 カタール バーレーン クウェート ヨルダン(現在パレスチナ系 メソポタミア系の難民が7割を占める)、エジプト チュニジア モロッコ アルジェリアで多い。シリア イラク レバノン はメソポタミア系やイラン トルコ系、リビアはベルベル人 、イエメンは原始アラブ人だが文化的にはアラブ人と定義づけられている。
== 主なアラブ人国家 ==
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* {{SUD}} - ただし、人種では黒人と混血が多数を占め、また半数が非アラビア語を話す。
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== 著名・有名なアラブ人 ==
* [[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ]](イスラム教の開祖)
* [[アリー・イブン・アビー・ターリブ]](シーア派の開祖.4代カリフ)
* [[ハールーン・アッ=ラシード]](アッバース朝第5代カリフ)
* [[ハーリド・イブン・アル=ワリード]](武将)
* [[イブン・バットゥータ]](イスラム法学者、旅行家)
* [[キンディー]](哲学者、音楽家)
* [[イブン・ルシュド]](哲学者)
* [[バッターニー]](天文学者、数学者)
* [[イブン・ハイサム]](天文学者、数学者、哲学者)
* [[ウダイ・サッダーム・フセイン]]
* [[ウサーマ・ビン・ラーディン]](テロリスト)
* [[クサイ・サッダーム・フセイン]]
* [[サッダーム・フセイン]](政治家)
* [[ガマール・アブドゥル=ナーセル]](政治家)
* [[アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード]](初代サウジアラビア国王)
* [[ハサン・ナスルッラーフ]](政治組織議長)
* [[ムクタダー・アッ=サドル]](政治組織指導者)
* [[アンワル・アウラキ]](イスラム教指導者)
* [[アブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー]](テロリスト)
* [[アリー・ハサン・エル=サムニー]](博士)
* [[師岡カリーマ・エルサムニー]](講師、コラムニスト)
* [[オマー・シャリフ]](俳優)
* [[マフムード・ダルウィーシュ]](詩人)
* [[アル=ワリード・ビン・タラール]](投資家)
* [[カルロス・ゴーン]](実業家)
* [[ドディ・アルファイド]](映画プロデューサー、[[ダイアナ妃]]の婚約相手)
* [[エドワード・サイード]](文学研究者、文学批評家)
* [[バダ・ハリ]](キックボクサー)
* [[ナジーム・ハメド]](プロボクサー)
* [[ヤーセル・アラファート]](パレスチナ解放運動家、政治家)
* [[マフムード・アッバース]](パレスチナ解放運動家、政治家)
* [[アブドゥッラー2世|アブドゥッラー2世・ビン・アル=フセイン]](ヨルダン国王)
* [[ラーニア (ヨルダン王妃)|ラーニア・アル=アブドゥッラー]](ヨルダン国王妃)
* [[ハーフィズ・アル=アサド]](元シリア大統領)
* [[バッシャール・アル=アサド]](シリア大統領)
* [[ムアンマル・アル=カッザーフィー]](リビア国家元首)
* [[モハメド・アブトレイカ]](サッカー選手)
* [[モハメド・ガリーブ]](舞踊研究者、講師、[[タンヌーラ]]([[:en:Tanoura_(dance)]])[[ダンサー]])
* [[ウム・クルスーム]](歌手、音楽家)
* [[ファイルーズ]](歌手、音楽家)
* [[マージダ・エル・ルーミー]](歌手、音楽家)
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* [[ハレド|ハーレド]]([[ライ]]歌手)
* {{仮リンク|シェブ・マーミー|en|Cheb_Mami}}([[ライ]]歌手)
* {{仮リンク|ナスィールシャンマ|en|Naseer Shamma}}([[ウード]]奏者)
* {{仮リンク|アリ・コジャ|en|Ali Khodja}}(アラブ海賊)
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[アラビア語]]
* [[アラビア数字]]
* [[アラビア文字]]
* [[アラビア語文学]]
* [[アラブ料理]] ([[:en:Arab cuisine]])
* [[イスラム教]]
* [[千一夜物語]]
* [[アラブ音楽]]
* [[汎アラブ主義]]
* [[アラブ反乱]]
* [[イラク戦争]]
* [[ダルフール紛争]]
* [[ベドウィン]]
* [[アラブ人のディアスポラ]] ([[:en:Arab diaspora]])
** [[アラブ系ブラジル人]]
** [[アラブ系アルゼンチン人]]
** [[アラブ系ハイチ人]]
** [[アラブ系アメリカ人]]
** [[アラブ系チリ人]]
** [[アラブ系フランス人]]
** [[アラブ系メキシコ人]]
* [[アラブの茶文化]]
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[[Category:中東の民族]]
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3,930 | サッダーム・フセイン | サッダーム・フセイン(صَدَّام حُسَيْن , 文語アラビア語発音:Ṣaddām Ḥusayn, サッダーム・フサイン / 口語アラビア語発音:Ṣaddām Ḥusein, サッダーム・フセイン、1937年4月28日 - 2006年12月30日)は、イラク共和国の政治家。スンナ派のアラブ人であり、イラク共和国の大統領、首相、革命指導評議会議長、バアス党地域指導部(英語版)書記長、イラク軍(英語版)最高司令官を務めた。軍階級は元帥。日本語の慣例では、彼の名をサダム・フセインと表記することが多いが、本項ではサッダームと表記する(詳細はフルネームの節を参照)。
イラク北部のティクリート近郊のアル=アウジャ村で農家の子として生まれ、「敵と激しく衝突して駆逐する(者)、戦闘で大いに激突し敵を撃退する(者)」を意味するサッダームの名を受けた。アル=ブー・ナースィル族(البو ناصر, 転写:Al-Bū Nāṣir, 発音:アル=ブー・ナースィル, 主な英字表記:Al-Bu Nasir)出身であり、のちの大統領アフマド・ハサン・アル=バクルとは従兄弟であった。父フセイン・アブドゥルマジード(フセイン・アル=マジードとも)はサッダームが生まれた時には既に死んでおり、母スブハ・タルファーフは羊飼いのイブラーヒーム・ハサンと再婚して、サッダームの3人の異父弟を生んだ。
10歳の時から、母方の叔父ハイラッラー・タルファーフのもとで暮らした。8歳の時に、ハイラッラーの娘で従姉妹にあたるサージダ・ハイラッラーと婚約している。サッダームの敵に屈しない性格とイランを敵視するアラブ民族主義は、叔父ハイラッラーの影響から生まれたと言われている。小学生の時から銃を持ち歩き(当時、銃を持つのはティクリート一帯で普通のことであった)、素行の悪さから学校を退学させようとした校長を脅迫して、退学処分を取り消させている。1947年に叔父とその息子アドナーン・ハイラッラーと共にティクリートへ出て叔父が教師を務める同地の中学を卒業した。
1955年に当時、中央政府の教育庁長官になっていたハイラッラーの後を追ってバグダードに移り住む。1957年にバアス党に入党する。このころのサッダームは、バグダードのストリートギャングを率いていたといわれる。ハーシム王政崩壊後の1959年には叔父が教育庁長官の職を追放されるきっかけを作った(当時のイラクは親英派の王制であった)ティクリート出身の男性をハイラッラーの命により銃で殺害した。ハイラッラーとサッダームは殺人容疑で逮捕されたが、証拠不十分で釈放となった。
1950年代は、エジプトで革命が起こり、親英の王制が倒されてガマール・アブドゥル=ナーセル政権が樹立に向かっている時期にあたり、アラブ諸国ではアラブ民族主義が高まりを見せており、サッダームもナーセルの影響を受けた。1958年には、イラクでも軍部によるクーデター(7月14日革命)により親英王制が打倒されている。
バアス党は親英王制を打倒させ政権についていたアブドルカリーム・カーシムがアラブ統一よりもイラクの国益を優先する政策をとりアラブ連合共和国への参加に懐疑的だったため、1959年にカーシム首相暗殺未遂事件を起こした。この事件に暗殺の実行犯として関与したサッダームは、カーシムの護衛から銃弾を受けて足を負傷するが、剃刀を使って自力で弾を取り除き、逮捕を逃れるためベドウィンに変装し、ティグリス川を泳ぎ継いで、シリアに亡命、ついでエジプトに逃れた。シリア滞在中にはバアス党の創始者ミシェル・アフラクの寵愛を受けた。亡命中の欠席裁判により、サッダームは死刑宣告を受けた。
サッダームは、エジプトで亡命生活を送りながら高等教育を受け、カイロ大学法学部に学んだ。帰国後の1968年には、法学で学位を取得したとされるが、カイロ大学にはサッダームの在籍記録が存在していない(=卒業の確認が取れない)。カイロでのサッダームは、何かと周囲に喧嘩を吹っかけるなど、トラブルメーカーであったと、当時サッダームが出入りしていたカフェのオーナーが証言している。
1963年にアブドッサラーム・アーリフ将軍が率いたクーデター(ラマダーン革命)によりカースィム政権が崩壊してバアス党政権が発足すると、サッダームは帰国してバアス党の農民局長のポストに就いた。また、このころ党情報委員会のメンバーとして、イラク共産党に対する逮捕、投獄、拷問などを行なったと言われているが真偽は不明。1963年には党地域指導部(RC)メンバーに選出され、バアス党の民兵組織の構築にも関与した。この年サージダと正式に結婚する。
しかし、この第一次バアス党政権は党内左右両派の権力争いにより政権を追われる(1963年11月イラククーデター)。1964年、サッダームはアーリフ大統領の暗殺を企てたものの、事前に発覚し、逮捕投獄された。1965年に獄中でRC副書記長に選出された。1966年、看守を騙して脱獄し、地下活動を行なう。
1968年7月17日、アフマド・ハサン・アル=バクル将軍の率いるバアス党主導の無血クーデター(7月17日革命)により党は再び政権を握った。このクーデターでサッダームは、戦車で大統領宮殿に乗り付けて制圧するなど主要な役割を果たしている。
バクル政権では副大統領になり、治安機関の再編成をまかされ、クーデターに協力したアブドラッザーク・ナーイフ首相の国外追放、イブラーヒーム・ダーウード国防相の逮捕など、バクル大統領の権力強化に協力し、その結果、1969年、革命指導評議会(RCC)副議長に任命された。また、この時期にサッダームはイラク・バアス党をシリア・バアス党の影響力から引き離す工作を始め、「イラク人民とは文明発祥の地、古代メソポタミアの民の子孫である」とする「イラク民族主義」(ワタニーヤ)をアラブ民族主義(カウミーヤ)と融合させてイラクの新たなイデオロギーに据えた。
このころ、サッダームは治安・情報機関を再編成し、その長に側近や親族を充てて、国の治安機関を自らの支配下におき、イラクを警察国家に変貌させ、秘密警察による国民の監視が強化された。政府省庁やイラクの国軍内部にもバアス党員からなる政治委員を設置し、逐一動向を報告させている。
また、政府の高位職に同郷であるティクリートやその周辺地域の出身者を多く登用している。そのため、恩恵に与れない他地域の人間の間には不満が募っていった。
そんな中、1973年6月、シーア派のナジーム・カッザール国家内務治安長官が、バクルとサッダームの暗殺を企てるが、事前に露見し、サッダームの素早い決断によりクーデター計画を阻止している。カッザールとその一派は特別法廷により死刑を宣告され、処刑されたが、この際に事件と関わりの無い人物、主に、清廉な人物としてイラク国民からの人望も厚く、次期大統領との呼び声も高かったアブドルハーリク・サーマッラーイーのような、バアス党内におけるサッダームのライバル達も陰謀に加担した容疑で粛清された。
1979年7月17日、バクルが病気を理由に辞任すると発表した為、イラク共和国第5代大統領(首相兼任)に就任した。
バアス党内には、バクルの突然の辞任に疑問を呈する者もおり、これはバクルが1978年10月に当時対立していたシリアのハーフィズ・アル=アサドと統合憲章を結んだためとされた。1979年7月22日、アル=フルド・ホールで開かれた党臨時会議により、党内部でシリアと共謀した背信行為が発覚したとして、サッダーム自ら一人ずつ「裏切り者」の名前を挙げていき、66人の人物が、会場に待機していた情報総局(ムハーバラート)の人間によって外へと連れ出され、その日のうちに革命指導評議会メンバーで構成される特別法廷により、55人の人間が有罪を宣告され、22人は「民主的処刑」と呼ばれた方法、仲間の党員の手によって銃殺となった。 一連の出来事はクーデター未遂事件として扱われ、同月30日までの処刑者は34人、逮捕者は約250人にのぼった。
粛清された人間には、サッダームの大統領就任に反対した、ムヒー・アブドルフセイン・マシュハダーニー革命指導評議会中央書記局長、サッダームの側近の一人だったアドナーン・アル=ハムダーニー副首相、イラク石油国有化の舵取り役だったムルタダー・ハディーシー元石油相も含まれる。また、この時に党から除名された人物も後になって暗殺や投獄を受けて処刑され、党内の反サッダーム派は一掃された形となった。
1979年、イラン革命によってイランにシーア派イスラーム主義のイスラーム共和国が成立し、イラン政府は極端な反欧米活動を展開した。また、革命の波及を恐れていたのは欧米だけでは無く、周辺のバーレーン・サウジアラビアなどの親米・スンニ派の湾岸アラブ諸国も同様であった。
サッダームは、こうした湾岸諸国の危機感や欧米の不安を敏感に感じ取っていた。1975年に自らが当時のパフラヴィー朝との間で締結したアルジェ合意で失ったシャットゥルアラブ川の領土的権利を回復し、欧米諸国やスンニ派アラブ諸国の脅威であるイラン・イスラーム体制を叩くことで、これらの国の支持と地域での主導権を握り、湾岸での盟主の地位を目指すというのがサッダームの戦略であった。また、革命の前年1978年にバグダードで主催した首脳会議でアラブ連盟から追放したエジプトに代わってイラクをアラブの盟主にすることも画策していた。
また、サッダーム率いるバアス党政権は、イラン革命がイラク国内多数派のシーア派にも波及することを恐れていた。実際、1970年代には、南部を中心にアーヤトゥッラー・ムハンマド・バーキル・サドル(英語版)率いるシーア派勢力が、中央政府と対立していた。1980年4月には、ターリク・アズィーズ外相を狙った暗殺未遂事件が発生し、さらに同外相暗殺未遂事件で死亡したバアス党幹部の葬儀を狙った爆弾テロが起こり、事ここに到ってサッダームは、ムハンマド・バーキル・サドルを逮捕し、実妹と共に処刑した。
その間、イラン国境付近では散発的な軍事衝突が発生するようになり、緊張が高まった。1980年9月17日、サッダームはテレビカメラの前でアルジェ合意を破り捨てて、同合意の破棄を宣言。9月22日、イラク空軍がイランの首都テヘランなど数か所を空爆とイラン領内への侵攻が開始され、イラン・イラク戦争が開戦した。
戦争を開始した理由は、イスラーム革命に対する予防措置であると同時に、革命の混乱から立ち直っていない今なら、イラクに有利な国境線を強要できると考えたからである。侵攻当初はイラクが優勢であったが、しだいに物量や兵力に勝るイランが反撃し、戦線は膠着状態に陥り、1981年6月にはイラン領内から軍を撤退させざるを得なかった。1986年にはイランがイラク領内に侵攻し、南部ファウ半島を占領されてしまう。
サッダームはイラン南部フーゼスターン州に住むアラブ人が同じ「アラブ人国家」であるイラクに味方すると思っていたが、逆にフーゼスターンに住むアラブ人たちは「侵略者」であるイラクに対して抵抗し、思惑は外れた。また、北部ではイランと同盟を組んだクルド人勢力が、中央政府に反旗を翻し、独立を目指して武装闘争を開始した。イラクと敵対していた隣国シリアは、イランを支持してシリアとイラクを結ぶ石油パイプラインを停止するなど、イラクを取り巻く状況は日増しに悪くなっていった。
こうした中、イラクは湾岸アラブ諸国に支援を求めた。湾岸諸国もイスラーム革命の防波堤の役割をしているイラクを支えるため経済援助を行った。また、湾岸諸国に石油利権を持つ先進国もイラクに援助を行った。アメリカ、イギリス、フランスなどの西側の大国、さらに国内に多くのムスリムを抱えていた社会主義国のソビエト連邦や中華人民共和国のような東側の大国もイランからの「イスラーム革命」の波及を恐れてイラクを支援した。
ソ連(ロシア)、フランス、中国は1980年から1988年までイラクの武器輸入先の9割を占め、後の石油食料交換プログラムでもこの3国はイラクから最もリベートを受けている。さらにイラクにはイタリア、カナダ、ブラジル、南アフリカ、スイス、チェコスロバキア、チリも武器援助を行った。北朝鮮とはイランを支援したことを理由に1980年に国交断絶を行った。
また、「バビロン計画」としてカナダ人科学者のジェラルド・ブルに全長150m口径1mの非常に巨大な大砲を建設させていた。
サッダームは、イラン・イラク戦争が忘れられた戦争にならないように、戦争と先進国の利害を直接結びつけようとした。そのためにイラクは、1984年からペルシア湾を航行するタンカーを攻撃することによって、石油危機に怯える石油消費国を直接戦争に巻き込む戦術をとり始め、イランの主要石油積み出し港を攻撃した。この作戦が功を奏し、両国から攻撃されることを恐れたクウェートがアメリカにタンカーの護衛を求めた。これにより、アメリカの艦隊がペルシア湾に派遣され、英仏もタンカーの護衛に参加してタンカー戦争が起きたのであった。
当時、反米国家イランの影響力が中東全域に波及することを恐れたロナルド・レーガン政権は、イラクを支援するため、まず1982年に議会との協議抜きでイラクを「テロ支援国家」のリストから削除した。1983年12月19日には、ドナルド・ラムズフェルドを特使としてイラクに派遣し、サッダームと90分におよぶ会談を行った。
1984年にはイラクと国交を回復し、アメリカとの蜜月を築いた。1988年に至るまでサッダーム政権に総額297億ドルにも及ぶ巨額の援助や、ソ連製兵器情報の供与を条件に、中央情報局による情報提供を行ったとされ、後にアメリカ合衆国議会で追及される「イラクゲート」と呼ばれるフセイン政権に武器援助を行った疑惑(英語版)も起きた。だが、後に亡命したワフィーク・サーマッラーイー元軍事情報局副局長によると、サッダームは完全にはアメリカを信用しておらず、「アメリカ人を信じるな」という言葉を繰り返し述べていたという。
1987年には国連で即時停戦を求める安保理決議が採択。1988年にイランは停戦決議を受け入れた。イラクはアメリカを含む国際社会の助けで辛くも勝利した形となった。その1年後にはホメイニーが死去し、湾岸諸国と欧米が危惧した「イスラーム革命の波及」は阻止された形になった。そして、後に残ったのは世界第4位の軍事大国と呼ばれるほど力をつけたイラクであった。
1988年に終結したイラン・イラク戦争は、イラクを中東最大の軍事大国の1つへと押し上げる一方で、かさんだ対外債務や財政悪化、物不足やインフレなど国内は深刻な経済状況にあった。また、サッダームの長男ウダイが大統領の使用人を殺害するという不祥事も発生した。
サッダームは政権に対する国民の不信が高まらないよう、「政治的自由化」を打ち出した。現体制を維持しつつ、限定的な民主化を推進して、国民の不満のガス抜きを行う狙いだった。バアス党を中心に、情報公開、複数政党制、憲法改正に関する特別委員会を設置し、大統領公選制などを盛り込んだ新憲法案が起草された。
政権が特に推進したのは情報公開であった。サッダームは各メディアに投書欄を充実させるよう命じた。だがそこに寄せられる政府批判は予想外に厳しいものであった。批判はサッダーム個人では無く、官僚批判の形で操作されていたが、失業や戦後復興の遅れなど、ありとあらゆる分野に苦情が殺到した。さらに、ちょっとした情報公開でも体制崩壊に繋がりかねないと政権を恐れさせたのは、1989年に東欧各地で起こった民主化であった。
とりわけサッダームが衝撃を受けたのは、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク大統領が、89年12月のルーマニア革命により政権の座を追われて処刑された出来事であった。サッダームとチャウシェスクは、非同盟諸国会議機構の中心的指導者として、互いに親密な関係にあったとされる。そのため、サッダームはイラクの各治安機関にルーマニア革命の映像を見せ、同政権崩壊の過程を研究させている。これを機に「政治的自由化」の動きは失速し、民主化も頓挫したのであった。
その一方で、イラクの軍備は増強されていった。兵力は180万人に膨れ上がり、戦闘機の数も700機に上った。サッダームは、イランが停戦に応じたのはイラク軍の軍備増強、ミサイル兵器による攻撃などイランを力で追い詰めることが出来たからだと考えていた。軍事大国化こそ勝利の道であるという信念がサッダームに植え付けられ、そのことが戦後も軍備増強を続ける原因になったとされる。
1990年3月、英紙「オブザーバー」のイギリス系イラン人の記者が、イラクの化学兵器製造工場に潜入取材をしたとして、イギリス政府の懇願にもかかわらず処刑される事件が起きる。4月に入るとサッダームは「もしイラクに対して何か企てるなら、イスラエルの半分を焼きつくす」と発言した。これは、戦後のイラクの軍事的プレゼンスをアラブ諸国に印象づけ、アラブ世界における主導権の獲得を目指した発言であったが、西欧諸国の懸念を呼んだ。
さらに西欧諸国のサッダーム政権に対する懸念と警戒感を呼んだのは、イラクが自国民であるクルド人に対して化学兵器を用いた大量虐殺を行っていたことが、欧米の人権団体により明らかにされたことだった。こうした事例に加え、イラクが核兵器起爆装置を製造しているのではないかという疑惑や、イギリスが長距離砲弾用と思われる筒(多薬室砲)をイラクが輸入しようとしていたのを差し押さえるなど、イラクの軍備拡大に警鐘を鳴らす出来事が起きたことだった。欧米のメディアもこぞってサッダーム政権の「残忍性」を批判し、それにイラクが反発するなど欧米諸国との関係は悪化していった。
一方、アメリカとの関係は非常に良好であった。アメリカは、1988年から89年までの間にイラク原油の輸入を急速に増やすと共に、年間11億ドルを越える対イラク輸出を行い、アメリカはイラクの最大の貿易パートナーとなっていた。また、クルド人に対するイラクの化学兵器使用を非難し、イラクに対する信用供与を停止する経済制裁決議を米下院が採択しても、アメリカ政府はとりたてて動かず「制裁は米財界に打撃」との理由で、イラクに警告する程度にとどまった。
酒井啓子は自著「イラクとアメリカ」の中でこうした一連のアメリカの対応が、サッダームに「少々のことが起こっても、アメリカは対イラク関係を悪化させたくない」というメッセージとなって伝わったに違いないとしている。
一方でサッダームは、戦後復興のために石油価格の上昇による石油収入の増大を狙っていた。1990年1月、サッダームは石油価格引き上げを呼びかけ、サウジアラビアや同様に戦後復興に苦慮していた敵国イランもイラクの呼びかけに応じた。しかし、クウェートはイラクの呼びかけに答えず、石油の低価格増産路線を続け、逆に価格破壊をもたらした。
イラクはクウェートを非難したが、クウェートは応じなかった。7月に入るとイラク側は「クウェートがイラク南部のルマイラ油田から盗掘している」と糾弾し、軍をクウェート国境に南下させて軍事圧力を強め、クウェートとの直接交渉に臨んだ。7月26日、クウェートはようやく石油輸出国機構の会議で、石油価格を1バレル21ドルまで引き上げるとの決定に同意したが、イラクは軍事行動を拡大し、7月30日には10万規模の部隊が国境に集結した。
こうして1990年8月2日、イラク共和国防衛隊がクウェートに侵攻した。当初は「クウェート革命勢力によって首長制が打倒され、暫定政府が樹立された」として、「クウェート暫定政府による要請で」イラクがクウェートに駐留すると発表していた。
イラクがクウェートに侵攻した理由について、上記の石油生産を巡る政治的対立の他にも、歴代のイラク政権がオスマン帝国時代の行政区分でクウェートがバスラ州の一部であったことを根拠に領有権を主張していたことや、クウェート領であるワルバ・ブービヤーン両島がイラクのペルシア湾に通じる狭い航路をふさいでおり、それを取り除いて石油輸出ルートを確保しようとしたとも言われている。
政権崩壊後、米国の連邦捜査局の取調官がサッダームにクウェート侵攻の理由について尋ねると、原油盗掘などの懸案協議に向け外相を派遣した際、クウェート側から「すべてのイラク人女性を売春婦として差し出せ」と侮辱されたといい、「罰を下したかった」と述べたとされ、侵攻に向けた決断のひとつが感情的なものであったことも明らかになった。
しかし、このイラクの軍事侵攻は国際社会から激しい批判を浴び、アメリカは同盟国サウジアラビア防衛を理由として、空母と戦闘部隊を派遣した。国際連合安全保障理事会は対イラク制裁決議とクウェート撤退決議を採択した。これに対してサッダームは、8月8日にクウェートを「イラク19番目の県」としてイラク領への併合を宣言。同時に、イスラエルがパレスチナ占領地から撤退するならば、イラクもクウェートから撤退するという「パレスチナ・リンケージ論」を提唱し安保理決議に抵抗した。また、日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。なお、この時サッダームは人質解放を巡って日本の元首相である中曽根康弘と会談しており、その後74人の人質を解放している。
このサッダームの姿勢は、パレスチナ人など一部のアラブ民衆には支持されたが、同じアラブ諸国のサウジアラビアやエジプト、反米国であるシリアもイラクに対して「クウェート侵攻以前の状態に戻る」ことを要求し、国際社会の対イラク包囲網に加わった。12月に入って、イラクが1991年1月15日までにクウェートから撤退しないのなら、「必要なあらゆる処置をとる」との武力行使を容認する安保理決議を採択した。
1991年1月17日、アメリカ軍を中心とする多国籍軍が対イラク軍事作戦である「砂漠の嵐」作戦を開始し、イラク各地の防空施設やミサイル基地を空爆。ここに湾岸戦争が開戦した。サッダームは、多国籍軍との戦力差を認識しており、開戦後はいかにしてイラクの軍事力の損失を防ぐか、被害を最小限に食い止めるかに重きを置いており、空軍戦闘機をかつての敵国であるイランに避難させたりしている。同時に、弾道ミサイルを使ってサウジアラビアやイスラエルを攻撃させている。イスラエルを攻撃したのは、イスラエルを戦争に巻き込むことによって争点をパレスチナ問題にすり替えて、多国籍軍に加わっているアラブ諸国をイラク側に引き寄せようとの思惑であったが、アメリカがイスラエルに報復を自制するよう強く説得したため、サッダームの思惑は外れた。
2月に入り、サッダームと個人的に親交のあったソ連のエフゲニー・プリマコフ外相がバグダードを訪れてサッダームと会談し、停戦に向けて仲介を始めた。そしてターリク・アズィーズ外相とミハイル・ゴルバチョフ大統領との間の交渉により、撤退に向けて合意した。その一方でイラクはクウェートの油田に放火するなど焦土作戦を始めた。
これに反発したブッシュ政権は2月24日、アメリカ軍による地上作戦を開始。ここへきてサッダームはイラク軍に対してクウェートからの撤退を命じ、2月27日にはクウェート放棄を宣言せざるを得なかった。4月3日、国連安保理はイラクの大量破壊兵器廃棄とイラクに連行されたクウェート人の解放を義務とした安保理決議を採択。4月6日、イラクは停戦を正式に受諾し、湾岸戦争は終結した。
敗戦による政権の隙をついて、国内のシーア派住民とクルド人が政権への反乱を起こした(1991年イラク反政府蜂起)。民衆蜂起はまず南部で拡大し、一気に全国18県中14県が反政府勢力側の手に落ちた。しかし、反政府勢力が期待していたアメリカ軍の支援は無かった。アメリカはイランと同じシーア派勢力の台頭を警戒しており、イラク国民に対してはサッダーム政権を打倒するよう呼びかけたが、自ら動くことは無かった。アメリカが介入しないとみるや、サッダームは温存させてあった精鋭の共和国防衛隊を差し向けて反政府勢力の弾圧に成功する。この際、反政府蜂起参加者に対して、非常に苛烈な報復が行われ、シーア派市民に対する大量虐殺が発生した。政権による弾圧の犠牲者は湾岸戦争の犠牲者を上回る10万人前後と言われている。
南部の反乱を平定すると、政権は北部のクルド人による反乱を抑え込もうと北部に兵を進めた。この時、サッダーム政権による化学兵器まで用いた弾圧の記憶が生々しく残っているクルド人たちは、一斉にトルコ国境を超え、大量の難民が発生し、人道危機が起こった。こうした事態を受けて、米英仏が主導する形でイラク北部に飛行禁止空域を設置する決議が採択され、イラクの航空機の飛行が禁止された。
1991年6月には、政権による強引な水路開発計画に抗議するため、南部の湿地帯に住むマーシュ・アラブ人が反乱を起こした。この反乱もマーシュ・アラブ人が住む湿地帯を破壊するという容赦の無い弾圧で抑え込んだものの、これにより飛行禁止空域はイラク南部にも拡大された。飛行禁止区域は2003年まで設定され、米英軍の戦闘機がイラク軍の防空兵器を空爆したり、区域を侵犯したイラク軍機を撃墜するなどした。
1993年1月、サッダームは南部の飛行禁止空域に地対空ミサイルを設置し、再び国際社会を挑発する行動に出た。この時期、アメリカでは前年の大統領選挙の結果、ジョージ・H・W・ブッシュを破って当選したビル・クリントンのアメリカ合衆国大統領就任式の数日前という微妙な時期であった。サッダームはこの時期ならばアメリカは軍事行動を起こせないと見込んでいたが、地対空ミサイル設置は国連安保理決議違反であるとして、米英仏による多国籍軍による空爆を招いてしまう。その結果、地対空ミサイルやレーダー施設、核関連施設などが爆撃された。
1993年4月には、クウェートを訪問したブッシュ前大統領の暗殺を企てていたとして、イラクの工作員が逮捕されるという事件が起こった。同年6月、この報復として、アメリカ軍はトマホークミサイル23発をバグダードに発射し、イラクの諜報機関「総合情報庁」の本部を攻撃している。
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生。9・11テロについてもサッダームは演説で「アメリカが自ら招いた種だ」と、テロを非難せず、逆に過去のアメリカの中東政策に原因があると批判、同年10月20日まで哀悼の意を示さなかった。同時テロ以降のアメリカ合衆国は、アルカーイダを支援しているとしてサッダーム政権のイラクに強硬姿勢を取るようになった。もっともイラク攻撃自体はアメリカ同時多発テロ事件以前から、湾岸戦争時の国防長官であった副大統領ディック・チェイニーや国防長官ドナルド・ラムズフェルドを中心とする政権内部の対イラク強硬派、いわゆるネオコンらによって既に議論されていたようである。ただし、サッダーム政権転覆計画については、前のクリントン民主党政権から対イラク政策の腹案の一つとして存在していた。
2002年1月、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ政権は、イラクをイランや北朝鮮と並ぶ「悪の枢軸」と名指しで批判した。2002年から2003年3月まで、イラクは国際連合安全保障理事会決議1441に基づく国連監視検証査察委員会の全面査察を受け入れた。
2003年3月17日、ブッシュは48時間以内にサッダーム大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーンは戦争回避のために亡命をするように要請したがサッダームは黙殺したため、開戦は決定的となった。
2003年3月20日、ブッシュ大統領は予告どおりイラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてイラク戦争を開始。攻撃はアメリカ軍が主力であり、イギリス軍もこれに加わった。
開戦初日の20日に、サッダームは長男ウダイが経営する「シャハーブ・テレビ」を通じて録画放送ではあったが国民向けの演説を行い、自身の健在をアピールした。この時のサッダームは普段の演説スタイルとは違い、場所不明の部屋の椅子に座り、老眼鏡を掛けて演説原稿を何度も折り返しながら読んでおり、欧米メディアやアメリカ政府当局者などが「演説しているのは影武者」「最初の空爆で死亡もしくは重傷を負った」などと憶測報道・会見を行なった(なお、開戦初日の攻撃はサッダームの誤った所在情報を下にして行なわれた作戦であったことが後に明かされた)。開戦当日以降も政権崩壊までの約3週間の間に国民に向けた演説や幹部を集めた会議の様子を収めた映像が国営テレビなどにより数回放送された。
4月9日、バグダードは陥落したが、サッダームは既に逃亡していた。アラブ首長国連邦の衛星チャンネル「アブダビ・テレビ」にて、サッダームが次男のクサイと共にバグダード北部のアーザミーヤ地区を訪れ、サッダームを支持する群集の前に姿を現した映像が放送された。
AP通信が2007年12月に、当時その場にいた元教師の証言を元に報じた取材記事によると、この時サッダームはアーザミーヤ地区にあるアブー・ハニーファモスクの前に現れ、小型トラックの上に立って200人の群集を前に「我々がアメリカ人を撃ち破るなら、私はアーザミーヤに黄金の記念碑を建てることを人々に約束する」と語ったという。丁度その時、同じバグダードのフィルドゥース広場ではアメリカ軍と市民によりサッダーム像が引き倒されていた。サッダームは、4月9日の昼過ぎにアブー・ハニーファモスクに現れ、次男のクサイ、大統領秘書官のアービド・ハーミド・マフムードを伴っていたという。サッダームは軍服、クサイは紫のスーツを着ており、小型トラックの上に立っていた。ある女性がサッダームに「疲れているのでは」と声を掛けると、「私は疲れていません。インシャッラー、イラクに勝利を」と話したが、明らかに疲労の様子が伺えたという。その日の夜サッダームは同地区にあるアブー・ビシャール・アル=ハアフィーモスクに一晩泊まった後、翌10日の午前6時ごろ、川を船で渡って対岸のカーズィミーヤ地区に向かって姿を消したという。
また、同じ9日に撮られたと思われる最後の国民向け演説の録画テープが、バグダード陥落後に発見され、メディアに公開された。未編集だったのか、テープには演説途中に咳き込んで演説を途中で止めたり、カメラマンにうまく撮れたか確認するサッダームの様子が写っていた。
英紙「サンデータイムズ」の報道によれば、4月11日までサッダーム父子と行動を共にしていた共和国防衛隊参謀総長のサイフッディーン・フライイフ・ハサン・ターハー・アッ=ラーウィーの証言として、4月11日に車でバグダードを離れる際に車中で『もう終わりだ』と述べて敗北を認めた様子だったという。サッダームに取り乱れた様子は無かったが、次男クサイは『一緒に逃げよう』と泣いて懇願した。サッダームはそれを拒否し、『生き延びるためには別々に行動した方がよい』と聞き入れなかったという。また、4月7日にバグダードのある地区で、サッダーム父子も参加する会議が開かれたが、父子が帰った10分後に彼らがいた建物がアメリカ軍に爆撃されたとも証言した。
後にアメリカの連邦捜査局(FBI)の取調官に対しても、自分は4月11日までバグダードに潜伏しており、前日の10日に数人の側近と会合を持ち、アメリカ軍に対する地下闘争を行うよう指示したとされる。
5月1日、ブッシュ大統領はサンディエゴ沖の太平洋上に浮かぶ空母にて演説、戦闘終結宣言を出した。
サッダームは、戦闘終結宣言以降も行方不明であった。時折、音声テープを使ってイラク国民や支持者に対してアメリカ軍に抵抗するよう呼びかけた。アメリカ軍も度重なるサッダーム捕捉作戦を行い、この間サッダームの息子ウダイとクサイを殺害したが、サッダームの拘束には失敗している。
転機は、7月に拘束されたサッダームの警護官の供述であった。この供述を元にアメリカ軍は2003年12月13日、サッダーム拘束を目的とした「赤い夜明け作戦」を決行。サッダームはアメリカ陸軍第4歩兵師団と特殊部隊により、イラク中部ダウルにある隠れ家の庭にある地下穴に隠れているところを見つかり逮捕された。拳銃を所持していたが抵抗や自決などは行わなかった。アメリカ軍兵士によって穴から引きずり出されて取り押さえられ、「お前は誰だ?」という問いに対し、「サッダーム・フセイン。イラク共和国大統領である。交渉がしたい。」と答えたとされる。この時、アメリカ軍通訳の亡命シーア派イラク人の姿を見るなり「裏切り者」と叫んで唾を吐きかけたため、この亡命イラク人に殴打されている。
ただし、後にサッダーム自身が弁護士を通じて語ったところによれば、「穴倉に潜んでいたのでは無く、朝の礼拝中に襲われた。米兵に足を叩かれて、麻酔で眠らされた」とアメリカ軍発表を否定しており、「銃は持っていなかった。持っていれば戦って自分は殉教者になったはずだ」などと反論している。
なお、サッダームが隠れていた民家は、1958年にカースィム首相暗殺未遂事件を起こしたサッダームが、潜伏の際に使用した隠れ家と同じ民家であったと、後にサッダームがFBIの尋問で明らかにした。
サッダームは、拘束後にアメリカ軍の収容施設「キャンプ・クロッパー」に拘置された。ここでのサッダームの生活は、主に詩の創作、庭仕事、読書、聖典クルアーンの朗読に占められた。独房は窓のない縦3メートル、横5メートルの部屋で、エアコンが完備され、プラスチックの椅子が2つ、礼拝用の絨毯が1枚、洗面器が2個、テレビ・ラジオは無く、赤十字から送られた小説145冊が置かれていた。庭には小さなヤシの木を囲むように白い石を並べていたという。
他人に自分の服を洗われることを拒否し、自分で洗濯を行っていたという。エイズ感染を極度に恐れており、看守のアメリカ兵らの洗濯物と一緒に自分の洗濯物を干さないよう頼んでいたという。また、米国製のマフィンやクッキー、スナックなどの菓子も楽しんでいたとされ、2004年に高血圧やヘルニア、前立腺炎を患った以外は病気はせず、逆に体重が増えてダイエットに励むなど健康的な生活を送っていた。
アメリカ軍側は、口ひげや顎ひげを手入れするハサミは支給しなかったという。
獄中で、サッダームは、赤十字を介して、ヨルダンに滞在する長女のラガドや孫のアリーに手紙を送っており、2004年8月2日に孫アリーへ届いた手紙では「強い男になれ。私の一族を頼む。一族の名声をいつまでも保ってほしい」と記した。
2005年5月、英大衆紙「ザ・サン」が、サッダームの獄中での生活を撮った写真を掲載。独房で睡眠中の写真やサッダームのブリーフ姿の写真が掲載され、波紋を呼んだ。これに関しては、イラク国民の間からも「いくら独裁者でも、元大統領に対して非礼」と反発する意見が噴出した。
2005年10月と12月に行われたイラク新憲法を決める国民投票と議会選挙について、サッダームは獄中からイラク国民に投票ボイコットを呼びかける声明を出した。
ジャーナリストのロナルド・ケスラーの本『The Terrorist Watch 』によると、レバノン系米国人でFBI・対テロ部門主任のジョージ・ピロの回想として、サッダームは異常な潔癖症で、手や足を隅々まで拭くために、乳幼児用のウェットティッシュを差し入れたところ、ピロはサッダームの信頼を得たという。 拘留中も1日5回の礼拝を欠かさない敬虔なムスリムではあったが、一方で、高級ワインやスコッチ・ウイスキーの 「ジョニー・ウォーカーブルーラベル」とキューバ製葉巻を好んだ。また、女性にはよく色目を使いアメリカ人の女性看護師が採血に現れたとき、「君は可愛いらしいね」と英語で伝えるよう頼んだとされ、大統領在任時とほとんど変わらない生活を送っていたようだ。また、影武者存在説については「誰も自分を演じることはできないだろう」「映画の中の話だ」と否定したとされる。2人はよく歴史や政治、芸術やスポーツなどについても語り合った。ある日サッダームはFBIから支給されたノートを使って愛についての詩作を始めるなど、意外な一面も見せた。
また、診察に来た医師に対して、「私がもう一度結婚して子どもをもうけることをアッラーがお許しになりますように。その子たちにはウダイとクサイ、ムスタファーと名付けよう」と、死んだ自分の息子と孫の名を口にして冗談を言ったという。
歴代のアメリカ合衆国大統領の評価についてピロが質問すると、ブッシュ父子を嫌悪しながらも、アメリカ人には親近感を抱いており、ロナルド・レーガンやビル・クリントンについては尊敬の念すら示したという。また、湾岸戦争については、アメリカ軍の戦力を過小評価していたと語り、イラク戦争では「ブッシュ政権が本気でイラクを攻撃してくるとは思わなかった」とし、2つの戦争における自らの対応は戦略的誤りであったとした。
一方、1980年代に政権によってクルド人に対する化学兵器を使用した大量虐殺について「必要だった」と正当性を主張。1990年のクウェート侵攻については、侵攻前に行われた両国外相会議の際、クウェート側代表から「すべてのイラク人女性を売春婦として差し出せ」と侮辱されたといい、「罰を下したかった」と述べたという。
サッダームは、イラクが大量破壊兵器を開発済であり、WMDを完成させて密かに国内のどこかに隠し持っているかのように振舞い続けたが、ピロから「なぜ、かかる愚かな行為をしたのか」と問われた際、サッダームは「湾岸戦争での敗北以降、通常戦力は大幅に低下したため、大量破壊兵器を持っていないことが明らかになると、イランやシリアに攻め込まれ、国家がなくなってしまうのではないかとの恐怖があったから」と答えている。また、国連による制裁がいずれ解除されれば、核兵器計画を再開できるとも考えていたという。
2009年7月1日に新たに公表されたピロの尋問記録にも、同様の趣旨のことを話しており、国連査察を拒んだ場合の制裁よりも、イラクの大量破壊兵器が存在しないことが明らかになり、イランに弱みを見せることの方を恐れたという。またサッダームは、獄中記でアラブ諸国にとってイスラエルよりイランが脅威であると評しており、イランのイスラーム体制の指導部を過激派と呼び、嫌悪していたという。
アルカーイダとの関係についても否定し、ウサーマ・ビン・ラーディンを狂信者と呼び、「交流することも、仲間と見られることも望んでいなかった」とし、逆にアルカーイダを政権にとっての脅威と捉えていたという。
ピロによれば、尋問日程がすべて終了すると、サッダームは感情的になったという。「私達は外に座り、キューバ葉巻を2、3本吸った。コーヒーを飲み、他愛ない話をした。別れの挨拶をすると彼の目から涙があふれた」という。 またピロは「彼は魅力的で、カリスマ性があり、上品で、ユーモア豊かな人物だった。そう、好感の持てる人物だった」と回想している。
同様の感想をサッダームが収監されたアメリカ軍収容所の所長だったジェニス・カーピンスキー元准将も述べており、よく若い監視役のアメリカ憲兵の話相手となり、ある時はアメリカ兵の職場結婚の相談などにも応じていたという。カーピンスキーによるとサッダームは「お前は本当に司令官なのか?」とアメリカ軍に女性の将校がいることに関心を示し、「新イラク軍には、女性の司令官を新たに任命する」と語ったという。
また、サッダームの世話を担当したロバート・エリス米陸軍曹長が、2007年12月31日付きの米紙『セントルイス・ポスト・ディスパッチ』のインタビューで証言したところによると、看守の米兵達はサッダームを勝利者を意味する「victor」(ヴィクター)というニックネームで呼んでいたという。エリス曹長は、2日に一回独房を見回っていた。ある時、サッダームが自作の詩を読む声が聞こえ、それから互いに言葉を交わすようになったという。自分が農民の子で、その出自を1度も忘れたことはないこと、自分の子に本を読み聞かせして寝かせたこと、娘がお腹が痛いと言ったときにあやしたことなどを語ったという。また、葉巻とコーヒーは血圧に良いとして、エリスに葉巻を勧めたこともあったという。エリスによれば、不平を言わない模範囚であり、アメリカ兵に敵対的な態度は見せなかった。一度だけ、不平を訴えてハンストを起こした。食事をドアの下の隙間から差し入れたからである。その後、ドアを開けて食事を直接届けるようになると、すぐにハンストをやめたとされる。ある時、サッダームが食事のパンをとっておき、庭で小鳥に食べさせていたのをエリスは見ている。
また、サッダームがエリスにアメリカ兵がマシンガンを撃つ姿をジェスチャーで示しながら、『米軍はなぜ、イラクに侵攻したのだ』と質問したという。「国連の査察官は何も見つけなかっただろう」とも述べた。ある日、米本国にいるエリスの兄弟が死亡したため、米国に帰国しなくてはならなかったとき、サッダームは「お前はもう、オレの兄弟だ」と言ってエリスを抱きしめ、別れを惜しんだという。
サッダーム自身も弁護士に対し、「アメリカの兵士が私にサインをよく頼みに来る」「私は、イラクが(自分の手で)解放されたら、私の国に来るように彼らを招待した。彼らは承諾してくれた」と米兵との交流の様子を明かしている。
サッダームの個人弁護人だったハリール・ドゥライミーは、2009年10月にアラブ圏で出版された回顧録『Saddam Hussein Out of US Prison』の中で、2006年夏にサッダームは米軍拘置施設からの脱走を計画していたことを明かした。計画では、旧政権支持者とサッダームの元警護官で構成する武装集団が、バグダードのグリーンゾーンと国際空港にあるアメリカ海兵隊基地を襲撃し、その隙に空港近くにある拘置施設キャンプ・クロッパーからサッダームを脱獄させ、イラクの武装勢力をまとめてイラク政府や駐留アメリカ軍を攻撃するために、西部アンバール県まで逃亡させる計画だったという。サッダームは、自分以外にも、同じく収監されているかつての自分の部下である、旧政権高官も脱獄させることを望んでいた。しかし、計画は別の武装勢力がキャンプ・クロッパー郊外でアメリカ軍と銃撃戦を行なう事件が起き、その結果、施設の警備が強化されたため未遂に終わったという。その6ヵ月後、サッダームは処刑された。
ハリールの本によれば、サッダームはキャンプ・クロッパーに収監されている収容者にその計画を話したとされ、「イラクが解放されれば、私はこの国を誰からの援助も無しで、7年で発展させる」「イラクをスイスのようにする」と語ったという。
2004年7月1日、大量虐殺などの罪で訴追され、予備審問のためイラク特別法廷に出廷した。予審判事に「あなたの職業は?」との質問に「イラク共和国大統領だ」と答え、判事に「“元”大統領ですね」と聞かれると、「今も大統領だ」と反駁した。
訴追容疑に1990年のクウェート侵攻が加えられていることに「共和国防衛隊がイラクの権利を行使しただけだ」「公的行為が犯罪なのか?」と声を荒らげる一幕もあった。起訴状に署名するよう促されたが「弁護士が来るまで署名はしない」と拒否した。この審問の様子は映像で公開されたが「ブッシュこそ犯罪者」と語った場面は放送されず、却ってイラクのスンナ派地域やアラブ世界にサッダームの威信を高めるだけとなり、以後予審は2回ほど行なわれたが、音声無しの映像公開となった。
イラク特別法廷長官(当時)のサーリム・チャラビーは、予審前の6月30日にサッダームと3、4分面会した。主権移譲によりサッダームの身柄がアメリカ軍からイラク暫定政権に移ったことを説明するためだが、彼は「私はサッダーム・フセイン。イラク共和国大統領だ」と居丈高に告げたという。サッダームは拘束時に伸びていたあごひげをそり落とし、トレードマークの口ひげを生やしてアラブの伝統衣装を身にまとっていた。健康そうだったが拘束当時よりも痩せており、とても神経質そうだったという。この間、サッダームはずっと座ったままで、周りに立っているチャラビーらに質問しようとしたが、チャラビーが「明日まで待ってほしい」と遮った。
サッダーム弁護団のスポークスマンであるヨルダン人のズィヤード・ハサウネ弁護士によると、2004年12月16日にサッダームの私選弁護人であるハリール・ドゥライミー弁護士と接見した際、自身の裁判について「恐れていない。始まれば多数の当事者を巻き込む過去の情報を公にする」と述べ、欧米諸国との過去を裁判において暴露すると語った。ハリール弁護士との4時間にわたる面会でサッダームは、弁護団の名称を「サッダーム・フセイン・イラク大統領弁護支援委員会」と改名するよう指示、メディアや人権団体などを活用するよう求めた。また、自身の士気について7月の予審段階では90%だったが、「今は120%だ」と意気軒高ぶりを強調した。政権崩壊後のイラクで反米ゲリラ活動については、「称賛する。以前から練られていた計画によるものだ」と戦争前から外国軍に対するゲリラ戦を想定していたかのように発言した。
2005年7月21日、UAEのテレビ局「アル=アラビーヤ」が、予審の際に「弁護士と面会出来ないのか?」と不満を口にする映像を放送した。クルド人の財産没収に関する予審で、サッダームは白いシャツにグレーの上着姿で登場。かすれ気味の声ながら、挑発的な発言を繰り返した。弁護士との面会が制限されていることについて「これで公正なのか」と反発を示し、判事が「イラク政府による拘束」に言及すると「どの政府だ」と聞き返し、「私はアメリカが任命したイラク政府に拘束されている。これは策略だ」などと主張した。度重なる発言を、予審判事が声を荒らげて制止する場面もみられた。
7月28日には、1991年に起こったシーア住民に対する大量虐殺事件についての予審の最中、席を立とうとしたサッダームに対して何者かが法廷に乱入し、素手で殴りあうという事件が発生した。襲撃した人物や両者の負傷の有無は不明。弁護団の発表によれば予審判事も法廷の警備員もこれを止めようとしなかったと非難した。
28日の一件について、虐殺事件の捜査を担当し、サッダームに尋問を行っていたタハシーン・ムトラクが2010年に毎日新聞の取材に応じて真相を明らかにした。ムトラクによれば、尋問の日、黒っぽいジャケットに白いシャツ姿だったサッダームは「自分は軍最高司令官だ」「イラク人の中で(自分は)もっとも勇敢な人間だ」と自慢を始めた。これに対して捜査担当判事が「(03年12月)拘束時になぜ穴に隠れていたのか」と聞くと、サッダームは激高して罵り始め、弁護士が尋問の中止を求めた。ムトラクがサッダームを部屋から連れ出そうと腕を取ると激しく抵抗され、この一件が弁護団によって「元大統領が暴行を受けた」と発表されたとのことである。 2度目の尋問は2006年2月に行われたが、6時間の取り調べでサッダームは黙秘を貫いたという。
10月18日の初公判の前に、ドゥライミー弁護士との面会でサッダームは「自分は無実だ」「(罪状には)気にとめていない」などと語ったという。
10月19日、バグダードの高等法廷で、1983年にイラク中部の村ドゥジャイルにおいて住民140人以上を殺害した事件の初公判が開かれた。だが、初公判の時にリズカル・アミン裁判長(当時)の人定質問に答えずにコーランを法廷中に唱えたり、名前を聞かれても名乗ることはなく、裁判そのものに対する拒否の意思をはっきりと示した。また、裁判長がサッダームの経歴を朗読した際には「元ではない。今も共和国大統領だ」と発言し、自身こそがイラクの合法的な大統領であると発言した。サッダームは法廷を「裁判のような“もの”」と表現し、一貫して法廷の不当性を訴えた。一方で、裁判長を持ち上げるような発言も行った。
12月6日の公判では、「サッダーム・フセインを弁護するためではなく、イラクが気高くあり続けるための率直な発言を許してほしい」と述べ、裁判長に対しても「あなたに圧力がかかっているのは分かっている。わたしの息子の一人(裁判長を指す)と対峙しなければならないのは残念だ」と裁判長の職務に理解を示すような発言をしたかと思えば、「こんなゲームが続いてはいけない。サッダーム・フセインの首が欲しければくれてやる」「私は死刑を恐れない」などと発言し、裁判長を挑発した。この日の公判では、事件の被害者が検察側証人として出廷。サッダームは、証人に対しても「小僧、私の話のこしを折るな」と述べ、挑発的な態度を崩さなかったが、一方で、拷問の様子や拘置所での実態を涙ながらに語る女性証人の証言の最中には、動揺した様子で顔をうつむいて静かに話に聞き入るなど、他の男性証人に対してとは違う態度を見せた。
しかし、公判の最後では、弁護側の要求を無視して翌7日の公判開始を決めたアミン裁判長に対し、「不公正な裁判にはもう出ないぞ。地獄へ落ちろ!」と罵る一幕もあった。 7日の公判では、同日に弁護側と接見出来なかったことに抗議してサッダームは出廷せず、他の被告は出廷したものの、開廷が4時間近く遅れ、サッダーム不在のまま裁判は続けられた。12月21日、数週間ぶりに再開された公判には出廷したが、自身を「サッダーム」と呼び捨てにした検察側証人に「サッダームとは誰だ」と声をあげるなど、強気の姿勢を見せた。
2006年11月5日、サッダームはイラク中部ドゥジャイルのイスラム教シーア派住民148人を殺害した「人道に対する罪」により、死刑判決を言い渡された。サッダームは判決を言い渡されると、「イラク万歳」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇だ」として非難した。
12月26日に開かれた第2審でも、第1審の判決を支持し、弁護側の上訴を棄却したため死刑が確定。翌27日、サッダームはイラク国民向けの声明を弁護士を通じて発表し、「神が望むなら、私は殉教者に列せられるだろう」と死刑を受け入れる姿勢を見せると共に、イラクで当時激化していた宗派対立に言及し、「イラクの敵である侵略者とペルシア人があなたたちに憎悪の楔を打ち込んだ」とアメリカとイランを非難。そして、「信仰深き国民よ、私は別れを告げる。私の魂は神のもとへ向かう。イラク万歳。イラク万歳。パレスチナ万歳。聖戦に万歳。神は偉大なり」と結んでいる。弁護士に対しては、「イラク国民が私を忘れないことを願う」と述べたという。
2006年12月30日、サッダームは、アメリカ軍拘置施設「キャンプ・ジャスティス」から移され、バグダードのアーザミーヤ地区にある刑務所にて、絞首刑による死刑が執行された。アメリカは処刑を翌年まで遅らせるようイラクに要請したが、ヌーリー・マーリキー政権は国内の「サッダーミスト」(サッダーム支持者)が本人の奪還を目的にテロを起こしかねないとの懸念から受け入れず、関係者共々刑を執行した。サッダームの死刑にシーア派勢力・市民は歓喜し、一方スンナ派勢力・市民は現政権を非難した。
刑執行後、サッダームの遺体は故郷であるアウジャ村のモスクに埋葬された。
埋葬後は、住民らによって葬儀が執り行われた。その後もサッダームの誕生日と命日には地元児童らが「課外授業」の一環として、サッダームの墓前に花を捧げ、彼を讃える歌などを合唱していたため、2009年7月、イラク政府はサラーフッディーン県当局に対して集団での墓参を止めるよう命じた。
イラク政府の指導に反して、その後も主にスンナ派アラブ人のイラク国民やサッダーム支持者が墓のあるモスクを訪れ、サッダームがかつて住んでいたティクリートにある旧大統領宮殿と並んで半ば「聖地」のようになっていたが、2015年にイラク軍及びシーア民兵がイスラーム国(ISIL)からティクリート奪還作戦を行った際の戦闘によりサッダームの墓も破壊された。ただし、どちらの攻撃で破壊されたのか、或いは戦闘の巻き添えで破壊されたのか、または意図的に破壊されたのかは不明であるが、イスラーム国の戦闘員が撤退する際に爆破したとの見方が有力である。
サッダームが所有していたものの、一度も乗ることがなかった豪華船「バスラ・ブリーズ号」が現存している。イラク政府が売却を試みたが買い手が見つからず、バスラ港でホテルに転用された。
反対派への粛清、それによる恐怖政治、弾圧から諸外国から典型的な独裁者として恐れられた。
特にサッダームはヨシフ・スターリンの政治スタイルを手本にしたとされる。事実、サッダーム体制にはスターリン主義の特徴が見受けられる。第二次世界大戦で反共十字軍を掲げて侵攻するナチス・ドイツに勝ったスターリンをかつてのサラーフッディーン、その戦いがあったスターリングラードを、「サッダーム・シティ」に見立てた。サッダームはスターリンを共産主義者というよりナショナリストと見ているとクルド人の政治家マフムード・オスマーンは推察している。オスマーンによると、大統領宮殿のサッダームのオフィスにはスターリンに関する本が揃えてあり、オスマーンが「スターリンがお好きなようで」と言うと、「そうです。彼の統治の仕方が気に入っているので」と答えた。オスマーンが「あなたは共産主義者なのか?」と質問すると、サッダームは「スターリンが共産主義者とでも言うのかね」と反論したという。また、史上初の社会主義国をつくったとしてウラジーミル・レーニン、愛国者だったとしてホー・チ・ミン、フィデル・カストロ、ヨシップ・ブロズ・チトーなども称賛していた。
しかし、サッダームの主治医アラ・バシール医師によるとサッダームは1度もスターリンについて語らなかったとし、サッダームが尊敬していたのはスターリンではなくフランスのシャルル・ド・ゴール元大統領であったという。とりわけド・ゴールを「世界でもっとも偉大な政治家」と絶賛し、「彼は戦争の英雄、愛国者、立派なナショナリスト、フランス文明の真の産物」と評し、話をすると決まって最後はド・ゴールの話になったという。ド・ゴール主義者であるジャック・シラクとも個人的に親しくしていた。ちなみにアドルフ・ヒトラーについては「奴は我々アラビア人を差別していた」と嫌っていたという。
また、サッダーム政権下のイラクでは、幾つもの治安機関が存在し、市民の監視や反体制的言動の摘発に当たっていた。主な物では、総合諜報局、総合治安局といった組織で、相互連携することなく、別個に行動している。治安機関は、あらゆる市民社会に侵入し、タクシーの運転手、レストランの店員などが治安機関の人間である場合もあった。こうした秘密警察による監視網は、国民を恐怖という心理で支配するだけでなく、隣人、家族、友人同士が互いに互いを監視し、密告し合う社会が形成された。親が家で言ったことを子供が学校で喋ってしまい、教師が治安機関に通報したというケースもあったと言われる。このため、サッダーム体制のイラクを、亡命イラク人のネオコンで有名なカナン・マキヤは「恐怖の共和国」と名付けた。1980年ごろ核兵器開発の作業を拒否した科学者のフセイン・アル=シャフリスターニーの体験は凄惨を極め、22日間にわたり電気ショックなどの拷問を受けたうえ、逃亡までの11年間を獄中で過ごしたという。アメリカのテレビで告白し、恐怖政治の実態が明らかになった。
監視だけでなく、市民に対する恣意的逮捕や拷問も日常的に行われた。アムネスティによるとサッダーム時代には107種類の拷問がイラク各地の刑務所で行われていたとしている。その拷問はわざと苦痛を感じさせて、障害を残すような極めて残忍な拷問である。ヒューマン・ライツ・ウォッチの報告によるとサッダーム政権下で約29万人が失踪あるいは殺害されたと報告している。
イラク現政府は、「サッダーム・フセイン時代の恐怖展」を開き、拷問道具や犠牲者の遺品などを展示した。
サッダームが大統領に就任すると、自身への崇拝が強化され、イラク国内には彼の巨大な彫刻、銅像、肖像画やポスターが飾られるようになった。それらを制作する専門の職人がいたほどであり、国民の人口よりサッダームの銅像やポスターの方が多いという笑い話が作られたほどである。サッダームに対する個人崇拝は、中東でも異例であり、突出していた。国営テレビは、毎日のようにサッダームを称える歌・詩を放送しており、歌の数は200種類あるとされていた。イラクのテレビ・ラジオの監督部門の長を務めた人物の証言によると、サッダームもこれらの放送を見ており、一時、テレビで歌を流す回数を減らしてエジプトのドラマを放送していた(実際、素人臭い作品ばかりで、出来の悪い歌が多かったためである)。これに気づいたサッダームは、担当者を呼びつけて放送を元に戻すよう指示したとされる。
また、アラブや古代メソポタミアの過去の英雄たちも引き合いに出され、即ち、サッダームはネブカドネザル2世やハンムラビ、マンスール、ハールーン・アッ=ラシードにならぶ偉大な指導者であるとされ、あげくの果てに偽造ともされる家系図を持ち出して預言者ムハンマドの子孫と喧伝された。また、アラブ世界の英雄サラーフッディーンを同じティクリート出身のために尊敬・意識していたという説もあるが、皮肉にもサラーフッディーンはサッダームが苛烈な弾圧を行ったクルド人の出身である。
サッダームの主導で空中庭園などの再建計画が開始された古代遺跡バビロンの入り口にはサッダームとネブカドネザルの肖像画が配置され、碑文には「ネブカドネザルの息子であるサダム・フセインがイラクを称えるために建設した」と刻まれ、サッダームは遺跡群内にジグラットを模した宮殿もつくろうとした。同様の計画がニネヴェ遺跡、ニムルド遺跡、アッシュール遺跡、ハトラ遺跡でも行われた。
独裁者として、イラクを恐怖で統治していたサッダームであるが、1970年代から80年代に掛けて、イラクをアラブで随一の社会の世俗化を図り、近代国家にしたという功績がある。その一つがイラク石油国有化である。
バアス党政権はソ連と共同で南部最大のルメイラ油田を開発させた後、1972年に国家的悲願だった石油事業の国有化を断行した。長年イラクは外資系のイラク石油会社に権益を独占され、石油利益が国家に還元されていなかった。一般に、石油国有化はサッダームの功績の一つにあげられているが、実際に計画を立てて指揮を執ったのは、当時の石油大臣であるムルタダー・アル=ハディーシーであり、政治決断をしたのがサッダームである。
バアス党政権は、国富の公平な配分を掲げていたが、原油から得られる収入が限られていたため、国有化後も思うような成果が上がらなかった。しかし、1973年に石油輸出国機構の原油価格が4倍に急騰したことで状況は好転した。このころを境にイラクの石油収益は伸び続け1980年には、1968年から比較して50%の260億ドルに達した。
この石油収入を背景にバアス党政権は第3次五ヵ年計画を立て、上中流階級の解体、社会主義経済と国有化推進、イラクの経済的自立を目指した。石油産業、軍装備、原発はソ連、その一部をフランス、鉄道建設はブラジル、リン酸塩生産施設はベルギー、旧ユーゴスラビア、東西ドイツ、中国、日本にはハイテク分野の専門家や外国人労働者、専門技師の派遣を要請した。
これにより、バアス党政権は約400億ドルを懸けて第4次五ヵ年計画を進め、全国に通信網・電気網を整備し、僻地にも電気が届くようになった。貧困家庭には無料で家電が配布された。また農地解放により、農業の機械化、農地の分配を推進し、最新式の農機具まで配られ、国有地の70%が自営農家に与えられた。こうした政策により、1970年代後半にはイラクの人口は35%増加した。また、水利事業にも積極的であり、ドイツ、イタリアの協力でモスルダム(旧サッダーム・ダム)、ソ連の協力でハディーサー・ダム、中国の協力で新ヒンディーヤ・ダムなども完成させた。
国内総生産における国営部門の比率も72年には35.9%だったのに対し、77年には80.4%と増加。事実上、バアス党政権が、国民に富を分配する唯一の存在となり、最大の「雇用主」であった。1970年から1980年まで年率11.9%という二桁の経済成長でイラクの一人当たりGDPは中東で最も高くなり、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の石油輸出国になった。
他にもサッダームはイラク全国に学校を作り、学校教育を強化した。教育振興により児童就学率は倍増した。イラクの低識字率の改善のため、1977年から大規模なキャンペーンを展開し、全国規模で読み書き教室を開講し、参加を拒否すれば投獄という脅迫手段を用いたものの、イラクの識字率はアラブ諸国で最も高くなり、1980年代に大統領となったサッダームにユネスコ賞が授与された。
また、女性解放運動も積極的に行なわれ性別による賃金差別や雇用差別を法律で禁止し、家族法改正で一夫多妻制度を規制、女性の婚姻の自由と離婚の権利も認められた。女性の社会進出も推奨し、当時湾岸アラブ諸国では女性が働くことも禁じていた中で、イラクでは女性の公務員が増え、予備役であるが軍務に付くこともあった。男尊女卑の強い中東において「名誉の殺人」が数多く行われていた中、この「名誉の殺人」を非難した人物であることは、あまり知られていない。もっとも、1991年の湾岸戦争以後は、イスラーム回帰路線を推し進め、この「名誉殺人」も合法化。アルコール販売の規制や女性の服装規定の厳格化を進めた。
さらにイラクのハブ空港であるバグダード国際空港(サッダーム国際空港)を建設した。
これらは石油生産性がピークに達するバクル政権と、それが連続するサッダーム政権初期の功績である。がしかし、後のサッダームはイラン・イラク戦争や湾岸戦争での二度に渡る戦争での債務、その後の国連制裁によってこれらの成果を無に帰してしまった。
サッダームは恐怖によってシーア派・スンナ派・クルド人の対立を抑え込んでいた。しかしサッダーム政権崩壊後のアメリカの占領政策の失敗とイラク政府の無為無策により、一時宗派対立で内戦状態に陥り、さらにその後は隣国のシリア内戦の影響も受けてISILが流入してイラク政府軍、クルド人、シーア派民兵と衝突し、これにサッダームの最側近だったイッザト・イブラーヒームの旧バアス党残党のスンニ派勢力も加わり、テロも頻発して治安も悪化した。トルコの政治家アブドゥラー・ギュルはユーゴスラビア社会主義連邦共和国解体が内戦につながった様にイラクを「パンドラの箱」と揶揄していた。
実父フセイン・アル=マジードは、サッダームの妹シハーム・フセイン・アル=マジード出生後に行方不明となった。盗賊に襲われたとも、家を捨てたとも言われるが定かでは無い。後にサッダームは、父の名前を模した「フセイン・アル=マジード・モスク」を故郷ティクリートに建設している。母のスブハ・ティルファーは農家出身で、占い師として生計を立てていた。いつごろフセイン・アル=マジードと別れたのかは不明で、イブラーヒーム・ハサンと再婚し、サブアーウィー、バルザーン、ワトバーン、ナワールの3男1女を生んだ。サッダームの継父にあたるハサンは周囲から「ホラ吹きハサン」と呼ばれており、決して周囲から尊敬されるような人物では無かったとされる。
妻サージダ・ハイラッラーは、サッダームの叔父ハイラッラー・タルファーフの娘に当たり、サッダームとの結婚はいとこ同士の婚姻に当たる。サッダームとの間に、長男ウダイ(1964年6月18日 - 2003年7月22日)、次男クサイ(1966年5月17日 - 2003年7月22日)、長女ラガド(1968年)、次女ラナー(1969年)、三女 ハラー(1972年)を生んだ。
一方、サッダームはその他にも数人の妻がいたとされる。サミーラ・アッ=シャフバンダル、ニダール・アル=ハムダーニー、ワファー・ムッラー・アル=フワイシュの三人がサッダームと結婚したとされるが、サミーラ以外は真偽不明である。このうちサミーラとの間には、アリーなる息子が生まれたとされるが諸説ある。
サッダームは小説を4篇、詩を多数書いている。小説のうちはじめの2篇は匿名で発表された。
サッダーム・フセインの全名は、サッダーム・フセイン・アル=マジード・アッ=ティクリーティー(アラビア語:صدام حسين المجيد التكريتي、英語:Saddam Husayn al-Majid al-Tikriti)であり、これは「ティクリート出身のマジード家のフセインの子サッダーム」と解される。現地ではアッ=ティクリーティー無しのサッダーム・フセイン・アル=マジードも多用されている。
ナサブ形式ではサッダーム・イブン・フセイン・イブン・マジード・アッ=ティクリーティー(صدام بن حسين بن مجيد التكريتي)など。ナサブからも分かるように本人の名前がサッダーム、父はフセイン、祖父はマジードである。(上述のフルネームでマジードに定冠詞アル=がついているのはアラブのフルネーム表記で先祖もしくは祖父の名前に定冠詞をつけどこのファミリーであるかを示す用法があるため。)
祖父名はعبد المجيد(アブドゥルマジード、Abd al-MajidもしくはAbdulmajid)になっていることもあり、フルネームの該当箇所が異なる表記もしばしば見られる。
彼を含め多くのイラク人の名前には、他のアラビア諸国同様に欧米や日本の人名慣習でいう明確な「姓」にあたるものは存在しない。ラストネーム相当のものとして父や祖父などの名前・家名・氏族名や部族名・地名由来の名称もしくは形容詞が来るため、「サッダーム・フセイン」が日本における氏名のようにセットで用いられるのが普通である。
日本語の文脈で彼の名を縮めて呼ぶ場合、「フセイン」「フセイン大統領」といった形をとることが多いが、「フセイン」は彼の全名の中に含まれる父の名に当たる。「本人のファーストネームがサッダームだからサッダーム大統領と呼ばずにフセイン大統領と呼ぶのはアラビア語として間違っている。」と言われることが多いが、そうとは言い切れない。
というのもアラブ世界では大統領レベルの公人になるとフルネームが一般人よりも短くなった通称で呼ばれる傾向が強まりラストネームの家名だけで書かれることもあるためである。彼の場合はこの過程で祖父の名前(アブドゥル)マジードと出身地由来のアッ=ティクリーティーがまず省かれる。現地では「サッダーム・フセイン大統領」「サッダーム・フセイン政権」「サッダーム大統領」「サッダーム政権」だけでなく「フセイン大統領」「フセイン政権」と記されていることがあり、いったんフルネームを提示した新聞記事などにおいて同じ人物が繰り返し主語として出てくる際に省略して「フセイン大統領は(・が・の・を)」もしくは肩書きすら添えない「フセインは(・が・の・を)」となりやすい。
なお、フセインのアラビア語文語(フスハー)における元々の発音は「フサイン」である。しかしながら日常生活で用いる口語アラビア語であるイラク方言での発音が「フセイン」「フセーン」(さらにはHuseinにおけるiとeが逆になった発音Husienとしてフスィエン、フスェーンに近いイラク的な読みもある)であることから、日本でも現地で広く用いられている読みが採用され「フセイン」とするのが通例となっている。 | [
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"text": "サッダーム・フセイン(صَدَّام حُسَيْن , 文語アラビア語発音:Ṣaddām Ḥusayn, サッダーム・フサイン / 口語アラビア語発音:Ṣaddām Ḥusein, サッダーム・フセイン、1937年4月28日 - 2006年12月30日)は、イラク共和国の政治家。スンナ派のアラブ人であり、イラク共和国の大統領、首相、革命指導評議会議長、バアス党地域指導部(英語版)書記長、イラク軍(英語版)最高司令官を務めた。軍階級は元帥。日本語の慣例では、彼の名をサダム・フセインと表記することが多いが、本項ではサッダームと表記する(詳細はフルネームの節を参照)。",
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"text": "イラク北部のティクリート近郊のアル=アウジャ村で農家の子として生まれ、「敵と激しく衝突して駆逐する(者)、戦闘で大いに激突し敵を撃退する(者)」を意味するサッダームの名を受けた。アル=ブー・ナースィル族(البو ناصر, 転写:Al-Bū Nāṣir, 発音:アル=ブー・ナースィル, 主な英字表記:Al-Bu Nasir)出身であり、のちの大統領アフマド・ハサン・アル=バクルとは従兄弟であった。父フセイン・アブドゥルマジード(フセイン・アル=マジードとも)はサッダームが生まれた時には既に死んでおり、母スブハ・タルファーフは羊飼いのイブラーヒーム・ハサンと再婚して、サッダームの3人の異父弟を生んだ。",
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"text": "10歳の時から、母方の叔父ハイラッラー・タルファーフのもとで暮らした。8歳の時に、ハイラッラーの娘で従姉妹にあたるサージダ・ハイラッラーと婚約している。サッダームの敵に屈しない性格とイランを敵視するアラブ民族主義は、叔父ハイラッラーの影響から生まれたと言われている。小学生の時から銃を持ち歩き(当時、銃を持つのはティクリート一帯で普通のことであった)、素行の悪さから学校を退学させようとした校長を脅迫して、退学処分を取り消させている。1947年に叔父とその息子アドナーン・ハイラッラーと共にティクリートへ出て叔父が教師を務める同地の中学を卒業した。",
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"text": "1955年に当時、中央政府の教育庁長官になっていたハイラッラーの後を追ってバグダードに移り住む。1957年にバアス党に入党する。このころのサッダームは、バグダードのストリートギャングを率いていたといわれる。ハーシム王政崩壊後の1959年には叔父が教育庁長官の職を追放されるきっかけを作った(当時のイラクは親英派の王制であった)ティクリート出身の男性をハイラッラーの命により銃で殺害した。ハイラッラーとサッダームは殺人容疑で逮捕されたが、証拠不十分で釈放となった。",
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"text": "1950年代は、エジプトで革命が起こり、親英の王制が倒されてガマール・アブドゥル=ナーセル政権が樹立に向かっている時期にあたり、アラブ諸国ではアラブ民族主義が高まりを見せており、サッダームもナーセルの影響を受けた。1958年には、イラクでも軍部によるクーデター(7月14日革命)により親英王制が打倒されている。",
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"text": "バアス党は親英王制を打倒させ政権についていたアブドルカリーム・カーシムがアラブ統一よりもイラクの国益を優先する政策をとりアラブ連合共和国への参加に懐疑的だったため、1959年にカーシム首相暗殺未遂事件を起こした。この事件に暗殺の実行犯として関与したサッダームは、カーシムの護衛から銃弾を受けて足を負傷するが、剃刀を使って自力で弾を取り除き、逮捕を逃れるためベドウィンに変装し、ティグリス川を泳ぎ継いで、シリアに亡命、ついでエジプトに逃れた。シリア滞在中にはバアス党の創始者ミシェル・アフラクの寵愛を受けた。亡命中の欠席裁判により、サッダームは死刑宣告を受けた。",
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"text": "サッダームは、エジプトで亡命生活を送りながら高等教育を受け、カイロ大学法学部に学んだ。帰国後の1968年には、法学で学位を取得したとされるが、カイロ大学にはサッダームの在籍記録が存在していない(=卒業の確認が取れない)。カイロでのサッダームは、何かと周囲に喧嘩を吹っかけるなど、トラブルメーカーであったと、当時サッダームが出入りしていたカフェのオーナーが証言している。",
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"text": "1963年にアブドッサラーム・アーリフ将軍が率いたクーデター(ラマダーン革命)によりカースィム政権が崩壊してバアス党政権が発足すると、サッダームは帰国してバアス党の農民局長のポストに就いた。また、このころ党情報委員会のメンバーとして、イラク共産党に対する逮捕、投獄、拷問などを行なったと言われているが真偽は不明。1963年には党地域指導部(RC)メンバーに選出され、バアス党の民兵組織の構築にも関与した。この年サージダと正式に結婚する。",
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"text": "しかし、この第一次バアス党政権は党内左右両派の権力争いにより政権を追われる(1963年11月イラククーデター)。1964年、サッダームはアーリフ大統領の暗殺を企てたものの、事前に発覚し、逮捕投獄された。1965年に獄中でRC副書記長に選出された。1966年、看守を騙して脱獄し、地下活動を行なう。",
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"text": "1968年7月17日、アフマド・ハサン・アル=バクル将軍の率いるバアス党主導の無血クーデター(7月17日革命)により党は再び政権を握った。このクーデターでサッダームは、戦車で大統領宮殿に乗り付けて制圧するなど主要な役割を果たしている。",
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"text": "バクル政権では副大統領になり、治安機関の再編成をまかされ、クーデターに協力したアブドラッザーク・ナーイフ首相の国外追放、イブラーヒーム・ダーウード国防相の逮捕など、バクル大統領の権力強化に協力し、その結果、1969年、革命指導評議会(RCC)副議長に任命された。また、この時期にサッダームはイラク・バアス党をシリア・バアス党の影響力から引き離す工作を始め、「イラク人民とは文明発祥の地、古代メソポタミアの民の子孫である」とする「イラク民族主義」(ワタニーヤ)をアラブ民族主義(カウミーヤ)と融合させてイラクの新たなイデオロギーに据えた。",
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"text": "このころ、サッダームは治安・情報機関を再編成し、その長に側近や親族を充てて、国の治安機関を自らの支配下におき、イラクを警察国家に変貌させ、秘密警察による国民の監視が強化された。政府省庁やイラクの国軍内部にもバアス党員からなる政治委員を設置し、逐一動向を報告させている。",
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"text": "また、政府の高位職に同郷であるティクリートやその周辺地域の出身者を多く登用している。そのため、恩恵に与れない他地域の人間の間には不満が募っていった。",
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"text": "そんな中、1973年6月、シーア派のナジーム・カッザール国家内務治安長官が、バクルとサッダームの暗殺を企てるが、事前に露見し、サッダームの素早い決断によりクーデター計画を阻止している。カッザールとその一派は特別法廷により死刑を宣告され、処刑されたが、この際に事件と関わりの無い人物、主に、清廉な人物としてイラク国民からの人望も厚く、次期大統領との呼び声も高かったアブドルハーリク・サーマッラーイーのような、バアス党内におけるサッダームのライバル達も陰謀に加担した容疑で粛清された。",
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"text": "1979年7月17日、バクルが病気を理由に辞任すると発表した為、イラク共和国第5代大統領(首相兼任)に就任した。",
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"text": "バアス党内には、バクルの突然の辞任に疑問を呈する者もおり、これはバクルが1978年10月に当時対立していたシリアのハーフィズ・アル=アサドと統合憲章を結んだためとされた。1979年7月22日、アル=フルド・ホールで開かれた党臨時会議により、党内部でシリアと共謀した背信行為が発覚したとして、サッダーム自ら一人ずつ「裏切り者」の名前を挙げていき、66人の人物が、会場に待機していた情報総局(ムハーバラート)の人間によって外へと連れ出され、その日のうちに革命指導評議会メンバーで構成される特別法廷により、55人の人間が有罪を宣告され、22人は「民主的処刑」と呼ばれた方法、仲間の党員の手によって銃殺となった。 一連の出来事はクーデター未遂事件として扱われ、同月30日までの処刑者は34人、逮捕者は約250人にのぼった。",
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"text": "粛清された人間には、サッダームの大統領就任に反対した、ムヒー・アブドルフセイン・マシュハダーニー革命指導評議会中央書記局長、サッダームの側近の一人だったアドナーン・アル=ハムダーニー副首相、イラク石油国有化の舵取り役だったムルタダー・ハディーシー元石油相も含まれる。また、この時に党から除名された人物も後になって暗殺や投獄を受けて処刑され、党内の反サッダーム派は一掃された形となった。",
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"text": "1979年、イラン革命によってイランにシーア派イスラーム主義のイスラーム共和国が成立し、イラン政府は極端な反欧米活動を展開した。また、革命の波及を恐れていたのは欧米だけでは無く、周辺のバーレーン・サウジアラビアなどの親米・スンニ派の湾岸アラブ諸国も同様であった。",
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"text": "サッダームは、こうした湾岸諸国の危機感や欧米の不安を敏感に感じ取っていた。1975年に自らが当時のパフラヴィー朝との間で締結したアルジェ合意で失ったシャットゥルアラブ川の領土的権利を回復し、欧米諸国やスンニ派アラブ諸国の脅威であるイラン・イスラーム体制を叩くことで、これらの国の支持と地域での主導権を握り、湾岸での盟主の地位を目指すというのがサッダームの戦略であった。また、革命の前年1978年にバグダードで主催した首脳会議でアラブ連盟から追放したエジプトに代わってイラクをアラブの盟主にすることも画策していた。",
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"text": "また、サッダーム率いるバアス党政権は、イラン革命がイラク国内多数派のシーア派にも波及することを恐れていた。実際、1970年代には、南部を中心にアーヤトゥッラー・ムハンマド・バーキル・サドル(英語版)率いるシーア派勢力が、中央政府と対立していた。1980年4月には、ターリク・アズィーズ外相を狙った暗殺未遂事件が発生し、さらに同外相暗殺未遂事件で死亡したバアス党幹部の葬儀を狙った爆弾テロが起こり、事ここに到ってサッダームは、ムハンマド・バーキル・サドルを逮捕し、実妹と共に処刑した。",
"title": "イラン・イラク戦争"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "その間、イラン国境付近では散発的な軍事衝突が発生するようになり、緊張が高まった。1980年9月17日、サッダームはテレビカメラの前でアルジェ合意を破り捨てて、同合意の破棄を宣言。9月22日、イラク空軍がイランの首都テヘランなど数か所を空爆とイラン領内への侵攻が開始され、イラン・イラク戦争が開戦した。",
"title": "イラン・イラク戦争"
},
{
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"text": "戦争を開始した理由は、イスラーム革命に対する予防措置であると同時に、革命の混乱から立ち直っていない今なら、イラクに有利な国境線を強要できると考えたからである。侵攻当初はイラクが優勢であったが、しだいに物量や兵力に勝るイランが反撃し、戦線は膠着状態に陥り、1981年6月にはイラン領内から軍を撤退させざるを得なかった。1986年にはイランがイラク領内に侵攻し、南部ファウ半島を占領されてしまう。",
"title": "イラン・イラク戦争"
},
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "サッダームはイラン南部フーゼスターン州に住むアラブ人が同じ「アラブ人国家」であるイラクに味方すると思っていたが、逆にフーゼスターンに住むアラブ人たちは「侵略者」であるイラクに対して抵抗し、思惑は外れた。また、北部ではイランと同盟を組んだクルド人勢力が、中央政府に反旗を翻し、独立を目指して武装闘争を開始した。イラクと敵対していた隣国シリアは、イランを支持してシリアとイラクを結ぶ石油パイプラインを停止するなど、イラクを取り巻く状況は日増しに悪くなっていった。",
"title": "イラン・イラク戦争"
},
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"tag": "p",
"text": "こうした中、イラクは湾岸アラブ諸国に支援を求めた。湾岸諸国もイスラーム革命の防波堤の役割をしているイラクを支えるため経済援助を行った。また、湾岸諸国に石油利権を持つ先進国もイラクに援助を行った。アメリカ、イギリス、フランスなどの西側の大国、さらに国内に多くのムスリムを抱えていた社会主義国のソビエト連邦や中華人民共和国のような東側の大国もイランからの「イスラーム革命」の波及を恐れてイラクを支援した。",
"title": "イラン・イラク戦争"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ソ連(ロシア)、フランス、中国は1980年から1988年までイラクの武器輸入先の9割を占め、後の石油食料交換プログラムでもこの3国はイラクから最もリベートを受けている。さらにイラクにはイタリア、カナダ、ブラジル、南アフリカ、スイス、チェコスロバキア、チリも武器援助を行った。北朝鮮とはイランを支援したことを理由に1980年に国交断絶を行った。",
"title": "イラン・イラク戦争"
},
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"tag": "p",
"text": "また、「バビロン計画」としてカナダ人科学者のジェラルド・ブルに全長150m口径1mの非常に巨大な大砲を建設させていた。",
"title": "イラン・イラク戦争"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "サッダームは、イラン・イラク戦争が忘れられた戦争にならないように、戦争と先進国の利害を直接結びつけようとした。そのためにイラクは、1984年からペルシア湾を航行するタンカーを攻撃することによって、石油危機に怯える石油消費国を直接戦争に巻き込む戦術をとり始め、イランの主要石油積み出し港を攻撃した。この作戦が功を奏し、両国から攻撃されることを恐れたクウェートがアメリカにタンカーの護衛を求めた。これにより、アメリカの艦隊がペルシア湾に派遣され、英仏もタンカーの護衛に参加してタンカー戦争が起きたのであった。",
"title": "イラン・イラク戦争"
},
{
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"tag": "p",
"text": "当時、反米国家イランの影響力が中東全域に波及することを恐れたロナルド・レーガン政権は、イラクを支援するため、まず1982年に議会との協議抜きでイラクを「テロ支援国家」のリストから削除した。1983年12月19日には、ドナルド・ラムズフェルドを特使としてイラクに派遣し、サッダームと90分におよぶ会談を行った。",
"title": "イラン・イラク戦争"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1984年にはイラクと国交を回復し、アメリカとの蜜月を築いた。1988年に至るまでサッダーム政権に総額297億ドルにも及ぶ巨額の援助や、ソ連製兵器情報の供与を条件に、中央情報局による情報提供を行ったとされ、後にアメリカ合衆国議会で追及される「イラクゲート」と呼ばれるフセイン政権に武器援助を行った疑惑(英語版)も起きた。だが、後に亡命したワフィーク・サーマッラーイー元軍事情報局副局長によると、サッダームは完全にはアメリカを信用しておらず、「アメリカ人を信じるな」という言葉を繰り返し述べていたという。",
"title": "イラン・イラク戦争"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1987年には国連で即時停戦を求める安保理決議が採択。1988年にイランは停戦決議を受け入れた。イラクはアメリカを含む国際社会の助けで辛くも勝利した形となった。その1年後にはホメイニーが死去し、湾岸諸国と欧米が危惧した「イスラーム革命の波及」は阻止された形になった。そして、後に残ったのは世界第4位の軍事大国と呼ばれるほど力をつけたイラクであった。",
"title": "イラン・イラク戦争"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1988年に終結したイラン・イラク戦争は、イラクを中東最大の軍事大国の1つへと押し上げる一方で、かさんだ対外債務や財政悪化、物不足やインフレなど国内は深刻な経済状況にあった。また、サッダームの長男ウダイが大統領の使用人を殺害するという不祥事も発生した。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "サッダームは政権に対する国民の不信が高まらないよう、「政治的自由化」を打ち出した。現体制を維持しつつ、限定的な民主化を推進して、国民の不満のガス抜きを行う狙いだった。バアス党を中心に、情報公開、複数政党制、憲法改正に関する特別委員会を設置し、大統領公選制などを盛り込んだ新憲法案が起草された。",
"title": "湾岸戦争"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "政権が特に推進したのは情報公開であった。サッダームは各メディアに投書欄を充実させるよう命じた。だがそこに寄せられる政府批判は予想外に厳しいものであった。批判はサッダーム個人では無く、官僚批判の形で操作されていたが、失業や戦後復興の遅れなど、ありとあらゆる分野に苦情が殺到した。さらに、ちょっとした情報公開でも体制崩壊に繋がりかねないと政権を恐れさせたのは、1989年に東欧各地で起こった民主化であった。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "とりわけサッダームが衝撃を受けたのは、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク大統領が、89年12月のルーマニア革命により政権の座を追われて処刑された出来事であった。サッダームとチャウシェスクは、非同盟諸国会議機構の中心的指導者として、互いに親密な関係にあったとされる。そのため、サッダームはイラクの各治安機関にルーマニア革命の映像を見せ、同政権崩壊の過程を研究させている。これを機に「政治的自由化」の動きは失速し、民主化も頓挫したのであった。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "その一方で、イラクの軍備は増強されていった。兵力は180万人に膨れ上がり、戦闘機の数も700機に上った。サッダームは、イランが停戦に応じたのはイラク軍の軍備増強、ミサイル兵器による攻撃などイランを力で追い詰めることが出来たからだと考えていた。軍事大国化こそ勝利の道であるという信念がサッダームに植え付けられ、そのことが戦後も軍備増強を続ける原因になったとされる。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "1990年3月、英紙「オブザーバー」のイギリス系イラン人の記者が、イラクの化学兵器製造工場に潜入取材をしたとして、イギリス政府の懇願にもかかわらず処刑される事件が起きる。4月に入るとサッダームは「もしイラクに対して何か企てるなら、イスラエルの半分を焼きつくす」と発言した。これは、戦後のイラクの軍事的プレゼンスをアラブ諸国に印象づけ、アラブ世界における主導権の獲得を目指した発言であったが、西欧諸国の懸念を呼んだ。",
"title": "湾岸戦争"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "さらに西欧諸国のサッダーム政権に対する懸念と警戒感を呼んだのは、イラクが自国民であるクルド人に対して化学兵器を用いた大量虐殺を行っていたことが、欧米の人権団体により明らかにされたことだった。こうした事例に加え、イラクが核兵器起爆装置を製造しているのではないかという疑惑や、イギリスが長距離砲弾用と思われる筒(多薬室砲)をイラクが輸入しようとしていたのを差し押さえるなど、イラクの軍備拡大に警鐘を鳴らす出来事が起きたことだった。欧米のメディアもこぞってサッダーム政権の「残忍性」を批判し、それにイラクが反発するなど欧米諸国との関係は悪化していった。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "一方、アメリカとの関係は非常に良好であった。アメリカは、1988年から89年までの間にイラク原油の輸入を急速に増やすと共に、年間11億ドルを越える対イラク輸出を行い、アメリカはイラクの最大の貿易パートナーとなっていた。また、クルド人に対するイラクの化学兵器使用を非難し、イラクに対する信用供与を停止する経済制裁決議を米下院が採択しても、アメリカ政府はとりたてて動かず「制裁は米財界に打撃」との理由で、イラクに警告する程度にとどまった。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "酒井啓子は自著「イラクとアメリカ」の中でこうした一連のアメリカの対応が、サッダームに「少々のことが起こっても、アメリカは対イラク関係を悪化させたくない」というメッセージとなって伝わったに違いないとしている。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "一方でサッダームは、戦後復興のために石油価格の上昇による石油収入の増大を狙っていた。1990年1月、サッダームは石油価格引き上げを呼びかけ、サウジアラビアや同様に戦後復興に苦慮していた敵国イランもイラクの呼びかけに応じた。しかし、クウェートはイラクの呼びかけに答えず、石油の低価格増産路線を続け、逆に価格破壊をもたらした。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "イラクはクウェートを非難したが、クウェートは応じなかった。7月に入るとイラク側は「クウェートがイラク南部のルマイラ油田から盗掘している」と糾弾し、軍をクウェート国境に南下させて軍事圧力を強め、クウェートとの直接交渉に臨んだ。7月26日、クウェートはようやく石油輸出国機構の会議で、石油価格を1バレル21ドルまで引き上げるとの決定に同意したが、イラクは軍事行動を拡大し、7月30日には10万規模の部隊が国境に集結した。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "こうして1990年8月2日、イラク共和国防衛隊がクウェートに侵攻した。当初は「クウェート革命勢力によって首長制が打倒され、暫定政府が樹立された」として、「クウェート暫定政府による要請で」イラクがクウェートに駐留すると発表していた。",
"title": "湾岸戦争"
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{
"paragraph_id": 42,
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"text": "イラクがクウェートに侵攻した理由について、上記の石油生産を巡る政治的対立の他にも、歴代のイラク政権がオスマン帝国時代の行政区分でクウェートがバスラ州の一部であったことを根拠に領有権を主張していたことや、クウェート領であるワルバ・ブービヤーン両島がイラクのペルシア湾に通じる狭い航路をふさいでおり、それを取り除いて石油輸出ルートを確保しようとしたとも言われている。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "政権崩壊後、米国の連邦捜査局の取調官がサッダームにクウェート侵攻の理由について尋ねると、原油盗掘などの懸案協議に向け外相を派遣した際、クウェート側から「すべてのイラク人女性を売春婦として差し出せ」と侮辱されたといい、「罰を下したかった」と述べたとされ、侵攻に向けた決断のひとつが感情的なものであったことも明らかになった。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "しかし、このイラクの軍事侵攻は国際社会から激しい批判を浴び、アメリカは同盟国サウジアラビア防衛を理由として、空母と戦闘部隊を派遣した。国際連合安全保障理事会は対イラク制裁決議とクウェート撤退決議を採択した。これに対してサッダームは、8月8日にクウェートを「イラク19番目の県」としてイラク領への併合を宣言。同時に、イスラエルがパレスチナ占領地から撤退するならば、イラクもクウェートから撤退するという「パレスチナ・リンケージ論」を提唱し安保理決議に抵抗した。また、日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。なお、この時サッダームは人質解放を巡って日本の元首相である中曽根康弘と会談しており、その後74人の人質を解放している。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "このサッダームの姿勢は、パレスチナ人など一部のアラブ民衆には支持されたが、同じアラブ諸国のサウジアラビアやエジプト、反米国であるシリアもイラクに対して「クウェート侵攻以前の状態に戻る」ことを要求し、国際社会の対イラク包囲網に加わった。12月に入って、イラクが1991年1月15日までにクウェートから撤退しないのなら、「必要なあらゆる処置をとる」との武力行使を容認する安保理決議を採択した。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1991年1月17日、アメリカ軍を中心とする多国籍軍が対イラク軍事作戦である「砂漠の嵐」作戦を開始し、イラク各地の防空施設やミサイル基地を空爆。ここに湾岸戦争が開戦した。サッダームは、多国籍軍との戦力差を認識しており、開戦後はいかにしてイラクの軍事力の損失を防ぐか、被害を最小限に食い止めるかに重きを置いており、空軍戦闘機をかつての敵国であるイランに避難させたりしている。同時に、弾道ミサイルを使ってサウジアラビアやイスラエルを攻撃させている。イスラエルを攻撃したのは、イスラエルを戦争に巻き込むことによって争点をパレスチナ問題にすり替えて、多国籍軍に加わっているアラブ諸国をイラク側に引き寄せようとの思惑であったが、アメリカがイスラエルに報復を自制するよう強く説得したため、サッダームの思惑は外れた。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2月に入り、サッダームと個人的に親交のあったソ連のエフゲニー・プリマコフ外相がバグダードを訪れてサッダームと会談し、停戦に向けて仲介を始めた。そしてターリク・アズィーズ外相とミハイル・ゴルバチョフ大統領との間の交渉により、撤退に向けて合意した。その一方でイラクはクウェートの油田に放火するなど焦土作戦を始めた。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "これに反発したブッシュ政権は2月24日、アメリカ軍による地上作戦を開始。ここへきてサッダームはイラク軍に対してクウェートからの撤退を命じ、2月27日にはクウェート放棄を宣言せざるを得なかった。4月3日、国連安保理はイラクの大量破壊兵器廃棄とイラクに連行されたクウェート人の解放を義務とした安保理決議を採択。4月6日、イラクは停戦を正式に受諾し、湾岸戦争は終結した。",
"title": "湾岸戦争"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "敗戦による政権の隙をついて、国内のシーア派住民とクルド人が政権への反乱を起こした(1991年イラク反政府蜂起)。民衆蜂起はまず南部で拡大し、一気に全国18県中14県が反政府勢力側の手に落ちた。しかし、反政府勢力が期待していたアメリカ軍の支援は無かった。アメリカはイランと同じシーア派勢力の台頭を警戒しており、イラク国民に対してはサッダーム政権を打倒するよう呼びかけたが、自ら動くことは無かった。アメリカが介入しないとみるや、サッダームは温存させてあった精鋭の共和国防衛隊を差し向けて反政府勢力の弾圧に成功する。この際、反政府蜂起参加者に対して、非常に苛烈な報復が行われ、シーア派市民に対する大量虐殺が発生した。政権による弾圧の犠牲者は湾岸戦争の犠牲者を上回る10万人前後と言われている。",
"title": "国連制裁下の政権"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "南部の反乱を平定すると、政権は北部のクルド人による反乱を抑え込もうと北部に兵を進めた。この時、サッダーム政権による化学兵器まで用いた弾圧の記憶が生々しく残っているクルド人たちは、一斉にトルコ国境を超え、大量の難民が発生し、人道危機が起こった。こうした事態を受けて、米英仏が主導する形でイラク北部に飛行禁止空域を設置する決議が採択され、イラクの航空機の飛行が禁止された。",
"title": "国連制裁下の政権"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1991年6月には、政権による強引な水路開発計画に抗議するため、南部の湿地帯に住むマーシュ・アラブ人が反乱を起こした。この反乱もマーシュ・アラブ人が住む湿地帯を破壊するという容赦の無い弾圧で抑え込んだものの、これにより飛行禁止空域はイラク南部にも拡大された。飛行禁止区域は2003年まで設定され、米英軍の戦闘機がイラク軍の防空兵器を空爆したり、区域を侵犯したイラク軍機を撃墜するなどした。",
"title": "国連制裁下の政権"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1993年1月、サッダームは南部の飛行禁止空域に地対空ミサイルを設置し、再び国際社会を挑発する行動に出た。この時期、アメリカでは前年の大統領選挙の結果、ジョージ・H・W・ブッシュを破って当選したビル・クリントンのアメリカ合衆国大統領就任式の数日前という微妙な時期であった。サッダームはこの時期ならばアメリカは軍事行動を起こせないと見込んでいたが、地対空ミサイル設置は国連安保理決議違反であるとして、米英仏による多国籍軍による空爆を招いてしまう。その結果、地対空ミサイルやレーダー施設、核関連施設などが爆撃された。",
"title": "国連制裁下の政権"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1993年4月には、クウェートを訪問したブッシュ前大統領の暗殺を企てていたとして、イラクの工作員が逮捕されるという事件が起こった。同年6月、この報復として、アメリカ軍はトマホークミサイル23発をバグダードに発射し、イラクの諜報機関「総合情報庁」の本部を攻撃している。",
"title": "国連制裁下の政権"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生。9・11テロについてもサッダームは演説で「アメリカが自ら招いた種だ」と、テロを非難せず、逆に過去のアメリカの中東政策に原因があると批判、同年10月20日まで哀悼の意を示さなかった。同時テロ以降のアメリカ合衆国は、アルカーイダを支援しているとしてサッダーム政権のイラクに強硬姿勢を取るようになった。もっともイラク攻撃自体はアメリカ同時多発テロ事件以前から、湾岸戦争時の国防長官であった副大統領ディック・チェイニーや国防長官ドナルド・ラムズフェルドを中心とする政権内部の対イラク強硬派、いわゆるネオコンらによって既に議論されていたようである。ただし、サッダーム政権転覆計画については、前のクリントン民主党政権から対イラク政策の腹案の一つとして存在していた。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2002年1月、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ政権は、イラクをイランや北朝鮮と並ぶ「悪の枢軸」と名指しで批判した。2002年から2003年3月まで、イラクは国際連合安全保障理事会決議1441に基づく国連監視検証査察委員会の全面査察を受け入れた。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2003年3月17日、ブッシュは48時間以内にサッダーム大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーンは戦争回避のために亡命をするように要請したがサッダームは黙殺したため、開戦は決定的となった。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2003年3月20日、ブッシュ大統領は予告どおりイラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてイラク戦争を開始。攻撃はアメリカ軍が主力であり、イギリス軍もこれに加わった。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "開戦初日の20日に、サッダームは長男ウダイが経営する「シャハーブ・テレビ」を通じて録画放送ではあったが国民向けの演説を行い、自身の健在をアピールした。この時のサッダームは普段の演説スタイルとは違い、場所不明の部屋の椅子に座り、老眼鏡を掛けて演説原稿を何度も折り返しながら読んでおり、欧米メディアやアメリカ政府当局者などが「演説しているのは影武者」「最初の空爆で死亡もしくは重傷を負った」などと憶測報道・会見を行なった(なお、開戦初日の攻撃はサッダームの誤った所在情報を下にして行なわれた作戦であったことが後に明かされた)。開戦当日以降も政権崩壊までの約3週間の間に国民に向けた演説や幹部を集めた会議の様子を収めた映像が国営テレビなどにより数回放送された。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "4月9日、バグダードは陥落したが、サッダームは既に逃亡していた。アラブ首長国連邦の衛星チャンネル「アブダビ・テレビ」にて、サッダームが次男のクサイと共にバグダード北部のアーザミーヤ地区を訪れ、サッダームを支持する群集の前に姿を現した映像が放送された。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "AP通信が2007年12月に、当時その場にいた元教師の証言を元に報じた取材記事によると、この時サッダームはアーザミーヤ地区にあるアブー・ハニーファモスクの前に現れ、小型トラックの上に立って200人の群集を前に「我々がアメリカ人を撃ち破るなら、私はアーザミーヤに黄金の記念碑を建てることを人々に約束する」と語ったという。丁度その時、同じバグダードのフィルドゥース広場ではアメリカ軍と市民によりサッダーム像が引き倒されていた。サッダームは、4月9日の昼過ぎにアブー・ハニーファモスクに現れ、次男のクサイ、大統領秘書官のアービド・ハーミド・マフムードを伴っていたという。サッダームは軍服、クサイは紫のスーツを着ており、小型トラックの上に立っていた。ある女性がサッダームに「疲れているのでは」と声を掛けると、「私は疲れていません。インシャッラー、イラクに勝利を」と話したが、明らかに疲労の様子が伺えたという。その日の夜サッダームは同地区にあるアブー・ビシャール・アル=ハアフィーモスクに一晩泊まった後、翌10日の午前6時ごろ、川を船で渡って対岸のカーズィミーヤ地区に向かって姿を消したという。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "また、同じ9日に撮られたと思われる最後の国民向け演説の録画テープが、バグダード陥落後に発見され、メディアに公開された。未編集だったのか、テープには演説途中に咳き込んで演説を途中で止めたり、カメラマンにうまく撮れたか確認するサッダームの様子が写っていた。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "英紙「サンデータイムズ」の報道によれば、4月11日までサッダーム父子と行動を共にしていた共和国防衛隊参謀総長のサイフッディーン・フライイフ・ハサン・ターハー・アッ=ラーウィーの証言として、4月11日に車でバグダードを離れる際に車中で『もう終わりだ』と述べて敗北を認めた様子だったという。サッダームに取り乱れた様子は無かったが、次男クサイは『一緒に逃げよう』と泣いて懇願した。サッダームはそれを拒否し、『生き延びるためには別々に行動した方がよい』と聞き入れなかったという。また、4月7日にバグダードのある地区で、サッダーム父子も参加する会議が開かれたが、父子が帰った10分後に彼らがいた建物がアメリカ軍に爆撃されたとも証言した。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "後にアメリカの連邦捜査局(FBI)の取調官に対しても、自分は4月11日までバグダードに潜伏しており、前日の10日に数人の側近と会合を持ち、アメリカ軍に対する地下闘争を行うよう指示したとされる。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "5月1日、ブッシュ大統領はサンディエゴ沖の太平洋上に浮かぶ空母にて演説、戦闘終結宣言を出した。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "サッダームは、戦闘終結宣言以降も行方不明であった。時折、音声テープを使ってイラク国民や支持者に対してアメリカ軍に抵抗するよう呼びかけた。アメリカ軍も度重なるサッダーム捕捉作戦を行い、この間サッダームの息子ウダイとクサイを殺害したが、サッダームの拘束には失敗している。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "転機は、7月に拘束されたサッダームの警護官の供述であった。この供述を元にアメリカ軍は2003年12月13日、サッダーム拘束を目的とした「赤い夜明け作戦」を決行。サッダームはアメリカ陸軍第4歩兵師団と特殊部隊により、イラク中部ダウルにある隠れ家の庭にある地下穴に隠れているところを見つかり逮捕された。拳銃を所持していたが抵抗や自決などは行わなかった。アメリカ軍兵士によって穴から引きずり出されて取り押さえられ、「お前は誰だ?」という問いに対し、「サッダーム・フセイン。イラク共和国大統領である。交渉がしたい。」と答えたとされる。この時、アメリカ軍通訳の亡命シーア派イラク人の姿を見るなり「裏切り者」と叫んで唾を吐きかけたため、この亡命イラク人に殴打されている。",
"title": "政権崩壊"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ただし、後にサッダーム自身が弁護士を通じて語ったところによれば、「穴倉に潜んでいたのでは無く、朝の礼拝中に襲われた。米兵に足を叩かれて、麻酔で眠らされた」とアメリカ軍発表を否定しており、「銃は持っていなかった。持っていれば戦って自分は殉教者になったはずだ」などと反論している。",
"title": "政権崩壊"
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{
"paragraph_id": 68,
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"text": "なお、サッダームが隠れていた民家は、1958年にカースィム首相暗殺未遂事件を起こしたサッダームが、潜伏の際に使用した隠れ家と同じ民家であったと、後にサッダームがFBIの尋問で明らかにした。",
"title": "政権崩壊"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "サッダームは、拘束後にアメリカ軍の収容施設「キャンプ・クロッパー」に拘置された。ここでのサッダームの生活は、主に詩の創作、庭仕事、読書、聖典クルアーンの朗読に占められた。独房は窓のない縦3メートル、横5メートルの部屋で、エアコンが完備され、プラスチックの椅子が2つ、礼拝用の絨毯が1枚、洗面器が2個、テレビ・ラジオは無く、赤十字から送られた小説145冊が置かれていた。庭には小さなヤシの木を囲むように白い石を並べていたという。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "他人に自分の服を洗われることを拒否し、自分で洗濯を行っていたという。エイズ感染を極度に恐れており、看守のアメリカ兵らの洗濯物と一緒に自分の洗濯物を干さないよう頼んでいたという。また、米国製のマフィンやクッキー、スナックなどの菓子も楽しんでいたとされ、2004年に高血圧やヘルニア、前立腺炎を患った以外は病気はせず、逆に体重が増えてダイエットに励むなど健康的な生活を送っていた。",
"title": "政権崩壊"
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"tag": "p",
"text": "アメリカ軍側は、口ひげや顎ひげを手入れするハサミは支給しなかったという。",
"title": "政権崩壊"
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "獄中で、サッダームは、赤十字を介して、ヨルダンに滞在する長女のラガドや孫のアリーに手紙を送っており、2004年8月2日に孫アリーへ届いた手紙では「強い男になれ。私の一族を頼む。一族の名声をいつまでも保ってほしい」と記した。",
"title": "政権崩壊"
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"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2005年5月、英大衆紙「ザ・サン」が、サッダームの獄中での生活を撮った写真を掲載。独房で睡眠中の写真やサッダームのブリーフ姿の写真が掲載され、波紋を呼んだ。これに関しては、イラク国民の間からも「いくら独裁者でも、元大統領に対して非礼」と反発する意見が噴出した。",
"title": "政権崩壊"
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"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "2005年10月と12月に行われたイラク新憲法を決める国民投票と議会選挙について、サッダームは獄中からイラク国民に投票ボイコットを呼びかける声明を出した。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ジャーナリストのロナルド・ケスラーの本『The Terrorist Watch 』によると、レバノン系米国人でFBI・対テロ部門主任のジョージ・ピロの回想として、サッダームは異常な潔癖症で、手や足を隅々まで拭くために、乳幼児用のウェットティッシュを差し入れたところ、ピロはサッダームの信頼を得たという。 拘留中も1日5回の礼拝を欠かさない敬虔なムスリムではあったが、一方で、高級ワインやスコッチ・ウイスキーの 「ジョニー・ウォーカーブルーラベル」とキューバ製葉巻を好んだ。また、女性にはよく色目を使いアメリカ人の女性看護師が採血に現れたとき、「君は可愛いらしいね」と英語で伝えるよう頼んだとされ、大統領在任時とほとんど変わらない生活を送っていたようだ。また、影武者存在説については「誰も自分を演じることはできないだろう」「映画の中の話だ」と否定したとされる。2人はよく歴史や政治、芸術やスポーツなどについても語り合った。ある日サッダームはFBIから支給されたノートを使って愛についての詩作を始めるなど、意外な一面も見せた。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "また、診察に来た医師に対して、「私がもう一度結婚して子どもをもうけることをアッラーがお許しになりますように。その子たちにはウダイとクサイ、ムスタファーと名付けよう」と、死んだ自分の息子と孫の名を口にして冗談を言ったという。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "歴代のアメリカ合衆国大統領の評価についてピロが質問すると、ブッシュ父子を嫌悪しながらも、アメリカ人には親近感を抱いており、ロナルド・レーガンやビル・クリントンについては尊敬の念すら示したという。また、湾岸戦争については、アメリカ軍の戦力を過小評価していたと語り、イラク戦争では「ブッシュ政権が本気でイラクを攻撃してくるとは思わなかった」とし、2つの戦争における自らの対応は戦略的誤りであったとした。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "一方、1980年代に政権によってクルド人に対する化学兵器を使用した大量虐殺について「必要だった」と正当性を主張。1990年のクウェート侵攻については、侵攻前に行われた両国外相会議の際、クウェート側代表から「すべてのイラク人女性を売春婦として差し出せ」と侮辱されたといい、「罰を下したかった」と述べたという。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "サッダームは、イラクが大量破壊兵器を開発済であり、WMDを完成させて密かに国内のどこかに隠し持っているかのように振舞い続けたが、ピロから「なぜ、かかる愚かな行為をしたのか」と問われた際、サッダームは「湾岸戦争での敗北以降、通常戦力は大幅に低下したため、大量破壊兵器を持っていないことが明らかになると、イランやシリアに攻め込まれ、国家がなくなってしまうのではないかとの恐怖があったから」と答えている。また、国連による制裁がいずれ解除されれば、核兵器計画を再開できるとも考えていたという。",
"title": "政権崩壊"
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"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "2009年7月1日に新たに公表されたピロの尋問記録にも、同様の趣旨のことを話しており、国連査察を拒んだ場合の制裁よりも、イラクの大量破壊兵器が存在しないことが明らかになり、イランに弱みを見せることの方を恐れたという。またサッダームは、獄中記でアラブ諸国にとってイスラエルよりイランが脅威であると評しており、イランのイスラーム体制の指導部を過激派と呼び、嫌悪していたという。",
"title": "政権崩壊"
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{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "アルカーイダとの関係についても否定し、ウサーマ・ビン・ラーディンを狂信者と呼び、「交流することも、仲間と見られることも望んでいなかった」とし、逆にアルカーイダを政権にとっての脅威と捉えていたという。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ピロによれば、尋問日程がすべて終了すると、サッダームは感情的になったという。「私達は外に座り、キューバ葉巻を2、3本吸った。コーヒーを飲み、他愛ない話をした。別れの挨拶をすると彼の目から涙があふれた」という。 またピロは「彼は魅力的で、カリスマ性があり、上品で、ユーモア豊かな人物だった。そう、好感の持てる人物だった」と回想している。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "同様の感想をサッダームが収監されたアメリカ軍収容所の所長だったジェニス・カーピンスキー元准将も述べており、よく若い監視役のアメリカ憲兵の話相手となり、ある時はアメリカ兵の職場結婚の相談などにも応じていたという。カーピンスキーによるとサッダームは「お前は本当に司令官なのか?」とアメリカ軍に女性の将校がいることに関心を示し、「新イラク軍には、女性の司令官を新たに任命する」と語ったという。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "また、サッダームの世話を担当したロバート・エリス米陸軍曹長が、2007年12月31日付きの米紙『セントルイス・ポスト・ディスパッチ』のインタビューで証言したところによると、看守の米兵達はサッダームを勝利者を意味する「victor」(ヴィクター)というニックネームで呼んでいたという。エリス曹長は、2日に一回独房を見回っていた。ある時、サッダームが自作の詩を読む声が聞こえ、それから互いに言葉を交わすようになったという。自分が農民の子で、その出自を1度も忘れたことはないこと、自分の子に本を読み聞かせして寝かせたこと、娘がお腹が痛いと言ったときにあやしたことなどを語ったという。また、葉巻とコーヒーは血圧に良いとして、エリスに葉巻を勧めたこともあったという。エリスによれば、不平を言わない模範囚であり、アメリカ兵に敵対的な態度は見せなかった。一度だけ、不平を訴えてハンストを起こした。食事をドアの下の隙間から差し入れたからである。その後、ドアを開けて食事を直接届けるようになると、すぐにハンストをやめたとされる。ある時、サッダームが食事のパンをとっておき、庭で小鳥に食べさせていたのをエリスは見ている。",
"title": "政権崩壊"
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{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "また、サッダームがエリスにアメリカ兵がマシンガンを撃つ姿をジェスチャーで示しながら、『米軍はなぜ、イラクに侵攻したのだ』と質問したという。「国連の査察官は何も見つけなかっただろう」とも述べた。ある日、米本国にいるエリスの兄弟が死亡したため、米国に帰国しなくてはならなかったとき、サッダームは「お前はもう、オレの兄弟だ」と言ってエリスを抱きしめ、別れを惜しんだという。",
"title": "政権崩壊"
},
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"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "サッダーム自身も弁護士に対し、「アメリカの兵士が私にサインをよく頼みに来る」「私は、イラクが(自分の手で)解放されたら、私の国に来るように彼らを招待した。彼らは承諾してくれた」と米兵との交流の様子を明かしている。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "サッダームの個人弁護人だったハリール・ドゥライミーは、2009年10月にアラブ圏で出版された回顧録『Saddam Hussein Out of US Prison』の中で、2006年夏にサッダームは米軍拘置施設からの脱走を計画していたことを明かした。計画では、旧政権支持者とサッダームの元警護官で構成する武装集団が、バグダードのグリーンゾーンと国際空港にあるアメリカ海兵隊基地を襲撃し、その隙に空港近くにある拘置施設キャンプ・クロッパーからサッダームを脱獄させ、イラクの武装勢力をまとめてイラク政府や駐留アメリカ軍を攻撃するために、西部アンバール県まで逃亡させる計画だったという。サッダームは、自分以外にも、同じく収監されているかつての自分の部下である、旧政権高官も脱獄させることを望んでいた。しかし、計画は別の武装勢力がキャンプ・クロッパー郊外でアメリカ軍と銃撃戦を行なう事件が起き、その結果、施設の警備が強化されたため未遂に終わったという。その6ヵ月後、サッダームは処刑された。",
"title": "政権崩壊"
},
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"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ハリールの本によれば、サッダームはキャンプ・クロッパーに収監されている収容者にその計画を話したとされ、「イラクが解放されれば、私はこの国を誰からの援助も無しで、7年で発展させる」「イラクをスイスのようにする」と語ったという。",
"title": "政権崩壊"
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"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "2004年7月1日、大量虐殺などの罪で訴追され、予備審問のためイラク特別法廷に出廷した。予審判事に「あなたの職業は?」との質問に「イラク共和国大統領だ」と答え、判事に「“元”大統領ですね」と聞かれると、「今も大統領だ」と反駁した。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "訴追容疑に1990年のクウェート侵攻が加えられていることに「共和国防衛隊がイラクの権利を行使しただけだ」「公的行為が犯罪なのか?」と声を荒らげる一幕もあった。起訴状に署名するよう促されたが「弁護士が来るまで署名はしない」と拒否した。この審問の様子は映像で公開されたが「ブッシュこそ犯罪者」と語った場面は放送されず、却ってイラクのスンナ派地域やアラブ世界にサッダームの威信を高めるだけとなり、以後予審は2回ほど行なわれたが、音声無しの映像公開となった。",
"title": "政権崩壊"
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{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "イラク特別法廷長官(当時)のサーリム・チャラビーは、予審前の6月30日にサッダームと3、4分面会した。主権移譲によりサッダームの身柄がアメリカ軍からイラク暫定政権に移ったことを説明するためだが、彼は「私はサッダーム・フセイン。イラク共和国大統領だ」と居丈高に告げたという。サッダームは拘束時に伸びていたあごひげをそり落とし、トレードマークの口ひげを生やしてアラブの伝統衣装を身にまとっていた。健康そうだったが拘束当時よりも痩せており、とても神経質そうだったという。この間、サッダームはずっと座ったままで、周りに立っているチャラビーらに質問しようとしたが、チャラビーが「明日まで待ってほしい」と遮った。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "サッダーム弁護団のスポークスマンであるヨルダン人のズィヤード・ハサウネ弁護士によると、2004年12月16日にサッダームの私選弁護人であるハリール・ドゥライミー弁護士と接見した際、自身の裁判について「恐れていない。始まれば多数の当事者を巻き込む過去の情報を公にする」と述べ、欧米諸国との過去を裁判において暴露すると語った。ハリール弁護士との4時間にわたる面会でサッダームは、弁護団の名称を「サッダーム・フセイン・イラク大統領弁護支援委員会」と改名するよう指示、メディアや人権団体などを活用するよう求めた。また、自身の士気について7月の予審段階では90%だったが、「今は120%だ」と意気軒高ぶりを強調した。政権崩壊後のイラクで反米ゲリラ活動については、「称賛する。以前から練られていた計画によるものだ」と戦争前から外国軍に対するゲリラ戦を想定していたかのように発言した。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "2005年7月21日、UAEのテレビ局「アル=アラビーヤ」が、予審の際に「弁護士と面会出来ないのか?」と不満を口にする映像を放送した。クルド人の財産没収に関する予審で、サッダームは白いシャツにグレーの上着姿で登場。かすれ気味の声ながら、挑発的な発言を繰り返した。弁護士との面会が制限されていることについて「これで公正なのか」と反発を示し、判事が「イラク政府による拘束」に言及すると「どの政府だ」と聞き返し、「私はアメリカが任命したイラク政府に拘束されている。これは策略だ」などと主張した。度重なる発言を、予審判事が声を荒らげて制止する場面もみられた。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "7月28日には、1991年に起こったシーア住民に対する大量虐殺事件についての予審の最中、席を立とうとしたサッダームに対して何者かが法廷に乱入し、素手で殴りあうという事件が発生した。襲撃した人物や両者の負傷の有無は不明。弁護団の発表によれば予審判事も法廷の警備員もこれを止めようとしなかったと非難した。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "28日の一件について、虐殺事件の捜査を担当し、サッダームに尋問を行っていたタハシーン・ムトラクが2010年に毎日新聞の取材に応じて真相を明らかにした。ムトラクによれば、尋問の日、黒っぽいジャケットに白いシャツ姿だったサッダームは「自分は軍最高司令官だ」「イラク人の中で(自分は)もっとも勇敢な人間だ」と自慢を始めた。これに対して捜査担当判事が「(03年12月)拘束時になぜ穴に隠れていたのか」と聞くと、サッダームは激高して罵り始め、弁護士が尋問の中止を求めた。ムトラクがサッダームを部屋から連れ出そうと腕を取ると激しく抵抗され、この一件が弁護団によって「元大統領が暴行を受けた」と発表されたとのことである。 2度目の尋問は2006年2月に行われたが、6時間の取り調べでサッダームは黙秘を貫いたという。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "10月18日の初公判の前に、ドゥライミー弁護士との面会でサッダームは「自分は無実だ」「(罪状には)気にとめていない」などと語ったという。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "10月19日、バグダードの高等法廷で、1983年にイラク中部の村ドゥジャイルにおいて住民140人以上を殺害した事件の初公判が開かれた。だが、初公判の時にリズカル・アミン裁判長(当時)の人定質問に答えずにコーランを法廷中に唱えたり、名前を聞かれても名乗ることはなく、裁判そのものに対する拒否の意思をはっきりと示した。また、裁判長がサッダームの経歴を朗読した際には「元ではない。今も共和国大統領だ」と発言し、自身こそがイラクの合法的な大統領であると発言した。サッダームは法廷を「裁判のような“もの”」と表現し、一貫して法廷の不当性を訴えた。一方で、裁判長を持ち上げるような発言も行った。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "12月6日の公判では、「サッダーム・フセインを弁護するためではなく、イラクが気高くあり続けるための率直な発言を許してほしい」と述べ、裁判長に対しても「あなたに圧力がかかっているのは分かっている。わたしの息子の一人(裁判長を指す)と対峙しなければならないのは残念だ」と裁判長の職務に理解を示すような発言をしたかと思えば、「こんなゲームが続いてはいけない。サッダーム・フセインの首が欲しければくれてやる」「私は死刑を恐れない」などと発言し、裁判長を挑発した。この日の公判では、事件の被害者が検察側証人として出廷。サッダームは、証人に対しても「小僧、私の話のこしを折るな」と述べ、挑発的な態度を崩さなかったが、一方で、拷問の様子や拘置所での実態を涙ながらに語る女性証人の証言の最中には、動揺した様子で顔をうつむいて静かに話に聞き入るなど、他の男性証人に対してとは違う態度を見せた。",
"title": "政権崩壊"
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{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "しかし、公判の最後では、弁護側の要求を無視して翌7日の公判開始を決めたアミン裁判長に対し、「不公正な裁判にはもう出ないぞ。地獄へ落ちろ!」と罵る一幕もあった。 7日の公判では、同日に弁護側と接見出来なかったことに抗議してサッダームは出廷せず、他の被告は出廷したものの、開廷が4時間近く遅れ、サッダーム不在のまま裁判は続けられた。12月21日、数週間ぶりに再開された公判には出廷したが、自身を「サッダーム」と呼び捨てにした検察側証人に「サッダームとは誰だ」と声をあげるなど、強気の姿勢を見せた。",
"title": "政権崩壊"
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"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "2006年11月5日、サッダームはイラク中部ドゥジャイルのイスラム教シーア派住民148人を殺害した「人道に対する罪」により、死刑判決を言い渡された。サッダームは判決を言い渡されると、「イラク万歳」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇だ」として非難した。",
"title": "政権崩壊"
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{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "12月26日に開かれた第2審でも、第1審の判決を支持し、弁護側の上訴を棄却したため死刑が確定。翌27日、サッダームはイラク国民向けの声明を弁護士を通じて発表し、「神が望むなら、私は殉教者に列せられるだろう」と死刑を受け入れる姿勢を見せると共に、イラクで当時激化していた宗派対立に言及し、「イラクの敵である侵略者とペルシア人があなたたちに憎悪の楔を打ち込んだ」とアメリカとイランを非難。そして、「信仰深き国民よ、私は別れを告げる。私の魂は神のもとへ向かう。イラク万歳。イラク万歳。パレスチナ万歳。聖戦に万歳。神は偉大なり」と結んでいる。弁護士に対しては、「イラク国民が私を忘れないことを願う」と述べたという。",
"title": "政権崩壊"
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{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "2006年12月30日、サッダームは、アメリカ軍拘置施設「キャンプ・ジャスティス」から移され、バグダードのアーザミーヤ地区にある刑務所にて、絞首刑による死刑が執行された。アメリカは処刑を翌年まで遅らせるようイラクに要請したが、ヌーリー・マーリキー政権は国内の「サッダーミスト」(サッダーム支持者)が本人の奪還を目的にテロを起こしかねないとの懸念から受け入れず、関係者共々刑を執行した。サッダームの死刑にシーア派勢力・市民は歓喜し、一方スンナ派勢力・市民は現政権を非難した。",
"title": "政権崩壊"
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{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "刑執行後、サッダームの遺体は故郷であるアウジャ村のモスクに埋葬された。",
"title": "政権崩壊"
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{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "埋葬後は、住民らによって葬儀が執り行われた。その後もサッダームの誕生日と命日には地元児童らが「課外授業」の一環として、サッダームの墓前に花を捧げ、彼を讃える歌などを合唱していたため、2009年7月、イラク政府はサラーフッディーン県当局に対して集団での墓参を止めるよう命じた。",
"title": "政権崩壊"
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{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "イラク政府の指導に反して、その後も主にスンナ派アラブ人のイラク国民やサッダーム支持者が墓のあるモスクを訪れ、サッダームがかつて住んでいたティクリートにある旧大統領宮殿と並んで半ば「聖地」のようになっていたが、2015年にイラク軍及びシーア民兵がイスラーム国(ISIL)からティクリート奪還作戦を行った際の戦闘によりサッダームの墓も破壊された。ただし、どちらの攻撃で破壊されたのか、或いは戦闘の巻き添えで破壊されたのか、または意図的に破壊されたのかは不明であるが、イスラーム国の戦闘員が撤退する際に爆破したとの見方が有力である。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "サッダームが所有していたものの、一度も乗ることがなかった豪華船「バスラ・ブリーズ号」が現存している。イラク政府が売却を試みたが買い手が見つからず、バスラ港でホテルに転用された。",
"title": "政権崩壊"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "反対派への粛清、それによる恐怖政治、弾圧から諸外国から典型的な独裁者として恐れられた。",
"title": "サッダーム政権"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "特にサッダームはヨシフ・スターリンの政治スタイルを手本にしたとされる。事実、サッダーム体制にはスターリン主義の特徴が見受けられる。第二次世界大戦で反共十字軍を掲げて侵攻するナチス・ドイツに勝ったスターリンをかつてのサラーフッディーン、その戦いがあったスターリングラードを、「サッダーム・シティ」に見立てた。サッダームはスターリンを共産主義者というよりナショナリストと見ているとクルド人の政治家マフムード・オスマーンは推察している。オスマーンによると、大統領宮殿のサッダームのオフィスにはスターリンに関する本が揃えてあり、オスマーンが「スターリンがお好きなようで」と言うと、「そうです。彼の統治の仕方が気に入っているので」と答えた。オスマーンが「あなたは共産主義者なのか?」と質問すると、サッダームは「スターリンが共産主義者とでも言うのかね」と反論したという。また、史上初の社会主義国をつくったとしてウラジーミル・レーニン、愛国者だったとしてホー・チ・ミン、フィデル・カストロ、ヨシップ・ブロズ・チトーなども称賛していた。",
"title": "サッダーム政権"
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{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "しかし、サッダームの主治医アラ・バシール医師によるとサッダームは1度もスターリンについて語らなかったとし、サッダームが尊敬していたのはスターリンではなくフランスのシャルル・ド・ゴール元大統領であったという。とりわけド・ゴールを「世界でもっとも偉大な政治家」と絶賛し、「彼は戦争の英雄、愛国者、立派なナショナリスト、フランス文明の真の産物」と評し、話をすると決まって最後はド・ゴールの話になったという。ド・ゴール主義者であるジャック・シラクとも個人的に親しくしていた。ちなみにアドルフ・ヒトラーについては「奴は我々アラビア人を差別していた」と嫌っていたという。",
"title": "サッダーム政権"
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{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "また、サッダーム政権下のイラクでは、幾つもの治安機関が存在し、市民の監視や反体制的言動の摘発に当たっていた。主な物では、総合諜報局、総合治安局といった組織で、相互連携することなく、別個に行動している。治安機関は、あらゆる市民社会に侵入し、タクシーの運転手、レストランの店員などが治安機関の人間である場合もあった。こうした秘密警察による監視網は、国民を恐怖という心理で支配するだけでなく、隣人、家族、友人同士が互いに互いを監視し、密告し合う社会が形成された。親が家で言ったことを子供が学校で喋ってしまい、教師が治安機関に通報したというケースもあったと言われる。このため、サッダーム体制のイラクを、亡命イラク人のネオコンで有名なカナン・マキヤは「恐怖の共和国」と名付けた。1980年ごろ核兵器開発の作業を拒否した科学者のフセイン・アル=シャフリスターニーの体験は凄惨を極め、22日間にわたり電気ショックなどの拷問を受けたうえ、逃亡までの11年間を獄中で過ごしたという。アメリカのテレビで告白し、恐怖政治の実態が明らかになった。",
"title": "サッダーム政権"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "監視だけでなく、市民に対する恣意的逮捕や拷問も日常的に行われた。アムネスティによるとサッダーム時代には107種類の拷問がイラク各地の刑務所で行われていたとしている。その拷問はわざと苦痛を感じさせて、障害を残すような極めて残忍な拷問である。ヒューマン・ライツ・ウォッチの報告によるとサッダーム政権下で約29万人が失踪あるいは殺害されたと報告している。",
"title": "サッダーム政権"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "イラク現政府は、「サッダーム・フセイン時代の恐怖展」を開き、拷問道具や犠牲者の遺品などを展示した。",
"title": "サッダーム政権"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "サッダームが大統領に就任すると、自身への崇拝が強化され、イラク国内には彼の巨大な彫刻、銅像、肖像画やポスターが飾られるようになった。それらを制作する専門の職人がいたほどであり、国民の人口よりサッダームの銅像やポスターの方が多いという笑い話が作られたほどである。サッダームに対する個人崇拝は、中東でも異例であり、突出していた。国営テレビは、毎日のようにサッダームを称える歌・詩を放送しており、歌の数は200種類あるとされていた。イラクのテレビ・ラジオの監督部門の長を務めた人物の証言によると、サッダームもこれらの放送を見ており、一時、テレビで歌を流す回数を減らしてエジプトのドラマを放送していた(実際、素人臭い作品ばかりで、出来の悪い歌が多かったためである)。これに気づいたサッダームは、担当者を呼びつけて放送を元に戻すよう指示したとされる。",
"title": "サッダーム政権"
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{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "また、アラブや古代メソポタミアの過去の英雄たちも引き合いに出され、即ち、サッダームはネブカドネザル2世やハンムラビ、マンスール、ハールーン・アッ=ラシードにならぶ偉大な指導者であるとされ、あげくの果てに偽造ともされる家系図を持ち出して預言者ムハンマドの子孫と喧伝された。また、アラブ世界の英雄サラーフッディーンを同じティクリート出身のために尊敬・意識していたという説もあるが、皮肉にもサラーフッディーンはサッダームが苛烈な弾圧を行ったクルド人の出身である。",
"title": "サッダーム政権"
},
{
"paragraph_id": 115,
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"text": "サッダームの主導で空中庭園などの再建計画が開始された古代遺跡バビロンの入り口にはサッダームとネブカドネザルの肖像画が配置され、碑文には「ネブカドネザルの息子であるサダム・フセインがイラクを称えるために建設した」と刻まれ、サッダームは遺跡群内にジグラットを模した宮殿もつくろうとした。同様の計画がニネヴェ遺跡、ニムルド遺跡、アッシュール遺跡、ハトラ遺跡でも行われた。",
"title": "サッダーム政権"
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{
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"tag": "p",
"text": "独裁者として、イラクを恐怖で統治していたサッダームであるが、1970年代から80年代に掛けて、イラクをアラブで随一の社会の世俗化を図り、近代国家にしたという功績がある。その一つがイラク石油国有化である。",
"title": "サッダーム政権"
},
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"tag": "p",
"text": "バアス党政権はソ連と共同で南部最大のルメイラ油田を開発させた後、1972年に国家的悲願だった石油事業の国有化を断行した。長年イラクは外資系のイラク石油会社に権益を独占され、石油利益が国家に還元されていなかった。一般に、石油国有化はサッダームの功績の一つにあげられているが、実際に計画を立てて指揮を執ったのは、当時の石油大臣であるムルタダー・アル=ハディーシーであり、政治決断をしたのがサッダームである。",
"title": "サッダーム政権"
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"tag": "p",
"text": "バアス党政権は、国富の公平な配分を掲げていたが、原油から得られる収入が限られていたため、国有化後も思うような成果が上がらなかった。しかし、1973年に石油輸出国機構の原油価格が4倍に急騰したことで状況は好転した。このころを境にイラクの石油収益は伸び続け1980年には、1968年から比較して50%の260億ドルに達した。",
"title": "サッダーム政権"
},
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"text": "この石油収入を背景にバアス党政権は第3次五ヵ年計画を立て、上中流階級の解体、社会主義経済と国有化推進、イラクの経済的自立を目指した。石油産業、軍装備、原発はソ連、その一部をフランス、鉄道建設はブラジル、リン酸塩生産施設はベルギー、旧ユーゴスラビア、東西ドイツ、中国、日本にはハイテク分野の専門家や外国人労働者、専門技師の派遣を要請した。",
"title": "サッダーム政権"
},
{
"paragraph_id": 120,
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"text": "これにより、バアス党政権は約400億ドルを懸けて第4次五ヵ年計画を進め、全国に通信網・電気網を整備し、僻地にも電気が届くようになった。貧困家庭には無料で家電が配布された。また農地解放により、農業の機械化、農地の分配を推進し、最新式の農機具まで配られ、国有地の70%が自営農家に与えられた。こうした政策により、1970年代後半にはイラクの人口は35%増加した。また、水利事業にも積極的であり、ドイツ、イタリアの協力でモスルダム(旧サッダーム・ダム)、ソ連の協力でハディーサー・ダム、中国の協力で新ヒンディーヤ・ダムなども完成させた。",
"title": "サッダーム政権"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "国内総生産における国営部門の比率も72年には35.9%だったのに対し、77年には80.4%と増加。事実上、バアス党政権が、国民に富を分配する唯一の存在となり、最大の「雇用主」であった。1970年から1980年まで年率11.9%という二桁の経済成長でイラクの一人当たりGDPは中東で最も高くなり、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の石油輸出国になった。",
"title": "サッダーム政権"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "他にもサッダームはイラク全国に学校を作り、学校教育を強化した。教育振興により児童就学率は倍増した。イラクの低識字率の改善のため、1977年から大規模なキャンペーンを展開し、全国規模で読み書き教室を開講し、参加を拒否すれば投獄という脅迫手段を用いたものの、イラクの識字率はアラブ諸国で最も高くなり、1980年代に大統領となったサッダームにユネスコ賞が授与された。",
"title": "サッダーム政権"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "また、女性解放運動も積極的に行なわれ性別による賃金差別や雇用差別を法律で禁止し、家族法改正で一夫多妻制度を規制、女性の婚姻の自由と離婚の権利も認められた。女性の社会進出も推奨し、当時湾岸アラブ諸国では女性が働くことも禁じていた中で、イラクでは女性の公務員が増え、予備役であるが軍務に付くこともあった。男尊女卑の強い中東において「名誉の殺人」が数多く行われていた中、この「名誉の殺人」を非難した人物であることは、あまり知られていない。もっとも、1991年の湾岸戦争以後は、イスラーム回帰路線を推し進め、この「名誉殺人」も合法化。アルコール販売の規制や女性の服装規定の厳格化を進めた。",
"title": "サッダーム政権"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "さらにイラクのハブ空港であるバグダード国際空港(サッダーム国際空港)を建設した。",
"title": "サッダーム政権"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "これらは石油生産性がピークに達するバクル政権と、それが連続するサッダーム政権初期の功績である。がしかし、後のサッダームはイラン・イラク戦争や湾岸戦争での二度に渡る戦争での債務、その後の国連制裁によってこれらの成果を無に帰してしまった。",
"title": "サッダーム政権"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "サッダームは恐怖によってシーア派・スンナ派・クルド人の対立を抑え込んでいた。しかしサッダーム政権崩壊後のアメリカの占領政策の失敗とイラク政府の無為無策により、一時宗派対立で内戦状態に陥り、さらにその後は隣国のシリア内戦の影響も受けてISILが流入してイラク政府軍、クルド人、シーア派民兵と衝突し、これにサッダームの最側近だったイッザト・イブラーヒームの旧バアス党残党のスンニ派勢力も加わり、テロも頻発して治安も悪化した。トルコの政治家アブドゥラー・ギュルはユーゴスラビア社会主義連邦共和国解体が内戦につながった様にイラクを「パンドラの箱」と揶揄していた。",
"title": "サッダーム政権"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "実父フセイン・アル=マジードは、サッダームの妹シハーム・フセイン・アル=マジード出生後に行方不明となった。盗賊に襲われたとも、家を捨てたとも言われるが定かでは無い。後にサッダームは、父の名前を模した「フセイン・アル=マジード・モスク」を故郷ティクリートに建設している。母のスブハ・ティルファーは農家出身で、占い師として生計を立てていた。いつごろフセイン・アル=マジードと別れたのかは不明で、イブラーヒーム・ハサンと再婚し、サブアーウィー、バルザーン、ワトバーン、ナワールの3男1女を生んだ。サッダームの継父にあたるハサンは周囲から「ホラ吹きハサン」と呼ばれており、決して周囲から尊敬されるような人物では無かったとされる。",
"title": "家族・親族"
},
{
"paragraph_id": 128,
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"text": "妻サージダ・ハイラッラーは、サッダームの叔父ハイラッラー・タルファーフの娘に当たり、サッダームとの結婚はいとこ同士の婚姻に当たる。サッダームとの間に、長男ウダイ(1964年6月18日 - 2003年7月22日)、次男クサイ(1966年5月17日 - 2003年7月22日)、長女ラガド(1968年)、次女ラナー(1969年)、三女 ハラー(1972年)を生んだ。",
"title": "家族・親族"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "一方、サッダームはその他にも数人の妻がいたとされる。サミーラ・アッ=シャフバンダル、ニダール・アル=ハムダーニー、ワファー・ムッラー・アル=フワイシュの三人がサッダームと結婚したとされるが、サミーラ以外は真偽不明である。このうちサミーラとの間には、アリーなる息子が生まれたとされるが諸説ある。",
"title": "家族・親族"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "サッダームは小説を4篇、詩を多数書いている。小説のうちはじめの2篇は匿名で発表された。",
"title": "小説"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "サッダーム・フセインの全名は、サッダーム・フセイン・アル=マジード・アッ=ティクリーティー(アラビア語:صدام حسين المجيد التكريتي、英語:Saddam Husayn al-Majid al-Tikriti)であり、これは「ティクリート出身のマジード家のフセインの子サッダーム」と解される。現地ではアッ=ティクリーティー無しのサッダーム・フセイン・アル=マジードも多用されている。",
"title": "フルネーム"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "ナサブ形式ではサッダーム・イブン・フセイン・イブン・マジード・アッ=ティクリーティー(صدام بن حسين بن مجيد التكريتي)など。ナサブからも分かるように本人の名前がサッダーム、父はフセイン、祖父はマジードである。(上述のフルネームでマジードに定冠詞アル=がついているのはアラブのフルネーム表記で先祖もしくは祖父の名前に定冠詞をつけどこのファミリーであるかを示す用法があるため。)",
"title": "フルネーム"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "祖父名はعبد المجيد(アブドゥルマジード、Abd al-MajidもしくはAbdulmajid)になっていることもあり、フルネームの該当箇所が異なる表記もしばしば見られる。",
"title": "フルネーム"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "彼を含め多くのイラク人の名前には、他のアラビア諸国同様に欧米や日本の人名慣習でいう明確な「姓」にあたるものは存在しない。ラストネーム相当のものとして父や祖父などの名前・家名・氏族名や部族名・地名由来の名称もしくは形容詞が来るため、「サッダーム・フセイン」が日本における氏名のようにセットで用いられるのが普通である。",
"title": "フルネーム"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "日本語の文脈で彼の名を縮めて呼ぶ場合、「フセイン」「フセイン大統領」といった形をとることが多いが、「フセイン」は彼の全名の中に含まれる父の名に当たる。「本人のファーストネームがサッダームだからサッダーム大統領と呼ばずにフセイン大統領と呼ぶのはアラビア語として間違っている。」と言われることが多いが、そうとは言い切れない。",
"title": "フルネーム"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "というのもアラブ世界では大統領レベルの公人になるとフルネームが一般人よりも短くなった通称で呼ばれる傾向が強まりラストネームの家名だけで書かれることもあるためである。彼の場合はこの過程で祖父の名前(アブドゥル)マジードと出身地由来のアッ=ティクリーティーがまず省かれる。現地では「サッダーム・フセイン大統領」「サッダーム・フセイン政権」「サッダーム大統領」「サッダーム政権」だけでなく「フセイン大統領」「フセイン政権」と記されていることがあり、いったんフルネームを提示した新聞記事などにおいて同じ人物が繰り返し主語として出てくる際に省略して「フセイン大統領は(・が・の・を)」もしくは肩書きすら添えない「フセインは(・が・の・を)」となりやすい。",
"title": "フルネーム"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "なお、フセインのアラビア語文語(フスハー)における元々の発音は「フサイン」である。しかしながら日常生活で用いる口語アラビア語であるイラク方言での発音が「フセイン」「フセーン」(さらにはHuseinにおけるiとeが逆になった発音Husienとしてフスィエン、フスェーンに近いイラク的な読みもある)であることから、日本でも現地で広く用いられている読みが採用され「フセイン」とするのが通例となっている。",
"title": "フルネーム"
}
] | サッダーム・フセインは、イラク共和国の政治家。スンナ派のアラブ人であり、イラク共和国の大統領、首相、革命指導評議会議長、バアス党地域指導部書記長、イラク軍最高司令官を務めた。軍階級は元帥。日本語の慣例では、彼の名をサダム・フセインと表記することが多いが、本項ではサッダームと表記する(詳細はフルネームの節を参照)。 | {{大統領
| 人名 = サッダーム・フセイン・アブドゥルマジード・アッ=ティクリーティー
| 各国語表記 = {{lang|ar|صدام حسين عبد المجيد التكريتي}}
| 画像 = Saddam Hussein in uniform.jpg
| キャプション =
| 代数 = 第三共和政第2
| 職名 = [[イラクの大統領|大統領]]
| 国名 = {{flagicon|IRQ1963}} [[バアス党政権 (イラク)|イラク共和国]]
| 就任日 = [[1979年]][[7月16日]]
| 退任日 = [[2003年]][[4月9日]]
<!-- ↓省略可↓ -->
| 国名2 = {{flagicon|IRQ1991}} イラク共和国
| 代数2 = 第三共和政第7
| 職名2 = [[イラクの首相|首相]]
| 就任日2 = [[1994年]][[5月29日]]
| 退任日2 = [[2003年]][[4月9日]]
| 副大統領2 =
| 元首2 =
| 国名3 = {{flagicon|IRQ1963}} イラク共和国
| 代数3 = 第三共和政第3
| 職名3 = 首相
| 就任日3 = [[1979年]][[7月16日]]
| 退任日3 = [[1991年]][[3月23日]]
| 副大統領3 =
| 元首3 =
<!-- ↑省略可↑ -->
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1937|4|28|死去}}
| 生地 = {{IRQ1924}}、[[ティクリート]]<br />アル=アウジャ村
| 生死 = 刑死
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1937|4|28|2006|12|30}}
| 没地 = {{IRQ2004}}、[[バグダード]]
| 配偶者 = [[サダム・フセイン#家族・親族|下記参照]]
| 政党 = [[ファイル:Flag of the Ba'ath Party.svg|border|25px]] [[バアス党]]
| サイン = Saddam Hussein Signature.svg
|宗教=[[イスラム教]][[スンナ派]]}}
'''サッダーム・フセイン'''(<span lang="ar" dir="rtl">صَدَّام حُسَيْن</span> , 文語アラビア語発音:Ṣaddām Ḥusayn, サッダーム・フサイン / 口語アラビア語発音:Ṣaddām Ḥusein, サッダーム・フセイン、[[1937年]][[4月28日]] - [[2006年]][[12月30日]])は、[[イラク|イラク共和国]]の[[政治家]]。[[スンナ派]]の[[アラブ人]]であり、イラク共和国の[[大統領]]、[[首相]]、[[革命指導評議会]]議長、{{仮リンク|バアス党イラク地域指導部|label=バアス党地域指導部|en|Arab Socialist Ba'ath Party – Iraq Region}}書記長、{{仮リンク|旧イラク軍|label=イラク軍|en|Iraqi Armed Forces}}最高司令官を務めた。軍階級は[[元帥]]。[[日本語]]の慣例では、彼の名を'''サダム・フセイン'''と表記することが多いが、本項では'''サッダーム'''と表記する(詳細は[[#フルネーム|フルネームの節]]を参照)。
== 生い立ち ==
=== 出生 ===
[[File:Саддам_в_молодости.jpg|thumb|200px|right|青年時代のサッダーム]]
イラク北部の[[ティクリート]]近郊のアル=アウジャ村で農家の子として生まれ、「敵を大いに撃破する者<ref>{{Cite web |url=https://www.almaany.com/ar/name/صدام/ |title=المعاني - معاني الأسماء : صدام |access-date=2023-05-10}}</ref>」という意味のアラビア語人名「サッダーム」を名付けられた。アル=ブー・ナースィル族(البو ناصر, 転写:Al-Bū Nāṣir, 発音:アル=ブー・ナースィル, 主な英字表記:Al-Bu Nasir)<ref>ال(Al-)は定冠詞、بو(bū)は口語における「~の父」、ناصر(Nāṣir)は男性名「ナースィル」。これらを合わせて部族名としたのがアル=ブー・ナースィルで、直訳は「ブー・ナースィル一族、ナースィルの父一族」。父祖が「ナースィルの父」というクンヤで呼ばれていたことに由来する部族名。口語発音では短母音化によりアル=ブ・ナースィルなど。またナースィルのイラク方言発音がナースルとなることからアル=ブー・ナースル、アル=ブ・ナースルに聞こえるなどするためAl-Bu Nasrという表記も見られる。</ref>出身であり、のちの大統領[[アフマド・ハサン・アル=バクル]]とは[[従兄弟]]であった。父フセイン・アブドゥルマジード(フセイン・アル=マジードとも)はサッダームが生まれた時には既に死んでおり、母スブハ・タルファーフは羊飼いのイブラーヒーム・ハサンと再婚して、サッダームの3人の異父弟を生んだ。
10歳の時から、母方の叔父[[ハイラッラー・タルファーフ]]のもとで暮らした。8歳の時に、ハイラッラーの娘で[[従姉妹]]にあたる[[サージダ・ハイラッラー]]と婚約している。サッダームの敵に屈しない性格とイランを敵視する[[アラブ民族主義]]は、叔父ハイラッラーの影響から生まれたと言われている。小学生の時から[[銃]]を持ち歩き(当時、銃を持つのはティクリート一帯で普通のことであった)、素行の悪さから学校を退学させようとした校長を脅迫して、退学処分を取り消させている。[[1947年]]に叔父とその息子[[アドナーン・ハイラッラー]]と共にティクリートへ出て叔父が教師を務める同地の中学を卒業した。
=== バアス党 ===
[[1955年]]に当時、中央政府の教育庁長官になっていたハイラッラーの後を追って[[バグダード]]に移り住む。[[1957年]]に[[バアス党]]に入党する。このころのサッダームは、バグダードの[[ストリートギャング]]を率いていたといわれる。[[ハーシム家|ハーシム王政]]崩壊後の[[1959年]]には叔父が教育庁長官の職を追放されるきっかけを作った(当時のイラクは[[イラク王国|親英派の王制]]であった)ティクリート出身の男性をハイラッラーの命により銃で殺害した。ハイラッラーとサッダームは[[殺人罪|殺人]]容疑で[[逮捕]]されたが、証拠不十分で[[保釈|釈放]]となった。
[[1950年代]]は、[[エジプト]]で[[エジプト革命 (1952年)|革命]]が起こり、親英の王制が倒されて[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]][[政権]]が樹立に向かっている時期にあたり、[[アラブ世界|アラブ諸国]]ではアラブ民族主義が高まりを見せており、サッダームもナーセルの影響を受けた。[[1958年]]には、イラクでも軍部による[[クーデター]]([[7月14日革命]])により親英王制が打倒されている。
== 政治活動 ==
=== 亡命 ===
[[File:SaddamCairo.jpg|thumb|200px|right|エジプトに亡命したサッダーム(前列右から3人目)]]
バアス党は親英王制を打倒させ[[政権]]についていた[[アブドルカリーム・カーシム]]がアラブ統一よりもイラクの[[国益]]を優先する政策をとり[[アラブ連合共和国]]への参加に懐疑的だったため、[[1959年]]にカーシム首相暗殺未遂事件を起こした。この事件に[[暗殺]]の実行犯として関与したサッダームは、カーシムの護衛から銃弾を受けて足を負傷するが、剃刀を使って自力で弾を取り除き、[[逮捕]]を逃れるため[[ベドウィン]]に変装し、[[ティグリス川]]を泳ぎ継いで、[[シリア]]に[[亡命]]、ついで[[エジプト]]に逃れた。シリア滞在中には[[バアス党]]の創始者[[ミシェル・アフラク]]の寵愛を受けた。亡命中の欠席[[裁判]]により、サッダームは[[死刑]]宣告を受けた。
サッダームは、エジプトで亡命生活を送りながら高等教育を受け、[[カイロ大学]][[法学部]]に学んだ。帰国後の[[1968年]]には、法学で学位を取得したとされるが、カイロ大学にはサッダームの在籍記録が存在していない(=卒業の確認が取れない)。カイロでのサッダームは、何かと周囲に喧嘩を吹っかけるなど、トラブルメーカーであったと、当時サッダームが出入りしていたカフェのオーナーが証言している。
=== クーデター ===
[[1963年]]に[[アブドッサラーム・アーリフ]]将軍が率いたクーデター([[ラマダーン革命]])によりカースィム政権が崩壊して[[バアス党政権 (イラク)|バアス党政権]]が発足すると、サッダームは帰国してバアス党の農民局長のポストに就いた。また、このころ党情報委員会のメンバーとして、[[イラク共産党]]に対する逮捕、投獄、[[拷問]]などを行なったと言われているが真偽は不明。1963年には党地域指導部(RC)メンバーに選出され、バアス党の民兵組織の構築にも関与した。この年サージダと正式に結婚する。
しかし、この第一次バアス党政権は党内左右両派の権力争いにより政権を追われる([[1963年11月イラククーデター]])。[[1964年]]、サッダームはアーリフ大統領の暗殺を企てたものの、事前に発覚し、逮捕投獄された。[[1965年]]に獄中でRC副書記長に選出された。[[1966年]]、[[刑務官|看守]]を騙して[[脱獄]]し、地下活動を行なう。
[[1968年]][[7月17日]]、[[アフマド・ハサン・アル=バクル]]将軍の率いるバアス党主導の無血クーデター([[7月17日革命]])により党は再び政権を握った。このクーデターでサッダームは、[[戦車]]で大統領宮殿に乗り付けて制圧するなど主要な役割を果たしている。
=== 政権ナンバー2に ===
[[ファイル:Saddam_&_Shah_(1975).png|thumb|right|220px|1975年、[[イラン]]の[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]国王(右)とサッダーム(左)]]
バクル政権では副大統領になり、[[治安]]機関の再編成をまかされ、クーデターに協力したアブドラッザーク・ナーイフ首相の国外追放、イブラーヒーム・ダーウード国防相の逮捕など、バクル大統領の権力強化に協力し、その結果、1969年、[[革命指導評議会]](RCC)副議長に任命された。また、この時期にサッダームはイラク・バアス党をシリア・バアス党の影響力から引き離す工作を始め、「イラク人民とは[[文明]]発祥の地、古代[[メソポタミア]]の民の子孫である」とする「'''イラク民族主義'''」(ワタニーヤ)を[[アラブ民族主義]](カウミーヤ)と融合させてイラクの新たなイデオロギーに据えた<ref name=":0">Orit Bashkin. The other Iraq: pluralism and culture in Hashemite Iraq. Stanford, California, USA: Stanford University Press, 2009. Pp. 174.</ref>。
このころ、サッダームは治安・[[情報機関]]を再編成し、その長に側近や親族を充てて、国の治安機関を自らの支配下におき、イラクを[[警察国家]]に変貌させ、[[秘密警察]]による国民の監視が強化された。政府省庁やイラクの国軍内部にもバアス党員からなる[[政治委員]]を設置し、逐一動向を報告させている。
また、政府の高位職に同郷であるティクリートやその周辺地域の出身者を多く登用している。そのため、恩恵に与れない他地域の人間の間には不満が募っていった。
そんな中、[[1973年]]6月、[[シーア派]]の[[ナジーム・カッザール]]国家内務治安長官が、バクルとサッダームの暗殺を企てるが、事前に露見し、サッダームの素早い決断によりクーデター計画を阻止している。カッザールとその一派は特別法廷により死刑を宣告され、処刑されたが、この際に事件と関わりの無い人物、主に、清廉な人物としてイラク国民からの人望も厚く、次期大統領との呼び声も高かったアブドルハーリク・サーマッラーイーのような、バアス党内におけるサッダームのライバル達も陰謀に加担した容疑で[[粛清]]された。
== 大統領就任 ==
[[File:Saddam Hussein 1979.jpg|thumb|150px|right|サッダームの公式肖像画(1979年)]]
[[1979年]]7月17日、バクルが病気を理由に辞任すると発表した為、イラク共和国第5代大統領(首相兼任)に就任した。
バアス党内には、バクルの突然の辞任に疑問を呈する者もおり、これはバクルが[[1978年]]10月に当時対立していた[[シリア]]の[[ハーフィズ・アル=アサド]]と統合憲章を結んだためとされた<ref>Ma'oz, Moshe (1995). Syria and Israel : From War to Peacemaking. Oxford University Press. p. 153. ISBN 978-0-191-59086-3.
</ref><ref>Dawisha, Adeed (2009). Iraq: A Political History from Independence to Occupation. Princeton University Press. p. 214. ISBN 978-0-691-13957-9.</ref><ref>McDonald, Michelle (2009). The Kiss of Saddam. University of Queensland Press. p. 128. ISBN 978-0-702-24359-2.</ref>。1979年7月22日、アル=フルド・ホールで開かれた党臨時会議により、党内部でシリアと共謀した背信行為が発覚したとして、サッダーム自ら一人ずつ「裏切り者」の名前を挙げていき、66人の人物が、会場に待機していた情報総局(ムハーバラート)の人間によって外へと連れ出され、その日のうちに革命指導評議会メンバーで構成される特別法廷により、55人の人間が有罪を宣告され、22人は「民主的処刑」と呼ばれた方法、仲間の党員の手によって銃殺となった。
一連の出来事は[[クーデター]]未遂事件として扱われ、同月30日までの処刑者は34人、逮捕者は約250人にのぼった<ref>足場固めるフセイン体制 反対派一掃をねらう『朝日新聞』1979年(昭和54年)7月31日朝刊 13版 7面</ref>。
粛清された人間には、サッダームの大統領就任に反対した、ムヒー・アブドルフセイン・マシュハダーニー革命指導評議会中央書記局長、サッダームの側近の一人だったアドナーン・アル=ハムダーニー副首相、イラク[[石油]][[国有化]]の舵取り役だったムルタダー・ハディーシー元石油相も含まれる。また、この時に党から除名された人物も後になって暗殺や投獄を受けて処刑され、党内の反サッダーム派は一掃された形となった。
== イラン・イラク戦争 ==
[[ファイル:Saddam rumsfeld.jpg|thumb|280px|イラン・イラク戦争当時、米国の特使として派遣されたドナルド・ラムズフェルド(左)と握手するサッダーム(右)]]
{{main|イラン・イラク戦争}}
[[1979年]]、[[イラン革命]]によって[[イラン]]に[[シーア派]][[イスラム主義|イスラーム主義]]の[[イスラム共和制|イスラーム共和国]]が成立し、イラン政府は極端な反欧米活動を展開した。また、革命の波及を恐れていたのは欧米だけでは無く、周辺の[[バーレーン]]・[[サウジアラビア]]などの[[親米]]・[[スンニ派]]の湾岸アラブ諸国も同様であった。
サッダームは、こうした湾岸諸国の危機感や欧米の不安を敏感に感じ取っていた。[[1975年]]に自らが当時の[[パフラヴィー朝]]との間で締結した[[アルジェ]]合意で失った[[シャットゥルアラブ川]]の領土的権利を回復し、欧米諸国やスンニ派アラブ諸国の脅威であるイラン・イスラーム体制を叩くことで、これらの国の支持と地域での主導権を握り、湾岸での盟主の地位を目指すというのがサッダームの戦略であった<ref>酒井啓子著 「イラクとアメリカ」p48</ref>。また、革命の前年[[1978年]]にバグダードで主催した首脳会議で[[アラブ連盟]]から追放した[[エジプト]]に代わってイラクをアラブの盟主にすることも画策していた<ref>Claudia Wright, "Iraq: New Power in the Middle East," Foreign Affairs 58 (Winter 1979-80)</ref>。
また、サッダーム率いるバアス党政権は、イラン革命がイラク国内多数派のシーア派にも波及することを恐れていた。実際、1970年代には、南部を中心に[[アーヤトゥッラー]]・{{仮リンク|ムハンマド・バーキル・サドル|en|Mohammad Baqir al-Sadr|label=ムハンマド・バーキル・サドル}}率いるシーア派勢力が、中央政府と対立していた。[[1980年]]4月には、[[ターリク・ミハイル・アズィーズ|ターリク・アズィーズ]]外相を狙った[[暗殺]]未遂事件が発生し、さらに同外相暗殺未遂事件で死亡したバアス党幹部の葬儀を狙った[[爆弾]][[テロリズム|テロ]]が起こり、事ここに到ってサッダームは、ムハンマド・バーキル・サドルを[[逮捕]]し、実妹と共に処刑した。
その間、イラン国境付近では散発的な軍事衝突が発生するようになり、緊張が高まった。1980年9月17日、サッダームはテレビカメラの前でアルジェ合意を破り捨てて<ref>Nader Entessar, Kurdish Politics in the Middle East (Lanham, MD: Lexington Books, 2010), Chapter 5, p.172</ref>、同合意の破棄を宣言。9月22日、イラク空軍がイランの[[首都]][[テヘラン]]など数か所を空爆とイラン領内への侵攻が開始され、[[イラン・イラク戦争]]が開戦した。
[[戦争]]を開始した理由は、イスラーム革命に対する予防措置であると同時に、革命の混乱から立ち直っていない今なら、イラクに有利な国境線を強要できると考えたからである。侵攻当初はイラクが優勢であったが、しだいに物量や兵力に勝るイランが反撃し、戦線は膠着状態に陥り、1981年6月にはイラン領内から軍を撤退させざるを得なかった。1986年にはイランがイラク領内に侵攻し、南部ファウ半島を占領されてしまう。
サッダームはイラン南部[[フーゼスターン州]]に住む[[アラブ人]]が同じ「アラブ人国家」であるイラクに味方すると思っていたが、逆にフーゼスターンに住むアラブ人たちは「侵略者」であるイラクに対して抵抗し、思惑は外れた。また、北部ではイランと同盟を組んだ[[クルド人]]勢力が、中央政府に反旗を翻し、独立を目指して武装闘争を開始した。イラクと敵対していた隣国[[シリア]]は、イランを支持してシリアとイラクを結ぶ[[石油]][[パイプライン輸送|パイプライン]]を停止するなど、イラクを取り巻く状況は日増しに悪くなっていった。
こうした中、イラクは湾岸アラブ諸国に支援を求めた。湾岸諸国もイスラーム革命の防波堤の役割をしているイラクを支えるため経済援助を行った。また、湾岸諸国に石油利権を持つ[[先進国]]もイラクに援助を行った。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[イギリス]]、[[フランス]]などの[[西側諸国|西側]]の[[大国]]、さらに国内に多くの[[ムスリム]]を抱えていた[[社会主義国]]の[[ソビエト連邦]]や[[中華人民共和国]]のような[[東側]]の大国もイランからの「イスラーム革命」の波及を恐れてイラクを支援した。
ソ連([[ロシア]])、フランス、中国は1980年から1988年までイラクの武器輸入先の9割を占め<ref group="注釈">特にフランスは、1981年の戦争開始後も1984年までに約50億ドルに相当する武器をイラクに供給し、1982年から1983年、フランスの武器輸出の40%はイラクがしめていた。</ref><ref>[http://armstrade.sipri.org/armstrade/page/values.php SIPRI Database] Indicates that of $29,079 million of arms exported to Iraq from 1980 to 1988 the Soviet Union accounted for $16,808 million, France $4,591 million, and China $5,004 million (Info must be entered)</ref>、後の[[石油食料交換プログラム]]でもこの3国はイラクから最もリベートを受けている。さらにイラクには[[イタリア]]、[[カナダ]]、[[ブラジル]]、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]、[[スイス]]、[[チェコスロバキア]]、[[チリ]]も武器援助を行った。[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]とはイランを支援したことを理由に1980年に[[国交]]断絶を行った<ref>{{cite web|url=http://www.ncnk.org/resources/briefing-papers/all-briefing-papers/dprk-diplomatic-relations|title=DPRK Diplomatic Relations|publisher=National Committee on North Korea|accessdate=2016-08-29}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.ncnk.org/resources/briefing-papers/all-briefing-papers/dprk-diplomatic-relations|title=DPRK Diplomatic Relations|publisher=National Committee on North Korea|accessdate=2017-07-25}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.erina.or.jp/columns-opinion/5613/|title=イラン・イラク戦争における北朝鮮のイラン派兵|author=宮本悟|publisher=環日本経済研究所|date=2007-08-01|accessdate=2017-07-25}}</ref>。
また、「[[バビロン]]計画」としてカナダ人科学者の[[ジェラルド・ブル]]に全長150m口径1mの非常に巨大な[[大砲]]を建設させていた。
サッダームは、イラン・イラク戦争が忘れられた戦争にならないように、戦争と先進国の利害を直接結びつけようとした。そのためにイラクは、1984年からペルシア湾を航行するタンカーを攻撃することによって、石油危機に怯える石油消費国を直接戦争に巻き込む戦術をとり始め、イランの主要石油積み出し港を攻撃した。この作戦が功を奏し、両国から攻撃されることを恐れた[[クウェート]]がアメリカにタンカーの護衛を求めた。これにより、アメリカの艦隊が[[ペルシア湾]]に派遣され、英仏もタンカーの護衛に参加して[[タンカー戦争]]が起きたのであった<ref>酒井啓子著 「イラクとアメリカ」p58</ref>。
当時、[[反米]]国家イランの影響力が中東全域に波及することを恐れた[[ロナルド・レーガン]]政権は、イラクを支援するため、まず1982年に議会との協議抜きでイラクを「[[テロ支援国家]]」のリストから削除した。1983年12月19日には、[[ドナルド・ラムズフェルド]]を特使として[[イラク]]に派遣し、サッダームと90分におよぶ会談を行った。
[[1984年]]にはイラクと国交を回復し、アメリカとの蜜月を築いた。[[1988年]]に至るまでサッダーム政権に総額297億ドルにも及ぶ巨額の援助や、ソ連製兵器情報の供与を条件に、[[中央情報局]]による情報提供を行ったとされ、後に[[アメリカ合衆国議会]]で追及される「'''イラクゲート'''」と呼ばれる{{仮リンク|フセイン政権に武器援助を行った疑惑|en|United States support for Iraq during the Iran–Iraq War}}も起きた。だが、後に亡命した[[ワフィーク・サーマッラーイー]]元軍事情報局副局長によると、サッダームは完全にはアメリカを信用しておらず、「アメリカ人を信じるな」という言葉を繰り返し述べていたという。
1987年には[[国際連合|国連]]で即時停戦を求める安保理決議が採択。1988年にイランは停戦決議を受け入れた。イラクはアメリカを含む国際社会の助けで辛くも勝利した形となった。その1年後にはホメイニーが死去し、湾岸諸国と欧米が危惧した「イスラーム革命の波及」は阻止された形になった。そして、後に残ったのは世界第4位の軍事大国<ref>[https://www.ourmidland.com/news/article/Iraq-s-Army-Was-Once-World-s-4th-Largest-7151366.php Iraq's Army Was Once World's 4th-Largest]</ref>と呼ばれるほど力をつけたイラクであった。
== 湾岸戦争 ==
{{main|湾岸戦争}}
[[1988年]]に終結したイラン・イラク戦争は、イラクを中東最大の軍事大国の1つへと押し上げる一方で、かさんだ対外債務や財政悪化、物不足や[[インフレーション|インフレ]]など国内は深刻な経済状況にあった。また、サッダームの長男ウダイが大統領の使用人を殺害するという不祥事も発生した。
サッダームは政権に対する国民の不信が高まらないよう、「政治的[[自由化]]」を打ち出した。現体制を維持しつつ、限定的な[[民主化]]を推進して、国民の不満のガス抜きを行う狙いだった。バアス党を中心に、情報公開、[[複数政党制]]、憲法改正に関する特別委員会を設置し、大統領公選制などを盛り込んだ新憲法案が起草された<ref>同著「イラクとアメリカ」p92</ref>。
政権が特に推進したのは情報公開であった。サッダームは各メディアに投書欄を充実させるよう命じた。だがそこに寄せられる政府批判は予想外に厳しいものであった。批判はサッダーム個人では無く、官僚批判の形で操作されていたが、[[失業]]や[[戦後]]復興の遅れなど、ありとあらゆる分野に苦情が殺到した。さらに、ちょっとした情報公開でも体制崩壊に繋がりかねないと政権を恐れさせたのは、1989年に[[東ヨーロッパ|東欧]]各地で起こった[[東欧革命|民主化]]であった<ref>「イラクとアメリカ」p93</ref>。
とりわけサッダームが衝撃を受けたのは、[[ルーマニア社会主義共和国|ルーマニア]]の[[ニコラエ・チャウシェスク]][[ルーマニアの大統領|大統領]]が、89年12月の[[ルーマニア革命 (1989年)|ルーマニア革命]]により[[政権]]の座を追われて処刑された出来事であった。サッダームとチャウシェスクは、[[非同盟運動|非同盟諸国]]会議機構の中心的指導者として、互いに親密な関係にあったとされる<ref>同p94</ref>。そのため、サッダームはイラクの各[[治安]]機関にルーマニア革命の映像を見せ、同政権崩壊の過程を研究させている。これを機に「政治的自由化」の動きは失速し、民主化も頓挫したのであった<ref>コン・コクリン著「サダムその秘められた人生」 p338-339</ref>。
その一方で、イラクの軍備は増強されていった。兵力は180万人に膨れ上がり、戦闘機の数も700機に上った。サッダームは、イランが停戦に応じたのはイラク軍の軍備増強、[[ミサイル]]兵器による攻撃などイランを力で追い詰めることが出来たからだと考えていた。軍事大国化こそ勝利の道であるという信念がサッダームに植え付けられ、そのことが戦後も軍備増強を続ける原因になったとされる<ref>「イラクとアメリカ」p94-p95</ref>。
1990年3月、英紙「[[オブザーバー]]」の[[イギリス]]系イラン人の記者が、イラクの化学兵器製造工場に潜入取材をしたとして、[[イギリス政府]]の懇願にもかかわらず処刑される事件が起きる。4月に入るとサッダームは「もしイラクに対して何か企てるなら、[[イスラエル]]の半分を焼きつくす」と発言した。これは、戦後のイラクの軍事的プレゼンスをアラブ諸国に印象づけ、アラブ世界における主導権の獲得を目指した発言であったが、[[西ヨーロッパ|西欧]]諸国の懸念を呼んだ。
さらに西欧諸国のサッダーム政権に対する懸念と警戒感を呼んだのは、イラクが自国民である[[クルド人]]に対して[[化学兵器]]を用いた[[大量虐殺]]を行っていたことが、欧米の人権団体により明らかにされたことだった。こうした事例に加え、イラクが[[核兵器]]起爆装置を製造しているのではないかという疑惑や、イギリスが長距離砲弾用と思われる筒([[多薬室砲]])をイラクが輸入しようとしていたのを差し押さえるなど、イラクの軍備拡大に警鐘を鳴らす出来事が起きたことだった。欧米のメディアもこぞってサッダーム政権の「残忍性」を批判し、それにイラクが反発するなど欧米諸国との関係は悪化していった。
一方、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との関係は非常に良好であった。アメリカは、1988年から89年までの間にイラク[[原油]]の輸入を急速に増やすと共に、年間11億ドルを越える対イラク輸出を行い、アメリカはイラクの最大の貿易パートナーとなっていた。また、クルド人に対するイラクの化学兵器使用を非難し、イラクに対する信用供与を停止する[[経済制裁]]決議を[[アメリカ合衆国下院|米下院]]が採択しても、アメリカ政府はとりたてて動かず「制裁は米財界に打撃」との理由で、イラクに警告する程度にとどまった<ref>同p98</ref>。
[[酒井啓子]]は自著「イラクとアメリカ」の中でこうした一連のアメリカの対応が、サッダームに「少々のことが起こっても、アメリカは対イラク関係を悪化させたくない」というメッセージとなって伝わったに違いないとしている<ref>同p99</ref>。
一方でサッダームは、戦後復興のために石油価格の上昇による石油収入の増大を狙っていた。1990年1月、サッダームは石油価格引き上げを呼びかけ、[[サウジアラビア]]や同様に戦後復興に苦慮していた敵国イランもイラクの呼びかけに応じた。しかし、[[クウェート]]はイラクの呼びかけに答えず、石油の低価格増産路線を続け、逆に価格破壊をもたらした。
イラクはクウェートを非難したが、クウェートは応じなかった。7月に入るとイラク側は「クウェートがイラク南部の[[ルマイラ油田]]から盗掘している」と糾弾し、軍をクウェート国境に南下させて軍事圧力を強め、クウェートとの直接交渉に臨んだ。7月26日、クウェートはようやく[[石油輸出国機構]]の会議で、石油価格を1バレル21ドルまで引き上げるとの決定に同意したが、イラクは軍事行動を拡大し、7月30日には10万規模の部隊が国境に集結した。
こうして1990年8月2日、イラク[[共和国防衛隊]]がクウェートに侵攻した。当初は「クウェート革命勢力によって[[首長制]]が打倒され、[[クウェート共和国|暫定政府]]が樹立された」として、「クウェート暫定政府による要請で」イラクがクウェートに駐留すると発表していた。
イラクがクウェートに侵攻した理由について、上記の石油生産を巡る政治的対立の他にも、歴代のイラク政権が[[オスマン帝国]]時代の行政区分でクウェートがバスラ州の一部であったことを根拠に領有権を主張していたことや、クウェート領であるワルバ・ブービヤーン両島がイラクの[[ペルシア湾]]に通じる狭い航路をふさいでおり、それを取り除いて石油輸出ルートを確保しようとしたとも言われている。
政権崩壊後、米国の[[連邦捜査局]]の取調官がサッダームに[[クウェート侵攻]]の理由について尋ねると、原油盗掘などの懸案協議に向け外相を派遣した際、クウェート側から「すべてのイラク人女性を売春婦として差し出せ」と侮辱されたといい、「罰を下したかった」と述べたとされ、侵攻に向けた決断のひとつが感情的なものであったことも明らかになった<ref>フセイン元大統領、「ビンラーディンは狂信者」と供述 読売新聞 2008年1月28日配信記事</ref>。
しかし、このイラクの軍事侵攻は国際社会から激しい批判を浴び、アメリカは同盟国サウジアラビア防衛を理由として、空母と戦闘部隊を派遣した。[[国際連合安全保障理事会]]は[[対イラク経済制裁|対イラク制裁]]決議とクウェート撤退決議を採択した。これに対してサッダームは、8月8日にクウェートを「イラク19番目の県」としてイラク領への併合を宣言。同時に、イスラエルが[[パレスチナ]]占領地から撤退するならば、イラクもクウェートから撤退するという「パレスチナ・リンケージ論」を提唱し安保理決議に抵抗した。また、日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「[[人間の盾]]」として監禁した。なお、この時サッダームは[[人質]]解放を巡って[[日本]]の元[[内閣総理大臣|首相]]である[[中曽根康弘]]と[[首脳会談|会談]]しており、その後74人の人質を解放している<ref>{{Cite web |url=https://www.sankei.com/article/20211222-GFT24QDAPJM4DIIA7GVFIWZYJY/ |title=中曽根氏、交渉術尽くしフセイン説得 |publisher=産経新聞 |date=2021-12-22 |accessdate=2022-01-14}}</ref>。
このサッダームの姿勢は、[[パレスチナ人]]など一部のアラブ民衆には支持されたが、同じ[[アラブ世界|アラブ諸国]]の[[サウジアラビア]]や[[エジプト]]、[[反米]]国である[[シリア]]もイラクに対して「クウェート侵攻以前の状態に戻る」ことを要求し、国際社会の対イラク包囲網に加わった<ref group="注釈">イラクを支持したのは、国内にパレスチナ人を抱える[[ヨルダン]]や[[イエメン]]、[[パレスチナ解放機構]]など数カ国に留まった。</ref>。12月に入って、イラクが[[1991年]]1月15日までにクウェートから撤退しないのなら、「必要なあらゆる処置をとる」との武力行使を容認する安保理決議を採択した。
1991年1月17日、[[アメリカ軍]]を中心とする[[多国籍軍]]が対イラク軍事作戦である「砂漠の嵐」作戦を開始し、イラク各地の防空施設やミサイル基地を空爆。ここに湾岸戦争が開戦した。サッダームは、多国籍軍との戦力差を認識しており、開戦後はいかにしてイラクの軍事力の損失を防ぐか、被害を最小限に食い止めるかに重きを置いており、空軍戦闘機をかつての敵国であるイランに避難させたりしている。同時に、[[弾道ミサイル]]を使ってサウジアラビアやイスラエルを攻撃させている。イスラエルを攻撃したのは、イスラエルを戦争に巻き込むことによって争点をパレスチナ問題にすり替えて、多国籍軍に加わっているアラブ諸国をイラク側に引き寄せようとの思惑であったが、アメリカがイスラエルに報復を自制するよう強く説得したため、サッダームの思惑は外れた。
2月に入り、サッダームと個人的に親交のあった[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[エフゲニー・プリマコフ]]外相がバグダードを訪れてサッダームと会談し、停戦に向けて仲介を始めた。そして[[ターリク・アズィーズ]]外相と[[ミハイル・ゴルバチョフ]]大統領との間の交渉により、撤退に向けて合意した。その一方でイラクはクウェートの油田に放火するなど[[焦土作戦]]を始めた。
これに反発したブッシュ政権は2月24日、アメリカ軍による地上作戦を開始。ここへきてサッダームはイラク軍に対してクウェートからの撤退を命じ、2月27日にはクウェート放棄を宣言せざるを得なかった。4月3日、国連安保理はイラクの[[大量破壊兵器]]廃棄とイラクに連行されたクウェート人の解放を義務とした安保理決議を採択。4月6日、イラクは停戦を正式に受諾し、湾岸戦争は終結した。
== 国連制裁下の政権 ==
[[File:Saddam_Hussein_in_1996.png|thumb|200px|right|テレビ演説するサッダーム(1996年)]]
敗戦による[[政権]]の隙をついて、国内の[[シーア派]][[住民]]と[[クルド人]]が政権への反乱を起こした([[1991年イラク反政府蜂起]])。民衆蜂起はまず南部で拡大し、一気に全国18県中14県が反政府勢力側の手に落ちた。しかし、反政府勢力が期待していた[[アメリカ軍]]の支援は無かった。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は[[イラン]]と同じシーア派勢力の台頭を警戒しており、イラク国民に対してはサッダーム政権を打倒するよう呼びかけたが、自ら動くことは無かった。アメリカが介入しないとみるや、サッダームは温存させてあった精鋭の共和国防衛隊を差し向けて反政府勢力の[[弾圧]]に成功する。この際、反政府蜂起参加者に対して、非常に苛烈な報復が行われ、シーア派市民に対する[[大量虐殺]]が発生した。政権による弾圧の犠牲者は湾岸戦争の犠牲者を上回る10万人前後と言われている。
南部の反乱を平定すると、政権は北部のクルド人による反乱を抑え込もうと北部に兵を進めた。この時、サッダーム政権による化学兵器まで用いた弾圧の記憶が生々しく残っているクルド人たちは、一斉に[[トルコ]]国境を超え、大量の[[難民]]が発生し、人道危機が起こった。こうした事態を受けて、米英仏が主導する形でイラク北部に[[飛行禁止空域 (イラク)|飛行禁止空域]]を設置する決議が採択され、イラクの[[航空機]]の飛行が禁止された。
1991年6月には、政権による強引な水路開発計画に抗議するため、南部の湿地帯に住むマーシュ・[[アラブ人]]が反乱を起こした。この反乱もマーシュ・アラブ人が住む湿地帯を破壊するという容赦の無い弾圧で抑え込んだものの、これにより飛行禁止空域はイラク南部にも拡大された。飛行禁止区域は2003年まで設定され、米英軍の[[戦闘機]]が[[イラク治安部隊|イラク軍]]の防空兵器を空爆したり、区域を侵犯したイラク軍機を撃墜するなどした。
1993年1月、サッダームは南部の飛行禁止空域に[[地対空ミサイル]]を設置し、再び国際社会を挑発する行動に出た。この時期、アメリカでは[[1992年アメリカ合衆国大統領選挙|前年の大統領選挙]]の結果、[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]を破って当選した[[ビル・クリントン]]の[[アメリカ合衆国大統領就任式]]の数日前という微妙な時期であった。サッダームはこの時期ならばアメリカは軍事行動を起こせないと見込んでいたが、地対空ミサイル設置は国連安保理決議違反であるとして、米英仏による[[多国籍軍]]による空爆を招いてしまう。その結果、地対空ミサイルやレーダー施設、核関連施設などが爆撃された。
1993年4月には、[[クウェート]]を訪問したブッシュ前[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の[[暗殺]]を企てていたとして、[[イラク]]の[[スパイ|工作員]]が[[逮捕]]されるという事件が起こった。同年6月、この報復として、アメリカ軍は[[トマホーク (ミサイル)|トマホーク]][[ミサイル]]23発を[[バグダード]]に発射し、イラクの[[情報機関|諜報機関]]「総合情報庁」の本部を攻撃している。
== 政権崩壊 ==
=== イラク戦争 ===
{{main|イラク戦争}}
2001年9月11日、[[アメリカ同時多発テロ事件]]が発生。9・11テロについてもサッダームは演説で「アメリカが自ら招いた種だ」と、テロを非難せず、逆に過去のアメリカの中東政策に原因があると批判、同年10月20日まで哀悼の意を示さなかった。同時テロ以降の[[アメリカ合衆国]]は、[[アルカーイダ]]を支援しているとしてサッダーム政権のイラクに強硬姿勢を取るようになった。もっともイラク攻撃自体はアメリカ同時多発テロ事件以前から、湾岸戦争時の[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]であった[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]][[ディック・チェイニー]]や国防長官[[ドナルド・ラムズフェルド]]を中心とする政権内部の対イラク強硬派、いわゆる[[新保守主義 (アメリカ合衆国)|ネオコン]]らによって既に議論されていたようである<ref>http://www.jiji.com/jc/zc?k=201009/2010092300202 01年にイラク政権転覆画策=米公文書で判明</ref>。ただし、サッダーム政権転覆計画については、前のクリントン[[民主党 (アメリカ)|民主党]][[政権]]から対イラク政策の腹案の一つとして存在していた。
2002年1月、アメリカ合衆国の[[ジョージ・W・ブッシュ]]政権は、[[イラク]]を[[イラン]]や[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]と並ぶ「'''[[悪の枢軸]]'''」と名指しで批判した。[[2002年]]から[[2003年]]3月まで、イラクは[[国際連合安全保障理事会決議1441]]に基づく[[国連監視検証査察委員会]]の全面査察を受け入れた。
2003年3月17日、ブッシュは48時間以内にサッダーム大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。[[サウジアラビア]]、[[アラブ首長国連邦]]、[[バーレーン]]は[[戦争]]回避のために[[亡命]]をするように要請したがサッダームは黙殺したため、開戦は決定的となった<ref>[http://www.asahi.com/special/iraq/TKY200303190254.html]</ref>。
2003年[[3月20日]]、ブッシュ大統領は予告どおりイラクが[[大量破壊兵器]]を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠として[[イラク戦争]]を開始。攻撃は[[アメリカ軍]]が主力であり、[[イギリス軍]]もこれに加わった。
開戦初日の20日に、サッダームは長男ウダイが経営する「シャハーブ・テレビ」を通じて録画放送ではあったが国民向けの演説を行い、自身の健在をアピールした。この時のサッダームは普段の演説スタイルとは違い、場所不明の部屋の椅子に座り、老眼鏡を掛けて演説原稿を何度も折り返しながら読んでおり、欧米メディアや[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]当局者などが「演説しているのは影武者」「最初の空爆で死亡もしくは重傷を負った」などと憶測報道・会見を行なった(なお、開戦初日の攻撃はサッダームの誤った所在情報を下にして行なわれた作戦であったことが後に明かされた)。開戦当日以降も政権崩壊までの約3週間の間に国民に向けた演説や幹部を集めた会議の様子を収めた映像が国営テレビなどにより数回放送された。
[[4月9日]]、[[バグダード]]は陥落したが、サッダームは既に[[逃亡]]していた。アラブ首長国連邦の衛星チャンネル「[[アブダビ]]・テレビ」にて、サッダームが次男のクサイと共にバグダード北部のアーザミーヤ地区を訪れ、サッダームを支持する群集の前に姿を現した映像が放送された。
AP通信が2007年12月に、当時その場にいた元教師の証言を元に報じた取材記事によると、この時サッダームはアーザミーヤ地区にあるアブー・ハニーファモスクの前に現れ、小型トラックの上に立って200人の群集を前に「我々がアメリカ人を撃ち破るなら、私はアーザミーヤに黄金の記念碑を建てることを人々に約束する」と語ったという。丁度その時、同じバグダードのフィルドゥース広場ではアメリカ軍と市民によりサッダーム像が引き倒されていた。サッダームは、4月9日の昼過ぎにアブー・ハニーファモスクに現れ、次男のクサイ、大統領秘書官の[[アービド・ハーミド・マフムード]]を伴っていたという。サッダームは軍服、クサイは紫のスーツを着ており、小型トラックの上に立っていた。ある女性がサッダームに「疲れているのでは」と声を掛けると、「私は疲れていません。インシャッラー、イラクに勝利を」と話したが、明らかに疲労の様子が伺えたという。その日の夜サッダームは同地区にあるアブー・ビシャール・アル=ハアフィーモスクに一晩泊まった後、翌10日の午前6時ごろ、川を船で渡って対岸のカーズィミーヤ地区に向かって姿を消したという<ref>http://www.iraqupdates.com/p_articles.php/article/25589</ref>。
また、同じ9日に撮られたと思われる最後の国民向け演説の録画テープが、バグダード陥落後に発見され、メディアに公開された。未編集だったのか、テープには演説途中に咳き込んで演説を途中で止めたり、カメラマンにうまく撮れたか確認するサッダームの様子が写っていた。
英紙「サンデータイムズ」の報道によれば、4月11日までサッダーム父子と行動を共にしていた共和国防衛隊参謀総長の[[サイフッディーン・フライイフ・ハサン・ターハー・アッ=ラーウィー]]の証言として、4月11日に車でバグダードを離れる際に車中で『もう終わりだ』と述べて敗北を認めた様子だったという。サッダームに取り乱れた様子は無かったが、次男クサイは『一緒に逃げよう』と泣いて懇願した。サッダームはそれを拒否し、『生き延びるためには別々に行動した方がよい』と聞き入れなかったという。また、4月7日にバグダードのある地区で、サッダーム父子も参加する会議が開かれたが、父子が帰った10分後に彼らがいた建物がアメリカ軍に爆撃されたとも証言した<ref>http://www.47news.jp/CN2/200306/CN2003062901000041.html</ref>。
後にアメリカの[[連邦捜査局]](FBI)の取調官に対しても、自分は4月11日までバグダードに潜伏しており、前日の10日に数人の側近と会合を持ち、アメリカ軍に対する地下闘争を行うよう指示したとされる。
[[5月1日]]、ブッシュ大統領はサンディエゴ沖の[[太平洋]]上に浮かぶ空母にて演説、戦闘終結宣言を出した。
サッダームは、戦闘終結宣言以降も行方不明であった。時折、音声テープを使ってイラク国民や支持者に対してアメリカ軍に抵抗するよう呼びかけた。アメリカ軍も度重なるサッダーム捕捉作戦を行い、この間サッダームの息子ウダイとクサイを殺害したが、サッダームの拘束には失敗している。
==== サッダーム逮捕 ====
{{see also| {{仮リンク|赤い夜明け作戦|en| Capture of Saddam Hussein}}}}
[[File:SaddamSpiderHole.jpg|thumb|200px|right|米兵に取り押さえられた直後のサッダーム(下)。]]
転機は、7月に拘束されたサッダームの警護官の供述であった。この供述を元にアメリカ軍は2003年12月13日、サッダーム拘束を目的とした「赤い夜明け作戦」を決行。サッダームは[[アメリカ陸軍]][[第4歩兵師団 (アメリカ軍)|第4歩兵師団]]と[[デルタフォース|特殊部隊]]により、イラク中部[[ダウル]]にある隠れ家の庭にある地下穴に隠れているところを見つかり[[逮捕]]された。拳銃を所持していたが抵抗や自決などは行わなかった。アメリカ軍兵士によって穴から引きずり出されて取り押さえられ、「お前は誰だ?」という問いに対し、「'''サッダーム・フセイン。イラク共和国大統領である。交渉がしたい。'''」と答えたとされる。この時、アメリカ軍通訳の[[亡命]][[シーア派]]イラク人の姿を見るなり「裏切り者」と叫んで唾を吐きかけたため、この亡命イラク人に殴打されている<ref>ディスカバリーチャンネル 「ZERO HOUR:サダム・フセイン拘束」(DVD)</ref>。
ただし、後にサッダーム自身が[[弁護士]]を通じて語ったところによれば、「穴倉に潜んでいたのでは無く、朝の礼拝中に襲われた。米兵に足を叩かれて、[[麻酔]]で眠らされた」とアメリカ軍発表を否定しており、「銃は持っていなかった。持っていれば戦って自分は[[殉教]]者になったはずだ」などと反論している<ref>[[読売新聞]] [[2004年]][[12月31日]]付記事</ref>。
なお、サッダームが隠れていた民家は、1958年にカースィム首相暗殺未遂事件を起こしたサッダームが、潜伏の際に使用した隠れ家と同じ民家であったと、後にサッダームがFBIの尋問で明らかにした。
=== 獄中生活 ===
[[ファイル:Saddamcapture.jpg|thumb|200px|right|逮捕後のサッダーム(2003年12月14日)]]
サッダームは、拘束後にアメリカ軍の収容施設「キャンプ・クロッパー」に拘置された。ここでのサッダームの生活は、主に詩の創作、庭仕事、読書、聖典[[クルアーン]]の朗読に占められた。独房は窓のない縦3メートル、横5メートルの部屋で、エアコンが完備され、プラスチックの椅子が2つ、礼拝用の絨毯が1枚、洗面器が2個、テレビ・ラジオは無く、[[赤十字社|赤十字]]から送られた小説145冊が置かれていた<ref>[[共同通信]] 2004年7月26日配信記事</ref>。庭には小さなヤシの木を囲むように白い石を並べていたという。
他人に自分の服を洗われることを拒否し、自分で洗濯を行っていたという。エイズ感染を極度に恐れており、[[刑務官|看守]]のアメリカ兵らの洗濯物と一緒に自分の洗濯物を干さないよう頼んでいたという<ref name="saddam">https://www.afpbb.com/articles/-/2387839?pid=2905096 アラブ紙、フセイン元イラク大統領の手記を掲載 2008年5月8日</ref>。また、米国製の[[マフィン]]や[[クッキー]]、[[スナック菓子|スナック]]などの[[菓子]]も楽しんでいたとされ、2004年に[[高血圧]]や[[ヘルニア]]、[[前立腺炎]]を患った以外は病気はせず、逆に体重が増えてダイエットに励むなど健康的な生活を送っていた。
アメリカ軍側は、口ひげや顎ひげを手入れするハサミは支給しなかったという。
獄中で、サッダームは、[[赤十字]]を介して、[[ヨルダン]]に滞在する長女のラガドや孫のアリーに手紙を送っており、2004年8月2日に孫アリーへ届いた手紙では「強い男になれ。私の一族を頼む。一族の名声をいつまでも保ってほしい」と記した。
2005年5月、英大衆紙「[[ザ・サン]]」が、サッダームの獄中での生活を撮った写真を掲載。独房で睡眠中の写真やサッダームの[[ブリーフ]]姿の写真が掲載され、波紋を呼んだ。これに関しては、イラク国民の間からも「いくら独裁者でも、元大統領に対して非礼」と反発する意見が噴出した。
2005年10月と12月に行われたイラク新憲法を決める[[国民投票]]と[[国民議会 (イラク)|議会]]選挙について、サッダームは獄中からイラク国民に投票ボイコットを呼びかける声明を出した。
ジャーナリストのロナルド・ケスラーの本『The Terrorist Watch 』によると、[[レバノン]]系米国人でFBI・対テロ部門主任のジョージ・ピロの回想として、サッダームは異常な[[潔癖症]]で、手や足を隅々まで拭くために、乳幼児用のウェットティッシュを差し入れたところ、ピロはサッダームの信頼を得たという。 [[拘留]]中も1日5回の[[礼拝]]を欠かさない敬虔な[[ムスリム]]ではあったが、一方で、高級[[ワイン]]や[[スコッチ・ウイスキー]]の 「[[ジョニー・ウォーカー]]ブルーラベル」と[[キューバ]]製[[葉巻きたばこ|葉巻]]を好んだ。また、女性にはよく色目を使いアメリカ人の女性看護師が採血に現れたとき、「君は可愛いらしいね」と[[英語]]で伝えるよう頼んだとされ、大統領在任時とほとんど変わらない生活を送っていたようだ。また、影武者存在説については「誰も自分を演じることはできないだろう」「映画の中の話だ」と否定したとされる。2人はよく歴史や政治、芸術やスポーツなどについても語り合った。ある日サッダームはFBIから支給されたノートを使って愛についての詩作を始めるなど、意外な一面も見せた<ref name="afpbb">https://www.afpbb.com/articles/-/2312092?pid=2354469</ref>。
また、診察に来た医師に対して、「私がもう一度結婚して子どもをもうけることを[[アッラー]]がお許しになりますように。その子たちにはウダイとクサイ、ムスタファーと名付けよう」と、死んだ自分の息子と孫の名を口にして冗談を言ったという<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2387839?pid=2905096</ref>。
歴代の[[アメリカ合衆国大統領]]の評価についてピロが質問すると、[[ジョージ・ブッシュ|ブッシュ父子]]を嫌悪しながらも、アメリカ人には親近感を抱いており、[[ロナルド・レーガン]]や[[ビル・クリントン]]については尊敬の念すら示したという。また、湾岸戦争については、アメリカ軍の戦力を過小評価していたと語り、イラク戦争では「ブッシュ政権が本気でイラクを攻撃してくるとは思わなかった」とし、2つの戦争における自らの対応は戦略的誤りであったとした<ref name="afpbb" />。
一方、1980年代に政権によってクルド人に対する化学兵器を使用した大量虐殺について「必要だった」と正当性を主張。1990年のクウェート侵攻については、侵攻前に行われた両国外相会議の際、[[クウェート]]側代表から「すべてのイラク人女性を[[娼婦|売春婦]]として差し出せ」と侮辱されたといい、「罰を下したかった」と述べたという<ref name="yomiuri20080128">http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080128-OYT1T00467.htm?from=navr{{リンク切れ|date=2010年12月}}</ref>。
サッダームは、イラクが大量破壊兵器を開発済であり、WMDを完成させて密かに国内のどこかに隠し持っているかのように振舞い続けたが、ピロから「なぜ、かかる愚かな行為をしたのか」と問われた際、サッダームは「湾岸戦争での敗北以降、通常戦力は大幅に低下したため、大量破壊兵器を持っていないことが明らかになると、[[イラン]]や[[シリア]]に攻め込まれ、国家がなくなってしまうのではないかとの恐怖があったから」と答えている。また、国連による制裁がいずれ解除されれば、[[核兵器]]計画を再開できるとも考えていたという。
[[2009年]][[7月1日]]に新たに公表されたピロの尋問記録にも、同様の趣旨のことを話しており、国連査察を拒んだ場合の制裁よりも、イラクの大量破壊兵器が存在しないことが明らかになり、イランに弱みを見せることの方を恐れたという<ref>[http://www.news24.jp/articles/2009/07/03/10138915.html]</ref>。またサッダームは、獄中記で[[アラブ世界|アラブ諸国]]にとって[[イスラエル]]よりイランが脅威であると評しており<ref name="saddam"/>、イランのイスラーム体制の指導部を過激派と呼び、嫌悪していたという。
[[アルカーイダ]]との関係についても否定し、[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]を狂信者と呼び、「交流することも、仲間と見られることも望んでいなかった」とし、逆にアルカーイダを政権にとっての脅威と捉えていたという<ref name="yomiuri20080128" />。
ピロによれば、尋問日程がすべて終了すると、サッダームは感情的になったという。「私達は外に座り、キューバ葉巻を2、3本吸った。[[コーヒー]]を飲み、他愛ない話をした。別れの挨拶をすると彼の目から涙があふれた」という。 またピロは「彼は魅力的で、カリスマ性があり、上品で、ユーモア豊かな人物だった。そう、好感の持てる人物だった」と回想している<ref name="afpbb" />。
同様の感想をサッダームが[[収監]]されたアメリカ軍収容所の所長だったジェニス・カーピンスキー元[[准将]]も述べており、よく若い監視役のアメリカ憲兵の話相手となり、ある時はアメリカ兵の職場結婚の相談などにも応じていたという。カーピンスキーによるとサッダームは「お前は本当に司令官なのか?」とアメリカ軍に女性の将校がいることに関心を示し、「新イラク軍には、女性の司令官を新たに任命する」と語ったという。
また、サッダームの世話を担当したロバート・エリス米陸軍曹長が、2007年12月31日付きの米紙『セントルイス・ポスト・ディスパッチ』の[[インタビュー]]で証言したところによると、看守の米兵達はサッダームを勝利者を意味する「victor」(ヴィクター)というニックネームで呼んでいたという<ref>http://www.guardian.co.uk/world/2007/jan/02/iraq.brianwhitaker</ref>。エリス曹長は、2日に一回独房を見回っていた。ある時、サッダームが自作の詩を読む声が聞こえ、それから互いに言葉を交わすようになったという。自分が農民の子で、その出自を1度も忘れたことはないこと、自分の子に本を読み聞かせして寝かせたこと、娘がお腹が痛いと言ったときにあやしたことなどを語ったという。また、葉巻とコーヒーは血圧に良いとして、エリスに葉巻を勧めたこともあったという。エリスによれば、不平を言わない模範囚であり、アメリカ兵に敵対的な態度は見せなかった。一度だけ、不平を訴えてハンストを起こした。食事をドアの下の隙間から差し入れたからである。その後、ドアを開けて食事を直接届けるようになると、すぐにハンストをやめたとされる。ある時、サッダームが食事の[[パン]]をとっておき、庭で小鳥に食べさせていたのをエリスは見ている。
また、サッダームがエリスにアメリカ兵が[[機関銃|マシンガン]]を撃つ姿をジェスチャーで示しながら、『米軍はなぜ、イラクに侵攻したのだ』と質問したという。「国連の査察官は何も見つけなかっただろう」とも述べた。ある日、米本国にいるエリスの兄弟が死亡したため、米国に帰国しなくてはならなかったとき、サッダームは「お前はもう、オレの兄弟だ」と言ってエリスを抱きしめ、別れを惜しんだという。
サッダーム自身も弁護士に対し、「アメリカの兵士が私にサインをよく頼みに来る」「私は、イラクが(自分の手で)解放されたら、私の国に来るように彼らを招待した。彼らは承諾してくれた」と米兵との交流の様子を明かしている。
サッダームの個人[[弁護人]]だったハリール・ドゥライミーは、2009年10月にアラブ圏で出版された回顧録『Saddam Hussein Out of US Prison』の中で、2006年夏にサッダームは米軍拘置施設からの脱走を計画していたことを明かした<ref>http://www.inform.com/article/Saddam%20planned%202006%20prison%20escape:%20lawyer's%20memoirs</ref>。計画では、旧政権支持者とサッダームの元警護官で構成する武装集団が、バグダードのグリーンゾーンと国際空港にある[[アメリカ海兵隊]]基地を襲撃し、その隙に空港近くにある拘置施設キャンプ・クロッパーからサッダームを脱獄させ、イラクの武装勢力をまとめてイラク政府や駐留アメリカ軍を攻撃するために、西部[[アンバール県]]まで逃亡させる計画だったという。サッダームは、自分以外にも、同じく収監されているかつての自分の部下である、旧政権高官も[[脱獄]]させることを望んでいた。しかし、計画は別の武装勢力がキャンプ・クロッパー郊外でアメリカ軍と銃撃戦を行なう事件が起き、その結果、施設の[[警備]]が強化されたため未遂に終わったという。その6ヵ月後、サッダームは処刑された。
ハリールの本によれば、サッダームはキャンプ・クロッパーに収監されている収容者にその計画を話したとされ、「イラクが解放されれば、私はこの国を誰からの援助も無しで、7年で発展させる」「イラクを[[スイス]]のようにする」と語ったという。
=== 裁判 ===
[[File:Saddam Hussein at trial, July 2004-edit1.JPEG|thumb|150px|2004年7月、予審で意見を述べるサッダーム・フセイン]]
2004年7月1日、[[大量虐殺]]などの罪で訴追され、予備審問のためイラク特別法廷に出廷した。予審判事に「あなたの職業は?」との質問に「イラク共和国大統領だ」と答え、判事に「“元”大統領ですね」と聞かれると、「今も大統領だ」と反駁した。
訴追容疑に1990年のクウェート侵攻が加えられていることに「共和国防衛隊がイラクの権利を行使しただけだ」「公的行為が犯罪なのか?」と声を荒らげる一幕もあった。[[起訴]]状に署名するよう促されたが「弁護士が来るまで署名はしない」と拒否した。この審問の様子は映像で公開されたが「ブッシュこそ犯罪者」と語った場面は放送されず、却ってイラクの[[スンナ派]]地域やアラブ世界にサッダームの威信を高めるだけとなり、以後予審は2回ほど行なわれたが、音声無しの映像公開となった。
イラク特別法廷長官(当時)のサーリム・チャラビーは、予審前の6月30日にサッダームと3、4分面会した。主権移譲によりサッダームの身柄がアメリカ軍から[[イラク暫定政権]]に移ったことを説明するためだが、彼は「私はサッダーム・フセイン。イラク共和国大統領だ」と居丈高に告げたという。サッダームは拘束時に伸びていたあごひげをそり落とし、トレードマークの口ひげを生やしてアラブの伝統衣装を身にまとっていた。健康そうだったが拘束当時よりも痩せており、とても神経質そうだったという。この間、サッダームはずっと座ったままで、周りに立っているチャラビーらに質問しようとしたが、チャラビーが「明日まで待ってほしい」と遮った。
サッダーム弁護団のスポークスマンであるヨルダン人のズィヤード・ハサウネ弁護士によると、2004年12月16日にサッダームの私選弁護人であるハリール・ドゥライミー弁護士と接見した際、自身の[[裁判]]について「恐れていない。始まれば多数の当事者を巻き込む過去の情報を公にする」と述べ、欧米諸国との過去を裁判において暴露すると語った。ハリール弁護士との4時間にわたる面会でサッダームは、弁護団の名称を「サッダーム・フセイン・イラク大統領弁護支援委員会」と改名するよう指示、メディアや人権団体などを活用するよう求めた。また、自身の士気について7月の予審段階では90%だったが、「今は120%だ」と意気軒高ぶりを強調した。政権崩壊後のイラクで[[反米]][[ゲリラ]]活動については、「称賛する。以前から練られていた計画によるものだ」と戦争前から外国軍に対するゲリラ戦を想定していたかのように発言した。
2005年7月21日、UAEのテレビ局「アル=アラビーヤ」が、予審の際に「弁護士と面会出来ないのか?」と不満を口にする映像を放送した。クルド人の財産没収に関する予審で、サッダームは白いシャツにグレーの上着姿で登場。かすれ気味の声ながら、挑発的な発言を繰り返した。弁護士との面会が制限されていることについて「これで公正なのか」と反発を示し、判事が「イラク政府による拘束」に言及すると「どの政府だ」と聞き返し、「私はアメリカが任命したイラク政府に拘束されている。これは策略だ」などと主張した。度重なる発言を、予審判事が声を荒らげて制止する場面もみられた。
7月28日には、1991年に起こったシーア住民に対する大量虐殺事件についての予審の最中、席を立とうとしたサッダームに対して何者かが法廷に乱入し、素手で殴りあうという事件が発生した。襲撃した人物や両者の負傷の有無は不明。弁護団の発表によれば予審判事も法廷の[[警備員]]もこれを止めようとしなかったと非難した。
28日の一件について、虐殺事件の[[捜査]]を担当し、サッダームに尋問を行っていたタハシーン・ムトラクが2010年に[[毎日新聞]]の取材に応じて真相を明らかにした。ムトラクによれば、尋問の日、黒っぽいジャケットに白いシャツ姿だったサッダームは「自分は軍最高司令官だ」「イラク人の中で(自分は)もっとも勇敢な人間だ」と自慢を始めた。これに対して捜査担当判事が「(03年12月)拘束時になぜ穴に隠れていたのか」と聞くと、サッダームは激高して罵り始め、弁護士が尋問の中止を求めた。ムトラクがサッダームを部屋から連れ出そうと腕を取ると激しく抵抗され、この一件が弁護団によって「元大統領が暴行を受けた」と発表されたとのことである。
2度目の尋問は2006年2月に行われたが、6時間の取り調べでサッダームは黙秘を貫いたという<ref>http://mainichi.jp/select/today/news/20100830k0000e030018000c.html {{リンク切れ|date=2010年12月}}イラク:フセイン元大統領、最後まで現実離れ 捜査官証言</ref>。
10月18日の初公判の前に、ドゥライミー弁護士との面会でサッダームは「自分は無実だ」「(罪状には)気にとめていない」などと語ったという。
10月19日、バグダードの高等法廷で、1983年にイラク中部の村[[ドゥジャイル]]において住民140人以上を殺害した事件の初公判が開かれた。だが、初公判の時に[[リズカル・アミン]]裁判長(当時)の人定質問に答えずに[[クルアーン|コーラン]]を法廷中に唱えたり、名前を聞かれても名乗ることはなく、裁判そのものに対する拒否の意思をはっきりと示した。また、裁判長がサッダームの経歴を朗読した際には「元ではない。今も共和国大統領だ」と発言し、自身こそがイラクの合法的な大統領であると発言した。サッダームは法廷を「裁判のような“もの”」と表現し、一貫して法廷の不当性を訴えた。一方で、裁判長を持ち上げるような発言も行った。
12月6日の[[公判]]では、「サッダーム・フセインを弁護するためではなく、イラクが気高くあり続けるための率直な発言を許してほしい」と述べ、裁判長に対しても「あなたに圧力がかかっているのは分かっている。わたしの息子の一人(裁判長を指す)と対峙しなければならないのは残念だ」と裁判長の職務に理解を示すような発言をしたかと思えば、「こんなゲームが続いてはいけない。サッダーム・フセインの首が欲しければくれてやる」「私は死刑を恐れない」などと発言し、裁判長を挑発した。この日の公判では、事件の[[被害者]]が[[検察官|検察]]側証人として出廷。サッダームは、証人に対しても「小僧、私の話のこしを折るな」と述べ、挑発的な態度を崩さなかったが、一方で、[[拷問]]の様子や拘置所での実態を涙ながらに語る女性証人の証言の最中には、動揺した様子で顔をうつむいて静かに話に聞き入るなど、他の男性証人に対してとは違う態度を見せた。
しかし、公判の最後では、弁護側の要求を無視して翌7日の公判開始を決めたアミン裁判長に対し、「不公正な裁判にはもう出ないぞ。地獄へ落ちろ!」と罵る一幕もあった。 7日の公判では、同日に弁護側と接見出来なかったことに抗議してサッダームは出廷せず、他の被告は出廷したものの、開廷が4時間近く遅れ、サッダーム不在のまま裁判は続けられた。12月21日、数週間ぶりに再開された公判には出廷したが、自身を「サッダーム」と呼び捨てにした検察側証人に「サッダームとは誰だ」と声をあげるなど、強気の姿勢を見せた。
[[2006年]][[11月5日]]、サッダームはイラク中部ドゥジャイルの[[イスラム教]]シーア派住民148人を殺害した「[[人道に対する罪]]」により、死刑判決を言い渡された。サッダームは判決を言い渡されると、「イラク[[万歳]]」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇だ」として非難した。
[[12月26日]]に開かれた第2審でも、第1審の判決を支持し、弁護側の上訴を棄却したため死刑が確定。翌27日、サッダームはイラク国民向けの声明を弁護士を通じて発表し、「神が望むなら、私は[[殉教者]]に列せられるだろう」と死刑を受け入れる姿勢を見せると共に、イラクで当時激化していた宗派対立に言及し、「イラクの敵である侵略者と[[ペルシア人]]があなたたちに憎悪の楔を打ち込んだ」とアメリカとイランを非難。そして、「信仰深き国民よ、私は別れを告げる。私の魂は神のもとへ向かう。イラク万歳。イラク万歳。パレスチナ万歳。聖戦に万歳。神は偉大なり」と結んでいる。弁護士に対しては、「イラク国民が私を忘れないことを願う」と述べたという<ref>読売新聞 2006年12月27日付国際面記事</ref>。
=== 死刑執行 ===
{{see also|サッダーム・フセインの死刑執行}}
2006年[[12月30日]]、サッダームは、アメリカ軍拘置施設「キャンプ・ジャスティス」から移され、[[バグダード]]のアーザミーヤ地区にある[[刑務所]]にて、[[絞首刑]]による[[死刑]]が執行された。アメリカは処刑を翌年まで遅らせるようイラクに要請したが、[[ヌーリー・マーリキー]]政権は国内の「サッダーミスト」(サッダーム支持者)が本人の奪還を目的に[[テロリズム|テロ]]を起こしかねないとの懸念から受け入れず、関係者共々刑を執行した。サッダームの死刑にシーア派勢力・市民は歓喜し、一方スンナ派勢力・市民は現政権を非難した。
=== 死後 ===
刑執行後、サッダームの遺体は故郷であるアウジャ村の[[モスク]]に埋葬された。
埋葬後は、住民らによって葬儀が執り行われた。その後もサッダームの誕生日と命日には地元児童らが「課外授業」の一環として、サッダームの墓前に花を捧げ、彼を讃える歌などを合唱していたため、2009年7月、イラク政府は[[サラーフッディーン県]]当局に対して集団での墓参を止めるよう命じた<ref>http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20090714_093034.html</ref>。
イラク政府の指導に反して、その後も主にスンナ派アラブ人のイラク国民やサッダーム支持者が墓のあるモスクを訪れ、サッダームがかつて住んでいた[[ティクリート]]にある旧大統領宮殿と並んで半ば「聖地」のようになっていたが、2015年にイラク軍及びシーア民兵がイスラーム国([[ISIL]])から[[ティクリート]]奪還作戦を行った際の戦闘によりサッダームの墓も破壊された。ただし、どちらの攻撃で破壊されたのか、或いは戦闘の巻き添えで破壊されたのか、または意図的に破壊されたのかは不明であるが<ref>{{Cite web |date= 2015-03-15|url= https://www.cnn.co.jp/world/35061849.html|title= フセイン元大統領の墓地、破壊される イラク|publisher= CNN|accessdate=2018-03-18}}</ref>、イスラーム国の戦闘員が撤退する際に爆破したとの見方が有力である。
サッダームが所有していたものの、一度も乗ることがなかった豪華船「バスラ・ブリーズ号」が現存している。イラク政府が売却を試みたが買い手が見つからず、[[バスラ]]港でホテルに転用された<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180602/k00/00m/030/051000c 「フセイン元大統領の船がホテルに 33億円で売却できず」]『毎日新聞』朝刊2018年6月2日(国際面)2018年6月6日閲覧。</ref>。
== サッダーム政権 ==
[[File:SaddamStatue.jpg|thumb|200px|right|倒されるサッダームの銅像]]
=== 政治スタイル ===
反対派への[[粛清]]、それによる[[恐怖政治]]、[[弾圧]]から諸外国から典型的な[[独裁者]]として恐れられた。
特にサッダームは[[ヨシフ・スターリン]]の政治スタイルを手本にしたとされる。事実、サッダーム体制には[[スターリン主義]]の特徴が見受けられる。[[第二次世界大戦]]で[[反共主義|反共]][[十字軍]]を掲げて侵攻する[[ナチス・ドイツ]]に勝ったスターリンをかつての[[サラーフッディーン]]、その戦いがあった[[スターリングラード]]を、「サッダーム・シティ」に見立てた<ref>[http://www.fpri.org/enotes/200702.sicherman.saddamhusseinstalintigris.html Saddam Hussein: Stalin on the Tigris] 2007年2月</ref>。サッダームはスターリンを[[共産主義|共産主義者]]というより[[ナショナリズム|ナショナリスト]]と見ていると[[クルド人]]の政治家[[:en:Mahmoud Othman|マフムード・オスマーン]]は推察している。オスマーンによると、大統領宮殿のサッダームのオフィスにはスターリンに関する本が揃えてあり、オスマーンが「スターリンがお好きなようで」と言うと、「そうです。彼の統治の仕方が気に入っているので」と答えた。オスマーンが「あなたは共産主義者なのか?」と質問すると、サッダームは「スターリンが共産主義者とでも言うのかね」と反論したという。また、史上初の[[社会主義国]]をつくったとして[[ウラジーミル・レーニン]]、愛国者だったとして[[ホー・チ・ミン]]、[[フィデル・カストロ]]、[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]なども称賛していた<ref>Niblock 1982, p. 70.</ref>。
しかし、サッダームの主治医アラ・バシール医師によるとサッダームは1度もスターリンについて語らなかったとし、サッダームが尊敬していたのはスターリンではなく[[フランス]]の[[シャルル・ド・ゴール]]元[[共和国大統領 (フランス)|大統領]]であったという。とりわけド・ゴールを「世界でもっとも偉大な政治家」と絶賛し、「彼は戦争の英雄、愛国者、立派なナショナリスト、フランス文明の真の産物」と評し、話をすると決まって最後はド・ゴールの話になったという。[[ド・ゴール主義]]者である[[ジャック・シラク]]とも個人的に親しくしていた。ちなみに[[アドルフ・ヒトラー]]については「奴は我々[[アラビア人]]を差別していた」と嫌っていたという。
=== 警察国家 ===
また、サッダーム政権下のイラクでは、幾つもの治安機関が存在し、[[市民]]の監視や反体制的言動の摘発に当たっていた。主な物では、総合諜報局、総合治安局といった組織で、相互連携することなく、別個に行動している。治安機関は、あらゆる市民社会に侵入し、[[タクシー]]の運転手、[[レストラン]]の店員などが治安機関の人間である場合もあった。こうした[[秘密警察]]による監視網は、国民を恐怖という心理で支配するだけでなく、隣人、家族、友人同士が互いに互いを監視し、密告し合う社会が形成された。親が家で言ったことを子供が学校で喋ってしまい、教師が治安機関に通報したというケースもあったと言われる。このため、サッダーム体制のイラクを、[[亡命]]イラク人の[[新保守主義|ネオコン]]で有名な[[:en:Kanan Makiya|カナン・マキヤ]]は「'''恐怖の共和国'''」と名付けた。1980年ごろ[[核兵器]]開発の作業を拒否した科学者の[[フセイン・アル=シャフリスターニー]]の体験は凄惨を極め、22日間にわたり電気ショックなどの[[拷問]]を受けたうえ、[[逃亡]]までの11年間を獄中で過ごしたという。アメリカのテレビで告白し、恐怖政治の実態が明らかになった<ref>[http://www.nikkei.co.jp/sp2/nt19/20030331SP63V002_31032003.html]</ref>。
監視だけでなく、市民に対する恣意的[[逮捕]]や拷問も日常的に行われた。[[アムネスティ・インターナショナル|アムネスティ]]によるとサッダーム時代には107種類の拷問がイラク各地の[[刑務所]]で行われていたとしている。その拷問はわざと苦痛を感じさせて、障害を残すような極めて残忍な拷問である。[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]の報告によるとサッダーム政権下で約29万人が失踪あるいは殺害されたと報告している。
イラク現政府は、「サッダーム・フセイン時代の恐怖展」を開き、拷問道具や犠牲者の遺品などを展示した<ref>[http://www.afpbb.com/article/2037612][https://www.afpbb.com/articles/-/2369862?pid=2776086]</ref>。
=== 個人崇拝 ===
サッダームが大統領に就任すると、自身への崇拝が強化され、イラク国内には彼の巨大な彫刻、銅像、肖像画やポスターが飾られるようになった。それらを制作する専門の職人がいたほどであり、国民の人口よりサッダームの銅像やポスターの方が多いという笑い話が作られたほどである。サッダームに対する[[個人崇拝]]は、中東でも異例であり、突出していた。国営テレビは、毎日のようにサッダームを称える歌・詩を放送しており、歌の数は200種類あるとされていた。イラクのテレビ・ラジオの監督部門の長を務めた人物の証言によると、サッダームもこれらの放送を見ており、一時、テレビで歌を流す回数を減らして[[エジプト]]のドラマを放送していた(実際、素人臭い作品ばかりで、出来の悪い歌が多かったためである)。これに気づいたサッダームは、担当者を呼びつけて放送を元に戻すよう指示したとされる。
また、アラブや古代[[メソポタミア]]の過去の英雄たちも引き合いに出され、即ち、サッダームは[[ネブカドネザル2世]]や[[ハンムラビ]]、[[マンスール]]、[[ハールーン・アッ=ラシード]]にならぶ偉大な指導者であるとされ、あげくの果てに偽造ともされる家系図を持ち出して[[預言者]][[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の子孫と喧伝された<ref>{{Cite web |date= 2003-12-03|url= https://www.aljazeera.com/archive/2003/12/2008410145324385877.html|title= Saddam's name struck off Prophet's lineage|publisher= [[BBC]]|accessdate=2019-08-11}}</ref>。また、[[アラブ世界]]の英雄サラーフッディーンを同じティクリート出身のために尊敬・意識していたという説もあるが、皮肉にもサラーフッディーンはサッダームが苛烈な弾圧を行ったクルド人の出身である。
サッダームの主導で[[バビロンの空中庭園|空中庭園]]などの再建計画が開始された古代遺跡[[バビロン]]の入り口にはサッダームと[[ネブカドネザル]]の肖像画が配置され、碑文には「ネブカドネザルの息子であるサダム・フセインがイラクを称えるために建設した」と刻まれ<ref>"Saddam removed from ancient Babylon 'brick by brick'", ABC News 20 April 2003.</ref>、サッダームは遺跡群内に[[ジグラット]]を模した宮殿もつくろうとした。同様の計画が[[ニネヴェ]]遺跡、[[ニムルド]]遺跡、[[アッシュール]]遺跡、[[ハトラ]]遺跡でも行われた<ref>Lawrence Rothfield (1 Aug 2009). The Rape of Mesopotamia: Behind the Looting of the Iraq Museum. University of Chicago Press. ISBN 9780226729435.</ref>。
=== イラク近代化 ===
独裁者として、イラクを恐怖で統治していたサッダームであるが、1970年代から80年代に掛けて、イラクをアラブで随一の社会の世俗化を図り、近代国家にしたという功績がある。その一つがイラク石油国有化である。
バアス党政権は[[ソビエト連邦|ソ連]]と共同で南部最大の[[ルメイラ油田]]を開発させた後、[[1972年]]に国家的悲願だった[[石油]]事業の[[国有化]]を断行した。長年イラクは外資系のイラク石油会社に権益を独占され、石油[[利益]]が国家に還元されていなかった。一般に、石油国有化はサッダームの功績の一つにあげられているが、実際に計画を立てて指揮を執ったのは、当時の石油大臣であるムルタダー・アル=ハディーシーであり、政治決断をしたのがサッダームである。
バアス党政権は、国富の公平な配分を掲げていたが、[[原油]]から得られる[[収入]]が限られていたため、国有化後も思うような成果が上がらなかった。しかし、1973年に[[石油輸出国機構]]の原油価格が4倍に急騰したことで状況は好転した。このころを境にイラクの石油[[収益]]は伸び続け1980年には、1968年から比較して50%の260億ドルに達した。
この石油収入を背景にバアス党政権は第3次五ヵ年計画を立て、上中流階級の解体、[[社会主義]]経済と国有化推進、イラクの経済的自立を目指した。石油産業、軍装備、[[原子力発電|原発]]はソ連、その一部を[[フランス]]、[[鉄道]]建設は[[ブラジル]]、[[リン酸塩]]生産施設は[[ベルギー]]、旧ユーゴスラビア、東西[[ドイツ]]、中国、[[日本]]にはハイテク分野の[[専門家]]や[[外国人労働者]]、専門技師の派遣を要請した。
これにより、バアス党政権は約400億ドルを懸けて第4次五ヵ年計画を進め、全国に通信網・電気網を整備し、僻地にも電気が届くようになった。[[貧困]]家庭には無料で家電が配布された。また農地解放により、[[農業]]の機械化、農地の分配を推進し、最新式の農機具まで配られ、国有地の70%が自営農家に与えられた。こうした政策により、1970年代後半にはイラクの人口は35%増加した。また、水利事業にも積極的であり、ドイツ、[[イタリア]]の協力で[[モスルダム]](旧サッダーム・ダム)、ソ連の協力で[[:en:Haditha Dam|ハディーサー・ダム]]、中国の協力で[[:en:Hindiya Barrage|新ヒンディーヤ・ダム]]なども完成させた。
[[国内総生産]]における国営部門の比率も72年には35.9%だったのに対し、77年には80.4%と増加。事実上、バアス党政権が、国民に富を分配する唯一の存在となり、最大の「'''雇用主'''」であった。1970年から1980年まで年率11.9%という二桁の経済成長でイラクの一人当たりGDPは中東で最も高くなり、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の石油輸出国になった<ref>{{cite book | author = Alnasrawi, Abbas | page = [https://books.google.no/books?id=VxMKNYNzUbIC&pg=PA80 80] | title = The Economy of Iraq: Oil, Wars, Destruction of development and Prospects, 1950–2010 | location = | publisher = [[ABC-CLIO]] | year = 1994 | isbn = 0-313-29186-1}}</ref><ref>Alnasrawi 1994 , p. 80</ref>。
他にもサッダームはイラク全国に[[学校]]を作り、[[学校教育]]を強化した。[[教育]]振興により児童就学率は倍増した。イラクの低識字率の改善のため、1977年から大規模なキャンペーンを展開し、全国規模で読み書き教室を開講し、参加を拒否すれば投獄という脅迫手段を用いたものの、イラクの識字率はアラブ諸国で最も高くなり、1980年代に大統領となったサッダームに[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]賞が授与された。
また、女性解放運動も積極的に行なわれ性別による[[賃金]]差別や[[雇用]]差別を法律で禁止し、家族法改正で[[一夫多妻制]]度を規制、女性の婚姻の自由と離婚の権利も認められた。女性の社会進出も推奨し、当時湾岸アラブ諸国では女性が働くことも禁じていた中で、イラクでは女性の[[公務員]]が増え、予備役であるが軍務に付くこともあった。男尊女卑の強い中東において「[[名誉の殺人]]」が数多く行われていた中、この「名誉の殺人」を非難した人物であることは、あまり知られていない。もっとも、1991年の湾岸戦争以後は、イスラーム回帰路線を推し進め、この「名誉殺人」も合法化。[[アルコール]]販売の規制や女性の服装規定の厳格化を進めた。
さらにイラクの[[ハブ空港]]である[[バグダード国際空港]](サッダーム国際空港)を建設した。
これらは石油生産性がピークに達するバクル政権と、それが連続するサッダーム政権初期の功績である。がしかし、後のサッダームは[[イラン・イラク戦争]]や[[湾岸戦争]]での二度に渡る戦争での債務、その後の国連制裁によってこれらの成果を無に帰してしまった。
=== サッダーム政権崩壊後のイラク ===
サッダームは恐怖によって[[シーア派]]・[[スンナ派]]・[[クルド人]]の対立を抑え込んでいた。しかしサッダーム政権崩壊後のアメリカの占領政策の失敗とイラク政府の無為無策により、一時宗派対立で内戦状態に陥り、さらにその後は隣国の[[シリア内戦]]の影響も受けて[[ISIL]]が流入してイラク政府軍、クルド人、シーア派民兵と衝突し、これにサッダームの最側近だった[[イッザト・イブラーヒーム]]の旧バアス党残党のスンニ派勢力も加わり、[[テロリズム|テロ]]も頻発して[[治安]]も悪化した。[[トルコ]]の[[政治家]][[アブドゥラー・ギュル]]は[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]解体が[[ユーゴスラビア紛争|内戦]]につながった様にイラクを「パンドラの箱」と揶揄していた。
== 家族・親族 ==
実父フセイン・アル=マジードは、サッダームの妹シハーム・フセイン・アル=マジード出生後に行方不明となった。盗賊に襲われたとも、家を捨てたとも言われるが定かでは無い。後にサッダームは、父の名前を模した「フセイン・アル=マジード・モスク」を故郷ティクリートに建設している。母のスブハ・ティルファーは農家出身で、占い師として生計を立てていた。いつごろフセイン・アル=マジードと別れたのかは不明で、イブラーヒーム・ハサンと再婚し、[[サブアーウィー・イブラーヒーム・ハサン|サブアーウィー]]、[[バルザーン・イブラーヒーム・ハサン|バルザーン]]、[[ワトバーン・イブラーヒーム・ハサン|ワトバーン]]、ナワールの3男1女を生んだ。サッダームの継父にあたるハサンは周囲から「ホラ吹きハサン」と呼ばれており、決して周囲から尊敬されるような人物では無かったとされる。
妻[[サージダ・ハイラッラー]]は、サッダームの叔父ハイラッラー・タルファーフの娘に当たり、サッダームとの結婚は[[いとこ婚|いとこ同士の婚姻]]に当たる。サッダームとの間に、長男[[ウダイ・サッダーム・フセイン|ウダイ]]([[1964年]][[6月18日]] - [[2003年]][[7月22日]])、次男[[クサイ・サッダーム・フセイン|クサイ]]([[1966年]][[5月17日]] - 2003年7月22日)、長女[[ラガド・サッダーム・フセイン|ラガド]](1968年)、次女ラナー(1969年)、三女 ハラー(1972年)を生んだ。
一方、サッダームはその他にも数人の妻がいたとされる。[[サミーラ・アッ=シャフバンダル]]、ニダール・アル=ハムダーニー、ワファー・ムッラー・アル=フワイシュの三人がサッダームと結婚したとされるが、サミーラ以外は真偽不明である。このうちサミーラとの間には、アリーなる息子が生まれたとされるが諸説ある<ref group="注釈">サッダーム・フセインの主治医、アラ・バシール医師は回顧録やインタビューで、アリーなる息子は存在しないと、三男の存在を否定している。</ref>。
== 小説 ==
サッダームは小説を4篇、詩を多数書いている。小説のうちはじめの2篇は匿名で発表された。
*『王様と愛人』(''[[w:Zabibah and the King|Zabibah and the King]]''、2000年。邦訳 ISBN 978-4893085559)
*『難攻不落の砦』(''[[w:The Fortified Castle|The Fortified Castle]]''、2001年)
*『男たちと都会』(''[[w:Men and the City|Men and the City]]''、2002年)
*『悪魔のダンス』(''[[w:Begone, Demons|Begone, Demons]]''、2002-3年頃。邦訳 ISBN 978-4198621704)
== 年譜 ==
* [[1937年]][[4月28日]] - イラク北部、ティクリートのアル=アウジャ村にて生まれる。
* [[1957年]] - [[バアス党]]に入党。
* [[1959年]] - アブドゥルカリーム・カーセム首相暗殺未遂事件で死刑判決を受け、[[エジプト]]に[[亡命]]。
* [[1963年]] - イラクへ帰国。
* [[1964年]][[10月14日]] - [[逮捕]]投獄。
* [[1966年]] - [[脱獄]]。
* [[1968年]] - バアス党による[[クーデター]]に参画([[バアス党政権 (イラク)|バアス党政権]]発足)。[[アフマド・ハサン・アル=バクル]]の大統領就任を助ける。
* [[1979年]] - 大統領就任。
* [[1980年]] - [[イラン・イラク戦争]]開戦。
* [[1990年]] - [[クウェート]]を占領。
* [[1991年]] - [[湾岸戦争]]に敗北。
* [[1993年]] - [[エルフ・アキテーヌ]]と契約。
* [[2003年]] - [[イラク戦争]]開戦。
* 2003年 - 息子のウダイとクサイが、[[アメリカ軍]]との銃撃戦で死亡。
* 2003年8月 - [[アメリカ合衆国]]が懸賞金をかける。
* 2003年[[12月14日]] - サッダーム逮捕。
* 2005年[[10月19日]] - 特別法廷で初公判が開かれる。
* [[2006年]][[11月5日]] - [[イラク高等法廷]]にて、[[人道に対する罪]]として死刑判決。
* 2006年[[12月26日]] - 同法廷にて1審死刑判決が[[控訴]]審で支持され、死刑確定。
* 2006年[[12月30日]] - サッダーム刑死。
== フルネーム ==
サッダーム・フセインの全名は、'''サッダーム・フセイン・アル=マジード・アッ=ティクリーティー'''([[アラビア語]]:صدام حسين المجيد التكريتي、[[英語]]:Saddam Husayn al-Majid al-Tikriti)であり、これは「ティクリート出身のマジード家のフセインの子サッダーム」と解される。現地ではアッ=ティクリーティー無しのサッダーム・フセイン・アル=マジードも多用されている。
ナサブ形式ではサッダーム・イブン・フセイン・イブン・マジード・アッ=ティクリーティー(صدام بن حسين بن مجيد التكريتي)など。ナサブからも分かるように本人の名前がサッダーム、父はフセイン、祖父はマジードである。(上述のフルネームでマジードに定冠詞アル=がついているのはアラブのフルネーム表記で先祖もしくは祖父の名前に定冠詞をつけどこのファミリーであるかを示す用法があるため。)
祖父名はعبد المجيد(アブドゥルマジード、Abd al-MajidもしくはAbdulmajid)になっていることもあり、フルネームの該当箇所が異なる表記もしばしば見られる。
彼を含め多くのイラク人の名前には、他のアラビア諸国同様に欧米や[[日本]]の人名慣習でいう明確な「姓」にあたるものは存在しない。ラストネーム相当のものとして父や祖父などの名前・家名・氏族名や部族名・地名由来の名称もしくは形容詞が来るため、「サッダーム・フセイン」が日本における氏名のようにセットで用いられるのが普通である。
[[日本語]]の文脈で彼の名を縮めて呼ぶ場合、「フセイン」「フセイン大統領」といった形をとることが多いが、「フセイン」は彼の全名の中に含まれる父の名に当たる。「本人のファーストネームがサッダームだからサッダーム大統領と呼ばずにフセイン大統領と呼ぶのはアラビア語として間違っている。」と言われることが多いが、そうとは言い切れない。
というのもアラブ世界では大統領レベルの公人になるとフルネームが一般人よりも短くなった通称で呼ばれる傾向が強まりラストネームの家名だけで書かれることもあるためである。彼の場合はこの過程で祖父の名前(アブドゥル)マジードと出身地由来のアッ=ティクリーティーがまず省かれる。現地では「サッダーム・フセイン大統領」「サッダーム・フセイン政権」「サッダーム大統領」「サッダーム政権」だけでなく「フセイン大統領」「フセイン政権」と記されていることがあり、いったんフルネームを提示した新聞記事などにおいて同じ人物が繰り返し主語として出てくる際に省略して「フセイン大統領は(・が・の・を)」もしくは肩書きすら添えない「フセインは(・が・の・を)」となりやすい。
なお、フセインのアラビア語文語(フスハー)における元々の発音は「フサイン」である。しかしながら日常生活で用いる口語アラビア語であるイラク方言での発音が「フセイン」「フセーン」(さらにはHuseinにおけるiとeが逆になった発音Husienとしてフスィエン、フスェーンに近いイラク的な読みもある)であることから、日本でも現地で広く用いられている読みが採用され「フセイン」とするのが通例となっている。
== 参考・関連書籍 ==
* [[サンケイスポーツ]]特別版 『堕ちたフセイン』2003年の逮捕時発行
* [[幻冬舎]] 『サダム その秘められた人生』コン・コクリン著 伊藤真訳 ISBN 4344003209
* [[NHK出版]]『裸の独裁者サダム 主治医回想録』アラ・バシール ラーシュ・スンナノー著 山下丈訳 ISBN 978-4-14-081006-4
* [[緑風出版]]『灰の中から サダム・フセインのイラク』パトリック・コバーン・アンドリュー・コバーン著 神尾賢二訳 ISBN 978-4-8461-0806-9
* [[岩波書店]]『フセイン・イラク政権の支配構造』[[酒井啓子]]著 ISBN 4-00-024617-8
* [[岩波新書]]『イラクとアメリカ』酒井啓子著 ISBN 4-00-430796-1
== 映像作品 ==
*「[[サダム 野望の帝国]]」(原題:House of Saddam)- [[HBO]]が製作したサッダームの生涯を描いたテレビドラマ。[[BBC]]が2008年7月30日に放送した。全4回。日本では[[スターチャンネル]]で2009年に放送された。サッダームを演じたのはイラクに出自を持つ[[イスラエル人]]俳優、[[イガル・ノール]]。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
{{Commons&cat|صدام حسين|Saddam Hussein}}
* {{Kotobank|フセイン(Saddam Hussein Takriti)}}
{{Wikinews|イラクのサッダーム・フセイン元大統領に死刑判決|フセイン元大統領、特別法廷初公判おわる}}
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3,933 | プラチナ文庫 | プラチナ文庫(プラチナぶんこ)は、2003年3月10日にフランス書院内のプランタン出版より創刊されたボーイズラブ系小説レーベル。2019年8月8日に休刊。
姉妹レーベルに2009年4月10日から2010年3月10日にかけてプラチナ文庫アリス、2009年11月10日にプラチナ文庫 艶も刊行されていた。
また、同じくプランタン出版より出版されているボーイズラブ系小説レーベルにラピス文庫がある。ラピス文庫よりも上の年齢のボーイズラブを内容としている。 | [
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姉妹レーベルに[[2009年]][[4月10日]]から[[2010年]][[3月10日]]にかけて'''プラチナ文庫アリス'''、2009年[[11月10日]]に'''プラチナ文庫 艶'''も刊行されていた。
また、同じくプランタン出版より出版されているボーイズラブ系小説レーベルに[[ラピス文庫]]がある。[[ラピス文庫]]よりも上の年齢のボーイズラブを内容としている。
==主な作品一覧==
===あ行===
*[[愛犬シリーズ]](宮緒葵/兼守美行)(全3巻)
*[[愛人 (あさひ木葉の小説)|愛人]](あさひ木葉/[[樹要]])
*[[愛を乞い、恋を奏でる]](葵居ゆゆ/ミドリノエバ)
*[[飛鳥沢シリーズ]](バーバラ片桐/[[明神翼]])(全4巻)
*[[あなたのものにしてください]](夕映月子/秋吉しま)
*[[アメジストの瞳に囚われて]]([[ふゆの仁子]]/片岡ケイコ)
*[[或る猫と博士の話。]](成瀬かの/駒城ミチヲ)
*[[医者と花屋シリーズ]]([[椹野道流]]/黒沢要)(全4巻+4巻)
*[[おいしいメイドの育て方シリーズ]](森本あき/樹要)
*[[幼なじみは、ケダモノな策略家]](森本あき/南国ばなな)
*[[堕ちるまで]]シリーズ(響かつら/史堂櫂)(全2巻)
*[[〜おっぱぶクラウン〜 王様の遊戯場]]([[栗城偲]]/香坂あきほ)
===か行===
*[[顔がない旅人]](水無月さらら/椛嶋リラコ)
*[[〜学園エンペラー〜]](みさき志織/[[蔵王大志]])(全4巻)
*[[渇仰シリーズ]](宮緒葵/梨とりこ)
*[[可愛くて、どうしよう?]](栗城偲/小嶋ララ子)
*[[危険な残業手当]]([[剛しいら]]/[[やまねあやの]])
*[[求愛の指先に囚われて 〜魔法ゲーム〜]]([[鈴木あみ (作家)|鈴木あみ]]/宮下キツネ)
*[[九曜会シリーズ]](藤森ちひろ/[[稲荷家房之介]])(全3巻)
*[[黒い傷痕]]([[丸木文華]]) ※プラチナ文庫 艶より刊行
*[[くろねこ屋歳時記]](椹野道流/くも)
*[[恋狐の契りシリーズ]](渡海奈穂/兼守美行)(全2巻)
*[[恋と服従のシナリオ]](あすま理彩/樹要)
*[[恋の名前シリーズ]](鈴木あみ/[[唯月一]])
*[[皇帝と盗賊]](神楽日夏/雪路凹子)
*[[極道さん、治療中!?]](永谷圓さくら/[[水名瀬雅良]])
*[[この恋が終わるまで]](いとう由貴/木下けい子)
*[[今宵、眼鏡クラブへ。]](秀香穂里/[[やまかみ梨由]])
===さ行===
*[[執事候補生・七号]](赤紫シノ/乃一ミクロ)
*[[灼熱シリーズ]](橘かおる/亜樹良のりかず)(全6巻)
*[[呪禁師百鬼静シリーズ]](小中大豆/yoshi)(全2巻)
*[[修羅の華]](水原とほる/高緒拾)
*[[職員室のイジワルなプリンスシリーズ]]([[水上ルイ]]/[[タカツキノボル]])
*[[スイートホーム〜友情があって愛に成る〜]](綺月陣/椎名ミドリ)
*[[絶対無敵のロマンス]](あべ悠里/葉倉舞)
*[[そして蝶は花と燃ゆ]](犬飼のの/Ciel)
*[[その指さえも]]([[崎谷はるひ]]/櫻井しゅしゅしゅ)
*[[傍に在るなら犬のように]](魔鬼砂夜花/大黒屋りんご)
===た行===
*[[チャイナ・ノアール 憎しみの果て]](弓月あや/[[みなみ遥]])
*[[帝国の花嫁〜身代わり王子の婚礼〜]](秋山みち花/田倉トヲル) ※プラチナ文庫アリスより刊行
*[[Tastes differ.]](七地寧/蓮川愛)(全2巻)
*[[吐息まで罪の色]](柊平ハルモ/笹生コーイチ)
*[[とけちゃうくらいに好きだと言って(]]氷高園子/環レン)
*[[共喰い -αの策略-]]([[秀香穂里]]/周防佑未)
*[[囚われの恋人]](あすま理彩/[[小路龍流]])
===な行===
*[[ナイショの恋はいじわる]](仲唯由希/周防佑未)
*[[熱砂の国の甘い罠]](若月京子/明神翼)
===は行===
*[[伯爵様シリーズ]](高月まつり/蔵王大志)
*[[バスルームでキスをして]](鬼塚ツヤコ/樹要)
*[[傍迷惑なロシアンブルー]](妃川螢/史堂櫂)
*[[覇狼王の后]](宮緒葵/yoshi)(上下巻)
*[[被虐の花嫁は純潔を誘う]]([[西野花]]/宝井さき)
*[[秘書のイケナイお仕事]](森本あき/樹要)
*[[白夜の愛鎖]](加納邑/[[サマミヤアカザ]]) ※プラチナ文庫アリスより刊行
*[[不機嫌なペット]](桜井眞紀/樹要)
*[[ふしだらな駆け引き]](伊郷ルウ/かすみ涼和)
*[[プリンスシリーズ]](あすま理彩/[[かんべあきら]])(全8巻)
*[[プリンスは悪魔の前に跪くか?]](四谷シモーヌ/[[門地かおり]]) ※プラチナ文庫アリスより刊行
*[[Boxer the Molester 不純なまなざし]](鬼塚ツヤコ/[[紺野けい子]])
*[[僕だけの騎士]](愁堂れな/[[夢花季]])
===ま行===
*[[魔女っ子サラリーマン]](高将にぐん/[[さらちよみ]]) ※プラチナ文庫アリスより刊行
*[[まるで、灼熱のキス。Boxer the Molester]](鬼塚ツヤコ/門地かおり)
*[[真夜中クロニクル]](凪良ゆう/yoco)
*[[未完成 (凪良ゆうの小説)|未完成]](凪良ゆう/[[草間さかえ]])
*[[みらくるのーとん|みらくるのーとん〜5年目のはじまり〜]](Tennenouji/斉藤伊里/[[由良 (イラストレーター)|由良]]) ※プラチナ文庫アリスより刊行
===や行===
*[[誘拐してみる?]](あべ悠里/蓮見桃衣)
*[[夢から醒めた恋人は]](杏野朝水/鈴倉温)
*[[吉原艶情]](沙野風結子/北上れん)
*[[夜が蘇るシリーズ]]([[英田サキ]]/[[山田ユギ]])(全3巻)
===ら行===
*[[楽園の花びら 花盗人のくちづけ]](氷高園子/立石涼)
*[[ラブ・ブラッド]](五百香ノエル/楡野ユキ)(全2巻)
*[[ラブマシーンになりたい]]([[高月まつり]]/なばほ)
*[[ラブ・リミット〜この恋、期限つき!?〜]](桜井眞紀/CJ Michalski)
*[[ラベンダー書院物語]]([[樹生かなめ]]/白川七子)
*[[恋愛仁義シリーズ]] (高月まつり/[[富士山ひょうた]])(全3巻)
*[[利息は甘いくちづけで]](いおかいつき/嶋津裕)
===わ行===
*[[若君様のキケンな情事]](あすま理彩/樹要)
*[[若きフォーブの恋人]](ゆりの菜櫻/高城たくみ)
*[[和カフェ瑠璃庵の妖しな日常]](牧山とも/den)
*[[わがまま王子シリーズ]](清白ミユキ/明神翼)(全2巻)
*[[私の愛しいお人形]](成瀬かの/古澤エノ)
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
* [[文庫レーベル一覧]]
* [[ラピス文庫]]
== 外部リンク ==
* [http://www.printemps.jp/ プラチナ文庫]
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3,934 | ビリー・ホリデイ | ビリー・ホリデイ(Billie Holiday) ことエレオノーラ・フェイガン(Eleanora Fagan, 1915年4月7日 - 1959年7月17日)は、アメリカ合衆国のジャズ歌手。
「レディ・デイ」の呼称で知られ、サラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドと並んで、女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家の1人に数えられる。彼女はその生涯を通して、人種差別や薬物依存症、アルコール依存症との闘いなどの壮絶な人生を送った。彼女の存在は、ジャニス・ジョプリンをはじめとする多くのミュージシャンに影響を与えた。
彼女の生涯に於いて代表的なレパートリーであった「奇妙な果実 (Strange Fruit)」や「神よめぐみを (God Bless' the Child)」、「I Love You, Porgy」、「Fine and Mellow」などは、後年に多くのミュージシャンに取り上げられるジャズ・ボーカルの古典となった。
彼女の死から約40年後の2000年にはロックの殿堂入りを果たした。また2003年には、「Qの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第12位に選出された。
ホリデイことエレオノーラ・フェイガンは1915年にアメリカ合衆国のフィラデルフィアで、母サディ・フェイガン(当時19歳)と父クラレンス・ホリデイ(同17歳)の元に産まれた。『奇妙な果実 -ビリー・ホリデイ自伝』によると、ビリーはこの本の中で15歳の父と13歳の母という「子どものような」二人が結婚し、自分はその間に生まれたと語っているが、後のジャーナリストたちの調査によれば、実際はクラレンスとサディは結婚しなかったばかりか、クラレンスは生まれたエレオノーラを認知しようとさえしなかったとされる。
父クラレンスはジャズ・ギタリストであり、夜はナイトクラブで演奏、昼は街頭を流して生活をしていた。そのためエレオノーラは幼少期を母子家庭のもと、メリーランド州ボルチモアのアッパー・フェルズ・ポイント(英語版)地区で育てられた。しかしサディにとっても娘の面倒を見る時間は無く、結果ホリデイの世話は母の親族に委ねられるようになる。サディはボルチモアで次々と職を変え、その合間を縫ってニューヨークを訪れては売春を重ねていた。親族の家を転々として生活していたエレオノーラにとっても、日々の生活は楽なものではなく、従姉アイダの暴力に耐えなければならなかった。またある日、自分を腕に抱いて昼寝させていた曾祖母がそのまま死亡してしまい、死後硬直した曾祖母の腕で首を絞められて目覚めパニックを起こしたことで心的外傷後ストレス障害を発症し、何週間もの間無言症を患うことになった。
やがて学校へ全く通わなくなったエレオノーラは、1925年1月25日に少年裁判所へ引き出され、裁判官より「然るべき保護者のいない未成年」であると断定された。その結果、ボルティモアの黒人専用のカトリックの女子専用寄宿学校「良き羊飼いの家」(House of Good Shepherd for Colored Girls)へ預けられた。同年3月19日、エレオノーラはエドワード・V・キャサリー神父より洗礼を受けた。
1925年10月25日、サディは仮釈放の身となったエレオノーラを手元に引き取った。しかし、サディは相変わらず外泊が多く、そんなある夜エレオノーラは近所の男性に強姦されてしまう。イギリスの音楽ジャーナリストのスチュアート・ニコルソンが著したノンフィクション書『ビリー・ホリディ―音楽と生涯』によると、それは1926年のクリスマス・イブのことだった。エレオノーラはすぐに医師の診察を受け、男性は有罪となったものの、親の保護と養育が充分ではないと判断されたエレオノーラは、1925年に補導されたときと同様、「良き羊飼いの家」に再送致された。同施設では1927年2月まで生活した。
1928年にはサディは再びエレオノーラを取り戻し、共にニューヨークへと移り住む。サディは娘を売春宿に預けて再び売春を始める。
1929年には母と共にエレオノーラまでが売春の容疑で逮捕、留置されたという記録が存在する。やがてエレオノーラは、禁酒法時代のハーレムの真ん中で、非合法のナイトクラブに出入りするようになった。それ以降様々なクラブで仕事をするようになったエレオノーラは、ハーレムの有名なジャズクラブ「ポッズ&ジェリーズ」でも歌い始めるようになった。この頃父のクラレンスはフレッチャー・ヘンダーソン楽団で演奏しており、彼女は父親との再会を果たしていた。
そんな中、15歳のある日彼女はサックス奏者のケニス・ホーロンと出会い、彼と共にクイーンズとブルックリンで最初の契約を手に入れる。幼い頃自分に会いに来た父が、男性のような外見の彼女をからかって「ビル」と呼んでいたことを覚えていた彼女は、そのニックネームに父の姓をつけた「ビリー・ホリデイ」を芸名に決めた。
活動初期にはケネス・ホランと共に、ハーレムにあるいくつかのクラブを一緒に回り、やがてコンビを組むまでになった。ホリデイはそれらのクラブでチップを得ることで満足し、「Trav'lin' All Alone」や「Them There Eyes」を歌うようになった頃にはそこそこの蓄えができていた。
1933年、コロムビアレコードのプロデューサー・ジョン・ハモンドが、クラブ「モネッツ」で穴埋めを務めていたビリーの歌を偶然耳に留め、その才能を見出す。彼は早速コロムビアのスタジオに彼女を呼び、既に契約を交わしていたもう一人の若いミュージシャン、クラリネット奏者ベニー・グッドマンとのセッションを企画する。この日、18歳の彼女は「Your Mother's Son-in-Law」と「Riffin' the Scotch」を唄い35ドルを受け取る。翌年、若い才能を求めて人々が集まることで知られるアポロ・シアターで、彼女はケネス・ホランと共演。しかしそれからしばらく経ち、ケネスが既婚者であったこともあり、二人は別れる。
ホリデイは将来性のある様々なミュージシャンと出会う機会に恵まれたが、その中にはフレッチャー・ヘンダーソン楽団の看板スターであったレスター・ヤングもいた。ビリーとこのサックス奏者はすぐに意気投合する。レスターはビリーのことを「レディ・デイ」と呼び、ビリーは彼を「サックス奏者の代表」という意味で「プレジデント」、時には略して「プレズ」と呼んだ。ステージを終えた後、二人は夜が明けるまでいくつものクラブを周って歩いていたとされる。
ホリデイは1935年に、歴史に残るジャズピアニストであり作曲家であるデューク・エリントンとも共演した。デュークは発売された自身の短編映画『シンフォニー・イン・ブラック』にホリデイを起用し「Saddest Tale」を歌わせた。同時期に、彼女は若いサックス奏者ベン・ウェブスターとも共演し始める。
1935年7月2日、プロデューサーのジョン・ハモンドは、ニューヨークを拠点とするブランズウィック・レコードから発売するレコードを企画。サックスのベン・ウェブスターに加えて、クラリネットにはベニー・グッドマン、ピアノにテディ・ウィルソン、トランペットにジョン・トゥルーハート、ベースにジョン・カービー、そしてコージー・コールをドラムスに迎え、「月光のいたずら (What a Little Moonlight Can Do)」と「Miss Brown To You」を録音。ベストメンバーでレコーディングされた楽曲は、見事その年のベストセラーに輝いた。その頃には母サディに小さなレストランを経営させ、明け方には朝食に立ち寄ることも少なくなかったという。
テディ・ウィルソンと組んで多くの契約をこなしながら、ホリデイはニューヨークにおけるジャズ・スターの一人になる。親密な雰囲気を得意とするホリデイのスタイルは、ベッシー・スミスやそれに続くシンガーたちが好んで立つ“大舞台”向きではなかったが、レスター・ヤングと組んだレコードは売れ、やがて彼女はカウント・ベイシー楽団やアーティ・ショウ楽団とも共演するようになる。ビリーは白人オーケストラと仕事をした初の黒人女性であり、当時のアメリカでは画期的な出来事だった。しかし、彼女に対する人種差別は消えず、アーティ・ショウ楽団との地方巡業の途中で切り上げざるを得なくなってしまう。ジム・クロウ法の激しい南部の州では、黒人であるビリーは彼らと一緒に唄うことが出来ないばかりか、楽団員と一緒のホテルを予約することや、レストランに入ることすらできなかった。
バンドから独立しニューヨークに戻ったホリデイは、再びクラブで歌い続けるようになり、出演者も観客も人種を問わず同席できる当時のアメリカでは革新的なクラブであった「カフェ・ソサエティ(英語版)」での専属歌手として活動した。この時期になると、ホリデイの酒量が増え、舞台の合間にマリファナを吸うようになった他、レズビアンとの関係を重ねたため「ミスター・ホリデイ」の異名を取るようにもなった。
1937年3月1日、テキサス州ダラスでの巡業中に風邪から肺炎を併発した父クラレンスが死亡。南部で最も人種差別の激しい地域の一つだったダラスでは、治療を受けるために回った幾つもの病院からは全て診療を拒絶された。このことについてホリデイは自伝の中で「肺炎が父を殺したのではない。テキサス州のダラスが父を殺したのだ。」と綴っている。
1939年3月、ホリデイはルイス・アレン(英語版、フランス語版)という若い高校教師が作詞・作曲した、アメリカ南部の人種差別の惨状について歌った曲「Strange Fruit (奇妙な果実)」と出合い、自身のレパートリーに加えるようになった。
コロムビアレコードはビリーホリデイに反リンチ 抗議曲「Strange Fruit (奇妙な果実)」を録音させることを拒否。ミルト・ゲイブラーは、彼女に小さな専門レーベルであるコモドア・レコードに、録音するように勧め1939年4月20日に録音。
以来この曲はカフェ・ソサエティとホリデイのテーマソングとなり、間もなく発売されたレコードは大きな成功を収めた。
1941年にホリデイは1930年代にハンガリー語から英訳された「Gloomy Sunday (暗い日曜日)」をレコーディングし、この曲は『奇妙な果実』に続くヒットとなった。
これに続く数年間、ビリー・ホリデイは録音や契約を増やし、成功への道を歩み続ける。ロイ・エルドリッジ、アート・テイタム、ベニー・カーター、ディジー・ガレスピーなど多くミュージシャンたちとの共演も果たした。一方で彼女は、トロンボーン奏者であり麻薬の密売人でもあったジミー・モンローと関係を深め、母と住む家を出て早々に結婚。モンローは彼女にアヘンやコカインを覚えさせた。
また彼女はやがてビバップのトランペット奏者ジョー・ガイと出会い、ジョーの影響で今度はヘロインにも手を出すようになった。黒人として初めて立ったメトロポリタン歌劇場での晴れやかな舞台でも、デッカと契約を交わしたときも、彼女はガイの支配下にあり、ヘロイン漬けだったと言われる。ビリーは当時を振り返り、「私はたちまちのうちにあの辺で最も稼ぎのいい奴隷の一人になりました。週に1,000ドルを稼ぎましたが、私にはバージニアで綿摘みをしている奴隷ほどの自由もありませんでした」と語っている。
やがてホリデイの周りには「契約を守らない」「よく舞台に遅れる」「歌詞を間違える」といった噂が囁かれ始める。それを払拭するために、1945年にガイはホリデイのために大掛りなツアー『ビリー・ホリデイとそのオーケストラ』を企画するが、巡業が始まってしばらく経った頃、一行の耳にホリデイの母サディの訃報が届き、ホリデイは鬱状態に陥りアルコールと麻薬への依存を深め、結局ツアーは途中で打ち切られてしまった。
1947年、大麻所持により逮捕。その年にモンローとの離婚を機にガイとも別れた彼女は、ウェストヴァージニア州オルダーソン連邦女子刑務所で8ヵ月間の服役生活を送る。その際にニューヨークでのキャバレー入場証を失効してしまい、それから12年もの間キャバレーへの出演ができなくなってしまった。
第二次世界大戦終結後、ホリデイはピアニストのボビー・タッカー(英語版、ドイツ語版)とのコラボレーションを始める。レコードの売れ行きは順調。
1944年にはデッカと契約。
1946年2月にはニューヨークのタウンホールを制覇した。
同時期にホリデイはアイリーン・ウィルソンが彼女のために書いた「Lover Man」「Good Morning Heartache(英語版)」などを歌い、また彼女自身も「Fine and Mellow」「Billie's Blues」「Don't Explain」「God Bless The Child(英語版)」などの楽曲を作曲した。
1947年には、アーサー・ルービン監督の映画『ニューオーリンズ』にも出演した。
だが同じ頃、彼女はジョー・ガイと寄りを戻し、今度はLSDに手を出す。
1947年初頭、マネージャーのジョー・グレイザーは解毒治療のために彼女を私立クリニックに入院させるが失敗に終る。結局、数週間後にホリデイは麻薬不法所持で逮捕され、懲役1年の刑に処される。以降彼女に関するスキャンダルは途切れず、経済的にも追い込まれていった。
1948年3月16日には品行方正を認められて出所を果たしたが、彼女の心身は破壊されていた。その1週間後の1948年3月27日、彼女はカーネギー・ホールでのコンサートに出演した。
出所後にビリーはニューヨークでの労働許可を没収され、ニューヨークのクラブで歌うことを禁止された。唯一の例外は舞台でのコンサートであったが、幾晩も連続して大ホールを聴衆で埋めることは困難だった。加えて、ジョー・グレイザーとその後彼女のマネージャーとなるエド・フィッシュマンとの間でのエージェント戦争にも巻き込まれてしまう。
相次ぐ災難にもかかわらず、彼女はラジオでライオネル・ハンプトンと共演し、ストランド・シアターではカウント・ベイシーとも共演している。この頃から彼女の相手を務めるようになったのは、ジョン・レヴィという二流どころのギャングだった。彼女はまた、良家の出身で一時期マレーネ・ディートリヒとの浮名も流したことのある女優タルラー・バンクヘッドとも関係を結ぶ。
一方で彼女のヘロイン漬けの生活は続き、労働許可の没収により仕事をニューヨーク以外の場所に求めざるを得なくもなっていた。契約条件は不利になり、ギャラも少なくなっていったが、レヴィは彼女の稼ぎをすべて吸い上げた上、彼女を脅すようになる。折も折、彼女はサンフランシスコで麻薬不法所持により逮捕される。これに対して、タルラー・バンクヘッドは自分のコネ、とりわけFBI長官であったエドガー・フーバーとの関係を駆使して彼女の釈放に尽力する。しかし彼女はその後もレヴィの暴力を受け続け、伴奏者であり友人であったボビー・タッカー(英語版、ドイツ語版)は彼女と袂を分かつ。警察は彼女への捜査を続け、1950年の『ダウン・ビート』誌9月号には、「ビリー、またも災難」と題した記事が掲載された。
さらに1949年のデッカでの録音の際、ホリデイは自身の歌声のリズムを合わせられなくなるという事態に見舞われ、デッカは1950年の契約更新を行なわなかった。ホリデイは借金で首も回らなくなってしまう。レヴィは彼女の稼ぎをすべて懐に入れ、請求書は一切払おうとしなかった。レヴィと別れたとき、彼女はかなりの金銭を失うことになったが、一方で一定の自由を取り戻すことができた。だがニューヨークで歌うことができなかったホリデイは、長いツアーをこなさなければならなくなる。
1950年末、彼女はシカゴでハイノートの舞台を若き日のマイルス・デイヴィスと分かち合い、再び成功に恵まれる。
1951年、ビリー・ホリデイはアラジンという小さなレコード会社で何枚かのレコードを吹き込むが、批評家からは不評を買う。彼女はデトロイトで昔の恋人ルイ・マッケイと再会する。彼女が16歳のときにハーレムで知り合った男性だが、その時には結婚をし二人の子供の父親となっていた。彼はビリーの新たなマネージャー役に納まり、彼女のキャリアの復活に貢献する。彼女は西海岸に落ち着き、ノーマン・グランツのレーベル〈ヴァーヴ〉と契約する。ここで彼女は自分に相応しいパートナーたちに巡り会う。トランペットのチャーリー・シェイヴァーズ、ギターのバーニー・ケッセル、ピアノのオスカー・ピーターソン、ベースのレイ・ブラウン、ドラムスのアルヴィン・ストーラー、サックスのフリップ・フィリップス。『ビリー・ホリデイ・シングス』のタイトルで売り出されたレコードは鮮やかな成功を収め、引き続きその他の幾つかのセッションが録音される。にもかかわらず労働許可は再び却下され、彼女は肉体的負担の大きいツアーとコンサート(アポロ劇場、カーネギー・ホール)に頼る生活を強いられる。
1954年、ビリーは昔からの夢を実現する。初のヨーロッパ・ツアーである。ルイ・マッケイとピアニストのカール・ドリンカードを伴い、彼女はスウェーデン、デンマーク、ベルギー、ドイツ、オランダ、フランス(パリ)、スイスを回る。彼女がパリに立ち寄ったのは観光のためで、その後イギリスに向かい、そこでのコンサートは大成功を収める。このツアーは実り多く、ビリーにとっては最良の思い出の一つとなった。帰国すると、麻薬にもアルコールにもめげず、彼女は超人的な力を発揮する。カーネギー・ホールで唄い、ニューポート・フェスティバルに出演し、サンフランシスコで、ロスアンゼルスで唄い、ヴァーヴのための録音も続けた。〈ダウン・ビート〉誌は特別に彼女のための賞を設け、授与する。彼女は新しい伴奏者として若いメムリー・ミジェットを雇う。彼女との関係は単なる友情以上のものへと発展する。メムリーはビリーが麻薬を断つよう励まし手伝うが、失敗に終わる。彼女の影響を喜ばなかったマッケイによって、メムリーは追い払われる。
1955年4月2日、ビリー・ホリデイはカーネギー・ホールで催されたチャーリー・パーカー(3月12日死去)の追悼コンサートに出演する。サラ・ヴォーン、ダイナ・ワシントン、レスター・ヤング、ビリー・エクスタイン、サミー・デイヴィス・ジュニア、スタン・ゲッツ、セロニアス・モンクなどと並んで、ビリーがコンサートの終わりを告げたのは朝の4時頃であった。
1955年8月、彼女はヴァーヴのために新しいアルバムを録音する。『ミュージック・フォー・トーチング』。ジミー・ロウルスのピアノ、ハリー・“スウィーツ”・エディソンのトランペット、バーニー・ケッセルのギター、ベニー・カーターのアルトサックス、ジョン・シモンズ(英語版)のベースそしてラリー・バンカーのドラムスを伴奏に彼女が実現した傑作の一つである。その後、彼女は西海岸でクラブの仕事を得る。
1956年、ビリーはルイ・マッケイと共に麻薬不法所持で逮捕される。新たな裁判が予定される。彼女の自叙伝《レディ・シングス・ザ・ブルース》が出版される時期―この自叙伝は実質的には彼女のファンであった新聞記者ウィリアム・ダフティが、それまでに行なったインタビューを編集し直したものだった―、彼女は再度解毒治療を試みる。だが、彼女の健康は次第に蝕まれてゆく。彼女の新しいピアニストのコーキー・ヘイルは後にビリーの苦渋の様子を証言している。憔悴、麻薬とアルコールによる頽廃、いつもは長袖で隠してはいるが遂には手まで覆うようになった注射針の痕、疲労、体重の減少、舞台前の酔態。マッケイと共に裁判に掛けられると想像しただけで彼女は恐怖に陥る。そして、そのマッケイは徐々に彼女から遠ざかって行った。
彼女はニューポートのフェスティバルに登場し、またCBSテレビの〈ザ・サウンド・オヴ・ジャズ〉にも出演する。主な共演者はレスター・ヤング、コールマン・ホーキンス、ベン・ウェブスター、ジェリー・マリガンそしてロイ・エルドリッジ。また若き日のマル・ウォルドロンが彼女の新たな伴奏者として登場する。
1957年3月28日、ルイ・マッケイとビリーはメキシコで結婚するが、これは裁判で互いに不利なことを証言しないためであった。いずれにしても、二人の間は既に終っていた。判決(12ヶ月の執行猶予)が言い渡されると、マッケイはビリーの許を去り、ビリーは離婚手続きを開始する。
1958年2月、彼女は新曲ばかりを揃えた『レディ・イン・サテン(英語版、フランス語版、ハンガリー語版)』を録音する。伴奏は編曲を担当したレイ・エリス(英語版)が率いるオーケストラだった。それは胸を刺すようなアルバムだった。
1959年録音の『ビリー・ホリデイ』とだけ題された最後のアルバムにも匹敵するような悲痛さを感じさせた。彼女はまた1958年10月のモントルー・ジャズ・フェスティバルにも参加し、11月には二度目のヨーロッパ・ツアーを行なう。イタリアで彼女の唄は野次で迎えられ、公演は切り上げられた。パリでは、オリンピアでの公演をようやくのことで勤めたものの、彼女は憔悴し切っていた。ツアーは風前の灯だった。彼女はマル・ウォルドロンとベースのミシェル・ゴードリーとともにマース・クラブの出演を引き受ける。聴衆はみな彼女の唄に惹きつけられ、ビリーはここで成功を収める。マース・クラブを埋めつくした聴衆の中にはジュリエット・グレコ、セルジュ・ゲンスブールといった当時の有名人たちの顔もあった。
当時の記憶を作家フランソワーズ・サガンはこう綴っている。
何年も前から、ビリーは病に侵されていた。両脚には浮腫が出現していたし、何よりも肝硬変が悪化していた。それでも彼女は酒を止めることができなかった。朝から晩まで酒を飲み続けた。2回目のヨーロッパ・ツアーで彼女は疲労していたが、数ヵ月後には再びロンドンへ渡り、『チェルシー・アト・ナイン』というテレビ番組に出演している。帰国は困難を極めた。
1959年3月15日、ビリーはレスター・ヤングの訃報を耳にする。埋葬のとき、レスターの妻はビリーが唄うことを拒絶、嘆きと悲しみにビリーは泣き崩れる。葬儀からの帰路でビリーはこう呟いたと伝えられる...『あいつら、唄わせてくれなかった。この次はあたしの番だわ』。
翌4月7日、彼女は44歳を迎える。マサチューセッツでの複数の契約を果した後、5月25日にはニューヨークのフェニックス・シアターでのチャリティー・コンサートで唄っている。舞台裏では友人たちが彼女のあまりの変貌に驚き、ジョー・グレイザーなどは彼女を入院させようとするが、彼女は聞き入れなかった。5月30日、彼女は自宅で倒れ、ハーレムのメトロポリタン・ホスピタルに入院を認められる(その前にニッカーボッカー病院で入院を拒否されたのは、麻薬常習者は昏睡状態にあっても受け入れられないという理由からだった)。
肝硬変以外にも、腎不全の診断が下される。メサドン治療が施され、少しずつ回復するかに見えた。アルコールと煙草は禁止されていたが、ビリーは隠れて喫煙を続けた。更に悪いことに、6月11日、彼女のハンカチ箱の中から僅かな白い粉が発見される。彼女は逮捕され、病室で何日間か警察の監視下に置かれる。裁判は彼女の回復を待って行なわれることになった。回復は順調に見えたが、7月10日、病状は急変する。腎臓感染と肺うっ血が認められた。ルイ・マッケイとウィリアム・ダフティが病床に駆けつけた。7月15日早朝、ビリーはローマ・カトリック教会の最後の秘蹟を受ける。
1959年7月17日朝3時10分没。 44年の生涯であった。
葬儀は1959年7月21日、セント・ポール教会で行なわれた。3,000人の群集が参列し、人の波はコロンバス・アベニューまで続いた。遺体はブロンクスのセント・レイモンド墓地にある母親の墓石の下に埋葬された。1960年、ルイ・マッケイは彼女の棺を別の墓に移動させた。その死に当って、ビリーが唯一の相続人であるこの前夫(まだ離婚手続きは完了していなかった)に遺したのは1,345ドルであった。しかし僅か6ヵ月後の1959年末には、彼女のレコードの印税は10万ドルに上った。
なお、彼女の死を悼んで彼女の伴奏者であったマル・ウォルドロンが「Left Alone」を制作している。
アルバム『レディ・イン・サテン』のレコーディングを担当したレイ・エリスは、レコーディング時に付きつけられるホリデイのあまりに難しい要求に疲れ果ててミキシングを拒否したが、後日このアルバムに収められた「恋は愚かというけれど (I'm A Fool To Want You)」や「You've Changed」を聴き、歌を際立たせるその限りない悲しみを感じ取った彼は、彼女の歌を残すことの芸術的な意味を理解する。その後、彼女と共にレコーディングしたアルバム『ビリー・ホリデイ』は、ビリーの遺作となった。彼は『レディ・イン・サテン』をレコーディングしたときの思い出を書き記している。
《...一番感動的だったのは、「恋は愚かというけれど」のプレイバックを聴いていた時だろう。彼女の目からは涙が溢れていた。 (中略) アルバム制作終了後、私はコントロール室内に入って全テイクを聴いた。私は彼女の唄いぶりには満足できなかったことを認めねばならないが、感情を込めてではなく、音楽的にしか聴いていなかったのだろう。数週間後ファイナル・ミックスを聴くまでは、彼女の唄いぶりが本当はどんなに素晴らしいものかが解らなかった。》
フランク・シナトラやアビー・リンカーンらは生前からビリーを絶賛し、彼女の人生の終焉に於いては最も近しい友人の一人になっていた。1972年には、ダイアナ・ロスがホリデイの自伝に基づいた映画『ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実』でホリデイ役を演じた。この作品は商業的にも大成功し、ダイアナ・ロスはアカデミー賞女優賞にノミネートされることとなった。メイシー・グレイも1999年に、ホリデイについて「ビリー・ホリデイは私に大きな影響を与えました。私が本気で勉強した最初のシンガーは彼女でした」と語っている。またU2は、1987年にビリーへのトリビュート・ソングであるシングル「Angel of Harlem」をリリースしている。
生前は、エラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンほどの知名度はなかったものの、ビリー・ホリデイはジャズの歴史に於いてユニークな地位を占める存在となった。生涯を通じて人種差別や性差別と闘い、乱れた生活にもかかわらず名声を勝ち得た彼女は、現在、20世紀で最も偉大な歌手の一人に数えられている。また、彼女の名は、しばしばアフリカ系アメリカ人のコミュニティからも、ゲイのコミュニティからも引き合いに出され、差別を声高に反対して、同権を求めて立ち上がろうとした彼女の早くからの努力に対して敬意が払われている。
2019年には、近年になって発見されたジャーナリストのリンダ・リプナック・キュールが1960年代に10年間かけて関係者にインタビューを重ねた膨大な録音テープをもとに構成されたドキュメンタリー映画『BILLIE ビリー』が公開された。また2022年に、ビリー・ホリデイが人種差別を告発する楽曲「奇妙な果実」を歌い続けたことで、FBIのターゲットとして追われていたエピソードに焦点を当てた映画『ザ・ユナイテッド・ステイツ vs. ビリー・ホリデイ』が公開された。当初は全米で劇場公開される予定だったが、新型コロナウイルスの流行が収束しない状況を受け、インターネットでの配信に切り替わった。 | [
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"text": "ビリー・ホリデイ(Billie Holiday) ことエレオノーラ・フェイガン(Eleanora Fagan, 1915年4月7日 - 1959年7月17日)は、アメリカ合衆国のジャズ歌手。",
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"text": "「レディ・デイ」の呼称で知られ、サラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドと並んで、女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家の1人に数えられる。彼女はその生涯を通して、人種差別や薬物依存症、アルコール依存症との闘いなどの壮絶な人生を送った。彼女の存在は、ジャニス・ジョプリンをはじめとする多くのミュージシャンに影響を与えた。",
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"text": "彼女の生涯に於いて代表的なレパートリーであった「奇妙な果実 (Strange Fruit)」や「神よめぐみを (God Bless' the Child)」、「I Love You, Porgy」、「Fine and Mellow」などは、後年に多くのミュージシャンに取り上げられるジャズ・ボーカルの古典となった。",
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"text": "彼女の死から約40年後の2000年にはロックの殿堂入りを果たした。また2003年には、「Qの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第12位に選出された。",
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"text": "ホリデイことエレオノーラ・フェイガンは1915年にアメリカ合衆国のフィラデルフィアで、母サディ・フェイガン(当時19歳)と父クラレンス・ホリデイ(同17歳)の元に産まれた。『奇妙な果実 -ビリー・ホリデイ自伝』によると、ビリーはこの本の中で15歳の父と13歳の母という「子どものような」二人が結婚し、自分はその間に生まれたと語っているが、後のジャーナリストたちの調査によれば、実際はクラレンスとサディは結婚しなかったばかりか、クラレンスは生まれたエレオノーラを認知しようとさえしなかったとされる。",
"title": "生涯"
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"text": "父クラレンスはジャズ・ギタリストであり、夜はナイトクラブで演奏、昼は街頭を流して生活をしていた。そのためエレオノーラは幼少期を母子家庭のもと、メリーランド州ボルチモアのアッパー・フェルズ・ポイント(英語版)地区で育てられた。しかしサディにとっても娘の面倒を見る時間は無く、結果ホリデイの世話は母の親族に委ねられるようになる。サディはボルチモアで次々と職を変え、その合間を縫ってニューヨークを訪れては売春を重ねていた。親族の家を転々として生活していたエレオノーラにとっても、日々の生活は楽なものではなく、従姉アイダの暴力に耐えなければならなかった。またある日、自分を腕に抱いて昼寝させていた曾祖母がそのまま死亡してしまい、死後硬直した曾祖母の腕で首を絞められて目覚めパニックを起こしたことで心的外傷後ストレス障害を発症し、何週間もの間無言症を患うことになった。",
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"text": "やがて学校へ全く通わなくなったエレオノーラは、1925年1月25日に少年裁判所へ引き出され、裁判官より「然るべき保護者のいない未成年」であると断定された。その結果、ボルティモアの黒人専用のカトリックの女子専用寄宿学校「良き羊飼いの家」(House of Good Shepherd for Colored Girls)へ預けられた。同年3月19日、エレオノーラはエドワード・V・キャサリー神父より洗礼を受けた。",
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"text": "1925年10月25日、サディは仮釈放の身となったエレオノーラを手元に引き取った。しかし、サディは相変わらず外泊が多く、そんなある夜エレオノーラは近所の男性に強姦されてしまう。イギリスの音楽ジャーナリストのスチュアート・ニコルソンが著したノンフィクション書『ビリー・ホリディ―音楽と生涯』によると、それは1926年のクリスマス・イブのことだった。エレオノーラはすぐに医師の診察を受け、男性は有罪となったものの、親の保護と養育が充分ではないと判断されたエレオノーラは、1925年に補導されたときと同様、「良き羊飼いの家」に再送致された。同施設では1927年2月まで生活した。",
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"text": "1928年にはサディは再びエレオノーラを取り戻し、共にニューヨークへと移り住む。サディは娘を売春宿に預けて再び売春を始める。",
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"text": "1929年には母と共にエレオノーラまでが売春の容疑で逮捕、留置されたという記録が存在する。やがてエレオノーラは、禁酒法時代のハーレムの真ん中で、非合法のナイトクラブに出入りするようになった。それ以降様々なクラブで仕事をするようになったエレオノーラは、ハーレムの有名なジャズクラブ「ポッズ&ジェリーズ」でも歌い始めるようになった。この頃父のクラレンスはフレッチャー・ヘンダーソン楽団で演奏しており、彼女は父親との再会を果たしていた。",
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"text": "そんな中、15歳のある日彼女はサックス奏者のケニス・ホーロンと出会い、彼と共にクイーンズとブルックリンで最初の契約を手に入れる。幼い頃自分に会いに来た父が、男性のような外見の彼女をからかって「ビル」と呼んでいたことを覚えていた彼女は、そのニックネームに父の姓をつけた「ビリー・ホリデイ」を芸名に決めた。",
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"text": "活動初期にはケネス・ホランと共に、ハーレムにあるいくつかのクラブを一緒に回り、やがてコンビを組むまでになった。ホリデイはそれらのクラブでチップを得ることで満足し、「Trav'lin' All Alone」や「Them There Eyes」を歌うようになった頃にはそこそこの蓄えができていた。",
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"text": "1933年、コロムビアレコードのプロデューサー・ジョン・ハモンドが、クラブ「モネッツ」で穴埋めを務めていたビリーの歌を偶然耳に留め、その才能を見出す。彼は早速コロムビアのスタジオに彼女を呼び、既に契約を交わしていたもう一人の若いミュージシャン、クラリネット奏者ベニー・グッドマンとのセッションを企画する。この日、18歳の彼女は「Your Mother's Son-in-Law」と「Riffin' the Scotch」を唄い35ドルを受け取る。翌年、若い才能を求めて人々が集まることで知られるアポロ・シアターで、彼女はケネス・ホランと共演。しかしそれからしばらく経ち、ケネスが既婚者であったこともあり、二人は別れる。",
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"text": "ホリデイは将来性のある様々なミュージシャンと出会う機会に恵まれたが、その中にはフレッチャー・ヘンダーソン楽団の看板スターであったレスター・ヤングもいた。ビリーとこのサックス奏者はすぐに意気投合する。レスターはビリーのことを「レディ・デイ」と呼び、ビリーは彼を「サックス奏者の代表」という意味で「プレジデント」、時には略して「プレズ」と呼んだ。ステージを終えた後、二人は夜が明けるまでいくつものクラブを周って歩いていたとされる。",
"title": "生涯"
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"text": "ホリデイは1935年に、歴史に残るジャズピアニストであり作曲家であるデューク・エリントンとも共演した。デュークは発売された自身の短編映画『シンフォニー・イン・ブラック』にホリデイを起用し「Saddest Tale」を歌わせた。同時期に、彼女は若いサックス奏者ベン・ウェブスターとも共演し始める。",
"title": "生涯"
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"text": "1935年7月2日、プロデューサーのジョン・ハモンドは、ニューヨークを拠点とするブランズウィック・レコードから発売するレコードを企画。サックスのベン・ウェブスターに加えて、クラリネットにはベニー・グッドマン、ピアノにテディ・ウィルソン、トランペットにジョン・トゥルーハート、ベースにジョン・カービー、そしてコージー・コールをドラムスに迎え、「月光のいたずら (What a Little Moonlight Can Do)」と「Miss Brown To You」を録音。ベストメンバーでレコーディングされた楽曲は、見事その年のベストセラーに輝いた。その頃には母サディに小さなレストランを経営させ、明け方には朝食に立ち寄ることも少なくなかったという。",
"title": "生涯"
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"text": "テディ・ウィルソンと組んで多くの契約をこなしながら、ホリデイはニューヨークにおけるジャズ・スターの一人になる。親密な雰囲気を得意とするホリデイのスタイルは、ベッシー・スミスやそれに続くシンガーたちが好んで立つ“大舞台”向きではなかったが、レスター・ヤングと組んだレコードは売れ、やがて彼女はカウント・ベイシー楽団やアーティ・ショウ楽団とも共演するようになる。ビリーは白人オーケストラと仕事をした初の黒人女性であり、当時のアメリカでは画期的な出来事だった。しかし、彼女に対する人種差別は消えず、アーティ・ショウ楽団との地方巡業の途中で切り上げざるを得なくなってしまう。ジム・クロウ法の激しい南部の州では、黒人であるビリーは彼らと一緒に唄うことが出来ないばかりか、楽団員と一緒のホテルを予約することや、レストランに入ることすらできなかった。",
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"text": "バンドから独立しニューヨークに戻ったホリデイは、再びクラブで歌い続けるようになり、出演者も観客も人種を問わず同席できる当時のアメリカでは革新的なクラブであった「カフェ・ソサエティ(英語版)」での専属歌手として活動した。この時期になると、ホリデイの酒量が増え、舞台の合間にマリファナを吸うようになった他、レズビアンとの関係を重ねたため「ミスター・ホリデイ」の異名を取るようにもなった。",
"title": "生涯"
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"text": "1937年3月1日、テキサス州ダラスでの巡業中に風邪から肺炎を併発した父クラレンスが死亡。南部で最も人種差別の激しい地域の一つだったダラスでは、治療を受けるために回った幾つもの病院からは全て診療を拒絶された。このことについてホリデイは自伝の中で「肺炎が父を殺したのではない。テキサス州のダラスが父を殺したのだ。」と綴っている。",
"title": "生涯"
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"text": "1939年3月、ホリデイはルイス・アレン(英語版、フランス語版)という若い高校教師が作詞・作曲した、アメリカ南部の人種差別の惨状について歌った曲「Strange Fruit (奇妙な果実)」と出合い、自身のレパートリーに加えるようになった。",
"title": "生涯"
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"text": "コロムビアレコードはビリーホリデイに反リンチ 抗議曲「Strange Fruit (奇妙な果実)」を録音させることを拒否。ミルト・ゲイブラーは、彼女に小さな専門レーベルであるコモドア・レコードに、録音するように勧め1939年4月20日に録音。",
"title": "生涯"
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"text": "以来この曲はカフェ・ソサエティとホリデイのテーマソングとなり、間もなく発売されたレコードは大きな成功を収めた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "1941年にホリデイは1930年代にハンガリー語から英訳された「Gloomy Sunday (暗い日曜日)」をレコーディングし、この曲は『奇妙な果実』に続くヒットとなった。",
"title": "生涯"
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"text": "これに続く数年間、ビリー・ホリデイは録音や契約を増やし、成功への道を歩み続ける。ロイ・エルドリッジ、アート・テイタム、ベニー・カーター、ディジー・ガレスピーなど多くミュージシャンたちとの共演も果たした。一方で彼女は、トロンボーン奏者であり麻薬の密売人でもあったジミー・モンローと関係を深め、母と住む家を出て早々に結婚。モンローは彼女にアヘンやコカインを覚えさせた。",
"title": "生涯"
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"text": "また彼女はやがてビバップのトランペット奏者ジョー・ガイと出会い、ジョーの影響で今度はヘロインにも手を出すようになった。黒人として初めて立ったメトロポリタン歌劇場での晴れやかな舞台でも、デッカと契約を交わしたときも、彼女はガイの支配下にあり、ヘロイン漬けだったと言われる。ビリーは当時を振り返り、「私はたちまちのうちにあの辺で最も稼ぎのいい奴隷の一人になりました。週に1,000ドルを稼ぎましたが、私にはバージニアで綿摘みをしている奴隷ほどの自由もありませんでした」と語っている。",
"title": "生涯"
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"text": "やがてホリデイの周りには「契約を守らない」「よく舞台に遅れる」「歌詞を間違える」といった噂が囁かれ始める。それを払拭するために、1945年にガイはホリデイのために大掛りなツアー『ビリー・ホリデイとそのオーケストラ』を企画するが、巡業が始まってしばらく経った頃、一行の耳にホリデイの母サディの訃報が届き、ホリデイは鬱状態に陥りアルコールと麻薬への依存を深め、結局ツアーは途中で打ち切られてしまった。",
"title": "生涯"
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"text": "1947年、大麻所持により逮捕。その年にモンローとの離婚を機にガイとも別れた彼女は、ウェストヴァージニア州オルダーソン連邦女子刑務所で8ヵ月間の服役生活を送る。その際にニューヨークでのキャバレー入場証を失効してしまい、それから12年もの間キャバレーへの出演ができなくなってしまった。",
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"text": "第二次世界大戦終結後、ホリデイはピアニストのボビー・タッカー(英語版、ドイツ語版)とのコラボレーションを始める。レコードの売れ行きは順調。",
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"text": "1944年にはデッカと契約。",
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"text": "1946年2月にはニューヨークのタウンホールを制覇した。",
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"text": "同時期にホリデイはアイリーン・ウィルソンが彼女のために書いた「Lover Man」「Good Morning Heartache(英語版)」などを歌い、また彼女自身も「Fine and Mellow」「Billie's Blues」「Don't Explain」「God Bless The Child(英語版)」などの楽曲を作曲した。",
"title": "生涯"
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"text": "1947年には、アーサー・ルービン監督の映画『ニューオーリンズ』にも出演した。",
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"text": "だが同じ頃、彼女はジョー・ガイと寄りを戻し、今度はLSDに手を出す。",
"title": "生涯"
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"text": "1947年初頭、マネージャーのジョー・グレイザーは解毒治療のために彼女を私立クリニックに入院させるが失敗に終る。結局、数週間後にホリデイは麻薬不法所持で逮捕され、懲役1年の刑に処される。以降彼女に関するスキャンダルは途切れず、経済的にも追い込まれていった。",
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"paragraph_id": 34,
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"text": "1948年3月16日には品行方正を認められて出所を果たしたが、彼女の心身は破壊されていた。その1週間後の1948年3月27日、彼女はカーネギー・ホールでのコンサートに出演した。",
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"text": "出所後にビリーはニューヨークでの労働許可を没収され、ニューヨークのクラブで歌うことを禁止された。唯一の例外は舞台でのコンサートであったが、幾晩も連続して大ホールを聴衆で埋めることは困難だった。加えて、ジョー・グレイザーとその後彼女のマネージャーとなるエド・フィッシュマンとの間でのエージェント戦争にも巻き込まれてしまう。",
"title": "生涯"
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"text": "相次ぐ災難にもかかわらず、彼女はラジオでライオネル・ハンプトンと共演し、ストランド・シアターではカウント・ベイシーとも共演している。この頃から彼女の相手を務めるようになったのは、ジョン・レヴィという二流どころのギャングだった。彼女はまた、良家の出身で一時期マレーネ・ディートリヒとの浮名も流したことのある女優タルラー・バンクヘッドとも関係を結ぶ。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "一方で彼女のヘロイン漬けの生活は続き、労働許可の没収により仕事をニューヨーク以外の場所に求めざるを得なくもなっていた。契約条件は不利になり、ギャラも少なくなっていったが、レヴィは彼女の稼ぎをすべて吸い上げた上、彼女を脅すようになる。折も折、彼女はサンフランシスコで麻薬不法所持により逮捕される。これに対して、タルラー・バンクヘッドは自分のコネ、とりわけFBI長官であったエドガー・フーバーとの関係を駆使して彼女の釈放に尽力する。しかし彼女はその後もレヴィの暴力を受け続け、伴奏者であり友人であったボビー・タッカー(英語版、ドイツ語版)は彼女と袂を分かつ。警察は彼女への捜査を続け、1950年の『ダウン・ビート』誌9月号には、「ビリー、またも災難」と題した記事が掲載された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "さらに1949年のデッカでの録音の際、ホリデイは自身の歌声のリズムを合わせられなくなるという事態に見舞われ、デッカは1950年の契約更新を行なわなかった。ホリデイは借金で首も回らなくなってしまう。レヴィは彼女の稼ぎをすべて懐に入れ、請求書は一切払おうとしなかった。レヴィと別れたとき、彼女はかなりの金銭を失うことになったが、一方で一定の自由を取り戻すことができた。だがニューヨークで歌うことができなかったホリデイは、長いツアーをこなさなければならなくなる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "1950年末、彼女はシカゴでハイノートの舞台を若き日のマイルス・デイヴィスと分かち合い、再び成功に恵まれる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1951年、ビリー・ホリデイはアラジンという小さなレコード会社で何枚かのレコードを吹き込むが、批評家からは不評を買う。彼女はデトロイトで昔の恋人ルイ・マッケイと再会する。彼女が16歳のときにハーレムで知り合った男性だが、その時には結婚をし二人の子供の父親となっていた。彼はビリーの新たなマネージャー役に納まり、彼女のキャリアの復活に貢献する。彼女は西海岸に落ち着き、ノーマン・グランツのレーベル〈ヴァーヴ〉と契約する。ここで彼女は自分に相応しいパートナーたちに巡り会う。トランペットのチャーリー・シェイヴァーズ、ギターのバーニー・ケッセル、ピアノのオスカー・ピーターソン、ベースのレイ・ブラウン、ドラムスのアルヴィン・ストーラー、サックスのフリップ・フィリップス。『ビリー・ホリデイ・シングス』のタイトルで売り出されたレコードは鮮やかな成功を収め、引き続きその他の幾つかのセッションが録音される。にもかかわらず労働許可は再び却下され、彼女は肉体的負担の大きいツアーとコンサート(アポロ劇場、カーネギー・ホール)に頼る生活を強いられる。",
"title": "生涯"
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"text": "1954年、ビリーは昔からの夢を実現する。初のヨーロッパ・ツアーである。ルイ・マッケイとピアニストのカール・ドリンカードを伴い、彼女はスウェーデン、デンマーク、ベルギー、ドイツ、オランダ、フランス(パリ)、スイスを回る。彼女がパリに立ち寄ったのは観光のためで、その後イギリスに向かい、そこでのコンサートは大成功を収める。このツアーは実り多く、ビリーにとっては最良の思い出の一つとなった。帰国すると、麻薬にもアルコールにもめげず、彼女は超人的な力を発揮する。カーネギー・ホールで唄い、ニューポート・フェスティバルに出演し、サンフランシスコで、ロスアンゼルスで唄い、ヴァーヴのための録音も続けた。〈ダウン・ビート〉誌は特別に彼女のための賞を設け、授与する。彼女は新しい伴奏者として若いメムリー・ミジェットを雇う。彼女との関係は単なる友情以上のものへと発展する。メムリーはビリーが麻薬を断つよう励まし手伝うが、失敗に終わる。彼女の影響を喜ばなかったマッケイによって、メムリーは追い払われる。",
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"paragraph_id": 42,
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"text": "1955年4月2日、ビリー・ホリデイはカーネギー・ホールで催されたチャーリー・パーカー(3月12日死去)の追悼コンサートに出演する。サラ・ヴォーン、ダイナ・ワシントン、レスター・ヤング、ビリー・エクスタイン、サミー・デイヴィス・ジュニア、スタン・ゲッツ、セロニアス・モンクなどと並んで、ビリーがコンサートの終わりを告げたのは朝の4時頃であった。",
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"text": "1955年8月、彼女はヴァーヴのために新しいアルバムを録音する。『ミュージック・フォー・トーチング』。ジミー・ロウルスのピアノ、ハリー・“スウィーツ”・エディソンのトランペット、バーニー・ケッセルのギター、ベニー・カーターのアルトサックス、ジョン・シモンズ(英語版)のベースそしてラリー・バンカーのドラムスを伴奏に彼女が実現した傑作の一つである。その後、彼女は西海岸でクラブの仕事を得る。",
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"text": "1956年、ビリーはルイ・マッケイと共に麻薬不法所持で逮捕される。新たな裁判が予定される。彼女の自叙伝《レディ・シングス・ザ・ブルース》が出版される時期―この自叙伝は実質的には彼女のファンであった新聞記者ウィリアム・ダフティが、それまでに行なったインタビューを編集し直したものだった―、彼女は再度解毒治療を試みる。だが、彼女の健康は次第に蝕まれてゆく。彼女の新しいピアニストのコーキー・ヘイルは後にビリーの苦渋の様子を証言している。憔悴、麻薬とアルコールによる頽廃、いつもは長袖で隠してはいるが遂には手まで覆うようになった注射針の痕、疲労、体重の減少、舞台前の酔態。マッケイと共に裁判に掛けられると想像しただけで彼女は恐怖に陥る。そして、そのマッケイは徐々に彼女から遠ざかって行った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "彼女はニューポートのフェスティバルに登場し、またCBSテレビの〈ザ・サウンド・オヴ・ジャズ〉にも出演する。主な共演者はレスター・ヤング、コールマン・ホーキンス、ベン・ウェブスター、ジェリー・マリガンそしてロイ・エルドリッジ。また若き日のマル・ウォルドロンが彼女の新たな伴奏者として登場する。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "1957年3月28日、ルイ・マッケイとビリーはメキシコで結婚するが、これは裁判で互いに不利なことを証言しないためであった。いずれにしても、二人の間は既に終っていた。判決(12ヶ月の執行猶予)が言い渡されると、マッケイはビリーの許を去り、ビリーは離婚手続きを開始する。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 47,
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"text": "1958年2月、彼女は新曲ばかりを揃えた『レディ・イン・サテン(英語版、フランス語版、ハンガリー語版)』を録音する。伴奏は編曲を担当したレイ・エリス(英語版)が率いるオーケストラだった。それは胸を刺すようなアルバムだった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 48,
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"text": "1959年録音の『ビリー・ホリデイ』とだけ題された最後のアルバムにも匹敵するような悲痛さを感じさせた。彼女はまた1958年10月のモントルー・ジャズ・フェスティバルにも参加し、11月には二度目のヨーロッパ・ツアーを行なう。イタリアで彼女の唄は野次で迎えられ、公演は切り上げられた。パリでは、オリンピアでの公演をようやくのことで勤めたものの、彼女は憔悴し切っていた。ツアーは風前の灯だった。彼女はマル・ウォルドロンとベースのミシェル・ゴードリーとともにマース・クラブの出演を引き受ける。聴衆はみな彼女の唄に惹きつけられ、ビリーはここで成功を収める。マース・クラブを埋めつくした聴衆の中にはジュリエット・グレコ、セルジュ・ゲンスブールといった当時の有名人たちの顔もあった。",
"title": "生涯"
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"text": "当時の記憶を作家フランソワーズ・サガンはこう綴っている。",
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"text": "何年も前から、ビリーは病に侵されていた。両脚には浮腫が出現していたし、何よりも肝硬変が悪化していた。それでも彼女は酒を止めることができなかった。朝から晩まで酒を飲み続けた。2回目のヨーロッパ・ツアーで彼女は疲労していたが、数ヵ月後には再びロンドンへ渡り、『チェルシー・アト・ナイン』というテレビ番組に出演している。帰国は困難を極めた。",
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"text": "1959年3月15日、ビリーはレスター・ヤングの訃報を耳にする。埋葬のとき、レスターの妻はビリーが唄うことを拒絶、嘆きと悲しみにビリーは泣き崩れる。葬儀からの帰路でビリーはこう呟いたと伝えられる...『あいつら、唄わせてくれなかった。この次はあたしの番だわ』。",
"title": "生涯"
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"text": "翌4月7日、彼女は44歳を迎える。マサチューセッツでの複数の契約を果した後、5月25日にはニューヨークのフェニックス・シアターでのチャリティー・コンサートで唄っている。舞台裏では友人たちが彼女のあまりの変貌に驚き、ジョー・グレイザーなどは彼女を入院させようとするが、彼女は聞き入れなかった。5月30日、彼女は自宅で倒れ、ハーレムのメトロポリタン・ホスピタルに入院を認められる(その前にニッカーボッカー病院で入院を拒否されたのは、麻薬常習者は昏睡状態にあっても受け入れられないという理由からだった)。",
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"text": "肝硬変以外にも、腎不全の診断が下される。メサドン治療が施され、少しずつ回復するかに見えた。アルコールと煙草は禁止されていたが、ビリーは隠れて喫煙を続けた。更に悪いことに、6月11日、彼女のハンカチ箱の中から僅かな白い粉が発見される。彼女は逮捕され、病室で何日間か警察の監視下に置かれる。裁判は彼女の回復を待って行なわれることになった。回復は順調に見えたが、7月10日、病状は急変する。腎臓感染と肺うっ血が認められた。ルイ・マッケイとウィリアム・ダフティが病床に駆けつけた。7月15日早朝、ビリーはローマ・カトリック教会の最後の秘蹟を受ける。",
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"text": "1959年7月17日朝3時10分没。 44年の生涯であった。",
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"text": "葬儀は1959年7月21日、セント・ポール教会で行なわれた。3,000人の群集が参列し、人の波はコロンバス・アベニューまで続いた。遺体はブロンクスのセント・レイモンド墓地にある母親の墓石の下に埋葬された。1960年、ルイ・マッケイは彼女の棺を別の墓に移動させた。その死に当って、ビリーが唯一の相続人であるこの前夫(まだ離婚手続きは完了していなかった)に遺したのは1,345ドルであった。しかし僅か6ヵ月後の1959年末には、彼女のレコードの印税は10万ドルに上った。",
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"text": "なお、彼女の死を悼んで彼女の伴奏者であったマル・ウォルドロンが「Left Alone」を制作している。",
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"text": "アルバム『レディ・イン・サテン』のレコーディングを担当したレイ・エリスは、レコーディング時に付きつけられるホリデイのあまりに難しい要求に疲れ果ててミキシングを拒否したが、後日このアルバムに収められた「恋は愚かというけれど (I'm A Fool To Want You)」や「You've Changed」を聴き、歌を際立たせるその限りない悲しみを感じ取った彼は、彼女の歌を残すことの芸術的な意味を理解する。その後、彼女と共にレコーディングしたアルバム『ビリー・ホリデイ』は、ビリーの遺作となった。彼は『レディ・イン・サテン』をレコーディングしたときの思い出を書き記している。",
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"text": "《...一番感動的だったのは、「恋は愚かというけれど」のプレイバックを聴いていた時だろう。彼女の目からは涙が溢れていた。 (中略) アルバム制作終了後、私はコントロール室内に入って全テイクを聴いた。私は彼女の唄いぶりには満足できなかったことを認めねばならないが、感情を込めてではなく、音楽的にしか聴いていなかったのだろう。数週間後ファイナル・ミックスを聴くまでは、彼女の唄いぶりが本当はどんなに素晴らしいものかが解らなかった。》",
"title": "声"
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"text": "フランク・シナトラやアビー・リンカーンらは生前からビリーを絶賛し、彼女の人生の終焉に於いては最も近しい友人の一人になっていた。1972年には、ダイアナ・ロスがホリデイの自伝に基づいた映画『ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実』でホリデイ役を演じた。この作品は商業的にも大成功し、ダイアナ・ロスはアカデミー賞女優賞にノミネートされることとなった。メイシー・グレイも1999年に、ホリデイについて「ビリー・ホリデイは私に大きな影響を与えました。私が本気で勉強した最初のシンガーは彼女でした」と語っている。またU2は、1987年にビリーへのトリビュート・ソングであるシングル「Angel of Harlem」をリリースしている。",
"title": "影響"
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"text": "生前は、エラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンほどの知名度はなかったものの、ビリー・ホリデイはジャズの歴史に於いてユニークな地位を占める存在となった。生涯を通じて人種差別や性差別と闘い、乱れた生活にもかかわらず名声を勝ち得た彼女は、現在、20世紀で最も偉大な歌手の一人に数えられている。また、彼女の名は、しばしばアフリカ系アメリカ人のコミュニティからも、ゲイのコミュニティからも引き合いに出され、差別を声高に反対して、同権を求めて立ち上がろうとした彼女の早くからの努力に対して敬意が払われている。",
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"text": "2019年には、近年になって発見されたジャーナリストのリンダ・リプナック・キュールが1960年代に10年間かけて関係者にインタビューを重ねた膨大な録音テープをもとに構成されたドキュメンタリー映画『BILLIE ビリー』が公開された。また2022年に、ビリー・ホリデイが人種差別を告発する楽曲「奇妙な果実」を歌い続けたことで、FBIのターゲットとして追われていたエピソードに焦点を当てた映画『ザ・ユナイテッド・ステイツ vs. ビリー・ホリデイ』が公開された。当初は全米で劇場公開される予定だったが、新型コロナウイルスの流行が収束しない状況を受け、インターネットでの配信に切り替わった。",
"title": "影響"
}
] | ビリー・ホリデイは、アメリカ合衆国のジャズ歌手。 「レディ・デイ」の呼称で知られ、サラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドと並んで、女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家の1人に数えられる。彼女はその生涯を通して、人種差別や薬物依存症、アルコール依存症との闘いなどの壮絶な人生を送った。彼女の存在は、ジャニス・ジョプリンをはじめとする多くのミュージシャンに影響を与えた。 彼女の生涯に於いて代表的なレパートリーであった「奇妙な果実」や「神よめぐみを」、「I Love You, Porgy」、「Fine and Mellow」などは、後年に多くのミュージシャンに取り上げられるジャズ・ボーカルの古典となった。 彼女の死から約40年後の2000年にはロックの殿堂入りを果たした。また2003年には、「Qの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第12位に選出された。 | {{参照方法|date=2015年10月}}
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
| Name = ビリー・ホリデイ
| Img = Billie Holiday 1949.jpg
| Img_capt = ビリー・ホリデイ [[1949年]]<br/>[[カール・ヴァン・ヴェクテン]]撮影
| Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 -->
| Landscape =
| Background = singer
| Birth_name = エリノラ・フェイガン・ゴフ
| Alias = レディ・デイ
| Blood =
| School_background =
| Born = [[1915年]][[4月7日]]
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1915|4|7|1959|7|17}}{{USA}}・[[ニューヨーク州]]・[[ニューヨーク|ニューヨーク市]]・[[マンハッタン|マンハッタン区]]・[[ハーレム (ニューヨーク市)|ハーレム]]
| Origin = {{USA}}・[[メリーランド州]]・[[ボルチモア]]
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| Genre = [[ジャズ]]
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| Years_active = [[1935年]]-[[1959年]]
| Label = <small> Columbia Records</small><br/> <small> ([[1933年]]-[[1942年]]、[[1958年]]) </small><br> <small> Commodore Records</small><br/> <small> ([[1939年]]、[[1944年]])</small><br> <small> Decca Records</small><br/> <small> (1944年-[[1950年]])</small><br> <small> Verve Records </small><br/> <small>([[1952年]]-1959年)</small>
| Production =
| Associated_acts =
| Influences =
| URL = [https://web.archive.org/web/20040711041159/http://www.cmgww.com/music/holiday/ Billie Holiday Official Site]
| Notable_instruments =
}}
[[ファイル:Billie Holiday, Downbeat, New York, N.Y., ca. Feb. 1947 (William P. Gottlieb 04251).jpg|サムネイル|ニューヨークで公演中のビリー・ホリデイ(1947)]]
'''ビリー・ホリデイ'''(Billie Holiday) こと'''エレオノーラ・フェイガン'''(Eleanora Fagan, [[1915年]][[4月7日]] - [[1959年]][[7月17日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[ジャズ]][[歌手]]。
「'''レディ・デイ'''」の呼称で知られ、[[サラ・ヴォーン]]や[[エラ・フィッツジェラルド]]と並んで、女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家の1人に数えられる<ref>コリアー、ジェイムズ・リンカン著《ホリデイ、ビリー》、The New Grove Dictionary of Music and Musicians、出版社L.ナンシー</ref>。彼女はその生涯を通して、[[人種差別]]や[[薬物依存症]]、[[アルコール依存症]]との闘いなどの壮絶な人生を送った。彼女の存在は、[[ジャニス・ジョプリン]]をはじめとする多くのミュージシャンに影響を与えた。
彼女の生涯に於いて代表的なレパートリーであった「[[奇妙な果実]] (Strange Fruit)」や「神よめぐみを (God Bless' the Child)」、「I Love You, Porgy」、「Fine and Mellow」などは、後年に多くのミュージシャンに取り上げられるジャズ・ボーカルの古典となった。
彼女の死から約40年後の[[2000年]]には[[ロックの殿堂]]入りを果たした。また[[2003年]]には、「[[Q (雑誌)|Q]]の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第12位に選出された<ref>{{Cite web |url=http://www.rocklistmusic.co.uk/qlistspage3.htm#100%20Greatest%20Singers |title=Rocklist.net...Q Magazine Lists.. |work=Q - 100 Greatest Singers |date=2007-04 |accessdate=2013-05-21}}</ref>。
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
[[Image:Billie Holiday 1917.jpg|left|thumb|200px|ビリー・ホリデイ<br/>[[1917年]]撮影]]
ホリデイことエレオノーラ・フェイガンは[[1915年]]に[[アメリカ合衆国]]の[[フィラデルフィア]]で、母サディ・フェイガン(当時19歳)と父クラレンス・ホリデイ(同17歳)の元に産まれた。『奇妙な果実 -ビリー・ホリデイ自伝』<ref>[[油井正一]]・[[大橋巨泉]]訳、晶文社刊。原題『レディ・シングス・ザ・ブルース』。</ref>によると、ビリーはこの本の中で15歳の父と13歳の母という「子どものような」二人が結婚し、自分はその間に生まれたと語っているが、後のジャーナリストたちの調査によれば、実際はクラレンスとサディは結婚しなかったばかりか、クラレンスは生まれたエレオノーラを[[認知]]しようとさえしなかったとされる。
父クラレンスは[[ジャズ]]・[[ギタリスト]]であり、夜は[[ディスコ|ナイトクラブ]]で演奏、昼は街頭を流して生活をしていた。そのためエレオノーラは幼少期を母子家庭のもと、[[メリーランド州]][[ボルチモア]]の{{仮リンク|アッパー・フェルズ・ポイント|en|Upper Fell's Point|label=アッパー・フェルズ・ポイント}}地区で育てられた。しかしサディにとっても娘の面倒を見る時間は無く、結果ホリデイの世話は母の親族に委ねられるようになる。サディはボルチモアで次々と職を変え、その合間を縫って[[ニューヨーク]]を訪れては[[売春]]を重ねていた。親族の家を転々として生活していたエレオノーラにとっても、日々の生活は楽なものではなく、従姉アイダの暴力に耐えなければならなかった。またある日、自分を腕に抱いて昼寝させていた曾祖母がそのまま死亡してしまい、死後硬直した曾祖母の腕で首を絞められて目覚めパニックを起こしたことで[[心的外傷後ストレス障害]]を発症し、何週間もの間[[無言症]]を患うことになった。
やがて学校へ全く通わなくなったエレオノーラは、1925年1月25日に少年裁判所へ引き出され、裁判官より「然るべき保護者のいない未成年」であると断定された。その結果、ボルティモアの黒人専用のカトリックの女子専用寄宿学校「良き羊飼いの家」(House of Good Shepherd for Colored Girls)へ預けられた<ref>{{Cite book|title=Birī horidei : Ongaku to shōgai|url=https://www.worldcat.org/oclc/674735161|publisher=日本テレビ放送網|date=1997|isbn=4820396641|oclc=674735161|others=Nicholson, Stuart., Suzuki, Reiko., Yamato, Akira, 1936-, 鈴木, 玲子, 翻訳家., 大和, 明, 1936-|year=|pages=34-35}}</ref>。同年3月19日、エレオノーラはエドワード・V・キャサリー神父より洗礼を受けた<ref name="名前なし-1">{{Cite book|title=Birī horidei : Ongaku to shōgai|url=https://www.worldcat.org/oclc/674735161|publisher=日本テレビ放送網|date=1997|isbn=4820396641|oclc=674735161|others=Nicholson, Stuart., Suzuki, Reiko., Yamato, Akira, 1936-, 鈴木, 玲子, 翻訳家., 大和, 明, 1936-|year=|page=37}}</ref>。
1925年10月25日、サディは仮釈放の身となったエレオノーラを手元に引き取った<ref name="名前なし-1"/>。しかし、サディは相変わらず外泊が多く、そんなある夜エレオノーラは近所の男性に[[強姦]]されてしまう。[[イギリス]]の音楽ジャーナリストのスチュアート・ニコルソンが著したノンフィクション書『ビリー・ホリディ―音楽と生涯』<ref name=":0">[[鈴木玲子]]訳、日本テレビ放送網刊。原題『ビリー・ホリディ』、1994年初版。</ref>によると、それは[[1926年]]のクリスマス・イブのことだった。エレオノーラはすぐに医師の診察を受け、男性は有罪となったものの、親の保護と養育が充分ではないと判断されたエレオノーラは、[[1925年]]に補導されたときと同様、「良き羊飼いの家」に再送致された。同施設では[[1927年]]2月まで生活した。
[[1928年]]にはサディは再びエレオノーラを取り戻し、共にニューヨークへと移り住む。サディは娘を売春宿に預けて再び売春を始める。
[[1929年]]には母と共にエレオノーラまでが売春の容疑で逮捕、留置されたという記録が存在する。やがてエレオノーラは、[[アメリカ合衆国憲法修正第18条|禁酒法]]時代の[[ハーレム (ニューヨーク市)|ハーレム]]の真ん中で、非合法の[[ディスコ|ナイトクラブ]]に出入りするようになった。それ以降様々なクラブで仕事をするようになったエレオノーラは、ハーレムの有名なジャズクラブ「ポッズ&ジェリーズ」でも歌い始めるようになった。この頃父のクラレンスは[[フレッチャー・ヘンダーソン]]楽団で演奏しており、彼女は父親との再会を果たしていた。
そんな中、15歳のある日彼女は[[サクソフォーン|サックス]]奏者の[[ケニス・ホーロン]]と出会い、彼と共にクイーンズと[[ブルックリン区|ブルックリン]]で最初の契約を手に入れる。幼い頃自分に会いに来た父が、男性のような外見の彼女をからかって「ビル」と呼んでいたことを覚えていた彼女は、そのニックネームに父の姓をつけた「ビリー・ホリデイ」を芸名に決めた。
=== 活動初期 ===
活動初期にはケネス・ホランと共に、ハーレムにあるいくつかのクラブを一緒に回り、やがてコンビを組むまでになった。ホリデイはそれらのクラブでチップを得ることで満足し、「Trav'lin' All Alone」や「Them There Eyes」を歌うようになった頃にはそこそこの蓄えができていた。
[[1933年]]、[[コロムビア・レコード|コロムビア]]レコードのプロデューサー・[[ジョン・ハモンド]]が、クラブ「モネッツ」で穴埋めを務めていたビリーの歌を偶然耳に留め、その才能を見出す。彼は早速コロムビアのスタジオに彼女を呼び、既に契約を交わしていたもう一人の若いミュージシャン、[[クラリネット]]奏者[[ベニー・グッドマン]]とのセッションを企画する。この日、18歳の彼女は「Your Mother's Son-in-Law」と「Riffin' the Scotch」を唄い35ドルを受け取る。翌年、若い才能を求めて人々が集まることで知られる[[アポロ・シアター]]で、彼女はケネス・ホランと共演。しかしそれからしばらく経ち、ケネスが既婚者であったこともあり、二人は別れる。
ホリデイは将来性のある様々なミュージシャンと出会う機会に恵まれたが、その中には[[フレッチャー・ヘンダーソン]]楽団の看板スターであった[[レスター・ヤング]]もいた。ビリーとこのサックス奏者はすぐに意気投合する。レスターはビリーのことを「'''レディ・デイ'''」と呼び、ビリーは彼を「サックス奏者の代表」という意味で「プレジデント」、時には略して「'''プレズ'''」と呼んだ。ステージを終えた後、二人は夜が明けるまでいくつものクラブを周って歩いていたとされる。
=== 絶頂期 ===
ホリデイは[[1935年]]に、歴史に残るジャズピアニストであり作曲家である[[デューク・エリントン]]とも共演した。デュークは発売された自身の[[短編映画]]『シンフォニー・イン・ブラック』にホリデイを起用し「Saddest Tale」を歌わせた。同時期に、彼女は若い[[サクソフォーン|サックス]]奏者[[ベン・ウェブスター]]とも共演し始める。
[[1935年]][[7月2日]]、プロデューサーの[[ジョン・ハモンド]]は、ニューヨークを拠点とする[[ブランズウィック・レコード]]から発売するレコードを企画。サックスのベン・ウェブスターに加えて、[[クラリネット]]には[[ベニー・グッドマン]]、[[ピアノ]]に[[テディ・ウィルソン]]、[[トランペット]]に[[ジョン・トゥルーハート]]、[[ベーシスト|ベース]]に[[ジョン・カービー]]、そして[[コージー・コール]]を[[ドラマー|ドラムス]]に迎え、「月光のいたずら (What a Little Moonlight Can Do)」と「Miss Brown To You」を録音。ベストメンバーでレコーディングされた楽曲は、見事その年の[[ベストセラー]]に輝いた。その頃には母サディに小さなレストランを経営させ、明け方には朝食に立ち寄ることも少なくなかったという。
テディ・ウィルソンと組んで多くの契約をこなしながら、ホリデイはニューヨークにおけるジャズ・スターの一人になる。親密な雰囲気を得意とするホリデイのスタイルは、[[ベッシー・スミス]]やそれに続くシンガーたちが好んで立つ“大舞台”向きではなかったが、レスター・ヤングと組んだレコードは売れ、やがて彼女は[[カウント・ベイシー]]楽団や[[アーティ・ショウ]]楽団とも共演するようになる。ビリーは白人オーケストラと仕事をした初の黒人女性であり、当時のアメリカでは画期的な出来事だった。しかし、彼女に対する[[人種差別]]は消えず、アーティ・ショウ楽団との地方巡業の途中で切り上げざるを得なくなってしまう。[[ジム・クロウ法]]の激しい[[アメリカ合衆国南部|南部]]の州では、黒人であるビリーは彼らと一緒に唄うことが出来ないばかりか、楽団員と一緒のホテルを予約することや、レストランに入ることすらできなかった。
=== 奇妙な果実 ===
バンドから独立しニューヨークに戻ったホリデイは、再びクラブで歌い続けるようになり、出演者も観客も人種を問わず同席できる当時のアメリカでは革新的なクラブであった「{{仮リンク|カフェ・ソサエティ(ナイトクラブ)|en|Café Society|label=カフェ・ソサエティ}}」での専属歌手として活動した。この時期になると、ホリデイの酒量が増え、舞台の合間に[[マリファナ]]を吸うようになった他、[[同性愛|レズビアン]]との関係を重ねたため「ミスター・ホリデイ」の異名を取るようにもなった。
[[1937年]][[3月1日]]、[[テキサス州]][[ダラス]]での巡業中に風邪から[[肺炎]]を併発した父クラレンスが死亡。南部で最も人種差別の激しい地域の一つだったダラスでは、治療を受けるために回った幾つもの病院からは全て診療を拒絶された。このことについてホリデイは自伝の中で「肺炎が父を殺したのではない。テキサス州のダラスが父を殺したのだ。」と綴っている。
[[1939年]]3月、ホリデイは{{仮リンク|エイベル・ミーアポル|en|Abel Meeropol|fr|Abel Meeropol|label=ルイス・アレン}}という若い高校教師が作詞・作曲した、アメリカ南部の[[人種差別]]の惨状について歌った曲「Strange Fruit ([[奇妙な果実]])」と出合い、自身のレパートリーに加えるようになった。
[[コロムビア・レコード|コロムビアレコード]]はビリーホリデイに反リンチ 抗議曲「Strange Fruit ([[奇妙な果実]])」を録音させることを拒否。[[ミルト・ゲイブラー]]は、彼女に小さな専門レーベルである[[コモドア・レコード]]に、録音するように勧め1939年4月20日に録音。
以来この曲はカフェ・ソサエティとホリデイのテーマソングとなり、間もなく発売されたレコードは大きな成功を収めた。
[[1941年]]にホリデイは[[1930年代]]に[[ハンガリー語]]から英訳された「Gloomy Sunday ([[暗い日曜日]])」をレコーディングし、この曲は『奇妙な果実』に続くヒットとなった。
=== 麻薬、そして母の死 ===
これに続く数年間、ビリー・ホリデイは録音や契約を増やし、成功への道を歩み続ける。[[ロイ・エルドリッジ]]、[[アート・テイタム]]、[[ベニー・カーター]]、[[ディジー・ガレスピー]]など多くミュージシャンたちとの共演も果たした。一方で彼女は、[[トロンボーン]]奏者であり麻薬の密売人でもあった[[ジミー・モンロー]]と関係を深め、母と住む家を出て早々に結婚。モンローは彼女に[[アヘン]]や[[コカイン]]を覚えさせた。
また彼女はやがてビバップの[[トランペット]]奏者[[ジョー・ガイ]]と出会い、ジョーの影響で今度は[[ヘロイン]]にも手を出すようになった。黒人として初めて立った[[メトロポリタン歌劇場]]での晴れやかな舞台でも、[[デッカ・レコード#アメリカ・デッカ|デッカ]]と契約を交わしたときも、彼女はガイの支配下にあり、ヘロイン漬けだったと言われる。ビリーは当時を振り返り、「私はたちまちのうちにあの辺で最も稼ぎのいい奴隷の一人になりました。週に1,000ドルを稼ぎましたが、私にはバージニアで綿摘みをしている奴隷ほどの自由もありませんでした」と語っている<ref>ビリー・ホリデイ&ウィリアム・ダフティ著『レディ・シングス・ザ・ブルース』:1956年</ref>。
やがてホリデイの周りには「契約を守らない」「よく舞台に遅れる」「歌詞を間違える」といった噂が囁かれ始める。それを払拭するために、[[1945年]]にガイはホリデイのために大掛りなツアー『ビリー・ホリデイとそのオーケストラ』を企画するが、巡業が始まってしばらく経った頃、一行の耳にホリデイの母サディの訃報が届き、ホリデイは鬱状態に陥りアルコールと麻薬への依存を深め、結局ツアーは途中で打ち切られてしまった。
[[1947年]]、大麻所持により逮捕。その年にモンローとの離婚を機にガイとも別れた彼女は、[[ウェストバージニア州|ウェストヴァージニア州]]オルダーソン連邦女子[[刑務所]]で8ヵ月間の服役生活を送る。その際にニューヨークでの[[キャバレー]]入場証を失効してしまい、それから12年もの間キャバレーへの出演ができなくなってしまった。
=== 逮捕・服役 ===
第二次世界大戦終結後、ホリデイはピアニストの{{仮リンク|ボビー・タッカー|en|Bobby Tucker|de|Bobby Tucker}}とのコラボレーションを始める。レコードの売れ行きは順調。
[[1944年]]には[[デッカ・レコード#アメリカ・デッカ|デッカ]]と契約。
[[1946年]]2月にはニューヨークのタウンホールを制覇した。
同時期にホリデイは[[アイリーン・ウィルソン]]が彼女のために書いた「Lover Man」「{{仮リンク|Good Morning Heartache|en|Good Morning Heartache}}」などを歌い、また彼女自身も「Fine and Mellow」「Billie's Blues」「[[ドント・エクスプレイン|Don't Explain]]」「{{仮リンク|God Bless The Child|en|God Bless the Child (Billie Holiday song)}}」などの楽曲を作曲した。
1947年には、アーサー・ルービン監督の映画『[[ニューオーリンズ (1947年の映画)|ニューオーリンズ]]』にも出演した。
だが同じ頃、彼女はジョー・ガイと寄りを戻し、今度は[[LSD (薬物)|LSD]]に手を出す。
[[1947年]]初頭、[[マネージャー]]の[[ジョー・グレイザー]]は解毒治療のために彼女を私立クリニックに入院させるが失敗に終る。結局、数週間後にホリデイは麻薬不法所持で逮捕され、懲役1年の刑に処される。以降彼女に関するスキャンダルは途切れず、経済的にも追い込まれていった。
[[1948年]][[3月16日]]には品行方正を認められて出所を果たしたが、彼女の心身は破壊されていた。その1週間後の[[1948年]][[3月27日]]、彼女は[[カーネギー・ホール]]でのコンサートに出演した。
[[Image:Billie Holiday 1949 b (cropped).jpg|thumb|ビリー・ホリデイ<br/>[[1949年]][[3月23日]]<br/>[[カール・ヴァン・ヴェクテン]]撮影]]
=== ジョン・レヴィとの出会い ===
出所後にビリーはニューヨークでの労働許可を没収され、ニューヨークのクラブで歌うことを禁止された。唯一の例外は舞台でのコンサートであったが、幾晩も連続して大ホールを聴衆で埋めることは困難だった。加えて、[[ジョー・グレイザー]]とその後彼女のマネージャーとなる[[エド・フィッシュマン]]との間でのエージェント戦争にも巻き込まれてしまう。
相次ぐ災難にもかかわらず、彼女はラジオで[[ライオネル・ハンプトン]]と共演し、ストランド・シアターでは[[カウント・ベイシー]]とも共演している。この頃から彼女の相手を務めるようになったのは、[[ジョン・レヴィ]]という二流どころの[[ギャング]]だった。彼女はまた、良家の出身で一時期[[マレーネ・ディートリヒ]]との浮名も流したことのある[[俳優|女優]][[タルラー・バンクヘッド]]とも関係を結ぶ<ref>シルヴィア・フォル:P.199 - 201、この関係はおおっぴらなものであったにもかかわらず、国会議員の娘であった女優タルラー・バンクヘッドは、ビリーの自叙伝の出版に際し該当部分の記述を削除するようビリーに圧力をかけた。シルヴィア・フォルはフランスの作家、引用著書は後出5.1にある《ビリー・ホリデイ》と思われる。</ref>。
一方で彼女の[[ヘロイン]]漬けの生活は続き、労働許可の没収により仕事をニューヨーク以外の場所に求めざるを得なくもなっていた。契約条件は不利になり、ギャラも少なくなっていったが、レヴィは彼女の稼ぎをすべて吸い上げた上、彼女を脅すようになる。折も折、彼女は[[サンフランシスコ]]で麻薬不法所持により逮捕される。これに対して、[[タルラー・バンクヘッド]]は自分のコネ、とりわけ[[連邦捜査局|FBI]]長官であった[[ジョン・エドガー・フーヴァー|エドガー・フーバー]]との関係を駆使して彼女の釈放に尽力する。しかし彼女はその後もレヴィの暴力を受け続け、伴奏者であり友人であった{{仮リンク|ボビー・タッカー|en|Bobby Tucker|de|Bobby Tucker}}は彼女と袂を分かつ。警察は彼女への捜査を続け、[[1950年]]の『[[ダウン・ビート]]』誌9月号には、「ビリー、またも災難」と題した記事が掲載された。
さらに[[1949年]]のデッカでの録音の際、ホリデイは自身の歌声のリズムを合わせられなくなるという事態に見舞われ<ref>同上P.216</ref>、デッカは[[1950年]]の契約更新を行なわなかった。ホリデイは借金で首も回らなくなってしまう。レヴィは彼女の稼ぎをすべて懐に入れ、請求書は一切払おうとしなかった。レヴィと別れたとき、彼女はかなりの金銭を失うことになったが、一方で一定の自由を取り戻すことができた。だがニューヨークで歌うことができなかったホリデイは、長いツアーをこなさなければならなくなる。
1950年末、彼女は[[シカゴ]]でハイノートの舞台を若き日の[[マイルス・デイヴィス]]と分かち合い、再び成功に恵まれる。
=== ルイ・マッケイとの再会 ===
[[1951年]]、ビリー・ホリデイはアラジンという小さなレコード会社で何枚かのレコードを吹き込むが、批評家からは不評を買う。彼女は[[デトロイト]]で昔の恋人[[ルイ・マッケイ]]と再会する。彼女が16歳のときにハーレムで知り合った男性だが、その時には結婚をし二人の子供の父親となっていた。彼はビリーの新たなマネージャー役に納まり、彼女のキャリアの復活に貢献する。彼女は西海岸に落ち着き、[[ノーマン・グランツ]]のレーベル〈[[ヴァーヴ・レコード|ヴァーヴ]]〉と契約する。ここで彼女は自分に相応しいパートナーたちに巡り会う。[[トランペット]]の[[チャーリー・シェイヴァーズ]]、[[ギター]]の[[バーニー・ケッセル]]、[[ピアノ]]の[[オスカー・ピーターソン]]、[[ベーシスト|ベース]]の[[レイ・ブラウン]]、[[ドラマー|ドラムス]]の[[アルヴィン・ストーラー]]、[[サクソフォーン|サックス]]の[[フリップ・フィリップス]]。『ビリー・ホリデイ・シングス』のタイトルで売り出されたレコードは鮮やかな成功を収め、引き続きその他の幾つかのセッションが録音される。にもかかわらず労働許可は再び却下され、彼女は肉体的負担の大きいツアーとコンサート(アポロ劇場、カーネギー・ホール)に頼る生活を強いられる。
[[1954年]]、ビリーは昔からの夢を実現する。初のヨーロッパ・ツアーである。ルイ・マッケイとピアニストの[[カール・ドリンカード]]を伴い、彼女は[[スウェーデン]]、[[デンマーク]]、[[ベルギー]]、[[ドイツ]]、[[オランダ]]、[[フランス]]([[パリ]])、[[スイス]]を回る。彼女がパリに立ち寄ったのは観光のためで、その後[[イギリス]]に向かい、そこでのコンサートは大成功を収める。このツアーは実り多く、ビリーにとっては最良の思い出の一つとなった。帰国すると、麻薬にもアルコールにもめげず、彼女は超人的な力を発揮する。カーネギー・ホールで唄い、[[ニューポート・フェスティバル]]に出演し、[[サンフランシスコ]]で、[[ロサンゼルス|ロスアンゼルス]]で唄い、[[ヴァーヴ・レコード|ヴァーヴ]]のための録音も続けた。〈ダウン・ビート〉誌は特別に彼女のための賞を設け、授与する。彼女は新しい伴奏者として若いメムリー・ミジェットを雇う。彼女との関係は単なる友情以上のものへと発展する。メムリーはビリーが麻薬を断つよう励まし手伝うが、失敗に終わる。彼女の影響を喜ばなかったマッケイによって、メムリーは追い払われる。
[[1955年]][[4月2日]]、ビリー・ホリデイはカーネギー・ホールで催された[[チャーリー・パーカー]](3月12日死去)の追悼コンサートに出演する。[[サラ・ヴォーン]]、[[ダイナ・ワシントン]]、[[レスター・ヤング]]、[[ビリー・エクスタイン]]、[[サミー・デイヴィスJr.|サミー・デイヴィス・ジュニア]]、[[スタン・ゲッツ]]、[[セロニアス・モンク]]などと並んで、ビリーがコンサートの終わりを告げたのは朝の4時頃であった。
[[1955年]]8月、彼女はヴァーヴのために新しいアルバムを録音する。『[[ミュージック・フォー・トーチング]]』。[[ジミー・ロウルス]]のピアノ、[[ハリー・エディソン|ハリー・“スウィーツ”・エディソン]]のトランペット、[[バーニー・ケッセル]]のギター、[[ベニー・カーター]]のアルトサックス、{{仮リンク|ジョン・シモンズ (ベーシスト)|en|John Simmons (musician)|label=ジョン・シモンズ}}のベースそして[[ラリー・バンカー]]のドラムスを伴奏に彼女が実現した傑作の一つである。その後、彼女は西海岸でクラブの仕事を得る。
=== レディ・イン・サテン ===
[[1956年]]、ビリーはルイ・マッケイと共に麻薬不法所持で逮捕される。新たな裁判が予定される。彼女の自叙伝《レディ・シングス・ザ・ブルース》が出版される時期<small>―この自叙伝は実質的には彼女のファンであった新聞記者ウィリアム・ダフティが、それまでに行なったインタビューを編集し直したものだった―</small>、彼女は再度解毒治療を試みる。だが、彼女の健康は次第に蝕まれてゆく。彼女の新しいピアニストの[[コーキー・ヘイル]]は後にビリーの苦渋の様子を証言している。憔悴、麻薬とアルコールによる頽廃、いつもは長袖で隠してはいるが遂には手まで覆うようになった注射針の痕、疲労、体重の減少、舞台前の酔態。マッケイと共に裁判に掛けられると想像しただけで彼女は恐怖に陥る。そして、そのマッケイは徐々に彼女から遠ざかって行った。
彼女はニューポートのフェスティバルに登場し、また[[CBS|CBSテレビ]]の〈ザ・サウンド・オヴ・ジャズ〉にも出演する。主な共演者は[[レスター・ヤング]]、[[コールマン・ホーキンス]]、[[ベン・ウェブスター]]、[[ジェリー・マリガン]]そして[[ロイ・エルドリッジ]]。また若き日の[[マル・ウォルドロン]]が彼女の新たな伴奏者として登場する。
[[1957年]][[3月28日]]、ルイ・マッケイとビリーは[[メキシコ]]で結婚するが、これは裁判で互いに不利なことを証言しないためであった。いずれにしても、二人の間は既に終っていた。判決(12ヶ月の執行猶予)が言い渡されると、マッケイはビリーの許を去り、ビリーは離婚手続きを開始する。
[[1958年]]2月、彼女は新曲ばかりを揃えた'''『{{仮リンク|レディ・イン・サテン|en|Lady in Satin|fr|Lady in Satin|hu|Lady in Satin}}』'''を録音する。伴奏は[[編曲]]を担当した{{仮リンク|レイ・エリス|en|Ray Ellis}}が率いるオーケストラだった。それは胸を刺すようなアルバムだった。
[[1959年]]録音の『ビリー・ホリデイ』とだけ題された最後のアルバムにも匹敵するような悲痛さを感じさせた。彼女はまた1958年10月の[[モントルー・ジャズ・フェスティバル]]にも参加し、11月には二度目のヨーロッパ・ツアーを行なう。[[イタリア]]で彼女の唄は野次で迎えられ、公演は切り上げられた。パリでは、オリンピアでの公演をようやくのことで勤めたものの、彼女は憔悴し切っていた。ツアーは風前の灯だった。彼女は[[マル・ウォルドロン]]とベースの[[ミシェル・ゴードリー]]とともにマース・クラブの出演を引き受ける。聴衆はみな彼女の唄に惹きつけられ、ビリーはここで成功を収める。マース・クラブを埋めつくした聴衆の中には[[ジュリエット・グレコ]]、[[セルジュ・ゲンスブール]]といった当時の有名人たちの顔もあった。
当時の記憶を作家[[フランソワーズ・サガン]]はこう綴っている。
{{Quotation|《 それはビリー・ホリデイだった。だが、彼女ではなかった。痩せ細り、年老い、腕は注射針の痕で覆われていた。……眼を伏せて歌い、歌詞を飛ばした。まるで嵐に揉まれる船上で手すりにでも掴まるかのようにピアノにもたれた。集まった人々が拍手を送ると、彼女は聴衆に向って皮肉とも哀れみともとれる眼差しを投げかけるのだった。それは自分自身に対する容赦ない眼差しでもあったのだろう。 》<ref>フランソワーズ・サガン著『私自身のための優しい回想』(新潮社刊、ガリマール著、1984年)</ref>}}
=== 晩年 ===
何年も前から、ビリーは病に侵されていた。両脚には[[浮腫]]が出現していたし、何よりも[[肝硬変]]が悪化していた。それでも彼女は酒を止めることができなかった。朝から晩まで酒を飲み続けた。2回目のヨーロッパ・ツアーで彼女は疲労していたが、数ヵ月後には再びロンドンへ渡り、『チェルシー・アト・ナイン』というテレビ番組に出演している。帰国は困難を極めた。
[[1959年]][[3月15日]]、ビリーは[[レスター・ヤング]]の訃報を耳にする。埋葬のとき、レスターの妻はビリーが唄うことを拒絶、嘆きと悲しみにビリーは泣き崩れる。葬儀からの帰路でビリーはこう呟いたと伝えられる…'''『あいつら、唄わせてくれなかった。この次はあたしの番だわ』'''。
翌4月7日、彼女は44歳を迎える。[[マサチューセッツ州|マサチューセッツ]]での複数の契約を果した後、5月25日にはニューヨークのフェニックス・シアターでのチャリティー・コンサートで唄っている。舞台裏では友人たちが彼女のあまりの変貌に驚き、[[ジョー・グレイザー]]などは彼女を入院させようとするが、彼女は聞き入れなかった。5月30日、彼女は自宅で倒れ、ハーレムのメトロポリタン・ホスピタルに入院を認められる(その前にニッカーボッカー病院で入院を拒否されたのは、麻薬常習者は昏睡状態にあっても受け入れられないという理由からだった)。
肝硬変以外にも、[[腎不全]]の診断が下される。[[メサドン]]治療が施され、少しずつ回復するかに見えた。アルコールと煙草は禁止されていたが、ビリーは隠れて喫煙を続けた。更に悪いことに、6月11日、彼女のハンカチ箱の中から僅かな白い粉が発見される。彼女は逮捕され、病室で何日間か警察の監視下に置かれる。裁判は彼女の回復を待って行なわれることになった。回復は順調に見えたが、7月10日、病状は急変する。腎臓感染と肺うっ血が認められた。ルイ・マッケイとウィリアム・ダフティが病床に駆けつけた。7月15日早朝、ビリーはローマ・カトリック教会の最後の[[秘跡|秘蹟]]を受ける。
1959年7月17日朝3時10分没。 44年の生涯であった。
葬儀は[[1959年]][[7月21日]]、セント・ポール教会で行なわれた。3,000人の群集が参列し、人の波はコロンバス・アベニューまで続いた。遺体は[[ブロンクス区|ブロンクス]]のセント・レイモンド墓地にある母親の墓石の下に埋葬された。[[1960年]]、ルイ・マッケイは彼女の棺を別の墓に移動させた。その死に当って、ビリーが唯一の相続人であるこの前夫<small>(まだ離婚手続きは完了していなかった)</small>に遺したのは1,345ドルであった。しかし僅か6ヵ月後の1959年末には、彼女のレコードの[[印税]]は10万ドルに上った。
なお、彼女の死を悼んで彼女の伴奏者であった[[マル・ウォルドロン]]が「Left Alone」を制作している。
== 声 ==
アルバム『レディ・イン・サテン』のレコーディングを担当した[[レイ・エリス]]は、レコーディング時に付きつけられるホリデイのあまりに難しい要求に疲れ果ててミキシングを拒否したが、後日このアルバムに収められた「恋は愚かというけれど (I'm A Fool To Want You)」や「You've Changed」を聴き、歌を際立たせるその限りない悲しみを感じ取った彼は、彼女の歌を残すことの芸術的な意味を理解する。その後、彼女と共にレコーディングしたアルバム『ビリー・ホリデイ』は、ビリーの[[遺作]]となった。彼は『レディ・イン・サテン』をレコーディングしたときの思い出を書き記している。
《…一番感動的だったのは、「恋は愚かというけれど」のプレイバックを聴いていた時だろう。彼女の目からは涙が溢れていた。 (中略) アルバム制作終了後、私はコントロール室内に入って全テイクを聴いた。私は彼女の唄いぶりには満足できなかったことを認めねばならないが、感情を込めてではなく、音楽的にしか聴いていなかったのだろう。数週間後ファイナル・ミックスを聴くまでは、彼女の唄いぶりが本当はどんなに素晴らしいものかが解らなかった。》<ref>レイ・エリス、1997年5月:〈レディ・イン・サテン〉復刻版CD(1997年)[[ライナーノーツ]]より。(対訳:安江幸子)</ref>
== 影響 ==
[[フランク・シナトラ]]や[[アビー・リンカーン]]らは生前からビリーを絶賛し、彼女の人生の終焉に於いては最も近しい友人の一人になっていた。[[1972年]]には、[[ダイアナ・ロス]]がホリデイの自伝に基づいた映画『[[ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実]]』でホリデイ役を演じた。この作品は商業的にも大成功し、ダイアナ・ロスはアカデミー賞女優賞にノミネートされることとなった。[[メイシー・グレイ]]も[[1999年]]に、ホリデイについて「ビリー・ホリデイは私に大きな影響を与えました。私が本気で勉強した最初のシンガーは彼女でした<ref>[http://www.humanite.presse.fr/journal/1999-07-30/1999-07-30-293892])</ref>」と語っている。また[[U2]]は、[[1987年]]にビリーへのトリビュート・ソングであるシングル「Angel of Harlem」をリリースしている。
生前は、[[エラ・フィッツジェラルド]]や[[サラ・ヴォーン]]ほどの知名度はなかったものの、ビリー・ホリデイはジャズの歴史に於いてユニークな地位を占める存在となった。生涯を通じて[[人種差別]]や[[性差別]]と闘い、乱れた生活にもかかわらず名声を勝ち得た彼女は、現在、[[20世紀]]で最も偉大な歌手の一人に数えられている。また、彼女の名は、しばしば[[アフリカ系アメリカ人]]のコミュニティからも、[[同性愛|ゲイ]]のコミュニティからも引き合いに出され、差別を声高に反対して、同権を求めて立ち上がろうとした彼女の早くからの努力に対して敬意が払われている。
2019年には、近年になって発見されたジャーナリストの[[リンダ・リプナック・キュール]]が1960年代に10年間かけて関係者にインタビューを重ねた膨大な録音テープをもとに構成されたドキュメンタリー映画『[[BILLIE ビリー]]』が公開された。また2022年に、ビリー・ホリデイが人種差別を告発する楽曲「奇妙な果実」を歌い続けたことで、FBIのターゲットとして追われていたエピソードに焦点を当てた映画『[[ザ・ユナイテッド・ステイツ vs. ビリー・ホリデイ]]』が公開された。当初は全米で劇場公開される予定だったが、[[新型コロナウイルス]]の流行が収束しない状況を受け、インターネットでの配信に切り替わった。
== エピソード ==
{{出典の明記|section=1|date=2018-01}}
* 身長は165センチメートルであった。
* 祖父は[[バージニア州|ヴァージニア州]]の[[アイルランド人|アイルランド系]]農園主が、黒人奴隷の女性に産ませた子の1人だった。
* 従兄は、[[プロボクサー]]の[[ヘンリー・アームストロング]]。
* [[ブラック・アイド・ピーズ]]は、[[コカ・コーラ|コカコーラ]]の[[コマーシャルメッセージ|CM]]で、ビリー・ホリデイへの称賛を歌った。
* アメリカのモデル、マーシディーズ・イヴェットがビリー・ホリデイのポーズで肖像写真を発表し、ビリーの悲しげな雰囲気を上手く捉えていると好評を呼んだ。
<!--*[[1930年代]]に、著名な[[サクソフォーン]]奏者[[レスター・ヤング]]と共演を重ねた。ビリー・ホリデイにレディ・デイの「称号」を付けたのはヤングであり、ホリデイやヤングのことをプレズ("Prez"、Presidentすなわち[[大統領]])と呼んだ。2人は、[[1657年]][[12月8日]]の[[CBS]]の[[テレビ]]特番「サウンド・オヴ・ジャズ」で再会を果たした。[[1959年]]3月には一緒に[[ヨーロッパ]]へ演奏旅行に出たが、ヤングが発病したためニューヨークに戻らざるを得なくなり、ヤングはそのまま[[3月15日]]に49歳で他界した。著名な医師レナード・フェザーによると、ビリー・ホリデイと[[タクシー]]に同乗してヤングの葬儀に向かった際、ホリデイは「次は私の番だわ」と語ったという。彼女の死は、それから4か月後のことだった。-->
* [[1994年]][[9月18日]]には、[[アメリカ合衆国郵便公社]]がホリデイの記念切手を発行した。
* [[ボルチモア]]のラファイエット・アンド・ペンシルベニア・アベニューの一角には、ホリデイの銅像が建てられている。
<!--*入院中に[[ティッシュペーパー]]の箱にドラッグを隠し持っていたが、看護師にドラッグを発見され、臨終までベッドに拘禁された。-->
* [[2005年]]4月に、生誕90周年を記念して、[[コロンビア大学]]のラジオ放送局“WKCR-FM”([www.WKCR.org]) が、ビリー・ホリデイ音源のマラソン放送を行なった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 参考文献 ==
* 『奇妙な果実 -ビリー・ホリデイ自伝(原題『レディ・シングス・ザ・ブルース』)』(ビリー・ホリデイ著、構成:ウィリアム・ダフティ、翻訳:[[油井正一]]、[[大橋巨泉]]) [[清和書院]]・[[1957年]]、[[筑摩書房]]・[[1963年]]、晶文社(初版)・[[1971年]]、晶文社(再版)・[[1998年]]、 ISBN 4794912560
** 原著『''Lady Sings the Blues''』ISBN 0140067620
* Julia Blackburn, ''With Billie'', ISBN 0375406107
* John Chilton, ''Billie's Blues: The Billie Holiday Story 1933-1959'', ISBN 0306803631
* Donald Clarke, ''Billie Holiday: Wishing on the Moon'', ISBN 0306811367
* Angela Y. Davis, ''Blues Legacies and Black Feminism: Gertrude "Ma" Rainey, Bessie Smith, and Billie Holiday'', ISBN 0679771263
* Leslie Gourse, ''The Billie Holiday Companion: Seven Decades of Commentary'', ISBN 0028646134
* Farah Jasmine Griffin, ''If You Can't Be Free, Be A Mystery: In Search of Billie Holiday'', ISBN 0684868083
* Chris Ingham, ''Billie Holiday'', ISBN 1566491703
* Burnett James, ''Billie Holiday'', ISBN 0946771057
* Jack Millar, ''Born to Sing: A Discography of Billie Holiday'', ISBN 8788043045
* 『ビリー・ホリディ―音楽と生涯(原題『ビリー・ホリディ』)』スチュアート・ニコルソン著。翻訳:鈴木玲子 日本テレビ放送網 1994年初版
** 原著Stuart Nicholson, ''Billie Holiday'', ISBN 1555533035
== 関連項目 ==
* [[サザンオールスターズ]]のアルバム[[KAMAKURA]]に「星空のビリー・ホリデイ」という楽曲が収録されている。
== 外部リンク ==
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{{commons|Billie Holiday}}
* [https://web.archive.org/web/20040711041159/http://www.cmgww.com/music/holiday/ Official Site]
* [http://www.ladyday.net/ The Unofficial Billie Holiday Website]
* [http://www.pbs.org/jazz/biography/artist_id_holiday_billie.htm Brief biography at ''Jazz'' (PBS)]
* [http://www.pbs.org/wnet/americanmasters/database/holiday_b.html Brief biography at ''American Masters'' (PBS)]
* [http://www.aaregistry.com/african_american_history/134/Billie_Holiday_One_of_a_kind_jazzblues_singer The African American Registry - Billie Holiday]
* [http://www.billieholiday.be Discography of Billie Holiday]
* [http://www.duke.edu/~pmf3/timeline.html Billie Holiday Timeline]
* {{find a Grave|489|Billie Holiday}}
* [http://www.cmgww.com/music/holiday/index.html The Official Site of Billie Holiday]
* [http://www.billieholiday.be Discography of Billie Holiday]
* [http://www.billieholiday78rpm.nl/BILLIE%20HOLIDAY%20THE%2078s.html Discograpy of Billie Holiday's 78rpm Discs]
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3,935 | スルッとKANSAI | スルッとKANSAI(スルッとカンサイ)は、近畿圏を中心に岡山県・静岡県を含めた61の鉄道・バス事業者で構成するスルッとKANSAI協議会が各地の公共交通機関で展開していた磁気式共通ストアードフェアシステム。大阪府大阪市中央区に本社を置く株式会社スルッとKANSAIが事務局運営業務等を受託していた。スルッとKANSAIはシステムの名称であり、カードの名称は発行社局により異なっていた。
磁気式ストアードフェアシステムとしては2017年3月31日をもって共通ストアードフェアカードの発売を終了し、2018年1月31日をもって駅の自動改札機・バスでの共通利用を終了しているが、スルッとKANSAI協議会並びに株式会社スルッとKANSAIは後継となる非接触型IC乗車カード「PiTaPa」を展開する組織・法人として存続している。
1992年4月1日に阪急電鉄がそれまで乗車券購入や運賃精算用として販売していた磁気式プリペイドカード・ラガールカードを用いたストアードフェアシステム「ラガールスルー」の運用を開始し、1994年には能勢電鉄が自社のパストラルカードとラガールカードを共通化する形で参加。そしてこれをベースとして当時自動改札機の更新を予定していた阪神電気鉄道、大阪市交通局、北大阪急行電鉄の3社局にも拡張対応させ、1996年3月20日から「スルッとKANSAI」の統一名称を用いての運用を開始した。
当初、スルッとKANSAIに関わる業務は加盟各社局が分担して行っていたが、加盟社局の増加により業務の効率化を図るため、専任事務局を受託する企業として、阪急電鉄・阪神電気鉄道・大阪市交通局などが出資し、2000年7月18日に株式会社スルッとカンサイ(後の商業登記規則改正時に現商号に変更)が設立された。
スルッとKANSAIでは、ストアードフェアシステムの提携のみにとどまらず、各種チケットやグッズ制作販売会社とともに加盟各社のグッズなどの企画を行い、各社主要駅や鉄道イベントで玩具(Bトレインショーティーやくるっぴー等)やチューインガム、CDや文具を販売している。これらのオリジナルグッズは、基本的に一度販売されれば再発売しない方式を貫いている。また、乗車券用紙などの資材の一括調達も行っている。
2004年からは非接触型ICカード「PiTaPa」が導入された。これによりスルッとKANSAI協議会には近畿圏の交通事業者だけではなく、岡山地区や静岡県の交通事業者も加盟して「PiTaPa」を導入するようになった。また、「PiTaPa」は電子マネーとしても利用できることから、自治体なども参加している(参加事業者・導入時期は「PiTaPa」の項目を参照)。ただし、自治体などが自主運行するコミュニティバスに関しては、加盟社局であっても利用できない路線もある。
奈良県・兵庫県のバス事業者でシェアの大きい奈良交通や神姫バス、リムジンバスの大阪空港交通では使用できないが、これらの事業者も協議会には加盟しており、ICカードPiTaPaを介した共通化が図られている(大阪空港交通は伊丹空港発着便のみで、共同運行会社は一部不可の事業者あり)。水間鉄道と京阪京都交通については後に加盟し、京阪京都交通は2008年3月1日から(「PiTaPa」を同時に導入)、水間鉄道・バスに関しては2009年6月1日に「PiTaPa」のみ導入した。また、滋賀県湖西地区の江若交通は協議会に加盟の上、2011年11月1日より堅田営業所の路線バス(一部をのぞく)にPiTaPaを導入した。
大阪南部に路線網を有する南海グループの路面電車である阪堺電気軌道は、2010年11月12日に協議会に加盟したのち、2014年4月1日より「PiTaPa」のみ導入を行った。また南海バスでも同日より、堺営業所・東山営業所管内の路線バス(南海ウイングバス金岡運行分を含む)より、PiTaPaが追加導入された。
スルッとKANSAIの導入初期から利用可能であった阪急バス・阪急田園バスの両社については、2012年4月1日に両社専用(阪神バスも利用可能)のIC乗車カード「hanica」を導入した(3社のバス路線には先行して「PiTaPa」が並行導入されていた)ことで、同年5月31日にスルッとKANSAI対応カードの発売を終了した後、同年9月30日に同カードの利用を終了した(唐櫃営業所管轄の路線バスとオレンジゆずるバスは2013年4月30日まで利用可能だった。阪神バスでは同年10月1日以降も、同カードの発売・利用を継続)。
三重県で最大手のバス会社である三重交通では、協議会に加盟した後2016年4月1日より、自社専用のIC乗車カード「emica」の導入に合わせて、PiTaPaのみの導入が行われた。
なお、2005年6月30日には大阪港トランスポートシステムが大阪市交通局へ鉄軌道事業の運営を譲渡し、2006年3月31日には京阪宇治交通とその子会社である京阪宇治交通田辺が京阪バスに吸収合併されたため、それぞれスルッとKANSAI協議会から脱退したが、加盟社局内での譲渡・合併であり、いずれの路線においても以前と変わりなくスルッとKANSAI対応カードを使用できた。
2009年3月20日の阪神なんば線の開業により近鉄-阪神-神戸高速-阪急-大阪市営地下鉄-近鉄-京都市営地下鉄-京阪(大津線系統)と路線がつながり、乗車経路がこれらの路線の多くの駅で複数になるが、近鉄生駒駅にけいはんな線と奈良線・生駒線の連絡改札があり、その改札の通過の有無(通過していない場合阪神なんば線経由となる)で乗車経路の確認が可能となっている。
2009年4月より、関東大手私鉄である西武鉄道、小田急電鉄、箱根登山鉄道の3社がスルッとKANSAI協議会と提携し、各種資材の共同購入を行うことが発表された。
2014年夏、JRグループの事業者として初めて西日本ジェイアールバスが協議会に加盟した。その後、金沢営業所管内の路線バスを皮切りに、若江線、高雄・京北線、園福線と、各路線ごとに順次PiTaPaのみの導入が行われた。
スルッとKANSAIの目的は以下の通りである。
このことにより、加盟社局がカバーするエリアの乗客は、スルッとKANSAI加盟社局が発行した「スルッとKANSAI」対応カードさえ持てば、複数の交通機関で共通の「金券 兼 切符」として使用することができる。
スルッとKANSAI対応カードの発売額面は以下の通りである。なお、社局によっては取り扱いのない額面もあった。また、いずれのカードも共通利用は2018年1月31日をもって終了した。
鉄道の駅においては駅窓口及び自動券売機での発売、近鉄などでは駅構内にスルッとKANSAIだけを発売する専用の自動券売機を設置したり、大阪線(大和八木以西)、橿原線、京都線等の特急車内で車掌が販売を行ったり、阪急に至っては主要駅の構内に専用のブースを設け、駅係員が自ら販売するなど積極的に販売活動を行っていた。また各社の一部の駅売店でも販売されていた。
しかし、末期には後述の偽造カードの発覚や、IC乗車カード(PiTaPa・ICOCA(京阪・近鉄の2社(いずれも一部路線・区間を除く)での発売))の普及により、発売箇所を自動券売機のみに縮小する社局が出た。
金券ショップでは、実発売額より安価(1000円のカードが990円など)で販売していることがあるので、同所で購入すればPiTaPaやICOCAよりわずかな差ではあるが安く乗車できる。その一方で2008年12月29日に偽造レインボーカード(大阪市交通局)の使用が発覚したため、一部社局は5,000円カードの発売を中止した。また、2009年4月22日に近鉄が自社の偽造スルッとKANSAIカードが発見されたことを発表した(磁気情報はレインボーカードのもの)。なお、偽造カードを使用したとして東大阪市に住む韓国人2人が逮捕された。大阪府警は背後に偽造グループが存在するとみて捜査を進めていたが、その過程で、韓国内で偽造機械を、中国で偽造カードをそれぞれ製造し、日本に送ったことが判明している。
偽造問題の他にも、大阪メトロサービスの特約店によるレインボーカードの金券ショップへの横流し問題が2010年に発覚したことによる、同カードの流通量の減少もあり、一部の金券ショップでは取り扱いを終了したところもある。
スルッとKANSAI対応カードは、縦85mm×横57.5mm(サイバネ規格)厚さ約0.3mmのポリエステル製で、テレホンカードよりわずかに横方向に大きい(磁気定期券と同じ大きさ)カードである。
情報は磁気で記録されており、カードリーダーや自動改札機(※専用の機種)で書き換えることができる。裏面の印字(感熱皮膜破壊、または感熱発色方式)もカードリーダーや自動改札機で追記することができる。
発売されたカードには一定の金額に相当する度数が書き込まれており、出札機や改札機に通して乗車や乗車券購入に使用する度に、必要金額に相当する度数を減算されたデータに書き換えられる。
使用した度数を視認できるよう、カード使用時に支出状況を裏面に21回まで追記で印字していくようになっている。追記される内容は、社局名、使用した駅・車両、使用目的(乗車区間あるいは乗車券購入など)、日時、残額、などである。印字が満杯になった場合はカードを発売する券売機に挿入すると残額を引き継いだ新しいカードが再発行される。この場合、元のカードには最終残額表示に二重取り消し線が上書きされ、残額情報が0円の状態で返却される。
また南海電気鉄道では、有料特急の特急券を購入することができる(一部の窓口及び車内を除く)。
現行のシステムでは、度数がなくなったカードを(追加支払いで度数を購入するなどで)再利用するサービスは想定されておらず、各カードは基本的に使い切りである。但し、使い切ったカードはそのままゴミ箱に捨てるのではなく、各駅の回収箱に投函することにより回収され、国内および海外のカードコレクターに販売されている。
当初、阪急電鉄が単独でラガールカードを導入した際は残額が初乗り金額未満の場合に入場できなかったが、スルッとKANSAIの開始とともに10円でも残額があれば入場できるようになった。ICカード導入とともに初乗り金額の前引きやチェックを行わない社局も増えてきたものの、日本においてこのような取り扱いを始めたのは、スルッとKANSAIが初めてである。
これについては、鉄道営業法第15条「旅客ハ営業上別段ノ定アル場合ノ外運賃ヲ支払ヒ乗車券ヲ受クルニ非サレハ乗車スルコトヲ得ス」という条文に則っているためだが、スルッとKANSAIを含む関西の鉄道事業者が発行するカードでは、これを運輸省に掛け合い、「別段ノ定アル場合」としてカード残額が初乗り運賃に満たなくても入場可能となっている。利用者からすれば、残額が初乗り運賃未満のカードを所有していたとしてもそのまま乗車することが可能であり、特に発車間際の場合には有利になりえる。2枚投入可能な改札機がまだ開発されていなかった当時にこのような取り扱いを始めたスルッとKANSAIやJスルーカードを中心とした関西事業者系カードは、利用者の視点に立った取り扱いを採用したといえる。
2016年7月1日に公式ホームページにて「発売終了および駅の自動改札機・バスでの共通利用終了」が発表された。
これに伴い、2017年3月31日にて共通カードの販売を終了。2018年1月31日をもって駅の自動改札機等での利用を終了した。2018年2月1日以降は、カードの未使用残額についてはカードごとに発行各社が払い戻しを行なうが、払い戻し期間は2023年1月31日までの5年間となっている(一部の会社では払い戻し期間の延長対応をしている場合もある)。
阪急電鉄・阪神電気鉄道・能勢電鉄・北大阪急行電鉄については、降車時に定期券・回数券に重ねてスルッとKANSAI対応カードを改札機に入れると乗り越し額を自動精算できる手軽さもあって「磁気カードを支持する利用客が多かった」(阪急阪神HD社長の杉山健博談)ことから、共通利用終了が発表された同日(2016年7月1日)の別途発表において、2017年4月1日より4社のみ利用可能な磁気式共通カード「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」の発売を開始した。このレールウェイカードは2018年1月31日まではスルッとKANSAI対応カードと同等のカードとしても使用できた。また、ラガールカード・らくやんカード・パストラルカード・レジオンカードについては、共通利用終了以降も当面の間は先述の4社のみで利用可能とした。
2016年7月時点で、上記4社以外が発行したカードの共通利用終了後の取扱については「後日発表」という形となっていたが、2017年10月10日に発売各社局が払い戻し等の取り扱い方法を告知した。阪急電鉄などでは大阪高速鉄道(現・大阪モノレール)が発売したモノカード(阪急電鉄が発行)について、共通利用終了後も4社内で利用可能となると発表している。このほか、上記4社以外で発行されたカードについても、上記4社の自動券売機や自動精算機で使用することが可能である(自動改札機では使用できない)。
上記4社は2018年3月29日に2019年春にICOCAの発売開始とレールウェイカードの発売終了を発表した。移行期間1年をもって、2019年秋には上記4社においてレールウェイカード・ラガールカード・らくやんカード・パストラルカード・レジオンカード・モノカードの自動改札機での使用を終了する。さらに2019年1月24日にはレールウェイカードの発売を同年2月28日で終了し、自動改札機での取り扱いも同年9月30日で終了することを発表した。これにより、1992年4月から27年半続いた磁気式共通カードによるストアードフェアシステムに完全に終止符が打たれることとなった。阪神電気鉄道では2022年9月30日をもって自動券売機や自動精算機での使用も終了した。阪急電鉄では2023年9月30日をもって自動券売機や自動精算機での使用を終了した。
また、近畿日本鉄道、山陽電気鉄道、神戸電鉄、北神急行電鉄、京都市交通局(京都市営地下鉄のみ)では2018年2月1日以降も当分の間スルッとKANSAI対応カード・レールウェイカードを自動券売機や自動精算機で使用可能としていたが、山陽電気鉄道では2019年9月30日をもって、神戸電鉄では2022年10月31日をもって、近畿日本鉄道と京都市交通局(京都市営地下鉄)では2023年1月31日をもって自動券売機や自動精算機での使用を終了した。
和歌山バス・和歌山バス那賀・南海りんかんバスの3社の磁気カードリーダーはバスカード専用になった。
なお、各社とも高速バスや定期観光バスでは利用できない。また、深夜急行バスでは南海バスのみ利用可。
スルッとKANSAI協議会加盟社局で利用することのできる周遊券が発売されている。但し、チケットによって利用可能な社局やエリアが限定される場合がある。スルッとKANSAI 3dayチケット、2dayチケットは、外国人向けのKANSAI THRU PASSを除いて、2016年の関西限定版の秋季の発売を持って発売終了した。なお、2020年度後半に新型コロナウイルス感染症の流行の影響による需要喚起策として日本人向けのKANSAI THRU PASS 2dayチケット(国内版)が期間限定発売された、これも関西限定版と関西域外版の2種類がある。
上記以外にもスルッとKANSAI協議会加盟各社局では時季によって企画ものとして、2社局以上を跨ぐフリー切符が発売されている。 なお、過去には発売期間が「通年販売」のものが存在したが、現在はスルッとKANSAI 3day・2dayチケット(全国通年発売版)等を除き4月1日開始となる年度ごとの発売・利用期間となっており、年度をまたがっての利用はできなくなっている。
「スルッとKANSAI対応カード」は関西一円共通カードシステムを謳っているが、使用できない範囲も京阪神地区以外の地域を中心に多く、各府県全域で普及しているわけではない。スルッとKANSAI協議会に加盟していない事業者、また協議会には加盟していても、未導入の主な事業者は次の通り。なお以下は一度も導入経験がない社局を記載し、三重県の一部を含めている。
「スルッとちゃん」という公式マスコットキャラクターがいる。緑色のトンガリ帽子とワンピースを身に着けた魔法使いの少女で、カードの上に腰かけているデザインがよく使われる。
2002年から2012年まで、スルッとKANSAI公式サイト内に「スルッとちゃんのお部屋」というコンテンツが設けられ、年齢は8歳、星座はおひつじ座、血液型はAB型、出身地は「まほうの国」、好きな食べ物はチョコレートケーキ、口癖は「お出かけしよーよ」、などのプロフィールが紹介されていた。
スルッとちゃんは協議会および運営会社のキャラクターであり、主に広報関係や磁気カードで使用され、スルッとKANSAIが発行しているICカードPiTaPaのキャラクターとしては使用されていない。しかし、2013年3月23日に東京駅で行われた交通系ICカード相互利用開始記念セレモニーでは、各ICカードのキャラクターに交じってスルットちゃんも出席していた。その後PiTaPaのキャラクターは忍者がモチーフの「ぴたまる」が別に制定された。 | [
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"text": "スルッとKANSAI(スルッとカンサイ)は、近畿圏を中心に岡山県・静岡県を含めた61の鉄道・バス事業者で構成するスルッとKANSAI協議会が各地の公共交通機関で展開していた磁気式共通ストアードフェアシステム。大阪府大阪市中央区に本社を置く株式会社スルッとKANSAIが事務局運営業務等を受託していた。スルッとKANSAIはシステムの名称であり、カードの名称は発行社局により異なっていた。",
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"text": "磁気式ストアードフェアシステムとしては2017年3月31日をもって共通ストアードフェアカードの発売を終了し、2018年1月31日をもって駅の自動改札機・バスでの共通利用を終了しているが、スルッとKANSAI協議会並びに株式会社スルッとKANSAIは後継となる非接触型IC乗車カード「PiTaPa」を展開する組織・法人として存続している。",
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"text": "1992年4月1日に阪急電鉄がそれまで乗車券購入や運賃精算用として販売していた磁気式プリペイドカード・ラガールカードを用いたストアードフェアシステム「ラガールスルー」の運用を開始し、1994年には能勢電鉄が自社のパストラルカードとラガールカードを共通化する形で参加。そしてこれをベースとして当時自動改札機の更新を予定していた阪神電気鉄道、大阪市交通局、北大阪急行電鉄の3社局にも拡張対応させ、1996年3月20日から「スルッとKANSAI」の統一名称を用いての運用を開始した。",
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"text": "当初、スルッとKANSAIに関わる業務は加盟各社局が分担して行っていたが、加盟社局の増加により業務の効率化を図るため、専任事務局を受託する企業として、阪急電鉄・阪神電気鉄道・大阪市交通局などが出資し、2000年7月18日に株式会社スルッとカンサイ(後の商業登記規則改正時に現商号に変更)が設立された。",
"title": "概要"
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"text": "スルッとKANSAIでは、ストアードフェアシステムの提携のみにとどまらず、各種チケットやグッズ制作販売会社とともに加盟各社のグッズなどの企画を行い、各社主要駅や鉄道イベントで玩具(Bトレインショーティーやくるっぴー等)やチューインガム、CDや文具を販売している。これらのオリジナルグッズは、基本的に一度販売されれば再発売しない方式を貫いている。また、乗車券用紙などの資材の一括調達も行っている。",
"title": "概要"
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"text": "2004年からは非接触型ICカード「PiTaPa」が導入された。これによりスルッとKANSAI協議会には近畿圏の交通事業者だけではなく、岡山地区や静岡県の交通事業者も加盟して「PiTaPa」を導入するようになった。また、「PiTaPa」は電子マネーとしても利用できることから、自治体なども参加している(参加事業者・導入時期は「PiTaPa」の項目を参照)。ただし、自治体などが自主運行するコミュニティバスに関しては、加盟社局であっても利用できない路線もある。",
"title": "概要"
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"text": "奈良県・兵庫県のバス事業者でシェアの大きい奈良交通や神姫バス、リムジンバスの大阪空港交通では使用できないが、これらの事業者も協議会には加盟しており、ICカードPiTaPaを介した共通化が図られている(大阪空港交通は伊丹空港発着便のみで、共同運行会社は一部不可の事業者あり)。水間鉄道と京阪京都交通については後に加盟し、京阪京都交通は2008年3月1日から(「PiTaPa」を同時に導入)、水間鉄道・バスに関しては2009年6月1日に「PiTaPa」のみ導入した。また、滋賀県湖西地区の江若交通は協議会に加盟の上、2011年11月1日より堅田営業所の路線バス(一部をのぞく)にPiTaPaを導入した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
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"text": "大阪南部に路線網を有する南海グループの路面電車である阪堺電気軌道は、2010年11月12日に協議会に加盟したのち、2014年4月1日より「PiTaPa」のみ導入を行った。また南海バスでも同日より、堺営業所・東山営業所管内の路線バス(南海ウイングバス金岡運行分を含む)より、PiTaPaが追加導入された。",
"title": "概要"
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"text": "スルッとKANSAIの導入初期から利用可能であった阪急バス・阪急田園バスの両社については、2012年4月1日に両社専用(阪神バスも利用可能)のIC乗車カード「hanica」を導入した(3社のバス路線には先行して「PiTaPa」が並行導入されていた)ことで、同年5月31日にスルッとKANSAI対応カードの発売を終了した後、同年9月30日に同カードの利用を終了した(唐櫃営業所管轄の路線バスとオレンジゆずるバスは2013年4月30日まで利用可能だった。阪神バスでは同年10月1日以降も、同カードの発売・利用を継続)。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "三重県で最大手のバス会社である三重交通では、協議会に加盟した後2016年4月1日より、自社専用のIC乗車カード「emica」の導入に合わせて、PiTaPaのみの導入が行われた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "なお、2005年6月30日には大阪港トランスポートシステムが大阪市交通局へ鉄軌道事業の運営を譲渡し、2006年3月31日には京阪宇治交通とその子会社である京阪宇治交通田辺が京阪バスに吸収合併されたため、それぞれスルッとKANSAI協議会から脱退したが、加盟社局内での譲渡・合併であり、いずれの路線においても以前と変わりなくスルッとKANSAI対応カードを使用できた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "2009年3月20日の阪神なんば線の開業により近鉄-阪神-神戸高速-阪急-大阪市営地下鉄-近鉄-京都市営地下鉄-京阪(大津線系統)と路線がつながり、乗車経路がこれらの路線の多くの駅で複数になるが、近鉄生駒駅にけいはんな線と奈良線・生駒線の連絡改札があり、その改札の通過の有無(通過していない場合阪神なんば線経由となる)で乗車経路の確認が可能となっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "2009年4月より、関東大手私鉄である西武鉄道、小田急電鉄、箱根登山鉄道の3社がスルッとKANSAI協議会と提携し、各種資材の共同購入を行うことが発表された。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "2014年夏、JRグループの事業者として初めて西日本ジェイアールバスが協議会に加盟した。その後、金沢営業所管内の路線バスを皮切りに、若江線、高雄・京北線、園福線と、各路線ごとに順次PiTaPaのみの導入が行われた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "スルッとKANSAIの目的は以下の通りである。",
"title": "目的"
},
{
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"tag": "p",
"text": "このことにより、加盟社局がカバーするエリアの乗客は、スルッとKANSAI加盟社局が発行した「スルッとKANSAI」対応カードさえ持てば、複数の交通機関で共通の「金券 兼 切符」として使用することができる。",
"title": "目的"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "スルッとKANSAI対応カードの発売額面は以下の通りである。なお、社局によっては取り扱いのない額面もあった。また、いずれのカードも共通利用は2018年1月31日をもって終了した。",
"title": "「スルッとKANSAI」対応カード"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "鉄道の駅においては駅窓口及び自動券売機での発売、近鉄などでは駅構内にスルッとKANSAIだけを発売する専用の自動券売機を設置したり、大阪線(大和八木以西)、橿原線、京都線等の特急車内で車掌が販売を行ったり、阪急に至っては主要駅の構内に専用のブースを設け、駅係員が自ら販売するなど積極的に販売活動を行っていた。また各社の一部の駅売店でも販売されていた。",
"title": "「スルッとKANSAI」対応カード"
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"text": "しかし、末期には後述の偽造カードの発覚や、IC乗車カード(PiTaPa・ICOCA(京阪・近鉄の2社(いずれも一部路線・区間を除く)での発売))の普及により、発売箇所を自動券売機のみに縮小する社局が出た。",
"title": "「スルッとKANSAI」対応カード"
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"text": "金券ショップでは、実発売額より安価(1000円のカードが990円など)で販売していることがあるので、同所で購入すればPiTaPaやICOCAよりわずかな差ではあるが安く乗車できる。その一方で2008年12月29日に偽造レインボーカード(大阪市交通局)の使用が発覚したため、一部社局は5,000円カードの発売を中止した。また、2009年4月22日に近鉄が自社の偽造スルッとKANSAIカードが発見されたことを発表した(磁気情報はレインボーカードのもの)。なお、偽造カードを使用したとして東大阪市に住む韓国人2人が逮捕された。大阪府警は背後に偽造グループが存在するとみて捜査を進めていたが、その過程で、韓国内で偽造機械を、中国で偽造カードをそれぞれ製造し、日本に送ったことが判明している。",
"title": "「スルッとKANSAI」対応カード"
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"text": "偽造問題の他にも、大阪メトロサービスの特約店によるレインボーカードの金券ショップへの横流し問題が2010年に発覚したことによる、同カードの流通量の減少もあり、一部の金券ショップでは取り扱いを終了したところもある。",
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"text": "スルッとKANSAI対応カードは、縦85mm×横57.5mm(サイバネ規格)厚さ約0.3mmのポリエステル製で、テレホンカードよりわずかに横方向に大きい(磁気定期券と同じ大きさ)カードである。",
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"text": "情報は磁気で記録されており、カードリーダーや自動改札機(※専用の機種)で書き換えることができる。裏面の印字(感熱皮膜破壊、または感熱発色方式)もカードリーダーや自動改札機で追記することができる。",
"title": "「スルッとKANSAI」対応カード"
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"text": "発売されたカードには一定の金額に相当する度数が書き込まれており、出札機や改札機に通して乗車や乗車券購入に使用する度に、必要金額に相当する度数を減算されたデータに書き換えられる。",
"title": "「スルッとKANSAI」対応カード"
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"text": "使用した度数を視認できるよう、カード使用時に支出状況を裏面に21回まで追記で印字していくようになっている。追記される内容は、社局名、使用した駅・車両、使用目的(乗車区間あるいは乗車券購入など)、日時、残額、などである。印字が満杯になった場合はカードを発売する券売機に挿入すると残額を引き継いだ新しいカードが再発行される。この場合、元のカードには最終残額表示に二重取り消し線が上書きされ、残額情報が0円の状態で返却される。",
"title": "「スルッとKANSAI」対応カード"
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"text": "また南海電気鉄道では、有料特急の特急券を購入することができる(一部の窓口及び車内を除く)。",
"title": "「スルッとKANSAI」対応カード"
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"text": "当初、阪急電鉄が単独でラガールカードを導入した際は残額が初乗り金額未満の場合に入場できなかったが、スルッとKANSAIの開始とともに10円でも残額があれば入場できるようになった。ICカード導入とともに初乗り金額の前引きやチェックを行わない社局も増えてきたものの、日本においてこのような取り扱いを始めたのは、スルッとKANSAIが初めてである。",
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"text": "2016年7月1日に公式ホームページにて「発売終了および駅の自動改札機・バスでの共通利用終了」が発表された。",
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"title": "「スルッとKANSAI」対応カード"
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"text": "また、近畿日本鉄道、山陽電気鉄道、神戸電鉄、北神急行電鉄、京都市交通局(京都市営地下鉄のみ)では2018年2月1日以降も当分の間スルッとKANSAI対応カード・レールウェイカードを自動券売機や自動精算機で使用可能としていたが、山陽電気鉄道では2019年9月30日をもって、神戸電鉄では2022年10月31日をもって、近畿日本鉄道と京都市交通局(京都市営地下鉄)では2023年1月31日をもって自動券売機や自動精算機での使用を終了した。",
"title": "「スルッとKANSAI」対応カード"
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"text": "和歌山バス・和歌山バス那賀・南海りんかんバスの3社の磁気カードリーダーはバスカード専用になった。",
"title": "「スルッとKANSAI」対応カード"
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"text": "なお、各社とも高速バスや定期観光バスでは利用できない。また、深夜急行バスでは南海バスのみ利用可。",
"title": "導入事業者・発行カード一覧"
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"text": "スルッとKANSAI協議会加盟社局で利用することのできる周遊券が発売されている。但し、チケットによって利用可能な社局やエリアが限定される場合がある。スルッとKANSAI 3dayチケット、2dayチケットは、外国人向けのKANSAI THRU PASSを除いて、2016年の関西限定版の秋季の発売を持って発売終了した。なお、2020年度後半に新型コロナウイルス感染症の流行の影響による需要喚起策として日本人向けのKANSAI THRU PASS 2dayチケット(国内版)が期間限定発売された、これも関西限定版と関西域外版の2種類がある。",
"title": "チケット"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "上記以外にもスルッとKANSAI協議会加盟各社局では時季によって企画ものとして、2社局以上を跨ぐフリー切符が発売されている。 なお、過去には発売期間が「通年販売」のものが存在したが、現在はスルッとKANSAI 3day・2dayチケット(全国通年発売版)等を除き4月1日開始となる年度ごとの発売・利用期間となっており、年度をまたがっての利用はできなくなっている。",
"title": "チケット"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "「スルッとKANSAI対応カード」は関西一円共通カードシステムを謳っているが、使用できない範囲も京阪神地区以外の地域を中心に多く、各府県全域で普及しているわけではない。スルッとKANSAI協議会に加盟していない事業者、また協議会には加盟していても、未導入の主な事業者は次の通り。なお以下は一度も導入経験がない社局を記載し、三重県の一部を含めている。",
"title": "主な未加盟・未導入事業者"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "「スルッとちゃん」という公式マスコットキャラクターがいる。緑色のトンガリ帽子とワンピースを身に着けた魔法使いの少女で、カードの上に腰かけているデザインがよく使われる。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2002年から2012年まで、スルッとKANSAI公式サイト内に「スルッとちゃんのお部屋」というコンテンツが設けられ、年齢は8歳、星座はおひつじ座、血液型はAB型、出身地は「まほうの国」、好きな食べ物はチョコレートケーキ、口癖は「お出かけしよーよ」、などのプロフィールが紹介されていた。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "スルッとちゃんは協議会および運営会社のキャラクターであり、主に広報関係や磁気カードで使用され、スルッとKANSAIが発行しているICカードPiTaPaのキャラクターとしては使用されていない。しかし、2013年3月23日に東京駅で行われた交通系ICカード相互利用開始記念セレモニーでは、各ICカードのキャラクターに交じってスルットちゃんも出席していた。その後PiTaPaのキャラクターは忍者がモチーフの「ぴたまる」が別に制定された。",
"title": "キャラクター"
}
] | スルッとKANSAI(スルッとカンサイ)は、近畿圏を中心に岡山県・静岡県を含めた61の鉄道・バス事業者で構成するスルッとKANSAI協議会が各地の公共交通機関で展開していた磁気式共通ストアードフェアシステム。大阪府大阪市中央区に本社を置く株式会社スルッとKANSAIが事務局運営業務等を受託していた。スルッとKANSAIはシステムの名称であり、カードの名称は発行社局により異なっていた。 磁気式ストアードフェアシステムとしては2017年3月31日をもって共通ストアードフェアカードの発売を終了し、2018年1月31日をもって駅の自動改札機・バスでの共通利用を終了しているが、スルッとKANSAI協議会並びに株式会社スルッとKANSAIは後継となる非接触型IC乗車カード「PiTaPa」を展開する組織・法人として存続している。 | {{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社スルッとKANSAI
| 英文社名 =
| ロゴ =
| 種類 = [[株式会社]]
| 機関設計 =
| 市場情報 =
| 略称 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 郵便番号 = 556-0017
| 本社所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[浪速区]][[湊町 (大阪市)|湊町]]2丁目1番57号<br />難波サンケイビル11階
| 設立 = [[2000年]][[7月18日]]
| 業種 = 9050
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 =
*スルッとKANSAI 協議会の企画推進、総務、経理事務及び計算業務の受託
*乗車チケット共同発行及び共同集金
*クレジットカードに関する業務 他
| 代表者 = 堀 元治(代表取締役社長)
| 資本金 = 1億円
| 売上高 =
| 総資産 =
| 従業員数 = 68名(2020年7月27日時点)
| 決算期 = 毎年3月
| 主要株主 =
| 主要子会社 =
| 関係する人物 =
| 外部リンク = [http://www.surutto.com/ www.surutto.com]
| 特記事項 =
}}
'''スルッとKANSAI'''(スルッとカンサイ)は、[[近畿地方|近畿圏]]を中心に[[岡山県]]・[[静岡県]]を含めた61の鉄道・バス事業者で構成する'''スルッとKANSAI協議会'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.surutto.com/sub_content/about.html|title=スルッとKANSAIについて - スルッとKANSAI協議会|website=スルッとKANSAI|accessdate=2022-05-17}}</ref>が各地の[[公共交通機関]]で展開していた磁気式共通[[乗車カード|ストアードフェアシステム]]。[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]に本社を置く'''株式会社スルッとKANSAI'''が事務局運営業務等を受託していた。スルッとKANSAIはシステムの名称であり、カードの名称は発行社局により異なっていた。
磁気式ストアードフェアシステムとしては[[2017年]]3月31日をもって共通ストアードフェアカードの発売を終了し、[[2018年]]1月31日をもって駅の自動改札機・バスでの共通利用を終了しているが、スルッとKANSAI協議会並びに株式会社スルッとKANSAIは後継となる非接触型IC乗車カード「'''[[PiTaPa]]'''」を展開する組織・法人として存続している。
== 概要 ==
[[1992年]][[4月1日]]に[[阪急電鉄]]がそれまで[[乗車券]]購入や運賃精算用として販売していた磁気式プリペイドカード・[[ラガールカード]]を用いたストアードフェアシステム「'''ラガールスルー'''」の運用を開始し、[[1994年]]には[[能勢電鉄]]が自社のパストラルカードとラガールカードを共通化する形で参加。そしてこれをベースとして当時[[自動改札機]]の更新を予定していた[[阪神電気鉄道]]、[[大阪市交通局]]、[[北大阪急行電鉄]]の3社局にも拡張対応させ、[[1996年]][[3月20日]]から「'''スルッとKANSAI'''」の統一名称を用いての運用を開始した。
当初、スルッとKANSAIに関わる業務は加盟各社局が分担して行っていたが、加盟社局の増加により業務の効率化を図るため、専任事務局を受託する企業として、阪急電鉄・阪神電気鉄道・大阪市交通局などが出資し、[[2000年]][[7月18日]]に'''株式会社スルッとカンサイ'''(後の商業登記規則改正時に現商号に変更)が設立された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hanshin.co.jp/company/history/index_5.html|title=年譜(平成)|website=阪神電気鉄道|accessdate=2022-05-17}}</ref>。
スルッとKANSAIでは、ストアードフェアシステムの提携のみにとどまらず、各種チケットやグッズ制作販売会社とともに加盟各社のグッズなどの企画を行い、各社主要駅や鉄道イベントで玩具([[Bトレインショーティー]]や[[くるっぴー]]等)やチューインガム、[[コンパクトディスク|CD]]や文具を販売している。これらのオリジナルグッズは、基本的に一度販売されれば再発売しない方式を貫いている<ref group="注釈">なお、Bトレインショーティーはパッケージや一部モールドを変更して後年一般発売されている。</ref>。また、乗車券用紙などの資材の一括調達も行っている<ref group="注釈">ただし、[[入札]]によることが要求される公営交通機関はこの一括調達から外れる</ref>。
[[2004年]]からは非接触型[[ICカード]]「[[PiTaPa]]」が導入された。これによりスルッとKANSAI協議会には近畿圏の交通事業者だけではなく、[[岡山県|岡山地区]]や[[静岡県]]の交通事業者も加盟して「PiTaPa」を導入するようになった。また、「PiTaPa」は[[電子マネー]]としても利用できることから、[[地方公共団体|自治体]]なども参加している(参加事業者・導入時期は「[[PiTaPa]]」の項目を参照)。ただし、自治体などが自主運行する[[コミュニティバス]]に関しては、加盟社局であっても利用できない路線もある。
[[奈良県]]・[[兵庫県]]のバス事業者でシェアの大きい[[奈良交通]]や[[神姫バス]]、[[リムジンバス]]の[[大阪空港交通]]では使用できないが、これらの事業者も協議会には加盟しており、ICカードPiTaPaを介した共通化が図られている(大阪空港交通は伊丹空港発着便のみで、共同運行会社は一部不可の事業者あり)。[[水間鉄道]]と[[京阪京都交通]]については後に加盟し、京阪京都交通は[[2008年]][[3月1日]]から(「PiTaPa」を同時に導入)、水間鉄道・バスに関しては[[2009年]][[6月1日]]に「PiTaPa」のみ導入した。また、滋賀県湖西地区の[[江若交通]]は協議会に加盟の上、[[2011年]][[11月1日]]より堅田営業所の路線バス(一部をのぞく)にPiTaPaを導入した<ref group="注釈">システム上は京阪バス扱い。</ref>。
大阪南部に路線網を有する[[南海グループ]]の[[路面電車]]である[[阪堺電気軌道]]は、2010年11月12日に協議会に加盟したのち、2014年4月1日より「PiTaPa」のみ導入を行った。また[[南海バス]]でも同日より、堺営業所・東山営業所管内の路線バス([[南海ウイングバス金岡]]運行分を含む)より、PiTaPaが追加導入された。
スルッとKANSAIの導入初期から利用可能であった[[阪急バス]]・[[阪急田園バス]]の両社については、2012年4月1日に両社専用([[阪神バス]]も利用可能)のIC乗車カード「[[hanica]]」を導入した(3社のバス路線には先行して「PiTaPa」が並行導入されていた)ことで、同年5月31日にスルッとKANSAI対応カードの発売を終了した後、同年9月30日に同カードの利用を終了した([[阪急バス唐櫃営業所|唐櫃営業所]]管轄の路線バスと[[オレンジゆずるバス]]は[[2013年]][[4月30日]]まで利用可能だった。阪神バスでは同年10月1日以降も、同カードの発売・利用を継続)。
[[三重県]]で最大手のバス会社である[[三重交通]]では、協議会に加盟した後[[2016年]][[4月1日]]より、自社専用のIC乗車カード「emica」の導入に合わせて、PiTaPaのみの導入が行われた。
なお、[[2005年]][[6月30日]]には[[大阪港トランスポートシステム]]が大阪市交通局へ鉄軌道事業の運営を譲渡し、[[2006年]][[3月31日]]には[[京阪宇治交通]]とその子会社である京阪宇治交通田辺が京阪バスに吸収合併されたため、それぞれスルッとKANSAI協議会から脱退したが、加盟社局内での譲渡・合併であり、いずれの路線においても以前と変わりなくスルッとKANSAI対応カードを使用できた。
2009年3月20日の[[阪神なんば線]]の開業により近鉄-阪神-神戸高速-阪急-大阪市営地下鉄-近鉄-京都市営地下鉄-京阪(大津線系統)と路線がつながり、乗車経路がこれらの路線の多くの駅で複数になるが、近鉄生駒駅にけいはんな線と奈良線・生駒線の連絡改札があり、その改札の通過の有無(通過していない場合阪神なんば線経由となる)で乗車経路の確認が可能となっている。
2009年4月より、関東大手私鉄である[[西武鉄道]]、[[小田急電鉄]]、[[箱根登山鉄道]]の3社がスルッとKANSAI協議会と提携し、各種資材の共同購入を行うことが発表された<ref>[http://www.surutto.com/newsrelease/release/s090325.pdf 西武鉄道・小田急電鉄・箱根登山鉄道の3社は、スルッとKANSAIと連携し、2009年4月より資材の共同購入を実施します]- スルッとKANSAI ニュースリリース、 2009年3月25日、 2012年7月19日閲覧</ref>。
2014年夏、[[JR|JRグループ]]の事業者として初めて[[西日本ジェイアールバス]]が協議会に加盟した。その後、金沢営業所管内の路線バスを皮切りに、[[若江線]]、[[高雄・京北線]]、園福線と、各路線ごとに順次PiTaPaのみの導入が行われた。
== 目的 ==
'''スルッとKANSAI'''の目的は以下の通りである。
* 乗車用プリペイドカードを導入し、別途乗車券(切符)を買わなくても乗車できるようにする。
* 乗車用プリペイドカードと乗車券購入用のプリペイドカードに同じものを使えるようにする。
* 乗車用及び乗車券購入用プリペイドカードを、スルッとKANSAI参加社局間では共通に使えるようにする。
このことにより、加盟社局がカバーするエリアの乗客は、スルッとKANSAI加盟社局が発行した「スルッとKANSAI」対応カードさえ持てば、複数の交通機関で共通の「金券 兼 切符」として使用することができる。
== 「スルッとKANSAI」対応カード ==
=== 額面 ===
スルッとKANSAI対応カードの発売額面は以下の通りである。なお、社局によっては取り扱いのない額面もあった。また、いずれのカードも共通利用は2018年1月31日をもって終了した。
* 大人用カード
** 500円(オーダーメイドカードのみ)
** 1,000円
** 2,000円
** 3,000円
** 5,000円(後述の偽造問題により一部の社を除いて途中で販売を中止している)
* 小人用カード
** 500円
** 1,000円
** 1,500円
** 2,000円
** 2,500円(後述の偽造問題により一部の社を除いて途中で販売を中止している)
=== 発売体制 ===
[[画像:Kansai5000.jpg|thumb|240px|偽造カードが原因で高額面券の発売中止を知らせるポスター(阪急電鉄駅構内にて撮影)]]
鉄道の駅においては駅窓口及び[[自動券売機]]での発売、近鉄などでは駅構内にスルッとKANSAIだけを発売する専用の自動券売機を設置したり、[[近鉄大阪線|大阪線]]([[大和八木駅|大和八木]]以西)、[[近鉄橿原線|橿原線]]、[[近鉄京都線|京都線]]等の特急車内で車掌が販売を行ったり、阪急に至っては主要駅の構内に専用のブースを設け、駅係員が自ら販売するなど積極的に販売活動を行っていた。また各社の一部の駅売店でも販売されていた。
しかし、末期には後述の偽造カードの発覚や、IC乗車カード(PiTaPa・[[ICOCA]](京阪・近鉄の2社(いずれも一部路線・区間を除く)での発売))の普及により、発売箇所を自動券売機のみに縮小する社局が出た。
[[金券ショップ]]では、実発売額より安価(1000円のカードが990円など)で販売していることがあるので、同所で購入すればPiTaPaやICOCAよりわずかな差ではあるが安く乗車できる。その一方で2008年[[12月29日]]に偽造レインボーカード(大阪市交通局)の使用が発覚したため、一部社局は5,000円カードの発売を中止した<ref>{{Cite press release|和書|title=偽造レインボーカード対策について |publisher=[[大阪市交通局]] |date=2009年1月14日 |url=http://www.kotsu.city.osaka.jp/news/houdou/h20/reinbowgizoutaisaku.html |language=日本語 |accessdate=2009年3月23日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110708045231/http://www.kotsu.city.osaka.jp/news/houdou/h20/reinbowgizoutaisaku.html |archivedate=2011年7月8日}}</ref>。また、2009年[[4月22日]]に近鉄が自社の偽造スルッとKANSAIカードが発見されたことを発表した(磁気情報はレインボーカードのもの)<ref>{{Cite web|和書|title=偽造スルッとKANSAIカードの発見について |publisher=[[近畿日本鉄道]] |url=http://www.kintetsu.jp/news/wfiles/gizouhp.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2016年7月2日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090424040628/http://www.kintetsu.jp/news/wfiles/gizouhp.pdf |archivedate=2009年4月24日}}</ref>。なお、偽造カードを使用したとして[[東大阪市]]に住む[[大韓民国#国民|韓国人]]2人が逮捕された。[[大阪府警察|大阪府警]]は背後に偽造グループが存在するとみて捜査を進めていたが、その過程で、[[大韓民国|韓国]]内で偽造機械を、[[中華人民共和国|中国]]で偽造カードをそれぞれ製造し、日本に送ったことが判明している<ref>[http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK200907100034.html 「スルッとKANSAI」偽造容疑 韓国でグループ摘発]朝日新聞 2009年7月10日</ref>。
偽造問題の他にも、[[大阪メトロサービス]]の特約店によるレインボーカードの金券ショップへの横流し問題が[[2010年]]に発覚したことによる、同カードの流通量の減少もあり、一部の金券ショップでは取り扱いを終了したところもある。
=== システム ===
'''スルッとKANSAI'''対応カードは、縦85mm×横57.5mm([[日本鉄道技術協会|サイバネ規格]])厚さ約0.3mmのポリエステル製で、[[テレホンカード]]よりわずかに横方向に大きい(磁気定期券と同じ大きさ)カードである。
情報は[[磁性|磁気]]で記録されており、カードリーダーや[[自動改札機]](※専用の機種)で書き換えることができる。裏面の印字([[感熱]]皮膜破壊、または感熱発色方式)もカードリーダーや自動改札機で追記することができる。
発売されたカードには一定の金額に相当する度数が書き込まれており、出札機や改札機に通して乗車や乗車券購入に使用する度に、必要金額に相当する度数を減算されたデータに書き換えられる。
使用した度数を視認できるよう、カード使用時に支出状況を裏面に21回まで追記で印字していくようになっている。追記される内容は、社局名、使用した駅・車両、使用目的(乗車区間あるいは乗車券購入など)、日時、残額、などである。印字が満杯になった場合はカードを発売する券売機に挿入すると残額を引き継いだ新しいカードが再発行される。この場合、元のカードには最終残額表示に二重取り消し線が上書きされ、残額情報が0円の状態で返却される。
また南海電気鉄道では、[[特別急行列車#有料特急列車|有料特急]]の[[特別急行券|特急券]]を購入することができる(一部の窓口及び車内を除く)。
現行のシステムでは、度数がなくなったカードを(追加支払いで度数を購入するなどで)再利用するサービスは想定されておらず、各カードは基本的に使い切りである。但し、使い切ったカードはそのままゴミ箱に捨てるのではなく、各駅の回収箱に投函することにより回収され、国内および海外のカードコレクターに販売されている。
当初、阪急電鉄が単独でラガールカードを導入した際は残額が初乗り金額未満の場合に入場できなかったが、スルッとKANSAIの開始とともに10円でも残額があれば入場できるようになった。ICカード導入とともに初乗り金額の前引きやチェックを行わない社局も増えてきたものの、日本においてこのような取り扱いを始めたのは、スルッとKANSAIが初めてである。
これについては、[[鉄道営業法]]第15条「旅客ハ営業上別段ノ定アル場合ノ外運賃ヲ支払ヒ乗車券ヲ受クルニ非サレハ乗車スルコトヲ得ス」という条文に則っているためだが、スルッとKANSAIを含む関西の鉄道事業者が発行するカードでは、これを[[国土交通省|運輸省]]に掛け合い、「別段ノ定アル場合」としてカード残額が初乗り運賃に満たなくても入場可能となっている。利用者からすれば、残額が初乗り運賃未満のカードを所有していたとしてもそのまま乗車することが可能であり、特に発車間際の場合には有利になりえる。2枚投入可能な改札機がまだ開発されていなかった当時にこのような取り扱いを始めたスルッとKANSAIや[[Jスルーカード]]を中心とした関西事業者系カードは、利用者の視点に立った取り扱いを採用したといえる。
=== 共通利用終了 ===
[[2016年]][[7月1日]]に公式ホームページにて「発売終了および駅の自動改札機・バスでの共通利用終了」が発表された<ref name='surutto-release'>{{Cite press release|和書|title=スルッとKANSAI対応カードの発売終了および駅の自動改札機・バスでの共通利用終了について |publisher=スルッとKANSAI協議会 |date=2016年7月1日 |url=http://www.surutto.com/newsrelease/release/s1600701.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2016年7月2日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160702010256/http://www.surutto.com/newsrelease/release/s1600701.pdf |archivedate=2016年7月2日}}</ref>。
これに伴い、[[2017年]][[3月31日]]にて共通カードの販売を終了。[[2018年]][[1月31日]]をもって駅の自動改札機等での利用を終了した。2018年2月1日以降は、カードの未使用残額についてはカードごとに発行各社が払い戻しを行なうが、払い戻し期間は2023年1月31日までの5年間となっている(一部の会社では払い戻し期間の延長対応をしている場合もある)。
[[阪急電鉄]]・[[阪神電気鉄道]]・[[能勢電鉄]]・[[北大阪急行電鉄]]については、降車時に定期券・回数券に重ねてスルッとKANSAI対応カードを改札機に入れると乗り越し額を自動精算できる手軽さもあって<ref name="itmedia20160704">{{Cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1607/04/news068.html|title=ICカード時代になぜ? 関西私鉄4社が「新たな磁気カード乗車券」発行へ|newspaper=[[ITmedia]]|date=2016-07-04|accessdate=2018-10-27}}</ref>「磁気カードを支持する利用客が多かった」(阪急阪神HD社長の杉山健博談)<ref name="newswitch20181004">{{Cite news|url=https://newswitch.jp/p/14671|title=関西で交通系ICカード普及へ、距離を縮めるJRと阪急|newspaper=日刊工業新聞|date=2018-10-04|accessdate=2018-10-26}}</ref>ことから、共通利用終了が発表された同日(2016年7月1日)の別途発表において、2017年[[4月1日]]より4社のみ利用可能な磁気式共通カード「'''[[ラガールカード#阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード|阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード]]'''」の発売を開始した<ref name="itmedia20160704"/>。このレールウェイカードは2018年1月31日まではスルッとKANSAI対応カードと同等のカードとしても使用できた。また、[[ラガールカード]]・[[らくやんカード]]・パストラルカード・レジオンカードについては、共通利用終了以降も当面の間は先述の4社のみで利用可能とした<ref name='hankyu-4'>{{Cite press release|和書|title=阪急電鉄・阪神電気鉄道・能勢電鉄・北大阪急行電鉄の4社におけるスルッとKANSAI対応カードの取扱いについて |publisher=[[阪急電鉄]] |date=2016年7月1日 |url=http://www.hankyu.co.jp/files/upload/pdf/160701card.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2016年7月2日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160702010448/http://www.hankyu.co.jp/files/upload/pdf/160701card.pdf |archivedate=2016年7月2日}}</ref>。
2016年7月時点で、上記4社以外が発行したカードの共通利用終了後の取扱については「後日発表」という形となっていた<ref name='surutto-release' />が、2017年10月10日に発売各社局が払い戻し等の取り扱い方法を告知した。阪急電鉄などでは大阪高速鉄道(現・[[大阪モノレール]])が発売したモノカード(阪急電鉄が発行)について、共通利用終了後も4社内で利用可能となると発表している<ref name='hankyu-4' />。このほか、上記4社以外で発行されたカードについても、上記4社の自動券売機や自動精算機で使用することが可能である(自動改札機では使用できない)。
上記4社は2018年3月29日に2019年春にICOCAの発売開始とレールウェイカードの発売終了を発表した。移行期間1年をもって、2019年秋には上記4社においてレールウェイカード・ラガールカード・らくやんカード・パストラルカード・レジオンカード・モノカードの自動改札機での使用を終了する<ref name="newswitch20181004"/>。さらに2019年1月24日にはレールウェイカードの発売を同年2月28日で終了し、自動改札機での取り扱いも同年9月30日で終了することを発表した<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.hankyu.co.jp/files/upload/pdf/190124_RC.pdf|title=「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」の発売終了、 改札機での利用終了と払い戻しについて |publisher=阪急電鉄・阪神電気鉄道・能勢電鉄・北大阪急行電鉄|date=2019-01-24|accessdate=2019-02-06}}</ref>。これにより、1992年4月から27年半続いた磁気式共通カードによるストアードフェアシステムに完全に終止符が打たれることとなった。阪神電気鉄道では2022年9月30日をもって自動券売機や自動精算機での使用も終了した。阪急電鉄では2023年9月30日をもって自動券売機や自動精算機での使用を終了した。
また、[[近畿日本鉄道]]、[[山陽電気鉄道]]、[[神戸電鉄]]、[[北神急行電鉄]]、[[京都市交通局]](京都市営地下鉄のみ)では2018年2月1日以降も当分の間スルッとKANSAI対応カード・レールウェイカードを自動券売機や自動精算機で使用可能としていたが、山陽電気鉄道では2019年9月30日をもって、神戸電鉄では2022年10月31日をもって、近畿日本鉄道と京都市交通局(京都市営地下鉄)では2023年1月31日をもって自動券売機や自動精算機での使用を終了した。
[[和歌山バス]]・[[和歌山バス那賀]]・[[南海りんかんバス]]の3社の磁気カードリーダーはバスカード専用になった。
== 導入事業者・発行カード一覧 ==
* 導入日はその事業者の路線でスルッとKANSAI対応カードが利用可能になった最初の日。その日以前にもすでに3dayチケットなどに限って利用可能であった事業者・路線もある。
* 漢字略号は、乗車駅の社局名としてカード裏面に印字される文字。
* 英字略号は、降車駅の社局名としてカード裏面に印字される文字。―は、設定がないことを示す。
* 鉄道利用時は、乗車時および券売機・精算機等利用時は、社局名漢字略号に続いて駅名が3文字で、降車時は社局名英字略号に続いて駅名が2文字で印字される。
* バス利用時は、社局名印字に続いて最大4桁の数字(英字の場合もある)が表示される。
* ICカード「PiTaPa」導入事業者・路線については[[PiTaPa]]を参照のこと。
* カード名に括弧が付されているものは、自社でのカード発売を行わない社局を示す。
* 薄青色(<span style="color:#ddf;">■</span>)にて表示された事業者は、2018年1月31日の共通利用終了以前にスルッとKANSAIの対応を終了した社局を示す。
* '''太字'''にて表示された事業者は、2017年3月31日のスルッとKANSAI対応カード発売終了後、2017年4月1日から2019年2月28日まで「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」を発売した社局を示す。
* 下記の通り[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]では利用はできない。
=== 鉄道 ===
{| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:90%"
!事業者名!!漢字略号!!英字略号!!カード名!!導入日!!利用終了日
|-
|'''[[阪急電鉄]]'''<sup>※9</sup>
|阪急・神高
|HK・KK
|[[ラガールカード]]
|rowspan="5"|1996年3月20日
|rowspan="2"|自動改札機利用:2019年9月30日<sup>※13</sup><br>自動券売機利用:2023年9月30日<br>自動精算機利用:2023年9月30日
|-
|'''[[能勢電鉄]]'''
|能勢
|NS
|パストラルカード
|-
|'''[[阪神電気鉄道]]'''<sup>※8</sup>
|阪神・神高
|HS・KK
|[[らくやんカード]]<br>ラガールカード
|自動改札機利用:2019年9月30日<sup>※13</sup><br>自動券売機利用:2022年9月30日<br>自動精算機利用:2022年9月30日
|-
|[[大阪市交通局]]<sup>※11</sup>
|大交
|OC
|レインボーカード
|2018年1月31日
|-
|'''[[北大阪急行電鉄]]'''
|北急
|KE
|レジオンカード<br>(ラガールカード)
|自動改札機利用:2019年9月30日<sup>※13</sup><br>自動券売機利用:2023年9月30日<br>自動精算機利用:2023年9月30日
|-
|style="background-color:#ddf;"|[[神戸高速鉄道]]<sup>※10</sup>
|style="background-color:#ddf;"|神高
|style="background-color:#ddf;"|KK
|style="background-color:#ddf;"|ラガールカード
|style="background-color:#ddf;"|1999年10月1日
|style="background-color:#ddf;"|2010年9月30日
|-
|style="background-color:#ddf;"|[[大阪港トランスポートシステム]]<sup>※1</sup>
|style="background-color:#ddf;"|OTS
|style="background-color:#ddf;"|TS
|style="background-color:#ddf;"|レインボーカード
|style="background-color:#ddf;"|1997年12月18日
|style="background-color:#ddf;"|2005年6月30日
|-
|[[南海電気鉄道]] <sup>※2</sup>
|南海
|NK
|[[南海コンパスカード|コンパスカード]]
|rowspan="3"|1999年4月1日
|rowspan="3"|2018年1月31日
|-
|[[京阪電気鉄道]] <sup>※3</sup>
|京阪
|KH
|[[スルッとKANSAI Kカード]]
|-
|[[泉北高速鉄道]]
|泉北
|SB
|ブルーライナーカード
|-
|[[神戸電鉄]]
|神鉄
|KB
|すずらんカード
|rowspan="5"|1999年10月1日
|自動改札機利用:2018年1月31日<br>自動券売機利用:2022年10月31日<br>自動精算機利用:2022年10月31日
|-
|[[神戸市交通局]]
|神交
|SC
|スルッとKANSAIこうべカード
|2018年1月31日
|-
|[[北神急行電鉄]] <sup>※12</sup>
|北神
|HE
|すずらんカード
|自動改札機利用:2018年1月31日<br>自動券売機利用:2022年10月31日<br>自動精算機利用:2022年10月31日
|-
|[[山陽電気鉄道]]
|山陽
|SY
|エスコートカード
|自動改札機利用:2018年1月31日<br>自動券売機利用:2019年9月30日<br>自動精算機利用:2019年9月30日
|-
|[[神戸新交通]]
|神新
|KS
|スルッとKANSAIこうべカード
|rowspan="2"|2018年1月31日
|-
|大阪高速鉄道(現・[[大阪モノレール]])
|大モ
|OM
|モノカード
|2000年2月1日
|-
|[[京都市交通局]]
|京交
|KC
|スルッとKANSAI都カード
|2000年3月1日
|rowspan="2"|自動改札機利用:2018年1月31日<br>自動券売機利用:2023年1月31日<br>自動精算機利用:2023年1月31日
|-
|[[近畿日本鉄道]] <sup>※4</sup>
|近鉄
|KT
|スルッとKANSAIカード
|2001年2月1日
|-
|[[京福電気鉄道]](嵐電)
|京福<sup>※5</sup>
|―
|rowspan="3"|スルッとKANSAI Kカード
|2002年7月1日
|rowspan="2"|2018年1月31日
|-
|[[比叡山鉄道]]([[比叡山鉄道線|比叡山坂本ケーブル]])
|比叡山<sup>※6</sup>
|―
|2003年4月1日
|-
|style="background-color:#ddf;"|[[叡山電鉄]]
|style="background-color:#ddf;"|叡山<sup>※7</sup>
|style="background-color:#ddf;"|EZ
|style="background-color:#ddf;"|2004年3月1日
|style="background-color:#ddf;"|2016年1月31日
|}
* ※1 大阪港トランスポートシステム
: 2005年[[7月1日]]より路線が大阪市交通局に編入された。
* ※2 南海電気鉄道
: [[和歌山電鐵貴志川線|貴志川線]]では使用できなかった(同線は2006年4月1日より和歌山電鐵に譲渡)。また、[[南海和歌山港支線|和歌山港線]]の[[久保町駅|久保町]]・[[築地橋駅|築地橋]]・[[築港町駅|築港町]]・[[水軒駅|水軒]]の各駅は駅務機器が設置されておらず、廃止まで使用できなかった。
* ※3 京阪電気鉄道
: [[京阪石山坂本線|石山坂本線]]では使用できない(3dayチケットは京津線との接続駅である浜大津駅は自動改札機が利用可能、その他の駅は呈示で利用可、PiTaPaは同線を含めて使用可)。
* ※4 近畿日本鉄道
: [[青山町駅]]以西でのみ使用可能(田原本線・道明寺線・吉野線市尾 - 吉野間及び各鋼索線と葛城山ロープウェイを除く)。但し、エリア外の一部の駅でもスルッとKANSAIカードを使用して券売機で切符を購入可能(PiTaPaは各鋼索線やロープウェイをのぞいた鉄道線全線で使用可)。青山町駅以西のエリアに入っていた[[伊賀鉄道伊賀線|伊賀線]]では使用できなかった(同線は2007年10月1日に伊賀鉄道に運営移管)。
* ※5 京福電気鉄道(嵐電)
: 駅改札口で印字したものに限られる。車内のカード読み取り機ではバス式の印字になり、「京福電鉄」と表示される。
: 同社運営の[[叡山ケーブル]]・[[叡山ロープウェイ]]では利用できない。
* ※6 比叡山鉄道(比叡山坂本ケーブル)
: 駅改札口に設置したカード読み取り機でバス式の印字が行われ、「比叡山」と表示される。
* ※7 叡山電鉄
: 車内のカード読み取り機で印字した場合でも鉄道式の印字となる。なお3dayチケットは呈示で従来通り利用可(出町柳駅のみ自動改札機利用可能、他の駅・車内は改札機及びカード読取機が撤去されている)。
* ※8 阪神電気鉄道
: [[阪神武庫川線|武庫川線]][[東鳴尾駅]]~[[洲先駅]]相互間のみの利用は不可能。PiTaPaは利用可。詳細は[[東鳴尾駅]]、[[洲先駅]]の項目を参照。本線・阪神なんば線・武庫川線各駅では、らくやんカードを発売し、略号は「阪神」・「HS」である。神戸高速線各駅ではラガールカードを発売し、略号は「神高」・「KK」である。
* ※9 阪急電鉄
: [[花隈駅]]のみ略号は「神高」・「KK」である。それ以外の駅の略号は「阪急」・「HK」である。
* ※10 神戸高速鉄道
: 1988年以降は[[鉄道事業法]]に基づく[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業者]]であるが、設立の経緯から鉄道事業法施行以後も[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第二種鉄道事業者]]から列車運行業務・駅管理業務を受託し、従前の営業形態を維持する([[神戸高速鉄道#鉄道事業法の施行に伴う運営形態の変更|当該項目]]参照)とともに、印字欄にも独自の略号を有した。2010年10月1日、花隈駅の運営管理を阪急電鉄に、それ以外の駅の運営管理を阪神電気鉄道へそれぞれ移管、列車運行管理業務も同日、阪神・阪急・神戸電鉄へ移管し、本来の第三種鉄道事業者となり、各社の[[神戸高速線]]となった。
* ※11 大阪市交通局
: 2018年4月1日、民営化により大阪市は公営企業としての交通局を廃止。鉄道部門は交通局が運営していた大阪市営地下鉄の受け皿として新たに設立した大阪市高速電気軌道へ移管。移管以降、KANSAI THRU PASS等の周遊券のチケット類への略号の印字は「大地」・「OC」である。
* ※12 北神急行電鉄
: 2020年6月1日より路線が神戸市交通局に編入された。
* ※13 阪急電鉄、能勢電鉄、阪神電気鉄道、北大阪急行電鉄
: 阪急電鉄、能勢電鉄、阪神電気鉄道、北大阪急行電鉄、神戸高速鉄道以外の社局発売のカードの自動改札機での利用は、2018年1月31日限りで終了していた。
=== バス ===
{| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:90%"
!事業者名!!印字!!カード名!!導入日!!利用終了日
|-
|[[大阪市営バス]]
|大交バス<sup>※1</sup>
|レインボーカード
|1996年3月20日
|2018年1月31日
|-
|style="background-color:#ddf;"|[[阪急バス]]<sup>※10</sup>
|style="background-color:#ddf;"|阪急バス
|style="background-color:#ddf;"|ラガールカード
|style="background-color:#ddf;"|1997年9月1日
|style="background-color:#ddf;"|2012年9月30日
|-
|style="background-color:#ddf;"|[[大阪空港交通]]<sup>※6</sup>
|style="background-color:#ddf;"|OKKバス
|style="background-color:#ddf;"|(ラガールカード)
|style="background-color:#ddf;"|1999年3月15日
|style="background-color:#ddf;"|2009年9月30日
|-
|[[和歌山バス]]
|和バス
|rowspan="2"|[[南海コンパスカード|コンパスカード]]
|rowspan="2"|1999年4月1日
|rowspan="3"|2018年1月31日
|-
|[[和歌山バス那賀]]
|和那バス
|-
|[[京阪バス]]<sup>※2</sup>
|京阪バス
|(スルッとKASNAI Kカード)
|1999年10月1日
|-
|style="background-color:#ddf;"|[[京都京阪バス|京阪シティバス]]<sup>※3</sup>
|style="background-color:#ddf;"|京阪バス
|style="background-color:#ddf;"|(スルッとKANSAI Kカード)
|style="background-color:#ddf;"|2003年3月1日
|style="background-color:#ddf;"|2014年3月31日
|-
|[[神戸市バス]]
|神交バス
|スルッとKANSAIこうべカード
|1999年10月1日
|2018年1月31日
|-
|style="background-color:#ddf;"|[[尼崎市交通局]](尼崎市営バス)<sup>※13</sup>
|style="background-color:#ddf;"|尼市バス
|style="background-color:#ddf;"|らくやんカード
|style="background-color:#ddf;"|2000年3月1日
|style="background-color:#ddf;"|2016年3月19日
|-
|[[伊丹市交通局]](伊丹市営バス)
|伊市バス
|ラガールカード
|rowspan="3"|2000年3月1日
|rowspan="4"|2018年1月31日
|-
|[[京都市営バス]]
|京市バス
|スルッとKANSAI都カード
|-
|[[南海バス]]
|南海バス
|(コンパスカード)
|-
|[[神鉄バス]]
|神鉄バス
|すずらんカード
|2000年5月1日
|-
|style="background-color:#ddf;"|[[阪急田園バス]]<sup>※10</sup>
|style="background-color:#ddf;"|田園バス
|style="background-color:#ddf;"|ラガールカード
|style="background-color:#ddf;"|2000年5月1日
|style="background-color:#ddf;"|2012年9月30日
|-
|[[近鉄バス]]
|近鉄バス
|(スルッとKANSAIカード)
|2000年8月1日
|rowspan="5"|2018年1月31日
|-
|[[南海りんかんバス]]
|りんかん
|(コンパスカード)
|2000年10月1日
|-
|[[京都バス]]
|京都バス
|(スルッとKANSAI Kカード)
|2001年10月20日
|-
|[[南海ウイングバス金岡]]
|南海バス
|(コンパスカード)
|2001年12月1日
|-
|[[大阪シティバス]]<sup>※11</sup>
|大交バス
|(レインボーカード)
|2002年1月27日
|-
|style="background-color:#ddf;"|[[京阪宇治交通]]<sup>※7</sup>
|style="background-color:#ddf;"|宇交バス
|style="background-color:#ddf;"|(スルッとKANSAI Kカード)
|style="background-color:#ddf;"|2002年3月1日
|style="background-color:#ddf;"|2006年3月31日
|-
|[[南海ウイングバス南部]]
|南海バス
|(コンパスカード)
|2002年3月1日
|2018年1月31日
|-
|style="background-color:#ddf;"|[[阪神バス|阪神電気鉄道]](バス)<sup>※8</sup>
|style="background-color:#ddf;"|阪神バス
|style="background-color:#ddf;"|(らくやんカード)
|style="background-color:#ddf;"|2002年3月1日
|style="background-color:#ddf;"|2009年3月31日
|-
|[[神戸交通振興]]<sup>※4</sup>
|神交バス
|(スルッとKANSAIこうべカード)
|2002年8月1日
|rowspan="2"|2018年1月31日
|-
|[[高槻市交通部]](高槻市営バス)
|高槻バス
|(ラガールカード)
|2003年3月17日
|-
|style="background-color:#ddf;"|[[山陽電気鉄道]](バス)<sup>※9</sup>
|style="background-color:#ddf;"|山陽バス
|style="background-color:#ddf;"|(エスコートカード)
|style="background-color:#ddf;"|2003年3月21日
|style="background-color:#ddf;"|2011年2月28日
|-
|[[京都京阪バス]]<sup>※5</sup><sup>※12</sup>
|宇治バス<br />京阪バス<sup>※12</sup>
|(スルッとKANSAI Kカード)
|2003年12月1日
|2018年1月31日
|-
|style="background-color:#ddf;"|[[京阪宇治交通|京阪宇治交通田辺]]<sup>※7</sup>
|style="background-color:#ddf;"|宇田バス
|style="background-color:#ddf;"|(スルッとKANSAI Kカード)
|style="background-color:#ddf;"|2003年12月1日
|style="background-color:#ddf;"|2006年3月31日
|-
|[[尼崎交通事業振興]]
|尼市バス<br />阪神バス<sup>※15</sup>
|(らくやんカード)
|2004年4月1日
|2018年1月31日
|-
|rowspan="2"|[[阪神バス]]<sup>※14</sup>
|rowspan="2"|阪神バス
|rowspan="2"|(らくやんカード)
|style="background-color:#ddf;"|2006年6月14日
|style="background-color:#ddf;"|2015年9月30日
|-
|2016年3月20日
|rowspan="3"|2018年1月31日
|-
|[[京阪京都交通]]<sup>※5</sup>
|京阪バス
|(スルッとKANSAI Kカード)
|2008年3月1日
|-
|[[山陽バス]]
|山陽バス
|(エスコートカード)
|2011年3月1日
|}
* ※1 大阪市営バス
: 2013年3月31日まで運行されていた[[赤バス]]乗車時の印字は「大交BUS」だった。
: 2018年4月1日、民営化により大阪市は公営企業としての交通局を廃止。バス部門は当時交通局の[[外郭団体]]としての会社組織であった大阪シティバスに移管。移管以降、KANSAI THRU PASS等の周遊券のチケット類への印字は「大シバス」に変更となった。
* ※2 京阪バス
: コミュニティバスなど一部の路線は利用不可。
* ※3 京阪シティバス
: 2014年4月1日より京阪宇治バスを社名変更した京都京阪バスに吸収合併された。
* ※4 神戸交通振興
: 山手線・ポーアイキャンパス線(同社運行便のみ)<ref>http://www.kctp.co.jp/pdf/24.4.p.i.henkouannai.pdf</ref>で利用可能。
* ※5 京阪京都交通・京都京阪バス
: 一部の路線は利用不可。
* ※6 大阪空港交通
: 2009年[[9月30日]]をもって、唯一のスルッとKANSAI対応路線であった川西線が廃止となった。
* ※7 京阪宇治交通・京阪宇治交通田辺
: 2006年4月1日をもって京阪バスに吸収合併された。
* ※8 阪神電鉄バス
: 2009年4月1日をもって阪神バスに全ての直営路線を譲渡。
* ※9 山陽電鉄バス
: 2011年[[3月1日]]をもって山陽バスに全ての直営路線を譲渡。
* ※10 阪急バス・阪急田園バス
: [[2012年]]4月1日の共通ICカード乗車券「[[hanica]]」(阪神バスも利用可能)の導入に伴い、同年[[5月31日]]をもってカードの発売を終了し、[[9月30日]]をもってスルッとKANSAIの利用を終了した。なお、10月1日以降もスルッとKANSAI 2day・3dayチケットは券面提示によることで使用可能である。運行を神鉄バスに委託している唐櫃営業所所属車両、及び阪急バスが[[箕面市]]から運行を受託されている[[オレンジゆずるバス]]も10月1日以降利用可能であったが、これらも2013年4月30日をもって取扱を終了(2014年4月1日時点でスルッとKANSAI 2day・3dayチケットも券面提示利用も不可になっている)した。また、唐櫃営業所については翌日から神戸市バスのカードも利用できなくなった<ref>{{PDFlink|[http://bus.hankyu.co.jp/whats_new/130402k.pdf 唐櫃営業所管轄内での磁気カードサービスの終了について]|阪急バス2013年4月2日}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://bus.hankyu.co.jp/whats_new/130402y.pdf オレンジゆずるバスでの磁気カードサービスの終了について]|阪急バス2013年4月2日}}</ref>。
* ※11 大阪シティバス
: [[2014年]]4月1日に大阪運輸振興より社名変更。IKEA線では利用不可。
* ※12 京都京阪バス
: 2014年4月1日より京阪宇治バスより社名変更。カードへの印字も「宇治バス」から「京阪バス」に変更となった。
* ※13 尼崎市営バス
: 2016年3月20日に全事業を[[阪神バス]]に引き継ぎ、交通事業から撤退。
* ※14 阪神バス
: 2015年9月30日に全線でスルッとKANSAIの利用を終了した。2015年10月1日以降もスルッとKANSAI 2day・3dayチケットは券面提示によることで使用可能である。2016年3月20日より尼崎市内線(旧・尼崎市営バス路線)のみスルッとKANSAIの利用が可能となった。
* ※15 尼崎交通事業振興
: 2016年3月20日より尼崎市営バスの路線が阪神バス尼崎市内線へ引き継がれたことに伴い、カードへの印字は「尼市バス」から「阪神バス」に変更となった。
なお、各社とも[[高速バス]]や[[定期観光バス]]では利用できない。また、深夜急行バスでは[[深夜急行バス (南海バス)|南海バス]]のみ利用可。
== チケット ==
スルッとKANSAI協議会加盟社局で利用することのできる周遊券が発売されている。但し、チケットによって利用可能な社局やエリアが限定される場合がある。スルッとKANSAI 3dayチケット、2dayチケットは、外国人向けのKANSAI THRU PASSを除いて、2016年の関西限定版の秋季の発売を持って発売終了した。なお、2020年度後半に[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]の流行の影響による需要喚起策として日本人向けのKANSAI THRU PASS 2dayチケット(国内版)が期間限定発売された、これも関西限定版と関西域外版の2種類がある。
; [[スルッとKANSAI 3dayチケット|3dayチケット]]([http://www.surutto.com/tickets/ticket_3day2day.php 全国通年発売版])
: 連続する3日間乗り放題で、かつ指定された施設で割引などの特典を受けられる。大人5,200円(1,734円/日)・小児2,500円。2シーズン<ref group="注釈">[[2012年]]版有効期間 春夏版[[4月1日]]~[[10月31日]]、秋冬版[[10月1日]]~[[4月30日]]</ref>に分かれての発売であるが、有効期間があるので、購入・使用の際には注意が必要である。[[旅行会社]]など(近畿2府4県と三重県を除く)でクーポン券を購入し、エリア内の引換場所で交換する。直接購入できるチケット発売場所もある。
:このチケットは日本国外の旅行代理店などでは「KANSAI THRU PASS」の名称で発売されている。払い戻しは不可。
; [[スルッとKANSAI 3dayチケット|2dayチケット]]([http://www.surutto.com/tickets/ticket_3day2day.php 全国通年発売版])
: 連続する2日間乗り放題で、かつ指定された施設で割引などの特典を受けられる。大人4,000円(2,000円/日)・小児2,000円。2シーズンに分かれての発売であるが、有効期限があるので購入・使用の際には注意が必要である。発売方法は3dayチケット(全国通年発売版)と同じ。払い戻しは不可。一時期は任意の(連続していなくても可)2日間有効で発売していた。
; [[スルッとKANSAI 3dayチケット|3dayチケット]]([http://www.surutto.com/tickets/ticket_3day.php 関西駅売限定版])
: 任意の(連続していなくても可)3日間乗り放題、かつ指定された施設で割引などの特典を受けられる。大人5,200円(1,734円/日)・小児2,600円。春・夏・秋の3シーズンのみの発売であるが、利用日が限定されている。加盟社局の主要駅などで発売。払い戻しは、未使用の場合に限りすべて揃った状態で手数料を支払うことで可能である。
*2dayチケット・3dayチケットでは、本来の利用範囲以外にも、阪急バス・阪急田園バス(いずれも一部路線を除く)や京阪石山坂本線など、若干だが利用範囲が広がる。一方で各バス会社が受託運行する地方自治体のコミュニティバスには制約がある。
; [[大阪周遊パス]]<ref>「[http://www.osaka-info.jp/osp/jp/index.html 大阪周遊パス]」 大阪観光コンベンション協会</ref>
: 大阪市内エリア([[堺市]]と[[尼崎市]]の一部も含む)の電車・バスに1日乗り放題。28施設にそれぞれ1回まで無料で入場できる他、割引を受けられる施設や店舗も利用できる。2,000円(大阪エリア版、大人のみ)。2シーズンに分かれての発売で発売期間の翌月末まで利用可。加盟社局のフリー区間を加えたエリア拡大版(2,200円から)もある。さらに海遊館の入場券も組み込まれた「'''大阪海遊パス'''」も発売されている。
; [http://www.surutto.com/tickets/ticket_koube_1day.php 神戸街めぐり1dayクーポン]
: 神戸エリアの電車に1日乗り放題<ref group="注釈">スルッとKANSAI加盟社局に限る。[http://www.surutto.com/tickets/ticket_koube_1day.php#MainContents%7C神戸エリア版の基本利用区間]</ref>と[[神戸市]]内の観光施設で利用できる650円分の「神戸街遊券」がセットになっている。金額は900円(大人のみ)。2シーズンに分かれての発売で、発売期間と有効期間が同じである。他に阪急・阪神・山陽・神鉄(北神急行<ref group="注釈">鈴蘭台より東(有馬・三田方面)の乗降で有効</ref>)・近鉄拡大版<ref group="注釈">ただし南大阪線(阿倍野橋駅)利用の場合は大阪難波駅等までの移動には別途運賃が必要</ref>も発売されている。以前は「神戸観光1dayクーポン」の名称で販売されており、当時は利用エリアは現在販売のものよりも広く神戸市内のほとんどの駅<ref group="注釈">神戸電鉄に関しては有馬温泉駅まで乗車可能であるが、「神鉄拡大版」を除き途中の花山 - 有馬口間での乗降はできない</ref>やバス<ref group="注釈">神戸交通振興ではカードでの乗車は山手線のみ</ref>でも利用できた。<br>また冬季を中心に「[[有馬温泉]] 太閤の湯」の入場料が組み込まれた「'''有馬温泉ゆけむりチケット'''」が発売されることもある。
上記以外にもスルッとKANSAI協議会加盟各社局では時季によって企画ものとして、2社局以上を跨ぐフリー切符が発売されている。
なお、過去には発売期間が「通年販売」のものが存在したが、現在はスルッとKANSAI 3day・2dayチケット(全国通年発売版)等を除き4月1日開始となる[[年度]]ごとの発売・利用期間となっており、年度をまたがっての利用はできなくなっている。
== 主な未加盟・未導入事業者 ==
「スルッとKANSAI対応カード」は'''関西一円共通カードシステム'''を謳っているが、使用できない範囲も京阪神地区以外の地域を中心に多く、各府県全域で普及しているわけではない。スルッとKANSAI協議会に加盟していない事業者、また協議会には加盟していても、未導入の主な事業者は次の通り。なお以下は一度も導入経験がない社局を記載し、三重県・愛知県の一部を含めている。
=== 大阪府 ===
* [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
* [[金剛自動車|金剛バス]]
* [[日本城タクシー|日本城バス]]
* [[北港観光バス]]([[日本タクシー (大阪府)|日本タクシー]]グループ:舞洲アクティブバスなど)
* [[金剛山ロープウェイ]]([[千早赤阪村|千早赤阪村営]])
* [[大阪バス]]
* [[WILLER EXPRESS|WILLER EXPRESS西日本]]などの高速乗合バスのみを運行する事業者
=== 兵庫県 ===
* [[六甲摩耶鉄道]]([[阪急阪神東宝グループ]]:鉄道・バスとも)
* [[神戸すまいまちづくり公社]]([[神戸すまいまちづくり公社摩耶ケーブル線|摩耶ケーブル]]・ロープウェイ各線とも)
* [[神戸リゾートサービス]]([[神戸布引ロープウェイ]])
* [[須磨浦ロープウェイ]]([[山陽電気鉄道]]グループ)
* [[書写山ロープウェイ]]([[姫路市]]が運営:運行は[[神姫バス]]が担当)
* [[全但バス]](元[[阪急東宝グループ]])
* [[神戸フェリーバス]](フェリーターミナル行連絡バスなど)
* [[みなと観光バス (神戸市)]]([[六甲アイランド]]シティバスなど)
* [[みなと観光バス (南あわじ市)]](淡路島特急線・[[らん・らんバス]])
* [[北条鉄道]]([[第三セクター鉄道|第3セクター]])
* [[智頭急行]](同)
=== 京都府 ===
* [[叡山ケーブル]]([[京福電気鉄道]]が運営)
* [[叡山ロープウェイ]](同上)
* [[嵯峨野観光鉄道]]([[西日本旅客鉄道|JR西日本]]グループ:[[嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線|嵯峨野観光線]]:[[トロッコ列車]])
* [[鞍馬山鋼索鉄道]]([[鞍馬寺]]が運営)
* [[ヤサカバス]]([[ヤサカグループ]]:[[醍醐コミュニティバス]]など)
* [[京北ふるさとバス]]([[きょうと京北ふるさと公社]]が運営)
* [[プリンセスライン|プリンセスラインバス]]
* ケイルック([[京都らくなんエクスプレス]]:[[京都大学]]が主導で実験運行中の路線バス)
* [[丹後海陸交通]](阪急阪神東宝グループ)
* [[京都交通 (舞鶴)]]([[日本交通 (大阪)|日本交通]]グループ)
* [[京都丹後鉄道]]
=== 滋賀県 ===
* [[近江鉄道]]グループ([[西武グループ]]:鉄道・バスとも、一部のバスについては自社独自の'''近江鉄道バスICカード'''を導入)
* [[帝産湖南交通]](帝産系)
* [[滋賀交通]]グループ
* [[信楽高原鐵道]](第3セクター)
=== 奈良県 ===
* [[吉野大峯ケーブル自動車]]([[吉野ロープウェイ]]と[[吉野山]]内の路線バスを運行)
=== 和歌山県 ===
* [[和歌山電鐵]](旧南海貴志川線:[[両備グループ]])
* [[大十バス]]
* [[紀州鉄道]] (本社は東京都)
* [[熊野御坊南海バス]](南海グループ)
* [[有田鉄道]](現在はバス事業のみ)
* [[中紀バス]]
* [[明光バス]]([[近鉄グループ]])
* [[龍神自動車|龍神バス]]
=== 三重県 === <!-- [[青山町駅]]以西 -->
* [[伊賀鉄道]](元・近鉄伊賀線)
=== 愛知県 === <!-- [[京都駅]]、[[新大阪駅]]に新幹線が通っているから -->
* [[東海旅客鉄道]](JR東海・[[東海道新幹線]])
== キャラクター ==
「スルッとちゃん」という公式マスコットキャラクターがいる。緑色のトンガリ帽子とワンピースを身に着けた[[魔法使い]]の少女で、カードの上に腰かけているデザインがよく使われる。
2002年から2012年まで、スルッとKANSAI公式サイト内に「スルッとちゃんのお部屋」というコンテンツが設けられ、年齢は8歳、星座は[[おひつじ座]]、血液型はAB型、出身地は「まほうの国」、好きな食べ物はチョコレートケーキ、口癖は「お出かけしよーよ」、などのプロフィールが紹介されていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.surutto.com/conts/oheya/index.html |title=スルットちゃんのお部屋(2012年2月10日時点) |accessdate=2013年3月31日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120210074509/http://www.surutto.com/conts/oheya/index.html |archivedate=2012年2月10日 }}</ref>。
スルッとちゃんは協議会および運営会社のキャラクターであり、主に広報関係や磁気カードで使用され、スルッとKANSAIが発行しているICカードPiTaPaのキャラクターとしては使用されていない。しかし、2013年3月23日に[[東京駅]]で行われた交通系ICカード相互利用開始記念セレモニーでは、各ICカードのキャラクターに交じってスルットちゃんも出席していた<ref>[http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/2013/03/23ICcard/ IC乗車券相互利用開始 スイカ、ピタパ、ニモカ…IC乗車券、名称の由来さまざま]、MSN産経ニュース、2013年3月23日配信、2013年3月31日閲覧。</ref>。その後PiTaPaのキャラクターは忍者がモチーフの「ぴたまる」が別に制定された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[PiTaPa]](非接触型ICカード)
** [[PiTaPaベーシックカード]]
* [[スルッとKANSAIバスまつり]]
* [[スルッとKANSAI遊びマップ]]
* [[Jスルーカード]]
** [[ICOCA]](非接触型ICカード)- 主要事業者で2011年から取り扱いを開始しており、磁気カードの実質的な後継となっている。
== 外部リンク ==
* [http://www.surutto.com/ スルッとKANSAI公式サイト]
{{スルッとKANSAI}}
{{大手私鉄}}
{{阪急阪神東宝グループ}}
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{{近鉄グループ}}
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{{DEFAULTSORT:するつとかんさい}}
[[Category:乗車カード発行団体]]
[[Category:大阪市中央区の企業]] | 2003-03-13T09:09:07Z | 2023-11-14T14:02:37Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%83%E3%81%A8KANSAI |
3,937 | パリミュチュエル方式 | パリミュチュエル方式(パリミュチュエルほうしき、Parimutuel betting)とは、公営競技における投票券やロトなどの配当を決定する一つの方法である。
投票券の総売り上げをプールし、興行主はそこから一定割合を差し引き、残りの金額を勝ち投票券に配分する方法。
パリミュチュエル方式では、まず販売所において自分の予想となる券を購入。この時点において配当はまだ確定していない。そして購入額を全てプールする。その後、レースや抽選を行い当選の番号と当選者が確定する。この時点でプールした金額から、主催者収入として所定の割合(控除率)が差し引かれて運営費などの経費に充てられ、残りを当選者で分配する。
売り上げの額に比例して主催者収入が大きくなる仕組みであり(比率は予想方式などにより異なる場合もある)が、状況によっては売り上げが高くても主催者の取り分が少なくなる場合もある。売り上げに伴う主催者の収入となる「投票額-払戻額」がマイナスになることはない。
この方式を作り出したのはフランスのジョセフ・オレール(Joseph Oller)(彼はムーラン・ルージュの出資者で演出家でもあった)で、1867年に考案され、1891年にはフランスで公式に法制化された。のちに投票や集計が機械化されたことによりトータリゼータシステム(en)へと発展していく。
パリミュチュエル方式以外の配当を決定する方法にはブックメーカー方式がある。
日本では1888年(明治21年)横浜外国人居留地内のニッポン・レース・クラブでパリミュチュエル方式の馬券が発売されている。ただし当時の日本では馬券は非合法であり、馬券が発売されたのは、横浜外国人居留地という治外法権下の為である。一般の日本人向けに馬券発売が黙許(公認ではない)されるのは1906年(明治39年)からの2年余りで、それもすぐに禁止され、正式に馬券発売が認められたのは1923年(大正12年)である。現代の日本の公営ギャンブルではどの団体・競技でもパリミュチュエル方式を採用しており、ブックメーカー方式は認められていない。
ロッタリー方式とは購入した時点では自分が買った投票券の内容が確定せず、購入後に行われるくじ引きにより自分の投票券の内容が決まり、的中すれば配当を得られるという方式である。つまり勝ちそうな選手や馬をあらかじめ予想して投票するのではなく、購入後にくじで決められる賭け方式である。
日本ではガラ馬券として明治時代に発売された馬券の一種類であったが不正が入り込む余地が大きく、実際に不正が横行したことから現代では見ることはできない馬券である。
2020年現在、日本の公営ギャンブル・数字選択式全国自治宝くじ・スポーツ振興くじにおいて購入金額・種類のみを確定させた上でその他の購入内容をランダムで決定する方式(ランダム方式・クイックピック方式)は禁止されておらず採用例も多く、スポーツ振興くじのBIGなどランダム方式でのみ販売されているものもある。また、オートレースにおける当たるんですは、4重勝単式の車券をランダム方式で発売するものであるが、全ての組み合わせ(4競走全てが8車立ての場合、8×8×8×8=4096通り)を満たす購入予約が成立した時点で初めて発売され、投票内容はランダムであるが必ず重複しないように振り分けられ、競走不成立等の不測の事態が生じない限りは必ず1通りが的中するという仕組みであり、先述のガラ馬券に類似するものであるが、形態上はあくまでもパリミュチュエル方式である。
サッカーや競馬はブックメーカー方式のものもあり、主催者側の売上げを食っている場合もある。
的中者がいない場合に、全購入者に対し控除率相当分を差し引いた額を払い戻す制度である。
日本の公営競技で一部(後述の繰越制度を導入している場合)を除き用いられている方法であり、投票券を発売したレースのある賭式において的中該当者がいない場合、その賭式で投票券を購入した者全てに特別払戻金として1口(100円)につき70円または80円の払戻し(通称・特払い)が行われる。なお、特払の金額は1口(100円)に対する控除率(日本の公営競技では概ね70 - 80%。主催者や賭式により異なる)に基づき控除額を差し引いた残額から10円未満の端数を切り捨てて算出する。
発生の頻度は高くないものの、組み合わせが多い競馬での三連勝式馬券や売り上げの少ない競艇・オートレースの単勝式・複勝式舟券(車券)などで見られる(競輪は現在単勝式・複勝式を発売していない)。中央競馬は1971年に福島競馬場で単勝式の的中者がなく発生したものが最後の記録となっている。
レースが不成立となった場合(全競走対象が完走できなかった場合や、競艇で5艇以上がフライングした場合など)や、完走が少なく的中となる組み合わせが存在しなくなった賭式(完走した競走対象が2つ以下であった場合の3連複・3連単など)の投票券は券面金額を全額返還する。
ロト6、ロト7、スポーツ振興くじ、競輪の車券及び競馬の馬券の一部では的中該当者がいない場合と獲得賞金の上限を超える賞金が出た場合には当該回の賞金を次回に繰り越すシステム(キャリーオーバー)がある。
2015年現在の獲得賞金の上限は下記の通り。
余談ではあるが、スポーツ振興くじ及び宝くじの当選金は所得税法の規定により非課税となり当選金全額に対し課税されないが、公営競技の当選金は所得税法上「一時所得」(一定の条件をみたしていれば「事業所得」)となり課税される。 | [
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"title": "ロッタリー方式"
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"text": "サッカーや競馬はブックメーカー方式のものもあり、主催者側の売上げを食っている場合もある。",
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"title": "的中者がない場合の扱い"
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] | パリミュチュエル方式とは、公営競技における投票券やロトなどの配当を決定する一つの方法である。 | {{出典の明記|date=2014-12-16}}
'''パリミュチュエル方式'''(パリミュチュエルほうしき、Parimutuel betting)とは、[[公営競技]]における[[投票券 (公営競技)|投票券]]や[[ロト]]などの[[配当]]を決定する一つの方法である。
==概要==
[[投票券 (公営競技)|投票券]]の総売り上げをプールし、興行主はそこから一定割合を差し引き、残りの金額を勝ち[[投票券 (公営競技)|投票券]]に配分する方法<ref name="tachikawa2008_281">[[#立川2008|立川2008]]、281頁</ref>。
パリミュチュエル方式では、まず販売所において自分の予想となる券を購入。この時点において配当はまだ確定していない。そして購入額を全てプールする。その後、レースや抽選を行い当選の番号と当選者が確定する。この時点でプールした金額から、主催者収入として所定の割合([[控除率]])が差し引かれて運営費などの経費に充てられ、残りを当選者で分配する。
売り上げの額に比例して主催者収入が大きくなる仕組みであり(比率は予想方式などにより異なる場合もある)が、状況によっては売り上げが高くても主催者の取り分が少なくなる場合もある<ref group="注">例えば日本の公営競技などでは、的中した場合の配当額が元本を下回らないように決められているため、不的中の割合が少なかった場合は最大でもその額しか主催者の収入にならない。</ref>。売り上げに伴う主催者の収入となる「投票額-払戻額」がマイナスになることはない。
この方式を作り出したのは[[フランス]]の[[ジョセフ・オレール]]([[:en:Joseph Oller|Joseph Oller]])(彼は[[ムーラン・ルージュ]]の出資者で演出家でもあった)で、[[1867年]]に考案され、[[1891年]]にはフランスで公式に法制化された。のちに投票や集計が機械化されたことによりトータリゼータシステム([[:en:Tote board|en]])へと発展していく。パリミュチュエルは「賭け(pari)」と「相互の, 相互扶助(mutual)」という語から来ており、[[山本雅夫]]は後者の語から利益を胴元と客人と互いに応分の口腹を得ようとするところに合理主義、民主主義のフランス人らしさが出ていると分析している。<ref>{{Cite book|和書 |title=イギリス文化と近代競馬 |date=2013年10月25日 |publisher=彩流社 |pages= |page=75}}</ref>
パリミュチュエル方式以外の[[配当]]を決定する方法には[[ブックメーカー方式]]がある。
==日本での採用==
日本では[[1888年]]([[明治]]21年)横浜[[外国人居留地]]内の[[日本レース・倶楽部|ニッポン・レース・クラブ]]でパリミュチュエル方式の馬券が発売されている。ただし当時の日本では馬券は非合法であり、馬券が発売されたのは、横浜外国人居留地という[[治外法権]]下の為である。一般の日本人向けに馬券発売が黙許(公認ではない)されるのは[[1906年]](明治39年)からの2年余りで、それもすぐに禁止され、正式に馬券発売が認められたのは[[1923年]]([[大正]]12年)である。現代の日本の公営ギャンブルではどの団体・競技でもパリミュチュエル方式を採用しており<ref name="tachikawa2008_281"/><ref name="tachikawa1991">[[#立川1991|立川1991]]</ref>、ブックメーカー方式は認められていない。
==ロッタリー方式==
{{Main|ガラ馬券}}
ロッタリー方式とは購入した時点では自分が買った投票券の内容が確定せず、購入後に行われるくじ引きにより自分の投票券の内容が決まり、的中すれば配当を得られるという方式である。つまり勝ちそうな選手や馬をあらかじめ予想して投票するのではなく、購入後にくじで決められる賭け方式である。
日本では[[ガラ馬券]]として明治時代に発売された馬券の一種類であったが不正が入り込む余地が大きく、実際に不正が横行したことから現代では見ることはできない馬券である。
2020年現在、日本の公営ギャンブル・[[数字選択式全国自治宝くじ]]・[[スポーツ振興くじ]]において購入金額・種類のみを確定させた上でその他の購入内容をランダムで決定する方式(ランダム方式・クイックピック方式)は禁止されておらず採用例も多く、スポーツ振興くじの[[スポーツ振興くじ#BIG(ビッグ)|BIG]]などランダム方式でのみ販売されているものもある。また、[[オートレース]]における[[当たるんです]]は、4重勝単式の車券をランダム方式で発売するものであるが、全ての組み合わせ(4競走全てが8車立ての場合、8×8×8×8=4096通り)を満たす購入予約が成立した時点で初めて発売され、投票内容はランダムであるが必ず重複しないように振り分けられ、競走不成立等の不測の事態が生じない限りは必ず1通りが的中するという仕組みであり、先述のガラ馬券に類似するものであるが、形態上はあくまでもパリミュチュエル方式である。
==代表的なパリミュチュエル方式のギャンブル==
*[[競馬]]
*[[サッカー]](フットボールプール、トトカルチョ、[[スポーツ振興くじ]])
*[[競輪]]
*[[競艇]]
*[[オートレース]]
*日本の[[数字選択式全国自治宝くじ]](ナンバーズおよびロト)
*アメリカ合衆国の[[メガ・ミリオンズ]]、パワーボールなど
サッカーや競馬は[[ブックメーカー方式]]のものもあり、主催者側の売上げを食っている場合もある。
==的中者がない場合の扱い==
===特別払戻金===
的中者がいない場合に、全購入者に対し控除率相当分を差し引いた額を払い戻す制度である。
日本の公営競技で一部(後述の繰越制度を導入している場合)を除き用いられている方法であり、投票券を発売したレースのある賭式において的中該当者がいない場合、その賭式で投票券を購入した者全てに特別払戻金として1口(100円)につき70円または80円の払戻し(通称・'''特払い''')が行われる。なお、特払の金額は1口(100円)に対する控除率(日本の公営競技では概ね70 - 80%。主催者や賭式により異なる)に基づき控除額を差し引いた残額から10円未満の端数を切り捨てて算出する。
発生の頻度は高くないものの、組み合わせが多い競馬での三連勝式馬券や売り上げの少ない競艇・オートレースの単勝式・複勝式舟券(車券)などで見られる(競輪は現在単勝式・複勝式を発売していない)。中央競馬は[[1971年]]に[[福島競馬場]]で単勝式の的中者がなく発生したものが最後の記録となっている。
レースが不成立となった場合(全競走対象が完走できなかった場合や、[[競艇]]で5艇以上が[[不正スタート|フライング]]した場合など)や、完走が少なく的中となる組み合わせが存在しなくなった賭式(完走した競走対象が2つ以下であった場合の3連複・3連単など)の投票券は券面金額を全額返還する。
===繰越制度===
ロト6、ロト7、スポーツ振興くじ、競輪の車券及び競馬の馬券の一部では的中該当者がいない場合と獲得賞金の上限を超える賞金が出た場合には当該回の賞金を次回に繰り越すシステム(キャリーオーバー)がある。
2015年現在の獲得賞金の上限は下記の通り。
*スポーツ振興くじ<ref>[[スポーツ振興投票の実施等に関する法律]]第13条、スポーツ振興投票の実施等に関する法律施行令第2条1項</ref>
**BIG - 15億円(繰越無しの場合は7億5000万円)
**BIG1000・miniBIG - 10億円(繰越無しの場合は5億円)
**toto・mini toto・toto GOAL3・toto GOAL2 - 5億円(繰越無しの場合は2億5000万円)
*宝くじ
**ミニロト - 4000万円
**ロト6 - 6億円(繰越無しの場合は2億円)
**ロト7 - 10億円(繰越無しの場合は6億円)
*競輪([[Dokanto!]])
**[[チャリロト]] - 12億円
**チャリロト・セレクト - 6億円
**Kドリームス(BIG DREAM)- 12億円
**Kドリームス(K-3&K-5)- 6億円
*競馬(重勝式馬券の一部)<ref>[[競馬法]]第9条及び第22条、競馬法施行規則第10条及び第11条</ref> - 6億円<ref group="注">競馬法施行規則第11条の条文上は「6千万円」だが、これは競馬法第5条の「券面金額は10円」という規定に基づくため、現在の最低発売単位である100円(10円券×10枚)に換算すると6億円になる。</ref>
余談ではあるが、スポーツ振興くじ及び宝くじの当選金は[[所得税法]]の規定により非課税となり当選金全額に対し課税されないが、公営競技の当選金は所得税法上「一時所得」(一定の条件をみたしていれば「事業所得」)となり課税される<ref group="注">2016年10月現在。</ref>。
==脚注・出典==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Reflist|group="注"}}
===出典===
{{Reflist}}
==参考文献==
*{{Cite journal|和書
|author = 立川 健治
|date = 2008
|title =
|journal = 文明開化に馬券は舞う-日本競馬の誕生-
|issue = 競馬の社会史叢書(1)
|publisher = 世織書房
|pages =
|ref = 立川2008
}}
*{{Cite journal|和書
|author = 立川 健治
|date = 1991
|title = 日本の競馬観(1)
|journal = 富山大学教養部紀要
|issue = 24巻1号
|publisher = 富山大学
|pages = 62
|ref = 立川1991
}}
==関連項目==
*[[ブックメーカー方式]]
*[[ガラ馬券]]
*[[ブックメーカー]]
*[[投票券 (公営競技)]]
*[[フランス場外馬券発売公社]](PMU)
{{DEFAULTSORT:はりみゆちゆえるほうしき}}
[[Category:ギャンブル]]
[[Category:賭博]]
[[Category:スポーツくじ]] | 2003-03-13T09:30:16Z | 2023-10-08T04:35:56Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:Cite journal",
"Template:出典の明記",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E6%96%B9%E5%BC%8F |
3,939 | ブックメーカー方式 | ブックメーカー方式(ブックメーカーほうしき)とは、賭博において配当を決定するための方式の一つである。
ブックメーカー方式では、賭ける時点ですでにブックメーカーの設定した配当率が発表されている。その配当に価値を見出した客は、その時点において購入する。ブックメーカーによって配当は異なるため、客は自分にとって有利であると判断したブックメーカーと勝負をすることになる。
配当は状況の変化などによって後に変更されることがあるが、その後レースなどで自分の予想が的中すると購入時点での配当率で計算された配当を受け取ることができる。通常、ブックメーカー方式では対象が出走を見合わせたりレース中止となった場合でも、「ハズレ」と見なされ、参加者には返還されることはない。 | [
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}
] | ブックメーカー方式(ブックメーカーほうしき)とは、賭博において配当を決定するための方式の一つである。 | '''ブックメーカー方式'''(ブックメーカーほうしき)とは、[[賭博]]において[[配当]]を決定するための方式の一つである。
== 概説 ==
ブックメーカー方式では、賭ける時点ですでに[[ブックメーカー]]の設定した配当率が発表されている。その配当に価値を見出した客は、その時点において購入する。ブックメーカーによって配当は異なるため、客は自分にとって有利であると判断したブックメーカーと勝負をすることになる。
配当は状況の変化などによって後に変更されることがあるが、その後レースなどで自分の予想が的中すると'''購入時点での配当率'''で計算された配当を受け取ることができる。通常、ブックメーカー方式では対象が出走を見合わせたりレース中止となった場合でも、「ハズレ」と見なされ、参加者には返還されることはない。
== 関連項目 ==
*[[パリミュチュエル方式]]
*[[賭博及び富くじに関する罪]]
*[[ノミ屋]]
*[[オッズ]]
*[[クイズダービー]] - 競馬をモチーフにしたクイズ番組だが、得点のルールはこの方式を用いていた。
{{DEFAULTSORT:ふつくめかほうしき}}
[[Category:ギャンブル]]
[[Category:賭博]]
[[Category:スポーツくじ]]
[[Category:ブックメーカー|ほうしき]] | 2003-03-13T09:36:06Z | 2023-09-10T21:05:36Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E6%96%B9%E5%BC%8F |
3,941 | パケット通信 (アマチュア無線) | パケット通信(パケットつうしん、Packet radio)は、一般的なパケット通信と同じく、パケットと呼ばれる比較的短いブロックにデータを分割して送信するデジタル無線通信で、アマチュア無線通信の一形態である。
アマチュア無線のパケット通信では、リンク層のプロトコルとして、「AX.25(英語版)リンクレイヤー」が用いられる。AX.25プロトコルを実装したターミナルノードコントローラ(英語版、ドイツ語版、フランス語版)(TNC)を用いてPoint to Pointの通信を行え、チャットや、ホストコンピュータを用いて掲示板や電子メールなどが可能になる。また、TCP/IPをAX.25の上位レイヤとして用いることにより、インターネットでおなじみのHTTPやFTPなどのプロトコルを用いた通信もできる。
アマチュア局による相互中継で地域や地域間、あるいは国際的な電子メールやデータの配信も可能である(但し、商用サービスのインターネットや専用回線等と比較して、速度や信頼性は比較にならない程低い)。
運用するためには、パケット通信の電波型式を指定された、アマチュア局の免許を受けねばならない。
ターミナルノードコントローラー (英: TNC : terminal node controller) は、モデムとAX.25パケット通信プロトコルの機能を一体化したアマチュア無線用の無線機の付加装置である。
RS-232Cなどのコンピュータインターフェースと無線機接続用の端子とを持ち、パケットの構成・誤り検出・再送信の制御などを行う。モデム機能のみを持ち、その他の機能をコンピュータ側ソフトウェアで実現したものもある。
無線パケット通信そのものはハワイ大学で1970年代に研究されていたALOHANETに始まる。アマチュア無線への適用は1970年代後半から、ヴァンクーヴァーのグループ (VADCG) によるTNCの開発と通信実験が起源といわれる。それ以前にも流行し始めたマイクロコンピュータをアマチュア無線機に接続してRTTY通信を行うなど、データ通信に通じる試みは行われていたと思われる。
しかし組織的に、かつ世界的な標準を目指して企画されたのは、米国アリゾナ州ツーソンのグループであるツーソンアマチュアパケット通信(英語版) (TAPR) がアメリカ無線中継連盟(ARRL) と共同で制定したAX.25(英語版)プロトコルである。これは、商用のX.25プロトコルのリンク層を実装したもので、アマチュア局間の2局間通信を規定したものである。当時は、上位レイヤとしてX.25を応用したプロトコルを規定する構想があり、「AX.25 layer2」と呼ばれた。
TAPRはAX.25を用いた通信を実現するため、1981年からTNCの開発をはじめ、翌1982年6月26日に初の交信がWA7GXD(Lyle Johnson) - KD2S(Den Connors) 間で実現した。試作版のTNCを元にTNC-1、後に小型版のTNC-2が開発され、直接およびライセンスを受けた多数のアマチュア無線機器メーカーを通じて全世界に配布された。
日本でもAX.25プロトコル規格書を入手して独自のTNCを開発したグループの活動や、日本製のアマチュア衛星にBBS機能を実装するためにAX.25パケット通信の普及活動が始まり、1984年頃から日本でもパケット通信の利用が徐々に始まった。無線によるBBSをRBBS(英: Radio Bulletin Board System)という。
初期には個別に掲示板やメールボックスのアプリを開発していたが、1985年頃からW0RLIが開発した転送型RBBSがポピュラーになった。これは転送系RBBSとも呼ばれ、これによって築かれるネットワークを転送系と呼んだりした。これは、当時パソコン事業から撤退したXEROXの820型PC(英語版)のマザーボードがジャンク市場に出回ったため、この上で動くCP/Mベースのソフトウェアとして開発された。後に、WB7MBLによってIBM PC互換機にも移植され、ハードディスク等の豊富な資源を用いてより便利に使えるようになって普及が進んだ。
上位レイヤーの開発も進み、NET/ROMなどの実装もあったが、KA9Q(英語版)(Phil Kahn) のTCP/IPソフトウェアが発表されて事実上の標準になった。
当初は、VHF/UHFのFMトランシーバーのマイク端子にBell 202規格(英語版)の音声周波数偏移変調(AFSK)を入力して1200bpsで通信するのが一般的であったが、後にG3RUHによって高速広帯域な9600bpsのFSKモデムが開発され、普及するようになった。更には、同じ9600bpsながら、信号処理に、より効率の良いフィルタ処理を施したGMSK方式も一般的となった。尚、一定の条件下で、G3RUH方式とガウス最小偏移変調(GMSK)方式の相互間では通信可能である。9600bpsの広帯域な信号をVCO変調する為に、無線機内部に直接、配線注入する必要があったが、アマチュア無線機メーカーでもパケット通信用信号端子を装備した無線機や、TNCを内蔵した無線機を準備するようになった。
1994年頃から転送型BBSソフトはW0RLIからF6FBB(英語版)に変わり始め、パケット通信運用局や転送系RBBS局の増加と共に、PC/AT互換機の普及、高性能化もF6FBB化を後押しして、数年で日本国内はF6FBBにほぼ統一された。F6FBBは、複数の無線ポートに複数の局が同時にアクセス可能であること、メッセージの転送を複数のメッセージをまとめて圧縮・バイナリで送る点に特長があり、転送効率は従来の転送型BBSに比べて格段にアップした。両ソフトウェアとも元々は英語圏で開発されたため、日本国内でも同様な転送機能を実現するソフトウェアを開発するグループも出てきた。
転送型RBBS局を始めとするアマチュア局相互間による、無線伝播経路等のネットワーク開拓努力により、ほぼ日本全国津々浦々、あるいは、海外の転送型RBBS局とのゲートウェイ局までネットワーク化された転送型RBBSであるが、近年の通信の多様化に対応する為に、無線機と電話、インターネット回線を相互接続可能になったのを期に、インターネット等を経由して、相互にデータ転送を行う転送型RBBS局が出てきた。これによりデータ転送回線の信頼性は向上する反面、アマチュア無線独自の無線伝播経路的なネットワークが損ねられるという意見も多い。 | [
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"text": "1994年頃から転送型BBSソフトはW0RLIからF6FBB(英語版)に変わり始め、パケット通信運用局や転送系RBBS局の増加と共に、PC/AT互換機の普及、高性能化もF6FBB化を後押しして、数年で日本国内はF6FBBにほぼ統一された。F6FBBは、複数の無線ポートに複数の局が同時にアクセス可能であること、メッセージの転送を複数のメッセージをまとめて圧縮・バイナリで送る点に特長があり、転送効率は従来の転送型BBSに比べて格段にアップした。両ソフトウェアとも元々は英語圏で開発されたため、日本国内でも同様な転送機能を実現するソフトウェアを開発するグループも出てきた。",
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"text": "転送型RBBS局を始めとするアマチュア局相互間による、無線伝播経路等のネットワーク開拓努力により、ほぼ日本全国津々浦々、あるいは、海外の転送型RBBS局とのゲートウェイ局までネットワーク化された転送型RBBSであるが、近年の通信の多様化に対応する為に、無線機と電話、インターネット回線を相互接続可能になったのを期に、インターネット等を経由して、相互にデータ転送を行う転送型RBBS局が出てきた。これによりデータ転送回線の信頼性は向上する反面、アマチュア無線独自の無線伝播経路的なネットワークが損ねられるという意見も多い。",
"title": "パケット通信の歴史"
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] | パケット通信は、一般的なパケット通信と同じく、パケットと呼ばれる比較的短いブロックにデータを分割して送信するデジタル無線通信で、アマチュア無線通信の一形態である。 アマチュア無線のパケット通信では、リンク層のプロトコルとして、「AX.25リンクレイヤー」が用いられる。AX.25プロトコルを実装したターミナルノードコントローラ(TNC)を用いてPoint to Pointの通信を行え、チャットや、ホストコンピュータを用いて掲示板や電子メールなどが可能になる。また、TCP/IPをAX.25の上位レイヤとして用いることにより、インターネットでおなじみのHTTPやFTPなどのプロトコルを用いた通信もできる。 アマチュア局による相互中継で地域や地域間、あるいは国際的な電子メールやデータの配信も可能である(但し、商用サービスのインターネットや専用回線等と比較して、速度や信頼性は比較にならない程低い)。 | {{Pathnav|[[アマチュア無線]]|frame=1}}
{{脚注の不足|date=2023年1月6日 (金) 03:25 (UTC)}}
'''パケット通信'''(パケットつうしん、''Packet radio'')は、一般的な[[パケット通信]]と同じく、[[パケット]]と呼ばれる比較的短いブロックにデータを分割して送信する[[デジタル]][[無線通信]]で、[[アマチュア無線]]通信の一形態である。
アマチュア無線のパケット通信では、[[リンク層]]の[[プロトコル]]として、「{{仮リンク|AX.25|en|AX.25}}リンクレイヤー」が用いられる。AX.25プロトコルを実装した{{仮リンク|ターミナルノードコントローラ|en|Terminal node controller|de|Terminal Node Controller|fr|Terminal Node Controller}}(TNC)を用いてPoint to Pointの通信を行え、[[チャット]]や、ホストコンピュータを用いて[[電子掲示板|掲示板]]や[[電子メール]]などが可能になる。また、[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]をAX.25の上位レイヤとして用いることにより、[[インターネット]]でおなじみの[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]や[[File Transfer Protocol|FTP]]などのプロトコルを用いた通信もできる。
[[アマチュア局]]による相互中継で地域や地域間、あるいは国際的な[[電子メール]]やデータの配信も可能である(但し、商用サービスの[[インターネット]]や専用回線等と比較して、速度や信頼性は比較にならない程低い)。
==パケット通信設備==
*[[無線機]]
*[[アンテナ]]
*ターミナルノードコントローラ (TNC)
*[[パーソナルコンピュータ]](端末あるいはホストとして)
運用するためには、パケット通信の[[電波型式の表記法|電波型式]]を指定された、アマチュア局の[[無線局免許状|免許]]を受けねばならない。
===ターミナルノードコントローラ===
'''ターミナルノードコントローラー''' ({{Lang-en-short|TNC : terminal node controller}}) は、[[モデム]]とAX.25パケット[[通信プロトコル]]の機能を一体化したアマチュア無線用の無線機の付加装置である。
[[RS-232|RS-232C]]などの[[コンピュータ]]インターフェースと無線機接続用の端子とを持ち、[[パケット]]の構成・[[誤り検出]]・再送信の制御などを行う。モデム機能のみを持ち、その他の機能を[[コンピュータ]]側[[ソフトウェア]]で実現したものもある。
{{Main|{{仮リンク|ターミナルノードコントローラ|en|Terminal node controller|de|Terminal Node Controller|fr|Terminal Node Controller}}}}
==パケット通信の歴史==
[[無線パケット通信]]そのものはハワイ大学で[[1970年代]]に研究されていた[[ALOHANET]]に始まる。アマチュア無線への適用は1970年代後半から、ヴァンクーヴァーのグループ (VADCG) によるTNCの開発と通信実験が起源といわれる。それ以前にも流行し始めたマイクロコンピュータをアマチュア無線機に接続して[[RTTY]]通信を行うなど、データ通信に通じる試みは行われていたと思われる。
しかし組織的に、かつ世界的な標準を目指して企画されたのは、[[アメリカ合衆国|米国]][[アリゾナ州]][[ツーソン (アリゾナ州)|ツーソン]]のグループである{{仮リンク|ツーソンアマチュアパケット通信|en|Tucson Amateur Packet Radio}} (TAPR) が[[アメリカ無線中継連盟]](ARRL) と共同で制定した{{仮リンク|AX.25|en|AX.25}}プロトコルである。これは、商用の[[X.25]]プロトコルのリンク層を実装したもので、アマチュア局間の2局間通信を規定したものである。当時は、上位レイヤとしてX.25を応用したプロトコルを規定する構想があり、「AX.25 layer2」と呼ばれた。
TAPRはAX.25を用いた通信を実現するため、[[1981年]]からTNCの開発をはじめ、翌[[1982年]][[6月26日]]に初の交信がWA7GXD({{Lang|en|Lyle Johnson}}) - KD2S({{Lang|en|Den Connors}}) 間で実現した。試作版のTNCを元にTNC-1、後に小型版のTNC-2が開発され、直接およびライセンスを受けた多数のアマチュア無線機器メーカーを通じて全世界に配布された。
日本でもAX.25プロトコル規格書を入手して独自のTNCを開発したグループの活動や、日本製の[[アマチュア衛星]]にBBS機能を実装するためにAX.25パケット通信の普及活動が始まり、[[1984年]]頃から日本でもパケット通信の利用が徐々に始まった。無線によるBBSを'''RBBS'''({{Lang-en-short|Radio Bulletin Board System}})という。
初期には個別に掲示板やメールボックスのアプリを開発していたが、[[1985年]]頃からW0RLIが開発した[[転送型RBBS]]がポピュラーになった。これは'''転送系RBBS'''とも呼ばれ、これによって築かれるネットワークを'''転送系'''と呼んだりした。これは、当時パソコン事業から撤退した[[ゼロックス|XEROX]]の{{仮リンク|Xerox 820|en|Xerox 820|label=820型PC}}のマザーボードがジャンク市場に出回ったため、この上で動く[[CP/M]]ベースのソフトウェアとして開発された。後に、WB7MBLによって[[IBM PC]]互換機にも移植され、ハードディスク等の豊富な資源を用いてより便利に使えるようになって普及が進んだ。
上位レイヤーの開発も進み、NET/ROMなどの実装もあったが、{{仮リンク|KA9Q|en|KA9Q}}({{Lang|en|Phil Kahn}}) のTCP/IPソフトウェアが発表されて事実上の標準になった。
当初は、[[超短波|VHF]]/[[極超短波|UHF]]の[[周波数変調|FM]][[トランシーバー (無線機)|トランシーバー]]のマイク端子に{{仮リンク|Bell 202モデム|en|Bell 202|label=Bell 202規格}}の[[デジタル変調#周波数偏移変調|音声周波数偏移変調]](AFSK)を入力して1200[[ビット毎秒|bps]]で通信するのが一般的であったが、後にG3RUHによって高速広帯域な9600bpsのFSKモデムが開発され、普及するようになった。更には、同じ9600bpsながら、信号処理に、より効率の良いフィルタ処理を施したGMSK方式も一般的となった。尚、一定の条件下で、G3RUH方式と[[最小偏移変調|ガウス最小偏移変調]](GMSK)方式の相互間では通信可能である。9600bpsの広帯域な信号をVCO変調する為に、無線機内部に直接、配線注入する必要があったが、アマチュア無線機メーカーでもパケット通信用信号端子を装備した無線機や、TNCを内蔵した無線機を準備するようになった。
[[1994年]]頃から転送型BBSソフトはW0RLIから{{仮リンク|F6FBB|en|FBB (F6FBB)}}に変わり始め、パケット通信運用局や転送系RBBS局の増加と共に、[[PC/AT互換機]]の普及、高性能化もF6FBB化を後押しして、数年で日本国内はF6FBBにほぼ統一された。F6FBBは、複数の無線ポートに複数の局が同時にアクセス可能であること、メッセージの転送を複数のメッセージをまとめて圧縮・バイナリで送る点に特長があり、転送効率は従来の転送型BBSに比べて格段にアップした。両ソフトウェアとも元々は英語圏で開発されたため、日本国内でも同様な転送機能を実現するソフトウェアを開発するグループも出てきた。
転送型RBBS局を始めとするアマチュア局相互間による、無線伝播経路等のネットワーク開拓努力により、ほぼ日本全国津々浦々、あるいは、海外の転送型RBBS局とのゲートウェイ局までネットワーク化された転送型RBBSであるが、近年の通信の多様化に対応する為に、無線機と[[電話回線|電話]]、[[インターネット]]回線を相互接続可能になったのを期に、インターネット等を経由して、相互に[[データ転送]]を行う転送型RBBS局が出てきた。これによりデータ転送回線の信頼性は向上する反面、アマチュア無線独自の無線伝播経路的なネットワークが損ねられるという意見も多い。
==パケット通信の応用例==
*[[電子掲示板|掲示板]]
*[[電子メール]]
*アマチュア衛星を利用した掲示板や電子メール
*特定用途の情報交換
*[[ナビトラ]]、[[APRS]]
*[[D-STAR]]
==外部リンク==
*{{PDFlink|[http://www.tapr.org/pdf/AX25.2.2.pdf AX.25の規格書]}}{{en icon}}
* [https://www.prug.com/ Packet Radio Users Group in Japan] - 日本のパケット通信普及団体
*[http://www.tapr.org/ TAPR]{{en icon}}
*[http://www.arrl.org/ ARRL]{{en icon}}
*[http://www.jarl.org JARL]
{{アマチュア無線}}
{{DEFAULTSORT:はけつとつうしん}}
[[Category:アマチュア無線]]
[[Category:無線工学]] | null | 2023-01-06T03:25:41Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E9%80%9A%E4%BF%A1_(%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E7%84%A1%E7%B7%9A) |
3,943 | 最急降下法 | 最急降下法(さいきゅうこうかほう、英: gradient descent, steepest descent)は、関数(ポテンシャル面)の傾き(一階微分)のみから、関数の最小値を探索する連続最適化問題の勾配法のアルゴリズムの一つ。勾配法としては最も単純であり、直接・間接にこのアルゴリズムを使用している場合は多い。最急降下法をオンライン学習に改良した物を確率的勾配降下法と呼ぶ。
尚、最急降下法の“最急”とは、最も急な方向に降下することを意味している。すなわち、収束の速さに関して言及しているわけではない(より速いアルゴリズムがあり得る)。
n 次のベクトル x = (x1, x2, ... , xn) を引数とする関数を f (x) としてこの関数の極小値を求めることを考える。
勾配法では反復法を用いて x を解に近づけていく。k 回目の反復で解が x の位置にあるとき、最急降下法では次のようにして値を更新する。
x ( k + 1 ) = x ( k ) − α grad f ( x ( k ) ) = x ( k ) − α [ ∂ f ( x ( k ) ) / ∂ x 1 ( k ) ∂ f ( x ( k ) ) / ∂ x 2 ( k ) ⋮ ∂ f ( x ( k ) ) / ∂ x n ( k ) ] {\displaystyle {\begin{aligned}{\boldsymbol {x}}^{(k+1)}={\boldsymbol {x}}^{(k)}-\alpha \operatorname {grad} f({\boldsymbol {x}}^{(k)})={\boldsymbol {x}}^{(k)}-\alpha {\begin{bmatrix}\partial f({\boldsymbol {x}}^{(k)})/\partial x_{1}^{(k)}\\\partial f({\boldsymbol {x}}^{(k)})/\partial x_{2}^{(k)}\\\vdots \\\partial f({\boldsymbol {x}}^{(k)})/\partial x_{n}^{(k)}\end{bmatrix}}\end{aligned}}}
ここで α は 1 回に更新する数値の重みを決めるパラメータであり、通常は小さな正の定数である。パラメータ α の適正な範囲は多くの場合、取り扱う問題の性質によって決まる。例えば力学問題を計算する際、計算結果が発散するような設定を与えることは、何らかの意味で非物理的な仮定をしている(あるいは元々のモデルの適用範囲を超えている)ことを示している。
例えば、y = x の最小値の探索において、α > 1 の場合、反復ごとに悪い解へと向かう。解の探索能力、収束速度は α に強く依存しており、α が大きすぎると発散の恐れがあり、小さすぎると収束が遅くなる(緩和法(英語版)も参照)。そのため、探索の初期では大きめにし、ある程度収束したら小さくする方法もとられる。小さくするやり方は反復回数の逆数や指数関数的減衰などがあり、焼きなまし法が参考になる。
勾配ベクトル grad f (x) は関数 f の変化率が最も大きい方向を向く。したがって α が適切な値を持つなら、f (x) は必ず f (x) より小さくなる。
最急降下法のスキームは以下のようになる:
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"text": "最急降下法(さいきゅうこうかほう、英: gradient descent, steepest descent)は、関数(ポテンシャル面)の傾き(一階微分)のみから、関数の最小値を探索する連続最適化問題の勾配法のアルゴリズムの一つ。勾配法としては最も単純であり、直接・間接にこのアルゴリズムを使用している場合は多い。最急降下法をオンライン学習に改良した物を確率的勾配降下法と呼ぶ。",
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"text": "尚、最急降下法の“最急”とは、最も急な方向に降下することを意味している。すなわち、収束の速さに関して言及しているわけではない(より速いアルゴリズムがあり得る)。",
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"text": "n 次のベクトル x = (x1, x2, ... , xn) を引数とする関数を f (x) としてこの関数の極小値を求めることを考える。",
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"text": "x ( k + 1 ) = x ( k ) − α grad f ( x ( k ) ) = x ( k ) − α [ ∂ f ( x ( k ) ) / ∂ x 1 ( k ) ∂ f ( x ( k ) ) / ∂ x 2 ( k ) ⋮ ∂ f ( x ( k ) ) / ∂ x n ( k ) ] {\\displaystyle {\\begin{aligned}{\\boldsymbol {x}}^{(k+1)}={\\boldsymbol {x}}^{(k)}-\\alpha \\operatorname {grad} f({\\boldsymbol {x}}^{(k)})={\\boldsymbol {x}}^{(k)}-\\alpha {\\begin{bmatrix}\\partial f({\\boldsymbol {x}}^{(k)})/\\partial x_{1}^{(k)}\\\\\\partial f({\\boldsymbol {x}}^{(k)})/\\partial x_{2}^{(k)}\\\\\\vdots \\\\\\partial f({\\boldsymbol {x}}^{(k)})/\\partial x_{n}^{(k)}\\end{bmatrix}}\\end{aligned}}}",
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"text": "ここで α は 1 回に更新する数値の重みを決めるパラメータであり、通常は小さな正の定数である。パラメータ α の適正な範囲は多くの場合、取り扱う問題の性質によって決まる。例えば力学問題を計算する際、計算結果が発散するような設定を与えることは、何らかの意味で非物理的な仮定をしている(あるいは元々のモデルの適用範囲を超えている)ことを示している。",
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] | 最急降下法は、関数(ポテンシャル面)の傾き(一階微分)のみから、関数の最小値を探索する連続最適化問題の勾配法のアルゴリズムの一つ。勾配法としては最も単純であり、直接・間接にこのアルゴリズムを使用している場合は多い。最急降下法をオンライン学習に改良した物を確率的勾配降下法と呼ぶ。 尚、最急降下法の“最急”とは、最も急な方向に降下することを意味している。すなわち、収束の速さに関して言及しているわけではない(より速いアルゴリズムがあり得る)。 | {{about|最適化アルゴリズム|解析的(漸近)近似|{{仮リンク|最急降下法 (漸近解析)|en|Method of steepest descent}}あるいは{{仮リンク|鞍点法|en|Stationary phase approximation}}}}
{{redirect|勾配降下法|'''確率的'''勾配降下法|確率的勾配降下法}}
'''最急降下法'''(さいきゅうこうかほう、{{lang-en-short|gradient descent, steepest descent}})<ref name="opt_math">{{cite book|和書
|first=俊秀|last=茨木
|authorlink=茨木俊秀
|title=最適化の数学
|series=共立講座 21世紀の数学 13
|publisher=共立出版
|date=2011-06-23
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|ref=harv}}</ref>は、[[関数 (数学)|関数]](ポテンシャル面)の[[傾き (数学)|傾き]](一階[[微分]])のみから、関数の[[最小値]]を探索する連続[[最適化問題]]の[[勾配法]]の[[アルゴリズム]]の一つ。勾配法としては最も単純であり、直接・間接にこのアルゴリズムを使用している場合は多い。最急降下法をオンライン学習に改良した物を[[確率的勾配降下法]]と呼ぶ。
尚、最急降下法の“最急”とは、最も急な方向に降下することを意味している。すなわち、[[収束]]の速さに関して言及しているわけではない(より速いアルゴリズムがあり得る)。
==手法==
{{mvar|n}} 次の[[数ベクトル空間|ベクトル]] {{math|'''''x''''' {{=}} (''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>, ... , ''x''<sub>''n''</sub>)}} を[[独立変数|引数]]とする[[関数 (数学)|関数]]を {{math|''f'' ('''''x''''')}} としてこの関数の[[極小値]]を求めることを考える。
勾配法では[[反復法 (数値計算)|反復法]]を用いて {{mvar|'''x'''}} を解に近づけていく。{{mvar|k}} 回目の反復で解が {{math|'''''x'''''<sup>(''k'')</sup>}} の位置にあるとき、最急降下法では次のようにして値を更新する<ref name="opt_math"/>。
{{numBlk|:|
<math>\begin{align}
\boldsymbol{x}^{(k+1)} = \boldsymbol{x}^{(k)} - \alpha \operatorname{grad} f(\boldsymbol{x}^{(k)})
= \boldsymbol{x}^{(k)}
- \alpha\begin{bmatrix}
\partial f(\boldsymbol{x}^{(k)}) / \partial x^{(k)}_1 \\
\partial f(\boldsymbol{x}^{(k)}) / \partial x^{(k)}_2 \\
\vdots \\
\partial f(\boldsymbol{x}^{(k)}) / \partial x^{(k)}_n
\end{bmatrix}
\end{align}</math>
|{{equationRef|SteepestDescent|最急降下法}}}}
ここで {{mvar|α}} は 1 回に更新する数値の[[重み]]を決めるパラメータであり、通常は小さな正の定数である。パラメータ {{mvar|α}} の適正な範囲は多くの場合、取り扱う問題の性質によって決まる。例えば力学問題を計算する際、計算結果が発散するような設定を与えることは、何らかの意味で非物理的な仮定をしている(あるいは元々のモデルの適用範囲を超えている)ことを示している。
例えば、{{math|''y'' {{=}} ''x''<sup>2</sup>}} の最小値の探索において、{{math|''α'' > 1}} の場合、反復ごとに悪い解へと向かう。解の探索能力、収束速度は {{mvar|α}} に強く依存しており、{{mvar|α}} が大きすぎると発散の恐れがあり、小さすぎると収束が遅くなる({{仮リンク|緩和法 (数学)|en|Relaxation (iterative method)|label=緩和法}}<!--あるいは[[過緩和]]、[[不足緩和]]-->も参照)。そのため、探索の初期では大きめにし、ある程度収束したら小さくする方法もとられる。小さくするやり方は反復回数の[[逆数]]や[[指数関数的減衰]]などがあり、[[焼きなまし法]]が参考になる。
[[勾配 (ベクトル解析)|勾配]]ベクトル {{math|grad ''f'' ('''''x''''')}} は関数 {{mvar|f}} の変化率が最も大きい方向を向く。したがって {{mvar|α}} が適切な値を持つなら、{{math|''f'' ('''''x'''''<sup>(''k'' + 1)</sup>)}} は必ず {{math|''f'' ('''''x'''''<sup>(''k'')</sup>)}} より小さくなる。
最急降下法のスキームは以下のようになる<ref name="opt_math"/>:
# {{mvar|'''x'''}} の[[初期値]] {{math|'''''x'''''<sup>(0)</sup>}} を決める(必要であれば、反復回数を記憶する変数を {{math|''k'' {{=}} 0}} と初期化しておく。実際には {{mvar|'''x'''}} を記憶する領域は 1 つで充分なので、単純に最急降下法のみを行う場合には必要ない)。
# {{math|{{sfrac|∂''f'' ('''''x'''''<sup>(''k'')</sup>)|∂''x''<sub>''i''</sub><sup>(''k'')</sup>}} {{=}} 0 (''i'' {{=}} 1, ... , ''n'')}} であるなら終了する(実際は正確に 0 になることはないので、十分小さな値になれば終了する)。
# 上記の記述に従って {{math|'''''x'''''<sup>(''k'')</sup>}} を更新する。
# 2 に戻る(必要なら {{mvar|''k''}} の値を 1 つ進める)。
== 特徴 ==
* 傾き(一階微分)のみしか見ないので手法として簡便で計算も速い。
* 勾配法のため、[[極値|局所的な最小値]]に捉まり易く、大域的な[[最小値]]を求めるのは困難であることが欠点である。それを回避するために、複数の初期値から探索を行うなどの対策が必要である。対策としては[[確率的勾配降下法]]も参照。
* 関数 {{mvar|f}} の偏微分が計算できなくてはならない。
==出典==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[最適化問題]]
*[[確率的勾配降下法]]
*[[共役勾配法]]
{{最適化アルゴリズム}}
{{DEFAULTSORT:さいきゆうこうかほう}}
[[Category:勾配法]]
[[Category:数学に関する記事]] | null | 2023-07-06T09:17:18Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E6%80%A5%E9%99%8D%E4%B8%8B%E6%B3%95 |
3,945 | 中東 | 中東(ちゅうとう、英語: Middle East)は、ヨーロッパから見て近辺にあるアジア・アフリカの地域概念を指す。狭義では西アジアの大部分にエジプト及びイランを含めた国々、広義では中近東とほぼ同じ範囲を指す。
中東の概念は物理的に明確な地理的要因に由来するものではなく、特定の主体から見て東に位置する地域を指し示す相対的な概念であり、その範囲は国際政治の変化や文化的な認識の変化により時代とともに伸縮してきた。
19世紀には「中近東(Near and Middle East)」の呼び方のほうが一般的であった。「中東」を最初に使用した人物は米国の海軍軍人アルフレッド・セイヤー・マハンで1902年のことといわれているが、その範囲は曖昧であり、厳密な定義をして用いるようになったのはイギリスの政治行政官である。極東(Far East)、中東(Middle East)、近東(Near East)などはイギリスからみた呼称として成立した。
「中東」はオスマン帝国の崩壊を背景にイギリスの最も重要な植民地であったインドに至る地域(トルコ、エジプト、シリア、イラクなど)を指す呼称として次第に形成された。また、「近東」は東方問題が焦点となる中でオスマン帝国の領域を可視化する呼称として形成された。そのため、当初の「中東」の概念は第二次世界大戦後に定着したものとは大きく異なる。「近東」とはトルコやアラブ世界にバルカン半島を含む地域を言った。また、第二次世界大戦以前において「近東」と並行して「中東」が用いられる場合、イランとコーカサス、アフガニスタン、中央アジア、さらに広義にはインドシナ半島やトルキスタンに至る地域を含むことがあった。
第二次世界大戦が起こるとイギリスは北アフリカや西アジアでドイツやイタリアなどと対戦し、そこでは作戦上使用する呼称として中東(MENA)が使われるようになった。
第二次世界大戦後は中東と近東の区別が曖昧になり、ニューヨーク・タイムズは同じ地域に2つの呼称を使用していたが1954年に「中東」に表現を統一した。また、アメリカも1957年のアイゼンハワー・ドクトリンで公式文書として初めて「中東」を使用し、1958年の国務省の見解で「中東」と「近東」は交換可能な用語と説明された。
冷戦崩壊以降、国際安全保障環境は民族・宗教対立の表面化、核拡散、国際秩序の地域分化などが顕著となった。アメリカは、産油国でありながらかつ紛争の絶えない中東への介入を拡大させ、湾岸戦争後はイラクに対する敵視政策を拡大してきた。2001年における4年ごとの国防見直し (QDR) においては中東から東アジアにかけての広い地域を不安定の弧と位置づけ、対アジア戦略の中枢に据えてきた。中でも中東は紛争の絶えない地域でありアメリカの世界戦略の軸とされてきた。
こうしたアメリカの中東への介入によりアルカーイダはアメリカに対する敵視・敵対・テロ活動を増大させ、2001年にアメリカ同時多発テロ事件が勃発、アメリカの富の象徴、ニューヨーク・マンハッタンの世界貿易センタービル(ワールド・トレード・センター)、並びにアメリカの国防機関の中枢、国防総省へのテロが発生し、時のジョージ・W・ブッシュ大統領は、このテロを「新しい戦争」と呼び、ますます中東への介入を強めた。
しかし、国際法上、テロに対する戦争が困難だったアメリカはテロ支援国家を攻撃することによりこれに対抗しようとした。その結果がアフガニスタンのターリバーン政権打倒であり、イラク戦争であった。イラク戦争をはじめとするアメリカの中東戦略は国連安保理の承認を経ずに自国とイギリスを中心とした有志連合によって攻撃をしたため、国際社会から批判された。
アフガニスタンに対してはアフガニスタン戦争でターリバーン政権を打倒し、国連安全保障理事会で採択したアフガニスタンの再建・復興プロセスに基づいて、暫定国会選挙、新憲法案の採択、憲法承認国民投票、正式国会選挙、大統領選挙と政府の樹立などの政治体制の変革を遂行し、2014年末中のアフガニスタンへの派遣軍の全軍撤退をめざしているが、ターリバーンによるテロは収束せず治安回復や復興計画が進展していない。
イラクに対してはイラク戦争でフセイン政権を打倒し、国連安全保障理事会で採択したイラクの再建・復興プロセスに基づいて、暫定国会選挙、新憲法案の採択、憲法承認国民投票、首相の選挙と政府の樹立などの政治体制の変革を遂行し、テロが完全に収束せずテロによる死傷者が発生している状況ではあるが、2011年末にイラクへの派遣軍を全撤退させた。
20世紀前半の中東は欧米列強の侵略に悩まされた地域である。植民地支配からの独立後、また中東戦争時に欧米諸国が一斉に人材や資本を引き上げた時に西側諸国として唯一、政府開発援助や国際協力機構を通じて国際協力を続けた。日本にとっても豊かな産油国であるこれらの国との関係はエネルギー安全保障上において重要なパートナーであり、日本から東南アジア、インド洋、そして中東にかけて伸びる海洋交通路即ちシーレーンの防衛が課題となっている。
1970年代から1980年代にかけて新左翼系国際テロ組織の日本赤軍による活動拠点となり、多数の民間人が犠牲になったテルアビブ空港乱射事件や日航機ハイジャック事件などの日本赤軍事件の舞台ともなった。
アメリカ合衆国によるイラク戦争の開戦後は、日本もアメリカの同盟国としてイラク戦争の支持を表明し、イラク戦争の後方支援並びにイラク戦後復興支援に尽力している。日本のイラクへの自衛隊派遣に反対する人々は「アメリカの戦争への協力」、「アメリカのいいなり」、「イラク国民のためにならない」、「自衛隊の派遣は憲法違反」、「武装組織との戦闘によりイラク国民にも自衛隊にも死傷者が発生したらイラク国民の対日感情が悪化する」などの理由で批判し、日本の左派系のマスコミによって論争になった。イラクでアメリカ軍やイギリス軍を攻撃した武装勢力は、イラクに派遣された日本の自衛隊に対しては攻撃せず、自衛隊はイラクの武装勢力との戦闘による死傷者は発生せず、自衛隊もイラク国民を死傷させなかった。イラクからの自衛隊の撤退後に、イラクの大統領、首相、外相、その他の閣僚や政府幹部、国会議員団が来日して、日本の首相や閣僚と会談した時に、日本がイラク戦争後のイラクの復興に協力したことに感謝を表明した。
ここでは中東の国として、西アジア諸国・地域、及びに北アフリカのアラブ諸国(アラブ人が多数を占める国)を記載する。
この地域で話される主要言語としては、アフロ・アジア語族に属するアラビア語やヘブライ語、インド・ヨーロッパ語族に属するペルシャ語やクルド語、アルタイ諸語に属するトルコ語などがある。
中東で最も広く話される言語はアラビア語であり、中東はおおまかにアラビア語圏と非アラビア語圏に二分することができる。アラビア語圏はマグリブ諸国やエジプト、アラビア半島諸国、シリアやイラクなどであり、これらの国では公用語がアラビア語とされている。アラビア語圏の国家は中東地域の過半を占めており、地域の共通語として広く話される。これに対し、ペルシャ語を話すイランやトルコ語を話すトルコ、ヘブライ語を話すイスラエルは非アラビア語圏に属する。
中東はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の誕生した地であり、イスラム教の聖都であるメッカとメディナはこの地に存在し、毎年世界中から多数の巡礼を受け入れている。また、エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3宗教がすべて聖地としており、11世紀末から170年以上にわたって断続的に行われた十字軍などに見えるように、3宗教の争奪の地となってきた。21世紀においてはこの地域の信仰は圧倒的にイスラム教が多数を占める。非イスラム教徒が多数派を占める国家はイスラエルただ一国である。ただし、レバノンはマロン派のキリスト教徒が比較的多く、またエジプトにはコプト派のキリスト教徒が一定数存在する。イスラム教徒の大半はスンニ派であるが、イランの国民の多くはシーア派に属する十二イマーム派を信仰している。イランにはゾロアスター教やバハイ教の小規模なコミュニティも存在する。イラクはシーア派が6割、スンニ派が3割5分を占めており、両派の間に対立がある。バーレーンもシーア派が75%、スンニ派が25%を占めるが、同国の首脳部はスンニ派で占められ、国民の多数派であるシーア派とはしばしばはげしく対立する。オマーンにおいてはイバード派が主流となっている。
中東最大の民族はアラブ人であり、エジプトやサウジアラビアをはじめ、中東の過半の国々はアラブ人が多数派を占めている。アラブ人に次いで人口規模が大きいのはペルシャ人とトルコ人であり、それぞれイランとトルコの人口の大多数を占める。その次に人口が多いのはトルコ・イラン・イラクの三か国にまたがる山岳地帯に居住し、2,500万~3,000万人の人口を抱えるクルド人であるが、クルド人は独自の国を持たず、居住するどの国においても少数派である。このため、とくに居住者の多いイラクやトルコとの間に紛争が多発している。イラクにおいては、2003年のバアス党政権崩壊によってクルディスタン地域に大きな自治が与えられるようになった。このほか、イスラエルにおいてはユダヤ人が多数派である。ユダヤ人はもともとパレスチナの地に居住しており、アラブ人と共存していたが、19世紀後半以降シオニズムの進展とともにパレスチナへの移住者が増大し、人口バランスが崩れて紛争が多発するようになった。やがて両者の対立は1948年に第一次中東戦争として火を噴き、勝利したユダヤ人は建国したイスラエルの基盤固めに成功したが、その後も両民族間では対立が絶えず、四度にわたる中東戦争を招くこととなった。イスラエルにおいては建国後ユダヤ人の流入がさらに増大したものの、アラブ人を排除しているというわけではなく、人口の20%はアラブ人が占めている。
中東の政治の最大の対立点はイスラエルである。イスラエルはほかの中東諸国のほとんどすべてと対立状態にあり、そのため中東諸国がすべて加盟している地域協力機構は存在しない。イスラエルを除けば、中東地域で域内大国と言えるのはエジプト、トルコ、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の5か国である。エジプトは人口8000万人を抱える中東最大の国家であり、政治面でも文化面でもアラブ諸国の主導権を長く握ってきた。これに対抗できるアラブ人国家はサウジアラビアのみである。サウジアラビアは人口は3000万人弱であるが、聖地であるメッカとメディナの統治者であり、また世界最大の産油国であることから経済的にも強く、宗教面・経済面で影響力が強い。これらのアラブ人国家はすべてアラブ連盟に加盟しており、アラブ連盟は中東最大の地域協力機構となっている。ただしアラブ連盟はあくまでもアラブ人諸国家の連合組織であり、イスラエルはもとより、トルコ人を主体とするトルコやペルシャ人を主体とするイランも加盟してはいない。中東域内のアラブ人国家には過去何度か統合の動きがあり、1958年にはエジプトとシリアが連合してアラブ連合共和国が、同年イラクとヨルダンが連合してアラブ連邦が結成されたが、アラブ連邦はわずか数か月で、アラブ連合共和国も3年後の1961年に崩壊した。また、ペルシャ湾岸の諸国の間では湾岸協力会議という独自の地域協力機構が存在する。トルコもこの地域では経済力が強く存在感を持っているが、同国はヨーロッパ連合加盟を長年求め続けているようにヨーロッパ志向も強い。
現在中東と呼ばれている地域は地球上でもっとも古くから文明の発達した土地である。この地域に成立したエジプト文明とメソポタミア文明の二つの大文明、およびそれを含む肥沃な三日月地帯と呼ばれる地域はエジプトやバビロニア、ヒッタイト、アケメネス朝ペルシアなど古来より多くの帝国を育んできた。紀元前331年にはアケメネス朝がマケドニア王国のアレクサンドロス3世によって征服されるが、アレクサンドロスの帝国はすぐに崩壊し、中東全域はその後継国家であるセレウコス朝シリア王国とプトレマイオス朝エジプト王国に分割されたが、この時の文化混交によって政治的・文化的にヘレニズムと呼ばれる一時代が形成された。その後ヘレニズム国家はローマ帝国によって併合され、イラン高原はパルティア王国によって支配された。このシリア・エジプトを支配する地中海国家とメソポタミア・イラン高原を支配するペルシア国家の構図は、両国崩壊後の東ローマ帝国とサーサーン朝の両王朝においても継続された。
この構図が根本的に変動するのは、622年にアラビア半島に成立したイスラム帝国が北上を開始してからである。イスラム帝国はサーサーン朝を滅亡させて東ローマ帝国をアナトリアの端にまで追いつめ、中東のほぼ全域を統一的な支配下におさめた。この中東の統一は9世紀初頭のアッバース朝初期まで続き、この時期以降中東ではイスラム教が支配的な宗教となった。その後アッバース朝の衰退により各地にイスラム王朝が分立するようになり、1095年から1291年にかけては十字軍国家がパレスチナからシリアにかけて勢力を張ったこともあったものの、イスラムの優越は現代まで続いている。16世紀初頭には中東西部はオスマン帝国によって統一され、イラン高原のサファヴィー朝と対峙するようになった。この中東東西勢力の対立はイランでの王朝交代をはさみつつ19世紀まで続くものの、やがて両勢力ともに衰退し、ヨーロッパからの介入を招くようになった。
地球温暖化の深刻な影響により、将来的には全世界での中でも、夏の暑さが人類にとっての生存の限界(湿球温度35度。それ以上の環境では健康な若者でも屋外に6時間ほどいると死に至るとされる)に達する状況が本格的に発生して居住不能になるのが最も早い地域の一つと予測されており、実際その限界の状況が2015年頃以降、ペルシア湾岸で短時間ながら既にしばしば発生している。そのため、サウジアラビアなどでは産業の構造転換などの動きが模索されている。 | [
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"text": "中東で最も広く話される言語はアラビア語であり、中東はおおまかにアラビア語圏と非アラビア語圏に二分することができる。アラビア語圏はマグリブ諸国やエジプト、アラビア半島諸国、シリアやイラクなどであり、これらの国では公用語がアラビア語とされている。アラビア語圏の国家は中東地域の過半を占めており、地域の共通語として広く話される。これに対し、ペルシャ語を話すイランやトルコ語を話すトルコ、ヘブライ語を話すイスラエルは非アラビア語圏に属する。",
"title": "言語"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "中東はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の誕生した地であり、イスラム教の聖都であるメッカとメディナはこの地に存在し、毎年世界中から多数の巡礼を受け入れている。また、エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3宗教がすべて聖地としており、11世紀末から170年以上にわたって断続的に行われた十字軍などに見えるように、3宗教の争奪の地となってきた。21世紀においてはこの地域の信仰は圧倒的にイスラム教が多数を占める。非イスラム教徒が多数派を占める国家はイスラエルただ一国である。ただし、レバノンはマロン派のキリスト教徒が比較的多く、またエジプトにはコプト派のキリスト教徒が一定数存在する。イスラム教徒の大半はスンニ派であるが、イランの国民の多くはシーア派に属する十二イマーム派を信仰している。イランにはゾロアスター教やバハイ教の小規模なコミュニティも存在する。イラクはシーア派が6割、スンニ派が3割5分を占めており、両派の間に対立がある。バーレーンもシーア派が75%、スンニ派が25%を占めるが、同国の首脳部はスンニ派で占められ、国民の多数派であるシーア派とはしばしばはげしく対立する。オマーンにおいてはイバード派が主流となっている。",
"title": "宗教"
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"text": "中東最大の民族はアラブ人であり、エジプトやサウジアラビアをはじめ、中東の過半の国々はアラブ人が多数派を占めている。アラブ人に次いで人口規模が大きいのはペルシャ人とトルコ人であり、それぞれイランとトルコの人口の大多数を占める。その次に人口が多いのはトルコ・イラン・イラクの三か国にまたがる山岳地帯に居住し、2,500万~3,000万人の人口を抱えるクルド人であるが、クルド人は独自の国を持たず、居住するどの国においても少数派である。このため、とくに居住者の多いイラクやトルコとの間に紛争が多発している。イラクにおいては、2003年のバアス党政権崩壊によってクルディスタン地域に大きな自治が与えられるようになった。このほか、イスラエルにおいてはユダヤ人が多数派である。ユダヤ人はもともとパレスチナの地に居住しており、アラブ人と共存していたが、19世紀後半以降シオニズムの進展とともにパレスチナへの移住者が増大し、人口バランスが崩れて紛争が多発するようになった。やがて両者の対立は1948年に第一次中東戦争として火を噴き、勝利したユダヤ人は建国したイスラエルの基盤固めに成功したが、その後も両民族間では対立が絶えず、四度にわたる中東戦争を招くこととなった。イスラエルにおいては建国後ユダヤ人の流入がさらに増大したものの、アラブ人を排除しているというわけではなく、人口の20%はアラブ人が占めている。",
"title": "民族"
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"text": "中東の政治の最大の対立点はイスラエルである。イスラエルはほかの中東諸国のほとんどすべてと対立状態にあり、そのため中東諸国がすべて加盟している地域協力機構は存在しない。イスラエルを除けば、中東地域で域内大国と言えるのはエジプト、トルコ、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の5か国である。エジプトは人口8000万人を抱える中東最大の国家であり、政治面でも文化面でもアラブ諸国の主導権を長く握ってきた。これに対抗できるアラブ人国家はサウジアラビアのみである。サウジアラビアは人口は3000万人弱であるが、聖地であるメッカとメディナの統治者であり、また世界最大の産油国であることから経済的にも強く、宗教面・経済面で影響力が強い。これらのアラブ人国家はすべてアラブ連盟に加盟しており、アラブ連盟は中東最大の地域協力機構となっている。ただしアラブ連盟はあくまでもアラブ人諸国家の連合組織であり、イスラエルはもとより、トルコ人を主体とするトルコやペルシャ人を主体とするイランも加盟してはいない。中東域内のアラブ人国家には過去何度か統合の動きがあり、1958年にはエジプトとシリアが連合してアラブ連合共和国が、同年イラクとヨルダンが連合してアラブ連邦が結成されたが、アラブ連邦はわずか数か月で、アラブ連合共和国も3年後の1961年に崩壊した。また、ペルシャ湾岸の諸国の間では湾岸協力会議という独自の地域協力機構が存在する。トルコもこの地域では経済力が強く存在感を持っているが、同国はヨーロッパ連合加盟を長年求め続けているようにヨーロッパ志向も強い。",
"title": "政治"
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"text": "現在中東と呼ばれている地域は地球上でもっとも古くから文明の発達した土地である。この地域に成立したエジプト文明とメソポタミア文明の二つの大文明、およびそれを含む肥沃な三日月地帯と呼ばれる地域はエジプトやバビロニア、ヒッタイト、アケメネス朝ペルシアなど古来より多くの帝国を育んできた。紀元前331年にはアケメネス朝がマケドニア王国のアレクサンドロス3世によって征服されるが、アレクサンドロスの帝国はすぐに崩壊し、中東全域はその後継国家であるセレウコス朝シリア王国とプトレマイオス朝エジプト王国に分割されたが、この時の文化混交によって政治的・文化的にヘレニズムと呼ばれる一時代が形成された。その後ヘレニズム国家はローマ帝国によって併合され、イラン高原はパルティア王国によって支配された。このシリア・エジプトを支配する地中海国家とメソポタミア・イラン高原を支配するペルシア国家の構図は、両国崩壊後の東ローマ帝国とサーサーン朝の両王朝においても継続された。",
"title": "歴史"
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"text": "この構図が根本的に変動するのは、622年にアラビア半島に成立したイスラム帝国が北上を開始してからである。イスラム帝国はサーサーン朝を滅亡させて東ローマ帝国をアナトリアの端にまで追いつめ、中東のほぼ全域を統一的な支配下におさめた。この中東の統一は9世紀初頭のアッバース朝初期まで続き、この時期以降中東ではイスラム教が支配的な宗教となった。その後アッバース朝の衰退により各地にイスラム王朝が分立するようになり、1095年から1291年にかけては十字軍国家がパレスチナからシリアにかけて勢力を張ったこともあったものの、イスラムの優越は現代まで続いている。16世紀初頭には中東西部はオスマン帝国によって統一され、イラン高原のサファヴィー朝と対峙するようになった。この中東東西勢力の対立はイランでの王朝交代をはさみつつ19世紀まで続くものの、やがて両勢力ともに衰退し、ヨーロッパからの介入を招くようになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "地球温暖化の深刻な影響により、将来的には全世界での中でも、夏の暑さが人類にとっての生存の限界(湿球温度35度。それ以上の環境では健康な若者でも屋外に6時間ほどいると死に至るとされる)に達する状況が本格的に発生して居住不能になるのが最も早い地域の一つと予測されており、実際その限界の状況が2015年頃以降、ペルシア湾岸で短時間ながら既にしばしば発生している。そのため、サウジアラビアなどでは産業の構造転換などの動きが模索されている。",
"title": "将来予測"
}
] | 中東は、ヨーロッパから見て近辺にあるアジア・アフリカの地域概念を指す。狭義では西アジアの大部分にエジプト及びイランを含めた国々、広義では中近東とほぼ同じ範囲を指す。 | {{Otheruses|西アジアの地域|中国の地域|中国東北部}}
{{Infobox Settlement
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[[ファイル:Middle_east.jpg|thumb|300px|中東の地図]]
'''中東'''(ちゅうとう、{{lang-en|Middle East}})は、[[ヨーロッパ]]から見て近辺にある[[アジア]]・[[アフリカ]]の地域概念を指す。狭義では'''[[西アジア]]'''の大部分に[[エジプト]]及び[[イラン]]を含めた国々、広義では[[中近東]]とほぼ同じ範囲を指す。
== 概念 ==
中東の概念は物理的に明確な地理的要因に由来するものではなく、特定の主体から見て東に位置する地域を指し示す相対的な概念であり、その範囲は国際政治の変化や文化的な認識の変化により時代とともに伸縮してきた<ref name="ikeuchi">{{Cite web|和書|author=池内恵|url=https://www.jccme.or.jp/11/pdf/2018-07/josei02.pdf |title=「中東」概念の変容 中国・インドの台頭と「西アジア」の復活?|work=中東協力センターニュース 2018・7|accessdate=2020-06-30}}</ref>。
19世紀には「[[中近東]](Near and Middle East)」の呼び方のほうが一般的であった<ref name="kurita">{{Cite journal |和書|author= 栗田禎子 |title=中東情勢と日本・世界のゆくえ |url=https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/103404/13kurita.pdf|publisher= 千葉大学 |journal= 公共研究 |volume=13 |issue=1 |pages=178 }}</ref>。「中東」を最初に使用した人物は米国の海軍軍人[[アルフレッド・セイヤー・マハン]]で1902年のことといわれているが、その範囲は曖昧であり、厳密な定義をして用いるようになったのは[[イギリス]]の政治行政官である<ref name="ikeuchi" /><ref name="kurita" />。[[極東]](Far East)、中東(Middle East)、[[近東]](Near East)などはイギリスからみた呼称として成立した<ref name="hatanaka">{{Cite web|和書|author=畑中美樹|url=https://www.chukeiren.or.jp/wp/wp-content/uploads/2020/01/iinkai_202001.pdf |title=最近の中東情勢と世界経済への波及|work=中経連 2020.1|publisher= 中部経済連合会 |accessdate=2020-06-30}}</ref>。
「中東」は[[オスマン帝国]]の崩壊を背景にイギリスの最も重要な植民地であった[[インド]]に至る地域([[トルコ]]、[[エジプト]]、[[シリア]]、[[イラク]]など)を指す呼称として次第に形成された<ref name="ikeuchi" />。また、「近東」は[[東方問題]]が焦点となる中でオスマン帝国の領域を可視化する呼称として形成された<ref name="ikeuchi" />。そのため、当初の「中東」の概念は[[第二次世界大戦]]後に定着したものとは大きく異なる<ref name="ikeuchi" />。「近東」とは[[トルコ]]やアラブ世界に[[バルカン半島]]を含む地域を言った<ref name="ikeuchi" />。また、[[第二次世界大戦]]以前において「近東」と並行して「中東」が用いられる場合、[[イラン]]と[[コーカサス]]、[[アフガニスタン]]、[[中央アジア]]、さらに広義には[[インドシナ半島]]や[[トルキスタン]]に至る地域を含むことがあった<ref name="ikeuchi" /><ref name="hatanaka" />。
第二次世界大戦が起こるとイギリスは北アフリカや西アジアでドイツやイタリアなどと対戦し、そこでは作戦上使用する呼称として中東(MENA)が使われるようになった<ref name="hatanaka" />。
第二次世界大戦後は中東と近東の区別が曖昧になり、[[ニューヨーク・タイムズ]]は同じ地域に2つの呼称を使用していたが1954年に「中東」に表現を統一した<ref name="hatanaka" />。また、アメリカも1957年のアイゼンハワー・ドクトリンで公式文書として初めて「中東」を使用し、1958年の[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]の見解で「中東」と「近東」は交換可能な用語と説明された<ref name="ikeuchi" />。
== アメリカの中東戦略 ==
[[冷戦]]崩壊以降、国際安全保障環境は民族・宗教対立の表面化、核拡散、国際秩序の地域分化などが顕著となった。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は、産油国でありながらかつ紛争の絶えない中東への介入を拡大させ、[[湾岸戦争]]後はイラクに対する敵視政策を拡大してきた。[[2001年]]における4年ごとの国防見直し (QDR) においては中東から東アジアにかけての広い地域を[[不安定の弧]]と位置づけ、対アジア戦略の中枢に据えてきた。中でも中東は紛争の絶えない地域でありアメリカの世界戦略の軸とされてきた。
こうしたアメリカの中東への介入により[[アルカーイダ]]はアメリカに対する敵視・敵対・テロ活動を増大させ、2001年に[[アメリカ同時多発テロ事件]]が勃発、アメリカの富の象徴、[[ニューヨーク]]・[[マンハッタン]]の[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|世界貿易センタービル]](ワールド・トレード・センター)、並びにアメリカの国防機関の中枢、[[国防総省]]へのテロが発生し、時の[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領は、このテロを'''「新しい戦争」'''と呼び、ますます中東への介入を強めた。
しかし、[[国際法]]上、テロに対する戦争が困難だったアメリカはテロ支援国家を攻撃することによりこれに対抗しようとした。その結果が[[アフガニスタン]]の[[ターリバーン]]政権打倒であり、[[イラク戦争]]であった。イラク戦争をはじめとするアメリカの中東戦略は[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]の承認を経ずに自国とイギリスを中心とした有志連合によって攻撃をしたため、国際社会から批判された。
アフガニスタンに対してはアフガニスタン戦争でターリバーン政権を打倒し、国連安全保障理事会で採択したアフガニスタンの再建・復興プロセスに基づいて、暫定国会選挙、新憲法案の採択、憲法承認国民投票、正式国会選挙、大統領選挙と政府の樹立などの政治体制の変革を遂行し、2014年末中のアフガニスタンへの派遣軍の全軍撤退をめざしているが、[[ターリバーン]]によるテロは収束せず治安回復や復興計画が進展していない<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/afghanistan/data.html 外務省>アフガニスタン・イスラム共和国>基礎データ]</ref>。
イラクに対してはイラク戦争でフセイン政権を打倒し、国連安全保障理事会で採択したイラクの再建・復興プロセスに基づいて、暫定国会選挙、新憲法案の採択、憲法承認国民投票、首相の選挙と政府の樹立などの政治体制の変革を遂行し、テロが完全に収束せずテロによる死傷者が発生している状況ではあるが、2011年末にイラクへの派遣軍を全撤退させた<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/data.html#01 外務省>イラク共和国>基礎データ]</ref>。
== 日本との関係 ==
[[20世紀]]前半の中東は欧米列強の侵略に悩まされた地域である。植民地支配からの独立後、また中東戦争時に欧米諸国が一斉に人材や資本を引き上げた時に西側諸国として唯一、[[政府開発援助]]や[[国際協力機構]]を通じて国際協力を続けた。日本にとっても豊かな産油国であるこれらの国との関係はエネルギー安全保障上において重要なパートナーであり、日本から[[東南アジア]]、[[インド洋]]、そして中東にかけて伸びる海洋交通路即ち[[シーレーン]]の防衛が課題となっている。
[[1970年]]代から[[1980年]]代にかけて[[新左翼]]系国際[[テロ組織]]の[[日本赤軍]]による活動拠点となり、多数の民間人が犠牲になった[[テルアビブ空港乱射事件]]や日航機[[ハイジャック]]事件などの[[日本赤軍事件]]の舞台ともなった。
アメリカ合衆国によるイラク戦争の開戦後は、日本もアメリカの同盟国としてイラク戦争の支持を表明し、イラク戦争の後方支援並びにイラク戦後復興支援に尽力している。日本のイラクへの自衛隊派遣に反対する人々は「アメリカの戦争への協力」、「アメリカのいいなり」、「イラク国民のためにならない」、「自衛隊の派遣は憲法違反」、「武装組織との戦闘によりイラク国民にも自衛隊にも死傷者が発生したらイラク国民の対日感情が悪化する」などの理由で批判し、日本の左派系のマスコミによって論争になった。イラクでアメリカ軍やイギリス軍を攻撃した武装勢力は、イラクに派遣された日本の自衛隊に対しては攻撃せず、自衛隊はイラクの武装勢力との戦闘による死傷者は発生せず、自衛隊もイラク国民を死傷させなかった。イラクからの自衛隊の撤退後に、イラクの大統領、首相、外相、その他の閣僚や政府幹部、国会議員団が来日して、日本の首相や閣僚と会談した時に、日本がイラク戦争後のイラクの復興に協力したことに感謝を表明した<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/visit/0809_sk.html 外務省>イラク共和国>麻生総理とタラバーニー・イラク大統領との会談]</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/h19/3/1172915_800.html 外務省>イラク共和国>イラク副大統領と麻生外務大臣との会談について(概要)]</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/h20/7/1181406_912.html 外務省>イラク共和国>ハーシミー・イラク副大統領と中野経済産業副大臣及び宇野外務大臣政務官との会談]</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/h19/4/1173060_802.html 外務省>イラク共和国>マーリキー・イラク首相と麻生外務大臣との会談について(概要)]</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_noda/iraq1111.html 外務省>イラク共和国>野田総理大臣とマーリキー・イラク首相の会談]</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_noda/1205_iraq.html 外務省>イラク共和国>ズィーバーリー・イラク外相による野田総理表敬]</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/21/7/1193656_1102.html 外務省>イラク共和国>シャハリスターニー・イラク石油大臣、ハリーリー同国産業鉱物資源大臣一行の中曽根外務大臣との会談]</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/24/11/1106_06.html 外務省>イラク共和国>イラク国会議員代表団による榛葉外務副大臣表敬]</ref>。
[[ファイル:GreaterMiddleEast2.png|300px|thumb|伝統的中東(深緑色)とG8によって提案された拡大中東(薄緑色)]]
== 中東の国 - 首都の一覧 ==
ここでは中東の国として、[[西アジア]]諸国・地域、及びに[[北アフリカ]]の[[アラブ諸国]](アラブ人が多数を占める国)を記載する。
=== 伝統的中東 ===
<!--[[外務省]]の地域区分に基づいたもの。-->
{| class="wikitable sortable" style="font-size:90%; white-space:nowrap" width="100%"
! style="line-height:95%" class="unsortable" | [[国旗]]<br />
! style="line-height:95%" class="unsortable" | [[国章]]<br />
! style="line-height:95%" | 国名<br />
! style="line-height:95%" | 正式国名<br />
! style="line-height:95%" | 原語(公用語)表記<br />
! style="line-height:95%" | 人口<br />
! style="line-height:95%" | 面積 <small>(km2)</small><br />
! style="line-height:95%" | 首都<br />
|-
| align="center" | {{Flagicon|UAE}}
| align="center" | [[ファイル:Coat of arms of the United Arab Emirates.svg|22x15px]]
| [[アラブ首長国連邦]]
| アラブ首長国連邦
| '''{{Lang|ar|الإمارات العربيّة المتّحدة}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|4599000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|82880}}
| [[アブダビ]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|YEM}}
| align="center" | [[ファイル:Emblem of Yemen.svg|22x15px]]
| [[イエメン]]
| イエメン共和国
| '''{{Lang|ar|الجمهوريّة اليمنية}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|23580000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|527970}}
| [[サナア]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|ISR}}
| align="center" | [[ファイル:Emblem of Israel.svg|22x15px]]
| [[イスラエル]]
| イスラエル国
| '''{{Lang|he|מדינת ישראל}}'''<small>([[ヘブライ語]])</small><br />'''{{Lang|ar|دولة اسرائيل}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|7170000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|20770}}
| [[エルサレム]]<small>(イスラエルの主張)</small><br />[[テルアビブ]]<small>(国際連合の主張)</small>
|-
| align="center" | {{Flagicon|IRQ}}
| align="center" | [[ファイル:Coat of arms (emblem) of Iraq 2008.svg|22x15px]]
| [[イラク]]
| イラク共和国
| '''{{Lang|ar|الجمهورية العراقية}}'''<small>([[アラビア語]])</small><br/>'''{{Lang|ku|كۆماری عێراق}}'''<small>([[クルド語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|30747000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|437072}}
| [[バグダード]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|IRI}}
| align="center" | [[ファイル:Coat of arms of Iran.svg|22x15px]]
| [[イラン]]
| イラン・イスラム共和国
| '''{{Lang|fa|جمهوری اسلامی ایران}}'''<small>([[ペルシア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|74196000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|1648195}}
| [[テヘラン]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|EGY}}
| align="center" | [[ファイル:Coat of arms of Egypt.svg|22x15px]]
| [[エジプト]]
| エジプト・アラブ共和国
| '''{{Lang|ar|جمهوريّة مصرالعربيّة}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|82999000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|1001450}}
| [[カイロ]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|OMA}}
| align="center" | [[ファイル:National_emblem_of_Oman.svg|22x15px]]
| [[オマーン]]
| オマーン国
| '''{{Lang|ar|سلطنة عُمان}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|2845000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|312460}}
| [[マスカット]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|QAT}}
| align="center" | [[ファイル:Emblem_of_Qatar.svg|22x15px]]
| [[カタール]]
| カタール国
| '''{{Lang|ar|دولة قطر}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|1409000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|11437}}
| [[ドーハ]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|KUW}}
| align="center" | [[ファイル:Coat_of_arms_of_Kuwait.svg|22x15px]]
| [[クウェート]]
| クウェート国
| '''{{Lang|ar|دولة الكويت}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|2985000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|17820}}
| [[クウェート市|クウェート]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|KSA}}
| align="center" | [[ファイル:Coat of arms of Saudi Arabia.svg|22x15px]]
| [[サウジアラビア]]
| サウジアラビア王国
| '''{{Lang|ar|المملكة العربية السعودية}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|25721000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|2149690}}
| [[リヤド]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|SYR}}
| align="center" | [[ファイル:Coat of arms of Syria.svg|22x15px]]
| [[シリア]]
| シリア・アラブ共和国
| '''{{Lang|ar|الجمهوريّة العربيّة السّوريّة}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|21906000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|185180}}
| [[ダマスカス|ダマスクス]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|TUR}}
| align="center" | [[ファイル:Emblem of Turkey.svg|22x15px]]
| [[トルコ]]<ref group="t" name="two">[[ヨーロッパ]]にも分類され得る</ref>
| トルコ共和国
| '''{{Lang|tr|Türkiye Cumhuriyeti}}'''<small>([[トルコ語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|74816000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|780580}}
| [[アンカラ]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|BHR}}
| align="center" | [[ファイル:Coat of arms of Bahrain.svg|22x15px]]
| [[バーレーン]]
| バーレーン王国
| '''{{Lang|ar|مملكة البحرين}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|791000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|665}}
| [[マナーマ]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|PLE}}
| align="center" | [[ファイル:Coat of arms of the Palestinian National Authority.svg|22x15px]]
| [[パレスチナ自治政府|パレスチナ]]
| パレスチナ暫定自治政府<ref group="t">[[2013年]]現在、[[国際連合]]に加盟する193カ国中[[w:International recognition of the State of Palestine|134カ国]](69.4%)から「'''パレスチナ国'''('''State of Palestine''')」として国家承認されている。 </ref>
| '''{{Lang|ar|فلسطين}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|4277360}}
| style="text-align:right" | {{Nts|6220}}
| [[ラマッラー]]および[[ガザ]]<br/><small>([[東エルサレム]]を希望)</small>
|-
| align="center" | {{Flagicon|JOR}}
| align="center" | [[ファイル:Coat_of_arms_of_Jordan.svg|22x15px]]
| [[ヨルダン]]
| ヨルダン・ハシミテ王国
| '''{{Lang|ar|المملكة الأردنّيّة الهاشميّة}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|6316000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|92300}}
| [[アンマン]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|LIB}}
| align="center" | [[ファイル:Coat_of_arms_of_Lebanon.svg|22x15px]]
| [[レバノン]]
| レバノン共和国
| '''{{Lang|ar|الجمهوريّة البنانيّة }}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|4224000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|10400}}
| [[ベイルート]]
|-
|}
=== 拡大中東 ===
{| class="wikitable sortable" style="font-size:90%; white-space:nowrap" width="100%"
! style="line-height:95%" class="unsortable" | [[国旗]]<br />
! style="line-height:95%" class="unsortable" | [[国章]]<br />
! style="line-height:95%" | 国名<br />
! style="line-height:95%" | 正式国名<br />
! style="line-height:95%" | 原語(公用語)表記<br />
! style="line-height:95%" | 人口<br />
! style="line-height:95%" | 面積 <small>(km2)</small><br />
! style="line-height:95%" | 首都<br />
|-
| align="center" | {{Flagicon|AFG}}
| align="center" |
| [[アフガニスタン]]<ref group="t" name="one">[[G8]]により提案された拡大中東。[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2005/html/honmon2608.html 外務省 平成17年版(2005年)外交青書]</ref>
| アフガニスタン・イスラム首長国
| '''{{Lang|ar|جمهوری اسلامی افغانستان}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|31108077}}
| style="text-align:right" | {{Nts|652225}}
| [[カーブル]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|ALG}}
| align="center" | [[ファイル:Emblem of Algeria.svg|22x15px]]
| [[アルジェリア]]<ref group="t" name="one"/>
| アルジェリア民主人民共和国
| '''{{Lang|ar|الجمهورية الجزائرية الديمقراطية الشعبية}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|34895000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|2381740}}
| [[アルジェ]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|CYP}}
| align="center" |
| [[キプロス]]<ref group="t" name="one"/><ref group="t" name="two"/>
| キプロス共和国
| '''{{Lang|el|Κυπριακή Δημοκρατία}}'''<small>([[ギリシア語]])</small><br/>'''{{Lang|tr|Kıbrıs Cumhuriyeti}}'''<small>([[トルコ語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|871000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|9250}} <ref group="注釈">この内、3,355[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]は[[北キプロス・トルコ共和国]]の実効支配地域。</ref>
| [[ニコシア]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|TRNC}}
| align="center" | [[ファイル:Coat of arms of the Turkish Republic of Northern Cyprus.svg|22x15px]]
| [[北キプロス・トルコ共和国|北キプロス]]<ref group="t" name="one"/><ref group="t" name="two"/>
| 北キプロス・トルコ共和国
| '''{{Lang|tr|Kuzey Kıbrıs Türk Cumhuriyeti}}'''<small>([[トルコ語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|265100}}
| style="text-align:right" | {{Nts|3355}}
| [[レフコシャ]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|SUD}}
| align="center" | [[ファイル:Emblem of Sudan.svg|22x15px]]
| [[スーダン]]<ref group="t" name="one"/>
| スーダン共和国
| '''{{Lang|ar|جمهورية السودان}}'''<small>([[アラビア語]])</small><br />'''{{lang|en|Republic of the Sudan}}'''<small>([[英語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|30894000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|1886068}}
| [[ハルツーム]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|TUN}}
| align="center" | [[ファイル:Coat of arms of Tunisia.svg|22x15px]]
| [[チュニジア]]<ref group="t" name="one"/>
| チュニジア共和国
| '''{{Lang|ar|الجمهرية التونسية}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|10272000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|163610}}
| [[チュニス]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|ESH}}
| align="center" | [[ファイル:Coat of arms of the Sahrawi Arab Democratic Republic.svg|22x15px]]
| [[サハラ・アラブ民主共和国|西サハラ]]<ref group="t" name="one"/>
| サハラ・アラブ民主共和国
| '''{{Lang|ar|الجمهورية العربية الصحراوية الديمقراطية}}'''<small>([[アラビア語]])</small><br/>'''{{Lang|es|República Árabe Saharaui Democrática}}'''<small>([[スペイン語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|502585}}
| style="text-align:right" | {{Nts|266000}}
| [[アイウン]]<small>(名目上の首都)</small><br/>[[w:Tifariti|ティファリティ]]<small>(暫定的な首都)</small><br/>[[ティンドゥフ]]<small>(事実上の首都)</small>
|-
| align="center" | {{Flagicon|DJI}}
| align="center" | [[ファイル:Coat of arms of Djibouti.svg|22x15px]]
| [[ジブチ]]<ref group="t" name="one"/>
| ジブチ共和国
| '''{{Lang|fr|République de Djibouti}}'''<small>([[フランス語]])</small><br/>'''{{Lang|ar|جمهورية جيبوتي}}''' <small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|864000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|23000}}
| [[ジブチ市|ジブチ]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|SOM}}
| align="center" | [[ファイル:Coat of arms of Somalia.svg|22x15px]]
| [[ソマリア]]<ref group="t" name="one"/>
| ソマリア連邦共和国<ref group="t" >[[2012年]][[8月]]に[[ソマリア暫定連邦政府|暫定政権]]の統治が終了するまでは、「'''ソマリア共和国'''('''Republic of Somalia''')」を国名としていたが、全土を実効支配しておらず、公式国名と見なされていなかった。</ref>
| '''{{Lang|so|Soomaaliya}}'''<small>([[ソマリ語]])</small><br/>'''{{Lang|ar|الصومال}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|10272000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|163610}}
| [[モガディシュ]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|PAK}}
| align="center" | [[ファイル:Coat of arms of Pakistan.svg|22x15px]]
| [[パキスタン]]<ref group="t" name="one"/>
| パキスタン・イスラム共和国
| ''''''{{Lang|ur|اسلامی جمہوریت پاکستان}}''''''<small>([[ウルドゥー語]])</small><br />'''{{lang|en|Islamic Republic of Pakistan}}'''<small>([[英語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|180808000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|803940}}
| [[イスラマバード]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|MAR}}
| align="center" | [[ファイル:Coat of arms of Morocco.svg|22x15px]]
| [[モロッコ]]<ref group="t" name="one"/>
| モロッコ王国
| '''{{Lang|ar|المملكة المغربية}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|31993000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|446550}}
| [[ラバト]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|MTN}}
| align="center" | [[ファイル:Seal of Mauritania.svg|22x15px]]
| [[モーリタニア]]<ref group="t" name="one"/>
| モーリタニア・イスラム共和国
| '''{{Lang|ar|الجمهورية الإسلامية الموريتانية}}'''<small>([[アラビア語]])</small><br/>'''{{lang|fr|République islamique de Mauritanie}}'''<small>([[フランス語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|3291000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|1030700}}
| [[ヌアクショット]]
|-
| align="center" | {{Flagicon|LBA}}
| align="center" | <ref group="t">[[2011年リビア内戦]]後の[[リビア国民評議会]]による暫定政権はロゴマークのみしか制定しておらず、正式な国章はまだ決まっていない。</ref>
| [[リビア]]<ref group="t" name="one"/>
| リビア国
| ''' {{lang|ar|دولة ليبيا}}'''<small>([[アラビア語]])</small>
| style="text-align:right" | {{Nts|6420000}}
| style="text-align:right" | {{Nts|1759540}}
| [[トリポリ]]
|-
|}
=== 表註 ===
<references group="t"/>
== 言語 ==
この地域で話される主要言語としては、[[アフロ・アジア語族]]に属する[[アラビア語]]や[[ヘブライ語]]、[[インド・ヨーロッパ語族]]に属する[[ペルシャ語]]や[[クルド語]]、[[アルタイ諸語]]に属する[[トルコ語]]などがある。
中東で最も広く話される言語はアラビア語であり、中東はおおまかにアラビア語圏と非アラビア語圏に二分することができる。アラビア語圏はマグリブ諸国やエジプト、アラビア半島諸国、シリアやイラクなどであり、これらの国では公用語がアラビア語とされている。アラビア語圏の国家は中東地域の過半を占めており、地域の共通語として広く話される。これに対し、ペルシャ語を話すイランやトルコ語を話すトルコ、ヘブライ語を話すイスラエルは非アラビア語圏に属する。
[[File:Jerusalem kotel mosque.jpg|thumb|[[エルサレム]]の[[神殿の丘]]]]
[[File:Kaaba mirror edit jj.jpg|thumb|[[メッカ]]の[[カーバ神殿]]]]
== 宗教 ==
中東は[[ユダヤ教]]、キリスト教、イスラム教の誕生した地であり、イスラム教の聖都である[[メッカ]]と[[メディナ]]はこの地に存在し、毎年世界中から多数の巡礼を受け入れている。また、[[エルサレム]]はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3宗教がすべて聖地としており、[[11世紀]]末から170年以上にわたって断続的に行われた[[十字軍]]などに見えるように、3宗教の争奪の地となってきた。[[21世紀]]においてはこの地域の信仰は圧倒的にイスラム教が多数を占める。非イスラム教徒が多数派を占める国家はイスラエルただ一国である。ただし、レバノンは[[マロン派]]のキリスト教徒が比較的多く、またエジプトには[[コプト派]]のキリスト教徒が一定数存在する。イスラム教徒の大半は[[スンニ派]]であるが、イランの国民の多くは[[シーア派]]に属する[[十二イマーム派]]を信仰している。イランには[[ゾロアスター教]]や[[バハイ教]]の小規模なコミュニティも存在する。イラクはシーア派が6割、スンニ派が3割5分を占めており、両派の間に対立がある。バーレーンもシーア派が75%、スンニ派が25%を占めるが、同国の首脳部はスンニ派で占められ、国民の多数派であるシーア派とはしばしばはげしく対立する。オマーンにおいては[[イバード派]]が主流となっている。
== 民族 ==
{{Main|中東の民族}}
中東最大の民族は[[アラブ人]]であり、エジプトやサウジアラビアをはじめ、中東の過半の国々はアラブ人が多数派を占めている。アラブ人に次いで人口規模が大きいのは[[ペルシャ人]]と[[トルコ人]]であり、それぞれイランとトルコの人口の大多数を占める。その次に人口が多いのはトルコ・イラン・イラクの三か国にまたがる山岳地帯に居住し、2,500万~3,000万人の人口を抱える[[クルド人]]であるが、クルド人は独自の国を持たず、居住するどの国においても少数派である。このため、とくに居住者の多いイラクやトルコとの間に紛争が多発している。イラクにおいては、[[2003年]]の[[バアス党]]政権崩壊によって[[クルディスタン地域]]に大きな自治が与えられるようになった。このほか、イスラエルにおいては[[ユダヤ人]]が多数派である。ユダヤ人はもともと[[パレスチナ]]の地に居住しており、アラブ人と共存していたが、[[19世紀]]後半以降[[シオニズム]]の進展とともにパレスチナへの移住者が増大し、人口バランスが崩れて紛争が多発するようになった。やがて両者の対立は[[1948年]]に[[第一次中東戦争]]として火を噴き、勝利したユダヤ人は建国したイスラエルの基盤固めに成功したが、その後も両民族間では対立が絶えず、四度にわたる[[中東戦争]]を招くこととなった。イスラエルにおいては建国後ユダヤ人の流入がさらに増大したものの、アラブ人を排除しているというわけではなく、人口の20%はアラブ人が占めている。
== 政治 ==
中東の政治の最大の対立点はイスラエルである。イスラエルはほかの中東諸国のほとんどすべてと対立状態にあり、そのため中東諸国がすべて加盟している地域協力機構は存在しない。イスラエルを除けば、中東地域で域内大国と言えるのはエジプト、トルコ、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の5か国である。エジプトは人口8000万人を抱える中東最大の国家であり、政治面でも文化面でもアラブ諸国の主導権を長く握ってきた。これに対抗できるアラブ人国家はサウジアラビアのみである。サウジアラビアは人口は3000万人弱であるが、[[聖地]]である[[メッカ]]と[[メディナ]]の統治者であり、また世界最大の[[産油国]]であることから経済的にも強く、宗教面・経済面で影響力が強い。これらのアラブ人国家はすべて[[アラブ連盟]]に加盟しており、アラブ連盟は中東最大の地域協力機構となっている。ただしアラブ連盟はあくまでもアラブ人諸国家の連合組織であり、イスラエルはもとより、トルコ人を主体とするトルコやペルシャ人を主体とするイランも加盟してはいない。中東域内のアラブ人国家には過去何度か統合の動きがあり、[[1958年]]にはエジプトとシリアが連合して[[アラブ連合共和国]]が、同年イラクとヨルダンが連合して[[アラブ連邦]]が結成されたが、アラブ連邦はわずか数か月で、アラブ連合共和国も3年後の[[1961年]]に崩壊した。また、[[ペルシャ湾]]岸の諸国の間では[[湾岸協力会議]]という独自の地域協力機構が存在する。トルコもこの地域では経済力が強く存在感を持っているが、同国は[[ヨーロッパ連合]]加盟を長年求め続けているように[[ヨーロッパ]]志向も強い。
== 歴史 ==
現在中東と呼ばれている地域は地球上でもっとも古くから[[文明]]の発達した土地である。この地域に成立した[[エジプト文明]]と[[メソポタミア文明]]の二つの大文明、およびそれを含む肥沃な三日月地帯と呼ばれる地域はエジプトや[[バビロニア]]、[[ヒッタイト]]、[[アケメネス朝]]ペルシアなど古来より多くの帝国を育んできた。[[紀元前331年]]にはアケメネス朝が[[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世]]によって征服されるが、アレクサンドロスの帝国はすぐに崩壊し、中東全域はその後継国家である[[セレウコス朝]]シリア王国と[[プトレマイオス朝]]エジプト王国に分割されたが、この時の文化混交によって政治的・文化的に[[ヘレニズム]]と呼ばれる一時代が形成された。その後ヘレニズム国家は[[ローマ帝国]]によって併合され、イラン高原は[[パルティア王国]]によって支配された。このシリア・エジプトを支配する地中海国家とメソポタミア・イラン高原を支配するペルシア国家の構図は、両国崩壊後の[[東ローマ帝国]]と[[サーサーン朝]]の両王朝においても継続された。
この構図が根本的に変動するのは、[[622年]]にアラビア半島に成立した[[イスラム帝国]]が北上を開始してからである。イスラム帝国はサーサーン朝を滅亡させて東ローマ帝国を[[アナトリア]]の端にまで追いつめ、中東のほぼ全域を統一的な支配下におさめた。この中東の統一は[[9世紀]]初頭の[[アッバース朝]]初期まで続き、この時期以降中東ではイスラム教が支配的な宗教となった。その後アッバース朝の衰退により各地にイスラム王朝が分立するようになり、[[1095年]]から[[1291年]]にかけては[[十字軍国家]]がパレスチナからシリアにかけて勢力を張ったこともあったものの、イスラムの優越は現代まで続いている。[[16世紀]]初頭には中東西部は[[オスマン帝国]]によって統一され、イラン高原の[[サファヴィー朝]]と対峙するようになった。この中東東西勢力の対立はイランでの王朝交代をはさみつつ[[19世紀]]まで続くものの、やがて両勢力ともに衰退し、ヨーロッパからの介入を招くようになった。
== 将来予測 ==
[[地球温暖化]]の深刻な影響により、将来的には全世界での中でも、夏の暑さが人類にとっての生存の限界([[湿球温度]]35度。それ以上の環境では健康な若者でも屋外に6時間ほどいると死に至るとされる)に達する状況が本格的に発生して居住不能になるのが最も早い地域の一つと予測されており、実際その限界の状況が2015年頃以降、ペルシア湾岸で短時間ながら既にしばしば発生している。そのため、[[サウジアラビア]]などでは産業の構造転換などの動きが模索されている。
== 中東の主要都市 ==
<gallery class="center">
File:Abu Dhabi Skyline from Marina.jpg|[[アブダビ]] - アラブ首長国連邦
|[[アンマン]] - ヨルダン
File:K%C4%B1z%C4%B1lay_Square_in_Ankara,_Turkey.JPG|[[アンカラ]] - トルコ
File:Haifa street, as seen from the medical city hospital across the tigres.jpg|[[バグダード]] - イラク
File:Zaitunay Bay, Downtown Beirut, Lebanon.jpg|[[ベイルート]] - レバノン
File:Panomara of Tabriz.jpg|[[タブリーズ]] - イラン
File:Cairo by night.jpg|[[カイロ]] - エジプト
File:Barada river in Damascus (April 2009).jpg|[[ダマスカス]] - シリア
File:West Bay Skyline, Doha, State of Qatar.jpg|[[ドーハ]] - カタール
File:Dubai skyline 2010.jpg|[[ドバイ]] - アラブ首長国連邦
File:Turkey-3019 - Hagia Sophia (2216460729).jpg|[[イスタンブール]] - トルコ
File:Westernwall2.jpg|[[エルサレム]](アル・クドゥス) - パレスチナ・イスラエル
File:Kuwait City cropped.jpg|[[クウェート市]] - クウェート
File:Manama Cityline.jpg|[[マナーマ]] - バーレーン
File:The Holy Mosque in Mecca.jpg|[[メッカ|マッカ]] - サウジアラビア
File:Bank Of Palestine - Ramallah.jpg|[[ラマッラー]] - パレスチナ
|[[リヤド]] - サウジアラビア
File:San'a03 flickr.jpg|[[サナア]] - イエメン
File:North Tehran Towers.jpg|[[テヘラン]] - イラン
File:Old_yaffo_3.JPG|[[テルアビブ]] - イスラエル
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Middle East|Middle East}}
{{Wikivoyage|fa:خاورمیانه|中東{{fa icon}}}}
{{Wikivoyage|Middle East|中東{{en icon}}}}
* [[西アジア・中東史]]
* [[中東の民族一覧]]
* [[中東戦争]]
* [[近東]] - [[中近東]] - [[極東]]
* [[アジア]]
* [[西アジア]]
* [[アナトリア]]
* [[アフリカ]]
* [[北アフリカ]]
* {{Prefix}}
== 外部リンク ==
* [https://www.jccme.or.jp/ 財団法人 中東協力センター]
* [https://www.meij.or.jp/ 財団法人 中東調査会]
* [https://jime.ieej.or.jp/ 財団法人 日本エネルギー経済研究所 中東研究所センター]
* [http://wwwsoc.nii.ac.jp/james/index.html 日本中東学会]{{リンク切れ|date=2019年6月}}
* [https://www.ide.go.jp/Japanese/Research/Region/Mid_e/ ジェトロ・アジア経済研究所 中東・中央アジア]
* [http://research.php.co.jp/field/kokusai/chiiki/chuto.html PHP総合研究所 中東・北アフリカ研究会]{{リンク切れ|date=2019年6月}}
* [https://blog.canpan.info/jig/ 中東TODAY]
* {{Kotobank}}
{{中東}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ちゆうとう}}
[[Category:中東|*]]
[[Category:地政学]]
[[Category:アジアの地域]] | 2003-03-13T15:22:36Z | 2023-11-11T22:25:52Z | false | false | false | [
"Template:リンク切れ",
"Template:Notelist",
"Template:Main",
"Template:Prefix",
"Template:Kotobank",
"Template:中東",
"Template:Lang",
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"Template:Flagicon",
"Template:Nts",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Cite journal",
"Template:Otheruses",
"Template:Wikivoyage"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%B1 |
3,949 | 空港 | 空港(くうこう、英: Airport)とは、公共の用に供する飛行場のことである。一般的な実態は主に旅客機・貨物機等の民間航空機の離着陸に用いる飛行場内の施設である。その名のとおり、海運における港のような機能をもつ施設であり、空港という日本語自体が英語 Airport(空の港)の直訳である。
2009年時点でアメリカ中央情報局がまとめた報告によると、「上空から確認できる空港あるいは飛行場」は、全世界に約44000箇所あり、その内の15095箇所は米国内にあり、米国が世界でもっとも多い。
空港には、下記のような機能が要求される。
空港にはさまざまな設備が設置されている。ただし空港によっては一部の設備がない場合もある。
離着陸に必要な設備として、着陸誘導設備などの無線関係施設、滑走路、着陸帯、誘導路、管制塔などがある。また目に見える設備ではないが、離陸着陸時に航空機が安全に飛行できる標準計器出発方式・標準計器到着方式・空域も不可欠である。
空港のターミナルビルでは、旅客の搭乗券の発行、手荷物の受け渡し、搭乗前の航空保安検査などの業務を行っている。ターミナルビルと滑走路の間には駐機場が並ぶエプロンがある。ターミナルビルと航空機の間は、専用の橋状構造物(ボーディング・ブリッジ)かタラップを利用する。大型旅客機や貨物機の場合、荷物はほとんど専用コンテナに収められ専用の車両によって積み降ろしが行われる。
付属する施設としては、出発便待ち客や乗り継ぎ客、見送り客が快適に過ごせるような待合室・ロビー・VIP用空港ラウンジがあり、レストラン・売店等が併設されている。これに加えて国際空港には税関、出入国管理、検疫に関する設備が必要となる。
空港の一角には、航空貨物の積み下ろしのための施設が集まる貨物地区も設けられている。トラックなどで届く農産品や機械部品などの貨物を荷下ろしし、保管し、航空コンテナに詰め替えるための上屋などが集積している。さらに倉庫と航空機の間の荷役を行うグランドハンドリングなどの運送業者、輸出入を請け負う貨物代理店、エア・フレイト・フォワーダー、通関業者などの事務所や、税関・検疫などの庁舎も集まっている。
大きな空港には航空機整備のための設備と人員が配置されており、定期点検や日常点検が行われている。また、燃料や旅客のための水・食料を補給し、トイレを含む客室内を整理・清掃する設備・人員が配置される。
航空機が発着するために、一般に空港周辺には標準計器出発方式・標準計器到着方式といった離着陸コースやトラフィックパターンが設定されている。そのため、空港周辺には障害物が何もない空域が必要である。
各国の規定によって、空港を中心とする円柱状の空域、滑走路から直線状に伸びる空域、特に離着陸機が多く通過する専用の空域が設定されており、これらの空域では地上の建造物・設置物に高さの制限がある場合が多い。日本では、これらの空域は管制圏あるいは特別管制区と呼ばれる。
空港は、航空機の発着のための広い敷地と、さらに広大な空域を必要とし、騒音問題もあるため、大都市から少し離れた郊外や海上に設置されることがある。そこで空港と市街中心部を結ぶ道路・鉄道・モノレール・橋梁・航路が同時に計画・建設されることが多い。
設置者と運営者はそれぞれの空港により異なる。例えば、国、空港公団といった公共法人、地方公共団体、第三セクターといった半官半民会社、民間会社などである。また、空港の運営者とターミナルビルの運営者とは異なる場合もある。空港の運営は主に空港使用料によって行われるが、航空機燃料税等の歳入や国や自治体による補助金で賄われる場合もある。
国際航空運送協会の調査では2018年現在、世界全体で約14%が民営とされる。
日本では、2010年代にはいってからコンセッション方式により空港の運営権を民間へ売却する取り組みが進められ、2016年には仙台空港が民営化された。
日本の空港の経営を行う主な会社は以下のとおり。
日本においては空港法により、大きく4つに分類され、拠点空港はさらに3つに分類される。
航空貨物の扱いに関し、関税法により、空港は税関空港とそれ以外の不開港に分かれる。
日本の空港における航空交通管制業務の提供方法には、次の3つの形態がある。
連邦航空局によって以下のような分類の仕方がある。
役割の近い役所の職員が対応しているが、近年では一部業務を民間企業に委託している国もある。( )内には日本における職員の所属を示した。国際線の本数の少ない地方の空港では、最寄の地方出入国在留管理局や税関などから職員が出張して対応することになる。
自衛隊が管理する飛行場では自衛官が業務を行っている。 | [
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"title": "空港の設備"
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"text": "付属する施設としては、出発便待ち客や乗り継ぎ客、見送り客が快適に過ごせるような待合室・ロビー・VIP用空港ラウンジがあり、レストラン・売店等が併設されている。これに加えて国際空港には税関、出入国管理、検疫に関する設備が必要となる。",
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"text": "空港の一角には、航空貨物の積み下ろしのための施設が集まる貨物地区も設けられている。トラックなどで届く農産品や機械部品などの貨物を荷下ろしし、保管し、航空コンテナに詰め替えるための上屋などが集積している。さらに倉庫と航空機の間の荷役を行うグランドハンドリングなどの運送業者、輸出入を請け負う貨物代理店、エア・フレイト・フォワーダー、通関業者などの事務所や、税関・検疫などの庁舎も集まっている。",
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"text": "大きな空港には航空機整備のための設備と人員が配置されており、定期点検や日常点検が行われている。また、燃料や旅客のための水・食料を補給し、トイレを含む客室内を整理・清掃する設備・人員が配置される。",
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"text": "航空機が発着するために、一般に空港周辺には標準計器出発方式・標準計器到着方式といった離着陸コースやトラフィックパターンが設定されている。そのため、空港周辺には障害物が何もない空域が必要である。",
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"text": "各国の規定によって、空港を中心とする円柱状の空域、滑走路から直線状に伸びる空域、特に離着陸機が多く通過する専用の空域が設定されており、これらの空域では地上の建造物・設置物に高さの制限がある場合が多い。日本では、これらの空域は管制圏あるいは特別管制区と呼ばれる。",
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"text": "空港は、航空機の発着のための広い敷地と、さらに広大な空域を必要とし、騒音問題もあるため、大都市から少し離れた郊外や海上に設置されることがある。そこで空港と市街中心部を結ぶ道路・鉄道・モノレール・橋梁・航路が同時に計画・建設されることが多い。",
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"text": "設置者と運営者はそれぞれの空港により異なる。例えば、国、空港公団といった公共法人、地方公共団体、第三セクターといった半官半民会社、民間会社などである。また、空港の運営者とターミナルビルの運営者とは異なる場合もある。空港の運営は主に空港使用料によって行われるが、航空機燃料税等の歳入や国や自治体による補助金で賄われる場合もある。",
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"text": "国際航空運送協会の調査では2018年現在、世界全体で約14%が民営とされる。",
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] | 空港とは、公共の用に供する飛行場のことである。一般的な実態は主に旅客機・貨物機等の民間航空機の離着陸に用いる飛行場内の施設である。その名のとおり、海運における港のような機能をもつ施設であり、空港という日本語自体が英語 Airport(空の港)の直訳である。 2009年時点でアメリカ中央情報局がまとめた報告によると、「上空から確認できる空港あるいは飛行場」は、全世界に約44000箇所あり、その内の15095箇所は米国内にあり、米国が世界でもっとも多い。 | {{Otheruses||「空港」を称する地名や作品名など}}
{{ウィキプロジェクトリンク|空港・飛行場}}
{{ウィキポータルリンク|航空|[[画像:Avion_silhouette.svg|34px|Portal:航空]]}}
[[File:Airport infrastructure.png|thumb|273x273px|空港の設備例]]
[[File:World-airport-map-2008.png|thumb|270x270px|2008年の空港分布図]]
[[File:EFKU check-in 20081109.jpg|thumb|270x270px|[[フィンランド]]、[[クオピオ]]近くの{{仮リンク|シーリンヤルヴィ|zh|錫林耶爾維}}のクオピオ空港]]
[[ファイル:Narita_International_Air_Port_(cropped).jpg|サムネイル|228x228ピクセル|[[成田国際空港]]([[日本]])]]
'''空港'''(くうこう、{{lang-en-short|Airport}})とは、公共の用に供する[[飛行場]]のことである<ref>[[空港法]]第2条</ref>。一般的な実態は主に[[旅客機]]・[[貨物機]]等の[[航空機|民間航空機]]の[[離陸|離]][[着陸]]に用いる飛行場内の施設である。その名のとおり、[[海運]]における[[港湾|港]]のような機能をもつ施設であり、空港という日本語自体が英語 Airport(空の港)の直訳である。
2009年時点でアメリカ[[中央情報局]]がまとめた報告によると、「上空から確認できる空港あるいは飛行場」は、全世界に約44000箇所あり、その内の15095箇所は米国内にあり、米国が世界でもっとも多い<ref>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2053.html CIA World Factbook - airport listing]</ref><ref>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/rankorder/2053rank.html CIA World Factbook - Country Comparison to the World]</ref>。
== 空港の役割 ==
空港には、下記のような機能が要求される。
* [[航空機]]の離着陸
* 旅客や荷物の積み降ろし
* 航空機の整備・補給能力
* 旅客・荷物の集配拠点
== 空港の設備 ==
空港にはさまざまな設備が設置されている。ただし空港によっては一部の設備がない場合もある。
=== 離着陸に必要な設備 ===
[[File:Lufthansa Airbus A319 landing at Split Airport.jpg|thumb|[[滑走路]]に[[着陸]]する航空機|180x180ピクセル]]
[[File:Tokyo International Airport 01.jpg|thumb|221x221px|管制塔 ([[東京国際空港]])]]
[[File:Airport Surveillance Radar.jpg|thumb|空港監視レーダー塔の2次監視レーダー(上)と1次監視レーダー(下)]]
離着陸に必要な設備として、着陸誘導設備などの無線関係施設、[[滑走路]]、[[着陸帯]]、[[誘導路]]、[[管制塔]]などがある。また目に見える設備ではないが、離陸着陸時に航空機が安全に飛行できる[[標準計器出発方式]]・[[標準到着経路|標準計器到着方式]]・[[#航空機が安全に飛行できる周辺空域|空域]]も不可欠である。
; [[滑走路]]
: 使用する航空機に必要な長さ・幅・強度を有し、かつ必要な照明類を装備した平坦な滑走路は、空港の最重要設備である。
; [[誘導路]]
: 旅客や荷物を積み降ろしする[[エプロン (飛行場)|エプロン]]と滑走路を繋ぐ航空機用の通路。
; [[管制塔]]
: 離着陸する航空機を順序良く安全に誘導し指示を出す設備・[[航空管制官|管制官]]が配置された建物。
; レーダー
: 空港周辺空域を飛行する航空機の位置を探索する空港監視レーダーおよび航空機と交信して[[コールサイン]]や飛行高度などの情報を得る2次レーダーから得られた情報を基に、管制官は航空機に対して指示を行う。また、地上を移動する航空機や車両の位置を探索する空港面探知レーダーを装備する空港もある。
; 無線送受信装置
: 管制官と航空機が無線交信を行うためのアンテナ。
; 航空灯火
: 航空機の航行を援助するための施設。航空保安施設法によって定義され、航空灯台、[[飛行場灯火]]、[[航空障害灯]]に区分されている。
; 着陸誘導装置
: 着陸する[[航空機]]が正しい方向・降下角で接近できるように誘導する装置。装置の誘導によって着陸機は正しく滑走路の中心線上の着陸ポイントまで導かれる。
; 電波標識
: 航行する航空機に方位や空港からの距離を知らせる装置。多くの空港は[[超短波全方向式無線標識|VOR]]/[[距離測定装置|DME]]またはVOR[[戦術航法装置|TAC]]を装備している。
; 気象観測施設
: 航空機を安全に離着陸させるためには、空港での気象観測データが不可欠である。大小を問わず、ほとんどすべての空港で気象観測が行われている。[[気温]]・[[露点温度]]・[[風向]]・[[風速]]・[[滑走路視距離]]・[[雲底]][[高度]]・[[視程]]・[[天気]]・[[気圧]]などの気象要素が、器械による自動観測、あるいは人間による目視観測、またはそれらの両方により観測されている。これらの気象観測の結果は、主に[[定時飛行場実況気象通報式|METAR]]形式で通報され、飛行場管制官や[[飛行援助センター]]に無線で問い合わせる事ができるほか、一部の空港では[[ATIS]]で放送されている。航空機は最大の揚力を得るため、向かい風で離着陸するのが望ましい。また、着陸中の操縦士は瞬間的な風の変動についての情報を必要とするため、滑走路の両端には[[風向灯]]も設置されている。
=== 旅客や荷物の積み降ろし設備 ===
[[File:Airbus A380-800 of Lufthansa in Frankfurt Germany - Aircraft ground handling at FRA EDDF.jpg|thumb|[[フランクフルト空港]]における[[ルフトハンザドイツ航空]]の[[エアバスA380|A380-841型機]]の[[グランドハンドリング]]]]
{{Main|空港ターミナルビル}}
空港のターミナルビルでは、旅客の[[搭乗券]]の発行、手荷物の受け渡し、搭乗前の航空保安検査などの業務を行っている。ターミナルビルと滑走路の間には駐機場が並ぶ[[エプロン (飛行場)|エプロン]]がある。ターミナルビルと航空機の間は、専用の橋状構造物([[ボーディング・ブリッジ]])か[[タラップ]]を利用する。大型[[旅客機]]や貨物機の場合、荷物はほとんど専用コンテナに収められ専用の車両によって積み降ろしが行われる。
付属する施設としては、出発便待ち客や乗り継ぎ客、見送り客が快適に過ごせるような待合室・ロビー・[[要人|VIP]]用[[空港ラウンジ]]があり、[[レストラン]]・[[売店]]等が併設されている。これに加えて国際空港には[[税関]]、[[出入国管理]]、[[検疫]]に関する設備が必要となる。
空港の一角には、航空貨物の積み下ろしのための施設が集まる貨物地区も設けられている。トラックなどで届く農産品や機械部品などの貨物を荷下ろしし、保管し、[[航空コンテナ]]に詰め替えるための[[貨物上屋|上屋]]などが集積している。さらに倉庫と航空機の間の荷役を行う[[グランドハンドリング]]などの運送業者、輸出入を請け負う貨物代理店、[[エア・フレイト・フォワーダー]]、[[通関業者]]などの事務所や、税関・検疫などの庁舎も集まっている。
=== 整備・補給能力 ===
{{See also|格納庫}}
[[File:Hangar.svg|thumb|[[格納庫|ハンガー]]]]
大きな空港には航空機整備のための設備と人員が配置されており、定期点検や日常点検が行われている。また、[[燃料]]や旅客のための水・食料を補給し、トイレを含む客室内を整理・清掃する設備・人員が配置される。
=== 航空機が安全に飛行できる周辺空域 ===
{{See also|制限表面}}
航空機が発着するために、一般に空港周辺には[[標準計器出発方式]]・[[標準到着経路|標準計器到着方式]]といった離着陸コースや[[トラフィックパターン]]が設定されている。そのため、空港周辺には障害物が何もない空域が必要である。
各国の規定によって、''空港を中心とする円柱状の空域''、''滑走路から直線状に伸びる空域''、''特に離着陸機が多く通過する専用の空域''が設定されており、これらの空域では地上の建造物・設置物に高さの制限がある場合が多い。日本では、これらの空域は'''管制圏'''あるいは'''特別管制区'''と呼ばれる。
=== 市街中心部との連絡 ===
{{See also|空港連絡鉄道}}
空港は、[[航空機]]の発着のための広い敷地と、さらに広大な空域を必要とし、[[騒音]]問題もある<ref>[[公共用飛行場周辺における航空機騒音による障害の防止等に関する法律]]</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.mlit.go.jp/common/000011065.pdf 空港環境対策の概要]}}</ref>ため、大都市から少し離れた郊外や海上に設置されることがある。そこで空港と市街中心部を結ぶ道路・[[鉄道]]・[[モノレール]]・橋梁・航路が同時に計画・建設されることが多い。
== 空港の経営主体 ==
設置者と運営者はそれぞれの空港により異なる。例えば、国、空港[[公団]]といった公共[[法人]]、[[地方公共団体]]、[[第三セクター]]といった[[半官半民]]会社、民間会社などである。また、空港の運営者とターミナルビルの運営者とは異なる場合もある。空港の運営は主に[[空港使用料]]によって行われるが、[[航空機燃料税]]等の歳入や国や自治体による[[補助金]]で賄われる場合もある。
[[国際航空運送協会]]の調査では2018年現在、世界全体で約14%が民営とされる<ref>[https://www.aviationwire.jp/archives/149023 空港民営化「慎重に」IATA年次総会、政府に警鐘鳴らす]</ref>。
日本では、2010年代にはいってから[[コンセッション方式]]により空港の運営権を民間へ売却する取り組みが進められ、2016年には[[仙台空港]]が民営化された。
日本の空港の経営を行う主な会社は以下のとおり。
*国管理空港のターミナルビルに係る空港使用料を収入源とする空港機能施設事業者
**[[日本空港ビルデング|日本空港ビルデング株式会社]]
**[[東京国際空港ターミナル|東京国際空港ターミナル株式会社]]
**[[北海道空港|北海道空港株式会社]]
**[[那覇空港ビルディング|那覇空港ビルディング株式会社]]
*空港使用料を収入源とする空港会社
**[[成田国際空港株式会社]]
**[[関西エアポート株式会社]]
**[[中部国際空港株式会社]]
**[[仙台国際空港|仙台国際空港株式会社]]
== 歴史 ==
{{節スタブ}}
{{see also|en:Airport#History and development}}
== 空港の分類 ==
=== 場所による分類 ===
* 地上空港
* [[海上空港]]
*水上空港
=== 日本の分類 ===
{{Main|日本の空港}}
==== 空港法による分類 ====
日本においては[[空港法]]により、大きく4つに分類され、拠点空港はさらに3つに分類される<ref>[https://www.mlit.go.jp/koku/15_bf_000310.html 空港一覧(国土交通省航空局]</ref>。
* [[ハブ空港|拠点空港]]
** 会社管理空港
** 国管理空港
** 特定地方管理空港
* 地方管理空港
* 共用空港
* その他の飛行場
==== 関税法による分類 ====
航空貨物の扱いに関し、[[関税法]]により、空港は'''税関空港'''とそれ以外の'''不開港'''に分かれる。
{{Main|開港}}
==== 管制サービスによる分類 ====
日本の空港における[[航空交通管制]]業務の提供方法には、次の3つの形態がある。
*管制空港
*[[レディオ空港]]
*[[リモート空港]]
=== アメリカの分類 ===
[[連邦航空局]]によって以下のような分類の仕方がある。
* 主要空港
** 大型[[ハブ空港]]
** 中型ハブ空港
** 小型ハブ空港
** 非ハブ空港
* 非主要空港
== 空港の職員 ==
役割の近い役所の職員が対応しているが、近年では一部業務を民間企業に委託している国もある。( )内には日本における職員の所属を示した。国際線の本数の少ない地方の空港では、最寄の[[地方出入国在留管理局]]や[[税関]]などから職員が出張して対応することになる。
自衛隊が管理する飛行場では[[自衛官]]が業務を行っている。
* [[社長]]、[[総裁]]、[[理事]] - [[経営学|経営]]の総責任者
* 空港長 - 運航([[航空管制]])、[[設備]]、[[施設]]、[[航空会社]]間の調整など、[[管理]]の総責任者
* [[CIQ]]([[税関]]、[[出入国管理]]、[[検疫]])に関わる職員
** [[入国審査官]]([[法務省]]職員)
** [[入国警備官]](法務省職員)
** [[税関職員]]([[財務省]]職員)
** [[検疫所]]職員([[厚生労働省]]職員)
** 動物検疫所職員([[農林水産省]]職員)
** 植物防疫所職員(農林水産省職員)
** 検査員 - 手荷物を検査する職員。航空会社から委託を受けた民間会社の社員。
*管制・気象
** [[航空管制官]]または[[航空管制運航情報官]]および[[航空管制技術官]]([[国土交通省]]職員)
** 気象予報官([[気象庁]]職員。拠点空港のみ)
** 気象観測員([[気象庁]]職員、[[地方公共団体|自治体]]職員など)
*警備・消防
** 空港[[警備派出所]]勤務の[[警察官]]([[警視庁]]、道府県[[警察本部]]の警察官)
** 空港消防隊員(自治体消防、あるいは民間企業に委託される場合もある)
** [[警備員]](空港と契約した[[警備会社]]の社員)
*整備
** [[航空整備士]]
*[[エプロン (飛行場)|駐機場]]
** [[マーシャラー]]
** [[牽引自動車|トーイングカー]]、[[タラップ|タラップ車]]などの運転士
** バードパトロール - [[バードストライク]]の原因となる鳥を追い払う職員
*空港の職員
** 空港事務所職員([[国土交通省]]職員など。国が設置している空港以外では、それぞれの設置者が管理を行う)
** 航空会社の社員([[グランドスタッフ]]、[[運航管理者]])
** 空港ビルに入る店舗の従業員
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Airport|Airports|空港}}
{{Wiktionary|空港}}
* [[ヘリポート]] - [[ヘリコプター]]用に設計された空港
* [[空港ターミナルビル]]
* [[w:Domestic airport|Domestic airport]]
* [[w:Environmental impact of aviation|Environmental impact of aviation]]
* [[w:Model airport|Model airport]]
* [[NIMBY]]
'''一覧'''
* [[w:Index of aviation articles|Index of aviation articles]]
* [[w:List of cities with more than one airport|List of cities with more than one airport]]
* [[空港の存在しない国の一覧]]
* [[w:List of hub airports|List of hub airports]]
* [[規模別の空港一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.nikkei.com/article/DGXMZO89435170X10C15A7000000/ 「空港」と「飛行場」、何がどう違う?]
* {{Wayback|url=http://mainichi.jp/sumamachi/news.html?cid=20150530mul00m04000900sc |title=「空港」と「飛行場」の違い |date=20150602184918}}
* {{Kotobank}}
{{公共交通}}
{{航空の一覧}}
{{民間航空輸送}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くうこう}}
[[Category:空港|*くうこう]] | 2003-03-13T16:55:46Z | 2023-11-04T20:44:01Z | false | false | false | [
"Template:See also",
"Template:Reflist",
"Template:Wiktionary",
"Template:公共交通",
"Template:民間航空輸送",
"Template:仮リンク",
"Template:ウィキポータルリンク",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:PDFlink",
"Template:ウィキプロジェクトリンク",
"Template:Commons&cat",
"Template:Lang-en-short",
"Template:節スタブ",
"Template:Kotobank",
"Template:航空の一覧",
"Template:Normdaten",
"Template:Otheruses"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B8%AF |
3,951 | 日本の鉄道 | 日本の鉄道(にほんのてつどう)では、日本国内における広義の鉄道について述べる。
日本は、比較的人口密度が高く、都市内輸送、都市間輸送において鉄道が重要な役割を担っているため、日本の鉄道の旅客輸送キロ数は、中国に次いで世界2位である。また定時運行性については、世界で最も優れた水準に達している。
しかしながら、鉄道インフラへの公的支援が弱く、貧弱なインフラで大量の旅客輸送を行う“詰め込み輸送”を前提としているため、他の先進国の鉄道と比べ接客サービスの水準は高いとは言えず、ごく一部の大手私鉄を除き事業者の経営は脆弱である。また輸送密度の低い過疎地域においては、人口減少やモータリゼーションの定着もあって、かなり厳しい経営とならざるを得ない。利用客の減少→減便→利便性の低下→さらなる利用客の減少という悪循環に見舞われた結果、廃線に追い込まれるローカル線も多い。ただ、鉄道部門は赤字でも不動産や観光事業などのサイドビジネスで黒字を出している中小鉄道事業者もある。
日本における鉄道とは、狭義には鉄道事業法に基づいた国土交通省鉄道局の所管下にあるものを指す。軌道法に基づいて建設されたものは法的には軌道と呼ばれ、鉄道とは異なるものであるが、一般的にはこれも鉄道と呼ばれる。鉄道事業法と軌道法の2種類があるのは、軌道法が主に道路に敷設される鉄道を対象としているからである。また、鉄道事業法は旧運輸省の単独所管、軌道法は旧運輸省および旧建設省の共管と、所管官庁も異なっていた。2001年(平成13年)1月6日の中央省庁再編によって、運輸省および建設省は統合され、国土交通省となっている。
鉄道事業法や軌道法以外の法規の適用をうける鉄道もある。森林鉄道、鉱山鉄道、かつて存在した簡易軌道(←殖民軌道)がこれにあたる。
これらとは別に、一部私有地において、鉄道事業法や軌道法に基づかず建設された鉄道も存在する。旅館などの送迎などに使われるもののほか、小規模なトロッコ、遊園地の「おとぎ汽車」のような園内遊覧鉄道(遊具)がこれにあたる。
日本の法律では、鉄道事業法施行規則第四条で、次のものが列挙されている。
第四条 法第四条第一項第六号の国土交通省令で定める鉄道の種類は、次のとおりとする。
上記(八)に当たるものとしては、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)のIMTS(愛・地球博線)が「磁気誘導式鉄道」として追加された。
上記以外ではローラーコースターやロープウェイが鉄道にやや近い形態だが、鉄道には含まれていない。ただし、ロープウェイやリフトは鉄道と同じ法律(鉄道事業法)で「索道事業」として規定されている。
1872年(明治5年)に開業した日本最初の鉄道は、国による建設であり、日本の鉄道は国有国営を旨としたが、その後勃発した西南戦争による政府財政の窮乏により、幹線鉄道網の一部は日本鉄道などの私鉄により建設された。しかし、日清・日露の両戦争を経て、軍事輸送の観点などから鉄道国有論が高まり、1906年(明治39年)に鉄道国有法が制定され、日本の鉄道網は基本的に国が運営することとなった。一部の私鉄は民営のまま残ったが、一地方の輸送を担うのみとなった。その後も、鉄道敷設法に基づいて、私鉄の買収国有化が行われた。
このように、鉄道国有法以降、第二次世界大戦直後までは、国(鉄道寮→鉄道院→鉄道省→運輸省)が全国の主要路線(国有鉄道)を直接運営していたが、1949年(昭和24年)の公共企業体(日本国有鉄道)への改組を経て、1987年(昭和62年)には国鉄分割民営化により国鉄そのものが解体され、JRグループ7社に承継されている。
JRグループのほか、地域によっては私鉄も存在する。大都市圏にある大手私鉄・準大手私鉄は主に都心と郊外を結ぶ路線網を構築している。中小私鉄は主にJRの駅から離れた都市とJR駅を結ぶ役割のものが多い。大都市では地下鉄もある。日本では地下鉄はいずれも特殊会社または地方公営企業(公営交通)の形態をとっている。大都市圏には拠点駅と空港や郊外の住宅地を結ぶモノレール、新交通システムも存在する。地方部には、主に旧国鉄の赤字ローカル線を継承した、地元自治体等の出資による第三セクター鉄道が存在する。主に山岳部の観光地にはケーブルカーも存在する。
法規上路面電車は軌道法に準拠し、厳密には「鉄道」ではないものがほとんどである。戦後の高度成長期のモータリゼーションの進行の結果、路面電車は撤去が進んだが、現在でも一部の都市で運行されている。地方公営企業(公営交通)形態のものと民間企業(私鉄)形態のものが混在する。1990年代以降、バリアフリー、省エネや、高齢化社会対策としてコンパクトシティ化を図ろうという動きが本格化している。その政策の核として、路面電車の有効性が見直されている。既存路線に超低床車両が導入されたり、JRの在来線が路面電車に再編されたり(富山ライトレール)、さらには路面電車を新設する計画も本格化している(宇都宮ライトレールなど)。
1987年に日本国有鉄道(国鉄)の分割・民営化にともない、JRグループとして北海道旅客鉄道(JR北海道)、東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海旅客鉄道(JR東海)、西日本旅客鉄道(JR西日本)、四国旅客鉄道(JR四国)、九州旅客鉄道(JR九州)、日本貨物鉄道(JR貨物)の7社が発足した。これら7社のうち、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR九州の4社については、後に国が保有していた株式をすべて市場に売却し、完全民営化を達成した。これに対し、JR北海道、JR四国、JR貨物の3社に関しては、JR会社法の適用を受け、政府が100%出資する株式会社形態の特殊会社となっており、株式の上場は行われていない。
大手私鉄各社は、大都市部を中心として多くの輸送量を有し、どの会社も利益を上げている。しかし、日本全体の人口減や分割民営化されたJRの攻勢による競争激化などの影響を受け、輸送人員は減少傾向である。鉄道事業だけではなく、不動産事業などの関連事業で利益を出している会社も多い。
一般に、以下の16の鉄道会社が、大手私鉄と呼ばれる。東京圏は最初の9社、大阪圏は2つの都市圏を結ぶ近鉄を含めて5社、名古屋は名鉄、福岡圏は西鉄のみである。
大都市近郊の準大手私鉄は、沿線開発や駅周辺の商業施設の運営に関わり、経営基盤は比較的安定している。しかし、それ以外の地方私鉄は、人口減、過疎化、モータリゼーションの定着などの影響を強く受けている。都市間輸送や観光輸送、政令指定都市・中核市クラスの都市での通勤通学輸送など一定の需要が存在する路線以外は、路線縮小や廃止も相次いでいる。既存路線の高速化や新規車輌の導入など改善策の実施が、財政難から不可能な会社もある。昨今の地方公共団体の財政状態の悪化により補助金が減少あるいは停止されること、鉄道事業法の改正により届出だけで廃止が可能になったことが、地方の私鉄を取り巻く環境をさらに厳しいものとしている。
一般に、以下の5の鉄道会社が、準大手私鉄と呼ばれる。
地方公共団体(公営交通)や、民間企業と地方公共団体の共同出資による第三セクターによる鉄道は、都市部の地下鉄や、交通網が脆弱な地域の交通需要を担っている。しかし、地方においては、旧国鉄の赤字路線をそのまま引き継ぐなど、経営状態はどこも苦しいのが実情である。都市部においてはまとまった需要があるため、路線により様々な状況がある。建設費の高騰から運賃が高価になり、そのため輸送量が伸び悩み、沿線の開発も進まないという悪循環に陥っている路線が多い。その一方でつくばエクスプレスのように好調な輸送実績をあげ、沿線開発が盛んに行われている鉄道路線もある。公営という性質上、保守的な経営形態をとるものが多い一方で、路線を新設し、LRTを導入した富山ライトレールのように新しい戦略をとる会社もある。
日本の鉄道の旅客輸送量は高水準であり、特に都市鉄道として東京圏、関西圏の主要路線と、都市間を結ぶ鉄道として東海道新幹線は、世界の鉄道でも高い輸送密度を有している。東海道新幹線の東京 - 新大阪間は、通勤列車なみの頻度で運行され、最大毎時16本もの列車が走っているが、これだけの輸送量・頻度で中長距離の都市間を結ぶ鉄道も、現在のところ世界では他に例がない。
特別に高速運転ができるように設計・建設された新幹線では、山陽新幹線「のぞみ」の西明石以西では最高速度300 km/h、東北新幹線「はやぶさ」の宇都宮 - 盛岡間において、最高速度320 km/hの高速運転がなされている。
一方、在来線の最高速度はごく一部に160 km/h走行が可能な路線がある程度で、重要幹線でもおおむね120 - 130 km/hにとどまっている。主な理由は
などが挙げられる。
鉄道は交通機関の中では事故率が最も低く、安全に対する信頼感は高いものの、福知山線脱線事故などの重大事故は、鉄道の安全性への問題点が注目される契機となっている。鉄道各社とも、継続的に安全対策への投資を実施している。自動列車制御装置 (ATC) 、自動列車停止装置 (ATS) などの基幹的な安全対策に加えて、ホームドア等の新たな安全対策も普及してきている。
交通バリアフリー法の施行に伴い、各事業者とも、バリアフリー化に力を入れている。主にエスカレーター、エレベーター設備の拡充が、都市部を中心に行なわれている。駅のトイレも多目的トイレの増設などが行なわれている。列車内トイレを多目的化したものもある。しかし、経営状態のよくない事業者ではバリアフリー化が進展していないところも多い。路面電車においては低床車両であるLRV(超低床電車)が盛んに導入されている。
利用者の増加を図るためにはサービス向上が必要であり、このために各事業者とも種々の施策を講じている。社員教育などの人的な点から、複数路線をまたがって利用したときの精算の手間を省く共通カード導入、さらにキャッシュレス化などが行なわれている。
また、駅構内に店舗を勧誘・設置する(いわゆる「駅ナカ」)ことにより、利用者の利便性を向上し、同時に鉄道事業者の収益を確保する手法も広く用いられている。JRは、民営化によって旧国鉄時代に比べて自由に事業が実施できるようになったため、大都市部の主要駅を中心に、多くのテナントが駅舎内に展開するようになった。しかし、駅構内という圧倒的に有利な立地に商店を開業することで、駅周辺の商店への影響が出ている場合もある。
貨物鉄道事業者は22社が存在する。
国鉄分割民営化に伴い、鉄道貨物輸送は日本貨物鉄道(JR貨物)に委ねられた。かつて鉄道貨物は日本の貨物輸送の基軸を担っていたものの、昭和40年代以降、高速道路網の伸長、宅配サービスの充実、スト権ストによる国鉄貨物への信頼失墜などの影響で貨物輸送量は激減した、昭和50年代の国鉄末期には、経営合理化のために、貨物列車や設備は大幅に整理された上で、JR貨物に引き継がれた。
JR貨物発足後も、鉄道貨物輸送量は低水準にとどまっているが、環境保護という観点や、鉄道輸送のメリットの再見直し、貨車(車扱貨物)からコンテナ化、新車導入による速達化などの営業努力により、JR貨物の経営は黒字に転じている。
しかし、地方の貨物輸送を中心とする中小私鉄(臨海鉄道等)については、経営の厳しいところも多い。
日本の鉄道の輸送人員は約230億人で、世界一である。二番目に旅客輸送人員の多い国はインドで、インドの鉄道の輸送人員は約50億人であり、この数字はJR東日本よりも少なくなっている。
日本の鉄道の旅客輸送のシェアは、昭和30年代、40年代の自動車の普及(モータリゼーション)を経て大幅に低下した後も、約30 %を維持しており、世界各国と比較しても最も高い水準である。特に東京圏、大阪圏の鉄道と新幹線は、他の交通機関と比べて相対的に利便性が高いため、日常的に人々に利用され親しまれている。ただし東京圏、大阪圏以外の地方部では自動車の利便性の方が高く、鉄道はあまり利用されない場合が多い。なお貨物輸送のシェアは5 %弱で低水準にとどまっている(2019年)。
昭和30年代までは全体的に増加傾向にあったが、昭和40年代以降は、まず高度経済成長期の産業構造の変化にともなう人口分布の変化(大都市への集中)と、自家用車の普及により地方中小私鉄の輸送量減少が進み、多くの中小私鉄が廃線となった。昭和40年代後半(1970年代)以降は航空運賃の低廉化、道路特定財源制度等を利用して高速道路建設等の道路整備、オイルショック後の石油の低価格化による自動車・航空機の増加で、鉄道による長距離輸送の需要減が進んだ。
現在では少子化・高齢化と人口分布の都心回帰が進み、地方中小私鉄だけでなく、大都市圏の私鉄でも、都心と郊外を結ぶ路線については輸送人員が増加から減少に転じる路線も出てきている。
一方、都市部においては輸送量が年々増加している路線もある上、路線の開業による輸送量の増加もみられる。地方においても自動車や航空機に対抗した種々の改善策、観光客の増加などにより、一部路線においては輸送量が増えているところもある。
東京圏では、山手線、中央快速線等の路線で、10両編成で3,000 - 4,000人の乗客が輸送され、複線でラッシュ時に片道10万人/時程度の輸送人員に達するが、これはモスクワ地下鉄の13.8万人/時に次ぐ輸送密度である。混雑時に椅子がすべて収容される6扉車は他国に類のない設計であり、過酷な通勤ラッシュは他国でもしばしば紹介されることがある。エネルギー消費や土地利用の観点からは非常に効率がよく、世界最大の都市圏である首都圏の経済活動はこのような鉄道なしには成立しえない反面、人々の生活の快適性や福祉の観点からは問題がある。高度経済成長期以降、国鉄の通勤五方面作戦に代表される複々線化や営団地下鉄の新線開業など、混雑緩和のための輸送力強化が精力的に取り組まれたが、人口の東京一極集中が進む中で解消には程遠い状況で、さらにインフラ増強は国鉄と営団の民営化により停滞するなど、今に至るまで抜本的な改善を見ていない。さらに鉄道事業の赤字に悩む事業者の合理化によって営業本数や編成車両数の削減が進められた結果、近年は地方線区でもラッシュ時の詰め込み輸送が見られるようになっている。
前述のような高い輸送人員・輸送密度・旅客シェアなどが関連され、世界一乗降客数の多い駅は日本の新宿駅(JR東日本だけで1日平均約150万人、私鉄含め約350万人)となっている。さらに世界第2位以下は渋谷駅、池袋駅、梅田駅・大阪駅、横浜駅と日本の駅が続いている。
一方の日本国外で最も乗降客数の多い駅は台湾の台北駅であり、次いでフランスのパリ北駅であるが、年間1億9千万人の乗降客数(フランス国鉄分のみでメトロを含まない)を持っているが、1日平均に直すと約52万人であり、これは、新宿駅の7分の1で、日本の駅では阪急梅田駅と同程度にすぎない。
これらの高い需要とシェア、時間の正確さは後述する他の特徴にも影響を与えている。また、三戸祐子によれば高い需要と時間の正確さについても相互的に影響を与えていると推測している。
以下の項目も参照。
日本の鉄道は、日本以外の国の鉄道と比較して、定時性がきわめて高いといわれている。
紀行作家の宮脇俊三は、日本の鉄道が世界に誇れることとして、列車本数の多さと時間の正確さを挙げていた。現に日本国外の鉄道関係者が来日して新幹線に乗車した際、各人に懐中時計を持たせて駅の到着時刻を計らせたら、1秒違わず到着するのを見て「クレイジー」であると証言したという逸話も存在している。また、日本以外では5 - 15分程度の遅れは(高速鉄道であろうと)定時とみなすところが多いが、日本国内では15 - 30秒程度のずれも遅れと見なされることもあり、時間に関する日本人の感覚を裏付けるもととして各書籍物で紹介されることさえある。
日本では、特に東京圏、大阪圏、名古屋圏、福岡圏の鉄道は、私鉄の果たす役割が大きい。また分割・民営化後のJRも、JR東日本、JR東海、JR西日本の3社は黒字経営を続けている。これらのJR、私鉄は、鉄道業を中心として、不動産、小売業、宿泊業など、鉄道利用者や沿線住民の生活に関する様々な関連事業を展開している。
他国では、現在では鉄道業で採算が成立することはきわめて難しく、鉄道事業は政府などの出資なしには成り立たないとされる。それ故に他の諸国での鉄道業は、公営鉄道や国有鉄道の国や地方の公共事業となっていることが多い。鉄道の草創期は民間事業者によって鉄道網が発展した国は多いものの、21世紀に入って国家的な規模で民間事業者による路線網が成立している国は、日本以外ではアメリカ合衆国などごく一部にとどまる。
このような事業を行える要因としては、先述の通り他国と比較して旅客鉄道に対するきわめて高い需要があるからである。しかし、東京圏や大阪圏のような過密運行ができる線区がほとんどないJR三島会社(JR北海道、JR九州、JR四国)、および多くの中小私鉄事業者は路線網を維持するに足りるだけの収益は得られない状況で、関連事業の収益も鉄道部門の赤字を埋めるに足りない場合、経営難に直面することになる。整備新幹線開業で発足した並行在来線などは地元自治体の支援を受けているが、JR北海道およびJR四国の路線は全線赤字、JR九州も篠栗線を除き全線赤字であり、このような地域の事業者に独立採算を前提にしたスキームを適用するのは無理がある。
JR九州の鉄道事業の売上に占める割合は約4割程度であり、利益は流通事業や不動産事業などの関連事業で稼ぎ出している。2017年に完全民営化した同社は、株主から赤字部門である鉄道事業の合理化を求められ、2018年3月のダイヤ改正で大都市圏や主要幹線も含めた大幅な減便を断行。ローカル線の利便性の悪化のみならず、大都市圏ではラッシュ時の混雑の悪化などが予想されている。
日本は鉄道の治安や清潔性が世界で最も高い国の一つである。治安の悪化を指摘する声もあるものの 、日本では地下鉄の車内で乗客が居眠りをしても犯罪に遭う可能性が低く、また深夜でも女性が安心して1人で鉄道を利用できる。これは世界的にみれば特筆すべきことである。また鉄道車両への落書き、器物破損(ヴァンダリズム)により荒廃した列車が見られる国は多いものの、現在の日本ではこのようなことは珍しく、一般に鉄道車両は公共物として尊重され、清潔な状態が保たれている。 | [
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"text": "日本の鉄道(にほんのてつどう)では、日本国内における広義の鉄道について述べる。",
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"text": "日本は、比較的人口密度が高く、都市内輸送、都市間輸送において鉄道が重要な役割を担っているため、日本の鉄道の旅客輸送キロ数は、中国に次いで世界2位である。また定時運行性については、世界で最も優れた水準に達している。",
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"text": "しかしながら、鉄道インフラへの公的支援が弱く、貧弱なインフラで大量の旅客輸送を行う“詰め込み輸送”を前提としているため、他の先進国の鉄道と比べ接客サービスの水準は高いとは言えず、ごく一部の大手私鉄を除き事業者の経営は脆弱である。また輸送密度の低い過疎地域においては、人口減少やモータリゼーションの定着もあって、かなり厳しい経営とならざるを得ない。利用客の減少→減便→利便性の低下→さらなる利用客の減少という悪循環に見舞われた結果、廃線に追い込まれるローカル線も多い。ただ、鉄道部門は赤字でも不動産や観光事業などのサイドビジネスで黒字を出している中小鉄道事業者もある。",
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"text": "日本における鉄道とは、狭義には鉄道事業法に基づいた国土交通省鉄道局の所管下にあるものを指す。軌道法に基づいて建設されたものは法的には軌道と呼ばれ、鉄道とは異なるものであるが、一般的にはこれも鉄道と呼ばれる。鉄道事業法と軌道法の2種類があるのは、軌道法が主に道路に敷設される鉄道を対象としているからである。また、鉄道事業法は旧運輸省の単独所管、軌道法は旧運輸省および旧建設省の共管と、所管官庁も異なっていた。2001年(平成13年)1月6日の中央省庁再編によって、運輸省および建設省は統合され、国土交通省となっている。",
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"text": "鉄道事業法や軌道法以外の法規の適用をうける鉄道もある。森林鉄道、鉱山鉄道、かつて存在した簡易軌道(←殖民軌道)がこれにあたる。",
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"text": "これらとは別に、一部私有地において、鉄道事業法や軌道法に基づかず建設された鉄道も存在する。旅館などの送迎などに使われるもののほか、小規模なトロッコ、遊園地の「おとぎ汽車」のような園内遊覧鉄道(遊具)がこれにあたる。",
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"text": "日本の法律では、鉄道事業法施行規則第四条で、次のものが列挙されている。",
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"text": "第四条 法第四条第一項第六号の国土交通省令で定める鉄道の種類は、次のとおりとする。",
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"text": "上記(八)に当たるものとしては、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)のIMTS(愛・地球博線)が「磁気誘導式鉄道」として追加された。",
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"text": "上記以外ではローラーコースターやロープウェイが鉄道にやや近い形態だが、鉄道には含まれていない。ただし、ロープウェイやリフトは鉄道と同じ法律(鉄道事業法)で「索道事業」として規定されている。",
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"text": "1872年(明治5年)に開業した日本最初の鉄道は、国による建設であり、日本の鉄道は国有国営を旨としたが、その後勃発した西南戦争による政府財政の窮乏により、幹線鉄道網の一部は日本鉄道などの私鉄により建設された。しかし、日清・日露の両戦争を経て、軍事輸送の観点などから鉄道国有論が高まり、1906年(明治39年)に鉄道国有法が制定され、日本の鉄道網は基本的に国が運営することとなった。一部の私鉄は民営のまま残ったが、一地方の輸送を担うのみとなった。その後も、鉄道敷設法に基づいて、私鉄の買収国有化が行われた。",
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"text": "このように、鉄道国有法以降、第二次世界大戦直後までは、国(鉄道寮→鉄道院→鉄道省→運輸省)が全国の主要路線(国有鉄道)を直接運営していたが、1949年(昭和24年)の公共企業体(日本国有鉄道)への改組を経て、1987年(昭和62年)には国鉄分割民営化により国鉄そのものが解体され、JRグループ7社に承継されている。",
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"text": "JRグループのほか、地域によっては私鉄も存在する。大都市圏にある大手私鉄・準大手私鉄は主に都心と郊外を結ぶ路線網を構築している。中小私鉄は主にJRの駅から離れた都市とJR駅を結ぶ役割のものが多い。大都市では地下鉄もある。日本では地下鉄はいずれも特殊会社または地方公営企業(公営交通)の形態をとっている。大都市圏には拠点駅と空港や郊外の住宅地を結ぶモノレール、新交通システムも存在する。地方部には、主に旧国鉄の赤字ローカル線を継承した、地元自治体等の出資による第三セクター鉄道が存在する。主に山岳部の観光地にはケーブルカーも存在する。",
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"text": "法規上路面電車は軌道法に準拠し、厳密には「鉄道」ではないものがほとんどである。戦後の高度成長期のモータリゼーションの進行の結果、路面電車は撤去が進んだが、現在でも一部の都市で運行されている。地方公営企業(公営交通)形態のものと民間企業(私鉄)形態のものが混在する。1990年代以降、バリアフリー、省エネや、高齢化社会対策としてコンパクトシティ化を図ろうという動きが本格化している。その政策の核として、路面電車の有効性が見直されている。既存路線に超低床車両が導入されたり、JRの在来線が路面電車に再編されたり(富山ライトレール)、さらには路面電車を新設する計画も本格化している(宇都宮ライトレールなど)。",
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"text": "1987年に日本国有鉄道(国鉄)の分割・民営化にともない、JRグループとして北海道旅客鉄道(JR北海道)、東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海旅客鉄道(JR東海)、西日本旅客鉄道(JR西日本)、四国旅客鉄道(JR四国)、九州旅客鉄道(JR九州)、日本貨物鉄道(JR貨物)の7社が発足した。これら7社のうち、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR九州の4社については、後に国が保有していた株式をすべて市場に売却し、完全民営化を達成した。これに対し、JR北海道、JR四国、JR貨物の3社に関しては、JR会社法の適用を受け、政府が100%出資する株式会社形態の特殊会社となっており、株式の上場は行われていない。",
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"text": "大手私鉄各社は、大都市部を中心として多くの輸送量を有し、どの会社も利益を上げている。しかし、日本全体の人口減や分割民営化されたJRの攻勢による競争激化などの影響を受け、輸送人員は減少傾向である。鉄道事業だけではなく、不動産事業などの関連事業で利益を出している会社も多い。",
"title": "事業者"
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"text": "一般に、以下の16の鉄道会社が、大手私鉄と呼ばれる。東京圏は最初の9社、大阪圏は2つの都市圏を結ぶ近鉄を含めて5社、名古屋は名鉄、福岡圏は西鉄のみである。",
"title": "事業者"
},
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"text": "大都市近郊の準大手私鉄は、沿線開発や駅周辺の商業施設の運営に関わり、経営基盤は比較的安定している。しかし、それ以外の地方私鉄は、人口減、過疎化、モータリゼーションの定着などの影響を強く受けている。都市間輸送や観光輸送、政令指定都市・中核市クラスの都市での通勤通学輸送など一定の需要が存在する路線以外は、路線縮小や廃止も相次いでいる。既存路線の高速化や新規車輌の導入など改善策の実施が、財政難から不可能な会社もある。昨今の地方公共団体の財政状態の悪化により補助金が減少あるいは停止されること、鉄道事業法の改正により届出だけで廃止が可能になったことが、地方の私鉄を取り巻く環境をさらに厳しいものとしている。",
"title": "事業者"
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"text": "一般に、以下の5の鉄道会社が、準大手私鉄と呼ばれる。",
"title": "事業者"
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"text": "地方公共団体(公営交通)や、民間企業と地方公共団体の共同出資による第三セクターによる鉄道は、都市部の地下鉄や、交通網が脆弱な地域の交通需要を担っている。しかし、地方においては、旧国鉄の赤字路線をそのまま引き継ぐなど、経営状態はどこも苦しいのが実情である。都市部においてはまとまった需要があるため、路線により様々な状況がある。建設費の高騰から運賃が高価になり、そのため輸送量が伸び悩み、沿線の開発も進まないという悪循環に陥っている路線が多い。その一方でつくばエクスプレスのように好調な輸送実績をあげ、沿線開発が盛んに行われている鉄道路線もある。公営という性質上、保守的な経営形態をとるものが多い一方で、路線を新設し、LRTを導入した富山ライトレールのように新しい戦略をとる会社もある。",
"title": "事業者"
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"text": "日本の鉄道の旅客輸送量は高水準であり、特に都市鉄道として東京圏、関西圏の主要路線と、都市間を結ぶ鉄道として東海道新幹線は、世界の鉄道でも高い輸送密度を有している。東海道新幹線の東京 - 新大阪間は、通勤列車なみの頻度で運行され、最大毎時16本もの列車が走っているが、これだけの輸送量・頻度で中長距離の都市間を結ぶ鉄道も、現在のところ世界では他に例がない。",
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"text": "などが挙げられる。",
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"text": "一方の日本国外で最も乗降客数の多い駅は台湾の台北駅であり、次いでフランスのパリ北駅であるが、年間1億9千万人の乗降客数(フランス国鉄分のみでメトロを含まない)を持っているが、1日平均に直すと約52万人であり、これは、新宿駅の7分の1で、日本の駅では阪急梅田駅と同程度にすぎない。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "これらの高い需要とシェア、時間の正確さは後述する他の特徴にも影響を与えている。また、三戸祐子によれば高い需要と時間の正確さについても相互的に影響を与えていると推測している。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "以下の項目も参照。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "日本の鉄道は、日本以外の国の鉄道と比較して、定時性がきわめて高いといわれている。",
"title": "他国の鉄道との比較"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "紀行作家の宮脇俊三は、日本の鉄道が世界に誇れることとして、列車本数の多さと時間の正確さを挙げていた。現に日本国外の鉄道関係者が来日して新幹線に乗車した際、各人に懐中時計を持たせて駅の到着時刻を計らせたら、1秒違わず到着するのを見て「クレイジー」であると証言したという逸話も存在している。また、日本以外では5 - 15分程度の遅れは(高速鉄道であろうと)定時とみなすところが多いが、日本国内では15 - 30秒程度のずれも遅れと見なされることもあり、時間に関する日本人の感覚を裏付けるもととして各書籍物で紹介されることさえある。",
"title": "他国の鉄道との比較"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "日本では、特に東京圏、大阪圏、名古屋圏、福岡圏の鉄道は、私鉄の果たす役割が大きい。また分割・民営化後のJRも、JR東日本、JR東海、JR西日本の3社は黒字経営を続けている。これらのJR、私鉄は、鉄道業を中心として、不動産、小売業、宿泊業など、鉄道利用者や沿線住民の生活に関する様々な関連事業を展開している。",
"title": "他国の鉄道との比較"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "他国では、現在では鉄道業で採算が成立することはきわめて難しく、鉄道事業は政府などの出資なしには成り立たないとされる。それ故に他の諸国での鉄道業は、公営鉄道や国有鉄道の国や地方の公共事業となっていることが多い。鉄道の草創期は民間事業者によって鉄道網が発展した国は多いものの、21世紀に入って国家的な規模で民間事業者による路線網が成立している国は、日本以外ではアメリカ合衆国などごく一部にとどまる。",
"title": "他国の鉄道との比較"
},
{
"paragraph_id": 46,
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"text": "このような事業を行える要因としては、先述の通り他国と比較して旅客鉄道に対するきわめて高い需要があるからである。しかし、東京圏や大阪圏のような過密運行ができる線区がほとんどないJR三島会社(JR北海道、JR九州、JR四国)、および多くの中小私鉄事業者は路線網を維持するに足りるだけの収益は得られない状況で、関連事業の収益も鉄道部門の赤字を埋めるに足りない場合、経営難に直面することになる。整備新幹線開業で発足した並行在来線などは地元自治体の支援を受けているが、JR北海道およびJR四国の路線は全線赤字、JR九州も篠栗線を除き全線赤字であり、このような地域の事業者に独立採算を前提にしたスキームを適用するのは無理がある。",
"title": "他国の鉄道との比較"
},
{
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"text": "JR九州の鉄道事業の売上に占める割合は約4割程度であり、利益は流通事業や不動産事業などの関連事業で稼ぎ出している。2017年に完全民営化した同社は、株主から赤字部門である鉄道事業の合理化を求められ、2018年3月のダイヤ改正で大都市圏や主要幹線も含めた大幅な減便を断行。ローカル線の利便性の悪化のみならず、大都市圏ではラッシュ時の混雑の悪化などが予想されている。",
"title": "他国の鉄道との比較"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "日本は鉄道の治安や清潔性が世界で最も高い国の一つである。治安の悪化を指摘する声もあるものの 、日本では地下鉄の車内で乗客が居眠りをしても犯罪に遭う可能性が低く、また深夜でも女性が安心して1人で鉄道を利用できる。これは世界的にみれば特筆すべきことである。また鉄道車両への落書き、器物破損(ヴァンダリズム)により荒廃した列車が見られる国は多いものの、現在の日本ではこのようなことは珍しく、一般に鉄道車両は公共物として尊重され、清潔な状態が保たれている。",
"title": "他国の鉄道との比較"
}
] | 日本の鉄道(にほんのてつどう)では、日本国内における広義の鉄道について述べる。 日本は、比較的人口密度が高く、都市内輸送、都市間輸送において鉄道が重要な役割を担っているため、日本の鉄道の旅客輸送キロ数は、中国に次いで世界2位である。また定時運行性については、世界で最も優れた水準に達している。 しかしながら、鉄道インフラへの公的支援が弱く、貧弱なインフラで大量の旅客輸送を行う“詰め込み輸送”を前提としているため、他の先進国の鉄道と比べ接客サービスの水準は高いとは言えず、ごく一部の大手私鉄を除き事業者の経営は脆弱である。また輸送密度の低い過疎地域においては、人口減少やモータリゼーションの定着もあって、かなり厳しい経営とならざるを得ない。利用客の減少→減便→利便性の低下→さらなる利用客の減少という悪循環に見舞われた結果、廃線に追い込まれるローカル線も多い。ただ、鉄道部門は赤字でも不動産や観光事業などのサイドビジネスで黒字を出している中小鉄道事業者もある。 | {{Pathnav|世界の鉄道一覧|frame=1}}
{{出典の明記|date=2012年1月20日 (金) 16:53 (UTC)}}
{{Infobox rail network
|name = 日本
|majoroperators = [[JR]]グループ <ref name=wp />
|ridership = 177億人 (2020年)<ref name=es>{{Cite report|和書|title=鉄道輸送統計調査 2022 |date=2022-09-12 |url=https://www.e-stat.go.jp/statistics/00600350 |publisher=国土交通省}}</ref><ref name= wp/>
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[[画像:Steam-Locomotive-on-the-coast-in-Yokohama-1874-Utagawa-Hiroshige-III.png|thumb|right|400px|[[歌川広重 (3代目)|三代歌川広重]]作『横浜海岸鉄道蒸気車之図』]]
'''日本の鉄道'''(にほんのてつどう)では、[[日本]]国内における広義の[[鉄道]]について述べる。日本には217社の[[鉄道事業者]]が存在し、最大の事業者は[[JRグループ]]である<ref name=wp>{{Cite report|和書|publisher=国土交通省 |title=交通政策白書 令和5年版 |url=https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/transport/sosei_transport_fr_000154.html |date=2023}}</ref>。
日本は、比較的[[人口密度]]が高く、[[都市]]内輸送、都市間輸送において鉄道が重要な役割を担っているため、日本の鉄道は[[公共交通]]において81.7%のシェアを持つ(2021年)<ref name= wp />。[[旅客輸送]]キロ数は、中国に次いで[[世界]]2位である<ref>{{Cite web|publisher=世界銀行 |title=Railways, passengers carried (million passenger-km) |url=https://data.worldbank.org/indicator/IS.RRS.PASG.KM?most_recent_value_desc=true |accessdate=2023-10}}</ref>。また定時運行性については、世界で最も優れた水準に達している。
しかしながら、鉄道[[インフラストラクチャー|インフラ]]への公的支援が弱く、貧弱なインフラで大量の旅客輸送を行う“詰め込み輸送”を前提としているため、他の[[先進国]]の鉄道と比べ接客サービスの水準は高いとは言えず、ごく一部の[[大手私鉄]]を除き事業者の経営は脆弱である。また[[輸送密度]]の低い[[過疎]]地域においては、[[人口減少社会|人口減少]]や[[モータリゼーション]]の定着もあって、かなり厳しい経営とならざるを得ない。利用客の減少→減便→利便性の低下→さらなる利用客の減少という[[悪循環]]に見舞われた結果、[[廃線]]に追い込まれる[[ローカル線]]も多い。ただ、鉄道部門は赤字でも[[不動産]]や[[観光]]事業などの[[サイドビジネス]]で黒字を出している[[中小私鉄|中小鉄道事業者]]もある。
== 概説 ==
日本における鉄道とは、狭義には[[鉄道事業法]]に基づいた[[国土交通省]][[鉄道局]]の所管下にあるものを指す。[[軌道法]]に基づいて建設されたものは法的には[[軌道 (鉄道)|軌道]]と呼ばれ、鉄道とは異なるものであるが、一般的にはこれも鉄道と呼ばれる。鉄道事業法と軌道法の2種類があるのは、軌道法が主に[[道路]]に敷設される鉄道を対象としているからである。また、鉄道事業法は旧[[運輸省]]の単独所管、軌道法は旧運輸省および旧[[建設省]]の共管と、所管官庁も異なっていた。[[2001年]]([[平成]]13年)1月6日の[[中央省庁再編]]によって、運輸省および建設省は統合され、国土交通省となっている。
鉄道事業法や軌道法以外の法規の適用をうける鉄道もある。[[森林鉄道]]、[[鉱山鉄道]]、かつて存在した[[殖民軌道|簡易軌道(←殖民軌道)]]がこれにあたる。
これらとは別に、一部[[私有地]]において、鉄道事業法や軌道法に基づかず建設された鉄道も存在する。[[旅館]]などの送迎などに使われるもののほか、小規模な[[トロッコ]]、[[遊園地]]の「おとぎ汽車」のような園内遊覧鉄道([[遊具]])がこれにあたる。
== 定義 ==
日本の法律では、[[鉄道事業法]]施行規則第四条で、次のものが列挙されている。
{{Quote|
第四条 法第四条第一項第六号の[[国土交通省]]令で定める鉄道の種類は、次のとおりとする。
:一 [[普通鉄道]] - ごく一般的な鉄道(2本の[[鉄]]製の[[線路 (鉄道)|線路]]の上を走るもの。[[新幹線]]から[[地下鉄]]・[[軽便鉄道]]・[[人車軌道]]まで)
:二 懸垂式鉄道 - 懸垂式[[モノレール]]・[[スカイレールサービス広島短距離交通瀬野線#スカイレール|スカイレール]]
:三 跨座式鉄道 - 跨座式モノレール
:四 [[案内軌条式鉄道]] - [[新交通システム]] (AGT)・[[ガイドウェイバス]] (GBS)
:五 無軌条電車 - [[トロリーバス]]
:六 鋼索鉄道 - [[ケーブルカー]]
:七 浮上式鉄道 - [[磁気浮上式鉄道]]・[[リニアモーターカー]](ただし浮上せず、一に該当するリニアモーターカーもある。→[[リニアモーターカー#鉄輪式|リニア地下鉄]]など)・[[空気浮上式鉄道]]
:八 前各号に掲げる鉄道以外の鉄道 <!-- - 具体例は不明-->
}}
上記(八)に当たるものとしては、[[2005年日本国際博覧会]](愛・地球博)の[[IMTS]]([[2005年日本国際博覧会協会愛・地球博線|愛・地球博線]])が「磁気誘導式鉄道」として追加された。
上記以外では[[ローラーコースター]]や[[索道|ロープウェイ]]が鉄道にやや近い形態だが、鉄道には含まれていない。ただし、ロープウェイや[[チェアリフト|リフト]]は鉄道と同じ法律(鉄道事業法)で「索道事業」として規定されている。
== 事業者 ==
{{See also|鉄道事業者}}
[[国鉄]]の流れをくむJRグループのほか、地域によっては私鉄も存在する。JRグループの[[旅客輸送]]は人キロベースで5割のシェアを持つ<ref name= wp/>。
大都市圏にある[[大手私鉄]]・[[準大手私鉄]]は主に都心と郊外を結ぶ路線網を構築している。[[中小私鉄]]は主にJRの駅から離れた都市とJR駅を結ぶ役割のものが多い。大都市では[[日本の地下鉄|地下鉄]]もある。日本では地下鉄はいずれも[[特殊会社]]または[[地方公営企業]]([[公営交通]])の形態をとっている<ref group="注釈">このうち[[東京地下鉄]](東京メトロ)は大手私鉄にも含まれる。</ref>。大都市圏には拠点駅と空港や郊外の住宅地を結ぶ[[モノレール]]、[[新交通システム]]も存在する。地方部には、主に旧国鉄の赤字ローカル線を継承した、地元自治体等の出資による[[第三セクター鉄道]]が存在する。主に山岳部の観光地には[[ケーブルカー]]も存在する。
法規上[[路面電車]]は[[軌道法]]に準拠し、厳密には「鉄道」ではないものがほとんどである。戦後の[[高度成長期]]の[[モータリゼーション]]の進行の結果、路面電車は撤去が進んだが、現在でも一部の都市で運行されている。地方公営企業(公営交通)形態のものと民間企業(私鉄)形態のものが混在する。1990年代以降、[[バリアフリー]]、[[省エネルギー|省エネ]]や、[[高齢化社会]]対策として[[コンパクトシティ]]化を図ろうという動きが本格化している。その政策の核として、路面電車の有効性が見直されている。既存路線に[[超低床電車|超低床車両]]が導入されたり、JRの在来線が路面電車に再編されたり([[富山ライトレール]])、さらには路面電車を新設する計画も本格化している([[宇都宮ライトレール]]など)。
=== JRグループ ===
{{Main|JR}}
1987年に[[日本国有鉄道]](国鉄)の[[国鉄分割民営化|分割・民営化]]にともない、[[JR|JRグループ]]として[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)、[[東海旅客鉄道]](JR東海)、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)、[[四国旅客鉄道]](JR四国)、[[九州旅客鉄道]](JR九州)、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の7社が発足した。これら7社のうち、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR九州の4社については、後に国が保有していた[[株式]]をすべて市場に売却し、完全民営化を達成した。これに対し、JR北海道、JR四国、JR貨物の3社に関しては、[[旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律|JR会社法]]の適用を受け、政府が100%出資する株式会社形態の[[特殊会社]]となっており、株式の[[株式公開|上場]]は行われていない。
=== 大手私鉄 ===
{{Main|大手私鉄}}
[[大手私鉄]]各社は、大都市部を中心として多くの輸送量を有し、どの会社も利益を上げている。しかし、日本全体の[[人口]]減や分割民営化されたJRの攻勢による競争激化などの影響を受け、輸送人員は減少傾向である。鉄道事業だけではなく、[[不動産会社|不動産事業]]などの関連事業で利益を出している会社も多い。
一般に、以下の16の鉄道会社が、大手私鉄と呼ばれる。東京圏は最初の9社、大阪圏は2つの都市圏を結ぶ近鉄を含めて5社、名古屋は名鉄、福岡圏は西鉄のみである。
{{Columns-list|3|
*[[東京地下鉄]](東京メトロ)
*[[東武鉄道]]
*[[西武鉄道]]
*[[京浜急行電鉄]]
*[[東急電鉄]]
*[[京成電鉄]]
*[[小田急電鉄]]
*[[相模鉄道]]
*[[京王電鉄]]
*[[名古屋鉄道]]
*[[近畿日本鉄道]]
*[[南海電気鉄道]]
*[[京阪電気鉄道]]
*[[阪急電鉄]]
*[[阪神電気鉄道]]
*[[西日本鉄道]]
}}
=== 中小私鉄 ===
{{See also|準大手私鉄|}}
大都市近郊の[[準大手私鉄]]は、沿線開発や駅周辺の商業施設の運営に関わり、経営基盤は比較的安定している。しかし、それ以外の地方私鉄は、人口減、[[過疎]]化、モータリゼーションの定着などの影響を強く受けている。都市間輸送や観光輸送、[[政令指定都市]]・[[中核市]]クラスの都市での通勤通学輸送など一定の需要が存在する路線以外は、路線縮小や廃止も相次いでいる。既存路線の[[高速化 (鉄道)|高速化]]や新規車輌の導入など改善策の実施が、財政難から不可能な会社もある。昨今の[[地方公共団体]]の財政状態の悪化により補助金が減少あるいは停止されること、[[鉄道事業法]]の改正により届出だけで廃止が可能になったことが、地方の私鉄を取り巻く環境をさらに厳しいものとしている。
一般に、以下の5の鉄道会社が、準大手私鉄と呼ばれる。
{{Columns-list|3|
*[[新京成電鉄]]
*[[泉北高速鉄道]]
*[[北大阪急行電鉄]]
*[[神戸高速鉄道]]
*[[山陽電気鉄道]]
}}
=== 公営鉄道等 ===
{{See also|第三セクター鉄道|}}
地方公共団体([[公営交通]])や、民間企業と地方公共団体の共同出資による[[第三セクター]]による鉄道は、都市部の地下鉄や、交通網が脆弱な地域の交通需要を担っている。しかし、地方においては、[[特定地方交通線|旧国鉄の赤字路線]]をそのまま引き継ぐなど、経営状態はどこも苦しいのが実情である。都市部においてはまとまった需要があるため、路線により様々な状況がある。建設費の高騰から運賃が高価になり、そのため輸送量が伸び悩み、沿線の開発も進まないという悪循環に陥っている路線が多い。その一方で[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]のように好調な輸送実績をあげ、沿線開発が盛んに行われている鉄道路線もある。公営という性質上、保守的な経営形態をとるものが多い一方で、路線を新設し、[[ライトレール|LRT]]を導入した[[富山ライトレール]]のように新しい戦略をとる会社もある。
== 旅客輸送 ==
{| class="wikitable floatright sortable" style="font-size:85%; text-align:right; margin:1em"
|+ 事業者別の旅客輸送量(2020年)<ref>{{Cite report|和書|publisher=国土交通省 |title=鉄道統計年報 令和2年度 |url=https://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_tk2_000057.html |date=2021}}</ref>
! 事業者 !!輸送人員<br>(千人) !! 輸送人キロ<br>(千人キロ)
|-
|{{rh}}|JR北海道 || 94,371 || 2,234,907
|-
|{{rh}}|JR東日本 || 4,536,596 || 84,550,898
|-
|{{rh}}|JR東海 || 363,589 || 24,609,783
|-
|{{rh}}|JR西日本 || 1,425,216 || 34,110,292
|-
|{{rh}}|JR四国 || 33,863 || 875,935
|-
|{{rh}}|JR九州 || 251,050 || 5,564,720
|-
|{{rh}}|東武 || 677,046 || 8,576,472
|-
|{{rh}}|西武 || 471,752 || 6,129,730
|-
|{{rh}}|京成 || 208,714 || 2,534,868
|-
|{{rh}}|京王 || 450,644 || 5,174,055
|-
|{{rh}}|小田急 || 525,225 || 7,581,302
|-
|{{rh}}|東急 || 805,783 || 7,376,243
|-
|{{rh}}|京急 || 334,904 || 4,354,440
|-
|{{rh}}|相鉄 || 174,827 || 1,846,771
|-
|{{rh}}|名鉄 || 296,235 || 5,228,401
|-
|{{rh}}|近鉄 || 425,869 || 7,210,138
|-
|{{rh}}|南海 || 178,159 || 2,704,849
|-
|{{rh}}|京阪 || 207,726 || 2,834,177
|-
|{{rh}}|阪急 || 485,104 || 6,481,959
|-
|{{rh}}|阪神 || 183,551 || 1,657,108
|-
|{{rh}}|西鉄 || 1,120,731 || 8,435
|}
日本の鉄道の旅客輸送量は高水準であり、特に[[通勤列車|都市鉄道]]として東京圏、関西圏の主要路線と、都市間を結ぶ鉄道として[[東海道新幹線]]は、世界の鉄道でも高い[[輸送密度]]を有している。東海道新幹線の東京 - 新大阪間は、通勤列車なみの頻度で運行され、最大毎時16本もの列車が走っているが、これだけの輸送量・頻度で中長距離の都市間を結ぶ鉄道も、現在のところ世界では他に例がない。
=== 速度 ===
特別に高速運転ができるように設計・建設された[[新幹線]]では、[[山陽新幹線]]「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」の[[西明石駅|西明石]]以西では最高速度300 km/h、[[東北新幹線]]「[[はやぶさ_(新幹線)|はやぶさ]]」の[[宇都宮駅|宇都宮]] - [[盛岡駅|盛岡]]間において、最高速度320 km/hの高速運転がなされている。
一方、[[在来線]]の最高速度はごく一部に160 km/h走行が可能な路線がある程度で、重要幹線でもおおむね120 - 130 km/hにとどまっている。主な理由は
* 多くの路線が[[狭軌]]であり、台車が小さくなるので高出力のモーターを搭載するのが難しかった。
* [[山地]]が多いが、長大[[トンネル]]を建設するのが難しかったため1930年代以前に建設された路線は[[線形 (路線)|カーブ]]が多い([[蒸気機関車]]の走行にはカーブを増やしてでも勾配をできるだけ避けた方が有利であった。また、長大トンネルは建設費等のほかに蒸気機関車からの煤煙の問題があった)。
* 人口が密集しているために[[踏切]]が多く、そのため非常ブレーキをかけてから600 m以内で停止しなければならないという規制があった([[600メートル条項]])。
などが挙げられる。
=== 安全対策 ===
鉄道は交通機関の中では事故率が最も低く、安全に対する信頼感は高いものの、[[JR福知山線脱線事故|福知山線脱線事故]]などの重大事故は、鉄道の安全性への問題点が注目される契機となっている。鉄道各社とも、継続的に安全対策への投資を実施している。[[自動列車制御装置]] (ATC) 、[[自動列車停止装置]] (ATS) などの基幹的な安全対策に加えて、[[ホームドア]]等の新たな安全対策も普及してきている。
=== バリアフリー ===
[[高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律|交通バリアフリー法]]の施行に伴い、各事業者とも、[[バリアフリー]]化に力を入れている。主に[[エスカレーター]]、[[エレベーター]]設備の拡充が、都市部を中心に行なわれている。駅の[[便所|トイレ]]も多目的トイレの増設などが行なわれている。[[列車便所|列車内トイレ]]を多目的化したものもある。しかし、経営状態のよくない事業者ではバリアフリー化が進展していないところも多い。路面電車においては低床車両である[[ライトレール|LRV]]([[超低床電車]])が盛んに導入されている。
=== サービス向上 ===
利用者の増加を図るためにはサービス向上が必要であり、このために各事業者とも種々の施策を講じている。社員教育などの人的な点から、複数路線をまたがって利用したときの精算の手間を省く共通カード導入、さらにキャッシュレス化などが行なわれている。
また、駅構内に店舗を勧誘・設置する(いわゆる「[[駅ナカ]]」)ことにより、利用者の利便性を向上し、同時に鉄道事業者の収益を確保する手法も広く用いられている。JRは、民営化によって旧国鉄時代に比べて自由に事業が実施できるようになったため、大都市部の主要駅を中心に、多くの[[テナント]]が駅舎内に展開するようになった。しかし、駅構内という圧倒的に有利な立地に商店を開業することで、駅周辺の商店への影響が出ている場合もある。
=== 都市の過密な旅客輸送 ===
{{See also|ラッシュ時#日本の状況}}
==== 高い旅客輸送密度 ====
[[File:Rush hour at Shinjuku 02.JPG|thumb|left|新宿駅]]
東京圏では、山手線、中央快速線等の路線で、10両編成で3,000 - 4,000人の乗客が輸送され、複線でラッシュ時に片道10万人/時程度の輸送人員に達するが、これは[[モスクワ地下鉄]]の13.8万人/時<ref>{{PDFlink|[https://www.jttri.or.jp/members/journal/assets/no53-04.pdf モスクワ地下鉄の高頻度運行管理]|p.35 2.4 路線別輸送人員}} </ref>に次ぐ輸送密度である。混雑時に椅子がすべて収容される6扉車は他国に類のない設計であり、過酷な[[ラッシュ時|通勤ラッシュ]]は他国でもしばしば紹介されることがある。エネルギー消費や土地利用の観点からは非常に効率がよく、世界最大の都市圏である[[首都圏 (日本)|首都圏]]の経済活動はこのような鉄道なしには成立しえない反面、人々の生活の快適性や福祉の観点からは問題がある。高度経済成長期以降、国鉄の[[通勤五方面作戦]]に代表される[[複々線]]化や[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]の新線開業など、混雑緩和のための輸送力強化が精力的に取り組まれたが、人口の東京一極集中が進む中で解消には程遠い状況で、さらにインフラ増強は国鉄と営団の民営化により停滞するなど、今に至るまで抜本的な改善を見ていない。さらに鉄道事業の赤字に悩む事業者の合理化によって営業本数や編成車両数の削減が進められた結果、近年は地方線区でもラッシュ時の詰め込み輸送が見られるようになっている。
==== 乗降客数の多い駅 ====
前述のような高い輸送人員・輸送密度・旅客シェアなどが関連され、世界一[[乗降客数]]の多い駅は日本の[[新宿駅]](JR東日本だけで1日平均約150万人、私鉄含め約350万人)となっている<ref name="jt">{{cite web|url=http://www.japantoday.com/category/travel/view/the-51-busiest-train-stations-in-the-world-all-but-6-located-in-japan |title=The 51 busiest train stations in the world– All but 6 located in Japan |author=Master Blaster |date=2013-02-06 |work={{仮リンク|Japan Today|en|Japan Today |label=JAPAN TODAY}} |accessdate=2015-08-13 |archiveurl=https://megalodon.jp/2015-0813-1830-01/www.japantoday.com/category/travel/view/the-51-busiest-train-stations-in-the-world-all-but-6-located-in-japan |archivedate=2015-08-13}}</ref>。さらに世界第2位以下は[[渋谷駅]]、[[池袋駅]]、[[梅田地区の鉄道駅|梅田駅・大阪駅]]、[[横浜駅]]と日本の駅が続いている<ref name="jt"/>。
一方の日本国外で最も乗降客数の多い駅は台湾の[[台北駅]]であり、次いでフランスの[[パリ北駅]]であるが<ref name="jt"/>、年間1億9千万人の乗降客数([[フランス国鉄]]分のみで[[メトロ (パリ)|メトロ]]を含まない)を持っているが<ref>http://www.gare-ensemble.fr/IMG/pdf/ANNEXES.pdf</ref>、1日平均に直すと約52万人であり、これは、新宿駅の7分の1で、日本の駅では[[大阪梅田駅 (阪急)|阪急梅田駅]]と同程度にすぎない。
これらの高い需要とシェア、時間の正確さは後述する他の特徴にも影響を与えている。また、[[三戸祐子]]によれば高い需要と時間の正確さについても相互的に影響を与えていると推測している。
{{-}}
== 貨物輸送 ==
{{main|鉄道貨物輸送#日本}}
貨物鉄道事業者は22社が存在する<ref>{{Cite report|和書|publisher=国土交通省 |title=貨物鉄道事業者の概況 |url=https://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_tk2_000017.html |accessdate=2023-09}}</ref>。
国鉄分割民営化に伴い、[[鉄道貨物輸送]]は[[日本貨物鉄道]](JR貨物)に委ねられた。かつて鉄道貨物は日本の貨物輸送の基軸を担っていたものの、昭和40年代以降、高速道路網の伸長、宅配サービスの充実、[[スト権スト]]による国鉄貨物への信頼失墜などの影響で貨物輸送量は激減した、昭和50年代の国鉄末期には、経営合理化のために、貨物列車や設備は大幅に整理された上で、JR貨物に引き継がれた。
JR貨物発足後も、鉄道貨物輸送量は低水準にとどまっているが、環境保護という観点や、鉄道輸送のメリットの再見直し、[[貨車]]([[車扱貨物]])から[[日本の鉄道コンテナ|コンテナ]]化、新車導入による速達化などの営業努力により、JR貨物の経営は黒字に転じている。
しかし、地方の貨物輸送を中心とする中小私鉄([[臨海鉄道]]等)については、経営の厳しいところも多い。
== 統計 ==
日本の鉄道の[[輸送人員]]は約230億人<ref name="名前なし-1">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/youran/pdf/jre_youran_group_p31_36.pdf 鉄道事業 輸送]|p.36 国内鉄道事業におけるシェア}} - JR東日本</ref>で、世界一である。二番目に旅客輸送人員の多い国はインドで、[[インドの鉄道]]の輸送人員は約50億人<ref>{{PDFlink|[http://www.mtij.jp/download/Keynote.pdf 日本の都市鉄道の特徴]|p.25 国内鉄道事業におけるシェア}}</ref>であり、この数字はJR東日本よりも少なくなっている<ref name="名前なし-1"/>。
=== 輸送シェア ===
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:right; margin:1em"
|+ 日本の旅客輸送量(億人キロ)<ref>{{Cite report|和書|publisher=国土交通省 |title=旅客の輸送機関別輸送量・分担率の推移 |date=2021 |url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/tetsudo_list.html }}</ref>
! !! 1965 !! 1970 !! 1975 !! 1980 !! 1985 !! 1990 !! 1995 !! 2000 !! 2005 !! 2010 !! 2012 !! 2014 !! 2016 !! 2018 !! 2019 !! 2020
|-
|{{rh}}| 自動車 || 1,208 || 2,842 || 3,609 || 4,317 || 4,893 || 8,531 || 9,174 || 9,513 || 9,330 || 777 || 757 || 726 || 701 || 701 || 656 || 256
|-
|{{rh}}| 鉄道 || 2,555 || 2,888 || 3,238 || 3,145 || 3,301 || 3,875 || 4,001 || 3,843 || 3,912 || 3,934 || 4,044 || 4,159 || 4,290 || 4,418 || 4,350 || 2,631
|-
|{{rh}}| 水運 || 34 || 48 || 69 || 61 || 58 || 63 || 55 || 43 || 40 || 30 || 31 || 30 || 33 || 34 || 31 || 15
|-
|{{rh}}| 航空 || 30 || 93 || 191 || 297 || 331 || 516 || 650 || 797 || 832 || 738 || 779 || 868 || 888 || 962 || 945 || 315
|-
|colspan=18| <small>※ 自動車は2010年より、自家用乗用車・軽自動車が除外される。</small>
|}
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:right; margin:1em"
|+ 日本の貨物輸送量(億トンキロ)<ref name=stat_f>{{Cite report|和書|publisher=国土交通省 |title=貨物の輸送機関別輸送量・分担率の推移|date=2020 |url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/tetsudo_list.html }}</ref>
! !! 1950 !! 1955 !! 1960 !! 1965 !! 1970 !! 1975 !! 1980 !! 1985 !! 1990 !! 1995 !! 2000 !! 2005 !! 2010 !! 2015 !! 2017 !! 2018 !! 2019
|-
|{{rh}}| 自動車 || 54 || 95 || 208 || 484 || 1,359 || 1,297 || 1,789 || 2,059 || 2,742 || 2,946 || 3,131 || 3,350 || 2,432 || 2,043 || 2,108 || 2,105 || 2,138
|-
|{{rh}}| 鉄道 || 312 || 427 || 539 || 567 || 630 || 471 || 374 || 219 || 272 || 251 || 221 || 228 || 204 || 215 || 217 || 194 || 200
|-
|{{rh}}| 内陸海運 || 255 || 290 || 636 || 806 || 1,512 || 1,836 || 2,222 || 2,058 || 2,445 || 2,383 || 2,417 || 2,116 || 1,799 || 1,804 || 1,809 || 1,791 || 1,697
|-
|{{rh}}| 航空 || 0.0 || 0.0 || 0.1 || 0.2 || 0.7 || 1.5 || 2.9 || 4.8 || 8.0 || 9.2 || 10.8 || 10.8 || 10.3 || 10.6 || 10.7 || 9.8 || 9.3
|-
|colspan=18| <small>※ 自動車は2010年より集計方法が変わったため、連続しない。</small>
|}
日本の鉄道の旅客輸送のシェアは、昭和30年代、40年代の自動車の普及([[モータリゼーション]])を経て大幅に低下した後も、約30 [[パーセント|%]]を維持しており、世界各国と比較しても最も高い水準である。特に東京圏、大阪圏の鉄道と新幹線は、他の交通機関と比べて相対的に利便性が高いため、日常的に人々に利用され親しまれている。ただし東京圏、大阪圏以外の地方部では自動車の利便性の方が高く、鉄道はあまり利用されない場合が多い。なお[[鉄道貨物輸送|貨物輸送]]のシェアは5 %弱で低水準にとどまっている(2019年)<ref name=stat_f />。
=== 輸送量 ===
{| class="wikitable floatright" style="font-size:85%; text-align:right; margin:1em"
|+ 車両キロの推移<ref>{{Cite report|和書|publisher=国土交通省 |title=車両キロ及び列車キロの推移|url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/tetsudo_list.html }}</ref>
! 年 !! 旅客輸送 !! [[鉄道貨物輸送|貨物輸送]]
|-
|{{rh}}| 昭和40 || 4,278,671 || 4,151,793
|-
|{{rh}}| 45 || 5,291,582 || 4,125,914
|-
|{{rh}}| 50 || 5,878,893 || 2,982,165
|-
|{{rh}}| 55 || 6,123,283 || 2,188,584
|-
|{{rh}}| 60 || 6,113,268 || 1,190,771
|-
|{{rh}}| 平成2 || 7,176,375 || 1,483,303
|-
|{{rh}}| 7 || 7,531,706 || 1,454,950
|-
|{{rh}}| 12 || 7,770,227 || 1,247,096
|-
|{{rh}}| 17 || 8,237,240 || 1,192,123
|-
|{{rh}}| 19 || 8,301,381 || 1,270,008
|-
|{{rh}}| 21 || 8,376,123 || 1,228,156
|-
|{{rh}}| 22 || 8,332,137 || 1,131,987
|-
|{{rh}}| 23 || 8,288,215 || 1,101,298
|-
|{{rh}}| 24 || 8,419,252 || 1,112,761
|-
|{{rh}}| 25 || 8,468,738 || 1,153,618
|-
|{{rh}}| 26 || 8,481,176 || 1,089,722
|-
|{{rh}}| 27 || 8,610,770 || 1,231,867
|-
|{{rh}}| 28 || 8,645,444 || 1,193,760
|-
|{{rh}}| 29 || 8,677,590 || 1,200,296
|-
|{{rh}}| 30 || 8,683,466 || 1,146,342
|-
|{{rh}}| 令和 || 8,770,453 || 1,248,597
|-
|{{rh}}| 2 || 8,503,218 || 1,210,085
|}
昭和30年代までは全体的に増加傾向にあったが、昭和40年代以降は、まず[[高度経済成長]]期の産業構造の変化にともなう人口分布の変化(大都市への集中)と、[[自家用自動車|自家用車]]の普及により地方[[中小私鉄]]の輸送量減少が進み、多くの中小私鉄が[[廃線]]となった。昭和40年代後半([[1970年代]])以降は航空運賃の低廉化、[[道路特定財源制度]]等を利用して[[日本の高速道路|高速道路]]建設等の道路整備、[[オイルショック]]後の[[石油]]の低価格化による自動車・[[航空機]]の増加で、鉄道による長距離輸送の需要減が進んだ。
現在では[[少子化]]・[[高齢化]]と人口分布の[[都心回帰]]が進み、地方中小私鉄だけでなく、大都市圏の私鉄でも、都心と郊外を結ぶ路線については輸送人員が増加から減少に転じる路線も出てきている。
一方、都市部においては輸送量が年々増加している路線もある上、路線の開業による輸送量の増加もみられる。地方においても自動車や[[航空会社|航空機]]に対抗した種々の改善策、[[観光客]]の増加などにより、一部路線においては輸送量が増えているところもある。
{{Wide image|Railway transport volumes of Japan.svg|450px|JRおよび私鉄の輸送キロ推移(旅客/貨物)}}
== 歴史 ==
{{Main|日本の鉄道史}}
[[1872年]](明治5年)に開業した[[日本の鉄道開業|日本最初の鉄道]]は、国による建設であり、日本の鉄道は[[国有企業|国有国営]]を旨としたが、その後勃発した[[西南戦争]]による政府財政の窮乏により、幹線鉄道網の一部は[[日本鉄道]]などの[[私鉄]]により建設された。しかし、[[日清戦争|日清]]・[[日露戦争|日露]]の両戦争を経て、軍事輸送の観点などから鉄道国有論が高まり、[[1906年]](明治39年)に[[鉄道国有法]]が制定され、日本の鉄道網は基本的に国が運営することとなった。一部の私鉄は民営のまま残ったが、一地方の輸送を担うのみとなった。その後も、[[鉄道敷設法]]に基づいて、私鉄の買収国有化が行われた。
鉄道国有法以降、[[第二次世界大戦]]直後までは、国([[鉄道省|鉄道寮→鉄道院→鉄道省→運輸省]])が全国の主要路線(国有鉄道)を直接運営していたが、[[1949年]](昭和24年)の[[公共企業体]]([[日本国有鉄道]])への改組を経て、[[1987年]](昭和62年)には[[国鉄分割民営化]]により国鉄そのものが解体され、[[JR|JRグループ]]7社に承継されている。
* [[1872年]]6月12日(太陽暦) - '''[[鉄道省|工部省鉄道寮]]'''により、品川・横浜間が仮開業<ref name=hist>{{Cite report|和書|publisher=国土交通省 |author=鉄道局 |title=鉄道主要年表 |url=https://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_fr1_000037.html |date=2012-11-01}}</ref>。
* [[1872年]]10月14日(太陽暦) - 新橋・横浜間が開通([[日本の鉄道開業]])。この日を「[[鉄道の日]]」と定める<ref name=hist />。
* [[1881年]] - 民間資本を取り入れた'''[[日本鉄道]]株式会社'''が設立される<ref name=hist />。
* [[1887年]] - [[私設鉄道条例]]が公布され、私鉄の建設が初めて認められる<ref name=hist />。
* [[1906年]] - [[鉄道国有法]]が公布され、[[日本鉄道]]および主な私鉄が'''[[官設鉄道]]'''に買収される<ref name=hist />。
* [[1920年]] - [[鉄道省]]が設置される<ref name=hist />。
* [[1943年]] - 鉄道省が廃止され、[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]となる<ref name=hist />。
* [[1945年]] - [[運輸省]]に改組され、鉄道は鉄道総局の所有となる<ref name=hist />。
* [[1948年]] - [[日本国有鉄道法]]の公布により'''[[日本国有鉄道]]'''(国鉄)が設立、運営者と監督庁省が分離される<ref name=hist />。
* [[1964年]] - [[東海道新幹線]]の東京・新大阪間が開業<ref name=hist />。この年以降、国鉄の決算は赤字となる<ref>{{Cite journal|和書|author=藤田正一 |date=1983 |title=国鉄の経営: 国鉄再建計画についての一考察. |journal=国有企業の経営 資本主義と社会主義 |url=http://hdl.handle.net/10129/2841}}</ref>。
* [[1970年]] - [[全国新幹線鉄道整備法]]が公布される([[整備新幹線]]の策定)<ref name=hist />。
* [[1987年]] - [[国鉄分割民営化]]が実施され、'''[[JRグループ]]'''が発足する<ref name=hist />。
=== 個別項目 ===
以下の項目も参照。
{{Columns-list|3|
* [[整備新幹線]]
* [[日本国有鉄道]](国鉄)
* [[日本の電車史]]
* [[日本の気動車史]]
* [[日本の蒸気機関車史]]
* [[日本の電気機関車史]]
* [[日本のディーゼル機関車史]]
* [[日本の改軌論争]]
* [[国鉄ダイヤ改正]]
* [[JRダイヤ改正]]
* [[鉄道事故]]
}}
== 地域別の鉄道概要 ==
* [[北海道の鉄道]]
* [[四国の鉄道]]
* [[九州の鉄道]]
* [[沖縄県の鉄道]]
== 他国の鉄道との比較 ==
{{独自研究|section=1|date=2012年1月}}
=== 定時性の高さと脆弱な輸送インフラ ===
日本の鉄道は、日本以外の国の鉄道と比較して、定時性がきわめて高いといわれている。
紀行作家の[[宮脇俊三]]は、日本の鉄道が世界に誇れることとして、列車本数の多さと時間の正確さを挙げていた<ref>宮脇俊三『時刻表ひとり旅』講談社、1981年</ref>。現に日本国外の鉄道関係者が来日して[[新幹線]]に乗車した際、各人に懐中時計を持たせて駅の到着時刻を計らせたら、1秒違わず到着するのを見て「クレイジー」であると証言したという逸話も存在している<ref>三戸祐子『定刻発車』交通新聞社、2001年</ref>。また、日本以外では5 - 15分程度の遅れは([[高速鉄道]]であろうと)定時とみなすところが多いが、日本国内では15 - 30秒程度のずれも遅れと見なされることもあり、時間に関する日本人の感覚を裏付けるもととして各書籍物で紹介されることさえある。
; 鉄道の正確さを支えたもの
:* 列車本数の多さ - 人口が密集している日本においては、列車本数が諸国に比べても必然的に多くなる傾向があるが、そうなると僅かな時間差でも他の列車に影響を及ぼすため、必然的に定時性を保つ必要が出てきた。
:* 路線網の複雑さ - 分岐駅で列車同士が接続することも多くなり、時には分割併結を行うこともある。この場合も僅かなずれが生じると、全部の路線の多数列車に影響を及ぼすことになるため、定時性が高まる。
:反面、合理化で以下のような定時制確保の妨げになるものが生じている。
:* インフラストラクチャの貧弱さ - 日本の鉄道は、列車本数や輸送量の多さに対して、線路や駅設備などのインフラストラクチャが貧弱である。本来なら複々線が適当な線区でも、複線しか敷設されていないことも多い。そのため、ある列車のわずかな遅れで、関係する路線すべてに影響を及ぼす。近年は特に「合理化」を目的に、待避線や行き違い線の撤去などを行っており、ダイヤ乱れに対する回復力が低下している。
:* 人的能力 - 以前は、列車の正確な運行を支えるため、多くの社員・職員が努力していたほか、ダイヤが乱れた場合でも、局所的な対応で間に合う場合も多かったが、近年は要員の削減や合理化、指令の一元化などにより、きめ細かな運転整理が難しくなっている。また、コンピュータの導入により、ダイヤが乱れた場合の融通が利かなくなっている。
:
; 定時確保のための努力
: 工夫と努力なしでは定時性を保つことはできなかった。「運転の神様」と呼ばれる[[結城弘毅]]をはじめ、様々な関係者が鉄道の定時性を保とうと苦心した結果、現在の定時性が保たれている。最近では各地でダイヤの見直しによって一旦は競合交通機関対策で短縮した所要時間を多少延ばして遅れても問題ないように余裕時間を増やしている鉄道会社もある<ref group="注釈">[[JR福知山線脱線事故]]以降の[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]がその例。</ref>。
=== 民間部門の強さと公的支援の弱さ ===
日本では、特に東京圏、大阪圏、名古屋圏、福岡圏の鉄道は、[[私鉄]]の果たす役割が大きい。また分割・民営化後の[[JR]]も、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]、[[東海旅客鉄道|JR東海]]、[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の3社は黒字経営を続けている。これらのJR、私鉄は、鉄道業を中心として、不動産、小売業、宿泊業など、鉄道利用者や沿線住民の生活に関する様々な関連事業を展開している。
他国では、現在では鉄道業で採算が成立することはきわめて難しく、鉄道事業は政府などの出資なしには成り立たないとされる。それ故に他の諸国での鉄道業は、[[公営鉄道]]や[[国鉄|国有鉄道]]の国や地方の公共事業となっていることが多い。鉄道の草創期は民間事業者によって鉄道網が発展した国は多いものの、21世紀に入って国家的な規模で民間事業者による路線網が成立している国は、日本以外では[[アメリカ合衆国]]<ref group="注釈">なお、[[アメリカ合衆国の鉄道]]網を構成する民間事業者は基本的に貨物専業であり、公営の[[アムトラック]]などの旅客事業者は、線路を借りる形で運行している。</ref>などごく一部にとどまる。
このような事業を行える要因としては、先述の通り他国と比較して旅客鉄道に対するきわめて高い需要があるからである。しかし、東京圏や大阪圏のような過密運行ができる線区がほとんどないJR三島会社([[北海道旅客鉄道|JR北海道]]、[[九州旅客鉄道|JR九州]]、[[四国旅客鉄道|JR四国]])、および多くの[[中小私鉄]]事業者は路線網を維持するに足りるだけの収益は得られない状況で、関連事業の収益も鉄道部門の赤字を埋めるに足りない場合、経営難に直面することになる。整備新幹線開業で発足した[[並行在来線]]などは地元自治体の支援を受けているが、JR北海道およびJR四国の路線は全線赤字、JR九州も[[篠栗線]]を除き全線赤字であり、このような地域の事業者に独立採算を前提にしたスキームを適用するのは無理がある。
JR九州の鉄道事業の売上に占める割合は約4割程度であり、利益は流通事業や不動産事業などの関連事業で稼ぎ出している。2017年に完全民営化した同社は、株主から赤字部門である鉄道事業の合理化を求められ、2018年3月のダイヤ改正で大都市圏や主要幹線も含めた大幅な減便を断行。ローカル線の利便性の悪化のみならず、大都市圏ではラッシュ時の混雑の悪化などが予想されている。
また地域鉄道については、事業者の96%が経常赤字であった(2021年度)<ref name=wp />。
=== 治安・清潔性の高さ ===
日本は鉄道の治安や清潔性が世界で最も高い国の一つである。治安の悪化を指摘する声もあるものの<ref>[[梅原淳]]『鉄道の未来学』角川書店、2011年、ISBN 9784041100233</ref> 、日本では地下鉄の車内で乗客が居眠りをしても犯罪に遭う可能性が低く、また深夜でも女性が安心して1人で鉄道を利用できる。これは世界的にみれば特筆すべきことである。また鉄道車両への落書き、器物破損([[ヴァンダリズム]])により荒廃した列車が見られる国は多いものの、現在の日本ではこのようなことは珍しく<ref group="注釈">仮に落書きやシートなどが切られるなどの器物破損があっても発見され次第修繕されるので、被害の様子が露見することは少ない。</ref>、一般に鉄道車両は公共物として尊重され、清潔な状態が保たれている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Rail transport in Japan}}
{{Commons|Trains of Japan|日本の鉄道車両}}
{{Commons|Train stations in Japan|日本の鉄道駅}}
* [[日本の交通]] | [[交通]]
* [[鉄道]]
* [[鉄道事業者|鉄道会社]]、[[日本の鉄道事業者一覧]]
* [[鉄道路線]]、[[日本の鉄道路線一覧]]、[[日本の地域別鉄道路線一覧]]
* [[鉄道駅]]、[[日本の鉄道駅一覧]]
* [[日本の列車愛称一覧]]
* [[地下鉄]]、[[日本の地下鉄]]
* [[路面電車]]
* [[乗車カード]]
* [[鉄道事業者|鉄道事業]]
* [[鉄道車両]]、[[国鉄の車両形式一覧]]
* [[幹線]]、[[地方交通線]]、[[特定地方交通線]]
* [[廃線]]
{{アジアの題材|鉄道|mode=4}}
{{日本関連の項目}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:にほんのてつとう}}
[[Category:日本の鉄道| ]] | 2003-03-13T16:57:23Z | 2023-12-04T13:22:33Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93 |
3,953 | 政治 | 政治(せいじ)とは、主権者が領土・人民を統治すること。また、対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を実現する作用である。
西洋における政治の語源はポリスである。ポリスはしばしば政治的共同体(ポリティーケ・コイノーニア)とも呼ばれ、あくまで平等な市民間の関係を指した。しかしこの「政治」の含意はやがて曖昧となり、今日では主に集団、特に国家や国家間の権力配分やそれをめぐる争い一般を指すものとして理解される事が多い。
広辞苑では「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力・政策・支配・自治にかかわる現象。」とする。
大辞泉では「1. 主権者が、領土・人民を治めること。2. ある社会の対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を行い、これを実現する作用。」とした。
古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、政治を研究する政治学を《善い社会》の実現を試みるためのマスターサイエンスであると位置づけた。
政治哲学者のハンナ・アーレントは『人間の条件』の中で、政治を自己とは異なる他者に対して言語を使って働きかけ、結合する行為であると捉えた。
政治学者のロバート・ダール(1915年 - 2014年)は、社会における権力現象全般を政治ととらえる立場をとり、政治というのは権力・ルール・権威を含むような関係全般、と定義できるとした。
Andrew Heywoodは2002年の書籍で、「人々が生きるうえでの一般的なルールを作り、保存し、改定する活動」(The activity through which people make, preserve and amend the general rules under which they live.)とした。
狭義の政治は、国あるいはその他の自治体での法や政策についての意思決定、社会問題の解決・最小化、対立や利害の調整、外国との関係の処理、公的財産の処理などを政府や政党、政治家などの職業的・公的に行う場合をいう。広義の政治は、あらゆる対人関係で起こる目標の選択、目標達成方法の決定、そしてそれらの実施あるいは実行の全過程をいう。例として、学校の生徒会活動やサークルなどでの意思決定も、広い意味での「政治」ということができる。
民主政国家の場合は、署名運動、請願や討論、デモ活動によって、国民が政治活動を行うことがあり、国民による公的な選挙によって選出された、職業として政治活動を行う者を「政治家」という。政治活動家とは区別される。
政治のより具体的な構成について観察すると、政治はどのように社会に働きかけているのかという客観的な問題と、政治はどのように社会に働きかけるべきかという規範的な問題に大別することができる。しかし現実の政治ではこの二種類の問題は混合した形で現れるものであり、これは後述するように政治の本性が何であるかという議論で表現されている。客観的な観点に立てば、政治は社会に対して秩序を与えており、またその動態を制御するための制度が考案されている。領土と国民を主権の下で統治するという国家の制度や、国家を組織運営する立法府、行政府そして司法府という政府組織、そして統治者を選出するための民主主義の原則に基づいた代議制など、数多くの政治的制度が存在する。さらに政治的作用は制度の体系だけではなく、経済や文化の状況や、企業や圧力団体などの主体に動態的に影響している。市民運動やマスコミの活動は政治的な相互作用を生み出している。
次に政治の規範的問題に移れば、多種多様な政治イデオロギーがこの問題に応答している。政治イデオロギーとは後述するようにさまざまな問題に対する政治的態度を指導する観念の体系であり、代表的なものに自由主義や保守主義、社会主義などがある。また個別的な問題に対するフェミニズムや環境保護主義があり、さらに宗教原理主義までをも含めればさらに政治的態度の種類は多様なものだと認められる。これらの思想や態度が主要な論点としている規範の問題は人間本性や社会の自然なあり方、そして自由や平等、さらには幸福や正義などの理念を踏まえた上での統治者の権力、被治者の権利などに及んでいる。こうした議論が現実の政治秩序を理論的に基礎付けており、憲法、外交、選挙、基本的人権、市場、社会福祉、義務教育、国防などの在り方を示している。
本項目では読者の政治における全般的な理解を助けるために、政治学的な主題を広く扱っている。したがって、いくつかの重要な主題を取り上げ、その詳細についてはそれぞれの項目を参照されたい。そこで第1章では政治の根本的な概念を基礎付ける政治の本性や権力、道徳の原理について概説し、次に主要な政治イデオロギーとして自由主義、保守主義、そして社会主義を取り上げる。また政治体制の観点からは権威主義、全体主義、権威主義の特性などを検討し、政治の場として機能している国家や国際政治の在り方も素描する。そして政治過程を構成する政党や市民、団体などの政治的相互作用に着目し、統治機構についても立法府や行政府などを論じる。最後に政治の出力である政策領域について概括する。ここで詳細に取り上げることができない各国の政治情勢や政治史については各国の政治の諸項目を、政治を研究する政治学の方法や概念については政治学を参照されたい。
権力とは一般に他者に対してその意志に反してでも従わせることのできる能力と一般的な定義が与えられている。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは「抵抗に逆らってでも自己意思を貫徹するあらゆる機会」と捉えている。権力に対する認識については権力が生じる資源の実体性から把握する方法と、権力が生じる他者との関係性から把握する方法がある。フィレンツェの政治思想家ニッコロ・マキアヴェッリは政治権力は軍事力という暴力装置によって裏付けられなければならないと考えており、これは権力資源の実体性から権力を把握するものである。またアメリカの政治学者ロバート・ダールは『誰が統治するのか?』の中で権力を「他からの働きかけがなければBがしないであろうことを、AがBに行わせることが可能なとき、AはBに対して権力を持つ」という他者との関係において定式化している。そして権力は集団において意思決定することで行使されると考えた。この権力の本質をめぐる議論から分かるように、権力の概念とは論争的なものであり、権力は権威や暴力などの概念との関係の観点からも議論される。
フランスの哲学者ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』は権力の概念をめぐる議論で新しい観点を提示した。フーコーの権力理論によれば、近代の刑罰について研究することで知識と権力の密接な関係を「権力と知とは相互に直接含みあう」と指摘している。つまり権力は知識が協同することで初めて人間の行動を支配することが可能となるものであり、科学的な知識であっても権力と無関係に独自に存在するものではないと論じた。権力の概念に対する見解についていくつか概観したが、いずれも政治の根本的な構成要素として権力を位置づけている。なぜなら、政治においてそれぞれの主体は権力を活用することによって目的を達成することが可能となるためである。
権力の機能には他者の積極的な服従と消極的な服従の両方が含まれる。他者の積極的な服従を獲得する能力は厳密に言えば権力と区別して権威と呼ばれる。アメリカの心理学者スタンレー・ミルグラムが実施したミルグラム実験が示すところによれば、教授の命令に対して多くの被験者は自己に責任が及ばないために、他者に対して継続的に電気ショックで危害を加えることが確認できる。このような権威者に対する他者の服従は人間の心理だけでなく、合理性の観点からも理解することができる。イギリスの政治思想家トマス・ホッブズやジョン・ロックの政治思想によれば、権威者がおらず各人が自分の判断で勝手に行動している自然状態において、各人は自己の生命と財産を守るという合理的な理由に基づいて政府組織を構築したと論じている。これは権威者に対して人々が服従することによって安定した秩序がもたらされると考えることができる。ウェーバーは『支配の社会学』において権力が受容される理由を心理的要因や合理的要因とは異なる観点から捉えており、正当性の概念で説明している。つまり人間が権力の働きである支配を受容するさまざまな理由は伝統的正当性、合法的正当性、そしてカリスマ的正当性の三種類に大別することが可能であると論じた。いずれかの正当性を備えているならば、それは支配される人々にとっては服従しうるものとなる。一方で権力は消極的な服従を強制的に獲得する機能も持つことに着目することができる。ドイツの政治思想家カール・マルクスや革命家ウラジミール・レーニンは権力を国家権力に限定して捉え、それが支配階級であるブルジョワジーによって運営されるプロレタリアートに対する暴力的な強制装置であると考えた。このマルクス主義的な権力理論によれば、国家に支配される国民は抑圧されていると考えられる。
政治において正義とは適切な均衡が存在する状態を言う。この基本的な正義の概念を理解する上で古代ギリシアの哲学者プラトンの議論が参考になる。プラトンは『国家』において正義は個人においては理性、意志、情欲の三つが精神的に調和している状態であり、国家においては政治家の知恵と軍人の勇気、そして庶民の節制の精神が調和している状態を指すものと論じた。しかし均衡をどのように実現するかについてより具体的に考えるならば、分配の問題に取り組む必要がある。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で正義を道徳的に正当な利害の配分と捉え、もしこの配分が正当な均衡を失えば、それは不正な状態であるために是正しなければならないと論じた。
アリストテレスの正義の定式は現代に発展されている。哲学者ジョン・ロールズは『正義論』において共通善を自由と考え、恵まれない人々のために恵まれる人々の自由を制限することで、平等に自由に必要な基本財を分配する正義の理論を展開している。したがって恵まれない人々の基本的な自由を、恵まれた人々が負担することで社会の不正は是正されると論じた。この見解には反論がある。哲学者ロバート・ノージックは自己の自由を最大化するためにある程度の自由を制約しながら社会を形成するのであり、もし恵まれた人々の財産を他の人々のために制限するならば、それは不当な自由の侵害であると指摘した。これらの議論は社会において正義の基準が複合的に存在することを浮き彫りにしている。そこで哲学者マイケル・ウォルツァーは社会の多元性を踏まえた複合的平等を主張しており、またシュクラールが不正義によって被害を受けた人々の意見に注意することを提唱している。
正義論での諸々の立場は倫理学では徳倫理学、功利主義、そして義務論に系統化することができる。徳倫理学はプラトンやアリストテレスに代表される立場であり、いかに善い状態になるのかを主眼に置いている。また功利主義はジェレミ・ベンサムやジョン・スチュアート・ミルに代表される説であり、「最大多数の最大幸福」という言葉でしばしば要約されるように社会万人の利益になる行為を正当化する。そして義務論はイマヌエル・カントに代表される理論であり、理性を以って義務を確立し、それを実施することを正当化する。これらの道徳理論は政治理論や政治イデオロギー、公共政策を正当化している。
イーストンは『政治分析の基礎』において政治システム論を展開している。政治を一つのシステムとして捉え、環境からもたらされる入力を変換して社会に価値を権威的に配分し、出力するものというモデルを構築した。政治システムは入力の過程から始まり出力の過程で終る。この入力とは環境からの要求や指示であり、出力とは社会を公的に制御することに関する制作活動である。出力を終えるとフィードバックが始まる。出力された結果は社会に影響を与えてまた新たな支持や要求などの入力過程をもたらす。このフィードバックの循環をフィードバック・ループと言う。
政治システムはアーモンドにより発展させられる。アーモンドは入力機能を政治的社会化と補充、政治的コミュニケーション、利益表出、利益集約があり、出力機能にはルールの作成である立法、ルールの適用である行政、ルールの裁定である司法の三つの機能があるとする。政治システム入力機能である政治的コミュニケーションはマスメディア、利益表出機能は利益団体、利益集約機能は政党が機能を果たしている。
国家は原則的には一定の限定された領域における統治機構を指すものとして理解できる。政治史において国家はさまざまな形態をとってきたが、政治学において国家は近代の西欧で成立した国民国家を想定している。国家の要件としては、限られた国境線で区分された領域性を持つ領土、領土内で秩序を構築する法律を制定してこれを維持する排他性を持つ主権、そしてそこに居住する住民の言語的、文化的な統合性を持つ国民の三要素が挙げられる。これは国際法において国家の承認を行う際の要件でもある。またジャン・ボダンの『国家論六編』によれば主権には立法権だけでなく、司法権や官職任命権、宣戦布告権や講和権、課税権や貨幣鋳造権などを含む唯一にして不可分の絶対的な権力であると論じられている。
国家論の展開においては小さな政府と大きな政府の議論が重要であった。小さい政府は18世紀にアダム・スミスの経済的な自由主義に始まる「神の見えざる手」の思想が基礎にある。つまり政府は経済活動に介入することなく治安維持と国防だけを行うべきとする議論であり、ラッサールには夜警国家とも呼ばれた。しかし普通選挙制が採用されると市民の政治的な自由が容認され、自由放任の風潮は薄れた。そして格差拡大や貧困の深刻化により政府の役割は社会への介入が増大していき、福祉国家として発展していった。
また近代国家では権力の極端な一元化を避けるための権力の分散の必要性も述べられた。法を制定する立法権、法を適用して判決を下す司法権、そしてそれを除いた国家作用の全てを包括する行政権の三つを分離させて均衡させることをモンテスキューが『法の精神』で論じられた。これが三権分立である。19世紀までの国家は三権の中でも立法権を有する立法府が行政府や司法府に優越する立法国家であったが、20世紀以後には社会福祉政策の充実化が進んで行政府の権限が強化されたために行政国家と呼ばれる。
政府は国家において安定的な支配を維持するための体制である。政治過程においても構造的な影響を与えるものであり、基本的な政治分析の際にも政治体制は注目される。君主制、貴族制、共和制、民主制、独裁制などさまざまな政府形態が歴史上採用されてきた。アリストテレスは統治者の数とその統治の受益者という二つの観点から分類法を考案した。また別の区分として民主主義体制・権威主義体制・全体主義体制の三分類がある。また制度は可変的なものであり、政権交代や指導者の交代のような政府変動や、支配集団全体の交代をもたらす体制変動は権威主義から民主主義へなどのように基本的な体制の変動を伴う。
民主主義 (Democracy) は国民の政治参加と自由な活動に価値をおく政治体制であり、社会における多様な利害関係や価値観の対立を政治の場で解決することを重視する。独裁制と対比されることもあり、現代では世界的に重要視されている政治理念でもある。国民が直接的に政治に参加する直接民主制と代議員を国民から選出して政治に間接的に参加する間接民主制がある。民主主義の下では政党制、選挙制度また投票行動などが政治過程に影響するようになる。
ロバート・ダールのポリアーキー論は政治体制の分析において、自由な政府批判を容認する公的異議申し立ての度合いと政治関与可能な国民の割合に注目し、両者を兼ね備えているものがポリアーキーと読んだ。ただしこのような伝統的な民主主義は同質的な国民においてのみ成立するものであり、国民の間に同質性がなければ合意は形成できないとしていた。しかしレイプハルトは多極共存型民主主義の理論を展開してそれに反論した。すなわち民族的な同質性は必ずしも必要なものではなく、大連合の形成、相互拒否権の確保、比例性原理、少数派の自立性に基づいた多極共存型民主主義であれば政治秩序を安定させることは可能であると論じた。
世界の政治体制には政治秩序だけではなく全体主義と呼ばれる体制を保持している国もある。全体主義とは個人に対する社会の優越を基礎としてあらゆる思想、生活、社会活動などを統制しようとする政治体制である。これはかつての専制政治とはあらゆる観点から異なったものであった。20世紀における近代技術に基づいた大衆社会の操作性に起因するものである。単一の政治勢力が、社会の価値観や生活様式、政治的な言論を含めた社会全体を再構築し、個人を監視して時には拘束した。ドイツのナチズムやイタリアのファシズム、日本の軍国主義やソビエトのスターリニズムなどが歴史的な事例として挙げることができる。
カール・J・フリードリッヒやツビグニュー・ブレジンスキーは全体主義の特徴を挙げており、まず人間生活の全てを包括する教義となる包括的なイデオロギー、そして社会の再構築を行う単一の政治勢力、大衆の忠誠を獲得して反逆者を処分するための秘密警察すなわち組織的脅迫、さらにイデオロギーを宣伝するためのマスコミの独占、反乱を封じ込めるための武器独占、管理が容易で利益を独占できる統制経済、以上の六つである。全体主義にはソヴィエト連邦のイメージが強いために左翼的、またはマルクス主義的な政治体制と考えられている場合があるが、右翼的な全体主義も十分に考えられる。ただし右翼的な全体主義はドイツのナチズムのように、革命的なイデオロギーよりもむしろナショナリズムに依拠し、国家の偉大さや栄光を強調した全体主義社会を構築しようとする。
権威主義と呼ばれる体制も民主主義の対極にある政治体制として論じられるが、全体主義と混用される場合も多い。権威主義は全体主義のように大衆を統制したり教育したりすることは意図しない。だが権威主義の政治体制においては上層部を占める少数の政治勢力によって大衆の政治参加は最低限に抑制される。リンスによって20世紀のフランコ政権のスペイン政治体制を説明するために提唱された概念であり、形式的で無力な議会制と抑圧的で威圧的な官僚制を特徴とする。全体主義のカリスマ性やイデオロギー性はほとんど認められず、同じものではない。国連大使であったジーン・J・カークパトリックは権威主義と全体主義の違いを強調し、全体主義は一度成立すると自己改革の可能性はないが、権威主義ではそうとは限らないと述べている。
発展途上国の多くは民主主義でも全体主義でもない選択肢として、一党支配という権威主義を経験しているが、結果は芳しくない。ジンバブエの政治体制は1980年に二党制で発足したものの、与党のロバート・ムガベが社会主義を主張し、部族の軍事力を以って敵対勢力を打ち倒し、一党制を成立させる。しかし新しい法規制や税制はことごとく失敗に終わり、また批判すらをも封じ込め、貧困をより深刻化させた。1974年からそれまで権威主義や全体主義を採用していた各国が民主化の傾向に進み始め、チリ、韓国、台湾などは市場の自由化とともに民主化を推進することができた。
市民社会 (Civil Society) とは政治において政府の対概念であり、政治に参加する国民の構成員から成る公共的な領域を言う。古代ギリシアのポリスにおける民主主義に起源を見ることが出来るが、近代においては市民革命以後に発生したものとされる。政治的無関心や無責任を示すような政治社会の場合には大衆社会と呼んで区別する場合もある。
市民社会の概念は社会の機能をどこまで含むものとして捉えるべきかで見解が分かれる。ウォルツァーは市民社会を「非強制的な人間の結社の空間」と捉えて家族や宗教、イデオロギーのために形成されるとしたが、これは市民社会を非常に幅広い社会機能の集合として捉えており、市場をも含みうるものとしている。しかしハーバーマスやキーンらは市民社会をあくまで国家権力や市場経済からは独立した人々の活動を基盤とする公的領域として理解する。
国際政治 (International politics) は国内政治と根本的に異なる性質を持っている。政治は国家の内部での事象であったが、国際政治は国家の関係の中で発生するからである。国内政治を観察する場合は国家には主権があり、領域においてその主権は絶対的なものである。しかしながら実際には理論どおりではない。国家の主権が有効である領域においても、例えば外国の軍事力により占領された場合には、もはやその地域の主権の実際の有効性は失われる。その意味で主権は国際政治においては多数が並存する相対的なものとして捉えることができる。世界政府というものは存在しないために主権国家同士は国内政治とはまた異なる種類の権謀術数を行うために、国内政治には見られない同盟や貿易、戦争などの現象も見られる。
国際政治には現実主義と理想主義という二つの学派が存在する。国際政治における現実主義とはマキアヴェリが提起し、E・H・カーやハンス・モーゲンソウにより発展させられた権力政治に基づいた勢力均衡の政治理論と実践を意味する。現実主義によれば国際秩序の安定性は各国の勢力が均衡状態になった場合に生まれるものであり、この権力関係が崩れれば戦争や紛争が勃発するものと考える。
また国際政治の主要な学派である理想主義は国際政治を道徳的な価値観または国際法の観点から見なす理論と実践である。トマス・アクィナスはキリスト教神学に基づいて正戦の本質を議論し、国際秩序において自然法が存在すると論じた。そしてヴェゲティウスは主権国家を規律する国際法を体系化し、近代的な国際法の確立に寄与した。イマニュエル・カントも戦争を回避するために道徳と理性を結合して人類は普遍的かつ恒久的な平和を目指すものと捉えている。
政治を人間社会の集合的な意思決定と捉えた場合に、その社会の正義がどのように設定され、どのように達成されようとするのかは非常に重要な問題になってくる。この問題と密接に関わるのがイデオロギー(Ideologie)である。これは国家や階級などの一定の社会集団が保有する政治的な観念である。これは価値体系とも呼ばれ、ある主体の政治的な立場の思想的、理論的な基盤ともなっている。イデオロギーは元々はフランス革命の時代においてデスチュット・ド・トラシーにより『観念学要綱』で用いられた「観念の起源を決定する科学」を意味する概念であった。ダールによれば支配者に正当性を与え、またその政治的影響力を権威に転換させるものである。時代や政治的立場によっては政治的な教義として用いられる一方で、ナポレオンがトラシーを批判して空論家「イデオローグ」と呼んだように、妄想や不毛な思想として蔑視される場合もあった。
イデオロギーはいくつかに分類できる。その最も代表的なものとして挙げられるのが保守主義と進歩主義である。この二分法は革命後のフランス国民公会で保守的な王党派が右側の議席に、革新的なジャコバン党が左側の議席に座っていたことから右と左とも呼ばれる。このようなイデオロギーは政治勢力の分裂と対立をもたらしうる重要な要素であり、冷戦期においては資本主義と共産主義のイデオロギーを巡る思想の争いが国際政治に影響した。
イデオロギーを社会の中でどのように位置づけるのかについてマルクスとエンゲルスは支配階級と被支配階級を前提として、支配階級が自らの支配の正当化を行うための道具だと説明した。これはイデオロギーが空論とする考え方に基づいており、マルクス自身の思想はイデオロギーとは認めなかった。これをカール・マンハイムは批判した。マンハイムは一切の知識は時代的な文脈により制約されているという議論を、知識の存在被拘束性という概念で説明した。さらにアイゼンクはイデオロギーを段階的に発展するものとして捉え、評価の段階である意見、準拠の段階である態度を経て信念の段階であるアイデオロジー(Ideology)が発生するとされる。しかしイデオロギーの終焉を論じる学説もあり、レイモン・アロンは20世紀において経済発展がイデオロギー的な対立を緩和するように働いていることを指摘し、ダニエル・ベルは『イデオロギーの終焉』を著してイデオロギーが知識人の支持を近年失いつつあることを論じた。
民主主義は、封建的な王侯貴族ではなく、税金を払う市民を中心に政治を行うことを主張する政治思想である。個人の権利は、その個人が積極的に政治に参加することによって実現するものであるという。イェーリングは「権利のための闘争」で民主主義の義務と権利について整理している。
自由主義は個人の権利を保護し、選択の自由を最大化することを主張する政治思想である。経済学者アダム・スミスは政府の市場に対する干渉が経済成長を妨げる危険性を指摘した。なぜなら特定の組織が市場を独占すれば、価格の競争や商品開発の動機が失われてしまうためである。つまり経済の自由放任を維持することで市場は自らの調整能力を発揮することが可能となる。この経済学的な見解は、社会が政府から可能な限り自由であるべきという古典的自由主義のイデオロギーとして確立された。しかし古典的自由主義が前提と見なしたほど市場の調整機能は完全ではないことが明らかになると自由主義の理論は近代的自由主義のイデオロギーへと発展する。トマス・ヒル・グリーンは政府による社会への干渉を問題にするのではなく、政府が社会の自由を保障することを問題とした。つまり消極的な政府からの自由を目標とするのではなく、積極的自由を実現するために政府の干渉を正当化した。
保守主義は原則として急進的な革新を否定し、既に確立された社会の秩序を保持することを主張する政治思想である。保守主義はエドマンド・バークの政治思想に由来している。バークの主張はフランス革命での急進的な自由主義の勢力が社会が展開してきた政治の伝統や道徳の基準を破壊することに対して批判的であった。バークは現存する伝統は歴史的な試行錯誤の結果であり、全てが悪いわけではないと考えていた。もし政治制度を改革するならば、革命という手段ではなく、時間をかけて段階的に調整するべきであると論じている。
社会主義は一般的に生産手段を社会的に管理することを主張する政治思想である。自由主義に対する批判としてカール・マルクスは独自の政治理論を発展させた。マルクスは経済学的研究を通じ、資本家の下で労働者は価値を生産するが、その価値の一部だけが賃金として支払われており、余剰価値は資本に奪われる資本の法則を明らかにした。つまり労働者は自らの労働に見合った賃金がないために市場の商品を購入することができない不公平が生じる。レーニンのような急進的な社会主義者はこの不平等を是正するために政治秩序の変革を強いる革命を主張する。一方でベルンシュタインのような穏健な社会主義者は修正主義とも呼ばれ、労働者の生活状況を改善する福祉国家の確立を主張した。
権力による支配に反対する政治思想である。従って、無政府主義者は国家を廃止して市民自らが築き上げる平等な社会を目指している。
女性解放を目指す政治思想であり、あらゆる男女差別の撤廃を目指す(もしくは男性よりも女性を優位にする可能性すらある)。例えば、女性の政治参加の推進であったり、労働環境の改善やハラスメントの反対なども該当する。#MeToo運動なども同様である。19世紀に始まる女性の社会進出を後押ししてきた政治思想である。
政治過程とは政策の決定を巡る各集団の利益の対立や合意の形成などの政治的な過程を言う。アーサー・F・ベントリーが1908年に『統治過程論』で従来の制度論的な政治学を「死せる政治学」と読んで批判し、より動態的な現象として政治を分析することを論じたことに始まる。例えば利益団体の活動は制度的な規定を受けていないにもかかわらず、現実には政治的な影響力を行使している。政治過程論はこのような実態に着目して政治に対する入力や出力を明らかにしようとする。
政治システムは比較政治学に分析の基盤となるモデルを提供したが、そのことによって政治システムにとっての外部環境が政治システムに相違をもたらすことが考えられる。これが政治文化である。アーモンドとヴァーヴァによって著された『現代市民の政治文化』では一般の文化には政治的側面があり、それらの集合体が政治文化として政治に影響していると論じた。そしてアメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、メキシコの調査から構成員の認知や評価の志向から未分化型政治文化、臣民型政治文化、参加者型政治文化に類型化された。ただしすべてがこの類型に従うわけでもなく、アーモンド自身がイギリスのような臣民型と参加者型が複合された政治文化があることも重視し、これを市民文化として評価した。
政党とは政治的な理念や目的を共有し、それを達成するために活動する団体を指す。政党は基本的には私的結社であるが、議会に参加する意味で公的主体でもあり、多くの国が政党の活動に助成金を出している。政党にはさまざまな政治的な機能がある。個別的で多様な国民の意志をまとめあげて議会に媒介する利益集約機能は最も代表的なそれである。さらに政治的指導者の選出機能、意思決定の組織化機能、市民を政治的に関与させる機能、政権担当および批判機能の機能などもあり、民主主義体制においてはこのような政党が十分に機能することを想定している。
政党の分類についてはウェーバーが『商業としての政治』で論じている。ウェーバーは政党が貴族主義的政党から大衆政党に発展していくと論じた。これは政党を目的から区分したものであり、イギリスの政治史とも合致する。またデュヴェルジェは少数の有力者の下に緩やかに組織されている政党である幹部政党と共産党を典型として一般の有権者を基盤として厳格に組織された大衆組織政党という分類を述べている。政治的な思想傾向を反映して保守政党、中道政党、革新政党、包括政党という類型もしばしば用いられる。
政党が社会において存在している形態を政党制と呼ぶ。デュヴェルジェは一党制、二党制、多党制に三分した。そして『政党社会学』で政党が歴史や社会構造、宗教教義、人種、民族対立などに起因するものである一方、政党制は選挙制度と深い関係があることを論じている。またサルトーリは『現代政党学』で非競合的なものと競合的なものを提示した。そしてそれまで二大政党制は安定的な政党制をもたらすと考えられていたが、サルトーリは二大政党制は例外的な政党制であると論じ、穏健な多党制も推奨することで「二大政党制の神話」を否定した。
政治意識は政治への関心、態度、行動の様式を示す概念であり、政治的社会化によって獲得する。この政治意識は普通選挙の導入による政治参加の拡大を通じて人民の意識が注目されることとなった。特にこの非合理性というものについてウォーラスが論じており、人間が常に合理的に行動するという主知主義の立場を批判し、非合理的な側面、例えば愛情、恐怖、憎悪、疑惑、忠誠などの感情、が重要な役割を果たすことを指摘した。したがって民主主義は常に非合理性により自滅する危険性を持ち、このような政治意識は大衆操作に利用することも可能である。政治教育によって政治意識を合理化する必要性もウォーラスは述べている。
マスメディアは政治社会において人々を政治参加や政治活動に向かわせる。マスメディアは市民社会において議論された公共的な意見である世論を反映し、政府が行う政策を社会に紹介する、媒介者としての役割を担っている。マスメディアの機能は大きく分けて環境の監視、社会部分相互の関連付け、社会的遺産の世代間伝達の三つであるとラスウェルは論じている。マスメディアの問題はさまざまであるが、まず商業主義の弊害が指摘される。マスメディアは中立的な立場を保持しようとしても、企業体である限りは不利益な情報を報道できない場合がある。さらにマスメディアの発達によって政治社会に印象が実体に先行する場合が生まれ、政治的能力と無関係な基準で選挙で選出される政治状況も見られるようになっている。
圧力団体とはキーによれば公共政策に影響力を及ぼすための私的な団体である。具体的には、業界団体、労働組合、消費者団体、宗教団体、環境保護団体、女性団体などである。圧力団体は利益集団や利益団体と区別される。利益集団とは単に政治に関心を持つあらゆる集団を指し、利益団体は職業的な利益に基づいて組織化された集団であり、圧力団体は利益集団がさらに自己の利益を維持、増大させるための圧力を備えた集団である。
圧力団体の機能には利益表出、代表性の補完、政治のフィードバック、情報提供、政治教育などがあるが、圧力はエリートに限定された手段であり、また一部の利益が過剰に政治に影響を与えるなどの逆機能を併せ持つ。ローウィは『自由主義の終焉』においてアメリカ政治において圧力団体が野放しにされている状況を非難しており、これを利益集団自由主義と称した。アメリカでは圧力団体は議員、官僚との密接な関係を作り上げ、この関係は「鉄の三角形」とも呼ばれ、業界団体、族議員、官僚が特定の権益のために政治に影響を及ぼす強い政策ネットワークが構築されていた。
利益集団は多元主義の考えでは競争関係にある。多元主義とは政治を国家の外側に存在する世論や圧力団体などから説明する考えである。利益集団間の協調によって社会秩序が形成されるという考え方があり、これはネオ・コーポラティズムと言う。つまり政策決定の際に主要な利益集団と官僚が協議することにより遂行されている政治状況であり、オーストリアやスウェーデンが具体例として挙げられる。コーポラティズムとは団体協調主義とも言われ、職能別の代表が政治に参加することで政治的な調和を生み出そうとする思想である。ネオ・コーポラティズムは各分野において一元化された全国組織が存在していることが必要となる。これは政府機関との協議を行う慣行を形成するために不可欠な要件である。
立法府は政治制度において特に重要な立法権を掌握している政治機関であり、基本的には法案を審議して制定することができる権限を持つ。また憲法改定の提案、条約の批准などの権限を持つ場合もあり、他の政府機関に対して優越的な地位にある。議院内閣制を採用している場合では立法府は行政府に対して直接的な影響力を保有している。
立法府は複数の国民の代表が出席した議会で審議を行うことで成り立っている。議員はエドマンド・バークは18世紀にブリストル演説で国民全体の代表と定めており、単なる選出母体の指示に従って行動する委任代理ではないことを明示した。選挙により選出される議員は提出される法案について審議を行い、多数決の原理に従って制定する。この多数決原理は多数派と少数派との間で妥協のと譲歩の可能性が吟味され、十分に建設的な議論に基づいて行われなければならないとされている。
しかしながら現実の政治ではしばしば政治問題の専門化と複雑化に対する議会の無能力、緊急的な政治問題に対する立法過程の遅滞などの問題が指摘されている。
行政府は立法と司法の機能以外の国家作用を行う政治機関である。各国によって微妙に異なるが、行政府の長である大統領または首相は国家の代表として一般的に認識され、外交権、統帥権、任命権、立法権など、国家の最高指導者として非常に総合的な権限を持っている。
行政府の具体的な制度は国によって一様ではない。例えば大統領制と議院内閣制がある。大統領制は独自に選挙を経て大統領を選出する。この過程において議会が直接的に選出に介入することはできない。一方で議院内閣制では議員の中から行政府の長となる人物を選出し、また場合によっては不信任決議によって首相を罷免することにより影響力を行使することが可能である。ただし議院内閣制はイギリスのサッチャー首相のように議会に強い基盤を持っていれば大統領よりも強い権力を発揮することが可能である。
またフランスやドイツでは首相と大統領両方が存在するが、これらの国では大統領は名目的な地位に過ぎないことが多い。従って大統領制においては行政府が立法府から独立しており、議院内閣制の下で選出された首相は議会に対して責任を持っている。また別の制度として半大統領制・議院内閣制・議会統治制・首相公選制などもある。
司法府は立法により制定された法律を適用して裁定する政治機関であり、裁判所から構成される。法には法体系の基礎となる憲法を最高位として、犯罪行為を取り締まる刑法、賠償や商行為などについて定めている民法、政府機関の規則や命令を含む行政法、国家間で合意された条約などを含む国際法などがあり、また慣習法となっているものや成文法として確立されているものもある。国民に対して法を適用するだけではなく、三権分立が確立された国家において立法府にはおおむね立法に対する審査権が付与されている。例えばドイツの憲法裁判所は法律が憲法に違反するかどうかを審査する権限を持っている。
ただし全ての司法府がそうであるとも限らない。アメリカでは最高裁判所に連邦法の違憲審査権について特別に規定されていない。またゲリイが「裁判官を政治家にする」と批判したように、違憲審査権を司法府に与えることも見送られている。しかし立法府の権限を規制するためには、また三権分立の思想を実現するためには、裁判所の権限が必要であった。ただし実際のほとんどの国の司法府には政治的な影響力が認められず、またそれが期待されていることも少ない。何故ならば、最も上位の裁判所である最高裁判所ですら審理される案件はごく一部であり、そもそも司法府の権限は立法府によって規定されている。裁判所の決定を実行するためには行政府の権力が必要となる。そして重要な着眼として、裁判官には「法の下の平等」という思想に基づいて常に公平であることが要求されているからであり、政治的な立場に偏りがあることは望ましくないとされる。
近代社会は複雑化が進んでいるために非常に多面的であるが、近代・現代の政治機構はほぼすべての領域において政策機能を発達させており、何らかの影響力を行使することができる。
安全保障は自らの価値を何らかの手段により脅威から守ることである。安全保障でまず問題となるのは国家の存続と独立、国民の生命、財産、つまり国防である。
これらは国家安全保障の上で最も基本的な国益として設定されるものであり、これを守るために軍隊が必要とされる。
国防は軍事力を「抑止力」として準備し、また戦争や紛争事態において実際に運用することで行われる。仮想敵国に自国の単独防衛だけで対処できないと思われる場合には同盟を形成して勢力均衡を図ろうとする。その勢力均衡の結果、核戦略が国防において重要な領域となっており、核抑止理論を基礎とした仮想敵国の制圧が目指される。
しかしこのような従来の安全保障では十分に平和を保持できず、また戦争が勃発した際に戦火が拡大する恐れがあったため、集団安全保障の体制が第一次世界大戦後~戦間期における国際連盟、第二次世界大戦後~現在における国際連合で追求された。集団安全保障は参加国が武力の不行使を相互に約束し、もしそれを破棄する参加国がいれば他の参加国がそれに対して制裁を実施することで秩序を回復するものであった。
近年は安全保障の概念は広がりを見せており、「人間の安全保障」と呼ばれるように、エネルギー、食糧、人権などが安全保障の対象となり、経済的手段や外交的手段が安全保障において重要視されるようになっている。
政治にとって経済は規制を最小限にして市場経済の下に自由な取引を促進すべきものという資本主義の発想と、計画経済の下にある程度の管理に置いて必要な公共財を提供するという社会主義または共産主義の発想と、2種類のあり方が存在する。
これは経済を巡るイデオロギーと関連した論争であるが、現代の政治を観察すると現実の経済状況によって必要な産業復興支援や金融政策を打ち出している。
事実的な意味で経済が政治とどのように関わっているのかには4つの主要な考え方がある。
イギリスの経済学者アルフレッド・マーシャルに代表される新古典派経済学では「経済は政治から独立した活動」である。
「経済が政治を規定するものである」と考える学説に、カール・マルクスに端を発するマルクス経済学・マルクス主義がある。
一方で反対にジョン・メイナード・ケインズによるケインズ経済学では「市場経済には政治的な統制を要する」と強調する。
加えて、政治経済学では経済と政治の相互作用の中で政策が形成されると捉える。
政治の機能を安全保障や治安維持などに限定する「自由主義国家論(夜警国家)」(あるいは小さな政府)に対し、政治が福祉に注目する「福祉国家論」(あるいは大きな政府)が登場したのは比較的最近のことである。
国家が国民の生活水準を保証するための近代的な社会保障制度を構築し始めたのは現代に入ってからである。
失業や傷病等による就労不能等により所得を喪失した場合に現金給付を受ける「所得保障」、医療サービスの機会を確保する「医療保障」、高齢者や一人親家庭(母子家庭・父子家庭)、障害者等に対する一定のサービス提供を保障する「社会福祉」のサービスという3種類に福祉政策の機能は分類できる。
ウィーレンスキーは、64ヵ国の福祉国家の国民総生産(GNP)に対する福祉支出の割合を調査して福祉国家の度合いを比較したが、その度合いはその国の政策やイデオロギーとは関係なく、経済の発展水準によることを論じた。経済水準の向上は少子高齢化をもたらし、福祉の必要性を増大させると政府は福祉政策を徐々に充実させていくからだと考えられる。しかしこれは政治的要因が考慮されていないことや、福祉支出の対国民総生産(GNP)比だけが問題となっていることなどが批判され、キャッスルズがより研究を精緻化し、政府の財政規模が大きいほど所得再配分(富の再分配)が頻繁に実施される一般傾向を示した。 | [
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"text": "政治(せいじ)とは、主権者が領土・人民を統治すること。また、対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を実現する作用である。",
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"text": "西洋における政治の語源はポリスである。ポリスはしばしば政治的共同体(ポリティーケ・コイノーニア)とも呼ばれ、あくまで平等な市民間の関係を指した。しかしこの「政治」の含意はやがて曖昧となり、今日では主に集団、特に国家や国家間の権力配分やそれをめぐる争い一般を指すものとして理解される事が多い。",
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"text": "広辞苑では「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力・政策・支配・自治にかかわる現象。」とする。",
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"text": "大辞泉では「1. 主権者が、領土・人民を治めること。2. ある社会の対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を行い、これを実現する作用。」とした。",
"title": "定義"
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"text": "古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、政治を研究する政治学を《善い社会》の実現を試みるためのマスターサイエンスであると位置づけた。",
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"text": "政治哲学者のハンナ・アーレントは『人間の条件』の中で、政治を自己とは異なる他者に対して言語を使って働きかけ、結合する行為であると捉えた。",
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"text": "政治学者のロバート・ダール(1915年 - 2014年)は、社会における権力現象全般を政治ととらえる立場をとり、政治というのは権力・ルール・権威を含むような関係全般、と定義できるとした。",
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"text": "Andrew Heywoodは2002年の書籍で、「人々が生きるうえでの一般的なルールを作り、保存し、改定する活動」(The activity through which people make, preserve and amend the general rules under which they live.)とした。",
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"text": "狭義の政治は、国あるいはその他の自治体での法や政策についての意思決定、社会問題の解決・最小化、対立や利害の調整、外国との関係の処理、公的財産の処理などを政府や政党、政治家などの職業的・公的に行う場合をいう。広義の政治は、あらゆる対人関係で起こる目標の選択、目標達成方法の決定、そしてそれらの実施あるいは実行の全過程をいう。例として、学校の生徒会活動やサークルなどでの意思決定も、広い意味での「政治」ということができる。",
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"text": "民主政国家の場合は、署名運動、請願や討論、デモ活動によって、国民が政治活動を行うことがあり、国民による公的な選挙によって選出された、職業として政治活動を行う者を「政治家」という。政治活動家とは区別される。",
"title": "定義"
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"text": "政治のより具体的な構成について観察すると、政治はどのように社会に働きかけているのかという客観的な問題と、政治はどのように社会に働きかけるべきかという規範的な問題に大別することができる。しかし現実の政治ではこの二種類の問題は混合した形で現れるものであり、これは後述するように政治の本性が何であるかという議論で表現されている。客観的な観点に立てば、政治は社会に対して秩序を与えており、またその動態を制御するための制度が考案されている。領土と国民を主権の下で統治するという国家の制度や、国家を組織運営する立法府、行政府そして司法府という政府組織、そして統治者を選出するための民主主義の原則に基づいた代議制など、数多くの政治的制度が存在する。さらに政治的作用は制度の体系だけではなく、経済や文化の状況や、企業や圧力団体などの主体に動態的に影響している。市民運動やマスコミの活動は政治的な相互作用を生み出している。",
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"text": "次に政治の規範的問題に移れば、多種多様な政治イデオロギーがこの問題に応答している。政治イデオロギーとは後述するようにさまざまな問題に対する政治的態度を指導する観念の体系であり、代表的なものに自由主義や保守主義、社会主義などがある。また個別的な問題に対するフェミニズムや環境保護主義があり、さらに宗教原理主義までをも含めればさらに政治的態度の種類は多様なものだと認められる。これらの思想や態度が主要な論点としている規範の問題は人間本性や社会の自然なあり方、そして自由や平等、さらには幸福や正義などの理念を踏まえた上での統治者の権力、被治者の権利などに及んでいる。こうした議論が現実の政治秩序を理論的に基礎付けており、憲法、外交、選挙、基本的人権、市場、社会福祉、義務教育、国防などの在り方を示している。",
"title": "概要"
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"text": "本項目では読者の政治における全般的な理解を助けるために、政治学的な主題を広く扱っている。したがって、いくつかの重要な主題を取り上げ、その詳細についてはそれぞれの項目を参照されたい。そこで第1章では政治の根本的な概念を基礎付ける政治の本性や権力、道徳の原理について概説し、次に主要な政治イデオロギーとして自由主義、保守主義、そして社会主義を取り上げる。また政治体制の観点からは権威主義、全体主義、権威主義の特性などを検討し、政治の場として機能している国家や国際政治の在り方も素描する。そして政治過程を構成する政党や市民、団体などの政治的相互作用に着目し、統治機構についても立法府や行政府などを論じる。最後に政治の出力である政策領域について概括する。ここで詳細に取り上げることができない各国の政治情勢や政治史については各国の政治の諸項目を、政治を研究する政治学の方法や概念については政治学を参照されたい。",
"title": "概要"
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"text": "権力とは一般に他者に対してその意志に反してでも従わせることのできる能力と一般的な定義が与えられている。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは「抵抗に逆らってでも自己意思を貫徹するあらゆる機会」と捉えている。権力に対する認識については権力が生じる資源の実体性から把握する方法と、権力が生じる他者との関係性から把握する方法がある。フィレンツェの政治思想家ニッコロ・マキアヴェッリは政治権力は軍事力という暴力装置によって裏付けられなければならないと考えており、これは権力資源の実体性から権力を把握するものである。またアメリカの政治学者ロバート・ダールは『誰が統治するのか?』の中で権力を「他からの働きかけがなければBがしないであろうことを、AがBに行わせることが可能なとき、AはBに対して権力を持つ」という他者との関係において定式化している。そして権力は集団において意思決定することで行使されると考えた。この権力の本質をめぐる議論から分かるように、権力の概念とは論争的なものであり、権力は権威や暴力などの概念との関係の観点からも議論される。",
"title": "政治の原理"
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"text": "フランスの哲学者ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』は権力の概念をめぐる議論で新しい観点を提示した。フーコーの権力理論によれば、近代の刑罰について研究することで知識と権力の密接な関係を「権力と知とは相互に直接含みあう」と指摘している。つまり権力は知識が協同することで初めて人間の行動を支配することが可能となるものであり、科学的な知識であっても権力と無関係に独自に存在するものではないと論じた。権力の概念に対する見解についていくつか概観したが、いずれも政治の根本的な構成要素として権力を位置づけている。なぜなら、政治においてそれぞれの主体は権力を活用することによって目的を達成することが可能となるためである。",
"title": "政治の原理"
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"text": "権力の機能には他者の積極的な服従と消極的な服従の両方が含まれる。他者の積極的な服従を獲得する能力は厳密に言えば権力と区別して権威と呼ばれる。アメリカの心理学者スタンレー・ミルグラムが実施したミルグラム実験が示すところによれば、教授の命令に対して多くの被験者は自己に責任が及ばないために、他者に対して継続的に電気ショックで危害を加えることが確認できる。このような権威者に対する他者の服従は人間の心理だけでなく、合理性の観点からも理解することができる。イギリスの政治思想家トマス・ホッブズやジョン・ロックの政治思想によれば、権威者がおらず各人が自分の判断で勝手に行動している自然状態において、各人は自己の生命と財産を守るという合理的な理由に基づいて政府組織を構築したと論じている。これは権威者に対して人々が服従することによって安定した秩序がもたらされると考えることができる。ウェーバーは『支配の社会学』において権力が受容される理由を心理的要因や合理的要因とは異なる観点から捉えており、正当性の概念で説明している。つまり人間が権力の働きである支配を受容するさまざまな理由は伝統的正当性、合法的正当性、そしてカリスマ的正当性の三種類に大別することが可能であると論じた。いずれかの正当性を備えているならば、それは支配される人々にとっては服従しうるものとなる。一方で権力は消極的な服従を強制的に獲得する機能も持つことに着目することができる。ドイツの政治思想家カール・マルクスや革命家ウラジミール・レーニンは権力を国家権力に限定して捉え、それが支配階級であるブルジョワジーによって運営されるプロレタリアートに対する暴力的な強制装置であると考えた。このマルクス主義的な権力理論によれば、国家に支配される国民は抑圧されていると考えられる。",
"title": "政治の原理"
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"text": "政治において正義とは適切な均衡が存在する状態を言う。この基本的な正義の概念を理解する上で古代ギリシアの哲学者プラトンの議論が参考になる。プラトンは『国家』において正義は個人においては理性、意志、情欲の三つが精神的に調和している状態であり、国家においては政治家の知恵と軍人の勇気、そして庶民の節制の精神が調和している状態を指すものと論じた。しかし均衡をどのように実現するかについてより具体的に考えるならば、分配の問題に取り組む必要がある。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で正義を道徳的に正当な利害の配分と捉え、もしこの配分が正当な均衡を失えば、それは不正な状態であるために是正しなければならないと論じた。",
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"text": "アリストテレスの正義の定式は現代に発展されている。哲学者ジョン・ロールズは『正義論』において共通善を自由と考え、恵まれない人々のために恵まれる人々の自由を制限することで、平等に自由に必要な基本財を分配する正義の理論を展開している。したがって恵まれない人々の基本的な自由を、恵まれた人々が負担することで社会の不正は是正されると論じた。この見解には反論がある。哲学者ロバート・ノージックは自己の自由を最大化するためにある程度の自由を制約しながら社会を形成するのであり、もし恵まれた人々の財産を他の人々のために制限するならば、それは不当な自由の侵害であると指摘した。これらの議論は社会において正義の基準が複合的に存在することを浮き彫りにしている。そこで哲学者マイケル・ウォルツァーは社会の多元性を踏まえた複合的平等を主張しており、またシュクラールが不正義によって被害を受けた人々の意見に注意することを提唱している。",
"title": "政治の原理"
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"text": "正義論での諸々の立場は倫理学では徳倫理学、功利主義、そして義務論に系統化することができる。徳倫理学はプラトンやアリストテレスに代表される立場であり、いかに善い状態になるのかを主眼に置いている。また功利主義はジェレミ・ベンサムやジョン・スチュアート・ミルに代表される説であり、「最大多数の最大幸福」という言葉でしばしば要約されるように社会万人の利益になる行為を正当化する。そして義務論はイマヌエル・カントに代表される理論であり、理性を以って義務を確立し、それを実施することを正当化する。これらの道徳理論は政治理論や政治イデオロギー、公共政策を正当化している。",
"title": "政治の原理"
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"text": "イーストンは『政治分析の基礎』において政治システム論を展開している。政治を一つのシステムとして捉え、環境からもたらされる入力を変換して社会に価値を権威的に配分し、出力するものというモデルを構築した。政治システムは入力の過程から始まり出力の過程で終る。この入力とは環境からの要求や指示であり、出力とは社会を公的に制御することに関する制作活動である。出力を終えるとフィードバックが始まる。出力された結果は社会に影響を与えてまた新たな支持や要求などの入力過程をもたらす。このフィードバックの循環をフィードバック・ループと言う。",
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"text": "政治システムはアーモンドにより発展させられる。アーモンドは入力機能を政治的社会化と補充、政治的コミュニケーション、利益表出、利益集約があり、出力機能にはルールの作成である立法、ルールの適用である行政、ルールの裁定である司法の三つの機能があるとする。政治システム入力機能である政治的コミュニケーションはマスメディア、利益表出機能は利益団体、利益集約機能は政党が機能を果たしている。",
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"text": "国家は原則的には一定の限定された領域における統治機構を指すものとして理解できる。政治史において国家はさまざまな形態をとってきたが、政治学において国家は近代の西欧で成立した国民国家を想定している。国家の要件としては、限られた国境線で区分された領域性を持つ領土、領土内で秩序を構築する法律を制定してこれを維持する排他性を持つ主権、そしてそこに居住する住民の言語的、文化的な統合性を持つ国民の三要素が挙げられる。これは国際法において国家の承認を行う際の要件でもある。またジャン・ボダンの『国家論六編』によれば主権には立法権だけでなく、司法権や官職任命権、宣戦布告権や講和権、課税権や貨幣鋳造権などを含む唯一にして不可分の絶対的な権力であると論じられている。",
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"text": "国家論の展開においては小さな政府と大きな政府の議論が重要であった。小さい政府は18世紀にアダム・スミスの経済的な自由主義に始まる「神の見えざる手」の思想が基礎にある。つまり政府は経済活動に介入することなく治安維持と国防だけを行うべきとする議論であり、ラッサールには夜警国家とも呼ばれた。しかし普通選挙制が採用されると市民の政治的な自由が容認され、自由放任の風潮は薄れた。そして格差拡大や貧困の深刻化により政府の役割は社会への介入が増大していき、福祉国家として発展していった。",
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"text": "また近代国家では権力の極端な一元化を避けるための権力の分散の必要性も述べられた。法を制定する立法権、法を適用して判決を下す司法権、そしてそれを除いた国家作用の全てを包括する行政権の三つを分離させて均衡させることをモンテスキューが『法の精神』で論じられた。これが三権分立である。19世紀までの国家は三権の中でも立法権を有する立法府が行政府や司法府に優越する立法国家であったが、20世紀以後には社会福祉政策の充実化が進んで行政府の権限が強化されたために行政国家と呼ばれる。",
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"text": "政府は国家において安定的な支配を維持するための体制である。政治過程においても構造的な影響を与えるものであり、基本的な政治分析の際にも政治体制は注目される。君主制、貴族制、共和制、民主制、独裁制などさまざまな政府形態が歴史上採用されてきた。アリストテレスは統治者の数とその統治の受益者という二つの観点から分類法を考案した。また別の区分として民主主義体制・権威主義体制・全体主義体制の三分類がある。また制度は可変的なものであり、政権交代や指導者の交代のような政府変動や、支配集団全体の交代をもたらす体制変動は権威主義から民主主義へなどのように基本的な体制の変動を伴う。",
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"text": "民主主義 (Democracy) は国民の政治参加と自由な活動に価値をおく政治体制であり、社会における多様な利害関係や価値観の対立を政治の場で解決することを重視する。独裁制と対比されることもあり、現代では世界的に重要視されている政治理念でもある。国民が直接的に政治に参加する直接民主制と代議員を国民から選出して政治に間接的に参加する間接民主制がある。民主主義の下では政党制、選挙制度また投票行動などが政治過程に影響するようになる。",
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"text": "ロバート・ダールのポリアーキー論は政治体制の分析において、自由な政府批判を容認する公的異議申し立ての度合いと政治関与可能な国民の割合に注目し、両者を兼ね備えているものがポリアーキーと読んだ。ただしこのような伝統的な民主主義は同質的な国民においてのみ成立するものであり、国民の間に同質性がなければ合意は形成できないとしていた。しかしレイプハルトは多極共存型民主主義の理論を展開してそれに反論した。すなわち民族的な同質性は必ずしも必要なものではなく、大連合の形成、相互拒否権の確保、比例性原理、少数派の自立性に基づいた多極共存型民主主義であれば政治秩序を安定させることは可能であると論じた。",
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"text": "世界の政治体制には政治秩序だけではなく全体主義と呼ばれる体制を保持している国もある。全体主義とは個人に対する社会の優越を基礎としてあらゆる思想、生活、社会活動などを統制しようとする政治体制である。これはかつての専制政治とはあらゆる観点から異なったものであった。20世紀における近代技術に基づいた大衆社会の操作性に起因するものである。単一の政治勢力が、社会の価値観や生活様式、政治的な言論を含めた社会全体を再構築し、個人を監視して時には拘束した。ドイツのナチズムやイタリアのファシズム、日本の軍国主義やソビエトのスターリニズムなどが歴史的な事例として挙げることができる。",
"title": "政治システム"
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"text": "カール・J・フリードリッヒやツビグニュー・ブレジンスキーは全体主義の特徴を挙げており、まず人間生活の全てを包括する教義となる包括的なイデオロギー、そして社会の再構築を行う単一の政治勢力、大衆の忠誠を獲得して反逆者を処分するための秘密警察すなわち組織的脅迫、さらにイデオロギーを宣伝するためのマスコミの独占、反乱を封じ込めるための武器独占、管理が容易で利益を独占できる統制経済、以上の六つである。全体主義にはソヴィエト連邦のイメージが強いために左翼的、またはマルクス主義的な政治体制と考えられている場合があるが、右翼的な全体主義も十分に考えられる。ただし右翼的な全体主義はドイツのナチズムのように、革命的なイデオロギーよりもむしろナショナリズムに依拠し、国家の偉大さや栄光を強調した全体主義社会を構築しようとする。",
"title": "政治システム"
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"text": "権威主義と呼ばれる体制も民主主義の対極にある政治体制として論じられるが、全体主義と混用される場合も多い。権威主義は全体主義のように大衆を統制したり教育したりすることは意図しない。だが権威主義の政治体制においては上層部を占める少数の政治勢力によって大衆の政治参加は最低限に抑制される。リンスによって20世紀のフランコ政権のスペイン政治体制を説明するために提唱された概念であり、形式的で無力な議会制と抑圧的で威圧的な官僚制を特徴とする。全体主義のカリスマ性やイデオロギー性はほとんど認められず、同じものではない。国連大使であったジーン・J・カークパトリックは権威主義と全体主義の違いを強調し、全体主義は一度成立すると自己改革の可能性はないが、権威主義ではそうとは限らないと述べている。",
"title": "政治システム"
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"text": "発展途上国の多くは民主主義でも全体主義でもない選択肢として、一党支配という権威主義を経験しているが、結果は芳しくない。ジンバブエの政治体制は1980年に二党制で発足したものの、与党のロバート・ムガベが社会主義を主張し、部族の軍事力を以って敵対勢力を打ち倒し、一党制を成立させる。しかし新しい法規制や税制はことごとく失敗に終わり、また批判すらをも封じ込め、貧困をより深刻化させた。1974年からそれまで権威主義や全体主義を採用していた各国が民主化の傾向に進み始め、チリ、韓国、台湾などは市場の自由化とともに民主化を推進することができた。",
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"text": "市民社会 (Civil Society) とは政治において政府の対概念であり、政治に参加する国民の構成員から成る公共的な領域を言う。古代ギリシアのポリスにおける民主主義に起源を見ることが出来るが、近代においては市民革命以後に発生したものとされる。政治的無関心や無責任を示すような政治社会の場合には大衆社会と呼んで区別する場合もある。",
"title": "政治システム"
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"text": "市民社会の概念は社会の機能をどこまで含むものとして捉えるべきかで見解が分かれる。ウォルツァーは市民社会を「非強制的な人間の結社の空間」と捉えて家族や宗教、イデオロギーのために形成されるとしたが、これは市民社会を非常に幅広い社会機能の集合として捉えており、市場をも含みうるものとしている。しかしハーバーマスやキーンらは市民社会をあくまで国家権力や市場経済からは独立した人々の活動を基盤とする公的領域として理解する。",
"title": "政治システム"
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"text": "国際政治 (International politics) は国内政治と根本的に異なる性質を持っている。政治は国家の内部での事象であったが、国際政治は国家の関係の中で発生するからである。国内政治を観察する場合は国家には主権があり、領域においてその主権は絶対的なものである。しかしながら実際には理論どおりではない。国家の主権が有効である領域においても、例えば外国の軍事力により占領された場合には、もはやその地域の主権の実際の有効性は失われる。その意味で主権は国際政治においては多数が並存する相対的なものとして捉えることができる。世界政府というものは存在しないために主権国家同士は国内政治とはまた異なる種類の権謀術数を行うために、国内政治には見られない同盟や貿易、戦争などの現象も見られる。",
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"text": "国際政治には現実主義と理想主義という二つの学派が存在する。国際政治における現実主義とはマキアヴェリが提起し、E・H・カーやハンス・モーゲンソウにより発展させられた権力政治に基づいた勢力均衡の政治理論と実践を意味する。現実主義によれば国際秩序の安定性は各国の勢力が均衡状態になった場合に生まれるものであり、この権力関係が崩れれば戦争や紛争が勃発するものと考える。",
"title": "政治システム"
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"text": "また国際政治の主要な学派である理想主義は国際政治を道徳的な価値観または国際法の観点から見なす理論と実践である。トマス・アクィナスはキリスト教神学に基づいて正戦の本質を議論し、国際秩序において自然法が存在すると論じた。そしてヴェゲティウスは主権国家を規律する国際法を体系化し、近代的な国際法の確立に寄与した。イマニュエル・カントも戦争を回避するために道徳と理性を結合して人類は普遍的かつ恒久的な平和を目指すものと捉えている。",
"title": "政治システム"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "政治を人間社会の集合的な意思決定と捉えた場合に、その社会の正義がどのように設定され、どのように達成されようとするのかは非常に重要な問題になってくる。この問題と密接に関わるのがイデオロギー(Ideologie)である。これは国家や階級などの一定の社会集団が保有する政治的な観念である。これは価値体系とも呼ばれ、ある主体の政治的な立場の思想的、理論的な基盤ともなっている。イデオロギーは元々はフランス革命の時代においてデスチュット・ド・トラシーにより『観念学要綱』で用いられた「観念の起源を決定する科学」を意味する概念であった。ダールによれば支配者に正当性を与え、またその政治的影響力を権威に転換させるものである。時代や政治的立場によっては政治的な教義として用いられる一方で、ナポレオンがトラシーを批判して空論家「イデオローグ」と呼んだように、妄想や不毛な思想として蔑視される場合もあった。",
"title": "政治イデオロギー"
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"text": "イデオロギーはいくつかに分類できる。その最も代表的なものとして挙げられるのが保守主義と進歩主義である。この二分法は革命後のフランス国民公会で保守的な王党派が右側の議席に、革新的なジャコバン党が左側の議席に座っていたことから右と左とも呼ばれる。このようなイデオロギーは政治勢力の分裂と対立をもたらしうる重要な要素であり、冷戦期においては資本主義と共産主義のイデオロギーを巡る思想の争いが国際政治に影響した。",
"title": "政治イデオロギー"
},
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"text": "イデオロギーを社会の中でどのように位置づけるのかについてマルクスとエンゲルスは支配階級と被支配階級を前提として、支配階級が自らの支配の正当化を行うための道具だと説明した。これはイデオロギーが空論とする考え方に基づいており、マルクス自身の思想はイデオロギーとは認めなかった。これをカール・マンハイムは批判した。マンハイムは一切の知識は時代的な文脈により制約されているという議論を、知識の存在被拘束性という概念で説明した。さらにアイゼンクはイデオロギーを段階的に発展するものとして捉え、評価の段階である意見、準拠の段階である態度を経て信念の段階であるアイデオロジー(Ideology)が発生するとされる。しかしイデオロギーの終焉を論じる学説もあり、レイモン・アロンは20世紀において経済発展がイデオロギー的な対立を緩和するように働いていることを指摘し、ダニエル・ベルは『イデオロギーの終焉』を著してイデオロギーが知識人の支持を近年失いつつあることを論じた。",
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"text": "民主主義は、封建的な王侯貴族ではなく、税金を払う市民を中心に政治を行うことを主張する政治思想である。個人の権利は、その個人が積極的に政治に参加することによって実現するものであるという。イェーリングは「権利のための闘争」で民主主義の義務と権利について整理している。",
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"paragraph_id": 40,
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"text": "自由主義は個人の権利を保護し、選択の自由を最大化することを主張する政治思想である。経済学者アダム・スミスは政府の市場に対する干渉が経済成長を妨げる危険性を指摘した。なぜなら特定の組織が市場を独占すれば、価格の競争や商品開発の動機が失われてしまうためである。つまり経済の自由放任を維持することで市場は自らの調整能力を発揮することが可能となる。この経済学的な見解は、社会が政府から可能な限り自由であるべきという古典的自由主義のイデオロギーとして確立された。しかし古典的自由主義が前提と見なしたほど市場の調整機能は完全ではないことが明らかになると自由主義の理論は近代的自由主義のイデオロギーへと発展する。トマス・ヒル・グリーンは政府による社会への干渉を問題にするのではなく、政府が社会の自由を保障することを問題とした。つまり消極的な政府からの自由を目標とするのではなく、積極的自由を実現するために政府の干渉を正当化した。",
"title": "政治イデオロギー"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "保守主義は原則として急進的な革新を否定し、既に確立された社会の秩序を保持することを主張する政治思想である。保守主義はエドマンド・バークの政治思想に由来している。バークの主張はフランス革命での急進的な自由主義の勢力が社会が展開してきた政治の伝統や道徳の基準を破壊することに対して批判的であった。バークは現存する伝統は歴史的な試行錯誤の結果であり、全てが悪いわけではないと考えていた。もし政治制度を改革するならば、革命という手段ではなく、時間をかけて段階的に調整するべきであると論じている。",
"title": "政治イデオロギー"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "社会主義は一般的に生産手段を社会的に管理することを主張する政治思想である。自由主義に対する批判としてカール・マルクスは独自の政治理論を発展させた。マルクスは経済学的研究を通じ、資本家の下で労働者は価値を生産するが、その価値の一部だけが賃金として支払われており、余剰価値は資本に奪われる資本の法則を明らかにした。つまり労働者は自らの労働に見合った賃金がないために市場の商品を購入することができない不公平が生じる。レーニンのような急進的な社会主義者はこの不平等を是正するために政治秩序の変革を強いる革命を主張する。一方でベルンシュタインのような穏健な社会主義者は修正主義とも呼ばれ、労働者の生活状況を改善する福祉国家の確立を主張した。",
"title": "政治イデオロギー"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "権力による支配に反対する政治思想である。従って、無政府主義者は国家を廃止して市民自らが築き上げる平等な社会を目指している。",
"title": "政治イデオロギー"
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{
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"tag": "p",
"text": "女性解放を目指す政治思想であり、あらゆる男女差別の撤廃を目指す(もしくは男性よりも女性を優位にする可能性すらある)。例えば、女性の政治参加の推進であったり、労働環境の改善やハラスメントの反対なども該当する。#MeToo運動なども同様である。19世紀に始まる女性の社会進出を後押ししてきた政治思想である。",
"title": "政治イデオロギー"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "政治過程とは政策の決定を巡る各集団の利益の対立や合意の形成などの政治的な過程を言う。アーサー・F・ベントリーが1908年に『統治過程論』で従来の制度論的な政治学を「死せる政治学」と読んで批判し、より動態的な現象として政治を分析することを論じたことに始まる。例えば利益団体の活動は制度的な規定を受けていないにもかかわらず、現実には政治的な影響力を行使している。政治過程論はこのような実態に着目して政治に対する入力や出力を明らかにしようとする。",
"title": "政治的相互作用"
},
{
"paragraph_id": 46,
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"text": "政治システムは比較政治学に分析の基盤となるモデルを提供したが、そのことによって政治システムにとっての外部環境が政治システムに相違をもたらすことが考えられる。これが政治文化である。アーモンドとヴァーヴァによって著された『現代市民の政治文化』では一般の文化には政治的側面があり、それらの集合体が政治文化として政治に影響していると論じた。そしてアメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、メキシコの調査から構成員の認知や評価の志向から未分化型政治文化、臣民型政治文化、参加者型政治文化に類型化された。ただしすべてがこの類型に従うわけでもなく、アーモンド自身がイギリスのような臣民型と参加者型が複合された政治文化があることも重視し、これを市民文化として評価した。",
"title": "政治的相互作用"
},
{
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"text": "政党とは政治的な理念や目的を共有し、それを達成するために活動する団体を指す。政党は基本的には私的結社であるが、議会に参加する意味で公的主体でもあり、多くの国が政党の活動に助成金を出している。政党にはさまざまな政治的な機能がある。個別的で多様な国民の意志をまとめあげて議会に媒介する利益集約機能は最も代表的なそれである。さらに政治的指導者の選出機能、意思決定の組織化機能、市民を政治的に関与させる機能、政権担当および批判機能の機能などもあり、民主主義体制においてはこのような政党が十分に機能することを想定している。",
"title": "政治的相互作用"
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"paragraph_id": 48,
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"text": "政党の分類についてはウェーバーが『商業としての政治』で論じている。ウェーバーは政党が貴族主義的政党から大衆政党に発展していくと論じた。これは政党を目的から区分したものであり、イギリスの政治史とも合致する。またデュヴェルジェは少数の有力者の下に緩やかに組織されている政党である幹部政党と共産党を典型として一般の有権者を基盤として厳格に組織された大衆組織政党という分類を述べている。政治的な思想傾向を反映して保守政党、中道政党、革新政党、包括政党という類型もしばしば用いられる。",
"title": "政治的相互作用"
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{
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"text": "政党が社会において存在している形態を政党制と呼ぶ。デュヴェルジェは一党制、二党制、多党制に三分した。そして『政党社会学』で政党が歴史や社会構造、宗教教義、人種、民族対立などに起因するものである一方、政党制は選挙制度と深い関係があることを論じている。またサルトーリは『現代政党学』で非競合的なものと競合的なものを提示した。そしてそれまで二大政党制は安定的な政党制をもたらすと考えられていたが、サルトーリは二大政党制は例外的な政党制であると論じ、穏健な多党制も推奨することで「二大政党制の神話」を否定した。",
"title": "政治的相互作用"
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{
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"text": "政治意識は政治への関心、態度、行動の様式を示す概念であり、政治的社会化によって獲得する。この政治意識は普通選挙の導入による政治参加の拡大を通じて人民の意識が注目されることとなった。特にこの非合理性というものについてウォーラスが論じており、人間が常に合理的に行動するという主知主義の立場を批判し、非合理的な側面、例えば愛情、恐怖、憎悪、疑惑、忠誠などの感情、が重要な役割を果たすことを指摘した。したがって民主主義は常に非合理性により自滅する危険性を持ち、このような政治意識は大衆操作に利用することも可能である。政治教育によって政治意識を合理化する必要性もウォーラスは述べている。",
"title": "政治的相互作用"
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{
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"text": "マスメディアは政治社会において人々を政治参加や政治活動に向かわせる。マスメディアは市民社会において議論された公共的な意見である世論を反映し、政府が行う政策を社会に紹介する、媒介者としての役割を担っている。マスメディアの機能は大きく分けて環境の監視、社会部分相互の関連付け、社会的遺産の世代間伝達の三つであるとラスウェルは論じている。マスメディアの問題はさまざまであるが、まず商業主義の弊害が指摘される。マスメディアは中立的な立場を保持しようとしても、企業体である限りは不利益な情報を報道できない場合がある。さらにマスメディアの発達によって政治社会に印象が実体に先行する場合が生まれ、政治的能力と無関係な基準で選挙で選出される政治状況も見られるようになっている。",
"title": "政治的相互作用"
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{
"paragraph_id": 52,
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"text": "圧力団体とはキーによれば公共政策に影響力を及ぼすための私的な団体である。具体的には、業界団体、労働組合、消費者団体、宗教団体、環境保護団体、女性団体などである。圧力団体は利益集団や利益団体と区別される。利益集団とは単に政治に関心を持つあらゆる集団を指し、利益団体は職業的な利益に基づいて組織化された集団であり、圧力団体は利益集団がさらに自己の利益を維持、増大させるための圧力を備えた集団である。",
"title": "政治的相互作用"
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"text": "圧力団体の機能には利益表出、代表性の補完、政治のフィードバック、情報提供、政治教育などがあるが、圧力はエリートに限定された手段であり、また一部の利益が過剰に政治に影響を与えるなどの逆機能を併せ持つ。ローウィは『自由主義の終焉』においてアメリカ政治において圧力団体が野放しにされている状況を非難しており、これを利益集団自由主義と称した。アメリカでは圧力団体は議員、官僚との密接な関係を作り上げ、この関係は「鉄の三角形」とも呼ばれ、業界団体、族議員、官僚が特定の権益のために政治に影響を及ぼす強い政策ネットワークが構築されていた。",
"title": "政治的相互作用"
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{
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"text": "利益集団は多元主義の考えでは競争関係にある。多元主義とは政治を国家の外側に存在する世論や圧力団体などから説明する考えである。利益集団間の協調によって社会秩序が形成されるという考え方があり、これはネオ・コーポラティズムと言う。つまり政策決定の際に主要な利益集団と官僚が協議することにより遂行されている政治状況であり、オーストリアやスウェーデンが具体例として挙げられる。コーポラティズムとは団体協調主義とも言われ、職能別の代表が政治に参加することで政治的な調和を生み出そうとする思想である。ネオ・コーポラティズムは各分野において一元化された全国組織が存在していることが必要となる。これは政府機関との協議を行う慣行を形成するために不可欠な要件である。",
"title": "政治的相互作用"
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{
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"text": "立法府は政治制度において特に重要な立法権を掌握している政治機関であり、基本的には法案を審議して制定することができる権限を持つ。また憲法改定の提案、条約の批准などの権限を持つ場合もあり、他の政府機関に対して優越的な地位にある。議院内閣制を採用している場合では立法府は行政府に対して直接的な影響力を保有している。",
"title": "統治機構"
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{
"paragraph_id": 56,
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"text": "立法府は複数の国民の代表が出席した議会で審議を行うことで成り立っている。議員はエドマンド・バークは18世紀にブリストル演説で国民全体の代表と定めており、単なる選出母体の指示に従って行動する委任代理ではないことを明示した。選挙により選出される議員は提出される法案について審議を行い、多数決の原理に従って制定する。この多数決原理は多数派と少数派との間で妥協のと譲歩の可能性が吟味され、十分に建設的な議論に基づいて行われなければならないとされている。",
"title": "統治機構"
},
{
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"text": "しかしながら現実の政治ではしばしば政治問題の専門化と複雑化に対する議会の無能力、緊急的な政治問題に対する立法過程の遅滞などの問題が指摘されている。",
"title": "統治機構"
},
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"text": "行政府は立法と司法の機能以外の国家作用を行う政治機関である。各国によって微妙に異なるが、行政府の長である大統領または首相は国家の代表として一般的に認識され、外交権、統帥権、任命権、立法権など、国家の最高指導者として非常に総合的な権限を持っている。",
"title": "統治機構"
},
{
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"text": "行政府の具体的な制度は国によって一様ではない。例えば大統領制と議院内閣制がある。大統領制は独自に選挙を経て大統領を選出する。この過程において議会が直接的に選出に介入することはできない。一方で議院内閣制では議員の中から行政府の長となる人物を選出し、また場合によっては不信任決議によって首相を罷免することにより影響力を行使することが可能である。ただし議院内閣制はイギリスのサッチャー首相のように議会に強い基盤を持っていれば大統領よりも強い権力を発揮することが可能である。",
"title": "統治機構"
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{
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"text": "またフランスやドイツでは首相と大統領両方が存在するが、これらの国では大統領は名目的な地位に過ぎないことが多い。従って大統領制においては行政府が立法府から独立しており、議院内閣制の下で選出された首相は議会に対して責任を持っている。また別の制度として半大統領制・議院内閣制・議会統治制・首相公選制などもある。",
"title": "統治機構"
},
{
"paragraph_id": 61,
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"text": "司法府は立法により制定された法律を適用して裁定する政治機関であり、裁判所から構成される。法には法体系の基礎となる憲法を最高位として、犯罪行為を取り締まる刑法、賠償や商行為などについて定めている民法、政府機関の規則や命令を含む行政法、国家間で合意された条約などを含む国際法などがあり、また慣習法となっているものや成文法として確立されているものもある。国民に対して法を適用するだけではなく、三権分立が確立された国家において立法府にはおおむね立法に対する審査権が付与されている。例えばドイツの憲法裁判所は法律が憲法に違反するかどうかを審査する権限を持っている。",
"title": "統治機構"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ただし全ての司法府がそうであるとも限らない。アメリカでは最高裁判所に連邦法の違憲審査権について特別に規定されていない。またゲリイが「裁判官を政治家にする」と批判したように、違憲審査権を司法府に与えることも見送られている。しかし立法府の権限を規制するためには、また三権分立の思想を実現するためには、裁判所の権限が必要であった。ただし実際のほとんどの国の司法府には政治的な影響力が認められず、またそれが期待されていることも少ない。何故ならば、最も上位の裁判所である最高裁判所ですら審理される案件はごく一部であり、そもそも司法府の権限は立法府によって規定されている。裁判所の決定を実行するためには行政府の権力が必要となる。そして重要な着眼として、裁判官には「法の下の平等」という思想に基づいて常に公平であることが要求されているからであり、政治的な立場に偏りがあることは望ましくないとされる。",
"title": "統治機構"
},
{
"paragraph_id": 63,
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"text": "近代社会は複雑化が進んでいるために非常に多面的であるが、近代・現代の政治機構はほぼすべての領域において政策機能を発達させており、何らかの影響力を行使することができる。",
"title": "公共政策"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "安全保障は自らの価値を何らかの手段により脅威から守ることである。安全保障でまず問題となるのは国家の存続と独立、国民の生命、財産、つまり国防である。",
"title": "公共政策"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "これらは国家安全保障の上で最も基本的な国益として設定されるものであり、これを守るために軍隊が必要とされる。",
"title": "公共政策"
},
{
"paragraph_id": 66,
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"text": "国防は軍事力を「抑止力」として準備し、また戦争や紛争事態において実際に運用することで行われる。仮想敵国に自国の単独防衛だけで対処できないと思われる場合には同盟を形成して勢力均衡を図ろうとする。その勢力均衡の結果、核戦略が国防において重要な領域となっており、核抑止理論を基礎とした仮想敵国の制圧が目指される。",
"title": "公共政策"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "しかしこのような従来の安全保障では十分に平和を保持できず、また戦争が勃発した際に戦火が拡大する恐れがあったため、集団安全保障の体制が第一次世界大戦後~戦間期における国際連盟、第二次世界大戦後~現在における国際連合で追求された。集団安全保障は参加国が武力の不行使を相互に約束し、もしそれを破棄する参加国がいれば他の参加国がそれに対して制裁を実施することで秩序を回復するものであった。",
"title": "公共政策"
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{
"paragraph_id": 68,
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"text": "近年は安全保障の概念は広がりを見せており、「人間の安全保障」と呼ばれるように、エネルギー、食糧、人権などが安全保障の対象となり、経済的手段や外交的手段が安全保障において重要視されるようになっている。",
"title": "公共政策"
},
{
"paragraph_id": 69,
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"text": "政治にとって経済は規制を最小限にして市場経済の下に自由な取引を促進すべきものという資本主義の発想と、計画経済の下にある程度の管理に置いて必要な公共財を提供するという社会主義または共産主義の発想と、2種類のあり方が存在する。",
"title": "公共政策"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "これは経済を巡るイデオロギーと関連した論争であるが、現代の政治を観察すると現実の経済状況によって必要な産業復興支援や金融政策を打ち出している。",
"title": "公共政策"
},
{
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"tag": "p",
"text": "事実的な意味で経済が政治とどのように関わっているのかには4つの主要な考え方がある。",
"title": "公共政策"
},
{
"paragraph_id": 72,
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"text": "イギリスの経済学者アルフレッド・マーシャルに代表される新古典派経済学では「経済は政治から独立した活動」である。",
"title": "公共政策"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "「経済が政治を規定するものである」と考える学説に、カール・マルクスに端を発するマルクス経済学・マルクス主義がある。",
"title": "公共政策"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "一方で反対にジョン・メイナード・ケインズによるケインズ経済学では「市場経済には政治的な統制を要する」と強調する。",
"title": "公共政策"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "加えて、政治経済学では経済と政治の相互作用の中で政策が形成されると捉える。",
"title": "公共政策"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "政治の機能を安全保障や治安維持などに限定する「自由主義国家論(夜警国家)」(あるいは小さな政府)に対し、政治が福祉に注目する「福祉国家論」(あるいは大きな政府)が登場したのは比較的最近のことである。",
"title": "公共政策"
},
{
"paragraph_id": 77,
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"text": "国家が国民の生活水準を保証するための近代的な社会保障制度を構築し始めたのは現代に入ってからである。",
"title": "公共政策"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "失業や傷病等による就労不能等により所得を喪失した場合に現金給付を受ける「所得保障」、医療サービスの機会を確保する「医療保障」、高齢者や一人親家庭(母子家庭・父子家庭)、障害者等に対する一定のサービス提供を保障する「社会福祉」のサービスという3種類に福祉政策の機能は分類できる。",
"title": "公共政策"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "ウィーレンスキーは、64ヵ国の福祉国家の国民総生産(GNP)に対する福祉支出の割合を調査して福祉国家の度合いを比較したが、その度合いはその国の政策やイデオロギーとは関係なく、経済の発展水準によることを論じた。経済水準の向上は少子高齢化をもたらし、福祉の必要性を増大させると政府は福祉政策を徐々に充実させていくからだと考えられる。しかしこれは政治的要因が考慮されていないことや、福祉支出の対国民総生産(GNP)比だけが問題となっていることなどが批判され、キャッスルズがより研究を精緻化し、政府の財政規模が大きいほど所得再配分(富の再分配)が頻繁に実施される一般傾向を示した。",
"title": "公共政策"
}
] | 政治(せいじ)とは、主権者が領土・人民を統治すること。また、対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を実現する作用である。 西洋における政治の語源はポリスである。ポリスはしばしば政治的共同体(ポリティーケ・コイノーニア)とも呼ばれ、あくまで平等な市民間の関係を指した。しかしこの「政治」の含意はやがて曖昧となり、今日では主に集団、特に国家や国家間の権力配分やそれをめぐる争い一般を指すものとして理解される事が多い。 | {{混同|政始|政治家}}
{{脚注の不足|date=2020年8月}}{{告知|提案・議論・問題提起|冒頭部分について|date=2022年9月}}
'''政治'''(せいじ)とは、[[国家|共同体]]の意思決定機関である[[主権|主権体]]をもとに、共同体の[[領土]]や[[資源]]を管理し、それに属する[[人民|構成員]]間あるいは[[外国|他共同体]]との[[利害|利害関係]]を調整して社会全体を統合する行為、もしくは作用全般を指す言葉である<ref name="大辞泉2">[https://kotobank.jp/word/%E6%94%BF%E6%B2%BB-85844 政治 - コトバンク] デジタル大辞泉</ref>。
英語における政治(politics)の語源は[[古代ギリシア|古代ギリシャ]]の[[ポリス]]([[都市国家]])に由来する。ポリスは政治的共同体(ポリティーケ・コイノーニア)とも呼ばれ、[[君主制|王政]]を廃止した後に[[民主政]]・[[寡頭制|寡頭政]]・[[僭主|僭主政]]などと様々な[[政治体制]]へと切り替えて、[[立法]]などの手段を用いて[[市民]]間の利害を調節し、[[商業|商業活動]]や[[戦争]]などを通してポリス全体を発展させたことが今日において知られている。[[経済学]]の視点から政治の本質を'''[[再配分]]の過程'''と見なす考えもある。
== 定義 ==
[[広辞苑]]では「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。[[権力]]・[[政策]]・[[支配]]・[[自治]]にかかわる現象。」とする<ref name="koujien">新村出編、2018、『広辞苑 第七版』、岩波書店</ref>。
[[大辞泉]]では「1. [[主権]]者が、[[領土]]・[[人民]]を治めること。2. ある社会の対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を行い、これを実現する作用。」とした<ref name="大辞泉">大辞泉「政治」</ref>。
古代ギリシアの哲学者[[アリストテレス]]は、政治を研究する[[政治学]]を《善い社会》の実現を試みるためのマスターサイエンスであると位置づけた。
政治哲学者の[[ハンナ・アーレント]]は『[[人間の条件]]』の中で、政治を自己とは異なる他者に対して[[言語]]を使って働きかけ、結合する行為であると捉えた。
政治学者の[[ロバート・ダール]](1915年 - 2014年)は、社会における権力現象全般を政治ととらえる立場をとり、政治というのは権力・[[規則|ルール]]・[[権威]]を含むような関係全般、と定義できるとした<ref name="britanica">ブリタニカ百科事典「政治」</ref>。
[[:en:Andrew Heywood|Andrew Heywood]]は2002年の書籍で、「人々が生きるうえでの一般的なルールを作り、保存し、改定する活動」(The activity through which people make, preserve and amend the general rules under which they live.)とした<ref name="a">Andrew Heywood.(2002)''Politcs''(2nd ed.)(N.Y.: Palgrave Macmillan)</ref>。
=== 広義と狭義 ===
狭義の政治は、[[国]]あるいはその他の[[地方政府|自治体]]での[[法 (法学)|法]]や[[政策]]についての[[主権|意思決定]]、[[社会問題|社会問題の解決・最小化]]、対立や利害の調整、[[外交|外国との関係の処理]]、公的財産の処理などを[[政府]]や[[政党]]、[[政治家]]などの職業的・公的に行う場合をいう。広義の政治は、あらゆる対人関係で起こる目標の選択、目標達成方法の決定、そしてそれらの実施あるいは実行の全過程をいう<ref>{{Cite web|和書|title=政治とは |url=https://kotobank.jp/word/%E6%94%BF%E6%B2%BB-85844 |website=コトバンク |access-date=2022-10-10 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典 第2版,普及版 |last=字通,世界大百科事典内言及}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/intl/un/CBR_guide/cbr06_04.html |title=CBRガイドライン・エンパワメントコンポーネント |access-date=2022年10月10日}}</ref>。例として、学校の[[生徒会|生徒会活動]]や[[サークル]]などでの意思決定も、広い意味での「政治」ということができる<ref>{{Cite web|和書|title=NHK高校講座 {{!}} 公共 {{!}} 第4回 民主政治と私たち 民主政治と政治参加 (1) |url=https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/koukyou/archive/resume004.html |website=www.nhk.or.jp |access-date=2022-10-10}}</ref>。
=== 主体 ===
[[民主主義|民主政国家]]の場合は、[[署名運動]]、[[請願]]や[[討論]]、[[デモ活動]]によって、国民が政治活動を行うことがあり<ref>{{Cite web|和書|title=NHK高校講座 {{!}} 公共 {{!}} 第4回 民主政治と私たち 民主政治と政治参加 (1) |url=https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/koukyou/archive/resume004.html |website=www.nhk.or.jp |access-date=2022-10-10}}</ref>、国民による[[選挙|公的な選挙]]によって選出された、職業として政治活動を行う者を「[[政治家]]」という<ref>{{Cite web|和書|title=政治家とは |url=https://kotobank.jp/word/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6-85850 |website=コトバンク |access-date=2022-10-13 |language=ja |first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典 |last=第2版}}</ref>。[[政治活動家]]とは区別される。
== 概要 ==
政治のより具体的な構成について観察すると、政治はどのように社会に働きかけているのかという[[客観]]的な問題と、政治はどのように社会に働きかけるべきかという[[規範]]的な問題に大別することができる。しかし現実の政治ではこの二種類の問題は混合した形で現れるものであり、これは後述するように政治の本性が何であるかという議論で表現されている。客観的な観点に立てば、政治は社会に対して秩序を与えており、またその動態を制御するための制度が考案されている。[[領土]]と[[国民]]を[[主権]]の下で統治するという[[国家]]の制度や、国家を組織運営する[[立法府]]、[[行政府]]そして[[司法府]]という[[政府]]組織、そして統治者を選出するための[[民主主義]]の原則に基づいた[[代議制]]など、数多くの政治的制度が存在する。さらに政治的作用は制度の体系だけではなく、[[経済]]や[[文化_(代表的なトピック)|文化]]の状況や、[[企業]]や[[圧力団体]]などの主体に動態的に影響している。[[市民]]運動や[[報道機関|マスコミ]]の活動は政治的な相互作用を生み出している。
次に政治の規範的問題に移れば、多種多様な政治[[イデオロギー]]がこの問題に応答している。政治イデオロギーとは後述するようにさまざまな問題に対する政治的態度を指導する観念の体系であり、代表的なものに[[自由主義]]や[[保守]]主義、[[社会主義]]などがある。また個別的な問題に対する[[フェミニズム]]や[[環境保護]]主義があり、さらに宗教原理主義までをも含めればさらに政治的態度の種類は多様なものだと認められる。これらの思想や態度が主要な論点としている規範の問題は人間本性や社会の自然なあり方、そして[[自由]]や[[平等]]、さらには[[幸福]]や[[正義]]などの理念を踏まえた上での統治者の[[権力]]、被治者の[[権利]]などに及んでいる。こうした議論が現実の政治秩序を理論的に基礎付けており、[[憲法]]、[[外交]]、[[選挙]]、[[基本的人権]]、[[市場]]、[[社会福祉]]、[[義務教育]]、[[国防]]などの在り方を示している。
本項目では読者の政治における全般的な理解を助けるために、政治学的な主題を広く扱っている。したがって、いくつかの重要な主題を取り上げ、その詳細についてはそれぞれの項目を参照されたい。そこで第1章では政治の根本的な概念を基礎付ける政治の本性や権力、道徳の原理について概説し、次に主要な政治イデオロギーとして自由主義、保守主義、そして社会主義を取り上げる。また政治体制の観点からは権威主義、全体主義、権威主義の特性などを検討し、政治の場として機能している国家や国際政治の在り方も素描する。そして政治過程を構成する政党や市民、団体などの政治的相互作用に着目し、統治機構についても立法府や行政府などを論じる。最後に政治の出力である政策領域について概括する。ここで詳細に取り上げることができない各国の政治情勢や政治史については[[:Category:各国の政治|各国の政治]]の諸項目を、政治を研究する政治学の方法や概念については[[政治学]]を参照されたい。
==政治の原理==
===政治権力===
{{Main|権力}}
権力とは一般に他者に対してその意志に反してでも従わせることのできる能力と一般的な定義が与えられている。ドイツの社会学者[[マックス・ウェーバー]]は「抵抗に逆らってでも自己意思を貫徹するあらゆる機会」と捉えている。権力に対する認識については権力が生じる資源の実体性から把握する方法と、権力が生じる他者との関係性から把握する方法がある。フィレンツェの政治思想家[[ニッコロ・マキアヴェッリ]]は政治権力は[[軍事力]]という[[暴力の独占|暴力装置]]によって裏付けられなければならないと考えており、これは権力資源の実体性から権力を把握するものである。またアメリカの政治学者[[ロバート・ダール]]は『誰が統治するのか?』の中で権力を「他からの働きかけがなければBがしないであろうことを、AがBに行わせることが可能なとき、AはBに対して権力を持つ」という他者との関係において定式化している。そして権力は集団において意思決定することで行使されると考えた。この権力の本質をめぐる議論から分かるように、権力の概念とは論争的なものであり、権力は[[権威]]や[[暴力]]などの概念との関係の観点からも議論される。
フランスの哲学者[[ミシェル・フーコー]]の『[[監獄の誕生]]』は権力の概念をめぐる議論で新しい観点を提示した。フーコーの権力理論によれば、近代の[[刑罰]]について研究することで[[知識]]と権力の密接な関係を「権力と知とは相互に直接含みあう」と指摘している。つまり権力は知識が協同することで初めて人間の行動を支配することが可能となるものであり、[[科学]]的な知識であっても権力と無関係に独自に存在するものではないと論じた。権力の概念に対する見解についていくつか概観したが、いずれも政治の根本的な構成要素として権力を位置づけている。なぜなら、政治においてそれぞれの主体は権力を活用することによって目的を達成することが可能となるためである。
権力の[[機能]]には他者の積極的な服従と消極的な服従の両方が含まれる。他者の積極的な服従を獲得する能力は厳密に言えば権力と区別して権威と呼ばれる。アメリカの心理学者[[スタンレー・ミルグラム]]が実施した[[ミルグラム実験]]が示すところによれば、教授の命令に対して多くの被験者は自己に責任が及ばないために、他者に対して継続的に[[電気ショック]]{{要曖昧さ回避|date=2023年1月}}で危害を加えることが確認できる。このような権威者に対する他者の服従は人間の心理だけでなく、合理性の観点からも理解することができる。イギリスの政治思想家[[トマス・ホッブズ]]や[[ジョン・ロック]]の政治思想によれば、権威者がおらず各人が自分の判断で勝手に行動している[[自然状態]]において、各人は自己の生命と財産を守るという合理的な理由に基づいて政府組織を構築したと論じている。これは権威者に対して人々が服従することによって安定した秩序がもたらされると考えることができる。ウェーバーは『[[支配の社会学]]』において権力が受容される理由を心理的要因や合理的要因とは異なる観点から捉えており、正当性の概念で説明している。つまり人間が権力の働きである支配を受容するさまざまな理由は伝統的正当性、合法的正当性、そしてカリスマ的正当性の三種類に大別することが可能であると論じた。いずれかの正当性を備えているならば、それは支配される人々にとっては服従しうるものとなる。一方で権力は消極的な服従を強制的に獲得する機能も持つことに着目することができる。ドイツの政治思想家[[カール・マルクス]]や革命家[[ウラジミール・レーニン]]は権力を国家権力に限定して捉え、それが支配階級である[[ブルジョワジー]]によって運営される[[プロレタリアート]]に対する暴力的な強制装置であると考えた。この[[マルクス主義]]的な権力理論によれば、国家に支配される国民は抑圧されていると考えられる。
===政治道徳===
{{Main|正義}}
政治において正義とは適切な均衡が存在する状態を言う。この基本的な正義の概念を理解する上で古代ギリシアの哲学者[[プラトン]]の議論が参考になる。プラトンは『[[国家]]』において正義は個人においては理性、意志、情欲の三つが精神的に調和している状態であり、国家においては政治家の知恵と軍人の勇気、そして庶民の節制の精神が調和している状態を指すものと論じた。しかし均衡をどのように実現するかについてより具体的に考えるならば、分配の問題に取り組む必要がある。アリストテレスは『[[ニコマコス倫理学]]』で正義を道徳的に正当な利害の配分と捉え、もしこの配分が正当な均衡を失えば、それは不正な状態であるために是正しなければならないと論じた。
アリストテレスの正義の定式は現代に発展されている。哲学者[[ジョン・ロールズ]]は『[[正義論]]』において共通善を自由と考え、恵まれない人々のために恵まれる人々の自由を制限することで、平等に自由に必要な基本財を分配する正義の理論を展開している。したがって恵まれない人々の基本的な自由を、恵まれた人々が負担することで社会の不正は是正されると論じた。この見解には反論がある。哲学者[[ロバート・ノージック]]は自己の自由を最大化するためにある程度の自由を制約しながら社会を形成するのであり、もし恵まれた人々の財産を他の人々のために制限するならば、それは不当な自由の侵害であると指摘した。これらの議論は社会において正義の基準が複合的に存在することを浮き彫りにしている。そこで哲学者[[マイケル・ウォルツァー]]は社会の多元性を踏まえた複合的平等を主張しており、また[[シュクラール]]が不正義によって被害を受けた人々の意見に注意することを提唱している。
正義論での諸々の立場は[[倫理学]]では[[徳倫理学]]、[[功利主義]]、そして[[義務論]]に系統化することができる。徳倫理学はプラトンやアリストテレスに代表される立場であり、いかに善い状態になるのかを主眼に置いている。また功利主義は[[ジェレミ・ベンサム]]や[[ジョン・スチュアート・ミル]]に代表される説であり、「最大多数の最大幸福」という言葉でしばしば要約されるように社会万人の利益になる行為を正当化する。そして義務論は[[イマヌエル・カント]]に代表される理論であり、理性を以って義務を確立し、それを実施することを正当化する。これらの道徳理論は政治理論や政治イデオロギー、公共政策を正当化している。
==政治システム==
{{Main|政治システム}}
イーストンは『政治分析の基礎』において[[政治システム|政治システム論]]を展開している。政治を一つのシステムとして捉え、環境からもたらされる入力を変換して社会に価値を権威的に配分し、出力するものというモデルを構築した。政治システムは入力の過程から始まり出力の過程で終る。この入力とは環境からの要求や指示であり、出力とは社会を公的に制御することに関する制作活動である。出力を終えると[[フィードバック]]が始まる。出力された結果は社会に影響を与えてまた新たな支持や要求などの入力過程をもたらす。このフィードバックの循環をフィードバック・ループと言う。
政治システムはアーモンドにより発展させられる。アーモンドは入力機能を[[政治的社会化]]と補充、政治的コミュニケーション、利益表出、利益集約があり、出力機能にはルールの作成である立法、ルールの適用である行政、ルールの裁定である司法の三つの機能があるとする。政治システム入力機能である政治的コミュニケーションはマスメディア、利益表出機能は利益団体、利益集約機能は政党が機能を果たしている。
===国家===
{{Main|国家}}
国家は原則的には一定の限定された領域における統治機構を指すものとして理解できる。政治史において国家はさまざまな形態をとってきたが、政治学において国家は近代の西欧で成立した国民国家を想定している。[[国家の要件]]としては、限られた国境線で区分された領域性を持つ領土、領土内で秩序を構築する法律を制定してこれを維持する排他性を持つ[[主権]]、そしてそこに居住する住民の言語的、文化的な統合性を持つ[[国民]]の三要素が挙げられる。これは国際法において[[国家の承認]]を行う際の要件でもある。また[[ジャン・ボダン]]の『国家論六編』によれば主権には立法権だけでなく、司法権や官職任命権、宣戦布告権や講和権、課税権や貨幣鋳造権などを含む唯一にして不可分の絶対的な権力であると論じられている。
国家論の展開においては小さな政府と大きな政府の議論が重要であった。小さい政府は18世紀に[[アダム・スミス]]の経済的な自由主義に始まる「神の見えざる手」の思想が基礎にある。つまり政府は経済活動に介入することなく治安維持と[[国防]]だけを行うべきとする議論であり、[[フェルディナント・ラッサール|ラッサール]]には[[自由主義国家論|夜警国家]]とも呼ばれた。しかし[[普通選挙]]制が採用されると市民の政治的な自由が容認され、自由放任の風潮は薄れた。そして格差拡大や貧困の深刻化により政府の役割は社会への介入が増大していき、[[福祉国家]]として発展していった。
また近代国家では権力の極端な一元化を避けるための権力の分散の必要性も述べられた。法を制定する立法権、法を適用して判決を下す司法権、そしてそれを除いた国家作用の全てを包括する行政権の三つを分離させて均衡させることを[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]が『[[法の精神]]』で論じられた。これが[[三権分立]]である。19世紀までの国家は三権の中でも立法権を有する立法府が行政府や司法府に優越する立法国家であったが、20世紀以後には社会福祉政策の充実化が進んで行政府の権限が強化されたために行政国家と呼ばれる。
===政府===
{{Main|政治制度}}
政府は国家において安定的な支配を維持するための体制である。政治過程においても構造的な影響を与えるものであり、基本的な政治分析の際にも政治体制は注目される。[[君主制]]、[[貴族制]]、[[共和制]]、[[民主制]]、[[独裁制]]などさまざまな政府形態が歴史上採用されてきた。アリストテレスは統治者の数とその統治の受益者という二つの観点から分類法を考案した。また別の区分として[[民主主義]]体制・[[権威主義]]体制・[[全体主義]]体制の三分類がある。また制度は可変的なものであり、政権交代や指導者の交代のような政府変動や、支配集団全体の交代をもたらす体制変動は権威主義から民主主義へなどのように基本的な体制の変動を伴う。
[[民主主義]] (Democracy) は国民の政治参加と自由な活動に価値をおく政治体制であり、社会における多様な利害関係や価値観の対立を政治の場で解決することを重視する。独裁制と対比されることもあり、現代では世界的に重要視されている政治理念でもある。国民が直接的に政治に参加する[[直接民主制]]と代議員を国民から選出して政治に間接的に参加する[[間接民主制]]がある。民主主義の下では[[政党制]]、[[選挙制度]]また[[投票行動]]などが政治過程に影響するようになる。
[[ロバート・ダール]]の[[ポリアーキー]]論は政治体制の分析において、自由な政府批判を容認する公的異議申し立ての度合いと政治関与可能な国民の割合に注目し、両者を兼ね備えているものがポリアーキーと読んだ。ただしこのような伝統的な民主主義は同質的な国民においてのみ成立するものであり、国民の間に同質性がなければ合意は形成できないとしていた。しかし[[アーレンド・レイプハルト|レイプハルト]]は多極共存型民主主義の理論を展開してそれに反論した。すなわち民族的な同質性は必ずしも必要なものではなく、大連合の形成、相互拒否権の確保、比例性原理、少数派の自立性に基づいた多極共存型民主主義であれば政治秩序を安定させることは可能であると論じた。
世界の政治体制には政治秩序だけではなく[[全体主義]]と呼ばれる体制を保持している国もある。全体主義とは個人に対する社会の優越を基礎としてあらゆる思想、生活、社会活動などを統制しようとする政治体制である。これはかつての専制政治とはあらゆる観点から異なったものであった。20世紀における近代技術に基づいた大衆社会の操作性に起因するものである。単一の政治勢力が、社会の価値観や生活様式、政治的な言論を含めた社会全体を再構築し、個人を監視して時には拘束した。ドイツの[[ナチズム]]やイタリアの[[ファシズム]]、日本の[[軍国主義]]やソビエトの[[スターリニズム]]などが歴史的な事例として挙げることができる。
カール・J・フリードリッヒやツビグニュー・ブレジンスキーは全体主義の特徴を挙げており、まず人間生活の全てを包括する教義となる包括的なイデオロギー、そして社会の再構築を行う単一の政治勢力、大衆の忠誠を獲得して反逆者を処分するための秘密警察すなわち組織的脅迫、さらにイデオロギーを宣伝するためのマスコミの独占、反乱を封じ込めるための武器独占、管理が容易で利益を独占できる統制経済、以上の六つである。全体主義にはソヴィエト連邦のイメージが強いために左翼的、またはマルクス主義的な政治体制と考えられている場合があるが、右翼的な全体主義も十分に考えられる。ただし右翼的な全体主義はドイツのナチズムのように、革命的なイデオロギーよりもむしろ[[ナショナリズム]]に依拠し、国家の偉大さや栄光を強調した全体主義社会を構築しようとする。
[[権威主義]]と呼ばれる体制も民主主義の対極にある政治体制として論じられるが、全体主義と混用される場合も多い。権威主義は全体主義のように大衆を統制したり教育したりすることは意図しない。だが権威主義の政治体制においては上層部を占める少数の政治勢力によって大衆の政治参加は最低限に抑制される。リンスによって20世紀のフランコ政権のスペイン政治体制を説明するために提唱された概念であり、形式的で無力な議会制と抑圧的で威圧的な官僚制を特徴とする。全体主義のカリスマ性やイデオロギー性はほとんど認められず、同じものではない。国連大使であったジーン・J・カークパトリックは権威主義と全体主義の違いを強調し、全体主義は一度成立すると自己改革の可能性はないが、権威主義ではそうとは限らないと述べている。
発展途上国の多くは民主主義でも全体主義でもない選択肢として、一党支配という権威主義を経験しているが、結果は芳しくない。ジンバブエの政治体制は1980年に二党制で発足したものの、与党のロバート・ムガベが社会主義を主張し、部族の軍事力を以って敵対勢力を打ち倒し、一党制を成立させる。しかし新しい法規制や税制はことごとく失敗に終わり、また批判すらをも封じ込め、貧困をより深刻化させた。1974年からそれまで権威主義や全体主義を採用していた各国が民主化の傾向に進み始め、チリ、韓国、台湾などは市場の自由化とともに民主化を推進することができた。
===市民社会===
{{Main|市民社会}}
[[市民社会]] (Civil Society) とは政治において政府の対概念であり、政治に参加する国民の構成員から成る公共的な領域を言う。古代ギリシアの[[ポリス]]における民主主義に起源を見ることが出来るが、近代においては[[市民革命]]以後に発生したものとされる。政治的無関心や無責任を示すような政治社会の場合には[[大衆]]社会と呼んで区別する場合もある。
市民社会の概念は社会の機能をどこまで含むものとして捉えるべきかで見解が分かれる。ウォルツァーは市民社会を「非強制的な人間の結社の空間」と捉えて家族や宗教、イデオロギーのために形成されるとしたが、これは市民社会を非常に幅広い社会機能の集合として捉えており、市場をも含みうるものとしている。しかしハーバーマスやキーンらは市民社会をあくまで国家権力や市場経済からは独立した人々の活動を基盤とする公的領域として理解する。
===国際政治===
{{Main|国際政治}}
[[国際政治学|国際政治]] (International politics) は国内政治と根本的に異なる性質を持っている。政治は国家の内部での事象であったが、国際政治は国家の関係の中で発生するからである。国内政治を観察する場合は国家には主権があり、領域においてその主権は絶対的なものである。しかしながら実際には理論どおりではない。国家の主権が有効である領域においても、例えば外国の軍事力により占領された場合には、もはやその地域の主権の実際の有効性は失われる。その意味で主権は国際政治においては多数が並存する相対的なものとして捉えることができる。世界政府というものは存在しないために主権国家同士は国内政治とはまた異なる種類の権謀術数を行うために、国内政治には見られない同盟や貿易、戦争などの現象も見られる。
国際政治には[[現実主義]]と[[理想主義]]という二つの学派が存在する。国際政治における現実主義とはマキアヴェリが提起し、[[E・H・カー]]や[[ハンス・モーゲンソウ]]により発展させられた権力政治に基づいた[[勢力均衡]]の政治理論と実践を意味する。現実主義によれば国際秩序の安定性は各国の勢力が均衡状態になった場合に生まれるものであり、この権力関係が崩れれば[[戦争]]や紛争が勃発するものと考える。
また国際政治の主要な学派である[[理想主義]]は国際政治を道徳的な価値観または国際法の観点から見なす理論と実践である。トマス・アクィナスはキリスト教神学に基づいて正戦の本質を議論し、国際秩序において自然法が存在すると論じた。そしてヴェゲティウスは主権国家を規律する国際法を体系化し、近代的な国際法の確立に寄与した。[[イマニュエル・カント]]も戦争を回避するために道徳と理性を結合して人類は普遍的かつ恒久的な平和を目指すものと捉えている。
==政治イデオロギー==
===イデオロギー===
{{Main|イデオロギー}}
政治を人間社会の集合的な[[意思決定]]と捉えた場合に、その社会の正義がどのように設定され、どのように達成されようとするのかは非常に重要な問題になってくる。この問題と密接に関わるのが[[イデオロギー]](Ideologie)である。これは国家や階級などの一定の社会集団が保有する政治的な観念である。これは価値体系とも呼ばれ、ある主体の政治的な立場の思想的、理論的な基盤ともなっている。イデオロギーは元々は[[フランス革命]]の時代において[[デスチュット・ド・トラシー]]により『観念学要綱』で用いられた「観念の起源を決定する科学」を意味する概念であった。ダールによれば支配者に正当性を与え、またその政治的影響力を権威に転換させるものである。時代や政治的立場によっては政治的な教義として用いられる一方で、ナポレオンがトラシーを批判して空論家「イデオローグ」と呼んだように、妄想や不毛な思想として蔑視される場合もあった。
イデオロギーはいくつかに分類できる。その最も代表的なものとして挙げられるのが[[保守]]主義と[[進歩主義 (政治)|進歩主義]]である。この二分法は革命後のフランス国民公会で保守的な王党派が右側の議席に、革新的なジャコバン党が左側の議席に座っていたことから右と左とも呼ばれる。このようなイデオロギーは政治勢力の分裂と対立をもたらしうる重要な要素であり、冷戦期においては資本主義と共産主義のイデオロギーを巡る思想の争いが国際政治に影響した。
イデオロギーを社会の中でどのように位置づけるのかについてマルクスとエンゲルスは支配階級と被支配階級を前提として、支配階級が自らの支配の正当化を行うための道具だと説明した。これはイデオロギーが空論とする考え方に基づいており、マルクス自身の思想はイデオロギーとは認めなかった。これを[[カール・マンハイム]]は批判した。マンハイムは一切の知識は時代的な文脈により制約されているという議論を、知識の存在被拘束性という概念で説明した。さらに[[アイゼンク]]はイデオロギーを段階的に発展するものとして捉え、評価の段階である意見、準拠の段階である態度を経て信念の段階であるアイデオロジー(Ideology)が発生するとされる。しかしイデオロギーの終焉を論じる学説もあり、[[レイモン・アロン]]は20世紀において経済発展がイデオロギー的な対立を緩和するように働いていることを指摘し、[[ダニエル・ベル]]は『[[イデオロギーの終焉]]』を著してイデオロギーが知識人の支持を近年失いつつあることを論じた。
=== 民主主義 ===
{{Main|民主主義}}
民主主義は、封建的な王侯貴族ではなく、税金を払う市民を中心に政治を行うことを主張する政治思想である。個人の権利は、その個人が積極的に政治に参加することによって実現するものであるという。[[イェーリング]]は「権利のための闘争」で民主主義の義務と権利について整理している。
=== 自由主義 ===
{{Main|自由主義}}
自由主義は個人の[[権利]]を保護し、選択の自由を最大化することを主張する政治思想である。経済学者[[アダム・スミス]]は政府の[[市場]]に対する干渉が[[経済成長]]を妨げる危険性を指摘した。なぜなら特定の組織が市場を独占すれば、価格の競争や商品開発の動機が失われてしまうためである。つまり経済の[[自由放任]]を維持することで市場は自らの調整能力を発揮することが可能となる。この経済学的な見解は、社会が政府から可能な限り自由であるべきという[[古典的自由主義]]のイデオロギーとして確立された。しかし古典的自由主義が前提と見なしたほど市場の調整機能は完全ではないことが明らかになると自由主義の理論は[[近代的自由主義]]のイデオロギーへと発展する。[[トマス・ヒル・グリーン]]は政府による社会への干渉を問題にするのではなく、政府が社会の自由を保障することを問題とした。つまり消極的な政府からの自由を目標とするのではなく、積極的自由を実現するために政府の干渉を正当化した。
=== 保守主義 ===
{{Main|保守}}
保守主義は原則として急進的な革新を否定し、既に確立された社会の秩序を保持することを主張する政治思想である。保守主義は[[エドマンド・バーク]]の政治思想に由来している。バークの主張は[[フランス革命]]での急進的な自由主義の勢力が社会が展開してきた政治の伝統や道徳の基準を破壊することに対して批判的であった。バークは現存する伝統は歴史的な試行錯誤の結果であり、全てが悪いわけではないと考えていた。もし政治制度を改革するならば、革命という手段ではなく、時間をかけて段階的に調整するべきであると論じている。
=== 社会主義 ===
{{Main|社会主義}}
社会主義は一般的に生産手段を社会的に管理することを主張する政治思想である。自由主義に対する批判として[[カール・マルクス]]は独自の政治理論を発展させた。マルクスは経済学的研究を通じ、資本家の下で労働者は価値を生産するが、その価値の一部だけが賃金として支払われており、[[余剰価値]]は資本に奪われる資本の法則を明らかにした。つまり労働者は自らの労働に見合った賃金がないために市場の商品を購入することができない不公平が生じる。レーニンのような急進的な社会主義者はこの不平等を是正するために政治秩序の変革を強いる革命を主張する。一方で[[エドゥアルト・ベルンシュタイン|ベルンシュタイン]]のような穏健な社会主義者は[[修正主義]]とも呼ばれ、労働者の生活状況を改善する[[福祉国家]]の確立を主張した。
=== 無政府主義 ===
{{Main|アナキズム}}
[[権力]]による[[支配]]に反対する[[政治哲学|政治思想]]である。従って、無政府主義者は[[国家]]を廃止して[[市民]]自らが築き上げる平等な[[社会]]を目指している。
=== フェミニズム ===
{{Main|フェミニズム}}
女性解放を目指す政治思想であり、あらゆる[[ジェンダーフリー|男女差別の撤廃]]を目指す(もしくは[[男性]]よりも[[女性]]を優位にする可能性すらある)。例えば、女性の政治参加の推進であったり、労働環境の改善やハラスメントの反対なども該当する。[[#MeToo]]運動なども同様である。[[19世紀]]に始まる[[女性]]の社会進出を後押ししてきた政治思想である。
==政治的相互作用==
政治過程とは政策の決定を巡る各集団の利益の対立や合意の形成などの政治的な過程を言う。[[アーサー・F・ベントリー]]が1908年に『統治過程論』で従来の制度論的な政治学を「死せる政治学」と読んで批判し、より動態的な現象として政治を分析することを論じたことに始まる。例えば利益団体の活動は制度的な規定を受けていないにもかかわらず、現実には政治的な影響力を行使している。[[政治過程論]]はこのような実態に着目して政治に対する入力や出力を明らかにしようとする。
===政治文化===
政治システムは比較政治学に分析の基盤となるモデルを提供したが、そのことによって政治システムにとっての外部環境が政治システムに相違をもたらすことが考えられる。これが[[政治文化]]である。アーモンドとヴァーヴァによって著された『現代市民の政治文化』では一般の文化には政治的側面があり、それらの集合体が政治文化として政治に影響していると論じた。そしてアメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、メキシコの調査から構成員の認知や評価の志向から未分化型政治文化、臣民型政治文化、参加者型政治文化に類型化された。ただしすべてがこの類型に従うわけでもなく、アーモンド自身がイギリスのような臣民型と参加者型が複合された政治文化があることも重視し、これを市民文化として評価した。
===政党===
{{Main|政党}}
[[政党]]とは政治的な理念や目的を共有し、それを達成するために活動する団体を指す。政党は基本的には私的結社であるが、議会に参加する意味で公的主体でもあり、多くの国が政党の活動に助成金を出している。政党にはさまざまな政治的な機能がある。個別的で多様な国民の意志をまとめあげて議会に媒介する利益集約機能は最も代表的なそれである。さらに政治的指導者の選出機能、意思決定の組織化機能、市民を政治的に関与させる機能、政権担当および批判機能の機能などもあり、民主主義体制においてはこのような政党が十分に機能することを想定している。
政党の分類についてはウェーバーが『商業としての政治』で論じている。ウェーバーは政党が[[貴族主義]]的政党から[[大衆政党]]に発展していくと論じた。これは政党を目的から区分したものであり、イギリスの政治史とも合致する。またデュヴェルジェは少数の有力者の下に緩やかに組織されている政党である[[幹部政党]]と共産党を典型として一般の有権者を基盤として厳格に組織された[[大衆組織政党]]という分類を述べている。政治的な思想傾向を反映して[[保守政党]]、[[中道政治|中道政党]]、[[革新政党]]、[[包括政党]]という類型もしばしば用いられる。
政党が社会において存在している形態を[[政党制]]と呼ぶ。[[モーリス・デュヴェルジェ|デュヴェルジェ]]は一党制、二党制、多党制に三分した。そして『[[政党社会学]]』で政党が歴史や社会構造、宗教教義、人種、民族対立などに起因するものである一方、政党制は[[選挙制度]]と深い関係があることを論じている。また[[ジョヴァンニ・サルトーリ|サルトーリ]]は『現代政党学』で非競合的なものと競合的なものを提示した。そしてそれまで二大政党制は安定的な政党制をもたらすと考えられていたが、サルトーリは二大政党制は例外的な政党制であると論じ、穏健な多党制も推奨することで「二大政党制の神話」を否定した。
===政治意識===
政治意識は政治への関心、態度、行動の様式を示す概念であり、政治的社会化によって獲得する。この政治意識は普通選挙の導入による政治参加の拡大を通じて人民の意識が注目されることとなった。特にこの非合理性というものについて[[レオン・ワルラス|ウォーラス]]が論じており、人間が常に合理的に行動するという主知主義の立場を批判し、非合理的な側面、例えば愛情、恐怖、憎悪、疑惑、忠誠などの感情、が重要な役割を果たすことを指摘した。したがって民主主義は常に非合理性により自滅する危険性を持ち、このような政治意識は[[大衆操作]]に利用することも可能である。政治教育によって政治意識を合理化する必要性もウォーラスは述べている。
===マスメディア===
[[マスメディア]]は政治社会において人々を政治参加や政治活動に向かわせる。マスメディアは市民社会において議論された公共的な意見である[[世論]]を反映し、政府が行う政策を社会に紹介する、媒介者としての役割を担っている。マスメディアの機能は大きく分けて環境の監視、社会部分相互の関連付け、社会的遺産の世代間伝達の三つであると[[ハロルド・ラスウェル|ラスウェル]]は論じている。マスメディアの問題はさまざまであるが、まず商業主義の弊害が指摘される。マスメディアは中立的な立場を保持しようとしても、企業体である限りは不利益な情報を報道できない場合がある。さらにマスメディアの発達によって政治社会に印象が実体に先行する場合が生まれ、政治的能力と無関係な基準で選挙で選出される政治状況も見られるようになっている。
===圧力団体===
{{Main|利益団体}}
[[利益団体|圧力団体]]とはキーによれば公共政策に影響力を及ぼすための私的な団体である。具体的には、業界団体、労働組合、消費者団体、宗教団体、環境保護団体、女性団体などである。圧力団体は利益集団や利益団体と区別される。利益集団とは単に政治に関心を持つあらゆる集団を指し、利益団体は職業的な利益に基づいて組織化された集団であり、圧力団体は利益集団がさらに自己の利益を維持、増大させるための圧力を備えた集団である。
圧力団体の機能には利益表出、代表性の補完、政治のフィードバック、情報提供、政治教育などがあるが、圧力はエリートに限定された手段であり、また一部の利益が過剰に政治に影響を与えるなどの逆機能を併せ持つ。ローウィは『自由主義の終焉』においてアメリカ政治において圧力団体が野放しにされている状況を非難しており、これを利益集団自由主義と称した。アメリカでは圧力団体は議員、官僚との密接な関係を作り上げ、この関係は「鉄の三角形」とも呼ばれ、業界団体、族議員、官僚が特定の権益のために政治に影響を及ぼす強い政策ネットワークが構築されていた。
利益集団は[[多元主義]]の考えでは競争関係にある。多元主義とは政治を国家の外側に存在する世論や圧力団体などから説明する考えである。利益集団間の協調によって社会秩序が形成されるという考え方があり、これは[[ネオ・コーポラティズム]]と言う。つまり政策決定の際に主要な利益集団と官僚が協議することにより遂行されている政治状況であり、オーストリアやスウェーデンが具体例として挙げられる。コーポラティズムとは団体協調主義とも言われ、職能別の代表が政治に参加することで政治的な調和を生み出そうとする思想である。ネオ・コーポラティズムは各分野において一元化された全国組織が存在していることが必要となる。これは政府機関との協議を行う慣行を形成するために不可欠な要件である。
==統治機構==
===立法府===
{{Main|立法府}}
立法府は政治制度において特に重要な立法権を掌握している政治機関であり、基本的には法案を審議して制定することができる権限を持つ。また憲法改定の提案、条約の批准などの権限を持つ場合もあり、他の政府機関に対して優越的な地位にある。議院内閣制を採用している場合では立法府は行政府に対して直接的な影響力を保有している。
立法府は複数の国民の代表が出席した議会で審議を行うことで成り立っている。議員は[[エドマンド・バーク]]は18世紀にブリストル演説で国民全体の代表と定めており、単なる選出母体の指示に従って行動する委任代理ではないことを明示した。選挙により選出される議員は提出される法案について審議を行い、多数決の原理に従って制定する。この多数決原理は多数派と少数派との間で妥協のと譲歩の可能性が吟味され、十分に建設的な議論に基づいて行われなければならないとされている。
しかしながら現実の政治ではしばしば政治問題の専門化と複雑化に対する議会の無能力、緊急的な政治問題に対する立法過程の遅滞などの問題が指摘されている。
===行政府===
{{Main|行政府}}
[[行政府]]は[[立法]]と[[司法]]の機能以外の国家作用を行う政治機関である。各国によって微妙に異なるが、[[行政府の長]]である大統領または首相は国家の代表として一般的に認識され、外交権、統帥権、任命権、立法権など、国家の最高指導者として非常に総合的な権限を持っている。
行政府の具体的な制度は国によって一様ではない。例えば[[大統領制]]と[[議院内閣制]]がある。大統領制は独自に選挙を経て大統領を選出する。この過程において議会が直接的に選出に介入することはできない。一方で議院内閣制では議員の中から行政府の長となる人物を選出し、また場合によっては不信任決議によって首相を罷免することにより影響力を行使することが可能である。ただし議院内閣制はイギリスのサッチャー首相のように議会に強い基盤を持っていれば大統領よりも強い権力を発揮することが可能である。
またフランスやドイツでは首相と大統領両方が存在するが、これらの国では大統領は名目的な地位に過ぎないことが多い。従って大統領制においては行政府が立法府から独立しており、議院内閣制の下で選出された首相は議会に対して責任を持っている。また別の制度として[[半大統領制]]・[[議院内閣制]]・[[議会統治制]]・[[首相公選制]]などもある。
===司法府===
{{Main|司法府}}
司法府は立法により制定された法律を適用して裁定する政治機関であり、裁判所から構成される。法には法体系の基礎となる[[憲法]]を最高位として、犯罪行為を取り締まる[[刑法]]、賠償や商行為などについて定めている[[民法]]、政府機関の規則や命令を含む[[行政法]]、国家間で合意された条約などを含む[[国際法]]などがあり、また慣習法となっているものや成文法として確立されているものもある。国民に対して法を適用するだけではなく、三権分立が確立された国家において立法府にはおおむね立法に対する審査権が付与されている。例えばドイツの憲法裁判所は法律が憲法に違反するかどうかを審査する権限を持っている。
ただし全ての司法府がそうであるとも限らない。アメリカでは最高裁判所に連邦法の違憲審査権について特別に規定されていない。またゲリイが「裁判官を政治家にする」と批判したように、違憲審査権を司法府に与えることも見送られている。しかし立法府の権限を規制するためには、また三権分立の思想を実現するためには、裁判所の権限が必要であった。ただし実際のほとんどの国の司法府には政治的な影響力が認められず、またそれが期待されていることも少ない。何故ならば、最も上位の裁判所である最高裁判所ですら審理される案件はごく一部であり、そもそも司法府の権限は立法府によって規定されている。裁判所の決定を実行するためには行政府の権力が必要となる。そして重要な着眼として、裁判官には「法の下の平等」という思想に基づいて常に公平であることが要求されているからであり、政治的な立場に偏りがあることは望ましくないとされる。
===官僚機構===
{{main|官僚}}
== 公共政策 ==
近代[[社会]]は複雑化が進んでいるために非常に多面的であるが、近代・現代の政治機構はほぼすべての領域において政策機能を発達させており、何らかの影響力を行使することができる。
=== 安全保障 ===
{{main|暴力装置}}[[国家安全保障|安全保障]]は自らの価値を何らかの手段により脅威から守ることである。安全保障でまず問題となるのは国家の存続と独立、国民の生命、財産、つまり[[国防]]である。
これらは国家安全保障の上で最も基本的な国益として設定されるものであり、これを守るために[[軍隊]]が必要とされる。
国防は[[軍事力]]を「抑止力」として準備し、また[[戦争]]や[[紛争]]事態において実際に運用することで行われる。[[仮想敵国]]に自国の単独防衛だけで対処できないと思われる場合には同盟を形成して[[勢力均衡]]を図ろうとする。その[[勢力均衡]]の結果、[[核戦略]]が国防において重要な領域となっており、[[核抑止|核抑止理論]]を基礎とした仮想敵国の制圧が目指される。
しかしこのような従来の安全保障では十分に平和を保持できず、また戦争が勃発した際に戦火が拡大する恐れがあったため、[[集団安全保障]]の体制が[[第一次世界大戦]]後~[[戦間期]]における[[国際連盟]]、[[第二次世界大戦]]後~現在における[[国際連合]]で追求された。集団安全保障は参加国が武力の不行使を相互に約束し、もしそれを破棄する参加国がいれば他の参加国がそれに対して制裁を実施することで秩序を回復するものであった。
近年は安全保障の概念は広がりを見せており、「[[人間の安全保障]]」と呼ばれるように、[[エネルギー]]、[[食糧]]、[[人権]]などが安全保障の対象となり、経済的手段や外交的手段が安全保障において重要視されるようになっている。
=== 経済産業 ===
政治にとって[[経済]]は規制を最小限にして[[市場経済]]の下に自由な取引を促進すべきものという[[資本主義]]の発想と、[[計画経済]]の下にある程度の管理に置いて必要な公共財を提供するという[[社会主義]]または[[共産主義]]の発想と、2種類のあり方が存在する。
これは経済を巡る[[イデオロギー]]と関連した論争であるが、現代の政治を観察すると現実の経済状況によって必要な産業復興支援や金融政策を打ち出している。
事実的な意味で経済が政治とどのように関わっているのかには4つの主要な考え方がある。
[[イギリス]]の経済学者[[アルフレッド・マーシャル]]に代表される[[新古典派経済学]]では「経済は政治から独立した活動」である。
「経済が政治を規定するものである」と考える学説に、[[カール・マルクス]]に端を発する[[マルクス経済学]]・[[マルクス主義]]がある。
一方で反対に[[ジョン・メイナード・ケインズ]]による[[ケインズ経済学]]では「市場経済には政治的な統制を要する」と強調する。
加えて、[[政治経済学]]では経済と政治の相互作用の中で政策が形成されると捉える。
=== 社会福祉 ===
政治の機能を[[安全保障]]や[[警察|治安維持]]などに限定する「[[自由主義国家論]](夜警国家)」(あるいは[[小さな政府]])に対し、政治が[[福祉]]に注目する「[[福祉国家論]]」(あるいは[[大きな政府]])が登場したのは比較的最近のことである。
[[国家]]が[[国民]]の[[生活水準]]を保証するための近代的な[[社会保障]]制度を構築し始めたのは現代に入ってからである。
[[失業]]や[[傷病]]等による[[就労不能]]等により[[所得]]を喪失した場合に現金給付を受ける「所得保障」、[[医療]]サービスの機会を確保する「医療保障」、[[高齢者]]や[[一人親家庭]](母子家庭・父子家庭)、[[障害者]]等に対する一定のサービス提供を保障する「[[社会福祉]]」のサービスという3種類に福祉政策の機能は分類できる。
ウィーレンスキーは、64ヵ国の福祉国家の[[国民総生産]](GNP)に対する福祉支出の割合を調査して福祉国家の度合いを比較したが、その度合いはその国の政策やイデオロギーとは関係なく、経済の発展水準によることを論じた。経済水準の向上は[[少子高齢化]]をもたらし、福祉の必要性を増大させると政府は福祉政策を徐々に充実させていくからだと考えられる。しかしこれは政治的要因が考慮されていないことや、福祉支出の対[[国民総生産]](GNP)比だけが問題となっていることなどが批判され、キャッスルズがより研究を精緻化し、政府の財政規模が大きいほど所得再配分([[富の再分配]])が頻繁に実施される一般傾向を示した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
<references group="注"/>-->
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
*新村出編、2018、『広辞苑 第七版』、岩波書店
*久米郁夫、川出良枝、古城佳子、田中愛治、真渕勝『政治学 Political Science : Scope and Theory』(有斐閣、2003年)
*[[加藤秀治郎]]著『スタンダード政治学』(芦書房、1991年)
*フランク・ギブニー編『ブリタニカ』(ティービーエス・ブリタニカ、1975年)
*{{Cite book|和書|author=[[宇野重規]]|date=2013年|title=西洋政治思想史|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4-641-22001-0|ref=宇野}}
== 関連項目 ==
{{Sisterlinks
|wikt = 政治
|q = 政治
|commons = Category:Politics
}}
{{ウィキプロジェクトリンク|政治}}
*[[政治用語一覧]]
*[[政治学]]
*[[政治家]]
*[[政務]]
*[[Portal:政治学/執筆依頼]]
*{{intitle}}
*{{prefix}}
=== 政治を題材とした作品 ===
下記の項目を参照。
*[[ポリティカル・フィクション ]]
*[[:Category:政治を題材とした作品]]
**[[:Category:政治ドラマ]]
**[[:Category:政治漫画]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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[[Category:政治|*]] | 2003-03-13T18:19:10Z | 2023-12-06T05:35:46Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%B2%BB |
3,955 | 天の川 | 天の川あるいは天の河(あまのがわ、英: Milky Way)は、地上から観察される銀河系の姿である。特に肉眼では銀河系に属する恒星のほとんどは遠すぎて星として見分けることができないため、夜空を横切るように存在する雲状の光の帯として見える。
東アジアの神話では夜空の光の帯を、川(河)と見ている(→#東アジアの神話)。一方、ギリシャ神話では、これを乳と見ている。それが継承され英語圏でもミルキーウェイ (Milky Way) と言うようになった。(→#ギリシャ神話)
この光の帯は天球を一周しており、恒星とともに日周運動を行っている。
日本では、夏と冬に天の川が南北に頭の上を越える位置に来る。これをまたいで夏には夏の大三角が、冬には冬の大三角が見える。他の星も天の川の周辺に多いので、夏と冬の夜空はにぎやかになる。
現在では「天の川」や「Milky Way」という言葉で、天球上の(視覚的な)帯だけでなく、地球を含む星の集団、つまり天の川銀河を指すこともある。(→#天文学における天の川 )
中国・日本など東アジア地域に伝わる七夕伝説では、織女星と牽牛星を隔てて会えなくしている川が天の川である。二人は互いに恋しあっていたが、天帝に見咎められ、年に一度、七月七日の日のみ、天の川を渡って会うことになった。(詳細は七夕の項目で参照可。) 空が澄み明瞭に見えることが多い沖縄県の琉球語首里方言では「天河原」(てぃんがーら)と称される。
ギリシャ語では夜空の光の帯を「γαλαξίας (galaxias)」もしくは「kyklos galaktikos」と言う。kyklos galaktikos は「乳の環」という意味。
それにまつわるギリシャ神話を紹介する。
ゼウスは、自分とアルクメーネーの子のヘーラクレースを不死身にするために、女神ヘーラーの母乳をヘーラクレースに飲ませようとしていた。しかし、嫉妬深いヘーラーはヘーラクレースを憎んでいたため母乳を飲ませようとはしなかった。一計を案じたゼウスはヘーラーに眠り薬を飲ませ、ヘーラーが眠っているあいだにヘーラクレースに母乳を飲ませた。この時、ヘーラーが目覚め、ヘーラクレースが自分の乳を飲んでいることに驚き、払いのけた際にヘーラーの母乳が流れ出した。これが天のミルクの環になった。
英語での名称「Milky Way」もこの神話にちなむ。
天の川について、古代ギリシャのデモクリトスは遠方にある星だと述べたが、アリストテレスは大気上層部の現象だと考えた。これに対しては6世紀のヨハネス・ピロポノスなどから「気象現象にしては形が一定すぎるうえに視差(場所による見える角度のずれ)もない」といった反論があったが、データに基づいた緻密な検討はなかった。10~11世紀のイスラム圏の学者イブン・ハイサムは、プトレマイオスと自らの観測データを併せて用い、天の川の視差を検討し、月よりも(おそらくは非常に)遠くにある現象だとしている。
1610年にガリレオ・ガリレイが光学望遠鏡を用いて、天の川は無数の星の集まりだと確認した。以後、天文学の進展とともに、「天の川」ないし「Milky Way」の実体は膨大な数の恒星の集団であると次第に理解されるようになった。
現在では、我々の地球を含む太陽系は、数ある銀河のひとつ(=「天の川銀河」)の中に位置しており、我々はこの銀河を内側から見ているために天の川が天球上の帯として見える、と解説される。
天の川銀河の中心はいて座の方向にある。なお、天の川のあちこちに中州のように暗い部分があるのは、星がないのではなく、暗黒星雲があって、その向こうの星を隠しているためである。この黒い中州をインカの人々はカエルやヘビなどの動物に見立てていた。
いて座、さそり座、みなみのかんむり座、さいだん座、じょうぎ座、みなみのさんかく座、おおかみ座、コンパス座、ケンタウルス座、はえ座、みなみじゅうじ座、りゅうこつ座、ほ座、とも座、らしんばん座、こいぬ座、おおいぬ座、いっかくじゅう座、オリオン座、ふたご座、おうし座、ぎょしゃ座、ペルセウス座、カシオペヤ座、ケフェウス座、とかげ座、はくちょう座、こぎつね座、や座、わし座、いるか座、へびつかい座、へび座(尾部)、たて座、とびうお座、ふうちょう座、カメレオン座
星の巨大集団の学術的な呼称としては、ギリシャ語系の表現「galaxy」があてられた。この地球を含む星の集団は「the Galaxy」と、大文字で区別して(つまり固有名詞として)表現されることになった。
日本語では「天河」「天漢」「銀河」「銀漢」という言葉がありこの中から「銀河」が選ばれそれにあてられた。これらの言葉も、「天の川」同様に、本来視覚的にとらえた天球上の光の帯を(メタファーで)指す言葉であるが、学術用語としては「銀河」が使われ、のちに銀河が星の巨大集団であることが判明するとそれら全般を表す言葉として使われるようになった。それとともに「銀河」は天球の光の帯の意味で用いられることは少なくなったが「天河」「天漢」「銀漢」はいまだなお「天の川」(あまのがわ)の漢語表現として残っている。 地球を含む星の巨大集団は特に区別して、「銀河系」と呼ぶ。
現在、英語の「Milky Way」も日本語の「天の川」も、文脈によって天球上の光の帯を指すこともあれば、天体としての「天の川銀河」を指すこともある。
天の川の光は淡いため、月明かりや、人工光による光害の影響がある場合は視認が難しい。日本では、1970年代以降(高度成長期の終了以降)、天の川を見ることができる場所は少なくなってしまった。日本人の70%が光害のせいで天の川を見る事ができない。
天の川を見るには、月明かりの無い晴れた夜に、都市から離れたなるべく標高の高い場所に行くと良い。
天の川は一年中見ることができるが、天の川銀河の中心方向がいて座にあるため、いて座の方向の天の川は比較的光が強く確認し易い。反対方向の天の川は淡く確認が難しい。北半球では、いて座は夏の星座であり、夏の天の川が濃く、冬の天の川が薄く見える。
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"text": "天の川は一年中見ることができるが、天の川銀河の中心方向がいて座にあるため、いて座の方向の天の川は比較的光が強く確認し易い。反対方向の天の川は淡く確認が難しい。北半球では、いて座は夏の星座であり、夏の天の川が濃く、冬の天の川が薄く見える。",
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] | 天の川あるいは天の河は、地上から観察される銀河系の姿である。特に肉眼では銀河系に属する恒星のほとんどは遠すぎて星として見分けることができないため、夜空を横切るように存在する雲状の光の帯として見える。 東アジアの神話では夜空の光の帯を、川(河)と見ている(→#東アジアの神話)。一方、ギリシャ神話では、これを乳と見ている。それが継承され英語圏でもミルキーウェイ (Milky Way) と言うようになった。(→#ギリシャ神話) この光の帯は天球を一周しており、恒星とともに日周運動を行っている。 日本では、夏と冬に天の川が南北に頭の上を越える位置に来る。これをまたいで夏には夏の大三角が、冬には冬の大三角が見える。他の星も天の川の周辺に多いので、夏と冬の夜空はにぎやかになる。 現在では「天の川」や「Milky Way」という言葉で、天球上の(視覚的な)帯だけでなく、地球を含む星の集団、つまり天の川銀河を指すこともある。(→#天文学における天の川 ) | {{otheruses}}
[[Image:横手山ヒュッテから見た、夏の天の川 Pcs34560 IMG3625.jpg|thumb|200px|right|[[志賀高原]]横手山頂ヒュッテから撮影された夏の天の川]]
'''天の川'''あるいは'''天の河'''<ref>広辞苑</ref>(あまのがわ、{{Lang-en-short|Milky Way}})は、地上から観察される[[銀河系]]の姿である。特に肉眼では銀河系に属する恒星のほとんどは遠すぎて星として見分けることができないため、夜空を横切るように存在する雲状の光の帯として見える。
東アジアの神話では夜空の光の帯を、川(河)と見ている(→[[#東アジアの神話]])。一方、ギリシャ神話では、これを乳と見ている。それが継承され英語圏でも'''ミルキーウェイ'''{{enlink|Milky Way}}と言うようになった。(→[[#ギリシャ神話]])
この光の帯は[[天球]]を一周しており、[[恒星]]とともに[[日周運動]]を行っている。
日本では、夏と冬に天の川が南北に頭の上を越える位置に来る。これをまたいで夏には[[夏の大三角]]が、冬には[[冬の大三角]]が見える。他の星も天の川の周辺に多いので、夏と冬の夜空はにぎやかになる<ref>これに対して春と秋の夜空には目立つ[[星座]]が少ない。</ref>。
現在では「天の川」や「Milky Way」という言葉で、天球上の(視覚的な)帯だけでなく、地球を含む星の集団、つまり[[天の川銀河]]を指すこともある。(→[[#天文学における天の川]] )
== 東アジアの神話 ==
{{See also|七夕}}
[[中国]]・日本など東アジア地域に伝わる[[七夕]]伝説では、織女星<ref>[[こと座]]の[[ベガ]]</ref>と牽牛星<ref>[[わし座]]の[[アルタイル]]</ref>を隔てて会えなくしている川が天の川である。二人は互いに恋しあっていたが、[[天帝]]に見咎められ、年に一度、[[7月7日 (旧暦)|七月七日]]の日のみ、天の川を渡って会うことになった。(詳細は[[七夕]]の項目で参照可。)
空が澄み明瞭に見えることが多い[[沖縄県]]の[[琉球語]][[首里方言]]では「天河原」(てぃんがーら)と称される。
== ギリシャ神話 ==
ギリシャ語では夜空の光の帯を「{{lang|el|γαλαξίας}} ({{ラテン翻字|el|ISO|galaxias}})」もしくは「{{ラテン翻字|el|ISO|kyklos galaktikos}}」と言う。{{ラテン翻字|el|ISO|kyklos galaktikos}} は「乳の環<ref>天球を一周している帯 = 環、という意味。</ref>」という意味。
それにまつわる[[ギリシャ神話]]を紹介する。
{{Quotation|
[[ゼウス]]は、自分と[[アルクメーネー]]の子の[[ヘーラクレース]]を不死身にするために、女神[[ヘーラー]]の[[母乳]]をヘーラクレースに飲ませようとしていた。しかし、嫉妬深いヘーラーはヘーラクレースを憎んでいたため母乳を飲ませようとはしなかった。一計を案じたゼウスはヘーラーに眠り薬を飲ませ、ヘーラーが眠っているあいだにヘーラクレースに母乳を飲ませた。この時、ヘーラーが目覚め、ヘーラクレースが自分の乳を飲んでいることに驚き、払いのけた際にヘーラーの母乳が流れ出した。これが天のミルクの環になった。
}}
英語での名称「Milky Way」もこの神話にちなむ。
== 天文学における天の川 ==
天の川について、古代ギリシャの[[デモクリトス]]は遠方にある星だと述べたが、[[アリストテレス]]は[[地球の大気|大気上層部]]の現象だと考えた。これに対しては6世紀の[[ヨハネス・ピロポノス]]などから「気象現象にしては形が一定すぎるうえに[[視差]](場所による見える角度のずれ)もない」といった反論があったが、データに基づいた緻密な検討はなかった。10~11世紀のイスラム圏の学者[[イブン・ハイサム]]は、プトレマイオスと自らの観測データを併せて用い、天の川の視差を検討し、月よりも(おそらくは非常に)遠くにある現象だとしている。
[[1610年]]に[[ガリレオ・ガリレイ]]が[[光学望遠鏡]]を用いて、天の川は無数の星の集まりだと確認した。以後、[[天文学]]の進展とともに、「天の川」ないし「Milky Way」の実体は膨大な数の[[恒星]]の集団であると次第に理解されるようになった。
現在では、我々の[[地球]]を含む[[太陽系]]は、数ある銀河のひとつ(=「[[天の川銀河]]」)の中に位置しており、我々はこの銀河を内側から見ているために天の川が天球上の帯として見える、と解説される。
天の川銀河の中心は[[いて座]]の方向にある。なお、天の川のあちこちに中州のように暗い部分があるのは、星がないのではなく、[[暗黒星雲]]があって、その向こうの星を隠しているためである。この黒い中州を[[インカ]]の人々はカエルやヘビなどの動物に見立てていた<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.isas.jaxa.jp/soukendai/planetarium/introduction.html |title=プラネタリウム番組『誰も知らなかった星座 -南米天の川の暗黒星雲-』 |publisher=JAXA 宇宙科学研究所(総合研究大学院大学 物理科学研究科 宇宙科学専攻) |accessdate=2018-06-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305223843/http://www.isas.jaxa.jp/soukendai/planetarium/introduction.html |archivedate=2016-03-05 }}</ref>。
=== 天の川と領域が重なる主な星座 ===
[[いて座]]、[[さそり座]]、[[みなみのかんむり座]]、[[さいだん座]]、[[じょうぎ座]]、[[みなみのさんかく座]]、[[おおかみ座]]、[[コンパス座]]、[[ケンタウルス座]]、[[はえ座]]、[[みなみじゅうじ座]]、[[りゅうこつ座]]、[[ほ座]]、[[とも座]]、[[らしんばん座]]、[[こいぬ座]]、[[おおいぬ座]]、[[いっかくじゅう座]]、[[オリオン座]]、[[ふたご座]]、[[おうし座]]、[[ぎょしゃ座]]、[[ペルセウス座]]、[[カシオペヤ座]]、[[ケフェウス座]]、[[とかげ座]]、[[はくちょう座]]、[[こぎつね座]]、[[や座]]、[[わし座]]、[[いるか座]]、[[へびつかい座]]、[[へび座]](尾部)、[[たて座]]、[[とびうお座]]、[[ふうちょう座]]、[[カメレオン座]]
=== 名称の指し示す対象の変化 ===
星の巨大集団の学術的な呼称としては、ギリシャ語系の表現「galaxy」があてられた<ref>英語圏の人々は、本来の英語表現ではなく、(比較的親しみが感じられにくい)ギリシャ語やラテン語系の表現を学術語として採用する傾向があり、日本語の場合は、大和言葉ではなく漢語を学術用語として採用する傾向がある。これは、本来語がすでに持っているイメージや適用範囲にとらわれず、あえて聞きなれない外来語をもって意味や適用範囲を限定した学術用語とする一般的なことである。</ref>。この地球を含む星の集団は「the <u>G</u>alaxy」と、大文字で区別して(つまり[[固有名詞]]として)表現されることになった。
日本語では「天河」「天漢」「銀河」「銀漢」という言葉がありこの中から「銀河」が選ばれそれにあてられた。これらの言葉も、「天の川」同様に、本来視覚的にとらえた天球上の光の帯を([[メタファー]]で)指す言葉であるが、学術用語としては「銀河」が使われ、のちに銀河が星の巨大集団であることが判明するとそれら全般を表す言葉として使われるようになった。それとともに「銀河」は天球の光の帯の意味で用いられることは少なくなったが「天河」「天漢」「銀漢」はいまだなお「天の川」(あまのがわ)の漢語表現として残っている。
地球を含む星の巨大集団は特に区別して、「[[銀河系|銀河<u>系</u>]]」と呼ぶ<ref>英語では小文字・大文字によって[[一般名詞]]・[[固有名詞]]の区別をつけられるが、日本語ではそれができないため文字をひとつ足すことで区別することになったのである。</ref>。
現在、英語の「Milky Way」も日本語の「天の川」も、文脈によって天球上の光の帯を指すこともあれば、天体としての「[[天の川銀河]]」を指すこともある。
== 天の川を見る方法 ==
天の川の光は淡いため、月明かりや、人工光による[[光害]]の影響がある場合は視認が難しい。[[日本]]では、[[1970年代]]以降([[高度経済成長#日本の高度経済成長期|高度成長期]]の終了以降)、天の川を見ることができる場所は少なくなってしまった。日本人の70%が光害のせいで天の川を見る事ができない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG14H5S_U6A610C1CR8000/ |title=日本人の7割、天の川見えず 人工光が影響 |publisher=日本経済新聞 |date=2016-06-14|accessdate=2017-10-22}}</ref>。
天の川を見るには、月明かりの無い晴れた夜に、[[都市]]から離れたなるべく標高の高い場所に行くと良い。
{{Seealso|天体観望}}
天の川は一年中見ることができるが、天の川銀河の中心方向が[[いて座]]にあるため、いて座の方向の天の川は比較的光が強く確認し易い。反対方向の天の川は淡く確認が難しい。北半球では、いて座は夏の[[星座]]であり、夏の天の川が濃く、冬の天の川が薄く見える。
=== 天の川による影 ===
[[光害]]がなく透明度の高い夜空が見える[[オーストラリア]]の砂漠では、天の川の光で地面に自分の影ができる<ref name="watanabe">[http://www.mitsubishielectric.co.jp/dspace/column/cw08_b.html 星影を楽しむ] - [[渡部潤一]]</ref>。なお、地球上の物体に影を生じさせる天体は、[[太陽]]、[[月]]、[[金星]]、天の川、火球([[流星]])の5つのみである<ref name="watanabe" />。
== 文化 ==
* 『[[西遊記]]』の[[猪八戒]]は、[[玉皇大帝|玉帝]]より天蓬元帥職を任され、天の川の管理をしていたことになっている。
* 日本では『[[万葉集]]』において、[[大伴家持]]の歌に、'''天漢'''(あまのがわ)<ref>漢文では天漢以外にも銀漢、雲漢、銀浪、星河のように表記する事もある。{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/uraomote/045.html|title=ことばウラ・オモテ - 銀河・天漢・銀漢 |publisher=NHK放送文化研究所 |date=2004-06-01|accessdate=2017-10-22}}</ref>、[[柿本人麻呂]]の歌に'''水無し川'''<ref>「ひさかたの天つしるしと水無し川隔てて置きし神代し恨めし」、『[[万葉集]]』、第2007歌</ref>とも記されている。
* [[岡山県]][[美作市]]では、「天の川火祭り」が、毎年開催される。迫力の手筒花火、優雅な天文字焼きが行われる。
*初秋の[[季語]]とされる<ref>{{Cite web|和書|url=http://kigosai.sub.jp/kigo500a/448.html |title=天の川(あまのがわ、あまのがは) 初秋 |publisher=きごさい歳時記 |author=[[長谷川櫂]] 他|accessdate=2017-10-22}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{wikiquote|天の川}}
{{commonscat|Milky Way Galaxy|銀河系}}
* [[銀河]]
{{DEFAULTSORT:あまのかわ}}
[[Category:銀河系]]
[[Category:七夕]]
[[Category:有史以前に知られていた天体]]
[[Category:天文学に関する記事]]
[[Category:ヘーラー]] | 2003-03-13T19:22:30Z | 2023-11-18T04:32:06Z | false | false | false | [
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