id
int64 5
471k
| title
stringlengths 1
74
| text
stringlengths 0
233k
| paragraphs
list | abstract
stringlengths 1
4.6k
⌀ | wikitext
stringlengths 22
486k
⌀ | date_created
stringlengths 20
20
⌀ | date_modified
stringlengths 20
20
| is_disambiguation_page
bool 2
classes | is_sexual_page
bool 2
classes | is_violent_page
bool 2
classes | templates
sequence | url
stringlengths 31
561
|
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
3,589 | スカイライナー | スカイライナー(英語: Skyliner)は、京成電鉄が京成上野駅 - 成田空港駅間を京成本線・成田空港線(成田スカイアクセス線)経由で運行する、座席指定有料特急列車の列車愛称。
京成電鉄の登録商標で、同社内における最速達の列車種別。料金不要の快速特急・特急とは別。
本項では京成本線(京成船橋駅)経由で運行し、同じ車両を使用する座席定員有料列車の「モーニングライナー」「イブニングライナー」および「シティライナー」について、また京成電鉄における歴代の有料列車の沿革についても記述する。
東京都区部から新東京国際空港(現・成田国際空港)への空港アクセス列車として、1978年(昭和53年)の新東京国際空港開港と同時に運行を開始した。開港当初は、新東京国際空港への唯一の空港連絡鉄道手段だった。「スカイライナー」の名称は、空港連絡列車の愛称として、日本全国の小学生からの公募により決定された。東日本旅客鉄道(JR東日本)の特急「成田エクスプレス」と競合関係にある。
開港当時は成田新幹線計画があったため、京成電鉄の成田空港駅(現在の東成田駅)は空港ターミナルから約1 km離れた場所に設置された。これにより同駅から空港ターミナルビルへ行くには、路線バスへの乗り継ぎが必要とされたことから、「スカイライナー」はリムジンバスなど他の交通機関との競争で苦戦を強いられた。その後、成田新幹線計画の消滅などにより、1991年(平成3年)3月にJR東日本とともに空港ターミナルビル直下となる、現在の成田空港駅への乗り入れを果たしている。
1979年(昭和54年)9月から、成田山新勝寺参詣客の利便性向上を目的に京成成田駅にも昼間時間帯の「スカイライナー」が停車するようになり、2003年(平成15年)7月より、ほぼすべての「スカイライナー」が停車するようになった。また2006年(平成18年)12月から、京成船橋駅にもほぼすべての「スカイライナー」が停車するようになり、JR東日本の「成田エクスプレス」が通過する千葉県中央部と成田国際空港との連絡列車としての側面を持つようになった。
2010年(平成22年)7月には、より短絡的に東京と成田空港を結ぶ京成成田空港線(成田スカイアクセス線)が開業し、従来の京成本線を経由するルートから同線経由へ運行ルートを変更した。さらに最高160 km/h運転が可能な2代目AE形電車を登場させたことで、それまで日暮里駅 - 空港第2ビル駅間で51分かかっていた所要時間が36分へと大幅に短縮されている。従来「スカイライナー」が運行されていた京成本線には「シティライナー」を新設し、京成成田駅や京成船橋駅などかつての「スカイライナー」停車駅の需要は同列車が担うこととなったが、需要の少なさからシティライナーは定期運行を終了し、現在は成田山新勝寺の初詣需要のための臨時列車(成田山開運号)が年末年始に運行されるのみとなっている。また、新AE型を用いて朝と夕方の通勤ラッシュ時間帯には有料着席保証列車の「モーニングライナー」と「イブニングライナー」が京成本線経由で定期運行されている。
2015年(平成27年)3月14日に、北越急行の特急「はくたか」が廃止されて以降、「スカイライナー」は新幹線以外の日本の鉄道としては単独トップの160 km/h運転を行う列車でもある。新AE型で運行されるものの、京成本線経由の「モーニングライナー」「イブニングライナー」「シティライナー(臨時運行)」の最高速度はいずれも160 km/hではなく110 km/hである。
2020年(令和2年)、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行の影響で、5月1日より日中時間帯の半数を運休する一方、4月11日からスカイライナーの一部が青砥駅に臨時停車をしており、青砥駅では浅草線発着列車と相互に接続する。成田空港行きは乗車のみ、京成上野行きは降車のみ取り扱う。ドアが開く号車も最後部車両に限定され、青砥から成田空港行きスカイライナーに乗車する場合は座席未指定で、空席に着席する形を取っていた。当初は成田空港行早朝便と京成上野行深夜便各6本(3・5・7・9・11・13・72・74・76・78・80・82号)のみだったが、6月1日以降は日中の一部も対象に加わり、追加分と合わせて計14往復が青砥に停車していた。減便は2021年(令和3年)10月29日、臨時停車は2022年(令和4年)2月25日をもって終了した。
2022年2月26日より、スカイライナーの一部列車について、青砥駅が正式な停車駅となる。これにより、青砥駅発着のスカイライナー券においても、座席指定、券売機での購入、Web予約およびチケットレスサービスの利用が可能となったほか、成田空港行きについては4号車からの乗車も可能となった。また、京成上野行きについては全ての号車からの降車が可能となった。
2022年11月26日より、新鎌ヶ谷駅での停車を開始(上下列車とも乗降可能)。成田空港行きは4・6号車から、京成上野行きは全号車からの乗降が可能。
「スカイライナー」はおおむね20 - 40分に1本の割合で運転されており、さらに通勤時間帯には「モーニングライナー」・「イブニングライナー」が運行される。「シティライナー」は年末年始の成田山新勝寺への初詣需要に対応した臨時列車(成田山開運号)として運行されており、定期運行は行われていない。
スカイライナーは、京成上野 - 成田空港間で運行される最速達列車および空港アクセス列車。初代のAE形落成と同時に「空港連絡特急」の愛称として、1972年9月からの1か月間、毎日小学生新聞の協力により、日本全国の小学生から公募して決定したものである。
1978年5月21日に本線(京成成田経由)で運行開始。成田空港線(成田スカイアクセス線)が開業した2010年7月17日から現在のルートによる運行が開始され、成田空港線印旛日本医大 - 空港第2ビル間は日本国内の在来線最速となる最高速度160 km/hで運転される。所要時間は、日暮里 - 空港第2ビル間を最速36分、京成上野 - 成田空港間を最速43分で結ぶ。
運行時間帯は終日であるものの、夜間の成田空港方面は通勤需要などに応えるために本線経由のイブニングライナーとなることから、運行されない時間帯が存在する。
「モーニングライナー」・「イブニングライナー」は、主に京成上野 - 京成成田間で通勤時間帯に運行される停車型列車。「スカイライナー」とは異なり、京成上野 - 成田空港間を京成本線経由で運行する。ホームライナー的な役割をもつ。
「イブニングライナー」は1984年12月1日に、「モーニングライナー」は1985年10月19日に運行を開始した。
主に通勤需要に対応する列車で、「モーニングライナー」は朝に京成上野方面上り列車4本、「イブニングライナー」は夕方以降に成田方面下り列車7本が設定されている(平日・土休日とも同じ本数)。各列車とも運行される時間帯に「スカイライナー」の運転を行わない時間帯が存在するため、空港輸送の観点から一部列車が成田空港駅に乗り入れる。
当初は全列車が車両指定制の自由席となっていて、乗車駅ごとに指定された車両内の空席を利用する方式をとっていた。
2015年12月5日より京成船橋駅に全列車が停車となり、「モーニングライナー」「イブニングライナー」共に全車指定席に変更された。
号数は1991年にスカイライナーとともに付与され、当時は50番台始まり、後に60番台始まりとなった後、2017年10月28日より70番台始まりになり、スカイライナーが大幅増便された2019年10月26日からは200番台始まりとなった。
「臨時ライナー」は、北総線内から都内方面への利便性向上を目的として、回送列車を活用して印旛日本医大始発京成上野行き1本のみ運行する。
2020年10月1日運行開始。平日のみ運行。全席自由席とし、ライナー券(500円)は乗車後、車内で現金でのみ発売。
「シティライナー」は、大晦日から元旦の終夜運転や正月三が日、1月土休日の成田山新勝寺の初詣客輸送などのために臨時運転される列車で、京成上野 - 京成成田間を京成本線経由で運行される。
運行当初は、成田スカイアクセス線開業に伴い「スカイライナー」が経由しなくなる京成本線の速達列車として、京成上野 - 京成成田・成田空港間に1日7往復設定されていた(うち京成上野方面上り2本・京成成田方面下り1本が成田空港駅始発・終着)。車両は臨時列車を除いてAE100形が使用された。基本的に日中の運行であったが、下り1本のみが朝の通勤時間帯に運行されていた。所要時間はスカイライナー時代は1時間だったのが75分程度に伸びてしまい、快速特急と同程度かやや遅い時間であったが、青砥駅にも停車するために浅草線方面からの乗り継ぎも可能であり、羽田空港とのアクセスに利用されることもあった。なお、料金形態は従来の料金を据置している。
2011年に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による計画停電や電力制限によって運休状態に陥り、その後2011年9月10日に2往復が京成成田駅発着で運行再開されたものの、2012年10月21日のダイヤ改正で1往復のみの設定となり、成田空港駅への乗り入れが正式に廃止された。さらに料金不要の下位列車とも時間差が縮まり利用離れが進んだ結果、2014年11月8日のダイヤ改正で土休日のみの運行となり、2015年12月5日のダイヤ改正によって定期列車としては廃止された。
2017年1月土休日のシティライナーは京成成田駅発着で2代目AE形で運転されたが、「成田山開運号」の愛称名が付き、正面には歌舞伎の市川家(成田屋)に由来する隈取をモチーフとしたラッピングによるヘッドマークが掲出された。2018年以降も大晦日から元日と1月土休日に継続して運転され、2020年大晦日から2021年1月にかけては、新型コロナウイルス感染拡大の影響で大晦日と元日深夜の運転が休止となったが、土休日運転は行われた。
なお、「シティライナー」は2010年7月16日までスカイライナーとして使用されていたAE100形が使用されていたが、2010年 - 2011年以降の終夜運転における臨時列車では2代目AE形による運行が行われている。
なお、1990年から3年間の置き換え過渡期では初代AE形とAE100形が共通に運用されていた。
ライナー券などの予約・購入の詳細は公式サイト を確認のこと。
「スカイライナー」などのライナー系列車は全車座席指定席制を採用している。「モーニングライナー」、「イブニングライナー」は当初は車両指定のみで、指定された車両内の空いている席を利用するようになっていた。利用の際は乗車券のほか「ライナー券」が必要となる。なお、いずれの列車もライナー券を購入すれば定期券でも利用可能である。また、いずれの列車も所定時刻より1時間以上遅延した場合は、ライナー料金は全額払い戻しとなる。いずれも小児半額だが、障害者割引は適用されない。
なお、各ライナーとも乗車券と特別急行券(ライナー券)の2段構成であり、乗車券部分には定期を含む乗車券の組合せや、全国相互対応ICカード等の適用が可能である。また、駅窓口で予約・支払を同時に行う場合には、Suicaに限りライナー券の購入に充てる事が可能(PASMOや他の全国相互対応カード等は不可。モバイル系も不可)。
料金は2022年4月25日改定。「スカイライナー」は京成上野・日暮里⇔空港第2ビル・成田空港は1,300円、青砥⇔空港第2ビル・成田空港は1,050円、新鎌ヶ谷⇔空港第2ビル・成田空港は800円、京成上野・日暮里⇔新鎌ヶ谷は500円、青砥⇔新鎌ヶ谷は300円、「シティライナー」は京成上野・日暮里・青砥 ⇔ 京成成田で1,000円、京成船橋乗降と京成上野・日暮里 ⇔ 青砥は550円となっている。当日発売のほか乗車日の1か月前から前売り発売も行っている。ライナー券の発売箇所は各停車駅で販売されている。また系列会社の京成トラベルサービスなどのほか、主な旅行会社などでも購入が可能で、2001年からはiモードやEZWeb、Yahoo!ケータイ、京成電鉄の公式サイト(外部リンク参照)などでも予約が可能となっている。さらに2010年からはチケットレスサービスも開始している。この他、11枚綴り13,000円の「ライナー回数券」も発売されている(3か月間有効)。ライナー回数券以外はライナー券単独で購入することはできず、事前に有効な乗車券(ICカード乗車券および定期乗車券含む)を持っていない限り、乗車券とセット販売である。上下列車ともスカイライナーで京成上野 - 青砥間各駅、空港第2ビル - 成田空港間およびシティライナーで京成上野 - 日暮里間のみの利用はできない。
両列車とも車掌が所持する端末でライナー券の発売状況を確認することができ、あらかじめ指定された座席に着席している乗客に対しては車内改札が省略されている。
2015年12月4日までは車両指定の定員制で、各駅ごとに着席できる号車が割り振られていた。座席は指定されないが、定員分以上の発売を行わないので着席は保証されていた。同年12月5日からは全車指定席となった。基本的には当日の発車時刻数十分前から直近の列車のライナー券のみを発売する。ライナー券売機には残席数が大きくLED表示され、売れ切れた場合はその列車には乗車できない(JRのような立席券は発売されない)。
「イブニングライナー」の一部の座席に限っては、前売り発売を行っており、京成上野案内所、日暮里、空港第2ビル、成田空港の各駅とJTBトラべランドと近畿日本ツーリストおよび日本旅行にて購入できる。両列車ともチケットレスサービスの利用は可能であるが、ネット予約やチケット予約サービス等は利用できない。
この他、「モーニングライナー」については枚数限定でライナー定期券「モーニングPASS」(毎月25日から月末まで発売され、次月1日から末日まで有効 8,150円 小児料金や通学の設定はなく、持参人方式 定期券販売所で発売。定期券を取り扱わない駅は駅窓口)も設定されている(京成船橋・八千代台・京成佐倉・京成成田駅のみ発売で、成田空港・空港第2ビル発は設定がない)。なお、「モーニングライナー」ならばどの列車でも良いというわけではなく、乗車駅・利用列車・号車は指定されており、指定されたモーニングライナーより先行の列車に乗るにはライナー券の購入が必要であり、乗り遅れた場合の救済措置はない。またモーニングPASSに乗車券としての効力はなく、あくまでライナー券の定期券式販売である。
2022年4月25日、イブニングPASSの発売を開始し、同年5月より使用を開始する。イブニングPASSは毎月1日〜末日まで任意のイブニングライナーを何度でも利用できる定期券式のPASSである(別途乗車券が必要)。
「モーニングライナー(上り)」の場合、成田空港・空港第2ビル・京成成田・京成佐倉・八千代台・京成船橋が乗車可能駅、青砥・日暮里・京成上野が降車専用駅である。
「イブニングライナー(下り)」は京成上野 - 京成成田が乗車可能駅、空港第2ビル・成田空港が降車専用駅となっている。ただし、八千代台駅、京成佐倉駅、京成成田駅から下りイブニングライナーを利用する場合、座席の指定はできない(チケットレスは除く)。 モーニングライナー券を購入した上で成田空港 - 八千代台間の各駅相互間、イブニングライナー券を購入した上で京成上野 - 青砥間の各駅相互間を利用することも可能であるが、下りイブニングライナーの空港第2ビル - 成田空港間および上りモーニングライナーの青砥 - 京成上野間のみの利用はできない。
両列車とも車内改札は行わず、駅ごとに指定された列車乗車口にて係員が乗車時に改札を行う。
2010年11月15日より京成の特急券類としては日本国外で初となる「スカイライナークーポン」の発売を開始した。
発売するのは日本国外の提携旅行会社で、発売額は2,250円。京成上野駅・日暮里駅・空港第2ビル駅・成田空港駅のいずれかで片道分の乗車券・スカイライナー券と引き換えて使用する。
また、京成公式サイトより、e-ticketを購入することも可能である。
上り限定で成田空港・空港第2ビルからの割引チケットであり、発売額は2,250円。成田空港駅・空港第2ビル駅のいずれかのライナー券発売カウンターで(2017年現在、成田空港の第1旅客ターミナルの南ウイング1階の京成電鉄乗車券販売カウンターでも可能)、片道分の乗車券・スカイライナー券と引き換える必要がある。発売箇所は次の通り。
なお、発売当日のみ有効のため、最終のスカイライナーに間に合わない場合は発売されない。
また、訪日外国人観光客を対象として、下りのスカイライナーバリューチケットを、浅草駅と池袋駅の観光案内所、一部の都内ホテルで発売している。
毎年12月31日(下り)および1月1日(上り)には初詣臨時列車として深夜時間帯に京成上野駅 - 京成成田駅間にて臨時「シティライナー」(成田スカイアクセス線開業前は「スカイライナー」)が運転されている。「シティライナー」では定期列車時代はAE100形が使用されていたが、この深夜の臨時「シティライナー」では新AE形で運転されている。
成田山新勝寺と縁が深い歌舞伎の市川家(成田屋)が成田山で襲名披露を実施する場合は、京成上野駅 - 京成成田駅間をスカイライナーに乗車して移動することが通例となっており、その際は「團十郎号」「海老蔵号」「成田屋号」として運転され記念ヘッドマークの掲出などが行われているが、スカイライナー運転開始前は一般車両で運転していたこともあった。
その他、過去にはスカイライナー1億人記念や京成電鉄100周年記念でのヘッドマーク掲出、エティハド航空のラッピング広告などが行われたことがある。
また、2005年3月9日にパク・ヨンハファンクラブの企画として団体列車『ヨンハライナー』が、2006年5月27日に成田空港第一ターミナルビルのグランドオープン記念として「まるごと体験教室」参加者輸送の団体列車『クウタン号』が運行された。
この節では、前段として成田山新勝寺への参拝観光列車である「開運号」、およびかつて新京成線・京成本線(一部は都営浅草線系統もあり)と千葉線に跨って運行された優等列車である急行・特急「九十九里号」などについても記載する。
2010年7月17日の新アクセスルート開業以降の早い時期(2010年代前半頃)に、羽田空港 - 成田空港間を65分で結ぶ構想があった。この所要時分は、「スカイライナー」の都営浅草線・京急線乗り入れを想定したものとなっていた。2008年9月7日には、浅草線とは別にバイパス目的で都営地下鉄新線を建設し、両空港間をさらに10分短縮する計画も浮上した。ただし、新AE形には先頭部に非常用貫通扉を装備しておらず、また都営浅草線や京急線のホームドアに対応していないため、都営浅草線乗り入れは不可能である。一方、AE100形は先頭部に非常用貫通扉を装備するが、先述と同様に通勤形電車とドアの位置が異なるほか、成田スカイアクセス線内での160 km/h運転に対応していない。またAE100形は京急空港線羽田(現・天空橋)開業時に試運転のため入線する予定になっていたが、当時の京急蒲田 - 糀谷間の急カーブを通過できないことが直前になって判明したため中止されている。
最終的には特急料金不要の通勤型車両を用いた「アクセス特急」を新設し、従来から都営浅草線・京急線内で運行されている「エアポート快特」をスカイアクセス線経由とすることが決定した。成田空港駅から羽田空港第1・第2ターミナル駅までの所要時間は最短1時間33分である。また日中は種別変更が行われる押上駅で横浜方面の列車に接続する。
その他、現行8両編成である2代目AE形を10両編成とする構想もある。
下記のCMやポスターでは、池袋駅や新宿駅など、「成田エクスプレス」が発着する駅からの到達時間も表示されている。
1990年代前半から、京成電鉄では「スカイライナー」のテレビCMを放送している。過去にちあきなおみ、GAO、都はるみ、DEEN、大貫妙子らがCMソングを担当した。
かつては「スカイライナー」の名称やイメージアップ向上を図った映像(霧の中を抜ける映像など)を使用していたことが多かった。近年では、日本国外に活動の場を求める人々を描くドラマ仕立てのものや、木下航志を起用したものが放送された。また、「速いのは、こっち。安いのも、こっち。」というフレーズで「成田エクスプレス」との対決姿勢を明確にしているCMもある。ただし、基本コンセプトは芸能人・イメージキャラクター等が登場しないスカイライナーが颯爽と走行するイメージアップCMである。
さらに、2010年6月から8月と2011年11月にかけて、成田スカイアクセス線の開業と合わせて新型スカイライナーをPRするCMを放送している。
2019年10月26日の増便に合わせて、『お客様は、お姫様。』というキャッチフレーズで、Sexy Zoneの中島健人が「京成王子」役で出演するテレビCM等が新たに放送されている。
ZOZOマリンスタジアムに於ける千葉ロッテマリーンズのホームゲームにて、佐々木朗希が投手として登板し投げた球速が160km/hを超えた場合、場内ビジョンにその球速とともに「最速160km/h 京成スカイライナー」と表示して演出している。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "スカイライナー(英語: Skyliner)は、京成電鉄が京成上野駅 - 成田空港駅間を京成本線・成田空港線(成田スカイアクセス線)経由で運行する、座席指定有料特急列車の列車愛称。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "京成電鉄の登録商標で、同社内における最速達の列車種別。料金不要の快速特急・特急とは別。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "本項では京成本線(京成船橋駅)経由で運行し、同じ車両を使用する座席定員有料列車の「モーニングライナー」「イブニングライナー」および「シティライナー」について、また京成電鉄における歴代の有料列車の沿革についても記述する。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "東京都区部から新東京国際空港(現・成田国際空港)への空港アクセス列車として、1978年(昭和53年)の新東京国際空港開港と同時に運行を開始した。開港当初は、新東京国際空港への唯一の空港連絡鉄道手段だった。「スカイライナー」の名称は、空港連絡列車の愛称として、日本全国の小学生からの公募により決定された。東日本旅客鉄道(JR東日本)の特急「成田エクスプレス」と競合関係にある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "開港当時は成田新幹線計画があったため、京成電鉄の成田空港駅(現在の東成田駅)は空港ターミナルから約1 km離れた場所に設置された。これにより同駅から空港ターミナルビルへ行くには、路線バスへの乗り継ぎが必要とされたことから、「スカイライナー」はリムジンバスなど他の交通機関との競争で苦戦を強いられた。その後、成田新幹線計画の消滅などにより、1991年(平成3年)3月にJR東日本とともに空港ターミナルビル直下となる、現在の成田空港駅への乗り入れを果たしている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "1979年(昭和54年)9月から、成田山新勝寺参詣客の利便性向上を目的に京成成田駅にも昼間時間帯の「スカイライナー」が停車するようになり、2003年(平成15年)7月より、ほぼすべての「スカイライナー」が停車するようになった。また2006年(平成18年)12月から、京成船橋駅にもほぼすべての「スカイライナー」が停車するようになり、JR東日本の「成田エクスプレス」が通過する千葉県中央部と成田国際空港との連絡列車としての側面を持つようになった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "2010年(平成22年)7月には、より短絡的に東京と成田空港を結ぶ京成成田空港線(成田スカイアクセス線)が開業し、従来の京成本線を経由するルートから同線経由へ運行ルートを変更した。さらに最高160 km/h運転が可能な2代目AE形電車を登場させたことで、それまで日暮里駅 - 空港第2ビル駅間で51分かかっていた所要時間が36分へと大幅に短縮されている。従来「スカイライナー」が運行されていた京成本線には「シティライナー」を新設し、京成成田駅や京成船橋駅などかつての「スカイライナー」停車駅の需要は同列車が担うこととなったが、需要の少なさからシティライナーは定期運行を終了し、現在は成田山新勝寺の初詣需要のための臨時列車(成田山開運号)が年末年始に運行されるのみとなっている。また、新AE型を用いて朝と夕方の通勤ラッシュ時間帯には有料着席保証列車の「モーニングライナー」と「イブニングライナー」が京成本線経由で定期運行されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "2015年(平成27年)3月14日に、北越急行の特急「はくたか」が廃止されて以降、「スカイライナー」は新幹線以外の日本の鉄道としては単独トップの160 km/h運転を行う列車でもある。新AE型で運行されるものの、京成本線経由の「モーニングライナー」「イブニングライナー」「シティライナー(臨時運行)」の最高速度はいずれも160 km/hではなく110 km/hである。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "2020年(令和2年)、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行の影響で、5月1日より日中時間帯の半数を運休する一方、4月11日からスカイライナーの一部が青砥駅に臨時停車をしており、青砥駅では浅草線発着列車と相互に接続する。成田空港行きは乗車のみ、京成上野行きは降車のみ取り扱う。ドアが開く号車も最後部車両に限定され、青砥から成田空港行きスカイライナーに乗車する場合は座席未指定で、空席に着席する形を取っていた。当初は成田空港行早朝便と京成上野行深夜便各6本(3・5・7・9・11・13・72・74・76・78・80・82号)のみだったが、6月1日以降は日中の一部も対象に加わり、追加分と合わせて計14往復が青砥に停車していた。減便は2021年(令和3年)10月29日、臨時停車は2022年(令和4年)2月25日をもって終了した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "2022年2月26日より、スカイライナーの一部列車について、青砥駅が正式な停車駅となる。これにより、青砥駅発着のスカイライナー券においても、座席指定、券売機での購入、Web予約およびチケットレスサービスの利用が可能となったほか、成田空港行きについては4号車からの乗車も可能となった。また、京成上野行きについては全ての号車からの降車が可能となった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "2022年11月26日より、新鎌ヶ谷駅での停車を開始(上下列車とも乗降可能)。成田空港行きは4・6号車から、京成上野行きは全号車からの乗降が可能。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "「スカイライナー」はおおむね20 - 40分に1本の割合で運転されており、さらに通勤時間帯には「モーニングライナー」・「イブニングライナー」が運行される。「シティライナー」は年末年始の成田山新勝寺への初詣需要に対応した臨時列車(成田山開運号)として運行されており、定期運行は行われていない。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "スカイライナーは、京成上野 - 成田空港間で運行される最速達列車および空港アクセス列車。初代のAE形落成と同時に「空港連絡特急」の愛称として、1972年9月からの1か月間、毎日小学生新聞の協力により、日本全国の小学生から公募して決定したものである。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1978年5月21日に本線(京成成田経由)で運行開始。成田空港線(成田スカイアクセス線)が開業した2010年7月17日から現在のルートによる運行が開始され、成田空港線印旛日本医大 - 空港第2ビル間は日本国内の在来線最速となる最高速度160 km/hで運転される。所要時間は、日暮里 - 空港第2ビル間を最速36分、京成上野 - 成田空港間を最速43分で結ぶ。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "運行時間帯は終日であるものの、夜間の成田空港方面は通勤需要などに応えるために本線経由のイブニングライナーとなることから、運行されない時間帯が存在する。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "「モーニングライナー」・「イブニングライナー」は、主に京成上野 - 京成成田間で通勤時間帯に運行される停車型列車。「スカイライナー」とは異なり、京成上野 - 成田空港間を京成本線経由で運行する。ホームライナー的な役割をもつ。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "「イブニングライナー」は1984年12月1日に、「モーニングライナー」は1985年10月19日に運行を開始した。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "主に通勤需要に対応する列車で、「モーニングライナー」は朝に京成上野方面上り列車4本、「イブニングライナー」は夕方以降に成田方面下り列車7本が設定されている(平日・土休日とも同じ本数)。各列車とも運行される時間帯に「スカイライナー」の運転を行わない時間帯が存在するため、空港輸送の観点から一部列車が成田空港駅に乗り入れる。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "当初は全列車が車両指定制の自由席となっていて、乗車駅ごとに指定された車両内の空席を利用する方式をとっていた。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "2015年12月5日より京成船橋駅に全列車が停車となり、「モーニングライナー」「イブニングライナー」共に全車指定席に変更された。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "号数は1991年にスカイライナーとともに付与され、当時は50番台始まり、後に60番台始まりとなった後、2017年10月28日より70番台始まりになり、スカイライナーが大幅増便された2019年10月26日からは200番台始まりとなった。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "「臨時ライナー」は、北総線内から都内方面への利便性向上を目的として、回送列車を活用して印旛日本医大始発京成上野行き1本のみ運行する。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2020年10月1日運行開始。平日のみ運行。全席自由席とし、ライナー券(500円)は乗車後、車内で現金でのみ発売。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "「シティライナー」は、大晦日から元旦の終夜運転や正月三が日、1月土休日の成田山新勝寺の初詣客輸送などのために臨時運転される列車で、京成上野 - 京成成田間を京成本線経由で運行される。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "運行当初は、成田スカイアクセス線開業に伴い「スカイライナー」が経由しなくなる京成本線の速達列車として、京成上野 - 京成成田・成田空港間に1日7往復設定されていた(うち京成上野方面上り2本・京成成田方面下り1本が成田空港駅始発・終着)。車両は臨時列車を除いてAE100形が使用された。基本的に日中の運行であったが、下り1本のみが朝の通勤時間帯に運行されていた。所要時間はスカイライナー時代は1時間だったのが75分程度に伸びてしまい、快速特急と同程度かやや遅い時間であったが、青砥駅にも停車するために浅草線方面からの乗り継ぎも可能であり、羽田空港とのアクセスに利用されることもあった。なお、料金形態は従来の料金を据置している。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2011年に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による計画停電や電力制限によって運休状態に陥り、その後2011年9月10日に2往復が京成成田駅発着で運行再開されたものの、2012年10月21日のダイヤ改正で1往復のみの設定となり、成田空港駅への乗り入れが正式に廃止された。さらに料金不要の下位列車とも時間差が縮まり利用離れが進んだ結果、2014年11月8日のダイヤ改正で土休日のみの運行となり、2015年12月5日のダイヤ改正によって定期列車としては廃止された。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2017年1月土休日のシティライナーは京成成田駅発着で2代目AE形で運転されたが、「成田山開運号」の愛称名が付き、正面には歌舞伎の市川家(成田屋)に由来する隈取をモチーフとしたラッピングによるヘッドマークが掲出された。2018年以降も大晦日から元日と1月土休日に継続して運転され、2020年大晦日から2021年1月にかけては、新型コロナウイルス感染拡大の影響で大晦日と元日深夜の運転が休止となったが、土休日運転は行われた。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "なお、「シティライナー」は2010年7月16日までスカイライナーとして使用されていたAE100形が使用されていたが、2010年 - 2011年以降の終夜運転における臨時列車では2代目AE形による運行が行われている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "なお、1990年から3年間の置き換え過渡期では初代AE形とAE100形が共通に運用されていた。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ライナー券などの予約・購入の詳細は公式サイト を確認のこと。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "「スカイライナー」などのライナー系列車は全車座席指定席制を採用している。「モーニングライナー」、「イブニングライナー」は当初は車両指定のみで、指定された車両内の空いている席を利用するようになっていた。利用の際は乗車券のほか「ライナー券」が必要となる。なお、いずれの列車もライナー券を購入すれば定期券でも利用可能である。また、いずれの列車も所定時刻より1時間以上遅延した場合は、ライナー料金は全額払い戻しとなる。いずれも小児半額だが、障害者割引は適用されない。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "なお、各ライナーとも乗車券と特別急行券(ライナー券)の2段構成であり、乗車券部分には定期を含む乗車券の組合せや、全国相互対応ICカード等の適用が可能である。また、駅窓口で予約・支払を同時に行う場合には、Suicaに限りライナー券の購入に充てる事が可能(PASMOや他の全国相互対応カード等は不可。モバイル系も不可)。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "料金は2022年4月25日改定。「スカイライナー」は京成上野・日暮里⇔空港第2ビル・成田空港は1,300円、青砥⇔空港第2ビル・成田空港は1,050円、新鎌ヶ谷⇔空港第2ビル・成田空港は800円、京成上野・日暮里⇔新鎌ヶ谷は500円、青砥⇔新鎌ヶ谷は300円、「シティライナー」は京成上野・日暮里・青砥 ⇔ 京成成田で1,000円、京成船橋乗降と京成上野・日暮里 ⇔ 青砥は550円となっている。当日発売のほか乗車日の1か月前から前売り発売も行っている。ライナー券の発売箇所は各停車駅で販売されている。また系列会社の京成トラベルサービスなどのほか、主な旅行会社などでも購入が可能で、2001年からはiモードやEZWeb、Yahoo!ケータイ、京成電鉄の公式サイト(外部リンク参照)などでも予約が可能となっている。さらに2010年からはチケットレスサービスも開始している。この他、11枚綴り13,000円の「ライナー回数券」も発売されている(3か月間有効)。ライナー回数券以外はライナー券単独で購入することはできず、事前に有効な乗車券(ICカード乗車券および定期乗車券含む)を持っていない限り、乗車券とセット販売である。上下列車ともスカイライナーで京成上野 - 青砥間各駅、空港第2ビル - 成田空港間およびシティライナーで京成上野 - 日暮里間のみの利用はできない。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "両列車とも車掌が所持する端末でライナー券の発売状況を確認することができ、あらかじめ指定された座席に着席している乗客に対しては車内改札が省略されている。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2015年12月4日までは車両指定の定員制で、各駅ごとに着席できる号車が割り振られていた。座席は指定されないが、定員分以上の発売を行わないので着席は保証されていた。同年12月5日からは全車指定席となった。基本的には当日の発車時刻数十分前から直近の列車のライナー券のみを発売する。ライナー券売機には残席数が大きくLED表示され、売れ切れた場合はその列車には乗車できない(JRのような立席券は発売されない)。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "「イブニングライナー」の一部の座席に限っては、前売り発売を行っており、京成上野案内所、日暮里、空港第2ビル、成田空港の各駅とJTBトラべランドと近畿日本ツーリストおよび日本旅行にて購入できる。両列車ともチケットレスサービスの利用は可能であるが、ネット予約やチケット予約サービス等は利用できない。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "この他、「モーニングライナー」については枚数限定でライナー定期券「モーニングPASS」(毎月25日から月末まで発売され、次月1日から末日まで有効 8,150円 小児料金や通学の設定はなく、持参人方式 定期券販売所で発売。定期券を取り扱わない駅は駅窓口)も設定されている(京成船橋・八千代台・京成佐倉・京成成田駅のみ発売で、成田空港・空港第2ビル発は設定がない)。なお、「モーニングライナー」ならばどの列車でも良いというわけではなく、乗車駅・利用列車・号車は指定されており、指定されたモーニングライナーより先行の列車に乗るにはライナー券の購入が必要であり、乗り遅れた場合の救済措置はない。またモーニングPASSに乗車券としての効力はなく、あくまでライナー券の定期券式販売である。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2022年4月25日、イブニングPASSの発売を開始し、同年5月より使用を開始する。イブニングPASSは毎月1日〜末日まで任意のイブニングライナーを何度でも利用できる定期券式のPASSである(別途乗車券が必要)。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "「モーニングライナー(上り)」の場合、成田空港・空港第2ビル・京成成田・京成佐倉・八千代台・京成船橋が乗車可能駅、青砥・日暮里・京成上野が降車専用駅である。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "「イブニングライナー(下り)」は京成上野 - 京成成田が乗車可能駅、空港第2ビル・成田空港が降車専用駅となっている。ただし、八千代台駅、京成佐倉駅、京成成田駅から下りイブニングライナーを利用する場合、座席の指定はできない(チケットレスは除く)。 モーニングライナー券を購入した上で成田空港 - 八千代台間の各駅相互間、イブニングライナー券を購入した上で京成上野 - 青砥間の各駅相互間を利用することも可能であるが、下りイブニングライナーの空港第2ビル - 成田空港間および上りモーニングライナーの青砥 - 京成上野間のみの利用はできない。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "両列車とも車内改札は行わず、駅ごとに指定された列車乗車口にて係員が乗車時に改札を行う。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2010年11月15日より京成の特急券類としては日本国外で初となる「スカイライナークーポン」の発売を開始した。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "発売するのは日本国外の提携旅行会社で、発売額は2,250円。京成上野駅・日暮里駅・空港第2ビル駅・成田空港駅のいずれかで片道分の乗車券・スカイライナー券と引き換えて使用する。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "また、京成公式サイトより、e-ticketを購入することも可能である。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "上り限定で成田空港・空港第2ビルからの割引チケットであり、発売額は2,250円。成田空港駅・空港第2ビル駅のいずれかのライナー券発売カウンターで(2017年現在、成田空港の第1旅客ターミナルの南ウイング1階の京成電鉄乗車券販売カウンターでも可能)、片道分の乗車券・スカイライナー券と引き換える必要がある。発売箇所は次の通り。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "なお、発売当日のみ有効のため、最終のスカイライナーに間に合わない場合は発売されない。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "また、訪日外国人観光客を対象として、下りのスカイライナーバリューチケットを、浅草駅と池袋駅の観光案内所、一部の都内ホテルで発売している。",
"title": "ライナー券"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "毎年12月31日(下り)および1月1日(上り)には初詣臨時列車として深夜時間帯に京成上野駅 - 京成成田駅間にて臨時「シティライナー」(成田スカイアクセス線開業前は「スカイライナー」)が運転されている。「シティライナー」では定期列車時代はAE100形が使用されていたが、この深夜の臨時「シティライナー」では新AE形で運転されている。",
"title": "臨時列車・記念列車など"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "成田山新勝寺と縁が深い歌舞伎の市川家(成田屋)が成田山で襲名披露を実施する場合は、京成上野駅 - 京成成田駅間をスカイライナーに乗車して移動することが通例となっており、その際は「團十郎号」「海老蔵号」「成田屋号」として運転され記念ヘッドマークの掲出などが行われているが、スカイライナー運転開始前は一般車両で運転していたこともあった。",
"title": "臨時列車・記念列車など"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "その他、過去にはスカイライナー1億人記念や京成電鉄100周年記念でのヘッドマーク掲出、エティハド航空のラッピング広告などが行われたことがある。",
"title": "臨時列車・記念列車など"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "また、2005年3月9日にパク・ヨンハファンクラブの企画として団体列車『ヨンハライナー』が、2006年5月27日に成田空港第一ターミナルビルのグランドオープン記念として「まるごと体験教室」参加者輸送の団体列車『クウタン号』が運行された。",
"title": "臨時列車・記念列車など"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "この節では、前段として成田山新勝寺への参拝観光列車である「開運号」、およびかつて新京成線・京成本線(一部は都営浅草線系統もあり)と千葉線に跨って運行された優等列車である急行・特急「九十九里号」などについても記載する。",
"title": "京成電鉄成田国際空港連絡優等列車沿革"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2010年7月17日の新アクセスルート開業以降の早い時期(2010年代前半頃)に、羽田空港 - 成田空港間を65分で結ぶ構想があった。この所要時分は、「スカイライナー」の都営浅草線・京急線乗り入れを想定したものとなっていた。2008年9月7日には、浅草線とは別にバイパス目的で都営地下鉄新線を建設し、両空港間をさらに10分短縮する計画も浮上した。ただし、新AE形には先頭部に非常用貫通扉を装備しておらず、また都営浅草線や京急線のホームドアに対応していないため、都営浅草線乗り入れは不可能である。一方、AE100形は先頭部に非常用貫通扉を装備するが、先述と同様に通勤形電車とドアの位置が異なるほか、成田スカイアクセス線内での160 km/h運転に対応していない。またAE100形は京急空港線羽田(現・天空橋)開業時に試運転のため入線する予定になっていたが、当時の京急蒲田 - 糀谷間の急カーブを通過できないことが直前になって判明したため中止されている。",
"title": "今後の計画"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "最終的には特急料金不要の通勤型車両を用いた「アクセス特急」を新設し、従来から都営浅草線・京急線内で運行されている「エアポート快特」をスカイアクセス線経由とすることが決定した。成田空港駅から羽田空港第1・第2ターミナル駅までの所要時間は最短1時間33分である。また日中は種別変更が行われる押上駅で横浜方面の列車に接続する。",
"title": "今後の計画"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "その他、現行8両編成である2代目AE形を10両編成とする構想もある。",
"title": "今後の計画"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "下記のCMやポスターでは、池袋駅や新宿駅など、「成田エクスプレス」が発着する駅からの到達時間も表示されている。",
"title": "広告について"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1990年代前半から、京成電鉄では「スカイライナー」のテレビCMを放送している。過去にちあきなおみ、GAO、都はるみ、DEEN、大貫妙子らがCMソングを担当した。",
"title": "広告について"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "かつては「スカイライナー」の名称やイメージアップ向上を図った映像(霧の中を抜ける映像など)を使用していたことが多かった。近年では、日本国外に活動の場を求める人々を描くドラマ仕立てのものや、木下航志を起用したものが放送された。また、「速いのは、こっち。安いのも、こっち。」というフレーズで「成田エクスプレス」との対決姿勢を明確にしているCMもある。ただし、基本コンセプトは芸能人・イメージキャラクター等が登場しないスカイライナーが颯爽と走行するイメージアップCMである。",
"title": "広告について"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "さらに、2010年6月から8月と2011年11月にかけて、成田スカイアクセス線の開業と合わせて新型スカイライナーをPRするCMを放送している。",
"title": "広告について"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2019年10月26日の増便に合わせて、『お客様は、お姫様。』というキャッチフレーズで、Sexy Zoneの中島健人が「京成王子」役で出演するテレビCM等が新たに放送されている。",
"title": "広告について"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ZOZOマリンスタジアムに於ける千葉ロッテマリーンズのホームゲームにて、佐々木朗希が投手として登板し投げた球速が160km/hを超えた場合、場内ビジョンにその球速とともに「最速160km/h 京成スカイライナー」と表示して演出している。",
"title": "広告について"
}
] | スカイライナーは、京成電鉄が京成上野駅 - 成田空港駅間を京成本線・成田空港線(成田スカイアクセス線)経由で運行する、座席指定有料特急列車の列車愛称。 京成電鉄の登録商標で、同社内における最速達の列車種別。料金不要の快速特急・特急とは別。 本項では京成本線(京成船橋駅)経由で運行し、同じ車両を使用する座席定員有料列車の「モーニングライナー」「イブニングライナー」および「シティライナー」について、また京成電鉄における歴代の有料列車の沿革についても記述する。 | {{複数の問題|未検証=2018年1月|更新=2019年10月}}
{{Otheruses|京成電鉄の有料列車|その他の用法|スカイライナー (曖昧さ回避)}}
{{Infobox 列車名
|列車名=スカイライナー<br />モーニングライナー<br />イブニングライナー<br />シティライナー
|画像= Keisei-Type-AE.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=「スカイライナー」に使用される[[京成AE形電車 (2代)|二代目AE形電車]]<br />(2020年7月 [[松飛台駅]])
|国={{JPN}}
|種類=[[特別急行列車]]<br />(シティライナーは臨時列車)
|現況=運行中
|地域=東京都・千葉県
|前身=特急「開運号」
|運行開始=[[1978年]][[5月21日]](スカイライナー)<br />[[2010年]][[7月17日]](シティライナー)
|運行終了=
|後継=
|運営者=[[京成電鉄]]
|起点=[[京成上野駅]]
|停車地点数=4 - 6駅(スカイライナー、起終点含む)
|終点=[[成田空港駅]](スカイライナー)<br />[[京成成田駅]](シティライナー)
|営業距離={{Convert|64.1|km|mi|abbr=on}}(スカイライナー)<br />{{Convert|61.2|km|mi|abbr=on}}(シティライナー)
|平均所要時間=36分(スカイライナー・日暮里 - 空港第2ビル間、途中駅無停車の列車)
|列車番号=始発駅の時刻+AE+運行番号+列車番号が重複した場合は末尾にa,b,c,…と区別<br/>6AE10(臨時ライナー)
|使用路線=[[京成本線|本線]]・[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]<br />(成田スカイアクセス線はスカイライナーのみ)
|車両=[[京成AE形電車 (2代)|二代目京成AE形電車]]
|クラス=普通車
|座席=普通車全車指定席
|軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]
|電化=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]
|最高速度=160km/h(印旛日本医大 - 空港第2ビル間)
|線路所有者='''スカイライナー'''<br/>京成電鉄(京成上野 - 京成高砂間)<br/>[[北総鉄道]]([[京成高砂駅|京成高砂]] - [[小室駅|小室]]間)<br/>[[千葉ニュータウン鉄道]](小室 - [[印旛日本医大駅|印旛日本医大]]間)<br/>[[成田高速鉄道アクセス]](印旛日本医大 - 成田空港高速鉄道鉄道点間)<br/>[[成田空港高速鉄道]](成田空港高速鉄道鉄道点 - 成田空港間)<br/>'''スカイライナー以外の列車'''<br/>京成電鉄(京成上野 - 駒井野信号場間)<br/>成田空港高速鉄道(駒井野信号場 - 成田空港間)
}}
'''スカイライナー'''({{lang-en|Skyliner}})は、[[京成電鉄]]が[[京成上野駅]] - [[成田空港駅]]間を[[京成本線]]・[[京成成田空港線|成田空港線(成田スカイアクセス線)]]経由で運行する、座席指定有料特急列車の[[列車愛称]]。
京成電鉄の[[商標|登録商標]]{{Refnest|group="注釈"|日本第2069128号、第2601130号、第3027641号、第3028318号、第3036269号、第3036271号、第3248097号}}で、同社内における最速達の[[列車種別]]。[[特別急行列車#料金不要の「特急」|料金不要の快速特急・特急]]とは別。
本項では[[京成本線]]([[京成船橋駅]])経由で運行し、同じ車両を使用する[[ホームライナー|座席定員有料列車]]の「'''モーニングライナー'''」「'''イブニングライナー'''」および「'''シティライナー'''」<ref>大塚良治『「通勤ライナー」はなぜ乗客にも鉄道会社にも得なのか』東京堂出版、2013年12月、38頁。</ref>について、また京成電鉄における歴代の有料列車の沿革についても記述する。
== 概要 ==
[[ファイル:Keisei-ae.jpg|thumb|180px|初代「スカイライナー」AE形(京成高砂駅)<br />登場当初はクリーム地に茶色の車体塗装だった。]]
[[東京都区部]]から新東京国際空港(現・[[成田国際空港]])への空港アクセス列車として、[[1978年]]([[昭和]]53年)の新東京国際空港開港と同時に運行を開始した。開港当初は、新東京国際空港への唯一の[[空港連絡鉄道]]手段だった。「スカイライナー」の名称は、空港連絡列車の愛称として、日本全国の[[小学生]]からの[[公募]]により決定された<ref name="rp_1987_10_87">鉄道ピクトリアル 1987年10月臨時増刊号(No.486)『京成電鉄』「京成間鉄路のレース 今昔記」87頁</ref>。[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[特別急行列車|特急]]「[[成田エクスプレス]]」と競合関係にある。
開港当時は[[成田新幹線]]計画があったため、京成電鉄の成田空港駅(現在の[[東成田駅]])は空港ターミナルから約1 km離れた場所に設置された。これにより同駅から[[空港ターミナルビル]]へ行くには、[[路線バス]]への乗り継ぎが必要とされたことから、「スカイライナー」は[[リムジンバス]]など他の交通機関との競争で苦戦を強いられた。その後、成田新幹線計画の消滅などにより、[[1991年]]([[平成]]3年)3月にJR東日本とともに空港ターミナルビル直下となる、現在の[[成田空港駅]]への乗り入れを果たしている。
[[1979年]](昭和54年)9月から、[[成田山新勝寺]]参詣客の利便性向上を目的に[[京成成田駅]]にも昼間時間帯の「スカイライナー」が停車するようになり<ref>鉄道ピクトリアル 1987年10月臨時増刊号(No.486)『京成電鉄』「京成間鉄路のレース 今昔記」88頁</ref>、[[2003年]](平成15年)7月より、ほぼすべての「スカイライナー」が停車するようになった。また[[2006年]](平成18年)12月から、[[京成船橋駅]]にもほぼすべての「スカイライナー」が停車するようになり<ref name = 2006-12>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20061208024317if_/http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/18-047.pdf 12月10日 京成線ダイヤ改正実施 ]}}(京成電鉄ニューリリース・インターネットアーカイブ・2006年時点の版)</ref>、JR東日本の「[[成田エクスプレス]]」が通過する千葉県中央部と成田国際空港との連絡列車としての側面を持つようになった。
[[2010年]](平成22年)7月には、より短絡的に東京と成田空港を結ぶ[[京成成田空港線]](成田スカイアクセス線)が開業し、従来の[[京成本線]]を経由するルートから同線経由へ運行ルートを変更した<ref name = 2010-7>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20131109110321fw_/http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-017.pdf 成田スカイアクセス開業!! 7月17日(土)京成線ダイヤ改正 ]}}(京成電鉄ニューリリース・インターネットアーカイブ・2013年時点の版)</ref>。さらに最高160 km/h運転が可能な[[京成AE形電車 (2代)|2代目AE形電車]]を登場させたことで、それまで[[日暮里駅]] - [[空港第2ビル駅]]間で51分かかっていた所要時間が36分へと大幅に短縮されている。従来「スカイライナー」が運行されていた京成本線には「'''シティライナー'''」を新設し、京成成田駅や京成船橋駅などかつての「スカイライナー」停車駅の需要は同列車が担うこととなったが、需要の少なさからシティライナーは定期運行を終了し、現在は成田山新勝寺の[[初詣]]需要のための臨時列車(成田山開運号)が[[年末年始]]に運行されるのみとなっている。また、新AE型を用いて朝と夕方の通勤ラッシュ時間帯には[[ホームライナー|有料着席保証列車]]の「'''モーニングライナー'''」と「'''イブニングライナー'''」が京成本線経由で定期運行されている。
[[2015年]](平成27年)[[3月14日]]に、[[北越急行]]の特急「[[はくたか]]」が廃止されて以降、「スカイライナー」は[[新幹線]]以外の日本の鉄道としては単独トップの160 km/h運転を行う列車でもある<ref name="160km/h">{{Cite book|和書|author=伊藤博康 |title=日本の鉄道ナンバーワン&オンリーワン ―日本一の鉄道をたずねる旅 |year=2014 |publisher=[[創元社]] |isbn=978-4-422-24069-5 |ref=harv}}</ref>。新AE型で運行されるものの、京成本線経由の「モーニングライナー」「イブニングライナー」「シティライナー(臨時運行)」の最高速度はいずれも160 km/hではなく110 km/hである。
[[2020年]]([[令和]]2年)、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]流行の影響で、[[5月1日]]より日中時間帯の半数を運休する一方、[[4月11日]]からスカイライナーの一部が[[青砥駅]]に臨時停車をしており、青砥駅では浅草線発着列車と相互に接続する。成田空港行きは乗車のみ、京成上野行きは降車のみ取り扱う。ドアが開く号車も最後部車両に限定され、青砥から成田空港行きスカイライナーに乗車する場合は座席未指定で、空席に着席する形を取っていた<ref name="pr20200406" group="広報"/>。当初は成田空港行早朝便と京成上野行深夜便各6本(3・5・7・9・11・13・72・74・76・78・80・82号)のみだったが、[[6月1日]]以降は日中の一部も対象に加わり、追加分と合わせて計14往復が青砥に停車していた<ref>{{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200525_180019406459.pdf スカイライナー 一部列車の青砥駅停車便の拡大及び運休継続について(6月1日から当面の間)]}} - 京成電鉄 2020年5月25日</ref>。減便は[[2021年]](令和3年)[[10月29日]]、臨時停車は[[2022年]](令和4年)[[2月25日]]をもって終了した。
2022年[[2月26日]]より、スカイライナーの一部列車について、青砥駅が正式な停車駅となる。これにより、青砥駅発着のスカイライナー券においても、座席指定、券売機での購入、Web予約およびチケットレスサービスの利用が可能となったほか、成田空港行きについては4号車からの乗車も可能となった。また、京成上野行きについては全ての号車からの降車が可能となった。
2022年[[11月26日]]より、新鎌ヶ谷駅での停車を開始(上下列車とも乗降可能)。成田空港行きは4・6号車から、京成上野行きは全号車からの乗降が可能。
== 運行概況 ==
=== 運行本数 ===
「スカイライナー」はおおむね20 - 40分に1本の割合で運転されており、さらに通勤時間帯には「モーニングライナー」・「イブニングライナー」が運行される。「シティライナー」は年末年始の[[成田山新勝寺]]への[[初詣]]需要に対応した臨時列車(成田山開運号)として運行されており、定期運行は行われていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20191204_175057030415.pdf#search=%27成田山開運号%27|title=成田山新勝寺・柴又帝釈天等への参詣をより便利に!
年末・年始は臨時ダイヤで運転します|accessdate=2020/07/13|publisher=京成電鉄}}</ref>。
===停車駅===
; スカイライナー
: ノンストップ便:[[京成上野駅]] - [[日暮里駅]] - (成田スカイアクセス線経由) - [[空港第2ビル駅]] - [[成田空港駅]]
: 停車駅追加便:[[京成上野駅]] - [[日暮里駅]] - [[青砥駅]] - [[新鎌ヶ谷駅]] - [[空港第2ビル駅]] - [[成田空港駅]]
:* 2022年2月26日より一部が[[青砥駅]]に停車<ref name="pr20220125"
group="広報"/>、青砥で押上方面の電車と接続。同年11月26日より一部が新鎌ヶ谷駅に停車。
; モーニングライナー・イブニングライナー・シティライナー(臨時)
: 京成上野駅 - 日暮里駅 - 青砥駅 - [[京成船橋駅]] - [[八千代台駅]]* - [[京成佐倉駅]]* - 京成成田駅 - 空港第2ビル駅 - 成田空港駅
:* イブニングライナーの一部列車とシティライナー(臨時)は京成上野 - 京成成田間のみの運転。
:* <nowiki>*</nowiki>はシティライナー通過駅。
; 臨時ライナー
: [[印旛日本医大駅]] - [[千葉ニュータウン中央駅]] - 青砥駅 - 日暮里駅 - 京成上野駅
:*京成上野行きのみ運転。所要時間は46分と最速のスカイライナーの京成上野 - 成田空港間よりも時間がかかる。
:*印旛日本医大・千葉ニュータウン中央は乗車のみ、青砥・日暮里・京成上野は降車のみ取扱。
:*青砥始発の[[京成押上線]]列車に接続。
=== 列車愛称 ===
==== 運行中 ====
===== スカイライナー =====
[[file:Keisei Electric Railway AE100.jpg|thumb|180px|2代目「スカイライナー」AE100形(京成関屋駅)]]
'''スカイライナー'''は、京成上野 - 成田空港間で運行される最速達列車および空港アクセス列車。初代の[[京成AE形電車 (初代)|AE形]]落成と同時に「空港連絡特急」の愛称として、[[1972年]]9月からの1か月間、[[毎日小学生新聞]]<!-- 朝日と毎日のどちらであるかも出典を添えて書いて下さい。「小学生新聞」だけでは、どちらなのかわかりません。 -->の協力により、日本全国の小学生から公募して決定したものである。
*応募総数28,476通<ref name="rp_1987_10_87"/>から、上位30作とその他から優秀作として選定された20作を候補とし、[[11月11日]]に選考会で正式に選定された。この時の主な候補には、のちに[[新幹線]]の列車愛称となる「はやぶさ」「つばさ」「はやて」や「成田号」「流星号」「いなづま」「あおぞら」「はやかぜ」などがあった。
1978年5月21日に本線(京成成田経由)で運行開始。[[京成成田空港線|成田空港線]](成田スカイアクセス線)が開業した2010年7月17日から現在のルートによる運行が開始され、成田空港線印旛日本医大 - 空港第2ビル間は日本国内の在来線最速となる最高速度160 km/hで運転される{{Refnest|group="注釈"|2015年3月15日まではJR・北越急行の[[はくたか]]と同速度で1位であった<ref name="160km/h"/>。}}。所要時間は、日暮里 - 空港第2ビル間を最速36分、京成上野 - 成田空港間を最速43分で結ぶ。
運行時間帯は終日であるものの、夜間の成田空港方面は通勤需要などに応えるために本線経由のイブニングライナーとなることから、運行されない時間帯が存在する。
2023年11月ダイヤ改正で、22時以降の上りの一部列車が青砥駅・新鎌ヶ谷駅へ停車するようになり、また同時に号数を速達便が0番台始まりに、青砥駅・新鎌ヶ谷駅の停車便は100番台として区別されるようになった。
===== モーニングライナー・イブニングライナー =====
「モーニングライナー」・「イブニングライナー」は、主に京成上野 - 京成成田間で通勤時間帯に運行される停車型列車。「スカイライナー」とは異なり、京成上野 - 成田空港間を京成本線経由で運行する。[[ホームライナー]]的な役割をもつ。
「イブニングライナー」は1984年12月1日に、「モーニングライナー」は1985年10月19日に運行を開始した。
主に通勤需要に対応する列車で、「モーニングライナー」は朝に京成上野方面上り列車4本、「イブニングライナー」は夕方以降に成田方面下り列車7本が設定されている(平日・土休日とも同じ本数)。各列車とも運行される時間帯に「スカイライナー」の運転を行わない時間帯が存在するため、空港輸送の観点から一部列車が成田空港駅に乗り入れる。
当初は全列車が車両指定制の[[自由席]]となっていて、乗車駅ごとに指定された車両内の空席を利用する方式をとっていた。
[[2015年]][[12月5日]]より[[京成船橋駅]]に全列車が停車となり、「モーニングライナー」「イブニングライナー」共に全車指定席に変更された。
号数は1991年にスカイライナーとともに付与され、当時は50番台始まり、後に60番台始まりとなった後、2017年10月28日より70番台始まりになり、スカイライナーが大幅増便された2019年10月26日からは200番台始まりとなった。
===== 臨時ライナー =====
「臨時ライナー」は、北総線内から都内方面への利便性向上を目的として、[[回送]]列車を活用して[[印旛日本医大駅|印旛日本医大]]始発京成上野行き1本のみ運行する<ref>[https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200924_161834532868.pdf 印旛日本医大駅・千葉ニュータウン中央駅に停車するAE形車両を用いた「臨時ライナー」を運行します(10月1日から)] - 京成電鉄ニュースリリース 2020年9月24日</ref>。
[[2020年]][[10月1日]]運行開始。平日のみ運行。全席自由席とし、ライナー券(500円)は乗車後、車内で現金でのみ発売。
==== 定期列車としては廃止された愛称 ====
===== シティライナー(臨時運行) =====
「シティライナー」は、大晦日から元旦の終夜運転や正月三が日、1月土休日の[[成田山新勝寺]]の初詣客輸送などのために臨時運転される列車で、京成上野 - 京成成田間を京成本線経由で運行される。
運行当初は、成田スカイアクセス線開業に伴い「スカイライナー」が経由しなくなる京成本線の速達列車として、京成上野 - 京成成田・成田空港間に1日7往復設定されていた(うち京成上野方面上り2本・京成成田方面下り1本が成田空港駅始発・終着)。車両は臨時列車を除いてAE100形が使用された。基本的に日中の運行であったが、下り1本のみが朝の通勤時間帯に運行されていた。所要時間はスカイライナー時代は1時間だったのが75分程度に伸びてしまい、快速特急と同程度かやや遅い時間であったが、[[青砥駅]]にも停車するために浅草線方面からの乗り継ぎも可能であり、羽田空港とのアクセスに利用されることもあった。なお、料金形態は従来の料金を据置している。
2011年に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])による[[計画停電]]や電力制限によって運休状態に陥り、その後2011年9月10日に2往復が京成成田駅発着で運行再開された<ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/23-034.pdf 電力使用制限解除に伴う京成線の運行等について]}} - 京成電鉄 2011年9月6日</ref>ものの、2012年10月21日のダイヤ改正で1往復のみの設定となり、成田空港駅への乗り入れが正式に廃止された<ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/120919_02.pdf 10月21日(日)京成線ダイヤ改正]}} - 京成電鉄 2012年9月19日</ref>。さらに料金不要の下位列車とも時間差が縮まり利用離れが進んだ結果、2014年11月8日のダイヤ改正で土休日のみの運行となり<ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/141002_03.pdf 11月8日(土)京成線ダイヤ改正]}} - 京成電鉄ニュースリリース 2014年10月2日</ref>、2015年12月5日のダイヤ改正によって定期列車としては廃止された<ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/151022_01.pdf 12月5日(土)京成線ダイヤ改正]}} - 京成電鉄 2015年10月22日</ref>。
[[2017年]]1月土休日のシティライナーは京成成田駅発着で2代目AE形で運転されたが、「'''成田山開運号'''」の愛称名が付き、正面には歌舞伎の[[成田屋|市川家(成田屋)]]に由来する[[隈取]]をモチーフとしたラッピングによるヘッドマークが掲出された<ref group="広報">{{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/161201_01.pdf 年末・年始は臨時ダイヤで運転します]}} - 京成電鉄ニュースリリース 2016年12月1日</ref>。2018年以降も大晦日から元日と1月土休日に継続して運転され、2020年大晦日から2021年1月にかけては、新型コロナウイルス感染拡大の影響で大晦日と元日深夜の運転が休止となったが、土休日運転は行われた。
== 車両 ==
=== 現用車両 ===
[[File:AEcityliner.jpg|thumb|2代目AE形による「シティライナー」]]
* [[京成AE形電車 (2代)|2代目AE形]] - 8両編成、160 km/h運転対応。「スカイライナー」・「モーニングライナー」・「イブニングライナー」で使用。臨時列車「シティライナー」でも使用される。
なお、「シティライナー」は2010年7月16日までスカイライナーとして使用されていたAE100形が使用されていたが、2010年 - 2011年以降の終夜運転における臨時列車では2代目AE形による運行が行われている。
=== 過去の車両 ===
* [[京成AE形電車 (初代)|初代AE形]] - [[1993年]][[6月27日]]まで使用。
* [[京成AE100形電車|AE100形]] - [[1990年]][[6月19日]]から<ref name="asahi1990620">{{Cite news
| title = 京成に新型スカイライナー 乗客争奪JRに先手 来春の空港―上野直結にらみ
| newspaper = [[朝日新聞]]
| date = 1990-06-20
| author =
| publisher = 朝日新聞社
| page = 朝刊 27
}}</ref>[[2010年]][[7月16日]]まで使用。
なお、[[1990年]]から3年間の置き換え過渡期では初代AE形とAE100形が共通に運用されていた。
== ライナー券 ==
[[File:SkyLinerTicket.png|thumb|スカイライナー券]]
''ライナー券などの予約・購入の詳細は公式サイト [http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/skyliner/jp/ae_ticket/index.php] を確認のこと。''
「スカイライナー」などのライナー系列車は全車座席指定席制を採用している。「モーニングライナー」、「イブニングライナー」は当初は車両指定のみで、指定された車両内の空いている席を利用するようになっていた。利用の際は乗車券のほか「ライナー券」が必要となる。なお、いずれの列車もライナー券を購入すれば[[定期乗車券|定期券]]でも利用可能である。また、いずれの列車も所定時刻より'''1時間以上遅延'''した場合は、ライナー料金は全額払い戻しとなる。いずれも小児半額だが、障害者割引は適用されない。
なお、各ライナーとも乗車券と特別急行券(ライナー券)の2段構成であり、乗車券部分には定期を含む乗車券の組合せや、[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互対応ICカード等]]の適用が可能である。また、駅窓口で予約・支払を同時に行う場合には、'''[[Suica]]に限り'''ライナー券の購入に充てる事が可能(PASMOや他の[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互対応カード等]]は不可。モバイル系も不可)。
=== スカイライナー・シティライナー券 ===
料金は2022年4月25日改定<ref name="pr20220325" group="広報"/>。「スカイライナー」は京成上野・日暮里⇔空港第2ビル・成田空港は1,300円、青砥⇔空港第2ビル・成田空港は1,050円、新鎌ヶ谷⇔空港第2ビル・成田空港は800円、京成上野・日暮里⇔新鎌ヶ谷は500円、青砥⇔新鎌ヶ谷は300円、「シティライナー」は京成上野・日暮里・青砥 ⇔ 京成成田で1,000円、京成船橋乗降と京成上野・日暮里 ⇔ 青砥は550円となっている。当日発売のほか乗車日の1か月前から前売り発売も行っている。ライナー券の発売箇所は各停車駅で販売されている。また系列会社の[[京成トラベルサービス]]などのほか、主な[[旅行会社]]などでも購入が可能で、[[2001年]]からは[[iモード]]や[[EZWeb]]、[[Yahoo!ケータイ]]、京成電鉄の公式[[ウェブサイト|サイト]](外部リンク参照)などでも予約が可能となっている。さらに2010年からはチケットレスサービスも開始している。この他、11枚綴り13,000円の「ライナー回数券」も発売されている(3か月間有効)。ライナー回数券以外はライナー券単独で購入することはできず、事前に有効な乗車券([[IC乗車カード|ICカード乗車券]]および定期乗車券含む)を持っていない限り、乗車券とセット販売である。上下列車ともスカイライナーで京成上野 - 青砥間各駅、空港第2ビル - 成田空港間およびシティライナーで京成上野 - 日暮里間のみの利用はできない。
両列車とも[[車掌]]が所持する端末でライナー券の発売状況を確認することができ、あらかじめ指定された座席に着席している乗客に対しては車内改札が省略されている。
=== モーニングライナー・イブニングライナー券 ===
2015年12月4日までは車両指定の[[定員#定員制|定員制]]で、各駅ごとに着席できる号車が割り振られていた。座席は指定されないが、定員分以上の発売を行わないので着席は保証されていた。同年12月5日からは全車指定席となった。基本的には当日の発車時刻数十分前から直近の列車のライナー券のみを発売する。ライナー券売機には残席数が大きくLED表示され、売れ切れた場合はその列車には乗車できない(JRのような[[特別急行券#立席特急券|立席券]]は発売されない)。
「イブニングライナー」の一部の座席に限っては、前売り発売を行っており、京成上野案内所、日暮里、空港第2ビル、成田空港の各駅と[[JTBトラべランド]]と[[近畿日本ツーリスト]]および[[日本旅行]]にて購入できる。両列車ともチケットレスサービスの利用は可能であるが、ネット予約やチケット予約サービス等は利用できない。
この他、「モーニングライナー」については枚数限定でライナー定期券「モーニングPASS」(毎月25日から月末まで発売され、次月1日から末日まで有効 8,150円 小児料金や通学の設定はなく、持参人方式 定期券販売所で発売。定期券を取り扱わない駅は駅窓口)も設定されている(京成船橋・八千代台・京成佐倉・京成成田駅のみ発売で、成田空港・空港第2ビル発は設定がない)。なお、「モーニングライナー」ならばどの列車でも良いというわけではなく、乗車駅・利用列車・号車は指定されており、指定されたモーニングライナーより先行の列車に乗るにはライナー券の購入が必要であり、乗り遅れた場合の救済措置はない。またモーニングPASSに乗車券としての効力はなく、あくまでライナー券の定期券式販売である。
2022年4月25日、イブニングPASSの発売を開始し、同年5月より使用を開始する。イブニングPASSは毎月1日〜末日まで任意のイブニングライナーを何度でも利用できる定期券式のPASSである(別途乗車券が必要)。
「モーニングライナー(上り)」の場合、成田空港・空港第2ビル・京成成田・京成佐倉・八千代台・京成船橋が乗車可能駅、[[青砥駅|青砥]]・日暮里・京成上野が降車専用駅である。
「イブニングライナー(下り)」は京成上野 - 京成成田が乗車可能駅、空港第2ビル・成田空港が降車専用駅となっている。ただし、八千代台駅、京成佐倉駅、京成成田駅から下りイブニングライナーを利用する場合、座席の指定はできない(チケットレスは除く)。
モーニングライナー券を購入した上で成田空港 - 八千代台間の各駅相互間、イブニングライナー券を購入した上で京成上野 - 青砥間の各駅相互間を利用することも可能であるが、下りイブニングライナーの空港第2ビル - 成田空港間および上りモーニングライナーの青砥 - 京成上野間のみの利用はできない。
両列車とも車内改札は行わず、駅ごとに指定された列車乗車口にて係員が乗車時に改札を行う。
=== スカイライナークーポン ===
2010年11月15日より京成の特急券類としては日本国外で初となる「スカイライナークーポン」の発売を開始した。
発売するのは日本国外の提携旅行会社で、発売額は2,250円。京成上野駅・日暮里駅・空港第2ビル駅・成田空港駅のいずれかで片道分の乗車券・スカイライナー券と引き換えて使用する<ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-078.pdf 韓国国内で「スカイライナークーポン」を発売]}} - 2010年11月12日 京成電鉄ニュースリリース</ref>。
また、京成公式サイトより、e-ticketを購入することも可能である。
=== スカイライナーバリューチケット ===
上り限定で成田空港・空港第2ビルからの割引チケットであり、発売額は2,250円。成田空港駅・空港第2ビル駅のいずれかのライナー券発売カウンターで(2017年現在、成田空港の第1旅客ターミナルの南ウイング1階の京成電鉄乗車券販売カウンターでも可能)、片道分の乗車券・スカイライナー券と引き換える必要がある<ref name=":0" group="広報">http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/skyliner/jp/value_ticket/coupon.php</ref>。発売箇所は次の通り<ref name=":0" group="広報" />。
* [[タイ・エアアジア X]]、[[Peach Aviation]]、[[春秋航空日本]]、[[ジェットスター・ジャパン]]の[[客室乗務員]]
* [[西鉄福岡(天神)駅]]北口(2階)・東側(大通り側)券売機横のチケットカウンター (営業時間8:00-14:00)
** カウンター営業時間外<ref>15時からパン売り場となる [https://tenjin.keizai.biz/headline/3117/ 西鉄天神駅のチケットカウンター、15時からベーカリーショップに]</ref>は北口西側の駅事務室で発売。
* [[関西国際空港]]、[[新千歳空港]]
なお、発売当日のみ有効のため、最終のスカイライナーに間に合わない場合は発売されない。
また、訪日外国人観光客を対象として、下りのスカイライナーバリューチケットを、[[浅草駅]]と[[池袋駅]]の観光案内所、一部の都内ホテルで発売している。
== 臨時列車・記念列車など ==
毎年[[12月31日]](下り)および[[1月1日]](上り)には[[初詣臨時列車]]として深夜時間帯に京成上野駅 - [[京成成田駅]]間にて臨時「シティライナー」(成田スカイアクセス線開業前は「スカイライナー」)が運転されている。「シティライナー」では定期列車時代はAE100形が使用されていたが、この深夜の臨時「シティライナー」では新AE形で運転されている。
成田山新勝寺と縁が深い歌舞伎の市川家([[成田屋]])が成田山で襲名披露を実施する場合は、京成上野駅 - 京成成田駅間をスカイライナーに乗車して移動することが通例となっており、その際は「團十郎号」「海老蔵号」「成田屋号」として運転され記念ヘッドマークの掲出などが行われているが、スカイライナー運転開始前は一般車両で運転していたこともあった<ref>[https://www.dailyshincho.jp/article/2019/02240650/?all=1 團十郎襲名決定で、“撮り鉄”や“乗り鉄”が大注目する市川家“特別列車”とは] - デイリー新潮。2019年2月24日付の発信記事。</ref>。
その他、過去にはスカイライナー1億人記念や京成電鉄100周年記念でのヘッドマーク掲出、[[エティハド航空]]のラッピング広告などが行われたことがある。
また、[[2005年]][[3月9日]]に[[パク・ヨンハ]]ファンクラブの企画として団体列車『ヨンハライナー』が、[[2006年]][[5月27日]]に成田空港第一ターミナルビルのグランドオープン記念として「まるごと体験教室」参加者輸送の団体列車『[[成田国際空港 (企業)#キャラクター|クウタン]]号』が運行された。
== 京成電鉄成田国際空港連絡優等列車沿革 ==
この節では、前段として成田山新勝寺への参拝観光列車である「'''開運号'''」、およびかつて[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]・京成本線(一部は[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]系統もあり)と[[京成千葉線|千葉線]]に跨って運行された優等列車である急行・特急「'''九十九里号'''」などについても記載する。
=== 成田山新勝寺参拝列車「開運号」とその周辺列車群 ===
[[ファイル:Keisei3200 revival-kaiun-gou.jpg|thumb|220px|「開運号」(2007年1月のリバイバル運転時)]]
==== 戦前期 ====
* [[1930年]]([[昭和]]5年)[[6月15日]]:押上駅 - 京成成田駅間に'''急行'''(1往復)を運転開始。途中停車駅は高砂(→京成高砂)・谷津海岸(→谷津)・宗吾(→宗吾参道)で、所要時間60分は同区間において戦前最速であった<ref name="rp_1987_10_84">鉄道ピクトリアル 1987年10月臨時増刊号(No.486)『京成電鉄』「京成間鉄路のレース 今昔記」84 - 85頁</ref>。
* [[1931年]](昭和6年)12月10日:{{要出典範囲|date=2017年6月|日暮里駅 - 青砥駅間開業に伴うダイヤ改正時に急行を廃止}}。
* [[1936年]](昭和11年)[[9月10日]]:急行を復活。上野公園駅(→京成上野)・押上駅 - 京成成田駅で5往復運転<ref name="rp_1987_10_84"/>。途中青砥駅での併結運転としていた<ref name="rp_1987_10_84"/>。{{要出典範囲|date=2017年6月|途中停車駅は日暮里・千住大橋・青砥・京成高砂・京成津田沼}}。所要時間は上野公園駅 - 京成成田駅間73分<ref name="rp_1987_10_84"/>、{{要出典範囲|date=2017年6月|押上駅からは65分}}。
* [[1937年]](昭和12年)[[5月1日]]:急行を格上げする形で[[臨時列車|臨時]]特急「'''護摩'''」が上野公園駅・押上駅 - 京成成田駅間で運行を開始した。{{要出典範囲|date=2017年6月|これを公式に成田山新勝寺参詣観光特急列車としている。}}途中停車駅に新三河島・町屋を追加。所要時間は急行時代と変わらず73分<ref name="rp_1987_10_84"/>。
* [[1939年]](昭和14年):押上駅発着の途中停車駅に[[京成請地駅|京成請地]]を追加。
* [[1940年]](昭和15年)[[12月16日]]:ダイヤ改正により7往復に増発。停車駅から新三河島・町屋・京成高砂・京成請地が外れる{{Refnest|group="注釈"|{{要出典範囲|date=2017年6月|この時期には夏季[[臨時列車]]として特急「'''金波'''」「'''銀波'''」を上野公園駅 - [[千葉中央駅|京成千葉駅(初代)]]間に運転}}。}}。
* [[1941年]](昭和16年):2扉セミクロスシートの[[京成1500形電車|1500形]]就役。
* [[1943年]](昭和18年)3月:特急廃止。
==== 戦後復興期 ====
* [[1949年]](昭和24年)[[7月1日]]:急行「護摩」を運転再開(5往復)。途中停車駅は日暮里・千住大橋・青砥・京成高砂・京成八幡・京成船橋・谷津遊園・京成津田沼・京成大和田・京成佐倉。所要時間は97分<ref name="rp_1987_10_84"/>。
* [[1951年]](昭和26年)1月:戦時中ロングシートとなっていた1500形をセミクロスシートに復元。優等列車用に整備した[[京成600形電車|600形]]と組み合わせて急行「護摩」に優先的に運用を開始。夏季には[[臨時列車|臨時]]急行「'''潮風号'''」を上野公園駅 - 京成千葉駅間に運転。
* [[1952年]](昭和27年)[[5月1日]]:特急「'''開運号'''」が電装・再整備した1500形を使用して運転を開始した。運行当初は上野公園駅 - 京成成田駅間で、途中停車駅は[[青砥駅]]のみ<ref name="rp_1987_10_86">鉄道ピクトリアル 1987年10月臨時増刊号(No.486)『京成電鉄』「京成間鉄路のレース 今昔記」86頁</ref>。所要時間84分<ref name="rp_1987_10_86"/>。{{要出典範囲|date=2017年6月|当初は自由定員制で、6月から[[座席指定席]]制を採用する。また、同時にこれまで運行されていた急行「護摩」は臨時[[急行列車|急行]]に格下げされる}}。
* [[1953年]](昭和28年)5月:特急「開運号」に専用車両[[京成1600形電車|1600形]]を導入{{Refnest|group="注釈"|1500形は急行用に格下げした上で「開運号」の予備車となる他、多客時の臨時特急「印旛号」などにも使用された。2両編成であるが、大手私鉄で初めて[[リクライニングシート]]を採用し、日本の[[鉄道車両]]で初めて[[テレビ受像機|テレビ]](後に1500形にも設置)を設けるなど、当時の車内水準とすれば豪華な車両だった([[テレビカー#京阪以外のテレビ設置車両|関連記事]])。同年10月のダイヤ改正で所要時間75分になった。「京成電鉄85年のあゆみ」の1953年の記事に記載がある。}}。
* [[1957年]](昭和32年)
** [[4月1日]]:1600形が3両編成化される。ただし、編成数自体は1編成のみ。
** [[12月1日]]:京成津田沼駅 - 宗吾参道駅間の路線改良によるダイヤ改正で所要時間61分に。
* [[1958年]](昭和33年)[[7月1日]]:宗吾参道駅 - 京成成田駅間の路線改良によるダイヤ改正で所要時間60分に。
* [[1963年]](昭和38年):[[京成3150形電車|3150形]][[鉄道車両の座席#セミクロスシート|セミクロスシート]]車両が登場し、「開運号」の予備車にも使用することとなった{{Refnest|group="注釈"|これにより1500形は「開運号」の予備車を外れて一般車に格下げされる。<ref>鉄道ピクトリアル2007年3月臨時増刊号(No.787)『京成電鉄』190頁</ref>}}。
* [[1965年]](昭和40年):夏季海水浴列車として不定期急行「'''九十九里号'''」が京成上野駅/都営浅草線方面 - 京成千葉駅(現・千葉中央駅)間で運行された{{Refnest|group="注釈"|2017年6月|[[1960年代]]に入ると千葉線沿線では埋め立てにより海水浴場が閉鎖されたことから、京成千葉駅から[[九十九里浜]]方面へのバス連絡による列車へと変化した。鉄道ピクトリアル 1997年1月臨時増刊号に記載。}}
* [[1967年]](昭和42年)
** [[11月12日]]:この日限りで「開運号」の専用車両を1600形から3150形に変更。
** 12月:[[京成3200形電車|3200形]]の落成により同形式も「開運号」への運用を開始。翌年のダイヤ改正で所要時間59分に{{Refnest|group="注釈"|{{要出典範囲|date=2017年6月|この時すでに決定していた「空港連絡特急」への中継ぎだったため、地下鉄乗り入れ仕様の性能・車体を有していたが、[[座席指定席]]制を維持するために座席配置をセミクロスシートとしていた。}}。}}。
* [[1968年]](昭和43年):夏季海水浴列車として不定期急行(のちに不定期特急)「'''くろしお'''」が京成上野駅 - 京成成田駅間で運転{{Refnest|group="注釈"|マイカーによる道路混雑の悪化により、これまでの京成千葉駅でのバス連絡を京成成田駅から九十九里浜・蓮沼海岸へのバス連絡にシフトした。鉄道ピクトリアル 1997年1月臨時増刊号に記載。}}。
* [[1969年]](昭和44年)[[12月31日]]:大晦日臨時ダイヤで京急の車両による特急「'''招運'''」が[[三浦海岸駅]] - 京成成田駅で運転(2往復){{Refnest|group="注釈"|この後[[1970年]](昭和45年)から1978年(昭和53年)までの正月・行楽期には三社直通の臨時特急が運転された。鉄道図書刊行会「京急ダイヤ100年史」に記載がある。}}。
=== AE車登場以降 ===
* [[1972年]](昭和47年):[[京成AE形電車 (初代)|AE車]]落成。同時に「空港連絡特急」の愛称として、日本全国の小学生からの公募により決定した「スカイライナー」の名称を与えられる。
* [[1973年]](昭和48年)[[12月30日]]:AE形で「開運号」代替列車の運行開始{{Refnest|group="注釈"|すでに「スカイライナー」の名称が与えられたが、[[成田国際空港|新東京国際空港]]の開港が予定より大幅に遅れていたことからやむを得ず「特急」の名称で運行された。「開運号」時代と異なり、当時は京成上野駅 - 京成成田駅間を無停車で運行していた。所要時間55分。<ref name="rp_2007_3_100">鉄道ピクトリアル 2007年3月臨時増刊号「京成の列車ダイヤに取り組んだ日々」100 - 117頁</ref>}}。
* [[1978年]](昭和53年)
** [[5月5日]]:[[宗吾車両基地]]に留置中のAE形が[[京成スカイライナー放火事件|放火され全焼する事件]]が発生。
** [[ファイル:Old_Narita_Airport_station_Skyliner_Platform_Guide_signboard_Higashi-Narita-station.jpg|サムネイル|東成田駅の閉鎖施設に残る、成田空港駅時代のスカイライナー乗場標示]][[5月21日]]:新東京国際空港開港にあわせ、「空港連絡特急」として「'''スカイライナー'''」が、[[京成上野駅]] - 成田空港駅(現・[[東成田駅]])間を無停車で運行を開始。所要時間60分{{Refnest|group="注釈"|しかし、放火事件により所定運用を満たせないことから、[[8月8日]]まで、計画ダイヤより5往復の減便を余儀なくされた。<ref name="rp_2007_3_100"/>}}{{efn|当時は、[[成田新幹線]]計画があったことから、京成の成田空港駅は、現・[[東成田駅]]であり、新東京国際空港敷地内にあるものの、現・成田空港第1旅客[[空港ターミナルビル|ターミナルビル]]から、徒歩でアクセスしづらい離れた位置にあった。そのため、駅から有料の[[バス (交通機関)|連絡バス]]を要するなどの不便さがあったため、客足はさほど伸びなかった。<ref name="rp_2007_3_100"/>}}。
* [[1979年]](昭和54年)
**[[9月1日]]:「スカイライナー」昼間の一部列車が、[[京成成田駅]]に停車開始。
**[[10月18日]]:京成上野駅・高砂車庫・宗吾車庫に留置していたAE型からそれぞれ出火。3編成に被害。[[中核派]]が犯行声明を出した<ref>京成特急にゲリラ 二時間半ストップ『朝日新聞』1979年(昭和54年)10月18日夕刊 3版 15面</ref>。
* [[1983年]](昭和58年)[[10月1日]]:「スカイライナー」上り(京成上野行)に限り、[[日暮里駅]]に停車開始。AE形の塗装変更車の営業運転開始。
* [[1984年]](昭和59年)12月1日:「'''イブニングライナー'''」運行開始。
* [[1985年]](昭和60年)[[10月19日]]:「'''モーニングライナー'''」運行開始{{Refnest|group="注釈"|一般列車とのダイヤパターンを合わせるため、「スカイライナー」も40分毎に運行するようになった。その後、海外旅行客の増加とともに「スカイライナー」の利用客も増加し、満席となる列車も増えたこともあり、後述の8両化につながる。鉄道ピクトリアル 2007年3月臨時増刊号「京成の列車ダイヤに取り組んだ日々」に記述がある。}}。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[6月19日]]:[[京成AE100形電車|AE100形]]が運行開始<ref name="asahi1990620" />{{Refnest|group="注釈"|このAE100形に合わせ、AE形は6両編成7本を順次8両編成5本に組み替え、全列車が8両編成になる。鉄道ピクトリアル 1997年1月臨時増刊号に記載がある。}}。
=== ターミナル直下乗入れ開始以降 ===
[[ファイル:Model AE100 of Keisei Electric Railway.jpg|thumb|220px|「スカイライナー」1億人乗車記念ステッカーを貼付したAE100形(2007年8月)]]
* [[1991年]](平成3年)[[3月19日]]:[[成田空港高速鉄道]]線区の開通により、空港ターミナルビル直下に現在の[[成田空港駅]]が開業し、同時に「スカイライナー」「モーニングライナー」「イブニングライナー」の乗り入れを開始。東成田駅(旧・成田空港駅)への乗り入れを廃止。またこの日より下り「スカイライナー」も全列車が日暮里駅に停車開始<ref>{{cite news|title=成田アクセスやっと便利に 空港乗り入れ列車が3月19日運行|date=1991-02-14|page=1|newspaper=読売新聞}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|同日に[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]でも、首都圏の複数駅から成田空港アクセス特急「[[成田エクスプレス]]」の運行を開始した<ref>『JR特急10年の歩み』(弘済出版社) pp.62-63</ref>。}}。
* [[1992年]](平成4年)
** [[7月17日]]:線形改良等により京成上野駅 - 成田空港駅間の平均所要時間が58分になる<ref>{{Cite news |title=京成「スカイライナー」上野-空港間58分に 17日から |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-07-13 |page=1 }}</ref>。
** [[12月3日]]:[[空港第2ビル駅]]開業に伴い、同駅に全列車停車開始。
* [[1993年]](平成5年)[[6月27日]]:AE形が運行を終了し、全列車がAE100形に統一。
* [[1996年]](平成8年)[[7月20日]]:「スカイライナー」の最高速度が[[京成成田駅]] - 駒井野信号場間に限り110 km/hとなる。
* [[2003年]](平成15年)[[7月19日]]:下り早朝2列車を除き京成成田駅に全列車停車開始。
* [[2004年]](平成16年)
** [[6月29日]]:京成電鉄社長が「スカイライナー」新型車両計画があることを表明。
** [[10月30日]]:「モーニングライナー」「イブニングライナー」をそれぞれ1本増発。
* [[2006年]](平成18年)[[12月10日]]:下り早朝2列車を除き京成船橋駅に全列車停車開始<ref name = 2006-12/>。
* [[2007年]](平成19年)
** [[1月28日]]:「開運号」の[[リバイバルトレイン|リバイバル運転]]を実施(京成上野 - 京成成田間1往復)。
** [[7月31日]]:「スカイライナー」の利用者数が営業開始29年目にして1億人を突破。{{要出典範囲|date=2017年6月|これを記念して成田空港駅で記念式典を実施した。また、当該列車となった「スカイライナー」20号の乗客全員にオリジナル[[うちわ]]と1億人突破記念オリジナル[[ハンカチ]]をプレゼントした。その後、AE100形全編成に1億人乗車記念ステッカーが貼付された}}。
* [[2008年]](平成20年)[[4月26日]]:AE100形AE128編成を使用した「成田屋号」を運転。{{要出典範囲|date=2017年6月|特製のステッカーも貼付された。なお、この編成は同年[[5月28日]]まで「成田山開基1070周年記念号」として運転された}}。
* [[2010年]](平成22年)[[3月1日]]:「スカイライナーチケットレスサービス」を開始。
=== 成田スカイアクセス線開業以降 ===
* 2010年(平成22年)7月17日:[[京成成田空港線|成田空港線]]([[成田高速鉄道アクセス]]株式会社)経由の新ルートが完成し、[[京成AE形電車 (2代)|新AE形]](8両編成)<ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-066b.pdf スカイライナーの説明文(3P)に8両編成と記載]}}</ref><ref group="広報">[http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/skyliner/jp/ae_design/index.html 車内案内図(8両編成)]</ref>による160 km/h運転区間を有する新「スカイライナー」の運行を開始。同時に、AE100形を使用した京成本線経由の有料特急「シティライナー」の運行を開始、青砥駅が「シティライナー」停車駅となる<ref name = 2010-7/>。また、「モーニングライナー」「イブニングライナー」は全列車新AE形での運行を開始(運行ルートは従来通り京成本線経由)<ref name = 2010-7/>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月11日]]:[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])が発生し、全列車が運休。
** [[3月14日]]:[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])による[[東日本大震災による電力危機|発電所の停止に伴う電力供給逼迫]]のため、[[東京電力]]が[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]を実施。これに伴い、この日から有料特急全列車の運転が休止。
** [[4月4日]]:「スカイライナー」「モーニングライナー」「イブニングライナー」の運転を再開。ただし節電ダイヤのため、一部減便。
** [[9月10日]]:「シティライナー」の運転を京成上野 - 京成成田間で再開。1日2往復まで減便。「スカイライナー」全便運転再開。
* [[2012年]](平成24年)[[10月21日]]:[[京急蒲田駅]]付近連続立体交差事業の進捗に伴う乗り入れ5社局(京成電鉄・都営浅草線・京浜急行電鉄・北総鉄道・芝山鉄道)一斉ダイヤ改正に伴い、「スカイライナー」早朝便などを増便する一方、「シティライナー」を1日1往復に減便。
* [[2013年]](平成25年)[[12月19日]]:累計乗客数が1000万人に到達<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20140209110814/http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/131219_03.pdf 「新型スカイライナー1,000万人達成記念式典」を開催しました]}}(京成電鉄ニューリリース・インターネットアーカイブ・2014年時点の版)</ref>。
* [[2014年]](平成26年)[[11月8日]]:ダイヤ改正に伴い、平日の「シティライナー」を廃止。京成上野23:00発「イブニングライナー」73号(現:213号)を設定、最終を繰り下げ。
* [[2015年]](平成27年)[[12月5日]]:ダイヤ改正に伴い、「モーニングライナー」「イブニングライナー」は停車駅に京成船橋駅を追加するとともに全車指定席に変更、チケットレスサービスの対象を「スカイライナー」のほか「モーニングライナー」「イブニングライナー」にも拡大。また、これに先立ち11月29日をもって土休日に残っていた「シティライナー」の定期運転を終了。
* [[2016年]](平成28年)
** 1月:土休日のみ臨時列車として「シティライナー」が京成上野 - 京成成田間で1往復運転。車両はAE100形。
** [[2月21日]]・[[2月28日|28日]]:AE100形がこの両日の「さよならAE100形記念ツアー」(京成上野 - 宗吾参道、[[京成トラベルサービス]]主催)をもって退役{{Refnest|group="注釈"|使用された編成には側面の「Skyliner」・「AIRPORT EXPRESS」のロゴが復元され、[[東成田駅]](旧:成田空港駅)の旧スカイライナー専用ホームにも入線した<ref>{{Cite news|title=先代「スカイライナー」今月引退 記念マーク掲出 京成|newspaper=乗りものニュース|date=2016-02-14|url=https://trafficnews.jp/post/48599/|accessdate=2017-01-27}}</ref><ref>{{PDFlink|{{Cite press release|和書|url= http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/160229_01.pdf |title= 2月21日(日)・2月28日(日)に「さよならAE100形記念ツアー」を実施しました!|publisher=京成トラベルサービス|date=2016-2-29|accessdate=2018-1-27}} }}</ref>。}}。
* [[2017年]](平成29年)11月1日:累計乗客数が2500万人に到達<ref>[http://www.keisei.co.jp/information/files/info/20171101_170902467404.pdf 京成電鉄×AKB48武藤姉妹コラボ スカイライナー2500万人達成記念 #ハッシュタグキャンペーン]京成電鉄プレスリリース(2017年11月1日)</ref>。
*[[2018年]](平成30年)[[10月30日]]:累計乗客数が3000万人に到達<ref>[http://www.keisei.co.jp/information/files/info/20181030_180203677585.pdf 10月30日(火)「スカイライナーご利用3,000万人達成記念式典」を開催しました]京成電鉄プレスリリース(2018年10月30日)</ref>。
*[[2019年]](令和元年)[[10月26日]]:ダイヤ改正に伴い、一部時間帯を除き終日20分間隔で運行の上、早朝・深夜便を増発。これに伴い、成田スカイアクセス線成田空港発の最終列車が23:20発の「スカイライナー」になった<ref>[https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20190829_171637853218.pdf スカイライナー大幅増便 運行本数1.4倍に!]京成電鉄(2019年8月29日)</ref>。
[[File:Isolation vehicke by Keisei Skyliner 03.jpg|thumb|200px|KEISEI SMART ACCESSの隔離車両(8号車)]]
* [[2020年]](令和2年)
** [[4月11日]]:ダイヤ修正に伴い、「スカイライナー」のうち早朝の成田空港行きと夜間の京成上野行きが[[青砥駅]]に臨時停車を開始<ref name="pr20200406" group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200406_152133182387.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200407070559/https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200406_152133182387.pdf|format=PDF|language=日本語|title=押上・都営浅草線・京急線方面の成田空港アクセスをさらにスピーディーに! スカイライナーの一部列車が青砥駅に停車します! 2020年4月11日(土)〜当面の間|publisher=京成電鉄|date=2020-04-06|accessdate=2020-04-07|archivedate=2020-04-07}}</ref>。
** [[5月1日]] : スカイライナー上下計82本(上下各41本)のうち、計36本(上下各18本)の運行を休止する。
** [[6月1日]] : スカイライナーの上下各18本の運休は継続するものの、日中を中心に青砥停車のスカイライナーが増加(運行中の列車の約6割)する。
** [[12月28日]]:成田空港からの帰国者・入国者専用の「KEISEI SMART ACCESS」の運行を開始(上りスカイライナー8号 - 64号の8号車を利用、青砥・日暮里での降車不可)。
*[[2021年]](令和3年)[[10月30日]] : 運行を休止していたスカイライナーの運行を再開した。
* [[2022年]](令和4年)
** [[2月26日]]:ダイヤ改正に伴い、青砥駅が正式に「スカイライナー」の一部停車駅となる<ref name="pr20220125" group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20220125_140003615851.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220215130242/https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20220125_140003615851.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ダイヤ改正を実施します(2月26日)|publisher=京成電鉄|date=2022-01-25|accessdate=2022-01-25|archivedate=2022-01-25}}</ref>。また、上り成田空港発最終スカイライナー82号京成上野行きの時刻が約20分繰り上がり、成田空港23:00発に変更となる。これに伴い、上り最終アクセス特急の時刻も変更となった。
** [[3月31日]] : この日をもって、帰国者・入国者専用車両の運行を終了。
** [[4月25日]]:有料特急の全列車で警備員の添乗を開始。これに伴い料金を引き上げ<ref name="pr20220325" group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20220325_113030752255.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220325024159/https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20220325_113030752255.pdf|format=PDF|language=日本語|title=スカイライナーに警備員が乗車します|publisher=京成電鉄|date=2022-03-25|accessdate=2022-10-19|archivedate=2022-03-25}}</ref>。
** [[11月26日]]:ダイヤ改正に伴い、「スカイライナー」の一部列車(青砥駅停車便)の[[新鎌ヶ谷駅]]への停車を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keisei.co.jp/cms/files/keisei/MASTER/0110/Aq5eJLly.pdf |title=京成線ダイヤ改正を実施します |access-date=2022年10月28日 |publisher=京成電鉄}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[11月25日]]:ダイヤ改正に伴い、青砥・新鎌ヶ谷停車のスカイライナーが100号台に変更される。
== 今後の計画 ==
2010年7月17日の新アクセスルート開業以降の早い時期(2010年代前半頃)に、[[東京国際空港|羽田空港]] - 成田空港間を65分で結ぶ構想があった。この所要時分は、「スカイライナー」の都営浅草線・京急線乗り入れを想定したものとなっていた。2008年[[9月7日]]には、浅草線とは別にバイパス目的で都営地下鉄新線を建設し、両空港間をさらに10分短縮する計画も浮上した<ref>[http://www.asahi.com/travel/news/TKY200809060225.html 『asahi.com』2008年9月7日版] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080913045740/http://www.asahi.com/travel/news/TKY200809060225.html |date=2008年9月13日 }}</ref><ref>[http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20081005AT3S0400V04102008.html 『日経ネット』 2008年10月4日版] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081008074855/http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20081005AT3S0400V04102008.html |date=2008年10月8日 }}</ref>。ただし、新AE形には先頭部に非常用貫通扉を装備しておらず、また都営浅草線や京急線のホームドアに対応していない<ref group="注釈">新AE形のドアは先頭車両を除くと車端部にあり、京成・都営・京急などの通勤形電車と異なる。双方の車両が発着する[[日暮里駅]]・[[空港第2ビル駅]]・[[成田空港駅]]は大開口ホームドアを採用している</ref>ため、都営浅草線乗り入れは不可能である<ref group="注釈">京成電鉄の路線にある地下区間は、成田空港線や駅間のトンネルを除くと、京成上野 - 日暮里間、押上 - 京成曳舟間、京成成田 - 成田空港(成田第1ターミナル)間、京成成田 - 東成田間のみ。一方、都営浅草線は押上 - 西馬込間の全線が地下区間である。</ref>。一方、AE100形は先頭部に非常用貫通扉を装備するが、先述と同様に通勤形電車とドアの位置が異なるほか、[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]内での160 km/h運転に対応していない<ref group="注釈">AE100形の営業最高速度は110 km/h、設計最高速度は130 km/h。</ref>。またAE100形は[[京急空港線]]羽田(現・天空橋)開業時に試運転のため入線する予定になっていたが、当時の[[京急蒲田駅|京急蒲田]] - [[糀谷駅|糀谷]]間の急カーブを通過できないことが直前になって判明したため中止されている。
最終的には特急料金不要の通勤型車両を用いた「'''アクセス特急'''」を新設し、従来から都営浅草線・京急線内で運行されている「'''[[エアポート快特]]'''」をスカイアクセス線経由とすることが決定した<ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-017.pdf 京成電鉄ホームページより]}}</ref><ref group="広報">[http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001330.html 成田スカイアクセス線開業にともない7月17日(土)から羽田空港駅⇔成田空港駅直通電車を運行いたします] - [[京浜急行電鉄]]報道発表資料、[[2010年]][[5月28日]]</ref>。[[成田空港駅]]から[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]までの所要時間は最短1時間33分である。また日中は種別変更が行われる[[押上駅]]で横浜方面の列車に接続する。
その他、現行8両編成である2代目AE形を10両編成とする構想もある<ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-066b.pdf スカイライナーの説明文(3P)に※将来の10両編成化を想定と記載]}}</ref>。
== 広告について ==
下記のCMやポスターでは、[[池袋駅]]や[[新宿駅]]など、「成田エクスプレス」が発着する駅からの到達時間も表示されている。
=== テレビCM ===
[[1990年代]]前半から、京成電鉄では「スカイライナー」の[[コマーシャルメッセージ|テレビCM]]を放送している。過去に[[ちあきなおみ]]、[[GAO (歌手)|GAO]]、[[都はるみ]]、[[DEEN]]、[[大貫妙子]]らが[[コマーシャルソング|CMソング]]を担当した。
かつては「スカイライナー」の名称やイメージアップ向上を図った映像([[霧]]の中を抜ける映像など)を使用していたことが多かった。近年では、日本国外に活動の場を求める人々を描くドラマ仕立てのものや、[[木下航志]]を起用したものが放送された。また、「速いのは、こっち。安いのも、こっち。」というフレーズで「成田エクスプレス」との[[比較広告|対決姿勢を明確にしているCM]]もある。ただし、基本コンセプトは芸能人・イメージキャラクター等が登場しないスカイライナーが颯爽と走行するイメージアップCMである。
さらに、2010年6月から8月と2011年11月にかけて、成田スカイアクセス線の開業と合わせて新型スカイライナーをPRするCMを放送している。
2019年10月26日の増便に合わせて、『お客様は、お姫様。』というキャッチフレーズで、[[Sexy Zone]]の[[中島健人]]が「京成王子」役で出演するテレビCM等が新たに放送されている<ref>[https://www.keisei.co.jp/news/detail.php?CN=4993 10月26日から大幅増便、都心から成田空港までがさらに便利に京成スカイライナー新TVCM] - 京成電鉄(2019年10月25日)、2022年12月12日閲覧。</ref><ref>[https://www.keisei.co.jp/news/detail.php?CN=5876 中島健人さん演じる“京成王子”3年ぶりの新CM!超速スピーチでスカイライナーの魅力を超アピール!(12/11から全国で放映)] - 京成電鉄(2022年12月6日)、2022年12月9日閲覧。</ref><ref>[https://www.youtube.com/channel/UCmB0PAPD6YlIg3_TBHeWb6Q Keisei Movies【京成電鉄公式チャンネル】] - YouTube</ref>。
=== 他の媒体 ===
[[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]]に於ける[[千葉ロッテマリーンズ]]のホームゲームにて、[[佐々木朗希]]が投手として登板し投げた[[球速]]が<!-- スカイライナーの最高時速である -->160km/hを超えた場合、場内ビジョンにその球速とともに「最速160km/h 京成スカイライナー」と表示して演出している<ref>[https://www.keisei.co.jp/cms/files/keisei/MASTER/0110/kPiboXq0.pdf 佐々木朗希投手 160km 投球時 来場者プレゼント企画及びビジョン演出実施] - 京成電鉄・千葉ロッテマリーンズ(2023年3月25日)</ref>。
== その他 ==
* かつて車掌が車内限定販売の[[パスネット]]カード1000円券を販売していたが、2006年[[11月15日]]をもって終了した。
* 京成電鉄では「京成電鉄創立100周年記念ワイン」限定430セットを発売した。赤ワインと白ワイン各720mlの2本セットで、販売価格は6,300円。シリアルナンバー入り、ボトルラベルは山本寛斎がデザインした「新型スカイライナー」のイラストだった<ref>
[http://blog.nikkeibp.co.jp/nd/news/2009/05/202846.shtml 京成電鉄、「創立100周年記念ワイン」を限定430セット販売] [http://nd.nikkeibp.co.jp/nd/index.shtml 日経デザイン]2009年5月28日 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090422201037/http://nd.nikkeibp.co.jp/nd/index.shtml |date=2009年4月22日 }}</ref>。
* 2代目AE形の[[警笛#ミュージックホーン|ミュージックホーン]](補助警笛)や[[車内放送]]チャイムは[[向谷実]]がプロデュースした<ref>京成電鉄(株)車両部計画課課長補佐 田中良治 「京成電鉄AE形」 『[[鉄道ジャーナル]]』2009年8月号(通巻514号)p94, 鉄道ジャーナル社 </ref>。
*車内では[[公衆無線LAN]]の[[au Wi-Fi SPOT|au Wi-Fi]]と[[ワイヤ・アンド・ワイヤレス|wi2 300]]<ref group="広報">車内・駅でスマートフォンやノートパソコン等で高速通信が可能に! スカイライナー車内及び一部駅で公衆無線LANサービス「au Wi-Fi SPOT」「Wi2 300」を導入{{PDFlink|[http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/121213_01.pdf]}}</ref>が使用できる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ====
{{Reflist|group="広報"}}
== 関連項目 ==
{{Wikinews|京成電鉄・成田スカイアクセスが開業 都心と成田空港を最短36分で連絡}}
* [[京成スカイライナー放火事件]]
* [[mink]] - 楽曲「One Wish」「Let's start from here (Japanese Version)」がそれぞれCMソングとして起用されている。
* [[成田エクスプレス]] - 競合列車として、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]が運行する空港特急列車。
* [[あやめ (列車)]] - 途中区間におけるかつての競合列車
* [[東京メトロ24時間券]] - スカイライナーメトロパス
== 外部リンク ==
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/skyliner/jp/index.php スカイライナー/成田空港アクセス] - 京成電鉄
* [https://www.keisei.co.jp/ 京成電鉄]
* [http://www.nra36.co.jp/ 成田高速鉄道アクセス]
{{日本における列車種別一覧}}
{{成田国際空港のアクセス}}
{{リダイレクトの所属カテゴリ
|collapse=
|header=
|redirect1=シティライナー (京成電鉄)
|1-1=列車愛称 し
}}
{{DEFAULTSORT:すかいらいなあ}}
[[Category:日本の特急列車]]
[[Category:京成電鉄|種 すかいらいなあ]]
[[Category:列車種別]]
[[Category:成田国際空港の鉄道]]
[[Category:列車愛称 す|かいらいなあ]]
[[Category:登録商標]] | 2003-03-07T08:10:42Z | 2023-12-29T01:27:11Z | false | false | false | [
"Template:リダイレクトの所属カテゴリ",
"Template:複数の問題",
"Template:Otheruses",
"Template:Lang-en",
"Template:Refnest",
"Template:要出典範囲",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Wikinews",
"Template:Cite press release",
"Template:Efn",
"Template:Reflist",
"Template:PDFlink",
"Template:Cite web",
"Template:Webarchive",
"Template:Infobox 列車名",
"Template:Cite book",
"Template:Cite news",
"Template:日本における列車種別一覧",
"Template:成田国際空港のアクセス"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC |
3,590 | 成田空港駅 | 成田空港駅(なりたくうこうえき)は、千葉県成田市三里塚御料牧場にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)と京成電鉄の駅である。成田国際空港第1ターミナル内に位置し、両社とも「成田第1ターミナル」の副名称を付与している。
関東の駅百選に選定されている。
成田国際空港(成田空港)へのアクセス駅の一つで、成田空港第1ターミナルに直結している。JR東日本は成田営業統括センター所属の直営駅で、空港第2ビル駅を管理する。京成電鉄は空港第2ビル駅の被管理駅である。第2ターミナルおよび第3ターミナルへは無料連絡バスが運行されている。
当駅には、JR東日本の成田線(空港支線)と、京成電鉄の本線ならびに成田空港線(成田スカイアクセス線)が乗り入れており、いずれも当駅が終点となっている。ただし、JR・京成とも線路を保有しない第二種鉄道事業者であり、線路・設備を保有している第三種鉄道事業者は成田空港高速鉄道である。JR東日本成田線空港支線の駅番号はJO 37、京成本線・成田空港線(成田スカイアクセス線)の駅番号はいずれもKS42である。
開業当初の英語表記は Narita Airport であり、一部の案内や路線図で Narita Airport Terminal 1 が使われていたが、2015年4月8日の第3ターミナル開業以降はごく一部を除いて Narita Airport Terminal 1 に統一されている。同様に当駅の中国語・韓国語での駅名表記についても、第1ターミナルを表す語句が含まれている。
なお、京成電鉄の行先表示など一部旅客案内では、空港第2ビル駅と当駅の総称として「成田空港 Narita Airport」を用いる場合がある(この場合、駅番号が2つの駅の並立表示となる)。
現在の京成成田駅 - 駒井野信号場 - 空港第2ビル駅 - 成田空港駅間は、空港建設決定時に京成電鉄の空港新線として計画された区間である。京成電鉄では、現在の空港第2ビル駅と当駅の位置に、当初から「第2ターミナル駅」と「第1ターミナル駅」(いずれも仮称)の建設を計画し、1969年11月7日に空港新線の免許を取得している。しかし、運輸省(当時)は成田空港への鉄道アクセス手段として成田新幹線を計画していたため、新東京国際空港公団が京成の旅客ターミナル直下への乗り入れに難色を示し、翌1970年9月28日に京成成田駅から5.2 km地点までの施工が認可されたものの、旅客ターミナル直下までの施工認可は保留された。その後、最終的に空港公団は京成の乗り入れを認めず、やむなく旅客ターミナルから約1キロメートル(km)離れた場所に(初代)成田空港駅を建設することとなり、1971年3月25日に(初代)成田空港駅までの施工が認可された。
しかし、成田新幹線は沿線の反対運動などにより工事が進まず、1986年に計画を断念。第1・第2旅客ターミナル直下に建設されていた新幹線用の路線および駅は在来線用に転用され、JR東日本および京成電鉄の駅として1991年に2代目となる現在の成田空港駅(当駅)が、翌1992年に空港第2ビル駅が開業した。前出の(初代)成田空港駅は、東成田駅と改称し、京成東成田線として営業を継続している。
成田空港第1ターミナルの地下1階にある地下駅である。
駅改札外のJRコンコースには、ジャパンレールパスの引き換えや訪日外国人向けの旅行サービスを提供するJR東日本訪日旅行センターが設置されている(運営はJR東日本グループのびゅうトラベルサービス)。また、京成コンコースにも訪日外国人向けの旅行サービスを提供する「SKYLINER & KEISEI INFORMATION CENTER」(京成トラベルサービス)が設置されている。このほかスターバックスなどの飲食店、売店などが立地する。
JRは島式ホーム1面2線、京成は単式ホームから成田スカイアクセス開業時に改造し、島式ホームと単式ホーム2面3線(うち島式ホームはのりばを4つに分けてある)を有する。改札内での両線ホーム間の行き来はできない。また、出口改札は後述の検問所に直結しているため、検問所を通過しないと再入場や両社間の乗り換えはできない。
空港建設時の経緯から、改札を出た所に「セキュリティエリア」と呼ばれる空港の検問所があり、ここではパスポート若しくは身分証明書の提示を求められるとともに手荷物検査(実際に荷物を開ける)が行われていた。そのため、当駅の開業時には主要駅に新東京国際空港公団(当時)名で、その旨と空港に用のない人は他の駅を使うよう求める旨が書かれた張り紙が掲示された。なお、成田新高速鉄道(京成成田空港線)の開業前をめどに、セキュリティエリアの廃止を検討していることが報じられていたが、開通後も続けられていた。その後、2010年10月以降は再国際化した東京国際空港(羽田空港)との競争の激化を理由に、再び検問廃止を検討しているとも報じられた。そして2015年3月30日の正午をもって、ついに開港以来実施してきた検問が廃止された。
2010年7月17日ダイヤ改正より成田空港線(成田スカイアクセス線)が乗り入れているが、それに伴い京成線の外側(北ウイング側)に新たに躯体を建設し、成田スカイアクセス線専用のホーム1面(新1番線)を設けた。これによって当駅は京成3線・JR2線の計5線となった。なお、改修工事完了後も京成線の駅前後の線路は単線のままである。
躯体工事は成田国際空港株式会社が担当し、その後成田高速鉄道アクセス株式会社が躯体の内部にレールを敷設し、信号機器やエスカレーターなどの諸施設を整備している。
成田スカイアクセス線の開業と同時に当駅 - 京成高砂駅間のルートは2通りとなっているが、2つのルートは運賃が異なるので、ルートの特定と運賃の算定を行うため、当駅のホームを成田スカイアクセス線専用ホーム(単式ホーム・1番線)・京成本線専用ホーム(島式ホーム上野方、2・3番線)・スカイライナー専用ホーム(島式ホーム車止め側、4・5番線)に分け、京成本線コンコースに中間改札が設置されている。また京成本線ホームと成田スカイアクセス線ホームとの間に信号機が設けられており、縦列停車も可能である。4・5番線から電車が発着する時は、2・3番線で通過を知らせる放送が流れる。
かつて、日本レストランエンタプライズ(現:JR東日本クロスステーション)が改札外(成田空港内テナント)に駅弁販売店を出店していたが、現在は閉店している。当時販売されていた主な駅弁は下記の通り(新宿駅・いわき駅と同様の駅弁)。
1992年12月6日の第2ターミナル開業時に多くの主要航空会社の便が第2ターミナル発着とされたため、第2ターミナルに併設される空港第2ビル駅の乗降人員は当駅の2倍近くになった。その後、2006年6月2日より第1ターミナルが拡張され、スカイチームやスターアライアンス加盟航空会社などが第2ターミナルから再び第1ターミナルへ配置換えしたため再度増加している。京成では2010年7月17日に成田スカイアクセス線が開業した後、増加傾向が続いている。しかし、2020年度は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行の影響で大幅な落ち込みとなった。
近年の1日平均乗降人員の推移は以下の通りである(JRは除く)。
開業以降の1日平均乗車人員の推移は以下の通り。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "成田空港駅(なりたくうこうえき)は、千葉県成田市三里塚御料牧場にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)と京成電鉄の駅である。成田国際空港第1ターミナル内に位置し、両社とも「成田第1ターミナル」の副名称を付与している。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "関東の駅百選に選定されている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "成田国際空港(成田空港)へのアクセス駅の一つで、成田空港第1ターミナルに直結している。JR東日本は成田営業統括センター所属の直営駅で、空港第2ビル駅を管理する。京成電鉄は空港第2ビル駅の被管理駅である。第2ターミナルおよび第3ターミナルへは無料連絡バスが運行されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "当駅には、JR東日本の成田線(空港支線)と、京成電鉄の本線ならびに成田空港線(成田スカイアクセス線)が乗り入れており、いずれも当駅が終点となっている。ただし、JR・京成とも線路を保有しない第二種鉄道事業者であり、線路・設備を保有している第三種鉄道事業者は成田空港高速鉄道である。JR東日本成田線空港支線の駅番号はJO 37、京成本線・成田空港線(成田スカイアクセス線)の駅番号はいずれもKS42である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "開業当初の英語表記は Narita Airport であり、一部の案内や路線図で Narita Airport Terminal 1 が使われていたが、2015年4月8日の第3ターミナル開業以降はごく一部を除いて Narita Airport Terminal 1 に統一されている。同様に当駅の中国語・韓国語での駅名表記についても、第1ターミナルを表す語句が含まれている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "なお、京成電鉄の行先表示など一部旅客案内では、空港第2ビル駅と当駅の総称として「成田空港 Narita Airport」を用いる場合がある(この場合、駅番号が2つの駅の並立表示となる)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "現在の京成成田駅 - 駒井野信号場 - 空港第2ビル駅 - 成田空港駅間は、空港建設決定時に京成電鉄の空港新線として計画された区間である。京成電鉄では、現在の空港第2ビル駅と当駅の位置に、当初から「第2ターミナル駅」と「第1ターミナル駅」(いずれも仮称)の建設を計画し、1969年11月7日に空港新線の免許を取得している。しかし、運輸省(当時)は成田空港への鉄道アクセス手段として成田新幹線を計画していたため、新東京国際空港公団が京成の旅客ターミナル直下への乗り入れに難色を示し、翌1970年9月28日に京成成田駅から5.2 km地点までの施工が認可されたものの、旅客ターミナル直下までの施工認可は保留された。その後、最終的に空港公団は京成の乗り入れを認めず、やむなく旅客ターミナルから約1キロメートル(km)離れた場所に(初代)成田空港駅を建設することとなり、1971年3月25日に(初代)成田空港駅までの施工が認可された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "しかし、成田新幹線は沿線の反対運動などにより工事が進まず、1986年に計画を断念。第1・第2旅客ターミナル直下に建設されていた新幹線用の路線および駅は在来線用に転用され、JR東日本および京成電鉄の駅として1991年に2代目となる現在の成田空港駅(当駅)が、翌1992年に空港第2ビル駅が開業した。前出の(初代)成田空港駅は、東成田駅と改称し、京成東成田線として営業を継続している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "成田空港第1ターミナルの地下1階にある地下駅である。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "駅改札外のJRコンコースには、ジャパンレールパスの引き換えや訪日外国人向けの旅行サービスを提供するJR東日本訪日旅行センターが設置されている(運営はJR東日本グループのびゅうトラベルサービス)。また、京成コンコースにも訪日外国人向けの旅行サービスを提供する「SKYLINER & KEISEI INFORMATION CENTER」(京成トラベルサービス)が設置されている。このほかスターバックスなどの飲食店、売店などが立地する。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "JRは島式ホーム1面2線、京成は単式ホームから成田スカイアクセス開業時に改造し、島式ホームと単式ホーム2面3線(うち島式ホームはのりばを4つに分けてある)を有する。改札内での両線ホーム間の行き来はできない。また、出口改札は後述の検問所に直結しているため、検問所を通過しないと再入場や両社間の乗り換えはできない。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "空港建設時の経緯から、改札を出た所に「セキュリティエリア」と呼ばれる空港の検問所があり、ここではパスポート若しくは身分証明書の提示を求められるとともに手荷物検査(実際に荷物を開ける)が行われていた。そのため、当駅の開業時には主要駅に新東京国際空港公団(当時)名で、その旨と空港に用のない人は他の駅を使うよう求める旨が書かれた張り紙が掲示された。なお、成田新高速鉄道(京成成田空港線)の開業前をめどに、セキュリティエリアの廃止を検討していることが報じられていたが、開通後も続けられていた。その後、2010年10月以降は再国際化した東京国際空港(羽田空港)との競争の激化を理由に、再び検問廃止を検討しているとも報じられた。そして2015年3月30日の正午をもって、ついに開港以来実施してきた検問が廃止された。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "2010年7月17日ダイヤ改正より成田空港線(成田スカイアクセス線)が乗り入れているが、それに伴い京成線の外側(北ウイング側)に新たに躯体を建設し、成田スカイアクセス線専用のホーム1面(新1番線)を設けた。これによって当駅は京成3線・JR2線の計5線となった。なお、改修工事完了後も京成線の駅前後の線路は単線のままである。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "躯体工事は成田国際空港株式会社が担当し、その後成田高速鉄道アクセス株式会社が躯体の内部にレールを敷設し、信号機器やエスカレーターなどの諸施設を整備している。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "成田スカイアクセス線の開業と同時に当駅 - 京成高砂駅間のルートは2通りとなっているが、2つのルートは運賃が異なるので、ルートの特定と運賃の算定を行うため、当駅のホームを成田スカイアクセス線専用ホーム(単式ホーム・1番線)・京成本線専用ホーム(島式ホーム上野方、2・3番線)・スカイライナー専用ホーム(島式ホーム車止め側、4・5番線)に分け、京成本線コンコースに中間改札が設置されている。また京成本線ホームと成田スカイアクセス線ホームとの間に信号機が設けられており、縦列停車も可能である。4・5番線から電車が発着する時は、2・3番線で通過を知らせる放送が流れる。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "かつて、日本レストランエンタプライズ(現:JR東日本クロスステーション)が改札外(成田空港内テナント)に駅弁販売店を出店していたが、現在は閉店している。当時販売されていた主な駅弁は下記の通り(新宿駅・いわき駅と同様の駅弁)。",
"title": "かつて販売されていた駅弁"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "1992年12月6日の第2ターミナル開業時に多くの主要航空会社の便が第2ターミナル発着とされたため、第2ターミナルに併設される空港第2ビル駅の乗降人員は当駅の2倍近くになった。その後、2006年6月2日より第1ターミナルが拡張され、スカイチームやスターアライアンス加盟航空会社などが第2ターミナルから再び第1ターミナルへ配置換えしたため再度増加している。京成では2010年7月17日に成田スカイアクセス線が開業した後、増加傾向が続いている。しかし、2020年度は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行の影響で大幅な落ち込みとなった。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "近年の1日平均乗降人員の推移は以下の通りである(JRは除く)。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "開業以降の1日平均乗車人員の推移は以下の通り。",
"title": "利用状況"
}
] | 成田空港駅(なりたくうこうえき)は、千葉県成田市三里塚御料牧場にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)と京成電鉄の駅である。成田国際空港第1ターミナル内に位置し、両社とも「成田第1ターミナル」の副名称を付与している。 関東の駅百選に選定されている。 | {{otheruses|1991年に開業した駅|かつて同名を称した駅|東成田駅}}
{{駅情報
|社色 =
|文字色 =
|駅名 = 成田空港駅<br />(成田第1ターミナル)
|画像 = JR-Narita-Airport-station-entrance.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 成田空港第1ターミナル地下1階にあるJR駅出入口<br />(2020年9月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = なりたくうこう
|ローマ字 = Narita Airport Terminal 1
|電報略号 = クコ(JR東日本)
|所属事業者 = [[京成電鉄]](京成)<br />[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)<br />([[成田空港高速鉄道]])
|所在地 = [[千葉県]][[成田市]][[三里塚 (成田市)|三里塚]]御料牧場1-1
|座標 = {{coord|35|45|50.3|N|140|23|4.7|E|region:JP-12_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日 = [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月19日]]<ref name="sone26">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 |page=23 |date=2010-01-17}}</ref>
|廃止年月日 =
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 計3面5線(JR:1面2線・京成:2面3線)
|乗車人員 = {{Small|(JR東日本)-2022年-}}<br /><ref group="JR" name="JR2022" />3,730
|乗降人員 = {{Small|(京成電鉄)-2022年-}}<br /><ref group="京成" name="keisei2022" />17,769
|乗入路線数 = 3
|所属路線1 = {{Color|#00b261|■}}[[成田線]](空港支線)
|隣の駅1 =
|前の駅1 = JO 36 [[空港第2ビル駅|空港第2ビル]]
|駅間A1 = 1.0
|駅間B1 =
|次の駅1 =
|駅番号1 = {{駅番号r|JO|37|#0067c0|1}}<ref group="報道" name="pre1801_number">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1801_number.pdf|title=千葉~成田空港駅間へ「駅ナンバリング」を導入します 東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会を見据え、よりわかりやすくご利用いただける駅を目指します|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2018-01-26|accessdate=2020-12-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201214054320/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1801_number.pdf|archivedate=2020-12-14}}</ref>
|キロ程1 = 10.8 km([[成田駅|成田]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から40.0 km<br />[[東京駅|東京]]から79.2
|起点駅1 =
|所属路線2 = {{Color|#005aaa|●}}[[京成本線]]
|隣の駅2 =
|前の駅2 = KS41 空港第2ビル
|駅間A2 = 1.0
|駅間B2 =
|次の駅2 =
|駅番号2 = {{駅番号r|KS|42|#005aaa|4||#005aaa}}<ref group="報道" name="keisei/20100625">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-034.pdf|title=成田スカイアクセス開業に合わせ、ユニバーサルデザインを強化 京成線各駅で「駅ナンバリング」を導入いたします 平成22年7月17日(土)から京成線各駅を英文字2文字と番号の組み合わせでナンバリング|format=PDF|publisher=京成電鉄|language=日本語|date=2010-06-25|accessdate=2021-03-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200727211937/https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-034.pdf|archivedate=2020-07-27}}</ref>
|キロ程2 = 69.3
|起点駅2 = [[京成上野駅|京成上野]]
|所属路線3 = {{Color|#ff8620|●}}[[京成成田空港線|京成成田空港線(成田スカイアクセス線)]]
|隣の駅3 =
|前の駅3 = KS41 空港第2ビル
|駅間A3 = 1.0
|駅間B3 =
|次の駅3 =
|駅番号3 = {{駅番号r|KS|42|#005aaa|4||#005aaa}}<ref group="報道" name="keisei/20100625" />
|キロ程3 = 51.4
|起点駅3 = [[京成高砂駅|京成高砂]]
|乗換 =
|備考 = JR東日本<br />[[直営駅]]([[管理駅]])<br />[[みどりの窓口]] 有
}}
{|{{Railway line header}}
{{UKrail-header2|<br />成田空港駅配線図|gray}}
{{BS-table|配線}}
{{BS-colspan}}
----
左側3線京成<br />
右側2線JR
----
↑[[空港第2ビル駅|空港第2ビル]]
{{BS5|||STR|STR||||||}}
{{BS5||STR+l|ABZgr|ABZgl|STR+r||||||}}
{{BS5|STR+l|ABZgr|STR|STR|STR|||||}}
{{BS5|STR|STR+BSl|STR+BSr|O2=num2l|STR+BSl|O4=num2l|STR+BSr|||||}}
{{BS5|STR+BSl|STR+BSl|O3=num3r|STR+BSr|STR+BSl|O5=num1r|STR+BSr|||||}}
{{BS5|STR+BSl|STR+BSl|STR+BSr|STR+BSl|STR+BSr|||||}}
{{BS5|STR+BSl|O1=num1l|STR|STR|STR+BSl|STR+BSr|||||}}
{{BS5|STR+BSl|STR+BSl|O2=num4l|STR+BSr|STR+BSl|STR+BSr|||||}}
{{BS5|STR+BSl|STR+BSl|O3=num5r|STR+BSr|ENDEe|ENDEe|||||}}
{{BS5|ENDEe|ENDEe|ENDEe|||||||}}
{{BS-colspan}}
----
※ 出典:鉄道ジャーナル<br />
2010年10月号
|}
|}
[[ファイル:Endpoint of Narit Airport Station.jpg|thumb|当駅終端(2011年7月)]]
'''成田空港駅'''(なりたくうこうえき)は、[[千葉県]][[成田市]][[三里塚 (成田市)|三里塚]]御料牧場にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)と[[京成電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[成田国際空港]]第1ターミナル内に位置し、両社とも「'''成田第1ターミナル'''」の副名称を付与している。
[[関東の駅百選]]に選定されている。
== 概要 ==
[[成田国際空港]](成田空港)へのアクセス駅の一つで、成田空港第1ターミナルに直結している。JR東日本は[[成田駅|成田]]営業統括センター所属の[[直営駅]]で、[[空港第2ビル駅]]を管理する。京成電鉄は[[空港第2ビル駅]]の被管理駅である。第2ターミナルおよび第3ターミナルへは無料連絡バスが運行されている。
当駅には、JR東日本の[[成田線]](空港支線)と、京成電鉄の[[京成本線|本線]]ならびに[[京成成田空港線|成田空港線(成田スカイアクセス線)]]が乗り入れており、いずれも当駅が終点となっている。ただし、JR・京成とも線路を保有しない[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]]であり、[[線路 (鉄道)|線路]]・設備を保有している[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業者]]は[[成田空港高速鉄道]]である。JR東日本成田線空港支線の[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JO 37'''<ref group="報道" name="pre1801_number" />、京成本線・成田空港線(成田スカイアクセス線)の駅番号はいずれも'''KS42'''<ref group="報道" name="keisei/20100625" />である。
開業当初の英語表記は '''Narita Airport''' であり、一部の案内や路線図で '''Narita Airport Terminal 1''' が使われていたが、[[2015年]][[4月8日]]の第3ターミナル開業以降はごく一部を除いて '''Narita Airport Terminal 1''' に統一されている。同様に当駅の[[中国語]]・[[朝鮮語|韓国語]]での駅名表記についても、第1ターミナルを表す語句が含まれている。
なお、京成電鉄の行先表示など一部旅客案内では、空港第2ビル駅と当駅の総称として「成田空港 Narita Airport」を用いる場合がある(この場合、駅番号が2つの駅の並立表示となる)。
== 歴史 ==
{{出典の明記|section =1|date=2011年12月|ソートキー=駅}}
現在の[[京成成田駅]] - [[駒井野信号場]] - 空港第2ビル駅 - 成田空港駅間は、空港建設決定時に京成電鉄の空港新線として計画された区間である<ref>『鉄道ピクトリアル』1970年8月号 電気車研究会</ref>。京成電鉄では、現在の空港第2ビル駅と当駅の位置に、当初から「第2ターミナル駅」と「第1ターミナル駅」(いずれも仮称)の建設を計画し、[[1969年]][[11月7日]]に空港新線の免許を取得している。しかし、[[国土交通省|運輸省(当時)]]は成田空港への鉄道アクセス手段として[[成田新幹線]]を計画していたため、[[新東京国際空港公団]]が京成の旅客ターミナル直下への乗り入れに難色を示し、翌[[1970年]][[9月28日]]に京成成田駅から5.2 [[キロメートル|km]]地点までの施工が認可されたものの、旅客ターミナル直下までの施工認可は保留された。その後、最終的に空港公団は京成の乗り入れを認めず、やむなく旅客ターミナルから約1キロメートル(km)離れた場所に(初代)成田空港駅を建設することとなり、[[1971年]][[3月25日]]に(初代)成田空港駅までの施工が認可された。
しかし、成田新幹線は沿線の反対運動などにより工事が進まず、[[1986年]]に計画を断念。第1・第2旅客ターミナル直下に建設されていた新幹線用の路線および駅は在来線用に転用され、JR東日本および京成電鉄の駅として[[1991年]]に2代目となる現在の成田空港駅(当駅)が、翌[[1992年]]に空港第2ビル駅が開業した<ref name="sone26"/>。前出の(初代)成田空港駅は、[[東成田駅]]と改称し、[[京成東成田線]]として営業を継続している。
=== 年表 ===
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月19日]]:開業<ref name="sone26"/>。
* [[2000年]](平成12年):[[関東の駅百選]]に選定される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/keisei_museum/history/index5.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210501094437/https://www.keisei.co.jp/keisei/keisei_museum/history/index5.html|title=京成電鉄の歩み > 1989〜現在 成田スカイアクセス開業とその先|archivedate=2021-05-01|accessdate=2021-05-01|publisher=京成電鉄|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。選定理由は「世界の空の玄関口として、内外の多くの人々に利用される国際空港ターミナル駅」<ref name="stations">{{Cite book|和書|author=(監修)「鉄道の日」関東実行委員会|title=駅の旅物語 関東の駅百選|publisher=[[人文社]]|date=2000-10-14|pages=162-163,229|edition=初版|isbn=4795912807}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:京成電鉄でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-04|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2010年]](平成22年)[[7月17日]]:成田空港線(成田スカイアクセス線)が開業し、当駅の京成本線コンコースに中間改札が設置される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-017.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200504185414/https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-017.pdf|format=PDF|language=日本語|title=成田スカイアクセス開業!! 7月17日(土)京成線ダイヤ改正|publisher=京成電鉄|date=2010-05-28|accessdate=2020-06-09|archivedate=2020-05-04}}</ref>。
* [[2011年]](平成23年)[[3月11日]]:[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])発生。京成本線経由の「シティライナー」の当駅への乗り入れはこの日を最後に休止(のちに正式に乗り入れ廃止)。以降、当駅に乗り入れる京成本線経由の有料列車は「モーニングライナー」と「イブニングライナー」のみとなる。
* [[2020年]]([[令和]]2年)
** [[3月19日]]:JR東日本で[[ホームドア#昇降式ホーム柵|昇降式ホーム柵]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre2002_hdkaishi.pdf|title=成田空港駅・空港第2ビル駅 JR線ホームにおける昇降式ホーム柵の使用開始について|language=日本語|format=PDF|publisher=成田空港高速鉄道/東日本旅客鉄道千葉支社|date=2020-02-28|accessdate=2020-02-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200228054007/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre2002_hdkaishi.pdf|archivedate=2020-02-28}}</ref>。
** [[7月11日]]:京成電鉄の3・5番線で[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道" name="press20200914">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200914_135853169431.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200914085435/https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200914_135853169431.pdf|format=PDF|language=日本語|title=お客様の安全確保と利便性向上のため 成田空港駅の全番線のホームドアを使用開始しました|publisher=京成電鉄/成田空港高速鉄道|date=2020-09-14|accessdate=2020-09-14|archivedate=2020-09-14}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200630_161251763921.pdf|title=成田空港駅のホームドア使用開始について|format=PDF|language=日本語|publisher=京成電鉄/成田空港高速鉄道|date=2020-06-25|accessdate=2020-06-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200702221357/https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200630_161251763921.pdf|archivedate=2020-07-02}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|当初は2020年5月17日の使用開始が予定されていたが<ref group="報道" name="pr-keisei20200227">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200227_155616387200.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200227114245/https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200227_155616387200.pdf|format=PDF|language=日本語|title=お客様の安全確保と利便性向上のため成田空港駅のホームドアを2020年5月から順次使用開始します|publisher=京成電鉄/成田空港高速鉄道|date=2020-02-27|accessdate=2020-02-27|archivedate=2020-02-27}}</ref>、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の拡大防止を理由に、工事が一時中断したことから延期された<ref group="報道" name="procrastination">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200515_161507230812.pdf|title=成田空港駅のホームドア使用開始の延期について|language=日本語|format=PDF|publisher=京成電鉄|date=2020-05-15|accessdate=2020-05-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200517031851/https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200515_161507230812.pdf|archivedate=2020-05-17}}</ref>。}}。
* [[9月12日]]:京成電鉄の1・2・4番線でホームドアの使用を開始<ref group="報道" name="press20200914"/><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200827_140959824027.pdf|title=成田空港駅のホームドア使用開始について|language=日本語|format=PDF|publisher=京成電鉄/成田空港高速鉄道|date=2020-08-27|accessdate=2020-08-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200827061554/https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200827_140959824027.pdf|archivedate=2020-08-27}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|当初は2・4番線は同年6月21日、1番線は同年6月28日の使用開始が予定されていたが<ref group="報道" name="pr-keisei20200227"/>、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大防止を理由に、工事が一時中断したことから延期された<ref group="報道" name="procrastination"/>。}}。
== 駅構造 ==
{{出典の明記|section =1|date=2011年12月|ソートキー=駅}}
成田空港第1ターミナルの地下1階にある[[地下駅]]である。
駅改札外のJRコンコースには、[[ジャパンレールパス]]の引き換えや訪日外国人向けの旅行サービスを提供するJR東日本訪日旅行センターが設置されている(運営は[[東日本旅客鉄道#関連会社|JR東日本グループ]]の[[びゅうトラベルサービス]])。また、京成コンコースにも訪日外国人向けの旅行サービスを提供する「SKYLINER & KEISEI INFORMATION CENTER」([[京成トラベルサービス]])が設置されている<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/161128_03.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210501010005/https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/161128_03.pdf|format=PDF|language=日本語|title= 訪日外国人のお客様向け乗車券販売・案内カウンター SKYLINER & KEISEI INFORMATION CENTER 12月1日(木)、空港第2ビル駅に続き成田空港駅にオープン!|publisher=京成電鉄|date=2016-11-28|accessdate=2021-05-01|archivedate=2021-05-01}}</ref>。このほか[[スターバックス]]などの飲食店、売店などが立地する。
JRは[[島式ホーム]]1面2線、京成は[[単式ホーム]]から成田スカイアクセス開業時に改造し、島式ホームと単式ホーム2面3線(うち島式ホームはのりばを4つに分けてある)を有する。[[改札]]内での両線ホーム間の行き来はできない。また、出口改札は後述の検問所に直結しているため、検問所を通過しないと再入場や両社間の乗り換えはできない。
=== セキュリティエリア ===
{{See also|成田国際空港#開港後}}
空港建設時の経緯から、改札を出た所に「セキュリティエリア」と呼ばれる空港の[[検問]]所があり、ここでは[[パスポート]]若しくは[[身分証明書]]の提示を求められるとともに手荷物検査(実際に荷物を開ける)が行われていた。そのため、当駅の開業時には主要駅に[[新東京国際空港公団]](当時)名で、その旨と空港に用のない人は他の駅を使うよう求める旨が書かれた張り紙が掲示された。なお、成田新高速鉄道(京成成田空港線)の開業前をめどに、セキュリティエリアの廃止を検討していることが報じられていたが<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.47news.jp/CN/200911/CN2009112901000435.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091202165926/https://www.47news.jp/CN/200911/CN2009112901000435.html|title=成田空港、駅改札の検問廃止検討 初の警備体制見直し|newspaper=共同通信|date=2009-11-29|accessdate=2021-05-01|archivedate=2009-12-02}}</ref>、開業後も続けられていた。その後、2010年10月以降は再国際化した[[東京国際空港]](羽田空港)との競争の激化を理由に、再び検問廃止を検討しているとも報じられた<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20121021-OYT1T00041.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121023002100/http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20121021-OYT1T00041.htm|title=成田の「検問」廃止検討、羽田と競争激化で|newspaper=読売新聞|date=2012-10-21|accessdate=2020-07-20|archivedate=2012-10-23}}</ref>。そして2015年3月30日の正午をもって、開港以来実施してきた検問が廃止された<ref name="naa_nonstopgate">{{Cite web|和書|url=https://www.narita-airport.jp/jp/news/150327-nonstopgate.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150905234341/https://www.narita-airport.jp/jp/news/150327-nonstopgate.pdf|title=3.30(月)正午より空港入場ゲートの運用方法が変わります!|archivedate=2015-09-05|accessdate=2021-01-30|publisher=成田国際空港|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=2021年1月}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/national/248693|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200331001221/https://www.chibanippo.co.jp/news/national/248693|title=利用者、歓迎の声「スムーズで快適」 カメラ監視に注文も ノンストップゲート化実現 成田空港|newspaper=千葉日報|date=2015-03-31|accessdate=2020-03-31|archivedate=2020-03-31}}</ref>。
=== のりば ===
<!--方面表記は、各事業者の駅構内図の記載に準拠-->
{|class="wikitable"
|colspan="7" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999; text-align:left"|'''JR線ホーム'''
|-
!nowrap|番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!colspan="4"|行先
|-
!1
|rowspan="2"|{{Color|#00b261|■}} [[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] [[成田線|成田]]・[[横須賀・総武快速線|総武線]]
|rowspan="2" colspan="4"|[[東京駅|東京]]・[[新宿駅|新宿]]・[[横浜駅|横浜]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/estation/stations/1130.html|title=駅構内図(成田空港駅)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-08-11}}</ref>
|-
!2
|-
|colspan="7" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999; text-align:left"|'''京成線ホーム'''
|-
!nowrap|番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先!!nowrap|番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
!3
|rowspan="2"|[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線
|rowspan="2"|[[京成船橋駅|京成船橋]]・[[日暮里駅|日暮里]]・[[京成上野駅|京成上野]]・[[押上駅|押上]]・<br />[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]方面<ref name="stationmap/145">{{Cite web|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/stationmap/pdf/jp/145.pdf|title=成田空港|format=PDF|publisher=京成電鉄|accessdate=2020-06-27}}</ref>
!5
|rowspan="2" nowrap|[[File:Number prefix SkyAccess.svg|15px|KS]] 成田スカイアクセス線<br />(「[[スカイライナー]]」)
|rowspan="2"|[[File:Number prefix Hokusō.svg|15px|HS]] 北総線・日暮里・京成上野・押上・<br />[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] 都営浅草線方面<ref name="stationmap/145" />
|-
!2
!4
|-
!1
|nowrap|[[File:Number prefix SkyAccess.svg|15px|KS]] 成田スカイアクセス線<br />(一般電車([[京成成田空港線|アクセス特急]]))
|colspan="4"|[[File:Number prefix Hokusō.svg|15px|HS]] 北総線・日暮里・京成上野・押上・[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] 都営浅草線方面<ref name="stationmap/145" />
|}
* JRの駅については、かつては成田線のラインカラーである緑({{Color|#00b261|■}})は旅客案内ではほとんど使われず、代わりに直通先である総武・横須賀線のラインカラーである青({{Color|navy|■}})が使用されていたが、2018年3月の駅ナンバリング制定に伴い、駅名標のみ、帯の色が青から緑に変更された。
* 番線はJR側から、JR1・2番線、京成3・5、2・4、1番線となっており、京成3・5番線と2・4番線は同一線路上にある。
* JRについては原則として、1番線に「成田エクスプレス」、2番線に一般列車が発着する。
* 平日6時57分発のアクセス特急は4番線から発車する。
* スカイライナーは成田空港 - 空港第2ビル駅間のみの利用はできない。
* 京成本線は中間改札がある。
<gallery>
JR Narita-Line Narita Airport Terminal 1 Station Gates.jpg|JR改札口(2021年5月)
JRE-Narita-Airport-Terminal-1-Station Home.jpg|JRホーム(2021年3月)
Keisei Narita Airport Terminal 1 Station Entrance.jpg|京成駅出入口(2021年5月)
Keisei Narita Airport Terminal 1 Station Entrance Gates.jpg|京成入口改札口(2021年5月)
Keisei Narita Airport Terminal 1 Station Intermediate Gates.jpg|京成中間改札口(2021年5月)
Keisei Narita Airport Terminal 1 Station Platform 1.jpg|京成1番線ホーム(2021年5月)
Keisei Narita Airport Terminal 1 Station Platform 2・3.jpg|京成2・3番線ホーム(2021年5月)
Keisei Narita Airport Terminal 1 Station Platform 4・5.jpg|京成4・5番線ホーム(2021年5月)
</gallery>
=== 京成線ホームの改修 ===
2010年7月17日ダイヤ改正より成田空港線(成田スカイアクセス線)<!--(一般利用者において、「成田空港線」という表現は誤解を与える可能性があるのであえて併記しない)※議論中-->が乗り入れているが、それに伴い京成線の外側(北ウイング側)に新たに躯体を建設し、成田スカイアクセス線専用のホーム1面(新1番線)を設けた。これによって当駅は京成3線・JR2線の計5線となった。なお、改修工事完了後も京成線の駅前後の線路は[[単線]]のままである。
躯体工事は[[成田国際空港 (企業)|成田国際空港株式会社]]が担当し、その後[[成田高速鉄道アクセス]]株式会社が躯体の内部にレールを敷設し、信号機器や[[エスカレーター]]などの諸施設を整備している。
成田スカイアクセス線の開業と同時に当駅 - 京成高砂駅間のルートは2通りとなっているが、2つのルートは運賃が異なるので、ルートの特定と運賃の算定を行うため、当駅のホームを成田スカイアクセス線専用ホーム(単式ホーム・1番線)・京成本線専用ホーム(島式ホーム上野方、2・3番線)・スカイライナー専用ホーム(島式ホーム車止め側、4・5番線)に分け、京成本線コンコースに中間改札が設置されている。また京成本線ホームと成田スカイアクセス線ホームとの間に信号機が設けられており、縦列停車も可能である。4・5番線から電車が発着する時は、2・3番線で通過を知らせる放送が流れる。
== かつて販売されていた駅弁 ==
かつて、[[日本レストランエンタプライズ]](現:[[JR東日本クロスステーション]])が改札外(成田空港内テナント)に[[駅弁]]販売店を出店していたが、現在は閉店している。当時販売されていた主な駅弁は下記の通り([[新宿駅]]・[[いわき駅]]と同様の駅弁)。
* [[鳥めし]]弁当
* [[深川めし]]
* チキン弁当
* 30品目のバランス弁当
* たれカツ重
* さば[[蒲焼き]]風弁当
* 五目わっぱめし
== 利用状況 ==
* '''JR東日本''' - 2021年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''3,730人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
* '''京成電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''17,769人'''である<ref group="京成" name="keisei2022" />。
*: 京成線内69駅中第25位。
[[1992年]][[12月6日]]の第2ターミナル開業時に多くの主要[[航空会社]]の便が第2ターミナル発着とされたため、第2ターミナルに併設される[[空港第2ビル駅]]の乗降人員は当駅の2倍近くになった。その後、[[2006年]][[6月2日]]より第1ターミナルが拡張され、[[スカイチーム]]や[[スターアライアンス]]加盟航空会社などが第2ターミナルから再び第1ターミナルへ配置換えしたため再度増加している。京成では[[2010年]][[7月17日]]に成田スカイアクセス線が開業した後、増加傾向が続いている。しかし、2020年度は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|世界的流行]]の影響で大幅な落ち込みとなった。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
近年の1日平均'''乗降'''人員の推移は以下の通りである(JRは除く)。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="*">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!rowspan="3"|年度
!colspan="4"|京成電鉄
|-
!colspan="2"|京成本線
!colspan="2"|成田空港線
|-
!1日平均<br/>乗降人員
!増加率
!1日平均<br/>乗降人員
!増加率
|-
|2003年(平成15年)
|11,970
|
|rowspan="7" colspan="2" style="text-align:center;"|未<br />開<br />業
|-
|2004年(平成16年)
|13,246
|10.7%
|-
|2005年(平成17年)
|13,564
|2.4%
|-
|2006年(平成18年)
|19,105
|40.9%
|-
|2007年(平成19年)
|19,772
|3.5%
|-
|2008年(平成20年)
|20,304
|2.7%
|-
|2009年(平成21年)
|20,386
|0.4%
|-
|2010年(平成22年)
|16,850
|−17.3%
|<ref group="備考">2010年7月17日開業。開業日から翌年3月31日までの計258日間を集計したデータ。</ref>4,908
|
|-
|2011年(平成23年)
|13,423
|−20.3%
|7,181
|46.3%
|-
|2012年(平成24年)
|13,536
|0.8%
|8,698
|21.1%
|-
|2013年(平成25年)
|13,553
|0.1%
|9,342
|7.4%
|-
|2014年(平成26年)
|12,672
|−6.5%
|8,760
|−6.2%
|-
|2015年(平成27年)
|12,965
|2.3%
|9,701
|10.7%
|-
|2016年(平成28年)
|13,394
|3.3%
|10,453
|7.8%
|-
|2017年(平成29年)
|13,682
|2.2%
|11,155
|6.7%
|-
|2018年(平成30年)
|14,395
|5.2%
|12,605
|13.0%
|-
|2019年(令和元年)
|14,632
|1.6%
|12,671
|0.5%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|5,907
|−59.6%
|2,019
|−84.1%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員 ===
開業以降の1日平均'''乗車'''人員の推移は以下の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref>
|-
!年度
!JR東日本
!京成電鉄
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|<ref group="備考" name="1991-03-19">1991年3月19日開業。開業日から同年3月31日までの計13日間を集計したデータ。</ref>6,648
|<ref group="備考" name="1991-03-19" />8,596
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|6,496
|10,094
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|6,008
|9,871
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|3,885
|6,145
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|3,993
|5,765
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|4,141
|5,927
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|4,250
|6,319
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|4,144
|6,204
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成10年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|3,969
|5,947
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成11年)]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|3,623
|5,983
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_02.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>3,668
|6,118
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_02.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>3,236
|5,761
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_02.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>3,342
|5,849
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_02.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>3,094
|5,647
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_02.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>3,564
|6,293
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_02.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>3,699
|6,426
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_02.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>5,411
|9,367
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_02.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>5,734
|9,729
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_02.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>5,660
|10,016
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_02.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>5,546
|10,051
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_02.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>5,844
|11,488
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_02.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>5,061
|9,977
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_03.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>6,042
|10,644
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_03.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>6,586
|10,924
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_03.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>6,948
|10,188
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_03.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>6,739
|10,898
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_03.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>6,952
|11,466
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_03.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>7,240
|11,951
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_03.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>7,622
|12,890
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 千葉県統計年鑑(令和元年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_03.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>7,248
|13,162
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 千葉県統計年鑑(令和2年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_05.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>1,437
|3,830
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_05.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>1,391
|4,747
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_03.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>3,730
|<ref group="京成" name="keisei2022">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2022年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2022_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl= |archivedate= |deadlink= |}}</ref>9,020
|
|}
; 備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
{{See|成田国際空港#旅客施設}}
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: {{Color|#00b261|■}}成田線(空港支線)
:* 特急「[[成田エクスプレス]]」発着駅
:: {{Color|#f68b1e|■}}快速・{{Color|#00b261|■}}普通(各駅停車)<!-- 房総地区では両名称が混用されているため併記 -->
::: [[空港第2ビル駅]] (JO 36) - '''成田空港駅 (JO 37)'''
; 京成電鉄
: [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 本線
:* [[スカイライナー|{{Color|#5362a8|■}}「モーニングライナー」始発駅、{{Color|#5362a8|■}}「イブニングライナー」終着駅]]
:: {{Color|#049c5e|■}}快速特急・{{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#21ade5|■}}通勤特急・{{Color|#ee86a1|■}}快速・{{Color|#595757|■}}普通
::: 空港第2ビル駅 (KS41) - '''成田空港駅 (KS42)'''
: [[File:Number prefix SkyAccess.svg|15px|KS]] 成田空港線(成田スカイアクセス線)
:* [[スカイライナー|{{Color|#002b61|■}}「スカイライナー」発着駅]]
:: {{Color|#ef7a00|■}}アクセス特急
::: 空港第2ビル駅 (KS41) - '''成田空港駅 (KS42)'''
: ※京成の空港第2ビル駅 - 成田空港駅間は、本線と成田空港線の重複区間という扱いである。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist}}
===== 報道発表資料 =====
{{Reflist|group="報道"|3}}
===== 新聞記事 =====
{{Reflist|group="新聞"}}
=== 利用状況 ===
; JR・私鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; 京成電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京成"|22em}}
; JR・私鉄の統計データ
{{Reflist|group="*"}}
; 千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="千葉県統計"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Narita Airport Terminal 1 Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[東成田駅]] - 当駅開業前に成田空港駅を名乗っていた。
* [[成田空港高速鉄道]]
* [[鉄道むすめの登場人物#vol.4から登場|中山ゆかり]] - [[鉄道むすめ]]および同名のテレビドラマに登場したキャラクター。当駅の駅員という設定になっている。
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1130|name=成田空港}}
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/narita-airport-terminal-1.php 成田空港駅|電車と駅の情報|京成電鉄]
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/skyliner/jp/traffic/nrt.php 成田空港駅/駅構内マップ | 成田空港アクセスガイド | スカイライナー/成田空港アクセス | 京成電鉄]
* {{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/stationmap/pdf/jp/145.pdf 京成電鉄 成田空港駅 駅構内図]}}
{{成田国際空港のアクセス}}
{{関東の駅百選}}
{{成田線}}
{{京成本線}}
{{京成成田空港線}}
{{デフォルトソート:なりたくうこう}}
[[Category:成田市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 な|りたくうこう]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:京成電鉄の鉄道駅]]
[[Category:日本の空港駅]]
[[Category:1991年開業の鉄道駅]]
[[Category:成田線]]
[[Category:成田国際空港の鉄道|なりたくうこうえき]] | 2003-03-07T08:13:58Z | 2023-12-25T14:13:35Z | false | false | false | [
"Template:0",
"Template:Reflist",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
"Template:Cite news",
"Template:Otheruses",
"Template:BS-table",
"Template:BS5",
"Template:成田国際空港のアクセス",
"Template:関東の駅百選",
"Template:京成本線",
"Template:駅情報",
"Template:See also",
"Template:外部リンク/JR東日本駅",
"Template:Cite book",
"Template:Cite press release",
"Template:PDFlink",
"Template:成田線",
"Template:UKrail-header2",
"Template:Color",
"Template:See",
"Template:Commonscat",
"Template:京成成田空港線",
"Template:BS-colspan",
"Template:出典の明記",
"Template:Refnest"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E9%A7%85 |
3,591 | 青砥駅 | 青砥駅(あおとえき)は、東京都葛飾区青戸三丁目にある、京成電鉄の駅である。本線と押上線が乗り入れている。駅番号はKS09。
押上線の起点駅で、本線京成上野方面と、都営地下鉄浅草線・京急線からの列車が乗り入れる押上線押上方面の分岐点でもある。また、京成本線では当駅から隣駅の京成高砂駅まで複々線であり、京成電鉄におけるジャンクションとしての機能を当駅と京成高砂駅で二分する形になっている。
島式ホーム2面4線を有する高架駅で、2階と3階にそれぞれ1面ずつホームがある。
1階・中2階にはテナントとしてユアエルム青戸店が入居する。中2階は改札口・駅事務所、2階は都営浅草線・京急線方面(1番線)と京成上野方面(2番線)、3階は成田空港方面(3・4番線)のりばである。
進行方向別の構造のため、当駅では階段を昇降せずに京成高砂方面からの列車と押上線の列車の乗り換えが可能である。また、上り方面への列車の折り返し着発用に、上り・下りの二層間をつなぐ引き上げ線も設置されている。しかし、引き上げ線が1線しかないため、当駅で折り返す本数には制約がある事から、日中の一部の横浜方面快特と羽田空港方面快速特急は京成高砂で折り返す。
中2階改札口にはエレベーター(低速)が設置され、2階ホーム、3階ホームに通じている。他にも、中2階と1階(出口)の間を連絡するエレベーターがある。エスカレーターも併設され、改札口 - 2階ホーム、2階ホーム - 3階ホームをそれぞれ連絡している。
改築から1994年までは、京成津田沼駅と同様の字幕式発車標が使用されていた。その後LED式に交換されたが、成田スカイアクセスの開業に伴いフルカラーLED式のものに交換された。これにより3・4番線ホームで個別に設置されていたものが一体のものとされている。なお、発車標はホームのみの設置であり、運行情報表示器も併設されている。
かつて地上駅時代(当時は島式ホーム2面4線、駅東側から順に1 - 4番線)は平面交差で分岐を捌いていたが、ダイヤ編成上のネックを解消するために大規模改良工事を行い、二重高架の方向別配線となった。その際は、現在の駅舎の位置から京成高砂寄りに一旦仮駅を建設し、旧駅舎を解体後現駅舎を建設する方法で行われた。仮駅はその後1976年に現駅の直下に戻った。1985年の高架化完成と同時期に、駅と隣接する環状七号線最後の区間(青戸八丁目交差点 - 青砥橋 - 奥戸)も完成した。
駅長配置駅。青砥管区としてお花茶屋駅、京成立石駅および四ツ木駅を管理下に置く。
2022年度の1日平均乗降人員は43,907人であり、京成線全69駅中第7位で、他社と接続のない京成電鉄の駅としては最多。また隣の京成高砂駅は北総線からの直通人員を乗降人員としてカウントするため、乗降客数自体は当駅の方が多い。
近年の1日平均乗降人員推移は下表の通りである。
近年の1日平均乗車人員推移は下表の通りである。
当駅には駅前にロータリーを設置するスペースがない。ユアエルム青戸5番街と6番街の間の高架下に「京成青砥駅・ユアエルム青戸前」停留所を設置し、2011年8月1日から青01系統の慈恵医大葛飾医療センター行の運行を開始した。青砥駅東交差点はバス停が環七通り沿い(京成高砂方面)にあり駅から離れている為、利用時には注意が必要。
アリオ亀有へのアクセスのために、無料循環シャトルバスが青砥駅入口・青砥駅東交差点の両バス停に停車する。
タクシー乗り場はロータリーが無いため、リブレ京成青砥店横にタクシーが横付けされ、そこから乗車することが慣例となっている。正式なものではないため、タクシー乗り場等の表示はない。
講談の太平記に登場する青砥藤綱が由来とされる。町名は江戸時代の川運の港を意味する「戸」からきた青戸であり、混同されることが多い。また、駅開業時は亀青村青戸ではなく、本田町中原(葛飾区に移行後は本田中原町)に属していた。当駅の住所が青戸となったのは、1967年(昭和42年)の住居表示施行後である。
当駅の高架化事業着手時点では、「スカイライナー」を10両編成にする計画があったため、上下ホームとも10両編分のホーム有効長198mとなっている。1997年に、このスペースを活用し、下りホーム京成上野寄りに「イブニングライナー」の利用客のための待合室が設置されている。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "青砥駅(あおとえき)は、東京都葛飾区青戸三丁目にある、京成電鉄の駅である。本線と押上線が乗り入れている。駅番号はKS09。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "押上線の起点駅で、本線京成上野方面と、都営地下鉄浅草線・京急線からの列車が乗り入れる押上線押上方面の分岐点でもある。また、京成本線では当駅から隣駅の京成高砂駅まで複々線であり、京成電鉄におけるジャンクションとしての機能を当駅と京成高砂駅で二分する形になっている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "島式ホーム2面4線を有する高架駅で、2階と3階にそれぞれ1面ずつホームがある。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "1階・中2階にはテナントとしてユアエルム青戸店が入居する。中2階は改札口・駅事務所、2階は都営浅草線・京急線方面(1番線)と京成上野方面(2番線)、3階は成田空港方面(3・4番線)のりばである。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "進行方向別の構造のため、当駅では階段を昇降せずに京成高砂方面からの列車と押上線の列車の乗り換えが可能である。また、上り方面への列車の折り返し着発用に、上り・下りの二層間をつなぐ引き上げ線も設置されている。しかし、引き上げ線が1線しかないため、当駅で折り返す本数には制約がある事から、日中の一部の横浜方面快特と羽田空港方面快速特急は京成高砂で折り返す。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "中2階改札口にはエレベーター(低速)が設置され、2階ホーム、3階ホームに通じている。他にも、中2階と1階(出口)の間を連絡するエレベーターがある。エスカレーターも併設され、改札口 - 2階ホーム、2階ホーム - 3階ホームをそれぞれ連絡している。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "改築から1994年までは、京成津田沼駅と同様の字幕式発車標が使用されていた。その後LED式に交換されたが、成田スカイアクセスの開業に伴いフルカラーLED式のものに交換された。これにより3・4番線ホームで個別に設置されていたものが一体のものとされている。なお、発車標はホームのみの設置であり、運行情報表示器も併設されている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "かつて地上駅時代(当時は島式ホーム2面4線、駅東側から順に1 - 4番線)は平面交差で分岐を捌いていたが、ダイヤ編成上のネックを解消するために大規模改良工事を行い、二重高架の方向別配線となった。その際は、現在の駅舎の位置から京成高砂寄りに一旦仮駅を建設し、旧駅舎を解体後現駅舎を建設する方法で行われた。仮駅はその後1976年に現駅の直下に戻った。1985年の高架化完成と同時期に、駅と隣接する環状七号線最後の区間(青戸八丁目交差点 - 青砥橋 - 奥戸)も完成した。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "駅長配置駅。青砥管区としてお花茶屋駅、京成立石駅および四ツ木駅を管理下に置く。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "2022年度の1日平均乗降人員は43,907人であり、京成線全69駅中第7位で、他社と接続のない京成電鉄の駅としては最多。また隣の京成高砂駅は北総線からの直通人員を乗降人員としてカウントするため、乗降客数自体は当駅の方が多い。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "近年の1日平均乗降人員推移は下表の通りである。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "近年の1日平均乗車人員推移は下表の通りである。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "当駅には駅前にロータリーを設置するスペースがない。ユアエルム青戸5番街と6番街の間の高架下に「京成青砥駅・ユアエルム青戸前」停留所を設置し、2011年8月1日から青01系統の慈恵医大葛飾医療センター行の運行を開始した。青砥駅東交差点はバス停が環七通り沿い(京成高砂方面)にあり駅から離れている為、利用時には注意が必要。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "アリオ亀有へのアクセスのために、無料循環シャトルバスが青砥駅入口・青砥駅東交差点の両バス停に停車する。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "タクシー乗り場はロータリーが無いため、リブレ京成青砥店横にタクシーが横付けされ、そこから乗車することが慣例となっている。正式なものではないため、タクシー乗り場等の表示はない。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "講談の太平記に登場する青砥藤綱が由来とされる。町名は江戸時代の川運の港を意味する「戸」からきた青戸であり、混同されることが多い。また、駅開業時は亀青村青戸ではなく、本田町中原(葛飾区に移行後は本田中原町)に属していた。当駅の住所が青戸となったのは、1967年(昭和42年)の住居表示施行後である。",
"title": "駅名の由来"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "当駅の高架化事業着手時点では、「スカイライナー」を10両編成にする計画があったため、上下ホームとも10両編分のホーム有効長198mとなっている。1997年に、このスペースを活用し、下りホーム京成上野寄りに「イブニングライナー」の利用客のための待合室が設置されている。",
"title": "その他"
}
] | 青砥駅(あおとえき)は、東京都葛飾区青戸三丁目にある、京成電鉄の駅である。本線と押上線が乗り入れている。駅番号はKS09。 押上線の起点駅で、本線京成上野方面と、都営地下鉄浅草線・京急線からの列車が乗り入れる押上線押上方面の分岐点でもある。また、京成本線では当駅から隣駅の京成高砂駅まで複々線であり、京成電鉄におけるジャンクションとしての機能を当駅と京成高砂駅で二分する形になっている。 | {{出典の明記|date=2011年12月|ソートキー=駅}}
{{駅情報
|社色 = #1155cc
|文字色 =
|駅名 = 青砥駅
|画像 = Aoto Sta. Ent.1.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅出入口(2017年3月)
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point}}
|よみがな = あおと
|ローマ字 = Aoto
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KS|09|#005aaa|4||#005aaa}}
|所属事業者 = [[京成電鉄]]
|所在地 = [[東京都]][[葛飾区]][[青戸 (葛飾区)|青戸]]三丁目36番1号
|座標 = {{coord|35|44|45.2|N|139|51|22.7|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日 = [[1928年]]([[昭和]]3年)[[11月1日]]
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面4線
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = 43,907
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#005aaa|■}}[[京成本線|本線]]
|前の駅1 = KS08 [[お花茶屋駅|お花茶屋]]
|駅間A1 = 1.6
|駅間B1 = 1.2
|次の駅1 = [[京成高砂駅|京成高砂]] KS10
|キロ程1 = 11.5
|起点駅1 = [[京成上野駅|京成上野]]
|所属路線2 = {{color|#005aaa|■}}[[京成押上線|押上線]]
|前の駅2 = KS49 [[京成立石駅|京成立石]]
|駅間A2 = 1.1
|駅間B2 =
|次の駅2 =
|キロ程2 = 5.7
|起点駅2 = [[押上駅|押上]]
|乗換 =
|備考 =
}}
'''青砥駅'''(あおとえき)は、[[東京都]][[葛飾区]][[青戸 (葛飾区)|青戸]]三丁目にある、[[京成電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[京成本線|本線]]と[[京成押上線|押上線]]が乗り入れている。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KS09'''。
押上線の終点駅で、本線[[京成上野駅|京成上野]]方面と、[[都営地下鉄浅草線]]・[[京浜急行電鉄|京急線]]からの列車が乗り入れる押上線[[押上駅|押上]]方面の分岐点となっている。また、京成本線では当駅から隣駅の[[京成高砂駅]]まで[[複々線]]であり、京成電鉄におけるジャンクションとしての機能を当駅と京成高砂駅で二分する形になっている。
== 歴史 ==
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[11月1日]]:日暮里 - 青砥間開通のための分岐駅として開業。それまで立石 - 高砂間には駅は設置されていなかった<ref>[[日本鉄道旅行地図帳]]3号 関東1([[今尾恵介]] 監修 [[新潮社]] 2008年7月18日発行 ISBN 9784107900210 )36頁</ref>。
* [[1931年]](昭和6年)[[12月19日]]:日暮里 - 青砥間開業。
** [[1959年]](昭和34年)まで、[[陸屋根]]の[[洋館]]タイプの駅本屋を有していた<ref name="keiseikonjyaku">JTBキャンブックス『京成の駅 今昔・昭和の面影』([[石本祐吉]]・著 2014年2月1日初版発行)55-58頁</ref>。
* [[1959年]](昭和34年) - [[橋上駅]]に改築、ホーム幅を4mから7mに拡張、2面のホームを線別から方向別に配線変更<ref name="keiseikonjyaku"/>。
* [[1973年]](昭和48年)2月 - 立体交差化工事起工式。
* [[1982年]](昭和57年)[[3月24日]]:押上線下り線の高架線供用開始。
* [[1983年]](昭和58年)[[5月18日]]:本線下り線の高架線供用開始。
* [[1984年]](昭和59年)[[7月24日]]:本線・押上線上り線の高架線供用開始<ref name="交通84">{{Cite news |title=上り二線も高架へ 23日深夜切替え 連続立交化大詰め 京成電鉄青砥駅 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1984-07-07 |page=2 }}</ref>。
* [[1986年]](昭和61年)10月:立体交差化工事竣工。
* [[2010年]]([[平成]]22年)[[7月17日]]:[[ダイヤ改正]]により「シティライナー」とアクセス特急の停車駅となり、当駅が停車駅となっていた急行は廃止された。
* [[2020年]]([[令和]]2年)
**[[4月11日]]:当面の間[[スカイライナー]]の一部列車(朝下り・夜間上り)の停車駅となる<ref name="pr20200406">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200406_152133182387.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200407070559/https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200406_152133182387.pdf|format=PDF|language=日本語|title=押上・都営浅草線・京急線方面の成田空港アクセスをさらにスピーディーに! スカイライナーの一部列車が青砥駅に停車します! 2020年4月11日(土)〜当面の間|publisher=京成電鉄|date=2020-04-06|accessdate=2020-04-07|archivedate=2020-04-07}}</ref>。
**[[6月1日]]:4月11日に停車となったスカイライナーのほかに、スカイライナーの一部列車(約80分間隔)が青砥駅に停車となる<ref>{{Cite web|和書|title=スカイライナー/成田空港アクセス {{!}} 京成電鉄|url=https://web.archive.org/web/20200607040810/http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/skyliner/jp/index.php|website=web.archive.org|date=2020-06-07|accessdate=2020-06-13}}</ref>。
**[[6月12日]]:10時15分ごろ、[[京成高砂駅|京成高砂]]発[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]行きの[[各駅停車|普通]]([[京急本線|京急]]線内[[快速特急|快特]])電車([[北総開発鉄道7300形電車|北総7300形]]7818編成・8両編成)が当駅に進入する際、7両目の後部台車2軸が進行方向右側に[[列車脱線事故|脱線]]する事故が起きる<ref>{{Cite news|title=京成押上線、青砥駅構内で脱線 けが人なし 一部区間で運転見合わせ - 毎日新聞|url=https://web.archive.org/web/20200614011741/https://mainichi.jp/articles/20200612/k00/00m/040/076000c|work=毎日新聞|accessdate=2020-06-13|language=ja-JP}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=京成青砥駅で脱線、乗客100人けがなし ホーム進入時に:東京新聞 TOKYO Web|url=https://web.archive.org/web/20200613083141/https://www.tokyo-np.co.jp/article/35112|website=web.archive.org|date=2020-06-13|accessdate=2020-06-13}}</ref><ref>[https://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail2.php?id=1973 調査中の案件] - 運輸安全委員会</ref>。
**[[10月1日]]:[[印旛日本医大駅|印旛日本医大]]始発京成上野行き「臨時ライナー」の運行開始に伴い、同列車の停車駅となる<ref>[https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20200924_161834532868.pdf 印旛日本医大駅・千葉ニュータウン中央駅に停車するAE形車両を用いた「臨時ライナー」を運行します(10月1日から)] - 京成電鉄ニュースリリース 2020年9月24日</ref>。
*** 当駅で始発の特急[[三崎口駅|三崎口]]行き(泉岳寺まで普通)に接続。
*** 降車のみの取扱となり、青砥からの乗車は不可。
* [[2022年]](令和4年)
** [[2月26日]]:ダイヤ改正により、正式にスカイライナー(一部列車)の停車駅となる。
=== 駅名の由来 ===
[[講談]]の[[太平記]]に登場する'''[[青砥藤綱]]'''が由来とされる。町名は川運の港を意味する「戸」からきた'''青戸'''(あおと)であり、由来が異なるものの同音ゆえに混同されることも多い。また、駅開業時は[[亀青村]]青戸ではなく、[[本田町]]中原(葛飾区に移行後は本田中原町)に属していた。当駅の住所が青戸となったのは、1967年(昭和42年)の[[住居表示]]施行後である。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]2面4線を有する[[高架駅]]で、2階と3階にそれぞれ1面ずつホームがある。
1階・中2階には[[テナント]]として[[ユアエルム]]青戸店が入居する。中2階は[[改札|改札口]]・駅事務所、2階は[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]・[[京浜急行電鉄|京急線]]方面(1番線)と京成上野方面(2番線)、3階は成田空港方面(3・4番線)のりばである。
進行方向別の構造のため、当駅では階段を昇降せずに[[京成高砂駅|京成高砂]]方面からの列車と押上線の列車の乗り換えが可能である。また、上り方面への列車の折り返し着発用に、上り・下りの二層間をつなぐ[[引き上げ線]]も設置されている。しかし、引き上げ線が1線しかないため、当駅で折り返す本数には制約がある事から、日中の一部の横浜方面快特と羽田空港方面快速特急は京成高砂で折り返す。
中2階改札口には[[エレベーター]](低速)が設置され、2階ホーム、3階ホームに通じている。他にも、中2階と1階(出口)の間を連絡するエレベーターがある。[[エスカレーター]]も併設され、改札口 - 2階ホーム、2階ホーム - 3階ホームをそれぞれ連絡している。
改築から1994年までは、[[京成津田沼駅]]と同様の字幕式[[発車標]]が使用されていた。その後[[発光ダイオード|LED]]式に交換されたが、[[京成成田空港線|成田スカイアクセス]]の開業に伴い[[フルカラー]]LED式のものに交換された。これにより3・4番線ホームで個別に設置されていたものが一体のものとされている。なお、発車標はホームのみの設置であり、運行情報表示器も併設されている。
かつて[[地上駅]]時代(当時は島式ホーム2面4線、駅東側から順に1 - 4番線<ref name="keiseikonjyaku"/>)は平面交差で分岐を捌いていたが、[[ダイヤグラム|ダイヤ]]編成上のネックを解消するために大規模改良工事を行い、二重高架の方向別配線となった。その際は、現在の駅舎の位置から京成高砂寄りに一旦仮駅を建設し、旧駅舎を解体後現駅舎を建設する方法で行われた<ref name="keiseikonjyaku"/>。仮駅はその後[[1976年]]に現駅の直下に戻った<ref name="keiseikonjyaku"/>。1985年の高架化完成と同時期に、駅と隣接する[[東京都道318号環状七号線|環状七号線]]最後の区間(青戸八丁目交差点 - [[青砥橋]] - 奥戸)も完成した。
駅長配置駅。青砥管区として[[お花茶屋駅]]、[[京成立石駅]]および[[四ツ木駅]]を管理下に置く。
=== のりば ===
<!-- 表記は2018年5月時点の新システム準拠の駅の案内サインに基づく -->
{|class="wikitable"
|colspan="3" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999"|'''上りホーム(2階)'''
|-
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
! 1
|[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 押上線
|[[押上駅|押上]]・<span style="font-size:small">[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]</span> [[浅草駅|浅草]]・<span style="font-size:small">[[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] [[京浜急行電鉄|京急線]]</span> [[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港第1・第2ターミナル]]方面
|-
! 2
|[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線
|[[日暮里駅|日暮里]]・[[京成上野駅|京成上野]]方面
|-
|colspan="3" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999"|'''下りホーム(3階)'''
|-
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
!rowspan=2| 3・4
|[[ファイル:Number prefix Hokusō.svg|15px|HS]] 北総線<br />[[ファイル:Number prefix SkyAccess.svg|15px|KS]] 成田スカイアクセス線
|[[東松戸駅|東松戸]]・[[新鎌ヶ谷駅|新鎌ヶ谷]]・[[印旛日本医大駅|印旛日本医大]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[成田空港駅|成田空港]]方面
|-
|[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線
|[[京成高砂駅|京成高砂]]・[[京成船橋駅|京成船橋]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] 成田空港・[[京成千葉駅|京成千葉]]方面
|}
* 上りの「スカイライナー」「モーニングライナー」および「臨時ライナー」に当駅から乗車することはできない。当駅に停車する「スカイライナー」は、全列車[[新鎌ヶ谷駅]]にも停車する。
* 3番線は押上線(浅草線[[西馬込駅|西馬込]]・京急線[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]・[[三崎口駅|三崎口]]方面)からの電車が、4番線は京成本線[[京成上野駅|京成上野]]・日暮里方面からの電車が発着する。
* 京成本線快速特急・快速(京成上野方面)と押上線直通京成高砂発着横浜方面特急・アクセス特急(羽田空港方面エアポート快特)との[[対面乗り換え]]が可能である。
<gallery>
Aoto Sta. Ent.2.jpg|出入口<br />(2017年3月)
Aoto Sta. Gate.jpg|改札口付近<br />(2017年3月)
Aoto-Sta-Platform-2ndFloor.JPG|2階ホーム<br />(2016年6月)
Aoto Sta. platform3.jpg|3階ホーム<br />(2017年3月)
Aoto Sta. liner.jpg|ライナー券売機<br />(2017年3月)
</gallery>
== 利用状況 ==
2022年度の1日平均[[乗降人員]]は'''43,907人'''であり<ref>[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/people_top.html 京成電鉄 駅別乗降人員]</ref>、京成線全69駅中第7位で、他社と接続のない京成電鉄の駅としては最多。また隣の[[京成高砂駅]]は北総線からの直通人員を乗降人員としてカウントするため、乗降客数自体は当駅の方が多い。
近年の1日平均'''乗降'''人員推移は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref>[https://www.city.katsushika.lg.jp/information/1000083/1005977/index.html 葛飾区統計書] - 葛飾区</ref>
!rowspan=2|年度
!colspan=2|京成電鉄
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|2002年(平成14年)
|39,263
|
|-
|2003年(平成15年)
|39,841
|1.5%
|-
|2004年(平成16年)
|40,431
|1.5%
|-
|2005年(平成17年)
|40,889
|1.1%
|-
|2006年(平成18年)
|41,497
|1.5%
|-
|2007年(平成19年)
|43,075
|3.8%
|-
|2008年(平成20年)
|44,048
|2.3%
|-
|2009年(平成21年)
|43,768
| -0.6%
|-
|2010年(平成22年)
|44,220
|1.0%
|-
|2011年(平成23年)
|44,161
| -0.1%
|-
|2012年(平成24年)
|45,152
|2.2%
|-
|2013年(平成25年)
|46,275
|2.5%
|-
|2014年(平成26年)
|46,501
|0.5%
|-
|2015年(平成27年)
|47,719
|2.6%
|-
|2016年(平成28年)
|49,041
|2.8%
|-
|2017年(平成29年)
|50,364
|2.7%
|-
|2018年(平成30年)
|51,372
|2%
|-
|2019年(令和元年)
|51,039
| -0.6%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|38,311
| -24.9%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|39,535
|3.2%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|43,907
|11.1%
|}
近年の1日平均'''乗車'''人員推移は下表の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑]</ref>
!年度!!本線!!押上線!!2路線計!!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|12,918
|7,553
|20,471
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|13,847
|7,462
|21,309
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|14,230
|7,595
|21,825
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|14,348
|7,671
|22,019
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|14,255
|7,663
|21,918
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|14,003
|7,694
|21,697
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|14,151
|7,408
|21,559
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|13,704
|7,304
|21,008
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|13,323
|7,271
|20,594
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|13,232
|7,033
|20,265
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|13,112
|6,978
|20,090
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|12,751
|7,211
|19,962
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|12,477
|7,214
|19,691
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|12,620
|7,423
|20,043
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|12,614
|7,655
|20,269
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|12,732
|7,756
|20,488
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|12,742
|8,047
|20,789
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|13,090
|8,492
|21,582
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|13,378
|8,658
|22,036
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|13,397
|8,493
|21,890
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|13,622
|8,562
|22,184
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|13,568
|8,574
|22,142
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|13,710
|8,923
|22,633
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|13,931
|9,273
|23,204
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|13,739
|9,550
|23,289
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|14,000
|9,975
|23,975
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|14,205
|10,348
|24,553
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|14,433
|10,449
|24,884
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|14,555
|11,183
|25,738
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|14,371
|11,194
|25,565
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|
|
|19,222
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|
|
|19,867
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|
|
|22,048
|
|}
== 駅周辺 ==
* [[ユアエルム]]青戸店
* リブレ京成
* 葛飾青戸郵便局
* 健康プラザかつしか(葛飾区保健所)
*テクノプラザかつしか
* [[かつしかシンフォニーヒルズ]]
* [[タカキュー]]青戸店
* 青戸平和公園
*[[熊野神社 (葛飾区)|五方山熊野神社]]
* [[法問寺]]
* [[東京慈恵会医科大学葛飾医療センター]]
* [[東京都道318号環状七号線|環七通り]]
* [[中川]]
* [[新中川]]
* [[葛飾区役所]]
* [[葛飾エフエム放送|かつしかFM]]
* [[東京都水道局]]葛飾営業所
* [[タカラトミー]] 青戸オフィス(旧・[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]]本社)
=== バス路線 ===
当駅には駅前にロータリーを設置するスペースがない。ユアエルム青戸5番街と6番街の間の高架下に「京成青砥駅・ユアエルム青戸前」停留所を設置し、2011年8月1日から[[京成バス金町営業所#慈恵医大線|青01系統]]の[[東京慈恵会医科大学葛飾医療センター|慈恵医大葛飾医療センター]]行の運行を開始した。青砥駅東交差点はバス停が環七通り沿い(京成高砂方面)にあり駅から離れている為、利用時には注意が必要。
{| class="wikitable"
!乗り場!!系統!!経由地!!行先!!事業者!!営業所
|-
|rowspan="4" |青砥駅入口
|新小53
| rowspan="2" |テクノプラザかつしか
| rowspan="2" |[[亀有駅]]
|京成
| nowrap="nowrap" |[[京成バス金町営業所|金町]]
|-
|新小52乙
|タウン
|[[京成タウンバス|本社]]
|-
|新小53
|葛飾区役所・[[京成立石駅|立石駅入口]]・奥戸一丁目
|[[新小岩駅|新小岩駅東北広場]]<br>葛飾区役所<br>奥戸二丁目
|京成
|金町
|-
|新小52乙
|葛飾区役所・立石駅入口・[[四ツ木駅]]
|新小岩駅東北広場
タウンバス車庫
|タウン
|本社
|-
| rowspan="4" |青砥駅東交差点
|SS08
| rowspan="2" |老健青戸こはるびの里
| rowspan="2" |亀有駅
|京成
|[[京成バス江戸川営業所|江戸川]]
|-
|新小58
|タウン
|本社
|-
|SS08
|[[一之江駅]]・[[葛西駅]]・[[葛西臨海公園駅]]
|[[東京ディズニーシー|「東京ディズニーシー」]]
葛西臨海公園駅
一之江駅
|京成
|江戸川
|-
|新小58
|スポーツセンター・上平井中学校
|新小岩駅
タウンバス車庫
|タウン
|本社
|-
|京成青砥駅・ユアエルム青戸前
|青01
|青戸中央憩い交流館
|慈恵医大葛飾医療センター
|京成
|金町
|}
[[アリオ亀有]]へのアクセスのために、[[無料送迎バス|無料循環シャトルバス]]が青砥駅入口・青砥駅東交差点の両バス停に停車する。
=== その他 ===
[[日本のタクシー|タクシー]]乗り場は[[ロータリー交差点|ロータリー]]が無いため、リブレ京成青砥店横にタクシーが横付けされ、そこから乗車することが慣例となっている。正式なものではないため、タクシー乗り場等の表示はない。
== その他 ==
当駅の高架化事業着手時点では、「[[スカイライナー]]」を10両編成にする計画があったため、上下ホームとも10両編分の[[ホーム有効長#プラットホーム有効長|ホーム有効長]]198mとなっている{{R|交通84}}。1997年に、このスペースを活用し、下りホーム京成上野寄りに「イブニングライナー」の利用客のための待合室が設置されている<ref>{{Cite news |title=車窓 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-02-14 |page=3 }}</ref>。
== 隣の駅 ==
<!--テンプレートは不評意見が多いようです。もしご意見があれば [[Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 鉄道/駅/各路線の駅一覧のテンプレート・隣りの駅]]で議論されています。-->
; 京成電鉄
: [[ファイル:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 本線
:* [[スカイライナー|{{Color|#5362a8|■}}「モーニングライナー」・{{Color|#5362a8|■}}「イブニングライナー」]]停車駅、[[スカイライナー|{{Color|#092d67|■}}「スカイライナー」]]一部停車駅<!--有料列車の停車駅は記載しません-->
:: {{Color|#049c5e|■}}快速特急・{{Color|#ef7a00|■}}アクセス特急・{{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#21ade5|■}}通勤特急
::: [[日暮里駅]] (KS02) - '''青砥駅 (KS09)''' - [[京成高砂駅]] (KS10)
:: {{Color|#ee86a1|■}}快速
::: [[千住大橋駅]] (KS05) - '''青砥駅 (KS09)''' - 京成高砂駅 (KS10)
:: {{Color|#595757|■}}普通
::: [[お花茶屋駅]] (KS08) - '''青砥駅 (KS09)''' - 京成高砂駅 (KS10)
:: ※大晦日や正月などの特定日には、{{Color|#af3e92|■}}「[[スカイライナー#シティライナー(臨時運行)|シティライナー]]」も停車する。
: [[ファイル:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 押上線
:: {{Color|#049c5e|■}}快速特急・{{Color|#ef7a00|■}}アクセス特急・{{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#21ade5|■}}通勤特急・{{Color|#ee86a1|■}}快速
::: [[押上駅]] (KS45) - '''青砥駅 (KS09)''' - 京成高砂駅(本線)(KS10)
:: {{Color|#595757|■}}普通
::: [[京成立石駅]] (KS49) - '''青砥駅 (KS09)''' - 京成高砂駅(本線)(KS10)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}-->
=== 出典 ===
<!-- 文献参照ページ -->
{{Reflist|20em}}
;東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|25em}}<!--
== 参考文献 == -->
<!-- 実際に参考にした文献一覧 -->
== 関連項目 ==
{{commonscat|Aoto Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[京急蒲田駅]] - 当駅と同様の支線分岐部に設けられた[[京急本線]]・[[京急空港線]]の2層構造の駅。ただし、[[スイッチバック]]して本線と支線を直通する列車があるため、支線の上下線は本線の上下線のどちらにも進入・出発が可能な配線(両渡り線は京急蒲田駅構内ながら隣の[[糀谷駅]]直近にあって高低差に対応している)。また、ホームの一部に切り欠き式の待避線を持つ点、折返し用の引上げ線がない点が異なる。
* [[調布駅]] - 当駅と同様の支線分岐部に設けられた[[京王線]]・[[京王相模原線]]の2層構造の駅。ただし、高架駅ではなく地下駅。また、支線分岐側に本線・支線間の両渡り線がある点と、折り返し用の引上げ線がない点が異なる。
* [[布施駅]] - 当駅と同様の支線分岐部に設けられた[[近鉄大阪線]]・[[近鉄奈良線]]の日本初の2層構造の高架駅。ただし、当駅と上記の2駅とは異なり、方向別ではなく路線別の2層構造となっている。また両線上下とも待避線が設けられているが、緩急接続は不可能(通過待ちのみの待避)である。
== 外部リンク ==
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/aoto.php 青砥駅|電車と駅の情報|京成電鉄]
* {{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/stationmap/pdf/jp/110.pdf 京成電鉄 青砥駅]}}
{{京成本線}}
{{京成押上線}}
{{京成成田空港線}}
{{DEFAULTSORT:あおと}}
[[Category:葛飾区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 あ|おと]]
[[Category:京成電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1928年開業の鉄道駅]]
[[Category:青戸]] | 2003-03-07T08:17:10Z | 2023-12-06T09:41:50Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:PDFlink",
"Template:京成本線",
"Template:京成成田空港線",
"Template:駅情報",
"Template:Cite news",
"Template:Cite press release",
"Template:京成押上線",
"Template:出典の明記",
"Template:0",
"Template:R",
"Template:Color",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Commonscat"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E7%A0%A5%E9%A7%85 |
3,592 | 東成田駅 | 東成田駅(ひがしなりたえき)は、千葉県成田市古込字込前にある、京成電鉄・芝山鉄道の駅である。
京成電鉄の東成田線と、芝山鉄道の芝山鉄道線が乗り入れており、前者の終点でかつ後者の起点であるが、両線の列車は当駅を介して相互直通運転を行っており、運行形態が一体化している。ただし、芝山鉄道線でのPASMO・Suica等交通系ICカードの利用はできない。当駅は両社の共同使用駅であり、京成電鉄の管轄駅である。京成電鉄では、原則として他社との共同使用駅を含め駅番号の二重付番を行わない方針を採っているため、当駅の駅番号は京成電鉄に対してのみ付与されており、KS44である。
成田国際空港の敷地内にあり、1978年に成田空港旅客ターミナルビルの最寄りとなるターミナル駅「(旧)成田空港駅」として開業したが、1991年に現・成田空港駅(以下「新駅」)が開業した際に現在の名称へ変更され、ターミナル駅としての役割は新駅と1992年に開業した空港第2ビル駅に譲った。
しかし、通勤時間帯を中心に空港内に勤務する利用客が多いほか、現在も改札外コンコースからは、空港第2ビル駅を経由して成田空港第2ターミナルへ抜ける地下連絡通路が設けられている。このような経緯から、現在でも「成田空港駅」だった当時の名残が各所に見られる。
当駅から先の芝山鉄道線は単線で、芝山千代田駅も1線しかないため1編成しか入線できない。
島式ホーム2面4線を有する地下駅。そのうち、実際に通常の旅客列車が使用しているのは1面2線である。エレベーターは設置されていないが、上りエスカレーター1基がホーム中央と改札内コンコースを結んでいる。改札外コンコースからは、5時20分から23時15分までは空港第2ビル駅を経由して成田空港第2ターミナルへ抜ける全長500メートルの地下通路が使用可能。当駅にも空港第2ビル駅の時刻表が掲出されており、連絡通路を抜けたところに設置されている自動券売機で同駅からの乗車券を購入することができる。
トイレは改札内にある。成田空港駅時代は列車の接近・到着・発車時における英語付きの案内放送が流れ発車ベルも鳴っていたが、改称してからは接近・案内放送が流れず、発車時に車載のベルが鳴るのみとなっている。
地上駅舎には、成田空港へ向かう連絡バス乗客のための第4ゲートが併設されていたが、現在は閉鎖されており、爆発物探知犬(通称K-9)の事務所として使用されている。また、これとは別に実質的な東成田駅の出入口となる空港敷地内に入るための徒歩専用の第5ゲートがあり、ここで検問が実施されていたが、2015年3月30日以降は原則として行われなくなった。
当駅は、広大な改札外コンコース内に大型の陶板壁画『曲水の宴』(原画:森田嚝平、造形:ルイ・フランセン。1980年5月21日設置)が飾られているほか、レストランの跡地があるなど、多くの場所で成田空港駅時代の面影を残している。成田空港駅時代は広大なコンコースを全て使用しており、駅構内店舗も営業し、エスカレーターも上下方向とも稼動していた。
ホームについても、1・2番線は特急・スカイライナー、3・4番線が普通専用であり、字幕式の発車標も設置されていたが、改称してからは、営業用として供用するコンコース面積が大幅に縮小され、発車標も撤去。特急ホームも閉鎖されて関係者以外立入禁止となった。以降、この旧特急ホームは2本の線路を留置線として使用している。また、同ホームについては床タイルが剥がされ、エスカレーターも停止しているが、駅名標は撤去されておらず「成田空港」表記のままである。また、同ホーム側に掲示されている広告も成田空港駅時代末期当時のままであり、中には東武鉄道の特急スペーシアが登場した当時、外国人観光客向けに日光観光をアピールするために設置された広告もある。ただ、これらの広告は長年手入れされておらず汚損や劣化が進んでいるという。旧特急ホームの線路は、芝山千代田方面には繋がっておらず行き止まりとなっている。旧特急ホームおよび閉鎖されたコンコースは通常時は立入りできないが、2018年5月20日には開業40周年を記念し先着1000名限定での見学会が行われたほか、京成が主催するツアー列車では当駅の旧特急ホームに入線するルートが組まれていることが多く、その際にも見学することが可能となっている。
成田空港駅時代に3・4番線として使用していた現在の1・2番線ホームも、改称後に駅名標が京成タイプのものに置き換わり、広告も日本の風景のものに置き換えられた。しかし、芝山鉄道線が開業した後は新しく駅名標が設置され、従来の駅名標は使用停止となった。
1997年4月1日に博物館動物園駅が営業休止(2004年4月1日に廃止)してから、2010年7月17日に成田空港線(成田スカイアクセス線)が開業し成田湯川駅が新設されるまでの間、京成電鉄で停車する列車本数が最少の駅だった。芝山鉄道線開業前は上野・都営浅草線方面の列車を中心に発着していたが、開業後はそれが朝と夕方以降に縮小され、日中は京成成田 - 芝山千代田間の区間列車が発着している。
当駅が空港アクセス駅として機能していた時代(成田空港駅時代)は、京成線内でも利用客数が多い駅で、最ピーク時は1日平均乗降人員が2万人強を記録していた。
駅の利用者は、ほとんどが成田国際空港関連会社への通勤客の利用で、航空旅客や見学・送迎者の利用は少ない。空港敷地の真ん中にあるため、住民の利用は想定されていない。
近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通りである。
当駅は成田国際空港の敷地内にあり、駅名改称後も空港ターミナルへのアクセスに用いることができる。空港ターミナルビルへは徒歩や後述の連絡バスでアクセスすることも可能である。第2ターミナルへは、空港第2ビル駅へつながる地下通路を経由して雨や雪に濡れることなく徒歩で移動できる。
付近を通る高架道路の千葉県道62号成田松尾線から車道および歩道が連絡している。この場合、当時実施されていた検問を通ることなく、当駅に行くことができたが、駅敷地内から出ることはできなかった。
成田空港駅時代は、第1ターミナルまでの有料連絡バスが発着していた。駅名改称後も京成成田駅・多古方面などへの路線バスの乗り場があったが、芝山鉄道線の開業により芝山千代田駅へ移転した。
現在、上記第5ゲートを出た空港東通り上のバス停から、成田国際空港内を走る無料のターミナル間連絡バス(成田空港交通による運行)が、第1・第2・第3ターミナル間を結んでいる(一部便は第3ターミナルを経由しない)。連絡バスの他ののりばと異なり乗降客のない場合は通過するため、東成田駅で降車する際はバス車内の降車ボタンを押すよう案内されている。なお、2018年10月以降、成田空港公式サイト上のページや各ターミナルのフロアガイドから東成田駅のりばの表記が省略されているが、連絡バスは引き続き経由している。
このほかに、日本航空や全日本空輸など一部の空港関連企業の送迎バスの発着がある。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "東成田駅(ひがしなりたえき)は、千葉県成田市古込字込前にある、京成電鉄・芝山鉄道の駅である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "京成電鉄の東成田線と、芝山鉄道の芝山鉄道線が乗り入れており、前者の終点でかつ後者の起点であるが、両線の列車は当駅を介して相互直通運転を行っており、運行形態が一体化している。ただし、芝山鉄道線でのPASMO・Suica等交通系ICカードの利用はできない。当駅は両社の共同使用駅であり、京成電鉄の管轄駅である。京成電鉄では、原則として他社との共同使用駅を含め駅番号の二重付番を行わない方針を採っているため、当駅の駅番号は京成電鉄に対してのみ付与されており、KS44である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "成田国際空港の敷地内にあり、1978年に成田空港旅客ターミナルビルの最寄りとなるターミナル駅「(旧)成田空港駅」として開業したが、1991年に現・成田空港駅(以下「新駅」)が開業した際に現在の名称へ変更され、ターミナル駅としての役割は新駅と1992年に開業した空港第2ビル駅に譲った。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "しかし、通勤時間帯を中心に空港内に勤務する利用客が多いほか、現在も改札外コンコースからは、空港第2ビル駅を経由して成田空港第2ターミナルへ抜ける地下連絡通路が設けられている。このような経緯から、現在でも「成田空港駅」だった当時の名残が各所に見られる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "当駅から先の芝山鉄道線は単線で、芝山千代田駅も1線しかないため1編成しか入線できない。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "島式ホーム2面4線を有する地下駅。そのうち、実際に通常の旅客列車が使用しているのは1面2線である。エレベーターは設置されていないが、上りエスカレーター1基がホーム中央と改札内コンコースを結んでいる。改札外コンコースからは、5時20分から23時15分までは空港第2ビル駅を経由して成田空港第2ターミナルへ抜ける全長500メートルの地下通路が使用可能。当駅にも空港第2ビル駅の時刻表が掲出されており、連絡通路を抜けたところに設置されている自動券売機で同駅からの乗車券を購入することができる。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "トイレは改札内にある。成田空港駅時代は列車の接近・到着・発車時における英語付きの案内放送が流れ発車ベルも鳴っていたが、改称してからは接近・案内放送が流れず、発車時に車載のベルが鳴るのみとなっている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "地上駅舎には、成田空港へ向かう連絡バス乗客のための第4ゲートが併設されていたが、現在は閉鎖されており、爆発物探知犬(通称K-9)の事務所として使用されている。また、これとは別に実質的な東成田駅の出入口となる空港敷地内に入るための徒歩専用の第5ゲートがあり、ここで検問が実施されていたが、2015年3月30日以降は原則として行われなくなった。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "当駅は、広大な改札外コンコース内に大型の陶板壁画『曲水の宴』(原画:森田嚝平、造形:ルイ・フランセン。1980年5月21日設置)が飾られているほか、レストランの跡地があるなど、多くの場所で成田空港駅時代の面影を残している。成田空港駅時代は広大なコンコースを全て使用しており、駅構内店舗も営業し、エスカレーターも上下方向とも稼動していた。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "ホームについても、1・2番線は特急・スカイライナー、3・4番線が普通専用であり、字幕式の発車標も設置されていたが、改称してからは、営業用として供用するコンコース面積が大幅に縮小され、発車標も撤去。特急ホームも閉鎖されて関係者以外立入禁止となった。以降、この旧特急ホームは2本の線路を留置線として使用している。また、同ホームについては床タイルが剥がされ、エスカレーターも停止しているが、駅名標は撤去されておらず「成田空港」表記のままである。また、同ホーム側に掲示されている広告も成田空港駅時代末期当時のままであり、中には東武鉄道の特急スペーシアが登場した当時、外国人観光客向けに日光観光をアピールするために設置された広告もある。ただ、これらの広告は長年手入れされておらず汚損や劣化が進んでいるという。旧特急ホームの線路は、芝山千代田方面には繋がっておらず行き止まりとなっている。旧特急ホームおよび閉鎖されたコンコースは通常時は立入りできないが、2018年5月20日には開業40周年を記念し先着1000名限定での見学会が行われたほか、京成が主催するツアー列車では当駅の旧特急ホームに入線するルートが組まれていることが多く、その際にも見学することが可能となっている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "成田空港駅時代に3・4番線として使用していた現在の1・2番線ホームも、改称後に駅名標が京成タイプのものに置き換わり、広告も日本の風景のものに置き換えられた。しかし、芝山鉄道線が開業した後は新しく駅名標が設置され、従来の駅名標は使用停止となった。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1997年4月1日に博物館動物園駅が営業休止(2004年4月1日に廃止)してから、2010年7月17日に成田空港線(成田スカイアクセス線)が開業し成田湯川駅が新設されるまでの間、京成電鉄で停車する列車本数が最少の駅だった。芝山鉄道線開業前は上野・都営浅草線方面の列車を中心に発着していたが、開業後はそれが朝と夕方以降に縮小され、日中は京成成田 - 芝山千代田間の区間列車が発着している。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "当駅が空港アクセス駅として機能していた時代(成田空港駅時代)は、京成線内でも利用客数が多い駅で、最ピーク時は1日平均乗降人員が2万人強を記録していた。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "駅の利用者は、ほとんどが成田国際空港関連会社への通勤客の利用で、航空旅客や見学・送迎者の利用は少ない。空港敷地の真ん中にあるため、住民の利用は想定されていない。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通りである。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "当駅は成田国際空港の敷地内にあり、駅名改称後も空港ターミナルへのアクセスに用いることができる。空港ターミナルビルへは徒歩や後述の連絡バスでアクセスすることも可能である。第2ターミナルへは、空港第2ビル駅へつながる地下通路を経由して雨や雪に濡れることなく徒歩で移動できる。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "付近を通る高架道路の千葉県道62号成田松尾線から車道および歩道が連絡している。この場合、当時実施されていた検問を通ることなく、当駅に行くことができたが、駅敷地内から出ることはできなかった。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "成田空港駅時代は、第1ターミナルまでの有料連絡バスが発着していた。駅名改称後も京成成田駅・多古方面などへの路線バスの乗り場があったが、芝山鉄道線の開業により芝山千代田駅へ移転した。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "現在、上記第5ゲートを出た空港東通り上のバス停から、成田国際空港内を走る無料のターミナル間連絡バス(成田空港交通による運行)が、第1・第2・第3ターミナル間を結んでいる(一部便は第3ターミナルを経由しない)。連絡バスの他ののりばと異なり乗降客のない場合は通過するため、東成田駅で降車する際はバス車内の降車ボタンを押すよう案内されている。なお、2018年10月以降、成田空港公式サイト上のページや各ターミナルのフロアガイドから東成田駅のりばの表記が省略されているが、連絡バスは引き続き経由している。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "このほかに、日本航空や全日本空輸など一部の空港関連企業の送迎バスの発着がある。",
"title": "バス路線"
}
] | 東成田駅(ひがしなりたえき)は、千葉県成田市古込字込前にある、京成電鉄・芝山鉄道の駅である。 | {{Otheruses|京成電鉄・芝山鉄道の東成田駅|かつて成田鉄道に存在した東成田駅|東成田駅 (成田鉄道)}}
{{駅情報
|社色 = #1155cc
|文字色 =
|駅名 = 東成田駅*
|画像 = Keisei-railway-KS44-Higashi-narita-station-entrance-20200727-081158.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅舎 ※駅名看板変更後(2020年7月27日)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = ひがしなりた
|ローマ字 = Higashi-Narita
|副駅名 =
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KS|44|#005aaa|4||#005aaa}}
|所在地 = [[千葉県]][[成田市]][[古込]]字込前124
|座標 = {{coord|35|46|12.3|N|140|23|14|E|region:JP-12_type:railwaystation|display=inline,title}}
|所属事業者 = [[京成電鉄]]<br />[[芝山鉄道]]
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 2面4線(うち2線閉鎖)
|乗降人員 ={{Small|(京成電鉄)-2022年-}}<br /><ref group="京成" name="keisei2022" />1,730人/日<hr/>{{Small|(芝山鉄道)-2020年-}}<br /><ref group="*" name="chiba-pref-R03" />275
|統計年度 =
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#005aaa|■}}[[京成東成田線]]**
|前の駅1 = KS40 [[京成成田駅|京成成田]] ***
|駅間A1 = 7.1
|駅間B1 =
|キロ程1 = 7.1 km([[京成成田駅|京成成田]]起点)<br/>[[京成上野駅|京成上野]]から68.3
|起点駅1 =
|所属路線2 = {{color|#00a650|■}}[[芝山鉄道線]]**
|前の駅2 =
|駅間A2 =
|駅間B2 = 2.2
|次の駅2 =[[芝山千代田駅|芝山千代田]] SR01
|キロ程2 = 0.0
|起点駅2 = 東成田
|開業年月日= [[1978年]]([[昭和]]53年)[[5月21日]]
|乗換 = [[空港第2ビル駅]]<br />- [[成田線|JR成田線]]<br />- [[京成本線]] <br />- [[京成成田空港線]](成田スカイアクセス線)
|備考 = [[共同使用駅]](京成電鉄の管轄駅)
|備考全幅 = * [[1991年]]に成田空港駅から改称<br />** 両線で[[直通運転|相互直通運転]]実施<br />*** この間に[[駒井野信号場]]あり(当駅から1.1 km先)。
}}
[[File:Higashi-Narita-Station-20100719(cropped).jpg|thumb|成田空港駅時代の面影を残す駅舎(2010年7月19日※旧駅名看板)]]
[[ファイル:Higashi-Narita-Station-to-Narita-Airport-2nd-Building.jpg|thumb|[[空港第2ビル駅]]・成田空港第2ターミナルビルへの連絡通路(2010年7月19日)]]
[[ファイル:東成田駅曲水の宴.jpg|thumb|構内に設置されている陶板壁画『曲水の宴』(2007年5月3日)]]
'''東成田駅'''(ひがしなりたえき)は、[[千葉県]][[成田市]][[古込]]字込前にある、[[京成電鉄]]・[[芝山鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。
== 概要 ==
京成電鉄の[[京成東成田線|東成田線]]と、芝山鉄道の[[芝山鉄道線]]が乗り入れており、前者の終点でかつ後者の起点であるが、両線の列車は当駅を介して[[直通運転|相互直通運転]]を行っており、運行形態が一体化している。ただし、芝山鉄道線での[[PASMO]]・[[Suica]]等交通系[[ICカード]]の利用はできない。当駅は両社の[[共同使用駅]]であり、京成電鉄の管轄駅である。京成電鉄では、原則として他社との共同使用駅を含め[[駅ナンバリング|駅番号]]の二重付番を行わない方針を採っているため、当駅の駅番号は京成電鉄に対してのみ付与されており、'''KS44'''である。
[[成田国際空港]]の敷地内にあり、[[1978年]]に成田空港旅客ターミナルビルの最寄りとなる[[ターミナル駅]]「(旧)'''成田空港駅'''」として開業したが、[[1991年]]に現・[[成田空港駅]](以下「新駅」)が開業した際に現在の名称へ変更され、ターミナル駅としての役割は新駅と[[1992年]]に開業した[[空港第2ビル駅]]に譲った。
しかし、通勤時間帯を中心に空港内に勤務する利用客が多いほか、現在も改札外コンコースからは、空港第2ビル駅を経由して成田空港第2ターミナルへ抜ける地下連絡通路が設けられている。このような経緯から、現在でも「成田空港駅」だった当時の名残が各所に見られる。
当駅から先の芝山鉄道線は単線で、芝山千代田駅も1線しかないため1編成しか入線できない。
== 歴史 ==
* [[1970年]]([[昭和]]45年)11月 - 当駅の建設工事に着手<ref name="jtoa1978-8">日本鉄道運転協会『運転協会誌』1978年8月号「都心と空港の旅客輸送 京成電鉄」pp.8 - 12。</ref>
* [[1972年]](昭和47年)11月 - 突貫工事により駅設備が完成<ref name="jtoa1978-8"/>。しかし空港開港が大幅に遅れたため([[成田空港問題]]・[[三里塚闘争]]も参照)、当駅の開業も遅延することとなった<ref name="jtoa1978-8"/>。
* [[1978年]](昭和53年)[[5月21日]] - 京成電鉄本線の終点の'''成田空港駅'''として開業。当時は[[成田新幹線]]計画があり、当駅から空港に直結することができなかった。そのため、当時は現在の第1ターミナルしかなかった成田空港まで、[[成田空港交通]]により運行されていた有料の連絡バスか徒歩での移動を要した。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月19日]] - [[1987年]]の[[国鉄分割民営化]]に伴い成田新幹線計画が消滅し、同線の施設の一部を活用して成田空港ターミナルに直接乗り入れる[[成田空港高速鉄道]](JR東日本成田線・京成本線)の開業により、新線の方が本線となり、それまでの本線だった京成成田 - 成田空港間を「東成田線」として分離、成田空港駅は'''東成田駅'''に改称した<ref name="asahi1991319">{{Cite news|title = 都心と空直結 成田空港地下駅が開業|newspaper = [[朝日新聞]]|publisher = 朝日新聞社|date = 1991-03-19}}</ref><ref name="chibanippo1991320">{{Cite news|title = 待望の成田高速鉄道が開業 空港と直結、都心へ1時間 新アクセス門出祝う|newspaper = [[千葉日報]]|publisher = 千葉日報社|date = 1991-03-20}}</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[10月27日]] - 東成田線を延長する形で芝山鉄道線が開業。同時に京成東成田線と芝山鉄道線の相互直通運転が開始され、当駅は両社の共同使用駅となる<ref name="chibanippo20021027">{{Cite news|title = 芝山鉄道きょう開業 空港を抜け都心と直結 地元待望、式典で祝う アート展|newspaper = [[千葉日報]]|publisher = 千葉日報社|date = 2002-10-27}}</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[10月26日]] - このダイヤ改正をもって、平日朝1往復のみ運行されていた当駅折り返しの快速が芝山千代田発着に変更された。そのため定期列車で当駅を始発および終着とする列車は消滅した。
<gallery>
Old Narita Airport station Platform Higashi-Narita-station.jpg|旧特急ホーム(2018年5月20日※一般公開時)
Old Narita Airport station Railway end Higashi-Narita-station.jpg|旧特急ホームの車止め(2018年5月20日※一般公開時)
Old Narita Airport station Skyliner Platform Guide signboard Higashi-Narita-station.jpg|旧特急ホームの案内看板(2018年5月20日※一般公開時)
Old Narita Airport station Guide signboard Higashi-Narita-station.jpg|旧特急ホームに残る「成田空港」の駅名標(2018年5月20日)
Higashi-Narita-Station-Advertisement-Past-Narita-Airport-20180520.jpg|1990年代初頭のスカイライナー広告の看板(2018年5月20日)
</gallery>
== 駅構造 ==
{{出典の明記|section=1|date=2016年7月}}
[[島式ホーム]]2面4線を有する[[地下駅]]。そのうち、実際に通常の旅客列車が使用しているのは1面2線である。[[エレベーター]]は設置されていないが、上り[[エスカレーター]]1基がホーム中央と改札内コンコースを結んでいる。改札外コンコースからは、5時20分から23時15分までは[[空港第2ビル駅]]を経由して[[成田国際空港|成田空港]]第2ターミナルへ抜ける全長500[[メートル]]の[[地下道|地下通路]]が使用可能。当駅にも空港第2ビル駅の[[時刻表]]が掲出されており、連絡通路を抜けたところに設置されている[[自動券売機]]で同駅からの乗車券を購入することができる。
[[便所|トイレ]]は改札内にある。成田空港駅時代は列車の接近・到着・発車時における英語付きの案内放送が流れ発車ベルも鳴っていたが、改称してからは接近・案内放送が流れず、発車時に車載のベルが鳴るのみとなっている。
地上駅舎には、成田空港へ向かう連絡バス乗客のための第4ゲートが併設されていたが、現在は閉鎖されており、[[爆発物探知犬]](通称K-9)の事務所として使用されている。また、これとは別に実質的な東成田駅の出入口となる空港敷地内に入るための徒歩専用の第5ゲートがあり、ここで検問が実施されていたが、[[2015年]]3月30日以降は原則として行われなくなった。
当駅は、広大な改札外コンコース内に大型の陶板壁画『曲水の宴』(原画:森田嚝平、造形:[[ルイ・フランセン]]。1980年5月21日設置)が飾られているほか、[[レストラン]]の跡地があるなど、多くの場所で成田空港駅時代の面影を残している。成田空港駅時代は広大なコンコースを全て使用しており、駅構内店舗も営業し、エスカレーターも上下方向とも稼動していた。
ホームについても、1・2番線は特急・スカイライナー、3・4番線が普通専用であり、字幕式の[[発車標]]も設置されていたが、改称してからは、営業用として供用するコンコース面積が大幅に縮小され、発車標も撤去。特急ホームも閉鎖されて関係者以外立入禁止となった<ref name="pressnet210604"/>。以降、この旧特急ホームは2本の線路を留置線として使用している<ref name="pressnet210604">[https://news.railway-pressnet.com/archives/24832 東武特急「スペーシア」デビュー時の広告が意外な場所に 閉鎖ホームに掲出の理由] - 鉄道プレスネット(2021年6月4日)、2023年3月21日閲覧</ref>。また、同ホームについては床タイルが剥がされ、エスカレーターも停止しているが、[[駅名標]]は撤去されておらず「成田空港」表記のままである。また、同ホーム側に掲示されている広告も成田空港駅時代末期当時のままであり、中には[[東武鉄道]]の特急[[東武100系電車|スペーシア]]が登場した当時、外国人観光客向けに日光観光をアピールするために設置された広告もある<ref name="pressnet210604"/>。ただ、これらの広告は長年手入れされておらず汚損や劣化が進んでいるという<ref name="pressnet210604"/>。旧特急ホームの線路は、芝山千代田方面には繋がっておらず行き止まりとなっている。旧特急ホームおよび閉鎖されたコンコースは通常時は立入りできないが、2018年5月20日には開業40周年を記念し先着1000名限定での見学会が行われたほか、京成が主催するツアー列車では当駅の旧特急ホームに入線するルートが組まれていることが多く、その際にも見学することが可能となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20210524-keisei3100tour/|title=「京成線ミステリーツアー」3100形が芝山千代田駅・東成田駅へ走行|accessdate=2021-11-02|date=2021-05-24}}</ref>。
成田空港駅時代に3・4番線として使用していた現在の1・2番線ホームも、改称後に駅名標が京成タイプのものに置き換わり、広告も日本の風景のものに置き換えられた。しかし、芝山鉄道線が開業した後は新しく駅名標が設置され、従来の駅名標は使用停止となった。
[[1997年]]4月1日に[[博物館動物園駅]]が営業休止([[2004年]]4月1日に廃止)してから、[[2010年]]7月17日に[[京成成田空港線|成田空港線]](成田スカイアクセス線)が開業し[[成田湯川駅]]が新設されるまでの間、京成電鉄で停車する列車本数が最少の駅だった。芝山鉄道線開業前は上野・都営浅草線方面の列車を中心に発着していたが、開業後はそれが朝と夕方以降に縮小され、日中は京成成田 - 芝山千代田間の区間列車が発着している。
=== のりば ===
<!-- 2018年5月時点での新サインシステムに基づいたホームの案内標の表記に準拠 -->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!事業者!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|京成電鉄
|[[File:Number prefix Keisei.svg|15px]] 東成田線
|style="text-align:center"|上り
|[[京成成田駅|京成成田]]・[[京成船橋駅|京成船橋]]・[[日暮里駅|日暮里]]・[[京成上野駅|京成上野]]・[[押上駅|押上]]・[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]方面
|-
!2
|芝山鉄道
|[[File:Number prefix Shibayama.svg|15px]] 芝山鉄道線
|style="text-align:center"|下り
|[[芝山千代田駅|芝山千代田]]行
|-
!旧[[京成AE形電車 (初代)|特急]]ホーム
|京成電鉄
|{{color|gray|(留置線、通常時は閉鎖)}}
| style="text-align:center" |上り
|留置もしくは留置後に[[京成成田駅|京成成田]]方面へ折り返し
|}
* 京成東成田線は複線であるが、配線上当駅構内で上下線が一度合流しているため、下り列車の到着・上り列車の発車を同時に行うことはできない。
<gallery>
Higashi-Narita-Station-wicket.jpg|改札口(2010年7月19日)
Higashi-Narita Station platform(cropped).jpg|駅ホーム(2011年5月21日)
JP-Chiba-Higashi-Narita-Station-Tracks-Past-Narita-Airport-Station.JPG|駅ホームより留置線に留置中の車両を望む(2012年12月24日)
東成田駅:コンコース (19526807499).jpg|コンコース内のベンチ(2015年6月25日)
</gallery>
== 利用状況 ==
* '''京成電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''1,730人'''で、京成線内69駅中第66位であり<ref group="京成" name="keisei2022" />、[[大佐倉駅]]、[[印旛日本医大駅]]、[[成田湯川駅]]に次いで4番目に少ない。
当駅が空港アクセス駅として機能していた時代(成田空港駅時代)は、京成線内でも利用客数が多い駅で、最ピーク時は1日平均乗降人員が2万人強を記録していた。
* '''芝山鉄道''' - 2020年度の1日平均'''乗車'''人員は'''275人'''である<ref group="*" name="chiba-pref-R03" />。
駅の利用者は、ほとんどが成田国際空港関連会社への通勤客の利用で、航空旅客や見学・送迎者の利用は少ない。空港敷地の真ん中にあるため、住民の利用は想定されていない。
近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
!rowspan="2"|年度
!style="text-align:center" colspan="2"|京成電鉄
!style="text-align:center" colspan="1"|芝山鉄道
|-
!1日平均<br />乗降人員<ref>[http://www.train-media.net/report/index.html 各種報告書] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref name="chiba-toukei">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑]</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref name="chiba-toukei"/>
|-
|1978年(昭和53年)
| ||<ref group="*">{{Cite web|和書|author=千葉県|authorlink=千葉県||title=千葉県統計年鑑(昭和54年) 123.私鉄駅別1日平均運輸状況|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s54/documents/123n_16.pdf|format=pdf|lang=日本語|accessdate=2023-08-02}}</ref>7,906
|rowspan="24" style="text-align:center;"|未開業
|-
|1979年(昭和54年)
| ||<ref group="*">{{Cite web|和書|author=千葉県|authorlink=千葉県||title=千葉県統計年鑑(昭和55年) 125.私鉄駅別1日平均運輸状況|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s55/documents/125n_15.pdf|format=pdf|lang=日本語|accessdate=2023-08-02}}</ref>7,840
|-
|1980年(昭和55年)
| ||<ref group="*">{{Cite web|和書|author=千葉県|authorlink=千葉県||title=千葉県統計年鑑(昭和56年) 122.私鉄駅別1日平均運輸状況|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s56/documents/122n_14.pdf|format=pdf|lang=日本語|accessdate=2023-08-02}}</ref>7,501
|-
|1981年(昭和56年)
| ||<ref group="*">{{Cite web|和書|author=千葉県|authorlink=千葉県||title=千葉県統計年鑑(昭和57年) 122.私鉄駅別1日平均運輸状況|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s57/documents/122n_13.pdf|format=pdf|lang=日本語|accessdate=2023-08-02}}</ref>7,400
|-
|1982年(昭和57年)
| ||<ref group="*">{{Cite web|和書|author=千葉県|authorlink=千葉県||title=千葉県統計年鑑(昭和58年) 122.私鉄駅別1日平均運輸状況|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s58/documents/122n_12.pdf|format=pdf|lang=日本語|accessdate=2023-08-02}}</ref>7,140
|-
|1983年(昭和58年)
| ||<ref group="*">{{Cite web|和書|author=千葉県|authorlink=千葉県||title=千葉県統計年鑑(昭和59年) 122.私鉄駅別1日平均運輸状況|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s59/documents/122n_11.pdf|format=pdf|lang=日本語|accessdate=2023-08-02}}</ref>7,153
|-
|1984年(昭和59年)
| ||<ref group="*">{{Cite web|和書|author=千葉県|authorlink=千葉県||title=千葉県統計年鑑(昭和60年) 122.私鉄駅別1日平均運輸状況|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s60/documents/122n_10.pdf|format=pdf|lang=日本語|accessdate=2023-08-02}}</ref>7,221
|-
|1985年(昭和60年)
| ||<ref group="*">{{Cite web|和書|author=千葉県|authorlink=千葉県||title=千葉県統計年鑑(昭和61年) 113.私鉄駅別1日平均運輸状況|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s61/documents/113n_8.pdf|format=pdf|lang=日本語|accessdate=2023-08-02}}</ref>7,441
|-
|1986年(昭和61年)
| ||<ref group="*">{{Cite web|和書|author=千葉県|authorlink=千葉県||title=千葉県統計年鑑(昭和62年) 113.私鉄駅別1日平均運輸状況|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s62/documents/113n_7.pdf|format=pdf|lang=日本語|accessdate=2023-08-02}}</ref>7,885
|-
|1987年(昭和62年)
| ||<ref group="*">{{Cite web|和書|author=千葉県|authorlink=千葉県||title=千葉県統計年鑑(昭和63年) 113.私鉄駅別1日平均運輸状況|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s63/documents/113n_6.pdf|format=pdf|lang=日本語|accessdate=2023-08-02}}</ref>8,930
|-
|1988年(昭和63年)
| ||<ref group="*">{{Cite web|和書|author=千葉県|authorlink=千葉県||title=千葉県統計年鑑(平成元年) 110.私鉄駅別1日平均運輸状況|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h1/documents/110n_1.pdf|page=204|format=pdf|lang=日本語|accessdate=2023-08-02}}</ref>10,429
|-
|1989年(平成元年)
| ||<ref group="*">{{Cite web|和書|author=千葉県|authorlink=千葉県||title=千葉県統計年鑑(平成2年) 110.民鉄駅別1日平均運輸状況|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h02/documents/110n_5.pdf|page=208|format=pdf|lang=日本語|accessdate=2023-08-02}}</ref>11,331
|-
|{{Refnest|group="注釈"|1991年3月19日、成田空港駅が開業<ref name="asahi1991319" /><ref name="chibanippo1991320" />。}}1990年(平成{{0}}2年)
| ||12,142
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
| ||3,009
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
| ||2,199
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
| ||1,428
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
| ||1,121
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| ||1,036
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| ||912
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
| ||865
|-
|1998年(平成10年)
| ||879
|-
|1999年(平成11年)
| ||879
|-
|2000年(平成12年)
| ||939
|-
|2001年(平成13年)
| ||997
|-
|2002年(平成14年)
| ||1,087
|{{Refnest|group="注釈"|2002年10月27日開業<ref name="chibanippo20021027" />。開業日から翌年3月31日までの156日間のデータ。}}684
|-
|2003年(平成15年)
|2,518||1,162||576
|-
|2004年(平成16年)
|2,607||1,211||599
|-
|2005年(平成17年)
|2,612||1,207||594
|-
|2006年(平成18年)
|2,691||1,240||643
|-
|2007年(平成19年)
|2,647||1,213||694
|-
|2008年(平成20年)
|2,691||1,225||717
|-
|2009年(平成21年)
|2,613||1,189||687
|-
|2010年(平成22年)
|2,492||1,111||545
|-
|2011年(平成23年)
|2,033||924||479
|-
|2012年(平成24年)
|1,970||886||426
|-
|2013年(平成25年)
|1,968||889||389
|-
|2014年(平成26年)
|1,798||805||349
|-
|2015年(平成27年)
|1,751||793||357
|-
|2016年(平成28年)
|1,715||778||362
|-
|2017年(平成29年)
|1,723||776||372
|-
|2018年(平成30年)
|1,822||815||371
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="京成" name="keisei2019">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2019年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2019_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2021-12-11 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613125810/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2019_ks_joukou.pdf |archivedate=2020-06-13 |deadlink=2023-08-02 |}}</ref>1,796||<ref group="京成" name="keisei2019" />807||<ref group="*">{{XLSlink|[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/documents/111n.xlsx 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(令和2年)、千葉県公式サイト、2023年8月2日閲覧。</ref>367
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="京成" name="keisei2020">{{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2020_ks_joukou.pdf 駅別乗降人員(2020年度1日平均)]}} - 京成電鉄公式ホームページ、2021年12月11日閲覧</ref>1,502||<ref group="京成" name="keisei2020" />693||<ref group="*" name="chiba-pref-R03">{{XLSlink|[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r03/documents/111-teisei.xlsx 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(令和3年)、千葉県公式サイト、2023年8月2日閲覧。</ref>275
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="京成" name="keisei2021">{{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2021_ks_joukou.pdf 駅別乗降人員(2021年度1日平均)]}} - 京成電鉄公式ホームページ、2022年5月22日閲覧</ref>1,562||<ref group="京成" name="keisei2021" />719||
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="京成" name="keisei2022">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2022年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2022_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl= |archivedate= |deadlink= |}}</ref>1,730||<ref group="京成" name="keisei2022" />793||
|}
== 駅周辺 ==
{{Main|成田国際空港#旅客施設}}
[[ファイル:Narita Airport Resthouse.JPG|thumb|[[成田エアポートレストハウス]]]]
当駅は成田国際空港の敷地内にあり、駅名改称後も空港ターミナルへのアクセスに用いることができる。空港ターミナルビルへは徒歩や後述の連絡バスでアクセスすることも可能である。第2ターミナルへは、空港第2ビル駅へつながる地下通路を経由して[[雨]]や[[雪]]に濡れることなく徒歩で移動できる。
付近を通る高架道路の[[千葉県道62号成田松尾線]]から車道および[[歩道]]が連絡している。この場合、当時実施されていた検問を通ることなく、当駅に行くことができたが、駅敷地内から出ることはできなかった。
* [[成田国際空港警察署|千葉県成田国際空港警察署]]
* [[ティエフケー|TFK]]([[機内食]]製造会社)
* [[成田エアポートレストハウス]](ホテル)
* [[JALグランドサービス]]([[日本航空]]系のグランドハンドリング会社)
* 成田国際空港貨物ターミナル地区 - 同地区の北半分へは空港第2ビル駅からの方が近い。
** 日本航空貨物ビル(輸入)
** 輸入共同上屋(国際空港上屋 (IACT)〈輸入〉)
** 成田空港合同庁舎
*** [[東京税関]]成田航空貨物出張所
*** [[植物防疫所|横浜植物防疫所]]成田支所第1航空貨物担当
*** [[動物検疫所]]成田支所
== バス路線 ==
成田空港駅時代は、第1ターミナルまでの有料連絡バスが発着していた。駅名改称後も京成成田駅・[[多古町|多古]]方面などへの[[路線バス]]の乗り場があったが、芝山鉄道線の開業により芝山千代田駅へ移転した。
現在、上記第5ゲートを出た空港東通り上のバス停から、成田国際空港内を走る無料の[[シャトルバス|ターミナル間連絡バス]]([[成田空港交通]]による運行)が、第1・第2・第3ターミナル間を結んでいる(一部便は第3ターミナルを経由しない)。連絡バスの他ののりばと異なり乗降客のない場合は通過するため、東成田駅で降車する際はバス車内の降車ボタンを押すよう案内されている。なお、2018年10月以降、成田空港公式サイト上のページ<ref>[https://www.narita-airport.jp/jp/access/shuttlebus ターミナル間の移動] - 成田国際空港</ref>や各ターミナルのフロアガイドから東成田駅のりばの表記が省略されているが、連絡バスは引き続き経由している。
このほかに、[[日本航空]]や[[全日本空輸]]など一部の空港関連企業の[[送迎バス]]の発着がある。
== その他 ==
* 京成成田以西の各駅 - 成田空港・空港第2ビル間の[[定期乗車券|定期券]]で、京成成田 - 当駅間にも乗車することが出来る特例を設けている。
* [[2011年]]11月に発売された「ブルーリボン賞歴代受賞車両記念乗車券」には、「東成田(旧成田空港)」の発駅表示も印刷された。
== 隣の駅 ==
; 京成電鉄
: [[File:Number prefix Keisei.svg|15px]] 東成田線
:: {{Color|#049c5e|■}}快速特急・{{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#21ade5|■}}通勤特急・{{Color|#ee86a1|■}}快速・{{Color|#595757|■}}普通(特急は土休日夕方1本のみ運転)
::: [[京成成田駅]](KS 40)- ([[駒井野信号場]]) - '''東成田駅(KS 44)'''
; 芝山鉄道
: [[File:Number prefix Shibayama.svg|15px]] 芝山鉄道線
:: {{Color|#049c5e|■}}快速特急・{{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#21ade5|■}}通勤特急・{{Color|#ee86a1|■}}快速・{{Color|#595757|■}}普通
::: '''東成田駅(KS 44)''' - [[芝山千代田駅]](SR 01)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
;千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="*"|3}}
;京成電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京成"|3}}
;芝山鉄道の1日平均利用客数
{{Reflist|group="芝山"|3}}
== 参考文献 ==
* [[日本鉄道運転協会]]『運転協会誌』1978年8月号「都心と空港の旅客輸送 京成電鉄」(京成電鉄・運輸部計画課 酒寄博司)
== 関連項目 ==
{{commonscat|Higashi-Narita Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[空港連絡鉄道]]
* [[駒井野信号場]]
* [[南千歳駅]]
== 外部リンク ==
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/higashi-narita.php 東成田駅|電車と駅の情報|京成電鉄]
{{京成東成田線}}
{{成田国際空港のアクセス}}
{{デフォルトソート:ひかしなりた}}
[[Category:成田市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 ひ|かしなりた]]
[[Category:京成電鉄の鉄道駅]]
[[Category:芝山鉄道]]
[[Category:1978年開業の鉄道駅]]
[[Category:成田国際空港の鉄道|ひかしなりたえき]] | 2003-03-07T08:18:24Z | 2023-12-16T11:38:31Z | false | false | false | [
"Template:Otheruses",
"Template:Refnest",
"Template:Cite news",
"Template:Cite web",
"Template:PDFlink",
"Template:京成東成田線",
"Template:0",
"Template:Reflist",
"Template:出典の明記",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:駅情報",
"Template:Color",
"Template:Main",
"Template:XLSlink",
"Template:Commonscat",
"Template:成田国際空港のアクセス"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%88%90%E7%94%B0%E9%A7%85 |
3,595 | ジョン・H・ワトスン | ジョン・H・ワトスン (John H. Watson) は、アーサー・コナン・ドイルの推理小説『シャーロック・ホームズシリーズ』の登場人物。軍医を経た後開業医となった。名探偵シャーロック・ホームズの友人であり、伝記作家。ホームズシリーズのほとんどの作品は彼を語り手としており、その物語を綴ったことにもなっている。日本語ではワトソンと表記されることも多い。
少年時代を家族と共にオーストラリアで過ごす。ロンドン大学卒業後、聖トーマス病院に入って医学博士号を取得、第二次アフガン戦争に軍医として従軍し、英軍が敗れたマイワンドの戦い(英語版)で負傷した。傷病兵として本国に送還され、ロンドンで下宿を探していた際、友人のスタンフォードにホームズを紹介され、ロンドンのベーカー街221Bで共同生活を始めるようになる。当初はホームズの行動に対して懐疑的だったが、『緋色の研究』事件においてホームズと共に事件に関わり、ホームズの探偵としての姿を目の当たりにすることとなる。そして、ホームズが事件を見事に解決したにもかかわらず、その手柄をレストレード警部らに全て取られる形となったことを(ホームズ自身は気にしていないが)不満に思ったワトスンは、ホームズの活躍をいずれ物語として世に発表することを宣言する。
『四つの署名』事件で知り合ったメアリー・モースタン と結婚し、一旦ベイカー街を出たが、『空き家の冒険』の後でホームズとの共同生活に戻っている。その理由として、メアリーとの離婚、あるいは死別等諸説があるが、ワトスン自身が「悲しい別離」と語っていることから、死別であったとする説が一般的である。いくつかの事件の年代と結婚についての記述が矛盾することや、ずっと後年の『白面の兵士』ではワトスンが妻のためにホームズと別居していたという記述があることから、メアリーとの結婚が終わった後(またはメアリーとの結婚以前)に別の女性と結婚したとする説もある 。
『四つの署名』で、父親の名前の頭文字がHであり、物語で描かれた時期よりかなり前に亡くなったことや、兄がいたことが語られている。
ワトスンのファーストネーム「ジョン (John)」については、妻が「ジェームズ (James)」と呼びかける場面(『唇のねじれた男』)があり、ホームズ研究者(シャーロキアン)たちを悩ませてきた。1943年にドロシー・セイヤーズが「ドクター・ワトソンの洗礼名」を発表し、ミドルネームのHは「ジェームズ」のスコットランドにおける異形である「ヘイミッシュ (Hamish)」なのであろう、という解決策を提示している。そして、なぜ妻がジョンと呼ばなかったかについては、彼女の父親の死に関係したジョン・ショルトー少佐 (Major John Sholto) と同じ名であるため、嫌ったのだとしている。
当人が『四つの署名』で記述しているところでは、「三大陸にまたがる女性遍歴」を持つ。この「三大陸」はアフガニスタンへの従軍経験を持つことなどから、「アジア・アフリカ・ヨーロッパ」のこととする見方が強いが、(少年時代を過ごした)オーストラリアを含める説や、当人が語っていないだけで、アメリカ大陸へ渡った時期もあるのではないかとする説もある。ホームズも「女性は君の領分だ」(『第二の汚点』)と認めたほどだったが、(少なくとも当人の一人称による作中では)本人が豪語するほど「女たらし」な一面は描かれていない。
ワトスンは、『空き家の冒険』で死んだはずのホームズと再会した際に、初めて気を失ったとされている。
容姿については基本本人視点なので「こういう外見だ」と地の文と言われることはないが、『緋色の研究』の第1章ではスタンフォードから「痩せて茶色い肌」、第2章ではホームズから「日焼けで肌色が濃い」と言われ、『犯人は二人(恐喝王ミルヴァートン)』の終盤で、レストレード警部が怪しい男(実はワトスン本人)の要旨を「中背ながらがっしりした体格、顎が張って首が太く、口ひげを生やしている。」と説明(ホームズもこの描写を「ワトスンみたいな犯人」と評し、レストレード自身も「ワトスンそっくり」と賛同している)し、『赤い輪』では序盤でホームズが口ひげの短い人間の例にワトスンをあげる描写がある。アフガニスタン戦争従軍時にジザイル弾で負傷したが、その箇所は脚とも肩とも記されている。
ホームズに比べれば能力が見劣りするとはいえ、コナン・ドイルはワトスンを愚鈍な人物としては描いていない。ホームズは何度も、ワトスンの勇気や能力を賞賛する言葉を口にしており、ホームズはある意味でワトスンに依存していたと見る向きもある。そして、ホームズと対比するとワトスンは実直な常識人として描かれており、職業とも相まって大半の読者から受け入れられる人物像といえる。
『高名な依頼人』事件においては、ホームズの指示で短期間に中国の陶磁器について猛勉強し、陶器の権威であるグルーナー男爵と対峙しても、ある程度の受け答えが可能となる水準にまで知識を高めている(最終的にはスパイであることを見破られてしまうが、これはホームズの計算通りの出来事であった)。また、時にはホームズに調査を頼まれることもあり、ほとんどの場合は後々ホームズに駄目出しをされてしまうものの、『バスカヴィル家の犬』では偶然とはいえホームズの隠れ家を探し出し、ワトスンが送った報告書もホームズが感心するほど詳細なものであった。『隠居絵具師』事件では、依頼人アンバリー氏の持っていた演劇の切符の座席番号を(自分の少年時代と関わりのある番号だったためではあるが)確認しており、「満点だ」とホームズに言わしめている。『悪魔の足』では毒物の効果を自ら確かめる実験をホームズと行った際に、毒物の影響で朦朧としながらも目の前のホームズが危険な状態だと悟ると彼を連れて外へ脱出した。『瀕死の探偵』では、ホームズはワトスンの医者としての腕も評価しており、仮病と悟られないために辛辣な言葉を使って近寄らせないようにした。
ホームズはワトスンに対してもそっけない態度をとることが多く、ワトスンも自身をホームズが円滑に推理を行うための道具の一つとまで発言したことがある。しかし、『三人ガリデブ』でワトスンが殺し屋エヴァンズに撃たれたときには、ホームズはひどく動揺した様子でワトスンに安否を尋ね、エヴァンズに対して「もしワトスンが死んでいたら、お前を殺すところだった」と言い放った。また、『悪魔の足』でも、毒物の効果を確かめる実験に付き合わせたことに対して、謝罪と感謝の言葉をかけ、彼を感動させている。さらに、『最後の事件』では、遺書として書いた手紙の中で、自身の事を「(ワトスンの)真実の友 シャーロック・ホームズ」と書いている。更にホームズは、『白面の兵士』にて、ワトスンが結婚して同居を解消したことに対して、「私たちの付き合いの中で、これがワトスンの唯一の自分本位の行動だった」「私は一人ぼっちだった」と複雑な心境を語っている。
なお、軍医時代の軍用拳銃(型式名称は不明だが、19世紀の物語なので、ウェブリー・リボルバーであることは確実。自動拳銃は20世紀に入ってから発明された)を所持し続け(『赤毛組合』)、危険な事件の際にはホームズの身を案じて携行することもあった。ワトスン自身は、ホームズは一度事件に没頭すると身の安全も顧みない男だったので、自分の拳銃でその窮地を救ったことは「一度や二度ではない」(『ソア橋』)と書いている。その「ソア橋」事件においては、ワトソンの拳銃がトリックの再現に役立っている。本編中での発砲シーンは「四つの署名」(ホームズと同時に発砲。撃たれたトンガは死亡したが、どちらの弾が致命傷になったかは不明)、「バスカヴィル家の犬」(命中したかどうかは不明)、「ぶな屋敷」(犬の頭を撃ち抜いてる)。その他にも「空き家の冒険」でホームズの喉を掴んだ犯人の頭を拳銃の尻で殴ったり、「ブラック・ピーター」でホームズと格闘する犯人のこめかみに銃を突きつけたりしてホームズを助けている。
ワトスンは昔はアスリートであった。『サセックスの吸血鬼』ではワトスンがかつてブラックヒース(有名な古いロンドンのクラブ)でラグビーユニオンをプレーしたことが言及されている。
シャーロック・ホームズシリーズが文学的に成功したのは、読者と同レベルの知能を持つワトスンを語り手として導入し、ワトスンの目を通すことで、手がかりを読者にあからさまでない形で提示できるようになったという点によるものが大きい。また、ワトスンはポーの「私」とは異なり名前が(ミドルネームを除き)判明しており、医師という社会的地位もあることから、名探偵と読者との中間にある第三者(「私」は主人公と同様に奇人であるが、読者にとっては仮託しうる対象ともなる)として、物語に介在していることが大きな特色といえる。この有用な形式は以後多くの推理小説で踏襲されることになる。ちなみに、ホームズはワトスンの書く文章を批判していたが(ただし、彼は自身の名前が世に出ることをあまり好ましく思っていない割にはワトスンを「僕の伝記作家」と評したり、「この事件は君の物語には合わない」など、事件をワトスンが公表することを前提とした発言をすることがある)、あまりに批判されたので遂にはワトスンが怒ってホームズ自身に物語を書くことを要求し、その結果ホームズも読者を喜ばせるためにはワトスンと同じ書き方をしなければならないのだと考え直し、反省した(『白面の兵士』)。
シャーロック・ホームズシリーズが成功したおかげで、ワトスンは名探偵の相棒(サイドキック)の代名詞となった。ノックスの十戒でもサイドキックの例としてワトスンが例示されている。
シャーロック・ホームズシリーズ以降の探偵小説において、物語の語り部や探偵の助手など、ワトスンと同等の役を務める登場人物を「ワトスン役」と称することがある(推理小説#ワトスン役)。
ホームズ同様、ワトスンもまた多数の俳優によって演じられてきた。ホームズに比べるとキャラクターに際立った特徴が少ないためか、ワトスンの方が演じる俳優の個性に左右されやすいと言われる。
特筆されるワトスン俳優として、「アメリカ最高のホームズ」と言われたベイジル・ラスボーンとコンビを組んだナイジェル・ブルースがいる。ブルースが映画やラジオで演じたのは、うっかり者で怒りっぽく大事な場面でへまばかりする、ホームズの引き立て役としてのワトスンだった。ブルースのワトソン像はファンの支持を集め、ラスボーンがアメリカ最高のホームズ俳優とされたのと同じく、ワトスン役のイコンとなった。晩年、ラスボーンからオリジナルの舞台でワトスンを演じて欲しいと要請されたブルースは大いに乗り気であったが、開幕の数週間前に病死した。
その他、エドワード・ハードウィック、アンドレ・モレル、H・マリオン・クロフォードらの評価が高い。特にハードウィックは、最高のホームズとして全世界に名を馳せたジェレミー・ブレット主演によるグラナダ・テレビ製作のテレビドラマシリーズ『シャーロック・ホームズの冒険』で2代目ワトスンを演じ、ナイジェル・ブルースとは全く異なるワトソン像を確立した。ハードウィックの演じたワトソンは、ドイルの原作で本来描かれていたワトスン像であった。すなわち、高潔な英国紳士にして好奇心と勇気があり、陰ながらホームズをサポートする素晴らしい相棒としてのワトスン博士である。ハードウィックの演技により、ブルースの影響による「ワトスン博士=ドジでヘマばかりする名探偵の相棒」のイメージは完全に払拭された。なお、ワトスンの負のイメージの払拭という意味では、同シリーズの初代ワトスンであったデビッド・バークも、男性的で行動力溢れる元軍医としてのワトスンを演じている。
トーキー初のホームズ映画でワトスンを演じたレジナルド・オウエンがそうだったように、ワトスンとホームズを両方演じた俳優も数名存在する。ワトスンを演じてから後にホームズに「出世」するケースが多く、逆にホームズを演じてからワトスンを演じる俳優は少ない。作品によってはワトスンが女性や少年に変更されるケースもある。
日本の声優では、富田耕生がアニメ『名探偵ホームズ』でワトスンを演じた。この作品は映画版から内容がそのままテレビ版にコンバートされる際、声優の一部が交代しているが(広川太一郎演ずるホームズもテレビ版から)、富田はそのまま続投している。表記は「ワトソン」。
2008年にガイ・リッチー監督による映画『シャーロック・ホームズ』において、ワトスン役にはジュード・ロウが抜擢された。公式の日本語表記は「ワトソン」。日本語吹き替えは劇場公開版では森川智之、テレビ朝日版では堀内賢雄が担当している。
2010年から始まったBBCのTVシリーズ『SHERLOCK(シャーロック)』では、マーティン・フリーマンが演じている。ホームズとは現代風にシャーロック、ジョンと呼び合う。公式の日本語表記は「ジョン・ヘイミッシュ・ワトソン」。舞台は21世紀のイギリスに変更されているが、キングス・カレッジ・ロンドン卒でアフガン紛争(21世紀の)帰りの陸軍医、勇敢で誠実な人物、射撃の名手、友人に紹介されてホームズとルームシェアを始める、女好きなど、原作に忠実な設定も多い。一方で、足の怪我に関してはPTSDによるもので、肉体に問題があるわけではないと変更されている。またホームズと行動を共にすることが多いため、ゲイと勘違いされるシーンが何度もある。演じるフリーマンは、本作での演技により英国アカデミー賞のテレビ部門最優秀助演男優賞を受賞した。日本語吹き替えは森川智之が担当している。森川はガイ・リッチー監督の映画の吹き替え版(劇場公開版)でもワトスンを担当したため、複数の作品でワトスンを演じた珍しい声優となっている。
2011年にロシアで制作された『名探偵シャーロック・ホームズ』では、アンドレイ・パニンが演じている。この作品はホームズより15歳年上のワトスンが主人公の作品である。
2013年からCBSで始まった『エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY』は、舞台が21世紀のニューヨークであり、ワトスンに相当する役は「ジョーン・ワトソン」という、元外科医で薬物依存者回復支援員となった中国系アメリカ人女性という設定であり、ルーシー・リューが演じている。日本語表音及び和文表記は「ワトソン」。日本語吹き替えは田中敦子が担当している。
2014年に放送が始まった、NHKの人形劇『シャーロック ホームズ』では、オーストラリアからビートン校に転校して来た生徒という設定になっている。表記は「ジョン・H・ワトソン」で、声の出演は高木渉である。ベイカー寮221Bでホームズと同室になり、当初はホームズの行動に戸惑ったり、左脚の負傷でラグビーをやめたりしたことから自分を見失いがちになっていたが、その後ホームズを理解するようになり、退学することになった生徒を励ましたりして、自分を取り戻す。ホームズの事件解決をワトソンメモに記録し、それを元に学内の壁新聞に記事を執筆している。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ジョン・H・ワトスン (John H. Watson) は、アーサー・コナン・ドイルの推理小説『シャーロック・ホームズシリーズ』の登場人物。軍医を経た後開業医となった。名探偵シャーロック・ホームズの友人であり、伝記作家。ホームズシリーズのほとんどの作品は彼を語り手としており、その物語を綴ったことにもなっている。日本語ではワトソンと表記されることも多い。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "少年時代を家族と共にオーストラリアで過ごす。ロンドン大学卒業後、聖トーマス病院に入って医学博士号を取得、第二次アフガン戦争に軍医として従軍し、英軍が敗れたマイワンドの戦い(英語版)で負傷した。傷病兵として本国に送還され、ロンドンで下宿を探していた際、友人のスタンフォードにホームズを紹介され、ロンドンのベーカー街221Bで共同生活を始めるようになる。当初はホームズの行動に対して懐疑的だったが、『緋色の研究』事件においてホームズと共に事件に関わり、ホームズの探偵としての姿を目の当たりにすることとなる。そして、ホームズが事件を見事に解決したにもかかわらず、その手柄をレストレード警部らに全て取られる形となったことを(ホームズ自身は気にしていないが)不満に思ったワトスンは、ホームズの活躍をいずれ物語として世に発表することを宣言する。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "『四つの署名』事件で知り合ったメアリー・モースタン と結婚し、一旦ベイカー街を出たが、『空き家の冒険』の後でホームズとの共同生活に戻っている。その理由として、メアリーとの離婚、あるいは死別等諸説があるが、ワトスン自身が「悲しい別離」と語っていることから、死別であったとする説が一般的である。いくつかの事件の年代と結婚についての記述が矛盾することや、ずっと後年の『白面の兵士』ではワトスンが妻のためにホームズと別居していたという記述があることから、メアリーとの結婚が終わった後(またはメアリーとの結婚以前)に別の女性と結婚したとする説もある 。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "『四つの署名』で、父親の名前の頭文字がHであり、物語で描かれた時期よりかなり前に亡くなったことや、兄がいたことが語られている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "ワトスンのファーストネーム「ジョン (John)」については、妻が「ジェームズ (James)」と呼びかける場面(『唇のねじれた男』)があり、ホームズ研究者(シャーロキアン)たちを悩ませてきた。1943年にドロシー・セイヤーズが「ドクター・ワトソンの洗礼名」を発表し、ミドルネームのHは「ジェームズ」のスコットランドにおける異形である「ヘイミッシュ (Hamish)」なのであろう、という解決策を提示している。そして、なぜ妻がジョンと呼ばなかったかについては、彼女の父親の死に関係したジョン・ショルトー少佐 (Major John Sholto) と同じ名であるため、嫌ったのだとしている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "当人が『四つの署名』で記述しているところでは、「三大陸にまたがる女性遍歴」を持つ。この「三大陸」はアフガニスタンへの従軍経験を持つことなどから、「アジア・アフリカ・ヨーロッパ」のこととする見方が強いが、(少年時代を過ごした)オーストラリアを含める説や、当人が語っていないだけで、アメリカ大陸へ渡った時期もあるのではないかとする説もある。ホームズも「女性は君の領分だ」(『第二の汚点』)と認めたほどだったが、(少なくとも当人の一人称による作中では)本人が豪語するほど「女たらし」な一面は描かれていない。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "ワトスンは、『空き家の冒険』で死んだはずのホームズと再会した際に、初めて気を失ったとされている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "容姿については基本本人視点なので「こういう外見だ」と地の文と言われることはないが、『緋色の研究』の第1章ではスタンフォードから「痩せて茶色い肌」、第2章ではホームズから「日焼けで肌色が濃い」と言われ、『犯人は二人(恐喝王ミルヴァートン)』の終盤で、レストレード警部が怪しい男(実はワトスン本人)の要旨を「中背ながらがっしりした体格、顎が張って首が太く、口ひげを生やしている。」と説明(ホームズもこの描写を「ワトスンみたいな犯人」と評し、レストレード自身も「ワトスンそっくり」と賛同している)し、『赤い輪』では序盤でホームズが口ひげの短い人間の例にワトスンをあげる描写がある。アフガニスタン戦争従軍時にジザイル弾で負傷したが、その箇所は脚とも肩とも記されている。",
"title": "描写"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "ホームズに比べれば能力が見劣りするとはいえ、コナン・ドイルはワトスンを愚鈍な人物としては描いていない。ホームズは何度も、ワトスンの勇気や能力を賞賛する言葉を口にしており、ホームズはある意味でワトスンに依存していたと見る向きもある。そして、ホームズと対比するとワトスンは実直な常識人として描かれており、職業とも相まって大半の読者から受け入れられる人物像といえる。",
"title": "描写"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "『高名な依頼人』事件においては、ホームズの指示で短期間に中国の陶磁器について猛勉強し、陶器の権威であるグルーナー男爵と対峙しても、ある程度の受け答えが可能となる水準にまで知識を高めている(最終的にはスパイであることを見破られてしまうが、これはホームズの計算通りの出来事であった)。また、時にはホームズに調査を頼まれることもあり、ほとんどの場合は後々ホームズに駄目出しをされてしまうものの、『バスカヴィル家の犬』では偶然とはいえホームズの隠れ家を探し出し、ワトスンが送った報告書もホームズが感心するほど詳細なものであった。『隠居絵具師』事件では、依頼人アンバリー氏の持っていた演劇の切符の座席番号を(自分の少年時代と関わりのある番号だったためではあるが)確認しており、「満点だ」とホームズに言わしめている。『悪魔の足』では毒物の効果を自ら確かめる実験をホームズと行った際に、毒物の影響で朦朧としながらも目の前のホームズが危険な状態だと悟ると彼を連れて外へ脱出した。『瀕死の探偵』では、ホームズはワトスンの医者としての腕も評価しており、仮病と悟られないために辛辣な言葉を使って近寄らせないようにした。",
"title": "描写"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "ホームズはワトスンに対してもそっけない態度をとることが多く、ワトスンも自身をホームズが円滑に推理を行うための道具の一つとまで発言したことがある。しかし、『三人ガリデブ』でワトスンが殺し屋エヴァンズに撃たれたときには、ホームズはひどく動揺した様子でワトスンに安否を尋ね、エヴァンズに対して「もしワトスンが死んでいたら、お前を殺すところだった」と言い放った。また、『悪魔の足』でも、毒物の効果を確かめる実験に付き合わせたことに対して、謝罪と感謝の言葉をかけ、彼を感動させている。さらに、『最後の事件』では、遺書として書いた手紙の中で、自身の事を「(ワトスンの)真実の友 シャーロック・ホームズ」と書いている。更にホームズは、『白面の兵士』にて、ワトスンが結婚して同居を解消したことに対して、「私たちの付き合いの中で、これがワトスンの唯一の自分本位の行動だった」「私は一人ぼっちだった」と複雑な心境を語っている。",
"title": "描写"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "なお、軍医時代の軍用拳銃(型式名称は不明だが、19世紀の物語なので、ウェブリー・リボルバーであることは確実。自動拳銃は20世紀に入ってから発明された)を所持し続け(『赤毛組合』)、危険な事件の際にはホームズの身を案じて携行することもあった。ワトスン自身は、ホームズは一度事件に没頭すると身の安全も顧みない男だったので、自分の拳銃でその窮地を救ったことは「一度や二度ではない」(『ソア橋』)と書いている。その「ソア橋」事件においては、ワトソンの拳銃がトリックの再現に役立っている。本編中での発砲シーンは「四つの署名」(ホームズと同時に発砲。撃たれたトンガは死亡したが、どちらの弾が致命傷になったかは不明)、「バスカヴィル家の犬」(命中したかどうかは不明)、「ぶな屋敷」(犬の頭を撃ち抜いてる)。その他にも「空き家の冒険」でホームズの喉を掴んだ犯人の頭を拳銃の尻で殴ったり、「ブラック・ピーター」でホームズと格闘する犯人のこめかみに銃を突きつけたりしてホームズを助けている。",
"title": "描写"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "ワトスンは昔はアスリートであった。『サセックスの吸血鬼』ではワトスンがかつてブラックヒース(有名な古いロンドンのクラブ)でラグビーユニオンをプレーしたことが言及されている。",
"title": "描写"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "シャーロック・ホームズシリーズが文学的に成功したのは、読者と同レベルの知能を持つワトスンを語り手として導入し、ワトスンの目を通すことで、手がかりを読者にあからさまでない形で提示できるようになったという点によるものが大きい。また、ワトスンはポーの「私」とは異なり名前が(ミドルネームを除き)判明しており、医師という社会的地位もあることから、名探偵と読者との中間にある第三者(「私」は主人公と同様に奇人であるが、読者にとっては仮託しうる対象ともなる)として、物語に介在していることが大きな特色といえる。この有用な形式は以後多くの推理小説で踏襲されることになる。ちなみに、ホームズはワトスンの書く文章を批判していたが(ただし、彼は自身の名前が世に出ることをあまり好ましく思っていない割にはワトスンを「僕の伝記作家」と評したり、「この事件は君の物語には合わない」など、事件をワトスンが公表することを前提とした発言をすることがある)、あまりに批判されたので遂にはワトスンが怒ってホームズ自身に物語を書くことを要求し、その結果ホームズも読者を喜ばせるためにはワトスンと同じ書き方をしなければならないのだと考え直し、反省した(『白面の兵士』)。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "シャーロック・ホームズシリーズが成功したおかげで、ワトスンは名探偵の相棒(サイドキック)の代名詞となった。ノックスの十戒でもサイドキックの例としてワトスンが例示されている。",
"title": "代名詞"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "シャーロック・ホームズシリーズ以降の探偵小説において、物語の語り部や探偵の助手など、ワトスンと同等の役を務める登場人物を「ワトスン役」と称することがある(推理小説#ワトスン役)。",
"title": "代名詞"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ホームズ同様、ワトスンもまた多数の俳優によって演じられてきた。ホームズに比べるとキャラクターに際立った特徴が少ないためか、ワトスンの方が演じる俳優の個性に左右されやすいと言われる。",
"title": "演じた俳優たち"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "特筆されるワトスン俳優として、「アメリカ最高のホームズ」と言われたベイジル・ラスボーンとコンビを組んだナイジェル・ブルースがいる。ブルースが映画やラジオで演じたのは、うっかり者で怒りっぽく大事な場面でへまばかりする、ホームズの引き立て役としてのワトスンだった。ブルースのワトソン像はファンの支持を集め、ラスボーンがアメリカ最高のホームズ俳優とされたのと同じく、ワトスン役のイコンとなった。晩年、ラスボーンからオリジナルの舞台でワトスンを演じて欲しいと要請されたブルースは大いに乗り気であったが、開幕の数週間前に病死した。",
"title": "演じた俳優たち"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "その他、エドワード・ハードウィック、アンドレ・モレル、H・マリオン・クロフォードらの評価が高い。特にハードウィックは、最高のホームズとして全世界に名を馳せたジェレミー・ブレット主演によるグラナダ・テレビ製作のテレビドラマシリーズ『シャーロック・ホームズの冒険』で2代目ワトスンを演じ、ナイジェル・ブルースとは全く異なるワトソン像を確立した。ハードウィックの演じたワトソンは、ドイルの原作で本来描かれていたワトスン像であった。すなわち、高潔な英国紳士にして好奇心と勇気があり、陰ながらホームズをサポートする素晴らしい相棒としてのワトスン博士である。ハードウィックの演技により、ブルースの影響による「ワトスン博士=ドジでヘマばかりする名探偵の相棒」のイメージは完全に払拭された。なお、ワトスンの負のイメージの払拭という意味では、同シリーズの初代ワトスンであったデビッド・バークも、男性的で行動力溢れる元軍医としてのワトスンを演じている。",
"title": "演じた俳優たち"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "トーキー初のホームズ映画でワトスンを演じたレジナルド・オウエンがそうだったように、ワトスンとホームズを両方演じた俳優も数名存在する。ワトスンを演じてから後にホームズに「出世」するケースが多く、逆にホームズを演じてからワトスンを演じる俳優は少ない。作品によってはワトスンが女性や少年に変更されるケースもある。",
"title": "演じた俳優たち"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "日本の声優では、富田耕生がアニメ『名探偵ホームズ』でワトスンを演じた。この作品は映画版から内容がそのままテレビ版にコンバートされる際、声優の一部が交代しているが(広川太一郎演ずるホームズもテレビ版から)、富田はそのまま続投している。表記は「ワトソン」。",
"title": "演じた俳優たち"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2008年にガイ・リッチー監督による映画『シャーロック・ホームズ』において、ワトスン役にはジュード・ロウが抜擢された。公式の日本語表記は「ワトソン」。日本語吹き替えは劇場公開版では森川智之、テレビ朝日版では堀内賢雄が担当している。",
"title": "演じた俳優たち"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2010年から始まったBBCのTVシリーズ『SHERLOCK(シャーロック)』では、マーティン・フリーマンが演じている。ホームズとは現代風にシャーロック、ジョンと呼び合う。公式の日本語表記は「ジョン・ヘイミッシュ・ワトソン」。舞台は21世紀のイギリスに変更されているが、キングス・カレッジ・ロンドン卒でアフガン紛争(21世紀の)帰りの陸軍医、勇敢で誠実な人物、射撃の名手、友人に紹介されてホームズとルームシェアを始める、女好きなど、原作に忠実な設定も多い。一方で、足の怪我に関してはPTSDによるもので、肉体に問題があるわけではないと変更されている。またホームズと行動を共にすることが多いため、ゲイと勘違いされるシーンが何度もある。演じるフリーマンは、本作での演技により英国アカデミー賞のテレビ部門最優秀助演男優賞を受賞した。日本語吹き替えは森川智之が担当している。森川はガイ・リッチー監督の映画の吹き替え版(劇場公開版)でもワトスンを担当したため、複数の作品でワトスンを演じた珍しい声優となっている。",
"title": "演じた俳優たち"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2011年にロシアで制作された『名探偵シャーロック・ホームズ』では、アンドレイ・パニンが演じている。この作品はホームズより15歳年上のワトスンが主人公の作品である。",
"title": "演じた俳優たち"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2013年からCBSで始まった『エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY』は、舞台が21世紀のニューヨークであり、ワトスンに相当する役は「ジョーン・ワトソン」という、元外科医で薬物依存者回復支援員となった中国系アメリカ人女性という設定であり、ルーシー・リューが演じている。日本語表音及び和文表記は「ワトソン」。日本語吹き替えは田中敦子が担当している。",
"title": "演じた俳優たち"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2014年に放送が始まった、NHKの人形劇『シャーロック ホームズ』では、オーストラリアからビートン校に転校して来た生徒という設定になっている。表記は「ジョン・H・ワトソン」で、声の出演は高木渉である。ベイカー寮221Bでホームズと同室になり、当初はホームズの行動に戸惑ったり、左脚の負傷でラグビーをやめたりしたことから自分を見失いがちになっていたが、その後ホームズを理解するようになり、退学することになった生徒を励ましたりして、自分を取り戻す。ホームズの事件解決をワトソンメモに記録し、それを元に学内の壁新聞に記事を執筆している。",
"title": "演じた俳優たち"
}
] | ジョン・H・ワトスン は、アーサー・コナン・ドイルの推理小説『シャーロック・ホームズシリーズ』の登場人物。軍医を経た後開業医となった。名探偵シャーロック・ホームズの友人であり、伝記作家。ホームズシリーズのほとんどの作品は彼を語り手としており、その物語を綴ったことにもなっている。日本語ではワトソンと表記されることも多い。 | {{Pathnav|シャーロック・ホームズシリーズ|frame=1}}
{{出典の明記|date=2015年1月29日 (木) 15:13 (UTC)}}
{{Infobox character
| series = [[シャーロック・ホームズシリーズ]]
| image = [[ファイル:Paget holmes.png|250px]]
| caption = シャーロック・ホームズ(右)とジョン・H・ワトスン (左)<br />[[シドニー・パジェット]]画
| first = 『[[緋色の研究]]』(1887年)
| last =
| creator = [[アーサー・コナン・ドイル]]
| gender = 男性
| occupation = 医師
| nationality = {{GBR}}
}}
{{Portal|文学}}
'''ジョン・H・ワトスン''' {{en|(John H. Watson)}} は、[[アーサー・コナン・ドイル]]の[[推理小説]]『[[シャーロック・ホームズシリーズ]]』の登場人物。[[軍医]]を経た後[[開業医]]となった。名探偵[[シャーロック・ホームズ]]の友人であり<ref>{{Cite web|和書|url=https://president.jp/articles/-/40561|title=130年前から「名探偵といえばホームズ」と言われる本当の理由 現代にも通用するキャラクター造形|publisher=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2020-11-20|accessdate=2020-11-25}}</ref>、[[伝記]]作家。ホームズシリーズのほとんどの作品は彼を[[語り手]]としており、その物語を綴ったことにもなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://president.jp/articles/-/40563|title=名探偵ホームズの人気は「ワトスン博士ありき」と言われるワケ 「バツイチ再婚説」から「女性説」まで|publisher=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2020-11-23|accessdate=2020-11-26}}</ref>。日本語では'''ワトソン'''と表記されることも多い。
== 人物 ==
少年時代を家族と共に[[オーストラリア]]で過ごす{{要出典|date=2021年8月|title=ワトソンのオーストラリア生活時代の描写ありましたっけ? 一応本編を邦訳で一通り読んだことありますがいまいち記憶にないんですが…}}。[[ロンドン大学]]卒業後、聖トーマス病院に入って医学博士号を取得、[[第二次アフガン戦争]]に軍医として従軍し、英軍が敗れた{{仮リンク|マイワンドの戦い|en|Battle of Maiwand}}で負傷した<ref>負傷箇所については、足という記述(『[[四つの署名]]』)と肩という記述(『[[緋色の研究]]』)があるが、「痛みの移動」の表れかも知れないため、どちらが本当の傷なのかは論議の的になったり、パロディ物のワトソン役のネタにも扱われたりすることもある。また、足という説のうち、詳しくは左足という説がある。</ref>。傷病兵として本国に送還され、ロンドンで下宿を探していた際、友人のスタンフォードにホームズを紹介され、[[ロンドン]]の[[ベーカー街221B]]で共同生活を始めるようになる。当初はホームズの行動に対して懐疑的だったが、『[[緋色の研究]]』事件においてホームズと共に事件に関わり、ホームズの探偵としての姿を目の当たりにすることとなる。そして、ホームズが事件を見事に解決したにもかかわらず、その手柄を[[レストレード]]警部らに全て取られる形となったことを(ホームズ自身は気にしていないが)不満に思ったワトスンは、ホームズの活躍をいずれ物語として世に発表することを宣言する。
『[[四つの署名]]』事件で知り合った[[メアリー・モースタン]] と結婚し、一旦ベイカー街を出たが、『[[空き家の冒険]]』の後でホームズとの共同生活に戻っている。その理由として、メアリーとの離婚、あるいは死別等諸説があるが、ワトスン自身が「悲しい別離」と語っていることから、死別であったとする説が一般的である。いくつかの事件の年代と結婚についての記述が矛盾することや、ずっと後年の『[[白面の兵士]]』ではワトスンが妻のためにホームズと別居していたという記述があることから、メアリーとの結婚が終わった後(またはメアリーとの結婚以前)に別の女性と結婚したとする説もある<ref name="bg22">{{Cite book |和書 |author=ウィリアム・ベアリング=グールド|authorlink=ウィリアム・ベアリング=グールド |translator=[[小池滋]] |year=1997 |title=詳注版シャーロック・ホームズ全集 |series=ちくま文庫 |volume=3 |publisher=筑摩書房 |chapter=22「ところでワトソン、女性は君の専門領域だ」 |pages=99-123 |isbn=9784480032737 }}</ref>
<ref>ベアリング=グールドは、ワトスンはメアリーの死後、『白面の兵士』の前に再婚していたほか、メアリーの結婚の前にも別の女性との結婚生活があったとしている。このほかにも、『四つの署名』より前にワトスンとメアリーは結婚していたとするなど、矛盾を解消するために[[シャーロキアン]]が様々な説を出している。</ref>。
『四つの署名』で、父親の名前の頭文字がHであり、物語で描かれた時期よりかなり前に亡くなったことや、兄がいたことが語られている。
ワトスンのファーストネーム「ジョン {{en|(John)}}」については、妻が「ジェームズ {{en|(James)}}」と呼びかける場面(『[[唇のねじれた男]]』)があり、ホームズ研究者([[シャーロキアン]])たちを悩ませてきた。1943年に[[ドロシー・L・セイヤーズ|ドロシー・セイヤーズ]]が「ドクター・ワトソンの洗礼名」を発表し、ミドルネームの'''H'''は「ジェームズ」の[[スコットランド]]における異形である「[[ヘイミッシュ]] {{en|(Hamish)}}」なのであろう、という解決策を提示している。そして、なぜ妻がジョンと呼ばなかったかについては、彼女の父親の死に関係したジョン・ショルトー少佐 {{en|(Major John Sholto)}} と同じ名であるため、嫌ったのだとしている<ref>ドロシー・セイヤーズ「ドクター・ワトソンの洗礼名」植村昌夫訳『シャーロック・ホームズの愉しみ方』平凡社新書、2011年、85-94頁</ref>。
当人が『四つの署名』で記述しているところでは、「三大陸にまたがる女性遍歴」を持つ。この「三大陸」は[[アフガニスタン]]への従軍経験を持つことなどから、「アジア・アフリカ・ヨーロッパ」のこととする見方が強いが、(少年時代を過ごした)オーストラリアを含める説や、当人が語っていないだけで、アメリカ大陸へ渡った時期もあるのではないかとする説もある<ref name="bg16">{{Cite book |和書 |author=ウィリアム・ベアリング=グールド|authorlink=ウィリアム・ベアリング=グールド |translator=[[小池滋]] |year=1997 |title=詳注版シャーロック・ホームズ全集 |series=ちくま文庫 |volume=2 |publisher=筑摩書房 |chapter=16「それに君は日付のことばかり言ってるが、それが最大の謎だね」 |pages=372-379 |isbn=9784480032720}}</ref>。ホームズも「女性は君の領分だ」(『[[第二の汚点]]』)と認めたほどだったが、(少なくとも当人の一人称による作中では)本人が豪語するほど「女たらし」な一面は描かれていない。
ワトスンは、『空き家の冒険』で死んだはずのホームズと再会した際に、初めて気を失ったとされている。
== 描写 ==
容姿については基本本人視点なので「こういう外見だ」と地の文と言われることはないが、『[[緋色の研究]]』の第1章ではスタンフォードから「痩せて茶色い肌」、第2章ではホームズから「日焼けで肌色が濃い」と言われ<ref>ただし、これはアフガニスタンにいたことによる日焼けや負傷による衰弱の影響があるので、以後のシリーズでも当てはまるのかは不明。特に後者はワトスンをアフガニスタン帰りと見抜いた根拠として挙げたものであり、ホームズ自身も直後に「しかし手首が白いので、地色ではなく熱帯地帰りと分かる」と続けている。</ref>、『[[犯人は二人|犯人は二人(恐喝王ミルヴァートン)]]』の終盤で、レストレード警部が怪しい男(実はワトスン本人)の要旨を「中背ながらがっしりした体格、顎が張って首が太く、口ひげを生やしている。」と説明(ホームズもこの描写を「ワトスンみたいな犯人」と評し、レストレード自身も「ワトスンそっくり」と賛同している)し、『[[赤い輪]]』では序盤でホームズが口ひげの短い人間の例にワトスンをあげる描写がある。アフガニスタン戦争従軍時にジザイル弾で負傷したが、その箇所は脚とも肩とも記されている。
ホームズに比べれば能力が見劣りするとはいえ、コナン・ドイルはワトスンを愚鈍な人物としては描いていない。ホームズは何度も、ワトスンの勇気や能力を賞賛する言葉を口にして<ref>特に『白面の兵士』の書き出しでは、「私が色々な捜査にわざわざワトスンを連れて行くのは、情にほだされているからでも、気まぐれからでもなく、彼が非常に素晴らしい特性を備えているからだ。」と明らかにしている。</ref>おり、ホームズはある意味でワトスンに依存していたと見る向きもある。そして、ホームズと対比するとワトスンは実直な常識人として描かれており、職業とも相まって大半の読者から受け入れられる人物像といえる。
『[[高名な依頼人]]』事件においては、ホームズの指示で短期間に中国の[[陶磁器]]について猛勉強し、陶器の権威であるグルーナー男爵と対峙しても、ある程度の受け答えが可能となる水準にまで知識を高めている(最終的には[[スパイ]]であることを見破られてしまうが、これはホームズの計算通りの出来事であった)。また、時にはホームズに調査を頼まれることもあり、ほとんどの場合は後々ホームズに駄目出しをされてしまうものの、『[[バスカヴィル家の犬]]』では偶然とはいえホームズの隠れ家を探し出し、ワトスンが送った報告書もホームズが感心するほど詳細なものであった。『[[隠居絵具師]]』事件では、依頼人アンバリー氏の持っていた演劇の切符の座席番号を(自分の少年時代と関わりのある番号だったためではあるが)確認しており、「満点だ」とホームズに言わしめている。『[[悪魔の足]]』では毒物の効果を自ら確かめる実験をホームズと行った際に、毒物の影響で朦朧としながらも目の前のホームズが危険な状態だと悟ると彼を連れて外へ脱出した。『[[瀕死の探偵]]』では、ホームズはワトスンの医者としての腕も評価しており、仮病と悟られないために辛辣な言葉を使って近寄らせないようにした。
ホームズはワトスンに対してもそっけない態度をとることが多く、ワトスンも自身をホームズが円滑に推理を行うための道具の一つとまで発言したことがある。しかし、『[[三人ガリデブ]]』でワトスンが殺し屋エヴァンズに撃たれたときには、ホームズはひどく動揺した様子でワトスンに安否を尋ね、エヴァンズに対して「もしワトスンが死んでいたら、お前を殺すところだった」と言い放った。また、『悪魔の足』でも、毒物の効果を確かめる実験に付き合わせたことに対して、謝罪と感謝の言葉をかけ、彼を感動させている。さらに、『[[最後の事件]]』では、遺書として書いた手紙の中で、自身の事を「(ワトスンの)真実の友 シャーロック・ホームズ」と書いている。更にホームズは、『白面の兵士』にて、ワトスンが結婚して同居を解消したことに対して、「私たちの付き合いの中で、これがワトスンの唯一の自分本位の行動だった」「私は一人ぼっちだった」と複雑な心境を語っている。
なお、軍医時代の軍用拳銃(型式名称は不明だが、[[19世紀]]の物語なので、[[ウェブリー・リボルバー]]であることは確実。自動拳銃は20世紀に入ってから発明された)を所持し続け(『[[赤毛組合]]』)、危険な事件の際にはホームズの身を案じて携行することもあった。ワトスン自身は、ホームズは一度事件に没頭すると身の安全も顧みない男だったので、自分の拳銃でその窮地を救ったことは「一度や二度ではない」(『[[ソア橋]]』)と書いている。その「ソア橋」事件においては、ワトソンの拳銃がトリックの再現に役立っている。本編中での発砲シーンは「[[四つの署名]]」(ホームズと同時に発砲。撃たれたトンガは死亡したが、どちらの弾が致命傷になったかは不明)、「[[バスカヴィル家の犬]]」(命中したかどうかは不明)、「[[ぶな屋敷]]」(犬の頭を撃ち抜いてる)。その他にも「[[空き家の冒険]]」でホームズの喉を掴んだ犯人の頭を拳銃の尻で殴ったり、「[[ブラック・ピーター]]」でホームズと格闘する犯人のこめかみに銃を突きつけたりしてホームズを助けている。
ワトスンは昔はアスリートであった。『[[サセックスの吸血鬼]]』ではワトスンがかつて[[ブラックヒースFC|ブラックヒース]](有名な古いロンドンのクラブ)で[[ラグビーユニオン]]をプレーしたことが言及されている。
== 評価 ==
シャーロック・ホームズシリーズが文学的に成功したのは、読者と同レベルの知能を持つワトスンを[[語り手]]として導入し、ワトスンの目を通すことで、手がかりを読者にあからさまでない形で提示できるようになったという点によるものが大きい。また、ワトスンはポーの「私」とは異なり名前が(ミドルネームを除き)判明しており、医師という社会的地位もあることから、名探偵と読者との中間にある第三者(「私」は主人公と同様に奇人であるが、読者にとっては仮託しうる対象ともなる)として、物語に介在していることが大きな特色といえる。この有用な形式は以後多くの推理小説で踏襲されることになる。ちなみに、ホームズはワトスンの書く文章を批判していたが(ただし、彼は自身の名前が世に出ることをあまり好ましく思っていない割にはワトスンを「僕の伝記作家」と評したり、「この事件は君の物語には合わない」など、事件をワトスンが公表することを前提とした発言をすることがある)、あまりに批判されたので遂にはワトスンが怒ってホームズ自身に物語を書くことを要求し、その結果ホームズも読者を喜ばせるためにはワトスンと同じ書き方をしなければならないのだと考え直し、反省した(『[[白面の兵士]]』)。
== 代名詞 ==
シャーロック・ホームズシリーズが成功したおかげで、ワトスンは名探偵の相棒([[サイドキック]])の代名詞となった。[[ノックスの十戒]]でもサイドキックの例としてワトスンが例示されている。
シャーロック・ホームズシリーズ以降の探偵小説において、物語の語り部や探偵の助手など、ワトスンと同等の役を務める登場人物を「ワトスン役」と称することがある([[推理小説#ワトスン役]])。
== 演じた俳優たち ==
ホームズ同様、ワトスンもまた多数の俳優によって演じられてきた。ホームズに比べるとキャラクターに際立った特徴が少ないためか、ワトスンの方が演じる俳優の個性に左右されやすいと言われる。
特筆されるワトスン俳優として、「アメリカ最高のホームズ」と言われた[[ベイジル・ラスボーン]]とコンビを組んだ[[ナイジェル・ブルース]]がいる。ブルースが映画やラジオで演じたのは、うっかり者で怒りっぽく大事な場面でへまばかりする、ホームズの引き立て役としてのワトスンだった。ブルースのワトソン像はファンの支持を集め、ラスボーンがアメリカ最高のホームズ俳優とされたのと同じく、ワトスン役のイコンとなった。晩年、ラスボーンからオリジナルの舞台でワトスンを演じて欲しいと要請されたブルースは大いに乗り気であったが、開幕の数週間前に病死した。
その他、[[エドワード・ハードウィック]]、[[アンドレ・モレル]]、[[H・マリオン・クロフォード]]らの評価が高い。特にハードウィックは、最高のホームズとして全世界に名を馳せた[[ジェレミー・ブレット]]主演によるグラナダ・テレビ製作のテレビドラマシリーズ『[[シャーロック・ホームズの冒険 (テレビドラマ)|シャーロック・ホームズの冒険]]』で2代目ワトスンを演じ、ナイジェル・ブルースとは全く異なるワトソン像を確立した。ハードウィックの演じたワトソンは、ドイルの原作で本来描かれていたワトスン像であった。すなわち、高潔な英国紳士にして好奇心と勇気があり、陰ながらホームズをサポートする素晴らしい相棒としてのワトスン博士である。ハードウィックの演技により、ブルースの影響による「ワトスン博士=ドジでヘマばかりする名探偵の相棒」のイメージは完全に払拭された。なお、ワトスンの負のイメージの払拭という意味では、同シリーズの初代ワトスンであった[[デビッド・バーク]]も、男性的で行動力溢れる元軍医としてのワトスンを演じている。
[[トーキー]]初のホームズ映画でワトスンを演じたレジナルド・オウエンがそうだったように、ワトスンとホームズを両方演じた俳優も数名存在する。ワトスンを演じてから後にホームズに「出世」するケースが多く、逆にホームズを演じてからワトスンを演じる俳優は少ない。作品によってはワトスンが女性や少年に変更されるケースもある。
日本の[[声優]]では、[[富田耕生]]がアニメ『[[名探偵ホームズ]]』でワトスンを演じた。この作品は映画版から内容がそのままテレビ版にコンバートされる際、声優の一部が交代しているが([[広川太一郎]]演ずるホームズもテレビ版から)、富田はそのまま続投している。表記は「ワトソン」。
2008年に[[ガイ・リッチー]]監督による映画『[[シャーロック・ホームズ (2009年の映画)|シャーロック・ホームズ]]』において、ワトスン役には[[ジュード・ロウ]]が抜擢された。公式の日本語表記は「ワトソン」。日本語吹き替えは劇場公開版では[[森川智之]]、テレビ朝日版では[[堀内賢雄]]が担当している。
2010年から始まった[[英国放送協会|BBC]]のTVシリーズ『[[SHERLOCK(シャーロック)]]』では、[[マーティン・フリーマン]]が演じている。ホームズとは現代風にシャーロック、ジョンと呼び合う。公式の日本語表記は「ジョン・ヘイミッシュ・ワトソン」。舞台は21世紀のイギリスに変更されているが、[[キングス・カレッジ・ロンドン]]卒で[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガン紛争]](21世紀の)帰りの陸軍医、勇敢で誠実な人物、射撃の名手、友人に紹介されてホームズとルームシェアを始める、女好きなど、原作に忠実な設定も多い。一方で、足の怪我に関しては[[心的外傷後ストレス障害|PTSD]]によるもので、肉体に問題があるわけではないと変更されている。またホームズと行動を共にすることが多いため、ゲイと勘違いされるシーンが何度もある。演じるフリーマンは、本作での演技により英国アカデミー賞のテレビ部門最優秀助演男優賞を受賞した。日本語吹き替えは森川智之が担当している。森川はガイ・リッチー監督の映画の吹き替え版(劇場公開版)でもワトスンを担当したため、複数の作品でワトスンを演じた珍しい声優となっている。
2011年に[[ロシア]]で制作された『[[名探偵シャーロック・ホームズ (テレビドラマ)|名探偵シャーロック・ホームズ]]』では、[[アンドレイ・パニン]]が演じている。この作品はホームズより15歳年上のワトスンが主人公の作品である。
2013年から[[CBS]]で始まった『[[エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY]]』は、舞台が21世紀のニューヨークであり、ワトスンに相当する役は「ジョーン・ワトソン」という、元外科医で薬物依存者回復支援員となった[[中国系アメリカ人]]女性という設定であり、[[ルーシー・リュー]]が演じている。日本語表音及び和文表記は「ワトソン」。日本語吹き替えは[[田中敦子 (声優)|田中敦子]]が担当している。
2014年に放送が始まった、[[日本放送協会|NHK]]の[[人形劇]]『[[シャーロック ホームズ (人形劇)|シャーロック ホームズ]]』では、[[オーストラリア]]からビートン校に転校して来た生徒という設定になっている。表記は「ジョン・H・ワトソン」で、声の出演は[[高木渉]]である。ベイカー寮221Bでホームズと同室になり、当初はホームズの行動に戸惑ったり、左脚の負傷で[[ラグビーフットボール|ラグビー]]をやめたりしたことから自分を見失いがちになっていたが、その後ホームズを理解するようになり、退学することになった生徒を励ましたりして、自分を取り戻す。ホームズの事件解決を[[ワトソンメモ]]に記録し、それを元に学内の[[壁新聞]]に記事を執筆している。
== 脚注 ==
<div class="references-small"> <references /> </div>
== 関連項目 ==
* [[名探偵]]
{{シャーロック・ホームズシリーズ}}
{{推理小説}}
{{森川智之}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:わとすん しよん}}
[[Category:シャーロック・ホームズ登場人物]]
[[Category:架空の医師]]
[[Category:架空の著作家]] | 2003-03-07T08:46:06Z | 2023-10-22T10:28:12Z | false | false | false | [
"Template:推理小説",
"Template:Infobox character",
"Template:En",
"Template:Cite web",
"Template:Cite book",
"Template:シャーロック・ホームズシリーズ",
"Template:Normdaten",
"Template:Pathnav",
"Template:出典の明記",
"Template:Portal",
"Template:要出典",
"Template:仮リンク"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BBH%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%B3 |
3,597 | 推理小説 | 推理小説(すいりしょうせつ)は、小説のジャンルのひとつ。主として殺人・盗難・誘拐・詐欺等なんらかの事件・犯罪の発生と、その合理的な解決へ向けての経過を描くもの。小説以外にも漫画やアニメ、映画やドラマ、ゲームなどさまざまなメディアに展開されるミステリーというジャンルの元になった。
「推理小説」という名称は木々高太郎が雄鶏社にて科学小説を含む広義のミステリ叢書を監修した際、江戸川乱歩や水谷準に提案されて命名したものと伝えられる。このほか探偵小説(たんていしょうせつ)、ミステリー小説(ミステリーしょうせつ)、サスペンス小説(サスペンスしょうせつ)という呼び名もあるが、前者の名称は「偵」の字が当用漢字制限を受けたためにあまり用いられなくなった。犯罪小説と重なる部分もあるが、完全に同義という訳ではない。
世界初の推理小説は、一般的にはエドガー・アラン・ポーの短編小説『モルグ街の殺人』(1841年)であるといわれる。しかしチャールズ・ディケンズもポーに先立ち、同年1月から連載を開始した半推理・半犯罪小説の『バーナビー・ラッジ』(1841年)を書いている他、100年ほど前に書かれたヴォルテールの『ザディグ』(1747年)の一編「王妃の犬と国王の馬」も推理に重きが置かれている。さらには『カンタベリー物語』、『デカメロン』、聖書外典『ダニエル書補遺』の「ベルと竜」などにも推理小説のような話が収録されており、どこに端を発するかという議論は尽きない。
ただ、確実に言えるのは、1830年代のイギリスに警察制度が整い、犯罪に対する新しい感覚が生まれたということである。この頃一世を風靡した『ニューゲイト小説』(英語版)は、ニューゲート監獄の発行した犯罪の記録『ニューゲート・カレンダー』を元に書かれた犯罪小説であり、後の近代推理小説が生まれる基盤を作ったと言える。
権利と義務の体系が整い、司法制度や基本的人権がある程度確立した社会であることも、推理小説に欠かせない要素であろう。
推理小説というジャンルにとって警察組織の存在は大きい。法を手に犯罪者を捕らえる新しい形のヒーローが誕生したからである。その裏側には、急速に都市化が進むイギリスで、一般市民が都市の暗黒部に対し抱く不安が高まっていた、という歴史的事実がある。そして都市化に伴うストレスのはけ口として、「殺人事件」という素材の非日常性が必要とされていたという見方もある。
推理小説が誕生した後、様々なアイデアが生み出されてきた。そして下記に挙げられるようなミステリにおける「基礎・応用などの土台」が作られたのである。また、科学・医学が進歩するにつれて、それらの知識を用いたトリックなどが次々と考え出された。
また、ミステリの手法は小説にとどまらず、映画・ドラマ・舞台・漫画・ゲームなど多様なメディアに波及してきた。
『モルグ街の殺人』以前にも推理要素を含む文学は存在していた。
『旧約聖書』「列王記略上」第3章にはソロモン王が裁判で名判決を下す話があり、聖書外典『ダニエル書補遺』にも「スザナの物語」「ベルと竜」のようなミステリ仕立ての説話が含まれている。
ウェルギリウスの『アエネーイス』には、ギリシャ神話の英雄ソクラテスが、盗賊カークスに盗まれた牛を、偽の手がかりを回避しながら見事に探し出す挿話がある。
また、『カンタベリー物語』、『デカメロン』、ヘロドトスの『歴史』などにも推理小説のような話がある。
最古の例の探偵小説:『千夜一夜物語』の「3つの林檎の物語」 (The Three Apples) である。
ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』(1605年)には、債権者と債務者の言い分のどちらが正しいかサンチョ・パンサが裁判長として名判決を下すエピソードがある。
ヴォルテールの『ザディグ』(1747年)の一編「王妃の犬と国王の馬」も推理に重きが置かれている。ボーマルシェ『セヴィリアの理髪師』(1775年)には、謎解き推理小説の要素が含まれる。
ヴィドックの『回想録』(1823年)はポーのデュパン探偵ものに影響を与えた。大デュマ『ポール船長』(1838年)は冒険ミステリの色彩が強く、のちのドイルの一連の海洋奇談ものにも通じる。
1841年、アメリカのエドガー・アラン・ポーが発表した短編『モルグ街の殺人』が推理小説の始まりだとされる。チャールズ・ディケンズの『バーナビー・ラッジ』も純粋な推理小説ではないが、作中にミステリー要素がある。未完に終わったディケンズ晩年の『エドウィン・ドルードの謎』は、のちに多くの作家が「解決編」の作成を試みている。
1866年、エミール・ガボリオは仏訳されたポーの作品群に影響を受け、世界最初の長編推理小説『ルルージュ事件』を発表。
イギリスではウィルキー・コリンズが、1860年にスリラーの大長編『白衣(びゃくえ)の女』、1862年には謎をテーマにし、ミステリに近い長編『無名(ノーネイム)』を出版した。そして1868年に、「英語で書かれた初の長編推理小説」といわれる『月長石(月神の宝石)』 を発表している。
1878年、アンナ・キャサリン・グリーンは、処女長編『リーヴェンワース事件』を出版、世界で初めて長編推理小説を書いた女性と言われている。また、ヴァイオレット・ストレンジというフィクションにおける「世界初の女探偵」(世界初の女刑事はバロネス・オルツィ(オルツィ女男爵)が創造したレディ・モリー)が活躍する短編集でも知られる。
1882年、リチャード・ストックトンは、『女か虎か』を発表し反響を呼ぶ。物語中に謎が提示され、解決は読者に委ねるというリドル・ストーリーの典型として有名である。他の作品に「三日月刀の促進士」などがある。
ガストン・ルルーの『黄色い部屋の秘密』は、フランスの挿絵入り新聞『イリュストラシオン』で連載され、密室ものの古典とされる。続編として『黒衣夫人の香り』が存在する。
ファーガス・ヒュームには質屋のジプシー女性をシリーズ・キャラクターにした『質屋のヘイガー』 (Gypsy Detective Hagar Stanley) の一連の作品群がある。ほかには、章ごとに主役や視点が変わる長編『二輪馬車の秘密』は当時の英国でベストセラーを記録した。ケネス・ウィップルは様々な雑誌に作品を発表した短編メインの作家だが、長編『鍾乳洞殺人事件』では変わり者のアーシー博士が、担当の警部を無視して勝手に捜査を進めてしまう内容で、横溝正史の金田一耕助シリーズに影響を与えている。また『ルーン・レイクの惨劇』では事件発生後ではなく、探偵や関係者(読者も)の目前で殺人が描かれる 趣向を見せた。
キャロライン・ウェルズは処女長編『手がかり』を皮切りに、フレミング・ストーンという「シリーズものキャラクター探偵」が登場する長編ミステリを70作も出版し、「同一作家による長編への最多登場の探偵」となった。
(法廷ものではE・S・ガードナーのペリー・メイスン弁護士が82長編で最多。ノンシリーズも含めるとジョン・ロードが140長編を超す。14のシリーズ探偵を持つジョン・クリーシー(別名 J・J・マリック John Creasey )は、「トフ氏」シリーズ58長編、「ギデオン警視」シリーズ21長編をはじめ総計562長編。)
また、ジョン・ラッセル・コリエルは、ニコラス・カーター名義で1886年に「探偵ニック・カーター」が登場する作品を、ニューヨーク・ウィークリー誌で発表。その後、多くの作家がニコラス・カーターのハウスネームでシリーズを書き続けた。100年以上続く探偵ニックものは、その大半が長編である。
同様に、英国でも1893年にハリー・ブリスが探偵「セクストン・ブレイク」の冒険を描く『失踪した百万長者』を発表。ブレイクものは異なった作者により、複数の名義で70年以上書き続けられたが、こちらはニックものとは対照的に短編がほとんどである(アプルビー警部を創作したマイケル・イネスが書いた短編もある)。
1879年、アーサー・コナン・ドイルが、処女作の短編『ササッサ谷の怪』をチェンバーズ・ジャーナル誌10月号で発表。これはホームズものではなかった。1887年には「名探偵」の代表とも言えるシャーロック・ホームズの長編第1作『緋色の研究』を、ワードロック社のピートン誌クリスマス号にて発表。ホームズものは、1927年の短編『ショスコム荘』まで書き続けられた。
ホームズもの作品は長編より短編が圧倒的に多く、同時代には、アーサー・モリスン、アーネスト・ブラマ、ジャック・フットレル、メルヴィル・デイヴィスン・ポースト、オーガスト・ダーレス、ギルバート・キース・チェスタトンなどが独自のキャラクター探偵の活躍する短編を発表し、彼らの創造した探偵は「ホームズのライヴァルたち」とも呼ばれることがある。
一方、フランスのモーリス・ルブランが1905年、短編『アルセーヌ・ルパンの逮捕』で探偵とは逆の立場に属する主人公である「怪盗もの」の執筆をはじめ、30年にわたって怪盗ルパンは長短編に登場することとなった。
そしてパトリシア・ハイスミスは、名探偵ではなく「犯人」をシリーズ・キャラクターに起用し、完全犯罪をたくらむ殺人犯リプリー青年が毎回主人公の『太陽がいっぱい』からはじまる長編5作を発表し、映画化もされている。
また、『キングコング』で知られるエドガー・ウォーレスは、『正義の四人』を筆頭に、探偵・刑事と殺人者・悪漢の両陣営で十指に余るシリーズ・キャラクターを創造した。
犯人の側から犯罪を描写する「倒叙」ものは、オースティン・フリーマンの短編集『歌う白骨』が有名だが、毎話ごとに当然ながら犯人が変わっており(探偵は毎回同じソーンダイク博士。また殺人犯が逃亡したり、未遂に終わる、被害者側が許すなど、犯人が罰せられない作品もあるのが本作品集の特徴。)、フリーマン・ウィルス・クロフツの短編集『殺人者はへまをする』および『クロイドン発12時30分』やロイ・ヴィカーズの「迷宮課」シリーズを経て、現代のレビンソンとリンク共作の『刑事コロンボ』に至るミステリの定番ジャンルのひとつになっている。
「被害者」を主人公に起用したミステリとしては、グラント・アレンの『アフリカの百万長者』が挙げられる。
変り種では、いくつもの筆名でシリアスとコミカルの作風を使い分けるドナルド・E・ウェストレイクが『殺人はお好き?』で、「容疑者」を主人公に、事件担当の刑事が抱える別の難事件を次々に解決していく趣向の連作集を発表している。
「語り手(記述者)」が主人公になっている作品としては、ロード・ダンセイニ(ダンセイニ卿)の短編集『スミザーズの話』 が挙げられる。ウィルキー・コリンズの長編および中短編では、章や巻ごとに語り手が交代する作品が多い。
「読者」を主人公にする趣向は、フレドリック・ブラウンが連作短編集『真っ白な嘘』で試みている。
「作者」を文体などから読者に当てさせる趣旨のアンソロジーは、エラリー・クイーン編「読者への挑戦」やアイザック・アシモフ編「新・読者への挑戦」がある。
短編中心だった推理小説の世界は、1913年にE・C・ベントリーが、長編『トレント最後の事件』でミステリに恋愛要素を盛り込んだ趣向の作品を発表すると、多くの作家により長編推理小説の名作が次々と発表され、のちに「黄金時代」と呼ばれる長編全盛期を迎えた。
アール・デア・ビガーズは1925年に長編『鍵のない家』を発表。中国人探偵チャーリー・チャンは、ケイ・ルークの当たり役となった数十本の映画や、新聞の連続漫画にも登場する人気を獲得した。「ノックスの十戒」で有名なロナルド・ノックスは、保険会社の事件調査員という珍しい設定のマイルズ・ブリードンを探偵役に起用した。
アガサ・クリスティの『オリエント急行の殺人』における旅客列車の車両内、『そして誰もいなくなった』の孤島、『雲をつかむ死』の旅客機といった「クローズド・サークル(閉ざされた空間)もの」、ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』の「見立て殺人」、エラリー・クイーンの『Xの悲劇』から始まる「ダイイング・メッセージ(死に際の伝言)」、ディクスン・カーが得意とする『三つの棺』に代表される「密室もの」および、『深夜の密使』から書き始められた一連の、過去を舞台にした「歴史ミステリ」など様々なジャンルの長編推理小説が発表され、「本格」「フーダニット(犯人当て)」「パズラー」等と称される傑作群が続いた。
ヴァン・ダイン、カー、クイーンにはラジオ・ドラマ脚本も多く、日本でも20世紀末までFEN(米軍放送ラジオ)の平日番組『Radio Mystery Theater』(E・G・マーシャル)で過去の放送が聴取できた(カーの『B13号船室』は特に有名で複数の出版社から英語の学習教材としても出版された)。
カーの『髑髏城』は、本格ものでは珍しくドイツを舞台にした長編である。ジョルジオ・シェルバネンコ (Giorgio Scerbanenco )の長編『傷ついた女神』はイタリアが舞台になっている。ヤーン・エクストレムは「スウェーデンのカー」とも呼ばれ、『誕生パーティの17人』『うなぎの罠』ほか密室殺人を扱った作品が多い。クロフツの『フローテ公園の殺人』は、南アフリカでの事件を扱っている。トマス・S・ストリブリングのイタリア系心理学者・ポジオリ教授ものは、キュラソー、ハイチ、 ヴァージン諸島などカリブ海諸国を歴訪し、事件に遭遇する(読者でも気付くトリックに教授が最後まで解らなかったり、殺人者が逃亡してしまったりするなど、教授の敗北に終わる中編が複数ある)。
クリスティには『うぐいす荘(ナイチンゲール荘)』のようなスリラー作品もある。彼女の「パーカー・パイン」の初期短編は、コンゲームものの古典ともいわれる。イーデン・フィルポッツはクリスティの隣家に住んでおり、種々の助言をしたという。フィルポッツは58歳で推理小説を書き始め、98歳の『老将の回想』(There Was an Old Man )まで推理長編 を執筆し続けた。ドロシー・セイヤーズにも『疑惑』というホラー短編がある。
フィルポッツとは対照的なのがジェイムズ・ヤッフェで、15歳の時に短編『不可能犯罪課』を発表し、3年後の『喜歌劇殺人事件』まで連作短編6作品を書いた。長編は「メサグランテのママ」シリーズがある。ティモシー・フラーも、ハーバード大学在学中に21歳で『ハーバード大学殺人事件』で作家デビュー。探偵役ジュピター・ジョーンズが、主に同大学やその同窓会で起きた事件を解決するシリーズになっている。女性二人の合同ペンネームであるロジャー・スカーレットはミステリ作家としての活動期間が短く寡作ながら、江戸川乱歩が高く評価し『エンジェル家の殺人』を『三角館の恐怖』に翻案している。
ルーパート・ペニー(Rupert Penny )は『おしゃべりな警官」から始まるビール主任警部もの8長編に、クイーンを思わせるような「読者への挑戦状」を挿入した。 「オベリスト三部作」のチャールズ・デイリー・キング(Charles Daly King )は『海のオベリスト』で「探偵役が登場人物のうち誰か判らない」、『空のオベリスト』で「シリーズ探偵が事件解決に失敗する」という工夫を見せているほか、長編の巻末に「手がかり索引」を置き事件を振り返ることができる。ブライアン・フリン(Brian Flynn )は「英国のファイロ・ヴァンス」とも呼ばれるアンソニー・バサーストを探偵役に50冊を超す長編を発表した。邦訳は『角のあるライオン』(1933年)しか訳されていないが、本国では現在もペーパーバックが売られている。
黄金時代からその少し後に登場したトリッキーな作家群を、江戸川乱歩は「新本格派」と命名している。
ベルギーのスタニスラス=アンドレ・ステーマン、アイルランドのニコラス・ブレイク、英国のクリスチアナ・ブランド、リチャード・ハル、アントニイ・バークリー、エドマンド・クリスピン、エリザベス・フェラーズ(Elizabeth・X・Ferrars )、レオ・ブルースらが、独自の作風で創意工夫に満ちた異色作を発表した。
「本格」に対して、「変格」といわれる作品の一つが、パトリシア・マガーの『被害者を捜せ!』『探偵を捜せ!』等の、犯人はわかっていて被害者・探偵・目撃者などを推理させるといった、推理小説の枠にとどまらないユニークな形式(変格推理)の長編作品である。マガーは女スパイを主人公にした「セレナ・ミード」ものも著名で映画にもなっている。スパイものでは「ジェームズ・ボンド」シリーズのイアン・フレミングが有名だが、他にエリック・アンブラーの『ディミトリオスの棺』やフレデリック・フォーサイスによる『ジャッカルの日』、グレアム・グリーン『ハバナの男』、ほか多数の日本語訳がある。
さらに、トリックや謎解きよりも主人公や登場人物の心理描写に重点を置く「サスペンス」の作品をアメリカのコーネル・ウールリッチが多数発表。代表作がウィリアム・アイリッシュ名義の長編『幻の女』で、冒頭の書き出しも有名である。短編『裏窓』は映画の原作に採用された。アレックス・ゴードンの『アラベスク』も映画化されている。
英国では、パトリック・クェンティン(のちアメリカに渡る)のウェッブ主導の初期作品は本格色が強かったが、コンビのうちホイーラー中心の後期はサスペンス色が濃くなった。ルース・レンデルも「ウェクスフォード警部」シリーズの本格推理と、バーバラ・ヴァイン名義でのサスペンスの両系統で傑作群 を発表した。 フランスではボワロー=ナルスジャック(『死者の中から(めまい)』)やカトリーヌ・アルレー(『わらの女』)、セバスチアン・ジャプリゾ(『雨の訪問者』)などが「サスペンス」ものを多く発表している。
ジョセフィン・テイは女性の心理描写に長けた作家だが、『時の娘』において舞台は現代ながら探偵役が病院のベッドの上で、文献のみから歴史上の事件を解決する手法を採っている。彼女と混同されがちな『病院殺人事件』など、医療ミステリのジョセフィン・ベル(Josephine Bell )は、イギリス推理作家協会(CCA)の創立当初からのメンバーであり、会長職も務めた。アンドリュウ・ガーヴ(Andrew Garve )は謎解き・冒険・警察ものと多彩な作風を使い分けるが、『ヒルダよ眠れ』からはサスペンス基調の作品が多くなった。
のちに児童文学の大家となるアレキサンダー・ミルンは『くまのプーさん』の前に、『赤い館の秘密』ほか数点のミステリを発表している。 ジェームズ・ヒルトンも『チップス先生さようなら』の前に『学校の殺人』を書いている。SFの巨匠アイザック・アシモフには『黒後家蜘蛛の会』シリーズがある。『宝島』のロバート・スティーヴンソンもミステリ要素の多い『新アラビア夜話』(「自殺クラブ」)を書いている。
ヴォードヴィル劇作家のパーシヴァル・ワイルドは、『検屍裁判』をはじめとするリーガル推理長編や、トランプいかさま師パームリーが主人公のカードミステリ『悪党どものお楽しみ』などでも知られる。チェコ語の翻訳者であるエリス・ピーターズは、イーディス・パージターの本名で歴史小説を書く一方、「修道士カドフェルシリーズ」などの歴史ミステリも執筆した。フランス社会小説の大家クロード・アヴリーヌにも、『U路線の定期乗客』ほか数点のミステリ長編がある。
1928年、ダシール・ハメットが名無しの探偵コンティネンタル・オプの最初の長編『デイン家の呪い』とそれに続き『赤い収穫』を発表。従来の推理小説とは一線を画す「酒、暴力、アクション、恋愛」といった要素の多い「ハードボイルド」と呼ばれる、主としてアメリカの大都会を舞台にした私立探偵ものの嚆矢とされる。ハメットは1930年、もう一人『マルタの鷹』で初登場するサム・スペードも創造した。オプとスペードに続く第3のキャラクター、おしどり探偵ニックとノラの活躍を描く『影なき男』も好評で、映画でシリーズ化された。
ジョン・ダン・マクドナルドの長編は、『濃紺のさよなら』から題名に色の名前がつけられ、シリーズ・キャラクターのトラヴィス・マッギーは、さまざまな作家に影響を与えた。ノンシリーズ作品『恐怖の岬』はグレゴリー・ペックとロバート・ミッチャム、マーティン・バルサムの共演で映画化された。
『ブラック・マスク』などのパルプマガジン(大衆向け読本雑誌)で活躍した作家にはフランク・グルーバー(Frank Gruber)がいる。「人間百科事典」ことオリヴァー・クエイドと『フランス鍵の秘密』から登場のフレッチャー&クラッグは、都会を舞台としつつもプロの私立探偵ではなく、どちらも「巻き込まれ型」の素人探偵である(百科事典売りとボディビルの香具師コンビ)。
ハードボイルドものの都会的なセンスおよびスリリングな展開と、本格ものの論理的な謎解きを併せ持つ『屠所の羊』のA・A・フェアや『ネロ・ウルフ対FBI』のレックス・スタウト、『処刑6日前』のジョナサン・ラティマー、『シカゴ・ブルース』のフレドリック・ブラウンらの作品群を「ソフトボイルド」と呼ぶ場合もある。
『大いなる眠り』や『長いお別れ』の レイモンド・チャンドラーは、「主流文学(純文学)の中にミステリーを取り入れた」と評され、ロス・マクドナルドは、『動く標的』などに見られる複雑なプロットと、登場人物に関する心理学的な洞察が特徴で、「ハードボイルドと本格の融合」と称される場合がある。
マクドナルド(本名:ケネス・ミラー)の妻であるマーガレット・ミラーは、プライ博士とサンズ警部もの長編『見えない虫』『鉄の門』ほかで夫より先に作家として成功を収めており、『これよりさき怪物領域』など心理スリラーの第一人者として活躍。晩年のアラゴン弁護士ものでは、ハードボイルドやサスペンスにユーモアの要素を加えて以前よりマイルドな作風に転じた。
カーター・ブラウンには、ハードボイルドでは珍しい女性の都会探偵を主人公にした、メイヴィス・セドリッツもの『乾杯、女探偵!』『女ボディガード』がある。
エド・マクベインは、架空の街アイソラを舞台にの警官たちの活躍を描いた「87分署シリーズ」で、警察小説と呼ばれる新たなジャンルを確立した。かたや「ホープ弁護士シリーズ」は題名が『白雪と赤バラ』『長靴をはいた猫』など童話に因む作品になっている。他にカート・キャノン名義での同名キャラ登場の「酔いどれ探偵シリーズ」、エヴァン・ハンター名義の『暴力教室』『逢う時はいつも他人』などの作品群は映画化された。、
警察小説では、ヒラリー・ウォー、ジョルジュ・シムノン、コリン・デクスターなどの作品が名高い。
また、ディック・フランシスは障害騎手として活躍した経験を生かし、処女長編『本命』をはじめ、競馬界をめぐる事件を発表し続けた。そして法曹界出身のシリル・ヘアー(Cyril Hare )は、「法律ミステリ」「リーガル本格」とも呼ばれる『法の悲劇』などが知られる。他に経済・化学・会計などのテーマに特化したミステリを書く作家も現われた。
ジョン・L・ブリーンは、ヴァン・ダインの文体を真似た『サークル殺人事件』、ディクスン・カーが書きそうな不可能犯罪『甲高い囁きの館』など、多くの推理作家の巨匠パロディ・パスティーシュを発表した。
アンソニー・ホロヴィッツとジョン・エドマンド・ガードナーは、ホームズの宿敵モリアーティー教授の後日談、およびフレミング財団公認のジェームズ・ボンドシリーズをそれぞれ独自の内容で発表している。
ロバート・ロイド・フィッシュは『シュロック・ホームズの冒険』などのホームズ・パロディの短編集を書く一方、『亡命者』のようなシリアスなサスペンス長編もある。短編の名手エドワード・デンティンジャー・ホックには『第二のまだらの紐』など12短編のホームズ・パスティーシュがあるほか、怪盗ニックやホーソーン医師ら自身のキャラクターとホームズを共演させた。
女流作家の ジョイス・ポーターは、ドーヴァー警部とホンコンおばさんの三枚目キャラクターが、作中でドタバタを繰り広げるユーモア推理作品で人気を博した。
同じく女流のクレイグ・ライスも、自身とその家族をモデルにしたと言われる『スイート・ホーム殺人事件』(1944年)や『時計は三時に止まる』(1939年)にはじまるマローン弁護士ものといったユーモア長編を多く発表した。
ウィリアム・ブリテンの『エラリー・クイーンを読んだ男』など「読んだ男」(The Man who Read...)シリーズは、原作の雰囲気をよく捉えた作品群である。ほかに教師探偵「ストラング先生」ものがある。
『チョコレート工場の秘密」『チキ・チキ・バン・バン』などでも知られるロアルド・ダールは、賭けに取りつかれた人間心理の短編集『あなたに似た人』で、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞の短編賞を受賞。特に『南から来た男』や『おとなしい凶器」は複数回ドラマ化されている。
ロバート・トゥーイ(Robert Twohy )は『さよなら、フランシー』で男女双方の姿を使い分けて生活し、知人隣人に性別を微塵も疑われない作家の完全犯罪を描き、TVシリーズ「ヒッチコック・サスペンス」にも原作を提供した。女装作家フランシス・スコットものはシリアスだが、トゥーイのもう一人の主人公ジャック・モアマンものは死体を埋めたと警察に誤認させ自宅の畑を開墾させるなどのユーモア短編。短編集『物しか書けなかった物書き』には殺人(粛清)シーンなしで犯罪組織の非情さを綴る「探偵の出て来ないハードボイルド」ものがある等と作風の幅が広い。
ジャック・リッチーは軽妙な文体が特徴で、主人公には夜しか活動できないモンスター探偵カーデュラと、周囲を刮目させる名推理を披露しながら最後に真犯人を間違えてしまう迷刑事ターンバックルの二人がいる。ヘンリー・スレッサーやシオドア・スタージョンなどもクライム・ストーリーを多作し、ロッド・サーリングの『トワイライトゾーン』などでテレビ映像化されている。
サラ・パレツキーは高学歴で元弁護士の女性探偵V(ヴィクトリア)・I・ウォーショースキーが活躍する『サマータイム・ブルース』でデビュー。キャスリーン・ターナー主演で映画化(邦題「私がウォシャウスキー」)。スー・グラフトンは才女ウォーショースキーとは対照的な、「平凡で普通の女性」を探偵役に起用した。『アリバイのA』の主人公キンジー・ミルホーンのシリーズは「作者・探偵・読者」すべて女性である(男性読者もいるが、作風が女性読者向けということで)「3Fミステリー」 との新語も生んだ。『荊の城』のサラ・ウォーターズは、レズビアンのキャラクターを作品に多く登場させている。パトリシア・モイーズ(Patricia Moyes )のシリーズ探偵は男性のヘンリー・ティベット警部だが、明るく聡明な妻のエミーも捜査に協力して、夫婦で事件を解決していく作品が多い。
2000年代以降にはタフな女性の私立探偵や犯罪者を描く作品に対してタルト・ノワールというジャンル名が提唱されている。現代本格の作家だが、ジル・チャーチルは1930年代のアメリカ田舎を舞台として、良家子女くずれのリリーと兄ロバートが事件を推理するシリーズがあり、タイトルがジャズのスタンダードナンバー(『風の向くまま』Anything Goes など)になっている。他に現代アメリカ北部が舞台の主婦探偵ジェーンものがあるが、こちらは『飛ぶのがフライ』( Fear of Frying )といった具合で小説タイトルのもじり(エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』 Fear of Flying)である。
ジョン・ボールは黒人エリート警官ヴァージル・ティッブスを主人公とする長編『夜の熱気の中で』を発表し、人種の壁を乗り越えて相手に尊敬される主人公が人気となった。チェスター・ハイムズの書いた「墓掘りジョーンズと棺桶エド」の黒人コンビが登場する『イマベルへの愛』はフランスで話題になったが、生国のアメリカでは不評だったという。
その後、女性や黒人の探偵も続いて登場し、珍しくなくなったミステリの世界で、作者たちは、猫(リリアン・ブラウンの『シャム猫ココ』)やねずみ、未来人(ロバート・アーサーの『時間旅行者』)、歴史上の偉人(セオドア・マシスンの『名探偵群像』)、魚やイルカ、機械やロボット、この世の人間ではない人(ハーリ・クイン氏)など、様々な探偵を創造し続けた。
イーヴ・タイタスのねずみの国の「探偵ベイジル」もの、ウィリアム・C・アンダースン(William Charles Anderson ) の人語を話すイルカ「ペネロッピー」シリーズ、ピエール・アンリ・カミの『クリク・ロボット』、魔法使いが主役のランドル・ギャレットの『魔術師を探せ』などは、我が国でも紹介された。ポール・アルテのツイスト博士は、百年経過しても年をとらない 不思議な名探偵である。
ジャン・マイケルズ『死のリフレイン』、ジョゼフィン・ケインズ『ステージの悪魔』やビル・S・バリンジャー (Bill Sanborn Ballinger ) 『歯と爪』は解決編を袋綴じにして販売。トマス・チャステイン、ビル・アドラー『誰がロビンズ一家を殺したか?』と続編『ロビンズ一家の復讐』は、懸賞を付けて読者から犯人の回答を募集した。スタンリイ・エリンは長編『鏡よ、鏡』を返金保証つきで出版した。
また、デニス・ホイートリー (Dennis Wheatley )は『マイアミ沖殺人事件』、『誰がロバート・プレンティスを殺したか』、『マリンゼー島連続殺人事件』で、マッチや新聞記事の切れ端など、証拠品の複製を単行本 に添付して発行した。
ピエール・バイヤール (Pierre Bayard )は『アクロイドを殺したのはだれか』、『シャーロック・ホームズの誤謬』などで、クリスティの初期作品やドイルの長編で「探偵が作中で指摘した犯人は無罪。真犯人は別にいた。」という内容の評論・改作を続けて発表している。
エイドリアン・コナン・ドイルはディクスン・カーと共作で、ホームズの語られざる作品集 『シャーロック・ホームズの功績』を出版。また、21世紀に入り、カーの孫娘シェリー・ディクスン・カーが『ザ・リッパー 切り裂きジャックの秘密』を発表しミステリ界にデビューしている。
マクドネル・ボドキン(Matthias McDonnell Bodkin )は、私立探偵ポール・ベック、 女探偵ドラ・マールの二大シリーズを持っていたが、彼らを結婚させ二人の息子であるベック2世の作品も創造し、二世代の共演も実現させた。また、ジョン・ピールは1992年からジョン・ヴィンセント(John Vincent )名義で『踊るのは我らだ』(Live And Let's Dance ) などジェームズ・ボンド・ジュニアのシリーズを書き続けている。
ロシアではアントン・チェーホフが、1884年に長編推理小説『狩場の悲劇』を発表。父親がロシア系ユダヤ人の英国作家イズレイル・ザングウィルは、1892年の『ビッグ・ボウの殺人』連載中に、読者から解決(真相)の予想を募集した。ロシア国内では未発表のジャンルとされている。
ハンガリーのアラド(現在はルーマニアのArad郡都)生まれのバルドゥイン・グロラー (Balduin Groller )は、オーストリア=ハンガリー帝国ハプスブルク朝末期を舞台に「探偵ダゴベルト」もの短編を発表している。
チェコの作家ヨゼフ・シュクヴォレツキー (Josef Škvorecký )には『ノックス師に捧げる10の犯罪』(Hříchy pro pátera Knoxe)という、「犯人は、物語の当初に登場していなければならない」「探偵自身が犯人であってはならない」など「ノックスの十戒」に違反した連作集がある。
トルコのイスタンブールで生まれたアキフ・ピリンチ(Akif Pirinçci)は、トルコ人の若者を主人公にした恋愛小説でデビューしたが、『猫たちの聖夜』(Felidae)でミステリ分野にも参入。『ザ・ドア 交差する世界』は映画化もされた。
アルゼンチンでは戦前から、探偵小説がかなり書かれており、1940年代には、アメリカのミステリ雑誌『Ellery Queen's Mystery Magazine』に投稿がみられる。第3回短編ミステリ・コンテストにはホルヘ・ルイス・ボルヘス ( Jorge Luis Borges、1899-1986)の「迷路の花園」が入選した。ボルヘスの推理小説およびミステリ風小説は、「死とコンパス」(1942)、「裏切り者と英雄のテーマ」(1944) 、 「エンマ・ツンツ」(1949) などがある。 1942年、服役中のドン・イシドロ・パロディという究極の安楽椅子探偵もの連作『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件 』(Seis problemas para don Isidro Parodi )が 刊行され、オノリオ・ブストス・ドメックと名乗る作者は謎だったが、ボルヘスとアドルフォ・ビオイ・カサレス( Adolfo Bioy Casares )の合作だと後に判明した。他に、パブロ・デ・サンティスの世界の名探偵12名が事件の解明を競い合う『世界名探偵倶楽部』(El enigma de París)や、ギジェルモ・マルティネスの映画化された『見えざる犯罪』(Crímenes imperceptibles)は日本でも翻訳されている。
ウルグアイではチャンドラー作品の続編を書いたイベア・コンテリース(Hiber Conteris )の『マーロウ もう一つの事件』、コロンビアの ホルヘ・フランコ (Jorge Franco )の『ロサリオの鋏』など が、本国のほか英訳されて刊行されている。ブラジルのJ・ソアレス(Jô Soares )には、『シャーロック・ホームズ リオ連続殺人事件』(O Xangô de Baker Street )というホームズものパロディがある。
オーストラリアのアーサー・アップフィールド(Arthur Upfield )は、『バラキー牧場の謎』(1929)そして『ボニーと砂に消えた男』(1931)にはじまる、先住民アボリジニとの混血であるボナパルト警部が、豪州の大自然を舞台に活躍する作品群を量産した。また、S・H・コーティア(Sidney Hobson Courtier )は、『謀殺の火』(1967)など、アボリジニの神話や風俗を主題にした作品を発表している。
中国では、事件の調書や裁判記録など、公的機関が発行した文書のことを公案と呼んでいたが、宋代から元代にかけて、公案を題材にした話芸や戯曲が人気を呼び、明代にはこれをもとにした公案小説というジャンルが流行している。特に、宋代に実在した政治家の包拯が、様々な講談、戯曲、公案小説において裁判や捜査で事件の真相を明らかにする主人公として登場しており、今日でもテレビドラマなどに翻案されている。
中国では、1885年に発表された知非子(ちひし)『冤獄縁』(えんごくえん)が初の創作探偵小説だとされている。長編では1890年に、作者不明の『狄公案』(てきこうあん) が刊行されている
近代中国で推理小説の嚆矢となった作家は、 程小青が挙げられる。1914年、上海の新聞で短編『灯光人影(とうこうじんえい)』を発表。探偵役の霍桑 (かくそう/フオサン)はホームズ型の天才探偵で、ワトスン役は包朗(ほうろう/バオラン)。霍桑の探偵談はシリーズ化され30年以上続いた。
朝鮮では、李海朝(イ・ヘジョ、1869 - 1927)が1908年に発表した『双玉笛』(そう ぎょくてき)が初の創作探偵小説とされている。大韓帝国末期の1909年旧暦5月29日、平壌近郊の平安南道で生まれた 金来成は、早稲田大学在学中の1935年に日本の探偵小説専門誌『ぷろふいる』でデビューし、のちに朝鮮半島で探偵作家として活躍した。韓国推理小説の創始者とされる。1939年に発表した『魔人』は和訳が出版されている。
余心樂は、台湾月刊誌「推理雑誌」に作品を発表。林仏児推理小説賞の中編「生死線上」が和訳されている。
日本では明治以前から勧善懲悪をテーマとした歌舞伎や講談の演目が存在していた。例えば大岡政談などの政談ものは発生した事件を正しく裁く筋立てが法廷推理小説に等しく、鼠小僧や石川五右衛門を題材とした作品群は犯罪心理小説に通じるものがある。しかし、これらは奉行や犯罪者の物語であり、民間人が犯罪を解決する役回りにはならない(もし民間人が犯罪を解決しようとすると仇討ちや義賊という形になり、民間人ではなく情に厚い犯罪者になってしまう)。日本における探偵小説は、文明開化以降、探偵という概念が西洋から輸入されることで生まれた。
黒岩涙香が明治22年(1889年)に発表した『無惨』(別題『三筋の髪、探偵小説』)が、日本人初の創作推理小説と言われる。涙香は1896年にも『六人の死骸』と題する作品を執筆している。
1917年、岡本綺堂は、アーサー・コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」に影響を受け、「三河町の半七」を主人公にして『半七捕物帳』のシリーズを開始。探偵小説の要素を盛り込んだ時代劇である「捕物帳もの」のさきがけとなる。ほかに、野村胡堂の1931年からはじまる『銭形平次捕物控』シリーズは、後年、たびたび映画やテレビドラマ化されている。『旗本退屈男』の佐々木味津三には『むっつり右門」、城昌幸にも『若さま侍』の捕物帳がある。変わったところでは、鳴海丈がセクシー路線の『彦六捕物帖』『柳屋お藤捕物帳』などを書いている。
「捕物帳もの」と並ぶ日本ミステリのジャンルに「奉行もの(お白洲もの)」がある。実在の遠山景元が登場の『遠山の金さん』が一例。『伝七捕物帳』 の陣出達朗や『桃太郎侍』で知られる山手樹一郎など複数の作家が、『遠山の金さん』ものを執筆している。
他には、時代小説のイメージが強い山本周五郎だが、『寝ぼけ署長』という連作の探偵小説がある。『木枯し紋次郎』の笹沢左保も多くの捕物帳以外に、現代を舞台にしたミステリを発表した。
日本において探偵という職業を大衆に認知させ、探偵小説・推理小説の知名度を上げたうちの一人に、江戸川乱歩がいる。江戸川乱歩は大正・昭和期、推理小説の黎明期において明智小五郎や少年探偵団が活躍する一連のシリーズで名を挙げ、現在も江戸川乱歩賞にその名を残している。
1947年、江戸川乱歩が探偵作家クラブを設立した(このクラブは現在日本推理作家協会という形で残っている)。氷川瓏は、ポプラ社の乱歩作品の少年少女向けリライトや、涙香や海外作品など乱歩名義の翻案を手がけた。
1935年、日本の探偵小説における三大奇書と呼ばれるうちの二作(夢野久作の『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』)が出版された。1965年には、三大奇書の最後の一作・中井英夫の『虚無への供物』が出版された。時代や作風などに差があるものの、坂口安吾の『不連続殺人事件』や竹本健治の『匣の中の失楽』も三大奇書と絡めて語られることがある。
『支倉事件』の甲賀三郎、『わが女学生時代の罪』の木々高太郎、物理的・化学的トリックを多用した「帆村荘六」ものを書いた海野十三などの諸作品は今日でも再刷が続いている。久生十蘭には長編『魔都』『金狼』などがある。谷崎潤一郎のような文豪も『秘密』『白昼鬼語』などの推理作品を発表した。また、木々・海野は大下宇陀児と三人で、「風間光枝」という共通の探偵キャラクターを持ち競作を行なっている。
第二次世界大戦中は探偵小説が禁圧され出版できなかった。戦後はGHQの検閲により、復讐などの要素を含む時代劇が禁止された。横溝正史は当時、捕物帳をはじめとした時代小説を書いていたが、GHQの規制を受けて『本陣殺人事件』『獄門島』などの金田一耕助シリーズを執筆し、これが本格推理長編小説の再興に繋がったと言われる。
また、伝奇小説で知られた角田喜久雄は、長編『高木家の惨劇』で本格推理のジャンルに参入、伝奇ロマンとの二枚看板で人気を得た。クロフツに影響を受けた鮎川哲也はアリバイくずしを得意とし、『ペトロフ事件』『黒いトランク』など鬼貫警部を探偵役とする本格推理小説を発表。またアンソロジーの編纂にも力を尽くした。
高木彬光は神津恭介を探偵役とする『刺青殺人事件』他の本格ものを中心に『連合艦隊ついに勝つ』『邪馬台国の秘密』など歴史・SFとも融合したミステリ、『破戒裁判』などの法廷もの、『黄金の鍵』から始まる安楽椅子探偵ものと多岐にわたる作品群を発表した。都筑道夫は、長短編はもとより掌編(ショートショート)でも多くの作品を発表、また英米ミステリの紹介者としても功績を残す。
1957年には、仁木悦子が自身と同名ヒロインが登場する長編『猫は知っていた』でデビュー、「日本のクリスティー」と呼ばれた。また、夏樹静子はクイーンの悲劇四部作のオマージュともいえる『Wの悲劇』が話題となり、薬師丸ひろ子主演で映画化もされた。『花の棺』をはじめとするキャサリンシリーズの山村美紗も、京都を中心としたトラベル・ミステリ作品の多くがテレビドラマ化された。
SFや伝奇小説の分野でも多作で知られる栗本薫は、評論では「中島梓」名義を使い分け、エラリー・クイーンとバーナビー・ロスを思わせる中島梓と栗本薫の1人2役対談が、『平凡パンチ』誌上で企画された。推理小説の分野では、作者と同名だが男性の栗本薫が主人公の『ぼくらの時代』をはじめ、多くのシリーズとキャラクターを創造した。
トリッキーな連作『妻の女友達』『プワゾンの匂う女』や、倒錯ミステリの長編『ナルキッソスの鏡』が有名な小池真理子は、短編の名手としても知られる。
1960年代以降、推理小説は松本清張の『砂の器』などの作品群や黒岩重吾、西村寿行の「社会派」、西村京太郎の「トラベル・ミステリ」、森村誠一の「ビジネス・企業もの」「歴史ミステリ」、高橋克彦の「美術ミステリ」、山田正紀や小松左京、豊田有恒、筒井康隆らの「SFミステリ」、志茂田景樹の「恋愛ミステリ」、 館淳一や丸茂ジュンの「官能ミステリ」、 山藍紫姫子の『スタンレー・ホークの事件簿』に代表される「耽美ミステリ」など、様々なサブジャンルに分かれていった。
初期には『古墳殺人事件」など、本格ものでペダンティックな作品を書いていた島田一男は、のちに「事件もの」といわれる記者が活躍する小説に転じた。山田風太郎は「忍法帖シリーズ」が有名だが、青春探偵団が活躍する推理小説もあり漫画化された。お色気に満ちた風俗小説とシリアスな経済小説で作風を使い分ける梶山季之にも、『朝は死んでいた』、『知能犯』など推理作品がある。時代もの・SFと多分野で活躍した多岐川恭も、『濡れた心』をはじめ登場人物の心理描写に優れたミステリの傑作群がある。誘拐事件を扱った天藤真の『大誘拐』は、映画化されている。
そのほか、ハードボイルド(大藪春彦や生島治郎、片岡義男、小鷹信光)、将棋や奇術、音楽、法律、山岳、競馬など他の趣味・本業を生かしたミステリ(斎藤栄、泡坂妻夫、戸川昌子、佐賀潜、太田蘭三)、実在する文学者・文学作品(『芥川龍之介の推理』や『川端康成の遺書』などの土屋隆夫)、日常の謎(北村薫、若竹七海)などをテーマや作風とする作家も現れた。佐野洋は『推理日記』のタイトルで、40年にわたりミステリ評論を書き続けた。岡嶋二人は、日本では珍しいコンビによる作家(現在は解消)でデビューした。
80年代末から世紀末にかけ、1987年にデビューした綾辻行人を嚆矢とした、有栖川有栖・二階堂黎人・麻耶雄嵩・貫井徳郎・芦辺拓・深水黎一郎らの海外のクイーンやカーを再現したような「本格」というジャンルに特化した作家群が次々に出現。彼らは「新本格派」または「日本の新本格派」 とも呼ばれることがある。また、清涼院流水は、その独特の作風からミステリ界に論争を巻き起こした。大塚英志や舞城王太郎といった作家たちが、清涼院のJDCシリーズと同じ世界観を持つ作品を発表している。
南洋一郎はモーリス・ルブランの原作を、少年少女向けに改筆した『怪盗ルパン全集』全30巻 の訳者として知られる。第13巻『ピラミッドの秘密』のように、一部にルブラン作品を取り入れてはいるが、ほぼパスティーシュと認定されている作品もある。
70年代後半に各出版社がジュニア向け文庫を立ち上げると、山浦弘靖の『殺人切符はハート色』などトランプ絡みの題名が続く「星子ひとり旅シリーズ」は、コバルト文庫の看板シリーズとなった。
また、『仮題・中学殺人事件』にはじまる辻真先の、「読者」「作者」「編集者」など本来は犯人たりえない人物を扱うシリーズをラインナップに揃えたソノラマ文庫など、ジュヴナイルのミステリが多く刊行された。辻は卒寿(90歳)になっても、なお現役で推理長編(一般向け)を発表している。
学研や旺文社などの学年誌や受験誌に多く連載した小峰元は、ギリシャ哲学者を冠した『アルキメデスは手を汚さない』から始まる「青春ミステリー」で知られる。ラジオの深夜放送や大学受験など、当時の10代から20歳前後の若者の生活や悩みを作中に織り込んだ作風が特徴。最初期の短編集『幽霊列車』では本格要素がかなり強かった赤川次郎だが、角川映画との連携や『三毛猫ホームズ』シリーズのテレビドラマ化で人気が出たことから、若者向けのユーモア・ミステリ路線にシフトした。
『湯殿山麓呪い村』 の山村正夫は、古今東西のミステリをダイジェストにして、年少者やミステリ入門者向けに、クイズ形式とした『トリック・ゲーム』などを著した。また、各種会場での小説教室の指導者として、多数の人材を輩出している。
1992年には『金田一少年の事件簿』、1996年には『名探偵コナン』が好評を博し、推理漫画が一つのジャンルとして定着した。2002年に『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』でデビューした西尾維新は、文芸ものの新書「講談社ノベルス」から発行されているが、ライトノベルとして分類され、また自身もそのようにとらえる場合もある。『掟上今日子の備忘録』や『美少年探偵団 きみだけに光かがやく暗黒星』など多くの作品が漫画化・テレビドラマ化されている。西尾維新に限らず青春ミステリにおいてはライトノベルとの境界が非常に曖昧で、『赤朽葉家の伝説』で日本推理作家協会賞を受賞した桜庭一樹は元々ライトノベル作家であった。
2010年代以降は頭脳戦、デスゲーム、ギャンブルを描いた漫画のヒットにより、推理小説でも「特殊設定ミステリー」と呼ばれる特殊な条件下の作品が多く発表されるようになった。
前項の桜庭一樹は、自身の故郷である鳥取県を舞台にミステリを書いているが、他にも東京や首都圏以外の推理小説を書く作家もいる。山村美紗の『京都殺人案内』(京都)、東野圭吾の『浪花少年探偵団』(大阪)がその一例である。
内田康夫の『死者の木霊』からはじまる「信濃のコロンボ」シリーズは長野県 で起きた事件がメイン。森博嗣の『すべてがFになる』は愛知県 で探偵が活躍する。石沢英太郎のシリーズ探偵・牟田刑事官は福岡市など福岡県が主な舞台。
山本巧次は『大江戸科学捜査 八丁堀のおゆう』シリーズで、現代と文政年間の江戸を自在に行き来できる時空探偵を登場させた。
海外では海渡英祐が発表した『伯林(ベルリン)一八八八年』が、19世紀のドイツ(Deutsches Reich)を、結城昌治の『ゴメスの名はゴメス』は1960年代のベトナムを舞台にしている。
下記の分類は、互いに相反するものとは限らず、一つの作品が複数の項目に当てはまることがある。
アメリカ探偵作家クラブが主催するエドガー賞の長編賞では、ハードボイルド(『長いお別れ』など)、警察小説(『笑う警官』など)、医療ミステリー(『緊急の場合は』など)、スパイ小説(『寒い国から帰ってきたスパイ』)など推理要素のある様々なジャンルの小説が受賞している。
推理小説のなかではもっとも一般的でかつ古典的なジャンルである。事件の手がかりをすべてフェアな形で作品中で示し、それと同じ情報をもとに登場人物(広義の探偵)が真相を導き出す形のもの。第二次世界大戦前の日本では、「本格」以外のものは「変格」というジャンルに分類された。なお、本格という呼び方は日本独自のもので、欧米ではフーダニットやパズラーと称される(後述)。
密室殺人をはじめとした不可能犯罪を扱った作品の多くはこのジャンルに含まれる。
本格であるためには、解決の論理性だけではなく手がかりが全て示されること、地の文に虚偽を書かないことが要求される(わざと決定的な事実を明示せず曖昧に表現したり、登場人物の視点から登場人物自身の誤解を記述するのは問題がない)。たとえば、ある作品では列車に乗り合わせた子供の性別が問題になるが、題名にも地の文にも「男の子」「女の子」といった記述は一切なく、伏線として子供の振るまい(特定の玩具に興味を示す)が記述されている。作家はそれが伏線であることを隠蔽する努力も怠っていない。ただし、現代の視点では、エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』には若干アンフェアな記述がある他、アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』はフェアかアンフェアかについて、有識者の間で議論を醸した。現代でも本格ミステリの愛好家にとってはフェアかアンフェアが関心事であり、本格の体裁から外れる作品について論争がある。
「ハードボイルド」と言う言葉そのものは、非常に多面的な意味合いを持つ言葉なのだが、「推理小説」の一ジャンルとして使われる場合には、登場人物(主人公も含めて)の内面描写をあまり行わず、簡潔で客観的な描写を主体とした作品を指す。ダシール・ハメットの作品を嚆矢とする。特徴的なのは、それまでの「推理小説」の主人公は、自ら行動を起こすことはあまりなく、提供されるわずかな手がかりを元に、内面的な思索を深めて事件を解決する、まさに「推理」に重点を置く傾向が強かったのに対して、「ハードボイルド」の主人公は概ね行動的で、自ら率先して捜査を行い、その結果を積み上げて解決に至る傾向にある。これは、ハメット自身が探偵の経験があり、それを作品に生かしたからだと言われている。私立探偵や類似する職業が主人公に選ばれることが多いためPI(私立探偵)小説と呼ばれることもあるが、必ずしも同じものではない。
私立探偵のフィリップ・マーロウを主人公とするレイモンド・チャンドラーの作品が有名。
ハードボイルドの反義語で暴力的表現や非日常性を極力排除した作品。主人公が素人探偵であるのも大きな特徴。非情さを前面に出さず、穏健で道徳的な作風なため、ハードボイルドに対して「ソフトボイルド(Soft Boiled)」とも呼ばれる。
狭義には女性向けの「気楽に読める」内容のコメディタッチのミステリをいう。
アガサ・クリスティの『ミス・マープル』シリーズなど、女性の素人探偵が活躍する作品が多い。
探偵が事件現場に赴くことなく、情報として与えられた手がかりのみで事件を解決する作品やその探偵は安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)と呼ばれる。
構造的に推理と関係の無い要素を描く必要がなく、論理的推理に特化することができるため推理小説の極北とも言われるが、依頼者や助手とのやり取りを描くこともあり、厳密にデータのみで勝負している作品は少ない。アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』シリーズは参加者の議論を聞いていた給仕が謎を解くという形式である。
身体障害者や老人など証拠集めのため動き回れない者が探偵役、介助者が証拠集めなど探偵を助けるワトスン役と役をはっきりと分ける作品もある。
最初期の名探偵であるC・オーギュスト・デュパンは訪ねてきた警視総監から聞いた話で事件を解決するため、安楽椅子探偵に含まれることもある。小説ではバロネス・オルツィの『隅の老人』シリーズ、レックス・スタウトの『ネロ・ウルフ』シリーズ、アガサ・クリスティのミス・マープルものの短編集『火曜クラブ』(13作品のうち12作品まで)など。
サブジャンルとしてベッド・ディテクティヴがあり、こちらは怪我などで動けないため推理しか出来ないという設定である。シリーズものでは探偵役が怪我で動けなくなり、一時的に安楽椅子探偵となる作品もある。ジョセフィン・テイの『時の娘』、高木彬光の『成吉思汗の秘密』など。
倒叙から派生した犯罪心理小説は犯罪者の内面に目を向け、殺人に至る過程を描く作品であり、サスペンスの要素も含まれる。アントニー・バークリーの『殺意』、ジム・トンプスンの『内なる殺人者』など。
窃盗、詐欺、誘拐などで一攫千金を狙う姿を犯罪者の視点で描く作品は「ケイパー・ストーリー」と呼ばれ、警察や探偵を出し抜き大金を手にするという筋書きが多く推理小説とは別ジャンルとなるが、天藤真の『大誘拐』のように推理要素がある作品も書かれている。
恐怖を主題としたホラー、不安感を煽るサスペンス、スリルを表現するスリラーは必ずしも推理要素を含むとは限らないが、恐怖の様相を捜査や論理的な推理によって暴き出せば推理小説になりうる。殊にモダンホラー、サイコサスペンスといった、人間性や異常心理への恐怖を扱った作品では作例が多い。ジャンルとしては犯罪心理小説と重なる。
「孤島もの」で犯人への恐怖感を強めたり、探偵と犯人の頭脳戦をスリリングに描いたりするなど、他のジャンルに要素として取り入れられている。
法廷など司法の場が舞台となるジャンル。検事や弁護士が主人公となって、被告人の犯行を立証したり、逆に無実を証明して真犯人を暴きだしたりする過程が描かれる。法廷が主要な舞台とは限らないため、「リーガル・ミステリー」とも呼ばれる。
E・S・ガードナーが書いたペリー・メイスンシリーズ、和久峻三の『赤かぶ検事奮戦記』シリーズ、ゲームの『逆転裁判』シリーズなど。法廷もののシリーズ作品以外にもカーター・ディクスンの『ユダの窓』や高木彬光の『破戒裁判』などがある。
法律の知識を活かせることから、中嶋博行、五十嵐律人、フェルディナント・フォン・シーラッハなど現役弁護士の作家も存在する。
警察官が主人公であるもの。謎解きそのものより警察の捜査活動の描写に重点が置かれる。警察官でありながら組織に反発する者が主人公だったり警察組織内部の情勢や暗部を題材としたりしたものもある。必ずしも推理小説であるとは限らず、アクション、サスペンスの要素に重点を置くもの、警察組織への風刺をこめたもの、逮捕後に法廷ものへ移行するもの、交番勤務など地味な活動に焦点を当てたものなど様々な作品がある。国際犯罪や公安警察を題材とした作品はスパイ小説に分類されることもある。
初の警察小説は1868年にウィルキー・コリンズが発表した『月長石』とされる。
科学捜査を主題とした作品では鑑識官や法医学者が科学・医学の知識を元に推理する作品もある。シャーロック・ホームズシリーズでも医師であるワトスンが証拠調べとして補助することはあったが、探偵役となるのは同時期にライバル誌で連載していた法医学者のジョン・イヴリン・ソーンダイクが活躍する作品が初期の例とされる。ジャンルの初期からあるが科学の進歩により新しい捜査手法が登場しており、最新の知見を反映した作品が定期的に発表されている。
知識や実務経験をいかせるため、濱嘉之や佐竹一彦など元警察官の作家もいる。
日本警察小説は「ガラパゴス進化を遂げた」との見方もある。
スパイの防諜活動を描くジャンル。エスピオナージュ(espionnage)とも呼ばれる。ジャンルとしてはハードボイルドや警察小説と重複する。
現実的な国際謀略を描いたものから、荒唐無稽なアクションまで多彩な作品が書かれており、前者の代表例はジョン・ル・カレのスマイリー・シリーズ、ロバート・ラドラムのボーン三部作、トム・クランシーのジャック・ライアン・シリーズ、フレデリック・フォーサイスのドキュメント・スリラー。後者の代表例としてはイアン・フレミングのジェームズ・ボンド・シリーズが有名。アクション要素が強い作品はスパイ映画の原作となることも多い。
推理要素は必須とされないが、要人を暗殺した犯人や護衛対象を狙う殺し屋を探すなどスパイ要素に絡めた作品もある。フレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』は暗殺犯と警察の頭脳戦が主題となっており、エドガー賞の長編賞を受賞している。
スパイ・ミステリ・暗殺といった要素を内包する演劇のジャンルは外套と短剣とも呼ばれる。
病院や診療所を舞台とし、主人公が医師や看護師などの医療従事者であるジャンル。
医学の知識を用いて謎を暴くのが基本であるが、架空の病気を題材としたSFに近い作品、医療制度の問題を描く社会派に近い作品など様々な作品がある。
知識や実務経験があるため、海堂尊や知念実希人など現役の医師が執筆する例もある。
過去の時代を舞台としたもの。探偵役やワトスン役、容疑者や犯人・被害者役が史実上の実在人物という設定もある(織田信長、水戸黄門、千坂兵部など)。
日本では特に江戸時代を舞台にした「名奉行もの(お白州もの)」や「捕物帳」といったジャンルがある。「名奉行もの」は一種の法廷ものである。「捕物帳」は岡本綺堂の『半七捕物帳』を嚆矢とし、緊密な構成をもった本格物から江戸風俗の描写に力を入れたものまで幅広い。歴史ミステリと特に区別なく使用されることがしばしばある。
シャーロック・ホームズシリーズのように長く人気を保ち、後代の作家によって続編が書かれつづけた結果、時代ものとしての一面も持つに至った作品もある。
歴史上の謎に、現代の探偵役が資料などを元に取り組むもの。史実における謎を真面目に取り扱った作品も存在するが、多くはフィクションとしての面白さを狙った奇抜な回答が用意されることになる。純粋に歴史上の謎のみを解決することは少なく、ほとんどの作品では探偵役と同時代の犯罪事件の解決も付随している。退職した刑事が迷宮入りした過去の事件を再検討する作品は警察ものに分類される。
ジョセフィン・テイの『時の娘』、高木彬光の『成吉思汗の秘密』など。
魔術師や超能力者が存在する状況、死者が甦る状況、宇宙の果てを航行する宇宙船の中、人類と異なる思考体系の知性体との共同社会など、現実世界ではありえない状況・環境を許容する世界観の中で発生した事件について、その世界観の下で論理的な捜査と考察を行えば推理小説になりうる。日本ではこのような非現実的な状況下において論理的な推理で事件を解決する作品に対し、米澤穂信による『折れた竜骨』の後書きや解説から「特殊設定ミステリー」という用語が使われるようになった。日本でのヒットは超能力による頭脳戦、デスゲームのような極限の状況下、複雑なルールのギャンブルを描いた漫画の影響が指摘されている。
論理性よりもSFや超能力の設定を重視し、ノックスの十戒では批判された(大半の読者には)理解出来ない高度な科学技術や、超能力による犯罪・解決をメインに据えた作品も多い。
SFミステリではロボットの殺人を禁じたロボット工学三原則を逆手に取った『鋼鉄都市』などアイザック・アシモフが多数の作品を執筆している。また未来を舞台に科学技術による犯罪と、進歩した科学捜査を駆使する警察を描いた「SF警察もの」も存在する。アルフレッド・ベスターの『分解された男』はテレパシー能力をもつエスパーが存在する世界の犯罪と警察活動を描いている。
サイバー犯罪のように執筆時点では空想であったが技術の進歩により現実となった例もある。
井沢元彦の『猿丸幻視行』のようにタイムトラベルものの歴史ミステリもある。
ファンタジーミステリとしては、密室で魔法使いが殺されたという事件を扱ったランドル・ギャレットの『魔術師が多すぎる』、マジックアイテムを用いた殺人事件を「嘘看破」の呪文を駆使して捜査する山本弘の『死者は弁明せず』などがある。
現実世界を舞台に幽霊や吸血鬼などオカルト・超自然的要素が絡む作品はオカルト・ディテクティブ・フィクション(英語版)、サイキック・ディテクティブ、スーパーナチュラル・ディテクティブなどと呼ばれ、西澤保彦の『神麻嗣子の超能力事件簿』や城平京の『虚構推理』、漫画では松井優征の『魔人探偵脳噛ネウロ』などがある。
事件そのものの推理よりも暗号やパズルなどの謎解きに重点が置かれる作品。
ストーリーは重視されず、トリックが解けると結末は数行で纏められたり、そのまま作品が終了しその後が描かれない作品もある。舞台背景も重視されず、謎を成立させるために非現実的な設定(1人は必ず嘘をつき、もう1人は必ず真実を話す双子など)の作品もある。分量が少ないため短編集やショートショート集が多い。アイザック・アシモフの『ユニオンクラブ奇談』シリーズはショートショート集である。
ゲームブック形式もあり、1936年に発表されたデニス・ホイートリーの「捜査ファイル・ミステリー・シリーズ」は警察の捜査書類や証拠写真のページを読んで、袋とじになった解決編に書かれた犯人を当てるゲームができるようになっている。
ストーリー性が薄く、数学パズルに簡単な設定を付けたものや、ほぼ論理クイズ(ロジックパズル)となっている作品もある。これらはクイズ集やパズル集として出版されており、多くはクイズやパズルの作家が執筆している。推理作家の作品としてドナルド・ソボルの『2分間ミステリ』シリーズは、短い本文に全ての証拠が提示されおり、それを2分間の制限時間で推理するというクイズを集めた短編集である。
極端な例として京都大学推理小説研究会はジグソーパズルと推理小説を組み合わせた『推理小説×ジグソーパズル 鏡の国の住人たち』を刊行した。
子供向け絵本の『いますぐ名探偵 犯人をさがせ!』は、最初から証拠と容疑者の素性提示されており、その情報から犯人を推理することで論理性を養うことを目的としている。
ジョン・ディクスン・カーの『三つの棺』に収録された『密室講義』や、江戸川乱歩の『類別トリック集成』などトリックの分類や解説をした評論もある。
なお、英語圏での分類である「パズラー(Puzzler)」「パズル・ストーリー(Puzzle Story)」は、ここでいうパズル・ミステリではなく、日本語での分類に則せば本格ものに近い。
推理小説とも怪奇小説ともつかない奇妙なもので、文学小説として分類されることもある。
推理作家でない作家が書くこともあり、ロアルド・ダールは短編を多数執筆した。
一般に、社会性のある題材を扱い、作品世界のリアリティを重んじる作風を指す。事件そのものに加え、事件の背景を綿密に描くのが特徴。日本では1960年代から長らく主流が続いた。松本清張の作品がその代表とされる。1990年代以降は高村薫がこの代表である。
字義としては「新たな本格」であり、ミステリ史上いくつかの使用例があるが、日本では特に、1980年代後半から90年代にかけてデビューした一部の若手作家による作品群を指すことが多い。綾辻行人、有栖川有栖、法月綸太郎等がこの代表である。各作家による差異はあるが、一般に古典的ミステリ(特に本格もの)に倣った作風を特徴とする。ただし「新本格」という用語にはこれ以前にも別の用例があり、またミステリの拡散状況もあって、現在では歴史的な用語に近くなっている。
推理小説の形式自体を題材にした、あるいは利用した推理小説。曖昧に使われているが、広くいえば言語の自己言及性そのものに謎を見出す作品。小説中にAとBの2つの部分が交互に現れ、Aに現れる登場人物がBを、Bに現れる登場人物がAを執筆しているという合わせ鏡的プロット(有栖川有栖の「学生アリスシリーズ」と「作家アリスシリーズ」等)や、作中作を利用した再帰的構造の一番奥の部分が、全体の枠組みに言及する循環構造プロット、「探偵」「犯人」「ワトスン役」「読者への挑戦状」など推理小説の定義を利用したトリック、「登場人物一覧の虚偽」、著者・編集者・読者など小説外部の人間が犯人など商品としての書物自体を含んだプロットなどが挙げられる。
本格作品(前述)の〈手がかりをすべて作中に示す〉ことが作中でどのように保証されるかを問題にしたプロット(「本格」としての解決の後、それが実は作中作であって、後日談があって、新たな捜査の進展があって、意外な真相がさらに明らかにされる、など)も含まれ、この種の推理小説自体の枠組みに対し疑念を呈する作品を「アンチ・ミステリー」(反推理小説)と呼ぶことがある。
日常生活の中でふと目にした不思議な現象などについて、その理由・真相を探るもの。
犯罪の場合も「教室からある物が無くなった」など警察が関与するほどではない軽微なものであるため、少年探偵が活躍する青春ミステリ(後述)に多く採用されており、ジャンルが重複している。
代表的な作家に北村薫、加納朋子等がいる。
主人公もしくはそれに近い人物に、思春期・青年期を迎えた人物を配したミステリ。多くは小説の進行に伴って、主人公およびその周辺の人物の成長が描かれる。学校を舞台とした学園ミステリの多くを包含する。当初ライトノベルやジュブナイル小説のレーベルで発表された推理小説は多くがここに属する。
古典的な代表作に赤川次郎の『セーラー服と機関銃』、小峰元『アルキメデスは手を汚さない』、栗本薫『ぼくらの時代』等があり、2000年代以降の書き手では米澤穂信、辻村深月などが著名である。
米澤穂信の「〈小市民〉シリーズ」、「〈古典部〉シリーズ」のような「日常の謎」系の作品から桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』のように陰惨なテーマを扱ったもの、ごく普通の少女だった主人公が如何に推理力を育てたかを描く松岡圭祐の『万能鑑定士Qの事件簿』シリーズまで、作風は幅広く存在している。
児童文学との境界が曖昧で、はやみねかおるの「名探偵夢水清志郎事件ノートシリーズ」や松原秀行の「パソコン通信探偵団事件ノートシリーズ」は特に低年齢層に支持されている。
推理要素を持つ海外の作品にはエーリッヒ・ケストナーの『エーミールと探偵たち』、ドナルド・ソボルの「少年探偵ブラウンシリーズ」、1930年から著者を変えて続く「少女探偵ナンシーシリーズ」などの少女探偵ものがあるが、海外では児童文学やジュブナイル小説に分類される。『パイは小さな秘密を運ぶ』から始まるアラン・ブラッドリーの「少女探偵フレーヴィアシリーズ」の邦訳は創元推理文庫から推理小説として出版されている。
広義には、有名な観光地を舞台にするなど、探偵役が何らかの形で観光に関わる作品を指す。旅先の情景や風土といった旅行記的な要素も人気の一因で、テレビドラマや映画など、映像化に適したジャンルでもあり、その面での傑作も多い。日本では西村京太郎の多作によって、人気ジャンルの一つになっている。主に京都を舞台とした山村美紗の多作と多数のテレビドラマ化もこれに寄与している。
狭義には、鉄道や航空機などの交通手段を用い、その運行予定表の裏をかいたアリバイ工作の登場する作品。鉄道の場合時刻表を駆使したトリックが使われることが多く「時刻表もの」とも呼ばれるが、車両の構造を利用する例もある。特に日本では鉄道の定時性が極めて高く、国民の間で広く利用されていることが、このジャンルの成立と人気を支えている。
鮎川哲也が先駆的作品である『ペトロフ事件』で初めて列車の時刻表を用いて以降、時刻表ミステリが定番となった。松本清張は社会派とされるが、代表作のひとつ、『点と線』は、時刻表ミステリの代表的作品といえる。
海外では公共輸送機関の定時性が日本ほど厳密ではないため時刻表トリックは成立しにくいが、欧米では上流階級がクルーズ客船やクルーズトレインでヨーロッパを旅行するというシチュエーションは自然であるため、『オリエント急行の殺人』のような走行中の列車内で探偵が事件に遭遇する「動く密室」としての利用が多い。このような作品は通常、本格ものに分類される。
日本における分類の1つで、リアリズムを意図的に無視したトリックなど結末の「バカバカしさを重視するミステリー」と、結末を知って「そんなバカな!!と驚くようなミステリー」の二つを意味が混在している。
前者の意味での代表作は蘇部健一の『六枚のとんかつ』など。
読むと嫌な気分になるミステリー、後味の悪いミステリーのこと。社会派、ホラー、青春小説などジャンルは様々である。イヤミスという言葉を最初に使ったのは、霜月蒼とされ、『本の雑誌』2007年1月号で「このイヤミスに震えろ!」というタイトルの連載がスタートしている。
代表的な作家に湊かなえ、沼田まほかる、真梨幸子、秋吉理香子、歌野晶午、貫井徳郎らがいる。
犯人を捜したり推理する人物を指す用語。
推理小説では、シャーロック・ホームズのような私立探偵業を営む「名探偵」が登場して事件を解決するのが基本であるが、探偵業者が登場しない作品も多い。このため事件記者、警察官、検事、弁護士、保険調査員など犯罪に多く関わる職業も含め、推理小説における謎を解決する人物の総称として「探偵役」と表記する場合もある。特にその探偵役が主婦や学生など普段は犯罪と関わらない一般人の場合(いわゆる「日常の謎」派の探偵をのぞき)、「素人探偵」や「アマチュア探偵」と呼ぶことがある。「素人」や「アマチュア」とは「事件捜査の専門家ではない者」という意味で、自身の専門分野においては警察や探偵より上という人物もおり、素人探偵が専門知識で事件を解決する作品も多数刊行されている。
警察から依頼や情報提供を受けるなど協力関係にある探偵も多く描かれており、名探偵エラリー・クイーンはニューヨーク市警察の警視である父の協力を得て事件を解決する。世界初の名探偵とされるC・オーギュスト・デュパンは、知人の警視総監から依頼を受ける隠居者という設定であり、現代では素人探偵に分類される。警察からの依頼も受けるシャーロック・ホームズは「民間諮問探偵」(consulting detective) を自称している。
探偵役が単独とは限らず『トミーとタペンス』ように探偵がコンビを組む作品もある。また複数の探偵役が独自に推理した結果を終盤で一堂に会し披露し合う『推理合戦』は競争要素も加わり人気であるが、間違った推理を披露する探偵が名探偵のかませ犬として描かれることも多いため不満を持つ読者もいる。アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』シリーズは最初から複数人が集まって議論が行われ、最後に給仕のヘンリー・ジャクスンが真相を明らかにして終わる。『名探偵なんか怖くない』のような推理合戦をパロディとした作品も刊行されている。
少年達が協力して謎に挑む『探偵団もの』はジュブナイル小説の人気ジャンルであり、はやみねかおるのようにこのジャンルをメインに活動する作家も多い。また、江戸川乱歩の『少年探偵団シリーズ』のように本格ミステリの作家による作品もある。大人向けとしては赤川次郎の『三姉妹探偵団シリーズ』がある。
警察小説では性格の違う刑事がコンビを組んで事件を捜査する『バディもの』が多く刊行されている。映像作品ではバディフィルムというジャンルを形成しており、『X-ファイル』『リーサル・ウェポン』『あぶない刑事』『相棒』などが人気シリーズとなっている。
終盤になって、物語の幕引きのためだけに登場する探偵役もおり、必ずしも作品の主人公とイコールではない。『名探偵登場』では当初、終盤になってシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンが現れ、それまでスター俳優が演じる探偵たちの推理を全て否定し真相を明らかにして去っていくという展開(デウス・エクス・マキナ)を撮影したが、かませ犬に不満を持ったスターらの反発で別のバージョンが公開された。
麻耶雄嵩は『貴族探偵シリーズ』で「証拠集めから推理まで全て使用人に任せる」という「なにもしない探偵」、『神様ゲーム』ては序盤で推理過程を飛ばして犯人を指摘する探偵など、探偵の定義を利用したメタミステリ要素の強い作品を多く執筆している。
法月綸太郎により、「探偵役が提示した解決が真の解決であるかは作中で証明できない」という問題(後期クイーン的問題)が提起されている。これ以降、日本の新本格ミステリでは、不完全な推理しかできない探偵役、作中で推理の完全性が保証された名探偵など、問題を意識した作品が多数登場した。変則的な事例として『虚構推理』の探偵役は事件の真相ではなく「どうやって人々を納得させるか」を目的としており、推測が含まれると断言した上で納得できそうな解決を提示するという作風から議論を巻き起こした。
探偵役の助手や相棒、物語の語り部となる人物を指す用語。キャラクター類型ではサイドキックに該当する。
語源は『シャーロック・ホームズシリーズ』において、探偵役のシャーロック・ホームズの相棒であり語り部でもあるジョン・H・ワトスンから。
シャーロック・ホームズシリーズが商業的に成功した理由の一つとして、ホームズの奇抜な行動や核心となる手がかりをワトスンの視点で描写することにより、ホームズが推理を披露するまで読者の興味を引きつけたままに出来たことがあげられる。この形式はシャーロック・ホームズシリーズ以後、多くの推理小説で踏襲されたため「ワトスンと同等の役割」から「ワトスン役」と呼ばれることとなった。
単独とは限らず直属の部下や探偵事務所の職員という設定で複数人の場合もある。
医師でもあるワトスンのように専門知識を活かして積極的に手伝う者、完全な傍観者で語り部に徹する者などパターンが様々であるが、探偵役と違い必須の役回りではないため存在しない作品も多い。一方で、シリーズ作品の中には普段ワトスン役の人物が探偵役となるエピソードが執筆されることもある。また探偵役が主人公でワトスン役は毎回別人、逆にワトスン役が主人公で探偵役が毎回別人など、変則的な設定の作品も存在する。ワトスン役が毎回同じで、犯人も毎回同じなのはロード・ダンセイニ(ダンセイニ卿)の初期シリーズ作品。
ワトスン役が積極的に推理する作品も多く、相沢沙呼の『medium 霊媒探偵城塚翡翠』は探偵役が霊媒で得た真相を元に、ワトスン役が論理的な答えを構築するという設定である。
犯行を行った者。推理小説では基本的に犯人が不明のまま捜査・推理が行われ、最後に探偵が犯人を指摘することで物語が完結する。本格ものでは読者が犯人を推理するのが楽しみの一つとなっており、著者は様々な工夫で隠匿しているが、推理過程やトリックの解明、推理以外の要素(恋愛など)を重視した作品では犯人当ては重視されず、西村京太郎のように「犯人は印象に残りやすいように印象的な名前にしている」と公言する作家もいる。
単独とは限らず、既に死亡していることもある。人間ではないこともあり、動物に襲われたという真相も存在する。生物ではなく法律や制度などが真犯人という作品もある。
犯人が主人公という作品の中には自身が犯人だと認識していなかったり、文章を工夫し読者に悟られないようにしているなど、様々なパターンが生み出されている。
作中の手がかりから推理はできるが名指しされずに終わる作品もあり、東野圭吾の『どちらかが彼女を殺した』は講談社ノベルスから刊行された際に問い合わせがあったため、文庫化に併せて袋とじの解説を追加したが、解説でも明示はされていない。
鮮やかな手口や犯行予告など劇場型犯罪で厳重な警備下にある美術品を盗み出す者は怪盗と呼ばれ、シリーズものでは探偵や警察とライバル関係という設定も多い。江戸川乱歩の作品群では怪人二十面相が明智小五郎や少年探偵団とライバル関係にある。
犯行が露呈しないようにする企みであるが、同時に「著者が読者に仕掛ける企み」とも捉えられる。推理小説は基本的に「探偵がトリックを見破り犯人を指摘する」形式の作品である。
物理的、心理的な手段の他、小説という形式自体の暗黙の前提や偏見を利用した叙述トリックもある。また偶然が重なり結果としてトリックとして成立した作品もある。
本格ものではトリックの現実性や厳密さ、それを暴く推理の論理性が重要とされフェア/アンフェアが論争となるが、ジャンルによっては重要視されない。
外部から侵入できない空間。密室内での犯行(密室殺人)が発生し、犯人がどうやって外へ出たのかを探偵が推理する作品は「密室もの」と呼ばれる。密室殺人は「不可能犯罪」の一種である。特に本格推理小説では様々な工夫を凝らした密室が誕生している。
1892年に発表された『ビッグ・ボウの殺人』の序文において作者は「これまで出入りできない部屋での殺人を書いた作家はいない」と公言しており、本作が史上初の「密室もの」とされる。
なお、列車・船舶・航空機など移動中に乗り降りできない場所は「動く密室」と呼ばれるが、後述のクローズド・サークルに分類されるもので「不可能犯罪」に分類されるものではない(ただし、クローズド・サークル内の全員にアリバイがある等、別の要因により「不可能犯罪」の様相を呈することがある)。探偵、被疑者、犯人が「動く密室」から出ないまま解決する作品もある。『ナイルに死す』ではナイル河を、『名探偵が多すぎる』は瀬戸内海を航行する船上で物語が進行する。
被疑者が犯行に関わっていないことを示す証拠。推理小説では各被疑者のアリバイを検討して矛盾を見つけ、真犯人を指摘する「アリバイ崩し」というプロセスが一般的である。警察小説や法廷ものでは取り調べ時の『アリバイ崩し』が大きなウェイトを占める作品も多い。
本格推理小説ではアリバイを偽装する様々な手法が考案されている。
ミステリ用語の枠を越えて、広く一般に定着している言葉でもあるが、「のちの批判をかわすためのアリバイ作り」のように、「建前、弁明」の意味で使われることも多い。
死亡した人物が死の間際に残したメッセージのこと。一般的には被害者によって犯人を示す目的で残されるが、これを逆手に取って「犯人による改竄や偽装」「記述のミス」「無関係の人物が書いた」などのバリエーションが考案されている。エラリー・クイーンの『シャム双生児の謎』ではダイイング・メッセージにより探偵が誘導されるが、犯人も意図しなかった結末を描いている。
事件の解明に必要な要素である犯人、犯行方法、動機のうち、どれの解明を重視するかによる分類。この3つの分類は、推理小説の興味の対象が、単なる犯人当てからトリックの面白さへと移り変わり、そして社会派へつながる動機重視に変わっていく、という推理小説の発展史と重なる。
これらは相反する要素ではなく、二つもしくは全てを追求する作品もある。特に「密室もの」では、密室を構成するトリックの解明と犯行に及んだ人物の推理を平行して行う作品が多い。
外界とは隔絶された状況下で事件が起こるストーリー。過去の代表例から「嵐の孤島もの」「吹雪の山荘もの」とも呼ばれる。走行中の列車内など「動く密室」もクローズド・サークルに分類される。隔絶された理由を犯人の意図としてプロットやトリックに組み込んだ作品も多い。
孤立した環境下ということで現実的な警察機関の介入や科学的捜査を排し、また容疑者の幅を作中の登場人物に限定できることから、より純粋に「犯人当て」の面白味を描ける利点があり、本格ものの作者やファンから好まれる傾向がある。シリーズものでは探偵やワトスン役を意図的に引き離す展開にも使われている。
探偵役やワトスン役も含めて、登場人物は殺人犯(かもしれない人物)と過ごすことになるため、推理よりもサスペンスを重視した作品もある。またホラー、サスペンス、スリラーなど他のジャンルでも使われている。
途中で外部から救援が来ることでクローズド・サークルが解消される作品もあり、救援に来た警察や医師の協力により必要な証拠が集まる、探偵が推理を披露する直前であり到着した警察は逮捕するだけ、逃げられなくなった犯人が逮捕される前に自殺するなど、様々なパターンが考案されている。
電話や無線通信、ヘリコプターの実用化により、孤島などでも通信や往来が以前より容易となったことから、「往来は出来ないが電話で探偵や警察のアドバイスが得られる」「何者かにより無線機が破壊された」「天候が回復するx日後にヘリコプターで向かう」など、これらを取り込んだ設定の作品も登場している。
「犯人が自分の犯行に気付いた相手をやむをえず殺害することになる」などの理由付けによって連続殺人事件へ発展、犯行が進むにつれ生存者が減少し、その中に犯人がいる(はずである)という恐怖を強調する作品もある。また、突き止められた犯人が凶暴化しパニックものへ移行する作品もある。
逆に言えば犯人にとっては「容疑者が限定される状況」で犯行を繰り広げるということであるため、なぜわざわざそうした危険を冒すのかという批判もあるが、それにいかに「合理的な動機」を与えるかもこのジャンルの醍醐味といえる。ストーリーによっては途中で殺害された人間の中に自殺した犯人がいて、その後の犯行は機械的なブービートラップなどにより行われたという結末もある。また犯人が捕まらないように脱出することを目標としている作品もある。
初期の作品であるアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』は孤島で連続殺人が起きる設定である。
「素人探偵が警察を差し置いて犯人探しに取り組む」という設定を合理化することが容易であることもあってか、素人探偵や少年探偵の活躍する作品にも多く見られる。
本格ものには「孤島に建つ館の部屋で密室殺人が起きるという」二重構造の作品もある。『すべてがFになる』は孤島の研究所の密室で殺人事件が起きるが、通信が不可能となったためヘリコプターで救援を呼ぼうとするものの不可能となり、自力で通信を復旧させて警察を呼ぶという展開である。
映像作品では、舞台劇のように1つの場所や状況のみで物語が進行する「ワンシチュエーション」というジャンルがあり、スリラー要素を追加した「ソリッド・シチュエーション」という派生ジャンルも確立している。『キューブ』や『ソウ』のように登場人物が脱出方法を推理するなど謎解き要素が含まれる作品もある。
犯人が死体や現場などをあるものに見立てる殺人のこと。殺人が絡まないものも含めて単に「見立て」とも呼ぶ。古くは江戸川乱歩によって「童謡殺人」と「筋書き殺人」に大別される。
読者に対し筋立て通りに殺人が行われるという異様な不気味さを狙ったもので本来はプロットに属するが、アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』や横溝正史の『八つ墓村』のように見立て自体がトリックという例も古くからある。この場合には「犯人が偽装のために見立て殺人を装った」「見立てが中途半端で異なるものと認識され推理が迷走する」などがある。
「事件が起きた孤島に伝わる言い伝え通りの死因」「見立てが暗号となっており解くと次の被害者が分かる」など他の要素と組み合わせた作品もある。アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』は孤島ものであると同時に童謡殺人でもある。
通常の推理小説では、まず犯行の結果のみが描かれ、探偵役の捜査によって犯人とトリックを明らかにしていく。しかし倒叙形式では、初めに犯人を主軸に描写がなされ、読者は犯人と犯行過程がわかった上で物語が展開される。その上で、探偵役がどのようにして犯行を見抜くのか、どのようにして犯人を追い詰めるのかが物語の主旨となる。また、犯人の心理を描く時間が多く取れることで、一般的に尺が短くなりがちな動機の描写(通常は解決編の自白のみ)において、なぜ犯行に至ったのかという点を強く描写することが可能であり、犯罪心理小説で多く使われる。
隠匿に手を尽くす犯人側と推理を巡らす探偵側の視点を交互に描くことで頭脳戦を強調した作品や、終始犯人側の視点で進み、最初は犯罪心理、逮捕されてからは警察もの、裁判が始まると法廷ものとジャンルが変わっていく作品もある。
「どの時点で犯人が失敗したかを推理する小説」としても読めるため、犯人側の視点の描写を工夫する(犯行直後に物語が開始など)ことで読者と探偵役が得られる手がかりを公平とし、探偵役との頭脳戦を疑似体験できるようにした作品もある。漫画作品の『DEATH NOTE』は姿を隠す犯人である主人公と、犯人の正体を探る探偵の視点が交互に描写される。
英語では「inverted detective story(逆さまの推理小説の意)」「howcatchem(how catch them:どうやって彼(ら)を捕まえるかの意)」と呼ばれる。日本でも後述の『歌う白骨』が発表された黎明期には、馬場孤蝶が「逆の探偵小説」という言葉を使っていたと江戸川乱歩は回顧している。また、倒叙のうち、犯人は示されるがそのトリックや動機などが最後まで明かされないものを「半倒叙」と呼ぶことがある。
オースティン・フリーマンの短編集『歌う白骨』(1912年)でこの手法が初めて用いられた。ただし、ポーも倒叙ミステリとしても読める『黒猫』(1843年)や『告げ口心臓』(1843年)を著しており、ドストエフスキーの『罪と罰』(1866年)も、この形式に類する。推理小説そのものの歴史と同様に、その最初をどこに置くかについては諸説ある。1920年代から1930年代に全盛期を迎え、なかでもフランシス・アイルズ(アントニー・バークリー)の『殺意』(1931年)、F・W・クロフツの『クロイドン発12時30分』(1934年)、リチャード・ハルの『伯母殺人事件』(1934年)は倒叙三大名作と呼ばれた。日本では乱歩が1925年に明智小五郎シリーズの2作目として短編『心理試験』を書いており、また乱歩は後に小論「倒叙探偵小説再説」(1949年)において倒叙作品の代表作に、上記三大作品以外ではイーデン・フィルポッツの『極悪人の肖像』を挙げている。
映像作品では「大物俳優に犯人役を演じさせたくても、下手をすれば配役だけで犯人がわかってしまうので、目立たないように複数の容疑者役も大物で固める」という予算的に難しい配役や、「演技への影響を抑えるため(真相が明らかになる)最終回まで犯人が誰かを俳優達に明らかにしないことで、犯人とされた役の演技が最終回とそれ以前とで矛盾が生じる」というジレンマを解消できるため、毎回異なる犯人が必要となる連続テレビドラマで多く使われる。特に『刑事コロンボシリーズ』や『古畑任三郎シリーズ』は、大物俳優が犯人役としてゲスト出演することもあり人気シリーズとなった。
1つの事件に対して、何通りもの解決が並立的に与えられる趣向。どんでん返しの一種。
探偵が複数いる場合、推理合戦によって提示された異なる解決をそれぞれ検討し、誤答を排除するパートに移行して真相が絞り込まれる。
推理合戦で多重解決となった後、名探偵が登場して真の解決を提示する作品もある。「黒後家蜘蛛の会」シリーズでは議論が袋小路に陥る一歩手前で、会話を聞いていた給仕が真相を暴くという形式である。
アントニー・バークリー『毒入りチョコレート事件』のように推理プロセスで各探偵の個性を強調する作品もある。
複数の探偵による推理合戦が基本であるが、三津田信三の『刀城言耶シリーズ』のように単独の場合もある。
どの答えも正解だったり真相か不明なまま終わる作品もある。芥川龍之介の『藪の中』も真相不明のまま終わる多重解決と見ることが出来る。
作中で探偵役が犯人を指摘する「解決編」の前に「ここまでの部分で、推理に必要な手がかりは全て晒した。さあ犯人(もしくは真相等)を推理してみよ」という文言が挿入される演出があり、これが「読者への挑戦状」と呼ばれる。本格ものでは読者にも推理できるのが暗黙の了解となっているため、あえて書かない作品もある。挑戦状を使う作品では、前後に空白ページを入れたり章を区切る、袋とじにするなどして解決編が目に入らないようにする、挑戦状風のイラストや特殊なフォントを使うなど視覚的な演出を行う作品もある。
J・J・コニントンが1926年に発表した『或る豪邸主の死』で用いたのが最初であるが、エラリー・クイーンが1929年に『ローマ帽子の謎』から始まる『国名シリーズ』で使ったことでで広く知られるようになり、他の作家も追随した。読者への挑戦状の後に続く解決編を袋とじとしたミステリは、1936年に発表されたデニス・ホイートリーの『マイアミ沖殺人事件』が初とされ、日本語訳では1959年に刊行されたビル・S・バリンジャーの『消された時間』とされる。
『国名シリーズ』、有栖川有栖の『学生アリスシリーズ』、横溝正史の『蝶々殺人事件』、高木彬光の『呪縛の家』、『人形はなぜ殺される』、東野圭吾の『どちらかが彼女を殺した』、『私が彼を殺した』のように本文で明示する作品もあるが、作者が「解決編の前で証拠が出揃っている」「読者の視点で推理可能」と序文や後書きで書いたり、インタビューで聞かれた際に答えたりするだけなど態度は様々である。読者への挑戦状が恒例となったシリーズでも挿入されないことがあり、『国名シリーズ』は9作品中『シャム双生児の謎』のみ挿入されていない。
雑誌連載では解決編まで掲載すると単行本が売れないことがあるため、西尾維新の『きみとぼくの壊れた世界』のように、推理できる証拠が揃う段階まで連載し、解決編は単行本にのみ掲載する例もある。
正解者に懸賞金やプレゼントが用意されることもあり、坂口安吾は『不連続殺人事件』の連載時に犯人を当てた者に解決編の原稿料を進呈すると発表した。また読者だけでなく、大井廣介、平野謙、荒正人、江戸川乱歩ら文人を指名した挑戦状も載せた。
古典的な本格ものの特徴とされるが、「変格」でも読者への挑戦状を載せる作品があり、メタミステリではトリックとして使われることもある。泡坂妻夫の『生者と死者―酩探偵ヨギ ガンジーの透視術―』は14箇所の袋とじがあり、そのまま読むと短編集、袋とじを開けると長編ミステリになるという仕掛けがある。
犯人当て以外にも、パトリシア・マガーや貫井徳郎の『被害者は誰?』の「被害者当て」、都筑道夫による遺体の「発見者当て」などがある。
類似した仕掛けとしてビル・S・バリンジャーの『消された時間』の他にも『歯と爪』において、結末部分が袋とじとなっており「意外な結末が待っているが、未開封であれば返金に応じる」という文言を記している。
犯行の手口が露見せずに犯人が捕まらない犯罪。推理小説では探偵が犯人を指摘できずに終わる作品もある。偶然が重なって証拠が消え推理が不可能となった、無関係の人間が冤罪で犯人とされる、発覚はしないが事故で真犯人が死亡するなど様々なパターンがある。
江戸川乱歩は『赤い部屋』において手段として確実性はなく偶然性に頼るものの完全犯罪となるトリックを「プロバビリティーの犯罪」と命名し、作中で複数のトリックを登場させている。
日本ではかつて英語の“Detective Novel”、“Detective Fiction”の訳語として探偵小説が用いられていたが、第二次大戦後、「偵」の字が当用漢字に入れられなかったため、「探てい小説」と混ぜ書きで書くことになった。しかし、これを「みっともない」として「推理小説」という言葉が作られ、一般的になった。1946年に雄鳥社が『推理小説叢書』を発刊した時に、その監修者の木々高太郎が命名したという説もある。「偵」の字は1954年の当用漢字補正案で当用漢字に入れられたが、既に「推理小説」という言葉が広まっており、「探偵小説」に戻されることはなかった。「探偵小説」は、ジャンル名としては廃れていったものの、ロマン的な響きを持つため、未だ愛用している者も多い。または「名探偵」による推理と解決が中心であった時期の作品に限定して使うこともある。
なお、創始者のポー自身も似たような名前の「推理物語(tales of ratiocination)」と呼んでいた。
また、「ミステリー小説」(あるいは「ミステリ小説」)、もしくは単に「ミステリー(ミステリ)」とも呼ばれる。
イタリアではジャッロ(giallo, 黄色(黄表紙)、あるいは複数形でジャッリgialli)と呼ばれるジャンルに含まれる。フランスでは一般的にロマン・ポリシエromans policiersと呼ぶが、特にガリマール社刊行の推理小説シリーズを指してセリー・ノワールserie noire(黒いシリーズ)とも呼ぶ。
推理小説を著す作家は推理作家、ミステリ作家などと呼ばれる。推理小説を専業にする作家と、他のジャンルの小説をも同時に手がける作家との2つに大きく分けられる。近年では、作家本人は推理小説を書いている意識がないのにも関わらず、読者や評論家から推理作家に分類される場合があるなど、書き手と読み手との意識のずれもみられる。前述のようにパズル・ミステリを執筆しているのはパズルやクイズ作家が多く、推理作家に分類されることはない。
日本以外における推理小説の賞あるいは推理作家団体が主催する賞については、「推理小説の賞#日本以外」もしくは「推理作家#推理作家の団体」を参照 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "推理小説(すいりしょうせつ)は、小説のジャンルのひとつ。主として殺人・盗難・誘拐・詐欺等なんらかの事件・犯罪の発生と、その合理的な解決へ向けての経過を描くもの。小説以外にも漫画やアニメ、映画やドラマ、ゲームなどさまざまなメディアに展開されるミステリーというジャンルの元になった。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "「推理小説」という名称は木々高太郎が雄鶏社にて科学小説を含む広義のミステリ叢書を監修した際、江戸川乱歩や水谷準に提案されて命名したものと伝えられる。このほか探偵小説(たんていしょうせつ)、ミステリー小説(ミステリーしょうせつ)、サスペンス小説(サスペンスしょうせつ)という呼び名もあるが、前者の名称は「偵」の字が当用漢字制限を受けたためにあまり用いられなくなった。犯罪小説と重なる部分もあるが、完全に同義という訳ではない。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "世界初の推理小説は、一般的にはエドガー・アラン・ポーの短編小説『モルグ街の殺人』(1841年)であるといわれる。しかしチャールズ・ディケンズもポーに先立ち、同年1月から連載を開始した半推理・半犯罪小説の『バーナビー・ラッジ』(1841年)を書いている他、100年ほど前に書かれたヴォルテールの『ザディグ』(1747年)の一編「王妃の犬と国王の馬」も推理に重きが置かれている。さらには『カンタベリー物語』、『デカメロン』、聖書外典『ダニエル書補遺』の「ベルと竜」などにも推理小説のような話が収録されており、どこに端を発するかという議論は尽きない。",
"title": "誕生と発展"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "ただ、確実に言えるのは、1830年代のイギリスに警察制度が整い、犯罪に対する新しい感覚が生まれたということである。この頃一世を風靡した『ニューゲイト小説』(英語版)は、ニューゲート監獄の発行した犯罪の記録『ニューゲート・カレンダー』を元に書かれた犯罪小説であり、後の近代推理小説が生まれる基盤を作ったと言える。",
"title": "誕生と発展"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "権利と義務の体系が整い、司法制度や基本的人権がある程度確立した社会であることも、推理小説に欠かせない要素であろう。",
"title": "誕生と発展"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "推理小説というジャンルにとって警察組織の存在は大きい。法を手に犯罪者を捕らえる新しい形のヒーローが誕生したからである。その裏側には、急速に都市化が進むイギリスで、一般市民が都市の暗黒部に対し抱く不安が高まっていた、という歴史的事実がある。そして都市化に伴うストレスのはけ口として、「殺人事件」という素材の非日常性が必要とされていたという見方もある。",
"title": "誕生と発展"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "推理小説が誕生した後、様々なアイデアが生み出されてきた。そして下記に挙げられるようなミステリにおける「基礎・応用などの土台」が作られたのである。また、科学・医学が進歩するにつれて、それらの知識を用いたトリックなどが次々と考え出された。",
"title": "誕生と発展"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "また、ミステリの手法は小説にとどまらず、映画・ドラマ・舞台・漫画・ゲームなど多様なメディアに波及してきた。",
"title": "誕生と発展"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "『モルグ街の殺人』以前にも推理要素を含む文学は存在していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "『旧約聖書』「列王記略上」第3章にはソロモン王が裁判で名判決を下す話があり、聖書外典『ダニエル書補遺』にも「スザナの物語」「ベルと竜」のようなミステリ仕立ての説話が含まれている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "ウェルギリウスの『アエネーイス』には、ギリシャ神話の英雄ソクラテスが、盗賊カークスに盗まれた牛を、偽の手がかりを回避しながら見事に探し出す挿話がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "また、『カンタベリー物語』、『デカメロン』、ヘロドトスの『歴史』などにも推理小説のような話がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "最古の例の探偵小説:『千夜一夜物語』の「3つの林檎の物語」 (The Three Apples) である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』(1605年)には、債権者と債務者の言い分のどちらが正しいかサンチョ・パンサが裁判長として名判決を下すエピソードがある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "ヴォルテールの『ザディグ』(1747年)の一編「王妃の犬と国王の馬」も推理に重きが置かれている。ボーマルシェ『セヴィリアの理髪師』(1775年)には、謎解き推理小説の要素が含まれる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ヴィドックの『回想録』(1823年)はポーのデュパン探偵ものに影響を与えた。大デュマ『ポール船長』(1838年)は冒険ミステリの色彩が強く、のちのドイルの一連の海洋奇談ものにも通じる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "1841年、アメリカのエドガー・アラン・ポーが発表した短編『モルグ街の殺人』が推理小説の始まりだとされる。チャールズ・ディケンズの『バーナビー・ラッジ』も純粋な推理小説ではないが、作中にミステリー要素がある。未完に終わったディケンズ晩年の『エドウィン・ドルードの謎』は、のちに多くの作家が「解決編」の作成を試みている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1866年、エミール・ガボリオは仏訳されたポーの作品群に影響を受け、世界最初の長編推理小説『ルルージュ事件』を発表。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "イギリスではウィルキー・コリンズが、1860年にスリラーの大長編『白衣(びゃくえ)の女』、1862年には謎をテーマにし、ミステリに近い長編『無名(ノーネイム)』を出版した。そして1868年に、「英語で書かれた初の長編推理小説」といわれる『月長石(月神の宝石)』 を発表している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1878年、アンナ・キャサリン・グリーンは、処女長編『リーヴェンワース事件』を出版、世界で初めて長編推理小説を書いた女性と言われている。また、ヴァイオレット・ストレンジというフィクションにおける「世界初の女探偵」(世界初の女刑事はバロネス・オルツィ(オルツィ女男爵)が創造したレディ・モリー)が活躍する短編集でも知られる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1882年、リチャード・ストックトンは、『女か虎か』を発表し反響を呼ぶ。物語中に謎が提示され、解決は読者に委ねるというリドル・ストーリーの典型として有名である。他の作品に「三日月刀の促進士」などがある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ガストン・ルルーの『黄色い部屋の秘密』は、フランスの挿絵入り新聞『イリュストラシオン』で連載され、密室ものの古典とされる。続編として『黒衣夫人の香り』が存在する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ファーガス・ヒュームには質屋のジプシー女性をシリーズ・キャラクターにした『質屋のヘイガー』 (Gypsy Detective Hagar Stanley) の一連の作品群がある。ほかには、章ごとに主役や視点が変わる長編『二輪馬車の秘密』は当時の英国でベストセラーを記録した。ケネス・ウィップルは様々な雑誌に作品を発表した短編メインの作家だが、長編『鍾乳洞殺人事件』では変わり者のアーシー博士が、担当の警部を無視して勝手に捜査を進めてしまう内容で、横溝正史の金田一耕助シリーズに影響を与えている。また『ルーン・レイクの惨劇』では事件発生後ではなく、探偵や関係者(読者も)の目前で殺人が描かれる 趣向を見せた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "キャロライン・ウェルズは処女長編『手がかり』を皮切りに、フレミング・ストーンという「シリーズものキャラクター探偵」が登場する長編ミステリを70作も出版し、「同一作家による長編への最多登場の探偵」となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "(法廷ものではE・S・ガードナーのペリー・メイスン弁護士が82長編で最多。ノンシリーズも含めるとジョン・ロードが140長編を超す。14のシリーズ探偵を持つジョン・クリーシー(別名 J・J・マリック John Creasey )は、「トフ氏」シリーズ58長編、「ギデオン警視」シリーズ21長編をはじめ総計562長編。)",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "また、ジョン・ラッセル・コリエルは、ニコラス・カーター名義で1886年に「探偵ニック・カーター」が登場する作品を、ニューヨーク・ウィークリー誌で発表。その後、多くの作家がニコラス・カーターのハウスネームでシリーズを書き続けた。100年以上続く探偵ニックものは、その大半が長編である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "同様に、英国でも1893年にハリー・ブリスが探偵「セクストン・ブレイク」の冒険を描く『失踪した百万長者』を発表。ブレイクものは異なった作者により、複数の名義で70年以上書き続けられたが、こちらはニックものとは対照的に短編がほとんどである(アプルビー警部を創作したマイケル・イネスが書いた短編もある)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1879年、アーサー・コナン・ドイルが、処女作の短編『ササッサ谷の怪』をチェンバーズ・ジャーナル誌10月号で発表。これはホームズものではなかった。1887年には「名探偵」の代表とも言えるシャーロック・ホームズの長編第1作『緋色の研究』を、ワードロック社のピートン誌クリスマス号にて発表。ホームズものは、1927年の短編『ショスコム荘』まで書き続けられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ホームズもの作品は長編より短編が圧倒的に多く、同時代には、アーサー・モリスン、アーネスト・ブラマ、ジャック・フットレル、メルヴィル・デイヴィスン・ポースト、オーガスト・ダーレス、ギルバート・キース・チェスタトンなどが独自のキャラクター探偵の活躍する短編を発表し、彼らの創造した探偵は「ホームズのライヴァルたち」とも呼ばれることがある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "一方、フランスのモーリス・ルブランが1905年、短編『アルセーヌ・ルパンの逮捕』で探偵とは逆の立場に属する主人公である「怪盗もの」の執筆をはじめ、30年にわたって怪盗ルパンは長短編に登場することとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "そしてパトリシア・ハイスミスは、名探偵ではなく「犯人」をシリーズ・キャラクターに起用し、完全犯罪をたくらむ殺人犯リプリー青年が毎回主人公の『太陽がいっぱい』からはじまる長編5作を発表し、映画化もされている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "また、『キングコング』で知られるエドガー・ウォーレスは、『正義の四人』を筆頭に、探偵・刑事と殺人者・悪漢の両陣営で十指に余るシリーズ・キャラクターを創造した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "犯人の側から犯罪を描写する「倒叙」ものは、オースティン・フリーマンの短編集『歌う白骨』が有名だが、毎話ごとに当然ながら犯人が変わっており(探偵は毎回同じソーンダイク博士。また殺人犯が逃亡したり、未遂に終わる、被害者側が許すなど、犯人が罰せられない作品もあるのが本作品集の特徴。)、フリーマン・ウィルス・クロフツの短編集『殺人者はへまをする』および『クロイドン発12時30分』やロイ・ヴィカーズの「迷宮課」シリーズを経て、現代のレビンソンとリンク共作の『刑事コロンボ』に至るミステリの定番ジャンルのひとつになっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "「被害者」を主人公に起用したミステリとしては、グラント・アレンの『アフリカの百万長者』が挙げられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "変り種では、いくつもの筆名でシリアスとコミカルの作風を使い分けるドナルド・E・ウェストレイクが『殺人はお好き?』で、「容疑者」を主人公に、事件担当の刑事が抱える別の難事件を次々に解決していく趣向の連作集を発表している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "「語り手(記述者)」が主人公になっている作品としては、ロード・ダンセイニ(ダンセイニ卿)の短編集『スミザーズの話』 が挙げられる。ウィルキー・コリンズの長編および中短編では、章や巻ごとに語り手が交代する作品が多い。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "「読者」を主人公にする趣向は、フレドリック・ブラウンが連作短編集『真っ白な嘘』で試みている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "「作者」を文体などから読者に当てさせる趣旨のアンソロジーは、エラリー・クイーン編「読者への挑戦」やアイザック・アシモフ編「新・読者への挑戦」がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "短編中心だった推理小説の世界は、1913年にE・C・ベントリーが、長編『トレント最後の事件』でミステリに恋愛要素を盛り込んだ趣向の作品を発表すると、多くの作家により長編推理小説の名作が次々と発表され、のちに「黄金時代」と呼ばれる長編全盛期を迎えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "アール・デア・ビガーズは1925年に長編『鍵のない家』を発表。中国人探偵チャーリー・チャンは、ケイ・ルークの当たり役となった数十本の映画や、新聞の連続漫画にも登場する人気を獲得した。「ノックスの十戒」で有名なロナルド・ノックスは、保険会社の事件調査員という珍しい設定のマイルズ・ブリードンを探偵役に起用した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "アガサ・クリスティの『オリエント急行の殺人』における旅客列車の車両内、『そして誰もいなくなった』の孤島、『雲をつかむ死』の旅客機といった「クローズド・サークル(閉ざされた空間)もの」、ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』の「見立て殺人」、エラリー・クイーンの『Xの悲劇』から始まる「ダイイング・メッセージ(死に際の伝言)」、ディクスン・カーが得意とする『三つの棺』に代表される「密室もの」および、『深夜の密使』から書き始められた一連の、過去を舞台にした「歴史ミステリ」など様々なジャンルの長編推理小説が発表され、「本格」「フーダニット(犯人当て)」「パズラー」等と称される傑作群が続いた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ヴァン・ダイン、カー、クイーンにはラジオ・ドラマ脚本も多く、日本でも20世紀末までFEN(米軍放送ラジオ)の平日番組『Radio Mystery Theater』(E・G・マーシャル)で過去の放送が聴取できた(カーの『B13号船室』は特に有名で複数の出版社から英語の学習教材としても出版された)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "カーの『髑髏城』は、本格ものでは珍しくドイツを舞台にした長編である。ジョルジオ・シェルバネンコ (Giorgio Scerbanenco )の長編『傷ついた女神』はイタリアが舞台になっている。ヤーン・エクストレムは「スウェーデンのカー」とも呼ばれ、『誕生パーティの17人』『うなぎの罠』ほか密室殺人を扱った作品が多い。クロフツの『フローテ公園の殺人』は、南アフリカでの事件を扱っている。トマス・S・ストリブリングのイタリア系心理学者・ポジオリ教授ものは、キュラソー、ハイチ、 ヴァージン諸島などカリブ海諸国を歴訪し、事件に遭遇する(読者でも気付くトリックに教授が最後まで解らなかったり、殺人者が逃亡してしまったりするなど、教授の敗北に終わる中編が複数ある)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "クリスティには『うぐいす荘(ナイチンゲール荘)』のようなスリラー作品もある。彼女の「パーカー・パイン」の初期短編は、コンゲームものの古典ともいわれる。イーデン・フィルポッツはクリスティの隣家に住んでおり、種々の助言をしたという。フィルポッツは58歳で推理小説を書き始め、98歳の『老将の回想』(There Was an Old Man )まで推理長編 を執筆し続けた。ドロシー・セイヤーズにも『疑惑』というホラー短編がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "フィルポッツとは対照的なのがジェイムズ・ヤッフェで、15歳の時に短編『不可能犯罪課』を発表し、3年後の『喜歌劇殺人事件』まで連作短編6作品を書いた。長編は「メサグランテのママ」シリーズがある。ティモシー・フラーも、ハーバード大学在学中に21歳で『ハーバード大学殺人事件』で作家デビュー。探偵役ジュピター・ジョーンズが、主に同大学やその同窓会で起きた事件を解決するシリーズになっている。女性二人の合同ペンネームであるロジャー・スカーレットはミステリ作家としての活動期間が短く寡作ながら、江戸川乱歩が高く評価し『エンジェル家の殺人』を『三角館の恐怖』に翻案している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ルーパート・ペニー(Rupert Penny )は『おしゃべりな警官」から始まるビール主任警部もの8長編に、クイーンを思わせるような「読者への挑戦状」を挿入した。 「オベリスト三部作」のチャールズ・デイリー・キング(Charles Daly King )は『海のオベリスト』で「探偵役が登場人物のうち誰か判らない」、『空のオベリスト』で「シリーズ探偵が事件解決に失敗する」という工夫を見せているほか、長編の巻末に「手がかり索引」を置き事件を振り返ることができる。ブライアン・フリン(Brian Flynn )は「英国のファイロ・ヴァンス」とも呼ばれるアンソニー・バサーストを探偵役に50冊を超す長編を発表した。邦訳は『角のあるライオン』(1933年)しか訳されていないが、本国では現在もペーパーバックが売られている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "黄金時代からその少し後に登場したトリッキーな作家群を、江戸川乱歩は「新本格派」と命名している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ベルギーのスタニスラス=アンドレ・ステーマン、アイルランドのニコラス・ブレイク、英国のクリスチアナ・ブランド、リチャード・ハル、アントニイ・バークリー、エドマンド・クリスピン、エリザベス・フェラーズ(Elizabeth・X・Ferrars )、レオ・ブルースらが、独自の作風で創意工夫に満ちた異色作を発表した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "「本格」に対して、「変格」といわれる作品の一つが、パトリシア・マガーの『被害者を捜せ!』『探偵を捜せ!』等の、犯人はわかっていて被害者・探偵・目撃者などを推理させるといった、推理小説の枠にとどまらないユニークな形式(変格推理)の長編作品である。マガーは女スパイを主人公にした「セレナ・ミード」ものも著名で映画にもなっている。スパイものでは「ジェームズ・ボンド」シリーズのイアン・フレミングが有名だが、他にエリック・アンブラーの『ディミトリオスの棺』やフレデリック・フォーサイスによる『ジャッカルの日』、グレアム・グリーン『ハバナの男』、ほか多数の日本語訳がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "さらに、トリックや謎解きよりも主人公や登場人物の心理描写に重点を置く「サスペンス」の作品をアメリカのコーネル・ウールリッチが多数発表。代表作がウィリアム・アイリッシュ名義の長編『幻の女』で、冒頭の書き出しも有名である。短編『裏窓』は映画の原作に採用された。アレックス・ゴードンの『アラベスク』も映画化されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "英国では、パトリック・クェンティン(のちアメリカに渡る)のウェッブ主導の初期作品は本格色が強かったが、コンビのうちホイーラー中心の後期はサスペンス色が濃くなった。ルース・レンデルも「ウェクスフォード警部」シリーズの本格推理と、バーバラ・ヴァイン名義でのサスペンスの両系統で傑作群 を発表した。 フランスではボワロー=ナルスジャック(『死者の中から(めまい)』)やカトリーヌ・アルレー(『わらの女』)、セバスチアン・ジャプリゾ(『雨の訪問者』)などが「サスペンス」ものを多く発表している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ジョセフィン・テイは女性の心理描写に長けた作家だが、『時の娘』において舞台は現代ながら探偵役が病院のベッドの上で、文献のみから歴史上の事件を解決する手法を採っている。彼女と混同されがちな『病院殺人事件』など、医療ミステリのジョセフィン・ベル(Josephine Bell )は、イギリス推理作家協会(CCA)の創立当初からのメンバーであり、会長職も務めた。アンドリュウ・ガーヴ(Andrew Garve )は謎解き・冒険・警察ものと多彩な作風を使い分けるが、『ヒルダよ眠れ』からはサスペンス基調の作品が多くなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "のちに児童文学の大家となるアレキサンダー・ミルンは『くまのプーさん』の前に、『赤い館の秘密』ほか数点のミステリを発表している。 ジェームズ・ヒルトンも『チップス先生さようなら』の前に『学校の殺人』を書いている。SFの巨匠アイザック・アシモフには『黒後家蜘蛛の会』シリーズがある。『宝島』のロバート・スティーヴンソンもミステリ要素の多い『新アラビア夜話』(「自殺クラブ」)を書いている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ヴォードヴィル劇作家のパーシヴァル・ワイルドは、『検屍裁判』をはじめとするリーガル推理長編や、トランプいかさま師パームリーが主人公のカードミステリ『悪党どものお楽しみ』などでも知られる。チェコ語の翻訳者であるエリス・ピーターズは、イーディス・パージターの本名で歴史小説を書く一方、「修道士カドフェルシリーズ」などの歴史ミステリも執筆した。フランス社会小説の大家クロード・アヴリーヌにも、『U路線の定期乗客』ほか数点のミステリ長編がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1928年、ダシール・ハメットが名無しの探偵コンティネンタル・オプの最初の長編『デイン家の呪い』とそれに続き『赤い収穫』を発表。従来の推理小説とは一線を画す「酒、暴力、アクション、恋愛」といった要素の多い「ハードボイルド」と呼ばれる、主としてアメリカの大都会を舞台にした私立探偵ものの嚆矢とされる。ハメットは1930年、もう一人『マルタの鷹』で初登場するサム・スペードも創造した。オプとスペードに続く第3のキャラクター、おしどり探偵ニックとノラの活躍を描く『影なき男』も好評で、映画でシリーズ化された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ジョン・ダン・マクドナルドの長編は、『濃紺のさよなら』から題名に色の名前がつけられ、シリーズ・キャラクターのトラヴィス・マッギーは、さまざまな作家に影響を与えた。ノンシリーズ作品『恐怖の岬』はグレゴリー・ペックとロバート・ミッチャム、マーティン・バルサムの共演で映画化された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "『ブラック・マスク』などのパルプマガジン(大衆向け読本雑誌)で活躍した作家にはフランク・グルーバー(Frank Gruber)がいる。「人間百科事典」ことオリヴァー・クエイドと『フランス鍵の秘密』から登場のフレッチャー&クラッグは、都会を舞台としつつもプロの私立探偵ではなく、どちらも「巻き込まれ型」の素人探偵である(百科事典売りとボディビルの香具師コンビ)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ハードボイルドものの都会的なセンスおよびスリリングな展開と、本格ものの論理的な謎解きを併せ持つ『屠所の羊』のA・A・フェアや『ネロ・ウルフ対FBI』のレックス・スタウト、『処刑6日前』のジョナサン・ラティマー、『シカゴ・ブルース』のフレドリック・ブラウンらの作品群を「ソフトボイルド」と呼ぶ場合もある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "『大いなる眠り』や『長いお別れ』の レイモンド・チャンドラーは、「主流文学(純文学)の中にミステリーを取り入れた」と評され、ロス・マクドナルドは、『動く標的』などに見られる複雑なプロットと、登場人物に関する心理学的な洞察が特徴で、「ハードボイルドと本格の融合」と称される場合がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "マクドナルド(本名:ケネス・ミラー)の妻であるマーガレット・ミラーは、プライ博士とサンズ警部もの長編『見えない虫』『鉄の門』ほかで夫より先に作家として成功を収めており、『これよりさき怪物領域』など心理スリラーの第一人者として活躍。晩年のアラゴン弁護士ものでは、ハードボイルドやサスペンスにユーモアの要素を加えて以前よりマイルドな作風に転じた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "カーター・ブラウンには、ハードボイルドでは珍しい女性の都会探偵を主人公にした、メイヴィス・セドリッツもの『乾杯、女探偵!』『女ボディガード』がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "エド・マクベインは、架空の街アイソラを舞台にの警官たちの活躍を描いた「87分署シリーズ」で、警察小説と呼ばれる新たなジャンルを確立した。かたや「ホープ弁護士シリーズ」は題名が『白雪と赤バラ』『長靴をはいた猫』など童話に因む作品になっている。他にカート・キャノン名義での同名キャラ登場の「酔いどれ探偵シリーズ」、エヴァン・ハンター名義の『暴力教室』『逢う時はいつも他人』などの作品群は映画化された。、",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "警察小説では、ヒラリー・ウォー、ジョルジュ・シムノン、コリン・デクスターなどの作品が名高い。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "また、ディック・フランシスは障害騎手として活躍した経験を生かし、処女長編『本命』をはじめ、競馬界をめぐる事件を発表し続けた。そして法曹界出身のシリル・ヘアー(Cyril Hare )は、「法律ミステリ」「リーガル本格」とも呼ばれる『法の悲劇』などが知られる。他に経済・化学・会計などのテーマに特化したミステリを書く作家も現われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ジョン・L・ブリーンは、ヴァン・ダインの文体を真似た『サークル殺人事件』、ディクスン・カーが書きそうな不可能犯罪『甲高い囁きの館』など、多くの推理作家の巨匠パロディ・パスティーシュを発表した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "アンソニー・ホロヴィッツとジョン・エドマンド・ガードナーは、ホームズの宿敵モリアーティー教授の後日談、およびフレミング財団公認のジェームズ・ボンドシリーズをそれぞれ独自の内容で発表している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ロバート・ロイド・フィッシュは『シュロック・ホームズの冒険』などのホームズ・パロディの短編集を書く一方、『亡命者』のようなシリアスなサスペンス長編もある。短編の名手エドワード・デンティンジャー・ホックには『第二のまだらの紐』など12短編のホームズ・パスティーシュがあるほか、怪盗ニックやホーソーン医師ら自身のキャラクターとホームズを共演させた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "女流作家の ジョイス・ポーターは、ドーヴァー警部とホンコンおばさんの三枚目キャラクターが、作中でドタバタを繰り広げるユーモア推理作品で人気を博した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "同じく女流のクレイグ・ライスも、自身とその家族をモデルにしたと言われる『スイート・ホーム殺人事件』(1944年)や『時計は三時に止まる』(1939年)にはじまるマローン弁護士ものといったユーモア長編を多く発表した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ウィリアム・ブリテンの『エラリー・クイーンを読んだ男』など「読んだ男」(The Man who Read...)シリーズは、原作の雰囲気をよく捉えた作品群である。ほかに教師探偵「ストラング先生」ものがある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "『チョコレート工場の秘密」『チキ・チキ・バン・バン』などでも知られるロアルド・ダールは、賭けに取りつかれた人間心理の短編集『あなたに似た人』で、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞の短編賞を受賞。特に『南から来た男』や『おとなしい凶器」は複数回ドラマ化されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "ロバート・トゥーイ(Robert Twohy )は『さよなら、フランシー』で男女双方の姿を使い分けて生活し、知人隣人に性別を微塵も疑われない作家の完全犯罪を描き、TVシリーズ「ヒッチコック・サスペンス」にも原作を提供した。女装作家フランシス・スコットものはシリアスだが、トゥーイのもう一人の主人公ジャック・モアマンものは死体を埋めたと警察に誤認させ自宅の畑を開墾させるなどのユーモア短編。短編集『物しか書けなかった物書き』には殺人(粛清)シーンなしで犯罪組織の非情さを綴る「探偵の出て来ないハードボイルド」ものがある等と作風の幅が広い。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ジャック・リッチーは軽妙な文体が特徴で、主人公には夜しか活動できないモンスター探偵カーデュラと、周囲を刮目させる名推理を披露しながら最後に真犯人を間違えてしまう迷刑事ターンバックルの二人がいる。ヘンリー・スレッサーやシオドア・スタージョンなどもクライム・ストーリーを多作し、ロッド・サーリングの『トワイライトゾーン』などでテレビ映像化されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "サラ・パレツキーは高学歴で元弁護士の女性探偵V(ヴィクトリア)・I・ウォーショースキーが活躍する『サマータイム・ブルース』でデビュー。キャスリーン・ターナー主演で映画化(邦題「私がウォシャウスキー」)。スー・グラフトンは才女ウォーショースキーとは対照的な、「平凡で普通の女性」を探偵役に起用した。『アリバイのA』の主人公キンジー・ミルホーンのシリーズは「作者・探偵・読者」すべて女性である(男性読者もいるが、作風が女性読者向けということで)「3Fミステリー」 との新語も生んだ。『荊の城』のサラ・ウォーターズは、レズビアンのキャラクターを作品に多く登場させている。パトリシア・モイーズ(Patricia Moyes )のシリーズ探偵は男性のヘンリー・ティベット警部だが、明るく聡明な妻のエミーも捜査に協力して、夫婦で事件を解決していく作品が多い。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "2000年代以降にはタフな女性の私立探偵や犯罪者を描く作品に対してタルト・ノワールというジャンル名が提唱されている。現代本格の作家だが、ジル・チャーチルは1930年代のアメリカ田舎を舞台として、良家子女くずれのリリーと兄ロバートが事件を推理するシリーズがあり、タイトルがジャズのスタンダードナンバー(『風の向くまま』Anything Goes など)になっている。他に現代アメリカ北部が舞台の主婦探偵ジェーンものがあるが、こちらは『飛ぶのがフライ』( Fear of Frying )といった具合で小説タイトルのもじり(エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』 Fear of Flying)である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ジョン・ボールは黒人エリート警官ヴァージル・ティッブスを主人公とする長編『夜の熱気の中で』を発表し、人種の壁を乗り越えて相手に尊敬される主人公が人気となった。チェスター・ハイムズの書いた「墓掘りジョーンズと棺桶エド」の黒人コンビが登場する『イマベルへの愛』はフランスで話題になったが、生国のアメリカでは不評だったという。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "その後、女性や黒人の探偵も続いて登場し、珍しくなくなったミステリの世界で、作者たちは、猫(リリアン・ブラウンの『シャム猫ココ』)やねずみ、未来人(ロバート・アーサーの『時間旅行者』)、歴史上の偉人(セオドア・マシスンの『名探偵群像』)、魚やイルカ、機械やロボット、この世の人間ではない人(ハーリ・クイン氏)など、様々な探偵を創造し続けた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "イーヴ・タイタスのねずみの国の「探偵ベイジル」もの、ウィリアム・C・アンダースン(William Charles Anderson ) の人語を話すイルカ「ペネロッピー」シリーズ、ピエール・アンリ・カミの『クリク・ロボット』、魔法使いが主役のランドル・ギャレットの『魔術師を探せ』などは、我が国でも紹介された。ポール・アルテのツイスト博士は、百年経過しても年をとらない 不思議な名探偵である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ジャン・マイケルズ『死のリフレイン』、ジョゼフィン・ケインズ『ステージの悪魔』やビル・S・バリンジャー (Bill Sanborn Ballinger ) 『歯と爪』は解決編を袋綴じにして販売。トマス・チャステイン、ビル・アドラー『誰がロビンズ一家を殺したか?』と続編『ロビンズ一家の復讐』は、懸賞を付けて読者から犯人の回答を募集した。スタンリイ・エリンは長編『鏡よ、鏡』を返金保証つきで出版した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "また、デニス・ホイートリー (Dennis Wheatley )は『マイアミ沖殺人事件』、『誰がロバート・プレンティスを殺したか』、『マリンゼー島連続殺人事件』で、マッチや新聞記事の切れ端など、証拠品の複製を単行本 に添付して発行した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "ピエール・バイヤール (Pierre Bayard )は『アクロイドを殺したのはだれか』、『シャーロック・ホームズの誤謬』などで、クリスティの初期作品やドイルの長編で「探偵が作中で指摘した犯人は無罪。真犯人は別にいた。」という内容の評論・改作を続けて発表している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "エイドリアン・コナン・ドイルはディクスン・カーと共作で、ホームズの語られざる作品集 『シャーロック・ホームズの功績』を出版。また、21世紀に入り、カーの孫娘シェリー・ディクスン・カーが『ザ・リッパー 切り裂きジャックの秘密』を発表しミステリ界にデビューしている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "マクドネル・ボドキン(Matthias McDonnell Bodkin )は、私立探偵ポール・ベック、 女探偵ドラ・マールの二大シリーズを持っていたが、彼らを結婚させ二人の息子であるベック2世の作品も創造し、二世代の共演も実現させた。また、ジョン・ピールは1992年からジョン・ヴィンセント(John Vincent )名義で『踊るのは我らだ』(Live And Let's Dance ) などジェームズ・ボンド・ジュニアのシリーズを書き続けている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "ロシアではアントン・チェーホフが、1884年に長編推理小説『狩場の悲劇』を発表。父親がロシア系ユダヤ人の英国作家イズレイル・ザングウィルは、1892年の『ビッグ・ボウの殺人』連載中に、読者から解決(真相)の予想を募集した。ロシア国内では未発表のジャンルとされている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "ハンガリーのアラド(現在はルーマニアのArad郡都)生まれのバルドゥイン・グロラー (Balduin Groller )は、オーストリア=ハンガリー帝国ハプスブルク朝末期を舞台に「探偵ダゴベルト」もの短編を発表している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "チェコの作家ヨゼフ・シュクヴォレツキー (Josef Škvorecký )には『ノックス師に捧げる10の犯罪』(Hříchy pro pátera Knoxe)という、「犯人は、物語の当初に登場していなければならない」「探偵自身が犯人であってはならない」など「ノックスの十戒」に違反した連作集がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "トルコのイスタンブールで生まれたアキフ・ピリンチ(Akif Pirinçci)は、トルコ人の若者を主人公にした恋愛小説でデビューしたが、『猫たちの聖夜』(Felidae)でミステリ分野にも参入。『ザ・ドア 交差する世界』は映画化もされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンでは戦前から、探偵小説がかなり書かれており、1940年代には、アメリカのミステリ雑誌『Ellery Queen's Mystery Magazine』に投稿がみられる。第3回短編ミステリ・コンテストにはホルヘ・ルイス・ボルヘス ( Jorge Luis Borges、1899-1986)の「迷路の花園」が入選した。ボルヘスの推理小説およびミステリ風小説は、「死とコンパス」(1942)、「裏切り者と英雄のテーマ」(1944) 、 「エンマ・ツンツ」(1949) などがある。 1942年、服役中のドン・イシドロ・パロディという究極の安楽椅子探偵もの連作『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件 』(Seis problemas para don Isidro Parodi )が 刊行され、オノリオ・ブストス・ドメックと名乗る作者は謎だったが、ボルヘスとアドルフォ・ビオイ・カサレス( Adolfo Bioy Casares )の合作だと後に判明した。他に、パブロ・デ・サンティスの世界の名探偵12名が事件の解明を競い合う『世界名探偵倶楽部』(El enigma de París)や、ギジェルモ・マルティネスの映画化された『見えざる犯罪』(Crímenes imperceptibles)は日本でも翻訳されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ウルグアイではチャンドラー作品の続編を書いたイベア・コンテリース(Hiber Conteris )の『マーロウ もう一つの事件』、コロンビアの ホルヘ・フランコ (Jorge Franco )の『ロサリオの鋏』など が、本国のほか英訳されて刊行されている。ブラジルのJ・ソアレス(Jô Soares )には、『シャーロック・ホームズ リオ連続殺人事件』(O Xangô de Baker Street )というホームズものパロディがある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "オーストラリアのアーサー・アップフィールド(Arthur Upfield )は、『バラキー牧場の謎』(1929)そして『ボニーと砂に消えた男』(1931)にはじまる、先住民アボリジニとの混血であるボナパルト警部が、豪州の大自然を舞台に活躍する作品群を量産した。また、S・H・コーティア(Sidney Hobson Courtier )は、『謀殺の火』(1967)など、アボリジニの神話や風俗を主題にした作品を発表している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "中国では、事件の調書や裁判記録など、公的機関が発行した文書のことを公案と呼んでいたが、宋代から元代にかけて、公案を題材にした話芸や戯曲が人気を呼び、明代にはこれをもとにした公案小説というジャンルが流行している。特に、宋代に実在した政治家の包拯が、様々な講談、戯曲、公案小説において裁判や捜査で事件の真相を明らかにする主人公として登場しており、今日でもテレビドラマなどに翻案されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "中国では、1885年に発表された知非子(ちひし)『冤獄縁』(えんごくえん)が初の創作探偵小説だとされている。長編では1890年に、作者不明の『狄公案』(てきこうあん) が刊行されている",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "近代中国で推理小説の嚆矢となった作家は、 程小青が挙げられる。1914年、上海の新聞で短編『灯光人影(とうこうじんえい)』を発表。探偵役の霍桑 (かくそう/フオサン)はホームズ型の天才探偵で、ワトスン役は包朗(ほうろう/バオラン)。霍桑の探偵談はシリーズ化され30年以上続いた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "朝鮮では、李海朝(イ・ヘジョ、1869 - 1927)が1908年に発表した『双玉笛』(そう ぎょくてき)が初の創作探偵小説とされている。大韓帝国末期の1909年旧暦5月29日、平壌近郊の平安南道で生まれた 金来成は、早稲田大学在学中の1935年に日本の探偵小説専門誌『ぷろふいる』でデビューし、のちに朝鮮半島で探偵作家として活躍した。韓国推理小説の創始者とされる。1939年に発表した『魔人』は和訳が出版されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "余心樂は、台湾月刊誌「推理雑誌」に作品を発表。林仏児推理小説賞の中編「生死線上」が和訳されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "日本では明治以前から勧善懲悪をテーマとした歌舞伎や講談の演目が存在していた。例えば大岡政談などの政談ものは発生した事件を正しく裁く筋立てが法廷推理小説に等しく、鼠小僧や石川五右衛門を題材とした作品群は犯罪心理小説に通じるものがある。しかし、これらは奉行や犯罪者の物語であり、民間人が犯罪を解決する役回りにはならない(もし民間人が犯罪を解決しようとすると仇討ちや義賊という形になり、民間人ではなく情に厚い犯罪者になってしまう)。日本における探偵小説は、文明開化以降、探偵という概念が西洋から輸入されることで生まれた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "黒岩涙香が明治22年(1889年)に発表した『無惨』(別題『三筋の髪、探偵小説』)が、日本人初の創作推理小説と言われる。涙香は1896年にも『六人の死骸』と題する作品を執筆している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "1917年、岡本綺堂は、アーサー・コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」に影響を受け、「三河町の半七」を主人公にして『半七捕物帳』のシリーズを開始。探偵小説の要素を盛り込んだ時代劇である「捕物帳もの」のさきがけとなる。ほかに、野村胡堂の1931年からはじまる『銭形平次捕物控』シリーズは、後年、たびたび映画やテレビドラマ化されている。『旗本退屈男』の佐々木味津三には『むっつり右門」、城昌幸にも『若さま侍』の捕物帳がある。変わったところでは、鳴海丈がセクシー路線の『彦六捕物帖』『柳屋お藤捕物帳』などを書いている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "「捕物帳もの」と並ぶ日本ミステリのジャンルに「奉行もの(お白洲もの)」がある。実在の遠山景元が登場の『遠山の金さん』が一例。『伝七捕物帳』 の陣出達朗や『桃太郎侍』で知られる山手樹一郎など複数の作家が、『遠山の金さん』ものを執筆している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "他には、時代小説のイメージが強い山本周五郎だが、『寝ぼけ署長』という連作の探偵小説がある。『木枯し紋次郎』の笹沢左保も多くの捕物帳以外に、現代を舞台にしたミステリを発表した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "日本において探偵という職業を大衆に認知させ、探偵小説・推理小説の知名度を上げたうちの一人に、江戸川乱歩がいる。江戸川乱歩は大正・昭和期、推理小説の黎明期において明智小五郎や少年探偵団が活躍する一連のシリーズで名を挙げ、現在も江戸川乱歩賞にその名を残している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "1947年、江戸川乱歩が探偵作家クラブを設立した(このクラブは現在日本推理作家協会という形で残っている)。氷川瓏は、ポプラ社の乱歩作品の少年少女向けリライトや、涙香や海外作品など乱歩名義の翻案を手がけた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "1935年、日本の探偵小説における三大奇書と呼ばれるうちの二作(夢野久作の『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』)が出版された。1965年には、三大奇書の最後の一作・中井英夫の『虚無への供物』が出版された。時代や作風などに差があるものの、坂口安吾の『不連続殺人事件』や竹本健治の『匣の中の失楽』も三大奇書と絡めて語られることがある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "『支倉事件』の甲賀三郎、『わが女学生時代の罪』の木々高太郎、物理的・化学的トリックを多用した「帆村荘六」ものを書いた海野十三などの諸作品は今日でも再刷が続いている。久生十蘭には長編『魔都』『金狼』などがある。谷崎潤一郎のような文豪も『秘密』『白昼鬼語』などの推理作品を発表した。また、木々・海野は大下宇陀児と三人で、「風間光枝」という共通の探偵キャラクターを持ち競作を行なっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦中は探偵小説が禁圧され出版できなかった。戦後はGHQの検閲により、復讐などの要素を含む時代劇が禁止された。横溝正史は当時、捕物帳をはじめとした時代小説を書いていたが、GHQの規制を受けて『本陣殺人事件』『獄門島』などの金田一耕助シリーズを執筆し、これが本格推理長編小説の再興に繋がったと言われる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "また、伝奇小説で知られた角田喜久雄は、長編『高木家の惨劇』で本格推理のジャンルに参入、伝奇ロマンとの二枚看板で人気を得た。クロフツに影響を受けた鮎川哲也はアリバイくずしを得意とし、『ペトロフ事件』『黒いトランク』など鬼貫警部を探偵役とする本格推理小説を発表。またアンソロジーの編纂にも力を尽くした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "高木彬光は神津恭介を探偵役とする『刺青殺人事件』他の本格ものを中心に『連合艦隊ついに勝つ』『邪馬台国の秘密』など歴史・SFとも融合したミステリ、『破戒裁判』などの法廷もの、『黄金の鍵』から始まる安楽椅子探偵ものと多岐にわたる作品群を発表した。都筑道夫は、長短編はもとより掌編(ショートショート)でも多くの作品を発表、また英米ミステリの紹介者としても功績を残す。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "1957年には、仁木悦子が自身と同名ヒロインが登場する長編『猫は知っていた』でデビュー、「日本のクリスティー」と呼ばれた。また、夏樹静子はクイーンの悲劇四部作のオマージュともいえる『Wの悲劇』が話題となり、薬師丸ひろ子主演で映画化もされた。『花の棺』をはじめとするキャサリンシリーズの山村美紗も、京都を中心としたトラベル・ミステリ作品の多くがテレビドラマ化された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "SFや伝奇小説の分野でも多作で知られる栗本薫は、評論では「中島梓」名義を使い分け、エラリー・クイーンとバーナビー・ロスを思わせる中島梓と栗本薫の1人2役対談が、『平凡パンチ』誌上で企画された。推理小説の分野では、作者と同名だが男性の栗本薫が主人公の『ぼくらの時代』をはじめ、多くのシリーズとキャラクターを創造した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "トリッキーな連作『妻の女友達』『プワゾンの匂う女』や、倒錯ミステリの長編『ナルキッソスの鏡』が有名な小池真理子は、短編の名手としても知られる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "1960年代以降、推理小説は松本清張の『砂の器』などの作品群や黒岩重吾、西村寿行の「社会派」、西村京太郎の「トラベル・ミステリ」、森村誠一の「ビジネス・企業もの」「歴史ミステリ」、高橋克彦の「美術ミステリ」、山田正紀や小松左京、豊田有恒、筒井康隆らの「SFミステリ」、志茂田景樹の「恋愛ミステリ」、 館淳一や丸茂ジュンの「官能ミステリ」、 山藍紫姫子の『スタンレー・ホークの事件簿』に代表される「耽美ミステリ」など、様々なサブジャンルに分かれていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "初期には『古墳殺人事件」など、本格ものでペダンティックな作品を書いていた島田一男は、のちに「事件もの」といわれる記者が活躍する小説に転じた。山田風太郎は「忍法帖シリーズ」が有名だが、青春探偵団が活躍する推理小説もあり漫画化された。お色気に満ちた風俗小説とシリアスな経済小説で作風を使い分ける梶山季之にも、『朝は死んでいた』、『知能犯』など推理作品がある。時代もの・SFと多分野で活躍した多岐川恭も、『濡れた心』をはじめ登場人物の心理描写に優れたミステリの傑作群がある。誘拐事件を扱った天藤真の『大誘拐』は、映画化されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "そのほか、ハードボイルド(大藪春彦や生島治郎、片岡義男、小鷹信光)、将棋や奇術、音楽、法律、山岳、競馬など他の趣味・本業を生かしたミステリ(斎藤栄、泡坂妻夫、戸川昌子、佐賀潜、太田蘭三)、実在する文学者・文学作品(『芥川龍之介の推理』や『川端康成の遺書』などの土屋隆夫)、日常の謎(北村薫、若竹七海)などをテーマや作風とする作家も現れた。佐野洋は『推理日記』のタイトルで、40年にわたりミステリ評論を書き続けた。岡嶋二人は、日本では珍しいコンビによる作家(現在は解消)でデビューした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "80年代末から世紀末にかけ、1987年にデビューした綾辻行人を嚆矢とした、有栖川有栖・二階堂黎人・麻耶雄嵩・貫井徳郎・芦辺拓・深水黎一郎らの海外のクイーンやカーを再現したような「本格」というジャンルに特化した作家群が次々に出現。彼らは「新本格派」または「日本の新本格派」 とも呼ばれることがある。また、清涼院流水は、その独特の作風からミステリ界に論争を巻き起こした。大塚英志や舞城王太郎といった作家たちが、清涼院のJDCシリーズと同じ世界観を持つ作品を発表している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "南洋一郎はモーリス・ルブランの原作を、少年少女向けに改筆した『怪盗ルパン全集』全30巻 の訳者として知られる。第13巻『ピラミッドの秘密』のように、一部にルブラン作品を取り入れてはいるが、ほぼパスティーシュと認定されている作品もある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "70年代後半に各出版社がジュニア向け文庫を立ち上げると、山浦弘靖の『殺人切符はハート色』などトランプ絡みの題名が続く「星子ひとり旅シリーズ」は、コバルト文庫の看板シリーズとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "また、『仮題・中学殺人事件』にはじまる辻真先の、「読者」「作者」「編集者」など本来は犯人たりえない人物を扱うシリーズをラインナップに揃えたソノラマ文庫など、ジュヴナイルのミステリが多く刊行された。辻は卒寿(90歳)になっても、なお現役で推理長編(一般向け)を発表している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "学研や旺文社などの学年誌や受験誌に多く連載した小峰元は、ギリシャ哲学者を冠した『アルキメデスは手を汚さない』から始まる「青春ミステリー」で知られる。ラジオの深夜放送や大学受験など、当時の10代から20歳前後の若者の生活や悩みを作中に織り込んだ作風が特徴。最初期の短編集『幽霊列車』では本格要素がかなり強かった赤川次郎だが、角川映画との連携や『三毛猫ホームズ』シリーズのテレビドラマ化で人気が出たことから、若者向けのユーモア・ミステリ路線にシフトした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "『湯殿山麓呪い村』 の山村正夫は、古今東西のミステリをダイジェストにして、年少者やミステリ入門者向けに、クイズ形式とした『トリック・ゲーム』などを著した。また、各種会場での小説教室の指導者として、多数の人材を輩出している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "1992年には『金田一少年の事件簿』、1996年には『名探偵コナン』が好評を博し、推理漫画が一つのジャンルとして定着した。2002年に『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』でデビューした西尾維新は、文芸ものの新書「講談社ノベルス」から発行されているが、ライトノベルとして分類され、また自身もそのようにとらえる場合もある。『掟上今日子の備忘録』や『美少年探偵団 きみだけに光かがやく暗黒星』など多くの作品が漫画化・テレビドラマ化されている。西尾維新に限らず青春ミステリにおいてはライトノベルとの境界が非常に曖昧で、『赤朽葉家の伝説』で日本推理作家協会賞を受賞した桜庭一樹は元々ライトノベル作家であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "2010年代以降は頭脳戦、デスゲーム、ギャンブルを描いた漫画のヒットにより、推理小説でも「特殊設定ミステリー」と呼ばれる特殊な条件下の作品が多く発表されるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "前項の桜庭一樹は、自身の故郷である鳥取県を舞台にミステリを書いているが、他にも東京や首都圏以外の推理小説を書く作家もいる。山村美紗の『京都殺人案内』(京都)、東野圭吾の『浪花少年探偵団』(大阪)がその一例である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "内田康夫の『死者の木霊』からはじまる「信濃のコロンボ」シリーズは長野県 で起きた事件がメイン。森博嗣の『すべてがFになる』は愛知県 で探偵が活躍する。石沢英太郎のシリーズ探偵・牟田刑事官は福岡市など福岡県が主な舞台。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "山本巧次は『大江戸科学捜査 八丁堀のおゆう』シリーズで、現代と文政年間の江戸を自在に行き来できる時空探偵を登場させた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "海外では海渡英祐が発表した『伯林(ベルリン)一八八八年』が、19世紀のドイツ(Deutsches Reich)を、結城昌治の『ゴメスの名はゴメス』は1960年代のベトナムを舞台にしている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "下記の分類は、互いに相反するものとは限らず、一つの作品が複数の項目に当てはまることがある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "アメリカ探偵作家クラブが主催するエドガー賞の長編賞では、ハードボイルド(『長いお別れ』など)、警察小説(『笑う警官』など)、医療ミステリー(『緊急の場合は』など)、スパイ小説(『寒い国から帰ってきたスパイ』)など推理要素のある様々なジャンルの小説が受賞している。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "推理小説のなかではもっとも一般的でかつ古典的なジャンルである。事件の手がかりをすべてフェアな形で作品中で示し、それと同じ情報をもとに登場人物(広義の探偵)が真相を導き出す形のもの。第二次世界大戦前の日本では、「本格」以外のものは「変格」というジャンルに分類された。なお、本格という呼び方は日本独自のもので、欧米ではフーダニットやパズラーと称される(後述)。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "密室殺人をはじめとした不可能犯罪を扱った作品の多くはこのジャンルに含まれる。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "本格であるためには、解決の論理性だけではなく手がかりが全て示されること、地の文に虚偽を書かないことが要求される(わざと決定的な事実を明示せず曖昧に表現したり、登場人物の視点から登場人物自身の誤解を記述するのは問題がない)。たとえば、ある作品では列車に乗り合わせた子供の性別が問題になるが、題名にも地の文にも「男の子」「女の子」といった記述は一切なく、伏線として子供の振るまい(特定の玩具に興味を示す)が記述されている。作家はそれが伏線であることを隠蔽する努力も怠っていない。ただし、現代の視点では、エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』には若干アンフェアな記述がある他、アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』はフェアかアンフェアかについて、有識者の間で議論を醸した。現代でも本格ミステリの愛好家にとってはフェアかアンフェアが関心事であり、本格の体裁から外れる作品について論争がある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "「ハードボイルド」と言う言葉そのものは、非常に多面的な意味合いを持つ言葉なのだが、「推理小説」の一ジャンルとして使われる場合には、登場人物(主人公も含めて)の内面描写をあまり行わず、簡潔で客観的な描写を主体とした作品を指す。ダシール・ハメットの作品を嚆矢とする。特徴的なのは、それまでの「推理小説」の主人公は、自ら行動を起こすことはあまりなく、提供されるわずかな手がかりを元に、内面的な思索を深めて事件を解決する、まさに「推理」に重点を置く傾向が強かったのに対して、「ハードボイルド」の主人公は概ね行動的で、自ら率先して捜査を行い、その結果を積み上げて解決に至る傾向にある。これは、ハメット自身が探偵の経験があり、それを作品に生かしたからだと言われている。私立探偵や類似する職業が主人公に選ばれることが多いためPI(私立探偵)小説と呼ばれることもあるが、必ずしも同じものではない。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "私立探偵のフィリップ・マーロウを主人公とするレイモンド・チャンドラーの作品が有名。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "ハードボイルドの反義語で暴力的表現や非日常性を極力排除した作品。主人公が素人探偵であるのも大きな特徴。非情さを前面に出さず、穏健で道徳的な作風なため、ハードボイルドに対して「ソフトボイルド(Soft Boiled)」とも呼ばれる。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "狭義には女性向けの「気楽に読める」内容のコメディタッチのミステリをいう。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "アガサ・クリスティの『ミス・マープル』シリーズなど、女性の素人探偵が活躍する作品が多い。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "探偵が事件現場に赴くことなく、情報として与えられた手がかりのみで事件を解決する作品やその探偵は安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)と呼ばれる。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "構造的に推理と関係の無い要素を描く必要がなく、論理的推理に特化することができるため推理小説の極北とも言われるが、依頼者や助手とのやり取りを描くこともあり、厳密にデータのみで勝負している作品は少ない。アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』シリーズは参加者の議論を聞いていた給仕が謎を解くという形式である。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "身体障害者や老人など証拠集めのため動き回れない者が探偵役、介助者が証拠集めなど探偵を助けるワトスン役と役をはっきりと分ける作品もある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "最初期の名探偵であるC・オーギュスト・デュパンは訪ねてきた警視総監から聞いた話で事件を解決するため、安楽椅子探偵に含まれることもある。小説ではバロネス・オルツィの『隅の老人』シリーズ、レックス・スタウトの『ネロ・ウルフ』シリーズ、アガサ・クリスティのミス・マープルものの短編集『火曜クラブ』(13作品のうち12作品まで)など。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "サブジャンルとしてベッド・ディテクティヴがあり、こちらは怪我などで動けないため推理しか出来ないという設定である。シリーズものでは探偵役が怪我で動けなくなり、一時的に安楽椅子探偵となる作品もある。ジョセフィン・テイの『時の娘』、高木彬光の『成吉思汗の秘密』など。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "倒叙から派生した犯罪心理小説は犯罪者の内面に目を向け、殺人に至る過程を描く作品であり、サスペンスの要素も含まれる。アントニー・バークリーの『殺意』、ジム・トンプスンの『内なる殺人者』など。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "窃盗、詐欺、誘拐などで一攫千金を狙う姿を犯罪者の視点で描く作品は「ケイパー・ストーリー」と呼ばれ、警察や探偵を出し抜き大金を手にするという筋書きが多く推理小説とは別ジャンルとなるが、天藤真の『大誘拐』のように推理要素がある作品も書かれている。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "恐怖を主題としたホラー、不安感を煽るサスペンス、スリルを表現するスリラーは必ずしも推理要素を含むとは限らないが、恐怖の様相を捜査や論理的な推理によって暴き出せば推理小説になりうる。殊にモダンホラー、サイコサスペンスといった、人間性や異常心理への恐怖を扱った作品では作例が多い。ジャンルとしては犯罪心理小説と重なる。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "「孤島もの」で犯人への恐怖感を強めたり、探偵と犯人の頭脳戦をスリリングに描いたりするなど、他のジャンルに要素として取り入れられている。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "法廷など司法の場が舞台となるジャンル。検事や弁護士が主人公となって、被告人の犯行を立証したり、逆に無実を証明して真犯人を暴きだしたりする過程が描かれる。法廷が主要な舞台とは限らないため、「リーガル・ミステリー」とも呼ばれる。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "E・S・ガードナーが書いたペリー・メイスンシリーズ、和久峻三の『赤かぶ検事奮戦記』シリーズ、ゲームの『逆転裁判』シリーズなど。法廷もののシリーズ作品以外にもカーター・ディクスンの『ユダの窓』や高木彬光の『破戒裁判』などがある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "法律の知識を活かせることから、中嶋博行、五十嵐律人、フェルディナント・フォン・シーラッハなど現役弁護士の作家も存在する。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "警察官が主人公であるもの。謎解きそのものより警察の捜査活動の描写に重点が置かれる。警察官でありながら組織に反発する者が主人公だったり警察組織内部の情勢や暗部を題材としたりしたものもある。必ずしも推理小説であるとは限らず、アクション、サスペンスの要素に重点を置くもの、警察組織への風刺をこめたもの、逮捕後に法廷ものへ移行するもの、交番勤務など地味な活動に焦点を当てたものなど様々な作品がある。国際犯罪や公安警察を題材とした作品はスパイ小説に分類されることもある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "初の警察小説は1868年にウィルキー・コリンズが発表した『月長石』とされる。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "科学捜査を主題とした作品では鑑識官や法医学者が科学・医学の知識を元に推理する作品もある。シャーロック・ホームズシリーズでも医師であるワトスンが証拠調べとして補助することはあったが、探偵役となるのは同時期にライバル誌で連載していた法医学者のジョン・イヴリン・ソーンダイクが活躍する作品が初期の例とされる。ジャンルの初期からあるが科学の進歩により新しい捜査手法が登場しており、最新の知見を反映した作品が定期的に発表されている。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "知識や実務経験をいかせるため、濱嘉之や佐竹一彦など元警察官の作家もいる。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "日本警察小説は「ガラパゴス進化を遂げた」との見方もある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "スパイの防諜活動を描くジャンル。エスピオナージュ(espionnage)とも呼ばれる。ジャンルとしてはハードボイルドや警察小説と重複する。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "現実的な国際謀略を描いたものから、荒唐無稽なアクションまで多彩な作品が書かれており、前者の代表例はジョン・ル・カレのスマイリー・シリーズ、ロバート・ラドラムのボーン三部作、トム・クランシーのジャック・ライアン・シリーズ、フレデリック・フォーサイスのドキュメント・スリラー。後者の代表例としてはイアン・フレミングのジェームズ・ボンド・シリーズが有名。アクション要素が強い作品はスパイ映画の原作となることも多い。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "推理要素は必須とされないが、要人を暗殺した犯人や護衛対象を狙う殺し屋を探すなどスパイ要素に絡めた作品もある。フレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』は暗殺犯と警察の頭脳戦が主題となっており、エドガー賞の長編賞を受賞している。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "スパイ・ミステリ・暗殺といった要素を内包する演劇のジャンルは外套と短剣とも呼ばれる。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "病院や診療所を舞台とし、主人公が医師や看護師などの医療従事者であるジャンル。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "医学の知識を用いて謎を暴くのが基本であるが、架空の病気を題材としたSFに近い作品、医療制度の問題を描く社会派に近い作品など様々な作品がある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "知識や実務経験があるため、海堂尊や知念実希人など現役の医師が執筆する例もある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "過去の時代を舞台としたもの。探偵役やワトスン役、容疑者や犯人・被害者役が史実上の実在人物という設定もある(織田信長、水戸黄門、千坂兵部など)。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "日本では特に江戸時代を舞台にした「名奉行もの(お白州もの)」や「捕物帳」といったジャンルがある。「名奉行もの」は一種の法廷ものである。「捕物帳」は岡本綺堂の『半七捕物帳』を嚆矢とし、緊密な構成をもった本格物から江戸風俗の描写に力を入れたものまで幅広い。歴史ミステリと特に区別なく使用されることがしばしばある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "シャーロック・ホームズシリーズのように長く人気を保ち、後代の作家によって続編が書かれつづけた結果、時代ものとしての一面も持つに至った作品もある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "歴史上の謎に、現代の探偵役が資料などを元に取り組むもの。史実における謎を真面目に取り扱った作品も存在するが、多くはフィクションとしての面白さを狙った奇抜な回答が用意されることになる。純粋に歴史上の謎のみを解決することは少なく、ほとんどの作品では探偵役と同時代の犯罪事件の解決も付随している。退職した刑事が迷宮入りした過去の事件を再検討する作品は警察ものに分類される。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "ジョセフィン・テイの『時の娘』、高木彬光の『成吉思汗の秘密』など。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "魔術師や超能力者が存在する状況、死者が甦る状況、宇宙の果てを航行する宇宙船の中、人類と異なる思考体系の知性体との共同社会など、現実世界ではありえない状況・環境を許容する世界観の中で発生した事件について、その世界観の下で論理的な捜査と考察を行えば推理小説になりうる。日本ではこのような非現実的な状況下において論理的な推理で事件を解決する作品に対し、米澤穂信による『折れた竜骨』の後書きや解説から「特殊設定ミステリー」という用語が使われるようになった。日本でのヒットは超能力による頭脳戦、デスゲームのような極限の状況下、複雑なルールのギャンブルを描いた漫画の影響が指摘されている。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "論理性よりもSFや超能力の設定を重視し、ノックスの十戒では批判された(大半の読者には)理解出来ない高度な科学技術や、超能力による犯罪・解決をメインに据えた作品も多い。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "SFミステリではロボットの殺人を禁じたロボット工学三原則を逆手に取った『鋼鉄都市』などアイザック・アシモフが多数の作品を執筆している。また未来を舞台に科学技術による犯罪と、進歩した科学捜査を駆使する警察を描いた「SF警察もの」も存在する。アルフレッド・ベスターの『分解された男』はテレパシー能力をもつエスパーが存在する世界の犯罪と警察活動を描いている。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "サイバー犯罪のように執筆時点では空想であったが技術の進歩により現実となった例もある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "井沢元彦の『猿丸幻視行』のようにタイムトラベルものの歴史ミステリもある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "ファンタジーミステリとしては、密室で魔法使いが殺されたという事件を扱ったランドル・ギャレットの『魔術師が多すぎる』、マジックアイテムを用いた殺人事件を「嘘看破」の呪文を駆使して捜査する山本弘の『死者は弁明せず』などがある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "現実世界を舞台に幽霊や吸血鬼などオカルト・超自然的要素が絡む作品はオカルト・ディテクティブ・フィクション(英語版)、サイキック・ディテクティブ、スーパーナチュラル・ディテクティブなどと呼ばれ、西澤保彦の『神麻嗣子の超能力事件簿』や城平京の『虚構推理』、漫画では松井優征の『魔人探偵脳噛ネウロ』などがある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "事件そのものの推理よりも暗号やパズルなどの謎解きに重点が置かれる作品。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "ストーリーは重視されず、トリックが解けると結末は数行で纏められたり、そのまま作品が終了しその後が描かれない作品もある。舞台背景も重視されず、謎を成立させるために非現実的な設定(1人は必ず嘘をつき、もう1人は必ず真実を話す双子など)の作品もある。分量が少ないため短編集やショートショート集が多い。アイザック・アシモフの『ユニオンクラブ奇談』シリーズはショートショート集である。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "ゲームブック形式もあり、1936年に発表されたデニス・ホイートリーの「捜査ファイル・ミステリー・シリーズ」は警察の捜査書類や証拠写真のページを読んで、袋とじになった解決編に書かれた犯人を当てるゲームができるようになっている。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "ストーリー性が薄く、数学パズルに簡単な設定を付けたものや、ほぼ論理クイズ(ロジックパズル)となっている作品もある。これらはクイズ集やパズル集として出版されており、多くはクイズやパズルの作家が執筆している。推理作家の作品としてドナルド・ソボルの『2分間ミステリ』シリーズは、短い本文に全ての証拠が提示されおり、それを2分間の制限時間で推理するというクイズを集めた短編集である。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "極端な例として京都大学推理小説研究会はジグソーパズルと推理小説を組み合わせた『推理小説×ジグソーパズル 鏡の国の住人たち』を刊行した。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "子供向け絵本の『いますぐ名探偵 犯人をさがせ!』は、最初から証拠と容疑者の素性提示されており、その情報から犯人を推理することで論理性を養うことを目的としている。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "ジョン・ディクスン・カーの『三つの棺』に収録された『密室講義』や、江戸川乱歩の『類別トリック集成』などトリックの分類や解説をした評論もある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "なお、英語圏での分類である「パズラー(Puzzler)」「パズル・ストーリー(Puzzle Story)」は、ここでいうパズル・ミステリではなく、日本語での分類に則せば本格ものに近い。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "推理小説とも怪奇小説ともつかない奇妙なもので、文学小説として分類されることもある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "推理作家でない作家が書くこともあり、ロアルド・ダールは短編を多数執筆した。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "一般に、社会性のある題材を扱い、作品世界のリアリティを重んじる作風を指す。事件そのものに加え、事件の背景を綿密に描くのが特徴。日本では1960年代から長らく主流が続いた。松本清張の作品がその代表とされる。1990年代以降は高村薫がこの代表である。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "字義としては「新たな本格」であり、ミステリ史上いくつかの使用例があるが、日本では特に、1980年代後半から90年代にかけてデビューした一部の若手作家による作品群を指すことが多い。綾辻行人、有栖川有栖、法月綸太郎等がこの代表である。各作家による差異はあるが、一般に古典的ミステリ(特に本格もの)に倣った作風を特徴とする。ただし「新本格」という用語にはこれ以前にも別の用例があり、またミステリの拡散状況もあって、現在では歴史的な用語に近くなっている。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "推理小説の形式自体を題材にした、あるいは利用した推理小説。曖昧に使われているが、広くいえば言語の自己言及性そのものに謎を見出す作品。小説中にAとBの2つの部分が交互に現れ、Aに現れる登場人物がBを、Bに現れる登場人物がAを執筆しているという合わせ鏡的プロット(有栖川有栖の「学生アリスシリーズ」と「作家アリスシリーズ」等)や、作中作を利用した再帰的構造の一番奥の部分が、全体の枠組みに言及する循環構造プロット、「探偵」「犯人」「ワトスン役」「読者への挑戦状」など推理小説の定義を利用したトリック、「登場人物一覧の虚偽」、著者・編集者・読者など小説外部の人間が犯人など商品としての書物自体を含んだプロットなどが挙げられる。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 184,
"tag": "p",
"text": "本格作品(前述)の〈手がかりをすべて作中に示す〉ことが作中でどのように保証されるかを問題にしたプロット(「本格」としての解決の後、それが実は作中作であって、後日談があって、新たな捜査の進展があって、意外な真相がさらに明らかにされる、など)も含まれ、この種の推理小説自体の枠組みに対し疑念を呈する作品を「アンチ・ミステリー」(反推理小説)と呼ぶことがある。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "日常生活の中でふと目にした不思議な現象などについて、その理由・真相を探るもの。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "犯罪の場合も「教室からある物が無くなった」など警察が関与するほどではない軽微なものであるため、少年探偵が活躍する青春ミステリ(後述)に多く採用されており、ジャンルが重複している。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "代表的な作家に北村薫、加納朋子等がいる。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "主人公もしくはそれに近い人物に、思春期・青年期を迎えた人物を配したミステリ。多くは小説の進行に伴って、主人公およびその周辺の人物の成長が描かれる。学校を舞台とした学園ミステリの多くを包含する。当初ライトノベルやジュブナイル小説のレーベルで発表された推理小説は多くがここに属する。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "古典的な代表作に赤川次郎の『セーラー服と機関銃』、小峰元『アルキメデスは手を汚さない』、栗本薫『ぼくらの時代』等があり、2000年代以降の書き手では米澤穂信、辻村深月などが著名である。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "米澤穂信の「〈小市民〉シリーズ」、「〈古典部〉シリーズ」のような「日常の謎」系の作品から桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』のように陰惨なテーマを扱ったもの、ごく普通の少女だった主人公が如何に推理力を育てたかを描く松岡圭祐の『万能鑑定士Qの事件簿』シリーズまで、作風は幅広く存在している。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "児童文学との境界が曖昧で、はやみねかおるの「名探偵夢水清志郎事件ノートシリーズ」や松原秀行の「パソコン通信探偵団事件ノートシリーズ」は特に低年齢層に支持されている。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 192,
"tag": "p",
"text": "推理要素を持つ海外の作品にはエーリッヒ・ケストナーの『エーミールと探偵たち』、ドナルド・ソボルの「少年探偵ブラウンシリーズ」、1930年から著者を変えて続く「少女探偵ナンシーシリーズ」などの少女探偵ものがあるが、海外では児童文学やジュブナイル小説に分類される。『パイは小さな秘密を運ぶ』から始まるアラン・ブラッドリーの「少女探偵フレーヴィアシリーズ」の邦訳は創元推理文庫から推理小説として出版されている。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 193,
"tag": "p",
"text": "広義には、有名な観光地を舞台にするなど、探偵役が何らかの形で観光に関わる作品を指す。旅先の情景や風土といった旅行記的な要素も人気の一因で、テレビドラマや映画など、映像化に適したジャンルでもあり、その面での傑作も多い。日本では西村京太郎の多作によって、人気ジャンルの一つになっている。主に京都を舞台とした山村美紗の多作と多数のテレビドラマ化もこれに寄与している。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 194,
"tag": "p",
"text": "狭義には、鉄道や航空機などの交通手段を用い、その運行予定表の裏をかいたアリバイ工作の登場する作品。鉄道の場合時刻表を駆使したトリックが使われることが多く「時刻表もの」とも呼ばれるが、車両の構造を利用する例もある。特に日本では鉄道の定時性が極めて高く、国民の間で広く利用されていることが、このジャンルの成立と人気を支えている。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 195,
"tag": "p",
"text": "鮎川哲也が先駆的作品である『ペトロフ事件』で初めて列車の時刻表を用いて以降、時刻表ミステリが定番となった。松本清張は社会派とされるが、代表作のひとつ、『点と線』は、時刻表ミステリの代表的作品といえる。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 196,
"tag": "p",
"text": "海外では公共輸送機関の定時性が日本ほど厳密ではないため時刻表トリックは成立しにくいが、欧米では上流階級がクルーズ客船やクルーズトレインでヨーロッパを旅行するというシチュエーションは自然であるため、『オリエント急行の殺人』のような走行中の列車内で探偵が事件に遭遇する「動く密室」としての利用が多い。このような作品は通常、本格ものに分類される。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 197,
"tag": "p",
"text": "日本における分類の1つで、リアリズムを意図的に無視したトリックなど結末の「バカバカしさを重視するミステリー」と、結末を知って「そんなバカな!!と驚くようなミステリー」の二つを意味が混在している。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 198,
"tag": "p",
"text": "前者の意味での代表作は蘇部健一の『六枚のとんかつ』など。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 199,
"tag": "p",
"text": "読むと嫌な気分になるミステリー、後味の悪いミステリーのこと。社会派、ホラー、青春小説などジャンルは様々である。イヤミスという言葉を最初に使ったのは、霜月蒼とされ、『本の雑誌』2007年1月号で「このイヤミスに震えろ!」というタイトルの連載がスタートしている。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 200,
"tag": "p",
"text": "代表的な作家に湊かなえ、沼田まほかる、真梨幸子、秋吉理香子、歌野晶午、貫井徳郎らがいる。",
"title": "推理小説の分類"
},
{
"paragraph_id": 201,
"tag": "p",
"text": "犯人を捜したり推理する人物を指す用語。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 202,
"tag": "p",
"text": "推理小説では、シャーロック・ホームズのような私立探偵業を営む「名探偵」が登場して事件を解決するのが基本であるが、探偵業者が登場しない作品も多い。このため事件記者、警察官、検事、弁護士、保険調査員など犯罪に多く関わる職業も含め、推理小説における謎を解決する人物の総称として「探偵役」と表記する場合もある。特にその探偵役が主婦や学生など普段は犯罪と関わらない一般人の場合(いわゆる「日常の謎」派の探偵をのぞき)、「素人探偵」や「アマチュア探偵」と呼ぶことがある。「素人」や「アマチュア」とは「事件捜査の専門家ではない者」という意味で、自身の専門分野においては警察や探偵より上という人物もおり、素人探偵が専門知識で事件を解決する作品も多数刊行されている。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 203,
"tag": "p",
"text": "警察から依頼や情報提供を受けるなど協力関係にある探偵も多く描かれており、名探偵エラリー・クイーンはニューヨーク市警察の警視である父の協力を得て事件を解決する。世界初の名探偵とされるC・オーギュスト・デュパンは、知人の警視総監から依頼を受ける隠居者という設定であり、現代では素人探偵に分類される。警察からの依頼も受けるシャーロック・ホームズは「民間諮問探偵」(consulting detective) を自称している。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 204,
"tag": "p",
"text": "探偵役が単独とは限らず『トミーとタペンス』ように探偵がコンビを組む作品もある。また複数の探偵役が独自に推理した結果を終盤で一堂に会し披露し合う『推理合戦』は競争要素も加わり人気であるが、間違った推理を披露する探偵が名探偵のかませ犬として描かれることも多いため不満を持つ読者もいる。アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』シリーズは最初から複数人が集まって議論が行われ、最後に給仕のヘンリー・ジャクスンが真相を明らかにして終わる。『名探偵なんか怖くない』のような推理合戦をパロディとした作品も刊行されている。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 205,
"tag": "p",
"text": "少年達が協力して謎に挑む『探偵団もの』はジュブナイル小説の人気ジャンルであり、はやみねかおるのようにこのジャンルをメインに活動する作家も多い。また、江戸川乱歩の『少年探偵団シリーズ』のように本格ミステリの作家による作品もある。大人向けとしては赤川次郎の『三姉妹探偵団シリーズ』がある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 206,
"tag": "p",
"text": "警察小説では性格の違う刑事がコンビを組んで事件を捜査する『バディもの』が多く刊行されている。映像作品ではバディフィルムというジャンルを形成しており、『X-ファイル』『リーサル・ウェポン』『あぶない刑事』『相棒』などが人気シリーズとなっている。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 207,
"tag": "p",
"text": "終盤になって、物語の幕引きのためだけに登場する探偵役もおり、必ずしも作品の主人公とイコールではない。『名探偵登場』では当初、終盤になってシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンが現れ、それまでスター俳優が演じる探偵たちの推理を全て否定し真相を明らかにして去っていくという展開(デウス・エクス・マキナ)を撮影したが、かませ犬に不満を持ったスターらの反発で別のバージョンが公開された。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 208,
"tag": "p",
"text": "麻耶雄嵩は『貴族探偵シリーズ』で「証拠集めから推理まで全て使用人に任せる」という「なにもしない探偵」、『神様ゲーム』ては序盤で推理過程を飛ばして犯人を指摘する探偵など、探偵の定義を利用したメタミステリ要素の強い作品を多く執筆している。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 209,
"tag": "p",
"text": "法月綸太郎により、「探偵役が提示した解決が真の解決であるかは作中で証明できない」という問題(後期クイーン的問題)が提起されている。これ以降、日本の新本格ミステリでは、不完全な推理しかできない探偵役、作中で推理の完全性が保証された名探偵など、問題を意識した作品が多数登場した。変則的な事例として『虚構推理』の探偵役は事件の真相ではなく「どうやって人々を納得させるか」を目的としており、推測が含まれると断言した上で納得できそうな解決を提示するという作風から議論を巻き起こした。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 210,
"tag": "p",
"text": "探偵役の助手や相棒、物語の語り部となる人物を指す用語。キャラクター類型ではサイドキックに該当する。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 211,
"tag": "p",
"text": "語源は『シャーロック・ホームズシリーズ』において、探偵役のシャーロック・ホームズの相棒であり語り部でもあるジョン・H・ワトスンから。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 212,
"tag": "p",
"text": "シャーロック・ホームズシリーズが商業的に成功した理由の一つとして、ホームズの奇抜な行動や核心となる手がかりをワトスンの視点で描写することにより、ホームズが推理を披露するまで読者の興味を引きつけたままに出来たことがあげられる。この形式はシャーロック・ホームズシリーズ以後、多くの推理小説で踏襲されたため「ワトスンと同等の役割」から「ワトスン役」と呼ばれることとなった。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 213,
"tag": "p",
"text": "単独とは限らず直属の部下や探偵事務所の職員という設定で複数人の場合もある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 214,
"tag": "p",
"text": "医師でもあるワトスンのように専門知識を活かして積極的に手伝う者、完全な傍観者で語り部に徹する者などパターンが様々であるが、探偵役と違い必須の役回りではないため存在しない作品も多い。一方で、シリーズ作品の中には普段ワトスン役の人物が探偵役となるエピソードが執筆されることもある。また探偵役が主人公でワトスン役は毎回別人、逆にワトスン役が主人公で探偵役が毎回別人など、変則的な設定の作品も存在する。ワトスン役が毎回同じで、犯人も毎回同じなのはロード・ダンセイニ(ダンセイニ卿)の初期シリーズ作品。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 215,
"tag": "p",
"text": "ワトスン役が積極的に推理する作品も多く、相沢沙呼の『medium 霊媒探偵城塚翡翠』は探偵役が霊媒で得た真相を元に、ワトスン役が論理的な答えを構築するという設定である。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 216,
"tag": "p",
"text": "犯行を行った者。推理小説では基本的に犯人が不明のまま捜査・推理が行われ、最後に探偵が犯人を指摘することで物語が完結する。本格ものでは読者が犯人を推理するのが楽しみの一つとなっており、著者は様々な工夫で隠匿しているが、推理過程やトリックの解明、推理以外の要素(恋愛など)を重視した作品では犯人当ては重視されず、西村京太郎のように「犯人は印象に残りやすいように印象的な名前にしている」と公言する作家もいる。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 217,
"tag": "p",
"text": "単独とは限らず、既に死亡していることもある。人間ではないこともあり、動物に襲われたという真相も存在する。生物ではなく法律や制度などが真犯人という作品もある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 218,
"tag": "p",
"text": "犯人が主人公という作品の中には自身が犯人だと認識していなかったり、文章を工夫し読者に悟られないようにしているなど、様々なパターンが生み出されている。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 219,
"tag": "p",
"text": "作中の手がかりから推理はできるが名指しされずに終わる作品もあり、東野圭吾の『どちらかが彼女を殺した』は講談社ノベルスから刊行された際に問い合わせがあったため、文庫化に併せて袋とじの解説を追加したが、解説でも明示はされていない。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 220,
"tag": "p",
"text": "鮮やかな手口や犯行予告など劇場型犯罪で厳重な警備下にある美術品を盗み出す者は怪盗と呼ばれ、シリーズものでは探偵や警察とライバル関係という設定も多い。江戸川乱歩の作品群では怪人二十面相が明智小五郎や少年探偵団とライバル関係にある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 221,
"tag": "p",
"text": "犯行が露呈しないようにする企みであるが、同時に「著者が読者に仕掛ける企み」とも捉えられる。推理小説は基本的に「探偵がトリックを見破り犯人を指摘する」形式の作品である。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 222,
"tag": "p",
"text": "物理的、心理的な手段の他、小説という形式自体の暗黙の前提や偏見を利用した叙述トリックもある。また偶然が重なり結果としてトリックとして成立した作品もある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 223,
"tag": "p",
"text": "本格ものではトリックの現実性や厳密さ、それを暴く推理の論理性が重要とされフェア/アンフェアが論争となるが、ジャンルによっては重要視されない。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 224,
"tag": "p",
"text": "外部から侵入できない空間。密室内での犯行(密室殺人)が発生し、犯人がどうやって外へ出たのかを探偵が推理する作品は「密室もの」と呼ばれる。密室殺人は「不可能犯罪」の一種である。特に本格推理小説では様々な工夫を凝らした密室が誕生している。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 225,
"tag": "p",
"text": "1892年に発表された『ビッグ・ボウの殺人』の序文において作者は「これまで出入りできない部屋での殺人を書いた作家はいない」と公言しており、本作が史上初の「密室もの」とされる。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 226,
"tag": "p",
"text": "なお、列車・船舶・航空機など移動中に乗り降りできない場所は「動く密室」と呼ばれるが、後述のクローズド・サークルに分類されるもので「不可能犯罪」に分類されるものではない(ただし、クローズド・サークル内の全員にアリバイがある等、別の要因により「不可能犯罪」の様相を呈することがある)。探偵、被疑者、犯人が「動く密室」から出ないまま解決する作品もある。『ナイルに死す』ではナイル河を、『名探偵が多すぎる』は瀬戸内海を航行する船上で物語が進行する。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 227,
"tag": "p",
"text": "被疑者が犯行に関わっていないことを示す証拠。推理小説では各被疑者のアリバイを検討して矛盾を見つけ、真犯人を指摘する「アリバイ崩し」というプロセスが一般的である。警察小説や法廷ものでは取り調べ時の『アリバイ崩し』が大きなウェイトを占める作品も多い。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 228,
"tag": "p",
"text": "本格推理小説ではアリバイを偽装する様々な手法が考案されている。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 229,
"tag": "p",
"text": "ミステリ用語の枠を越えて、広く一般に定着している言葉でもあるが、「のちの批判をかわすためのアリバイ作り」のように、「建前、弁明」の意味で使われることも多い。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 230,
"tag": "p",
"text": "死亡した人物が死の間際に残したメッセージのこと。一般的には被害者によって犯人を示す目的で残されるが、これを逆手に取って「犯人による改竄や偽装」「記述のミス」「無関係の人物が書いた」などのバリエーションが考案されている。エラリー・クイーンの『シャム双生児の謎』ではダイイング・メッセージにより探偵が誘導されるが、犯人も意図しなかった結末を描いている。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 231,
"tag": "p",
"text": "事件の解明に必要な要素である犯人、犯行方法、動機のうち、どれの解明を重視するかによる分類。この3つの分類は、推理小説の興味の対象が、単なる犯人当てからトリックの面白さへと移り変わり、そして社会派へつながる動機重視に変わっていく、という推理小説の発展史と重なる。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 232,
"tag": "p",
"text": "これらは相反する要素ではなく、二つもしくは全てを追求する作品もある。特に「密室もの」では、密室を構成するトリックの解明と犯行に及んだ人物の推理を平行して行う作品が多い。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 233,
"tag": "p",
"text": "外界とは隔絶された状況下で事件が起こるストーリー。過去の代表例から「嵐の孤島もの」「吹雪の山荘もの」とも呼ばれる。走行中の列車内など「動く密室」もクローズド・サークルに分類される。隔絶された理由を犯人の意図としてプロットやトリックに組み込んだ作品も多い。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 234,
"tag": "p",
"text": "孤立した環境下ということで現実的な警察機関の介入や科学的捜査を排し、また容疑者の幅を作中の登場人物に限定できることから、より純粋に「犯人当て」の面白味を描ける利点があり、本格ものの作者やファンから好まれる傾向がある。シリーズものでは探偵やワトスン役を意図的に引き離す展開にも使われている。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 235,
"tag": "p",
"text": "探偵役やワトスン役も含めて、登場人物は殺人犯(かもしれない人物)と過ごすことになるため、推理よりもサスペンスを重視した作品もある。またホラー、サスペンス、スリラーなど他のジャンルでも使われている。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 236,
"tag": "p",
"text": "途中で外部から救援が来ることでクローズド・サークルが解消される作品もあり、救援に来た警察や医師の協力により必要な証拠が集まる、探偵が推理を披露する直前であり到着した警察は逮捕するだけ、逃げられなくなった犯人が逮捕される前に自殺するなど、様々なパターンが考案されている。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 237,
"tag": "p",
"text": "電話や無線通信、ヘリコプターの実用化により、孤島などでも通信や往来が以前より容易となったことから、「往来は出来ないが電話で探偵や警察のアドバイスが得られる」「何者かにより無線機が破壊された」「天候が回復するx日後にヘリコプターで向かう」など、これらを取り込んだ設定の作品も登場している。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 238,
"tag": "p",
"text": "「犯人が自分の犯行に気付いた相手をやむをえず殺害することになる」などの理由付けによって連続殺人事件へ発展、犯行が進むにつれ生存者が減少し、その中に犯人がいる(はずである)という恐怖を強調する作品もある。また、突き止められた犯人が凶暴化しパニックものへ移行する作品もある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 239,
"tag": "p",
"text": "逆に言えば犯人にとっては「容疑者が限定される状況」で犯行を繰り広げるということであるため、なぜわざわざそうした危険を冒すのかという批判もあるが、それにいかに「合理的な動機」を与えるかもこのジャンルの醍醐味といえる。ストーリーによっては途中で殺害された人間の中に自殺した犯人がいて、その後の犯行は機械的なブービートラップなどにより行われたという結末もある。また犯人が捕まらないように脱出することを目標としている作品もある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 240,
"tag": "p",
"text": "初期の作品であるアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』は孤島で連続殺人が起きる設定である。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 241,
"tag": "p",
"text": "「素人探偵が警察を差し置いて犯人探しに取り組む」という設定を合理化することが容易であることもあってか、素人探偵や少年探偵の活躍する作品にも多く見られる。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 242,
"tag": "p",
"text": "本格ものには「孤島に建つ館の部屋で密室殺人が起きるという」二重構造の作品もある。『すべてがFになる』は孤島の研究所の密室で殺人事件が起きるが、通信が不可能となったためヘリコプターで救援を呼ぼうとするものの不可能となり、自力で通信を復旧させて警察を呼ぶという展開である。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 243,
"tag": "p",
"text": "映像作品では、舞台劇のように1つの場所や状況のみで物語が進行する「ワンシチュエーション」というジャンルがあり、スリラー要素を追加した「ソリッド・シチュエーション」という派生ジャンルも確立している。『キューブ』や『ソウ』のように登場人物が脱出方法を推理するなど謎解き要素が含まれる作品もある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 244,
"tag": "p",
"text": "犯人が死体や現場などをあるものに見立てる殺人のこと。殺人が絡まないものも含めて単に「見立て」とも呼ぶ。古くは江戸川乱歩によって「童謡殺人」と「筋書き殺人」に大別される。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 245,
"tag": "p",
"text": "読者に対し筋立て通りに殺人が行われるという異様な不気味さを狙ったもので本来はプロットに属するが、アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』や横溝正史の『八つ墓村』のように見立て自体がトリックという例も古くからある。この場合には「犯人が偽装のために見立て殺人を装った」「見立てが中途半端で異なるものと認識され推理が迷走する」などがある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 246,
"tag": "p",
"text": "「事件が起きた孤島に伝わる言い伝え通りの死因」「見立てが暗号となっており解くと次の被害者が分かる」など他の要素と組み合わせた作品もある。アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』は孤島ものであると同時に童謡殺人でもある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 247,
"tag": "p",
"text": "通常の推理小説では、まず犯行の結果のみが描かれ、探偵役の捜査によって犯人とトリックを明らかにしていく。しかし倒叙形式では、初めに犯人を主軸に描写がなされ、読者は犯人と犯行過程がわかった上で物語が展開される。その上で、探偵役がどのようにして犯行を見抜くのか、どのようにして犯人を追い詰めるのかが物語の主旨となる。また、犯人の心理を描く時間が多く取れることで、一般的に尺が短くなりがちな動機の描写(通常は解決編の自白のみ)において、なぜ犯行に至ったのかという点を強く描写することが可能であり、犯罪心理小説で多く使われる。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 248,
"tag": "p",
"text": "隠匿に手を尽くす犯人側と推理を巡らす探偵側の視点を交互に描くことで頭脳戦を強調した作品や、終始犯人側の視点で進み、最初は犯罪心理、逮捕されてからは警察もの、裁判が始まると法廷ものとジャンルが変わっていく作品もある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 249,
"tag": "p",
"text": "「どの時点で犯人が失敗したかを推理する小説」としても読めるため、犯人側の視点の描写を工夫する(犯行直後に物語が開始など)ことで読者と探偵役が得られる手がかりを公平とし、探偵役との頭脳戦を疑似体験できるようにした作品もある。漫画作品の『DEATH NOTE』は姿を隠す犯人である主人公と、犯人の正体を探る探偵の視点が交互に描写される。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 250,
"tag": "p",
"text": "英語では「inverted detective story(逆さまの推理小説の意)」「howcatchem(how catch them:どうやって彼(ら)を捕まえるかの意)」と呼ばれる。日本でも後述の『歌う白骨』が発表された黎明期には、馬場孤蝶が「逆の探偵小説」という言葉を使っていたと江戸川乱歩は回顧している。また、倒叙のうち、犯人は示されるがそのトリックや動機などが最後まで明かされないものを「半倒叙」と呼ぶことがある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 251,
"tag": "p",
"text": "オースティン・フリーマンの短編集『歌う白骨』(1912年)でこの手法が初めて用いられた。ただし、ポーも倒叙ミステリとしても読める『黒猫』(1843年)や『告げ口心臓』(1843年)を著しており、ドストエフスキーの『罪と罰』(1866年)も、この形式に類する。推理小説そのものの歴史と同様に、その最初をどこに置くかについては諸説ある。1920年代から1930年代に全盛期を迎え、なかでもフランシス・アイルズ(アントニー・バークリー)の『殺意』(1931年)、F・W・クロフツの『クロイドン発12時30分』(1934年)、リチャード・ハルの『伯母殺人事件』(1934年)は倒叙三大名作と呼ばれた。日本では乱歩が1925年に明智小五郎シリーズの2作目として短編『心理試験』を書いており、また乱歩は後に小論「倒叙探偵小説再説」(1949年)において倒叙作品の代表作に、上記三大作品以外ではイーデン・フィルポッツの『極悪人の肖像』を挙げている。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 252,
"tag": "p",
"text": "映像作品では「大物俳優に犯人役を演じさせたくても、下手をすれば配役だけで犯人がわかってしまうので、目立たないように複数の容疑者役も大物で固める」という予算的に難しい配役や、「演技への影響を抑えるため(真相が明らかになる)最終回まで犯人が誰かを俳優達に明らかにしないことで、犯人とされた役の演技が最終回とそれ以前とで矛盾が生じる」というジレンマを解消できるため、毎回異なる犯人が必要となる連続テレビドラマで多く使われる。特に『刑事コロンボシリーズ』や『古畑任三郎シリーズ』は、大物俳優が犯人役としてゲスト出演することもあり人気シリーズとなった。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 253,
"tag": "p",
"text": "1つの事件に対して、何通りもの解決が並立的に与えられる趣向。どんでん返しの一種。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 254,
"tag": "p",
"text": "探偵が複数いる場合、推理合戦によって提示された異なる解決をそれぞれ検討し、誤答を排除するパートに移行して真相が絞り込まれる。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 255,
"tag": "p",
"text": "推理合戦で多重解決となった後、名探偵が登場して真の解決を提示する作品もある。「黒後家蜘蛛の会」シリーズでは議論が袋小路に陥る一歩手前で、会話を聞いていた給仕が真相を暴くという形式である。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 256,
"tag": "p",
"text": "アントニー・バークリー『毒入りチョコレート事件』のように推理プロセスで各探偵の個性を強調する作品もある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 257,
"tag": "p",
"text": "複数の探偵による推理合戦が基本であるが、三津田信三の『刀城言耶シリーズ』のように単独の場合もある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 258,
"tag": "p",
"text": "どの答えも正解だったり真相か不明なまま終わる作品もある。芥川龍之介の『藪の中』も真相不明のまま終わる多重解決と見ることが出来る。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 259,
"tag": "p",
"text": "作中で探偵役が犯人を指摘する「解決編」の前に「ここまでの部分で、推理に必要な手がかりは全て晒した。さあ犯人(もしくは真相等)を推理してみよ」という文言が挿入される演出があり、これが「読者への挑戦状」と呼ばれる。本格ものでは読者にも推理できるのが暗黙の了解となっているため、あえて書かない作品もある。挑戦状を使う作品では、前後に空白ページを入れたり章を区切る、袋とじにするなどして解決編が目に入らないようにする、挑戦状風のイラストや特殊なフォントを使うなど視覚的な演出を行う作品もある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 260,
"tag": "p",
"text": "J・J・コニントンが1926年に発表した『或る豪邸主の死』で用いたのが最初であるが、エラリー・クイーンが1929年に『ローマ帽子の謎』から始まる『国名シリーズ』で使ったことでで広く知られるようになり、他の作家も追随した。読者への挑戦状の後に続く解決編を袋とじとしたミステリは、1936年に発表されたデニス・ホイートリーの『マイアミ沖殺人事件』が初とされ、日本語訳では1959年に刊行されたビル・S・バリンジャーの『消された時間』とされる。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 261,
"tag": "p",
"text": "『国名シリーズ』、有栖川有栖の『学生アリスシリーズ』、横溝正史の『蝶々殺人事件』、高木彬光の『呪縛の家』、『人形はなぜ殺される』、東野圭吾の『どちらかが彼女を殺した』、『私が彼を殺した』のように本文で明示する作品もあるが、作者が「解決編の前で証拠が出揃っている」「読者の視点で推理可能」と序文や後書きで書いたり、インタビューで聞かれた際に答えたりするだけなど態度は様々である。読者への挑戦状が恒例となったシリーズでも挿入されないことがあり、『国名シリーズ』は9作品中『シャム双生児の謎』のみ挿入されていない。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 262,
"tag": "p",
"text": "雑誌連載では解決編まで掲載すると単行本が売れないことがあるため、西尾維新の『きみとぼくの壊れた世界』のように、推理できる証拠が揃う段階まで連載し、解決編は単行本にのみ掲載する例もある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 263,
"tag": "p",
"text": "正解者に懸賞金やプレゼントが用意されることもあり、坂口安吾は『不連続殺人事件』の連載時に犯人を当てた者に解決編の原稿料を進呈すると発表した。また読者だけでなく、大井廣介、平野謙、荒正人、江戸川乱歩ら文人を指名した挑戦状も載せた。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 264,
"tag": "p",
"text": "古典的な本格ものの特徴とされるが、「変格」でも読者への挑戦状を載せる作品があり、メタミステリではトリックとして使われることもある。泡坂妻夫の『生者と死者―酩探偵ヨギ ガンジーの透視術―』は14箇所の袋とじがあり、そのまま読むと短編集、袋とじを開けると長編ミステリになるという仕掛けがある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 265,
"tag": "p",
"text": "犯人当て以外にも、パトリシア・マガーや貫井徳郎の『被害者は誰?』の「被害者当て」、都筑道夫による遺体の「発見者当て」などがある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 266,
"tag": "p",
"text": "類似した仕掛けとしてビル・S・バリンジャーの『消された時間』の他にも『歯と爪』において、結末部分が袋とじとなっており「意外な結末が待っているが、未開封であれば返金に応じる」という文言を記している。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 267,
"tag": "p",
"text": "犯行の手口が露見せずに犯人が捕まらない犯罪。推理小説では探偵が犯人を指摘できずに終わる作品もある。偶然が重なって証拠が消え推理が不可能となった、無関係の人間が冤罪で犯人とされる、発覚はしないが事故で真犯人が死亡するなど様々なパターンがある。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 268,
"tag": "p",
"text": "江戸川乱歩は『赤い部屋』において手段として確実性はなく偶然性に頼るものの完全犯罪となるトリックを「プロバビリティーの犯罪」と命名し、作中で複数のトリックを登場させている。",
"title": "推理小説の用語"
},
{
"paragraph_id": 269,
"tag": "p",
"text": "日本ではかつて英語の“Detective Novel”、“Detective Fiction”の訳語として探偵小説が用いられていたが、第二次大戦後、「偵」の字が当用漢字に入れられなかったため、「探てい小説」と混ぜ書きで書くことになった。しかし、これを「みっともない」として「推理小説」という言葉が作られ、一般的になった。1946年に雄鳥社が『推理小説叢書』を発刊した時に、その監修者の木々高太郎が命名したという説もある。「偵」の字は1954年の当用漢字補正案で当用漢字に入れられたが、既に「推理小説」という言葉が広まっており、「探偵小説」に戻されることはなかった。「探偵小説」は、ジャンル名としては廃れていったものの、ロマン的な響きを持つため、未だ愛用している者も多い。または「名探偵」による推理と解決が中心であった時期の作品に限定して使うこともある。",
"title": "ジャンル名"
},
{
"paragraph_id": 270,
"tag": "p",
"text": "なお、創始者のポー自身も似たような名前の「推理物語(tales of ratiocination)」と呼んでいた。",
"title": "ジャンル名"
},
{
"paragraph_id": 271,
"tag": "p",
"text": "また、「ミステリー小説」(あるいは「ミステリ小説」)、もしくは単に「ミステリー(ミステリ)」とも呼ばれる。",
"title": "ジャンル名"
},
{
"paragraph_id": 272,
"tag": "p",
"text": "イタリアではジャッロ(giallo, 黄色(黄表紙)、あるいは複数形でジャッリgialli)と呼ばれるジャンルに含まれる。フランスでは一般的にロマン・ポリシエromans policiersと呼ぶが、特にガリマール社刊行の推理小説シリーズを指してセリー・ノワールserie noire(黒いシリーズ)とも呼ぶ。",
"title": "ジャンル名"
},
{
"paragraph_id": 273,
"tag": "p",
"text": "推理小説を著す作家は推理作家、ミステリ作家などと呼ばれる。推理小説を専業にする作家と、他のジャンルの小説をも同時に手がける作家との2つに大きく分けられる。近年では、作家本人は推理小説を書いている意識がないのにも関わらず、読者や評論家から推理作家に分類される場合があるなど、書き手と読み手との意識のずれもみられる。前述のようにパズル・ミステリを執筆しているのはパズルやクイズ作家が多く、推理作家に分類されることはない。",
"title": "推理作家"
},
{
"paragraph_id": 274,
"tag": "p",
"text": "日本以外における推理小説の賞あるいは推理作家団体が主催する賞については、「推理小説の賞#日本以外」もしくは「推理作家#推理作家の団体」を参照",
"title": "推理小説の賞"
}
] | 推理小説(すいりしょうせつ)は、小説のジャンルのひとつ。主として殺人・盗難・誘拐・詐欺等なんらかの事件・犯罪の発生と、その合理的な解決へ向けての経過を描くもの。小説以外にも漫画やアニメ、映画やドラマ、ゲームなどさまざまなメディアに展開されるミステリーというジャンルの元になった。 | {{Otheruses|小説のジャンルの一つ|[[秦建日子]]が2004年に発表した小説で[[2006年]]に放送されたドラマ「[[アンフェア]]」の原作|推理小説 (小説)}}
{{Pathnavbox|
* {{Pathnav|小説}}
* {{Pathnav|ミステリ}}
}}
'''推理小説'''(すいりしょうせつ)は、[[小説]]の[[ジャンル]]のひとつ。主として[[殺人]]・[[盗難]]・[[誘拐]]・[[詐欺]]等なんらかの[[事件]]・[[犯罪]]の発生と、その合理的な解決へ向けての経過を描くもの<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%8E%A8%E7%90%86%E5%B0%8F%E8%AA%AC-83189 推理小説(すいりしょうせつ)とは] - [[コトバンク]]</ref>。小説以外にも漫画やアニメ、映画やドラマ、ゲームなどさまざまなメディアに展開される[[ミステリ|ミステリー]]という[[ジャンル]]の元になった。
== 概要 ==
「推理小説」という名称は[[木々高太郎]]が[[雄鶏社]]にて[[科学小説]]を含む広義の[[ミステリ]]叢書を監修した際、[[江戸川乱歩]]や[[水谷準]]に提案されて命名したものと伝えられる<ref name=yamamura>[[山村正夫]]『推理文壇戦後史』p.87([[双葉社]]、[[1973年]])</ref>。このほか'''探偵小説'''(たんていしょうせつ)、'''ミステリー小説'''(ミステリーしょうせつ)、'''サスペンス小説'''(サスペンスしょうせつ)という呼び名もあるが、前者の名称は「偵」の字が[[当用漢字]]制限を受けたためにあまり用いられなくなった<ref name=yamamura/>。[[犯罪#犯罪とフィクション|犯罪小説]]と重なる部分もあるが、完全に同義という訳ではない。
== 誕生と発展 ==
=== 推理小説誕生の前提となる社会状況 ===
世界初の推理小説は、一般的には[[エドガー・アラン・ポー]]の短編小説『[[モルグ街の殺人]]』(1841年<ref>『グレアムズ・マガジン[[:en:Graham's Magazine|(英語版)]]』1841.4</ref>)であるといわれる。しかし[[チャールズ・ディケンズ]]もポーに先立ち、同年1月から連載を開始した半推理・半犯罪小説の『バーナビー・ラッジ』(1841年)を書いている他、100年ほど前に書かれた[[ヴォルテール]]の『ザディグ』(1747年)の一編「王妃の犬と国王の馬」も推理に重きが置かれている。さらには『[[カンタベリー物語]]』、『[[デカメロン]]』、[[聖書]][[外典]]『[[ダニエル書補遺]]』の「ベルと竜」<!--や[[ヘロドトス]]の『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』-->などにも推理小説のような話が収録されており、どこに端を発するかという議論は尽きない。
ただ、確実に言えるのは、[[1830年代]]の[[イギリス]]に[[警察]]制度が整い、犯罪に対する新しい感覚が生まれたということである。この頃一世を風靡した『ニューゲイト小説』[[:en:Newgate novel|(英語版)]]<ref>{{Cite journal|和書|author=[[北條文緒]] |date=1977-03 |url=https://twcu.repo.nii.ac.jp/records/26423 |title=ニューゲイト・ノヴェルとその背景 |journal=東京女子大学紀要論集 |ISSN=04934350 |publisher=東京女子大学 |volume=27 |issue=2 |pages=83-115 |CRID=1050001337660421632}}</ref><ref> 研究書として北條文緒による『ニューゲイト・ノヴェル : ある犯罪小説群』がある(1981年 研究社選書14 ISBN 978-4327342142)。</ref>は、[[ニューゲート監獄]]の発行した犯罪の記録『[[ニューゲート・カレンダー]]』<ref>日本語訳は、藤本隆康 訳『ニューゲイト・カレンダー大全 全5巻』がある。藤本隆康 訳『ニューゲイト・カレンダー大全 全 5巻』 大阪教育図書株式会社、第1巻:2003年 7月 ISBN 978-4271114635、第2巻:2004年12月 ISBN 978-4271114666、第3巻:2005年12月 ISBN 978-4271114680、第4巻:2006年11月 ISBN 978-4271114741、第5巻:2006年12月 ISBN 978-4271114789 </ref>を元に書かれた犯罪小説であり、後の近代推理小説が生まれる基盤を作ったと言える。
[[権利]]と[[義務]]の体系が整い、[[司法]]制度や[[基本的人権]]がある程度確立した社会であることも、推理小説に欠かせない要素であろう。
推理小説というジャンルにとって警察組織の存在は大きい。法を手に[[犯罪者]]を捕らえる新しい形のヒーローが誕生したからである。その裏側には、急速に[[都市化]]が進むイギリスで、一般市民が都市の暗黒部に対し抱く不安が高まっていた、という歴史的事実がある。そして都市化に伴うストレスのはけ口として、「[[殺人事件]]」という素材の非日常性が必要とされていたという見方もある。
===発展とメディアの越境===
推理小説が誕生した後、様々なアイデアが生み出されてきた。そして下記に挙げられるような[[ミステリ]]における「基礎・応用などの土台」が作られたのである。また、科学・医学が進歩するにつれて、それらの知識を用いたトリックなどが次々と考え出された。
また、ミステリの手法は[[小説]]にとどまらず、映画・ドラマ・舞台・漫画・ゲームなど多様なメディアに波及してきた。
==歴史==
=== ポー以前 ===
『モルグ街の殺人』以前にも推理要素を含む文学は存在していた。
==== 旧約・新約聖書 ====
『[[旧約聖書]]』「[[歴代誌|列王記略]]上」第3章には[[ソロモン|ソロモン王]]が裁判で名判決を下す話があり、[[聖書]][[外典]]『[[ダニエル書補遺]]』にも「スザナの物語」「ベルと竜」のようなミステリ仕立ての説話が含まれている<ref>早川書房『名探偵登場1』巻末解説(ハヤカワポケットミステリ250、1956年)</ref>。
==== 古典文学 ====
[[ウェルギリウス]]の『[[アエネーイス]]』には、[[ギリシャ神話]]の英雄ソクラテスが、盗賊カークスに盗まれた牛を、偽の手がかりを回避しながら見事に探し出す挿話がある。
また、『[[カンタベリー物語]]』、『[[デカメロン]]』、[[ヘロドトス]]の『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』などにも推理小説のような話がある。
==== アラビアン・ナイト ====
最古の例の探偵小説:『[[千夜一夜物語]]』の「[[千夜一夜物語のあらすじ#斬られた女と三つの林檎と黒人リハンとの物語(第18夜 - 第24夜)|3つの林檎の物語]]」 (The Three Apples) である。
==== ポー以前の西洋文学 ====
[[ミゲル・デ・セルバンテス]]の『[[ドン・キホーテ]]』(1605年)には、債権者と債務者の言い分のどちらが正しいか[[サンチョ・パンサ]]が裁判長として名判決を下すエピソードがある。
[[ヴォルテール]]の『ザディグ』(1747年)の一編「王妃の犬と国王の馬」も推理に重きが置かれている。[[ボーマルシェ]]『[[セヴィリアの理髪師]]』(1775年)には、謎解き推理小説の要素が含まれる。
[[ヴィドック]]の『回想録』(1823年)はポーのデュパン探偵ものに影響を与えた。[[大デュマ]]『ポール船長』(1838年)は冒険ミステリの色彩が強く、のちの[[アーサー・コナン・ドイル|ドイル]]の一連の海洋奇談ものにも通じる。
{{節スタブ}}
=== 欧米 ===
==== 推理小説の誕生 ====
1841年、アメリカの[[エドガー・アラン・ポー]]が発表した短編『モルグ街の殺人』が推理小説の始まりだとされる。[[チャールズ・ディケンズ]]の『バーナビー・ラッジ』も純粋な推理小説ではないが、作中にミステリー要素がある。未完に終わったディケンズ晩年の『エドウィン・ドルードの謎』は、のちに多くの作家が「解決編」の作成を試みている。
1866年、[[エミール・ガボリオ]]は仏訳されたポーの作品群に影響を受け、世界最初の長編推理小説『[[ルルージュ事件]]』を発表。
イギリスでは[[ウィルキー・コリンズ]]が、1860年にスリラーの大長編『[[白衣の女|白衣(びゃくえ)の女]]』、1862年には謎をテーマにし、ミステリに近い長編『無名(ノーネイム)』を出版した。そして1868年に、「英語で書かれた初の長編推理小説」といわれる『[[月長石 (小説)|月長石(月神の宝石)]]』<ref group="注">厳密には、作中に登場する「ムーンストーン」は月長石ではなく、黄色い透明の[[ダイヤモンド]]である。</ref> を発表している。
1878年、[[アンナ・キャサリン・グリーン]]は、処女長編『リーヴェンワース事件』を出版、世界で初めて長編推理小説を書いた女性と言われている<ref group="注">シーリー・リジェスター著『The Dead Letter』(1866年)が先という異説あり。</ref>。また、ヴァイオレット・ストレンジというフィクションにおける「世界初の女探偵」(世界初の女刑事は[[バロネス・オルツィ]](オルツィ女男爵)が創造したレディ・モリー)が活躍する短編集でも知られる。
1882年、[[リチャード・ストックトン (作家)|リチャード・ストックトン]]は、『[[リドル・ストーリー|女か虎か]]』を発表し反響を呼ぶ。物語中に謎が提示され、解決は読者に委ねるという[[リドル・ストーリー]]の典型として有名である。他の作品に「三日月刀の促進士」などがある。
[[ガストン・ルルー]]の『[[黄色い部屋の秘密]]』は、フランスの挿絵入り新聞『[[イリュストラシオン]]』で連載され、密室ものの古典とされる。続編として『黒衣夫人の香り』が存在する。
==== 名探偵登場 ====
[[ファーガス・ヒューム]]には質屋のジプシー女性をシリーズ・キャラクターにした『質屋のヘイガー』 (Gypsy Detective Hagar Stanley) の一連の作品群がある。ほかには、章ごとに主役や視点が変わる長編『二輪馬車の秘密』は当時の英国でベストセラーを記録した。[[ケネス・ウィップル]]は様々な雑誌に作品を発表した短編メインの作家だが、長編『鍾乳洞殺人事件』では変わり者のアーシー博士が、担当の警部を無視して勝手に捜査を進めてしまう内容で、[[横溝正史]]の[[金田一耕助]]シリーズに影響を与えている。また『ルーン・レイクの惨劇』では事件発生後ではなく、探偵や関係者(読者も)の目前で殺人が描かれる 趣向を見せた<ref>『昭和ミステリ秘宝 横溝正史翻訳コレクション 鍾乳洞殺人事件 / 二輪馬車の秘密』解説</ref>。
[[キャロライン・ウェルズ]]は処女長編『手がかり』を皮切りに、フレミング・ストーンという「シリーズものキャラクター探偵」が登場する長編ミステリを70作も出版し、「同一作家による長編への最多登場の探偵」となった。
(法廷ものでは[[E・S・ガードナー]]のペリー・メイスン弁護士が82長編で最多。ノンシリーズも含めると[[ジョン・ロード]]が140長編を超す。14のシリーズ探偵を持つ[[ジョン・クリーシー]](別名 J・J・マリック ''[[:en:John Creasey|John Creasey]]'' )は、「トフ氏」シリーズ58長編、「ギデオン警視」シリーズ21長編をはじめ総計562長編<ref group="注">『トフ氏と黒衣の女』論創社 論創海外ミステリ1(2004年)裏表紙解説。クリーシーは12のペンネームを使い、短編集と非ミステリの普通小説も合わせると、出版された作品は600冊を超す。</ref>。)
また、ジョン・ラッセル・コリエルは、[[ニック・カーター|ニコラス・カーター]]名義で1886年に「探偵[[ニック・カーター]]」が登場する作品を、ニューヨーク・ウィークリー誌で発表。その後、多くの作家がニコラス・カーターのハウスネームでシリーズを書き続けた。100年以上続く探偵ニックものは、その大半が長編である。
同様に、英国でも1893年にハリー・ブリスが探偵「[[セクストン・ブレイク]]」の冒険を描く『失踪した百万長者』を発表<ref>『ハーフペニー・マーベル(Halfpenny Marvel)』誌6号(1893年12月10日)</ref>。ブレイクものは異なった作者により、複数の名義で70年以上書き続けられたが、こちらはニックものとは対照的に短編がほとんどである(アプルビー警部を創作した[[マイケル・イネス]]が書いた短編もある)。
==== ホームズとライヴァルたち ====
1879年、[[アーサー・コナン・ドイル]]が、処女作の短編『ササッサ谷の怪』をチェンバーズ・ジャーナル誌10月号で発表。これはホームズものではなかった。1887年には「名探偵」の代表とも言える[[シャーロック・ホームズ]]の長編第1作『[[緋色の研究]]』を、ワードロック社のピートン誌クリスマス号にて発表。ホームズものは、1927年の短編『ショスコム荘』まで書き続けられた。
ホームズもの作品は長編より短編が圧倒的に多く、同時代には、[[アーサー・モリスン]]、[[アーネスト・ブラマ]]、[[ジャック・フットレル]]、[[メルヴィル・デイヴィスン・ポースト]]、[[オーガスト・ダーレス]]、[[ギルバート・キース・チェスタトン]]などが独自のキャラクター探偵の活躍する短編を発表し、彼らの創造した探偵は「[[シャーロック・ホームズシリーズ関連作品|ホームズのライヴァルたち]]」とも呼ばれることがある。
==== 怪盗もの、犯罪小説、倒叙など ====
一方、フランスの[[モーリス・ルブラン]]が1905年、短編『アルセーヌ・ルパンの逮捕』で探偵とは逆の立場に属する主人公である「怪盗もの」の執筆をはじめ、30年にわたって怪盗ルパンは長短編に登場することとなった。
そして[[パトリシア・ハイスミス]]は、名探偵ではなく「[[犯人]]」をシリーズ・キャラクターに起用し、完全犯罪をたくらむ殺人犯リプリー青年が毎回主人公の『太陽がいっぱい』からはじまる長編5作を発表し、映画化もされている<ref group="注">『[[太陽がいっぱい (映画)|太陽がいっぱい]]』(1960年)および『[[リプリー (映画)|リプリー]]』(1999年)</ref>。
また、『[[キングコング]]』で知られる[[エドガー・ウォーレス]]は、『[[正義の四人]]』を筆頭に、探偵・刑事と殺人者・悪漢の両陣営で十指に余るシリーズ・キャラクターを創造した。
犯人の側から犯罪を描写する「倒叙」ものは、[[オースティン・フリーマン]]の短編集『[[歌う白骨]]』が有名だが、毎話ごとに当然ながら犯人が変わっており(探偵は毎回同じソーンダイク博士。また殺人犯が逃亡したり、未遂に終わる、被害者側が許すなど、犯人が罰せられない作品もあるのが本作品集の特徴。)、[[フリーマン・ウィルス・クロフツ]]の短編集『[[殺人者はへまをする]]』および『[[クロイドン発12時30分]]』や[[ロイ・ヴィカーズ]]の「迷宮課」シリーズを経て、現代のレビンソンとリンク共作の『[[刑事コロンボ]]』に至るミステリの定番ジャンルのひとつになっている。
「[[被害者]]」を主人公に起用したミステリとしては、[[グラント・アレン]]の『アフリカの百万長者』が挙げられる<ref group="注">詐欺師のクレイ大佐のシリーズとも言えるが、表題は騙される大富豪チャールズ・ヴァンドリフトを指し、物語も被害者側からの視点で語られている。</ref>。
変り種では、いくつもの筆名でシリアスとコミカルの作風を使い分ける[[ドナルド・E・ウェストレイク]]が『殺人はお好き?』で、「[[容疑者]]」を主人公に、事件担当の刑事が抱える別の難事件を次々に解決していく趣向の連作集を発表している。
「[[語り手]](記述者)」が主人公になっている作品としては、[[ロード・ダンセイニ]](ダンセイニ卿)の短編集『スミザーズの話』<ref group="注">表題は調味料セールスマン(行商人)のスミザーズが語る物語を意味する。彼が出会った殺人や、引退した警部から聞いた事件を語るもの。日本では第一短編『[[二壜の調味料]]』が多くのアンソロジーに収録。</ref> が挙げられる。ウィルキー・コリンズの長編および中短編では、章や巻ごとに語り手が交代する作品が多い。
「[[読者]]」を主人公にする趣向は、[[フレドリック・ブラウン]]が連作短編集『真っ白な嘘』で試みている。
「[[作者]]」を文体などから読者に当てさせる趣旨の[[アンソロジー]]は、エラリー・クイーン編「読者への挑戦」やアイザック・アシモフ編「新・読者への挑戦」がある。
==== 本格長編の黄金時代 ====
短編中心だった推理小説の世界は、1913年に[[E・C・ベントリー]]が、長編『トレント最後の事件』でミステリに恋愛要素を盛り込んだ趣向の作品を発表すると、多くの作家により長編推理小説の名作が次々と発表され、のちに「黄金時代」と呼ばれる長編全盛期を迎えた。
[[アール・デア・ビガーズ]]は1925年に長編『鍵のない家』を発表。中国人探偵チャーリー・チャンは、[[ケイ・ルーク]]の当たり役となった数十本の映画や、新聞の連続漫画にも登場する人気を獲得した。「[[ノックスの十戒]]」で有名な[[ロナルド・ノックス]]は、保険会社の事件調査員という珍しい設定のマイルズ・ブリードンを探偵役に起用した。
[[アガサ・クリスティ]]の『[[オリエント急行の殺人]]』における旅客列車の車両内、『[[そして誰もいなくなった]]』の孤島、『[[雲をつかむ死]]<ref group="注">英米版で原題が異なるため、「大空の死」の邦題もあり。</ref>』の旅客機といった「[[クローズド・サークル]](閉ざされた空間)もの」、[[ヴァン・ダイン]]の『[[僧正殺人事件]]』の「見立て殺人」、[[エラリー・クイーン]]の『[[Xの悲劇]]』から始まる「ダイイング・メッセージ(死に際の伝言)」、[[ディクスン・カー]]が得意とする『[[三つの棺]]』に代表される「密室もの」および、『[[深夜の密使]]<ref group="注">1934年の最初の歴史ミステリ Devil Kinsmere を後年書き直した長編</ref>』から書き始められた一連の、過去を舞台にした「歴史ミステリ」など様々なジャンルの長編推理小説が発表され、「本格」「フーダニット(犯人当て)」「パズラー」等と称される傑作群が続いた。
ヴァン・ダイン、カー、クイーンにはラジオ・ドラマ脚本も多く、日本でも20世紀末まで[[AFN|FEN]](米軍放送ラジオ)の平日番組『Radio Mystery Theater』([[E・G・マーシャル]])で過去の放送が聴取できた(カーの『[[B13号船室]]』は特に有名で複数の出版社から英語の学習教材としても出版された)。
カーの『髑髏城』は、本格ものでは珍しく[[ドイツ]]を舞台にした長編である<ref group="注">ドイツ・北欧ミステリが流行するのは21世紀(早川書房で翻訳が増え、ミステリマガジンで特集)</ref>。ジョルジオ・シェルバネンコ (''[[:it:Giorgio Scerbanenco|Giorgio Scerbanenco]]'' )の長編『傷ついた女神』は[[イタリア]]が舞台になっている。ヤーン・エクストレムは「[[スウェーデン]]のカー」とも呼ばれ、『誕生パーティの17人』『うなぎの罠』ほか密室殺人を扱った作品が多い。[[F・W・クロフツ|クロフツ]]の『フローテ公園の殺人』は、[[南アフリカ]]での事件を扱っている。[[トマス・S・ストリブリング]]のイタリア系心理学者・ポジオリ教授ものは、キュラソー、[[ハイチ]]、 [[ヴァージン諸島]]など[[カリブ海]]諸国を歴訪し、事件に遭遇する(読者でも気付くトリックに教授が最後まで解らなかったり、殺人者が逃亡してしまったりするなど、教授の敗北に終わる中編が複数ある)<ref>『カリブ諸島の手がかり』(国書刊行会 世界探偵小説全集15)巻末解説</ref>。
クリスティには『うぐいす荘([[ナイチンゲール荘]])』のようなスリラー作品もある。彼女の「[[パーカー・パイン]]」の初期短編は、[[コンゲーム]]ものの古典ともいわれる。[[イーデン・フィルポッツ]]はクリスティの隣家に住んでおり、種々の助言をしたという<ref>『アガサ・クリスティー自伝 上』(ハヤカワ文庫 クリスティー文庫)など</ref>。フィルポッツは58歳で推理小説を書き始め<ref group="注">それまでは、「ダートムア小説」とも呼ばれる一連の「田園小説」で有名。推理もの第一長編『灰色の部屋』の前に、ミステリ要素のある『吝嗇家の隠し金』(1920年)があるが未訳</ref>、98歳の『老将の回想』(''There Was an Old Man'' )まで推理長編<ref>『''Twentieth Century Crime & Mystery Writers ''』by John M. Reilly (St James Guide 1980)</ref> を執筆し続けた<ref group="注">『大統領殺人事件』を書いたジョルジュ・ミシェルの100歳が最高齢と言われる(『[[赤毛のレドメイン家]]』解説:[[長谷部史親]]・[[折原一]])</ref>。[[ドロシー・L・セイヤーズ|ドロシー・セイヤーズ]]にも『疑惑』というホラー短編がある。
フィルポッツとは対照的なのが[[ジェイムズ・ヤッフェ]]で、15歳の時に短編『不可能犯罪課』を発表し、3年後の『喜歌劇殺人事件』まで連作短編6作品を書いた。長編は「メサグランテのママ」シリーズがある。ティモシー・フラーも、[[ハーバード大学]]在学中に21歳で『ハーバード大学殺人事件』で作家デビュー。探偵役ジュピター・ジョーンズが、主に同大学やその同窓会で起きた事件を解決するシリーズになっている。女性二人の合同ペンネームである[[ロジャー・スカーレット]]はミステリ作家としての活動期間が短く寡作ながら、江戸川乱歩が高く評価し『エンジェル家の殺人』を『三角館の恐怖』に翻案している。
[[ルーパート・ペニー]](''[[:en:Rupert Penny|Rupert Penny]]'' )は『おしゃべりな警官」から始まるビール主任警部もの8長編に、クイーンを思わせるような「読者への挑戦状」を挿入した。
「オベリスト三部作」<ref group="注">「オベリスト」とは「疑問を抱く人」を意味する作者の造語(エラリー・クイーン『クイーンの定員』1951年)</ref>のチャールズ・デイリー・キング(''[[:en:Charles Daly King|Charles Daly King]]'' )は『海のオベリスト』で「探偵役が登場人物のうち誰か判らない」、『[[空のオベリスト]]』で「シリーズ探偵が事件解決に失敗する」という工夫を見せているほか、長編の巻末に「手がかり索引」を置き事件を振り返ることができる。ブライアン・フリン(''[[:en:Brian Flynn|Brian Flynn]]'' )は「英国のファイロ・ヴァンス」とも呼ばれるアンソニー・バサーストを探偵役に50冊を超す長編を発表した。邦訳は『角のあるライオン』(1933年)しか訳されていないが、本国では現在もペーパーバックが売られている<ref group="注">Dean Street Press社では電子書籍でも購買可能。</ref>。
==== ポスト黄金時代と新本格派 ====
黄金時代からその少し後に登場したトリッキーな作家群を、江戸川乱歩は「新本格派」と命名している<ref group="注">20世紀末の日本で[[綾辻行人]]を嚆矢とした、海外のクイーンやカーを再現したような「本格」派を、海外作家と区別して「日本の新本格派」とも呼ばれることがある</ref>。
[[ベルギー]]の[[スタニスラス=アンドレ・ステーマン]]、アイルランドの[[ニコラス・ブレイク]]、英国の[[クリスチアナ・ブランド]]、[[リチャード・ハル]]、[[アントニイ・バークリー]]、[[エドマンド・クリスピン]]、[[エリザベス・フェラーズ]](''[[:en:Elizabeth Ferrars|Elizabeth・X・Ferrars]]'' )、[[レオ・ブルース]]らが、独自の作風で創意工夫に満ちた異色作を発表した。
==== 変格もの、スパイ小説とサスペンス ====
「本格」に対して、「変格」といわれる作品の一つが、[[パット・マガー|パトリシア・マガー]]の『[[被害者を捜せ|被害者を捜せ!]]』『探偵を捜せ!』等の、犯人はわかっていて被害者・探偵・目撃者などを推理させるといった、推理小説の枠にとどまらないユニークな形式(変格推理)の長編作品である。マガーは女[[スパイ]]を主人公にした「セレナ・ミード」ものも著名で映画にもなっている。スパイものでは「[[ジェームズ・ボンド]]」シリーズの[[イアン・フレミング]]が有名だが、他に[[エリック・アンブラー]]の『ディミトリオスの棺』や[[フレデリック・フォーサイス]]による『[[ジャッカルの日]]』、[[グレアム・グリーン]]『ハバナの男』、ほか多数の日本語訳がある。
さらに、トリックや謎解きよりも主人公や登場人物の心理描写に重点を置く「サスペンス」の作品をアメリカの[[コーネル・ウールリッチ]]が多数発表。代表作が[[ウィリアム・アイリッシュ]]名義の長編『[[幻の女]]』で、冒頭の書き出しも有名である。短編『[[裏窓]]』は映画の原作に採用された<ref>[[アルフレッド・ヒッチコック]]監督『裏窓』(1954年)</ref>。[[アレクサンダー・ゴードン|アレックス・ゴードン]]の『アラベスク』も映画化されている<ref>ハヤカワ・ミステリ(A Hayakawa Pocket Mystery Book)949『アラベスク』(1961年)</ref>。
英国では、[[パトリック・クェンティン]](のちアメリカに渡る)のウェッブ主導の初期作品は本格色が強かったが、コンビのうちホイーラー中心の後期はサスペンス色が濃くなった。[[ルース・レンデル]]も「ウェクスフォード警部」シリーズの本格推理と、バーバラ・ヴァイン名義でのサスペンスの両系統で傑作群<ref group="注">バーバラ・ヴァイン名義のサイコスリラー長編はCWA賞ゴールド・ダガー賞を複数回受賞している。</ref> を発表した。 フランスでは[[ボワロー=ナルスジャック]](『[[めまい (映画)|死者の中から]](めまい)』)や[[カトリーヌ・アルレー]](『わらの女』)、[[セバスチアン・ジャプリゾ]](『雨の訪問者』)などが「サスペンス」ものを多く発表している。
[[ジョセフィン・テイ]]は女性の心理描写に長けた作家だが、『[[時の娘]]』において舞台は現代ながら探偵役が病院のベッドの上で、文献のみから歴史上の事件を解決する手法を採っている。彼女と混同されがちな『病院殺人事件』など、医療ミステリのジョセフィン・ベル(''[[:en:Josephine Bell|Josephine Bell]]'' )は、イギリス推理作家協会(CCA)の創立当初からのメンバーであり、会長職も務めた。[[アンドリュウ・ガーヴ]](''[[:en:Andrew Garve|Andrew Garve]]'' )は謎解き・冒険・警察ものと多彩な作風を使い分けるが、『ヒルダよ眠れ』からはサスペンス基調の作品が多くなった。
==== 他ジャンルの作家によるミステリ ====
のちに児童文学の大家となる[[A.A.ミルン|アレキサンダー・ミルン]]は『[[くまのプーさん]]』の前に、『[[赤い館の秘密]]』ほか数点のミステリを発表している。 [[ジェームズ・ヒルトン]]も『[[チップス先生さようなら]]』の前に『学校の殺人』を書いている。SFの巨匠[[アイザック・アシモフ]]には『[[黒後家蜘蛛の会]]』シリーズがある。『[[宝島]]』の[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン|ロバート・スティーヴンソン]]もミステリ要素の多い『[[新アラビア夜話]]』(「自殺クラブ」<ref>光文社文庫『クイーンの定員 I』(1992年)などに収録。</ref>)を書いている。
ヴォードヴィル劇作家の[[パーシヴァル・ワイルド]]は、『検屍裁判』をはじめとするリーガル推理長編や、トランプいかさま師パームリーが主人公のカードミステリ『悪党どものお楽しみ』などでも知られる。チェコ語の翻訳者である[[イーディス・パージター|エリス・ピーターズ]]は、イーディス・パージターの本名で歴史小説を書く一方、「[[修道士カドフェル]]シリーズ」などの歴史ミステリも執筆した。フランス社会小説の大家[[クロード・アヴリーヌ]]にも、『U路線の定期乗客』ほか数点のミステリ長編がある。
==== ハードボイルドの出現 ====
1928年、[[ダシール・ハメット]]が名無しの探偵コンティネンタル・オプの最初の長編『デイン家の呪い』とそれに続き『[[赤い収穫]]<ref group="注">直訳は「赤い収穫」だが、「血の収穫」の邦題もあり。</ref>』を発表。従来の推理小説とは一線を画す「酒、暴力、アクション、恋愛」といった要素の多い「ハードボイルド」と呼ばれる、主としてアメリカの大都会を舞台にした私立探偵ものの嚆矢とされる。ハメットは1930年、もう一人『[[マルタの鷹]]』で初登場するサム・スペードも創造した。オプとスペードに続く第3のキャラクター、おしどり探偵ニックとノラの活躍を描く『[[影なき男]]』も好評で、映画でシリーズ化された。
[[ジョン・D・マクドナルド|ジョン・ダン・マクドナルド]]の長編は、『濃紺のさよなら』から題名に色の名前がつけられ、シリーズ・キャラクターのトラヴィス・マッギーは、さまざまな作家に影響を与えた。ノンシリーズ作品『[[恐怖の岬]]』は[[グレゴリー・ペック]]と[[ロバート・ミッチャム]]、[[マーティン・バルサム]]の共演で映画化された<ref group="注">グレゴリー・ペックとロバート・ミッチャム、マーティン・バルサムはリメイクの『ケイプ・フィアー』で、前作とは正反対の役でカメオ出演している</ref>。
『[[ブラック・マスク (雑誌)|ブラック・マスク]]』などの[[パルプマガジン]](大衆向け読本雑誌)で活躍した作家には[[フランク・グルーバー]](''Frank Gruber'')がいる。「人間百科事典」ことオリヴァー・クエイドと『フランス鍵の秘密』から登場のフレッチャー&クラッグは、都会を舞台としつつもプロの私立探偵ではなく、どちらも「巻き込まれ型」の素人探偵である(百科事典売りとボディビルの香具師コンビ)。
ハードボイルドものの都会的なセンスおよびスリリングな展開と、本格ものの論理的な謎解きを併せ持つ『屠所の羊』の[[E・S・ガードナー|A・A・フェア]]や『ネロ・ウルフ対FBI』の[[レックス・スタウト]]、『処刑6日前』の[[ジョナサン・ラティマー]]、『シカゴ・ブルース』の[[フレドリック・ブラウン]]らの作品群を「ソフトボイルド」と呼ぶ場合もある。
『大いなる眠り』や『[[長いお別れ]]』の [[レイモンド・チャンドラー]]は、「主流文学(純文学)の中にミステリーを取り入れた」と評され<ref group="注">近年の翻訳が[[村上春樹]]の訳であることも一つの要因(『さよなら、愛しい人』解説)でもある</ref>、[[ロス・マクドナルド]]は、『動く標的』などに見られる複雑なプロットと、登場人物に関する心理学的な洞察が特徴で、「ハードボイルドと本格の融合」と称される場合がある<ref>Pronzini, Bill and Adrian, Jack (editors)(1995). Hard-Boiled, An Anthology of American Crime Stories, Oxford University Press, Inc., 1995, p.169.</ref>。
マクドナルド(本名:ケネス・ミラー)の妻である[[マーガレット・ミラー]]は、プライ博士とサンズ警部もの長編『見えない虫』『鉄の門』ほかで夫より先に作家として成功を収めており、『これよりさき怪物領域』など心理スリラーの第一人者として活躍。晩年のアラゴン弁護士ものでは、ハードボイルドやサスペンスにユーモアの要素を加えて以前よりマイルドな作風に転じた。
[[カーター・ブラウン]]には、ハードボイルドでは珍しい女性の都会探偵を主人公にした、メイヴィス・セドリッツもの『乾杯、女探偵!』『女ボディガード』がある。
==== 警察小説と業界ミステリ ====
[[エド・マクベイン]]は、架空の街アイソラを舞台にの警官たちの活躍を描いた「87分署シリーズ」で、警察小説と呼ばれる新たなジャンルを確立した。かたや「ホープ弁護士シリーズ」は題名が『白雪と赤バラ』『[[長靴をはいた猫]]』など童話に因む作品になっている。他にカート・キャノン名義での同名キャラ登場の「酔いどれ探偵シリーズ」、エヴァン・ハンター名義の『[[暴力教室 (1955年の映画)|暴力教室]]』『[[逢う時はいつも他人]]』などの作品群は映画化された。、
警察小説では、[[ヒラリー・ウォー]]、[[ジョルジュ・シムノン]]、[[コリン・デクスター]]などの作品が名高い。
また、[[ディック・フランシス]]は障害騎手として活躍した経験を生かし、処女長編『本命』をはじめ、競馬界をめぐる事件を発表し続けた。そして法曹界出身の[[シリル・ヘアー]](''[[:en:Alfred Gordon Clark|Cyril Hare]]'' )は、「法律ミステリ」「リーガル本格」とも呼ばれる『法の悲劇』などが知られる。他に経済・化学・会計などのテーマに特化したミステリを書く作家も現われた。
==== パロディ・パスティーシュとユーモアミステリ ====
[[ジョン・リン・ブリーン|ジョン・L・ブリーン]]は、ヴァン・ダインの文体を真似た『サークル殺人事件』、ディクスン・カーが書きそうな不可能犯罪『甲高い囁きの館』など、多くの推理作家の巨匠パロディ・パスティーシュを発表した。
[[アンソニー・ホロヴィッツ]]と[[ジョン・ガードナー (イギリスの小説家)|ジョン・エドマンド・ガードナー]]は、ホームズの宿敵モリアーティー教授の後日談、およびフレミング財団公認の[[007|ジェームズ・ボンド]]シリーズをそれぞれ独自の内容で発表している。
[[ロバート・L・フィッシュ|ロバート・ロイド・フィッシュ]]は『シュロック・ホームズの冒険』などのホームズ・パロディの短編集を書く一方、『亡命者』のようなシリアスなサスペンス長編もある。短編の名手[[エドワード・D・ホック|エドワード・デンティンジャー・ホック]]には『第二のまだらの紐』など12短編のホームズ・パスティーシュがあるほか、怪盗ニックやホーソーン医師ら自身のキャラクターとホームズを共演させた。
女流作家の [[ジョイス・ポーター]]は、ドーヴァー警部とホンコンおばさんの三枚目キャラクターが、作中でドタバタを繰り広げる[[ユーモア]]推理作品で人気を博した。
同じく女流の[[クレイグ・ライス]]も、自身とその家族をモデルにしたと言われる『[[スイートホーム殺人事件|スイート・ホーム殺人事件]]』(1944年)や『[[時計は三時に止まる]]』(1939年)にはじまるマローン弁護士ものといったユーモア長編を多く発表した。
ウィリアム・ブリテンの『エラリー・クイーンを読んだ男』など「読んだ男」(The Man who Read...)シリーズは、原作の雰囲気をよく捉えた作品群である。ほかに教師探偵「ストラング先生」ものがある。
==== クライム・ストーリーの名手 ====
『チョコレート工場の秘密」『[[チキ・チキ・バン・バン]]』などでも知られる[[ロアルド・ダール]]は、賭けに取りつかれた人間心理の短編集『あなたに似た人』で、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞の短編賞を受賞。特に『南から来た男』や『おとなしい凶器」は複数回ドラマ化されている<ref group="注">『ロアルド・ダール劇場 予期せぬ出来事』(1979年)ではダール自身が作品の案内役として画面に登場する。</ref>。
[[ロバート・トゥーイ]](''Robert Twohy'' )は『さよなら、フランシー』で男女双方の姿を使い分けて生活し、知人隣人に性別を微塵も疑われない作家の完全犯罪を描き<ref group="注">ルパンやフランボウ、四十面相クリークは老婆や大女など自在に化けられるが、トゥーイの主人公は美女にしか変装できない。</ref>、TVシリーズ「ヒッチコック・サスペンス」にも原作を提供した。女装作家フランシス・スコットものはシリアスだが、トゥーイのもう一人の主人公ジャック・モアマンものは死体を埋めたと警察に誤認させ自宅の畑を開墾させるなどのユーモア短編。短編集『物しか書けなかった物書き』には殺人(粛清)シーンなしで犯罪組織の非情さを綴る<ref group="注">小鷹信光、法月綸太郎らが高く評価している(『物しか書けなかった物書き』解説)</ref>「探偵の出て来ないハードボイルド」ものがある等と作風の幅が広い。
[[ジャック・リッチー]]は軽妙な文体が特徴で、主人公には夜しか活動できないモンスター探偵カーデュラと、周囲を刮目させる名推理を披露しながら最後に真犯人を間違えてしまう迷刑事ターンバックルの二人がいる。[[ヘンリー・スレッサー]]や[[シオドア・スタージョン]]などもクライム・ストーリーを多作し、ロッド・サーリングの『[[トワイライト・ゾーン (1959年)|トワイライトゾーン]]』などでテレビ映像化されている。
==== 女性と黒人の探偵たち ====
[[サラ・パレツキー]]は高学歴で元弁護士の女性探偵V(ヴィクトリア)・I・ウォーショースキーが活躍する『サマータイム・ブルース』でデビュー。キャスリーン・ターナー主演で映画化(邦題「私がウォシャウスキー」)。[[スー・グラフトン]]は才女ウォーショースキーとは対照的な、「平凡で普通の女性」を探偵役に起用した。『アリバイのA』の主人公キンジー・ミルホーンのシリーズは「作者・探偵・読者」すべて女性である(男性読者もいるが、作風が女性読者向けということで)「3Fミステリー」<ref group="注">「3F」のFは「female」を指す。</ref> との新語も生んだ。『[[荊の城]]』の[[サラ・ウォーターズ]]は、[[レズビアン]]のキャラクターを作品に多く登場させている。[[パトリシア・モイーズ]](''[[:en:Patricia Moyes|Patricia Moyes]]'' )のシリーズ探偵は男性のヘンリー・ティベット警部だが、明るく聡明な妻のエミーも捜査に協力して、[[夫婦]]で事件を解決していく作品が多い。
2000年代以降にはタフな女性の私立探偵や犯罪者を描く作品に対して[[:en:Tart Noir|タルト・ノワール]]というジャンル名が提唱されている。現代本格の作家だが、[[ジル・チャーチル]]は1930年代のアメリカ田舎を舞台として、良家子女くずれのリリーと兄ロバートが事件を推理するシリーズがあり、タイトルが[[ジャズ]]のスタンダードナンバー(『風の向くまま』[[:en:Anything Goes (Cole Porter song) Anything Goes|Anything Goes]] など)になっている。他に現代アメリカ北部が舞台の主婦探偵ジェーンものがあるが、こちらは『[[飛ぶのがフライ]]』( Fear of Frying )といった具合で小説タイトルのもじり([[エリカ・ジョング]]『飛ぶのが怖い』 Fear of Flying)である。
[[ジョン・ボール (作家)|ジョン・ボール]]は黒人エリート警官ヴァージル・ティッブスを主人公とする長編『夜の熱気の中で』を発表し、人種の壁を乗り越えて相手に尊敬される主人公が人気となった。[[チェスター・ハイムズ]]の書いた「墓掘りジョーンズと棺桶エド」の黒人コンビが登場する『イマベルへの愛』はフランスで話題になったが、生国のアメリカでは不評だったという。
==== 様々な名探偵 ====
その後、女性や黒人の探偵も続いて登場し、珍しくなくなったミステリの世界で、作者たちは、猫([[リリアン・J・ブラウン|リリアン・ブラウン]]の『シャム猫ココ』)やねずみ、未来人(ロバート・アーサーの『時間旅行者』)、歴史上の偉人([[セオドア・マシスン]]の『名探偵群像』)、魚やイルカ、機械やロボット、この世の人間ではない人([[ハーリ・クイン]]氏)など、様々な探偵を創造し続けた。
イーヴ・タイタスのねずみの国の「探偵ベイジル」もの、ウィリアム・C・アンダースン(''[[:en:William Charles Anderson|William Charles Anderson]]'' ) の人語を話すイルカ「ペネロッピー」シリーズ、[[ピエール・アンリ・カミ]]の『クリク・ロボット』、魔法使いが主役の[[ランドル・ギャレット]]の『魔術師を探せ』などは、我が国でも紹介された。[[ポール・アルテ]]のツイスト博士は、百年経過しても年をとらない<ref group="注">他の人物は時間経過で年を重ねている(例えば『赤髯王の呪い』では、青年だった事件関係者は老齢になったり、死去したりしている)。</ref> 不思議な名探偵である。
==== 様々な趣向 ====
ジャン・マイケルズ『死のリフレイン』、ジョゼフィン・ケインズ『ステージの悪魔』やビル・S・バリンジャー (''[[:en:Bill Sanborn Ballinger|Bill Sanborn Ballinger]]'' ) 『歯と爪』は解決編を[[袋綴じ]]にして販売。トマス・チャステイン、ビル・アドラー『誰がロビンズ一家を殺したか?』と続編『ロビンズ一家の復讐』は、懸賞を付けて読者から犯人の回答を募集した。[[スタンリイ・エリン]]は長編『鏡よ、鏡』を返金保証つきで出版した。
また、デニス・ホイートリー (''[[:en:Dennis Wheatley|Dennis Wheatley]]'' )は『マイアミ沖殺人事件』、『誰がロバート・プレンティスを殺したか』、『マリンゼー島連続殺人事件』で、マッチや新聞記事の切れ端など、証拠品の複製を単行本<ref group="注">日本語訳では文庫本も同様の趣向([[中央公論社]])</ref> に添付して発行した。
[[ピエール・バイヤール]] (''[[:en:Pierre Bayard|Pierre Bayard]]'' )は『アクロイドを殺したのはだれか』、『シャーロック・ホームズの誤謬』などで、クリスティの初期作品やドイルの長編で「探偵が作中で指摘した犯人は無罪。真犯人は別にいた。」という内容の評論・改作を続けて発表している。
==== 二世代・三世代の作家と探偵 ====
エイドリアン・コナン・ドイルはディクスン・カーと共作で、ホームズの語られざる作品集 『シャーロック・ホームズの功績』を出版。また、21世紀に入り、カーの孫娘シェリー・ディクスン・カーが『ザ・リッパー 切り裂きジャックの秘密』を発表しミステリ界にデビューしている。
マクドネル・ボドキン(''[[:en:Matthias McDonnell Bodkin|Matthias McDonnell Bodkin]]'' )は、私立探偵ポール・ベック、 女探偵ドラ・マールの二大シリーズを持っていたが、彼らを結婚させ二人の息子であるベック2世の作品も創造し、二世代の共演も実現させた。また、ジョン・ピールは1992年からジョン・ヴィンセント(''John Vincent'' )名義で『踊るのは我らだ』(''Live And Let's Dance '' )<ref group="注">フレミングの『[[死ぬのは奴らだ]]』(''Live And Let Die '' )のもじり。</ref> などジェームズ・ボンド・ジュニアのシリーズを書き続けている<ref group="注">フレミング原作から引き続き''[[:en:Dr.No|Dr.No]]'' と、007映画から殺し屋「ジョーズ」などがシリーズを通じて悪役で登場。『ジェームズ・ボンドJr』としてアニメ化。[[:en:Marvel Comics|Marvel Comics]]で漫画化。</ref>。
=== ロシアおよび東欧・イスラエル ===
[[ロシア]]では[[アントン・チェーホフ]]が、1884年に長編推理小説『[[狩場の悲劇]]』を発表。父親がロシア系ユダヤ人の英国作家[[イズレイル・ザングウィル]]は、1892年の『[[ビッグ・ボウの殺人]]』連載中に、読者から解決(真相)の予想を募集した。ロシア国内では未発表のジャンルとされている<ref>[https://www.topics.or.jp/articles/-/293284 ロシアに日本の推理小説を紹介 島田荘司さんが講演] - [[徳島新聞]]</ref>。
[[ハンガリー]]のアラド(現在はルーマニアのArad郡都)生まれのバルドゥイン・グロラー (''[[:en:Balduin Groller|Balduin Groller]]'' )は、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]ハプスブルク朝末期を舞台に「探偵ダゴベルト」もの短編を発表している。
[[チェコ]]の作家ヨゼフ・シュクヴォレツキー (''[[:en:Josef Skvoreck´y|Josef Škvorecký]]'' )には『ノックス師に捧げる10の犯罪』(Hříchy pro pátera Knoxe)という、「犯人は、物語の当初に登場していなければならない」「探偵自身が犯人であってはならない」など「ノックスの十戒」に違反した連作集がある。
[[トルコ]]のイスタンブールで生まれた[[アキフ・ピリンチ]](Akif Pirinçci)は、トルコ人の若者を主人公にした恋愛小説でデビューしたが、『猫たちの聖夜』(Felidae)でミステリ分野にも参入。『ザ・ドア 交差する世界』は映画化もされた。
=== 中南米・オセアニア ===
[[アルゼンチン]]では戦前から、探偵小説がかなり書かれており、1940年代には、アメリカのミステリ雑誌『Ellery Queen's Mystery Magazine』に投稿がみられる。第3回短編ミステリ・コンテストには[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]] ( Jorge Luis Borges、1899-1986)の「迷路の花園」が入選した<ref>島田一男「世界の四隅」(『探偵作家クラブ会報』第27号(1949年8月)</ref>。ボルヘスの推理小説およびミステリ風小説は、「死とコンパス」(1942)、「裏切り者と英雄のテーマ」(1944) 、 「エンマ・ツンツ」(1949) などがある。
1942年、服役中のドン・イシドロ・パロディという究極の[[安楽椅子探偵]]もの連作『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件 』(Seis problemas para don Isidro Parodi )が 刊行され、オノリオ・ブストス・ドメックと名乗る作者は謎だったが、ボルヘスと[[アドルフォ・ビオイ・カサレス]]( Adolfo Bioy Casares )の合作だと後に判明した。他に、[[パブロ・デ・サンティス]]の世界の名探偵12名が事件の解明を競い合う『世界名探偵倶楽部』(El enigma de París)や、[[ギジェルモ・マルティネス]]の映画化された『見えざる犯罪』(Crímenes imperceptibles)は日本でも翻訳されている。
[[ウルグアイ]]ではチャンドラー作品の続編を書いたイベア・コンテリース(''[[:en:Hiber Conteris|Hiber Conteris]]'' )の『マーロウ もう一つの事件』、[[コロンビア]]の ホルヘ・フランコ (''[[:en:Jorge Franco (writer)|Jorge Franco]]'' )の『ロサリオの鋏』など が、本国のほか英訳されて刊行されている<ref>早川書房「非英語圏ミステリ」(『ミステリマガジン』2011年9月号)</ref>。[[ブラジル]]のJ・ソアレス(''[[:en:Jô Soares|Jô Soares]]'' )には、『シャーロック・ホームズ リオ連続殺人事件』(''[[:en:A Samba for Sherlock|O Xangô de Baker Street]]'' )というホームズものパロディがある。
[[オーストラリア]]の[[アーサー・アップフィールド]](''[[:en:Arthur Upfield|Arthur Upfield]]'' )は、『バラキー牧場の謎』(1929)そして『ボニーと砂に消えた男』(1931)にはじまる、先住民アボリジニとの混血であるボナパルト警部が、豪州の大自然を舞台に活躍する作品群を量産した。また、S・H・コーティア(''[[:en:Sidney H. Courtier|Sidney Hobson Courtier]]'' )は、『謀殺の火』(1967)など、アボリジニの神話や風俗を主題にした作品を発表している。
=== 北・東アジア ===
==== 中国 ====
中国では、事件の調書や裁判記録など、公的機関が発行した文書のことを[[公案]]と呼んでいたが、[[宋 (王朝)|宋]]代から[[元 (王朝)|元]]代にかけて、公案を題材にした話芸や戯曲が人気を呼び、[[明]]代にはこれをもとにした[[:zh:公案小说|公案小説]]というジャンルが流行している。特に、宋代に実在した政治家の[[包拯]]が、様々な講談、戯曲、公案小説において裁判や捜査で事件の真相を明らかにする主人公として登場しており、今日でもテレビドラマなどに翻案されている。
中国では、1885年に発表された知非子(ちひし)『冤獄縁』(えんごくえん)が初の創作探偵小説だとされている。長編では1890年に、作者不明の『狄公案』(てきこうあん) が刊行されている<ref>江戸川乱歩「探偵作家クラブ会報第33号(1950年2月)」</ref>
近代中国で推理小説の嚆矢となった作家は、 [[程小青]]が挙げられる。1914年、上海の新聞で短編『灯光人影(とうこうじんえい)』を発表。探偵役の霍桑 (かくそう/フオサン)はホームズ型の天才探偵で、ワトスン役は包朗(ほうろう/バオラン)。霍桑の探偵談はシリーズ化され30年以上続いた。
==== 朝鮮・韓国 ====
朝鮮では、李海朝(イ・ヘジョ<ref group="注">朝鮮語(北朝鮮)では「リ・ヘジョ」読み。</ref>、1869 - 1927)が1908年に発表した『双玉笛』(そう ぎょくてき)が初の創作探偵小説とされている。[[大韓帝国]]末期の1909年旧暦5月29日、[[平壌直轄市|平壌]]近郊の[[平安南道]]で生まれた [[金来成]]は、早稲田大学在学中の[[1935年]]に[[日本]]の探偵小説専門誌『[[ぷろふいる]]』でデビューし、のちに朝鮮半島で探偵作家として活躍した。韓国推理小説の創始者とされる。1939年に発表した『魔人』は和訳が出版されている<ref>[[論創社]]『魔人』(祖田 律男・訳、論創海外ミステリ127、2014年)</ref>。
==== 台湾(中華民国) ====
[[余心楽|余心樂]]は、台湾月刊誌「[[推理雑誌 (台湾)|推理雑誌]]」に作品を発表。林仏児推理小説賞の中編「生死線上」が和訳されている。
=== 日本 ===
==== 捕物帳と探偵小説の黎明期 ====
日本では明治以前から[[勧善懲悪]]をテーマとした[[歌舞伎]]や[[講談]]の演目が存在していた。例えば[[大岡忠相#大岡政談|大岡政談]]などの政談ものは発生した事件を正しく裁く筋立てが法廷推理小説に等しく、[[鼠小僧]]や[[石川五右衛門]]を題材とした作品群は犯罪心理小説に通じるものがある。しかし、これらは奉行や犯罪者の物語であり、民間人が犯罪を解決する役回りにはならない(もし民間人が犯罪を解決しようとすると仇討ちや義賊という形になり、民間人ではなく情に厚い犯罪者になってしまう)。日本における探偵小説は、文明開化以降、探偵という概念が西洋から輸入されることで生まれた。
[[黒岩涙香]]が[[明治]]22年([[1889年]])に発表した『[[無惨]]』(別題『三筋の髪、探偵小説』)が、日本人初の創作'''推理小説'''と言われる。涙香は1896年にも『六人の死骸』と題する作品を執筆している。
1917年、[[岡本綺堂]]は、アーサー・コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」に影響を受け、「三河町の半七」を主人公にして『[[半七捕物帳]]』のシリーズを開始。探偵小説の要素を盛り込んだ時代劇である「捕物帳もの」のさきがけとなる。ほかに、[[野村胡堂]]の1931年からはじまる『[[銭形平次捕物控]]』シリーズは、後年、たびたび映画やテレビドラマ化されている。『[[旗本退屈男]]』の[[佐々木味津三]]には『むっつり右門」、[[城昌幸]]にも『[[若さま侍捕物手帖|若さま侍]]』の捕物帳がある。変わったところでは、[[鳴海丈]]がセクシー路線の『彦六捕物帖』『柳屋お藤捕物帳』などを書いている。
「捕物帳もの」と並ぶ日本ミステリのジャンルに「奉行もの([[お白洲]]もの)」がある。実在の遠山景元が登場の『[[遠山の金さん]]』が一例。『[[伝七捕物帳]]』<ref group="注">複数の作家による合同企画で1951年(昭和26年)3月から京都新聞に連載された『黒門町の傳七捕物帳』が基になっており、その「新作」として陣出が『伝七捕物帳』を執筆しているため、完全なオリジナル作品ではない。</ref> の[[陣出達朗]]や『桃太郎侍』で知られる[[山手樹一郎]]など複数の作家が、『遠山の金さん』ものを執筆している。
他には、時代小説のイメージが強い[[山本周五郎]]だが、『[[寝ぼけ署長]]』という連作の探偵小説がある。『[[木枯し紋次郎]]』の[[笹沢左保]]も多くの捕物帳以外に、現代を舞台にしたミステリを発表した。
==== 江戸川乱歩の功績 ====
日本において探偵という職業を大衆に認知させ、探偵小説・推理小説の知名度を上げたうちの一人に、[[江戸川乱歩]]がいる。江戸川乱歩は大正・昭和期、推理小説の黎明期において[[明智小五郎]]や[[少年探偵団]]が活躍する一連のシリーズで名を挙げ、現在も[[江戸川乱歩賞]]にその名を残している。
[[1947年]]、江戸川乱歩が探偵作家クラブを設立した(このクラブは現在[[日本推理作家協会]]という形で残っている)。[[氷川瓏]]は、[[ポプラ社]]の乱歩作品の少年少女向けリライトや、涙香や海外作品など乱歩名義の翻案を手がけた。
==== 三大奇書と周辺 ====
1935年、日本の探偵小説における[[三大奇書]]と呼ばれるうちの二作([[夢野久作]]の『[[ドグラ・マグラ]]』、[[小栗虫太郎]]の『[[黒死館殺人事件]]』)が出版された。[[1965年]]には、三大奇書の最後の一作・[[中井英夫]]の『[[虚無への供物]]』が出版された。時代や作風などに差があるものの、[[坂口安吾]]の『[[不連続殺人事件]]』や[[竹本健治]]の『[[匣の中の失楽]]』も三大奇書と絡めて語られることがある<ref>探偵小説専門誌『幻影城』での中井英夫による記事など</ref>。
==== 戦前の作家たち ====
『支倉事件』の[[甲賀三郎 (作家)|甲賀三郎]]、『わが女学生時代の罪』の[[木々高太郎]]<ref group="注">木々高太郎が考案した「頭脳パン」も今日でも製造、販売されている。</ref>、物理的・化学的トリックを多用した「[[帆村荘六]]」ものを書いた[[海野十三]]などの諸作品は今日でも再刷が続いている。[[久生十蘭]]には長編『魔都』『金狼』などがある。[[谷崎潤一郎]]のような文豪も『[[秘密 (谷崎潤一郎)|秘密]]』『白昼鬼語』などの推理作品を発表した。また、木々・海野は[[大下宇陀児]]と三人で、「風間光枝」という共通の探偵キャラクターを持ち競作を行なっている。
==== 本格派の活躍 ====
第二次世界大戦中は探偵小説が禁圧され出版できなかった。戦後は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の検閲により、復讐などの要素を含む時代劇が禁止された。[[横溝正史]]は当時、捕物帳をはじめとした時代小説を書いていたが、GHQの規制を受けて『[[本陣殺人事件]]』『[[獄門島]]』などの[[金田一耕助|金田一耕助シリーズ]]を執筆し、これが本格推理長編小説の再興に繋がったと言われる。
また、伝奇小説で知られた[[角田喜久雄]]は、長編『[[高木家の惨劇]]』で本格推理のジャンルに参入、伝奇ロマンとの二枚看板で人気を得た。クロフツに影響を受けた[[鮎川哲也]]はアリバイくずしを得意とし、『[[ペトロフ事件]]』『黒いトランク』など鬼貫警部を探偵役とする本格推理小説を発表。またアンソロジーの編纂にも力を尽くした。
[[高木彬光]]は神津恭介を探偵役とする『[[刺青殺人事件]]』他の本格ものを中心に『連合艦隊ついに勝つ』『[[邪馬台国の秘密]]』など歴史・SFとも融合したミステリ、『[[破戒裁判]]』などの法廷もの、『黄金の鍵』から始まる安楽椅子探偵ものと多岐にわたる作品群を発表した。[[都筑道夫]]は、長短編はもとより掌編(ショートショート)でも多くの作品を発表、また英米ミステリの紹介者としても功績を残す。
==== 女流作家の進出 ====
[[1957年]]には、[[仁木悦子]]が自身と同名ヒロインが登場する長編『[[猫は知っていた]]』でデビュー、「日本の[[アガサ・クリスティー|クリスティー]]」と呼ばれた<ref>第3回江戸川乱歩賞での選考委員であった乱歩の選評</ref>。また、[[夏樹静子]]はクイーンの悲劇四部作のオマージュともいえる『[[Wの悲劇]]』が話題となり、[[薬師丸ひろ子]]主演で映画化もされた。『[[花の棺]]』をはじめとする[[キャサリンシリーズ]]の[[山村美紗]]も、[[京都]]を中心としたトラベル・ミステリ作品の多くがテレビドラマ化された。
[[サイエンス・フィクション|SF]]や[[伝奇小説]]の分野でも多作で知られる[[栗本薫]]は、評論では「[[中島梓]]」名義を使い分け、[[エラリー・クイーン]]とバーナビー・ロスを思わせる中島梓と栗本薫の1人2役対談が、『[[平凡パンチ]]』誌上で企画された。推理小説の分野では、作者と同名だが男性の栗本薫が主人公の『ぼくらの時代』をはじめ、多くのシリーズとキャラクターを創造した。
トリッキーな連作『妻の女友達』『プワゾンの匂う女』や、倒錯ミステリの長編『ナルキッソスの鏡』が有名な[[小池真理子]]は、[[短編]]の名手としても知られる。
==== 多様化するミステリ ====
1960年代以降、推理小説は[[松本清張]]の『[[砂の器]]』などの作品群や[[黒岩重吾]]、[[西村寿行]]の「社会派」、[[西村京太郎]]の「トラベル・ミステリ」、[[森村誠一]]の「ビジネス・企業もの」「歴史ミステリ」、[[高橋克彦]]の「美術ミステリ」、[[山田正紀]]や[[小松左京]]、[[豊田有恒]]、[[筒井康隆]]らの「SFミステリ」、[[志茂田景樹]]の「恋愛ミステリ」、 [[館淳一]]や[[丸茂ジュン]]の「官能ミステリ」、 [[山藍紫姫子]]の『スタンレー・ホークの事件簿』に代表される「耽美ミステリ」など、様々なサブジャンルに分かれていった。
初期には『古墳殺人事件」など、本格ものでペダンティックな作品を書いていた[[島田一男]]は、のちに「事件もの」といわれる記者が活躍する小説に転じた。[[山田風太郎]]は「[[忍法帖シリーズ]]」が有名だが、青春探偵団が活躍する推理小説もあり漫画化された。お色気に満ちた風俗小説とシリアスな経済小説で作風を使い分ける[[梶山季之]]にも、『朝は死んでいた』、『知能犯』など推理作品がある。時代もの・SFと多分野で活躍した[[多岐川恭]]も、『[[濡れた心]]』をはじめ登場人物の心理描写に優れたミステリの傑作群がある。誘拐事件を扱った[[天藤真]]の『[[大誘拐]]』は、映画化されている。
そのほか、ハードボイルド([[大藪春彦]]や[[生島治郎]]、[[片岡義男]]、[[小鷹信光]])、将棋や奇術、音楽、法律、山岳、競馬など他の趣味・本業を生かしたミステリ([[斎藤栄]]、[[泡坂妻夫]]、[[戸川昌子]]、[[佐賀潜]]、[[太田蘭三]])、実在する文学者・文学作品(『芥川龍之介の推理』や『川端康成の遺書』などの[[土屋隆夫]])、日常の謎([[北村薫]]、[[若竹七海]])などをテーマや作風とする作家も現れた。[[佐野洋]]は『推理日記』のタイトルで、40年にわたりミステリ評論を書き続けた。[[岡嶋二人]]は、日本では珍しいコンビによる作家(現在は解消)でデビューした。
==== 日本の新本格派 ====
80年代末から世紀末にかけ、1987年にデビューした[[綾辻行人]]を嚆矢とした、[[有栖川有栖]]・[[二階堂黎人]]・[[麻耶雄嵩]]・[[貫井徳郎]]・[[芦辺拓]]・[[深水黎一郎]]らの海外のクイーンやカーを再現したような「本格」というジャンルに特化した作家群が次々に出現。彼らは「新本格派」または「日本の新本格派」<ref group="注">[[クリスチアナ・ブランド]]や[[ニコラス・ブレイク]]、エドマンド・クリスピンらポスト黄金時代のトリッキーな作家群を江戸川乱歩は「新本格派」と命名している。</ref> とも呼ばれることがある。また、[[清涼院流水]]は、その独特の作風からミステリ界に論争を巻き起こした<ref>『コズミック 水』 講談社文庫、2000年5月15日、p.546 解説より</ref>。[[大塚英志]]や[[舞城王太郎]]といった作家たちが、清涼院の[[JDCシリーズ]]と同じ世界観を持つ作品を発表している。
==== ジュヴナイル・ライトノベルとメディアミックス ====
[[南洋一郎]]はモーリス・ルブランの原作を、少年少女向けに改筆した『怪盗ルパン全集』全30巻<ref group="注">第26巻以降は、[[ボワロー=ナルスジャック]]原作のルパンもの。</ref> の訳者として知られる。第13巻『[[ピラミッドの秘密]]』のように、一部にルブラン作品を取り入れてはいるが<ref group="注">モーリス・ルブランの短編『地獄のわな』と『麦わらのストロー』のプロットやトリックが物語の導入部にある。</ref>、ほぼパスティーシュと認定されている作品もある。
70年代後半に各出版社がジュニア向け文庫を立ち上げると、[[山浦弘靖]]の『殺人切符はハート色』などトランプ絡みの題名が続く「星子ひとり旅シリーズ」は、[[コバルト文庫]]の看板シリーズとなった。
また、『[[仮題・中学殺人事件]]』にはじまる[[辻真先]]の、「読者」「作者」「編集者」など本来は犯人たりえない人物<ref group="注">作者は前書きや物語の冒頭で、「意外な犯人」を書くことを宣言している。</ref>を扱うシリーズをラインナップに揃えた[[ソノラマ文庫]]など、ジュヴナイルのミステリが多く刊行された。辻は[[卒寿]](90歳)になっても、なお現役で推理長編(一般向け)を発表している。
学研や旺文社などの学年誌や受験誌に多く連載した[[小峰元]]は、ギリシャ哲学者を冠した『アルキメデスは手を汚さない』から始まる「青春ミステリー」で知られる。ラジオの深夜放送や大学受験など、当時の10代から20歳前後の若者の生活や悩みを作中に織り込んだ作風が特徴。最初期の短編集『[[幽霊シリーズ|幽霊列車]]』では本格要素がかなり強かった[[赤川次郎]]だが、角川映画との連携や『[[三毛猫ホームズ]]』シリーズのテレビドラマ化で人気が出たことから、若者向けのユーモア・ミステリ路線にシフトした。
『[[湯殿山麓呪い村]]』 の[[山村正夫]]は、古今東西のミステリをダイジェストにして、年少者やミステリ入門者向けに、クイズ形式とした『トリック・ゲーム』などを著した。また、各種会場での小説教室の指導者として、多数の人材を輩出している。
[[1992年]]には『[[金田一少年の事件簿]]』、[[1996年]]には『[[名探偵コナン]]』が好評を博し、[[推理漫画]]が一つのジャンルとして定着した。[[2002年]]に『[[戯言シリーズ|クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い]]』でデビューした[[西尾維新]]は、文芸ものの新書「[[講談社ノベルス]]」から発行されているが、[[ライトノベル]]として分類され、また自身もそのようにとらえる場合もある<ref>『[[このライトノベルがすごい!]]2006』27頁。</ref>。『[[忘却探偵シリーズ|掟上今日子の備忘録]]』や『[[美少年シリーズ|美少年探偵団 きみだけに光かがやく暗黒星]]』など多くの作品が漫画化・テレビドラマ化されている。西尾維新に限らず青春ミステリにおいてはライトノベルとの境界が非常に曖昧で、『[[赤朽葉家の伝説]]』で[[日本推理作家協会賞]]を受賞した[[桜庭一樹]]は元々ライトノベル作家であった。
2010年代以降は頭脳戦、[[デスゲーム]]、ギャンブルを描いた漫画のヒットにより、推理小説でも「'''特殊設定ミステリー'''」と呼ばれる特殊な条件下の作品が多く発表されるようになった<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=令和探偵小説の進化と深化 「特殊設定ミステリ座談会」|令和探偵小説の進化と進化 「特殊設定ミステリー座談会」! 後編|tree |url=https://tree-novel.com/works/episode/44a6d7122b9267c6fcc9bdade002b8ae.html?t=1 |website=tree |access-date=2023-07-23 |language=ja}}</ref>。
==== 東京以外の舞台と探偵 ====
前項の桜庭一樹は、自身の故郷である[[鳥取県]]を舞台にミステリを書いているが、他にも東京や首都圏以外の推理小説を書く作家もいる。[[山村美紗]]の『京都殺人案内』(京都)、[[東野圭吾]]の『浪花少年探偵団』(大阪)がその一例である。
[[内田康夫]]の『死者の木霊』からはじまる「信濃のコロンボ」シリーズは[[長野県]]<ref group="注">作者は東京出身だが、内田の父が長野県長野市出身。</ref> で起きた事件がメイン。[[森博嗣]]の『[[すべてがFになる]]』は[[愛知県]]<ref group="注">舞台は愛知県にある妃真加島(ひまかじま)。主人公の犀川創平はN大学(テレビアニメでは国立那古野大学)で教えている設定。</ref> で探偵が活躍する。[[石沢英太郎]]のシリーズ探偵・牟田刑事官は福岡市など[[福岡県]]が主な舞台<ref group="注">テレビドラマ『牟田刑事官事件ファイル』では、主役の牟田警視は神奈川県警察本部に所属し、横浜市内の警察署に勤務する設定に変更されている。</ref>。
[[山本巧次]]は『[[大江戸科学捜査 八丁堀のおゆう]]』シリーズで、現代と文政年間の[[江戸]]を自在に行き来できる時空探偵を登場させた。
海外では[[海渡英祐]]が発表した『伯林(ベルリン)一八八八年』が、19世紀の[[ドイツ]]({{Lang|de|''Deutsches Reich''}})を、[[結城昌治]]の『ゴメスの名はゴメス』は1960年代のベトナムを舞台にしている。
== 推理小説の分類 ==
下記の分類は、互いに相反するものとは限らず、一つの作品が複数の項目に当てはまることがある。
[[アメリカ探偵作家クラブ]]が主催する[[エドガー賞]]の[[エドガー賞 長編賞|長編賞]]では、[[ハードボイルド]](『[[長いお別れ]]』など)、[[警察小説]]('''『'''[[笑う警官 (マルティン・ベック)|笑う警官]]'''』'''など)、医療ミステリー('''『'''[[緊急の場合は]]'''』'''など)、[[スパイ小説]](『[[寒い国から帰ってきたスパイ]]』)など推理要素のある様々なジャンルの小説が受賞している。
=== サブジャンル ===
==== 本格ミステリ ====
{{Main|本格派推理小説}}
推理小説のなかではもっとも一般的でかつ古典的なジャンルである。事件の手がかりをすべてフェアな形で作品中で示し、それと同じ情報をもとに登場人物(広義の[[探偵]])が真相を導き出す形のもの。第二次世界大戦前の日本では、「本格」以外のものは「変格」というジャンルに分類された。なお、本格という呼び方は日本独自のもので、欧米では'''フーダニット'''や'''パズラー'''と称される(後述)。
[[密室殺人]]をはじめとした不可能犯罪を扱った作品の多くはこのジャンルに含まれる。
本格であるためには、解決の'''論理性'''だけではなく'''手がかりが全て示される'''こと、'''地の文に虚偽を書かないこと'''が要求される(わざと決定的な事実を明示せず曖昧に表現したり、登場人物の視点から登場人物自身の誤解を記述するのは問題がない)。たとえば、ある作品では列車に乗り合わせた子供の性別が問題になるが、題名にも地の文にも「男の子」「女の子」といった記述は一切なく、伏線として子供の振るまい(特定の玩具に興味を示す)が記述されている。作家はそれが伏線であることを隠蔽する努力も怠っていない。ただし、現代の視点では、[[エドガー・アラン・ポー]]の『[[モルグ街の殺人]]』には若干アンフェアな記述がある他、[[アガサ・クリスティ]]の『[[アクロイド殺し]]』はフェアかアンフェアかについて、有識者の間で議論を醸した。現代でも本格ミステリの愛好家にとってはフェアかアンフェアが関心事であり、本格の体裁から外れる作品について論争がある<ref>[https://www.sankei.com/article/20191125-IWBNNAOYZBOFBGZYCDUWR2WINU/ 【ビブリオエッセー】今どきのミステリーって? 「屍人荘の殺人」今村昌弘(創元推理文庫)] - [[産経新聞]]</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20171119-3IQPZT3KHVIRPGSJKTOF5EUPWM/ 【書評】書評家・関口苑生が読む『屍人荘の殺人』今村昌弘著 声も出ないほど衝撃の展開(1/2ページ)] - [[産経新聞]]</ref>。
==== ハードボイルド ====
{{main|ハードボイルド}}
「ハードボイルド」と言う言葉そのものは、非常に多面的な意味合いを持つ言葉なのだが、「推理小説」の一ジャンルとして使われる場合には、登場人物(主人公も含めて)の内面描写をあまり行わず、簡潔で客観的な描写を主体とした作品を指す。[[ダシール・ハメット]]の作品を嚆矢とする。特徴的なのは、それまでの「推理小説」の主人公は、自ら行動を起こすことはあまりなく、提供されるわずかな手がかりを元に、内面的な思索を深めて事件を解決する、まさに「推理」に重点を置く傾向が強かったのに対して、「ハードボイルド」の主人公は概ね行動的で、自ら率先して捜査を行い、その結果を積み上げて解決に至る傾向にある。これは、ハメット自身が探偵の経験があり、それを作品に生かしたからだと言われている。私立探偵や類似する職業が主人公に選ばれることが多いためPI(私立探偵)小説と呼ばれることもあるが、必ずしも同じものではない。
私立探偵の[[フィリップ・マーロウ]]を主人公とする[[レイモンド・チャンドラー]]の作品が有名。
==== コージー・ミステリ ====
{{main|コージー・ミステリ}}
ハードボイルドの反義語で暴力的表現や非日常性を極力排除した作品。主人公が[[#探偵役|素人探偵]]であるのも大きな特徴。非情さを前面に出さず、穏健で道徳的な作風なため、ハードボイルドに対して「'''ソフトボイルド'''([[:en:Soft Boiled|Soft Boiled]])」とも呼ばれる。
狭義には女性向けの「気楽に読める」内容のコメディタッチのミステリをいう。
[[アガサ・クリスティ]]の『[[ミス・マープル|ミス・マープル』]]シリーズなど、女性の素人探偵が活躍する作品が多い。
==== 安楽椅子探偵 ====
{{main|安楽椅子探偵}}
探偵が事件現場に赴くことなく、情報として与えられた手がかりのみで事件を解決する作品やその探偵は安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)と呼ばれる。
構造的に推理と関係の無い要素を描く必要がなく、論理的推理に特化することができるため推理小説の極北とも言われるが、依頼者や助手とのやり取りを描くこともあり、厳密にデータのみで勝負している作品は少ない。[[アイザック・アシモフ]]の『[[黒後家蜘蛛の会]]』シリーズは参加者の議論を聞いていた給仕が謎を解くという形式である。
身体障害者や老人など証拠集めのため動き回れない者が探偵役、介助者が証拠集めなど探偵を助けるワトスン役と役をはっきりと分ける作品もある。
最初期の名探偵である[[C・オーギュスト・デュパン]]は訪ねてきた警視総監から聞いた話で事件を解決するため、安楽椅子探偵に含まれることもある。小説では[[バロネス・オルツィ]]の『[[隅の老人]]』シリーズ、[[レックス・スタウト]]の『[[ネロ・ウルフ]]』シリーズ、[[アガサ・クリスティ]]の[[ミス・マープル]]ものの短編集『[[火曜クラブ]]』(13作品のうち12作品まで)など。
サブジャンルとして[[ベッド・ディテクティヴ]]があり、こちらは怪我などで動けないため推理しか出来ないという設定である。シリーズものでは探偵役が怪我で動けなくなり、一時的に安楽椅子探偵となる作品もある。[[ジョセフィン・テイ]]の『[[時の娘]]』、[[高木彬光]]の『[[成吉思汗の秘密]]』など。
==== 犯罪者視点 ====
倒叙から派生した犯罪心理小説は犯罪者の内面に目を向け、殺人に至る過程を描く作品であり、サスペンスの要素も含まれる。[[アントニー・バークリー]]の『殺意』、[[ジム・トンプスン (小説家)|ジム・トンプスン]]の『内なる殺人者』など。
窃盗、詐欺、誘拐などで一攫千金を狙う姿を犯罪者の視点で描く作品は「[[ケイパー・ストーリー]]」と呼ばれ、警察や探偵を出し抜き大金を手にするという筋書きが多く推理小説とは別ジャンルとなるが、[[天藤真]]の『[[大誘拐]]』のように推理要素がある作品も書かれている。
==== ホラー/サスペンス/スリラー ====
{{see also|ホラー小説|サスペンス|スリラー}}
恐怖を主題としたホラー、不安感を煽るサスペンス、スリルを表現するスリラーは必ずしも推理要素を含むとは限らないが、恐怖の様相を捜査や論理的な推理によって暴き出せば推理小説になりうる。殊にモダンホラー、サイコサスペンスといった、人間性や異常心理への恐怖を扱った作品では作例が多い。ジャンルとしては犯罪心理小説と重なる。
「孤島もの」で犯人への恐怖感を強めたり、探偵と犯人の頭脳戦をスリリングに描いたりするなど、他のジャンルに要素として取り入れられている。
==== 法廷推理小説 ====
{{Main|法廷もの}}
法廷など司法の場が舞台となるジャンル。検事や弁護士が主人公となって、被告人の犯行を立証したり、逆に無実を証明して真犯人を暴きだしたりする過程が描かれる。法廷が主要な舞台とは限らないため、「リーガル・ミステリー」とも呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|title=リーガルミステリーで新風を巻き起こす弁護士作家・五十嵐律人さんの現在地とこれから《インタビュー》 |url=https://ddnavi.com/interview/836971/ |website=ダ・ヴィンチWeb |access-date=2022-06-09 |language=ja}}</ref>。
[[E・S・ガードナー]]が書いた[[ペリー・メイスン]]シリーズ、[[和久峻三]]の『[[赤かぶ検事奮戦記]]』シリーズ、ゲームの『[[逆転裁判]]』シリーズなど。法廷もののシリーズ作品以外にも[[ディクスン・カー|カーター・ディクスン]]の『[[ユダの窓]]』や[[高木彬光]]の『[[破戒裁判]]』などがある。
法律の知識を活かせることから、[[中嶋博行]]、[[五十嵐律人]]、[[フェルディナント・フォン・シーラッハ]]など現役弁護士の作家も存在する。
==== 警察小説 ====
{{Main|ポリスプロシーデュアル|警察小説}}
[[警察官]]が主人公であるもの。謎解きそのものより警察の捜査活動の描写に重点が置かれる。警察官でありながら組織に反発する者が主人公だったり警察組織内部の情勢や暗部を題材としたりしたものもある。必ずしも推理小説であるとは限らず、アクション、サスペンスの要素に重点を置くもの、警察組織への風刺をこめたもの、逮捕後に法廷ものへ移行するもの、[[交番]]勤務など地味な活動に焦点を当てたものなど様々な作品がある。国際犯罪や[[公安警察]]を題材とした作品はスパイ小説に分類されることもある。
初の警察小説は1868年に[[ウィルキー・コリンズ]]が発表した『[[月長石 (小説)|月長石]]』とされる<ref>Wheat, Carolyn (2003) How to Write Killer Fiction: The Funhouse Of Mystery & The Roller Coaster Of Suspense. Santa Barbara, PA: Perseverence Press, ISBN 1880284626</ref>。
[[科学捜査]]を主題とした作品では[[鑑識]]官や[[法医学]]者が科学・医学の知識を元に推理する作品もある。シャーロック・ホームズシリーズでも医師であるワトスンが証拠調べとして補助することはあったが、探偵役となるのは同時期にライバル誌で連載していた法医学者の[[ジョン・イヴリン・ソーンダイク]]が活躍する作品が初期の例とされる。ジャンルの初期からあるが科学の進歩により新しい捜査手法が登場しており、最新の知見を反映した作品が定期的に発表されている。
知識や実務経験をいかせるため、[[濱嘉之]]や[[佐竹一彦]]など元警察官の作家もいる。
日本[[警察小説]]は「[[ガラパゴス化|ガラパゴス進化]]を遂げた」との見方もある<ref name="shinpo">[[新保博久]]「日本のケーサツ小説はガラパゴス進化を遂げた」『[[本の雑誌]]』2013年4月号 p.14-17</ref>。
==== スパイ小説 ====
{{main|スパイ小説}}
[[スパイ]]の[[防諜]]活動を描くジャンル。エスピオナージュ(espionnage)とも呼ばれる。ジャンルとしてはハードボイルドや警察小説と重複する。
現実的な国際謀略を描いたものから、荒唐無稽なアクションまで多彩な作品が書かれており、前者の代表例は[[ジョン・ル・カレ]]のスマイリー・シリーズ、[[ロバート・ラドラム]]のボーン三部作、[[トム・クランシー]]の[[ジャック・ライアン]]・シリーズ、[[フレデリック・フォーサイス]]のドキュメント・スリラー。後者の代表例としては[[イアン・フレミング]]の[[ジェームズ・ボンド]]・シリーズが有名。アクション要素が強い作品は[[スパイ映画]]の原作となることも多い。
推理要素は必須とされないが、要人を[[暗殺]]した犯人や護衛対象を狙う殺し屋を探すなどスパイ要素に絡めた作品もある。フレデリック・フォーサイスの『[[ジャッカルの日]]』は暗殺犯と警察の頭脳戦が主題となっており、[[エドガー賞]]の[[エドガー賞 長編賞|長編賞]]を受賞している。
スパイ・ミステリ・暗殺といった要素を内包する[[演劇]]のジャンルは[[外套と短剣]]とも呼ばれる。
==== 医療ミステリー ====
病院や診療所を舞台とし、主人公が[[医師]]や[[看護師]]などの[[医療従事者]]であるジャンル<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://ddnavi.com/matome/604416/a/ |title=「ポスト東野圭吾」! 医療ミステリーの旗手・知念実希人作品おすすめ11選&インタビューまとめ |access-date=2023/07/22 |publisher=ダ・ヴィンチWeb}}</ref>。
医学の知識を用いて謎を暴くのが基本であるが、架空の病気を題材としたSFに近い作品、医療制度の問題を描く社会派に近い作品など様々な作品がある<ref name=":1" />。
知識や実務経験があるため、[[海堂尊]]や[[知念実希人]]など現役の医師が執筆する例もある<ref name=":1" />。
==== 時代ミステリ ====
{{Main|時代小説}}
過去の時代を舞台としたもの。探偵役やワトスン役、容疑者や犯人・被害者役が史実上の実在人物という設定もある(織田信長、[[徳川光圀|水戸黄門]]、[[千坂高房|千坂兵部]]など)。
日本では特に[[江戸時代]]を舞台にした「名[[奉行]]もの(お白州もの)」や「捕物帳」といったジャンルがある。「名奉行もの」は一種の法廷ものである。「捕物帳」は[[岡本綺堂]]の『[[半七捕物帳]]』を嚆矢とし、緊密な構成をもった本格物から[[江戸風俗]]の描写に力を入れたものまで幅広い。歴史ミステリと特に区別なく使用されることがしばしばある。
[[シャーロック・ホームズシリーズ]]のように長く人気を保ち、後代の作家によって続編が書かれつづけた結果、時代ものとしての一面も持つに至った作品もある。
==== 歴史ミステリ ====
歴史上の謎に、現代の探偵役が資料などを元に取り組むもの。史実における謎を真面目に取り扱った作品も存在するが、多くはフィクションとしての面白さを狙った奇抜な回答が用意されることになる。純粋に歴史上の謎のみを解決することは少なく、ほとんどの作品では探偵役と同時代の犯罪事件の解決も付随している。退職した刑事が迷宮入りした過去の事件を再検討する作品は警察ものに分類される。
[[ジョセフィン・テイ]]の『[[時の娘]]』、[[高木彬光]]の『[[成吉思汗の秘密]]』など。
==== SF/ファンタジー/オカルト ====
{{see also|ファンタジー|サイエンス・フィクション|超自然的フィクション}}
[[魔法使い|魔術師]]や[[超能力者]]が存在する状況、死者が甦る状況、[[宇宙]]の果てを航行する[[宇宙船]]の中、[[人類]]と異なる思考体系の知性体との共同社会など、現実世界ではありえない状況・環境を許容する世界観の中で発生した事件について、その世界観の下で論理的な捜査と考察を行えば推理小説になりうる。日本ではこのような非現実的な状況下において論理的な推理で事件を解決する作品に対し、[[米澤穂信]]による『折れた竜骨』の後書きや解説<ref>{{Cite web|和書|title=折れた竜骨 米澤穂信 {{!}} 東京創元社 |url=http://www.tsogen.co.jp/ryukotsu/ |website=www.tsogen.co.jp |access-date=2023-07-21}}</ref>から「'''特殊設定ミステリー'''」という用語が使われるようになった<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://ddnavi.com/interview/1084120/a/ |title=西尾維新デビュー20周年記念ロング・ロングインタビュー 20タイトルをキーに語る、西尾ワールドの変遷(第1回) |access-date=2023/07/21 |publisher=ダ・ヴィンチWeb}}</ref><ref name=":3" />。日本でのヒットは超能力による頭脳戦、デスゲームのような極限の状況下、複雑なルールのギャンブルを描いた漫画の影響が指摘されている<ref name=":3" />。
論理性よりもSFや超能力の設定を重視し、[[ノックスの十戒]]では批判された(大半の読者には)理解出来ない高度な科学技術や、[[超能力]]による犯罪・解決をメインに据えた作品も多い。
SFミステリでは[[ロボット]]の殺人を禁じた[[ロボット工学三原則]]を逆手に取った『[[鋼鉄都市]]』など[[アイザック・アシモフ]]が多数の作品を執筆している。また未来を舞台に科学技術による犯罪と、進歩した科学捜査を駆使する警察を描いた「SF警察もの」も存在する。[[アルフレッド・ベスター]]の『[[分解された男]]』は[[テレパシー]]能力をもつ[[エスパー]]が存在する世界の犯罪と警察活動を描いている。
[[サイバー犯罪]]のように執筆時点では空想であったが技術の進歩により現実となった例もある。
[[井沢元彦]]の『[[猿丸幻視行]]』のように[[タイムトラベル]]ものの歴史ミステリもある。
ファンタジーミステリとしては、密室で魔法使いが殺されたという事件を扱った[[ランドル・ギャレット]]の『魔術師が多すぎる』、マジックアイテムを用いた殺人事件を「嘘看破」の呪文を駆使して捜査する[[山本弘 (作家)|山本弘]]の『死者は弁明せず』などがある。
現実世界を舞台に[[幽霊]]や[[吸血鬼]]など[[オカルト]]・[[超自然]]的要素が絡む作品は{{仮リンク|オカルト・ディテクティブ・フィクション|en|Occult detective fiction}}、サイキック・ディテクティブ、スーパーナチュラル・ディテクティブなどと呼ばれ<ref>{{Cite journal|last=金﨑|first=茂樹|date=2017-03|title=サイキック・ディテクティブの登場 ―英米小説のあるジャンルについて―|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282812423770880|journal=大阪産業大学論集 人文・社会科学編 = JOURNAL OF OSAKA SANGYO UNIVERSITY Humanities&Social Sciences|volume=29|pages=1–13|language=ja}}</ref>、[[西澤保彦]]の『[[神麻嗣子の超能力事件簿]]』や[[城平京]]の『[[虚構推理]]』、漫画では[[松井優征]]の『[[魔人探偵脳噛ネウロ]]』などがある。
==== パズル・ミステリ ====
事件そのものの推理よりも[[暗号]]や[[パズル]]などの謎解きに重点が置かれる作品。
ストーリーは重視されず、トリックが解けると結末は数行で纏められたり、そのまま作品が終了しその後が描かれない作品もある。舞台背景も重視されず、謎を成立させるために非現実的な設定(1人は必ず嘘をつき、もう1人は必ず真実を話す双子など)の作品もある。分量が少ないため短編集や[[ショートショート]]集が多い。[[アイザック・アシモフ]]の『ユニオンクラブ奇談』シリーズはショートショート集である。
[[ゲームブック]]形式もあり、1936年に発表された[[デニス・ホイートリー]]の「捜査ファイル・ミステリー・シリーズ」は警察の捜査書類や証拠写真のページを読んで、袋とじになった解決編に書かれた犯人を当てるゲームができるようになっている。
ストーリー性が薄く、[[数学パズル]]に簡単な設定を付けたものや、ほぼ論理クイズ([[ロジックパズル]])となっている作品もある。これらはクイズ集やパズル集として出版されており、多くはクイズやパズルの作家が執筆している。推理作家の作品として[[ドナルド・ソボル]]の『2分間ミステリ』シリーズは、短い本文に全ての証拠が提示されおり、それを2分間の制限時間で推理するというクイズを集めた短編集である。
極端な例として[[京都大学]]推理小説研究会は[[ジグソーパズル]]と推理小説を組み合わせた『推理小説×ジグソーパズル 鏡の国の住人たち』を刊行した<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/E1374079753875/ 京大ミステリ研からの挑戦状。ジグソーパズル付き推理小説『鏡の国の住人たち』] - エキサイトニュース</ref>。
子供向け絵本の『いますぐ名探偵 犯人をさがせ!』は、最初から証拠と容疑者の素性提示されており、その情報から犯人を推理することで論理性を養うことを目的としている<ref>{{Cite web|和書|title=【文響社 公式】いますぐ名探偵 犯人をさがせ! / 桂林ブックス チョ・スンヨン |url=https://bunkyosha.com/books/9784866514345 |website=文響社 |access-date=2023-07-22}}</ref>。
[[ジョン・ディクスン・カー]]の『[[三つの棺]]』に収録された『密室講義』や、[[江戸川乱歩]]の『[[類別トリック集成]]』などトリックの分類や解説をした評論もある。
なお、英語圏での分類である「パズラー(Puzzler)」「パズル・ストーリー(Puzzle Story)」は、ここでいうパズル・ミステリではなく、日本語での分類に則せば本格ものに近い。
==== 奇妙な味 ====
{{main|奇妙な味}}
推理小説とも怪奇小説ともつかない奇妙なもので、文学小説として分類されることもある。
推理作家でない作家が書くこともあり、[[ロアルド・ダール]]は短編を多数執筆した。
=== 日本独自のサブジャンル ===
==== 社会派 ====
{{main|社会派推理小説}}
一般に、社会性のある題材を扱い、作品世界のリアリティを重んじる作風を指す。事件そのものに加え、事件の背景を綿密に描くのが特徴。日本では[[1960年代]]から長らく主流が続いた。[[松本清張]]の作品がその代表とされる。1990年代以降は[[高村薫]]がこの代表である。
==== 新本格ミステリ ====
{{main|新本格ミステリ}}
字義としては「新たな本格」であり、ミステリ史上いくつかの使用例があるが、日本では特に、1980年代後半から90年代にかけてデビューした一部の若手作家による作品群を指すことが多い。[[綾辻行人]]、[[有栖川有栖]]、[[法月綸太郎]]等がこの代表である。各作家による差異はあるが、一般に古典的ミステリ(特に本格もの)に倣った作風を特徴とする。ただし「新本格」という用語にはこれ以前にも別の用例があり、またミステリの拡散状況もあって、現在では歴史的な用語に近くなっている。
==== メタミステリ ====
{{Seealso|メタフィクション}}
推理小説の形式自体を題材にした、あるいは利用した推理小説<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=【「本屋大賞2022」候補作紹介】『硝子の塔の殺人』――密室での連続殺人に読者への挑戦状......メタとオマージュが入り組んだ本格ミステリ長編〈BOOKSTAND〉 |url=https://dot.asahi.com/webdoku/2022030400077.html |website=AERA dot. (アエラドット) |date=2022-03-04 |access-date=2023-07-21 |first=The Asahi Shimbun |last=Company}}</ref>。曖昧に使われているが、広くいえば言語の自己言及性そのものに謎を見出す作品。小説中にAとBの2つの部分が交互に現れ、Aに現れる登場人物がBを、Bに現れる登場人物がAを執筆しているという合わせ鏡的プロット([[有栖川有栖]]の「[[学生アリスシリーズ]]」と「[[作家アリスシリーズ]]」等)や、作中作を利用した再帰的構造の一番奥の部分が、全体の枠組みに言及する循環構造プロット、「探偵」「犯人」「ワトスン役」「[[推理小説#読者への挑戦状|読者への挑戦状]]」など推理小説の定義を利用したトリック、「登場人物一覧の虚偽」、著者・編集者・読者など小説外部の人間が犯人など商品としての書物自体を含んだプロットなどが挙げられる。
本格作品(前述)の〈手がかりをすべて作中に示す〉ことが作中でどのように保証されるかを問題にしたプロット(「本格」としての解決の後、それが実は作中作であって、後日談があって、新たな捜査の進展があって、意外な真相がさらに明らかにされる、など)も含まれ、この種の推理小説自体の枠組みに対し疑念を呈する作品を「[[アンチ・ミステリー]]」(反推理小説)と呼ぶことがある。
==== 日常の謎 ====
{{main|日常の謎}}
日常生活の中でふと目にした不思議な現象などについて、その理由・真相を探るもの。
犯罪の場合も「教室からある物が無くなった」など警察が関与するほどではない軽微なものであるため、少年探偵が活躍する青春ミステリ(後述)に多く採用されており、ジャンルが重複している。
代表的な作家に[[北村薫]]、[[加納朋子]]等がいる。
==== 青春ミステリ ====
{{main|青春小説}}
主人公もしくはそれに近い人物に、思春期・青年期を迎えた人物を配したミステリ。多くは小説の進行に伴って、主人公およびその周辺の人物の成長が描かれる。学校を舞台とした学園ミステリの多くを包含する。当初[[ライトノベル]]や[[ジュブナイル小説]]のレーベルで発表された推理小説は多くがここに属する。
古典的な代表作に[[赤川次郎]]の『[[セーラー服と機関銃]]』、[[小峰元]]『アルキメデスは手を汚さない』、[[栗本薫]]『ぼくらの時代』等があり、2000年代以降の書き手では[[米澤穂信]]、[[辻村深月]]などが著名である。
米澤穂信の「[[〈小市民〉シリーズ]]」、「[[〈古典部〉シリーズ]]」のような「日常の謎」系の作品から[[桜庭一樹]]の『[[砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない]]』のように陰惨なテーマを扱ったもの、ごく普通の少女だった主人公が如何に推理力を育てたかを描く[[松岡圭祐]]の『[[Qシリーズ (小説)|万能鑑定士Qの事件簿]]』シリーズまで、作風は幅広く存在している。
[[児童文学]]との境界が曖昧で、[[はやみねかおる]]の「[[名探偵夢水清志郎事件ノート|名探偵夢水清志郎事件ノートシリーズ]]」や[[松原秀行]]の「[[パソコン通信探偵団事件ノート|パソコン通信探偵団事件ノートシリーズ]]」は特に低年齢層に支持されている。
推理要素を持つ海外の作品には[[エーリッヒ・ケストナー]]の『[[エーミールと探偵たち]]』、[[ドナルド・ソボル]]の「[[ロイ・ブラウン|少年探偵ブラウンシリーズ]]」、1930年から著者を変えて続く「[[少女探偵ナンシー|少女探偵ナンシーシリーズ]]」などの[[:en:Girl detective (genre)|少女探偵もの]]があるが、海外では児童文学やジュブナイル小説に分類される。『[[パイは小さな秘密を運ぶ]]』から始まる[[アラン・ブラッドリー]]の「[[アラン・ブラッドリー#少女探偵フレーヴィア シリーズ|少女探偵フレーヴィアシリーズ]]」の邦訳は[[創元推理文庫]]から推理小説として出版されている。
==== トラベル・ミステリ ====
広義には、有名な観光地を舞台にするなど、探偵役が何らかの形で観光に関わる作品を指す。旅先の情景や風土といった[[紀行|旅行記]]的な要素も人気の一因で、テレビドラマや映画など、映像化に適したジャンルでもあり、その面での傑作も多い。日本では[[西村京太郎]]の多作によって、人気ジャンルの一つになっている<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/276334 愛用の時刻表はどれ?「西村京太郎」創作の秘密] - [[東洋経済新報社|東洋経済]]オンライン</ref>。主に京都を舞台とした[[山村美紗]]の多作と多数のテレビドラマ化もこれに寄与している。
狭義には、鉄道や航空機などの交通手段を用い、その運行予定表の裏をかいた[[アリバイ]]工作の登場する作品。鉄道の場合[[時刻表]]を駆使したトリックが使われることが多く「時刻表もの」とも呼ばれるが、車両の構造を利用する例もある<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/276334?page=4 愛用の時刻表はどれ?「西村京太郎」創作の秘密 4] - [[東洋経済新報社|東洋経済]]オンライン</ref>。特に日本では鉄道の定時性が極めて高く、国民の間で広く利用されていることが、このジャンルの成立と人気を支えている。
[[鮎川哲也]]が先駆的作品である『[[ペトロフ事件]]』で初めて列車の時刻表を用いて以降、時刻表ミステリが定番となった。[[松本清張]]は社会派とされるが、代表作のひとつ、『[[点と線]]』は、時刻表ミステリの代表的作品といえる。
海外では公共輸送機関の定時性が日本ほど厳密ではないため時刻表トリックは成立しにくいが、欧米では上流階級が[[クルーズ客船]]や[[クルーズトレイン]]でヨーロッパを旅行するというシチュエーションは自然であるため、『[[オリエント急行の殺人]]』のような走行中の列車内で探偵が事件に遭遇する「動く密室」としての利用が多い。このような作品は通常、本格ものに分類される。
==== バカミス ====
{{main|バカミス}}
日本における分類の1つで、リアリズムを意図的に無視したトリックなど結末の「バカバカしさを重視するミステリー」と、結末を知って「そんなバカな!!と驚くようなミステリー」の二つを意味が混在している。
前者の意味での代表作は[[蘇部健一]]の『六枚のとんかつ』など。
==== イヤミス ====
読むと嫌な気分になるミステリー、後味の悪いミステリーのこと。社会派、ホラー、青春小説などジャンルは様々である。イヤミスという言葉を最初に使ったのは、霜月蒼とされ<ref>[https://archive.fo/20140406054504/http://d.hatena.ne.jp/honyakumystery/20120523/1337722658 アガサ・クリスティー攻略作戦 第七十七回(執筆者・霜月蒼)]</ref>、『[[本の雑誌]]』2007年1月号で「このイヤミスに震えろ!」というタイトルの連載がスタートしている<ref>[http://www.webdoku.jp/honshi/2007/1-061211224612.html 本の雑誌2007年1月 湯豆腐転覆号 - 今月の本の雑誌]</ref>。
代表的な作家に[[湊かなえ]]、[[沼田まほかる]]、[[真梨幸子]]、[[秋吉理香子]]、[[歌野晶午]]、[[貫井徳郎]]らがいる。
== 推理小説の用語 ==
=== 探偵役 ===
犯人を捜したり推理する人物を指す用語。
推理小説では、[[シャーロック・ホームズ]]のような私立探偵業を営む「[[名探偵]]」が登場して事件を解決するのが基本であるが、探偵業者が登場しない作品も多い。このため事件記者、[[警察官]]、[[検事]]、[[弁護士]]、保険調査員など犯罪に多く関わる職業も含め、推理小説における謎を解決する人物の総称として「'''探偵役'''」と表記する場合もある。特にその探偵役が主婦や学生など普段は犯罪と関わらない一般人の場合(いわゆる「[[#日本独自の分類/用語|日常の謎]]」派の探偵をのぞき)、「'''素人探偵'''」や「'''アマチュア探偵'''」と呼ぶことがある<ref name=hokkaido_396364>[https://www.hokkaido-np.co.jp/article/396364 <書評>紙鑑定士の事件ファイル] - [[北海道新聞]]</ref>。「素人」や「アマチュア」とは「事件捜査の専門家ではない者」という意味で、自身の専門分野においては警察や探偵より上という人物もおり、素人探偵が専門知識で事件を解決する作品も多数刊行されている<ref name=hokkaido_396364 />。
警察から依頼や情報提供を受けるなど協力関係にある探偵も多く描かれており、名探偵[[エラリー・クイーン (架空の探偵)|エラリー・クイーン]]はニューヨーク市警察の警視である父の協力を得て事件を解決する。世界初の名探偵とされる[[C・オーギュスト・デュパン]]は、知人の警視総監から依頼を受ける隠居者という設定であり、現代では素人探偵に分類される。警察からの依頼も受けるシャーロック・ホームズは「民間諮問探偵<ref group="注">「民間顧問探偵」の訳もある。</ref>」(consulting detective) を自称している。
探偵役が単独とは限らず『[[トミーとタペンス]]』シリーズのように探偵がコンビを組む作品もある。また複数の探偵役が独自に推理した結果を終盤で一堂に会し披露し合う「'''推理合戦'''」は競争要素も加わり人気であるが<ref name=hokkaido_396364 />、間違った推理を披露する探偵が名探偵の[[かませ犬]]として描かれることも多いため不満を持つ読者もいる<ref name=asahi_ASL514TGRL51PTFC00Y>[https://www.asahi.com/articles/ASL514TGRL51PTFC00Y.html 「友達以上探偵未満」 麻耶さん新刊は女子高生が謎解き] - [[朝日新聞]]</ref>。アイザック・アシモフの『[[黒後家蜘蛛の会]]』シリーズは最初から複数人が集まって議論が行われ、最後に[[給仕]]の[[ヘンリー・ジャクスン]]が真相を明らかにして終わる。『[[名探偵なんか怖くない]]』のような推理合戦をパロディとした作品も刊行されている。
少年達が協力して謎に挑む「探偵団もの」は[[ジュブナイル小説]]の人気ジャンルであり、[[はやみねかおる]]のようにこのジャンルをメインに活動する作家も多い。また、[[江戸川乱歩]]の『[[少年探偵団]]シリーズ』のように本格ミステリの作家による作品もある。大人向けとしては[[赤川次郎]]の『[[三姉妹探偵団]]シリーズ』がある。
警察小説では性格の違う刑事がコンビを組んで事件を捜査する「'''バディもの'''」が多く刊行されている。映像作品では{{仮リンク|バディフィルム|en|Buddy film}}というジャンルを形成しており、『[[X-ファイル]]』『[[リーサル・ウェポン]]』『[[あぶない刑事]]』『[[相棒]]』などが人気シリーズとなっている。
終盤になって、物語の幕引きのためだけに登場する探偵役もおり、必ずしも作品の主人公とイコールではない。『[[名探偵登場]]』では当初、終盤になってシャーロック・ホームズと[[ジョン・H・ワトスン]]が現れ、それまでスター俳優が演じる探偵たちの推理を全て否定し真相を明らかにして去っていくという展開([[デウス・エクス・マキナ]])を撮影したが、かませ犬に不満を持ったスターらの反発で別のバージョンが公開された。
[[麻耶雄嵩]]は『[[貴族探偵]]シリーズ』で「証拠集めから推理まで全て使用人に任せる」という「なにもしない探偵」、『[[神様ゲーム (麻耶雄嵩)|神様ゲーム]]』ては序盤で推理過程を飛ばして犯人を指摘する探偵など、探偵の定義を利用したメタミステリ要素の強い作品を多く執筆している<ref name=asahi_ASL514TGRL51PTFC00Y />。
[[法月綸太郎]]により、「探偵役が提示した解決が真の解決であるかは作中で証明できない」という問題([[後期クイーン的問題]])が提起されている。これ以降、日本の[[#新本格ミステリ|新本格ミステリ]]では、不完全な推理しかできない探偵役、作中で推理の完全性が保証された名探偵など、問題を意識した作品が多数登場した。変則的な事例として『[[虚構推理]]』の探偵役は事件の真相ではなく「どうやって人々を納得させるか」を目的としており、推測が含まれると断言した上で納得できそうな解決を提示するという作風から議論を巻き起こした<ref>{{Cite web|和書|author=中川凌|date=2018-06-09|url=https://ddnavi.com/matome/464828/a/|title=推理マンガのおすすめ10選! 謎解きの快感が病みつきになる、誰もが知る名作から注目のミステリーまで一挙まとめ|website=[[ダ・ヴィンチニュース]]|accessdate=2018-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181223164511/https://ddnavi.com/matome/464828/a/|archivedate=2018-12-23}}</ref>。
=== ワトスン役 ===
探偵役の助手や相棒、物語の'''[[語り手|語り部]]'''となる人物を指す用語。[[キャラクター類型]]では[[サイドキック]]に該当する。
語源は『[[シャーロック・ホームズシリーズ]]』において、探偵役の[[シャーロック・ホームズ]]の相棒であり語り部でもある[[ジョン・H・ワトスン]]から<ref group="注">「探偵役の友人」が語り手というのは、これより古い[[エドガー・アラン・ポー|ポー]]の推理小説(『[[C・オーギュスト・デュパン|デュパン]]シリーズ』や『[[黄金虫 (小説)|黄金虫]]』、探偵役の「知人」まで範囲を広げると『[[お前が犯人だ]]』も該当。)からある手法。なお、これらの語り手は最後まで人称代名詞でしか呼ばれず名前は不明。</ref>。
シャーロック・ホームズシリーズが商業的に成功した理由の一つとして、ホームズの奇抜な行動や核心となる手がかりをワトスンの視点で描写することにより、ホームズが推理を披露するまで読者の興味を引きつけたままに出来たことがあげられる。この形式はシャーロック・ホームズシリーズ以後、多くの推理小説で踏襲されたため「ワトスンと同等の役割」から「'''ワトスン役'''」と呼ばれることとなった。
単独とは限らず直属の部下や探偵事務所の職員という設定で複数人の場合もある。
医師でもあるワトスンのように専門知識を活かして積極的に手伝う者、完全な傍観者で語り部に徹する者などパターンが様々であるが、探偵役と違い必須の役回りではないため存在しない作品も多い。一方で、シリーズ作品の中には普段ワトスン役の人物が探偵役となるエピソードが執筆されることもある。また探偵役が主人公でワトスン役は毎回別人、逆にワトスン役が主人公で探偵役が毎回別人など、変則的な設定の作品も存在する。ワトスン役が毎回同じで、犯人も毎回同じなのは[[ロード・ダンセイニ]](ダンセイニ卿)の初期シリーズ作品<ref group="注">[[調味料]]セールスマン(行商人)のスミザーズが語るシリーズだが、日本では最初の「[[二壜の調味料]]」(''[[:en:Lord Dunsany|The Two Bottles of Relish]]'' )のみ知られている。次の「スラッガー刑事の射殺」は前作の事件を捜査し、語り手とともに現場を訪れた警察官が被害者になっている。</ref>。
ワトスン役が積極的に推理する作品も多く、[[相沢沙呼]]の『medium 霊媒探偵城塚翡翠』は探偵役が霊媒で得た真相を元に、ワトスン役が論理的な答えを構築するという設定である<ref>[https://ddnavi.com/review/599352/a/ 【2020年本屋大賞ノミネート】「すべてが、伏線。」読者は挑発され、気持ちよく騙される!? 連続死体遺棄事件に挑む霊媒探偵と推理作家のどんでん返しミステリー] - ダ・ヴィンチニュース</ref>。
=== 犯人===
犯行を行った者。推理小説では基本的に犯人が不明のまま捜査・推理が行われ、最後に探偵が犯人を指摘することで物語が完結する。本格ものでは読者が犯人を推理するのが楽しみの一つとなっており、著者は様々な工夫で隠匿しているが、推理過程やトリックの解明、推理以外の要素(恋愛など)を重視した作品では犯人当ては重視されず、[[西村京太郎]]のように「犯人は印象に残りやすいように印象的な名前にしている」と公言する作家もいる<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/278196 西村京太郎が告白「最近の列車は殺しにくいね」] - [[東洋経済新報社|東洋経済]]オンライン</ref>。
単独とは限らず、既に死亡していることもある。人間ではないこともあり、動物に襲われたという真相も存在する。生物ではなく法律や制度などが真犯人という作品もある。
犯人が主人公という作品の中には自身が犯人だと認識していなかったり、文章を工夫し読者に悟られないようにしているなど、様々なパターンが生み出されている。
作中の手がかりから推理はできるが名指しされずに終わる作品もあり、[[東野圭吾]]の『[[どちらかが彼女を殺した]]』は[[講談社ノベルス]]から刊行された際に問い合わせがあったため、文庫化に併せて袋とじの解説を追加したが、解説でも明示はされていない。
鮮やかな手口や[[犯行予告]]など[[劇場型犯罪]]で厳重な警備下にある美術品を盗み出す者は[[怪盗]]と呼ばれ、シリーズものでは探偵や警察とライバル関係という設定も多い。[[江戸川乱歩]]の作品群では[[怪人二十面相]]が[[明智小五郎]]や[[少年探偵団]]とライバル関係にある。
=== トリック ===
{{main|トリック (推理小説)}}
犯行が露呈しないようにする企みであるが、同時に「著者が読者に仕掛ける企み」とも捉えられる。推理小説は基本的に「探偵がトリックを見破り犯人を指摘する」形式の作品である。
物理的、心理的な手段の他、小説という形式自体の暗黙の前提や偏見を利用した[[トリック (推理小説)#叙述トリック|叙述トリック]]もある。また偶然が重なり結果としてトリックとして成立した作品もある。
本格ものではトリックの現実性や厳密さ、それを暴く推理の論理性が重要とされフェア/アンフェアが論争となるが、ジャンルによっては重要視されない。
=== 密室 ===
{{main|密室殺人}}
外部から侵入できない空間。密室内での犯行([[密室殺人]])が発生し、犯人がどうやって外へ出たのかを探偵が推理する作品は「密室もの」と呼ばれる。密室殺人は「不可能犯罪」の一種である<ref name="daijisen">大辞泉「密室殺人」</ref>。特に本格推理小説では様々な工夫を凝らした密室が誕生している。
1892年に発表された『[[ビッグ・ボウの殺人]]』の序文において作者は「これまで出入りできない部屋での殺人を書いた作家はいない」と公言しており、本作が史上初の「密室もの」とされる<ref>p.27 有栖川有栖の密室大図鑑 2019年</ref>。
なお、列車・船舶・航空機など移動中に乗り降りできない場所は「動く密室」と呼ばれるが、後述の[[#クローズド・サークル|クローズド・サークル]]に分類されるもので「不可能犯罪」に分類されるものではない(ただし、クローズド・サークル内の全員にアリバイがある等、別の要因により「不可能犯罪」の様相を呈することがある)。探偵、被疑者、犯人が「動く密室」から出ないまま解決する作品もある。『[[ナイルに死す]]』ではナイル河を、『[[名探偵が多すぎる]]』は瀬戸内海を航行する船上で物語が進行する。
=== アリバイ ===
{{main|アリバイ}}
被疑者が犯行に関わっていないことを示す証拠。推理小説では各被疑者のアリバイを検討して矛盾を見つけ、真犯人を指摘する「アリバイ崩し」というプロセスが一般的である。警察小説や法廷ものでは取り調べ時の『アリバイ崩し』が大きなウェイトを占める作品も多い。
本格推理小説ではアリバイを偽装する様々な手法が考案されている。
ミステリ用語の枠を越えて、広く一般に定着している言葉でもあるが、「のちの批判をかわすためのアリバイ作り」のように、「建前、弁明」の意味で使われることも多い。
=== ダイイング・メッセージ ===
{{main|ダイイング・メッセージ}}
死亡した人物が死の間際に残したメッセージのこと。一般的には被害者によって犯人を示す目的で残されるが、これを逆手に取って「犯人による改竄や偽装」「記述のミス」「無関係の人物が書いた」などのバリエーションが考案されている。[[エラリー・クイーン]]の『[[シャム双生児の謎]]』ではダイイング・メッセージにより探偵が誘導されるが、犯人も意図しなかった結末を描いている。
=== フーダニット、ハウダニット、ホワイダニット ===
事件の解明に必要な要素である犯人、犯行方法、動機のうち、どれの解明を重視するかによる分類。この3つの分類は、推理小説の興味の対象が、単なる犯人当てから[[トリック (推理小説)|トリック]]の面白さへと移り変わり、そして社会派へつながる動機重視に変わっていく、という推理小説の発展史と重なる。
;[[フーダニット]] (Whodunit = Who (had) done it)
:'''犯人は誰なのか'''を推理するのに重点を置いていること。
:探偵役が多数の容疑者から真犯人を探り当てる過程を重視した形式で、[[クローズド・サークル]]における犯人当てや、警察小説での聞き込み捜査などが当てはまる。
;ハウダニット (Howdunit = How (had) done it)
:'''どのように犯罪を成し遂げたのか'''を推理するのに重点を置いていること。
:犯人探しではなくトリックの解明を推理する過程を重視した形式で、警察小説の犯罪捜査や法廷ものにおけるアリバイ崩し、トラベル・ミステリにおける時刻表を利用したトリックの解明などが当てはまる。
;ホワイダニット (Whydunit = Why (had) done it)
:'''なぜ犯行に至ったのか'''を推理するのに重点を置いていること。
:犯行方法ではなく犯人像のプロファイリングや動機の解明を重視した形式で、犯罪者である主人公の内面描写を重視した犯罪心理小説や、犯人が捕まった後の精神鑑定を描く警察小説などが当てはまる。また警察小説や法廷ものには物語途中で犯人が捕まり、取り調べや裁判における動機の解明を主題とする作品もある。
これらは相反する要素ではなく、二つもしくは全てを追求する作品もある。特に「密室もの」では、密室を構成するトリックの解明と犯行に及んだ人物の推理を平行して行う作品が多い。
=== クローズド・サークル ===
{{main|クローズド・サークル}}
外界とは隔絶された状況下で事件が起こるストーリー。過去の代表例から「嵐の孤島もの」「吹雪の山荘もの」とも呼ばれる。走行中の列車内など「動く密室」もクローズド・サークルに分類される。隔絶された理由を犯人の意図としてプロットやトリックに組み込んだ作品も多い。
孤立した環境下ということで現実的な警察機関の介入や科学的捜査を排し、また容疑者の幅を作中の登場人物に限定できることから、より純粋に「犯人当て」の面白味を描ける利点があり、本格ものの作者やファンから好まれる傾向がある。シリーズものでは探偵やワトスン役を意図的に引き離す展開にも使われている。
探偵役やワトスン役も含めて、登場人物は殺人犯(かもしれない人物)と過ごすことになるため、推理よりもサスペンスを重視した作品もある。またホラー、サスペンス、スリラーなど他のジャンルでも使われている。
途中で外部から救援が来ることでクローズド・サークルが解消される作品もあり、救援に来た警察や医師の協力により必要な証拠が集まる、探偵が推理を披露する直前であり到着した警察は逮捕するだけ、逃げられなくなった犯人が逮捕される前に自殺するなど、様々なパターンが考案されている。
電話や無線通信、[[ヘリコプター]]の実用化により、孤島などでも通信や往来が以前より容易となったことから、「往来は出来ないが電話で探偵や警察のアドバイスが得られる」「何者かにより無線機が破壊された」「天候が回復するx日後にヘリコプターで向かう」など、これらを取り込んだ設定の作品も登場している。
「犯人が自分の犯行に気付いた相手をやむをえず殺害することになる」などの理由付けによって連続殺人事件へ発展、犯行が進むにつれ生存者が減少し、その中に犯人がいる(はずである)という恐怖を強調する作品もある。また、突き止められた犯人が凶暴化しパニックものへ移行する作品もある。
逆に言えば犯人にとっては「容疑者が限定される状況」で犯行を繰り広げるということであるため、なぜわざわざそうした危険を冒すのかという批判もあるが、それにいかに「合理的な動機」を与えるかもこのジャンルの醍醐味といえる。ストーリーによっては途中で殺害された人間の中に自殺した犯人がいて、その後の犯行は機械的な[[ブービートラップ]]などにより行われたという結末もある。また犯人が捕まらないように脱出することを目標としている作品もある。
初期の作品である[[アガサ・クリスティ]]の『[[そして誰もいなくなった]]』は孤島で連続殺人が起きる設定である。
「素人探偵が警察を差し置いて犯人探しに取り組む」という設定を合理化することが容易であることもあってか、素人探偵や少年探偵の活躍する作品にも多く見られる。
本格ものには「孤島に建つ館の部屋で密室殺人が起きるという」二重構造の作品もある。『[[すべてがFになる]]』は孤島の研究所の密室で殺人事件が起きるが、通信が不可能となったためヘリコプターで救援を呼ぼうとするものの不可能となり、自力で通信を復旧させて警察を呼ぶという展開である。
映像作品では、舞台劇のように1つの場所や状況のみで物語が進行する「[[ワンシチュエーション]]」というジャンルがあり、スリラー要素を追加した「ソリッド・シチュエーション」という派生ジャンルも確立している。『[[キューブ (映画)|キューブ]]』や『[[ソウ (映画)|ソウ]]』のように登場人物が脱出方法を推理するなど謎解き要素が含まれる作品もある。
=== 見立て殺人 ===
{{main|見立て殺人}}
犯人が死体や現場などをあるものに見立てる殺人のこと。殺人が絡まないものも含めて単に「見立て」とも呼ぶ。古くは江戸川乱歩によって「童謡殺人」と「筋書き殺人」に大別される。
読者に対し筋立て通りに殺人が行われるという異様な不気味さを狙ったもので本来はプロットに属するが<ref name=ranpo>[[江戸川乱歩]]「[[類別トリック集成]]」(『続・幻影城』)</ref>、アガサ・クリスティの『[[ABC殺人事件]]』や横溝正史の『[[八つ墓村]]』のように見立て自体がトリックという例も古くからある。この場合には「犯人が偽装のために見立て殺人を装った」「見立てが中途半端で異なるものと認識され推理が迷走する」などがある。
「事件が起きた孤島に伝わる言い伝え通りの死因」「見立てが暗号となっており解くと次の被害者が分かる」など他の要素と組み合わせた作品もある。アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』は孤島ものであると同時に童謡殺人でもある。
=== 倒叙 ===
通常の推理小説では、まず犯行の結果のみが描かれ、探偵役の捜査によって犯人とトリックを明らかにしていく。しかし倒叙形式では、初めに犯人を主軸に描写がなされ、読者は犯人と犯行過程がわかった上で物語が展開される。その上で、探偵役がどのようにして犯行を見抜くのか、どのようにして犯人を追い詰めるのかが物語の主旨となる。また、犯人の心理を描く時間が多く取れることで、一般的に尺が短くなりがちな動機の描写(通常は解決編の自白のみ)において、なぜ犯行に至ったのかという点を強く描写することが可能であり、犯罪心理小説で多く使われる。
隠匿に手を尽くす犯人側と推理を巡らす探偵側の視点を交互に描くことで頭脳戦を強調した作品や、終始犯人側の視点で進み、最初は犯罪心理、逮捕されてからは警察もの、裁判が始まると法廷ものとジャンルが変わっていく作品もある。
「どの時点で犯人が失敗したかを推理する小説」としても読めるため、犯人側の視点の描写を工夫する(犯行直後に物語が開始など)ことで読者と探偵役が得られる手がかりを公平とし、探偵役との頭脳戦を疑似体験できるようにした作品もある。漫画作品の『[[DEATH NOTE]]』は姿を隠す犯人である主人公と、犯人の正体を探る探偵の視点が交互に描写される。
英語では「''inverted detective story''(逆さまの推理小説の意)」「''howcatchem''(how catch them:どうやって彼(ら)を捕まえるかの意)」と呼ばれる。日本でも後述の『[[歌う白骨]]』が発表された黎明期には、[[馬場孤蝶]]が「逆の探偵小説」という言葉を使っていたと[[江戸川乱歩]]は回顧している。また、倒叙のうち、犯人は示されるがそのトリックや動機などが最後まで明かされないものを「'''半倒叙'''」と呼ぶことがある。
[[オースティン・フリーマン]]の短編集『[[歌う白骨]]』(1912年)でこの手法が初めて用いられた。ただし、ポーも倒叙ミステリとしても読める『[[黒猫 (小説)|黒猫]]』(1843年)や『[[告げ口心臓]]』(1843年)を著しており、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]の『[[罪と罰]]』(1866年)も、この形式に類する。推理小説そのものの歴史と同様に、その最初をどこに置くかについては諸説ある。1920年代から1930年代に全盛期を迎え、なかでもフランシス・アイルズ([[アントニー・バークリー]])の『[[殺意 (アイルズ)|殺意]]』(1931年)、[[F・W・クロフツ]]の『[[クロイドン発12時30分]]』(1934年)、[[リチャード・ハル]]の『[[伯母殺人事件]]』(1934年)は倒叙三大名作と呼ばれた。日本では乱歩が1925年に[[明智小五郎]]シリーズの2作目として短編『[[心理試験]]』を書いており、また乱歩は後に小論「倒叙探偵小説再説」(1949年)において倒叙作品の代表作に、上記三大作品以外では[[イーデン・フィルポッツ]]の『極悪人の肖像』を挙げている。
映像作品では「大物俳優に犯人役を演じさせたくても、下手をすれば配役だけで犯人がわかってしまうので、目立たないように複数の容疑者役も大物で固める」という予算的に難しい配役や、「演技への影響を抑えるため(真相が明らかになる)最終回まで犯人が誰かを俳優達に明らかにしないことで、犯人とされた役の演技が最終回とそれ以前とで矛盾が生じる」というジレンマを解消できるため、毎回異なる犯人が必要となる連続テレビドラマで多く使われる。特に『[[刑事コロンボ]]シリーズ』や『[[古畑任三郎]]シリーズ』は、大物俳優が犯人役としてゲスト出演することもあり人気シリーズとなった。
=== 多重解決 ===
1つの事件に対して、何通りもの解決が並立的に与えられる趣向。[[どんでん返し]]の一種。
探偵が複数いる場合、推理合戦によって提示された異なる解決をそれぞれ検討し、誤答を排除するパートに移行して真相が絞り込まれる。
推理合戦で多重解決となった後、名探偵が登場して真の解決を提示する作品もある。「黒後家蜘蛛の会」シリーズでは議論が袋小路に陥る一歩手前で、会話を聞いていた給仕が真相を暴くという形式である。
アントニー・バークリー『[[毒入りチョコレート事件]]』のように推理プロセスで各探偵の個性を強調する作品もある。
複数の探偵による推理合戦が基本であるが、[[三津田信三]]の『[[刀城言耶シリーズ]]』のように単独の場合もある<ref>[http://www.nkc.city.narashino.chiba.jp/narako/tosyo4gatu/20112/mis/5.pdf シリーズ 本格ミステリ入門 海外編 | 習志野高校図書館ホームページ連載企画]</ref><ref>[http://sugoi-japan.jp/sugoi/gakusei01.html 学生ファンの主張 第1限:エンタメ小説 東京大学 新月お茶の会 | SUGOI JAPAN Award2016]</ref>。
どの答えも正解だったり真相か不明なまま終わる作品もある。[[芥川龍之介]]の『[[藪の中]]』も真相不明のまま終わる多重解決と見ることが出来る。
=== 読者への挑戦状 ===
{{See|読者への挑戦}}
作中で探偵役が犯人を指摘する「解決編」の前に「ここまでの部分で、推理に必要な手がかりは全て晒した。さあ犯人(もしくは真相等)を推理してみよ」という文言が挿入される演出があり、これが「'''読者への挑戦状'''」と呼ばれる<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=【今週はこれを読め! ミステリー編】袋とじつき謎解き小説 トム・ミード『死と奇術師』に満足! - 杉江松恋|WEB本の雑誌 |url=https://www.webdoku.jp/newshz/sugie/2023/04/20/165750.html |website=WEB本の雑誌 |access-date=2023-07-23}}</ref>。本格ものでは読者にも推理できるのが暗黙の了解となっているため、あえて書かない作品もある。挑戦状を使う作品では、前後に空白ページを入れたり章を区切る、[[袋とじ]]にするなどして解決編が目に入らないようにする、挑戦状風のイラストや特殊なフォントを使うなど視覚的な演出を行う作品もある。
J・J・コニントンが1926年に発表した『或る豪邸主の死』で用いたのが最初であるが、[[エラリー・クイーン]]が[[1929年]]に『[[ローマ帽子の謎]]』から始まる『国名シリーズ』で使ったことでで広く知られるようになり、他の作家も追随した。読者への挑戦状の後に続く解決編を袋とじとしたミステリは、1936年に発表された[[デニス・ホイートリー]]の『マイアミ沖殺人事件』が初とされ、日本語訳では1959年に刊行されたビル・S・バリンジャーの『消された時間』とされる<ref>トム・ミード(著)、中山宥(翻訳)、[[千街晶之]](解説)『死と奇術師』[[早川書房]] p243</ref>。
『国名シリーズ』、[[有栖川有栖]]の『[[学生アリスシリーズ]]』、[[横溝正史]]の『[[蝶々殺人事件]]』、[[高木彬光]]の『[[呪縛の家]]』、『[[人形はなぜ殺される]]』、[[東野圭吾]]の『[[どちらかが彼女を殺した]]』、『[[私が彼を殺した]]』のように本文で明示する作品もあるが、作者が「解決編の前で証拠が出揃っている」「読者の視点で推理可能」と序文や後書きで書いたり<ref>p.30 有栖川有栖の密室大図鑑 2019年</ref>、インタビューで聞かれた際に答えたりするだけなど態度は様々である。読者への挑戦状が恒例となったシリーズでも挿入されないことがあり、『国名シリーズ』は9作品中『[[シャム双生児の謎]]』のみ挿入されていない。
雑誌連載では解決編まで掲載すると単行本が売れないことがあるため、[[西尾維新]]の『[[世界シリーズ|きみとぼくの壊れた世界]]』のように、推理できる証拠が揃う段階まで連載し、解決編は単行本にのみ掲載する例もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://ddnavi.com/interview/1087973/a/ |title=西尾維新デビュー20周年記念ロング・ロングインタビュー 20タイトルをキーに語る、西尾ワールドの変遷(第2回) |access-date=2023/07/21 |publisher=ダ・ヴィンチWeb}}</ref>。
正解者に懸賞金やプレゼントが用意されることもあり、[[坂口安吾]]は『[[不連続殺人事件]]』の連載時に犯人を当てた者に解決編の原稿料を進呈すると発表した。また読者だけでなく、[[大井廣介]]、[[平野謙 (評論家)|平野謙]]、[[荒正人]]、[[江戸川乱歩]]ら文人を指名した挑戦状も載せた。
古典的な本格ものの特徴とされるが、「変格」でも読者への挑戦状を載せる作品があり、メタミステリではトリックとして使われることもある。[[泡坂妻夫]]の『生者と死者―酩探偵ヨギ ガンジーの透視術―』は14箇所の袋とじがあり、そのまま読むと短編集、袋とじを開けると長編ミステリになるという仕掛けがある<ref>{{Cite web|和書|title=約90%が袋とじ! でも開けたくない人、続出の“伝説の奇書”復刊 |url=https://www.dailyshincho.jp/article/2014/02211130/ |website=デイリー新潮 |date=2014-02-21 |access-date=2023-07-23 |language=ja}}</ref>。
犯人当て以外にも、パトリシア・マガーや[[貫井徳郎]]の『被害者は誰?』の「被害者当て」、[[都筑道夫]]による遺体の「発見者当て」などがある。
類似した仕掛けとしてビル・S・バリンジャーの『消された時間』の他にも『歯と爪』において、結末部分が袋とじとなっており「意外な結末が待っているが、未開封であれば返金に応じる」という文言を記している<ref>{{Cite book |title=歯と爪 - ビル・S・バリンジャー/大久保康雄 訳|東京創元社 |url=http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488163044 |language=ja}}</ref>。
=== 完全犯罪 ===
{{Main|完全犯罪}}
犯行の手口が露見せずに犯人が捕まらない[[犯罪]]。推理小説では探偵が犯人を指摘できずに終わる作品もある。偶然が重なって証拠が消え推理が不可能となった、無関係の人間が冤罪で犯人とされる、発覚はしないが事故で真犯人が死亡するなど様々なパターンがある。
[[江戸川乱歩]]は『[[赤い部屋]]』において手段として確実性はなく偶然性に頼るものの完全犯罪となるトリックを「'''プロバビリティー'''<ref group="注">probability、[[蓋然性]]</ref>'''の犯罪'''」と命名し、作中で複数のトリックを登場させている。
== ジャンル名 ==
日本ではかつて英語の“Detective Novel”、“Detective Fiction”の訳語として'''探偵小説'''が用いられていたが、[[第二次世界大戦|第二次大戦]]後、「偵」の字が[[当用漢字]]に入れられなかったため、「探てい小説」と混ぜ書きで書くことになった。しかし、これを「みっともない」として「推理小説」という言葉が作られ、一般的になった{{要出典|date=2011年6月|title=「推理小説叢書」第3巻の発行は1946年7月であり当用漢字表告示以前}}。[[1946年]]に雄鳥社が『推理小説叢書』を発刊した時に、その監修者の[[木々高太郎]]が命名したという説もある。「偵」の字は[[1954年]]の当用漢字補正案で当用漢字に入れられたが、既に「推理小説」という言葉が広まっており、「探偵小説」に戻されることはなかった。「探偵小説」は、ジャンル名としては廃れていったものの、ロマン的な響きを持つため、未だ愛用している者も多い。または「名探偵」による推理と解決が中心であった時期の作品に限定して使うこともある。
なお、創始者のポー自身も似たような名前の「推理物語(tales of ratiocination)」と呼んでいた。
また、「'''ミステリー小説'''」(あるいは「'''ミステリ小説'''」)、もしくは単に「[[ミステリー]](ミステリ)」とも呼ばれる。
イタリアでは[[ジャッロ]](giallo, 黄色(黄表紙)、あるいは複数形でジャッリgialli)と呼ばれるジャンルに含まれる。フランスでは一般的にロマン・ポリシエromans policiersと呼ぶが、特にガリマール社刊行の推理小説シリーズを指してセリー・ノワールserie noire(黒いシリーズ)とも呼ぶ。
== 推理作家 ==
{{Main|推理作家}}
推理小説を著す[[作家]]は[[推理作家]]、ミステリ作家などと呼ばれる。推理小説を専業にする作家と、他のジャンルの小説をも同時に手がける作家との2つに大きく分けられる。近年では、作家本人は推理小説を書いている意識がないのにも関わらず、読者や評論家から推理作家に分類される場合があるなど、書き手と読み手との意識のずれもみられる。前述のようにパズル・ミステリを執筆しているのはパズルやクイズ作家が多く、推理作家に分類されることはない。
{{main2|著名な作家については[[推理作家一覧]]を}}
== 推理小説の賞 ==
{{Main|推理小説の賞}}
===日本国内===
;年間最優秀作品の表彰
:* [[日本推理作家協会賞]]
:* [[本格ミステリ大賞]]
:* [[翻訳ミステリー大賞]]
:* [[大藪春彦賞]](推理小説に限らない)
:<!-- この「:」は削除しないでください。[[Help:箇条書き]]参照 -->
;個人に対する表彰
:* [[日本ミステリー文学大賞]]
:
;公募新人賞
:*長編
:** [[江戸川乱歩賞]]
:** [[横溝正史ミステリ大賞]]
:** [[鮎川哲也賞]]
:** [[日本ミステリー文学大賞新人賞]]
:** [[『このミステリーがすごい!』大賞]]
:** [[ばらのまち福山ミステリー文学新人賞]]
:** [[アガサ・クリスティー賞]]
:** [[松本清張賞]](募集は推理小説に限らない)
:** [[メフィスト賞]](募集は推理小説に限らないが、推理小説の受賞が多い)
:* 短編
:** [[小説推理新人賞]]
:** [[ミステリーズ!新人賞]]
:** [[北区 内田康夫ミステリー文学賞]]
===日本以外===
日本以外における推理小説の賞あるいは推理作家団体が主催する賞については、<br/>「[[推理小説の賞#日本以外]]」もしくは「[[推理作家#推理作家の団体]]」を参照
==推理小説の番付を行っている本・雑誌==
* [[このミステリーがすごい!]]
* [[本格ミステリ・ベスト10]]
* [[本格ミステリこれがベストだ!]]
* [[本格ミステリー・ワールド]]([[黄金の本格]])
* [[ミステリが読みたい!]]
* [[週刊文春ミステリーベスト10]]
* [[文庫翻訳ミステリー・ベスト10]]
== 推理小説を主に扱っているレーベル ==
=== 四六判 ===
* [[ミステリ・フロンティア]]
* [[ハヤカワ・ミステリワールド]]
* [[ミステリー・リーグ]]
=== ノベルズ ===
* [[講談社ノベルス]]
* [[カッパ・ノベルス]]
* [[ハヤカワ・ポケット・ミステリ]]
* [[ジョイ・ノベルス]]
=== 文庫判 ===
* [[講談社文庫]] - [[メフィスト賞]]受賞作家の作品などが収められる。
* [[宝島社文庫]] - [[『このミステリーがすごい!』大賞]]受賞作家の作品などが収められる。
* [[創元推理文庫]]
* [[ハヤカワ文庫]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*畔上道雄『推理小説を科学する-ポーから松本清張まで』(『ブルーバックス』B-532)、講談社、1983年4月。ISBN 4-06-118132-7
*権田萬治・新保博久監修『日本ミステリー事典』(『新潮選書』)、新潮社、2000年2月。ISBN 4-10-600581-6
*権田萬治監修『海外ミステリー事典』(『新潮選書』)、新潮社、2000年2月。ISBN 4-10-600582-4
*[[高橋哲雄 (経済学者)|高橋哲雄]]『ミステリーの社会学-近代的「気晴らし」の条件』(『中公新書』940)、中央公論社、1989年9月。ISBN 4-12-100940-1
*森英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』、国書刊行会、1998年1月。ISBN 4-336-04052-4
*森英俊編『世界ミステリ作家事典[ハードボイルド・警察小説・サスペンス篇]』、国書刊行会、2003年12月。ISBN 4-336-04527-5
*ハワード・ヘイクラフト編(仁賀克雄編・訳)『ミステリの美学』、成甲書房、2003年3月。ISBN 4-88086-143-X
* [[有栖川有栖]]著 『有栖川有栖の密室大図鑑』、[[創元推理文庫]]、2019年3月。ISBN 978-4488414085
== 関連項目 ==
* [[推理作家]] - [[推理作家一覧]]
* [[世界の推理小説雑誌一覧]]
* 英語版Wikipedia - 日本語版Wikipedia「推理小説」に対応する項目
** [[:en:Crime fiction]]
** [[:en:Detective fiction]](Crime fictionの1つで、プロアマ問わず探偵役が登場するもの)
** [[:en:Mystery fiction]](Crime fictionと重なるが、狭義にはDetective fictionの中で、謎の論理的解決に重点のあるものを指す([[ハードボイルド]]などと対比して))
*** [[:en:Japanese detective fiction]]
{{推理小説}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:すいりしようせつ}}
[[Category:推理小説|*]]
[[en:Mystery fiction]] | 2003-03-07T10:01:29Z | 2023-12-02T23:32:21Z | false | false | false | [
"Template:See",
"Template:要出典",
"Template:Reflist",
"Template:推理小説",
"Template:Otheruses",
"Template:節スタブ",
"Template:Seealso",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite book",
"Template:Main2",
"Template:Cite web",
"Template:Pathnavbox",
"Template:Lang",
"Template:See also",
"Template:Cite journal",
"Template:Normdaten",
"Template:Main",
"Template:仮リンク",
"Template:Notelist2"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E7%90%86%E5%B0%8F%E8%AA%AC |
3,598 | ユーザーエージェント | ユーザーエージェント (英: user agent、日: 利用者エージェント)とは、利用者があるプロトコルに基づいてデータを利用する際に用いるソフトウェアまたはハードウェアのこと。
特にHypertext Transfer Protocolを用いてWorld Wide Webにアクセスする、ウェブブラウザなどのソフトウェアのこと。
本項ではHTTPユーザーエージェントについて解説する。
HTTPを用いてリソースの取得等を行うユーザーエージェントをHTTPユーザーエージェントと呼ぶ。
HTTPユーザーエージェントには、ウェブブラウザや、リソースを自動的に処理するクローラなどがある。
HTTPではUser-Agentヘッダーが定義されている。 クライアントはサーバーにリクエストを送る際に、ユーザーエージェントの情報をUser-Agentヘッダーとして送信する。User-Agentヘッダーには、アプリケーション名、バージョン、ホストオペレーティングシステムや言語といった情報が含まれる。 ウェブクローラーのようなボットの場合は、ウェブ担当者がそのボットのオペレーターと連絡を取ることができるように、URLや電子メールアドレスも含む。
User-Agentヘッダーはサーバ側において様々な用途で利用されている。
アクセス解析をする際に、User-Agentヘッダーによって、ユーザーが使用しているブラウザの種類やバージョンを集計することができる。
またUser-Agentヘッダーを偽装して、「ロボット排除基準」 (robots.txt)を使ってある特定のページあるいはウェブサイトの一部からクローラーを排除するための基準の1つになっている。ウェブ担当者は、特定のクローラーに特定のページを収集させたくない場合や、特定のクローラーがあまりに多くの帯域を消費している場合などに、そのクローラーがそれらのページを訪問しないように要請することができる。
ただし、後述のように、User-Agentヘッダーの値はあくまでクライアント側からの自己申告なので、 実際のユーザーエージェントと異なる値を送信することもできる。
ユーザーエージェント・スニッフィングとは、Webサイトが、ユーザーエージェントによって異なる内容を表示したり、 特定のユーザーエージェントにのみ内容を表示することである。Vivaldiはこのような問題を回避するため、Chromeのユーザーエージェントを使用している。
マイクロソフトのOutlook 2003ウェブアクセスは悪名高い例であった。Internet Explorerで閲覧すると、他ブラウザより多くの機能が表示された。
携帯電話向けのウェブサイトでは、ベンダー間や新旧の機種の間で、携帯電話のブラウザの仕様がしばしば大きく異なるため、ユーザーエージェント・スニッフィングが行われた(後述のようにUser-Agentヘッダーの偽装が容易に可能であるため、IPアドレスをもとに携帯電話か否かを判断していることもあった)。機種間の表示の内容の違いは、小さい(例えば小さいスクリーンに合うように特定の画像のサイズを変える)こともあるし、あるいは非常に大規模のこともあり得る(例えばXHTML の代わりにWMLでページを表現する)。
ユーザーエージェント・スニッフィングを回避するために、User-Agentヘッダーの偽装が行われた。
この最も早い例はInternet Explorerが、 Mozilla/<version> (compatible; MSIE <version>... で始まるUser-Agentヘッダーの値を使っていたことであろう。「Mozilla」はNetscape Navigatorのコードネームである。これは、その当時のInternet Explorerの主たる競合者だったNetscape Navigator用の内容を受け取るためだった。
その後、ブラウザ戦争においてInternet Explorerのシェアが拡大したために、User-Agentヘッダーの値のフォーマットは、部分的に他のブラウザによってコピーされていった。
Mozilla Firefox 、 Safari や Opera のようなInternet Explorerの競合製品は、 User-Agentヘッダーなどのをユーザー側の操作で変更できる機能を備えていた。 この機能はInternet Explorer専用に設計されたWebサイトを利用する場合に使用された。 ただし、WebサイトがInternet Explorerの独自機能を使用しているために、User-Agentヘッダーを偽装しても正常に使用できないことも多かった。
Webブラウザ以外に、大部分のダウンロードマネージャーやオフラインブラウザもUser-Agentヘッダーをユーザーの好みに変える機能を持っている。
2020年の時点では、多くのウェブサイトがウェブ標準に従うようになっている。
Netscape、Mozilla、Opera、その他一部のブラウザでは、ブラウザの暗号強度を示すためにU, I, Nの3個の文字を使用する。米国政府は40ビットを越える暗号をアメリカから国外へ輸出することを認めていなかったので、暗号強度が異なるバージョンがリリースされた。
暗号強度はUser-Agentヘッダーで確認できた。「U」は「USA」を表し、128ビットの暗号化を備えたバージョンであることを示す。「I」は「international(国際的)」のiであり、40ビットの暗号化を備えており、世界中のどこでも使用できることを示す。「N」は「none(無し)」を表し、暗号化を行わない。
元は、「U」バージョンはアメリカ国内からのみダウンロードが許可されていたが、その後米国政府が方針を緩めたので、今では高い暗号化をするバージョンがほとんどの国々で許されている。現在では国際版がもはや要求されないので、NetscapeとMozillaは「U」バージョンのみを配布している。
SIPを解釈して処理する各種端末のソフトウェアやハードウェア。SIPに対応したIP電話機やVoIPゲートウェイ。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ユーザーエージェント (英: user agent、日: 利用者エージェント)とは、利用者があるプロトコルに基づいてデータを利用する際に用いるソフトウェアまたはハードウェアのこと。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "特にHypertext Transfer Protocolを用いてWorld Wide Webにアクセスする、ウェブブラウザなどのソフトウェアのこと。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "本項ではHTTPユーザーエージェントについて解説する。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "HTTPを用いてリソースの取得等を行うユーザーエージェントをHTTPユーザーエージェントと呼ぶ。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "HTTPユーザーエージェントには、ウェブブラウザや、リソースを自動的に処理するクローラなどがある。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "HTTPではUser-Agentヘッダーが定義されている。 クライアントはサーバーにリクエストを送る際に、ユーザーエージェントの情報をUser-Agentヘッダーとして送信する。User-Agentヘッダーには、アプリケーション名、バージョン、ホストオペレーティングシステムや言語といった情報が含まれる。 ウェブクローラーのようなボットの場合は、ウェブ担当者がそのボットのオペレーターと連絡を取ることができるように、URLや電子メールアドレスも含む。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "User-Agentヘッダーはサーバ側において様々な用途で利用されている。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "アクセス解析をする際に、User-Agentヘッダーによって、ユーザーが使用しているブラウザの種類やバージョンを集計することができる。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "またUser-Agentヘッダーを偽装して、「ロボット排除基準」 (robots.txt)を使ってある特定のページあるいはウェブサイトの一部からクローラーを排除するための基準の1つになっている。ウェブ担当者は、特定のクローラーに特定のページを収集させたくない場合や、特定のクローラーがあまりに多くの帯域を消費している場合などに、そのクローラーがそれらのページを訪問しないように要請することができる。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "ただし、後述のように、User-Agentヘッダーの値はあくまでクライアント側からの自己申告なので、 実際のユーザーエージェントと異なる値を送信することもできる。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "ユーザーエージェント・スニッフィングとは、Webサイトが、ユーザーエージェントによって異なる内容を表示したり、 特定のユーザーエージェントにのみ内容を表示することである。Vivaldiはこのような問題を回避するため、Chromeのユーザーエージェントを使用している。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフトのOutlook 2003ウェブアクセスは悪名高い例であった。Internet Explorerで閲覧すると、他ブラウザより多くの機能が表示された。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "携帯電話向けのウェブサイトでは、ベンダー間や新旧の機種の間で、携帯電話のブラウザの仕様がしばしば大きく異なるため、ユーザーエージェント・スニッフィングが行われた(後述のようにUser-Agentヘッダーの偽装が容易に可能であるため、IPアドレスをもとに携帯電話か否かを判断していることもあった)。機種間の表示の内容の違いは、小さい(例えば小さいスクリーンに合うように特定の画像のサイズを変える)こともあるし、あるいは非常に大規模のこともあり得る(例えばXHTML の代わりにWMLでページを表現する)。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ユーザーエージェント・スニッフィングを回避するために、User-Agentヘッダーの偽装が行われた。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "この最も早い例はInternet Explorerが、 Mozilla/<version> (compatible; MSIE <version>... で始まるUser-Agentヘッダーの値を使っていたことであろう。「Mozilla」はNetscape Navigatorのコードネームである。これは、その当時のInternet Explorerの主たる競合者だったNetscape Navigator用の内容を受け取るためだった。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "その後、ブラウザ戦争においてInternet Explorerのシェアが拡大したために、User-Agentヘッダーの値のフォーマットは、部分的に他のブラウザによってコピーされていった。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "Mozilla Firefox 、 Safari や Opera のようなInternet Explorerの競合製品は、 User-Agentヘッダーなどのをユーザー側の操作で変更できる機能を備えていた。 この機能はInternet Explorer専用に設計されたWebサイトを利用する場合に使用された。 ただし、WebサイトがInternet Explorerの独自機能を使用しているために、User-Agentヘッダーを偽装しても正常に使用できないことも多かった。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "Webブラウザ以外に、大部分のダウンロードマネージャーやオフラインブラウザもUser-Agentヘッダーをユーザーの好みに変える機能を持っている。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2020年の時点では、多くのウェブサイトがウェブ標準に従うようになっている。",
"title": "HTTPユーザーエージェント"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "Netscape、Mozilla、Opera、その他一部のブラウザでは、ブラウザの暗号強度を示すためにU, I, Nの3個の文字を使用する。米国政府は40ビットを越える暗号をアメリカから国外へ輸出することを認めていなかったので、暗号強度が異なるバージョンがリリースされた。",
"title": "暗号強度「U」/「I」/「N」"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "暗号強度はUser-Agentヘッダーで確認できた。「U」は「USA」を表し、128ビットの暗号化を備えたバージョンであることを示す。「I」は「international(国際的)」のiであり、40ビットの暗号化を備えており、世界中のどこでも使用できることを示す。「N」は「none(無し)」を表し、暗号化を行わない。",
"title": "暗号強度「U」/「I」/「N」"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "元は、「U」バージョンはアメリカ国内からのみダウンロードが許可されていたが、その後米国政府が方針を緩めたので、今では高い暗号化をするバージョンがほとんどの国々で許されている。現在では国際版がもはや要求されないので、NetscapeとMozillaは「U」バージョンのみを配布している。",
"title": "暗号強度「U」/「I」/「N」"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "SIPを解釈して処理する各種端末のソフトウェアやハードウェア。SIPに対応したIP電話機やVoIPゲートウェイ。",
"title": "Session Initiation Protocolのユーザーエージェント"
}
] | ユーザーエージェント (英: user agent、日: 利用者エージェント)とは、利用者があるプロトコルに基づいてデータを利用する際に用いるソフトウェアまたはハードウェアのこと。 特にHypertext Transfer Protocolを用いてWorld Wide Webにアクセスする、ウェブブラウザなどのソフトウェアのこと。 本項ではHTTPユーザーエージェントについて解説する。 | '''ユーザーエージェント''' ({{lang-en-short|user agent}}、{{lang-ja-short|利用者エージェント{{sfn|JISX0032|1999|p=4}}{{sfn|JISX4156|2005|p=5}}}})とは、利用者がある[[プロトコル]]に基づいてデータを利用する際に用いる[[ソフトウェア]]または[[ハードウェア]]のこと。
特に[[Hypertext Transfer Protocol]]を用いて[[World Wide Web]]にアクセスする、[[ウェブブラウザ]]などのソフトウェアのこと。
本項ではHTTPユーザーエージェントについて解説する。
== HTTPユーザーエージェント ==
[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]を用いて[[リソース (WWW)|リソース]]の取得等を行うユーザーエージェントをHTTPユーザーエージェントと呼ぶ。
HTTPユーザーエージェントには、ウェブブラウザや、リソースを自動的に処理する[[クローラ]]などがある。
=== HTTPリクエストでのUser-Agentヘッダ ===
HTTPではUser-Agentヘッダーが定義されている。
クライアントはサーバーにリクエストを送る際に、ユーザーエージェントの情報をUser-Agentヘッダーとして送信する。User-Agentヘッダーには、アプリケーション名、バージョン、ホストオペレーティングシステムや言語といった情報が含まれる。
ウェブクローラーのような[[インターネットボット|ボット]]の場合は、ウェブ担当者がそのボットのオペレーターと連絡を取ることができるように、URLや電子メールアドレスも含む。
User-Agentヘッダーは[[サーバ]]側において様々な用途で利用されている。
アクセス解析をする際に、User-Agentヘッダーによって、ユーザーが使用しているブラウザの種類やバージョンを集計することができる。
またUser-Agentヘッダーを偽装して、「[[ロボット排除基準]]」 (robots.txt)を使ってある特定のページあるいはウェブサイトの一部からクローラーを排除するための基準の1つになっている。ウェブ担当者は、特定のクローラーに特定のページを収集させたくない場合や、特定のクローラーがあまりに多くの帯域を消費している場合などに、そのクローラーがそれらのページを訪問しないように要請することができる。
ただし、後述のように、User-Agentヘッダーの値はあくまでクライアント側からの自己申告なので、
実際のユーザーエージェントと異なる値を送信することもできる。
=== ユーザーエージェント・スニッフィング ===
ユーザーエージェント・スニッフィングとは、Webサイトが、ユーザーエージェントによって異なる内容を表示したり、
特定のユーザーエージェントにのみ内容を表示することである。[[Vivaldi (ウェブブラウザ)|Vivaldi]]はこのような問題を回避するため、[[Google Chrome|Chrome]]のユーザーエージェントを使用している<ref>{{Cite web|和書|title=もうVivaldiとは名のらない「Vivaldi」最新版、Webサイト互換性アップ|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20191222-943574/|website=マイナビニュース|date=2019-12-22|accessdate=2020-03-10|language=ja}}</ref>。
マイクロソフトの[[Outlook]] 2003ウェブアクセスは悪名高い例であった。Internet Explorerで閲覧すると、他ブラウザより多くの機能が表示された。
携帯電話向けのウェブサイトでは、ベンダー間や新旧の機種の間で、携帯電話のブラウザの仕様がしばしば大きく異なるため、ユーザーエージェント・スニッフィングが行われた(後述のようにUser-Agentヘッダーの偽装が容易に可能であるため、[[IPアドレス]]をもとに携帯電話か否かを判断していることもあった)。機種間の表示の内容の違いは、小さい(例えば小さいスクリーンに合うように特定の画像のサイズを変える)こともあるし、あるいは非常に大規模のこともあり得る(例えば[[Extensible HyperText Markup Language|XHTML]] の代わりに[[Wireless Markup Language|WML]]でページを表現する)。
=== ユーザーエージェントの偽装 ===
ユーザーエージェント・スニッフィングを回避するために、User-Agentヘッダーの偽装が行われた。
この最も早い例は[[Internet Explorer]]が、 Mozilla/<version> (compatible; MSIE <version>...
で始まるUser-Agentヘッダーの値を使っていたことであろう。「Mozilla」は[[Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)|Netscape Navigator]]のコードネームである。これは、その当時のInternet Explorerの主たる競合者だったNetscape Navigator用の内容を受け取るためだった。
その後、[[ブラウザ戦争]]においてInternet Explorerのシェアが拡大したために、User-Agentヘッダーの値のフォーマットは、部分的に他のブラウザによってコピーされていった。
[[Mozilla Firefox]] 、 [[Safari]] や [[Opera]] のようなInternet Explorerの競合製品は、
User-Agentヘッダーなどのをユーザー側の操作で変更できる機能を備えていた。
この機能はInternet Explorer専用に設計されたWebサイトを利用する場合に使用された。
ただし、WebサイトがInternet Explorerの独自機能を使用しているために、User-Agentヘッダーを偽装しても正常に使用できないことも多かった。
Webブラウザ以外に、大部分の[[ダウンロードマネージャー]]や[[オフラインブラウザ]]もUser-Agentヘッダーをユーザーの好みに変える機能を持っている。
2020年の時点では、多くのウェブサイトが[[ウェブ標準]]に従うようになっている。
== 暗号強度「U」/「I」/「N」 ==
Netscape、Mozilla、Opera、その他一部のブラウザでは、ブラウザの暗号強度を示すためにU, I, Nの3個の文字を使用する。米国政府は40ビットを越える暗号を[[アメリカ合衆国からの暗号の輸出規制|アメリカから国外へ輸出することを認めていなかった]]ので、暗号強度が異なるバージョンがリリースされた。
暗号強度はUser-Agentヘッダーで確認できた。「U」は「USA」を表し、128ビットの暗号化を備えたバージョンであることを示す。「I」は「international(国際的)」のiであり、40ビットの暗号化を備えており、世界中のどこでも使用できることを示す。「N」は「none(無し)」を表し、暗号化を行わない。
元は、「U」バージョンはアメリカ国内からのみダウンロードが許可されていたが、その後米国政府が方針を緩めたので、今では高い暗号化をするバージョンがほとんどの国々で許されている。現在では国際版がもはや要求されないので、NetscapeとMozillaは「U」バージョンのみを配布している。
== Session Initiation Protocolのユーザーエージェント ==
{{main|Session Initiation Protocol}}
SIPを解釈して処理する各種端末のソフトウェアやハードウェア。SIPに対応したIP電話機やVoIPゲートウェイ。
== 関連項目 ==
* [[Hypertext Transfer Protocol]] (HTTP)
* [[電子メールクライアント]]
* [[ソフトウェアエージェント]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
* {{cite jis|X|0032|1999|name=情報処理用語−電子メール}}
* {{cite jis|X|4156|2005|name=ハイパテキストマーク付け言語 (HTML)}}
== 外部リンク ==
* [https://panopticlick.eff.org/ Panopticlick] - 使用中のブラウザのユーザーエージェントがどの程度、個人の判別に使われ得るかを判定する[[電子フロンティア財団]]内のページ。
{{DEFAULTSORT:ゆさえしえんと}}
[[Category:ネットワークソフト]]
[[Category:電子メール]]
[[Category:World Wide Web]]
[[Category:クライアント (コンピュータ)]] | 2003-03-07T10:08:23Z | 2023-10-31T21:36:17Z | false | false | false | [
"Template:Lang-en-short",
"Template:Lang-ja-short",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
"Template:Cite jis"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88 |
3,606 | 一電子近似 | 一電子近似(いちでんしきんじ、英: one electron approximation):現実の系の電子は、他の電子、外部ポテンシャル(イオン芯など)からの相互作用を受ける。これはそのままでは多体問題であり、解析的に解くことは不可能で、数値的に解くには膨大な計算が必要となる。従って、多体問題を通常の電子状態計算手法(例:バンド計算など)で取り扱うことは事実上不可能である。
そこで、多体効果を有効な平均場に置き換え(→平均場近似、分子場近似)、その平均場ポテンシャルを電子が感じる一体問題と考える。この一電子のシュレーディンガー方程式を解くと、その固有関数としていくつかの軌道が求まる。これらの軌道に電子を詰めていくと電子配置が定まる。ある決まった電子配置に基づいて考えている多電子系の波動関数を作ることを一電子近似(一体近似ともいう)である。
一電子近似のうち最も簡単なのは、N電子系の波動関数をN個の軌道の積1個(ハートリー積)で表す近似である。この近似波動関数によるハミルトニアンの期待値が最小になるように軌道を決めたのがハートリー近似である。
次に進んだ一電子近似としては、軌道にスピン関数をかけてスピン軌道を作り、N個のスピン軌道の積を反対称化した波動関数を用いる近似がある。この反対称化されたスピン軌道の積は1個のスレーター行列式で表される。この近似波動関数によるハミルトニアンの期待値を最小にするように軌道を決めたのがハートリー・フォック近似である。
電子の多体効果を直接的に扱う方法としては、モンテカルロ法(変分モンテカルロ法、拡散モンテカルロ法などが利用される)によるアプローチなどがある。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "一電子近似(いちでんしきんじ、英: one electron approximation):現実の系の電子は、他の電子、外部ポテンシャル(イオン芯など)からの相互作用を受ける。これはそのままでは多体問題であり、解析的に解くことは不可能で、数値的に解くには膨大な計算が必要となる。従って、多体問題を通常の電子状態計算手法(例:バンド計算など)で取り扱うことは事実上不可能である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "そこで、多体効果を有効な平均場に置き換え(→平均場近似、分子場近似)、その平均場ポテンシャルを電子が感じる一体問題と考える。この一電子のシュレーディンガー方程式を解くと、その固有関数としていくつかの軌道が求まる。これらの軌道に電子を詰めていくと電子配置が定まる。ある決まった電子配置に基づいて考えている多電子系の波動関数を作ることを一電子近似(一体近似ともいう)である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "一電子近似のうち最も簡単なのは、N電子系の波動関数をN個の軌道の積1個(ハートリー積)で表す近似である。この近似波動関数によるハミルトニアンの期待値が最小になるように軌道を決めたのがハートリー近似である。",
"title": "様々な一電子近似の例"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "次に進んだ一電子近似としては、軌道にスピン関数をかけてスピン軌道を作り、N個のスピン軌道の積を反対称化した波動関数を用いる近似がある。この反対称化されたスピン軌道の積は1個のスレーター行列式で表される。この近似波動関数によるハミルトニアンの期待値を最小にするように軌道を決めたのがハートリー・フォック近似である。",
"title": "様々な一電子近似の例"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "電子の多体効果を直接的に扱う方法としては、モンテカルロ法(変分モンテカルロ法、拡散モンテカルロ法などが利用される)によるアプローチなどがある。",
"title": "多体効果を扱う方法"
}
] | 一電子近似:現実の系の電子は、他の電子、外部ポテンシャル(イオン芯など)からの相互作用を受ける。これはそのままでは多体問題であり、解析的に解くことは不可能で、数値的に解くには膨大な計算が必要となる。従って、多体問題を通常の電子状態計算手法で取り扱うことは事実上不可能である。 そこで、多体効果を有効な平均場に置き換え(→平均場近似、分子場近似)、その平均場ポテンシャルを電子が感じる一体問題と考える。この一電子のシュレーディンガー方程式を解くと、その固有関数としていくつかの軌道が求まる。これらの軌道に電子を詰めていくと電子配置が定まる。ある決まった電子配置に基づいて考えている多電子系の波動関数を作ることを一電子近似(一体近似ともいう)である。 | {{出典の明記| date = 2023年10月}}
'''一電子近似'''(いちでんしきんじ、{{lang-en-short|one electron approximation}}):現実の系の[[電子]]は、他の電子、外部ポテンシャル(イオン芯など)からの相互作用を受ける。これはそのままでは[[多体問題]]であり、解析的に解くことは不可能で、数値的に解くには膨大な計算が必要となる。従って、多体問題を通常の[[電子状態計算]]手法(例:バンド計算など)で取り扱うことは事実上不可能である。
そこで、多体効果を有効な平均場に置き換え(→[[平均場近似]]、分子場近似)、その平均場ポテンシャルを電子が感じる一体問題と考える。この一電子のシュレーディンガー方程式を解くと、その固有関数としていくつかの軌道が求まる。これらの軌道に電子を詰めていくと電子配置が定まる。ある決まった電子配置に基づいて考えている多電子系の波動関数を作ることを'''一電子近似'''('''一体近似'''ともいう)である。
== 様々な一電子近似の例 ==
=== ハートリー近似 ===
一電子近似のうち最も簡単なのは、N電子系の波動関数をN個の軌道の積1個(ハートリー積)で表す近似である。この近似波動関数による[[ハミルトニアン]]の[[期待値]]が最小になるように軌道を決めたのが[[ハートリー近似]]である。
=== ハートリー・フォック近似 ===
次に進んだ一電子近似としては、軌道に[[スピン関数]]をかけて[[スピン軌道]]を作り、N個のスピン軌道の積を[[反対称化]]した波動関数を用いる近似がある。この反対称化されたスピン軌道の積は1個の[[スレーター行列式]]で表される。この近似波動関数によるハミルトニアンの期待値を最小にするように軌道を決めたのが[[ハートリー・フォック近似]]である。
== 多体効果を扱う方法 ==
電子の多体効果を直接的に扱う方法としては、[[モンテカルロ法]]([[変分モンテカルロ法]]、[[拡散モンテカルロ法]]などが利用される)によるアプローチなどがある。
==関連項目==
*[[計算化学]]
*[[第一原理バンド計算]]
*[[LDAを越える試み]]
*[[密度汎関数法]]
{{DEFAULTSORT:いちてんしきんし}}
[[Category:固体物理学]]
[[Category:量子化学]]
[[Category:近似法]] | 2003-03-07T12:03:23Z | 2023-10-16T04:08:27Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:Lang-en-short"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%9B%BB%E5%AD%90%E8%BF%91%E4%BC%BC |
3,607 | 漫画家一覧 | 漫画家一覧(まんがかいちらん)は、世界の漫画家の地域別・五十音順一覧。
日本の漫画家一覧を参照
ヨーロッパおよび北アメリカ、オセアニアの漫画家 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "漫画家一覧(まんがかいちらん)は、世界の漫画家の地域別・五十音順一覧。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "日本の漫画家一覧を参照",
"title": "アジア"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパおよび北アメリカ、オセアニアの漫画家",
"title": "欧米・オセアニア"
}
] | 漫画家一覧(まんがかいちらん)は、世界の漫画家の地域別・五十音順一覧。 | '''漫画家一覧'''(まんがかいちらん)は、世界の[[漫画家]]の地域別・五十音順<!--(韓国やタイの漫画家のこともあるのでアルファベット順・ABC順にはしませんでした。)-->一覧。
==アジア==
;香港
{{columns-list|2|
*[[黄玉郎]]
*[[馬栄成]]
*[[邱福龍]]
*[[馮志明]]([[:zh:冯志明]])
*[[司徒剣僑]]([[:zh:司徒劍僑]])
*[[利志達]]([[:en:Li Chi-Tak]])
*[[李志清]]
*[[貓十字]]([[:zh:貓十字]])
*[[雪晴]]([[:zh:雪晴]])
*[[千草 (漫画家)|千草]]([[:zh:宮千栩]])
*[[瑞雲 (漫画家)|瑞雲]]([[:zh:瑞雲]])
*[[狄分妮琳]]([[:zh:狄芬妮琳]])
*[[愛芷]]([[:zh:愛芷]])
*[[王澤]]([[:zh:王家禧]])
*[[李恵珍]]([[:zh:李惠珍]])
*[[牛佬]]([[:zh:牛佬]])
*[[麦家碧]]([[:zh:麥家碧]])
}}
=== インド ===
*[[ラビカント・ナンドゥラ]]
*[[マダーン]]([[:en:Madhan (writer)]])
=== 韓国 ===
{{columns-list|2|
* [[李元馥]]
* [[李命進]]
* [[李賢世]]([[:en:Lee Hyun-se]])
* [[元秀蓮]]
* [[金宣希]]
* [[金星煥 (漫画家)|金星煥]]
* [[金童話]]
* [[高冶星]]
* [[申龍錧]]
* [[崔ミル]]
* [[朴素熙]]
* [[朴晟佑]]
* [[邢民友]]
* [[黄美那]]
* [[ホ・ヨンマン|許英萬]]
* [[佯病説]]
* [[梁慶一]]
* [[柚弦]]
* [[ユング (漫画家)]]([[:fr:Jung (auteur)]])
* [[林光默]]
* [[Boichi]]
}}
=== シンガポール ===
*[[フー・スウィ・チン|FSc]]
=== タイ ===
*[[ヂャッカラパン・フワイペット]]
*[[ウィーラチャイ・ドゥアンプラー]]
*[[ティワワット・パッタラクンワニット]]
*[[ウィスット・ポンニミット]]
*[[アルン・ワチャラサワット]]
=== 台湾 ===
{{columns-list|3|
*[[阿肛]]
*[[AKRU]]
*[[阿推]]([[:zh:阿推]])
*[[敖幼祥]]([[:zh:敖幼祥]])
*[[蔡志忠]]
*[[常勝]]([[:zh:常勝 (漫畫家)]])
*[[成風]]([[:zh:成风]])
*[[小林 (イラストレーター)]]
*[[ZECO]]
*[[CHuN]]
*[[Salah-D]]
*[[BAKUNOYA]]
*[[平凡 (画家)]]
*[[兪家燕]]
*[[REI (イラストレーター)]]
*[[弯弯]]
*[[陳柏尭]]
*[[陳過]]
*[[陳漢玲]]([[:zh:陳漢玲]])
*[[陳志隆]]([[:zh:陳志隆]])
*[[鍾孟舜]]
*[[徳珍]]
*[[発哥]]
*[[高永]]([[:zh:高永]])
*[[狗狗蔡]]
*[[冠良]]
*[[郭莉蓁]]
*[[阮光民]]([[:zh:阮光民]])
*[[鮭魚仔&小鯊龍]]
*[[哈雷叔叔]]
*[[哈日杏子]]
*[[胡美嬌]]
*[[洪培恩]]
*[[洪義男]]([[:zh:洪義男]])
*[[紅膠嚢]]
*[[洪育府]]([[:zh:洪育府]])
*[[黄佳莉]]([[:zh:黄佳莉]])
*[[黄建芳]]
*[[黄俊維]]
*[[黄熙文]]([[:zh:黄熙文]])
*[[蝗蟲哥哥]]
*[[傑利小子]]([[:zh:傑利小子]])
*[[柯光曜]]
*[[顆粒 (マンガ家)|顆粒]]([[:zh:顆粒 (漫畫家)]])
*[[頼安]]
*[[頼有賢]]
*[[李闡]]
*[[李崇萍]]([[:zh:李崇萍]])
*[[李隆杰]]([[:zh:李隆杰]])
*[[李敬光]]([[:zh:李敬光]])
*[[李勉之]]
*[[林晏傑作]]
*[[林珉萱]]([[:zh:林珉萱]])
*[[林青慧]]([[:zh:林青慧]])
*[[劉佳青]]
*[[劉明昆]]([[:zh:劉明昆]])
*[[劉興欽]]([[:zh:劉興欽]])
*[[呂水世]]
*[[麦克斯黄]]
*[[猫九娘]]
*[[孟宸]]([[:zh:孟宸]])
*[[米絲琳]]([[:zh:米絲琳]])
*[[木笛]]([[:zh:木笛 (漫画家)]])
*[[南宮燠]]
*[[牛哥]]
*[[彭雪芬]]
*[[奇児]]
*[[三月兔]]([[:zh:三月兔]])
*[[唐靉]]
*[[唐風]]
*[[天堂果凍]]
*[[天天 (マンガ家)|天天]]
*[[王平 (マンガ家)|王平]]
*[[暁君]]
*[[小影]]
*[[蕭言中]]([[:zh:蕭言中]])
*[[妍希]]
*[[楊承達]]([[:zh:楊承達]])
*[[楊若笙]]
*[[葉明軒]]([[:zh:葉明軒]])
*[[許貿淞]]
*[[毅峰]]
*[[依歓]]
*[[乙龍大明]]
*[[易水翔麟]]
*[[桜炎]]
*[[尹若客]]
*[[游圭秀]]([[:zh:游圭秀]])
*[[游若琪]]([[:zh:游若琪]])
*[[曽建華]]
*[[昭学]]
*[[張放之]]
*[[張海澄]]
*[[鄭問]]
*[[周顕宗]]
*[[朱鴻琦]]
*[[韋宗成]]
*[[2D馬賽克]]
*[[Alica]]
*[[Izumi]]
*[[KURDAZ]]
*[[RIVER (漫画家)|RIVER]]
*[[VOFAN]]
*[[麥仁杰]]([[:zh:麥人杰]])
}}
=== 中国大陸 ===
{{columns-list|4|
*[[阿藍]]
*[[荘銀吉]]
*[[張開振]]
*[[陳紹康]]
*[[陳紹霖]]
*[[張家輝]]
*[[張敏卿]]
*[[周満輝]]
*[[蔡再鴻]]
*[[蔡均利]]
*[[蔡詩中]]
*[[馮健超]]
*[[呉世涌]]
*[[哈亜蒂]]
*[[王永基]]
*[[何声]]
*[[何声輝]]
*[[甘承耀]]
*[[黄慶栄]]
*[[関東成]]
*[[藍国清]]
*[[李沢権]]
*[[李征鴻]]
*[[李国権]]
*[[梁桂明]]
*[[梁文国]]
*[[劉怡廷]]
*[[林振華]]
*[[林応龍]]
*[[林詩敏]]
*[[林紹勝]]
*[[廖維良]]
*[[呂寿聡]]
*[[盧穏亢]]
*[[黄俊杰]]
*[[呉景発]]
*[[白徳良]]
*[[徐有利]]
*[[史美星]]
*[[蘇秀文]]
*[[陳永発]]
*[[陳慶星]]
*[[陳緁文]]
*[[丁偉光]]
*[[黄寿忠]]
*[[黄嘉俊]]
*[[葉慧怡]]
*[[葉添興]]
*[[兪徳業]]
*[[楊開霖]]
*[[余有権]]
*[[朴正茂]]
*[[Fakhrul Anur]]
*[[Ling]]
*[[Nizam Bachok]]
*[[Norman Noh]]
*[[愛欧]]
*[[王立銘]]
*[[夏達]]
*[[第年秒]]
*[[張楽平]]
*[[張小白]]
*[[丁氷]]
*[[本杰明]]
*[[豊子愷]]
*[[李豪徳]]
*[[胡蓉]]([[:zh:胡蓉 (漫画家)]])
}}
=== 日本 ===
''[[日本の漫画家一覧]]を参照''
=== バングラデシュ ===
*[[シシル・バッタチャルジー]]
=== フィリピン ===
*[[レイニル・フランシス・ユー]]
=== マレーシア ===
*[[ラット (漫画家)|ラット]]
*[[ジェネシス]]{{要曖昧さ回避|date=2022年4月}}
*[[蔡再鴻]]
*[[祖安]]
*[[張家輝 (漫画家)|張家輝]]
==欧米・オセアニア==
ヨーロッパおよび北アメリカ、オセアニアの漫画家
===アメリカ合衆国===
*[[ウィル・アイズナー]]
*[[スコット・アダムス]]
*[[クリス・ウェア]]
*[[ロバート・クラム]]
*[[マット・グレイニング]]
*[[ダニエル・クロウズ]]([[:en:Daniel Clowes]])
*[[ジョー・サッコ]]
*[[チャールズ・M・シュルツ]]
*[[ソール・スタインバーグ]]
*[[アート・スピーゲルマン]]
*[[ジム・デービス]]([[:en:Jim Davis (cartoonist)]])<!--代表作『ガーフィールド』-->
*[[ギャリー・トゥルードー]]
*[[グラディス・パーカー]]
*[[エイドリアン・トミネ]]
*[[ジム・バレンチノ]]([[:en:Jim Valentino]])
*[[チャールズ・バーンズ]]([[:en:Charles Burns]])
*[[アリソン・ベクダル]]([[:en:Alison Bechdel]])
*[[ジョージ・ヘリマン]]
*[[バーン・ホガース]]
*[[スコット・マクラウド]]([[:en:Scott McCloud]])
*[[ハワード・マッキー]]([[:en:Howard Mackie]])
*[[ウィンザー・マッケイ]]
*[[マイク・ミニョーラ]]
*[[ジム・リー]]
*[[スタン・リー]]
*[[ラロ・アルカラス]]
*[[ラリー・ウェルツ]]
*[[ビル・ワード (漫画家)|ビル・ワード]]
===イギリス===
*[[ダン・アブネット]]
*[[コリン・コッタリル]]
*[[トム・ゴールド]]([[:en:Tom Gauld]])
*[[ロナルド・サール]]
*[[ジェイミー・ヒューレット]]
*[[デイヴ・ギボンズ]]([[:en:Dave Gibbons]])
*[[デイヴ・マッキーン]]([[:en:Dave McKean]])
*[[レイモンド・ブリッグズ]]
*[[ハリー・ホース]]
*[[マーク・ミラー (漫画家)|マーク・ミラー]]
*[[アンディ・ランニング]]
===イタリア===
*[[イゴルト]]([[:it:Igort]])
*[[バルバラ・カネパ]]([[:it:Barbara Canepa]])
*[[グイド・クレパックス]]
*[[セルジオ・トッピ]]
*[[ゼロカルカーレ]]
*[[アレッサンドロ・バルブッチ]]
*[[ユーゴ・プラット]]([[:en:Hugo Pratt]])
*[[ベリッシモ・フランチェスコ]]
*[[ロレンツォ・マトッティ]]
*[[ミロ・マナラ]]
*[[タニーノ・リベラトーレ]]([[:en:Tanino Liberatore]])
=== カナダ ===
* [[ブライアン・リー・オマリー]]([[:en:Bryan Lee O'Malley]])
* [[ギー・ドゥリール]]([[:en:Guy Delisle]])
* [[デビッド・フィンチ]]
* [[スティーブ・マクニーブン]]
* [[トッド・マクファーレン]]
=== スイス ===
* [[フレデリック・ペータース]]
=== スウェーデン ===
*[[オーサ・イェークストロム]]
=== スペイン ===
*[[エル・トーレス]]([[:es:El Torres]])
*[[ケン・ニイムラ]]
*[[フアンホ・ガルニド]]
*[[パコ・ロカ]]
*[[ホアン・コルネラ]]
*[[ルイス・ロヨ]]
=== スロベニア ===
*[[ミキ・ムステル]]
=== セルビア ===
*[[ゾラン・ジャニエトフ]]([[:en:Zoran Janjetov]])
=== ドイツ ===
*[[ナタリー・ヴォルムスベッヒャー]]
*[[ゾフィア・ガルデン]]
*[[マティアス・シュルトハイス]]([[:en:Matthias Schultheiss]])
*[[アニケ・ハーゲ]]
*[[アンナ・ホルマン]]
=== フランス ===
*[[トニー・ヴァレント]]
*[[アレックス・ヴァレンヌ]]
*[[バスティアン・ヴィヴェス]]
*[[ヴィンシュルス]]
*[[ジョルジュ・ウォランスキ]]
*[[マックス・カバンヌ]]
*[[エマニュエル・ギベール]]
*[[クリストフ・クリタ]]
*[[ケラスコエット]]([[:fr:Kerascoët]])
*[[ルネ・ゴシニ]]
*[[オリビア・コワペル]]
*[[マルジャン・サトラピ]]
*[[クリストフ・シャブテ]]([[:fr:Christophe Chabouté]])
*[[シャルブ]]
*[[ジャン・ジロー]]
*[[ジョアン・スファール]]
*[[チベット (漫画家)|チベット]]
*[[デュピュイ&ベルベリアン]]([[:en:Dupuy and Berberian]])
*[[ニコラ・ド・クレシー]]
*[[アルチュール・ド・パンス]]([[:fr:Arthur de Pins]])
*[[フィリップ・ドリュイエ]]
*[[ジャック・ド・ルスタル]]([[:en:Loustal]])
*[[ルイス・トロンダイム]]
*[[ペネロープ・バジュー]]
*[[バル (漫画家)]]([[:fr:Baru]])
*[[アレックス・バルビエ]]([[:fr:Alex Barbier]])
*[[ジョゼ・パロンド]]([[:en:José Parrondo]])
*[[エンキ・ビラル]]
*[[クリストフ・フェレラ]]
*[[クリストフ・ブラン]]([[:fr:Christophe Blain]])
*[[ダビッド・ベー]]
*[[ベブ・デオム]]
*[[エドモン・ボードワン]]
*[[フレデリック・ボワレ]]
*[[マルク=アントワーヌ・マチュー]]
*[[ジュリー・マロ]]
*[[ジャン=クロード・メジエール]]
*[[ジャン=ダヴィッド・モルヴァン]]
*[[ロマン・ユゴー]]([[:fr:Romain Hugault]])
*[[アルベール・ユデルゾ]]
*[[パスカル・ラバテ]]
*[[オリヴィエ・ルドロワ]]
*[[エマニュエル・ルパージュ]]
*[[レジス・ロワゼル]]
=== ベルギー ===
*[[エルジェ]]
*[[フランソワ・スクイテン]]
*[[ペヨ]]
*[[モリス (ベルギーの漫画家)]]([[:en:Morris (cartoonist)]])
*[[ジャン・フランソワ・シャルル]]([[:fr:Jean-François Charles]])
=== ロシア ===
*[[チェジナ・スベトラーナ]]([[:en:Chezhina Svetlana]])
==中南米==
=== ブラジル ===
*[[カルロス・ラトゥッフ]]
*[[マイク・デオダート]]
=== メキシコ ===
*[[リウス]]
=== アルゼンチン ===
*[[フアン・ヒメネス]]([[:en:Juan Giménez]])
*[[ホセ・ムニョース]]
== 関連項目 ==
*[[出版社]]
*[[アニメ関係者一覧]]
[[Category:漫画家一覧|*]]
[[Category:各国の漫画家|全]] | null | 2022-11-19T01:48:43Z | false | false | false | [
"Template:Columns-list",
"Template:要曖昧さ回避"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%AB%E7%94%BB%E5%AE%B6%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
3,608 | 日本の漫画家一覧 | 日本の漫画家一覧(にほんのまんがかいちらん)は、日本で活動する漫画家の五十音順一覧である。
単独での項目がない漫画家についてのプロフィール抄つきの漫画家一覧 (あ〜わ)- 関連項目 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "日本の漫画家一覧(にほんのまんがかいちらん)は、日本で活動する漫画家の五十音順一覧である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "単独での項目がない漫画家についてのプロフィール抄つきの漫画家一覧 (あ〜わ)- 関連項目",
"title": null
}
] | 日本の漫画家一覧(にほんのまんがかいちらん)は、日本で活動する漫画家の五十音順一覧である。 単独での項目がない漫画家についてのプロフィール抄つきの漫画家一覧 (あ〜わ)- 関連項目 | {{pp-vandalism|small=yes}}
'''日本の漫画家一覧'''(にほんのまんがかいちらん)は、[[日本]]で活動する[[漫画家]]の五十音順一覧である。
<!--''この一覧に追加を行う方へ。できる限り人物の記事を作成してから追加するようお願いします。''-->
{{KTOC}}
[[#単独での項目がない漫画家についてのプロフィール抄つきの漫画家一覧|単独での項目がない漫画家についてのプロフィール抄つきの漫画家一覧]] (あ〜わ)- [[#関連項目|関連項目]]
----
== あ行 ==
=== あ ===
{{columns-list|4|
* [[Ark Performance]]
* [[藍 (漫画家)|藍]]
* [[藍川さき]]
* [[藍川さとる]]
* [[愛川哲也]](愛川てつや)
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#相川有|相川有]](抄)
* [[相澤いくえ]]
* [[あいざわ遥]]
* [[あいだ夏波]]
* [[愛田真夕美]]
* [[相田裕]]
* [[相庭よた郎]]
* [[相原コージ]]
* [[愛原司]]
* [[藍本松]]
* [[愛本みずほ]]
* [[あいやーぼーる]](藍屋球)
* [[藍吉はづき]]
* [[藍里たると]]
* [[あうら聖児]]
* [[葵蜜柑]]
* [[葵みちる]]
* [[あおいみつ]]
* [[青池保子]]<!-- あおいけ やすこ -->
* [[葵みちる]]<!-- あおい みちる -->
* [[蒼樹うめ]]
* [[あおきけい]]
* [[青木琴美 (漫画家)|青木琴美]]
* [[青木幸子]]
* [[青稀シン]]<!-- あおき シン -->
* [[青木たかお]]
* [[あおきてつお]]
* [[青木俊直]]<!-- あおきとしなお -->
* [[青木朋]]
* [[蒼木雅彦]]
* [[青木光恵]]
* [[青木雄二]]
* [[青木U平]]
* [[蒼月ひかり (漫画家)|蒼月ひかり]]
* [[青沼貴子]]
* [[青野春秋]]
* [[青野てる坊]]
* [[青春 (漫画家)|青春]]<!-- あおはる -->
* [[あおやぎ孝夫]]
* [[碧也ぴんく]]
* [[青柳裕介]]
* [[青山剛昌]]
* [[青山はるの]]
* [[あおやま英雄]]
* [[青山広美]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#赤石沢貴士|明石沢貴士]](抄)
* [[赤井里実]]
* [[赤石路代]]
* [[赤衣丸歩郎]]
* [[赤銅茉莉]]
* [[赤坂アカ]]
* [[赤座ひではる]]
* [[あかざわRED]]
* [[明石英之]]
* [[赤瀬とまと]]
* [[赤津豊]]
* [[赤塚不二夫]]
* [[暁月あきら]]
* [[あかつきごもく]]
* [[あかつきけいいち]]
* [[赤津豊]]
* [[朱戸アオ]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#赤名修|赤名修]](抄)
* [[茜田千]]
* [[茜虎徹]]
* [[赤人義一]]
* [[赤星健次]]
* [[赤星たみこ]]
* [[赤松健]]
* [[赤美潤一郎]]
* [[あかりりゅりゅ羽]]
* [[あき (漫画家)|あき]]
* [[亜樹新]]
* [[秋★枝]]
* [[明生チナミ]]
* [[秋里和国]]
* [[秋重学]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#あぎじゅんこ|あぎじゅんこ]](抄)
* [[あきたにまさみ]](わんべえ)
* [[あきづき空太]]
* [[秋月ひろずみ]]
* [[秋月りす]]
* [[あきづきりょう]](秋月亮)
* [[秋奈つかこ]](つかこ)
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#あきのかな(香奈)|あきのかな]](抄)
* [[秋乃茉莉]]
* [[明野みる]]
* [[秋葉凪人]]
* [[あきまん]](安田朗)
* [[秋本治]]
* [[秋元奈美]]
* [[秋元裕美子]]
* [[秋山亜由子]]
* [[秋山たまよ]]
* [[秋山はる]]
* [[あきやま陽光]]
* [[秋好馨]]
* [[アキヨシカズタカ]]
* [[秋吉宣宏]]
* [[秋吉由美子]]
* [[アキリ]]
* [[秋竜山]]
* [[秋玲二]]
* [[阿久井真]]<!-- あくい まこと -->
* [[芥見下々]]
* [[揚立しの]]
* [[明智抄]]
* [[あさいもとゆき]](浅井裕)
* [[旭丘光志]]
* [[朝賀庵]]
* [[あさぎ桜]]
* [[朝木貴行]]
* [[朝基まさし]]
* [[あさぎり夕]]
* [[朝倉世界一]]
* [[亜桜まる]]
* [[浅田寅ヲ]]
* [[アサダニッキ]]
* [[浅田弘幸]]
* [[あさだみほ]]
* [[あさの]]
* [[浅田寅ヲ]]
* [[浅田ミヨコ]]
* [[朝菜きり]]
* [[浅沼ひろゆき]]
* [[浅野いにお]]
* [[浅野伽々]]
* [[あさのりじ]]
* [[浅野りん]]
* [[旭 (漫画家)|旭]]
* [[旭まあさ]]
* [[旭凛太郎]]
* [[朝比奈ゆうや]]
* [[朝吹まり]]
* [[麻見雅]]
* [[麻宮騎亜]]
* [[浅美裕子]]
* [[浅見侑]]<!-- あさみ ゆう -->
* [[浅見百合子]]
* [[浅見よう]]<!-- あさみ よう -->
* [[あさりよしとお]]
* [[あさをゆうじ]]
* [[あしだかおる]]
* [[芦谷あばよ]]
* [[アジチカ]]
* [[芦奈野ひとし]]
* [[葦原大介]]<!-- あしはら だいすけ -->
* [[芦原妃名子]]
* [[あしべゆうほ]]
* [[飛鳥昭雄]]
* [[飛鳥あると]]
* [[飛鳥幸子]]
* [[明日賀じゅん]]
* [[飛鳥弓樹]]
* [[あずき友里]]
* [[あすなひろし]]
* [[アスヒロ]]
* [[あずま京太郎]]
* [[あずまきよひこ]]
* [[東元]]<!-- あずま げん -->
* [[東静馬]]
* [[東毅]]
* [[東直輝]](あずまけいしん、東佳伸)
* [[東まゆみ]]
* [[あずま勇輝]]
* [[あずまゆき]]
* [[あずまよしお]]
* [[あずみきし]]
* [[あずみ椋]]
* [[麻生歩]]
* [[麻生いずみ]]
* [[麻生周一]]
* [[麻生羽呂]]
* [[麻生みこと]]
* [[麻生豊]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#アターシャ松永|アターシャ松永]](抄)
* [[足立金太郎]](アダチケイジ)
* [[足立淳]]
* [[あだちつよし]]
* [[安達哲]]
* [[あだちとか]]
* [[あだち勉]]
* [[あだち充]]
* [[あっきう]]
* [[亜月裕]]
* [[亜月亮]]
* [[アッチあい]]
* [[安土じょう]]
* [[あづち涼]]
* [[吾妻ひでお]]
* [[渥美理絵]]
* [[敦森蘭]]
* [[あとり硅子]]
* [[穴久保幸作]]
* [[あなしん]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#あなだもあ|あなだもあ]](抄)
* [[亜南くじら]]
* [[阿南まゆき]]
* [[兄崎ゆな]]
* [[肋骨凹介]]
* [[安彦麻理絵]]<!-- あびこ まりえ -->
* [[安孫子三和]]
* [[あびゅうきょ]]
* [[あfろ]]<!-- あふろ -->
* [[阿部川キネコ]]
* [[あべこうじ]]
* [[あべさより]]
* [[阿部秀司 (漫画家)|阿部秀司]]
* [[阿部潤]]
* [[安部慎一]]
* [[阿部共実]]
* [[阿倍野ちゃこ]]
* [[アベツカサ]]
* [[あべ美幸]]
* [[阿部ゆたか]]
* [[あべゆりこ]]
* [[阿部洋一]]
* [[安倍吉俊]]
* [[あほすたさん]]
* [[阿呆トロ]]
* [[雨隠ギド]]
* [[天川すみこ]]<!-- あまかわ すみこ -->
* [[天城小百合]]<!-- あまぎ さゆり -->
* [[天倉ふゆ]]
* [[尼子騒兵衛]]
* [[雨瀬シオリ]]
* [[天月みご]]
* [[天津冴]]
* [[甘詰留太]]
* [[天沼俊]]
* [[天音佑湖]]
* [[天野雨乃]]
* [[天野明]]
* [[あまのがみだい]]
* [[天野こずえ]]
* [[天乃咲哉]](旧・[[天乃咲耶]])
* [[天乃忍]]<!-- あまの しのぶ -->
* [[天野しゅにんた]]
* [[天野シロ]]
* [[あまのしん]]
* [[天野洋一]]
* [[天原ふおん]]
* [[天久聖一]]
* [[甘福あまね]]<!-- あまふく あまね -->
* [[雨宮淳 (漫画家)|雨宮淳]](別名義多数)
* [[あみみ]]
* [[アミュー]]
* [[飴あられ]]
* [[アメノ]]
* [[雨野さやか]]
* [[雨宮智子]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#阿萬和俊|阿萬和俊]](抄)
* [[雨山電信]]
* [[厦門潤]]
* [[天羽銀]]
* [[彩崎廉]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#あやせ理子|あやせ理子]](抄)
* [[綾永らん]]
* [[綾野なおと]]
* [[綾乃れな]]<!-- あやのれな -->
* [[彩花みん]]
* [[彩原その]]
* [[あや秀夫]]
* [[綾峰欄人]]
* [[綾村切人]]
* [[あゆかわ華]]
* [[香魚子]]<!-- あゆこ -->
* [[鮎沢まこと]]
* [[あゆみゆい]]
* [[新井キヒロ]]
* [[荒井清和]]
* [[あらいきよこ]]
* [[あらいぐま]]
* [[あらゐけいいち]]
* [[新居さとし]]
* [[新井祥]]
* [[あらいずみるい]]
* [[新井隆広]]
* [[あらい太朗]]
* [[荒井チェリー]]
* [[新挑限]]
* [[荒井智之]]
* [[新井葉月]]
* [[新井英樹]]
* [[新井理恵]]
* [[荒川弘]]
* [[新川直司]]
* [[あらきあきら]]
* [[あらきかなお]]
* [[荒木宰]]
* [[荒木飛呂彦]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#荒木ひとし|荒木ひとし]](抄)
* [[新久保だいすけ]]
* [[あらた真琴]]<!-- あらた まこと -->
* [[あらた伊里]]
* [[荒巻圭子]]
* [[須藤ゆみこ|荒巻ユミ]]
* [[阿乱霊]]
* [[有井伊奈]]
* [[有賀ヒトシ]]
* [[園田光慶|ありかわ栄一]]
* [[有子瑶一]]
* [[ありさか邦]]
* [[有沢遼]]
* [[ありのひろし]]
* [[アリハラナオ]]
* [[有馬 (漫画家)|有馬]]<!-- ありま -->
* [[有馬啓太郎]]
* [[有間しのぶ]]
* [[ありま猛]]
* [[ありむら潜]]
* [[有元美保]]
* [[有吉京子]]
* [[有賀リエ]]
* [[アルコ (漫画家)|アルコ]]
* [[あるまるみ]]
* [[あろひろし]]
* [[あわ箱]]
* [[粟岳高弘]]
* [[安斎かなえ]]
* [[安西信行]]
* [[安西理晃]]
* [[安堂維子里]]
* [[安藤しげき]]
* [[安藤慈朗]]
* [[安堂友子]]
* [[安藤なつみ]]
* [[安藤正基]]
* [[安藤ゆき]]
* [[あんど慶周]]
* [[アントンシク]]
* [[安野モヨコ]]
* [[安部真弘]]
|}}
=== い ===
{{columns-list|4|
* [[飯坂友佳子]]
* [[飯島いちる]]
* [[飯島浩介]]
* [[飯島祐輔]]
* [[飯田耕一郎]]
* [[飯田ぽち。]]
* [[いーだ俊嗣]]
* [[飯塚修子]]
* [[飯沼ゆうき]]
* [[飯星シンヤ]]
* [[飯森広一]]
* [[井浦秀夫]]
* [[井荻寿一]]
* [[緒里たばさ]]
* [[IKa]](羽田いかお)
* [[いかさ真緒]]
* [[伊科田海]]
* [[五十嵐あぐり]]
* [[五十嵐かおる]]
* [[五十嵐浩一]]
* [[五十嵐大介]]
* [[五十嵐正邦]]
* [[いがらしみきお]]
* [[いがらしゆみこ]]
* [[五十嵐藍]]
* [[いがりペコ]]
* [[いかわあや]]
* [[いくえみ綾]]
* [[ichtys]]
* [[いくたまき]]
* [[井口ユミ]]<!-- いぐち ユミ -->
* [[幾花にいろ]]
* [[征海未亜]]
* [[井雲くす]]
* [[幾夜大黒堂]]
* [[いけ]]
* [[いけうち誠一]]
* [[池上花英]]
* [[池上遼一]]
* [[池沢早人師]]
* [[池沢理美]]
* [[池沢春人]]
* [[池ジュン子]]
* [[池田乾]]
* [[池田恵 (漫画家)|池田恵]]
* [[いけださくら]]
* [[池田さとみ]]
* [[いけだたかし]]
* [[池田淳一]]
* [[池田多恵子]]
* [[池田文春]]
* [[池田ユキオ]]<!-- いけだ ユキオ -->
* [[池田理代子]]
* [[池田留里子]]
* [[池谷理香子]]
* [[池野恋]]
* [[池野雅博]]
* [[池原しげと]]
* [[生藤由美]]
* [[池部鈞]]
* [[池本幹雄]]
* [[池山田剛]]
* [[伊咲ウタ]]
* [[諫山創]]
* [[いさやまもとこ]]
* [[伊沢慎壱]]
* [[井沢まさみ]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#井沢陽子|井沢陽子]](抄)
* [[石井あゆみ]]
* [[石井いさみ]]
* [[石井清美]]
* [[石井さだよし]]
* [[石井隆]]
* [[石井敬士]]
* [[いしいひさいち]]
* [[石井まゆみ]]
* [[いしいゆか]]
* [[石岡ショウエイ]]
* [[石垣環]]
* [[石垣ゆうき]]
* [[いしかわえみ]]
* [[石川球太]]
* [[石川賢 (漫画家)|石川賢]]
* [[石川サブロウ]]
* [[いしかわじゅん]]
* [[石川フミヤス]]
* [[石川マサキ]]
* [[石川雅之]]
* [[石川森彦]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#石川弥子|石川弥子]](抄)
* [[石川優吾]]
* [[石川ローズ]]
* [[異識]]
* [[一色登希彦]]
* [[石黒正数]]
* [[石坂啓]]
* [[石田あきら]]
* [[石田敦子 (漫画家)|石田敦子]]
* [[石田英助]]
* [[石田和明]]
* [[石田スイ]]
* [[石田拓実]]
* [[石塚真一]]
* [[石塚2祐子]](いしづかゆうこ)
* [[石塚夢見]]
* [[意志強ナツ子]]
* [[イシデ電]]
* [[石ノ森章太郎]]
* [[石原はるひこ]](石原春彦)
* [[石原まこちん]]
* [[石本美穂]]
* [[石山東吉]]
* [[石山諒]]
* [[石渡治]]
* [[石渡洋司]]
* [[ISUTOSHI]]
* [[和泉明日香]]
* [[和泉かねよし]]
* [[いずみ哨]]
* [[泉朝樹]]
* [[和泉なぎさ]]
* [[泉晴紀]]([[泉昌之]]も参照)
* [[いずみべる]]
* [[泉ゆきを]](泉ゆき雄)
* [[依澄れい]]
* [[石動あゆま]]
* [[磯山晶]]
* [[磯谷友紀]]<!-- いそや ゆき -->
* [[伊十楽]]
* [[イダタツヒコ]]
* [[井田ヒロト]]
* [[板井れんたろう]]
* [[板垣恵介]]
* [[板垣巴留]]<!-- いたがき ぱる -->
* [[板垣雅也]]
* [[板倉梓]]
* [[板倉雄一]]
* [[井谷賢太郎]]
* [[SYUFO|板橋しゅうほう]]
* [[板場広志]]
* [[市川ジュン]]
* [[市川ショウ]]
* [[市川智茂]]
* [[市川春子]]
* [[市川ヒロシ]]
* [[市川マサ]]
* [[市川みさこ]]
* [[壱河柳乃助]]
* [[壱瀬かいこ]]
* [[一式まさと]]
* [[一條裕子]]
* [[一条ゆかり]]
* [[一智和智]]
* [[一ノ関圭]]
* [[いちのへ瑠美]]
* [[イチハ]]
* [[市原敬子]]
* [[一丸]]
* [[逸架ぱずる]]
* [[樹要]]
* [[出月こーじ]]
* [[一葵さやか]]<!-- いつき さやか -->
* [[樹なつみ]]
* [[伊槻ユリナ]]
* [[一色まこと]]
* [[一堂はじめ]]
* [[いづなよしつね]]
* [[出渕裕]]
* [[一市裕納]]
* [[一本木蛮]]
* [[いづみひろの]]
* [[いづみやおとは]]
* [[いでえいじ]]
* [[井出圭亮]]
* [[井出智香恵]]
* [[伊藤明弘]]
* [[伊藤いづも]]
* [[いとうえい]]
* [[伊藤黒介]]
* [[伊藤重夫]]
* [[伊藤潤二]]
* [[伊藤伸平]]
* [[伊藤勢]]
* [[いとう耐]]
* [[伊藤太一 (漫画家)|伊藤太一]]
* [[伊東岳彦]]<!-- いとう たけひこ -->
* [[井藤ななみ]]<!-- いとう ななみ -->
* [[伊藤ハチ]]<!-- いとう ハチ -->
* [[伊藤誠 (漫画家)|伊藤誠]]
* [[伊藤正臣]]
* [[伊藤真美]]
* [[いとうみきお]]
* [[伊藤実 (漫画家)|伊藤実]]<!-- いとう みのる -->
* [[伊藤三巳華]]
* [[伊藤悠]]
* [[伊藤ゆう]]
* [[伊藤結花理]]
* [[伊藤理佐]]
* [[糸杉柾宏]]
* [[いとまん]]
* [[糸吉了一]]
* [[稲井カオル]]
* [[稲岡和佐]]
* [[稲垣理一郎]]
* [[稲田浩司]]
* [[いなだ詩穂]]
* [[稲見独楽]]<!-- いなみ こま -->
* [[稲光伸二]]
* [[稲山覚也]]<!-- いなやま かくや -->
* [[稲荷家房之介]]
* [[犬威赤彦]]
* [[乾はるか]]
* [[乾良彦]]
* [[犬養ヒロ]]
* [[狗神煌]]
* [[犬上すくね]]
* [[犬木栄治]]
* [[犬木加奈子]]
* [[犬丸りん]]
* [[犬山まさと]]
* [[イノウエ]]
* [[井上恵美子 (漫画家)|井上恵美子]]
* [[井上一雄]]
* [[井上和郎]]
* [[井上きみどり]]
* [[井上コオ]]
* [[いのうえさきこ]]
* [[井上サトル]]
* [[井上智]]
* [[井上三太]]
* [[井上純一 (イラストレーター)|井上純一]]
* [[井上淳哉]]
* [[いのうえ空]]
* [[井上大助]]
* [[井上雄彦]]
* [[井上トモコ]]
* [[井上直久]]
* [[井上紀良]]
* [[井上英沖]]
* [[井上博和]]
* [[井上正治 (漫画家)|井上正治]]
* [[イノウエマキト]]
* [[井上元伸]]
* [[井上桃太]]
* [[井上行広]]
* [[井上よしひさ]]
* [[猪川朱美]]
* [[猪熊しのぶ]]
* [[いのの]]
* [[井ノ本リカ子]]
* [[猪ノ谷言葉]]
* [[伊庭竹緒]]
* [[伊原しげかつ]]
* [[伊原士郎]]
* [[伊原大貴]]
* [[井原裕士]]
* [[伊吹楓]]
* [[いふじシンセン]]
* [[今市子]]
* [[いまいかおる]]
* [[今井神]]
* [[今木商事]]
* [[今井大輔]]
* [[今井哲也]]<!-- いまいてつや -->
* [[今井トゥーンズ]]
* [[今井康絵]]
* [[今泉伸二]]
* [[今賀俊]]
* [[いまざきいつき]](伊魔崎斎)
* [[いましろたかし]]
* [[今谷鉄柱]]
* [[今西まさお]](今西正男)
* [[今村洋子]]
* [[今村陽子]]<!-- いまむら ようこ -->
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#伊万里すみ子|伊万里すみ子]](抄)
* [[いみぎむる]]
* [[居村眞二]]
* [[今道英治]]
* [[仏さんじょ]]<!-- イム さんじょ -->
* [[iyutani]]
* [[五十子勝]]
* [[入江亜季]]
* [[入江喜和]]
* [[入江しげる]]
* [[入江紀子]]
* [[岩明均]]
* [[岩井渓]]
* [[岩泉舞]]
* [[岩岡ヒサエ]]
* [[いわおかめめ]]
* [[岩尾奈美恵]]
* [[岩佐あきらこ]]
* [[いわさきまさかず]]
* [[岩崎陽子]]<!-- いわさき ようこ -->
* [[いわしげ孝]]
* [[岩下慶子]]
* [[イワシタシゲユキ]]
* [[岩代俊明]]
* [[岩瀬昌嗣]]
* [[岩田和久]]
* [[岩田やすてる]]
* [[岩原裕二]]
* [[岩谷テンホー]]
* [[岩永亮太郎]]
* [[岩館真理子]]
* [[石見翔子]]
* [[いわみちさくら]]
* [[岩村俊哉]]
* [[岩本久則]]
* [[岩本ナオ]]
* [[岩本佳浩]]
* [[岩本直輝]]
|}}
=== う ===
{{columns-list|4|
* [[上座理保]]
* [[植芝理一]]
* [[上田悦]]
* [[上田信舟]]
* [[上田キク]]
* [[上田トシコ]]
* [[ウエダハジメ]]
* [[上田宏]]
* [[植田まさし]]
* [[うえだ美貴]]
* [[うえだ未知]]<!-- うえだ みち -->
* [[上田美和]]
* [[上田倫子]]
* [[上野顕太郎]]
* [[上野すばる]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#上原甲斐|上原甲斐]](抄)
* [[上原きみ子]]
* [[上村一夫]]
* [[上山徹郎]]
* [[うえやまとち]]
* [[上山道郎]]
* [[魚豊]]
* [[魚戸おさむ]]
* [[うおなてれぴん]]
* [[うおぬまゆう]]
* [[魚乃目三太]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#鵜飼U子|鵜飼U子]](抄)
* [[宇河弘樹]]
* [[右京あやね]]
* [[うぐいすみつる]]
* [[雨月衣]]
* [[兎野みみ]]
* [[うさ銀太郎]]
* [[うさくん]]
* [[宇佐美多恵]]
* [[宇佐美真紀]]<!-- うさみ まき -->
* [[宇佐美道子]]<!-- うさみ みちこ -->
* [[宇佐美渉]]
* [[宇佐悠一郎]]
* [[氏家ト全]]
* [[うしおそうじ]]
* [[氏賀Y太]]
* [[牛木義隆]]
* [[牛島慶子]]
* [[宇城はやひろ]]
* [[うず (漫画家)|うず]]
* [[臼井儀人]]
* [[臼井仁志]]<!--うすい ひとし-->
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#臼倉若菜|臼倉若菜]](抄)
* [[うすた京介]]
* [[うすね正俊]]
* [[歌川たいじ]]
* [[うたたねひろゆき]]
* [[うた乃]]
* [[内々けやき]]<!-- うちうち けやき -->
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#内崎まさとし|内崎まさとし]](抄)
* [[内田かずひろ]]
* [[内田康平]]
* [[内田早紀]]
* [[内田春菊]]
* [[内田美奈子]]
* [[内田善美]]
* [[内村月子]]
* [[内山亜紀]]
* [[内水融]]
* [[内村かなめ]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#うちやましゅうぞう|うちやましゅうぞう]](抄)
* [[内山まもる]]
* [[内山安二]]
* [[utu]]
* [[卯月妙子]]
* [[Woody-Rinn]](森林林檎)
* [[内海八重]]
* [[打見佑祐]]
* [[鰻丸]]
* [[宇仁田ゆみ]]
* [[宇野亜由美]]
* [[ウノ・カマキリ]]
* [[うのせけんいち]]
* [[宇野智哉]]
* [[宇野比呂士]]
* [[宇田学]]
* [[ウヒョ助]]
* [[うましか]]
* [[U35]]<!-- うみこ -->
* [[海月れおな]]
* [[羽海野チカ]]
* [[海野つなみ]]
* [[海野やよい]]
* [[うめ (漫画家)|うめ]]
* [[梅川和実]]
* [[うめざわしゅん]]
* [[梅澤春人|梅澤春人]]
* [[梅澤麻里奈]]
* [[楳図かずお]]
* [[梅田阿比]]
* [[梅宮あいこ]]
* [[梅本さちお]]
* [[浦川まさる]]
* [[有楽彰展]]
* [[ウラケン・ボルボックス]]
* [[浦嶋嶺至]]
* [[浦沢直樹]]
* [[うらたじゅん]]
* [[浦地コナツ]]
* [[浦野千賀子]]
* [[浦乃まみ]]
* [[うらべ・すう]](一烈条二)
* [[浦本直見]]
* [[ウラモトユウコ]]
* [[URAN (漫画家)]]
* [[売野機子]]<!--うりの きこ-->
* [[漆野りひと]]
* [[うるし原智志]]
* [[漆原友紀]]
* [[漆原侑来]]
* [[うろたん]]
* [[海野そら太]]
* [[海野螢]]
* [[梅沢はな]]
|}}
=== え ===
{{columns-list|4|
* [[影木栄貴]]<!-- えいきえいき -->
* [[永塚未知流]]
* [[永福一成]]<!-- えいふくいっせい -->
* [[松原由美子|永福太郎]]
* [[AK24]]<!-- えーけーにじゅうよん -->
* [[江川達也]]<!-- えがわたつや -->
* [[江草天仁]]<!-- えくさたかひと -->
* [[恵口公生]]
* [[江口寿史]]<!-- えぐちひさし -->
* [[ヱシカ/ショーゴ]]
* [[江島絵理]]<!-- えじまえり -->
* [[江尻立真]]<!-- えじりたつま -->
* [[えすとえむ]]
* [[えすのサカエ]]
* [[SP☆なかてま]]<!-- えすぴーなかてま -->
* [[枝松克幸]]<!-- えだまつかつゆき -->
* [[恵月ひまわり]]<!-- えづきひまわり -->
* [[衛藤ヒロユキ]]<!-- えとうひろゆき -->
* [[永遠幸]]<!-- えとおみゆき -->
* [[江戸川エドガワ]]
* [[江波譲二]]<!-- えなみじょうじ -->
* [[えぬえけい]]
* [[N村]]<!-- えぬむら -->
* [[えのあきら]]
* [[榎伸晃]]
* [[榎屋克優]]<!-- えのきや かつまさ -->
* [[榎木りか]]<!-- えのき りか -->
* [[江野スミ]]
* [[榎本智]]<!-- えのもと さとし -->
* [[榎本俊二]]<!-- えのもとしゅんじ -->
* [[榎本ちづる]]<!-- えのもとちづる -->
* [[榎本ナリコ]]<!-- えのもとなりこ -->
* [[榎本ハイツ]]<!-- えのもとはいつ -->
* [[えばんふみ]]
* [[戎橋政造]]<!-- えびすばしせいぞう -->
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#えびすまるほ|えびすまるほ]](抄)
* [[ゑびす屋ぼん子]]<!-- えびすやぼんこ -->
* [[蛭子能収]]<!-- えびすよしかず -->
* [[蝦名いくお]](蝦名郁夫)
* [[えびなしお]]
* [[えびはら武司]]<!-- えびはらたけし -->
* [[海老原優]]<!-- えびはらゆう -->
* [[えびふらい]]
* [[江平洋巳]]<!-- えびらひろみ -->
* [[FBC (漫画家)|FBC]]
* [[F4U (漫画家)|F4U]]
* [[Emily (漫画家)|emily]]
* [[M.WOLVERINE]]
* [[絵本奈央]]
* [[衿沢世衣子]]<!-- えりさわせいこ -->
* [[エレクトさわる]]
* [[えれっと]]
* [[円城寺マキ]]<!-- えんじょうじまき -->
* [[えんどコイチ]]
* [[袁藤沖人]]<!-- えんどうおきと -->
* [[遠藤達哉]]<!-- えんどうたつや -->
* [[遠藤淑子]]<!-- えんどうとしこ -->
* [[遠藤仁]]
* [[遠藤浩輝]]<!-- えんどうひろき -->
* [[遠藤海成]]<!-- えんどうみなり -->
|}}
=== お ===
{{columns-list|4|
* [[及川えみり]]
* [[笈川かおる]]
* [[及川徹]]
* [[ÖYSTER]]
* [[オイスター (漫画家)|オイスター]]
* [[おいもとじろう]]
* [[オイユウタ]]
* [[黄井ぴかち]]
* [[押上美猫]]
* [[扇ゆずは]]
* [[桜多吾作]]
* [[近江のこ]]
* [[大石浩二]]
* [[大石普人]](オオイシヒロト)
* [[大石まさる]]
* [[大石竜子]]
* [[大井昌和]]
* [[大今良時]]
* [[大岩ケンヂ]]
* [[大岩ピュン]](大井知美)
* [[大詩りえ]]<!-- おおうた りえ -->
* [[おおうちえいこ]]
* [[大内水軍]]
* [[小桜池なつみ]]
* [[大岡さおり]]
* [[大海とむ]]
* [[大江慎一郎]](大江しんいちろう)
* [[大川ぶくぶ]]
* [[大河原遁]]
* [[大北真潤]]
* [[大久保彰]]
* [[大久保篤]]
* [[大久保亜夜子]]
* [[大久保ニュー]]
* [[大久保ヒロミ]]
* [[小椋冬美]]
* [[大暮維人]]
* [[大越孝太郎]]
* [[大迫純一]]
* [[大沢やよい]]
* [[大柴健]]
* [[大島司]]
* [[オオシマヒロユキ]]
* [[大島永遠]]
* [[大島やすいち]]
* [[大島弓子]]
* [[大清水さち]]
* [[大城のぼる]]
* [[大須賀玄]]
* [[大須賀めぐみ]]
* [[おおた綾乃]]
* [[太田垣康男]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#太田虎一郎|太田虎一郎]](抄)
* [[大田垣晴子]]
* [[大高忍]]
* [[大滝よしえもん]]
* [[大竹利朋]]
* [[大武政夫]]
* [[太田早紀]]<!-- おおた さき -->
* [[太田じろう]]
* [[大谷アキラ]]
* [[大谷博子]]
* [[太田モアレ]]
* [[太田基之]]<!-- おおた もとゆき -->
* [[大月悠祐子]](かなん)
* [[大塚由美 (漫画家)|大塚由美]]
* [[おおつぼマキ]]
* [[大寺義史]]
* [[大友克洋]]
* [[おーなり由子]]
* [[おおにし真]]
* [[大西巷一]]<!-- おおにし こういち -->
* [[大西志信]]
* [[大西実生子]]
* [[おおのこうすけ]]
* [[大野潤子]]
* [[大野純二]] (おおのじゅんじ)
* [[大野哲也]]
* [[大野安之]] (おおのやすゆき)
* [[大羽快]]
* [[大橋薫]]
* [[大橋ツヨシ]]
* [[大橋裕之]]
* [[大ハシ正ヤ]]
* [[大橋よしひこ]]
* [[おーはしるい]] (荻原みゆき)
* [[おおばあつし]](大場敦)
* [[大羽隆廣]]
* [[おおば比呂司]]
* [[おおばやしみゆき]]
* [[おおひなたごう]]
* [[大平かずお]]
* [[大富寺航]]
* [[大前田りん]]
* [[大宮宮美]]
* [[大森葵]](いるも晴章)
* [[おおや和美]]
* [[おおやちき]]
* [[大山和栄]]
* [[大槍葦人]]
* [[大雪師走]]
* [[大和田夏希]]
* [[大和田秀樹]]
* [[丘あつし]]
* [[おがきちか]]
* [[岡霧硝]]
* [[丘けい子]]<!-- おか けいこ -->
* [[岡崎京子]]
* [[岡崎二郎]]
* [[岡崎武士]]
* [[岡崎つぐお]]
* [[おかざき真里]]<!-- おかざき まり -->
* [[岡崎優]]
* [[岡崎呼人]]
* [[小笠原朋子]]
* [[小笠原真]]
* [[岡田晟]]
* [[岡田あーみん]]
* [[岡田和人]]
* [[岡田がる]]
* [[岡田純子 (漫画家)|岡田純子]]
* [[おがたちえ]]
* [[岡田史子]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#尾形未紀|尾形未紀]](抄)
* [[岡田芽武]] (おかだめぐむ)
* [[緒方てい]]
* [[御形屋はるか]]
* [[岡田真武|岡田輪学]]
* [[岡田理知]]
* [[御徒町鳩]]
* [[岡戸達也]]<!-- おかどたつや -->
* [[岡野剛]]
* [[岡野史佳]]
* [[おかべりか]]
* [[岡野玲子]]
* [[岡部冬彦]]
* [[OKAMA]]
* [[岡村賢二]]
* [[岡村星]]
* [[岡本一平]]
* [[岡本一広]]
* [[岡本慶子]]
* [[岡本健太郎]]
* [[おかもととかさ]]
* [[岡本倫]]
* [[オカヤド]]
* [[小川悦司 (漫画家)|小川悦司]]
* [[小川こうじ]]
* [[小川麻衣子]]
* [[小川雅史]]
* [[小川亮 (漫画家)|小川亮]]
* [[沖圭一郎]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#沖一|沖一]](抄)
* [[おぎぬまX]]
* [[おぎのひとし]]
* [[荻野真]]
* [[荻野真弓]]
* [[荻野目かおる]]
* [[荻原賢次]]
* [[奥嶋ひろまさ]]
* [[奥瀬サキ]]
* [[奥平イラ]] (奥平衣良)
* [[奥谷通教]]
* [[奥田ひとし]]
* [[奥津武]]
* [[奥十]]
* [[奥英樹]]
* [[奥浩哉]]
* [[奥村真理子]]
* [[奥谷かひろ]]
* [[小椋アカネ]]
* [[小椋冬美]]
* [[小栗かずまた]]
* [[小栗左多里]]
* [[奥友志津子]]
* [[刑部真芯]]
* [[尾崎晶]]
* [[尾崎あきら]]
* [[尾崎かおり]]
* [[尾崎南]]
* [[長田ノオト]]
* [[長田悠幸]]
* [[小沢カオル]]
* [[小沢かな]]
* [[小澤さとる]]
* [[小沢としお]]
* [[小沢真理]]
* [[おざわゆき]]
* [[押川雲太朗]]
* [[押切蓮介]]
* [[押見修造]]
* [[押山雄一]]
* [[オジロマコト]]
* [[尾瀬あきら]]
* [[織田綺]]
* [[尾田栄一郎]]
* [[おだぎみを]]
* [[小田空]]
* [[小田扉]]
* [[オダトモヒト]]
* [[小田ひで次]]
* [[尾高純一]]
* [[小田島等]]
* [[尾玉なみえ]]
* [[織田non]]
* [[おたみ]]
* [[小田ゆうあ]]<!-- おだ ゆうあ -->
* [[小田原ドラゴン]]
* [[オダワラハコネ]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#越智千文|越智千文]](抄)
* [[御茶漬海苔]]
* [[御茶まちこ]]<!-- おちゃ まちこ -->
* [[おちよしひこ]](あじす・あべば)
* [[落合さより]]
* [[落合尚之]]
* [[乙ひより]]<!-- おつ ひより -->
* [[音久無]]
* [[鬼窪浩久]]
* [[オニグンソウ]]
* [[鬼束直]]
* [[小野佐世男]]
* [[小野さゆり]]
* [[小野新二]]
* [[小野敏洋]](おのとしひろ、上連雀三平)
* [[オノ・ナツメ]]
* [[小野弥夢]]
* [[小野洋一郎]]
* [[小野寺浩二]]
* [[小畑しゅんじ]]
* [[小畑健]](土方茂)
* [[小畑友紀]]<!-- おばた ゆうき -->
* [[小花美穂]]
* [[小原愼司]]
* [[帯ひろ志]]
* [[おみおみ]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#臣士れい|臣士れい]](抄)
* [[小山田いく]]
* [[小山田つとむ]]<!-- おやまだ つとむ -->
* [[小山田容子]]<!-- おやまだ ようこ -->
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行#織倉まこと|織倉まこと]](抄)
* [[おりはらさちこ]]
* [[折原みと]]
* [[おりもとみまな]]
|}}
== か行 ==
=== か ===
{{columns-list|4|
* [[がぁさん]]
* [[かーみら]]
* [[花郁悠紀子]]
* [[介錯 (漫画家)|介錯]]
* [[カイシンシ]]
* [[KAITO (漫画家)|KAITO]]
* [[かいとうぴんく]]
* [[カイマコト]]
* [[甲斐谷忍]]
* [[かいづか]]
* [[貝塚ひろし]]
* [[海童博行]]
* [[海明寺裕]]
* [[可歌まと]]
* [[花緒莉]]<!-- かおり -->
* [[薫原好江]]
* [[かかずかず]]
* [[カガノミハチ]]
* [[カガミツキ]]
* [[鹿賀ミツル]]
* [[かがみあきら]](あぽ)
* [[鏡なな子]]
* [[かがり淳子]]
* [[柿崎正澄]]
* [[柿崎椋]]
* [[垣野内成美]]
* [[かきふらい]]
* [[柿本ケンジロウ]]
* [[華京院レイ]]
* [[加倉井ミサイル]]
* [[賀来ゆうじ]]
* [[筧秀隆]]
* [[影崎由那]]
* [[影丸穣也]]
* [[影山なおゆき]]
* [[KAKERU]](バー・ぴぃちぴっと)
* [[カゴ直利]]
* [[葛西りいち]]
* [[風上旬]]
* [[笠木忍]]
* [[笠太郎]]
* [[風都ノリ]]
* [[カサハラテツロー]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#笠原俊夫|笠原俊夫]](抄)
* [[笠原真樹]]
* [[笠原倫]](RIN)
* [[カザマアヤミ]]
* [[かざま鋭二]]
* [[笠間しろう]]
* [[風間宏子]]
* [[風間やんわり]]
* [[舵英里]]
* [[梶川卓郎]]
* [[樫木祐人]]
* [[加治佐修]]
* [[樫の木ちゃん]]
* [[舵真秀斗]]
* [[鹿島麻耶]](旧名:滝沢麻耶)<!-- かしままや -->
* [[柏木香乃]] <!-- かしわぎ かの -->
* [[柏木志保]]
* [[柏ぽち]]
* [[柏屋コッコ]]
* [[柏原麻実]]
* [[梶原あや]]
* [[加地君也]]
* [[樫みちよ]]
* [[kashmir]]
* [[樫本学ヴ]]
* [[梶山ミカ]]<!-- かじやま ミカ -->
* [[柏木ハルコ]]
* [[一井かずみ]]
* [[春日あかね]]<!-- かすが あかね -->
* [[春日旬]]
* [[春日沙生]]
* [[春日光広]]
* [[春日るりか]]
* [[春日井明]]
* [[かずといずみ]]
* [[計奈恵]]
* [[かずはじめ]]
* [[一峰大二]]
* [[カズミヤアキラ]]
* [[粕谷紀子]]
* [[加瀬あつし]]
* [[かせきさいだぁ≡]]<!-- かせきさいだぁ -->
* [[風忍]]
* [[かたおか徹治]]
* [[片岡みちる]]
* [[かたぎりあつこ]]
* [[片桐澪]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#片桐みすず|片桐みすず]](抄)
* [[片倉政憲]](別名義多数)
* [[カタクラユキ]]
* [[方倉陽二]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#かたせ湘|かたせ湘]](抄)
* [[片山愁]]
* [[片山誠]]
* [[片山まさゆき]]
* [[片山ユキヲ]]
* [[ガチョン太朗]]
* [[克・亜樹]]
* [[神塚ときお]]
* [[勝川克志]]
* [[勝木一嘉]]
* [[勝木光]]
* [[勝田文]]<!-- かつた ぶん -->
* [[カッパラッパラ]]
* [[かっぴー]]
* [[カツピロ]]
* [[カヅホ]]
* [[勝又進]]
* [[克本かさね]]
* [[桂明日香]]
* [[桂正和]]
* [[桂遊生丸]]
* [[門井亜矢]]
* [[加藤和恵]]
* [[カトウコトノ]]
* [[加藤四季]]<!-- かとう しき -->
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#加藤伸吉|加藤伸吉]](抄)
* [[加藤友緒]]<!-- かとう ともお -->
* [[加藤知子 (漫画家)|加藤知子]]<!-- かとう ともこ -->
* [[かとうひろし]]
* [[加藤元浩]]<!-- かとう もとひろ -->
* [[加藤山羊]]
* [[加藤芳郎]]
* [[加藤礼次朗]]
* [[門尾勇治]]
* [[稜之大介]]
* [[門倉卍貴浩]]
* [[かどたひろし]]
* [[カトリーヌあやこ]]
* [[神奈幸子]]
* [[金井たつお]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#神奈川のりこ|神奈川のりこ]](抄)
* [[かなき詩織]]<!-- かなき しおり -->
* [[かなしろにゃんこ]]
* [[かにゃぴぃ]]
* [[カネコアツシ]]
* [[かねこしんや]]
* [[金子節子]]
* [[金子デメリン]]
* [[かねさだ雪緒]]
* [[カネシゲタカシ]]
* [[金田陽介]]
* [[金平守人]]
* [[兼本あつこ]]
* [[叶精作]]
* [[叶恭弘]]
* [[狩野蒼穹]]
* [[加納みき]]
* [[ガビョ布]]
* [[かまたきみこ]]
* [[鎌谷悠希]]
* [[鎌田幹康]]
* [[鎌田洋次]]
* [[かまちよしろう]]
* [[神尾葉子]]
* [[上川敦志]]
* [[上木敬]]
* [[上北ふたご]]
* [[上条明峰]]
* [[上條淳士]]
* [[上藤政樹]]
* [[雷門獅篭]]
* [[上村一夫]]
* [[上村純子]]
* [[カミムラ晋作]]
* [[神谷順]]
* [[かみやたかひろ]]
* [[神矢みのる]]
* [[神谷悠]]
* [[香村陽子]]
* [[亀吉いちこ]](旧名:いちこ)
* [[鴨居まさね]]
* [[ガモウひろし]]
* [[鴨川つばめ]]
* [[鴨沢祐仁]]
* [[かやまゆみ]]
* [[華夜]]<!-- かよる -->
* [[唐沢なをき]]
* [[カラスヤサトシ]]
* [[烏丸匡|カラスマタスク]]
* [[からめる]]
* [[雁須磨子]]
* [[華倫変]]
* [[軽部潤子]]
* [[カレー沢薫]]
* [[カロリン・エックハルト]]
* [[河あきら]]
* [[河合一慶]](手無功、大貫一星)
* [[河合克敏]]
* [[河合じゅんじ]]
* [[河合孝典]]
* [[川井マコト]]
* [[河井リツ子]]
* [[河合朗]]
* [[河内美雪]]
* [[河方かおる]]
* [[川勝徳重]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 ま行#水知せり|川上あずさ]](抄)
* [[かわぐちかいじ]]
* [[川口敬]]
* [[川口まどか]]
* [[かわくぼ香織]]
* [[川崎苑子]]
* [[川崎タカオ]]
* [[川崎直孝]]
* [[川崎のぼる]]
* [[川崎三枝子]]
* [[川崎ゆきお]]
* [[川三番地]]
* [[川下寛次]]
* [[河下水希]](桃栗みかん)
* [[川嶋亜理]]
* [[河島正]]
* [[川島博幸]]
* [[川島よしお]]
* [[川尻こだま]]
* [[川瀬夏菜]]
* [[河惣益巳]]
* [[川添真理子]]
* [[川田 (漫画家)|川田]]
* [[河内和泉]]
* [[河内遙]]<!-- かわち はるか -->
* [[河内実加]]
* [[かわちゆかり]]
* [[川津健二朗]](らーかいらむ)
* [[カワディMAX]]
* [[河野慶]]
* [[川野匠]](池田匠)
* [[川端志季]]
* [[川原泉]]
* [[河原和音]]
* [[かわはらなつみ]]
* [[川原正敏]]
* [[川原由美子]]
* [[河部真道]]
* [[かわみなみ]]
* [[河村恵利]]
* [[河村じゅん]]
* [[川村美香]]
* [[川本コオ]]
* [[川本貴裕]]<!-- かわもと たかひろ -->
* [[かわもりみさき]]
* [[かわらじま晃]]
* [[かわりだね秋都]]
* [[神崎かるな]]
* [[神崎将臣]]
* [[神崎裕也]]
* [[神田晶]]
* [[神田たけ志]]
* [[神田森莉]]
* [[缶乃]]
* [[菅野修]]
* [[菅野博之]]
* [[かんばまゆこ]]
* [[かんべあきら]]
* [[神戸さくみ]]
* [[菅野文]]
* [[神原則夫]]
* [[GUNP]]
|}}
=== き ===
{{columns-list|4|
* [[記伊孝]]
* [[きうちかずひろ]]
* [[木内千鶴子]]
* [[木内ラムネ]]
* [[木尾士目]]
* [[きお誠児]]
* [[樹生ナト]]
* [[木々]]<!-- きき -->
* [[木々津克久]]
* [[菊川近子]]
* [[菊嶋高志朗]]
* [[菊田洋之]]
* [[菊田みちよ]]
* [[菊地かまろ]]
* [[菊池久美子]]
* [[きくち正太]]
* [[菊池としを]]
* [[菊池直恵]]
* [[キクチヒロノリ]]
* [[きくちゆうき]]
* [[喜国雅彦]]
* [[きくらげ (イラストレーター)|きくらげ]]
* [[樹崎聖]]
* [[木崎ひろすけ]]
* [[如月群真]]
* [[如月ひいろ]]
* [[如月弘鷹]]
* [[岸香里]]
* [[岸大武郎]]
* [[岸虎次郎]]
* [[貴志元則]]
* [[岸裕子]]
* [[貴島煉瓦]]
* [[岸本聖史]]
* [[岸本斉史]]
* [[木城ゆきと]]
* [[きたうみつな]]
* [[きたがわ翔]]
* [[北川みゆき]]
* [[北崎拓]]
* [[北里鮎]]
* [[北沢薫]]
* [[北沢バンビ]]
* [[北嶋一喜]]
* [[北島洋子]]
* [[きただりょうま]](ryoma、天道龍馬)
* [[北爪宏幸]]
* [[喜多尚江]]
* [[北野英明]]
* [[北原文野]]
* [[北見けんいち]]
* [[きたみりゅうじ]]
* [[北村亜紀]]
* [[北村有香]]
* [[木多康昭]]
* [[北道正幸]]
* [[吉祥寺笑]]
* [[吉川かば夫]]<!-- きっかわ かばお-->
* [[きづきあきら]]
* [[啄木鳥しんき]]
* [[キヅナツキ]]
* [[鬼頭莫宏]]
* [[鬼頭えん]]
* [[綺堂無一]]
* [[キド・タモツ]]
* [[稀捺かのと]]
* [[衣谷遊]]
* [[絹田村子]]<!-- きぬた むらこ -->
* [[木根ヲサム]]
* [[杵渕やすお]]
* [[木下いたる]]
* [[木下さくら]]
* [[木下聡志]]
* [[木下晋也]]
* [[木下としお]]<!-- きのした としお -->
* [[木下ほのか]]
* [[木下由一]]
* [[木ノ花さくや]]
* [[大乃元初奈]]<!--きのもと ういな-->
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#木葉功一|木葉功一]](抄)
* [[木原敏江]]
* [[きみづか葵]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#木村えいじ|木村えいじ]](抄)
* [[木村和昭]]
* [[木村紺]]
* [[木村太彦]]
* [[木村千歌]]
* [[木村知夫]]
* [[木村直巳]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#きむらみつお|きむらみつお]](抄)
* [[樹村みのり]]
* [[木村勇治]]
* [[木村有里 (漫画家)|木村有里]]
* [[樹本祐季]]<!-- きもと ゆき -->
* [[宮―学]]
* [[九条キヨ]]
* [[牛乳のみお]]
* [[Cuvie]]
* [[キューライス]]
* [[きゆづきさとこ]]
* [[今日マチ子]]<!-- きょう マチこ -->
* [[京町妃紗]]
* [[木吉紗]]
* [[清瀬のどか]]
* [[清原なつの]]
* [[清原紘]]
* [[きら (漫画家)|きら]]
* [[きらたかし]]
* [[雲母坂盾]]
* [[きりえれいこ]]
* [[桐丘さな]]
* [[霧賀ユキ]]
* [[桐木憲一]]
* [[きりきり舞]]
* [[桐嶋たける]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#霧嶋珠生|霧島珠樹]](抄)
* [[桐島りら]]
* [[桐野澪]]
* [[桐原いづみ]]
* [[桐原小鳥]]
* [[桐山光侍]]
* [[金閣寺ぷるる]]
* [[王欣太]](GONTA)
* [[金田一蓮十郎]]
* [[筋肉☆太郎]]
|}}
=== く ===
{{columns-list|4|
* [[クール教信者]]
* [[九井諒子]]<!-- くい りょうこ -->
* [[久織ちまき]]
* [[久遠まこと]]
* [[くおんみどり]]
* [[九月乃梨子]]
* [[九月姫]]
* [[久我山リカコ]]
* [[久木田律子]]
* [[日下あき]]
* [[日下皓]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#日下部拓海|日下部拓海]](抄)
* [[草河遊也]]<!-- くさか ゆうや -->
* [[くさか里樹]]
* [[草川為]]
* [[草彅琢仁]]
* [[くさなぎ俊祈]]
* [[草凪みずほ]]
* [[草薙竜樹]]
* [[くさのあきひろ]]
* [[草野紅壱]]
* [[草場道輝]]
* [[草原タカオ]]
* [[草間さかえ]]
* [[KUJIRA]]<!-- くじら -->
* [[くじらいいく子]]
* [[クジラックス]]
* [[くずしろ]](葛城一)
* [[楠桂]]
* [[楠勝平]]
* [[楠高治]]
* [[楠田夏子]]
* [[楠みちはる]]
* [[楠本哲]]
* [[楠本まき]]
* [[久世岳]]
* [[久世番子]]
* [[久世みずき]]
* [[久世蘭]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#くつぎけんいち|くつぎけんいち]](抄)
* [[沓沢龍一郎]]
* [[9℃]]
* [[工藤恒美]]
* [[国樹由香]]
* [[国友やすゆき]]
* [[国広あづさ]]
* [[久野遥子]]
* [[九部玖凛]]
* [[窪田まり子]]
* [[玖保キリコ]]
* [[久保帯人]]
* [[くぼたまこと]]
* [[窪田まり子]]
* [[窪之内英策]]
* [[久保ミツロウ]]
* [[久保保久]]
* [[久保マシン|くぼやすひと]]
* [[熊岡冬夕]]<!-- くまおか ふゆ -->
* [[くまがい杏子]]
* [[熊谷さとし]]
* [[くまき絵里]]
* [[熊倉隆敏]]
* [[くまくら珠美]]
* [[熊倉裕一]]
* [[熊田プウ助]]
* [[クミタ・リュウ]]
* [[久米田康治]]
* [[雲田はるこ]]
* [[倉上淳士]]
* [[倉金章介]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#倉島圭|倉島圭]](抄)
* [[倉薗紀彦]]
* [[倉多江美]]
* [[倉田真由美]]
* [[倉田三ノ路]]
* [[倉田よしみ]]
* [[くらの]]
* [[倉橋えりか]]
* [[倉橋寛|くらはしかん]]
* [[倉持知子]]
* [[くらもちふさこ]]
* [[くら☆りっさ]](栗東てしお)
* [[CLAMP]]
* [[栗井茶]]
* [[九里一平]]
* [[くりきあきこ]]
* [[栗城祥子]]
* [[くりひろし]]
* [[クリスタルな洋介]]
* [[くりた陸]]
* [[栗橋伸祐]]
* [[栗原一実]]
* [[栗原まもる]]
* [[栗美あい]]
* [[栗本和博]]
* [[栗山ミヅキ]]
* [[久里洋二]]
* [[くるねこ大和]]
* [[車谷晴子]]
* [[車田正美]]
* [[胡桃ちの]]
* [[来留間慎一]](秋恭摩)
* [[グレゴリ青山]]<!-- グレゴリあおやま -->
* [[呉由姫]]
* [[紅林直]]
* [[クロイワ・カズ]]
* [[黒岩よしひろ]]
* [[黒鉄ヒロシ]]<!-- くろがね ヒロシ -->
* [[黒神遊夜]]<!-- くろかみ ゆうや -->
* [[黒川こまち]]<!-- くろかわ こまち -->
* [[黒崎冬子]]<!-- くろさき ふゆこ -->
* [[黒咲練導]]<!-- くろさき れんどう -->
* [[黒瀬浩介]]<!-- くろせ こうすけ -->
* [[黒田硫黄]]
* [[黒田かすみ]]
* [[黒娜さかき]]
* [[黒田高祥]]
* [[黒田bb]]
* [[黒乃奈々絵]]
* [[黒葉潤一]]
* [[クロマツテツロウ]]
* [[黒丸 (漫画家)|黒丸]]
* [[黒柾志西]](ベンジャミン)
* [[桑沢あきお]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#桑沢篤夫|桑沢篤夫]](抄)
* [[桑田二郎]](旧:桑田次郎)
* [[桑田乃梨子]]
* [[桑原真也]]
* [[桑原草太]]
* [[桑原太矩]]
|}}
=== け ===
{{columns-list|4|
* [[KEI (イラストレーター)|KEI]]
* [[経験値 (漫画家)|経験値]]
* [[卦石柾]]
* [[K・元美津]]
* [[獸木野生]]
* [[けらえいこ]]
* [[現代洋子]]
* [[ケン月影]]
|}}
=== こ ===
{{columns-list|4|
* [[Koi]]
* [[恋緒みなと]]
* [[小池恵子]]
* [[小池桂一]]
* [[小池田マヤ]]
* [[こいしさとし]](小石さとし、小石諭)
* [[小石川ふに]]
* [[古泉智浩]]
* [[こいずみまり]]
* [[小泉蓮]]
* [[神江里見]]
* [[高河ゆん]]
* [[光崎圭]]
* [[高信太郎]]
* [[小うどん (漫画家)|小うどん/小独活]]
* [[郷力也]]
* [[向後つぐお|向後次雄]]([[向後つぐお]])
* [[CAW=ZOO]]
* [[幸田朋弘]]
* [[郷田マモラ]]
* [[業田良家]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#河野やすこ|河野やすこ]](抄)
* [[コージィ城倉]]
* [[香坂透]]
* [[神坂智子]]
* [[光崎圭]]
* [[こうち楓]]
* [[鴻池剛]]
* [[コウノコウジ]]
* [[こうの史代]]
* [[耕野裕子]]
* [[小梅けいと]]
* [[甲本一]]
* [[高野聖ーナ]]
* [[甲良幹二郎]]
* [[ゴージャス宝田]]
* [[コーヒー (漫画家)|コーヒー]]
* [[コーヘー]]
* [[古賀新一]]
* [[古賀亮一]]
* [[子ガエル]]
* [[こがわみさき]]
* [[こきち]]
* [[近木野中哉]]<!-- こぎの ちゅうや -->
* [[こぐま杏]]
* [[極楽院櫻子]]
* [[こげどんぼ*]]
* [[ここまひ]]
* [[心あゆみ]]
* [[五彩きょうこ]]
* [[虎哉孝征]]<!--こさい たかゆき-->
* [[小坂俊史]]
* [[小坂まりこ]]
* [[小坂理絵]]
* [[コザキユースケ]]
* [[古事記王子]]
* [[こしたてつひろ]]
* [[こしのりょう]]
* [[こしばてつや]](tetsu)
* [[小島あきら]]
* [[小島功]]
* [[小島剛夕]]
* [[小嶋武史]]<!-- こじま たけし -->
* [[小島利明]]
* [[児嶋都]]
* [[古城武司]]
* [[五條さやか]]
* [[コジロー]]
* [[小菅勇太郎]]
* [[小純月子]]
* [[こせきこうじ]]
* [[こだか和麻]]
* [[小鷹ナヲ]]
* [[小谷あたる]](ざちお)
* [[小谷憲一]]
* [[小谷真倫]]
* [[コダマナオコ]]
* [[こだま学]]
* [[児玉樹 (漫画家)|児玉樹]]
* [[小玉有起]]
* [[小玉ユキ]]<!-- こだま ユキ -->
* [[東風孝広]]
* [[小槻さとし]]
* [[ゴツボ☆マサル]]
* [[ゴツボ×リュウジ]]
* [[小手川ゆあ]]
* [[後藤晶]]
* [[悟東あすか]]
* [[ごとう和]]
* [[後藤寿庵 (漫画家)|後藤寿庵]]
* [[後藤隼平]]<!--ごとう じゅんぺい-->
* [[後藤スズナ]]
* [[後藤星]]<!-- ごとう せい -->
* [[後藤羽矢子]]
* [[梧桐柾木]]
* [[後藤みさき]]
* [[吾峠呼世晴]]
* [[ゴトウユキコ]]
* [[後藤ユタカ]]
* [[琴川彩]]
* [[琴慈]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#琴音らんまる|琴音らんまる]](抄)
* [[琴の若子]]
* [[ことぶきつかさ]]
* [[ことぶきまいむ]]
* [[コトヤマ]]
* [[琴義弓介]]<!-- ことよし ゆみすけ -->
* [[虎向ひゅうら]]<!-- こなた ひゅうら -->
* [[小夏 (漫画家)|小夏]]
* [[こなみかなた]]
* [[小成たか紀]]
* [[コナリミサト]]
* [[湖西晶]]
* [[小西明日翔]]
* [[小西紀行]]
* [[小西幹久]]
* [[木ノ花さくや]]
* [[許斐剛]]
* [[こはく那音]]
* [[小箱とたん]]
* [[小林安曇]]
* [[小林賢太郎]]
* [[小林尽]]
* [[小林じんこ]]
* [[小林たつよし]]
* [[小林銅蟲]]
* [[小林治雄]]
* [[小林博美]]
* [[こばやしひよこ]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行#小林ぽんず|小林ぽんず]](抄)
* [[小林まこと]]
* [[小林誠 (イラストレーター)|小林誠]]
* [[小林真文]]
* [[小林源文]]
* [[香林ゆうき]]
* [[小林有吾]]
* [[小林ゆき]]
* [[小林ユミヲ]]
* [[小林よしのり]]
* [[小林立]]
* [[小原ショウ]]
* [[小原宗夫]](西脇まゆ)
* [[こはら裕子]]
* [[小日向 (漫画家)|小日向]]
* [[古日向いろは]]
* [[ゴブリン (漫画家)|ゴブリン]](ゴブリン森口)
* [[小松田わん]]
* [[古味慎也]]
* [[古味直志]]
* [[小道迷子]]
* [[小峯つばさ]](旧:五割引中)
* [[五味まちと]]
* [[小宮裕太]]
* [[込由野しほ]]
* [[小村あゆみ]]
* [[小室孝太郎]]
* [[小室しげ子]]
* [[米山シヲ]](水城葵)
* [[小山愛子]]
* [[小山健]]
* [[小山宙哉]]
* [[小山春夫]]
* [[こやま基夫]]
* [[小山ゆう]]
* [[小山ゆうじろう]]
* [[こやまゆかり]]
* [[小山るんち]]
* [[こよかよしの]]
* [[今敏]]
* [[権平ひつじ]]
* [[コンタロウ]]
* [[近藤聡乃]]
* [[近藤和久]]
* [[近藤日出造]]
* [[近藤ムサシ]]
* [[近藤ようこ]]
* [[近藤るるる]]
* [[紺野キタ]]
* [[紺野けい子]]
* [[コンノトヒロ]]
* [[今野直樹]]
* [[紺野比奈子]](旧:ひな。)
* [[紺野りさ]]
* [[昆布わかめ]]
|}}
== さ行 ==
=== さ ===
{{columns-list|4|
* [[雑賀陽平]]
* [[斉木久美子]]<!-- さいき くみこ -->
* [[佐伯淳一]]<!-- さいきじゅんいち -->
* [[さいきまこ]]
* [[サイクロン (漫画家)|サイクロン]]
* [[紗池晃久]]<!-- さいけ あきひさ -->(池田晃久)
* [[西条真二]]
* [[斎創]]
* [[西東栄一]]
* [[斎藤カズサ]]
* [[齋藤勁吾]]
* [[斎藤けん]]
* [[さいとう・たかを]]
* [[さいとうちほ]]
* [[齋藤なずな]]
* [[斉藤富士夫]]
* [[さいとうはるお]]
* [[斎藤岬]]
* [[斉藤ゆう]]
* [[斉藤倫]]
* [[さいとー栄]]
* [[西岸良平]]
* [[西原理恵子]]
* [[柴門ふみ]]
* [[才谷ウメタロウ]]
* [[佐伯茜]]<!-- さえき あかね -->
* [[佐伯イチ]]
* [[佐伯かよの]]
* [[佐伯俊 (漫画家)|佐伯俊]](tosh)
* [[さえぐさじゅん]]
* [[三枝義浩]]
* [[冴凪亮]]
* [[さおとめあげは]]
* [[逆井五郎]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 さ行#堺紀世|堺紀世]](抄)
* [[酒井七馬]]
* [[酒井まゆ]]
* [[酒井美羽]]
* [[酒川郁子]]<!-- さかがわ いくこ -->
* [[さかきなおもと]]
* [[榊原薫奈緒子]]
* [[境田昭造]]
* [[坂丘のぼる]]
* [[坂口いく]]
* [[坂口尚]]
* [[坂田靖子]]
* [[酒月ほまれ]]
* [[魚 (イラストレーター)|魚]]
* [[坂野杏梨]]
* [[サガノヘルマー]]
* [[逆柱いみり]]
* [[坂辺周一]]
* [[相模ひな]]
* [[さがみゆき]]
* [[坂本あきら (漫画家)|坂本あきら]]
* [[阪本牙城]]
* [[坂本憲司郎]]<!-- さかもと けんしろう -->
* [[坂本昭悟]]
* [[坂本眞一 (漫画家)|坂本眞一]]
* [[坂本三郎]]
* [[坂本拓]]
* [[坂本タクマ]]
* [[さかもとたけし]]
* [[坂本太郎 (漫画家)|坂本太郎]]
* [[坂本ハヤト]]
* [[サカモトミク]]
* [[さかもと未明]]
* [[坂本裕次郎]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 さ行#さかもとみゆき|さかもとみゆき]](抄)
* [[佐柄きょうこ]]
* [[サカワキヒロ太]]
* [[佐川美代太郎]]
* [[咲坂伊緒]]
* [[咲坂芽亜]]
* [[茶木ひろみ]]
* [[茶匡]]<!-- さきょう -->
* [[作画グループ]]
* [[佐久間智代]]
* [[さくま良子]]
* [[朔ユキ蔵]]
* [[さくらあすか]]
* [[桜井亜都]]
* [[桜井海]]
* [[桜井画門]]
* [[桜井汐里]]
* [[桜井昌一]]
* [[桜井雪]]<!--さくらい すすぎ-->
* [[桜井のりお]]
* [[桜井まちこ]]
* [[朔来廉子]]
* [[佐倉おりこ]]
* [[桜賀めい]]
* [[櫻日和鮎実]]
* [[桜木さゆみ]]
* [[桜木雪弥]]
* [[桜小路かのこ]]
* [[桜沢エリカ]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 さ行#桜沢鈴|桜沢鈴]](抄)
* [[佐倉準]]<!-- さくら じゅん -->
* [[砂倉そーいち]]
* [[櫻太助]]
* [[桜田雛]]
* [[桜玉吉]]
* [[桜乃みか]]
* [[桜野みねね]]
* [[桜場コハル]]
* [[桜庭丈一朗]]
* [[天櫻みとの]]<!--さくら みとの-->
* [[桜倉メグ]]
* [[さくらももこ]]
* [[咲良りょう]]<!--さくら りょう-->
* [[鮭 (漫画家)|鮭]]
* [[佐香厚子]]<!-- さこう あつこ -->
* [[栄羽弥]]<!-- さこう わたり -->
* [[迫稔雄]]
* [[左近士諒]]
* [[左近堂絵里]]<!-- さこんどう えり -->
* [[中村里美|ささいみりか]]
* [[佐江明]]
* [[笹川ひろし]]
* [[佐佐木勝彦]]
* [[茶崎白湯]]
* [[佐々木あかね]](かぽんこたろう)
* [[佐々木淳子]]
* [[佐々木少年]]<!-- ささき しょうねん -->
* [[佐々木拓丸]]
* [[笹木竹丸]]
* [[佐々木亮 (漫画家)|佐々木亮]]
* [[佐々木倫子]]
* [[佐々木マキ]]
* [[佐々木マサヒト]]
* [[佐々木みすず]]
* [[佐々木柚奈]]
* [[笹倉綾人]]
* [[ささだあすか]]
* [[笹野ちはる]]
* [[細雪純]]
* [[ささやななえこ]]
* [[流石景]]
* [[THE SEIJI]]
* [[さそうあきら]]
* [[笹生那実]]
* [[定広美香]]
* [[サダタロー]]
* [[佐多みさき]]
* [[貞本義行]]
* [[さだやす]]
* [[さだやす圭]]
* [[小谷あたる|ざちお]]
* [[Saxyun]]
* [[茶月みきこ]]
* [[雑君保プ]]
* [[さと (漫画家)|さと]]
* [[佐藤明機]]
* [[佐藤元]]
* [[佐藤健太郎 (漫画家)|佐藤健太郎]]
* [[佐藤健悦]]
* [[佐藤ざくり]]<!-- さとう ざくり -->
* [[さとーさとる]]
* [[サトウサンペイ]]
* [[佐藤史生]]
* [[佐藤ショウジ]]
* [[佐藤智一]]
* [[佐藤秀峰]]
* [[佐藤正 (漫画家)|佐藤正]]
* [[佐藤晴美 (漫画家)|佐藤晴美]]
* [[佐藤宏之 (漫画家)|佐藤宏之]]
* [[佐藤二葉]]
* [[さとうふみや]]
* [[佐藤マコト]]
* [[佐藤まさあき]]
* [[佐藤まさき]]
* [[左藤真通]]
* [[佐藤まひろ]]
* [[佐藤まり子]]<!-- さとう まりこ -->
* [[佐藤道明]]
* [[佐藤友生]]<!--さとう ゆうき-->
* [[さとうユーキ]]
* [[佐藤夕子 (漫画家)|佐藤夕子]]<!-- さとう ゆうこ -->
* [[佐藤両々]]
* [[佐渡川準]]
* [[里庄真芳]]
* [[里見桂]]
* [[さとみつ男児|さとみつ男児(里見満)]]
* [[里中満智子]]
* [[里中実華]]<!-- さとなか みか -->
* [[SANA (漫画家)|SANA]]
* [[真田一輝]]
* [[実田ナオ]]
* [[真田ぽーりん]]
* [[真田鈴]]
* [[佐野菜見]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 さ行#さのまこと|さのまこと]](抄)
* [[佐野真砂輝&わたなべ京]]
* [[佐野未央子]]
* [[真崎春望]]
* [[佐原ミズ]]
* [[さばのにわとり]](小林徹郎)
* [[ザビエル山田]]
* [[左菱虚秋]]
* [[サブロウタ]]
* [[SABE]]
* [[さべあのま]]
* [[寒川一之]]
* [[沙村広明]]
* [[サメマチオ]]
* [[沙雪 (漫画家)|沙雪]]
* [[ざら]]
* [[サライネス]]
* [[さらちよみ]]
* [[紗羅まひろ]]
* [[澤井健]]
* [[澤井啓夫]]
* [[沢田翔]]
* [[沢田とろ]]
* [[沢田一]]
* [[沢田ひろふみ]]
* [[沢田ユキオ]]
* [[猿渡哲也]]
* [[サンカクヘッド]]
* [[三月薫]]
* [[山茶国生]]
* [[三町半左]]
* [[山東ユカ]]
* [[三部敬]](三部けい、瓦敬介)
* [[山文京伝]]
* [[さんりようこ]]
|}}
=== し ===
{{columns-list|4|
* [[C-SHOW]]
* [[椎名あゆみ]]
* [[椎名歩未]]
* [[椎名うみ]]
* [[椎名軽穂]]
* [[椎名橙]]
* [[椎名高志]]
* [[椎名チカ]]
* [[四位晴果]]
* [[椎橋寛]]
* [[G=ヒコロウ]]
* [[紫海早希]]
* [[JET (漫画家)|JET]]
* [[潮里潤]]
* [[塩塚誠]]
* [[塩野干支郎次]]
* [[潮見知佳]]<!-- しおみ ちか -->
* [[塩森恵子]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 さ行#しおやてるこ|しおやてるこ]](抄)
* [[汐里]]
* [[志賀公江]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 さ行#しかくの|しかくの]](抄)
* [[鹿子|鹿子(箱石達)]]
* [[紫賀サヲリ]]
* [[しがの夷織]]
* [[施川ユウキ]]
* [[色白好]]
* [[士貴智志]]
* [[しぐにゃん]]
* [[重富奎子]]
* [[しげの秀一]]
* [[重野なおき]]
* [[しげまつ貴子]]
* [[地獄のミサワ]]
* [[下神木るこ]]
* [[シタラマサコ]]
* [[しでん晶]]
* [[しとうきねお]]
* [[紫堂恭子]]
* [[市東亮子]]
* [[志名坂高次]]
* [[信濃川日出雄]]
* [[品佳直]]
* [[しのぎけい]]
* [[しのだひでお]](篠田ひでお)
* [[篠塚ひろむ]]
* [[東雲太郎]]
* [[東雲水生]]
* [[東雲龍]]
* [[篠原烏童]]
* [[篠原健太]]
* [[篠原千絵]]
* [[しのはら勉]]
* [[篠原とおる]]
* [[篠原知宏]]
* [[忍 (漫画家)|忍]]<!-- しのび -->
* [[篠房六郎]]
* [[志野靖史]]
* [[しのらさとし]]
* [[篠有紀子]]
* [[柴田亜美]]
* [[柴田昌弘]]
* [[柴田ヨクサル]]
* [[柴嶺タカシ]]
* [[シバユウスケ]]
* [[しまおまほ]]
* [[志摩ようこ]]
* [[嶋木あこ]]
* [[島草あろう]]
* [[島崎譲]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 さ行#島貴子|島貴子]](抄)
* [[島田栄次郎]]
* [[嶋田かおり]]
* [[島田啓三]]
* [[島田虎之介]]
* [[島田ひろかず]]
* [[島津郷子]]
* [[島津蓮]]
* [[志摩時緒]]
* [[島袋全優]]
* [[島袋光年]]
* [[島本和彦]]
* [[志水アキ]]
* [[清水栄一]]
* [[志水圭]]
* [[清水崑]]
* [[清水対岳坊]]
* [[清水としみつ]]
* [[清水ともみ]]
* [[清水真澄 (漫画家)|清水真澄]]
* [[清水まみ]]
* [[清水めぐみ (漫画家)|清水めぐみ]]
* [[清水ゆーり]]
* [[志水ゆき]]
* [[清水洋三]]
* [[清水玲子]]
* [[志村志保子]]<!-- しむら しほこ -->
* [[志村貴子]]
* [[しめ子]]
* [[霜風るみ]]
* [[下川凹天]]
* [[下口智裕]]
* [[下條よしあき]](下条よしあき、下條義昭)
* [[しもさか保]]
* [[下瀬川ひなる]]
* [[霜月かよ子]]
* [[下村トモヒロ]]
* [[鮭夫]]
* [[釋英勝]]
* [[ジャスミン・ギュ]]
* [[シャチカマボコ]]
* [[謝花凡太郎]]
* [[シュガー佐藤 (漫画家)|シュガー佐藤]]
* [[JUDAL]]
* [[憧明良]]
* [[硝音あや]]<!-- しょうおと あや -->
* [[東海林さだお]]
* [[荘司としお]]
* [[庄司創]]<!--しょうじ はじめ-->
* [[小路啓之]]<!--しょうじ ひろゆき-->
* [[庄司陽子]]
* [[ジョージ秋山]]
* [[ジョージ朝倉]]
* [[宵野コタロー]]<!--しょうのコタロー-->
* [[白井恵理子]]
* [[しらいしあい]](白石あい)
* [[白石ユキ]]
* [[白井三二朗]]
* [[児雷也 (漫画家)|児雷也]]
* [[白倉由美]]
* [[白沢まりも]]
* [[白玉もち]]<!-- しらたまもち -->
* [[白土三平]]
* [[白鳥希美]]
* [[白凪マサ]]
* [[白浜鴎]]
* [[白雪しおん]]
* [[しりあがり寿]]
* [[知るかバカうどん]]
* [[城綾音]](みっしぇる)
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 さ行#しろー|しろー]](抄)(奇械田零士朗、稜町しろーの別名義もあり)
* [[士郎正宗]]
* [[しろー大野]]
* [[師走冬子]]
* [[師走の翁]]
* [[新貝田鉄也郎]](とろろいも1号)
* [[神海英雄]]
* [[しんがぎん]]
* [[新久千映]]
* [[新里堅進]]
* [[新沢基栄]]
* [[辛酸なめ子]]
* [[新條まゆ]]
* [[新条るる]]
* [[神仙寺瑛]]
* [[真造圭伍]]
* [[新宅よしみつ]]
* [[新谷かおる]]
* [[新堂エル]]
* [[陣名まい]]
* [[神葉理世]]
* [[伸たまき]]([[獸木野生]])
* [[新田真子]]
* [[しんむらけーいちろー]]
|}}
=== す ===
{{columns-list|4|
* [[SUEZEN]]
* [[水兵きき]]
* [[スエカネクミコ]]
* [[末次由紀]]
* [[末永史]]
* [[すえのぶけいこ]]
* [[すえひろがり|末広雅里]]
* [[すえみつぢっか]]
* [[すか (漫画家)|すか]]
* [[須河篤志]]<!-- すが あつし -->
* [[菅田うり]]
* [[須賀達郎]]
* [[すがやみつる]]
* [[菅原キク]]<!-- すがわら キク -->
* [[すがわらくにゆき]]
* [[須賀原洋行]]
* [[菅原雅雪]]
* [[杉江翼]]
* [[すぎ恵美子]]
* [[杉浦茂]]
* [[杉浦志保]]
* [[杉浦日向子]]
* [[杉浦幸雄]]
* [[杉崎ゆきる]]
* [[杉作]]
* [[杉作J太郎]]
* [[杉しっぽ]]
* [[杉田圭]]
* [[杉田尚]]
* [[杉谷和彦]](ひこちゃん)
* [[杉戸アキラ]]
* [[杉戸光史]]
* [[すぎむらしんいち]]
* [[杉村麦太]]
* [[杉本亜未]]
* [[杉基イクラ]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 さ行#杉本美加|杉本美加]](抄)
* [[すぎやま現象]]
* [[杉山小弥花]]<!-- すぎやま さやか -->
* [[杉山志保子]]
* [[助野嘉昭]]
* [[鈴賀レニ]]
* [[涼川りん]]
* [[鈴木あつむ]]
* [[鈴木翁二]]
* [[鈴木がんま]](鈴木雅洋)
* [[鈴木健也]]
* [[鈴木志保]]
* [[鈴木ジュリエッタ]]
* [[鈴木次郎]]
* [[鈴木伸一]]
* [[鈴木岳生]]
* [[鈴木信也]]
* [[鈴木央]]
* [[鈴木ともこ]]
* [[鈴木典孝]]
* [[鈴木ぺんた]]
* [[鈴木マサカズ]]
* [[鈴木マナツ]]
* [[鈴木みそ]]
* [[鈴木光明]]
* [[すずき大和]]
* [[スズキユカ]]
* [[鈴木有布子]]
* [[鈴木祐斗]]
* [[鈴木由美子]]
* [[鈴木祐美子]]
* [[鈴木義司]]
* [[鈴木理華]]<!-- すずき りか -->
* [[鈴城芹]]
* [[鈴玉レンリ]]
* [[鈴宮和由]]
* [[すずや那智]]
* [[巣田祐里子]]
* [[須藤謙]]
* [[須藤真澄]]
* [[すどおかおる]]
* [[砂 (漫画家)|砂]]
* [[砂川しげひさ]]
* [[すねやかずみ]]
* [[隅田かずあさ]]<!--すみた かずあさ-->
* [[皇名月]](皇なつき)
* [[皇ハマオ]]
* [[すみれいこ]]
* [[すもと亜夢]]
* [[すもももも]]
* [[巣山真也]]
* [[小島剛夕|諏訪栄]]
* [[諏訪緑]]
* [[すんぢ]]
|}}
=== せ ===
{{columns-list|4|
* [[清家雪子]](旧名:銀峰瑞穂)<!--せいけ ゆきこ-->
* [[晴十ナツメグ]]
* [[青月まどか]]
* [[清野静流]]<!-- せいの しずる -->
* [[制野秀一]]
* [[清野とおる]]
* [[せいの奈々]]
* [[せいほうけい]]
* [[聖りいざ]]
* [[瀬尾光世|せお・たろう]]
* [[せかねこ]]
* [[瀬尾公治]]
* [[瀬上あきら]]
* [[瀬川はじめ]]
* [[せがわ真子]]
* [[瀬菜モナコ]](御影甲六)
* [[関よしみ]]
* [[関口シュン]]
* [[関谷ひさし]]
* [[関根亮子]]
* [[せきはん (漫画家)|せきはん]]
* [[せきやてつじ]]
* [[是空とおる]]
* [[瀬口たかひろ]](まついもとき)
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 さ行#瀬々倉匠美子|瀬々倉匠美子]](抄)
* [[せたのりやす]]
* [[瀬田ハルヒ]]<!-- せた ハルヒ -->
* [[瀬田ヒナコ]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 さ行#セツコ・山田|セツコ・山田]](抄)
* [[刹奈]]
* [[瀬戸ミクモ]]
* [[芹沢直樹]]
* [[ぜんきよし]]
* [[仙道ますみ]]
* [[千之ナイフ]]
* [[センバ太郎]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 さ行#千里唱子|千里唱子]](抄)
|}}
=== そ ===
{{columns-list|4|
* [[ソウ (漫画家)|ソウ]]
* [[蒼一郎]]
* [[掃除朋具]]
* [[左右田もも]]
* [[宗真仁子]]
* [[そうま竜也]]
* [[惣領冬実]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 さ行#曽我篤士|曽我篤士]](抄)
* [[曽田正人]]
* [[そにしけんじ]]
* [[曽根富美子]]
* [[曽祢まさこ]]
* [[苑田和見]]
* [[園田健一]]
* [[園田小波]]
* [[そのだつくし]]
* [[園田光慶]](ありかわ栄一)
* [[園山俊二]]
* [[曽野由大]]<!-- その よしひろ -->
* [[染谷ユウ]]
* [[曽山一寿]]
* [[そよき]]
* [[空知英秋]]
* [[空根ちゃらか]]
* [[空廼カイリ]]
* [[空乃さかな]]
* [[そらみみくろすけ]]
* [[空詠大智]]
* [[そりむらようじ]](旧 反村幼児)
* [[ZOL]]
|}}
== た行 ==
=== た ===
{{columns-list|4|
* [[たーし]]
* [[たぁぽん]]
* [[タアモ]]
* [[大亜門]]
* [[タイガー立石]]
* [[タイザン5]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 た行#大斗改|大斗改]](抄)
* [[ダイナマイト鉄]]
* [[ダイナミック太郎]]
* [[太陽まりい]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 た行#平ひさし|平ひさし]](抄)
* [[平つくね]]
* [[高井研一郎]]
* [[高岩ヨシヒロ]]
* [[高岡凡太郎]]
* [[高雄右京]]
* [[高尾滋]]
* [[高尾じんぐ]]
* [[高上優里子]]<!-- たかがみ ゆりこ -->
* [[高木しげよし]]
* [[たかぎ七彦]]<!-- たかぎ ななひこ -->
* [[高木信孝]]
* [[高木ユーナ]]
* [[高城リョウ]]
* [[高口里純]]
* [[高倉あつこ]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 は行#ひらまつつとむ|鷹沢圭]](抄)
* [[鷹氏隆之]]<!-- たかし たかゆき -->
* [[たかしたたかし]]
* [[高階良子]]<!-- たかしな りょうこ -->
* [[高嶋ひろみ]]<!-- たかしま ひろみ -->
* [[鷹城冴貴]]<!-- たかしろ さえき -->
* [[高須賀由枝]]
* [[高瀬志帆]]
* [[高瀬直子]]<!-- たかせ なおこ -->
* [[嵩瀬ひろし]]
* [[高瀬由香]]
* [[高瀬綾]]
* [[高田エミ]]
* [[高田康太郎]]<!--たかだ こうたろう-->
* [[高田理美]](旧名高田さとみ)
* [[高田慎一郎]]
* [[高田靖彦]]
* [[高田裕三]]
* [[高田りえ]]
* [[高田亮介]]
* [[たかちひろなり]]
* [[高津カリノ]]
* [[高遠るい]]
* [[高寺彰彦]]
* [[高永ひなこ]]
* [[たかなししずえ]]
* [[高梨みつば]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 た行#高梨みどり|高梨みどり]](抄)
* [[高野苺]]
* [[高野文子]]
* [[たかの宗美]]
* [[高野真之]]
* [[高野宮子]]
* [[高野よしてる]]
* [[高橋和男]]
* [[高橋和希]]
* [[高橋幸慈]]
* [[高橋一郎 (漫画家)|高橋一郎]]
* [[高橋慶太郎]]
* [[高橋冴未]]
* [[高橋しん]]
* [[高橋伸樹]]
* [[高橋聖一]]
* [[高橋千鶴]]
* [[髙橋ツトム]]
* [[高橋てつや]]
* [[高橋のぼる]]
* [[高橋春男]]
* [[高橋広 (漫画家)|高橋広]]
* [[高橋ヒロシ]]
* [[高橋郁丸]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 た行#タカハシマコ|タカハシマコ]](抄)
* [[高橋真琴]]
* [[高橋美由紀 (漫画家)|高橋美由紀]]
* [[高橋ゆう]]
* [[高橋由佳利]]
* [[高橋ゆたか]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 た行#高橋陽子|高橋陽子]](抄)
* [[高橋陽一]]
* [[高橋葉介]]
* [[高橋よしひろ]]
* [[たかはし慶行]]<!-- たかはし よしゆき -->
* [[高橋亮子]]
* [[高橋留美子]]
* [[高橋わたる]](高橋亘)
* [[高畠エナガ]]
* [[高浜寛]]
* [[高松美咲]]
* [[たかまつやよい]]
* [[鷹岬諒]]
* [[たかみね駆]]
* [[高見まこ]]
* [[高港基資]]
* [[高宮智]]
* [[たがみよしひさ]]
* [[田亀源五郎]]
* [[たかもちげん]]
* [[高本ヨネコ]]
* [[たかや健二]]
* [[高屋奈月]]
* [[高山としのり]](高山ヤマ)
* [[高山瑞穂]]
* [[高山よしのり]]
* [[高屋良樹]](ちみもりを)<!--たかやよしき-->
* [[高室弓生]]
* [[宝井理人]]
* [[田河水泡]]
* [[たがわ靖之]]
* [[滝口琳々]]
* [[滝沢聖峰]]
* [[多岐しずく]]
* [[滝田ゆう]]
* [[瀧波ユカリ]]
* [[田口ケンジ]]
* [[田口翔太郎]]
* [[田口一 (漫画家)|田口一]]
* [[田口雅之]]
* [[たくま朋正]]
* [[TAGRO]]
* [[たくわん (漫画家)|たくわん]]
* [[武井宏之]]
* [[竹内文香]]<!-- たけうち あやか -->
* [[武内いぶき]]
* [[武内こずえ]]
* [[竹内桜]]
* [[竹内じゅんや]]
* [[武内つなよし]]
* [[竹内友]]<!-- たけうち とも -->
* [[武内直子]]
* [[武内昌美]]<!-- たけうち まさみ -->
* [[竹内未来]]
* [[竹内元紀]]
* [[竹坂かほり]]
* [[竹下けんじろう]]
* [[竹嶋えく]]<!-- たけしまえく -->
* [[竹田エリ]]
* [[武田京子 (漫画家)|武田京子]]
* [[武田すん]]
* [[武田日向]]
* [[武田弘光]]
* [[武田みか]]
* [[たけだみりこ]]
* [[武富健治]]
* [[武凪知]]
* [[武梨えり]]
* [[たけのこ星人]]
* [[竹林月]]<!--たけばやし げつ-->
* [[武林武士]]
* [[竹宮惠子]]
* [[竹村洋平]]
* [[竹村よしひこ]]
* [[竹本泉]]
* [[竹本小太郎]]
* [[武本糸会]]
* [[竹山祐右]]
* [[たけやまたけを]]
* [[田島昭宇]]
* [[田島みみ]]
* [[田島みるく]]
* [[田島列島]]
* [[多田かおる]]
* [[忠津陽子]]
* [[多田由美]]
* [[タチ (漫画家)|タチ]]
* [[たちいりハルコ]]
* [[太刀掛秀子]]
* [[立川恵]]
* [[立沢克美]]
* [[立沢直也]]
* [[橘オレコ]]
* [[橘皆無]]
* [[橘賢一]]
* [[たちばな真未]]
* [[橘裕]]
* [[立原あゆみ]]
* [[竜樹諒]]
* [[樹るう]]
* [[龍園ラムル]]
* [[たつねこ]]
* [[竜巻竜次]]
* [[たつみ勝丸]]<!-- たつみ かつまる -->(別名義多数)
* [[辰巳ヨシヒロ]]
* [[竜山さゆり]]
* [[龍幸伸]]
* [[立野真琴]]
* [[立石佳太]]
* [[たなか亜希夫]]
* [[田中一行]]<!-- たなか いっこう -->
* [[タナカカツキ]]
* [[たなかかなこ]]
* [[田中空]]
* [[田中久仁彦]]
* [[田中圭一 (漫画家)|田中圭一]]
* [[田中しょう]]
* [[田中ストライク]]
* [[田中つかさ]]
* [[田中てこ]]
* [[たなかてつお]]
* [[棚下照生]]
* [[たなかのか]]
* [[田中ひかる (漫画家)|田中ひかる]]<!-- たなか ひかる -->
* [[田中久志]](ひすゎし)
* [[田中宏 (漫画家)|田中宏]]
* [[田中ほさな]]
* [[田中誠 (漫画家)|田中誠]]
* [[田中政志]]
* [[田中雅人]]
* [[田中正仁]]
* [[田中道明]]
* [[田中美菜子]]
* [[田中むねよし]]
* [[田中メカ]]
* [[田中モトユキ]]
* [[田中靖規]]
* [[田中雄一]]
* [[田中勇輝]]
* [[田中ユキ]]
* [[田中ユタカ]]
* [[棚橋なもしろ]]<!-- たなはし なもしろ -->
* [[田辺イエロウ]]
* [[田邊剛]]
* [[田辺節雄]]
* [[田辺真由美]]
* [[谷岡ヤスジ]]
* [[谷上俊夫]]
* [[谷川一彦]]
* [[谷川ニコ]]
* [[谷川史子]]
* [[谷口敬]]
* [[谷口ジロー]]
* [[たにはらなつき]]
* [[谷弘兒]]
* [[谷藤満]]
* [[谷間夢路]](出井州忍、鬼童譲二)
* [[谷村ひとし]]
* [[谷村まりか]]
* [[谷ゆき子]]
* [[谷脇素文]]
* [[種村有菜]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 た行#莨谷弥生|莨谷弥生]](抄)
* [[田畠裕基]]
* [[たばよう]]
* [[手原和憲]]<!--たはらかずのり-->
* [[田渕由美子]]
* [[たべ・こーじ]]
* [[玉井たけし]]
* [[玉井雪雄]]
* [[玉岡かがり]]
* [[玉置一平]]
* [[玉木ヴァネッサ千尋]]
* [[玉置勉強]]
* [[環望]]
* [[玉越博幸]]
* [[たまちゆき]]
* [[田丸浩史]]
* [[田村信]]
* [[田村吉康]]
* [[田村光久]]
* [[田村由美]]
* [[ためこう]]
* [[たもりただぢ]]
* [[田森庸介]]
* [[タモリはタル]]
* [[たらさわみち]]
* [[だろめおん]]
* [[丹下スズキ]]
* [[丹沢恵]]
* [[丹羽庭]]
|}}
=== ち ===
{{columns-list|4|
* [[千明太郎]]
* [[TEAM猫十字社]]
* [[千岡ななえ]]
* [[近石まさし]](近石雅史)
* [[地下沢中也]]
* [[千明初美]]
* [[ちくわ。]]
* [[千田衛人]]
* [[千田純生]]
* [[ぢたま(某)]]
* [[千歳ぴよこ]]
* [[ちばあきお]]
* [[千葉きよかず]]
* [[千葉コズエ]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 た行|ちばこなみ]](抄)
* [[千葉サドル]]
* [[ちば拓]]
* [[ちばてつや]]
* [[ちまきing]]
* [[チャーリーにしなか]]
* [[茶否]]
* [[ちゃたろー]]
* [[稚野鳥子]]
* [[茶畑るり]]
* [[茶坊]]
* [[茶屋町勝呂]]
* [[中華なると]]
* [[中尊寺ゆつこ]]
* [[中年 (漫画家)|中年]]
* [[ぢゅん子]]
* [[長新太]]
* [[CHOCO]]
* [[ちょぼらうにょぽみ]]
* [[チョモラン]]
* [[ちると]]
|}}
=== つ ===
{{columns-list|4|
* [[塚原洋一]]<!-- つかはら よういち -->
* [[月子 (漫画家)|月子]]<!-- つきこ -->
* [[月島冬二]]
* [[槻城ゆう子]]
* [[月鈴茶子]]
* [[月野定規]]
* [[次原隆二]]
* [[槻宮杏]]<!-- つきみや あん -->
* [[月山可也]]
* [[つきりのゆみ|つきりのゆみ(月梨野ゆみ)]]
* [[つくしあきひと]](土筆あきひと)
* [[佃公彦]]
* [[筑波さくら]]
* [[つくみず]]
* [[津雲むつみ]]
* [[柘植文]]<!-- つげ あや -->
* [[つげ忠男]]
* [[tugeneko]]
* [[つげ義春]]
* [[つじ要]]
* [[辻田りり子]]
* [[辻灯子]]
* [[ツジトモ]]
* [[辻なおき]]
* [[津島直人]]
* [[辻永ひつじ]]
* [[辻秀輝]]
* [[辻よしみ]]
* [[津田雅美]]
* [[つだみきよ]]
* [[土田健太]]
* [[土田世紀]]
* [[土田よしこ]]
* [[土山しげる]]
* [[土山よしき]](土山芳樹)
* [[筒井旭]]<!-- つつい あさひ -->
* [[筒井大志]]
* [[筒井哲也]]
* [[筒井百々子]]
* [[都築和彦]]
* [[つづき春]]
* [[都築真紀]]
* [[津々巳あや]](旧名:津々巳彩)<!--つつみ あや-->
* [[堤抄子]]
* [[綱島志朗]]
* [[ツナミノユウ]]
* [[つのだじろう]]
* [[つの丸]]
* [[津野裕子]]<!-- つの ゆうこ -->
* [[椿あす]]
* [[椿いづみ]]
* [[つばな]]
* [[津原義明]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 た行#円英智|円英智]](抄)
* [[紡木たく]]
* [[つむらゆき]]
* [[津山ちなみ]]
* [[つりたくにこ]]
* [[釣巻和]]<!--つりまき のどか-->
* [[都留泰作]]
* [[鶴田謙二]]
* [[鶴谷香央理]]
* [[鶴田洋久]]
* [[艶々]](廣瀬良多)
|}}
=== て ===
{{columns-list|4|
* [[D[diː]|<nowiki>D[diː]</nowiki>]]
* [[D・キッサン]]
* [[D.K]]
* [[てぃんくる (漫画家)|てぃんくる]]
* [[出口竜正]]
* [[テクノサマタ]]
* [[でこくーる]]
* [[手代木史織]]
* [[てしろぎたかし]]
* [[手塚治虫]]
* [[ででん♪]]
* [[出水ぽすか]]
* [[寺井赤音]]
* [[寺沢大介]]
* [[寺沢武一]]
* [[寺嶋裕二]]
* [[寺島令子]]
* [[寺田克也]]
* [[寺館和子]]
* [[寺田亨]]
* [[寺田ヒロオ]]
* [[テリー山本]]
* [[照丘真弓]]
* [[天空宇宙流]]
* [[電光石火轟]]
* [[電柱棒]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 た行#天童まくら|天童まくら]](抄)
* [[天王寺きつね]]
* [[電脳桜蛙団]]
* [[てんま乱丸]]
|}}
=== と ===
{{columns-list|4|
* [[土居坂崎]]
* [[峠比呂]]
* [[東城麻美]]
* [[東城和実]]
* [[東條仁]]
* [[堂上まさ志]]
* [[堂高しげる]]
* [[トウテムポール]]
* [[藤堂裕]]
* [[冬野さほ]]
* [[藤馬かおり]]<!-- とうま かおり -->
* [[藤間麗]]<!-- とうま れい -->
* [[道満晴明]]<!-- どうまん せいまん -->
* [[銅☆萬福]]<!-- どう まんぷく -->
* [[冬目景]]<!-- とうめ けい -->
* [[堂本奈央]]
* [[桃森ミヨシ]]
* [[東山むつき]]
* [[東陽片岡]]
* [[十日草輔]]
* [[どおくまん]]
* [[遠田おと]]
* [[遠野ノオト]]
* [[遠山えま]]
* [[遠山光]]
* [[冨樫 (漫画家)]]
* [[富樫じゅん]]
* [[とがしやすたか]]
* [[冨樫義博]]
* [[戸川視友]]<!-- とがわ みとも -->
* [[時積恵美之|ときずみえみし(時積恵美之)]]
* [[ときた洸一]]
* [[刻夜セイゴ]]
* [[時山はじめ]]
* [[ときわ藍]]
* [[徳田ザウルス]]
* [[Dr.モロー]]
* [[徳南晴一郎]]
* [[得能正太郎]]
* [[徳弘正也]]
* [[徳光康之]]
* [[時計野はり]]
* [[杜康潤]]
* [[所十三]]
* [[ところはつえ]]
* [[所ゆきよし]]
* [[都桜和]]
* [[どざむら]]
* [[とだ勝之]]
* [[戸田誠二]]
* [[戸田泰成]]
* [[戸田尚伸]]
* [[戸舘新吾]]
* [[土塚理弘]]
* [[戸塚慶文]]
* [[鳥図明児]]
* [[ととねみぎ]]
* [[杜菜りの]]<!-- となりの -->
* [[トニーたけざき]]
* [[刀根夕子]]
* [[TONO]]
* [[外海良基]]<!--とのがい よしき-->
* [[TOBI]]
* [[飛田ニキイチ]]
* [[トビナトウヤ]]
* [[戸部けいこ]]<!-- とべ けいこ -->
* [[枢やな]]
* [[苫谷奈央]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 た行#トミイ大塚|トミイ大塚]](抄)
* [[十三木考]]
* [[富沢順]]
* [[とみさわ千夏]]
* [[富沢ひとし]]
* [[とみ新蔵]]
* [[富田安紀良]]
* [[富田童子]]
* [[富塚真弓]]
* [[富所和子]]
* [[富永一朗]]
* [[富永商太]]
* [[富永裕美]]
* [[富永ゆかり]]
* [[とめきち]]
* [[巴里夫]]
* [[ともすえ葵]]
* [[ともぞ]]
* [[ともち]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 た行#ともびきちなつ|ともびきちなつ]](抄)
* [[智弘カイ]]
* [[友藤結]]<!-- ともふじ ゆう -->
* [[Tomomi (漫画家)|tomomi]]
* [[豊田徹也]]<!-- とよだてつや -->
* [[とよ田みのる]]
* [[豊田悠]]<!-- とよた ゆう -->
* [[トラ太郎]]
* [[寅ヤス]]
* [[とりいかずよし]]
* [[鳥居春信]]
* [[とりうみ祥子]]
* [[鳥海ペドロ]]<!-- とりうみ ペドロ-->
* [[鳥飼茜]]<!-- とりかい あかね -->
* [[とりのささみ。]]
* [[とりのなん子]]
* [[とり・みき]]
* [[鳥谷コウ]]
* [[鳥山明]]
* [[TORU]]
* [[泥っせる]]
* [[どろんぱ]](射楽、真樹村正)
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 た行#とんぼはうす|とんぼはうす]](抄)
|}}
== な行 ==
=== な ===
{{columns-list|4|
* [[内藤マーシー]]
* [[内藤泰弘]]
* [[ナイロン (漫画家)|ナイロン]]
* [[奈央晃徳]]
* [[尚月地]]
* [[中井一輝]]
* [[長イキアキヒコ]]
* [[長池とも子]]<!-- ながいけ ともこ -->
* [[ながいけん]]
* [[永井豪]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 な行#永井幸二郎|永井幸二郎]](抄)
* [[ながいのりあき]]
* [[なかいま強]]
* [[永井ゆうじ]]<!-- ながい ゆうじ -->
* [[長江朋美]]
* [[長岡良子]]
* [[長尾謙一郎]]
* [[仲尾ひとみ]]
* [[中垣慶]]
* [[中川いさみ]]
* [[中川学 (漫画家)|中川学]]
* [[中川ホメオパシー]]
* [[なかがわらみか]]
* [[永久保貴一]]
* [[長蔵ヒロコ]]
* [[なか憲人]]
* [[長沢克泰]]
* [[中崎タツヤ]]
* [[なかざき冬]]
* [[長崎ライチ]]<!-- ながさき ライチ -->
* [[中沢啓治]]
* [[ナカG]]
* [[永椎晃平]]
* [[中島こうき|中島こうき(hoihoi)]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 な行#中島沙帆子|中島沙帆子]](抄)
* [[永島慎二]]
* [[中島椿]]
* [[中島徹 (漫画家)|中島徹]]
* [[中島徳博]]
* [[中島史雄]]
* [[中島諭宇樹]]
* [[中嶋ゆか]]
* [[なかじ有紀]]
* [[中城けんたろう]](中城健、中城健太郎)
* [[中条比紗也]]
* [[中田雅喜]]
* [[中田ゆみ]]
* [[永田カビ]]
* [[永田竹丸]]
* [[永田トマト]]
* [[永田正実]]
* [[長谷邦夫]]
* [[ナカタニD.]]
* [[長月みそか]]
* [[中津賢也]]
* [[ながてゆか]]
* [[ながとしやすなり]]
* [[長門知大]]
* [[名香智子]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 な行#なかにしえいじ|なかにしえいじ]](抄)
* [[中西達郎]]
* [[中西寛 (漫画家)|中西寛]]
* [[中西やすひろ (漫画家)|中西やすひろ]]
* [[ナガノ (イラストレーター)|ナガノ]]
* [[永野あかね]]
* [[中ノ尾恵]]
* [[中野純子]]
* [[中野でいち]]
* [[永野のりこ]]
* [[永野護]]
* [[長浜幸子]]
* [[中原アヤ]]
* [[中原杏]]
* [[中原れい]]
* [[中平正彦]]
* [[なかま亜咲]]
* [[永松潔]]
* [[中丸洋介]]
* [[仲間りょう]]
* [[中道裕大]]<!--なかみち ひろお-->
* [[流水凜子]]
* [[中村明日美子]]
* [[中村充志]]<!-- なかむら あつし -->
* [[中村かなこ]]
* [[中村カンコ]]
* [[仲村計]]
* [[中村慶吾]]
* [[なかむらさとみ]]
* [[中村里美]]
* [[中村紗弓]]<!-- なかむら さゆみ -->
* [[中村春菊]]
* [[中村世子]]<!-- なかむら せいこ -->
* [[中村尚儁]]
* [[中村地里]]
* [[中村ちま]]
* [[中村珍]]
* [[中村哲也]]
* [[中村なん]]
* [[なかむら治彦]]
* [[中村光 (漫画家)|中村光]]
* [[中村雅之]]
* [[中村真理子]]
* [[仲村佳樹]]
* [[中村嘉宏]](胃之上奇嘉郎)
* [[中村力斗]]
* [[中森衣都]]<!-- なかもり いと -->
* [[ながやす巧]]
* [[中山敦支]]
* [[中山蛙]]
* [[中山星香]]
* [[中山昌亮]]
* [[中山幸]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 な行#中山ラマダ|中山ラマダ]](抄)
* [[永吉たける]]
* [[流星光]]
* [[流星ひかる]]
* [[汀万里]]
* [[なきぼくろ (漫画家)|なきぼくろ]]
* [[なぐも。]]
* [[名島啓二]]
* [[那州雪絵]]
* [[灘しげみ]]
* [[奈知未佐子]]
* [[奈月ここ]]
* [[夏西七]]
* [[夏野ひまわり]]
* [[夏葉ヤシ]]
* [[夏水りつ]]
* [[夏蜜柑]]
* [[夏目イサク]]
* [[夏目ひらら]]
* [[夏目房之介]]
* [[夏目義徳]]
* [[夏元雅人]]
* [[名取ちずる]]
* [[魚喃キリコ]]
* [[七尾ナナキ]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 な行#奈々緒舞流|奈々緒舞流]](抄)
* [[ナナシ]]
* [[ななじ眺]]
* [[七島佳那]]
* [[七瀬あゆむ]]
* [[ななみ静]]
* [[那波マオ]]
* [[七桃りお]]
* [[七六]]
* [[浪花愛]]
* [[なにわ小吉]]
* [[ナフタレン水嶋]]<!-- ナフタレン みずしま -->
* [[並木洋美]]
* [[波切敦]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 な行#波南カンコ|波南カンコ]](抄)
* [[namo]]<!--ナモ-->
* [[なもり]]
* [[睦月影郎|ならやたかし]]
* [[成田アキラ]]
* [[成田美名子]]
* [[なるあすく]]
* [[成井紀郎]]
* [[鳴子ハナハル]]
* [[なるさわ景]]
* [[鳴島生]]
* [[なるしまゆり]]
* [[なると真樹]]
* [[鳴見なる]]
* [[成毛厚子]]
* [[南京ぐれ子]]
* [[南京まーちゃん]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 な行#ナントカ|ナントカ]](抄)
* [[南日れん]]
* [[南波あつこ]]<!-- なんば あつこ -->
* [[南波健二]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 な行#なんば倫子|なんば倫子]](抄)
* [[南部正太郎]]
* [[南北 (漫画家)|南北]]
|}}
=== に ===
{{columns-list|4|
* [[にぃと]]
* [[新山たかし]]
* [[二階堂ヒカル]]
* [[二階堂正宏]]
* [[二階堂みつき]]
* [[ニコ・ニコルソン]]
* [[にざかな]]
* [[西岡兄妹]](西岡智・西岡千晶)
* [[西岡たか史]]
* [[西風 (漫画家)|西風]]
* [[西形まい]]
* [[西香はち]]
* [[ニシカワ醇]]
* [[西川伸司]]
* [[西川秀明]]
* [[西川魯介]]
* [[錦ソクラ]]
* [[西公平]]
* [[西崎泰正]]
* [[西崎まりの]]
* [[西島大介]]
* [[西炯子]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 な行#中島沙帆子|にしだかな]]
* [[西田理英]]
* [[西谷祥子]]
* [[西尚美]]
* [[にしの公平]]
* [[西野つぐみ]]
* [[西本英雄]]
* [[西村しのぶ]]
* [[にしむらともこ]]
* [[西村宗]]
* [[西森博之]]
* [[西山佑太]]<!--にしやま ゆうた-->
* [[西山優里子]]
* [[西義之]]
* [[新田たつお]]
* [[新田朋子]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 な行#新田にに子|新田にに子]](抄)
* [[新田祐克]]
* [[蜷川ヤエコ]]
* [[nini]]
* [[nino]]
* [[二ノ宮知子]]
* [[二宮ひかる]]
* [[二宮博彦]]
* [[弐瓶勉]]
* [[日本橋恵太朗]]
* [[日本橋ヨヲコ]]
* [[ニャロメロン]]
* [[猫原ねんず]]<!--にゃんばらねんず-->
* [[如意自在 (漫画家)|如意自在]]
* [[にわのまこと]]
|}}
=== ぬ ===
{{columns-list|4|
* [[鵺りつき]]
* [[ぬじま]]
* [[布浦翼]]
* [[ぬまじりよしみ]]
* [[沼田清]]
* [[沼よしのぶ]]
|}}
=== ね ===
{{columns-list|4|
* [[naked ape]]
* [[ねぎしきょうこ]]
* [[猫井ミィ]](猫井ヤスユキ)
* [[ねこぐち]]
* [[ねこクラゲ]]
* [[猫玄]]
* [[ねこしたPONG]]
* [[猫十字社]]
* [[猫島礼]]
* [[ねこたま。]]
* [[猫田ゆかり]]
* [[ねこ田米蔵]]
* [[ねこぢる]]
* [[ねことうふ]]
* [[ねこねこ]]
* [[猫猫猫]]
* [[猫部ねこ]]
* [[猫山宮緒]]
* [[ねむようこ]]
* [[ねもと章子]]
* [[根本尚]]<!-- ねもと しょう -->
* [[根本進]]
* [[根本敬]]
|}}
=== の ===
{{columns-list|4|
* [[能條純一]]
* [[能田達規]]
* [[のがみけい]]
* [[野切耀子]]
* [[野口賢]]
* [[野口こゆり]](野口友梨子)
* [[野口志行]]
* [[野口芽衣]]
* [[乃木坂太郎]]
* [[野崎ふみこ]]
* [[野澤ゆき子]]
* [[のせじゅんこ]]
* [[野田彩子]]
* [[野田サトル]]
* [[のだしげる]]
* [[野妻まゆみ]]
* [[野中英次]]
* [[野中のばら]]<!-- のなか のばら -->
* [[のなかみのる]]
* [[野中友]]
* [[野々村秀樹]]
* [[野部利雄]]
* [[野部優美]]
* [[野間吐史]]
* [[野間美由紀]]
* [[野村あきこ]]
* [[野村亮馬]]<!-- のむらりょうま -->
* [[のむらしんぼ]]
* [[野村宗弘]]
* [[ノ村優介]]
* [[法月理栄]]
* [[のりつけ雅春]]
* [[呪みちる]]
* [[呑辺犬助]]
* [[NON (漫画家)|NON]]
|}}
== は行 ==
=== は ===
{{columns-list|4|
* [[海藍]]
* [[ばう]]
* [[羽音こうき]]
* [[世棄犬|博内和代]]
* [[葉賀ユイ]]<!--はが ユイ-->
* [[萩岩睦美]]
* [[萩尾彬]]<!-- はぎお あきら -->
* [[萩尾ノブト]]
* [[萩尾望都]]
* [[萩森千聖]]
* [[萩わら子]]
* [[萩原一至]]
* [[萩原玲二]]
* [[ハグキ]]
* [[伯林 (漫画家)|伯林]]
* [[ぱげらった]]
* [[函岬誉]]
* [[箱田真紀]]
* [[バコハジメ]]
* [[羽崎やすみ]]
* [[はざまもり]]
* [[橋口たかし]]
* [[羽柴麻央]]<!-- はしば まお -->
* [[はしもといわお]]
* [[橋本きんいち]]
* [[橋本孤蔵]]
* [[はしもとてつじ]]
* [[橋本正枝]]
* [[はしもとみつお]]
* [[はすみとしこ]]
* [[長谷川潤 (漫画家)|長谷川潤]]
* [[長谷川智広]]
* [[長谷川町子]]
* [[長谷川法世]]
* [[長谷川裕一]]
* [[長谷部百合]]
* [[畠奈津子]]
* [[畠山耕太郎]]
* [[畑健二郎]]
* [[畑田国男]]
* [[幡地英明]]
* [[畑中純]]
* [[はた万次郎]]
* [[波多野秀行]]
* [[はちこ]]
* [[八月薫]]
* [[蜂文太]]
* [[波津彬子]]
* [[はづき (漫画家)|はづき]]
* [[葉月秋子]]<!-- はづき あきこ -->
* [[葉月京]]
* [[葉月しのぶ]]
* [[葉月翼]]
* [[葉月抹茶]]
* [[葉月めぐみ]]
* [[八田鮎子]]<!-- はった あゆこ -->
* [[服部あゆみ]]
* [[はっとりかずお]]
* [[はっとりみつる]]
* [[馬頭ちーめい]]
* [[鳩山郁子]]
* [[葉鳥ビスコ]]
* [[花枝坂奈]]
* [[華尾ス太郎]]
* [[花小路小町]]
* [[花小路ゆみ]]
* [[花咲アキラ]]
* [[花沢健吾]]
* [[華々つぼみ]]
* [[英洋子]]
* [[花村えい子]]
* [[花見沢Q太郎]]
* [[花森ぴんく]]
* [[花屋敷ぼたん]]
* [[花輪和一]]
* [[パニックアタック (漫画家)|パニックアタック]]
* [[羽生生純]]
* [[端野洋子]]
* [[PAPA (漫画家)|PAPA]]
* [[馬場のぼる]]
* [[馬場康誌]]
* [[ばふぁこ]]
* [[浜口奈津子]]
* [[浜口乃理子]]
* [[浜慎二]]
* [[浜田貫太郎]]
* [[濱田浩輔]]
* [[浜田翔子 (漫画家)|浜田翔子]]
* [[浜田ブリトニー]]
* [[波間信子]]
* [[濱元隆輔]]
* [[浜弓場双]]
* [[ハミタ]]
* [[葉生田采丸]]
* [[刃森尊]]
* [[はやかわ文子]]
* [[はやさかあみい]]
* [[早坂照明]]
* [[早坂未紀]]
* [[早坂よしゆき]]
* [[林崎文博]]
* [[林静一]]
* [[林田球]]
* [[林原ひかり]]
* [[林晃]]
* [[林ひさお]]
* [[林ふみの]]([[匠龍啓]])
* [[林正之]]
* [[林まつり]]
* [[林みかせ]]<!-- はやし みかせ -->
* [[林佑樹]]
* [[林家志弦]]
* [[はやせ淳]]
* [[はやのん]]
* [[速星七生]]
* [[葉山せり]]
* [[速水翼]]
* [[速水螺旋人]]
* [[原明日美]]
* [[原一雄]]<!-- はら かずお -->
* [[原克玄]]
* [[はらさける]]
* [[ばらスィー]]
* [[原一司]]
* [[原口清志]]
* [[はらたいら]]
* [[原田久仁信]]
* [[原田将太郎]]
* [[原田妙子]]
* [[原田唯衣]]
* [[原田梨花]]
* [[原ちえこ]]
* [[原つもい]]
* [[原哲夫]]
* [[原秀則]]
* [[原泰久]]
* [[原悠衣]]
* [[原律子]]
* [[破李拳竜]]
* [[針すなお]]
* [[針玉ヒロキ]]
* [[春江ひかる]]
* [[はるえるぽん]]
* [[春風道人]]
* [[MINCE PIE|東風実花]](MINCE PIE、旧:吾妻ナオミ)<!--はるかぜ みか-->
* [[春輝]]
* [[はるき悦巳]]
* [[春木さき]]
* [[パルコ長嶋]]
* [[春瀬サク]]<!-- はるせ サク -->
* [[晴瀬ひろき]]<!--はるせ ひろき-->
* [[春園ショウ]]
* [[春田なな]]
* [[遥那もより]]
* [[はるな檸檬]]<!-- はるな れもん -->
* [[春野桜子]]
* [[春野友矢]]
* [[榛野なな恵]]
* [[ハルノ宵子]]
* [[春場ねぎ]]
* [[東本昌平]]
* [[ハロルド作石]]
* [[バロン吉元]]
* [[はんざわかおり]]
* [[万乗大智]]
* [[ぱんだにあ]]
* [[坂ノ睦]]<!--ばんの むつみ-->
* [[panpanya]]<!--パンパンヤ-->
|}}
=== ひ ===
{{columns-list|4|
* [[ビーノ (漫画家)|ビーノ]]
* [[柊あおい]]
* [[柊柾葵]]
* [[柊裕一]]
* [[ひいろ莎々]]
* [[PEACH-PIT]]
* [[火浦R]]
* [[ひうらさとる]]
* [[ひおあきら]]
* [[日丘円]]
* [[ヒガアロハ]]
* [[緋鍵龍彦]]
* [[東里桐子]]
* [[東谷文仁]]
* [[東村アキコ]]
* [[東元俊哉]]
* [[緋賀ゆかり]]
* [[ひかわきょうこ]]
* [[ひかわ博一]]
* [[氷川へきる]]
* [[ひきの真二]](引野真二)
* [[ひぐちアサ]]
* [[樋口彰彦]]<!--ひぐち あきひこ-->
* [[樋口橘]]
* [[樋口大輔]]
* [[樋口凛太郎]]
* [[ピクピクン]]
* [[日暮キノコ]]
* [[氷栗優]]<!-- ひぐり ゆう -->
* [[比古地朔弥]]
* [[緋采俊樹]]
* [[ひさうちみちお]]
* [[日坂水柯]]
* [[ヒサクニヒコ]]
* [[ひさの瑠珈]]
* [[久正人]]
* [[久松文雄]]
* [[久松ゆのみ]]
* [[ひじおか誠]]
* [[土方悠]]
* [[聖千秋]]
* [[聖日出夫]]
* [[聖悠紀]]
* [[日高ショーコ]]
* [[日高建男]]
* [[日高トモキチ]]
* [[日高万里]]
* [[飛鷹ゆうき]]
* [[ひたか良]]
* [[hitachtronics]]
* [[肥田野健太郎]]
* [[ひちゃこ]]
* [[ひぢりれい]](石川マサキ)
* [[ビッグ錠]]
* [[びっけ]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 は行#ビトウゴウ|ビトウゴウ]](抄)
* [[氷堂涼二]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 は行#日生かおる|日生かおる]](抄)
* [[日向武史]]
* [[日根野もすたり]](ひねもすのたり)
* [[日野杏寿]]
* [[ひのでや参吉]]
* [[日野日出志]]
* [[樋野まつり]]
* [[響直美]]
* [[日丸屋秀和]]
* [[ひばきち]]
* [[ビブオ]]
* [[ヒマワリソウヤ]](日輪早夜)
* [[比村奇石]]
* [[火村正紀]]
* [[姫神ヒロ]]
* [[姫川明]]
* [[姫川きらら]]
* [[姫木薫理]]
* [[姫野かげまる]](姫野かいん)
* [[ヒャク]]
* [[肥谷圭介]]
* [[氷樹一世]]
* [[日吉丸晃]]<!-- ひよしまるあきら -->
* [[ひよひよ]]
* [[ピョコタン]]
* [[ひょころー]]
* [[平尾アウリ]]<!-- ひらお アウリ -->
* [[平尾友秀]]
* [[平尾リョウ]]
* [[比良賀みん也]]
* [[ひらかわあや]]
* [[平川哲弘]]
* [[平庫ワカ]]
* [[平田弘史]]
* [[平田真貴子]]
* [[ひらのあゆ]]
* [[平野耕太]]
* [[平野仁]]
* [[平野俊貴|平野俊弘]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 は行#平松真|平松真]](抄)
* [[平松伸二]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 は行#ひらまつつとむ|ひらまつつとむ]](抄)
* [[ヒラマツ・ミノル]]
* [[平本アキラ]]
* [[飛龍乱]]
* [[蛭田達也]]
* [[蛭田充]]
* [[博]]<!-- ひろ -->
* [[広石匡司]]
* [[広井てつお]]
* [[広江礼威]]
* [[広岡球志]](浅井まさのぶ)
* [[弘兼憲史]]
* [[緋呂河とも]]
* [[ひろせみほ]]
* [[廣瀬俊]]
* [[廣瀬ゆい]]
* [[ひろちひろ]]
* [[ヒロモト森一]]
* [[ヒロモトヒロキ]]
* [[ひろゆうこ]]
* [[ヒロユキ]]
* [[日渡早紀]]
* [[ひんでんブルグ]]
|}}
=== ふ ===
{{columns-list|4|
* [[舞井武依]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 は行#風我明|風我明]](抄)
* [[ふうたまろ]]
* [[フォビドゥン澁川]]
* [[深井結己]]
* [[深沢かすみ]]
* [[フカザワナオコ]]
* [[深見じゅん]]
* [[深巳琳子]]
* [[深谷陽]]
* [[深谷かほる]]
* [[不吉霊二]]
* [[福井あしび]]
* [[福井英一]]
* [[福井セイ]]
* [[福島聡]]
* [[福島鉄平]]
* [[フクシマハルカ]]
* [[ふくしま政美]]
* [[福田晋一]]
* [[福田素子]]
* [[福谷たかし]]
* [[福地翼]]
* [[福地泡介]]
* [[福原鉄平]]
* [[福原蓮士]]
* [[福米ともみ]]
* [[福満しげゆき]]
* [[福本伸行]]
* [[福盛田藍子]]
* [[ふくやまけいこ]]
* [[福山庸治]]
* [[福山リョウコ]]
* [[冨士宏]]
* [[ふじいあきこ]]
* [[藤異秀明]]
* [[藤井まき]]
* [[藤井みつる]]<!-- ふじい みつる -->
* [[藤井みどり]]
* [[藤井みほな]]
* [[藤枝とおる]]
* [[藤枝雅]]
* [[藤岡建機]]
* [[藤臣柊子]]
* [[藤川祐華]]
* [[藤木俊]]
* [[藤木てるみ]](藤木輝美)
* [[藤こよみ]]
* [[藤子不二雄A]]
* [[藤子・F・不二雄]]
* [[藤崎こう]]
* [[藤崎了士]]
* [[藤崎竜]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 は行#富士参號|富士参號]](抄)
* [[藤沢カミヤ]]
* [[藤沢とおる]]
* [[藤沢もやし]]
* [[藤島康介]]
* [[藤島じゅん]]
* [[藤代健]]
* [[藤城翔]]
* [[藤末さくら]]<!-- ふじすえ さくら -->
* [[藤田あつ子]]
* [[藤田和子]]
* [[藤田和日郎]]
* [[藤田貴美]]
* [[藤田まぐろ]]
* [[藤田素子]]
* [[ふじつか雪]]
* [[藤中千聖]]
* [[藤凪かおる]]
* [[藤也卓巳]]
* [[ふじのはるか]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 は行#藤野美奈子|藤野美奈子]](抄)
* [[藤野もやむ]]
* [[藤野耕平]]
* [[藤巻忠俊]]
* [[藤真拓哉]]
* [[藤丸 (漫画家)|藤丸]]
* [[藤宮あゆ]]<!-- ふじみや あゆ -->
* [[ふじみやみすず]]
* [[藤実リオ]]
* [[MIN-NARAKEN|藤村文彦]]
* [[藤村真理]]
* [[藤本ケンシ]]
* [[ふじもとせい]]
* [[藤本タツキ]]
* [[ふじもとゆうき]]
* [[藤もも]]
* [[富士山ひょうた]]
* [[富士山みえる]]<!-- ふじやま みえる -->
* [[藤原晶]]
* [[藤原栄子]]
* [[藤原薫]]
* [[藤原カムイ]]
* [[藤原規代]]<!-- ふじわら きよ -->
* [[藤原ここあ]]
* [[藤原さとし]]
* [[藤原鉄頭]]
* [[藤原ヒロ]]
* [[藤原ゆか]]
* [[藤原芳秀]]
* [[双葉たかし]]
* [[ふなつ一輝]]
* [[文月今日子]]
* [[文月晃]]
* [[ふみふみこ]]
* [[冬川基]]<!-- ふゆかわ もとい -->
* [[冬季ねあ]]
* [[冬野みかん]]
* [[ふらんけん正人]]
* [[FURU]]
* [[古川益三]]
* [[ふるかわしおり]]
* [[古沢優]]
* [[古舘春一]]
* [[PURUpyon西東]]
* [[古都和子]]<!-- ふるみや かずこ -->
* [[古屋樹]]
* [[古屋兎丸]]
* [[古谷実]]
* [[古谷三敏]]
* [[ぷろとん]]
* [[風呂前有]]
* [[ふを留実]]
|}}
=== へ ===
{{columns-list|4|
* [[塀内夏子]](塀内真人)
* [[平井太朗]]<!--へい・たろう-->
* [[別天荒人]]
* [[ペトス]]
* [[BENNY'S]]
* [[ベニガシラ]]
* [[ベリッシモ・フランチェスコ]]
* [[縁山]]<!-- へりやま -->
* [[belne]]
* [[ペンネームは無い]]
|}}
=== ほ ===
{{columns-list|4|
* [[ボウイナイフ]]
* [[北条晶]]
* [[北條知佳]]
* [[北条司]]
* [[方條ゆとり]]
* [[外薗昌也]](外園昌也)
* [[墨天業]]
* [[星逢ひろ]]
* [[星崎真紀]]
* [[星里もちる]]
* [[星野桂]]
* [[星野架名]]
* [[星野小麦]]
* [[ほしのふうた]]
* [[星野円]]
* [[ほしの瑞希]]
* [[星野めみ]]
* [[星野泰視]]
* [[星野之宣]]
* [[ほしの竜一]]
* [[星野リリィ]]
* [[星森ゆきも]]
* [[細川智栄子]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 は行#ほそかわ春|ほそかわ春]](抄)
* [[細川雅巳]]
* [[細野不二彦]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 は行#細馬信一|細馬信一]](抄)
* [[保谷伸]]
* [[穂月想多]]
* [[ぼっしぃ]]
* [[堀田あきお]]
* [[堀田かつひこ]]
* [[堀田きいち]]
* [[ほづみりや]]
* [[ほへと丸]](岩澤ほへと丸)
* [[堀江卓]]
* [[堀川悟郎]]
* [[堀越耕平]]
* [[ほりのぶゆき]]
* [[堀戸けい]]
* [[ホリユウスケ]]
* [[ほるまりん]]
* [[フレデリック・ボワレ]]
* [[本庄敬]]
* [[ポンセ前田]]
* [[本田 (漫画家)|本田]]
* [[ポン貴花田]]
* [[ほんだありま]]
* [[本田真吾 (漫画家)|本田真吾]]
* [[凡天太郎]]
* [[ぽんとごたんだ]]
* [[本名ワコウ]]
* [[盆ノ木至]]
* [[PONPON]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 は行#ほんまかずひろ|ほんまかずひろ]](抄)
* [[ほんまりう]]
|}}
== ま行 ==
=== ま ===
{{columns-list|4|
* [[マーチン角屋]]
* [[まいた菜穂]]
* [[前川かずお (絵本作家、漫画家)|前川かずお]]
* [[前川かずお (漫画家)|前川かずお]]
* [[前川たけし]]
* [[前川つかさ]]
* [[前川涼]]
* [[まえだくん]]
* [[前田千石]]
* [[前田俊夫]]
* [[前田とも]]
* [[前田のえみ]]
* [[前田紅葉]]
* [[前田理想]]
* [[前谷惟光]]
* [[前原滋子]]
* [[魔訶不思議]]
* [[磨伸映一郎]]
* [[魔神ぐり子]]
* [[真壁太陽]]
* [[まがりひろあき]]
* [[真己京子]]
* [[真木蛍五]]
* [[巻来功士]]<!--まきこうじ-->
* [[巻田佳春]]
* [[牧野あおい]]
* [[牧野和子 (漫画家)|牧野和子]]
* [[牧野圭一]]<!-- まきの けいいち -->
* [[牧野博幸]]
* [[蒔野靖弘]](牧野靖弘、のぎまこと)
* [[牧原若菜]]
* [[マキヒロチ]]
* [[牧美也子]]
* [[牧村久実]]
* [[槇村さとる]]
* [[牧村ジュン]]
* [[槙ようこ]]
* [[政一九]]
* [[政岡としや]]
* [[まさき輝]]
* [[真崎総子]]
* [[真崎守]]
* [[真柴真]]
* [[真柴ひろみ]]
* [[真島悦也]]
* [[真島ヒロ]]
* [[masha]]
* [[益子かつみ]]
* [[益子悠]]
* [[増田英二]]
* [[増田こうすけ]]
* [[増田晴彦]]
* [[増田剛]](うらまっく)
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 ま行#桝田道也|桝田道也]](抄)
* [[枡谷タケシ]]
* [[ますむらひろし]]
* [[馬瀬あずさ]]
* [[又野尚]]
* [[まだらさい]]
* [[町野変丸]]
* [[町田ひらく]]
* [[松井勝法]](旧名・キユ)
* [[まついなつき]]
* [[松井優征]]
* [[松井雪子]]
* [[松浦聡彦]]
* [[松浦だるま]]
* [[松浦まさふみ]]
* [[松江名俊]]
* [[松木いっか]]
* [[松阪剛志]]
* [[まつざきあけみ]]
* [[まつざきしおり]]
* [[松崎司]]
* [[茉崎ミユキ]]
* [[松沢夏樹]]
* [[松沢まり]]
* [[松下井知夫]]
* [[松下幸志]]
* [[松下容子]]
* [[松島裕子]]
* [[松島幸太朗 (漫画家)|松島幸太朗]]
* [[松島リュウ]]
* [[マツセダイチ]]
* [[松田一輝 (漫画家)|松田一輝]]
* [[まったくモー助]]
* [[松田妙子]]
* [[松田奈緒子]]
* [[まつだひかり]]
* [[松田円]]
* [[松田未来 (漫画家)|松田未来]]<!-- まつだ みき -->
* [[松田洋子]]
* [[松月滉]]
* [[マディ上原]]
* [[松任知基]]
* [[松苗あけみ]]
* [[松永孝之]]
* [[松永豊和]]
* [[松野時緒]]
* [[松葉博]]
* [[松林悟]]
* [[松原利光]]
* [[松原由美子]]
* [[松久由宇]]
* [[松村努]]
* [[松本明澄]]
* [[まつもと泉]]
* [[松本かつぢ]]
* [[松本救助]](松本とりも)
* [[松本光司 (漫画家)|松本光司]]
* [[松本小夢]]<!-- まつもと こゆめ -->
* [[松本しげのぶ]]
* [[松本次郎]]
* [[まつもと剛志]]
* [[松本大洋]]
* [[松本太郎 (漫画家)|松本太郎]]
* [[松本テマリ]]
* [[松本トモキ]]
* [[マツモトトモ]]
* [[松本夏実]]
* [[松本久志]]
* [[松本ひで吉]]
* [[松本ひかる]]
* [[松本ぷりっつ]]
* [[松本美緒]]
* [[松本充代]]
* [[松本ミトヒ。]]
* [[松本耳子]]
* [[松本洋子]]
* [[松本零士]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 ま行#松本レオ|松本レオ]](抄)
* [[松森正]]
* [[松山せいじ]]
* [[まつやま登]]
* [[松山花子]](九州男児)
* [[祭丘ヒデユキ]]
* [[真斗]]
* [[真東砂波]]
* [[まどの一哉]]
* [[matoba]]
* [[的良みらん]]
* [[真鍋譲治]]
* [[真鍋昌平]]
* [[まにお]]
* [[麻原いつみ]]
* [[真船一雄]]
* [[マポロ3号]]
* [[幻超二]]
* [[麻々原絵里依]]
* [[真村ミオ]]
* [[まみや綸]]
* [[魔夜峰央]]
* [[眉月じゅん]]
* [[眉月はるな]]
* [[Maria (漫画家)|Maria]]
* [[まりお金田]]
* [[まるいミカ]]
* [[丸尾末広]]
* [[丸川トモヒロ]]
* [[丸智之]]
* [[まるはま]]
* [[丸山薫 (漫画家)|丸山薫]]<!-- まるやま かおる -->
* [[丸山哲弘]](旧名:哲弘)
* [[丸山朝ヲ]]
* [[丸和太郎]]
* [[漫☆画太郎]]
* [[マンガ太郎]]
* [[まんだ林檎]]<!-- まんだ りんご -->
|}}
=== み ===
{{columns-list|4|
* [[美麻りん]]
* [[MEE]]
* [[美衣暁]]
* [[美内すずえ]]
* [[三浦建太郎]]
* [[三浦糀]]
* [[みうらじゅん]]
* [[ミウラタダヒロ]]
* [[三浦浩子]]
* [[三浦みつる]]
* [[三尾じゅん太]]
* [[岬下部せすな]]
* [[未影]]
* [[御影石材]]
* [[三笠山出月]]
* [[御巫桃也]]
* [[みかまる]]
* [[三香見サカ]]
* [[三上小又]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 ま行#三上龍哉|三上龍哉]](抄)
* [[三上骨丸]]<!-- みかみ ほねまる -->
* [[三神万里子]]
* [[美川べるの]]
* [[三家本礼]]
* [[みかん氏]]
* [[みきさえ]](美奇めぐみ)
* [[実樹ぶきみ]]
* [[ミキマキ]]
* [[美樹本晴彦]]
* [[幹本ヤエ]]<!-- みきもとヤエ -->
* [[みきもと凜]]<!-- みきもと りん -->
* [[三國シン]]
* [[御厨さと美]]<!-- みくりや さとみ -->
* [[みこくのほまれ]]
* [[みことあけみ]]
* [[三咲あや]]
* [[みさき樹里]]
* [[みさくらなんこつ]]
* [[三島衛里子]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 ま行#三島たけし|三島たけし]](抄)
* [[水あさと]]<!-- みず あさと -->
* [[瑞垣みずほ]]
* [[水上悟志]]
* [[水上澄子]]
* [[みずき健]]
* [[水木しげる]]
* [[水城まさひと]]
* [[水樹和佳子]]
* [[水口十]]
* [[水口尚樹]]
* [[水口幸広]]
* [[水島新司]]
* [[水城せとな]]
* [[水沢悦子]]<!-- みずさわ えつこ -->
* [[水沢めぐみ]]
* [[水沢勇介]]
* [[みずしな孝之]]
* [[水島爾保布]]
* [[水縞とおる]]
* [[水田恐竜]]
* [[水田ケンジ]]
* [[水谷愛]]<!-- みずたに あい -->
* [[水谷フーカ]]
* [[水谷武子]](水谷たけ子)<!-- みずたに たけこ -->
* [[みず谷なおき]]
* [[水田ゆき]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 ま行#水知せり|水知せり]](抄)
* [[水都あくあ]]
* [[みすとかすみ]]
* [[みずなともみ]]
* [[水薙竜]]
* [[水野英多]]
* [[水野純子]]
* [[水野十子]]
* [[水野英子]]
* [[水原賢治]]
* [[水穂しゅうし]]
* [[みずもとあきつぐ]]
* [[水元ローラ]]
* [[溝口涼子]]<!-- みぞぐち りょうこ -->
* [[溝渕誠]]
* [[三鷹公一]]
* [[三谷幸広]]
* [[三田紀房]]
* [[みたらし三大]]
* [[見田竜介]]
* [[御童カズヒコ]]
* [[道原かつみ]]
* [[道元宗紀]]
* [[満井春香]]
* [[三月 (漫画家)|三月]]
* [[美月うさぎ]]
* [[みつきかこ]]
* [[三岸せいこ]]
* [[みづきたけひと]]
* [[水月とーこ]]<!--みづき とーこ-->
* [[みづき水脈]]
* [[蜜樹みこ]]
* [[水月博士]]
* [[美月李予]]
* [[満田拓也]]
* [[蜜野まこと]]
* [[水名瀬雅良]]
* [[シバ (ミュージシャン)|三橋乙揶]]
* [[三ツ橋快人]]
* [[みつはしちかこ]]
* [[光原伸]]
* [[みづほ梨乃]]
* [[三ツ森あきら]]
* [[三剣もとか]]
* [[御童カズヒコ]]
* [[翠川しん]]
* [[緑川ゆき]]
* [[緑のルーペ]]
* [[碧ゆかこ]]
* [[水上桜]]
* [[皆川亮二]]
* [[みなぎ得一]]
* [[水瀬藍]]
* [[水瀬いつる]]
* [[水名瀬雅良]]
* [[水瀬マユ]]<!-- みなせ マユ -->
* [[みなすきぽぷり]](椎木冊也)
* [[みなづき忍]]
* [[水無月真]]
* [[水無月すう]]
* [[湊谷夢吉]]
* [[湊よりこ]]
* [[南勝久]]
* [[水波風南]]
* [[南Q太]]
* [[南野ましろ]]
* [[みなみ遥]](南かずか)
* [[南マキ]]
* [[ミナモトカズキ]]
* [[みなもと太郎]]
* [[水森暦]]
* [[水森みなも]]
* [[みにおん]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 ま行#峰岸とおる|峰岸とおる]](抄)
* [[嶺岸信明]]
* [[峰倉かずや]]
* [[みね武]]
* [[峯田ちあき]]
* [[峰浪りょう]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 ま行#みのもけんじ|みのもけんじ]](抄)
* [[三原順]]
* [[三原ミツカズ]]
* [[御船麻砥]]
* [[美村あきの]]
* [[みもり]]
* [[美森青]]
* [[三森みさ]]
* [[宮内由香]]
* [[宮尾岳]]
* [[宮川輝]]<!-- みやがわ あきら -->
* [[宮川総一郎]]
* [[宮川匡代]]
* [[三宅大志]]
* [[三宅乱丈]]
* [[みやこかしわ]]
* [[都戸利津]]<!-- みやこ りつ -->
* [[宮坂栄一]]
* [[宮坂香帆]]
* [[みやさかたかし]]
* [[宮崎周平]]
* [[宮崎夏次系]](夏次系)
* [[宮崎駿]]
* [[宮下あきら]]
* [[宮下裕樹]]
* [[宮島礼吏]]
* [[みやすのんき]](ひろもりしのぶ)
* [[みやぞえ郁雄]]
* [[みやたけし]]
* [[宮田淳一]]
* [[宮西計三]]
* [[宮野ともちか]]
* [[宮のぶなお]]
* [[宮原るり]]
* [[みやびあきの]]
* [[みやびつづる]]
* [[みやまあかね]]
* [[三山節子]]
* [[三山のぼる]]
* [[深山靖宙]]
* [[深山和香]]<!-- みやま わか -->
* [[宮本福助]]
* [[みやもと留美]]
* [[宮谷一彦]]
* [[宮脇明子]]
* [[みやわき心太郎]]
* [[宮脇ゆきの]]
* [[三好輝]]<!-- みよし ひかる -->
* [[三好雄己]]
* [[ミル・フィーユ]](旧・ミルフィーユ)
* [[三輪真雪]]
* [[眠田直]]
* [[明 (漫画家)|明]]
|}}
=== む ===
{{columns-list|4|
* [[Moo.念平]]
* [[無有利安]](むうりあん)
* [[迎夏生]]
* [[むぎわらしんたろう]](萩原伸一)
* [[椋陽児]]
* [[夢来鳥ねむ]]
* [[ムサヲ]]
* [[むさしのあつし]]
* [[陸奥A子]]
* [[睦月のぞみ]]
* [[むっく]]
* [[むっしゅ]]
* [[むつ利之]]
* [[むとうひろし]]
* [[むにゅう]]
* [[村枝賢一]]
* [[村生ミオ]]
* [[村岡栄一]](むらおか栄一)
* [[村岡マサヒロ]]
* [[村岡ユウ]]
* [[村上かつら]]
* [[村上たかし]]
* [[村上真紀]]
* [[村上もとか]]
* [[村上ゆみ子]]
* [[むらかわみちお]]
* [[村瀬克俊]]
* [[村瀬範行]]
* [[ムラタコウジ]]
* [[村田順子]]
* [[村田真哉]]
* [[村田ひろゆき]]
* [[村田真優]]
* [[村田雄介]]
* [[村西とおる]]
* [[村野守美]]
* [[村正みかど]]
* [[村山一夫]]
* [[村山文夫]]
* [[室井大資]]
* [[室井まさね]]
* [[ムロタニツネ象]]
* [[むろなが供未]]
* [[室山まゆみ]]
* [[むんこ]]
|}}
=== め ===
{{columns-list|4|
* [[めいびい]]
* [[MEIMU]]
* [[めきめき]]
* [[恵広史]]
* [[恵三朗]]
* [[目黒三吉]]
* [[目白花子]]
* [[めで鯛]]
* [[めるへんめーかー]]
|}}
=== も ===
{{columns-list|4|
* [[馬上鷹将]]
* [[毛内浩靖]]
* [[もぐら (漫画家)|もぐら]]
* [[もこやま仁]]
* [[もち (漫画家)|もち]]
* [[もちオーレ]]
* [[持田あき]]
* [[餅月あんこ]]
* [[望月あきら]]
* [[望月花梨]]
* [[望月桜]]
* [[望月淳]]
* [[望月奈々]]<!-- もちづき なな -->
* [[望月三起也]]
* [[望月峯太郎]]
* [[望月玲子]]
* [[本島幸久]]
* [[本そういち]]
* [[もとなおこ]]
* [[本仁戻]]
* [[もとはしまさひで]]
* [[最富キョウスケ]]
* [[本宮ひろ志]]
* [[もとむらえり]]
* [[本山一城]]
* [[本山理咲]]
* [[元町夏央]]
* [[ものたりぬ]](みなづき由宇)
* [[もみじ真魚]]
* [[桃伊いづみ]]<!-- ももい いづみ -->
* [[百瀬武昭]]
* [[ももせたまみ]]
* [[ももち麗子]]
* [[桃雪琴梨]]
* [[モリ淳史]]
* [[森井ケンシロウ]]
* [[モリエサトシ]]
* [[森江真子]]<!-- もりえ まこ -->
* [[森生まさみ]]
* [[森生文乃]]
* [[森尾理奈]]<!-- もりお りな -->
* [[森薫]]
* [[森川久美]]
* [[森川ジョージ]]
* [[森倉チロル]]
* [[森栗丸]]
* [[もりけん]]
* [[森小太郎]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 ま行#森崎法美|森崎法美]](抄)
* [[森崎令子]]
* [[森左智]]
* [[森沢晴行]]
* [[もりしげ]]
* [[森繁拓真]]<!-- もりしげ たくま -->
* [[森下裕美]]
* [[森下薫]]
* [[森下薫 (男性漫画家)]]
* [[森島明子]]
* [[森真理]]
* [[森清士郎]]
* [[森園みるく]]
* [[モリタイシ]]
* [[森田拳次]]
* [[盛田賢司]]
* [[もりたじゅん]]
* [[森田俊平]]
* [[森田信吾]]
* [[森田崇]]
* [[森多ヒロ]]
* [[森田まさのり]]
* [[森田屋すひろ]]
* [[森田ゆき]]
* [[森田柚花]]
* [[もりちかこ]]
* [[森茶]]<!-- もり ちゃ -->
* [[森哲郎]]
* [[森永あい]]
* [[森永ミク]]
* [[森永みるく]]
* [[杜野亜希]]
* [[森野うさぎ]](影夢優)
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 ま行#森野達弥|森野達弥]](抄)
* [[森野萌]]<!-- もりの めぐみ -->
* [[森秀樹 (漫画家)|森秀樹]]
* [[森藤よしひろ]]
* [[杜真琴]]
* [[森まりも]]
* [[森雅之 (漫画家)|森雅之]]
* [[森美夏]]
* [[森見明日]]
* [[森村あおい]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 ま行#森村たつお|森村たつお]](抄)
* [[守村大]]
* [[森本梢子]]
* [[森本秀]]
* [[森本みゆき]]
* [[森本里菜]]
* [[森安なおや]]
* [[森山大輔]]
* [[もりやまつる]]
* [[森ゆきえ]]
* [[森義一]]<!-- もり よしかず -->
* [[森脇真末味]]
* [[諸井愛]]
* [[茂呂おりえ]]
* [[両角潤香]]
* [[諸星大二郎]]
* [[モンキー・パンチ]]
* [[門地かおり]]
* [[もんでんあきこ]]
* [[門馬もとき]]
|}}
== や行 ==
=== や ===
{{columns-list|4|
* [[矢尾板賢吉]]
* [[八神健]]
* [[八神千歳]]
* [[八神ひろき]]
* [[矢上裕]]
* [[夜神里奈]]
* [[やぎさわ景一]]
* [[やぎざわ梨穂]]
* [[八木ちあき]]
* [[屋宜知宏]]
* [[ヤキナベ]]
* [[柳沼行]]
* [[八木教広]]
* [[矢口高雄]]
* [[矢口岳]]<!-- やぐち たかし -->
* [[やくみつる]](はた山ハッチ)
* [[櫓刃鉄火]]
* [[矢沢あい]]
* [[谷澤みき]]
* [[谷沢直]]
* [[八潮路つとむ]]
* [[矢直ちなみ]]
* [[やしろあずき]]
* [[矢代まさこ]]
* [[ヤス (イラストレーター)|ヤス]]
* [[YASCORN]]<!-- やすこーん -->(杉木ヤスコ)
* [[安田剛助]]
* [[ヤスダスズヒト]]
* [[安田剛士]]
* [[安田弘之]]
* [[安富高史]]
* [[安永航一郎]]
* [[安永知澄]]
* [[安原いちる]]
* [[安彦良和]]
* [[泰三子]]
* [[安村洋平]]
* [[カラス (漫画家)|ヤタ]](カラス)
* [[谷地恵美子]]
* [[八房龍之助]]
* [[簗緒ろく]]
* [[柳川ヨシヒロ]]
* [[柳澤一明]]
* [[柳沢きみお]]
* [[柳田直和]](柳田なお)
* [[やなせたかし]]
* [[矢也晶久]]
* [[矢野健太郎 (漫画家)|矢野健太郎]](毛野楊太郎)
* [[夜野みるら]]
* [[矢萩貴子]]
* [[やぶうち優]]
* [[やぶうちゆうき]]
* [[矢吹健太朗]]
* [[薮口黒子]](枝松亜紀)<!-- やぶくち くろこ、えだまつ あき -->
* [[やぶのてんや]]
* [[やまあき道屯]]
* [[山内直実]]
* [[山内泰延]]
* [[山上たつひこ]]
* [[山川あいじ]]
* [[山川純一]]
* [[山川直人 (漫画家)|山川直人]]
* [[山岸凉子]]
* [[山口いづみ (漫画家)|山口いづみ]]<!-- やまぐち いづみ -->
* [[山口かつみ]]
* [[山口貴由]]
* [[山口つばさ]]
* [[山口舞子]]<!-- やまぐち まいこ -->
* [[山口ミコト]]
* [[山口美由紀]]
* [[山口陽史]]
* [[山口よしのぶ]]
* [[山﨑あつし]]
* [[山崎匡佑]](山崎大紀)
* [[山崎コータ]]
* [[ヤマザキコレ]]
* [[山崎紗也夏|山崎さやか]]
* [[やまざき貴子]]
* [[やまさき拓味]]
* [[山咲トオル]]
* [[山崎風愛]]
* [[山崎峰水]](山崎浩)
* [[ヤマザキマリ]]
* [[山崎みちよ]]
* [[やまじえびね]]
* [[山科けいすけ]]
* [[山下いくと]]
* [[山下和美]]
* [[やましたたかひろ]]
* [[ヤマシタトモコ]]
* [[山下友美]]
* [[山下ユタカ]]
* [[やましろ梅太]]
* [[ヤマダ]]
* [[山田章博]]
* [[山田和重]]
* [[山田可南]]
* [[山田鐘人]]
* [[山田胡瓜]]
* [[山田金鉄]]
* [[山田圭子 (漫画家)|山田圭子]]
* [[やまだ浩一]]
* [[山田こうすけ]]
* [[山田孝太郎]]
* [[山田こもも]]<!-- やまだ こもも -->
* [[山田ゴロ]]
* [[山田参助]]
* [[やまだ三平]]
* [[山田J太]]
* [[山田秋太郎]]
* [[山田シロ彦]]
* [[山田貴敏]]
* [[山田卓司 (漫画家)|山田卓司]]
* [[やまだないと]]
* [[山田也]]
* [[山田南平]]
* [[山田花子 (漫画家)|山田花子]]
* [[山田はまち]]
* [[山田マリエ]]
* [[山田まりお]]
* [[山田ミネコ]]
* [[やまだ紫]]
* [[山田ユギ]]
* [[山田恵庸]]
* [[山田芳裕]]
* [[山田怜]]
* [[山田玲司]]
* [[八的暁]]
* [[やまと虹一]]
* [[山鳥おふう]]
* [[大和名瀬]]
* [[大和正樹]]
* [[大和和紀]]
* [[山名沢湖]]
* [[山中あきら]]
* [[山西正則]]
* [[山根青鬼]]
* [[山根赤鬼]]
* [[山根和俊]]
* [[やまねあやの]]
* [[山野一]]
* [[山野車輪]]
* [[山野りんりん]]
* [[山花典之]]
* [[山原義人]]
* [[山藤章二]]
* [[山辺麻由]]
* [[山松ゆうきち]]
* [[夜麻みゆき]]
* [[やまむらはじめ]]
* [[山本貴嗣]]<!-- やまもと あつじ -->
* [[山本アリフレッド]]
* [[山本おさむ]]
* [[山本航暉]]<!-- やまもと かずき -->
* [[山本和音]]
* [[やまもとかずや]]
* [[山本賢治]]
* [[山本小鉄子]]
* [[山本サトシ]]
* [[山本さほ]]
* [[山本晋]]
* [[山本純二]]
* [[山本鈴美香]]
* [[山本崇一朗]]
* [[山本直樹]](森山塔、塔山森)
* [[山本英夫]]
* [[山本まさはる]]
* [[山本まゆり]]
* [[山本夜羽音]]
* [[山本康人]]
* [[山本ヤマト]]
* [[山本優子]]
* [[やまもとりえ]]
* [[山本亮平]]
* [[山本ルンルン]]
* [[山森ススム]]
* [[やまもり三香]]
* [[稍日向]]
* [[夜宵草]]
|}}
=== ゆ ===
{{columns-list|4|
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 や-わ行#湯浅ひとし|湯浅ひとし]](抄)
* [[ゆあま]]
* [[由伊大輔]]
* [[唯登詩樹]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 や-わ行#唯洋一郎|唯洋一郎]](抄)
* [[結賀さとる]]
* [[ユーキあきら]]
* [[結城さわな]]
* [[結城心一]]
* [[ゆうきともか]]
* [[優木なち]]
* [[結木悠]]
* [[ゆうきまさみ]]
* [[悠木りおん]]
* [[遊人]]
* [[UJT]]
* [[勇人 (漫画家)|勇人]]
* [[有羽なぎさ]]<!-- ゆう なぎさ -->
* [[ゆうの]]
* [[悠妃りゅう]]
* [[友美イチロウ]]<!-- ゆうみいちろう -->
* [[ゆうみ☆りんく]]
* [[有香子]]
* [[湯川かおる]]
* [[由貴香織里]]
* [[雪子 (漫画家)|雪子]]
* [[雪丸]]
* [[雪丸もえ]]<!-- ゆきまる もえ -->
* [[ゆきみ]]
* [[雪見野ユキオ]]
* [[幸宮チノ]]
* [[雪村理子]]
* [[幸村誠]]
* [[雪本愁二]]
* [[ユキヲ]]
* [[ゆくえ高那]]
* [[湯口聖子]]<!-- ゆぐち せいこ -->
* [[湯沢敏仁]]
* [[柚木ウタノ]]
* [[柚木N']]
* [[柚木ガオ]]
* [[ユズキカズ]]
* [[柚木涼太]]
* [[柚原瑞香]]
* [[ゆず未来]]
* [[湯田伸子]]
* [[弓月光]]
* [[ゆでたまご]]
* [[柚庭千景]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 や-わ行#UMA|UMA]](抄)
* [[弓長九天]]
* [[夢花李]]
* [[夢路行]]
* [[夢路キリコ]]
* [[夢野一子]]
* [[夢乃狸]]
* [[夢野れい]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 や-わ行|ゆみぞう]](抄)
* [[ゆみみ (漫画家)|ゆみみ]]
* [[由羅カイリ]]<!-- ゆら カイリ -->
|}}
=== よ ===
{{columns-list|4|
* [[陽気婢]]
* [[洋介犬]](うえやま洋介犬)
* [[余湖裕輝]]
* [[横井福次郎]]
* [[横内なおき]]
* [[邪武丸]]
* [[横島一]]<!-- よこしま ひとつ -->
* [[よこたとくお]]
* [[横山えいじ]]
* [[横山泰三]]
* [[横山まさみち]]
* [[横山真由美]]
* [[横山光輝]]
* [[横山隆一]]
* [[横山了一]]
* [[横槍メンゴ]]<!-- よこやり メンゴ -->
* [[芳井アキ]]<!-- よしい アキ -->
* [[芳井一味]]
* [[吉井凛]]<!-- よしい りん -->
* [[吉岡公威]]
* [[吉岡榊]]
* [[吉岡李々子]]<!-- よしおか りりこ -->
* [[吉開寛二]]
* [[芳一]]
* [[吉川うたた]]
* [[よしかわ進]]
* [[吉川雅之]]
* [[吉河美希]]
* [[吉川豊]]
* [[芳崎せいむ]]<!--よしざきせいむ-->
* [[吉崎観音]]<!--よしざきみね-->
* [[吉沢やすみ]]
* [[吉住渉]]
* [[吉田秋生]]
* [[よしだ斑鳩]]
* [[吉田聡]]
* [[吉田覚]]
* [[吉田戦車]]
* [[吉田竜夫]]
* [[由多ちゆ]]<!-- よしだ ちゆ -->
* [[よしたに]]
* [[吉田ふらわ]]([[吉田あぺぢ]])
* [[ヨシダプロ]]
* [[吉田正紀]]<!--よしだ まさのり-->
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 や-わ行#吉田窓|吉田窓]](抄)
* [[吉田まゆみ]]
* [[吉田丸悠]]
* [[吉田美紀子]]
* [[吉田光彦]]
* [[よしだみほ]]
* [[吉田基已]]
* [[よしだもろへ]]
* [[芳谷圭児]]
* [[よしづきくみち]]
* [[吉富昭仁]]
* [[ヨシトミヤスオ]]
* [[よしながふみ]]
* [[吉永ゆう]]
* [[吉永龍太]]<!-- よしながりゅうた -->
* [[吉野朔実]]
* [[吉野志穂]]
* [[吉野マリ]]
* [[吉原昌宏]]
* [[芳原舞人]]
* [[吉辺あくろ]]
* [[よしまさこ]]
* [[美水かがみ]]
* [[好美のぼる]]
* [[吉村明美]]
* [[よしむらかな]]
* [[よしむらなつき]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 や-わ行#よしもとあきこ|よしもとあきこ]](抄)
* [[吉本どんど]]
* [[吉もと誠]]
* [[よしもとよしとも]]
* [[吉森みき男]]
* [[吉谷やしよ]]
* [[世棄犬]]
* [[依田瑞稀]]
* [[よつ葉真澄]]
* [[よだひでき]]
* [[米倉けんご]]
* [[米沢りか]]<!-- よねざわ りか -->
* [[米原秀幸]]<!-- よねはら ひでゆき -->
* [[米村孝一郎]]<!-- よねむら こういちろう -->
* [[米餅昭彦]](なめぞう)<!-- よねもち あきひこ -->
* [[よむ]]
* [[萬屋不死身之介]]<!-- よろずや ふじみのすけ -->
|}}
== ら行 ==
=== ら ===
{{columns-list|4|
* [[雷句誠]]
* [[ライフスタイル角田]]
* [[羅川真里茂]]
* [[ラショウ]]
* [[ラズウェル細木]]
* [[ラッキー植松]]
* [[RaTe]]<!-- らて -->
* [[蘭宮涼]]
* [[乱魔猫吉]]
* [[乱丸]]
|}}
=== り ===
{{columns-list|4|
* [[LEE (漫画家)|LEE]]
* [[りえちゃん14歳]]
* [[Rico (漫画家)|Rico]]
* [[六道神士]]<!-- りくどう こうし -->
* [[竜崎遼児]]<!-- りゅうざき りょうじ -->
* [[RYU-TMR]]<!-- リュウ・ティーエムアール -->
* [[了春刀]]<!-- りょう はると -->
* [[LINDA]]
* [[りんたろう]]
* [[厘のミキ]](凛野ミキ)
|}}
=== る ===
{{columns-list|4|
* [[龍炎狼牙]]<!-- るーえんろうが -->
* [[ルーツ (漫画家)|ルーツ]]
* [[瑠沢るか]]
* [[ルネッサンス吉田]]
* [[ルノアール兄弟]]
* [[るりあ046]]
|}}
=== れ ===
{{columns-list|4|
* [[REN]]
|}}
=== ろ ===
{{columns-list|4|
* [[ろーるぱんつ]]
* [[六内円栄]]
* [[六田登]]
* [[ロケット兄弟]]
* [[陸野二二夫]]
* [[六本木綾]]
* [[ロドリゲス井之介]]
* [[ろびこ]]
* [[ロビン西]]
|}}
== わ行 ==
=== わ ===
{{columns-list|4|
* [[和央明]]<!-- わおあきら -->
* [[若尾はるか]]<!-- わかおはるか -->
* [[若木民喜]]<!-- わかきたみき -->
* [[若杉公徳]]<!-- わかすぎきみのり -->
* [[環方このみ]]<!-- わがたこのみ -->
* [[わかつきめぐみ]]
* [[若林健次]]<!-- わかばやしけんじ -->
* [[若林稔弥]]
* [[若宮弘明]]
* [[和久井健]]<!-- わくいけん -->
* [[和久原にこ]]
* [[和気一作]]<!-- わけいっさく -->
* [[技来静也]]<!-- わざらいしずや -->
* [[鷲尾直広]]<!-- わしお なおひろ -->
* [[早稲田ちえ]]<!-- わせだちえ -->
* [[ワダアルコ]]
* [[私屋カヲル]]<!-- わたしやカヲル -->
* [[和田慎二]]<!-- わだしんじ -->
* [[わたせせいぞう]]
* [[渡瀬悠宇]]<!-- わたせゆう -->
* [[和田尚子]]<!-- わだなおこ -->
* [[渡辺あすか]]<!-- わたなべあすか -->
* [[渡辺あゆ]]<!-- わたなべ あゆ -->
* [[渡辺和博]]<!-- わたなべ かずひろ -->
* [[渡辺カナ]]<!-- わたなべ カナ -->
* [[渡辺静]]<!-- わたなべ しずむ -->
* [[わたなべ志穂]]<!-- わたなべ しほ -->
* [[渡辺志保梨]]<!-- わたなべしほり -->
* [[渡辺潤]]<!-- わたなべじゅん -->
* [[わたなべ純子]]<!-- わたなべじゅんこ -->
* [[渡辺純子 (漫画家)|渡辺純子]]<!-- わたなべすみこ -->
* [[渡辺多恵子]]<!-- わたなべたえこ -->
* [[渡辺電機(株)]]<!-- わたなべでんき -->
* [[渡辺とおる]]<!-- わたなべとおる -->
* [[渡辺ペコ]]<!-- わたなべぺこ -->
* [[わたなべぽん]]
* [[わたなべまさこ]]
* [[渡辺道明]]<!-- わたなべみちあき -->
* [[渡辺みちお]]
* [[渡辺保裕]]<!-- わたなべやすひろ -->
* [[渡辺祥智]]<!-- わたなべよしとも -->
* [[わたなべよしまさ]]
* [[渡辺諒]]<!-- わたなべりょう -->
* [[渡辺航 (漫画家)|渡辺航]]<!-- わたなべわたる -->
* [[和田洋人]]
* [[わたべ淳]]<!-- わたべじゅん -->
* [[わだぺん。]]<!-- わだぺん -->
* [[和田真由美]]<!-- わだまゆみ -->
* [[和田義三]]
* [[和田ラヂヲ]]<!-- わだらぢを -->
* [[渡真仁]]
* [[山崎渉|わた・るぅー]](旧名:山崎渉)
* [[わちさんぺい]]
* [[和月伸宏]]<!-- わつきのぶひろ -->
* [[和六里ハル]]<!-- わむさとはる -->
* [[和山やま]]
* [[わらいなく]]
* [[ONE (漫画家)|ONE]]
* [[わんぱく (漫画家)|わんぱく]]
* [[完顔阿骨打 (漫画家)|完顔阿骨打]]<!-- わんやんあぐだ -->
|}}
== 単独での項目がない漫画家についてのプロフィール抄つきの漫画家一覧 ==
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 あ行|日本の漫画家 あ行]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 か行|日本の漫画家 か行]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 さ行|日本の漫画家 さ行]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 た行|日本の漫画家 た行]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 な行|日本の漫画家 な行]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 は行|日本の漫画家 は行]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 ま行|日本の漫画家 ま行]]
* [[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 や-わ行|日本の漫画家 や-わ行]]
== 関連項目 ==
* [[漫画家一覧]](世界の漫画家)
* [[生年別日本の漫画家一覧 1920 - 1930年代|生年別日本の漫画家一覧]]
* [[4コマ漫画家の一覧]]
* [[日本の成人向け漫画家の一覧]]
* [[日本のイラストレーター一覧]]
* [[アニメ関係者一覧]]
{{DEFAULTSORT:まんかか にほん}}
[[Category:漫画家一覧]]
[[Category:日本の人物一覧]]
[[Category:日本の漫画家|*いちらん]] | 2003-03-07T12:09:01Z | 2023-12-12T18:21:21Z | false | false | false | [
"Template:KTOC",
"Template:Columns-list",
"Template:Pp-vandalism"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%BC%AB%E7%94%BB%E5%AE%B6%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
3,609 | Webサーバ | Webサーバ(ウェブサーバ、英:Web server)は、HTTPに則り、クライアントソフトウェアのウェブブラウザに対して、HTMLやオブジェクト(画像など)の表示を提供するサービスプログラム及び、そのサービスが動作するサーバコンピュータを指す。 広義には、クライアントソフトウェアとHTTPによる通信を行うプログラム及びコンピュータ。
クライアントであるウェブブラウザのURLにて指示された、Webサーバ内に存在するHTMLドキュメントの各種情報を、クライアントから接続されたHTTPに則ったTCP/IPソケットストリーム(HTTPコネクションと呼ぶ)に送信する。多くの場合、クライアントのウェブブラウザとの間に複数のコネクションを張り、HTMLドキュメントとその配下の個々の情報ファイル(画像ファイル情報など)を並列して送り、処理時間を短縮してサービスを提供している。
また、HTMLドキュメントに各種処理を組み込み、CGIスクリプトやJava Servlet(サーバ側で実行されるJavaプログラム)と呼ばれるWeb画面に連動した動的処理を行う事が可能である。CGI処理においてはPerl・Ruby・PHPなどのスクリプト言語によって開発されることが多い。
Java Servletにおいては、Javaによる動的処理の負荷を分散するため、Java Servletを処理する機能を別サーバに切り出し、Webアプリケーションサーバとして、垂直分散(スケールアウト)する事も一般化している。
大規模なWebサービスを提供する場合、同じサービスを提供するWebサーバを並列して設置し、ロードバランサと呼ばれる各種ロジック(ラウンドロビン方式や処理中の負荷を計測して割り当てるサーバを決定するものや、サーバの性能を考慮して重み付けをする方式などが存在する)によりWebサーバへの処理を振り分ける装置を、Webサーバ群の前に置く事が多い。
これにより、Webサービスを提供する際のサーバ故障に対する可用性・信頼性を確保する(疎結合クラスターの一種と定義される)。
また、不特定多数のウェブブラウザ(クライアント)との接続を行うため、一般的にWebサーバ及びWebアプリケーションサーバにはDNSサーバとの連動設定を組み込む。
2015年時点においては、Apache及びその派生版である各ベンダのHTTP Serverが市場の4割、マイクロソフトのIISが市場の3割、nginxが2割弱を占める。
元々、WebサーバはUNIX上で開発され発展してきた経緯もあり、当初からオープン系サーバと言われるUNIXサーバやWindows系サーバにより実装・提供されるのが普通である。ただし、システム構成上の都合により、HTTPやFTP、TCP/IPが利用可能な汎用コンピュータにて動作させる場合もある。
他 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "Webサーバ(ウェブサーバ、英:Web server)は、HTTPに則り、クライアントソフトウェアのウェブブラウザに対して、HTMLやオブジェクト(画像など)の表示を提供するサービスプログラム及び、そのサービスが動作するサーバコンピュータを指す。 広義には、クライアントソフトウェアとHTTPによる通信を行うプログラム及びコンピュータ。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "クライアントであるウェブブラウザのURLにて指示された、Webサーバ内に存在するHTMLドキュメントの各種情報を、クライアントから接続されたHTTPに則ったTCP/IPソケットストリーム(HTTPコネクションと呼ぶ)に送信する。多くの場合、クライアントのウェブブラウザとの間に複数のコネクションを張り、HTMLドキュメントとその配下の個々の情報ファイル(画像ファイル情報など)を並列して送り、処理時間を短縮してサービスを提供している。",
"title": "実装"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "また、HTMLドキュメントに各種処理を組み込み、CGIスクリプトやJava Servlet(サーバ側で実行されるJavaプログラム)と呼ばれるWeb画面に連動した動的処理を行う事が可能である。CGI処理においてはPerl・Ruby・PHPなどのスクリプト言語によって開発されることが多い。",
"title": "実装"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "Java Servletにおいては、Javaによる動的処理の負荷を分散するため、Java Servletを処理する機能を別サーバに切り出し、Webアプリケーションサーバとして、垂直分散(スケールアウト)する事も一般化している。",
"title": "実装"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "大規模なWebサービスを提供する場合、同じサービスを提供するWebサーバを並列して設置し、ロードバランサと呼ばれる各種ロジック(ラウンドロビン方式や処理中の負荷を計測して割り当てるサーバを決定するものや、サーバの性能を考慮して重み付けをする方式などが存在する)によりWebサーバへの処理を振り分ける装置を、Webサーバ群の前に置く事が多い。",
"title": "実装"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "これにより、Webサービスを提供する際のサーバ故障に対する可用性・信頼性を確保する(疎結合クラスターの一種と定義される)。",
"title": "実装"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "また、不特定多数のウェブブラウザ(クライアント)との接続を行うため、一般的にWebサーバ及びWebアプリケーションサーバにはDNSサーバとの連動設定を組み込む。",
"title": "実装"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "2015年時点においては、Apache及びその派生版である各ベンダのHTTP Serverが市場の4割、マイクロソフトのIISが市場の3割、nginxが2割弱を占める。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "元々、WebサーバはUNIX上で開発され発展してきた経緯もあり、当初からオープン系サーバと言われるUNIXサーバやWindows系サーバにより実装・提供されるのが普通である。ただし、システム構成上の都合により、HTTPやFTP、TCP/IPが利用可能な汎用コンピュータにて動作させる場合もある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "他",
"title": "現在の代表的な実装"
}
] | Webサーバは、HTTPに則り、クライアントソフトウェアのウェブブラウザに対して、HTMLやオブジェクト(画像など)の表示を提供するサービスプログラム及び、そのサービスが動作するサーバコンピュータを指す。
広義には、クライアントソフトウェアとHTTPによる通信を行うプログラム及びコンピュータ。 | {{出典の明記|date=2021年6月}}
'''Webサーバ'''(ウェブサーバ、英:{{En|Web server}})は、[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]に則り、[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]][[ソフトウェア]]の[[ウェブブラウザ]]に対して、[[HyperText Markup Language|HTML]]やオブジェクト([[画像]]など)の表示を提供するサービスプログラム及び、そのサービスが動作する[[サーバ]][[コンピュータ]]を指す。<!-- (狭義な意味で言えば、サーバソフトウェアを指す) -->
広義には、クライアントソフトウェアとHTTPによる通信を行うプログラム及びコンピュータ。
== 実装 ==
クライアントである[[ウェブブラウザ]]の[[Uniform Resource Locator|URL]]にて指示された、Webサーバ内に存在するHTMLドキュメントの各種情報を、クライアントから接続されたHTTPに則った[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]][[ソケット (BSD)|ソケット]]ストリーム(HTTPコネクションと呼ぶ)に送信する。多くの場合、クライアントのウェブブラウザとの間に複数の[[コネクション]]を張り、HTMLドキュメントとその配下の個々の情報ファイル(画像ファイル情報など)を並列して送り、処理時間を短縮してサービスを提供している。
また、HTMLドキュメントに各種処理を組み込み、[[Common Gateway Interface|CGI]][[スクリプト]]や[[Java Servlet]](サーバ側で実行される[[Java]]プログラム)と呼ばれるWeb画面に連動した動的処理を行う事が可能である。CGI処理においては[[Perl]]・[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]・[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]などの[[スクリプト言語]]によって開発されることが多い。
Java Servletにおいては、Javaによる動的処理の負荷を分散するため、Java Servletを処理する機能を別サーバに切り出し、Webアプリケーションサーバとして、垂直分散(スケールアウト)する事も一般化している。
大規模なWebサービスを提供する場合、同じサービスを提供するWebサーバを並列して設置し、[[ロードバランサ]]と呼ばれる各種ロジック([[ラウンドロビン・スケジューリング|ラウンドロビン方式]]や処理中の負荷を計測して割り当てるサーバを決定するものや、サーバの性能を考慮して重み付けをする方式などが存在する)によりWebサーバへの処理を振り分ける装置を、Webサーバ群の前に置く事が多い。
これにより、Webサービスを提供する際のサーバ故障に対する可用性・信頼性を確保する([[疎結合クラスター]]の一種と定義される)。
また、不特定多数のウェブブラウザ(クライアント)との接続を行うため、一般的にWebサーバ及びWebアプリケーションサーバには[[Domain Name System|DNS]]サーバとの連動設定を組み込む。
== 歴史 ==
[[File:Cobalt Qube 3 Front.jpg|thumb|[[サン・マイクロシステムズ]]のSOHO向けWebサーバ<br />Sun Cobalt Qube 3(2002年)]]
*[[1989年]]
**[[欧州原子核研究機構]] (CERN) に在籍していた[[ティム・バーナーズ=リー]]が「Information Management: A Proposal(情報管理:提案)」を執筆。彼が以前から持っていたWebシステムの素案を目に見える形で提案した。
*[[1990年]][[11月]]
**World Wide Web をより具体化した提案書を発表。1990年[[11月13日]]から開発が開始。
*[[1990年]][[12月]]〜[[1991年]][[1月]]
**現Webサーバ群の基になるHTTPサーバ『[[CERN httpd]]』と各種ツールをクリスマス休暇中に作成し、最初のWebページ展開([[Berkeley Software Distribution|BSD]]系[[オペレーティングシステム|OS]]である[[NEXTSTEP]]/[[NeXT]]ワークステーションに実装)。
*1991年[[8月]]
**Webサーバとラインベースのウェブブラウザによるプロジェクト成果の要約を[[ニュースグループ]]に投稿。これがWWWとWebサーバのデビューとなった。
*[[1992年]]とそれ以降
**[[イリノイ大学]]の[[米国立スーパーコンピュータ応用研究所]](NCSA)の[[ロバート・マックール]]らが、CERN httpdに続く2番目の実装となる『[[NCSA HTTPd]]』を開発、また同じくNCSAの学生であった[[マーク・アンドリーセン]]らが、画像も表示できるウェブブラウザ[[NCSA Mosaic]]を開発し、一般に急速に広まった。
**この時点では、Webサーバの主役は『CERN httpd』や『NCSA HTTPd』であった。しかし、改修が進まないという不満が募り、NCSA HTTPdに修正を加えるためのパッチ (patch) を集積するプロジェクトが始まった。その際、プロジェクトに Apache Group という名前を付け、開始したため、そのNCSA HTTPdのメンテを主(当初)とした派生版である[[Apache HTTP Server]]の誕生につながり、主役を移すことになった。
2015年時点においては、Apache及びその派生版である各ベンダのHTTP Serverが市場の4割、[[マイクロソフト]]の[[Internet Information Services|IIS]]が市場の3割、[[nginx]]が2割弱を占める<ref>[http://news.netcraft.com/archives/2015/11/16/november-2015-web-server-survey.html November 2015 Web Server Survey] netcraft</ref>。
元々、Webサーバは[[UNIX]]上で開発され発展してきた経緯もあり、当初から[[オープンシステム (コンピュータ)|オープン系]]サーバと言われるUNIXサーバや[[Microsoft Windows|Windows]]系サーバにより実装・提供されるのが普通である。ただし、システム構成上の都合により、[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]や[[File Transfer Protocol|FTP]]、[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]が利用可能な[[メインフレーム|汎用コンピュータ]]にて動作させる場合もある。
==現在の代表的な実装==
[[File:LAMP software bundle.svg|thumb|300px|The [[LAMP (ソフトウェアバンドル)|LAMP]] software bundle (here additionally with [[Squid (ソフトウェア)|Squid]]). A high performance and high-availability solution for a hostile environment]]
* [[Apache HTTP Server]]
* [[CERN httpd]]
* [[NCSA HTTPd]]
* [[Internet Information Services]]
* [[AN HTTPD]]
* [http://www.soft3304.net/04WebServer/ 04webserver]
* [[lighttpd]]
* [[Cherokee (web server)]]
* [http://www.hiawatha-webserver.org/ Hiawatha Webserver] [[:en:Hiawatha_webserver|(英語版)]]
* [[thttpd]]
* [[RaidenHTTPD]]
* [[nginx]]
* [[Zope]]
他
== 個別の製品の特徴 ==
* Oracle HTTP Server
** [[関係データベース管理システム|RDBMS]]ベンダである[[オラクル (企業)|オラクル]]が提供するWebサーバ (Oracle HTTP Server) においては、[[Jakarta EE|Java EE]]を使用した[[アプリケーションサーバ|Webアプリケーションサーバ]]と連携して、HTMLドキュメント内にデータベースに検索を行わせるための[[SQL]]文を直接記述し、データベースからデータをHTMLベースで呼び出して加工する事が可能となっている。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[インターネット]]
* [[ウェブページ]]
* [[ホームページ]]
* [[ウェブブラウザ]]
* [[アプリケーションサーバ]]
* [[コンテンツ管理システム]] (CMS)
* [[ホスティングサーバ]]
* [[FTPサーバ]]
* [[ドメインネームサーバ]]
* [[サーバ]]
* [[バーチャルホスト]]
* [[Server Side Includes]] (SSI)
* [[帯域幅調整]] - [[トラフィックシェーピング]]
* [[サーバログ]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:うえふさあはあ}}
[[Category:Webサーバ|*]]
[[Category:サーバ]]
[[Category:World Wide Web]]
[[Category:アプリケーションソフト]]
{{Computer-stub}} | null | 2023-03-04T14:47:29Z | false | false | false | [
"Template:En",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Normdaten",
"Template:Computer-stub",
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Web%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%90 |
3,610 | オーダーN法 | オーダーN 法(オーダーN ほう、英: order N method, linear scaling method, O(N ) method)とは、バンド計算の計算量を、扱う系(単位胞内)の原子の数N の 1 乗のオーダー(オーダーN )にしようとする電子状態計算手法のことである。
通常のバンド計算での計算量は粗い評価であるが大体、(扱う系の原子数)×(系を記述する基底関数の数)×(系の総電子数〔≒バンドの数〕)となる。いずれも原子数N に比例する量であり、オーダーとしてN 程度となる。系が巨大な場合、つまり実空間で巨大なスーパーセルをとる場合、逆格子空間におけるk点の数はΓ点一点のみかごく少数(一定値)で済むので、ここでは考えない。
複数の試みがあるが代表的なものとして、
などがある。まだ発展途上の手法であるが、通常の第一原理によるバンド計算が扱える原子数の上限が、最も条件の良い場合でも一千原子のオーダーであることから、一万あるいはそれ以上の原子からなる系を扱う手法としてオーダーN 法は注目されている。オーダーN法には、第一原理によるもの、経験的なパラメーターに依るものが存在する。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "オーダーN 法(オーダーN ほう、英: order N method, linear scaling method, O(N ) method)とは、バンド計算の計算量を、扱う系(単位胞内)の原子の数N の 1 乗のオーダー(オーダーN )にしようとする電子状態計算手法のことである。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "通常のバンド計算での計算量は粗い評価であるが大体、(扱う系の原子数)×(系を記述する基底関数の数)×(系の総電子数〔≒バンドの数〕)となる。いずれも原子数N に比例する量であり、オーダーとしてN 程度となる。系が巨大な場合、つまり実空間で巨大なスーパーセルをとる場合、逆格子空間におけるk点の数はΓ点一点のみかごく少数(一定値)で済むので、ここでは考えない。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "複数の試みがあるが代表的なものとして、",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "などがある。まだ発展途上の手法であるが、通常の第一原理によるバンド計算が扱える原子数の上限が、最も条件の良い場合でも一千原子のオーダーであることから、一万あるいはそれ以上の原子からなる系を扱う手法としてオーダーN 法は注目されている。オーダーN法には、第一原理によるもの、経験的なパラメーターに依るものが存在する。",
"title": null
}
] | オーダーN 法とは、バンド計算の計算量を、扱う系(単位胞内)の原子の数N の 1 乗のオーダー(オーダーN )にしようとする電子状態計算手法のことである。 通常のバンド計算での計算量は粗い評価であるが大体、(扱う系の原子数)×(系を記述する基底関数の数)×(系の総電子数〔≒バンドの数〕)となる。いずれも原子数N に比例する量であり、オーダーとしてN 3 程度となる。系が巨大な場合、つまり実空間で巨大なスーパーセルをとる場合、逆格子空間におけるk点の数はΓ点一点のみかごく少数(一定値)で済むので、ここでは考えない。 複数の試みがあるが代表的なものとして、 密度行列によるアプローチ
ボンドオーダーポテンシャルによるもの
局在基底を使ったもの
リカージョン(連分数)法によるもの などがある。まだ発展途上の手法であるが、通常の第一原理によるバンド計算が扱える原子数の上限が、最も条件の良い場合でも一千原子のオーダーであることから、一万あるいはそれ以上の原子からなる系を扱う手法としてオーダーN 法は注目されている。オーダーN法には、第一原理によるもの、経験的なパラメーターに依るものが存在する。 | {{出典の明記|date=2013年4月7日 (日) 05:51 (UTC)}}
'''オーダー''N'' 法'''(オーダー''N'' ほう、{{lang-en-short|order ''N'' method, linear scaling method, O(''N'' ) method}})とは、[[バンド計算]]の[[計算量]]を、扱う系([[単位胞]]内)の[[原子]]の数''N'' の 1 乗の[[ランダウの記号|オーダー]](オーダー''N'' )にしようとする電子状態計算手法のことである。
通常のバンド計算での計算量は粗い評価であるが大体、(扱う系の原子数)×(系を記述する[[基底関数]]の数)×(系の総電子数〔≒バンドの数〕)となる。いずれも原子数''N'' に比例する量であり、オーダーとして''N'' <sup>3</sup> 程度となる。系が巨大な場合、つまり実空間で巨大な[[スーパーセル法|スーパーセル]]をとる場合、[[逆格子空間]]における[[ブリュアンゾーン#k点|k点]]の数はΓ点一点のみかごく少数(一定値)で済むので、ここでは考えない。
複数の試みがあるが代表的なものとして、
# [[密度行列]]によるアプローチ
# [[ボンドオーダーポテンシャル]]によるもの
# [[局在基底]]を使ったもの
# リカージョン([[連分数]])法によるもの
などがある。まだ発展途上の手法であるが、通常の第一原理によるバンド計算が扱える原子数の上限が、最も条件の良い場合でも一千原子のオーダーであることから、一万あるいはそれ以上の原子からなる系を扱う手法としてオーダー''N'' 法は注目されている。オーダーN法には、第一原理によるもの、経験的なパラメーターに依るものが存在する。
== 関連項目 ==
*[[ハイブリッド法]]
*[[第一原理バンド計算]]
{{DEFAULTSORT:おおたあえぬほう}}
[[Category:バンド計算]] | null | 2023-02-24T16:53:56Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:Lang-en-short"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BCN%E6%B3%95 |
3,611 | Apache HTTP Server | Apache HTTP Server(アパッチ エイチティーティーピー サーバ)は、Apache License2.0の条件でリリースされるフリーでオープンソースのクロスプラットフォームのWebサーバソフトウェアである。Apache はApacheソフトウェア財団の支援のもと、開発者のオープンコミュニティによって開発・保守されている。
Apache HTTP サーバのインスタンスの大部分は Linuxディストリビューション上で動作するが、現在のバージョンは Microsoft Windows や様々な Unixライクなシステム上でも動作する。過去のバージョンでは、OpenVMS、NetWare、OS/2、メインフレームへの移植を含む他のオペレーティングシステムでも動作した。
元々は NCSA HTTPdサーバをベースにしていたが、NCSAコードの作業が停滞した後、1995 年初頭にApache の開発が始まった。Apache はWorld Wide Webの最初の成長において重要な役割を果たし、支配的な HTTP サーバとしてすぐに NCSA HTTPd を追い抜き、1996 年 4 月以来、最も人気のあるサーバであり続けている。2009年には、1億以上のウェブサイトにサービスを提供する最初のウェブサーバーソフトウェアとなった。2020年4月現在、Netcraftの推定では、Apacheは最もアクセスの多い100万のウェブサイトの29.12%のサーバーで利用され、Nginxは25.54%で利用されている。W3Techsによると、Apacheは上位1000万サイトの39.5%で利用され、Nginxは31.7%で利用されている。
2018年3月現在、Apacheの公式ページでは2.4系のみを推奨リリースとしている 。
1.3系、2.0系、2.2系を含む古い系列は、アーカイブ・サイトからダウンロードできる。
Apacheの機能はモジュールを追加することで拡張できる。Apacheの核となる「Core」がまずあり、そこへモジュールを追加して機能を拡張する。モジュール名は慣習的に「mod_XXX」と付けられる。XXXは機能の概要名である。例えば「mod_dir」「mod_alias」「mod_setenvif」などとなる。
モジュールは「静的リンク」または「動的リンク」により追加できる。静的リンクとは、Apacheの実行ファイルそのものにモジュールを組み込む方式である。つまりApacheとモジュールはバイナリ的に一体化して動作する。動的リンクとは、モジュールを別ファイルとして作成し、必要に応じてモジュールのファイルから機能を呼び出す方式である。この機能を「DSO(Dynamic Shared Object=動的共有オブジェクト)」と呼ぶ。動的リンクの機能を利用するためには、あらかじめ「mod_so」モジュールを静的リンクしておく必要がある。
動的リンクはモジュール機能の呼び出しで静的リンクよりも負荷が高くなる(オーバーヘッドがかかる)デメリットがあるが、再起動のみでモジュールを組み入れたり外したりできるメリットがある。 逆に静的リンクは高速にモジュール機能を呼び出せるが、モジュールを入れたり外すためにはApache本体を再コンパイルする必要がある。
Apacheは数多くのOSをサポートするために、MPM(マルチ プロセッシング モジュール)という仕組みをとっている。これにより、利用するOSに最適化されたApacheを容易に組み込むことができる。
Unix系においては、プロセス・スレッドの挙動が異なる3つのMPMが利用できる。
このほか、Netware、OS/2、Windows向けにそれぞれ専用のMPMが用意されている。
Apacheは、主にワールドワイドウェブ上で静的または動的なコンテンツを公開するために使われる。多くのウェブアプリケーションは、Apacheが提供する環境と機能を想定して設計されている。また、ApacheはLAMP (Linux、Apache、MySQL、PHP/Perl/Python) や LAPP (Linux、Apache、PostgreSQL、PHP/Perl/Python) と呼ばれる非常に人気のあるウェブサーバコンポーネントの一つでもある。読み方はそれぞれLAMP(ランプ)、LAPP(ラップ)である。さらに、Apacheはいろいろな商用パッケージ、例えばOracle Databaseに組み込まれており、macOSやNetWare 6.5の標準Webサーバにもなっている。
Apacheでは、FreeBSDのカーネルと連動し、最高の性能を引き出す特殊な動作形態をサポートしている。 これはFreeBSDをHTTPサーバに特化するという運用形態を想定したもので、FreeBSD及びApacheの両者に設定が必要であり、共にインストール直後の標準設定ではサポートされない。
基本的な動作は、LinuxのTUX web serverやWindowsのInternet Information Servicesなどに近い実装であり、通信バッファのカーネルからの直接的な読込やkqueueなど多岐にわたり、一部のみ利用ということも可能になっている。
同形態はLinuxにおけるサポートも検討されたが、あまりに特殊であるため未実装となっている。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "Apache HTTP Server(アパッチ エイチティーティーピー サーバ)は、Apache License2.0の条件でリリースされるフリーでオープンソースのクロスプラットフォームのWebサーバソフトウェアである。Apache はApacheソフトウェア財団の支援のもと、開発者のオープンコミュニティによって開発・保守されている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "Apache HTTP サーバのインスタンスの大部分は Linuxディストリビューション上で動作するが、現在のバージョンは Microsoft Windows や様々な Unixライクなシステム上でも動作する。過去のバージョンでは、OpenVMS、NetWare、OS/2、メインフレームへの移植を含む他のオペレーティングシステムでも動作した。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "元々は NCSA HTTPdサーバをベースにしていたが、NCSAコードの作業が停滞した後、1995 年初頭にApache の開発が始まった。Apache はWorld Wide Webの最初の成長において重要な役割を果たし、支配的な HTTP サーバとしてすぐに NCSA HTTPd を追い抜き、1996 年 4 月以来、最も人気のあるサーバであり続けている。2009年には、1億以上のウェブサイトにサービスを提供する最初のウェブサーバーソフトウェアとなった。2020年4月現在、Netcraftの推定では、Apacheは最もアクセスの多い100万のウェブサイトの29.12%のサーバーで利用され、Nginxは25.54%で利用されている。W3Techsによると、Apacheは上位1000万サイトの39.5%で利用され、Nginxは31.7%で利用されている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "2018年3月現在、Apacheの公式ページでは2.4系のみを推奨リリースとしている 。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "1.3系、2.0系、2.2系を含む古い系列は、アーカイブ・サイトからダウンロードできる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "Apacheの機能はモジュールを追加することで拡張できる。Apacheの核となる「Core」がまずあり、そこへモジュールを追加して機能を拡張する。モジュール名は慣習的に「mod_XXX」と付けられる。XXXは機能の概要名である。例えば「mod_dir」「mod_alias」「mod_setenvif」などとなる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "モジュールは「静的リンク」または「動的リンク」により追加できる。静的リンクとは、Apacheの実行ファイルそのものにモジュールを組み込む方式である。つまりApacheとモジュールはバイナリ的に一体化して動作する。動的リンクとは、モジュールを別ファイルとして作成し、必要に応じてモジュールのファイルから機能を呼び出す方式である。この機能を「DSO(Dynamic Shared Object=動的共有オブジェクト)」と呼ぶ。動的リンクの機能を利用するためには、あらかじめ「mod_so」モジュールを静的リンクしておく必要がある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "動的リンクはモジュール機能の呼び出しで静的リンクよりも負荷が高くなる(オーバーヘッドがかかる)デメリットがあるが、再起動のみでモジュールを組み入れたり外したりできるメリットがある。 逆に静的リンクは高速にモジュール機能を呼び出せるが、モジュールを入れたり外すためにはApache本体を再コンパイルする必要がある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "Apacheは数多くのOSをサポートするために、MPM(マルチ プロセッシング モジュール)という仕組みをとっている。これにより、利用するOSに最適化されたApacheを容易に組み込むことができる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "Unix系においては、プロセス・スレッドの挙動が異なる3つのMPMが利用できる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "このほか、Netware、OS/2、Windows向けにそれぞれ専用のMPMが用意されている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "Apacheは、主にワールドワイドウェブ上で静的または動的なコンテンツを公開するために使われる。多くのウェブアプリケーションは、Apacheが提供する環境と機能を想定して設計されている。また、ApacheはLAMP (Linux、Apache、MySQL、PHP/Perl/Python) や LAPP (Linux、Apache、PostgreSQL、PHP/Perl/Python) と呼ばれる非常に人気のあるウェブサーバコンポーネントの一つでもある。読み方はそれぞれLAMP(ランプ)、LAPP(ラップ)である。さらに、Apacheはいろいろな商用パッケージ、例えばOracle Databaseに組み込まれており、macOSやNetWare 6.5の標準Webサーバにもなっている。",
"title": "利用形態"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "Apacheでは、FreeBSDのカーネルと連動し、最高の性能を引き出す特殊な動作形態をサポートしている。 これはFreeBSDをHTTPサーバに特化するという運用形態を想定したもので、FreeBSD及びApacheの両者に設定が必要であり、共にインストール直後の標準設定ではサポートされない。",
"title": "利用形態"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "基本的な動作は、LinuxのTUX web serverやWindowsのInternet Information Servicesなどに近い実装であり、通信バッファのカーネルからの直接的な読込やkqueueなど多岐にわたり、一部のみ利用ということも可能になっている。",
"title": "利用形態"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "同形態はLinuxにおけるサポートも検討されたが、あまりに特殊であるため未実装となっている。",
"title": "利用形態"
}
] | Apache HTTP Serverは、Apache License2.0の条件でリリースされるフリーでオープンソースのクロスプラットフォームのWebサーバソフトウェアである。Apache はApacheソフトウェア財団の支援のもと、開発者のオープンコミュニティによって開発・保守されている。 Apache HTTP サーバのインスタンスの大部分は Linuxディストリビューション上で動作するが、現在のバージョンは Microsoft Windows や様々な Unixライクなシステム上でも動作する。過去のバージョンでは、OpenVMS、NetWare、OS/2、メインフレームへの移植を含む他のオペレーティングシステムでも動作した。 元々は NCSA HTTPdサーバをベースにしていたが、NCSAコードの作業が停滞した後、1995 年初頭にApache の開発が始まった。Apache はWorld Wide Webの最初の成長において重要な役割を果たし、支配的な HTTP サーバとしてすぐに NCSA HTTPd を追い抜き、1996 年 4 月以来、最も人気のあるサーバであり続けている。2009年には、1億以上のウェブサイトにサービスを提供する最初のウェブサーバーソフトウェアとなった。2020年4月現在、Netcraftの推定では、Apacheは最もアクセスの多い100万のウェブサイトの29.12%のサーバーで利用され、Nginxは25.54%で利用されている。W3Techsによると、Apacheは上位1000万サイトの39.5%で利用され、Nginxは31.7%で利用されている。 | {{redirect|Apache|そのほかの用法|アパッチ (曖昧さ回避)}}
{{Infobox Software
| 名称 = Apache HTTP Server
| ロゴ = Apache HTTP server logo (2019-present).svg
| スクリーンショット =
| 説明文 =
| 開発元 = [[Apacheソフトウェア財団]]
| 初版 = {{release date and age|1995}}<ref>{{Cite web|url=http://httpd.apache.org/ABOUT_APACHE.html|title=About the Apache HTTP Server Project|publisher=[[Apacheソフトウェア財団]]|accessdate=2013-05-30}}</ref>
| frequently updated = yes <!-- バージョンを更新するときはこのページを編集せず、番号部分をクリックしてその先のテンプレートで番号と日付を更新してください -->
| 対応プラットフォーム = [[クロスプラットフォーム]]
| 種別 = [[Webサーバ]]
| ライセンス = [[Apache License]]、2023年5月現在はApache License 2.0<ref>{{Cite web |title=Licenses |url=https://www.apache.org/licenses/ |website=www.apache.org |access-date=2023-05-11}}</ref>
| 公式サイト = https://httpd.apache.org/
}}
'''Apache HTTP Server'''(アパッチ エイチティーティーピー サーバ)は、[[Apache License]]2.0の条件でリリースされる[[フリーソフトウェア|フリー]]で[[オープンソース]]の[[クロスプラットフォーム]]の[[Webサーバ]][[ソフトウェア]]である。Apache は[[Apacheソフトウェア財団]]の支援のもと、開発者のオープンコミュニティによって開発・保守されている。
Apache HTTP サーバのインスタンスの大部分は [[Linuxディストリビューション]]上で動作するが、現在のバージョンは [[Microsoft Windows]] や様々な [[Unix系|Unixライク]]なシステム上でも動作する。過去のバージョンでは、[[OpenVMS]]、[[NetWare]]、[[OS/2]]、[[メインフレーム]]への移植を含む他のオペレーティングシステムでも動作した。
元々は [[NCSA HTTPd]]サーバをベースにしていたが、NCSAコードの作業が停滞した後、1995 年初頭にApache の開発が始まった。Apache は[[World Wide Web]]の最初の成長において重要な役割を果たし、支配的な HTTP サーバとしてすぐに NCSA HTTPd を追い抜き、1996 年 4 月以来、最も人気のあるサーバであり続けている。2009年には、1億以上のウェブサイトにサービスを提供する最初のウェブサーバーソフトウェアとなった。2020年4月現在、Netcraftの推定では、Apacheは最もアクセスの多い100万のウェブサイトの29.12%のサーバーで利用され、[[Nginx]]は25.54%で利用されている。W3Techsによると、Apacheは上位1000万サイトの39.5%で利用され、Nginxは31.7%で利用されている。
== 歴史 ==
;[[1995年]]
:[[Webサーバ]][[ソフトウェア]]は[[欧州原子核研究機構]] (CERN) の[[ティム・バーナーズ=リー]]が開発した[[CERN httpd]]と[[米国立スーパーコンピュータ応用研究所]] (NCSA) が開発した[[NCSA HTTPd]]の2種類があった。NCSA HTTPdは初めてCGIを採用するなど、非常に普及していたが、その後ほとんどメンテナンスが行われなくなり、放置されていた。そこで、何人かの有志が改良とサポートを行うためのグループを作り、自分たちを「'''Apache Group'''」と名付けた。しかし、彼等もその後プロジェクトに興味を失ってしまい、再度放置されかけた。
;[[1999年]]以降
:放置されかけたのち、1999年にユーザーの一人だった[[Brian Behlendorf]]が自分のサーバを使ってユーザーのための[[メーリングリスト]]を立ち上げた。これが現在のApacheソフトウェア財団の母体になっている。ただし、現在のApacheのソースコードはApacheソフトウェア財団によって完全に書き換えられており、NCSA HTTPdのコードは残っていない。
== 特徴 ==
=== サポート ===
{|class="wikitable" style="float: right; margin-left: 1em;"
|-
!バージョン
!初版
!最新版
|-
!scope="row" {{Version|o|1.3}}
|1998-06-06<ref>{{Cite web2|language=en|url=http://marc.info/?l=apache-httpd-announce&m=90221040625561&w=2|title=Announcement: Apache 1.3.0 Released !|date=6 June 1998|accessdate=2015-01-06}}</ref>
|2010-02-03 (1.3.42)<ref>{{cite web2|language=en|url=http://mail-archives.apache.org/mod_mbox/httpd-announce/201002.mbox/%3C20100203000334.GA19021%40infiltrator.stdlib.net%3E|title=Apache HTTP Server 1.3.42 released (final release of 1.3.x)|work=apache.org|accessdate=2020-05-27}}</ref>
|-
!scope="row" {{Version|o|2.0}}
|2002-04-06<ref>{{Cite web2|language=en|url=http://marc.info/?l=apache-httpd-announce&m=101810732100356&w=2|title=Official Release: Apache 2.0.35 is now GA|date=6 April 2002|accessdate=2015-01-06}}</ref>
|2013-07-10 (2.0.65)<ref>{{cite web2|language=en|url=http://mail-archives.apache.org/mod_mbox/httpd-announce/201307.mbox/%3C20130710124920.2b8793ed.wrowe%40rowe-clan.net%3E|title=[Announcement] Apache HTTP Server 2.0.65 Released|work=apache.org|accessdate=2020-05-27}}</ref>
|-
!scope="row" {{Version|o|2.2}}
|2005-12-01<ref>{{Cite web2|language=en|url=http://marc.info/?l=apache-httpd-announce&m=113347470201565&w=2|title=Apache HTTP Server 2.2.0 Released|date=1 December 2005|accessdate=2015-01-06}}</ref>
|2017-07-11 (2.2.34)<ref>{{cite web2|language=en|url=https://mail-archives.apache.org/mod_mbox/www-announce/201707.mbox/%3CCACsi2512a0dKZm5SEb9GyNH6nMfs1+swpxyui3c+UZUwvi3vvg@mail.gmail.com%3E|title=[Announce] Apache HTTP Server 2.2.34 Released|work=apache.org|accessdate=2020-05-27}}</ref>
|-
!scope="row" {{Version|c|2.4}}
|2012-02-21<ref>{{Cite web2|language=en|url=http://marc.info/?l=apache-httpd-announce&m=132983471818384&w=2|title=[ANNOUNCEMENT] Apache HTTP Server 2.4.1 Released|date=21 February 2012|accessdate=2015-07-17}}</ref>
|2023-10-19 (2.4.58)<ref>{{cite web2|language=en|url=https://www.apache.org/dist/httpd/Announcement2.4.html|title=Apache HTTP Server 2.4.58 Released|work=apache.org|accessdate=2023-10-19}}</ref>
|-
|colspan="3"|{{Version|l|show=010100}}
|}
2018年3月現在、Apacheの公式ページでは2.4系のみを推奨リリースとしている <ref>{{Cite web |url=https://httpd.apache.org/ |title=Welcome! - The Apache HTTP Server Project |accessdate=2018-03-17}}</ref>。
1.3系、2.0系、2.2系を含む古い系列は、アーカイブ・サイト<ref>{{Cite web |url=http://archive.apache.org/dist/httpd/ |title=archive.apache.org |accessdate=2018-03-17}}</ref>からダウンロードできる。
=== モジュールによる機能追加 ===
Apacheの機能はモジュールを追加することで拡張できる。Apacheの核となる「Core」がまずあり、そこへモジュールを追加して機能を拡張する。モジュール名は慣習的に「mod_XXX」と付けられる。XXXは機能の概要名である。例えば「mod_dir」「mod_alias」「mod_setenvif」などとなる。
モジュールは「[[静的リンク]]」または「[[動的リンク]]」により追加できる。'''静的リンク'''とは、Apacheの実行ファイルそのものにモジュールを組み込む方式である。つまりApacheとモジュールはバイナリ的に一体化して動作する。'''動的リンク'''とは、モジュールを別ファイルとして作成し、必要に応じてモジュールのファイルから機能を呼び出す方式である。この機能を「DSO(Dynamic Shared Object=動的共有オブジェクト)」と呼ぶ。動的リンクの機能を利用するためには、あらかじめ「mod_so」モジュールを静的リンクしておく必要がある。
動的リンクはモジュール機能の呼び出しで静的リンクよりも負荷が高くなる(オーバーヘッドがかかる)デメリットがあるが、再起動のみでモジュールを組み入れたり外したりできるメリットがある。
逆に静的リンクは高速にモジュール機能を呼び出せるが、モジュールを入れたり外すためにはApache本体を再コンパイルする必要がある。
=== プロセスの挙動 (MPM) ===
Apacheは数多くのOSをサポートするために、MPM(マルチ プロセッシング モジュール)という仕組みをとっている。これにより、利用するOSに最適化されたApacheを容易に組み込むことができる。
[[Unix系]]においては、[[プロセス]]・[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]の挙動が異なる3つのMPMが利用できる。
; prefork
: preforkは「スレッドを使わず、先行して [[fork]] を行なうウェブサーバ」である。Apacheは伝統的に親プロセスを1つ持ち、クライアントからリクエストが来ると自分自身をコピーして子プロセスを起動する(これをforkという)。実際の通信は子プロセスが受け持つ。そのため、通信している数だけ子プロセスが起動することになる。この時、クライアントからリクエストを受けたあとでforkするとfork完了までに待ち時間が出来て通信のパフォーマンスが遅くなる。そのため、あらかじめいくつかの子プロセスをforkしておき、forkの待ち時間をなくす方式をとっている。この方式が「prefork」である。すなわち“pre(=前もって・先行して)”forkしておく、という意味である。
: preforkのメリットは、forkされた子プロセス1つ1つが対応する通信を受け持つため、ある子プロセスが何らかの原因でフリーズしたとしても、他の子プロセスには影響を及ぼすことが無く通信を継続できる。このため安定した通信を行うことが出来る。一方、クライアントが多くなればなるほど子プロセスの数も増えるため、使用メモリ量やCPU負荷が比例的に増大していく。preforkで多数のクライアントをさばくには、それに応じた大量のメモリと高速なCPUが必要となる。
; worker
: workerは「マルチスレッドとマルチプロセスのハイブリッド型サーバ」である。Apacheの子プロセス1つ1つがマルチスレッドで動作し、スレッド1つが1つのクライアントを受け持つ方式である。すなわち、1つのプロセスがマルチスレッドを利用して複数の通信の面倒を見る。この点で1つのプロセスが1つの通信をみるpreforkとは異なる。また多くの子プロセスを起動せずに済むため、メモリの使用量も減らすことが出来る。
; event
: eventはworkerの一種でマルチスレッドで動作する。workerとの違いはKeep-Alive([[HTTPの持続的接続|持続的接続]])の処理方法である。workerやpreforkは、Keep-Aliveの持続性を保つために一度利用したスレッド・プロセスをそのまま待機させている。しかしクライアントからの接続が持続的に行われる可能性は保証されているわけではないから、待機していること自体が無駄になる可能性もある。そこで、Keep-Aliveの処理を別のスレッドに割り振って通信を処理する。
: この方式は長らく実験的サポートであったが、2.4.1にて正式に採用された<ref>{{Cite web|和書|url=http://sourceforge.jp/magazine/12/02/22/0745252|title=Apache HTTP Server、6年ぶりのメジャーアップデート版「2.4.1」リリース|publisher=[[SourceForge.JP]]|date=2012-02-22|accessdate=2012-02-23}}</ref>。
このほか、Netware、OS/2、Windows向けにそれぞれ専用のMPMが用意されている。
== 利用形態 ==
Apacheは、主に[[World Wide Web|ワールドワイドウェブ]]上で静的または動的なコンテンツを公開するために使われる。多くの[[ウェブアプリケーション]]は、Apacheが提供する環境と機能を想定して設計されている。また、Apacheは[[LAMP_(ソフトウェアバンドル)|LAMP]] ([[Linux]]、Apache、[[MySQL]]、[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]/[[Perl]]/[[Python]]) や [[LAPP]] (Linux、Apache、[[PostgreSQL]]、PHP/Perl/Python) と呼ばれる非常に人気のあるウェブサーバコンポーネントの一つでもある。読み方はそれぞれLAMP(ランプ)、LAPP(ラップ)である。さらに、Apacheはいろいろな商用パッケージ、例えば[[Oracle Database]]に組み込まれており、[[macOS]]や[[NetWare]] 6.5の標準[[Webサーバ]]にもなっている。
=== 特殊な形態 ===
Apacheでは、[[FreeBSD]]のカーネルと連動し、最高の性能を引き出す特殊な動作形態をサポートしている<ref>{{Cite web|url=http://www.freebsd.org/cgi/man.cgi?query=accf_http|title=accf_http|accessdate=2013-06-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://httpd.apache.org/docs/2.4/mod/core.html#acceptfilter|title=Apache コア機能 AcceptFilter ディレクティブ|accessdate=2016-10-10}}</ref>。
これはFreeBSDをHTTPサーバに特化するという運用形態を想定したもので、FreeBSD及びApacheの両者に設定が必要であり、共にインストール直後の標準設定ではサポートされない。
基本的な動作は、Linuxの[[TUX web server]]やWindowsの[[Internet Information Services]]などに近い実装であり、通信バッファのカーネルからの直接的な読込や[[kqueue]]など多岐にわたり、一部のみ利用ということも可能になっている。
{{独自研究範囲|同形態はLinuxにおけるサポートも検討されたが、あまりに特殊であるため未実装となっている。|date=2013年5月}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}}
{{commonscat|Apache HTTP Server}}
*[[IBM HTTP Server]]
*[[nginx]]
*[[Microsoft Internet Information Services]]
*[[オープンストリートマップ]] (OpenStreetMap) - Apacheのモジュールmod_tileの機能を利用している。
*[[Webサーバ]]
== 外部リンク ==
* {{official website}} {{en icon}}
{{Webサーバソフトウェア}}
{{Apache}}
{{authority control}}
{{DEFAULTSORT:Apache HTTP}}
[[Category:Webサーバ]]
[[Category:Apacheソフトウェア財団|HTTP Server]]
[[Category:オープンソースソフトウェア]]
[[Category:1995年のソフトウェア]] | 2003-03-07T12:21:26Z | 2023-11-25T08:02:13Z | false | false | false | [
"Template:Cite web",
"Template:Portal",
"Template:Commonscat",
"Template:Version",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web2",
"Template:En icon",
"Template:Webサーバソフトウェア",
"Template:独自研究範囲",
"Template:Official website",
"Template:Authority control",
"Template:Redirect",
"Template:Infobox Software",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Apache"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Apache_HTTP_Server |
3,616 | 紙切り | 紙切り(かみきり)とは、紙を鋏で切り、形を作る即興性のある伝統芸能のひとつである。寄席では色物の一つとして紙切りの芸を披露する。このような芸では客からのリクエストに応える場合もあり、縁起物や芝居の一場面など古典的なものから、動物やアニメのキャラクターまで題材は多岐に渡る。形で表現するのに難しいお題も、その場で頓知を利かせて具現化させたり、切っている最中も黙ったりせず、客を飽きさせないように喋り続けるなど、単に紙を切る技術だけでは成立しない芸である。切りあがったものは、ほとんど客に供される。
もともとは中国で古来からあった剪紙といわれる切り絵文化が仏教とともに日本に伝わったとされる。 繊細で時間のかかる工芸だったものを、江戸時代になり宴席の余興として、より簡略化した図柄や形を謡や音曲に合わせて鋏1つで素早く切り抜く芸として始まった。寄席の出し物としては1873年(明治6年)に幇間の喜楽亭おもちゃ(後、巴家おもちゃ)が高座で披露した。しかし色物の中でも地味な芸であったため、以降も寄席では数人しか紙切り芸人はおらず、当時の作品はほとんど残っていない。
第二次大戦後、テレビ放送が始まると、切り絵クイズ番組に出演した初代林家正楽が有名となった。当初テレビ局側は紙切り芸人の柳家一兆に依頼したが、「クイズに使う、訳のわからない切り絵は正楽に頼め」と断ったため、初代正楽が紙切りでクイズを出題することになった。
柳家一兆(後の花房一兆、小倉一兆(一晁))の弟子には、「モダン紙切り」で人気を博した花房蝶二や、現在、鋏切絵作家としても活動している柳家松太郎がおり、初代正楽の弟子には2代目正楽、林家今丸がいた。2代目正楽は当初、落語家として8代目林家正蔵(後の林家彦六)に入門したが、言葉の訛りが抜けず落語家を断念、紙切りとして初代正楽に弟子入りした。その2代目正楽の弟子には、3代目正楽と林家二楽がいるが、二楽は2代目正楽の次男である(長男は落語家の三代目桂小南)。大阪では香見喜利平、晴乃ダイナらが活躍した。
日本国外では、紙切り芸は非常に珍しいパフォーマンスとして扱われ、ペーパー・カッティング・クラフトとも呼ばれる。このため現地での日本関連イベントに招聘されて公演をする機会が多い。林家二楽師は2006年より毎夏バーモント州ミドルベリー大学日本語学校に招聘され、紙切りワークショップと公演を行っている。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "紙切り(かみきり)とは、紙を鋏で切り、形を作る即興性のある伝統芸能のひとつである。寄席では色物の一つとして紙切りの芸を披露する。このような芸では客からのリクエストに応える場合もあり、縁起物や芝居の一場面など古典的なものから、動物やアニメのキャラクターまで題材は多岐に渡る。形で表現するのに難しいお題も、その場で頓知を利かせて具現化させたり、切っている最中も黙ったりせず、客を飽きさせないように喋り続けるなど、単に紙を切る技術だけでは成立しない芸である。切りあがったものは、ほとんど客に供される。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "もともとは中国で古来からあった剪紙といわれる切り絵文化が仏教とともに日本に伝わったとされる。 繊細で時間のかかる工芸だったものを、江戸時代になり宴席の余興として、より簡略化した図柄や形を謡や音曲に合わせて鋏1つで素早く切り抜く芸として始まった。寄席の出し物としては1873年(明治6年)に幇間の喜楽亭おもちゃ(後、巴家おもちゃ)が高座で披露した。しかし色物の中でも地味な芸であったため、以降も寄席では数人しか紙切り芸人はおらず、当時の作品はほとんど残っていない。",
"title": "日本の紙切り"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "第二次大戦後、テレビ放送が始まると、切り絵クイズ番組に出演した初代林家正楽が有名となった。当初テレビ局側は紙切り芸人の柳家一兆に依頼したが、「クイズに使う、訳のわからない切り絵は正楽に頼め」と断ったため、初代正楽が紙切りでクイズを出題することになった。",
"title": "日本の紙切り"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "柳家一兆(後の花房一兆、小倉一兆(一晁))の弟子には、「モダン紙切り」で人気を博した花房蝶二や、現在、鋏切絵作家としても活動している柳家松太郎がおり、初代正楽の弟子には2代目正楽、林家今丸がいた。2代目正楽は当初、落語家として8代目林家正蔵(後の林家彦六)に入門したが、言葉の訛りが抜けず落語家を断念、紙切りとして初代正楽に弟子入りした。その2代目正楽の弟子には、3代目正楽と林家二楽がいるが、二楽は2代目正楽の次男である(長男は落語家の三代目桂小南)。大阪では香見喜利平、晴乃ダイナらが活躍した。",
"title": "日本の紙切り"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "日本国外では、紙切り芸は非常に珍しいパフォーマンスとして扱われ、ペーパー・カッティング・クラフトとも呼ばれる。このため現地での日本関連イベントに招聘されて公演をする機会が多い。林家二楽師は2006年より毎夏バーモント州ミドルベリー大学日本語学校に招聘され、紙切りワークショップと公演を行っている。",
"title": "日本の紙切り"
}
] | 紙切り(かみきり)とは、紙を鋏で切り、形を作る即興性のある伝統芸能のひとつである。寄席では色物の一つとして紙切りの芸を披露する。このような芸では客からのリクエストに応える場合もあり、縁起物や芝居の一場面など古典的なものから、動物やアニメのキャラクターまで題材は多岐に渡る。形で表現するのに難しいお題も、その場で頓知を利かせて具現化させたり、切っている最中も黙ったりせず、客を飽きさせないように喋り続けるなど、単に紙を切る技術だけでは成立しない芸である。切りあがったものは、ほとんど客に供される。 | {{画像提供依頼|date=2020年4月|日本の紙切り}}
[[ファイル:Artist cutting and making a portrait, Paris March 2009.jpg|サムネイル|ヨーロッパの紙切り師。]]
[[ファイル:Cutting girl 1c 1.jpg|サムネイル|少女の横顔を切っているところ]]
'''紙切り'''(かみきり)とは、[[紙]]を鋏で切り、形を作る即興性のある[[伝統芸能]]のひとつである。[[寄席]]では[[色物]]の一つとして紙切りの芸を披露する。このような芸では客からのリクエストに応える場合もあり、縁起物や芝居の一場面など古典的なものから、動物やアニメのキャラクターまで題材は多岐に渡る。形で表現するのに難しいお題も、その場で頓知を利かせて具現化させたり、切っている最中も黙ったりせず、客を飽きさせないように喋り続けるなど、単に紙を切る[[技術]]だけでは成立しない芸である。切りあがったものは、ほとんど客に供される。
== 日本の紙切り==
===歴史 ===
もともとは中国で古来からあった[[剪紙]]といわれる[[切り絵]]文化が[[仏教]]とともに日本に伝わったとされる。
繊細で時間のかかる工芸だったものを、[[江戸時代]]になり宴席の余興として、より簡略化した図柄や形を謡や音曲に合わせて鋏1つで素早く切り抜く芸として始まった。寄席の出し物としては[[1873年]](明治6年)に[[幇間]]の喜楽亭おもちゃ(後、巴家おもちゃ)が高座で披露した。しかし色物の中でも地味な芸であったため、以降も寄席では数人しか紙切り芸人はおらず、当時の作品はほとんど残っていない。
[[戦後|第二次大戦後]]、テレビ放送が始まると、切り絵クイズ番組に出演した[[林家正楽|初代林家正楽]]が有名となった。当初テレビ局側は紙切り芸人の[[柳家一兆]]に依頼したが、「クイズに使う、訳のわからない切り絵は正楽に頼め」と断ったため、初代正楽が紙切りでクイズを出題することになった<ref>[http://bbfuji.jp/what_is_kirie/ 切り絵師 柳家松太郎 の部屋 切り絵とは]</ref>。
柳家一兆(後の花房一兆、小倉一兆(一晁))の弟子には、「モダン紙切り」で人気を博した[[花房蝶二]]や、現在、鋏切絵作家としても活動している[http://bbfuji.jp/kirie/ 柳家松太郎]がおり、初代正楽の弟子には2代目正楽、林家今丸がいた。2代目正楽は当初、[[落語家]]として[[林家彦六|8代目林家正蔵(後の林家彦六)]]に入門したが、言葉の訛りが抜けず落語家を断念、紙切りとして初代正楽に弟子入りした。その2代目正楽の弟子には、3代目正楽と[[林家二楽]]がいるが、二楽は2代目正楽の次男である(長男は[[落語家]]の[[桂小南 (3代目)|三代目桂小南]])。大阪では[[香見喜利平]]、[[晴乃ダイナ・ミック|晴乃ダイナ]]らが活躍した。
=== 国外公演 ===
日本国外では、紙切り芸は非常に珍しいパフォーマンスとして扱われ、ペーパー・カッティング・クラフトとも呼ばれる。このため現地での日本関連イベントに招聘されて公演をする機会が多い。林家二楽師は2006年より毎夏[[バーモント州]]ミドルベリー大学日本語学校に招聘され、紙切りワークショップと公演を行っている。
=== 現役の主な芸人 ===
* [[青空麒麟児]](あおぞら きりんじ)
*: 静岡県浜松市出身。[[コロムビア・トップ]]最後の弟子。身長190㎝の大男。漫才からの転身で独学で紙切り芸を学ぶ。[[フランス]]・[[カンヌ]]で紙切りを披露するなど海外でも活躍。テレビで「浅草の紙切り王子」として紹介され『紙切り王子 青空麒麟児』として親しまれている。紙切りだけでなくしゃべりも達者で、「日本舞踊」も出来る紙切り師。[[漫才協会]]・日本司会芸能協会所属。
* [[林家今丸]](はやしや いままる)
* [[林家正楽#江戸3代目|三代目林家正楽]]<!--リンク先に詳細があるため省略-->
* [[林家二楽]]<!--リンク先に詳細があるため省略-->
* [http://bbfuji.jp/kirie/ 柳家松太郎](やなぎや しょうたろう)
*: [[1946年]]、[[東京都]][[千代田区]]生まれ。[[1961年]]に柳家一兆に入門、兄弟子の花房蝶二から指導を受ける。[[1969年]]、花房小蝶二で初舞台。[[1980年]]柳家松太郎を襲名する。[[1990年]]より美術展に切り絵を出品する機会が多くなる。[[1998年]]に初の個展を開く。[[2002年]]、関西演芸協会会員となる。現在は[[東京都|世田谷区]]在住で、鋏切絵作家としての活動の他、TV番組のレポーターなどもこなす。漫才協会・[[日本きりえ協会]]会員。
* [[桃川忠]](ももかわ ちゅう)
*: [[1932年]]、[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]生まれ。幼少のころより紙切りに興味を持ち、以来、独学で紙切りの芸を磨く。趣味の一環としていたが、周囲に勧められて[[1981年]]にプロとしてデビュー。[[1992年]]スペイン・[[セビリア万国博覧会|セビリア万博]]に出演するなど、国外での公演活動も多い。独自に編み出した手法をもって、単に紙切りではなく「江戸紙切り」と称する。[[講談師]]の[[桃川如燕|2代目桃川如燕]]は母方の[[親戚]]にあたる。
* [[三遊亭絵馬]](さんゆうてい えま)
*:[[神奈川県]][[横浜市]]出身。美術大学卒業後、紙切り芸に魅せられ[[桃川忠]]に師事。イベント出演も多数あり、師匠に倣って「江戸紙切り」と称する。のちに[[三遊亭左圓馬]]に入門。[[東京演芸協会]]所属。
* 鈴木エリザベータ(すずき えりざべーた)
*: [[スイス]]国籍の女性で、[[1980年]]に林家今丸へ弟子入り、[[1987年]]、林家今寿の名をもらう。国内イベントの他、スイスやカナダなどでの出演も経験。
* KIRIGAMIST千陽(きりがみすとちあき)
*: [[1976年]][[10月4日]]、[[北海道]][[北見市]][[常呂町]]生まれの[[網走市]]育ち。幼少の頃に見た2代目林家正楽の紙切り芸に魅せられて以来、切り絵は大好きな遊びの一つとなる。[[1997年]]に[[札幌市]]の大道芸イベントで路上パフォーマーとしてデビュー。[[2002年]]に札幌在住の[[上方落語|上方]][[落語家]]、[[桂枝光]]に弟子入り、「花りん(かりん)」の芸名で[[よしもとクリエイティブ・エージェンシー札幌事務所|札幌吉本]]に所属したが、後に桂枝光門下を破門になり、「千陽」に改名した。現在は「KIRIGAMIST千陽」として、主に北海道内で活動している。[[2007年]]8月には千亜紀名義で切り絵個展「刀雅」を開催。アーティストとしても卓抜な才能を持つことを証明する。
* [[林家花]](はやしや はな)
*: 東京都出身。[[1995年]]に林家今丸に入門。[[落語芸術協会]]所属。前座修行を終え、[[2008年]]9月より寄席に出演。
*[[林家喜之輔]](はやしや きのすけ)
*: 1997年東京都[[武蔵野市]]出身。父親は落語家の[[三遊亭右左喜]]。落語芸術協会所属。2014年に林家今丸に入門、前座修業を経て[[2018年の日本|2018年]]3月より寄席に出演。父の右左喜が寄席の主任を務める際に膝代わり(主任の前の出番)を務めることがある。
*[[林家笑丸]](はやしや えみまる)
*:[[上方噺家]]で後ろ紙切りを得意とする。
*[[創作紙切り芸・紙切り屋マーキィ]](そうさくかみきりげい かみきりやまーきぃ)
*: 大阪在住。即興演劇の経験を活かした捻りのきいた絵柄を得意とする。仕掛けものや変身ものなど独特なスタイルで演じる。
*水口ちはる(みずぐち ちはる)
*: [[静岡県]][[伊豆市]][[修善寺]]在住。独学で紙切りを始め、2010年[[上海国際博覧会|上海万博]]ステージ・2012年フランスヨーロピアンフェアなどに出演。
*花房銀蝶(はなぶさ ぎんちょう)
*:「大道芸人つねむね」として[[漫才協会]]に所属、[[バルーンアート]]・[[ジャグリング]]など様々な芸をこなす。紙切り芸人としては柳家松太郎門下、2017年「花房銀蝶」。福を呼び込む紙切り師として活動、2023年[[笑点]]演芸コーナー出演。
=== 過去の紙切り芸人 ===
* [[泉たけし]](いずみ たけし)
*: [[1968年]]芸人デビュー、[[1975年]]に紙切り芸人として国立演芸場、[[日本放送協会|NHK]]「お笑い名人会」等に出演。生前は[[ボーイズ・バラエティー協会]]所属(相談役)。[[1992年]]以降、海外での日本関連イベントに多数出演する。[[2005年]]には愛・地球博に出演した。大人向けのお色気紙切りもレパートリーとする。師匠は[[名古屋市|名古屋]]の[[大須演芸場]]で活躍した紙切り芸人で、[[2006年]]に没した[[大東両]](だいとうりょう)。弟子に、[[はさみ家紙太郎]]がいる。2022年11月23日、死去。79歳没<ref>[https://bo-vara.com/news/5094.html 【訃報】] - ボーイズ・バラエティー協会 2022年12月9日</ref>。
==中国の紙切り==
{{main|剪紙}}
== 関連項目 ==
* [[切り絵]]
* [[落語協会]]
* [[落語芸術協会]]
==脚注==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.geikyo.com/ 落語芸術協会]
* [http://www.geidankyo.or.jp/ 日本芸能実演家団体協議会]
{{デフォルトソート:かみきり}}
[[Category:演芸]]
[[Category:日本の伝統芸能]]
[[Category:紙細工]] | 2003-03-07T13:05:00Z | 2023-10-14T13:49:14Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:画像提供依頼",
"Template:Main"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E5%88%87%E3%82%8A |
3,617 | 文化 | 文化(ぶんか、ラテン語: cultura)には、いくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の構成員として獲得する多数の振る舞いの全体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。もっとも文化は、次の意味で使われることも多い。
「文化」は一方では、日本の元号の一つで、江戸時代の19世紀前半に享和の後、文政の前に使われた。その語源は『易経』賁卦彖伝にある「観于天文、以察時変、観乎人文、以化成天下」」(天文を観て以て時変を察し、人文を観て以て天下を化成す)にあるとされている。他方、ラテン語 colere(耕す)から派生したculturaはローマ時代の政治家・哲学者のキケロも「cultura anima」などと使っている。現代の英語「Culture」・ドイツ語「Kultur」の訳語としては、明治時代に坪内逍遥が『小説神髄』(1885年)などで「文華」という言葉を使い、彼の東京専門学校の後輩・大西祝がマシュー・アーノルド著『Culture and Anarchy』の翻訳書『教養と無秩序』(1986年)で「文化」(ただし時々『文華』も)を初めて使ったのが知られている。その後、中国語でも「文化」が使われるようになった。
ラテン語 colere(耕す)から派生したドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕す」、「培養する」、「洗練したものにする」、「教化する」といった意味合いを持つ。18世紀後半に、産業化をひたさま技術革新、生産性の向上、社会の官僚化といった人間の外部に相当するものとしての文明と対比される、人間の精神面での向上を示す言葉として位置づけるものとしての文化という意味で議論を展開したのがマシュー・アーノルドである。この定義では文化は教養と言い換えることもできる。英語やフランス語は、日本語・中国語・ドイツ語とは異なり、「文化」と区別される「教養」という語を持っていないので、その間の区分が明示的でない。
人類学においては、人間と自然や動物の差異を説明するための概念が文化である。
こうした定義の最初のものはイギリスの人類学者エドワード・バーネット・タイラー (1871) の、
である。この文に続く進化主義的な議論は批判されているが、タイラーの定義は今でも基本的には正当性が認められている。
この定義は動物に社会が存在しないことが自明とされていた時代の定義であり、後に野生動物も社会を形成することが認められるようになると、新たな制約が加えられた。動物が使うことがない言語によって特徴づけるようになったのである。この場合、動物の音声コミュニケーションとは異なる特徴である再帰性や象徴性が強調された。レヴィ=ストロースによれば、言語は文化の条件であるという。つまり文化は、それが非言語的なものであっても言語的な性質を備えている象徴的な事象と定義するもので、構造主義文化人類学者によく使われる。
出発点が近代社会とは異なる世界を記述するための概念であった人類学的文化は、やがて近代社会を理解するための学問である社会学にも取り込まれるようになった。社会学における文化の定義は人類学から大きく影響を受けているが、例えばパーソンズは「ひとつの社会システムは、二つかそれ以上の諸社会の社会構造や成員や文化、あるいはそうした諸社会の構造、成員、文化のそのいずれかとかかわりあうことができる」として、一つの社会における多文化的な状況を記述可能にするために、社会システムと並立して正統性を担保するものとしての文化システムを定義づけた。シンボリック相互作用論者、なかでもタモツ・シブタニは、ある特定の集団ないしは社会的世界において、人々に共有されているパースペクティブ(認識枠組)を指すものとして文化を扱い、同じく、一つの社会における多文化的な状況(文化の多元的共在)の説明に有用な概念として捉えている。ハーバーマスは文化 (Kultur) を「文化とは知のストックのことであり、コミュニケーションの参加者達は世界におけるあるものについての了解しあうさいに、この知のストックから解釈を手に入れる」としている。このように行為、あるいはコミュニケーションに利用されるストックというアイデアは、ルーマンのゼマンティーク (Semantik)、フーコーのアーシーブ(Archive) などとも関連性が深い。
文化人類学者のクリフォード・ギアツもパーソンズ由来の文化を採用しているので、現在では社会学的文化と人類学的文化の境目はあまり重要ではない。
文化の概念は、通常、人間集団内で伝播されるものに対してのみ用いられるので、個人がただ発明しただけの状態では適用されることはない。また、地域や集団、時代によって文化様式は大きく異なることがある。アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、個々の文化はそれぞれの固有様式で統合されており、他の文化からの基準では本当の意味で理解することは困難であり、相対化と再帰的な検討が必要であるという文化相対主義を展開した。
文化は人間集団によって作られるが、同時に個々の人間も環境という形で、不断に文化に適応、学習させられていると考えられる。
日本文化や東京の下町文化、室町文化など地理的、歴史的なまとまりによって文化を定義するもの、おたく文化のように集団を構成する人を基準に文化を定義するもの、出版文化や食文化のように人の活動の種類によって定義するものなど、個々の文化は様々な形で定義、概念化される。
さらに小規模な集団にも企業の「社風」、学校の「校風」、ある家系の「家風」などがあり、これらも文化と呼ばれる。
上記のタイラーの定義にもみられるとおり、社会科学分野では人間以外の生物は文化を持たないものと長年考えられてきた。しかし野生動物の長期野外調査の蓄積によって、同種個体でも地域差が見られたりすることや道具を使用することは知られている。たとえば、ニュージーランド沖の島に住むセアカホオダレムクドリの鳥のさえずりは、遺伝的に親から子へ伝わるのではなく、人間の言語と同様に、模倣という手段によって伝達され、異なるグループでは方言のように異なるさえずりが観察できる。これは、多くの動物が社会的学習能力を持ち、さらにそれを集団内において文化的伝統として保持していることを示している。一方で、そうした文化的伝統は蓄積を伴わず、ある獲得された文化を改良してさらに優れた文化を生み出すといった動きは人間以外の生物にはまったく見られない。
文化という概念がほぼ確立した19世紀には、文化や社会がどのように進化していくかという社会文化的進化の理論も同時に構築されつつあった。当時は文化は遅れた状態から進化するものであり、その進化の仕方は全ての文化において同一であると考えられていた。この理論を単系進化と呼ぶ。こうして成立した社会進化論は当時のヨーロッパの自文化中心主義と容易に結びつき、ヨーロッパの文化こそが最も進んだものであり、そのほかの文化は進化の先端たるヨーロッパ文化にいまだたどり着いていないという考え方が主流となった。この理論は、他文化に属する人類を全くの他者ではなく、文化が異なるだけでともかくも同じ「人類」とみなすようになったという点でそれ以前に比べ改善が見られたものの、植民地主義と強く結びつき、こうした遅れた地域を指導し、文化的に発展させ近代化させるということが帝国の役割であるという独善的な考えが強く押し出されるようになった。このような観点から、野蛮・未開とされた人間を動物園の動物のように見せる人間動物園が流行した。また、この理論に従い、各分野で文化の発展図式が構築された。
後にフランツ・ボアズが文化相対主義の立場から猛烈に批判し、単一発展史観は現在では論じられることはなくなった。
古い進化主義が否定されたのち、1940年代に入ると再び進化主義の要素が文化理論に取り入れられるようになり、ネオ進化主義が誕生した。これはレズリー・ホワイト(英語版)による文化進化の客観的な測定基準の導入や、ジュリアン・スチュワードによる単系進化の否定と多系進化の提唱を経て、マーシャル・サーリンズとエルマン・サービス(英語版)によって理論の統合がなされた。
また、生態人類学においては、身体的な限界を越えて環境に適応するためのあり方として文化の生態的な側面が分析される。もちろん全ての文化的な行動について生態的な適応という観点から分析できると考えられているわけではないが、例えばマーヴィン・ハリスはカニバリズムを儀礼的な側面よりもたんぱく質の摂取という観点で考察する。
文化相対主義の浸透などにより、現代においては文化によって他文化の排除を図ることは望ましくない態度とされ、むしろ文化の多様性が称揚される場面が多くなりつつある。一方で、いまだそうした差異を排撃する地域も多い。その場合批判は当該地域の古くからの伝統文化に基づくこともあるが、従来さして重要とみなされてこなかった差異をクローズアップしたうえで多文化排撃の根拠とすることもみられる。こうした動きは、他文化への干渉と批判を躊躇する態度によってしばしば助長される。
例えば、女性割礼はしばしばイスラム教の慣習として語られるが、イスラム法やコーランにはそのような記載はないことから、いくつかのイスラム国家では行われていない慣習であり、イスラム法学者によって非イスラム的な慣習であることが発表されている。実際に女性割礼を行いイスラムの文化であると主張していた集団が、イスラム法学者のそのような主張を聞くと、民族固有の文化であると根拠を切り替えて、多文化主義の立場から文化実践を継続することがある。
このように文化実践の主体の帰属先自体が、人々の都合によって変更される。
ある文化実践の由来や実態について、文献資料を用いる文化人類学者と現地の実践者の間に齟齬が生じることがある。
近代史研究は、自明とみなされてきた文化が比較的近年に「発明」されたものだということを明らかにしてきた。しかし「オセアニアンは過去における先祖の生活についての神話などを、現地の人々は政治的シンボルとして発明している」という文化人類学者の見解は、現地の人々にとって「文化人類学者は祖先の文化をまったく知らず、自己規程の力さえ奪おうとしている」という傲慢な態度にほかならず、反発を受ける。
このような議論の極端な事例が捏造疑惑である。マーガレット・ミードはサモア人女性は性的に開放的であると議論したが、のちに調査した文化人類学者やサモア人から反論がされた。実際にミードが捏造をした、もしくは経験不足で嘘や冗談を見抜けず誤ったことを書いてしまったのか、サモアの文化そのものが変貌したのかについては議論が分かれている。
また文化人類学者の横暴に対して現地の人々が反発したものとして、例えば南米の狩猟採集民族のヤノマミ族は他人を罵倒する言葉として、「人類学者(アンスロ)」が定着しているということが挙げられる。
日本では大正時代に入ると、ある種の近代性や合理性のあるデザインやモノに「文化」という語をつけて新しさを示すことが流行した。洋風を取り入れた文化住宅や文化アパートメントなどがこの頃にできた語である。第二次世界大戦後には再びこの流行がおき、文化鍋や文化包丁といった調理関連、文化干しのような食品関連、学校名など広範な対象物に「文化」の文字が冠され、また文化住宅も関西地方において「木造2階建て、棟割りの賃貸アパート」を指す言葉として復活した。
文化人類学において、文化は人間の行為を媒介する象徴の体系である。しかしイギリスの文学研究者たちが、イギリス国内のマスメディア現象を批判的に分析するためにうまれた研究手法であるカルチュラル・スタディーズでは、均質であることの想定を許さない社会における文化を分析対象とするために、「ある社会において生活している人々の誰もが、等しく共有しているわけではない」という「社会認識」をもとに文化を位置づけた。
人類学は、未開社会の貴重な文化が西欧文化やグローバリゼーションなど外部の悪影響で消えつつあることを告発していたが、現在では他の文化を未開社会とみなす姿勢はもとより、真正・純正の文化がある・あったという思考自体が批判されている。クリフォードはこうした思考による記述を「消失の語り」として、文化が外部の影響を取り込みつつも新たな展開を示していくことを重視して記述する「生成の語り」と区別した。
外部からの影響によって、伝統的文化が変貌したり新しく創造されたりすることがある。その典型的な事例は観光地にしばしば現れる。例えばバリのケチャは悪魔祓いの儀礼のときに行われるコーラスをもとに、映画『悪魔の島』(1955年)のBGMとしてドイツ人、ヴァルター・シュピースが創作したものであるが、これがラーマヤナの物語として現在の姿になり、それが現地の人々に受け入れられたものである。他にはアイヌの民族芸能である木彫りの熊も、徳川義親がスイス土産を開拓村のアイヌに作らせたことが起源だとする説がある。
一方でこうした観光のクレオール的な性質に対して、しばしば反発がおきる。代表的な事例では観光地での商売上の慣行が実際の伝統的な文化と同一視されることを拒絶する民族運動としてハワイの先住民運動がある。
文化相対主義の政治的応用の一つとして多文化主義と文化隔離主義がある。どちらも文化を本質主義的に取り扱っているので、文化人類学者の議論とは隔絶がある。特に移民排除運動や排外主義を理論化する際に、「文化相対主義からすれば、お互い相容れない存在なのだから、祖国に帰るべきである」という形で援用されるのが文化隔離主義であり、人類学者から文化相対主義の地獄とされる。
ピエール・ブルデューは、社会における支配階層は権力によって、文化の洗練さを規定し、そうして規定した洗練されたとする文化資本を維持するハビトゥスを獲得することで権力を再生産するとした。
ミーム (meme) とは、文化を形成する情報であり、模倣を通して人の心から心へとコピーされる情報である。ミームという言葉は、生物学者のリチャード・ドーキンスが作ったもので、ドーキンスはミームの例としてキャッチフレーズや服の流行をあげている。
ミーム学という科学では、ミームという概念を用いて文化を理解する。ミーム学は、「ミームが自分の複製を作る」という視点で考察される。これは、ドーキンスの論じる利己的遺伝子が「遺伝子が自分の複製を作る」という視点で考察されることからの類推である(ただし利己的遺伝子のアイデア自体はドーキンス独自のものではない)。
遺伝子やミームのように自己の複製を作るものを自己複製子という。自己複製子は、自分のコピーを作る時に変異を起こすことがあり、多様化していく(DNAは、多くの場合正確に子孫に複製されるが、まれにコピーミスが起きる)。多様化した自己複製子は自然選択(自然淘汰)によって、進化する。したがって、自己複製子であるミームも遺伝子のように進化することができ、この考察から、文化の進化する様子を分析することができる。
例として、コンピュータにおける情報分野で盛んになっており、開発言語の変遷や仮想通貨にその様子が伺え、さらには、スマートフォンの世界的な普及を背景にしたものもある。
ある特定地域の文化が他地域へと拡大することを文化伝播と呼ぶ。文化伝播には、隣接地域への直接的な接触による接触性拡大伝播、重要人物間や大都市間など遠隔地の同一階層にまず広がり、そこから下位へと伝播していく階層性拡大伝播、文化の所持者が移住することによって文化が伝播していく移転伝播などがある。
例えば仏教は、インドで発祥し、宗派の分裂や各地の文化の影響もありつつ、主に上座部仏教は南方の東南アジア諸国に、大乗仏教は北方の中央アジア諸国や東アジア諸国などへと伝播していく。その後大乗仏教が6世紀に日本にも伝えられるが(仏教公伝)、当初は崇仏論争が起きその受容につき激しく争われた。受容後は中国などからの影響も受けつつも、日本独自の宗派も発達し、また本地垂迹説の登場によって日本古来の宗教である神道との融合が起き、神仏習合と呼ばれる状態が生まれた。
交通・通信手段の改善や経済交流の増大によって各文化圏の交流が密接になるに伴い、文化の伝播・交流はますます密度を増しつつある。特に1990年代以降、グローバリゼーションの爆発的な進展に伴い、各国では他国文化の流入が起きて多様性が増大し、さらに在来の文化と異文化との融合によって新たな文化が生まれた。その一方で、流入する異文化とはだいたいにおいて有力な文化、特にアメリカを中心とした文化であり、アメリカナイゼーションをはじめとする文化の画一化による文化差異の減少も顕著となっている。食文化においては、世界各地で気候風土や現地文化に即した独自性の高い文化が世界各地で育まれていたが、1990年代以降流通や情報技術の発達によって食品系企業の世界展開が起きて急速に標準化が進みつつあり、全体として差異は縮小する傾向にある。ファストフード・チェーンなどの多国籍企業による効率的・画一的な消費文化が全世界に広がることで起こる文化の均質化も指摘されているが、そうして広まった均質な文化の中でまた差異が追求されることも珍しくない。こうしたグローバリゼーションと地域限定化の混合による文化の流れは、グローカリゼーションと呼ばれる。
マスメディアは娯楽情報や文化や教養面の情報を発信し、また企業が自らの商品を売り込むための広告や、各団体が行う広報も大量に流される。こうしたマスメディアによる画一的で一方的な大量の情報の提供は、市民の受け取る情報を一様なものとすることで広汎な共通文化市場を生み出し、人々が広く愉しむ大衆文化を成立させた。大衆文化が本格的に成立したのは第1次世界大戦後のアメリカであり、マスコミュニケーションの発達と販売技術の向上によってその波は世界に波及して、それまでの社会の価値観を大きく変動させた。
文化はナショナリズムと密接な関連があり、国家は自国の国民文化の創出に力を注ぐ。ヨーロッパでは19世紀に民族意識やナショナリズムが興隆した結果、各地でその地域を代表するような名物料理が成立し、民族・地域意識の核のひとつとなってきた。また、音楽・文学・映画などをはじめとする大衆文化や、その国の伝統文化は当該国家の競争力を高めるのに有効な手段と見なされており、各国は競って文化産業の輸出や自国文化の広報に力を入れるようになっている。こうした文化面からの交流によって他国からの共感と好意を得、自国のイメージを向上させることは外交上ソフトパワーと呼ばれ、ソフトパワーを得るために他国の市民に対し自国の広報を行うことをパブリック・ディプロマシーと呼び、重要な外交の一手段となっている。
各文化はそれぞれ有形・無形の文化的な成果を所持しており、それらの中でも特に価値の高いものは文化遺産と呼ばれる。各国の文化遺産は国内でそれぞれ保護される他、国際的な保護体制も構築されている。こうした文化遺産のうち、有形で特に価値の高いものは1972年の世界遺産条約によって保護のガイドラインが制定され、世界遺産に登録されれば文化遺産や複合遺産として保護されることとなる。次いで、2003年には無形の文化遺産においても無形文化遺産の保護に関する条約が採択され、重要と認められたものはユネスコによって無形文化遺産に登録されるようになった。こうした文化遺産は観光において重要な位置を占めており、国外から文化を鑑賞したり体験するために観光客が押し寄せることも多い。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "文化(ぶんか、ラテン語: cultura)には、いくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の構成員として獲得する多数の振る舞いの全体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。もっとも文化は、次の意味で使われることも多い。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "「文化」は一方では、日本の元号の一つで、江戸時代の19世紀前半に享和の後、文政の前に使われた。その語源は『易経』賁卦彖伝にある「観于天文、以察時変、観乎人文、以化成天下」」(天文を観て以て時変を察し、人文を観て以て天下を化成す)にあるとされている。他方、ラテン語 colere(耕す)から派生したculturaはローマ時代の政治家・哲学者のキケロも「cultura anima」などと使っている。現代の英語「Culture」・ドイツ語「Kultur」の訳語としては、明治時代に坪内逍遥が『小説神髄』(1885年)などで「文華」という言葉を使い、彼の東京専門学校の後輩・大西祝がマシュー・アーノルド著『Culture and Anarchy』の翻訳書『教養と無秩序』(1986年)で「文化」(ただし時々『文華』も)を初めて使ったのが知られている。その後、中国語でも「文化」が使われるようになった。",
"title": "語源"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "ラテン語 colere(耕す)から派生したドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕す」、「培養する」、「洗練したものにする」、「教化する」といった意味合いを持つ。18世紀後半に、産業化をひたさま技術革新、生産性の向上、社会の官僚化といった人間の外部に相当するものとしての文明と対比される、人間の精神面での向上を示す言葉として位置づけるものとしての文化という意味で議論を展開したのがマシュー・アーノルドである。この定義では文化は教養と言い換えることもできる。英語やフランス語は、日本語・中国語・ドイツ語とは異なり、「文化」と区別される「教養」という語を持っていないので、その間の区分が明示的でない。",
"title": "文化の定義"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "人類学においては、人間と自然や動物の差異を説明するための概念が文化である。",
"title": "文化の定義"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "こうした定義の最初のものはイギリスの人類学者エドワード・バーネット・タイラー (1871) の、",
"title": "文化の定義"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "である。この文に続く進化主義的な議論は批判されているが、タイラーの定義は今でも基本的には正当性が認められている。",
"title": "文化の定義"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "この定義は動物に社会が存在しないことが自明とされていた時代の定義であり、後に野生動物も社会を形成することが認められるようになると、新たな制約が加えられた。動物が使うことがない言語によって特徴づけるようになったのである。この場合、動物の音声コミュニケーションとは異なる特徴である再帰性や象徴性が強調された。レヴィ=ストロースによれば、言語は文化の条件であるという。つまり文化は、それが非言語的なものであっても言語的な性質を備えている象徴的な事象と定義するもので、構造主義文化人類学者によく使われる。",
"title": "文化の定義"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "出発点が近代社会とは異なる世界を記述するための概念であった人類学的文化は、やがて近代社会を理解するための学問である社会学にも取り込まれるようになった。社会学における文化の定義は人類学から大きく影響を受けているが、例えばパーソンズは「ひとつの社会システムは、二つかそれ以上の諸社会の社会構造や成員や文化、あるいはそうした諸社会の構造、成員、文化のそのいずれかとかかわりあうことができる」として、一つの社会における多文化的な状況を記述可能にするために、社会システムと並立して正統性を担保するものとしての文化システムを定義づけた。シンボリック相互作用論者、なかでもタモツ・シブタニは、ある特定の集団ないしは社会的世界において、人々に共有されているパースペクティブ(認識枠組)を指すものとして文化を扱い、同じく、一つの社会における多文化的な状況(文化の多元的共在)の説明に有用な概念として捉えている。ハーバーマスは文化 (Kultur) を「文化とは知のストックのことであり、コミュニケーションの参加者達は世界におけるあるものについての了解しあうさいに、この知のストックから解釈を手に入れる」としている。このように行為、あるいはコミュニケーションに利用されるストックというアイデアは、ルーマンのゼマンティーク (Semantik)、フーコーのアーシーブ(Archive) などとも関連性が深い。",
"title": "文化の定義"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "文化人類学者のクリフォード・ギアツもパーソンズ由来の文化を採用しているので、現在では社会学的文化と人類学的文化の境目はあまり重要ではない。",
"title": "文化の定義"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "文化の概念は、通常、人間集団内で伝播されるものに対してのみ用いられるので、個人がただ発明しただけの状態では適用されることはない。また、地域や集団、時代によって文化様式は大きく異なることがある。アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、個々の文化はそれぞれの固有様式で統合されており、他の文化からの基準では本当の意味で理解することは困難であり、相対化と再帰的な検討が必要であるという文化相対主義を展開した。",
"title": "文化の定義"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "文化は人間集団によって作られるが、同時に個々の人間も環境という形で、不断に文化に適応、学習させられていると考えられる。",
"title": "文化の定義"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "日本文化や東京の下町文化、室町文化など地理的、歴史的なまとまりによって文化を定義するもの、おたく文化のように集団を構成する人を基準に文化を定義するもの、出版文化や食文化のように人の活動の種類によって定義するものなど、個々の文化は様々な形で定義、概念化される。",
"title": "文化の定義"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "さらに小規模な集団にも企業の「社風」、学校の「校風」、ある家系の「家風」などがあり、これらも文化と呼ばれる。",
"title": "文化の定義"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "上記のタイラーの定義にもみられるとおり、社会科学分野では人間以外の生物は文化を持たないものと長年考えられてきた。しかし野生動物の長期野外調査の蓄積によって、同種個体でも地域差が見られたりすることや道具を使用することは知られている。たとえば、ニュージーランド沖の島に住むセアカホオダレムクドリの鳥のさえずりは、遺伝的に親から子へ伝わるのではなく、人間の言語と同様に、模倣という手段によって伝達され、異なるグループでは方言のように異なるさえずりが観察できる。これは、多くの動物が社会的学習能力を持ち、さらにそれを集団内において文化的伝統として保持していることを示している。一方で、そうした文化的伝統は蓄積を伴わず、ある獲得された文化を改良してさらに優れた文化を生み出すといった動きは人間以外の生物にはまったく見られない。",
"title": "文化の定義"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "文化という概念がほぼ確立した19世紀には、文化や社会がどのように進化していくかという社会文化的進化の理論も同時に構築されつつあった。当時は文化は遅れた状態から進化するものであり、その進化の仕方は全ての文化において同一であると考えられていた。この理論を単系進化と呼ぶ。こうして成立した社会進化論は当時のヨーロッパの自文化中心主義と容易に結びつき、ヨーロッパの文化こそが最も進んだものであり、そのほかの文化は進化の先端たるヨーロッパ文化にいまだたどり着いていないという考え方が主流となった。この理論は、他文化に属する人類を全くの他者ではなく、文化が異なるだけでともかくも同じ「人類」とみなすようになったという点でそれ以前に比べ改善が見られたものの、植民地主義と強く結びつき、こうした遅れた地域を指導し、文化的に発展させ近代化させるということが帝国の役割であるという独善的な考えが強く押し出されるようになった。このような観点から、野蛮・未開とされた人間を動物園の動物のように見せる人間動物園が流行した。また、この理論に従い、各分野で文化の発展図式が構築された。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "後にフランツ・ボアズが文化相対主義の立場から猛烈に批判し、単一発展史観は現在では論じられることはなくなった。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "古い進化主義が否定されたのち、1940年代に入ると再び進化主義の要素が文化理論に取り入れられるようになり、ネオ進化主義が誕生した。これはレズリー・ホワイト(英語版)による文化進化の客観的な測定基準の導入や、ジュリアン・スチュワードによる単系進化の否定と多系進化の提唱を経て、マーシャル・サーリンズとエルマン・サービス(英語版)によって理論の統合がなされた。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "また、生態人類学においては、身体的な限界を越えて環境に適応するためのあり方として文化の生態的な側面が分析される。もちろん全ての文化的な行動について生態的な適応という観点から分析できると考えられているわけではないが、例えばマーヴィン・ハリスはカニバリズムを儀礼的な側面よりもたんぱく質の摂取という観点で考察する。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "文化相対主義の浸透などにより、現代においては文化によって他文化の排除を図ることは望ましくない態度とされ、むしろ文化の多様性が称揚される場面が多くなりつつある。一方で、いまだそうした差異を排撃する地域も多い。その場合批判は当該地域の古くからの伝統文化に基づくこともあるが、従来さして重要とみなされてこなかった差異をクローズアップしたうえで多文化排撃の根拠とすることもみられる。こうした動きは、他文化への干渉と批判を躊躇する態度によってしばしば助長される。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "例えば、女性割礼はしばしばイスラム教の慣習として語られるが、イスラム法やコーランにはそのような記載はないことから、いくつかのイスラム国家では行われていない慣習であり、イスラム法学者によって非イスラム的な慣習であることが発表されている。実際に女性割礼を行いイスラムの文化であると主張していた集団が、イスラム法学者のそのような主張を聞くと、民族固有の文化であると根拠を切り替えて、多文化主義の立場から文化実践を継続することがある。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "このように文化実践の主体の帰属先自体が、人々の都合によって変更される。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ある文化実践の由来や実態について、文献資料を用いる文化人類学者と現地の実践者の間に齟齬が生じることがある。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "近代史研究は、自明とみなされてきた文化が比較的近年に「発明」されたものだということを明らかにしてきた。しかし「オセアニアンは過去における先祖の生活についての神話などを、現地の人々は政治的シンボルとして発明している」という文化人類学者の見解は、現地の人々にとって「文化人類学者は祖先の文化をまったく知らず、自己規程の力さえ奪おうとしている」という傲慢な態度にほかならず、反発を受ける。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "このような議論の極端な事例が捏造疑惑である。マーガレット・ミードはサモア人女性は性的に開放的であると議論したが、のちに調査した文化人類学者やサモア人から反論がされた。実際にミードが捏造をした、もしくは経験不足で嘘や冗談を見抜けず誤ったことを書いてしまったのか、サモアの文化そのものが変貌したのかについては議論が分かれている。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "また文化人類学者の横暴に対して現地の人々が反発したものとして、例えば南米の狩猟採集民族のヤノマミ族は他人を罵倒する言葉として、「人類学者(アンスロ)」が定着しているということが挙げられる。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "日本では大正時代に入ると、ある種の近代性や合理性のあるデザインやモノに「文化」という語をつけて新しさを示すことが流行した。洋風を取り入れた文化住宅や文化アパートメントなどがこの頃にできた語である。第二次世界大戦後には再びこの流行がおき、文化鍋や文化包丁といった調理関連、文化干しのような食品関連、学校名など広範な対象物に「文化」の文字が冠され、また文化住宅も関西地方において「木造2階建て、棟割りの賃貸アパート」を指す言葉として復活した。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "文化人類学において、文化は人間の行為を媒介する象徴の体系である。しかしイギリスの文学研究者たちが、イギリス国内のマスメディア現象を批判的に分析するためにうまれた研究手法であるカルチュラル・スタディーズでは、均質であることの想定を許さない社会における文化を分析対象とするために、「ある社会において生活している人々の誰もが、等しく共有しているわけではない」という「社会認識」をもとに文化を位置づけた。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "人類学は、未開社会の貴重な文化が西欧文化やグローバリゼーションなど外部の悪影響で消えつつあることを告発していたが、現在では他の文化を未開社会とみなす姿勢はもとより、真正・純正の文化がある・あったという思考自体が批判されている。クリフォードはこうした思考による記述を「消失の語り」として、文化が外部の影響を取り込みつつも新たな展開を示していくことを重視して記述する「生成の語り」と区別した。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "外部からの影響によって、伝統的文化が変貌したり新しく創造されたりすることがある。その典型的な事例は観光地にしばしば現れる。例えばバリのケチャは悪魔祓いの儀礼のときに行われるコーラスをもとに、映画『悪魔の島』(1955年)のBGMとしてドイツ人、ヴァルター・シュピースが創作したものであるが、これがラーマヤナの物語として現在の姿になり、それが現地の人々に受け入れられたものである。他にはアイヌの民族芸能である木彫りの熊も、徳川義親がスイス土産を開拓村のアイヌに作らせたことが起源だとする説がある。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "一方でこうした観光のクレオール的な性質に対して、しばしば反発がおきる。代表的な事例では観光地での商売上の慣行が実際の伝統的な文化と同一視されることを拒絶する民族運動としてハワイの先住民運動がある。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "文化相対主義の政治的応用の一つとして多文化主義と文化隔離主義がある。どちらも文化を本質主義的に取り扱っているので、文化人類学者の議論とは隔絶がある。特に移民排除運動や排外主義を理論化する際に、「文化相対主義からすれば、お互い相容れない存在なのだから、祖国に帰るべきである」という形で援用されるのが文化隔離主義であり、人類学者から文化相対主義の地獄とされる。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ピエール・ブルデューは、社会における支配階層は権力によって、文化の洗練さを規定し、そうして規定した洗練されたとする文化資本を維持するハビトゥスを獲得することで権力を再生産するとした。",
"title": "文化にまつわる議論"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ミーム (meme) とは、文化を形成する情報であり、模倣を通して人の心から心へとコピーされる情報である。ミームという言葉は、生物学者のリチャード・ドーキンスが作ったもので、ドーキンスはミームの例としてキャッチフレーズや服の流行をあげている。",
"title": "ミーム"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ミーム学という科学では、ミームという概念を用いて文化を理解する。ミーム学は、「ミームが自分の複製を作る」という視点で考察される。これは、ドーキンスの論じる利己的遺伝子が「遺伝子が自分の複製を作る」という視点で考察されることからの類推である(ただし利己的遺伝子のアイデア自体はドーキンス独自のものではない)。",
"title": "ミーム"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "遺伝子やミームのように自己の複製を作るものを自己複製子という。自己複製子は、自分のコピーを作る時に変異を起こすことがあり、多様化していく(DNAは、多くの場合正確に子孫に複製されるが、まれにコピーミスが起きる)。多様化した自己複製子は自然選択(自然淘汰)によって、進化する。したがって、自己複製子であるミームも遺伝子のように進化することができ、この考察から、文化の進化する様子を分析することができる。",
"title": "ミーム"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "例として、コンピュータにおける情報分野で盛んになっており、開発言語の変遷や仮想通貨にその様子が伺え、さらには、スマートフォンの世界的な普及を背景にしたものもある。",
"title": "ミーム"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ある特定地域の文化が他地域へと拡大することを文化伝播と呼ぶ。文化伝播には、隣接地域への直接的な接触による接触性拡大伝播、重要人物間や大都市間など遠隔地の同一階層にまず広がり、そこから下位へと伝播していく階層性拡大伝播、文化の所持者が移住することによって文化が伝播していく移転伝播などがある。",
"title": "文化の発祥と伝播・変容"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "例えば仏教は、インドで発祥し、宗派の分裂や各地の文化の影響もありつつ、主に上座部仏教は南方の東南アジア諸国に、大乗仏教は北方の中央アジア諸国や東アジア諸国などへと伝播していく。その後大乗仏教が6世紀に日本にも伝えられるが(仏教公伝)、当初は崇仏論争が起きその受容につき激しく争われた。受容後は中国などからの影響も受けつつも、日本独自の宗派も発達し、また本地垂迹説の登場によって日本古来の宗教である神道との融合が起き、神仏習合と呼ばれる状態が生まれた。",
"title": "文化の発祥と伝播・変容"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "交通・通信手段の改善や経済交流の増大によって各文化圏の交流が密接になるに伴い、文化の伝播・交流はますます密度を増しつつある。特に1990年代以降、グローバリゼーションの爆発的な進展に伴い、各国では他国文化の流入が起きて多様性が増大し、さらに在来の文化と異文化との融合によって新たな文化が生まれた。その一方で、流入する異文化とはだいたいにおいて有力な文化、特にアメリカを中心とした文化であり、アメリカナイゼーションをはじめとする文化の画一化による文化差異の減少も顕著となっている。食文化においては、世界各地で気候風土や現地文化に即した独自性の高い文化が世界各地で育まれていたが、1990年代以降流通や情報技術の発達によって食品系企業の世界展開が起きて急速に標準化が進みつつあり、全体として差異は縮小する傾向にある。ファストフード・チェーンなどの多国籍企業による効率的・画一的な消費文化が全世界に広がることで起こる文化の均質化も指摘されているが、そうして広まった均質な文化の中でまた差異が追求されることも珍しくない。こうしたグローバリゼーションと地域限定化の混合による文化の流れは、グローカリゼーションと呼ばれる。",
"title": "文化の発祥と伝播・変容"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "マスメディアは娯楽情報や文化や教養面の情報を発信し、また企業が自らの商品を売り込むための広告や、各団体が行う広報も大量に流される。こうしたマスメディアによる画一的で一方的な大量の情報の提供は、市民の受け取る情報を一様なものとすることで広汎な共通文化市場を生み出し、人々が広く愉しむ大衆文化を成立させた。大衆文化が本格的に成立したのは第1次世界大戦後のアメリカであり、マスコミュニケーションの発達と販売技術の向上によってその波は世界に波及して、それまでの社会の価値観を大きく変動させた。",
"title": "文化と政治経済"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "文化はナショナリズムと密接な関連があり、国家は自国の国民文化の創出に力を注ぐ。ヨーロッパでは19世紀に民族意識やナショナリズムが興隆した結果、各地でその地域を代表するような名物料理が成立し、民族・地域意識の核のひとつとなってきた。また、音楽・文学・映画などをはじめとする大衆文化や、その国の伝統文化は当該国家の競争力を高めるのに有効な手段と見なされており、各国は競って文化産業の輸出や自国文化の広報に力を入れるようになっている。こうした文化面からの交流によって他国からの共感と好意を得、自国のイメージを向上させることは外交上ソフトパワーと呼ばれ、ソフトパワーを得るために他国の市民に対し自国の広報を行うことをパブリック・ディプロマシーと呼び、重要な外交の一手段となっている。",
"title": "文化と政治経済"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "各文化はそれぞれ有形・無形の文化的な成果を所持しており、それらの中でも特に価値の高いものは文化遺産と呼ばれる。各国の文化遺産は国内でそれぞれ保護される他、国際的な保護体制も構築されている。こうした文化遺産のうち、有形で特に価値の高いものは1972年の世界遺産条約によって保護のガイドラインが制定され、世界遺産に登録されれば文化遺産や複合遺産として保護されることとなる。次いで、2003年には無形の文化遺産においても無形文化遺産の保護に関する条約が採択され、重要と認められたものはユネスコによって無形文化遺産に登録されるようになった。こうした文化遺産は観光において重要な位置を占めており、国外から文化を鑑賞したり体験するために観光客が押し寄せることも多い。",
"title": "文化遺産"
}
] | 文化には、いくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の構成員として獲得する多数の振る舞いの全体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。もっとも文化は、次の意味で使われることも多い。 ハイカルチャーのように洗練された生活様式
ポップカルチャーのような大衆的な生活様式
伝統的な行為 | {{Otheruses}}
'''文化'''(ぶんか、{{Lang-la|cultura}})には、いくつかの定義が存在するが、総じていうと[[人間]]が[[社会]]の構成員として獲得する多数の振る舞いの全体のことである。[[組織 (社会科学)|社会組織]](年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける([[身体化]])ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。もっとも文化は、次の意味で使われることも多い。
#[[ハイカルチャー]]のように洗練された生活様式
#[[大衆文化|ポップカルチャー]]のような大衆的な生活様式
#伝統的な行為
==語源==
「[[文化 (元号)|文化]]」は一方では、[[日本]]の[[元号]]の一つで、[[江戸時代]]の[[19世紀]]前半に[[享和]]の後、[[文政]]の前に使われた。その語源は『[[易経]]』賁卦彖伝にある「観于天文、以察時変、観乎人文、以化成天下」」(天文を観て以て時変を察し、人文を観て以て天下を化成す)にあるとされている。他方、[[ラテン語]] colere(耕す)から派生した[[:la:cultura|cultura]]は[[ローマ時代]]の[[政治家]]・[[哲学者]]の[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]も「cultura anima」などと使っている。現代の[[英語]]「Culture」・[[ドイツ語]]「Kultur」の訳語としては<ref>[https://gogen-yurai.jp/culture/ カルチャー/culture(語源由来辞典)]</ref>、明治時代に[[坪内逍遥]]が『小説神髄』(1885年)などで「文華」という言葉を使い<ref name="hanashinoneta_p55">毎日新聞社編『話のネタ』p.55、PHP文庫、1998年。</ref>、彼の東京専門学校の後輩・[[大西祝]]が[[マシュー・アーノルド]]著『Culture and Anarchy』の翻訳書『教養と無秩序』(1986年)で「文化」(ただし時々『文華』も)を初めて使ったのが知られている。その後、[[中国語]]でも「文化」が使われるようになった<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%8C%96-128305 日本大百科全書(ニッポニカ)「文化」の解説(コトバンク)]</ref>。
== 文化の定義 ==
=== 概説 ===
==== 古典的・日常的な文化 ====
[[ラテン語]] [[wikt:colere|colere]](耕す)から派生した[[ドイツ語]]の [[wikt:Kultur|Kultur]] や[[英語]]の [[wikt:culture|culture]] は、本来「耕す」、「培養する」、「洗練したものにする」、「教化する」といった意味合いを持つ<ref>「現代文化論 新しい人文知とはなにか」p7-8 吉見俊哉 有斐閣 2018年11月5日初版第1刷発行</ref>。18世紀後半に、産業化をひたさま技術革新、生産性の向上、社会の官僚化といった人間の外部に相当するものとしての[[文明]]と対比される、'''人間の精神面での向上を示す言葉'''として位置づけるものとしての'''文化'''という意味で議論を展開したのが[[マシュー・アーノルド]]である<ref>{{Cite book|和書|title=民族誌的近代への介入—文化を語る権利は誰にあるのか〔増補版〕|author=太田好信|publisher=人文書院|year=2009}}</ref>。この定義では文化は[[教養]]と言い換えることもできる。英語やフランス語は、日本語・中国語・ドイツ語とは異なり、「文化」と区別される「教養」という語を持っていないので、その間の区分が明示的でない。
==== 人類学的文化 ====
[[人類学]]においては、人間と[[自然]]や[[動物]]の差異を説明するための概念が文化である<ref>{{Cite book|和書|title=文化人類学入門|author=祖父江孝男|publisher=中央公論社|year=1979|series=中公新書; 560}}</ref>。
こうした定義の最初のものは[[イギリス]]の人類学者[[エドワード・バーネット・タイラー]] (1871) の、{{Quotation|広く[[民族学]]で使われる文化、あるいは文明の定義とは、知識、信仰、芸術、道徳、法律、慣行、その他、人が社会の成員として獲得した能力や習慣を含むところの複合された総体のことである|[[エドワード・バーネット・タイラー]]|Primitive culture<ref>{{Cite book|author=E.B.Taylor|title=Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom.|publisher=Kessinger Pub Co|origyear=1871|vol=1|year=2007|pages=1|isbn=142863830X}}<br />翻訳: {{Cite book|和書|title=原始文化|author=E.B.タイラー|translator=比屋根安定|year=1962|publisher=誠信書房}}</ref>}}である。この文に続く[[進化主義]]的な議論は批判されているが、タイラーの定義は今でも基本的には正当性が認められている<ref>{{Cite book|和書|chapter=文化の変動|title=文化人類学|editor=村武精一・佐々木宏幹|author=村武慶|publisher=有斐閣|year=1991}}</ref>。
この定義は動物に社会が存在しないことが自明とされていた時代の定義であり、後に野生動物も社会を形成することが認められるようになると、新たな制約が加えられた。動物が使うことがない[[言語]]によって特徴づけるようになったのである。この場合、動物の音声[[コミュニケーション]]とは異なる特徴である[[再帰性]]や[[象徴]]性が強調された。[[クロード・レヴィ=ストロース|レヴィ=ストロース]]によれば、言語は文化の条件であるという<ref>{{Cite book|和書|title=構造人類学|chapter=言語学と人類学|author=クロード・レヴィ=ストロース|translator=佐々木明|publisher=みすず書房|year=1972|origyear=1958|}}</ref>。つまり文化は、それが非言語的なものであっても言語的な性質を備えている象徴的な事象と定義するもので、[[構造主義]][[文化人類学]]者によく使われる<ref group="注">しかし大型[[類人猿]]が言語を学習できるということが知られるようになると、文化獲得における重要なイベントである学習を細分化して人間の学習(意図模倣)と動物の学習(単純模倣)をわけ、さらには教示の有無を問題にするという発想もでている。つまり動物が社会化のなかで獲得するふるまいは、単純模倣によってだけ獲得される伝統traditionであり、人間が言語や意図模倣、教示を通した社会化のなかで身につける文化という差異を創出して定義づけ、人間以外の動物には文化を身につけることは困難であるとするのである。</ref><ref>{{Cite book|和書|first=トマセロ, M.|year=2006|title=心ところばの起源を探る: 文化と認知|translator=大堀壽夫・中澤恒子・西村義樹・本田啓|publisher=勁草書房}}</ref>。
==== 社会学的文化 ====
出発点が近代社会とは異なる世界を記述するための概念であった人類学的文化は、やがて近代社会を理解するための学問である[[社会学]]にも取り込まれるようになった。社会学における文化の定義は人類学から大きく影響を受けているが、例えば[[タルコット・パーソンズ|パーソンズ]]は「ひとつの社会システムは、二つかそれ以上の諸社会の社会構造や成員や文化、あるいはそうした諸社会の構造、成員、文化のそのいずれかとかかわりあうことができる」として、一つの社会における多文化的な状況を記述可能にするために、社会システムと並立して正統性を担保するものとしての文化システムを定義づけた<ref>{{Cite book|和書|title=文化システム論|author=パーソンズ・T.(タルコット)|tranlator=丸山哲央|publisher=ミネルヴァ書房|year=1991}}</ref>。シンボリック相互作用論者、なかでも[[タモツ・シブタニ]]は、ある特定の[[集団]]ないしは[[社会的世界]]において、人々に共有されているパースペクティブ(認識枠組)を指すものとして文化を扱い、同じく、一つの社会における多文化的な状況(文化の多元的共在)の説明に有用な概念として捉えている<ref>Cf. タモツ・シブタニ著、2013年、木原綾香ほか訳「[https://hdl.handle.net/10232/18398 パースペクティブとしての準拠集団]」''Discussion Papers In Economics and Sociology'', No.1301.</ref>。[[ユルゲン・ハーバーマス|ハーバーマス]]は文化 (Kultur) を「文化とは知のストックのことであり、コミュニケーションの参加者達は世界におけるあるものについての了解しあうさいに、この知のストックから解釈を手に入れる」としている<ref>{{Cite book|author=[[ユルゲン・ハーバーマス|Habermas, Jürgen]]|title=コミュニケーション的行為の理論|translator=[[河上倫逸]]ほか|publisher=木鐸社|year=1985-1987|origyear=1981}}</ref>。このように行為、あるいはコミュニケーションに利用されるストックというアイデアは、[[二クラス・ルーマン|ルーマン]]のゼマンティーク (Semantik)、[[ミシェル・フーコー|フーコー]]のアーシーブ(Archive) などとも関連性が深い<ref>{{Cite book|和書|title=意味の歴史社会学―ルーマンの近代ゼマンティック論|author=高橋徹|publisher=世界思想社|year=2002}}</ref>。
文化人類学者の[[クリフォード・ギアツ]]もパーソンズ由来の文化を採用しているので、現在では社会学的文化と人類学的文化の境目はあまり重要ではない。
==== 考古学的文化 ====
{{Main|文化 (考古学)}}
=== 文化を担う集団 ===
文化の[[概念]]は、通常、人間集団内で伝播されるものに対してのみ用いられるので、[[個人]]がただ発明しただけの状態では適用されることはない<ref>[[文化 (動物)]]の芋洗いの項目を参照</ref>。また、[[地域]]や[[集団]]、[[時代]]によって文化様式は大きく異なることがある。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の文化人類学者[[ルース・ベネディクト]]は、個々の文化はそれぞれの固有様式で統合されており、他の文化からの基準では本当の意味で理解することは困難であり、相対化と再帰的な検討が必要であるという[[文化相対主義]]を展開した。
文化は人間集団によって作られるが、同時に個々の人間も[[環境]]という形で、不断に文化に[[適応]]、[[学習]]させられていると考えられる。
日本文化や[[東京]]の[[下町文化]]、[[室町文化]]など地理的、[[歴史]]的なまとまりによって文化を定義するもの、[[おたく]]文化のように集団を構成する人を基準に文化を定義するもの、[[出版]]文化や[[食文化]]のように人の活動の種類によって定義するものなど、個々の文化は様々な形で定義、概念化される。
さらに小規模な集団にも[[企業]]の「社風」、[[学校]]の「校風」、ある[[家系]]の「家風」などがあり、これらも文化と呼ばれる。
=== 動物の文化 ===
{{Main|文化 (動物)}}
上記のタイラーの定義にもみられるとおり、社会科学分野では人間以外の生物は文化を持たないものと長年考えられてきた<ref>「文化進化論 ダーウィン進化論は文化を説明できるか」p288 アレックス・メスーディ 野中香方子訳 NTT出版 2016年2月15日書版第1刷発行</ref>。しかし野生動物の長期野外調査の蓄積によって、同種個体でも地域差が見られたりすることや道具を使用することは知られている。たとえば、ニュージーランド沖の島に住むセアカホオダレムクドリの鳥のさえずりは、遺伝的に親から子へ伝わるのではなく、人間の[[言語]]と同様に、[[模倣]]という手段によって伝達され、異なるグループでは方言のように異なるさえずりが観察できる<ref>{{Cite book|title=Rikoteki na idenshi.|url=https://www.worldcat.org/oclc/1030169575|publisher=Kinokuniyashoten|date=2018.2|isbn=9784314011532|oclc=1030169575|others=Dawkins, Richard, 1941-, Hidaka, Toshitaka, 1930-2009., Kishi, Yuji, 1947-, Haneda, Setsuko, 1940-, 日高, 敏隆, 1930-2009, 岸, 由二, 1947-}}</ref>。これは、多くの動物が[[社会的学習理論|社会的学習]]能力を持ち、さらにそれを集団内において文化的伝統として保持していることを示している<ref>「文化進化論 ダーウィン進化論は文化を説明できるか」p291-298 アレックス・メスーディ 野中香方子訳 NTT出版 2016年2月15日書版第1刷発行</ref>。一方で、そうした文化的伝統は蓄積を伴わず、ある獲得された文化を改良してさらに優れた文化を生み出すといった動きは人間以外の生物にはまったく見られない<ref>「文化進化論 ダーウィン進化論は文化を説明できるか」p309-310 アレックス・メスーディ 野中香方子訳 NTT出版 2016年2月15日書版第1刷発行</ref>。
== 文化にまつわる議論 ==
=== 文化進化 ===
==== 進化主義 ====
文化という概念がほぼ確立した19世紀には、文化や社会がどのように進化していくかという[[社会文化的進化]]の理論も同時に構築されつつあった。当時は文化は遅れた状態から進化するものであり、その進化の仕方は全ての文化において同一であると考えられていた。この理論を[[単系進化]]と呼ぶ。こうして成立した[[社会進化論]]は当時のヨーロッパの[[エスノセントリズム|自文化中心主義]]と容易に結びつき、ヨーロッパの文化こそが最も進んだものであり、そのほかの文化は進化の先端たるヨーロッパ文化にいまだたどり着いていないという考え方が主流となった<ref name="名前なし-1">「文化人類学キーワード」p12 山下晋司・船曳建夫編 有斐閣 1997年9月30日初版第1刷</ref>。この理論は、他文化に属する人類を全くの他者ではなく、文化が異なるだけでともかくも同じ「人類」とみなすようになったという点でそれ以前に比べ改善が見られたものの<ref>「文化人類学のレッスン フィールドからの出発」p210 奥野克巳・花渕馨也共編 学陽書房 2005年4月11日初版発行</ref>、[[植民地主義]]と強く結びつき、こうした遅れた地域を指導し、文化的に発展させ[[近代化]]させるということが[[帝国]]の役割であるという独善的な考えが強く押し出されるようになった<ref>『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷 p.466</ref>。このような観点から、野蛮・未開とされた人間を動物園の動物のように見せる[[人間動物園]]が流行した<ref>「博覧会の政治学」p192-194 吉見俊哉 中公新書 1992年9月25日初版</ref>。また、この理論に従い、各分野で文化の発展図式が構築された<ref name="名前なし-1"/>。
後に[[フランツ・ボアズ]]が[[文化相対主義]]の立場から猛烈に批判し、単一発展史観は現在では論じられることはなくなった<ref>「文化人類学のレッスン フィールドからの出発」p211-212 奥野克巳・花渕馨也共編 学陽書房 2005年4月11日初版発行</ref>。
==== 新進化主義 ====
古い進化主義が否定されたのち、1940年代に入ると再び進化主義の要素が文化理論に取り入れられるようになり、[[ネオ進化主義]]が誕生した。これは{{仮リンク|レズリー・ホワイト|en|Leslie White}}による文化進化の客観的な測定基準の導入や、[[ジュリアン・スチュワード]]による単系進化の否定と[[多系進化]]の提唱を経て、[[マーシャル・サーリンズ]]と{{仮リンク|エルマン・サービス|en|Elman Service}}によって理論の統合がなされた<ref>「文化人類学キーワード」p13 山下晋司・船曳建夫編 有斐閣 1997年9月30日初版第1刷</ref>。
また、[[生態人類学]]においては、身体的な限界を越えて環境に適応するためのあり方として文化の生態的な側面が分析される。もちろん全ての文化的な行動について生態的な適応という観点から分析できると考えられているわけではないが、例えば[[マーヴィン・ハリス]]は[[カニバリズム]]を儀礼的な側面よりもたんぱく質の摂取という観点で考察する<ref>{{Cite book|和書|title=ヒトはなぜヒトを食べたか—生態人類学から見た文化の起源 |publisher=早川書房|series=ハヤカワ文庫—ハヤカワ・ノンフィクション文庫|author=マーヴィン・ハリス|year=1997|origyear=|translator=鈴木洋一}}</ref>。
=== 文化についての語り ===
==== 誰の文化なのか ====
文化相対主義の浸透などにより、現代においては文化によって他文化の排除を図ることは望ましくない態度とされ、むしろ文化の多様性が称揚される場面が多くなりつつある<ref>『「文化」を捉え直す カルチュラル・セキュリティの発想』p70 渡辺靖 岩波新書 2015年11月20日第1刷発行</ref>。一方で、いまだそうした差異を排撃する地域も多い。その場合批判は当該地域の古くからの伝統文化に基づくこともあるが、従来さして重要とみなされてこなかった差異をクローズアップしたうえで多文化排撃の根拠とすることもみられる<ref>『「文化」を捉え直す カルチュラル・セキュリティの発想』p71
0-72 渡辺靖 岩波新書 2015年11月20日第1刷発行</ref>。こうした動きは、他文化への干渉と批判を躊躇する態度によってしばしば助長される<ref>『「文化」を捉え直す カルチュラル・セキュリティの発想』p78 渡辺靖 岩波新書 2015年11月20日第1刷発行</ref>。
例えば、[[女性器切除|女性割礼]]はしばしばイスラム教の慣習として語られるが、[[イスラム法]]や[[コーラン]]にはそのような記載はないことから、いくつかのイスラム国家では行われていない慣習であり、イスラム法学者によって非イスラム的な慣習であることが発表されている<ref>「世界の宗教と人口」(人口学ライブラリー13)p73-75 早瀬保子・小島宏編著 原書房 2013年7月16日第1刷</ref>。実際に女性割礼を行いイスラムの文化であると主張していた集団が、イスラム法学者のそのような主張を聞くと、[[民族]]固有の文化であると根拠を切り替えて、多文化主義の立場から文化実践を継続することがある。
このように文化実践の主体の帰属先自体が、人々の都合によって変更される。
==== 文化の権利 ====
ある文化実践の由来や実態について、文献資料を用いる文化人類学者と現地の実践者の間に齟齬が生じることがある。
近代史研究は、自明とみなされてきた文化が比較的近年に「発明」されたものだということを明らかにしてきた。しかし「オセアニアンは過去における先祖の生活についての神話などを、現地の人々は政治的シンボルとして発明している」という文化人類学者の見解<ref>{{cite journal|author=Keesing, R|title=Creating the Past|year=1989|journal=The contemporary Pacific|volume=1|issue=2|pages=19-42}}</ref>は、現地の人々にとって「文化人類学者は祖先の文化をまったく知らず、自己規程の力さえ奪おうとしている」という傲慢な態度にほかならず、反発を受ける<ref>{{Cite journal|author=Trask, H-K|year=1991|title=Native and Anthropologist|journal=The contemporary Pacific|volume=3|issue=1|pages=159-167}}</ref>。
このような議論の極端な事例が捏造疑惑である。[[マーガレット・ミード]]はサモア人女性は性的に開放的であると議論した<ref>{{Cite book|和書|title=サモアの思春期|author=マーガレット・ミード|year=1976|publisher=蒼樹書房|origyear=1928|translator=畑中幸子・山本真鳥}}</ref>が、のちに調査した文化人類学者やサモア人から反論がされた<ref>{{Cite book|和書|title=マーガレット・ミードとサモア|author=デレク・フリーマン|translator=木村洋二|publisher=1995|origyear=1983}}</ref>。実際にミードが捏造をした、もしくは経験不足で嘘や冗談を見抜けず誤ったことを書いてしまったのか、サモアの文化そのものが変貌したのかについては議論が分かれている<ref>{{Cite book|和書|chapter=第5章 民族誌のメイキングとリメイキング―ミードがサモアで見いだしたものの行方|author=池田光穂|title=メイキング文化人類学|editor=太田好信・浜本満|year=2005}}</ref>。
また文化人類学者の横暴に対して現地の人々が反発したものとして、例えば南米の[[狩猟採集社会|狩猟採集民族]]の[[ヤノマミ族]]は他人を罵倒する言葉として、「人類学者(アンスロ)」が定着しているという<ref>{{Cite book|和書|title=民族誌的近代への介入|author=太田好信|page=298|year=2001}}</ref>ことが挙げられる。
==== 文化の社会言語的意味 ====
日本では[[大正時代]]に入ると、ある種の近代性や合理性のあるデザインやモノに「文化」という語をつけて新しさを示すことが流行した<ref>「現代文化論 新しい人文知とはなにか」p95-96 吉見俊哉 有斐閣 2018年11月5日初版第1刷発行</ref>。洋風を取り入れた[[文化住宅]]<ref>http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/danwa/2011011100007.html 「文化住宅にしひがし」1ページ目 朝日新聞デジタル 2011年1月13日 2021年12月24日閲覧</ref>や[[文化アパートメント]]などがこの頃にできた語である<ref>「現代文化論 新しい人文知とはなにか」p97 吉見俊哉 有斐閣 2018年11月5日初版第1刷発行</ref>。第二次世界大戦後には再びこの流行がおき<ref name="名前なし-2">http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/danwa/2011011100007.html%3Fpage=2.html 「文化住宅にしひがし」2ページ目 朝日新聞デジタル 2011年1月13日 2021年12月24日閲覧</ref>、[[文化鍋]]<ref>http://bunka-al.com/corp.html 「会社概要」文化軽金属株式会社 2021年12月24日閲覧</ref>や[[文化包丁]]といった調理関連、[[文化干し]]のような食品関連、学校名など広範な対象物に「文化」の文字が冠され、また文化住宅も関西地方において「木造2階建て、棟割りの賃貸アパート」を指す言葉として復活した<ref name="名前なし-2"/>。
=== カルチュラル・スタディーズ ===
{{Main|カルチュラル・スタディーズ}}
文化人類学において、文化は人間の行為を媒介する象徴の体系である。しかし[[イギリス]]の文学研究者たちが、イギリス国内の[[マスメディア]]現象を批判的に分析するためにうまれた研究手法であるカルチュラル・スタディーズでは、均質であることの想定を許さない社会における文化を分析対象とするために、「ある社会において生活している人々の誰もが、等しく共有しているわけではない」という「社会認識」をもとに文化を位置づけた。
==== 未開文化の消滅 ====
人類学は、[[未開社会]]の貴重な文化が西欧文化や[[グローバリゼーション]]など外部の悪影響で消えつつあることを告発していたが、現在では他の文化を未開社会とみなす姿勢はもとより、真正・純正の文化がある・あったという思考自体が批判されている。クリフォードはこうした思考による記述を「[[消失]]の語り」として<ref>{{Cite|Clifford, J|year=1988|title=The Predicament of Culture: Twentieth-Century Ethnography, Literature and Art|location=Cambridge, MA|Harvard University Press|pages=17}}</ref>、文化が外部の影響を取り込みつつも新たな展開を示していくことを重視して記述する「[[生成]]の語り」<ref>{{Cite|Clifford j,|year=1988|title=The Predicament of Culture: Twentieth-Century Ethnography, Literature and Art|location=Cambridge, MA|Harvard University Press|pages=246}}</ref>と区別した<ref>{{Cite book|和書|author=太田好信|title=トランスポジションの思想 文化人類学の再想像|year=1998|publisher=世界思想社}}<br />クリフォードの分類については太田 (1998) の訳p.270を採用した。</ref>。
==== 混血文化としての観光 ====
外部からの影響によって、伝統的文化が変貌したり新しく創造されたりすることがある。その典型的な事例は[[観光地]]にしばしば現れる。例えば[[バリ島|バリ]]の[[ケチャ]]は悪魔祓いの[[儀礼]]のときに行われるコーラスをもとに、映画『悪魔の島』(1955年)のBGMとしてドイツ人、[[ヴァルター・シュピース]]が創作したものであるが、これが[[ラーマヤナ]]の物語として現在の姿になり、それが現地の人々に受け入れられたものである<ref>{{Cite journal|和書|author=山下晋司|year=1992|title=『劇場国家』から『旅行者の楽園へ』|journal=国立民族学博物館研究報告|volume=17|issue=1|pages=1-33}}</ref>。他には[[アイヌ]]の民族芸能である[[木彫りの熊]]も、[[徳川義親]]が[[スイス]]土産を開拓村のアイヌに作らせたことが起源だとする説がある<ref>{{Cite book|和書|title=大東亞科學綺譚|author=荒俣宏|publisher=筑摩書房|series=ちくま文庫|year=1996}}</ref>。
一方でこうした観光の[[クレオール]]的な性質に対して、しばしば反発がおきる。代表的な事例では観光地での商売上の慣行が実際の伝統的な文化と同一視されることを拒絶する民族運動として[[ハワイ]]の先住民運動がある<ref>{{Cite book|和書|author=山中速人|year=1992|title=イメージの楽園|location=東京|publisher=筑摩書房}}</ref>。
=== 多文化主義と文化隔離主義 ===
文化相対主義の政治的応用の一つとして[[多文化主義]]と文化隔離主義がある。どちらも文化を[[本質主義]]的に取り扱っているので、文化人類学者の議論とは隔絶がある。特に[[移民排除運動]]や[[排外主義]]を理論化する際に、「文化相対主義からすれば、お互い相容れない存在なのだから、祖国に帰るべきである」という形で援用されるのが文化隔離主義であり、人類学者から文化相対主義の地獄とされる。
=== 文化資本と社会構造 ===
[[ピエール・ブルデュー]]は、社会における支配階層は権力によって、文化の洗練さを規定し、そうして規定した洗練されたとする[[文化資本]]を維持する[[ハビトゥス]]を獲得することで権力を再生産するとした。
== ミーム ==
{{see|ミーム|ミーム学}}
ミーム (meme) とは、文化を形成する情報であり、[[模倣]]を通して人の心から心へとコピーされる情報である<ref name="Brodie">リチャード・ブロディ『ミーム―心を操るウイルス』講談社、1998年。</ref>。ミームという言葉は、生物学者の[[リチャード・ドーキンス]]が作ったもので、ドーキンスはミームの例としてキャッチフレーズや服の流行をあげている。
{{Quote|…模倣に相当するギリシャ語の語根を取れば mimene だが、私がほしいのは、gene(遺伝子)と発音の似ている単音節の語だ。そこで、このギリシャ語の語根を meme(ミーム)と縮めることとする。|[[リチャード・ドーキンス]]|『[[利己的な遺伝子]]』|}}
[[ミーム学]]という科学では、[[ミーム]]という概念を用いて文化を理解する。ミーム学は、「ミームが自分の複製を作る」という視点で考察される。これは、ドーキンスの論じる[[利己的遺伝子]]が「遺伝子が自分の複製を作る」という視点で考察されることからの類推である(ただし利己的遺伝子のアイデア自体はドーキンス独自のものではない)。
遺伝子やミームのように自己の複製を作るものを[[自己複製子]]という。自己複製子は、自分のコピーを作る時に変異を起こすことがあり、多様化していく(DNAは、多くの場合正確に子孫に複製されるが、まれにコピーミスが起きる)。多様化した自己複製子は[[自然選択]](自然淘汰)によって、[[進化]]する。したがって、自己複製子であるミームも遺伝子のように進化することができ、この考察から、文化の進化する様子を分析することができる。
例として、[[コンピュータ]]における情報分野で盛んになっており、開発言語の変遷や[[仮想通貨]]にその様子が伺え、さらには、スマートフォンの世界的な普及を背景にしたものもある。
* ジョセフ・ヘンリック:「文化がヒトを進化させた:人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉」、白揚社、ISBN 978-4826902113(2019年7月13日)。
== 文化の発祥と伝播・変容 ==
ある特定地域の文化が他地域へと拡大することを[[文化伝播]]と呼ぶ。文化伝播には、隣接地域への直接的な接触による接触性拡大伝播、重要人物間や大都市間など遠隔地の同一階層にまず広がり、そこから下位へと伝播していく階層性拡大伝播、文化の所持者が移住することによって文化が伝播していく移転伝播などがある<ref>「文化地理学ガイドブック あたりまえを読み解く三段活用 改訂版」p76-78 森正人・中川正 ナカニシヤ出版 2022年1月10日改訂版第1刷発行</ref>。
例えば[[仏教]]は、[[インド]]で発祥し、宗派の分裂や各地の文化の影響もありつつ、主に[[上座部仏教]]は南方の東南アジア諸国に、[[大乗仏教]]は北方の中央アジア諸国や東アジア諸国などへと伝播していく<ref>「面白くて眠れなくなる宗教学」p105-106 中村圭志 PHP研究所 2018年2月6日第1版第1刷発行</ref>。その後大乗仏教が6世紀に日本にも伝えられるが([[仏教公伝]])、当初は崇仏論争が起きその受容につき激しく争われた。受容後は中国などからの影響も受けつつも、日本独自の宗派も発達し、また[[本地垂迹説]]の登場によって日本古来の宗教である[[神道]]との融合が起き、[[神仏習合]]と呼ばれる状態が生まれた<ref>「面白くて眠れなくなる宗教学」p116-121 中村圭志 PHP研究所 2018年2月6日第1版第1刷発行</ref>。
交通・通信手段の改善や経済交流の増大によって各文化圏の交流が密接になるに伴い、文化の伝播・交流はますます密度を増しつつある。特に1990年代以降、[[グローバリゼーション]]の爆発的な進展に伴い、各国では他国文化の流入が起きて多様性が増大し、さらに在来の文化と異文化との融合によって新たな文化が生まれた。その一方で、流入する異文化とはだいたいにおいて有力な文化、特にアメリカを中心とした文化であり、[[アメリカナイゼーション]]をはじめとする文化の画一化による文化差異の減少も顕著となっている<ref>「現代人の社会学・入門 グローバル化時代の生活世界」p9 西原和久・油井清光編 有斐閣 2010年12月20日初版第1刷発行</ref>。食文化においては、世界各地で気候風土や現地文化に即した独自性の高い文化が世界各地で育まれていたが、1990年代以降流通や情報技術の発達によって食品系企業の世界展開が起きて急速に標準化が進みつつあり、全体として差異は縮小する傾向にある<ref>「食文化の多様性と標準化」p79-80 岩間信之(「グローバリゼーション 縮小する世界」所収 [[矢ケ﨑典隆|矢ヶ﨑典隆]]・[[山下清海]]・[[加賀美雅弘]]編 [[朝倉書店]] 2018年3月5日初版第1刷)</ref>。ファストフード・チェーンなどの多国籍企業による効率的・画一的な消費文化が全世界に広がることで起こる文化の均質化も指摘されているが<ref>「現代人の社会学・入門 グローバル化時代の生活世界」p130-131 西原和久・油井清光編 有斐閣 2010年12月20日初版第1刷発行</ref>、そうして広まった均質な文化の中でまた差異が追求されることも珍しくない<ref>「現代人の社会学・入門 グローバル化時代の生活世界」p21 西原和久・油井清光編 有斐閣 2010年12月20日初版第1刷発行</ref>。こうしたグローバリゼーションと地域限定化の混合による文化の流れは、[[グローカル化|グローカリゼーション]]と呼ばれる<ref>『「文化」を捉え直す カルチュラル・セキュリティの発想』p22 渡辺靖 岩波新書 2015年11月20日第1刷発行</ref>。
== 文化と政治経済 ==
[[マスメディア]]は娯楽情報や文化や教養面の情報を発信し、また[[企業]]が自らの商品を売り込むための[[広告]]や、各団体が行う[[広報]]も大量に流される<ref>「メディアとジャーナリズムの理論 基礎理論から実践的なジャーナリズム論へ」p79 仲川秀樹・塚越孝著 同友館 2011年8月22日</ref>。こうしたマスメディアによる画一的で一方的な大量の情報の提供は、市民の受け取る情報を一様なものとすることで広汎な共通文化市場を生み出し、人々が広く愉しむ[[大衆文化]]を成立させた<ref>「環境になったメディア マスメディアは社会をどう変えているか」p98 藤竹暁 北樹出版 2004年3月25日初版第1刷</ref>。大衆文化が本格的に成立したのは[[第1次世界大戦]]後の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]であり、[[マスコミュニケーション]]の発達と販売技術の向上によってその波は世界に波及して、それまでの社会の価値観を大きく変動させた<ref>「現代文化論 新しい人文知とはなにか」p42 吉見俊哉 有斐閣 2018年11月5日初版第1刷発行</ref>。
文化は[[ナショナリズム]]と密接な関連があり、[[国家]]は自国の国民文化の創出に力を注ぐ<ref>「文化人類学キーワード」p184-185 山下晋司・船曳建夫編 有斐閣 1997年9月30日初版第1刷</ref>。ヨーロッパでは19世紀に民族意識やナショナリズムが興隆した結果、各地でその地域を代表するような名物料理が成立し、民族・地域意識の核のひとつとなってきた<ref>「食で読み解くヨーロッパ 地理研究の現場から」p120-124 加賀美雅弘 朝倉書店 2019年4月10日初版第1刷</ref>。また、[[音楽]]・[[文学]]・[[映画]]などをはじめとする大衆文化や、その国の伝統文化は当該国家の競争力を高めるのに有効な手段と見なされており、各国は競って[[文化産業]]の輸出や自国文化の広報に力を入れるようになっている<ref>『「文化」を捉え直す カルチュラル・セキュリティの発想』p84-87 渡辺靖 岩波新書 2015年11月20日第1刷発行</ref>。こうした文化面からの交流によって他国からの共感と好意を得、自国のイメージを向上させることは外交上[[ソフトパワー]]と呼ばれ、ソフトパワーを得るために他国の市民に対し自国の[[広報]]を行うことを[[パブリック・ディプロマシー]]と呼び、重要な外交の一手段となっている<ref>「外交 他文明時代の対話と交渉」p183-187 細谷雄一 有斐閣 2007年12月30日初版第1刷</ref>。
== 文化遺産 ==
各文化はそれぞれ有形・無形の文化的な成果を所持しており、それらの中でも特に価値の高いものは[[文化遺産]]と呼ばれる。各国の文化遺産は国内でそれぞれ保護される他、国際的な保護体制も構築されている<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/culture/kyoryoku/unesco/isan/index.html 「文化遺産」日本国外務省 平成28年2月1日 2021年5月23日閲覧</ref>。こうした文化遺産のうち、有形で特に価値の高いものは1972年の[[世界遺産条約]]によって保護のガイドラインが制定され、[[世界遺産]]に登録されれば[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]や[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]として保護されることとなる<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/culture/kyoryoku/unesco/isan/world/index.html 「世界遺産」日本国外務省 令和3年8月11日 2021年8月15日閲覧</ref>。次いで、2003年には無形の文化遺産においても[[無形文化遺産の保護に関する条約]]が採択され、重要と認められたものはユネスコによって[[無形文化遺産]]に登録されるようになった<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/culture/kyoryoku/unesco/isan/mukei/index.html 「無形文化遺産」日本国外務省 平成31年1月9日 2021年8月15日閲覧</ref>。こうした文化遺産は観光において重要な位置を占めており、国外から文化を鑑賞したり体験するために観光客が押し寄せることも多い<ref>「よくわかるスポーツ人類学」p144-145 寒川恒夫編著 ミネルヴァ書房 2017年3月31日初版第1刷発行</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* イーグルトン・テリー著、大橋洋一訳『文化とは何か』松柏社、ISBN 4-7754-0100-9
== 関連項目 ==
{{Sisterlinks|文化
|wikibooks=Category:文化
|commons=Category:Culture
|wikinews=Category:文化
|wikisource=Category:文化
|wikiversity=Category:文化
}}
* [[特別:検索/intitle:文化|「文化」を含む記事名一覧]]
* [[文化多様性]]
* [[文化相対主義]]
* [[多文化主義]]
* [[ハイカルチャー]]
* [[大衆文化]]
* [[サブカルチャー]]
* [[若者文化]]
* [[文化財]]
* [[世界遺産]] - [[文化遺産 (世界遺産)]]
* [[文化のダイヤモンド]]
* [[文化の型]]
* [[文化人]]
* [[風俗]]
* [[服飾]] - [[身体装飾]] - [[食文化]] - [[住宅]]
* [[芸術]] - [[文学]] - [[伝統芸能]] - [[芸能]] - [[祭]] - [[冠婚葬祭]]
* [[宗教]] - [[政治]] - [[経済]] - [[制度]]
* [[日本の文化]]
* [[文明]]
* [[エートス]]
* [[ミーム]]
* {{ill2|商品化|en|Commodification}} ‐ 先住民族の文化観光資源、動植物などの活用について
== 外部リンク ==
* [https://www.bunka.go.jp/ 文化庁]
* [https://web.archive.org/web/20090818182312/http://shofu.pref.ishikawa.jp/ 石川新情報書府]
*{{Kotobank}}
{{アジアの題材|文化|mode=3}}
{{アメリカの題材|文化|mode=3}}
{{ヨーロッパの題材|文化|mode=3}}
{{アフリカの題材|文化|mode=3}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふんか}}
[[Category:文化|*]]
[[Category:健康の社会的決定要因]]
[[Category:和製漢語]]
[[Category:哲学の和製漢語]]
[[diq:Portal:Zagon]] | 2003-03-07T13:14:32Z | 2023-09-15T06:12:11Z | false | false | false | [
"Template:仮リンク",
"Template:Reflist",
"Template:Cite book",
"Template:Cite journal",
"Template:ヨーロッパの題材",
"Template:Otheruses",
"Template:See",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Sisterlinks",
"Template:Kotobank",
"Template:アジアの題材",
"Template:アメリカの題材",
"Template:Lang-la",
"Template:Quote",
"Template:Cite",
"Template:アフリカの題材",
"Template:Quotation",
"Template:Main",
"Template:Ill2",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96 |
3,618 | レンダリングエンジン | レンダリングエンジン (rendering engine) とは、レンダリングを行うソフトウェア部品。情報(データ)を読み込んで、特定のルールにしたがい適切な表現に変換する役割を担う。レイアウトエンジン (layout engine)、レンダラー (renderer) ともいう。
情報がデジタルデータの場合、適切にレンダリングを行うためには、レンダラーの書式(フォーマット)に従って保存されていることが必要となり、また一般的にデータの名前やデータ中のヘッダーにレンダラーの条件が付けられる。例えばコンピュータにおいて、記憶装置中に格納されたある領域に羅列するデータ列が、書式に従ってデータの名前、形式、データの始まり、データの終わり、エラー訂正のための冗長情報などが書かれていれば、これを適切なレンダラーが読み込むことで、「ファイル」として認識することができる。この場合の書式はファイルシステムが定義しており、「ファイラー」がレンダリングエンジンとして機能している。
アプリケーション・ソフトウェア内部に組み込まれていることもあるが、独立したライブラリとして提供されたり、ソフトウェアどうしの連携によって外部から利用されることもある。多くのコンピューターで、上記の「ファイル」として認識されたデータをさらに別のレンダラーが連携で読み込み利用している。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "レンダリングエンジン (rendering engine) とは、レンダリングを行うソフトウェア部品。情報(データ)を読み込んで、特定のルールにしたがい適切な表現に変換する役割を担う。レイアウトエンジン (layout engine)、レンダラー (renderer) ともいう。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "情報がデジタルデータの場合、適切にレンダリングを行うためには、レンダラーの書式(フォーマット)に従って保存されていることが必要となり、また一般的にデータの名前やデータ中のヘッダーにレンダラーの条件が付けられる。例えばコンピュータにおいて、記憶装置中に格納されたある領域に羅列するデータ列が、書式に従ってデータの名前、形式、データの始まり、データの終わり、エラー訂正のための冗長情報などが書かれていれば、これを適切なレンダラーが読み込むことで、「ファイル」として認識することができる。この場合の書式はファイルシステムが定義しており、「ファイラー」がレンダリングエンジンとして機能している。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "アプリケーション・ソフトウェア内部に組み込まれていることもあるが、独立したライブラリとして提供されたり、ソフトウェアどうしの連携によって外部から利用されることもある。多くのコンピューターで、上記の「ファイル」として認識されたデータをさらに別のレンダラーが連携で読み込み利用している。",
"title": null
}
] | レンダリングエンジン とは、レンダリングを行うソフトウェア部品。情報(データ)を読み込んで、特定のルールにしたがい適切な表現に変換する役割を担う。レイアウトエンジン、レンダラー (renderer) ともいう。 情報がデジタルデータの場合、適切にレンダリングを行うためには、レンダラーの書式(フォーマット)に従って保存されていることが必要となり、また一般的にデータの名前やデータ中のヘッダーにレンダラーの条件が付けられる。例えばコンピュータにおいて、記憶装置中に格納されたある領域に羅列するデータ列が、書式に従ってデータの名前、形式、データの始まり、データの終わり、エラー訂正のための冗長情報などが書かれていれば、これを適切なレンダラーが読み込むことで、「ファイル」として認識することができる。この場合の書式はファイルシステムが定義しており、「ファイラー」がレンダリングエンジンとして機能している。 アプリケーション・ソフトウェア内部に組み込まれていることもあるが、独立したライブラリとして提供されたり、ソフトウェアどうしの連携によって外部から利用されることもある。多くのコンピューターで、上記の「ファイル」として認識されたデータをさらに別のレンダラーが連携で読み込み利用している。 | '''レンダリングエンジン''' (rendering engine) とは、[[レンダリング (コンピュータ)|レンダリング]]を行う[[ソフトウェア]]部品。情報(データ)を読み込んで、特定のルールにしたがい適切な表現に変換する役割を担う。'''レイアウトエンジン''' (layout engine)、'''レンダラー''' (renderer) ともいう。
情報が[[デジタル]]データの場合、適切にレンダリングを行うためには、レンダラーの書式(フォーマット)に従って保存されていることが必要となり、また一般的にデータの名前やデータ中の[[ヘッダー]]にレンダラーの条件が付けられる。例えば[[コンピュータ]]において、[[記憶装置]]中に格納されたある領域に羅列するデータ列が、書式に従ってデータの名前、形式、データの始まり、データの終わり、エラー訂正のための冗長情報などが書かれていれば、これを適切なレンダラーが読み込むことで、「[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]」として認識することができる。この場合の書式は[[ファイルシステム]]が定義しており、「[[ファイルマネージャ|ファイラー]]」がレンダリングエンジンとして機能している。
アプリケーション・ソフトウェア内部に組み込まれていることもあるが、独立した[[ライブラリ]]として提供されたり、ソフトウェアどうしの連携によって外部から利用されることもある。多くのコンピューターで、上記の「ファイル」として認識されたデータをさらに別のレンダラーが連携で読み込み利用している。
==実例==
*[[TeX]]
*[[HTMLレンダリングエンジン]]
*[[コンピュータグラフィックス]]
==関連項目==
*[[ラスターイメージプロセッサ]]
*[[レイアウトマネージャ]]
{{3D software}}
{{DEFAULTSORT:れんたりんくえんしん}}
[[Category:システムソフトウェア]]
[[Category:コンピュータグラフィックス]]
[[Category:3DCG]]
{{Software-stub}}
[[nl:Layout engine]] | null | 2021-07-28T10:03:06Z | false | false | false | [
"Template:3D software",
"Template:Software-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3 |
3,621 | 知恵の輪 | 知恵の輪(ちえのわ、英: disentanglement puzzle)とは、パズルの一種で、簡単に外せない一組(2つ以上)の部品を、繋げたり外したりする遊びである。ただし、外すのではなく部品同士を特定の形にもってゆくことを目的とするものもある。また、大抵のものは特定の外し方によって簡単に外せるが、手順が複雑なために外し方を知っていても、外すまでに時間が掛かるものも存在する。
外す方法を探すために試行錯誤する過程を楽しむ。また、外した後には元の形に戻すことも楽しみの一つとなる。元の形のみならず、複数のパターンがあって、それらの内で目指す形に戻すのを楽しみとするような作品もある(「キャストパズル」のキャストキーリング等)。
部品には金属や紐がよく使用される。金属は容易に変形できないために、外すための障害となる。逆に紐は軟らかいため、変形させて金属部品の隙間を通したり、場合によっては狭い隙間を通すこともある。木製のものや紙製のものもあり、素材によらず知恵の輪となる可能性を秘めている。
位相幾何学的には、紐の知恵の輪は、紐に充分な長さがあると仮定し、かつ金属部品(固定部品)の部分もまた紐で作られていたと想定したときに外れるのなら、必ず外せる。逆に、金属部品の部分も紐だったとしても外せないなら、当然外せない。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "知恵の輪(ちえのわ、英: disentanglement puzzle)とは、パズルの一種で、簡単に外せない一組(2つ以上)の部品を、繋げたり外したりする遊びである。ただし、外すのではなく部品同士を特定の形にもってゆくことを目的とするものもある。また、大抵のものは特定の外し方によって簡単に外せるが、手順が複雑なために外し方を知っていても、外すまでに時間が掛かるものも存在する。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "外す方法を探すために試行錯誤する過程を楽しむ。また、外した後には元の形に戻すことも楽しみの一つとなる。元の形のみならず、複数のパターンがあって、それらの内で目指す形に戻すのを楽しみとするような作品もある(「キャストパズル」のキャストキーリング等)。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "部品には金属や紐がよく使用される。金属は容易に変形できないために、外すための障害となる。逆に紐は軟らかいため、変形させて金属部品の隙間を通したり、場合によっては狭い隙間を通すこともある。木製のものや紙製のものもあり、素材によらず知恵の輪となる可能性を秘めている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "位相幾何学的には、紐の知恵の輪は、紐に充分な長さがあると仮定し、かつ金属部品(固定部品)の部分もまた紐で作られていたと想定したときに外れるのなら、必ず外せる。逆に、金属部品の部分も紐だったとしても外せないなら、当然外せない。",
"title": null
}
] | 知恵の輪とは、パズルの一種で、簡単に外せない一組(2つ以上)の部品を、繋げたり外したりする遊びである。ただし、外すのではなく部品同士を特定の形にもってゆくことを目的とするものもある。また、大抵のものは特定の外し方によって簡単に外せるが、手順が複雑なために外し方を知っていても、外すまでに時間が掛かるものも存在する。 外す方法を探すために試行錯誤する過程を楽しむ。また、外した後には元の形に戻すことも楽しみの一つとなる。元の形のみならず、複数のパターンがあって、それらの内で目指す形に戻すのを楽しみとするような作品もある(「キャストパズル」のキャストキーリング等)。 部品には金属や紐がよく使用される。金属は容易に変形できないために、外すための障害となる。逆に紐は軟らかいため、変形させて金属部品の隙間を通したり、場合によっては狭い隙間を通すこともある。木製のものや紙製のものもあり、素材によらず知恵の輪となる可能性を秘めている。 位相幾何学的には、紐の知恵の輪は、紐に充分な長さがあると仮定し、かつ金属部品(固定部品)の部分もまた紐で作られていたと想定したときに外れるのなら、必ず外せる。逆に、金属部品の部分も紐だったとしても外せないなら、当然外せない。 | {{出典の明記|date=2022年5月}}
[[File:PuzzleVexieres.jpg|thumb|知恵の輪]]
'''知恵の輪'''(ちえのわ、{{Lang-en-short|disentanglement puzzle}})とは、[[パズル]]の一種で、簡単に外せない一組(2つ以上)の部品を、繋げたり外したりする遊びである。ただし、外すのではなく部品同士を特定の形にもってゆくことを目的とするものもある。また、大抵のものは特定の外し方によって簡単に外せるが、手順が複雑なために外し方を知っていても、外すまでに時間が掛かるものも存在する。
外す方法を探すために試行錯誤する過程を楽しむ。また、外した後には元の形に戻すことも楽しみの一つとなる。元の形のみならず、複数のパターンがあって、それらの内で目指す形に戻すのを楽しみとするような作品もある(「[[はずる|キャストパズル]]」のキャストキーリング等)。
部品には金属や紐がよく使用される。金属は容易に変形できないために、外すための障害となる。逆に紐は軟らかいため、変形させて金属部品の隙間を通したり、場合によっては狭い隙間を通すこともある。木製のものや紙製のものもあり、素材によらず知恵の輪となる可能性を秘めている。
[[位相幾何学]]的には、紐の知恵の輪は、紐に充分な長さがあると仮定し、かつ金属部品(固定部品)の部分もまた紐で作られていたと想定したときに外れるのなら、必ず外せる。逆に、金属部品の部分も紐だったとしても外せないなら、当然外せない。
==主な知恵の輪==
;[[チャイニーズリング]]
:その名が表す通り中国で生まれた知恵の輪。「[[九連環]]」とも呼ばれる。一つながりになった輪から別の一本の輪を外すのが目的。[[ハノイの塔]]などと同様に解答の動きは規則的であり、輪の数がひとつ増えるたびに手数は2<sup>n</sup>の[[ランダウの記号|オーダー]]で増える。
;ボタンホールパズル
:[[サム・ロイド]]の作品。先端に輪になった紐がついた棒である。この紐の部分を相手の衣服のボタンの穴につけて外させる。
;[[はずる]](旧称:キャストパズル)
:[[鋳造]]によって作られた金属製の知恵の輪。元々は[[19世紀]]に[[イギリス]]で作られた物だが、現在多くの復刻版や新作が[[芦ヶ原伸之]]監修の元[[ハナヤマ]]より発売されている。
:従来の知恵の輪がおもちゃ屋でしか販売されなかったのに対し、[[書店]]や[[コンビニエンスストア]]などでも販売された。また、[[携帯電話]]の[[ストラップ]]にもなった。
; パズルリング
:パズルリングの始まりは15世紀のトルコとされている。戦争に出る兵士が、国に残してきた愛する女性にこのパズルリングを装着させ、そして帰ってきたときにこの指輪がバラバラになっていたら浮気をした証拠として、自分だけを愛し続け待っていて欲しいと願いを込めたメッセージリング。
==参考文献==
{{参照方法|date=2022年5月}}
{{Commons|Wire puzzle}}
*「知恵の輪読本」(秋山久義著・新紀元社) ISBN 4-7753-0170-5
{{DEFAULTSORT:ちえのわ}}
[[Category:パズル]] | null | 2022-09-19T10:37:31Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:Lang-en-short",
"Template:参照方法",
"Template:Commons"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%B5%E3%81%AE%E8%BC%AA |
3,622 | Internet Information Services | Microsoft Internet Information Services (IIS) は、Microsoft Windowsの標準Webサーバー(アプリケーションサーバー)サービスである。HTTP/HTTPS、FTP、SMTP、NNTP等の基本的なプロトコルはサポートしている。クライアント版に付属するIISでは機能制限が行われている。
もともとInternet Information Serverという名称で、Windows NT Server上で稼働するアドオンソフトウェアという位置付けであったが、Windows 2000 Server登場時にシステムの標準サービスに位置付けられ、現名称に改められた。
インストールした時点でIISの仕事は始まっており、指定されたフォルダにhtmlテキストを保存し、設定することでwebページの公開は可能である。またサーバ版の場合、Windows Server Update Servicesや、Microsoft Exchange Server等のアプリケーションと関連付ける事で、サーバアプリケーションをブラウザ越しに、よりグラフィカルに設定させることが出来るため、ある意味マイクロソフトを象徴するコンポーネントといえる。
かつてのバージョンでは、IIS自身にSMTPサーバ機能が付加されており、Windows Server 2003のPOP3サーバ機能と合わせて簡易なメールサーバを構成できた。これはIISのエラー情報を管理者に通知するための機能の応用であるため、Exchange Serverのように本格的なメールサーバを構築することは出来ない。なお、SMTPサーバ機能はIIS 7.0より削除された。
そのほかバーチャルドメイン等の機能も持つが、パーミッション(アクセス権限)設定が他のWebサーバソフトよりも複雑である。
IIS に比べて対応機能が少ない「ASP.NET 開発サーバー」 (Cassini) を利用せずに IIS の全機能を開発環境で使用するために公開された。ASP.NET 開発サーバーと同様に IIS のインストールが不要で、localhost 接続要求のみ受け付ける(ただし、設定すればlocalhost以外からの接続要求も受け付けることが出来る)。また、古いバージョンの OS でも新しい IIS の機能を使用することができる。
IIS 7.5 と同等の IIS Express 7.5、IIS 8.0 と同等の IIS Express 8.0 が公開されており、Visual Studio 2010 Service Pack 1 で対応し、Visual Studio 2012 で ASP.NET 開発サーバーから置き換えられた。
IIS は当初、多くのそして重大なセキュリティホールが頻繁に発見された。過去にはCode RedやNimdaといったワームの蔓延により大規模な障害を引き起こした。特にWindows 2000では標準で組み込まれるため被害を大きくした。
IIS 6.0においてアーキテクチャを過去のIISに比べ大幅に変更し、発表から2007年1月の間にわずか3つの脆弱性しか発見されないレベルまでセキュリティを向上させている。また、安全性確保のため初期状態ではインストールされないようになった。
マイクロソフトでは旧バージョンのIIS 4.0、IIS 5.0、IIS 5.1に対しては、セキュリティ対策用のツールとして「IIS Lockdown Wizard ツール」を配布し、セキュリティの向上を促している。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "Microsoft Internet Information Services (IIS) は、Microsoft Windowsの標準Webサーバー(アプリケーションサーバー)サービスである。HTTP/HTTPS、FTP、SMTP、NNTP等の基本的なプロトコルはサポートしている。クライアント版に付属するIISでは機能制限が行われている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "もともとInternet Information Serverという名称で、Windows NT Server上で稼働するアドオンソフトウェアという位置付けであったが、Windows 2000 Server登場時にシステムの標準サービスに位置付けられ、現名称に改められた。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "インストールした時点でIISの仕事は始まっており、指定されたフォルダにhtmlテキストを保存し、設定することでwebページの公開は可能である。またサーバ版の場合、Windows Server Update Servicesや、Microsoft Exchange Server等のアプリケーションと関連付ける事で、サーバアプリケーションをブラウザ越しに、よりグラフィカルに設定させることが出来るため、ある意味マイクロソフトを象徴するコンポーネントといえる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "かつてのバージョンでは、IIS自身にSMTPサーバ機能が付加されており、Windows Server 2003のPOP3サーバ機能と合わせて簡易なメールサーバを構成できた。これはIISのエラー情報を管理者に通知するための機能の応用であるため、Exchange Serverのように本格的なメールサーバを構築することは出来ない。なお、SMTPサーバ機能はIIS 7.0より削除された。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "そのほかバーチャルドメイン等の機能も持つが、パーミッション(アクセス権限)設定が他のWebサーバソフトよりも複雑である。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "IIS に比べて対応機能が少ない「ASP.NET 開発サーバー」 (Cassini) を利用せずに IIS の全機能を開発環境で使用するために公開された。ASP.NET 開発サーバーと同様に IIS のインストールが不要で、localhost 接続要求のみ受け付ける(ただし、設定すればlocalhost以外からの接続要求も受け付けることが出来る)。また、古いバージョンの OS でも新しい IIS の機能を使用することができる。",
"title": "IIS Express"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "IIS 7.5 と同等の IIS Express 7.5、IIS 8.0 と同等の IIS Express 8.0 が公開されており、Visual Studio 2010 Service Pack 1 で対応し、Visual Studio 2012 で ASP.NET 開発サーバーから置き換えられた。",
"title": "IIS Express"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "IIS は当初、多くのそして重大なセキュリティホールが頻繁に発見された。過去にはCode RedやNimdaといったワームの蔓延により大規模な障害を引き起こした。特にWindows 2000では標準で組み込まれるため被害を大きくした。",
"title": "セキュリティ"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "IIS 6.0においてアーキテクチャを過去のIISに比べ大幅に変更し、発表から2007年1月の間にわずか3つの脆弱性しか発見されないレベルまでセキュリティを向上させている。また、安全性確保のため初期状態ではインストールされないようになった。",
"title": "セキュリティ"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフトでは旧バージョンのIIS 4.0、IIS 5.0、IIS 5.1に対しては、セキュリティ対策用のツールとして「IIS Lockdown Wizard ツール」を配布し、セキュリティの向上を促している。",
"title": "セキュリティ"
}
] | Microsoft Internet Information Services (IIS) は、Microsoft Windowsの標準Webサーバー(アプリケーションサーバー)サービスである。HTTP/HTTPS、FTP、SMTP、NNTP等の基本的なプロトコルはサポートしている。クライアント版に付属するIISでは機能制限が行われている。 もともとInternet Information Serverという名称で、Windows NT Server上で稼働するアドオンソフトウェアという位置付けであったが、Windows 2000 Server登場時にシステムの標準サービスに位置付けられ、現名称に改められた。 | {{Pathnav|Microsoft|Windows|Windows Server|frame=1}}
{{Infobox Windowsコンポーネント
| name = Internet Information Services
| service_name = IISADMIN, W3SVC, MSFTPSVC
| service_description= IIS Admin Service, World Wide Web Publishing Service, FTP Publishing Service
| included_with = [[Microsoft Windows NT 4.0|Windows NT 4.0]]<br /> [[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]<br /> [[Microsoft Windows XP|Windows XP Professional]]<br /> [[Microsoft Windows Server 2003|Windows Server 2003]]<br /> [[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]<br /> [[Microsoft Windows Server 2008|Windows Server 2008]]<br /> [[Microsoft Windows 7|Windows 7]]<br /> [[Microsoft Windows Server 2008 R2|Windows Server 2008 R2]]<br />一部のエディションを除く以降の Windows
| also_available_for = [[Microsoft Windows NT 3.51|Windows NT 3.51]]
| replaces =
| replaced_by =
| related_components = [[ISAPI]]
}}
'''Microsoft Internet Information Services''' (IIS) は、[[Microsoft Windows]]の標準[[Webサーバ|Webサーバー]]([[アプリケーションサーバ|アプリケーションサーバー]])[[サービス]]である。[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]/[[HTTPS]]、[[File Transfer Protocol|FTP]]、[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]]、[[Network News Transfer Protocol|NNTP]]等の基本的なプロトコルはサポートしている。クライアント版に付属するIISでは機能制限が行われている<ref>{{Cite web|和書|title=クライアント版Windowsに付属するIISの制限|url=https://atmarkit.itmedia.co.jp/fwin2k/win2ktips/207rest_iis_pro/rest_iis_pro.html|publisher=@IT|author=島田 広道|accessdate=2014-04-13}}</ref>。
もともとInternet Information Serverという名称で、[[Microsoft Windows NT|Windows NT]] Server上で稼働する[[アドオン]][[ソフトウェア]]という位置付けであったが、[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]] Server登場時にシステムの標準サービスに位置付けられ、現名称に改められた。
== 特徴 ==
インストールした時点でIISの仕事は始まっており、指定されたフォルダにhtmlテキストを保存し、設定することでwebページの公開は可能である。またサーバ版の場合、[[Windows Server Update Services]]や、[[Microsoft Exchange Server]]等のアプリケーションと関連付ける事で、サーバアプリケーションをブラウザ越しに、よりグラフィカルに設定させることが出来るため、ある意味[[マイクロソフト]]を象徴するコンポーネントといえる。
かつてのバージョンでは、IIS自身にSMTPサーバ機能が付加されており、Windows Server 2003のPOP3サーバ機能と合わせて簡易なメールサーバを構成できた。これはIISのエラー情報を管理者に通知するための機能の応用であるため、Exchange Serverのように本格的なメールサーバを構築することは出来ない。なお、SMTPサーバ機能はIIS 7.0より削除された。
そのほか[[バーチャルドメイン]]等の機能も持つが、パーミッション(アクセス権限)設定が他のWebサーバソフトよりも複雑である。<ref>[[NT File System|NTFS]]の[[アクセス制御リスト|ACL]]など、[[Windows NT系]]システムでのパーミッション管理について一定の知識を要する。</ref>
== バージョン ==
;IIS 1.0
:[[Microsoft Windows NT 3.51|Windows NT 3.51]] のアドオンパックとして提供されたバージョンである<ref>{{Cite web|和書|date=1996-5-3 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/960503/iis.htm |title=マイクロソフトがWWWサーバーソフト「IIS」の日本語版を無償公開 |publisher=PC Watch |accessdate=2012-04-29}}</ref>。
;IIS 2.0
:[[Microsoft Windows NT 4.0|Windows NT 4.0]] に付属するバージョンである。
;IIS 3.0
:Windows NT 4.0 Service Pack 3 に付属するバージョンである。
;IIS 4.0
:Windows NT 4.0 Option Pack に付属するバージョンである。
;IIS 5.0
:[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]] に付属するバージョンである。Windows 2000 のサーバー エディションでは OS インストール直後に標準で有効となっている。
;IIS 5.1
:[[Microsoft Windows XP|Windows XP Professional]] に付属するバージョンである。OS インストール直後は標準で有効となっていない。
;IIS 6.0
:[[Microsoft Windows Server 2003|Windows Server 2003]] と Windows XP Professional x64 Edition に付属するバージョンである。
:安全性の向上として IIS 5.0 では [[Windows Server]] のインストール完了直後から IIS が機能していたが、このバージョンから明示的にインストールしない限り無効化されている。また、全面的にソースコードが書き直された。
:アプリケーションを実行するためのワーカープロセスはアプリケーションごとにプロセスを独立させて動作させることが可能となり、高可用性なものとなった。
:アプリケーションコンポーネントはユーザーモードに残したまま、送受信を行うコンポーネントはカーネルモードに移された。カーネルモードでもキャッシュを行うなどにより、パフォーマンスが向上した。
:サーバー構成のメタデータは、それまでのバイナリ形式から [[Extensible Markup Language|XML]] 形式に変更された。
;IIS 7.0
:[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]] と [[Microsoft Windows Server 2008|Windows Server 2008]] に付属するバージョンである。Windows Vista は Windows Vista Service Pack 1 で Windows Server 2008 と同じ [[FastCGI]] に標準で対応したものに変更された。
:IIS の機能のモジュール化が行われた。
:Server Core インストールで IIS の機能を有効化させることができるが、静的 Web サイトのみ対応し、ASP.NET 等の動的 Web サイトを構築できない。
;IIS 7.5
:[[Microsoft Windows 7|Windows 7]] と [[Microsoft Windows Server 2008 R2|Windows Server 2008 R2]] に付属するバージョンである。
:IIS とは切り離されて開発・提供されていたモジュール FTP 7.5 と WebDAV 7.5 が以前のそれらと置き換えられた。
:Server Core インストールで [[.NET Framework]] を使用することが可能となったため、Server Core インストールでも ASP.NET の使用が可能となった。
;IIS 8.0
:[[Microsoft Windows 8|Windows 8]] と [[Microsoft Windows Server 2012|Windows Server 2012]] に付属するバージョンである。
:単一の SSL 証明書ストアによる SSL 証明書配布と管理する機能や、指定要求数を越えた IP アドレスをブロックする機能、指定期間内に FTP ログイン失敗を繰り返した場合の FTP アクセスの制限する機能、[[Server Name Indication]] の機能らが追加された。[[WebSocket]] プロトコルに対応した。
:[[NUMA]] ハードウェアのサポートが行われることによりサーバー資源の効率化が可能となった。アプリケーション プールのサーバー資源の利用調整機能の強化が行われ、複数の Web サイトを単一のアプリケーション プールで展開した際のパフォーマンス低下の防止が可能となった。
:ワーカープロセスの[[サンドボックス (セキュリティ)|サンドボックス化]]などの安全性の向上が行われた。
;IIS 8.5
:[[Microsoft Windows 8#Windows 8.1|Windows 8.1]] と [[Microsoft Windows Server 2012 R2|Windows Server 2012 R2]] に付属するバージョンである。
:カスタマイズ可能な W3C ログ形式や Event Tracing for Windows の対応等のログ強化が行われた。
:従来までのアイドル状態のワーカープロセスを終了させる方式からページアウト化する方式に変更、サイトのアクティベーションの方式の変更等による初回アクセスのパフォーマンスの向上が行われる。
;IIS 10.0
:[[Microsoft Windows 10|Windows 10]] と [[Microsoft Windows Server 2016|Windows Server 2016]] に付属するバージョンである。
:2015年2月に正式な仕様が発表された [[HTTP/2]] に対応する。
== IIS Express ==
IIS に比べて対応機能が少ない「ASP.NET 開発サーバー」 (Cassini) を利用せずに IIS の全機能を開発環境で使用するために公開された。ASP.NET 開発サーバーと同様に IIS のインストールが不要で、[[localhost]] 接続要求のみ受け付ける(ただし、設定すればlocalhost以外からの接続要求も受け付けることが出来る)。また、古いバージョンの OS でも新しい IIS の機能を使用することができる。
IIS 7.5 と同等の IIS Express 7.5、IIS 8.0 と同等の IIS Express 8.0 が公開されており、[[Microsoft Visual Studio#Visual Studio 2010|Visual Studio 2010 Service Pack 1]] で対応し<ref>{{Cite web|和書|title=Visual Studio 2010 Service Pack 1 について|url=http://support.microsoft.com/kb/983509/ja|publisher=マイクロソフト|accessdate=2014-04-13}}</ref>、[[Microsoft Visual Studio#Visual Studio 2012|Visual Studio 2012]] で ASP.NET 開発サーバーから置き換えられた<ref>{{Cite web|和書|title=Visual Studio 2012 の新機能|url=http://msdn.microsoft.com/ja-jp/library/vstudio/bb386063(v=vs.110).aspx#BKMK_ASPIIS|publisher=マイクロソフト|accessdate=2014-04-13}}</ref>。
== セキュリティ ==
IIS は当初、多くのそして重大な[[セキュリティホール]]が頻繁に発見された。過去には[[Code Red]]や[[Nimda]]といった[[ワーム (コンピュータ)|ワーム]]の蔓延により大規模な障害を引き起こした。特にWindows 2000では標準で組み込まれるため被害を大きくした。
IIS 6.0において[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]を過去のIISに比べ大幅に変更し、発表から2007年1月の間にわずか3つの脆弱性しか発見されないレベルまでセキュリティを向上させている。また、安全性確保のため初期状態ではインストールされないようになった。
マイクロソフトでは旧バージョンのIIS 4.0、IIS 5.0、IIS 5.1に対しては、セキュリティ対策用のツールとして「IIS Lockdown Wizard ツール」を配布し、セキュリティの向上を促している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[XSP (Webサーバ)]]
== 外部リンク ==
* {{official website}} {{en icon}}
*[http://technet.microsoft.com/ja-jp/bb466129.aspx IIS 関連情報 | Technet]
*[http://www.microsoft.com/japan/technet/security/tools/locktool.mspx IIS Lockdown Wizard 2.1 ツール (Microsoft Japan)]
{{Webサーバソフトウェア}}
{{Windows Components}}
{{マイクロソフト}}
{{Normdaten}}
[[Category:Windowsのコンポーネント]]
[[Category:Webサーバ]]
[[Category:FTPサーバ]]
[[Category:Microsoft server technology]] | 2003-03-07T13:29:41Z | 2023-09-27T05:29:57Z | false | false | false | [
"Template:Infobox Windowsコンポーネント",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Normdaten",
"Template:Pathnav",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Official website",
"Template:En icon",
"Template:Webサーバソフトウェア",
"Template:Windows Components",
"Template:マイクロソフト"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Internet_Information_Services |
3,623 | タングラム | タングラムは、問題として提示された形を作るシルエットパズルの中で非常に有名なものの一つで、正方形をいくつかに切りわけたものを使うパズルである。
タングラムは、以下の図形で構成されている。
タングラムは中国で生まれたと考えられているが、詳しくは分かっていない。
中国の宋の時代に黄伯思という人物が著した「燕几図」という机の並べ方に関する書物があり、7個の長方形の机を並べる物であった。これを基に明の厳澄が、三角形や台形を用いた「蝶翅几」を考案し、それらを更に発展させたのがタングラムであるという説がある。
日本では1742年(寛保2年)に「清少納言知恵の板」(シルエットパズルだが分割法はタングラムと異なる)に関する本が発行されている。
中国では1813年に「七巧図合壁」、1858年に「七巧八分図」という本が刊行される。これらの本はタングラムに関する本である。
ヨーロッパでは、1805年に発行された書籍に紹介されている。その後「七巧図合壁」がヨーロッパでも出版され 1817年にはイギリスでオリジナルの問題集が発売されている。これらが翻訳されることでヨーロッパ中に広まり、各国で多くの問題集が発売されている。
ルイス・キャロルやエドガー・アラン・ポーなど著名人が遊んでいたと言う話も残っており、セント・ヘレナ島に流されたナポレオンが遊んでいたという記録も残っている。
19世紀末にドイツのリヒター社がシルエットパズルの製造を開始し、20ペニヒで販売している。このシリーズにおいてタングラムは、"Kopfzerbrecher"というタイトルで収録されている。この商品はヒットし、ピースの形を変えた多くのシルエットパズルが発売されるようになる。
20世紀に入ってから、サム・ロイドは「タンの8番目の本」を出版した。この本には数百題の絵柄と共に、今日までよく知られているタングラムの名称の由来の話が掲載されている。
現在では、単なる遊びとしてだけではなく幾何学の教材などにも利用されている。
タングラムを遊んでいたとされる19世紀の欧米の著名人は何人かいる。ナポレオン・ボナパルトもその1人だが、彼が本当にタングラムで遊んでいたか疑わしい部分があった。理由として以下のようなものが存在する。
ナポレオンが遊んでいたと考えられる根拠としては以下のようなものがあったが、いずれも遊んでいた可能性があることを示すだけで確実な根拠ではない。
他の根拠として、1817年に出版されたタングラムの本に「ナポレオンがこの遊びを楽しんでいる」という記述があるが、これも事実かどうかは不明である。
これらの理由から、マーティン・ガードナーのようにナポレオンは遊んでいなかったと結論付ける人もいた。
オーストリアの外交官 Barthélémi de Stürmer(en)は、クレメンス・フォン・メッテルニヒに宛てた私信の中で「独創的な中国の遊び」について言及している。このことから、この時点でセントヘレナにタングラムが存在していたことがわかる。20世紀末の調査の結果、マルメゾン城のナポレオンの遺物のコレクションの中に象牙製のタングラムと問題集があるのが確認された。これにより、ナポレオンがタングラムで遊んだことがあることが証明された。ただし、この調査にも携わったジェリー・スローカムは、「タングラムを所持していたのは間違いないが、それはお気に入りの娯楽ではなかった」としている。
中国においてこのパズルは「七巧」と呼ばれる。この言葉は七夕の習慣に由来しているといわれる。
欧米に最初に伝わったときにはこのパズルは単に「(中国の)パズル」と呼ばれていた。Tangram という単語は 1848年にアメリカで出版されたトーマス・ヒル(en)の著書の中で確認されている。1864年に発行された辞書に収録されているのが確認されている。
タングラムの名称の由来には諸説ある。
タングラムの7片を使用して、人間・動物・物・文字など様々な形を作ることができる。右の人の絵もその一例である。
現在までに多くの国で多くの人によりタングラムの作品集(問題集)が出版されている。
ジェリー・スローカムらの調査によれば、1920年以前に中国で作られた作品は2200以上である。同時期までにアメリカで約2500、フランスで1500以上、イギリスで500以上、ドイツとイタリアでそれぞれ300以上の作品が作られている。
図の2つの人物は同じ大きさのタングラムのセットを並べた物であるが、下の方が三角が一つ多い。このように、よく似ているのに明らかに違う(必然的に並べ方も異なってくる)ような図を、タングラム・パラドックスと呼ぶ。
同じ片を使用している以上全体の面積は同じである。実際に作ってみると分かるが、上の方が三角以外の部分の面積が若干大きくなっている。
タングラムの7片は最初正方形に配列されているが、他の凸多角形を作成することもできる。中国の数学者 Fu Traing Wang と Chuan-Chin Hsiung は、1942年に13種類の凸多角形が作成可能であることを発表している。
13種類の内訳は以下の通りである。
右の図は可能な13種類の多角形と、その組み方の例を示している。
タングラムは、図形や絵のほかに文字を造ることもできる。
アルファベットや数字には多くの作例がある。1818年にイタリアで発売された "Al Gioco Cinese Chiamato IL Rompicapo; Appendice" にはすでに掲載されている。それらを用いたフォントを作成する人もいる。
ひらがな・カタカナも作例はあるが、すべての文字を作った人はほとんどいない。清少納言智恵の板においては、いろは48文字すべてに作例がある。
漢字はアルファベットやかなに比べ複雑な物が多いが、多くの文字が作られている。秋芬室による「七巧八分図」には漢字の分類が存在し「七巧」「山川」などの文字が収録されている。厳笠舫は1876年に『七巧書譜』を出版しているが、この中にはタングラムで作った文字が500以上収録されている。
複数のタングラムを使う造形には2種類ある。
1つはすべてのピースで1つの図形を作るものである。右に挙げた「釘抜き」(この名称は清少納言知恵の板に由来する)はタングラム1セットで作ることはできないが、2セット14ピースを使用してこの形(元の√2倍の相似形)を作ることができる。
もう1つは1セットで作られる図形を複数並べて1つの作品とするものである。「ビリヤードをする人たち」はデュードニーの著書に掲載されているもので、2人の人物・ビリヤード台・柱時計がそれぞれ1セットのタングラムで作られている。前節で述べた文字の造形を使用して単語や文章を作ることもこの範疇にあるといえる。
19世紀から20世紀初頭に出版された主な書籍をあげる。書籍名の後に発行年・国・収録問題数を付記している。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "タングラムは、問題として提示された形を作るシルエットパズルの中で非常に有名なものの一つで、正方形をいくつかに切りわけたものを使うパズルである。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "タングラムは、以下の図形で構成されている。",
"title": "片の構成"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "タングラムは中国で生まれたと考えられているが、詳しくは分かっていない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "中国の宋の時代に黄伯思という人物が著した「燕几図」という机の並べ方に関する書物があり、7個の長方形の机を並べる物であった。これを基に明の厳澄が、三角形や台形を用いた「蝶翅几」を考案し、それらを更に発展させたのがタングラムであるという説がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "日本では1742年(寛保2年)に「清少納言知恵の板」(シルエットパズルだが分割法はタングラムと異なる)に関する本が発行されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "中国では1813年に「七巧図合壁」、1858年に「七巧八分図」という本が刊行される。これらの本はタングラムに関する本である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパでは、1805年に発行された書籍に紹介されている。その後「七巧図合壁」がヨーロッパでも出版され 1817年にはイギリスでオリジナルの問題集が発売されている。これらが翻訳されることでヨーロッパ中に広まり、各国で多くの問題集が発売されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "ルイス・キャロルやエドガー・アラン・ポーなど著名人が遊んでいたと言う話も残っており、セント・ヘレナ島に流されたナポレオンが遊んでいたという記録も残っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "19世紀末にドイツのリヒター社がシルエットパズルの製造を開始し、20ペニヒで販売している。このシリーズにおいてタングラムは、\"Kopfzerbrecher\"というタイトルで収録されている。この商品はヒットし、ピースの形を変えた多くのシルエットパズルが発売されるようになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "20世紀に入ってから、サム・ロイドは「タンの8番目の本」を出版した。この本には数百題の絵柄と共に、今日までよく知られているタングラムの名称の由来の話が掲載されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "現在では、単なる遊びとしてだけではなく幾何学の教材などにも利用されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "タングラムを遊んでいたとされる19世紀の欧米の著名人は何人かいる。ナポレオン・ボナパルトもその1人だが、彼が本当にタングラムで遊んでいたか疑わしい部分があった。理由として以下のようなものが存在する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "ナポレオンが遊んでいたと考えられる根拠としては以下のようなものがあったが、いずれも遊んでいた可能性があることを示すだけで確実な根拠ではない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "他の根拠として、1817年に出版されたタングラムの本に「ナポレオンがこの遊びを楽しんでいる」という記述があるが、これも事実かどうかは不明である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "これらの理由から、マーティン・ガードナーのようにナポレオンは遊んでいなかったと結論付ける人もいた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "オーストリアの外交官 Barthélémi de Stürmer(en)は、クレメンス・フォン・メッテルニヒに宛てた私信の中で「独創的な中国の遊び」について言及している。このことから、この時点でセントヘレナにタングラムが存在していたことがわかる。20世紀末の調査の結果、マルメゾン城のナポレオンの遺物のコレクションの中に象牙製のタングラムと問題集があるのが確認された。これにより、ナポレオンがタングラムで遊んだことがあることが証明された。ただし、この調査にも携わったジェリー・スローカムは、「タングラムを所持していたのは間違いないが、それはお気に入りの娯楽ではなかった」としている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "中国においてこのパズルは「七巧」と呼ばれる。この言葉は七夕の習慣に由来しているといわれる。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "欧米に最初に伝わったときにはこのパズルは単に「(中国の)パズル」と呼ばれていた。Tangram という単語は 1848年にアメリカで出版されたトーマス・ヒル(en)の著書の中で確認されている。1864年に発行された辞書に収録されているのが確認されている。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "タングラムの名称の由来には諸説ある。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "タングラムの7片を使用して、人間・動物・物・文字など様々な形を作ることができる。右の人の絵もその一例である。",
"title": "造形"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "現在までに多くの国で多くの人によりタングラムの作品集(問題集)が出版されている。",
"title": "造形"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ジェリー・スローカムらの調査によれば、1920年以前に中国で作られた作品は2200以上である。同時期までにアメリカで約2500、フランスで1500以上、イギリスで500以上、ドイツとイタリアでそれぞれ300以上の作品が作られている。",
"title": "造形"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "図の2つの人物は同じ大きさのタングラムのセットを並べた物であるが、下の方が三角が一つ多い。このように、よく似ているのに明らかに違う(必然的に並べ方も異なってくる)ような図を、タングラム・パラドックスと呼ぶ。",
"title": "造形"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "同じ片を使用している以上全体の面積は同じである。実際に作ってみると分かるが、上の方が三角以外の部分の面積が若干大きくなっている。",
"title": "造形"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "タングラムの7片は最初正方形に配列されているが、他の凸多角形を作成することもできる。中国の数学者 Fu Traing Wang と Chuan-Chin Hsiung は、1942年に13種類の凸多角形が作成可能であることを発表している。",
"title": "造形"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "13種類の内訳は以下の通りである。",
"title": "造形"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "右の図は可能な13種類の多角形と、その組み方の例を示している。",
"title": "造形"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "タングラムは、図形や絵のほかに文字を造ることもできる。",
"title": "造形"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "アルファベットや数字には多くの作例がある。1818年にイタリアで発売された \"Al Gioco Cinese Chiamato IL Rompicapo; Appendice\" にはすでに掲載されている。それらを用いたフォントを作成する人もいる。",
"title": "造形"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ひらがな・カタカナも作例はあるが、すべての文字を作った人はほとんどいない。清少納言智恵の板においては、いろは48文字すべてに作例がある。",
"title": "造形"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "漢字はアルファベットやかなに比べ複雑な物が多いが、多くの文字が作られている。秋芬室による「七巧八分図」には漢字の分類が存在し「七巧」「山川」などの文字が収録されている。厳笠舫は1876年に『七巧書譜』を出版しているが、この中にはタングラムで作った文字が500以上収録されている。",
"title": "造形"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "複数のタングラムを使う造形には2種類ある。",
"title": "造形"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1つはすべてのピースで1つの図形を作るものである。右に挙げた「釘抜き」(この名称は清少納言知恵の板に由来する)はタングラム1セットで作ることはできないが、2セット14ピースを使用してこの形(元の√2倍の相似形)を作ることができる。",
"title": "造形"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "もう1つは1セットで作られる図形を複数並べて1つの作品とするものである。「ビリヤードをする人たち」はデュードニーの著書に掲載されているもので、2人の人物・ビリヤード台・柱時計がそれぞれ1セットのタングラムで作られている。前節で述べた文字の造形を使用して単語や文章を作ることもこの範疇にあるといえる。",
"title": "造形"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "19世紀から20世紀初頭に出版された主な書籍をあげる。書籍名の後に発行年・国・収録問題数を付記している。",
"title": "造形"
}
] | タングラムは、問題として提示された形を作るシルエットパズルの中で非常に有名なものの一つで、正方形をいくつかに切りわけたものを使うパズルである。 | {{Otheruses|パズル|斑尾高原のスキー場|タングラムスキーサーカス|[[電脳戦機バーチャロン]]シリーズに登場する架空の人物並びに兵器|バーチャロイドの一覧#タングラム}}
[[File:Tangram.png|frame|right|タングラムの片の構成]]
'''タングラム'''は、問題として提示された形を作る[[シルエットパズル]]の中で非常に有名なものの一つで、[[正方形]]をいくつかに切りわけたものを使う[[パズル]]である。
== 片の構成 ==
タングラムは、以下の図形で構成されている。
* [[直角二等辺三角形]] 5片
** 大型 2片
** 中型 1片
** 小型 2片
* [[正方形]]・[[平行四辺形]] 各1片(大きさは中型の三角形と同じ)
== 歴史 ==
{{seealso|シルエットパズル#歴史}}
タングラムは中国で生まれたと考えられているが、詳しくは分かっていない。
中国の[[北宋|宋]]の時代に黄伯思という人物が著した「燕几図」という[[机]]の並べ方に関する書物があり、7個の長方形の机を並べる物であった。これを基に[[明]]の厳澄が、三角形や台形を用いた「蝶翅几」を考案し、それらを更に発展させたのがタングラムであるという説がある。
日本では[[1742年]]([[寛保]]2年)に「[[清少納言知恵の板]]」(シルエットパズルだが分割法はタングラムと異なる)に関する本が発行されている。
中国では1813年に「七巧図合壁」、1858年に「七巧八分図」という本が刊行される。これらの本はタングラムに関する本である。
=== ヨーロッパ ===
<!--加筆する前に、シルエットパズルの記事のほうに書くべき内容ではないか、よく考えてください-->
ヨーロッパでは、1805年に発行された書籍に紹介されている。その後「七巧図合壁」がヨーロッパでも出版され 1817年にはイギリスでオリジナルの問題集が発売されている。これらが翻訳されることでヨーロッパ中に広まり、各国で多くの問題集が発売されている。
[[ルイス・キャロル]]や[[エドガー・アラン・ポー]]など著名人が遊んでいたと言う話も残っており、[[セントヘレナ|セント・ヘレナ島]]に流された[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が遊んでいたという記録も残っている。
19世紀末にドイツの[[リヒター (玩具メーカー)|リヒター社]]がシルエットパズルの製造を開始し、20ペニヒで販売している。このシリーズにおいてタングラムは、"Kopfzerbrecher"というタイトルで収録されている。この商品はヒットし、ピースの形を変えた多くのシルエットパズルが発売されるようになる。
20世紀に入ってから、[[サム・ロイド]]は「タンの8番目の本」を出版した。この本には数百題の絵柄と共に、今日までよく知られているタングラムの名称の由来の話が掲載されている。
現在では、単なる遊びとしてだけではなく[[幾何学]]の教材などにも利用されている。
==== ナポレオンとタングラム ====
タングラムを遊んでいたとされる19世紀の欧米の著名人は何人かいる。[[ナポレオン・ボナパルト]]もその1人だが、彼が本当にタングラムで遊んでいたか疑わしい部分があった。理由として以下のようなものが存在する。
* ヨーロッパでブームが起きたのは1820年ごろであり、ナポレオンの没年と非常に近い。このため離島にいるナポレオンの存命中にこの遊びの情報が伝わらなかった可能性がある。
* ナポレオンの日記に[[チェス]]や[[バックギャモン]]の話題はあるがタングラムに関する話題が残っていない<ref>"The Tangram Book" P.44-45</ref>。
ナポレオンが遊んでいたと考えられる根拠としては以下のようなものがあったが、いずれも遊んでいた可能性があることを示すだけで確実な根拠ではない。
* 当時のセントヘレナ島は中国との貿易船の中継地だったため、ヨーロッパで広まる前にナポレオンがタングラムを入手していた可能性がある。
* ナポレオンは数学を嗜んでいたため、幾何学的なこの遊びに興味を引かれた可能性は高い。
他の根拠として、1817年に出版されたタングラムの本に「ナポレオンがこの遊びを楽しんでいる」という記述があるが、これも事実かどうかは不明である。
これらの理由から、[[マーティン・ガードナー]]のようにナポレオンは遊んでいなかったと結論付ける人もいた。
オーストリアの外交官 Barthélémi de Stürmer([[:en:Barthélémi de Stürmer|en]])は、[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ]]に宛てた私信の中で「独創的な中国の遊び」について言及している<ref>同 P.45-46</ref>。このことから、この時点でセントヘレナにタングラムが存在していたことがわかる。20世紀末の調査の結果、[[マルメゾン城]]のナポレオンの遺物のコレクションの中に象牙製のタングラムと問題集があるのが確認された。これにより、ナポレオンがタングラムで遊んだことがあることが証明された。ただし、この調査にも携わった[[ジェリー・スローカム]]は、「タングラムを所持していたのは間違いないが、それはお気に入りの娯楽ではなかった」としている<ref>同 P.48</ref>。
== 名称 ==
中国においてこのパズルは「'''七巧'''」と呼ばれる。この言葉は[[七夕]]の習慣に由来しているといわれる。
欧米に最初に伝わったときにはこのパズルは単に「(中国の)パズル」と呼ばれていた。Tangram という単語は 1848年にアメリカで出版されたトーマス・ヒル([[:en:Thomas Hill (clergyman)|en]])の著書の中で確認されている<ref>"The Tangram Book" P.23-24</ref>。1864年に発行された辞書に収録されているのが確認されている。
=== 名称の由来 ===
タングラムの名称の由来には諸説ある。
#古い英語で「がらくた」を意味する''"Trangram"''から。
#「[[グラム_(曖昧さ回避)|グラム]]」は[[ギリシア語]]で「点、線、図形などで、書かれた文字、描かれた絵」転じて「手紙」「作品」を意味する「{{Lang-el-short|γράμμα}}(gramma、{{Lang-en-short|grammar}}「[[文法]]」の語源)」から。「タン」の意味に関しては以下のような説がある。
##中国のタンという人物(又は神)が考案した。
##*アメリカの[[サム・ロイド]]が問題集を発行したときに、冒頭に書いたとされている説である。
##[[中国]]の[[唐]]から来た(パズル自体の由来を唐とする説とも連動するが、いずれにしろ年代は大きく昔となる)。
#元々は[[蛋民]]の遊びであり、"Tanka Game"からきている。
== 造形 ==
<!--加筆する前に、シルエットパズルの記事のほうに書くべき内容ではないか、よく考えてください-->
[[File:Tangram-man.png|100px|right|タングラムによって作られた「走る人」]]
タングラムの7片を使用して、人間・動物・物・文字など様々な形を作ることができる。右の人の絵もその一例である。
現在までに多くの国で多くの人によりタングラムの作品集(問題集)が出版されている。
ジェリー・スローカムらの調査によれば、1920年以前に中国で作られた作品は2200以上<ref>"The Tangram Book" P.64</ref>である。同時期までにアメリカで約2500<ref>同 P.85</ref>、フランスで1500以上<ref>同 P.76</ref>、イギリスで500以上<ref>同 P.70</ref>、ドイツとイタリアでそれぞれ300以上<ref>同 P.90,95</ref>の作品が作られている。
{{clear}}
=== タングラム・パラドックス ===
[[File:Monk1.GIF|framed|left|[[ヘンリー・アーネスト・デュードニー|デュードニー]]によるタングラム・パラドックスの例]]
図の2つの人物は同じ大きさのタングラムのセットを並べた物であるが、下の方が三角が一つ多い。このように、よく似ているのに明らかに違う(必然的に並べ方も異なってくる)ような図を、タングラム・パラドックスと呼ぶ。
同じ片を使用している以上全体の面積は同じである。実際に作ってみると分かるが、上の方が三角以外の部分の面積が若干大きくなっている。
=== 凸多角形 ===
[[File:13convexesTangram.png|thumb|right|タングラムで作られる凸多角形]]
タングラムの7片は最初正方形に配列されているが、他の[[凸多角形]]を作成することもできる。中国の数学者 Fu Traing Wang と Chuan-Chin Hsiung は、1942年に13種類の凸多角形が作成可能であることを発表している<ref>[http://www.jstor.org/pss/2303340 American Mathematical Monthly] Vol.49 No.9 1942年9月 P.596-</ref>。
13種類の内訳は以下の通りである。
* 三角形 1種
* 四角形 6種(正方形を含む)
* 五角形 2種
* 六角形 4種
右の図は可能な13種類の多角形と、その組み方の例を示している。
=== 文字 ===
[[File:TangramChineseCharacter.png|thumb|right|タングラムで作った漢字(七巧)の例]]
タングラムは、図形や絵のほかに文字を造ることもできる。
[[アルファベット]]や数字には多くの作例がある。1818年にイタリアで発売された "Al Gioco Cinese Chiamato IL Rompicapo; Appendice" にはすでに掲載されている。それらを用いた[[フォント]]を作成する人もいる。
ひらがな・カタカナも作例はあるが、すべての文字を作った人はほとんどいない。清少納言智恵の板においては、いろは48文字すべてに作例がある。
漢字はアルファベットやかなに比べ複雑な物が多いが、多くの文字が作られている。秋芬室による「七巧八分図」には漢字の分類が存在し「七巧」「山川」などの文字が収録されている。厳笠舫は[[1876年]]に『七巧書譜』を出版しているが、この中にはタングラムで作った文字が500以上収録されている。
=== 複数のセットを使用した造形 ===
{|align=right
|-
|[[File:Tangram kuginuki.svg|thumb|釘抜き]]
|[[File:Amusements in mathematics - A Tangram Paradox Diagram 9.png|thumb|ビリヤードをする人たち]]
|}
複数のタングラムを使う造形には2種類ある。
1つはすべてのピースで1つの図形を作るものである。右に挙げた「釘抜き」(この名称は[[清少納言知恵の板]]に由来する)はタングラム1セットで作ることはできないが、2セット14ピースを使用してこの形(元の√2倍の相似形)を作ることができる。
もう1つは1セットで作られる図形を複数並べて1つの作品とするものである。「ビリヤードをする人たち」は[[ヘンリー・アーネスト・デュードニー|デュードニー]]の著書に掲載されているもので、2人の人物・ビリヤード台・柱時計がそれぞれ1セットのタングラムで作られている。前節で述べた文字の造形を使用して単語や文章を作ることもこの範疇にあるといえる。
{{-}}
=== 作品集 ===
19世紀から20世紀初頭に出版された主な書籍をあげる。書籍名の後に発行年・国・収録問題数を付記している。
; 七巧図合壁(1813年・中国・約300)
: 中国でも最も古い書籍の1つ。ヨーロッパや日本で翻訳出版された。
; 七巧八分図(1858年・中国・約1700)
: 秋芬室著。約1700題が16のテーマに分類されている。全6巻。
; The Fashionable Chinese Puzzle (1817年・イギリス)
: ヨーロッパ各国で翻訳され、ブームの一端となった本。ナポレオンがこのパズルを楽しんでいたとされる記述がある。
; タンの8番目の書(1903年・アメリカ・652)
: [[サム・ロイド]]著。タングラムの名前の由来に関する有名な話が掲載されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}{{reflist|3}}
== 参考文献 ==
* [[ジェリー・スローカム]]、[[ジャック・ボタマンズ]] 『パズルその全宇宙』 [[日本テレビ放送網]]、1988年。
* ジェリー・スローカム、ジャック・ボタマンズ 『The Tangram Book』 Sterling Publishing Co. {{ISBN2|1-4027-0413-5}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Tangrams}}
*[http://kysj25.sakura.ne.jp/usasan/ 休日のタングラム]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たんくらむ}}
[[Category:パズル]]
[[Category:中国のゲーム]] | null | 2023-04-02T06:00:54Z | false | false | false | [
"Template:Seealso",
"Template:-",
"Template:Reflist",
"Template:Commonscat",
"Template:ISBN2",
"Template:Normdaten",
"Template:Otheruses",
"Template:Lang-el-short",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Clear",
"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0 |
3,624 | 推理作家一覧 | 推理作家一覧(すいりさっかいちらん)は、日本及び世界各国で活躍する、名を残す推理作家の地域別五十音順一覧である。ウィキペディア内に記事が存在する人物を中心とする。
日本を除くアジアの推理作家
ヨーロッパおよび北アメリカ、オセアニアの推理作家
=アメリカ合衆国、=カナダ、=イギリス、=アイルランド、=オーストラリア、=ニュージーランド
それ以外の国については適宜注記する。なお、「英語で執筆する推理作家」については「#インド」、「#アフリカ」も参照のこと。
(英語版WikipediaのCategory:アメリカの推理作家、Category:カナダの推理作家、Category:イギリスの推理作家、Category:アイルランドの推理作家、Category:オーストラリアの推理作家、Category:ニュージーランドの推理作家も参照)
ヨーロッパのフランス語圏の推理作家。特に示さない場合はフランスの推理作家。なお、「フランス語で執筆する推理作家」については「#アフリカ」も参照のこと。
(Category:フランスの推理作家(フランス語版Wikipedia)も参照)
ヨーロッパのドイツ語圏の推理作家。
ドイツ
(Category:ドイツの推理作家(英語版Wikipedia)も参照)
オーストリア
スイス
その他
上記以外の西ヨーロッパの推理作家(一部重複)
ドイツ
オランダ
(Category:オランダの推理作家(英語版Wikipedia)も参照)
ベルギー
(Category:ベルギーの推理作家(フランス語版Wikipedia)も参照)
ルクセンブルク
北ヨーロッパの推理作家
アイスランド
(Category:アイスランドの推理作家(英語版Wikipedia)も参照)
スウェーデン
(Category:スウェーデンの推理作家(スウェーデン語版Wikipedia)も参照)
デンマーク
(Category:デンマークの推理作家(デンマーク語版Wikipedia)も参照)
ノルウェー
(Category:ノルウェーの推理作家(ノルウェー語ブークモール版Wikipedia)、Category:ノルウェーの推理作家(ノルウェー語ニーノシュク版Wikipedia)も参照)
フィンランド
(Category:フィンランドの推理作家(フィンランド語版Wikipedia)も参照)
南ヨーロッパの推理作家
イタリア
(Category:イタリアの推理作家(英語版Wikipedia)も参照)
ギリシャ
スペイン
特に示さない場合はスペイン語での執筆。なお、「スペイン語で執筆する推理作家」については「#中南米」も参照のこと。
(Category:スペインの推理作家(英語版Wikipedia)も参照)
中央ヨーロッパの推理作家
スロバキア
チェコ
ハンガリー
ポーランド
(Category:ポーランドの推理作家(ポーランド語版Wikipedia)も参照)
東ヨーロッパおよびロシアの推理作家
クロアチア
ブルガリア
ルーマニア
(Category:ルーマニアの推理作家(英語版Wikipedia)も参照)
ロシア
(Category:ロシアの推理作家(英語版Wikipedia)も参照)
バルト三国の推理作家
エストニア
(エストニアの推理作家(エストニア語版Wikipedia)を参照)
リトアニア
(リトアニアの推理作家(リトアニア語版Wikipedia)を参照)
以下、特に示さない場合はスペイン語での執筆
中央アメリカの推理作家
キューバ
南アメリカの推理作家
アルゼンチン
北アフリカの推理作家
西アフリカの推理作家
中部アフリカの推理作家
南部アフリカの推理作家
日本国内、及び世界各地の推理作家団体の一覧
英語圏
北欧 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "推理作家一覧(すいりさっかいちらん)は、日本及び世界各国で活躍する、名を残す推理作家の地域別五十音順一覧である。ウィキペディア内に記事が存在する人物を中心とする。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "日本を除くアジアの推理作家",
"title": "アジア"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパおよび北アメリカ、オセアニアの推理作家",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "=アメリカ合衆国、=カナダ、=イギリス、=アイルランド、=オーストラリア、=ニュージーランド",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "それ以外の国については適宜注記する。なお、「英語で執筆する推理作家」については「#インド」、「#アフリカ」も参照のこと。",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "(英語版WikipediaのCategory:アメリカの推理作家、Category:カナダの推理作家、Category:イギリスの推理作家、Category:アイルランドの推理作家、Category:オーストラリアの推理作家、Category:ニュージーランドの推理作家も参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパのフランス語圏の推理作家。特に示さない場合はフランスの推理作家。なお、「フランス語で執筆する推理作家」については「#アフリカ」も参照のこと。",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "(Category:フランスの推理作家(フランス語版Wikipedia)も参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパのドイツ語圏の推理作家。",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "ドイツ",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "(Category:ドイツの推理作家(英語版Wikipedia)も参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "オーストリア",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "スイス",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "その他",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "上記以外の西ヨーロッパの推理作家(一部重複)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ドイツ",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "オランダ",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "(Category:オランダの推理作家(英語版Wikipedia)も参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "ベルギー",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "(Category:ベルギーの推理作家(フランス語版Wikipedia)も参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ルクセンブルク",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "北ヨーロッパの推理作家",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "アイスランド",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "(Category:アイスランドの推理作家(英語版Wikipedia)も参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "スウェーデン",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "(Category:スウェーデンの推理作家(スウェーデン語版Wikipedia)も参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "デンマーク",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "(Category:デンマークの推理作家(デンマーク語版Wikipedia)も参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ノルウェー",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "(Category:ノルウェーの推理作家(ノルウェー語ブークモール版Wikipedia)、Category:ノルウェーの推理作家(ノルウェー語ニーノシュク版Wikipedia)も参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "フィンランド",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "(Category:フィンランドの推理作家(フィンランド語版Wikipedia)も参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "南ヨーロッパの推理作家",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "イタリア",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "(Category:イタリアの推理作家(英語版Wikipedia)も参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ギリシャ",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "スペイン",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "特に示さない場合はスペイン語での執筆。なお、「スペイン語で執筆する推理作家」については「#中南米」も参照のこと。",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "(Category:スペインの推理作家(英語版Wikipedia)も参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "中央ヨーロッパの推理作家",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "スロバキア",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "チェコ",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ハンガリー",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ポーランド",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "(Category:ポーランドの推理作家(ポーランド語版Wikipedia)も参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "東ヨーロッパおよびロシアの推理作家",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "クロアチア",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ブルガリア",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ルーマニア",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "(Category:ルーマニアの推理作家(英語版Wikipedia)も参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ロシア",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "(Category:ロシアの推理作家(英語版Wikipedia)も参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "バルト三国の推理作家",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "エストニア",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "(エストニアの推理作家(エストニア語版Wikipedia)を参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "リトアニア",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "(リトアニアの推理作家(リトアニア語版Wikipedia)を参照)",
"title": "欧米・オセアニア"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "以下、特に示さない場合はスペイン語での執筆",
"title": "中南米"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "中央アメリカの推理作家",
"title": "中南米"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "キューバ",
"title": "中南米"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "南アメリカの推理作家",
"title": "中南米"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチン",
"title": "中南米"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "北アフリカの推理作家",
"title": "アフリカ"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "西アフリカの推理作家",
"title": "アフリカ"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "中部アフリカの推理作家",
"title": "アフリカ"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "南部アフリカの推理作家",
"title": "アフリカ"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "日本国内、及び世界各地の推理作家団体の一覧",
"title": "推理作家団体"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "英語圏",
"title": "推理作家団体"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "北欧",
"title": "推理作家団体"
}
] | 推理作家一覧(すいりさっかいちらん)は、日本及び世界各国で活躍する、名を残す推理作家の地域別五十音順一覧である。ウィキペディア内に記事が存在する人物を中心とする。 | '''推理作家一覧'''(すいりさっかいちらん)は、[[日本]]及び世界各国で活躍する、名を残す[[推理作家]]の地域別五十音順一覧である。[[ウィキペディア]]内に記事が存在する人物を中心とする。
==日本==
=== あ行 ===
*[[阿井渉介]]
*[[愛川晶]]
*[[相沢沙呼]]
*[[蒼井上鷹]]
*[[蒼井雄]]
*[[青崎有吾]]
*[[青柳碧人]]
*[[赤江瀑]]
*[[赤川次郎]]
*[[阿川大樹]]
*[[秋月達郎]]
*[[秋月涼介]]
*[[阿久悠]]
*[[明野照葉]]
*[[浅倉卓弥]]
*[[浅暮三文]]
*[[朝比奈颯季]]
*[[麻見和史]]
*[[朝山蜻一]]
*[[芦原すなお]]
*[[芦辺拓]]
*[[飛鳥高]]
*[[飛鳥部勝則]]
*[[梓林太郎]]
*[[東直己]]
*[[阿刀田高]]
*[[姉小路祐]]
*[[阿部智]]
*[[我孫子武丸]]
*[[阿部智里]]
*[[阿部陽一]]
*[[樹林伸|天樹征丸]]
*[[天城一]]
*[[天祢涼]]
*[[綾辻行人]]
*[[鮎川哲也]]
*[[新井政彦]]
*[[荒巻義雄]]
*[[有栖川有栖]]
*[[有馬頼義]]
*[[泡坂妻夫]]
*[[飯田譲治]]
*[[五十嵐貴久]]
*[[生島治郎]]
*[[幾瀬勝彬]]
*[[池井戸潤]]
*[[生垣真太郎]]
*[[伊坂幸太郎]]
*[[井沢元彦]]
*[[石川真介]]
*[[石崎幸二]]
*[[石沢英太郎]]
*[[石田衣良]]
*[[石原慎太郎]]
*[[石持浅海]]
*[[市井豊]]
*[[市川哲也 (推理作家)|市川哲也]]
*[[市川憂人]]
*[[稲見一良]]
*[[乾くるみ]]
*[[井上淳 (作家)|井上淳]]
*[[伊野上裕伸]]
*[[井上ほのか]]
*[[井上真偽]]
*[[井上夢人]]
*[[伊吹亜門]]
*[[今井泉]]
*[[今邑彩]]
*[[岩木章太郎]]
*[[潮寒二]]
*[[歌野晶午]]
*[[打海文三]]
*[[内田幹樹]]
*[[内田康夫]]
*[[内山純]]
*[[海月ルイ]]
*[[浦賀和宏]]
*[[海野十三]]
*[[江戸川乱歩]]
*[[遠藤武文]]
*[[大石英司]]
*[[逢坂剛]]
*[[大岡昇平]]
*[[大倉崇裕]]
*[[大倉燁子]]
*[[大阪圭吉]]
*[[大崎梢]]
*[[大沢在昌]]
*[[大下宇陀児]]
*[[太田忠司]]
*[[太田蘭三]]
*[[大谷羊太郎]]
*[[大坪砂男]]
*[[大藪春彦]]
*[[大村友貴美]]
*[[大山誠一郎]]
*[[小笠原慧]]
*[[岡嶋二人]]
*[[岡田鯱彦]]
*[[岡本綺堂]]
*[[岡本真]]
*[[荻原浩]]
*[[奥泉光]]
*[[奥田哲也 (作家)|奥田哲也]]
*[[奥田英朗]]
*[[小栗虫太郎]]
*[[乙一]]
*[[小野不由美]]
*[[折原一]]
*[[恩田陸]]
=== か行 ===
*[[海渡英祐]]
*[[海堂尊]]
*[[海庭良和]]
*[[加賀美雅之]]
*[[垣根涼介]]
*[[笠井潔]]
*[[笠原卓]]
*[[風見潤]]
*[[梶山季之]]
*[[梶龍雄]]
*[[霞流一]]
*[[福永武彦|加田伶太郎]]
*[[上遠野浩平]]
*[[加納一朗]]
*[[加納朋子]]
*[[香納諒一]]
*[[神山裕右]]
*[[神永学]]
*[[香山滋]]
*[[河合莞爾]]
*[[川田弥一郎]]
*[[木々高太郎]]
*[[菊村到]]
*[[貴志祐介]]
*[[紀田順一郎]]
*[[喜多喜久]]
*[[北方謙三]]
*[[北川歩実]]
*[[北國浩二]]
*[[北村薫]]
*[[北森鴻]]
*[[北山猛邦]]
*[[木元哉多]]
*[[京極夏彦]]
*[[霧舎巧]]
*[[桐野夏生]]
*[[日下圭介]]
*[[鯨統一郎]]
*[[楠田匡介]]
*[[久住四季]]
*[[葛山二郎]]
*[[国枝史郎]]
*[[邦光史郎]]
*[[久保田滋]]
*[[倉阪鬼一郎]]
*[[倉知淳]]
*[[栗本薫]]
*[[胡桃沢耕史]]
*[[黒岩重吾]]
*[[黒岩涙香]]
*[[黒川博行]]
*[[黒崎緑]]
*[[黒崎視音]]
*[[黒田研二]]
*[[黒沼健]]
*[[小池真理子]]
*[[古泉迦十]]
*[[小泉喜美子]]
*[[甲賀三郎 (作家)|甲賀三郎]]
*[[小酒井不木]]
*[[小島正樹]]
*[[五條瑛]]
*[[小杉健治]]
*[[小鷹信光]]
*[[木谷恭介]]
*[[谺健二]]
*[[古処誠二]]
*[[小林久三]]
*[[小松左京]]
*[[小林泰三]]
*[[小峰元]]
*[[小森健太朗]]
*[[近藤史恵]]
*[[今野敏]]
*[[金春智子]]
=== さ行 ===
*[[彩胡ジュン]]
*[[斎藤栄]]
*[[斎藤純]]
*[[斎藤肇]]
*[[西東登]]
*[[斎藤澪]]
*[[坂木司]]
*[[佐賀潜]]
*[[坂口安吾]]
*[[嵯峨島昭]]
*[[桜庭一樹]]
*[[佐々木俊介]]
*[[佐々木譲]]
*[[笹倉明]]
*[[笹沢左保]]
*[[笹本稜平]]
*[[佐藤青南]]
*[[佐藤友哉]]
*[[佐野洋]]
*[[佐飛通俊]]
*[[沢木冬吾]]
*[[沢村浩輔]]
*[[沢村鐵]]
*[[式貴士]]
*[[式田ティエン]]
*[[梓崎優]]
*[[雫井脩介]]
*[[篠田節子]]
*[[篠田真由美]]
*[[柴田哲孝]]
*[[柴田よしき]]
*[[柴田錬三郎]]
*[[島久平]]
*[[島田一男]]
*[[島田荘司]]
*[[地味井平造]]
*[[清水一行]]
*[[志水辰夫]]
*[[清水義範]]
*[[志茂田景樹]]
*[[下村敦史]]
*[[周木律]]
*[[首藤瓜於]]
*[[殊能将之]]
*[[上甲宣之]]
*[[城昌幸]]
*[[白井智之]]
*[[白川道]]
*[[城平京]]
*[[白峰良介]]
*[[新宮正春]]
*[[新章文子]]
*[[新堂冬樹]]
*[[新野剛志]]
*[[新保博久]]
*[[真保裕一]]
*[[菅浩江]]
*[[鈴木輝一郎]]
*[[清涼院流水]]
*[[瀬尾こると]]
*[[関田涙]]
*[[妹尾韶夫]]
*[[草野唯雄]]
*[[蘇部健一]]
=== た行 ===
*[[高木彬光]]
*[[高里椎奈]]
*[[高嶋哲夫]]
*[[高田崇史]]
*[[高橋克彦]]
*[[鷹見緋沙子]]
*[[高村薫]]
*[[多岐川恭]]
*[[竹本健治]]
*[[多島斗志之]]
*[[橘外男]]
*[[種村直樹]]
*[[陳舜臣]]
*[[司凍季]]
*[[柄刀一]]
*[[辻真先]]
*[[辻堂ゆめ]]
*[[土屋隆夫]]
*[[都筑道夫]]
*[[筒井康隆]]
*[[津原泰水]]
*[[角田喜久雄]]
*[[積木鏡介]]
*[[津村巧]]
*[[津村秀介]]
*[[天童荒太]]
*[[天藤真]]
*[[戸板康二]]
*[[戸川昌子]]
*[[友井羊]]
*[[伴野朗]]
*[[豊田巧]]
*[[鳥飼否宇]]
=== な行 ===
*[[中井英夫]]
*[[長坂秀佳]]
*[[長沢樹]]
*[[中島望]]
*[[中嶋博行]]
*[[中薗英助]]
*[[中津文彦]]
*[[中西智明]]
*[[中野順一]]
*[[中町信]]
*[[中山七里 (小説家)|中山七里]]
*[[夏樹静子]]
*[[七河迦南]]
*[[鳴海章]]
*[[鳴神響一]]
*[[新津きよみ]]
*[[二階堂黎人]]
*[[仁木悦子]]
*[[西尾維新]]
*[[西澤保彦]]
*[[西村寿行]]
*[[西村京太郎]]
*[[似鳥鶏]]
*[[貫井徳郎]]
*[[野崎六助]]
*[[野沢尚]]
*[[野村胡堂]]
*[[野里征彦]]
*[[法月綸太郎]]
=== は行 ===
*[[蓮見恭子]]
*[[馳星周]]
*[[ハセベバクシンオー]]
*[[秦建日子]]
*[[初野晴]]
*[[服部まゆみ]]
*[[花村萬月]]
*[[帚木蓬生]]
*[[浜尾四郎]]
*[[早坂吝]]
*[[林泰広]]
*[[早瀬乱]]
*[[はやみねかおる]]
*[[原尞]]
*[[日影丈吉]]
*[[東川篤哉]]
*[[東野圭吾]]
*[[東山彰良]]
*[[氷川透]]
*[[氷川瓏]]
*[[樋口有介]]
*[[久生十蘭]]
*[[日向章一郎]]
*[[平石貴樹]]
*[[平林初之輔]]
*[[平山夢明]]
*[[村瀬輝光|深草蛍五]]
*[[深谷忠記]]
*[[深町秋生]]
*[[深水黎一郎]]
*[[福井晴敏]]
*[[藤岡真]]
*[[藤田宜永]]
*[[藤村正太]]
*[[藤本泉]]
*[[藤原伊織]]
*[[船戸与一]]
*[[古川日出男]]
*[[降田天]]
*[[古野まほろ]]
*[[方丈貴恵]]
*[[星新一]]
*[[本多孝好]]
*[[本間田麻誉]]
=== ま行 ===
*[[舞城王太郎]]
*[[牧逸馬]]
*[[牧村一人]]
*[[増田俊也]]
*[[松岡圭祐]]
*[[松本恵子]](中野圭介)
*[[松本清張]]
*[[松本泰]]
*[[円居挽]]
*[[麻耶雄嵩]]
*[[真梨幸子]]
*[[汀こるもの]]
*[[水生大海]]
*[[水谷準]]
*[[水田美意子]]
*[[水原秀策]]
*[[水上勉]]
*[[道尾秀介]]
*[[三津田信三]]
*[[光原百合]]
*[[皆川博子]]
*[[峰隆一郎]]
*[[雅孝司]]
*[[宮部みゆき]]
*[[三好徹]]
*[[美輪和音]]
*[[本岡類]]
*[[森詠]]
*[[森純]]
*[[森博嗣]]
*[[森下雨村]]
*[[森村誠一]]
*[[森雅裕]]
*[[門前典之]]
=== や行 ===
*[[矢口敦子]]
*[[薬丸岳]]
*[[矢島誠]]
*[[柳原慧]]
*[[山浦弘靖]]
*[[山口雅也 (小説家)|山口雅也]]
*[[山崎洋子]]
*[[山沢晴雄]]
*[[山田彩人]]
*[[山田真哉]]
*[[山田風太郎]]
*[[山田正紀]]
*[[柳広司]]
*[[山村正夫]]
*[[山村美紗]]
*[[結城昌治]]
*[[柚月裕子]]
*[[夢野久作]]
*[[由良三郎]]
*[[横溝正史]]
*[[横山秀夫]]
*[[吉川英梨]]
*[[吉村達也]]
*[[米澤穂信]]
*[[詠坂雄二]]
*[[依井貴裕]]
===ら行===
*[[蘭郁二郎]]
*[[連城三紀彦]]
===わ行===
*[[若竹七海]]
*[[和久峻三]]
*[[鷲尾三郎]]
*[[渡辺温]]
*[[渡辺啓助]]
*[[和田はつ子]]
*[[輪渡颯介]]
==アジア==
日本を除く[[アジア]]の推理作家
=== イスラエル ===
* {{仮リンク|バチヤ・グール|he|בתיה גור}}([[ヘブライ語]]で執筆)
* {{仮リンク|ジョシュア・ソボル|he|יהושע סובול}}(ヘブライ語で執筆)
* [[マイケル・バー=ゾウハー]]
* {{仮リンク|シュラミット・ラピッド|he|שולמית לפיד}}(ヘブライ語で執筆)
=== インド ===
* [[カルパナ・スワミナタン]](英語で執筆)
* [[ヴィカース・スワループ]](英語で執筆)
* {{仮リンク|ラジョルシ・チャクラボルティ|en|Rajorshi Chakraborti}}(英語で執筆)
* [[デイヴェン・ナイア]](日本語で執筆 Daven Nair)
* [[アショーク・バーンカル]](英語で執筆)
* [[サタジット・レイ]]([[ベンガル語]]で執筆)
=== インドネシア ===
* {{仮リンク|アニ・アスマラ|jv|Any Asmara}}([[ジャワ語]]で執筆)
* [[S・マラ・Gd]](エス・マラ・ゲーデー)([[インドネシア語]]で執筆)
* {{仮リンク|スパルト・ブロト|id|Suparto Brata}}(ジャワ語で執筆)
* [[ドゥドゥ・ドゥラフマン]] (Duduh Durahman) ([[スンダ語]]で執筆)
=== 韓国 ===
* [[李垠 (小説家)|イ・ウン]](李垠)
* [[イ・スグァン]](李秀光)
* [[キム・サンホン]]
* [[金聖鍾|キム・ソンジョン]](金聖鍾)
* [[金来成|キム・ネソン]](金来成)
* [[金英夏|金英夏(キム・ヨンハ)]]
* [[ハン・ドンジン]]
* [[ファン・セヨン]](黄世鳶)
=== タイ ===
* [[タンワー・ウォンウボン]] ( ธันวา วงษ์อุบล )
* [[ソーラチャック]] ( [[:th:สรจักร ศิริบริรักษ์]] )
* [[チャッタワーラック]]
* [[ドゥシター]] ( ดุสิตา )
* [[プラーチャヤー・パーラミー]] ( ปราชญา ปารมี )
* [[クラークシット・パラマート]] ( เกริกศิษฎ์ พละมาตร์ )
* [[プリッサナー・プラッサニー]] ( ปริศนา ปรัศนี )
* {{仮リンク|ウィン・リョウワーリン|th|วินทร์ เลียววาริณ}}
=== 台湾 ===
* [[既晴]](き せい)
* [[陳嘉振]](ちん かしん)
* [[哲儀]](てつ ぎ)
* [[寵物先生]](ミスターペッツ)
* [[余心楽]](よ しんらく)
* [[藍霄]](ランシャウ)
* [[李柏]](り はく)
* [[林斯諺]](りん しげん)
* {{仮リンク|林仏児|zh|林佛兒|label=林仏児(りん ふつじ)}}
* [[凌徹]](リンチェウ)
* [[冷言]](れい げん)
* [[提子墨|提子墨(てぃー ずー もー)]]
=== 中国 ===
* {{仮リンク|王朔|zh|王朔|label=王朔(おう さく、Wang Shuo)}}
* [[何家弘]](か かこう)[[:en:He Jiahong|He Jiahong]]
* [[水天一色]](すいてんいっしき、シュイティエンイースー)
* [[杜撰]](ずさん)
* [[孫了紅]](そん りょうこう、Sun Liaohong)
* [[程小青]](てい しょうせい、Cheng Xiaoqing)([[:zh:程小青<!-- [[:ja:程小青]] とリンク -->]])
* [[麦家|麦家(ばく か、Mai Jia)]]
* [[馮華]](ふう か、Feng Hua)
* [[御手洗熊猫]](ユーショウシー ションマオ)
* [[藍瑪]](らん ば、Lan Ma)
* [[ジョー・シャーロン]] (中国出身、アメリカで創作活動、英語で執筆)
* [[ダイアン・ウェイ・リャン]] (中国出身、イギリスで創作活動、英語で執筆)
=== トルコ ===
* {{仮リンク|ジェリル・オケル|tr|Celil Oker}}
* {{仮リンク|メフメット・ムラート・ソマー|en|Mehmet Murat Somer}}
* [[アキフ・ピリンチ]](トルコ出身、ドイツで創作活動、ドイツ語で執筆)
* {{仮リンク|アフメト・ユミット|en|Ahmet Ümit}}
=== ベトナム ===
* [[トラン・ニュット姉妹]](タン・ヴァン・トラン・ニュットとキム・トラン・ニュット)(ベトナム出身、フランスで創作活動、フランス語で執筆)
=== レバノン ===
* {{仮リンク|エドワード・アタイヤ|en|Edward Atiyah}}
== 欧米・オセアニア ==
[[ヨーロッパ]]および[[北アメリカ]]、[[オセアニア]]の推理作家
=== 英語圏 ===
{{Flagicon|USA}}=[[:Category:アメリカ合衆国の推理作家|アメリカ合衆国]]、{{Flagicon|CAN}}=カナダ、{{Flagicon|GBR}}=[[:Category:イギリスの推理作家|イギリス]]、{{Flagicon|IRL}}=アイルランド、{{Flagicon|AUS}}=オーストラリア、{{Flagicon|NZL}}=ニュージーランド
それ以外の国については適宜注記する。なお、「英語で執筆する推理作家」については「[[#インド]]」、「[[#アフリカ]]」も参照のこと。
(英語版Wikipediaの[[:en:Category:American crime fiction writers|Category:アメリカの推理作家]]、[[:en:Category:Canadian mystery writers|Category:カナダの推理作家]]、[[:en:Category:British crime fiction writers|Category:イギリスの推理作家]]、[[:en:Category:Irish mystery writers<!-- [[:ja:Category:アイルランドの推理作家]] とリンク -->|Category:アイルランドの推理作家]]、[[:en:Category:Australian mystery writers|Category:オーストラリアの推理作家]]、[[:en:Category:New Zealand crime fiction writers<!-- [[:ja:Category:ニュージーランドの推理作家]] とリンク -->|Category:ニュージーランドの推理作家]]も参照)
====ア行====
*{{Flagicon|USA}} [[ウィリアム・アイリッシュ]]
*{{Flagicon|AUS}} {{仮リンク|バンティ・アヴィーソン|en|Bunty Avieson}}
*{{Flagicon|USA}} [[ナンシー・アサートン]]
*{{Flagicon|USA}} [[アイザック・アシモフ]]
*{{Flagicon|GBR}} [[マージェリー・アリンガム]]
*{{Flagicon|GBR}} ピーター・アントニイ([[ピーター・シェーファー]]、[[アンソニー・シェーファー]])
*{{Flagicon|USA}} [[ドナ・アンドリューズ]]
*{{Flagicon|GBR}} [[エリック・アンブラー]]
*{{Flagicon|GBR}} {{仮リンク|ハモンド・イネス|en|Hammond Innes}}
*{{Flagicon|GBR}} [[マイケル・イネス]]
*{{Flagicon|USA}} [[S・S・ヴァン・ダイン]]
*{{Flagicon|NLD}} [[ヤンウィレム・ヴァン・デ・ウェテリンク]] ([[オランダ]])([[オランダ語]]、英語で執筆)
*{{Flagicon|USA}} [[ドン・ウィンズロウ]]
*{{Flagicon|GBR}} [[ヘンリー・ウェイド]] ([[:en:Sir Henry Aubrey-Fletcher, 6th Baronet|Sir Henry Lancelot]])
*{{Flagicon|USA}} [[コーネル・ウールリッチ]]
*{{Flagicon|USA}} [[ドナルド・E・ウェストレイク]]
*{{Flagicon|USA}} {{仮リンク|メアリー・W・ウォーカー|en|Mary Willis Walker}}
*{{Flagicon|USA}} [[リヴィア・J・ウォッシュバーン]]
*{{Flagicon|IRL}} {{仮リンク|ルース・ダドリー・エドワーズ|en|Ruth Dudley Edwards}}
*{{Flagicon|USA}} [[ハワード・ブラウン|ジョン・エヴァンズ]]
*{{Flagicon|USA}} {{仮リンク|ミニョン・G・エバハート|en|Mignon G. Eberhart}}
*{{Flagicon|USA}} [[スタンリイ・エリン]]
*{{Flagicon|USA}} [[アーロン・エルキンズ]]
*{{Flagicon|USA}} [[ジェイムズ・エルロイ]]
*{{Flagicon|HUN}} [[バロネス・オルツィ]] ([[ハンガリー]]出身、イギリスで活躍、英語で執筆)
====カ行====
*{{Flagicon|USA}} [[ジョン・ディクスン・カー]]
*{{Flagicon|USA}} [[E・S・ガードナー]]
*{{Flagicon|GBR}} [[H・R・F・キーティング]]
*{{Flagicon|USA}} [[アリス・キンバリー]]
*{{Flagicon|USA}} [[エラリー・クイーン]]
*{{Flagicon|USA}} [[スー・グラフトン]]
*{{Flagicon|USA}} [[グレアム・グリーン]]
*{{Flagicon|GBR}} [[アガサ・クリスティ]]
*{{Flagicon|USA}} [[アリサ・クレイグ]]
*{{Flagicon|IRL}} [[F・W・クロフツ]]
*{{Flagicon|GBR}} {{仮リンク|M・M・ケイ|en|M. M. Kaye}}
*{{Flagicon|USA}} [[ハリイ・ケメルマン]]
*{{Flagicon|USA}} [[クレオ・コイル]]
*{{Flagicon|USA}} [[モリー・コクラン]] (東京生まれ、母は日本人)
*{{Flagicon|USA}} {{仮リンク|ポーラ・ゴズリング|en|Paula Gosling}}
*{{Flagicon|GBR}} [[ロバート・ゴダード (作家)|ロバート・ゴダード]]
*{{Flagicon|IRL}} [[ジョン・コナリー (作家)|ジョン・コナリー]]
*{{Flagicon|USA}} [[マイクル・コナリー]]
*{{Flagicon|USA}} [[ハーラン・コーベン]]
*{{Flagicon|USA}} [[パトリシア・コーンウェル]]
*{{Flagicon|GBR}} [[ウィルキー・コリンズ]]
====サ行====
*{{Flagicon|USA}} {{仮リンク|リサ・シー|en|Lisa See}}
*{{Flagicon|GBR}} {{仮リンク|M・P・シール|en|M. P. Shiel}}
*{{Flagicon|GBR}} [[P・D・ジェイムズ]]
*{{Flagicon|GBR}} [[アンソニー・シェーファー]]
*{{Flagicon|GBR}} [[ピーター・シェーファー]]
*{{Flagicon|CHN}} [[ジョー・シャーロン]] (中国出身、アメリカで創作活動、英語で執筆)
*{{Flagicon|USA}} [[リンダ・O・ジョンストン]]
*{{Flagicon|USA}} [[ロジャー・スカーレット]]
*{{Flagicon|USA}} [[リチャード・スターク]]
*{{Flagicon|USA}} [[レックス・スタウト]]
*{{Flagicon|GBR}} [[ウィルバー・スミス]]
*{{Flagicon|CAN}} [[マイケル・スレイド]]
*{{Flagicon|USA}} [[ヘンリイ・スレッサー]]
*{{Flagicon|GBR}} [[ドロシー・L・セイヤーズ]]
====タ行====
*{{Flagicon|USA}} [[オーガスト・ダーレス]]
*{{Flagicon|USA}} [[ジョン・ダニング]]
*{{Flagicon|USA}} [[ローラ・ダラム]]
*{{Flagicon|GBR}} [[ギルバート・ケイス・チェスタートン|G・K・チェスタートン]]
*{{Flagicon|USA}} [[ジル・チャーチル]]
*{{Flagicon|USA}} [[ローラ・チャイルズ]]
*{{Flagicon|USA}} [[レイモンド・チャンドラー]]
*{{Flagicon|USA}} {{仮リンク|ウィリアム・L・デアンドリア|en|William L. DeAndrea}}
*{{Flagicon|GBR}} [[ジョセフィン・テイ]]
*{{Flagicon|AUS}} [[マレール・デイ]]
*{{Flagicon|USA}} [[カーター・ディクスン]]
*{{Flagicon|USA}} [[ジェフリー・ディーヴァー]]
*{{Flagicon|IRL}} {{仮リンク|エイリス・ディロン|en|Eilís Dillon}}
*{{Flagicon|GBR}} [[コリン・デクスター]]
*{{Flagicon|AUS}} {{仮リンク|ピーター・テンプル|en|Peter Temple}}
*{{Flagicon|GBR}} [[アーサー・コナン・ドイル]]
*{{Flagicon|AUS}} [[ピーター・ドイル]]
*{{Flagicon|USA}} [[ロス・トーマス (作家)|ロス・トーマス]]
*{{Flagicon|USA}} [[ジム・トンプスン (小説家)|ジム・トンプスン]]
====ナ行====
*{{Flagicon|CAN}} {{仮リンク|ジェイムズ・W・ニコル|en|James W. Nichol}}
*{{Flagicon|GBR}} [[ロナルド・ノックス]]
====ハ行====
*{{Flagicon|GBR}} [[ロバート・バー]]
*{{Flagicon|USA}} [[ロバート・B・パーカー]]
*{{Flagicon|GBR}} [[アントニー・バークリー]]
*{{Flagicon|CAN}} [[アンドリュー・パイパー]]
*{{Flagicon|USA}} [[パトリシア・ハイスミス]]
*{{Flagicon|GBR}} [[スタンリー・ハイランド]] (Henry Stanley Hyland)
*{{Flagicon|CAN}} {{仮リンク|ジェイムズ・パウエル|en|James Powell (author)}}
*{{Flagicon|GBR}} [[デズモンド・バグリィ]]
*{{Flagicon|USA}} [[ダシール・ハメット]]
*{{Flagicon|USA}} [[トマス・ハリス]]
*{{Flagicon|GBR}} [[リチャード・ハル]]
*{{Flagicon|USA}} [[サラ・パレツキー]]
*{{Flagicon|USA}} [[スティーヴン・ハンター]]
*{{Flagicon|GBR}} [[デイヴィッド・ピース]](1994年より日本の東京在住)
*{{Flagicon|GBR}} [[エリス・ピーターズ]]
*{{Flagicon|GBR}} [[ジャック・ヒギンズ]]
*{{Flagicon|GBR}} [[レジナルド・ヒル]]
*{{Flagicon|NLD}} [[ロバート・ファン・ヒューリック]] ([[オランダ]]、英語で執筆)
*{{Flagicon|GBR}} [[イーデン・フィルポッツ]]
*{{Flagicon|USA}} [[A・A・フェア]]
*{{Flagicon|USA}} [[ジャック・フットレル]]
*{{Flagicon|AUS}} [[カーター・ブラウン]]
*{{Flagicon|USA}} [[ハワード・ブラウン]]
*{{Flagicon|USA}} [[フレドリック・ブラウン]]
*{{Flagicon|CAN}} [[アラン・ブラッドリー]]
*{{Flagicon|USA}} [[トマス・フラナガン]]
*{{Flagicon|GBR}} [[アーネスト・ブラマ]]
*{{Flagicon|GBR}} [[アリアナ・フランクリン]]
*{{Flagicon|GBR}} [[ディック・フランシス]]
*{{Flagicon|GBR}} [[パミラ・ブランチ]] (Pamela Branch)
*{{Flagicon|GBR}} [[オースティン・フリーマン]]
*{{Flagicon|IRL}} [[ケン・ブルーウン]]
*{{Flagicon|USA}} [[ジョアン・フルーク]]
*{{Flagicon|GBR}} [[レオ・ブルース]]
*{{Flagicon|USA}} {{仮リンク|デイル・フルタニ|en|Dale Furutani}}(日系三世)
*{{Flagicon|GBR}} [[ニコラス・ブレイク]]
*{{Flagicon|USA}} [[キャサリン・ホール・ペイジ]]
*{{Flagicon|GBR}} [[ヘンリー・クリストファー・ベイリー]]
*{{Flagicon|CAN}} {{仮リンク|C・C・ベニスン|en|Douglas Whiteway}}
*{{Flagicon|GBR}} [[アン・ペリー]]
*{{Flagicon|GBR}} [[E・C・ベントリー]]
*{{Flagicon|USA}} [[フィリス・A・ホイットニー|フィリス・アヤメ・ホイットニー]](出生地は日本の横浜)
*{{Flagicon|USA}} [[エドガー・アラン・ポー]]
*{{Flagicon|USA}} [[メルヴィル・デイヴィスン・ポースト|M・D・ポースト]]
*{{Flagicon|IRL}} [[レナード・ウィバーリー|レナード・ホールトン]]
*{{Flagicon|USA}} [[エドワード・D・ホック]]
*{{Flagicon|GBR}} {{仮リンク|ヴィクター・L・ホワイトチャーチ|en|Victor Whitechurch}}
====マ行====
*{{Flagicon|NZL}} [[ナイオ・マーシュ]] ([[ニュージーランド]])
*{{Flagicon|USA}} [[ロス・マクドナルド]]
*{{Flagicon|USA}} [[エド・マクベイン]]
*{{Flagicon|USA}} [[シャーロット・マクラウド]]
*{{Flagicon|GBR}} [[アリステア・マクリーン]]
*{{Flagicon|USA}} {{仮リンク|スジャータ・マッシー|en|Sujata Massey}}
*{{Flagicon|AUS}} [[シェイン・マローニー]]
*{{Flagicon|GBR}} [[グラディス・ミッチェル]]
*{{Flagicon|USA}} [[マーガレット・ミラー]]
*{{Flagicon|GBR}} [[A・A・ミルン]]
*{{Flagicon|GBR}} {{仮リンク|A・E・W・メイソン|en|A. E. W. Mason}}
*{{Flagicon|GBR}} [[アーサー・モリスン]]
====ヤ行====
*{{Flagicon|USA}} [[ジェイムズ・ヤッフェ]]
====ラ行====
*{{Flagicon|USA}} [[クレイグ・ライス]]
*{{Flagicon|GBR}} [[ピーター・ラヴゼイ]]
*{{Flagicon|USA}} [[ハーバート・リーバーマン]]
*{{Flagicon|CHN}} [[ダイアン・ウェイ・リャン]] (中国出身、イギリスで創作活動、英語で執筆)
*{{Flagicon|GBR}} [[ジョン・ル・カレ]]
*{{Flagicon|USA}} [[クレイトン・ロースン]]
*{{Flagicon|USA}} [[エラリー・クイーン|バーナビー・ロス]]
*{{Flagicon|GBR}} {{仮リンク|E・C・R・ロラック|en|E. C. R. Lorac}}
====ワ行====
*{{Flagicon|USA}} [[パーシヴァル・ワイルド]]
*{{Flagicon|GBR}} {{仮リンク|コリン・ワトスン|en|Colin Watson (writer)}}
----
=== フランス語圏 ===
ヨーロッパの[[フランス語圏]]の推理作家。特に示さない場合は[[フランス]]の推理作家。なお、「フランス語で執筆する推理作家」については「[[#アフリカ]]」も参照のこと。
([[:fr:Catégorie:Auteur français de roman policier<!-- [[:ja:Category:フランスの推理作家]] とリンク -->|Category:フランスの推理作家(フランス語版Wikipedia)]]も参照)
* [[A.D.G.]]
* [[ポール・アルテ]]
* [[カトリーヌ・アルレー]]
* [[フレッド・ヴァルガス]]
* [[ジャン・ヴォートラン]]
* [[シャルル・エクスブライヤ]]
* {{仮リンク|ブリジット・オベール|en|Brigitte Aubert}}
* [[フレッド・カサック]]
* [[エミール・ガボリオ]]
* [[ジャン=クリストフ・グランジェ]]
* [[ジョルジュ・シムノン]] ([[ベルギー]])
* [[アルベール・シモナン]]
* {{仮リンク|アンドレア・H・ジャップ|fr|Andrea H. Japp}}
* [[セバスチアン・ジャプリゾ]]
* [[ダニエル・ジュフュレ]] (Daniel Zufferey)
* [[スタニスラス=アンドレ・ステーマン]] (ベルギー)
* {{仮リンク|フレデリック・ダール|en|Frédéric Dard}}
* {{仮リンク|ディディエ・デナンクス|en|Didier Daeninckx}}
* {{仮リンク|A・P・デュシャトー|en|André-Paul Duchâteau}}(ベルギー)
* {{仮リンク|アラン・ドムーゾン|fr|Alain Demouzon}}
* [[ボワロー=ナルスジャック|トーマ・ナルスジャック]]
* [[トラン・ニュット姉妹]] (ベトナム出身、フランスで創作活動、フランス語で執筆)
* [[ダニエル・ピクリ]]
* [[セルジュ・ブリュソロ]]
* [[ダニエル・ペナック]]
* [[フォルチュネ・デュ・ボアゴベイ|フォルチュネ・デュ・ボアゴベ]]
* [[ボワロー=ナルスジャック|ピエール・ボワロー]]
* [[ジャン=パトリック・マンシェット]]
* [[ユベール・モンテイエ]]
* [[ミシェル・ルブラン]]
* [[モーリス・ルブラン]]
* [[ピエール・ルメートル]]
* [[ジャン=フランソワ・ルメール]]
* [[ガストン・ルルー]]
----
=== ドイツ語圏 ===
ヨーロッパの[[ドイツ語圏]]の推理作家。
[[ドイツ]]
([[:en:Category:German crime fiction writers<!-- [[:ja:Category:ドイツの推理作家]] とリンク -->|Category:ドイツの推理作家(英語版Wikipedia)]]も参照)
* [[ヤーコプ・アルユーニ]]
* [[ラルフ・イーザウ]]
* [[ペトラ・エルカー]]
* [[フレドゥン・キアンプール]] (Fredun Kianpour)(両親はペルシャ人とドイツ人、ドイツ在住、ドイツ語で執筆)
* [[ハンス・ヘルムート・キルスト]]
* {{仮リンク|フォルカー・クッチャー|de|Volker Kutscher}}
* [[エーリッヒ・ケストナー]]
* [[ハインツ・G・コンザリク]]
* [[フェルディナント・フォン・シーラッハ]]
* [[フランク・シェッツィング]]
* [[アンドレア・M・シェンケル]]
* [[アンネ・シャプレ]]
* [[クリストフ・シュピールベルク]] (Christoph Spielberg)
* [[ベルンハルト・シュリンク]]
* {{仮リンク|ベルント・ジュルツァー|de|Bernd Sülzer}}
* [[レオニー・スヴァン]]
* [[ザビーネ・ティースラー]]
* {{仮リンク|ゾラン・ドヴェンカー|de|Zoran Drvenkar}}
* [[テア・ドルン]]
* [[ネレ・ノイハウス]]
* [[イングリート・ノル]]
* [[ワルター・ハーリヒ]]
* [[アストリット・パプロッタ]]
* [[ペトラ・ハメスファール]]
* {{仮リンク|ピーケ・ビーアマン|de|Pieke Biermann}}
* [[アキフ・ピリンチ]](トルコ出身、ドイツで創作活動、ドイツ語で執筆)
* [[セバスチャン・フィツェック]]
* [[ピエール・フライ]] (Pierre Frei)
* [[ヴォルフラム・フライシュハウアー]]
* {{仮リンク|フレート・ブライナースドルファー|de|Fred Breinersdorfer}}
* [[ペーター・ブレント]] (Peter Brendt)
* {{仮リンク|オリヴァー・ペチュ|de|Oliver Pötzsch}}
* {{仮リンク|ビルギット・ヘルシャー|de|Birgit Lohmeyer}}
* {{仮リンク|ペトラ・ブッシュ|de|Petra Busch}}
* [[ホルスト・ボゼツキー]]
* {{仮リンク|ハンス・オットー・マイスナー|de|Hans-Otto Meissner}}
* [[クリスティアーネ・マルティーニ]] (Christiane Martini)
* {{仮リンク|ベルンハルト・ヤウマン|de|Bernhard Jaumann}}
* {{仮リンク|シャルロッテ・リンク|de|Charlotte Link}}
* {{仮リンク|パウル・ローゼンハイン|de|Paul Rosenhayn}}
[[オーストリア]]
* {{仮リンク|マルティン・アマンスハウザー|de|Martin Amanshauser}}
* {{仮リンク|ロッテ・イングリッシュ|en|Lotte Ingrisch}}
* [[ペーター・R・ヴィーニンガー]] (Peter R. Wieninger)
* [[マルク・エルスベルグ]] (Marc Elsberg)
* [[アンドレアス・グルーバー]]
* {{仮リンク|バルドゥイン・グロルラー|de|Balduin Groller}}
* [[ヨハネス・マリオ・ジンメル]]
* {{仮リンク|ヘルムート・ツェンカー|de|Helmut Zenker}}
* [[ヴォルフ・ハース]]
* {{仮リンク|バルバラ・ビューヒナー|de|Barbara Büchner}}
* {{仮リンク|エルンスト・ヒンターベルガー|en|Ernst Hinterberger}}
* [[クルト・ブラハルツ]]
* [[レオ・ペルッツ]]
* {{仮リンク|ユルゲン・ベンヴェヌーティ|de|Jürgen Benvenuti}}
[[スイス]]
* [[フリードリヒ・グラウザー]]
* [[マルティン・ズーター]]
* [[フリードリヒ・デュレンマット]]
その他
* {{仮リンク|ノルベルト・ジャック|en|Norbert Jacques}}([[ルクセンブルク]])
* {{仮リンク|ヴァルター・ゼルナー|en|Walter Serner}}
----
=== 西欧 ===
上記以外の[[西ヨーロッパ]]の推理作家(一部重複)
[[ドイツ]]
* {{仮リンク|ルビナ・ハイドゥク=ベリコビッチ|de|Lubina Hajduk-Veljković}}(ドイツの[[少数言語]]である[[高地ソルブ語]]で執筆)
[[オランダ]]
([[:en:Category:Dutch mystery writers|Category:オランダの推理作家(英語版Wikipedia)]]も参照)
* [[ヤンウィレム・ヴァン・デ・ウェテリンク]] ([[オランダ語]]、英語で執筆)
* [[ティム・クラベー]] (オランダ語で執筆)
* [[ロバート・ファン・ヒューリック]] (英語で執筆)
[[ベルギー]]
([[:fr:Catégorie:Auteur belge de roman policier<!-- [[:ja:Category:ベルギーの推理作家]] とリンク -->|Category:ベルギーの推理作家(フランス語版Wikipedia)]]も参照)
* [[ジョルジュ・シムノン]] (フランス語で執筆)
* [[スタニスラス=アンドレ・ステーマン]] (フランス語で執筆)
* {{仮リンク|A・P・デュシャトー|en|André-Paul Duchâteau}}(フランス語で執筆)
* {{仮リンク|バヴォ・ドーゲ|nl|Bavo Dhooge}}(オランダ語で執筆)
* [[ジャン・レー]] (フランス語・オランダ語で執筆)
[[ルクセンブルク]]
* {{仮リンク|ノルベルト・ジャック|en|Norbert Jacques}}(ドイツ語で執筆)
* {{仮リンク|モニーク・フェルトゲン|lb|Monique Feltgen}}(ドイツ語で執筆)
----
=== 北欧 ===
[[北ヨーロッパ]]の推理作家
[[アイスランド]]
([[:en:Category:Icelandic crime fiction writers|Category:アイスランドの推理作家(英語版Wikipedia)]]も参照)
* [[アーナルデュル・インドリダソン]]
* [[イルサ・シグルザルドッティル]]
[[スウェーデン]]
([[:sv:Kategori:Svenska kriminalförfattare<!-- [[:ja:Category:スウェーデンの推理作家]] とリンク -->|Category:スウェーデンの推理作家(スウェーデン語版Wikipedia)]]も参照)
* [[カーリン・アルヴテーゲン]]
* [[ペール・ヴァールー]]
* {{仮リンク|シャスティン・エークマン|en|Kerstin Ekman}}
* {{仮リンク|ヤーン・エクストレム|sv|Jan Ekström}}
* {{仮リンク|シェル・エリクソン|en|Kjell Eriksson}}
* [[ヤン・ギィユー]]
* [[ラーシュ・ケプレル]]
* [[ペール・ヴァールー|マイ・シューヴァル]]
* [[アルネ・ダール]]
* [[ヨハン・テオリン]]
* [[ホーカン・ネッセル]]
* [[ベリエ・ヘルストレム]]
* [[リサ・マークルンド]]
* [[ヘニング・マンケル]]
* {{仮リンク|マリ・ユングステット|en|Mari Jungstedt}}
* [[オーサ・ラーソン]]
* [[スティーグ・ラーソン]]
* [[ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト]]
* [[アンデシュ・ルースルンド]]
* [[カミラ・レックバリ]]
[[デンマーク]]
([[:da:Kategori:Krimiforfattere fra Danmark|Category:デンマークの推理作家(デンマーク語版Wikipedia)]]も参照)
* {{仮リンク|ポウル・ウロム|da|Poul Ørum}}
* [[ユッシ・エーズラ・オールスン]]
* [[ペーター・ホゥ]]
* [[アーナス・ボーデルセン]]
* {{仮リンク|パレ・ローゼンクランツ|da|Palle Rosenkrantz (forfatter)}}
[[ノルウェー]]
([[:no:Kategori:Norske krimforfattere|Category:ノルウェーの推理作家(ノルウェー語ブークモール版Wikipedia)]]、[[:nn:Kategori:Norske kriminalforfattarar|Category:ノルウェーの推理作家(ノルウェー語ニーノシュク版Wikipedia)]]も参照)
* {{仮リンク|トム・エーゲラン|en|Tom Egeland}}
* {{仮リンク|ヒェル・オーラ・ダール|en|Kjell Ola Dahl}}
* [[ジョー・ネスボ]]
* [[カリン・フォッスム]]
* {{仮リンク|ベルンハルト・ボルゲ|no|Bernhard Borge}}
* [[アンネ・ホルト]]
* {{仮リンク|ユン・ミシェレット|en|Jon Michelet}}
[[フィンランド]]
([[:fi:Luokka:Suomalaiset rikoskirjailijat|Category:フィンランドの推理作家(フィンランド語版Wikipedia)]]も参照)
* [[ペンッティ・キルスティラ]]
* {{仮リンク|マウリ・サリオラ|fi|Mauri Sariola}}
* [[レーナ・レヘトライネン]]
* [[ミカ・ワルタリ]]
----
=== 南欧 ===
[[南ヨーロッパ]]の推理作家
[[イタリア]]
([[:en:Category:Italian crime fiction writers|Category:イタリアの推理作家(英語版Wikipedia)]]も参照)
* [[ウンベルト・エーコ]]
* [[アンドレア・カミッレーリ]]
* {{仮リンク|ジャンリーコ・ カロフィーリオ|en|Gianrico Carofiglio}}
* {{仮リンク|ジュゼッペ・ジェンナ|it|Giuseppe Genna}}
* [[レオナルド・シャーシャ]]
* [[エンリコ・ソリト]] (Enrico Solito)
* {{仮リンク|エツィオ・デリコ|it|Ezio D'Errico}}
* [[ルドヴィコ・デンティーチェ]]
* {{仮リンク|マルチェロ・フォイス|it|Marcello Fois}}
* {{仮リンク|アレッサンドロ・ペリッシノット|it|Alessandro Perissinotto}}
* {{仮リンク|カルロ・ルカレッリ|en|Carlo Lucarelli}}
[[ギリシャ]]
* [[アンドニス・サマラキス]]
* {{仮リンク|ペトロス・マルカリス|el|Πέτρος Μάρκαρης}}
[[スペイン]]
特に示さない場合は[[スペイン語]]での執筆。なお、「スペイン語で執筆する推理作家」については「[[#中南米]]」も参照のこと。
([[:en:Category:Spanish mystery writers|Category:スペインの推理作家(英語版Wikipedia)]]も参照)
* [[カルロス・ルイス・サフォン]]
* {{仮リンク|ホセ・カルロス・ソモーサ|en|José Carlos Somoza}}
* [[パコ・イグナシオ・タイボ二世]] (スペイン出身、メキシコで執筆活動)
* {{仮リンク|フリア・ナバーロ|es|Julia Navarro}}
* {{仮リンク|ガルシア・パボン|es|Francisco García Pavón}}
* {{仮リンク|ドミンゴ・ビジャール|gl|Domingo Villar}}([[ガリシア語]]で執筆、スペイン語にも自ら翻訳)
* [[マヌエル・バスケス・モンタルバン]]
* [[アルトゥーロ・ペレス・レベルテ]]
----
=== 中欧 ===
[[中央ヨーロッパ]]の推理作家
[[スロバキア]]
* {{仮リンク|ドゥシャン・タラゲル|sk|Dušan Taragel}}
* {{仮リンク|ドミニク・ダン (小説家)|sk|Dominik Dán|label=ドミニク・ダン}}
* {{仮リンク|ペテル・ピシュタネク|en|Peter Pišťanek}}
* {{仮リンク|トーマス・ホルバト|sk|Tomáš Horváth (spisovateľ)}}
* {{仮リンク|ミハル・ホレツキ|en|Michal Hvorecký}}
* [[ドゥシャン・ミタナ]]
[[チェコ]]
* [[パヴェル・コホウト]]
* {{仮リンク|ヨゼフ・シュクヴォレツキー|en|Josef Škvorecký}}
* [[カレル・チャペック]]
* {{仮リンク|エゴン・ホストフスキー|en|Egon Hostovský}}
[[ハンガリー]]
* [[バロネス・オルツィ]] (ハンガリー出身、イギリスで活躍、英語で執筆)
* {{仮リンク|コンドル・ヴィルモス|hu|Kondor Vilmos}}
[[ポーランド]]
([[:pl:Kategoria:Polscy autorzy powieści kryminalnych<!-- [[:ja:Category:ポーランドの推理作家]] とリンク -->|Category:ポーランドの推理作家(ポーランド語版Wikipedia)]]も参照)
* [[イェジィ・エディゲイ]]
* {{仮リンク|マレック・クライェフスキ|en|Marek Krajewski}}
* [[ヨアンナ・ケミレスカ]]
* [[ジョゼフ・コンラッド]](ポーランド出身、イギリスで創作活動、英語で執筆)
* [[マチェイ・スウォムチンスキー]](ペンネーム:ジョー・アレックス(Joe Alex))
* {{仮リンク|アンジェイ・スタシュク|en|Andrzej Stasiuk}}
----
=== 東欧・ロシア ===
[[東ヨーロッパ]]および[[ロシア]]の推理作家
[[クロアチア]]
* {{仮リンク|パワオ・パウリチッチ|en|Pavao Pavličić}}
* {{仮リンク|ゴラン・トリブソン|en|Goran Tribuson}}
[[ブルガリア]]
* [[アンドレイ・グリャシキ]]
[[ルーマニア]]
([[:en:Category:Romanian crime fiction writers|Category:ルーマニアの推理作家(英語版Wikipedia)]]も参照)
* {{仮リンク|ミハイル・サドヴャーヌ|en|Mihail Sadoveanu}}
[[ロシア]]
([[:en:Category:Russian crime fiction writers|Category:ロシアの推理作家(英語版Wikipedia)]]も参照)
* [[ボリス・アクーニン]]
* [[ロマン・キム]]
* [[アレクセイ・コロビツィン]]
* [[レフ・シェイニン]]
* [[アレクサンドル・シクリャレフスキー]]
* [[マリエッタ・シャギニャン]]
* [[レオニード・スローヴィン]]
* [[ユリアン・セミョーノフ]]
* [[エドワード・トーポリ]]
* [[アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ]]
* [[フリードリヒ・ニェズナンスキイ]]
* [[アナトーリィ・ベズーグロフ]]
* [[アレクサンドラ・マリーニナ]]
* [[ポリーナ・ダシコワ]]
* [[ビタリ・メレンチェフ]]
* [[ワイネル兄弟]] (アルカージイ・ワイネルとゲオールギイ・ワイネル)
----
=== バルト三国 ===
[[バルト三国]]の推理作家
[[エストニア]]
([[:et:Kategooria:Eesti kriminaalkirjanikud|エストニアの推理作家(エストニア語版Wikipedia)]]を参照)
[[リトアニア]]
([[:lt:Kategorija:Lietuvos detektyvų rašytojai|リトアニアの推理作家(リトアニア語版Wikipedia)]]を参照)
==中南米==
以下、特に示さない場合はスペイン語での執筆
=== 中米 ===
[[中央アメリカ]]の推理作家
* [[パコ・イグナシオ・タイボ二世]] (スペイン出身、[[メキシコ]]で執筆活動)
* [[ミゲル・バティスタ]] ([[ドミニカ共和国]])
[[キューバ]]
* [[ダニエル・チャヴァリア]]
* [[レオナルド・パドゥーラ]]
* [[ホセ・ラトゥール]] (英語でも執筆)
* [[ベゴーニャ・ロペス]]
=== 南米 ===
[[南アメリカ]]の推理作家
* {{仮リンク|ロベルト・アンプエロ|en|Roberto Ampuero}}([[チリ]])
* [[イベア・コンテリース]] (Hiber Conteris) ([[ウルグアイ]])
* {{仮リンク|ルーベン・フォンセカ|en|Rubem Fonseca}}([[ブラジル]])([[ポルトガル語]])
* {{仮リンク|レアンドロ・ミュラー|en|Leandro Müller}}(ブラジル)(ポルトガル語)
[[アルゼンチン]]
* {{仮リンク|ラウル・アルジェミ|en|Raúl Argemí}}
* [[パブロ・デ・サンティス]]
* {{仮リンク|マルコ・デネービ|en|Marco Denevi}}
* {{仮リンク|クラウディア・ピニェイロ|es|Claudia Piñeiro}}
* {{仮リンク|マヌエル・ペイロウ|en|Manuel Peyrou}}
* [[ギジェルモ・マルティネス]]
==アフリカ==
=== 北アフリカ ===
[[北アフリカ]]の推理作家
* [[キャマル・ウマレク]] (Kamal Oumalek) ([[アルジェリア]])(フランス語)
* [[ヤスミナ・カドラ]] (アルジェリア)(フランス語)
* {{仮リンク|ドリス・チュライビ|en|Driss Chraïbi}}(モロッコ)(フランス語)
* [[アブデリラ・ハムドウチ]] (Abdelilah Hamdouchi) ([[モロッコ]])([[アラビア語]])
=== 西アフリカ ===
[[西アフリカ]]の推理作家
* [[アディムチンマ・イベ]] (Adimchinma Ibe) ([[ナイジェリア]])(英語)
* {{仮リンク|ムサ・コナテ|en|Moussa Konaté}}([[マリ共和国]])(フランス語)
* {{仮リンク|タフシール・ンディケ・ディエイエ|fr|Tafsir Ndické Dièye}}([[セネガル]])(フランス語)
=== 中部アフリカ ===
[[中部アフリカ]]の推理作家
* [[ジャニス・オチエミ]] (Janis Otsiemi) ([[ガボン]])(フランス語)
=== 南部アフリカ ===
[[南部アフリカ]]の推理作家
* {{仮リンク|ウェッセル・エバーソーン|sv|Wessel Ebersohn}}([[南アフリカ共和国]])(英語)
* {{仮リンク|リヒャルト・クンツマン|en|Richard Kunzmann}}(南アフリカ共和国)(英語)
* [[サム・コール]] (Sam Cole) ([[マイク・ニコル]](Mike Nicol)と[[ジョアンヌ・ヒチェンズ]](Joanne Hichens)) (南アフリカ共和国)(英語)
* [[ロジャー・スミス]] (Roger Smith) (南アフリカ共和国)(英語)
* [[デオン・マイヤー]](南アフリカ共和国)([[アフリカーンス語]])
== 推理作家団体 ==
日本国内、及び世界各地の[[推理作家#推理作家の団体|推理作家団体]]の一覧
=== 国際的な団体 ===
* [[国際推理作家協会]]
** ドイツ語圏支部:[[シンジケート (作家協会)|シンジケート]](Syndikat([[:de:Syndikat (Autoren)|de]]))
** 北欧支部:[[スカンジナヴィア推理作家協会]](Skandinaviska Kriminalsällskapet([[:no:Skandinaviska Kriminalsällskapet|no]]))
=== 日本の団体 ===
*[[日本推理作家協会]]
*[[本格ミステリ作家クラブ]]
=== アジアの団体 ===
*[[韓国推理作家協会]]
*[[台湾推理作家協会]]
*[[北京探偵推理文芸協会]]({{lang|zh|北京侦探推理文艺协会}})
=== 欧米・オセアニアの団体 ===
英語圏
*[[ディテクションクラブ]] (イギリス)(The Detection Club)
*[[英国推理作家協会]](CWA, The Crime Writers' Association)
*[[アメリカ探偵作家クラブ]](MWA, Mystery Writers of America)
*[[アメリカ私立探偵作家クラブ]](PWA, Private Eye Writers of America)
*[[カナダ推理作家協会]](CWC, Crime Writers of Canada)
*[[オーストラリア推理作家協会]](CWAA, the Crime Writers Association of Australia)
北欧
* [[スウェーデン推理作家アカデミー]](Svenska Deckarakademin, Swedish Crime Writers' Academy([[:en:Swedish Crime Writers' Academy|en]]))
* [[デンマーク推理作家アカデミー]] ([[:no:Det danske Kriminalakademi]])
* [[リバートンクラブ]] (ノルウェー) ([[:no:Rivertonklubben]])
* [[フィンランド・ミステリ協会]] ([[:fi:Suomen dekkariseura<!-- [[:ja:フィンランド・ミステリ協会]] とリンク -->]])
* [[アイスランド推理作家協会]] (Hið íslenska glæpafélag)
==関連項目==
*生年別推理作家一覧
:[[生年別推理作家一覧 19世紀|19世紀]] - [[生年別推理作家一覧 1901 - 1910年代|1901 - 1910年代]] - [[生年別推理作家一覧 1920年代|1920年代]] - [[生年別推理作家一覧 1930年代|1930年代]] - [[生年別推理作家一覧 1940年代|1940年代]] - [[生年別推理作家一覧 1950年代|1950年代]] - [[生年別推理作家一覧 1960年代|1960年代]] - [[生年別推理作家一覧 1970年代|1970年代]] - [[生年別推理作家一覧 1980年代|1980年代]] - [[生年別推理作家一覧 1990年代|1990年代]]
*[[人名一覧#作家(文芸関係者)|人名一覧の一覧#作家(文芸関係者)]]
*[[ホラー小説#ホラー作家一覧(日本)|ホラー作家一覧]]
*[[怪奇小説作家一覧]]
*英語版Wikipedia - 日本語版Wikipedia「推理作家一覧」に対応する項目
** [[:en:List of crime writers]]
** [[:en:List of detective fiction authors]]([[:en:Detective fiction<!-- [[:ja:推理小説]] とリンク -->]]は、Crime fictionの1つで、プロアマ問わず探偵役が登場するもの)
** [[:en:List of mystery writers]]([[:en:Mystery fiction]]はCrime fictionと重なるが、狭義にはDetective fictionの中で、謎の論理的解決に重点のあるものを指す([[ハードボイルド]]などと対比して))
==外部リンク==
*[http://www.mystery.or.jp/ 日本推理作家協会]
{{推理小説}}
[[Category:小説家一覧|すいりさっか]]
[[Category:推理作家|*いちらん]] | 2003-03-07T13:33:31Z | 2023-10-01T06:14:22Z | false | false | false | [
"Template:仮リンク",
"Template:Flagicon",
"Template:Lang",
"Template:推理小説"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E7%90%86%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
3,625 | ペンシルパズル | ペンシルパズル(pencil puzzle)とは、図示された問題に対して答えを徐々に書き込むことによって、最終的な解答を行う形式のパズルのことである。リトゥンパズル(written puzzle)とも呼ばれる。
迷路や、虫食い算、クロスワードパズル、数独などが代表的。
現在はパズルの専門雑誌がいくつも存在し、以下のパズルのいずれか一種類専門の雑誌も多い。パズルの形式(種類)自体に新しいものが次々と考え出されているが、それらの種類の名称は必ずしも共通しておらず、雑誌(出版社)により異なる場合がある。
なお、「ペンシルパズル」は株式会社ニコリの登録商標である。なお、ニコリでは、略して「ペンパ」とも呼んでいる。
ペンシルパズルの作り手は、プロ・セミプロ・アマチュアに分かれる。
パズルの作成だけで収入を得ている純粋なプロはあまり多くない。その多くが1980年代のクロスワード誌の創刊ラッシュ以前から新聞・雑誌や単行本などでクロスワードを含むパズルを発表してきた人である。彼らは、複数の雑誌で出題することも珍しくない。個人で活動している人の他に、ニコリ編集部や菫工房のような制作集団も存在する。
プロの数が多くないこともあり多くの雑誌では投稿を募集しており、アマチュアが作品を発表する場を設けている。アマチュアには、主婦・学生など一人の時間が取れる人が多い。投稿コーナーという区切りが無く、ほぼ読者による投稿が誌面を占めているパズル通信ニコリは異色とも言える。
セミプロの多くは、上述のような投稿コーナーの常連を経て作家としてデビューしており、最初から作家デビューを前提にしている雑誌も多い。プロと違い、一社の雑誌でしか出題しない人が多い。数独やお絵かきロジックのような、単独のパズルのスペシャリストも多い。
かつてお絵かきロジックの原作者が誰かについて裁判で争われたことがあるが、判決が出る前に双方が独自に開発したとして和解しているので司法の判断が実際に下されたことはない。
現在では新しいペンシルパズルの考案者に権利は発生しないと考えられている。
個々の問題に関しては著作権が発生すると考えられており、各誌の投稿規定でも二重投稿の禁止などの対策がとられている。
ペンシルパズルの専門雑誌は「パズル誌」と呼ばれ、多くの種類の雑誌が発売されている。
日本で現在刊行されているパズル誌の中で最初に創刊されたのは「パズル通信ニコリ」(スタジオ魔法塵→ニコリ)であり、1980年に創刊された。この雑誌は、アメリカのデル・マガジンなどのパズル誌を参考に作られた。
1980年代前半に、「クロスワードハウス」(廣済堂)・「パズラー」「クロスワードファン」(世界文化社)・「クロスワードキング」(英知出版→インフォレスト)が創刊されている。タイトルから分かるように「パズラー」以外はクロスワードパズルが中心だった。
1990年代になると、特定のパズルに的を絞った雑誌が創刊されるようになる。多くの場合、既にパズル誌を発行している会社が増刊の形で始めている。ナンクロ・お絵かきロジック・数独など、パズル誌で人気の高かったパズルの雑誌が多い。
ペンシルパズルは種類が多いが、明確な分類方法はほとんど確立されていない。以下の2つはこの記事でも使用されている方法だが、これも十分な物とはいえない。
他に「ルールの分かりやすさ」「枠の形が可変か」などの分類方法もあるが、一般的には使用されていない。
2008年にニコリから出版された「パズルBOX9」では、51種類のパズルを以下の6つに分類している。分類の後に代表的なパズルをあげる(同誌に掲載されていないパズルを例としてあげる場合がある)。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ペンシルパズル(pencil puzzle)とは、図示された問題に対して答えを徐々に書き込むことによって、最終的な解答を行う形式のパズルのことである。リトゥンパズル(written puzzle)とも呼ばれる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "迷路や、虫食い算、クロスワードパズル、数独などが代表的。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "現在はパズルの専門雑誌がいくつも存在し、以下のパズルのいずれか一種類専門の雑誌も多い。パズルの形式(種類)自体に新しいものが次々と考え出されているが、それらの種類の名称は必ずしも共通しておらず、雑誌(出版社)により異なる場合がある。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "なお、「ペンシルパズル」は株式会社ニコリの登録商標である。なお、ニコリでは、略して「ペンパ」とも呼んでいる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "ペンシルパズルの作り手は、プロ・セミプロ・アマチュアに分かれる。",
"title": "作者"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "パズルの作成だけで収入を得ている純粋なプロはあまり多くない。その多くが1980年代のクロスワード誌の創刊ラッシュ以前から新聞・雑誌や単行本などでクロスワードを含むパズルを発表してきた人である。彼らは、複数の雑誌で出題することも珍しくない。個人で活動している人の他に、ニコリ編集部や菫工房のような制作集団も存在する。",
"title": "作者"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "プロの数が多くないこともあり多くの雑誌では投稿を募集しており、アマチュアが作品を発表する場を設けている。アマチュアには、主婦・学生など一人の時間が取れる人が多い。投稿コーナーという区切りが無く、ほぼ読者による投稿が誌面を占めているパズル通信ニコリは異色とも言える。",
"title": "作者"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "セミプロの多くは、上述のような投稿コーナーの常連を経て作家としてデビューしており、最初から作家デビューを前提にしている雑誌も多い。プロと違い、一社の雑誌でしか出題しない人が多い。数独やお絵かきロジックのような、単独のパズルのスペシャリストも多い。",
"title": "作者"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "かつてお絵かきロジックの原作者が誰かについて裁判で争われたことがあるが、判決が出る前に双方が独自に開発したとして和解しているので司法の判断が実際に下されたことはない。",
"title": "パズルの権利"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "現在では新しいペンシルパズルの考案者に権利は発生しないと考えられている。",
"title": "パズルの権利"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "個々の問題に関しては著作権が発生すると考えられており、各誌の投稿規定でも二重投稿の禁止などの対策がとられている。",
"title": "パズルの権利"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "ペンシルパズルの専門雑誌は「パズル誌」と呼ばれ、多くの種類の雑誌が発売されている。",
"title": "雑誌"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "日本で現在刊行されているパズル誌の中で最初に創刊されたのは「パズル通信ニコリ」(スタジオ魔法塵→ニコリ)であり、1980年に創刊された。この雑誌は、アメリカのデル・マガジンなどのパズル誌を参考に作られた。",
"title": "雑誌"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1980年代前半に、「クロスワードハウス」(廣済堂)・「パズラー」「クロスワードファン」(世界文化社)・「クロスワードキング」(英知出版→インフォレスト)が創刊されている。タイトルから分かるように「パズラー」以外はクロスワードパズルが中心だった。",
"title": "雑誌"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1990年代になると、特定のパズルに的を絞った雑誌が創刊されるようになる。多くの場合、既にパズル誌を発行している会社が増刊の形で始めている。ナンクロ・お絵かきロジック・数独など、パズル誌で人気の高かったパズルの雑誌が多い。",
"title": "雑誌"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ペンシルパズルは種類が多いが、明確な分類方法はほとんど確立されていない。以下の2つはこの記事でも使用されている方法だが、これも十分な物とはいえない。",
"title": "ペンシルパズルの分類"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "他に「ルールの分かりやすさ」「枠の形が可変か」などの分類方法もあるが、一般的には使用されていない。",
"title": "ペンシルパズルの分類"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2008年にニコリから出版された「パズルBOX9」では、51種類のパズルを以下の6つに分類している。分類の後に代表的なパズルをあげる(同誌に掲載されていないパズルを例としてあげる場合がある)。",
"title": "ペンシルパズルの分類"
}
] | ペンシルパズルとは、図示された問題に対して答えを徐々に書き込むことによって、最終的な解答を行う形式のパズルのことである。リトゥンパズルとも呼ばれる。 迷路や、虫食い算、クロスワードパズル、数独などが代表的。 現在はパズルの専門雑誌がいくつも存在し、以下のパズルのいずれか一種類専門の雑誌も多い。パズルの形式(種類)自体に新しいものが次々と考え出されているが、それらの種類の名称は必ずしも共通しておらず、雑誌(出版社)により異なる場合がある。 なお、「ペンシルパズル」は株式会社ニコリの登録商標である。なお、ニコリでは、略して「ペンパ」とも呼んでいる。 | {{Pathnav|コンピュータゲーム|コンピュータゲームのジャンル|パズルゲーム|frame=1}}
{{出典の明記|date=2018-08-24}}
[[ファイル:Japanese crossword.png|thumb|220px|[[クロスワードパズル]]の枠]]
'''ペンシルパズル'''(''pencil puzzle'')とは、図示された問題に対して答えを徐々に書き込むことによって、最終的な解答を行う形式の[[パズル]]のことである。リトゥンパズル(written puzzle)とも呼ばれる。
[[迷路]]や、[[虫食い算]]、[[クロスワードパズル]]、[[数独]]などが代表的。
現在はパズルの[[専門雑誌]]がいくつも存在し、以下のパズルのいずれか一種類専門の雑誌も多い。パズルの形式(種類)自体に新しいものが次々と考え出されているが、それらの種類の名称は必ずしも共通しておらず、雑誌(出版社)により異なる場合がある。
なお、「'''ペンシルパズル'''」は株式会社[[ニコリ]]の登録商標である。なお、ニコリでは、略して「'''ペンパ'''」とも呼んでいる。
== ペンシルパズルの種類 ==
* [[迷路]]
* [[クロスワードパズル]]
* [[虫食い算]]
* [[覆面算]]
* [[間違い探し]]
* [[シークワーズ]]
=== 現代のもの ===
[[ファイル:Sudoku-by-L2G-20050714.svg|thumb|250px|[[数独]](ナンバープレース)の問題例]]
[[Image:Paint by numbers Animation.gif|right|thumb|250px|[[お絵描きロジック]]完成までの流れ([[GIFアニメ]])]]
* 主に単語が主体になる物
** [[スケルトン (パズル)|スケルトン]]
** [[アロークロス]]
** [[ナンバークロスワードパズル]](ナンクロ)
** [[漢字パズル]]
* 主に数字・記号が主体になる物
** [[数独]](数字は独身に限る)、ナンバープレース
** [[カックロ]](加算クロス)、サムクロス
** [[お絵かきロジック]]、イラストロジック、ののぐらむ、ピクチャークロスワード(ピクロス)
** ぬり絵パズル(モザイクアート)
** [[推理パズル]]、ロジックパズル
** [[ぬりかべ (パズル)|ぬりかべ]]
** [[サムライン (パズル)|サムライン]]
** [[スリザーリンク]]
** [[点つなぎ]]
** [[四角に切れ]]
** [[クロスナンバー|クロスナンバー(マックロ)]]
** ナンスケ(ナンバースケルトン)
** [[へやわけ]]
** [[ましゅ]]
** [[フィルオミノ]]
** [[美術館 (パズル)|美術館]]
** [[ひとりにしてくれ]]
** [[ナンバーリンク]]
** [[ウォールロジック]]
** [[ビルディングパズル]]
** [[バトルシップ]]
** [[何種類]]
** [[ABCプレース]]
** ボンバーパズル
** [[賢くなるパズル]]
== 作者 ==
ペンシルパズルの作り手は、プロ・セミプロ・アマチュアに分かれる。
パズルの作成だけで収入を得ている純粋なプロはあまり多くない。その多くが1980年代のクロスワード誌の創刊ラッシュ以前から新聞・雑誌や単行本などでクロスワードを含むパズルを発表してきた人である。彼らは、複数の雑誌で出題することも珍しくない。個人で活動している人の他に、[[ニコリ]]編集部や菫工房のような制作集団も存在する。
プロの数が多くないこともあり多くの雑誌では投稿を募集しており、アマチュアが作品を発表する場を設けている。アマチュアには、主婦・学生など一人の時間が取れる人が多い。投稿コーナーという区切りが無く、ほぼ読者による投稿が誌面を占めている[[パズル通信ニコリ]]は異色とも言える。
セミプロの多くは、上述のような投稿コーナーの常連を経て作家としてデビューしており、最初から作家デビューを前提にしている雑誌も多い。プロと違い、一社の雑誌でしか出題しない人が多い。[[数独]]や[[お絵かきロジック]]のような、単独のパズルのスペシャリストも多い。
== パズルの権利 ==
かつて[[お絵かきロジック]]の原作者が誰かについて裁判で争われたことがあるが、判決が出る前に双方が独自に開発したとして和解しているので司法の判断が実際に下されたことはない。
現在では新しいペンシルパズルの考案者に権利は発生しないと考えられている。
個々の問題に関しては[[著作権]]が発生すると考えられており、各誌の投稿規定でも二重投稿の禁止などの対策がとられている。
== 雑誌 ==
ペンシルパズルの[[専門雑誌]]は「パズル誌」と呼ばれ、多くの種類の雑誌が発売されている。
日本で現在刊行されているパズル誌の中で最初に創刊されたのは「[[パズル通信ニコリ]]」(スタジオ魔法塵→[[ニコリ]])であり、1980年に創刊された。この雑誌は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のデル・マガジンなどのパズル誌を参考に作られた。
1980年代前半に、「クロスワードハウス」([[廣済堂出版|廣済堂]])・「[[パズラー]]」「クロスワードファン」([[世界文化社]])・「クロスワードキング」([[英知出版]]→[[インフォレスト]])が創刊されている。タイトルから分かるように「パズラー」以外は[[クロスワードパズル]]が中心だった。
1990年代になると、特定のパズルに的を絞った雑誌が創刊されるようになる。多くの場合、既にパズル誌を発行している会社が増刊の形で始めている。[[ナンバークロスワードパズル|ナンクロ]]・[[お絵かきロジック]]・[[数独]]など、パズル誌で人気の高かったパズルの雑誌が多い。
== ペンシルパズルの分類 ==
ペンシルパズルは種類が多いが、明確な分類方法はほとんど確立されていない。以下の2つはこの記事でも使用されている方法だが、これも十分な物とはいえない。
; 作られた時期
: 明確な線引きは存在しないが、1980年代のパズル誌創刊以前から存在していたパズル([[クロスワードパズル]]・[[虫食い算]]など)とパズル誌内で考案・紹介された物([[数独]]・[[カックロ]]・[[スリザーリンク]]など)に分けることが多い。
; 文系・理系
: 文字や言葉を使ったもの(文系)と、数字や記号を使ったもの(理系)に分ける方法。[[迷路]]のようにどちらにも該当しない物も出てくる。
他に「ルールの分かりやすさ」「枠の形が可変か」などの分類方法もあるが、一般的には使用されていない。
=== ニコリによる分類 ===
2008年に[[ニコリ]]から出版された「パズルBOX9」では、51種類のパズルを以下の6つに分類している。分類の後に代表的なパズルをあげる(同誌に掲載されていないパズルを例としてあげる場合がある)。
# 線のパズル - スリザーリンク・[[ナンバーリンク]]・[[ウォールロジック]]など
# 黒マスのパズル - [[ぬりかべ (パズル)|ぬりかべ]]・[[へやわけ]]など
# 絵が出るパズル - お絵かきロジックなど
# 言葉のパズル - クロスワードパズル・[[スケルトン (パズル)|スケルトン]]など
# 数字のパズル - 虫食い算・数独など
# いろいろなパズル - [[迷路]]など
== 関連項目 ==
* [[パズル通信ニコリ]]
* [[パズラー]]
* [[パズル通信ニコリのパズル一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.nikoli.co.jp/ja/ Webニコリ]
* [http://www.puzzler.ne.jp/ インターネットパズラー]
{{コンピュータゲームのジャンル}}
{{DEFAULTSORT:へんしるはする}}
[[Category:パズル]]
[[Category:ペンシルパズル|*]]
[[Category:登録商標]] | 2003-03-07T13:36:04Z | 2023-09-05T14:54:33Z | false | false | false | [
"Template:コンピュータゲームのジャンル",
"Template:Pathnav",
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%91%E3%82%BA%E3%83%AB |
3,626 | コレクション | コレクションは、モノを広く集めること、また集められたもの。収集、収集物、所蔵品。「収集」は「蒐集」とも書く。趣味としての収集活動に対して使われることが多いが。また、研究用資料、博物館や美術館等の所蔵作品群、近年では作家の著作集などに対しても用いられている。服飾においては、ファッションデザイナーや服飾ブランドが開催する展示会及びその作品群を指す。ただし英語ではファッションウィーク (fashion week) と呼ぶのが一般的である(詳細はファッションショーを参照)。また、日本では一般的でないが、英語圏では募金、寄付金、献金、集金などもコレクションと呼ばれる。
収集は人間の生活において広い範囲にわたって見られる行動であり、美術館や図書館、博物館などに代表されるように、文化財の収集、蓄積は文化の発展に大きく寄与してきた。またそのように集められるものは有形のものに限らず、無形の知識や言い伝えなどもしばしば収集の対象となる。現代では個人の趣味として物を集める人も多く、そのような趣味としてのコレクションでは、芸術品などの高価なものから集めている本人以外は見向きもしないようながらくたまでありとあらゆるものが収集の対象となっている。
「集められたもの」すべてが必ずしも「コレクション」となるわけではない。例えば商業活動を通じて金銭を集め、財産を増やしていく行為は「コレクション」とは呼ばれないし、医師が自分の診療所にいくら多くの患者のカルテを持っていたとしてもそれは「コレクション」ではない。これに関しヴァルター・ベンヤミンやジャン・ボードリヤールのような哲学者は、事物が本来の実用的な機能から切り離されて日常とは別の体系に組み込まれることを(特に趣味としての)コレクションの性質だとしている。また歴史家のクシシトフ・ポミアン(英語版)は、「歴史家の実践において」コレクションは単なる物の堆積とは以下の3つの点で区別されるとしている。
精神病理学においては、認知症や統合失調症の患者に見られるような、身近な物を捨てられず無闇に溜め込んでしまう症状を「蒐集症(collectionism)」と称する。また精神科医の春日武彦は収集癖に親和性が高い病理として強迫神経症を挙げている。
芸術や学問においては、先行作品や資料、文献などが後世に伝えられることがその発展の上での条件であり、したがって文物の収集は芸術、学問の諸分野で重要な役割を果たしている。特に著作、文献の収集としての図書館はすでに紀元前7世紀にその例があるが、これはあらゆる学問研究の基盤を成す収集であると言える。学問の諸分野のうちで特に収集と深い関わりがあるのは博物学であり、動物、植物、鉱物などの自然物の収集と分類がその基盤である。この分野においては趣味による採集を通じて新種の発見がなされるということも多い。考古学においては古代の人類の遺物が、古生物学においては太古の生物の化石が収集・研究の対象となり、民俗学においては、民芸品のような有形のものに限らず伝承や民謡のような無形のものも収集される。
美術品の収集の歴史は古く、ヘレニズム時代に既に権力者、政治家、学者らによる美術品の収集、公開が行われ、古代ローマの支配拡大に伴って戦利品として古代ギリシアの美術品を持ち帰るということもしばしば行われた。
中世ヨーロッパでは教会が美術品収集の中心であり、彫刻や工芸品の他、写本や珍しい動物の標本などを宝物庫(シャッツカンマー)に所蔵し、中世末期になると宮廷や富裕な市民の間でも世俗的な美術品の収集が行われている。
ルネサンス期においては国家的なまとまりがまだ生じていなかったイタリアを中心に、メディチ家を始めとする富裕層・支配者層の間で古代美術を規範とした美術品収集が行われ、あるいは好古家によって骨董品収集が行われ、それにより国内外の珍品を集めて展示するヴンダーカンマー(驚異の部屋)が作られるようになった。このような私的なコレクションは啓蒙主義の時代とそれに続くフランス革命によって次々に公共化されていき、その幾つかは今日存在する美術館、博物館の基礎となっている。
日本においては奈良時代の正倉院に代表されるように献納物からなる権力者のコレクションが存在したが、個人の美意識に基づいて収集が行われたものとしては足利義政による東山御物などが早い例である。戦国時代から江戸時代には茶の湯の流行から各地の数寄者・大名によって茶道具や古書画が収集されており、江戸時代後期になると文人趣味の流行から中国の書画骨董が収集の対象となった。明治時代になると西洋の美意識が輸入されるようになるが、同時にフェノロサらによって日本美術の独自性が打ち出され美術収集の方向性に大きな影響を与えた。フェノロサ自身明治10年代に多くの日本美術を収集しており、現在そのコレクションはボストン美術館に所蔵されている。明治後期からは益田孝、原富太郎、根津嘉一郎、岩崎弥太郎など実業家によって古画・古磁器を中心とした美術品の収集を行われており、現代でもこのような個人コレクションがのちに美術館の基礎となる例は多い。
趣味としてのコレクションの歴史は古く、中国中世の説話集「世説新語」には、下駄の収集に凝って自ら手入れをし「一生に何足の下駄が履けることか」と嘆いていた人物が登場する。近代において市民社会が発達すると、一般市民の間で趣味としてのコレクションが広く行われるようになる。
このような趣味においては美術品、工芸品などの比較的高価なものから、本や古地図、動植物や鉱物標本など資料的価値のあるもの、硬貨、切手など収集の歴史の長いもの、模型や玩具、記念品や土産物のような比較的安価なもの、食料品のパッケージや包装紙のようなそれ自体は価値のないようなものに至るまで、各人の好みに従ってほとんどありとあらゆるものがコレクションの対象となっている。
現代では物の種類による収集ではなく、特定の漫画・アニメーション作品やそのキャラクターの関連商品(キャラクターグッズ)を収集する例も多い。またトレーディングカードや食玩のように、始めから消費者によって収集の対象とされることを前提とした商品も数多く生産されており、このような分野においては特定のシリーズをすべて収集が目指される。
また近年のインターネットの発達により情報交換サイトやネットオークションでの取引きも行われるようになっており、収集家同士の間では未開封の商品や新品同様の商品がしばしば高値で取引されている。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "コレクションは、モノを広く集めること、また集められたもの。収集、収集物、所蔵品。「収集」は「蒐集」とも書く。趣味としての収集活動に対して使われることが多いが。また、研究用資料、博物館や美術館等の所蔵作品群、近年では作家の著作集などに対しても用いられている。服飾においては、ファッションデザイナーや服飾ブランドが開催する展示会及びその作品群を指す。ただし英語ではファッションウィーク (fashion week) と呼ぶのが一般的である(詳細はファッションショーを参照)。また、日本では一般的でないが、英語圏では募金、寄付金、献金、集金などもコレクションと呼ばれる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "収集は人間の生活において広い範囲にわたって見られる行動であり、美術館や図書館、博物館などに代表されるように、文化財の収集、蓄積は文化の発展に大きく寄与してきた。またそのように集められるものは有形のものに限らず、無形の知識や言い伝えなどもしばしば収集の対象となる。現代では個人の趣味として物を集める人も多く、そのような趣味としてのコレクションでは、芸術品などの高価なものから集めている本人以外は見向きもしないようながらくたまでありとあらゆるものが収集の対象となっている。",
"title": "収集行動とコレクション"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "「集められたもの」すべてが必ずしも「コレクション」となるわけではない。例えば商業活動を通じて金銭を集め、財産を増やしていく行為は「コレクション」とは呼ばれないし、医師が自分の診療所にいくら多くの患者のカルテを持っていたとしてもそれは「コレクション」ではない。これに関しヴァルター・ベンヤミンやジャン・ボードリヤールのような哲学者は、事物が本来の実用的な機能から切り離されて日常とは別の体系に組み込まれることを(特に趣味としての)コレクションの性質だとしている。また歴史家のクシシトフ・ポミアン(英語版)は、「歴史家の実践において」コレクションは単なる物の堆積とは以下の3つの点で区別されるとしている。",
"title": "収集行動とコレクション"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "精神病理学においては、認知症や統合失調症の患者に見られるような、身近な物を捨てられず無闇に溜め込んでしまう症状を「蒐集症(collectionism)」と称する。また精神科医の春日武彦は収集癖に親和性が高い病理として強迫神経症を挙げている。",
"title": "収集行動とコレクション"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "芸術や学問においては、先行作品や資料、文献などが後世に伝えられることがその発展の上での条件であり、したがって文物の収集は芸術、学問の諸分野で重要な役割を果たしている。特に著作、文献の収集としての図書館はすでに紀元前7世紀にその例があるが、これはあらゆる学問研究の基盤を成す収集であると言える。学問の諸分野のうちで特に収集と深い関わりがあるのは博物学であり、動物、植物、鉱物などの自然物の収集と分類がその基盤である。この分野においては趣味による採集を通じて新種の発見がなされるということも多い。考古学においては古代の人類の遺物が、古生物学においては太古の生物の化石が収集・研究の対象となり、民俗学においては、民芸品のような有形のものに限らず伝承や民謡のような無形のものも収集される。",
"title": "芸術・学問における収集"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "美術品の収集の歴史は古く、ヘレニズム時代に既に権力者、政治家、学者らによる美術品の収集、公開が行われ、古代ローマの支配拡大に伴って戦利品として古代ギリシアの美術品を持ち帰るということもしばしば行われた。",
"title": "芸術・学問における収集"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "中世ヨーロッパでは教会が美術品収集の中心であり、彫刻や工芸品の他、写本や珍しい動物の標本などを宝物庫(シャッツカンマー)に所蔵し、中世末期になると宮廷や富裕な市民の間でも世俗的な美術品の収集が行われている。",
"title": "芸術・学問における収集"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "ルネサンス期においては国家的なまとまりがまだ生じていなかったイタリアを中心に、メディチ家を始めとする富裕層・支配者層の間で古代美術を規範とした美術品収集が行われ、あるいは好古家によって骨董品収集が行われ、それにより国内外の珍品を集めて展示するヴンダーカンマー(驚異の部屋)が作られるようになった。このような私的なコレクションは啓蒙主義の時代とそれに続くフランス革命によって次々に公共化されていき、その幾つかは今日存在する美術館、博物館の基礎となっている。",
"title": "芸術・学問における収集"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "日本においては奈良時代の正倉院に代表されるように献納物からなる権力者のコレクションが存在したが、個人の美意識に基づいて収集が行われたものとしては足利義政による東山御物などが早い例である。戦国時代から江戸時代には茶の湯の流行から各地の数寄者・大名によって茶道具や古書画が収集されており、江戸時代後期になると文人趣味の流行から中国の書画骨董が収集の対象となった。明治時代になると西洋の美意識が輸入されるようになるが、同時にフェノロサらによって日本美術の独自性が打ち出され美術収集の方向性に大きな影響を与えた。フェノロサ自身明治10年代に多くの日本美術を収集しており、現在そのコレクションはボストン美術館に所蔵されている。明治後期からは益田孝、原富太郎、根津嘉一郎、岩崎弥太郎など実業家によって古画・古磁器を中心とした美術品の収集を行われており、現代でもこのような個人コレクションがのちに美術館の基礎となる例は多い。",
"title": "芸術・学問における収集"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "趣味としてのコレクションの歴史は古く、中国中世の説話集「世説新語」には、下駄の収集に凝って自ら手入れをし「一生に何足の下駄が履けることか」と嘆いていた人物が登場する。近代において市民社会が発達すると、一般市民の間で趣味としてのコレクションが広く行われるようになる。",
"title": "趣味としてのコレクション"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "このような趣味においては美術品、工芸品などの比較的高価なものから、本や古地図、動植物や鉱物標本など資料的価値のあるもの、硬貨、切手など収集の歴史の長いもの、模型や玩具、記念品や土産物のような比較的安価なもの、食料品のパッケージや包装紙のようなそれ自体は価値のないようなものに至るまで、各人の好みに従ってほとんどありとあらゆるものがコレクションの対象となっている。",
"title": "趣味としてのコレクション"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "現代では物の種類による収集ではなく、特定の漫画・アニメーション作品やそのキャラクターの関連商品(キャラクターグッズ)を収集する例も多い。またトレーディングカードや食玩のように、始めから消費者によって収集の対象とされることを前提とした商品も数多く生産されており、このような分野においては特定のシリーズをすべて収集が目指される。",
"title": "趣味としてのコレクション"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "また近年のインターネットの発達により情報交換サイトやネットオークションでの取引きも行われるようになっており、収集家同士の間では未開封の商品や新品同様の商品がしばしば高値で取引されている。",
"title": "趣味としてのコレクション"
}
] | コレクションは、モノを広く集めること、また集められたもの。収集、収集物、所蔵品。「収集」は「蒐集」とも書く。趣味としての収集活動に対して使われることが多いが。また、研究用資料、博物館や美術館等の所蔵作品群、近年では作家の著作集などに対しても用いられている。服飾においては、ファッションデザイナーや服飾ブランドが開催する展示会及びその作品群を指す。ただし英語ではファッションウィーク (fashion week) と呼ぶのが一般的である(詳細はファッションショーを参照)。また、日本では一般的でないが、英語圏では募金、寄付金、献金、集金などもコレクションと呼ばれる。 | {{otheruses}}
[[ファイル:Frans Francken d. J. 009.jpg|thumb|260px|[[驚異の部屋]]の一隅を描いた絵画]]
'''コレクション'''は、モノを広く集めること、また集められたもの。収集、収集物、所蔵品。「'''収集'''」は「'''蒐集'''」とも書く。[[趣味]]としての収集活動に対して使われることが多いが。また、研究用資料、[[博物館]]や[[美術館]]等の所蔵作品群、近年では[[作家]]の著作集などに対しても用いられている。[[服飾]]においては、[[ファッションデザイナー]]や服飾ブランドが開催する展示会及びその作品群を指す。ただし[[英語]]ではファッションウィーク{{enlink|fashion week}}と呼ぶのが一般的である(詳細は[[ファッションショー]]を参照)。また、日本では一般的でないが、英語圏では[[募金]]、[[寄付金]]、[[献金]]、集金などもコレクションと呼ばれる。
== 収集行動とコレクション ==
[[ファイル:Flohmarkt2.JPG|thumb|250px|[[蚤の市]]には多くの収集家が集まる。]]
収集は人間の生活において広い範囲にわたって見られる行動であり、[[美術館]]や[[図書館]]、[[博物館]]などに代表されるように、文化財の収集、蓄積は文化の発展に大きく寄与してきた。またそのように集められるものは有形のものに限らず、無形の知識や言い伝えなどもしばしば収集の対象となる。現代では個人の趣味として物を集める人も多く、そのような趣味としてのコレクションでは、芸術品などの高価なものから集めている本人以外は見向きもしないような[[がらくた]]までありとあらゆるものが収集の対象となっている。
「集められたもの」すべてが必ずしも「コレクション」となるわけではない。例えば商業活動を通じて金銭を集め、財産を増やしていく行為は「コレクション」とは呼ばれないし、医師が自分の診療所にいくら多くの患者の[[カルテ]]を持っていたとしてもそれは「コレクション」ではない。これに関し[[ヴァルター・ベンヤミン]]や[[ジャン・ボードリヤール]]のような哲学者は、事物が本来の実用的な機能から切り離されて日常とは別の体系に組み込まれることを(特に趣味としての)コレクションの性質だとしている<ref>ボードリヤール「蒐集の分類体系」(『蒐集』、17頁-18頁)およびベンヤミン、122頁-123頁参照。また後述のポミアンは同様の観点から、「経済活動の実践に必要な情報を引き出すための本だけを集めている図書館」のようなものはコレクションとは見なせないとしている。(ポミアン、23頁)</ref>。また歴史家の{{仮リンク|クシシトフ・ポミアン|en|Krzysztof Pomian}}は、「歴史家の実践において」コレクションは単なる物の堆積とは以下の3つの点で区別されるとしている<ref>ポミアン、22頁、368頁-371頁</ref>。
#コレクションを構成する品物が一時的あるいは永久に、営利活動の流通回路の外に保たれていること(「たとえば、売るために店に集められた品物の集合はコレクションではない」)。
#コレクションを構成する品物の集合が特別な庇護のもとに置かれていること(「コレクションであるためには、保存の問題と、また場合によってはそれを構成する品物の修復の問題を解決する必要がある」)。
#コレクションがそのために閉じられた場所の中で、視線にさらされているということ(「陶器の中に入れて地中に埋められた財宝」や「銀行の金庫室に保存された絵画の集合」などはコレクションではない)。
===関連する病気と問題となる例===
[[精神病理学]]においては、[[認知症]]や[[統合失調症]]の患者に見られるような、身近な物を捨てられず無闇に溜め込んでしまう症状を「蒐集症(collectionism)」と称する。また[[精神科医]]の春日武彦は収集癖に親和性が高い病理として[[強迫性障害|強迫神経症]]を挙げている<ref>春日、187頁-193頁</ref>。
;問題となる例
*[[強迫的ホーディング]]に起因するごみ屋敷化
*動物の収集から[[多頭飼育崩壊]]
== 芸術・学問における収集 ==
[[ファイル:Museum für Naturkunde Berlin February 2008 0023.JPG|thumb|220px|ベルリン博物館の鉱物コレクション]]
芸術や学問においては、先行作品や資料、文献などが後世に伝えられることがその発展の上での条件であり、したがって文物の収集は芸術、学問の諸分野で重要な役割を果たしている。特に著作、[[文献]]の収集としての[[図書館]]はすでに[[紀元前7世紀]]にその例があるが、これはあらゆる学問研究の基盤を成す収集であると言える。学問の諸分野のうちで特に収集と深い関わりがあるのは[[博物学]]であり、動物、植物、鉱物などの自然物の収集と[[分類]]がその基盤である。この分野においては趣味による採集を通じて新種の発見がなされるということも多い。[[考古学]]においては古代の人類の[[遺物]]が、[[古生物学]]においては太古の生物の化石が収集・研究の対象となり、[[民俗学]]においては、[[民芸品]]のような有形のものに限らず[[伝承]]や[[民謡]]のような無形のものも収集される。
[[ファイル:Hieronymus Francken (II) - Die Kunsthandlung des Jan Snellinck in Antwerpen - Detail.jpg|thumb|絵画の売買の様子(17世紀)]]
美術品の収集の歴史は古く、[[ヘレニズム]]時代に既に権力者、政治家、学者らによる美術品の収集、公開が行われ、[[古代ローマ]]の支配拡大に伴って戦利品として[[古代ギリシア]]の美術品を持ち帰るということもしばしば行われた。
[[中世]]ヨーロッパでは[[教会 (キリスト教)|教会]]が美術品収集の中心であり、彫刻や工芸品の他、[[写本]]や珍しい動物の[[標本]]などを宝物庫(シャッツカンマー)に所蔵し、中世末期になると宮廷や富裕な市民の間でも世俗的な美術品の収集が行われている。
[[ルネサンス]]期においては国家的なまとまりがまだ生じていなかった[[イタリア]]を中心に、[[メディチ家]]を始めとする富裕層・支配者層の間で古代美術を規範とした美術品収集が行われ、あるいは[[好古家]]によって骨董品収集が行われ、それにより国内外の珍品を集めて展示するヴンダーカンマー([[驚異の部屋]])が作られるようになった。このような私的なコレクションは[[啓蒙主義]]の時代とそれに続く[[フランス革命]]によって次々に公共化されていき、その幾つかは今日存在する美術館、博物館の基礎となっている。
日本においては[[奈良時代]]の[[正倉院]]に代表されるように献納物からなる権力者のコレクションが存在したが、個人の美意識に基づいて収集が行われたものとしては[[足利義政]]による[[東山御物]]などが早い例である。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]には[[茶の湯]]の流行から各地の[[数寄者]]・[[大名]]によって[[茶道具]]や古書画が収集されており、江戸時代後期になると[[文人]]趣味の流行から[[中国]]の書画骨董が収集の対象となった。[[明治時代]]になると西洋の美意識が輸入されるようになるが、同時に[[アーネスト・フェノロサ|フェノロサ]]らによって[[日本美術]]の独自性が打ち出され美術収集の方向性に大きな影響を与えた。フェノロサ自身[[明治]]10年代に多くの日本美術を収集しており、現在そのコレクションは[[ボストン美術館]]に所蔵されている。明治後期からは[[益田孝]]、[[原富太郎]]、[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]]、[[岩崎弥太郎]]など実業家によって古画・古磁器を中心とした美術品の収集を行われており、現代でもこのような個人コレクションがのちに美術館の基礎となる例は多い。
== 趣味としてのコレクション ==
趣味としてのコレクションの歴史は古く、中国中世の説話集「[[世説新語]]」には、[[下駄]]の収集に凝って自ら手入れをし「一生に何足の下駄が履けることか」と嘆いていた人物が登場する<ref>[[新釈漢文大系]]「世説新語」中巻P447、[[明治書院]]。ただしこの逸話の主人公である[[阮孚]]は[[竹林の七賢]]の一人[[阮咸]]を父に持ち本人も[[東晋]]で[[吏部]][[尚書]]・広州[[刺史]]を務めた高官である。</ref>。近代において市民社会が発達すると、一般市民の間で趣味としてのコレクションが広く行われるようになる。
このような趣味においては美術品、工芸品などの比較的高価なものから、[[本の収集|本]]や[[古地図]]、動植物や[[鉱物標本]]など資料的価値のあるもの、[[硬貨]]、[[切手収集|切手]]など収集の歴史の長いもの、模型や玩具、記念品や土産物のような比較的安価なもの、食料品の[[パッケージ]]や[[包装紙]]のようなそれ自体は価値のないようなものに至るまで、各人の好みに従ってほとんどありとあらゆるものがコレクションの対象となっている。
[[ファイル:Cardbinder.jpg|thumb|200px|ファイルに納められたトレーディングカードのコレクション]]
現代では物の種類による収集ではなく、特定の漫画・アニメーション作品やそのキャラクターの関連商品([[キャラクターグッズ]])を収集する例も多い。また[[トレーディングカード]]や[[食玩]]のように、始めから消費者によって収集の対象とされることを前提とした商品も数多く生産されており、このような分野においては特定のシリーズをすべて収集が目指される。
また近年の[[インターネット]]の発達により情報交換サイトや[[ネットオークション]]での取引きも行われるようになっており、収集家同士の間では未開封の商品や新品同様の商品がしばしば高値で取引されている。
<gallery>
File:03 Museum insect specimen drawer - Muzeum Gornoslaskie, Bytom, Poland.jpg|{{ill2|鱗翅類学|en|Lepidopterology}}のコレクション
ファイル:Chilean stamp album and catalogue, and a magnifying glass.jpg|[[切手アルバム]]とカタログ。
ファイル:Kapsle z polskich piw.jpg|王冠のコレクション
</gallery>
== 収集家 ==
===有名な収集家===
{{main|Category:コレクター}}
* [[ハーヴィー・ナイニンガー]] - 隕石収集家で研究家
* [[ハンス・スローン]] - 17世紀頃のイギリス人医師で収集家。博物学的な物を収集し、後にコレクションはイギリス政府に寄贈され[[大英博物館]]の元となった。
* [[フォレスト・J・アッカーマン]] - アメリカ人のSF/ホラー関連の編集者、版権代理人、作家。仕事関係・映画グッズなどの膨大な数のコレクターで個人ミュージアム「アッカーマンション」所有
* [[ポール・アレン]] - [[マイクロソフト]]共同創業者。個人的な歴史的遺産のコレクションを展示する非営利団体を立ち上げ、[[フライング・ヘリテージ・コレクション]]などの施設博物館を開設した。
* [[ルイジ・タリシオ]] - [[ストラディバリウス]]収集家、イタリア人楽器商。
* [[木村蒹葭堂]] - 江戸時代中期の文人画家・本草学者・収集家。
* 市岡一智と智寛、 信州飯田の収集家<ref>{{Cite journal|author=ミヒェル|year=2005|title=|journal=|volume=|page=}}</ref>。
;動物
:動物は餌を[[備蓄]]する習性([[貯食行動]])が知られているが、それ以外にも物を収集する性癖が見られる。
* [[カラス]]などの一部の鳥が珍しいものを収集する習性がある。その習性から[[泥棒かささぎ]]というオペラが作られもした。
* [[犬]]や[[猫]]にも物を集める習性が見られる。集めるものは、個体によって様々である。
== 脚注、出典 ==
{{reflist|1}}
== 参考文献 ==
* [[クシシトフ・ポミアン]] 『コレクション 趣味と好奇心の歴史人類学』 吉田城、吉田典子訳、[[平凡社]]、1992年
* [[ヴァルター・ベンヤミン]] 『パサージュ論V』 今村仁司、三島憲一ほか訳、[[岩波書店]]、1995年
* [[ジョン・エルスナー]]、[[ロジャー・カーディナル]]編 『蒐集』 高山宏ほか訳、[[研究社]]、1998年
* [[春日武彦]] 『奇妙な情熱にかられて―[[ミニチュア]]・境界線、贋物、蒐集』 [[集英社新書]]、2005年
* ヴォルフガング・ミヒェル「万物の魅力 ー 信州飯田の市岡家コレクションとその位置づけについて」『生物学史研究』第75号、3-10頁、2005年
* 中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』新潮社 2000年
* 大阪歴史博物館編『木村蒹葭堂:なにわ知の巨人 (特別展没後200年記念)』 [[思文閣出版]]、2003年
== 関連項目 ==
{{wiktionary|収集}}
*[[分類学]] - [[カテゴリ]] - [[体系]]
**[[標本 (分類学)]]
*[[大人買い]]、[[限定販売]]、[[レアアイテム]]、[[エフェメラ]]
*[[数寄者]]
*[[マニア]] - [[おたく]]
*[[フェティシズム]]
*{{ill2|保存状態|en|Erhaltungsgrad}}、{{ill2|修復技術者|de|Restaurator}}、[[パティナ]](古色)
*{{仮リンク|サイン収集|en|Autograph collecting}}
* [[本の収集]]
* {{ill2|紙幣収集|en|Notaphily}}
* {{ill2|貨幣収集|en|Coin collecting}}
* {{ill2|サイエンス・コレクション|en|Scientific collection}}
* {{ill2|データ・コレクション|en|Data collection}} ‐ {{ill2|切り抜き (印刷物)|en|Clipping (publications)|label=新聞や雑誌などの印刷物の切り抜き}}など、様々な情報収集について。
{{西洋の芸術運動}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:これくしよん}}
[[Category:コレクション|*]]
[[Category:趣味]]
[[Category:英語の語句]]
[[Category:外来語]] | null | 2023-07-22T09:20:19Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:西洋の芸術運動",
"Template:Normdaten",
"Template:Ill2",
"Template:Main",
"Template:Cite journal",
"Template:Wiktionary",
"Template:Otheruses",
"Template:Enlink",
"Template:仮リンク"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3 |
3,627 | 登山 | 登山(とざん、英: mountain climbing, mountaineering, alpinism)は、山に登ることに楽しみを求め、登ること自体を目的とすること。そのようなスポーツ。
登山は山に登ることではある。だが、登山は登山そのものを目的とし、そこに最大の喜びを見出し、自分の人生に活かしてゆくことである。山菜や動物を採集したり、地質調査のため等々のために山に入ってそこを登ることは登山自体を目的としておらず、異なっている。
狩猟や信仰のための登山は古くから行われているが、これらは今日的な意味での登山からは除外される。山頂から景色を眺めることがしたくて登山をした、という今日的な意味の登山へとつながる登山をした最初の記録はイタリアのペトラルカ(14世紀の詩人)のものである。→#歴史
山に登ることそのものを目的とする登山とその思想(英: alpinism, アルピニズム, 近代登山)が18世紀後半のヨーロッパで始まった。この意味での登山はスポーツの一種とされる。
英: alpinism(アルピニズム) は広義には登山全体を指すが、特に近代登山(近代的なスポーツ登山)とその思想を指す。18世紀後半を始まりとする近代登山は、山に登ること自体に喜びを見出し、登山が精神や肉体に与えるものを重視し、人生のうるおいとすることを目的とする。アルピニズムはまた、登山の知識と技術を総合的に養い、全人格的に山に対していこうとする思想でもある。登るという行為以外に目的がない点で近代登山はスポーツの一種であり、この点において宗教的な登山や戦争、狩猟、測量、研究などのための登山と異なっている。
日本では戦後に登山者が増加した。高年齢の登山者や女性も多くなり、登山は野外スポーツとして定着しているとされるが、遭難の続発は社会問題となっている。高齢になって始めた登山者が、体力や技術を過信したり、気象変化を軽くみがちで、それが原因となって遭難し、山岳救助を要請する事態となっている。
登山を広く捉えると、スリーシーズンの(雪が無い時期の)ハイキング、トレッキング、縦走登山といった比較的平易なものから、雪山登山、山スキー、沢登り、藪漕ぎ、岩登り(ロッククライミング)、アイスクライミング、フリークライミング、他にもトレイルランニングなどと登山の難易度が高く技術や経験が必要なものまで、登山の形態は、方法、技術、難易度、季節、時期などによって多岐にわたる。
近代登山が始まる以前の段階(近代登山から見れば一種の「前史」に当たるもの)から解説する。
山を登るということは先史時代から行われていたようである。イタリアとオーストリアの国境にて約5,300年前の男性のミイラであるアイスマンがエッツ渓谷(海抜3,210m)で発見された。アイスマンがここまで登った理由は不明であるが、山に登ったことは確かである。他にも、狩猟などでも登山は行われていたが、これらは今日の登山とは除外される。また、多くの宗教で山は崇拝や信仰の対象とされ、神そのものであるとされる場合もあったことから、様々な聖典や伝説で登山が記録されている。。
宗教で山に登った記録としては、旧約聖書にあるモーセの十戒に関連するシナイ山、新約聖書の山上の垂訓などがある。
日本では縄文時代の早い段階から黒曜石を求めて登山したことが長野県の星糞峠黒曜石原産地遺跡や栃木県の高原山黒曜石原産地遺跡群などから確認されている(当項目の「概要」および「発掘調査の歴史」を参照)ことから資源目的の登山は石器時代から行われていた。
15世紀の南アメリカのインカ帝国の都市遺跡であるマチュ・ピチュは王家の別邸説が有力であり、常に住むものではなかったこと(インカの首都クスコの方が標高は高く、首都に戻る過程で登山につながる)からも登山は確認できる。
前218年、ハンニバルは第二次ポエニ戦争において、6万人の兵と37頭のゾウとともにピレネーやアルプスの山脈を越えたとされている。
125年にローマ帝国のハドリアヌス帝は朝日を見るためにエトナ火山に登った。
ヨーロッパ近代の精神が、山に登ることそのものに喜びを見出す近代登山に道を開いた。イタリアの詩人ペトラルカがその先駆けとなった。1336年、ペトラルカはフランス南部のアビニョン近郊のモンバントゥーに登った。これが、山頂からの眺望を得るために登山をした最初の記録とされる。その後ペトラルカは、このときの旅程を友人に手紙に書き留めて送っている。このことから、ペトラルカは「登山の父」と呼ばれ、この日を登山の生まれた日としている。これは、文化史家のヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』の中で紹介されている。旅の途中での必然的な山越えではなく、山に登ること自体を目的として試みられた近代最初の出来事である。
ルネサンスの始まりとともに趣味やスポーツとしての登山が行われるようになった。また、測量目的の登山も行われるようになり、フランス王シャルル8世が1492年にエギーユ山(フランス語版)の登頂を命じたのは、この範疇に入る。レオナルド・ダ・ヴィンチはヴァル・セシア郊外の雪山に登り、様々な実験や観察を行った。16世紀にはスイスのチューリッヒを中心に登山を賞賛する動きがあり、コンラッド・ゲスナーとジョシアス・シムラー(英語版)が度々登山を行っていたことが記録されている。2人はロープとピッケルを使ったが、一般には広まらなかった。17世紀のヨーロッパには登山の記録がまったく残されていない。
18世紀後半、アルプス最高峰のモンブラン登頂が達成されたことが、近代的登山(近代登山、スポーツとしての登山)の幕開けとなった。1760年、自然科学者オラス=ベネディクト・ド・ソシュールがシャモニーを訪れ、モンブラン初登頂を成し遂げた者に賞金を出すと宣言し、それに応える形で1786年にミシェル・ガブリエル・パカール(英語版)およびジャック・バルマ(英語版)が登頂に成功した。
19世紀に入って、ヨーロッパ・アルプスの登山は盛んになった。特にイギリス人によってアルプス黄金時代がもたらされ、登山技術の面でも急激な進歩があった。マッターホルン(4,477m)は従来、登ることが不可能と見なされていたが、1865年7月14日にエドワード・ウィンパーが登頂に成功した。1857年には世界で最初の登山団体となるイギリス山岳会が設立された。1854年のヴェッターホルン(英語版)初登頂から1865年のマッターホルン初登頂までをアルプス黄金時代と呼ぶ。
アルプス黄金時代の間に、アルプス山脈の4,000m級の峰が登りつくされ未登峰がなくなると、岩壁や側稜などからの登山といったより困難なルート(バリエーションルート)からの登頂や、冬季登山、案内人を付けない登山などが行われるようになった。その背景には、より困難なルートからの登山を提唱したママリー(1855-1895)の思想があり、これがママリズムとして近代のアルピニズムの主な思想となった。新しい山を求めてカフカス、アンデスなどにも目が向けられ始めた。1865年のウィンパーによるマッターホルン登頂から、1882年のダン・デュ・ジュアン(英語版)初登頂までをアルプス銀の時代と呼ぶ。
世界最高峰のエベレストが有名である。
日本においては、717年に泰澄和尚が開山した白山、701年に越中国(富山県)国司の息子有頼が開山した立山など、宗教にまつわり山を開いたとする開山縁起が残っている。都良香の富士山記に、富士山頂の様子の記述がある。鎌倉時代(1185年頃 - 1333年)・室町時代(1336年 - 1573年)以降も北海道を除く全国各地の山岳寺院に所属する山伏による山岳修行が盛行し、各山地の尾根道をメインルートとした入峰修行登山の記録が残されている。最も記録が多く残されているのは紀伊半島の大峰山脈で、東北では羽黒山・月山、関東では日光、丹沢、中部地方の富士山、九州では英彦山など、調査研究も進んでいる。ただし、この登山文化は明治5年(1872)の修験道廃止令で一旦は途絶えることになった。
日本において、宗教目的以外で記録される著名な登山といえば、安土桃山時代、1584年(天正12年)12月の佐々成政による「さらさら越え」(北アルプス越え)である。しかも、これは比較的容易な無積雪期ではなく、冬季の積雪期に敢行されたという点でも注目されている。ルートは、立山温泉-ザラ(佐良)峠-平の渡し(黒部川)-針ノ木峠-籠川(かごかわ)の経路が有力視されているが、確証はない。立山の一の越-御山谷ルート、別山-内蔵助谷ルートをとったという説もある。
ザラ峠とは安房峠(古安房峠)のことを指す、佐々成政は安房峠を越える鎌倉街道を通って越中富山-遠江浜松を往復したのだ、という説もある。
同様の軍事的な意味合いの登山としては、武田信玄の配下の武将山県昌景が、1559年(永禄2年)に飛騨を攻めるのに上高地から安房峠(古安房峠)を超えて入った事例が知られている。
1640年(寛永17年)に加賀藩によって設置され1870年(明治3年)まで続いた黒部奥山廻り役は、藩林保護のための検分登山を行い、北アルプスの主峰のほとんどを登って回った。 文化13年(1816年)、小尾権三郎(延命行者)の甲斐駒ヶ岳、 文化・文政期(1804年 - 1829年)、1819年の明覚法師と永昌行者による乗鞍岳、1828年の播隆上人による槍ヶ岳など、開山が相次ぐ。また、立山講や御岳講、駒ヶ岳講などの講中登山が盛んになる。寛政期(1789年 - 1800年)に寺社詣でが解禁され、『東海道中膝栗毛』(1802年 - 1822年)が人気を博すなど、民衆の間に旅行人気が広まったことが背景として考えられ、参加する者の多くにとっては、宗教的な意味合いよりも、物見遊山としてのものだったと考えられる。
江戸時代、文人画家池大雅、医者川村錦城、医学者橘南谿、画家谷文晁などが、山そのものを味わうために山に登ったことが知られている。
江戸幕末、北アルプス麓にある入四ヵ村で年に薪五千間、板子八万梃を伐採しに二ノ俣あたりまで入っていたなど、多くは記録に残っていないが、歴史を通じて、杣人や狩猟や採鉱などの山仕事でたくさんの人が山に入っていたと考えられる。
江戸幕末以降、複数の欧米人が富士山に登った。1860年(万延元年)7月、オールコックが大宮・村山口登山道から登り登頂している。1867年(慶応3年)10月にはパークス夫人が、1868年(明治元年)7月にサトウが登っている。
明治時代(1868年 - 1912年)、1874年にガウランド、アトキンソン、サトウの三人の外国人パーティが、ピッケルとナーゲルを用いた登山を日本で初めて六甲山で行った。ガウランドは1881年に槍ヶ岳と前穂高岳に登山して「日本アルプス」を命名した人物で、サトウは富士山に最初期に登った外国人としても知られる。
日本アルプスには、上記3名のほか、ウォルター・ウェストン、バジル・ホール・チェンバレン、フランシス、ミルン など複数の欧米人が登った。15版まで重版されるベストセラーとなった志賀重昂の『日本風景論』が1894年(明治27年)10月に出版されるまでの時期を、明治時代日本アルプス登山史の第一期とする見方がある。
その見方では、それ以降参謀本部陸地測量部による1913年(大正2年)の地図刊行までをその第二期とする。第二期には、冠松次郎、木暮理太郎、小島烏水、近藤茂吉、三枝守博、武田久吉、田部重治、鳥山悌成、中村清太郎 らが北アルプスに登った。陸地測量部は館潔彦、柴崎芳太郎などの測量官を派遣し、一等三角測量を完成し、地図を刊行した。第二期を、小島烏水は日本登山史上の探検時代と呼んでいる。
明治期の日本アルプスの登山では、長野県の内野常次郎、上條嘉門次(梓川渓谷)、小林喜作(中房渓谷)、遠山品右衛門(高瀬川渓谷)、横沢類蔵、富山県の宇治長次郎、佐伯源次郎、佐伯平蔵、山梨県の大村晃平、中村宗義(早川谷)など、地元の猟師が案内をした。
日本の「近代登山」の始まりをどの時点に置くかは、人によって解釈が様々であるが、1874年(明治7年)に六甲山における、ガウランド、アトキンソン、サトウの3人の外国人パーティによるピッケルとナーゲルを用いた登山が、日本の近代登山の最初とされることが多い。1889年(明治22年)には、ウェストンによってテント・ザイル等が持ち込まれ、ウェストンの助言で小島烏水らが1905年(明治38年)に日本で最初の山岳会「山岳会」(後の「日本山岳会」)を設立した。この年を近代登山の始まりとする説もある。また今西錦司の言うように1918年(大正7年)の第一次世界大戦の終戦時をもって近代登山の幕開けとされることもある。
測量や地理学的な目的での登山も行われた。1882年(明治15年)8月の内務省地質測量長ナウマン博士の命令による横山又次郎一行の南アルプス横断、1885年(明治18年)全国地質測量主任ライマンの助手坂本太郎の槍ヶ岳-薬師岳縦走、1889年(明治22年)農商務省地質調査所の大塚専一による針ノ木岳-立山-後立山縦走などである。
明治時代、北アルプスの地元では、学校登山が行われた。1883年(明治16年)に窪田畔夫と白馬岳に登った渡辺敏は、長野高等女学校校長時代、理科・体育教育の目的で、1902年(明治35年)より毎年、戸隠山、白馬岳、富士山などへの登山を実施した。富山師範学校教諭の保田広太郎は、1885年(明治18年)頃より、学生を連れて立山などに登った。河野齢蔵は1893年(明治26年)から動植物採集の目的で北アルプスの山々に登り、大町小学校校長のとき、学校で登山を奨励した。
陸地測量部によって、1907年(明治40年)までに、日本アルプスの主峰のほとんどに、三角点が設置された。
探検時代の後、明治末から大正にかけて、日本アルプスへ登山する人たちが増え始め、大正期に大衆化した1915年(大正4年)の上高地 大正池の出現や、皇族の登山などが、人々を山へ誘った。
一方、日本の登山は当時のイギリスの上流階級の趣味としての登山の受容から始まっており、戦前の登山において大学・高校の山岳部の現役・OBが大きな役割を占めるのも、彼らの多くが上流階級の子弟で経済的にも時間的にも余裕がある人々だったからだという指摘がある。登山の大衆化はこうした既存の担い手との摩擦も生じ、当時は(お金をかけて)案内人を雇って登るのがマナーと考えられていたためにタブー視されてきた単独行を行ってその草分け的存在となった加藤文太郎は、加藤自身の内向的な性格も相俟って批判の対象とされた。
登山の広がりは遭難事故の増加をもたらすことになる。登山家・作家の春日俊吉の調査によると、近代登山における記録に残る最古のものは、1891年9月に青山学院(当時は東京英和学校)の学生が友人ら2名と木曽駒ヶ岳に登山した際に雨に打たれて体力を消耗したことで下山中に死亡した事故とみられている。初期の遭難事件としては、軍隊の訓練による八甲田雪中行軍遭難事件や学校の集団登山による木曽駒ヶ岳大量遭難事故は著名であるが、前述の春日によれば記録が伝わる遭難事故は明治期には199名の犠牲者を出した八甲田山の遭難事件を除くとわずか3件6名の犠牲者に過ぎないが、大正の15年間(実質14年弱)で21件64名の犠牲者が出ているとしている。
1907年(明治40年)に松沢貞逸が白馬岳山頂近くに橋頭堡を築いて営業を開始したのに始まり、1916年(大正5年)に松沢貞逸が白馬尻小屋を、1918年(大正7年)に穂苅三寿雄がアルプス旅館(槍沢小屋)を、1921年(大正10年)に赤沼千尋が燕ノ小屋(燕山荘)を、百瀬慎太郎が1925年(大正14年)に大沢小屋、1930年(昭和5年)に針ノ木小屋の営業を開始するなど、山中で登山者が休憩・宿泊する山小屋の営業が始まった。
1917年(大正6年)の百瀬慎太郎による大町登山案内者組合結成をはじめ、1918年(大正7年)の赤沼千尋の有明登山案内者組合、1919年(大正8年)の松沢貞逸の四ツ谷(白馬)登山案内者組合、1922年(大正11年)の奥原英男による島々口登山案内者組合結成など、山案内人(山岳ガイド)の利用料金および利用者と案内人の間のルールの明示・統一が試みられた
1921年(大正10年)の槇有恒のアイガー東山稜登攀をきっかけとして、大正末期にアルピニズムの時代に入った。「先鋭的な登攀」が実践され、「岩と雪の時代」「バリエーションの時代」と呼ばれた。大学や高校の山岳部が、より困難なルートの制覇を目指して山を登った。
1936年(昭和11年)には日本では初(戦前では唯一)となるヒマラヤ山脈への遠征が、堀田弥一を隊長とする立教大学隊によりナンダ・コート(英語版)(標高6867メートル、当時はイギリス領インド帝国内)を目標に実施され、初登頂に成功した。
1937年(昭和12年)に始まる日中戦争、1938年(昭和13年)に制定される国家総動員法などの時代情勢により、登山ブームは下火になる。
1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終了後、大学・高校の山岳部の活動が再開された。
1950年代、ヒマラヤで、1950年(昭和25年)のアンナプルナ、1953年(昭和28年)のエベレスト、1956年(昭和31年)のマナスルの初登頂など、8000メートル峰(14座ある)の初登頂ラッシュが続き、これを受け再び登山ブームが起きた。このブームの特徴は、大学や高校の山岳部に代わって、社会人山岳会の活動が活発になったことである。この時期、1955年(昭和30年)有名なナイロンザイル事件が起きた。また、谷川岳では、多発する遭難事故を受けて、群馬県が1966年(昭和41年)に群馬県谷川岳遭難防止条例を制定した。1971年(昭和46年)、海外で「先鋭的な登攀」を行ってきた人達が(社)日本アルパイン・ガイド協会を設立し、登山のガイドや山岳ガイドの養成、資格認定などを行い始めた。1960年代 - 1970年代、山岳部や山岳会が「先鋭的な登攀」を続ける一方で、一般の人々がハイキングから縦走登山、岩登りまで、好みと能力にあわせて広く楽しむようになった。
1966年3月26日、富山県が、全国初の登山届出条例を制定、12月1日実施。12月17日、群馬県は、谷川岳遭難防止条例を制定、1967年3月1日実施。
1980年代、山岳部や山岳会が衰退し始め、また、登山者に占める中高年者の割合が増え始めた。若い世代が山登りを3Kというイメージで捉えて敬遠するようになり、育児が一段落した人たちが山登りを趣味とし始め、仕事をリタイアした世代が若い頃に登った山に戻り始めたことが理由であると考えられる。これに健康志向と日本百名山ブームが輪をかけ、2010年現在に至っている。このブームで、ツアー登山が盛んになった。このブームの時代、1990年(平成2年)、各地に設立された山岳ガイド団体が日本山岳ガイド連盟を設立し、ガイド資格の発給を行うようになった。羽根田治は『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 (平凡社、2010年)で、近代登山以降という尺度で見た場合という観点からとして、ここから続くブームを第3次登山ブームと呼んでおり、このブームの始期は1980年代後半から1990年代初頭と認識するのが妥当ではないかとしている。
2003年(平成15年)、日本アルパイン・ガイド協会が日本山岳ガイド連盟を合併して(社)日本山岳ガイド協会が発足、日本全国統一基準のガイド資格が生まれた。
2010年前後には旧来の山岳雑誌とは異なったライト感覚の登山・アウトドア雑誌が多く創刊され、それとともに山ガールという言葉がマスコミに踊ったことにより、従来の汗臭い、泥臭い男性中心で危険な登山というイメージからの脱皮が計られるようになった。また、登山ウェアや用具なども技術革新、新素材の登場によって、よりファッショナブルで軽量な物が開発されるようになった。『ゆるキャン△』などの登山を描いた漫画もヒットした。2020年前後頃からは登山YouTuberと呼ばれる人たちがインターネット上で山行動画を公開し始めたことも、初心者の若者中心に登山需要を喚起している。これを第4次登山ブームと呼ぶべきかについてはまだ諸説ある。
一方これらの多くの若者が山岳部や山岳会などに所属しないフリーな登山活動であったため、経験の蓄積のないままランクの高い山に不用意に入ってしまうという安全上の懸念も生んでいる。また、2019年には動画配信中の富士山滑落事故が発生している。
登山は競技ではないので、技術の優劣をつけることは難しいとされる。また、同一の山やコースであっても、自然条件が異なればその難易度は異なる。従って、広い意味においての登山技術とは、十分な準備と訓練をふまえて行動計画を立案することと、自然と人間の力関係を判断していくことが基本であり、登攀・歩行・生活などの具体的な技術は2次的なものである。
目的の山を選び、期日を決め、パーティ(隊)のリーダーを決める。さらに、予算、各自の任務分担、行動予定、食料・装備などについて協議する会合をもつことにより、全ての参加者が、目的の山についての知識を得て、コースも熟知しているようになれば理想的である。
登山者が2人以上の場合には、必ずリーダーが定められる。パーティ(グループ)が大人数の場合はサブリーダーも置き、リーダーの補助をさせる。
登山にはトレーニングも必要である。筋肉を強くすることよりも、耐久力をつけることと健康の堅持に重点を置くトレーニングを平素から行うべきだとされる。
体力、山の状況、荷物の重さなどに応じて、疲労を少なくするように歩くことが重要だとされる。一定の心拍数で、足の裏全体を使ってリズミカルに歩くことを提唱する説もある。
一般的には、歩き始めて最初の20分で一度休憩し、身体・衣服・荷物を調整する。その後は40-50分ごとに10分程度の休憩をとることが普通である。地図上で位置を確認しながら歩く。パーティでの歩行は、体力的な弱者を標準とする。
多数の人々の支援を受けて、ベースキャンプから順に前進キャンプを設営しつつ物資や人員を進めてゆき、各キャンプの隊員の援助のもとに、少数の隊員が頂上に到達するという登山法。高山や、登頂までのアプローチが長い山で用いられる。登山では1922年にイギリスのエベレスト遠征隊が初めて用いた。スポーツとしての登山では、最早過去のものだが、気象状況が極めて困難な場所でのトライにわずかに使用されたり、高所へのガイド登山で使用される方法である。
登山というのは主に歩くのであり(自分で荷物を背負わなければならないので)多くの用具や食料を携行することはできない。また、登山では危険に直面することもあるので、十分な安全対策を検討したものである必要もある。「安全」「堅牢(けんろう、=丈夫であること)」「軽量」「扱いやすさ」は登山用具の必要条件である。
体温調節のために防寒具や雨合羽などを含む衣類(ウェア)を組み合わせて、体感温度や運動強度に適した服装にすることをレイヤリング、またはレイヤードという。
登山ではできるだけ汗をかかず、なおかつ寒さを感じない程度の快適な服装が求められる。肌寒い季節を例にとると、行動中は体が温まっているために薄手のフリースのみでも寒さを感じないこともあるが、休憩中は体が冷えるために他の防寒着を着込む必要がある。そのまま再び行動をすると汗をかき、反って体が冷えてしまうために防寒着を脱いでから行動をはじめなければならない。このように運動強度や気温、標高、天候の変化に合わせたレイヤリングを行う必要がある。
着替えを持ち運ぶ必要があるため、特に脱ぎ着の機会が多い中間着では軽量かつ嵩張らないものが好まれる。フードがついた上着は目出し帽の代わりとなるため、防寒性能が高いとして好まれる。また、ファスナー付きの服は、ファスナーを開放することで換気(ベンチレーション)を行うことができるため行動中の体温調節に便利である。
ウルトラ・ライト・ハイキングとも。90年代後半にアメリカのレイ・ジャーダイン(Ray Jardine)によって提唱された「極限まで荷物を軽くすれば遠くへ行ける」という考え方である。
U.L.はクッカーを軽量なチタン製に換えるなど、従来から行われてきた簡単な手段の積み重ねでも実践できる。さらにU.L.を追求するものは、テントを軽量なツェルトに代えるなど快適性などを多少犠牲にしても軽量化を図ることがある。近年ではトレイルランニング向けに企画された軽量な装備を流用することもある。他にも売店があるような山では、水分を売店で買う計画を立てて登山口から持ち込む重量を減らすという手段をとるものもいる。 前述のレイヤリングを例に挙げると、ミドルレイヤーの役割である保温とアウターの役割である防風を中厚手のソフトシェル1着でまかなうケースが想定できる。この場合は対応できる温度帯が狭くなるため、急に天候や運動強度が変化した場合に対応することが難しくなる。このように反って体力を消耗することがあり得るので、ある程度の経験を積んでからU.L.を検討することが望ましい。
レクリエーションとしての登山の魅力は、ゆっくりと傾斜を歩くことによる有酸素運動や、新陳代謝の活性化、あるいは景観や自然の風景そのものを楽しむことにある。他にも、森林浴(リラクゼーション効果)を楽しんだり、ともに登山をする人との交流や、冬山を登る際にはスキー滑走を目的としたりする場合もある。その目的は人により千差万別であり、それぞれの目的に合った登山の方法がある。また日本は山の国であって、散歩の延長で登れるような手頃な山から、踏破に3-4日かかるものまで様々な山を歩くことができる。また同じ山でも簡単なルートや難所の多いルートなどがあり、各々の力量や体力に合わせ登山を楽しめる場所が多い。日本においては、以前は登山というとワンダーフォーゲルや山岳部のイメージが強く、厳しくつらく、特殊な世界と見られがちであった。しかし近年、登山靴や登山用具の発達・軽量化によって、中高年世代においても一種の登山ブームと言える現象が起きた。高齢者でも気軽に登山(ハイキング)やトレッキングができるように整備がなされ、体力にあった登山ルートで無理なく景色や運動を楽しむことができるようになってきている。
標高が高くても、中腹の高所まで鉄道やロープウェイ、路線・貸切バスで上れる山もある(立山の室堂駅、駒ヶ岳の千畳敷駅など)。
また高山や地形・気候が厳しい山への挑戦と対照的に、高さ数メートルのものを含めた低山巡りも趣味として広まりつつある。
一方で登山人口における高齢者の割合が高くなるにつれ、遭難・事故件数も増えつつある(#登山における事故参照)。また、速度を競い走る速さで登山をするトレイルランニング練習者と一般登山者の衝突事故、競技用自転車との交通事故も起きている。
国体には山岳競技があり(国民体育大会山岳競技)、縦走競技とクライミング競技の2種目で構成される。縦走競技は、規定の重量を背負い、決められたコースを歩ききる時間を競う。クライミング競技は、人工壁をフリークライミングのスタイルで登り、到達高度を競う。
高校総体も、競技形式の登山を実施している。
他にも岩を登る行為を競技として行うフリークライミング、山道を走ってその順位を争うトレイルランニングやスカイランニング等の競技がある。いずれも、山や岩場で行う競技であるため、安全や体調管理に十分に注意する必要がある。
ヨーロッパで盛んな山スキーも雪山を登ることから登山競技の一種である。
風景画や山岳写真、詩、歌や小説の題材とすることも登山の目的のひとつとして挙げられる。山が多く四季の表情に恵まれた日本では、山岳の美しさ、険しさ、優しさなどを心情表現として、古来からアートの対象になってきた。最近は、デジタルカメラの小型軽量化・高性能化に伴い、山岳地での写真撮影も容易なものとなっている。
古代日本において山岳信仰に発祥する修験道の場として、立山、御嶽山、甲斐駒ヶ岳など全国各地の霊山で登山が行われてきた。江戸時代に始まった富士講も、山岳信仰のひとつとして挙げられる。
江戸時代の会津や米沢では飯豊信仰に基づき、成人儀礼として飯豊山を登山することが求められた(「通過儀礼#日本における通過儀礼」および「飯豊山神社#補足」を参照)。
もともと伝統的に山で自然資源を得るための登山が存在した。たとえば東北地方に存在するマタギと呼ばれる狩猟集団が行っていたことである。今ではかなり人数が減少したが、マタギを行っている人はいる。また地元住民らが山菜やキノコを採って販売するために入山することも仕事としての登山である。山菜・キノコ採りは資源枯渇や自然環境に影響を与えるほどの量を採ることはせず、狩猟をする場合も乱獲は避けるのが望ましいとされる。
山麓から山頂まで荷物を人力で運ぶために登山する職業を歩荷(ボッカ)あるいは強力(ごうりき)といい、現在でもそれを行う人がいる。ヒマラヤ地方のシェルパという部族には、山で荷物運びを行ったり(下で説明するような)登山ガイドの仕事をして収入を得ている者が多数いる。
また、登山ガイドや登山家などもいる(登山ガイドは広義の登山家に含まれる)。
登山ガイドは登山の初心者やその山に不慣れな登山者のガイドを請け負い、山を案内して収入を得る。そのためその山に対する深い知識と、不慣れな登山者を安全に案内するための経験や技能が必要となる。登山がさかんな国(例えばフランスなど)では高山ガイドの資格認定を行っている組織がある。日本では現在は、公益社団法人日本山岳ガイド協会が、ガイドの資格認定を行っている。その資格には、世界中の山を案内できる国際山岳ガイドや、里山を案内する登山ガイドなどさまざまな資格がある。また長野県においては独自のガイド資格として信州登山案内人の資格を策定している。。
また、あまり数は多くないが、著名な登山家の一部は、8000m級の山を単独で登ったり無酸素登攀したりといった難しいアタックをする際、大企業やテレビ局とスポンサー契約を結び、それによって登山に必要な莫大な費用の一部もしくは大半を確保することがある。幸運にもアタックが成功した場合は企業の広告塔としてCMに出演したりすることなどによって、うまくすれば利益を得ることもある、だがアタックに失敗すると命を落としてしまったり、なんとか生還した場合でも、負傷してしまったり、スポンサー契約を失い苦境に陥ることもある。こういった登山家や山岳ガイドの中でも特に名前を知られている者は講演活動をしたり著書を出版して、生活費の足しにしたり、さらなる挑戦のための費用の一部を得る人もいる。
登山は軍事教練に利用される場合もある。1902年には青森県の八甲田山で八甲田雪中行軍遭難事件が発生した。こうした訓練を重ね、高地や急峻な地形での戦闘を得意とする山岳戦部隊を保有する国もある。
警察庁は、1961年(昭和35年)から毎年、日本国内の山岳遭難者数を取りまとめる統計資料によれば、年齢別の遭難者数の割合は、多い順から、
となっている、時代によって登山をする世代が異なることを示していると考えられる。
1990年(平成2年)前後からは中高年登山ブームが起こっていて、2008年(平成20年)に発生した山岳遭難者数1,933人のうち40歳以上の中高年者の数は1,567人、死者・行方不明者は281人中256人と過去最高を記録。2009年(平成21年)に発生した山岳遭難者数は2,085人、死者・行方不明者は317人とどちらも過去最高を更新。遭難者のうち55歳以上が6割を占め、とりわけ死者・行方不明者は9割を40歳以上が占めている2008年(平成20年)の数字では、遭難事故死者数は全体で253人、そのうち中高年者が234人となっていて、これらの数字からは、中高年者はアクシデントが起きたときに死に至る割合が高いということが読み取れる。朝日新聞による2010年(平成22年)の調べでは、2005年 - 2009年の7、8月の富士山への登山中に救護された人のうち、体調急変により心肺停止になった人が14人おり、うち11人が45 - 69歳である。
高度のある山は、見た目でわかる以上に平地と環境が違うので、ふだんの生活では自覚されないで隠れている持病が悪化することが考えられるという。
2009年(平成21年)夏、富士登山で高山病と診断された人が537人いるという。
また、天気の急変や高地で温度も低下するため低体温症が、動き回ることで脱水症・熱中症などが起きやすい。
登山中に上から崩れ落ちてきた石あるいは岩塊が身体に当たって死傷する事故が発生することがある。落石の発生原因は自然発生的なものもあれば、人が誤って脆い地盤を踏んで発生させてしまうものもある。
落石の時は、ラク!と叫ぶのがマナーとされるが、落石の落(ラク)か、英語での警告Rock(岩の意、ロック)!から来たものかは不明。
2014年9月27日に御嶽山が噴火して登山者に多数の死傷者を出した。この御嶽山での噴火を受けて各地で対応策の検討が行われている。山梨県の横内正明知事は御嶽山での噴火を受けて富士山でも水蒸気爆発等の突発的な事態に備え登山者にマスクやヘルメットの持参を呼び掛ける必要があるとの考えを示した。
2014年の御嶽山噴火を受け、2015年7月に活動火山対策特別措置法が改正されて新たに「登山者は、火山の噴火等が起こった際に円滑、迅速に避難できるよう、必要な手段を講じるように努めなければならない。」(第11条第2項)という規定が定められた。また、火山周辺の一部の施設については、避難確保計画の作成等が義務づけられた。
山は急に天候が変化する。遭難時が必ず悪天候とは限らないが、その多くは悪天候の時である。
登山前に天気予報の確認と登山計画を立てる。無理そうなら登山を諦める決断。レインコートなどの雨具やエマージェンシーシートなどの備えを準備する。
雷は、平地より発生しやすく、気温が上昇しやすい午後以降に起きやすいため、早朝や午前中の行動を心掛け、雷を回避する知識を身に着ける。
最も多いのが道に迷う遭難で、低い山ほど迷いやすい。事前対策として携帯電話のマップ機能を使うほか、登山届を提出し発信機を持つなどがある。また、来た道を引き返し正しいルートに戻るか、山頂や尾根を目指し下ってはいけないなどがある。
ヨーロッパ・アルプスおよびロシアでは、山のコースごとに難易度を決める試みがなされており、登山者の経験にも等級が付けられつつある。日本でも、山やルートごとに難易度を示す「グレーディング」(難易度評価)が全国に広がっている。2014年に長野県が公表し、2017年夏時点では7県の600以上のコースについてグレーディングが公表されている。
難所 (登山)(英語版)
「フラット歩行」を身に付けて、 土や岩をけったり植物を踏むような乱暴な歩き方は極力避けること。「歩かせていただきます」という謙譲な気持ちをもってローインパクトでなければならない。
近年、登山人口が増加したことによる自然に対するダメージが目立ってきている。例としては、ゴミやタバコを持ち帰らずポイ捨てする、むやみに木や枝を折る、遊歩道を歩かず、貴重な植物を踏んでしまうなどがある。これらは本来、登山者にとって守るべきマナーであるが、登山を始めたばかりの登山者の中にはそれを知らず結果的に自然や景観に影響を与えてしまうことがままある。以下に具体的な例を挙げる。
西ヨーロッパの最高峰モンブラン登山の出発点となるサンジェルベ・レ・バン(英語版)の市長は、2017年8月に「適切な装備を整えていない登山者」に対して即時罰金を科する条例を発布した。これは、連続する死亡事故を受けての措置である。
2023年5月31日、インドネシアのバリ州知事ワヤン・コスター(英語版)は観光客の相次ぐ迷惑行為を受けて、「山々は聖なる存在として崇拝されている。その神聖さが損なわれれば、それはバリの神聖さをおとしめるに等しい」と述べ、バリ州にある22山の登山客の登山、宗教儀式や災害対処などの理由のない地元住民の登山を無期限禁止とした。
日本では、富士山への休憩なし、装備なしの弾丸登山に対して、多くの自治体などが警戒しており、場合によっては登山制限などの検討を行っている。
登山愛好者の団体を山岳会(さんがくかい)と称する。山岳会には山または歩くことにちなんだ名前が付けられることが多い。 学校または職場単位で結成される山岳会は部活動として特に山岳部や登山部、ワンダーフォーゲル部などと称する。 1857年には世界最初の山岳会である英国山岳会が設立され、1905年には日本最初の山岳会である日本山岳会が設立された。それ以降も日本国内で様々な山岳会が結成され、全日本山岳連盟(現・日本山岳・スポーツクライミング協会)と勤労者山岳会(現・日本勤労者山岳連盟)のような統括団体が生まれた。 山岳会は主に団体での山行や会員同士による登山技術の研修指導を行っている。会によっては、登山道もしくは山小屋の維持修繕、救助活動の支援、非会員への講演・研修、森林の保護、高山へ挑戦する会員の支援などを行っている。また、登山用品メーカーに対しては消費者団体としての側面も持つ。
1965年にイタリア、フランス、オーストリア、スイスの山岳ガイド協会の会議が行われ、国際山岳ガイド連盟(英語版)が設立された。
日本の山岳ガイドは、古くは強力(ごうりき)が行っていた。1934年ごろの富士山表口強力案内組合には100名を超える強力が加盟していた。1990年に日本山岳ガイド連盟が設立され、翌1991年に国際山岳ガイド連盟に加入した。2003年に日本山岳ガイド連盟と日本アルパイン・ガイド協会は合併し日本山岳ガイド協会に改組した。
フランス、スイス、オーストリア、ロシア、インドなどに登山学校があり、指導者養成と研修が行われている。日本では立山に国立登山研修所があるほか、神奈川県、長野県、兵庫県に県立の登山学校がある。
山岳事故を防止・救難するための情報提供を行ったり、警察・消防などの公的機関に協力して救助活動を行う団体である。山岳遭難防止対策協会、山岳遭難防止対策協議会など地域によって名称に若干の差異があるが活動内容はほぼ同一である。1964年以降国立登山研修所とスポーツ庁等が全国山岳遭難対策協議会を毎年開催している。 また、1992年に東京都山岳連盟の提唱により日本山岳レスキュー協議会が設立され、遭難救助に関する情報交換を行っている。
山を対象にした画・写真などの作家団体が存在する。山全般を対象にする団体や、富士山など特定の山や地域を対象にする団体がある。
登山用品は多岐にわたるため、登山用品に限っても多くの総合・専門メーカーが存在する。 また、登山専門を謳わないアウトドア用品メーカーや総合スポーツ用品メーカー、一般の衣類メーカーなどでも登山に使用できる用品を作成・販売している。 総合スポーツ用品店を含む登山用品販売店では、登山学校と称して登山知識や技術の講習会を実施していることがある。
この他に登山に関連するビジネスとしては、登山客の輸送・宿泊を担う交通・旅行会社や旅館・ホテル・山小屋などの観光産業、ヤマレコのようなインターネットでの登山情報の提供、登山地図や雑誌の出版社などがある。
季語としての登山(とざん)は、夏の季語(晩夏の季語)である。分類は行事/人事。季語の世界では「登山」は「山に登ること」全般を指す。
「登山」を親季語とする子季語は、以下のとおり、かなり多い。山登り(やまのぼり。山に登ること。登山)、登山宿(とざんやど。登山者のための宿)、登山小屋(とざんごや。登山者のための小屋)、山小屋(やまごや)、登山口(とざんぐち。山の登りくち)、登山杖(とざんずえ。登山のときに使用する杖)、登山笠(とざんがさ。登山のときに使用する笠)、登山帽(とざんぼう。登山のときに使用する帽子)、登山馬(とざんうま。山登り用の馬)、登山電車(とざんでんしゃ。登山用の鉄道)、登山地図(とざんちず。登山するための地図)、ザイル、寝袋(ねぶくろ)。
関連季語として歳時記に記載されていないものの、関連性のある季語としては、夏の山(なつのやま。三夏の季語。分類は地理)とその子季語(夏山〈なつやま。夏の青葉が繁った山〉、夏嶺〈かれい。夏山と同義〉、青嶺〈あおね、歴史的仮名遣:あをね。夏山と同義〉、夏山路〈なつやまじ。草木の生い繁った夏の山路〉、夏山家〈なつやまが。草木の生い繁る夏の山中の家〉、青き嶺〈あおきみね。夏の山〉、山滴る〈やましたたる〉、滴る山〈したたる山。五月山[さつきやま。陰暦5月ごろの緑の多い山]の異称〉、翠巒〈すいらん。緑色に連なる山々〉)を始め、ケルン(山頂や山道に道標や記念として石を円錐形に積み上げたもの。登山で亡くなった人を哀悼する記念碑もある。晩夏の季語。分類は人事)、積石(つみいし。ケルンと同義で子季語)、冬登山(ふゆとざん。冬山の登山。危険を伴ない、遭難者も多い。冬の季語。分類は地理)を挙げることができる。登山靴(とざんぐつ)を挙げる場合もある。
登山に限らず、いわゆる山岳小説と呼ばれるジャンルである。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "登山(とざん、英: mountain climbing, mountaineering, alpinism)は、山に登ることに楽しみを求め、登ること自体を目的とすること。そのようなスポーツ。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "登山は山に登ることではある。だが、登山は登山そのものを目的とし、そこに最大の喜びを見出し、自分の人生に活かしてゆくことである。山菜や動物を採集したり、地質調査のため等々のために山に入ってそこを登ることは登山自体を目的としておらず、異なっている。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "狩猟や信仰のための登山は古くから行われているが、これらは今日的な意味での登山からは除外される。山頂から景色を眺めることがしたくて登山をした、という今日的な意味の登山へとつながる登山をした最初の記録はイタリアのペトラルカ(14世紀の詩人)のものである。→#歴史",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "山に登ることそのものを目的とする登山とその思想(英: alpinism, アルピニズム, 近代登山)が18世紀後半のヨーロッパで始まった。この意味での登山はスポーツの一種とされる。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "英: alpinism(アルピニズム) は広義には登山全体を指すが、特に近代登山(近代的なスポーツ登山)とその思想を指す。18世紀後半を始まりとする近代登山は、山に登ること自体に喜びを見出し、登山が精神や肉体に与えるものを重視し、人生のうるおいとすることを目的とする。アルピニズムはまた、登山の知識と技術を総合的に養い、全人格的に山に対していこうとする思想でもある。登るという行為以外に目的がない点で近代登山はスポーツの一種であり、この点において宗教的な登山や戦争、狩猟、測量、研究などのための登山と異なっている。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "日本では戦後に登山者が増加した。高年齢の登山者や女性も多くなり、登山は野外スポーツとして定着しているとされるが、遭難の続発は社会問題となっている。高齢になって始めた登山者が、体力や技術を過信したり、気象変化を軽くみがちで、それが原因となって遭難し、山岳救助を要請する事態となっている。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "登山を広く捉えると、スリーシーズンの(雪が無い時期の)ハイキング、トレッキング、縦走登山といった比較的平易なものから、雪山登山、山スキー、沢登り、藪漕ぎ、岩登り(ロッククライミング)、アイスクライミング、フリークライミング、他にもトレイルランニングなどと登山の難易度が高く技術や経験が必要なものまで、登山の形態は、方法、技術、難易度、季節、時期などによって多岐にわたる。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "近代登山が始まる以前の段階(近代登山から見れば一種の「前史」に当たるもの)から解説する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "山を登るということは先史時代から行われていたようである。イタリアとオーストリアの国境にて約5,300年前の男性のミイラであるアイスマンがエッツ渓谷(海抜3,210m)で発見された。アイスマンがここまで登った理由は不明であるが、山に登ったことは確かである。他にも、狩猟などでも登山は行われていたが、これらは今日の登山とは除外される。また、多くの宗教で山は崇拝や信仰の対象とされ、神そのものであるとされる場合もあったことから、様々な聖典や伝説で登山が記録されている。。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "宗教で山に登った記録としては、旧約聖書にあるモーセの十戒に関連するシナイ山、新約聖書の山上の垂訓などがある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "日本では縄文時代の早い段階から黒曜石を求めて登山したことが長野県の星糞峠黒曜石原産地遺跡や栃木県の高原山黒曜石原産地遺跡群などから確認されている(当項目の「概要」および「発掘調査の歴史」を参照)ことから資源目的の登山は石器時代から行われていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "15世紀の南アメリカのインカ帝国の都市遺跡であるマチュ・ピチュは王家の別邸説が有力であり、常に住むものではなかったこと(インカの首都クスコの方が標高は高く、首都に戻る過程で登山につながる)からも登山は確認できる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "前218年、ハンニバルは第二次ポエニ戦争において、6万人の兵と37頭のゾウとともにピレネーやアルプスの山脈を越えたとされている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "125年にローマ帝国のハドリアヌス帝は朝日を見るためにエトナ火山に登った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパ近代の精神が、山に登ることそのものに喜びを見出す近代登山に道を開いた。イタリアの詩人ペトラルカがその先駆けとなった。1336年、ペトラルカはフランス南部のアビニョン近郊のモンバントゥーに登った。これが、山頂からの眺望を得るために登山をした最初の記録とされる。その後ペトラルカは、このときの旅程を友人に手紙に書き留めて送っている。このことから、ペトラルカは「登山の父」と呼ばれ、この日を登山の生まれた日としている。これは、文化史家のヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』の中で紹介されている。旅の途中での必然的な山越えではなく、山に登ること自体を目的として試みられた近代最初の出来事である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ルネサンスの始まりとともに趣味やスポーツとしての登山が行われるようになった。また、測量目的の登山も行われるようになり、フランス王シャルル8世が1492年にエギーユ山(フランス語版)の登頂を命じたのは、この範疇に入る。レオナルド・ダ・ヴィンチはヴァル・セシア郊外の雪山に登り、様々な実験や観察を行った。16世紀にはスイスのチューリッヒを中心に登山を賞賛する動きがあり、コンラッド・ゲスナーとジョシアス・シムラー(英語版)が度々登山を行っていたことが記録されている。2人はロープとピッケルを使ったが、一般には広まらなかった。17世紀のヨーロッパには登山の記録がまったく残されていない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "18世紀後半、アルプス最高峰のモンブラン登頂が達成されたことが、近代的登山(近代登山、スポーツとしての登山)の幕開けとなった。1760年、自然科学者オラス=ベネディクト・ド・ソシュールがシャモニーを訪れ、モンブラン初登頂を成し遂げた者に賞金を出すと宣言し、それに応える形で1786年にミシェル・ガブリエル・パカール(英語版)およびジャック・バルマ(英語版)が登頂に成功した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "19世紀に入って、ヨーロッパ・アルプスの登山は盛んになった。特にイギリス人によってアルプス黄金時代がもたらされ、登山技術の面でも急激な進歩があった。マッターホルン(4,477m)は従来、登ることが不可能と見なされていたが、1865年7月14日にエドワード・ウィンパーが登頂に成功した。1857年には世界で最初の登山団体となるイギリス山岳会が設立された。1854年のヴェッターホルン(英語版)初登頂から1865年のマッターホルン初登頂までをアルプス黄金時代と呼ぶ。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "アルプス黄金時代の間に、アルプス山脈の4,000m級の峰が登りつくされ未登峰がなくなると、岩壁や側稜などからの登山といったより困難なルート(バリエーションルート)からの登頂や、冬季登山、案内人を付けない登山などが行われるようになった。その背景には、より困難なルートからの登山を提唱したママリー(1855-1895)の思想があり、これがママリズムとして近代のアルピニズムの主な思想となった。新しい山を求めてカフカス、アンデスなどにも目が向けられ始めた。1865年のウィンパーによるマッターホルン登頂から、1882年のダン・デュ・ジュアン(英語版)初登頂までをアルプス銀の時代と呼ぶ。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "世界最高峰のエベレストが有名である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "日本においては、717年に泰澄和尚が開山した白山、701年に越中国(富山県)国司の息子有頼が開山した立山など、宗教にまつわり山を開いたとする開山縁起が残っている。都良香の富士山記に、富士山頂の様子の記述がある。鎌倉時代(1185年頃 - 1333年)・室町時代(1336年 - 1573年)以降も北海道を除く全国各地の山岳寺院に所属する山伏による山岳修行が盛行し、各山地の尾根道をメインルートとした入峰修行登山の記録が残されている。最も記録が多く残されているのは紀伊半島の大峰山脈で、東北では羽黒山・月山、関東では日光、丹沢、中部地方の富士山、九州では英彦山など、調査研究も進んでいる。ただし、この登山文化は明治5年(1872)の修験道廃止令で一旦は途絶えることになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "日本において、宗教目的以外で記録される著名な登山といえば、安土桃山時代、1584年(天正12年)12月の佐々成政による「さらさら越え」(北アルプス越え)である。しかも、これは比較的容易な無積雪期ではなく、冬季の積雪期に敢行されたという点でも注目されている。ルートは、立山温泉-ザラ(佐良)峠-平の渡し(黒部川)-針ノ木峠-籠川(かごかわ)の経路が有力視されているが、確証はない。立山の一の越-御山谷ルート、別山-内蔵助谷ルートをとったという説もある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ザラ峠とは安房峠(古安房峠)のことを指す、佐々成政は安房峠を越える鎌倉街道を通って越中富山-遠江浜松を往復したのだ、という説もある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "同様の軍事的な意味合いの登山としては、武田信玄の配下の武将山県昌景が、1559年(永禄2年)に飛騨を攻めるのに上高地から安房峠(古安房峠)を超えて入った事例が知られている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1640年(寛永17年)に加賀藩によって設置され1870年(明治3年)まで続いた黒部奥山廻り役は、藩林保護のための検分登山を行い、北アルプスの主峰のほとんどを登って回った。 文化13年(1816年)、小尾権三郎(延命行者)の甲斐駒ヶ岳、 文化・文政期(1804年 - 1829年)、1819年の明覚法師と永昌行者による乗鞍岳、1828年の播隆上人による槍ヶ岳など、開山が相次ぐ。また、立山講や御岳講、駒ヶ岳講などの講中登山が盛んになる。寛政期(1789年 - 1800年)に寺社詣でが解禁され、『東海道中膝栗毛』(1802年 - 1822年)が人気を博すなど、民衆の間に旅行人気が広まったことが背景として考えられ、参加する者の多くにとっては、宗教的な意味合いよりも、物見遊山としてのものだったと考えられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "江戸時代、文人画家池大雅、医者川村錦城、医学者橘南谿、画家谷文晁などが、山そのものを味わうために山に登ったことが知られている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "江戸幕末、北アルプス麓にある入四ヵ村で年に薪五千間、板子八万梃を伐採しに二ノ俣あたりまで入っていたなど、多くは記録に残っていないが、歴史を通じて、杣人や狩猟や採鉱などの山仕事でたくさんの人が山に入っていたと考えられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "江戸幕末以降、複数の欧米人が富士山に登った。1860年(万延元年)7月、オールコックが大宮・村山口登山道から登り登頂している。1867年(慶応3年)10月にはパークス夫人が、1868年(明治元年)7月にサトウが登っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "明治時代(1868年 - 1912年)、1874年にガウランド、アトキンソン、サトウの三人の外国人パーティが、ピッケルとナーゲルを用いた登山を日本で初めて六甲山で行った。ガウランドは1881年に槍ヶ岳と前穂高岳に登山して「日本アルプス」を命名した人物で、サトウは富士山に最初期に登った外国人としても知られる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "日本アルプスには、上記3名のほか、ウォルター・ウェストン、バジル・ホール・チェンバレン、フランシス、ミルン など複数の欧米人が登った。15版まで重版されるベストセラーとなった志賀重昂の『日本風景論』が1894年(明治27年)10月に出版されるまでの時期を、明治時代日本アルプス登山史の第一期とする見方がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "その見方では、それ以降参謀本部陸地測量部による1913年(大正2年)の地図刊行までをその第二期とする。第二期には、冠松次郎、木暮理太郎、小島烏水、近藤茂吉、三枝守博、武田久吉、田部重治、鳥山悌成、中村清太郎 らが北アルプスに登った。陸地測量部は館潔彦、柴崎芳太郎などの測量官を派遣し、一等三角測量を完成し、地図を刊行した。第二期を、小島烏水は日本登山史上の探検時代と呼んでいる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "明治期の日本アルプスの登山では、長野県の内野常次郎、上條嘉門次(梓川渓谷)、小林喜作(中房渓谷)、遠山品右衛門(高瀬川渓谷)、横沢類蔵、富山県の宇治長次郎、佐伯源次郎、佐伯平蔵、山梨県の大村晃平、中村宗義(早川谷)など、地元の猟師が案内をした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "日本の「近代登山」の始まりをどの時点に置くかは、人によって解釈が様々であるが、1874年(明治7年)に六甲山における、ガウランド、アトキンソン、サトウの3人の外国人パーティによるピッケルとナーゲルを用いた登山が、日本の近代登山の最初とされることが多い。1889年(明治22年)には、ウェストンによってテント・ザイル等が持ち込まれ、ウェストンの助言で小島烏水らが1905年(明治38年)に日本で最初の山岳会「山岳会」(後の「日本山岳会」)を設立した。この年を近代登山の始まりとする説もある。また今西錦司の言うように1918年(大正7年)の第一次世界大戦の終戦時をもって近代登山の幕開けとされることもある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "測量や地理学的な目的での登山も行われた。1882年(明治15年)8月の内務省地質測量長ナウマン博士の命令による横山又次郎一行の南アルプス横断、1885年(明治18年)全国地質測量主任ライマンの助手坂本太郎の槍ヶ岳-薬師岳縦走、1889年(明治22年)農商務省地質調査所の大塚専一による針ノ木岳-立山-後立山縦走などである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "明治時代、北アルプスの地元では、学校登山が行われた。1883年(明治16年)に窪田畔夫と白馬岳に登った渡辺敏は、長野高等女学校校長時代、理科・体育教育の目的で、1902年(明治35年)より毎年、戸隠山、白馬岳、富士山などへの登山を実施した。富山師範学校教諭の保田広太郎は、1885年(明治18年)頃より、学生を連れて立山などに登った。河野齢蔵は1893年(明治26年)から動植物採集の目的で北アルプスの山々に登り、大町小学校校長のとき、学校で登山を奨励した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "陸地測量部によって、1907年(明治40年)までに、日本アルプスの主峰のほとんどに、三角点が設置された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "探検時代の後、明治末から大正にかけて、日本アルプスへ登山する人たちが増え始め、大正期に大衆化した1915年(大正4年)の上高地 大正池の出現や、皇族の登山などが、人々を山へ誘った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "一方、日本の登山は当時のイギリスの上流階級の趣味としての登山の受容から始まっており、戦前の登山において大学・高校の山岳部の現役・OBが大きな役割を占めるのも、彼らの多くが上流階級の子弟で経済的にも時間的にも余裕がある人々だったからだという指摘がある。登山の大衆化はこうした既存の担い手との摩擦も生じ、当時は(お金をかけて)案内人を雇って登るのがマナーと考えられていたためにタブー視されてきた単独行を行ってその草分け的存在となった加藤文太郎は、加藤自身の内向的な性格も相俟って批判の対象とされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "登山の広がりは遭難事故の増加をもたらすことになる。登山家・作家の春日俊吉の調査によると、近代登山における記録に残る最古のものは、1891年9月に青山学院(当時は東京英和学校)の学生が友人ら2名と木曽駒ヶ岳に登山した際に雨に打たれて体力を消耗したことで下山中に死亡した事故とみられている。初期の遭難事件としては、軍隊の訓練による八甲田雪中行軍遭難事件や学校の集団登山による木曽駒ヶ岳大量遭難事故は著名であるが、前述の春日によれば記録が伝わる遭難事故は明治期には199名の犠牲者を出した八甲田山の遭難事件を除くとわずか3件6名の犠牲者に過ぎないが、大正の15年間(実質14年弱)で21件64名の犠牲者が出ているとしている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1907年(明治40年)に松沢貞逸が白馬岳山頂近くに橋頭堡を築いて営業を開始したのに始まり、1916年(大正5年)に松沢貞逸が白馬尻小屋を、1918年(大正7年)に穂苅三寿雄がアルプス旅館(槍沢小屋)を、1921年(大正10年)に赤沼千尋が燕ノ小屋(燕山荘)を、百瀬慎太郎が1925年(大正14年)に大沢小屋、1930年(昭和5年)に針ノ木小屋の営業を開始するなど、山中で登山者が休憩・宿泊する山小屋の営業が始まった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1917年(大正6年)の百瀬慎太郎による大町登山案内者組合結成をはじめ、1918年(大正7年)の赤沼千尋の有明登山案内者組合、1919年(大正8年)の松沢貞逸の四ツ谷(白馬)登山案内者組合、1922年(大正11年)の奥原英男による島々口登山案内者組合結成など、山案内人(山岳ガイド)の利用料金および利用者と案内人の間のルールの明示・統一が試みられた",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1921年(大正10年)の槇有恒のアイガー東山稜登攀をきっかけとして、大正末期にアルピニズムの時代に入った。「先鋭的な登攀」が実践され、「岩と雪の時代」「バリエーションの時代」と呼ばれた。大学や高校の山岳部が、より困難なルートの制覇を目指して山を登った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1936年(昭和11年)には日本では初(戦前では唯一)となるヒマラヤ山脈への遠征が、堀田弥一を隊長とする立教大学隊によりナンダ・コート(英語版)(標高6867メートル、当時はイギリス領インド帝国内)を目標に実施され、初登頂に成功した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1937年(昭和12年)に始まる日中戦争、1938年(昭和13年)に制定される国家総動員法などの時代情勢により、登山ブームは下火になる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終了後、大学・高校の山岳部の活動が再開された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1950年代、ヒマラヤで、1950年(昭和25年)のアンナプルナ、1953年(昭和28年)のエベレスト、1956年(昭和31年)のマナスルの初登頂など、8000メートル峰(14座ある)の初登頂ラッシュが続き、これを受け再び登山ブームが起きた。このブームの特徴は、大学や高校の山岳部に代わって、社会人山岳会の活動が活発になったことである。この時期、1955年(昭和30年)有名なナイロンザイル事件が起きた。また、谷川岳では、多発する遭難事故を受けて、群馬県が1966年(昭和41年)に群馬県谷川岳遭難防止条例を制定した。1971年(昭和46年)、海外で「先鋭的な登攀」を行ってきた人達が(社)日本アルパイン・ガイド協会を設立し、登山のガイドや山岳ガイドの養成、資格認定などを行い始めた。1960年代 - 1970年代、山岳部や山岳会が「先鋭的な登攀」を続ける一方で、一般の人々がハイキングから縦走登山、岩登りまで、好みと能力にあわせて広く楽しむようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1966年3月26日、富山県が、全国初の登山届出条例を制定、12月1日実施。12月17日、群馬県は、谷川岳遭難防止条例を制定、1967年3月1日実施。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1980年代、山岳部や山岳会が衰退し始め、また、登山者に占める中高年者の割合が増え始めた。若い世代が山登りを3Kというイメージで捉えて敬遠するようになり、育児が一段落した人たちが山登りを趣味とし始め、仕事をリタイアした世代が若い頃に登った山に戻り始めたことが理由であると考えられる。これに健康志向と日本百名山ブームが輪をかけ、2010年現在に至っている。このブームで、ツアー登山が盛んになった。このブームの時代、1990年(平成2年)、各地に設立された山岳ガイド団体が日本山岳ガイド連盟を設立し、ガイド資格の発給を行うようになった。羽根田治は『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 (平凡社、2010年)で、近代登山以降という尺度で見た場合という観点からとして、ここから続くブームを第3次登山ブームと呼んでおり、このブームの始期は1980年代後半から1990年代初頭と認識するのが妥当ではないかとしている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2003年(平成15年)、日本アルパイン・ガイド協会が日本山岳ガイド連盟を合併して(社)日本山岳ガイド協会が発足、日本全国統一基準のガイド資格が生まれた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2010年前後には旧来の山岳雑誌とは異なったライト感覚の登山・アウトドア雑誌が多く創刊され、それとともに山ガールという言葉がマスコミに踊ったことにより、従来の汗臭い、泥臭い男性中心で危険な登山というイメージからの脱皮が計られるようになった。また、登山ウェアや用具なども技術革新、新素材の登場によって、よりファッショナブルで軽量な物が開発されるようになった。『ゆるキャン△』などの登山を描いた漫画もヒットした。2020年前後頃からは登山YouTuberと呼ばれる人たちがインターネット上で山行動画を公開し始めたことも、初心者の若者中心に登山需要を喚起している。これを第4次登山ブームと呼ぶべきかについてはまだ諸説ある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "一方これらの多くの若者が山岳部や山岳会などに所属しないフリーな登山活動であったため、経験の蓄積のないままランクの高い山に不用意に入ってしまうという安全上の懸念も生んでいる。また、2019年には動画配信中の富士山滑落事故が発生している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "登山は競技ではないので、技術の優劣をつけることは難しいとされる。また、同一の山やコースであっても、自然条件が異なればその難易度は異なる。従って、広い意味においての登山技術とは、十分な準備と訓練をふまえて行動計画を立案することと、自然と人間の力関係を判断していくことが基本であり、登攀・歩行・生活などの具体的な技術は2次的なものである。",
"title": "登山の技術"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "目的の山を選び、期日を決め、パーティ(隊)のリーダーを決める。さらに、予算、各自の任務分担、行動予定、食料・装備などについて協議する会合をもつことにより、全ての参加者が、目的の山についての知識を得て、コースも熟知しているようになれば理想的である。",
"title": "登山の技術"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "登山者が2人以上の場合には、必ずリーダーが定められる。パーティ(グループ)が大人数の場合はサブリーダーも置き、リーダーの補助をさせる。",
"title": "登山の技術"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "登山にはトレーニングも必要である。筋肉を強くすることよりも、耐久力をつけることと健康の堅持に重点を置くトレーニングを平素から行うべきだとされる。",
"title": "登山の技術"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "体力、山の状況、荷物の重さなどに応じて、疲労を少なくするように歩くことが重要だとされる。一定の心拍数で、足の裏全体を使ってリズミカルに歩くことを提唱する説もある。",
"title": "登山の技術"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "一般的には、歩き始めて最初の20分で一度休憩し、身体・衣服・荷物を調整する。その後は40-50分ごとに10分程度の休憩をとることが普通である。地図上で位置を確認しながら歩く。パーティでの歩行は、体力的な弱者を標準とする。",
"title": "登山の技術"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "多数の人々の支援を受けて、ベースキャンプから順に前進キャンプを設営しつつ物資や人員を進めてゆき、各キャンプの隊員の援助のもとに、少数の隊員が頂上に到達するという登山法。高山や、登頂までのアプローチが長い山で用いられる。登山では1922年にイギリスのエベレスト遠征隊が初めて用いた。スポーツとしての登山では、最早過去のものだが、気象状況が極めて困難な場所でのトライにわずかに使用されたり、高所へのガイド登山で使用される方法である。",
"title": "登山の技術"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "登山というのは主に歩くのであり(自分で荷物を背負わなければならないので)多くの用具や食料を携行することはできない。また、登山では危険に直面することもあるので、十分な安全対策を検討したものである必要もある。「安全」「堅牢(けんろう、=丈夫であること)」「軽量」「扱いやすさ」は登山用具の必要条件である。",
"title": "登山の装備"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "体温調節のために防寒具や雨合羽などを含む衣類(ウェア)を組み合わせて、体感温度や運動強度に適した服装にすることをレイヤリング、またはレイヤードという。",
"title": "登山の装備"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "登山ではできるだけ汗をかかず、なおかつ寒さを感じない程度の快適な服装が求められる。肌寒い季節を例にとると、行動中は体が温まっているために薄手のフリースのみでも寒さを感じないこともあるが、休憩中は体が冷えるために他の防寒着を着込む必要がある。そのまま再び行動をすると汗をかき、反って体が冷えてしまうために防寒着を脱いでから行動をはじめなければならない。このように運動強度や気温、標高、天候の変化に合わせたレイヤリングを行う必要がある。",
"title": "登山の装備"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "着替えを持ち運ぶ必要があるため、特に脱ぎ着の機会が多い中間着では軽量かつ嵩張らないものが好まれる。フードがついた上着は目出し帽の代わりとなるため、防寒性能が高いとして好まれる。また、ファスナー付きの服は、ファスナーを開放することで換気(ベンチレーション)を行うことができるため行動中の体温調節に便利である。",
"title": "登山の装備"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ウルトラ・ライト・ハイキングとも。90年代後半にアメリカのレイ・ジャーダイン(Ray Jardine)によって提唱された「極限まで荷物を軽くすれば遠くへ行ける」という考え方である。",
"title": "登山の装備"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "U.L.はクッカーを軽量なチタン製に換えるなど、従来から行われてきた簡単な手段の積み重ねでも実践できる。さらにU.L.を追求するものは、テントを軽量なツェルトに代えるなど快適性などを多少犠牲にしても軽量化を図ることがある。近年ではトレイルランニング向けに企画された軽量な装備を流用することもある。他にも売店があるような山では、水分を売店で買う計画を立てて登山口から持ち込む重量を減らすという手段をとるものもいる。 前述のレイヤリングを例に挙げると、ミドルレイヤーの役割である保温とアウターの役割である防風を中厚手のソフトシェル1着でまかなうケースが想定できる。この場合は対応できる温度帯が狭くなるため、急に天候や運動強度が変化した場合に対応することが難しくなる。このように反って体力を消耗することがあり得るので、ある程度の経験を積んでからU.L.を検討することが望ましい。",
"title": "登山の装備"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "レクリエーションとしての登山の魅力は、ゆっくりと傾斜を歩くことによる有酸素運動や、新陳代謝の活性化、あるいは景観や自然の風景そのものを楽しむことにある。他にも、森林浴(リラクゼーション効果)を楽しんだり、ともに登山をする人との交流や、冬山を登る際にはスキー滑走を目的としたりする場合もある。その目的は人により千差万別であり、それぞれの目的に合った登山の方法がある。また日本は山の国であって、散歩の延長で登れるような手頃な山から、踏破に3-4日かかるものまで様々な山を歩くことができる。また同じ山でも簡単なルートや難所の多いルートなどがあり、各々の力量や体力に合わせ登山を楽しめる場所が多い。日本においては、以前は登山というとワンダーフォーゲルや山岳部のイメージが強く、厳しくつらく、特殊な世界と見られがちであった。しかし近年、登山靴や登山用具の発達・軽量化によって、中高年世代においても一種の登山ブームと言える現象が起きた。高齢者でも気軽に登山(ハイキング)やトレッキングができるように整備がなされ、体力にあった登山ルートで無理なく景色や運動を楽しむことができるようになってきている。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "標高が高くても、中腹の高所まで鉄道やロープウェイ、路線・貸切バスで上れる山もある(立山の室堂駅、駒ヶ岳の千畳敷駅など)。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "また高山や地形・気候が厳しい山への挑戦と対照的に、高さ数メートルのものを含めた低山巡りも趣味として広まりつつある。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "一方で登山人口における高齢者の割合が高くなるにつれ、遭難・事故件数も増えつつある(#登山における事故参照)。また、速度を競い走る速さで登山をするトレイルランニング練習者と一般登山者の衝突事故、競技用自転車との交通事故も起きている。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "国体には山岳競技があり(国民体育大会山岳競技)、縦走競技とクライミング競技の2種目で構成される。縦走競技は、規定の重量を背負い、決められたコースを歩ききる時間を競う。クライミング競技は、人工壁をフリークライミングのスタイルで登り、到達高度を競う。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "高校総体も、競技形式の登山を実施している。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "他にも岩を登る行為を競技として行うフリークライミング、山道を走ってその順位を争うトレイルランニングやスカイランニング等の競技がある。いずれも、山や岩場で行う競技であるため、安全や体調管理に十分に注意する必要がある。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパで盛んな山スキーも雪山を登ることから登山競技の一種である。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "風景画や山岳写真、詩、歌や小説の題材とすることも登山の目的のひとつとして挙げられる。山が多く四季の表情に恵まれた日本では、山岳の美しさ、険しさ、優しさなどを心情表現として、古来からアートの対象になってきた。最近は、デジタルカメラの小型軽量化・高性能化に伴い、山岳地での写真撮影も容易なものとなっている。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "古代日本において山岳信仰に発祥する修験道の場として、立山、御嶽山、甲斐駒ヶ岳など全国各地の霊山で登山が行われてきた。江戸時代に始まった富士講も、山岳信仰のひとつとして挙げられる。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "江戸時代の会津や米沢では飯豊信仰に基づき、成人儀礼として飯豊山を登山することが求められた(「通過儀礼#日本における通過儀礼」および「飯豊山神社#補足」を参照)。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "もともと伝統的に山で自然資源を得るための登山が存在した。たとえば東北地方に存在するマタギと呼ばれる狩猟集団が行っていたことである。今ではかなり人数が減少したが、マタギを行っている人はいる。また地元住民らが山菜やキノコを採って販売するために入山することも仕事としての登山である。山菜・キノコ採りは資源枯渇や自然環境に影響を与えるほどの量を採ることはせず、狩猟をする場合も乱獲は避けるのが望ましいとされる。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "山麓から山頂まで荷物を人力で運ぶために登山する職業を歩荷(ボッカ)あるいは強力(ごうりき)といい、現在でもそれを行う人がいる。ヒマラヤ地方のシェルパという部族には、山で荷物運びを行ったり(下で説明するような)登山ガイドの仕事をして収入を得ている者が多数いる。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "また、登山ガイドや登山家などもいる(登山ガイドは広義の登山家に含まれる)。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "登山ガイドは登山の初心者やその山に不慣れな登山者のガイドを請け負い、山を案内して収入を得る。そのためその山に対する深い知識と、不慣れな登山者を安全に案内するための経験や技能が必要となる。登山がさかんな国(例えばフランスなど)では高山ガイドの資格認定を行っている組織がある。日本では現在は、公益社団法人日本山岳ガイド協会が、ガイドの資格認定を行っている。その資格には、世界中の山を案内できる国際山岳ガイドや、里山を案内する登山ガイドなどさまざまな資格がある。また長野県においては独自のガイド資格として信州登山案内人の資格を策定している。。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "また、あまり数は多くないが、著名な登山家の一部は、8000m級の山を単独で登ったり無酸素登攀したりといった難しいアタックをする際、大企業やテレビ局とスポンサー契約を結び、それによって登山に必要な莫大な費用の一部もしくは大半を確保することがある。幸運にもアタックが成功した場合は企業の広告塔としてCMに出演したりすることなどによって、うまくすれば利益を得ることもある、だがアタックに失敗すると命を落としてしまったり、なんとか生還した場合でも、負傷してしまったり、スポンサー契約を失い苦境に陥ることもある。こういった登山家や山岳ガイドの中でも特に名前を知られている者は講演活動をしたり著書を出版して、生活費の足しにしたり、さらなる挑戦のための費用の一部を得る人もいる。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "登山は軍事教練に利用される場合もある。1902年には青森県の八甲田山で八甲田雪中行軍遭難事件が発生した。こうした訓練を重ね、高地や急峻な地形での戦闘を得意とする山岳戦部隊を保有する国もある。",
"title": "登山の目的"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "警察庁は、1961年(昭和35年)から毎年、日本国内の山岳遭難者数を取りまとめる統計資料によれば、年齢別の遭難者数の割合は、多い順から、",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "となっている、時代によって登山をする世代が異なることを示していると考えられる。",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "1990年(平成2年)前後からは中高年登山ブームが起こっていて、2008年(平成20年)に発生した山岳遭難者数1,933人のうち40歳以上の中高年者の数は1,567人、死者・行方不明者は281人中256人と過去最高を記録。2009年(平成21年)に発生した山岳遭難者数は2,085人、死者・行方不明者は317人とどちらも過去最高を更新。遭難者のうち55歳以上が6割を占め、とりわけ死者・行方不明者は9割を40歳以上が占めている2008年(平成20年)の数字では、遭難事故死者数は全体で253人、そのうち中高年者が234人となっていて、これらの数字からは、中高年者はアクシデントが起きたときに死に至る割合が高いということが読み取れる。朝日新聞による2010年(平成22年)の調べでは、2005年 - 2009年の7、8月の富士山への登山中に救護された人のうち、体調急変により心肺停止になった人が14人おり、うち11人が45 - 69歳である。",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "高度のある山は、見た目でわかる以上に平地と環境が違うので、ふだんの生活では自覚されないで隠れている持病が悪化することが考えられるという。",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "2009年(平成21年)夏、富士登山で高山病と診断された人が537人いるという。",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "また、天気の急変や高地で温度も低下するため低体温症が、動き回ることで脱水症・熱中症などが起きやすい。",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "登山中に上から崩れ落ちてきた石あるいは岩塊が身体に当たって死傷する事故が発生することがある。落石の発生原因は自然発生的なものもあれば、人が誤って脆い地盤を踏んで発生させてしまうものもある。",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "落石の時は、ラク!と叫ぶのがマナーとされるが、落石の落(ラク)か、英語での警告Rock(岩の意、ロック)!から来たものかは不明。",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "2014年9月27日に御嶽山が噴火して登山者に多数の死傷者を出した。この御嶽山での噴火を受けて各地で対応策の検討が行われている。山梨県の横内正明知事は御嶽山での噴火を受けて富士山でも水蒸気爆発等の突発的な事態に備え登山者にマスクやヘルメットの持参を呼び掛ける必要があるとの考えを示した。",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "2014年の御嶽山噴火を受け、2015年7月に活動火山対策特別措置法が改正されて新たに「登山者は、火山の噴火等が起こった際に円滑、迅速に避難できるよう、必要な手段を講じるように努めなければならない。」(第11条第2項)という規定が定められた。また、火山周辺の一部の施設については、避難確保計画の作成等が義務づけられた。",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "山は急に天候が変化する。遭難時が必ず悪天候とは限らないが、その多くは悪天候の時である。",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "登山前に天気予報の確認と登山計画を立てる。無理そうなら登山を諦める決断。レインコートなどの雨具やエマージェンシーシートなどの備えを準備する。",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "雷は、平地より発生しやすく、気温が上昇しやすい午後以降に起きやすいため、早朝や午前中の行動を心掛け、雷を回避する知識を身に着ける。",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "最も多いのが道に迷う遭難で、低い山ほど迷いやすい。事前対策として携帯電話のマップ機能を使うほか、登山届を提出し発信機を持つなどがある。また、来た道を引き返し正しいルートに戻るか、山頂や尾根を目指し下ってはいけないなどがある。",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパ・アルプスおよびロシアでは、山のコースごとに難易度を決める試みがなされており、登山者の経験にも等級が付けられつつある。日本でも、山やルートごとに難易度を示す「グレーディング」(難易度評価)が全国に広がっている。2014年に長野県が公表し、2017年夏時点では7県の600以上のコースについてグレーディングが公表されている。",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "難所 (登山)(英語版)",
"title": "遭難・死亡"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "「フラット歩行」を身に付けて、 土や岩をけったり植物を踏むような乱暴な歩き方は極力避けること。「歩かせていただきます」という謙譲な気持ちをもってローインパクトでなければならない。",
"title": "自然に優しい登山"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "近年、登山人口が増加したことによる自然に対するダメージが目立ってきている。例としては、ゴミやタバコを持ち帰らずポイ捨てする、むやみに木や枝を折る、遊歩道を歩かず、貴重な植物を踏んでしまうなどがある。これらは本来、登山者にとって守るべきマナーであるが、登山を始めたばかりの登山者の中にはそれを知らず結果的に自然や景観に影響を与えてしまうことがままある。以下に具体的な例を挙げる。",
"title": "登山と自然破壊の問題"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "西ヨーロッパの最高峰モンブラン登山の出発点となるサンジェルベ・レ・バン(英語版)の市長は、2017年8月に「適切な装備を整えていない登山者」に対して即時罰金を科する条例を発布した。これは、連続する死亡事故を受けての措置である。",
"title": "登山禁止とマナー問題"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "2023年5月31日、インドネシアのバリ州知事ワヤン・コスター(英語版)は観光客の相次ぐ迷惑行為を受けて、「山々は聖なる存在として崇拝されている。その神聖さが損なわれれば、それはバリの神聖さをおとしめるに等しい」と述べ、バリ州にある22山の登山客の登山、宗教儀式や災害対処などの理由のない地元住民の登山を無期限禁止とした。",
"title": "登山禁止とマナー問題"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "日本では、富士山への休憩なし、装備なしの弾丸登山に対して、多くの自治体などが警戒しており、場合によっては登山制限などの検討を行っている。",
"title": "登山禁止とマナー問題"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "登山愛好者の団体を山岳会(さんがくかい)と称する。山岳会には山または歩くことにちなんだ名前が付けられることが多い。 学校または職場単位で結成される山岳会は部活動として特に山岳部や登山部、ワンダーフォーゲル部などと称する。 1857年には世界最初の山岳会である英国山岳会が設立され、1905年には日本最初の山岳会である日本山岳会が設立された。それ以降も日本国内で様々な山岳会が結成され、全日本山岳連盟(現・日本山岳・スポーツクライミング協会)と勤労者山岳会(現・日本勤労者山岳連盟)のような統括団体が生まれた。 山岳会は主に団体での山行や会員同士による登山技術の研修指導を行っている。会によっては、登山道もしくは山小屋の維持修繕、救助活動の支援、非会員への講演・研修、森林の保護、高山へ挑戦する会員の支援などを行っている。また、登山用品メーカーに対しては消費者団体としての側面も持つ。",
"title": "登山に関する組織・団体"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "1965年にイタリア、フランス、オーストリア、スイスの山岳ガイド協会の会議が行われ、国際山岳ガイド連盟(英語版)が設立された。",
"title": "登山に関する組織・団体"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "日本の山岳ガイドは、古くは強力(ごうりき)が行っていた。1934年ごろの富士山表口強力案内組合には100名を超える強力が加盟していた。1990年に日本山岳ガイド連盟が設立され、翌1991年に国際山岳ガイド連盟に加入した。2003年に日本山岳ガイド連盟と日本アルパイン・ガイド協会は合併し日本山岳ガイド協会に改組した。",
"title": "登山に関する組織・団体"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "フランス、スイス、オーストリア、ロシア、インドなどに登山学校があり、指導者養成と研修が行われている。日本では立山に国立登山研修所があるほか、神奈川県、長野県、兵庫県に県立の登山学校がある。",
"title": "登山に関する組織・団体"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "山岳事故を防止・救難するための情報提供を行ったり、警察・消防などの公的機関に協力して救助活動を行う団体である。山岳遭難防止対策協会、山岳遭難防止対策協議会など地域によって名称に若干の差異があるが活動内容はほぼ同一である。1964年以降国立登山研修所とスポーツ庁等が全国山岳遭難対策協議会を毎年開催している。 また、1992年に東京都山岳連盟の提唱により日本山岳レスキュー協議会が設立され、遭難救助に関する情報交換を行っている。",
"title": "登山に関する組織・団体"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "山を対象にした画・写真などの作家団体が存在する。山全般を対象にする団体や、富士山など特定の山や地域を対象にする団体がある。",
"title": "登山に関する組織・団体"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "登山用品は多岐にわたるため、登山用品に限っても多くの総合・専門メーカーが存在する。 また、登山専門を謳わないアウトドア用品メーカーや総合スポーツ用品メーカー、一般の衣類メーカーなどでも登山に使用できる用品を作成・販売している。 総合スポーツ用品店を含む登山用品販売店では、登山学校と称して登山知識や技術の講習会を実施していることがある。",
"title": "登山に関する組織・団体"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "この他に登山に関連するビジネスとしては、登山客の輸送・宿泊を担う交通・旅行会社や旅館・ホテル・山小屋などの観光産業、ヤマレコのようなインターネットでの登山情報の提供、登山地図や雑誌の出版社などがある。",
"title": "登山に関する組織・団体"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "季語としての登山(とざん)は、夏の季語(晩夏の季語)である。分類は行事/人事。季語の世界では「登山」は「山に登ること」全般を指す。",
"title": "季語"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "「登山」を親季語とする子季語は、以下のとおり、かなり多い。山登り(やまのぼり。山に登ること。登山)、登山宿(とざんやど。登山者のための宿)、登山小屋(とざんごや。登山者のための小屋)、山小屋(やまごや)、登山口(とざんぐち。山の登りくち)、登山杖(とざんずえ。登山のときに使用する杖)、登山笠(とざんがさ。登山のときに使用する笠)、登山帽(とざんぼう。登山のときに使用する帽子)、登山馬(とざんうま。山登り用の馬)、登山電車(とざんでんしゃ。登山用の鉄道)、登山地図(とざんちず。登山するための地図)、ザイル、寝袋(ねぶくろ)。",
"title": "季語"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "関連季語として歳時記に記載されていないものの、関連性のある季語としては、夏の山(なつのやま。三夏の季語。分類は地理)とその子季語(夏山〈なつやま。夏の青葉が繁った山〉、夏嶺〈かれい。夏山と同義〉、青嶺〈あおね、歴史的仮名遣:あをね。夏山と同義〉、夏山路〈なつやまじ。草木の生い繁った夏の山路〉、夏山家〈なつやまが。草木の生い繁る夏の山中の家〉、青き嶺〈あおきみね。夏の山〉、山滴る〈やましたたる〉、滴る山〈したたる山。五月山[さつきやま。陰暦5月ごろの緑の多い山]の異称〉、翠巒〈すいらん。緑色に連なる山々〉)を始め、ケルン(山頂や山道に道標や記念として石を円錐形に積み上げたもの。登山で亡くなった人を哀悼する記念碑もある。晩夏の季語。分類は人事)、積石(つみいし。ケルンと同義で子季語)、冬登山(ふゆとざん。冬山の登山。危険を伴ない、遭難者も多い。冬の季語。分類は地理)を挙げることができる。登山靴(とざんぐつ)を挙げる場合もある。",
"title": "季語"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "登山に限らず、いわゆる山岳小説と呼ばれるジャンルである。",
"title": "登山を扱った作品"
}
] | 登山は、山に登ることに楽しみを求め、登ること自体を目的とすること。そのようなスポーツ。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年3月
| 更新 = 2021年3月
}}
[[ファイル:Frères Bisson - 1862 - La crevasse (Départ).jpg|thumb|200px|[[モンブラン]]の[[クレバス]]を行く登山者たち(1862年)]]
[[File:Josef_Feid_Anastasius_Grün.jpg|thumb|200px|登山するAnastasius Grün([[1830年]]ころの絵画)]]
[[ファイル:Alpinistes_Aiguille_du_Midi_03.JPG|thumb|right|200px|フランス、[[エギーユ・デュ・ミディ]]の尾根をゆく登山者たち(2007年)]]
[[ファイル:Shirouma_dai_sekkei_upper.jpg|thumb|right|200px|日本の[[白馬大雪渓]]の上部を登る大勢の登山者たち([[2015年]])]]
[[File:Wikimanians climbing the San Defendente mountain 1.jpg|thumb|right|200px|夏に[[低山]]を、ガイドされつつ登るウィキマニアたち。まわりは樹木が生い茂っている。(2016年)]]
'''登山'''(とざん、{{Lang-en-short|mountain climbing, mountaineering, alpinism}})は、[[山]]に登ることに楽しみを求め、登ること自体を目的とすること<ref name="kotobank_britannica">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E7%99%BB%E5%B1%B1-105083 |title=登山(とざん)とは - コトバンク |website= |publisher= |accessdate=2018-12-22}}</ref>。そのような[[スポーツ]]<ref name="kotobank_britannica" />。
== 概説 ==
登山は山に登ることではある。だが、登山は登山そのものを目的とし、そこに最大の喜びを見出し、自分の人生に活かしてゆくことである<ref name="dainihonhyakka">『大日本百科全書』「登山」[[徳久球雄]] 執筆。</ref>。山菜や動物を採集したり、地質調査のため等々のために山に入ってそこを登ることは登山自体を目的としておらず、異なっている<ref name="dainihonhyakka" />。
狩猟や信仰のための登山は古くから行われているが、これらは今日的な意味での登山からは除外される<ref name="kotobank_mypedia">[https://kotobank.jp/word/%E7%99%BB%E5%B1%B1-105083 コトバンク-マイペディア]</ref>。山頂から景色を眺めることがしたくて登山をした、という今日的な意味の登山へとつながる登山をした最初の記録はイタリアの[[ペトラルカ]](14世紀の詩人)のものである<ref name="kotobank_mypedia" />。→[[#歴史]]
山に登ることそのものを目的とする登山とその[[思想]]({{Lang-en-short|alpinism}}, '''[[アルピニズム]]''', '''近代登山''')が[[18世紀]]後半の[[ヨーロッパ]]で始まった<ref name="kotobank_britannica" /><ref name="コトバンク-アルピニズム" />{{sfn|平凡社|2011|p=265}}。この意味での登山は[[スポーツ]]の一種とされる<ref name="kotobank_britannica" /><ref name="コトバンク-アルピニズム" />{{sfn|平凡社|2011|p=265}}。
;アルピニズム
{{Lang-en-short|alpinism}}(アルピニズム) は広義には登山全体を指すが、特に近代登山([[近代]]的な[[スポーツ]]登山)とその[[思想]]を指す<ref name="コトバンク-アルピニズム">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%94%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0-428615 |title=アルピニズムとは - コトバンク |website= |publisher= |accessdate=2018-12-22}}</ref>。18世紀後半を始まりとする近代登山は{{efn2|ただしアルピニズムという語が生まれたのは19世紀後半であるとされている<ref name="コトバンク-アルピニズム" /><ref>{{Cite web |url=https://www.merriam-webster.com/dictionary/alpinism#examples |title=Alpinism | Definition of Alpinism by Merriam-Webster |website= |publisher=Merriam-Webster, Incorporated |accessdate=2018-12-23}}</ref>。}}、山に登ること自体に喜びを見出し、登山が[[精神]]や[[体|肉体]]に与えるものを重視し、[[人生]]のうるおいとすることを目的とする{{sfn|平凡社|2011|p=265}}<ref name="コトバンク-アルピニズム" />。アルピニズムはまた、登山の知識と技術を総合的に養い、全[[人格]]的に山に対していこうとする思想でもある<ref name="コトバンク-アルピニズム" />。登るという行為以外に目的がない点で近代登山は[[スポーツ]]の一種であり、この点において[[宗教]]的な登山{{efn2|[[モーセ]]は[[シナイ山]]で[[ヤハウェ|神]]から[[十戒]]を授かり、神との契約関係に入ったとされる{{sfn|平凡社|2011|p=265}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB-142410 |title=モーセとは - コトバンク |website= |publisher= |accessdate=2018-12-22}}</ref>。}}や[[戦争]]、[[狩猟]]、[[測量]]、[[研究]]などのための登山と異なっている{{sfn|平凡社|2011|p=265}}<ref name="kotobank_britannica" /><ref name="コトバンク-アルピニズム" />。
日本では[[第二次世界大戦|戦後]]に登山者が増加した{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。[[高齢者|高年齢]]の登山者や女性も多くなり、登山は野外スポーツとして定着しているとされるが、遭難の続発は[[社会問題]]となっている{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。高齢になって始めた登山者が、体力や技術を過信したり、気象変化を軽くみがちで、それが原因となって遭難し、[[山岳救助]]を要請する事態となっている。
登山を広く捉えると、スリーシーズンの(雪が無い時期の)[[ハイキング]]、[[トレッキング]]、[[縦走|縦走登山]]といった比較的平易なものから、[[雪山|雪山登山]]、[[山スキー]]、[[沢登り]]、[[藪漕ぎ]]、[[ロッククライミング|岩登り(ロッククライミング)]]、[[アイスクライミング]]、[[フリークライミング]]、他にも[[トレイルランニング]]などと登山の難易度が高く技術や経験が必要なものまで、登山の形態は、方法、技術、難易度、季節、時期などによって多岐にわたる。
== 歴史 ==
近代登山が始まる以前の段階(近代登山から見れば一種の「前史」に当たるもの)から解説する。
=== 先史時代 ===
山を登るということは[[先史時代]]から行われていたようである。[[イタリア]]と[[オーストリア]]の国境にて約5,300年前の男性の[[ミイラ]]である[[アイスマン]]が[[エッツタール|エッツ渓谷]](海抜3,210[[メートル|m]])で発見された。アイスマンがここまで登った理由は不明であるが、山に登ったことは確かである。他にも、狩猟などでも登山は行われていたが、これらは今日の登山とは除外される。{{要出典範囲|また、多くの[[宗教]]で山は崇拝や[[信仰]]の対象とされ、神そのものであるとされる場合もあったことから、様々な[[聖典]]や[[伝説]]で登山が記録されている。|date=2018年12月21日 (金) 07:55 (UTC)|title=}}。
宗教で山に登った記録としては、旧約聖書にある[[モーセの十戒]]に関連する[[シナイ山]]、新約聖書の[[山上の垂訓]]などがある。
日本では[[縄文時代]]の早い段階から[[黒曜石]]を求めて登山したことが[[長野県]]の[[星糞峠黒曜石原産地遺跡]]や[[栃木県]]の[[高原山黒曜石原産地遺跡群#発掘調査の歴史|高原山黒曜石原産地遺跡群]]などから確認されている(当項目の「概要」および「発掘調査の歴史」を参照)ことから資源目的の登山は石器時代から行われていた。
[[15世紀]]の[[南アメリカ]]の[[インカ帝国]]の都市遺跡である[[マチュ・ピチュ]]は王家の別邸説が有力であり<!-- 後述のナショジオ参考 -->、常に住むものではなかった<ref>[[ナショナルジオグラフィック]]日本語版公式サイト、2011年7月21日付、「マチュピチュ建設の理由、5つの説」を参考。</ref>こと(インカの首都クスコの方が標高は高く、首都に戻る過程で登山につながる)からも登山は確認できる。
=== ヨーロッパ ===
==== 中世以前 ====
[[ファイル:Hannibal3.jpg|thumb|right|180px|[[アルプス山脈]]を越えるハンニバルの軍]]
[[紀元前218年|前218年]]、[[ハンニバル]]は[[第二次ポエニ戦争]]において、6万人の兵と37頭の[[ゾウ]]とともにピレネーや[[アルプス山脈|アルプスの山脈]]を越えたとされている{{sfn|平凡社|2011|p=265}}。
[[125年]]にローマ帝国の[[ハドリアヌス]]帝は[[日の出|朝日]]を見るために[[エトナ火山]]に登った<ref>[[ローマ皇帝群像|ヒストリア・アウグスタ]] ハドリアヌス 13。</ref>。
==== ルネサンス期から18世紀前半 ====
[[ヨーロッパ]]近代の精神が、山に登ることそのものに喜びを見出す近代登山に道を開いた<ref name="コトバンク-アルピニズム" />{{efn2|山が美の対象として認識されるようになったのは[[ルネサンス]]時代からであるとされる{{sfn|平凡社|2011|p=266}}。}}。[[イタリア]]の[[詩人]][[ペトラルカ]]がその先駆けとなった<ref name="コトバンク-アルピニズム" />。[[1336年]]、ペトラルカは[[フランス]]南部の[[アヴィニョン|アビニョン]]近郊の[[モン・ヴァントゥ|モンバントゥー]]に登った{{sfn|平凡社|2011|p=265}}<ref name="kotobank_britannica" /><ref name="コトバンク-アルピニズム" />。これが、山頂からの眺望を得るために登山をした最初の記録とされる<ref name="kotobank_britannica" /><ref name="コトバンク-アルピニズム" />。{{要出典範囲|その後ペトラルカは、このときの旅程を友人に手紙に書き留めて送っている。このことから、ペトラルカは「登山の父」と呼ばれ、この日を登山の生まれた日としている。これは、文化史家の[[ヤーコプ・ブルクハルト]]の『イタリア・ルネサンスの文化』の中で紹介されている。旅の途中での必然的な山越えではなく、山に登ること自体を目的として試みられた近代最初の出来事である。|date=2018年12月21日 (金) 07:55 (UTC)|title=}}
{{要出典範囲|[[ルネサンス]]の始まりとともに趣味やスポーツとしての登山が行われるようになった。また、測量目的の登山も行われるようになり、フランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]が[[1492年]]に{{仮リンク|エギーユ山|fr|Mont Aiguille}}<!--もしくはエギュイーユ-->の登頂を命じたのは、この範疇に入る。[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]はヴァル・セシア郊外の雪山に登り、様々な実験や観察を行った。[[16世紀]]には[[スイス]]の[[チューリッヒ]]を中心に登山を賞賛する動きがあり、[[コンラート・ゲスナー|コンラッド・ゲスナー]]と{{仮リンク|ジョシアス・シムラー|en|Josias Simmler}}が度々登山を行っていたことが記録されている。2人はロープとピッケルを使ったが、一般には広まらなかった。[[17世紀]]のヨーロッパには登山の記録がまったく残されていない。|date=2018年12月21日 (金) 07:55 (UTC)|title=}}
==== 近代登山の始まり ====
[[ファイル:00 Chamonix-Mont-Blanc - M G Paccard.jpg|thumb|200px|モンブランを見つめる[[:en:Michel-Gabriel Paccard|M.G.パカール]]の像]]
[[ファイル:Chamonix 2007 100 0022.JPG|thumb|140px|[[:en:Jacques Balmat|J.バルマ]]と[[オラス=ベネディクト・ド・ソシュール|H.B.deソシュール]]の像]]
18世紀後半、アルプス最高峰の[[モンブラン]]登頂が達成されたことが、近代的登山(近代登山、スポーツとしての登山<ref name="kotobank_britannica" /><ref name="コトバンク-アルピニズム" />)の幕開けとなった{{sfn|平凡社|2011|p=266}}<ref name="kotobank_britannica" /><ref name="コトバンク-アルピニズム" />。1760年、[[自然科学]]者[[オラス=ベネディクト・ド・ソシュール]]が[[シャモニー=モン=ブラン|シャモニー]]を訪れ、モンブラン初登頂を成し遂げた者に賞金を出すと宣言し、それに応える形で1786年に{{仮リンク|ミシェル・ガブリエル・パカール|en|Michel-Gabriel Paccard}}および{{仮リンク|ジャック・バルマ|en|Jacques Balmat}}が登頂に成功した{{sfn|平凡社|2011|p=266}}<ref name="kotobank_britannica" /><ref name="コトバンク-アルピニズム" />{{efn2|翌年にはソシュール自身も登頂に成功した{{sfn|平凡社|2011|p=266}}。}}。
==== アルプス黄金時代 ====
[[19世紀]]に入って、[[アルプス山脈|ヨーロッパ・アルプス]]の登山は盛んになった{{sfn|平凡社|2011|p=266}}。特に[[イギリス]]人によって'''[[アルプス黄金時代]]'''がもたらされ、登山技術の面でも急激な進歩があった{{sfn|平凡社|2011|p=266}}。[[マッターホルン]](4,477m)は従来、登ることが不可能と見なされていたが、1865年7月14日に[[エドワード・ウィンパー]]が登頂に成功した{{sfn|平凡社|2011|p=266}}{{sfn|堀田|1990|pp=10-18}}。1857年には世界で最初の登山団体となる[[英国山岳会|イギリス山岳会]]が設立された{{sfn|平凡社|2011|p=266}}。1854年の{{仮リンク|ヴェッターホルン|en|Wetterhorn}}初登頂から1865年のマッターホルン初登頂までをアルプス黄金時代と呼ぶ{{sfn|堀田|1990|pp=10-18}}<ref name="kotobank_britannica" />。{{main|アルプス黄金時代}}
==== アルプス銀の時代 ====
アルプス黄金時代の間に、アルプス山脈の4,000m級の峰が登りつくされ[[未登峰]]がなくなると、岩壁や側稜などからの登山といったより困難なルート(バリエーションルート)からの登頂や、[[冬]]季登山、案内人を付けない登山などが行われるようになった{{sfn|平凡社|2011|p=266}}<ref name="コトバンク-アルプス">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%97%E3%82%B9-28605 |title=アルプスとは - コトバンク |website= |publisher= |accessdate=2018-12-22}}</ref>。その背景には、より困難なルートからの登山を提唱した[[アルバート・フレデリック・ママリー|ママリー]](1855-1895)の思想があり、これがママリズムとして近代のアルピニズムの主な思想となった{{sfn|平凡社|2011|p=266}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC-1208197 |title=ママリーとは - コトバンク |website= |publisher= |accessdate=2018-12-22}}</ref>。新しい山を求めて[[コーカサス|カフカス]]、[[アンデス山脈|アンデス]]などにも目が向けられ始めた{{sfn|平凡社|2011|p=266}}。1865年のウィンパーによるマッターホルン登頂から、1882年の{{仮リンク|ダン・デュ・ジュアン|en|Dent_du_Géant}}初登頂までを'''アルプス銀の時代'''と呼ぶ{{sfn|堀田|1990|pp=19-26}}。{{main|アルプス銀の時代}}
==== 銀の時代以後 ====
{{節スタブ}}
=== ヒマラヤ ===
[[ファイル:アンナプルナⅢ、マチャプチャレ1.jpg|thumb|230px|登山のメッカ、[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]連峰の[[アンナプルナ]]III峰]]
世界最高峰の[[エベレスト]]が有名である。
=== 日本 ===
[[ファイル:Akadake3.JPG|thumb|230px|[[赤岳 (八ヶ岳山系)|赤岳]]山頂の登山者]]
==== 山岳修行 ====
[[日本]]においては、[[717年]]に[[泰澄]]和尚が開山した[[白山]]、[[701年]]に[[越中国]](富山県)[[国司]]の息子[[佐伯有頼|有頼]]が開山した[[立山]]など、宗教にまつわり山を開いたとする開山縁起が残っている{{sfn|菊地|2003|pp=11-72}}{{sfn|大町山岳博物館|1974|pp=260-273}}。[[都良香]]の富士山記に、富士山頂の様子の記述がある{{sfn|大町山岳博物館|1974|pp=260-273}}。[[鎌倉時代]](1185年頃 - 1333年)・[[室町時代]](1336年 - 1573年)以降も北海道を除く全国各地の山岳寺院に所属する山伏による山岳修行が盛行し<ref>{{Cite book|title=山岳信仰-日本文化の根底を探る-|date=|year=2015|publisher=中公新書}}</ref>、各山地の尾根道をメインルートとした入峰修行登山の記録が残されている<ref>{{Cite book|title=丹沢の行者道を歩く|date=|year=2005|publisher=白山書房}}</ref>。最も記録が多く残されているのは紀伊半島の大峰山脈で、東北では羽黒山・月山、関東では日光、丹沢、中部地方の富士山、九州では英彦山など、[http://www.sangakushugen.jp 調査研究も進んでいる]<ref>{{Cite book|title=山岳宗教史研究叢書|date=|year=1974-1985|publisher=名著出版}}</ref>。ただし、この登山文化は明治5年(1872)の修験道廃止令で一旦は途絶えることになった。
==== 近世の登山 ====
日本において、宗教目的以外で記録される著名な登山といえば、[[安土桃山時代]]、[[1584年]](天正12年)12月の[[佐々成政]]による「さらさら越え」([[飛騨山脈|北アルプス]]越え)である。しかも、これは比較的容易な無積雪期ではなく、冬季の積雪期に敢行されたという点でも注目されている。ルートは、立山温泉-ザラ(佐良)峠-平の渡し([[黒部川]])-針ノ木峠-籠川(かごかわ)の経路が有力視されているが、確証はない。[[立山]]の一の越-御山谷ルート、別山-内蔵助谷ルートをとったという説もある。
ザラ峠とは[[安房峠]](古安房峠)のことを指す、佐々成政は安房峠を越える[[鎌倉街道]]を通って越中富山-遠江浜松を往復したのだ、という説もある{{sfn|服部|2007|pp=61-104,105-155}}。
同様の軍事的な意味合いの登山としては、[[武田信玄]]の配下の武将[[山県昌景]]が、[[1559年]](永禄2年)に[[飛騨国|飛騨]]を攻めるのに[[上高地]]から安房峠(古安房峠)を超えて入った事例が知られている{{sfn|大町山岳博物館|1974|pp=260-273}}{{sfn|服部|2007|pp=136,138-155}}。
[[1640年]](寛永17年)に[[加賀藩]]によって設置され[[1870年]](明治3年)まで続いた黒部[[奥山廻り]]役は、藩林保護のための検分登山を行い、[[飛騨山脈|北アルプス]]の主峰のほとんどを登って回った{{sfn|大町山岳博物館|1974|pp=260-273}}。
文化13年(1816年)、[[小尾権三郎]](延命行者)の[[甲斐駒ヶ岳]]、
[[化政文化|文化・文政期]](1804年 - 1829年)、[[1819年]]の明覚法師と永昌行者による[[乗鞍岳]]、[[1828年]]の[[播隆]]上人による[[槍ヶ岳]]など、[[開山]]が相次ぐ。また、立山講や御岳講、駒ヶ岳講などの[[講]]中登山が盛んになる。[[寛政|寛政期]](1789年 - 1800年)に寺社詣でが解禁され、『[[東海道中膝栗毛]]』(1802年 - 1822年)が[[人気]]を博すなど、[[大衆|民衆]]の間に[[旅行#歴史|旅行]]人気が広まったことが背景として考えられ、参加する者の多くにとっては、宗教的な意味合いよりも、物見遊山としてのものだったと考えられる{{sfn|菊地|2003|pp=11-72}}。
[[江戸時代]]、[[文人画]]家[[池大雅]]、[[医者]][[川村錦城]]、[[医学者]][[橘南谿]]、[[画家]][[谷文晁]]などが、山そのものを味わうために山に登ったことが知られている{{sfn|大町山岳博物館|1974|pp=260-273}}。
[[江戸時代|江戸]][[幕末]]、[[飛騨山脈|北アルプス]]麓にある入四ヵ村で年に薪五千間、板子八万梃を伐採しに[[大天井岳|二ノ俣]]あたりまで入っていたなど、多くは記録に残っていないが、歴史を通じて、[[杣]]人や[[狩猟]]や[[鉱山|採鉱]]などの山[[労働|仕事]]でたくさんの人が山に入っていたと考えられる{{sfn|菊地|2003|pp=11-72}}。
[[ファイル:Fujisan Hongu Sengen okunomiya.jpg|thumb|230px|富士山頂の登山者(富士宮口頂上)]]
江戸幕末以降、複数の[[欧米]]人が[[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]に登った。[[1860年]](万延元年)7月、[[ラザフォード・オールコック|オールコック]]が[[大宮・村山口登山道]]から登り登頂している。[[1867年]](慶応3年)10月には[[ハリー・パークス|パークス]]夫人が、[[1868年]](明治元年)7月に[[アーネスト・サトウ|サトウ]]が登っている{{sfn|大町山岳博物館|1974|pp=260-273}}。
==== 日本での近代登山の幕開け ====
[[明治]]時代([[1868年]] - [[1912年]])、[[1874年]]に[[ウィリアム・ゴーランド|ガウランド]]、[[ロバート・ウィリアム・アトキンソン|アトキンソン]]、[[アーネスト・サトウ|サトウ]]の三人の外国人パーティが、[[ピッケル]]とナーゲルを用いた登山を日本で初めて[[六甲山]]で行った。ガウランドは[[1881年]]に[[槍ヶ岳]]と前[[穂高岳]]に登山して「[[日本アルプス]]」を命名した人物で、サトウは[[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]に最初期に登った外国人としても知られる<ref name="昭文社1994">『山と高原地図 51六甲・摩耶・有馬』 昭文社〈エアリアマップ〉、1994年、小冊子p.12『登山史』。調査執筆:[[赤松滋]]。</ref>。
日本アルプスには、上記3名のほか、[[ウォルター・ウェストン]]、[[バジル・ホール・チェンバレン]]、フランシス、ミルン など複数の欧米人が登った。15版まで重版されるベストセラーとなった[[志賀重昂]]の『日本風景論』が[[1894年]](明治27年)10月に出版されるまでの時期を、明治時代日本アルプス登山史の第一期とする見方がある{{sfn|はま|1994|pp=165-171}}。
その見方では、それ以降[[参謀本部 (日本)|参謀本部]][[陸地測量部]]による[[1913年]](大正2年)の[[地図]]刊行までをその第二期とする。第二期には、[[冠松次郎]]、[[木暮理太郎]]、[[小島烏水]]、近藤茂吉、三枝守博、武田久吉、[[田部重治]]、鳥山悌成、中村清太郎 らが北アルプスに登った{{sfn|はま|1994|pp=165-171}}。<!---ここまで--->陸地測量部は[[館潔彦]]、[[柴崎芳太郎]]などの測量官を派遣し、一等[[三角測量]]を完成し、地図を刊行した。第二期を、小島烏水は日本登山史上の[[探検]]時代と呼んでいる{{sfn|大町山岳博物館|1974|pp=260-273}}。
明治期の日本アルプスの登山では、[[長野県]]の[[内野常次郎]]、[[上條嘉門次]]([[梓川]][[渓谷]])、[[小林喜作]](中房渓谷)、[[遠山品右衛門]](高瀬川渓谷)、横沢類蔵、[[富山県]]の[[宇治長次郎]]、佐伯源次郎、佐伯平蔵、[[山梨県]]の大村晃平、中村宗義(早川谷)など、地元の[[猟師]]が案内をした{{sfn|はま|1994|pp=165-171}}{{sfn|大町山岳博物館|1974|p=2}}。
[[ファイル:Maki Yuko.JPG|thumb|100px|{{Flagicon|JPN}} [[槇有恒]]-----<small>[[アイガー]]東山稜の初登山者。</small>]]
日本の「近代登山」の始まりをどの時点に置くかは、人によって解釈が様々であるが、[[1874年]](明治7年)に[[六甲山]]における、[[ウィリアム・ゴーランド|ガウランド]]、[[ロバート・ウィリアム・アトキンソン|アトキンソン]]、[[アーネスト・サトウ|サトウ]]の3人の外国人パーティによる[[ピッケル]]とナーゲルを用いた登山が、日本の近代登山の最初とされることが多い<ref name="昭文社1994" />。[[1889年]](明治22年)には、ウェストンによってテント・ザイル等が持ち込まれ、ウェストンの助言で小島烏水らが[[1905年]](明治38年)に日本で最初の山岳会「山岳会」(後の「[[日本山岳会]]」)を設立した。この年を近代登山の始まりとする説もある。また[[今西錦司]]の言うように[[1918年]](大正7年)の[[第一次世界大戦]]の終戦時をもって近代登山の幕開けとされることもある。
[[測量]]や[[地理学]]的な目的での登山も行われた。[[1882年]](明治15年)8月の内務省地質測量長[[ハインリッヒ・エドムント・ナウマン|ナウマン]]博士の命令による[[横山又次郎]]一行の[[赤石山脈|南アルプス]]横断、[[1885年]](明治18年)全国地質測量主任ライマンの助手坂本太郎の[[槍ヶ岳]]-[[薬師岳]]縦走、[[1889年]](明治22年)[[農商務省 (日本)|農商務省]][[地質調査所]]の[[大塚専一]]による[[針ノ木岳]]-[[立山]]-[[後立山連峰|後立山]]縦走などである{{sfn|大町山岳博物館|1974|pp=260-273}}。
==== 黎明期は学校登山 ====
明治時代、北アルプスの地元では、学校登山が行われた。[[1883年]](明治16年)に[[窪田畔夫]]と[[白馬岳]]に登った渡辺敏は、[[長野県長野西高等学校|長野高等女学校]][[校長]]時代、[[理科]]・[[体育]][[教育]]の目的で、[[1902年]](明治35年)より毎年、[[戸隠山]]、[[白馬岳]]、[[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]などへの登山を実施した。[[富山師範学校]][[教諭]]の保田広太郎は、[[1885年]](明治18年)頃より、[[学生]]を連れて[[立山]]などに登った。[[河野齢蔵]]は[[1893年]](明治26年)から[[植物採集|動植物採集]]の目的で北アルプスの山々に登り、大町小学校校長のとき、学校で登山を奨励した{{sfn|大町山岳博物館|1974|p=48}}{{sfn|菊地|2003|pp=60-62,156-169}}。
==== 三角点設置 ====
[[陸地測量部]]によって、[[1907年]](明治40年)までに、[[日本アルプス]]の主峰のほとんどに、[[三角点]]が設置された{{sfn|大町山岳博物館|1974|pp=260-273}}。
==== 登山ブーム到来 ====
探検時代の後{{sfn|羽根田|2010|pp=16,18}}、明治末から[[大正]]にかけて、日本アルプスへ登山する人たちが増え始め{{sfn|菊地|2003|pp=74-125,170-187}}、大正期に[[大衆]]化した{{sfn|羽根田|2010|pp=18,25}}{{efn2|羽根田治『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 (平凡社、2010年)は、近代登山以降という尺度で見た場合という観点からとして、この大正期から昭和初期、戦争によって下火になるまでの間のブームを、第1次登山ブームと呼んでいる{{sfn|羽根田|2010|pp=18,25}}。}}[[1915年]](大正4年)の[[上高地]] [[大正池 (松本市)|大正池]]の出現や、皇族の登山などが、人々を山へ誘った{{sfn|羽根田|2010|pp=18,19}}{{efn2|[[東久邇宮稔彦王]]や[[秩父宮雍仁親王]]が登山に親しんだ{{sfn|羽根田|2010|pp=18,19}}。}}。
一方、日本の登山は当時のイギリスの上流階級の趣味としての登山の受容から始まっており、戦前の登山において大学・高校の山岳部の現役・OBが大きな役割を占めるのも、彼らの多くが上流階級の子弟で経済的にも時間的にも余裕がある人々だったからだという指摘がある。登山の大衆化はこうした既存の担い手との摩擦も生じ、当時は(お金をかけて)案内人を雇って登るのがマナーと考えられていたためにタブー視されてきた単独行を行ってその草分け的存在となった[[加藤文太郎]]は、加藤自身の内向的な性格も相俟って批判の対象とされた<ref>羽根田治『山岳遭難の傷痕』山と渓谷社、2020年 ISBN 978-4-635-17199-1 P52-63.</ref>。
==== 遭難事故の増加 ====
登山の広がりは遭難事故の増加をもたらすことになる。登山家・作家の[[春日俊吉]]の調査によると、近代登山における記録に残る最古のものは、1891年9月に青山学院(当時は[[東京英和学校]])の学生が友人ら2名と[[木曽駒ヶ岳]]に登山した際に雨に打たれて体力を消耗したことで下山中に死亡した事故とみられている<ref>春日俊吉『山と雪の墓標 松本深志高校生徒落雷遭難の記録』有峰書店、1970年、P235-238.</ref>。初期の遭難事件としては、軍隊の訓練による[[八甲田雪中行軍遭難事件]]や学校の集団登山による[[木曽駒ヶ岳大量遭難事故]]は著名であるが、前述の春日によれば記録が伝わる遭難事故は明治期には199名の犠牲者を出した八甲田山の遭難事件を除くとわずか3件6名の犠牲者に過ぎないが、大正の15年間(実質14年弱)で21件64名の犠牲者が出ているとしている<ref>春日俊吉『山と雪の墓標 松本深志高校生徒落雷遭難の記録』有峰書店、1970年、P243-244.</ref>。
==== 山小屋の設置 ====
[[1907年]](明治40年)に[[松沢貞逸]]が白馬岳山頂近くに橋頭堡を築いて営業を開始したのに始まり、[[1916年]](大正5年)に松沢貞逸が白馬尻小屋を、[[1918年]](大正7年)に穂苅三寿雄がアルプス旅館(槍沢小屋)を、[[1921年]](大正10年)に赤沼千尋が燕ノ小屋(燕山荘)を、百瀬慎太郎が[[1925年]](大正14年)に大沢小屋、[[1930年]](昭和5年)に針ノ木小屋の営業を開始するなど、山中で登山者が休憩・宿泊する山小屋の営業が始まった{{sfn|菊地|2003|pp=74-125,170-187}}。
==== 登山案内者組合結成 ====
[[1917年]](大正6年)の[[百瀬慎太郎]]による大町登山案内者組合結成をはじめ、[[1918年]](大正7年)の赤沼千尋の有明登山案内者組合、[[1919年]](大正8年)の松沢貞逸の四ツ谷(白馬)登山案内者組合、[[1922年]](大正11年)の奥原英男による島々口登山案内者組合結成など、山案内人(山岳ガイド)の利用料金および利用者と案内人の間のルールの明示・統一が試みられた{{sfn|菊地|2003|pp=74-125,170-187}}{{efn2|1925年(大正14年)長野県制定の登山者休泊所及案内者取締規則により山案内人の公的な資格認定が始まり、その流れは1953年(昭和28年)の長野県観光案内業条例に引き継がれた。この条例の資格を受けた者は、2001年(平成13年)は579人{{sfn|菊地|2003|pp=178-180}}。}}
==== アルピニズムの時代 ====
[[1921年]](大正10年)の[[槇有恒]]の[[アイガー]]東山稜登攀をきっかけとして、大正末期に[[アルピニズム]]の時代に入った。「先鋭的な登攀」が実践され、「岩と雪の時代」「バリエーションの時代」と呼ばれた{{sfn|羽根田|2010|p=19}}。大学や高校の山岳部が、より困難なルートの制覇を目指して山を登った{{sfn|羽根田|2010|pp=22,24}}。
==== ヒマラヤ遠征 ====
[[1936年]](昭和11年)には日本では初(戦前では唯一)となる[[ヒマラヤ山脈]]への遠征が、[[堀田弥一]]を隊長とする[[立教大学]]隊により{{仮リンク|ナンダ・コート|en|Nanda Kot}}(標高6867メートル、当時は[[イギリス領インド帝国]]内)を目標に実施され、初登頂に成功した<ref>{{Cite Kotobank|word=堀田弥一|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|accessdate=2021-11-24}}</ref>。
==== 日中戦争の影 ====
[[1937年]](昭和12年)に始まる[[日中戦争]]、[[1938年]](昭和13年)に制定される[[国家総動員法]]などの時代情勢により、登山ブームは下火になる{{sfn|羽根田|2010|p=25}}{{efn2|登山者は[[非国民]]と呼ばれるなどの[[時代精神|時代情勢]]になった{{sfn|羽根田|2010|p=25}}。}}。
==== 戦後 ====
[[1945年]](昭和20年)の[[第二次世界大戦]]終了後、大学・高校の山岳部の活動が再開された{{sfn|羽根田|2010|pp=25-26}}。
==== 日本隊のマナスル初登頂の影響 ====
1950年代、ヒマラヤで、[[1950年]](昭和25年)の[[アンナプルナ]]、[[1953年]](昭和28年)の[[エベレスト]]、[[1956年]](昭和31年)の[[マナスル]]の初登頂など、8000メートル峰(14座ある)の初登頂ラッシュ{{sfn|羽根田|2010|pp=29-30}}{{efn2|アンナプルナはフランス隊による「人類初」の8000メートル峰登頂、エベレストはイギリス隊のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイによる世界最高峰初登頂、マナスルの初登頂は[[槇有恒]]率いる日本山岳会隊の[[今西壽雄]]とシェルパのギャルツェン・ノルブによるもの。}}が続き、これを受け再び登山ブームが起きた。このブームの特徴は、大学や高校の山岳部に代わって、社会人山岳会の活動が活発になったことである{{sfn|羽根田|2010|p=30}}。この時期、[[1955年]](昭和30年)有名な[[ナイロンザイル事件]]が起きた{{sfn|羽根田|2010|pp=29-32}}。また、[[谷川岳]]では、多発する遭難事故を受けて、群馬県が[[1966年]](昭和41年)に[[登山条例|群馬県谷川岳遭難防止条例]]を制定した{{sfn|羽根田|2010|pp=32-35}}{{efn2|谷川岳の遭難死者数は[[2008年]](平成20年)までに792人であり、「世界でいちばん遭難死者が多い山」として[[ギネス世界記録]]に認定されているという{{sfn|羽根田|2010|pp=32-35}}。}}。[[1971年]](昭和46年)、海外で「先鋭的な登攀」を行ってきた人達が(社)日本アルパイン・ガイド協会を設立し、登山のガイドや山岳ガイドの養成、資格認定などを行い始めた{{sfn|羽根田|2010|pp=236-238}}。[[1960年代]] - [[1970年代]]、山岳部や山岳会が「先鋭的な登攀」を続ける一方で、一般の人々が[[ハイキング]]から縦走登山、[[ロッククライミング|岩登り]]まで、好みと能力にあわせて広く楽しむようになった{{sfn|羽根田|2010|pp=29-30,39}}{{efn2|羽根田治『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 (平凡社、2010年)は、近代登山以降という尺度で見た場合という観点からとして、このブームを第2次登山ブームと呼んでいる{{sfn|羽根田|2010|pp=29-30,39}}。同書によれば、一般的には、このブームを第1次登山ブームと呼ぶ場合が多いという{{sfn|羽根田|2010|pp=18}}。}}。
1966年3月26日、富山県が、全国初の登山届出条例を制定、12月1日実施。12月17日、群馬県は、谷川岳遭難防止条例を制定、1967年3月1日実施。
==== 高齢化社会と登山 ====
1980年代、山岳部や山岳会が衰退し始め、また、登山者に占める[[中年|中高年]]者の割合が増え始めた。若い世代が山登りを[[3K]]というイメージで捉えて敬遠するようになり、育児が一段落した人たちが山登りを趣味とし始め、仕事をリタイアした世代が若い頃に登った山に戻り始めたことが理由であると考えられる。これに[[健康ブーム|健康志向]]と[[日本百名山]]ブームが輪をかけ、[[2010年]]現在に至っている。このブームで、ツアー登山が盛んになった{{sfn|羽根田|2010|pp=224-227}}{{efn2|「旅行会社のパック旅行のような{{sfn|羽根田|2010|p=225}}」形態のツアー登山の先駆けは、1970年代末頃と考えられる{{sfn|羽根田|2010|pp=224-227}}。}}。このブームの時代、[[1990年]](平成2年)、各地に設立された山岳ガイド団体が日本山岳ガイド連盟を設立し、ガイド資格の発給を行うようになった。[[羽根田治]]は『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 (平凡社、2010年)で、近代登山以降という尺度で見た場合という観点からとして、ここから続くブームを第3次登山ブームと呼んでおり{{sfn|羽根田|2010|pp=50-53}}、このブームの始期は1980年代後半から1990年代初頭と認識するのが妥当ではないかとしている{{sfn|羽根田|2010|pp=52}}。
[[2003年]](平成15年)、日本アルパイン・ガイド協会が日本山岳ガイド連盟を合併して(社)日本山岳ガイド協会が発足、日本全国統一基準のガイド資格が生まれた{{sfn|羽根田|2010|pp=236-238}}{{efn2|[[2007年]](平成19年)日本アルパイン・ガイド協会が日本山岳ガイド協会を脱会、[[2010年]](平成22年)1月現在、山岳ガイドの資格認定を行う全国的な団体は2団体となっている{{sfn|羽根田|2010|pp=236-238}}。}}。
==== 若者層の開拓 ====
2010年前後には旧来の山岳雑誌とは異なったライト感覚の登山・アウトドア雑誌が多く創刊され、それとともに[[山ガール]]という言葉がマスコミに踊ったことにより、従来の汗臭い、泥臭い男性中心で危険な登山というイメージからの脱皮が計られるようになった。また、登山ウェアや用具なども技術革新、新素材の登場によって、よりファッショナブルで軽量な物が開発されるようになった。『[[ゆるキャン△]]』などの登山を描いた漫画もヒットした。2020年前後頃からは[[登山YouTuber]]と呼ばれる人たちが[[インターネット]]上で山行動画を公開し始めたことも、初心者の若者中心に登山需要を喚起している。これを第4次登山ブームと呼ぶべきかについてはまだ諸説ある。
一方これらの多くの若者が[[山岳部]]や山岳会などに所属しないフリーな登山活動であったため、経験の蓄積のないままランクの高い山に不用意に入ってしまうという安全上の懸念も生んでいる。また、2019年には動画配信中の富士山滑落事故が発生している。
== 登山の技術 ==
登山は競技ではないので、技術の優劣をつけることは難しいとされる{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。また、同一の山やコースであっても、自然条件が異なればその難易度は異なる{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。従って、広い意味においての登山技術とは、十分な準備と訓練をふまえて行動計画を立案することと、自然と人間の力関係を判断していくことが基本であり、登攀・歩行・生活などの具体的な技術は2次的なものである{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。
=== 登山計画 ===
目的の山を選び{{efn2|メンバーの体力・技術・経験からパーティの能力を考え、それに適合した山を選ぶ{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。}}、期日を決め、パーティ(隊)のリーダーを決める{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。さらに、予算、各自の任務分担、行動予定、食料・装備などについて協議する会合をもつことにより、全ての参加者が、目的の山についての知識を得て、コースも熟知しているようになれば理想的である{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。
登山者が2人以上の場合には、必ずリーダーが定められる{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。パーティ(グループ)が大人数の場合はサブリーダーも置き、リーダーの補助をさせる{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。
登山にはトレーニングも必要である{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。筋肉を強くすることよりも、耐久力をつけることと健康の堅持に重点を置くトレーニングを平素から行うべきだとされる{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。
=== 歩行技術 ===
体力、山の状況、荷物の重さなどに応じて、疲労を少なくするように歩くことが重要だとされる{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。一定の心拍数で、足の裏全体を使ってリズミカルに歩くことを提唱する説もある{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。
一般的には、歩き始めて最初の20分で一度休憩し、身体・衣服・荷物を調整する{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。その後は40-50分ごとに10分程度の休憩をとることが普通である{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。地図上で位置を確認しながら歩く{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。パーティでの歩行は、体力的な弱者を標準とする{{sfn|平凡社|2011|p=267}}。
=== 極地法 ===
多数の人々の支援を受けて、ベースキャンプから順に前進キャンプを設営しつつ物資や人員を進めてゆき、各キャンプの隊員の援助のもとに、少数の隊員が頂上に到達するという登山法{{sfn|平凡社|2011|p=267}}<ref name="コトバンク-極地法">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%A5%B5%E5%9C%B0%E6%B3%95-479454 |title=極地法(キョクチホウ)とは - コトバンク |website= |publisher= |accessdate=2018-12-22}}</ref>。高山や、登頂までのアプローチが長い山で用いられる<ref name="コトバンク-極地法" />。登山では1922年にイギリスの[[エベレスト]]遠征隊が初めて用いた<ref name="コトバンク-極地法" />{{efn2|極地法と反対に、少人数でメンバー交代をせず、行動開始地点から短期間で一挙に目的地に達する方法をラッシュタクティクスという<ref name="コトバンク-極地法" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B9-656273 |title=ラッシュタクティクスとは - コトバンク |website= |publisher= |accessdate=2018-12-22}}</ref>。}}。スポーツとしての登山では、最早過去のものだが、気象状況が極めて困難な場所でのトライにわずかに使用されたり、高所へのガイド登山で使用される方法である。
== 登山の装備 ==
{{出典の明記|date=2018年12月20日 (木) 09:15 (UTC)|title=節の前半は無出典。|section=1}}
[[ファイル:Mount Fuji from Mount Aino.jpg|thumb|230px|[[テント]]を担いで[[赤石山脈|南アルプス]]を縦走する登山者、間ノ岳山頂部、遠景は[[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]]]
[[File:Protections communément utilisées en alpinisme sur rocher.jpg|thumb|ロッククライミング装備]]
[[File:Eisklettern kl engstligenfall.jpg|thumb|手の[[アイスバイル]]、足のアイゼンを使ってアイスクライミングを行う様子。]]
登山というのは主に歩くのであり(自分で荷物を背負わなければならないので)多くの用具や食料を携行することはできない<ref name="dainihonhyakka" />。また、登山では危険に直面することもあるので、十分な安全対策を検討したものである必要もある<ref name="dainihonhyakka" />。「安全」「堅牢(けんろう、=丈夫であること)」「軽量」「扱いやすさ」は登山用具の必要条件である<ref name="dainihonhyakka" />。
;基本装備品
*[[方位磁針]](コンパス)
*[[ヘルメット]] : 落石あるいは滑落したときに頭を守る。[[JISマーク]]製品などの規格品が望ましい
* 防寒具(必携) : [[フリース]]ジャケットや[[ダウンジャケット]]などの[[防寒着]](夏でも北アルプスや富士山などの夜間には氷点下になる)や[[懐炉]]。遭難時の対策に[[エマージェンシーブランケット]]も有用。
* [[雨具]](必携): [[レインウェア]]([[雨合羽]])。防寒具も兼ねる。山は風が強く基本的に傘は使えない。
* 靴 : 数百m程度の低山に登るのなら[[スニーカー]]でも足りる。中程度以上の山では底材がしっかりしていて様々な工夫がこらしてある[[登山靴]]が望ましい。
* 手袋 : 怪我防止と防寒。夏山では基本的には[[軍手]]で足りる。登山用の機能的でおしゃれなものもありはする。冬季は下記参照。
* [[地形図]](必携) : 登山の行程ごとの時間や交通機関の問い合わせ等の登山に必要な情報を書き込んだ'''登山地図'''がある。[[国土地理院]]発行の地図も使える。登山ガイドブックなどに付属することもある。現代では[[スマートフォン]]のアプリや[[グローバル・ポジショニング・システム]](GPS)受信機で代替する場合もあるが、電池の消耗には注意が必要である。
* 光源(必携) : 基本は[[懐中電灯]]。最近はLEDのもの。山は日暮れが早く、日が暮れると街とは異なり基本的に明かりがなくなる。懐中電灯などを持っていないと[[遭難]]を招く。行動時は両手が自由になることから[[前照灯|ヘッドランプ]]が好まれ、[[野営]]時には[[ランプ (照明器具)|ランタン]]が好まれる。
* [[携行食]](必携) : [[チョコレート]]、[[飴玉]]、[[おにぎり]] 、一口ようかん等。
* [[非常食]](必携):上記の行動食とは別に、体を温めるための粉末スープやフリーズドライ食品を少量携行することが勧められる。
* [[飲料]](必携) : 基本は[[水]]。水筒やペットボトルに入れたもの。
* [[マルチツールナイフ]](必携) : (ここは基本を説明する節なので通常の登山について説明するが)通常の登山であれば大型のナイフではなく、マルチツールナイフが推奨される。調理を行う予定がない場合でも携行食の開封やその他装備品のトラブルなどが発生した場合の修理に使える事がある。
* 時計(必携) : [[腕時計]]や携帯電話の時計など。時刻・時間が判らないと、様々な判断が困難になり、遭難の可能性が高まる。
* [[ツェルト]] : 必携ではなく、持たない人のほうが多いが、テントを持参した場合は[[ビバーク]]に使え、もしもの時に命を救うことがある
* [[エスビット]]等の小型固形燃料ストーブ : 必携ではないが、万が一の遭難時や[[ビバーク]]を行う際に調理や暖房として利用が可能なため持ち込むユーザーも多い。
* [[熊鈴]] : 登山中に熊による事故も起きている。熊よけスプレーもあるとよい
* [[使い捨てカイロ]] : 3000m以上の高地は夏でも冬である。低体温症を防ぐためにカイロは必須である
* [[衛星電話]] : 遭難するような奥地はスマホの電波が届かないことも多いが衛星電話ならどこでも救助を呼べる。
;テント泊の場合
:基本装備に比べ、宿泊および食事に必要な道具と消耗品が増える。
* [[テント]]一式<ref group="*">うっかりテントの[[ポール]](柱)をザックに入れ忘れて、山中で窮地に陥る登山者も多い。</ref>、[[寝袋]](シュラフ)、寝袋用のシーツ{{ill2|インナーシュラフ|en|Sleeping bag liner}}。山用マットレス。
* 食事の道具。「[[ストーブ]]」と呼ばれるきわめて小型の登山用[[焜炉]]。[[コッヘル]]、[[カトラリー]]類([[スプーン]]・[[フォーク (食器)|フォーク]]・箸など)
* 食料。調理しやすく、比較的軽く、しかも体力の回復に役立つものが中心になる<ref group="*">登山の楽しみのひとつでもあるので、若干量ならば嗜好品も持ってゆく登山者も多い。</ref>。[[缶詰]]、[[インスタント食品]]、[[レトルト食品]]、[[フリーズドライ]]食品、[[アルファ化米]]など調理が簡便な物も多用される。
;岩登り
* [[クライミングロープ]](ザイル)、[[カラビナ]]、カムディバイス、スリング、シューズ、[[ハーケン (登山用品)|ハーケン]]、[[槌|ハンマー]]、確保器、ザイル用中型ナイフ(登山[[ナイフ]])
;冬季
:[[防寒着]]や[[手袋]]などは冬季専用の充分な保温性能のものを用いる。手先や足先の防寒が足りないと[[凍傷]]を起こし[[指]]を失ってしまうことがある。
* [[アイゼン]]、[[ピッケル]]、[[アイスバイル]]、[[輪かんじき|ワカン]]、[[スノーシュー]]、[[スキー]]、[[ストック (トレッキング)]]<!--雪の深い山で杖として使います。-->
=== レイヤリング ===
体温調節のために防寒具や雨合羽などを含む衣類(ウェア)を組み合わせて、体感温度や運動強度に適した服装にすることを'''レイヤリング'''<ref name="モンベル">{{Cite web|和書|url=https://webshop.montbell.jp/material/aboutclothing/ |title=レイヤリングシステム |accessdate=2018-07-07|publisher=株式会社モンベル}}</ref><ref name="山渓992">{{cite journal|和書|date=2017-11|title=ステップアップ雪山登山2018 ②雪山レイヤリング術|publisher=[[山と渓谷社]]|journal=山と渓谷 (2017年12月号)|volume=通巻|issue=992|location=東京|language=日本語|asin=B0765RJDTP|pages=92-117}}</ref>、または'''レイヤード'''<ref name="高橋">{{Cite |和書|author=高橋庄太郎|title=トレッキング実践学|publisher=エイ出版|isbn=978-4777916047|date=2010|pages=50-51}}</ref>という。
{{要出典範囲|登山では''できるだけ汗をかかず、なおかつ寒さを感じない程度の快適な服装''が求められる。肌寒い季節を例にとると、行動中は体が温まっているために薄手のフリースのみでも寒さを感じないこともあるが、休憩中は体が冷えるために他の防寒着を着込む必要がある。そのまま再び行動をすると汗をかき、反って体が冷えてしまうために防寒着を脱いでから行動をはじめなければならない。このように運動強度や気温、標高、天候の変化に合わせたレイヤリングを行う必要がある。|date=2018年12月22日 (土) 08:08 (UTC)|title=}}
{{要出典範囲|着替えを持ち運ぶ必要があるため、特に脱ぎ着の機会が多い中間着では軽量かつ嵩張らないものが好まれる。[[頭巾|フード]]がついた上着は[[目出し帽]]の代わりとなるため、防寒性能が高いとして好まれる<ref group="*">ただし、複数のウェアにフードがついている場合は反って邪魔になることもある。レイヤリングの中で1着だけフード付きのウェアにすると解決できる。</ref>。また、[[線ファスナー|ファスナー]]付きの服は、ファスナーを開放することで換気(ベンチレーション)を行うことができるため行動中の体温調節に便利である。|date=2018年12月22日 (土) 08:08 (UTC)|title=}}
; ベースレイヤー
: [[Tシャツ]]や[[タイツ]]、[[レギンス]]、[[靴下]]などの下着や肌着のことを指す。上のレイヤーに汗を放出する役割を持ち、主に吸湿速乾性が求められる<ref name="モンベル" /><ref name="山渓992" />。ポリエステルのような[[化学繊維]]あるいは[[ウール]]が好まれる。保水性のある[[綿]]や[[レーヨン]]などは汗冷えを招くとして好まれない<ref>『こどもと始める 家族で山登り: 安全に楽しむコツとテクニック』 CSP編、阪急コミュニケーションズ、2013年3月、76-77頁。</ref>。
: また吸湿発熱素材のシャツは熱籠もりを起こしやすく、汗をかきやすくなってしまう。化学繊維であっても登山に向いているとは限らないことに留意するべきである。
: 特に吸湿速乾性に優れた肌着を'''アンダーウェア'''<ref group="*">アパレルメーカーによってはスキンウェアまたはドライレイヤーと称する場合もある。いずれの場合でも汗をベースレイヤーに吸収させる役割を持つ。{{要出典|date=2018-12-22 |title=}}</ref>としてベースレイヤーと別に定義する場合もある。
; ミドルレイヤー(ミッドレイヤー)
: [[フランネル|フランネルシャツ]]やフリース、インサレーション(化学繊維、[[ダウンジャケット]])などの中間着を指す。主に保温性が求められ<ref name="モンベル" /><ref name="山渓992" />、気温が高い夏の低山では省略されることも多い。
: [[ベスト]]は体幹を保温し、腕から熱を逃がすとして春や秋の冷涼な時期によく使用される。
; アウターレイヤー
: [[ウインドブレーカー|ウインドシェル]]やソフトシェル、ハードシェル、レインウェア、ビレイパーカを指す。風雨によって体温を奪われることを防ぐため、防風性や防水透湿性が求められる<ref name="モンベル" /><ref name="山渓992" /><ref group="*">冬山用には中綿やフリースを組み合わせてミッドレイヤーとしての役割も合わせ持つアウターもある。{{要出典|date=2018-12-22 |title=}}</ref>。
: 夏山では省略されがちなレイヤーであるが、日本のような多雨の地域では最低限レインウェアを持参すべきである。
; アクセサリー
: 上記以外に保温などを目的として着用する衣類。手袋や帽子、ネックウォーマー、アームウォーマー、[[レッグウォーマー]]、[[スパッツ (足首)|レインスパッツ]]、イヤーマフ(耳当て)などが挙げられる。
=== ウルトラ・ライト・バックパッキング ===
ウルトラ・ライト・ハイキングとも<ref name="土屋">{{Cite |和書|author=土屋智哉|title=ウルトラライトハイキング|publisher=山と渓谷社|isbn=978-4635150248|date=2011}}</ref>。90年代後半にアメリカのレイ・ジャーダイン(Ray Jardine)によって提唱された「極限まで荷物を軽くすれば遠くへ行ける」という考え方である{{要出典|date=2018年12月20日 (木) 09:15 (UTC) |title=}}。
{{要出典範囲|U.L.はクッカーを軽量なチタン製に換えるなど、従来から行われてきた簡単な手段の積み重ねでも実践できる。さらにU.L.を追求するものは、テントを軽量なツェルトに代えるなど快適性などを多少犠牲にしても軽量化を図ることがある。近年ではトレイルランニング向けに企画された軽量な装備を流用することもある。他にも売店があるような山では、水分を売店で買う計画を立てて登山口から持ち込む重量を減らすという手段をとるものもいる。
前述のレイヤリングを例に挙げると、ミドルレイヤーの役割である保温とアウターの役割である防風を中厚手のソフトシェル1着でまかなうケースが想定できる。この場合は対応できる温度帯が狭くなるため、急に天候や運動強度が変化した場合に対応することが難しくなる。このように反って体力を消耗することがあり得るので、ある程度の経験を積んでからU.L.を検討することが望ましい。|date=2018年12月20日 (木) 09:15 (UTC)|title=}}
== 登山の目的 ==
{{出典の明記|date=2018年12月20日 (木) 09:15 (UTC)|title=半分以上の段落が無出典。|section=1}}
=== レクリエーション ===
[[ファイル:Mt.Minami (Tanzawa) 02.jpg|thumb|230px|説明板と休憩場が設置された山頂部]]
[[レクリエーション]]としての登山の魅力は、ゆっくりと傾斜を歩くことによる[[有酸素運動]]や、[[新陳代謝]]の活性化、あるいは景観や自然の風景そのものを楽しむことにある。他にも、[[森林浴]](リラクゼーション効果)を楽しんだり、ともに登山をする人との交流や、冬山を登る際には[[スキー]]滑走を目的としたりする場合もある。その目的は人により千差万別であり、それぞれの目的に合った登山の方法がある。また日本は山の国であって、[[散歩]]の延長で登れるような手頃な山から、踏破に3-4日かかるものまで様々な山を歩くことができる。また同じ山でも簡単なルートや難所の多いルートなどがあり、各々の力量や体力に合わせ登山を楽しめる場所が多い。日本においては、以前は登山というと[[ワンダーフォーゲル]]や山岳部のイメージが強く、厳しくつらく、特殊な世界と見られがちであった。しかし近年、登山靴や登山用具の発達・軽量化によって、中高年世代においても一種の登山ブームと言える現象が起きた。高齢者でも気軽に登山(ハイキング)や[[トレッキング]]ができるように整備がなされ、体力にあった登山ルートで無理なく景色や運動を楽しむことができるようになってきている。
標高が高くても、中腹の高所まで[[鉄道]]や[[ロープウェイ]]、[[路線バス|路線]]・貸切バスで上れる山もある([[立山]]の[[室堂駅]]、[[千畳敷駅 (長野県)|駒ヶ岳の千畳敷駅]]など)。
また高山や地形・気候が厳しい山への挑戦と対照的に、高さ数メートルのものを含めた低山巡りも趣味として広まりつつある<ref>[https://style.nikkei.com/article/DGXKZO11781780X10C17A1BC8000 そこに低い山があるから 全国行脚し272の低山制覇/「低山倶楽部」隊長・加藤浩二『日本経済新聞』朝刊2017年1月22日]、[http://www.perikansha.co.jp/Search.cgi?mode=SHOW&code=1000001782 中村みつを『東京まちなか超低山』(ぺりかん社)]など{{Full citation needed |date=2018-12-20 |title=「など」は曖昧なので正確に出典をご記入ください。}}。{{要出典範囲|ただし登山や散策の対象として認識されていないため放置され藪に覆われるなどしていて、却って登頂が困難な低山もある。|date=2018-12-20|title=}}</ref>。
一方で登山人口における高齢者の割合が高くなるにつれ、[[遭難]]・事故件数も増えつつある([[#登山における事故]]参照)。また、速度を競い走る速さで登山をする[[トレイルランニング]]練習者と一般登山者の衝突事故、競技用[[自転車]]との[[交通事故]]も起きている。
=== スポーツ(山岳競技) ===
[[国民体育大会|国体]]には山岳競技があり([[国民体育大会山岳競技]])、縦走{{efn2|[[尾根]]をつたい、いくつもの山頂を歩いてゆくこと<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E7%B8%A6%E8%B5%B0-77126 |title=縦走(じゅうそう)とは - コトバンク |website= |publisher= |accessdate=2018-12-21}}</ref>。}}競技と[[クライミング]]競技の2種目で構成される。縦走競技は、規定の重量を背負い、決められたコースを歩ききる時間を競う。クライミング競技は、人工壁を[[フリークライミング]]のスタイルで登り、到達高度を競う。
[[全国高等学校総合体育大会|高校総体]]も、競技形式の登山を実施している<ref group="*">体力や装備、あるいは[[天気図]]に関する技能・知識や、[[高山植物]]、[[応急処置]]の方法、[[テント]]の設営技術等を、審査員がそれらの達成度を採点し、高校ごとに順位を決定する。隊列に遅れず登頂を目指すのも体力点として高得点ではあるが、他にも[[マナー]]や態度、知識や服装にも気を遣う必要がある。</ref><ref group="*">3〜4日間をテントで過ごし、食事も寝床もすべて自分達で持ち歩き準備しなければならない登山競技は、インターハイにおいては最も厳しい競技のひとつである。</ref><ref group="*">地方大会では実力の優劣をはっきりとさせるために重量規制があり、現段階では4人で60kgという規定がある。その60kg以外に、飲料として使用する[[水]]、ケガの治療などとして使用するために綺麗な水なども要するため、実質70kgにも75kgにも及ぶことなどが多々あるという。</ref>。
他にも岩を登る行為を競技として行う[[フリークライミング]]、山道を走ってその順位を争うトレイルランニングや[[スカイランニング]]等の競技がある。いずれも、山や岩場で行う競技であるため、安全や体調管理に十分に注意する必要がある。
ヨーロッパで盛んな[[山スキー]]も雪山を登ることから登山競技の一種である。
=== アート ===
[[風景画]]や[[山岳写真]]、[[詩]]、[[歌]]や[[小説]]の題材とすることも登山の目的のひとつとして挙げられる。山が多く四季の表情に恵まれた日本では、山岳の美しさ、険しさ、優しさなどを心情表現として、古来からアートの対象になってきた。最近は、[[デジタルカメラ]]の小型軽量化・高性能化に伴い、山岳地での[[写真撮影]]も容易なものとなっている。
=== 宗教活動 ===
古代日本において[[山岳信仰]]に発祥する[[修験道]]の場として、[[立山]]、[[御嶽山]]、[[甲斐駒ヶ岳]]など全国各地の[[霊山]]で登山が行われてきた。江戸時代に始まった[[富士講]]も、[[山岳信仰]]のひとつとして挙げられる。
[[江戸時代]]の会津や米沢では飯豊信仰に基づき、[[通過儀礼|成人儀礼]]として[[飯豊山]]を登山することが求められた(「[[通過儀礼#日本における通過儀礼]]」および「[[飯豊山神社#補足]]」を参照)。
=== 職業 ===
もともと伝統的に山で自然資源を得るための登山が存在した。たとえば東北地方に存在する[[マタギ]]と呼ばれる[[狩猟]]集団が行っていたことである。今ではかなり人数が減少したが、マタギを行っている人はいる。また地元住民らが[[山菜]]や[[キノコ]]を採って販売するために入山することも仕事としての登山である。山菜・キノコ採りは資源枯渇や自然環境に影響を与えるほどの量を採ることはせず、狩猟をする場合も乱獲は避けるのが望ましいとされる。
山麓から山頂まで荷物を人力で運ぶために登山する職業を[[歩荷]](ボッカ)あるいは強力(ごうりき)といい、現在でもそれを行う人がいる。ヒマラヤ地方の[[シェルパ]]という部族には、山で荷物運びを行ったり(下で説明するような)登山ガイドの仕事をして収入を得ている者が多数いる。
また、[[登山ガイド]]や[[登山家]]などもいる(登山ガイドは広義の登山家に含まれる)。
登山ガイドは登山の初心者やその山に不慣れな登山者のガイドを請け負い、山を案内して収入を得る。そのためその山に対する深い知識と、不慣れな登山者を安全に案内するための経験や技能が必要となる。登山がさかんな国(例えばフランスなど)では高山ガイドの資格認定を行っている組織がある。日本では現在は、公益社団法人[[日本山岳ガイド協会]]が、ガイドの資格認定を行っている。その資格には、世界中の山を案内できる国際山岳ガイドや、里山を案内する登山ガイドなどさまざまな資格がある。また長野県においては独自のガイド資格として[[信州登山案内人]]の資格を策定している。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.nagano.lg.jp/kankoki/sangyo/kanko/tozan/annainin/index.html |title=信州登山案内人を紹介します |publisher=長野県観光部山岳高原観光課 |accessdate=2018-07-02}}</ref>。
また、あまり数は多くないが、著名な登山家の一部は、[[8000メートル峰|8000m級の山]]を単独で登ったり無酸素登攀したりといった難しいアタックをする際、大企業や[[テレビジョン放送局|テレビ局]]と[[スポンサー]]契約を結び、それによって登山に必要な莫大な費用の一部もしくは大半を確保することがある。幸運にもアタックが成功した場合は企業の広告塔として[[コマーシャルメッセージ|CM]]に出演したりすることなどによって、うまくすれば利益を得ることもある、だがアタックに失敗すると[[死|命を落としてしまったり]]、なんとか生還した場合でも、負傷してしまったり、スポンサー契約を失い苦境に陥ることもある。こういった登山家や山岳ガイドの中でも特に名前を知られている者は講演活動をしたり著書を出版して、生活費の足しにしたり、さらなる挑戦のための費用の一部を得る人もいる。
=== 軍事 ===
登山は軍事教練に利用される場合もある。[[1902年]]には青森県の[[八甲田山]]で[[八甲田雪中行軍遭難事件]]が発生した<ref>{{Cite news |title=八甲田山で雪中行軍遭難、大惨事に |newspaper=佐賀新聞 |url=http://www1.saga-s.co.jp/koremade/timetrip/1902/02.html |accessdate=2014-10-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171214072034/http://www1.saga-s.co.jp/koremade/timetrip/1902/02.html |archivedate=2017-12-14}}</ref>。こうした訓練を重ね、高地や急峻な地形での戦闘を得意とする[[山岳戦]]部隊を保有する国もある。
== 遭難・死亡 ==
[[ファイル:一ノ倉沢.JPG|thumb|[[ギネス世界記録]]で最多死亡者数・最多遭難数を持つ山とされた[[谷川岳]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://getnews.jp/archives/2491488 |title=【世界一危険な山】群馬県にそびえる谷川岳を知っていますか? | ガジェット通信 GetNews |access-date=2023-10-08 |date=2020-04-13 |website=ガジェット通信 GetNews |language=ja}}</ref>]]
[[ファイル:South Face of Annapurna I (Main).jpg|thumb|[[8000メートル峰]]で最も死亡率が高いアンナプルナⅠ峰<ref>{{Cite web |url=https://www.guinnessworldrecords.com/world-records/deadliest-mountain-to-climb |title=Deadliest mountain to climb |access-date=2023-08-15 |date=2018-01-31 |website=Guinness World Records |language=en-gb}}</ref>]]
[[ファイル:Green Boots.jpg|thumb|エベレストで死亡して登山者の目印となっていた身元不明登山者[[グリーンブーツ]]]]
=== 時代別世代別状況 ===
<!--- 戦後の日本の情報のみ集まっているので、それ以外の時代、それ以外の国地域の情報がありましたら、追記および節名の調整などお願いします。 --->
警察庁は、[[1961年]](昭和35年)から毎年、日本国内の山岳遭難者数を取りまとめる統計資料によれば、年齢別の遭難者数の割合は、多い順から、
* [[1972年]](昭和47年)- 20代:66.6%、10代:16.7%、30代:11.1%、40代:5.6%、50代以上:0%
* [[1998年]](平成10年)- 50代:25.3%、60代:20.8%、40代:15.4%、70代:12%、20代:9.7%、30代:9.1%、10代:4.9%、80代:2.6%、90代および不明:0.1%
* [[2008年]](平成20年)- 60代:29.8%、50代:19.1%、70代:17.5%、40代:10%、30代:7.8%、20代:6.4%、10代:4.6%、80代:4.2%、90代および不明:0.4%
となっている{{sfn|羽根田|2010|pp=73-79}}、[[時代]]によって登山をする[[世代]]が異なることを示していると考えられる{{sfn|羽根田|2010|pp=70-73}}。
[[1990年]](平成2年)前後からは中高年登山[[流行|ブーム]]が起こっていて{{sfn|羽根田|2010|p=71}}、[[2008年]](平成20年)に発生した山岳遭難者数1,933人のうち40歳以上の中高年者の数は1,567人、死者・行方不明者は281人中256人と過去最高を記録<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.npa.go.jp/safetylife/chiiki28/h20_sangakusounan.pdf |title=平成20年中における山岳遭難の概況 |publisher=警察庁生活安全局地域課 |accessdate=2018-12-21 |format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130721180813/http://www.npa.go.jp:80/safetylife/chiiki28/h20_sangakusounan.pdf |archivedate=2013-07-21}}</ref>。[[2009年]](平成21年)に発生した山岳遭難者数は2,085人、死者・行方不明者は317人とどちらも過去最高を更新。遭難者のうち55歳以上が6割を占め、とりわけ死者・行方不明者は9割を40歳以上が占めている<ref name="kst">[https://www.j-cast.com/2010/06/09068419.html 中高年の山遭難増える 死者・不明は過去最多] J-CASTニュース 2010年6月9日 18:04、2022年1月22日閲覧</ref>2008年(平成20年)の数字では、遭難事故死者数は全体で253人、そのうち中高年者が234人となっていて、これらの数字からは、中高年者はアクシデントが起きたときに死に至る割合が高いということが読み取れる{{sfn|羽根田|2010|pp=77-79}}。朝日新聞による[[2010年]](平成22年)の調べでは、[[2005年]] - 2009年の7、8月の[[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]への登山中に救護された人のうち、体調急変により[[心肺停止]]になった人が14人おり、うち11人が45 - 69歳である<ref name="朝日新聞100626" />。
=== 要因と対策 ===
==== 病気・怪我 ====
[[高度]]のある山は、見た目でわかる以上に平地と環境が違うので、ふだんの生活では自覚されないで隠れている[[持病]]が悪化することが考えられるという<ref name="朝日新聞100626" />。
2009年(平成21年)夏、[[富士登山]]で[[高山病]]{{efn2|「高山病」の発症リスクは体力の有無とは関係なく、また、高齢者より若い人に多く発症する症候群である<ref>{{Cite web|和書|url=http://mmh.banyu.co.jp/mmhe2j/sec24/ch296/ch296a.html|title=メルクマニュアル家庭版, 296 章 高山病|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100514101659/http://mmh.banyu.co.jp:80/mmhe2j/sec24/ch296/ch296a.html |archivedate=2010-05-14 |accessdate=2018-12-21 |publisher=万有製薬, MERCK & CO., INC.}}</ref>。}}と診断された人が537人いるという<ref name="朝日新聞100626">「富士登山 体調急変ご注意」『朝日新聞』2010年6月26日。</ref>。
また、天気の急変や高地で温度も低下するため低体温症が、動き回ることで脱水症・熱中症などが起きやすい<ref name=shimanep>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.shimane.lg.jp/police/01_safety_of_life/Mountain_distress_prevention/summer.html |title=島根県警察:夏の山岳特有の危険 |access-date=2023-10-08 |website=www.pref.shimane.lg.jp}}</ref>。
==== 落石・土砂崩れ・雪崩 ====
登山中に上から崩れ落ちてきた石あるいは岩塊が身体に当たって死傷する事故が発生することがある<ref name=bunshu940>{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/64940 |title=「道がわからなくなった」登山中の40代男性が遭難、3ヶ月後に“白骨化遺体”で発見…知っておきたい“山の死亡事故リスク”と安全知識 | 山はおそろしい |access-date=2023-08-15 |last=治 |first=羽根田 |website=文春オンライン}}</ref>。[[落石 (自然災害)|落石]]の発生原因は自然発生的なものもあれば、人が誤って脆い地盤を踏んで発生させてしまうものもある。
落石の時は、ラク!と叫ぶのがマナーとされるが、落石の落(ラク)か、英語での警告Rock(岩の意、ロック)!から来たものかは不明。
==== 噴火 ====
2014年9月27日に[[御嶽山]]が噴火して登山者に多数の死傷者を出した<ref>{{Cite news |title=海外メディアも人的被害の大きさ速報 |newspaper=産経新聞|date=2014-09-29|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140929/dst14092900030001-n1.htm|accessdate=2014-10-10|archiveurl=https://archive.is/anC5A |archivedate=2014-09-28}}</ref><ref>{{Cite news |title=御嶽山噴火、心肺停止の3人を発見 3日ぶり捜索再開 |newspaper=朝日新聞 |date=2014-10-07 |url=http://www.asahi.com/articles/ASGB72SHFGB7UTIL006.html |accessdate=2014-10-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150924074735/http://www.asahi.com/articles/ASGB72SHFGB7UTIL006.html |archivedate=2015-09-24}}</ref>。この御嶽山での噴火を受けて各地で対応策の検討が行われている。[[山梨県]]の[[横内正明]]知事は御嶽山での噴火を受けて[[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]でも水蒸気爆発等の突発的な事態に備え登山者に[[マスク]]や[[ヘルメット]]の持参を呼び掛ける必要があるとの考えを示した<ref>{{Cite news |title=富士山登山、ヘルメット持参を 山梨知事、避難壕も検討 |newspaper=デーリー東北 |date=2014-10-08 |url=http://www.daily-tohoku.co.jp/news/m2014100801001437.html |accessdate=2014-10-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141015223953/http://www.daily-tohoku.co.jp/news/m2014100801001437.html |archivedate=2014-10-15}}</ref>。
{{Main|2014年の御嶽山噴火}}
2014年の御嶽山噴火を受け、2015年7月に[[活動火山対策特別措置法]]が改正されて新たに「登山者は、火山の噴火等が起こった際に円滑、迅速に避難できるよう、必要な手段を講じるように努めなければならない。」(第11条第2項)という規定が定められた<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.bousai.go.jp/kazan/taisaku/pdf/k404_1_03_20151204.pdf|title = 登山者の努力事項ご存知ですか?(制度PR資料)|publisher=内閣府|accessdate = 2016-02-26}}</ref>。また、火山周辺の一部の施設については、避難確保計画の作成等が義務づけられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bousai.go.jp/kazan/taisaku/pdf/k404_1_02.pdf|title=避難確保計画の作成にご協力ください!(制度PR資料)|publisher=内閣府|accessdate = 2016-02-26}}</ref>。
==== 天候の変化 ====
山は急に天候が変化する<ref name=weather325>{{Cite web|和書|url=https://weathernews.jp/s/topics/202308/090325/ |title=山の天気はなぜ変わりやすい?登山時に知っておくべき天気急変のサイン |access-date=2023-08-15 |website=ウェザーニュース |language=ja}}</ref>。遭難時が必ず悪天候とは限らないが、その多くは悪天候の時である<ref>[https://www.metsoc.jp/tenki/pdf/1958/1958_02_0055.pdf 山の遭難とその気象の統計]</ref>。
登山前に天気予報の確認と登山計画を立てる。無理そうなら登山を諦める決断。レインコートなどの雨具や[[エマージェンシーブランケット|エマージェンシーシート]]などの備えを準備する<ref name=weather325/>。
雷は、平地より発生しやすく、気温が上昇しやすい午後以降に起きやすいため、早朝や午前中の行動を心掛け、雷を回避する知識を身に着ける<ref name=shimanep/>。
==== 道に迷う ====
最も多いのが道に迷う遭難で<ref>{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/172735 |title=山で道に迷ったら絶対に沢に降りてはいけない理由 |access-date=2023-08-15 |date=2018-07-04 |website=ダイヤモンド・オンライン |language=ja}}</ref>、低い山ほど迷いやすい<ref name=nhk409>{{Cite web|和書|url=http://www.nhk.or.jp/seikatsu-blog/news/299409.html |title=「低い山」ほど 迷いやすい |access-date=2023-08-15 |website=NHK生活情報ブログ |language=ja}}</ref>。事前対策として携帯電話のマップ機能を使う<ref name=bunshu940/>ほか、登山届を提出し発信機を持つなどがある<ref name=nhk409/>。また、来た道を引き返し正しいルートに戻るか、山頂や尾根を目指し下ってはいけない<ref name=nhk409/>などがある。
==== 難易度の等級づけ ====
{{seealso|{{ill2|ヨセミテデシマルシステム|en|Yosemite Decimal System}}|{{ill2|グレード (登山)|en|Grade (climbing)}}}}
ヨーロッパ・アルプスおよびロシアでは、山のコースごとに難易度を決める試みがなされており、登山者の経験にも等級が付けられつつある{{sfn|平凡社|2011|p=268}}。日本でも、山やルートごとに難易度を示す「グレーディング」(難易度評価)が全国に広がっている<ref name="産経新聞20170808" />{{sfn|平凡社|2011|p=268}}。2014年に[[長野県]]が公表し、2017年夏時点では7県の600以上のコースについてグレーディングが公表されている<ref name="産経新聞20170808">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20170808-2Y2B76T2UZJ5PEI4BPC5VUPRF4/|title=登山前に「難易度評価」注意 遭難防止へ必ず確認を|work=|publisher=『[[産経新聞]]』|date=2017年8月8日}}</ref>。
{{ill2|難所 (登山)|en|Crux (climbing)}}
== 自然に優しい登山 ==
: ストックの乱用と中高年登山ブームが相乗したことにより、登山道が踏圧による洗掘と流水による土砂流出、拡幅したりすることにより大量の土壌の流出や裸地化を招いてしまっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/ceispapers/ceis22/0/ceis22_0_381/_pdf|title=国立公園における登山道の荒廃箇所に対する整備策定過程における課題 |format=pdf |publisher=J-Stage|date=|accessdate=2023-07-23}}</ref>。
; ゆっくりと歩く
「フラット歩行」を身に付けて、 土や岩をけったり植物を踏むような乱暴な歩き方は極力避けること。「歩かせていただきます」という謙譲な気持ちをもってローインパクトでなければならない<ref>{{Cite web|和書|url=https://chichibunoko-bh.spec.ed.jp/%E9%83%A8%E6%B4%BB%E5%8B%95-1/%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E9%83%A8/%E9%83%A8%E5%93%A1%E5%90%91%E3%81%91%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB/%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%8D%E6%96%B9|title=疲れない山の歩き方 |format=pdf |publisher=埼玉県立秩父農工科学高等学校|date=|accessdate=2023-08-05}}</ref>。
* 歩幅は小さく小股歩く。
* 足裏全体を地面につけるように斜面に対してフラットに靴をおく<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=687|title=安定して歩くために欠かせない「フラット歩行」|publisher=山と渓谷社|date=2019-5-29|accessdate=2023-08-05}}</ref>。
* 事故が多く、膝や足を痛めることが多い下り道は、しなやかにゆっくりと歩く。
* ストックの先にはゴムキャップをつけて、登山道を痛めないようにする<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sangakusogocenter.com/shudantozan/docs/syudankyouhon.pdf|title=長野県山岳総合センター登山教本『集団登山』 |format=pdf |publisher=長野県山岳総合センター|date=|accessdate=2023-08-05}}</ref>。
==治療やサポート・健康問題==
{{seealso|en:Category:Climbing and health}}
* [[高山病]]、急性高山病(acute mountain sickness:AMS)、{{仮リンク|高地脳浮腫|en|high-altitude cerebral edema}}(HACE)、{{仮リンク|高地肺水腫|en|high-altitude pulmonary edema}}(HAPE)
* [[高度が人に与える影響]]を抑えるためには、徐々に高度を上げる高地順化が求められる<ref>{{Cite journal |last=杉田 |first=正明 |last2=西村 |first2=明展 |last3=加藤 |first3=公 |last4=福田 |first4=亜紀 |last5=松田 |first5=和道 |last6=須藤 |first6=啓広 |date=2013 |title=高地順化のための安静時低酸素吸入がその後のトレーニングに及ぼす影響 |url=https://doi.org/10.11425/sst.2.31 |language=ja |doi=10.11425/sst.2.31}}</ref>。
* [[低体温症]]
* [[矛盾脱衣]] - 寒さを暑さと誤解して衣服を脱いでしまう現象。
* [[夏山診療所]]
* [[山小屋]]
* [[ビバーク]]
* 救助要請、[[山岳救助]]([[山岳救助隊 (消防)]]、[[山岳警備隊]])
* [[歩荷]]、{{仮リンク|ポーター (運搬人)|label=ポーター|en|Porter (carrier)}}(剛力)、シェルパ、山岳ガイド
* [[登山用GPS地図アプリ]]
;薬、処置
* [[デキサメタゾン]] - HACE、HAPEの治療薬。
* 高山病予防薬[[アセタゾラミド]]
* [[ニフェジピン]] - HAPE治療薬
* [[ホスホジエステラーゼ阻害薬]] - HAPE治療薬
* [[酸素吸入]]
* {{ill2|ポータブル高圧チャンバー|en|Portable hyperbaric bag}}(可搬式高圧治療袋)<ref>[http://www.jsmmed.org/_userdata/no3.pdf ポータブル高圧チャンバー(可搬式高圧治療袋)] 日本登山医学会</ref>
* 下山(緊急搬送)
* 高地用医療車両<ref>{{Cite web |url=http://j.people.com.cn/n/2014/0912/c95952-8781869.html |title=中国初の高地用医療車両、チベットの「移動救急ステーション」に--人民網日本語版--人民日報 |access-date=2023-08-26 |website=j.people.com.cn}}</ref>
* 3SABCDE - 傷病者の初期対応である。2s(安全性Safty・状況確認Scan)、Spine(背骨をまっすぐ)、気道確保(Airway)、呼吸確保(Breathing)、循環器確認([[心肺蘇生法]] Circulation)、障害 (Disability、怪我の確認)、暴露 (Exposure、熱中症や低体温症対策の保温・冷却)<ref>[https://www.jpnsport.go.jp/tozanken/Portals/0/images/contents/syusai/2018/text/text3-7.pdf 登山の医学] サイト:独立行政法人[[日本スポーツ振興センター]]</ref><ref>[http://www.tozan-koutairen.hokkaido-c.ed.jp/?action=common_download_main&upload_id=25 登山の医学「予防とファストエイド」]
著:大城和惠、監修:山本正嘉 サイト:北海道高等学校体育連盟登山専門部</ref>。
== 登山と自然破壊の問題 ==
{{出典の明記|date=2018年12月20日 (木) 09:15 (UTC)|title=|section=1}}
近年、登山人口が増加したことによる自然に対するダメージが目立ってきている。例としては、ゴミやタバコを持ち帰らずポイ捨てする、むやみに木や枝を折る、遊歩道を歩かず、貴重な植物を踏んでしまうなどがある。これらは本来、登山者にとって守るべきマナーであるが、登山を始めたばかりの登山者の中にはそれを知らず結果的に自然や景観に影響を与えてしまうことがままある。以下に具体的な例を挙げる。
; ごみの問題
: 登山の途中に発生するゴミは、原則的に当人が持ち帰らなければいけない。プラスチックやペットボトルなどの化学合成品は分解が遅く、長く自然界にとどまるため生態系に悪い影響を及ぼすとされる。また、生ゴミであれば捨てて良いというわけではなく、過多な栄養はその地に住む動植物の生態系を変え、結果的にはそれまでの生態系を破壊してしまう結果にもなる。
; 植物の盗掘
: また、よくあるのが植物の持ち帰りである。[[高山植物]]は学術的にも貴重であり、ほとんどの山で持ち帰りが禁止されている。しかし、それを知らないがために野の花を摘むように持って行ってしまう登山者がある。あるいは、高山植物の生息域にロープ等で立ち入り禁止が示されているにも関わらず、自宅での鑑賞のために持って帰ってしまう者、悪質なものは土を掘り返し根元から大量に持ち去ってしまうこともある。代表的な高山植物である[[コマクサ]]は、その美しさに愛好家も多い花だが、山からの盗掘もまた多い。逆に、盗掘した植物を、本来その植物が自生していない別の山に移植してしまうケースも発生している。
; 動物生態系への影響
: 多くの登山者が山に入ることによる、[[野生動物]]が安心と思う住領域の縮小、また人間の持ち込んだごみにより、野生動物の食環境の変化、また人間が出すごみを好む動物が増えてしまうなどの影響が考えられる。また犬を連れての登山を禁止している山もある。これは犬が[[病原体]]を持ち込んだり野犬となったりして、野生動物の生態が乱されるのを恐れての処置である。また登山道における糞尿などのトラブルも発生している。犬連れ登山禁止に対しては、「長年犬は山小屋、猟師で飼われてきたが、犬から野生動物への病気感染があったか疑問である」「人間の方が犬より環境インパクトが大きい」などの反論がある。
; 排泄物の処理
: [[槍ヶ岳]]や[[剱岳]]、[[八ヶ岳]]、[[尾瀬]]など、人気のある山においては[[山小屋]]での排泄物の処理が問題となる。以前は[[屎尿]]の処理は土に返すだけの処理であったが、登山人口の増加に伴って人間の排泄物が自然に与える影響が無視できない状況になってきた。加えて、排泄物に含まれる大腸菌等によって[[湧水]]が汚染され、飲用できなくなる事態も発生している。そこで、現在では[[ヘリコプター]]などで排泄物を運搬、しかるべき施設で処理する方法や微生物で分解するバイオトイレなどへと変化して来ている。運送費や諸経費の調達のため、場所によっては山小屋の利用料を値上げしたり、トイレの使用料を取る山小屋もある。登山における休憩中の排泄も人数が多くなれば悪臭や栄養過多で影響を与えるため、簡易トイレの使用も推奨されている。
; 登山道の荒廃
[[ファイル:Okura-one 070203.JPG|thumb|230px|[[丹沢山地]]・[[大倉尾根]]の大きくえぐられた登山道。前方は登山道が2本に分かれ、中央が島のようになっている。]]
: 近年の中高年の登山ブームにおけるオーバーユースによって登山道の荒廃が広がっている。加えて、えぐれた登山道では雨が降るとぬかるみ、それを避けるために登山道脇を歩くことによって植生は失われ、登山道が広がり中には車が通れるほどの広さになっている登山道もある。また、最近では登山時に腰やひざの負担を軽減する目的でステッキやストックなどを使用する人が多くなってきているが、それらで登山道の土が掘り起こされ、柔らかくなった土が雨で流出するなど登山道が荒れる原因になっている。
== 登山禁止とマナー問題 ==
西ヨーロッパの最高峰[[モンブラン]]登山の出発点となる{{仮リンク|サンジェルベ・レ・バン|en|Saint-Gervais-les-Bains}}の市長は、2017年8月に「適切な装備を整えていない登山者」に対して即時罰金を科する条例を発布した。これは、連続する死亡事故を受けての措置である<ref>{{Cite web |url=https://www.theguardian.com/world/2017/aug/21/mont-blanc-mayor-tries-to-stop-ill-equipped-hotheads-tackling-peak |title=Mont Blanc: mayor tries to stop ill-equipped 'hotheads' tackling peak |access-date=2023-10-09 |last=Willsher |first=Kim |date=2017-08-21 |website=The Guardian |language=en-GB}}</ref>。
2023年5月31日、インドネシアの[[バリ州]]知事{{ill2|ワヤン・コスター|en|I Wayan Koster}}は観光客の相次ぐ迷惑行為を受けて、「山々は聖なる存在として崇拝されている。その神聖さが損なわれれば、それはバリの神聖さをおとしめるに等しい」と述べ、バリ州にある22山の登山客の登山、宗教儀式や災害対処などの理由のない地元住民の登山を無期限禁止とした<ref>{{Cite web |url=https://www.cnn.co.jp/travel/35205234.html |title=バリ島の登山禁止を検討、観光客の相次ぐ迷惑行為受け |access-date=2023-10-09 |website=CNN.co.jp |language=ja}}</ref>。
日本では、富士山への休憩なし、装備なしの[[弾丸登山]]に対して、多くの自治体などが警戒しており、場合によっては登山制限などの検討を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20230630b.html |title=富士山 “弾丸登山”に危機感 今夏の登山者急増見込みで | NHK |access-date=2023-10-09 |last=日本放送協会 |website=NHK首都圏ナビ |language=ja}}</ref>。
== 登山に関する組織・団体 ==
=== 山岳会 ===
登山愛好者の団体を山岳会(さんがくかい)と称する。山岳会には山または歩くことにちなんだ名前が付けられることが多い。
学校または職場単位で結成される山岳会は部活動として特に山岳部や登山部、ワンダーフォーゲル部などと称する<ref group="*">厳密に言えば登山とトレッキング、ハイキング、ワンダーフォーゲルには細かい差異があるが、山岳での野外活動という点で共通している。</ref>。
1857年には世界最初の山岳会である英国山岳会が設立され、1905年には日本最初の山岳会である[[日本山岳会]]が設立された。それ以降も日本国内で様々な山岳会が結成され、全日本山岳連盟(現・[[日本山岳・スポーツクライミング協会]])と勤労者山岳会(現・[[日本勤労者山岳連盟]])のような統括団体が生まれた。
山岳会は主に団体での山行や会員同士による登山技術の研修指導を行っている。会によっては、登山道もしくは[[山小屋]]の維持修繕、救助活動の支援、非会員への講演・研修、森林の保護、高山へ挑戦する会員の支援などを行っている。また、登山用品メーカーに対しては消費者団体としての側面も持つ<ref group="*">[[ナイロンザイル事件]]を参照。</ref>。
=== 登山ガイド団体・登山学校 ===
1965年にイタリア、フランス、オーストリア、スイスの山岳ガイド協会の会議が行われ、{{仮リンク|国際山岳ガイド連盟|en|UIAGM}}が設立された。
日本の山岳ガイドは、古くは[[強力]](ごうりき)が行っていた。1934年ごろの富士山表口強力案内組合には100名を超える強力が加盟していた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.fujinomiya.lg.jp/citizen/visuf80000008s5f.html |title=「強力 -富士登山案内人の軌跡─」展 |publisher=富士宮市郷土資料館|accessdate=2018-07-02}}</ref>。1990年に日本山岳ガイド連盟が設立され、翌1991年に国際山岳ガイド連盟に加入した。2003年に日本山岳ガイド連盟と日本アルパイン・ガイド協会は合併し[[日本山岳ガイド協会]]に改組した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jfmga.com/setsuritsu.html |title=ガイド協会とは|publisher=日本山岳ガイド協会|accessdate=2018-07-02}}</ref>。
フランス、[[スイス]]、[[オーストリア]]、[[ロシア連邦|ロシア]]、[[インド]]などに登山学校があり、指導者養成と研修が行われている{{sfn|平凡社|2011|p=268}}。日本では立山に[[国立登山研修所]]があるほか、[[神奈川県]]、[[長野県]]、[[兵庫県]]に県立の登山学校がある{{sfn|平凡社|2011|p=268}}。
=== 競技者団体 ===
* [[日本山岳・スポーツクライミング協会]]
* [[日本勤労者山岳連盟]]
* [[日本フリークライミング協会]]
* [[全国高等学校体育連盟]]
=== 山岳遭難対策協議会 ===
{{要出典範囲|山岳事故を防止・救難するための情報提供を行ったり、警察・消防などの公的機関に協力して救助活動を行う団体である。山岳遭難防止対策協会、山岳遭難防止対策協議会など地域によって名称に若干の差異があるが活動内容はほぼ同一である。|date=2018年12月20日 (木) 09:40 (UTC)|title=}}1964年以降国立登山研修所とスポーツ庁等が全国山岳遭難対策協議会を毎年開催している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jpnsport.go.jp/tozanken/kyousai/tabid/76/Default.aspx |title=全国山岳遭難対策協議会 | publisher=日本スポーツ振興センター国立登山研修所 |accessdate=2018-07-07}}</ref>。
また、1992年に東京都山岳連盟の提唱により日本山岳レスキュー協議会が設立され、遭難救助に関する情報交換を行っている{{要出典|date=2018年12月20日 (木) 09:40 (UTC) |title=}}。
=== 行政機関 ===
* 日本では管轄の警察や消防、自衛隊が山岳事故の防止活動と山岳救助を実施している。詳細は[[山岳救助]]を参照。
* 市町村では地域振興課や観光振興課のような名称の部署があり、登山道に関する情報を発信していることがある。
* [[東京都]]においては[[東京都環境局|環境局]]に自然保護専門員を設置し、登山マナーの啓発指導・密猟盗掘の監視・登山道の管理を行っている。詳細は[[東京都レンジャー]]を参照。
* 国においては国立公園の管理を[[環境省]]が行っているが、登山技術の向上という点では[[文部科学省]]および[[スポーツ庁]](独立行政法人[[日本スポーツ振興センター]]国立登山研修所)がその担当である。
* [[国土地理院]]は自治体と協力して、登山道の調査と地図への反映を担当している。登山道の改廃を早く反映させるため、2017年12月には登山者からインターネットで情報を収集する民間企業である[[ヤマレコ]](長野県松本市)、ヤマップ(福岡市)と協定を結んだ<ref>[https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/tozando-teiketsu.html 登山道情報に関する協力協定を締結]国土地理院(2017年12月12日発表)</ref>。
=== 芸術文化団体 ===
山を対象にした画・写真などの作家団体が存在する。山全般を対象にする団体や、富士山など特定の山や地域を対象にする団体がある。
=== 登山用品メーカー・販売店など ===
{{seealso|{{ill2|登山装備ブランド一覧|en|List of mountaineering equipment brands}}}}
登山用品は多岐にわたるため、登山用品に限っても多くの総合・専門メーカーが存在する。
また、登山専門を謳わないアウトドア用品メーカーや総合スポーツ用品メーカー、一般の衣類メーカーなどでも登山に使用できる用品を作成・販売している。
総合スポーツ用品店を含む登山用品販売店では、登山学校と称して登山知識や技術の講習会を実施していることがある。
この他に登山に関連するビジネスとしては、登山客の輸送・宿泊を担う交通・旅行会社や旅館・ホテル・山小屋などの観光産業、ヤマレコのような[[インターネット]]での登山情報の提供、登山地図や雑誌の出版社などがある。
== 季語 ==
[[ファイル:Lake Onnetō from Mount Meakan 2009-09-27.jpg|thumb|250px|[[北海道]]の山に登り、見晴るかす大地を望む/画像は[[雌阿寒岳]]からの風景。]]
[[ファイル:Komaho hutte1.JPG|thumb|250px|日本の[[山小屋]]/画像は、[[中央アルプス]]、[[空木駒峰ヒュッテ]]。]]
[[季語]]としての'''登山'''(とざん)は、[[夏]]の季語([[晩夏]]の季語)である<ref name="Kigosai">{{Cite web|和書|date=2010-03-25 |url=https://kigosai.sub.jp/001/archives/9775 |title=登山 |work=季語と歳時記-きごさい歳時記 |publisher=季語と歳時記の会 |accessdate=2018-02-25}}</ref>。分類は[[行事]]/人事<ref name="大辞泉">『[[大辞泉]]』{{Full citation needed|date=2018-12-21 |title=版やページ番号が不明。}}</ref><ref group="*">「行事」も「人事」も、ここでは、人間が行う事柄を指す。</ref>。季語の世界では「登山」は「山に登ること」全般を指す<ref name="Kigosai" />。
{{quotation|
* 例句:いのち負ふ如くにも負ひ'''登山'''の荷 ─ [[後藤比奈夫]]
* 例句:<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>は暗き[[鍛冶屋]]'''登山'''の<ruby><rb>案内村</rb><rt>あないむら</rt></ruby> ─ [[山口誓子]]
* 例句:'''登山'''する男女や夜の[[諏訪地域|諏訪]]の森 ─ [[星野立子]]
}}
{{Anchors|山登り|登山宿|登山小屋|山小屋|登山口|登山杖|登山笠|登山馬|登山電車|登山地図|ザイル|寝袋}}「登山」を親季語とする子季語<ref group="*">ある主要な季語について別表現と位置付けされる季語を、親子の関係になぞらえて、親季語に対する「子季語」という。「傍題」ともいうが、傍題は本来「季題」の[[対義語]]である。なお、子季語の季節と分類は親季語に準ずる。</ref>は、以下のとおり、かなり多い。'''山登り'''(やまのぼり。山に登ること。登山)、'''登山宿'''(とざんやど。登山者のための[[宿泊施設|宿]])、'''登山小屋'''(とざんごや。登山者のための[[小屋]])、'''[[山小屋]]'''(やまごや)、'''登山口'''(とざんぐち。山の登りくち)、'''登山杖'''(とざんずえ。登山のときに使用する[[杖]])、'''登山笠'''(とざんがさ。登山のときに使用する[[笠]])、'''登山帽'''(とざんぼう。登山のときに使用する[[帽子]])、'''登山馬'''(とざんうま。山登り用の[[ウマ|馬]])、'''[[登山電車]]'''(とざんでんしゃ。登山用の[[鉄道]])、'''登山地図'''(とざんちず。登山するための[[地図]])、'''[[ザイル]]'''、'''[[寝袋]]'''(ねぶくろ)<ref name="Kigosai" />。
{{quotation|
* 例句:[[オダマキ属|をだまき]]の花に<ruby><rb>[[床几|牀几]]</rb><rt>しやうぎ</rt></ruby>や'''山登り''' ─ [[阿波野青畝]]
* 例句:<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>の<ruby><rb>皮</rb><rt>かわ</rt></ruby>も <ruby><rb>節</rb><rt>ふし</rt></ruby>も<ruby><rb>飾</rb><rt>かざ</rt></ruby>りに '''登山宿''' ─ [[鷹羽狩行]]
* 例句:うしろより [[霧]]を噴きゐる '''登山小屋''' ─ [[深見けん二]]
* 例句:'''山小屋'''の [[ストーブ|ストーヴ]]の熱 背へ<ruby><rb>徹</rb><rt>とほ</rt></ruby>る ─ [[山口誓子]]
* 例句:<ruby><rb>天高</rb><rt>てんたか</rt></ruby>き<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>に<ruby><rb>更</rb><rt>さら</rt></ruby>に'''登山口''' ─ 山口誓子
* 例句:[[ふくらはぎ|ふくら]]<ruby><rb>脛</rb><rt>はぎ</rt></ruby> '''登山杖'''もて 叩かるる ─ 阿波野青畝
* 例句:<ruby><rb>[[来世]]</rb><rt>らいせ</rt></ruby>には <ruby><rb>[[天馬]]</rb><rt>てんま</rt></ruby>になれよ '''登山馬''' ─ [[鷹羽狩行]]
* 例句:[[トンネル]]を '''登山電車'''の ひた下る ─ 阿波野青畝
* 例句:<ruby><rb>朱線</rb><rt>しゅせん</rt></ruby><ruby><rb>縦横</rb><rt>じゅうわう</rt></ruby> <ruby><rb>吾子</rb><rt>あこ</rt></ruby>にまかせし '''登山地図''' ─ [[能村登四郎]]
}}
{{Anchors|夏の山|登山靴|ケルン|積石|冬登山}}関連季語として[[歳時記]]に記載されていないものの、関連性のある季語としては、'''[[夏の山]]'''(なつのやま。三夏の季語。分類は地理)と<ref name="Kigosai-夏の山">{{Cite web|和書|date=2011-02-05 |url=https://kigosai.sub.jp/001/archives/2052 |title=夏の山(なつのやま) 三夏 |work=季語と歳時記-きごさい歳時記 |publisher=季語と歳時記の会 |accessdate=2018-02-25}}</ref><ref name="Sogyusha-夏の山">{{Cite web|和書|author=大澤水牛 |date=2012 |url=http://sogyusha.org/saijiki/02_summer/natsunoyama.html |title=夏の山 |work=水牛歳時記 |publisher=NPO法人双牛舎 |accessdate=2018-02-25}}</ref>その子季語('''夏山'''〈なつやま。夏の青葉が繁った山〉、'''夏嶺'''〈かれい。夏山と同義〉、'''青嶺'''〈あおね、<small>[[歴史的仮名遣]]:あをね</small>。夏山と同義〉、'''夏山路'''〈なつやまじ。草木の生い繁った夏の山路〉、'''夏山家'''〈なつやまが。草木の生い繁る夏の山中の家〉、'''青き嶺'''〈あおきみね。夏の山〉、'''山滴る'''〈やましたたる〉、'''滴る山'''〈したたる山。五月山[さつきやま。[[5月 (旧暦)|陰暦5月]]ごろの[[緑]]の多い山]の異称〉、'''翠巒'''〈すいらん。緑色に連なる山々〉)を始め、'''[[ケアン|ケルン]]'''([[山頂]]や[[登山道|山道]]に[[道標]]や[[記念]]として石を[[円錐]]形に積み上げたもの。登山で亡くなった人を哀悼する記念碑もある。晩夏の季語。分類は人事)、'''積石'''(つみいし。ケルンと同義で子季語)、'''冬登山'''(ふゆとざん。冬山の登山。危険を伴ない、遭難者も多い。[[冬]]の季語。分類は地理)を挙げることができる<ref name="Kigosai-夏の山" />。'''[[登山靴]]'''(とざんぐつ)を挙げる場合もある。
{{quotation|
* 例句:君積みし '''ケルン'''探すや <ruby><rb>嶺</rb><rt>みね</rt></ruby>光る ─ [[森村誠一]]
* 例句:'''登山靴'''<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>いて歩幅の決まりけり ─ [[後藤比奈夫]]
}}
== 登山を扱った作品 ==
{{main|Category:登山を題材とした作品|en:Category:Mountaineering books}}
<!-- 提示する作品は、Wikipediaのガイドライン[[Wikipedia:関連作品]]に準拠した作品であることを証明する記述も含めて記入してください。 -->
* {{ill2|登山ガイドブック|en|Climbing guidebook}}
=== 登山雑誌 ===
* 『[[山と溪谷]]』[[山と溪谷社]](1930年 - )
* 『ケルン』朋文堂(1933年 - 1938年)
* 『[[岳人]]』[[モンベル]]ネイチュアエンタープライズ(1947年 - )[[東京新聞]](1949年 - 2014年)
* 『[[岩と雪]]』山と溪谷社(1958年 - 1995年)
* 『[[ワンダーフォーゲル (雑誌)|ワンダーフォーゲル]]』山と溪谷社(1975年 - ) 『夏山JOY』、『ヤマケイJOY』を経て現誌名になる。
* 『[[Fall Number]]』[[白山書房]](1979年 - 1982年)
* 『[[クライミングジャーナル]]』白山書房(1982年 - 1991年)
* 『[[ROCK & SNOW]]』山と溪谷社(1998年 - )
* 『[[CLIMBING joy]]』山と溪谷社(2008年 - 2017年)
* 『[[PEAKS (雑誌)|PEAKS]]』[[枻出版社]](2009年 - )
* 『[[ランドネ]]』枻出版社(2009年 - )
* 『[[ヒュッテ (雑誌)|ヒュッテ]]』山と溪谷社(2010年 - 2014年)
* 『[[WILDERNESS]]』枻出版社(2013年 - 2017年)
=== 小説 ===
登山に限らず、いわゆる山岳小説と呼ばれるジャンルである。
* {{ill2|ボードマン=タスカー山岳文学賞|en|Boardman Tasker Prize for Mountain Literature}}
{{節スタブ}}
* 短編集『からかご大名』駒ケ岳開山 ([[新田次郎]])著 [[新潮文庫 ]]1985年
* 『[[富士山頂]]』新田次郎、[[文藝春秋]]1967 文春文庫 1974
* 『[[孤高の人]]』新田次郎、[[新潮社]] 1969 新潮文庫 1973
* 『[[八甲田山死の彷徨]]』新田次郎、新潮社 1971 新潮文庫 1978
* 『[[劒岳 点の記]]』新田次郎、文藝春秋 1977 文春文庫 1981、新版2006
* 『[[神々の山嶺]]』[[夢枕獏]]、[[集英社]] 1997.8 のち文庫
=== 映画 ===
{{seealso|{{ill2|山岳映画|en|Mountain film}}}}
{{節スタブ}}
==== 邦画 ====
*[[富士山頂 (小説)|富士山頂]] - [[1970年]]、日活、[[村野鐵太郎]]監督
*[[八甲田山 (映画)|八甲田山]] - [[1977年]]、[[東宝]]、[[森谷司郎]]監督
*[[劒岳 点の記]] - [[2009年]]、[[東映]]、[[木村大作]]監督
==== 洋画 ====
* [[127時間]] - [[2010年]]、[[ダニー・ボイル]]監督
* [[エベレスト 3D]] - [[2015年]]、[[バルタザール・コルマウクル]]監督
=== 漫画 ===
{{節スタブ}}
=== 写真 ===
{{main|山岳写真}}
== 登山に関するイベント ==
{{main|Category:登山に関するイベント}}
* [[全国高等学校総合体育大会登山競技大会]]
* {{仮リンク|ピークハント|en|peak bagging}}(peak bagging) ‐ 日本百名山登頂などの著名な山の一覧を登頂する試み。
* [[山の日]]
===賞===
{{main|en:Category:Mountaineering awards}}
*[[ピオレドール賞]] - 優秀な登山家に贈られる国際的な賞。フランスの「ピオレドール(金のピッケル)」の事務局によって授与者が決定される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASPBX63M3PBXUOOB001.html?iref=ogimage_rek |title=「登山界のアカデミー賞」から山野井泰史さんに アジア人初の受賞:朝日新聞デジタル |access-date=2023-09-21 |date=2021-10-28 |website=朝日新聞デジタル |language=ja}}</ref>。
*{{ill2|Golden Pitons|fr|Golden Pitons}}
*{{ill2|スノーレオパルド勲章|en|Snow Leopard award}}({{Lang-ru|Снежный барс}}) - ソビエト連邦で優秀な登山家に贈られていた賞。旧ソ連国内にある標高 7,000 m以上の山を5つ登ることが条件<ref>{{Cite web |url=http://www.alpklubspb.ru/ass/a388.htm |title=Альпинисты Северной столицы. История появления жетона «Покоритель высочайших гор СССР» («Снежный барс»). |access-date=2023-09-21 |website=www.alpklubspb.ru}}</ref>。
;芸術
* {{ill2|ボードマン=タスカー山岳文学賞|en|Boardman Tasker Prize for Mountain Literature}}
* {{ill2|バンフ・マウンテン・フィルム・フェスティバル|en|Banff Mountain Film Festival}}
* {{ill2|バンフ・マウンテン・ブック・フェスティバル|en|Banff Mountain Book Festival}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=*}}
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!-- 本記事の出典として使われておらず、関連しているだけの文献は「関連文献」の節に載せてください。 -->
* {{Cite book |和書|title=北アルプス博物誌 1 登山・民俗 |edition=第5版 |date=1974年|editor=[[大町山岳博物館]] |publisher=信濃路/農村漁村文化協会 |ref={{SfnRef|大町山岳博物館|1974}} }}
* {{Cite book |和書 |author=堀田弘司 |authorlink= |date=1990-06 |title=山への挑戦 |publisher=岩波書店 |series=岩波新書 |isbn=4-2-00-430126 |ref={{SfnRef|堀田|1990}} }}
* {{Cite book |和書 |title=黎明の北アルプス |date=1994-05 |author=はまみつを |authorlink=はまみつを |publisher=郷土出版社 |isbn=4-87663-255-3 |ref={{SfnRef|はま|1994}} }}
* {{Cite book |和書|title=北アルプス この百年 |date=2003-10|author=菊池俊朗 |series=文春新書 |publisher=文藝春秋 |isbn=4166603477 |ref={{SfnRef|菊地|2003}} }}
* {{Cite book |和書 |title=峠の歴史学 古道をたずねて |date=2007-09 |author=服部英雄 |publisher=朝日新聞社 |isbn=978-4-02-259930-8 |ref={{SfnRef|服部|2007}} }}
* {{Cite book |和書|title=山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か |date=2010-01 |author=羽根田治 |series=平凡社新書 |publisher=平凡社 |isbn=978-4-582-85506-7 |ref={{SfnRef|羽根田|2010}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=平凡社 |date=2011-06 |title=世界大百科事典 |volume=20 |edition=改訂新版 |publisher=平凡社 |isbn=9784582034004 |ref={{SfnRef|平凡社|2011}} }}(執筆者は徳久球雄)
== 関連文献 ==
<!--- 2010年11月現在、本文のどの記述の情報源か明確でないので移しました。 --->
* 『日本アルプスの登山と探検』 [[1896年]](明治29年) 著 ウォルター・ウェストン [[岩波文庫]]
* 『日本アルプス』4巻 [[1910年]](明治43年) - [[1915年]](大正4年) 著 小島烏水
* 『山と渓谷』 [[1930年]](昭和4年) 著 田部重治 岩波文庫
* 『[[日本百名山]]』 [[1959年]](昭和34年) - [[1963年]](昭和38年) 著 [[深田久弥]]
== 関連項目 ==
{{Div col|cols=2}}
* [[オリエンテーリング]]
* [[登山条例]]
* [[山座同定]]
* [[ジョージ・マロリー]]
* {{ill2|高地トレーニング|en|Altitude training|recirect=1}}
* {{ill2|ヴィア・フェラータ|en|Via ferrata}} - イタリア語で「鉄の道」の意。鉄の梯子や階段、命綱をかける場所などが整備されている登山道のことである。
* {{ill2|エイド・クライミング|en|Aid climbing}} ‐ 補助器具を付けたロッククライミング。
* {{ill2|クレバスレスキュー|en|Crevasse rescue}} ‐ 氷の割れ目(クレバス)に落ちた登山者を救出すること。
* [[未踏峰]]
* [[初登頂]]、{{仮リンク|初登頂の一覧|en|List of first ascents}}
* [[山岳仏教]]
{{Div col end}}
{{commons|Category:Mountaineering|登山}}
{{登山}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:とさん}}
[[Category:登山|*]]
[[Category:スポーツ競技]]
[[Category:野外活動]]
[[Category:歩行]]
[[Category:夏の季語]] | 2003-03-07T13:41:31Z | 2023-11-28T17:33:42Z | false | false | false | [
"Template:Lang-en-short",
"Template:節スタブ",
"Template:Cite web",
"Template:Cite Kotobank",
"Template:Full citation needed",
"Template:Cite news",
"Template:要出典範囲",
"Template:Main",
"Template:Seealso",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist2",
"Template:Sfn",
"Template:仮リンク",
"Template:要出典",
"Template:Anchors",
"Template:Div col end",
"Template:出典の明記",
"Template:Div col",
"Template:Cite",
"Template:複数の問題",
"Template:Lang-ru",
"Template:Cite book",
"Template:Commons",
"Template:Cite journal",
"Template:登山",
"Template:Normdaten",
"Template:Efn2",
"Template:Flagicon",
"Template:Ill2",
"Template:Quotation",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BB%E5%B1%B1 |
3,628 | KHTML | KHTML(ケーエイチティーエムエル)は、 KDEプロジェクトにより開発されているHTMLレンダリングエンジンである。KDEのウェブブラウザであるKonquerorのために開発された。
KPartフレームワークのもとで開発され、C++で実装されている。HTML 4.01、CSSレベル1およびレベル2、DOMレベル1およびレベル2、レベル3の一部、ECMAScriptをサポートする。CSSに関してはAcid2テストをクリアする実装が施されている。ウェブ標準をサポートするように開発されているほか、できる限り多くのページをレンダリングできるよう、マイクロソフトによるInternet Explorerのいくつかの非標準な機能をサポートしている。
KHTMLはソフトウェアの構成要素として単独利用することが可能であり、後にAppleが自社のmacOSに搭載するために作ったウェブブラウザSafariではこれに手を加えたWebKitが使用されている。
KHTMLを搭載するブラウザはあまり知られておらず、多くのウェブサイトはKHTMLのサポートを行わないか、もしくはKonquerorにてサイトが正確に動作するにもかかわらずサポートしていない。例えば、GmailはKonquerorが自身をFirefoxであると報告しない限り、正常に動作しない。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "KHTML(ケーエイチティーエムエル)は、 KDEプロジェクトにより開発されているHTMLレンダリングエンジンである。KDEのウェブブラウザであるKonquerorのために開発された。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "KPartフレームワークのもとで開発され、C++で実装されている。HTML 4.01、CSSレベル1およびレベル2、DOMレベル1およびレベル2、レベル3の一部、ECMAScriptをサポートする。CSSに関してはAcid2テストをクリアする実装が施されている。ウェブ標準をサポートするように開発されているほか、できる限り多くのページをレンダリングできるよう、マイクロソフトによるInternet Explorerのいくつかの非標準な機能をサポートしている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "KHTMLはソフトウェアの構成要素として単独利用することが可能であり、後にAppleが自社のmacOSに搭載するために作ったウェブブラウザSafariではこれに手を加えたWebKitが使用されている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "KHTMLを搭載するブラウザはあまり知られておらず、多くのウェブサイトはKHTMLのサポートを行わないか、もしくはKonquerorにてサイトが正確に動作するにもかかわらずサポートしていない。例えば、GmailはKonquerorが自身をFirefoxであると報告しない限り、正常に動作しない。",
"title": null
}
] | KHTML(ケーエイチティーエムエル)は、 KDEプロジェクトにより開発されているHTMLレンダリングエンジンである。KDEのウェブブラウザであるKonquerorのために開発された。 KPartフレームワークのもとで開発され、C++で実装されている。HTML 4.01、CSSレベル1およびレベル2、DOMレベル1およびレベル2、レベル3の一部、ECMAScriptをサポートする。CSSに関してはAcid2テストをクリアする実装が施されている。ウェブ標準をサポートするように開発されているほか、できる限り多くのページをレンダリングできるよう、マイクロソフトによるInternet Explorerのいくつかの非標準な機能をサポートしている。 KHTMLはソフトウェアの構成要素として単独利用することが可能であり、後にAppleが自社のmacOSに搭載するために作ったウェブブラウザSafariではこれに手を加えたWebKitが使用されている。 KHTMLを搭載するブラウザはあまり知られておらず、多くのウェブサイトはKHTMLのサポートを行わないか、もしくはKonquerorにてサイトが正確に動作するにもかかわらずサポートしていない。例えば、GmailはKonquerorが自身をFirefoxであると報告しない限り、正常に動作しない。 | {{Pathnav|レンダリングエンジン|HTMLレンダリングエンジン|frame=1}}
{{出典の明記|date=2020-02-22}}
{{Infobox Software
| 名称 = KHTML
| ロゴ =
| スクリーンショット = [[ファイル:Konqueror opensuse112.png|300px]]
| 説明文 = KHTMLを利用したウェブブラウザ「[[Konqueror]]」でWikipediaのメインページを表示した画面。
| 開発者 =
| 開発元 = [[KDE]] Team, [[Apple]], [[ノキア|Nokia]], [[Google]], ほか
| 初版 =
| 最新版 =
| 最新版発表日 =
| 最新評価版 =
| 最新評価版発表日 =
| プログラミング言語 = [[C++]]
| 対応OS = [[クロスプラットフォーム]]
| エンジン =
| 対応プラットフォーム =
| サイズ =
| 対応言語 =
| サポート状況 =
| 種別 = [[レンダリングエンジン]]
| ライセンス = [[GNU Lesser General Public License|LGPL]]
| 公式サイト =
}}
'''KHTML'''(ケーエイチティーエムエル)は、 [[KDE]]プロジェクトにより開発されている[[HTMLレンダリングエンジン]]である。KDEの[[ウェブブラウザ]]である[[Konqueror]]のために開発された。
[[KPart]]フレームワークのもとで開発され、[[C++]]で実装されている。[[HyperText Markup Language|HTML]] 4.01、[[Cascading Style Sheets|CSS]]レベル1およびレベル2、[[Document Object Model|DOM]]レベル1およびレベル2、レベル3の一部、[[ECMAScript]]をサポートする。CSSに関しては[[Acid2]]テストをクリアする実装が施されている。[[ウェブ標準]]をサポートするように開発されているほか、できる限り多くのページをレンダリングできるよう、[[マイクロソフト]]による[[Internet Explorer]]のいくつかの非標準な機能をサポートしている。
KHTMLはソフトウェアの構成要素として単独利用することが可能であり、後に[[Apple]]が自社の[[macOS]]に搭載するために作ったウェブブラウザ[[Safari]]ではこれに手を加えた[[WebKit]]が使用されている。
KHTMLを搭載するブラウザはあまり知られておらず、多くのウェブサイトはKHTMLのサポートを行わないか、もしくはKonquerorにてサイトが正確に動作するにもかかわらずサポートしていない。例えば、[[Gmail]]はKonquerorが自身をFirefoxであると報告しない限り、正常に動作しない{{要出典|date=2020年12月}}。
== KHTML を採用するソフトウェア ==
* [[Konqueror]]
* Tavia(タビアたん)<ref>https://web.archive.org/web/20160804200752/http://nop.net-p.org/modules/pukiwiki/index.php?%5b%5bTavia%5d%5d</ref>
== 関連項目 ==
* [[KDOM]]
* [[KJS]]
== 外部リンク ==
{{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}}
* [http://www.konqueror.org/features/browser.php Web Browser] – KonquerorのサイトにおけるKHTMLの特徴のリスト
* [http://developer.kde.org/documentation/library/kdeqt/kde3arch/khtml/ KHTML – KDE's HTML library] – developer.kde.orgにおける定義
* [http://api.kde.org/4.x-api/kdelibs-apidocs/khtml/html/index.html KDE 4 APIリファレンス内のKHTMLについてのドキュメント]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Web browser engines}}
{{ウェブブラウザ}}
{{KDE}}
{{FLOSS-stub}}
[[Category:オープンソースソフトウェア]]
[[Category:ウェブブラウザ]]
[[Category:KDE]] | null | 2021-05-19T20:50:37Z | false | false | false | [
"Template:Web browser engines",
"Template:Pathnav",
"Template:出典の明記",
"Template:Portal",
"Template:Reflist",
"Template:FLOSS-stub",
"Template:Infobox Software",
"Template:要出典",
"Template:ウェブブラウザ",
"Template:KDE"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/KHTML |
3,629 | 年 | 年(ねん、とし、英: year)は、時間の単位の一つであり、春・夏・秋・冬、あるいは雨季・乾季という季節のめぐりが1年である。元来は春分点を基準に太陽が天球を一巡する周期であり、平均して約365.242 189日(2015年時点)である(太陽年)。
1年の長さを暦によって定義する方法が暦法であり、現在世界各国で用いられるグレゴリオ暦(現行暦)では、1年を365日とするが、1年を366日とする閏年を400年間に97回設けることによって、1年の平均日数を365.2425日とする。
なお、天文学における時間の計量の単位としての「年」には通常、ユリウス年を用いる。ユリウス年は正確に31 557 600秒=365.25 d(d = 86 400秒)である(後述)。
年は、時刻を表示する区分であり、また、年数を表す単位ともなる。これは英語 の year も同様で、「4 years old」(4歳)や「per year」(1年あたり)という時間を表すとともに、「year 1950」(1950年)や「the years of 」(-の年・-の時代)というように特定の時刻を示す際にも使われる。
暦法に従い時刻の「年」を表す方法が紀年法であり、キリスト紀元(西暦)をはじめとするさまざまな紀年法が使用されている(後述)。
「年」は天文学においては、ユリウス年以外は、計量的な用途には馴染まない。その理由は、たとえば、現行のグレゴリオ暦では、閏年があるために、1年が365日または366日となって日数(または秒数)が一定ではないためである。さらに地球の自転と時刻を合わせるために閏秒による補正も行われているからである。
天文学で用いるユリウス年は、正確に365.25 日(ユリウス暦における1年の日数)であり、したがって正確に31 557 600 秒( = 3600 秒 × 24 時間 × 365.25 日)である。
年は、時間を示すおおまかな単位としては一般に認められている。これは人間を取り巻く環境や生活がもたらす周期性を重視し、それから受ける感覚を尊重していることに由来する。このような累積する時間(秒)と繰り返す時間(年)の共存は、単位の柔軟性と多様性を示す一例に当たる。
日本語で「とし」とは、「稲」や穀物を語源とし、1年周期で稲作を行なっていたため「年」の意味で使われるようになったという。ちなみに、漢字の「年」は禾に粘りの意味を含む人の符を加え、穀物が成熟するまでの周期を表現した。
地球上で生活する上で、1年の長さとは春夏秋冬という季節が一巡する期間を指す。そしてこれは、地上から見た太陽の高さと日照時間の変化でもたらされる。太陽は、天の赤道から約23.44度傾いた黄道を通っている。春分と秋分の際に天の赤道と黄道は重なるが、夏には天の赤道よりも最大約23.44度高い位置を太陽が通り、冬には逆に最大約23.44度低い位置を通る。これに伴い日照時間も変化し、昼夜は春分と秋分ではほぼ同じ、夏には昼が長く冬には短くなる。太陽の高さは日光の入射角を決め、夏の時期には高くなり地表の単位面積当たりのエネルギー量が多くなる。また夏には日照時間が延びることもエネルギーを増やす。冬にはこれらが逆に働き、結果として季節ができる。
この季節の一巡は、天文学的には春分から次の春分までを指し、これは太陽年(回帰年)と呼ばれる。この見た目の太陽運行は、太陽を公転する地球の自転軸(地軸)が公転面に対して約23.44度傾いているために生じる。これは赤道傾斜角と言われる。地球が、太陽が春分点にある位置から太陽周回軌道(公転軌道)をほぼ1周すると、太陽に対するこの傾いた地軸が同じ位置になり、ふたたび春分点に太陽が来る。これが季節の一巡となる。
しかし、地球の自転軸や公転時間は一定していない。傾いた地球自転軸は、コマが触れるようにその方向を変え、そのため春分点が1年あたり約50秒ずつ東へ移動している。これは歳差運動と呼ばれる。そのため、実は春分点への回帰を根拠とする太陽年では地球の公転上の位置が一定しておらず、1年で地球の公転方向と逆に角度約50秒(公転時間約マイナス20分)ずつずれてゆく。これは地球上では、年々ずれる春分点と、遠い距離の恒星がつくる星座の位置が変わってゆく現象として観察される。地球が正確に公転軌道を360度回転した「年」は、この恒星(慣性系)を基準にその位置が回帰した時間として定められ、これは恒星年と呼ばれる。
基本的な天文学における1年を決める地球の公転はケプラーの法則に従う楕円軌道で定義され、歳差運動も一定ならば太陽年や恒星年に変化は生じないと思われる。しかし、ケプラーの法則は2つの天体についての運動をニュートン力学で解いたものであり、ここに第3の天体が加わると計算が非常に複雑となり、事実上近似値しか求められなくなる。このような他天体の影響による軌道の乱れは摂動と呼ばれる。サイモン・ニューカムはこれら摂動の影響を短い周期(短周期項)とゆっくりした周期(詳しくは長周期項と長年項)に分け、それらが断続的にケプラー運動の初期値に影響を与えると述べた。そして、この摂動によって地球の公転軌道は徐々に離心率が小さくなり恒星年が短くなると説明された。さらに摂動は自転軸の章動を起こし、公転速度に乱れを生じさせ恒星年に影響を与える。
また、公転軌道そのものも一定ではない。楕円の公転軌道も他惑星からの摂動によって回転しており、地球の近日点は1年で地球の公転方向側に角度約11秒ずつ(公転時間約4分)ずれてゆく。近日点通過後次に近日点の位置に地球がくるまでの時間を「近点年」(平均約365.25964日 )というが、この年は恒星年よりも約4分長い。
一方、「年」を地球の自転によって決まる「日」で定義する場合、この自転そのものが段々と減速している事も知られている。摂動や潮汐などの影響と考えられているが、古代の日食記録やサンゴ組織の「日」単位の粗密(日輪)の調査などから約5億年前の1日は短かったことが判明しており、当時の1年は約400日だったと考えられる。
初期の人類が時間を認識する基礎は、季節の観念だったと考えられる。これは狩猟採集社会において獲物や収穫を左右する要因に大きく影響を及ぼしたからである。ただしその当時どこまで厳密な「年」の概念を持っていたかは定かでない。イギリスにある新石器時代の遺跡ストーンヘンジは一種の天体観測台であり、夏至や冬至の時期を知るカレンダーの機能を持っていたと考えられる
日次を認識する際、天体の月が相(満ち欠け)を起こす様子は便利だった。そこから新月から次の新月までの周期である1朔望月(約29.53日)を基礎に置いた暦である太陰暦が発達した。この暦では、平均朔望月(約29.53059日)から1か月を29または30日とし、その12倍(太陰年=約354.36708日)を暦年と定めたが、季節の循環と毎年10日ほどのずれが生じることになった。この暦は遊牧民族や漁撈中心の社会に適し、地域では古代メソポタミア、エジプト、ギリシア、中国で発達した。現代でもイスラムで使われるヒジュラ暦は太陰暦であり、1年は354または355日となる。
しかし太陰暦は季節の期とのずれが激しく、気候変化に根付いた時間感覚との違和感が大きく農耕民族にとっては使いにくい。古代ギリシアの数学者メトンは、19太陽年と235朔望月にほぼ合うことを見つけ、太陰暦の19年に7度追加の月(閏月)を挿入するメトン周期を発案した。これによると、1年は平均して365.263日となる。この周期はバビロニアや中国でも独自に発見され、太陽年と太陰暦を置閏法で調整し特定の年を13か月とする太陰太陽暦が発達した。
地球の公転を基礎に置く太陽暦を発達させた古代文明にエジプトがある。この地で発達した根底には一定の期間で発生するナイル川の洪水があった。これを基準に季節を3つの期に分け、アケト(洪水)、ペロイェト(芽生え)、ショム(欠乏)と呼んでいた。この期がそれぞれ4朔望月とほぼ一致することから、当初はエジプトでも太陰暦が用いられていた。ところが彼らは、洪水が起こり始める夏の時期には太陽が昇る直前の東の空にシリウスが輝くという天文現象に気づいた。エジプト人はシリウスを神ソプデトと崇め、夏至を基準とする暦法を作り出した。当初、これは朔望月を基準に3年に1度閏月を加える1年を354日とする「太陰星暦」とも呼べる暦法だったが、紀元前2700年ごろに1か月を30日とし別に5日の祭日を設けた1年を365日とするシリウス暦に改められた。この30日の12倍に余りの5日を1年とする暦法は古代エチオピアや古代インドのパーシ教徒でも用いられた。古代エジプトでは、やがてシリウス(恒星)と太陽の運行には若干の差がある事が認識され、プトレマイオス3世治世時に4年に1度閏日を加え、1年を平均365.25日とする暦法が制定された。
共和政ローマの実権を握ったガイウス・ユリウス・カエサルは、紀元前46年に1年を平均365.25日とするエジプトの太陽暦を導入した。彼の死後、一時混乱して閏年を3年に1度とする平均365.3333日の運用もなされたが、紀元8年にアウグストゥスが修正を施し平均365.25日へ戻された。ローマ帝国の拡大に伴い、ユリウス暦はヨーロッパのほぼ全土・アフリカ北部から中近東に至る広い地域で用いられた。このユリウス暦でも1年当たり約11分14秒長かったため、やがて春分日との誤差が顕著になった。1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世によって400年間に97回の閏年を設けるグレゴリオ暦へ改暦され、1年は365.2425日となった。この年単位は当初はカトリック諸国のみの採用に留まっていた。しかし暦として優れている点が徐々に認められ、プロテスタント諸国には18世紀以降、ギリシア正教諸国も19世紀には、非キリスト教国では1873年の日本 を皮切りに、20世紀中には世界中のほとんどの国が採用する西暦(世界標準暦)として用いられるようになった。
メソアメリカ文明では、エジプトとは独立に太陽暦を確立していた。メソアメリカには20日の月が18と5日の余日から構成される365日を1年とする暦と、13日の数字による周期と20日の日名による周期が別々に動き、260日で元に戻る宗教暦が用いられた。
天文学では計量の単位としての「年」として、1年を正確に365.25日とするユリウス年を用いる。したがって、1ユリウス年は、国際単位系における31 557 600秒(正確に)と定義されている。
日付(年月日)と日数が、改暦による時期やそれぞれの地域によって統一されていないことから生じるさまざまな不具合に対して考案された基準がユリウス通日(または、「ユリウス日」)である。 ユリウス通日は、紀元前4713年1月1日(または、-4712年1月1日)の正午を起点とした通日である。1582年に実施されたユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦によって、さまざまな混乱が生じることを懸念して、スカリゲル(ジョゼフ=ジュスト・スカリジェ(英語版))(1540年-1609年)が考案した。
10年を「十年紀」(decade)、1000年を「千年紀」(ミレニアム)と呼ぶ。また、100年を「世紀」と言うが、これは西暦元年から100年刻みの時代区分を指す。
1年の半分の6か月のことを「半年(はんとし、はんねん)」という。また、会計年度などで一つの年度を6か月ずつの半期に分けて、前の半期(前期)を「上半期(かみはんき)」、後の半期(後期)を「下半期(しもはんき)」ともいう。さらに、1年を3か月単位の4分の1に分けたものを「四半期(しはんき)」(クォーター、英語:quarter)といい、年や年度の初めから順に第1四半期・第2四半期・第3四半期・第4四半期と呼ぶ。英語圏では "Q1,Q2,Q3,Q4" と略す。
天文学・地質学・古生物学などでは、以下のような単位が使用される。
これらはそれぞれ「キロ年」「メガ年」「ギガ年」の意味だが、日本語では接頭語も訳して呼ぶ。
地殻変動など非常に遅い速度を表すのに、「ミリメートル毎年」(mm/y, mm/yr)、「センチメートル毎年」(cm/y, cm/yr)が使われる。資源などの産出量は「トン毎年」(t/y, t/yr)などが使われるが、年当たりなのは自明とみなし単にトンなどと表すことが多い。他にもさまざまな量が年当たりで算出されるが、毎年は省略することが多い。
ユリウス年を使って定義される長さの単位に「光年」(ly)がある。これは光速度とユリウス年との積に等しい。1光年は正確に 9 460 730 472 580 800 m である。
紀年法には、ある起点から期間を区切らず無限に年数が加算されていく紀元、君主や統治者、その他さまざまな制限によって期限を区切られる元号、一定の期間で循環する周期によって年を表わす方法が存在する。周期による紀年法の例としては、古代ギリシアにおけるオリンピアード(オリンピア紀元)や、干支などが挙げられる。
現代においてはキリスト紀元(西暦)が最も多くの国で使われていて、国際標準化機構のISO 8601ではアラビア数字4桁で表記するよう定められている。また、西暦と独自の紀年法を併記する場合がある。新聞を例に取ると、例えば日本では西暦2020年に対して、元号を用いる「令和2年」。ほかのアジア諸国では、中華民国(台湾)では「民国109年」(聯合報)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では「主体109年」(コリアンニュース)、大韓民国(韓国)では「檀君紀元4353年」(朝鮮日報)、イスラム教国でもエジプト(アル・アハラム)やブルネイ(ブリタブルネイ)を例に取ると「ヒジュラ太陰暦1442年」が併記される。
現在の一年の始まり(年初・歳首)は元日(1月1日)であるが、これには天文学的または宗教・思想的な意味は無い。グレゴリオ暦の基礎となったローマ暦では、紀元前735年に始まった当初、一年の始まりを現在の3月 (Martius) 初日に置いていた。後にガイウス・ユリウス・カエサル(ユリウス・シーザー)がエジプトから導入した太陽暦へ切り替えた紀元前47年に、冬至に近かった 1月 (Januarius) の初日を一年の始まりと改めたことが現在まで引き継がれている。日本語では暦月名は一月、二月、と序数で数え上げるが、西洋の暦の暦月名はそうではない。巡回する12の固有な名前の「どれが年初か」は必ずしも自明ではなく、Martiusを年初の暦月とするか、Januariusを年初の暦月とするかは自由度があるのである(これは曜日を数で数えない言語で「週」が日曜から始まるか月曜から始まるか議論があるのと似ている)。
しかし、文化圏や民族によって一年の始まりは様々であった。温帯地方では太陽運行上の節目に当る冬至や春分、または夏至(エジプトなど)、秋分(ユダヤ暦)を年初と置いていた。シュメールでは各都市ごとに暦が統一されていなかったため、年初も春分が多かったものの、夏至や秋分を年初とする都市も存在し、春分近くを年初とする暦に統一されたのはバビロン第1王朝の時代だった。古代ギリシア暦においても都市間で年初が異なることは同様であり、アテナイでは夏至基準、スパルタでは秋分を基準としていずれも次の新月を年初とした。農業中心の社会ではローマ暦のように春を年初とみなす場合が多かった。他の太陽暦でも、現在の9月11-12日を年初とするエチオピア暦、8月26日から始まったパーシ暦、現在の9月22-24日を年初としたフランス革命暦(1793年11月24日~1805年12月31日、元日に相当する日はヴァンデミエール(葡萄月)1日)もあった。中国においても春秋戦国時代には周が冬至、楚が立冬、魏が立春を正月とするなど各国によってバラバラであったが、立春を年初とした秦が中国を統一し、漢の時代には立春を年初の基準とすることが定着した。
中世ヨーロッパでは、基本的にユリウス暦を用いながらも、年初は地域によってばらばらだった。それらは主にキリスト教にとって重要な日を選び、イエス・キリスト生誕日であるクリスマスの12月25日、受胎告知の3月25日、そしてキリスト教で最も重視され太陽暦では固定できなかった復活祭。1月1日を主の割礼祭として年初に据えることもあったが、一般的ではなかった。
1564年にフランスのシャルル9世が、年初を冬至に近い1月1日へ固定した。当初これには国内の反発があったが3年後には議会で採択され正式に発令され、さらにこれは1582年のグレゴリオ暦採用時にも再度定められた。しかしこの定めはキリスト教圏にすぐに広がったわけではなく、例えばイギリスが1月1日を年初としたのは1752年であった。
歴史学や天文学などにおいて、何かしらの概念に基づく長大な時間に対し固有名詞をつけて「何々年」と呼ぶ場合がある。古代ギリシアの哲学者プラトンは歴史とは循環するものと考え、『テアイテトス』にて、その周期を36,000年と試算した。36,000は「完全数」の名で呼ばれ、これは「プラトン大年(magnus Platonicus annus)」「大年(great year)」「プラトン年 (Platonic Year)」「プラトン的転回 (Platonic Revolution)」と呼ばれ、地球を回る8天体(太陽と7惑星)が元の位置に戻るのに要する時間をいい、宇宙の更新が行われる聖なる周期と考えられていた。
現代では、歳差運動によって春分点が移動して一周する約26,000年に対し、「大年(great year)」 の名が与えられている。さらに、太陽系が秒速200kmの速度で銀河系を一周する期間である約2億年も、銀河年 (Galactic year) という名称で呼ばれる。
年が地球の公転周期を基礎にしていることから転じ、他の惑星の公転周期についても「年」という表記が使われる。例えば「水星年」、「火星の一年」などである。このような用語を使う際、混同を避けるために地球の1年は「地球年」 (earth year) とも呼ばれる。
ガウス年(英語版) : 2π / k = 約365.256 898日。k はガウス引力定数で k = 0.017 202 098 95(定義値)。かつては天文単位の換算などに使われた。現在では(2012年8月以降)天文単位はガウス引力定数とは関係なく、正確に149 597 870 700 m と定義されている。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "年(ねん、とし、英: year)は、時間の単位の一つであり、春・夏・秋・冬、あるいは雨季・乾季という季節のめぐりが1年である。元来は春分点を基準に太陽が天球を一巡する周期であり、平均して約365.242 189日(2015年時点)である(太陽年)。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "1年の長さを暦によって定義する方法が暦法であり、現在世界各国で用いられるグレゴリオ暦(現行暦)では、1年を365日とするが、1年を366日とする閏年を400年間に97回設けることによって、1年の平均日数を365.2425日とする。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "なお、天文学における時間の計量の単位としての「年」には通常、ユリウス年を用いる。ユリウス年は正確に31 557 600秒=365.25 d(d = 86 400秒)である(後述)。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "年は、時刻を表示する区分であり、また、年数を表す単位ともなる。これは英語 の year も同様で、「4 years old」(4歳)や「per year」(1年あたり)という時間を表すとともに、「year 1950」(1950年)や「the years of 」(-の年・-の時代)というように特定の時刻を示す際にも使われる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "暦法に従い時刻の「年」を表す方法が紀年法であり、キリスト紀元(西暦)をはじめとするさまざまな紀年法が使用されている(後述)。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "「年」は天文学においては、ユリウス年以外は、計量的な用途には馴染まない。その理由は、たとえば、現行のグレゴリオ暦では、閏年があるために、1年が365日または366日となって日数(または秒数)が一定ではないためである。さらに地球の自転と時刻を合わせるために閏秒による補正も行われているからである。",
"title": "概念"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "天文学で用いるユリウス年は、正確に365.25 日(ユリウス暦における1年の日数)であり、したがって正確に31 557 600 秒( = 3600 秒 × 24 時間 × 365.25 日)である。",
"title": "概念"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "年は、時間を示すおおまかな単位としては一般に認められている。これは人間を取り巻く環境や生活がもたらす周期性を重視し、それから受ける感覚を尊重していることに由来する。このような累積する時間(秒)と繰り返す時間(年)の共存は、単位の柔軟性と多様性を示す一例に当たる。",
"title": "概念"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "日本語で「とし」とは、「稲」や穀物を語源とし、1年周期で稲作を行なっていたため「年」の意味で使われるようになったという。ちなみに、漢字の「年」は禾に粘りの意味を含む人の符を加え、穀物が成熟するまでの周期を表現した。",
"title": "語源"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "地球上で生活する上で、1年の長さとは春夏秋冬という季節が一巡する期間を指す。そしてこれは、地上から見た太陽の高さと日照時間の変化でもたらされる。太陽は、天の赤道から約23.44度傾いた黄道を通っている。春分と秋分の際に天の赤道と黄道は重なるが、夏には天の赤道よりも最大約23.44度高い位置を太陽が通り、冬には逆に最大約23.44度低い位置を通る。これに伴い日照時間も変化し、昼夜は春分と秋分ではほぼ同じ、夏には昼が長く冬には短くなる。太陽の高さは日光の入射角を決め、夏の時期には高くなり地表の単位面積当たりのエネルギー量が多くなる。また夏には日照時間が延びることもエネルギーを増やす。冬にはこれらが逆に働き、結果として季節ができる。",
"title": "天文学的な年"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "この季節の一巡は、天文学的には春分から次の春分までを指し、これは太陽年(回帰年)と呼ばれる。この見た目の太陽運行は、太陽を公転する地球の自転軸(地軸)が公転面に対して約23.44度傾いているために生じる。これは赤道傾斜角と言われる。地球が、太陽が春分点にある位置から太陽周回軌道(公転軌道)をほぼ1周すると、太陽に対するこの傾いた地軸が同じ位置になり、ふたたび春分点に太陽が来る。これが季節の一巡となる。",
"title": "天文学的な年"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "しかし、地球の自転軸や公転時間は一定していない。傾いた地球自転軸は、コマが触れるようにその方向を変え、そのため春分点が1年あたり約50秒ずつ東へ移動している。これは歳差運動と呼ばれる。そのため、実は春分点への回帰を根拠とする太陽年では地球の公転上の位置が一定しておらず、1年で地球の公転方向と逆に角度約50秒(公転時間約マイナス20分)ずつずれてゆく。これは地球上では、年々ずれる春分点と、遠い距離の恒星がつくる星座の位置が変わってゆく現象として観察される。地球が正確に公転軌道を360度回転した「年」は、この恒星(慣性系)を基準にその位置が回帰した時間として定められ、これは恒星年と呼ばれる。",
"title": "天文学的な年"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "基本的な天文学における1年を決める地球の公転はケプラーの法則に従う楕円軌道で定義され、歳差運動も一定ならば太陽年や恒星年に変化は生じないと思われる。しかし、ケプラーの法則は2つの天体についての運動をニュートン力学で解いたものであり、ここに第3の天体が加わると計算が非常に複雑となり、事実上近似値しか求められなくなる。このような他天体の影響による軌道の乱れは摂動と呼ばれる。サイモン・ニューカムはこれら摂動の影響を短い周期(短周期項)とゆっくりした周期(詳しくは長周期項と長年項)に分け、それらが断続的にケプラー運動の初期値に影響を与えると述べた。そして、この摂動によって地球の公転軌道は徐々に離心率が小さくなり恒星年が短くなると説明された。さらに摂動は自転軸の章動を起こし、公転速度に乱れを生じさせ恒星年に影響を与える。",
"title": "天文学的な年"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "また、公転軌道そのものも一定ではない。楕円の公転軌道も他惑星からの摂動によって回転しており、地球の近日点は1年で地球の公転方向側に角度約11秒ずつ(公転時間約4分)ずれてゆく。近日点通過後次に近日点の位置に地球がくるまでの時間を「近点年」(平均約365.25964日 )というが、この年は恒星年よりも約4分長い。",
"title": "天文学的な年"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "一方、「年」を地球の自転によって決まる「日」で定義する場合、この自転そのものが段々と減速している事も知られている。摂動や潮汐などの影響と考えられているが、古代の日食記録やサンゴ組織の「日」単位の粗密(日輪)の調査などから約5億年前の1日は短かったことが判明しており、当時の1年は約400日だったと考えられる。",
"title": "天文学的な年"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "初期の人類が時間を認識する基礎は、季節の観念だったと考えられる。これは狩猟採集社会において獲物や収穫を左右する要因に大きく影響を及ぼしたからである。ただしその当時どこまで厳密な「年」の概念を持っていたかは定かでない。イギリスにある新石器時代の遺跡ストーンヘンジは一種の天体観測台であり、夏至や冬至の時期を知るカレンダーの機能を持っていたと考えられる",
"title": "人為的に定義された年"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "日次を認識する際、天体の月が相(満ち欠け)を起こす様子は便利だった。そこから新月から次の新月までの周期である1朔望月(約29.53日)を基礎に置いた暦である太陰暦が発達した。この暦では、平均朔望月(約29.53059日)から1か月を29または30日とし、その12倍(太陰年=約354.36708日)を暦年と定めたが、季節の循環と毎年10日ほどのずれが生じることになった。この暦は遊牧民族や漁撈中心の社会に適し、地域では古代メソポタミア、エジプト、ギリシア、中国で発達した。現代でもイスラムで使われるヒジュラ暦は太陰暦であり、1年は354または355日となる。",
"title": "人為的に定義された年"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "しかし太陰暦は季節の期とのずれが激しく、気候変化に根付いた時間感覚との違和感が大きく農耕民族にとっては使いにくい。古代ギリシアの数学者メトンは、19太陽年と235朔望月にほぼ合うことを見つけ、太陰暦の19年に7度追加の月(閏月)を挿入するメトン周期を発案した。これによると、1年は平均して365.263日となる。この周期はバビロニアや中国でも独自に発見され、太陽年と太陰暦を置閏法で調整し特定の年を13か月とする太陰太陽暦が発達した。",
"title": "人為的に定義された年"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "地球の公転を基礎に置く太陽暦を発達させた古代文明にエジプトがある。この地で発達した根底には一定の期間で発生するナイル川の洪水があった。これを基準に季節を3つの期に分け、アケト(洪水)、ペロイェト(芽生え)、ショム(欠乏)と呼んでいた。この期がそれぞれ4朔望月とほぼ一致することから、当初はエジプトでも太陰暦が用いられていた。ところが彼らは、洪水が起こり始める夏の時期には太陽が昇る直前の東の空にシリウスが輝くという天文現象に気づいた。エジプト人はシリウスを神ソプデトと崇め、夏至を基準とする暦法を作り出した。当初、これは朔望月を基準に3年に1度閏月を加える1年を354日とする「太陰星暦」とも呼べる暦法だったが、紀元前2700年ごろに1か月を30日とし別に5日の祭日を設けた1年を365日とするシリウス暦に改められた。この30日の12倍に余りの5日を1年とする暦法は古代エチオピアや古代インドのパーシ教徒でも用いられた。古代エジプトでは、やがてシリウス(恒星)と太陽の運行には若干の差がある事が認識され、プトレマイオス3世治世時に4年に1度閏日を加え、1年を平均365.25日とする暦法が制定された。",
"title": "人為的に定義された年"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "共和政ローマの実権を握ったガイウス・ユリウス・カエサルは、紀元前46年に1年を平均365.25日とするエジプトの太陽暦を導入した。彼の死後、一時混乱して閏年を3年に1度とする平均365.3333日の運用もなされたが、紀元8年にアウグストゥスが修正を施し平均365.25日へ戻された。ローマ帝国の拡大に伴い、ユリウス暦はヨーロッパのほぼ全土・アフリカ北部から中近東に至る広い地域で用いられた。このユリウス暦でも1年当たり約11分14秒長かったため、やがて春分日との誤差が顕著になった。1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世によって400年間に97回の閏年を設けるグレゴリオ暦へ改暦され、1年は365.2425日となった。この年単位は当初はカトリック諸国のみの採用に留まっていた。しかし暦として優れている点が徐々に認められ、プロテスタント諸国には18世紀以降、ギリシア正教諸国も19世紀には、非キリスト教国では1873年の日本 を皮切りに、20世紀中には世界中のほとんどの国が採用する西暦(世界標準暦)として用いられるようになった。",
"title": "人為的に定義された年"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "メソアメリカ文明では、エジプトとは独立に太陽暦を確立していた。メソアメリカには20日の月が18と5日の余日から構成される365日を1年とする暦と、13日の数字による周期と20日の日名による周期が別々に動き、260日で元に戻る宗教暦が用いられた。",
"title": "人為的に定義された年"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "天文学では計量の単位としての「年」として、1年を正確に365.25日とするユリウス年を用いる。したがって、1ユリウス年は、国際単位系における31 557 600秒(正確に)と定義されている。",
"title": "人為的に定義された年"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "日付(年月日)と日数が、改暦による時期やそれぞれの地域によって統一されていないことから生じるさまざまな不具合に対して考案された基準がユリウス通日(または、「ユリウス日」)である。 ユリウス通日は、紀元前4713年1月1日(または、-4712年1月1日)の正午を起点とした通日である。1582年に実施されたユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦によって、さまざまな混乱が生じることを懸念して、スカリゲル(ジョゼフ=ジュスト・スカリジェ(英語版))(1540年-1609年)が考案した。",
"title": "人為的に定義された年"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "10年を「十年紀」(decade)、1000年を「千年紀」(ミレニアム)と呼ぶ。また、100年を「世紀」と言うが、これは西暦元年から100年刻みの時代区分を指す。",
"title": "派生単位"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1年の半分の6か月のことを「半年(はんとし、はんねん)」という。また、会計年度などで一つの年度を6か月ずつの半期に分けて、前の半期(前期)を「上半期(かみはんき)」、後の半期(後期)を「下半期(しもはんき)」ともいう。さらに、1年を3か月単位の4分の1に分けたものを「四半期(しはんき)」(クォーター、英語:quarter)といい、年や年度の初めから順に第1四半期・第2四半期・第3四半期・第4四半期と呼ぶ。英語圏では \"Q1,Q2,Q3,Q4\" と略す。",
"title": "派生単位"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "天文学・地質学・古生物学などでは、以下のような単位が使用される。",
"title": "派生単位"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "これらはそれぞれ「キロ年」「メガ年」「ギガ年」の意味だが、日本語では接頭語も訳して呼ぶ。",
"title": "派生単位"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "地殻変動など非常に遅い速度を表すのに、「ミリメートル毎年」(mm/y, mm/yr)、「センチメートル毎年」(cm/y, cm/yr)が使われる。資源などの産出量は「トン毎年」(t/y, t/yr)などが使われるが、年当たりなのは自明とみなし単にトンなどと表すことが多い。他にもさまざまな量が年当たりで算出されるが、毎年は省略することが多い。",
"title": "派生単位"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ユリウス年を使って定義される長さの単位に「光年」(ly)がある。これは光速度とユリウス年との積に等しい。1光年は正確に 9 460 730 472 580 800 m である。",
"title": "派生単位"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "紀年法には、ある起点から期間を区切らず無限に年数が加算されていく紀元、君主や統治者、その他さまざまな制限によって期限を区切られる元号、一定の期間で循環する周期によって年を表わす方法が存在する。周期による紀年法の例としては、古代ギリシアにおけるオリンピアード(オリンピア紀元)や、干支などが挙げられる。",
"title": "紀年法"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "現代においてはキリスト紀元(西暦)が最も多くの国で使われていて、国際標準化機構のISO 8601ではアラビア数字4桁で表記するよう定められている。また、西暦と独自の紀年法を併記する場合がある。新聞を例に取ると、例えば日本では西暦2020年に対して、元号を用いる「令和2年」。ほかのアジア諸国では、中華民国(台湾)では「民国109年」(聯合報)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では「主体109年」(コリアンニュース)、大韓民国(韓国)では「檀君紀元4353年」(朝鮮日報)、イスラム教国でもエジプト(アル・アハラム)やブルネイ(ブリタブルネイ)を例に取ると「ヒジュラ太陰暦1442年」が併記される。",
"title": "紀年法"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "現在の一年の始まり(年初・歳首)は元日(1月1日)であるが、これには天文学的または宗教・思想的な意味は無い。グレゴリオ暦の基礎となったローマ暦では、紀元前735年に始まった当初、一年の始まりを現在の3月 (Martius) 初日に置いていた。後にガイウス・ユリウス・カエサル(ユリウス・シーザー)がエジプトから導入した太陽暦へ切り替えた紀元前47年に、冬至に近かった 1月 (Januarius) の初日を一年の始まりと改めたことが現在まで引き継がれている。日本語では暦月名は一月、二月、と序数で数え上げるが、西洋の暦の暦月名はそうではない。巡回する12の固有な名前の「どれが年初か」は必ずしも自明ではなく、Martiusを年初の暦月とするか、Januariusを年初の暦月とするかは自由度があるのである(これは曜日を数で数えない言語で「週」が日曜から始まるか月曜から始まるか議論があるのと似ている)。",
"title": "年初"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "しかし、文化圏や民族によって一年の始まりは様々であった。温帯地方では太陽運行上の節目に当る冬至や春分、または夏至(エジプトなど)、秋分(ユダヤ暦)を年初と置いていた。シュメールでは各都市ごとに暦が統一されていなかったため、年初も春分が多かったものの、夏至や秋分を年初とする都市も存在し、春分近くを年初とする暦に統一されたのはバビロン第1王朝の時代だった。古代ギリシア暦においても都市間で年初が異なることは同様であり、アテナイでは夏至基準、スパルタでは秋分を基準としていずれも次の新月を年初とした。農業中心の社会ではローマ暦のように春を年初とみなす場合が多かった。他の太陽暦でも、現在の9月11-12日を年初とするエチオピア暦、8月26日から始まったパーシ暦、現在の9月22-24日を年初としたフランス革命暦(1793年11月24日~1805年12月31日、元日に相当する日はヴァンデミエール(葡萄月)1日)もあった。中国においても春秋戦国時代には周が冬至、楚が立冬、魏が立春を正月とするなど各国によってバラバラであったが、立春を年初とした秦が中国を統一し、漢の時代には立春を年初の基準とすることが定着した。",
"title": "年初"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "中世ヨーロッパでは、基本的にユリウス暦を用いながらも、年初は地域によってばらばらだった。それらは主にキリスト教にとって重要な日を選び、イエス・キリスト生誕日であるクリスマスの12月25日、受胎告知の3月25日、そしてキリスト教で最も重視され太陽暦では固定できなかった復活祭。1月1日を主の割礼祭として年初に据えることもあったが、一般的ではなかった。",
"title": "年初"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1564年にフランスのシャルル9世が、年初を冬至に近い1月1日へ固定した。当初これには国内の反発があったが3年後には議会で採択され正式に発令され、さらにこれは1582年のグレゴリオ暦採用時にも再度定められた。しかしこの定めはキリスト教圏にすぐに広がったわけではなく、例えばイギリスが1月1日を年初としたのは1752年であった。",
"title": "年初"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "歴史学や天文学などにおいて、何かしらの概念に基づく長大な時間に対し固有名詞をつけて「何々年」と呼ぶ場合がある。古代ギリシアの哲学者プラトンは歴史とは循環するものと考え、『テアイテトス』にて、その周期を36,000年と試算した。36,000は「完全数」の名で呼ばれ、これは「プラトン大年(magnus Platonicus annus)」「大年(great year)」「プラトン年 (Platonic Year)」「プラトン的転回 (Platonic Revolution)」と呼ばれ、地球を回る8天体(太陽と7惑星)が元の位置に戻るのに要する時間をいい、宇宙の更新が行われる聖なる周期と考えられていた。",
"title": "その他の年"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "現代では、歳差運動によって春分点が移動して一周する約26,000年に対し、「大年(great year)」 の名が与えられている。さらに、太陽系が秒速200kmの速度で銀河系を一周する期間である約2億年も、銀河年 (Galactic year) という名称で呼ばれる。",
"title": "その他の年"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "年が地球の公転周期を基礎にしていることから転じ、他の惑星の公転周期についても「年」という表記が使われる。例えば「水星年」、「火星の一年」などである。このような用語を使う際、混同を避けるために地球の1年は「地球年」 (earth year) とも呼ばれる。",
"title": "その他の年"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ガウス年(英語版) : 2π / k = 約365.256 898日。k はガウス引力定数で k = 0.017 202 098 95(定義値)。かつては天文単位の換算などに使われた。現在では(2012年8月以降)天文単位はガウス引力定数とは関係なく、正確に149 597 870 700 m と定義されている。",
"title": "その他の年"
}
] | 年は、時間の単位の一つであり、春・夏・秋・冬、あるいは雨季・乾季という季節のめぐりが1年である。元来は春分点を基準に太陽が天球を一巡する周期であり、平均して約365.242 189日(2015年時点)である(太陽年)。 1年の長さを暦によって定義する方法が暦法であり、現在世界各国で用いられるグレゴリオ暦(現行暦)では、1年を365日とするが、1年を366日とする閏年を400年間に97回設けることによって、1年の平均日数を365.2425日とする。 なお、天文学における時間の計量の単位としての「年」には通常、ユリウス年を用いる。ユリウス年は正確に31 557 600秒=365.25 dである(後述)。 年は、時刻を表示する区分であり、また、年数を表す単位ともなる。これは英語 の year も同様で、「4 years old」(4歳)や「per year」(1年あたり)という時間を表すとともに、「year 1950」(1950年)や「the years of 」(-の年・-の時代)というように特定の時刻を示す際にも使われる。 暦法に従い時刻の「年」を表す方法が紀年法であり、キリスト紀元(西暦)をはじめとするさまざまな紀年法が使用されている(後述)。 | {{Otheruses|時間の単位|各年の事柄|年の一覧|歳(とし)|年齢}}
{{redirect|一期|植物の'''一期'''|イチゴ}}
{{単位|名称=年|記号=y, yr, a|単位系=[[暦法]]|物理量=[[時間]]|定義=約365.242 189 44日(2015年央)([[太陽年]])|SI=約31 556 925.168秒(2015年央)|画像=[[ファイル:Four seasons.jpg|200px]]}}
[[File:年-order.gif|thumb|年]]
'''年'''(ねん、とし、{{lang-en-short|year}})は、[[時間]]の[[単位]]の一つであり、[[春]]・[[夏]]・[[秋]]・[[冬]]、あるいは[[雨季]]・[[乾季]]という[[季節]]のめぐりが1年である<ref>[https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CDD7C1C72F1C7AFA4C8A4CFA1A9.html 1年とは?] 国立天文台 > 暦計算室 > 暦Wiki > 要素</ref>。元来は[[春分点]]を基準に[[太陽]]が[[天球]]を一巡する[[周期]]であり、平均して約365.242 189[[日]](2015年時点)である([[太陽年]])。
1年の長さを[[暦]]によって定義する方法が'''[[暦法]]'''であり、現在[[世界]]各国で用いられる[[グレゴリオ暦]]<ref name=Sato77>[[#佐藤2009|佐藤 (2009)、pp.77-81、世界統一暦の試み]]</ref>(現行暦)では、1年を365日とするが、1年を366日とする[[閏年]]を400年間に97回設けることによって、1年の平均日数を365.2425日とする<ref>{{Cite web|和書|url= http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/koyomi98/taiyonen.html |title=ユリウス暦における地球公転軌道上のずれ(季節のずれ)の累積と、それを改善するグレゴリオ暦(現行暦)|author=小山真人|publisher=[[静岡大学]]防災総合センター|accessdate=2011-05-20}}</ref>。
なお、[[天文学]]における時間の[[計量]]の[[単位]]としての「年」には通常、[[ユリウス年]]を用いる。ユリウス年は正確に31 557 600[[秒]]=365.25 d(d = 86 400[[秒]])である(後述)。
年は、[[時刻]]を表示する区分であり、また、年数を表す単位ともなる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.weblio.jp/content/%E5%B9%B4 |title=【年】|publisher=Webio百科事典/[[三省堂]]大辞林|accessdate=2011-05-20}}</ref>。これは[[英語]] の year も同様で、「4 years old」(4歳)や「per year」(1年あたり)という時間を表すとともに、「year 1950」(1950年)や「the years of 」(-の年・-の時代)というように特定の時刻を示す際にも使われる<ref name=year>{{cite web|url=http://ejje.weblio.jp/content/year |title=【year】|publisher=Webio英和和英事典/[[研究社]], JST科学技術用語日英対訳辞書, ライフサイエンス辞書, 日本語WordNet, 他|accessdate=2011-05-20}}</ref>。
暦法に従い時刻の「年」を表す方法が'''[[紀年法]]'''であり、[[西暦|キリスト紀元(西暦)]]をはじめとするさまざまな紀年法が使用されている(後述)。
== 概念 ==
「年」は[[天文学]]においては、[[ユリウス年]]以外は、[[計量]]的な用途には馴染まない<ref name=Yano>{{Cite book|和書|author=矢野宏|year=1997|title=単位の世界をさぐる|publisher=[[講談社]] |edition=第1刷|isbn=4-06-257183-8}}</ref>。その理由は、たとえば、現行の[[グレゴリオ暦]]では、[[閏年]]があるために、1年が365日または366日となって日数(または秒数)が一定ではないためである<ref group="注釈">日本においてグレゴリオ暦導入前に使用されていた[[天保暦]]などは[[太陰太陽暦]]のため、1年は12か月または([[閏月]]を含む)13か月と一定ではない。</ref>。さらに地球の自転と時刻を合わせるために[[閏秒]]による補正も行われている<ref name=Jstpro>{{Cite web|和書|url=https://jjy.nict.go.jp/mission/page1.html |title=日本標準時プロジェクトの業務紹介|author= |publisher=独立行政法人情報通信研究機構 日本標準時プロジェクト|language=日本語|accessdate=2010-11-13}}</ref>からである。
天文学で用いる[[ユリウス年]]は、正確に365.25 日([[ユリウス暦]]における1年の日数)であり、したがって正確に31 557 600 [[秒]]( = 3600 秒 × 24 時間 × 365.25 日)である。
年は、時間を示すおおまかな単位としては一般に認められている。これは[[人間]]を取り巻く[[環境]]や[[生活]]がもたらす[[周期|周期性]]を重視し、それから受ける[[感覚]]を尊重していることに由来する。このような累積する時間(秒)と繰り返す時間(年)の共存は、単位の柔軟性と多様性を示す一例に当たる<ref name=Yano />。
== 語源 ==
[[日本語]]で「とし」とは、「[[イネ|稲]]」や[[穀物]]を[[語源]]とし、1年周期で[[稲作]]を行なっていたため「年」の意味で使われるようになったという。ちなみに、[[漢字]]の「年」は禾に粘りの意味を含む人の符を加え、穀物が成熟するまでの周期を表現した<ref>{{Cite web|和書|url=https://gogen-yurai.jp/toshi/ |title=【年・歳】|publisher=語源由来辞典|accessdate=2011-05-20}}</ref>。
== 天文学的な年 ==
[[File:Celestial sphere(in Japanese).png|right|250px|thumb|地球から見た天の赤道と黄道の傾きが季節の循環を生じる。]]
[[File:Seasons2.svg|right|250px|thumb|赤道傾斜角]]
=== 定義 ===
{{Main|太陽年|恒星年}}
[[地球]]上で生活する上で、1年の長さとは[[四季|春夏秋冬]]という季節が一巡する期間を指す。そしてこれは、地上から見た太陽の高さと[[日照時間]]の変化でもたらされる。太陽は、[[天の赤道]]から約23.44[[度 (角度)|度]]傾いた[[黄道]]を通っている。[[春分]]と[[秋分]]の際に天の赤道と黄道は重なるが、[[夏]]には天の赤道よりも最大約23.44度高い位置を太陽が通り、[[冬]]には逆に最大約23.44度低い位置を通る。これに伴い日照時間も変化し、昼夜は春分と秋分ではほぼ同じ、夏には昼が長く冬には短くなる。太陽の高さは[[太陽光|日光]]の[[入射角]]を決め、夏の時期には高くなり[[地表]]の単位[[面積]]当たりの[[エネルギー]]量が多くなる。また夏には日照時間が延びることもエネルギーを増やす。冬にはこれらが逆に働き、結果として季節ができる<ref name=Aoki156>[[#青木1982|青木 (1982)、第4章 単位と天体暦、pp.156-157、三 一年の長さ 季節]]</ref>。
この季節の一巡は、天文学的には春分から次の春分までを指し、これは[[太陽年]]<ref name=Tenmon3-2>{{Cite web|和書|url=https://www.nao.ac.jp/faq/a0302.html |title=質問3-2 春分の日はなぜ年によって違うの? |publisher=[[国立天文台]] |accessdate=2011-05-20}}</ref>(回帰年<ref name=Aoki156 />)と呼ばれる。この見た目の太陽運行は、太陽を[[公転]]する地球の[[自転軸]](地軸)が公転面に対して約23.44度傾いているために生じる。これは[[赤道傾斜角]]と言われる。地球が、太陽が春分点にある位置から[[太陽周回軌道]](公転軌道)をほぼ1周すると、太陽に対するこの傾いた地軸が同じ位置になり<ref>{{Cite web|和書|url=http://takeno.iee.niit.ac.jp/~shige/math/lecture/misc/astro1/index.html |title=春分について|author=竹野茂治|publisher=[[新潟工科大学]]情報電子工学科 |accessdate=2011-05-20}}</ref>、ふたたび春分点に太陽が来る。これが季節の一巡となる。
しかし、地球の自転軸や公転時間は一定していない。傾いた地球自転軸は、[[独楽|コマ]]が触れるようにその[[方向]]を変え、そのため春分点が1年あたり約50[[秒 (角度)|秒]]ずつ東へ移動している。これは[[歳差運動]]と呼ばれる<ref name=Aichi>{{Cite web|和書|url=http://www2.aasa.ac.jp/graduate/gsscs/reports01/PDF/01-012.pdf |format=PDF|title=時空の科学としての暦の歴史|author=親松和浩|publisher=[[愛知淑徳大学]] |accessdate=2011-05-20}}</ref><ref name=Yamagata>{{Cite web|和書|url=http://www.s-yamaga.jp/nanimono/uchu/jikokutokoyomi-01.htm |title=第一部‐2‐宇宙の科学|author=山賀進|accessdate=2011-05-20}}</ref>。そのため、実は春分点への回帰を根拠とする太陽年では地球の公転上の位置が一定しておらず、1年で地球の公転方向と逆に角度約50秒(公転時間約マイナス20[[分]])ずつずれてゆく<ref name=Iijima>{{Cite web|和書|url= http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~921921/reciprocal/kinjitsuten.pdf |format=PDF|title=近日点通過日の不思議|author=飯島孝夫|publisher=[[学習院大学]] |accessdate=2011-05-20}}</ref>。これは地球上では、年々ずれる春分点と、遠い距離の[[恒星]]がつくる[[星座]]の位置が変わってゆく現象として観察される<ref name=Aichi />。地球が正確に公転軌道を360度回転した「年」は、この恒星([[慣性系]])を基準にその位置が回帰した時間として定められ、これは[[恒星年]]と呼ばれる<ref name=Saitama>{{Cite web|和書|url=http://www.sit.ac.jp/user/tkoji/class11/uchuu/uchuu4w.pdf |format=PDF|title=宇宙の科学(第4章)|author=高橋広治|publisher=[[埼玉工業大学]]人間社会学部 |accessdate=2011-05-20}}</ref>。
=== 摂動の影響 ===
基本的な天文学における1年を決める地球の公転は[[ケプラーの法則]]に従う[[楕円軌道]]で定義され、歳差運動も一定ならば太陽年や恒星年に変化は生じないと思われる。しかし、ケプラーの法則は2つの天体についての運動を[[ニュートン力学]]で解いたものであり、ここに第3の天体が加わると計算が非常に複雑となり、事実上[[近似値]]しか求められなくなる。このような他天体の影響による軌道の乱れは[[摂動 (天文学)|摂動]]と呼ばれる。[[サイモン・ニューカム]]はこれら摂動の影響を短い周期(短周期項)とゆっくりした周期(詳しくは長周期項と長年項)に分け、それらが断続的にケプラー運動の初期値に影響を与えると述べた<ref name=Aoki159>[[#青木1982|青木 (1982)、第4章 単位と天体暦、pp.159-161、三 一年の長さ 摂動]]</ref>。そして、この摂動によって地球の公転軌道は徐々に[[離心率]]が小さくなり恒星年が短くなると説明された<ref name=Aoki161>[[#青木1982|青木 (1982)、第4章 単位と天体暦、pp.161-162、三 一年の長さ ニューカムの太陽表]]</ref>。さらに摂動は自転軸の[[章動]]を起こし、公転速度に乱れを生じさせ恒星年に影響を与える<ref name=Iijima />。
また、公転軌道そのものも一定ではない。楕円の公転軌道も他惑星からの摂動によって回転しており、地球の[[近日点]]は1年で地球の公転方向側に角度約11秒ずつ(公転時間約4分)ずれてゆく。近日点通過後次に近日点の位置に地球がくるまでの時間を「近点年」(平均約365.25964日 <ref name=Mashima>{{cite journal |和書|url=https://hdl.handle.net/10935/2377|title=暦法、とくに置閏法についての一考察|author=馬嶋玄敏|publisher=奈良女子大学文学部附属中学校・高等学校|journal=研究紀要|date=2010|accessdate=2011-05-20}}</ref>)というが、この年は恒星年よりも約4分長い<ref name=Iijima />。
=== 自転の変化 ===
一方、「年」を地球の自転によって決まる「日」で定義する場合、この自転そのものが段々と減速している事も知られている。摂動や[[潮汐]]などの影響と考えられているが、古代の[[日食]]記録や[[サンゴ]][[組織 (生物学)|組織]]の「日」単位の粗密(日輪)の調査などから約5億年前の1日は短かったことが判明しており、当時の1年は約400日だったと考えられる<ref name=Aoki165>[[#青木1982|青木 (1982)、第4章 単位と天体暦、p.165、三 一年の長さ 一年の日数]]</ref>。
== 人為的に定義された年 ==
初期の人類が時間を認識する基礎は、季節の観念だったと考えられる。これは[[狩猟採集社会]]において獲物や収穫を左右する要因に大きく影響を及ぼしたからである。ただしその当時どこまで厳密な「年」の概念を持っていたかは定かでない<ref name=Aoki51>[[#青木1982|青木 (1982)、第2章 太陰暦と太陽暦、pp.51-53、一 古代人の天文学 人類と天体]]</ref>。[[イギリス]]にある[[新石器時代]]の遺跡[[ストーンヘンジ]]は一種の天体観測台であり、[[夏至]]や[[冬至]]の時期を知る[[カレンダー]]の機能を持っていたと考えられる<ref>{{Cite web|和書|url=http://ksirius.kj.yamagata-u.ac.jp/~shibata/yamashin/45-body.html|title=夏至|author=柴田晋平|publisher=[[山形大学]]理学部物理学科 |accessdate=2011-11-09}}</ref><ref>柴田晋平 他『星空案内人になろう』技術評論社</ref>
=== 太陰暦と太陰太陽暦 ===
{{Main|太陰暦|太陰太陽暦}}
日次を認識する際、天体の[[月]]が[[月相|相(満ち欠け)]]を起こす様子は便利だった。そこから[[新月]]から次の新月までの周期である1[[朔望月]](約29.53日)を基礎に置いた暦である[[太陰暦]]が発達した<ref>[[#青木1982|青木 (1982)、序章 月と時、pp.1-2、月のみちかけ]]</ref>。この暦では、平均朔望月(約29.53059日<ref name=Kodama>{{Cite web|和書|url=http://www.math.kobe-u.ac.jp/~kodama/tips-measure.html |title=時間の単位と暦法 |author=児玉宏児 |publisher=[[神戸大学]]大学院自然科学研究科|accessdate=2011-05-20}}</ref>)から1か月を29または30日とし、その12倍(太陰年=約354.36708日<ref name=Kodama />)を[[暦年]]と定めたが、季節の循環と毎年10日ほどのずれが生じることになった。この暦は[[遊牧民族]]や[[漁撈]]中心の社会に適し、地域では[[古代メソポタミア]]、[[古代エジプト|エジプト]]、[[古代ギリシア|ギリシア]]、[[古代中国|中国]]で発達した<ref name=Asai>{{Cite web|和書|url=http://www.fujimigaoka.ac.jp/schoollife/external_html/subject/social%20studies/pdf/4_calendar.pdf |format=PDF|title=第4部 暦 |author=浅古拓人|publisher=[[富士見丘中学校・高等学校]] |accessdate=2011-05-20}}</ref>。現代でもイスラムで使われる[[ヒジュラ暦]]は太陰暦であり、1年は354または355日となる<ref name=Asai />。
しかし太陰暦は季節の期とのずれが激しく、[[気候]]変化に根付いた時間感覚との違和感が大きく農耕民族にとっては<ref name=Asai />使いにくい。古代ギリシアの数学者[[メトン]]は、19太陽年と235朔望月にほぼ合うことを見つけ、太陰暦の19年に7度[[閏月|追加の月(閏月)]]を挿入する[[メトン周期]]を発案した<ref name=Asai />。これによると、1年は平均して365.263日となる。この周期は[[バビロニア]]<ref group="注釈">古代バビロニアでは6か月を1年としていたという。そのため人の[[年齢]]は現在の倍以上で数えられた。[[聖書]]の登場人物が非常に長寿なのは、この習慣が反映したという説がある。([[#岡田ら1994|岡田ら (1994)、pp.300-301、太陰太陽暦、バビロニア暦]])</ref>や中国でも独自に発見され、太陽年と太陰暦を[[置閏法]]で調整し特定の年を13か月とする[[太陰太陽暦]]が発達した<ref name=Aoki3>[[#青木1982|青木 (1982)、序章 月と時、pp.3-4、太陰太陽暦]]</ref>。
=== 太陽暦 ===
{{Main|太陽暦}}
地球の公転を基礎に置く[[太陽暦]]を発達させた古代文明にエジプトがある。この地で発達した根底には一定の期間で発生する[[ナイル川]]の洪水があった。これを基準に季節を3つの期に分け、アケト(洪水)、ペロイェト(芽生え)、ショム(欠乏)と呼んでいた<ref name=Okada309>[[#岡田ら1994|岡田ら (1994)、pp.309-310、太陽暦、エジプト暦(シリウス暦)]]</ref>。この期がそれぞれ4朔望月とほぼ一致することから、当初はエジプトでも太陰暦が用いられていた<ref name=Okada309 />。ところが彼らは、洪水が起こり始める夏の時期には太陽が昇る直前の東の空に[[シリウス]]が輝くという[[天文現象]]に気づいた。エジプト人はシリウスを[[神]][[ソプデト]]と崇め、夏至を基準とする暦法を作り出した。当初、これは朔望月を基準に3年に1度閏月を加える1年を354日とする「太陰星暦」とも呼べる暦法だったが、紀元前2700年ごろに1か月を30日とし別に5日の祭日を設けた1年を365日とする[[シリウス暦]]に改められた<ref name=Okada309 />。この30日の12倍に余りの5日を1年とする暦法は古代エチオピア<ref name=Okada310>[[#岡田ら1994|岡田ら (1994)、pp.310-311、太陽暦、エチオピア暦]]</ref>や[[古代インド]]のパーシ教徒<ref name=Okada311-1>[[#岡田ら1994|岡田ら (1994)、p.311、太陽暦、パーシ暦]]</ref>でも用いられた。古代エジプトでは、やがてシリウス(恒星)と太陽の運行には若干の差がある事が認識され、[[プトレマイオス3世]]治世時に4年に1度閏日を加え、1年を平均365.25日とする暦法が制定された<ref name=Okada311>[[#岡田ら1994|岡田ら (1994)、pp.311-312、太陽暦、ユリウス暦]]</ref>。
[[File: 0092 - Wien - Kunsthistorisches Museum - Gaius Julius Caesar.jpg |left|200px|thumb|[[ガイウス・ユリウス・カエサル]](ジュリアス・シーザー)]]
[[共和政ローマ]]の実権を握った[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]は、紀元前46年に1年を平均365.25日とするエジプトの太陽暦を導入した<ref group="注釈">この改暦のために90日もの閏日を設け、1年が445日となった。この年はアヌス・コンフシオニス(「乱年」の意味)と呼ばれた。([http://www.gekkou.or.jp/c-1/htc-0304/cul-13.html 2005年の歴史/公益財団法人 国際文化交友会])</ref>。彼の死後、一時混乱して閏年を3年に1度とする平均365.3333日の運用もなされたが、紀元8年に[[アウグストゥス]]が修正を施し平均365.25日へ戻された<ref name=Okada311 />。[[ローマ帝国]]の拡大に伴い、ユリウス暦はヨーロッパのほぼ全土・アフリカ北部から中近東に至る広い地域で用いられた<ref name=Okada311 />。このユリウス暦でも1年当たり約11分14秒長かったため、やがて春分日との誤差が顕著になった。1582年、[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]によって400年間に97回の[[閏年]]を設ける[[グレゴリオ暦]]へ改暦され、1年は365.2425日となった。この年単位は当初は[[カトリック教会|カトリック]]諸国のみの採用に留まっていた。しかし暦として優れている点が徐々に認められ、[[プロテスタント]]諸国には18世紀以降、[[ギリシア正教]]諸国も19世紀には、非キリスト教国では1873年の[[日本]] <ref group="注釈">日本では旧暦の[[明治]]5年12月3日を新暦の明治6年1月1日とし、これは[[明治改暦]]と呼ばれる。[[大隈重信]]の回顧録によると、これは月給制だった役人給与を、改暦で1か月を端折ることができ、当時逼迫していた財政を節約する狙いがあったという。([[年#佐藤2009|佐藤 (2009)、pp.55-56]])
また、旧暦の明治6年は閏年で13か月あったため、「2日間しかないために端折った明治5年12月分と、準備しないで良くなった明治6年の[[閏月]]分の、合わせて2か月分(の給与)を浮かした」とも言われる。(ブルーバックス「暦の科学」山崎昭、久保良雄 (1984))
なお、明治6年を西暦1873年とした改暦の置閏法の記述は、当時既に西洋で広まっていたグレゴリオ暦ではなくユリウス暦のものだったため(4年に1度の閏日を設けるのみ)、両者で食い違いが生じる西暦1900年を2年後に控えた1898年、明治政府は再度改暦を行い、グレゴリオ暦の置閏法に改めた (ブルーバックス「暦の科学」山崎昭、久保良雄 (1984))。従って、日本がグレゴリオ暦を採用したのは1898年ということになる。
</ref>を皮切りに、20世紀中には世界中のほとんどの国が採用する[[西暦]](世界標準暦)として用いられるようになった<ref name=Okada312>[[#岡田ら1994|岡田ら (1994)、pp.312-315、太陽暦、グレゴリオ暦]]</ref>。
;マヤ暦
{{Main|マヤ暦}}
[[メソアメリカ]]文明では、エジプトとは独立に太陽暦を確立していた。メソアメリカには20日の月が18と5日の余日から構成される365日を1年とする暦と、13日の数字による周期と20日の日名による周期が別々に動き、260日で元に戻る宗教暦が用いられた<ref name=Okada315>[[#岡田ら1994|岡田ら (1994)、pp.315-317、太陽暦、マヤ暦]]</ref>。
=== ユリウス年 ===
{{Main|ユリウス年}}
天文学では[[計量]]の[[単位]]としての「年」として、1年を正確に365.25[[日]]とする[[ユリウス年]]を用いる。したがって、1[[ユリウス年]]は、[[国際単位系]]における31 557 600[[秒]](正確に)と定義されている<ref name=SI>[[国際天文学連合]] "[http://www.iau.org/science/publications/proceedings_rules/units/ SI units]" accessed 18 February 2010. (See Table 5 and section 5.15.) Reprinted from George A. Wilkins & IAU Commission 5, [http://www.iau.org/static/publications/stylemanual1989.pdf "The IAU Style Manual (1989)"] (PDF file) in ''IAU Transactions'' Vol. XXB</ref>。
=== ユリウス通日 ===
日付(年月日)と日数が、[[改暦]]による時期やそれぞれの地域によって統一されていないことから生じるさまざまな不具合に対して考案された基準が[[ユリウス通日]](または、「ユリウス日」)である<ref name=Aoki97>[[#青木1982|青木 (1982)、第2章 太陰暦と太陽暦、pp.97-98、四 太陽暦問答(その2) ユリウス通日]]</ref>。
ユリウス通日は、[[紀元前4713年]]1月1日(または、-4712年1月1日)の[[正午]]を起点とした通日である。1582年に実施された[[ユリウス暦]]から[[グレゴリオ暦]]への[[改暦]]によって、さまざまな混乱が生じることを懸念して、スカリゲル({{仮リンク|ジョゼフ=ジュスト・スカリジェ|en|Joseph Justus Scaliger}})([[1540年]]-[[1609年]])が考案した。
== 派生単位 ==
{{wikt|decade|千年紀|ミレニアム|世紀|半年|quarter|光年}}
[[10]]年を「[[十年紀]]」([[デケイド|decade]])<ref>[[十年紀]]を意味する[[decade]]はデケイド、ディケイドなどと発音する。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/ja/magazine/archive/0/56.html |title=新年のご挨拶|author=宮野健次郎 |publisher=[[東京大学]]先端科学技術研究センター|accessdate=2011-11-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120505055352/http://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/ja/magazine/archive/0/56.html|archivedate=2012-05-05}}</ref>、[[1000]]年を「千年紀」([[ミレニアム]])と呼ぶ。また、[[100]]年を「[[世紀]]」と言うが、これは西暦[[1年|元年]]から100年刻みの時代区分を指す<ref>{{Cite book|和書|year=1989|title=日本語大辞典|edition=第一刷|publisher=講談社|page=1063|chapter=【世紀】|isbn=4-06-121057-2}}</ref>。
1年の[[半分]]の6か月のことを「半年(はんとし、はんねん)」という<ref>{{Cite book|和書|year=1989|title=日本語大辞典|edition=第一刷|publisher=講談社|page=1613|chapter=【半年】|isbn=4-06-121057-2}}</ref>。また、[[会計年度]]などで一つの[[年度]]を6か月ずつの半期に分けて、前の半期(前期)を「上半期(かみはんき)」<ref>{{Cite book|和書|year=1989|title=日本語大辞典|edition=第一刷|publisher=講談社|page=388|chapter=【上半期】|isbn=4-06-121057-2}}</ref>、後の半期(後期)を「下半期(しもはんき)」<ref>{{Cite book|和書|year=1989|title=日本語大辞典|edition=第一刷|publisher=講談社|page=883|chapter=【下半期】|isbn=4-06-121057-2}}</ref>ともいう。さらに、1年を3か月単位の4分の1に分けたものを「[[四半]]期(しはんき)」([[クオーター|クォーター]]、英語:quarter)といい<ref>{{Cite book|和書|year=1989|title=日本語大辞典|edition=第一刷|publisher=講談社|page=872|chapter=【四半】|isbn=4-06-121057-2}}</ref>、年や年度の初めから順に第1四半期・第2四半期・第3四半期・第4四半期と呼ぶ。[[英語圏]]では "Q1,Q2,Q3,Q4" と略す。
;[[SI接頭語]]の使用
[[天文学]]・[[地質学]]・[[古生物学]]などでは、以下のような単位が使用される。
:1000年 ka(kilo annumの略、annum は[[ラテン語]]で年を意味する), ky, kyr
:[[100万]]年 Ma, My, Myr、
:[[1000000000|10億]]年 Ga, Gy, Gyr
これらはそれぞれ「[[キロ]]年」「[[メガ]]年」「[[ギガ]]年」の意味だが、日本語では[[接頭語]]も訳して呼ぶ。
[[地殻変動]]など非常に遅い速度を表すのに、「[[ミリメートル]]毎年」(mm/y, mm/yr)、「[[センチメートル]]毎年」(cm/y, cm/yr)が使われる。[[資源]]などの産出量は「[[トン]]毎年」(t/y, t/yr)などが使われるが、年当たりなのは自明とみなし単にトンなどと表すことが多い。他にもさまざまな量が年当たりで算出されるが、毎年は省略することが多い。
;光年
[[ユリウス年]]を使って定義される[[長さ]]の[[単位]]に「[[光年]]」(ly)がある。これは[[光速度]]と[[ユリウス年]]との積に等しい。1光年は正確に 9 460 730 472 580 800 m である。
== 紀年法 ==
紀年法には、ある起点から期間を区切らず無限に年数が加算されていく[[紀元]]<ref>「暦と時間の歴史」(サイエンス・パレット9)p183 リオフランク・ホルフォード・ストレブンズ著 正宗聡訳 丸善出版 平成25年9月30日発行</ref>、君主や統治者、その他さまざまな制限によって期限を区切られる[[元号]]<ref>「暦と時間の歴史」(サイエンス・パレット9)p169-179 リオフランク・ホルフォード・ストレブンズ著 正宗聡訳 丸善出版 平成25年9月30日発行</ref>、一定の期間で循環する[[周期]]によって年を表わす方法<ref>「暦と時間の歴史」(サイエンス・パレット9)p179-181 リオフランク・ホルフォード・ストレブンズ著 正宗聡訳 丸善出版 平成25年9月30日発行</ref>が存在する。周期による紀年法の例としては、古代ギリシアにおける[[オリンピアード]](オリンピア紀元)や<ref>「暦の大事典」p90-93 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>、[[干支]]などが挙げられる<ref>「暦入門 暦のすべて」p125-126 渡邊敏夫 雄山閣 2012年5月30日初版発行</ref>。
現代においては[[西暦|キリスト紀元(西暦)]]が最も多くの国で使われていて、[[国際標準化機構]]の[[ISO 8601]]では[[アラビア数字]]4桁で表記するよう定められている<ref name=Sato77 />。また、西暦と独自の紀年法を併記する場合がある<ref>[[#佐藤2009|佐藤 (2009)、pp.33-36、独自の紀年があってこその世界共通紀年]]</ref>。[[新聞]]を例に取ると、例えば[[日本]]では西暦[[2020年]]に対して、[[元号]]を用いる「[[令和]]2年」<ref>[[#佐藤2009|佐藤 (2009)、pp.31-33、日本の年月日表示]]</ref>。ほかのアジア諸国では、中華民国(台湾)では「民国109年」(聯合報)、朝鮮民主主義人民共和国([[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]])では「[[主体暦|主体]]109年」(コリアンニュース)<ref>[[年#佐藤2009|佐藤 (2009)、pp.29-31、朝鮮の年月日表示]]</ref>、[[大韓民国]](韓国)では「[[檀君紀元|檀君]]紀元4353年」([[朝鮮日報]])、[[イスラム教国]]でも[[エジプト]]([[アル・アハラム]])や[[ブルネイ]](ブリタブルネイ)を例に取ると「[[ヒジュラ暦|ヒジュラ太陰暦]]1442年」<ref>[[#佐藤2009|佐藤 (2009)、pp.23-26、イスラーム諸国の年月日表示]]</ref>が併記される。
== 年初 ==
現在の一年の始まり(年初・歳首<ref name=Sato052>[[#佐藤2009|佐藤 (2009)、pp.052-056、一年のはじめを固定したこと]]</ref>)は[[元日]](1月1日)であるが、これには天文学的または宗教・思想的な意味は無い<ref>「暦の大事典」p150 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。グレゴリオ暦の基礎となった[[ローマ暦]]では、紀元前735年に始まった当初、一年の始まりを現在の[[3月]] (Martius) 初日に置いていた<ref name=Ike42>[[#池内1999|池内 (1999)、3 俺は北極星のように不動だ、pp.42-43、ローマの暦]]</ref>。後に[[ガイウス・ユリウス・カエサル]](ユリウス・シーザー)が[[エジプト]]から導入した[[太陽暦]]へ切り替えた紀元前47年に、[[冬至]]に近かった [[1月]] (Januarius) の初日を一年の始まりと改めたことが現在まで引き継がれている<ref name=Ike44>[[#池内1999|池内 (1999)、3.俺は北極星のように不動だ、pp.44-47、改暦の歴史]]</ref>。日本語では暦月名は一月、二月、と序数で数え上げるが、[[月_(暦)#ローマ暦に由来する名称と日数|西洋の暦の暦月名]]はそうではない。巡回する12の固有な名前の「どれが年初か」は必ずしも自明ではなく、Martiusを年初の暦月とするか、Januariusを年初の暦月とするかは自由度があるのである(これは曜日を数で数えない言語で「[[週]]」が日曜から始まるか月曜から始まるか議論があるのと似ている)。
しかし、文化圏や民族によって一年の始まりは様々であった。[[温帯]]地方では太陽運行上の節目に当る冬至や春分、または夏至(エジプトなど)、秋分([[ユダヤ暦]])を年初と置いていた。[[シュメール]]では各都市ごとに暦が統一されていなかったため、年初も春分が多かったものの、夏至や秋分を年初とする都市も存在し<ref>「文明の誕生」p66-67 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>、春分近くを年初とする暦に統一されたのは[[バビロン第1王朝]]の時代だった<ref>「文明の誕生」p71-72 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>。[[古代ギリシア暦]]においても都市間で年初が異なることは同様であり、[[アテナイ]]では夏至基準、[[スパルタ]]では秋分を基準としていずれも次の新月を年初とした<ref>「星の文化史事典」p134 出雲晶子編著 白水社 2012年4月9日発行</ref>。農業中心の社会ではローマ暦のように春を年初とみなす場合が多かった<ref name=Asai /><ref>[[#岡田ら1994|岡田ら (1994)、pp.296-298、原始的な暦]]</ref>。他の太陽暦でも、現在の9月11-12日を年初とするエチオピア暦<ref name=Okada310 />、8月26日から始まったパーシ暦<ref name=Okada311-1 />、現在の9月22-24日を年初とした[[フランス革命暦]](1793年11月24日~1805年12月31日、元日に相当する日はヴァンデミエール(葡萄月)1日)もあった<ref>「暦の大事典」p152-153 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。中国においても[[春秋戦国時代]]には[[周]]が冬至、[[楚 (春秋)|楚]]が[[立冬]]、[[魏 (戦国)|魏]]が[[立春]]を正月とするなど各国によってバラバラであったが、立春を年初とした[[秦]]が中国を統一し、[[漢]]の時代には立春を年初の基準とすることが定着した<ref>「暦の大事典」p232 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。
中世ヨーロッパでは、基本的にユリウス暦を用いながらも、年初は地域によってばらばらだった。それらは主に[[キリスト教]]にとって重要な日を選び、[[イエス・キリスト]][[誕生日|生誕日]]である[[クリスマス]]の[[12月25日]]、[[受胎告知]]の[[3月25日]]、そしてキリスト教で最も重視され太陽暦では固定できなかった[[復活祭]]<ref name=Sato052 />。1月1日を[[主の割礼祭]]として年初に据えることもあったが、一般的ではなかった<ref name=Asai />。
1564年に[[フランス]]の[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]が、年初を冬至に近い<ref name=Sato052 />1月1日へ固定した<ref name=Asai />。当初これには国内の反発があったが3年後には議会で採択され正式に発令され、さらにこれは1582年のグレゴリオ暦採用時にも再度定められた<ref name=Asai />。しかしこの定めはキリスト教圏にすぐに広がったわけではなく、例えば[[イギリス]]が1月1日を年初としたのは1752年であった<ref name=Sato052 />。
== その他の年 ==
=== 長大な時間 ===
歴史学や天文学などにおいて、何かしらの概念に基づく長大な時間に対し[[固有名詞]]をつけて「何々年」と呼ぶ場合がある。[[古代ギリシア]]の[[哲学者]]プラトンは[[歴史]]とは循環するものと考え、『テアイテトス』にて、その周期を36,000年と試算した。36,000は「完全数」の名で呼ばれ、これは「プラトン大年(magnus Platonicus annus)」「大年(great year)」「プラトン年 (Platonic Year)」「プラトン的転回 (Platonic Revolution)」と呼ばれ<ref>{{Cite book|和書|author=岡崎勝世|authorlink=岡崎勝世 |year=2003|title=世界史とヨーロッパ|publisher=[[講談社]]現代新書|pages=218-219|isbn=4-06-149687-5|ref=岡崎2003}}</ref>、地球を回る8天体(太陽と7惑星)が元の位置に戻るのに要する時間をいい、宇宙の更新が行われる聖なる周期と考えられていた。
現代では、歳差運動によって春分点が移動して一周する約26,000年に対し、「大年(great year)」 の名が与えられている<ref>{{cite web|url=http://ejje.weblio.jp/content/great+year |title=【great year】|publisher=Webio英和和英事典/[[研究社]], JST科学技術用語日英対訳辞書, ライフサイエンス辞書, 日本語WordNet, 他|accessdate=2011-05-20}}</ref>。さらに、[[太陽系]]が[[秒速]]200kmの速度で[[銀河系]]を一周する期間である約2億年も、[[銀河年]] (Galactic year) という名称で呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.soc.shukutoku.ac.jp/matsuyama/hp/na3105/ |title=四季の星座と神話|author=松山恵美子|publisher=[[淑徳大学]]総合福祉学部|accessdate=2011-05-20}}</ref><ref>{{cite web|url=http://ejje.weblio.jp/content/galactic+year |title=【Galactic year】|publisher=Webio英和和英事典/[[研究社]], JST科学技術用語日英対訳辞書, ライフサイエンス辞書, 日本語WordNet, 他|accessdate=2011-05-20}}</ref>。
=== 他の惑星の公転 ===
年が地球の公転周期を基礎にしていることから転じ、他の[[惑星]]の公転周期についても「年」という表記が使われる。例えば「[[水星]]年」<ref name=Top3>{{Cite web|和書|url= http://www.nistep.go.jp/achiev/ftx/jpn/stfc/stt084j/0803_02_topics/200803_topics.html |title=科学技術動向 3月号 トピックス、【6】米国探査機、約33年ぶりに水星観測を再開|publisher=[[科学技術政策研究所]]|accessdate=2011-05-20}}</ref>、「[[火星]]の一年」<ref name=year /><ref>{{Cite web|和書|url=http://kumano.u-aizu.ac.jp/PlaGeoNews/Site01/PDFs/PlaGeoNews11_1.pdf |format=PDF|title=マーズ・サーベイヤー98計画はじまる|author=白尾元理|publisher=惑星地質ニュース|accessdate=2011-05-20}}</ref>などである。このような用語を使う際、混同を避けるために地球の1年は「地球年」 (earth year) とも呼ばれる<ref name=Top3 /><ref>{{cite web|url=http://ejje.weblio.jp/content/Earth%E2%80%90year |title=【earth year】|publisher=Webio英和和英事典/[[研究社]], JST科学技術用語日英対訳辞書, ライフサイエンス辞書, 日本語WordNet, 他|accessdate=2011-05-20}}</ref>。
=== 天文単位の基準 ===
{{仮リンク|ガウス年|en|Gaussian year}} : 2''[[円周率|{{lang|el|π}}]]'' / ''k'' = 約365.256 898日。''k'' は[[ガウス引力定数]]で ''k'' = 0.017 202 098 95(定義値)。かつては[[天文単位]]の換算などに使われた<ref>{{cite web|url= http://www.eclipse-chasers.com/iaueclipsedictionary.php?SA=1 |title=【Astronomical unit (AU)】|publisher=Union Astronomique Internationale|language=英語|accessdate=2011-10-31}}</ref>。現在では(2012年8月以降)[[天文単位]]は[[ガウス引力定数]]とは関係なく、正確に149 597 870 700 m と定義されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=佐藤正幸|year=2009|title=世界史における時間|publisher=[[山川出版社]] |edition=第1刷|isbn=978-4-634-34966-7|ref=佐藤2009}}
*{{Cite book|和書|author=池内了|authorlink=池内了|year=1999|title=天文学者の虫眼鏡|publisher=[[文藝春秋]]新書 |edition=第1刷|isbn=4-16-660060-5|ref=池内1999}}
*{{Cite book|和書|author=青木信仰|authorlink=青木信仰|year=1982|title=時と暦|publisher=[[東京大学]]出版会|edition=初版|ref=青木1982}}
*{{Cite book|和書|author=岡田芳朗、阿久根末忠|year=1994|title=現代こよみ読み解き事典|publisher=[[柏書房]]|edition=第五版|ref=岡田ら1994}}
== 関連項目 ==
* [[年表]]
* [[年の一覧]]
* [[十年紀]] - [[世紀]] - [[ミレニアム]](千年紀)
* [[年代]]
* [[暦年]]
* [[新年]]
* [[0年]]
== 外部リンク ==
* [http://accent.main.jp/calendar/retro.htm 年サーチカレンダー] - 年表示のない日付から年を割り出す。
* {{Kotobank}}
{{Time topics}}
{{Time measurement and standards}}
{{Normdaten}}
[[Category:年|*]]
[[Category:暦法|とし]]
[[Category:時間の単位|ねん]] | 2003-03-07T14:16:02Z | 2023-12-21T10:55:16Z | false | false | false | [
"Template:Redirect",
"Template:Wikt",
"Template:Cite book",
"Template:Time measurement and standards",
"Template:仮リンク",
"Template:Reflist",
"Template:Cite journal",
"Template:Normdaten",
"Template:Otheruses",
"Template:Lang-en-short",
"Template:単位",
"Template:Main",
"Template:Lang",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist",
"Template:Cite web",
"Template:Kotobank",
"Template:Time topics"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4 |
3,630 | アプリケーションソフトウェア | アプリケーションソフトウェア(英: application software)あるいはアプリケーションソフト(最近は英語では極端に略すとapp(s)アップ)は、ある特定の機能や目的のために開発・使用されるソフトウェアで、コンピュータの操作自体のためのものではないもの。たとえば、ワープロソフト、表計算ソフトウェア、イラスト作成(お絵かき)用ソフトウェア、写真加工用ソフトウェアなど。アプリケーションプログラム(応用プログラム)ともいい、コンピュータ・プログラムの一種である。 アプリケーションと(2番目の語を省略して)も呼ばれ。「アプリケーション」は「応用」という意味なので日本語では「応用ソフト」とも呼ぶ(が、最近は「応用ソフト」と呼ばれることは減った)。日本語ではアプリとも略される。「アプリ」という略称の用例は1980年代から存在する。マイクロソフトもWindows 10あたりから、アプリケーションソフトのことをアプリと呼ぶようになった(初心者向けの説明書や宣伝パンフなどの場合)。
アプリケーション・ソフトウェアという用語・概念と対比されている用語・概念というのは「システムソフトウェア」であり、システムソフトウェアのほうは、計算機のきわめて基本的な機能や資源を管理・提供する役割のソフトウェアであり、譬えて言えば「裏方的な存在」である。
アプリケーションソフトウェアの例としては、たとえば一般的な事務所(オフィス)での基本的な事務作業を支援する分野では、ワープロソフト、表計算ソフト、プレゼンテーションソフトウェア(会議資料作成)、データベース管理システム (DBMS) などが挙げられ、その他の分野では、映像・音声などを再生するためのメディアプレーヤー、ペイントソフト、画像編集ソフトウェア、動画編集ソフトウェア、ゲームソフト...と、現在では網羅的に列挙することは困難なくらい膨大な種類のアプリケーション・ソフトウェアがある。特にスマートフォン(という電話機能も持った携帯可能なコンピュータ)が登場し、スマートフォン上で動くアプリが流通するようになってからは、数(個々のソフトウェアの数、本数、個数)もジャンルの数も爆発的に増えてきており、最初はそれぞれ数百個程度の数で始まったのに、2020年時点で、Android上で動きGoogle Play Storeで流通しているアプリは約256万(個、種)、iPhone上で動くアプリは約185万(個、種)という状況である。ジャンルも、個人が仕事抜きで、きわめて私的に使うようなものの比率が圧倒的に増えてきている。→#モバイルアプリケーション
(アプリケーションソフトウェアの能力はさまざまであり)テキストを操作するアプリケーションもあれば、数式、グラフィックス、あるいはこれらの組合せを操作するアプリケーションもある。ワードプロセッサのように特定の作業に特化することで強力な計算能力を提供するものもあれば、個々の作業をこなす能力は低くても、いくつかのアプリケーションを統合したソフトウェアもある。
組み込みシステムやデジタル腕時計、簡易的なゲーム機などでは、アプリケーションソフトウェアとシステムソフトウェアは利用者から見て区別できない場合がある。例えば、ビデオテープレコーダ、DVDプレイヤー、電子レンジなどの制御は、アプリケーションソフトウェアとシステムソフトウェアの組み合わせによって実現されることがあるが、そのような機器内部の組み合わせは、利用者には区別することができない。また、アプリケーションとシステムソフトウェアを分けずに作成されている場合も有る。
なお、世の中の多くの人が共通的に利用できるものとして、汎用化して売り出したものをパッケージソフトウェアと呼ぶ。会計処理や給与計算、製造業・小売業などの多くの分野に対して、業務用や会計用、人事や査定用のパッケージソフトウェアが販売されている。
近年のパッケージソフトウェアには、Jakarta EEとApache Strutsを利用した、ウェブアプリケーションサーバ上で稼働するものがある。2000年代初期より、iアプリなど、携帯電話上で動くアプリケーションソフトウェアも登場した。
アプリケーション・ソフトウェアの制作(開発)というのは、近年では一般に統合開発環境を使って行われている。このアプリケーションを作成するソフトウェアもアプリケーションの一種でもある。→#アプリケーションソフトウェアの制作
オペレーティングシステム(OS)などのシステムソフトウェアとアプリケーションソフトウェアの境界は様々であり、OSの製造者によって異なる。利用者の間でも境界をどう見なすか判断が分かれることがあり、自分が利用しているOSの製造者と同じ考えを採ろうとする人もいるが、OSの製造者ごとに見解が異なるので人々の間でも見解が異なるという結果になり、またOSのインストールパッケージに含まれる物をアプリケーションとするのかしないのか、小規模なソフトウェアもアプリケーションとするのかしないのか、シェルをアプリケーションとするのかしないのか、などは、しばしば議論の元となる。
コンテンツは広義には全ての具体化されたソフトウェアを含むことがあるが、アプリケーションソフトウェアと対比される場合には、該当ソフトウェアが作製、編集、出力、管理する対象物を指す。多くはコンテンツ自体がデジタルデータである。例えば、画像処理ソフトウェアはアプリケーションソフトウェアであり、作製・編集されたデジタル画像をコンテンツと称する。
該当ソフトウェアがコンテンツと称し、実行ファイル形式で出力する場合もある。また、開発環境と呼ばれるアプリケーションからはコンテンツとしてアプリケーション(実行ファイル)が出力される。
さまざまな分類法がある。
たとえばコンピュータなどの種類で分類して、スーパーコンピュータ用 / メインフレーム用 / 汎用PC用(Windows用 / Macintosh用) / スマートフォン・タブレット用 (Android用 / iOS用) / 携帯電話(フィーチャーフォン)用...などと分類する方法がある。
目的とする機能や仕事の大まかな分類にもとづいて以下のような分類が行われることもある。
おおまかに見れば以上のような分類があるわけだが、細かく見てゆけば、この世で行われている仕事の種類や、タスクの種類、あるいは(特にスマートフォンやタブレット向けのアプリケーション開発が活発化してからは)一般的な仕事上の必要性だけでなく、個々人の趣味や興味の種類の数に対応するほどの、膨大な種類のアプリケーションが日々作られているような状況になっている。
まず、最近特に台数が圧倒的に増え、アプリケーションの数も他の種類のコンピュータよりも圧倒的に増えてきており、その開発に従事しているエンジニアの人数もすでに他種のアプリケーションを圧倒する状態になっている、スマートフォンやタブレット用のアプリケーションから解説することにする。
近年のスマホでは、購入時に、数十ほどのアプリケーションソフトウェアがあらかじめインストールされている(プリインストール)状態になっている。たとえば今仮に、Androidスマートフォンのうちシャープ製でソフトバンクから販売されているものを例にとると、以下のような状態である。
これでも実際のリストのまだ一部にすぎないが、ともかくこのように、スマートフォンのアプリでは、1980年代や1990年代にアプリケーションソフトウェアを分類していた時の、オーソドックスな(古臭い)カテゴリ枠ではもはや簡単に分類することができないような種類のアプリケーションが多数出現してきている。
さらにAndroidフォンだと、Google Play Storeに掲載されている250万種類以上のアプリケーションから自由に選んで、ダウンロードおよびインストールして使うことができる。しかも、一部に広告が少し表示されることを我慢すれば、ほとんどが無料である。開発者によっては、広告表示も一切無しで、アプリケーションを無料で人々に公開している。
携帯電話(フィーチャーフォン)用のアプリは携帯アプリと呼ばれていた。
コンテンツ開発ソフトウェア (contents development software) とは、他者に発信するための印刷コンテンツや電子コンテンツを制作するためのソフトウェア。グラフィックアート、電子出版、マルチメディア開発などが含まれる。
コンテンツ・アクセス・ソフトウェア (contents access software) は、基本的には編集することなくコンテンツにアクセスするソフトウェアだが、コンテンツ編集機能を持つ場合もある。デジタルエンターテイメントの消費を目的としたり、デジタルコンテンツを出版するのに使われることもある。
教育ソフトウェア (educational software) は、コンテンツアクセスと似ているが、教材を提示するだけでなくテストを課すことで学習状況を管理する点が特徴的である。また、グループウェア的要素を持つことが多い。
複数のアプリケーションがひとまとまりにされたもの、一種のパッケージに同梱されたような状態になったものを、アプリケーションスイート (application suite) と呼ぶことがある。例としては、ワードプロセッサや表計算ソフトなどを同梱した、Microsoft OfficeとOpenOffice.orgが挙げられる。スイート内の各アプリケーションの特徴としては、操作のユーザインタフェースに一貫性があり、表計算ソフトで作成したスプレッドシートをワードプロセッサの文書内に埋め込むなど、相互のデータのやりとりが考慮されていることが挙げられる。
インフォメーション・ワーカー・ソフトウェア (information worker software) とは、組織内の個々のプロジェクトで、個人が情報を生成し管理するニーズに対応したソフトウェア。例えば、時間管理、資源管理、ドキュメンテーションツール、解析ツール、グループウェアなどがある。ワードプロセッサ、表計算ソフト、電子メールクライアントやブログクライアント、個人情報管理システム、各種メディアエディタなどは、様々なインフォメーションワーカーの仕事で使われる。
企業ソフトウェア (enterprise software) は、組織のプロセスやデータフローのニーズに対応したもので、大規模な分散環境であることが多い。例えば、財務管理、顧客関係管理 (CRM)、サプライチェーン・マネジメント (SCM) などがある。部門ソフトウェア (departmental software) は企業ソフトウェアの一種であり、大きな組織内のより小さな部分を扱う。例えば、出張旅費管理、ITヘルプデスクなどがそれに当たる。
企業基盤ソフトウェア (enterprise infrastructure software) とは、企業ソフトウェアシステムをサポートするために必要な共通機能を提供するものを指す。例えば、データベース、メールサーバ、ネットワーク管理、セキュリティ管理などがある。
シミュレーションソフトウェア(英語版) は、シミュレーションするためのソフトウェア。使用目的は多種多様であり、予報、予測、研究、訓練、娯楽など。航空工学での航空機の流体力学的分析、天体物理学での利用(たとえば個々の惑星や小惑星の動きの予測や過去の位置の再現、銀河の回転のシミュレーション)、気象予報全般(たとえば天候、雨雲位置の予測、気温・風向の予報 等々等々)、気象現象の予測、気候変動の長期予測・研究(たとえばCO2の放出量に応じた気温上昇の具体的な数値の算出など)、応用化学、製薬、マクロ経済やミクロ経済の予測、交通量の予測、感染症が社会や集団に属する人々の間で相互に感染してゆく過程や程度の予測...等々、現代では数えきれないほどのシミュレーションが行われている。たとえばここ数十年の精度の高い気象予報というのは、スーパーコンピューター上で走るシミュレーションソフトウェアの上で、架空の大気空間と地表などを(数億マスなど)多数のマス目で区切り、各マスの気温、気圧、水蒸気量、風向、風の強さ、日照...等々に関するデータを設定し、その膨大な量のデータに対して膨大な量の演算を高速に行い、各マス内の変化と周辺のマス目への影響など、相互作用を、細かい時間に分割して計算することで実現できている。1950年代や1960年代のようにコンピュータシミュレーション抜きの手法、つまりわずかなデータを用いて人の頭脳で大まかな推論や経験や勘で行っては、優秀な予報官ですら、気象予報のおよそ数割から半分強ほどがハズレになってしまう。
現代では、各分野ごとに、さまざまなシミュレーションソフトウェアが開発されている。具体的なシミュレーション・ソフトウェアについてはen:List of computer simulation software(英語版の一覧)が参照可であり、各ソフトの特徴や使用分野も分かる。シミュレーションソフトの英語版の記事も読め、(日本語版があるソフトウェアならば)日本語版の記事へとリンクも張られているものもある。
なお訓練目的のシミュレーションソフトウェアなどもある(フライトシミュレーション、ドライビングシミュレーターなど)
またゲーム形式に仕立てたシミュレーションゲームもPlayStationなど市販のゲームコンソールやPCなどで動くので、ゲーム愛好者(ゲーマー)たちにさかんに利用されている。
エンジニアリングソフトウェア (engineering software) は、各種製品開発に使われる。
英語:Management software は、各種管理(マネジメント)に使われる。
近年では一般に、アプリケーションソフトウェアは統合開発環境(IDE)を使って制作(開発)されている。IDEというのは、プログラマがソースコードを記述する「エディタ」、ソースコードから実行プログラムを生成する「コンパイラ」、コードの不具合を発見・修正するための「デバッガ」など、プログラム開発のためのソフトウェア群(ツール群)をひとまとめにしたもののことである。
無料のものもあり、有料のものもある。複数のプラットフォーム向けに使えるIDEもある。特定のプラットフォーム専用のものもある。
ものすごく原始的で単純な(少ない文字数、バイト数の)ソフトウェアならば、テキストエディタ(と、PCなどにインストールされた素朴なコンパイラ)だけでも書くことは一応でき、コンピュータの歴史の初期にはそうしたやりかたが行われることは多々あったわけで、今日でも初心者に対するプログラミング講習の「最初の一歩」だけは、あえてそうした段階を一度踏ませることでコンピュータ内部で行われていることの現実を初心者にも理解してもらうという手順がとられることも多いが、今日では、その次の段階以降の「アプリケーション・ソフトウェア」と呼ぶにふさわしいくらいの機能を持ったソフトウェアを制作する場合は、基本的に統合開発環境を使って制作するものだと考えてよい。
WindowsやMac,Linuxなど一般的なファイルからOSに読み込まれ実行される形式のOSであれば、上記開発環境で作成されたファイルを実行できる。
Androidアプリ、つまりAndroid上で動くアプリの開発環境としては、たとえば以下のような選択肢がある。
開発に使われるプログラミング言語は、主にJavaやPythonなど。
iOS上で動くアプリの開発環境は、
開発に使われる言語は、Swift、Objective-Cなど。
Microsoft Windowsの上で動くアプリケーションの制作(開発)を行う開発環境としては、たとえば以下のような選択肢がある。
| [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "アプリケーションソフトウェア(英: application software)あるいはアプリケーションソフト(最近は英語では極端に略すとapp(s)アップ)は、ある特定の機能や目的のために開発・使用されるソフトウェアで、コンピュータの操作自体のためのものではないもの。たとえば、ワープロソフト、表計算ソフトウェア、イラスト作成(お絵かき)用ソフトウェア、写真加工用ソフトウェアなど。アプリケーションプログラム(応用プログラム)ともいい、コンピュータ・プログラムの一種である。 アプリケーションと(2番目の語を省略して)も呼ばれ。「アプリケーション」は「応用」という意味なので日本語では「応用ソフト」とも呼ぶ(が、最近は「応用ソフト」と呼ばれることは減った)。日本語ではアプリとも略される。「アプリ」という略称の用例は1980年代から存在する。マイクロソフトもWindows 10あたりから、アプリケーションソフトのことをアプリと呼ぶようになった(初心者向けの説明書や宣伝パンフなどの場合)。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "アプリケーション・ソフトウェアという用語・概念と対比されている用語・概念というのは「システムソフトウェア」であり、システムソフトウェアのほうは、計算機のきわめて基本的な機能や資源を管理・提供する役割のソフトウェアであり、譬えて言えば「裏方的な存在」である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "アプリケーションソフトウェアの例としては、たとえば一般的な事務所(オフィス)での基本的な事務作業を支援する分野では、ワープロソフト、表計算ソフト、プレゼンテーションソフトウェア(会議資料作成)、データベース管理システム (DBMS) などが挙げられ、その他の分野では、映像・音声などを再生するためのメディアプレーヤー、ペイントソフト、画像編集ソフトウェア、動画編集ソフトウェア、ゲームソフト...と、現在では網羅的に列挙することは困難なくらい膨大な種類のアプリケーション・ソフトウェアがある。特にスマートフォン(という電話機能も持った携帯可能なコンピュータ)が登場し、スマートフォン上で動くアプリが流通するようになってからは、数(個々のソフトウェアの数、本数、個数)もジャンルの数も爆発的に増えてきており、最初はそれぞれ数百個程度の数で始まったのに、2020年時点で、Android上で動きGoogle Play Storeで流通しているアプリは約256万(個、種)、iPhone上で動くアプリは約185万(個、種)という状況である。ジャンルも、個人が仕事抜きで、きわめて私的に使うようなものの比率が圧倒的に増えてきている。→#モバイルアプリケーション",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "(アプリケーションソフトウェアの能力はさまざまであり)テキストを操作するアプリケーションもあれば、数式、グラフィックス、あるいはこれらの組合せを操作するアプリケーションもある。ワードプロセッサのように特定の作業に特化することで強力な計算能力を提供するものもあれば、個々の作業をこなす能力は低くても、いくつかのアプリケーションを統合したソフトウェアもある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "組み込みシステムやデジタル腕時計、簡易的なゲーム機などでは、アプリケーションソフトウェアとシステムソフトウェアは利用者から見て区別できない場合がある。例えば、ビデオテープレコーダ、DVDプレイヤー、電子レンジなどの制御は、アプリケーションソフトウェアとシステムソフトウェアの組み合わせによって実現されることがあるが、そのような機器内部の組み合わせは、利用者には区別することができない。また、アプリケーションとシステムソフトウェアを分けずに作成されている場合も有る。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "なお、世の中の多くの人が共通的に利用できるものとして、汎用化して売り出したものをパッケージソフトウェアと呼ぶ。会計処理や給与計算、製造業・小売業などの多くの分野に対して、業務用や会計用、人事や査定用のパッケージソフトウェアが販売されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "近年のパッケージソフトウェアには、Jakarta EEとApache Strutsを利用した、ウェブアプリケーションサーバ上で稼働するものがある。2000年代初期より、iアプリなど、携帯電話上で動くアプリケーションソフトウェアも登場した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "アプリケーション・ソフトウェアの制作(開発)というのは、近年では一般に統合開発環境を使って行われている。このアプリケーションを作成するソフトウェアもアプリケーションの一種でもある。→#アプリケーションソフトウェアの制作",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "オペレーティングシステム(OS)などのシステムソフトウェアとアプリケーションソフトウェアの境界は様々であり、OSの製造者によって異なる。利用者の間でも境界をどう見なすか判断が分かれることがあり、自分が利用しているOSの製造者と同じ考えを採ろうとする人もいるが、OSの製造者ごとに見解が異なるので人々の間でも見解が異なるという結果になり、またOSのインストールパッケージに含まれる物をアプリケーションとするのかしないのか、小規模なソフトウェアもアプリケーションとするのかしないのか、シェルをアプリケーションとするのかしないのか、などは、しばしば議論の元となる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "コンテンツは広義には全ての具体化されたソフトウェアを含むことがあるが、アプリケーションソフトウェアと対比される場合には、該当ソフトウェアが作製、編集、出力、管理する対象物を指す。多くはコンテンツ自体がデジタルデータである。例えば、画像処理ソフトウェアはアプリケーションソフトウェアであり、作製・編集されたデジタル画像をコンテンツと称する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "該当ソフトウェアがコンテンツと称し、実行ファイル形式で出力する場合もある。また、開発環境と呼ばれるアプリケーションからはコンテンツとしてアプリケーション(実行ファイル)が出力される。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "さまざまな分類法がある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "たとえばコンピュータなどの種類で分類して、スーパーコンピュータ用 / メインフレーム用 / 汎用PC用(Windows用 / Macintosh用) / スマートフォン・タブレット用 (Android用 / iOS用) / 携帯電話(フィーチャーフォン)用...などと分類する方法がある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "目的とする機能や仕事の大まかな分類にもとづいて以下のような分類が行われることもある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "おおまかに見れば以上のような分類があるわけだが、細かく見てゆけば、この世で行われている仕事の種類や、タスクの種類、あるいは(特にスマートフォンやタブレット向けのアプリケーション開発が活発化してからは)一般的な仕事上の必要性だけでなく、個々人の趣味や興味の種類の数に対応するほどの、膨大な種類のアプリケーションが日々作られているような状況になっている。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "まず、最近特に台数が圧倒的に増え、アプリケーションの数も他の種類のコンピュータよりも圧倒的に増えてきており、その開発に従事しているエンジニアの人数もすでに他種のアプリケーションを圧倒する状態になっている、スマートフォンやタブレット用のアプリケーションから解説することにする。",
"title": "モバイルアプリケーション"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "近年のスマホでは、購入時に、数十ほどのアプリケーションソフトウェアがあらかじめインストールされている(プリインストール)状態になっている。たとえば今仮に、Androidスマートフォンのうちシャープ製でソフトバンクから販売されているものを例にとると、以下のような状態である。",
"title": "モバイルアプリケーション"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "これでも実際のリストのまだ一部にすぎないが、ともかくこのように、スマートフォンのアプリでは、1980年代や1990年代にアプリケーションソフトウェアを分類していた時の、オーソドックスな(古臭い)カテゴリ枠ではもはや簡単に分類することができないような種類のアプリケーションが多数出現してきている。",
"title": "モバイルアプリケーション"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "さらにAndroidフォンだと、Google Play Storeに掲載されている250万種類以上のアプリケーションから自由に選んで、ダウンロードおよびインストールして使うことができる。しかも、一部に広告が少し表示されることを我慢すれば、ほとんどが無料である。開発者によっては、広告表示も一切無しで、アプリケーションを無料で人々に公開している。",
"title": "モバイルアプリケーション"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "携帯電話(フィーチャーフォン)用のアプリは携帯アプリと呼ばれていた。",
"title": "携帯電話用アプリケーション"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "コンテンツ開発ソフトウェア (contents development software) とは、他者に発信するための印刷コンテンツや電子コンテンツを制作するためのソフトウェア。グラフィックアート、電子出版、マルチメディア開発などが含まれる。",
"title": "コンテンツ開発ソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "コンテンツ・アクセス・ソフトウェア (contents access software) は、基本的には編集することなくコンテンツにアクセスするソフトウェアだが、コンテンツ編集機能を持つ場合もある。デジタルエンターテイメントの消費を目的としたり、デジタルコンテンツを出版するのに使われることもある。",
"title": "コンテンツアクセス・ソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "教育ソフトウェア (educational software) は、コンテンツアクセスと似ているが、教材を提示するだけでなくテストを課すことで学習状況を管理する点が特徴的である。また、グループウェア的要素を持つことが多い。",
"title": "教育ソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "複数のアプリケーションがひとまとまりにされたもの、一種のパッケージに同梱されたような状態になったものを、アプリケーションスイート (application suite) と呼ぶことがある。例としては、ワードプロセッサや表計算ソフトなどを同梱した、Microsoft OfficeとOpenOffice.orgが挙げられる。スイート内の各アプリケーションの特徴としては、操作のユーザインタフェースに一貫性があり、表計算ソフトで作成したスプレッドシートをワードプロセッサの文書内に埋め込むなど、相互のデータのやりとりが考慮されていることが挙げられる。",
"title": "プロダクティビティ・スイート(オフィス・スイート)"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "インフォメーション・ワーカー・ソフトウェア (information worker software) とは、組織内の個々のプロジェクトで、個人が情報を生成し管理するニーズに対応したソフトウェア。例えば、時間管理、資源管理、ドキュメンテーションツール、解析ツール、グループウェアなどがある。ワードプロセッサ、表計算ソフト、電子メールクライアントやブログクライアント、個人情報管理システム、各種メディアエディタなどは、様々なインフォメーションワーカーの仕事で使われる。",
"title": "インフォメーションワーカー向けソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "企業ソフトウェア (enterprise software) は、組織のプロセスやデータフローのニーズに対応したもので、大規模な分散環境であることが多い。例えば、財務管理、顧客関係管理 (CRM)、サプライチェーン・マネジメント (SCM) などがある。部門ソフトウェア (departmental software) は企業ソフトウェアの一種であり、大きな組織内のより小さな部分を扱う。例えば、出張旅費管理、ITヘルプデスクなどがそれに当たる。",
"title": "企業ソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "企業基盤ソフトウェア (enterprise infrastructure software) とは、企業ソフトウェアシステムをサポートするために必要な共通機能を提供するものを指す。例えば、データベース、メールサーバ、ネットワーク管理、セキュリティ管理などがある。",
"title": "企業基盤ソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "シミュレーションソフトウェア(英語版) は、シミュレーションするためのソフトウェア。使用目的は多種多様であり、予報、予測、研究、訓練、娯楽など。航空工学での航空機の流体力学的分析、天体物理学での利用(たとえば個々の惑星や小惑星の動きの予測や過去の位置の再現、銀河の回転のシミュレーション)、気象予報全般(たとえば天候、雨雲位置の予測、気温・風向の予報 等々等々)、気象現象の予測、気候変動の長期予測・研究(たとえばCO2の放出量に応じた気温上昇の具体的な数値の算出など)、応用化学、製薬、マクロ経済やミクロ経済の予測、交通量の予測、感染症が社会や集団に属する人々の間で相互に感染してゆく過程や程度の予測...等々、現代では数えきれないほどのシミュレーションが行われている。たとえばここ数十年の精度の高い気象予報というのは、スーパーコンピューター上で走るシミュレーションソフトウェアの上で、架空の大気空間と地表などを(数億マスなど)多数のマス目で区切り、各マスの気温、気圧、水蒸気量、風向、風の強さ、日照...等々に関するデータを設定し、その膨大な量のデータに対して膨大な量の演算を高速に行い、各マス内の変化と周辺のマス目への影響など、相互作用を、細かい時間に分割して計算することで実現できている。1950年代や1960年代のようにコンピュータシミュレーション抜きの手法、つまりわずかなデータを用いて人の頭脳で大まかな推論や経験や勘で行っては、優秀な予報官ですら、気象予報のおよそ数割から半分強ほどがハズレになってしまう。",
"title": "シミュレーションソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "現代では、各分野ごとに、さまざまなシミュレーションソフトウェアが開発されている。具体的なシミュレーション・ソフトウェアについてはen:List of computer simulation software(英語版の一覧)が参照可であり、各ソフトの特徴や使用分野も分かる。シミュレーションソフトの英語版の記事も読め、(日本語版があるソフトウェアならば)日本語版の記事へとリンクも張られているものもある。",
"title": "シミュレーションソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "なお訓練目的のシミュレーションソフトウェアなどもある(フライトシミュレーション、ドライビングシミュレーターなど)",
"title": "シミュレーションソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "またゲーム形式に仕立てたシミュレーションゲームもPlayStationなど市販のゲームコンソールやPCなどで動くので、ゲーム愛好者(ゲーマー)たちにさかんに利用されている。",
"title": "シミュレーションソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "エンジニアリングソフトウェア (engineering software) は、各種製品開発に使われる。",
"title": "エンジニアリングソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "英語:Management software は、各種管理(マネジメント)に使われる。",
"title": "マネジメントソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "近年では一般に、アプリケーションソフトウェアは統合開発環境(IDE)を使って制作(開発)されている。IDEというのは、プログラマがソースコードを記述する「エディタ」、ソースコードから実行プログラムを生成する「コンパイラ」、コードの不具合を発見・修正するための「デバッガ」など、プログラム開発のためのソフトウェア群(ツール群)をひとまとめにしたもののことである。",
"title": "アプリケーションソフトウェアの制作"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "無料のものもあり、有料のものもある。複数のプラットフォーム向けに使えるIDEもある。特定のプラットフォーム専用のものもある。",
"title": "アプリケーションソフトウェアの制作"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ものすごく原始的で単純な(少ない文字数、バイト数の)ソフトウェアならば、テキストエディタ(と、PCなどにインストールされた素朴なコンパイラ)だけでも書くことは一応でき、コンピュータの歴史の初期にはそうしたやりかたが行われることは多々あったわけで、今日でも初心者に対するプログラミング講習の「最初の一歩」だけは、あえてそうした段階を一度踏ませることでコンピュータ内部で行われていることの現実を初心者にも理解してもらうという手順がとられることも多いが、今日では、その次の段階以降の「アプリケーション・ソフトウェア」と呼ぶにふさわしいくらいの機能を持ったソフトウェアを制作する場合は、基本的に統合開発環境を使って制作するものだと考えてよい。",
"title": "アプリケーションソフトウェアの制作"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "WindowsやMac,Linuxなど一般的なファイルからOSに読み込まれ実行される形式のOSであれば、上記開発環境で作成されたファイルを実行できる。",
"title": "アプリケーションソフトウェアの制作"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "Androidアプリ、つまりAndroid上で動くアプリの開発環境としては、たとえば以下のような選択肢がある。",
"title": "アプリケーションソフトウェアの制作"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "開発に使われるプログラミング言語は、主にJavaやPythonなど。",
"title": "アプリケーションソフトウェアの制作"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "iOS上で動くアプリの開発環境は、",
"title": "アプリケーションソフトウェアの制作"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "開発に使われる言語は、Swift、Objective-Cなど。",
"title": "アプリケーションソフトウェアの制作"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "Microsoft Windowsの上で動くアプリケーションの制作(開発)を行う開発環境としては、たとえば以下のような選択肢がある。",
"title": "アプリケーションソフトウェアの制作"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "アプリケーションソフトウェアの制作"
}
] | アプリケーションソフトウェアあるいはアプリケーションソフト(最近は英語では極端に略すとappアップ)は、ある特定の機能や目的のために開発・使用されるソフトウェアで、コンピュータの操作自体のためのものではないもの。たとえば、ワープロソフト、表計算ソフトウェア、イラスト作成(お絵かき)用ソフトウェア、写真加工用ソフトウェアなど。アプリケーションプログラム(応用プログラム)ともいい、コンピュータ・プログラムの一種である。
アプリケーションと(2番目の語を省略して)も呼ばれ。「アプリケーション」は「応用」という意味なので日本語では「応用ソフト」とも呼ぶ(が、最近は「応用ソフト」と呼ばれることは減った)。日本語ではアプリとも略される。「アプリ」という略称の用例は1980年代から存在する。マイクロソフトもWindows 10あたりから、アプリケーションソフトのことをアプリと呼ぶようになった(初心者向けの説明書や宣伝パンフなどの場合)。 | {{redirect4|アプリケーション|英語の意味|wikt:応用|wikt:application}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2018年4月
| 更新 = 2021年3月
}}
'''アプリケーションソフトウェア'''({{lang-en-short|application software}})あるいは'''アプリケーションソフト'''(最近は英語では極端に略すと'''app'''(s)アップ)は、ある特定の機能や目的のために開発・使用される[[ソフトウェア]]<ref name="ITword">IT用語辞典 e-words、「[https://e-words.jp/w/%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88.html アプリケーションソフト]」の説明 - 2023年7月12日閲覧。</ref><ref name="Lex">[https://www.lexico.com/definition/application_software Lexico, application software]</ref>で、コンピュータの操作自体のためのものではないもの<ref name="Lex" />。たとえば、[[ワープロソフト]]、[[表計算ソフトウェア]]、[[イラスト作成ソフト|イラスト作成(お絵かき)用ソフトウェア]]、[[写真加工用ソフトウェア]]など。'''アプリケーションプログラム'''(応用プログラム)ともいい、[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータ・プログラム]]の一種である。
'''アプリケーション'''と(2番目の語を省略して)も呼ばれ<ref name="ITword" />。「アプリケーション」は「[[wikt:応用|応用]]」という意味なので[[日本語]]では「応用ソフト」とも呼ぶ<ref name="ITword" />(が、最近は「応用ソフト」と呼ばれることは減った)。日本語では'''アプリ'''とも略される<ref name="ITword" />。「アプリ」という略称の用例は1980年代から存在する{{Refnest|group="注釈"|「アプリ」の1980年代〜1990年代初頭の用例は<ref>『富士通ジャーナル』1986年6月号、62頁。{{NDLJP|3218455/32}}「図30 MS-DOSの起動から終了まで」に「MS-DOS'''アプリ'''」の表記がある。</ref><ref>『事務と経営』1989年6月号、26頁。{{NDLJP|2221705/26}}「[[Luna (ワークステーション)|LUNA]]では、上記の[[GMW]]と同時開発した日本語処理[[Wnn]]で、[[UNIX]]や'''アプリ'''を日本語化している」「[[サードパーティー#メーカー|サードパーティ]]と呼ばれるソフトハウスが、UNIX上の'''アプリ'''を開発し移植している」</ref><ref>『調査時報』1990年4月号、106頁。{{NDLJP|1852460/81}}「図4-3は『ソフト開発』を『OS・ツールソフト開発(以下OS系)』と『アプリケーションソフト開発(以下'''アプリ''')』とに二分してセルフイメージを見たものである」</ref><ref>『富士通ジャーナル』1992年8月号、63頁。{{NDLJP|3218523/32}}「[[Lotus 1-2-3|Lotus®1-2-3™]]、[[一太郎]]、[[dBASE]]など当社指定の[[Local area network|LAN]]アプリケーションのインストールを実施。'''アプリ'''起動用の[[バッチファイル]]なども作成」</ref><ref>『ITUジャーナル』1992年10月号、23頁。{{NDLJP|3234845/12}}「'''通信アプリ'''に共通なHMIシンボルの定義手法」</ref><ref>『情報化研究』1993年1月号、裏表紙裏。{{NDLJP|3211365/29}}「日本語ワープロ[[OASYS]]の多彩な機能と操作性を受け継いだOASYS/Winや[[Microsoft Windows|Windows™]]配下の他のアプリケーションと連携しながらホスト連携を可能とするWSMGR等、約250種のWindows'''アプリ'''を用意」</ref>など。}}。[[マイクロソフト]]も[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]あたりから、アプリケーションソフトのことをアプリと呼ぶようになった(初心者向けの説明書や宣伝パンフなどの場合<ref group="注釈">中・上級のエンジニア向けの文書では、従来どおり「アプリケーションソフト」や「アプリケーション」としていることが多い。</ref>)。
== 概要 ==
アプリケーション・ソフトウェアという用語・概念と対比されている用語・概念というのは「[[システムソフトウェア]]」であり、システムソフトウェアのほうは、[[計算機]]のきわめて基本的な機能や資源を管理・提供する役割のソフトウェアであり、[[比喩|譬えて]]言えば「裏方的な存在」である。
アプリケーションソフトウェアの例としては、たとえば一般的な事務所(オフィス)での基本的な[[事務]]作業を支援する分野では、[[ワードプロセッサ|ワープロソフト]]、[[表計算ソフト]]、[[プレゼンテーションソフトウェア]](会議資料作成)、[[データベース管理システム]] (DBMS) などが挙げられ、その他の分野では、映像・[[音声]]などを再生するための[[メディアプレーヤー]]、[[ペイントソフト]]、[[画像編集]]ソフトウェア、[[動画編集ソフトウェア]]、[[ゲームソフト]]...と、現在では網羅的に列挙することは困難なくらい膨大な種類のアプリケーション・ソフトウェアがある。特に[[スマートフォン]](という電話機能も持った携帯可能なコンピュータ)が登場し、スマートフォン上で動くアプリが流通するようになってからは、数(個々のソフトウェアの数、本数、個数)も[[ジャンル]]の数も爆発的に増えてきており、最初はそれぞれ数百個程度の数で始まったのに、2020年時点で、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]上で動き[[Google Play|Google Play Store]]で流通しているアプリは約256万(個、種)、[[iPhone]]上で動くアプリは約185万(個、種)という状況である<ref name="App_stat">[https://www.businessofapps.com/data/app-statistics/]</ref>。ジャンルも、個人が仕事抜きで、きわめて私的に使うようなものの比率が圧倒的に増えてきている。→[[#モバイルアプリケーション]]
(アプリケーションソフトウェアの能力はさまざまであり)テキストを操作するアプリケーションもあれば、数式、グラフィックス、あるいはこれらの組合せを操作するアプリケーションもある。ワードプロセッサのように特定の作業に特化することで強力な計算能力を提供するものもあれば、個々の作業をこなす能力は低くても、いくつかのアプリケーションを統合したソフトウェアもある<ref>Ceruzzi, Paul E. (1998). ''A History of Modern Computing''. Cambridge, Mass.: MIT Press. ISBN 0262032554.</ref>。
[[組み込みシステム]]やデジタル腕時計、簡易的なゲーム機などでは、アプリケーションソフトウェアと[[システムソフトウェア]]は利用者から見て区別できない場合がある。例えば、[[ビデオテープレコーダ]]、[[DVDプレイヤー]]、[[電子レンジ]]などの制御は、アプリケーションソフトウェアとシステムソフトウェアの組み合わせによって実現されることがあるが、そのような機器内部の組み合わせは、利用者には区別することができない。また、アプリケーションとシステムソフトウェアを分けずに作成されている場合も有る。
なお、世の中の多くの人が共通的に利用できるものとして、汎用化して売り出したものを[[パッケージソフトウェア]]と呼ぶ。会計処理や[[給与]]計算、[[製造業]]・[[小売|小売業]]などの多くの分野に対して、業務用や会計用、人事や査定用のパッケージソフトウェアが販売されている。
近年のパッケージソフトウェアには、[[Jakarta EE]]と[[Apache Struts]]を利用した、[[ウェブアプリケーションサーバ]]上で稼働するものがある。2000年代初期より、[[iアプリ]]など、[[携帯電話]]上で動くアプリケーションソフトウェアも登場した。
;制作方法
アプリケーション・ソフトウェアの制作(開発)というのは、近年では一般に統合開発環境を使って行われている。このアプリケーションを作成するソフトウェアもアプリケーションの一種でもある。→[[#アプリケーションソフトウェアの制作]]
=== 用語論 ===
;OSとの線引き
[[オペレーティングシステム]](OS)などのシステムソフトウェアとアプリケーションソフトウェアの境界は様々であり、OSの製造者によって異なる。利用者の間でも境界をどう見なすか判断が分かれることがあり、自分が利用しているOSの製造者と同じ考えを採ろうとする人もいるが、OSの製造者ごとに見解が異なるので人々の間でも見解が異なるという結果になり、またOSのインストールパッケージに含まれる物をアプリケーションとするのかしないのか、小規模なソフトウェアもアプリケーションとするのかしないのか、[[シェル]]をアプリケーションとするのかしないのか、などは、しばしば議論の元となる。
;コンテンツとの関連
[[コンテンツ]]は広義には全ての具体化されたソフトウェアを含むことがあるが、アプリケーションソフトウェアと対比される場合には、該当ソフトウェアが作製、編集、出力、管理する対象物を指す。多くはコンテンツ自体が[[デジタルデータ]]である。例えば、[[画像処理ソフトウェア]]はアプリケーションソフトウェアであり、作製・編集された[[デジタル画像]]をコンテンツと称する。
該当ソフトウェアがコンテンツと称し、実行ファイル形式で出力する場合もある。また、開発環境と呼ばれるアプリケーションからはコンテンツとしてアプリケーション(実行ファイル)が出力される。
== 分類 ==
さまざまな分類法がある。
たとえばコンピュータなどの種類で分類して、[[スーパーコンピュータ]]用 / [[メインフレーム]]用 / 汎用[[パーソナルコンピュータ|PC]]用([[Microsoft Windows|Windows]]用 / [[Macintosh]]用) / [[スマートフォン]]・[[タブレット端末|タブレット]]用 ([[Android (オペレーティングシステム)|Android]]用 / [[iOS]]用) / [[携帯電話]]([[フィーチャーフォン]])用...などと分類する方法がある。
目的とする機能や仕事の大まかな分類にもとづいて以下のような分類が行われることもある。
*'''コンテンツ開発ソフトウェア''' / '''コンテンツアクセスソフトウェア''' - コンテンツの作成を行うか
*'''プロダクティビティ・ソフトウェア''' - 以前は「[[オフィスソフト]]」などと分類していたが、最近はproductivity(software)と分類することが一般的になってきている。{{要出典|date=2022-11}}
*'''プロダクティビティ・スイート'''<ref>[https://www.pcmag.com/encyclopedia/term/productivity-suite]</ref><ref>[https://smallbusiness.chron.com/productivity-suite-computers-70853.html]</ref><ref>[https://azuremarketplace.microsoft.com/en-us/marketplace/apps/aad.nitroproductivitysuite MS]</ref>(オフィススイート) - 文書を作成するワープロソフトや、表計算ソフト、プレゼン資料作成ソフト、等々がひとつのパッケージにされているもの。かつては各社とも「オフィス・スイート」と呼んでいたが、その後近年になりそれがどのように使われているか実態調査したところ、実際に使われている回数・頻度というのはオフィス(事務所)ばかりでなく、むしろ個人・学校・家庭などでも使用され、というより、世の中全体ではむしろ個人・学校・家庭のほうが使用頻度が上回る場合があるということが判ったので、マイクロソフト社やアップル社でも「office suit」という呼称を止めて、「productivity suit 生産性スイート」と呼ぶようになってきており、業界全体がそれに追従しはじめている(日本では追従がワンテンポ遅れる傾向があるが、MSやAppleや大手の開発会社のサイトなどでは最近では日本語の説明でも「プロダクティビティ・スイート」や「生産性スイート」と呼び始めている。)。
*'''企業ソフトウェア''' / '''企業基盤ソフトウェア'''
*'''エンジニアリングソフトウェア''' / '''シミュレーションソフトウェア'''
おおまかに見れば以上のような分類があるわけだが、細かく見てゆけば、この世で行われている仕事の種類や、タスクの種類、あるいは(特にスマートフォンやタブレット向けのアプリケーション開発が活発化してからは)一般的な仕事上の必要性だけでなく、個々人の趣味や興味の種類の数に対応するほどの、膨大な種類のアプリケーションが日々作られているような状況になっている。
== モバイルアプリケーション ==
まず、最近特に台数が圧倒的に増え、アプリケーションの数も他の種類のコンピュータよりも圧倒的に増えてきており、その開発に従事しているエンジニアの人数もすでに他種のアプリケーションを圧倒する状態になっている、スマートフォンやタブレット用のアプリケーションから解説することにする。
{{Main|モバイルアプリケーション}}
近年のスマートフォンでは、購入時に、数十ほどのアプリケーションソフトウェアがあらかじめインストールされている(プリインストール)状態になっている。たとえば今仮に、Androidスマートフォンのうちシャープ製でソフトバンクから販売されているものを例にとると、以下のような状態である。
:* [[Chrome]](Google社の純正webブラウザ[[Google Chrome]])
:* [[Duo]]([[ビデオ通話]]用アプリ)、Facebook(SNSの[[Facebook]]にアクセスするためのアプリ)
:* Gmail([[Gmail]]を送受信するためのアプリ)、Google([[Google]]検索をするためのアプリ)
:* [[Gyao!]](映画・アニメ・音楽を楽しむためのアプリ)
:* Gガイド番組表(テレビの番組表を見るためのアプリ)
:* Netflix([[Netflix]]で配信されているコンテンツを見るためのアプリ)
:* OfficeSuit(オフィススイート(プロダクション・スイート)のアプリ)
:* PlayStore([[Google Play]]に掲載されているさまざまなアプリを検索しそれをダウンロード・インストールするためのアプリ)、YouTube([[YouTube]]のコンテンツを視聴したり、データをアップロードするためのアプリ)
:* アルバム(スマホで撮影した写真を閲覧したり、ファイルを整理・整頓したりファイル名を変更するなどのためのアプリ)
:* カメラ(スマホに内蔵された[[レンズ]]や[[CCD]]を使い、スマホを[[カメラ]]として使い撮影するためのアプリ)
:* カレンダー(暦の情報や当日が何日か判る[[カレンダー]]を確認したり、自分の予定などを記入しスケジュール管理もできるアプリ)
:* 緊急速報メール(気象庁が配信する[[緊急地震速報]]や[[津波警報]]などを自動受信し、持ち主に知らせてくれるアプリ)
:* ドライブ([[Google Drive]]でのデータ保存や取り出しを管理できるアプリ)
:* マップ([[Google Maps]]で地球上のありとあらゆる場所の地図を表示し、道案内するアプリ)
:* プライムビデオ([[Amazonプライム・ビデオ]]を視聴するためのアプリ) <ref>[http://help.mb.softbank.jp/aquos-r-compact/05-02.html シャープのAQUOS R compactのアプリのリスト、ソフトバンク社によるもの]</ref>
これでも実際のリストのまだ一部にすぎないが、ともかくこのように、スマートフォンのアプリでは、1980年代や1990年代にアプリケーションソフトウェアを分類していた時の、オーソドックスな(古臭い)カテゴリ枠ではもはや簡単に分類することができないような種類のアプリケーションが多数出現してきている。
Androidを搭載している端末では、[[Google Play|Google Play Store]]に掲載されている250万種類以上のアプリケーションから自由に選んで、[[ダウンロード]]および[[インストール]]して使うことができる(ただし、Googleアカウントでのログインを要する)。しかも、一部に広告が少し表示されることを我慢すれば、ほとんどが無料である。開発者によっては、広告表示も一切無しで、アプリケーションを無料で人々に公開している。
[[オープンソース]]や[[自由ソフトウェア]]のAndroid向けアプリケーションを扱う、[[F-Droid]]というアプリケーションストアも存在する。
AppleのiPhoneやiPadでは、[[App Store]]から多くのアプリケーションを入手できる。
== 携帯電話用アプリケーション ==
[[携帯電話]]([[フィーチャーフォン]])用のアプリは[[携帯アプリ]]と呼ばれていた。
== コンテンツ開発ソフトウェア ==
コンテンツ開発ソフトウェア (contents development software) とは、他者に発信するための[[印刷]]コンテンツや電子コンテンツを制作するためのソフトウェア。グラフィックアート、[[DTP|電子出版]]、マルチメディア開発などが含まれる。
* [[3DCGソフトウェア]]
* [[アニメーションソフトウェア]]
* [[グラフィックアートソフトウェア]]
* [[画像編集]] - [[ペイントソフト]]、[[ドローソフト]]
* [[ビデオ編集ソフトウェア]]
* [[デジタルオーディオワークステーション|サウンド編集ソフトウェア]]
* [[ミュージックシーケンサー]] - [[楽譜作成ソフトウェア]]
* [[ハイパーメディア|ハイパーメディア編集ソフトウェア]] - [[Webオーサリングツール]]
== コンテンツアクセス・ソフトウェア ==
コンテンツ・アクセス・ソフトウェア (contents access software) は、基本的には編集することなくコンテンツにアクセスするソフトウェアだが、コンテンツ編集機能を持つ場合もある。デジタルエンターテイメントの消費を目的としたり、デジタルコンテンツを出版するのに使われることもある。
* 電子メディアアクセス - [[ウェブブラウザ]]、[[メディアプレーヤー]]、[[プレゼンテーションソフトウェア]]
* 娯楽/エンターテイメント - [[バーチャルペット]]、[[スクリーンセーバー]]、[[コンピュータゲーム]]
== 教育ソフトウェア ==
[[教育ソフトウェア]] (educational software) は、コンテンツアクセスと似ているが、教材を提示するだけでなくテストを課すことで学習状況を管理する点が特徴的である。また、グループウェア的要素を持つことが多い。
* [[コンピュータ支援教育]]、[[eラーニング]]、[[Computer Based Training|CBT]]
* [[エデュテイメント]] - [[タイピングソフト]]
== プロダクティビティ・スイート(オフィス・スイート)==
[[File:OpenOffice.org-2.0-Writer-KDE-Portuguese.png|thumb|right|275px|有名な[[ソフトウェアスイート|アプリケーションスイート]]の一例としては[[OpenOffice.org]]を挙げることができる。ソフトウェアスイートであり、そこにはワープロソフト、表計算ソフト・プレゼン用ソフト・データベースソフト・ドロー用ソフトなど複数のアプリケーションソフトウェアがまとめて入っていて、しかも[[オープンソース]]であり、無料でダウンロードして利用できた。現在は[[LibreOffice]]と[[Apache OpenOffice]]とに分派しており、現在も使える。]]
複数のアプリケーションがひとまとまりにされたもの、一種のパッケージに同梱されたような状態になったものを、'''[[ソフトウェアスイート|アプリケーションスイート]]''' (application suite) と呼ぶことがある。例としては、ワードプロセッサや表計算ソフトなどを同梱した、[[Microsoft Office]]と[[OpenOffice.org]]が挙げられる。スイート内の各アプリケーションの特徴としては、操作の[[ユーザインタフェース]]に一貫性があり、表計算ソフトで作成したスプレッドシートをワードプロセッサの文書内に埋め込むなど、相互のデータのやりとりが考慮されていることが挙げられる。
== インフォメーションワーカー向けソフトウェア ==
インフォメーション・ワーカー・ソフトウェア (information worker software) とは、組織内の個々のプロジェクトで、個人が情報を生成し管理するニーズに対応したソフトウェア。例えば、時間管理、資源管理、ドキュメンテーションツール、解析ツール、グループウェアなどがある。ワードプロセッサ、表計算ソフト、電子メールクライアントやブログクライアント、個人情報管理システム、各種メディアエディタなどは、様々なインフォメーションワーカーの仕事で使われる。
* [[時間管理ソフトウェア|時間]]/[[資源管理]] - [[会計ソフト]]、[[プロジェクトマネジメント]]ソフト
* [[データ管理]] - [[コンタクト管理]]、[[表計算ソフト]]、[[データベース管理システム|データベース管理システム (DBMS)]](個人用)
* ドキュメンテーション - [[ワードプロセッサ]]、[[DTP]]、[[作図ソフトウェア]]、[[プレゼンテーションソフトウェア]]
* 解析ソフトウェア - [[数式処理システム]]、[[数値解析]]、[[:Category:統計処理ツール|統計ソフトウェア]]
* [[グループウェア]] - [[電子メール]]、[[ブログ]]、[[ウィキ]]
* 財務ソフトウェア - 株式取引用ソフトウェアなど
*[[企業向けウィキ]]
== 企業ソフトウェア ==
企業ソフトウェア (enterprise software) は、組織のプロセスやデータフローのニーズに対応したもので、大規模な分散環境であることが多い。例えば、財務管理、[[顧客関係管理]] (CRM)、[[サプライチェーン・マネジメント]] (SCM) などがある。部門ソフトウェア (departmental software) は企業ソフトウェアの一種であり、大きな組織内のより小さな部分を扱う。例えば、出張旅費管理、ITヘルプデスクなどがそれに当たる。
* [[デジタルダッシュボード]]
== 企業基盤ソフトウェア ==
企業基盤ソフトウェア (enterprise infrastructure software) とは、企業ソフトウェアシステムをサポートするために必要な共通機能を提供するものを指す。例えば、[[データベース]]、[[メールサーバ]]、[[ネットワーク管理]]、[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ管理]]などがある。
* ビジネス[[ワークフロー]]ソフトウェア
* [[データベース管理システム]] (DBMS)
* [[デジタル資産管理]] (DAM) ソフトウェア
* [[文書管理システム]]
* [[地理情報システム]]
== シミュレーションソフトウェア ==
{{仮リンク|シミュレーションソフトウェア|en|simulation software}} は、[[シミュレーション]]するためのソフトウェア。使用目的は多種多様であり、予報、予測、研究、訓練、娯楽など。[[航空工学]]での航空機の流体力学的分析、[[天体物理学]]での利用(たとえば個々の惑星や小惑星の動きの予測や過去の位置の再現、銀河の回転のシミュレーション)、[[気象予報]]全般(たとえば天候、雨雲位置の予測、気温・風向の予報 等々等々)、[[気象]]現象の予測、[[気候変動]]の長期予測・研究(たとえば[[二酸化炭素|CO2]]の放出量に応じた気温上昇の具体的な数値の算出など)、[[応用化学]]、[[製薬]]、[[マクロ経済]]や[[ミクロ経済学|ミクロ経済]]の予測、[[交通量]]の予測、[[感染症]]が社会や集団に属する人々の間で相互に感染してゆく過程や程度の予測...等々、現代では数えきれないほどのシミュレーションが行われている。たとえばここ数十年の精度の高い気象予報というのは、スーパーコンピューター上で走るシミュレーションソフトウェアの上で、架空の大気空間と地表などを(数億マスなど)多数のマス目で区切り、各マスの気温、気圧、水蒸気量、風向、風の強さ、日照...等々に関するデータを設定し、その膨大な量のデータに対して膨大な量の演算を高速に行い、各マス内の変化と周辺のマス目への影響など、[[相互作用]]を、細かい時間に分割して計算することで実現できている。1950年代や1960年代のようにコンピュータシミュレーション抜きの手法、つまりわずかなデータを用いて人の頭脳で大まかな推論や経験や勘で行っては、優秀な予報官ですら、気象予報のおよそ数割から半分強ほどがハズレになってしまう。
現代では、各分野ごとに、さまざまなシミュレーションソフトウェアが開発されている。具体的なシミュレーション・ソフトウェアについては[[:en:List of computer simulation software]](英語版の一覧)が参照可であり、各ソフトの特徴や使用分野も分かる。シミュレーションソフトの英語版の記事も読め、(日本語版があるソフトウェアならば)日本語版の記事へとリンクも張られているものもある。
{{Gallery|width=160px
|File:Typhoon_Mawar_2005_computer_simulation_thumbnail.gif|シミュレーションソフトウェア使った台風のシミュレーション
|File:3D Pressure (Longitudinal) Wave.gif|シミュレーションソフトウェアを用いた、空間内の各位置で[[圧力]]の伝達(分子の運動と分子密度)のシミュレーション
|File:Binding of anti-cancer drug gemcitabine-squalene to human serum albumin.png|[[医薬品]]の開発のための[[分子]]構造のシミュレーション
|File:DLR 2007 A380 sim hires.jpg|航空機の周囲の[[流体力学]]的シミュレーション。[[A380]]の翼の周囲の気流。
|File:CFD Boiler furnace particle traces.png|[[ボイラー]]のかまど部分での気体の運動のシミュレーション
|File:Computer simulation of a planet in orbit 3.gif|軌道上の惑星への太陽光線のあたりぐあいのシミュレーション
|File:NS binary merger simulation 303.tif|天体のさまざまなシミュレーション
}}
なお訓練目的のシミュレーションソフトウェアなどもある([[フライトシミュレーション]]、[[ドライビングシミュレーター]]など)
{{Gallery|width=160px
|Driving simulators prepare troops for the real thing DVIDS259938.jpg|兵士の訓練に使われるドライビング・シミュレーション・ソフトウェア
|File:MassDOT Aeronautics Flight Simulator 2015 (25011319072).jpg|ノートPCでも動く[[フライト・シミュレータ]]の一例
}}
またゲーム形式に仕立てた[[シミュレーションゲーム]]も[[PlayStation]]など市販のゲームコンソールやPCなどで動くので、ゲーム愛好者(ゲーマー)たちにさかんに利用されている。
== エンジニアリングソフトウェア ==
エンジニアリングソフトウェア (engineering software) は、各種製品開発に使われる。
* [[工学|ハードウェアエンジニアリング]] - [[CAE]]、[[CAD]]、[[有限要素法]]解析ソフトウェア
* [[ソフトウェア工学|ソフトウェアエンジニアリング]] - [[コンピュータ言語]]処理系/[[エディタ]]/[[コンパイラ]]など、[[統合開発環境]] (IDE)
== マネジメントソフトウェア ==
英語:Management software は、各種管理(マネジメント)に使われる。
* [[プロジェクトマネジメント]] -
**[[:Category:プロジェクトマネジメントソフト]]
* [[ワークマネジメント]] -
**[[:Category:ワークマネジメントソフトウェア]]
== スーパーコンピュータ用アプリケーションソフトウェア ==
{{節スタブ|date=2021年4月}}
== アプリケーションソフトウェアの制作 ==
近年では一般に、アプリケーションソフトウェアは[[統合開発環境|統合開発環境(IDE)]]を使って制作(開発)されている。IDEというのは、プログラマが[[ソースコード]]を記述する「エディタ」、ソースコードから実行プログラムを生成する「[[コンパイラ]]」、コードの不具合を発見・修正するための「[[デバッガ]]」など、プログラム開発のためのソフトウェア群(ツール群)をひとまとめにしたもののことである。
無料のものもあり、有料のものもある。複数のプラットフォーム向けに使えるIDEもある。特定のプラットフォーム専用のものもある。
ものすごく原始的で単純な(少ない文字数、バイト数の)ソフトウェアならば、テキストエディタ(と、PCなどにインストールされた素朴なコンパイラ)だけでも書くことは一応でき、コンピュータの歴史の初期にはそうしたやりかたが行われることは多々あったわけで、今日でも初心者に対するプログラミング講習の「最初の一歩」だけは、あえてそうした段階を一度踏ませることでコンピュータ内部で行われていることの現実を初心者にも理解してもらうという手順がとられることも多いが、今日では、その次の段階以降の「アプリケーション・ソフトウェア」と呼ぶにふさわしいくらいの機能を持ったソフトウェアを制作する場合は、基本的に統合開発環境を使って制作するものだと考えてよい。
WindowsやMac,Linuxなど一般的なファイルからOSに読み込まれ実行される形式のOSであれば、上記開発環境で作成されたファイルを実行できる。
=== Androidアプリの場合 ===
[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]アプリ、つまりAndroid上で動くアプリの開発環境としては、たとえば以下のような選択肢がある。
*[[Android Studio]](Google社純正。Androidアプリ専用。無料)
*[[Eclipse]](IBMに起源をもつ汎用開発環境。無料。)
**[[Titanium Mobile]](Eclipse系)
*[[Visual Studio]] + [[Xamarin]](Microsoft社の系統)
*(もっぱらゲームアプリの制作だけなら)[[Unity (ゲームエンジン)|Unity]]
開発に使われる[[プログラミング言語]]は、主に[[Java]]や[[Python]]など。
=== iOSアプリの場合 ===
[[iOS]]上で動くアプリの開発環境は、
* [[Xcode]](Apple社公式の統合開発環境)
開発に使われる言語は、[[Swift (プログラミング言語)|Swift]]、[[Java|Objective-C]]など。
=== Windowsアプリケーションの場合 ===
[[Microsoft Windows]]の上で動くアプリケーションの制作(開発)を行う開発環境としては、たとえば以下のような選択肢がある。
* [[Visual Studio]](Microsoft社製の統合開発環境。Professional版は有料であるが、Visual Studio Communityというバージョンならば個人使用は無料。)
:言語の選択肢としては(2019年版時点で)、[[C++]]、[[C#]]、[[Visual Basic]]、[[F#]]、[[Python]]、[[Node.js]]、HTML/[[JavaScript]]、[[TypeScript]]といったところである。
* [[Eclipse]](IBM起源。無料)
{{節スタブ|date=2021年4月}}
<!--科学的シミュレーション/グラフィックス/アニメーションなどのスクリプトはともかくとして、スプレッドシートの[[テンプレート]]、ワードプロセッサの[[マクロ言語|マクロ]]、電子メールの[[電子メールフィルタリング|フィルタ]]などは、一般にアプリケーションとは呼ばない。-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[システムソフトウェア]]
* [[オペレーティングシステム]]
* [[ミドルウェア]]
* [[パッケージソフトウェア]]
* [[デスクトップアプリケーション]]
* [[ウェブアプリケーション]]
* [[ホストアプリケーション]]
* [[携帯アプリ]]、[[スマートフォン#アプリケーション]]、[[モバイルアプリケーション]]
* [[ビジネスソフトウェア]]
*[[ワープロソフト]]
*'''[[禁則処理]]'''
*'''[[クリップボード]]'''
*'''[[クリップアート]]'''
*[[マクロ言語]](マクロ)
*[[表計算ソフト]]
*[[プレゼンテーションソフトウェア|プレゼンテーションソフト]]
*[[グラフィックソフトウェア|グラフィックソフト]]
*'''[[オーサリングツール]]'''
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あふりけえしよんそふとうえあ}}
[[Category:ソフトウェア]]
[[Category:アプリケーションソフト|*]]
[[Category:コンピュータの利用]] | 2003-03-07T14:21:24Z | 2023-12-22T03:21:22Z | false | false | false | [
"Template:Redirect4",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Main",
"Template:仮リンク",
"Template:Gallery",
"Template:Notelist",
"Template:複数の問題",
"Template:Refnest",
"Template:要出典",
"Template:節スタブ",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2 |
3,631 | マウス (コンピュータ) | マウス(英: mouse)とは、コンピュータの操作全般に用いられる入力機器の一つであり、画面上に表示された物の場所を指し示して選択するための装置(ポインティングデバイス)の一種である。キーボードとともに広く使われる。
本体を手に持って机などの平面上を移動させ、接触式ないしは非接触式のセンサで移動を検知し、2次元の縦横それぞれの移動をコンピュータへ伝える(加速度センサにより3次元の移動を感知する3Dマウスといったようなものや、絶対座標を指示するタイプのものもあるが、一般的ではない)。
マウスという呼称は、形状がネズミに似ていたことから名付けられた。
マイクロソフトが製作した試作品(本体は白色)は左右のボタン(緑色)を耳に、電線(黒色)を尾に見立ててマウスと呼んでいた。だが量産前に電線は指先側に、本体はベージュ色に変更されている。これは、ひじの下にコードが隠れる形になり、マウスを手前に引いた時にコードを予期せずに踏んでしまい、使用に不便を感じたからである。現在のマウスはメーカーに寄らず、もっぱら指先側に電線(コード)が付いている。
2.4GHz無線通信が一般解放されてからは、(Bluetoothなどの)無線によるコードレスマウス(ワイヤレスマウス、無線マウス)も普及している。
英語の複数形は生物のネズミと同じ mice とすることが多いが mouses とすることもある。
ワークステーションをはじめ、1980-90年代以降はパーソナルコンピュータのグラフィック性能も強化され、GUIが一般的になると、GUIにおける標準のポインティングデバイスとして普及した。家庭用ゲーム機では、スーパーファミコンなどにも存在し、近年はUSBインターフェースにより市販品を使用可能だが、商品の性質上ゲームパッドや周辺機器での操作しか想定されていないこともあり、対応ゲームはそう多くなく、マウスを必須とするようなゲームは家庭用ゲーム機にはほとんどない。
一般的にマウスの形状は、手全体をマウスに覆い被せるようにして持つこと(いわゆる「かぶせ持ち」)を前提としてデザインされる。人によっては手を前に出し、爪を立てるような持ち方(いわゆる「つめたて持ち」)や、手のひらを当てずに指先だけで持つ(いわゆる「つまみ持ち」)例も見られる。
オペレーティングシステムによっては、マウスの移動速度が速い場合や加速度が大きい場合に、ポインタをマウスの移動距離よりも大きく移動させる機能がある。これによって、ポインタの座標とマウスの実際の位置とは対応しなくなるが、より「動かす」感覚に近くポインタを移動できると感じるユーザーもいる。この場合、マウスはポインティングデバイスではなく、『ポインタを移動させるデバイス』として捉えられていると言えよう。また、マウス位置とポインタ座標が対応している方が、正確にポイントしやすいと感じるユーザーもいる。
マウスのボタンは、Macintoshでは1つまたは4つ、PC/AT互換機では2つから5つ、UNIXマシンでは3つのボタンがついていることが多い。このボタンを押すことをクリック、ボタンを押しっぱなしにすることをプレス、またプレスしながらマウスを動かすことをドラッグという。そうしてドラッグしたものからボタンを離すことをドロップという。ドラッグとドロップでドラッグアンドドロップ(しばしばD&DあるいはDnDと略される)ということがある。
Windows向けの場合、Windowsの標準では左ボタンはクリック(項目選択・決定)やドラッグ、右ボタンはコンテキストメニューの表示に主に使われる。1999年に発売されたマイクロソフトのIntelliMouse Explorerにはサイドボタンと呼ばれる2つのボタンが側面に搭載され、それ以降は1つまたは2つのサイドボタンを備える高機能なマウスも普及している。サイドボタンは通常ウェブブラウザ・Windows Explorer等の「戻る」「進む」機能に割り当てられるが、マウスのベンダーから提供されるドライバユーティリティを使用すれば好みの機能にカスタマイズできる場合がある。ゲーム向けの高級機種として、より多くのボタンを備えた製品もある。
ボタンだけでは充分な快適性が得られないとして、ホイール(車輪)やトラックボールが表面に付いているものもある(後に詳述)。また、特定のディジタイザ上のみで使用可能なマウス型デバイスといったものも存在する(ワコム製タブレットなど)。
1960年代にダグラス・エンゲルバートが作ったマウスはXとYの直交した2個の円板がある方式だったが、1970年代には、内蔵したボールの一部が底面に露出しているボール式が開発され主流となった。ボール式では、マウスの内部でボールに小さな縦方向と横方向の円板ないし円筒が接しており、その回転で縦横の移動を検出する。ボールのころがり(モーメント)による独特の操作感があるが、機械的な構造上ある程度の滑りは避けられず、またボールが机上の埃を巻き込んでしまい内部に蓄積するなどで定期的な分解清掃といったメンテナンスが必要なため、メンテナンスフリーの光学式(次節)が発表されてからはそちらが主流となった。
また、小中学校にパソコンが導入されて以降は生徒がマウスのボールを外して使用不能にしてしまうといういたずらが多発したため、その対策として光学式に置き換える学校もあった。また、補修用にボール単体での販売も行われていた。当初普及したマウスのボールは金属製そのままだったため、使用していると錆びると言う事態になったのである。そのため補修用ではゴムでコーティングしたボールが販売されている。
LEDなどの光源と光学センサーにより、移動を検出するマウス。1980年代から存在する方式であるが、当初は専用のマウスパッドを必要とした上に高額であったため、ワークステーションやCADといった業務用途での使用が主であった。マウスパッドが不要なタイプが普及したのは、1999年にマイクロソフトがIntelliMouse Explorerを発売して以降である。通常は、赤色LEDで可視光を底面に照射し、カメラセンサーでその動きを検出することで動作する。カメラセンサーの搭載によりマウスパッドが不要となったが、透明なガラス板や光沢面などの上では全く動作が検出できなかったり、不安定だったりする場合がある。FPSゲーム等で安定性や応答速度を求める層向けに、光学式マウスと相性の良いマウスパッドが市販されている。
光学式マウスの一種であるが、赤色LEDの代わりに、波長の長い赤外線LEDを使用している。発光を目で確認することはできないが、赤外線対応のカメラを使うと発光しているのがわかる。動作検出精度は赤色LEDの光学式とほぼ同等であるが、発光せず消費電力も少ないため赤色LED式からの置き換えが進んでいる。
2004年9月、ロジテック(ロジクール)が赤外線レーザーを使用したマウス(レーザーマウス)を発表した。精度が高く、光学式マウスが苦手としていた光沢面でも動作検出が可能となっている。数年後には比較的安価に販売されるようになったが、リフトオフディスタンス(マウスを持ち上げても反応する距離)が長く、光学式の性能が大幅に向上したため、あまり普及しなかった。2020年現在では一部の高級機に使われるにとどまっている。
2008年9月、マイクロソフトが青色LEDを使ったBlueTrackマウスを発表した。青色光は赤色光と比べて波長が短く拡散率が高いため、わずかなホコリや凹凸を検出することができる。動作検出精度が高く、かつリフトオフディスタンス(マウスを持ち上げても反応する距離)が短い。詳細についてはBlueTrackを参照。ちなみに青色LEDを使用したマウスはこれより以前にも存在し、2000年12月発売のCMS-OP/UP(センチュリー)、2003年11月発売のM-BGUP2RLBU(エレコム)等がある。
2009年8月、ロジテック(ロジクール)が暗視野顕微鏡の技術を応用した「Darkfieldレーザーセンサー」を搭載したマウスを発表した。動作検出精度は非常に高く、従来の方式では動作しなかった透明なガラス板などの上でも動作が可能になっている。エレコムが2011年12月に発表したマウスに搭載された「Track on Glass(ULTIMATE)レーザーセンサー」も同様の技術。
マウスにおけるホイールは、ポインタ移動とクリック・ドラッグによる操作だけでは煩雑な処理を補助するために設けられた機構である。標準的な2ボタンマウスの場合は、通例左ボタンと右ボタンの間に保持され、人さし指、または中指による前後方向の回転移動を行う。1996年にマイクロソフトが発売したIntelliMouseで初めて多くの消費者に認知され(KYE(英語版)(Geniusブランド)の「EasyScroll」が先行製品である)同社がWindows 95やOffice 97などを対応させ普及に弾みをつけた。
ホイールは一次元縦方向の回転量を検出し、それを何らかの操作の移動量と結びつける。マウスのポインタ移動と異なり、マウス自体は移動しない。また原理上、動作はいくらでも続けられる。
ホイールを下に押して、クリック操作ができるものも多い。多くの場合、それはホイール状態をロックしてポインタ移動と同期するか、または回転のメタファーから状態のトグルを表す操作に対応する。いずれにせよ、ホイールは比較的クリックしにくい構造であり、通常は頻繁に利用する動作が割り当てられることはない。
ワークステーションでは、ホイールマウス誕生以前から3ボタンマウスが一般的であったが、ホイールマウスがワークステーションやPC-Unixでも使われるようになった後は、ホイールのクリックに、従来の中ボタンの操作を当てるようになった。このためPC用でも、元がワークステーション用だったりするようなCAD等のソフトでは、元々のワークステーション用の中ボタンの機能をホイール押下に割り当てていることがある。ペースト操作用として多用される場合があるが、ホイールの押下の検出には多用されない前提のスイッチが使われていることがあり、劣化が早いことがある。 一般のユーザーにおいては、ブラウザやワープロなどのソフトにおいて画面に入りきらない情報をウインドウ内でスクロールするために用いることが圧倒的に多く、そのためホイール操作は画面スクロールと同期される場合がほとんどである。これはプログラミングあるいはデバイスドライバの設定により挙動を変更できる。
中クリックあるいはホイールクリックへのアサインは、タブブラウザが普及してからは新しいタブを開く・タブを閉じるなどの挙動が定着した。その延長上でWindows 7のタスクバーでは、タスクスイッチを中クリック/ホイールクリックすると、そのアプリケーションの新しいウィンドウあるいはタブが開く。
コントロールキーを押しながらホイールを回すと、ウィンドウ内の表示倍率を拡大/縮小する挙動が一般的である。Internet Explorerなど一部のアプリケーションでは、シフトキーを押しながら回すと履歴の戻る・進むの機能が行われる。
ホイールボタンの定着の弊害として、ホイールマウスで代用が可能であることから、従来のワークステーション用マウスと同様の3ボタンマウスの流通が減少し、ホイールマウスを「3ボタンマウス」と称すようになったため、入手などの際に従来型3ボタンマウスを指名することが難しくなった、ということが挙げられる。あくまでも「代用」であって、ドラッグ操作のしづらさや、前述のようにスイッチの耐久性の問題がある。
トラックパッドなどでは、ホイールの機構を待たずそのままではスクロール操作ができずに不便になってしまう。そこで、ホイールを持たずに同等の機能を提供するデバイスもある。
マイクロソフトが最初に製作したマウスは、専用基板でIBM-PC用にマイクロソフトから販売された。日本国内ではPC-9801用に専用基板(スロット1つ使用、マウス部分はコードやコネクタ含めてIBM-PC用と同じ)でNECから販売された。
一時期はRS-232Cへのインタフェースを内蔵したシリアルマウスが販売されていた。
その後のPC/AT互換機ではPS/2の販売以降はPS/2コネクタ、MacintoshではApple Desktop Bus (ADB) 端子が長く使われていたが、2000年代に緩やかにUSB接続に置き換わった。2015年現在、PS/2方式は安価なマイコンなどUSB機能を持たないような機器用や、特殊目的などでわずかに残っている。有線接続はコードの扱いがわずらわしいが、接続の確実性や、紛失や充電などの問題が無い、バッテリーを内蔵しないのでマウス自体が軽量という利点もあり広く使われている。
無線接続の場合はレシーバーをUSB端子に接続し、レシーバーとマウスを電波で通信するタイプが安価で主流である。Bluetooth接続の製品も、特にUSB端子の数やスペースの都合上ネットブックやタブレット端末向けに徐々に普及しつつある。無線マウスは電源として乾電池を必要とするか、充電池を内蔵する。
ポーリングレートは高頻度化が進んでいる。PS/2接続のマウスにおいては40Hzが標準であり、PS2Rateなどのソフトウェアを使うことで200Hzまで上げることが可能であった。USB接続のマウスにおいては元々125Hzが多かったものの、240Hzのゲーミングモニターの普及と共に500Hzや1000Hzのゲーミングマウスも普及していき、更には4000Hzや8000Hz(Razer Viper 8KHzなど)のゲーミングマウスまで登場するようになった。
ダグラス・エンゲルバートが1960年代に開発し、1968年12月9日に、「すべてのデモの母」として知られるデモを実施したoN-Line System (NLS) で開発されたものが現在のマウスの始祖とされている。12月9日は「IT25・50」シンポジウム実行委員会によって、『マウスの誕生日』として記念日に制定されている。
マウスの特許は、雇用主のSRIが保有していたため、エンゲルバートはロイヤルティを受け取ることはなかった。この特許は、マウスがパーソナルコンピュータで広く使用されるようになる前に失効している。マウスの発明は、人間の知性を増強するというエンゲルバートのはるかに大きなプロジェクトのほんの一部にすぎなかった。
エンゲルバートによる原形はX軸とY軸それぞれの円板が床と接触するもので、1970年代にはボール式マウスが開発された。類似した装置としてはトラックボールが同様に1960年代には存在している。
50年後、カリフォルニア州マウンテンビュー市にあるコンピュータ歴史博物館で開催されたエンゲルバートの栄光を称えるシンポジウムにて、エンゲルバートの娘クリスティーナが「彼は、我々の時代が持つ唯一最大の実存的な課題は、問題をまとめて解決する能力の曲線を引き上げることだと考えた」と発言している。
マウスの移動距離の単位にミッキー (mickey) がある。ミッキーの定義は、「1ミッキー=マウスの1/100インチ(0.254ミリメートル)分移動させた距離」であり、名前の由来は、ミッキーマウスからであるという説がある。
マウスの移動距離とマウスカーソルの移動距離の比を、ミッキー比といい、これは、グラフィカルユーザインタフェース (GUI) の操作におけるマウスの感度の指標となる。以前はミッキー比として、ミッキー/ドット比(マウス1ミッキーの移動に対しカーソルが何ドット移動するか)が使われていたが、現在は、DPI(マウス1インチの移動に対しカーソルが何ドット移動するか)が広く使われている。
過去に製造、販売していた企業
ノートパソコンにはタッチパッドやポインティング・スティックといったマウスを代替可能なデバイスがキーボードの付近に内蔵されている。慣れが必要でマウスほど快適な操作ができない場合が多いため、別途マウスを接続するユーザーは多い。標準でマウスが同梱されていることもある。ノートPCと一緒に持ち運ぶための小型・軽量マウスがモバイルマウスなどの名称で販売されている。
キーボードは最も一般的な入力ユーザーインタフェースだが、アプリケーションやOSには多くのキーボードショートカットが用いられ、マウスに手を伸ばさなくてもキーボードだけで作業が完結できる場合もある。またカーソルキーでマウスポインタを動かせたり、マウスボタン入力を矢印キーで再現できるユーティリティソフトウェアも存在する。
製図・イラストなど精細な再現性が必要な作業に使用される。専門的なデバイスとみなされ、マウスほど大量には普及していない。
2010年前後に急速な普及を始めたスマートフォンやタブレット型コンピュータ等では、タッチパネルにより画面を直接タッチ操作するのが事実上の標準となった。
タッチパネルはマウスより直感性に優れた操作が可能である一方細かい操作は不得意であるため、タッチ対応ディスプレイを備えたパソコンでは、タッチとマウスのどちらでも操作が可能である。Windowsは次第にタッチ操作への対応を進め、特にWindows 8ではタッチ操作に最適化したModern UIを搭載したが、タッチパネルとマウスのUIの統合には無理が生じ、Windows 8.1ではオーソドックスなスタートメニューが復活している。
マウスにタッチパネルライクな操作性を融合する試みもある。AppleのMagic Mouseや、それに類似したマイクロソフトのTOUCH MOUSE、ロジクールのタッチマウス M600などの製品では、ボタンやホイールを排除して表面にタッチセンサーを搭載し、クリックなどのボタンの操作をエミュレートするだけでなく、スワイプなどのタッチ操作独特のジェスチャーも利用可能である。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "マウス(英: mouse)とは、コンピュータの操作全般に用いられる入力機器の一つであり、画面上に表示された物の場所を指し示して選択するための装置(ポインティングデバイス)の一種である。キーボードとともに広く使われる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "本体を手に持って机などの平面上を移動させ、接触式ないしは非接触式のセンサで移動を検知し、2次元の縦横それぞれの移動をコンピュータへ伝える(加速度センサにより3次元の移動を感知する3Dマウスといったようなものや、絶対座標を指示するタイプのものもあるが、一般的ではない)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "マウスという呼称は、形状がネズミに似ていたことから名付けられた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフトが製作した試作品(本体は白色)は左右のボタン(緑色)を耳に、電線(黒色)を尾に見立ててマウスと呼んでいた。だが量産前に電線は指先側に、本体はベージュ色に変更されている。これは、ひじの下にコードが隠れる形になり、マウスを手前に引いた時にコードを予期せずに踏んでしまい、使用に不便を感じたからである。現在のマウスはメーカーに寄らず、もっぱら指先側に電線(コード)が付いている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "2.4GHz無線通信が一般解放されてからは、(Bluetoothなどの)無線によるコードレスマウス(ワイヤレスマウス、無線マウス)も普及している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "英語の複数形は生物のネズミと同じ mice とすることが多いが mouses とすることもある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "ワークステーションをはじめ、1980-90年代以降はパーソナルコンピュータのグラフィック性能も強化され、GUIが一般的になると、GUIにおける標準のポインティングデバイスとして普及した。家庭用ゲーム機では、スーパーファミコンなどにも存在し、近年はUSBインターフェースにより市販品を使用可能だが、商品の性質上ゲームパッドや周辺機器での操作しか想定されていないこともあり、対応ゲームはそう多くなく、マウスを必須とするようなゲームは家庭用ゲーム機にはほとんどない。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "一般的にマウスの形状は、手全体をマウスに覆い被せるようにして持つこと(いわゆる「かぶせ持ち」)を前提としてデザインされる。人によっては手を前に出し、爪を立てるような持ち方(いわゆる「つめたて持ち」)や、手のひらを当てずに指先だけで持つ(いわゆる「つまみ持ち」)例も見られる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "オペレーティングシステムによっては、マウスの移動速度が速い場合や加速度が大きい場合に、ポインタをマウスの移動距離よりも大きく移動させる機能がある。これによって、ポインタの座標とマウスの実際の位置とは対応しなくなるが、より「動かす」感覚に近くポインタを移動できると感じるユーザーもいる。この場合、マウスはポインティングデバイスではなく、『ポインタを移動させるデバイス』として捉えられていると言えよう。また、マウス位置とポインタ座標が対応している方が、正確にポイントしやすいと感じるユーザーもいる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "マウスのボタンは、Macintoshでは1つまたは4つ、PC/AT互換機では2つから5つ、UNIXマシンでは3つのボタンがついていることが多い。このボタンを押すことをクリック、ボタンを押しっぱなしにすることをプレス、またプレスしながらマウスを動かすことをドラッグという。そうしてドラッグしたものからボタンを離すことをドロップという。ドラッグとドロップでドラッグアンドドロップ(しばしばD&DあるいはDnDと略される)ということがある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "Windows向けの場合、Windowsの標準では左ボタンはクリック(項目選択・決定)やドラッグ、右ボタンはコンテキストメニューの表示に主に使われる。1999年に発売されたマイクロソフトのIntelliMouse Explorerにはサイドボタンと呼ばれる2つのボタンが側面に搭載され、それ以降は1つまたは2つのサイドボタンを備える高機能なマウスも普及している。サイドボタンは通常ウェブブラウザ・Windows Explorer等の「戻る」「進む」機能に割り当てられるが、マウスのベンダーから提供されるドライバユーティリティを使用すれば好みの機能にカスタマイズできる場合がある。ゲーム向けの高級機種として、より多くのボタンを備えた製品もある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "ボタンだけでは充分な快適性が得られないとして、ホイール(車輪)やトラックボールが表面に付いているものもある(後に詳述)。また、特定のディジタイザ上のみで使用可能なマウス型デバイスといったものも存在する(ワコム製タブレットなど)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "1960年代にダグラス・エンゲルバートが作ったマウスはXとYの直交した2個の円板がある方式だったが、1970年代には、内蔵したボールの一部が底面に露出しているボール式が開発され主流となった。ボール式では、マウスの内部でボールに小さな縦方向と横方向の円板ないし円筒が接しており、その回転で縦横の移動を検出する。ボールのころがり(モーメント)による独特の操作感があるが、機械的な構造上ある程度の滑りは避けられず、またボールが机上の埃を巻き込んでしまい内部に蓄積するなどで定期的な分解清掃といったメンテナンスが必要なため、メンテナンスフリーの光学式(次節)が発表されてからはそちらが主流となった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "また、小中学校にパソコンが導入されて以降は生徒がマウスのボールを外して使用不能にしてしまうといういたずらが多発したため、その対策として光学式に置き換える学校もあった。また、補修用にボール単体での販売も行われていた。当初普及したマウスのボールは金属製そのままだったため、使用していると錆びると言う事態になったのである。そのため補修用ではゴムでコーティングしたボールが販売されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "LEDなどの光源と光学センサーにより、移動を検出するマウス。1980年代から存在する方式であるが、当初は専用のマウスパッドを必要とした上に高額であったため、ワークステーションやCADといった業務用途での使用が主であった。マウスパッドが不要なタイプが普及したのは、1999年にマイクロソフトがIntelliMouse Explorerを発売して以降である。通常は、赤色LEDで可視光を底面に照射し、カメラセンサーでその動きを検出することで動作する。カメラセンサーの搭載によりマウスパッドが不要となったが、透明なガラス板や光沢面などの上では全く動作が検出できなかったり、不安定だったりする場合がある。FPSゲーム等で安定性や応答速度を求める層向けに、光学式マウスと相性の良いマウスパッドが市販されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "光学式マウスの一種であるが、赤色LEDの代わりに、波長の長い赤外線LEDを使用している。発光を目で確認することはできないが、赤外線対応のカメラを使うと発光しているのがわかる。動作検出精度は赤色LEDの光学式とほぼ同等であるが、発光せず消費電力も少ないため赤色LED式からの置き換えが進んでいる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2004年9月、ロジテック(ロジクール)が赤外線レーザーを使用したマウス(レーザーマウス)を発表した。精度が高く、光学式マウスが苦手としていた光沢面でも動作検出が可能となっている。数年後には比較的安価に販売されるようになったが、リフトオフディスタンス(マウスを持ち上げても反応する距離)が長く、光学式の性能が大幅に向上したため、あまり普及しなかった。2020年現在では一部の高級機に使われるにとどまっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2008年9月、マイクロソフトが青色LEDを使ったBlueTrackマウスを発表した。青色光は赤色光と比べて波長が短く拡散率が高いため、わずかなホコリや凹凸を検出することができる。動作検出精度が高く、かつリフトオフディスタンス(マウスを持ち上げても反応する距離)が短い。詳細についてはBlueTrackを参照。ちなみに青色LEDを使用したマウスはこれより以前にも存在し、2000年12月発売のCMS-OP/UP(センチュリー)、2003年11月発売のM-BGUP2RLBU(エレコム)等がある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2009年8月、ロジテック(ロジクール)が暗視野顕微鏡の技術を応用した「Darkfieldレーザーセンサー」を搭載したマウスを発表した。動作検出精度は非常に高く、従来の方式では動作しなかった透明なガラス板などの上でも動作が可能になっている。エレコムが2011年12月に発表したマウスに搭載された「Track on Glass(ULTIMATE)レーザーセンサー」も同様の技術。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "マウスにおけるホイールは、ポインタ移動とクリック・ドラッグによる操作だけでは煩雑な処理を補助するために設けられた機構である。標準的な2ボタンマウスの場合は、通例左ボタンと右ボタンの間に保持され、人さし指、または中指による前後方向の回転移動を行う。1996年にマイクロソフトが発売したIntelliMouseで初めて多くの消費者に認知され(KYE(英語版)(Geniusブランド)の「EasyScroll」が先行製品である)同社がWindows 95やOffice 97などを対応させ普及に弾みをつけた。",
"title": "ホイール"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ホイールは一次元縦方向の回転量を検出し、それを何らかの操作の移動量と結びつける。マウスのポインタ移動と異なり、マウス自体は移動しない。また原理上、動作はいくらでも続けられる。",
"title": "ホイール"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ホイールを下に押して、クリック操作ができるものも多い。多くの場合、それはホイール状態をロックしてポインタ移動と同期するか、または回転のメタファーから状態のトグルを表す操作に対応する。いずれにせよ、ホイールは比較的クリックしにくい構造であり、通常は頻繁に利用する動作が割り当てられることはない。",
"title": "ホイール"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ワークステーションでは、ホイールマウス誕生以前から3ボタンマウスが一般的であったが、ホイールマウスがワークステーションやPC-Unixでも使われるようになった後は、ホイールのクリックに、従来の中ボタンの操作を当てるようになった。このためPC用でも、元がワークステーション用だったりするようなCAD等のソフトでは、元々のワークステーション用の中ボタンの機能をホイール押下に割り当てていることがある。ペースト操作用として多用される場合があるが、ホイールの押下の検出には多用されない前提のスイッチが使われていることがあり、劣化が早いことがある。 一般のユーザーにおいては、ブラウザやワープロなどのソフトにおいて画面に入りきらない情報をウインドウ内でスクロールするために用いることが圧倒的に多く、そのためホイール操作は画面スクロールと同期される場合がほとんどである。これはプログラミングあるいはデバイスドライバの設定により挙動を変更できる。",
"title": "ホイール"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "中クリックあるいはホイールクリックへのアサインは、タブブラウザが普及してからは新しいタブを開く・タブを閉じるなどの挙動が定着した。その延長上でWindows 7のタスクバーでは、タスクスイッチを中クリック/ホイールクリックすると、そのアプリケーションの新しいウィンドウあるいはタブが開く。",
"title": "ホイール"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "コントロールキーを押しながらホイールを回すと、ウィンドウ内の表示倍率を拡大/縮小する挙動が一般的である。Internet Explorerなど一部のアプリケーションでは、シフトキーを押しながら回すと履歴の戻る・進むの機能が行われる。",
"title": "ホイール"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ホイールボタンの定着の弊害として、ホイールマウスで代用が可能であることから、従来のワークステーション用マウスと同様の3ボタンマウスの流通が減少し、ホイールマウスを「3ボタンマウス」と称すようになったため、入手などの際に従来型3ボタンマウスを指名することが難しくなった、ということが挙げられる。あくまでも「代用」であって、ドラッグ操作のしづらさや、前述のようにスイッチの耐久性の問題がある。",
"title": "ホイール"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "トラックパッドなどでは、ホイールの機構を待たずそのままではスクロール操作ができずに不便になってしまう。そこで、ホイールを持たずに同等の機能を提供するデバイスもある。",
"title": "ホイール"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフトが最初に製作したマウスは、専用基板でIBM-PC用にマイクロソフトから販売された。日本国内ではPC-9801用に専用基板(スロット1つ使用、マウス部分はコードやコネクタ含めてIBM-PC用と同じ)でNECから販売された。",
"title": "インタフェース"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "一時期はRS-232Cへのインタフェースを内蔵したシリアルマウスが販売されていた。",
"title": "インタフェース"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "その後のPC/AT互換機ではPS/2の販売以降はPS/2コネクタ、MacintoshではApple Desktop Bus (ADB) 端子が長く使われていたが、2000年代に緩やかにUSB接続に置き換わった。2015年現在、PS/2方式は安価なマイコンなどUSB機能を持たないような機器用や、特殊目的などでわずかに残っている。有線接続はコードの扱いがわずらわしいが、接続の確実性や、紛失や充電などの問題が無い、バッテリーを内蔵しないのでマウス自体が軽量という利点もあり広く使われている。",
"title": "インタフェース"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "無線接続の場合はレシーバーをUSB端子に接続し、レシーバーとマウスを電波で通信するタイプが安価で主流である。Bluetooth接続の製品も、特にUSB端子の数やスペースの都合上ネットブックやタブレット端末向けに徐々に普及しつつある。無線マウスは電源として乾電池を必要とするか、充電池を内蔵する。",
"title": "インタフェース"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ポーリングレートは高頻度化が進んでいる。PS/2接続のマウスにおいては40Hzが標準であり、PS2Rateなどのソフトウェアを使うことで200Hzまで上げることが可能であった。USB接続のマウスにおいては元々125Hzが多かったものの、240Hzのゲーミングモニターの普及と共に500Hzや1000Hzのゲーミングマウスも普及していき、更には4000Hzや8000Hz(Razer Viper 8KHzなど)のゲーミングマウスまで登場するようになった。",
"title": "インタフェース"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ダグラス・エンゲルバートが1960年代に開発し、1968年12月9日に、「すべてのデモの母」として知られるデモを実施したoN-Line System (NLS) で開発されたものが現在のマウスの始祖とされている。12月9日は「IT25・50」シンポジウム実行委員会によって、『マウスの誕生日』として記念日に制定されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "マウスの特許は、雇用主のSRIが保有していたため、エンゲルバートはロイヤルティを受け取ることはなかった。この特許は、マウスがパーソナルコンピュータで広く使用されるようになる前に失効している。マウスの発明は、人間の知性を増強するというエンゲルバートのはるかに大きなプロジェクトのほんの一部にすぎなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "エンゲルバートによる原形はX軸とY軸それぞれの円板が床と接触するもので、1970年代にはボール式マウスが開発された。類似した装置としてはトラックボールが同様に1960年代には存在している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "50年後、カリフォルニア州マウンテンビュー市にあるコンピュータ歴史博物館で開催されたエンゲルバートの栄光を称えるシンポジウムにて、エンゲルバートの娘クリスティーナが「彼は、我々の時代が持つ唯一最大の実存的な課題は、問題をまとめて解決する能力の曲線を引き上げることだと考えた」と発言している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "マウスの移動距離の単位にミッキー (mickey) がある。ミッキーの定義は、「1ミッキー=マウスの1/100インチ(0.254ミリメートル)分移動させた距離」であり、名前の由来は、ミッキーマウスからであるという説がある。",
"title": "単位"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "マウスの移動距離とマウスカーソルの移動距離の比を、ミッキー比といい、これは、グラフィカルユーザインタフェース (GUI) の操作におけるマウスの感度の指標となる。以前はミッキー比として、ミッキー/ドット比(マウス1ミッキーの移動に対しカーソルが何ドット移動するか)が使われていたが、現在は、DPI(マウス1インチの移動に対しカーソルが何ドット移動するか)が広く使われている。",
"title": "単位"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "過去に製造、販売していた企業",
"title": "主なメーカー"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ノートパソコンにはタッチパッドやポインティング・スティックといったマウスを代替可能なデバイスがキーボードの付近に内蔵されている。慣れが必要でマウスほど快適な操作ができない場合が多いため、別途マウスを接続するユーザーは多い。標準でマウスが同梱されていることもある。ノートPCと一緒に持ち運ぶための小型・軽量マウスがモバイルマウスなどの名称で販売されている。",
"title": "類似・代替デバイスとの関係"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "キーボードは最も一般的な入力ユーザーインタフェースだが、アプリケーションやOSには多くのキーボードショートカットが用いられ、マウスに手を伸ばさなくてもキーボードだけで作業が完結できる場合もある。またカーソルキーでマウスポインタを動かせたり、マウスボタン入力を矢印キーで再現できるユーティリティソフトウェアも存在する。",
"title": "類似・代替デバイスとの関係"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "製図・イラストなど精細な再現性が必要な作業に使用される。専門的なデバイスとみなされ、マウスほど大量には普及していない。",
"title": "類似・代替デバイスとの関係"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2010年前後に急速な普及を始めたスマートフォンやタブレット型コンピュータ等では、タッチパネルにより画面を直接タッチ操作するのが事実上の標準となった。",
"title": "類似・代替デバイスとの関係"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "タッチパネルはマウスより直感性に優れた操作が可能である一方細かい操作は不得意であるため、タッチ対応ディスプレイを備えたパソコンでは、タッチとマウスのどちらでも操作が可能である。Windowsは次第にタッチ操作への対応を進め、特にWindows 8ではタッチ操作に最適化したModern UIを搭載したが、タッチパネルとマウスのUIの統合には無理が生じ、Windows 8.1ではオーソドックスなスタートメニューが復活している。",
"title": "類似・代替デバイスとの関係"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "マウスにタッチパネルライクな操作性を融合する試みもある。AppleのMagic Mouseや、それに類似したマイクロソフトのTOUCH MOUSE、ロジクールのタッチマウス M600などの製品では、ボタンやホイールを排除して表面にタッチセンサーを搭載し、クリックなどのボタンの操作をエミュレートするだけでなく、スワイプなどのタッチ操作独特のジェスチャーも利用可能である。",
"title": "類似・代替デバイスとの関係"
}
] | マウスとは、コンピュータの操作全般に用いられる入力機器の一つであり、画面上に表示された物の場所を指し示して選択するための装置(ポインティングデバイス)の一種である。キーボードとともに広く使われる。 | {{Otheruses|コンピュータの周辺機器|日本のパソコンメーカー|マウスコンピューター}}
{{出典の明記|date=2016年9月}}
[[ファイル:Two-Buttoned Mouse.jpg|thumb|2ボタン型・ボール式マウス]]
[[ファイル:Mausubo-ru.JPG|thumb|180px|マウスボール]]
'''マウス'''({{lang-en-short|mouse}})とは、[[コンピュータ]]の操作全般に用いられる[[入力機器]]の一つであり、画面上に表示された物の場所を指し示して選択するための装置([[ポインティングデバイス]]){{Sfn |BitTangoCho |1990 |p=236}}の一種である。[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]とともに広く使われる。
== 概要 ==
[[ファイル:MACMOUSE.JPG|thumb|1ボタン型・ボール式マウス(初期の[[Power Mac]] G4付属品)]]
本体を手に持って机などの平面上を移動させ、接触式ないしは非接触式の[[センサ]]で移動を検知し、2次元の縦横それぞれの移動を[[コンピュータ]]へ伝える([[加速度センサ]]により3次元の移動を感知する'''3Dマウス'''といったようなものや、絶対座標を指示するタイプのものもあるが、一般的ではない)。
マウスという呼称は、形状が[[ネズミ]]に似ていたことから名付けられた。
マイクロソフトが製作した試作品(本体は白色)は左右の[[押しボタン|ボタン]](緑色)を耳に、電線(黒色)を尾に見立ててマウスと呼んでいた。だが量産前に電線は指先側に、本体はベージュ色に変更されている。これは、ひじの下にコードが隠れる形になり、マウスを手前に引いた時にコードを予期せずに踏んでしまい、使用に不便を感じたからである。現在のマウスはメーカーに寄らず、もっぱら指先側に電線(コード)が付いている。
2.4GHz無線通信が一般解放されてからは、(Bluetoothなどの)無線による'''コードレスマウス'''('''ワイヤレスマウス'''、'''無線マウス''')も普及している。
[[英語]]の複数形は生物のネズミと同じ '''mice''' とすることが多いが '''mouses''' とすることもある。
[[ワークステーション]]をはじめ、1980-90年代以降は[[パーソナルコンピュータ]]のグラフィック性能も強化され、GUIが一般的になると、GUIにおける標準の[[ポインティングデバイス]]として普及した。家庭用ゲーム機では、[[スーパーファミコン]]などにも存在し、近年は[[USB]]インターフェースにより市販品を使用可能だが、商品の性質上[[ゲームパッド]]や周辺機器での操作しか想定されていないこともあり、対応ゲームはそう多くなく、マウスを必須とするようなゲームは家庭用ゲーム機にはほとんどない。
一般的にマウスの形状は、手全体をマウスに覆い被せるようにして持つこと(いわゆる「かぶせ持ち」)を前提としてデザインされる。人によっては手を前に出し、爪を立てるような持ち方(いわゆる「つめたて持ち」)や、手のひらを当てずに指先だけで持つ(いわゆる「つまみ持ち」)例も見られる<ref>{{Cite news |url=https://getnavi.jp/digital/228961/ |title=マウスの握り方って1つじゃないの!? 3通りの握り方に対応したLEDマウス「NEO FIT」 |newspaper=GetNavi web |publisher=ワン・パブリッシング |date=2018-02-15 |accessdate=2020-07-29 }}</ref>。
===マウスポインタ===
{{see also|カーソル}}
[[オペレーティングシステム]]によっては、マウスの移動速度が速い場合や加速度が大きい場合に、ポインタをマウスの移動距離よりも大きく移動させる機能がある。これによって、ポインタの座標とマウスの実際の位置とは対応しなくなるが、より「動かす」感覚に近くポインタを移動できると感じるユーザーもいる。この場合、マウスはポインティングデバイスではなく、『ポインタを移動させるデバイス』として捉えられていると言えよう。また、マウス位置とポインタ座標が対応している方が、正確にポイントしやすいと感じるユーザーもいる。
=== ボタン ===
[[ファイル:Razer Imperator left side.JPG|thumb|[[Razer]]製の[[ゲーム]]用マウスの例<br />上面中央と側面に[[押しボタン|ボタン]]が2個づつ追加されている。]]
マウスの[[押しボタン|ボタン]]は、[[Macintosh]]では1つまたは4つ、[[PC/AT互換機]]では2つから5つ、[[UNIX]]マシンでは3つのボタンがついていることが多い。このボタンを押すことを[[クリック (マウス)|クリック]]、ボタンを押しっぱなしにすることを[[プレス]]、またプレスしながらマウスを動かすことを[[ドラッグ・アンド・ドロップ|ドラッグ]]という。そうしてドラッグしたものからボタンを離すことを[[ドラッグ・アンド・ドロップ|ドロップ]]という。ドラッグとドロップでドラッグアンドドロップ(しばしばD&DあるいはDnDと略される)ということがある。
[[Microsoft Windows|Windows]]向けの場合、Windowsの標準では[[左]]ボタンはクリック(項目選択・決定)やドラッグ、[[右]]ボタンは[[コンテキストメニュー]]の表示に主に使われる。[[1999年]]に発売された[[マイクロソフト]]のIntelliMouse Explorerにはサイドボタンと呼ばれる2つのボタンが側面に搭載され<ref name="IntelliMouseExplorer">{{cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/990420/ms.htm|title=Microsoft、オプティカル技術を使ったマウス「IntelliMouse Explorer」|publisher=[[Impress Watch|PC Watch]]|date=1999-04-20|accessdate=2012-07-20}}</ref>、それ以降は1つまたは2つのサイドボタンを備える高機能なマウスも普及している。サイドボタンは通常[[ウェブブラウザ]]・[[Windows Explorer]]等の「戻る」「進む」機能に割り当てられるが、マウスの[[ベンダー]]から提供される[[デバイスドライバ|ドライバ]][[ユーティリティ]]を使用すれば好みの機能に[[カスタマイズ]]できる場合がある。[[コンピュータゲーム|ゲーム]]向けの高級機種として、より多くのボタンを備えた製品もある。
ボタンだけでは充分な快適性が得られないとして、ホイール([[車輪]])や[[トラックボール]]が表面に付いているものもある(後に詳述)。また、特定の[[タブレット (コンピュータ)|ディジタイザ]]上のみで使用可能なマウス型デバイスといったものも存在する([[ワコム]]製[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]など)。
=== 方式 ===
==== 機械式(第1世代)====
1960年代に[[ダグラス・エンゲルバート]]が作ったマウスはXとYの直交した2個の円板がある方式だったが、1970年代には、内蔵したボールの一部が底面に露出しているボール式が開発され主流となった。ボール式では、マウスの内部でボールに小さな縦方向と横方向の円板ないし円筒が接しており、その回転で縦横の移動を検出する。ボールのころがり(モーメント)による独特の操作感があるが、機械的な構造上ある程度の滑りは避けられず、またボールが机上の埃を巻き込んでしまい内部に蓄積するなどで定期的な分解清掃といったメンテナンスが必要なため、メンテナンスフリーの光学式(次節)が発表されてからはそちらが主流となった。
また、小中学校にパソコンが導入されて以降は生徒がマウスのボールを外して使用不能にしてしまうといういたずらが多発したため、その対策として光学式に置き換える学校もあった。また、補修用にボール単体での販売も行われていた。当初普及したマウスのボールは金属製そのままだったため、使用していると錆びると言う事態になったのである。そのため補修用ではゴムでコーティングしたボールが販売されている。
==== 光学式(第2世代)====
[[発光ダイオード|LED]]などの光源と光学センサーにより、移動を検出するマウス。1980年代から存在する方式であるが、当初は専用のマウスパッドを必要とした上に高額であったため、ワークステーションやCADといった業務用途での使用が主であった。マウスパッドが不要なタイプが普及したのは、1999年に[[マイクロソフト]]がIntelliMouse Explorerを発売して以降である<ref name="IntelliMouseExplorer" />。通常は、赤色[[発光ダイオード|LED]]で[[可視光]]を底面に照射し、カメラセンサーでその動きを検出することで動作する。カメラセンサーの搭載によりマウスパッドが不要となったが、透明なガラス板や光沢面などの上では全く動作が検出できなかったり、不安定だったりする場合がある。[[ファーストパーソン・シューティングゲーム|FPS]]ゲーム等で安定性や応答速度を求める層向けに、光学式マウスと相性の良いマウスパッドが市販されている。
==== IR(赤外線)LED式 ====
光学式マウスの一種であるが、赤色[[発光ダイオード|LED]]の代わりに、波長の長い[[赤外線]][[発光ダイオード|LED]]を使用している。発光を目で確認することはできないが、赤外線対応のカメラを使うと発光しているのがわかる。動作検出精度は赤色LEDの光学式とほぼ同等であるが、発光せず消費電力も少ないため赤色LED式からの置き換えが進んでいる。
==== レーザー式(第3世代)====
2004年9月、ロジテック([[ロジクール]])が[[赤外線]][[レーザー]]を使用したマウス(レーザーマウス)を発表した<ref>{{cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2004/0902/logicool.htm|title=ロジクール、初のレーザーセンサーマウス「MX-1000」|publisher=PC Watch|date=2004-09-02|accessdate=2012-07-20}}</ref>。精度が高く、光学式マウスが苦手としていた光沢面でも動作検出が可能となっている。数年後には比較的安価に販売されるようになったが、リフトオフディスタンス(マウスを持ち上げても反応する距離)が長く、光学式の性能が大幅に向上したため、あまり普及しなかった。2020年現在では一部の高級機に使われるにとどまっている。
==== 青色LED式(第4世代)====
2008年9月、[[マイクロソフト]]が青色[[発光ダイオード|LED]]を使ったBlueTrackマウスを発表した<ref>{{cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2008/0910/ms1.htm|title=Microsoft、青色LED採用の光学式ワイヤレスマウス~さまざまな面でのトラッキング性能を向上|publisher=PC Watch|date=2008-09-10|accessdate=2012-07-20}}</ref>。青色光は赤色光と比べて波長が短く拡散率が高いため、わずかなホコリや凹凸を検出することができる。動作検出精度が高く、かつリフトオフディスタンス(マウスを持ち上げても反応する距離)が短い。詳細については[[BlueTrack]]を参照。ちなみに青色LEDを使用したマウスはこれより以前にも存在し、2000年12月発売のCMS-OP/UP([[センチュリー (電子機器)|センチュリー]])、2003年11月発売のM-BGUP2RLBU([[エレコム]])等がある。
==== 暗視野顕微鏡レーザー式(第5世代)====
2009年8月、ロジテック([[ロジクール]])が[[暗視野顕微鏡]]の技術を応用した「Darkfieldレーザーセンサー」を搭載したマウスを発表した<ref>{{cite news|url=https://japan.cnet.com/article/20398616/|title=透明ガラスでマウスが使える--ロジクール、新センサ「Darkfield」搭載マウスを発表|publisher=[[CNET]] Japan|date=2009-08-20|accessdate=2012-07-20}}</ref>。動作検出精度は非常に高く、従来の方式では動作しなかった透明なガラス板などの上でも動作が可能になっている。[[エレコム]]が2011年12月に発表したマウスに搭載された「Track on Glass(ULTIMATE)レーザーセンサー」も同様の技術<ref>{{Cite news|title=ガラス面を含む、ほぼあらゆる素材の上で操作可能! 新ソリューション“Track on Glassレーザーセンサー”を搭載した5ボタンワイヤレスレーザーマウスを発売|date=2011-12-22|url=http://www.elecom.co.jp/news/201112/m-tg01dl/index.html|publisher=[[エレコム]]|publication-date=}}</ref>。
== ホイール ==
{{Main|スクロールホイール}}
[[ファイル:Wheel_mouse.jpg|thumb|2ボタン型・ホイールマウス]]
マウスにおける'''ホイール'''は、ポインタ移動とクリック・ドラッグによる操作だけでは煩雑な処理を補助するために設けられた機構である。標準的な2ボタンマウスの場合は、通例左ボタンと右ボタンの間に保持され、人さし指、または中指による前後方向の回転移動を行う。1996年にマイクロソフトが発売したIntelliMouseで初めて多くの消費者に認知され({{仮リンク|KYE|en|KYE Systems Corp.}}(Geniusブランド)の「EasyScroll」が先行製品である)同社が[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]や[[Microsoft Office|Office 97]]などを対応させ普及に弾みをつけた<ref>{{cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/960723/intlms.htm|title=米Microsoftが新しいポインティングデバイス「IntelliMouse」を11月に発売 マウスにローラーがついて新しいナビゲーションが可能に|publisher=PC Watch|date=1996-07-23|accessdate=2012-07-20}}</ref>。
=== 原理と動作 ===
ホイールは一次元縦方向の回転量を検出し、それを何らかの操作の移動量と結びつける。マウスのポインタ移動と異なり、マウス自体は移動しない。また原理上、動作はいくらでも続けられる。
ホイールを下に押して、クリック操作ができるものも多い。多くの場合、それはホイール状態をロックしてポインタ移動と同期するか、または回転の[[メタファー]]から状態のトグルを表す操作に対応する。いずれにせよ、ホイールは比較的クリックしにくい構造であり、通常は頻繁に利用する動作が割り当てられることはない。
[[ワークステーション]]では、ホイールマウス誕生以前から3ボタンマウスが一般的であったが、ホイールマウスがワークステーションやPC-Unixでも使われるようになった後は、ホイールのクリックに、従来の中ボタンの操作を当てるようになった。このためPC用でも、元がワークステーション用だったりするようなCAD等のソフトでは、元々のワークステーション用の中ボタンの機能をホイール押下に割り当てていることがある。ペースト操作用として多用される場合があるが、ホイールの押下の検出には多用されない前提のスイッチが使われていることがあり、劣化が早いことがある。
<!--もともとホイールは、Unix系OSで一般的な3ボタンマウスを使用する[[CAD]]などのソフトで、[[ズーム]]操作を補助するために中ボタンの機能を拡張したものである。そのためホイールのクリック操作は中ボタンのクリックと同等であり、ホイールの回転でズームを、クリックで操作メニューの表示や画面のパン(図面領域をつかんで画面上を移動させる行為)を行うことができる。--><!-- ←嘘。MicrosoftのInteliMouseは当然、元祖であるEasyScrollも、PCサプライ用品として生まれており、ワークステーション用3ボタンマウスからの派生ではない。MN -->
一般のユーザーにおいては、ブラウザやワープロなどのソフトにおいて画面に入りきらない情報をウインドウ内でスクロールするために用いることが圧倒的に多く、そのためホイール操作は画面スクロールと同期される場合がほとんどである。これは[[プログラミング]]あるいは[[デバイスドライバ]]の設定により挙動を変更できる。
中クリックあるいはホイールクリックへのアサインは、[[タブブラウザ]]が普及してからは新しいタブを開く・タブを閉じるなどの挙動が定着した。その延長上で[[Microsoft Windows 7|Windows 7]]の[[タスクバー]]では、タスクスイッチを中クリック/ホイールクリックすると、そのアプリケーションの新しいウィンドウあるいはタブが開く。<!-- Windows Vista以前は未確認 -->
[[コントロールキー]]を押しながらホイールを回すと、ウィンドウ内の表示倍率を拡大/縮小する挙動が一般的である。[[Internet Explorer]]など一部のアプリケーションでは、[[シフトキー]]を押しながら回すと履歴の戻る・進むの機能が行われる。
ホイールボタンの定着の弊害として、ホイールマウスで代用が可能であることから、従来のワークステーション用マウスと同様の3ボタンマウスの流通が減少し、ホイールマウスを「3ボタンマウス」と称すようになったため、入手などの際に従来型3ボタンマウスを指名することが難しくなった、ということが挙げられる。あくまでも「代用」であって、ドラッグ操作のしづらさや、前述のようにスイッチの耐久性の問題がある。
=== ホイールの種類 ===
[[ファイル:MS Mouse tilt wheel.JPG|thumb|マイクロソフト製マウスのチルトホイール]]
; 回転型ホイール
: 文字通り車輪が埋め込まれており、回転量に応じた移動量が検出される。
; シフト移動型
: 前後方向へのシフト移動を行うホイールでは、中心からのオフセット量に応じて回転速度を[[エミュレート]]する。
==== 横方向へのスクロールへの対応 ====
* 縦方向と横方向のスクロールを別々のホイールで行うもの
** {{仮リンク|A4Tech|en|A4Tech}}のマウスでは、縦スクロールと横スクロールのために二つのホイールが付いているものがある。
* チルトホイール
** マイクロソフトは2003年に従来の縦方向の回転に加えて横方向の角度によって操作できるチルトホイールを搭載したマウスを開発<ref>{{cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2003/0825/ms.htm|title=マイクロソフト、左右スクロールが可能な「チルトホイール」を発表|publisher=PC Watch|date=2003-08-25|accessdate=2012-07-20}}</ref>、発売した。これは横スクロールが使用できる。現在では[[ロジクール]]をはじめ、他社からもチルトホイールを搭載したマウスが発売されている。
* トラックボール型<!--便宜的に命名-->
** [[Apple]]の[[Mighty Mouse]]では、スクロールボールと呼ばれる[[トラックボール]]状のボールで45度単位の方向検出を行う。
** トラックボールによる完全な2次元の方向検出を行えるものもある。マウス本体の移動と合わせれば、4軸の自由度をもつデバイスと言うことが出来る。
=== ホイールを持たずに同等の機能を持つもの ===
トラックパッドなどでは、ホイールの機構を待たずそのままではスクロール操作ができずに不便になってしまう。そこで、ホイールを持たずに同等の機能を提供するデバイスもある。
* Appleの[[Magic Mouse]], Magic Mouse 2では二つの指で操作する事で360度スクロールが可能になっている。
* [[IBM]]/[[レノボ]]は、スクロールポイント・マウスという、ボタンによってホイールの機能を代替したマウスを販売している。現在は販売終了している初代スクロールポイントマウスでは、ホイール位置に[[トラックポイント]]が搭載されており、上下左右へのスクロールを可能としていた。
* かつて(2000年前後まで?)は、他社からもボタンやレバーによってホイールの機能を代替したマウスが販売されていた。そのボタンを前または後ろに押し続ける、もしくはレバーを前後に倒すと、ホイールを前または後ろに回転させたのと同じ操作とみなされる。
* タッチセンサーによりホイールを代替し、より高度な操作ができる製品が存在する。(後述)
== インタフェース ==
マイクロソフトが最初に製作したマウスは、専用基板でIBM-PC用にマイクロソフトから販売された。日本国内ではPC-9801用に専用基板(スロット1つ使用、マウス部分はコードやコネクタ含めてIBM-PC用と同じ)でNECから販売された。
一時期はRS-232Cへのインタフェースを内蔵したシリアルマウスが販売されていた。
その後のPC/AT互換機ではPS/2の販売以降は[[PS/2コネクタ]]、Macintoshでは[[Apple Desktop Bus]] (ADB) 端子が長く使われていたが、2000年代に緩やかに[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]接続に置き換わった。2015年現在、PS/2方式は安価なマイコンなどUSB機能を持たないような機器用や、特殊目的などでわずかに残っている。有線接続はコードの扱いがわずらわしいが、接続の確実性や、紛失や充電などの問題が無い、バッテリーを内蔵しないのでマウス自体が軽量という利点もあり広く使われている。
無線接続の場合はレシーバーをUSB端子に接続し、レシーバーとマウスを電波で通信するタイプが安価で主流である。[[Bluetooth]]接続の製品も、特にUSB端子の数やスペースの都合上[[ネットブック]]や[[タブレット端末]]向けに徐々に普及しつつある。無線マウスは電源として[[乾電池]]を必要とするか、[[二次電池|充電池]]を内蔵する。
=== ポーリングレート ===
ポーリングレートは高頻度化が進んでいる。PS/2接続のマウスにおいては<!--Windows 95/98の時代に-->40Hzが標準であり<ref>Rafael A. Ballagas 『Bringing Iterative Design to Ubiquitous Computing: Interaction Techniques, Toolkits, and Evaluation Methods』 p.107 Cuvillier 2008年 ISBN 978-3867275316</ref>、PS2Rateなどのソフトウェアを使うことで200Hzまで上げることが可能であった<ref>Loyd Case『Building the Ultimate Game PC』 Que 2000年</ref>。USB接続のマウスにおいては元々125Hzが多かったものの、240Hzのゲーミングモニターの普及と共に500Hzや1000Hzのゲーミングマウスも普及していき、更には4000Hzや8000Hz([[Razer]] Viper 8KHz<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/column/todays_goods/1407383.html ポーリングレート8000Hzはロマン。ゲーミングマウス「Razer Viper 8KHz」] Impress 2022年5月11日</ref>など)のゲーミングマウスまで登場するようになった。<!--TODO: USBのxHCI Interrupt Moderation (IMOD)の壁?-->
== 歴史 ==
{{節スタブ}}
[[ファイル:SRI Computer Mouse.jpg|thumb|right|世界初のマウス試作品(1963年)。エンゲルバートのスケッチを元に[[ビル・イングリッシュ (コンピュータ技術者)|ビル・イングリッシュ]]が設計した。<ref>{{Cite news |url= http://www.macworld.com/article/137400/2008/12/mouse40.html |title=The computer mouse turns 40 |first=Benj |last=Edwards |publisher=Macworld |date=2008-12-09 |accessdate=2009-04-16}}</ref>]]
[[ダグラス・エンゲルバート]]が1960年代に開発し、1968年12月9日に、「[[すべてのデモの母]]」として知られるデモを実施した[[NLS|oN-Line System]] (NLS) で開発されたものが現在のマウスの始祖とされている。12月9日は「IT25・50」シンポジウム実行委員会によって、『マウスの誕生日』として記念日に制定されている。
マウスの特許は、雇用主の[[SRIインターナショナル|SRI]]が保有していたため、エンゲルバートはロイヤルティを受け取ることはなかった。この特許は、マウスがパーソナルコンピュータで広く使用されるようになる前に失効している<ref>{{cite news |author-first=Shiels |author-last=Maggie |title=Say goodbye to the computer mouse |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/7508842.stm |work=[[BBC News]] |date=2008-07-17 |access-date=2008-07-17}}</ref>。マウスの発明は、人間の知性を増強するというエンゲルバートのはるかに大きなプロジェクトのほんの一部にすぎなかった<ref>{{citation |title=Evolving Collective Intelligence |author-last1=Engelbart |author-first1=Douglas C. |author-link1=Douglas C. Engelbart |author-last2=Landau |author-last3=Clegg}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.smithsonianmag.com/video/smithsonian-channel/The-Demo-That-Changed-the-World.html |title=The Demo That Changed the World |publisher=Smithsonian Magazine |access-date=2013-01-03 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20121228005323/http://www.smithsonianmag.com/video/smithsonian-channel/The-Demo-That-Changed-the-World.html |archive-date=2012-12-28}}</ref>。
エンゲルバートによる原形はX軸とY軸それぞれの円板が床と接触するもので、1970年代にはボール式マウスが開発された。類似した装置としては[[トラックボール]]が同様に1960年代には存在している。
50年後、カリフォルニア州マウンテンビュー市にある[[コンピュータ歴史博物館]]で開催されたエンゲルバートの栄光を称えるシンポジウムにて、エンゲルバートの娘クリスティーナが「彼は、我々の時代が持つ唯一最大の実存的な課題は、問題をまとめて解決する能力の曲線を引き上げることだと考えた」と発言している{{sfn |Spectrum56-2 |2019 |p=6}}。
==単位==
マウスの移動距離の単位に'''ミッキー''' (mickey) がある。ミッキーの定義は、「1ミッキー=マウスの1/100[[インチ]](0.254[[ミリメートル]])分移動させた距離」であり、名前の由来は、[[ミッキーマウス]]からであるという説がある<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=N88-日本語BASIC(86)(Ver6.2) ユーザーズマニュアル|year=1991|publisher=[[日本電気]]|page=192}}</ref><ref>{{Cite book|和書|url=http://arch.casio.jp/exword/products/model/dic3/Pcode=XD-K7300.html|title=ミッキー|publisher=[[カシオ計算機]](電子辞書XD-K7300)|author=現代カタカナ辞典(旺文社)|date=2022年12月}}</ref>。
マウスの移動距離と[[カーソル|マウスカーソル]]の移動距離の比を、'''ミッキー比'''といい、これは、[[グラフィカルユーザインタフェース|グラフィカルユーザインタフェース (GUI)]] の操作におけるマウスの感度の指標となる<ref>{{Cite conference2|author=Sigeru Sato, Muneo Kitajima, Yukio Fukui|url=https://uist.hosting.acm.org/archive/adjunct/2002/pdf/demos/p53-sato.pdf |title=A Mouse with Realtime Adaptive Mickey Ratio Adjustment by Grasping Force |conference=The 15th annual ACM Symposium on User Interface Software and Technology|year=2022|booktitle=UIST '02 - Adjunct Proceedings of the 15th annual ACM Symposium on User Interface Software and Technology|conference-url=https://uist.acm.org/uist2002/index.html|pages=53-54|access-date=2022-12-30}}</ref>。以前はミッキー比として、'''ミッキー/ドット比'''(マウス1ミッキーの移動に対しカーソルが何[[画面解像度|ドット]]移動するか)が使われていたが<ref name=":0" />、現在は、'''DPI'''(マウス1インチの移動に対しカーソルが何ドット移動するか)が広く使われている<ref>{{Cite web|和書|title=Microsoft アダプティブ マウスの DPI を調整する - Microsoft サポート |url=https://support.microsoft.com/ja-jp/surface/microsoft-%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96-%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AE-dpi-%E3%82%92%E8%AA%BF%E6%95%B4%E3%81%99%E3%82%8B-d2aa1b0a-0488-493e-96e0-407d4d0d2774 |website=support.microsoft.com |access-date=2022-12-23}}</ref>。
== 主なメーカー ==
* [[マイクロソフト]]
* [[ペリックス]]:エルゴノミクス製品を中心に製造するドイツ企業
* ロジテック(日本では同名企業が存在するため[[ロジクール]]ブランドで展開)
* [[Apple]]
* [[エレコム]](日本では業界トップシェア)
* [[サンワサプライ]]
* [[ナカバヤシ]](Digio2ブランド)
* [[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]
* [[Razer]]
* [[SteelSeries]]
* {{仮リンク|A4Tech|en|A4Tech}}
* [[GIGABYTE]]
過去に製造、販売していた企業
* [[バッファローコクヨサプライ]](旧アーベル)
* [[ロアス]]
* [[コクヨ]]
== 類似・代替デバイスとの関係 ==
=== トラックボール ===
{{see|トラックボール}}
=== ノートパソコン内蔵ポインティングデバイス ===
{{main|タッチパッド|ポインティング・スティック}}
[[ノートパソコン]]には[[タッチパッド]]や[[ポインティング・スティック]]といったマウスを代替可能なデバイスがキーボードの付近に内蔵されている。慣れが必要でマウスほど快適な操作ができない場合が多いため、別途マウスを接続するユーザーは多い。標準でマウスが同梱されていることもある。ノートPCと一緒に持ち運ぶための小型・軽量マウスがモバイルマウスなどの名称で販売されている。
=== キーボード ===
{{main|キーボード (コンピュータ)|マウスキー}}
[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]は最も一般的な入力[[ユーザーインタフェース]]だが、[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]やOSには多くの[[キーボードショートカット]]が用いられ、マウスに手を伸ばさなくてもキーボードだけで作業が完結できる場合もある。またカーソルキーでマウスポインタを動かせたり、マウスボタン入力を矢印キーで再現できる[[ユーティリティソフトウェア]]も存在する。
=== ペンタブレット ===
{{main|ペンタブレット|スタイラス}}
製図・イラストなど精細な再現性が必要な作業に使用される。専門的なデバイスとみなされ、マウスほど大量には普及していない。
=== タッチパネル ===
{{main|タッチパネル}}
2010年前後に急速な普及を始めた[[スマートフォン]]や[[タブレット (コンピュータ)|タブレット型コンピュータ]]等では、[[タッチパネル]]により画面を直接タッチ操作するのが事実上の標準となった。
タッチパネルはマウスより直感性に優れた操作が可能である一方細かい操作は不得意であるため、タッチ対応ディスプレイを備えたパソコンでは、タッチとマウスのどちらでも操作が可能である。Windowsは次第にタッチ操作への対応を進め、特に[[Microsoft Windows 8|Windows 8]]ではタッチ操作に最適化した[[Modern UI]]を搭載したが、タッチパネルとマウスのUIの統合には無理が生じ、[[Windows 8.1]]ではオーソドックスなスタートメニューが復活している。
マウスにタッチパネルライクな操作性を融合する試みもある。Appleの[[Magic Mouse]]や、それに類似したマイクロソフトのTOUCH MOUSE<ref>{{cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/464753.html|title=日本マイクロソフト、タッチでジェスチャー操作可能な無線マウス|publisher=PC Watch|date=2011-08-02|accessdate=2012-07-20}}</ref>、ロジクールのタッチマウス M600<ref>{{cite news|url=https://japan.cnet.com/article/35016069/|title=タッチセンサを搭載した「ロジクール タッチマウス」--スマホのような操作感に|publisher=CNET Japan|date=2012-04-10|accessdate=2012-07-20}}</ref>などの製品では、ボタンやホイールを排除して表面にタッチセンサーを搭載し、クリックなどのボタンの操作をエミュレートするだけでなく、スワイプなどのタッチ操作独特のジェスチャーも利用可能である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{Refbegin}}
* {{ cite journal
|first=TEKLA
|last=S.PERRY
|year=2019
|month=Feb
|title=WHAT WOULD DOUG ENGELBART DO ?
|journal=IEEE Spectrum
|volume=56
|issue=2
|ref={{sfnref |Spectrum56-2 |2019}} }}
* {{Cite book|和書
| author= bit 編集部
|title= bit 単語帳
| year=1990
| date=1990-8-15
|publisher=[[共立出版]]|isbn =4-320-02526-1
|ref={{Sfnref |BitTangoCho |1990}} }}
{{Refend}}
== 関連項目 ==
* [[クリック (マウス)]]
* [[ドラッグ・アンド・ドロップ]]
* [[マウスキー]]
* [[マウスパッド]]
* [[マウスジェスチャー]]
* [[トラックボール]]
* [[ポインティング・スティック]]
* [[ペンタブレット]]
* [[コンピュータアクセシビリティ]]
* [[タッチパッド]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Computer mouse|Computer mice|マウス}}
* [http://www.npanet.org/public/interviews/careers_interview_84.cfm NPA CarrersによるChris Petersに対するインタビュー]{{En icon}}
* [http://sloan.stanford.edu/mousesite/1968Demo.html Doug Engelbart 1968 Demo]{{En icon}}
{{Basic computer components}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まうす}}
[[Category:マウス (コンピュータ)|*]]
[[Category:ポインティングデバイス]]
[[Category:ダグラス・エンゲルバート]] | 2003-03-07T14:24:51Z | 2023-10-31T00:15:53Z | false | false | false | [
"Template:Normdaten",
"Template:Lang-en-short",
"Template:See",
"Template:Reflist",
"Template:Cite conference2",
"Template:Basic computer components",
"Template:Cite news",
"Template:Citation",
"Template:Cite web",
"Template:Sfn",
"Template:See also",
"Template:Main",
"Template:仮リンク",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Refbegin",
"Template:Cite journal",
"Template:Otheruses",
"Template:出典の明記",
"Template:節スタブ",
"Template:Cite book",
"Template:Commons&cat",
"Template:Refend",
"Template:En icon"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%82%B9_(%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF) |
3,634 | ヌーペディア | ヌーペディア(Nupedia)は、ウィキペディアの前身となったウェブ上のインターネット百科事典プロジェクト。無料の閲覧、ボランティアの専門家による執筆と査読、フリーコンテントライセンスによる記事の公開という特徴を持っていた。2000年3月にジミー・ウェールズが創設し、ボミスが出資、ラリー・サンガーが編集主幹を務める体制で始まり、2003年9月に休止した。
ヌーペディアという名称は、百科事典を意味する「エンサイクロペディア(Encyclopedia)」と、リチャード・ストールマンにより始められたフリーソフトウェアプロジェクトの「グヌー(GNU)」という2つの単語に由来する。
2008年にCNET UKによる「ドットコムバブルの中で生まれては消えていったサイトの中から選ばれた、偉大な今は亡きサイト」の1つに、ヌーペディアも選ばれている。
1990年後半、自身の会社であるボミスで働いていたジミー・ウェールズは、インターネットにアクセスすれば誰でも読むことができる百科事典の構想を抱いていた。ウェールズは幼少のころに、親から買い与えられたワールドブック百科事典を夢中になって読みふけり、百科事典に親しんでいた。一方、後の大学院在籍中にリチャード・ストールマンのGNUの思想を知り、その考え方に強く共感するようになる。1996年に創業されたボミスは、2000年を迎える前にはある程度操業が安定するようになり、新しいプロジェクトを始める余裕を持ち始めた。1999年の秋ごろから、ウェールズはボランティアで作るインターネット上の百科事典について考え出した。
後にヌーペディアの編集主幹となるラリー・サンガーは、大学の博士課程に在籍していた。その一方で、当時高まっていた2000年問題への関心や不安に応えるために、2000年問題に関するニュースを整理して報告するサイトを運営していた。しかし2000年になっても不安視されていたような大きな問題は起こらなかったため、サンガーはすべきことを失い、新たに取り組むことを模索し出す。
2000年明けのすぐにサンガーは登録していたメーリングリストのグループに、新たに立ち上げるブログのプロジェクトに参加を呼び掛けるメールを送った。サンガーは哲学を専攻しており、ウェールズも客観主義とよばれる哲学に興味を持ち造詣が深かった。ウェールズもサンガーが送ったメールのグループに含まれていた。メールを受け取ったウェールズはサンガーに、自身が持っていたインターネット百科事典のアイデアを説明し、そのリーダーになってくれないかと逆に提案する。「ジミーから返信があったときはびっくりした。彼は、プロジェクトを率いる哲学者を探していたようだ」と、サンガーは回想している。
ウェールズの提案を承諾したサンガーは、2000年2月にサンディエゴへ移住し、ボミスで働きだした。仕事を開始したサンガーは、ウェールズと協議しながら、新しいインターネット百科事典の運営方針や執筆者の確保に勤む。翌月の3月9日、ヌーペディアのサイトが公式に立ち上げられる。翌日の10日には『PC World』のサイト上でヌーペディア立ち上げが宣伝されて、執筆者の募集もなされた。
2000年3月11日、ウェールズは初期のヌーペディアのメーリングリストに、自分の思いを説明する次のようなメッセージを送っている。
ウェールズもサンガーも、GNUのような自由な配布・改変を許すライセンスでヌーペディアの記事を公開するつもりではいたが、記事の編集については、既存の百科事典同様に専門家による管理と査読が行われる厳格なプロセスを踏んで行うつもりでいた。2000年3月のサンガーの報告によると、参加者の25 - 40%(または35 - 56%)が博士号持ちで、その他も何らかの専門家であったという。公開までの過程には、後述のように7つの段階が定められ、これを終えた記事のみが公開された。この厳格で手間をかけた編集過程のため、1つの記事を公開されるのに数週間を要する結果となった。そして、2000年9月、ヌーペディアとしての記事が初めて完成、公開される。記事は音楽の「atonality(無調)」、ヨハネス・グーテンベルク大学の音楽学者クリストフ・フストが作成したものであった。編集方針ガイドラインも整備され、2000年11月までにヌーペディア編集方針ガイドライン3.31版まで作成された。
サイトは立ち上げられ、最初の記事は完成したが、ヌーペディアの厳しい参加資格の条件と厳格で複雑な編集プロセスにより、執筆者の数も記事の数も伸び悩むことになる。ウェールズ自身も「ロバート・マートン」と「オプション価格決定理論」の記事を書き、投稿しようとした。しかし書き始めると、自分の書いた記事が2名の金融経済学者から査読を受けることを思い出し、憂鬱な気分になった。「学界を何年も離れていたので、それは怖かった。宿題のように感じた。」と振り返っている。この出来事によってウェールズもヌーペディアで記事を書くことが楽しくないことを理解する。結局、最初の年で完成した記事は12個のみであった。2000年の終わりには、このような状態を打開するために、ウェールズとサンガーは解決策を話し合い、模索するようになる。
その後、この状況を解決する1つの策として、ウィキを導入したプロジェクト、すなわちウィキペディアが開始される。ただしウィキ導入の着想の経緯については、現在ではサンガーとウェールズとで認識が異なっている。サンガーによると、コンピュータプログラマで旧友のベン・コヴィッツと行った会話に端を発すると述べている。2001年1月初め、ヌーペディアの生産性が悪いことに関してフラストレーションが増加していく中、1月2日、サンガーはカリフォルニア州サンディエゴのメキシコ料理店で友人のベン・コヴィッツと夕食をとっていた。ヌーペディアの問題をサンガーから聞かされたコヴィッツは、ウォード・カニンガムによって発明されたウィキの仕組みについて説明した。それを聞いたサンガーは、ウィキがよりオープンでシンプルな編集手順を持つ百科事典を作るプロジェクトに相応しいものと考えるに至った。サンガーはウェールズにウィキをヌーペディアに利用する案を持ちかけ、ウェールズからの好感触を得たサンガーは具体的なウィキの適用に動き出す。
初期のボミスのプレスリリースでも、ウィキ導入のアイデアはサンガーの提案とされていた。ウェールズも、後の2001年10月30日のウィキペディアメーリングリストメッセージにおいて、ウィキを使用するアイデアはサンガーが持っていたと述べている。しかしその後、ウィキのアイデアはヌーペディアを運営するボミスの社員であったジェレミー・ローゼンフェルドから聞いたとウェールズは述べており、現在ではそれぞれの認識が異なっている。
いずれの経緯にしろ、ウィキを導入した百科事典プロジェクトがボミス内で動き出した。2001年1月10日、サンガーはヌーペディアのメーリングリストに、ウィキ導入を説明する"Let's make a wiki"(ウィキを作ろう)と題したメッセージを送信した。悪くない反響を得たサンガーはnupedia.comのサブディレクトリとしてすぐにウィキページを作成する。しかし、ヌーペディアの専門家の投稿者たちはウィキのシステムに抵抗を見せ、結局、別の独自アドレスとして2001年1月15日にwikipedia.comが立ち上げられた。ヌーペディアとは対照的に、開始されたウィキペディアは急激な成長を始める。ウィキペディアは2月の終わりまでに150項目を達成し、2001年の終わりには記事数は約15,000項目にも上り、参加者は約350人に達した。
その後もウィキペディアは成長を遂げていくが、ヌーペディアは自然休眠状態に陥る。2001年以降に作られたヌーペディアの記事は2つのみであった。ウィキペディアの急成長はウェールズとサンガーを驚かせ、ウィキペディアがしっかり機能していくことを2人は理解すると、全面的にウィキペディアの運営に力を入れていくことになる。
サンガーによれば、閉鎖するまでの2002年または2003年ごろ、ヌーペディアを十分に支援できなくなってきたボミスの代わりに、大学などの組織に買い取ってもらい運営してもらうことや、サンガー自身が買い取ることをウェールズに提案したが、結局実現しなかった。また、ウィキペディアの完成・承認された記事をヌーペディアに収めていく案も議論された。これについてはウェールズも積極的だったが、結局実現しなかった。
2003年9月にヌーペディアのサーバーがクラッシュする。オフライン状態になったヌーペディアはそのまま復旧されることなく、その歴史を閉じた。ヌーペディアの記事の総数は、サンガーによれば2001年初冬までに査読プロセスを通過して完成した記事はおよそ25項目ほどで、下書き中の記事が150項目以上という状態であった。少ないながらも存在していた記事はウィキペディアの方へ吸収された。その後の歴史については、後身となったウィキペディアの歴史などを参照のこと。
ヌーペディアが上手く機能できなかったことの反省点として、サンガーは、複雑なシステムでも指示さえ明確にしていれば我慢強く利用してくれると思い込んでいたことを挙げている。ウェールズは、2007年のインタビューでヌーペディアが失敗した理由を尋ねられて、「なぜ失敗したかというと、参加するのが難しかった、そして面白くなかったのが理由だと思います 」と振り返っている。
ヌーペディアの記事の利用許諾ライセンスは、GNUのライセンスを基にしたヌーペディア・オープン・コンテント・ライセンス(Nupedia Open Content License)が作られ、採用されていた。このライセンスでは、ウィキペディアのように記事作成者ではなく、サイトに出資するボミスが著作権者となっていた。ただし、途中からGNUフリー・ドキュメンテーション・ライセンス(GNU Free Documentation License)に移行している。サイトのソフトウェアはNupeCodeという共同作業用のソフトウェアで動いていた。閲覧は無料で、広告を掲載することで収益を確保する予定だった。
記事の執筆や査読はボランティアによって行われた。ラリー・サンガーが編集主幹の役職を務め、彼のみがボミスに雇われる形で有給でヌーペディアの編集に携わっていた。博士号取得者、大学の教授、その他実績のある専門家を対象に参加者を募っていた。記事が公開されるまでに厳格な7段階の工程を経る必要がある。記事の作成から公開までのプロセスは次のようになっている。
執筆の方針やガイドラインを備えており、ウィキペディアの中核方針の1つである「中立的な観点」の原形も、この中にすでに存在していた。記事の難度は、予備知識の無い大学生が読んで理解できる程度のレベルを目標としていた。
完成した記事の一覧を投稿順で以下に示す。ヌーペディアが閉鎖する直前の2003年8月8日付のインターネットアーカイブより。
※特に、文献内の複数個所に亘って参照したものを示す。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ヌーペディア(Nupedia)は、ウィキペディアの前身となったウェブ上のインターネット百科事典プロジェクト。無料の閲覧、ボランティアの専門家による執筆と査読、フリーコンテントライセンスによる記事の公開という特徴を持っていた。2000年3月にジミー・ウェールズが創設し、ボミスが出資、ラリー・サンガーが編集主幹を務める体制で始まり、2003年9月に休止した。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "ヌーペディアという名称は、百科事典を意味する「エンサイクロペディア(Encyclopedia)」と、リチャード・ストールマンにより始められたフリーソフトウェアプロジェクトの「グヌー(GNU)」という2つの単語に由来する。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "2008年にCNET UKによる「ドットコムバブルの中で生まれては消えていったサイトの中から選ばれた、偉大な今は亡きサイト」の1つに、ヌーペディアも選ばれている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "1990年後半、自身の会社であるボミスで働いていたジミー・ウェールズは、インターネットにアクセスすれば誰でも読むことができる百科事典の構想を抱いていた。ウェールズは幼少のころに、親から買い与えられたワールドブック百科事典を夢中になって読みふけり、百科事典に親しんでいた。一方、後の大学院在籍中にリチャード・ストールマンのGNUの思想を知り、その考え方に強く共感するようになる。1996年に創業されたボミスは、2000年を迎える前にはある程度操業が安定するようになり、新しいプロジェクトを始める余裕を持ち始めた。1999年の秋ごろから、ウェールズはボランティアで作るインターネット上の百科事典について考え出した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "後にヌーペディアの編集主幹となるラリー・サンガーは、大学の博士課程に在籍していた。その一方で、当時高まっていた2000年問題への関心や不安に応えるために、2000年問題に関するニュースを整理して報告するサイトを運営していた。しかし2000年になっても不安視されていたような大きな問題は起こらなかったため、サンガーはすべきことを失い、新たに取り組むことを模索し出す。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "2000年明けのすぐにサンガーは登録していたメーリングリストのグループに、新たに立ち上げるブログのプロジェクトに参加を呼び掛けるメールを送った。サンガーは哲学を専攻しており、ウェールズも客観主義とよばれる哲学に興味を持ち造詣が深かった。ウェールズもサンガーが送ったメールのグループに含まれていた。メールを受け取ったウェールズはサンガーに、自身が持っていたインターネット百科事典のアイデアを説明し、そのリーダーになってくれないかと逆に提案する。「ジミーから返信があったときはびっくりした。彼は、プロジェクトを率いる哲学者を探していたようだ」と、サンガーは回想している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "ウェールズの提案を承諾したサンガーは、2000年2月にサンディエゴへ移住し、ボミスで働きだした。仕事を開始したサンガーは、ウェールズと協議しながら、新しいインターネット百科事典の運営方針や執筆者の確保に勤む。翌月の3月9日、ヌーペディアのサイトが公式に立ち上げられる。翌日の10日には『PC World』のサイト上でヌーペディア立ち上げが宣伝されて、執筆者の募集もなされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "2000年3月11日、ウェールズは初期のヌーペディアのメーリングリストに、自分の思いを説明する次のようなメッセージを送っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "ウェールズもサンガーも、GNUのような自由な配布・改変を許すライセンスでヌーペディアの記事を公開するつもりではいたが、記事の編集については、既存の百科事典同様に専門家による管理と査読が行われる厳格なプロセスを踏んで行うつもりでいた。2000年3月のサンガーの報告によると、参加者の25 - 40%(または35 - 56%)が博士号持ちで、その他も何らかの専門家であったという。公開までの過程には、後述のように7つの段階が定められ、これを終えた記事のみが公開された。この厳格で手間をかけた編集過程のため、1つの記事を公開されるのに数週間を要する結果となった。そして、2000年9月、ヌーペディアとしての記事が初めて完成、公開される。記事は音楽の「atonality(無調)」、ヨハネス・グーテンベルク大学の音楽学者クリストフ・フストが作成したものであった。編集方針ガイドラインも整備され、2000年11月までにヌーペディア編集方針ガイドライン3.31版まで作成された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "サイトは立ち上げられ、最初の記事は完成したが、ヌーペディアの厳しい参加資格の条件と厳格で複雑な編集プロセスにより、執筆者の数も記事の数も伸び悩むことになる。ウェールズ自身も「ロバート・マートン」と「オプション価格決定理論」の記事を書き、投稿しようとした。しかし書き始めると、自分の書いた記事が2名の金融経済学者から査読を受けることを思い出し、憂鬱な気分になった。「学界を何年も離れていたので、それは怖かった。宿題のように感じた。」と振り返っている。この出来事によってウェールズもヌーペディアで記事を書くことが楽しくないことを理解する。結局、最初の年で完成した記事は12個のみであった。2000年の終わりには、このような状態を打開するために、ウェールズとサンガーは解決策を話し合い、模索するようになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "その後、この状況を解決する1つの策として、ウィキを導入したプロジェクト、すなわちウィキペディアが開始される。ただしウィキ導入の着想の経緯については、現在ではサンガーとウェールズとで認識が異なっている。サンガーによると、コンピュータプログラマで旧友のベン・コヴィッツと行った会話に端を発すると述べている。2001年1月初め、ヌーペディアの生産性が悪いことに関してフラストレーションが増加していく中、1月2日、サンガーはカリフォルニア州サンディエゴのメキシコ料理店で友人のベン・コヴィッツと夕食をとっていた。ヌーペディアの問題をサンガーから聞かされたコヴィッツは、ウォード・カニンガムによって発明されたウィキの仕組みについて説明した。それを聞いたサンガーは、ウィキがよりオープンでシンプルな編集手順を持つ百科事典を作るプロジェクトに相応しいものと考えるに至った。サンガーはウェールズにウィキをヌーペディアに利用する案を持ちかけ、ウェールズからの好感触を得たサンガーは具体的なウィキの適用に動き出す。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "初期のボミスのプレスリリースでも、ウィキ導入のアイデアはサンガーの提案とされていた。ウェールズも、後の2001年10月30日のウィキペディアメーリングリストメッセージにおいて、ウィキを使用するアイデアはサンガーが持っていたと述べている。しかしその後、ウィキのアイデアはヌーペディアを運営するボミスの社員であったジェレミー・ローゼンフェルドから聞いたとウェールズは述べており、現在ではそれぞれの認識が異なっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "いずれの経緯にしろ、ウィキを導入した百科事典プロジェクトがボミス内で動き出した。2001年1月10日、サンガーはヌーペディアのメーリングリストに、ウィキ導入を説明する\"Let's make a wiki\"(ウィキを作ろう)と題したメッセージを送信した。悪くない反響を得たサンガーはnupedia.comのサブディレクトリとしてすぐにウィキページを作成する。しかし、ヌーペディアの専門家の投稿者たちはウィキのシステムに抵抗を見せ、結局、別の独自アドレスとして2001年1月15日にwikipedia.comが立ち上げられた。ヌーペディアとは対照的に、開始されたウィキペディアは急激な成長を始める。ウィキペディアは2月の終わりまでに150項目を達成し、2001年の終わりには記事数は約15,000項目にも上り、参加者は約350人に達した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "その後もウィキペディアは成長を遂げていくが、ヌーペディアは自然休眠状態に陥る。2001年以降に作られたヌーペディアの記事は2つのみであった。ウィキペディアの急成長はウェールズとサンガーを驚かせ、ウィキペディアがしっかり機能していくことを2人は理解すると、全面的にウィキペディアの運営に力を入れていくことになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "サンガーによれば、閉鎖するまでの2002年または2003年ごろ、ヌーペディアを十分に支援できなくなってきたボミスの代わりに、大学などの組織に買い取ってもらい運営してもらうことや、サンガー自身が買い取ることをウェールズに提案したが、結局実現しなかった。また、ウィキペディアの完成・承認された記事をヌーペディアに収めていく案も議論された。これについてはウェールズも積極的だったが、結局実現しなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2003年9月にヌーペディアのサーバーがクラッシュする。オフライン状態になったヌーペディアはそのまま復旧されることなく、その歴史を閉じた。ヌーペディアの記事の総数は、サンガーによれば2001年初冬までに査読プロセスを通過して完成した記事はおよそ25項目ほどで、下書き中の記事が150項目以上という状態であった。少ないながらも存在していた記事はウィキペディアの方へ吸収された。その後の歴史については、後身となったウィキペディアの歴史などを参照のこと。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ヌーペディアが上手く機能できなかったことの反省点として、サンガーは、複雑なシステムでも指示さえ明確にしていれば我慢強く利用してくれると思い込んでいたことを挙げている。ウェールズは、2007年のインタビューでヌーペディアが失敗した理由を尋ねられて、「なぜ失敗したかというと、参加するのが難しかった、そして面白くなかったのが理由だと思います 」と振り返っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ヌーペディアの記事の利用許諾ライセンスは、GNUのライセンスを基にしたヌーペディア・オープン・コンテント・ライセンス(Nupedia Open Content License)が作られ、採用されていた。このライセンスでは、ウィキペディアのように記事作成者ではなく、サイトに出資するボミスが著作権者となっていた。ただし、途中からGNUフリー・ドキュメンテーション・ライセンス(GNU Free Documentation License)に移行している。サイトのソフトウェアはNupeCodeという共同作業用のソフトウェアで動いていた。閲覧は無料で、広告を掲載することで収益を確保する予定だった。",
"title": "仕組みと編集方針"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "記事の執筆や査読はボランティアによって行われた。ラリー・サンガーが編集主幹の役職を務め、彼のみがボミスに雇われる形で有給でヌーペディアの編集に携わっていた。博士号取得者、大学の教授、その他実績のある専門家を対象に参加者を募っていた。記事が公開されるまでに厳格な7段階の工程を経る必要がある。記事の作成から公開までのプロセスは次のようになっている。",
"title": "仕組みと編集方針"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "執筆の方針やガイドラインを備えており、ウィキペディアの中核方針の1つである「中立的な観点」の原形も、この中にすでに存在していた。記事の難度は、予備知識の無い大学生が読んで理解できる程度のレベルを目標としていた。",
"title": "仕組みと編集方針"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "完成した記事の一覧を投稿順で以下に示す。ヌーペディアが閉鎖する直前の2003年8月8日付のインターネットアーカイブより。",
"title": "完成した記事"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "※特に、文献内の複数個所に亘って参照したものを示す。",
"title": "参照文献"
}
] | ヌーペディア(Nupedia)は、ウィキペディアの前身となったウェブ上のインターネット百科事典プロジェクト。無料の閲覧、ボランティアの専門家による執筆と査読、フリーコンテントライセンスによる記事の公開という特徴を持っていた。2000年3月にジミー・ウェールズが創設し、ボミスが出資、ラリー・サンガーが編集主幹を務める体制で始まり、2003年9月に休止した。 ヌーペディアという名称は、百科事典を意味する「エンサイクロペディア(Encyclopedia)」と、リチャード・ストールマンにより始められたフリーソフトウェアプロジェクトの「グヌー(GNU)」という2つの単語に由来する。 2008年にCNET UKによる「ドットコムバブルの中で生まれては消えていったサイトの中から選ばれた、偉大な今は亡きサイト」の1つに、ヌーペディアも選ばれている。 | {{Infobox オンライン情報源
| サイト名=Nupedia
| 画像=[[ファイル:Nupedia.svg|220px|Nupediaのロゴ]]
| URL=<nowiki>http://www.nupedia.com/</nowiki>([https://web.archive.org/web/20010118225800/http://www.nupedia.com/ アーカイブ])
| タイプ=[[オンライン百科事典]]
| 分野=学術分野全般
| 使用言語=英語
| 項目数=27本(査読済み、2003年8月8日時の数)<ref name="NUPEDIA_2003-08-08"/>
| 閲覧=無料
| 登録=
| 著作権=初期:Nupedia Open Content License、途中から:[[GFDL]]
| 運営=
| 資金=[[ボミス]]が出資
| 営利性=広告を掲載、収益を上げる予定だった{{Sfn|メイヤー|2013|p=42}}。
| 設立=2000年3月設立{{Sfn|Reagle|2010|p=43}}
| 設立者=[[ジミー・ウェールズ]]<ref name="Wired"/>
| 現代表=
| 執筆者=[[ボランティア]]の専門家、[[博士号]]取得者
| 編集委員=[[ラリー・サンガー]](編集主幹)、他
| 査読=あり
| 現状=閉鎖(2003年9月休止)<ref name="Wired"/>
}}
'''ヌーペディア'''(Nupedia)は、[[ウィキペディア]]の前身となった[[World Wide Web|ウェブ]]上の[[インターネット百科事典]]プロジェクト。無料の閲覧、[[ボランティア]]の専門家による執筆と査読、[[フリーコンテント]]ライセンスによる記事の公開という特徴を持っていた。[[2000年]]3月に[[ジミー・ウェールズ]]が創設し、[[Bomis|ボミス]]が出資、[[ラリー・サンガー]]が編集主幹を務める体制で始まり、[[2003年]]9月に休止した<ref name="Wired"/>。
ヌーペディアという名称は、[[百科事典]]を意味する「エンサイクロペディア(Encyclopedia)」と、[[リチャード・ストールマン]]により始められた[[フリーソフトウェア]]プロジェクトの「グヌー([[GNU]])」という2つの単語に由来する{{Sfn|メイヤー|2013|p=37}}。
2008年に[[CNET|CNET UK]]による「[[ドットコムバブル]]の中で生まれては消えていったサイトの中から選ばれた、偉大な今は亡きサイト」の1つに、ヌーペディアも選ばれている<ref>{{cite web |author=Nate Lanxon |title=The greatest defunct Web sites and dotcom disasters |url=http://www.cnet.com/uk/news/the-greatest-defunct-web-sites-and-dotcom-disasters/5/ |work=CNET UK |publisher=CBS Interactive |date=2008-06-05 |accessdate =2015-07-21}}</ref>。
== 歴史 ==
===ヌーペディアの立ち上げまで===
[[File:Bomis-staff-summer-2000.jpg|thumb|2000年夏の暮れごろのボミスのスタッフたち。立っている左から三番目の人物がジミー・ウェールズ。着座している右側の人物がラリー・サンガー。]]
1990年後半、自身の会社である[[ボミス]]で働いていた[[ジミー・ウェールズ]]は、[[インターネット]]にアクセスすれば誰でも読むことができる[[百科事典]]の構想を抱いていた{{Sfn|メイヤー|2013|p=36}}。ウェールズは幼少のころに、親から買い与えられた[[ワールドブック百科事典]]を夢中になって読みふけり、百科事典に親しんでいた{{Sfn|メイヤー|2013|p=11}}。一方、後の大学院在籍中に[[リチャード・ストールマン]]の[[GNU]]の思想を知り、その考え方に強く共感するようになる{{Sfn|リー|2009|p=72}}。1996年に創業されたボミスは<ref name="Hive"/>、2000年を迎える前にはある程度操業が安定するようになり、新しいプロジェクトを始める余裕を持ち始めた{{Sfn|リー|2009|p=74}}。1999年の秋ごろから、ウェールズはボランティアで作るインターネット上の百科事典について考え出した<ref name="Hive"/>。
後にヌーペディアの編集主幹となる[[ラリー・サンガー]]は、大学の博士課程に在籍していた{{Sfn|メイヤー|2013|p=40}}。その一方で、当時高まっていた[[2000年問題]]への関心や不安に応えるために、2000年問題に関するニュースを整理して報告するサイトを運営していた{{Sfn|リー|2009|p=76}}。しかし2000年になっても不安視されていたような大きな問題は起こらなかったため、サンガーはすべきことを失い、新たに取り組むことを模索し出す{{Sfn|メイヤー|2013|p=42}}。
2000年明けのすぐにサンガーは登録していた[[メーリングリスト]]のグループに、新たに立ち上げる[[ブログ]]のプロジェクトに参加を呼び掛けるメールを送った{{Sfn|メイヤー|2013|p=42}}。サンガーは哲学を専攻しており、ウェールズも客観主義とよばれる哲学に興味を持ち造詣が深かった{{Sfn|リー|2009|pp=75-76}}。ウェールズもサンガーが送ったメールのグループに含まれていた{{Sfn|メイヤー|2013|p=42}}。メールを受け取ったウェールズはサンガーに、自身が持っていたインターネット百科事典のアイデアを説明し、そのリーダーになってくれないかと逆に提案する{{Sfn|Reagle|2010|p=35}}。「ジミーから返信があったときはびっくりした。彼は、プロジェクトを率いる哲学者を探していたようだ」{{Sfn|リー|2009|p=77より引用}}と、サンガーは回想している。
ウェールズの提案を承諾したサンガーは、2000年2月に[[サンディエゴ]]へ移住し、ボミスで働きだした{{Sfn|Reagle|2010|p=35}}。仕事を開始したサンガーは、ウェールズと協議しながら、新しいインターネット百科事典の運営方針や執筆者の確保に勤む{{Sfn|リー|2009|pp=82-84}}。翌月の3月9日、ヌーペディアのサイトが公式に立ち上げられる{{Sfn|Reagle|2010|p=43}}{{Sfn|Reagle|2010|p=35}}。翌日の10日には『PC World』のサイト上でヌーペディア立ち上げが宣伝されて、執筆者の募集もなされた{{Sfn|Reagle|2010|p=36}}。
{{cquote|サイト管理者はあらゆる分野において専門知識を持つ寄稿者と編集者を探しています。寄稿者には多様な記事を提供してもらいます。記事は一般の人にも企業にも無料で公開されます。誰でもヌーペディアの記事を読むことができますし、他のウェブサイトにヌーペディアの記事を載せることすら可能です。そのときは、単にヌーペディアを出典としてクレジットすればいいだけです。|||Liane Gouthro, “Building the World’s Biggest Encyclopedia,” PC World (March 10, 2000)|{{Sfn|Reagle|2010|p=36より翻訳引用}}}}
2000年3月11日、ウェールズは初期のヌーペディアの[[メーリングリスト]]に、自分の思いを説明する次のようなメッセージを送っている{{Sfn|Reagle|2010|p=17}}。
{{cquote|いつの日か、世界中で、この百科事典が印刷費用程度で学校で利用されるようになるのが私の夢です。それには、普及したインターネットを利用できる余裕がまだまだ無いであろう、[[第三世界]]と呼ばれる国々も含まれます。何人のアフリカの村人が[[ブリタニカ百科事典]]一式を持つ余裕があるでしょうか? 多くはないだろうと私は思います。|||Jimmy Wales, “Hi...,” nupedia-l, March 11, 2000 |{{Sfn|Reagle|2010|p=17より翻訳引用}}}}
ウェールズもサンガーも、[[GNU]]のような自由な配布・改変を許す[[ライセンス]]でヌーペディアの記事を公開するつもりではいたが、記事の編集については、既存の百科事典同様に専門家による管理と査読が行われる厳格なプロセスを踏んで行うつもりでいた{{Sfn|リー|2009|p=84}}。2000年3月のサンガーの報告によると、参加者の25 - 40%(または35 - 56%)が博士号持ちで、その他も何らかの専門家であったという{{Sfn|Reagle|2010|p=36}}。公開までの過程には、後述のように7つの段階が定められ、これを終えた記事のみが公開された{{Sfn|メイヤー|2013|p=44}}。この厳格で手間をかけた編集過程のため、1つの記事を公開されるのに数週間を要する結果となった{{Sfn|メイヤー|2013|p=44}}。そして、2000年9月、ヌーペディアとしての記事が初めて完成、公開される。記事は音楽の「atonality([[無調]])」、[[ヨハネス・グーテンベルク大学マインツ|ヨハネス・グーテンベルク大学]]の音楽学者クリストフ・フストが作成したものであった{{Sfn|リー|2009|pp= 90–91}}。編集方針ガイドラインも整備され、2000年11月までにヌーペディア編集方針ガイドライン3.31版まで作成された{{Sfn|Reagle|2010|p=36}}。
===ウィキの導入とウィキペディアの立ち上げまで===
[[File:Nupedia, the open content encyclopedia 2000-08-15.png|thumb|ヌーペディアのトップページ<br />(2000年8月15日)]]
サイトは立ち上げられ、最初の記事は完成したが、ヌーペディアの厳しい参加資格の条件と厳格で複雑な編集プロセスにより、執筆者の数も記事の数も伸び悩むことになる{{Sfn|メイヤー|2013|p=46}}{{Sfn|リー|2009|p=93}}。ウェールズ自身も「[[ロバート・マートン]]」と「オプション価格決定理論」の記事を書き、投稿しようとした<ref name="THE_NEW_YORKER">{{Cite web |author=Stacy Schiff |date=2006-07-31 |url=http://www.newyorker.com/magazine/2006/07/31/know-it-all |title=Know It All: Can Wikipedia conquer expertise? |work=THE NEW YORKER |publisher=Condé Nas |accessdate=2015-07-25}}</ref>。しかし書き始めると、自分の書いた記事が2名の金融経済学者から査読を受けることを思い出し、憂鬱な気分になった<ref name="THE_NEW_YORKER"/>。「学界を何年も離れていたので、それは怖かった。宿題のように感じた。」<ref>{{Cite web |author=Stacy Schiff |date=2006-07-31 |url=http://www.newyorker.com/magazine/2006/07/31/know-it-all |title=Know It All: Can Wikipedia conquer expertise? |work=THE NEW YORKER |publisher=Condé Nas |accessdate=2015-07-25}}より翻訳引用</ref>と振り返っている。この出来事によってウェールズもヌーペディアで記事を書くことが楽しくないことを理解する{{Sfn|メイヤー|2013|p=46}}。結局、最初の年で完成した記事は12個のみであった{{Sfn|リー|2009|p=92}}。2000年の終わりには、このような状態を打開するために、ウェールズとサンガーは解決策を話し合い、模索するようになる{{Sfn|メイヤー|2013|p=46}}。
その後、この状況を解決する1つの策として、[[ウィキ]]を導入したプロジェクト、すなわち[[ウィキペディア]]が開始される。ただしウィキ導入の着想の経緯については、現在ではサンガーとウェールズとで認識が異なっている。サンガーによると、コンピュータプログラマで旧友のベン・コヴィッツと行った会話に端を発すると述べている{{Sfn|Sanger|2005a|loc=Section:The origins of Wikipedia}}<ref name="Epoch_Times"/>。2001年1月初め、ヌーペディアの生産性が悪いことに関してフラストレーションが増加していく中、1月2日、サンガーは[[カリフォルニア州]][[サンディエゴ]]のメキシコ料理店で友人のベン・コヴィッツと夕食をとっていた{{Sfn|Reagle|2010|p=39}}。ヌーペディアの問題をサンガーから聞かされたコヴィッツは、[[ウォード・カニンガム]]によって発明されたウィキの仕組みについて説明した<ref name="Epoch_Times"/>。それを聞いたサンガーは、ウィキがよりオープンでシンプルな編集手順を持つ百科事典を作るプロジェクトに相応しいものと考えるに至った{{Sfn|Sanger|2005a|loc=Section:The origins of Wikipedia}}。サンガーはウェールズにウィキをヌーペディアに利用する案を持ちかけ、ウェールズからの好感触を得たサンガーは具体的なウィキの適用に動き出す{{Sfn|リー|2009|p=98}}。
初期のボミスのプレスリリースでも、ウィキ導入のアイデアはサンガーの提案とされていた{{Sfn|リー|2009|p=98}}。ウェールズも、後の2001年10月30日のウィキペディアメーリングリストメッセージにおいて、ウィキを使用するアイデアはサンガーが持っていたと述べている<ref>{{cite mailing list |df=ja |url=https://lists.wikimedia.org/pipermail/wikipedia-l/2001-October/000671.html |title=LinkBacks? |date=2001-10-30<!-- Tue Oct 30 22:02:03 UTC 2001 -->|accessdate=2015-07-22 |mailinglist=Wikipedia-l |author=Jimmy Wales}}</ref>。しかしその後、ウィキのアイデアはヌーペディアを運営するボミスの社員であったジェレミー・ローゼンフェルドから聞いたとウェールズは述べており、現在ではそれぞれの認識が異なっている<ref name="Epoch_Times">{{Cite web |author=Petr Svab |date=2015-03-04 |url=http://www.theepochtimes.com/n3/1271012-who-founded-wikipedia-these-two-need-to-get-their-story-straight/ |title=Who Founded Wikipedia? These Two Need to Get Their Story Straight |work=Epoch Times |publisher=The Epoch Times International |accessdate=2015-07-22}}</ref>。
いずれの経緯にしろ、ウィキを導入した百科事典プロジェクトがボミス内で動き出した。2001年1月10日、サンガーはヌーペディアのメーリングリストに、ウィキ導入を説明する"Let's make a wiki"(ウィキを作ろう)と題したメッセージを送信した{{Sfn|Reagle|2010|p=39}}。悪くない反響を得たサンガーはnupedia.comのサブディレクトリとしてすぐにウィキページを作成する{{Sfn|リー|2009|p=135}}。しかし、ヌーペディアの専門家の投稿者たちはウィキのシステムに抵抗を見せ、結局、別の独自アドレスとして[[2001年]][[1月15日]]にwikipedia.comが立ち上げられた{{Sfn|Reagle|2010|p=6}}<ref name="Hive"/>。ヌーペディアとは対照的に、開始されたウィキペディアは急激な成長を始める{{Sfn|Reagle|2010|p=40}}。ウィキペディアは2月の終わりまでに150項目を達成し、2001年の終わりには記事数は約15,000項目にも上り、参加者は約350人に達した<ref name="Hive">{{Cite web |year=2006 |month=September |url=http://www.theatlantic.com/magazine/archive/2006/09/the-hive/305118/?single_page=true |author=Marshall Poe |title=The Hive |work=The Atlantic |publisher=The Atlantic Monthly Group |accessdate=2015-07-22}}</ref>。
===ヌーペディアの閉鎖とその後===
その後もウィキペディアは成長を遂げていくが、ヌーペディアは自然休眠状態に陥る。2001年以降に作られたヌーペディアの記事は2つのみであった{{Sfn|メイヤー|2013|p=52}}。ウィキペディアの急成長はウェールズとサンガーを驚かせ、ウィキペディアがしっかり機能していくことを2人は理解すると、全面的にウィキペディアの運営に力を入れていくことになる{{Sfn|Reagle|2010|p=40}}{{Sfn|メイヤー|2013|p=52}}<ref name="Hive"/>。
サンガーによれば、閉鎖するまでの2002年または2003年ごろ、ヌーペディアを十分に支援できなくなってきたボミスの代わりに、大学などの組織に買い取ってもらい運営してもらうことや、サンガー自身が買い取ることをウェールズに提案したが、結局実現しなかった{{Sfn|Sanger|2005b|loc=Section:Some final attempts to save Nupedia}}。また、ウィキペディアの完成・承認された記事をヌーペディアに収めていく案も議論された{{Sfn|Sanger|2005b|loc=Section:My resignation and final few months with the project}}。これについてはウェールズも積極的だったが、結局実現しなかった{{Sfn|Sanger|2005b|loc=Section:My resignation and final few months with the project}}。
2003年9月にヌーペディアのサーバーが[[クラッシュ]]する<ref name="Wired"/>。オフライン状態になったヌーペディアはそのまま復旧されることなく、その歴史を閉じた<ref name="Wired">{{Cite web |author=Duncan Geere |date=2011-01-11 |url=http://www.wired.co.uk/news/archive/2011-01/11/wikipedia-timeline |title=Timeline: Wikipedia's history and milestones |work=Wired.co.uk |publisher=Conde Nast Publications |accessdate=2015-07-21}}</ref>。ヌーペディアの記事の総数は、サンガーによれば2001年初冬までに査読プロセスを通過して完成した記事はおよそ25項目ほどで、下書き中の記事が150項目以上という状態であった{{Sfn|Sanger|2005a|loc=Nupedia}}。少ないながらも存在していた記事はウィキペディアの方へ吸収された{{Sfn|メイヤー|2013|p=54}}。その後の歴史については、後身となった[[ウィキペディアの歴史]]などを参照のこと。
ヌーペディアが上手く機能できなかったことの反省点として、サンガーは、複雑なシステムでも指示さえ明確にしていれば我慢強く利用してくれると思い込んでいたことを挙げている{{Sfn|リー|2009|p=93}}。ウェールズは、2007年のインタビューでヌーペディアが失敗した理由を尋ねられて、「なぜ失敗したかというと、参加するのが難しかった、そして面白くなかったのが理由だと思います 」<ref>{{Cite web|和書|author=武部健一 |title=インタビュー 「小さい頃,百科事典を全部読んだ」 |url=https://xtech.nikkei.com/it/article/Interview/20070320/265824/ |work=ITpro |publisher=日経BP |date=2007-03-22 |accessdate =2015-07-25}}より引用</ref>と振り返っている。
==仕組みと編集方針==
ヌーペディアの記事の利用許諾[[ライセンス]]は、[[GNU]]のライセンスを基にしたヌーペディア・オープン・コンテント・ライセンス(Nupedia Open Content License)が作られ、採用されていた{{Sfn|メイヤー|2013|p=43}}。このライセンスでは、ウィキペディアのように記事作成者ではなく、サイトに出資する[[ボミス]]が著作権者となっていた{{Sfn|リー|2009|p=151}}。ただし、途中からGNUフリー・ドキュメンテーション・ライセンス([[GNU Free Documentation License]])に移行している{{Sfn|メイヤー|2013|p=43}}。サイトのソフトウェアはNupeCodeという共同作業用のソフトウェアで動いていた<ref>{{Cite web |author=Ramine Tinati, Leslie Carr, Susan Halford, Catherine Pope |date=2011-01-11 |url=http://sociam.org/www2013/papers/socm2013_submission_6.pdf |title=The HTP Model: Understanding the Development of Social Machines |publisher=ACM |format=pdf |page=4 |accessdate=2015-07-21}}</ref>。閲覧は無料で、広告を掲載することで収益を確保する予定だった{{Sfn|メイヤー|2013|p=42}}。
記事の執筆や査読は[[ボランティア]]によって行われた{{Sfn|メイヤー|2013|p=43}}。ラリー・サンガーが編集主幹の役職を務め、彼のみがボミスに雇われる形で有給でヌーペディアの編集に携わっていた{{Sfn|リー|2009|p=85}}。博士号取得者、大学の教授、その他実績のある専門家を対象に参加者を募っていた{{Sfn|リー|2009|p=84}}{{Sfn|メイヤー|2013|pp=43-44}}。記事が公開されるまでに厳格な7段階の工程を経る必要がある。記事の作成から公開までのプロセスは次のようになっている{{Sfn|リー|2009|pp=87-88}}。
# 割り当て
# リード・レビュアーの選定
# リード・レビュー
# オープン・レビュー
# リード・コピー・リーディング
# オープン・コピー・リーディング
# 最終承認とマークアップ
執筆の方針やガイドラインを備えており、[[ウィキペディア]]の中核方針の1つである「中立的な観点」の原形も、この中にすでに存在していた{{Sfn|Reagle|2010|p=57}}。記事の難度は、予備知識の無い大学生が読んで理解できる程度のレベルを目標としていた{{Sfn|リー|2009|p=90}}。
== 完成した記事 ==
完成した記事の一覧を投稿順で以下に示す。ヌーペディアが閉鎖する直前の2003年8月8日付の[[インターネットアーカイブ]]より<ref name="NUPEDIA_2003-08-08">{{Cite web |archivedate=2003年8月10日 |url=http://www.nupedia.com/newest.phtml |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030810153103/http://www.nupedia.com/newest.phtml |title=NUPEDIA: NEWEST ARTICLES |work=Nupedia |publisher=Bomis |accessdate=2015-07-22 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
{|class=wikitable
!投稿順
!記事
!参考日本語名
|-
| 1 || Atonality <small>(brief version)</small> || [[無調]]<small>(ショート版)
|-
| 2 || Hydatius <small>(brief version)</small> || ヒュダティウス<small>(ショート版)</small>
|-
| 3|| The Donegal Fiddle Tradition <small>(brief version)</small> || ドニゴール・フィドル音楽の様式<small>(ショート版)</small>
|-
| 4|| Irish Traditional Music <small>(brief version)</small>|| アイリッシュ伝統音楽<small>(ショート版)</small>
|-
| 5|| Atonality <small>(longer version)</small>|| [[無調]]<small>(ロング版)</small>
|-
| 6|| Classical Era (Music) <small>(longer version)</small>|| [[古典派音楽]]<small>(ロング版)</small>
|-
| 7||Classical Era (Music) <small>(brief version)</small>||[[古典派音楽]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 8||Charles S. Peirce <small>(brief version)</small>||[[チャールズ・サンダース・パース]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 9||Herodotus of Halicarnassus <small>(brief version)</small>||[[ヘロドトス|ハリカルナッソスのヘロドトス]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 10||The SNOBOL 4 Programming Language <small>(brief version)</small>||プログラミング言語[[SNOBOL|SNOBOL4]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 11||Vergil <small>(brief version)</small>||[[ウェルギリウス|ヴァージル]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 12||Procopius of Caesarea <small>(brief version)</small>||[[プロコピオス]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 13||Pylos <small>(brief version)</small>||[[ピュロス (ギリシャ)|ピュロス]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 14||Case-Based Reasoning <small>(brief version)</small>||[[事例ベース推論]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 15||The Theory of Computation <small>(brief version)</small>|| [[計算理論]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 16|| New Zealand <small>(brief version)</small>|| [[ニュージーランド]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 17|| Karl Raimund Popper <small>(brief version)</small> || [[カール・ポパー|カール・ライムント・ポパー]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 18|| Functional Programming <small>(brief version)</small>|| [[関数型プログラミング]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 19|| Genotype and Phenotype <small>(brief version)</small>|| [[遺伝子型]]と[[表現型]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 20|| Plasmids <small>(medium-length)</small>|| [[プラスミド]]<small>(ミドル版)</small>
|-
| 21|| Polymerase Chain Reaction <small>(brief version)</small>|| [[ポリメラーゼ連鎖反応]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 22|| Foot-and-Mouth Disease <small>(brief version)</small>|| [[口蹄疫]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 23|| Polymerase Chain Reaction <small>(longer version)</small>|| [[ポリメラーゼ連鎖反応]]<small>(ロング版)</small>
|-
| 24|| Imperative Programming <small>(brief version)</small>|| [[命令型プログラミング]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 25|| The Quasispecies model <small>(brief version)</small>|| 疑似種モデル<small>(ショート版)</small>
|-
| 26||Bacteria <small>(brief version)</small>|| [[細菌]]<small>(ショート版)</small>
|-
| 27|| source code <small>(brief version)</small>|| [[ソースコード]]<small>(ショート版)</small>
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
==参照文献==
※特に、文献内の複数個所に亘って参照したものを示す。
* {{Cite book ja-jp
|author=スーザン・メイヤー
|title= Wikipediaをつくったジミー・ウェールズ
|series=時代をきりひらくIT企業と創業者たち 5
|translator = スタジオアラフ
|others = 熊坂仁美(監修)
|edition=第1刷
|year=2013
|publisher=岩崎書店
|isbn=978-4-265-07910-0
|ref={{Sfnref|メイヤー|2013}}
}}
* {{Cite book ja-jp
|author=アンドリュー・リー
|title= ウィキペディア・レボリューション―世界最大の百科事典はいかにして生まれたか
|translator = 千葉敏生
|edition=初版
|year=2009
|publisher=早川書房
|isbn=978-4-15-320005-0
|ref={{Sfnref|リー|2009}}
}}
*{{Cite web
|url= http://reagle.org/joseph/2010/gfc/
|title= Good Faith Collaboration: The Culture of Wikipedia
|accessdate= 2015-07-25
|author= Joseph Michael Reagle Jr.
|year= 2010
|format= pdf
|publisher= MIT Press
|ref={{Sfnref|Reagle|2010}}
}}
*{{cite web
|author=Larry Sanger
|title=The Early History of Nupedia and Wikipedia: A Memoir
|url=http://features.slashdot.org/story/05/04/18/164213/the-early-history-of-nupedia-and-wikipedia-a-memoir
|work=Slashdot
|publisher=Dice
|date=2005-04-18
|accessdate =2015-07-21
|ref={{Sfnref|Sanger|2005a}}
}}
*{{cite web
|author=Larry Sanger
|title=The Early History of Nupedia and Wikipedia, Part II
|url=http://slashdot.org/story/05/04/19/1746205/the-early-history-of-nupedia-and-wikipedia-part-ii |work=Slashdot
|publisher=Dice
|date=2005-04-19
|accessdate =2015-07-25
|ref={{Sfnref|Sanger|2005b}}
}}
==関連項目==
* [[ウィキペディア]] - ヌーペディアのサイドプロジェクトで、最終的にはその後身となった[[オンライン百科事典]]
* [[Citizendium]] - ラリー・サンガーがウィキペディアを離れた後に立ち上げた[[オンライン百科事典]]
* [[スカラーペディア]] - 専門家の投稿による[[オンライン百科事典]]
== 外部リンク ==
{{wikisourcelang|en|Nupedia Open Content License}}
{{commonscat}}
*[https://nupedia.fandom.com/wiki/Category:Nupedia Nupedia Wiki ] - [[ウィキア]]上で再現されたヌーペディア
{{ウィキペディア}}
{{DEFAULTSORT:ぬうへていあ}}
[[Category:オンライン百科事典]]
[[Category:ウィキペディア]]
[[Category:2000年開設のウェブサイト]]
[[Category:2003年廃止のウェブサイト]]
[[Category:ラリー・サンガー]] | 2003-03-07T17:01:03Z | 2023-10-22T12:00:44Z | false | false | false | [
"Template:Sfn",
"Template:Cite book ja-jp",
"Template:Wikisourcelang",
"Template:ウィキペディア",
"Template:Cite web",
"Template:Cite mailing list",
"Template:Commonscat",
"Template:Infobox オンライン情報源",
"Template:Cquote",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2 |
3,637 | エンシクロペディア・リブレ | エンシクロペディア・リブレ (Enciclopedia Libre Universal en Español) は、ウィキを用いたスペイン語のオンライン百科事典であり、MediaWikiを使用し、GFDLで発行されている。
スペイン語版ウィキペディアから、主として商業化(その時点ではドメインの所有者が企業(Bomis)であったため、広告の挿入の可能性が論じられていた)と管理者による批判的な意見への検閲(と彼らがみなしたもの)への反対を論点として分岐した。
さらに詳しい情報と話し合いの参加のためには、Wikipedia:大使館を参照のこと。 またWikipedia:多言語プロジェクトとしてのウィキペディアも参照のこと。
2003年の10月および11月に、スペイン語ウィキペディアはボットを使い、エンシクロペディア・リブレのダンプから項目の移入を行った。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "エンシクロペディア・リブレ (Enciclopedia Libre Universal en Español) は、ウィキを用いたスペイン語のオンライン百科事典であり、MediaWikiを使用し、GFDLで発行されている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "スペイン語版ウィキペディアから、主として商業化(その時点ではドメインの所有者が企業(Bomis)であったため、広告の挿入の可能性が論じられていた)と管理者による批判的な意見への検閲(と彼らがみなしたもの)への反対を論点として分岐した。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "さらに詳しい情報と話し合いの参加のためには、Wikipedia:大使館を参照のこと。 またWikipedia:多言語プロジェクトとしてのウィキペディアも参照のこと。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "2003年の10月および11月に、スペイン語ウィキペディアはボットを使い、エンシクロペディア・リブレのダンプから項目の移入を行った。",
"title": null
}
] | エンシクロペディア・リブレ は、ウィキを用いたスペイン語のオンライン百科事典であり、MediaWikiを使用し、GFDLで発行されている。 スペイン語版ウィキペディアから、主として商業化(その時点ではドメインの所有者が企業であったため、広告の挿入の可能性が論じられていた)と管理者による批判的な意見への検閲(と彼らがみなしたもの)への反対を論点として分岐した。 さらに詳しい情報と話し合いの参加のためには、Wikipedia:大使館を参照のこと。
またWikipedia:多言語プロジェクトとしてのウィキペディアも参照のこと。 2003年の10月および11月に、スペイン語ウィキペディアはボットを使い、エンシクロペディア・リブレのダンプから項目の移入を行った。 | {{出典の明記|date=2010年5月}}
[[画像:Portada El spanish 01-04-06.png|thumb|250px|エンシクロペディア・リブレのスクリーンショット。2006年4月1日]]
'''エンシクロペディア・リブレ''' (Enciclopedia Libre Universal en Español) は、[[ウィキ]]を用いた[[スペイン語]]の[[オンライン百科事典]]であり、[[MediaWiki]]を使用し、[[GNU Free Documentation License|GFDL]]で発行されている。
[[スペイン語版ウィキペディア]]から、主として商業化(その時点ではドメインの所有者が企業([[Bomis]])であったため、広告の挿入の可能性が論じられていた)と管理者による批判的な意見への検閲(と彼らがみなしたもの)への反対を論点として分岐した。
さらに詳しい情報と話し合いの参加のためには、[[Wikipedia:大使館]]を参照のこと。
また[[Wikipedia:多言語プロジェクトとしてのウィキペディア]]も参照のこと。
2003年の10月および11月に、スペイン語ウィキペディアは[[Wikipedia:Bot|ボット]]を使い、エンシクロペディア・リブレのダンプから項目の移入を行った。
== 統計 ==
{| class="wikitable"
!日付 !! エンシクロペディア・リブレの項目数 !! スペイン語ウィキペディアのおおよその項目数
|-
|2002年3月11日||align="center"|3,036||align="center"|1,300
|-
|2002年4月2日||align="center"|5,972||align="center"|1,300
|-
|2002年5月1日||align="center"|7,540||align="center"|1,400
|-
|2002年5月27日||align="center"|7,837||align="center"|1,500
|-
|2002年6月13日||align="center"|8,125||align="center" rowspan="2"|1,500
|-
|2002年7月13日||align="center"|8,519
|-
|2002年8月4日||align="center"|8,658||align="center"|1,500
|-
|2002年8月31日||align="center"|8,996||align="center"|1,500
|-
|2002年10月3日||align="center"|9,362||align="center"|1,600
|-
|2002年10月26日||align="center"|10,258||align="center"|1,900
|-
|2003年6月17日||align="center"|14,250||align="center" rowspan="2"|3,700
|-
|2003年7月8日||align="center"|14,428
|-
|2003年8月2日||align="center"|14,662||align="center"|4,600
|-
|2003年9月6日||align="center"|15,116||align="center"|5,900
|-
|2003年11月2日||align="center"|15,572||align="center"|8,900
|-
|2003年12月6日||align="center"|16,039||align="center"|11,000
|-
|2004年3月20日||align="center"|19,688||align="center"|19,000
|-
|2004年11月6日||align="center"|25,038||align="center"|33,573
|-
|2005年9月25日||align="center"|28,709||align="center"|66,984
|-
|2006年2月27日||align="center"|30,455||align="center"|97,568
|-
|2006年4月9日||align="center"|30,776||align="center"|108,012
|-
|2006年7月3日||align="center"|31,980||align="center"|130,939
|-
|2006年10月1日||align="center"|33,367||align="center"|157,061
|-
|2007年1月3日||align="center"|34,342||align="center"|186,022
|-
|2007年4月1日||align="center"|34,551||align="center"|218,690
|-
|2007年7月1日||align="center"|35,703||align="center"|248,775
|-
|2007年10月2日||align="center"|36,860||align="center"|283,630
|-
|2008年1月1日||align="center"|38,012||align="center"|315,611
|-
|2008年4月2日||align="center"|39,478||align="center"|348,217
|-
|2008年7月4日||align="center"|40,424||align="center"|376,664
|-
|2008年10月3日||align="center"|41,096||align="center"|403,280
|-
|2009年1月1日||align="center"|41,852||align="center"|430,159
|-
|2009年4月1日||align="center"|42,366||align="center"|458,301
|-
|2009年7月1日||align="center"|42,533||align="center"|488,905
|-
|2009年10月1日||align="center"|43,035||align="center"|516,333
|-
|2010年1月1日||align="center"|44,156||align="center"|546,487
|-
|2010年4月1日||align="center"|44,592||align="center"|581,486
|-
|2010年7月1日||align="center"|45,170||align="center"|615,232
|-
|2010年10月1日||align="center"|45,947||align="center"|653,596
|-
|2011年1月1日||align="center"|46,374||align="center"|692,451
|-
|2011年4月2日||align="center"|46,775||align="center"|745,694
|-
|2011年7月2日||align="center"|47,148||align="center"|784,987
|-
|2011年10月2日||align="center"|47,315||align="center"|832,243
|-
|2012年1月1日||align="center"|47,638||align="center"|856,400
|-
|2012年4月2日||align="center"|47,797||align="center"|880,230
|-
|2013年1月4日||align="center"|48,063||align="center"|946,213
|-
|今日||align="center"|[http://enciclopedia.us.es/index.php?title=Especial:Estad%C3%ADsticas&uselang=ja エンシクロペディア・リブレの数](日本語)||align="center"|[{{fullurl:es:Especial:Statistics|uselang=ja}} スペイン語版ウィキペディアの数](日本語)
|}
<!-- これ以外の特定の日付の記事数はどこにありますか? -->
== 外部リンク ==
* [http://enciclopedia.us.es/ エンシクロペディア・リブレ]
{{ウィキペディア}}
{{DEFAULTSORT:えんしくろへていあ りふれ}}
[[Category:ウィキ]]
[[Category:オンライン百科事典]]
[[Category:ウィキペディア]]
[[Category:MediaWikiのウェブサイト]]
[[Category:スペインのウェブサイト]] | null | 2020-06-25T05:53:39Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:ウィキペディア"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%96%E3%83%AC |
3,638 | 細胞質 | 細胞質(さいぼうしつ、cytoplasm)は、細胞の細胞膜で囲まれた部分である原形質のうち、細胞核以外の領域のことを指す。細胞質は細胞質基質の他、特に真核生物の細胞では様々な細胞小器官を含む。細胞小器官の多くは生体膜によって他の部分と隔てられている。細胞質は生体内の様々な代謝や、細胞分裂などの細胞活動のほとんどが起こる場所である。細胞質基質を意図して誤用される場合も多い。
細胞質のうち、細胞小器官以外の部分を細胞質基質または細胞質ゲルという。細胞質基質は複雑な混合物であり、細胞骨格、溶解した分子、水分などからなり、細胞の体積の大きな部分を占めている。細胞質基質はゲルであり、繊維のネットワークが溶液中に散らばっている。この細孔状のネットワークと、タンパク質などの高分子の濃度の高さのため、細胞質基質の中では分子クラウディングと呼ばれる現象が起こり、理想溶液にはならない。このクラウディングの効果はまた細胞質基質内部の反応も変化させる。
細胞質には3つの主要な要素がある。細胞質基質、細胞小器官、封入体である。
細胞質基質は、細胞質のうち細胞小器官と封入体以外の部分である。細胞質基質は半透明な液体であり、様々な細胞質の要素がその中に漂っている。細胞質基質は一般的な細胞の体積の約70%を占め、水、塩、低分子の有機化合物などからなる。細胞質はまた細胞骨格を形作るタンパク質繊維や水溶性タンパク質、リボソーム、プロテアソームなどの大きな構造、まだ良くわかっていないヴォールトなどを含んでいる。細胞質の内側の部分は顆粒を多く含み、比較的流動性に富んでいて、これを内質(endoplasm)と呼ぶ。対して外側の部分は外質(ectoplasm)と呼ばれる。
細胞小器官は生体膜で包まれた、細胞中で固有の機能を持つ部分である。主要な細胞小器官としてはミトコンドリア、小胞体、ゴルジ体、リソソームなどがある。植物細胞では他に葉緑体、液胞などがある。
封入体は細胞質基質中に浮かぶ不溶性物質の集合体である。細胞内含有物ともいう。生物種や細胞の種類ごとに異なる種類の封入体が存在する。たとえば植物に見られるシュウ酸カルシウムや二酸化ケイ素の結晶(プラント・オパール)の他、デンプン、グリコーゲン、ポリヒドロキシ酪酸(PHB)などのエネルギー貯蔵物質の顆粒などである。特に広く見られるものは、油滴(もしくは脂質滴、lipid droplet)である。これは球状の液滴で、脂質とタンパク質の混合物であり、原核生物にも真核生物にも見られる。脂肪酸やステロールなどの脂質の保存のために使われる。脂質保存に特化した細胞である脂肪細胞では、体積の多くを油滴が占める。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "細胞質(さいぼうしつ、cytoplasm)は、細胞の細胞膜で囲まれた部分である原形質のうち、細胞核以外の領域のことを指す。細胞質は細胞質基質の他、特に真核生物の細胞では様々な細胞小器官を含む。細胞小器官の多くは生体膜によって他の部分と隔てられている。細胞質は生体内の様々な代謝や、細胞分裂などの細胞活動のほとんどが起こる場所である。細胞質基質を意図して誤用される場合も多い。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "細胞質のうち、細胞小器官以外の部分を細胞質基質または細胞質ゲルという。細胞質基質は複雑な混合物であり、細胞骨格、溶解した分子、水分などからなり、細胞の体積の大きな部分を占めている。細胞質基質はゲルであり、繊維のネットワークが溶液中に散らばっている。この細孔状のネットワークと、タンパク質などの高分子の濃度の高さのため、細胞質基質の中では分子クラウディングと呼ばれる現象が起こり、理想溶液にはならない。このクラウディングの効果はまた細胞質基質内部の反応も変化させる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "細胞質には3つの主要な要素がある。細胞質基質、細胞小器官、封入体である。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "細胞質基質は、細胞質のうち細胞小器官と封入体以外の部分である。細胞質基質は半透明な液体であり、様々な細胞質の要素がその中に漂っている。細胞質基質は一般的な細胞の体積の約70%を占め、水、塩、低分子の有機化合物などからなる。細胞質はまた細胞骨格を形作るタンパク質繊維や水溶性タンパク質、リボソーム、プロテアソームなどの大きな構造、まだ良くわかっていないヴォールトなどを含んでいる。細胞質の内側の部分は顆粒を多く含み、比較的流動性に富んでいて、これを内質(endoplasm)と呼ぶ。対して外側の部分は外質(ectoplasm)と呼ばれる。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "細胞小器官は生体膜で包まれた、細胞中で固有の機能を持つ部分である。主要な細胞小器官としてはミトコンドリア、小胞体、ゴルジ体、リソソームなどがある。植物細胞では他に葉緑体、液胞などがある。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "封入体は細胞質基質中に浮かぶ不溶性物質の集合体である。細胞内含有物ともいう。生物種や細胞の種類ごとに異なる種類の封入体が存在する。たとえば植物に見られるシュウ酸カルシウムや二酸化ケイ素の結晶(プラント・オパール)の他、デンプン、グリコーゲン、ポリヒドロキシ酪酸(PHB)などのエネルギー貯蔵物質の顆粒などである。特に広く見られるものは、油滴(もしくは脂質滴、lipid droplet)である。これは球状の液滴で、脂質とタンパク質の混合物であり、原核生物にも真核生物にも見られる。脂肪酸やステロールなどの脂質の保存のために使われる。脂質保存に特化した細胞である脂肪細胞では、体積の多くを油滴が占める。",
"title": "構成"
}
] | 細胞質(さいぼうしつ、cytoplasm)は、細胞の細胞膜で囲まれた部分である原形質のうち、細胞核以外の領域のことを指す。細胞質は細胞質基質の他、特に真核生物の細胞では様々な細胞小器官を含む。細胞小器官の多くは生体膜によって他の部分と隔てられている。細胞質は生体内の様々な代謝や、細胞分裂などの細胞活動のほとんどが起こる場所である。細胞質基質を意図して誤用される場合も多い。 細胞質のうち、細胞小器官以外の部分を細胞質基質または細胞質ゲルという。細胞質基質は複雑な混合物であり、細胞骨格、溶解した分子、水分などからなり、細胞の体積の大きな部分を占めている。細胞質基質はゲルであり、繊維のネットワークが溶液中に散らばっている。この細孔状のネットワークと、タンパク質などの高分子の濃度の高さのため、細胞質基質の中では分子クラウディングと呼ばれる現象が起こり、理想溶液にはならない。このクラウディングの効果はまた細胞質基質内部の反応も変化させる。 | {{Organelle diagram}}
<!-- [[ファイル:biological cell.svg|thumb|right|300px|典型的な動物細胞の模式図。細胞質とその他主な構造。<br />
(1)[[核小体]]<br />
(2)[[細胞核]]<br />
(3)[[リボソーム]]<br />
(4)[[小胞]]<br />
(5)[[小胞体|粗面小胞体]]<br />
(6)[[ゴルジ体]]<br />
(7)[[細胞骨格]]<br />
(8)[[小胞体|滑面小胞体]]<br />
(9)[[ミトコンドリア]]<br />
(10)[[液胞]]<br />
(11)'''細胞質'''<br />
(12)[[リソソーム]]<br />
(13)[[中心小体]]
]] -->
'''細胞質'''(さいぼうしつ、cytoplasm)は、[[細胞]]の[[細胞膜]]で囲まれた部分である[[原形質]]のうち、[[細胞核]]以外の領域のことを指す。細胞質は[[細胞質基質]]の他、特に[[真核生物]]の細胞では様々な[[細胞小器官]]を含む。細胞小器官の多くは[[生体膜]]によって他の部分と隔てられている。細胞質は生体内の様々な[[代謝]]や、[[細胞分裂]]などの細胞活動のほとんどが起こる場所である。細胞質基質を意図して誤用される場合も多い。
細胞質のうち、細胞小器官以外の部分を細胞質基質または細胞質ゲルという。細胞質基質は複雑な混合物であり、[[細胞骨格]]、溶解した分子、水分などからなり、細胞の体積の大きな部分を占めている。細胞質基質は[[ゲル]]であり、繊維のネットワークが溶液中に散らばっている。この細孔状のネットワークと、[[タンパク質]]などの[[高分子]]の濃度の高さのため、細胞質基質の中では[[分子クラウディング]]と呼ばれる現象が起こり、[[理想溶液]]にはならない。このクラウディングの効果はまた細胞質基質内部の反応も変化させる。
== 構成 ==
細胞質には3つの主要な要素がある。細胞質基質、細胞小器官、[[封入体]]である。
=== 細胞質基質 ===
{{Main|細胞質基質}}
[[ファイル:Localisations02eng.jpg|thumb|right|250px|細胞内の様々な小器官や構造の中のタンパク質。 [[緑色蛍光タンパク質|GFP]]による標識。]]
細胞質基質は、細胞質のうち細胞小器官と封入体以外の部分である。細胞質基質は半透明な液体であり、様々な細胞質の要素がその中に漂っている。細胞質基質は一般的な細胞の体積の約70%を占め、[[水]]、[[塩 (化学)|塩]]、低分子の[[有機化合物]]などからなる<ref>[http://sun.menloschool.org/~birchler/cells/animals/cytoplasm/ Cytoplasm Composition] {{リンク切れ|date=2022年2月}}</ref>。細胞質はまた細胞骨格を形作る[[タンパク質繊維]]や水溶性タンパク質、[[リボソーム]]、[[プロテアソーム]]などの大きな構造、まだ良くわかっていない[[ヴォールト (細胞小器官)|ヴォールト]]などを含んでいる<ref>{{cite journal |author=van Zon A, Mossink MH, Scheper RJ, Sonneveld P, Wiemer EA |title=The vault complex |journal=Cell. Mol. Life Sci. |volume=60 |issue=9 |pages=1828–37 |year=2003 |month=September |pmid=14523546 |doi=10.1007/s00018-003-3030-y}}</ref>。細胞質の内側の部分は顆粒を多く含み、比較的流動性に富んでいて、これを'''内質'''(endoplasm)と呼ぶ。対して外側の部分は'''外質'''(ectoplasm)と呼ばれる。
=== 細胞小器官 ===
{{main|細胞小器官}}
細胞小器官は生体膜で包まれた、細胞中で固有の機能を持つ部分である。主要な細胞小器官としては[[ミトコンドリア]]、[[小胞体]]、[[ゴルジ体]]、[[リソソーム]]などがある。植物細胞では他に[[葉緑体]]、[[液胞]]などがある。
=== 封入体 ===
{{main|封入体}}
封入体は細胞質基質中に浮かぶ不溶性物質の集合体である。細胞内含有物ともいう。生物種や細胞の種類ごとに異なる種類の封入体が存在する。たとえば植物に見られる[[シュウ酸カルシウム]]や[[二酸化ケイ素]]の結晶([[プラント・オパール]])<ref name=Prychid1999>{{citation | author = Prychid, Christina J.; Rudall, Paula J. | year = 1999 | title = Calcium Oxalate Crystals in Monocotyledons: A Review of their Structure and Systematics | journal = Annals of Botany | volume = 84 | issue = 6 | pages = 725 | doi = 10.1006/anbo.1999.0975 | url = http://aob.oxfordjournals.org/cgi/content/abstract/84/6/725}}</ref><ref name=Prychid2003>{{citation | author = Prychid, C. J.; Rudall, P. J.; Gregory, M. | year = 2003 | title = Systematics and Biology of Silica Bodies in Monocotyledons | journal = The Botanical Review | volume = 69 | issue = 4 | pages = 377–440 | doi = 10.1663/0006-8101(2004)069[0377:SABOSB]2.0.CO;2 | url = http://www.bioone.org/perlserv/?request=get-abstract}}</ref>の他、[[デンプン]]<ref>{{cite journal |author=Ball SG, Morell MK |title=From bacterial glycogen to starch: understanding the biogenesis of the plant starch granule |journal=Annu Rev Plant Biol |volume=54 |issue= |pages=207–33 |year=2003 |pmid=14502990 |doi=10.1146/annurev.arplant.54.031902.134927}}</ref>、[[グリコーゲン]]<ref>{{cite journal |author=Shearer J, Graham TE |title=New perspectives on the storage and organization of muscle glycogen |journal=Can J Appl Physiol |volume=27 |issue=2 |pages=179–203 |year=2002 |month=April |pmid=12179957}}</ref>、[[ポリヒドロキシ酪酸]](PHB)<ref>{{cite journal |author=Anderson AJ, Dawes EA |title=Occurrence, metabolism, metabolic role, and industrial uses of bacterial polyhydroxyalkanoates |journal=Microbiol. Rev. |volume=54 |issue=4 |pages=450–72 |year=1990 |month=December |pmid=2087222 |pmc=372789 |url=http://mmbr.asm.org/cgi/pmidlookup?view=long&pmid=2087222}}</ref>などのエネルギー貯蔵物質の顆粒などである。特に広く見られるものは、[[油滴]](もしくは脂質滴、lipid droplet)である。これは球状の液滴で、脂質とタンパク質の混合物であり、原核生物にも真核生物にも見られる。[[脂肪酸]]や[[ステロール]]などの脂質の保存のために使われる<ref>{{cite journal |author=Murphy DJ |title=The biogenesis and functions of lipid bodies in animals, plants and microorganisms |journal=Prog. Lipid Res. |volume=40 |issue=5 |pages=325–438 |year=2001 |month=September |pmid=11470496}}</ref>。脂質保存に特化した細胞である[[脂肪細胞]]では、体積の多くを油滴が占める。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book
| author = Alberts, Bruce et al
| editor =
| title = Essential Cell Biology
| edition= 2nd
| year = 2003
| publisher = Garland Science
| location =
| pages =
| chapter =
| id = ISBN 081533480X
}} (『細胞生物学 原書第2版』中村桂子、松原謙一 訳 南江堂)
* {{Cite book
| author = Elain N Marieb and Latja Hoehn
| title = Human Anatomy & Physiology
| edition= 7th
| year = 2007
| publisher = Benjamin-Cummings Publishing Company, Subs of Addison Wesley Longman, Inc
| id = ISBN 978-0321518118
}}
== 外部リンク ==
* [http://wiwi.essortment.com/cytoplasm_rkkg.htm What is cytoplasm?] - by Genevieve Theirs -2002{{リンク切れ|date=2022年2月}}
* Luby-Phelps K. [http://www.rpgroup.caltech.edu/courses/aph161/Handouts/Luby-Phelps2000.pdf Cytoarchitecture and physical properties of cytoplasm: volume, viscosity, diffusion, intracellular surface area.] ''Int Rev Cytol.'' 2000;192:189-221.{{リンク切れ|date=2022年2月}}
{{細胞小器官}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:さいほうしつ}}
[[Category:細胞解剖学]] | null | 2023-05-15T07:58:41Z | false | false | false | [
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite journal",
"Template:細胞小器官",
"Template:Organelle diagram",
"Template:Main",
"Template:Reflist",
"Template:リンク切れ",
"Template:Citation",
"Template:Cite book",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E8%83%9E%E8%B3%AA |
3,639 | 細胞 | 細胞(さいぼう、英: cell)はすべての生命体(英語版)の構造と機能の基本的な単位である。すべての細胞は、細胞膜に包まれた細胞質で構成され、その中にはタンパク質、DNA、RNAなどの多くの高分子と、栄養素や代謝産物などの多くの小分子が含まれている。この言葉は「小さな部屋」を意味するラテン語の cellula に由来する。
細胞は特定の機能を獲得し、複製、DNA修復、タンパク質合成、運動性など、細胞内でさまざまな仕事を遂行することができる。細胞は特殊化し、細胞間を移動することができる。
ほとんどの動物細胞や植物細胞は、光学顕微鏡でしか見ることができず、その大きさは1–100 μm(マイクロメートル)である。電子顕微鏡では、より高い解像度で細胞構造を詳細に観察することができる。生物は単細胞生物(細菌などの単一細胞からなる)と多細胞生物(植物や動物を含む)に分類される。ほとんどの単細胞生物は微生物に分類される。
細胞とその働きに関する研究は、DNAの発見、がんシステム生物学(英語版)、老化、発生生物学など、生物学の関連分野における他の多くの研究につながっている。
細胞生物学は、1665年にロバート・フックによって発見された細胞を研究する学問である。フックは、この細胞がキリスト教の修道院で修道士が暮らす庵室(英語版)に似ていることから、この名前をつけた。細胞理論は、1839年にマティアス・ヤーコプ・シュライデンとテオドール・シュワンによって初めて提唱されたもので、すべての生物は一つまたは複数の細胞から構成され、細胞はすべての生物の構造と機能の基本的な単位であり、すべての細胞は既存の細胞から生じるというものである。細胞が地球上に初めて出現したのは約40億年前と考えられている。
時が経つにつれ、顕微鏡が改良され、より高倍率の技術で細胞を発見することができるようになった。この発見に対するロバート・フックの貢献は大きく、細胞生物学として知られる細胞の科学的研究が始まった。彼はコルク片を観察し、拡大して細胞を発見することができた。当時、このような細胞を見た人は誰もいないと思われていただけに、これは衝撃的な出来事であった。彼の理論をさらに裏付けるために マティアス・シュライデンとテオドール・シュワンは動物や植物の細胞も研究した。彼らは、2種類の細胞の間には大きな違いがあることを発見した。その結果、細胞は植物だけでなく、動物にとっても基本的なものだという考えが生まれた。
動植物の細胞数は生物種によって異なる。人体には約37兆個(3.72×10)の細胞があり(2013年)、そのうち約800億個は脳が占めていると推定されている。Hattonらによる最近の研究では(2023年)、人体の細胞数を約30兆個(男性で約36兆個、女性で約28兆個)と推定し、臓器ごとの細胞数を報告している。
細胞は、核を持つ真核細胞と、核は持たないが核様体領域を持つ原核細胞に大別される。原核生物は単細胞生物であるのに対し、真核生物は単細胞生物か多細胞生物のどちらかである。
原核生物(げんかくせいぶつ、英: Prokaryote)には、生命の3つ(英語版)のドメインのうち、細菌と古細菌の2つが含まれる。原核細胞は地球上で最初の生命体であり、細胞シグナル伝達などの重要な生物学的プロセスを持つことが特徴である。これは、真核細胞よりも単純で小さく、核や膜結合細胞小器官を持たない。原核細胞のDNAは、細胞質に直接接触した単一の環状染色体(英語版)から構成されている。細胞質内の核領域は核様体と呼ばれる。ほとんどの原核生物は、直径0.5–2.0 μmと、すべての生物の中で最も小さい。
原核細胞は3つの領域から構成される。
細胞形態(cell morphology)とも呼ばれる細胞の形状は、細胞骨格の配置と動作から形成されると考えられている。細胞形態の研究における多くの進歩は、黄色ブドウ球菌(Staphylococcus aureus)、大腸菌(Escherichia coli)、枯草菌(Bacillus subtilis)のような単純な細菌の研究からもたらされた。さまざまな細胞の形状が発見され、記述されてきたが、細胞がどのようにして、またなぜさまざまな形状を形成するのかは、まだほとんど解明されていない。確認されている細胞の形状は、桿菌、球菌、スピロヘータなどである。球菌は円形、桿菌は細長い棒状、スピロヘータはらせん状である。
植物、動物、真菌類、粘菌類、原生動物、そして藻類はすべて真核生物(しんかくせいぶつ、英: Eukaryote)である。これらの細胞の幅は一般的な原核生物の約15倍で、体積は1,000倍にもなることがある。原核生物と比較した場合の真核生物の主な特徴は、区画化(英語版)、すなわち特定の活動を行う膜結合細胞小器官(区画)の存在である。その中でもっとも重要なものは細胞核(核)であり、細胞のDNAを収容する細胞小器官である。この核が「真の核」(英: true kernel (nucleus))を意味する真核生物という名前の由来である。そのほかに次のような違いがある。
原核生物であれ真核生物であれ、すべての細胞には細胞を包み込み、出入りするものを調節し(選択的透過性)、細胞の電位を維持する膜がある。膜の内側では、細胞質が細胞容積の大部分を占めている。ヘモグロビンを最大限に収納するために細胞核もほとんどの細胞小器官を持たない赤血球を除けば、すべての細胞は遺伝情報の伝達物質であるDNAと、細胞の主要な機械である酵素などさまざまなタンパク質を合成するのに必要な情報を含むRNAを持っている。細胞内には、他にもさまざまな生体分子が存在する。この記事では、これらの主要な細胞成分(英語版)を列挙し、その機能を簡単に説明する。
細胞膜(cell membrane)は原形質膜(plasma membrane)とも呼ばれ、細胞の細胞質を取り囲む選択的透過性の生体膜である。動物では原形質膜が細胞の外側の境界であるが、植物や原核生物では膜の外側は細胞壁で覆われていることが多い。この膜は、細胞を周囲の環境から分離し保護する役割を果たし、ほとんどが両親媒性(一部が疎水性で一部が親水性)のリン脂質からなる二重層でできている。そのため、この層はリン脂質二重膜、または流体モザイク膜と呼ばれることもある。この膜の中には、細胞の一般的な分泌孔となるポロソーム(英語版)と呼ばれる高分子構造体と、さまざまな分子を細胞内外に移動させるチャネルやポンプとして働くさまざまなタンパク質分子が埋め込まれている。膜は、物質(分子やイオン)を自由に通過させるか、限定的に通過させるか、あるいは全く通過させないように、半透過性または選択的透過性という特徴を有している。細胞膜には、受容体タンパク質も含まれており、細胞はホルモンなどの外部のシグナル分子を感知することができる。
細胞骨格(cytoskeleton)はさまざまな役割を担い、細胞の形状を組織化・維持し、細胞小器官を所定位置へ固定し、エンドサイトーシス(細胞外物質の細胞内への取り込み)や細胞質分裂(細胞分裂後の娘細胞の分離)を補助し、成長や移動の際には細胞の一部を動かす働きをする。真核生物の細胞骨格は、微小管、中間径フィラメント、およびマイクロフィラメントで構成されている。神経細胞では、中間径フィラメントはニューロフィラメントと呼ばれる。これらに関与するタンパク質は非常に多く、それぞれがフィラメントを方向づけ、束ね、整列させることで細胞の構造を制御している。原核生物の細胞骨格はあまり研究されていないが、細胞の形状、極性、細胞質分裂の維持に関与している。マイクロフィラメントを構成するサブユニットタンパク質は、アクチンと呼ばれる小さな単量体タンパク質である。微小管のサブユニットはチューブリンと呼ばれる二量体分子である。中間径フィラメントはヘテロポリマーであり、そのサブユニットは組織の細胞型によって異なる。中間径フィラメントのサブユニットタンパク質には、ビメンチン、デスミン、ラミン(ラミンA、B、C)、ケラチン(複数の酸性ケラチンおよび塩基性ケラチン)、ニューロフィラメントタンパク質(英語版)(NF-L(英語版)、NF-M(英語版))などがある。
生命には、デオキシリボ核酸(DNA)とリボ核酸(RNA)の2種類の遺伝物質(genetic material)がある。細胞はDNAを使用して長期的に情報を保存する。生物に含まれる生物学的情報はDNA配列にコード化されている。RNAは、情報伝達(mRNAなど)や酵素機能(リボソームRNAなど)に使われる。転移RNA(tRNA)分子は、翻訳でタンパク質が作られる際に、アミノ酸を運搬したり付加するのに使われる。
原核生物の遺伝物質は、細胞質の核様体領域で単純な環状細菌染色体(英語版)に組織化されている。真核生物では、遺伝物質は染色体と呼ばれる個別の直鎖分子に分割されて細胞核の中に格納され、通常、ミトコンドリアや葉緑体などいくつかの細胞小器官にも遺伝物質が収められている(細胞内共生説を参照)。
ヒトの細胞では、遺伝物質は細胞核(核ゲノム)とミトコンドリア(ミトコンドリアゲノム)に格納されている。ヒトの場合、核ゲノムは染色体と呼ばれる46本の直鎖DNA分子に分割され、内訳は22対の相同染色体(英語版)と1対の性染色体からなる。ミトコンドリアゲノムは環状DNA分子であり、核ゲノムの直鎖DNAとは異なる。ミトコンドリアDNAは核染色体よりもはるかに小さいが、ミトコンドリアのエネルギー産生に関わる13個のタンパク質と特定のtRNAをコード化している。
トランスフェクションと呼ばれる工程によって、外来の遺伝物質(一般的にはDNA)を人為的に細胞内に導入することもできる。そのDNAが細胞のゲノムに挿入されていなければ一過性であり、挿入されていれば安定したものとなる。ある種のウイルスは宿主のゲノムに遺伝物質を挿入する。
細胞小器官(英: organelles、羅: organella)とは、一つまたは複数の重要な機能を果たすように適応(または特殊化)された細胞の構成要素であり、人体における臓器の存在に似ている(心臓、肺、腎臓など、それぞれの臓器は異なる機能を果たす)。真核細胞にも原核細胞にも細胞小器官があるが、原核細胞の小器官は一般に単純で、膜結合型ではない。
細胞内にはさまざまな細胞小器官がある。単独で存在するもの(核やゴルジ装置など)もあれば、多数(数百から数千)存在するもの(ミトコンドリア、葉緑体、ペルオキシソーム、リソソームなど)もある。細胞質は細胞小器官を取り囲み、細胞内を満たすゲル状の液体である。
多くの細胞は、細胞膜の外側に全体的あるいは部分的に存在する構造を持っている。これらはまた、細胞膜によって外部環境から保護されていない点からも注目される。こうした構造体を組み立てるには、その構成成分を細胞膜を越えて輸送しなくてはならない。
原核細胞や真核細胞の多くには細胞壁がある。細胞壁は、細胞膜のさらなる保護層で、細胞を機械的あるいは化学的に環境から保護する。細胞の種類によって、細胞壁は異なる材料で作られる。植物の細胞壁は主にセルロース、真菌類の細胞壁はキチン、細菌の細胞壁はペプチドグリカンでできている。
細菌の中には、細胞膜と細胞壁の外側にゲル状の莢膜(きょうまく、capsule)を持つものがある。莢膜は、肺炎球菌や髄膜炎菌では多糖で、炭疽菌ではポリペプチドで、レンサ球菌ではヒアルロン酸でできている。莢膜は通常の染色プロトコールでは標識されないが、インドインク(英語版)やメチルブルーで検出することができ、細胞間のコントラストを高めて観察することができる。
鞭毛(べんもう、flagella)は、細胞が移動するための細胞小器官である。細菌の鞭毛は細胞膜を通過して細胞質から伸び、細胞壁を貫通する。この鞭毛は、フラジェリンというタンパク質でできた長くて太い糸状の付属器官である。古細菌や真核生物ではそれぞれ異なる種類の鞭毛を持っている。
線毛(せんもう、fimbria)は性繊毛(pilus)とも呼ばれ、細菌の表面に見られる短くて細い毛のようなフィラメントである。線毛はピリンというタンパク質(抗原性を示す)で構成され、細菌がヒト細胞上の特定の受容体に付着することができる。また、細菌接合(英語版)に関与する繊毛にも特殊な種類がある。
細胞分裂は、一つの細胞(母細胞と呼ばれる)が二つの娘細胞に分裂する過程である。これにより、多細胞生物では成長(組織成長)につながり、単細胞生物では生殖(栄養生殖)につながる。原核細胞は二分裂によって分裂するが、真核細胞の細胞分裂は通常、有糸分裂と呼ばれる核分裂と、それに続く細胞質分裂という段階を経る。二倍体(英語版)細胞は減数分裂を経て、通常は4個の一倍体細胞を生成する。一倍体(英語版)細胞は多細胞生物の配偶子として働き、融合して新しい二倍体細胞を形成する。
DNA複製、言い換えれば細胞のゲノムを複製する過程は、細胞が有糸分裂あるいは二分裂によって分裂するたびに行われる。これは細胞周期のS期に起こる。
減数分裂では、DNAは1回だけ複製され、細胞は2回分裂する。DNA複製は減数分裂I(英語版)の前にのみ行われる。DNA複製は、細胞の2回目の分裂である減数分裂II(英語版)には起こらない。他の細胞活動と同様、複製を行うには特殊なタンパク質が必要である。
すべての生物の細胞は、DNAの損傷を走査し、検出された損傷を修復する酵素系を持っている。細菌からヒトに至るまで、生物の中ではさまざまな修復過程が進化してきた。こうした修復過程が広く普及していることは、突然変異につながる可能性のある損傷による細胞死や複製誤りを避けるために、細胞のDNAを未損傷の状態に維持することの重要性を示している。大腸菌(E. coli)は、多様で明確に説明されたDNA修復過程を持つ、よく研究された細胞生物である。これには、ヌクレオチド除去修復、DNAミスマッチ修復、二本鎖切断に対する非相同末端結合、組換え修復および光依存性修復(光回復)などが含まれる。
連続する細胞分裂の間、細胞は細胞代謝の作用によって成長する。細胞代謝とは、個々の細胞が栄養分子を処理する過程である。代謝には2つの区分があり、細胞が複雑な分子を分解してエネルギーと還元力を生成する異化作用と、細胞がエネルギーと還元力を使って複雑な分子を作り出したり、別の生物学的機能を果たす同化作用である。生物が消費する複雑な糖は、グルコースなどの単糖類と呼ばれる、より単純な糖分子に分解される。細胞内では、グルコースは2つの異なる経路を経て分解され、容易に利用可能なエネルギーを持つアデノシン三リン酸(ATP)分子を作る。
細胞には、新しいタンパク質を合成する能力があり、これは細胞活動の調節や維持に不可欠である。この過程では、DNA/RNAにコード化された情報に基づいて、アミノ酸の構成要素から新しいタンパク質分子が形成される。タンパク質合成は一般に、転写と翻訳という2つの大きな段階からなる。
転写とは、DNAの遺伝情報を使用して相補的なRNA鎖を生成する過程のことである。このRNA鎖は伝令RNA(mRNA)分子として加工され、細胞内を自由に移動できるようになる。mRNA分子は、細胞質でリボソームと呼ばれるタンパク質-RNA複合体に結合し、そこでポリペプチド配列に翻訳される。リボソームは、mRNA配列に基づくポリペプチド配列の形成を仲介する。mRNAの配列は、リボソーム内の結合ポケットで転移RNA(tRNA)アダプター分子に結合することにより、ポリペプチド配列に直接に関与する。そして新しいポリペプチドは、機能的な三次元のタンパク質分子に折り畳まれる。
単細胞生物は食物を探したり、捕食者から逃れるために移動することができる。一般的な運動機構には鞭毛や繊毛がある。
多細胞生物では、創傷治癒、免疫応答、がん転移などの過程で細胞が移動することがある。たとえば、動物の創傷治癒では、白血球が創傷部位に移動し、感染の原因となる微生物を殺滅する。細胞の運動性には、多くの受容体、架橋、結束、結合、接着、モーター、その他のタンパク質が関与している。その過程は3段階に分けられる。順に、細胞の前縁の突出、前縁の接着と細胞体と後方との脱接着、細胞を前方に引っ張るための細胞骨格の収縮である。各段階は、細胞骨格の固有の部位から発生する物理的な力によって駆動される。
2020年8月、科学者は、細胞(特に粘菌の細胞や、マウスの膵臓がん由来の細胞)が体内を効率的に移動するための最適な経路を特定する方法について発表した。細胞は、拡散した化学誘引物質を、角を曲がるなどする前に分解して濃度勾配を生成することで、次の分岐点を感知することができるという。
細胞の死は生物が成長する各段階において見られ、例えばオタマジャクシの尾が収縮する例が挙げられる。その死には遺伝子にあらかじめ組み込まれた情報に則ったものから、偶発的な場合もある。自発的な細胞死はアポトーシス、偶発的な細胞死(壊死)はネクローシスと呼ばれる。
単細胞生物とは対照的に、多細胞生物は、複数の細胞から構成される生物である。
複雑な多細胞生物では、各細胞は特定の機能に適応した異なる細胞型(英語版)に特化している。哺乳動物の場合、主な細胞型として皮膚細胞、筋細胞、神経細胞、血液細胞、線維芽細胞、幹細胞などがある。細胞型が異なれば外見も機能も異なるが、遺伝学的には同じである。同じ遺伝子型でも、含まれる遺伝子の発現の差異(差次的発現変動)により、異なる細胞型になることがある。
ほとんどの異なる細胞型は、接合子と呼ばれる単一の全能性細胞であるから発生し、発生過程(英語版)で数百の異なる細胞型に分化する。細胞の分化は、さまざまな環境要因(細胞間相互作用など)と内在性の違い(分裂時の分子分布の不均等など)によって引き起こされる。
多細胞性(英語版)は、真核生物で少なくとも25回進化しており、原核生物でもシアノバクテリア、粘菌細菌、放線菌、Magnetoglobus multicellularis、メタノサルキナ属などで独自に進化してきた。しかし、動物、真菌類、褐藻類、紅藻類、緑藻類、植物の6つの真核生物グループだけが、複雑な多細胞生物を進化させてきた。植物(緑色植物亜界)では繰り返し進化し、動物では1–2回、褐藻類では1回、真菌類、粘菌類(英語版)、紅藻類ではおそらく数回進化した。多細胞性は、相互依存的な生物のコロニーから、細胞膜形成(英語版)から、あるいは生物の共生関係から進化した可能性がある。
多細胞性の最初の証拠は、30億年から35億年前に生息していたシアノバクテリアのような生物から得られている。初期の多細胞生物の化石には、論争の的になっているグリパニア・スピラリス(Grypania spiralis)や、ガボンにある古原生代のフランスヴィル層群化石(英語版)B層の黒色頁岩の化石などがある。
単細胞の祖先から多細胞性への進化は、捕食を選択圧(英語版)とした進化実験(英語版)によって再現される。
細胞の起源は「生命の起源」と関係し、地球上の生命の歴史(英語版)の始まりでもある。
初期地球(英語版)に生命が誕生するきっかけとなった小分子の起源については、いくつかの理論がある。たとえば、隕石に乗って地球に運ばれてきた説(マーチソン隕石を参照)、深海の噴出孔で形成された説、還元性大気の中で雷によって合成された説(ユーリー-ミラーの実験を参照)などがある。最初の自己複製形態が何であったかを明らかにする実験データはほとんどない。RNAは遺伝情報を保存し、化学反応を触媒することができるため、最も初期の自己複製分子であると考えられているが(RNAワールド仮説を参照)、粘土やペプチド核酸など、自己複製可能な他の物質がRNAより前に存在していた可能性もある。細胞は少なくとも35億年前に誕生した。現在の見解では、これらの細胞は従属栄養生物と考えられている。初期の細胞膜は、おそらく現代のものより単純で透過性が高く、脂質1分子につき脂肪酸鎖が1本しかなかった。脂質は水中で自発的に二重膜小胞を形成することが知られており、RNAに先行していた可能性もあるが、RNA触媒によって最初の細胞膜が生成された可能性や、膜の形成前に構造タンパク質が必要であった可能性もある。
真核細胞は約22億年前に、真核生物発生(英語版)(eukaryogenesis)として知られる過程で誕生した。これには、古細菌と細菌が一緒になって最初の真核生物の共通祖先(英語版)を誕生させた共生発生が関係していると広く受け入れられている。これらの細胞は、細胞核と条件的好気性ミトコンドリアを持ち、新たなレベルの複雑さと能力を備えていた。この細胞は約20億年前に最後の真核生物の共通祖先を含む単細胞生物の集団へと進化し、その過程で能力を獲得したが、その一連の過程については議論があり、共生発生から始まったわけではない可能性もある。その細胞は、少なくとも一つの中心小体と繊毛、性(減数分裂と異型配偶子融合(英語版))、ペルオキシソーム、そしてキチンやセルロースの細胞壁を持つ休眠嚢胞を持っていた。やがて真核生物の最後の共通祖先は、動物、真菌類、植物、そして多様な単細胞生物の祖先を含む真核生物のクラウングループを生み出した。約16億年前、シアノバクテリア由来の葉緑体を加えた2度目の共生発生によって、緑色植物が誕生した。
ヒトの細胞は、最小のリンパ球で直径約5 μm、最大のひとつ卵子は約120 μmある。一般的な細胞は10–20 μmである。ヒトの体には生殖細胞と体細胞があり、そのほとんどを占める体細胞は約200種で、増殖方法から大きく3種類の組織に分けられる。
日本語:
英語: | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "細胞(さいぼう、英: cell)はすべての生命体(英語版)の構造と機能の基本的な単位である。すべての細胞は、細胞膜に包まれた細胞質で構成され、その中にはタンパク質、DNA、RNAなどの多くの高分子と、栄養素や代謝産物などの多くの小分子が含まれている。この言葉は「小さな部屋」を意味するラテン語の cellula に由来する。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "細胞は特定の機能を獲得し、複製、DNA修復、タンパク質合成、運動性など、細胞内でさまざまな仕事を遂行することができる。細胞は特殊化し、細胞間を移動することができる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "ほとんどの動物細胞や植物細胞は、光学顕微鏡でしか見ることができず、その大きさは1–100 μm(マイクロメートル)である。電子顕微鏡では、より高い解像度で細胞構造を詳細に観察することができる。生物は単細胞生物(細菌などの単一細胞からなる)と多細胞生物(植物や動物を含む)に分類される。ほとんどの単細胞生物は微生物に分類される。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "細胞とその働きに関する研究は、DNAの発見、がんシステム生物学(英語版)、老化、発生生物学など、生物学の関連分野における他の多くの研究につながっている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "細胞生物学は、1665年にロバート・フックによって発見された細胞を研究する学問である。フックは、この細胞がキリスト教の修道院で修道士が暮らす庵室(英語版)に似ていることから、この名前をつけた。細胞理論は、1839年にマティアス・ヤーコプ・シュライデンとテオドール・シュワンによって初めて提唱されたもので、すべての生物は一つまたは複数の細胞から構成され、細胞はすべての生物の構造と機能の基本的な単位であり、すべての細胞は既存の細胞から生じるというものである。細胞が地球上に初めて出現したのは約40億年前と考えられている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "時が経つにつれ、顕微鏡が改良され、より高倍率の技術で細胞を発見することができるようになった。この発見に対するロバート・フックの貢献は大きく、細胞生物学として知られる細胞の科学的研究が始まった。彼はコルク片を観察し、拡大して細胞を発見することができた。当時、このような細胞を見た人は誰もいないと思われていただけに、これは衝撃的な出来事であった。彼の理論をさらに裏付けるために マティアス・シュライデンとテオドール・シュワンは動物や植物の細胞も研究した。彼らは、2種類の細胞の間には大きな違いがあることを発見した。その結果、細胞は植物だけでなく、動物にとっても基本的なものだという考えが生まれた。",
"title": "発見"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "動植物の細胞数は生物種によって異なる。人体には約37兆個(3.72×10)の細胞があり(2013年)、そのうち約800億個は脳が占めていると推定されている。Hattonらによる最近の研究では(2023年)、人体の細胞数を約30兆個(男性で約36兆個、女性で約28兆個)と推定し、臓器ごとの細胞数を報告している。",
"title": "細胞の数"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "細胞は、核を持つ真核細胞と、核は持たないが核様体領域を持つ原核細胞に大別される。原核生物は単細胞生物であるのに対し、真核生物は単細胞生物か多細胞生物のどちらかである。",
"title": "細胞の種類"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "原核生物(げんかくせいぶつ、英: Prokaryote)には、生命の3つ(英語版)のドメインのうち、細菌と古細菌の2つが含まれる。原核細胞は地球上で最初の生命体であり、細胞シグナル伝達などの重要な生物学的プロセスを持つことが特徴である。これは、真核細胞よりも単純で小さく、核や膜結合細胞小器官を持たない。原核細胞のDNAは、細胞質に直接接触した単一の環状染色体(英語版)から構成されている。細胞質内の核領域は核様体と呼ばれる。ほとんどの原核生物は、直径0.5–2.0 μmと、すべての生物の中で最も小さい。",
"title": "細胞の種類"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "原核細胞は3つの領域から構成される。",
"title": "細胞の種類"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "細胞形態(cell morphology)とも呼ばれる細胞の形状は、細胞骨格の配置と動作から形成されると考えられている。細胞形態の研究における多くの進歩は、黄色ブドウ球菌(Staphylococcus aureus)、大腸菌(Escherichia coli)、枯草菌(Bacillus subtilis)のような単純な細菌の研究からもたらされた。さまざまな細胞の形状が発見され、記述されてきたが、細胞がどのようにして、またなぜさまざまな形状を形成するのかは、まだほとんど解明されていない。確認されている細胞の形状は、桿菌、球菌、スピロヘータなどである。球菌は円形、桿菌は細長い棒状、スピロヘータはらせん状である。",
"title": "細胞の種類"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "植物、動物、真菌類、粘菌類、原生動物、そして藻類はすべて真核生物(しんかくせいぶつ、英: Eukaryote)である。これらの細胞の幅は一般的な原核生物の約15倍で、体積は1,000倍にもなることがある。原核生物と比較した場合の真核生物の主な特徴は、区画化(英語版)、すなわち特定の活動を行う膜結合細胞小器官(区画)の存在である。その中でもっとも重要なものは細胞核(核)であり、細胞のDNAを収容する細胞小器官である。この核が「真の核」(英: true kernel (nucleus))を意味する真核生物という名前の由来である。そのほかに次のような違いがある。",
"title": "細胞の種類"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "原核生物であれ真核生物であれ、すべての細胞には細胞を包み込み、出入りするものを調節し(選択的透過性)、細胞の電位を維持する膜がある。膜の内側では、細胞質が細胞容積の大部分を占めている。ヘモグロビンを最大限に収納するために細胞核もほとんどの細胞小器官を持たない赤血球を除けば、すべての細胞は遺伝情報の伝達物質であるDNAと、細胞の主要な機械である酵素などさまざまなタンパク質を合成するのに必要な情報を含むRNAを持っている。細胞内には、他にもさまざまな生体分子が存在する。この記事では、これらの主要な細胞成分(英語版)を列挙し、その機能を簡単に説明する。",
"title": "細胞の構造"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "細胞膜(cell membrane)は原形質膜(plasma membrane)とも呼ばれ、細胞の細胞質を取り囲む選択的透過性の生体膜である。動物では原形質膜が細胞の外側の境界であるが、植物や原核生物では膜の外側は細胞壁で覆われていることが多い。この膜は、細胞を周囲の環境から分離し保護する役割を果たし、ほとんどが両親媒性(一部が疎水性で一部が親水性)のリン脂質からなる二重層でできている。そのため、この層はリン脂質二重膜、または流体モザイク膜と呼ばれることもある。この膜の中には、細胞の一般的な分泌孔となるポロソーム(英語版)と呼ばれる高分子構造体と、さまざまな分子を細胞内外に移動させるチャネルやポンプとして働くさまざまなタンパク質分子が埋め込まれている。膜は、物質(分子やイオン)を自由に通過させるか、限定的に通過させるか、あるいは全く通過させないように、半透過性または選択的透過性という特徴を有している。細胞膜には、受容体タンパク質も含まれており、細胞はホルモンなどの外部のシグナル分子を感知することができる。",
"title": "細胞の構造"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "細胞骨格(cytoskeleton)はさまざまな役割を担い、細胞の形状を組織化・維持し、細胞小器官を所定位置へ固定し、エンドサイトーシス(細胞外物質の細胞内への取り込み)や細胞質分裂(細胞分裂後の娘細胞の分離)を補助し、成長や移動の際には細胞の一部を動かす働きをする。真核生物の細胞骨格は、微小管、中間径フィラメント、およびマイクロフィラメントで構成されている。神経細胞では、中間径フィラメントはニューロフィラメントと呼ばれる。これらに関与するタンパク質は非常に多く、それぞれがフィラメントを方向づけ、束ね、整列させることで細胞の構造を制御している。原核生物の細胞骨格はあまり研究されていないが、細胞の形状、極性、細胞質分裂の維持に関与している。マイクロフィラメントを構成するサブユニットタンパク質は、アクチンと呼ばれる小さな単量体タンパク質である。微小管のサブユニットはチューブリンと呼ばれる二量体分子である。中間径フィラメントはヘテロポリマーであり、そのサブユニットは組織の細胞型によって異なる。中間径フィラメントのサブユニットタンパク質には、ビメンチン、デスミン、ラミン(ラミンA、B、C)、ケラチン(複数の酸性ケラチンおよび塩基性ケラチン)、ニューロフィラメントタンパク質(英語版)(NF-L(英語版)、NF-M(英語版))などがある。",
"title": "細胞の構造"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "生命には、デオキシリボ核酸(DNA)とリボ核酸(RNA)の2種類の遺伝物質(genetic material)がある。細胞はDNAを使用して長期的に情報を保存する。生物に含まれる生物学的情報はDNA配列にコード化されている。RNAは、情報伝達(mRNAなど)や酵素機能(リボソームRNAなど)に使われる。転移RNA(tRNA)分子は、翻訳でタンパク質が作られる際に、アミノ酸を運搬したり付加するのに使われる。",
"title": "細胞の構造"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "原核生物の遺伝物質は、細胞質の核様体領域で単純な環状細菌染色体(英語版)に組織化されている。真核生物では、遺伝物質は染色体と呼ばれる個別の直鎖分子に分割されて細胞核の中に格納され、通常、ミトコンドリアや葉緑体などいくつかの細胞小器官にも遺伝物質が収められている(細胞内共生説を参照)。",
"title": "細胞の構造"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ヒトの細胞では、遺伝物質は細胞核(核ゲノム)とミトコンドリア(ミトコンドリアゲノム)に格納されている。ヒトの場合、核ゲノムは染色体と呼ばれる46本の直鎖DNA分子に分割され、内訳は22対の相同染色体(英語版)と1対の性染色体からなる。ミトコンドリアゲノムは環状DNA分子であり、核ゲノムの直鎖DNAとは異なる。ミトコンドリアDNAは核染色体よりもはるかに小さいが、ミトコンドリアのエネルギー産生に関わる13個のタンパク質と特定のtRNAをコード化している。",
"title": "細胞の構造"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "トランスフェクションと呼ばれる工程によって、外来の遺伝物質(一般的にはDNA)を人為的に細胞内に導入することもできる。そのDNAが細胞のゲノムに挿入されていなければ一過性であり、挿入されていれば安定したものとなる。ある種のウイルスは宿主のゲノムに遺伝物質を挿入する。",
"title": "細胞の構造"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "細胞小器官(英: organelles、羅: organella)とは、一つまたは複数の重要な機能を果たすように適応(または特殊化)された細胞の構成要素であり、人体における臓器の存在に似ている(心臓、肺、腎臓など、それぞれの臓器は異なる機能を果たす)。真核細胞にも原核細胞にも細胞小器官があるが、原核細胞の小器官は一般に単純で、膜結合型ではない。",
"title": "細胞の構造"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "細胞内にはさまざまな細胞小器官がある。単独で存在するもの(核やゴルジ装置など)もあれば、多数(数百から数千)存在するもの(ミトコンドリア、葉緑体、ペルオキシソーム、リソソームなど)もある。細胞質は細胞小器官を取り囲み、細胞内を満たすゲル状の液体である。",
"title": "細胞の構造"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "多くの細胞は、細胞膜の外側に全体的あるいは部分的に存在する構造を持っている。これらはまた、細胞膜によって外部環境から保護されていない点からも注目される。こうした構造体を組み立てるには、その構成成分を細胞膜を越えて輸送しなくてはならない。",
"title": "細胞膜の外側の構造"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "原核細胞や真核細胞の多くには細胞壁がある。細胞壁は、細胞膜のさらなる保護層で、細胞を機械的あるいは化学的に環境から保護する。細胞の種類によって、細胞壁は異なる材料で作られる。植物の細胞壁は主にセルロース、真菌類の細胞壁はキチン、細菌の細胞壁はペプチドグリカンでできている。",
"title": "細胞膜の外側の構造"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "細菌の中には、細胞膜と細胞壁の外側にゲル状の莢膜(きょうまく、capsule)を持つものがある。莢膜は、肺炎球菌や髄膜炎菌では多糖で、炭疽菌ではポリペプチドで、レンサ球菌ではヒアルロン酸でできている。莢膜は通常の染色プロトコールでは標識されないが、インドインク(英語版)やメチルブルーで検出することができ、細胞間のコントラストを高めて観察することができる。",
"title": "細胞膜の外側の構造"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "鞭毛(べんもう、flagella)は、細胞が移動するための細胞小器官である。細菌の鞭毛は細胞膜を通過して細胞質から伸び、細胞壁を貫通する。この鞭毛は、フラジェリンというタンパク質でできた長くて太い糸状の付属器官である。古細菌や真核生物ではそれぞれ異なる種類の鞭毛を持っている。",
"title": "細胞膜の外側の構造"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "線毛(せんもう、fimbria)は性繊毛(pilus)とも呼ばれ、細菌の表面に見られる短くて細い毛のようなフィラメントである。線毛はピリンというタンパク質(抗原性を示す)で構成され、細菌がヒト細胞上の特定の受容体に付着することができる。また、細菌接合(英語版)に関与する繊毛にも特殊な種類がある。",
"title": "細胞膜の外側の構造"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "細胞分裂は、一つの細胞(母細胞と呼ばれる)が二つの娘細胞に分裂する過程である。これにより、多細胞生物では成長(組織成長)につながり、単細胞生物では生殖(栄養生殖)につながる。原核細胞は二分裂によって分裂するが、真核細胞の細胞分裂は通常、有糸分裂と呼ばれる核分裂と、それに続く細胞質分裂という段階を経る。二倍体(英語版)細胞は減数分裂を経て、通常は4個の一倍体細胞を生成する。一倍体(英語版)細胞は多細胞生物の配偶子として働き、融合して新しい二倍体細胞を形成する。",
"title": "細胞プロセス"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "DNA複製、言い換えれば細胞のゲノムを複製する過程は、細胞が有糸分裂あるいは二分裂によって分裂するたびに行われる。これは細胞周期のS期に起こる。",
"title": "細胞プロセス"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "減数分裂では、DNAは1回だけ複製され、細胞は2回分裂する。DNA複製は減数分裂I(英語版)の前にのみ行われる。DNA複製は、細胞の2回目の分裂である減数分裂II(英語版)には起こらない。他の細胞活動と同様、複製を行うには特殊なタンパク質が必要である。",
"title": "細胞プロセス"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "すべての生物の細胞は、DNAの損傷を走査し、検出された損傷を修復する酵素系を持っている。細菌からヒトに至るまで、生物の中ではさまざまな修復過程が進化してきた。こうした修復過程が広く普及していることは、突然変異につながる可能性のある損傷による細胞死や複製誤りを避けるために、細胞のDNAを未損傷の状態に維持することの重要性を示している。大腸菌(E. coli)は、多様で明確に説明されたDNA修復過程を持つ、よく研究された細胞生物である。これには、ヌクレオチド除去修復、DNAミスマッチ修復、二本鎖切断に対する非相同末端結合、組換え修復および光依存性修復(光回復)などが含まれる。",
"title": "細胞プロセス"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "連続する細胞分裂の間、細胞は細胞代謝の作用によって成長する。細胞代謝とは、個々の細胞が栄養分子を処理する過程である。代謝には2つの区分があり、細胞が複雑な分子を分解してエネルギーと還元力を生成する異化作用と、細胞がエネルギーと還元力を使って複雑な分子を作り出したり、別の生物学的機能を果たす同化作用である。生物が消費する複雑な糖は、グルコースなどの単糖類と呼ばれる、より単純な糖分子に分解される。細胞内では、グルコースは2つの異なる経路を経て分解され、容易に利用可能なエネルギーを持つアデノシン三リン酸(ATP)分子を作る。",
"title": "細胞プロセス"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "細胞プロセス"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "細胞には、新しいタンパク質を合成する能力があり、これは細胞活動の調節や維持に不可欠である。この過程では、DNA/RNAにコード化された情報に基づいて、アミノ酸の構成要素から新しいタンパク質分子が形成される。タンパク質合成は一般に、転写と翻訳という2つの大きな段階からなる。",
"title": "細胞プロセス"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "転写とは、DNAの遺伝情報を使用して相補的なRNA鎖を生成する過程のことである。このRNA鎖は伝令RNA(mRNA)分子として加工され、細胞内を自由に移動できるようになる。mRNA分子は、細胞質でリボソームと呼ばれるタンパク質-RNA複合体に結合し、そこでポリペプチド配列に翻訳される。リボソームは、mRNA配列に基づくポリペプチド配列の形成を仲介する。mRNAの配列は、リボソーム内の結合ポケットで転移RNA(tRNA)アダプター分子に結合することにより、ポリペプチド配列に直接に関与する。そして新しいポリペプチドは、機能的な三次元のタンパク質分子に折り畳まれる。",
"title": "細胞プロセス"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "単細胞生物は食物を探したり、捕食者から逃れるために移動することができる。一般的な運動機構には鞭毛や繊毛がある。",
"title": "細胞プロセス"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "多細胞生物では、創傷治癒、免疫応答、がん転移などの過程で細胞が移動することがある。たとえば、動物の創傷治癒では、白血球が創傷部位に移動し、感染の原因となる微生物を殺滅する。細胞の運動性には、多くの受容体、架橋、結束、結合、接着、モーター、その他のタンパク質が関与している。その過程は3段階に分けられる。順に、細胞の前縁の突出、前縁の接着と細胞体と後方との脱接着、細胞を前方に引っ張るための細胞骨格の収縮である。各段階は、細胞骨格の固有の部位から発生する物理的な力によって駆動される。",
"title": "細胞プロセス"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2020年8月、科学者は、細胞(特に粘菌の細胞や、マウスの膵臓がん由来の細胞)が体内を効率的に移動するための最適な経路を特定する方法について発表した。細胞は、拡散した化学誘引物質を、角を曲がるなどする前に分解して濃度勾配を生成することで、次の分岐点を感知することができるという。",
"title": "細胞プロセス"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "細胞の死は生物が成長する各段階において見られ、例えばオタマジャクシの尾が収縮する例が挙げられる。その死には遺伝子にあらかじめ組み込まれた情報に則ったものから、偶発的な場合もある。自発的な細胞死はアポトーシス、偶発的な細胞死(壊死)はネクローシスと呼ばれる。",
"title": "細胞プロセス"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "単細胞生物とは対照的に、多細胞生物は、複数の細胞から構成される生物である。",
"title": "多細胞性"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "複雑な多細胞生物では、各細胞は特定の機能に適応した異なる細胞型(英語版)に特化している。哺乳動物の場合、主な細胞型として皮膚細胞、筋細胞、神経細胞、血液細胞、線維芽細胞、幹細胞などがある。細胞型が異なれば外見も機能も異なるが、遺伝学的には同じである。同じ遺伝子型でも、含まれる遺伝子の発現の差異(差次的発現変動)により、異なる細胞型になることがある。",
"title": "多細胞性"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ほとんどの異なる細胞型は、接合子と呼ばれる単一の全能性細胞であるから発生し、発生過程(英語版)で数百の異なる細胞型に分化する。細胞の分化は、さまざまな環境要因(細胞間相互作用など)と内在性の違い(分裂時の分子分布の不均等など)によって引き起こされる。",
"title": "多細胞性"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "多細胞性(英語版)は、真核生物で少なくとも25回進化しており、原核生物でもシアノバクテリア、粘菌細菌、放線菌、Magnetoglobus multicellularis、メタノサルキナ属などで独自に進化してきた。しかし、動物、真菌類、褐藻類、紅藻類、緑藻類、植物の6つの真核生物グループだけが、複雑な多細胞生物を進化させてきた。植物(緑色植物亜界)では繰り返し進化し、動物では1–2回、褐藻類では1回、真菌類、粘菌類(英語版)、紅藻類ではおそらく数回進化した。多細胞性は、相互依存的な生物のコロニーから、細胞膜形成(英語版)から、あるいは生物の共生関係から進化した可能性がある。",
"title": "多細胞性"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "多細胞性の最初の証拠は、30億年から35億年前に生息していたシアノバクテリアのような生物から得られている。初期の多細胞生物の化石には、論争の的になっているグリパニア・スピラリス(Grypania spiralis)や、ガボンにある古原生代のフランスヴィル層群化石(英語版)B層の黒色頁岩の化石などがある。",
"title": "多細胞性"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "単細胞の祖先から多細胞性への進化は、捕食を選択圧(英語版)とした進化実験(英語版)によって再現される。",
"title": "多細胞性"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "細胞の起源は「生命の起源」と関係し、地球上の生命の歴史(英語版)の始まりでもある。",
"title": "起源"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "初期地球(英語版)に生命が誕生するきっかけとなった小分子の起源については、いくつかの理論がある。たとえば、隕石に乗って地球に運ばれてきた説(マーチソン隕石を参照)、深海の噴出孔で形成された説、還元性大気の中で雷によって合成された説(ユーリー-ミラーの実験を参照)などがある。最初の自己複製形態が何であったかを明らかにする実験データはほとんどない。RNAは遺伝情報を保存し、化学反応を触媒することができるため、最も初期の自己複製分子であると考えられているが(RNAワールド仮説を参照)、粘土やペプチド核酸など、自己複製可能な他の物質がRNAより前に存在していた可能性もある。細胞は少なくとも35億年前に誕生した。現在の見解では、これらの細胞は従属栄養生物と考えられている。初期の細胞膜は、おそらく現代のものより単純で透過性が高く、脂質1分子につき脂肪酸鎖が1本しかなかった。脂質は水中で自発的に二重膜小胞を形成することが知られており、RNAに先行していた可能性もあるが、RNA触媒によって最初の細胞膜が生成された可能性や、膜の形成前に構造タンパク質が必要であった可能性もある。",
"title": "起源"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "真核細胞は約22億年前に、真核生物発生(英語版)(eukaryogenesis)として知られる過程で誕生した。これには、古細菌と細菌が一緒になって最初の真核生物の共通祖先(英語版)を誕生させた共生発生が関係していると広く受け入れられている。これらの細胞は、細胞核と条件的好気性ミトコンドリアを持ち、新たなレベルの複雑さと能力を備えていた。この細胞は約20億年前に最後の真核生物の共通祖先を含む単細胞生物の集団へと進化し、その過程で能力を獲得したが、その一連の過程については議論があり、共生発生から始まったわけではない可能性もある。その細胞は、少なくとも一つの中心小体と繊毛、性(減数分裂と異型配偶子融合(英語版))、ペルオキシソーム、そしてキチンやセルロースの細胞壁を持つ休眠嚢胞を持っていた。やがて真核生物の最後の共通祖先は、動物、真菌類、植物、そして多様な単細胞生物の祖先を含む真核生物のクラウングループを生み出した。約16億年前、シアノバクテリア由来の葉緑体を加えた2度目の共生発生によって、緑色植物が誕生した。",
"title": "起源"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ヒトの細胞は、最小のリンパ球で直径約5 μm、最大のひとつ卵子は約120 μmある。一般的な細胞は10–20 μmである。ヒトの体には生殖細胞と体細胞があり、そのほとんどを占める体細胞は約200種で、増殖方法から大きく3種類の組織に分けられる。",
"title": "ヒトの細胞"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "日本語:",
"title": "推薦文献"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "英語:",
"title": "推薦文献"
}
] | 細胞はすべての生命体の構造と機能の基本的な単位である。すべての細胞は、細胞膜に包まれた細胞質で構成され、その中にはタンパク質、DNA、RNAなどの多くの高分子と、栄養素や代謝産物などの多くの小分子が含まれている。この言葉は「小さな部屋」を意味するラテン語の cellula に由来する。 細胞は特定の機能を獲得し、複製、DNA修復、タンパク質合成、運動性など、細胞内でさまざまな仕事を遂行することができる。細胞は特殊化し、細胞間を移動することができる。 ほとんどの動物細胞や植物細胞は、光学顕微鏡でしか見ることができず、その大きさは1–100 μm(マイクロメートル)である。電子顕微鏡では、より高い解像度で細胞構造を詳細に観察することができる。生物は単細胞生物(細菌などの単一細胞からなる)と多細胞生物(植物や動物を含む)に分類される。ほとんどの単細胞生物は微生物に分類される。 細胞とその働きに関する研究は、DNAの発見、がんシステム生物学、老化、発生生物学など、生物学の関連分野における他の多くの研究につながっている。 細胞生物学は、1665年にロバート・フックによって発見された細胞を研究する学問である。フックは、この細胞がキリスト教の修道院で修道士が暮らす庵室に似ていることから、この名前をつけた。細胞理論は、1839年にマティアス・ヤーコプ・シュライデンとテオドール・シュワンによって初めて提唱されたもので、すべての生物は一つまたは複数の細胞から構成され、細胞はすべての生物の構造と機能の基本的な単位であり、すべての細胞は既存の細胞から生じるというものである。細胞が地球上に初めて出現したのは約40億年前と考えられている。 | {{Otheruses|生物学上の基本的な構成単位|政治的意味合いの細胞|細胞 (政党)}}
{{Infobox anatomy
|Name =細胞<!-- Cell -->
|Image =Wilson1900Fig2.jpg
|Caption =[[細胞周期]]の異なる段階にある[[タマネギ]]({{Snamei|Allium cepa}})の根の細胞。{{ill2|エドマンド・ビーチャー・ウィルソン|en|Edmund Beecher Wilson}}によるスケッチ(1900年)
|Image2 =celltypes.svg
|Caption2 =[[真核細胞]]と[[原核細胞]]
}}
'''細胞'''(さいぼう、{{Lang-en-short|cell}})は{{Ill2|生命体の概要|en|Outline of life forms|label=すべての生命体<!--あらゆる形態の生命体-->}}の構造と機能の基本的な単位である。すべての細胞は、[[細胞膜]]に包まれた[[細胞質]]で構成され、その中には[[タンパク質]]、[[デオキシリボ核酸|DNA]]、[[リボ核酸|RNA]]などの多くの[[高分子]]と、[[栄養素]]や[[代謝産物]]などの多くの[[小分子]]が含まれている<ref name="Alberts20022">[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK26863/ Cell Movements and the Shaping of the Vertebrate Body] {{Webarchive |url=https://web.archive.org/web/20200122055346/https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK26863/ |date=2020-01-22 }} in Chapter 21 of ''[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK21054/ Molecular Biology of the Cell] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170927035510/https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK21054/ |date=2017-09-27 }}'' fourth edition, edited by Bruce Alberts (2002) published by Garland Science. The Alberts text discusses how the "cellular building blocks" move to shape developing [[:en:embryo|embryo]]s. It is also common to describe small molecules such as [[:en:amino acid|amino acid]]s as "[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?cmd=Search&db=books&doptcmdl=GenBookHL&term=%22all+cells%22+AND+mboc4%5Bbook%5D+AND+372023%5Buid%5D&rid=mboc4.section.4#23 molecular building blocks] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20200122055404/https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books?cmd=Search&doptcmdl=GenBookHL&term=%22all%2Bcells%22%2BAND%2Bmboc4%5Bbook%5D%2BAND%2B372023%5Buid%5D&rid=mboc4.section.4#23 |date=2020-01-22 }}".</ref>。この言葉は「小さな部屋」を意味する[[ラテン語]]の ''{{lang|la|cellula}}'' に由来する<ref name="npr12">{{Unbulleted list citebundle|{{Cite web |date=September 17, 2010 |title=The Origins Of The Word 'Cell' |url=https://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=129934828&t=1628175572746 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20210805150111/https://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=129934828&t=1628175572746 |archive-date=2021-08-05 |access-date=2021-08-05 |website=[[:en:National Public Radio|National Public Radio]] }}|{{cite encyclopedia |title=cellŭla |encyclopedia=[[:en:A Latin Dictionary|A Latin Dictionary]] |year=1879 |publisher=Charlton T. Lewis and Charles Short |url= http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus:text:1999.04.0059:entry=cellula|access-date= 5 August 2021|isbn= 978-1999855789 |archive-date=7 August 2021|archive-url= https://web.archive.org/web/20210807122358/http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0059%3Aentry%3Dcellula |url-status= live}} }}</ref>。
細胞は特定の機能を獲得し、複製、[[DNA修復]]、タンパク質合成、運動性など、細胞内でさまざまな仕事を遂行することができる。細胞は特殊化し、細胞間を移動することができる。
ほとんどの動物細胞や植物細胞は、[[光学顕微鏡]]でしか見ることができず、その大きさは1–100 μm([[マイクロメートル]])である<ref>{{cite book |last1=Campbell |first1=Neil A. |url=http://www.phschool.com/el_marketing.html |title=Biology: Exploring Life |last2=Williamson |first2=Brad |last3=Heyden |first3=Robin J. |publisher=Pearson Prentice Hall |year=2006 |isbn=978-0132508827 |location=Boston, Massachusetts |access-date=2009-02-16 |archive-date=2014-11-02 |archive-url=https://web.archive.org/web/20141102041816/http://www.phschool.com/el_marketing.html |url-status=live }}</ref>。[[電子顕微鏡]]では、より高い解像度で細胞構造を詳細に観察することができる。生物は[[単細胞生物]]([[細菌]]などの単一細胞からなる)と[[多細胞生物]](植物や動物を含む)に分類される<ref name="NCBI">{{Cite web |url=http://www.ncbi.nlm.nih.gov/About/primer/genetics_cell.html |access-date=2017-07-08 |date=2004-03-30 |title=What Is a Cell? |archive-url=https://web.archive.org/web/20130503014839/http://www.ncbi.nlm.nih.gov/About/primer/genetics_cell.html |archive-date=2013-05-03}}</ref>。ほとんどの単細胞生物は[[微生物]]に分類される。
細胞とその働きに関する研究は、[[分子生物学の歴史|DNAの発見]]、{{Ill2|がんシステム生物学|en|Cancer systems biology}}、[[老化]]、[[発生生物学]]など、[[生物学]]の関連分野における他の多くの研究につながっている。
[[細胞生物学]]は、1665年に[[ロバート・フック]]によって発見された細胞を研究する学問である。フックは、この細胞がキリスト教の修道院で[[修道士]]が暮らす{{Ill2|庵室|en|Monastic cell}}に似ていることから、この名前をつけた<ref name="Karp20092">{{cite book |last=Karp |first=Gerald |title=Cell and Molecular Biology: Concepts and Experiments |date=2009 |publisher=John Wiley & Sons |isbn=978-0470483374 |page=2 |quote=Hooke called the pores cells because they reminded him of the cells inhabited by monks living in a monastery. }}</ref><ref>{{cite book |last=Tero |first=Alan Chong |title=Achiever's Biology |date=1990 |publisher=Allied Publishers |isbn=978-8184243697 |page=36 |quote=In 1665, an Englishman, Robert Hooke observed a thin slice of" cork under a simple microscope. (A simple microscope is a microscope with only one biconvex lens, rather like a magnifying glass). He saw many small box like structures. These reminded him of small rooms called "cells" in which Christian monks lived and meditated.}}</ref>。[[細胞説|細胞理論]]は、1839年に[[マティアス・ヤーコプ・シュライデン]]と[[テオドール・シュワン]]によって初めて提唱されたもので、すべての生物は一つまたは複数の細胞から構成され、細胞はすべての生物の構造と機能の基本的な単位であり、すべての細胞は既存の細胞から生じるというものである<ref>{{cite book |last=Maton |first=Anthea |url=https://archive.org/details/cellsbuildingblo00mato |title=Cells Building Blocks of Life |publisher=Prentice Hall |year=1997 |isbn=978-0134234762 |location=New Jersey}}</ref>。細胞が地球上に初めて出現したのは約40億年前と考えられている<ref name="Origin12">{{cite journal |last=Schopf |first=J. William |last2=Kudryavtsev |first2=Anatoliy B. |last3=Czaja |first3=Andrew D. |last4=Tripathi |first4=Abhishek B. |date=2007 |title=Evidence of Archean life: Stromatolites and microfossils |journal=Precambrian Research |volume=158 |issue=3–4 |pages=141–155 |bibcode=2007PreR..158..141S |doi=10.1016/j.precamres.2007.04.009}}</ref><ref name="Origin22">{{cite journal |last=Schopf |first=J. W. |date=June 2006 |title=Fossil evidence of Archaean life |journal=Philosophical Transactions of the Royal Society of London. Series B, Biological Sciences |volume=361 |issue=1470 |pages=869–885 |doi=10.1098/rstb.2006.1834 |pmc=1578735 |pmid=16754604}}</ref><ref name="RavenJohnson20022">{{cite book |last1=Raven |first1=Peter Hamilton |url=https://archive.org/details/biologyrave00rave |title=Biology |last2=Johnson |first2=George Brooks |publisher=McGraw-Hill Education |year=2002 |isbn=978-0071122610 |page=[https://archive.org/details/biologyrave00rave/page/68 68] |access-date=7 July 2013 |url-access=registration}}</ref><ref>{{Cite web |title=First cells may have emerged because building blocks of proteins stabilized membranes |url=https://www.sciencedaily.com/releases/2019/08/190812155502.htm |access-date=2021-09-18 |website=ScienceDaily|archive-date=2021-09-18 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210918102211/https://www.sciencedaily.com/releases/2019/08/190812155502.htm |url-status=live }}</ref>。
== 発見 ==
{{main|[[細胞説|細胞理論]]}}
時が経つにつれ、[[顕微鏡]]が改良され、より高倍率の技術で細胞を発見することができるようになった。この発見に対する[[ロバート・フック]]の貢献は大きく、[[細胞生物学]]として知られる細胞の科学的研究が始まった。彼はコルク片を観察し、拡大して細胞を発見することができた。当時、このような細胞を見た人は誰もいないと思われていただけに、これは衝撃的な出来事であった。彼の理論をさらに裏付けるために [[マティアス・シュライデン]]と[[テオドール・シュワン]]は動物や植物の細胞も研究した。彼らは、2種類の細胞の間には大きな違いがあることを発見した。その結果、細胞は植物だけでなく、動物にとっても基本的なものだという考えが生まれた。
== 細胞の数 ==
動植物の細胞数は生物種によって異なる。[[人間|人体]]には約37兆個(3.72×10<sup>13</sup>)の細胞があり(2013年)<ref>{{Cite journal |last1=Bianconi |first1=Eva |last2=Piovesan |first2=Allison |last3=Facchin |first3=Federica |last4=Beraudi |first4=Alina |last5=Casadei |first5=Raffaella |last6=Frabetti |first6=Flavia |last7=Vitale |first7=Lorenza |last8=Pelleri |first8=Maria Chiara |last9=Tassani |first9=Simone |last10=Piva |first10=Francesco |last11=Perez-Amodio |first11=Soledad |date=2013-11-01 |title=An estimation of the number of cells in the human body |journal=Annals of Human Biology |volume=40 |issue=6 |pages=463–471 |doi=10.3109/03014460.2013.807878 |issn=0301-4460 |pmid=23829164 |hdl=11585/152451 |s2cid=16247166 |doi-access=free }}</ref>、そのうち約800億個は[[ヒトの脳|脳]]が占めていると推定されている<ref name="JCN2">{{cite journal |display-authors=3 |last=Azevedo |first=Frederico A.C. |last2=Carvalho |first2=Ludmila R.B. |last3=Grinberg |first3=Lea T. |last4=Farfel |first4=José Marcelo |last5=Ferretti |first5=Renata E.L. |last6=Leite |first6=Renata E.P. |last7=Filho |first7=Wilson Jacob |last8=Lent |first8=Roberto |last9=Herculano-Houzel |first9=Suzana |date=April 2009 |title=Equal numbers of neuronal and nonneuronal cells make the human brain an isometrically scaled-up primate brain |journal=The Journal of Comparative Neurology |volume=513 |issue=5 |pages=532–541 |doi=10.1002/cne.21974 |pmid=19226510 |s2cid=5200449}}</ref>。Hattonらによる最近の研究では(2023年)、人体の細胞数を約30兆個(男性で約36兆個、女性で約28兆個<ref name=":0">{{Cite journal |last=Hatton |first=Ian A. |last2=Galbraith |first2=Eric D. |last3=Merleau |first3=Nono S. C. |last4=Miettinen |first4=Teemu P. |last5=Smith |first5=Benjamin McDonald |last6=Shander |first6=Jeffery A. |date=2023-09-26 |title=The human cell count and size distribution |url=https://pnas.org/doi/10.1073/pnas.2303077120 |journal=Proceedings of the National Academy of Sciences |language=en |volume=120 |issue=39 |doi=10.1073/pnas.2303077120 |issn=0027-8424 |pmc=10523466 |pmid=37722043}}</ref>)と推定し、臓器ごとの細胞数を報告している<ref name=":0" />。
== 細胞の種類 ==
細胞は、[[細胞核|核]]を持つ[[真核細胞]]と、核は持たないが[[核様体]]領域を持つ[[原核細胞]]に大別される。原核生物は[[単細胞生物]]であるのに対し、真核生物は単細胞生物か[[多細胞生物]]のどちらかである<ref>{{Cite web|title=Differences Between Prokaryotic Cell and Eukaryotic Cell @ BYJU'S|url=https://byjus.com/biology/prokaryotic-and-eukaryotic-cells/|access-date=2021-09-18|website=BYJUS|language=en-US|archive-date=2021-10-09|archive-url=https://web.archive.org/web/20211009221816/https://byjus.com/biology/prokaryotic-and-eukaryotic-cells/|url-status=live}}</ref>。
=== 原核細胞 ===
{{main|原核生物}}
[[File:Prokaryote cell.svg|thumb|upright=1.25|典型的な[[原核細胞]]の構造]]
[[原核生物]](げんかくせいぶつ、{{Lang-en-short|Prokaryote}})には、生命の{{Ill2|3ドメイン系|en|Three-domain system|label=3つ}}の[[ドメイン (分類学)|ドメイン]]のうち、細菌と古細菌の2つが含まれる。原核細胞は地球上で最初の[[生命|生命体]]であり、[[細胞シグナル伝達]]などの重要な[[生物学的プロセス]]を持つことが特徴である。これは、真核細胞よりも単純で小さく、[[細胞核|核]]や膜結合細胞[[細胞小器官|小器官]]を持たない。原核細胞の[[デオキシリボ核酸|DNA]]は、細胞質に直接接触した単一の{{Ill2|環状染色体|en|Circular chromosome}}から構成されている。細胞質内の核領域は[[核様体]]と呼ばれる。ほとんどの原核生物は、直径0.5–2.0 μmと、すべての生物の中で最も小さい<ref name="Black 2004 p.">{{cite book |last=Black |first=Jacquelyn G. |title=Microbiology |publisher=Wiley |publication-place=New York Chichester |date=2004 |isbn=978-0-471-42084-2 |page=}}</ref>{{pn|date=September 2023}}。
原核細胞は3つの領域から構成される。
* '''細胞表層''':細胞は{{Ill2|細胞表層|en|Cell envelope}}(細胞エンベロープ)という領域に包まれている。この細胞表層は、一般的に[[細胞壁]]で覆われた[[細胞膜]]からなり、細菌の種類によってはさらに[[莢膜]]と呼ばれる第三の層で覆われている。ほとんどの原核生物は細胞壁と細胞膜の両方を持つが、[[マイコプラズマ|マイコプラズマ属]](細菌)や[[テルモプラズマ|テルモプラズマ属]](古細菌)のように細胞膜の層しか持たない種もある。表層は細胞に剛性を与え、細胞内部を環境から分離し、保護フィルターの役割を果たす。細菌の細胞壁は[[ペプチドグリカン]]でできており、外力に対するさらなる障壁として機能する。また、{{Ill2|低浸透圧性|en|Tonicity|label=低張環境}}での[[浸透圧]]による細胞の膨張や破裂({{Ill2|細胞溶解|en|Cytolysis}})を防ぐ。一部の真核細胞([[植物細胞]]や[[菌類|真菌細胞]])にも細胞壁がある。
* '''細胞質領域''': 細胞内には[[細胞質]]領域があり、そこには[[ゲノム]](DNA)、[[リボソーム]]、およびさまざまな種類の封入体が含まれている<ref name="NCBI" />。遺伝物質は細胞質の内側を自由に移動することができる。原核生物は、[[プラスミド]]と呼ばれる{{Ill2|染色体外DNA|en|Extrachromosomal DNA}}エレメントを持つことがあり、これは通常は環状である。直鎖状の細菌プラスミドは、ライム病を引き起こす{{Ill2|ライム病ボレリア|en|Borrelia burgdorferi}}({{Snamei|Borrelia burgdorferi}})に代表される[[ボレリア属]]({{Snamei|Borrelia}})を含む[[スピロヘータ門|スピロヘータ属]]{{Enlink|Spirochaete|英語版|en}}細菌のいくつかの種で同定されている<ref>European Bioinformatics Institute, [http://www.ebi.ac.uk/2can/genomes/bacteria/Borrelia_burgdorferi.html Karyn's Genomes: Borrelia burgdorferi] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130506040937/http://www.ebi.ac.uk/2can/genomes/bacteria/Borrelia_burgdorferi.html |date=2013-05-06 }}, part of 2can on the EBI-EMBL database. Retrieved 5 August 2012</ref>。細胞核は形成されず、[[デオキシリボ核酸|DNA]]は[[核様体]]として折り畳まれている。プラスミドは、[[抗生物質耐性]]遺伝子などの付加的な遺伝子を[[遺伝コード|コード化]]している。
* '''鞭毛/性線毛''': 外見上、一部の原核生物は、細胞表面から[[鞭毛]](べんもう、{{lang|la|flagellum}}、複:{{lang|la|flagella}})や[[性繊毛]](せいせんもう、{{lang|la|pilus}}、複:{{lang|la|pili}})が突き出ている。これらはタンパク質でできた構造で、細胞間の移動と交信を促進する。
==== 細菌の形状 ====
{{main|細菌#形状・サイズ}}
細胞形態(cell morphology)とも呼ばれる細胞の形状は、[[細胞骨格]]の配置と動作から形成されると考えられている<ref name="Pichoff Lutkenhaus 2007">{{Cite journal |last1=Pichoff |first1=Sebastien |last2=Lutkenhaus |first2=Joe |date=2007-12-01 |title=Overview of cell shape: cytoskeletons shape bacterial cells |journal=Current Opinion in Microbiology |series=Growth and Development |volume=10 |issue=6 |pages=601–605 |doi=10.1016/j.mib.2007.09.005 |pmid=17980647 |pmc=2703429 |issn=1369-5274 }}</ref>。細胞形態の研究における多くの進歩は、[[黄色ブドウ球菌]]({{Snamei|Staphylococcus aureus}})、[[大腸菌]]({{Snamei|Escherichia coli}})、[[枯草菌]]({{Snamei|Bacillus subtilis}})のような単純な細菌の研究からもたらされた<ref name="Kysela-2016">{{Cite journal |last1=Kysela |first1=David T. |last2=Randich |first2=Amelia M. |last3=Caccamo |first3=Paul D. |last4=Brun |first4=Yves V. |date=2016-10-03 |title=Diversity Takes Shape: Understanding the Mechanistic and Adaptive Basis of Bacterial Morphology |journal=PLOS Biology |volume=14 |issue=10 |page=e1002565 |doi=10.1371/journal.pbio.1002565 |pmid=27695035 |pmc=5047622 |issn=1545-7885 |doi-access=free }}</ref>。さまざまな細胞の形状が発見され、記述されてきたが、細胞がどのようにして、またなぜさまざまな形状を形成するのかは、まだほとんど解明されていない。確認されている細胞の形状は、桿菌、球菌、スピロヘータなどである<ref name="Kysela-2016" />。球菌は円形、桿菌は細長い棒状、スピロヘータはらせん状である<ref name="Pichoff Lutkenhaus 2007" />。
=== 真核細胞 ===
{{main|真核生物}}
<!--
[[File:Animal cell structure en.svg|thumb|upright=1.25|典型的な動物細胞の構造]]
[[File:Plant cell structure-en.svg|thumb|upright=1.25|典型的な[[植物細胞]]の構造]]
-->
[[ファイル:Biological cell.svg|thumb|350px|典型的な動物細胞の模式図:(1)[[核小体]](仁)、(2)[[細胞核]]、(3)[[リボソーム]]、(4)[[小胞]]、(5)[[粗面小胞体]]、(6)[[ゴルジ体]]、(7)[[微小管]]、(8)[[滑面小胞体]]、(9)[[ミトコンドリア]]、(10)[[液胞]]、(11)[[細胞質基質]]、(12)[[リソソーム]]、(13)[[中心体]]]]
[[ファイル:Plant cell structure.png|right|350px|thumb|典型的な植物細胞の模式図: 動物細胞との違いは、濃い緑色で描かれている'''細胞壁'''({{lang|en|Cell wall}})、紺色で示されている'''液胞'''({{lang|en|vacuole}})、筋の入った緑色の紡錘形に見える'''葉緑体'''(Chloroplast)、核の左横に描かれた小さな球体である'''白色体'''({{lang|en|Leukoplast}})のほか、細胞質分裂の後にも細胞壁の表面に残り、隣接する細胞と原形質を連絡する通路となる'''原形質連絡'''({{lang|en|Plasmodesmata}})などである。]]
[[植物]]、[[動物]]、[[真菌類]]、[[粘菌|粘菌類]]、[[原生動物]]、そして[[藻類]]はすべて[[真核生物]](しんかくせいぶつ、{{Lang-en-short|Eukaryote}})である。これらの細胞の幅は一般的な原核生物の約15倍で、体積は1,000倍にもなることがある。原核生物と比較した場合の真核生物の主な特徴は、{{Ill2|細胞区画|en|Cellular compartment|label=区画化}}、すなわち特定の活動を行う膜結合[[細胞小器官]](区画)の存在である。その中でもっとも重要なものは[[細胞核]](核)であり、細胞の[[デオキシリボ核酸|DNA]]を収容する細胞小器官である<ref name="NCBI" />。この核が「真の核」({{Lang-en-short|true kernel (nucleus)}})を意味する真核生物という名前の由来である。そのほかに次のような違いがある。
* 細胞膜の機能は原核生物のそれと似ているが、その構造には若干の違いがある。細胞壁はあってもなくてもよい。
* 真核生物のDNAは、[[染色体]]と呼ばれる1本またはそれ以上の直鎖分子に組織化され、[[ヒストン]]タンパク質と結合している。染色体DNAはすべて、膜によって細胞質と隔てられた[[細胞核]]に保存されている<ref name="NCBI" />。DNAは、[[ミトコンドリア]]のような真核細胞小器官の中にも存在することがある。
* 多くの真核細胞は{{Ill2|一次繊毛|en|Primary cilia}}で[[繊毛|繊毛化]]されている。一次繊毛は、化学感覚、{{Ill2|機械感覚|en|Mechanosensation}}、温度感覚{{Enlink|Thermoception|英語版|en}}において重要な役割を果たしている。それぞれの繊毛は、「さまざまな細胞シグナル伝達経路を調整し、時には繊毛運動あるいは細胞の分裂や分化にシグナル伝達を結びつける、感覚細胞[[触角|アンテナ]]と見なすことができる<ref name="Christenson2008">{{cite journal |last1=Satir |first1=P. |last2=Christensen |first2=Søren T. |title=Structure and function of mammalian cilia |journal=Histochemistry and Cell Biology |volume=129 |issue=6 |pages=687–693 |date=June 2008 |pmid=18365235 |pmc=2386530 |doi=10.1007/s00418-008-0416-9 |id=1432-119X }}</ref>」。
* 運動性の真核生物は、{{Ill2|運動毛|en|Motile cilia}}や[[鞭毛]]を使って移動することができる。[[球果植物|針葉樹類]]や[[被子植物|顕花植物]]には運動細胞は存在しない{{cn|date=September 2023}}。真核生物の鞭毛は、原核生物の鞭毛よりも複雑で<ref>{{cite journal |last1=Blair |first1=D. F. |last2=Dutcher |first2=S. K. |title=Flagella in prokaryotes and lower eukaryotes |journal=Current Opinion in Genetics & Development |volume=2 |issue=5 |pages=756–767 |date=October 1992 |pmid=1458024 |doi=10.1016/S0959-437X(05)80136-4 }}</ref>、細胞骨格の一種である微小管がタンパク質繊維で結びついたものである<ref>{{Cite book|和書 |title=細胞の増殖と生体システム |year=1993 |publisher=[[学会出版センター]] |chapter=3.細胞の微細構造とその機能、3.3.真核生物、3.3.2細胞小器官以外の細胞質-細胞骨格、鞭毛、繊毛 |author=松本信二、船越浩海、玉野井逸朗 |isbn=4-7622-6737-6 |pages=56–57}}</ref>。
{{Clear}}
{| class="wikitable" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"
|+原核細胞と真核細胞の特徴の比較
|-
!
![[原核生物]]
![[真核生物]]
|-
!代表的な生物
|[[細菌]]、[[古細菌]]
|[[原生生物]]、[[真菌類]]、[[植物]]、[[動物]]
|-
!典型的な大きさ
|[[マイクロメートル|μm]]<ref name="CampbellBiology320">{{cite book |title=Campbell Biology{{snd}}Concepts and Connections |publisher=Pearson Education |year=2009 |page=320}}</ref>
|≈ 10–100 μm<ref name="CampbellBiology320" />
|-
![[細胞核|核]]の種類
|[[核様体]]領域。真核はない。
|二重膜を持つ真核
|-
![[デオキシリボ核酸|DNA]]
|{{Ill2|環状染色体|en|Circular chromosome|label=環状}}(通常)
|[[ヒストン]][[タンパク質]]を伴う直鎖分子([[染色体]])
|-
![[リボ核酸|RNA]]/[[タンパク質]]合成
|[[細胞質]]内で対をなす
|核内で[[RNA合成]]
細胞質内で[[タンパク質合成]]
|-
![[リボソーム]]
|{{Ill2|原核生物のリボソーム大サブユニット|en|Prokaryotic large ribosomal subunit|label=50S}}と{{Ill2|原核生物のリボソーム小サブユニット|en|Prokaryotic small ribosomal subunit|label=30S}}
|{{Ill2|真核生物のリボソーム大サブユニット (60S)|en|Eukaryotic large ribosomal subunit (60S)|label=60S}}と{{Ill2|真核生物のリボソーム小サブユニット (40S)|en|Eukaryotic small ribosomal subunit (40S)|label=40S}}
|-
!細胞質構造
|ごく少数の構造体
|[[細胞内膜系|内膜]]と[[細胞骨格]]によって高度に構造化されている。
|-
![[走化性|細胞の移動]]
|[[フラジェリン]](鞭毛抗原)でできた[[鞭毛]]
|[[微小管]]を含む鞭毛と[[繊毛]]。[[アクチン]]を含む{{Ill2|葉状仮足|en|Lamellipodium}}と{{Ill2|糸状仮足|en|Filopodia}}。
|-
![[ミトコンドリア]]
|なし
|1~数千個
|-
![[葉緑体]]
|なし
|[[藻類]]および[[植物]]の内部
|-
!組織化
|通常は単細胞
|単細胞、コロニー、特殊な細胞を持つ高等多細胞生物
|-
![[細胞分裂]]
|[[分裂|二分裂]](単純分裂)
|[[有糸分裂]](分裂または出芽)
[[減数分裂]]
|-
![[染色体]]
|単一の染色体
|複数の染色体
|-
![[膜]]
|[[細胞膜]]
|細胞膜と膜結合細胞小器官
|}
== 細胞の構造 ==
[[原核生物]]であれ[[真核生物]]であれ、すべての細胞には細胞を包み込み、出入りするものを調節し(選択的透過性)、[[膜電位|細胞の電位]]を維持する[[細胞膜|膜]]がある。膜の内側では、[[細胞質]]が細胞容積の大部分を占めている。[[ヘモグロビン]]を最大限に収納するために細胞核もほとんどの細胞小器官を持たない[[赤血球]]を除けば、すべての細胞は[[遺伝子|遺伝情報]]の伝達物質である[[デオキシリボ核酸|DNA]]と、細胞の主要な機械である[[酵素]]などさまざまな[[タンパク質]]を[[遺伝子発現|合成する]]のに必要な情報を含む[[リボ核酸|RNA]]を持っている。細胞内には、他にもさまざまな[[生体分子]]が存在する。この記事では、これらの主要な{{Ill2|細胞成分|en|Cellular component|label=}}を列挙し、その機能を簡単に説明する。
=== 細胞膜 ===
{{main|細胞膜}}
[[File: Cell membrane detailed diagram en.svg|thumb|upright=1.35|細胞膜の[[脂質二重層]]の詳細図]]
[[細胞膜]](cell membrane)は原形質膜(plasma membrane)とも呼ばれ、細胞の細胞質を取り囲む[[生体膜#選択的透過性|選択的透過性]]の[[生体膜]]である<ref name="BYJUS">{{Cite web |title=Why is the plasma membrane called a selectively permeable membrane? – Biology Q&A |url=https://byjus.com/questions/why-is-the-plasma-membrane-called-a-selectively-permeable-membrane/ |access-date=2021-09-18 |website=BYJUS |archive-date=2021-09-18 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210918101505/https://byjus.com/questions/why-is-the-plasma-membrane-called-a-selectively-permeable-membrane/ |url-status=live}}</ref>。動物では原形質膜が細胞の外側の境界であるが、植物や原核生物では膜の外側は[[細胞壁]]で覆われていることが多い。この膜は、細胞を周囲の環境から分離し保護する役割を果たし、ほとんどが[[両親媒性分子|両親媒性]](一部が[[疎水性]]で一部が[[親水性]])の[[リン脂質]]からなる[[脂質二重層|二重層]]でできている。そのため、この層は[[リン脂質二重膜]]、または流体モザイク膜と呼ばれることもある。この膜の中には、細胞の一般的な分泌孔となる{{Ill2|ポロソーム|en|Porosome}}と呼ばれる高分子構造体と、さまざまな分子を細胞内外に移動させるチャネルやポンプとして働くさまざまな[[タンパク質]]分子が埋め込まれている<ref name="NCBI" />。膜は、物質([[分子]]や[[イオン]])を自由に通過させるか、限定的に通過させるか、あるいは全く通過させないように、半透過性または選択的透過性という特徴を有している<ref name="BYJUS" />。細胞膜<!-- Cell surface membrane -->には、[[受容体タンパク質]]も含まれており、細胞は[[ホルモン]]などの外部のシグナル分子を感知することができる<ref name="Guyton Hall 2016">{{cite book |last1=Guyton |first1=Arthur C. |last2=Hall |first2=John E. |year=2016 |title=Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology |location=Philadelphia |publisher=Elsevier Saunders |pages=930–937 |url=https://books.google.com/books?id=3sWNCgAAQBAJ |oclc=1027900365 |isbn=978-1-4557-7005-2}}</ref>。
=== 細胞骨格 ===
{{main|細胞骨格|形態形成}}
[[File:DAPIMitoTrackerRedAlexaFluor488BPAE.jpg|thumb|内皮細胞の蛍光画像。核は青色、[[ミトコンドリア]]は赤色、マイクロフィラメントは緑色に染色されている。]]
細胞骨格(cytoskeleton)はさまざまな役割を担い、細胞の形状を組織化・維持し、細胞小器官を所定位置へ固定し、[[エンドサイトーシス]](細胞外物質の細胞内への取り込み)や[[細胞質分裂]]([[細胞分裂]]後の娘細胞の分離)を補助し、成長や移動の際には細胞の一部を動かす働きをする。真核生物の細胞骨格は、[[微小管]]、[[中間径フィラメント]]、および[[マイクロフィラメント]]で構成されている。[[神経細胞]]では、中間径フィラメントは[[ニューロフィラメント]]と呼ばれる。これらに関与するタンパク質は非常に多く、それぞれがフィラメントを方向づけ、束ね、整列させることで細胞の構造を制御している<ref name="NCBI" />。原核生物の細胞骨格はあまり研究されていないが、細胞の形状、[[細胞極性|極性]]、細胞質分裂の維持に関与している<ref>{{cite journal |last1=Michie |first1=K. A. |last2=Löwe |first2=J. |title=Dynamic filaments of the bacterial cytoskeleton |journal=Annual Review of Biochemistry |volume=75 |pages=467–492 |year=2006 |pmid=16756499 |doi=10.1146/annurev.biochem.75.103004.142452 |s2cid=4550126 }}</ref>。マイクロフィラメントを構成する[[サブユニット]]タンパク質は、[[アクチン]]と呼ばれる小さな単量体タンパク質である。微小管のサブユニットは[[チューブリン]]と呼ばれる[[二量体]]分子である。中間径フィラメントは[[ヘテロポリマー]]であり、そのサブユニットは組織の細胞型によって異なる。中間径フィラメントのサブユニットタンパク質には、[[ビメンチン]]、[[デスミン]]、[[ラミン]](ラミンA、B、C)、[[ケラチン]](複数の酸性ケラチンおよび塩基性ケラチン)、{{Ill2|ニューロフィラメントタンパク質|en|Neurofilament proteins}}({{Ill2|ニューロフィラメント軽鎖|en|Neurofilament light polypeptide|label=NF-L}}、{{Ill2|ニューロフィラメント中間鎖|en|NEFM|label=NF-M}})などがある。
=== 遺伝物質 ===
{{main|デオキシリボ核酸|リボ核酸}}
[[File:DNA orbit animated.gif|thumb|[[デオキシリボ核酸]] (DNA) の一部分の構造のアニメーション。2本のらせん状の鎖の間に4種類の塩基が水平に並び、その組み合わせで遺伝情報を表している。]]
生命には、[[デオキシリボ核酸]](DNA)と[[リボ核酸]](RNA)の2種類の[[遺伝物質]]({{lang|en|genetic material}})がある。細胞はDNAを使用して長期的に情報を保存する<ref name="NCBI" />。生物に含まれる生物学的情報はDNA配列に[[遺伝コード|コード化]]されている。RNAは、情報伝達([[伝令RNA|mRNA]]など)や[[酵素]]機能([[リボソームRNA]]など)に使われる。[[転移RNA]](tRNA)分子は、[[翻訳 (生物学)|翻訳]]でタンパク質が作られる際に、[[アミノ酸]]を運搬したり付加するのに使われる。
原核生物の遺伝物質は、細胞質の[[核様体|核様体領域]]で単純な{{Ill2|環状染色体|en|Circular chromosome|label=環状細菌染色体}}に組織化されている。真核生物では、遺伝物質は[[染色体]]と呼ばれる個別の直鎖分子に分割されて細胞核の中に格納され<ref name="NCBI" />、通常、[[ミトコンドリア]]や[[葉緑体]]などいくつかの細胞小器官にも遺伝物質が収められている([[細胞内共生説]]を参照)。
[[ヒトの細胞の一覧|ヒトの細胞]]では、遺伝物質は[[細胞核]]([[核ゲノム]])とミトコンドリア([[ミトコンドリアゲノム]])に格納されている。ヒトの場合、核ゲノムは[[染色体]]と呼ばれる46本の直鎖DNA分子に分割され、内訳は22対の{{Ill2|相同染色体|en|Homologous chromosome|redirect=1}}と1対の[[性染色体]]からなる。ミトコンドリアゲノムは環状DNA分子であり、核ゲノムの直鎖DNAとは異なる。ミトコンドリアDNAは核染色体よりもはるかに小さいが<ref name="NCBI" />、ミトコンドリアのエネルギー産生に関わる13個のタンパク質と特定のtRNAをコード化している。
[[トランスフェクション]]と呼ばれる工程によって、外来の遺伝物質(一般的にはDNA)を人為的に細胞内に導入することもできる。そのDNAが細胞の[[ゲノム]]に挿入されていなければ一過性であり、挿入されていれば安定したものとなる。ある種の[[ウイルス]]は宿主のゲノムに遺伝物質を挿入する。
=== 細胞小器官 ===
{{main|細胞小器官}}
細胞小器官({{lang-en-short|organelles}}、''{{lang-la-short|organella}}'')とは、一つまたは複数の重要な機能を果たすように適応(または特殊化)された細胞の構成要素であり、人体における[[臓器]]の存在に似ている(心臓、肺、腎臓など、それぞれの臓器は異なる機能を果たす)<ref name="NCBI" />。真核細胞にも原核細胞にも細胞小器官があるが、原核細胞の小器官は一般に単純で、膜結合型ではない。
細胞内にはさまざまな細胞小器官がある。単独で存在するもの([[細胞核|核]]や[[ゴルジ装置]]など)もあれば、多数(数百から数千)存在するもの([[ミトコンドリア]]、[[葉緑体]]、[[ペルオキシソーム]]、[[リソソーム]]など)もある。[[細胞質]]は細胞小器官を取り囲み、細胞内を満たす[[ゲル]]状の液体である。
==== 真核生物 ====
[[File:HeLa cells stained with Hoechst 33258.jpg|thumb|DNAが青く染色されたヒトのがん細胞(特に[[HeLa細胞]])。中央と右端の細胞は[[間期 (細胞分裂)|間期]]にあるためDNAが拡散し、核全体が標識されている。左側の細胞は[[有糸分裂|有糸分裂期]]で、染色体が[[染色体凝縮|凝縮]]している。]]
* '''細胞核''': 細胞の情報中枢である[[細胞核]](cell nucleus)は、[[真核細胞]]に見られる最も重要な細胞小器官である。核は、細胞の[[染色体]]を収容し、[[DNA複製]]と[[RNA合成]](転写)のほとんどすべてがここで行われる。核は球形で、[[核膜]]と呼ばれる二重の膜によって細胞質と隔てられており、この二つの膜の間の空間を核膜槽と呼ぶ。核膜はDNAを保護する役割を果たし、DNAの構造を誤って傷つけたり、DNAのプロセシング(処理)を妨害したりするさまざまな分子からDNAを隔離している。[[デオキシリボ核酸|DNA]]はプロセシングの過程で[[転写 (生物学)|転写]]され、[[伝令RNA]](mRNA)と呼ばれる特殊な[[リボ核酸|RNA]]に写し取られる。このmRNAは、次に核の外側に運ばれ、そこで特定のタンパク質分子に[[翻訳 (生物学)|翻訳]]される。[[核小体]]は、リボソームサブユニットが組み立てられる、核内にある特別な領域である。原核生物では、DNAのプロセシングは[[細胞質]]で行われる<ref name="NCBI" />。
* '''ミトコンドリアと葉緑体''': これらは細胞のエネルギーを作り出す。[[ミトコンドリア]]({{lang|en|mitochondria}})は自己複製する二重膜結合型の細胞小器官であり、すべての真核細胞の細胞質内にさまざまな数、形状、大きさで存在している<ref name="NCBI" />。[[細胞呼吸|細胞の呼吸]]はミトコンドリアで行われ、[[酸素]]を使って細胞の栄養素(一般的には[[グルコース]])に蓄えられたエネルギーを放出し、[[酸化的リン酸化]]によって[[アデノシン三リン酸|ATP]]を産生し、細胞エネルギーを生み出す([[好気呼吸]]を参照)。ミトコンドリアは原核生物のように[[二分裂]]によって増殖する。葉緑体({{lang|en|chloroplasts}})は植物と藻類のみに存在し、太陽エネルギーを取り込んで[[光合成]]を行い、[[炭水化物]]を生産する。
[[File:Endomembrane system diagram en.svg|thumb|upright=1.25|[[細胞内膜系]]の図]]
* '''小胞体''': [[小胞体]]({{lang|en|endoplasmic reticulum, ER}})は、細胞質内を自由に移動する分子とは対照的に、特定の{{Ill2|化学修飾|en|Chemical modification|label=修飾}}や特定の目的地を目指す分子のための輸送ネットワークである。小胞体には2つの形態があり、一つは[[粗面小胞体]]で、表面にリボソームがあり、小胞体内にタンパク質を分泌する。もう一つは[[滑面小胞体]]で、表面にリボソームがない<ref name="NCBI" />。滑面小胞体はカルシウムイオンの隔離と放出に関与し、[[脂質]]合成の役割も担っている。
* '''ゴルジ装置''': [[ゴルジ装置]]({{lang|en|golgi apparatus}})の主な機能は、細胞内で合成された[[タンパク質]]や[[脂質]]などの[[高分子]]をプロセシングし、輸送のために充填することである。
* '''リソソームとペルオキシソーム''': [[リソソーム]]({{lang|en|lysosomes}})には[[消化酵素]](酸性[[加水分解|加水分解酵素]])が含まれている。これは、余剰または使い古された[[細胞小器官]]、食物粒子、取り込まれた[[ウイルス]]や[[細菌]]などを消化する。リソソームの加水分解酵素は酸性条件下で最適に活性化される。[[ペルオキシソーム]]({{lang|en|peroxisomes}})には、細胞から有毒な[[過酸化物]]を除去する酵素が含まれている。これらの破壊的な酵素を膜結合系の内側に閉じ込めることで、細胞内に収容することができる<ref name="NCBI" />。
* '''中心体''':[[中心体]]({{lang|en|centrosome}})は、[[細胞骨格]]の重要な構成要素である[[微小管]]を組織する。中心体はまた、[[小胞体]]と[[ゴルジ装置]]を介した輸送も制御している。中心体は、2つの直交する[[中心小体]]({{lang|en|centrioles}})から構成され、それぞれが車輪のような組織を持ち、[[細胞分裂]]の際に分離して[[紡錘体]]の形成を助ける。動物細胞では中心体は一つである。また、一部の真菌類や藻類の細胞にも見られる。
* '''液胞''': [[液胞]]({{lang|en|vacuoles}})は細胞内の老廃物を隔離し、植物細胞の水分を貯蔵する。液胞はしばしば「膜に囲まれ、液体で満たされた空間」と表現される。[[アメーバ属]]({{snamei|Amoeba}})に代表される一部の細胞は、水分が多すぎる場合は細胞から水を汲み出すことができる収縮性の液胞がある。植物や真菌細胞の液胞は通常、動物細胞よりも大きい。植物の液胞は、濃度勾配に逆らってイオンを輸送する膜で囲まれている。
==== 真核生物と原核生物 ====
* '''リボソーム''': [[リボソーム]]({{lang|en|ribosomes}})は、[[リボ核酸|RNA]]と[[タンパク質]]分子からなる大きな複合体である<ref name="NCBI" />。リボソームは2つのサブユニットから構成され、核からのRNAを使用してアミノ酸からタンパク質を合成する組み立て工場として機能する。リボソームは、細胞内で自由に遊離するか、膜(真核生物では粗面小胞体、原核生物では細胞膜)に結合している<ref>{{cite journal |last=Ménétret |first=Jean-François |last2=Schaletzky |first2=Julia |last3=Clemons |first3=William M. |last4=Osborne |first4=Andrew R. |last5=Skånland |first5=Sigrid S. |last6=Denison |first6=Carilee |last7=Gygi |first7=Steven P. |last8=Kirkpatrick |first8=Don S. |last9=Park |first9=Eunyong |last10=Ludtke |first10=Steven J. |last11=Rapoport |first11=Tom A. |last12=Akey |first12=Christopher W. |display-authors=3 |title=Ribosome binding of a single copy of the SecY complex: implications for protein translocation |journal=Molecular Cell |volume=28 |issue=6 |pages=1083–1092 |date=December 2007 |pmid=18158904 |doi=10.1016/j.molcel.2007.10.034 |url=https://authors.library.caltech.edu/90566/2/1-s2.0-S1097276507008258-mmc1.pdf |doi-access=free |access-date=2020-09-01 |archive-date=2021-01-21 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210121115905/https://authors.library.caltech.edu/90566/2/1-s2.0-S1097276507008258-mmc1.pdf |url-status=live }}</ref>。
* '''色素体''':[[色素体]](plastids)は、植物細胞や[[ユーグレナ藻]]によく見られる膜結合細胞小器官で、植物や生物の色に影響を与える特定の色素を含んでいる。そしてこれらの色素は、食物を貯蔵し、光エネルギーを得るのにも役立つ。色素体には、特定の色素に基づく3つの種類がある。[[葉緑体]](クロロプラスト)には、[[クロロフィル]]といくつかの[[カロテノイド]]色素が含まれており、光合成の際に光エネルギーの獲得を助ける。[[有色体]](クロモプラスト)には、オレンジ[[カロチン]]や黄色[[キサントフィル]]などの脂溶性カロテノイド色素が含まれ、その合成と貯蔵を助ける。[[白色体]](ロイコプラスト)は色素を持たない色素体で、栄養素の貯蔵に役立っている<ref>{{cite book |last=Sato |first=N. |year=2006 |pages=75–102 |title=The Structure and Function of Plastids |volume=23 |editor1=Wise, R. R. |editor2=Hoober, J. K. |publisher=Springer |chapter=Origin and Evolution of Plastids: Genomic View on the Unification and Diversity of Plastids |isbn=978-1-4020-4060-3 |doi=10.1007/978-1-4020-4061-0_4 |series=Advances in Photosynthesis and Respiration}}</ref>。
== 細胞膜の外側の構造 ==
多くの細胞は、細胞膜の外側に全体的あるいは部分的に存在する構造を持っている。これらはまた、細胞膜によって外部環境から保護されていない点からも注目される。こうした構造体を組み立てるには、その構成成分を細胞膜を越えて輸送しなくてはならない。
=== 細胞壁 ===
{{further|細胞壁}}
原核細胞や真核細胞の多くには[[細胞壁]]がある。細胞壁は、細胞膜のさらなる保護層で、細胞を機械的あるいは化学的に環境から保護する。細胞の種類によって、細胞壁は異なる材料で作られる。植物の細胞壁は主に[[セルロース]]、真菌類の細胞壁は[[キチン]]、細菌の細胞壁は[[ペプチドグリカン]]でできている。
=== 原核生物 ===
==== 莢膜 ====
細菌の中には、細胞膜と細胞壁の外側に[[ゼラチン|ゲル]]状の[[莢膜]](きょうまく、{{lang|en|capsule}})を持つものがある。莢膜は、[[肺炎球菌]]や[[髄膜炎菌]]では[[多糖]]で、[[炭疽菌]]では[[ポリペプチド]]で、[[レンサ球菌]]では[[ヒアルロン酸]]でできている。莢膜は通常の[[染色 (生物学)|染色]]プロトコールでは標識されないが、{{Ill2|インドインク|en|India ink|label=}}や[[メチルブルー]]で検出することができ、細胞間のコントラストを高めて観察することができる<ref>{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=N2GU-DYKkk0C&q=Prokaryotic+india+ink&pg=PA87 |title=Prokaryotes |publisher=Newnes |date=1996 |isbn=978-0080984735 |access-date=November 9, 2020 |archive-date=April 14, 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210414134256/https://books.google.com/books?id=N2GU-DYKkk0C&q=Prokaryotic+india+ink&pg=PA87 |url-status=live }}</ref>{{rp|87}}。
==== 鞭毛 ====
[[鞭毛]](べんもう、{{lang|en|flagella}})は、細胞が移動するための細胞小器官である。細菌の鞭毛は細胞膜を通過して細胞質から伸び、細胞壁を貫通する。この鞭毛は、[[フラジェリン]]というタンパク質でできた長くて太い糸状の付属器官である。古細菌や真核生物ではそれぞれ異なる種類の鞭毛を持っている。
==== 線毛 ====
{{Main|細胞接着}}
[[線毛]](せんもう、{{lang|en|fimbria}})は[[性繊毛]]({{lang|en|pilus}})とも呼ばれ、細菌の表面に見られる短くて細い毛のようなフィラメントである。線毛は[[ピリン]]というタンパク質([[抗原|抗原性]]を示す)で構成され、細菌がヒト細胞上の特定の[[受容体]]に付着することができる。また、{{Ill2|細菌接合|en|Bacterial conjugation}}に関与する繊毛にも特殊な種類がある。
== 細胞プロセス ==
[[File:Three cell growth types.svg|thumb|upright=1.25|[[原核生物]]は[[二分裂]]によって分裂するが、[[真核生物]]は[[有糸分裂]]または[[減数分裂]]によって分裂する。]]
=== 複製 ===
{{main|細胞分裂}}
細胞分裂は、一つの細胞(母細胞と呼ばれる)が二つの娘細胞に分裂する過程である。これにより、多細胞生物では成長([[組織 (生物学)|組織]]成長)につながり、単細胞生物では生殖([[栄養繁殖|栄養生殖]])につながる。原核細胞は[[二分裂]]によって分裂するが、真核細胞の細胞分裂は通常、[[有糸分裂]]と呼ばれる核分裂と、それに続く[[細胞質分裂]]という段階を経る。{{Ill2|二倍体|en|Diploid|redirect=1}}細胞は[[減数分裂]]を経て、通常は4個の[[倍数性#倍数性|一倍体]]細胞を生成する。{{Ill2|一倍体|en|Haploid}}細胞は多細胞生物の[[配偶子]]として働き、融合して新しい二倍体細胞を形成する。
[[DNA複製]]、言い換えれば細胞のゲノムを複製する過程は、細胞が有糸分裂あるいは二分裂によって分裂するたびに行われる<ref name="NCBI" />。これは[[細胞周期]]のS期に起こる。
減数分裂では、DNAは1回だけ複製され、細胞は2回分裂する。DNA複製は{{Ill2|減数分裂I|en|Meiosis I|redirect=1}}の前にのみ行われる。DNA複製は、細胞の2回目の分裂である{{Ill2|減数分裂II|en|Meiosis II|redirect=1}}には起こらない<ref>{{cite book|title=Campbell Biology{{snd}}Concepts and Connections|year=2009|publisher=Pearson Education|page=138}}</ref>。他の細胞活動と同様、複製を行うには特殊なタンパク質が必要である<ref name="NCBI" />。
=== DNA修復 ===
{{main|DNA修復}}
すべての生物の細胞は、[[DNA損傷|DNAの損傷]]を走査し、検出された損傷を[[DNA修復|修復]]する酵素系を持っている<ref>{{cite book |last1=Snustad |first1=D. Peter |last2=Simmons |first2=Michael J. |title=Principles of Genetics |edition=5th |at=DNA repair mechanisms, pp. 364–368}}</ref>。細菌からヒトに至るまで、生物の中ではさまざまな修復過程が進化してきた。こうした修復過程が広く普及していることは、[[突然変異]]につながる可能性のある損傷による[[細胞死]]や複製誤りを避けるために、細胞のDNAを未損傷の状態に維持することの重要性を示している。[[大腸菌]]({{snamei|E. coli}})は、多様で明確に説明されたDNA修復過程を持つ、よく研究された細胞生物である。これには、[[ヌクレオチド除去修復]]、[[DNAミスマッチ修復]]、二本鎖[[切断 (DNA)|切断]]に対する[[非相同末端結合]]、[[相同組換え|組換え修復]]および光依存性修復([[光回復酵素|光回復]])などが含まれる。
=== 成長および代謝 ===
{{main|細胞成長|代謝}}
連続する細胞分裂の間、細胞は細胞代謝の作用によって成長する。細胞代謝とは、個々の細胞が[[栄養素|栄養]]分子を処理する過程である。代謝には2つの区分があり、細胞が複雑な分子を分解して[[化学エネルギー|エネルギー]]と[[還元剤|還元力]]を生成する[[異化作用]]と、細胞がエネルギーと還元力を使って複雑な分子を作り出したり、別の生物学的機能を果たす[[同化作用]]である。生物が消費する複雑な糖は、[[グルコース]]などの[[単糖|単糖類]]と呼ばれる、より単純な糖分子に分解される。細胞内では、グルコースは2つの異なる経路を経て分解され、容易に利用可能なエネルギーを持つ[[アデノシン三リン酸]](ATP)分子を作る<ref name="NCBI" />。
=== タンパク質合成 ===
<!--[[File:Proteinsynthesis.png|thumb|An overview of protein synthesis.<br />Within the [[:en:cell nucleus|nucleus]] of the cell (''light blue''), [[:en:gene|gene]]s (DNA, ''dark blue'') are [[:en:transcription (genetics)|transcribed]] into [[:en:RNA|RNA]]. This RNA is then subject to post-transcriptional modification and control, resulting in a mature [[:en:mRNA|mRNA]] (''red'') that is then transported out of the nucleus and into the [[:en:cytoplasm|cytoplasm]] (''peach''), where it undergoes [[:en:translation (genetics)|translation]] into a protein. mRNA is translated by [[:en:ribosome|ribosome]]s (''purple'') that match the three-base [[:en:codon|codon]]s of the mRNA to the three-base anti-codons of the appropriate [[:en:transfer RNA|tRNA]]. Newly synthesized proteins (''black'') are often further modified, such as by binding to an effector molecule (''orange''), to become fully active.]]-->
{{main|タンパク質生合成}}
細胞には、新しいタンパク質を合成する能力があり、これは細胞活動の調節や維持に不可欠である。この過程では、DNA/RNAに[[遺伝コード|コード化]]された情報に基づいて、[[アミノ酸]]の構成要素から新しいタンパク質分子が形成される。タンパク質合成は一般に、[[転写 (生物学)|転写]]と[[翻訳 (生物学)|翻訳]]という2つの大きな段階からなる。
転写とは、DNAの遺伝情報を使用して[[相補性 (分子生物学)|相補]]的なRNA鎖を生成する過程のことである。このRNA鎖は[[伝令RNA]](mRNA)分子として加工され、細胞内を自由に移動できるようになる。mRNA分子は、[[細胞質]]で[[リボソーム]]と呼ばれるタンパク質-RNA複合体に結合し、そこで[[ポリペプチド]]配列に翻訳される。リボソームは、mRNA配列に基づくポリペプチド配列の形成を仲介する。mRNAの配列は、リボソーム内の結合ポケットで[[転移RNA]](tRNA)アダプター分子に結合することにより、ポリペプチド配列に直接に関与する。そして新しいポリペプチドは、機能的な[[タンパク質構造|三次元]]のタンパク質分子に[[タンパク質フォールディング|折り畳まれる]]。
=== 運動 ===
{{main|運動性}}
単細胞生物は食物を探したり、捕食者から逃れるために移動することができる。一般的な運動機構には[[鞭毛]]や[[繊毛]]がある。
多細胞生物では、[[創傷治癒]]、[[免疫応答]]、[[転移 (医学)|がん転移]]などの過程で細胞が移動することがある。たとえば、動物の創傷治癒では、[[白血球]]が創傷部位に移動し、感染の原因となる微生物を殺滅する。細胞の運動性には、多くの受容体、架橋、結束、結合、接着、モーター、その他のタンパク質が関与している<ref name="Ananthakrishnan Ehrlicher 2007">{{cite journal |last1=Ananthakrishnan |first1=R. |last2=Ehrlicher |first2=A. |title=The forces behind cell movement |journal=International Journal of Biological Sciences |volume=3 |issue=5 |pages=303–317 |date=June 2007 |pmid=17589565 |pmc=1893118 |doi=10.7150/ijbs.3.303 |publisher=Biolsci.org }}</ref>。その過程は3段階に分けられる。順に、細胞の前縁の突出、前縁の接着と細胞体と後方との脱接着、細胞を前方に引っ張るための細胞骨格の収縮である。各段階は、細胞骨格の固有の部位から発生する物理的な力によって駆動される<ref name="Alberts2">{{cite book |last1=Alberts |first=Bruce |title=Molecular biology of the cell |date=2002 |publisher=Garland Science |isbn=0815340729 |pages=973–975 |edition=4th}}</ref><ref name="Ananthakrishnan Ehrlicher 2007" />。
==== 進路決定、制御、および交信 ====
{{See also|{{ill2|サイバネティックス (生物学)|en|Cybernetics#In biology|label=サイバネティックス}}}}
2020年8月、科学者は、細胞(特に粘菌の細胞や、マウスの膵臓がん由来の細胞)が体内を効率的に[[走化性|移動]]するための最適な経路を特定する方法について発表した。細胞は、拡散した[[走化性|化学誘引物質]]を、角を曲がるなどする前に分解して濃度勾配を生成することで、次の分岐点を感知することができるという<ref>{{cite news |last1=Willingham |first1=Emily |title=Cells Solve an English Hedge Maze with the Same Skills They Use to Traverse the Body |url=https://www.scientificamerican.com/article/cells-solve-an-english-hedge-maze-with-the-same-skills-they-use-to-traverse-the-body/ |access-date=7 September 2020 |work=Scientific American |language=en |archive-date=4 September 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200904102655/https://www.scientificamerican.com/article/cells-solve-an-english-hedge-maze-with-the-same-skills-they-use-to-traverse-the-body/ |url-status=live }}</ref><ref>{{cite news |title=How cells can find their way through the human body |url=https://phys.org/news/2020-08-cells-human-body.html |access-date=7 September 2020 |work=phys.org |language=en |archive-date=3 September 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200903220400/https://phys.org/news/2020-08-cells-human-body.html |url-status=live }}</ref><ref>{{cite journal |last=Tweedy |first=Luke |last2=Thomason |first2=Peter A. |last3=Paschke |first3=Peggy I. |last4=Martin |first4=Kirsty |last5=Machesky |first5=Laura M. |last6=Zagnoni |first6=Michele |last7=Insall |first7=Robert H.|title=Seeing around corners: Cells solve mazes and respond at a distance using attractant breakdown |journal=Science |volume=369 |issue=6507 |date=August 2020 |page=eaay9792 |pmid=32855311 |doi=10.1126/science.aay9792 |s2cid=221342551 |url=https://www.science.org/doi/10.1126/science.aay9792 |access-date=2020-09-13 |archive-date=2020-09-12 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200912234645/https://science.sciencemag.org/content/369/6507/eaay9792 |url-status=live }}</ref>。
=== 細胞死 ===
細胞の死は生物が成長する各段階において見られ、例えば[[オタマジャクシ]]の尾が収縮する例が挙げられる。その死には遺伝子にあらかじめ組み込まれた情報に則ったものから、偶発的な場合もある<ref>{{Cite book|和書 |title=生化学辞典第2版 |year=1995 |publisher=[[東京化学同人]] |page=533 |chapter=細胞死 |edition=第2版第6刷 |isbn=4-8079-0340-3}}</ref>。自発的な細胞死は[[アポトーシス]]、偶発的な細胞死(壊死)は[[ネクローシス]]と呼ばれる<ref>{{Cite book|和書 |title=生化学辞典第3版 |year=2000 |publisher=[[東京化学同人]] |edition=第3版第4刷 |isbn=4-8079-0480-9 |chapter=細胞死 |page=572}}</ref>。
== 多細胞性 ==
{{main|多細胞生物}}
=== 細胞の特殊化と分化 ===
{{main|細胞分化}}
[[File:C elegans stained.jpg|thumb|upright|多細胞性の線虫、[[カエノラブディティス・エレガンス]] ({{snamei|Caenorhabditis elegans}}) の顕微鏡画像。全ての細胞核を強調するために染色した。]]
[[単細胞生物]]とは対照的に、多細胞生物は、複数の細胞から構成される[[生物]]である<ref>{{cite book |last=Becker |first=Wayne M. |display-authors=etal |title=The world of the cell |publisher=[[:en:Benjamin Cummings|Pearson Benjamin Cummings]] |year=2009 |isbn=978-0321554185 |page=480}}</ref>。
複雑な多細胞生物では、各細胞は特定の機能に適応した異なる{{Ill2|細胞型|en|Cell type}}に特化している。哺乳動物の場合、主な細胞型として[[皮膚|皮膚細胞]]、[[筋細胞]]、[[神経細胞]]、[[血液細胞]]、[[線維芽細胞]]、[[幹細胞]]などがある。細胞型が異なれば外見も機能も異なるが、[[遺伝学|遺伝学的]]には同じである。同じ[[遺伝子型]]でも、含まれる[[遺伝子]]の[[遺伝子発現の調節|発現の差異]](差次的発現変動)により、異なる細胞型になることがある。
ほとんどの異なる細胞型は、[[接合子]]と呼ばれる単一の[[分化全能性|全能性]]細胞であるから発生し、{{Ill2|個体発生|en|Ontogeny|label=発生過程|redirect=1}}で数百の異なる細胞型に[[細胞分化|分化]]する。細胞の分化は、さまざまな環境要因(細胞間相互作用など)と[[内因性 (生物学)|内在性]]の違い([[細胞分裂|分裂]]時の[[分子]]分布の不均等など)によって引き起こされる。
=== 多細胞性の起源 ===
{{Ill2|多細胞性|en|Multicellularity}}は、真核生物で少なくとも25回進化しており<ref name="Grosberg2007">{{cite journal |last1= Grosberg |first1=R. K. |last2=Strathmann |first2=R. R. |url=http://www-eve.ucdavis.edu/grosberg/Grosberg%20pdf%20papers/2007%20Grosberg%20%26%20Strathmann.AREES.pdf |title=The evolution of multicellularity: A minor major transition? |journal=Annu Rev Ecol Evol Syst |year=2007 |volume=38 |pages=621–654 |doi=10.1146/annurev.ecolsys.36.102403.114735 |access-date=2013-12-23 |archive-date=2016-03-04 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160304121329/http://www-eve.ucdavis.edu/grosberg/Grosberg%20pdf%20papers/2007%20Grosberg%20%26%20Strathmann.AREES.pdf |url-status=dead }}</ref><ref>{{Cite journal|last=Parfrey|first=Laura Wegener|last2=Lahr|first2=Daniel J. G.|date=2013-04|title=Multicellularity arose several times in the evolution of eukaryotes (Response to DOI 10.1002/bies.201100187)|url=https://web.archive.org/web/20140725235332/http://www.producao.usp.br/bitstream/handle/BDPI/45022/339_ftp.pdf?sequence=1&isAllowed=y|journal=BioEssays|volume=35|issue=4|pages=339–347|language=en|doi=10.1002/bies.201200143}}</ref>、原核生物でも[[シアノバクテリア]]、[[粘液細菌|粘菌細菌]]、[[放線菌目|放線菌]]、{{snamei||Magnetoglobus multicellularis}}、[[メタノサルキナ属]]などで独自に進化してきた<ref>{{Cite journal|last=Lyons|first=Nicholas A|last2=Kolter|first2=Roberto|date=2015-04-01|title=On the evolution of bacterial multicellularity|url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1369527414001982|journal=Current Opinion in Microbiology|volume=24|pages=21–28|doi=10.1016/j.mib.2014.12.007|issn=1369-5274|pmc=PMC4380822|pmid=25597443}}</ref>。しかし、動物、真菌類、褐藻類、紅藻類、緑藻類、植物の6つの真核生物グループだけが、複雑な多細胞生物を進化させてきた<ref name="pmid21351878">{{cite journal |last=Popper |first=Zoë A. |last2=Michel |first2=Gurvan |last3=Hervé |first3=Cécile |last4=Domozych |first4=David S. |last5=Willats |first5=William G.T. |last6=Tuohy |first6=Maria G. |last7=Kloareg |first7=Bernard |last8=Stengel |first8=Dagmar B. |display-authors=3 |title=Evolution and diversity of plant cell walls: from algae to flowering plants |journal=Annual Review of Plant Biology |volume=62 |pages=567–590 |date=2011 |pmid=21351878 |doi=10.1146/annurev-arplant-042110-103809 |url=http://public.wsu.edu/~lange-m/Documnets/Teaching2011/Popper2011.pdf |hdl=10379/6762 |s2cid=11961888 |hdl-access=free |access-date=2013-12-23 |archive-date=2016-07-29 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160729224035/http://public.wsu.edu/~lange-m/Documnets/Teaching2011/Popper2011.pdf |url-status=live }}</ref>。植物([[緑色植物亜界]])では繰り返し進化し、[[動物]]では1–2回、[[褐藻類]]では1回、[[真菌類]]、{{Ill2|動菌下門|en|Mycetozoa|label=粘菌類}}、[[紅藻類]]ではおそらく数回進化した<ref>{{cite journal|last=Bonner |first=John Tyler |author-link=[[:en:John Tyler Bonner|John Tyler Bonner]] |year=1998 |title=The Origins of Multicellularity |journal=Integrative Biology |volume=1 |issue=1 |pages=27–36 |url=http://courses.cit.cornell.edu/biog1101/outlines/Bonner%20-Origin%20of%20Multicellularity.pdf |format=PDF, 0.2 MB |issn=1093-4391 |doi=10.1002/(SICI)1520-6602(1998)1:1<27::AID-INBI4>3.0.CO;2-6 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20120308175112/http://courses.cit.cornell.edu/biog1101/outlines/Bonner%20-Origin%20of%20Multicellularity.pdf |archive-date=March 8, 2012 }}</ref>。多細胞性は、相互依存的な生物の[[群体|コロニー]]から、{{Ill2|細胞膜形成|en|Cellularization}}から、あるいは生物の[[共生|共生関係]]から進化した可能性がある。
多細胞性の最初の証拠は、30億年から35億年前に生息していた[[シアノバクテリア]]のような生物から得られている<ref name="Grosberg2007" />。初期の多細胞生物の化石には、論争の的になっているグリパニア・スピラリス({{snamei||Grypania spiralis}})や、[[ガボン]]にある[[古原生代]]の{{Ill2|フランスヴィル生物相|en|Francevillian biota|label=フランスヴィル層群化石}}B層の黒色頁岩の化石などがある<ref>{{cite journal|last=Albani|first=Abderrazak El|author-link=[[:en:Abderrazak El Albani]]|last2=Bengtson|first2=Stefan|last3=Canfield|first3=Donald E.|last4=Bekker|first4=Andrey|last5=Macchiarelli|first5=Roberto|last6=Mazurier|first6=Arnaud|last7=Hammarlund|first7=Emma U.|last8=Boulvais|first8=Philippe|last9=Dupuy|first9=Jean-Jacques|date=July 2010|title=Large colonial organisms with coordinated growth in oxygenated environments 2.1 Gyr ago|journal=Nature|volume=466|issue=7302|pages=100–104|bibcode=2010Natur.466..100A|doi=10.1038/nature09166|pmid=20596019|last10=Fontaine|first10=Claude|last11=Fürsich|first11=Franz T.|last12=Gauthier-Lafaye|first12=François|last13=Janvier|first13=Philippe|last14=Javaux|first14=Emmanuelle|last15=Ossa|first15=Frantz Ossa|last16=Pierson-Wickmann|first16=Anne-Catherine|last17=Riboulleau|first17=Armelle|last18=Sardini|first18=Paul|last19=Vachard|first19=Daniel|last20=Whitehouse|first20=Martin|last21=Meunier|first21=Alain|display-authors=3|s2cid=4331375}}</ref>。
単細胞の祖先から多細胞性への進化は、捕食を{{Ill2|進化的圧力|en|Evolutionary pressure|label=選択圧}}とした{{Ill2|実験進化|en|Experimental evolution|label=進化実験}}によって再現される<ref name="Grosberg2007" />。
==起源==
{{main|{{ill2|生命の進化史|en|Evolutionary history of life}}}}
細胞の起源は「[[生命の起源]]」と関係し、地球上の{{ill2|生命の進化史の年表|en|Timeline of the evolutionary history of life|label=生命の歴史}}の始まりでもある。
=== 原始細胞の起源 ===
[[File:Stromatolites.jpg|thumb|[[ストロマトライト]]は、藍藻とも呼ばれる[[シアノバクテリア]]の死骸が残ったものである。地球上で知られている最古の生命の化石である。この10億年前の化石は、米国の[[グレイシャー国立公園]]で発見された。]]
{{further|生命の起源|{{ill2|細胞の進化|en|Evolution of cells}}}}
{{Ill2|初期地球|en|Early Earth}}に生命が誕生するきっかけとなった[[小分子]]の起源については、いくつかの理論がある。たとえば、[[隕石]]に乗って地球に運ばれてきた説([[マーチソン隕石]]を参照)、[[熱水噴出孔|深海の噴出孔]]で形成された説、還元性大気の中で[[雷]]によって合成された説([[ユーリー-ミラーの実験]]を参照)などがある。最初の自己複製形態が何であったかを明らかにする実験データはほとんどない。[[リボ核酸|RNA]]は遺伝情報を保存し、化学反応を[[触媒]]することができるため、最も初期の[[自己複製]]分子であると考えられているが([[RNAワールド]]仮説を参照)、粘土や[[ペプチド核酸]]など、自己複製可能な他の物質がRNAより前に存在していた可能性もある<ref name="OrgelLE">{{cite journal |last= Orgel |first=L. E. |title=The origin of life--a review of facts and speculations |journal=Trends in Biochemical Sciences |volume=23 |issue=12 |pages=491–495 |date=December 1998 |pmid=9868373 |doi=10.1016/S0968-0004(98)01300-0 }}</ref>。細胞は少なくとも35億年前に誕生した<ref name="Origin1">{{cite journal |last=Schopf |first=J. William |last2=Kudryavtsev |first2=Anatoliy B. |last3=Czaja |first3=Andrew D. |last4=Tripathi |first4=Abhishek B.|date=2007 |title=Evidence of Archean life: Stromatolites and microfossils |journal=Precambrian Research |volume=158 |issue=3–4 |pages=141–155 |bibcode=2007PreR..158..141S |doi=10.1016/j.precamres.2007.04.009 }}</ref><ref name="Origin2">{{cite journal |last= Schopf |first=J. William |title=Fossil evidence of Archaean life |journal=Philosophical Transactions of the Royal Society of London. Series B, Biological Sciences |volume=361 |issue=1470 |pages=869–885 |date=June 2006 |pmid=16754604 |pmc=1578735 |doi=10.1098/rstb.2006.1834 }}</ref><ref name="RavenJohnson2002">{{cite book |last1=Raven |first1=Peter Hamilton |last2=Johnson |first2=George Brooks |title=Biology|url=https://archive.org/details/biologyrave00rave|url-access=registration |access-date=7 July 2013|year=2002|publisher=McGraw-Hill Education|isbn=978-0071122610|page=[https://archive.org/details/biologyrave00rave/page/68 68]}}</ref>。現在の見解では、これらの細胞は[[従属栄養生物]]と考えられている。初期の細胞膜は、おそらく現代のものより単純で透過性が高く、脂質1分子につき脂肪酸鎖が1本しかなかった。脂質は水中で自発的に二重膜[[小胞]]を形成することが知られており、RNAに先行していた可能性もあるが、RNA触媒によって最初の細胞膜が生成された可能性や、膜の形成前に構造タンパク質が必要であった可能性もある<ref>{{cite journal |last= Griffiths |first=G. |title=Cell evolution and the problem of membrane topology |journal=Nature Reviews. Molecular Cell Biology |volume=8 |issue=12 |pages=1018–1024 |date=December 2007 |pmid=17971839 |doi=10.1038/nrm2287 |s2cid=31072778 |doi-access=free }}</ref>。
=== 真核細胞の起源 ===
{{main|{{ill2|真核生物発生|en|Eukaryogenesis}}}}
[[File:Symbiogenesis 2 mergers.svg|thumb|upright=1.8|[[シンビオジェネシス|共生発生説]]では、約22億年前に[[古細菌]]と好気性細菌が融合し、好気性[[ミトコンドリア]]を持つ真核生物が誕生した。さらに、16億年前に2度目の融合が起こり、[[葉緑体]]が加わって緑色植物が誕生した<ref name="latorre" />。]]
[[真核細胞]]は約22億年前に、{{Ill2|真核生物発生|en|Eukaryogenesis}}(eukaryogenesis)として知られる過程で誕生した。これには、[[古細菌]]と[[細菌]]が一緒になって最初の真核生物の{{Ill2|共通祖先|en|Common descent|preserve=1}}を誕生させた[[シンビオジェネシス|共生発生]]が関係していると広く受け入れられている。これらの細胞は、細胞核<ref name="McGrath 2022">{{cite journal |last=McGrath |first=Casey |title=Highlight: Unraveling the Origins of LUCA and LECA on the Tree of Life |journal=Genome Biology and Evolution |volume=14 |issue=6 |date=31 May 2022 |doi=10.1093/gbe/evac072|pmc=9168435 }}</ref><ref name="Weiss et al 2016">{{cite journal |last1=Weiss |first1=Madeline C. |last2=Sousa |first2=F. L. |last3=Mrnjavac |first3=N. |last4=Neukirchen |first4=S. |last5=Roettger |first5=M. |last6=Nelson-Sathi |first6=S. |last7=Martin |first7=William F. |author7-link=William F. Martin |display-authors=3 |s2cid=2997255 |year=2016 |title=The physiology and habitat of the last universal common ancestor |journal=Nature Microbiology |volume=1 |issue=9 |page=16116 |doi=10.1038/nmicrobiol.2016.116 |pmid=27562259 |url=http://complexityexplorer.s3.amazonaws.com/supplemental_materials/3.6+Early+Metabolisms/Weiss_et_al_Nat_Microbiol_2016.pdf }}</ref>と条件的好気性[[ミトコンドリア]]を持ち<ref name="latorre">{{cite book |last1=Latorre |first1=A. |last2=Durban |first2=A |last3=Moya |first3=A. |last4=Pereto |first4=J. |chapter-url=https://books.google.com/books?id=m3oFebknu1cC&pg=PA326 |chapter=The role of symbiosis in eukaryotic evolution |title=Origins and Evolution of Life: An astrobiological perspective |editor1=Gargaud, Muriel |editor2=López-Garcìa, Purificacion |editor3=Martin, H. |year=2011 |location=Cambridge |publisher=Cambridge University Press |pages=326–339 |isbn=978-0-521-76131-4 |access-date=27 August 2017 |archive-date=24 March 2019 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190324055723/https://books.google.com/books?id=m3oFebknu1cC&pg=PA326 |url-status=live }}</ref>、新たなレベルの複雑さと能力を備えていた。この細胞は約20億年前に最後の真核生物の共通祖先を含む単細胞生物の集団へと進化し、その過程で能力を獲得したが、その一連の過程については議論があり、共生発生から始まったわけではない可能性もある。その細胞は、少なくとも一つの[[中心小体]]と[[繊毛]]、性([[減数分裂]]と{{Ill2|異型配偶子融合|en|Syngamy}})、[[ペルオキシソーム]]、そして[[キチン]]や[[セルロース]]の細胞壁を持つ休眠[[嚢胞]]を持っていた<ref>{{cite journal |last=Leander |first=B. S. |title=Predatory protists |journal=Current Biology |volume=30 |issue=10 |pages=R510–R516 |date=May 2020 |pmid=32428491 |doi=10.1016/j.cub.2020.03.052 |s2cid=218710816 |doi-access=free }}</ref><ref name="Strassert Irisarri Williams Burki 2021">{{cite journal |last1=Strassert |first1=Jürgen F. H. |last2=Irisarri |first2=Iker |last3=Williams |first3=Tom A. |last4=Burki |first4=Fabien |title=A molecular timescale for eukaryote evolution with implications for the origin of red algal-derived plastids |journal=Nature Communications |volume=12 |issue=1 |date=25 March 2021 |page=1879 |doi=10.1038/s41467-021-22044-z|pmid=33767194 |pmc=7994803 |bibcode=2021NatCo..12.1879S }}</ref>。やがて真核生物の最後の共通祖先は、[[動物]]、[[真菌類]]、[[植物]]、そして多様な単細胞生物の祖先を含む真核生物の[[クラウングループ]]を生み出した<ref name="Gabaldón">{{cite journal |last=Gabaldón |first=T. |title=Origin and Early Evolution of the Eukaryotic Cell |journal=Annual Review of Microbiology |volume=75 |issue=1 |pages=631–647 |date=October 2021 |pmid=34343017 |doi=10.1146/annurev-micro-090817-062213 |s2cid=236916203 }}</ref><ref name="w1990">{{cite journal |last1=Woese |first1=C.R. |author1-link=Carl Woese |last2=Kandler |first2=Otto |author2-link=Otto Kandler |last3=Wheelis |first3=Mark L. |author3-link=Mark Wheelis |title=Towards a natural system of organisms: proposal for the domains Archaea, Bacteria, and Eucarya |journal=Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America |volume=87 |issue=12 |pages=4576–4579 |date=June 1990 |pmid=2112744 |pmc=54159 |doi=10.1073/pnas.87.12.4576 |bibcode=1990PNAS...87.4576W |doi-access=free }}</ref>。約16億年前、[[シアノバクテリア]]由来の[[葉緑体]]を加えた2度目の共生発生によって、緑色植物が誕生した<ref name="latorre" />。
== ヒトの細胞 ==
{{Main|ヒトの細胞の一覧}}
[[ヒトの細胞の一覧|ヒトの細胞]]は、最小の[[リンパ球]]で直径約5 µm、最大のひとつ[[卵子]]は約120 µmある。一般的な細胞は10–20 µmである。ヒトの体には[[生殖細胞]]と[[体細胞]]があり、そのほとんどを占める体細胞は約200種で、増殖方法から大きく3種類の組織に分けられる<ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=細胞の運命Ⅳ細胞の老化 |year=2006 |publisher=[[サイエンス社]] |edition=初版 |isbn=4-7819-1127-7 |author=井出利憲 |pages=1-10 |chapter=第1章 ヒトを構成する細胞}}</ref>。
*1. 生理的再生系組織では、正常な状態でも常に細胞が再生・機能・死にある3つの群が存在する。[[血液]]の単球は数日から比較的長い[[赤血球]]でも120日程度で死を迎え、一方で[[骨髄]]の[[幹細胞]]から常に再生供給される。その入れ替わりは1分間に数億個に相当する。[[表皮]]や[[消化器系]]の上皮も常に基底部で新しい細胞が作られ、表面の細胞は死んで脱落を繰り返す<ref name=":1"/>。
*2. 条件再生系組織の細胞は、通常ではほとんど増えないが、傷つくなど特別な状況で増殖を行う。[[肝細胞]]はこの顕著な例で、分裂は通常の場合年に1回程度だが、手術などで一部を除去すると猛烈に増殖を行う。例えば肝臓の70%を切除しても1週間程度で元に戻る。この種類の細胞になる幹細胞は未だ発見されていない{{R|":1"}}。
*3. 非再生系組織の細胞は増殖能力が無く、自然には再生しない。[[神経]]細胞、[[骨格筋]]細胞、[[心筋]]細胞など特殊な機能に分化したものがこれに当たり、加齢とともに減少の一途を辿る。筋力トレーニングで骨格筋は太くなるが、これは細胞が増えたのではなく細胞内のタンパク質が増えたものである。同様に肥満も細胞が脂肪を蓄えたためで、細胞の数は基本的に変わらない<ref name=":1"/>。
== 研究史 ==
{{main|[[細胞説|細胞理論]]}}
[[File:RobertHookeMicrographia1665.jpg|thumb|ロバート・フックが描いた[[コルク]]中の細胞のスケッチ(1665年)]]
* 1632–1723: [[アントニ・ファン・レーウェンフック]]は独学で[[レンズ]]を作り、初歩的な[[光学顕微鏡]]を組み立て、雨水から[[ツリガネムシ|ツリガネムシ属]]({{snamei|Vorticella}})などの原生動物や、自らの口中の細菌をスケッチした<ref name="Gest 2004">{{cite journal |last=Gest |first=H. |year=2004 |title=The discovery of microorganisms by Robert Hooke and Antoni Van Leeuwenhoek, fellows of the Royal Society |journal=Notes and Records of the Royal Society of London |volume=58 |issue=2 |pages=187–201 |doi=10.1098/rsnr.2004.0055 |pmid=15209075 |s2cid=8297229}}</ref>。
* 1665: ロバート・フックは、初期の[[光学顕微鏡#概要|複式顕微鏡]]を使って[[コルク]]から細胞を発見し、その後、生きた植物組織から細胞を発見した。彼は著書『[[顕微鏡図譜]](''{{lang|la|Micrographia}}'')』(1665年)の中で、細胞(''cell、''[[ラテン語]]で「小さな部屋」を意味する ''{{lang|la|cellula}}'' から<ref name="npr12"/>)という言葉を作った<ref name="Hooke">{{cite book|和書 |last=Hooke |first=Robert |author-link=[[:en:Robert Hooke]] |title=Micrographia: ... |date=1665 |publisher=Royal Society of London |location=London |page=113 |url=https://archive.org/stream/mobot31753000817897#page/113/mode/2up |quote=... I could exceedingly plainly perceive it to be all perforated and porous, much like a Honey-comb, but that the pores of it were not regular [...] these pores, or cells, [...] were indeed the first microscopical pores I ever saw, and perhaps, that were ever seen, for I had not met with any Writer or Person, that had made any mention of them before this ... |postscript=none}} – Hooke describing his observations on a thin slice of cork. See also: [http://www.ucmp.berkeley.edu/history/hooke.html Robert Hooke] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/19970606013455/http://www.ucmp.berkeley.edu/history/hooke.html|date=1997-06-06}}</ref><ref name="Gest 2004"/>。
* 1839: [[テオドール・シュワン]]と<ref>{{cite book|和書 |last=Schwann |first=Theodor |author-link=[[:en:Theodor Schwann]] |year=1839 |title=Mikroskopische Untersuchungen über die Uebereinstimmung in der Struktur und dem Wachsthum der Thiere und Pflanzen |publisher=Sander |place=Berlin |url=http://www.deutschestextarchiv.de/book/show/schwann_mikroskopische_1839}}</ref>、[[マティアス・ヤーコプ・シュライデン|マティアス・ヤーコブ・シュライデン]]は、動物と植物は細胞からできているという原理を解明し、細胞は構造と発生の共通単位であると結論づけ、[[細胞説|細胞理論]]を確立した。
* 1855: [[ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウ|ルドルフ・ウィルヒョウ]]は、新しい細胞はあらかじめ存在する細胞から細胞分裂によって生じると述べた(『[[b:ラテン語の名言/近世・近代編/omnis_cellula_e_cellula|''omnis cellula ex cellula'']](すべての細胞は細胞から)』。
* 1931: [[エルンスト・ルスカ]]は、[[ベルリン大学]]に最初の[[透過型電子顕微鏡]](TEM)を製作した<ref name="Ruska">{{cite book |title=The Early Development of Electron Lenses and Electron Microscopy |series=Applied Optics |volume=25 |issue=6 |pages=820 |author1=Ernst Ruska |translator=T. Mulvey |isbn=978-3-7776-0364-3 |date=January 1980 |bibcode=1986ApOpt..25..820R }}</ref>。1935年までに、彼は光学顕微鏡の2倍の解像度を持つTEMを構築し、これまでは解像できなかった細胞小器官を明らかにした。
* 1981: [[リン・マーギュリス]]は、『''{{lang|en|Symbiosis in Cell Evolution}}''(細胞進化における共生)』を出版し、[[シンビオジェネシス|共生発生]]によって真核細胞がどのように誕生したかを詳述した<ref name="Cornish-Bowden 2017">{{Cite journal |last=Cornish-Bowden |first=Athel |title=Lynn Margulis and the origin of the eukaryotes |journal=[[:en:Journal of Theoretical Biology|Journal of Theoretical Biology]] |series=The origin of mitosing cells: 50th anniversary of a classic paper by Lynn Sagan (Margulis) |date=7 December 2017 |volume=434 |page=1 |doi=10.1016/j.jtbi.2017.09.027 |pmid=28992902 |bibcode=2017JThBi.434....1C |url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0022519317304459 }}</ref>。
== 参照項目 ==
{{Div col}}
* [[細胞皮質]] - 細胞膜の挙動と細胞表面の特性を調節する、細胞膜の内側にある細胞質タンパク質の層
* [[細胞培養]] - 細胞を制御された条件で増殖させる過程
* {{Ill2|細胞モデル|en|Cellular model}} - インシリコ研究で使われる生物学的細胞の数学的モデル
* {{Ill2|サイトネーム|en|Cytoneme}} - 細胞間のシグナル伝達タンパク質の交換に特化した細い細胞突起
* {{Ill2|サイトリシス|en|Cytorrhysis}}(細胞破壊) - 植物細胞が完全に崩壊した後、内部の陽圧の喪失による細胞壁への永久的かつ修復不可能な損傷
* [[細胞毒性]] - 細胞に対して毒性を示すこと
* [[脂質ラフト]] - シグナル伝達分子のための情報中枢として機能する、細胞膜上のミクロドメイン
* [[ヒトの細胞の一覧]] - ヒトに存在する細胞の種類の一覧表
* {{Ill2|細胞生物学の概要|en|Outline of cell biology}} - 細胞生物学の概要とトピックガイドを示す記事
* {{Ill2|パラカリオン・ミョウジネンシス|en|Parakaryon myojinensis}}({{snamei|Parakaryon myojinensis}}) - 原核生物から真核生物への発展段階を示すと考えられている、両者の特徴を持つ単細胞生物
* [[原形質分離]] - 高張液下で植物細胞が水分を失って細胞壁と細胞膜が分離する現象
* [[合胞体]] - 複数の細胞から生じる多核細胞
* [[トンネルナノチューブ|トンネル・ナノチューブ]] - 動物細胞どうしを接続する細胞膜から伸びる突起
* [[ヴォールト (細胞小器官)]] - 真核細胞にみられる細胞小器官の一つ(機能はまだ完全に解明されていない)
* [[エンドサイトーシス]] - 物質が細胞内に取り込む細胞内の過程
* [[エキソサイトーシス]] - 細胞が分子(神経伝達物質やタンパク質など)を細胞外に輸送する分泌形態
* [[デスモソーム]]- 細胞間の接着に特化した細胞構造体
* [[エンドソーム]] - エンドサイトーシスによって接種された物質が送り込まれる液胞
* [[ギャップ結合]] - 動物細胞タイプの間に形成される細胞間結合のひとつ
* [[密着結合]] - 上皮細胞間での溶質と水分の漏出を防ぐ多タンパク質接合複合体
{{div col end}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 推薦文献 ==
日本語:
* {{Cite book|和書 |title=細胞の分子生物学 第6版 |year=2017 |publisher=ニュートンプレス |isbn=978-4315520620 |author=Alberts, Johnson, Lewis, Raff, Roberts, Walter |translator=中村桂子, 松原謙一 監訳}}
* {{Cite book|和書 |title=Essential細胞生物学 原書第5版 |date=2021/07 |year=2021 |publisher=南江堂 |isbn=9784524226825 |author=Bruce, Alexander |translator=中村桂子, 松原謙一, 榊佳之, 水島昇}}
* {{Cite book|和書 |title=分子細胞生物学 第9版 |date=2023/7/31 |year=2023 |publisher=東京化学同人 |isbn=978-4807920518 |author=H. Lodish ほか |translator=田利明, 須藤和夫, 山本啓一}}
* {{Cite book|和書 |title=クーパー分子細胞生物学 第8版 |date=2022/03/31 |year=2022 |publisher=東京化学同人 |isbn=9784807920259 |author=G. M. Cooper |translator=(監訳) 須藤和夫, 堅田利明 (訳) 榎森康文, 足立博之, 富重道雄, 齋藤康太}}
英語:
{{Refbegin}}
* {{Cite book |last1=Alberts |first1=Bruce |last2=Johnson |first2=Alexander |last3=Lewis |first3=Julian |last4=Morgan |first4=David |last5=Raff |first5=Martin |last6=Roberts |first6=Keith |last7=Walter |first7=Peter |year=2015 |title=Molecular Biology of the Cell |edition=6th |publisher=Garland Science |page=2 |isbn=978-0815344322 |ref={{sfnRef|Alberts}} }}
* {{Cite book |last=Alberts |first=B. |display-authors=etal |title=Molecular Biology of the Cell |edition=6th |publisher=Garland |year=2014 |url=http://www.garlandscience.com/product/isbn/9780815344322 |isbn=978-0815344322 |access-date=2016-07-06 |archive-date=2014-07-14 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140714210549/http://www.garlandscience.com/product/isbn/9780815344322 |url-status=dead }}; The [https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/bv.fcgi?rid=mboc4.TOC&depth=2 fourth edition is freely available] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20091011113848/http://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/bv.fcgi?rid=mboc4.TOC&depth=2 |date=2009-10-11 }} from [[:en:National Center for Biotechnology Information|National Center for Biotechnology Information]] Bookshelf.
* {{Cite book |last=Lodish |first=Harvey |display-authors=etal |title=Molecular Cell Biology |edition=5th |publisher=WH Freeman |location= New York |year=2004 |url=https://archive.org/details/molecularcellbio00harv |isbn=978-0716743668 }}
* {{Cite book |last=Cooper |first=G. M. |title=The cell: a molecular approach |edition=2nd |publisher=ASM Press |location=Washington, D.C |year=2000 |isbn=978-0878931026 |url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/bv.fcgi?rid=cooper.TOC&depth=2 |access-date=2017-08-30 |archive-date=2009-06-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090630030426/http://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/bv.fcgi?rid=cooper.TOC&depth=2 |url-status=live }}
{{Refend}}
== 外部リンク ==
日本語:
* {{Kotobank}}
{{Wiktionary}}
{{Commonscat|Cell types}}
英語:
{{Wikiquote}}
* [http://www.mechanobio.info/ MBInfo – Descriptions on Cellular Functions and Processes]
* [http://publications.nigms.nih.gov/insidethecell/ Inside the Cell] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170720164847/http://publications.nigms.nih.gov/insidethecell/ |date=2017-07-20 }} – a science education booklet by [[:en:National Institutes of Health|National Institutes of Health]], in PDF and [[:en:ePub|ePub]].
* [http://www.biology.arizona.edu/cell_bio/cell_bio.html Cell Biology] in "The Biology Project" of [[:en:University of Arizona|University of Arizona]].
* [http://www.centreofthecell.org/ Centre of the Cell online]<!-- Partly by [[:en:Queen Mary University|Queen Mary University]]. -->
* [http://cellimages.ascb.org/ The Image & Video Library of The American Society for Cell Biology] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110610012208/http://cellimages.ascb.org/ |date=2011-06-10 }}, a collection of peer-reviewed still images, video clips and digital books that illustrate the structure, function and biology of the cell.
* [http://wormweb.org/celllineage WormWeb.org: Interactive Visualization of the ''C. elegans'' Cell lineage] – Visualize the entire cell lineage tree of the nematode ''[[:en:Caenorhabditis elegans|C. elegans]]''
{{Cellular structures}}
{{Biological organization}}
<!--
{{Biotechnology}}
-->
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:さいほう}}
[[Category:細胞生物学|*]]
[[Category:細胞解剖学|*]]
[[Category:細胞|*]] | 2003-03-07T18:48:31Z | 2023-11-25T22:25:02Z | false | false | false | [
"Template:Ill2",
"Template:Lang-la-short",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Refbegin",
"Template:Wikiquote",
"Template:Lang",
"Template:Cn",
"Template:Div col",
"Template:Cite news",
"Template:Kotobank",
"Template:Cellular structures",
"Template:Infobox anatomy",
"Template:Pn",
"Template:Rp",
"Template:Reflist",
"Template:Cite journal",
"Template:Wiktionary",
"Template:Commonscat",
"Template:Biological organization",
"Template:Main",
"Template:Snamei",
"Template:Clear",
"Template:Further",
"Template:See also",
"Template:Webarchive",
"Template:Cite web",
"Template:Normdaten",
"Template:Otheruses",
"Template:Cite book",
"Template:Refend",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Enlink",
"Template:Unbulleted list citebundle",
"Template:Div col end"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E8%83%9E |
3,640 | 細胞分裂 | 細胞分裂(さいぼうぶんれつ)とは、1つの細胞が2個以上の娘細胞に分かれる生命現象。核分裂とそれに引き続く細胞質分裂に分けてそれぞれ研究が進む。単細胞生物では細胞分裂が個体の増殖となる。多細胞生物では、受精卵以後の発生に伴う細胞分裂によって細胞数が増える。それらは厳密な制御機構に裏打ちされており、その異常はたとえばガン化を引き起こす。フィルヒョウは「細胞は細胞から生ず」と言ったと伝えられているが、これこそが細胞分裂を示している。
真核細胞では、細胞分裂期(M期)に先行してDNA複製が起こり(S期)ゲノムが倍加した後、核分裂が起こり、引き続き細胞質分裂が起こる。母細胞がそれと同等な娘細胞を生じる体細胞分裂でも、発生過程中の細胞分裂でも、基本的な機構は同じである。
核分裂が起きながら細胞質分裂が起きない場合、多核体を生じる。
体細胞分裂では染色体数は変わらないが、生殖細胞が配偶子に分化する際などにみられる減数分裂では染色体数が半減する。
受精卵の細胞分裂は卵割ともいう。体細胞分裂と同様の機構で起こるが、分裂後の細胞サイズの成長を伴わない。
また、一度に多数の細胞に分裂することを多分裂と呼ぶが、これは核分裂が繰り返し起こったのち、細胞質分裂が適所に起こる状態で、ショウジョウバエの初期発生に観られるシンシチウムがそれに当たる。
細胞の中央で均等に分裂する等分裂と、偏りをもって分裂する不等分裂がある。後者の場合でも、染色体は均等に分けられる。また細胞運命決定因子が不等分配されることは、発生において重要な役割を担っている。
古くは細胞分裂をまず有糸分裂と無糸分裂に分けたが、現在では無糸分裂はほぼ使われない。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "細胞分裂(さいぼうぶんれつ)とは、1つの細胞が2個以上の娘細胞に分かれる生命現象。核分裂とそれに引き続く細胞質分裂に分けてそれぞれ研究が進む。単細胞生物では細胞分裂が個体の増殖となる。多細胞生物では、受精卵以後の発生に伴う細胞分裂によって細胞数が増える。それらは厳密な制御機構に裏打ちされており、その異常はたとえばガン化を引き起こす。フィルヒョウは「細胞は細胞から生ず」と言ったと伝えられているが、これこそが細胞分裂を示している。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "真核細胞では、細胞分裂期(M期)に先行してDNA複製が起こり(S期)ゲノムが倍加した後、核分裂が起こり、引き続き細胞質分裂が起こる。母細胞がそれと同等な娘細胞を生じる体細胞分裂でも、発生過程中の細胞分裂でも、基本的な機構は同じである。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "核分裂が起きながら細胞質分裂が起きない場合、多核体を生じる。",
"title": "様々な細胞分裂"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "体細胞分裂では染色体数は変わらないが、生殖細胞が配偶子に分化する際などにみられる減数分裂では染色体数が半減する。",
"title": "様々な細胞分裂"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "受精卵の細胞分裂は卵割ともいう。体細胞分裂と同様の機構で起こるが、分裂後の細胞サイズの成長を伴わない。",
"title": "様々な細胞分裂"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "また、一度に多数の細胞に分裂することを多分裂と呼ぶが、これは核分裂が繰り返し起こったのち、細胞質分裂が適所に起こる状態で、ショウジョウバエの初期発生に観られるシンシチウムがそれに当たる。",
"title": "様々な細胞分裂"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "細胞の中央で均等に分裂する等分裂と、偏りをもって分裂する不等分裂がある。後者の場合でも、染色体は均等に分けられる。また細胞運命決定因子が不等分配されることは、発生において重要な役割を担っている。",
"title": "様々な細胞分裂"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "古くは細胞分裂をまず有糸分裂と無糸分裂に分けたが、現在では無糸分裂はほぼ使われない。",
"title": "様々な細胞分裂"
}
] | 細胞分裂(さいぼうぶんれつ)とは、1つの細胞が2個以上の娘細胞に分かれる生命現象。核分裂とそれに引き続く細胞質分裂に分けてそれぞれ研究が進む。単細胞生物では細胞分裂が個体の増殖となる。多細胞生物では、受精卵以後の発生に伴う細胞分裂によって細胞数が増える。それらは厳密な制御機構に裏打ちされており、その異常はたとえばガン化を引き起こす。フィルヒョウは「細胞は細胞から生ず」と言ったと伝えられているが、これこそが細胞分裂を示している。 | {{otheruses||Non Stop Rabbitのアルバム|細胞分裂 (Non Stop Rabbitのアルバム)}}
{{出典の明記|date=2017-02-25}}
[[Image:Three cell growth types.svg|300px|thumb|right|原核細胞の分裂(左)、真核生物の体細胞分裂(中)、同減数分裂〜接合(右)]]
'''細胞分裂'''(さいぼうぶんれつ)とは、1つの[[細胞]]が2個以上の[[娘細胞]]に分かれる生命現象。核分裂とそれに引き続く細胞質分裂に分けてそれぞれ研究が進む。単細胞生物では細胞分裂が個体の増殖となる。多細胞生物では、[[受精卵]]以後の発生に伴う細胞分裂によって細胞数が増える。それらは厳密な制御機構に裏打ちされており、その異常はたとえば[[ガン化]]を引き起こす。[[フィルヒョウ]]は「細胞は細胞から生ず」と言ったと伝えられているが、これこそが細胞分裂を示している。
== 仕組み ==
[[真核細胞]]では、細胞分裂期(M期)に先行してDNA複製が起こり([[S期]])ゲノムが倍加した後、[[有糸分裂|核分裂]]が起こり、引き続き[[細胞質分裂]]が起こる。母細胞がそれと同等な娘細胞を生じる[[体細胞分裂]]でも、発生過程中の細胞分裂でも、基本的な機構は同じである。
== 様々な細胞分裂 ==
核分裂が起きながら細胞質分裂が起きない場合、[[多核体]]を生じる。
[[体細胞分裂]]では[[染色体]]数は変わらないが、[[生殖細胞]]が[[配偶子]]に分化する際などにみられる[[減数分裂]]では染色体数が半減する。
[[受精卵]]の細胞分裂は[[卵割]]ともいう。体細胞分裂と同様の機構で起こるが、分裂後の細胞サイズの成長を伴わない。
また、一度に多数の細胞に分裂することを多分裂と呼ぶが、これは核分裂が繰り返し起こったのち、細胞質分裂が適所に起こる状態で、[[ショウジョウバエ]]の初期発生に観られる[[シンシチウム]]がそれに当たる。
細胞の中央で均等に分裂する等分裂と、偏りをもって分裂する不等分裂がある。後者の場合でも、染色体は均等に分けられる。また細胞運命決定因子が不等分配されることは、[[発生 (生物学)|発生]]において重要な役割を担っている。
古くは細胞分裂をまず[[有糸分裂]]と[[無糸分裂]]に分けたが、現在では無糸分裂はほぼ使われない。
== 関連項目 ==
* [[体細胞分裂]]
* [[減数分裂]]
* [[ゲノム]]
{{Biosci-stub}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:さいほうふんれつ}}
[[Category:細胞周期|ふんれつ]]
[[Category:細胞プロセス|ふんれつ]]
[[Category:テロメア]]
[[Category:細胞生物学]] | null | 2022-06-15T01:53:35Z | false | false | false | [
"Template:Normdaten",
"Template:Otheruses",
"Template:出典の明記",
"Template:Biosci-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E8%83%9E%E5%88%86%E8%A3%82 |
3,643 | 標準模型 | 標準模型(ひょうじゅんもけい、英: Standard Model、略称: SM)とは、素粒子物理学において、強い相互作用、弱い相互作用、電磁相互作用の3つの基本的な相互作用を記述するためのモデルのひとつである。
標準理論(ひょうじゅんりろん)または標準モデル(ひょうじゅんモデル)とも言う。多くの物理現象をほぼ的確に描写する仮説である。
標準模型は、強い相互作用についての量子色力学、弱い相互作用と電磁相互作用についてのワインバーグ=サラム理論をあわせた SU(3)c×SU(2)L×U(1)Y ゲージ対称性を基礎とし、ヒッグス機構による真空の対称性の破れとフェルミオンの質量獲得、アノマリーの相殺の要請によるフェルミオンの世代構造と世代間混合とCP対称性の破れについての小林・益川理論などの理論も組み込まれたものである。標準模型は特殊相対性理論と整合する量子論として、場の量子論的方法で記述され、今のところ重力をのぞき、場の量子論であつかわれるあらゆる事象を的確に描写している。
標準模型の素粒子は力を媒介するスピン1のゲージ粒子、対称性を破るスピン0のヒッグス粒子、物質を構成するスピン1/2のフェルミオンからなる。
標準模型はヤン=ミルズ理論に従い、それぞれのゲージ群に対応するゲージ粒子が存在する。
SU(3)Cに対応するゲージ粒子はグルーオンと呼ばれている。
SU(2)LとU(1)Yに対応するゲージ粒子に関しては、ヒッグス機構によりゲージ場の混合と質量の獲得が起こるので、多少複雑な様相を呈する。ウィークアイソスピン SU(2)L の非対角成分は質量を獲得してWボソンとなり、対角成分とウィークハイパーチャージ U(1)Y は交じり合って、質量を獲得するZボソンと質量を獲得しない光子になる。
フェルミオンは強い相互作用をするクォークと、強い相互作用をしないレプトンに分けられる。さらに、クォークとレプトンは、それぞれ左手型(left-handed)粒子と右手型(right-handed)粒子に分類することができる。標準模型における左手型粒子は電弱相互作用のウィークアイソスピンを持つが、右手型粒子は持たない。そのため、左手型粒子と右手型粒子ではゲージ相互作用の形が異なり、標準模型はゲージ相互作用に関してカイラルな理論となっている。また、この性質のために、電弱対称性がヒッグス機構によって破れないかぎり、全てのクォークとレプトンは質量を持つことができない。全てのクォークと荷電レプトンは、ヒッグス機構によって質量を獲得する。ニュートリノは標準模型の範囲内では質量を持つことはない
フェルミオンは左手型クォークと左手型レプトン、右手型アップクォークと右手型ダウンクォーク、右手型荷電レプトンで世代と呼ばれるグループを構成する。一般に、ゲージ相互作用を含む模型については、カイラルアノマリーと重力アノマリーが相殺されている必要があるが、世代を構成するフェルミオンの間でアノマリーが相殺される構成になっている。標準模型は、3世代のクォークとレプトンが存在する。小林・益川理論によると、フェルミオンの混合によりCP対称性が破れるためには3世代以上のフェルミオンが必要である。実際に、フェルミオンの混合に起因するCP対称性の破れは実験で確認されており、標準模型による予言と良く一致することが確かめられている。
標準模型では、ヒッグス機構により電弱対称性が自発的に破れる。一般に場の揺らぎは粒子として解釈されるが、ヒッグス場の4つある揺らぎの自由度のうち3つは、WボソンとZボソンが質量を持つことに伴い、その縦波成分として吸収される。残りの1自由度は、スピン0のスカラー粒子であるヒッグス粒子としてあらわれる。2012年7月にジュネーブ郊外の欧州原子核研究機構 (CERN) で行われているLHC実験により新粒子の発見が発表された。この新粒子の性質はヒッグス粒子と良く一致しており、その後のスピン-パリティ観測、崩壊後粒子の信号強度の検証により標準模型におけるヒッグス粒子、およびこれを内包する理論によるヒッグス粒子であることが認定された。
標準模型は2014年現在までに行われた素粒子物理学に関する実験結果をほとんど全て矛盾することなく説明することができているが、その一方で、理論的または実験・観測的観点から解決すべき問題をいくつか抱えている。このことは標準模型を超える物理の存在を示唆する。この節では標準模型において未解決の問題を列挙する。
標準模型は基本的な相互作用とされる4つの力のうち、電磁気力、弱い力、強い力の3つをヤン=ミルズ理論に基づき量子論的に記述することに成功している。しかし、残りの1つである重力についてはその記述を欠いている。言い換えれば、重力を媒介するとされる重力子は標準模型の粒子のリストに含まれていない。これは、標準模型の基礎的な枠組みとなっている場の量子論における量子効果による発散の相殺を重力理論に適用できないからである。重力を量子論的に扱うことができる枠組みの候補としては、超弦理論、ループ量子重力理論などが挙げられる。
標準模型が記述する3つの力のうち、強い力は、電磁気力と弱い力とは別のゲージ対称性により記述されている。このため、3つの力を統一的に理解することは難しい。しかし、電磁気力を記述するU(1)ゲージ対称性が S U ( 2 ) L × U ( 1 ) Y {\displaystyle SU(2)_{L}\times U(1)_{Y}} ゲージ対称性がヒッグス機構により自発的に破れた結果あらわれたものであるように、標準模型のゲージ対称性 S U ( 3 ) C × S U ( 2 ) L × U ( 1 ) Y {\displaystyle SU(3)_{C}\times SU(2)_{L}\times U(1)_{Y}} もより大きなゲージ対称性が自発的に破れた結果あらわれたものである可能性が指摘されている。この可能性に基づいた理論は大統一理論と呼ばれている。 S U ( 3 ) C × S U ( 2 ) L × U ( 1 ) Y {\displaystyle SU(3)_{C}\times SU(2)_{L}\times U(1)_{Y}} のおおもととなった大統一理論のゲージ対称性にはいくつか候補があるが、SU(5)、SO(10)、 E 6 {\displaystyle E_{6}} などが提案されている。強い力と電弱相互作用を統一的に記述する大統一理論では、クォークをレプトンに変換するような相互作用が可能になる。具体的な現象としては陽子崩壊が予言される。カミオカンデなどの実験で陽子崩壊を実証するための実験が続けられているが、2014年現在、実験的証拠は得られていない。
標準模型は場の量子論に基づいた模型であるため、物理的に意味のある量を計算するために繰り込みと呼ばれる操作が必要となる。このことと関連して、標準模型ではヒッグス機構による電弱対称性の自発的破れの大きさを観測事実と合わせるために、理論のパラメーターを非常に精密に調整する必要がある。この問題は、プランクスケール(10 GeV)と電弱対称性が破れるスケール(10 GeV)の間に大きな隔たりがあることに起因しており階層性問題と呼ばれている。この問題を解決する模型として提案されているものはいくつかあるが、代表的なものの1つが超対称性模型である。
中性子の電気双極子モーメントの測定により、その大きさは2014年現在の観測精度を下回る値であることが分かっている。このことは、標準模型の弱い相互作用以外の部分でCP対称性がよく成り立っていることを示しており、強い相互作用に関するパラメーターとクォークの湯川行列の位相がCP対称性がよく成り立つような値に設定されていることを意味している。標準模型ではこの2つのパラメーターは特に関連性の無いものであり、精密に調整されているという状況は不自然である。この不自然さの問題は何らかの機構によって解決されるべきであると考えられており、強いCP問題と呼ばれている。解決策の一つとして有力視されているものが、ペッチャイ・クイン機構(英語版)である。この機構によりアクシオンと呼ばれる新しい粒子の存在が予言される。
標準模型のフェルミオンはヒッグスの真空期待値との結合(俗に湯川結合という)により質量を獲得しているが3世代が独立に結合しているわけではない。たとえば荷電レプトンの1世代と2世代とヒッグスという3点結合が存在し、3世代合わせると3×3行列として書ける質量行列として質量を得ている。この質量行列を対角化した後の質量固有状態として物理的なモード、すなわち電子やミュー粒子などのモードが書ける。標準模型の質量行列の要素はフリーパラメータとなっており、その値には数桁の開きがある。またレプトンとクォークでは質量行列の構造が大きく違い、レプトンの質量行列では非対角要素が大きく、クォークの質量行列では非対角要素が比較的小さい値を取っている。すなわち標準模型を使って現実の粒子描像を記述するためには質量パラメータに微細な調整が必要になってくる。この構造を対称性やオーダー1のパラメータを用いた理論から再現する研究が広く進められている。
標準模型における世代を俗にフレーバー(flavor)と呼び、フレーバー構造(flavor structure)、フレーバー物理(flavor physics)、フレーバー混合(flavor mixing)等の呼称で広まっている。
1998年に神岡鉱山に設置されたスーパーカミオカンデによりニュートリノ振動が発見されたが、これは質量を持ったニュートリノが存在することの証明となっている。標準模型ではニュートリノの質量は厳密に0であるため、この実験結果は標準模型には何らかの修正が必要であることを示すものの一つとして重要である。単純にニュートリノの質量項を標準模型の枠組みに加える場合は右巻きニュートリノを導入すればよいが、標準模型の荷電を用いると右巻きニュートリノはマヨラナ粒子となり右巻きニュートリノだけで組む質量項(マヨラナ質量項)が現れ、質量構造が複雑化する。これを取り入れた枠組みとして代表的なものの一つがシーソー機構である。
現在の宇宙のエネルギー密度の約4分の1を暗黒物質が占めていることが明らかになっているが、標準模型には暗黒物質の候補となる粒子が存在しない。そのため、暗黒物質の正体を素粒子に求める場合は標準模型の拡張が必要である。仮説上の粒子として、通常の物質と暗黒物質を繋ぐ役割を持つ「Z’ボゾン」、その他「アクシオン」等が考えられている。2020年現在は未発見である”超対称性粒子”の中の「ゲージーノ」や「ヒグシーノ」の一部が暗黒物質の候補として挙げられている。
標準模型に含まれるフェルミオンは粒子と反粒子の2種類に分類される。粒子と反粒子はほぼ対等な存在であるが我々の住む宇宙では粒子の量が反粒子に比べて多い。この非対称性はバリオン数の非対称性として知られている。標準模型はヒッグスとフェルミオンの結合を通してCP対称性の破れを引き起こすことが可能であり、これにより粒子・反粒子数の非対称性を生み出せることが知られているが、標準模型の持つ位相だけでは十分なバリオン数を作り出すことが出来ないことが知られており標準模型を超える物理の存在を示唆していると考えられている。
2001年、ブルックヘブン国立研究所は、ミューオンの歳差運動が、標準模型の予測からずれている実験結果を報告した。2021年にフェルミ国立加速器研究所のミューオンg-2実験でも同様の結果が示された。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "標準模型(ひょうじゅんもけい、英: Standard Model、略称: SM)とは、素粒子物理学において、強い相互作用、弱い相互作用、電磁相互作用の3つの基本的な相互作用を記述するためのモデルのひとつである。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "標準理論(ひょうじゅんりろん)または標準モデル(ひょうじゅんモデル)とも言う。多くの物理現象をほぼ的確に描写する仮説である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "標準模型は、強い相互作用についての量子色力学、弱い相互作用と電磁相互作用についてのワインバーグ=サラム理論をあわせた SU(3)c×SU(2)L×U(1)Y ゲージ対称性を基礎とし、ヒッグス機構による真空の対称性の破れとフェルミオンの質量獲得、アノマリーの相殺の要請によるフェルミオンの世代構造と世代間混合とCP対称性の破れについての小林・益川理論などの理論も組み込まれたものである。標準模型は特殊相対性理論と整合する量子論として、場の量子論的方法で記述され、今のところ重力をのぞき、場の量子論であつかわれるあらゆる事象を的確に描写している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "標準模型の素粒子は力を媒介するスピン1のゲージ粒子、対称性を破るスピン0のヒッグス粒子、物質を構成するスピン1/2のフェルミオンからなる。",
"title": "標準模型の素粒子"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "標準模型はヤン=ミルズ理論に従い、それぞれのゲージ群に対応するゲージ粒子が存在する。",
"title": "標準模型の素粒子"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "SU(3)Cに対応するゲージ粒子はグルーオンと呼ばれている。",
"title": "標準模型の素粒子"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "SU(2)LとU(1)Yに対応するゲージ粒子に関しては、ヒッグス機構によりゲージ場の混合と質量の獲得が起こるので、多少複雑な様相を呈する。ウィークアイソスピン SU(2)L の非対角成分は質量を獲得してWボソンとなり、対角成分とウィークハイパーチャージ U(1)Y は交じり合って、質量を獲得するZボソンと質量を獲得しない光子になる。",
"title": "標準模型の素粒子"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "フェルミオンは強い相互作用をするクォークと、強い相互作用をしないレプトンに分けられる。さらに、クォークとレプトンは、それぞれ左手型(left-handed)粒子と右手型(right-handed)粒子に分類することができる。標準模型における左手型粒子は電弱相互作用のウィークアイソスピンを持つが、右手型粒子は持たない。そのため、左手型粒子と右手型粒子ではゲージ相互作用の形が異なり、標準模型はゲージ相互作用に関してカイラルな理論となっている。また、この性質のために、電弱対称性がヒッグス機構によって破れないかぎり、全てのクォークとレプトンは質量を持つことができない。全てのクォークと荷電レプトンは、ヒッグス機構によって質量を獲得する。ニュートリノは標準模型の範囲内では質量を持つことはない",
"title": "標準模型の素粒子"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "フェルミオンは左手型クォークと左手型レプトン、右手型アップクォークと右手型ダウンクォーク、右手型荷電レプトンで世代と呼ばれるグループを構成する。一般に、ゲージ相互作用を含む模型については、カイラルアノマリーと重力アノマリーが相殺されている必要があるが、世代を構成するフェルミオンの間でアノマリーが相殺される構成になっている。標準模型は、3世代のクォークとレプトンが存在する。小林・益川理論によると、フェルミオンの混合によりCP対称性が破れるためには3世代以上のフェルミオンが必要である。実際に、フェルミオンの混合に起因するCP対称性の破れは実験で確認されており、標準模型による予言と良く一致することが確かめられている。",
"title": "標準模型の素粒子"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "標準模型では、ヒッグス機構により電弱対称性が自発的に破れる。一般に場の揺らぎは粒子として解釈されるが、ヒッグス場の4つある揺らぎの自由度のうち3つは、WボソンとZボソンが質量を持つことに伴い、その縦波成分として吸収される。残りの1自由度は、スピン0のスカラー粒子であるヒッグス粒子としてあらわれる。2012年7月にジュネーブ郊外の欧州原子核研究機構 (CERN) で行われているLHC実験により新粒子の発見が発表された。この新粒子の性質はヒッグス粒子と良く一致しており、その後のスピン-パリティ観測、崩壊後粒子の信号強度の検証により標準模型におけるヒッグス粒子、およびこれを内包する理論によるヒッグス粒子であることが認定された。",
"title": "標準模型の素粒子"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "標準模型は2014年現在までに行われた素粒子物理学に関する実験結果をほとんど全て矛盾することなく説明することができているが、その一方で、理論的または実験・観測的観点から解決すべき問題をいくつか抱えている。このことは標準模型を超える物理の存在を示唆する。この節では標準模型において未解決の問題を列挙する。",
"title": "未解決の問題"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "標準模型は基本的な相互作用とされる4つの力のうち、電磁気力、弱い力、強い力の3つをヤン=ミルズ理論に基づき量子論的に記述することに成功している。しかし、残りの1つである重力についてはその記述を欠いている。言い換えれば、重力を媒介するとされる重力子は標準模型の粒子のリストに含まれていない。これは、標準模型の基礎的な枠組みとなっている場の量子論における量子効果による発散の相殺を重力理論に適用できないからである。重力を量子論的に扱うことができる枠組みの候補としては、超弦理論、ループ量子重力理論などが挙げられる。",
"title": "未解決の問題"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "標準模型が記述する3つの力のうち、強い力は、電磁気力と弱い力とは別のゲージ対称性により記述されている。このため、3つの力を統一的に理解することは難しい。しかし、電磁気力を記述するU(1)ゲージ対称性が S U ( 2 ) L × U ( 1 ) Y {\\displaystyle SU(2)_{L}\\times U(1)_{Y}} ゲージ対称性がヒッグス機構により自発的に破れた結果あらわれたものであるように、標準模型のゲージ対称性 S U ( 3 ) C × S U ( 2 ) L × U ( 1 ) Y {\\displaystyle SU(3)_{C}\\times SU(2)_{L}\\times U(1)_{Y}} もより大きなゲージ対称性が自発的に破れた結果あらわれたものである可能性が指摘されている。この可能性に基づいた理論は大統一理論と呼ばれている。 S U ( 3 ) C × S U ( 2 ) L × U ( 1 ) Y {\\displaystyle SU(3)_{C}\\times SU(2)_{L}\\times U(1)_{Y}} のおおもととなった大統一理論のゲージ対称性にはいくつか候補があるが、SU(5)、SO(10)、 E 6 {\\displaystyle E_{6}} などが提案されている。強い力と電弱相互作用を統一的に記述する大統一理論では、クォークをレプトンに変換するような相互作用が可能になる。具体的な現象としては陽子崩壊が予言される。カミオカンデなどの実験で陽子崩壊を実証するための実験が続けられているが、2014年現在、実験的証拠は得られていない。",
"title": "未解決の問題"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "標準模型は場の量子論に基づいた模型であるため、物理的に意味のある量を計算するために繰り込みと呼ばれる操作が必要となる。このことと関連して、標準模型ではヒッグス機構による電弱対称性の自発的破れの大きさを観測事実と合わせるために、理論のパラメーターを非常に精密に調整する必要がある。この問題は、プランクスケール(10 GeV)と電弱対称性が破れるスケール(10 GeV)の間に大きな隔たりがあることに起因しており階層性問題と呼ばれている。この問題を解決する模型として提案されているものはいくつかあるが、代表的なものの1つが超対称性模型である。",
"title": "未解決の問題"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "中性子の電気双極子モーメントの測定により、その大きさは2014年現在の観測精度を下回る値であることが分かっている。このことは、標準模型の弱い相互作用以外の部分でCP対称性がよく成り立っていることを示しており、強い相互作用に関するパラメーターとクォークの湯川行列の位相がCP対称性がよく成り立つような値に設定されていることを意味している。標準模型ではこの2つのパラメーターは特に関連性の無いものであり、精密に調整されているという状況は不自然である。この不自然さの問題は何らかの機構によって解決されるべきであると考えられており、強いCP問題と呼ばれている。解決策の一つとして有力視されているものが、ペッチャイ・クイン機構(英語版)である。この機構によりアクシオンと呼ばれる新しい粒子の存在が予言される。",
"title": "未解決の問題"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "標準模型のフェルミオンはヒッグスの真空期待値との結合(俗に湯川結合という)により質量を獲得しているが3世代が独立に結合しているわけではない。たとえば荷電レプトンの1世代と2世代とヒッグスという3点結合が存在し、3世代合わせると3×3行列として書ける質量行列として質量を得ている。この質量行列を対角化した後の質量固有状態として物理的なモード、すなわち電子やミュー粒子などのモードが書ける。標準模型の質量行列の要素はフリーパラメータとなっており、その値には数桁の開きがある。またレプトンとクォークでは質量行列の構造が大きく違い、レプトンの質量行列では非対角要素が大きく、クォークの質量行列では非対角要素が比較的小さい値を取っている。すなわち標準模型を使って現実の粒子描像を記述するためには質量パラメータに微細な調整が必要になってくる。この構造を対称性やオーダー1のパラメータを用いた理論から再現する研究が広く進められている。",
"title": "未解決の問題"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "標準模型における世代を俗にフレーバー(flavor)と呼び、フレーバー構造(flavor structure)、フレーバー物理(flavor physics)、フレーバー混合(flavor mixing)等の呼称で広まっている。",
"title": "未解決の問題"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1998年に神岡鉱山に設置されたスーパーカミオカンデによりニュートリノ振動が発見されたが、これは質量を持ったニュートリノが存在することの証明となっている。標準模型ではニュートリノの質量は厳密に0であるため、この実験結果は標準模型には何らかの修正が必要であることを示すものの一つとして重要である。単純にニュートリノの質量項を標準模型の枠組みに加える場合は右巻きニュートリノを導入すればよいが、標準模型の荷電を用いると右巻きニュートリノはマヨラナ粒子となり右巻きニュートリノだけで組む質量項(マヨラナ質量項)が現れ、質量構造が複雑化する。これを取り入れた枠組みとして代表的なものの一つがシーソー機構である。",
"title": "未解決の問題"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "現在の宇宙のエネルギー密度の約4分の1を暗黒物質が占めていることが明らかになっているが、標準模型には暗黒物質の候補となる粒子が存在しない。そのため、暗黒物質の正体を素粒子に求める場合は標準模型の拡張が必要である。仮説上の粒子として、通常の物質と暗黒物質を繋ぐ役割を持つ「Z’ボゾン」、その他「アクシオン」等が考えられている。2020年現在は未発見である”超対称性粒子”の中の「ゲージーノ」や「ヒグシーノ」の一部が暗黒物質の候補として挙げられている。",
"title": "未解決の問題"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "標準模型に含まれるフェルミオンは粒子と反粒子の2種類に分類される。粒子と反粒子はほぼ対等な存在であるが我々の住む宇宙では粒子の量が反粒子に比べて多い。この非対称性はバリオン数の非対称性として知られている。標準模型はヒッグスとフェルミオンの結合を通してCP対称性の破れを引き起こすことが可能であり、これにより粒子・反粒子数の非対称性を生み出せることが知られているが、標準模型の持つ位相だけでは十分なバリオン数を作り出すことが出来ないことが知られており標準模型を超える物理の存在を示唆していると考えられている。",
"title": "未解決の問題"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2001年、ブルックヘブン国立研究所は、ミューオンの歳差運動が、標準模型の予測からずれている実験結果を報告した。2021年にフェルミ国立加速器研究所のミューオンg-2実験でも同様の結果が示された。",
"title": "未解決の問題"
}
] | 標準模型とは、素粒子物理学において、強い相互作用、弱い相互作用、電磁相互作用の3つの基本的な相互作用を記述するためのモデルのひとつである。 標準理論(ひょうじゅんりろん)または標準モデル(ひょうじゅんモデル)とも言う。多くの物理現象をほぼ的確に描写する仮説である。 | {{Redirect|標準理論|言語学の標準理論|生成文法#標準理論}}
{{観点|date=2011-12}}
{{正確性|date=2011-12}}
{{標準模型}}
'''標準模型'''(ひょうじゅんもけい、{{Lang-en-short|Standard Model}}、略称: SM)とは、[[素粒子物理学]]において、[[強い相互作用]]、[[弱い相互作用]]、[[電磁相互作用]]の3つの[[基本相互作用|基本的な相互作用]]を記述するための[[モデル (自然科学)|モデル]]のひとつである。
'''標準理論'''(ひょうじゅんりろん)または'''標準モデル'''(ひょうじゅんモデル)とも言う。多くの物理現象をほぼ的確に描写する[[仮説]]である。
== 概要 ==
標準模型は、[[強い相互作用]]についての'''[[量子色力学]]'''、[[弱い相互作用]]と[[電磁相互作用]]についての'''[[ワインバーグ=サラム理論]]'''をあわせた
SU(3)<sub>c</sub>×SU(2)<sub>L</sub>×U(1)<sub>Y</sub> [[ゲージ対称性]]を基礎とし、'''[[ヒッグス機構]]'''による[[自発的対称性の破れ|真空の対称性の破れ]]とフェルミオンの質量獲得、[[アノマリー]]の相殺の要請による[[フェルミオン]]の世代構造と世代間混合と[[CP対称性の破れ]]についての'''[[小林・益川理論]]'''などの理論も組み込まれたものである<ref>[[#nambu et al.|南部 et al.]] 3章([[牧二郎]] 著)</ref>。標準模型は[[特殊相対性理論]]と整合する[[量子力学|量子論]]として、[[場の量子論]]的方法で記述され、今のところ重力をのぞき、場の量子論であつかわれるあらゆる事象を的確に描写している<ref>{{Cite book|和書|author=C・ロヴェッリ|authorlink=カルロ・ロヴェッリ|year=2019|title=すごい物理学講義|publisher=河出文庫|page=168}}</ref>。
== 標準模型の素粒子 ==
標準模型の[[素粒子]]は力を媒介する[[スピン角運動量|スピン]]1の[[ゲージ粒子]]、対称性を破るスピン0の[[ヒッグス粒子]]、物質を構成するスピン1/2の[[フェルミオン]]からなる。
=== ゲージ粒子 ===
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 標準模型のゲージ粒子
|-
! 粒子名 !! 記号 !! ゲージ対称性
|-
! [[グルーオン]]
| style="text-align:center;" | G || SU(3)<sub>c</sub>
|-
! [[Wボソン]]
| style="text-align:center;" | W
| rowspan="3" | SU(2)<sub>L</sub>×U(1)<sub>Y</sub>
|-
! [[Zボソン]]
| style="text-align:center;" | Z
|-
! [[光子]]
| style="text-align:center;" | A
|}
標準模型は[[ヤン=ミルズ理論]]に従い、それぞれのゲージ群に対応するゲージ粒子が存在する。
SU(3)<sub>C</sub>に対応するゲージ粒子は[[グルーオン]]と呼ばれている。
SU(2)<sub>L</sub>とU(1)<sub>Y</sub>に対応するゲージ粒子に関しては、ヒッグス機構によりゲージ場の混合と質量の獲得が起こるので、多少複雑な様相を呈する。[[ウィークアイソスピン]] SU(2)<sub>L</sub> の非対角成分は質量を獲得して[[Wボソン]]となり、対角成分と[[ウィークハイパーチャージ]] U(1)<sub>Y</sub> は交じり合って、質量を獲得する[[Zボソン]]と質量を獲得しない[[光子]]になる。
{{-}}
=== フェルミオン ===
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 標準模型のフェルミオン
|-
! 粒子名 !! 記号 !! 表現
|-
! クォーク
| style="text-align:center;" | Q || (3,2)<sub>1/6</sub>
|-
! 上系列反クォーク
| style="text-align:center;" | U || (3<sup>*</sup>,1)<sub>-2/3</sub>
|-
! 下系列反クォーク
| style="text-align:center;" | D || (3<sup>*</sup>,1)<sub>1/3</sub>
|-
! レプトン
| style="text-align:center;" | L || (1,2)<sub>-1/2</sub>
|-
! 反荷電レプトン
| style="text-align:center;" | E || (1,1)<sub>1</sub>
|}
フェルミオンは[[強い相互作用]]をする[[クォーク]]と、強い相互作用をしない[[レプトン (素粒子)|レプトン]]に分けられる。さらに、クォークとレプトンは、それぞれ左手型(left-handed)粒子と右手型(right-handed)粒子に分類することができる。標準模型における左手型粒子は[[電弱相互作用]]の[[ウィークアイソスピン]]を持つが、右手型粒子は持たない。そのため、左手型粒子と右手型粒子ではゲージ相互作用の形が異なり、標準模型はゲージ相互作用に関してカイラルな理論となっている。また、この性質のために、電弱対称性がヒッグス機構によって破れないかぎり、全てのクォークとレプトンは質量を持つことができない。全てのクォークと荷電レプトンは、ヒッグス機構によって質量を獲得する。ニュートリノは標準模型の範囲内では質量を持つことはない
フェルミオンは左手型クォークと左手型レプトン、右手型アップクォークと右手型ダウンクォーク、右手型荷電レプトンで世代と呼ばれるグループを構成する。一般に、ゲージ相互作用を含む模型については、[[カイラルアノマリー]]と[[重力アノマリー]]が相殺されている必要があるが、世代を構成するフェルミオンの間でアノマリーが相殺される構成になっている。標準模型は、3世代のクォークとレプトンが存在する。[[小林・益川理論]]によると、フェルミオンの混合により[[CP対称性の破れ|CP対称性が破れる]]ためには3世代以上のフェルミオンが必要である。実際に、フェルミオンの混合に起因するCP対称性の破れは実験で確認されており、標準模型による予言と良く一致することが確かめられている。
=== ヒッグス粒子 ===
標準模型では、[[ヒッグス機構]]により電弱対称性が自発的に破れる。一般に場の揺らぎは粒子として解釈されるが、ヒッグス場の4つある揺らぎの自由度のうち3つは、[[Wボソン]]と[[Zボソン]]が質量を持つことに伴い、その縦波成分として吸収される。残りの1自由度は、スピン0のスカラー粒子である[[ヒッグス粒子]]としてあらわれる。[[2012年]]7月に[[ジュネーブ]]郊外の[[欧州原子核研究機構]] (CERN) で行われている[[大型ハドロン衝突型加速器|LHC実験]]により新粒子の発見が発表された<ref name="cern">{{Cite news |url=http://indico.cern.ch/conferenceDisplay.py?confId=197461 |title=Latest update in the search for the Higgs boson |publisher=CERN |date=4 July 2012 |accessdate=4 July 2012}}</ref>。この新粒子の性質はヒッグス粒子と良く一致しており、その後のスピン-パリティ観測、崩壊後粒子の信号強度の検証により標準模型におけるヒッグス粒子、およびこれを内包する理論によるヒッグス粒子であることが認定された。
== 歴史 ==
{{see|標準模型の歴史}}
[[ファイル:Elementary particle interactions.svg|サムネイル|素粒子の相互作用]]
* [[1928年]] - [[ポール・ディラック]]が相対論的量子力学により、[[電子]]の反粒子の存在を予言(ディラック自身はこの粒子を[[陽子]]と解釈しようとした)
* [[1931年]] - [[ヴォルフガング・パウリ]]が[[ニュートリノ]]の存在を予言
* [[1932年]] - [[カール・デイヴィッド・アンダーソン]]により、電子の反粒子である[[陽電子]]が発見された
* [[1948年]] - [[朝永振一郎]]、[[リチャード・P・ファインマン]]、[[ジュリアン・シュウィンガー]]による[[量子電磁力学]]の繰り込みの発表
* [[1954年]] - [[楊振寧]]、[[ロバート・ミルズ]]により[[ヤン・ミルズ理論]]が発表された<ref>
{{cite journal
|author=Chen-Ning Yang and Robert L. Mills
|year=1954
|title=Conservation of Isotopic Spin and Isotopic Gauge Invariance
|journal=Physical Review
|volume=96 |pages=191
|doi=10.1103/PhysRev.96.191
}}</ref>。
* [[1956年]] -
** [[楊振寧]]、[[李政道]]による[[パリティ対称性の破れ|パリティの破れ]]の予言<ref>
{{cite journal
|author=T. D. Lee and Chen-Ning Yang
|year=1956
|title=Question of Parity Conservation in Weak Interactions
|journal=Physical Review
|volume=104 |pages=254
|doi=10.1103/PhysRev.104.254
}}</ref>。
** [[フレデリック・ライネス]]、[[クライド・カワン]]らによるニュートリノの発見<ref>
{{cite journal
|author=C. L. Cowan, F. Reines, F. B. Harrison, H. W. Kruse and A. D. McGuire
|year=1956
|title=Detection of the free neutrino: A Confirmation
|journal=Science
|volume=124 |pages=103
|doi=10.1126/science.124.3212.103
}}</ref>。
* [[1957年]] - [[呉健雄]]らのグループが[[コバルト|コバルト60]]の[[ベータ崩壊]]においてパリティが破れていることを観測した([[ウーの実験]])<ref>
{{cite journal
|author=C. S. Wu, E. Ambler, R. W. Harvard, D. D. Hoppes and R. P. Hudson
|year=1957
|title=Experimental Test Of Parity Conservation In Beta Decay
|journal=Physical Review
|volume=105 |pages=1413
|doi=10.1103/PhysRev.105.1413
}}</ref>。
* [[1964年]] -
** [[ジェイムズ・クローニン]]、[[ヴァル・フィッチ]]らのグループにより、[[K中間子]]の崩壊において[[CP対称性]]が破れていることを観測された<ref>
{{cite journal
|author=J. H. Christenson, J. W. Cronin, V. L. Fitch and R. Turlay
|year=1964
|title=Evidence for the 2 pi Decay of the k(2)0 Meson
|journal=Physical Review Letters
|volume=13 |pages=138
|doi=10.1103/PhysRevLett.13.138
}}</ref>。
** [[マレー・ゲルマン]]によりクォーク模型が提唱された<ref>
{{cite journal
|author=Murrey Gell-Mann
|year=1964
|title=A Schematic Model of Baryons and Mesons
|journal=Physics Letters
|volume=8 |pages=214
|doi=10.1016/S0031-9163(64)92001-3
}}</ref>。
** [[ピーター・ヒッグス]]により[[ヒッグス機構]]が提唱された<ref>
{{cite journal
|author=Peter W. Higgs
|year=1964
|title=Broken symmetries, massless particles and gauge fields
|journal=Physics Letters
|volume=12 |pages=132
|doi=10.1016/0031-9163(64)91136-9
}}</ref>。
* [[1967年]] - [[スティーブン・ワインバーグ]]により後の[[ワインバーグ=サラム理論]]が発表された<ref>
{{cite journal
|author=Steven Weiberg
|year=1967
|title=A Model of Leptons
|journal=Physical Review Letters
|volume=19 |pages=1264
|doi=10.1103/PhysRevLett.19.1264
}}</ref>。([[1968年]]に[[アブドゥッサラーム]]も独立に発表<ref>
{{cite journal
|author=Abdus Salam
|year=1968
|title=Weak and Electromagnetic Interactions
|journal=Conf.Proc.
|volume=C680519 |pages=367
s}}</ref>。)
* [[1971年]] - [[ヘーラルト・トホーフト]]、[[マルティヌス・フェルトマン]]がヤン・ミルズ理論の繰り込みに成功<ref>
{{cite journal
|author=Gerard 't Hooft
|year=1971
|title=Renormalizable Lagrangians for Massive Yang-Mills Fields
|journal=Nuclear Physics B
|volume=35 |pages=167
|doi=10.1016/0550-3213(71)90139-8
}}</ref><ref>
{{cite journal
|author=Gerard 't Hooft and M. J. G. Veltman
|year=1972
|title=Regularization and Renormalization of Gauge Fields
|journal=Nuclear Physics B
|volume=44 |pages=189
|doi=10.1016/0550-3213(72)90279-9
}}</ref>。
* [[1973年]] -
** [[小林誠 (物理学者)|小林誠]]と[[益川敏英]]により[[小林・益川理論]]が提唱された<ref>
{{cite journal
|author=Makoto Kobayashi and Toshihide Maskawa
|year=1973
|title=CP Violation in the Renormalizable Theory of Weak Interaction
|journal=Progress of Theoretical Physics
|volume=49 |pages=652
|doi=10.1143/PTP.49.652
}}</ref>。
** [[デイビッド・グロス]]と[[フランク・ウィルチェック]]<ref>
{{cite journal
|author=D. J. Gross and Frank Wilczek
|year=1973
|title=Ultraviolet Behavior of Nonabelian Gauge Theories
|journal=Physical Review Letters
|volume=30 |pages=1343
|doi=10.1103/PhysRevLett.30.1343
}}</ref>、[[H. デビッド・ポリツァー]]<ref>
{{cite journal
|author=H. David Politzer
|year=1973
|title=Reliable Perturbative Results for Strong Interactions?
|journal=Physical Review Letters
|volume=30 |pages=1346
|doi=10.1103/PhysRevLett.30.1346
}}</ref>による漸近的自由性の発見
** [[ガーガメル]]実験により、中性カレント反応(Zボゾンを介した相互作用)が発見された。
* [[1974年]] - [[サミュエル・ティン]]らのグループ<ref>
{{cite journal
|author=E598 Collaboration
|year=1974
|title=Experimental Observation of a Heavy Particle J
|journal=Physical Review Letters
|volume=33 |pages=1404
|doi=10.1103/PhysRevLett.33.1404
}}</ref>、[[バートン・リヒター]]らのグループ<ref>
{{cite journal
|author=SLAC-SP-017 Collaboration
|year=1974
|title=Discovery of a Narrow Resonance in e+ e- Annihilation
|journal=Physical Review Letters
|volume=33 |pages=1406
|doi=10.1103/PhysRevLett.33.1406
}}</ref>により、独立に[[ジェイプサイ中間子]]([[チャームクォーク]])が発見された(11月革命)
* [[1977年]] - [[レオン・レーダーマン]]らのグループにより、[[ウプシロン中間子]]([[ボトムクォーク]])が発見された<ref>
{{cite journal
|author=S. W. Herb, D. C. Hom, L. M. Lederman, J. C. Sens, H. D. Snyder, J. K. Yoh, J. A. Appel, B. C. Brown, C. N. Brown, W. R. Innes, K. Ueno, T. Yamanouchi, A. S. Itoh, H. Jostlein, D. M. Kaplan and R. D. Kephart
|year=1977
|title=Observation of a Dimuon Resonance at 9.5-GeV in 400-GeV Proton-Nucleus Collisions
|journal=Physical Review Letters
|volume=39 |pages=252
|doi=10.1103/PhysRevLett.39.252
}}</ref>。
* [[1983年]] - [[カルロ・ルビア]]、[[シモン・ファンデルメール]]らのグループにより、[[Wボソン]]<ref>
{{cite journal
|author=UA1 Collaboration
|year=1983
|title=Experimental Observation of Isolated Large Transverse Energy Electrons with Associated Missing Energy at s**(1/2) = 540-GeV
|journal=Physics Letters B
|volume=122 |pages=103
|doi=10.1016/0370-2693(83)91177-2
}}</ref>、[[Zボソン]]<ref>
{{cite journal
|author=UA1 Collaboration
|year=1983
|title=Experimental Observation of Lepton Pairs of Invariant Mass Around 95-GeV/c**2 at the CERN SPS Collider
|journal=Physics Letters B
|volume=126 |pages=398
|doi=10.1016/0370-2693(83)90188-0
}}</ref>の発見
* [[1995年]] - [[テバトロン|テバトロン実験]]により、[[トップクォーク]]が発見された<ref>
{{cite journal
|author=CDF Collaboration
|year=1995
|title=Observation of top quark production in ppbar collisions
|journal=Physical Review Letters
|volume=74 |pages=2626
|doi=10.1103/PhysRevLett.74.2626
}}</ref><ref>
{{cite journal
|author=D0 Collaboration
|year=1995
|title=Observation of the top quark
|journal=Physical Review Letters
|volume=74 |pages=2632
|doi=10.1103/PhysRevLett.74.2632
}}</ref>。
* [[2012年]] - [[LHC|LHC実験]]により[[ヒッグス粒子]]が発見された<ref>
{{cite journal
|author=ATLAS Collaboration
|year=2012
|title=Observation of a new particle in the search for the Standard Model Higgs boson with the ATLAS detector at the LHC
|journal=Physics Letters B
|volume=716 |pages=1
|doi=10.1016/j.physletb.2012.08.020
}}</ref><ref>
{{cite journal
|author=CMS Collaboration
|year=2012
|title=Observation of a new boson at a mass of 125 GeV with the CMS experiment at the LHC
|journal=Physics Letters B
|volume=716 |pages=30
|doi=10.1016/j.physletb.2012.08.021
}}</ref>
[[ファイル:標準模型(Standard Model).png|サムネイル|原子核と素粒子|240x240ピクセル]]
== 未解決の問題 ==
標準模型は2014年現在までに行われた素粒子物理学に関する実験結果をほとんど全て矛盾することなく説明することができているが、その一方で、理論的または実験・観測的観点から解決すべき問題をいくつか抱えている。このことは[[標準模型を超える物理]]の存在を示唆する。この節では標準模型において未解決の問題を列挙する。
=== 重力の量子化 ===
{{see|量子重力理論|繰り込み}}
標準模型は基本的な相互作用とされる4つの力のうち、電磁気力、弱い力、強い力の3つをヤン=ミルズ理論に基づき量子論的に記述することに成功している。しかし、残りの1つである[[重力]]についてはその記述を欠いている。言い換えれば、重力を媒介するとされる[[重力子]]は標準模型の粒子のリストに含まれていない。これは、標準模型の基礎的な枠組みとなっている場の量子論における量子効果による発散の相殺を重力理論に適用できないからである。重力を量子論的に扱うことができる枠組みの候補としては、[[超弦理論]]、[[ループ量子重力理論]]などが挙げられる。
=== 大統一理論 ===
{{see|大統一理論}}
標準模型が記述する3つの力のうち、強い力は、電磁気力と弱い力とは別のゲージ対称性により記述されている。このため、3つの力を統一的に理解することは難しい。しかし、電磁気力を記述するU(1)ゲージ対称性が<math>SU(2)_L \times U(1)_Y</math>ゲージ対称性がヒッグス機構により自発的に破れた結果あらわれたものであるように、標準模型のゲージ対称性<math>SU(3)_C \times SU(2)_L \times U(1)_Y</math>もより大きなゲージ対称性が自発的に破れた結果あらわれたものである可能性が指摘されている。この可能性に基づいた理論は大統一理論と呼ばれている。<math>SU(3)_C \times SU(2)_L \times U(1)_Y</math>のおおもととなった大統一理論のゲージ対称性にはいくつか候補があるが、SU(5)、SO(10)、<math>E_6</math>などが提案されている。強い力と電弱相互作用を統一的に記述する大統一理論では、クォークをレプトンに変換するような相互作用が可能になる。具体的な現象としては[[陽子崩壊]]が予言される。[[カミオカンデ]]などの実験で陽子崩壊を実証するための実験が続けられているが、2014年現在、実験的証拠は得られていない。
=== 階層性問題(fine tuning問題) ===
{{see|階層性問題}}
標準模型は[[場の量子論]]に基づいた模型であるため、物理的に意味のある量を計算するために[[繰り込み]]と呼ばれる操作が必要となる。このことと関連して、標準模型では[[ヒッグス機構]]による[[ワインバーグ=サラム理論|電弱対称性]]の[[自発的対称性の破れ|自発的破れ]]の大きさを観測事実と合わせるために、理論のパラメーターを非常に精密に調整する必要がある。この問題は、[[プランクエネルギー|プランクスケール]](10<sup>19</sup> GeV)と電弱対称性が破れるスケール(10<sup>2</sup> GeV)の間に大きな隔たりがあることに起因しており階層性問題と呼ばれている。この問題を解決する模型として提案されているものはいくつかあるが、代表的なものの1つが[[超対称性理論|超対称性模型]]である。
=== 強いCP問題 ===
{{see|強いCP問題|アクシオン}}
[[中性子]]の[[電気双極子|電気双極子モーメント]]の測定により、その大きさは2014年現在の観測精度を下回る値であることが分かっている。このことは、標準模型の弱い相互作用以外の部分でCP対称性がよく成り立っていることを示しており、強い相互作用に関するパラメーターとクォークの湯川行列の位相がCP対称性がよく成り立つような値に設定されていることを意味している。標準模型ではこの2つのパラメーターは特に関連性の無いものであり、精密に調整されているという状況は不自然である。この不自然さの問題は何らかの機構によって解決されるべきであると考えられており、[[強いCP問題]]と呼ばれている。解決策の一つとして有力視されているものが、{{仮リンク|ペッチャイ・クイン理論|en|Peccei–Quinn theory|label=ペッチャイ・クイン機構}}である。この機構により[[アクシオン]]と呼ばれる新しい粒子の存在が予言される。
=== 世代構造の謎 ===
{{see|CKM行列}}
標準模型のフェルミオンはヒッグスの真空期待値との結合(俗に湯川結合という)により質量を獲得しているが3世代が独立に結合しているわけではない。たとえば荷電レプトンの1世代と2世代とヒッグスという3点結合が存在し、3世代合わせると3×3行列として書ける質量行列として質量を得ている。この質量行列を対角化した後の質量固有状態として物理的なモード、すなわち電子やミュー粒子などのモードが書ける。標準模型の質量行列の要素はフリーパラメータとなっており、その値には数桁の開きがある。またレプトンとクォークでは質量行列の構造が大きく違い、レプトンの質量行列では非対角要素が大きく、クォークの質量行列では非対角要素が比較的小さい値を取っている。すなわち標準模型を使って現実の粒子描像を記述するためには質量パラメータに微細な調整が必要になってくる。この構造を対称性やオーダー1のパラメータを用いた理論から再現する研究が広く進められている。
標準模型における世代を俗にフレーバー(flavor)と呼び、フレーバー構造(flavor structure)、フレーバー物理(flavor physics)、フレーバー混合(flavor mixing)等の呼称で広まっている。
=== ニュートリノ振動 ===
{{see|ニュートリノ振動}}
[[1998年]]に[[神岡鉱山]]に設置された[[スーパーカミオカンデ]]によりニュートリノ振動が発見された<ref>
{{cite journal
|author=Super-Kamiokande Collaboration
|year=1998
|title=Evidence for oscillation of atmospheric neutrinos
|journal=Physical Review Letters
|volume=81 |pages=1562
|doi=10.1103/PhysRevLett.81.1562
}}</ref>が、これは質量を持ったニュートリノが存在することの証明となっている。標準模型では[[ニュートリノ]]の質量は厳密に0であるため、この実験結果は標準模型には何らかの修正が必要であることを示すものの一つとして重要である。単純にニュートリノの質量項を標準模型の枠組みに加える場合は右巻きニュートリノを導入すればよいが、標準模型の荷電を用いると右巻きニュートリノは[[マヨラナ粒子]]となり右巻きニュートリノだけで組む質量項(マヨラナ質量項)が現れ、質量構造が複雑化する。これを取り入れた枠組みとして代表的なものの一つが[[シーソー機構]]である。
=== 暗黒物質 ===
{{see|暗黒物質}}
現在の宇宙のエネルギー密度の約4分の1を暗黒物質が占めていることが明らかになっているが、標準模型には暗黒物質の候補となる粒子が存在しない。そのため、暗黒物質の正体を素粒子に求める場合は標準模型の拡張が必要である。仮説上の粒子として、通常の物質と暗黒物質を繋ぐ役割を持つ「Z’ボゾン」、その他「アクシオン」等が考えられている。2020年現在は未発見である”超対称性粒子”の中の「ゲージーノ」や「ヒグシーノ」の一部が暗黒物質の候補として挙げられている。
=== バリオン数の非対称性 ===
{{see|CP対称性の破れ}}
標準模型に含まれるフェルミオンは粒子と[[反粒子]]の2種類に分類される。粒子と反粒子はほぼ対等な存在であるが我々の住む宇宙では粒子の量が反粒子に比べて多い。この非対称性は[[バリオン|バリオン数]]の非対称性として知られている。標準模型はヒッグスとフェルミオンの結合を通してCP対称性の破れを引き起こすことが可能であり、これにより粒子・反粒子数の非対称性を生み出せることが知られているが、標準模型の持つ位相だけでは十分なバリオン数を作り出すことが出来ないことが知られており<ref>
{{cite journal
|author=Sacha Davidson, Enrico Nardi and, Yosef Nir
|year=2008
|title=Leptogenesis
|journal=Physics Report
|volume=466 |pages=105
|doi=10.1016/j.physrep.2008.06.002
}}</ref>標準模型を超える物理の存在を示唆していると考えられている。
=== ミューオンの歳差運動のずれ ===
2001年、[[ブルックヘブン国立研究所]]は、[[ミューオン]]の歳差運動が、標準模型の予測からずれている実験結果を報告した。2021年に[[フェルミ国立加速器研究所]]の[[ミューオンg-2実験|ミューオン''g''-2実験]]でも同様の結果が示された<ref>{{Cite web|和書|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/21/040900173/|title=素粒子物理学を覆すミューオンの挙動、未知の物理法則が存在か|publisher=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]日本語版|date=2021-04-13|accessdate=2021-04-27}}</ref><ref>[https://www.asahi.com/articles/ASR8C4FSBR8CULBH001.html 素粒子「標準理論」のずれ検証に一歩 実験値を高精度測定 米研究所、(朝日新聞、2023年8月11日)]</ref>。
== 脚注 ==
<references/>
== 参考文献 ==
=== 論文 ===
* {{cite journal|last1=Beringer|first1=J.|last2=Arguin|first2=J.|last3=Barnett|first3=R.|last4=Copic|first4=K.|last5=Dahl|first5=O.|last6=Groom|first6=D.|last7=Lin|first7=C.|last8=Lys|first8=J.|last9=Murayama|first9=H.|last10=Wohl|first10=C.|last11=Yao|first11=W.|last12=Zyla|first12=P.|last13=Amsler|first13=C.|last14=Antonelli|first14=M.|last15=Asner|first15=D.|last16=Baer|first16=H.|last17=Band|first17=H.|last18=Basaglia|first18=T.|last19=Bauer|first19=C.|last20=Beatty|first20=J.|last21=Belousov|first21=V.|last22=Bergren|first22=E.|last23=Bernardi|first23=G.|last24=Bertl|first24=W.|last25=Bethke|first25=S.|last26=Bichsel|first26=H.|last27=Biebel|first27=O.|last28=Blucher|first28=E.|last29=Blusk|first29=S.|last30=Brooijmans|first30=G.|last31=Buchmueller|first31=O.|last32=Cahn|first32=R.|last33=Carena|first33=M.|last34=Ceccucci|first34=A.|last35=Chakraborty|first35=D.|last36=Chen|first36=M.|last37=Chivukula|first37=R.|last38=Cowan|first38=G.|last39=D'Ambrosio|first39=G.|last40=Damour|first40=T.|last41=de Florian|first41=D.|last42=de Gouvêa|first42=A.|last43=DeGrand|first43=T.|last44=de Jong|first44=P.|last45=Dissertori|first45=G.|last46=Dobrescu|first46=B.|last47=Doser|first47=M.|last48=Drees|first48=M.|last49=Edwards|first49=D.|last50=Eidelman|first50=S.|last51=Erler|first51=J.|last52=Ezhela|first52=V.|last53=Fetscher|first53=W.|last54=Fields|first54=B.|last55=Foster|first55=B.|last56=Gaisser|first56=T.|last57=Garren|first57=L.|last58=Gerber|first58=H.|last59=Gerbier|first59=G.|last60=Gherghetta|first60=T.|last61=Golwala|first61=S.|last62=Goodman|first62=M.|last63=Grab|first63=C.|last64=Gritsan|first64=A.|last65=Grivaz|first65=J.|last66=Grünewald|first66=M.|last67=Gurtu|first67=A.|last68=Gutsche|first68=T.|last69=Haber|first69=H.|last70=Hagiwara|first70=K.|last71=Hagmann|first71=C.|last72=Hanhart|first72=C.|last73=Hashimoto|first73=S.|last74=Hayes|first74=K.|last75=Heffner|first75=M.|last76=Heltsley|first76=B.|last77=Hernández-Rey|first77=J.|last78=Hikasa|first78=K.|last79=Höcker|first79=A.|last80=Holder|first80=J.|last81=Holtkamp|first81=A.|last82=Huston|first82=J.|last83=Jackson|first83=J.|last84=Johnson|first84=K.|last85=Junk|first85=T.|last86=Karlen|first86=D.|last87=Kirkby|first87=D.|last88=Klein|first88=S.|last89=Klempt|first89=E.|last90=Kowalewski|first90=R.|last91=Krauss|first91=F.|last92=Kreps|first92=M.|last93=Krusche|first93=B.|last94=Kuyanov|first94=Yu.|last95=Kwon|first95=Y.|last96=Lahav|first96=O.|last97=Laiho|first97=J.|last98=Langacker|first98=P.|last99=Liddle|first99=A.|last100=Ligeti|first100=Z.|last101=Liss|first101=T.|last102=Littenberg|first102=L.|last103=Lugovsky|first103=K.|last104=Lugovsky|first104=S.|last105=Mannel|first105=T.|last106=Manohar|first106=A.|last107=Marciano|first107=W.|last108=Martin|first108=A.|last109=Masoni|first109=A.|last110=Matthews|first110=J.|last111=Milstead|first111=D.|last112=Miquel|first112=R.|last113=Mönig|first113=K.|last114=Moortgat|first114=F.|last115=Nakamura|first115=K.|last116=Narain|first116=M.|last117=Nason|first117=P.|last118=Navas|first118=S.|last119=Neubert|first119=M.|last120=Nevski|first120=P.|last121=Nir|first121=Y.|last122=Olive|first122=K.|last123=Pape|first123=L.|last124=Parsons|first124=J.|last125=Patrignani|first125=C.|last126=Peacock|first126=J.|last127=Petcov|first127=S.|last128=Piepke|first128=A.|last129=Pomarol|first129=A.|last130=Punzi|first130=G.|last131=Quadt|first131=A.|last132=Raby|first132=S.|last133=Raffelt|first133=G.|last134=Ratcliff|first134=B.|last135=Richardson|first135=P.|last136=Roesler|first136=S.|last137=Rolli|first137=S.|last138=Romaniouk|first138=A.|last139=Rosenberg|first139=L.|last140=Rosner|first140=J.|last141=Sachrajda|first141=C.|last142=Sakai|first142=Y.|last143=Salam|first143=G.|last144=Sarkar|first144=S.|last145=Sauli|first145=F.|last146=Schneider|first146=O.|last147=Scholberg|first147=K.|last148=Scott|first148=D.|last149=Seligman|first149=W.|last150=Shaevitz|first150=M.|last151=Sharpe|first151=S.|last152=Silari|first152=M.|last153=Sjöstrand|first153=T.|last154=Skands|first154=P.|last155=Smith|first155=J.|last156=Smoot|first156=G.|last157=Spanier|first157=S.|last158=Spieler|first158=H.|last159=Stahl|first159=A.|last160=Stanev|first160=T.|last161=Stone|first161=S.|last162=Sumiyoshi|first162=T.|last163=Syphers|first163=M.|last164=Takahashi|first164=F.|last165=Tanabashi|first165=M.|last166=Terning|first166=J.|last167=Titov|first167=M.|last168=Tkachenko|first168=N.|last169=Törnqvist|first169=N.|last170=Tovey|first170=D.|last171=Valencia|first171=G.|last172=van Bibber|first172=K.|last173=Venanzoni|first173=G.|last174=Vincter|first174=M.|last175=Vogel|first175=P.|last176=Vogt|first176=A.|last177=Walkowiak|first177=W.|last178=Walter|first178=C.|last179=Ward|first179=D.|last180=Watari|first180=T.|last181=Weiglein|first181=G.|last182=Weinberg|first182=E.|last183=Wiencke|first183=L.|last184=Wolfenstein|first184=L.|last185=Womersley|first185=J.|last186=Woody|first186=C.|last187=Workman|first187=R.|last188=Yamamoto|first188=A.|last189=Zeller|first189=G.|last190=Zenin|first190=O.|last191=Zhang|first191=J.|last192=Zhu|first192=R.|last193=Harper|first193=G.|last194=Lugovsky|first194=V.|last195=Schaffner|first195=P.|title=Review of Particle Physics|journal=Physical Review D|volume=86|issue=1|year=2012|issn=1550-7998|doi=10.1103/PhysRevD.86.010001|ref=CITEREFBeringerArguinBarnettCopic2012}}
=== 書籍 ===
* {{Cite book
|author=M. E. Peskin, D.V. Schroeder
|title=An Introduction to Quantum Field Theory
|publisher=Westview Press
|year=1995
|isbn=978-0-201-50397-5
|ref=peskin
}}
* {{Cite book|和書
|author1=南部陽一郎|authorlink1=南部陽一郎|author2=他
|title=大学院素粒子物理1
|publisher=[[講談社]]
|year=1997
|isbn=4-06-153224-3
|ref=nambu et al.
}}
== 関連項目 ==
* [[ワインバーグ=サラム理論]]
* [[量子色力学]]
* [[小林・益川理論]]
* [[偽の真空#真空の崩壊]]
* [[標準模型を超える物理]]
* [[微調整された宇宙]]
== 外部リンク ==
* [http://lcdev.kek.jp/JLC/overview/01.cover.html 電子・陽電子リニアコライダー計画]
* [http://pdg.lbl.gov/pdg.html The Review of Particle Physics](素粒子物理学の総論) - 2012年までの素粒子の実験と理論をまとめた論文(英語)
* [http://astr.phys.saga-u.ac.jp/~funakubo/BAU/chapter3/chapter3-4.html 素粒子の標準模型] - 日本語による解説
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ひようしゆんもけい}}
[[Category:素粒子物理学]]
[[Category:標準模型]]
[[Category:統一場理論]] | 2003-03-07T21:37:31Z | 2023-11-25T23:42:46Z | false | false | false | [
"Template:Cite news",
"Template:Cite journal",
"Template:Cite web",
"Template:Normdaten",
"Template:Lang-en-short",
"Template:-",
"Template:Cite book",
"Template:標準模型",
"Template:See",
"Template:仮リンク",
"Template:Redirect",
"Template:観点",
"Template:正確性"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%A8%A1%E5%9E%8B |
3,644 | 物理法則一覧 | 物理法則一覧(ぶつりほうそくいちらん)では、物理法則の一覧を提示した。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "物理法則一覧(ぶつりほうそくいちらん)では、物理法則の一覧を提示した。",
"title": null
}
] | 物理法則一覧(ぶつりほうそくいちらん)では、物理法則の一覧を提示した。 | {{物理学}}
'''物理法則一覧'''(ぶつりほうそくいちらん)では、[[物理法則]]の一覧を提示した。
== あ ==
*[[アモントンの法則]]
*[[アンペールの法則]]
*[[アンペール・マクスウェルの法則]]
*[[運動の第1法則]] (慣性の法則)
*[[運動の第2法則]] (ニュートンの法則)
*[[運動の第3法則]] (作用・反作用の法則)
*[[運動量保存の法則]]
*[[ヴィーデマン=フランツ則]]
*[[ウィーンの変位則]]
*[[ヴィーンの放射法則]]
*[[エネルギー等配分の法則]]
*[[エネルギー保存の法則]]
*[[エントロピー増大の法則]]
*[[オームの法則]]
== か ==
*[[ガウスの法則]]
*[[化学反応における核スピン保存則]]
*[[角運動量保存の法則]]
*[[慣性の法則]] (運動の第1法則)
*[[キュリーの法則]]
*[[キュリー・ワイスの法則]]
*キルヒホッフの法則
**[[キルヒホッフの法則 (電気回路)]]
***キルヒホッフの電流則 (キルヒホッフの第一法則)
***キルヒホッフの電圧則 (キルヒホッフの第二法則)
**[[キルヒホッフの法則 (放射エネルギー)]]
**[[キルヒホッフの法則 (反応熱)]]
*[[クーロンの法則]]
*[[ボイル=シャルルの法則]]
*[[ケプラーの法則]]
== さ ==
*[[運動の第3法則|作用・反作用の法則]] (運動の第3法則)
*[[質量作用の法則]]
*[[質量保存の法則]]
*[[シャルルの法則]]
*[[ジュールの法則]]
*[[シュテファン=ボルツマンの法則]]
*[[ストークスの法則]]
*[[スヌークの法則]]
*[[スネルの法則]]
*[[総熱量不変の法則]] (ヘスの法則)
== た ==
*[[チャイルド・ラングミュアの法則]]
*[[ティティウス・ボーデの法則]]
*[[デュロン=プティの法則]]
*[[等価磁石の法則]]
*[[ドルトンの法則]]
== な ==
*[[ニュートンの抵抗法則]]
*[[運動の第2法則|ニュートンの法則]] (運動の第2法則)
*[[ニュートンの冷却の法則]]
*[[熱伝導の法則]]
*[[熱力学第零法則]]
*[[熱力学第一法則]]
*[[熱力学第二法則]]
*[[熱力学第三法則]]
*[[ノイマンの誘導法則]]
== は ==
*[[反発の法則]]
*[[万有引力|万有引力の法則]]
*[[ビオ=サバールの法則]]
*[[ファラデーの電磁誘導の法則]]
*[[ファラデーの電気分解の法則]]
*[[ファント・ホッフの法則]]
*[[フィックの法則]]
*[[フックの法則]]
*[[ブラッグの法則]]
*[[プランクの放射法則]]
*[[ブリュースターの法則]]
*[[フレミング左手の法則]]
*[[フレミング右手の法則]]
*[[フントの法則]]
*[[ヘスの法則]] (総熱量不変の法則)
*[[ベルヌーイ・オイラーの法則]]
*[[ベルヌーイの法則]]
*[[ヘンリーの法則]]
*[[ポアソンの法則]]
*[[ボイルの法則]]
*[[ボイル=シャルルの法則]]
*ボーデの法則 → ティティウス・ボーデの法則
== ま ==
*[[マクスウェル・ボルツマンの分布則]]
*[[マクスウェルの速度分布則]]
*[[マクスウェルの方程式]]
*
*[[右ねじの法則]]
*[[面積速度一定の法則]]
== や ==
*誘導法則 → ファラデーの電磁誘導の法則、ノイマンの誘導法則
== ら ==
*[[落体の法則]]
*[[ランベルト・ベールの法則]]
*[[力学的エネルギー保存の法則]]
*[[レイノルズの相似則]]
*[[レイリー・ジーンズの法則]]
*[[レンツの法則]]
==関連項目==
* [[原理]]
* [[:Category:物理学の定理]]
{{DEFAULTSORT:ふつりほうそくいちらん}}
[[Category:自然科学の法則|*]]
[[Category:物理学|ほうそく]]
[[Category:物理学に関する一覧|ほうそく]]
[[Category:法則|*]]
[[nl:Lijst van natuurwetten]] | 2003-03-07T22:17:30Z | 2023-09-29T07:42:48Z | false | false | false | [
"Template:物理学"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E7%90%86%E6%B3%95%E5%89%87%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
3,646 | ニュース系列 | ニュース系列(ニュースけいれつ)またはニュースネットワーク(ニュースネットワーク)とは、日本の民間放送テレビ局間における、ニュース取材および情報の相互流通を行う放送局の系列関係をいう。
1958年6月、当時東京のラジオ東京(現・TBSテレビ)が、大阪の大阪テレビ放送(現・朝日放送テレビ)・名古屋の中部日本放送(現・CBCテレビ)・福岡のラジオ九州(現・RKB毎日放送)・北海道の北海道放送との間にテレビニュースネットワーク協定を締結。ラジオ東京の「東京テレニュース」を各局でタイトルや一部内容を差し替えて放送し、また自社取材のニュースをラジオ東京経由で流した。
一方、同年7月、共同通信社を中心に、フジテレビ、日本教育テレビ(NET。現・テレビ朝日)等が出資した共同テレビジョンニュース社(現・共同テレビジョン)が発足。当初は同社がテレビニュースの制作を行い、出資各局が同社から番組を購入して放送することとしたが、結局業務開始までにNETが降り、事実上のフジテレビ系列として11月に「共同テレニュース」がスタートした。
共同テレビジョンニュース社から抜けたNETは、親会社であった東映が朝日新聞社と提携して朝日テレビニュース社(現・テレビ朝日映像)を発足させ、同社が制作した「NETニュース 朝日新聞制作」を購入して放送することとなり、1959年よりNETと九州朝日放送で放送開始。ただし、既にラジオ東京との協定を結んでいた朝日放送ではこの番組を放送せず、1960年から大阪地区では毎日新聞系の毎日放送がこの番組を放送し取材制作に携わったことから、「腸捻転」ネットとして問題になった(1975年3月30日に解消。ネットチェンジの項を参照のこと)。
先発局ながら、こうした系列化で後れをとった日本テレビは、姉妹局・読売テレビや自社資本が入った札幌テレビ・テレビ西日本(1964年10月ネット解消)の他、後述するJNNに加盟しなかったラ・テ兼営局を対象に「NTVニュース」や「日本テレニュース」、「きょうの出来事」といったニュース番組を配信していった。ただし、これらは系列各社の取材協力はあったものの、あくまでも日本テレビの番組を供給したものであった。
1959年8月1日、ラジオ東京は、同年4月に放送した皇太子(現・上皇)ご成婚特番でネットワークを組んだ前述4社を含めた計16局と、ニュース協定のJNNを締結。これがニュース系列の嚆矢とされる。
その後、1966年4月1日に日本テレビ系列がNNNを、10月3日にはフジテレビ系列がFNNをそれぞれ発足させ、これまでの日本テレビや共同テレビが制作したニュース番組を購入して放送する形式を改め、JNNと同様のスタイルを採ることとなった。1974年4月1日にはNETテレビ系列もANNというニュース協定を締結した(「ANNニュース」そのものは上記「NETニュース 朝日新聞制作」を改題した形で1970年1月1日よりスタートしていた。)。
テレビ東京がキー局となっているTXNは「TXNニュース協定」を1991年に締結して以降、ニュース系列と番組供給系列(1982年発足)を兼ねている。
左から系列名(略称)、在京キー局/在阪準キー局/在名基幹局。
なおNHK(日本放送協会)は1926年以来全国で同一事業者であり、ニュース系列には含まれない。
東京を中心とした関東広域圏を放送対象地域とするキー局にとって、地方のニュース取材は負担が重い。また、系列局にとっては東京でのニュースを必須とする。さらに、ニュースネットワークのない状態で各局がやりとりすると全国ニュース番組においての統一性に欠ける恐れがある。この事情から、
の3点を目的とした局間ネットワークが組まれていった。JNN排他協定は他系列が混じることによる品質の低下を防ぐためにJNNが当初から盛り込んでいたもので、ほかのニュース系列では盛り込まれていないものもある。その地域の放送局が少なく複数の系列に属する場合は「クロスネット」というが、平成に入ってから新たに開局した放送局が増えたため少なくなっている。
またニュース以外のドラマなどの各種番組についても、このニュース系列のネットワーク各局で放送されることが多い(フジテレビ系列の番組供給ネットワークはFNS・日本テレビ系列の番組供給ネットワークはNNSという別名称で呼ばれている)。
なお、札幌・東京・名古屋・大阪・福岡のテレビ局はその系列の基幹局であり、ニュース系列で大きな力を持つ。
上掲の通り、独立した放送局がニュースの相互配信を目的として発足したものだが、日本テレビは読売新聞社との関係が開局当初から強く、またNETテレビに至っては朝日新聞制作のニュースをそのままネットワークニュースとしてきたことから、やがてニュース系列と特定新聞社(言い換えれば、全国紙)との関係は強くなってきた。
日本テレビをキー局とするNNNは、地方新聞社が設立した局も多く加盟しているため読売新聞とは一応別物と位置付けられているが、日本テレビと読売テレビは読売グループに属し、札仙広福の各局をはじめとして多くのNNN系列局には読売新聞の資本が入っている。一方、四国全域や北日本(東北地方の日本海側や北陸地方など)の一部にある古参局のように、読売資本が入っておらず地方紙等の地方企業との関係が深いところもある。例えば青森放送は東奥日報、山形放送は山形新聞、山梨放送は山梨日日新聞、北日本放送は北日本新聞、四国放送は徳島新聞、西日本放送は四国新聞、南海放送は愛媛新聞、また平成新局であるテレビ金沢は北國新聞などといったように一部の系列局は各県の地方紙を背景に設立されたものもあり、TBSテレビをキー局とする毎日新聞系列のJNNより少ないものの、やはり読売新聞との関係が希薄・皆無な局も存在する。
なお、札幌テレビ放送、福岡放送など資本・人事面等で読売新聞の影響が強い局も、「読売グループ」には名を連ねていない。また、在名基幹局の中京テレビは設立に中日新聞系列である中部日本放送(現・CBCテレビ)と東海テレビ放送や名古屋鉄道(名鉄グループ)に加え、日本経済新聞などが関わっており、現在は日本テレビHDが筆頭株主ではあるものの、意外にも開局当初から様々な諸事情により、読売新聞との関係が資本上では希薄となっており、上位株主にはなっていない。
一方、読売・日テレ色が濃い系列局でも松本市発祥のテレビ信州は信濃毎日新聞、アルピコグループに加えてクロスネット局の名残で朝日新聞・テレビ朝日HD、福岡放送は九州電力と西日本新聞、熊本県民テレビは西日本新聞と熊本日日新聞などが上位株主であることに加え、宮城テレビ放送も地元仙台市の有力企業・カメイが親会社であるなど、地方紙や地元企業も主要株主になっている系列局も存在している。なお福島中央テレビは福島民友系列ではあるが、福島民友は読売新聞グループの地方紙である。また山口放送はテレビ放送開始当初から日本テレビとは親密ではあるが、一時期はフジテレビも出資していたことがあった。また静岡第一テレビやテレビ金沢、長崎国際テレビ、テレビ大分の様にFNNのキー局であるフジテレビの持株会社であるフジ・メディア・ホールディングスや準キー局の関西テレビ(カンテレ)が大株主である系列局も存在する。
テレビ朝日をキー局とするANNは、テレ朝(当時のNETテレビ)が発足した際に、当初毎日放送(MBSテレビ)が系列基幹局に加わっていたこともあり、名称も「朝日ニュースネットワーク」の略ではなく、「オールニッポンニュースネットワーク」の略となっているが、1975年3月31日に腸捻転解消に伴うネットチェンジでANNの準キー局が毎日放送から朝日放送(ABCテレビ)に変更して以降、現在はテレビ朝日、朝日放送テレビ、名古屋テレビも含め、全加盟局が朝日新聞社の関係会社であるため、ANNもまた朝日新聞系のテレビニュースネットワークに位置付けられている。
TBSテレビをキー局とするJNNはTBS・毎日放送・RKB毎日放送といった基幹局が毎日新聞社の友好会社となってはいるが、歴史的経緯から、この3局が現在では資本面では毎日新聞社の系列というよりも同社と対等な関係にある一方、テレビユー福島、テレビ山口、宮崎放送など毎日新聞社が大株主の系列局もある。
また地方紙がテレビ放送開始直後に設立した古参局が多く、例えばCBCテレビは中日新聞、北海道放送は北海道新聞、IBC岩手放送は岩手日報、東北放送は河北新報、新潟放送は新潟日報、信越放送は信濃毎日新聞、静岡放送は静岡新聞、北陸放送は北國新聞社、RSK山陽放送は山陽新聞、中国放送は中国新聞、熊本放送は熊本日日新聞、大分放送は大分合同新聞社、南日本放送は南日本新聞、琉球放送は沖縄タイムスといったように有力系列局の多くは各県の地方紙を背景に設立されたものが多く、またテレビ単営局であるテレビユー福島は福島民報社、チューリップテレビは北國新聞社と北日本新聞社、あいテレビは愛媛新聞社のように、毎日新聞との関係が希薄・皆無な局も多い。また、TBSの設立時には読売新聞社・朝日新聞社とも関係があったことから、朝日新聞・読売新聞とも資本および友好関係が残っている局(主に山陰放送、テレビユー山形、テレビ山梨、チューリップテレビ、テレビ高知など)もある。
このためJNNと毎日新聞は完全に別物であるといえるが、TBS制作の情報番組の解説者には毎日新聞の記者や論説委員などが多く起用されている。
テレビ東京をキー局とするTXNは、地元の山陽新聞社が筆頭株主となっているテレビせとうちを除いた5局が日本経済新聞社の持分法適用会社となっており、またニュース取材においても日本経済新聞社との提携関係にある。
フジテレビをキー局とするFNNはフジテレビの親会社であるフジ・メディア・ホールディングスが産業経済新聞社の大株主であり、フジテレビと産経新聞は報道面で協力関係にあるが、東海テレビ、テレビ静岡などは中日新聞、富山テレビ、石川テレビなどは北陸中日新聞、テレビ西日本、サガテレビ、テレビ熊本などは西日本新聞、北海道文化放送は北海道新聞と関係が深く、また産経新聞自体が全国紙とは言い難い取材発行体制にあるため、FNNが産経系のニュースネットワークであるとは言い切れない。ただし、産経新聞紙面には時折「FNN・産経新聞共同世論調査」が掲載されていたり、FNNの解説者として産経新聞記者が登場するなど関係は深い。フジテレビでは「FNNスピーク」(2018年3月30日に終了。「FNNプライムニュース デイズ」→現・「FNN Live News days」。テレビ宮崎を除く)に「協力 産経」のクレジットが入り、(但し、「FNNスピーク」制作・幹事局のフジテレビのみ)2016年3月までは「産経テレニュースFNN」の放送もあった。
なお、東海テレビではFNNニュースを「FNN東海テレニュース・協力 中日新聞」とテレビ西日本では「TNCニュース FNN(または「FNN西日本新聞ニュース」)」(一部時間帯)とそれぞれ系列局名を冠した番組名に差し替え、協力する新聞社のクレジットを入れている。しかし、FNNは東海テレビやテレビ西日本だけに限らず、他のFNN系列局(関西テレビなど)でもFNNニュースのタイトル差し替え番組が数多く存在する。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ニュース系列(ニュースけいれつ)またはニュースネットワーク(ニュースネットワーク)とは、日本の民間放送テレビ局間における、ニュース取材および情報の相互流通を行う放送局の系列関係をいう。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "1958年6月、当時東京のラジオ東京(現・TBSテレビ)が、大阪の大阪テレビ放送(現・朝日放送テレビ)・名古屋の中部日本放送(現・CBCテレビ)・福岡のラジオ九州(現・RKB毎日放送)・北海道の北海道放送との間にテレビニュースネットワーク協定を締結。ラジオ東京の「東京テレニュース」を各局でタイトルや一部内容を差し替えて放送し、また自社取材のニュースをラジオ東京経由で流した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "一方、同年7月、共同通信社を中心に、フジテレビ、日本教育テレビ(NET。現・テレビ朝日)等が出資した共同テレビジョンニュース社(現・共同テレビジョン)が発足。当初は同社がテレビニュースの制作を行い、出資各局が同社から番組を購入して放送することとしたが、結局業務開始までにNETが降り、事実上のフジテレビ系列として11月に「共同テレニュース」がスタートした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "共同テレビジョンニュース社から抜けたNETは、親会社であった東映が朝日新聞社と提携して朝日テレビニュース社(現・テレビ朝日映像)を発足させ、同社が制作した「NETニュース 朝日新聞制作」を購入して放送することとなり、1959年よりNETと九州朝日放送で放送開始。ただし、既にラジオ東京との協定を結んでいた朝日放送ではこの番組を放送せず、1960年から大阪地区では毎日新聞系の毎日放送がこの番組を放送し取材制作に携わったことから、「腸捻転」ネットとして問題になった(1975年3月30日に解消。ネットチェンジの項を参照のこと)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "先発局ながら、こうした系列化で後れをとった日本テレビは、姉妹局・読売テレビや自社資本が入った札幌テレビ・テレビ西日本(1964年10月ネット解消)の他、後述するJNNに加盟しなかったラ・テ兼営局を対象に「NTVニュース」や「日本テレニュース」、「きょうの出来事」といったニュース番組を配信していった。ただし、これらは系列各社の取材協力はあったものの、あくまでも日本テレビの番組を供給したものであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "1959年8月1日、ラジオ東京は、同年4月に放送した皇太子(現・上皇)ご成婚特番でネットワークを組んだ前述4社を含めた計16局と、ニュース協定のJNNを締結。これがニュース系列の嚆矢とされる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "その後、1966年4月1日に日本テレビ系列がNNNを、10月3日にはフジテレビ系列がFNNをそれぞれ発足させ、これまでの日本テレビや共同テレビが制作したニュース番組を購入して放送する形式を改め、JNNと同様のスタイルを採ることとなった。1974年4月1日にはNETテレビ系列もANNというニュース協定を締結した(「ANNニュース」そのものは上記「NETニュース 朝日新聞制作」を改題した形で1970年1月1日よりスタートしていた。)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "テレビ東京がキー局となっているTXNは「TXNニュース協定」を1991年に締結して以降、ニュース系列と番組供給系列(1982年発足)を兼ねている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "左から系列名(略称)、在京キー局/在阪準キー局/在名基幹局。",
"title": "日本のニュース系列"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "なおNHK(日本放送協会)は1926年以来全国で同一事業者であり、ニュース系列には含まれない。",
"title": "日本のニュース系列"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "東京を中心とした関東広域圏を放送対象地域とするキー局にとって、地方のニュース取材は負担が重い。また、系列局にとっては東京でのニュースを必須とする。さらに、ニュースネットワークのない状態で各局がやりとりすると全国ニュース番組においての統一性に欠ける恐れがある。この事情から、",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "の3点を目的とした局間ネットワークが組まれていった。JNN排他協定は他系列が混じることによる品質の低下を防ぐためにJNNが当初から盛り込んでいたもので、ほかのニュース系列では盛り込まれていないものもある。その地域の放送局が少なく複数の系列に属する場合は「クロスネット」というが、平成に入ってから新たに開局した放送局が増えたため少なくなっている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "またニュース以外のドラマなどの各種番組についても、このニュース系列のネットワーク各局で放送されることが多い(フジテレビ系列の番組供給ネットワークはFNS・日本テレビ系列の番組供給ネットワークはNNSという別名称で呼ばれている)。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "なお、札幌・東京・名古屋・大阪・福岡のテレビ局はその系列の基幹局であり、ニュース系列で大きな力を持つ。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "上掲の通り、独立した放送局がニュースの相互配信を目的として発足したものだが、日本テレビは読売新聞社との関係が開局当初から強く、またNETテレビに至っては朝日新聞制作のニュースをそのままネットワークニュースとしてきたことから、やがてニュース系列と特定新聞社(言い換えれば、全国紙)との関係は強くなってきた。",
"title": "全国紙との関係"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "日本テレビをキー局とするNNNは、地方新聞社が設立した局も多く加盟しているため読売新聞とは一応別物と位置付けられているが、日本テレビと読売テレビは読売グループに属し、札仙広福の各局をはじめとして多くのNNN系列局には読売新聞の資本が入っている。一方、四国全域や北日本(東北地方の日本海側や北陸地方など)の一部にある古参局のように、読売資本が入っておらず地方紙等の地方企業との関係が深いところもある。例えば青森放送は東奥日報、山形放送は山形新聞、山梨放送は山梨日日新聞、北日本放送は北日本新聞、四国放送は徳島新聞、西日本放送は四国新聞、南海放送は愛媛新聞、また平成新局であるテレビ金沢は北國新聞などといったように一部の系列局は各県の地方紙を背景に設立されたものもあり、TBSテレビをキー局とする毎日新聞系列のJNNより少ないものの、やはり読売新聞との関係が希薄・皆無な局も存在する。",
"title": "全国紙との関係"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "なお、札幌テレビ放送、福岡放送など資本・人事面等で読売新聞の影響が強い局も、「読売グループ」には名を連ねていない。また、在名基幹局の中京テレビは設立に中日新聞系列である中部日本放送(現・CBCテレビ)と東海テレビ放送や名古屋鉄道(名鉄グループ)に加え、日本経済新聞などが関わっており、現在は日本テレビHDが筆頭株主ではあるものの、意外にも開局当初から様々な諸事情により、読売新聞との関係が資本上では希薄となっており、上位株主にはなっていない。",
"title": "全国紙との関係"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "一方、読売・日テレ色が濃い系列局でも松本市発祥のテレビ信州は信濃毎日新聞、アルピコグループに加えてクロスネット局の名残で朝日新聞・テレビ朝日HD、福岡放送は九州電力と西日本新聞、熊本県民テレビは西日本新聞と熊本日日新聞などが上位株主であることに加え、宮城テレビ放送も地元仙台市の有力企業・カメイが親会社であるなど、地方紙や地元企業も主要株主になっている系列局も存在している。なお福島中央テレビは福島民友系列ではあるが、福島民友は読売新聞グループの地方紙である。また山口放送はテレビ放送開始当初から日本テレビとは親密ではあるが、一時期はフジテレビも出資していたことがあった。また静岡第一テレビやテレビ金沢、長崎国際テレビ、テレビ大分の様にFNNのキー局であるフジテレビの持株会社であるフジ・メディア・ホールディングスや準キー局の関西テレビ(カンテレ)が大株主である系列局も存在する。",
"title": "全国紙との関係"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "テレビ朝日をキー局とするANNは、テレ朝(当時のNETテレビ)が発足した際に、当初毎日放送(MBSテレビ)が系列基幹局に加わっていたこともあり、名称も「朝日ニュースネットワーク」の略ではなく、「オールニッポンニュースネットワーク」の略となっているが、1975年3月31日に腸捻転解消に伴うネットチェンジでANNの準キー局が毎日放送から朝日放送(ABCテレビ)に変更して以降、現在はテレビ朝日、朝日放送テレビ、名古屋テレビも含め、全加盟局が朝日新聞社の関係会社であるため、ANNもまた朝日新聞系のテレビニュースネットワークに位置付けられている。",
"title": "全国紙との関係"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "TBSテレビをキー局とするJNNはTBS・毎日放送・RKB毎日放送といった基幹局が毎日新聞社の友好会社となってはいるが、歴史的経緯から、この3局が現在では資本面では毎日新聞社の系列というよりも同社と対等な関係にある一方、テレビユー福島、テレビ山口、宮崎放送など毎日新聞社が大株主の系列局もある。",
"title": "全国紙との関係"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "また地方紙がテレビ放送開始直後に設立した古参局が多く、例えばCBCテレビは中日新聞、北海道放送は北海道新聞、IBC岩手放送は岩手日報、東北放送は河北新報、新潟放送は新潟日報、信越放送は信濃毎日新聞、静岡放送は静岡新聞、北陸放送は北國新聞社、RSK山陽放送は山陽新聞、中国放送は中国新聞、熊本放送は熊本日日新聞、大分放送は大分合同新聞社、南日本放送は南日本新聞、琉球放送は沖縄タイムスといったように有力系列局の多くは各県の地方紙を背景に設立されたものが多く、またテレビ単営局であるテレビユー福島は福島民報社、チューリップテレビは北國新聞社と北日本新聞社、あいテレビは愛媛新聞社のように、毎日新聞との関係が希薄・皆無な局も多い。また、TBSの設立時には読売新聞社・朝日新聞社とも関係があったことから、朝日新聞・読売新聞とも資本および友好関係が残っている局(主に山陰放送、テレビユー山形、テレビ山梨、チューリップテレビ、テレビ高知など)もある。",
"title": "全国紙との関係"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "このためJNNと毎日新聞は完全に別物であるといえるが、TBS制作の情報番組の解説者には毎日新聞の記者や論説委員などが多く起用されている。",
"title": "全国紙との関係"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "テレビ東京をキー局とするTXNは、地元の山陽新聞社が筆頭株主となっているテレビせとうちを除いた5局が日本経済新聞社の持分法適用会社となっており、またニュース取材においても日本経済新聞社との提携関係にある。",
"title": "全国紙との関係"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "フジテレビをキー局とするFNNはフジテレビの親会社であるフジ・メディア・ホールディングスが産業経済新聞社の大株主であり、フジテレビと産経新聞は報道面で協力関係にあるが、東海テレビ、テレビ静岡などは中日新聞、富山テレビ、石川テレビなどは北陸中日新聞、テレビ西日本、サガテレビ、テレビ熊本などは西日本新聞、北海道文化放送は北海道新聞と関係が深く、また産経新聞自体が全国紙とは言い難い取材発行体制にあるため、FNNが産経系のニュースネットワークであるとは言い切れない。ただし、産経新聞紙面には時折「FNN・産経新聞共同世論調査」が掲載されていたり、FNNの解説者として産経新聞記者が登場するなど関係は深い。フジテレビでは「FNNスピーク」(2018年3月30日に終了。「FNNプライムニュース デイズ」→現・「FNN Live News days」。テレビ宮崎を除く)に「協力 産経」のクレジットが入り、(但し、「FNNスピーク」制作・幹事局のフジテレビのみ)2016年3月までは「産経テレニュースFNN」の放送もあった。",
"title": "全国紙との関係"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "なお、東海テレビではFNNニュースを「FNN東海テレニュース・協力 中日新聞」とテレビ西日本では「TNCニュース FNN(または「FNN西日本新聞ニュース」)」(一部時間帯)とそれぞれ系列局名を冠した番組名に差し替え、協力する新聞社のクレジットを入れている。しかし、FNNは東海テレビやテレビ西日本だけに限らず、他のFNN系列局(関西テレビなど)でもFNNニュースのタイトル差し替え番組が数多く存在する。",
"title": "全国紙との関係"
}
] | ニュース系列(ニュースけいれつ)またはニュースネットワーク(ニュースネットワーク)とは、日本の民間放送テレビ局間における、ニュース取材および情報の相互流通を行う放送局の系列関係をいう。 | {{otheruses2|主に日本|[[アメリカ]]|ネットワーク (放送)#アメリカ|:en:News broadcasting#United States}}
'''ニュース系列'''(ニュースけいれつ)または'''ニュースネットワーク'''(ニュースネットワーク)とは、[[日本]]の[[民間放送]]テレビ局間における、[[ニュース]]取材および情報の相互流通を行う[[放送局]]の[[ネットワーク (放送)|系列]]関係をいう。
== 歴史 ==
=== 前史 ===
[[1958年]]6月、当時[[東京都|東京]]の[[東京放送ホールディングス|ラジオ東京]](現・[[TBSテレビ]])が、[[大阪府|大阪]]の[[大阪テレビ放送]](現・[[朝日放送テレビ]])・[[名古屋市|名古屋]]の[[中部日本放送]](現・[[CBCテレビ]])・[[福岡県|福岡]]のラジオ九州(現・[[RKB毎日放送]])・[[北海道]]の[[北海道放送]]との間にテレビニュースネットワーク協定を締結。ラジオ東京の「東京テレニュース」を各局でタイトルや一部内容を差し替えて放送し、また自社取材のニュースをラジオ東京経由で流した。
一方、同年7月、[[共同通信社]]を中心に、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、日本教育テレビ(NET。現・[[テレビ朝日]])等が出資した共同テレビジョンニュース社(現・[[共同テレビジョン]])が発足。当初は同社がテレビニュースの制作を行い、出資各局が同社から番組を購入して放送することとしたが、結局業務開始までにNETが降り、事実上のフジテレビ系列として11月に「[[共同テレニュース]]」がスタートした。
共同テレビジョンニュース社から抜けたNETは、親会社であった[[東映]]が[[朝日新聞社]]と提携して朝日テレビニュース社(現・[[テレビ朝日映像]])を発足させ、同社が制作した「NETニュース 朝日新聞制作」を購入して放送することとなり、[[1959年]]よりNETと[[九州朝日放送]]で放送開始。ただし、既にラジオ東京との協定を結んでいた朝日放送ではこの番組を放送せず、[[1960年]]から大阪地区では[[毎日新聞]]系の[[毎日放送]]がこの番組を放送し取材制作に携わったことから、「腸捻転」ネットとして問題になった(1975年3月30日に解消。[[ネットチェンジ#近畿広域圏におけるいわゆる大阪準キー局「腸捻転」の解消|ネットチェンジ]]の項を参照のこと)。
先発局ながら、こうした系列化で後れをとった日本テレビは、姉妹局・[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]や自社資本が入った[[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]・[[テレビ西日本]]([[1964年]]10月ネット解消)の他、後述するJNNに加盟しなかった[[ラテ兼営|ラ・テ兼営局]]を対象に「[[NTVニュース]]」や「[[日本テレニュース]]」、「[[きょうの出来事]]」といったニュース番組を配信していった。ただし、これらは系列各社の取材協力はあったものの、あくまでも日本テレビの番組を供給したものであった。
=== 本格的なニュース系列の発足 ===
[[1959年]][[8月1日]]、ラジオ東京は、同年4月に放送した皇太子([[明仁|現・上皇]])ご成婚特番でネットワークを組んだ前述4社を含めた計16局と、ニュース協定の'''JNN'''を締結。これがニュース系列の嚆矢とされる。
その後、[[1966年]][[4月1日]]に日本テレビ系列が'''NNN'''を、[[10月3日]]にはフジテレビ系列が'''FNN'''をそれぞれ発足させ、これまでの日本テレビや共同テレビが制作したニュース番組を購入して放送する形式を改め、JNNと同様のスタイルを採ることとなった。[[1974年]][[4月1日]]にはNETテレビ系列も'''ANN'''というニュース協定を締結した(「ANNニュース」そのものは上記「NETニュース 朝日新聞制作」を改題した形で[[1970年]][[1月1日]]よりスタートしていた。)。
[[テレビ東京]]が[[キー局]]となっている[[TXNネットワーク|TXN]]は「TXNニュース協定」を1991年に締結して以降、ニュース系列と番組供給系列(1982年発足)を兼ねている<ref>[https://www.nhk.or.jp/bunken/research/title/year/2010/pdf/001.pdf NHK放送文化研究所年報、2010年、第54集]「民放ネットワークをめぐる議論の変遷」村上聖一、21ページ。</ref>。
== 日本のニュース系列 ==
左から系列名(略称)、[[在京テレビジョン放送局|在京]][[キー局]]/[[在阪テレビジョン放送局|在阪]][[準キー局]]/[[在名テレビジョン放送局|在名]][[基幹局]]。
* [[日本ニュースネットワーク]](NNN) [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]/[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]/[[中京テレビ放送|中京テレビ]]
* [[オールニッポン・ニュースネットワーク]](ANN) <ref group="注釈" name="bangumi">発足当初から番組供給系列組織としての機能を兼ねている。</ref>[[テレビ朝日]]/[[朝日放送テレビ]]/[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]
* [[ジャパン・ニュース・ネットワーク]](JNN) <ref group="注釈" name="bangumi" />[[TBSテレビ]]/[[毎日放送|毎日放送(MBSテレビ)]]/[[CBCテレビ]]
* [[TXNネットワーク]](TXN)<ref group="注釈">他のニュースネットワークと異なり、[[番組供給系列]]や[[ネットワーク (放送)|系列組織]]の一機能として「TXNニュース協定」が後から追加された。</ref> [[テレビ東京]]/[[テレビ大阪]]/[[テレビ愛知]]
* [[フジニュースネットワーク]](FNN) [[フジテレビジョン|フジテレビ]]/[[関西テレビ放送|関西テレビ]]/[[東海テレビ放送|東海テレビ]]
なおNHK([[日本放送協会]])は1926年以来全国で同一事業者であり、ニュース系列には含まれない。
== 特徴 ==
[[東京]]を中心とした[[広域放送|関東広域圏]]を[[放送対象地域]]とするキー局にとって、[[地方]]のニュース取材は負担が重い。また、系列局にとっては東京でのニュースを必須とする。さらに、ニュースネットワークのない状態で各局がやりとりすると全国ニュース番組においての統一性に欠ける恐れがある<ref group="注釈">岩波ジュニア新書『テレビは変わる』岡村黎明著より</ref>。この事情から、
* 系列間でニュース映像の交換(配信)を行う。
* ニュース系列名を冠したニュースは全国での放送とする。
* 系列外へのニュース配信を行ってはいけない([[JNN排他協定]])。
の3点を目的とした局間ネットワークが組まれていった。[[JNN排他協定]]は他系列が混じることによる品質の低下を防ぐためにJNNが当初から盛り込んでいたもので、ほかのニュース系列では盛り込まれていないものもある。その地域の放送局が少なく複数の系列に属する場合は「[[クロスネット局|クロスネット]]」というが、[[平成新局|平成に入ってから新たに開局した放送局]]が増えたため少なくなっている{{efn|1990年代に発足したTXNネットワークは、1970年代のFNNやANNのようにクロスネットによるネット局拡大を行なっていない。}}。
またニュース以外のドラマなどの各種番組についても、このニュース系列のネットワーク各局で放送されることが多い(フジテレビ系列の番組供給ネットワークは[[フジネットワーク|FNS]]・日本テレビ系列の番組供給ネットワークは[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]という別名称で呼ばれている)。
なお、[[札幌市|札幌]]・[[東京都区部|東京]]・[[名古屋市|名古屋]]・[[大阪市|大阪]]・[[福岡市|福岡]]のテレビ局<ref group="注釈">NNN、FNNでは[[仙台市|仙台]]・[[広島市|広島]]も(FNNは[[静岡市|静岡]]も)含む。またANNでは業務により昭和期に開局した仙台・[[郡山市|福島]]・[[新潟市|新潟]]・静岡・[[岡山市|岡山]]/[[高松市|高松]]・広島・[[鹿児島市|鹿児島]]を含む場合がある。</ref>はその系列の[[基幹局]]であり、ニュース系列で大きな力を持つ。
== 全国紙との関係 ==
上掲の通り、独立した放送局がニュースの相互配信を目的として発足したものだが、日本テレビは[[読売新聞社]]との関係が開局当初から強く、またNETテレビに至っては[[朝日新聞]]制作のニュースをそのままネットワークニュースとしてきたことから、やがてニュース系列と特定新聞社(言い換えれば、全国紙)との関係は強くなってきた。
===NNN===
日本テレビをキー局とするNNNは、地方新聞社が設立した局も多く加盟しているため読売新聞とは一応別物と位置付けられているが、日本テレビと読売テレビは読売グループに属し、[[札仙広福]]の各局<ref group="注釈">[[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]、[[宮城テレビ放送|ミヤギテレビ]]、[[広島テレビ放送|広島テレビ]]、[[福岡放送]]が該当。</ref>をはじめとして多くのNNN系列局には[[読売新聞]]の資本が入っている。一方、四国全域や北日本(東北地方の日本海側や北陸地方など)の一部にある古参局のように、読売資本が入っておらず地方紙等の地方企業との関係が深いところもある。例えば[[青森放送]]は[[東奥日報]]、[[山形放送]]は[[山形新聞]]、[[山梨放送]]は[[山梨日日新聞]]、[[北日本放送]]は[[北日本新聞]]、[[四国放送]]は[[徳島新聞]]、[[西日本放送]]は[[四国新聞]]、[[南海放送]]は[[愛媛新聞]]、また[[平成新局]]である[[テレビ金沢]]は[[北國新聞]]などといったように一部の系列局は各県の地方紙を背景に設立されたものもあり、TBSテレビをキー局とする[[毎日新聞]]系列のJNNより少ないものの、やはり[[読売新聞]]との関係が希薄・皆無な局も存在する。
なお、[[札幌テレビ放送]]、[[福岡放送]]など資本・人事面等で読売新聞の影響が強い局も、「読売グループ」には名を連ねていない。また、在名基幹局の[[中京テレビ放送|中京テレビ]]は設立に[[中日新聞]]系列である[[中部日本放送]](現・[[CBCテレビ]])と[[東海テレビ放送]]や[[名古屋鉄道]]([[名鉄グループ]])に加え、[[日本経済新聞社|日本経済新聞]]などが関わっており、現在は[[日本テレビホールディングス|日本テレビHD]]が筆頭株主ではあるものの、意外にも開局当初から様々な諸事情により、読売新聞との関係が資本上では希薄となっており、上位株主にはなっていない<ref group="注釈">なお、読売新聞はむしろ現在は[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列局]]の[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]](メ~テレ。[[トヨタ自動車]]が筆頭株主)の大株主であるが、開局当初は日本テレビメインでNETテレビ(現:テレビ朝日)とのクロスネット局だった。</ref>。
一方、読売・日テレ色が濃い系列局でも[[松本市]]発祥の[[テレビ信州]]は[[信濃毎日新聞]]、[[アルピコグループ]]に加えてクロスネット局の名残で[[朝日新聞]]・[[テレビ朝日ホールディングス|テレビ朝日HD]]<ref group="注釈">1980年10月1日に開局。元々は日本テレビ系列・テレビ朝日系列のクロスネット局で、開局当初から[[長野朝日放送]]が開局する前の1991年3月31日まではテレ朝メイン([[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]非加盟)の編成だった。</ref>、[[福岡放送]]は[[九州電力]]と[[西日本新聞]]、[[熊本県民テレビ]]は西日本新聞と[[熊本日日新聞]]などが上位株主であることに加え、[[宮城テレビ放送]]も地元[[仙台市]]の有力企業・[[カメイ]]が親会社であるなど、地方紙や地元企業も主要株主になっている系列局も存在している。なお[[福島中央テレビ]]は[[福島民友]]系列ではあるが、福島民友は読売新聞グループの地方紙である。また[[山口放送]]はテレビ放送開始当初から日本テレビとは親密ではあるが、一時期はフジテレビも出資していたことがあった。また[[静岡第一テレビ]]やテレビ金沢、[[長崎国際テレビ]]、[[テレビ大分]]<ref group="注釈">テレビ大分はFNN・[[フジネットワーク|FNS]]系列とのクロスネット局。</ref>の様にFNNのキー局であるフジテレビの持株会社である[[フジ・メディア・ホールディングス]]や準キー局の[[関西テレビ放送|関西テレビ(カンテレ)]]が大株主である系列局も存在する。
===ANN ===
テレビ朝日をキー局とするANNは、テレ朝(当時のNETテレビ)が発足した際に、当初[[毎日放送|毎日放送(MBSテレビ)]]が系列基幹局に加わっていたこともあり、名称も「朝日ニュースネットワーク」の略ではなく、「オールニッポンニュースネットワーク」の略となっているが、1975年3月31日に腸捻転解消に伴う[[ネットチェンジ]]でANNの準キー局が[[毎日放送]]から[[朝日放送テレビ|朝日放送(ABCテレビ)]]に変更して以降、現在はテレビ朝日、[[朝日放送テレビ]]、[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]も含め、全加盟局が[[朝日新聞社]]の関係会社であるため<ref group="注釈">[[広島ホームテレビ]]は設立当初、朝日新聞社と地元紙の[[中国新聞社]]の他に毎日新聞社・読売新聞社・産業経済新聞社・日本経済新聞社の主要5紙が上位株主だった。また一時期(1978年時点)は中国新聞社・広島県同栄社共済農業協同組合連合会([[全国共済農業協同組合連合会|JA共済連]]の関連団体)・[[広島銀行]]が朝日新聞社よりも上位株主だった。</ref><ref group="注釈">[[瀬戸内海放送]](KSB)は[[加藤汽船]]・毎日新聞社・毎日放送が主体となって設立された経緯から、系列局中で唯一、朝日新聞社が上位10社以内に入っていない少数株主(2018年時点では25,000株保有)となっている(出典:有価証券報告書-第165期〈平成29年4月1日 - 平成30年3月31日〉、[[朝日新聞社]]。EDINETで検索可能)。</ref>、ANNもまた朝日新聞系のテレビニュースネットワークに位置付けられている。
===JNN ===
TBSテレビをキー局とするJNNはTBS・毎日放送・[[RKB毎日放送]]といった基幹局が[[毎日新聞社]]の友好会社となってはいるが、歴史的経緯から、この3局が現在では資本面では毎日新聞社の系列というよりも同社と対等な関係にある一方、[[テレビユー福島]]、[[テレビ山口]]、[[宮崎放送]]など毎日新聞社が大株主の系列局もある。
また地方紙がテレビ放送開始直後に設立した古参局が多く、例えばCBCテレビは[[中日新聞]]<ref group="注釈">尚、中部日本放送の親会社である[[中日新聞]]はかつて編集提携にあった読売新聞へ東京の放送局([[読売放送]])の設立へ働きかけた経緯があり、また読売新聞と関係の深い日本テレビとともに[[キユーピー3分クッキング]]を全国向けに制作している縁もあってか、親会社である中日新聞やキー局であるTBSと友好関係のある毎日新聞のみならず、[[読売新聞]]からも[[CBCテレビ]]の番組宣伝が出されるケースも現に存在する(実際は[[中京テレビ放送]]が名古屋の日テレ系列であるが、読売新聞と最も資本関係が深い在名局は[[名古屋テレビ放送]]であるうえ、その読売新聞からの番組宣伝が最も多い在名局は[[CBCテレビ]]という二重の掟破りが現に起こっている)。また近年は似たようなケースとして[[産経新聞]]から本来は系列関係ではない[[名古屋テレビ放送]]の番組宣伝が出されるといったケースもある。</ref>、[[北海道放送]]は[[北海道新聞]]、[[IBC岩手放送]]は[[岩手日報]]、[[東北放送]]は[[河北新報]]、[[新潟放送]]は[[新潟日報]]、[[信越放送]]は[[信濃毎日新聞]]、[[静岡放送]]は[[静岡新聞]]、[[北陸放送]]は[[北國新聞社]]、[[RSKテレビ|RSK山陽放送]]は[[山陽新聞]]、[[中国放送]]は[[中国新聞]]、[[熊本放送]]は[[熊本日日新聞]]、[[大分放送]]は[[大分合同新聞社]]、[[南日本放送]]は[[南日本新聞]]、[[琉球放送]]は[[沖縄タイムス]]といったように有力系列局の多くは各県の[[地方紙]]を背景に設立されたものが多く、またテレビ単営局である[[テレビユー福島]]は[[福島民報社]]、[[チューリップテレビ]]は[[北國新聞社]]と[[北日本新聞社]]、[[あいテレビ]]は[[愛媛新聞社]]のように、[[毎日新聞]]との関係が希薄・皆無な局も多い。また、TBSの設立時には読売新聞社・朝日新聞社とも関係があったことから、[[朝日新聞]]・[[読売新聞]]とも資本および友好関係が残っている局(主に[[山陰放送]]、[[テレビユー山形]]、[[テレビ山梨]]、[[チューリップテレビ]]、[[テレビ高知]]など)もある。
このためJNNと毎日新聞は完全に別物であるといえるが<ref group="注釈">ただしCBCテレビや北海道放送や中国放送は毎日新聞のテレビCMをスポット放送している。毎日新聞[[毎日新聞中部本社|中部本社]]発行のテレビ欄や[[毎日新聞北海道支社|北海道支社]]発行のテレビ欄ではそれぞれCBCテレビ・北海道放送がNHK総合の次に配置されている。なお、CBCテレビが『[[毎日新聞ニュース]]』放映した実績はあったものの、毎日新聞社とCBCテレビ・北海道放送との間に上位10社以内に入るほどの資本関係や直接的な人的交流、協力関係はない。中国放送は長年毎日新聞社・朝日新聞社も大株主だったが、後年に毎日新聞社は株式の大半をTBSに売却し、朝日新聞社保有の株式の大半は[[中国新聞社]]が保有していた[[広島ホームテレビ]](テレビ朝日系列)の株式の大半と交換している。</ref>、TBS制作の情報番組の解説者には毎日新聞の記者や論説委員などが多く起用されている。
=== TXN ===
テレビ東京をキー局とするTXNは、地元の[[山陽新聞社]]が筆頭株主となっている[[テレビせとうち]]を除いた5局が[[日本経済新聞社]]の[[持分法|持分法適用会社]]となっており、またニュース取材においても日本経済新聞社との提携関係にある。
=== FNN ===
フジテレビをキー局とするFNNはフジテレビの親会社である[[フジ・メディア・ホールディングス]]が[[産業経済新聞社]]の大株主であり、フジテレビと[[産経新聞]]は報道面で協力関係にあるが、[[東海テレビ放送|東海テレビ]]、[[テレビ静岡]]などは[[中日新聞]]、[[富山テレビ放送|富山テレビ]]、[[石川テレビ放送|石川テレビ]]などは[[北陸中日新聞]]、[[テレビ西日本]]、[[サガテレビ]]、[[テレビ熊本]]などは[[西日本新聞]]、[[北海道文化放送]]は[[北海道新聞]]と関係が深く<ref group="注釈">中日新聞、西日本新聞、北海道新聞と産経新聞は相互に編集協定を結んでいるものの、論調は産経と正反対である。また、[[産経新聞東京本社]]発行版と[[中日新聞東京本社]]発行の[[東京新聞]]、[[産経新聞西部本部|産経新聞九州・山口特別版]]と西日本新聞が競合関係にある。</ref>、また産経新聞自体が全国紙とは言い難い取材発行体制にあるため、FNNが産経系のニュースネットワークであるとは言い切れない。ただし、産経新聞紙面には時折「FNN・産経新聞共同世論調査」が掲載されていたり、FNNの解説者として産経新聞記者が登場するなど関係は深い。フジテレビでは「[[FNNスピーク]]」(2018年3月30日に終了。「[[FNNプライムニュース デイズ]]」→現・「[[FNN Live News days]]」。[[テレビ宮崎]]を除く)に「協力 産経」のクレジットが入り、(但し、「FNNスピーク」制作・幹事局のフジテレビのみ)<ref group="注釈">一時[[テレビ静岡]]も「協力 産経新聞・中日新聞」(または逆の順序)でクレジットを入れていた時期がある(産経・中日がほぼ均等に出資しているため)。</ref>2016年3月までは「産経テレニュースFNN」<ref group="注釈">2016年4月からは、「FNNニュース」と「FNNスピークweekend」に変更。</ref>の放送もあった。
なお、東海テレビではFNNニュースを「FNN東海テレニュース・協力 中日新聞」とテレビ西日本では「TNCニュース FNN(または「FNN西日本新聞ニュース」)」(一部時間帯)とそれぞれ系列局名を冠した番組名に差し替え、協力する新聞社のクレジットを入れている。しかし、FNNは東海テレビやテレビ西日本だけに限らず、他のFNN系列局(関西テレビなど)でもFNNニュースのタイトル差し替え番組が数多く存在する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ネットワーク (放送)]]
* [[ネット番組]]
* [[報道番組]]
* [[ローカル番組]]
* [[報道局]]
* [[ニュースキャスター]]
* [[ローカルニュース動画配信実施局一覧]]
* [[ラジオ局ローカルニュースタイトル一覧]]
* [[フジサンケイグループ]]
* [[民放テレビ全国四波化]]
* [[読売・朝日・毎日3社ニュース|3社ニュース]]
{{放送ネットワーク}}
{{DEFAULTSORT:にゆうすけいれつ}}
[[Category:報道]]
[[Category:放送]] | 2003-03-07T23:33:34Z | 2023-10-18T10:45:01Z | false | false | false | [
"Template:Otheruses2",
"Template:Efn",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist",
"Template:Reflist",
"Template:放送ネットワーク"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%B3%BB%E5%88%97 |
3,650 | Random Access Memory | Random access memory(ランダムアクセスメモリ、RAM、ラム)とは、コンピュータで使用するメモリの一分類である。本来は、格納されたデータに任意の順序でアクセスできる(ランダムアクセス)メモリといった意味で、かなりの粗粒度で「端から順番に」からしかデータを読み書きできない「シーケンシャルアクセスメモリ」(SAM)と対比した意味を持つ語であった。しかし本来の意味からズレて、電源を落としても記録が消えないROM(これも本来の読み出し専用メモリからは意味がズレてきている。)に対して、電源が落ちれば記憶内容が消えてしまう短期メモリの意で使われていることが専らである。
本来の「ランダムアクセス・メモリ」とは、任意のアドレスの記憶素子に対して随時、アクセスパターンに依存した待ち時間などを要することなく、読み出しや書き込みといった操作ができるメモリを指す語である。磁気テープのように記憶情報が順番に格納されていて所要の番地への操作を行なうには順番待ちをしなければならないメモリを指す「シーケンシャルアクセス・メモリ」に対比した語であって、RAMという言葉には読み書き (Read/Write) 可能という意味は(本来は)ない。
読み書き (Read/Write) 可能という意味ではRWM (Read write memory) という表現がある。しかし実際上はほとんど全く使われていない。
厳密にはこれらも、半導体チップによるものだけを指す語ではないが、ここでは専ら半導体チップによるものについて述べる。
半導体DRAMは、記憶データをコンデンサ(キャパシタ)の電荷として蓄えているため、一定時間経つと自然放電によりデータが消えてしまう。そのため、定期的に情報を読み出し、再度書き込みをする必要がある。この動作を「リフレッシュ」といい、記憶を保持するためには1秒間に数十回の頻度で繰り返しリフレッシュを行う必要がある。一般にそのようなメモリをダイナミックメモリといい、ダイナミックなRAMということでDRAMと呼ばれている。DRAMは、アドレスを指定してからデータを読み出すまでの時間がSRAMよりも若干遅いものの、記憶部の構造が単純であるため、容量あたりのコストが低いという特徴がある。また、常にリフレッシュを行っているため、消費電力が大きい。DRAMのアクセス方式によってさまざまな種類のものが市販されている。
半導体SRAMは、記憶部にフリップフロップを用いており、リフレッシュ動作を必要としない。また、DRAMより高速動作させることができるが、記憶部の回路が複雑になるため、容量あたりのコストが高い。リフレッシュ動作を必要としないため、リフレッシュ動作による電力の消費が無い。
半導体DRAMも半導体SRAMも揮発性メモリである。揮発性でないメモリとして、不揮発性メモリがある。
最初期(1940年代)の電子計算機の時点で、当時の主力素子である真空管で1ビット1ビットメモリを作っていたのでは高価につきすぎることから、いくつかの記憶装置に特化した素子や機器が考案された。アタナソフ&ベリー・コンピュータではリフレッシュ操作を機械的に行う、キャパシタによる一種のDRAMのような装置が考案された。1949年に稼働したEDSACで使われた水銀遅延記憶装置などの信号の遅延を利用するものは、原理上シーケンシャルアクセスである。EDSACは初の「実用的な」プログラム内蔵方式のコンピュータだとされているが、プログラム内蔵方式の実用性のためにはある程度多くのメモリが必要であり(EDSACでは1024短語)、水銀遅延記憶装置は同機の成功の重要な要素であった。当時の他の素子では、ブラウン管面の帯電を利用するウィリアムス管は、ランダムアクセスでリフレッシュを必要とするなどDRAMに近い性格を持つ。
以降には「ランダムアクセス」メモリに関する話題は特に無い。
その後、1949年から1952年に磁気コアを用いた磁気コアメモリが開発された。コアメモリでは、格子状に配置した磁気コアと呼ばれるリング状の磁性体に、縦と横方向から電線を貫いた構造をしていた。磁気コアメモリは、集積回路による半導体メモリが登場する1960年代末から1970年代初頭まで、広く使われていた。特には、放射線などの影響を受けにくいという特性から、宇宙機用などでは1980年代でも用いられていた例がある。また、破壊読み出しなので読み出したら書き戻す必要がある一方、ドーナツ状のフェライトコアの磁性を利用しているため不揮発という特性がある。
21世紀の現在では、コンピュータの主記憶装置は、すべてDRAMになっている。原理的にSRAMは容量あたりの単価が高くならざるをえないため、(何らかのブレークスルーがないかぎり)主記憶装置をSRAMで構成するようになるとは考えられていない。いっぽうで、何らかの不揮発性メモリがDRAMを置き換える可能性はあるものと考えられており、研究開発がおこなわれている。例えば、カーボンナノチューブを使ったものや、トンネル磁気抵抗効果を使ったMRAMがある。また、2004年には、インフィニオン・テクノロジーズが16MiBのMRAM試作品を公開した。現在開発が進んでいる第二世代の技術は、Thermal Assisted Switching (TAS) 方式と Spin Torque Transfer (STT) 方式がある。前者はベンチャー企業が単独で開発しているが、後者はIBMなどを含め複数の企業が開発に乗り出している。ただし、これらが今後の主流となるかどうかは、まだ不透明である。
主記憶装置において、アクセススピードや容量あたりコストと並んで重要なのは、消費電力である。過去の組み込みシステムにおいては、消費電力を抑えるためにSRAMが用いられていたが、近年では低消費電力に特化したDRAMが使われている。例えば、サーバファームなどでは、高速性よりも消費電力を抑えることに重点を置いた、"EcoRAM" と呼ばれるRAMも登場している。
理論的にはRandom Access Machine(理論の文脈では、RAMという略語はこちらのこともある)といって、全てのメモリに一定時間でランダムアクセスできるような機械のモデルなどもあるが、現実のコンピュータでは一般に「早くて小さい」メモリと「遅くて大きい」メモリを組み合わせて使う。
多くのコンピュータシステムは、レジスタを頂点として、マイクロプロセッサチップ上のSRAMキャッシュ、外部キャッシュメモリ、主記憶装置、補助記憶装置等々といったようなメモリ階層を持っている。DRAMという階層だけを見てもアクセス時間にはバラつきがあるが、その範囲は回転式の電子媒体や磁気テープほど大きくはない。メモリ階層を使う目的は、メモリシステム全体のコストを最小化しつつ、平均的なアクセス性能を向上させることにある。一般に、レイテンシ・スループット・アクセス単位といった点で、レジスタが最も高速・細粒度であり、階層を下に行くほど低速・粗粒度となる。
マイクロプロセッサの速度(ここでは、周辺の速度によって待たされることが無かった場合の単位時間あたりのデータ処理量)とその向上に対して、メモリの速度(レイテンシとスループット)とその向上を比較すると、メモリの方が遅いという傾向は、マイクロプロセッサの誕生以来一貫して続いている。最大の問題は、チップとチップの間のデータ転送帯域幅に限界があることである。1986年から2000年まで、CPUの性能向上は年率平均で55%であったのに対して、メモリの性能向上は年率平均で10%ほどであった。この傾向から、メモリレイテンシがコンピュータ全体の性能においてボトルネックになるだろうと予想されていた。
その後、CPUの性能向上は鈍化した。これには、微細化により性能向上が物理的限界に近づいていることや発熱の問題もあるが、同時にメモリとの速度差を考慮した結果でもある。インテルは、その原因について次のように分析している。
第一に、チップが微細化しクロック周波数が上がると、個々のトランジスタのリーク電流が増大し、消費電力の増大と発熱量の増大を招く(中略)、第二にクロック高速化による利点はメモリレイテンシによって一部相殺される。つまり、メモリアクセス時間は、クロック周波数の向上に合わせて短縮することができなかった。第三に、これまでの逐次的アーキテクチャでは、ある種のアプリケーションは、プロセッサが高速化したほど性能が向上しなくなっている(フォン・ノイマン・ボトルネック)。さらに、集積回路の微細化が進行したことにより、インダクタンスの付与が難しく、信号伝送におけるRC遅延が大きくなる。これも周波数向上を阻害するボトルネックの一つである。
信号伝送におけるRC遅延については Clock Rate versus IPC: The End of the Road for Conventional Microarchitectures にもあり、2000年から2014年のCPUの性能向上は、最大でも年率平均で12.5%という見積もりが示されていた。インテルのデータを見ても、2000年から2004年の間、CPUの速度の向上は鈍化している。
しかし、この見積もりはCPUの性能向上があくまで「クロック周波数の向上によって」高性能化するという前提に立っていた。だが、2004年に AMDがK8アーキテクチャを発表すると、パイプラインバーストによる処理遅延を抑え単位クロック数あたりの命令実行数を向上することがトレンドとなり、クロック周波数のむやみな向上は止まったが、処理能力の向上はむしろ激化した。さらに、この頃から1つのプロセッサダイに複数の主演算コアを搭載し、さらにそれを仮想的に複数のコアとするスレッディング技術を搭載することが主流となった。AMDの製品では、2005年のAthlon64 X2 3800+ では約7.31GFLOPS相当だったが、2017年のRyzen 7 1800Xでは約42.53GFLOPSにも達しており、これは年率平均にすると約50%程度の性能向上と、2000年以前とさして変わっていない。
一般にRAMという語は、主記憶装置寄りのそれを指し、補助記憶装置寄りのそれは指さないことが多い。しかし、DVD-RAMのような例外もある。
DVD-RAMは文字通りランダムアクセスを重視して設計されており、DVD-RWや他のDVDと比べてランダムアクセス性能が高い。
RAMディスクという語は2通りに使われている。どちらも「論理的には超高速のハードディスクのように見える」という点は共通である。
1種類目は、SCSIなどのインタフェースでアクセスできる、外からはハードディスクのように見える装置だが、内部は(D)RAMで構成されているというもので、バッテリーバックアップ等により記憶が保持できるようにしたものも多いが、そうでないものもある。
2種類目は、オペレーティングシステムのデバイスドライバとして、ユーザーのプログラムからはストレージ(ブロックデバイス)のように見えるが、実際にはメインメモリに確保した領域に記録している、というもので、当然ながらシャットダウンにより情報は失われる。テンポラリファイル等の置き場等として使われることが意図されている。
ROMの内容をRAMにコピーしてアクセス時間を短縮することがある(ROMは一般に低速である)。コンピュータの電源投入時、メモリを初期化した後、ROMの配置されていたアドレス範囲をコピーしたRAMに切り替える。これをシャドウRAMと呼ぶ。これは組み込みシステムでもよく行われる技法である。
典型例として、パーソナルコンピュータのBIOSがあり、ファームウェアのなんらかのオプション設定でBIOSをシャドウRAMにコピーして使うことができる(システム内の他のROMをRAMにコピーして使うオプションもある)。それによって性能向上する場合もあるし、非互換問題が発生する場合もある。例えば、ある種のハードウェアはシャドウRAMが使われているとオペレーティングシステムにアクセスできない。また、ブート後は全くBIOSを使わないシステムなら、性能は向上しない。当然ながらシャドウRAMを使うと、主記憶の空き容量が少なくなる。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "Random access memory(ランダムアクセスメモリ、RAM、ラム)とは、コンピュータで使用するメモリの一分類である。本来は、格納されたデータに任意の順序でアクセスできる(ランダムアクセス)メモリといった意味で、かなりの粗粒度で「端から順番に」からしかデータを読み書きできない「シーケンシャルアクセスメモリ」(SAM)と対比した意味を持つ語であった。しかし本来の意味からズレて、電源を落としても記録が消えないROM(これも本来の読み出し専用メモリからは意味がズレてきている。)に対して、電源が落ちれば記憶内容が消えてしまう短期メモリの意で使われていることが専らである。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "本来の「ランダムアクセス・メモリ」とは、任意のアドレスの記憶素子に対して随時、アクセスパターンに依存した待ち時間などを要することなく、読み出しや書き込みといった操作ができるメモリを指す語である。磁気テープのように記憶情報が順番に格納されていて所要の番地への操作を行なうには順番待ちをしなければならないメモリを指す「シーケンシャルアクセス・メモリ」に対比した語であって、RAMという言葉には読み書き (Read/Write) 可能という意味は(本来は)ない。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "読み書き (Read/Write) 可能という意味ではRWM (Read write memory) という表現がある。しかし実際上はほとんど全く使われていない。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "厳密にはこれらも、半導体チップによるものだけを指す語ではないが、ここでは専ら半導体チップによるものについて述べる。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "半導体DRAMは、記憶データをコンデンサ(キャパシタ)の電荷として蓄えているため、一定時間経つと自然放電によりデータが消えてしまう。そのため、定期的に情報を読み出し、再度書き込みをする必要がある。この動作を「リフレッシュ」といい、記憶を保持するためには1秒間に数十回の頻度で繰り返しリフレッシュを行う必要がある。一般にそのようなメモリをダイナミックメモリといい、ダイナミックなRAMということでDRAMと呼ばれている。DRAMは、アドレスを指定してからデータを読み出すまでの時間がSRAMよりも若干遅いものの、記憶部の構造が単純であるため、容量あたりのコストが低いという特徴がある。また、常にリフレッシュを行っているため、消費電力が大きい。DRAMのアクセス方式によってさまざまな種類のものが市販されている。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "半導体SRAMは、記憶部にフリップフロップを用いており、リフレッシュ動作を必要としない。また、DRAMより高速動作させることができるが、記憶部の回路が複雑になるため、容量あたりのコストが高い。リフレッシュ動作を必要としないため、リフレッシュ動作による電力の消費が無い。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "半導体DRAMも半導体SRAMも揮発性メモリである。揮発性でないメモリとして、不揮発性メモリがある。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "最初期(1940年代)の電子計算機の時点で、当時の主力素子である真空管で1ビット1ビットメモリを作っていたのでは高価につきすぎることから、いくつかの記憶装置に特化した素子や機器が考案された。アタナソフ&ベリー・コンピュータではリフレッシュ操作を機械的に行う、キャパシタによる一種のDRAMのような装置が考案された。1949年に稼働したEDSACで使われた水銀遅延記憶装置などの信号の遅延を利用するものは、原理上シーケンシャルアクセスである。EDSACは初の「実用的な」プログラム内蔵方式のコンピュータだとされているが、プログラム内蔵方式の実用性のためにはある程度多くのメモリが必要であり(EDSACでは1024短語)、水銀遅延記憶装置は同機の成功の重要な要素であった。当時の他の素子では、ブラウン管面の帯電を利用するウィリアムス管は、ランダムアクセスでリフレッシュを必要とするなどDRAMに近い性格を持つ。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "以降には「ランダムアクセス」メモリに関する話題は特に無い。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "その後、1949年から1952年に磁気コアを用いた磁気コアメモリが開発された。コアメモリでは、格子状に配置した磁気コアと呼ばれるリング状の磁性体に、縦と横方向から電線を貫いた構造をしていた。磁気コアメモリは、集積回路による半導体メモリが登場する1960年代末から1970年代初頭まで、広く使われていた。特には、放射線などの影響を受けにくいという特性から、宇宙機用などでは1980年代でも用いられていた例がある。また、破壊読み出しなので読み出したら書き戻す必要がある一方、ドーナツ状のフェライトコアの磁性を利用しているため不揮発という特性がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "21世紀の現在では、コンピュータの主記憶装置は、すべてDRAMになっている。原理的にSRAMは容量あたりの単価が高くならざるをえないため、(何らかのブレークスルーがないかぎり)主記憶装置をSRAMで構成するようになるとは考えられていない。いっぽうで、何らかの不揮発性メモリがDRAMを置き換える可能性はあるものと考えられており、研究開発がおこなわれている。例えば、カーボンナノチューブを使ったものや、トンネル磁気抵抗効果を使ったMRAMがある。また、2004年には、インフィニオン・テクノロジーズが16MiBのMRAM試作品を公開した。現在開発が進んでいる第二世代の技術は、Thermal Assisted Switching (TAS) 方式と Spin Torque Transfer (STT) 方式がある。前者はベンチャー企業が単独で開発しているが、後者はIBMなどを含め複数の企業が開発に乗り出している。ただし、これらが今後の主流となるかどうかは、まだ不透明である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "主記憶装置において、アクセススピードや容量あたりコストと並んで重要なのは、消費電力である。過去の組み込みシステムにおいては、消費電力を抑えるためにSRAMが用いられていたが、近年では低消費電力に特化したDRAMが使われている。例えば、サーバファームなどでは、高速性よりも消費電力を抑えることに重点を置いた、\"EcoRAM\" と呼ばれるRAMも登場している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "理論的にはRandom Access Machine(理論の文脈では、RAMという略語はこちらのこともある)といって、全てのメモリに一定時間でランダムアクセスできるような機械のモデルなどもあるが、現実のコンピュータでは一般に「早くて小さい」メモリと「遅くて大きい」メモリを組み合わせて使う。",
"title": "メモリの階層"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "多くのコンピュータシステムは、レジスタを頂点として、マイクロプロセッサチップ上のSRAMキャッシュ、外部キャッシュメモリ、主記憶装置、補助記憶装置等々といったようなメモリ階層を持っている。DRAMという階層だけを見てもアクセス時間にはバラつきがあるが、その範囲は回転式の電子媒体や磁気テープほど大きくはない。メモリ階層を使う目的は、メモリシステム全体のコストを最小化しつつ、平均的なアクセス性能を向上させることにある。一般に、レイテンシ・スループット・アクセス単位といった点で、レジスタが最も高速・細粒度であり、階層を下に行くほど低速・粗粒度となる。",
"title": "メモリの階層"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "マイクロプロセッサの速度(ここでは、周辺の速度によって待たされることが無かった場合の単位時間あたりのデータ処理量)とその向上に対して、メモリの速度(レイテンシとスループット)とその向上を比較すると、メモリの方が遅いという傾向は、マイクロプロセッサの誕生以来一貫して続いている。最大の問題は、チップとチップの間のデータ転送帯域幅に限界があることである。1986年から2000年まで、CPUの性能向上は年率平均で55%であったのに対して、メモリの性能向上は年率平均で10%ほどであった。この傾向から、メモリレイテンシがコンピュータ全体の性能においてボトルネックになるだろうと予想されていた。",
"title": "プロセッサとメモリの速度差"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "その後、CPUの性能向上は鈍化した。これには、微細化により性能向上が物理的限界に近づいていることや発熱の問題もあるが、同時にメモリとの速度差を考慮した結果でもある。インテルは、その原因について次のように分析している。",
"title": "プロセッサとメモリの速度差"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "第一に、チップが微細化しクロック周波数が上がると、個々のトランジスタのリーク電流が増大し、消費電力の増大と発熱量の増大を招く(中略)、第二にクロック高速化による利点はメモリレイテンシによって一部相殺される。つまり、メモリアクセス時間は、クロック周波数の向上に合わせて短縮することができなかった。第三に、これまでの逐次的アーキテクチャでは、ある種のアプリケーションは、プロセッサが高速化したほど性能が向上しなくなっている(フォン・ノイマン・ボトルネック)。さらに、集積回路の微細化が進行したことにより、インダクタンスの付与が難しく、信号伝送におけるRC遅延が大きくなる。これも周波数向上を阻害するボトルネックの一つである。",
"title": "プロセッサとメモリの速度差"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "信号伝送におけるRC遅延については Clock Rate versus IPC: The End of the Road for Conventional Microarchitectures にもあり、2000年から2014年のCPUの性能向上は、最大でも年率平均で12.5%という見積もりが示されていた。インテルのデータを見ても、2000年から2004年の間、CPUの速度の向上は鈍化している。",
"title": "プロセッサとメモリの速度差"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "しかし、この見積もりはCPUの性能向上があくまで「クロック周波数の向上によって」高性能化するという前提に立っていた。だが、2004年に AMDがK8アーキテクチャを発表すると、パイプラインバーストによる処理遅延を抑え単位クロック数あたりの命令実行数を向上することがトレンドとなり、クロック周波数のむやみな向上は止まったが、処理能力の向上はむしろ激化した。さらに、この頃から1つのプロセッサダイに複数の主演算コアを搭載し、さらにそれを仮想的に複数のコアとするスレッディング技術を搭載することが主流となった。AMDの製品では、2005年のAthlon64 X2 3800+ では約7.31GFLOPS相当だったが、2017年のRyzen 7 1800Xでは約42.53GFLOPSにも達しており、これは年率平均にすると約50%程度の性能向上と、2000年以前とさして変わっていない。",
"title": "プロセッサとメモリの速度差"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "一般にRAMという語は、主記憶装置寄りのそれを指し、補助記憶装置寄りのそれは指さないことが多い。しかし、DVD-RAMのような例外もある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "DVD-RAMは文字通りランダムアクセスを重視して設計されており、DVD-RWや他のDVDと比べてランダムアクセス性能が高い。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "RAMディスクという語は2通りに使われている。どちらも「論理的には超高速のハードディスクのように見える」という点は共通である。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1種類目は、SCSIなどのインタフェースでアクセスできる、外からはハードディスクのように見える装置だが、内部は(D)RAMで構成されているというもので、バッテリーバックアップ等により記憶が保持できるようにしたものも多いが、そうでないものもある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2種類目は、オペレーティングシステムのデバイスドライバとして、ユーザーのプログラムからはストレージ(ブロックデバイス)のように見えるが、実際にはメインメモリに確保した領域に記録している、というもので、当然ながらシャットダウンにより情報は失われる。テンポラリファイル等の置き場等として使われることが意図されている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ROMの内容をRAMにコピーしてアクセス時間を短縮することがある(ROMは一般に低速である)。コンピュータの電源投入時、メモリを初期化した後、ROMの配置されていたアドレス範囲をコピーしたRAMに切り替える。これをシャドウRAMと呼ぶ。これは組み込みシステムでもよく行われる技法である。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "典型例として、パーソナルコンピュータのBIOSがあり、ファームウェアのなんらかのオプション設定でBIOSをシャドウRAMにコピーして使うことができる(システム内の他のROMをRAMにコピーして使うオプションもある)。それによって性能向上する場合もあるし、非互換問題が発生する場合もある。例えば、ある種のハードウェアはシャドウRAMが使われているとオペレーティングシステムにアクセスできない。また、ブート後は全くBIOSを使わないシステムなら、性能は向上しない。当然ながらシャドウRAMを使うと、主記憶の空き容量が少なくなる。",
"title": "その他"
}
] | Random access memory(ランダムアクセスメモリ、RAM、ラム)とは、コンピュータで使用するメモリの一分類である。本来は、格納されたデータに任意の順序でアクセスできる(ランダムアクセス)メモリといった意味で、かなりの粗粒度で「端から順番に」からしかデータを読み書きできない「シーケンシャルアクセスメモリ」(SAM)と対比した意味を持つ語であった。しかし本来の意味からズレて、電源を落としても記録が消えないROM(これも本来の読み出し専用メモリからは意味がズレてきている。)に対して、電源が落ちれば記憶内容が消えてしまう短期メモリの意で使われていることが専らである。 | {{redirect|RAM|その他|ラム}}
[[ファイル:RAM n.jpg|200px|thumb|RAMのICやモジュール。一番上のみが単体のICでありデュアルインラインパッケージ(DIP)、残りは順に SIPP、SIMM 30ピン、SIMM 72ピン、DIMM (SDRAM)、DIMM(DDR-SDRAM) のモジュール]]
'''Random-access memory'''(ランダムアクセスメモリ、'''RAM'''、ラム)とは、[[コンピュータ]]で使用する[[記憶装置|メモリ]]の一分類である。本来は、格納された[[データ]]に任意の順序でアクセスできる([[ランダムアクセス]])メモリといった意味で、かなりの粗粒度で「端から順番に」からしかデータを読み書きできない「[[シーケンシャルアクセスメモリ]]」(SAM)と対比した意味を持つ語であった。しかし本来の意味からズレて、電源を落としても記録が消えない[[Read only memory|ROM]](これも本来の読み出し専用メモリからは意味がズレてきている。)に対して、電源が落ちれば記憶内容が消えてしまう短期メモリの意で使われていることが専らである。
== 概説 ==
本来の「ランダムアクセス・メモリ」とは、任意のアドレスの記憶素子に対して随時、アクセスパターンに依存した待ち時間などを要することなく、読み出しや書き込みといった操作ができるメモリを指す語である。[[磁気テープ]]のように記憶情報が順番に格納されていて所要の番地への操作を行なうには順番待ちをしなければならないメモリを指す「[[シーケンシャルアクセス]]・メモリ」に対比した語であって、RAMという言葉には読み書き (Read/Write) 可能という意味は(本来は)ない。
読み書き (Read/Write) 可能という意味ではRWM (Read write memory) という表現がある{{Sfn |CompArchOrg |1978,1979 |p=325}}。しかし実際上はほとんど全く使われていない。
=== DRAMとSRAM(と、その他) ===
{{main|Dynamic Random Access Memory|Static Random Access Memory}}
厳密にはこれらも、半導体チップによるものだけを指す語ではないが、ここでは専ら半導体チップによるものについて述べる。
半導体DRAMは、記憶データを[[コンデンサ]](キャパシタ)の[[電荷]]として蓄えているため、一定時間経つと自然放電によりデータが消えてしまう。そのため、定期的に情報を読み出し、再度書き込みをする必要がある。この動作を「リフレッシュ」といい、記憶を保持するためには1秒間に数十回の頻度で繰り返しリフレッシュを行う必要がある。一般にそのようなメモリをダイナミックメモリといい<ref group="注">[[ウィリアムス管]]などが、半導体DRAMよりも古くからあるダイナミックメモリである。</ref>、ダイナミックなRAMということでDRAMと呼ばれている。DRAMは、アドレスを指定してからデータを読み出すまでの時間がSRAMよりも若干遅いものの、記憶部の構造が単純であるため、容量あたりのコストが低いという特徴がある。また、常にリフレッシュを行っているため、消費電力が大きい。DRAMのアクセス方式によってさまざまな種類のものが市販されている。
半導体SRAMは、記憶部に[[フリップフロップ]]を用いており、リフレッシュ動作を必要としない。また、DRAMより高速動作させることができるが、記憶部の回路が複雑になるため、容量あたりのコストが高い。リフレッシュ動作を必要としないため、リフレッシュ動作による電力の消費が無い。
半導体DRAMも半導体SRAMも[[揮発性メモリ]]である。揮発性でないメモリとして、[[不揮発性メモリ]]がある。
== 歴史 ==
最初期(1940年代)の電子計算機の時点で、当時の主力素子である[[真空管]]で1ビット1ビットメモリを作っていたのでは高価につきすぎることから、いくつかの[[記憶装置]]に特化した素子や機器が考案された。[[アタナソフ&ベリー・コンピュータ]]ではリフレッシュ操作を機械的に行う、キャパシタによる一種のDRAMのような装置が考案された。1949年に稼働した[[EDSAC]]で使われた水銀[[遅延記憶装置]]などの信号の遅延を利用するものは、原理上シーケンシャルアクセスである。EDSACは初の「実用的な」[[プログラム内蔵方式]]のコンピュータだとされているが、プログラム内蔵方式の実用性のためにはある程度多くのメモリが必要であり(EDSACでは1024短語)、水銀遅延記憶装置は同機の成功の重要な要素であった。当時の他の素子では、ブラウン管面の帯電を利用する[[ウィリアムス管]]は、ランダムアクセスでリフレッシュを必要とするなどDRAMに近い性格を持つ。
以降には「ランダムアクセス」メモリに関する話題は特に無い。
その後、1949年から1952年に[[磁気]]コアを用いた[[磁気コアメモリ]]が開発された。コアメモリでは、格子状に配置した磁気コアと呼ばれるリング状の磁性体に、縦と横方向から電線を貫いた構造をしていた。磁気コアメモリは、[[集積回路]]による[[半導体メモリ]]が登場する1960年代末から1970年代初頭まで、広く使われていた。特には、[[放射線]]などの影響を受けにくいという特性から、宇宙機用などでは1980年代でも用いられていた例がある<ref group="注">『困ります、[[リチャード・P・ファインマン|ファインマン]]さん』でスペースシャトルのコンピュータに使われていることが語られているのがよく知られている。</ref>。また、破壊読み出しなので読み出したら書き戻す必要がある一方、ドーナツ状のフェライトコアの磁性を利用しているため不揮発という特性がある。
[[21世紀]]の現在では、コンピュータの[[主記憶装置]]は、すべて[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]になっている。原理的に[[Static Random Access Memory|SRAM]]は容量あたりの単価が高くならざるをえないため、(何らかのブレークスルーがないかぎり)主記憶装置をSRAMで構成するようになるとは考えられていない。いっぽうで、何らかの[[不揮発性メモリ]]がDRAMを置き換える可能性はあるものと考えられており、研究開発がおこなわれている。例えば、[[カーボンナノチューブ]]を使ったもの<ref>[https://wired.jp/2009/06/03/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%92%E3%80%8C10%E5%84%84%E5%B9%B4%E3%80%8D%E4%BF%9D%E6%8C%81%E5%8F%AF%E8%83%BD%EF%BC%9A%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%8E%E3%83%81%E3%83%A5/ データを「10億年」保持可能:カーボン・ナノチューブ利用] WIRED.jp、2009年6月3日</ref>や、[[トンネル磁気抵抗効果]]を使った[[磁気抵抗メモリ|MRAM]]がある。また、2004年には、[[インフィニオン・テクノロジーズ]]が16[[メビバイト|MiB]]のMRAM試作品を公開した。現在開発が進んでいる第二世代の技術は、[[:en:Thermal Assisted Switching|Thermal Assisted Switching]] (TAS) 方式<ref>[http://www.crocus-technology.com/pdf/BH%20GSA%20Article.pdf The Emergence of Practical MRAM] CROCUS Technology</ref>と [[:en:Spin Torque Transfer|Spin Torque Transfer]] (STT) 方式がある。前者はベンチャー企業が単独で開発しているが、後者は[[IBM]]などを含め複数の企業が開発に乗り出している<ref>[http://www.eetimes.com/news/latest/showArticle.jhtml?articleID=218000269 Tower invests in Crocus, tips MRAM foundry deal] EETimes、2009年6月18日</ref>。ただし、これらが今後の主流となるかどうかは、まだ不透明である。
主記憶装置において、アクセススピードや容量あたりコストと並んで重要なのは、消費電力である。過去の[[組み込みシステム]]においては、消費電力を抑えるために[[Static Random Access Memory|SRAM]]が用いられていたが、近年では低消費電力に特化したDRAMが使われている。例えば、[[サーバファーム]]などでは、高速性よりも消費電力を抑えることに重点を置いた、"EcoRAM" と呼ばれるRAMも登場している<ref>[http://blogs.zdnet.com/green/?p=1165 "EcoRAM held up as less power-hungry option than DRAM for server farms"] by Heather Clancy 2008</ref><ref>[http://ednjapan.cancom-j.com/news/2008/11/4788 Spansion社が「EcoRAM」の詳細を明らかに、サーバーのメインメモリー用途を狙う] EDN Japan、2008年11月</ref>。
== RAMの種類 ==
*[[Static Random Access Memory|SRAM]] (Static RAM)
*[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]] (Dynamic RAM)
**[[FPM DRAM]] (First Page Mode DRAM)
**[[EDO DRAM]] (Extended Data Out DRAM)
**[[SDRAM]] (Synchronous DRAM)
***[[DDR SDRAM]] (Double Data Rate SDRAM)
***[[DDR2 SDRAM]]
***[[DDR3 SDRAM]]
***[[DDR4 SDRAM]]
***[[DDR5 SDRAM]]
***[[GDDR3]]
***[[GDDR4]]
***[[GDDR5]]
***[[GDDR6 SDRAM|GDDR6]]
**[[RDRAM]] (Rambus DRAM)
***[[DRDRAM]] (Direct RDRAM)
*[[擬似SRAM]]
*[[FeRAM]] (Ferroelectric RAM)
*[[Magnetoresistive Random Access Memory|MRAM]] (Magnetoresistive RAM)
*[[ReRAM]] (Resistive RAM)<!--RRAM:Resistance RAMはどうもSHARPの登録商標のようなので、論文等では使用を避ける傾向があるようです-->
*[[PRAM]] (Phase change RAM)
== メモリの階層 ==
{{see|記憶装置#階層構造}}
理論的にはRandom Access Machine(理論の文脈では、RAMという略語はこちらのこともある)といって、全てのメモリに一定時間でランダムアクセスできるような機械のモデルなどもあるが、現実のコンピュータでは一般に「早くて小さい」メモリと「遅くて大きい」メモリを組み合わせて使う。
多くのコンピュータシステムは、[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]を頂点として、[[マイクロプロセッサ]]チップ上の[[Static Random Access Memory|SRAM]]キャッシュ、外部[[キャッシュメモリ]]、[[主記憶装置]]、[[補助記憶装置]]等々といったようなメモリ階層を持っている。DRAMという階層だけを見てもアクセス時間にはバラつきがあるが、その範囲は回転式の[[電子媒体]]や[[磁気テープ]]ほど大きくはない。メモリ階層を使う目的は、メモリシステム全体のコストを最小化しつつ、平均的なアクセス性能を向上させることにある。一般に、レイテンシ・スループット・アクセス単位といった点で、レジスタが最も高速・細粒度であり、階層を下に行くほど低速・粗粒度となる。
== プロセッサとメモリの速度差 ==
[[マイクロプロセッサ]]の速度(ここでは、周辺の速度によって待たされることが無かった場合の単位時間あたりのデータ処理量)とその向上に対して、メモリの速度(レイテンシとスループット)とその向上を比較すると、メモリの方が遅いという傾向は、マイクロプロセッサの誕生以来一貫して続いている。最大の問題は、チップとチップの間のデータ転送[[帯域幅]]に限界があることである。1986年から2000年まで、CPUの性能向上は年率平均で55%であったのに対して、メモリの性能向上は年率平均で10%ほどであった。この傾向から、メモリ[[レイテンシ]]がコンピュータ全体の性能において[[ボトルネック]]になるだろうと予想されていた<ref>Wm. A. Wulf, Sally A. McKee, [http://www.cs.virginia.edu/papers/Hitting_Memory_Wall-wulf94.pdf Hitting the Memory Wall: Implications of the Obvious (PDF)]. 1994</ref>。
その後、CPUの性能向上は鈍化した。これには、微細化により性能向上が物理的限界に近づいていることや発熱の問題もあるが、同時にメモリとの速度差を考慮した結果でもある。インテルは、その原因について次のように分析している<ref>[http://download.intel.com/technology/computing/archinnov/platform2015/download/RMS.pdf Platform 2015 documentation (PDF)] Intel</ref>。
<blockquote>
第一に、チップが微細化しクロック周波数が上がると、個々のトランジスタのリーク電流が増大し、消費電力の増大と発熱量の増大を招く(中略)、第二にクロック高速化による利点はメモリレイテンシによって一部相殺される。つまり、メモリアクセス時間は、クロック周波数の向上に合わせて短縮することができなかった。第三に、これまでの逐次的アーキテクチャでは、ある種のアプリケーションは、プロセッサが高速化したほど性能が向上しなくなっている([[フォン・ノイマン・ボトルネック]])。さらに、集積回路の微細化が進行したことにより、[[インダクタンス]]の付与が難しく、信号伝送における[[RC回路|RC]]遅延が大きくなる。これも周波数向上を阻害するボトルネックの一つである。
</blockquote>
信号伝送におけるRC遅延については [http://www.cs.utexas.edu/users/cart/trips/publications/isca00.pdf Clock Rate versus IPC: The End of the Road for Conventional Microarchitectures] にもあり、2000年から2014年のCPUの性能向上は、最大でも年率平均で12.5%という見積もりが示されていた。インテルのデータを見ても<ref>[http://www.intel.com/pressroom/kits/quickreffam.htm Microprocessor Quick Reference Guide] Intel</ref>、2000年から2004年の間、CPUの速度の向上は鈍化している。
しかし、この見積もりはCPUの性能向上があくまで「クロック周波数の向上によって」高性能化するという前提に立っていた。だが、2004年に [[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]が[[AMD K8|K8]]アーキテクチャを発表すると、パイプラインバーストによる処理遅延を抑え単位クロック数あたりの命令実行数を向上することがトレンドとなり、クロック周波数のむやみな向上は止まったが、処理能力の向上はむしろ激化した。さらに、この頃から1つのプロセッサダイに複数の主演算コアを搭載し、さらにそれを仮想的に複数のコアとするスレッディング技術を搭載することが主流となった。AMDの製品では、2005年のAthlon64 X2 3800+ では約7.31GFLOPS相当だったが、2017年のRyzen 7 1800Xでは約42.53GFLOPSにも達しており、これは年率平均にすると約50%程度の性能向上と、2000年以前とさして変わっていない。
== その他 ==
=== DVD-RAM ===
一般にRAMという語は、[[主記憶装置]]寄りのそれを指し、[[補助記憶装置]]寄りのそれは指さないことが多い。しかし、[[DVD-RAM]]のような例外もある。
DVD-RAMは文字通りランダムアクセスを重視して設計されており、DVD-RWや他のDVDと比べてランダムアクセス性能が高い。
=== RAMディスク ===
{{main|RAMディスク}}
RAMディスクという語は2通りに使われている。どちらも「論理的には超高速のハードディスクのように見える」という点は共通である。
1種類目は、SCSIなどのインタフェースでアクセスできる、外からはハードディスクのように見える装置だが、内部は(D)RAMで構成されているというもので、バッテリーバックアップ等により記憶が保持できるようにしたものも多いが、そうでないものもある。
2種類目は、オペレーティングシステムのデバイスドライバとして、ユーザーのプログラムからはストレージ(ブロックデバイス)のように見えるが、実際には[[主記憶装置|メインメモリ]]に確保した領域に記録している、というもので、当然ながらシャットダウンにより情報は失われる。テンポラリファイル等の置き場等として使われることが意図されている。
=== シャドウRAM ===
ROMの内容をRAMにコピーしてアクセス時間を短縮することがある(ROMは一般に低速である)。コンピュータの電源投入時、メモリを初期化した後、ROMの配置されていたアドレス範囲をコピーしたRAMに切り替える。これをシャドウRAMと呼ぶ。これは[[組み込みシステム]]でもよく行われる技法である。
典型例として、パーソナルコンピュータの[[Basic Input/Output System|BIOS]]があり、ファームウェアのなんらかのオプション設定でBIOSをシャドウRAMにコピーして使うことができる(システム内の他のROMをRAMにコピーして使うオプションもある)。それによって性能向上する場合もあるし、非互換問題が発生する場合もある。例えば、ある種のハードウェアはシャドウRAMが使われていると[[オペレーティングシステム]]にアクセスできない。また、[[ブート]]後は全くBIOSを使わないシステムなら、性能は向上しない。当然ながらシャドウRAMを使うと、主記憶の空き容量が少なくなる<ref>{{cite web |url= http://hardwarehell.com/articles/shadowram.htm|title=Shadow Ram|accessdate=2007-07-24 }}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
<references/>
== 参考文献 ==
* {{cite book
|title=Computer Architecture and Organization
|last1=P.HAYES
|first1=JOHN
|isbn=0-07-027363-4
|year=1978,1979
|date=
|publisher=
|ref={{Sfnref |CompArchOrg |1978,1979}} }}
== 関連項目 ==
{{commons|RAM}}
* [[デュアルチャネル]]
* [[デバイス帯域幅の一覧#メモリバス規格 / RAM|メモリバス規格]]
* [[仮想記憶]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|RAM}}
{{ROMRAMDISK}}
{{Basic computer components}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:らんたむあくせすめもり}}
[[Category:半導体メモリ]]
[[Category:主記憶装置]] | 2003-03-08T02:46:03Z | 2023-10-26T20:12:49Z | false | false | false | [
"Template:Main",
"Template:Cite book",
"Template:Commons",
"Template:Redirect",
"Template:Sfn",
"Template:Cite web",
"Template:Kotobank",
"Template:ROMRAMDISK",
"Template:Basic computer components",
"Template:Normdaten",
"Template:See",
"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Random_Access_Memory |
3,651 | TBS (曖昧さ回避) | TBSは、以下の略語 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "TBSは、以下の略語",
"title": null
}
] | TBSは、以下の略語 | '''TBS'''は、以下の略語
== 放送 ==
* [[TBSホールディングス]] - 日本のメディア・放送の持株会社
** [[TBSテレビ]] - 日本のテレビ放送局
** [[TBSラジオ]] - 日本のラジオ放送局
* [[ターナー・ブロードキャスティング・システム]](Turner Broadcasting System)- アメリカのメディア会社
** [[TBS (アメリカのテレビジョン放送)]] - アメリカのケーブルテレビチャンネル
* [[ソウル特別市メディア財団]] - 韓国のラジオ・テレビ局、旧・交通放送(Tbs、Traffic Broadcasting System)
* {{仮リンク|台湾公共広播電視集団|zh|台灣公共廣播電視集團|en|Taiwan Broadcasting System}}(Taiwan Broadcasting System)- 台湾の[[公共放送]]
== 交通 ==
* [[トビリシ国際空港]](ノボ・アレクセーエフカ空港)- ジョージアの空港
* [[東京湾横断道路サービス]] - 日本のバス会社
== その他 ==
* [[東京聖書学校]] - 日本の神学校
* [[テイキング・バック・サンデイ]] - アメリカのロックバンド
* [[ターン制ストラテジー]] - コンピュータゲームのジャンル
* [[tert-ブチルジメチルシリル基]] - 有機化合物の中の官能基
* [[テーブルスプーン]]
{{aimai}} | 2003-03-08T03:00:27Z | 2023-10-10T05:13:11Z | true | false | false | [
"Template:仮リンク",
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/TBS_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF) |
3,652 | 数学者の一覧 | 本項は数学者の一覧(すうがくしゃのいちらん)である。世界の著名な数学者を生年順に並べる。
過去の数学者については数学史において既に評価が定まった者を選んだ。
近現代の数学者については次の基準に基づいて選んだ。
なお、日本の数学者の一覧、Category:数学者も参照。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "本項は数学者の一覧(すうがくしゃのいちらん)である。世界の著名な数学者を生年順に並べる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "過去の数学者については数学史において既に評価が定まった者を選んだ。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "近現代の数学者については次の基準に基づいて選んだ。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "なお、日本の数学者の一覧、Category:数学者も参照。",
"title": null
}
] | 本項は数学者の一覧(すうがくしゃのいちらん)である。世界の著名な数学者を生年順に並べる。 過去の数学者については数学史において既に評価が定まった者を選んだ。 近現代の数学者については次の基準に基づいて選んだ。 既に評価の定まった故人および年長者
没後20年を経た者
生誕90年を越えた者
フィールズ賞またはアーベル賞受賞者
その他、特別な理由で採録が適当と考えられる者 なお、日本の数学者の一覧、Category:数学者も参照。 | {{独自研究|date=2017年2月}}
{{正確性|date=2017年2月}}
本項は'''数学者の一覧'''(すうがくしゃのいちらん)である。世界の著名な[[数学者]]を生年順に並べる。
過去の数学者については数学史において既に評価が定まった者を選んだ。
近現代の数学者については次の基準に基づいて選んだ。
# 既に評価の定まった故人および年長者
## 没後20年を経た者
## 生誕90年を越えた者
#[[フィールズ賞]]または[[アーベル賞]]受賞者
# その他、特別な理由で採録が適当と考えられる者
<!--:: ただし、本項目によって採録する際は、その理由を「ノート」に充分丁寧に記載する。-->
なお、[[日本の数学者の一覧]]、[[:Category:数学者]]も参照。
== 初期の有名な数学者 ==
=== 古代ギリシア・ローマの有名な数学者 ===
* [[タレス]](紀元前624年 - 紀元前546年頃、古代ギリシアの哲学者): ターレスの定理([[円周角]]){{Sfn|ブラッドリー|2009|p=13|loc=ミレトスのタレス 幾何学の定理最古の証明}}
* [[ピタゴラス]](紀元前582年 - 紀元前496年、ギリシャ): [[ピタゴラスの定理]]、無理数の存在性、[[ピタゴラス音律]]{{Sfn|ブラッドリー|2009|p=29|loc=サモスのピュタゴラス 直角に関する定理を証明した古代ギリシア人}}
* [[エウクレイデス]](紀元前365年? - 紀元前275年?、[[アレクサンドリア]]): 別名ユークリッド [[幾何学原論]]、素数の一意性{{Sfn|ブラッドリー|2009|p=49|loc=アレクサンドリアのエウクレイデス 数学をまとめた幾何学者}}
* [[アルキメデス]](紀元前287年 - 紀元前212年、[[シチリア]]): [[求積法]]、極限操作、[[アルキメデスの原理]]{{Sfn|ブラッドリー|2009|p=69|loc=シラクサのアルキメデス 幾何学のいろいろな手法を切りひらく}}
* [[エラトステネス]](紀元前275年 - 紀元前194年、ヘレニズム時代のエジプトで活躍したギリシャ人): [[エラトステネスの篩]]
=== 4世紀生まれの有名な数学者 ===
* [[ヒュパティア]](370頃-415、ギリシア):数学の教育や著述をした人として知られる最初の女性{{Sfn|ブラッドリー|2009|p=90|loc=アレクサンドリアのヒュパティア 最初の女性数学者}}
=== 5世紀生まれの有名な数学者 ===
* [[アールヤバタ]](476 - 550-、インド):[[代数学]]、[[無限小]]、微分方程式、線型方程式の解{{Sfn|ブラッドリー|2009|p=103|loc=アールヤバタ一世 文字式から地球の回転まで}}
=== 6世紀生まれの有名な数学者 ===
* [[ブラーマグプタ]](598-668、インド):[[0]]と他の整数との加減乗除、[[ブラーマグプタの公式]]、[[ブラーマグプタの二平方恒等式]]{{Sfn|ブラッドリー|2009|p=121|loc=ブラーマグプタ 数値解析の父}}
=== 8世紀生まれの有名な数学者 ===
* [[フワーリズミー]](780-850、イラク):最古の代数学書を著述、インドの記数法を紹介{{Sfn|ブラッドリー|2009|p=139|loc=アブー・ジャファル・ムハンマド・イブン・ムーサ―・アルフワーリズミー 代数学の父}}
=== 11世紀生まれの有名な数学者 ===
* [[ウマル・ハイヤーム]](1048-1131、イラン):3次方程式の解法、[[二項展開]]の発見{{Sfn|ブラッドリー|2009|p=155|loc=ウマル・ハイヤーム 数学者、天文学者、哲学者、詩人}}
=== 12世紀生まれの有名な数学者 ===
* [[バースカラ2世]](1114-1185、インド):2次方程式、3次方程式、4次方程式の解法、[[解析学]]
* [[レオナルド・フィボナッチ]](1179年頃-1250年頃、イタリア):[[フィボナッチ数列]]{{Sfn|ブラッドリー|2009|p=171|loc=レオナルド・フィボナッチ ヨーロッパのヒンドゥー・アラビア数字}}
=== 14世紀生まれの有名な数学者 ===
* [[マーダヴァ]](1340-1425、インド):[[無限級数]]の展開、[[ケーララ学派]]の創始者
=== 15世紀生まれの有名な数学者 ===
* [[ルカ・パチョーリ]](1445-1517、イタリア):「会計の父」
=== 16世紀生まれの有名な数学者 ===
* [[ジェロラモ・カルダーノ]](1501-1578、イタリア): 3次方程式の解法、虚数概念の導入
* [[ルドヴィコ・フェラーリ]](1522-1565、イタリア):4次方程式の解法
* [[クリストファー・クラヴィウス]](1538-1612、ドイツ/イタリア):[[グレゴリオ暦]]の編纂
* [[ジョン・ネイピア]](1550-1617、スコットランド):[[対数]]の発見
* [[パウル・ギュルダン]](1577-1643、スイス/オーストリア):[[パップス=ギュルダンの定理]]
* [[マラン・メルセンヌ]](1588-1648、フランス):ヨーロッパ中の学者たちとの交流、[[メルセンヌ数]]
* [[ジラール・デザルグ]](1591-1661、フランス):[[射影幾何学]]の基礎、[[デザルグの定理]]
* [[ルネ・デカルト]](1596-1650、フランス):[[デカルト座標系]]、[[解析幾何学]]の祖
== 17世紀生まれの有名な数学者 ==
* [[ピエール・ド・フェルマー]](1607?-1665、フランス):[[フェルマーの小定理]]、[[フェルマーの最終定理]]
* [[ブレーズ・パスカル]](1623-1662、フランス):[[パスカルの定理]]、[[確率論]]の創始
* [[アイザック・ニュートン]](1642-1727、イギリス):[[二項定理]]、[[微分積分学]]
* [[関孝和]](1642-1708、日本):和算家、[[行列式]]、[[ベルヌーイ数]]の発見
* [[ゴットフリート・ライプニッツ]](1646-1716、ドイツ):[[微分積分学]]、[[行列式]]、[[形式言語]]
* [[ヤコブ・ベルヌーイ]](1654-1705、スイス):[[ベルヌーイ数]]
* [[アブラーム・ド・モアブル]](1667-1754、フランス):[[ド・モアブルの定理]]
* [[ヨハン・ベルヌーイ]](1667-1748、スイス):[[ヤコブ・ベルヌーイ]]の弟、[[カテナリー曲線]]
* [[ブルック・テイラー]] (1685-1731、イギリス): [[テイラー展開]]
* [[コリン・マクローリン]] (1698-1746、スコットランド): [[マクローリン展開]]
* [[ダニエル・ベルヌーイ]](1700-1782、スイス):[[ヨハン・ベルヌーイ]]の子、[[ベルヌーイの定理]]
== 18世紀生まれの有名な数学者 ==
* [[レオンハルト・オイラー]](1707-1783、スイス/ロシア):[[解析学]]、[[整数論]]、[[オイラーの多面体定理|多面体定理]]
* [[ジャン・ル・ロン・ダランベール]](1717-1783、フランス):[[百科全書]]
* [[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]](1736-1813、イタリア/フランス):[[解析力学]]、[[群論]]の先駆
* [[ガスパール・モンジュ]](1746-1818、フランス):画法幾何学
* [[ピエール=シモン・ラプラス]](1749-1827、フランス):[[ラプラス変換]]
* [[アドリアン=マリ・ルジャンドル]](1752-1833、フランス):[[数論]]、[[代数学]]、[[解析学]]
* [[ジョゼフ・フーリエ]](1768-1830、フランス):[[フーリエ級数]]
* [[ボヤイ・ファルカシュ]](1775-1858、ハンガリー):[[ボーヤイ・ヤーノシュ]]の父
* [[カール・フリードリヒ・ガウス]](1777-1855、ドイツ):[[代数学の基本定理]]、[[整数論]]、[[解析学]]
* [[シメオン・ドニ・ポアソン]](1781-1840、フランス):[[ポアソン分布]]
* [[ジャン=ヴィクトル・ポンスレ]](1788-1867、フランス):[[射影幾何学]]
* [[オーギュスタン=ルイ・コーシー]](1789-1857、フランス):[[解析学]]、[[コーシーの積分定理]]
* [[ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー]](1792-1856、ロシア):[[非ユークリッド幾何学]]
== 19世紀生まれの有名な数学者 ==
=== 1801年 - 1810年生まれの有名な数学者 ===
* [[ニールス・アーベル]](1802-1829、ノルウェー):5次[[代数方程式|方程式]]の非可解性、[[楕円関数]]
* [[ボヤイ・ヤーノシュ]](1802-1860、ハンガリー):[[非ユークリッド幾何学]]
* [[カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビ]](1804-1851、ドイツ):[[楕円関数]]、[[関数行列]]
* [[ペーター・グスタフ・ディリクレ]](1805-1859、ドイツ):現代的形式の[[関数 (数学)|関数]]の定義
* [[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]](1805-1865、アイルランド/イギリス):[[解析力学]]、[[四元数]]
* [[オーガスタス・ド・モルガン]](1806-1871、イギリス):[[ド・モルガンの法則]]
* [[ジョゼフ・リウヴィル]](1809-1882、フランス):[[リウヴィル数]]、[[リウヴィルの定理 (解析学)|リウヴィルの定理]]
* [[ヘルマン・グラスマン]](1809-1877、ドイツ):[[グラスマン代数]]
* [[エルンスト・クンマー]](1810-1893、ドイツ):[[イデアル (環論)#歴史|理想数]]
=== 1811年 - 1820年生まれの有名な数学者 ===
* [[エヴァリスト・ガロア]](1811-1832、フランス):[[ガロア理論]]
* [[ジョージ・ブール]](1815-1864、イギリス):[[ブール代数]]
* [[カール・ワイエルシュトラス]](1815-1897、ドイツ):[[楕円関数]]論、[[複素解析]]
* [[ジョージ・ガブリエル・ストークス]](1819-1903、アイルランド):[[ストークスの定理]]
=== 1821年 - 1830年生まれの有名な数学者 ===
* [[シャルル・エルミート]](1822-1901、フランス):[[エルミート行列]]、[[エルミート多項式]]
* [[レオポルト・クロネッカー]](1823-1891、ドイツ):[[クロネッカーの青春の夢]]
* [[フェルディナント・ゴットホルト・マックス・アイゼンシュタイン|フェルディナント・アイゼンシュタイン]](1823-1852、ドイツ):[[アイゼンシュタイン整数]]
* [[ベルンハルト・リーマン]](1826-1866、ドイツ):[[リーマン積分]]、[[リーマン幾何学]]、[[リーマン予想]]
=== 1831年 - 1840年生まれの有名な数学者 ===
* [[リヒャルト・デーデキント]](1831-1916、ドイツ):[[デデキント切断]]
* [[ルートヴィヒ・シロー]](1832-1918、ノルウェー): [[シローの定理]]
=== 1841年 - 1850年生まれの有名な数学者 ===
* [[ソフス・リー]](1842-1899、ノルウェー):[[リー群]]
* [[ゲオルク・カントール]](1845-1918、ドイツ):[[集合論]]
* [[フェリックス・クライン]](1849-1925、ドイツ):[[エルランゲン・プログラム]]
* [[ソフィア・コワレフスカヤ]](1850-1891、ロシア):女性大學教授、[[剛体]]の[[回転]]
=== 1851年 - 1860年生まれの有名な数学者 ===
* [[フェルディナント・フォン・リンデマン]](1852-1939、ドイツ):[[円周率]]が[[超越数]]であることの証明
* [[アンリ・ポアンカレ]](1854-1912、フランス):[[位相幾何学]]、[[ポアンカレ予想]]
* [[ジュゼッペ・ペアノ]](1858-1932、イタリア):[[ペアノの公理]]
=== 1861年 - 1870年生まれの有名な数学者 ===
* [[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド]](1861-1947、イギリス):数学者・哲学者、『[[プリンキピア・マテマティカ|数学原理]]』
* [[ダフィット・ヒルベルト]](1862-1943、ドイツ):[[ヒルベルトの23の問題]]
* [[ポール・パンルヴェ]](1863-1933、フランス):[[パンルヴェ方程式]]
* [[ジョン・チャールズ・フィールズ]](1863-1932、カナダ):[[フィールズ賞]]創設の提唱と準備
* [[ヘルマン・ミンコフスキー]](1864-1909、ドイツ):[[ミンコフスキー空間]]
* [[ジャック・アダマール]](1865-1963、フランス):[[アダマール行列]]
* [[エリ・カルタン]](1869-1951、フランス):[[リー群]]、[[微分幾何学]]
*[[フェリックス・ハウスドルフ]](1869-1942、ドイツ):[[ハウスドルフ空間]]
=== 1871年 - 1880年生まれの有名な数学者 ===
* [[バートランド・ラッセル]](1872-1970、イギリス)論理学者・数学者、『[[プリンキピア・マテマティカ|数学原理]]』
* [[アンリ・ルベーグ]](1875-1941、フランス):[[ルベーグ積分]]
* [[高木貞治]](1875-1960、日本):[[類体論]]
* [[エトムント・ランダウ]](1877-1938、ドイツ):[[解析]]的[[整数論]]、[[ランダウの記号]]
* [[ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ]](1877-1947、イギリス):解析的[[整数論]]、[[シュリニヴァーサ・ラマヌジャン|ラマヌジャン]]「発見」
*[[モーリス・ルネ・フレシェ]] (1878-1973、フランス):[[距離空間]]
=== 1881年 - 1890年生まれの有名な数学者 ===
* [[ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワー]](1881-1966、オランダ):[[排中律]]の否定
* [[エミー・ネーター]] (1882–1935):[[抽象代数学]]
* [[掛谷宗一]](1886-1947、日本):連立[[積分方程式]]
* [[シュリニヴァーサ・ラマヌジャン]](1887-1920、インド):「インドの魔術師」
* [[ニコラ・ブルバキ]](1886- ):架空の数学者(フランスの数学集団の筆名)
=== 1891年 - 1900年生まれの有名な数学者 ===
* [[ステファン・バナフ]](1892-1945、ポーランド):[[バナッハ空間]]
* [[エミール・アルティン]] (1898-1962) :[[代数的整数論]]
* [[オスカー・ザリスキ]] (1899-1986) :[[ザリスキー位相]]
== 20世紀生まれの有名な数学者==
=== 1901年 - 1910年生まれの有名な数学者 ===
* [[アルフレト・タルスキ]](1901-1983、ポーランド/アメリカ):[[数学基礎論]]、[[論理学]]
* [[岡潔]](1901-1976、日本):多変数[[複素関数]]論
* [[正田建次郎]](1902-1977、日本):[[抽象代数学]]
* [[アンドレイ・コルモゴロフ]](1903-1987、ロシア):[[公理]]主義的[[確率論]]
* [[ジョン・フォン・ノイマン]](1903-1957、ハンガリー):[[数学基礎論]]、[[ゲーム理論]]
* [[アンリ・カルタン]](1904-2008、フランス):多変数[[複素関数]]論([[岡潔]]の仕事の整理)
* [[クルト・ゲーデル]](1906-1978、オーストリア/アメリカ):[[不完全性定理]]
* [[アンドレ・ヴェイユ]](1906-1998、フランス):[[代数幾何学]]、[[ヴェイユ予想]]
* [[ソーンダース・マックレーン]] (1909-2005、アメリカ): [[圏論]]の創始
* [[吉田耕作]](1909-1990、日本):[[関数解析学]]
=== 1911年 - 1920年生まれの有名な数学者 ===
* [[アラン・チューリング]](1912-1954、イギリス):[[停止性問題]].[[チューリングマシーン]].{{仮リンク|エニグマの暗号解読|en|Cryptanalysis of the Enigma}}.[[ACE (コンピュータ)]].[[チューリング賞]].[[チューリング・テスト]].[[チューリング・パターン]]
* [[サミュエル・アイレンベルグ]] (1913-1998、ポーランド): [[圏論]]の創始
* [[ローラン・シュヴァルツ]](1915-2002、フランス):[[シュワルツ超函数|シュワルツ超関数]]
* [[伊藤清]](1915-2008、日本):[[確率微分方程式]]
* [[小平邦彦]](1915-1997、日本):2次元代数[[多様体]]の分類など
* [[クロード・シャノン]](1916-2001、アメリカ):[[情報理論]]
* [[岩澤健吉]](1917-1998、日本):[[岩澤理論]]
* [[アトル・セルバーク]](1917-2007、ノルウェー):解析的[[整数論]]
=== 1921年 - 1930年生まれの有名な数学者 ===
* [[ルネ・トム]](1923-2002、フランス):[[微分位相幾何学]]、[[カタストロフィー理論]]、[[分岐 (カオス理論)]]
* [[イサドール・シンガー]](1924-2021、アメリカ):[[アティヤ=シンガーの指数定理]]
* [[ルイス・ニーレンバーグ]](1925-2020、カナダ/アメリカ):[[偏微分方程式]]
* [[ジョン・テイト]](1925-2019、アメリカ) :[[整数論]]
* [[ピーター・ラックス]](1926- 、ハンガリー):[[偏微分方程式]]
* [[ジャン=ピエール・セール]](1926- 、フランス):[[代数幾何学]]
* [[谷山豊]](1927-1958、日本): [[谷山・志村予想]]
* [[アレクサンドル・グロタンディーク]](1928-2014、フランス):[[スキーム (代数幾何学)]]
* [[レンナルト・カルレソン]](1928- 、スウェーデン):[[調和解析]]
* [[ジョン・ナッシュ]](1928-2015、アメリカ):[[微分幾何学]]
* [[マイケル・アティヤ]](1929-2019、イギリス):[[アティヤ=シンガーの指数定理]]
* [[ヒレル・ファステンバーグ]](1929- 、イスラエル/アメリカ):[[確率論]]、[[エルゴード理論]]、[[群論]]、[[数論]]、[[組み合わせ論]]
* [[志村五郎]](1930-2019 、日本): [[谷山・志村予想]]
* [[スティーヴン・スメイル]](1930- 、アメリカ):[[微分位相幾何学]]、[[力学系]] など
* [[ジャック・ティッツ]](1930- 、フランス):[[群論]]
=== 1931年 - 1940年生まれの有名な数学者 ===
* [[ジョン・ウィラード・ミルナー]](1931- 、アメリカ):[[微分幾何学]]
* [[広中平祐]](1931- 、日本):[[代数幾何学]]
* [[ジョン・G・トンプソン]](1932- 、アメリカ):[[群論]]
* [[ヤコフ・シナイ]](1935- 、ロシア/アメリカ):[[力学系]]、[[エルゴード理論]]、[[数理物理学]]
* [[ロバート・ラングランズ]](1936- 、カナダ/アメリカ):[[表現論]]、[[数論]]
* [[バリー・メイザー]](1937-、アメリカ): [[ジョルダン曲線定理]](ウェブレン賞) [[モジュラー曲線]],[[エイゼンシュテインイデアル]](コール賞)
* [[イヴ・メイエ]](1938-、フランス):[[ウェーブレット]]理論
* [[S. R. シュリニヴァーサ・ヴァラダン]](1940- 、インド):[[確率論]]
* [[エンリコ・ボンビエリ]](1940- 、イタリア):[[数論]]、[[解析学]]
=== 1941年 - 1950年生まれの有名な数学者 ===
* [[エンドレ・セメレディ]](1940- 、ハンガリー/アメリカ):[[離散数学]]、[[理論計算機科学]]、[[加法的整数論]]、[[エルゴード理論]]
* [[デニス・サリヴァン]](1941- 、アメリカ):[[位相幾何学]]、[[力学系]]
* [[キャレン・アーレンベック]](1942- 、アメリカ):[[幾何学的偏微分方程式]]、[[ゲージ理論]]、[[可積分系]]
* [[ミハイル・グロモフ]](1943- 、ロシア/フランス):現代[[幾何学]]
* [[ピエール・ルネ・ドリーニュ]](1944- 、ベルギー):[[代数幾何学]]、[[ヴェイユ予想]]の解決
* [[グレゴリー・マルグリス]](1946- 、ロシア/アメリカ):[[エルゴード理論]]、[[群論]]、[[数論]]、[[組み合わせ論]]、[[表現論]]
* [[ウィリアム・サーストン]] (1946-2012、アメリカ): [[幾何化予想]]
* [[アラン・コンヌ]](1947- 、フランス):[[非可換幾何]]
* [[ラースロー・ロヴァース]](1948- 、ハンガリー/アメリカ):[[理論計算機科学]]、[[離散数学]]
* [[丘成桐]](1949- 、香港/アメリカ):[[微分幾何]]
* [[チャールズ・フェファーマン]](1949- 、アメリカ):多変数[[複素解析]]
=== 1951年 - 1960年生まれの有名な数学者 ===
* [[森重文]](1951- 、日本):[[代数幾何学]]「[[極小モデル]]」
* [[アンドリュー・ワイルズ]](1953- 、イギリス):「[[フェルマーの最終定理]]」の証明
* [[ゲルト・ファルティングス]](1954- 、ドイツ):数論[[幾何学]]
* [[アヴィ・ヴィグダーソン]](1956- 、イスラエル):[[理論計算機科学]]、[[離散数学]]
* [[リチャード・ボーチャーズ]](1959- 、イギリス)
=== 1961年 - 1970年生まれの有名な数学者 ===
* [[グリゴリー・ペレルマン]](1966- 、ロシア): [[ポアンカレ予想]]
* [[ローラン・ラフォルグ]](1966- 、フランス)
* [[ウェンデリン・ウェルナー]](1968- 、フランス)
* [[望月新一]] (1969- 、日本) :[[宇宙際タイヒミュラー理論]] [[:en:Inter-universal Teichmüller theory]](英語版)
* [[アンドレイ・オクンコフ]](1969- 、ロシア/アメリカ) :
=== 1971年 - 1980年生まれの有名な数学者 ===
* [[エロン・リンデンシュトラウス]](1970年8月1日 - 、イスラエル): リトルウッド予想の解決、数論的双曲曲面についての量子エルゴード予想の解決、無限次元幾何学、力学系、[[サレム賞]]、[[ヨーロッパ数学会賞]]、フィールズ賞受賞
* [[スタニスラフ・スミルノフ]](1970年9月3日 -、ロシア): [[サンクトペテルブルク数学会賞]]、[[クレイ研究賞]]、サレム賞([[オデッド・シュラム]]との共同受賞)、[[ゴラン・グスタファソン賞]]、[[ローロ・デイビッドソン賞]]、ヨーロッパ数学会賞、フィールズ賞(パーコレーションの共形不変性の証明と統計物理学における平面イジング模型に関する功績)
* [[ゴ・バオ・チャウ]](1972年6月28日 - 、ベトナム/フランス): [[ラングランズ・プログラム]]の基本補題の証明、フィールズ賞受賞
* [[セドリック・ヴィラニ]](1973-、フランス): フィールズ賞受賞([[ボルツマン方程式]]と[[ランダウ減衰]]に関する研究)
* [[マンジュル・バルガヴァ]](1974-、 カナダ/アメリカ):
* [[テレンス・タオ]](1975-、オーストラリア/アメリカ): 偏微分方程式,組み合せ論,調和解析,加法的整数論に関する研究
* [[マルティン・ハイラー]](1975-、オーストリア/イギリス):
* [[マリアム・ミルザハニ]](1977-2017年、イラン):
* [[コーチェル・ビルカー]](1978-、イラン/イギリス):
* [[アルトゥル・アビラ]](1979-、ブラジル/フランス):
* [[アクシェイ・ヴェンカテシュ]](1981-、オーストラリア):
* [[許埈珥]](1983-、韓国/アメリカ):
* [[アレッシオ・フィガリ]](1984-、イタリア):
* [[マリナ・ヴィヤゾフスカ]](1984-、ウクライナ):
* [[ユーゴー・デュミニル=コパン]](1985-、フランス):
* [[ジェームズ・メイナード]](1987-、イギリス):
* [[ピーター・ショルツ]](1988-、ドイツ):
<!--以下は年代未確認
1971 ジョージ・ルスティック (1946--)
1984 カール・ポメランス (1944--)
1986 ケン・リベット (1947--)
2005 アーサー・H・コープランド (1898--1970)
2006 アル・フワーリズミー (c. 780 – c. 850)
2006 ジャック・トゥシャール (1885--1968)
2006 タレス (c. 624 – c. 546 BC)
2006 パップス (c. 290 – c. 350 AD)
2006 ブラーマグプタ (born c. 598, died after 665)
???? ウィリアム・バーンサイド (1852--1927)
???? カール・ルートヴィッヒ・ジーゲル
???? ジョン・エデンサー・リトルウッド
???? トマス・ベイズ
???? トーマス・ムロフカ
???? ハインツ・ホップ
???? ピーター・クロンハイマー
???? フリードリヒ・ヒルツェブルフ
???? ポール・ヴォイタ
???? ロバート・マクファーソン
-->
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book ja-jp |author=マイケル・J・ブラッドリー |year=2009 |title=数学を切りひらいた人びと 1 数学を生んだ父母たち 数論、幾何、代数の誕生 |publisher=[[青土社]] |isbn=978-4-7917-9171-2 |ref={{Sfnref|ブラッドリー|2009}}}}<!-- 2009年6月17日第1刷発行 -->
{{数学}}
{{Math-stub}}
{{DEFAULTSORT:すうかくしやのいちらん}}
[[Category:数学者|**いちらん]]
[[Category:学者の人名一覧|すうかくしや]]
[[Category:数学の一覧]]
[[Category:数学に関する記事]] | 2003-03-08T03:06:36Z | 2023-12-30T10:50:22Z | false | false | false | [
"Template:仮リンク",
"Template:Reflist",
"Template:Cite book ja-jp",
"Template:Math-stub",
"Template:独自研究",
"Template:Sfn",
"Template:数学",
"Template:正確性",
"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
3,654 | Dynamic Random Access Memory | Dynamic Random Access Memory(ダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ、DRAM、ディーラム)は、コンピュータなどに使用される半導体メモリによるRAMの1種で、チップ中に形成された小さなキャパシタに電荷を貯めることで情報を保持する記憶素子である。放置すると電荷が放電し情報が喪われるため、常にリフレッシュ(記憶保持動作)を必要とする。やはりRAMの1種であるSRAMがリフレッシュ不要であるのに比べ、リフレッシュのために常に電力を消費することが欠点だが、SRAMに対して大容量を安価に提供できるという利点から、コンピュータの主記憶装置やデジタルテレビやデジタルカメラなど多くの情報機器において、大規模な作業用記憶として用いられている。
DRAMでは、キャパシタに蓄えられた電荷の有無で情報が記憶されるが、この電荷は時間とともに失われるため、常に電荷を更新(リフレッシュ)し続けなければならない。この「常に動き続ける」という特徴から「ダイナミック」(動的)という名前が付いている。ニュースなどでは「記憶保持動作が必要な随時書き込み読み出しできる半導体記憶回路」などの長い名前で紹介されることがある。
チップ内にDRAMとリフレッシュ動作のための回路などを内蔵し、SRAMと同じ周辺回路とアクセス方法で利用できる「疑似SRAM」という名称の商品があるが、それもDRAMの一種である。
商品としては、SIMMやDIMMやSO-DIMMといった基板にチップのパッケージを実装したモジュールの形態を指す名称や、近年ではDDR3やDDR4のように電子的仕様や転送プロトコルなどを指す表現が使われることも多い。
DRAMの概念は1966年にIBMトーマス・J・ワトソン研究所のロバート・デナード(Robert Dennard)博士によって考案され、1967年にIBMと博士によって特許申請され、1968年に特許発行された。
1970年にインテルは世界最初のDRAMチップである1103を製造した。1103は3トランジスタセル設計を使用した1キロビットDRAMチップで、非常に成功した。その後、1970年代半ばまでに複数のメーカーがデナードのシングルトランジスタセルを使用して4キロビットチップを製造し、ムーアの法則に従い大容量化が進展した。
米ザイログ社が作ったCPUのZ80は、DRAMのリフレッシュ動作専用の7ビットのレジスタ(Rレジスタ)を持つ。命令列の実行中に、プログラムの実行に伴うアクセスとは無関係に、このレジスタが持つアドレス(DRAMの列)にアクセスをしてリフレッシュを行う。後の多くのマイクロプロセッサではプロセッサコア以外で実装される機能であるが、当時はマイクロコントローラ的な応用やホビーパソコンを廉価に製品としてまとめ上げる等といった目的にも効果的な機能であった。なお、多数開発された「Z80互換」チップでは、メモリコントローラとして別機能としたものや、省電力機器用として完全にオミットしているものなどもある。
コンデンサとも呼ばれるキャパシタに電荷を蓄え、この電荷の有無によって1ビットの情報を記憶する。電荷は漏出しやがて失われるため、1秒間に数回程、列単位でデータを読み出して列単位で再び記録し直すリフレッシュが絶えず必要となる。たとえ読み出しの必要がなくとも、記憶を保持するためには常にこの操作を行わなければならない。
DRAMの内部回路は、各1つずつのキャパシタと電界効果トランジスタ(FET)から構成される「メモリセル」の部分と、多数のメモリセルが配列したマトリックスの周囲を取り巻く「周辺回路」から構成される。
DRAMの集積度を上げるには、メモリセルをできるだけ小さくすることが有効である。そのため、キャパシタとFETを狭い場所に詰め込むために、さまざまな工夫が行われている。
各々のメモリセルはキャパシタ1個とスイッチ用のFET 1個から構成される。記憶セルは碁盤の目状に並べて配置され、横方向と縦方向にワード線とビット線が走っている。記憶データは、メモリセルのキャパシタに電荷がある場合は論理 "1"、無い場合は論理 "0" というように扱われており、1つのメモリセルで1ビットの記憶を保持している。
読み出しに先立って、ビット線自身の寄生容量(浮遊容量)を電源電圧の半分にプリチャージしておく。ワード線に電圧がかけられると、メモリセルのFETは、キャパシタとビット線との間を電気的に接続するように働く。そのため、キャパシタとビット線との間で電荷が移動し、キャパシタに電荷が蓄えられていればビット線の電位は僅かに上昇し、蓄えられていなければ僅かに下降する。この電荷の移動による微弱な電位の変化をセンスアンプによって増幅して読み取ることで、論理 "1" と論理 "0" が判別される。
キャパシタに電荷を溜める動作時でも、電荷の移動方向が逆になる他は、読み出しと同じである。論理 "1" の1ビットのデータを記憶する場合を考えると、ワード線の電圧によってFETはキャパシタとビット線を接続し、ビット線を通じて電荷がキャパシタ移動し充電される。その後、ワード線の電圧がなくなってFETでの接続が断たれても、キャパシタ内には電荷がしばらくは残るのでその間は状態が保たれる。
SRAMのメモリセルが6個のトランジスタ(あるいは4個のトランジスタと2個の抵抗)で構成されていてプロセス微細化によるスイッチング速度向上がアクセス速度を向上させているのに対して、DRAMではメモリセルにあるキャパシタとスイッチング・トランジスタに存在する寄生抵抗による時定数回路が存在するため、プロセスの微細化やトランジスタのスイッチング速度向上はメモリのアクセス速度向上にさほど寄与しない。キャパシタの容量を小さくすれば高速化できるがキャパシタの情報を正しく読み取れない恐れが出る。微細化によってキャパシタを作りこめる面積が小さくなったのを補うために、キャパシタとFETを立体的に配置して容量不足を補うようにしている。
DRAMは、記憶セルの構造からスタック型とトレンチ型に分類される。スタック型では、スイッチング・トランジスタの上方にシリコンを堆積させてから溝を掘り、キャパシタ構造体を作る。トレンチ型では、スイッチング・トランジスタの横のシリコン基板に鋭い溝を掘り、キャパシタ構造体を作る。スタック型ではキャパシタを積層するためにトレンチ型より工程数や加工時間が増えるが、トレンチ型では微細化に限界がある。そのため、ほとんどの場合、スタック型が採用されている。
液晶ディスプレイに使用される薄膜トランジスタと同様に点欠陥が問題となるが、半導体メモリでは欠陥セルのあるカラムは、メモリセルアレイの端にある、冗長領域に論理的に割当てられ、ICチップは良品として出荷され製品コストの上昇が抑えられている。この技術は半導体メモリ一般に利用されている。
従来までは8F(Fは最小加工寸法)が主流だったが、現在では6Fが主流となりつつある。将来的には、4Fが導入される見通しである。
メモリセルは、ワード線とビット線で作られるマトリックス状に配置され、多数のメモリセルによって、メモリセルアレイが作られる。ビット線の寄生容量が読み出し時の精度を制限するため、余り長くすることができない。そのため、メモリセルアレイの大きさには上限がある。 メモリセルアレイの周辺には、ワード線とビット線を制御してデータの書き込み/読み出し/リフレッシュを行い、外部と信号をやり取りする周辺回路が備わっている。
データの読み出しをする時には、ワード線で指定される1列分のデータをビット線の数だけ用意されたセンスアンプで同時に増幅し、その中から必要とするビットのデータを読み出す。読み出し動作によってキャパシタの電荷は失われる(破壊記憶)ので、ワード線で指定したままにすることでセンスアンプで増幅された電位を記憶セルに書き戻し、読み出しは完了する。
データの書き込みは、読み出し時の動作とほぼ同じで、ワード線で指定される1列分のデータをビット線の数だけ用意されたセンスアンプで同時に読み出し、その中から書き込みするビットのデータを書き換えてから、ワード線で指定したまま直ちにこの1列分のデータをビット線に流して記憶セルに書き戻し、書き込みは完了する。
リフレッシュ動作においても、外部に信号を出力しない点を除けば読み書きの動作時と同様に、1列分のデータを読み出し再び書き戻している。
メモリセルアレイの周辺にはセンスアンプの他にもラッチ、マルチプレクサ、外部との接続信号を作る3ステート・バッファが取り巻いている。
各々のメモリセルアレイは1ビット分の記憶領域として使用され、いくつかあるアレイをチップのデータ幅に合わせて組み合わせて使用している。メモリモジュールの入出力幅の拡大に合わせて、チップ単体で8ビットや16ビット幅を持つ製品が多い。
DRAMのメモリセルを指定するためのアドレスデータ線は、行アドレスと列アドレスとで共通になっていて、行アドレスと列アドレスを時分割で設定するようになっている。メモリの番地のうち、行アドレスは上位ビットの部分に割り当て、列アドレスは、下位ビットに割り当てて使用する。アドレスデータ線にどちらのデータが加えられているかを区別するために、RAS (row address strobe) およびCAS (column address strobe) と呼ばれる信号を用いる。行アドレスデータを確定した状態でRAS信号をアクティブにすることで、RAS信号の変化点での状態を素子に行アドレスとして認識させる。RAS信号がアクティブな状態のまま、引き続き列アドレスデータに切り替えて、CAS信号をアクティブにし、CAS信号の変化点での状態を素子に列アドレスとして認識させ、必要とするアドレスのデータにアクセスを完了する。
データアクセスの高速化のため、同じ行アドレスで列アドレスが違うデータを次々に読み書きする方法が考案されており、これをページモードと呼ぶ。
ページモードは、高速ページモード (fast page mode)からEDO(extended data out、EDO DRAM)へと進歩した。そして、21世紀以降はsynchronous DRAM (SDRAM) と呼ばれる、行アドレス内容を同期転送(バーストモード)で高速に入出力する機構を搭載したものが主流となっている。全く工夫のないDRAMでは100nsec以上かかっていたものが、これらのDRAMでは2.5nsec前後まで高速化されている。ただし、列・行アドレス共に指定してセットアップ・プリチャージの時間を含むアクセスタイム自体は、それほど短縮されておらず、この10年間で1/3程度高速化されただけである。
また、異なるアドレスに対する読み書きを同時に2つのポートから擬似的に行うことができるDual Port DRAMがある。PCでは画像表示用のVRAMやCPU-GPU間共有メモリに用いられたり、あるいは互換性のないマルチプロセッサ構成のPCやワークステーション、PCI-PCI間メモリ転送デバイスなどの用途に使われる。
メモリセルに蓄えられた電荷は、素子内部の漏れ電流によって徐々に失われていき、電荷のない状態との区別が困難になる。そこで、定期的に電荷を補充する操作が必要となる。この操作をリフレッシュと呼ぶ。リフレッシュは、1行単位で同時にアクセスすることで実施され、規定された時間内(数十ミリ秒程度)に素子内の全ての行について行わなければならない。
リフレッシュという用語は、米インテル社によって付けられた。なお、コンデンサ・メモリの元祖であるABCでは、ジョギングと呼ばれていた。
リフレッシュを行う行アドレスを指定するには、次のような方法がある。
代表的な方法として、以下の二つがある。
情報は各メモリセルのキャパシタの電荷の形で記憶されるが、宇宙線などの放射線がキャパシタに照射されると、電荷が失われデータが書き換わってしまう現象が発生する。これはソフトエラー(英語版)と呼ばれ、高エネルギーの放射線を常に浴びる可能性のある宇宙航空分野に限らず、地上の日常的な環境でも発生し得る、メモリを持つ機器の偶発的な異常動作の原因となる。
宇宙線のような高エネルギー放射線でなくとも、可視光線の光子でも同様の現象が発生する。通常のDRAMは、樹脂製のパッケージによって遮光されているため、実際の問題とはならない。しかし、この現象を応用して、チップに光を当てられるようにすることで、画像素子として応用した製品も存在した。
主となるメタル配線とワード線の配線の間隔を空けて配置し、その下層で1本のメタル配線ごとにゲートポリ配線を4-8本階層する方法である。メタル配線からはデコード機能を兼ねたゲートでもあるサブワードドライバによってゲートポリ配線が分岐され各メモリセルに接続される。
高集積化のため、21世紀以降はオープン・ビット線が使用されるようになっている。従来方式では、本来のビット線に平行して折り返しビット線が配線されていた。この方式では、読み出されるセルのすぐそばに2本のビット線が通っているので、たとえノイズを受けても、これらをメモリセルアレイ外周部のセンスアンプで比較することで、ノイズの影響を排除することができた。その後、セルが小さくなったため、電極としてポリシリコンではなく金属材料を使い始めると、寄生抵抗と読み出し抵抗が減少して、読み出し電流が多く取れるようになった。そこで、DRAMに対する微細化・高集積化への要求に応じて、折り返しビット線方式に代わってオープン・ビット線方式が取り入れられるようになった。
ロウとカラムの両方で冗長回路を用意しておき、ウエハーテスト時や出荷前テストで不良セル、不良ロウ、不良カラムがあれば冗長回路に切り替えられて良品として出荷できるようにする技術がある。不良アドレスはレーザーによりフューズ部を焼灼切断するか電気的に過電流で焼き切り、同様の方法で冗長回路を代替アドレスへ割り当てる。冗長回路による速度性能の低下が見込まれるため、性能と良品率とのトレードオフになる。
フラッシュメモリで使用されているように、キャパシタ内の電荷の有無により"0"と"1"を検出して1セル当り1ビットを保持するのではなく、例えば、0%、25%、50%、100%と4段階で電荷量を検出すれば、1つのセルで2ビットの情報を保持することができる。これが多値化技術であり、DRAMでも早くから提唱されていたが、実際の製品にはほとんど採用されていない。
2011年6月22日エルピーダメモリと秋田エルピーダメモリは、タブレットPCやスマートフォンなどの薄型化や大容量化に役立つ、世界最薄となる厚さ0.8ミリの4枚積層DRAMを開発したと発表した。
1970年に米インテル社が世界最初のDRAMである「1103」を発売してから、多くの種類のDRAMが市場に登場している。各DRAMの種別名称ではSD-RAMあるいはSDRAMのようにハイフンの有無で表記の揺らぎが存在するが、以下では全てハイフンを省いて表記する。
1970年代から1980年代の初期にかけて、DRAMは、広範に採用された動作規格などが存在せず、DRAM製品ごとに細かな仕様を確認する必要があった。また、2000年代に一般的になっているDIMMのようなメモリモジュール形状での実装はあくまで少数派であり、多くが単体のDIPを8個や16個など複数を個別にDIPソケットへ挿入実装していた。このときに採用された2つの動作原理、すなわちRAS/CAS信号やセンスアンプといったDRAMの基本的な回路構成と、微小なキャパシタに記憶して繰り返しリフレッシュ動作を行う、という動作原理は、21世紀の現在も最新型DRAMの基本技術に継承されている。
高速ページモード付きDRAMとは、いくつかの連続するアドレスの読み出し時に高速化するための工夫を加えたDRAMである。初期はページモードと表記された。また、Fast Page Mode DRAMを略してFPDRAMまたはFPM DRAMなどとも表記される。通常のDRAMの読み出し時にはRAS信号によってロウアドレスを与え、CAS信号によってカラムアドレスを与える動作をそれぞれのメモリ番地に対して繰り返し与えるが、記憶領域へのアクセスは連続する傾向が強く、連続する番地ごとにロウとカラムを与えるのではなく、直前のロウアドレス(ページ)と同じ場合にはRAS信号を固定したままロウを与えずにCAS信号とカラムだけを変えて与えることで、メモリ番地の指定時間を短くすることで高速化をはかっていた。高速ページモード付きDRAMでも従来のロウとカラムをすべて個別に与える動作が保証されていた。 21世紀の現在はほとんど使用されていない。
メモリチップ内にバッファとして1ページ分のSRAMを内蔵し、同一ページ内のアクセスについて一旦当該ページに書かれたデータを全てSRAM上にコピーすることにより、RAS信号によってロウアドレスを与えればあとはCAS信号を固定してからカラムアドレスを変化させるだけで連続的にデータ出力が実施されるという動作を行う(高速ページモード付きDRAMとの違いはCAS信号を固定する点である)。つまり、同一ページ内の連続するアドレスの読み出しであれば、CAS信号の発行とそのレイテンシの分だけメモリアクセスタイムが節減され、通常のDRAMよりも読み出し速度が高速化されるという特徴を備え、ページ境界をまたぐアドレスの連続読み出し時でもごく小さなペナルティで済ませられる。なお、高速ページモード付きDRAMと同様、通常のDRAMと同様のRAS/CAS信号の個別発行によるアクセスモードにも対応する。
このDRAMは日立製作所が開発、製品化したが、SRAM内蔵で構造が複雑であったことからコスト面で不利であり、しかもより生産コストが低廉で同程度の効果が得られる高速ページモード付きDRAMが開発されたためにほとんど採用例はなく、パソコン向けではシャープX68030シリーズに標準採用されるに留まった。また、信号のタイミングによっては(CAS信号がカラムアドレスより先(または同時)に出る場合等)、この方式のDRAMが必要な場合もあった。
従来のDRAMでは、データ読み出し時にデータ出力信号が安定出力されるまでは、次のカラムアドレスを与えることが出来なかったのに対し、EDO DRAM(Extended Data Output DRAM)ではデータ出力線にデータラッチを設けることで、データ出力のタイミングと次のカラムアドレスの受付タイミングとをオーバーラップしている。Pentiumなどの66MHzのCPUではウェイト数を高速ページモードの2クロックからEDOの1クロックへと高速化できた。21世紀初頭に於いてはモノクロページプリンタのバッファメモリに用いられるなどして残っていたが、組込向けCPUが高速化され処理が複雑化した2010年以降はほとんど使用されていない。
Micron社が開発した高速版EDO DRAMである。Burst EDO RAMという正式名称が示す通り、内部に2ビット分の2進カウンタを持っており、最初に入力されたカラムアドレスの値を使って1を3回加えることで続く3回分の連続するアドレスを作り出し、CAS信号の遷移にあわせて合計4回の連続するデータ読み出し動作を行う。Pentiumではこのための専用回路が備わっていたため、最速ではウェイト数を0クロックに出来、アクセス時間52nsでページモードサイクル時間15ns品のBEDO DRAMを66MHzのPentiumで使用すれば、4つのウェイト数は5-1-1-1というクロック数でバースト転送が行えるとされたが、DRAMコントローラやチップセットの対応がほとんど無く(Intel純正チップセットではPentium ProおよびPentium II用のIntel 440FXのみ対応)、普及しなかった。なお、BEDO DRAM以前にも、同様のコンセプトを持った(CAS信号のみの遷移で連続3回(合計4回)のアクセスができた)ニブルモードDRAMというものがあった(日立 HM514101(4M(×1)ビット)など)。ニブルとは4ビットのことである。
SDRAM(Synchronous DRAM、シンクロナス・ディーラム、エスディーラム)は、外部クロックに同期してカラムの読み出し動作を行うDRAMである。外部クロックに同期することで、DRAM素子内部でパイプライン動作を行い、外部のバスクロックに同期してバースト転送することにより、0ウェイトでの出力アクセスを可能とし、外部バスクロックがそのまま使用できるために回路設計も容易となった。
以下は現行のDDR SDRAM(後述)以前の、SDR SDRAMについて述べる。登場した当初は同期クロックはIntel製CPUのPentiumに合わせて66MHzであったが、やがてPentium IIやAMD製CPUのK6-2に合わせてPC100 SDRAMと呼ばれる規格で100MHzとなり、2000年のIntel製のPentium III用新チップセット出荷に合わせてPC133 SDRAMが本格的に使用された。パーソナルコンピュータでの使用では多くがDIMMでの実装となっていた。DDR SDRAMが主力になった後は、生産される製品は少なくなっている。
Direct RDRAMとは、米Rambus社が開発した高速DRAM用のバス信号と物理形状の規格のことである。他のDRAMのようにRAS/RASなどの制御信号線によって読み出し/書き込み動作を指示するのではなく、Direct Rambusというバス上に16ビットか18ビットのデータ、アドレス、コマンドをパケット形式でやり取りする。RIMM(Rambus In-line Memory Module)と呼ばれるモジュールも規定していた。リフレッシュ機能が内蔵されている。任天堂のゲーム機NINTENDO64で同種のメモリーが採用され、パーソナルコンピュータへの採用も図られたが、バスの技術設計に高額なライセンス使用料を払い、Direct RDRAMコントローラを初めとする周辺回路やDirect RDRAMチップそのものの高価格によって、民生用途ではコスト競争力がなかったため、一部のサーバー機にのみ採用されるに留まり、PCでの主記憶用半導体の次の主役はPC133 SDRAMとDDRに移った。
DDRはDDR SDRAM(Double Data Rate SDRAM)のことである。内部のメモリセルアレイの読み出し時には2ビットや4ビット、8ビット分のセルを一度にアクセスし、データバスへの出力には読み出した信号線を切り替えて直列並列変換を行っている。書き込み時にはこの逆となる。パーソナルコンピュータでの使用ではほとんど全てがDIMM(Dual Inline Memory Module)での実装となっている。DDRの登場によって従来のSDRAMはSDR(シングル・データ・レート)と呼ばれることが多い。
SDRAMでの外部同期クロックの立ち上がりと立ち下り時にデータ入出力を確定するのでSDRに比べて2倍のデータ転送速度となる。クロック信号はSDRのシングルエンド伝送からディファレンシャル伝送に変わり、位相・逆位相信号のエッジ検出を両信号のクロスポイントに置くことでデューティ比を50%に近づけた。SDRには無かったDQS(データ・ストローブ信号)によってメモリ素子とコントローラ間の配線長の自由度が増した。信号のインターフェースはSDRのLVTTLからSSTLに変えられた。 データ転送の動作周波数は200MHz、266MHz、332MHz、400MHz。電源電圧は2.5Vから2.6Vが多い。184ピンDIMM。
DDRでの外部同期クロックを2倍に高めそれぞれの立ち上がりと立ち下り時にデータ入出力を確定するのでSDRに比べて4倍のデータ転送速度となる。"Posted CAS"機能が加わり、DDRまでは複数のリード、またはライトが連続するアクセス時にRAS信号からCAS信号までのサイクル間隔時間(tRCD)によってコマンド競合による待ち時間が生じていたが、DDR2からはRAS信号の後でtRCDの経過を待たずにCAS信号を受付け、メモリチップ内部で留め置かれて"Additive Latency"の経過後ただちに内部的にCAS信号が処理されるようになった。また、ODT(One Die Termination)とOCD(Off Chip Driver)が実装されることで終端抵抗をメモリチップ内部に持たせて、ドライバ駆動能力も調整可能として信号反射の低減など信号を最適化するように工夫が加えられた。DDR2用以降のメモリ・コントローラ側では起動時などにキャリブレーションを行うことで、メモリ素子とコントローラ間の配線のバラツキに起因するスキュー、つまり信号到着時間のズレを読み取り、信号線ごとのタイミングと駆動能力の調整を行うものがある。。
動作周波数は400MHz、533MHz、667MHz、800MHz、1066MHzの5種類があり、単体での半導体パッケージの容量では128Mビットから2Gビットまでの2倍刻みで5種類がある。電源電圧は1.8V。240ピンDIMM。
DDRでの同期クロックを4倍に高めそれぞれの立ち上がりと立ち下り時にデータ入出力を確定するのでSDRに比べて8倍のデータ転送速度となる。 動作周波数は800MHz、1066MHz、1333MHz、1600MHzの4種類があり、単体での半導体パッケージの容量では512Mビットや1Gビット、2Gビットのものが多い。電源電圧は1.5Vと1.35V。
グラフィック用途でのDRAMとして書き込みと読み出しが同時平行で行えるようになっている。今でも高性能グラフィック回路で使用される。
日本のNECが開発したもので、内部にチャンネルを設けてメモリーセルと入出力部との伝送速度を高める工夫がなされたが、普及しなかった。
余分なビットに誤り訂正符号を記録することで、ソフトエラー(英語版)によるデータの破損を検出・修正できる。 高信頼性用途のサーバなどで使われる。
スマートフォンや省電力な組み込み用途向けの規格。
大量のメモリを実装するサーバなどで使われる。 バッファード・メモリともいう。 レジスタードかつECCというDRAMもある。
DRAM業界を含むメモリ半導体製造業界は、黎明期の1970年代以降では、他社との技術的な差別化の余地が比較的少ないものとなっている。メモリ半導体を製造するメーカーのうち、先行するメーカーは、半導体製造装置メーカーと共に、一部は既にCPU等で開発された最先端技術(半導体製造装置メーカーがCPUメーカーとのビジネスで得たノウハウ)も取り入れ、メモリー半導体製造装置を共同開発して導入することで、生産工場を整えることになっている。開発現場を提供したことの対価として、メモリー半導体メーカーは共同開発パートナーである製造装置メーカーから安価に共同開発済みの装置を複数調達導入する。半導体製造装置メーカーは、追随するメモリ半導体メーカーへ同じ装置を販売することで利益を得る。追随するメモリー半導体メーカーが新規の独自技術を開発することは比較的少なく、半導体を高い生産性で量産するための工夫と経験が各社の差別化での大きな要素となっている。「半導体製造装置を買える程の投資資金があれば誰でもメモリメーカーとして起業できる」とは、あまりにも極論であるが、世界的にはほとんど同種の半導体製造装置が各社の生産ラインに並んでいる事実が示すように、製造装置での技術的な差異は少ない。
現在では、メモリ半導体メーカー各社は、パーソナルコンピュータの需要が拡大する時期(新しいWindows OS製品が登場するときなど)に合わせて、量産体制を拡大している。一方、過去には「シリコンサイクル」と呼ばれるサイクルが、半導体業界の景気の好不況の循環を主導してきた。パーソナルコンピュータの需要拡大等でメモリ製品が不足すると、価格は上昇する。メモリ半導体メーカーは、上昇した価格と旺盛なメモリ製品への需要に基づいて、将来への投資といった経営判断を下し、生産設備への拡大投資を決定する。このとき、1社が生産設備の拡大を行うだけでなく、ほとんど全てのメモリメーカーが生産設備を拡大するので、生産ラインが完成して量産に移行する頃には需要拡大は既に終わっており、各社の生み出す大量のメモリ製品がほとんど同時期に市場にあふれて価格は暴落する。こういったサイクルを過去に数回繰り返してきたため、日本の総合家電メーカーのように多くの企業は、度々訪れる莫大な赤字に耐え切れず半導体ビジネスから撤退していった。このような経緯から、1990年代中期以降、生き残ったDRAMメーカー各社は、過去の失敗を参考に、将来の需要予測に対して細心の注意を払いながら設備投資を行い、かつ価格操作や供給コントロールを行うことで、シリコンサイクルが起こらないように努めてきた。
2000年代中盤にはSamsung、Hynix、Qimonda、エルピーダ、Micronの大手5社で業界を寡占するようになっていた。2006年末頃、(DRAM価格操作談合事件による苦境、および規格の主流がDDR2からDDR3へ思うように移行せず依然として従来型製品のコストダウンを中心とした低収益に喘いでいた)DRAMメーカー各社は、2007年初頭に販売されるWindows Vistaの登場によってPC需要が大幅に拡大するだろうと予測し、各社生き残りを賭けて我先にと一斉に生産量を増やした(この独断専行とも思える各社なりふり構わぬ増産体制は、2004年に発覚したDRAM価格操作談合事件の余波で、各社横との連絡が完全に断たれ、これまでのように大手DRAMメーカー主導による共同歩調体制が全く取れず各社疑心暗鬼になっていたことも多分に影響している)。しかしこの増産は完全に裏目に出てしまい、需給バランスが大きく崩れDRAMでのシリコンサイクルを発生させてしまうこととなった。今回のシリコンサイクルは、Windows Vistaの予想外の販売不振(Windows XPに取って代わる存在になれなかった)、米国発の金融不況による大幅な消費減、NANDフラッシュ・メモリの生産との関連、等が同時期に運悪く重なり合ってしまったことが原因と云われている。DRAM価格は、2006年末から2007年中頃までと2008年中頃から2008年末までの2年程で20分の1以下にまで値下がりした。 DRAMの価格は主力の1Gbit品では2007年の1年間に80%程も低下し、全てのDRAMメーカーが大幅な赤字となった。2008年第算四半期の決算でもDRAM最大手のSamsung社以外の各社は大幅な赤字を記録し、2009年1月23日には大手5社の一角である独キマンダ社は破産し消滅する事態にまで追い込まれた。
下がり続けていたDRAMの世界市場規模は、2009年にようやく回復した。しかし、その後もDRAM価格の下落は止まらなかった。サムスンは、2011年度に唯一黒字を達成したメーカーであるが、それでもDRAMで大きな利益を得ておらず、フラッシュメモリで収益を確保している。大手各社とも、大幅な赤字を計上しながらもシェアを確保するためにDRAMを生産し続けざるを得ないチキンゲームと化している。
キマンダの破産以降は、大手による市場での寡占がより進んだ。微細化に伴い、露光装置の導入費用がさらに高くなるため、資金面での競争力の差が顕著になり、2009年から2013年頃にかけてDRAM業界の世界的な再編が行われた。
キマンダの消滅後、台湾5メーカー(Inotera、Nanya、Powerchip、ProMOS、Winbond)のうちNanyaがシェアを伸ばし、業界第5位となった。業界第4位のMicronは2008年にNanya及びInoteraと提携を結んだ。Nanyaは2012年8月に汎用DRAMから撤退した。ProMOSもグローバル・ファウンドリーズに買収されるなど、台湾5メーカーは汎用DRAMから撤退、または大手メーカーに吸収された。
かつての大手5社の中では、キマンダに続いてエルピーダも、2009年6月30日より産業活力再生特別措置法に基づいて再建を行っていたが2012年2月についに力尽き会社更生法適用を申請し破綻、2013年7月にMicronの子会社となった。同時にエルピーダ傘下の台湾RexchipもMicron傘下に入った。業界第4位だったMicronは、業界第3位のエルピーダの買収の結果、業界第2位のHynixを抜いて新たに業界第2位となった。
こうして、2013年には業界はSamsung、Micron、Hynixの大手3社体制となった。Hynixは、2011年以来、大規模な赤字に苦しんでいたが、エルピーダ破綻後の2013年第2四半期には営業利益が1兆ウォンを超え、チキンゲームは終了したと報道された。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "Dynamic Random Access Memory(ダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ、DRAM、ディーラム)は、コンピュータなどに使用される半導体メモリによるRAMの1種で、チップ中に形成された小さなキャパシタに電荷を貯めることで情報を保持する記憶素子である。放置すると電荷が放電し情報が喪われるため、常にリフレッシュ(記憶保持動作)を必要とする。やはりRAMの1種であるSRAMがリフレッシュ不要であるのに比べ、リフレッシュのために常に電力を消費することが欠点だが、SRAMに対して大容量を安価に提供できるという利点から、コンピュータの主記憶装置やデジタルテレビやデジタルカメラなど多くの情報機器において、大規模な作業用記憶として用いられている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "DRAMでは、キャパシタに蓄えられた電荷の有無で情報が記憶されるが、この電荷は時間とともに失われるため、常に電荷を更新(リフレッシュ)し続けなければならない。この「常に動き続ける」という特徴から「ダイナミック」(動的)という名前が付いている。ニュースなどでは「記憶保持動作が必要な随時書き込み読み出しできる半導体記憶回路」などの長い名前で紹介されることがある。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "チップ内にDRAMとリフレッシュ動作のための回路などを内蔵し、SRAMと同じ周辺回路とアクセス方法で利用できる「疑似SRAM」という名称の商品があるが、それもDRAMの一種である。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "商品としては、SIMMやDIMMやSO-DIMMといった基板にチップのパッケージを実装したモジュールの形態を指す名称や、近年ではDDR3やDDR4のように電子的仕様や転送プロトコルなどを指す表現が使われることも多い。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "DRAMの概念は1966年にIBMトーマス・J・ワトソン研究所のロバート・デナード(Robert Dennard)博士によって考案され、1967年にIBMと博士によって特許申請され、1968年に特許発行された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "1970年にインテルは世界最初のDRAMチップである1103を製造した。1103は3トランジスタセル設計を使用した1キロビットDRAMチップで、非常に成功した。その後、1970年代半ばまでに複数のメーカーがデナードのシングルトランジスタセルを使用して4キロビットチップを製造し、ムーアの法則に従い大容量化が進展した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "米ザイログ社が作ったCPUのZ80は、DRAMのリフレッシュ動作専用の7ビットのレジスタ(Rレジスタ)を持つ。命令列の実行中に、プログラムの実行に伴うアクセスとは無関係に、このレジスタが持つアドレス(DRAMの列)にアクセスをしてリフレッシュを行う。後の多くのマイクロプロセッサではプロセッサコア以外で実装される機能であるが、当時はマイクロコントローラ的な応用やホビーパソコンを廉価に製品としてまとめ上げる等といった目的にも効果的な機能であった。なお、多数開発された「Z80互換」チップでは、メモリコントローラとして別機能としたものや、省電力機器用として完全にオミットしているものなどもある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "コンデンサとも呼ばれるキャパシタに電荷を蓄え、この電荷の有無によって1ビットの情報を記憶する。電荷は漏出しやがて失われるため、1秒間に数回程、列単位でデータを読み出して列単位で再び記録し直すリフレッシュが絶えず必要となる。たとえ読み出しの必要がなくとも、記憶を保持するためには常にこの操作を行わなければならない。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "DRAMの内部回路は、各1つずつのキャパシタと電界効果トランジスタ(FET)から構成される「メモリセル」の部分と、多数のメモリセルが配列したマトリックスの周囲を取り巻く「周辺回路」から構成される。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "DRAMの集積度を上げるには、メモリセルをできるだけ小さくすることが有効である。そのため、キャパシタとFETを狭い場所に詰め込むために、さまざまな工夫が行われている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "各々のメモリセルはキャパシタ1個とスイッチ用のFET 1個から構成される。記憶セルは碁盤の目状に並べて配置され、横方向と縦方向にワード線とビット線が走っている。記憶データは、メモリセルのキャパシタに電荷がある場合は論理 \"1\"、無い場合は論理 \"0\" というように扱われており、1つのメモリセルで1ビットの記憶を保持している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "読み出しに先立って、ビット線自身の寄生容量(浮遊容量)を電源電圧の半分にプリチャージしておく。ワード線に電圧がかけられると、メモリセルのFETは、キャパシタとビット線との間を電気的に接続するように働く。そのため、キャパシタとビット線との間で電荷が移動し、キャパシタに電荷が蓄えられていればビット線の電位は僅かに上昇し、蓄えられていなければ僅かに下降する。この電荷の移動による微弱な電位の変化をセンスアンプによって増幅して読み取ることで、論理 \"1\" と論理 \"0\" が判別される。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "キャパシタに電荷を溜める動作時でも、電荷の移動方向が逆になる他は、読み出しと同じである。論理 \"1\" の1ビットのデータを記憶する場合を考えると、ワード線の電圧によってFETはキャパシタとビット線を接続し、ビット線を通じて電荷がキャパシタ移動し充電される。その後、ワード線の電圧がなくなってFETでの接続が断たれても、キャパシタ内には電荷がしばらくは残るのでその間は状態が保たれる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "SRAMのメモリセルが6個のトランジスタ(あるいは4個のトランジスタと2個の抵抗)で構成されていてプロセス微細化によるスイッチング速度向上がアクセス速度を向上させているのに対して、DRAMではメモリセルにあるキャパシタとスイッチング・トランジスタに存在する寄生抵抗による時定数回路が存在するため、プロセスの微細化やトランジスタのスイッチング速度向上はメモリのアクセス速度向上にさほど寄与しない。キャパシタの容量を小さくすれば高速化できるがキャパシタの情報を正しく読み取れない恐れが出る。微細化によってキャパシタを作りこめる面積が小さくなったのを補うために、キャパシタとFETを立体的に配置して容量不足を補うようにしている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "DRAMは、記憶セルの構造からスタック型とトレンチ型に分類される。スタック型では、スイッチング・トランジスタの上方にシリコンを堆積させてから溝を掘り、キャパシタ構造体を作る。トレンチ型では、スイッチング・トランジスタの横のシリコン基板に鋭い溝を掘り、キャパシタ構造体を作る。スタック型ではキャパシタを積層するためにトレンチ型より工程数や加工時間が増えるが、トレンチ型では微細化に限界がある。そのため、ほとんどの場合、スタック型が採用されている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "液晶ディスプレイに使用される薄膜トランジスタと同様に点欠陥が問題となるが、半導体メモリでは欠陥セルのあるカラムは、メモリセルアレイの端にある、冗長領域に論理的に割当てられ、ICチップは良品として出荷され製品コストの上昇が抑えられている。この技術は半導体メモリ一般に利用されている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "従来までは8F(Fは最小加工寸法)が主流だったが、現在では6Fが主流となりつつある。将来的には、4Fが導入される見通しである。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "メモリセルは、ワード線とビット線で作られるマトリックス状に配置され、多数のメモリセルによって、メモリセルアレイが作られる。ビット線の寄生容量が読み出し時の精度を制限するため、余り長くすることができない。そのため、メモリセルアレイの大きさには上限がある。 メモリセルアレイの周辺には、ワード線とビット線を制御してデータの書き込み/読み出し/リフレッシュを行い、外部と信号をやり取りする周辺回路が備わっている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "データの読み出しをする時には、ワード線で指定される1列分のデータをビット線の数だけ用意されたセンスアンプで同時に増幅し、その中から必要とするビットのデータを読み出す。読み出し動作によってキャパシタの電荷は失われる(破壊記憶)ので、ワード線で指定したままにすることでセンスアンプで増幅された電位を記憶セルに書き戻し、読み出しは完了する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "データの書き込みは、読み出し時の動作とほぼ同じで、ワード線で指定される1列分のデータをビット線の数だけ用意されたセンスアンプで同時に読み出し、その中から書き込みするビットのデータを書き換えてから、ワード線で指定したまま直ちにこの1列分のデータをビット線に流して記憶セルに書き戻し、書き込みは完了する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "リフレッシュ動作においても、外部に信号を出力しない点を除けば読み書きの動作時と同様に、1列分のデータを読み出し再び書き戻している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "メモリセルアレイの周辺にはセンスアンプの他にもラッチ、マルチプレクサ、外部との接続信号を作る3ステート・バッファが取り巻いている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "各々のメモリセルアレイは1ビット分の記憶領域として使用され、いくつかあるアレイをチップのデータ幅に合わせて組み合わせて使用している。メモリモジュールの入出力幅の拡大に合わせて、チップ単体で8ビットや16ビット幅を持つ製品が多い。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "DRAMのメモリセルを指定するためのアドレスデータ線は、行アドレスと列アドレスとで共通になっていて、行アドレスと列アドレスを時分割で設定するようになっている。メモリの番地のうち、行アドレスは上位ビットの部分に割り当て、列アドレスは、下位ビットに割り当てて使用する。アドレスデータ線にどちらのデータが加えられているかを区別するために、RAS (row address strobe) およびCAS (column address strobe) と呼ばれる信号を用いる。行アドレスデータを確定した状態でRAS信号をアクティブにすることで、RAS信号の変化点での状態を素子に行アドレスとして認識させる。RAS信号がアクティブな状態のまま、引き続き列アドレスデータに切り替えて、CAS信号をアクティブにし、CAS信号の変化点での状態を素子に列アドレスとして認識させ、必要とするアドレスのデータにアクセスを完了する。",
"title": "データアクセスの方法"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "データアクセスの高速化のため、同じ行アドレスで列アドレスが違うデータを次々に読み書きする方法が考案されており、これをページモードと呼ぶ。",
"title": "データアクセスの方法"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ページモードは、高速ページモード (fast page mode)からEDO(extended data out、EDO DRAM)へと進歩した。そして、21世紀以降はsynchronous DRAM (SDRAM) と呼ばれる、行アドレス内容を同期転送(バーストモード)で高速に入出力する機構を搭載したものが主流となっている。全く工夫のないDRAMでは100nsec以上かかっていたものが、これらのDRAMでは2.5nsec前後まで高速化されている。ただし、列・行アドレス共に指定してセットアップ・プリチャージの時間を含むアクセスタイム自体は、それほど短縮されておらず、この10年間で1/3程度高速化されただけである。",
"title": "データアクセスの方法"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "また、異なるアドレスに対する読み書きを同時に2つのポートから擬似的に行うことができるDual Port DRAMがある。PCでは画像表示用のVRAMやCPU-GPU間共有メモリに用いられたり、あるいは互換性のないマルチプロセッサ構成のPCやワークステーション、PCI-PCI間メモリ転送デバイスなどの用途に使われる。",
"title": "データアクセスの方法"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "メモリセルに蓄えられた電荷は、素子内部の漏れ電流によって徐々に失われていき、電荷のない状態との区別が困難になる。そこで、定期的に電荷を補充する操作が必要となる。この操作をリフレッシュと呼ぶ。リフレッシュは、1行単位で同時にアクセスすることで実施され、規定された時間内(数十ミリ秒程度)に素子内の全ての行について行わなければならない。",
"title": "リフレッシュ"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "リフレッシュという用語は、米インテル社によって付けられた。なお、コンデンサ・メモリの元祖であるABCでは、ジョギングと呼ばれていた。",
"title": "リフレッシュ"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "リフレッシュを行う行アドレスを指定するには、次のような方法がある。",
"title": "リフレッシュ"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "代表的な方法として、以下の二つがある。",
"title": "リフレッシュ"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "情報は各メモリセルのキャパシタの電荷の形で記憶されるが、宇宙線などの放射線がキャパシタに照射されると、電荷が失われデータが書き換わってしまう現象が発生する。これはソフトエラー(英語版)と呼ばれ、高エネルギーの放射線を常に浴びる可能性のある宇宙航空分野に限らず、地上の日常的な環境でも発生し得る、メモリを持つ機器の偶発的な異常動作の原因となる。",
"title": "技術の変遷"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "宇宙線のような高エネルギー放射線でなくとも、可視光線の光子でも同様の現象が発生する。通常のDRAMは、樹脂製のパッケージによって遮光されているため、実際の問題とはならない。しかし、この現象を応用して、チップに光を当てられるようにすることで、画像素子として応用した製品も存在した。",
"title": "技術の変遷"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "主となるメタル配線とワード線の配線の間隔を空けて配置し、その下層で1本のメタル配線ごとにゲートポリ配線を4-8本階層する方法である。メタル配線からはデコード機能を兼ねたゲートでもあるサブワードドライバによってゲートポリ配線が分岐され各メモリセルに接続される。",
"title": "技術の変遷"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "高集積化のため、21世紀以降はオープン・ビット線が使用されるようになっている。従来方式では、本来のビット線に平行して折り返しビット線が配線されていた。この方式では、読み出されるセルのすぐそばに2本のビット線が通っているので、たとえノイズを受けても、これらをメモリセルアレイ外周部のセンスアンプで比較することで、ノイズの影響を排除することができた。その後、セルが小さくなったため、電極としてポリシリコンではなく金属材料を使い始めると、寄生抵抗と読み出し抵抗が減少して、読み出し電流が多く取れるようになった。そこで、DRAMに対する微細化・高集積化への要求に応じて、折り返しビット線方式に代わってオープン・ビット線方式が取り入れられるようになった。",
"title": "技術の変遷"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ロウとカラムの両方で冗長回路を用意しておき、ウエハーテスト時や出荷前テストで不良セル、不良ロウ、不良カラムがあれば冗長回路に切り替えられて良品として出荷できるようにする技術がある。不良アドレスはレーザーによりフューズ部を焼灼切断するか電気的に過電流で焼き切り、同様の方法で冗長回路を代替アドレスへ割り当てる。冗長回路による速度性能の低下が見込まれるため、性能と良品率とのトレードオフになる。",
"title": "技術の変遷"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "フラッシュメモリで使用されているように、キャパシタ内の電荷の有無により\"0\"と\"1\"を検出して1セル当り1ビットを保持するのではなく、例えば、0%、25%、50%、100%と4段階で電荷量を検出すれば、1つのセルで2ビットの情報を保持することができる。これが多値化技術であり、DRAMでも早くから提唱されていたが、実際の製品にはほとんど採用されていない。",
"title": "技術の変遷"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2011年6月22日エルピーダメモリと秋田エルピーダメモリは、タブレットPCやスマートフォンなどの薄型化や大容量化に役立つ、世界最薄となる厚さ0.8ミリの4枚積層DRAMを開発したと発表した。",
"title": "技術の変遷"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1970年に米インテル社が世界最初のDRAMである「1103」を発売してから、多くの種類のDRAMが市場に登場している。各DRAMの種別名称ではSD-RAMあるいはSDRAMのようにハイフンの有無で表記の揺らぎが存在するが、以下では全てハイフンを省いて表記する。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1970年代から1980年代の初期にかけて、DRAMは、広範に採用された動作規格などが存在せず、DRAM製品ごとに細かな仕様を確認する必要があった。また、2000年代に一般的になっているDIMMのようなメモリモジュール形状での実装はあくまで少数派であり、多くが単体のDIPを8個や16個など複数を個別にDIPソケットへ挿入実装していた。このときに採用された2つの動作原理、すなわちRAS/CAS信号やセンスアンプといったDRAMの基本的な回路構成と、微小なキャパシタに記憶して繰り返しリフレッシュ動作を行う、という動作原理は、21世紀の現在も最新型DRAMの基本技術に継承されている。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "高速ページモード付きDRAMとは、いくつかの連続するアドレスの読み出し時に高速化するための工夫を加えたDRAMである。初期はページモードと表記された。また、Fast Page Mode DRAMを略してFPDRAMまたはFPM DRAMなどとも表記される。通常のDRAMの読み出し時にはRAS信号によってロウアドレスを与え、CAS信号によってカラムアドレスを与える動作をそれぞれのメモリ番地に対して繰り返し与えるが、記憶領域へのアクセスは連続する傾向が強く、連続する番地ごとにロウとカラムを与えるのではなく、直前のロウアドレス(ページ)と同じ場合にはRAS信号を固定したままロウを与えずにCAS信号とカラムだけを変えて与えることで、メモリ番地の指定時間を短くすることで高速化をはかっていた。高速ページモード付きDRAMでも従来のロウとカラムをすべて個別に与える動作が保証されていた。 21世紀の現在はほとんど使用されていない。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "メモリチップ内にバッファとして1ページ分のSRAMを内蔵し、同一ページ内のアクセスについて一旦当該ページに書かれたデータを全てSRAM上にコピーすることにより、RAS信号によってロウアドレスを与えればあとはCAS信号を固定してからカラムアドレスを変化させるだけで連続的にデータ出力が実施されるという動作を行う(高速ページモード付きDRAMとの違いはCAS信号を固定する点である)。つまり、同一ページ内の連続するアドレスの読み出しであれば、CAS信号の発行とそのレイテンシの分だけメモリアクセスタイムが節減され、通常のDRAMよりも読み出し速度が高速化されるという特徴を備え、ページ境界をまたぐアドレスの連続読み出し時でもごく小さなペナルティで済ませられる。なお、高速ページモード付きDRAMと同様、通常のDRAMと同様のRAS/CAS信号の個別発行によるアクセスモードにも対応する。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "このDRAMは日立製作所が開発、製品化したが、SRAM内蔵で構造が複雑であったことからコスト面で不利であり、しかもより生産コストが低廉で同程度の効果が得られる高速ページモード付きDRAMが開発されたためにほとんど採用例はなく、パソコン向けではシャープX68030シリーズに標準採用されるに留まった。また、信号のタイミングによっては(CAS信号がカラムアドレスより先(または同時)に出る場合等)、この方式のDRAMが必要な場合もあった。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "従来のDRAMでは、データ読み出し時にデータ出力信号が安定出力されるまでは、次のカラムアドレスを与えることが出来なかったのに対し、EDO DRAM(Extended Data Output DRAM)ではデータ出力線にデータラッチを設けることで、データ出力のタイミングと次のカラムアドレスの受付タイミングとをオーバーラップしている。Pentiumなどの66MHzのCPUではウェイト数を高速ページモードの2クロックからEDOの1クロックへと高速化できた。21世紀初頭に於いてはモノクロページプリンタのバッファメモリに用いられるなどして残っていたが、組込向けCPUが高速化され処理が複雑化した2010年以降はほとんど使用されていない。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "Micron社が開発した高速版EDO DRAMである。Burst EDO RAMという正式名称が示す通り、内部に2ビット分の2進カウンタを持っており、最初に入力されたカラムアドレスの値を使って1を3回加えることで続く3回分の連続するアドレスを作り出し、CAS信号の遷移にあわせて合計4回の連続するデータ読み出し動作を行う。Pentiumではこのための専用回路が備わっていたため、最速ではウェイト数を0クロックに出来、アクセス時間52nsでページモードサイクル時間15ns品のBEDO DRAMを66MHzのPentiumで使用すれば、4つのウェイト数は5-1-1-1というクロック数でバースト転送が行えるとされたが、DRAMコントローラやチップセットの対応がほとんど無く(Intel純正チップセットではPentium ProおよびPentium II用のIntel 440FXのみ対応)、普及しなかった。なお、BEDO DRAM以前にも、同様のコンセプトを持った(CAS信号のみの遷移で連続3回(合計4回)のアクセスができた)ニブルモードDRAMというものがあった(日立 HM514101(4M(×1)ビット)など)。ニブルとは4ビットのことである。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "SDRAM(Synchronous DRAM、シンクロナス・ディーラム、エスディーラム)は、外部クロックに同期してカラムの読み出し動作を行うDRAMである。外部クロックに同期することで、DRAM素子内部でパイプライン動作を行い、外部のバスクロックに同期してバースト転送することにより、0ウェイトでの出力アクセスを可能とし、外部バスクロックがそのまま使用できるために回路設計も容易となった。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "以下は現行のDDR SDRAM(後述)以前の、SDR SDRAMについて述べる。登場した当初は同期クロックはIntel製CPUのPentiumに合わせて66MHzであったが、やがてPentium IIやAMD製CPUのK6-2に合わせてPC100 SDRAMと呼ばれる規格で100MHzとなり、2000年のIntel製のPentium III用新チップセット出荷に合わせてPC133 SDRAMが本格的に使用された。パーソナルコンピュータでの使用では多くがDIMMでの実装となっていた。DDR SDRAMが主力になった後は、生産される製品は少なくなっている。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "Direct RDRAMとは、米Rambus社が開発した高速DRAM用のバス信号と物理形状の規格のことである。他のDRAMのようにRAS/RASなどの制御信号線によって読み出し/書き込み動作を指示するのではなく、Direct Rambusというバス上に16ビットか18ビットのデータ、アドレス、コマンドをパケット形式でやり取りする。RIMM(Rambus In-line Memory Module)と呼ばれるモジュールも規定していた。リフレッシュ機能が内蔵されている。任天堂のゲーム機NINTENDO64で同種のメモリーが採用され、パーソナルコンピュータへの採用も図られたが、バスの技術設計に高額なライセンス使用料を払い、Direct RDRAMコントローラを初めとする周辺回路やDirect RDRAMチップそのものの高価格によって、民生用途ではコスト競争力がなかったため、一部のサーバー機にのみ採用されるに留まり、PCでの主記憶用半導体の次の主役はPC133 SDRAMとDDRに移った。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "DDRはDDR SDRAM(Double Data Rate SDRAM)のことである。内部のメモリセルアレイの読み出し時には2ビットや4ビット、8ビット分のセルを一度にアクセスし、データバスへの出力には読み出した信号線を切り替えて直列並列変換を行っている。書き込み時にはこの逆となる。パーソナルコンピュータでの使用ではほとんど全てがDIMM(Dual Inline Memory Module)での実装となっている。DDRの登場によって従来のSDRAMはSDR(シングル・データ・レート)と呼ばれることが多い。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "SDRAMでの外部同期クロックの立ち上がりと立ち下り時にデータ入出力を確定するのでSDRに比べて2倍のデータ転送速度となる。クロック信号はSDRのシングルエンド伝送からディファレンシャル伝送に変わり、位相・逆位相信号のエッジ検出を両信号のクロスポイントに置くことでデューティ比を50%に近づけた。SDRには無かったDQS(データ・ストローブ信号)によってメモリ素子とコントローラ間の配線長の自由度が増した。信号のインターフェースはSDRのLVTTLからSSTLに変えられた。 データ転送の動作周波数は200MHz、266MHz、332MHz、400MHz。電源電圧は2.5Vから2.6Vが多い。184ピンDIMM。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "DDRでの外部同期クロックを2倍に高めそれぞれの立ち上がりと立ち下り時にデータ入出力を確定するのでSDRに比べて4倍のデータ転送速度となる。\"Posted CAS\"機能が加わり、DDRまでは複数のリード、またはライトが連続するアクセス時にRAS信号からCAS信号までのサイクル間隔時間(tRCD)によってコマンド競合による待ち時間が生じていたが、DDR2からはRAS信号の後でtRCDの経過を待たずにCAS信号を受付け、メモリチップ内部で留め置かれて\"Additive Latency\"の経過後ただちに内部的にCAS信号が処理されるようになった。また、ODT(One Die Termination)とOCD(Off Chip Driver)が実装されることで終端抵抗をメモリチップ内部に持たせて、ドライバ駆動能力も調整可能として信号反射の低減など信号を最適化するように工夫が加えられた。DDR2用以降のメモリ・コントローラ側では起動時などにキャリブレーションを行うことで、メモリ素子とコントローラ間の配線のバラツキに起因するスキュー、つまり信号到着時間のズレを読み取り、信号線ごとのタイミングと駆動能力の調整を行うものがある。。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "動作周波数は400MHz、533MHz、667MHz、800MHz、1066MHzの5種類があり、単体での半導体パッケージの容量では128Mビットから2Gビットまでの2倍刻みで5種類がある。電源電圧は1.8V。240ピンDIMM。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "DDRでの同期クロックを4倍に高めそれぞれの立ち上がりと立ち下り時にデータ入出力を確定するのでSDRに比べて8倍のデータ転送速度となる。 動作周波数は800MHz、1066MHz、1333MHz、1600MHzの4種類があり、単体での半導体パッケージの容量では512Mビットや1Gビット、2Gビットのものが多い。電源電圧は1.5Vと1.35V。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "グラフィック用途でのDRAMとして書き込みと読み出しが同時平行で行えるようになっている。今でも高性能グラフィック回路で使用される。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "日本のNECが開発したもので、内部にチャンネルを設けてメモリーセルと入出力部との伝送速度を高める工夫がなされたが、普及しなかった。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "余分なビットに誤り訂正符号を記録することで、ソフトエラー(英語版)によるデータの破損を検出・修正できる。 高信頼性用途のサーバなどで使われる。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "スマートフォンや省電力な組み込み用途向けの規格。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "大量のメモリを実装するサーバなどで使われる。 バッファード・メモリともいう。 レジスタードかつECCというDRAMもある。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "DRAM業界を含むメモリ半導体製造業界は、黎明期の1970年代以降では、他社との技術的な差別化の余地が比較的少ないものとなっている。メモリ半導体を製造するメーカーのうち、先行するメーカーは、半導体製造装置メーカーと共に、一部は既にCPU等で開発された最先端技術(半導体製造装置メーカーがCPUメーカーとのビジネスで得たノウハウ)も取り入れ、メモリー半導体製造装置を共同開発して導入することで、生産工場を整えることになっている。開発現場を提供したことの対価として、メモリー半導体メーカーは共同開発パートナーである製造装置メーカーから安価に共同開発済みの装置を複数調達導入する。半導体製造装置メーカーは、追随するメモリ半導体メーカーへ同じ装置を販売することで利益を得る。追随するメモリー半導体メーカーが新規の独自技術を開発することは比較的少なく、半導体を高い生産性で量産するための工夫と経験が各社の差別化での大きな要素となっている。「半導体製造装置を買える程の投資資金があれば誰でもメモリメーカーとして起業できる」とは、あまりにも極論であるが、世界的にはほとんど同種の半導体製造装置が各社の生産ラインに並んでいる事実が示すように、製造装置での技術的な差異は少ない。",
"title": "DRAM業界"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "現在では、メモリ半導体メーカー各社は、パーソナルコンピュータの需要が拡大する時期(新しいWindows OS製品が登場するときなど)に合わせて、量産体制を拡大している。一方、過去には「シリコンサイクル」と呼ばれるサイクルが、半導体業界の景気の好不況の循環を主導してきた。パーソナルコンピュータの需要拡大等でメモリ製品が不足すると、価格は上昇する。メモリ半導体メーカーは、上昇した価格と旺盛なメモリ製品への需要に基づいて、将来への投資といった経営判断を下し、生産設備への拡大投資を決定する。このとき、1社が生産設備の拡大を行うだけでなく、ほとんど全てのメモリメーカーが生産設備を拡大するので、生産ラインが完成して量産に移行する頃には需要拡大は既に終わっており、各社の生み出す大量のメモリ製品がほとんど同時期に市場にあふれて価格は暴落する。こういったサイクルを過去に数回繰り返してきたため、日本の総合家電メーカーのように多くの企業は、度々訪れる莫大な赤字に耐え切れず半導体ビジネスから撤退していった。このような経緯から、1990年代中期以降、生き残ったDRAMメーカー各社は、過去の失敗を参考に、将来の需要予測に対して細心の注意を払いながら設備投資を行い、かつ価格操作や供給コントロールを行うことで、シリコンサイクルが起こらないように努めてきた。",
"title": "DRAM業界"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2000年代中盤にはSamsung、Hynix、Qimonda、エルピーダ、Micronの大手5社で業界を寡占するようになっていた。2006年末頃、(DRAM価格操作談合事件による苦境、および規格の主流がDDR2からDDR3へ思うように移行せず依然として従来型製品のコストダウンを中心とした低収益に喘いでいた)DRAMメーカー各社は、2007年初頭に販売されるWindows Vistaの登場によってPC需要が大幅に拡大するだろうと予測し、各社生き残りを賭けて我先にと一斉に生産量を増やした(この独断専行とも思える各社なりふり構わぬ増産体制は、2004年に発覚したDRAM価格操作談合事件の余波で、各社横との連絡が完全に断たれ、これまでのように大手DRAMメーカー主導による共同歩調体制が全く取れず各社疑心暗鬼になっていたことも多分に影響している)。しかしこの増産は完全に裏目に出てしまい、需給バランスが大きく崩れDRAMでのシリコンサイクルを発生させてしまうこととなった。今回のシリコンサイクルは、Windows Vistaの予想外の販売不振(Windows XPに取って代わる存在になれなかった)、米国発の金融不況による大幅な消費減、NANDフラッシュ・メモリの生産との関連、等が同時期に運悪く重なり合ってしまったことが原因と云われている。DRAM価格は、2006年末から2007年中頃までと2008年中頃から2008年末までの2年程で20分の1以下にまで値下がりした。 DRAMの価格は主力の1Gbit品では2007年の1年間に80%程も低下し、全てのDRAMメーカーが大幅な赤字となった。2008年第算四半期の決算でもDRAM最大手のSamsung社以外の各社は大幅な赤字を記録し、2009年1月23日には大手5社の一角である独キマンダ社は破産し消滅する事態にまで追い込まれた。",
"title": "DRAM業界"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "下がり続けていたDRAMの世界市場規模は、2009年にようやく回復した。しかし、その後もDRAM価格の下落は止まらなかった。サムスンは、2011年度に唯一黒字を達成したメーカーであるが、それでもDRAMで大きな利益を得ておらず、フラッシュメモリで収益を確保している。大手各社とも、大幅な赤字を計上しながらもシェアを確保するためにDRAMを生産し続けざるを得ないチキンゲームと化している。",
"title": "DRAM業界"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "キマンダの破産以降は、大手による市場での寡占がより進んだ。微細化に伴い、露光装置の導入費用がさらに高くなるため、資金面での競争力の差が顕著になり、2009年から2013年頃にかけてDRAM業界の世界的な再編が行われた。",
"title": "DRAM業界"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "キマンダの消滅後、台湾5メーカー(Inotera、Nanya、Powerchip、ProMOS、Winbond)のうちNanyaがシェアを伸ばし、業界第5位となった。業界第4位のMicronは2008年にNanya及びInoteraと提携を結んだ。Nanyaは2012年8月に汎用DRAMから撤退した。ProMOSもグローバル・ファウンドリーズに買収されるなど、台湾5メーカーは汎用DRAMから撤退、または大手メーカーに吸収された。",
"title": "DRAM業界"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "かつての大手5社の中では、キマンダに続いてエルピーダも、2009年6月30日より産業活力再生特別措置法に基づいて再建を行っていたが2012年2月についに力尽き会社更生法適用を申請し破綻、2013年7月にMicronの子会社となった。同時にエルピーダ傘下の台湾RexchipもMicron傘下に入った。業界第4位だったMicronは、業界第3位のエルピーダの買収の結果、業界第2位のHynixを抜いて新たに業界第2位となった。",
"title": "DRAM業界"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "こうして、2013年には業界はSamsung、Micron、Hynixの大手3社体制となった。Hynixは、2011年以来、大規模な赤字に苦しんでいたが、エルピーダ破綻後の2013年第2四半期には営業利益が1兆ウォンを超え、チキンゲームは終了したと報道された。",
"title": "DRAM業界"
}
] | Dynamic Random Access Memory(ダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ、DRAM、ディーラム)は、コンピュータなどに使用される半導体メモリによるRAMの1種で、チップ中に形成された小さなキャパシタに電荷を貯めることで情報を保持する記憶素子である。放置すると電荷が放電し情報が喪われるため、常にリフレッシュ(記憶保持動作)を必要とする。やはりRAMの1種であるSRAMがリフレッシュ不要であるのに比べ、リフレッシュのために常に電力を消費することが欠点だが、SRAMに対して大容量を安価に提供できるという利点から、コンピュータの主記憶装置やデジタルテレビやデジタルカメラなど多くの情報機器において、大規模な作業用記憶として用いられている。 | [[ファイル:MT4C1024-HD.jpg|thumb|right|upright=1.8|[[マイクロン・テクノロジ]]社のMT4C1024 DRAM [[集積回路]]のダイの写真。容量は1[[メガビット]](<math>2^{20}</math>ビット または {{nowrap|128 kB)}}<ref name=mt4acid>{{Cite web |accessdate=2016-04-02 |date=2012-11-15 |title=How to "open" microchip and what's inside? : ZeptoBars |url=http://zeptobars.com/en/read/how-to-open-microchip-asic-what-inside |quote=Micron MT4C1024 — 1 mebibit (220 bit) dynamic ram. Widely used in 286 and 386-era computers, early 90s. Die size - 8662x3969µm. |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160314015357/http://zeptobars.com/en/read/how-to-open-microchip-asic-what-inside |archivedate=2016-03-14 }}</ref>]]
'''Dynamic Random Access Memory'''(ダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ、'''DRAM'''、ディーラム)は、[[コンピュータ]]などに使用される[[半導体メモリ]]による[[Random Access Memory|RAM]]の1種で、[[集積回路|チップ]]中に形成された小さな[[コンデンサ|キャパシタ]]に[[電荷]]を貯めることで情報を保持する記憶素子である。放置すると電荷が放電し情報が喪われるため、常にリフレッシュ(記憶保持動作)を必要とする。やはりRAMの1種である[[Static Random Access Memory|SRAM]]がリフレッシュ不要であるのに比べ、リフレッシュのために常に電力を消費することが欠点だが、SRAMに対して大容量を安価に提供できるという利点から、コンピュータの[[主記憶装置]]や[[デジタルテレビ放送|デジタルテレビ]]や[[デジタルカメラ]]など多くの情報機器において、大規模な作業用記憶として用いられている。
== 名称 ==
DRAMでは、[[コンデンサ|キャパシタ]]に蓄えられた電荷の有無で情報が記憶されるが、この電荷は時間とともに失われるため、常に電荷を更新(リフレッシュ)し続けなければならない。この「常に動き続ける」という特徴から「ダイナミック」(動的)という名前が付いている。ニュースなどでは「記憶保持動作が必要な随時書き込み読み出しできる半導体記憶回路」などの長い名前で紹介されることがある。
チップ内にDRAMとリフレッシュ動作のための回路などを内蔵し、SRAMと同じ周辺回路とアクセス方法で利用できる「[[疑似SRAM]]」という名称の商品があるが、それもDRAMの一種である。
商品としては、[[SIMM]]や[[DIMM]]や[[SO-DIMM]]といった基板にチップのパッケージを実装したモジュールの形態を指す名称や、近年では[[DDR3 SDRAM|DDR3]]や[[DDR4 SDRAM|DDR4]]のように電子的仕様や転送プロトコルなどを指す表現が使われることも多い。
== 歴史 ==
DRAMの概念は1966年に[[IBM]][[トーマス・J・ワトソン研究所]]の[[ロバート・デナード]](Robert Dennard)博士によって考案され、1967年にIBMと博士によって特許申請され、1968年に特許発行された<ref>[https://ascii.jp/elem/000/001/409/1409567/ 業界に痕跡を残して消えたメーカー DRAMの独自技術を持ちながらも倒産したQimonda]</ref><ref NAME="IBM100">[https://www.ibm.com/ibm/history/ibm100/us/en/icons/dram/ DRAM The Invention of On-Demand Data - IBM]</ref>。
1970年に[[インテル]]は世界最初のDRAMチップである[[インテル 1103|1103]]を製造した。1103は3トランジスタセル設計を使用した1キロビットDRAMチップで、非常に成功した。その後、1970年代半ばまでに複数のメーカーがデナードのシングルトランジスタセルを使用して4キロビットチップを製造し、[[ムーアの法則]]に従い大容量化が進展した<ref NAME="IBM100" />。
米ザイログ社が作ったCPUの[[Z80]]は、DRAMのリフレッシュ動作専用の7ビットのレジスタ(Rレジスタ)を持つ。命令列の実行中に、プログラムの実行に伴うアクセスとは無関係に、このレジスタが持つアドレス(DRAMの列)にアクセスをしてリフレッシュを行う。後の多くのマイクロプロセッサではプロセッサコア以外で実装される機能であるが、当時は[[マイクロコントローラ]]的な応用や[[ホビーパソコン]]を廉価に製品としてまとめ上げる等といった目的にも効果的な機能であった。なお、多数開発された「Z80互換」チップでは、メモリコントローラとして別機能としたものや、省電力機器用として完全にオミットしているものなどもある。
[[ファイル:DRAM Cell Structure (Model of Single Circuit Cell).PNG|thumb|250px|right|'''DRAMのメモリセル回路'''<br/>1.ビット線 2.ワード線 3.FET 4.キャパシタ 5.ビット線の浮遊容量]]
== 構造 ==
=== 動作原理 ===
[[コンデンサ]]とも呼ばれるキャパシタに電荷を蓄え、この電荷の有無によって1ビットの情報を記憶する。電荷は漏出しやがて失われるため、1秒間に数回程、列単位でデータを読み出して列単位で再び記録し直す'''リフレッシュ'''が絶えず必要となる。たとえ読み出しの必要がなくとも、記憶を保持するためには常にこの操作を行わなければならない。
=== メモリセル構造 ===
DRAMの内部回路は、各1つずつのキャパシタと電界効果トランジスタ([[電界効果トランジスタ|FET]])から構成される「メモリセル」の部分と、多数のメモリセルが配列したマトリックスの周囲を取り巻く「周辺回路」から構成される。
DRAMの集積度を上げるには、メモリセルをできるだけ小さくすることが有効である。そのため、キャパシタとFETを狭い場所に詰め込むために、さまざまな工夫が行われている。
[[ファイル:DRAM Cell Structure (8F2).PNG|thumb|220px|right|'''8F<sup>2</sup>のセル構造概略'''<br/>現在一般的なDRAMのセル構造でキャパシタとトランジスタは横に並んで位置する。<br/>1.ワード線 2.ビット線 3.キャパシタ 4.1つのセルの大きさ]]
[[ファイル:DRAM Cell Structure (4F2).PNG|thumb|220px|right|'''4F<sup>2</sup>のセル構造概略'''<br/>開発中のDRAMのセル構造 キャパシタとトランジスタは縦に重ねられている。<br/>1.ワード線 2.ビット線 3.キャパシタ 4.1つのセルの大きさ 5.キャパシタ 6.ソース 7.チャンネル 8.ドレイン 9.ゲート絶縁膜]]
各々のメモリセルはキャパシタ1個とスイッチ用のFET 1個から構成される。記憶セルは碁盤の目状に並べて配置され、横方向と縦方向にワード線とビット線が走っている。記憶データは、メモリセルのキャパシタに電荷がある場合は論理 "1"、無い場合は論理 "0" というように扱われており、1つのメモリセルで1ビットの記憶を保持している<ref name="わかりやすい高密度記録技術">小林春洋著 『わかりやすい高密度記録技術』 日刊工業新聞社 2008年9月28日発行 ISBN 978-4-526-06129-5</ref>。
=== メモリセルの動作 ===
読み出しに先立って、ビット線自身の寄生容量(浮遊容量)を電源電圧の半分にプリチャージしておく。ワード線に電圧がかけられると、メモリセルのFETは、キャパシタとビット線との間を電気的に接続するように働く。そのため、キャパシタとビット線との間で電荷が移動し、キャパシタに電荷が蓄えられていればビット線の電位は僅かに上昇し、蓄えられていなければ僅かに下降する。この電荷の移動による微弱な電位の変化をセンスアンプによって増幅して読み取ることで、論理 "1" と論理 "0" が判別される。
キャパシタに電荷を溜める動作時でも、電荷の移動方向が逆になる他は、読み出しと同じである。論理 "1" の1ビットのデータを記憶する場合を考えると、ワード線の電圧によってFETはキャパシタとビット線を接続し、ビット線を通じて電荷がキャパシタ移動し充電される。その後、ワード線の電圧がなくなってFETでの接続が断たれても、キャパシタ内には電荷がしばらくは残るのでその間は状態が保たれる<ref>{{Cite web|和書|title=集積回路工学第2 講義資料: 第12回: DRAM |url=http://ifdl.jp/akita/class_old/old/06/lsi/12.html |website=ifdl.jp |accessdate=2022-01-15 |publisher=金沢大学 理工学域}}</ref>。
=== メモリセルの微細化 ===
SRAMのメモリセルが6個の[[トランジスタ]](あるいは4個のトランジスタと2個の[[抵抗器|抵抗]])で構成されていてプロセス微細化によるスイッチング速度向上がアクセス速度を向上させているのに対して、DRAMではメモリセルにあるキャパシタとスイッチング・トランジスタに存在する寄生抵抗による時定数回路が存在するため、プロセスの微細化やトランジスタのスイッチング速度向上はメモリのアクセス速度向上にさほど寄与しない。キャパシタの容量を小さくすれば高速化できるがキャパシタの情報を正しく読み取れない恐れが出る。微細化によってキャパシタを作りこめる面積が小さくなったのを補うために、キャパシタとFETを立体的に配置して容量不足を補うようにしている。
; スタック型とトレンチ型
DRAMは、記憶セルの構造からスタック型とトレンチ型に分類される。スタック型では、スイッチング・トランジスタの上方にシリコンを堆積させてから溝を掘り、キャパシタ構造体を作る。トレンチ型では、スイッチング・トランジスタの横のシリコン基板に鋭い溝を掘り、キャパシタ構造体を作る。スタック型ではキャパシタを積層するためにトレンチ型より工程数や加工時間が増えるが、トレンチ型では微細化に限界がある。そのため、ほとんどの場合、スタック型が採用されている。
[[液晶ディスプレイ]]に使用される[[薄膜トランジスタ]]と同様に点欠陥が問題となるが、半導体メモリでは欠陥セルのあるカラムは、メモリセルアレイの端にある、冗長領域に論理的に割当てられ、ICチップは良品として出荷され製品コストの上昇が抑えられている。この技術は半導体メモリ一般に利用されている。
従来までは8F<sup>2</sup>(Fは最小加工寸法)が主流だったが、現在では6F<sup>2</sup>が主流となりつつある。将来的には、4F<sup>2</sup>が導入される見通しである。
=== メモリセルアレイと周辺回路 ===
メモリセルは、ワード線とビット線で作られるマトリックス状に配置され、多数のメモリセルによって、メモリセルアレイが作られる。ビット線の寄生容量が読み出し時の精度を制限するため、余り長くすることができない。そのため、メモリセルアレイの大きさには上限がある。
メモリセルアレイの周辺には、ワード線とビット線を制御してデータの書き込み/読み出し/リフレッシュを行い、外部と信号をやり取りする周辺回路が備わっている。
データの読み出しをする時には、ワード線で指定される1列分のデータをビット線の数だけ用意されたセンスアンプで同時に増幅し、その中から必要とするビットのデータを読み出す。読み出し動作によってキャパシタの電荷は失われる(破壊記憶)ので、ワード線で指定したままにすることでセンスアンプで増幅された電位を記憶セルに書き戻し、読み出しは完了する。
データの書き込みは、読み出し時の動作とほぼ同じで、ワード線で指定される1列分のデータをビット線の数だけ用意されたセンスアンプで同時に読み出し、その中から書き込みするビットのデータを書き換えてから、ワード線で指定したまま直ちにこの1列分のデータをビット線に流して記憶セルに書き戻し、書き込みは完了する。
リフレッシュ動作においても、外部に信号を出力しない点を除けば読み書きの動作時と同様に、1列分のデータを読み出し再び書き戻している。
メモリセルアレイの周辺にはセンスアンプの他にもラッチ、[[マルチプレクサ]]、外部との接続信号を作る3ステート・[[バッファ]]が取り巻いている。
各々のメモリセルアレイは1ビット分の記憶領域として使用され、いくつかあるアレイをチップのデータ幅に合わせて組み合わせて使用している。メモリモジュールの入出力幅の拡大に合わせて、チップ単体で8ビットや16ビット幅を持つ製品が多い。
== データアクセスの方法 ==
DRAMのメモリセルを指定するためのアドレスデータ線は、行アドレスと列アドレスとで共通になっていて、行アドレスと列アドレスを時分割で設定するようになっている。メモリの番地のうち、行アドレスは上位ビットの部分に割り当て、列アドレスは、下位ビットに割り当てて使用する。アドレスデータ線にどちらのデータが加えられているかを区別するために、'''RAS''' (row address strobe) および'''CAS''' (column address strobe) と呼ばれる信号を用いる。行アドレスデータを確定した状態でRAS信号をアクティブにすることで、RAS信号の変化点での状態を素子に行アドレスとして認識させる。RAS信号がアクティブな状態のまま、引き続き列アドレスデータに切り替えて、CAS信号をアクティブにし、CAS信号の変化点での状態を素子に列アドレスとして認識させ、必要とするアドレスのデータにアクセスを完了する。
データアクセスの高速化のため、同じ行アドレスで列アドレスが違うデータを次々に読み書きする方法が考案されており、これを'''ページモード'''と呼ぶ。
ページモードは、'''高速ページモード''' (fast page mode)から'''EDO'''(extended data out、EDO DRAM)へと進歩した。そして、21世紀以降は'''synchronous DRAM''' (SDRAM) と呼ばれる、行アドレス内容を同期転送(バーストモード)で高速に入出力する機構を搭載したものが主流となっている。全く工夫のないDRAMでは100nsec以上かかっていたものが、これらのDRAMでは2.5nsec前後まで高速化されている。ただし、列・行アドレス共に指定してセットアップ・プリチャージの時間を含むアクセスタイム自体は、それほど短縮されておらず、この10年間で1/3程度高速化されただけである。
また、異なるアドレスに対する読み書きを同時に2つのポートから擬似的に行うことができる'''Dual Port DRAM'''がある。PCでは画像表示用の[[VRAM]]やCPU-GPU間共有メモリに用いられたり、あるいは互換性のない[[マルチプロセッサ]]構成のPCやワークステーション、PCI-PCI間メモリ転送デバイスなどの用途に使われる。
== リフレッシュ ==
{{main|メモリ・リフレッシュ}}
メモリセルに蓄えられた電荷は、素子内部の[[リーク電流|漏れ電流]]によって徐々に失われていき、電荷のない状態との区別が困難になる。そこで、定期的に電荷を補充する操作が必要となる。この操作を'''リフレッシュ'''と呼ぶ。リフレッシュは、1行単位で同時にアクセスすることで実施され、規定された時間内(数十ミリ秒程度)に素子内の全ての行について行わなければならない。
リフレッシュという用語は、米[[インテル]]社によって付けられた。なお、コンデンサ・メモリの元祖である[[アタナソフ&ベリー・コンピュータ|ABC]]では、ジョギングと呼ばれていた。
=== リフレッシュアドレス指定方法 ===
リフレッシュを行う行アドレスを指定するには、次のような方法がある。
* RAS only リフレッシュ : DRAMに行アドレスを与え、RAS信号のみをアクティブにすることで、指定された行のリフレッシュを行う。リフレッシュアドレスは、DRAMの外部回路によって作る必要がある。
* CAS before RAS リフレッシュ :略称でCBRリフレッシュとも言う。この機能を実装するDRAMは CASとRASをアクティブにするタイミングを通常のデータアクセスと逆にすることで、DRAM内部のリフレッシュ回路を起動させる。起動毎に内部に用意されたカウンタを自動的にアップさせ、必要な行アドレスを順番に発生させるので、DRAMの外部にリフレッシュ用のアドレスカウンタを用意する必要がない。
* オートリフレッシュ・セルフリフレッシュ :この機能を実装するDRAMはメインシステムから一定期間アクセスのない状態、例えばメインシステムの電源を落としてメモリバックアップ回路だけを駆動させているときなどに、DRAMチップに内蔵されたリフレッシュ回路によって自動的にリフレッシュを行う。通常アクセス時のリフレッシュは別の方法が必要だが、それ以外ではCBRリフレッシュ同様、DRAMの外部にリフレッシュ用のアドレスカウンタを用意する必要がない。
=== リフレッシュのタイミング ===
代表的な方法として、以下の二つがある。
* 集中リフレッシュ: 規定された時間毎に素子内の全ての行を一度にリフレッシュする。
* 分散リフレッシュ: 規定された時間を行の数で割った周期で一行ずつリフレッシュする。
== 技術の変遷 ==
=== ソフトエラー ===
情報は各メモリセルのキャパシタの電荷の形で記憶されるが、[[宇宙線]]などの[[放射線]]がキャパシタに照射されると、電荷が失われデータが書き換わってしまう現象が発生する。これは'''{{仮リンク|ソフトエラー|en|Soft error}}'''と呼ばれ、高エネルギーの放射線を常に浴びる可能性のある宇宙航空分野に限らず、地上の日常的な環境でも発生し得る、メモリを持つ機器の偶発的な異常動作の原因となる。
宇宙線のような高エネルギー放射線でなくとも、可視光線の光子でも同様の現象が発生する。通常のDRAMは、樹脂製のパッケージによって遮光されているため、実際の問題とはならない。しかし、この現象を応用して、チップに光を当てられるようにすることで、[[固体撮像素子|画像素子]]として応用した製品も存在した<ref group="注">[[CCDイメージセンサ|CCD]]に代わる画像素子として、1988年にMicron Technology社よりOptic RAMという商品名で発売された。</ref>。<ref group="注">
米[[インテル]]は、[[磁気コアメモリ]]に代わるメモリとして、DRAM製造に着手していたが、ダイの状態では問題がないにもかかわらず、パッケージにするとソフトエラーが多発する問題に遭遇した。原因を究明すると、パッケージの[[セラミックス]]に[[アルファ線]]を放出する物質が含まれていることが判明した。インテルは、パッケージ製造元である[[京セラ]]に対して、この現象を極秘にするよう要請し、DRAM用パッケージは京セラが作った特注パッケージを使用した。そのため、インテル自身がインテル・1と呼ぶ半導体巨大企業へ発展する第一歩は、ソフトエラーの対策ノウハウを秘密にすることにより、市場から競合メーカーを追い出すことから始まったとされる。なお、この事実は、[[電子立国日本の自叙伝]] 単行本において、インテル自身によって解説された。</ref>
=== 階層ワード線 ===
主となるメタル配線とワード線の配線の間隔を空けて配置し、その下層で1本のメタル配線ごとにゲートポリ配線を4-8本階層する方法である。メタル配線からはデコード機能を兼ねたゲートでもあるサブワードドライバによってゲートポリ配線が分岐され各メモリセルに接続される<ref name="半導体とシステムLSI"/>。
=== オープン・ビット線 ===
高集積化のため、21世紀以降はオープン・ビット線が使用されるようになっている。従来方式では、本来のビット線に平行して折り返しビット線が配線されていた。この方式では、読み出されるセルのすぐそばに2本のビット線が通っているので、たとえノイズを受けても、これらをメモリセルアレイ外周部のセンスアンプで比較することで、ノイズの影響を排除することができた。その後、セルが小さくなったため、電極としてポリシリコンではなく金属材料を使い始めると、寄生抵抗と読み出し抵抗が減少して、読み出し電流が多く取れるようになった。そこで、DRAMに対する微細化・高集積化への要求に応じて、折り返しビット線方式に代わってオープン・ビット線方式が取り入れられるようになった。
=== 冗長技術 ===
ロウとカラムの両方で冗長回路を用意しておき、ウエハーテスト時や出荷前テストで不良セル、不良ロウ、不良カラムがあれば冗長回路に切り替えられて良品として出荷できるようにする技術がある。不良アドレスはレーザーによりフューズ部を焼灼切断するか電気的に過電流で焼き切り、同様の方法で冗長回路を代替アドレスへ割り当てる。冗長回路による速度性能の低下が見込まれるため、性能と良品率とのトレードオフになる。
=== 多値化技術 ===
[[フラッシュメモリ]]で使用されているように、キャパシタ内の電荷の有無により"0"と"1"を検出して1セル当り1ビットを保持するのではなく、例えば、0%、25%、50%、100%と4段階で電荷量を検出すれば、1つのセルで2ビットの情報を保持することができる。これが多値化技術であり、DRAMでも早くから提唱されていたが、実際の製品にはほとんど採用されていない。<!--S/N比と集積度とのトレードオフなのでしょうが、詳しい理由が判る方の加筆を期待いたします。-->
=== 薄さ ===
[[2011年]]6月22日エルピーダメモリと秋田エルピーダメモリは、[[タブレットPC]]や[[スマートフォン]]などの薄型化や大容量化に役立つ、世界最薄となる厚さ0.8ミリの4枚積層DRAMを開発したと発表した<ref group="注">[http://www.47news.jp/topics/newproduct/2011/06/post_7607.php 世界最薄DRAM開発、エルピーダメモリ。本県で生産、出荷へ] 秋田魁新報 2011年6月23日</ref>。
== 種別 ==
1970年に米[[インテル]]社が世界最初のDRAMである「1103」を発売してから、多くの種類のDRAMが市場に登場している。各DRAMの種別名称ではSD-RAMあるいはSDRAMのようにハイフンの有無で表記の揺らぎが存在するが、以下では全てハイフンを省いて表記する。
=== 初期DRAM ===
1970年代から1980年代の初期にかけて、DRAMは、広範に採用された動作規格などが存在せず、DRAM製品ごとに細かな仕様を確認する必要があった。また、2000年代に一般的になっている[[DIMM]]のようなメモリモジュール形状での実装はあくまで少数派であり、多くが単体のDIPを8個や16個など複数を個別にDIPソケットへ挿入実装していた。このときに採用された2つの動作原理、すなわちRAS/CAS信号やセンスアンプといったDRAMの基本的な回路構成と、微小なキャパシタに記憶して繰り返しリフレッシュ動作を行う、という動作原理は、21世紀の現在も最新型DRAMの基本技術に継承されている。
=== 高速ページモード付きDRAM ===
高速ページモード付きDRAMとは、いくつかの連続するアドレスの読み出し時に高速化するための工夫を加えたDRAMである。{{要出典|範囲=初期はページモードと表記された。|date=2021年11月}}また、Fast Page Mode DRAMを略してFPDRAMまたはFPM DRAMなどとも表記される。通常のDRAMの読み出し時にはRAS信号によってロウアドレスを与え、CAS信号によってカラムアドレスを与える動作をそれぞれのメモリ番地に対して繰り返し与えるが、記憶領域へのアクセスは連続する傾向が強く、連続する番地ごとにロウとカラムを与えるのではなく、直前のロウアドレス(ページ)と同じ場合にはRAS信号を固定したままロウを与えずにCAS信号とカラムだけを変えて与えることで、メモリ番地の指定時間を短くすることで高速化をはかっていた。高速ページモード付きDRAMでも従来のロウとカラムをすべて個別に与える動作が保証されていた。
21世紀の現在はほとんど使用されていない。
:[[マイクロンメモリジャパン|日立(当時)]] HM514100(4M(×1)ビット)
:東芝 TC514100(4M(×1)ビット)
:[[マイクロンメモリジャパン|NEC(当時)]] µPD424400(4M(1M×4)ビット)など
=== スタティックカラムモードDRAM ===
メモリチップ内にバッファとして1ページ分のSRAMを内蔵し、同一ページ内のアクセスについて一旦当該ページに書かれたデータを全てSRAM上にコピーすることにより、RAS信号によってロウアドレスを与えればあとはCAS信号を固定してからカラムアドレスを変化させるだけで連続的にデータ出力が実施されるという動作を行う(高速ページモード付きDRAMとの違いはCAS信号を固定する点である)。つまり、同一ページ内の連続するアドレスの読み出しであれば、CAS信号の発行とそのレイテンシの分だけメモリアクセスタイムが節減され、通常のDRAMよりも読み出し速度が高速化されるという特徴を備え、ページ境界をまたぐアドレスの連続読み出し時でもごく小さなペナルティで済ませられる。なお、高速ページモード付きDRAMと同様、通常のDRAMと同様のRAS/CAS信号の個別発行によるアクセスモードにも対応する。
:日立 HM514102(4M(×1)ビット、1ページ2048ビット)
:東芝 TC514102(4M(×1)ビット、1ページ2048ビット)
:NEC µPD424402(4M(1M×4)ビット、1ページ1024ビット×4)など
このDRAMは[[日立製作所]]が開発、製品化したが、SRAM内蔵で構造が複雑であったことからコスト面で不利であり、しかもより生産コストが低廉で同程度の効果が得られる高速ページモード付きDRAMが開発されたためにほとんど採用例はなく、パソコン向けでは[[シャープ]][[X68000#X68030|X68030]]シリーズに標準採用されるに留まった。また、信号のタイミングによっては(CAS信号がカラムアドレスより先(または同時)に出る場合等)、この方式のDRAMが必要な場合もあった。
=== EDO DRAM ===
従来のDRAMでは、データ読み出し時にデータ出力信号が安定出力されるまでは、次のカラムアドレスを与えることが出来なかったのに対し、EDO DRAM(Extended Data Output DRAM)ではデータ出力線にデータラッチを設けることで、データ出力のタイミングと次のカラムアドレスの受付タイミングとをオーバーラップしている。[[Pentium]]などの66MHzのCPUではウェイト数を高速ページモードの2クロックからEDOの1クロックへと高速化できた。21世紀初頭に於いては[[レーザープリンター|モノクロページプリンタ]]のバッファメモリに用いられるなどして残っていたが、組込向けCPUが高速化され処理が複雑化した2010年以降はほとんど使用されていない。
:日立 HM514405(4M(1M×4)ビット)
:東芝 TC514405(4M(1M×4)ビット)
:NEC µPD424405(4M(1M×4)ビット)など
=== BEDO DRAM ===
Micron社が開発した高速版EDO DRAMである。Burst EDO RAMという正式名称が示す通り、内部に2ビット分の2進カウンタを持っており、最初に入力されたカラムアドレスの値を使って1を3回加えることで続く3回分の連続するアドレスを作り出し、CAS信号の遷移にあわせて合計4回の連続するデータ読み出し動作を行う。Pentiumではこのための専用回路が備わっていたため、最速ではウェイト数を0クロックに出来、アクセス時間52nsでページモードサイクル時間15ns品のBEDO DRAMを66MHzのPentiumで使用すれば、4つのウェイト数は5-1-1-1というクロック数でバースト転送が行えるとされたが、DRAMコントローラやチップセットの対応がほとんど無く(Intel純正チップセットでは[[Pentium Pro]]および[[Pentium II]]用の[[Intel 440FX]]のみ対応)、普及しなかった。なお、BEDO DRAM以前にも、同様のコンセプトを持った(CAS信号のみの遷移で連続3回(合計4回)のアクセスができた)ニブルモードDRAMというものがあった(日立 HM514101(4M(×1)ビット)など)。ニブルとは4ビットのことである。
=== SDRAM ===
SDRAM(Synchronous DRAM、シンクロナス・ディーラム、エスディーラム)は、外部クロックに同期してカラムの読み出し動作を行うDRAMである。外部クロックに同期することで、DRAM素子内部でパイプライン動作を行い、外部のバスクロックに同期してバースト転送することにより、0ウェイトでの出力アクセスを可能とし、外部バスクロックがそのまま使用できるために[[回路設計]]も容易となった。
以下は現行のDDR SDRAM(後述)以前の、SDR SDRAMについて述べる。登場した当初は同期クロックは[[インテル|Intel]]製CPUのPentiumに合わせて66MHzであったが、やがて[[Pentium II]]や[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]製CPUの[[K6-2]]に合わせてPC100 SDRAMと呼ばれる規格で100MHzとなり、2000年のIntel製の[[Pentium III]]用新チップセット出荷に合わせてPC133 SDRAMが本格的に使用された。パーソナルコンピュータでの使用では多くがDIMMでの実装となっていた。DDR SDRAMが主力になった後は、生産される製品は少なくなっている。
{{Main|SDRAM}}
=== Direct RDRAM ===
Direct RDRAMとは、米Rambus社が開発した高速DRAM用のバス信号と物理形状の規格のことである。他のDRAMのようにRAS/RASなどの制御信号線によって読み出し/書き込み動作を指示するのではなく、Direct Rambusというバス上に16ビットか18ビットのデータ、アドレス、コマンドをパケット形式でやり取りする。RIMM(Rambus In-line Memory Module)と呼ばれるモジュールも規定していた。リフレッシュ機能が内蔵されている。[[任天堂]]のゲーム機[[NINTENDO64]]で同種のメモリーが採用され、パーソナルコンピュータへの採用も図られたが、バスの技術設計に高額なライセンス使用料を払い、Direct RDRAMコントローラを初めとする周辺回路やDirect RDRAMチップそのものの高価格によって、民生用途ではコスト競争力がなかったため、一部のサーバー機にのみ採用されるに留まり、PCでの主記憶用半導体の次の主役はPC133 SDRAMとDDRに移った。
{{Main|RDRAM}}
=== DDR ===
DDRはDDR SDRAM(Double Data Rate SDRAM)のことである。内部のメモリセルアレイの読み出し時には2ビットや4ビット、8ビット分のセルを一度にアクセスし、データバスへの出力には読み出した信号線を切り替えて直列並列変換を行っている。書き込み時にはこの逆となる。パーソナルコンピュータでの使用ではほとんど全てが[[DIMM]](Dual Inline Memory Module)での実装となっている。DDRの登場によって従来のSDRAMはSDR(シングル・データ・レート)と呼ばれることが多い。
==== DDR SDRAM ====
{{Main|DDR SDRAM}}
SDRAMでの外部同期クロックの立ち上がりと立ち下り時にデータ入出力を確定するのでSDRに比べて2倍のデータ転送速度となる。クロック信号はSDRのシングルエンド伝送からディファレンシャル伝送に変わり、位相・逆位相信号のエッジ検出を両信号のクロスポイントに置くことでデューティ比を50%に近づけた。SDRには無かったDQS(データ・ストローブ信号)によってメモリ素子とコントローラ間の配線長の自由度が増した。信号のインターフェースはSDRの[[LVTTL]]から[[SSTL]]に変えられた<ref name="半導体とシステムLSI">菊池正典監修 『半導体とシステムLSI』 日本実業出版社、2006年7月1日初版発行、ISBN 4-534-04086-5</ref>。
データ転送の動作周波数は200MHz、266MHz、332MHz、400MHz。電源電圧は2.5Vから2.6Vが多い。184ピンDIMM。
==== DDR2 SDRAM ====
{{Main|DDR2 SDRAM}}
DDRでの外部同期クロックを2倍に高めそれぞれの立ち上がりと立ち下り時にデータ入出力を確定するのでSDRに比べて4倍のデータ転送速度となる。"Posted CAS"機能が加わり、DDRまでは複数のリード、またはライトが連続するアクセス時にRAS信号からCAS信号までのサイクル間隔時間(tRCD)によってコマンド競合による待ち時間が生じていたが、DDR2からはRAS信号の後でtRCDの経過を待たずにCAS信号を受付け、メモリチップ内部で留め置かれて"Additive Latency"の経過後ただちに内部的にCAS信号が処理されるようになった。また、ODT(One Die Termination)とOCD(Off Chip Driver)が実装されることで終端抵抗をメモリチップ内部に持たせて、ドライバ駆動能力も調整可能として信号反射の低減など信号を最適化するように工夫が加えられた。DDR2用以降のメモリ・コントローラ側では起動時などにキャリブレーションを行うことで、メモリ素子とコントローラ間の配線のバラツキに起因するスキュー、つまり信号到着時間のズレを読み取り、信号線ごとのタイミングと駆動能力の調整を行うものがある。<ref name="半導体とシステムLSI"/>。
動作周波数は400MHz、533MHz、667MHz、800MHz、1066MHzの5種類があり、単体での半導体パッケージの容量では128Mビットから2Gビットまでの2倍刻みで5種類がある。電源電圧は1.8V。240ピンDIMM。
==== DDR3 SDRAM ====
{{Main|DDR3 SDRAM}}
DDRでの同期クロックを4倍に高めそれぞれの立ち上がりと立ち下り時にデータ入出力を確定するのでSDRに比べて8倍のデータ転送速度となる。
動作周波数は800MHz、1066MHz、1333MHz、1600MHzの4種類があり、単体での半導体パッケージの容量では512Mビットや1Gビット、2Gビットのものが多い<ref group="注">韓国Samsung Electronics社は2009年6月17日に、サーバー向けにパッケージあたり16GビットのレジスタードDDR3モジュールを開発したと発表した。電源電圧は1.35Vで1つ4Gビットのダイを4枚内蔵している。</ref><ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/294603.html]</ref>。電源電圧は1.5V<ref>神保進一著 『マイクロプロセッサ テクノロジ』 日経BP社 1999年12月6日発行 ISBN 4-8222-0926-1</ref>と1.35V。
==== DDR4 SDRAM ====
{{Main|DDR4 SDRAM}}
==== DDR5 SDRAM ====
{{Main|DDR5 SDRAM}}
=== 他のDRAM ===
==== GDRAM ====
グラフィック用途でのDRAMとして書き込みと読み出しが同時平行で行えるようになっている。今でも高性能グラフィック回路で使用される。
{{Main|GDDR}}
==== VC-SDRAM ====
日本の[[日本電気|NEC]]が開発したもので、内部にチャンネルを設けてメモリーセルと入出力部との伝送速度を高める工夫がなされたが、普及しなかった。
==== XDR DRAM ====
{{Main|XDR DRAM}}
==== ECCメモリ ====
{{Main|ECCメモリ}}
余分な[[ビット]]に[[誤り訂正符号]]を記録することで、{{仮リンク|ソフトエラー|en|Soft error}}によるデータの破損を検出・修正できる。
高信頼性用途の[[サーバ]]などで使われる。
==== LPDDR ====
スマートフォンや省電力な組み込み用途向けの規格。
{{Main|LPDDR}}
==== レジスタード・メモリ ====
{{Main|レジスタード・メモリ}}
大量のメモリを実装する[[サーバ]]などで使われる。
'''バッファード・メモリ'''ともいう。
レジスタードかつECCというDRAMもある。
== DRAM業界 ==
=== 装置産業 ===
DRAM業界を含むメモリ半導体製造業界は、黎明期の1970年代以降では、他社との技術的な差別化の余地が比較的少ないものとなっている。メモリ半導体を製造するメーカーのうち、先行するメーカーは、半導体製造装置メーカーと共に、一部は既にCPU等で開発された最先端技術(半導体製造装置メーカーがCPUメーカーとのビジネスで得たノウハウ)も取り入れ、メモリー半導体製造装置を共同開発して導入することで、生産工場を整えることになっている。開発現場を提供したことの対価として、メモリー半導体メーカーは共同開発パートナーである製造装置メーカーから安価に共同開発済みの装置を複数調達導入する。半導体製造装置メーカーは、追随するメモリ半導体メーカーへ同じ装置を販売することで利益を得る。追随するメモリー半導体メーカーが新規の独自技術を開発することは比較的少なく、半導体を高い生産性で量産するための工夫と経験が各社の差別化での大きな要素となっている。「半導体製造装置を買える程の投資資金があれば誰でもメモリメーカーとして起業できる」{{要出典|date=2023年11月}}とは、あまりにも極論であるが、世界的にはほとんど同種の半導体製造装置が各社の生産ラインに並んでいる事実が示すように、製造装置での技術的な差異は少ない。
=== シリコンサイクル ===
現在では、メモリ半導体メーカー各社は、パーソナルコンピュータの需要が拡大する時期(新しいWindows OS製品が登場するときなど)に合わせて、量産体制を拡大している。一方、過去には「シリコンサイクル」と呼ばれるサイクルが、半導体業界の景気の好不況の循環を主導してきた。パーソナルコンピュータの需要拡大等でメモリ製品が不足すると、価格は上昇する。メモリ半導体メーカーは、上昇した価格と旺盛なメモリ製品への需要に基づいて、将来への投資といった経営判断を下し、生産設備への拡大投資を決定する。このとき、1社が生産設備の拡大を行うだけでなく、ほとんど全てのメモリメーカーが生産設備を拡大するので、生産ラインが完成して量産に移行する頃には需要拡大は既に終わっており、各社の生み出す大量のメモリ製品がほとんど同時期に市場にあふれて価格は暴落する。こういったサイクルを過去に数回繰り返してきたため、日本の総合家電メーカーのように多くの企業は、度々訪れる莫大な赤字に耐え切れず半導体ビジネスから撤退していった。このような経緯から、1990年代中期以降、生き残ったDRAMメーカー各社は、過去の失敗を参考に、将来の需要予測に対して細心の注意を払いながら設備投資を行い、かつ価格操作や供給コントロールを行うことで、シリコンサイクルが起こらないように努めてきた。
=== 価格低迷と大幅赤字 ===
2000年代中盤には[[サムスン電子|Samsung]]、[[SKハイニックス|Hynix]]、[[キマンダ|Qimonda]]、[[エルピーダメモリ|エルピーダ]]、[[マイクロン・テクノロジ|Micron]]の大手5社で業界を寡占するようになっていた。2006年末頃、(DRAM価格操作談合事件による苦境、および規格の主流がDDR2からDDR3へ思うように移行せず依然として従来型製品のコストダウンを中心とした低収益に喘いでいた)DRAMメーカー各社は、2007年初頭に販売される[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]の登場によってPC需要が大幅に拡大するだろうと予測し、各社生き残りを賭けて我先にと一斉に生産量を増やした(この独断専行とも思える各社なりふり構わぬ増産体制は、2004年に発覚したDRAM価格操作談合事件の余波で、各社横との連絡が完全に断たれ、これまでのように大手DRAMメーカー主導による共同歩調体制が全く取れず各社疑心暗鬼になっていたことも多分に影響している)。しかしこの増産は完全に裏目に出てしまい、需給バランスが大きく崩れDRAMでのシリコンサイクルを発生させてしまうこととなった。今回のシリコンサイクルは、Windows Vistaの予想外の販売不振(Windows XPに取って代わる存在になれなかった)、[[リーマン・ショック|米国発の金融不況]]による大幅な消費減、NANDフラッシュ・メモリの生産との関連、等が同時期に運悪く重なり合ってしまったことが原因と云われている。DRAM価格は、2006年末から2007年中頃までと2008年中頃から2008年末までの2年程で20分の1以下<ref group="注">512Mビット(64M語×8、DDR2 667Mビット/秒)製品の価格が2006年11月は6.5米ドルだったものが2008年12月8日0.31米ドルまで低下した。</ref>にまで値下がりした。
DRAMの価格は主力の1Gbit品では2007年の1年間に80%程も低下し、全てのDRAMメーカーが大幅な赤字となった。2008年第算四半期の決算でもDRAM最大手のSamsung社以外の各社は大幅な赤字を記録し<ref group="注">2008年第算四半期の決算では、Samsung社が前年同期比約78%減ながら1,900億ウォンの営業利益を、Hynix社が4,650億ウォンの、エルピーダメモリ社が245億円の営業損失を報告した。</ref><ref>『負の連鎖から脱出せよ』 日経エレクトロニクス 2009年1月12日号 37-69頁</ref>、2009年1月23日には大手5社の一角である[[キマンダ|独キマンダ社]]は破産し消滅する事態にまで追い込まれた<ref>[http://www.jetro.go.jp/world/europe/de/biznews/4986612387410 JETROニュースページ 『半導体大手キマンダが倒産−1万人の雇用に影響か−(ドイツ)』]</ref>。
[[ファイル:世界のDRAMシェア 2008Q1.PNG|thumb|300px|right|世界のDRAMシェア 2008年第1四半期<br/>グループ別に色分けした。]]
[[File:World DRAM market share 2009Q3.PNG|thumb|220px|right|世界のDRAMシェア 2009年第3四半期]]
下がり続けていたDRAMの世界市場規模は、2009年にようやく回復した<ref>[http://www.computerworld.jp/topics/634/IT%E6%A5%AD%E7%95%8C%E5%8B%95%E5%90%91/165789/DRAM%E5%B8%82%E5%A0%B4%E3%81%8C%E5%9B%9E%E5%BE%A9%E3%81%B8%E2%80%95%E2%80%95%E5%A3%B2%E4%B8%8A%E9%AB%98%E3%81%AE%E4%BC%B8%E3%81%B3%E7%8E%87%E3%81%8C5%E5%B9%B4%E3%81%B6%E3%82%8A%E3%81%AE%E9%AB%98%E6%B0%B4%E6%BA%96 computerworld]</ref>。しかし、その後もDRAM価格の下落は止まらなかった。サムスンは、2011年度に唯一黒字を達成したメーカーであるが、それでもDRAMで大きな利益を得ておらず、フラッシュメモリで収益を確保している。大手各社とも、大幅な赤字を計上しながらもシェアを確保するためにDRAMを生産し続けざるを得ない[[チキンゲーム]]と化している。
=== 業界再編 ===
キマンダの破産以降は、大手による市場での寡占がより進んだ。微細化に伴い、露光装置の導入費用がさらに高くなるため、資金面での競争力の差が顕著になり、2009年から2013年頃にかけてDRAM業界の世界的な再編が行われた。
キマンダの消滅後、台湾5メーカー(Inotera、Nanya、Powerchip、ProMOS、Winbond)のうち[[南亜|Nanya]]がシェアを伸ばし、業界第5位となった。業界第4位のMicronは2008年にNanya及びInoteraと提携を結んだ。Nanyaは2012年8月に汎用DRAMから撤退した。ProMOSも[[グローバル・ファウンドリーズ]]に買収されるなど、台湾5メーカーは汎用DRAMから撤退、または大手メーカーに吸収された。
かつての大手5社の中では、キマンダに続いてエルピーダも、2009年6月30日より産業活力再生特別措置法に基づいて再建を行っていた<ref>{{Cite web|和書|date=2009-06-30|url=http://www.elpida.com/pdfs/pr/2009-06-30aj.pdf|title=エルピーダメモリ産業活力の再生及び産業活動の革新に関する特別措置法の認定取得に関するお知らせ|format=PDF|publisher=エルピーダメモリ株式会社|accessdate=2011-02-12}}</ref>が2012年2月についに力尽き会社更生法適用を申請し破綻<ref>[http://sankei.jp.msn.com/economy/news/120227/biz12022716260006-n1.htm エルピーダが経営破綻 会社更生法の適用申請へ - MSN産経ニュース]</ref>、2013年7月にMicronの子会社となった<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/609834.html Micron、エルピーダメモリの買収を完了 - PC Watch]</ref>。同時にエルピーダ傘下の台湾RexchipもMicron傘下に入った。業界第4位だったMicronは、業界第3位のエルピーダの買収の結果、業界第2位のHynixを抜いて新たに業界第2位となった。
こうして、2013年には業界はSamsung、Micron、Hynixの大手3社体制となった。Hynixは、2011年以来、大規模な赤字に苦しんでいたが、エルピーダ破綻後の2013年第2四半期には営業利益が1兆ウォンを超え、チキンゲームは終了したと報道された<ref>[http://japanese.joins.com/article/350/174350.html チキンゲーム勝者の笑顏…SKハイニックス、営業利益1兆ウォンの新記録 | Joongang Ilbo | 中央日報]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|2|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[メモリ・リフレッシュ]]
{{DRAM}}
{{半導体メモリ}}
{{Normdaten}}
[[Category:半導体メモリ|たいなみつくあくせすめもり]]
{{DEFAULTSORT:たいなみつくらんたむあくせすめもり}}
[[el:Μνήμη τυχαίας προσπέλασης#Τύποι μνήμης RAM]] | 2003-03-08T03:11:39Z | 2023-12-14T13:51:01Z | false | false | false | [
"Template:要出典",
"Template:Main",
"Template:Reflist",
"Template:DRAM",
"Template:半導体メモリ",
"Template:Nowrap",
"Template:仮リンク",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Dynamic_Random_Access_Memory |
3,655 | SRAM | SRAMとは、 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "SRAMとは、",
"title": null
}
] | SRAMとは、 Static RAM - 半導体メモリの一分類。
SRAM (自転車メーカー) - アメリカ・シカゴに本拠を置く自転車部品メーカー。
SRAM (ミサイル) - 空対地ミサイルの一種で、爆撃機から発射される核ミサイル。
AGM-131 (ミサイル) - 上記の後継として開発されていたミサイル。1991年開発中止。
福岡のアイドルグループ、LinQの派生ユニット。 | '''SRAM'''とは、
* [[Static Random Access Memory|Static RAM]] - 半導体メモリの一分類。
* [[SRAM (自転車メーカー)]] - アメリカ・シカゴに本拠を置く自転車部品メーカー。
* [[SRAM (ミサイル)]] (AGM-69 '''S'''hort-'''R'''ange '''A'''ttack '''M'''issile) - 空対地ミサイルの一種で、爆撃機から発射される核ミサイル。
** [[AGM-131 (ミサイル)]] (AGM-131 SRAM II) - 上記の後継として開発されていたミサイル。1991年開発中止。
*福岡のアイドルグループ、[[LinQ]]の派生ユニット。
{{aimai}} | null | 2017-10-16T07:43:36Z | true | false | false | [
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/SRAM |
3,656 | Static Random Access Memory | Static RAM・SRAM(スタティックラム・エスラム)は、半導体メモリの一種である。DRAM(ダイナミック(動的)RAM)に対して、「スタティック(静的)な回路方式により情報を記憶するもの」であることからその名がある。詳しくは概要を参照。
読み書き可能という意味で慣用的に名前にRAM(ランダムアクセスメモリ、Random Access Memory)が入っているが、厳密には本来の意味とは異なるため、当該項目を参照されたい。これはDRAMも同様である。
SRAMは内部構造的に記憶部にフリップフロップ回路を用いているため、ダイナミックRAM(DRAM)と比較して、下記の特徴がある。
なお、現在では従来のDRAMの記憶セルを用いながら、消費電力を低減してSRAMと同じインターフェースを持つ疑似SRAMもある。
SRAM内の各ビットは4つのトランジスタで構成される2つの交差接続されたインバータに格納される。その記憶セルは2つの安定状態があり、それぞれを 0 と 1 に対応させる。さらに読み出しと書き込みアクセスのために2つのトランジスタを必要とする。したがって、典型的なSRAMでは1ビットを格納するのに6個のMOSFET(6T)を使用する。
他にも8Tや10Tで記憶セルを構成するものもあるが、これは読み書きポートを複数実装する(マルチポート型SRAM回路)ために使われる。これは、ある種のビデオメモリやレジスタファイルなどに使われる。
一般的に、セル当たりのトランジスタ数が少ないほど個々のセルを小さくできる。シリコンウェハーの製造コストは比較的一定であるため、セルが小さくなれば単位面積により多くのビットを格納でき、メモリのビット当たりのコストも低減される。
6Tよりも少ないトランジスタ数で記憶セルを構成することも可能だが、そのような3Tや1Tのセルは実際にはDRAMであり、SRAMではない。例えば1T-SRAMと呼ばれるものがある。
セルへのアクセスは、ワード線(図ではWL)でイネーブルとなり、それによって2つのアクセス用トランジスタ M5 と M6 を制御し、次いでセル本体をビット線(図ではBLとBL)に接続すべきか否かを制御する。ビット線は読み取り操作と書き込み操作でのデータ転送に使われる。厳密にはビット線を2本持つ必要はないが、その信号と反転信号を同時に提供することでノイズマージンを改善している。
読み取りアクセスでは、SRAMのセルが能動的にビット線を High または Low に駆動する。それに対して、DRAMでは、ビット線がコンデンサと繋がっており、電荷共有(charge sharing)によって、ビット線がHighまたはLowとなるまでに少し時間がかかる。そのため、SRAMの方が帯域幅が大きくなる。SRAMのセルは対称形となっているため、差動信号処理が可能であり、小さな電圧の変化を容易に検出できる。また、DRAMと比べて、SRAMが高速動作できる他の要因として、商用のSRAMチップがアドレスを表す全ビットを同時に受け付けるという点も挙げられる。DRAMは、ピン数を減らして小型大容量化するためにアドレスビットが多重化されており、一度に全アドレスビットを受け付けられない。
アドレス線が m 本でデータ線が n 本のSRAMの大きさは、2 ワード または 2 × n ビットである。
SRAMセルは3種類の異なる状態をとりうる。回路が何もしていない「スタンバイ」モード、データの読み取り要求に対応する「読み取り」モード、内容の更新をする際の「書き込み」モードである。読み取りモードと書き込みモードのSRAMはそれぞれ「読み取り可能性 (readability)」と「書き込み安定性 (write stability)」がなけれはならない。ここではそれら3つの状態を解説する。
ワード線がアサートされていないとき、アクセス用トランジスタ M5 と M6 がセル本体とビット線を切り離した状態となっている。交差接続された2つのインバータ(M1 から M4 で構成)はその間、状態を保持し続ける。
図のQに格納されているセルの内容が 1 だとする。読み取りサイクルでは両方のビット線が 1 に事前充電され、次いでワード線 WL をアサートすることで両方のアクセス用トランジスタをイネーブル状態とする。次にQとQに保持されている値がビット線に転送される。Qが 1 なので、BLは事前充電された値のままとなり、BLはM1とM5を通して 0 に放電される。BLの側ではトランジスタM4とM6がビット線をVDDすなわち 1 にする。メモリ内容が 0 だった場合、逆のことが起こり、BLが 1 となり、BLが 0 となる。BLとBLの電位差は小さくても、センスアンプがそれらの線のうちどちらの電位が高いかを判別し、格納されているメモリの値が 1 なのか 0 なのかを決定する。センスアンプの感度が高いほど、読み取り操作の速度が速くなる。
書き込みサイクルは、まず書き込むべき値をビット線に印加することで始まる。0 を書き込みたい場合、ビット線には 0 を入力する。つまり、BLを 1、BLを 0 とする。これはRS型フリップフロップにリセットパルスを与えるのと同じであり、それによってフリップは状態を変化させる。ビット線に与える入力を逆転させると 1 が書き込まれる。次にWLをアサートすると、格納すべき値がラッチされる。これがうまく機能するには、ビット線の入力ドライバが相対的に弱いセル内のトランジスタよりも強く、交差接続されたインバータの状態を上書きできるよう設計する必要がある。SRAMセル内のトランジスタの大きさは慎重に決定する必要があり、それによって正しい動作を保証する。
アクセス時間が70nsとされるメモリは、アドレス線群に正しいアドレス信号が送られてから70ナノ秒以内に対応するデータが出力される。しかし、データはある時間(5nsから10ns)だけ保持され続ける。また信号の0と1の間での遷移に要する時間も考慮する必要があり、約5nsと見積もられる。アドレスの下位ビットを順次変えながらある範囲のメモリを読み取る場合、アクセス時間はもっと短くなる(30nsなど)。
DRAMと比べて下記の特徴と用途が見られる。
SRAMの電力消費は、どの程度頻繁にアクセスされるかに依存する。頻繁にアクセスされる用途ではDRAMと同程度に電力を消費し、一部のICは最大帯域幅で使用すると何ワットも消費する。一方でアクセス頻度が小さい場合、例えばやや低いクロック周波数で駆動したマイクロプロセッサで利用する場合などは極めて消費電力が低くなり、アクセスがないアイドル状態ではほとんど無視できる程度の電力消費(数マイクロワット)となる。
そのため、電池交換中程度の短時間の電源喪失であれば比較的大容量のキャパシタで駆動できる。
また、保存性のよい小さな電池を内蔵あるいは外部に配置することで不揮発メモリ(NVRAM, コンピュータの時計やBIOS設定情報の保持など)のようにも利用できる(バッテリーバックアップ機能)。フラッシュメモリが一般化する以前には、ゲーム機などのカートリッジ内のセーブデータ用に多用された。
SRAMには主に次のようなものがある。
プログラマブルロジックデバイスへの応用は、SRAMの高速動作を利用したものであり、記憶セルの状態によってマトリクス状の配線を接続・切断することにより、ゲートアレイとして機能させる。プログラマブルロジックデバイスの一種であるFPGAは、配線だけでなく論理セルの構造もSRAMによるLUT(ルックアップテーブル)で構成されているものもある。
産業システム、科学技術システム、自動車の車載エレクトロニクスなどによく遣われている。最近の電子機器や電子玩具には、ある程度の量(数KBかそれ以下)のSRAMがほとんど必ず搭載されている。デジタルカメラや携帯電話、シンセサイザーなどの複雑な製品には数MBのSRAMが搭載されている。
デュアルポート型のSRAMは、リアルタイム方式のデジタル信号処理回路に使われることもある。
SRAMは、パーソナルコンピュータ、ワークステーション、ルーター、その他周辺機器にも使われている。CPU内蔵のキャッシュメモリ、外付けのバーストモードのSRAMキャッシュ、ハードディスクドライブのバッファ、ルーターのバッファなどである。液晶ディスプレイやプリンターも表示(印刷)する画像を保持するのにSRAMを使っていることが多い。CD-ROMドライブやCD-RWドライブでも256KB程度のバッファをSRAMで構成しており、ブロック単位でデータをバッファリングするのに使っている。同様にケーブルモデムなどの機器もSRAMをバッファとして使っている。
インタフェースが単純ということで趣味でデジタル回路を作る際にはSRAMが好まれることが多い。DRAMに比べてリフレッシュサイクルがなく、アドレスバスとデータバスを多重化せずに直接アクセスでき、回路設計が単純である。バスや電源供給以外にSRAMが必要とする制御は Chip Enable (CE)、Write Enable (WE)、Output Enable (OE) の3種類だけである。同期SRAMでは Clock (CLK) も必要となる。
nvSRAMはSRAMを内蔵しているが、主電源が切れた状態でも重要なデータを保持することができる不揮発性メモリである。nvSRAMの用途は幅広く、ネットワーク、航空宇宙、医療などで利用されている。電池を内蔵する方式のBBSRAM (Battery Backup SRAM) もnvSRAMと呼ばれることがあるが、大容量コンデンサと不揮発性メモリセルを内蔵していて、主電源が切れるとコンデンサに蓄えた電力を使って自動的にSRAMから不揮発性メモリにデータを転送して保持する方式のnvSRAMもある。
非同期SRAMは4Kbから32Mbのものがある。アクセス速度が高速であるため、キャッシュを持たない組み込みプロセッサの主記憶装置としてよく使われており、パワーエレクトロニクスなどの制御装置(自動車の車載エレクトロニクスなど)、計測システム(ICテスタ)、ハードディスクドライブ、ネットワーク機器(スイッチ、ルーター、IP電話、DSLAM)など様々な機器に使われている。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "Static RAM・SRAM(スタティックラム・エスラム)は、半導体メモリの一種である。DRAM(ダイナミック(動的)RAM)に対して、「スタティック(静的)な回路方式により情報を記憶するもの」であることからその名がある。詳しくは概要を参照。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "読み書き可能という意味で慣用的に名前にRAM(ランダムアクセスメモリ、Random Access Memory)が入っているが、厳密には本来の意味とは異なるため、当該項目を参照されたい。これはDRAMも同様である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "SRAMは内部構造的に記憶部にフリップフロップ回路を用いているため、ダイナミックRAM(DRAM)と比較して、下記の特徴がある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "なお、現在では従来のDRAMの記憶セルを用いながら、消費電力を低減してSRAMと同じインターフェースを持つ疑似SRAMもある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "SRAM内の各ビットは4つのトランジスタで構成される2つの交差接続されたインバータに格納される。その記憶セルは2つの安定状態があり、それぞれを 0 と 1 に対応させる。さらに読み出しと書き込みアクセスのために2つのトランジスタを必要とする。したがって、典型的なSRAMでは1ビットを格納するのに6個のMOSFET(6T)を使用する。",
"title": "設計"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "他にも8Tや10Tで記憶セルを構成するものもあるが、これは読み書きポートを複数実装する(マルチポート型SRAM回路)ために使われる。これは、ある種のビデオメモリやレジスタファイルなどに使われる。",
"title": "設計"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "一般的に、セル当たりのトランジスタ数が少ないほど個々のセルを小さくできる。シリコンウェハーの製造コストは比較的一定であるため、セルが小さくなれば単位面積により多くのビットを格納でき、メモリのビット当たりのコストも低減される。",
"title": "設計"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "6Tよりも少ないトランジスタ数で記憶セルを構成することも可能だが、そのような3Tや1Tのセルは実際にはDRAMであり、SRAMではない。例えば1T-SRAMと呼ばれるものがある。",
"title": "設計"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "セルへのアクセスは、ワード線(図ではWL)でイネーブルとなり、それによって2つのアクセス用トランジスタ M5 と M6 を制御し、次いでセル本体をビット線(図ではBLとBL)に接続すべきか否かを制御する。ビット線は読み取り操作と書き込み操作でのデータ転送に使われる。厳密にはビット線を2本持つ必要はないが、その信号と反転信号を同時に提供することでノイズマージンを改善している。",
"title": "設計"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "読み取りアクセスでは、SRAMのセルが能動的にビット線を High または Low に駆動する。それに対して、DRAMでは、ビット線がコンデンサと繋がっており、電荷共有(charge sharing)によって、ビット線がHighまたはLowとなるまでに少し時間がかかる。そのため、SRAMの方が帯域幅が大きくなる。SRAMのセルは対称形となっているため、差動信号処理が可能であり、小さな電圧の変化を容易に検出できる。また、DRAMと比べて、SRAMが高速動作できる他の要因として、商用のSRAMチップがアドレスを表す全ビットを同時に受け付けるという点も挙げられる。DRAMは、ピン数を減らして小型大容量化するためにアドレスビットが多重化されており、一度に全アドレスビットを受け付けられない。",
"title": "設計"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "アドレス線が m 本でデータ線が n 本のSRAMの大きさは、2 ワード または 2 × n ビットである。",
"title": "設計"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "SRAMセルは3種類の異なる状態をとりうる。回路が何もしていない「スタンバイ」モード、データの読み取り要求に対応する「読み取り」モード、内容の更新をする際の「書き込み」モードである。読み取りモードと書き込みモードのSRAMはそれぞれ「読み取り可能性 (readability)」と「書き込み安定性 (write stability)」がなけれはならない。ここではそれら3つの状態を解説する。",
"title": "SRAM の動き"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "ワード線がアサートされていないとき、アクセス用トランジスタ M5 と M6 がセル本体とビット線を切り離した状態となっている。交差接続された2つのインバータ(M1 から M4 で構成)はその間、状態を保持し続ける。",
"title": "SRAM の動き"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "図のQに格納されているセルの内容が 1 だとする。読み取りサイクルでは両方のビット線が 1 に事前充電され、次いでワード線 WL をアサートすることで両方のアクセス用トランジスタをイネーブル状態とする。次にQとQに保持されている値がビット線に転送される。Qが 1 なので、BLは事前充電された値のままとなり、BLはM1とM5を通して 0 に放電される。BLの側ではトランジスタM4とM6がビット線をVDDすなわち 1 にする。メモリ内容が 0 だった場合、逆のことが起こり、BLが 1 となり、BLが 0 となる。BLとBLの電位差は小さくても、センスアンプがそれらの線のうちどちらの電位が高いかを判別し、格納されているメモリの値が 1 なのか 0 なのかを決定する。センスアンプの感度が高いほど、読み取り操作の速度が速くなる。",
"title": "SRAM の動き"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "書き込みサイクルは、まず書き込むべき値をビット線に印加することで始まる。0 を書き込みたい場合、ビット線には 0 を入力する。つまり、BLを 1、BLを 0 とする。これはRS型フリップフロップにリセットパルスを与えるのと同じであり、それによってフリップは状態を変化させる。ビット線に与える入力を逆転させると 1 が書き込まれる。次にWLをアサートすると、格納すべき値がラッチされる。これがうまく機能するには、ビット線の入力ドライバが相対的に弱いセル内のトランジスタよりも強く、交差接続されたインバータの状態を上書きできるよう設計する必要がある。SRAMセル内のトランジスタの大きさは慎重に決定する必要があり、それによって正しい動作を保証する。",
"title": "SRAM の動き"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "アクセス時間が70nsとされるメモリは、アドレス線群に正しいアドレス信号が送られてから70ナノ秒以内に対応するデータが出力される。しかし、データはある時間(5nsから10ns)だけ保持され続ける。また信号の0と1の間での遷移に要する時間も考慮する必要があり、約5nsと見積もられる。アドレスの下位ビットを順次変えながらある範囲のメモリを読み取る場合、アクセス時間はもっと短くなる(30nsなど)。",
"title": "SRAM の動き"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "DRAMと比べて下記の特徴と用途が見られる。",
"title": "用途・用例"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "SRAMの電力消費は、どの程度頻繁にアクセスされるかに依存する。頻繁にアクセスされる用途ではDRAMと同程度に電力を消費し、一部のICは最大帯域幅で使用すると何ワットも消費する。一方でアクセス頻度が小さい場合、例えばやや低いクロック周波数で駆動したマイクロプロセッサで利用する場合などは極めて消費電力が低くなり、アクセスがないアイドル状態ではほとんど無視できる程度の電力消費(数マイクロワット)となる。",
"title": "用途・用例"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "そのため、電池交換中程度の短時間の電源喪失であれば比較的大容量のキャパシタで駆動できる。",
"title": "用途・用例"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また、保存性のよい小さな電池を内蔵あるいは外部に配置することで不揮発メモリ(NVRAM, コンピュータの時計やBIOS設定情報の保持など)のようにも利用できる(バッテリーバックアップ機能)。フラッシュメモリが一般化する以前には、ゲーム機などのカートリッジ内のセーブデータ用に多用された。",
"title": "用途・用例"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "SRAMには主に次のようなものがある。",
"title": "用途・用例"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "プログラマブルロジックデバイスへの応用は、SRAMの高速動作を利用したものであり、記憶セルの状態によってマトリクス状の配線を接続・切断することにより、ゲートアレイとして機能させる。プログラマブルロジックデバイスの一種であるFPGAは、配線だけでなく論理セルの構造もSRAMによるLUT(ルックアップテーブル)で構成されているものもある。",
"title": "用途・用例"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "産業システム、科学技術システム、自動車の車載エレクトロニクスなどによく遣われている。最近の電子機器や電子玩具には、ある程度の量(数KBかそれ以下)のSRAMがほとんど必ず搭載されている。デジタルカメラや携帯電話、シンセサイザーなどの複雑な製品には数MBのSRAMが搭載されている。",
"title": "用途・用例"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "デュアルポート型のSRAMは、リアルタイム方式のデジタル信号処理回路に使われることもある。",
"title": "用途・用例"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "SRAMは、パーソナルコンピュータ、ワークステーション、ルーター、その他周辺機器にも使われている。CPU内蔵のキャッシュメモリ、外付けのバーストモードのSRAMキャッシュ、ハードディスクドライブのバッファ、ルーターのバッファなどである。液晶ディスプレイやプリンターも表示(印刷)する画像を保持するのにSRAMを使っていることが多い。CD-ROMドライブやCD-RWドライブでも256KB程度のバッファをSRAMで構成しており、ブロック単位でデータをバッファリングするのに使っている。同様にケーブルモデムなどの機器もSRAMをバッファとして使っている。",
"title": "用途・用例"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "インタフェースが単純ということで趣味でデジタル回路を作る際にはSRAMが好まれることが多い。DRAMに比べてリフレッシュサイクルがなく、アドレスバスとデータバスを多重化せずに直接アクセスでき、回路設計が単純である。バスや電源供給以外にSRAMが必要とする制御は Chip Enable (CE)、Write Enable (WE)、Output Enable (OE) の3種類だけである。同期SRAMでは Clock (CLK) も必要となる。",
"title": "用途・用例"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "nvSRAMはSRAMを内蔵しているが、主電源が切れた状態でも重要なデータを保持することができる不揮発性メモリである。nvSRAMの用途は幅広く、ネットワーク、航空宇宙、医療などで利用されている。電池を内蔵する方式のBBSRAM (Battery Backup SRAM) もnvSRAMと呼ばれることがあるが、大容量コンデンサと不揮発性メモリセルを内蔵していて、主電源が切れるとコンデンサに蓄えた電力を使って自動的にSRAMから不揮発性メモリにデータを転送して保持する方式のnvSRAMもある。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "非同期SRAMは4Kbから32Mbのものがある。アクセス速度が高速であるため、キャッシュを持たない組み込みプロセッサの主記憶装置としてよく使われており、パワーエレクトロニクスなどの制御装置(自動車の車載エレクトロニクスなど)、計測システム(ICテスタ)、ハードディスクドライブ、ネットワーク機器(スイッチ、ルーター、IP電話、DSLAM)など様々な機器に使われている。",
"title": "種類"
}
] | Static RAM・SRAM(スタティックラム・エスラム)は、半導体メモリの一種である。DRAM(ダイナミックRAM)に対して、「スタティック(静的)な回路方式により情報を記憶するもの」であることからその名がある。詳しくは概要を参照。 読み書き可能という意味で慣用的に名前にRAMが入っているが、厳密には本来の意味とは異なるため、当該項目を参照されたい。これはDRAMも同様である。 | {{出典の明記|date=2021年12月}}[[ファイル:Hyundai RAM HY6116AP-10.jpg|thumb|[[Nintendo Entertainment System|NES]]クローンに使われていた2K×8ビットSRAM]]
'''Static RAM'''・'''SRAM'''(スタティックラム・エスラム)は、[[半導体メモリ]]の一種である。[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]](ダイナミック(動的)RAM)に対して、「スタティック(静的)な回路方式により情報を記憶するもの」であることからその名がある。詳しくは概要を参照。
読み書き可能という意味で慣用的に名前にRAM(ランダムアクセスメモリ、[[Random Access Memory]])が入っているが、厳密には本来の意味とは異なるため、当該項目を参照されたい。これはDRAMも同様である。
== 概要 ==
SRAMは<!--は、DRAMが比較的短い時間<ref>長くても1秒〜10秒、通常は確実さのために、もっと短い間隔でリフレッシュ動作が必要</ref>で漏れ電流などにより電荷が失われる、[[集積回路]]中の素子の寄生容量を利用するという「ダイナミック」な方式であるのに対し、-->内部構造的に記憶部に[[フリップフロップ回路]]を用いているため、[[Dynamic Random Access Memory|ダイナミックRAM]](DRAM)と比較して、下記の特徴がある。
* 定期的なリフレッシュ(回復動作)が不要
* 内部構造が複雑であるため、高密度に実装できず、大容量メモリには向かないため、記憶容量あたりの単価が高い
* 高速な情報の出し入れが可能
* アイドル状態では低[[消費電力]]
* 制御が容易(インタフェースが単純)で、より真の「ランダムアクセス性」があると言える
* 「データ残留現象」といった性質<ref name="skorobogatov">{{cite paper|author=Sergei Skorobogatov|date=June 2002|title=Low temperature data remanence in static RAM|url=http://www.cl.cam.ac.uk/techreports/UCAM-CL-TR-536.html|publisher=University of Cambridge, Computer Laboratory|accessdate=2008-02-27}}</ref>が無いわけでもないが、基本的に[[電力]]の供給がなくなると記憶内容が失われる[[揮発性メモリ]](volatile memory)である
なお、現在では従来のDRAMの記憶セルを用いながら、消費電力を低減してSRAMと同じインターフェースを持つ[[疑似SRAM]]もある。
== 設計 ==
[[ファイル:SRAM Cell (6 Transistors).svg|thumb|200px|left|[[電界効果トランジスタ|FET]]6個で構成される CMOS SRAM セル]]
SRAM内の各[[ビット]]は4つの[[トランジスタ]]で構成される2つの交差接続された[[NOTゲート|インバータ]]に格納される。その記憶セルは2つの安定状態があり、それぞれを '''0''' と '''1''' に対応させる。さらに読み出しと書き込みアクセスのために2つのトランジスタを必要とする。したがって、典型的なSRAMでは1ビットを格納するのに6個の[[MOSFET]](6T)を使用する。
他にも8Tや10Tで記憶セルを構成するものもあるが<ref>[http://ieeexplore.ieee.org/Xplore/login.jsp?url=/iel5/4/4317684/04317699.pdf?arnumber=4317699 A 160 mV Robust Schmitt Trigger Based Subthreshold SRAM]</ref><ref>United States Patent 6975532: [http://www.freepatentsonline.com/6975532.html Quasi-static random access memory]</ref>、これは読み書きポートを複数実装する(マルチポート型SRAM回路)ために使われる。これは、ある種のビデオメモリや[[レジスタファイル]]などに使われる。
一般的に、セル当たりのトランジスタ数が少ないほど個々のセルを小さくできる。シリコンウェハーの製造コストは比較的一定であるため、セルが小さくなれば単位面積により多くのビットを格納でき、メモリのビット当たりのコストも低減される。
6Tよりも少ないトランジスタ数で記憶セルを構成することも可能だが、そのような3T<ref>United States Patent 6975531: [http://www.freepatentsonline.com/6975531.html 6F2 3-transistor DRAM gain cell]</ref><ref>[http://www.tezzaron.com/technology/3T-iRAM.htm 3T-iRAM(r) Technology]</ref>や1Tのセルは実際には[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]であり、SRAMではない。例えば[[1T-SRAM]]と呼ばれるものがある。
セルへのアクセスは、ワード線(図ではWL)でイネーブルとなり、それによって2つのアクセス用トランジスタ M<sub>5</sub> と M<sub>6</sub> を制御し、次いでセル本体をビット線(図では<span style="text-decoration: overline;">BL</span>とBL)に接続すべきか否かを制御する。ビット線は読み取り操作と書き込み操作でのデータ転送に使われる。厳密にはビット線を2本持つ必要はないが、その信号と反転信号を同時に提供することで[[ノイズマージン]]を改善している。
読み取りアクセスでは、SRAMのセルが能動的にビット線を High または Low に駆動する。それに対して、[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]では、ビット線がコンデンサと繋がっており、電荷共有([[:en:charge sharing|charge sharing]])によって、ビット線がHighまたはLowとなるまでに少し時間がかかる。そのため、SRAMの方が帯域幅が大きくなる。SRAMのセルは対称形となっているため、[[差動信号]]処理が可能であり、小さな電圧の変化を容易に検出できる。また、DRAMと比べて、SRAMが高速動作できる他の要因として、商用のSRAMチップがアドレスを表す全ビットを同時に受け付けるという点も挙げられる。DRAMは、ピン数を減らして小型大容量化するためにアドレスビットが多重化されており、一度に全アドレスビットを受け付けられない。
アドレス線が ''m'' 本でデータ線が ''n'' 本のSRAMの大きさは、2<sup>''m''</sup> ワード または 2<sup>''m''</sup> × ''n'' ビットである。
== SRAM の動き ==
SRAMセルは3種類の異なる状態をとりうる。回路が何もしていない「スタンバイ」モード、データの読み取り要求に対応する「読み取り」モード、内容の更新をする際の「書き込み」モードである。読み取りモードと書き込みモードのSRAMはそれぞれ「読み取り可能性 (readability)」と「書き込み安定性 (write stability)」がなけれはならない。ここではそれら3つの状態を解説する。
=== スタンバイ ===
ワード線がアサートされていないとき、アクセス用トランジスタ M<sub>5</sub> と M<sub>6</sub> がセル本体とビット線を切り離した状態となっている。交差接続された2つのインバータ(M<sub>1</sub> から M<sub>4</sub> で構成)はその間、状態を保持し続ける。
=== 読み取り ===
図のQに格納されているセルの内容が '''1''' だとする。読み取りサイクルでは両方のビット線が '''1''' に事前充電され、次いでワード線 WL をアサートすることで両方のアクセス用トランジスタをイネーブル状態とする。次にQと<span style="text-decoration: overline;">Q</span>に保持されている値がビット線に転送される。Qが '''1''' なので、BLは事前充電された値のままとなり、<span style="text-decoration: overline;">BL</span>はM<sub>1</sub>とM<sub>5</sub>を通して '''0''' に放電される。BLの側ではトランジスタM<sub>4</sub>とM<sub>6</sub>がビット線をV<sub>DD</sub>すなわち '''1''' にする。メモリ内容が '''0''' だった場合、逆のことが起こり、<span style="text-decoration: overline;">BL</span>が '''1''' となり、BLが '''0''' となる。BLと<span style="text-decoration: overline;">BL</span>の電位差は小さくても、センスアンプがそれらの線のうちどちらの電位が高いかを判別し、格納されているメモリの値が '''1''' なのか '''0''' なのかを決定する。センスアンプの感度が高いほど、読み取り操作の速度が速くなる。
=== 書き込み ===
書き込みサイクルは、まず書き込むべき値をビット線に印加することで始まる。'''0''' を書き込みたい場合、ビット線には '''0''' を入力する。つまり、<span style="text-decoration: overline;">BL</span>を '''1'''、BLを '''0''' とする。これは[[フリップフロップ|RS型フリップフロップ]]にリセットパルスを与えるのと同じであり、それによってフリップは状態を変化させる。ビット線に与える入力を逆転させると '''1''' が書き込まれる。次にWLをアサートすると、格納すべき値がラッチされる。これがうまく機能するには、ビット線の入力ドライバが相対的に弱いセル内のトランジスタよりも強く、交差接続されたインバータの状態を上書きできるよう設計する必要がある。SRAMセル内のトランジスタの大きさは慎重に決定する必要があり、それによって正しい動作を保証する。
=== バスの動き ===
アクセス時間が70nsとされるメモリは、アドレス線群に正しいアドレス信号が送られてから70ナノ秒以内に対応するデータが出力される。しかし、データはある時間(5nsから10ns)だけ保持され続ける。また信号の0と1の間での遷移に要する時間も考慮する必要があり、約5nsと見積もられる。アドレスの下位ビットを順次変えながらある範囲のメモリを読み取る場合、アクセス時間はもっと短くなる(30nsなど)。
== 用途・用例 ==
DRAMと比べて下記の特徴と用途が見られる。
* 内部構造が複雑であるため、DRAMほど高密度に実装できず、大容量メモリには向かないため、記憶容量あたりの単価が高く、比較的データ量の少ない用途によく用いられる。[[パーソナルコンピュータ]]の[[主記憶装置]]のような低コストが要求される用途には使われていない。
* 高速な情報の出し入れが可能な点を生かして[[キャッシュメモリ]]に用いられる。
=== クロック周波数と消費電力 ===
SRAMの[[電力]]消費は、どの程度頻繁にアクセスされるかに依存する。頻繁にアクセスされる用途ではDRAMと同程度に電力を消費し、一部の[[集積回路|IC]]は最大帯域幅で使用すると何[[ワット (単位)|ワット]]も消費する。一方でアクセス頻度が小さい場合、例えばやや低いクロック周波数で駆動した[[マイクロプロセッサ]]で利用する場合などは極めて消費電力が低くなり、アクセスがないアイドル状態ではほとんど無視できる程度の電力消費(数マイクロワット)となる<ref group="注">そのような動作モードを設計としてハードウェア的に持っている製品もある。</ref>。
そのため、電池交換中程度の短時間の電源喪失であれば比較的大容量の[[キャパシタ]]で駆動できる。
また、保存性のよい小さな電池を内蔵あるいは外部に配置することで[[不揮発メモリ]](NVRAM, コンピュータの[[時計]]や[[Basic Input/Output System|BIOS]]設定情報の保持など)のようにも利用できる([[バッテリーバックアップ]]機能)。フラッシュメモリが一般化する以前には、[[ゲーム機]]などのカートリッジ内のセーブデータ用に多用された。
SRAMには主に次のようなものがある。
* 汎用製品
** 「非同期」インタフェース。28ピンの32k×8ビットのチップ(XXC256 などの名称)や類似の製品。最大16Mビットのチップまである。
** 「同期」インタフェース。[[キャッシュメモリ]]などバースト転送を要求される用途で使用される。最大18Mビット(256k×72ビット)のチップまである。
* チップ上への統合
** RAMまたはキャッシュとして[[マイクロコントローラ]]に搭載(通常、32バイトから128[[キロバイト|KB]]の容量)
** 一次キャッシュとして[[x86]]ファミリーや他の高性能[[マイクロプロセッサ]]に搭載(8[[キロバイト|KB]]から数MB)
** マイクロプロセッサなどのレジスタの実装に使われている。[[レジスタファイル]]を参照。
** 特殊なICや[[ASIC]]に搭載(一般に数KBのオーダー)
** [[FPGA]]や[[CPLD]]などの[[プログラマブルロジックデバイス]]
[[プログラマブルロジックデバイス]]への応用は、SRAMの高速動作を利用したものであり、[[記憶セル]]の状態によってマトリクス状の配線を接続・切断することにより、[[ゲートアレイ]]として機能させる。プログラマブルロジックデバイスの一種である[[FPGA]]は、配線だけでなく論理セルの構造もSRAMによるLUT([[ルックアップテーブル]])で構成されているものもある。
=== 組み込み用途 ===
産業システム、科学技術システム、自動車の車載エレクトロニクスなどによく遣われている。最近の電子機器や電子玩具には、ある程度の量(数KBかそれ以下)のSRAMがほとんど必ず搭載されている。デジタルカメラや携帯電話、シンセサイザーなどの複雑な製品には数MBのSRAMが搭載されている。
デュアルポート型のSRAMは、リアルタイム方式の[[デジタル信号処理]][[電子回路|回路]]に使われることもある{{要出典|date=2010年11月}}。
=== コンピュータにおける用途 ===
SRAMは、パーソナルコンピュータ、ワークステーション、ルーター、その他周辺機器にも使われている。[[CPU]]内蔵の[[キャッシュメモリ]]、外付けのバーストモードのSRAMキャッシュ、[[ハードディスクドライブ]]のバッファ、[[ルーター]]のバッファなどである。[[液晶ディスプレイ]]や[[プリンター]]も表示(印刷)する画像を保持するのにSRAMを使っていることが多い。[[CD-ROM]]ドライブや[[CD-RW]]ドライブでも256KB程度のバッファをSRAMで構成しており、ブロック単位でデータをバッファリングするのに使っている。同様に[[ケーブルモデム]]などの機器もSRAMをバッファとして使っている{{要出典|date=2010年11月}}。
=== 趣味 ===
インタフェースが単純ということで趣味でデジタル回路を作る際にはSRAMが好まれることが多い。[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]に比べてリフレッシュサイクルがなく、アドレスバスとデータバスを[[多重化]]せずに直接アクセスでき、回路設計が単純である。バスや電源供給以外にSRAMが必要とする制御は Chip Enable (CE)、Write Enable (WE)、Output Enable (OE) の3種類だけである。同期SRAMでは Clock (CLK) も必要となる{{要出典|date=2010年11月}}。
== 種類 ==
=== nvSRAM ===
[[nvSRAM]]はSRAMを内蔵しているが、主電源が切れた状態でも重要なデータを保持することができる[[不揮発性メモリ]]である。nvSRAMの用途は幅広く、ネットワーク、航空宇宙、医療などで利用されている。電池を内蔵する方式のBBSRAM (Battery Backup SRAM) もnvSRAMと呼ばれることがあるが、大容量コンデンサと不揮発性メモリセルを内蔵していて、主電源が切れるとコンデンサに蓄えた電力を使って自動的にSRAMから不揮発性メモリにデータを転送して保持する方式のnvSRAMもある。
=== 非同期SRAM ===
非同期SRAMは4Kbから32Mbのものがある。アクセス速度が高速であるため、キャッシュを持たない組み込みプロセッサの[[主記憶装置]]としてよく使われており、[[パワーエレクトロニクス]]などの制御装置(自動車の車載エレクトロニクスなど)、計測システム(ICテスタ)、[[ハードディスクドライブ]]、ネットワーク機器(スイッチ、ルーター、IP電話、[[DSLAM]])など様々な機器に使われている。
=== トランジスタの種類による分類 ===
* [[バイポーラトランジスタ]] - [[Transistor-transistor logic|TTL]]や[[エミッタ結合論理|ECL]]で使用。非常に高速だが消費電力が大きい。
* [[MOSFET]] - [[CMOS]]で使用。低消費電力であり、今日の主流である。
=== 機能による分類 ===
* [[非同期]] - クロック信号とは独立しており、アドレスの変化によってデータの読み書きを制御する。
* [[同期]] - クロック信号の変わり目(エッジ)を全てのタイミングに使用する。アドレス、データ、その他の制御信号も全てクロックに同期している。
=== 特徴による分類 ===
* ZBT (zero bus turnaround) - ターンアラウンドとは、SRAMが「書き込み」から「読み取り」に遷移するときなどにかかるクロック数である。ZBT SRAMではこのターンアラウンドまたはレイテンシがゼロとなっている。
* syncBurst - 同期バースト書き込みアクセスが可能なSRAM。書き込み速度が向上する。
* DDR SRAM - 同期式、単一読み書きポートで、入出力がDDR(ダブルデータレート)となっているSRAM。
* QDR SRAM - 同期式、読み取りポートと書き込みポートが独立しており、入出力がQDR(クアドラプルデータレート)となっているSRAM。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ダイナミックランダムアクセスメモリ|ダイナミックランダムアクセスメモリ(DRAM)]]
* [[SRAMカード]]
* [[バッテリーバックアップ]]
* {{仮リンク|ソフトエラー|en|Soft error}}
{{半導体メモリ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:すたていつくらんたむあくせすめもり}}
[[Category:半導体メモリ]] | null | 2023-01-30T15:13:57Z | false | false | false | [
"Template:要出典",
"Template:Notelist2",
"Template:Reflist",
"Template:仮リンク",
"Template:半導体メモリ",
"Template:Normdaten",
"Template:出典の明記",
"Template:Cite paper",
"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Static_Random_Access_Memory |
3,658 | 私鉄 | 私鉄(してつ、Private railway)は、私企業のみにより運営が行われる鉄道や軌道、またはその事業者をさす言葉である。
今日のアメリカ合衆国における私鉄は、自動車と航空機の普及後も、長大編成の貨物列車が象徴するように貨物輸送において一定の規模と存在感を保っている。私鉄各社は収益に応じて一級▪二級▪三級に分類されており、それらがアメリカ本土に一大貨物鉄道網を形成している。
それに対し旅客輸送においては、同国の私鉄は一般客向けの定期旅客列車を運行していない。鉄道を所有する企業は社内の輸送システムとして使うだけである。 かつては中近距離旅客輸送を担ったインターアーバンと呼ばれる都市間電車を運転する企業が全米各地に存在したが、モータリゼーションの進展によりほとんどが撤退し、わずかに残ったものも公営化済みである。
日本統治下の私鉄路線は、韓国ではアメリカ占領時期に国有化された。これに伴い、朝鮮鉄道や京春鉄道などの路線が1946年5月7日国有化され、咸平軌道などの路面電車だけが私鉄として残された。その後、1960年代に路面電車が全廃され、韓国の鉄道は完全に国有のみとなった(その後、ソウル地下鉄1号線の開業などで、国有以外の公営鉄道も増えている)。
現在、韓国において「私鉄」とされる国有鉄道・公営鉄道以外の路線は、全羅南道和順郡の和順線や、慶尚北道浦項市のポスコ線といった専用鉄道のみとなっている。
なお2000年代に入り、空港鉄道やソウル市メトロ9号線、新盆唐線など、民間資本を取り入れた鉄道事業者が複数設立されている。ただし、路線運営のみを担う形であり、施設そのものは政府や自治体が保有する形態(上下分離方式)がとられているため、日本でいう「私鉄」とはやや異なる。
中国では2006年に羅定鐵路が競売で深圳市中技實業 (集團)有限公司に売却され、中国において最初で唯一の私鉄となっている。
1949年以降のドイツにおける私鉄は、Nichtbundeseigene Eisenbahn(連邦政府が所有しない鉄道)と呼ばれる。民間の投資家や地方公共団体が所有するものを指し、中には公営企業として運営されるものもある。監督官庁も連邦鉄道局(en)ではなく、州政府であることが多い。各社の運行範囲も様々で、ノルトヴェストバーンのように地域輸送を担う事業者もあれば、ロコモア(現・LEOエクスプレス)のように国際列車を運行する事業者もある。
本項目での「私鉄」は以下の「日本における定義」に従っている。
日本では、民営鉄道(みんえいてつどう、略称「民鉄」=みんてつ)とも呼称され、JRグループや第三セクター鉄道、場合によっては東京地下鉄などの鉄道や軌道を除く、いわゆる日本民営鉄道協会(民鉄協)に属する鉄道事業者を指すことがある。
1987年に日本国有鉄道(国鉄)が分割民営化されたことにより、すべてのJR各社もすでに組織形態は公社ではなく私企業(株式会社)となっている。JR貨物とJR北海道・JR四国が依然として全発行済み株式を鉄道建設・運輸施設整備支援機構に保有され旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律(JR会社法)による規制を受ける特殊会社である一方、JR東日本・JR西日本・JR東海(本州3社)とJR九州は、株式上場後民間保有の株式の割合が高くなったことから、JR会社法による規制から外れ、その後いずれも完全民営化がすでに完了したため、事実上民間の鉄道事業者であるといえる。
しかし、歴史的な経緯から、「私鉄」という場合、JR各社は含めないのが一般的である。これは、「私鉄」が「国鉄」の対義語であり、JRが日本国有鉄道改革法(国鉄改革法)で「国鉄」の事業を引き継いだ法人と位置づけられているからである。また、JR自体も「JR線」と「私鉄線」を別けて表示している。
完全民営化された本州3社が民鉄協に非加入で、JR各社の労働組合も、国鉄時代から活動している国鉄労働組合(国労)か国鉄動力車労働組合(動労)・鉄道労働組合(鉄労)などを前身とする全日本鉄道労働組合総連合会(JR総連)・日本鉄道労働組合連合会(JR連合)のいずれかに属し、この点でも日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)などに加入している組合が多い他の鉄道事業者とは一線を画する。ただし、少数派の組合である全国鉄動力車労働組合(全動労)はその後JR以外の組合と組織統合し、全日本建設交運一般労働組合(建交労)という上部団体を結成した。建交労には私鉄の組合も存在する。
一方、東京地下鉄は帝都高速度交通営団時代から民鉄協に加入し、大手私鉄の一つに数えられ、その労働組合も営団時代から私鉄総連に加入しているが、2023年現在でも全株式を日本国政府及び東京都が保有し、東京地下鉄株式会社法の規制を受ける特殊会社である。また、株式会社の形態ながらも自治体が出資する第三セクター鉄道の中にも青い森鉄道や神戸高速鉄道など民鉄協に加入する事業者がある。一方、旧大阪市交通局から民営化された大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)は民鉄協には加入しておらず、その労働組合も私鉄総連には加入していない。
したがって、日本における私鉄(民鉄)の定義としては、概して言えばJRを除いた民間事業者による鉄道ということになる。国鉄及びその承継法人ではない民間企業の形態をとる事業者の運営による鉄道・軌道及び事業者自体を指し、狭義では公営企業・東京地下鉄・大阪メトロ・第三セクター鉄道の鉄道・軌道と事業者自体を含めず、最も広義ではそれらも含める。
国土地理院の線路の区分では以前は「私鉄」と書かれていた物は、国鉄の民営化後は「JR線以外」と記載されている。
日本の私鉄各社は経営規模等によって大手私鉄と中小私鉄に区分される(中小私鉄の中でも規模の大きい会社を準大手私鉄として3つに区分することもある)。これらの区分は民鉄協によるもので、明確な定義・基準は存在しない。国土交通省においても民鉄協による区分が用いられる。
明治期は以下が5大私鉄とされた。
詳細は、これらの各項目を参照のこと。
私鉄各社は鉄道事業のほか、異業種にその企業の直営または企業グループによって参入しているのが顕著に見られ、多種の異業種に亘って事業展開する鉄道事業者の企業グループが幾つも見られる(殊に大手私鉄)。異業種では、百貨店、不動産業、レジャー関連、宿泊施設などが挙げられ、不動産業においては沿線のデベロッパーとなってきた事業者もある。
東急電鉄、京王電鉄、南海電気鉄道、西武鉄道、阪急電鉄、近畿日本鉄道、名古屋鉄道、西日本鉄道のように、鉄道事業以外では企業グループ全体が自社沿線を超えた事業活動をする事業者(不動産事業では紀州鉄道、バス事業では小田急電鉄、旅行業では東武鉄道も該当する)も存在する。
しかし、分割民営化後のJR各社もその関連企業が鉄道事業以外に多種の事業展開を行っており、私鉄各社のみに顕著な特徴ではなくなった。
日本においては、国土地理院発行の地形図では、JR線とそれ以外の鉄道線路は記号が異なる。市販の時刻表の索引地図においてもJRと他の事業者の鉄道路線は異なる記号となっている。このような国有鉄道またはその民営化・組織改編で成立した鉄道事業者による鉄道線と他の事業者による鉄道線とを地図等の表示において記号で区分するのは、日本以外ではほとんど例を見ない。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "私鉄(してつ、Private railway)は、私企業のみにより運営が行われる鉄道や軌道、またはその事業者をさす言葉である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "今日のアメリカ合衆国における私鉄は、自動車と航空機の普及後も、長大編成の貨物列車が象徴するように貨物輸送において一定の規模と存在感を保っている。私鉄各社は収益に応じて一級▪二級▪三級に分類されており、それらがアメリカ本土に一大貨物鉄道網を形成している。",
"title": "アメリカ合衆国の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "それに対し旅客輸送においては、同国の私鉄は一般客向けの定期旅客列車を運行していない。鉄道を所有する企業は社内の輸送システムとして使うだけである。 かつては中近距離旅客輸送を担ったインターアーバンと呼ばれる都市間電車を運転する企業が全米各地に存在したが、モータリゼーションの進展によりほとんどが撤退し、わずかに残ったものも公営化済みである。",
"title": "アメリカ合衆国の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "日本統治下の私鉄路線は、韓国ではアメリカ占領時期に国有化された。これに伴い、朝鮮鉄道や京春鉄道などの路線が1946年5月7日国有化され、咸平軌道などの路面電車だけが私鉄として残された。その後、1960年代に路面電車が全廃され、韓国の鉄道は完全に国有のみとなった(その後、ソウル地下鉄1号線の開業などで、国有以外の公営鉄道も増えている)。",
"title": "大韓民国の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "現在、韓国において「私鉄」とされる国有鉄道・公営鉄道以外の路線は、全羅南道和順郡の和順線や、慶尚北道浦項市のポスコ線といった専用鉄道のみとなっている。",
"title": "大韓民国の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "なお2000年代に入り、空港鉄道やソウル市メトロ9号線、新盆唐線など、民間資本を取り入れた鉄道事業者が複数設立されている。ただし、路線運営のみを担う形であり、施設そのものは政府や自治体が保有する形態(上下分離方式)がとられているため、日本でいう「私鉄」とはやや異なる。",
"title": "大韓民国の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "中国では2006年に羅定鐵路が競売で深圳市中技實業 (集團)有限公司に売却され、中国において最初で唯一の私鉄となっている。",
"title": "中華人民共和国の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "1949年以降のドイツにおける私鉄は、Nichtbundeseigene Eisenbahn(連邦政府が所有しない鉄道)と呼ばれる。民間の投資家や地方公共団体が所有するものを指し、中には公営企業として運営されるものもある。監督官庁も連邦鉄道局(en)ではなく、州政府であることが多い。各社の運行範囲も様々で、ノルトヴェストバーンのように地域輸送を担う事業者もあれば、ロコモア(現・LEOエクスプレス)のように国際列車を運行する事業者もある。",
"title": "ドイツの私鉄"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "本項目での「私鉄」は以下の「日本における定義」に従っている。",
"title": "日本の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "日本では、民営鉄道(みんえいてつどう、略称「民鉄」=みんてつ)とも呼称され、JRグループや第三セクター鉄道、場合によっては東京地下鉄などの鉄道や軌道を除く、いわゆる日本民営鉄道協会(民鉄協)に属する鉄道事業者を指すことがある。",
"title": "日本の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "1987年に日本国有鉄道(国鉄)が分割民営化されたことにより、すべてのJR各社もすでに組織形態は公社ではなく私企業(株式会社)となっている。JR貨物とJR北海道・JR四国が依然として全発行済み株式を鉄道建設・運輸施設整備支援機構に保有され旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律(JR会社法)による規制を受ける特殊会社である一方、JR東日本・JR西日本・JR東海(本州3社)とJR九州は、株式上場後民間保有の株式の割合が高くなったことから、JR会社法による規制から外れ、その後いずれも完全民営化がすでに完了したため、事実上民間の鉄道事業者であるといえる。",
"title": "日本の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "しかし、歴史的な経緯から、「私鉄」という場合、JR各社は含めないのが一般的である。これは、「私鉄」が「国鉄」の対義語であり、JRが日本国有鉄道改革法(国鉄改革法)で「国鉄」の事業を引き継いだ法人と位置づけられているからである。また、JR自体も「JR線」と「私鉄線」を別けて表示している。",
"title": "日本の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "完全民営化された本州3社が民鉄協に非加入で、JR各社の労働組合も、国鉄時代から活動している国鉄労働組合(国労)か国鉄動力車労働組合(動労)・鉄道労働組合(鉄労)などを前身とする全日本鉄道労働組合総連合会(JR総連)・日本鉄道労働組合連合会(JR連合)のいずれかに属し、この点でも日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)などに加入している組合が多い他の鉄道事業者とは一線を画する。ただし、少数派の組合である全国鉄動力車労働組合(全動労)はその後JR以外の組合と組織統合し、全日本建設交運一般労働組合(建交労)という上部団体を結成した。建交労には私鉄の組合も存在する。",
"title": "日本の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "一方、東京地下鉄は帝都高速度交通営団時代から民鉄協に加入し、大手私鉄の一つに数えられ、その労働組合も営団時代から私鉄総連に加入しているが、2023年現在でも全株式を日本国政府及び東京都が保有し、東京地下鉄株式会社法の規制を受ける特殊会社である。また、株式会社の形態ながらも自治体が出資する第三セクター鉄道の中にも青い森鉄道や神戸高速鉄道など民鉄協に加入する事業者がある。一方、旧大阪市交通局から民営化された大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)は民鉄協には加入しておらず、その労働組合も私鉄総連には加入していない。",
"title": "日本の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "したがって、日本における私鉄(民鉄)の定義としては、概して言えばJRを除いた民間事業者による鉄道ということになる。国鉄及びその承継法人ではない民間企業の形態をとる事業者の運営による鉄道・軌道及び事業者自体を指し、狭義では公営企業・東京地下鉄・大阪メトロ・第三セクター鉄道の鉄道・軌道と事業者自体を含めず、最も広義ではそれらも含める。",
"title": "日本の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "国土地理院の線路の区分では以前は「私鉄」と書かれていた物は、国鉄の民営化後は「JR線以外」と記載されている。",
"title": "日本の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "日本の私鉄各社は経営規模等によって大手私鉄と中小私鉄に区分される(中小私鉄の中でも規模の大きい会社を準大手私鉄として3つに区分することもある)。これらの区分は民鉄協によるもので、明確な定義・基準は存在しない。国土交通省においても民鉄協による区分が用いられる。",
"title": "日本の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "明治期は以下が5大私鉄とされた。",
"title": "日本の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "詳細は、これらの各項目を参照のこと。",
"title": "日本の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "私鉄各社は鉄道事業のほか、異業種にその企業の直営または企業グループによって参入しているのが顕著に見られ、多種の異業種に亘って事業展開する鉄道事業者の企業グループが幾つも見られる(殊に大手私鉄)。異業種では、百貨店、不動産業、レジャー関連、宿泊施設などが挙げられ、不動産業においては沿線のデベロッパーとなってきた事業者もある。",
"title": "日本の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "東急電鉄、京王電鉄、南海電気鉄道、西武鉄道、阪急電鉄、近畿日本鉄道、名古屋鉄道、西日本鉄道のように、鉄道事業以外では企業グループ全体が自社沿線を超えた事業活動をする事業者(不動産事業では紀州鉄道、バス事業では小田急電鉄、旅行業では東武鉄道も該当する)も存在する。",
"title": "日本の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "しかし、分割民営化後のJR各社もその関連企業が鉄道事業以外に多種の事業展開を行っており、私鉄各社のみに顕著な特徴ではなくなった。",
"title": "日本の私鉄"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "日本においては、国土地理院発行の地形図では、JR線とそれ以外の鉄道線路は記号が異なる。市販の時刻表の索引地図においてもJRと他の事業者の鉄道路線は異なる記号となっている。このような国有鉄道またはその民営化・組織改編で成立した鉄道事業者による鉄道線と他の事業者による鉄道線とを地図等の表示において記号で区分するのは、日本以外ではほとんど例を見ない。",
"title": "日本の私鉄"
}
] | 私鉄は、私企業のみにより運営が行われる鉄道や軌道、またはその事業者をさす言葉である。 | {{出典の明記|date=2017年1月}}
'''私鉄'''(してつ、Private railway)は、[[企業|私企業]]のみにより運営が行われる[[鉄道]]や[[軌道 (鉄道)|軌道]]、またはその[[鉄道事業者|事業者]]をさす言葉である。
== アメリカ合衆国の私鉄 ==
今日の[[アメリカ合衆国]]における私鉄は、自動車と航空機の普及後も、長大編成の貨物列車が象徴するように貨物輸送において一定の規模と存在感を保っている。私鉄各社は収益に応じて一級▪二級▪三級に分類されており、それらがアメリカ本土に一大貨物鉄道網を形成している。
それに対し旅客輸送においては、同国の私鉄は一般客向けの定期旅客列車を運行していない<ref group="注釈">ほとんどの定期長距離旅客列車は[[1971年]][[5月1日]]に発足した[[アムトラック]](全米鉄道旅客公社)に移管され、最後まで自社運行を続けた[[デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道|リオグランデ鉄道]]も[[1983年]][[4月24日]]をもって定期旅客列車の運行を終了した。</ref>。鉄道を所有する企業は社内の輸送システムとして使うだけである。
かつては中近距離旅客輸送を担った[[インターアーバン]]と呼ばれる都市間電車を運転する企業が全米各地に存在したが、[[モータリゼーション]]の進展によりほとんどが撤退し、わずかに残ったものも公営化済み<ref group="注釈">[[シカゴ]] - [[サウスベンド (インディアナ州)]]の[[サウスショアー線]]はNICTD(インディアナ州北部通勤輸送公団<sub>{{Cite web|和書| title=米国・NICTD(インディアナ州北部通勤輸送公団)向け電車 1号車完成記念式典 | author=日本車輌製造 | url=http://www.n-sharyo.co.jp/business/tetsudo/topics/tp090302.html | accessdate=2015/10/30}}</sub>)が、[[フィラデルフィア]] - [[ノリスタウン (ペンシルベニア州)]]の{{仮リンク|ノリスタウン高速線|en|Norristown High Speed Line}}は[[南東ペンシルベニア交通局|SEPTA]]が運営している。</ref>である。
== 大韓民国の私鉄 ==
[[日本統治時代の朝鮮|日本統治下]]の私鉄路線は、[[大韓民国|韓国]]では[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|アメリカ占領時期]]に国有化された。これに伴い、[[朝鮮鉄道]]や[[京春線|京春鉄道]]などの路線が1946年5月7日国有化され、[[咸平軌道]]などの路面電車だけが私鉄として残された。その後、1960年代に路面電車が全廃され、韓国の鉄道は完全に国有のみとなった(その後、[[ソウル交通公社1号線|ソウル地下鉄1号線]]の開業などで、国有以外の公営鉄道も増えている)。
現在、韓国において「私鉄」とされる国有鉄道・公営鉄道以外の路線は、[[全羅南道]][[和順郡]]の[[和順線]]や、[[慶尚北道]][[浦項市]]の[[ポスコ]]線といった[[専用鉄道]]のみとなっている。
なお[[2000年代]]に入り、[[空港鉄道 (企業)|空港鉄道]]や[[ソウル市メトロ9号線 (企業)|ソウル市メトロ9号線]]、[[新盆唐線 (企業)|新盆唐線]]など、民間資本を取り入れた鉄道事業者が複数設立されている。ただし、路線運営のみを担う形であり、施設そのものは政府や自治体が保有する形態([[上下分離方式]])がとられているため、日本でいう「私鉄」とはやや異なる。
== 中華人民共和国の私鉄 ==
[[中華人民共和国|中国]]では2006年に{{Lang|zh-CN|羅定鐵路}}が競売で{{Lang|zh-CN|深圳市中技實業 (集團)有限公司}}に売却され、中国において最初で唯一の私鉄となっている。
== ドイツの私鉄 ==
1949年以降の[[ドイツ]]における私鉄は、[[:de:Nichtbundeseigene Eisenbahn|Nichtbundeseigene Eisenbahn]](連邦政府が所有しない鉄道)と呼ばれる。民間の投資家や地方公共団体が所有するものを指し、中には公営企業として運営されるものもある。監督官庁も連邦鉄道局([[:en:Federal_Railway_Authority|en]])ではなく、州政府であることが多い。各社の運行範囲も様々で、[[ノルトヴェストバーン]]のように地域輸送を担う事業者もあれば、[[ロコモア]](現・LEOエクスプレス)のように国際列車を運行する事業者もある。
<!--- ドイツ語版からの抄訳 --->
== 日本の私鉄 ==
本項目での「私鉄」は以下の「日本における定義」に従っている。
=== 日本における定義 ===
日本では、'''民営鉄道'''(みんえいてつどう、略称「'''民鉄'''」=みんてつ)とも呼称され、[[JR]]グループや[[第三セクター鉄道]]、場合によっては[[東京地下鉄]]などの鉄道や軌道を除く、いわゆる[[日本民営鉄道協会]](民鉄協)に属する鉄道事業者を指すことがある。
[[1987年]]に[[日本国有鉄道]](国鉄)が[[国鉄分割民営化|分割民営化]]されたことにより、すべてのJR各社もすでに組織形態は[[公社]]ではなく私企業([[株式会社]])となっている。[[日本貨物鉄道|JR貨物]]と[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]・[[四国旅客鉄道|JR四国]]が依然として全発行済み[[株式]]を[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]に保有され[[旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律]](JR会社法)による規制を受ける[[特殊会社]]である一方、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]・[[東海旅客鉄道|JR東海]](本州3社)と[[九州旅客鉄道|JR九州]]は、株式[[株式公開|上場]]後民間保有の株式の割合が高くなったことから、JR会社法による規制から外れ、その後いずれも完全民営化がすでに完了したため、事実上民間の鉄道事業者であるといえる。
しかし、歴史的な経緯から、「私鉄」という場合、JR各社は含めないのが一般的である。これは、「私鉄」が「国鉄」の対義語であり、JRが[[日本国有鉄道改革法]](国鉄改革法)で「国鉄」の事業を引き継いだ[[法人]]と位置づけられているからである。また、JR自体も「JR線」と「私鉄線」を別けて表示している<ref>http://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/index.html</ref>。
完全民営化された本州3社が民鉄協に非加入で、JR各社の[[労働組合]]も、国鉄時代から活動している[[国鉄労働組合]](国労)か[[国鉄動力車労働組合]](動労)・[[鉄道労働組合]](鉄労)などを前身とする[[全日本鉄道労働組合総連合会]](JR総連)・[[日本鉄道労働組合連合会]](JR連合)のいずれかに属し、この点でも[[日本私鉄労働組合総連合会]](私鉄総連)などに加入している組合が多い他の鉄道事業者とは一線を画する。ただし、少数派の組合である[[全国鉄動力車労働組合]](全動労)はその後JR以外の組合と組織統合し、[[全日本建設交運一般労働組合]](建交労)という上部団体を結成した。建交労には私鉄の組合も存在する<ref>[http://www.kenkouro.com/about 建交労東京について]建交労東京</ref><ref>[http://www.kenkouro.com/2019/0612-152435.html 京王新労組京王電鉄本社前宣伝行動]建交労2019年6月12日付</ref>。
一方、東京地下鉄は[[帝都高速度交通営団]]時代から民鉄協に加入し、[[大手私鉄]]の一つに数えられ、その労働組合も営団時代から私鉄総連に加入しているが、2023年現在でも全株式を[[日本国]][[政府]]及び[[東京都]]が保有し、[[東京地下鉄株式会社法]]の規制を受ける特殊会社である。また、株式会社の形態ながらも自治体が出資する第三セクター鉄道の中にも[[青い森鉄道]]や[[神戸高速鉄道]]など民鉄協に加入する事業者がある。一方、旧[[大阪市交通局]]から民営化された[[大阪市高速電気軌道]](Osaka Metro)は民鉄協には加入しておらず、その労働組合も私鉄総連には加入していない。
したがって、日本における私鉄(民鉄)の定義としては、概して言えばJRを除いた民間事業者による鉄道ということになる。国鉄及びその承継法人ではない民間企業の形態をとる事業者の運営による鉄道・軌道及び事業者自体を指し、狭義では[[公営企業]]・東京地下鉄・大阪メトロ・第三セクター鉄道の鉄道・軌道と事業者自体を含めず、最も広義ではそれらも含める<ref group="注釈">たとえば、[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン誌]]に掲載される「RAIL NEWS」では、記事をJR、第三セクター、民鉄(およびその他)に分類して掲載しているが、公営企業は広義の私鉄と解釈し「民鉄」に分類されている。</ref>。
[[国土地理院]]の線路の区分では以前は「私鉄」と書かれていた物は、国鉄の民営化後は「JR線以外」と記載されている<ref>[https://www.gsi.go.jp/KIDS/map-sign-tizukigou-h14kigou-itiran.htm]</ref>。
=== 経営規模における私鉄の区分 ===
{{see also|鉄道事業者#大手私鉄・準大手私鉄・中小私鉄の区分}}
日本の私鉄各社は経営規模等によって'''[[大手私鉄]]'''と'''[[中小私鉄]]'''に区分される(中小私鉄の中でも規模の大きい会社を'''[[準大手私鉄]]'''として3つに区分することもある)。これらの区分は民鉄協によるもので、明確な定義・基準は存在しない。[[国土交通省]]においても民鉄協による区分が用いられる。
[[明治|明治期]]は以下が5大私鉄とされた<ref>「表7 五大私鉄及び官設鉄道の連帯輸送比率」『[[#老川 (1996)|鉄道]]』(p162)</ref>。
* [[日本鉄道]]
* [[山陽鉄道]]
* [[関西鉄道]]
* [[九州鉄道]]
* [[北海道炭礦鉄道]]
詳細は、これらの各項目を参照のこと。
=== 私鉄各社の事業展開 ===
{{See also|鉄道事業者#異業種への参入}}
私鉄各社は鉄道事業のほか、異業種にその企業の直営または企業グループによって参入しているのが顕著に見られ、多種の異業種に亘って事業展開する鉄道事業者の企業グループが幾つも見られる(殊に大手私鉄)。異業種では、[[百貨店]]、不動産業、レジャー関連、[[宿泊施設]]などが挙げられ、不動産業においては沿線の[[デベロッパー (開発業者)|デベロッパー]]となってきた事業者もある。
[[東急電鉄]]、[[京王電鉄]]、[[南海電気鉄道]]、[[西武鉄道]]、[[阪急電鉄]]、[[近畿日本鉄道]]、[[名古屋鉄道]]、[[西日本鉄道]]のように、鉄道事業以外では企業グループ全体が自社沿線を超えた事業活動をする事業者(不動産事業では[[紀州鉄道]]、バス事業では[[小田急電鉄]]、旅行業では[[東武鉄道]]も該当する)も存在する。
しかし、分割民営化後のJR各社もその関連企業が鉄道事業以外に多種の事業展開を行っており、私鉄各社のみに顕著な特徴ではなくなった。
=== 地図上の区分 ===
日本においては、[[国土地理院]]発行の[[地形図]]では、JR線とそれ以外の鉄道線路は[[記号]]が異なる。市販の[[時刻表]]の索引[[地図]]においてもJRと他の事業者の鉄道路線は異なる記号となっている。このような[[国鉄|国有鉄道]]またはその民営化・組織改編で成立した鉄道事業者による鉄道線と他の事業者による鉄道線とを地図等の表示において記号で区分するのは、日本以外ではほとんど例を見ない<ref>『鉄道ひとつばなし2』 [[原武史]]著 [[講談社]] 2007年</ref>。
=== その他 ===
* [[大分県]]:普通鉄道・軌道の私鉄事業者が存在しない([[大分交通耶馬渓線]]が1975年に廃止されたため消滅)が、ロープウェイ・[[ケーブルカー]]の路線が存在する。
* [[宮崎県]]:鉄道・軌道・索道を含めて私鉄事業者が存在しない([[高千穂鉄道]]が2008年に廃止されたため消滅)。
* [[沖縄県]]:現在、県内の全鉄道路線が私鉄である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references/>
== 参考文献 ==
* {{Cite book | 和書 | author=[[老川慶喜]] | title=鉄道 | series=日本史小百科 - 近代 | publisher=[[東京堂出版]] | date=1996年9月17日 | edition=初版 | isbn=978-4490202908 | ref=老川 (1996)}}
== 関連項目 ==
* [[関西私鉄]]
* [[関東私鉄]]
* [[鉄道事業者]]
* [[戦時買収私鉄]]
* [[インターアーバン]]
** [[パシフィック電鉄]]
* [[グレート・ウェスタン鉄道]]
== 外部リンク ==
* [https://www.mintetsu.or.jp/ 一般社団法人日本民営鉄道協会] - [[第三セクター鉄道]]会社の一部も加盟している。
* [http://www.agui.net/ AGUI NET]
{{DEFAULTSORT:してつ}}
[[Category:鉄道]] | 2003-03-08T03:39:45Z | 2023-11-29T19:56:53Z | false | false | false | [
"Template:Lang",
"Template:See also",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist",
"Template:Cite web",
"Template:仮リンク",
"Template:Cite book",
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E9%89%84 |
3,659 | アダルトアニメ | アダルトアニメ(英: adult animation)は、成人を対象とした激しい胸部の露出や性行為など、性的な表現を含むアニメーションのことをさす。日本では18歳未満の未成年の視聴が禁止されている作品については「エロアニメ」「18禁アニメ」(R18)という呼称も用いられる。
現存する世界最古のアダルトアニメは、取り外し可能な陰茎を持った男の性的冒険を描いた白黒作品『エヴァレディ・ハートンの埋もれた財宝』である。これはアメリカ合衆国の3つのアニメーションスタジオが内輪の集まりで1929年に制作したものと伝えられる。
日本初といわれる「成人を対象としたポルノアニメ」は、浮世絵の技法が用いられた白黒作品『すヾみ舟』(国立映画アーカイブ所蔵)とされている。製作当時の1932年(昭和7年)の社会情勢では当然ながら正規の配給網では公開できず、非合法なものとして検挙された。作者については木村白山という人物による個人制作と伝えられ、題名についても『隅田川』『川開き』『花火』『夕涼み』『マンガ』などの別名がある。
1968年、アメリカ合衆国大統領のリンドン・ジョンソンは「ワイセツとポルノに関する諮問委員会」を設置しポルノ解禁問題をはかった。
1969年から1973年にかけては、手塚治虫の虫プロダクションが日本ヘラルド映画から依頼され、大人向けのエロティックな描写をふんだんに用いた『千夜一夜物語』『クレオパトラ』『哀しみのベラドンナ』の3本から構成される「アニメラマ3部作」と称したアニメ映画を製作した。このうち『千夜一夜物語』は大ヒットとなる。
この前後の1967年から1972年にかけてフィルム蒐集家の杉本五郎が美少女をモチーフに複数の実験映画を自主制作しており、このうち剣持加津夫による同名の少女ヌード写真集を基にした幻想映画『12歳の神話』(1970年)は先駆的な美少女アニメとされる。
前述の「アニメラマ3部作」のヒットに便乗し、1969年には実写映画『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』の併映でレオ・プロダクションの『秘劇画 浮世絵千一夜』が、1971年には日本ヘラルド映画の企画で東京テレビ動画の『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』(原作・谷岡ヤスジ)が上映された。
『秘劇画 浮世絵千一夜』は東映系の全国53館の劇場で上映されたが、映倫の審査を通過していたにもかかわらず、警視庁からは猥褻な場面を削除するようにとの警告を受けた。また『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』は映倫の審査で11カ所がカット、タイトルバックの修正、結婚という人生の墓場で主人公が割腹自殺を遂げるラストシーンは前年の三島事件を連想させるとのことで全面的に撮り直された。そのうえ全く客が入らなかったことから2週予定が1週で打ち切られるなど、この2本の便乗作の内容に対する評価は芳しくなかった。
1972年、アメリカ映画史上初のX指定 を受けたアダルトアニメ『フリッツ・ザ・キャット』(原作・ロバート・クラム)がアメリカ合衆国で興行1億ドルを超える大ヒットを記録する。しかし、日本国内での興行成績は全く振るわず、封切1週間で上映が打ち切られた。
また、虫プロダクションが1973年に公開したアニメロマネスク『哀しみのベラドンナ』も興行的には赤字に終わっており、これが旧虫プロの倒産を招くことになったといわれる。その後、一連の大人向けアニメの失敗は映画業界やアニメ業界に大きな禍根を残すことになり、オリジナルビデオアニメ(OVA)が盛んに作られるようになる1980年代半ばまで日本製のアダルトアニメは11年もの長きにわたり姿を消すことになった。
2019年現在、上記作品のうち入手可能なものは虫プロダクションの「アニメラマ3部作」と東京テレビ動画の『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』の4作品のみとなっている。また創成期の作品については伝聞資料が乏しく現在もなお不明瞭な部分が多い。
1980年代半ば以降になると、アダルトビデオの延長線上として、アダルトアニメはビデオテープやLDにより量産されるようになる。OVAによる初のアダルトアニメは、1984年2月にワンダーキッズが制作した中島史雄原作の『ロリータアニメ雪の紅化粧/少女薔薇刑』であるが、これは当時すでに時代遅れだった劇画調の絵柄で、大ヒットとはならなかった。同作品の制作は1979年に完了済みであり、発売時期を模索した結果、1984年となった。
その後、同じくワンダーキッズによる中島史雄原作の『仔猫ちゃんのいる店』が発売された。こちらはデフォルメの効いた絵柄で、アニメファン層にも受け入れられた。この当時から新興のビデオメーカーが独自レーベルを掲げて作品を制作・販売するスタイルが次第に確立され始めるが、タイトルごとのヒットというレベルには至らなかった。
1984年8月にはフェアリーダストから『くりいむレモン』シリーズが発売されて大ブームとなり、歴史的にはこれが先駆けといわれる。特にVol.1『媚・妹・Baby』のヒロイン・亜美は、レコード発売やラジオ番組の放送などのメディアミックス展開を広げ、一種のカリスマの様相を呈した。
『媚・妹・Baby』は発表当初、日本ビデオ倫理協会(ビデ倫)の審査を通過後に「修正を加えたもの」と後に「最低限の修正を加えたもの」が製品として混在するに至った。また、Vol.3『SF・超次元伝説ラル』は、人間ではなく架空の生物の触手が相手であることから無修正のままビデ倫審査を通過し、その当時の審査が有効なビデオとLDについては無修正での発売が続けられた。また、人気となった『くりいむレモン』シリーズの作品群は、富士見文庫(富士見美少女文庫)によってノベライズが手掛けられることになる。これが後のジュブナイルポルノの嚆矢となったとされる。
その後、『超神伝説うろつき童子』などの前田俊夫原作の劇画調作品、及びそれを模した作品などの淫獣物や妖獣物がブームとなる。これは男性器(陰茎)を模した、想像上の「獣の触手」が、女性キャラクターと絡むというもので、規制を回避した作品だが、男性キャラクターを邪魔に思う視聴者との需給が一致し、レンタル、セルを併せて毎回約1万本が売れる高セールスを記録する。しかし、近年では規制が強くなり、女性器が描かれていない場面でも、陰茎を連想させる触手そのものにさえも規制がかかるケースが出ており、その存在意義がなくなってきている。
また、成人向け漫画を原作とした作品の売れ行きが良かったことから、TDKコアのクール・ディバイシスシリーズを中心にそれらの作品が増加した。さらにはその流れから、アダルトゲームを原作とした作品も登場し、人気を博した。その中でもピンクパイナップルレーベルは人気アダルトゲームを多数アニメ化し、とくに『同級生』シリーズや『遺作』シリーズなどのエルフ作品や『Piaキャロットへようこそ!!』などのF&C作品、『闘神都市II』などのアリスソフト作品といった人気アダルトゲームのアニメ化により、当時のアダルトゲームブームも相まって、それまでのアンダーグラウンドなイメージだったアダルトアニメを一転させた。それとともに専門誌も誕生し、それまでは同ジャンルを扱う紙媒体は辰巳出版の『美少女アニメ大全集』など単発の成人書籍、ムックしかなかった中、コアマガジンの『G-type』が創刊、後発誌も各出版社から刊行された。
バイオレンス描写の金澤勝眞の作品や桶澤尚によるスカトロ描写の『夜勤病棟』シリーズ、過度な飲精描写のむらかみてるあきなど、過激化とフェティッシュな描写の作品が主流となっている。これはそれまでビデ倫の審査が中心だったアダルトアニメにおいて、コンピュータソフトウェア倫理機構(略称・ソフ倫)やコンテンツ・ソフト協同組合(旧・メディア倫理協会、メディ倫)などの、比較的審査の緩い審査団体を選べるようになったことにも一因する。このため「Pixy」や「わるきゅ〜れ」といったインディーズレーベルを中心に作品数の増加も見られており、ヒットしたアダルトゲームについてはアダルトアニメ化を巡る競合が激しくなっている。
その一方で、ライトノベル・コミックや、いわゆるメディアミックスに関連する各業界の体質的な変化などが背景にあるが、アダルトゲームが原作の作品でも、性描写を排除して一般向けへのメディアミックス企画が展開されるようになり、UHFアニメやコンシューマゲーム機などへの展開も積極的に行われている。これらのことから、収益の期待値がより高い一般向けなコンテンツへの展開を目論んで、アダルトゲームのメーカーがアダルトアニメ化そのものを拒否するなど、人気アダルトゲーム原作のアダルトアニメ化が困難な状況も見られるようになってきている。最近では、子供たちもアダルトゲームをプレイしている傾向になっていることも問題視されている。
1980年代以降は成人向け漫画を原作とした作品とオリジナル作品が中心となっていたが、1990年代後半以降はアダルトゲームを原作としたものが増え、漫画・ジュブナイルポルノ原作のものは減少した。そのきっかけとなったのは、ピンクパイナップルの『同級生 夏の終わりに』(原作:エルフ)である。同シリーズは累計10万本を超えるヒットとなった。
2006年にはひまじんの『そらのいろ、みずのいろ』(原作:Ciel)の上巻『ダメ......聞こえちゃう♥』が、原作よりセックスシーンに特化させた内容と人気アニメーターの起用が功を奏し、累計1万本超を記録した。その後、下巻『わたしも......してあげる♥』との累計は4万本超を記録している。
最近では、『A KITE』や『MEZZO FORTE』などのような北米をはじめとする日本国外での販売を前提とした作品が増加しており、二か国語処理を施した作品も存在する。一般的なアダルトビデオと大きく異なる点がこれであり、日本での販売作品がそのまま日本国外の市場でも正規流通品として販売されている。また、恥部(性器)や性交の描写に対する規制が緩い国では、作品によっては緻密に描き込んだ性器にモザイクをかけないまま販売されている。
しかし、性器の描画はアダルトアニメ特有のもので細かく手間がかかるうえ、「規制のある国」と「規制のない国」で別々に作品管理をしなければならず、メーカー側にコストアップなどの負担が掛かることになる。
亜美の人気と当時の声優ブームをきっかけに声にも注目が集まったが、内容が内容なだけにアダルトアニメの声優の実名(芸名)は表記せず、本名はもとより芸名・その他変名すら表記しないものがほとんどだった。しかし、1985年発売の『ペロペロキャンデー』は初めて声優のキャストを表記している。また、1986年には宇宙企画(フレンズレーベル)の『リヨン伝説フレア』もキャストの公開に踏み切り、同レーベルはすべて声優は芸名で表記されている。しかし、これらはごく少数派であり、現在でも多くのアダルトゲーム・アニメにおいて声優のキャストはまったく公開しないか、あるいは「成人向け」作品のみで用いる「裏名義」の芸名となっている。
AV女優・AV男優と同様に法規制の関係上、声優としての出演であっても18歳未満の者は出演が禁止されている。
日本のアダルトアニメでは、刑法175条(わいせつ物頒布罪)を受けて、性器描写にモザイク処理がかけられる自主規制がなされている。この刑法175条については、現状にそぐわない不合理な規制であるから廃止すべきとの批判もあり、参議院議員の山田太郎が刑法175条の見直しを提唱している。
ビデ倫による、アダルトビデオと同様の審査を受審し、同協会の基準に従って表現を自主規制している作品が多いが、メーカーによってはコンテンツ・ソフト協同組合(旧・メディア倫理協会、メディ倫)による審査を受審している作品や、自主規制組織による審査を受けていない作品も存在する。2010年現在性描写がなく暴力や犯罪などの反社会的なシーンの描写によって成人指定とされた作品は存在しない。
2006年4月より経済産業省の指導でCESA、コンピュータソフトウェア倫理機構日本アミューズメントマシン工業協会、映倫管理委員会、日本ビデオ倫理協会と映像コンテンツ倫理連絡会議(仮称)において、アニメ・実写映画・コンピュータゲームなどに対する審査基準・表示の一本化を協議することが決定しているが、それに伴い、性描写がなくても暴力などの反社会的なシーンを含むアニメも成人指定の可能性がある。
日本国内では性描写全般の規制が厳しく、描写したい画像や動画が動画共有サイトなど日本国外に設置されたサーバやP2Pなどで違法アップロードされることもある。
権利者でない第三者(エンドユーザー)がアップロードした場合、著作権法違反に問われる。また、正当な権利者により、無料で視聴が可能にしても、サーバやP2Pにアップロードするとわいせつ物頒布等の罪などに抵触、仮に、作品の著作権を放棄し、無断転載や複製を容認してもわいせつ物頒布等の罪に問われるのは避けられない。
一方、日本国外から配信する場合、日本の法律が適用できず、グレーゾーンとなっているのが現状であるため、これを逆手に取り、アダルトビデオと同様に無修正の海外流通版を製作者と権利関係をクリアしたうえで日本国外に設置されたサーバから配信し、日本語のページも用意された有料動画配信サイトも存在するが、国や作品によっては児童ポルノやその他反社会的な描写(性犯罪や暴力の肯定など)とみなされ、違法となる場合がある。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "アダルトアニメ(英: adult animation)は、成人を対象とした激しい胸部の露出や性行為など、性的な表現を含むアニメーションのことをさす。日本では18歳未満の未成年の視聴が禁止されている作品については「エロアニメ」「18禁アニメ」(R18)という呼称も用いられる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "現存する世界最古のアダルトアニメは、取り外し可能な陰茎を持った男の性的冒険を描いた白黒作品『エヴァレディ・ハートンの埋もれた財宝』である。これはアメリカ合衆国の3つのアニメーションスタジオが内輪の集まりで1929年に制作したものと伝えられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "日本初といわれる「成人を対象としたポルノアニメ」は、浮世絵の技法が用いられた白黒作品『すヾみ舟』(国立映画アーカイブ所蔵)とされている。製作当時の1932年(昭和7年)の社会情勢では当然ながら正規の配給網では公開できず、非合法なものとして検挙された。作者については木村白山という人物による個人制作と伝えられ、題名についても『隅田川』『川開き』『花火』『夕涼み』『マンガ』などの別名がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "1968年、アメリカ合衆国大統領のリンドン・ジョンソンは「ワイセツとポルノに関する諮問委員会」を設置しポルノ解禁問題をはかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "1969年から1973年にかけては、手塚治虫の虫プロダクションが日本ヘラルド映画から依頼され、大人向けのエロティックな描写をふんだんに用いた『千夜一夜物語』『クレオパトラ』『哀しみのベラドンナ』の3本から構成される「アニメラマ3部作」と称したアニメ映画を製作した。このうち『千夜一夜物語』は大ヒットとなる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "この前後の1967年から1972年にかけてフィルム蒐集家の杉本五郎が美少女をモチーフに複数の実験映画を自主制作しており、このうち剣持加津夫による同名の少女ヌード写真集を基にした幻想映画『12歳の神話』(1970年)は先駆的な美少女アニメとされる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "前述の「アニメラマ3部作」のヒットに便乗し、1969年には実写映画『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』の併映でレオ・プロダクションの『秘劇画 浮世絵千一夜』が、1971年には日本ヘラルド映画の企画で東京テレビ動画の『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』(原作・谷岡ヤスジ)が上映された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "『秘劇画 浮世絵千一夜』は東映系の全国53館の劇場で上映されたが、映倫の審査を通過していたにもかかわらず、警視庁からは猥褻な場面を削除するようにとの警告を受けた。また『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』は映倫の審査で11カ所がカット、タイトルバックの修正、結婚という人生の墓場で主人公が割腹自殺を遂げるラストシーンは前年の三島事件を連想させるとのことで全面的に撮り直された。そのうえ全く客が入らなかったことから2週予定が1週で打ち切られるなど、この2本の便乗作の内容に対する評価は芳しくなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1972年、アメリカ映画史上初のX指定 を受けたアダルトアニメ『フリッツ・ザ・キャット』(原作・ロバート・クラム)がアメリカ合衆国で興行1億ドルを超える大ヒットを記録する。しかし、日本国内での興行成績は全く振るわず、封切1週間で上映が打ち切られた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "また、虫プロダクションが1973年に公開したアニメロマネスク『哀しみのベラドンナ』も興行的には赤字に終わっており、これが旧虫プロの倒産を招くことになったといわれる。その後、一連の大人向けアニメの失敗は映画業界やアニメ業界に大きな禍根を残すことになり、オリジナルビデオアニメ(OVA)が盛んに作られるようになる1980年代半ばまで日本製のアダルトアニメは11年もの長きにわたり姿を消すことになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "2019年現在、上記作品のうち入手可能なものは虫プロダクションの「アニメラマ3部作」と東京テレビ動画の『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』の4作品のみとなっている。また創成期の作品については伝聞資料が乏しく現在もなお不明瞭な部分が多い。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1980年代半ば以降になると、アダルトビデオの延長線上として、アダルトアニメはビデオテープやLDにより量産されるようになる。OVAによる初のアダルトアニメは、1984年2月にワンダーキッズが制作した中島史雄原作の『ロリータアニメ雪の紅化粧/少女薔薇刑』であるが、これは当時すでに時代遅れだった劇画調の絵柄で、大ヒットとはならなかった。同作品の制作は1979年に完了済みであり、発売時期を模索した結果、1984年となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "その後、同じくワンダーキッズによる中島史雄原作の『仔猫ちゃんのいる店』が発売された。こちらはデフォルメの効いた絵柄で、アニメファン層にも受け入れられた。この当時から新興のビデオメーカーが独自レーベルを掲げて作品を制作・販売するスタイルが次第に確立され始めるが、タイトルごとのヒットというレベルには至らなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1984年8月にはフェアリーダストから『くりいむレモン』シリーズが発売されて大ブームとなり、歴史的にはこれが先駆けといわれる。特にVol.1『媚・妹・Baby』のヒロイン・亜美は、レコード発売やラジオ番組の放送などのメディアミックス展開を広げ、一種のカリスマの様相を呈した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "『媚・妹・Baby』は発表当初、日本ビデオ倫理協会(ビデ倫)の審査を通過後に「修正を加えたもの」と後に「最低限の修正を加えたもの」が製品として混在するに至った。また、Vol.3『SF・超次元伝説ラル』は、人間ではなく架空の生物の触手が相手であることから無修正のままビデ倫審査を通過し、その当時の審査が有効なビデオとLDについては無修正での発売が続けられた。また、人気となった『くりいむレモン』シリーズの作品群は、富士見文庫(富士見美少女文庫)によってノベライズが手掛けられることになる。これが後のジュブナイルポルノの嚆矢となったとされる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "その後、『超神伝説うろつき童子』などの前田俊夫原作の劇画調作品、及びそれを模した作品などの淫獣物や妖獣物がブームとなる。これは男性器(陰茎)を模した、想像上の「獣の触手」が、女性キャラクターと絡むというもので、規制を回避した作品だが、男性キャラクターを邪魔に思う視聴者との需給が一致し、レンタル、セルを併せて毎回約1万本が売れる高セールスを記録する。しかし、近年では規制が強くなり、女性器が描かれていない場面でも、陰茎を連想させる触手そのものにさえも規制がかかるケースが出ており、その存在意義がなくなってきている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "また、成人向け漫画を原作とした作品の売れ行きが良かったことから、TDKコアのクール・ディバイシスシリーズを中心にそれらの作品が増加した。さらにはその流れから、アダルトゲームを原作とした作品も登場し、人気を博した。その中でもピンクパイナップルレーベルは人気アダルトゲームを多数アニメ化し、とくに『同級生』シリーズや『遺作』シリーズなどのエルフ作品や『Piaキャロットへようこそ!!』などのF&C作品、『闘神都市II』などのアリスソフト作品といった人気アダルトゲームのアニメ化により、当時のアダルトゲームブームも相まって、それまでのアンダーグラウンドなイメージだったアダルトアニメを一転させた。それとともに専門誌も誕生し、それまでは同ジャンルを扱う紙媒体は辰巳出版の『美少女アニメ大全集』など単発の成人書籍、ムックしかなかった中、コアマガジンの『G-type』が創刊、後発誌も各出版社から刊行された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "バイオレンス描写の金澤勝眞の作品や桶澤尚によるスカトロ描写の『夜勤病棟』シリーズ、過度な飲精描写のむらかみてるあきなど、過激化とフェティッシュな描写の作品が主流となっている。これはそれまでビデ倫の審査が中心だったアダルトアニメにおいて、コンピュータソフトウェア倫理機構(略称・ソフ倫)やコンテンツ・ソフト協同組合(旧・メディア倫理協会、メディ倫)などの、比較的審査の緩い審査団体を選べるようになったことにも一因する。このため「Pixy」や「わるきゅ〜れ」といったインディーズレーベルを中心に作品数の増加も見られており、ヒットしたアダルトゲームについてはアダルトアニメ化を巡る競合が激しくなっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "その一方で、ライトノベル・コミックや、いわゆるメディアミックスに関連する各業界の体質的な変化などが背景にあるが、アダルトゲームが原作の作品でも、性描写を排除して一般向けへのメディアミックス企画が展開されるようになり、UHFアニメやコンシューマゲーム機などへの展開も積極的に行われている。これらのことから、収益の期待値がより高い一般向けなコンテンツへの展開を目論んで、アダルトゲームのメーカーがアダルトアニメ化そのものを拒否するなど、人気アダルトゲーム原作のアダルトアニメ化が困難な状況も見られるようになってきている。最近では、子供たちもアダルトゲームをプレイしている傾向になっていることも問題視されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1980年代以降は成人向け漫画を原作とした作品とオリジナル作品が中心となっていたが、1990年代後半以降はアダルトゲームを原作としたものが増え、漫画・ジュブナイルポルノ原作のものは減少した。そのきっかけとなったのは、ピンクパイナップルの『同級生 夏の終わりに』(原作:エルフ)である。同シリーズは累計10万本を超えるヒットとなった。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2006年にはひまじんの『そらのいろ、みずのいろ』(原作:Ciel)の上巻『ダメ......聞こえちゃう♥』が、原作よりセックスシーンに特化させた内容と人気アニメーターの起用が功を奏し、累計1万本超を記録した。その後、下巻『わたしも......してあげる♥』との累計は4万本超を記録している。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "最近では、『A KITE』や『MEZZO FORTE』などのような北米をはじめとする日本国外での販売を前提とした作品が増加しており、二か国語処理を施した作品も存在する。一般的なアダルトビデオと大きく異なる点がこれであり、日本での販売作品がそのまま日本国外の市場でも正規流通品として販売されている。また、恥部(性器)や性交の描写に対する規制が緩い国では、作品によっては緻密に描き込んだ性器にモザイクをかけないまま販売されている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "しかし、性器の描画はアダルトアニメ特有のもので細かく手間がかかるうえ、「規制のある国」と「規制のない国」で別々に作品管理をしなければならず、メーカー側にコストアップなどの負担が掛かることになる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "亜美の人気と当時の声優ブームをきっかけに声にも注目が集まったが、内容が内容なだけにアダルトアニメの声優の実名(芸名)は表記せず、本名はもとより芸名・その他変名すら表記しないものがほとんどだった。しかし、1985年発売の『ペロペロキャンデー』は初めて声優のキャストを表記している。また、1986年には宇宙企画(フレンズレーベル)の『リヨン伝説フレア』もキャストの公開に踏み切り、同レーベルはすべて声優は芸名で表記されている。しかし、これらはごく少数派であり、現在でも多くのアダルトゲーム・アニメにおいて声優のキャストはまったく公開しないか、あるいは「成人向け」作品のみで用いる「裏名義」の芸名となっている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "AV女優・AV男優と同様に法規制の関係上、声優としての出演であっても18歳未満の者は出演が禁止されている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "日本のアダルトアニメでは、刑法175条(わいせつ物頒布罪)を受けて、性器描写にモザイク処理がかけられる自主規制がなされている。この刑法175条については、現状にそぐわない不合理な規制であるから廃止すべきとの批判もあり、参議院議員の山田太郎が刑法175条の見直しを提唱している。",
"title": "審査"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ビデ倫による、アダルトビデオと同様の審査を受審し、同協会の基準に従って表現を自主規制している作品が多いが、メーカーによってはコンテンツ・ソフト協同組合(旧・メディア倫理協会、メディ倫)による審査を受審している作品や、自主規制組織による審査を受けていない作品も存在する。2010年現在性描写がなく暴力や犯罪などの反社会的なシーンの描写によって成人指定とされた作品は存在しない。",
"title": "審査"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2006年4月より経済産業省の指導でCESA、コンピュータソフトウェア倫理機構日本アミューズメントマシン工業協会、映倫管理委員会、日本ビデオ倫理協会と映像コンテンツ倫理連絡会議(仮称)において、アニメ・実写映画・コンピュータゲームなどに対する審査基準・表示の一本化を協議することが決定しているが、それに伴い、性描写がなくても暴力などの反社会的なシーンを含むアニメも成人指定の可能性がある。",
"title": "審査"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "日本国内では性描写全般の規制が厳しく、描写したい画像や動画が動画共有サイトなど日本国外に設置されたサーバやP2Pなどで違法アップロードされることもある。",
"title": "国外サイト"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "権利者でない第三者(エンドユーザー)がアップロードした場合、著作権法違反に問われる。また、正当な権利者により、無料で視聴が可能にしても、サーバやP2Pにアップロードするとわいせつ物頒布等の罪などに抵触、仮に、作品の著作権を放棄し、無断転載や複製を容認してもわいせつ物頒布等の罪に問われるのは避けられない。",
"title": "国外サイト"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "一方、日本国外から配信する場合、日本の法律が適用できず、グレーゾーンとなっているのが現状であるため、これを逆手に取り、アダルトビデオと同様に無修正の海外流通版を製作者と権利関係をクリアしたうえで日本国外に設置されたサーバから配信し、日本語のページも用意された有料動画配信サイトも存在するが、国や作品によっては児童ポルノやその他反社会的な描写(性犯罪や暴力の肯定など)とみなされ、違法となる場合がある。",
"title": "国外サイト"
}
] | アダルトアニメは、成人を対象とした激しい胸部の露出や性行為など、性的な表現を含むアニメーションのことをさす。日本では18歳未満の未成年の視聴が禁止されている作品については「エロアニメ」「18禁アニメ」(R18)という呼称も用いられる。 | {{Dablink|1=本項目では「アニメ自体が[[成人向け]]の作品」を指し、[[アダルトゲーム]]など「成人向け作品原作の[[アニメーション|アニメ]]」は成人向け要素を廃した全年齢向けのアニメや家庭用ゲームなどになる事例もあるため異なります。}}
{{性的}}
{{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}}
'''アダルトアニメ'''({{lang-en-short|adult animation}})は、[[成人]]を対象とした激しい[[胸部]]の[[露出]]や[[性行為]]など、[[性的]]な表現を含む[[アニメーション]]のことをさす。[[日本]]では18歳未満の[[未成年]]の視聴が禁止されている作品については「[[性愛|エロ]]アニメ」「[[成人向け|18禁]]アニメ」(R18)という呼称も用いられる。
[[File:Eveready Harton in Buried Treasure.ogv|thumb|thumbtime=0:02|250px|『[[エヴァレディ・ハートンの埋もれた財宝]]』]]
[[File:NonkinaTosan.png|thumb|250px|参考:[[日本]]の[[アニメーター]] [[木村白山]]が作成した『[[ノンキなトウサン 竜宮参り]]』(アダルトアニメではない)]]
== 歴史 ==
=== 創成期 ===
{{seealso|エロティック・アニメーション}}
現存する世界最古の'''アダルトアニメ'''は、取り外し可能な[[陰茎]]を持った男の性的冒険を描いた白黒作品『'''[[エヴァレディ・ハートンの埋もれた財宝]]'''』である。これは[[アメリカ合衆国]]の3つの[[アニメーションスタジオ・アートランド|アニメーションスタジオ]]が内輪の集まりで[[1929年]]に制作したものと伝えられる。
[[日本]]初といわれる「成人を対象とした[[ポルノグラフィ|ポルノ]]アニメ」は、[[浮世絵]]の[[技法]]が用いられた[[モノクローム|白黒作品]]『'''[[すヾみ舟]]'''』([[国立映画アーカイブ]]所蔵)とされている。製作当時の[[1932年]](昭和7年)の社会情勢では当然ながら正規の配給網では公開できず、[[非合法]]なものとして[[検挙]]された。作者については'''[[木村白山]]'''という人物による[[自主映画|個人制作]]と伝えられ、[[題名]]についても『[[隅田川]]』『川開き』『[[花火]]』『[[夕涼み]]』『[[マンガ]]』などの別名がある。
[[1968年]]、[[アメリカ合衆国大統領]]の[[リンドン・ジョンソン]]は「[[ワイセツ]]と[[ポルノグラフィ|ポルノ]]に関する諮問委員会」を設置しポルノ解禁問題をはかった<ref>[[我妻洋]] 『社会心理学入門(上)』講談社1987:103-104 ISBN 4061588060</ref>。
[[1969年]]から[[1973年]]にかけては、[[手塚治虫]]の[[虫プロダクション#株式会社虫プロダクション(旧虫プロ)|虫プロダクション]]が[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド映画]]から依頼され、大人向けのエロティックな描写をふんだんに用いた『'''[[千夜一夜物語 (1969年の映画)|千夜一夜物語]]'''』『'''[[クレオパトラ (1970年の映画)|クレオパトラ]]'''』『'''[[哀しみのベラドンナ]]'''』の3本から構成される「[[アニメラマ]]3部作」と称した[[アニメ映画]]を製作した。このうち『千夜一夜物語』は大ヒットとなる。
この前後の[[1967年]]から[[1972年]]にかけてフィルム蒐集家の[[杉本五郎 (漫画家)|杉本五郎]]が[[美少女]]をモチーフに複数の[[実験映画]]を自主制作しており、このうち[[剣持加津夫]]による同名の[[少女ヌード写真集]]を基にした[[幻想]]映画『'''[[12歳の神話]]'''』([[1970年]])は先駆的な[[美少女アニメ]]とされる。
前述の「アニメラマ3部作」のヒットに便乗し、1969年には[[実写映画]]『[[江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間]]』の併映で[[スタジオエル|レオ・プロダクション]]の『'''[[(秘)劇画 浮世絵千一夜|㊙劇画 浮世絵千一夜]]'''』が、[[1971年]]には日本ヘラルド映画の企画で[[日本テレビ動画|東京テレビ動画]]の『'''[[ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!]]'''』(原作・[[谷岡ヤスジ]])が上映された。
『㊙劇画 浮世絵千一夜』は[[東映]]系の全国53館の劇場で上映されたが、[[映画倫理機構|映倫]]の審査を通過していたにもかかわらず、[[警視庁]]からは[[わいせつ|猥褻]]な場面を削除するようにとの警告を受けた。また『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』は映倫の審査で11カ所が[[カット]]、[[タイトルバック]]の修正、[[結婚]]という人生の[[墓地|墓場]]で主人公が[[切腹|割腹自殺]]を遂げるラストシーンは前年の[[三島事件]]を連想させるとのことで全面的に撮り直された。そのうえ全く客が入らなかったことから2週予定が1週で打ち切られるなど、この2本の便乗作の内容に対する評価は芳しくなかった<ref name="kasabuta">[http://kiokunokasabuta.web.fc2.com/kiokupink.html 記憶のかさブタ 幻のポルノアニメ特集]</ref>。
[[1972年]]、[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]史上初の[[映画のレイティングシステム#NC-17(No one 17 and under admitted / Adults onl|X指定]] を受けたアダルトアニメ『'''[[フリッツ・ザ・キャット#映画作品|フリッツ・ザ・キャット]]'''』(原作・[[ロバート・クラム]])が[[アメリカ合衆国]]で興行1億ドルを超える大ヒットを記録する。しかし、日本国内での興行成績は全く振るわず、封切1週間で上映が打ち切られた。
また、[[虫プロダクション#株式会社虫プロダクション(旧虫プロ)|虫プロダクション]]が[[1973年]]に公開したアニメロマネスク『哀しみのベラドンナ』も興行的には赤字に終わっており、これが旧虫プロの倒産を招くことになったといわれる。その後、一連の大人向けアニメの失敗は映画業界やアニメ業界に大きな禍根を残すことになり、[[OVA|オリジナルビデオアニメ(OVA)]]が盛んに作られるようになる[[1980年代]]半ばまで[[Made in Japan|日本製]]のアダルトアニメは11年もの長きにわたり姿を消すことになった<ref name="kasabuta"/>。
[[2019年]]現在、上記作品のうち入手可能なものは虫プロダクションの「アニメラマ3部作」と東京テレビ動画の『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』の4作品のみとなっている。また創成期の作品については伝聞資料が乏しく現在もなお不明瞭な部分が多い。
=== 量産期 ===
[[1980年代]]半ば以降になると、[[アダルトビデオ]]の延長線上として、アダルトアニメは[[ビデオテープ]]や[[レーザーディスク|LD]]により量産されるようになる。OVAによる初のアダルトアニメは、[[1984年]]2月にワンダーキッズが制作した[[中島史雄]]原作の『'''[[ロリータアニメ]]雪の紅化粧/少女薔薇刑'''』であるが、これは当時すでに時代遅れだった[[劇画]]調の絵柄で、大ヒットとはならなかった<ref name=ue1>[[上崎洋一|上崎よーいち]]「開封!18禁アニメの世界」『ビデオボーイ』[[英知出版]]、1998年4月号、104頁。</ref>。同作品の制作は[[1979年]]に完了済みであり、発売時期を模索した結果、1984年となった。
その後、同じくワンダーキッズによる中島史雄原作の『'''仔猫ちゃんのいる店'''』が発売された。こちらはデフォルメの効いた絵柄で、アニメファン層にも受け入れられた<ref name=ue1 />。この当時から[[新興キネマ|新興]]のビデオメーカーが独自[[ブランド|レーベル]]を掲げて作品を制作・販売するスタイルが次第に確立され始めるが、タイトルごとのヒットというレベルには至らなかった<ref name=ue1 />。
=== ブレイク期 ===
[[1984年]][[8月]]には[[フェアリーダスト]]から『'''[[くりいむレモン]]'''』シリーズが発売されて大ブームとなり、歴史的にはこれが先駆けといわれる。特にVol.1『'''[[くりいむレモン#くりいむレモンシリーズ|媚・妹・Baby]]'''』のヒロイン・'''亜美'''は、[[レコード]]発売や[[ラジオ番組]]の放送などの[[メディアミックス]]展開を広げ、一種の[[カリスマ]]の様相を呈した<ref name=ue2>上崎よーいち「開封!18禁アニメの世界」『ビデオボーイ』[[英知出版]]、1998年4月号、105-106頁。</ref>。
『媚・妹・Baby』は発表当初、[[日本ビデオ倫理協会]](ビデ倫)の審査を通過後に「修正を加えたもの」と後に「最低限の修正を加えたもの」が製品として混在するに至った。また、Vol.3『'''[[くりいむレモン#くりいむレモンシリーズ|SF・超次元伝説ラル]]'''』は、人間ではなく架空の生物の[[触手]]が相手であることから無修正のままビデ倫審査を通過し、その当時の審査が有効なビデオとLDについては無修正での発売が続けられた<ref group="注">その後に規格制定された、[[ビデオCD]]や[[DVD]]では審査基準が変わっており、修正が行われている。</ref>。また、人気となった『くりいむレモン』シリーズの作品群は、[[富士見書房|富士見文庫(富士見美少女文庫)]]によって[[小説化|ノベライズ]]が手掛けられることになる。これが後の[[ジュブナイルポルノ]]の嚆矢となったとされる。
=== 成熟期 ===
その後、『[[超神伝説うろつき童子]]』などの[[前田俊夫]]原作の[[劇画調]]作品、及びそれを模した作品などの淫獣物や妖獣物がブームとなる。これは[[男性器]]([[陰茎]])を模した、想像上の「獣の[[触手]]」が、女性キャラクターと絡むというもので、規制を回避した作品だが、男性キャラクターを邪魔に思う視聴者との需給が一致し、レンタル、セルを併せて毎回約1万本が売れる高セールスを記録する<ref>上崎よーいち「ビデオトレンド95-96 エロスアニメ」『[[キネマ旬報社|ビデオ・インサイダー・ジャパン]]』[[ギャガ|GAGA]]、1996年3月号、107頁。</ref>。しかし、近年では規制が強くなり、[[女性器]]が描かれていない場面でも、陰茎を連想させる触手そのものにさえも規制がかかるケースが出ており、その存在意義がなくなってきている。
また、[[成人向け漫画]]を原作とした作品の売れ行きが良かったことから、[[麻布リース|TDKコア]]の[[クール・ディバイシスシリーズ]]を中心にそれらの作品が増加した。さらにはその流れから、[[アダルトゲーム]]を原作とした作品も登場し、人気を博した。その中でも[[ピンクパイナップル]]レーベルは人気アダルトゲームを多数アニメ化し、とくに『[[同級生 (ゲーム)|同級生]]』シリーズや『[[遺作 (ゲーム)|遺作]]』シリーズなどの[[エルフ (ブランド)|エルフ]]作品や『[[Piaキャロットへようこそ!!]]』などの[[F&C]]作品、『[[闘神都市|闘神都市II]]』などの[[アリスソフト]]作品といった人気アダルトゲームのアニメ化により、当時のアダルトゲームブームも相まって、それまでの[[アンダーグラウンド]]なイメージだったアダルトアニメを一転させた<ref>上崎よーいち「開封!18禁アニメの世界」『ビデオボーイ』[[英知出版]]、1998年4月号、108-109頁。</ref>。それとともに専門誌も誕生し、それまでは同ジャンルを扱う紙媒体は[[辰巳出版]]の『美少女アニメ大全集』など単発の成人書籍、ムックしかなかった中、[[コアマガジン]]の『[[G-type (雑誌)|G-type]]』が創刊、後発誌も各出版社から刊行された。
=== 近年の動向 ===
[[暴力|バイオレンス]]描写の[[金澤勝眞]]の作品や[[水野和則|桶澤尚]]による[[スカトロ]]描写の『[[夜勤病棟]]』シリーズ、過度な[[飲精]]描写の[[むらかみてるあき]]など、過激化と[[フェティッシュ]]な描写の作品が主流となっている。これはそれまでビデ倫の審査が中心だった<ref>[[上崎洋一]]「DVDアニメオブジェクション」『DVDザ・ワールド』[[コアマガジン]]、2001年8月、41頁。</ref>アダルトアニメにおいて、[[コンピュータソフトウェア倫理機構]](略称・ソフ倫)や[[コンテンツ・ソフト協同組合]](旧・メディア倫理協会、メディ倫)などの、比較的審査の緩い審査団体を選べるようになったことにも一因する。このため「[[Pixy (ブランド)|Pixy]]」や「[[わるきゅ〜れ]]」といった[[インディーズ]]レーベルを中心に作品数の増加も見られており、ヒットしたアダルトゲームについてはアダルトアニメ化を巡る競合が激しくなっている。
その一方で、[[ライトノベル]]・[[漫画|コミック]]や、いわゆる[[メディアミックス]]に関連する各業界の体質的な変化<ref group="注">近年のライトノベルやコミックの市場では、低予算アニメ化には適さない難解な作品にヒット作が偏っている。一方、近年のアニメ業界は制作会社が過当競争に近い乱立状態になっているため、特にアニメ化権を巡る競合の激化も著しく、低予算アニメに適したコンテンツの不足は慢性的なものになっている。</ref>などが背景にあるが、アダルトゲームが原作の作品でも、性描写を排除して一般向けへのメディアミックス企画が展開されるようになり、[[UHFアニメ]]や[[コンシューマゲーム]]機などへの展開も積極的に行われている。これらのことから、収益の期待値がより高い一般向けなコンテンツへの展開を目論んで、アダルトゲームのメーカーがアダルトアニメ化そのものを拒否するなど、人気アダルトゲーム原作のアダルトアニメ化が困難な状況も見られるようになってきている。最近では、子供たちもアダルトゲームをプレイしている傾向になっていることも問題視されている。
深夜アニメが市民権を得た2000年代以降では、概して一般アニメがアダルトアニメと大差ない性的度合いとなった。資金力、開発力の低いアダルトアニメ業界は、同人アニメーターにも技量が劣る低レベルのアニメーターの吹き溜まりのような状況となり、斜陽産業となった。
== 特徴 ==
=== アダルトゲーム原作 ===
[[1980年代]]以降は[[成人向け漫画]]を原作とした作品とオリジナル作品が中心となっていたが、[[1990年代]]後半以降は[[アダルトゲーム]]を原作としたものが増え、漫画・ジュブナイルポルノ原作のものは減少した。そのきっかけとなったのは、ピンクパイナップルの『同級生 夏の終わりに』(原作:エルフ)である。同シリーズは累計10万本を超えるヒットとなった<ref>上崎洋一「G-type編集長・上崎洋一のPinkPineappleを斬る!」『ピンクパイナップルアニメカタログ2004』[[Softgarage|ソフトガレージ]]、2003年12月30日、96頁。</ref>。
[[2006年]]には[[ゑにっく|ひまじん]]の『[[そらのいろ、みずのいろ#アダルトアニメ版|そらのいろ、みずのいろ]]』(原作:[[スペースプロジェクト|Ciel]])の上巻『ダメ……聞こえちゃう♥』が、原作より[[セックス]]シーンに特化させた内容と人気[[アニメーター]]の起用が功を奏し、累計1万本超を記録した。その後、下巻『わたしも……してあげる♥』との累計は4万本超を記録している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.a1c.club/blu-ray-ja-2.html|title=『そらのいろ、みずのいろ Blu-ray版~誰にも言えない……ヒミツの夏♥~』|website=エイ・ワン・シーストア|publisher=[[エイ・ワン・シー]]|accessdate=2022-03-01}}</ref>。
=== 日本国外向けの作品 ===
最近{{いつ|date=2023年1月}}では、『[[A KITE]]』や『[[MEZZO -メゾ-|MEZZO FORTE]]』などのような北米をはじめとする日本国外での販売を前提とした作品が増加しており、[[二ヶ国語放送|二か国語]]処理を施した作品も存在する。一般的なアダルトビデオと大きく異なる点がこれであり、日本での販売作品がそのまま日本国外の市場でも正規流通品として販売されている。また、[[恥部]]([[性器]])や性交の描写に対する規制が緩い国では、作品によっては緻密に描き込んだ性器に[[モザイク処理|モザイク]]をかけないまま販売されている。
しかし、性器の描画はアダルトアニメ特有のもので細かく手間がかかるうえ、「規制のある国」と「規制のない国」で別々に作品管理をしなければならず、メーカー側にコストアップなどの負担が掛かることになる。
=== 出演声優の扱い ===
亜美の人気と当時の[[声優]]ブームをきっかけに声にも注目が集まったが、内容が内容なだけにアダルトアニメの声優の実名(芸名)は表記せず、本名はもとより芸名・その他変名すら表記しないものがほとんどだった。しかし、[[1985年]]発売の『ペロペロキャンデー』は初めて声優のキャストを表記している。また、[[1986年]]には[[宇宙企画]](フレンズレーベル)の『[[リヨン伝説フレア]]』もキャストの公開に踏み切り、同レーベルはすべて声優は芸名で表記されている。しかし、これらはごく少数派であり、現在でも多くのアダルトゲーム・アニメにおいて声優のキャストはまったく公開しないか、あるいは「成人向け」作品のみで用いる「裏名義」の芸名となっている<ref name=ue2 />。
AV女優・AV男優と同様に法規制の関係上、声優としての出演であっても18歳未満の者は出演が禁止されている。
== 審査 ==
日本のアダルトアニメでは、[[b:刑法第175条|刑法175条]]([[わいせつ物頒布罪]])を受けて、性器描写に[[モザイク処理]]がかけられる[[自主規制]]がなされている。この刑法175条については、現状にそぐわない不合理な規制であるから廃止すべきとの批判もあり<ref>{{Cite web|和書|author=[[志田陽子]] |date=2020-07-17 |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/6780da94b0155399c2ffcfb55d66600d25e2ee7b |title=ろくでなし子裁判・最高裁判決は何を裁いたのか ――刑事罰は真に必要なことに絞るべき |publisher=[[Yahoo!ニュース]] |accessdate=2023-03-02}} </ref><ref>{{Cite web|和書|author=小宮自由 |date=2016-05-19 |url=https://agora-web.jp/archives/2019243.html |title=わいせつ物頒布罪は廃止すべきである |publisher=[[アゴラ (メディア)|アゴラ]] |accessdate=2019-09-24 }} </ref>、[[参議院議員]]の[[山田太郎 (参議院議員)|山田太郎]]が刑法175条の見直しを提唱している<ref>{{Cite web|和書|url=https://originalnews.nico/23592/3 |title=「必要な議論を飛ばして表現規制で全ての問題を解決しようとしている」“青少年健全育成基本法”の議論が抱える、そもそもの問題点とは【山田太郎と考える「表現規制問題」第5回】 |website=[[ニコニコニュース]] |publisher=[[ドワンゴ]] |date=2017-06-08 |accessdate=2023-03-02}}</ref>。
ビデ倫による、アダルトビデオと同様の審査を受審し、同協会の基準に従って表現を自主規制している作品が多いが、メーカーによってはコンテンツ・ソフト協同組合(旧・メディア倫理協会、メディ倫)による審査を受審している作品や、自主規制組織による審査を受けていない作品も存在する。2010年現在性描写がなく暴力や犯罪などの反社会的なシーンの描写によって成人指定とされた作品は存在しない。
[[2006年]]4月より[[経済産業省]]の指導で[[コンピュータエンターテインメント協会|CESA]]、コンピュータソフトウェア倫理機構[[日本アミューズメントマシン工業協会]]、[[映倫管理委員会]]、日本ビデオ倫理協会と[[映像コンテンツ倫理連絡会議]](仮称)において、アニメ・実写映画・コンピュータゲームなどに対する審査基準・表示の一本化を協議することが決定しているが、それに伴い、性描写がなくても暴力などの反社会的なシーンを含むアニメも成人指定の可能性がある<ref group="注">コンピュータゲームのレーティングでは、[[2006年]]3月以降[[コンピュータエンターテインメントレーティング機構|CERO]]により18歳未満の者への販売を禁止する区分'''[[CEROレーティング18才以上のみ対象ソフトの一覧|「Z」(18才以上のみ対象)]]'''が設けられた。CEROでは性描写を家庭用ゲームで用いるのを禁止しており、もっぱら過激な暴力や犯罪の描写を含むゲームを「Z」に区分している。</ref>。
== 国外サイト ==
日本国内では性描写全般の規制が厳しく、描写したい画像や動画が[[動画共有サイト]]など日本国外に設置された[[サーバ]]や[[Peer to Peer|P2P]]などで違法アップロードされることもある。
権利者でない第三者([[エンドユーザー]])がアップロードした場合、[[著作権法]]違反に問われる。また、正当な権利者により、無料で視聴が可能にしても、サーバやP2Pにアップロードすると[[わいせつ物頒布等の罪]]などに抵触、仮に、作品の[[著作権フリー|著作権を放棄]]し、無断転載や複製を容認してもわいせつ物頒布等の罪に問われるのは避けられない。
一方、日本国外から配信する場合、日本の法律が適用できず、[[グレーゾーン]]となっているのが現状であるため、これを逆手に取り、アダルトビデオと同様に[[裏ビデオ|無修正]]の海外流通版を製作者と権利関係をクリアしたうえで日本国外に設置されたサーバから配信し、日本語のページも用意された有料動画配信サイトも存在するが、国や作品によっては[[児童ポルノ]]やその他[[反社]]会的な描写(性犯罪や暴力の肯定など)とみなされ、違法となる場合がある。
== 主な作品 ==
{{See also|日本のアダルトアニメ一覧|[[:En:List of adult animated films]]}}
<!-- レーベルやメーカーは50音順に、作品は年代順に記述 -->
=== 1920年代 ===
* [[エヴァレディ・ハートンの埋もれた財宝]] - 現存する世界最古のアダルトアニメ。
* {{仮リンク|ザ・バージン・ウィズ・ザ・ホットパンツ|en|The Virgin with the Hot Pants|label=ザ・バージン・ウィズ・ザ・ホットパンツ}}- 世界初のアダルトアニメ。
=== 1930年代 ===
* [[木村白山]]
** [[すヾみ舟]] - 日本初のアダルトアニメ。
=== 1960年代 ===
* [[国映#日本放送映画|日本放送映画]]
** [[ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!#日放映版『新宿千夜一夜』|新宿千夜一夜]] - [[パイロット版|パイロットフィルム]]のみ。
* [[虫プロダクション]]
** [[千夜一夜物語 (1969年の映画)|千夜一夜物語]]
* [[スタジオエル|レオプロダクション]]
** [[㊙劇画 浮世絵千一夜]] - [[日本映画]]史上初の[[成人映画]]指定を受けた[[アニメーション映画]]。
* {{仮リンク|パー・アーリン|en|Per Åhlin|label=パー・アーリン}}と{{仮リンク|タゲ・ダニエルソン|en|Tage Danielsson|label=タゲ・ダニエルソン}}
** {{仮リンク|老人の頭の外|en|Out of an Old Man's Head|label=老人の頭の外}} - 実写併用で一部がアニメパート。
=== 1970年代 ===
* [[杉本五郎 (漫画家)|杉本五郎]]
** 12歳の神話 - 実写併用で一部がアニメパート。
* 虫プロダクション
** [[クレオパトラ (1970年の映画)|クレオパトラ]]
** [[哀しみのベラドンナ]]
* [[日本テレビ動画|東京テレビ動画]]
** [[ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!]]
* [[ラルフ・バクシ]]
** [[フリッツ・ザ・キャット#映画作品|フリッツ・ザ・キャット]] - [[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]史上初のX指定を受けたアニメーション映画。
* [[六邦映画]]
** 好色日本性豪夜話 - 実写併用で一部がアニメパート。
<!--* [[時報映画社]]
** [[劇画SEX秘聞]] アニメ作品か不確定のためコメントアウト-->
* {{仮リンク|ギバ|it|Gibba|label=ギバ}}
** {{仮リンク|キング・ディック|en|Il nano e la strega|label=キング・ディック}}
* {{仮リンク|チャールズ・スウェンソン|en|Charles Swenson|label=チャールズ・スウェンソン}}
** {{仮リンク|ダウン・アンド・ダーティー・ダック|en|Down and Dirty Duck|label=ダウン・アンド・ダーティー・ダック}}
* {{仮リンク|ピチャ|en|Picha|label=ピチャ}}と{{仮リンク|ボリス・スズルジンガー|en|Boris Szulzinger|label=ボリス・スズルジンガー}}
** {{仮リンク|ターザン ジャングルの恥辱|en|Tarzoon: Shame of the Jungle|label=ターザン ジャングルの恥辱}}
* ドン・ジャーウィッチ
** {{仮リンク|ワンス・アポン・ア・ガール|en|Once Upon a Girl|label=ワンス・アポン・ア・ガール}}
* {{仮リンク|Jordi Amorós|es|Jordi Amorós|label=ジョルジ・アモロ}}
** {{仮リンク|Historias de amor y masacre|es|Historias de amor y masacre|label=Historias de amor y masacre}}
=== 1980年代 ===
:カッコ( )内は当時発売されたソフトの品番。
* [[宇宙企画]]
** [[リヨン伝説フレア]](VHS:FF-02)
** [[バルテュス ティアの輝き]](VHS:FF-10)
** [[ガイ -妖魔覚醒-]](VHS:FF-11)
* オールプロダクツ
** リトルマーメイドシリーズ
** STAGE1 裸足の放課後(VHS:AP-001)
** STAGE2 テレパシスト愛Q315(サイコ)(VHS:AP-002)
** STAGE3 PUNKY FUNKY BABY(VHS:AP-003)
** STAGE4 シャイNing・めい(VHS:AP-004)
: オールプロダクツ(AP社)「リトルマーメイドシリーズ」は廃盤後に株式会社[[バンダイビジュアル|AE企画]]から「シンフォニー 夢・物語」と改題後、"PUNKY FUNKY BABY"を除いた三作品を再編集した上で75分1本の作品としてVHSが先行再リリースされ、LD(No.HOS-1003)も発売された。それらの[[VHS]]とLDは1990年代後半に廃盤後、AE企画とは無関係の別会社からビデオCDが発売され、さらに2006年に株式会社[[ダイソー]]「AVアニメシリーズ」のVOL.19、20、21の三作品として「淫魔列伝」「キャンパスメイト」「スター誕生」と改題され再発売(制作・受審は(株)ニューシネマジャパン)された。
* [[オレンジビデオハウス]]
** [[ドリームハンター麗夢]](VHS:AD-601)- VHS発売の約半年後に別受審のレーザーディスクが発売された。
** ファンタスティックアニメーション [[直子のトロピックエンジェル 〜漂流〜]](VHS:AD-501)- 原案はオレンジビデオハウス社員OLの旅行体験記。
** スーパーアダルトアニメ [[青い体験 (オリジナルビデオ)|青い体験]](VHS:AD-101)- 原作は羽中ルイ。
** スーパーアダルトアニメ ザ・サティスファクション(VHS:AD-202)- 原作は[[あがた有為]]。
** スーパーアダルトアニメ 青い体験2 聖女隊ロストバージン(VHS:AD-701)- 聖女隊のメンバー「真衣」の初体験を基に映像化。
** スーパーアダルトアニメ 堕天使たちの狂宴(VHS:AD-401)- 原作は[[ダーティ・松本]]。
* [[ジャパンホームビデオ]](JHV)
** ロリコン・エンジェル蜜の味(VHS:KA-1014)
** 超能力少女バラバンバ(VHS:KA-1025)- 原作は[[永井豪]]。
** [[くりいむレモン]]スペシャル 〜DARK〜(VHS:KA-1104)- フェアリーダスト以外から発売されたくりいむレモン作品。
** 艶笑 日本昔ばなし(VHS:KA-1170)- 企画・原案はクニ・トシロウ(まんが日本昔ばなし風の和風キャラクターがエッチする。全3話)
* [[正和 (商社)|正和]](SHOWA)
** フルーツバージョン
**#(前編)お姉ちゃんとわたし(VHS:SOW-2007)
**#(後編)お兄ちゃんとわたし(VHS:SOW-2008)
* [[日活|にっかつビデオ]](にっかつビデオフィルムズ)
** ロリータアニメVol.1 [[内山亜紀]]のおビョーキ亜紀ちゃん(VHS:NA-881)- VOL.1とVOL.2のカップリング版LDが発売された。
** ロリータアニメVol.2 内山亜紀のミルクのみ人形(VHS:NA-882)
** ロリータアニメVol.3 内山亜紀のおもらしゴッコ(VHS:NA-883)- VHSのみの発売、LDとBeta版は未発売。
* 東和クリエイション(販売:ビクソン)
** SFロリータファンタジーアニメ OME-1「ペニウス基地は拷問城の巻」(VHS:OMD-001)- 原作・脚本・監督:杉田宣洋
** SFロリータファンタジーアニメ OME-1 Vol.2「モデルさんはソープ嬢の巻」(VHS:OMD-002)- 原作・脚本・監督:杉田宣洋
* ファイブスター
** スケ番商会キューティレモン
**# Part.1 ヴァージンロード(VHS:CA-3005) - ファイブスター版の廃盤後、[[笠倉出版]]版が短期間のみ発売された。
**# Part.2 グラデュエイション(卒業)(VHS:CA-3006)
**# Part.3 ラストセレナーデ(VHS:CA-3007)
* フェアリーダスト(創映新社)
** くりいむレモンシリーズ
* [[白夜書房]](ミルキーズプロジェクト)
** [[魔法のルージュ りっぷ☆すてぃっく]] (VHS:MC-001)- ミルキーチャイルドシリーズとしてリリースされた。
* 富士ビデオ映像
** ミルキィギャル① キャッツ愛-3人の美女たち-(VHS:FA-1)
* 富士アート
** 美少女オリジナルアニメ ペロペロキャンデー(VHS:FAV-001)
** ラブリー・シリーズ 宇宙元年 愛が時を超えてゆく(VHS:FAV-002)
** ラブリー・シリーズ 創世記(VHS:FAV-003)
* レッツ(レッツ映像事業部)
** オリジナルビデオロマンスアニメーション 女子大生 聖子ちゃん(VHS:ANM-1)
** オリジナルビデオロマンスアニメーション オフィスレディー 明菜ちゃん(VHS:ANM-2)
** 20世紀最後のあがき・・・スーパーエロティックアニメ① マドンナ 気持ちいい事して下さい(VHS:BOB-1)
** 20世紀最後のあがき・・・スーパーエロティックアニメ② 姉&妹 気持ちいい事して下さい(VHS:BOB-2)
* ワンダーキッズ
** [[ロリータアニメ]]
**# 雪の紅化粧(原作:[[中島史雄]])(13分)(VHS:W-0001)- 日本初のビデオ用アダルトアニメ。製作と作品自体の完成は1979年だった。
**# 雪の紅化粧/少女薔薇刑(原作:中島史雄)(13分の2作を収録)(VHS:W-0001)
**# 何日子の死んでもいい/いけにえの祭壇(原作:中島史雄)(13分の2作を収録)(VHS:W-0002)
**# 仔猫ちゃんのいる店(原作:[[中島史雄]])(24分)(VHS:W-0003) - 本作より1作品のみ収録の形式でビデオ(VHS&Beta)とLDでリリース。
**# 変奏曲~VARIATION~(原作:[[中島史雄]])(24分)(VHS:W-0008)
**# 仔猫ちゃんPart2 サーフ・ドリーミング(24分)(VHS:W-0009)
**# 総集版:シーサイド・エンジェル MIU(25分)(VHS:WV-128-001) - 下記『生えいずる悩み』の本編の一部が同時収録されている。
*** 生えいずる悩み(23分)- 作品自体は製作されたが製品としては未発売。本編場面写真が当時のアダルトビデオ総覧に掲載されていた。
* AE企画(ネットワーク フロンティア事業部→バンダイビジュアル)
** ボディジャック~楽しい幽体離脱(ノーカット18禁バージョン、35分)(VHS:HOS-1001)- 原案・オリジナルキャラクターデザインは森山塔。VHSのみリリース。LDは未発売。
: 同名、同タイトルの「非アダルト版」は30分でVHS&LDで先行リリースされた。
** シンフォニー 夢・物語(75分)- 元々はオールプロダクツ(AP社)が1983年頃にリリースした「リトルマーメイドシリーズ」4作品の内3作品を再編集し再リリースをした物で、VHSが先行リリースされ、1990年代初頭にLDもリリースされた。
* [[東映ビデオ]](東映)
** 魔物語 愛しのベティ(原作・総監督:小池一夫、制作:ビッグバン、製作:東北新社・東映ビデオ)(VHS:TE-B176)- 1986年劇場公開後にソフト化、R指定作品。VHSとBetaのみリリース。LDは未発売。
=== 1990年代 ===
* 宇宙企画
** [[リヨン伝説フレア|リヨン伝説フレア2]] 禁断の惑星(VHS:FF-12)VHSのみの発売。
** 新リヨン伝説 漆黒の魔神
** 新リヨン伝説 もう一人のフレア
* [[グリーンバニー]]([[ハピネット|ビームエンターテイメント]])
** [[A KITE]]
** [[御先祖賛江]]
** [[Natural -身も心も-|Natural]]
** [[ミッドナイトパンサー]] - 2011年現在、[[少年漫画]]を原作とした唯一のアダルトアニメ。
* [[西崎義展|J.A.V.N]](ジャパン・オーディオ・ビジュアル・ネットワーク)
** [[超神伝説うろつき童子]]シリーズ (原作:[[前田俊夫]]、脚本:[[会川昇]]、企画:[[西崎義展]]、アニメ制作:[[フェニックス・エンタテインメント]])
* [[大映|大映映像]](dez)
** [[妖獣教室]]
** [[淫獣学園|淫獣学園 La☆BlueGirl]]
** [[淫獣聖戦シリーズ]]
*** 聖獣伝 ツインドールズ
*** 淫獣聖戦 ツインエンジェル
*** 淫獣聖戦XX
* [[大陸書房]]
** 微笑女あにめラマ ミユキちゃんSOS -Hしちゃうぞ-(VHS:PV-1151) - 大陸書房製作・発売の実写とアニメの合体作品第1弾。
** せくしいあにめラマ みなみの私のハートにタッチして・・・(VHS:PV-1155)
** せくしいあにめラマ まなみの未知との遭入!? -ムチムチ探偵大冒険-(VHS:PV-1157)
** せくしいあにめラマ ごっくんドール -超次元ピッコちゃん登場!!- (VHS:PV-1164)
* [[ピンクパイナップル]]
** [[遺作 (ゲーム)|遺作]]
** [[臭作]]
* [[リイド社]]
** [[クール・ディバイシスシリーズ]](愛玩少女~LOVER DOLL - 原作はプロトンザウルス など)
=== 2000年代 ===
* ANIMAC
** [[Theガッツ!#OVA|Theガッツ!]]
** [[魔界天使ジブリール]]
* グリーンバニー
** [[ワーズ・ワース]]
** [[MEZZO -メゾ-|MEZZO FORTE]]
** [[大悪司]]
* [[ソフト・オン・デマンド]]
** こわれもの
** 痴漢十人隊
* [[ディスカバリー (アニメレーベル)|ディスカバリー]]
** [[夜勤病棟]]
* [[ナチュラルハイ (企業)|ナチュラルハイ]]
** [[ぼくのぴこ]]
* バニラ
** [[めい・king]]
** [[エンジェルブレイド|ANGEL BLADE]]
* [[ゑにっく|ひまじん]]([[2006年]]まで。[[2007年]]以降は[[エイ・ワン・シー]]傘下の各レーベルが業務を継続)
** [[戦乙女ヴァルキリー「あなたに全てを捧げます」#アニメ|戦乙女ヴァルキリー]]
** Blueシリーズ
** [[そらのいろ、みずのいろ#アダルトアニメ版|そらのいろ、みずのいろ]]
* ピンクパイナップル
** [[顔のない月#アダルトアニメ版|顔のない月 -No Surface Moon THE ANIMATION-]]
** [[愛姉妹 二人の果実]]
** [[鬼作]]
** 制服処女
** 新体操(仮)
** 新・脅迫2
** [[超昂天使エスカレイヤー#OVA|超昂天使エスカレイヤー]]
* ファイブウェイズ(倒産)
** [[緋色の刻]]
** [[こどもの時間]]
* [[ミルキーレーベル|ミルキー]]
** [[Bible Black]]
** [[魔法少女アイ]]
** [[IZUMO (ゲーム)#OVA|IZUMO]]
* れもんは〜と
** [[SeptemCharm まじかるカナン#OVA|SeptemCharm まじかるカナン]]
** [[ロマンスは剣の輝きII#アダルトアニメ|ロマンスは剣の輝きII]]
** [[プリンセスメモリー#OVA|プリンセスメモリー]]
** [[同窓会 (ゲーム)#同窓会again(アニメ)|同窓会again]]
** [[Milkyway#アダルトアニメ|Milkyway]]
** [[メイド イン ドリーム#OVA|メイド イン ドリーム]]
** [[Princess Holiday 〜転がるりんご亭千夜一夜〜#OVA|Princess Holiday 〜転がるりんご亭千夜一夜〜]]
** [[初恋 (ゲーム)|初恋]]
* [[Active (アダルトゲームブランド)|Active]]
** [[HEARTWORK]]
=== 2010年代 ===
* 日本の作品
** ミルキー
*** [[学園催眠隷奴 〜さっきまで、大嫌いだったはずなのに〜|学園催眠隷奴]]
** HILLS
*** [[姫騎士オリヴィア]]([[シルキーズ]]原作)
* アメリカの作品
*** [[ビッグマウス (2017年のテレビアニメ)|ビッグマウス]]
*** [[ボージャック・ホースマン]]
*** [[ラブ、デス&ロボット]]
*** [[リック・アンド・モーティ]]
== メーカー・ブランド ==
=== 活動中のメーカー ===
* [[Softgarage]]/JSDSS
** [[ピンクパイナップル]]
* 株式会社[[エイ・ワン・シー]]
** PoRO petit
** 魔人 petit
** nur
** Collaboration Works
** 2匹目のどぜう
** 鈴木みら乃
* 株式会社[[メディアバンク]]
** WHITE BEAR
** GOLD BEAR
** HOT BEAR
** Queen Bee
** King Bee
* 株式会社ダグダグ
** [[メリー・ジェーン (ブランド)|メリージェーン]]
* [[マリゴールド|株式会社グロー]]
** ばにぃうぉ~か~
** あんてきぬすっ
** こっとんど~る
** L.(エル)
** ガールズト〜ク
* 株式会社インフィニブレイン
** [[Pixy (ブランド)|pixy]]
** ZIZ
* デジタルワークス株式会社
** PashminaA
** VANILLA([[バニラ (アニメレーベル)|バニラ]])
* [[EXNOA]]
** ショーテン
* [[彗星社]]
=== 活動停止したメーカー ===
* [[ミルキーレーベル|ミルキーズピクチャーズ]](解散)
** milky([[ミルキーレーベル|ミルキー]])
** Platinumu milky(プラチナミルキー)
** BOOTLEG(ブートレグ)
** AniMan(アニマン)
** JAM(ジャム)
* 株式会社セブンエイト
** DISCOVERY([[ディスカバリー (アニメレーベル)|ディスカバリー]])
* [[キルタイムコミュニケーション]]
** cranberry(クランベリー)
* 株式会社オーディン
** [[わるきゅ〜れ|わるきゅ~れ++]]
* [[ソフトオンデマンド]]
** [[ソフト・オン・デマンド#過去|37℃・BINETSU]](ビネツ)
* 株式会社[[h.m.p]]
** MOONROCK(ムーンロック)
* [[ケイ・エム・プロデュース]]
** EDGE
** [[宇宙企画]](株式会社メディアステーション)(ケイ・エム・プロデュースと合併)
*** フレンズ
* [[ドリームチケット]]
** [[ちちのや]]
* ジェイ・ブイ・ディー
** ミューズ
* [[ゑにっく]]
** ひまじん
** PrimeTime(プライムタイム)
* [[ハピネット|ビームエンタテインメント]]
** [[グリーンバニー]]
* グルーヴコーポレーション(倒産)
** [[Blue eyes (アニメレーベル)|blue eyes]](ブルーアイズ)
** [[れもんは〜と]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 山口且訓、渡辺泰『日本アニメーション映画史』[[1977年]]、有文社
* [[映画の友]]増刊『ギャルズアニメ』PART1、PART2 [[1984年]]、[[1985年]]、[[近代映画社]]
* [[上崎洋一|上崎よーいち]]「開封!18禁アニメの世界」『[[ビデオボーイ]]』4月号、 [[1998年]]、[[英知出版]]
* [[上崎洋一]]「G-type編集長・上崎洋一のPinkPineappleを斬る!」『ピンクパイナップルアニメカタログ2004』[[2003年]]、[[Softgarage|ソフトガレージ]]
== 関連項目 ==
* [[エロティック・アニメーション]]
* [[成人向け漫画]]
* [[エロ劇画誌]]
* [[成人向けゲーム]]
* [[レイティング]]
{{性}}
{{DEFAULTSORT:あたるとあにめ}}
[[Category:アニメ]]
[[Category:成人向けOVA|*]]
[[Category:アニメのジャンル]]
[[Category:表現規制]]
[[Category:アダルトビデオ]]
[[Category:エロティック・アニメーション]]
[[Category:深夜アニメ]]
[[Category:サブカルチャー]] | 2003-03-08T05:23:51Z | 2023-11-10T09:29:38Z | false | true | false | [
"Template:性的",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Seealso",
"Template:いつ",
"Template:仮リンク",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Dablink",
"Template:性",
"Template:See also",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:JIS2004"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1 |
3,661 | パスネット | パスネット(英称:Passnet)とは、パスネット協議会に加盟する関東地方(主に南関東)の鉄道(私鉄・地下鉄)22社局共通の磁気カードを用いたストアードフェアシステムの総称である。
2000年10月14日に導入された。2008年1月10日の終電をもって販売を終了し、2008年3月14日(一部事業者は2009年3月13日)の終電をもって自動改札機での取り扱いを終了し、2015年3月31日の終電をもって完全に利用を終了した(後述)。
なお、パスネットは一般公募により制定された名称である。
パスネットは、磁気カードによるプリペイドカード式の乗車カードシステムで、カードを自動改札機に投入することで入・出場が可能だった。自動改札機に投入した際に自動的に運賃が精算(減額)された。ただし、入場券としての利用はできなかった。加盟22社局であれば乗り継ぎにも対応しており、最大4社局までの乗り継ぎに対応していた。
同様の関東私鉄・地下鉄による乗車用ICカード「PASMO」導入前の2006年までは加盟社局のパスネット対応路線の駅にある自動券売機、カード自動販売機、駅窓口などで1,000円・3,000円・5,000円の3種類が発売されていた。また、オーダーメイドタイプに限り500円のカードも存在し、主に記念品などの目的で使用されていた。
利用可能エリアは、PASMOと比べるとやや狭く、PASMOが利用可能な鉄道路線の中では東武鉄道の一部無人駅、西武多摩川線、東急世田谷線、横浜新都市交通(現・横浜シーサイドライン)、江ノ島電鉄、伊豆箱根鉄道、都電荒川線、および箱根登山鉄道の塔ノ沢 - 強羅間では利用できず、京浜急行電鉄もシステムの切替の関係で当初は全線で一切使えなかった。また、バスや東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海旅客鉄道(JR東海)では一切使えず、バスと都電荒川線に関してもパスネット導入以前に首都圏でバス共通カードを発売・導入していたほか、JR東日本は東京モノレールとともにSuicaの導入を予定していたため導入されなかった。
なお、パスネットは将来の共通化を目的にJR東日本のイオカードと規格をあわせていた。しかし、結局磁気カードによる共通化は実現せず、一部のJRとの共同使用駅の自動精算機でJR線運賃の精算に使える程度だった。JRと私鉄陣営のSFの相互利用は、2007年3月18日の非接触ICカード乗車券「PASMO」の導入に伴い開始した首都圏ICカード相互利用サービスにより、Suicaとの共通利用が実現した。
カードで乗車する場合、自動改札機に直接投入するだけで入場時に初乗り運賃が前引きされた。相互乗り入れ駅などで複数の初乗り運賃がある場合、前引きはその最低額となった。運賃は加盟社・局線の最安の経路で計算し、出場時に着駅までの運賃の差額分が引き落とされた。このため、残額が初乗り運賃に満たない場合は入場できず、また着駅までの運賃に満たない場合は出場できなかった。ただし、カードの2枚投入が可能な自動改札機では残額が不足するカードと十分な残額のある別のカードとを同時に投入することで前者の残額が後者に引き継がれ入・出場することができた。出場時には自動精算機で現金または他のカードで精算することもできた。また、区間の一部に定期券などを利用した場合には同時投入によって自動精算された。このため、2枚投入が可能な自動改札機の投入口にステッカーが貼付されていた。
駅により、乗り換えなどで一度改札から出る必要がある場合は、出場駅までの運賃に足りている必要があったほか、30分以内に再入場しないと乗り継ぎや割引が打ち切られ、新たに初乗り運賃が差し引かれた。これは同一社線間の乗り換えの場合も同様だが、この場合は経路を指定するものではないので、一旦出場が不要な場合の経路との運賃差は生じなかった。ただし、最安経路計算の例外が存在していた。A駅で乗車し、B駅で一旦出場し、乗り換えてC駅に到着した場合にA駅からB駅までの運賃がA駅からC駅までの運賃より高額である場合(A→B>A→Cの場合に、A→B→Cの経路で乗車する場合)はB駅改札を経由する時点でB駅までの運賃相当額が差し引かれ、C駅で改札から出場する場合も過剰徴収分は戻らなかった。なお、このC駅が改札を通らずに直接行き来できる他社の駅である場合、超過分は他社線運賃として持ち越せた。接続駅までの運賃より多額の乗車券で入場して精算する場合と同様だった。
カードは直接自動改札機に投入できたほか、自動券売機での乗車券・回数券(事業者によっては特急券も)を購入する時にも利用できた。残額不足の場合は現金や別のカードを追加すれば購入できたが、この場合、PASMOやSuicaとは併用できず、残額不足のパスネットを挿入した後にPASMO・Suicaを入れるとPASMO・Suicaの受付が拒否された。また、パスネットではPASMOの購入ができなかったが、その後一部事業者の自動券売機などでカード残額を全額PASMOに移し替えることが可能になった(Suicaへの移し替えは不可)。
イオカードと異なり、自動改札機での入・出場時のみならず、有人改札での入・出場時および自動精算機と自動券売機、有人改札窓口などでの使用時には、それぞれカードの裏面に日付・金額・社局名略称・利用駅名などが印字された。
カードを挿入する向きは一応指定されているが、自動改札機に関してはどの向きで挿入しても問題はない。2枚投入の際に同じ面に合わせ上下逆にして挿入しても問題はなく、同じ向きに揃った状態で出てくる。ただし、通常より処理に少々時間がかかる。
「パスネット」はシステムの名称であり、パスネット協議会ではカードの名前に使わないようにと決めている。そのため、一部の発行元では「SFメトロカード」「Tカード」などカードに固有の名称を付けている。なかには「SFとーぶカード」「SFレオカード」などのように従来のカード名称に「SF」を付ける事業者もあった。しかし、このような固有名称を付けなかった鉄道事業者も多く、これらの各社では案内上「パスネットカード」または「パスネット」という呼称が使われており、それが定着した。また、固有名称を持つ一部の事業者でも後に標記を取りやめている。また、固有名称のロゴがパスネットロゴより縮小されている事業者もある。
2007年6月現在。経緯度はGeocodingで検索したもの。
2007年3月18日からPASMOが導入され普及したことで、パスネット導入各社では記念カードの発売を終了したり、カード自動販売機を撤去したり、記念図柄の通信販売・オーダーメイドカードの受付を終了したりするなどサービスを縮小していった。PASMO開始以前からSuicaを導入・発売している東京臨海高速鉄道ではパスネットをカード自動販売機でのみ販売していたが、PASMOサービス開始時にあわせ自動販売機を撤去し、大井町 - 東京テレポート間の窓口のみでの発売となっていた。
2007年12月21日には、パスネットカードの発売と自動改札機での利用の終了が発表された。
パスネットの販売は2008年1月10日の終電をもって終了し、自動改札機の取り扱いも同年3月14日で終了した。発売は前述のとおり「2008年1月10日の終電まで」であるが、在庫がある場合は同日24時以降も終電時刻までは発売されていたので、券売機で発売されたカードには、発行日が「2008年1月11日」になっているものも存在する(券売機の日付は0時に変更される)。また、舞浜リゾートラインについてはPASMOの導入が遅れたため、ディズニーリゾートライン内の自動改札機での取り扱いをPASMOの導入前日の2009年3月13日まで継続したが、カードの発売については他の事業者と同様に2008年1月10日をもって終了した。
自動券売機・自動精算機などでの利用はこれ以降も継続してきたが、2015年3月31日の終電をもって、これらについてもすべて終了した。また自動改札機での取り扱いを終了した翌日の2008年3月15日より、パスネットで残額のあるカードについて、手数料なしで払い戻しを開始したほか、一部の事業者では手数料なしでカードからPASMOへ残額の移し替えが可能な自動券売機を設置したが、残額移し替えについては自動券売機・自動精算機と同様に2015年3月31日に終了し、払い戻しについては2018年1月31日限りで終了した。
パスネット発売終了以降の取り扱いは、下表の通りである。
通常、パスネットカードは導入事業者の対応路線の駅の自動券売機・窓口や構内売店などで発売されていたが、以下に挙げる場所でも購入することができた。カッコ内はその場所で発売されていたパスネットカードの発行事業者である。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "パスネット(英称:Passnet)とは、パスネット協議会に加盟する関東地方(主に南関東)の鉄道(私鉄・地下鉄)22社局共通の磁気カードを用いたストアードフェアシステムの総称である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "2000年10月14日に導入された。2008年1月10日の終電をもって販売を終了し、2008年3月14日(一部事業者は2009年3月13日)の終電をもって自動改札機での取り扱いを終了し、2015年3月31日の終電をもって完全に利用を終了した(後述)。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "なお、パスネットは一般公募により制定された名称である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "パスネットは、磁気カードによるプリペイドカード式の乗車カードシステムで、カードを自動改札機に投入することで入・出場が可能だった。自動改札機に投入した際に自動的に運賃が精算(減額)された。ただし、入場券としての利用はできなかった。加盟22社局であれば乗り継ぎにも対応しており、最大4社局までの乗り継ぎに対応していた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "同様の関東私鉄・地下鉄による乗車用ICカード「PASMO」導入前の2006年までは加盟社局のパスネット対応路線の駅にある自動券売機、カード自動販売機、駅窓口などで1,000円・3,000円・5,000円の3種類が発売されていた。また、オーダーメイドタイプに限り500円のカードも存在し、主に記念品などの目的で使用されていた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "利用可能エリアは、PASMOと比べるとやや狭く、PASMOが利用可能な鉄道路線の中では東武鉄道の一部無人駅、西武多摩川線、東急世田谷線、横浜新都市交通(現・横浜シーサイドライン)、江ノ島電鉄、伊豆箱根鉄道、都電荒川線、および箱根登山鉄道の塔ノ沢 - 強羅間では利用できず、京浜急行電鉄もシステムの切替の関係で当初は全線で一切使えなかった。また、バスや東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海旅客鉄道(JR東海)では一切使えず、バスと都電荒川線に関してもパスネット導入以前に首都圏でバス共通カードを発売・導入していたほか、JR東日本は東京モノレールとともにSuicaの導入を予定していたため導入されなかった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "なお、パスネットは将来の共通化を目的にJR東日本のイオカードと規格をあわせていた。しかし、結局磁気カードによる共通化は実現せず、一部のJRとの共同使用駅の自動精算機でJR線運賃の精算に使える程度だった。JRと私鉄陣営のSFの相互利用は、2007年3月18日の非接触ICカード乗車券「PASMO」の導入に伴い開始した首都圏ICカード相互利用サービスにより、Suicaとの共通利用が実現した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "カードで乗車する場合、自動改札機に直接投入するだけで入場時に初乗り運賃が前引きされた。相互乗り入れ駅などで複数の初乗り運賃がある場合、前引きはその最低額となった。運賃は加盟社・局線の最安の経路で計算し、出場時に着駅までの運賃の差額分が引き落とされた。このため、残額が初乗り運賃に満たない場合は入場できず、また着駅までの運賃に満たない場合は出場できなかった。ただし、カードの2枚投入が可能な自動改札機では残額が不足するカードと十分な残額のある別のカードとを同時に投入することで前者の残額が後者に引き継がれ入・出場することができた。出場時には自動精算機で現金または他のカードで精算することもできた。また、区間の一部に定期券などを利用した場合には同時投入によって自動精算された。このため、2枚投入が可能な自動改札機の投入口にステッカーが貼付されていた。",
"title": "使用方法"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "駅により、乗り換えなどで一度改札から出る必要がある場合は、出場駅までの運賃に足りている必要があったほか、30分以内に再入場しないと乗り継ぎや割引が打ち切られ、新たに初乗り運賃が差し引かれた。これは同一社線間の乗り換えの場合も同様だが、この場合は経路を指定するものではないので、一旦出場が不要な場合の経路との運賃差は生じなかった。ただし、最安経路計算の例外が存在していた。A駅で乗車し、B駅で一旦出場し、乗り換えてC駅に到着した場合にA駅からB駅までの運賃がA駅からC駅までの運賃より高額である場合(A→B>A→Cの場合に、A→B→Cの経路で乗車する場合)はB駅改札を経由する時点でB駅までの運賃相当額が差し引かれ、C駅で改札から出場する場合も過剰徴収分は戻らなかった。なお、このC駅が改札を通らずに直接行き来できる他社の駅である場合、超過分は他社線運賃として持ち越せた。接続駅までの運賃より多額の乗車券で入場して精算する場合と同様だった。",
"title": "使用方法"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "カードは直接自動改札機に投入できたほか、自動券売機での乗車券・回数券(事業者によっては特急券も)を購入する時にも利用できた。残額不足の場合は現金や別のカードを追加すれば購入できたが、この場合、PASMOやSuicaとは併用できず、残額不足のパスネットを挿入した後にPASMO・Suicaを入れるとPASMO・Suicaの受付が拒否された。また、パスネットではPASMOの購入ができなかったが、その後一部事業者の自動券売機などでカード残額を全額PASMOに移し替えることが可能になった(Suicaへの移し替えは不可)。",
"title": "使用方法"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "イオカードと異なり、自動改札機での入・出場時のみならず、有人改札での入・出場時および自動精算機と自動券売機、有人改札窓口などでの使用時には、それぞれカードの裏面に日付・金額・社局名略称・利用駅名などが印字された。",
"title": "使用方法"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "カードを挿入する向きは一応指定されているが、自動改札機に関してはどの向きで挿入しても問題はない。2枚投入の際に同じ面に合わせ上下逆にして挿入しても問題はなく、同じ向きに揃った状態で出てくる。ただし、通常より処理に少々時間がかかる。",
"title": "使用方法"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "「パスネット」はシステムの名称であり、パスネット協議会ではカードの名前に使わないようにと決めている。そのため、一部の発行元では「SFメトロカード」「Tカード」などカードに固有の名称を付けている。なかには「SFとーぶカード」「SFレオカード」などのように従来のカード名称に「SF」を付ける事業者もあった。しかし、このような固有名称を付けなかった鉄道事業者も多く、これらの各社では案内上「パスネットカード」または「パスネット」という呼称が使われており、それが定着した。また、固有名称を持つ一部の事業者でも後に標記を取りやめている。また、固有名称のロゴがパスネットロゴより縮小されている事業者もある。",
"title": "カード名称について"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "2007年6月現在。経緯度はGeocodingで検索したもの。",
"title": "パスネットが使用できた最端駅"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "2007年3月18日からPASMOが導入され普及したことで、パスネット導入各社では記念カードの発売を終了したり、カード自動販売機を撤去したり、記念図柄の通信販売・オーダーメイドカードの受付を終了したりするなどサービスを縮小していった。PASMO開始以前からSuicaを導入・発売している東京臨海高速鉄道ではパスネットをカード自動販売機でのみ販売していたが、PASMOサービス開始時にあわせ自動販売機を撤去し、大井町 - 東京テレポート間の窓口のみでの発売となっていた。",
"title": "サービスの終了"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2007年12月21日には、パスネットカードの発売と自動改札機での利用の終了が発表された。",
"title": "サービスの終了"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "パスネットの販売は2008年1月10日の終電をもって終了し、自動改札機の取り扱いも同年3月14日で終了した。発売は前述のとおり「2008年1月10日の終電まで」であるが、在庫がある場合は同日24時以降も終電時刻までは発売されていたので、券売機で発売されたカードには、発行日が「2008年1月11日」になっているものも存在する(券売機の日付は0時に変更される)。また、舞浜リゾートラインについてはPASMOの導入が遅れたため、ディズニーリゾートライン内の自動改札機での取り扱いをPASMOの導入前日の2009年3月13日まで継続したが、カードの発売については他の事業者と同様に2008年1月10日をもって終了した。",
"title": "サービスの終了"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "自動券売機・自動精算機などでの利用はこれ以降も継続してきたが、2015年3月31日の終電をもって、これらについてもすべて終了した。また自動改札機での取り扱いを終了した翌日の2008年3月15日より、パスネットで残額のあるカードについて、手数料なしで払い戻しを開始したほか、一部の事業者では手数料なしでカードからPASMOへ残額の移し替えが可能な自動券売機を設置したが、残額移し替えについては自動券売機・自動精算機と同様に2015年3月31日に終了し、払い戻しについては2018年1月31日限りで終了した。",
"title": "サービスの終了"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "パスネット発売終了以降の取り扱いは、下表の通りである。",
"title": "サービスの終了"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "通常、パスネットカードは導入事業者の対応路線の駅の自動券売機・窓口や構内売店などで発売されていたが、以下に挙げる場所でも購入することができた。カッコ内はその場所で発売されていたパスネットカードの発行事業者である。",
"title": "特徴のある発売所"
}
] | パスネットとは、パスネット協議会に加盟する関東地方(主に南関東)の鉄道(私鉄・地下鉄)22社局共通の磁気カードを用いたストアードフェアシステムの総称である。 2000年10月14日に導入された。2008年1月10日の終電をもって販売を終了し、2008年3月14日(一部事業者は2009年3月13日)の終電をもって自動改札機での取り扱いを終了し、2015年3月31日の終電をもって完全に利用を終了した(後述)。 なお、パスネットは一般公募により制定された名称である。 | {{出典の明記|date=2017-07-18|ソートキー=鉄道}}
'''パスネット'''([[英語|英称]]:''Passnet'')とは、パスネット協議会に加盟する[[関東地方]](主に[[南関東]])の[[鉄道]]([[私鉄]]・[[地下鉄]])22社局共通の[[磁気]]カードを用いた[[ストアードフェアシステム]]の総称である。
[[2000年]][[10月14日]]に導入された。2008年1月10日の終電をもって販売を終了し、2008年[[3月14日]](一部事業者は[[2009年]]3月13日)の終電をもって[[自動改札機]]での取り扱いを終了し、2015年3月31日の終電をもって完全に利用を終了した([[#サービスの終了|後述]])<ref name="tokyometro20141215">[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2014/sub_p_201412154809_h.html パスネットの使用終了と残額の払い戻しについて] - パスネット協議会、2014年12月15日</ref>。
なお、パスネットは一般公募により制定された名称である。
== 概要 ==
パスネットは、磁気カードによる[[プリペイドカード]]式の[[乗車カード]]システムで、カードを[[自動改札機]]に投入することで入・出場が可能だった。自動改札機に投入した際に自動的に[[運賃]]が精算(減額)された。ただし、[[入場券]]としての利用はできなかった。加盟22社局であれば乗り継ぎにも対応しており、最大4社局までの乗り継ぎに対応していた。
同様の関東私鉄・地下鉄による乗車用[[ICカード]]「[[PASMO]]」導入前の[[2006年]]までは加盟社局のパスネット対応路線の駅にある[[自動券売機]]、カード[[自動販売機]]、駅窓口などで1,000円・3,000円・5,000円の3種類が発売されていた。また、[[オーダーメイド]]タイプに限り500円のカードも存在し、主に[[ノベルティ|記念品]]などの目的で使用されていた。
利用可能エリアは、PASMOと比べるとやや狭く、PASMOが利用可能な鉄道路線の中では[[東武鉄道]]の一部[[無人駅]]、[[西武多摩川線]]、[[東急世田谷線]]、横浜新都市交通(現・[[横浜シーサイドライン]])、[[江ノ島電鉄]]、[[伊豆箱根鉄道]]、[[都電荒川線]]、および[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山鉄道]]の[[塔ノ沢駅|塔ノ沢]] - [[強羅駅|強羅]]間では利用できず、[[京浜急行電鉄]]もシステムの切替の関係で当初は全線で一切使えなかった。また、[[路線バス|バス]]や[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)、[[東海旅客鉄道]](JR東海)では一切使えず、バスと都電荒川線に関してもパスネット導入以前に首都圏で[[バス共通カード]]を発売・導入していたほか、JR東日本は[[東京モノレール]]とともに[[Suica]]の導入を予定していたため導入されなかった。
なお、パスネットは将来の共通化を目的にJR東日本の[[イオカード]]と規格をあわせていた。しかし、結局磁気カードによる共通化は実現せず、一部のJRとの[[共同使用駅]]の[[自動精算機]]でJR線運賃の精算に使える程度だった。JRと私鉄陣営のSFの相互利用は、[[2007年]][[3月18日]]の非接触ICカード乗車券「PASMO」の導入に伴い開始した[[首都圏ICカード相互利用サービス]]により、Suicaとの共通利用が実現した。
== 使用方法 ==
カードで乗車する場合、自動改札機に直接投入するだけで入場時に初乗り運賃が前引きされた。相互乗り入れ駅などで複数の初乗り運賃がある場合、前引きはその最低額となった。運賃は加盟社・局線の最安の経路で計算し、出場時に着駅までの運賃の差額分が引き落とされた。このため、残額が初乗り運賃に満たない場合は入場できず、また着駅までの運賃に満たない場合は出場できなかった。ただし、カードの2枚投入が可能な自動改札機では残額が不足するカードと十分な残額のある別のカードとを同時に投入することで前者の残額が後者に引き継がれ入・出場することができた。出場時には自動精算機で現金または他のカードで精算することもできた。また、区間の一部に[[定期乗車券|定期券]]などを利用した場合には同時投入によって自動精算された。このため、2枚投入が可能な自動改札機の投入口にステッカーが貼付されていた。
駅により、乗り換えなどで一度改札から出る必要がある場合は、出場駅までの運賃に足りている必要があったほか、30分以内に再入場しないと乗り継ぎや割引が打ち切られ、新たに初乗り運賃が差し引かれた。これは同一社線間の乗り換えの場合も同様だが、この場合は経路を指定するものではないので、一旦出場が不要な場合の経路との運賃差は生じなかった。<!--また、[[東急東横線]]→[[渋谷駅]]一旦出場→[[東京メトロ半蔵門線]]→「[[中目黒駅]]または[[目黒駅]]経由の方が安い東京メトロ線の駅」という経路の場合でも、渋谷駅接続の扱いにはならない(この場合、半蔵門線ではなく同一構内の[[東急田園都市線]]への連絡と見なされるため)。-->ただし、最安経路計算の例外が存在していた。'''A駅で乗車し、B駅で一旦出場し、乗り換えてC駅に到着'''した場合にA駅からB駅までの運賃がA駅からC駅までの運賃より高額である場合(A→B>A→Cの場合に、A→B→Cの経路で乗車する場合)はB駅改札を経由する時点でB駅までの運賃相当額が差し引かれ、C駅で改札から出場する場合も過剰徴収分は戻らなかった。なお、このC駅が改札を通らずに直接行き来できる他社の駅である場合、超過分は他社線運賃として持ち越せた。接続駅までの運賃より多額の乗車券で入場して精算する場合と同様だった。
カードは直接自動改札機に投入できたほか、自動券売機での[[乗車券]]・[[回数乗車券|回数券]](事業者によっては[[特別急行券|特急券]]も)を購入する時にも利用できた。残額不足の場合は現金や別のカードを追加すれば購入できたが、この場合、PASMOやSuicaとは併用できず、残額不足のパスネットを挿入した後にPASMO・Suicaを入れるとPASMO・Suicaの受付が拒否された。また、パスネットではPASMOの購入ができなかったが、その後一部事業者の自動券売機などでカード残額を全額PASMOに移し替えることが可能になった(Suicaへの移し替えは不可)。
イオカードと異なり、自動改札機での入・出場時のみならず、有人改札での入・出場時および自動精算機と自動券売機、有人改札窓口などでの使用時には、それぞれカードの裏面に日付・金額・社局名略称・利用駅名などが印字された。
カードを挿入する向きは一応指定されているが、自動改札機に関してはどの向きで挿入しても問題はない。2枚投入の際に同じ面に合わせ上下逆にして挿入しても問題はなく、同じ向きに揃った状態で出てくる。ただし、通常より処理に少々時間がかかる。
== カード名称について ==
「パスネット」はシステムの名称であり、パスネット協議会ではカードの名前に使わないようにと決めている。そのため、一部の発行元では「SFメトロカード」「Tカード」などカードに固有の名称を付けている。なかには「SFとーぶカード」「SFレオカード」などのように従来のカード名称に「SF」を付ける事業者もあった。しかし、このような固有名称を付けなかった鉄道事業者も多く、これらの各社では案内上「パスネットカード」または「パスネット」という呼称が使われており、それが定着した。また、固有名称を持つ一部の事業者でも後に標記を取りやめている。また、固有名称のロゴがパスネットロゴより縮小されている事業者もある。
== 歴史 ==
* [[1996年]]([[平成]]8年)[[3月26日]] - [[東京都交通局]](都営地下鉄)の[[Tカード]]と[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄、現在の東京メトロ)の[[メトロカード (東京)|SFメトロカード]]の共通化がなされる。SFはStored Fareの略。
* [[1999年]](平成11年)10月 - 一般公募により共通乗車カードの愛称を募集。この時に「私たちのパスポートが誕生します。」というコメントがポスターに掲載される。
* [[2000年]](平成12年)
** 7月 - 共通乗車カードの愛称が「パスネット」に決定し、同時に運用開始日を10月14日にすることを発表。この時に「10月14日、私たちのパスネットが誕生します。」というコメントがポスターに掲載される。
** [[10月14日]] - パスネットの運用が開始された。この時点で導入したのは営団地下鉄・[[小田急電鉄]]・[[京王電鉄]]・[[京成電鉄]]・[[相模鉄道]]・[[新京成電鉄]]・[[西武鉄道]]・[[多摩都市モノレール]]・[[東京急行電鉄]]・[[東京臨海高速鉄道]]・[[東武鉄道]]・[[東葉高速鉄道]]・都営地下鉄・[[北総鉄道|北総開発鉄道]]・[[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]]・[[横浜高速鉄道]]([[東急こどもの国線|こどもの国線]])・[[横浜市交通局]]([[横浜市営地下鉄]])の17社・局だった。なお、導入予告のポスターには一般公募の募集告知を含めて[[遠藤久美子]]が起用されていた。
*** なお、新京成の[[SKカード]]、ゆりかもめの[[かもめカード]]、多摩モノレールの[[多摩モノレールカード]]もそのままパスネットとして使用できた。各社とも初期発行分には一部使用できないものもあったが、発行会社に持って行けば無料で新しいカードまたは現金と交換することができた。また、横浜市交通局の[[マリンカード]]はパスネットとしては使えなかった。
*** [[京浜急行電鉄]]は[[ルトランカード]]で前引きされないストアードフェアシステムを採用しており、切り替えが一斉導入に間に合わなかったため、当初は不参加だった。
*** [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)は、[[ICカード]]「[[Suica]]」を開発中との理由でパスネット協議会に参加しなかった。[[東京モノレール]]も当初は参加を検討していたが、[[浜松町駅]]での乗り継ぎが多いJRと共通化を選択したため、2001年[[9月4日]]に不参加が発表された。
** [[12月20日]] - 京浜急行電鉄がパスネットを導入<ref>{{Cite news |title=京急が12月20日 前倒し導入 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2000-11-02 |page=3 }}</ref>。当初は2001年の導入を予定していたが、羽田空港駅(現・[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]])の開業で利用客が急増したために前倒しとなる。そのため、導入当初は利用できる自動改札機は限定され、自動券売機での使用もできなかった。
* [[2001年]](平成13年)
** [[3月28日]] - [[埼玉高速鉄道線]]の開業により[[埼玉高速鉄道]]に導入された。
** [[7月27日]] - [[舞浜リゾートラインディズニーリゾートライン|ディズニーリゾートライン]]の開業により[[舞浜リゾートライン]]に導入された。
* [[2003年]](平成15年)[[3月19日]] - [[箱根登山鉄道]]の[[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線]][[小田原駅|小田原]] - [[箱根湯本駅|箱根湯本]]間に導入された。
* [[2004年]](平成16年)[[2月1日]] - 横浜高速鉄道の[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]が開業し、パスネットに対応した。
* [[2005年]](平成17年)頃 - [[江ノ島電鉄]]・横浜新都市交通(現・[[横浜シーサイドライン]])・[[関東鉄道]]・[[千葉都市モノレール]]がパスネット協議会に参加。ただし、これらの会社は[[PASMO]]のみの導入予定であったことから、パスネットは導入しなかった。
* 2005年(平成17年)[[8月24日]] - [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]の開業により[[首都圏新都市鉄道]]に導入された。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]] - 非接触型ICカード「PASMO」が[[バス共通カード]]発行事業者と共同で導入され、Suicaとの相互利用が開始される。これにより、パスネットの取り扱いが縮小された。
* [[2008年]](平成20年)
** [[1月10日]] - パスネットの販売を終了。
** [[3月14日]] - 舞浜リゾートライン以外の各事業者が自動改札機でのパスネット利用を終了した。
* [[2009年]](平成21年)
** [[3月13日]] - 舞浜リゾートラインの自動改札機でのパスネット利用が終了した。全事業者で自動改札機での利用が廃止され、自動券売機・精算機での利用等に使用範囲が限定された。
* [[2014年]](平成26年)[[12月15日]] - パスネット協議会が、自動券売機等における利用を2015年(平成27年)3月31日をもって終了、払い戻しの取り扱いを2018年(平成30年)1月31日をもって終了すると発表。
* [[2015年]](平成27年)[[3月31日]] - 券売機・精算機でのパスネットの利用終了。
* [[2018年]](平成30年)[[1月31日]] - この日限りで払い戻しを終了し、パスネットに関するすべての取扱いを終了。
== 導入事業者一覧 ==
* 漢字略称Aは乗車駅の事業者名としてカード裏面に印字される文字。残額不足で新カードに残額引き継ぎの際に他会社路線への連絡割引が適用される場合に用いられる。ただし、事業者名のみが印字され、駅名などは印字されない。
* 漢字略称Bは乗車駅の事業者名としてカード裏面に印字される文字。後ろに駅名の略称が続く。
* 英字略称は降車駅の事業者名としてカード裏面に印字される文字。後ろに駅名の略称が続く。
* オーダーメイドカードの欄は、オーダーメイドカードの有無を示す。
* ―は設定がないことを示す。
{| class="wikitable"
!事業者名!!漢字略称A!!漢字略称B!!英字略称!!カード名称!!オーダーメイドカード
|-
|[[東京地下鉄]]<ref group="注" name="n1">[[東京メトロ千代田線|千代田線]][[北千住駅|北千住]] - [[綾瀬駅|綾瀬]]間の乗車にはPASMO導入以前からSuicaやICOCAも利用可能だった。</ref>||メトロ||地||ME||[[メトロカード (東京)|SFメトロカード]]||○
|-
|[[小田急電鉄]]||小田急||小||OE||<ref group="注" name="n9">パスネット開始前に[[ロマンスカード]]という金券カードを発行していたが、パスネット対応のカードにこの名前を引き継がなかった。なお、案内上は「共通乗車カード」と称する。</ref>||
|-
|[[京王電鉄]]||京王||京王||KO||||○
|-
|[[京成電鉄]]||京成||京成||KS||||
|-
|[[埼玉高速鉄道]]||埼玉高速||埼||SR||||
|-
|[[相模鉄道]]||相模鉄道||相鉄||ST||[[ぽけっとカード|SFぽけっとカード]]||
|-
|[[新京成電鉄]]||新京成||SK||SK||[[SKカード]]||
|-
|[[西武鉄道]]<ref group="注" name="n2">[[西武多摩川線|多摩川線]]を除く。同線は初代レオカードを除き自動券売機でも利用できなかった。</ref>||西武||西武||SB||[[レオカード|SFレオカード]]||
|-
|[[多摩都市モノレール]]||―||多モ||―||[[多摩モノレールカード]]||
|-
|[[東京急行電鉄]]<ref group="注" name="n3">[[東急世田谷線|世田谷線]]を除く。</ref> ||東急||東急||TK||||△<ref group="注" name="n10">[[東急グループ]]の渋谷地下街が運営するフォトショップ「東急ジャンボー」で取り扱っていた。このタイプのものは1枚からでも製作が可能になっていた。</ref>
|-
|[[東京臨海高速鉄道]]<ref group="注" name="n4">自動券売機や自動精算機では利用できなかった。</ref>||―||臨||―||||
|-
|[[東武鉄道]]<ref group="注" name="n5">[[群馬県]]や[[栃木県]]のローカル線区では自動改札機未設置駅があるため、駅員配置駅で利用する場合は駅員に入・出場の処理をしてもらい、また駅員無配置の24駅では乗車する場合に乗車駅・降車駅証明書を使用し駅員配置駅で処理を受け、降車を予定する場合は事前に自動券売機で乗車券を購入する形をとっていた。ただし、[[伊勢崎駅|伊勢崎]]と[[越生駅|越生]]の両駅の自動券売機はすべてJR東日本タイプのものになっているため、パスネットは使用できないが、後に導入したPASMOと現金または[[オレンジカード]]・イオカード・Suica・[[ICOCA]]・[[TOICA]]のいずれかで乗車券を購入することができる。</ref>||東武||東武||TB||[[とーぶカード|SFとーぶカード]]||○
|-
|[[東葉高速鉄道]]||東葉高速||東葉||TR||||○<ref group="注" >本社扱いで1枚から製作できた。</ref>
|-
|[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])||東京都交||都||TO||[[Tカード]]<ref group="注" >[[2008年]][[3月30日]]に開業した[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]では[[日暮里駅]]の有人改札窓口を除き一切使用できない。</ref>||
|-
|[[横浜市交通局]]([[横浜市営地下鉄]])||―||市||―||<ref group="注" name="n12">以前から[[マリンカード]]という乗車カードを発行していたが、システムや利用可能範囲が異なっていた。パスネット対応のカードは名称設定なし。また、2008年3月30日に開業した[[横浜市営地下鉄グリーンライン|グリーンライン]]では[[センター北駅|センター北]]・[[センター南駅|センター南]]の両駅(自動券売機・自動精算機のみ対応)を除き一切使用できない。</ref>||
|-
|[[北総鉄道]]||北総鉄道||北総||HK||[[ほくそうパッスルカード]]||
|-
|[[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]]||―||ゆ||YU||[[かもめカード]]||
|-
|[[京浜急行電鉄]]||京浜急行||京急||KQ||[[ルトランカード]]<ref group="注" name="n13">初代ルトランカードは裏面の印字が1列になっていたなど、異なるシステムだった。パスネット導入開始当初はパスネット対応のカードについて名称を設定していなかったが、初代ルトランカードの発売終了後にパスネット対応のカードにルトランカードの名称とロゴを引き継いでいる。</ref>||
|-
|[[舞浜リゾートライン]]<ref group="注" name="n6">印字の際に駅ごとに[[リゾートゲートウェイ・ステーション駅|MRCA]]・[[東京ディズニーランド・ステーション駅|MRCB]]・[[ベイサイド・ステーション駅|MRCC]]・[[東京ディズニーシー・ステーション駅|MRCD]]を使っている。自動券売機での表示はプリペイドカード。</ref>||―||(MRC)||(MRC)||[[ディズニーリゾートライン・カード]]||
|-
|[[箱根登山鉄道]]<ref group="注" name="n7">対応区間は親会社の小田急電鉄からの列車が乗り入れる鉄道線の小田原 - 箱根湯本間のみで、同社の駅で発売したカードも発行者は小田急電鉄だった。</ref>||箱根登山||―||―||
|-
|[[横浜高速鉄道]]||横浜高速||―||YM||||
|-
|[[首都圏新都市鉄道]]||―||TX||TX||[[TXカード]]||
|-
<!-- |[[横浜新都市交通]]<ref name="n8">PASMO導入時に参加予定。</ref>||||||
|-
|[[江ノ島電鉄]]<ref name="n8" />||||||||||
|-
|[[関東鉄道]]<ref name="n8" />||||||||||
|-
|[[千葉都市モノレール]]<ref name="n8" />||||||||||
|- -->
|([[帝都高速度交通営団]])<ref group="注" name="n1" />||交通営団||営||EI||NSメトロカード、[[メトロカード (東京)|SFメトロカード]]||
|}
== パスネットが使用できた最端駅 ==
2007年6月現在。経緯度は[http://www.geocoding.jp/ Geocoding]で検索したもの。
*東端:[[京成電鉄]][[成田空港駅]]([[千葉県]][[成田市]])(経度 東経140度23分)
*西端:[[箱根登山鉄道]][[箱根湯本駅]]([[神奈川県]][[足柄下郡]][[箱根町]])(経度 東経139度6分)※対応券売機未設置<ref group="注" >対応券売機設置駅の西端は[[西武鉄道]][[西武秩父駅]]([[埼玉県]][[秩父市]])で、経度は東経139度5分。</ref>
*南端:[[京浜急行電鉄]][[三崎口駅]](神奈川県[[三浦市]])(緯度 北緯35度10分)
*北端:[[東武鉄道]][[新藤原駅]]([[栃木県]][[日光市]])(緯度 北緯36度51分)
== サービスの終了 ==
2007年3月18日からPASMOが導入され普及したことで<ref group="注" >なお、パスネットは一部を除き導入している各社・局が発行していたが、PASMOに関しては[[パスモ|株式会社パスモ]]が一括して発行している。</ref>、パスネット導入各社では記念カードの発売を終了したり、カード自動販売機を撤去したり、記念図柄の通信販売・オーダーメイドカードの受付を終了したりするなどサービスを縮小していった。PASMO開始以前からSuicaを導入・発売している[[東京臨海高速鉄道]]ではパスネットをカード自動販売機でのみ販売していたが、PASMOサービス開始時にあわせ自動販売機を撤去し、[[大井町駅|大井町]] - [[東京テレポート駅|東京テレポート]]間の窓口のみでの発売となっていた。
2007年[[12月21日]]には、パスネットカードの発売と自動改札機での利用の終了が発表された<ref>{{PDFlink|[http://www.pasmo.co.jp/corporate/press/pdf/071221a.pdf パスネットの発売終了及び自動改札機での使用終了について]}} - パスネット協議会、2007年12月21日{{リンク切れ|date=2020年10月}}</ref>。
パスネットの販売は[[2008年]][[1月10日]]の終電をもって終了し、自動改札機の取り扱いも同年[[3月14日]]で終了した。発売は前述のとおり「2008年1月10日の終電まで」であるが、在庫がある場合は同日24時以降も終電時刻までは発売されていたので、券売機で発売されたカードには、発行日が「2008年1月11日」になっているものも存在する(券売機の日付は0時に変更される)。また、[[舞浜リゾートライン]]についてはPASMOの導入が遅れたため、[[舞浜リゾートラインディズニーリゾートライン|ディズニーリゾートライン]]内の自動改札機での取り扱いをPASMOの導入前日の2009年3月13日まで継続したが、カードの発売については他の事業者と同様に2008年1月10日をもって終了した。
自動券売機・自動精算機などでの利用はこれ以降も継続してきたが、2015年3月31日の終電をもって、これらについてもすべて終了した<ref name="tokyometro20141215" />。また自動改札機での取り扱いを終了した翌日の2008年[[3月15日]]より、パスネットで残額のあるカードについて、手数料なしで払い戻しを開始したほか、一部の事業者では手数料なしでカードからPASMOへ残額の移し替えが可能な自動券売機を設置したが、残額移し替えについては自動券売機・自動精算機と同様に2015年3月31日に終了し、払い戻しについては2018年1月31日限りで終了した<ref name="tokyometro20141215" />。
パスネット発売終了以降の取り扱いは、下表の通りである。
{| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" class="wikitable"
|-
|'''日付'''
|'''販売の可否'''
|'''自動改札機での利用'''
|'''自動券売機・自動精算機<br />有人改札での利用'''
|'''PASMOへの残額引き継ぎ''' ※2
|'''無手数料での払い戻し'''
|-
| - 2008年1月10日終電
|style="background:lightblue; text-align:center;"|○
|style="background:lightblue; text-align:center;" rowspan='2'|○
|style="background:lightblue; text-align:center;" rowspan='3'|○
|rowspan='2' style="background:pink; text-align:center;"|×
|rowspan='2' style="background:pink; text-align:center;"|×
|-
|2008年[[1月11日]]始発 - <br />2008年3月14日終電
|rowspan='3' style="background:pink; text-align:center;"|×
|-
|2008年[[3月15日]]始発 - <br />2015年3月31日
|style="background:pink; text-align:center;"|× ※1
|style="background:lightblue; text-align:center;"|○ ※3
|rowspan='2' style="background:lightblue; text-align:center;"|○
|-
|2015年4月1日 - <br />2018年1月31日
|colspan='3' style="background:pink; text-align:center;"|× ※4
|-
|2018年2月1日 -
|colspan='5' style="background:pink; text-align:center;"|×
|}
:※1 … 舞浜リゾートラインのみ、2009年3月13日終電まで自動改札機での取り扱いを継続。
:※2 … 東京都交通局・東京地下鉄・京王電鉄・西武鉄道・東京急行電鉄・東武鉄道・京浜急行電鉄・新京成電鉄・横浜高速鉄道・首都圏新都市鉄道において実施。
:※3 … 京王電鉄と東京急行電鉄は2008年3月1日より、西武鉄道は2008年3月5日より先行してPASMOへの残額引き継ぎを実施している。
:※4 … すべての機器での利用を終了。
== 特徴のある発売所 ==
通常、パスネットカードは導入事業者の対応路線の駅の[[自動券売機]]・窓口や構内[[売店]]などで発売されていたが、以下に挙げる場所でも購入することができた。カッコ内はその場所で発売されていたパスネットカードの発行事業者である。
*[[松坂屋]]:銀座店地下2階(東京地下鉄)
*[[伊勢丹]]:本店(東京地下鉄)
*[[小田急百貨店]](小田急電鉄)
*[[サークルKサンクス]]:新橋ゆりかもめ店(ゆりかもめ)・西早稲田店(東京都交通局)
*[[ファミリーマート]]:[[ファミリーマート#その他店舗|東大正門前店]](東京都交通局)
*[[ローソン]]:[[PePe|西武新宿店]](東京都交通局)
*[[東京都議会|東京都議会議事堂]](東京都交通局)
*[[小田急バス]]案内所(小田急電鉄)
*[[はとバス]]案内所(東京都交通局)
*住建ハウジング([[中野区]][[中央 (中野区)|中央]]、東京都交通局)
*[[宮崎交通]]:[[宮崎県]]内各案内所(東武鉄道)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[乗車カード]]
* [[Suica]]
* [[バス共通カード]]
* [[PASMO]]
== 外部リンク ==
{{パスネット}}
{{PASMO}}
{{DEFAULTSORT:はすねつと}}
[[Category:乗車カード発行団体]]
[[Category:廃止されたプリペイドカード]] | null | 2022-01-05T20:07:45Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite news",
"Template:PDFlink",
"Template:リンク切れ",
"Template:パスネット",
"Template:PASMO"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%B9%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88 |
3,665 | SCO | SCOは、コンピュータ業界のブランド名である。2001年にSCOブランドは旧SCO社から離れ、直接関係のない別会社が(新)SCO社となった。2社とも本項で説明する。
1979年に創立。社名のサンタクルーズとは、アメリカ合衆国カリフォルニア州にある都市名に由来する。
1983年、マイクロソフトと共同で開発したインテルx86プロセッサ向けのUNIX実装であるSCO Xenix System VをAT&Tのライセンス下でリリースした。
1991年、Open Desktopの漢字バージョン「漢字Open Desktop」(80386/80486をCPUとして搭載したパーソナルコンピュータ上で動作するSCO UNIX SystemV/386 Release3.2にグラフィカルユーザインターフェイスのOSF/Motifを装備した統合化UNIXを日本語化したもの)を開発、OEM提供を開始した。
1995年、当時AT&TのUNIXの資産を入手していたノベルからUNIXの権利とUnixWareビジネスを譲り受け、以後UNIXのライセンサとなる。
2001年、UNIX資産の全てとSCOブランドの権利を Caldera Systems, Inc.に売却、社名もTarantella Inc.に改称。
The SCO Group, Inc.(SCOグループ)は、アメリカ合衆国ユタ州に本拠を置くソフトウェア企業である。 1994年 元ノベルの社員が、カルデラ社 (Caldera Inc.) としてユタ州で創立。Linuxディストリビューションの一つであるThe Caldera Network Desktop、MS-DOS互換のDR-DOSなどを販売していた。 1998年にCaldera Systems,Inc.を設立し、ビジネス向けLinux市場に参入。組み込み向けLinuxとDR-DOSの部門を分社化し、Caldera SystemsをNASDAQに上場。 2001年5月7日、株式上場で得た資金をもとに、オープンLinuxビジネス戦略の一環としてThe Santa Cruz Operation,Inc.(現在の Tarantella Inc. )からUNIX資産とSCOブランドを買収。以後UNIXの諸権利を所有していると主張している。 2002年8月26日、オープンLinux戦略の行き詰まりから既存ブランドの有効活用としてCaldera International,Inc.からThe SCO Group,Inc.への改称を発表した。Solaris,HP-UXなどUNIXのライセンスはSCOとのライセンス契約により配付され、SCO UNIXと言われる、インテルプロセッサで動くUNIXシステムを販売している。 2007年9月14日、SCOグループは米国連邦倒産法第11章の適用申請を行った。 2009年1月 SCOグループはUNIX事業とモバイル事業を競売にかける計画を表明した。
日本SCO株式会社は、 The SCO Group, Inc. の日本法人である。 2001年5月31日にカルデラ株式会社として設立。 2003年1月1日、親会社の改称に合わせ現在の商号に変更した。
2003年3月7日、SCOグループはIBMがSCO社のUNIXコードに基づく機能をLinuxに不正に組み込んだとして同社を提訴し、後にIBMのUNIXであるAIXに対するライセンス契約を破棄した。IBMもこれに対し反訴した。 SCOはIBM以外にもLinuxのディストリビュータやエンドユーザにも自社の権利に基づくライセンス料の支払いを要求するなどし、これに怒ったLinuxの熱狂的な支持者からと思われるDDos攻撃を受けたり、ウェブサイトを改ざんされたりした。しかしこのことがオープンソースの権利問題に関して一石を投じた形になった。 しかしながら、旧サンタクルズオペレーション社とノベルとの契約ではUNIX資産がノベルから完全には譲渡されていなかったとされ、このため現SCOの所有するUNIXに関する権利の範囲が問題となり、Linuxにおける裁判の焦点のひとつになった。 同社は証拠の提出を渋り、GPLを無効と主張するなどしたために、2006年11月30日に訴訟事由の根拠なしと判断されて主張の大半が棄却された。さらに2007年8月10日にユタ州連邦裁判所は「UNIXの著作権はノベルにある」との判決を下した。しかし2009年8月の控訴審では、地裁判決を覆し「UNIXの著作権はSCOにある」との判決が下された。2010年3月の連邦地裁での陪審員裁定において、再度UNIXの著作権はノベルにあるとされた。2010年6月、結審をうけて、ノベルは訴訟で勝利したと発表した。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "SCOは、コンピュータ業界のブランド名である。2001年にSCOブランドは旧SCO社から離れ、直接関係のない別会社が(新)SCO社となった。2社とも本項で説明する。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "1979年に創立。社名のサンタクルーズとは、アメリカ合衆国カリフォルニア州にある都市名に由来する。",
"title": "The Santa Cruz Operation, Inc."
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "1983年、マイクロソフトと共同で開発したインテルx86プロセッサ向けのUNIX実装であるSCO Xenix System VをAT&Tのライセンス下でリリースした。",
"title": "The Santa Cruz Operation, Inc."
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "1991年、Open Desktopの漢字バージョン「漢字Open Desktop」(80386/80486をCPUとして搭載したパーソナルコンピュータ上で動作するSCO UNIX SystemV/386 Release3.2にグラフィカルユーザインターフェイスのOSF/Motifを装備した統合化UNIXを日本語化したもの)を開発、OEM提供を開始した。",
"title": "The Santa Cruz Operation, Inc."
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "1995年、当時AT&TのUNIXの資産を入手していたノベルからUNIXの権利とUnixWareビジネスを譲り受け、以後UNIXのライセンサとなる。",
"title": "The Santa Cruz Operation, Inc."
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "2001年、UNIX資産の全てとSCOブランドの権利を Caldera Systems, Inc.に売却、社名もTarantella Inc.に改称。",
"title": "The Santa Cruz Operation, Inc."
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "The SCO Group, Inc.(SCOグループ)は、アメリカ合衆国ユタ州に本拠を置くソフトウェア企業である。 1994年 元ノベルの社員が、カルデラ社 (Caldera Inc.) としてユタ州で創立。Linuxディストリビューションの一つであるThe Caldera Network Desktop、MS-DOS互換のDR-DOSなどを販売していた。 1998年にCaldera Systems,Inc.を設立し、ビジネス向けLinux市場に参入。組み込み向けLinuxとDR-DOSの部門を分社化し、Caldera SystemsをNASDAQに上場。 2001年5月7日、株式上場で得た資金をもとに、オープンLinuxビジネス戦略の一環としてThe Santa Cruz Operation,Inc.(現在の Tarantella Inc. )からUNIX資産とSCOブランドを買収。以後UNIXの諸権利を所有していると主張している。 2002年8月26日、オープンLinux戦略の行き詰まりから既存ブランドの有効活用としてCaldera International,Inc.からThe SCO Group,Inc.への改称を発表した。Solaris,HP-UXなどUNIXのライセンスはSCOとのライセンス契約により配付され、SCO UNIXと言われる、インテルプロセッサで動くUNIXシステムを販売している。 2007年9月14日、SCOグループは米国連邦倒産法第11章の適用申請を行った。 2009年1月 SCOグループはUNIX事業とモバイル事業を競売にかける計画を表明した。",
"title": "The SCO Group, Inc."
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "日本SCO株式会社は、 The SCO Group, Inc. の日本法人である。 2001年5月31日にカルデラ株式会社として設立。 2003年1月1日、親会社の改称に合わせ現在の商号に変更した。",
"title": "The SCO Group, Inc."
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "2003年3月7日、SCOグループはIBMがSCO社のUNIXコードに基づく機能をLinuxに不正に組み込んだとして同社を提訴し、後にIBMのUNIXであるAIXに対するライセンス契約を破棄した。IBMもこれに対し反訴した。 SCOはIBM以外にもLinuxのディストリビュータやエンドユーザにも自社の権利に基づくライセンス料の支払いを要求するなどし、これに怒ったLinuxの熱狂的な支持者からと思われるDDos攻撃を受けたり、ウェブサイトを改ざんされたりした。しかしこのことがオープンソースの権利問題に関して一石を投じた形になった。 しかしながら、旧サンタクルズオペレーション社とノベルとの契約ではUNIX資産がノベルから完全には譲渡されていなかったとされ、このため現SCOの所有するUNIXに関する権利の範囲が問題となり、Linuxにおける裁判の焦点のひとつになった。 同社は証拠の提出を渋り、GPLを無効と主張するなどしたために、2006年11月30日に訴訟事由の根拠なしと判断されて主張の大半が棄却された。さらに2007年8月10日にユタ州連邦裁判所は「UNIXの著作権はノベルにある」との判決を下した。しかし2009年8月の控訴審では、地裁判決を覆し「UNIXの著作権はSCOにある」との判決が下された。2010年3月の連邦地裁での陪審員裁定において、再度UNIXの著作権はノベルにあるとされた。2010年6月、結審をうけて、ノベルは訴訟で勝利したと発表した。",
"title": "The SCO Group, Inc."
}
] | SCOは、コンピュータ業界のブランド名である。2001年にSCOブランドは旧SCO社から離れ、直接関係のない別会社が(新)SCO社となった。2社とも本項で説明する。 旧SCO - The Santa Cruz Operation, Inc.(サンタクルーズ・オペレーション)。2001年にSCOブランドを売却し、Tarantella Inc.(タランテラ社)と社名変更した。
(新)SCO - The SCO Group, Inc(SCOグループ)。旧Caldera Systems, Inc.(カルデラ)社が、2001年にSCOブランドを旧SCO社より購入して社名変更した。現在はSCOとは通常こちらを指す。 | {{Otheruses|コンピュータ会社|その他}}
{{基礎情報 会社
|社名=ザ SCOグループ
|英文社名=The SCO Group.Inc
|ロゴ=
|種類=[[公開会社]]
|市場情報={{上場情報|Pinksheets|SCOXQ}}
|略称=TSG、SCO
|国籍={{USA}}
|郵便番号=
|本社所在地=[[ユタ州]][[リンドン (ユタ州)|リンドン]]
|設立=[[1994年]]
|業種=情報・通信業
|統一金融機関コード=
|SWIFTコード=
|事業内容=UNIX/Linux系OS
|代表者=[[ラルフ・ヤロー3世]]会長<br/>[[ダール・マクブライド]]CEO
|資本金=
|発行済株式総数=
|売上高=
|営業利益=
|純利益=
|純資産=
|総資産=
|従業員数=
|決算期=
|主要株主=
|主要子会社=
|関係する人物=
|外部リンク=http://www.sco.com/
|特記事項=
}}
'''SCO'''は、[[コンピュータ]]業界のブランド名である。2001年にSCOブランドは旧SCO社から離れ、直接関係のない別会社が(新)SCO社となった。2社とも本項で説明する。
*旧SCO - '''The Santa Cruz Operation, Inc.'''(サンタクルーズ・オペレーション)。[[2001年]]にSCOブランドを売却し、'''Tarantella Inc.'''([[タランテラ (企業)|タランテラ]]社)と社名変更した。
*(新)SCO - '''The SCO Group, Inc'''(SCOグループ)。旧'''Caldera Systems, Inc.'''(カルデラ)社が、[[2001年]]にSCOブランドを旧SCO社より購入して社名変更した。現在はSCOとは通常こちらを指す。
== The Santa Cruz Operation, Inc. ==
{{see also|en:Santa Cruz Operation}}
[[1979年]]に創立。社名の[[サンタクルーズ (カリフォルニア州)|サンタクルーズ]]とは、[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]]にある都市名に由来する。
[[1983年]]、[[マイクロソフト]]と共同で開発した[[インテル]][[x86]]プロセッサ向けのUNIX実装である[[XENIX|SCO Xenix System V]]を[[AT&T]]のライセンス下でリリースした。
[[1991年]]、[[OpenServer#SCO_UNIX/SCO_Open_Desktop|Open Desktop]]の漢字バージョン「漢字Open Desktop」([[80386]]/[[80486]]をCPUとして搭載したパーソナルコンピュータ上で動作するSCO UNIX SystemV/386 Release3.2にグラフィカルユーザインターフェイスの[[Open Software Foundation|OSF]]/[[Motif (GUI)|Motif]]を装備した統合化UNIXを日本語化したもの)を開発、OEM提供を開始した{{Sfn |SuperASCII 1991年1月号 |p=38}}。日本電気株式会社は、PC-9800シリーズ向けに Open Desktopを移植した「PC-UX/V (Rel3.2)」を発売{{Sfn |SuperASCII 1991年1月号 |p=38}}。
[[1995年]]、当時AT&TのUNIXの資産を入手していた[[ノベル (企業)|ノベル]]からUNIXの権利と[[UnixWare]]ビジネスを譲り受け、以後UNIXのライセンサとなる。
[[2001年]]、UNIX資産の全てとSCOブランドの権利を Caldera Systems, Inc.に売却、社名もTarantella Inc.に改称。
== The SCO Group, Inc. ==
{{see also|en:Caldera (company)|en:Caldera International}}
'''The SCO Group, Inc.'''('''SCOグループ''')は、[[アメリカ合衆国]][[ユタ州]]に本拠を置く[[ソフトウェア]]企業である。
[[1994年]] 元[[ノベル (企業)|ノベル]]の社員が、カルデラ社 (Caldera Inc.) としてユタ州で創立。Linuxディストリビューションの一つであるThe Caldera Network Desktop、[[MS-DOS]]互換の[[DR-DOS]]などを販売していた。
[[1998年]]にCaldera Systems,Inc.を設立し、ビジネス向け[[Linux]]市場に参入。組み込み向けLinuxとDR-DOSの部門を分社化し、Caldera SystemsをNASDAQに上場。
[[2001年]][[5月7日]]、株式上場で得た資金をもとに、オープン[[Linux]]ビジネス戦略の一環としてThe Santa Cruz Operation,Inc.(現在の Tarantella Inc. )からUNIX資産とSCOブランドを買収。以後[[UNIX]]の諸権利を所有していると主張している。
[[2002年]][[8月26日]]、オープンLinux戦略の行き詰まりから既存ブランドの有効活用としてCaldera International,Inc.からThe SCO Group,Inc.への改称を発表した。Solaris,HP-UXなどUNIXのライセンスはSCOとのライセンス契約により配付され、[[OpenServer|SCO UNIX]]と言われる、インテルプロセッサで動く[[UNIX]]システムを販売している。
2007年[[9月14日]]、SCOグループは米国[[連邦倒産法第11章]]の適用申請を行った<ref>{{cite news|url=http://ir.sco.com/releasedetail.cfm?ReleaseID=264124 |title=The SCO Group Files Chapter 11 to Protect Assets as It Addresses Potential Financial and Legal Challenges|date=2007-09-14|publisher=SCO Group}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0709/15/news012.html |title=UNIX著作権訴訟に敗れたSCO、ついに破産保護申請
|date=2007-09-15|author=|publisher=ITmedia}}</ref><ref>{{cite news|url=https://srad.jp/story/07/09/15/0256240/ |title=SCOがChapter11による破産保護を申請|date=2007-09-15|author=|publisher=スラッシュドット ジャパン}}</ref>。
2009年1月 SCOグループはUNIX事業とモバイル事業を競売にかける計画を表明した<ref>{{cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0901/15/news030.html |title=米SCO GroupがUNIX事業を競売へ──破産保護脱出のため更正計画を発表|publisher=ITmedia|author=|date=2009-01-15}}</ref>。
=== 日本SCO株式会社 ===
'''日本SCO株式会社'''は、 The SCO Group, Inc. の日本法人である。
[[2001年]][[5月31日]]に'''カルデラ株式会社'''として設立。
[[2003年]][[1月1日]]、親会社の改称に合わせ現在の商号に変更した。
=== Linuxをめぐる裁判 ===
{{See also|SCO・Linux論争}}
[[2003年]][[3月7日]]、SCOグループは[[IBM]]がSCO社のUNIXコードに基づく機能を[[Linux]]に不正に組み込んだとして同社を提訴し、後にIBMのUNIXである[[AIX]]に対するライセンス契約を破棄した。IBMもこれに対し反訴した。
SCOはIBM以外にもLinuxのディストリビュータやエンドユーザにも自社の権利に基づくライセンス料の支払いを要求するなどし、これに怒ったLinuxの熱狂的な支持者からと思われるDDos攻撃を受けたり、ウェブサイトを改ざんされたりした。しかしこのことがオープンソースの権利問題に関して一石を投じた形になった。
しかしながら、旧サンタクルズオペレーション社とノベルとの契約ではUNIX資産がノベルから完全には譲渡されていなかったとされ、このため現SCOの所有するUNIXに関する権利の範囲が問題となり、Linuxにおける裁判の焦点のひとつになった。
同社は証拠の提出を渋り、GPLを無効と主張するなどしたために、[[2006年]][[11月30日]]に訴訟事由の根拠なしと判断されて主張の大半が棄却された。さらに2007年8月10日にユタ州連邦裁判所は「UNIXの著作権はノベルにある」との判決を下した<ref>{{cite news|url=http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0708/13/news020.html |title=UNIXの著作権はNovellにあり――裁判所が判断|date=2007-08-13|author=Keith J. Winstein, William M. Bulkeley. |newspaper=The Wall Street Journal|publisher=ITmedia}}</ref><ref>{{cite news|url=https://srad.jp/story/07/08/12/2348259/ |title=Unixの著作権はNovellが保有、SCOが敗訴|date=2007-08-13|publisher=スラッシュドット ジャパン}}</ref>。しかし[[2009年]]8月の控訴審では、地裁判決を覆し「UNIXの著作権はSCOにある」との判決が下された<ref>{{cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0908/26/news046.html |title=「UNIXの著作権はSCOにあり」の控訴裁判決|publisher=ITmedia|author=|date=2009-08-26}}</ref>。2010年3月の連邦地裁での陪審員裁定において、再度UNIXの著作権はノベルにあるとされた<ref>{{cite news|url=https://news.mynavi.jp/news/2010/03/31/038/index.html |title=あのSCOによるUNIX訴訟の第2ラウンド、7年の時を経てついに終結…か!?|publisher=マイナビニュース|author=|date=2010-03-31}}</ref>。2010年6月、結審をうけて、ノベルは訴訟で勝利したと発表した<ref>{{cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1006/15/news010.html |title=Novell対SCO訴訟、最終判決でNovell勝利|publisher=ITmedia|author=|date=2010-06-15}}</ref>。
== 脚注 ==
<div class="references-small"><references /></div>
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書 |author= |title=SuperASCII 1991年1月号 |volume=2 |issue=1 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1991-1-1 |isbn= |ref={{Sfnref |SuperASCII 1991年1月号}} }}
== 外部リンク ==
*[http://www.novell.co.jp/pressrel/960208.htm ノベル(株)が日本エス・シー・オー(株)にUnixWareビジネスを譲渡]
*[http://www.thescogroup.com/ The SCO Group, Inc.] (英語)
*[http://www.sco.co.jp/ The SCO Group, Inc.] (日本語)
*[http://sourceforge.jp/magazine/08/08/22/0523226 SCO、UNIX訴訟関連情報]
{{DEFAULTSORT:SCO}}
[[Category:アメリカ合衆国のソフトウェア会社]]
[[Category:Linux企業]]
[[Category:UNIXに関連する組織]]
[[Category:ユタ州の企業]] | 2003-03-08T08:28:57Z | 2023-12-28T03:30:54Z | false | false | false | [
"Template:Otheruses",
"Template:基礎情報 会社",
"Template:See also",
"Template:Sfn",
"Template:Cite news",
"Template:Cite journal"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/SCO |
3,666 | ハーグ陸戦条約 | ハーグ陸戦条約(ハーグりくせんじょうやく)は、1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(英: Convention respecting the Laws and Customs of War on Land, 仏: Convention concernant les lois et coutumes de la guerre sur terre)」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。戦時国際法に関するハーグ条約の一つであり、1907年の第2回万国平和会議やジュネーヴ条約等で改定・拡張され、今日に至る。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規などとも言われる。
交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されているが、現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多い。
日本においては、1911年(明治44年)11月6日批准、1912年(明治45年)1月13日に陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約として公布された。この条約が批准国の軍の行動を直接に規制するかどうかは、他の条約と同様、その国の法制度による。条約の国内法的効力を直接には認めず、それに応じた個々の国内法の制定による受容(変型という)をもって初めて有効となる国であっても、条約を批准し発効した場合、違反があったときには、少なくとも国家としては国内法を援用して国際法上の責任を免れることは出来ない。
23条1項では「毒、または毒を施した兵器の使用」を禁じている。また、同条5項では「不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること」を禁じている。しかし「不必要な苦痛」の明確な定義がないため、曖昧なものとなっている。
(米州) -
(欧州) -
(亜州) -
(計32カ国=原加盟国24カ国+追加加盟国8カ国)
(米州) -
(欧州) -
(亜州) -
(計44カ国=原加盟国43カ国+追加加盟国1カ国)
注:本節は条約及び附属書の条文(参考文献及び外部リンク)をなぞって現代文に改めたものである。省略したものにはその旨表記した。
陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(1899年条約、1907年条約)第2条は「交戦国が悉く本条約の当事者である」ことを求めており、第二次世界大戦における当条約を解釈するさいについては注意が必要である。2条の総加入条項を有効とした判決として東京高判S47.11.28。また地裁判決では「イタリアを初めとする幾つかの交戦国が加入していなかった(・・・略)したがって、総加入条項を満たしていない以上、第二次世界大戦について、ハーグ陸戦条約の適用はないといわざるを得ない」との判示がある。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ハーグ陸戦条約(ハーグりくせんじょうやく)は、1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(英: Convention respecting the Laws and Customs of War on Land, 仏: Convention concernant les lois et coutumes de la guerre sur terre)」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。戦時国際法に関するハーグ条約の一つであり、1907年の第2回万国平和会議やジュネーヴ条約等で改定・拡張され、今日に至る。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規などとも言われる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されているが、現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多い。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "日本においては、1911年(明治44年)11月6日批准、1912年(明治45年)1月13日に陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約として公布された。この条約が批准国の軍の行動を直接に規制するかどうかは、他の条約と同様、その国の法制度による。条約の国内法的効力を直接には認めず、それに応じた個々の国内法の制定による受容(変型という)をもって初めて有効となる国であっても、条約を批准し発効した場合、違反があったときには、少なくとも国家としては国内法を援用して国際法上の責任を免れることは出来ない。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "23条1項では「毒、または毒を施した兵器の使用」を禁じている。また、同条5項では「不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること」を禁じている。しかし「不必要な苦痛」の明確な定義がないため、曖昧なものとなっている。",
"title": "ハーグ陸戦条約と使用禁止兵器"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "(米州) -",
"title": "記名調印国一覧"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "(欧州) -",
"title": "記名調印国一覧"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "(亜州) -",
"title": "記名調印国一覧"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "(計32カ国=原加盟国24カ国+追加加盟国8カ国)",
"title": "記名調印国一覧"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "(米州) -",
"title": "記名調印国一覧"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "(欧州) -",
"title": "記名調印国一覧"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "(亜州) -",
"title": "記名調印国一覧"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "(計44カ国=原加盟国43カ国+追加加盟国1カ国)",
"title": "記名調印国一覧"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "注:本節は条約及び附属書の条文(参考文献及び外部リンク)をなぞって現代文に改めたものである。省略したものにはその旨表記した。",
"title": "条約・附属書"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(1899年条約、1907年条約)第2条は「交戦国が悉く本条約の当事者である」ことを求めており、第二次世界大戦における当条約を解釈するさいについては注意が必要である。2条の総加入条項を有効とした判決として東京高判S47.11.28。また地裁判決では「イタリアを初めとする幾つかの交戦国が加入していなかった(・・・略)したがって、総加入条項を満たしていない以上、第二次世界大戦について、ハーグ陸戦条約の適用はないといわざるを得ない」との判示がある。",
"title": "注記"
}
] | ハーグ陸戦条約(ハーグりくせんじょうやく)は、1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。戦時国際法に関するハーグ条約の一つであり、1907年の第2回万国平和会議やジュネーヴ条約等で改定・拡張され、今日に至る。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規などとも言われる。 交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されているが、現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多い。 日本においては、1911年(明治44年)11月6日批准、1912年(明治45年)1月13日に陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約として公布された。この条約が批准国の軍の行動を直接に規制するかどうかは、他の条約と同様、その国の法制度による。条約の国内法的効力を直接には認めず、それに応じた個々の国内法の制定による受容(変型という)をもって初めて有効となる国であっても、条約を批准し発効した場合、違反があったときには、少なくとも国家としては国内法を援用して国際法上の責任を免れることは出来ない。 | {{脚注の不足|date=2023年3月}}
{{条約
|題名 =陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約
|画像 =
|画像キャプション =
|通称 =
|起草 =
|署名 =1899年7月29日
|署名場所=[[デン・ハーグ|ハーグ]]
|効力発生 =1900年9月4日
|寄託者 ={{NED}}政府
|文献情報 =明治33年11月22日官報第5219号勅令
|言語 =
|内容 =
|関連 =
|ウィキソース =
|リンク = [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/B-S38-P2-261_1.pdf 外務省:条約データ]
}}
{{条約
|題名 =陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約
|画像 =
|画像キャプション =
|通称 =ハーグ陸戦条約<br>ヘーグ陸戦条約
|起草 =
|署名 =1907年10月18日
|署名場所=[[デン・ハーグ|ハーグ]]
|効力発生 =1910年1月26日
|寄託者 ={{NED}}政府
|文献情報 =明治45年1月13日官報第8567号条約第4号
|言語 =
|内容 =[[交戦者]]の定義や、[[宣戦布告]]、[[戦闘員]]・[[非戦闘員]]の定義、[[捕虜]]・[[傷病]]者の扱い、使用してはならない[[戦術]]、降服・休戦などを規定。
|関連 =
|ウィキソース =
|リンク = [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/B-S38-P2-295_1.pdf 外務省:条約データ]
}}
'''ハーグ陸戦条約'''(ハーグりくせんじょうやく)は、[[1899年]]に[[オランダ]]・[[デン・ハーグ|ハーグ]]で開かれた第1回[[万国平和会議]]において採択された「[[陸戦]]ノ法規慣例ニ関スル[[条約]](英: Convention respecting the Laws and Customs of War on Land, 仏: Convention concernant les lois et coutumes de la guerre sur terre)」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。[[戦時国際法]]に関する[[ハーグ条約 (1899年及び1907年)|ハーグ条約]]の一つであり、[[1907年]]の第2回万国平和会議や[[ジュネーヴ条約]]等で改定・拡張され、今日に至る。'''ハーグ陸戦協定'''、'''ハーグ陸戦法規'''などとも言われる。
[[交戦者]]の定義や、[[宣戦布告]]、[[戦闘員]]・[[非戦闘員]]の定義、[[捕虜]]・[[傷病]]者の扱い、使用してはならない[[戦術]]、[[降服]]・[[休戦]]などが規定されているが、現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多い。
[[日本]]においては、[[1911年]]([[明治]]44年)[[11月6日]]批准、[[1912年]](明治45年)[[1月13日]]に'''陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約'''として公布された。この条約が批准国の[[軍]]の行動を直接に規制するかどうかは、他の条約と同様、その国の法制度による。条約の国内法的効力を直接には認めず、それに応じた個々の国内法の制定による受容(変型という)をもって初めて有効となる国であっても、条約を批准し発効した場合、違反があったときには、少なくとも国家としては国内法を援用して国際法上の責任を免れることは出来ない<ref>{{Cite journal|和書|url=http://id.nii.ac.jp/1385/00016406/ |title=国際法と国内法の効力関係 : 国民主権・国家主権との関係を基軸として |journal=亜細亜法学 |publisher=亜細亜大学法学研究所 |date=2013 |volume=48 |issue=1 |pages=33-82 |ISSN=03886611 |naid=110009595559 |author=加藤隆之}}</ref>。
== ハーグ陸戦条約と使用禁止兵器 ==
23条1項では「[[毒]]、または毒を施した[[兵器]]の使用」を禁じている。また、同条5項では「不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること」を禁じている。しかし「不必要な苦痛」の明確な定義がないため、曖昧なものとなっている<ref group="注釈">被弾した者に著しい苦痛を与える[[弾丸|ダムダム弾]](弾丸の一種で、命中すると体内で破裂するもの)の使用禁止を明記した条約は、これとは別の[[ダムダム弾の禁止に関するハーグ宣言]]([[1900年]]発効)であり、[[軍事]]用としての使用禁止のみが明記されている。</ref><ref group="注釈">「50口径(12.7 mm)以上の[[対物ライフル]]で人を攻撃するのは国際条約違反」と言われる事がままあるが{{要出典|date=2009年4月}}、厳密には本条約及びその他の条約においても、対人攻撃兵器の[[口径]]の上限を明示した条文は存在しない。50口径での対人[[狙撃]]が「不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること 」に抵触するとする解釈もあり、対人使用をすべきではないとするガイドラインが存在するということである。</ref>。
== 記名調印国一覧 ==
;[[1899年]]条約
([[アメリカ大陸|米州]]) -
{{Div col}}
*{{USA1896}}
*{{SLV}}<ref group="注釈" name="1903年加盟">1903年加盟。</ref>
*{{PER}}<ref group="注釈">1904年加盟。</ref>
*{{URU}}<ref group="注釈" name="1906年加盟">1906年加盟。</ref>
*{{GUA}}<ref group="注釈" name="1906年加盟"/>
*{{HON}}<ref group="注釈" name="1906年加盟"/>
*{{COL}}<ref group="注釈" name="1907年加盟">1907年加盟。</ref>
*{{VEN}}<ref group="注釈" name="1907年加盟"/>
{{Div col end}}
([[ヨーロッパ|欧州]]) -
{{Columns-start}}
*{{GBR1801}}
*{{ITA1861}}
*{{AUT1867}}
*{{NED}}
*{{GRC1828}}
*{{FSN}}
*[[File:Navy and coastal fortifications' flag of Catholic King (1785).svg|border|25px]] [[スペイン王政復古|スペイン]]
*{{SRB1882}}
*{{DEN}}
*{{DEU1871}}
{{Column}}
*{{FRA1870}}
*{{BGR1878}}
*{{BEL}}
*{{PRT1830}}
*{{MNE1876}}
*{{ROM1881}}
*{{LUX}}
*{{OTT}}
*{{RUS1883}}
{{Columns-end}}
([[アジア|亜州]]) -
{{Div col}}
*{{THA1855}}
*{{JPN1889}}
*[[File:Tricolour Flag of Iran (1886).svg|border|25px]] [[ガージャール朝|ペルシア帝国]]
*{{KOR1897}}<ref group="注釈" name="1903年加盟"/>
{{Div col end}}
(計32カ国=原加盟国24カ国+追加加盟国8カ国)
;[[1907年]]条約
(米州) -
{{Columns-start}}
*{{USA1896}}
*{{ARG}}
*{{ECU}}
*{{CUB}}
*{{GTM}}
*{{COL}}
*{{SLV}}
*{{CHI}}
*{{DOM}}
*{{NIC}}
{{Column}}
*[[File:Flag of Haiti (1859-1964).svg|border|25px]] [[ハイチ]]
*{{PAN1903}}
*{{PAR}}
*{{URU}}
*{{BRA1889}}
*{{VEN}}
*{{PER}}
*{{BOL}}
*{{MEX1893}}
{{Columns-end}}
(欧州) -
{{Columns-start}}
*{{GBR1801}}
*{{ITA1861}}<ref group="注釈">国内において批准をしていない。</ref>
*{{AUT1867}}
*{{NED}}
*{{GRC1828}}
*{{SWI}}
*{{SWE}}
*{{ESP1873}}
*{{SRB1882}}
*{{DEN}}
*{{DEU1871}}<ref group="注釈" name="第44条留保">同附属書第44条を留保。</ref>
{{Column}}
*{{NOR}}
*{{FRA1870}}
*{{BGR1878}}
*{{BEL}}
*{{PRT1830}}
*{{MNE1876}}
*{{ROM1881}}
*{{LUX}}
*{{OTT}}<ref group="注釈">同附属書第3条を留保。</ref>
*{{RUS1883}}<ref group="注釈">ソ連建国(1922年)以後、ソヴィエト政府は帝政時代に締結された条約をすべて否認した。</ref>
{{Columns-end}}
(亜州) -
{{Div col}}
*{{THA1855}}
*{{JPN1889}}<ref group="注釈" name="第44条留保"/>
*[[File:Tricolour Flag of Iran (1886).svg|border|25px]] [[ガージャール朝|ペルシア帝国]]
*{{flagicon|CHN1912}} [[中華民国の歴史|中華民国]]<ref group="注釈">1917年加盟。</ref>
{{Div col end}}
(計44カ国=原加盟国43カ国+追加加盟国1カ国)
== 条約・附属書 ==
注:本節は条約及び附属書の条文(参考文献及び外部リンク)をなぞって[[現代文]]に改めたものである。省略したものにはその旨表記した。
=== 陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約 ===
* 第1条:締結国はその[[陸軍]]軍隊に対し、本条約に付属する陸戦の法規慣例に関する規則に適合する訓令を発すること。
* 第2条:第1条に掲げた規則及び本条約の規定は、交戦国が悉く本条約の当事者であるときに限り、締結国間にのみこれを適用する。
* 第3条:前記規則の条項に違反した交戦当事者は、損害ある時は[[賠償]]の責を負うべきものとする。交戦当事者はその軍隊を構成する人員の全ての行為に対して責任を負う。
* 第4条:本条約が正式に批准された際には、1899年の条約に代わるべきものとする。ただし、1899年の条約は本条約に記名しながら批准をしない諸国間の関係においては依然効力を有する。
* 第5条:本条約はなるべく速やかに批准しなければならない。(詳細略)
* 第6条:記名国でない諸国は本条約に加盟できる。(詳細略)
* 第7条:(批准国における効力発生条文につき 略)
* 第8条:締結国が本条約を破棄するときはオランダ政府にその旨書面で通告しなければならない。オランダ政府は、直ちに通告書の認證謄本をそのほかの諸国に送付し、かつその通告書を受理した日を通知すること。
: 破棄はその通告書がオランダ政府に到達した時点から一年後、通告した国に対してのみ効力を生じる。
* 第9条:オランダ外務省が帳簿を管理する。(詳細略)
=== 陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則 ===
==== 第一款 交戦者 ====
===== 第一章 交戦者の資格 =====
* 第1条:戦争の法規、権利、義務は[[正規軍]]にのみ適用されるものではなく、下記条件を満たす[[民兵]]、[[義勇兵]]にも適用される。
*# 部下の責任を負う[[指揮官]]が存在すること。
*# 遠方から識別可能な固著の[[徽章]]を着用していること<ref group="注釈">遠方から識別可能な物を身につけることは[[敵]]に発見されやすくなるため、現在では各国とも低視認性の[[徽章]]が用いられているが「遠方から識別可能」の定義は明確ではなく違法とはされていない。</ref>。
*# 公然と[[兵器]]を携帯していること。
*# その動作において、戦争法規を遵守していること。
* 第2条:未だ[[占領]]されていない地方の人民でありながら、敵の接近にあたり第1条に従って編成する暇なく、侵入軍隊に抗敵するため自ら兵器を操る者が公然と兵器を携帯し、かつ戦争の法規慣例を遵守する場合はこれを[[交戦者]]と認める。
* 第3条:交戦当事者の兵力は、[[戦闘員]]及び[[非戦闘員]]をもってこれを編成することができ、敵に捕らえられた場合は二者ともに等しく俘虜の扱いを受ける権利を有する。
===== 第二章 俘虜 =====
* 第4条:[[俘虜]]は敵の[[政府]]の権内に属し、これを捕らえた[[個人]]、[[部隊]]に属するものではない。
: 俘虜は[[人道]]をもって取り扱うこと。
: 俘虜の身に属すものは兵器、[[ウマ|馬匹]]、軍用[[書類]]を除いて依然その所有であること。
* 第5条:俘虜は、一定の地域外に出られない[[義務]]を負わせて[[都市]]、[[城塞]]、[[陣地|陣営]]その他の場所に[[留置]]できる。但し、やむを得ない[[保安]]手段として、かつ該当手段を必要とする事情の継続中に限って[[幽閉]]できる。
* 第6条:国家は[[将校]]を除く俘虜を[[階級]]、技能に応じ[[労務者]]として使役することができる。その労務は過度でなく、一切の[[作戦]]行動に関係しないものでなければならない。(詳細略)
* 第7条:政府はその権内にある俘虜を給養すべき義務を有する。
: 交戦者間に特別な協定がない限り、俘虜は[[レーション|糧食]]、[[寝具]]及び[[被服]]に関し、これを捕らえた政府の[[軍隊]]と対等の取り扱いを受けること。
* 第8条:俘虜はそれを捕らえた国の陸軍現行法律、規則、[[命令]]に服従すべきものとする。不服従の場合、必要なる厳重手段を施すことができる。
: 逃走した俘虜がその所属する軍に達する前、またはこれを捕らえた軍の占領地域外に出る前に再度捕らえられた場合は懲罰に付される。
: 逃走完遂後、再度俘虜となった場合、先の逃走に対しては何ら罰を受けることはない。
* 第9条:俘虜はその氏名および階級について訊問を受けたときは、事実をもって答えるべきものとする。もしこの規定に背いたときは、階級に応じた俘虜待遇を減殺されることがある。
* 第10条:俘虜はその本国の法律がこれを許す時は、宣誓の後解放されることがある。この場合においては本国政府および俘虜を捕えた政府に対し、[[名誉]]を賭してその制約を厳密に履行する義務を有する。
: 前項の場合において、俘虜の本国政府はこれに対しその宣誓に違反する勤務を命じ、またはこれに服するとの申し出を受諾できないものとする。
* 第11条:俘虜は宣誓解放の受諾を強制されることなく、また敵の政府は宣誓解放を求める俘虜の請願に応じる義務はない。
* 第12条:宣誓解放を受けた俘虜であって、その名誉を賭して宣誓を行った政府またはその政府の同盟国に対して兵器を操って再び捕えられた者は、俘虜の取扱を受ける権利を失うべく裁判に付されることがある。
* 第13条:新聞の通信員および探訪者並びに酒保用達人等の様な直接に軍の一部ではない[[従軍]]者で、敵の権内に陥り敵においてこれを抑留することが有益であると認められる者は、その所属陸軍官憲の証明書を携帯する場合に限り俘虜の取扱を受ける権利を有する。
* 第14条:各交戦国は戦争開始の時より、また中立国は交戦者をその領土に収容した時より俘虜情報局を設置する。情報局は捕虜に関する一切の問い合わせに答える任務を持ち、俘虜の留置、移動、宣誓、解放、交換、逃走、入院、[[死亡]]に関する事項、その他各俘虜に関して各々票を作成補修する為に必要な通報を各担当の官憲より受けるものとする。(後略)
* 第15条:慈善行為の媒介者たる目的をもって自国の法律に従い、正式に組織された俘虜救恤協会(中略)の代表者は、各自陸軍官憲より免許状の交付を受け、かつ該当官憲の定めた秩序及び風紀に関する一切の規律に服従すべき旨書面をもって約束した上で、俘虜収容所及び送還俘虜の途中休憩所において救恤品を分与することが許される。
* 第16条:情報局は郵便料金の免除を受ける。俘虜宛て、またはその俘虜が発した信書、郵便為替、有価物件及び小包郵便物については差出国、名宛国及び通過国において一切の郵便料金を免除される。(後略)
* 第17条:俘虜将校は、その抑留されている国の同一階級の将校が受ける同額の俸給を受けることができる。俸給はその本国政府より償還されなければならない。
* 第18条:俘虜は陸軍官憲の定めた秩序及び風紀に関する規律に服従すべきことを唯一の条件として、その宗教の遵行に付き一切の自由を与えられ、その宗教上の礼拝式に参列することができる。
* 第19条:俘虜の[[遺言]]は内国陸軍[[軍人]]と同一の条件をもってこれを領置し、または作成する。
: 俘虜の死亡証明に関する書類及び[[埋葬]]に関してもまた同一の規則に遵い、その階級及び身分に相当する取扱いをしなければならない。
* 第20条:[[平和]]克復の後はなるべく速やかに、俘虜をその本国に帰還させなければならない。
===== 第三章 傷病者 =====
* 第21条:病者及び傷者の取扱いに関する交戦者の義務は[[ジュネーヴ条約]]による。
==== 第二款 戦闘 ====
===== 第一章 害敵手段、攻囲、砲撃 =====
* 第22条:交戦者は害敵手段の選択につき、無制限の権利を有するものではない。
* 第23条:特別の条約により規定された禁止事項のほか、特に禁止するものは以下の通り。
*# 毒、または毒を施した兵器の使用。
*# 敵の[[国民]]、または軍に属する者を裏切って殺傷すること。
*# 兵器を捨て、または[[自衛]]手段が尽きて[[降伏]]を乞う敵兵を殺傷すること。
*# 助命しないことを宣言すること。
*# 不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること。
*# 軍使旗、国旗その他の軍用の標章、敵の制服または[[ジュネーヴ条約]]の特殊徽章を濫りに使用すること。
*# 戦争の必要上、やむを得ない場合を除く敵[[財産]]の破壊または押収。
*# 相手当事国国民の権利及び訴権の消滅、停止または[[裁判]]上不受理を宣言すること。
: 交戦者はまた相手当事国の国民を強制して本国に対する作戦行動に加わらせることができない。戦争開始前その役務に服していた場合といえどもまた同じ。
* 第24条:戦時中、敵国に関する情報を得るために必要な手段を講じることは、許されるものと考える。
* 第25条:防守されていない都市、集落、住宅または建物は、いかなる手段によってもこれを攻撃または砲撃することはできない。
* 第26条:攻撃軍隊の指揮官は、強襲の場合を除いて、[[砲撃]]を始めるに先立ちその旨官憲に通告するため、施せるだけの一切の手段を尽くさなければならないものとする。
* 第27条:攻囲及び砲撃を行うにあたっては、[[宗教]]、技芸、[[学術]]、[[慈善]]の用途に使用されている[[建物]]、[[歴史]]上の[[モニュメント|記念建造物]]、[[病院]]、傷病者の収容所は、同時に軍事目的に使用されていない限り、これに対しなるべく損害を与えない為の必要な一切の手段を取らなければならないものとする。攻囲された側は識別し易い徽章をもって建物または収容所を表示する義務を負う。前述の徽章は予めこれを攻囲者に通告すること。
* 第28条:都市、その他の地域は[[突撃]]によって奪取された場合といえども、[[略奪]]を禁止する。
===== 第二章 間諜 =====
* 第29条:交戦者の作戦地域内において、敵勢力に通諜する意志をもって、隠密に、または虚偽の申告の下に行動して、情報の蒐集をしようとする者を間諜とする。故に、[[変装]]せずに、軍人として情報収集の為、敵軍の作戦地域内に侵入した者は[[スパイ|間諜]]と認めない。軍人であるか否かに係わらず、自軍または敵軍宛の通信を伝達する任務を公然と執行する者も間諜と認めない。
* 第30条:間諜の[[現行犯]]は[[裁判]]を経て罰しなければならない。
* 第31条:所属する軍勢に復帰後に捕らえられた間諜は、俘虜として取り扱い、復帰前の間諜行為を罪に問うことはできない。
===== 第三章 軍使 =====
* 第32条:交戦者の一方が他方との交渉を行うため、[[白旗]]を掲げて来た者を[[軍使]]と規定する。軍使、及び、それに随従する[[ビューグル|喇叭]]手、鼓手、旗手、[[通訳]]は不可侵権を有す。
* 第33条:軍使を差し向けられた部隊長は必ずしもこれを受ける義務は無いものとする。
: 部隊長は、軍使が軍情を探知する為にその使命を利用することを防ぐ一切の必要な手段を取ることができる。
: 不可侵権の濫用があった場合、部隊長は軍使を一時抑留できる。
* 第34条:軍使が背信の行為を教唆し、または自らがそれを行うため、その特権ある地位を利用した証跡が明確であるときは、その不可侵権を失う。
===== 第四章 降伏規約 =====
* 第35条:当事者間に協定された[[降伏]]規約には軍人の名誉に関する例規を斟酌すべきものとする。規約確定後は当事者双方においてこれを厳密に遵守すべきものとする。
===== 第五章 休戦 =====
* 第36条:[[休戦]]は、交戦当事者間の合意をもって作戦行動を停止するものとする。期間の指定なき時は、交戦当事者は、いかなる時点においても再び交戦を開始する事が可能である。ただし、休戦条件に順じ、所定の時期にその旨を通告すべきものとする。
* 第37条:休戦は、全般的、もしくは部分的に行うことを可能とする。前者は、交戦国の作戦動作を停止し、後者は特定地域において交戦軍のある部分間を停止するものとする。
* 第38条:休戦は正式、かつ適当な時期に当該の官憲および軍隊に通告する。通告の直後、または、所定の時期に戦闘行為を停止する。
* 第39条:休戦条項中に、戦地における交戦者と人民、人民相互の関係を盛り込むことは当事者に一任する。
* 第40条:当事者の一方的な休戦規約の重大な違反があった場合、他方は規約廃棄の権利を有するのみならず、緊急の場合においては即時に戦闘を開始することも許される。
* 第41条:個人が自己の意志をもって休戦条約に違反した時は、その違反者の処罰の要求と行為による損害が存在した場合はその賠償の請求する権利のみが生ずる。
==== 第三款 敵国の領土における軍の権力 ====
* 第42条:一地方が事実上敵軍の権力内に帰したときは占領されたものとする。
: 占領はその権力を樹立し、かつこれを行使できる地域をもって限度とする。
* 第43条:国の権力が事実上占領者の手に移った上は、占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為、施せる一切の手段を尽くさなければならない。
* 第44条:交戦者は、占領地の人民を強制して相手の軍またはその防御手段についての情報を供与させることはできない。
* 第45条:占領地の人民は、敵国に強制的に忠誠の誓いを為さしめられることはない。
* 第46条:家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産ならびに宗教の信仰及びその遵行を尊重しなければならない。
: 私有財産は没収できない。
* 第47条:略奪はこれを厳禁とする。
* 第48条:占領者が占領地において国の為に定められた租税、賦課金及び通過税を徴収するときは、なるべく現行の賦課規則によって徴収しなければならない。この場合において占領者は国の政府が支弁した程度において、占領地の行政費を支弁する義務があるものとする。
* 第49条:占領者が占領地において前条に掲げた税金以外の取立金を命じることは、軍または占領地行政上の需要に応じる場合に限るものとする。
* 第50条:人民に対しては、連帯の責任があると認めることができない個人の行為のために、金銭上その他の連座罰を科すことはできない。
* 第51条:取立金はすべて総指揮官の命令書により、かつその責任をもっておこなうものでなければこれを徴収することができない。取立金はなるべく現行の租税賦課規則によりこれを徴収しなければならない。
: 一切の取立金に対しては納付者に領収書を交付しなければならない。
* 第52条:現品徴発及び課役は、占領軍の需要の為でなければ市区町村または住民に対してこれを要求できない。徴発及び課役は地方の資力に相応し、かつ人民がその本国に対する作戦行動に加わるような義務を負わない性質のものであること。
: 前掲の徴発及び課役は占領地方に於ける指揮官の許可を得なければこれを要求できない。
: 現品の供給に対してはなるべく即金にて支払い、それができない場合には領収書をもってこれを証明し、かつなるべく速やかにこれに対する支払いを履行しなければならないものとする。
* 第53条:一地方を占領した軍は、国の所有に属する[[現金]]、[[基金]]及び[[有価証券]]、貯蔵兵器、[[輸送]]材料、在庫品及び[[糧秣]]その他すべて作戦行動に役立つ国有[[動産]]のほかは、これを押収することができない。
: 海上法によって支配される場合を除き、[[陸上]]、[[海面|海上]]及び[[空中]]において[[報道]]の伝送または人もしくは物の輸送の用途に提供される一切の機関、貯蔵兵器、その他各種の軍需品は、[[私人]]に属するものといえどもこれを押収することができる。但し平和克復後にこれを還付し、かつこの賠償を決定しなければならないものとする。
* 第54条:占領地と[[中立]]地とを連結する[[海底ケーブル|海底電線]]は、絶対的に必要ある場合でなければこれを押収し、または破壊することはできない。海底電線は平和克復に至ってこれを還付し、かつこの賠償を決定しなければならないものとする。
* 第55条:占領地は敵国に属し、かつ占領地に在る[[公共施設|公共建物]]、[[不動産]]、[[森林]]及び[[農場]]に付いては、その管理者及び用益権者であるに過ぎないものであると考慮し、これら財産の基本を保護し、かつ用益権者の法則によってこれを管理しなければならない。
* 第56条:市区町村の財産ならびに国に属するものといえども宗教、慈善、教育、技芸及び[[学術]]の用途に提供される建設物は私有財産と同様にこれを取扱うこと。
: 前述の様な建設物、歴史上の記念建造物、技芸及び学術上の製作品を故意に押収、破壊または毀損することはすべて禁止され、かつ訴追されるべきものとする。
== 注記 ==
{{Notice|この節は日本国内の裁判資料を1次情報として要約整理しており、学術的背景をそなえていない可能性があります。}}
陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(1899年条約、1907年条約)第2条は「交戦国が悉く本条約の当事者である」ことを求めており、第二次世界大戦における当条約を解釈するさいについては注意が必要である。2条の総加入条項を有効とした判決として東京高判S47.11.28。また地裁判決では「イタリアを初めとする幾つかの交戦国が加入していなかった(・・・略)したがって、総加入条項を満たしていない以上、第二次世界大戦について、ハーグ陸戦条約の適用はないといわざるを得ない」<ref>東京地方裁判所平成21年12月14日判決、平成19年(ワ)第5951号損害賠償等請求事件。</ref>との判示がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references/>
== 参考文献 ==
* アジア歴史資料センター
** Ref.A03020484400、御署名原本・明治三十三年・条約十一月二十一日・陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(国立公文書館)
** Ref.A03020942000、御署名原本・明治四十五年・条約第四号・陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(国立公文書館)
== 関連項目 ==
* [[戦争犯罪]]
* [[条約の一覧]]
* [[俘虜の待遇に関する条約]] - [[ジュネーヴ条約]]
* [[捕虜]]
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/haug.htm |title=陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約(ハーグ陸戦条約) |date=20020212011607}}
* [https://avalon.law.yale.edu/20th_century/hague04.asp Laws and Customs of War on Land (Hague IV); October 18, 1907]{{en icon}}
{{日本の条約}}
{{authority control}}
{{DEFAULTSORT:はあくりくせんしようやく}}
[[Category:多国間条約]]
[[Category:戦時国際法]]
[[Category:ハーグの歴史]]
[[Category:1899年の条約]]
[[Category:捕虜]]
[[Category:降伏]] | null | 2023-07-08T03:07:22Z | false | false | false | [
"Template:JPN1889",
"Template:ECU",
"Template:MNE1876",
"Template:OTT",
"Template:ESP1873",
"Template:NOR",
"Template:En icon",
"Template:GUA",
"Template:ITA1861",
"Template:DEU1871",
"Template:BOL",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:SLV",
"Template:PER",
"Template:PRT1830",
"Template:THA1855",
"Template:Wayback",
"Template:COL",
"Template:AUT1867",
"Template:Notelist",
"Template:USA1896",
"Template:NED",
"Template:FRA1870",
"Template:KOR1897",
"Template:DOM",
"Template:MEX1893",
"Template:条約",
"Template:BGR1878",
"Template:RUS1883",
"Template:ARG",
"Template:PAR",
"Template:HON",
"Template:SWE",
"Template:Notice",
"Template:要出典",
"Template:Authority control",
"Template:GBR1801",
"Template:Columns-end",
"Template:Cite journal",
"Template:脚注の不足",
"Template:Div col",
"Template:URU",
"Template:SRB1882",
"Template:DEN",
"Template:ROM1881",
"Template:VEN",
"Template:LUX",
"Template:CHI",
"Template:BRA1889",
"Template:Flagicon",
"Template:Div col end",
"Template:BEL",
"Template:PAN1903",
"Template:SWI",
"Template:日本の条約",
"Template:NIC",
"Template:Columns-start",
"Template:GRC1828",
"Template:FSN",
"Template:Column",
"Template:CUB",
"Template:GTM"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E9%99%B8%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84 |
3,667 | キャッシュメモリ | キャッシュメモリ (cache memory) は、CPUなど処理装置がデータや命令などの情報を取得/更新する際に主記憶装置やバスなどの遅延/低帯域を隠蔽し、処理装置と記憶装置の性能差を埋めるために用いる高速小容量メモリのことである。略してキャッシュとも呼ぶ。コンピュータは以前から記憶装置や伝送路の性能が処理装置の性能に追いつけず、この差が全体性能に対するボトルネックとされてきた(ノイマンズ・ボトルネック)。そしてムーアの法則に基づく処理装置の加速度的な高性能化により現在ではますますこの差が拡大されている。キャッシュメモリは、記憶階層の観点からこれを解消しようとするものである。
主に、主記憶装置とCPUなど処理装置との間に構成される。この場合、処理装置がアクセスしたいデータやそのアドレス、状態、設定など属性情報をコピーし保持することで、本来アクセスすべき記憶装置に代わってデータを入出力する。通常はキャッシュメモリが自動的にデータ保存や主記憶装置の代替を行うため、基本的にCPUのプログラムなど処理装置側がキャッシュメモリを意識する必要はない。
キャッシュの一般的な概念はキャッシュ (コンピュータシステム)を参照のこと。
キャッシュメモリは再利用データのキャッシングによる実効データ帯域の増加という意義をもつ。
例えば SGEMV(単精度浮動小数点の行列ベクトル積)を考える。2.0 GHzで動作する Haswell CPUのシングルコアはピーク時に128GB/sのデータアクセスを要求する (8 [FMA/inst.] ÷ 0.5 [CPI=cycle/inst.] * 2.0G [Hz=cycle/sec] * 4 [Byte/FP32])。一方プロセッサ-メインメモリ間のレイテンシは数百サイクルであり、並列ロードをおこなっても高々5GB/sしかデータを読み出せない。すなわちメモリ律速でCPU性能の5%以下しか引き出すことができない。もし行列をキャッシュに載せきることが出来れば、よりレイテンシの小さいキャッシュメモリからデータを供給し高いデータ帯域を確保できる。
キャッシュメモリは、通常は下位レベルの記憶装置より小容量で高速なスタティックRAMを用いて構成される。データ本体の一部とそのアドレス、フラグなど属性情報のセットを固定容量のメモリに格納する構造で、データ格納構造、ライン入替え、データ更新方式、キャッシュ階層などに多数のアーキテクチャが存在する。以前はCPUチップの外部に接続されていたが、LSIの集積度の向上や要求速度の上昇に伴いCPUチップ内部に取り込まれることが普通となった。
記憶階層をもつキャッシュメモリをマルチレベルキャッシュ(英: multi level caches)という。CPUとメモリの性能差の拡大、マルチスレッドなどアクセス範囲の拡大に対応するために導入される。CPUに近い側からL1キャッシュ(レベル1)、L2キャッシュ(レベル2)と呼ばれ、2013年時点ではL4キャッシュまでCPUに内蔵する例も存在する。CPUから見て一番遠いキャッシュメモリの事をLLC(Last Level Cache)と呼ぶ事もある。
キャッシュメモリはデータをライン(ブロック)と呼ぶある程度まとまった単位で管理する(例えばIntel Pentium 4の8kByte L1キャッシュはラインサイズ64Byte)が、データのアクセス要求があった時にそのデータがキャッシュに存在しているか、あるならどのラインかなどを瞬時(多くの場合1サイクルのスループット)に検索する必要がある。そのためデータ格納アドレスの一部、具体的にはライン単位アドレスの下位数ビット(エントリアドレス)によりある程度の格納位置を限定することで検索速度を高める。各ラインにはライン単位アドレスの上位ビット、即ちフレームアドレスを格納しておき、キャッシュ検索時には検索アドレスのフレームアドレス部と、キャッシュ内に格納されている検索エントリアドレス位置(エントリアドレス部をデコードしラインが1つ選択される)に対応したフレームアドレスとを比較することでキャッシュのヒットを検出する。このフレームアドレス格納バッファが(図中)タグである。複数セットのタグを持てば同じエントリアドレスでも複数データの格納を行うことが可能となる。このタグのセット数(ウエイ)を連想度と呼ぶ。データ格納構造の相違は連想度の相違でもある。
ラインの入替え(リフィル)は該当エントリの全ラインにデータが格納されてなお同一エントリ新規フレームアドレスが入力されてキャッシュミスした(ヒットしなかった)場合に発生する。その場合どのラインを掃出して新規アドレスと入替えるかのアルゴリズムによってキャッシュのヒット率が変動する。代表的なアルゴリズムを記す。
CPUキャッシュは命令キャッシュとデータキャッシュの2種類が搭載されている場合が多い。命令キャッシュはプログラムという静的なデータを扱うのでデータ更新は存在しないが、データキャッシュはメモリへのライト動作があるためデータ更新が存在する。更新されたデータはいずれかのタイミングで下位レベルのメモリにも反映される必要があり、そのタイミングの相違により2つのアルゴリズムが存在する。
マルチCPU/キャッシュ構成など複数のバスマスタが存在し、各々がデータ更新を行った場合でも最新の正しいデータにアクセスできるよう保つべきデータの一貫性のことをキャッシュコヒーレンシもしくはキャッシュコンシステンシ (Cache Consistency) という。データ更新に上記ライトバック方式を用いた場合など、キャッシュに更新されたデータが滞留して主記憶装置など下位レベルのメモリには最新のデータが存在しない可能性がある。この時に複数のCPUが同一の記憶領域を参照/更新しようとすると、データの不整合が起こり正しい結果が得られないため、これを解決しどのCPUも必ず最新のデータにアクセスできるようにする必要がある。このための代表的なアルゴリズムにスヌープ方式やディレクトリ方式、共有キャッシュがある。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "キャッシュメモリ (cache memory) は、CPUなど処理装置がデータや命令などの情報を取得/更新する際に主記憶装置やバスなどの遅延/低帯域を隠蔽し、処理装置と記憶装置の性能差を埋めるために用いる高速小容量メモリのことである。略してキャッシュとも呼ぶ。コンピュータは以前から記憶装置や伝送路の性能が処理装置の性能に追いつけず、この差が全体性能に対するボトルネックとされてきた(ノイマンズ・ボトルネック)。そしてムーアの法則に基づく処理装置の加速度的な高性能化により現在ではますますこの差が拡大されている。キャッシュメモリは、記憶階層の観点からこれを解消しようとするものである。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "主に、主記憶装置とCPUなど処理装置との間に構成される。この場合、処理装置がアクセスしたいデータやそのアドレス、状態、設定など属性情報をコピーし保持することで、本来アクセスすべき記憶装置に代わってデータを入出力する。通常はキャッシュメモリが自動的にデータ保存や主記憶装置の代替を行うため、基本的にCPUのプログラムなど処理装置側がキャッシュメモリを意識する必要はない。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "キャッシュの一般的な概念はキャッシュ (コンピュータシステム)を参照のこと。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "キャッシュメモリは再利用データのキャッシングによる実効データ帯域の増加という意義をもつ。",
"title": "意義"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "例えば SGEMV(単精度浮動小数点の行列ベクトル積)を考える。2.0 GHzで動作する Haswell CPUのシングルコアはピーク時に128GB/sのデータアクセスを要求する (8 [FMA/inst.] ÷ 0.5 [CPI=cycle/inst.] * 2.0G [Hz=cycle/sec] * 4 [Byte/FP32])。一方プロセッサ-メインメモリ間のレイテンシは数百サイクルであり、並列ロードをおこなっても高々5GB/sしかデータを読み出せない。すなわちメモリ律速でCPU性能の5%以下しか引き出すことができない。もし行列をキャッシュに載せきることが出来れば、よりレイテンシの小さいキャッシュメモリからデータを供給し高いデータ帯域を確保できる。",
"title": "意義"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "キャッシュメモリは、通常は下位レベルの記憶装置より小容量で高速なスタティックRAMを用いて構成される。データ本体の一部とそのアドレス、フラグなど属性情報のセットを固定容量のメモリに格納する構造で、データ格納構造、ライン入替え、データ更新方式、キャッシュ階層などに多数のアーキテクチャが存在する。以前はCPUチップの外部に接続されていたが、LSIの集積度の向上や要求速度の上昇に伴いCPUチップ内部に取り込まれることが普通となった。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "記憶階層をもつキャッシュメモリをマルチレベルキャッシュ(英: multi level caches)という。CPUとメモリの性能差の拡大、マルチスレッドなどアクセス範囲の拡大に対応するために導入される。CPUに近い側からL1キャッシュ(レベル1)、L2キャッシュ(レベル2)と呼ばれ、2013年時点ではL4キャッシュまでCPUに内蔵する例も存在する。CPUから見て一番遠いキャッシュメモリの事をLLC(Last Level Cache)と呼ぶ事もある。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "キャッシュメモリはデータをライン(ブロック)と呼ぶある程度まとまった単位で管理する(例えばIntel Pentium 4の8kByte L1キャッシュはラインサイズ64Byte)が、データのアクセス要求があった時にそのデータがキャッシュに存在しているか、あるならどのラインかなどを瞬時(多くの場合1サイクルのスループット)に検索する必要がある。そのためデータ格納アドレスの一部、具体的にはライン単位アドレスの下位数ビット(エントリアドレス)によりある程度の格納位置を限定することで検索速度を高める。各ラインにはライン単位アドレスの上位ビット、即ちフレームアドレスを格納しておき、キャッシュ検索時には検索アドレスのフレームアドレス部と、キャッシュ内に格納されている検索エントリアドレス位置(エントリアドレス部をデコードしラインが1つ選択される)に対応したフレームアドレスとを比較することでキャッシュのヒットを検出する。このフレームアドレス格納バッファが(図中)タグである。複数セットのタグを持てば同じエントリアドレスでも複数データの格納を行うことが可能となる。このタグのセット数(ウエイ)を連想度と呼ぶ。データ格納構造の相違は連想度の相違でもある。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "ラインの入替え(リフィル)は該当エントリの全ラインにデータが格納されてなお同一エントリ新規フレームアドレスが入力されてキャッシュミスした(ヒットしなかった)場合に発生する。その場合どのラインを掃出して新規アドレスと入替えるかのアルゴリズムによってキャッシュのヒット率が変動する。代表的なアルゴリズムを記す。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "CPUキャッシュは命令キャッシュとデータキャッシュの2種類が搭載されている場合が多い。命令キャッシュはプログラムという静的なデータを扱うのでデータ更新は存在しないが、データキャッシュはメモリへのライト動作があるためデータ更新が存在する。更新されたデータはいずれかのタイミングで下位レベルのメモリにも反映される必要があり、そのタイミングの相違により2つのアルゴリズムが存在する。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "マルチCPU/キャッシュ構成など複数のバスマスタが存在し、各々がデータ更新を行った場合でも最新の正しいデータにアクセスできるよう保つべきデータの一貫性のことをキャッシュコヒーレンシもしくはキャッシュコンシステンシ (Cache Consistency) という。データ更新に上記ライトバック方式を用いた場合など、キャッシュに更新されたデータが滞留して主記憶装置など下位レベルのメモリには最新のデータが存在しない可能性がある。この時に複数のCPUが同一の記憶領域を参照/更新しようとすると、データの不整合が起こり正しい結果が得られないため、これを解決しどのCPUも必ず最新のデータにアクセスできるようにする必要がある。このための代表的なアルゴリズムにスヌープ方式やディレクトリ方式、共有キャッシュがある。",
"title": "構成"
}
] | キャッシュメモリ は、CPUなど処理装置がデータや命令などの情報を取得/更新する際に主記憶装置やバスなどの遅延/低帯域を隠蔽し、処理装置と記憶装置の性能差を埋めるために用いる高速小容量メモリのことである。略してキャッシュとも呼ぶ。コンピュータは以前から記憶装置や伝送路の性能が処理装置の性能に追いつけず、この差が全体性能に対するボトルネックとされてきた(ノイマンズ・ボトルネック)。そしてムーアの法則に基づく処理装置の加速度的な高性能化により現在ではますますこの差が拡大されている。キャッシュメモリは、記憶階層の観点からこれを解消しようとするものである。 主に、主記憶装置とCPUなど処理装置との間に構成される。この場合、処理装置がアクセスしたいデータやそのアドレス、状態、設定など属性情報をコピーし保持することで、本来アクセスすべき記憶装置に代わってデータを入出力する。通常はキャッシュメモリが自動的にデータ保存や主記憶装置の代替を行うため、基本的にCPUのプログラムなど処理装置側がキャッシュメモリを意識する必要はない。 キャッシュの一般的な概念はキャッシュ (コンピュータシステム)を参照のこと。 | '''キャッシュメモリ''' ({{en|cache memory}}) は、[[CPU]]など処理装置が[[データ]]や[[命令 (コンピュータ)|命令]]などの[[情報]]を取得/更新する際に[[主記憶装置]]や[[バス (コンピュータ)|バス]]などの遅延/低帯域を隠蔽し、処理装置と記憶装置の性能差を埋めるために用いる高速小容量[[メモリ]]のことである。略してキャッシュとも呼ぶ。コンピュータは以前から記憶装置や[[伝送路]]の性能が処理装置の性能に追いつけず、この差が全体性能に対するボトルネックとされてきた([[ノイマンズ・ボトルネック]])。そして[[ムーアの法則]]に基づく処理装置の加速度的な高性能化により現在ではますますこの差が拡大されている。キャッシュメモリは、[[キャッシュ (コンピュータシステム)#記憶階層 (Memory Hierarchy)|記憶階層]]の観点からこれを解消しようとするものである。
主に、主記憶装置とCPUなど処理装置との間に構成される。この場合、処理装置が[[アクセス]]したいデータやその[[メモリアドレス|アドレス]]、状態、設定など属性情報を[[コピー]]し保持することで、本来アクセスすべき記憶装置に代わってデータを入出力する。通常はキャッシュメモリが自動的にデータ保存や主記憶装置の代替を行うため、基本的にCPUのプログラムなど処理装置側がキャッシュメモリを意識する必要はない。
キャッシュの一般的な概念は[[キャッシュ (コンピュータシステム)]]を参照のこと。
== 意義 ==
=== データ帯域 ===
キャッシュメモリは再利用データのキャッシングによる実効データ帯域の増加という意義をもつ。
例えば SGEMV([[単精度浮動小数点数|単精度浮動小数点]]の[[Basic Linear Algebra Subprograms#GEMV|行列ベクトル積]])を考える。2.0 GHzで動作する [[Haswellマイクロアーキテクチャ|Haswell]] CPUのシングルコアはピーク時に128GB/sのデータアクセスを要求する<ref>"to sustain Haswell’s CPU peak (e.g., 16 multiply-adds per cycle), a core must access 16 matrix elements (= 64 bytes) per cycle, all from memory ... assuming 2.0GHz processor, it requires memory bandwidth of: ≈ 64 × 2.0 GHz = 128 GB/s" 田浦. (2016). ''[https://www.eidos.ic.i.u-tokyo.ac.jp/~tau/lecture/parallel_distributed/2016/slides/pdf/memory.pdf What You Must Know about Memory, Caches, and Shared Memory]''. [https://www.eidos.ic.i.u-tokyo.ac.jp/~tau/lecture/parallel_distributed/2018/ 並列分散プログラミング], 東京大学.</ref> (8 [<nowiki/>[[積和演算#融合積和演算|FMA]]/[[命令 (コンピュータ)|inst.]]] ÷ 0.5 [CPI=cycle/inst.]<ref>"__m256 _mm256_fmadd_ps ... Throughput (CPI) ... Haswell ... 0.5" ''[https://www.intel.com/content/www/us/en/docs/intrinsics-guide/index.html#techs=FMA&text=fmadd&ig_expand=3202 Intel Intrinsics Guide]''. 2022-04-03閲覧.</ref> * 2.0G [Hz=cycle/sec] * 4 [Byte/FP32])。一方プロセッサ-メインメモリ間のレイテンシは数百サイクルであり、並列ロードをおこなっても高々5GB/sしかデータを読み出せない<ref>"A simple memcpy experiment ... 4.575611 GB/sec ... an almost proportional improvement up to 10 lists" 田浦. (2016). ''[https://www.eidos.ic.i.u-tokyo.ac.jp/~tau/lecture/parallel_distributed/2016/slides/pdf/memory.pdf What You Must Know about Memory, Caches, and Shared Memory]''. [https://www.eidos.ic.i.u-tokyo.ac.jp/~tau/lecture/parallel_distributed/2018/ 並列分散プログラミング], 東京大学.</ref>。すなわちメモリ律速でCPU性能の5%以下しか引き出すことができない<ref>"it requires memory bandwidth ... ≈ 20× more than it provides" 田浦. (2016). ''[https://www.eidos.ic.i.u-tokyo.ac.jp/~tau/lecture/parallel_distributed/2016/slides/pdf/memory.pdf What You Must Know about Memory, Caches, and Shared Memory]''. [https://www.eidos.ic.i.u-tokyo.ac.jp/~tau/lecture/parallel_distributed/2018/ 並列分散プログラミング], 東京大学.</ref>。もし行列をキャッシュに載せきることが出来れば、よりレイテンシの小さいキャッシュメモリからデータを供給し高いデータ帯域を確保できる。
== 構成 ==
[[File:4WaySetAssociativeCache.svg|thumb|キャッシュメモリの構造]]
キャッシュメモリは、通常は下位レベルの記憶装置より小容量で高速な[[Static Random Access Memory|スタティックRAM]]を用いて構成される。データ本体の一部とそのアドレス、[[フラグ (コンピュータ)|フラグ]]など属性情報のセットを固定容量のメモリに格納する構造で、[[#データ格納構造|データ格納構造]]、[[#データ格納構造|ライン]][[#ライン入替え方式 (Refill)|入替え]]、[[#データ更新方式 (Purging)|データ更新方式]]、[[キャッシュメモリ#キャッシュ階層|キャッシュ階層]]などに多数の[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]が存在する。以前はCPUチップの外部に接続されていたが、LSIの集積度の向上や要求速度の上昇に伴いCPUチップ内部に取り込まれることが普通となった。
=== キャッシュ階層 ===
[[キャッシュ (コンピュータシステム)#記憶階層 (Memory Hierarchy)|記憶階層]]をもつキャッシュメモリを'''マルチレベルキャッシュ'''({{lang-en-short|multi level caches}})という<ref>"multi level caches ... recent processors have multiple levels of caches" 田浦. (2018). ''[https://www.eidos.ic.i.u-tokyo.ac.jp/~tau/lecture/parallel_distributed/2018/slides/pdf/memory2.pdf What You Must Know about Memory, Caches, and Shared Memory]''. [https://www.eidos.ic.i.u-tokyo.ac.jp/~tau/lecture/parallel_distributed/2018/ 並列分散プログラミング], 東京大学.</ref>。CPUとメモリの性能差の拡大、[[マルチスレッド]]などアクセス範囲の拡大に対応するために導入される。CPUに近い側からL1キャッシュ(レベル1)、[[L2キャッシュ]](レベル2)と呼ばれ<ref>"multiple levels of caches (L1, L2, . . . )" 田浦. (2018). ''[https://www.eidos.ic.i.u-tokyo.ac.jp/~tau/lecture/parallel_distributed/2018/slides/pdf/memory2.pdf What You Must Know about Memory, Caches, and Shared Memory]''. [https://www.eidos.ic.i.u-tokyo.ac.jp/~tau/lecture/parallel_distributed/2018/ 並列分散プログラミング], 東京大学.</ref>、[[2013年]]時点ではL4キャッシュまでCPUに内蔵する例も存在する。CPUから見て一番遠いキャッシュメモリの事をLLC(Last Level Cache)と呼ぶ事もある。
=== データ格納構造 ===
キャッシュメモリはデータをライン(ブロック)と呼ぶある程度まとまった単位で管理する(例えばIntel Pentium 4の8kByte L1キャッシュはラインサイズ64Byte)が、データのアクセス要求があった時にそのデータがキャッシュに存在しているか、あるならどのラインかなどを瞬時(多くの場合1サイクルの[[スループット]])に検索する必要がある。そのためデータ格納アドレスの一部、具体的にはライン単位アドレスの下位数[[ビット]](エントリアドレス)によりある程度の格納位置を限定することで検索速度を高める。各ラインにはライン単位アドレスの上位ビット、即ちフレームアドレスを格納しておき、キャッシュ検索時には検索アドレスのフレームアドレス部と、キャッシュ内に格納されている検索エントリアドレス位置(エントリアドレス部をデコードしラインが1つ選択される)に対応したフレームアドレスとを比較することでキャッシュのヒットを検出する。このフレームアドレス格納バッファが(図中)タグである。複数セットのタグを持てば同じエントリアドレスでも複数データの格納を行うことが可能となる。このタグのセット数(ウエイ)を連想度と呼ぶ。データ格納構造の相違は連想度の相違でもある。
[[Image:Cache,associative-fill-both.png|thumb|450px|メモリ位置がキャッシュの場所を特定する例]]
; ダイレクトマップ方式 (Direct Mapped)
: 1組のタグにより構成(連想度1)されるデータ格納構造。アドレスにより一意に配置が決まるため、タグの構造が非常に単純。だが、同一エントリに異なるフレームアドレスが転送されると必ずラインの入れ替えが発生する。ラインの入れ替えが頻発しスループットが落ちることをキャッシュスラッシングというが、この状態が起こりやすくヒット率は他の方式に比べ高くない。
; セットアソシアティブ方式 (Set Associative)
: 複数のタグにより構成(連想度2以上)されるデータ格納構造。同一エントリに異なるフレームアドレスのデータを複数格納することができる。連想度が上がるほどキャッシュヒット率は上昇するが製造は困難になっていくため、システムによりバランスのよい実装が異なる。n個のタグにより構成された場合、nウエイセットアソシアティブ方式と呼ぶ。最近はCAM ([[連想メモリ]]:Content Addressable Memory)がタグとして使われ出し、32など非常に高い連想度を実装できるようになってきた。ダイレクトマップ方式や下記のフルアソシアティブ方式はこの方式の特殊な場合である。
; フルアソシアティブ方式 (Fully Associative)
: エントリアドレスによる振り分けはなく、全てのラインが検索対象となる構造。従って連想度はライン数分となる。キャッシュスラッシングは起こり難くヒット率は最も優れているが、実装コストや複雑度の面から通常用いられることはない。
=== ライン入替え方式 (Refill) ===
ラインの入替え(リフィル)は該当エントリの全ラインにデータが格納されてなお同一エントリ新規フレームアドレスが入力されてキャッシュミスした(ヒットしなかった)場合に発生する。その場合どのラインを掃出して新規アドレスと入替えるかの[[アルゴリズム]]によってキャッシュのヒット率が変動する。代表的なアルゴリズムを記す。
; ラウンドロビン (Round Robin)
: リフィル対象となるラインを順番に交代させる方法。各ラインのアクセス頻度に拘らず順番にリフィルを行うため、あまりヒット率が高くない。
; LRU (Least Recently Used)
: 最も古くアクセスされたラインをリフィルする方法。[[キャッシュ (コンピュータシステム)#時間的局所性 (Temporal Locality)|時間的局所性]]に鑑みれば、過去最もアクセスのなかったラインは将来にわたってもアクセスされる可能性は少ないと言える。従ってこの方法はヒット率がかなり高い方法としてよく採用されている。ただし各ラインごとにアクセス順履歴を持ちアクセスがある度に頻繁に履歴を入替えるため、複雑な構成となりアクセス性能に影響が出る場合がある。
; ランダム (Random)
: リフィルラインの選択をランダムに行う方式。各ライン毎にリフィル用機構を持つ必要がなくなるため構成が簡易になる。ヒット率はラウンドロビンよりは良いとされる。
=== データ更新方式 (Replacement policy) ===
[[File:Write-through with no-write-allocation.svg|thumb|right|ライトスルー方式]]
[[File:Write-back with write-allocation.svg|thumb|right|ライトバック方式]]
CPUキャッシュは命令キャッシュとデータキャッシュの2種類が搭載されている場合が多い。命令キャッシュはプログラムという静的なデータを扱うのでデータ更新は存在しないが、データキャッシュはメモリへのライト動作があるためデータ更新が存在する。更新されたデータはいずれかのタイミングで下位レベルのメモリにも反映される必要があり、そのタイミングの相違により2つのアルゴリズムが存在する。
; ライトスルー方式 (Write Through Algorithm)
: CPUがメモリ書き込みを行ったら、キャッシュにストアすると同時に下位レベルのメモリにも書き戻す方式。必ず下位レベルのバスが活性化するため、バスの競合や下位レベルの低いスループットに律速されるなどの制約はあるが、単純な構成で実現でき、またデータのコヒーレンシを保つことが容易である。出力段にライトバッファを設けることにより、単一CPUであればライトバック方式に比べ遜色のない性能が期待できる。そのためCPUのL1キャッシュなどに実装される場合が多い。
; ライトバック方式 (Write Back Algorithm)
: CPUがメモリ書き込みを行っても、条件が整わない限りキャッシュに留まりメモリへの書き戻しを行わない方式。書き戻す条件は対象エントリにウエイ数以上のフレームアドレスのリード/ライトが行われる、他のバスマスタが対象エントリが保持しているアドレスに対しアクセスを行った時にコヒーレンシを保つために行うなどがある。ライトスルー方式に対し下位レベルのバスが競合を起こしにくく、マルチCPU構成に向くため、記憶階層の同一レベルに複数のキャッシュが接続されているようなL2キャッシュに実装される。ライトミス時に2つのアプローチがある。一つは、Write allocate であり、もうひとつが No-write allocate である。
:* Write allocate は fetch on write とも呼ばれる。ライトミスしたアドレスを含むラインがキャッシュにロードされた後、ライトが実行される。このアプローチでは、ライトミスとリードミスは同様の動作となる。
:* No-write allocate は write-no-allocate または write around と呼ばれる。ライトミスしたアドレスのデータはキャッシュにロードされず、データは 下位の記憶階層に書き込まれる。このアプローチでは、データロードは、リードミス時にのみ発生する。
=== キャッシュコヒーレンシ (Cache Coherency) ===
{{Main|キャッシュコヒーレンシ}}
マルチCPU/キャッシュ構成など複数のバスマスタが存在し、各々がデータ更新を行った場合でも最新の正しいデータにアクセスできるよう保つべきデータの一貫性のことをキャッシュ[[コヒーレンシ]]もしくはキャッシュ[[コンシステンシ]] (Cache Consistency) という。データ更新に上記ライトバック方式を用いた場合など、キャッシュに更新されたデータが滞留して主記憶装置など下位レベルのメモリには最新のデータが存在しない可能性がある。この時に複数のCPUが同一の記憶領域を参照/更新しようとすると、データの不整合が起こり正しい結果が得られないため、これを解決しどのCPUも必ず最新のデータにアクセスできるようにする必要がある。このための代表的なアルゴリズムにスヌープ方式やディレクトリ方式、共有キャッシュがある。
; スヌープ方式 (Cache Snooping)
: {{main|バススヌーピング}}
: キャッシュコヒーレンシのアルゴリズムにおいて、特に各キャッシュ自身に搭載される方法として'''スヌープ方式'''('''スヌープキャッシュ''')がある。これは各々のキャッシュが自身や他CPUのキャッシュのライン更新状態を把握/管理し、他のキャッシュと更新状態の情報を交換することで、どのキャッシュに最新のデータが存在するかを知り、各キャッシュが必要なときに最新のデータを取得できるように自身の状態を変更したりラインのパージを行う。この情報交換は共通のデータバスを介して行われるため、情報の通知と実際のデータ転送との順序が保たれ、破綻を起こすことはない。逆に共通バスを持たない[[分散型メモリシステム]]には用いることが困難などの制約もある。この[[プロトコル]]として下記のものが知られている。
:; 無効型プロトコル (Invalidate Protocol)
:: 複数のキャッシュから参照があるアドレスに対しあるキャッシュが更新を行う場合、そのアドレスはダーティであるとして参照中の全キャッシュの該当ラインを無効化する。これにより更新されたラインがありながら他のキャッシュで古いデータをキャッシングしている状態がなくなり、コヒーレンシが保たれる。MESI(Illinoisプロトコル)、MOSI(Berkeleyプロトコル)などがある。
:; 更新型プロトコル (Update Protocol)
:: 複数のキャッシュが参照しているアドレスに対してデータ更新を行うときはライトスルー型となり、単独でアクセスしている場合はライトバック型となるような制御を行うことで更新データを行き渡らせコヒーレンシを保つ。MEI(Fireflyプロトコル)、MOES(DRAGONプロトコル)などがある。
:
; ディレクトリ方式 (Directory-based Protocol)
: スヌープ方式と異なり、メモリの一貫性をディレクトリと呼ぶ専用領域にて一元管理する方式。この領域は実装上の各メモリ領域に分散してよく、分散メモリ型システムに適している。
; 共有キャッシュ (Shared Cache)
: 1つのキャッシュに対し複数のCPUが参照できるような構成を持つキャッシュ。1チップに集積された複数のCPUを扱うなど限定的な場面ではキャッシュコヒーレンシを根本的に解決するが、キャッシュ自体の構造が非常に複雑となる、もしくは性能低下要因となり、多くのCPUを接続することはより困難となる。
=== その他機構 ===
; [[プリフェッチ]] (Pre-fetch)
: CPUが専用命令などによりあらかじめデータをキャッシュに汲んでおく動作。データの流れがある程度予測できるような特定のソフトウエアアルゴリズムは、先んじてプリフェッチを行うことで実際にデータが必要な場面で余分なレイテンシがかかることなくスムーズに処理を行うことができる。例えばストリーミング処理のようなデータの流れや処理量などが単純で予測しやすい処理などは、プリフェッチを行うことで大幅に性能向上する場合がある。
== 目的別分類 ==
; 命令キャッシュ
: プログラムなどCPUの命令を格納するキャッシュ。命令は静的なデータなため、書き換えが発生せず(x86を除く最近のCPUは命令の自己書き換えなどには対応していない場合が多い)コヒーレンシを保つ必要がないと想定し、CPUからの入力はアドレスのみでデータ更新ユニットなどを省いている。
; データキャッシュ
: CPUが処理するデータを格納するキャッシュ。上述の構成をフルサポートしている場合が多い。命令キャッシュとデータキャッシュが分離され、命令バスとデータバスの2種類のバスがCPUに接続されているCPUを[[ハーバードアーキテクチャ]]と言う。現在のCPUはハーバードアーキテクチャが主流である。
; 実行トレースキャッシュ
: [[インテル]]のPentium 4などは、インストラクション・セット・アーキテクチャ(ISA)は[[CISC]]であるが、内部で[[RISC]]的なマイクロ命令に変換し実行するアーキテクチャとなっている。単純な命令キャッシュと異なり、変換済みのマイクロ命令を再利用すれば命令デコーダの使用頻度を減らすことができる。Pentium 4ではL1命令キャッシュの代わりに約12000語の命令を格納できる8 ウェイ・セット・アソシエイティブの実行トレースキャッシュが搭載されている。
; トランスレーションキャッシュ
: x86(Pentiumなどに用いられているISA)の互換CPUメーカである[[トランスメタ]]が、そのコア技術として開発したコードモーフィングソフトウェア(CMS)用に主記憶装置上に確保している領域。[[Crusoe]]で16メガバイトの容量がある。CMSはx86命令を動的にCPUコアのネイティブ命令に変換し、変換後の命令を実行させる機構だが、このネイティブ命令に変換したプログラムを格納するキャッシュとして用いる。
; スタックトップキャッシュ
: [[コールスタック]]をハードウェアで実装したアーキテクチャでは、スタックトップの数バイトから数十バイトにアクセスが集中する。この部分をキャッシュするのがスタックトップキャッシュである。ISAからは存在に気づけない実装([[トランスピュータ]]など)と、積極的にレジスタとして使用できる実装([[AMD Am29000]]など)がある。後者の概念を発展させたものが[[レジスタ・ウィンドウ]]である。
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2013年4月}}
{{Refbegin|2}}
* {{Cite book |和書|first=ジョン・L |last=ヘネシー |first2=デイビッド・A |last2=パターソン |date=1993-05|translator=富田眞冶 / 村上和彰 / 新實治男 |title=コンピュータ・アーキテクチャ 設計・実現・評価の定量的アプローチ |publisher=日経BP社 |isbn= 4-8222-7152-8}}
* {{Cite book |和書|first=ジョン・L |last=ヘネシー |first2=デイビッド・A |last2=パターソン |date=1999-05|translator=成田光彰 |title=コンピュータの構成と設計 ハードウエアとソフトウエアのインタフェース |volume=上 |edition=第2版 |publisher=日経BP社 |isbn=4-8222-8056-X }}
* {{Cite book |和書|first=ジョン・L |last=ヘネシー |first2=デイビッド・A |last2=パターソン |date=1999-05|translator=成田光彰 |title=コンピュータの構成と設計 ハードウエアとソフトウエアのインタフェース |volume=下 |edition=第2版 |publisher=日経BP社 |isbn=4-8222-8057-8 }}
* {{Cite book |和書|last=中森|first=章 |date=2004-04|title=マイクロプロセッサ・アーキテクチャ入門 RISCプロセッサの基礎から最新プロセッサのしくみまで |series=TECHI Vol.20 |publisher=CQ出版社 |isbn= 4-7898-3331-3 }}
* {{Cite book |和書|author= インテル株式会社|title=IA-32 インテル アーキテクチャ ソフトウェア・デベロッパーズ・マニュアル }}
{{Refend}}
== 関連項目 ==
*[[L2キャッシュ]]
*[[キャッシュアルゴリズム]]
*[[MESIプロトコル]]
*[[仮想記憶]]
{{CPU technologies}}
{{DEFAULTSORT:きやつしゆめもり}}
[[Category:キャッシュ]]
[[Category:CPU]] | null | 2023-04-05T13:05:31Z | false | false | false | [
"Template:Cite book",
"Template:Refend",
"Template:CPU technologies",
"Template:En",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Main",
"Template:参照方法",
"Template:Refbegin"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%83%AA |
3,668 | くまいもとこ | くまい もとこ(1970年9月8日 - )は、日本の女性声優。東京都出身。81プロデュース所属。
小さい時から好奇心旺盛で、女優、DJ、バイクレーサーにも憧れていたという。
小学4年生の頃に映画『銀河鉄道999』を観て漠然と役者に憧れ、中学・高校時代は演劇部に所属していた。大学時代は放送部に興味を持っており、そのことが、声優を目指すきっかけにもなったと語っている。
81ACTOR'S STUDIO第5期卒業後、81プロデュースに所属し、声優としてデビューを果たす。
2006年12月21日に病気療養のため、休業。病気休業以前に収録していた『鉄人28号 白昼の残月』や『スパイダーライダーズ 〜よみがえる太陽〜』などの例外を除いて、出演作品では代役への交代を余儀なくされた。『きらりん☆レボリューション』(第80話 「ソーナンダー!?きのこ大使でハッピーまいたけ!!」2007年10月19日放送分)にて復帰。2007年(平成19年)大晦日に放送された『メジャー 第1シリーズ』総集編でも、少年時代の吾郎役でナレーションを担当している。復帰後初のラジオ出演は『今日からマ王! 眞魔国放送協会(SHK)』第29回『グレタがぐれた!?』(2007年11月29日)である。
趣味はツーリング、ドライブ、バードウォッチング。特技は英語であり、大学時代に英語の教員免許を取得している。
声種はメゾソプラノ。
声優としてアニメ、外画、テレビ、ゲ-ムなどで活躍している。
主に少年役や少女役を演じることが多い。
くまいの病気療養に伴う休業中に代役した人物は以下の通り。ただし、『ぐ〜チョコランタン』以外の作品は復帰前に最終回を迎えたため、途中降板という形となったが、『かいけつゾロリ』のノシシ役は2012年に公開された『映画かいけつゾロリ だ・だ・だ・だいぼうけん!』から復帰しており、テレビシリーズとしての本格的な復帰は『もっと!まじめにふまじめ かいけつゾロリ』からとなっている。
太字はメインキャラクター。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "くまい もとこ(1970年9月8日 - )は、日本の女性声優。東京都出身。81プロデュース所属。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "小さい時から好奇心旺盛で、女優、DJ、バイクレーサーにも憧れていたという。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "小学4年生の頃に映画『銀河鉄道999』を観て漠然と役者に憧れ、中学・高校時代は演劇部に所属していた。大学時代は放送部に興味を持っており、そのことが、声優を目指すきっかけにもなったと語っている。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "81ACTOR'S STUDIO第5期卒業後、81プロデュースに所属し、声優としてデビューを果たす。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "2006年12月21日に病気療養のため、休業。病気休業以前に収録していた『鉄人28号 白昼の残月』や『スパイダーライダーズ 〜よみがえる太陽〜』などの例外を除いて、出演作品では代役への交代を余儀なくされた。『きらりん☆レボリューション』(第80話 「ソーナンダー!?きのこ大使でハッピーまいたけ!!」2007年10月19日放送分)にて復帰。2007年(平成19年)大晦日に放送された『メジャー 第1シリーズ』総集編でも、少年時代の吾郎役でナレーションを担当している。復帰後初のラジオ出演は『今日からマ王! 眞魔国放送協会(SHK)』第29回『グレタがぐれた!?』(2007年11月29日)である。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "趣味はツーリング、ドライブ、バードウォッチング。特技は英語であり、大学時代に英語の教員免許を取得している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "声種はメゾソプラノ。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "声優としてアニメ、外画、テレビ、ゲ-ムなどで活躍している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "主に少年役や少女役を演じることが多い。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "くまいの病気療養に伴う休業中に代役した人物は以下の通り。ただし、『ぐ〜チョコランタン』以外の作品は復帰前に最終回を迎えたため、途中降板という形となったが、『かいけつゾロリ』のノシシ役は2012年に公開された『映画かいけつゾロリ だ・だ・だ・だいぼうけん!』から復帰しており、テレビシリーズとしての本格的な復帰は『もっと!まじめにふまじめ かいけつゾロリ』からとなっている。",
"title": "病気療養に伴う休業中の代役"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "太字はメインキャラクター。",
"title": "出演"
}
] | くまい もとこは、日本の女性声優。東京都出身。81プロデュース所属。 | {{声優
| 名前 = くまい もとこ
| ふりがな =
| 画像ファイル =
| 画像サイズ =
| 画像コメント =
| 本名 = 熊井 統子(読みは同じ)<ref name="声優名鑑">{{Cite book|和書|title=声優名鑑|page=91|publisher=[[成美堂出版]]|year=1999|isbn=978-4-415-00878-3}}</ref>
| 愛称 =
| 性別 = [[女性]]
| 出生地 =
| 出身地 = {{JPN}}・[[東京都]][[昭島市]]<ref name="TOWER RECORDS ONLINE">{{Cite news|title=くまいもとこ - TOWER RECORDS ONLINE|url=https://tower.jp/artist/283672/%E3%81%8F%E3%81%BE%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%A8%E3%81%93|accessdate=2018-06-02}}</ref>
| 死没地 =
| 生年 = 1970
| 生月 = 9
| 生日 = 8
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 血液型 = [[ABO式血液型|AB型]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210608182416/http://gree.jp/kumai_motoko/introduction |title=プロフィール |work=公式ブログ |accessdate=2018-04-26}}</ref><ref name="W100">{{Cite book|和書|date=2010-11-30|title=W100 アニメ声優 |pages=60-61|publisher=[[シンコーミュージック・エンタテイメント]]|isbn=978-4-401-77028-1}}</ref>
| 身長 = 156 [[センチメートル|cm]]{{R|W100}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W97-0181|title=くまい もとこ|work=日本タレント名鑑|accessdate=2022-04-09}}</ref>
| 職業 = [[声優]]
| 事務所 = [[81プロデュース]]<ref name="81prof">{{Cite web|和書|url=https://www.81produce.co.jp/actor_search/index.php/item?id=193 |title=くまい もとこ |publisher=81プロデュース |accessdate=2018-04-26}}</ref>
| 配偶者 =
| 著名な家族 =
| 公式サイト = [https://www.81produce.co.jp/actor_search/index.php/item?id=193 くまい もとこ - (か行):株式会社81プロデュース‐声優プロダクション]
| 活動期間 = [[1993年]]<ref name=SG>『声優グランプリ 2011年9月号』76P。</ref>{{R|TOWER RECORDS ONLINE}} -
| デビュー作 = テレビ東京版『[[ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ (1987年のアニメ)|ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ]]』 ※本人いわく「少年A」みたいな役<ref name=SG/>
}}
'''くまい もとこ'''{{refnest|group="注"|この芸名は漢字のままだと、画数が多く、テロップの字が潰れてしまうため、芸名は本名を平仮名にしたという{{R|W100}}。}}([[1970年]][[9月8日]]{{R|TOWER RECORDS ONLINE}} - )は、[[日本]]の[[女性]][[声優]]。[[東京都]]出身<ref name="81prof" />。[[81プロデュース]]所属{{R|81prof}}。{{VOICE Notice Hidden|冒頭部分に記載する代表作は、編集合戦誘発の原因となりますので、多数の出典で確認できるものに限ってください。[[プロジェクト:芸能人#記事の書き方]]にてガイドラインが制定されていますので、そちらも参照して下さい。}}
== 略歴 ==
小さい時から好奇心旺盛で、女優、DJ、バイクレーサーにも憧れていたという{{R|W100}}。
小学4年生の頃に映画『[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]]』を観て漠然と役者に憧れ、中学・高校時代は演劇部に所属していた<ref name="anime">{{Cite book|和書|editor= |title=知りたい!なりたい!職業ガイドアニメーションの仕事|pages=140-143|publisher=[[ほるぷ出版]]|chapter= だから私はこの仕事 くまいもとこさん(81プロデュース 声優)|isbn=978-4-593-57131-4|year=1999}}</ref>。大学時代は放送部に興味を持っており、そのことが、声優を目指すきっかけにもなったと語っている{{R|anime}}。
81ACTOR'S STUDIO第5期卒業後、81プロデュースに所属し、声優としてデビューを果たす<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.81actors-studio.jp/81group/senior|title=卒業生からのメッセージ|publisher=81ACTOR'S STUDIO|accessdate=2019-11-13}}</ref>。
[[2006年]][[12月21日]]に病気療養のため、休業<ref>[https://web.archive.org/web/20070102141647/https://www.81produce.co.jp 81プロデュースの公式サイト上でのアナウンス・2006年12月21日付のNEWS参照](2007年1月2日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。病気休業以前に収録していた『[[鉄人28号 白昼の残月]]』や『[[スパイダーライダーズ 〜オラクルの勇者たち〜|スパイダーライダーズ 〜よみがえる太陽〜]]』などの例外を除いて、出演作品では代役への交代を余儀なくされた。『[[きらりん☆レボリューション]]』(第80話 「ソーナンダー!?きのこ大使でハッピーまいたけ!!」2007年10月19日放送分)にて復帰。2007年(平成19年)大晦日に放送された『[[メジャー (アニメ)|メジャー 第1シリーズ]]』総集編でも、少年時代の吾郎役で[[ナレーション]]を担当している。復帰後初の[[ラジオ]]出演は『今日からマ王! 眞魔国放送協会(SHK)』第29回『グレタがぐれた!?』(2007年11月29日)である。
== 人物 ==
趣味は[[ツーリング]]、[[ドライブ]]、[[バードウォッチング]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210608182416/http://gree.jp/kumai_motoko/introduction |title=プロフィール |work=公式ブログ |accessdate=2018-04-26}}</ref>。特技は[[英語]]{{R|81prof}}であり、大学時代に英語の[[教員免許]]を取得している{{R|anime}}。
[[音域#人声の音域|声種]]は[[メゾソプラノ]]<ref>{{Cite book |和書 |title=日本音声製作者名鑑2007 |publisher=[[小学館]] |page=171|date=2007-03-25 |isbn=978-4-09-526302-1}}</ref>。
声優としてアニメ、外画、テレビ、ゲ-ムなどで活躍している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.talent-databank.co.jp/search/profile/2000038935 |title=くまいもとこ |publisher=タレントデータバンク |accessdate=2018-04-26}}</ref>。
主に少年役や少女役を演じることが多い<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20191113091652/https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/くまいもとこ/|title=くまいもとこの解説 - goo人名事典|accessdate=2019-11-13}}</ref>。
== 病気療養に伴う休業中の代役 ==
くまいの病気療養に伴う休業中に代役した人物は以下の通り。ただし、『ぐ〜チョコランタン』以外の作品は復帰前に最終回を迎えたため、途中降板という形となったが、『かいけつゾロリ』のノシシ役は2012年に公開された『映画かいけつゾロリ だ・だ・だ・だいぼうけん!』から復帰しており、テレビシリーズとしての本格的な復帰は『もっと!まじめにふまじめ かいけつゾロリ』からとなっている。
{| class="wikitable sortable" style="font-size:small" border="1"
|-
!代役!!役名!!概要作品!!代役の初担当作品
|-
|[[三瓶由布子]]||鈴風草太||『[[おとぎ銃士 赤ずきん]]』||第26話
|-
|rowspan="2"|[[比嘉久美子]]||虎水ギンタ||『[[MÄR#アニメ(メルヘヴン)|MÄR-メルヘヴン-]]』||第90話
|-
|ヒカル||『[[サルゲッチュ]]』||『サルゲッチュ サルサル大作戦』
|-
|[[小林沙苗]]||ノシシ||『[[かいけつゾロリ]]』||『[[まじめにふまじめ かいけつゾロリ]]』第94話
|-
|[[西村ちなみ]]||アネム||『[[ぐ〜チョコランタン]]』||2007年2月放送分
|-
|[[神崎ちろ]]||バーディー||『[[南の島の小さな飛行機 バーディー]]』||第61話
|}
== 出演 ==
'''太字'''はメインキャラクター。
=== テレビアニメ ===
{{dl2
| 1996年 |
* [[愛天使伝説ウェディングピーチ]](ヘイトリッド)
* [[アリス探偵局]](マンデー)
* [[機動新世紀ガンダムX]]([[機動新世紀ガンダムXの登場人物#キッド・サルサミル|キッド・サルサミル]]{{R|ガンダムX}})
* Cathy(ゼニス)
* [[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]](1996年 - 2021年、三ッ葉一八、萩田ひろ子、もとひさ〈2代目〉、椎野美太郎、隠迷斎)
* [[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん(テレビ朝日版第1期)]](1996年 - 2000年、ミイちゃん〈5代目〉、カズくん、子供、少年、男の子C、ジョージ)
* [[バケツでごはん]](タボン、アルゲリータ、一 他)
* [[爆走兄弟レッツ&ゴー!!]](1996年 - 1998年、こひろまこと、まなぶ) - 3シリーズ{{Ras|第1期(1996年)、第2期『WGP』(1997年)、第3期『MAX』(1998年)}}
* [[みどりのマキバオー]](堀江ヒゲ治)
* [[モジャ公]](お客さん、タマコのママ)
* [[YAT安心!宇宙旅行]](1996年 - 1998年、'''星渡ゴロー''') - 2シリーズ{{Ras|第1期(1996年 - 1997年)、第2期(1998年)}}
| 1997年 |
* [[学級王ヤマザキ]](1997年 - 1998年、'''ヤマザキ''')
* [[キューティーハニーF]](サスペンションクロー妹、少年育児)
* [[救命戦士ナノセイバー]]('''強志'''、恵子)
* [[手塚治虫の旧約聖書物語]](ミミ、弟)
* [[HAUNTEDじゃんくしょん]](剛士)
* [[ポケットモンスター (1997-2002年のアニメ)|ポケットモンスター]](1997年 - 2001年、ゴロウ、タロウ、ワタリ、ユタカ、オサム)
* [[マッハGoGoGo]](風見ワタル)
* [[烈火の炎]](1997年 - 1998年、'''小金井薫'''{{R|烈火の炎}}、光蘭の秘書)
| 1998年 |
* [[アリスSOS]](1998年 - 1999年、'''嵯峨野タカシ''')
* [[アキハバラ電脳組]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/103377/|title=アキハバラ電脳組 : 作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-12-03}}</ref>(テツロー、女の子B)
* [[アンドロイド・アナ MAICO 2010]](子供太郎)
* [[浦安鉄筋家族]](梅星涙)
* [[カードキャプターさくら]](1998年 - 2000年、'''李小狼'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www6.nhk.or.jp/anime/program/detail.html?i=sakura| title = カードキャプターさくら| publisher = NHKアニメワールド| accessdate = 2016-05-22}}</ref>)
* [[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]](1998年 - 2017年、店員、正太、男の子、星くん、上野モリオ)
* [[時空探偵ゲンシクン]]([[ベーブ・ルース|ジョージ]]、[[マルコ・ポーロ]])
* [[太陽の子エステバン]](BS版)(タオ)
* [[超速スピナー]]([[アレックス・ガルシア (スピナー)|アレックス・ガルシア]])
* [[ドクタースランプ]]('''キャラメルマン4号/オボッチャマン'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/arale_2nd/| title = ドクタースランプ| publisher = 東映アニメーション| accessdate = 2016-06-17}}</ref>、お春ばあさん、子ゴリラ)
* [[忍たま乱太郎]](1998年 - 2008年、団吉、忍たま、クリ丸)
* パニポニ('''グングン''')
| 1999年 |
* [[宇宙海賊ミトの大冒険]](サブ)
* [[週刊ストーリーランド]](直人)
* [[セラフィムコール]](正義)
* [[デジモンアドベンチャー]](スカモン)
* [[人形草紙あやつり左近]]('''右近''')
* [[Bビーダマン爆外伝V]](テルテル)
* [[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]](1999年 - 2008年、俊也、小泉倫太郎、杉浦開人)
| 2000年 |
* [[犬夜叉 (アニメ)|犬夜叉]](2000年 - 2002年、日吉丸、太郎丸、ゴン)
* [[真・女神転生デビチル]]('''タカジョー・ゼット'''、アンドロイド)
* [[ゾイド -ZOIDS-]](ニコル)
* [[手塚治虫が消えた!? 20世紀最後の怪事件]]('''写楽保介'''<ref>{{Cite news | url = https://tezukaosamu.net/jp/anime/152.html| title = 手塚治虫が消えた!? 20世紀最後の怪事件| newspaper = | publisher = 手塚治虫公式サイト| date = | accessdate = 2016-05-03}}</ref>)
* [[ファーブル先生は名探偵]](デニス)
* [[ベイビーフィリックス]](スキッピー)
* [[六門天外モンコレナイト]](占いおババ)
| 2001年 |
* [[X (漫画)|X -エックス-]]({{補助漢字フォント|哪}}{{JIS2004フォント|吒}}、塔城霞月、ツトム)
* [[おとぎストーリー 天使のしっぽ]](ダイスケ)
* [[グラップラー刃牙]](少年時代の[[花山薫]])
* [[ゴーゴー五つ子ら・ん・ど]](タカ彦、ロクちゃん)
* [[砂漠の海賊!キャプテンクッパ]]('''クッパ'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20170418163701/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/7604| title = 砂漠の海賊!キャプテンクッパ| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-08-23}}</ref>)
* [[シャーマンキング]]('''チョコラブ・マクダネル''')
* [[ゾイド新世紀スラッシュゼロ]](ベガ)
* [[探偵少年カゲマン]](影万之介)
* [[地球防衛家族]]('''大地大''')
* [[チャンス〜トライアングルセッション〜]](おとき<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20170925035626/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/7544|title=チャンス トライアングルセッション |work=メディア芸術データベース |publisher=文化庁 |accessdate=2017-03-16}}</ref>)
* [[とっとこハム太郎 (アニメ)|とっとこハム太郎]](2001年 - 2006年、じゃじゃハムちゃん) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2000年 - 2004年)、第2期(2004年 - 2006年)}}
* [[爆転シュート ベイブレード (アニメ)|爆転シュート ベイブレード]](2001年 - 2003年、'''木ノ宮タカオ''') - 3シリーズ{{Ras|第1期(2001年)、第2期『2002』(2002年)、第3期『Gレボリューション』(2003年)}}
| 2002年 |
* [[げんきげんきノンタン]](ぶたさん、山さん)
* [[七人のナナ]](森沼もとこ)
* [[SPACE PIRATE CAPTAIN HERLOCK]](トミ子)
* [[超重神グラヴィオン]](2002年 - 2004年、クッキー、ハンス) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2002年)、第2期『Zwei』(2004年)}}
* [[ちょびっツ]]('''すもも''')
* [[花田少年史]]('''花田一路''')
* [[ぱにょぱにょデ・ジ・キャラット]](大タコ)
* [[ぴたテン]](御手洗大)
* [[レッチュ ゲッチュ サルゲッチュ]](ヒカル)
* [[わがまま☆フェアリー ミルモでポン!]](サスケ)
| 2003年 |
* [[アストロボーイ・鉄腕アトム]](タマオ<ref>{{Cite web|和書| url = https://tezukaosamu.net/jp/anime/51.html| title = アストロボーイ・鉄腕アトム| publisher = 手塚治虫公式サイト| accessdate = 2016-05-19}}</ref>)
* [[金色のガッシュベル!!]](レイコム)
* [[獣兵衛忍風帖 龍宝玉篇]](琢磨)
* [[鋼の錬金術師 (アニメ)|鋼の錬金術師]](エリサ)
* [[PAPUWA]]('''パプワ''')
* [[人間交差点]](子供時代の次郎)
* [[ポケットモンスター アドバンスジェネレーション]](ヨウスケ)
| 2004年 |
* [[かいけつゾロリ]]('''ノシシ'''、人食い花)
* [[今日からマ王!]](グレタ、レイジー)
* [[鉄人28号 (2004年版アニメ)|鉄人28号(第4作)]]('''金田正太郎'''、ロビー)
* [[ふたりはプリキュア]](モコ)
* [[妄想代理人]](「少年」)
* [[メジャー (アニメ)|メジャー]](2004年 - 2010年、'''[[茂野吾郎|本田吾郎]]〈少年時代〉'''、茂野いずみ) - 5シリーズ{{Ras|第1期(2004年 - 2005年)、第2期(2005年 - 2006年)、第4期(2008年)、第5期(2009年)、第6期(2010年)}}
* [[焼きたて!!ジャぱん]](トム・クルーソー)
* [[ロックマンエグゼStream]](まめ男)
| 2005年 |
* [[まじめにふまじめ かいけつゾロリ]]('''ノシシ'''、モーモー娘6、水色ナジョー、ロジャー〈25話後半、26話終盤のみ〉、茶色ナジョー、紺色ナジョー)
* [[甲虫王者ムシキング 森の民の伝説]](ヴィゴ)
* [[BLACK CAT]](ティム)
* [[ポケットモンスター アドバンスジェネレーション]](婆や)
* [[南の島の小さな飛行機 バーディー]]('''バーディー'''〈初代〉)
* [[MÄR-メルヘヴン-]](2005年 - 2006年、'''虎水ギンタ'''<ref>{{Cite book|和書 |title=アニメディア 2005年6月号 |year=2005 |publisher=株式会社イード |page=アニメ設定資料館}}</ref>〈初代〉)
| 2006年 |
* [[ARIA The NATURAL]](空)
* [[おとぎ銃士 赤ずきん]]('''鈴風草太'''〈初代〉<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.madhouse.co.jp/works/2006-2005/works_tv_akazukin.html| title = おとぎ銃士 赤ずきん| publisher = マッドハウス| accessdate = 2016-06-16}}</ref>)
* [[けろけろけろっぴ はすのうえタウン危機一髪!]]('''けろっぴ''')
* [[スパイダーライダーズ 〜オラクルの勇者たち〜]]('''ハンター・スティール''') - 2シリーズ{{Ras|『スパイダーライダーズ〜オラクルの勇者たち〜』(2006年)、『スパイダーライダーズ 〜よみがえる太陽〜』(2007年)}}
* [[BLACK CAT]](ティム)
* [[BLACK BLOOD BROTHERS]](ヤフリー・趙)
| 2007年 |
* [[きらりん☆レボリューション]](肥口安拾)
* [[デルトラクエスト]](アベル)
* [[ぷるるんっ!しずくちゃん あはっ☆]](ハナゲチョット)
* [[ハヤテのごとく! (アニメ)|ハヤテのごとく!]]
| 2008年 |
* [[アリソンとリリア]]('''ヴィルヘルム・シュルツ'''<ref>{{Cite web|和書| url = http://allison-web.net/staff_cast.html| title = スタッフ&キャスト| publisher = TVアニメーション「アリソンとリリア」公式サイト| date = | accessdate = 2016-06-07}}</ref>)
* [[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第5シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎(第5作)]](小林悟)
* [[スケアクロウマン]](ロバート)
* [[戦争童話]] [[キクちゃんとオオカミ]](ヨッちゃん)
* [[スティッチ!]](2008年 - 2015年、'''ユウナ''') - 5シリーズ{{Ras|第1シリーズ『スティッチ!』(2008年 - 2009年)、第2シリーズ『スティッチ! 〜いたずらエイリアンの大冒険〜』(2009年 - 2010年)、第3シリーズ『スティッチ! 〜ずっと最高のトモダチ〜』(2010年 - 2011年)、長編『スティッチと砂の惑星』(2012年)、長編『スティッチ!パーフェクト・メモリー』(2015年)}}
* [[ソウルイーター]](リョク)
* [[ねぎぼうずのあさたろう]](2008年 - 2009年、'''あさたろう''')
* [[無限の住人]](川上練造)
| 2009年 |
* [[ケロロ軍曹 (アニメ)|ケロロ軍曹]](ズララ)
* [[極上!!めちゃモテ委員長]](大樹)
* [[ジャングル大帝 -勇気が未来をかえる-]](リス)
* [[ドーラといっしょに大冒険]]('''ドーラ''')
* [[夏のあらし!]](グラサン〈子供時代〉)
* [[はっけん たいけん だいすき!しまじろう]](おしつけサウルス)
* [[ヒゲぴよ]](熊野カズオ)
| 2010年 |
* [[刀語]](七花〈幼少期〉)
* [[海月姫]]('''ばんばさん''')
* [[こばと。]](啓太)
* [[ハートキャッチプリキュア!]](2010年 - 2011年、'''コフレ'''、ひろくん)
* [[ひめチェン!おとぎちっくアイドル リルぷりっ]](早乙女光太郎、早乙女コバン隊長)
* [[ロビンくんと100人のお友達]](ピーター)
| 2011年 |
* [[世界一初恋]](漫画家)
* [[プリティーリズム・オーロラドリーム]](春音いつき、ネコチ)
* [[名探偵コナン ホームズの黙示録]]([[名探偵コナン ホームズの黙示録#アポロ・グラス|アポロ・グラス]])
* [[遊☆戯☆王ZEXAL]](油圧ショーベェ)
| 2012年 |
* [[エリアの騎士]](逢沢傑〈少年時代〉)
* [[GON -ゴン-]](2012年 - 2015年、'''ゴン''') - 2シリーズ{{Ras|第1期(2012年- 2013年)、第2期(2015年)}}
* [[それいけ!アンパンマン]](はるまきぼうや〈2代目〉)
* [[探検ドリランド (アニメ第1作)|探検ドリランド]]('''ポロン''')
* [[バトルスピリッツ 覇王]](アブラ・カタブラ)
* [[HUNTER×HUNTER (2011年のアニメ)|HUNTER×HUNTER(第2作)]](カナリア)
* [[プリティーリズム・ディアマイフューチャー]](ネコチ、春音いつき)
| 2013年 |
* [[アドリブアニメ研究所]](多摩江、狭山湖、多摩湖、奥多摩湖、秩父湖)
* [[探検ドリランド -1000年の真宝-]]('''激炎剣キバマル'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=テレビ東京・あにてれ 探検ドリランド|title=CAST|url=http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/driland2/|accessdate=2013-04-05}}</ref>、ポロン)
* [[プリティーリズム・レインボーライブ]](温泉旅館のお婆さん)
| 2014年 |
* [[ポケットモンスター XY]](2014年 - 2015年、[[アニメ版ポケットモンスターの登場人物#ネネ|ネネ]]) - 2シリーズ{{Ras|『XY』(2014年 - 2015年)、『XY&Z』(2015年 - 2016年)}}
| 2015年 |
* [[アクエリオンロゴス]](ヒト)
* [[かみさまみならい ヒミツのここたま]](ジロー)
* [[銀魂゜]](服部全蔵〈少年時代〉)
* [[ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース (テレビアニメ)|ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース]](ボインゴ<ref>{{Cite web |publisher=TVアニメ『ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース』公式サイト |url=http://jojo-animation.com/sc/contents/character/thoth.html |title=CHARACTER |accessdate=2016-06-17}}</ref>)
* [[ルパン三世 PART IV]](ブリジット)
| 2016年 |
* [[こねこのチー]](コッチ)
* [[デジモンユニバース アプリモンスターズ]](2016年 - 2017年、'''ドカモン'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=東映アニメーション株式会|work=デジモンユニバース アプリモンスターズ|url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/appmon/character/|title=アプモン:キャラクター|accessdate=2016-06-29}}</ref> / '''ドスコモン''' / '''オウジャモン''' / '''ポセイドモン''')
* [[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)|ドラえもん(テレビ朝日版第2期)]](2016年 - 2021年、ウパ、男の子、友人)
| 2017年 |
* [[まけるな!!あくのぐんだん!]](晴太<ref>{{Cite web|和書|work=まけるな!! あくのぐんだん! アニメ公式サイト|url=http://akunogundan.com/news/20170325/post-11|title=追加キャストに小西克幸、くまいもとこ、千葉繁! ナレーションを久保ユリカ、飯田里穂、内田彩、佐々木未来ほかが担当! TOKYO MX、サンテレビでは特番も|accessdate=2017-03-25}}</ref>)<!-- 2017-04-26 -->
| 2018年 |
* [[カードキャプターさくら クリアカード編]]('''李小狼'''<ref>{{Cite web|和書|work=カードキャプターさくら公式サイト|url=https://ccsakura-official.com/news/index00520000.html|title=新作アニメ続報!「カードキャプターさくら クリアカード編」2018年1月よりNHKにて放送決定!|accessdate=2016-12-01}}</ref>)<!-- 2018-01-07 -->
* [[ピアノの森]](金平大学〈キンピラ〉<ref>{{Cite web|和書|url=http://piano-anime.jp/staff-cast.html|title=STAFF & CAST|work=【公式】TVアニメ「ピアノの森」|accessdate=2018-03-05}}</ref>、モーツァルト〈金平大学〉)<!-- 2018-04-09 -->
* [[こねこのチー ポンポンらー大旅行]](コッチ)<!-- 2018-04-15 -->
* [[メジャーセカンド]](茂野吾郎〈幼少期〉)<!-- 2018-05-12 -->
* [[TO BE HEROINE]]('''黄金パンツの子〈光くん〉'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tobe-hero.com/season2/index.php?m=content&c=index&a=lists&catid=22|title=CAST・STAFF|work= TO BE HEROINE|accessdate=2017-05-10}}</ref>)<!-- 2018-05-19 -->
* [[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第6シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎(第6作)]](2018年 - 2019年、次郎丸<ref>{{Cite news|publisher=アニメイト|work=アニメイトタイムズ|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1527241772|title=TVアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』第9話先行カット&あらすじ到着!阪口大助さん、くまいもとこさん、利根健太朗さんが出演|date=2018-05-26|accessdate=2018-05-26}}</ref>、ゴーゴー万次郎 / のっぺらぼう<ref>{{Cite web|和書|url=https://cho-animedia.jp/article/2019/02/16/10904.html|title=のっぺらぼうがSNSでアイドルと知り合いにーTVアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』第44話あらすじ&先行カットが到着|work=超!アニメディア|date=2019-02-16|accessdate=2019-02-16}}</ref>)<!-- 2018-05-27 -->
* [[デュエル・マスターズ (漫画)|デュエル・マスターズ!]](シンタロー / 次元の嵐 スコーラー)<!-- 2018-08-26 -->
* [[ルパン三世 PART5]](ブリジット)<!-- 2018-08-29 -->
| 2019年 |
* [[KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-]](大和アレクサンダー〈幼少時〉)<!-- 2019-06-11 -->
| 2020年 |
* [[もっと!まじめにふまじめ かいけつゾロリ]](2020年 - 2022年、'''ノシシ'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.zorori.jp/character/03.php#character|title=ノシシ|キャラクター|work=アニメ『もっと!まじめにふまじめ かいけつゾロリ』公式サイト|accessdate=2020-02-13}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/466710|title=「かいけつゾロリ」第3シリーズのOP聴けるPV公開、冒険家の女の子ミラ役に悠木碧|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-02-22|accessdate=2022-02-22}}</ref>) - 3シリーズ{{Ras|第1シリーズ<!-- 2020-04-05 -->(2020年)、第2シリーズ<!-- 2021-04-02 -->(2021年)、第3シリーズ<!-- 2022-04-06 -->(2022年)}}
| 2021年 |
* [[怪物事変]](織〈幼少期〉)<!-- 2021-02-21 -->
* [[デジモンアドベンチャー:]](ポテモン)<!-- 2021-03-07 -->
* [[SHAMAN KING]](2021年 - 2022年、'''チョコラブ・マクダネル'''<ref>{{Cite web|url=https://shamanking-project.com/cast|title=CAST|website=TVアニメ『SHAMAN KING』公式サイト|accessdate=2021-02-25}}</ref>)<!-- 2021-08-12 -->
| 2022年 |
* [[おしりたんてい]](アラシヤマ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oshiri-tantei.com/character/other.html?char=char-other175|title=キャラクター|work=おしりたんてい アニメ公式ホームページ|accessdate=2022-06-08}}</ref>)<!-- 2022-06-04 -->
| 2023年 |
* [[ふしぎ駄菓子屋 銭天堂]](中村明)<!-- 2023-09-22 -->
| 2024年 |
* [[うる星やつら (2022)]](諸星こける<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/548504|title=「うる星やつら」真吾役に島崎信長!こけるはくまいもとこ、望は石見舞菜香|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-11-09|accessdate=2023-11-09}}</ref>)<!-- 2024-01- -->
}}
=== 劇場アニメ ===
{{dl2
| 1999年 |
* [[アキハバラ電脳組|アキハバラ電脳組 2011年の夏休み]](テツロー)
* 劇場版カードキャプターさくら('''李小狼'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.madhouse.co.jp/works/2000-1999/works_movie_cardcapturesakura.html| title = 劇場版カードキャプターさくら| publisher = マッドハウス| accessdate = 2016-05-22}}</ref>)
* ドクタースランプ アラレのびっくりバーン(オボッチャマン)
| 2000年 |
* 劇場版カードキャプターさくら 封印されたカード('''李小狼'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.madhouse.co.jp/works/2001-2000/works_movie_cardcapturesakura.html| title = 劇場版カードキャプターさくら 封印されたカード| publisher = マッドハウス| accessdate = 2016-05-22}}</ref>)
* [[六門天外モンコレナイト#劇場版|劇場版 六門天外モンコレナイト〜伝説のファイア ドラゴン〜]](占いおババ)
| 2002年 |
* [[爆転シュート ベイブレード (アニメ)|爆転シュート ベイブレード THE MOVIE 激闘!!タカオVS大地]]('''木ノ宮タカオ''')
* [[サルゲッチュ(アニメ)|レッツ!ゲッチュ!サルゲッチュ!黄金のピポヘルウッキーバトル]]('''ヒカル''')
| 2005年 |
* [[甲虫王者ムシキング#映画|劇場版 甲虫王者ムシキング グレイテストチャンピオンへの道]]('''未来ケント''')
| 2006年 |
* まじめにふまじめ かいけつゾロリ なぞのお宝大さくせん('''ノシシ''')
| 2007年 |
* [[鉄人28号 白昼の残月]]('''金田正太郎''')
* [[ピアノの森]]
| 2008年 |
* [[劇場版 NARUTO -ナルト- 疾風伝 絆]]('''アマル''')
* [[劇場版MAJOR メジャー 友情の一球]]('''[[茂野吾郎]]'''〈少年期〉)
| 2009年 |
* [[劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール アルセウス 超克の時空へ]](カンタ)
* [[よなよなペンギン]](悪ガキ三人組)
| 2010年 |
* [[映画 ハートキャッチプリキュア! 花の都でファッションショー…ですか!?]]('''コフレ''')
* [[映画 プリキュアオールスターズDX2 希望の光☆レインボージュエルを守れ!]]('''コフレ''')
| 2011年 |
* [[映画 プリキュアオールスターズDX3 未来にとどけ! 世界をつなぐ☆虹色の花]]('''コフレ''')
| 2012年 |
* [[アシュラ (漫画)|アシュラ]](丹治)
* [[映画 プリキュアオールスターズNewStage みらいのともだち]]('''コフレ''')
* 映画かいけつゾロリ だ・だ・だ・だいぼうけん!('''ノシシ''')
| 2013年 |
* 映画かいけつゾロリ まもるぜ!きょうりゅうのたまご('''ノシシ''')
* 聖☆おにいさん(大輔)
| 2014年 |
* [[劇場版 プリティーリズム・オールスターセレクション プリズムショー☆ベストテン]](ネコチ)
| 2015年 |
* 映画かいけつゾロリ うちゅうの勇者たち('''ノシシ''')
* [[映画 妖怪ウォッチ エンマ大王と5つの物語だニャン!]](タカユキ)
| 2017年 |
* 映画かいけつゾロリ ZZのひみつ('''ノシシ''')
| 2021年 |
* [[映画 トロピカル〜ジュ!プリキュア 雪のプリンセスと奇跡の指輪!]]('''コフレ'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/436651|title=映画プリキュア最新作にハートキャッチ登場!予告編でまなつ&つぼみが雪遊び|work=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-07-14|accessdate=2021-07-14}}</ref>)<!-- 2021-10-23 -->
| 2022年 |
* 映画かいけつゾロリ ラララ♪スターたんじょう('''ノシシ''')<!-- 2022-12-09 -->
}}
=== OVA ===
{{dl2
| 1995年 |
* [[戦ー少女イクセリオン]](女子高生D)
| 1996年 |
* [[ウルトラマン超闘士激伝]](コチャン)
* [[超特急ヒカリアン]]('''テツユキ''')
* [[ドクターかめかめ]](パル)
| 1999年 |
* [[それいけ!アンパンマン|それいけ!アンパンマン うたってあそぼう♪ようちえんはたのしいな]](たなかまこと、こじままさる)
* [[メルティランサー#OVA|メルティランサー The Animation]](ムームー)
| 2000年 |
* [[デビルマン|AMON デビルマン黙示録]](タレちゃん)
| 2001年 |
* [[釣りキチ三平|まんがビデオシリーズ 釣りキチ三平]]('''三平三平''')
* [[マリンとヤマト 不思議な日曜日]]('''ヤマト''')
| 2002年 |
* [[遙かなる時空の中で-紫陽花ゆめ語り-]](イノリの子分)
| 2005年 |
* [[おとぎ銃士 赤ずきん]]('''鈴風草太''')
| 2007年 |
* [[まるマシリーズ#OVA|今日からマ王! R]](グレタ)
| 2009年 |
* [[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]](アトラ)
* [[珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-]]('''山田太郎〈変身後〉''')
| 2010年 |
* さばくの宝の城('''勇太''')
* [[メジャー (アニメ)|メジャー -メッセージ-]](茂野いずみ)
| 2012年 |
* [[聖☆おにいさん]](大輔)
| 2017年 |
* [[カードキャプターさくら]] クリアカード編 プロローグ さくらとふたつのくま('''李小狼'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://ccsakura-official.com/comics/| title =カードキャプターさくら クリアカード編(3)| publisher = カードキャプターさくら公式サイト| accessdate = 2017-09-06}}</ref>)
}}
=== Webアニメ ===
* [[大工の源さん|いくぜっ! 源さん]](2008年、源さん〈幼少時代〉)
* おしえて アベマくん(2016年、'''アベマ''')
* [[もっと!まじめにふまじめ_かいけつゾロリ#ミニコーナー|もっと!まじめにふまじめ かいけつゾロリ ゾロリのへや]](2022年、'''ノシシ''')<!-- 2022-04-06 -->
* [[もっと!まじめにふまじめ_かいけつゾロリ#Webアニメ|かいけつゾロリと水のおひめさま]](2022年、'''ノシシ''')<!-- 2022-07-12 -->
=== ゲーム ===
{{dl2
| 1997年 |
* [[銀河お嬢様伝説ユナ3 LIGHTNING ANGEL]](菊花)
* [[プチカラット]](ガーネット、ラルド、ビー)
| 1998年 |
* [[エアガイツ]](ジョー)
* [[がんばれゴエモン〜来るなら恋! 綾繁一家の黒い影〜]](ゴー)
* [[サイキックフォース2012]](パトリシア・マイヤース)
* [[パズルボブル4]](マリーノ)
* [[ぽっぷんぽっぷ]](バビー、どらんく)
| 1999年 |
* [[ときめきメモリアル2]]('''赤井ほむら''')
* ポップンタンクス!(プエル)
| 2000年 |
* [[カードキャプターさくら|カードキャプターさくら クロウカードマジック]]('''李小狼''')
* [[テトリス with カードキャプターさくら エターナルハート]]('''李小狼''')
* [[ドッチメチャ!]](バッキオ)
| 2001年 |
* 犬夜叉(太郎丸)
* [[エクソダスギルティー ネオス]](タツタ)
* [[おかえりっ!〜夕凪色の恋物語〜]](篠原緑)
* [[ファイナルファンタジーX]](パッセ)
| 2002年 |
* [[サルゲッチュ2]]('''ヒカル''')
* [[シャーマンキング スピリット オブ シャーマンズ]](チョコラブ・マクダネル)
* [[シャーマンキング 超・占事略決3]](チョコラブ・マクダネル)
* [[真・女神転生 デビルチルドレン 黒の書・赤の書]]('''タカジョー・ゼット''')
* [[ダーククロニクル]](ドニー、Dr.チャップ、パウ)
* [[ちょびっツ]] for GAMEBOY ADVANCE アタシだけのヒト(すもも)
| 2003年 |
* [[シャーマンキング ソウルファイト]](チョコラブ・マクダネル)
* [[ドリームミックスTV ワールドファイターズ]](タカオ君)
* [[ファイナルファンタジーX-2]](パッセ)
* [[対戦ぱずるだま|わがまま☆フェアリー ミルモでポン! 対戦まほうだま]](サスケ)
| 2004年 |
* [[烈火の炎|アニメバトル 烈火の炎 FINAL BURNING]]('''小金井薫''')
* [[エースコンバット5 ジ・アンサング・ウォー]](カイツ・ハイリー)
* [[かいけつゾロリ めざせ!いたずらキング]](ノシシ)
* [[金色のガッシュベル!! 激闘!最強の魔物達]](レイコム)
* [[シャーマンキング ふんばりスピリッツ]](チョコラブ・マクダネル、地蔵君)
* [[鉄人28号 (2004年版アニメ)#PS2版ゲーム|鉄人28号]]('''金田正太郎'''、ロビー)
| 2005年 |
* [[ゾイドタクティクス]](ベガ・オブスキュラ)
* [[MÄR|メルヘヴン ÄRM FIGHT DREAM]]('''虎水ギンタ''')
* [[わがまま☆フェアリー ミルモでポン!]] どきどきメモリアルパニック(サスケ)
| 2006年 |
* メルヘヴン カルデアの悪魔('''虎水ギンタ''')
* メルヘヴン 忘却のクラヴィーア('''虎水ギンタ''')
| 2008年 |
* [[まるマシリーズ|今日からマ王! 眞マ国の休日]](グレタ)
| 2009年 |
* サイキン恋シテル?(よっき〜)
| 2010年 |
* [[白騎士物語|白騎士物語 -光と闇の覚醒-]]
* [[solatorobo それからCODAへ]](まもるくん)
* [[ド根性小学生ボン・ビー太]] 裸の頂上ケツ戦ビー太vsドクロでい('''委員長''')
| 2014年 |
* [[ジェイスターズ ビクトリーバーサス]](山田太郎)
| 2017年 |
* [[グランブルーファンタジー]](李小狼<ref>{{Cite web|和書|date=2017-10-10|url=http://granbluefantasy.jp/pages/?p=14648|title=『グランブルーファンタジー』×『カードキャプターさくら』コラボレーションイベント開催のお知らせ|work=[[グランブルーファンタジー]]|accessdate=2017-10-10}}</ref>)<!-- 2017-10-10 -->
| 2018年 |
* [[クイズRPG 魔法使いと黒猫のウィズ]](李小狼<ref>{{Twitter status|motorsports0908|1006439154564063238}}</ref>)<!-- 2018-06-15 -->
| 2019年 |
* HUNTER×HUNTER グリードアドベンチャー(カナリア)
* カードキャプターさくら ハピネスメモリーズ('''李小狼'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[ブシロード]]|work=「カードキャプターさくら ハピネスメモリーズ」公式サイト|url=https://ccsakura.bushimo.jp|title=PV|accessdate=2018-09-21}}</ref>)<!-- 2019-10-03 -->
| 2020年 |
* ジョジョのピタパタポップ(ボインゴ)<!-- 2020-07-13 -->
* [[ぷよぷよ!!クエスト]](李小狼<ref>{{Cite web|和書|work=[[4Gamer.net]]|url=https://www.4gamer.net/games/202/G020261/20200911079/|title=「ぷよクエ」とアニメ「カードキャプターさくら クリアカード編」のコラボが9月18日に開幕。一部登場キャラや限定ストーリーの情報も明らかに|date=2020-09-11|accessdate=2020-09-13}}</ref>)<!-- 2020-09-18 -->
| 2022年 |
* [[東京放課後サモナーズ]](ヴァプラ<ref>{{Twitter status2|4jhapp_lw|1564586021458546690|accessdate=2022-08-30}}</ref>)<!-- 2022-08-30 -->
* [[ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトルR]](ボインゴ)<!-- 2022-09-01 -->
* [[ドラゴンクエスト トレジャーズ 蒼き瞳と大空の羅針盤]]('''カミュ'''<ref>{{Cite web2|publisher=SQUARE ENIX|work=ドラゴンクエスト トレジャーズ 蒼き瞳と大空の羅針盤|url=https://www.dragonquest.jp/treasures/character/|title=キャラクター|accessdate=2022-08-22}}</ref>)<!-- 2022-12-09 -->
| 2023年 |
* [[モンスターストライク]](ボインゴ<ref>{{Cite web|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000476.000025121.html|title=モンスト、アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」とのコラボ第2弾 10月15日(日)12:00より開催!|work=PR TIMES|date=2023-10-12|accessdate=2023-10-12}}</ref>)<!-- 2023-10-15 -->
}}
=== ドラマCD ===
* [[イタズラなKiss]](小森じんこ)
* [[鬼切様の箱入娘]]('''伏緒綾史''')
* [[人形草紙あやつり左近]] シリーズ('''右近''')
** 人形草紙あやつり左近 オリジナル・ドラマ・アルバム I 〜異聞 夢話悲恋幻想奇譚〜('''右近'''/'''倫助''')
** 人形草紙あやつり左近 オリジナル・ドラマ・アルバム II 〜外伝 怨恋振袖業火地獄〜
* [[銀の勇者]](ジャン)
* ザ・キング・オブ・ファイターズ'97 宿命編([[オロチ (KOF)|オロチ]])
* [[私立彩陵高校超能力部]](ササキシロウ)
* [[テイルズ オブ ファンタジア なりきりダンジョン]] -太陽の章-('''ディオ''')
* テイルズ オブ ファンタジア なりきりダンジョン -月の章-('''ディオ''')
* [[仏ゾーン]] シリーズ(ジゾウ君)
** 仏ゾーン 覚醒の章
** 仏ゾーン 試練の章
** 仏ゾーン 悠久の章
* [[アリソンとリリア#ドラマCD|アリソンとリリア ドラマCD I 〜アリソンとヴィル Another Story〜]](ヴィルヘルム・シュルツ)
=== 吹き替え ===
==== 映画 ====
* [[アイス・ストーム]](サンディ・カーヴァー)
* [[アンナと王様]](チュラロンコーン皇太子)
* [[インデペンデンス・デイ]](ディラン・ダブロウ)※ソフト版
* [[運動靴と赤い金魚]](アリ)※ソフト版
* {{仮リンク|エイミー (1997年の映画)|en|Amy (1997 film)|label=エイミー}}(ザック)
* [[キャスパー (映画)|キャスパー]](キャスパー([[デヴォン・サワ]]))※DVD・BD版
* [[ギルモア・ガールズ]](フレディ)
* [[偶然の恋人]](スコット・ジャネロ([[アレックス・D・リンツ]]))
* [[ジュマンジ]](ビリー・ジェサップ)※フジテレビ版
* [[スクリーマーズ]](デイビッド)※ビデオ版
* [[スコーピオン (映画)|スコーピオン]](ジェシー・ウィングロー)
* [[スピード2]](ドリュー)※テレビ版
* [[スペース・ジャム]](マイケル(少年時代)、ジェフ)
* [[スノー・クイーン 〜雪の女王〜]](山賊娘)
* [[スリーパーズ]](少年時代のジョン)※フジテレビ版
* [[ダンス・レボリューション]](ベニー)
* [[ドリームキャッチャー (映画)|ドリームキャッチャー]]
* [[裸足の1500マイル]]
* [[ベイブ (映画)|ベイブ]]('''ベイブ''')※NHK版
* [[ヘブンズ・プリズナー]](アラフェア)※VHS版
* [[ぼくのバラ色の人生]](ジェローム)
* [[ミュージック・オブ・ハート]](ニック)
* [[妖精ファイター]](ランディ)
* [[ライアー ライアー]](マックス・リード)※ビデオ・旧DVD版
* [[ロスト・イン・スペース (映画)|ロスト・イン・スペース]](ウィル・ロビンソン)※ソフト版
* [[ルドルフ 赤鼻のトナカイ]](ルドルフ)※NHK新版
==== ドラマ ====
* [[iCarly]](ギビー・ギブソン(※第13〜79話、第91〜93話)、ガッピー・ギブソン)
* [[アメリカン・ゴシック (テレビドラマ)|アメリカン・ゴシック とっておきの恐怖]]('''ケイレブ・テンプル''')
* [[ER緊急救命室]]シーズンXI #13(ケイシー・ブライソン〈タイラー・ナイツェル〉)
* [[ゲームシェイカーズ]](トリプルG)<ref>{{Cite web|和書|publisher=NHK|url=http://www4.nhk.or.jp/gameshakers/22/|title=登場人物|accessdate=2017-5-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170730203043/http://www4.nhk.or.jp/gameshakers/22/|archivedate=2017年7月30日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>
* [[サム&キャット]] (オスカー)
* [[ボーイ・ミーツ・ワールド]](コーリー・マシューズ〈初代〉)
* [[愉快なシーバー家]] 第4シーズン(ベン・シーバー〈2代目〉)
==== アニメ ====
* [[ギガントサウルス]]('''ロッキー'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|url=https://www6.nhk.or.jp/anime/topics/detail.html?i=10164|title=冬休みに放送!新作の海外アニメをご紹介します!|accessdate=2021-01-12}}</ref>)
* [[ジョジョ・サーカス]](スキーボ)
* [[ピーナッツ (漫画)|スヌーピーと幸せのブランケット]]('''チャーリー・ブラウン''')
* [[スマーフ (アニメーション)|スマーフ]] (クラムジー)
* [[ぞうのババール]](ババール(少年)、イザベル)
* [[超ロボット生命体 トランスフォーマー プライム]](ラフ・エスキベル<ref>{{Cite web|和書|publisher=超ロボット生命体 トランスフォーマー プライム|url=http://www.tv-aichi.co.jp/TF-prime/cast.html|title=キャスト・スタッフ|accessdate=2012-03-17}}</ref>、ピーツー、プラル)
* [[ドーラといっしょに大冒険|ドーラ]]('''ドーラ'''、サブリナ、スノー・プリンセス)※テレビ東京版
* [[ドンキーコング (アニメ)|ドンキーコング]](ポリーロジャー)
* [[プッカ]](ガル)※フジテレビ版
* [[ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ (1987年のアニメ)|ミュータント・タートルズ]] ※1987年テレビ東京版
* [[もぐらくんとたのしいなかまたち]]('''クルテク''' 他)
* [[マイリトルポニー〜トモダチは魔法〜]]('''スパイク'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=テレビ東京・あにてれ マイリトルポニー 〜トモダチは魔法〜|title=CAST|url=http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/mylittle-pony/|accessdate=2013-03-08}}</ref>)
** [[マイリトルポニー: エクエストリア・ガールズ]]
** [[マイリトルポニー・ガールズ: 虹の冒険]]
** [[マイリトルポニー: エクエストリア・ガールズ - フレンドシップ・ゲーム]]
** [[マイリトルポニー: エクエストリア・ガールズ - エバーフリーの伝説]]
** [[映画マイリトルポニー プリンセスの大冒険]]
* [[バーバパパ世界をまわる]]('''バーバブラボー''')
* [[ヘラクレス (TVシリーズ)|ヘラクレス]](ブルータス)
* [[ルーニー・テューンズ]] (シルベスター・ジュニア)
* [[ローリー・ポーリー・オーリー]](ビリー)
=== テレビ番組 ===
* ETV学ぶ冒険〜人気キャラクター集合(NHK教育テレビ2009年10月31日)素顔出演
* [[天才てれびくん|天才てれびくんYOU]] (ぱかぽん)
* [[ビットワールド]]('''ランたん''')
=== 特撮 ===
* [[ビーロボカブタック]](1997年、ゲロタンの声)
* [[ビーロボカブタック クリスマス大決戦!!]](1997年、ゲロタンの声)
=== ラジオ ===
* [[クロックタワー2]](エドワード / ダン・バロウズ)
* [[声優王国!あんたの声が好きやねん]](初代[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]])
* [[青春!!タコ少女]]([[山咲トオル]]と共にパーソナリティを務めた。[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]])
** ヤマイはチカラ!!([[山咲トオル]]と共にパーソナリティを務めた)
=== ナレーション ===
* [[ゴゴイチ! 〜SPACE SHOWER CHART SHOW〜]]( - 2005年4月)
* [[天才てれびくんMAX]] - 王子様お姫様を探せ!(2010年)
=== デジタルコミック ===
* [[ポケモン (企業)|ポケモンだいすきクラブ]] 掲載 [[ポケモンレンジャー|ダークライミッションストーリー ポケモンレンジャーバトナージ the Comic]]('''主人公'''〈'''男の子'''〉 / '''ハジメ''' 他)
=== 人形劇 ===
* [[おかあさんといっしょ]]
** [[ぐ〜チョコランタン]]('''アネム''')
** [[ポコポッテイト]]('''ムテ吉'''、マメ吉)
* [[こどもにんぎょう劇場]]
** 「ともだちや」(きつね)
** 「あしたもともだち」(きつね)
=== パチンコ・パチスロ ===
* [[うる星やつら]]関連('''[[藤波竜之介]]''')
** サミー「[[パチスロうる星やつら]]」
** サミー「[[パチスロうる星やつら2]]」
** サミー「パチスロうる星やつら3」
=== CM ===
* [[アメリカンホームダイレクト]](2008年)
* [[積水ハウス]](バーバブラボー)
* [[ボトムアップ]]「[[64大相撲]]」CM
=== その他コンテンツ ===
* ハートキャッチプリキュア! ミュージカルショー(コフレ)
* [[東京ディズニーシー]]([[ダッフィー#ジェラトーニ|ジェラトーニ]])
* [[ラジャ・マハラジャー]](NHK「みんなのうた」での[[戸川純]]のカバー)
* ハッピー・ジャムジャム([[しましまとらのしまじろう]])(しまじろうのカバー)
* 丹下桜とくまいもとこの「スマイルブロードキャスティング」([[ニコニコチャンネル]]、2018年10月・11月・12月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://blog.nicovideo.jp/niconews/89555.html|title=人気声優の「丹下桜」さんと「くまいもとこ」さんの仲良しコンビがまったりニコニコ生放送♪|publisher=ドワンゴ ニコニコインフォ|date=2018-10-09|accessdate=2018-10-10}}</ref>
== ディスコグラフィ ==
=== キャラクターソング ===
{{VOICE Notice Hidden|
◆ 「キャラクター(声優名)」で統一すること。
◆ 当記事の声優のみ「キャラクター('''声優名''')」とすること。
◆ ユニットの場合は{{Vau}}を用いる。使い方は[[Template:Vau]]を参照。}}
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
! style="width:4.5em;"|発売日 !! 商品名 !! 歌 !! 楽曲 !! 備考
|-
! colspan="5" | 1998年
|-
| 6月24日
| [[カードキャプターさくら キャラクターシングル#SYAORAN|カードキャプターさくら Character Single SYAORAN]]
| 李小狼('''くまいもとこ''')
| 「気になるアイツ」
| テレビアニメ『[[カードキャプターさくら]]』関連曲
|-
! colspan="5" | 1999年
|-
| 1月21日
| [[カードキャプターさくら キャラクターソングブック]]
| 李小狼('''くまいもとこ''')
| 「気になるアイツ」
| テレビアニメ『カードキャプターさくら』関連曲
|-
| 2月3日
| [[あなたがいてわたくしがいて]]
| オボッチャマン('''くまいもとこ''')
| 「あなたがいてわたくしがいて」
| テレビアニメ『[[ドクタースランプ]]』エンディングテーマ
|-
! colspan="5" | 2001年
|-
| 2月21日
| [[カードキャプターさくら コンプリート・ボーカル・コレクション]]
| 李小狼('''くまいもとこ''')
| 「気になるアイツ」
| テレビアニメ『カードキャプターさくら』関連曲
|-
! colspan="5" | 2015年
|-
| 1月23日<ref group="注" name="DLCD">配信限定シングル。</ref>
| アク役◇協奏曲〜オインゴとボインゴ〜
| オインゴ([[保村真]])、ボインゴ('''くまいもとこ''')
| 「アク役◇協奏曲〜オインゴとボインゴ〜」
| rowspan="3" | テレビアニメ『[[ジョジョの奇妙な冒険 (テレビアニメ)|ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース]]』エンディングテーマ
|-
| 3月27日<ref group="注" name="DLCD" />
| アク役◇協奏曲 〜ホルホースとボインゴ〜
| ホル・ホース([[木内秀信]])、ボインゴ('''くまいもとこ''')
| 「アク役◇協奏曲 〜ホルホースとボインゴ〜」
|-
| 5月27日
| ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダースO.S.T「Destination」
| オインゴ(保村真)、ボインゴ('''くまいもとこ''')、ホル・ホース(木内秀信)
| 「アク役◇協奏曲」
|-
! colspan="5" | 2017年
|-
| 7月26日
| デジモンユニバース アプリモンスターズ キャラクターソング&オリジナル・サウンドトラック
| 花嵐エリ([[庄司宇芽香]])、ドカモン('''くまいもとこ''')
| 「必中@センターガール!」
| テレビアニメ『[[デジモンユニバース アプリモンスターズ]]』関連曲
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
{{Ras}}
=== 出典 ===
{{Reflist
|refs=
<ref name="ガンダムX">{{Cite web|和書| accessdate=2020-09-03 | title=作品概要 | publisher= [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] | url = http://www.gundam-x.net/anime.html | website = 『機動新世紀ガンダムX』 公式サイト}}</ref>
<ref name="烈火の炎">{{Cite web|和書| accessdate = 2018-02-08 | publisher = [[ぴえろ]] | title = 烈火の炎 | url = https://pierrot.jp/archive/1995/tv90_17.html | website = スタジオぴえろ 公式サイト}}</ref>
}}
== 外部リンク ==
* {{81プロフィール}}
* {{Wayback|url=http://gree.jp/kumai_motoko/ |title=くまいもとこ 公式ブログ |date=20210618025620}}
* {{Twitter}}
* {{日本タレント名鑑}}
{{81プロデュース}}
{{Normdaten}}
{{Voice-stub}}
{{デフォルトソート:くまい もとこ}}
[[Category:日本の女性声優]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:81プロデュース]]
[[Category:1970年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-03-08T10:43:34Z | 2023-12-30T13:51:11Z | false | false | false | [
"Template:仮リンク",
"Template:Cite book",
"Template:Cite web",
"Template:81プロフィール",
"Template:Twitter",
"Template:日本タレント名鑑",
"Template:Voice-stub",
"Template:VOICE Notice Hidden",
"Template:Dl2",
"Template:R",
"Template:Ras",
"Template:Normdaten",
"Template:声優",
"Template:Refnest",
"Template:Wayback",
"Template:81プロデュース",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8F%E3%81%BE%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%A8%E3%81%93 |
3,669 | 冨永みーな | 冨永 みーな(とみなが みーな、1966年〈昭和41年〉4月3日 - )は、日本の声優、女優、歌手、タレント、ナレーター。広島県広島市西区己斐西町出身、東京都中野区育ち。東京俳優生活協同組合所属。
広島県広島市西区己斐西町で誕生し、赤ん坊の頃、母が具合が悪かったため、京都府の寺に預けられて、両親がその間に東京都に来ており、少しだけ大井町に住んでいた。その後、東京都中野区に引っ越した。
5歳のときに知人の勧めで母に連れられて行った映画のオーディションで合格し、1971年に当時の本名の冨永美子として神山征二郎監督の映画『鯉のいる村』のゆうこ役で子役としてデビュー。この映画で主演したことがきっかけで児童劇団に入団する。6歳の時に劇団こまどりに入団し、テレビドラマ『お嫁さんに決めた!』『それ行け!カッチン』『ウルトラマンレオ』やテレビCMなどで子役として活躍する傍ら、1975年には、海外ドラマ『大草原の小さな家』の3女のキャリー役で声優デビュー。1977年のテレビアニメ『世界名作劇場』における『あらいぐまラスカル』のアリス役などからアニメの声優の仕事も始める。
日本大学櫻丘高等学校時代からは、『銀河漂流バイファム』『魔法の妖精ペルシャ』などのテレビアニメで、声優業中心に活躍するようになり、レコードデビューも果たすなど、1980年代半ばにかけて声優界でアイドル的な存在となる。日本大学藝術学部演劇学科演技コース在学中は、声優としてさらに人気が上昇し、ラジオ『アニメトピア』のパーソナリティとしてDJデビューし、『タッチ』などにも出演する。その後、同大学芸術学部を中退。
1991年、マァム役として出演していた『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』の収録中に突然激しい腹痛に襲われ、病院に搬送されるという事件もあった。検査の結果、虫垂炎を患っていたことが判明、そのまま治療のために入院することになったものの、声を担当していたマァムの出番は、この収録回で最後であった。
一時期は声優業の他に、各種ラジオ番組・モノマネ番組などにも出演していた。ナレーターとして『どうぶつ奇想天外!』『開運!なんでも鑑定団』『世界ウルルン滞在記』『いきなり!黄金伝説』など、人気番組・長寿番組に数多く関わっている。
かつてはグループこまどり、プロジェクト・レヴュー、大橋巨泉事務所、2003年 - 2014年10月頃にミントアベニューに所属していたが、2014年11月からは東京俳優生活協同組合に所属している。
2018年、第12回声優アワードにて高橋和枝賞を受賞。
長いキャリアから、諸事情により出演を見合せた声優の代役を務めたり、準レギュラーとして出演していた番組においてレギュラー声優の降板、死去により、レギュラーになった経験もいくつかある。
1995年、『赤ずきんチャチャ』では当初、おゆき先生、海坊子役などの脇役を担当していたものの、どろしー役で出演していた大坪純子が第58話を持って降板したため、第60話からどろしー役を引き継いだ。また、これまでに担当していた脇役も最終回まで続投していた。
『サザエさん』では早川さん・みゆきちゃん・イカコ・リカちゃんのママ役などの常連脇役を担当。一方で、2代目・磯野カツオ役の高橋和枝が1998年5月14日に体調不良で降板し、その後1999年3月23日に死去したことに伴い、1998年5月17日放送回より3代目・磯野カツオ役に就任。これに当たって冨永が担当していた脇役は川崎恵理子が引き継いだ。また、2018年9月に『ウルトラマンR/B』以降のウルトラシリーズで高橋が声を担当していたブースカも引き継いでおり、『レオ』以来のウルトラシリーズ出演となる。
『それいけ!アンパンマン』ではロールパンナ役やその他の脇役を担当。1999年の8月から9月には柳沢三千代の代役でカレーパンマンを演じた(柳沢は10月に復帰)。一方で、初代・ドキンちゃん役の鶴ひろみが2017年11月16日に死去したことに伴い、2018年1月26日放送回よりロールパンナ役と兼任する形で2代目・ドキンちゃん役に就任。これに当たって冨永が担当していたロールパンナ以外の持ち役は降板し、ニャンコック役は白石涼子、しろかぶくん役とレアチーズ役は渕崎ゆり子、たまごどんまん役はかないみかが引き継いだ。
2019年、体調不良によりレギュラー番組への出演を見合せた増岡弘(『サザエさん』や『それいけ!アンパンマン』でも共演)の代役として『有吉くんの正直さんぽ』の7・8月放送分のナレーションを担当。また、増岡が体調を再び崩した翌2020年の2・3月放送分も担当(その後、増岡は2020年3月21日に死去)。
初期は本名の「冨永美子」を名乗っていたが、小学生の時に易者に言われて「冨永ミーナ」に改名(『あらいぐまラスカル』のエンディングのクレジットは当初“富永美子”で、30話から“冨永ミーナ”に変更されている)。その後「冨永みーな(み〜な)」に改名。現在、所属事務所のホームページでは「みーな」となっている。
趣味としてゴルフ、釣りを挙げている。
声優の矢尾一樹と1990年に結婚したが、後に離婚。その後、2001年8月に吉本興業所属(当時)のタレント・増本庄一郎と2度目の結婚。2002年1月には、女児を出産。2004年9月に、男児を出産。現在2児の母親である。出産2日後に『サザエさん』のアフレコに参加した逸話があり、後にあるテレビ番組で、予定日の前後に産休を取る予定だったが予定日より早く産まれたため参加せざるを得なかった、と語った。
2014年1月26日に死去した初代波平役の永井一郎の葬儀ではサザエ役の加藤みどりと共に弔辞を担当した。その際に冨永はカツオが波平に話しかける口調で「父さん、大好きです。もっといっぱい一緒にお風呂に入りたかった。もっと叱られたかった」と涙声で読み上げていた。
中島役の白川澄子が2015年11月25日に死去した際には「突然の訃報に大変驚いています。いつもスタジオで優しく声をかけていただいて、本当に寂しいです。白川さんのご冥福をお祈りします。」とコメントし、最後にカツオの声で「中島ー!中島ー!俺たち永遠に親友だよな!」と締めくくった。
日本大学芸術学部時代の先輩には漫才コンビ、爆笑問題の太田光・田中裕二の2人がいた。同学部の学生有名人に過敏なまでに反感を持っていたという太田には「みーな、みーな、こっちを見ーな」などと言われ、相当絡まれたという。
フリーアナウンサーでRKB毎日放送元アナウンサーの富永倫子は親戚。
笠原弘子とは彼女のコンサートに関わるなど、親交が深い。
声種はアルト。
歌やラジオ、写真集などでマルチに活躍する声優としては、1990年代の声優ブームにおける風潮を先取りしたと言える。2017年の談話では「俳優が声優の仕事を行い、声優が俳優の仕事を行なうようになって、俳優と声優がボーダレスになる方が自然」という趣旨のコメントを残している。10代のころはまだ声優という単語自体が存在しておらず「俳優が"声の仕事"をする」と言っていた。16歳からアニメの仕事が多くなった背景には、当時10代の声優の絶対数が足りておらず消去法で自分くらいしかいなかったという事情もある。同じく10代のころ、OVAの販促などのイベントを行うと、当時10代の声優に興味を持つ人自体が希少であったため、イベントには同じファンが来ることが多かった。海外映画の吹き替えを10代のころはよく担当していたが、それは収録日が土日であり学校に通いながら活動するのに好都合であったためであり、収録に関しては当時は劇団こまどりの西村サエ子代表に導かれるがままであったと2017年のインタビューで述懐している。ファンに自身を認知してもらえるようになったきっかけはOVA『BIRTH』の販促イベントであるとのちに話している。1980年代のころから声優活動をしていたため、1990年代の声優業界では姉貴分扱いされることが多かった。
自身が歌手として初めて楽曲をリリースした時点では、声優で歌っていたのは小山茉美くらいであり、当時は声優がアイドル歌手として人気を集めるような時代ではなかった。それだけに声優を担当している自身がファンから応援してもらえたことは冨永本人にとって不思議なことであった。
なお、『声優Premeum vol.2』では、「劇中歌で歌を披露したことを含めれば『綿の国星』で1曲歌ったのが歌手デビュー」としているが、ディスコグラフィにある通り、10歳の時にリリースした2曲がデビュー曲である。
レポーターをやってみたくてオーディションを受けたところ、大橋巨泉事務所の関係者のつてで『走れ!歌謡曲』に出演させてもらったのは本人にとって良い思い出だという。
写真集『パーフェクトみーな』はある種の触れられたくない過去としている。2017年の時点では捨てるに捨てられず1冊だけ保存しているが、保存に使用している箱には「開けちゃイヤ」と書いてある。写真集については「本当に見られたくないんです。きれいじゃないし、太ってるし」と恥ずかしがっている。
『名探偵コナン』への出演を希望しており 、2018年には映画『名探偵コナン ゼロの執行人』にゲストとして初出演を果たしている。
声優以外で少女時代に憧れていた職業はキャビンアテンダント=スチュワーデスだったという。
2017年時点では家事や育児を優先しており、午後5時から7時の仕事は先方に避けてもらうようにしている。
座右の銘は「なせばなる、なさねばならぬなにごとも」。
高橋和枝が体調不良でスタジオに来られなくなった日、ディレクターから「カツオできるか?」と聞かれ、自身は「出来ません」と答えたが、「ちょっとやってみよう」と言われてその日のカツオの台詞を収録。それまで男の子を演じたことがなく、カツオを演じたのは不思議な感覚だったという。自身は「高橋のことが大好きで、その高橋が演じるカツオの素晴らしさを目の当たりにしていたので、どうしても高橋のカツオをなぞるような感じになってしまい、どうしていいのかわからず混乱してしまった」と語っている。次の週に高橋が入院し、「入院の間だけやってくれ」とディレクターに言われ、「自分でも違和感があるけど仕方無い。やらせていただこう」「高橋はカツオに対して何を大切にしているのだろう?」と自分なりに考えて演じたと語っている。高橋には絶対戻って欲しかったが、それは叶わず、自身が3代目・磯野カツオ役になる。後日、高橋が「冨永ならいい」と言ったのを聞き、とても嬉しく心強かったと述べた。
太字はメインキャラクター。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "冨永 みーな(とみなが みーな、1966年〈昭和41年〉4月3日 - )は、日本の声優、女優、歌手、タレント、ナレーター。広島県広島市西区己斐西町出身、東京都中野区育ち。東京俳優生活協同組合所属。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "広島県広島市西区己斐西町で誕生し、赤ん坊の頃、母が具合が悪かったため、京都府の寺に預けられて、両親がその間に東京都に来ており、少しだけ大井町に住んでいた。その後、東京都中野区に引っ越した。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "5歳のときに知人の勧めで母に連れられて行った映画のオーディションで合格し、1971年に当時の本名の冨永美子として神山征二郎監督の映画『鯉のいる村』のゆうこ役で子役としてデビュー。この映画で主演したことがきっかけで児童劇団に入団する。6歳の時に劇団こまどりに入団し、テレビドラマ『お嫁さんに決めた!』『それ行け!カッチン』『ウルトラマンレオ』やテレビCMなどで子役として活躍する傍ら、1975年には、海外ドラマ『大草原の小さな家』の3女のキャリー役で声優デビュー。1977年のテレビアニメ『世界名作劇場』における『あらいぐまラスカル』のアリス役などからアニメの声優の仕事も始める。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "日本大学櫻丘高等学校時代からは、『銀河漂流バイファム』『魔法の妖精ペルシャ』などのテレビアニメで、声優業中心に活躍するようになり、レコードデビューも果たすなど、1980年代半ばにかけて声優界でアイドル的な存在となる。日本大学藝術学部演劇学科演技コース在学中は、声優としてさらに人気が上昇し、ラジオ『アニメトピア』のパーソナリティとしてDJデビューし、『タッチ』などにも出演する。その後、同大学芸術学部を中退。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "1991年、マァム役として出演していた『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』の収録中に突然激しい腹痛に襲われ、病院に搬送されるという事件もあった。検査の結果、虫垂炎を患っていたことが判明、そのまま治療のために入院することになったものの、声を担当していたマァムの出番は、この収録回で最後であった。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "一時期は声優業の他に、各種ラジオ番組・モノマネ番組などにも出演していた。ナレーターとして『どうぶつ奇想天外!』『開運!なんでも鑑定団』『世界ウルルン滞在記』『いきなり!黄金伝説』など、人気番組・長寿番組に数多く関わっている。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "かつてはグループこまどり、プロジェクト・レヴュー、大橋巨泉事務所、2003年 - 2014年10月頃にミントアベニューに所属していたが、2014年11月からは東京俳優生活協同組合に所属している。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "2018年、第12回声優アワードにて高橋和枝賞を受賞。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "長いキャリアから、諸事情により出演を見合せた声優の代役を務めたり、準レギュラーとして出演していた番組においてレギュラー声優の降板、死去により、レギュラーになった経験もいくつかある。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1995年、『赤ずきんチャチャ』では当初、おゆき先生、海坊子役などの脇役を担当していたものの、どろしー役で出演していた大坪純子が第58話を持って降板したため、第60話からどろしー役を引き継いだ。また、これまでに担当していた脇役も最終回まで続投していた。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "『サザエさん』では早川さん・みゆきちゃん・イカコ・リカちゃんのママ役などの常連脇役を担当。一方で、2代目・磯野カツオ役の高橋和枝が1998年5月14日に体調不良で降板し、その後1999年3月23日に死去したことに伴い、1998年5月17日放送回より3代目・磯野カツオ役に就任。これに当たって冨永が担当していた脇役は川崎恵理子が引き継いだ。また、2018年9月に『ウルトラマンR/B』以降のウルトラシリーズで高橋が声を担当していたブースカも引き継いでおり、『レオ』以来のウルトラシリーズ出演となる。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "『それいけ!アンパンマン』ではロールパンナ役やその他の脇役を担当。1999年の8月から9月には柳沢三千代の代役でカレーパンマンを演じた(柳沢は10月に復帰)。一方で、初代・ドキンちゃん役の鶴ひろみが2017年11月16日に死去したことに伴い、2018年1月26日放送回よりロールパンナ役と兼任する形で2代目・ドキンちゃん役に就任。これに当たって冨永が担当していたロールパンナ以外の持ち役は降板し、ニャンコック役は白石涼子、しろかぶくん役とレアチーズ役は渕崎ゆり子、たまごどんまん役はかないみかが引き継いだ。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "2019年、体調不良によりレギュラー番組への出演を見合せた増岡弘(『サザエさん』や『それいけ!アンパンマン』でも共演)の代役として『有吉くんの正直さんぽ』の7・8月放送分のナレーションを担当。また、増岡が体調を再び崩した翌2020年の2・3月放送分も担当(その後、増岡は2020年3月21日に死去)。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "初期は本名の「冨永美子」を名乗っていたが、小学生の時に易者に言われて「冨永ミーナ」に改名(『あらいぐまラスカル』のエンディングのクレジットは当初“富永美子”で、30話から“冨永ミーナ”に変更されている)。その後「冨永みーな(み〜な)」に改名。現在、所属事務所のホームページでは「みーな」となっている。",
"title": "芸名の表記"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "趣味としてゴルフ、釣りを挙げている。",
"title": "趣味"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "声優の矢尾一樹と1990年に結婚したが、後に離婚。その後、2001年8月に吉本興業所属(当時)のタレント・増本庄一郎と2度目の結婚。2002年1月には、女児を出産。2004年9月に、男児を出産。現在2児の母親である。出産2日後に『サザエさん』のアフレコに参加した逸話があり、後にあるテレビ番組で、予定日の前後に産休を取る予定だったが予定日より早く産まれたため参加せざるを得なかった、と語った。",
"title": "人間関係"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2014年1月26日に死去した初代波平役の永井一郎の葬儀ではサザエ役の加藤みどりと共に弔辞を担当した。その際に冨永はカツオが波平に話しかける口調で「父さん、大好きです。もっといっぱい一緒にお風呂に入りたかった。もっと叱られたかった」と涙声で読み上げていた。",
"title": "人間関係"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "中島役の白川澄子が2015年11月25日に死去した際には「突然の訃報に大変驚いています。いつもスタジオで優しく声をかけていただいて、本当に寂しいです。白川さんのご冥福をお祈りします。」とコメントし、最後にカツオの声で「中島ー!中島ー!俺たち永遠に親友だよな!」と締めくくった。",
"title": "人間関係"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "日本大学芸術学部時代の先輩には漫才コンビ、爆笑問題の太田光・田中裕二の2人がいた。同学部の学生有名人に過敏なまでに反感を持っていたという太田には「みーな、みーな、こっちを見ーな」などと言われ、相当絡まれたという。",
"title": "人間関係"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "フリーアナウンサーでRKB毎日放送元アナウンサーの富永倫子は親戚。",
"title": "人間関係"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "笠原弘子とは彼女のコンサートに関わるなど、親交が深い。",
"title": "人間関係"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "声種はアルト。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "歌やラジオ、写真集などでマルチに活躍する声優としては、1990年代の声優ブームにおける風潮を先取りしたと言える。2017年の談話では「俳優が声優の仕事を行い、声優が俳優の仕事を行なうようになって、俳優と声優がボーダレスになる方が自然」という趣旨のコメントを残している。10代のころはまだ声優という単語自体が存在しておらず「俳優が\"声の仕事\"をする」と言っていた。16歳からアニメの仕事が多くなった背景には、当時10代の声優の絶対数が足りておらず消去法で自分くらいしかいなかったという事情もある。同じく10代のころ、OVAの販促などのイベントを行うと、当時10代の声優に興味を持つ人自体が希少であったため、イベントには同じファンが来ることが多かった。海外映画の吹き替えを10代のころはよく担当していたが、それは収録日が土日であり学校に通いながら活動するのに好都合であったためであり、収録に関しては当時は劇団こまどりの西村サエ子代表に導かれるがままであったと2017年のインタビューで述懐している。ファンに自身を認知してもらえるようになったきっかけはOVA『BIRTH』の販促イベントであるとのちに話している。1980年代のころから声優活動をしていたため、1990年代の声優業界では姉貴分扱いされることが多かった。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "自身が歌手として初めて楽曲をリリースした時点では、声優で歌っていたのは小山茉美くらいであり、当時は声優がアイドル歌手として人気を集めるような時代ではなかった。それだけに声優を担当している自身がファンから応援してもらえたことは冨永本人にとって不思議なことであった。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "なお、『声優Premeum vol.2』では、「劇中歌で歌を披露したことを含めれば『綿の国星』で1曲歌ったのが歌手デビュー」としているが、ディスコグラフィにある通り、10歳の時にリリースした2曲がデビュー曲である。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "レポーターをやってみたくてオーディションを受けたところ、大橋巨泉事務所の関係者のつてで『走れ!歌謡曲』に出演させてもらったのは本人にとって良い思い出だという。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "写真集『パーフェクトみーな』はある種の触れられたくない過去としている。2017年の時点では捨てるに捨てられず1冊だけ保存しているが、保存に使用している箱には「開けちゃイヤ」と書いてある。写真集については「本当に見られたくないんです。きれいじゃないし、太ってるし」と恥ずかしがっている。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "『名探偵コナン』への出演を希望しており 、2018年には映画『名探偵コナン ゼロの執行人』にゲストとして初出演を果たしている。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "声優以外で少女時代に憧れていた職業はキャビンアテンダント=スチュワーデスだったという。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2017年時点では家事や育児を優先しており、午後5時から7時の仕事は先方に避けてもらうようにしている。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "座右の銘は「なせばなる、なさねばならぬなにごとも」。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "高橋和枝が体調不良でスタジオに来られなくなった日、ディレクターから「カツオできるか?」と聞かれ、自身は「出来ません」と答えたが、「ちょっとやってみよう」と言われてその日のカツオの台詞を収録。それまで男の子を演じたことがなく、カツオを演じたのは不思議な感覚だったという。自身は「高橋のことが大好きで、その高橋が演じるカツオの素晴らしさを目の当たりにしていたので、どうしても高橋のカツオをなぞるような感じになってしまい、どうしていいのかわからず混乱してしまった」と語っている。次の週に高橋が入院し、「入院の間だけやってくれ」とディレクターに言われ、「自分でも違和感があるけど仕方無い。やらせていただこう」「高橋はカツオに対して何を大切にしているのだろう?」と自分なりに考えて演じたと語っている。高橋には絶対戻って欲しかったが、それは叶わず、自身が3代目・磯野カツオ役になる。後日、高橋が「冨永ならいい」と言ったのを聞き、とても嬉しく心強かったと述べた。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "太字はメインキャラクター。",
"title": "出演"
}
] | 冨永 みーなは、日本の声優、女優、歌手、タレント、ナレーター。広島県広島市西区己斐西町出身、東京都中野区育ち。東京俳優生活協同組合所属。 | {{声優
| 名前 = 冨永 みーな
| ふりがな = とみなが みーな
| 画像ファイル =
| 画像サイズ =
| 画像コメント =
| 本名 = 増本 美子(ますもと よしこ)(旧姓:冨永<ref name="テレビ・タレント人名事典592">{{Cite book|和書|year=1995|month=7|title=テレビ・タレント人名事典(第2版)|pages=592|publisher=日外アソシエーツ|ISBN= 4-8169-1315-7}}</ref>{{R|OUT}})
| 愛称 =
| 性別 = [[女性]]
| 出生地 =
| 出身地 = {{JPN}}・[[広島県]][[広島市]][[西区 (広島市)|西区]][[己斐|己斐西町]]<ref name="テレビ・タレント人名事典727">{{Cite book|和書|year=2001|month=7|title=テレビ・タレント人名事典(第5版)|pages=727|publisher=日外アソシエーツ|ISBN=4-8169-1677-6}}</ref>、[[東京都]][[中野区]]{{R|OUT}}
| 死没地 =
| 生年 = 1966
| 生月 = 4
| 生日 = 3
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 血液型 = [[ABO式血液型|O型]]{{R|テレビ・タレント人名事典727}}<ref name="W100">{{Cite book|和書|date=2010-11-30|title=W100 アニメ声優 |pages=138-139|publisher=[[シンコーミュージック・エンタテイメント]]|isbn=978-4-401-77028-1}}</ref>
| 身長 =
| 職業 = [[声優]]、[[俳優|女優]]、[[歌手]]、[[タレント]]、[[語り手|ナレーター]]<ref name="テックインサイト20190609">{{Cite web|和書|url=https://japan.techinsight.jp/2019/06/maki06090948.html|title=【エンタがビタミン♪】田中真弓&冨永みーな、30年前と今の2ショットに「変わらず可愛らしい!」の声|publisher=テックインサイト|date=2019-06-09|accessdate=2020-02-12}}</ref>
| 事務所 = [[東京俳優生活協同組合]]<ref name="俳協">{{Cite web|和書|url=https://haikyo.co.jp/profile/profile.php?ActorID=12714|title=冨永 みーな - 俳協|accessdate=2019-11-23}}</ref>
| 配偶者 = [[増本庄一郎]]([[俳優]])
| 著名な家族 =
| 公式サイト =
| 公称サイズ出典 = {{Cite journal|和書|date = 1985-03|title = 声優インタビュー 冨永みーなさんの巻|journal = [[月刊OUT]]|issue = 1985年3月号 |pages = 65-70|publisher = みのり書房}}
| ref2name = OUT
| 身長2 = 162{{R|W100}}<ref>{{Cite book|和書|year=2011|month=1|title=日本タレント名鑑(2011年版)|pages=637|publisher=VIPタイムズ社|id=ISBN 978-4-904674-02-4}}</ref>
| 体重 = 50
| バスト = 82
| ウエスト = 60
| ヒップ = 89
| 活動 = {{声優/活動
| 職種 = 声優
| 活動名義 =
| 活動期間 = [[1975年]] -
| ジャンル = [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、[[ゲーム]]、[[吹き替え]]、[[ナレーション]]
| デビュー作 = キャリー(『[[大草原の小さな家]]』)<ref name="seigura1">{{Cite web|和書|date= 2020-03-21 |url=https://seigura.com/news/30948/ |title=冨永みーなさん「仕事が巡ってくる法則」 |page=1|work=声優道|website=声優グランプリWEB|publisher= [[主婦の友インフォス]]|accessdate=2023-04-07}}</ref><ref name="ザテレビジョン">{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/0000071305/|title=冨永みーな(とみながみーな)のプロフィール・画像・出演スケジュール|【スタスケ】(0000071305)|publisher=ザテレビジョン|accessdate=2019-11-23}}</ref><ref name="sakura">{{Cite web|和書|date=|url=http://www.sakura.chs.nihon-u.ac.jp/_do_ki/_SAKURA/TOMINAGA.HTM|title=富永みーなさん(24回生) |work=ライトアップ|publisher= [[日本大学櫻丘高等学校]]|accessdate=2023-08-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080309144528/http://www.sakura.chs.nihon-u.ac.jp/_do_ki/_SAKURA/TOMINAGA.HTM|archivedate=2007-06-18}}</ref>
}}{{声優/活動
| 職種 = 女優
| 活動名義 =
| 活動期間 = [[1971年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W93-1986|title=冨永 みーな|日本タレント名鑑|accessdate=2019-11-23}}</ref> -
| ジャンル = [[テレビドラマ]]、[[映画]]、[[舞台]]
| デビュー作 = ゆうこ(『鯉のいる村』{{R|seigura1}}<ref name="nihonbungeisha19991122">{{Cite web|和書|date=1999-11-22|url=http://www.nihonbungeisha.co.jp/nbw/nbw-seiyu/991122.html|title=冨永みーなインタビュー|work=声優温泉|website=にちぶんうぇーぶ|publisher= [[日本文芸社]]|accessdate=2023-08-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070615172439/http://www.nihonbungeisha.co.jp/nbw/nbw-seiyu/991122.html|archivedate=2007-06-15}}</ref>)
}}}}
'''冨永 みーな'''(とみなが みーな、[[1966年]]〈[[昭和]]41年〉[[4月3日]]{{R|OUT|W100|ザテレビジョン|sakura}}<ref name="djmeikan">{{Cite book|和書|title=DJ名鑑 1987|publisher=[[三才ブックス]]|date=1987-02-15|pages=111|id={{NDLJP|12276264/56}}}}</ref> - )は、[[日本]]の[[声優]]、[[俳優|女優]]、[[歌手]]、[[タレント]]、[[語り手|ナレーター]]{{R|テックインサイト20190609}}。[[広島県]][[広島市]][[西区 (広島市)|西区]][[己斐|己斐西町]]出身{{R|テレビ・タレント人名事典592}}、[[東京都]][[中野区]]育ち{{R|OUT}}。[[東京俳優生活協同組合]]所属{{R|俳協}}。
== 来歴 ==
[[広島県]][[広島市]][[西区 (広島市)|西区]][[己斐|己斐西町]]{{R|テレビ・タレント人名事典592}}で誕生し、赤ん坊の頃、母が具合が悪かったため、[[京都府]]の寺に預けられて、両親がその間に[[東京都]]に来ており、少しだけ[[大井町]]に住んでいた{{R|OUT}}。その後、東京都[[中野区]]に引っ越した{{R|OUT}}。
5歳のときに知人の勧めで母に連れられて行った映画の[[オーディション]]で合格し、[[1971年]]に当時の本名の冨永美子として[[神山征二郎]]監督の[[映画]]『鯉のいる村』のゆうこ役で[[子役]]としてデビュー{{R|W100|seigura1|nihonbungeisha19991122}}<ref>神山征二郎『生まれたら戦争だった。映画監督神山征二郎自伝』シネ・フロント社、2008年、70-71頁。</ref>。この映画で主演したことがきっかけで児童劇団に入団する{{R|テレビ・タレント人名事典592|nihonbungeisha19991122}}。6歳の時に[[劇団こまどり]]に入団し{{R|seigura1|sakura}}、[[テレビドラマ]]『[[お嫁さんに決めた!]]』『[[それ行け!カッチン]]』『[[ウルトラマンレオ]]』やテレビCMなどで子役として活躍する傍ら、[[1975年]]には、[[海外ドラマ]]『[[大草原の小さな家]]』の3女のキャリー役で声優デビュー{{R|seigura1|ザテレビジョン}}。[[1977年]]の[[テレビアニメ]]『[[世界名作劇場]]』における『[[あらいぐまラスカル]]』のアリス役などからアニメの声優の仕事も始める{{R|seigura1}}。
[[日本大学櫻丘高等学校]]{{R|sakura}}時代からは、『[[銀河漂流バイファム]]』『[[魔法の妖精ペルシャ]]』などのテレビアニメで、声優業中心に活躍するようになり、レコードデビューも果たすなど、[[1980年代]]半ばにかけて声優界でアイドル的な存在となる。[[日本大学藝術学部]]演劇学科演技コース{{R|seigura1}}在学中は、声優としてさらに人気が上昇し、ラジオ『[[アニメトピア]]』のパーソナリティとしてDJデビューし、『[[タッチ (漫画)|タッチ]]』などにも出演する。その後、同大学芸術学部を中退{{R|sakura}}。
[[1991年]]、マァム役として出演していた『[[DRAGON QUEST -ダイの大冒険-]]』の収録中に突然激しい腹痛に襲われ、病院に搬送されるという事件もあった。検査の結果、[[虫垂炎]]を患っていたことが判明、そのまま治療のために入院することになったものの、声を担当していたマァムの出番は、この収録回で最後であった。
一時期は声優業の他に、各種ラジオ番組・モノマネ番組などにも出演していた。ナレーターとして『[[どうぶつ奇想天外!]]』『[[開運!なんでも鑑定団]]』『[[世界ウルルン滞在記]]』『[[いきなり!黄金伝説]]』など、人気番組・長寿番組に数多く関わっている<ref name="seipre">綜合図書『声優Premium』vol.2(綜合ムック、2017年)p148-158 {{ISBN2|978-4-86298-182-0}}</ref><ref group="注">特に『奇想天外』では、ナレーションの他、VTR中の動物たちのアテレコも担当していた。</ref>。
かつては[[グループこまどり]]{{R|OUT}}、プロジェクト・レヴュー<ref>{{Twitter status2|tominagamiina|1389367388269727744|2021年5月4日|accessdate=2023-09-13}}</ref>、[[オーケープロダクション|大橋巨泉事務所]]{{R|sakura}}、2003年 - 2014年10月頃に[[ミントアベニュー]]<ref>{{Cite web|和書|date=|url=http://www.mintave.com/profile/tominaga.html|title=冨永みーな|publisher= [[ミントアベニュー]]|accessdate=2023-09-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170309063239/http://www.mintave.com/profile/tominaga.htmll|archivedate=2017-03-09}}</ref>に所属していたが、2014年11月からは[[東京俳優生活協同組合]]に所属している。
[[2018年]]、第12回[[声優アワード]]にて高橋和枝賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1520057219|title=「第十二回 声優アワード」主演賞は豊永利行さん、黒沢ともよさん!佐倉綾音さん&大西沙織さんは助演女優賞とパーソナリティ賞のW受賞|publisher=アニメイトタイムズ|date=2018-03-03|accessdate=2018-03-04}}</ref>。
=== 引き継ぎ ===
長いキャリアから、諸事情により出演を見合せた声優の代役を務めたり、準レギュラーとして出演していた番組においてレギュラー声優の降板、死去により、レギュラーになった経験もいくつかある。
1995年、『[[赤ずきんチャチャ]]』では当初、おゆき先生、海坊子役などの脇役を担当していたものの、どろしー役で出演していた[[大坪純子]]が第58話を持って降板したため、第60話からどろしー役を引き継いだ。また、これまでに担当していた脇役も最終回まで続投していた。
『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』では早川さん・みゆきちゃん・イカコ・リカちゃんのママ役などの常連脇役を担当<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.1242.com/otona_quality/2019-01-06/14:05:00/|title=#163 今週も冨永みーなサン!|work=三菱電機プレゼンツ 戸田恵子オトナクオリティ|publisher=ニッポン放送|date=2019-01-06|accessdate=2019-11-23}}</ref>。一方で、2代目・[[サザエさんの登場人物#磯野カツオ|磯野カツオ]]役の[[高橋和枝]]が[[1998年]][[5月14日]]に体調不良で降板し、その後[[1999年]][[3月23日]]に死去したことに伴い<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/高橋和枝/|title=高橋和枝(たかはしかずえ)の解説|work=goo人名事典|accessdate=2019-11-23}}</ref>、1998年5月17日放送回より3代目・磯野カツオ役に就任<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinemacafe.net/article/2015/11/27/36016.html|title=「サザエさん」中島役の声優逝去に、カツオから「俺たち永遠に親友だよな」|publisher=cinemacafe.net|date=2015-11-27|accessdate=2019-11-13}}</ref>。これに当たって冨永が担当していた脇役は[[川崎恵理子]]が引き継いだ。また、2018年9月に『[[ウルトラマンR/B]]』以降の[[ウルトラシリーズ]]で高橋が声を担当していた[[怪獣ブースカ#その他の登場作品|ブースカ]]も引き継いでおり、『レオ』以来のウルトラシリーズ出演となる{{R|rb}}。
『[[それいけ!アンパンマン]]』ではロールパンナ役やその他の脇役を担当。1999年の8月から9月には[[柳沢三千代]]の代役で[[カレーパンマン]]を演じた(柳沢は10月に復帰)。一方で、初代・[[ドキンちゃん]]役の[[鶴ひろみ]]が[[2017年]][[11月16日]]に死去したことに伴い、[[2018年]][[1月26日]]放送回よりロールパンナ役と兼任する形で2代目・ドキンちゃん役に就任<ref name="nikkansports20171215">{{Cite news|title=ドキンちゃん後任は冨永みーな、ロールパンナと兼任|newspaper=日刊スポーツ|date=2017年12月15日13時0分|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201712150000345.html|accessdate=2017-12-15}}</ref>。これに当たって冨永が担当していたロールパンナ以外の持ち役は降板し、ニャンコック役は[[白石涼子]]、しろかぶくん役とレアチーズ役は[[渕崎ゆり子]]、たまごどんまん役は[[かないみか]]が引き継いだ。
[[2019年]]、体調不良によりレギュラー番組への出演を見合せた[[増岡弘]](『サザエさん』や『それいけ!アンパンマン』でも共演)の代役として『[[有吉くんの正直さんぽ]]』の7・8月放送分のナレーションを担当<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/09/07/kiji/20190907s00041000170000c.html|title=増岡弘「有吉くんの正直さんぽ」ナレーション復帰「ご心配を」ネット安堵&歓喜「お帰りなさい」|work=スポニチアネックス|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2019-09-07|accessdate=2020-10-23}}</ref>。また、増岡が体調を再び崩した翌2020年<ref>{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20200327-OHT1T50014.html|title=マスオさん、ジャムおじさん天国へ…声優・増岡弘さん83歳で死去の2・3月放送分も担当|work=スポーツ報知|publisher=報知新聞社|date=2020-03-27|accessdate=2020-10-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201022173754/https://hochi.news/articles/20200327-OHT1T50014.html|archivedate=2020-10-22}}</ref>の2・3月放送分も担当<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20201022173433/https://kakaku.com/tv/channel=8/programID=32206/episodeID=1336844/|title=「ぶらぶらサタデー ~有吉くんの正直さんぽ【癒しスポットから拘りの名店並ぶ大人の街!目黒】~」2020年2月8日(土)放送内容|publisher=価格.com|accessdate=2020-10-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kakaku.com/tv/channel=8/programID=32206/episodeID=1344851/|title=「ぶらぶらサタデー ~有吉くんの正直さんぽ【散歩の醍醐味!小さな発見が続々▽墨田区小村井】~」2020年3月7日(土)放送内容|publisher=価格.com|accessdate=2020-10-23}}</ref>(その後、増岡は2020年3月21日午前2時53分に死去<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/03/26/kiji/20200326s00041000174000c.html|title=増岡弘さん死去 83歳 マスオさん、ジャムおじさんの声で親しまれ|work=スポニチアネックス|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2020-03-26|accessdate=2020-10-23}}</ref>)。
== 芸名の表記 ==
初期は本名の「冨永美子」を名乗っていたが、小学生の時に[[占い|易者]]に言われて「冨永ミーナ」に改名<ref name="nihonbungeisha19991115">{{Cite web|和書|date=1999-11-15|url=http://www.nihonbungeisha.co.jp/nbw/nbw-seiyu/991115.html|title=冨永みーなインタビュー|work=声優温泉|website=にちぶんうぇーぶ|publisher= [[日本文芸社]]|accessdate=2023-08-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110903212506/http://www.nihonbungeisha.co.jp/nbw/nbw-seiyu/991115.html|archivedate=2011-09-03}}</ref>(『[[あらいぐまラスカル]]』のエンディングのクレジットは当初“富永美子”で、30話から“冨永ミーナ”に変更されている)。その後「冨永みーな(み〜な)」に改名。現在、所属事務所のホームページでは「みーな」となっている。
== 趣味 ==
趣味として[[ゴルフ]]{{R|テレビ・タレント人名事典727}}、[[釣り]]{{R|テレビ・タレント人名事典727}}を挙げている。
== 人間関係 ==
=== 私生活 ===
声優の[[矢尾一樹]]と[[1990年]]に結婚したが<ref>冨永みーな「私も六月の花嫁」『[[アニメージュ]]』1991年6月号、[[徳間書店]]、72頁。</ref>、後に離婚。その後、[[2001年]]8月に[[吉本興業]]所属(当時)の[[タレント]]・[[増本庄一郎]]と2度目の結婚。[[2002年]]1月には、女児を出産。[[2004年]]9月に、男児を出産。現在2児の母親である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mamanity.net/article_id/798|title=冨永みーなさん【第1回】妊娠ってちょっと不思議|芸能人コラム|ママニティ 妊娠・出産・育児|publisher=ママニティ|accessdate=2023-07-28}}</ref>。出産2日後に『サザエさん』のアフレコに参加した逸話があり、後にあるテレビ番組で、予定日の前後に産休を取る予定だったが予定日より早く産まれたため参加せざるを得なかった、と語った。
=== サザエさん ===
2014年1月26日に死去した初代波平役の[[永井一郎]]の葬儀ではサザエ役の[[加藤みどり]]と共に弔辞を担当した。その際に冨永はカツオが波平に話しかける口調で「父さん、大好きです。もっといっぱい一緒にお風呂に入りたかった。もっと叱られたかった」と涙声で読み上げていた<ref>{{Cite news|title=サザエとカツオが役柄で弔辞「もっと叱られたかった」|url=http://www.oricon.co.jp/news/2033642/full/|newspaper=[[オリコン|ORICON STYLE]]|date=2014-02-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140305031938/http://www.oricon.co.jp/news/2033642/full/|archivedate=2014-03-05|accessdate=2014-03-05}}</ref>。
中島役の[[白川澄子]]が2015年11月25日に死去した際には「突然の訃報に大変驚いています。いつもスタジオで優しく声をかけていただいて、本当に寂しいです。白川さんのご冥福をお祈りします。」とコメントし、最後にカツオの声で「中島ー!中島ー!俺たち永遠に親友だよな!」と締めくくった<ref>{{Cite news|title=「俺たち永遠に親友だよな」 カツオ役の冨永みーなさん 中島役の白川澄子さん死去にコメント|newspaper=産経新聞|date=2015-11-27|url=https://www.sankei.com/article/20151127-L23LMMSLKFNUTLF7SNGHLY7A6Y/}}</ref>。
=== その他 ===
日本大学芸術学部時代の先輩には[[漫才コンビ]]、[[爆笑問題]]の[[太田光]]・[[田中裕二 (お笑い芸人)|田中裕二]]の2人がいた。同学部の学生有名人に過敏なまでに反感を持っていたという太田には「みーな、みーな、こっちを見ーな」などと言われ、相当絡まれたという<ref>爆笑問題の死のサイズ([[扶桑社]]、2000年6月30日初版)54 - 55頁</ref>。
[[フリーアナウンサー]]で[[RKB毎日放送]]元[[アナウンサー]]の[[富永倫子]]は親戚<ref>{{Cite web|和書|url=https://blog.rkbr.jp/ocha/cast/|title=チーム|work=[[二丁目お茶の間劇場]]|publisher=[[RKBラジオ]]|date=|accessdate=2020-08-03}}</ref>。
[[笠原弘子]]とは彼女のコンサートに関わるなど、親交が深い。
== 人物像 ==
[[音域#人声の音域|声種]]は[[アルト]]{{R|俳協}}。
歌やラジオ、写真集などでマルチに活躍する声優としては、1990年代の声優ブームにおける風潮を先取りしたと言える{{R|seipre}}。2017年の談話では「俳優が声優の仕事を行い、声優が俳優の仕事を行なうようになって、俳優と声優がボーダレスになる方が自然」という趣旨のコメントを残している{{R|seipre}}。10代のころはまだ声優という単語自体が存在しておらず「俳優が"声の仕事"をする」と言っていた。16歳からアニメの仕事が多くなった背景には、当時10代の声優の絶対数が足りておらず消去法で自分くらいしかいなかったという事情もある。同じく10代のころ、[[OVA]]の販促などのイベントを行うと、当時10代の声優に興味を持つ人自体が希少であったため、イベントには同じファンが来ることが多かった{{R|seipre}}。海外映画の吹き替えを10代のころはよく担当していたが、それは収録日が土日であり学校に通いながら活動するのに好都合であったためであり、収録に関しては当時は劇団こまどりの西村サエ子代表に導かれるがままであったと2017年のインタビューで述懐している{{R|seipre}}。ファンに自身を認知してもらえるようになったきっかけはOVA『BIRTH』の販促イベントであるとのちに話している{{R|seipre}}。1980年代のころから声優活動をしていたため、1990年代の声優業界では姉貴分扱いされることが多かった{{R|seipre}}。
自身が歌手として初めて楽曲をリリースした時点では、声優で歌っていたのは小山茉美くらいであり、当時は声優がアイドル歌手として人気を集めるような時代ではなかった。それだけに声優を担当している自身がファンから応援してもらえたことは冨永本人にとって不思議なことであった{{R|seipre}}。
なお、『声優Premeum vol.2』では、「劇中歌で歌を披露したことを含めれば『綿の国星』で1曲歌ったのが歌手デビュー{{R|seipre}}」としているが、[[#ディスコグラフィ|ディスコグラフィ]]にある通り、10歳の時にリリースした2曲がデビュー曲である。
レポーターをやってみたくてオーディションを受けたところ、大橋巨泉事務所の関係者のつてで『[[日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲|走れ!歌謡曲]]』に出演させてもらったのは本人にとって良い思い出だという{{R|seipre}}。
写真集『パーフェクトみーな』はある種の触れられたくない過去としている。2017年の時点では捨てるに捨てられず1冊だけ保存しているが、保存に使用している箱には「開けちゃイヤ」と書いてある。写真集については「本当に見られたくないんです。きれいじゃないし、太ってるし」と恥ずかしがっている{{R|seipre}}。
『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』への出演を希望しており{{R|seipre}} 、2018年には映画『[[名探偵コナン ゼロの執行人]]』にゲストとして初出演を果たしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1545972058|title=『サザエさん』、『パトレイバー』、『るろうに剣心』……声優・冨永みーなさんデビュー45周年を記念したライブ「ホントのきもち。」レポート|publisher=アニメイトタイムズ|date=2019-01-06|accessdate=2019-11-23}}</ref>。
声優以外で少女時代に憧れていた職業はキャビンアテンダント=スチュワーデスだったという{{R|W100}}。
2017年時点では家事や育児を優先しており、午後5時から7時の仕事は先方に避けてもらうようにしている{{R|seipre}}。
座右の銘は「なせばなる、なさねばならぬなにごとも」{{R|W100}}。
=== 磯野カツオ ===
高橋和枝が体調不良でスタジオに来られなくなった日、ディレクターから「カツオできるか?」と聞かれ、自身は「出来ません」と答えたが、「ちょっとやってみよう」と言われてその日のカツオの台詞を収録。それまで男の子を演じたことがなく、カツオを演じたのは不思議な感覚だったという。自身は「高橋のことが大好きで、その高橋が演じるカツオの素晴らしさを目の当たりにしていたので、どうしても高橋のカツオをなぞるような感じになってしまい、どうしていいのかわからず混乱してしまった」と語っている。次の週に高橋が入院し、「入院の間だけやってくれ」とディレクターに言われ、「自分でも違和感があるけど仕方無い。やらせていただこう」「高橋はカツオに対して何を大切にしているのだろう?」と自分なりに考えて演じたと語っている。高橋には絶対戻って欲しかったが、それは叶わず、自身が3代目・磯野カツオ役になる。後日、高橋が「冨永ならいい」と言ったのを聞き、とても嬉しく心強かったと述べた<ref>冨永みーな「仕事が巡ってくる法則」『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』主婦の友社、124-125頁。</ref>。
== 出演 ==
'''太字'''はメインキャラクター。
=== テレビドラマ ===
* [[それ行け!カッチン]](1975年)
* [[陽はまた昇る (1979年のテレビドラマ)|陽はまた昇る]] 第6話(1979年)小林秋子
* [[ピーマン白書]](1980年)生徒
* [[夏の王様]](1982年)CM
=== 映画 ===
* 鯉のいる村(1971年) ゆうこ
* [[旅路 村でいちばんの首吊りの木]](1986年)紀美子の同級生
* [[くまちゃん (映画)|くまちゃん]](1993年)くまちゃんの声<ref>{{Cite journal |和書|date=1993-06-01 |title=小中和哉監督作品『くまちゃん』公開中|journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]] |volume=Vol.64 |page=46|publisher=[[朝日ソノラマ]]|id=雑誌コード:01843-06}}</ref>
* [[板尾創路の脱獄王]](2009年)
* [[THE NEXT GENERATION -パトレイバー-|THE NEXT GENERATION -パトレイバー- 大怪獣現わる 前編]](2014年)本人役<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/119566|title=実写版パトレイバーに冨永みーな&古川登志夫が声で出演|publisher=コミックナタリー|accessdate=2014-08-03|date=2014-06-23}}</ref>
=== オリジナルビデオ・DVD ===
* プライベートみーな
* Wagamama!(1987年)
* やさしいうま(2007年)プロデュース、ナビゲーター
=== 舞台 ===
* プロジェクト・レヴュー プロデュース
** ジミーとジョアン
** MOTHER
* 冨永 みーなプロデュース
** 民法732.5条
** 4,380円〜空からお金が降った夏の日
=== 特撮 ===
* [[ウルトラマンレオ]](1974年 - 1975年、梅田カオル)
* [[ウルトラマンR/B]](2018年、[[ウルトラマンR/B|ブースカ]]の声<ref name="rb">{{Cite web|和書|url=https://m-78.jp/rb/post-927/|title=10月のテレビ東京系『ウルトラマンR/B』にあの快獣ブースカが登場!そしてなんと冨永みーなさんが声を担当!!|work=ウルトラマンR/B(ルーブ)|accessdate=2018-09-29}}</ref>)
* [[ウルトラマン ニュージェネレーションクロニクル]](2019年、'''ブースカの声'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://m-78.jp/news/post-4972/|title=新番組『ウルトラマン ニュージェネレーションクロニクル』2019年1月5日(土)あさ9時よりテレビ東京系にて放送開始!|work=円谷ステーション|accessdate=2018-12-06}}</ref>)
=== テレビアニメ ===
{{定義リスト2
| 1975年 |
* [[みつばちマーヤの冒険]]
| 1977年 |
* [[あらいぐまラスカル]]('''アリス・スティーブンソン'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nippon-animation.co.jp/work/1061/|title=あらいぐまラスカル|publisher=日本アニメーション|accessdate=2016-06-10}}</ref>)
| 1978年 |
* [[星の王子さま プチ・プランス]](メリー、ドミノ姫)
| 1979年 |
* [[海底超特急マリンエクスプレス]]([[ピノコ]])
| 1982年 |
* [[ときめきトゥナイト]]('''神谷曜子''')
| 1983年 |
* [[銀河漂流バイファム]](1983年 - 1998年、'''クレア・バーブランド'''<ref>{{Cite web|url=http://www.vifam.net/staffcast/index.html|title=TV CAST|publisher=銀河漂流バイファム|accessdate=2022-08-28}}</ref>) - 2シリーズ
* [[レディジョージィ]](ベッキィ)
| 1984年 |
* [[チックンタックン]]('''南田ミコ''')
* [[魔法の妖精ペルシャ]](1984年 - 1985年、'''速水ペルシャ'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://pierrot.jp/archive/1980/tv80_08.html| title = 魔法の妖精ペルシャ| publisher = ぴえろ公式サイト | accessdate = 2022-09-02}}</ref>)
| 1985年 |
* [[タッチ (漫画)|タッチ]](1985年 - 1998年、篠塚かおり、新田由加) - 1シリーズ + 特別編<ref>「Miss Lonely Yesterday あれから君は…」(1998年)</ref>
* [[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]](あんな)
| 1986年 |
* [[青春アニメ全集]](少女時代のフミコ)
* [[ボスコアドベンチャー]](マーヤ)
* [[魔法のアイドルパステルユーミ]]('''かき丸'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://pierrot.jp/archive/1985/tv80_12.html| title = 魔法のアイドルパステルユーミ| publisher = ぴえろ公式サイト | accessdate = 2022-09-02}}</ref>)
* [[めぞん一刻 (アニメ)|めぞん一刻]](1986年 - 1988年、'''七尾こずえ'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C8305|title=めぞん一刻|publisher=メディア芸術データベース|accessdate=2022-12-25}}</ref>)
| 1987年 |
* [[シティーハンター (アニメ)|シティーハンター]](1987年 - 1988年、麻生かすみ<ref>{{Cite web|和書| accessdate = 2023-01-04 | publisher = [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] | title = シティーハンター3 | url = http://sunrise-world.net/titles/pickup_230.php | website = サンライズワールド}}</ref>) - 2シリーズ<!-- 1987-06-15 -->
* [[陽あたり良好!]](太田まりあ)
* [[北斗の拳2]]('''[[リン (北斗の拳)|リン]]''')
| 1988年 |
* [[それいけ!アンパンマン]](1988年 - 、つみれちゃん、ニャンコック〈4代目〉、ミルクキャラメル、くものもくちゃん〈2代目〉、みずうみ姫〈代役〉、マイマイママ、しろみ〈2代目〉、たまごどんまん〈初代〉、'''ロールパンナ/ブラックロールパンナ'''、こてん、キャラメルママ、サニー姫、レアチーズ〈初代〉、あくびどり〈2代目〉、しろかぶくん〈初代〉、'''カレーパンマン'''〈代役〉、たまご姫〈2代目〉、超甘口カレーパンマン、タワシくん〈2代目〉、みるくぼうや〈代役→2代目〉、グーパンダ、'''[[ドキンちゃん]]'''〈2代目〉<ref name="nikkansports20171215"/> 他)
* [[ドクター秩父山]]<ref>{{Cite web|和書| accessdate = 2022-11-10 | publisher = [[葦プロダクション]] | title = ドクター秩父山 | url = http://ashipro.jp/works/tv_series/w014.html |website = 株式会社 葦プロダクション 公式サイト}}</ref>
* [[どんどんドメルとロン]](チェリー)
* [[ビックリマン (アニメ)|ビックリマン]](1988年 - 1989年、愛然かぐや)
* [[ビリ犬]](1988年 - 1989年、'''雨森テツオ'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C8500|title=ビリ犬|publisher=メディア芸術データベース|accessdate=2023-03-22}}</ref>) - 2シリーズ
| 1989年 |
* [[機動警察パトレイバー]]('''泉野明''')
* [[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]](1989年 - 、伊佐坂浮江〈2代目〉<ref name="minavo">[[主婦の友社]]『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』冨永みーな「仕事が巡ってくる法則」P124。</ref>、早川〈4代目〉<ref name="minavo" />、みゆき〈2代目〉、イカコ〈2代目〉、野沢リカの母、エレベーターガール、'''[[サザエさんの登場人物#磯野カツオ|磯野カツオ]]'''〈3代目〉<ref name="minavo" />)
* [[ミスター味っ子]](白川理恵)
| 1990年 |
* [[NG騎士ラムネ&40]](ココナッツ)
* [[それいけ!アンパンマン みなみの海をすくえ!]]('''サニー姫''')
* [[楽しいムーミン一家]](ニンニ)
* [[笑ゥせぇるすまん]](慶子)
| 1991年 |
* [[アニメひみつの花園]]('''メアリー''')
* [[DRAGON QUEST -ダイの大冒険-#1991年版『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』|ドラゴンクエスト ダイの大冒険(第1作)]](1991年 - 1992年、'''マァム'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/dai_daiboken/|title=ドラゴンクエスト・ダイの大冒険|publisher=東映アニメーション|accessdate=2016-07-09}}</ref>)
| 1992年 |
* [[ファンタジーアドベンチャー 長靴をはいた猫の冒険]](オデッサ姫<ref name="jiten">{{Cite book|和書|year=1996|title=声優事典 第二版|pages=472-473|publisher=[[キネマ旬報社]]||isbn=4-87376-160-3}}</ref>)
| 1994年 |
* [[赤ずきんチャチャ]](1994年 - 1995年、お雪先生、海坊子、メアリー、どろしー、エリザベス)
* [[D・N・A² 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜]]('''葵かりん''')
| 1995年 |
* [[クマのプー太郎]](観音様)
* [[ナースエンジェルりりかSOS]](宇崎裕子)
| 1996年 |
* [[こちら葛飾区亀有公園前派出所 (アニメ)|こちら葛飾区亀有公園前派出所]](1996年 - 1999年、めぐみ、葵、ゆり子)
* [[地獄先生ぬ〜べ〜]](1996年 - 1997年、'''細川美樹'''<ref>{{Cite web|url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/nube/cast.html|title=CAST&STAFF|work=地獄先生ぬ〜べ〜 東映アニメーション|accessdate=2023-01-15}}</ref>)
* [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]('''明神弥彦'''、シン王子)
| 1998年 |
* [[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第4シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎(第4作)]](ヒトミ)
* [[ひみつのアッコちゃん]](1998年)(ママ)
* [[遊☆戯☆王 (アニメ第1作)|遊☆戯☆王]](アイリーン・ラオ)
| 1999年 |
* [[金田一少年の事件簿 (アニメ)|金田一少年の事件簿]](香川小梅)
* [[ビックリマン2000]](1999年 - 2001年、'''タケル''')
| 2001年 |
* [[カスミン]](三つ編み様)
* [[Cosmic Baton Girl コメットさん☆]](藤吉沙也加)
* [[フルーツバスケット (漫画)|フルーツバスケット]]('''草摩利津''')
| 2002年 |
* [[満月をさがして]](和美・フランクリン)
| 2003年 |
* [[アストロボーイ・鉄腕アトム]](ベアちゃん)
| 2004年 |
* [[陸奥圓明流外伝 修羅の刻]](おりょう)
* [[妄想代理人]](かもめ)
| 2005年 |
* [[涼風 (漫画)|涼風]](朝比奈涼音)
| 2006年 |
* [[D.Gray-man]](フォー)
| 2007年 |
* [[シュガーバニーズ]]シリーズ(2007年 - 2009年、女王シュクレ、女王アール)
| 2008年 |
* [[ねぎぼうずのあさたろう]](火の玉おてつ)
* [[ポルフィの長い旅]](マリアンヌ)
| 2011年 |
* [[おじゃる丸]](デンさん)
| 2012年 |
* [[スマイルプリキュア!]](2012年 - 2013年、マジョリーナ / マジョリン)
* [[つり球]](海咲)
* [[HUNTER×HUNTER (2011年のアニメ)|HUNTER×HUNTER(第2作)]](センリツ)
| 2014年 |
* [[スペース☆ダンディ]](スキップジャック<ref>{{Cite web|url=http://space-dandy.com/episode/25/|title=EPISODE25|publisher=『スペース☆ダンディ』公式サイト|accessdate=2014-09-16}}</ref>)
| 2016年 |
* [[キズナイーバー]](瑠々の母)
| 2018年 |
* [[深夜!天才バカボン]](アシスタント)<!-- 2018-08-15 -->
}}
=== 劇場アニメ ===
{{定義リスト2
| 1979年 |
* [[龍の子太郎]](あや)
| 1984年 |
* [[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]](ラステル<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20131209233807/http://www.ntv.co.jp/kinro/lineup/20131227/index.html|title=風の谷のナウシカ|publisher=金曜ロードSHOW!|accessdate=2016-06-02}}</ref>)
* [[パパママバイバイ]](かおりちゃん)
* [[綿の国星]]('''チビ猫''')
| 1988年 |
* [[ビックリマン (アニメ)|ビックリマン 無縁ゾーンの秘宝]](愛然かぐや<ref>{{Cite web|和書| url=https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/movie/movie_bikkuriman_muen/character/| title=ビックリマン 無縁ゾーンの秘宝|キャラクター/キャスト| publisher=東映アニメーション| accessdate=2022-09-15}}</ref>)
| 1989年 |
* [[機動警察パトレイバー the Movie]]('''泉野明''')
| 1990年 |
* [[宇宙皇子]](なよ竹<ref name="jiten"/>)
| 1992年 |
* [[ドラゴンクエスト ダイの大冒険 起ちあがれ!!アバンの使徒]]('''マァム''')
* [[ドラゴンクエスト ダイの大冒険 ぶちやぶれ!!新生6大将軍]]('''マァム''')
| 1993年 |
* [[機動警察パトレイバー 2 the Movie]]('''泉野明''')
| 1994年 |
* [[それいけ!アンパンマン リリカル☆マジカルまほうの学校]](ピピ)
| 1995年 |
* [[それいけ!アンパンマン ゆうれい船をやっつけろ!!]]('''ロールパンナ''')
* [[それいけ!アンパンマン アンパンマンとハッピーおたんじょう日]]('''くものもくちゃん''')
| 1996年 |
* [[それいけ!アンパンマン 空とぶ絵本とガラスの靴]](ロールパンナ)
* [[それいけ!アンパンマン ばいきんまんと3ばいパンチ]](ロールパンナ)
* [[(超)劇場版!地獄先生ぬ〜べ〜]]('''細川美樹''')
| 1997年 |
* [[地獄先生ぬ〜べ〜 午前0時ぬ〜べ〜死す!]]('''細川美樹''')
* [[地獄先生ぬ〜べ〜 恐怖の夏休み!! 妖しの海の伝説!]]('''細川美樹''')
* [[それいけ!アンパンマン 虹のピラミッド]]('''ロールパンナ''')
* [[それいけ!アンパンマン ぼくらはヒーロー]](レアチーズ)
* [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 維新志士への鎮魂歌]]('''明神弥彦''')
| 1998年 |
* [[それいけ!アンパンマン てのひらを太陽に]](ロールパンナ)
| 1999年 |
* [[それいけ!アンパンマン 勇気の花がひらくとき]](ロールパンナ、ピカリ先生)
| 2000年 |
* [[それいけ!アンパンマン やきそばパンマンとブラックサボテンマン]](ロールパンナ)
| 2002年 |
* [[WXIII 機動警察パトレイバー]]('''泉野明'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.madhouse.co.jp/works/2002-2001/works_movie_patlabor3.html|title=パトレイバー WXIII|publisher=マッドハウス|accessdate=2016-06-17}}</ref>)
* [[それいけ!アンパンマン ロールとローラ うきぐも城のひみつ]]('''ロールパンナ''')
| 2003年 |
* [[それいけ!アンパンマン ルビーの願い]](オーロラ姫)
| 2004年 |
* [[それいけ!アンパンマン 夢猫の国のニャニイ]](ロールパンナ)
* [[それいけ!アンパンマン つきことしらたま〜ときめきダンシング〜]](ロールパンナ)
| 2006年 |
* [[それいけ!アンパンマン いのちの星のドーリィ]](ロールパンナ)
| 2008年 |
* [[真救世主伝説 北斗の拳ZERO ケンシロウ伝]](サヤ)
* [[それいけ!アンパンマン 妖精リンリンのひみつ]]('''ロールパンナ''')
| 2010年 |
* [[それいけ!アンパンマン はしれ!わくわくアンパンマングランプリ]](レアチーズ)
| 2013年 |
* [[劇場版 HUNTER×HUNTER -The LAST MISSION-]](センリツ<ref>{{Cite web|url=http://www.hxh-movie.jp/index.html|title=CAST&STAFF|publisher=『劇場版 HUNTER×HUNTER―The LAST MISSION―』公式サイト|accessdate=2013-11-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131121090634/http://www.hxh-movie.jp/index.html|archivedate=2013-11-21|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>)
| 2018年 |
* [[それいけ!アンパンマン かがやけ!クルンといのちの星]]('''ドキンちゃん''')
* [[名探偵コナン ゼロの執行人]](岩井紗世子)
| 2019年 |
* [[それいけ!アンパンマン きらめけ!アイスの国のバニラ姫]]('''ドキンちゃん''')<!-- 2019-06-28-->
| 2020年 |
* [[クレヨンしんちゃん 激突! ラクガキングダムとほぼ四人の勇者]]('''ブリーフ'''<ref>{{Cite web|和書|work=映画ナタリー|url=https://natalie.mu/eiga/news/394182|title=「映画クレしん」冨永みーな、伊藤静、黒沢ともよら11名が参加|date=2020-08-29|accessdate=2020-08-29}}</ref>)<!-- 2020-09-11 -->
| 2021年 |
* [[それいけ!アンパンマン ふわふわフワリーと雲の国]]('''ドキンちゃん''')<!-- 2021-06-25 -->
| 2022年 |
* [[それいけ!アンパンマン ドロリンとバケ〜るカーニバル]]('''ドキンちゃん''')<!-- 2022-06-24 -->
| 2023年 |
* [[それいけ!アンパンマン ロボリィとぽかぽかプレゼント]]('''ドキンちゃん''')
}}
=== OVA ===
{{定義リスト2
| 時期不明 |
* [[ハローキティ]]シリーズ(ミミィ〈3代目〉)
| 1984年 |
* [[銀河漂流バイファム|銀河漂流バイファム カチュアからの便り]](クレア・バーブランド<ref name="vifam">{{Cite web|url=http://www.vifam.net/staffcast/ova.html|title=OVA CAST|publisher=銀河漂流バイファム|accessdate=2022-08-28}}</ref>)
* 銀河漂流バイファム 集まった13人(クレア・バーブランド<ref name="vifam"/>)
* [[BIRTH (OVA)|BIRTH]]('''ユピテル・ラサ''')
| 1985年 |
* [[軽井沢シンドローム]](津野田絵里)
* 銀河漂流バイファム 消えた12人(クレア・バーブランド<ref name="vifam"/>)
* 銀河漂流バイファム “ケイトの記憶” 涙の奪回作戦!!(クレア・バーブランド<ref name="vifam"/>)
* [[ジャスティ (漫画)|ジャスティ]](アスタリス・ベガ)
* バビ・ストック I 果てしなき標的('''ムーマ''')
* [[メガゾーン23]](村下智美)
| 1986年 |
* [[カリフォルニア・クライシス 追撃の銃火]]('''マーシャ''')
* バビ・ストック II ザ・リベンジ・オブ アイズマン 愛の鼓動の彼方に('''ムーマ''')
* [[ぴえろ魔法少女シリーズ|艶姿 魔法の三人娘]]('''速水ペルシャ''')
| 1987年 |
* [[学園特捜ヒカルオン]](椎名弥生)
* [[ザ・サムライ]](血祭あさぎ)
* [[トワイライトQ 時の結び目 REFLECTION]](紀和子)
* 魔女っ子クラブ4人組 A空間からのエイリアンX('''速水ペルシャ''')
| 1988年 |
* [[機動警察パトレイバー]]('''泉野明''')
* [[マドンナ 炎のティーチャー]]('''土門真子''')
| 1989年 |
* 魔狩人(ナラカ<ref name="jiten"/>)
* [[妖魔 (漫画)|妖魔]](妖)
| 1990年 |
* [[A.D.POLICE]](アイリス・キャラ)
* [[孔雀王2 幻影城]](月読)
* [[湘南爆走族|湘南爆走族6 GT380ヒストリー]](七瀬かなえ)
| 1991年 |
* [[究極超人あ〜る]]('''堀川椎子''')
* [[有閑倶楽部|有閑倶楽部 犬猫まるごとHOWマッチ]](黄桜可憐)
| 1992年 |
* [[カメレオン (漫画)|カメレオン]](浅岡ひかる)
* ケンネル所沢('''チカコ''')
* [[D-1 DEVASTATOR]](星野奈美)
* [[花平バズーカ]](メフィスト・ダンス)
* ハローキティのきえたサンタさんの帽子(ミミィ<ref name="jiten"/>)
* 有閑倶楽部 香港より愛をこめて(黄桜可憐)
| 1993年 |
* ハンギョドンの00 7/2 ドクターサンデーあらわる(さゆり<ref name="jiten"/>)
| 1994年 |
* [[誕生 〜Debut〜]](伊東亜紀)
* [[マップス (OVA)|マップス]](リプラドウ・グァイス)
| 1995年 |
* [[赤ずきんチャチャ]](1995年 - 1996年、どろしー、エリザベス)
* [[D・N・A² 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜]]('''葵かりん''')
| 1998年 |
* [[地獄先生ぬ〜べ〜]](1998年 - 1999年、'''細川美樹''') - 3作品
| 2001年 |
* [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 星霜編]]('''明神弥彦''')
| 2012年 |
* るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 新京都編('''明神弥彦''')※劇場先行公開
}}
=== ゲーム ===
{{定義リスト2
| 1991年 |
* [[エルディス]](ユーちゃん)
| 1992年 |
* [[改造町人シュビビンマン3 -異界のプリンセス-]](キャピ子)
* [[スナッチャー]](ミカ・スレイトン、カトリーヌ・ギブスン)
* TRAVELエプル('''エプル''')
| 1993年 |
* 機動警察パトレイバー 〜グリフォン篇(泉野明)
* [[D-1 DEVASTATOR|デバステイター]](星野奈美)
| 1994年 |
* [[アイドル雀士スーチーパイ|アイドル雀士スーチーパイII]](佐々木留美)
* [[誕生 〜Debut〜]]([[FM TOWNS]]版 - 藤村さおり/PCエンジン版 - 伊東亜紀)
* [[モンスターメーカー#コンピュータゲーム|モンスターメーカー 闇の竜騎士]](ディアーネ)
| 1995年 |
* [[アイドル雀士スーチーパイSpecial]](佐々木留美)
* アイドル雀士スーチーパイLimited(佐々木留美)
* [[アイドル雀士スーチーパイRemix]](佐々木留美)
* [[空想科学世界ガリバーボーイ]](フィービー)※[[PCエンジン]]版、[[セガサターン]]版<!--同タイトルの別ゲームもあるため、機種名を表記してます-->
| 1996年 |
* アイドル雀士スーチーパイII Limited(佐々木留美)
* [[メタルスラッグ]](ソフィア教官)
* [[ラストブロンクス|LASTBRONX 東京番外地]](草波リサ)
| 1997年 |
* [[ウイニングポスト3]](富野美衣)
* [[地獄先生ぬ〜べ〜]](細川美樹)
* [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 十勇士陰謀編]]('''明神弥彦''')
| 1998年 |
* アイドル雀士スーチーパイ発売5周年記念めちゃ限定版○得パッケージ(佐々木留美)
* [[エリーのアトリエ 〜ザールブルグの錬金術士2〜]](ロマージュ・ブレーマー)
* [[スーチーパイアドベンチャー ドキドキナイトメア]](佐々木留美)
* [[DEBUT21]](伊東亜紀)
| 1999年 |
* [[ゴエモン もののけ双六]](クロベエ{{要出典|date=2022年8月}})
| 2000年 |
* [[機動警察パトレイバー 〜ゲームエディション〜]](泉野明)
* [[冒険時代活劇ゴエモン]](おかみさん 他)
| 2001年 |
* [[がんばれゴエモン〜大江戸大回転〜]](クロベー)
* [[ザ・キング・オブ・ファイターズ|ザ・キング・オブ・ファイターズ2001]]([[アンヘル (KOF)|アンヘル]])
| 2011年 |
* [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]] 再閃 / 覚醒(2011年 - 2012年、明神弥彦) - 2作品
| 2013年 |
* [[スーパーロボット大戦Operation Extend]](泉野明)
| 2014年 |
* [[ぷよぷよテトリス]](オー)
| 2017年 |
* [[妖怪ウォッチ|妖怪ウォッチ ぷにぷに]](ミミィ)<!-- 2017-05-01 -->
| 2018年 |
* [[スーパーロボット大戦X-Ω]](泉野明)<!-- 2018-11-24 -->
| 2019年 |
* [[ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて S]](預言者<ref>{{Cite web|和書|work=ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて S|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|url=http://www.dq11.jp/s/characters/cast.html|title=キャスト一覧|accessdate=2019-04-02}}</ref>)<!-- 2019-09-27 -->
| 2020年 |
* [[共闘ことばRPG コトダマン]](明神弥彦)<!-- 2020-07-03 -->
* [[ぷよぷよテトリス2]](オー)<!-- 2020-12-10 -->
* [[ぷよぷよ!!クエスト]](オー<ref>{{Cite web|和書|publisher=セガ|work=ぷよぷよ!!クエスト(ぷよクエ)公式サイト|url= https://puyopuyoquest.sega-net.com/sp/news/201209_83785.html|title= 一部キャラクターのボイス追加&『カーバンクル ver.ぷよテト2』CV担当変更のお知らせ |date=2020-12-09|accessdate=2020-12-10}}</ref>)<!-- 2020-12-10 -->
| 2022年 |
* 機動戦隊アイアンサーガ(泉野明<ref>{{Twitter status2|ironsaga_staff|1507205638450913286|4=機動戦隊アイアンサーガ公式の2022年3月25日のツイート|5=2022-04-23}}</ref>)<!-- 2022-03-31 -->
}}
=== 吹き替え ===
==== 映画 ====
* [[ベンジー (1974年の映画)|ベンジー]]('''シンディ・チャプマン'''〈シンシア・スミス〉)
* [[禁じられた遊び]]('''ポーレット'''〈[[ブリジット・フォッセー]]〉)※テレビ朝日版
* [[サウンド・オブ・ミュージック (映画)|サウンド・オブ・ミュージック]](マルタ〈{{仮リンク|デビー・ターナー|en|Debbie Turner}}〉 / ルイーザ〈[[ヘザー・メンジース]]〉)※前者はNETテレビ(テレビ朝日)・フジテレビ版、後者はソフト版
* [[赤毛のアン (1985年の映画)|赤毛のアン]](ダイアナ・バリー〈スカイラー・グラント〉)※フジテレビ版
** 続・赤毛のアン ※VHS版
* [[アドベンチャー・ファミリー]](ジェニー・ロビンソン〈ホリー・ホルムズ〉)※テレビ朝日版
* [[エクソシスト (映画)|エクソシスト]]('''リーガン・マクニール'''〈[[リンダ・ブレア]]〉)※TBS版
* [[オズ (映画)|オズ]](オズマ姫〈エマ・リドレー〉)※劇場公開版(ポニー・バンダイ)
* [[銀河伝説クルール]](リサ姫〈リセット・アンソニー〉)
* [[ゴジラ FINAL WARS]](バンクーバーの子供)
* [[サタデー・ナイト・フィーバー]] ※テレビ朝日版
* [[ザ・デイ・アフター]] ※テレビ朝日版
* [[シティーハンター (映画)|シティーハンター]]('''[[槇村香]]'''〈[[王祖賢|ジョイ・ウォン]]〉)※フジテレビ版
* [[シビルの部屋]](シビル〈アン・ザカリアス〉)※テレ東京版
* [[ダーククリスタル]](キーラ〈リサ・マックスウェル〉)※VHS版
* [[タクシードライバー (1976年の映画)|タクシー・ドライバー]]('''アイリス'''〈[[ジョディ・フォスター]]〉)※TBS版
* [[ダーティハリー]] ※テレビ朝日版
* [[小さな恋のメロディ]]('''メロディ・パーキンス'''〈[[トレイシー・ハイド]]〉)※LD版(2015年12月22日発売の新盤DVD/BD収録)
* [[ティーン・ウルフ]]('''ブーフ'''〈スーザン・アルシッティ〉)※テレビ朝日版(BD&DVD収録)
* [[バラ色の選択]]('''アンディ'''〈[[ガブリエル・アンウォー]]〉)
* [[必殺マグナム]]('''アラベラ・マギー'''〈[[キャスリーン・ウィルホイト]]〉)※フジテレビ版
* [[ペーパー・ムーン]](アディ・ロギンス〈[[テータム・オニール]]〉)※テレビ朝日・TBS版(DVD収録)
* [[ベンジーの愛]](シンディ・チャプマン〈シンシア・スミス〉)※TBS版
==== ドラマ ====
* [[アルプスの少女ハイジ]]('''ハイジ''') ※[[少年ドラマシリーズ]]の[[英国放送協会|BBC]]版
* [[アリー my Love|アリーmyラブ3]](ホープ・マーシー〈アリシア・ウィット〉)
* [[宮廷女官チャングムの誓い]](チャンドク〈[[キム・ヨジン]]〉)※NHK-BS2版
* [[刑事コロンボ|刑事コロンボ 黒のエチュード]](オードリー)※日本テレビ版
* [[CSI:マイアミ|CSI:マイアミ9]](イヴォンヌ・フェルナンデス)
* [[大草原の小さな家]](キャリー〈[[リンゼイ&シドニー・グリーンブッシュ]]〉)
* [[地上最強の美女バイオニック・ジェミー]] シーズン3 最終話
* [[LAW & ORDER:犯罪心理捜査班|LAW&ORDER:クリミナル・インテント]](トルーディ・パーマレンスキー)
==== アニメ ====
* [[アイドル忍者タートルズ]](エイプリル・オニール)※BS2版
* [[アルビンとチップマンクス]](ブリタニー)
* [[コルドロン]]('''エロウィー''')
* [[グーフィー・ムービー ホリデーは最高!!#史上最強のグーフィー・ムービー Xゲームで大パニック!|史上最強のグーフィー・ムービー Xゲームで大パニック!]](ベレー帽の少女)
* [[タイニー・トゥーンズ]]('''バブス・バニー''')
* [[チップとデールの大作戦]](ガジェット)※テレビ東京版
=== ラジオ ===
* 週刊ラジオコミックス とんでもクロコダイル([[TBSラジオ]])
* [[日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲]]・サンデースペシャル([[文化放送]])
* [[SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン]](2002年まで[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]を担当)(文化放送)
* あこがれアニメ学園(文化放送)
* [[アニメトピア]]([[大阪放送|ラジオ大阪]])<ref name="djmeikan"/>
* [[はいぱぁナイト]](月曜日担当)([[京都放送|KBS京都]])
* サンデーモーニングフェスタ([[エフエム東京|TOKYO FM]])
* [[よ・み・き・か・せ]](TOKYO FM、2013年5月16日)
* 週刊アニメグランプリ([[全国FM放送協議会|JFN]])
* 空飛ぶアルマジロ([[エフエム大阪|FM大阪]])
* [[はしゃいで○○大放送]]([[日経ラジオ社|ラジオたんぱ]] 火曜日16時台担当)<ref name="djmeikan"/>
* [[どんなもんだハウス!]](ラジオたんぱ 火曜日担当)
=== ドラマCD ===
* [[銀河漂流バイファム|銀河漂流バイファム ドラマ編 ジェイナス愛の航海日誌…気分はもう主役]](1984年、クレア・パープランド)
* [[CDシアター ドラゴンクエスト#CDシアター ドラゴンクエストI|CDシアター ドラゴンクエストI]](1991年、ミナ)
* [[永野あかね|猫でごめん!]](1991年、'''白石やよい''')
* [[モンスターメーカー#ドラマCD|モンスターメーカー ドラマCD 魔剣デスデリバーを探せ!]](1991年、ディアーネ)
* [[若木未生|カセットブック イズミ幻戦記 鳴動編]](1992年、響子)
* [[めぞん一刻 PARTY ALBUM]](1992年、七尾こずえ)
* [[楠桂|あくまでラブコメ]](1992年、ナレーション)
* [[魔法人形|悪魔人形]](1996年、マユミ探偵)
=== デジタルコミック ===
* [[フルーツバスケット (漫画)|「フルーツバスケット」音声入りまんがDVD〜旅立ちの日、再び〜]](2012年、草摩利律) - 『[[花とゆめ]]』24号応募者全員サービス<!-- 2012-12 -->
=== ナレーション ===
* [[開運!なんでも鑑定団]]、[[目からウロコの骨董塾|鑑定団が3倍面白くなる!目からウロコの骨董塾]]
* [[世界ウルルン滞在記]]→[[世界ウルルン滞在記"ルネサンス"]]
* [[どうぶつ奇想天外!]]
* [[タモリの音楽は世界だ|タモリの音楽は世界だ!]]
* [[ぴーかんバディ!]]→[[人間!これでいいのだ]]
* [[未来創造堂]]
* [[いきなり!黄金伝説。]]
* [[ひるおび!]]:「笑顔のみなもと」
* [[きらり!えん旅]]
* [[ウソのような本当の瞬間!30秒後に絶対見られるTV|ウソだと思ったらホントだった!30秒後に絶対見られるTV]](2012年8月24日)
* [[砂羽と可奈子があの街の美味しいギャップ大発見!だけど食堂]]
* [[楽天グループ|楽天]]「楽天スーパーセール」CM
* [[ニチファミ!]]
** 今夜解禁!開かずの扉〜超カギ開け師が眠れるお宝発掘SP〜(2018年3月11日)
** 門外不出!マル秘映像借りました(2018年11月18日)
* [[帰れマンデー見っけ隊!!]]
* [[有吉くんの正直さんぽ]]([[増岡弘]]の代役)
* [[正直女子さんぽ]]※パイロット版のみ
* [[超かわいい映像連発!どうぶつピース!!]]
=== 写真集 ===
* パーフェクトみーな(1985年発売)
=== バラエティ ===
* [[ものまねバトル]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])ものまねレパートリーは[[瀬川瑛子]]、[[野原しんのすけ]]、[[研ナオコ]]、[[金井克子]]、[[中森明菜]]、[[浜崎あゆみ]]、[[森高千里]]、[[丹下桜]]、[[松任谷由実]]、[[華原朋美]]、[[工藤静香|工藤静香、]][[朝丘雪路]]、など
* [[独占!女の60分]]([[テレビ朝日]])(アタッカー)
* [[GOB]]([[日本テレビ]])(GOB3 サポートMC)
* [[クイズミリオネア]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]])ゲスト挑戦者[[石坂浩二]]のライフライン(テレフォン)、テレビ電話として出演
* [[キティズパラダイス]]plus(2003年 - 2005年) - ミミィの声
* [[北野タレント名鑑]](2005年3月24日、フジテレビ)
* [[大胆MAP|大胆MAP 顔を見てみたいアニメキャラクター30人全部見せちゃうよ! 春の撮れたて新作SP]](2008年4月6日、テレビ朝日)魔法の妖精ペルシャの速水ペルシャ役、タッチの新田由加役として紹介された
* [[ウルトラ情報局]]( - 2008年6月号、[[ファミリー劇場]])『ウルトラマンレオ』に梅田カオル役で出演していたことによるゲスト出演。
* [[クイズダービー]](1992年3月7日、[[TBSテレビ]])「声優大会」で[[古谷徹]]と共に緑チームで出演(赤チームは[[大平透]]・[[野沢雅子]]、黄チームは[[山田康雄]]・加藤みどり)。結果は最終問題(この時点では23,000点)で「4倍」の[[はらたいら]]に全点賭けて「10万点」(115,000点)達成(赤は16,800点、黄は0点)。
* [[ひるおび!]](2009年 - 、TBSテレビ)コーナーナレーション
* [[心ゆさぶれ!先輩ROCK YOU]](2011年8月13日、日本テレビ)[[羽佐間道夫]]、[[木村匡也]]と共にゲスト出演
* [[クイズ!脳ベルSHOW]](2018年10月3日 - 10月5日、[[BSフジ]])解答者
== ディスコグラフィ ==
=== シングル ===
{| class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller"
!発売日
!規格品番
!面
!タイトル
!作詞
!作曲
!編曲
|-
! colspan="8" |[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]]
|-
| rowspan="2" |1984年8月5日
| rowspan="2" |KV-3058
|A
|'''不思議なひらめき'''
| [[有川正沙子]]
| [[鈴木キサブロー]]
| rowspan="2" |[[萩田光雄]]
|-
|B
|パイ夏プル
| colspan="2" |[[田中弥生]]
|-
! colspan="8" |[[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナー・パイオニア]] / [[ワーナー・レコード|WARNER RECORDS]]
|-
| rowspan="2" |1986年6月25日
| rowspan="2" |K-1563
|A
|'''ストップ! うそつき少年'''
| [[只野菜摘]]
| rowspan="2" colspan="2" |[[馬飼野康二]]
|-
|B
|そよ風のララバイ
| 能丸武
|-
! colspan="8" |[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] / 東芝レコード
|-
| rowspan="2" |1991年7月19日
| rowspan="2" |TODT-2706
|1
|'''Toy Girl'''
| 上田真理
| rowspan="2" |上田真理
| rowspan="2" |野口久和
|-
|2
|Toy Girl(カラオケ)
|
|-
! colspan="8" |[[日本クラウン]] / anix
|-
| rowspan="4" |1992年12月16日
| rowspan="4" |CRDP-58
|1
|'''あなただけの景色'''
| rowspan="2" |冨永みーな
| rowspan="2" |竹内大
| 三浦俊一
|-
|2
|何故
| 福岡ユタカ
|-
|3
|肌に感じる季節
| [[三ツ矢雄二]]
| 伊藤隆博
| 西畑勝
|-
|4
|あなただけの景色(カラオケ)
|
| 竹内大
| 三浦俊一
|-
! colspan="8" |[[スターチャイルド]]
|-
| rowspan="4" |1995年8月23日
| rowspan="4" |KIDA-111
|1
|'''[[どうぞこのまま#冨永みーなによるカバー|どうぞこのまま]]'''
| colspan="2" |[[丸山圭子]]
| rowspan="4" |野口久和
|-
|2
|もう一度抱きしめて…
| 冨永みーな
| 野口久和
|-
|3
|どうぞこのまま(OFF VOCAL VERSION)
|
| 丸山圭子
|-
|4
|もう一度抱きしめて…(OFF VOCAL VERSION)
|
| 野口久和
|}
=== アルバム ===
==== オリジナルアルバム ====
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!
! 発売日
! タイトル
! 規格
! [[規格品番]]
|-
! colspan="6" |[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]]
|-
! rowspan="2"|1st
| rowspan="2"|1985年7月21日
| rowspan="2"|'''Mマーブル'''
| [[レコード#LP盤|LP]]
| JBX-25068
|-
| [[コンパクトカセット|CT]]
| VCK-6147
|-
! rowspan="3"|2nd
| rowspan="3"|1986年7月5日
| rowspan="3"|'''a・ha! I'm 20'''
| LP
| JBX-25091
|-
| CT
| VCK-6175
|-
| CD
| VDR-1239
|-
! colspan="6" |[[メルダック]] / animel
|-
! 3rd
| 1991年12月16日
| '''mind'''
| CD
| MECH-30023
|-
! colspan="6" |[[日本クラウン]] / [[PANAM (レコードレーベル)|PANAM]]
|-
! 4th
| 1992年7月23日
| '''VARIOUS'''
| CD
| CRCP-20042
|-
! colspan="6" |[[バップ|Vap]]
|-
! 5th
| 1993年7月1日
| '''ラジオデイズ'''
| CD
| VPCG-84203
|-
! 6th
| 1994年2月1日
| '''ラジオデイズ2'''
| CD
| VPCG-84220
|}
==== ミニアルバム ====
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!
! 発売日
! タイトル
! 規格
! [[規格品番]]
|-
! colspan="6" |[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] / 東芝レコード
|-
! 1st
| 1991年10月30日
| '''休日のカンランシャ'''
| [[コンパクトディスク|CD]]
| TOCT-6322
|}
==== ドラマCD ====
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!
! 発売日
! タイトル
! 規格
! [[規格品番]]
|-
! colspan="6" |[[日本クラウン]] / anix
|-
! 1st
| 1992年12月16日
| '''愛のカレードスコープ'''
| [[コンパクトディスク|CD]]
| CRCP-20053
|}
=== 参加楽曲 ===
{{節スタブ|date=2022年4月}}
{| class="wikitable" style="text-align: center; font-size: small"
! 発売日 !! 商品名 !! 面 !! トラック !! タイトル !! 歌 !! 作詞 !! 作曲 !! 編曲 !! 備考
|-
| rowspan="2"|1976年
| rowspan="2"|サンリオ 歌のギフトゲート
| rowspan="2"|A
| 5
| 「ちょっといい旅」
| rowspan="2"|'''冨永みーな'''
| rowspan="2"|伊藤アキラ
| rowspan="2"|森田公一
| rowspan="2"|小野寺忠和
| rowspan="2"|[[マイメロディ]] イメージソング
|-
| 6
| 「うさぎ耳の少女」
|}
=== タイアップ一覧 ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! 曲名
! タイアップ
! 収録作品
|-
| 不思議なひらめき
| [[OVA|オリジナルビデオ長編アニメーション]]『[[BIRTH (OVA)|バース]]』イメージソング
| シングル「不思議なひらめき」
|-
| [[だいすきシンバ]]
| [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系TVアニメーション『[[魔法の妖精ペルシャ]]』エンディングテーマ
| シングル「[[おしゃれめさるな/だいすきシンバ]]」
|-
| ストップ! うそつき少年
| [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系TVアニメーション『[[魔法のアイドルパステルユーミ]]』挿入歌
| シングル「ストップ! うそつき少年」
|-
| Toy Girl
| [[月刊コミックドラゴン|角川ドラゴンコミックス]]刊『浪漫境伝説ロマンシア』より
| シングル「Toy Girl」
|-
| 肌に感じる季節
| 『愛のカレイドスコープ』テーマ曲
| シングル「あなただけの景色」
|}
== 執筆 ==
=== 連載コラム ===
* アニメ系月刊誌『[[月刊OUT]]』にてコラム『みんなどう思う?みーな、こう思う』を連載した。1993年8月号から開始、1995年5月号で同誌が休刊となってからは、『[[Magazine MEGU]]』にて『お願いしますよ』と改題して続けた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[矢尾一樹]] - 元夫。
* [[笠原弘子]] - コンサートのプロデュースなどに関わっている。
== 外部リンク ==
* {{Ameba ブログ|tominaga-miina|声のシゴトしています。}}
* {{Official|1=https://haikyo.co.jp/profile/profile.php?ActorID=12714|name=冨永みーな|俳協}}
* {{Twitter|tominagamiina}}
* {{Allcinema name|id=119835|name=冨永みーな}}
{{東京俳優生活協同組合}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:とみなか みいな}}
[[Category:日本の女優]]
[[Category:日本の舞台女優]]
[[Category:日本の女性声優]]
[[Category:日本の女性歌手]]
[[Category:日本のナレーター]]
[[Category:日本のラジオパーソナリティ]]
[[Category:日本の子役]]
[[Category:ものまねタレント]]
[[Category:東京俳優生活協同組合]]
[[Category:広島市出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1966年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-03-08T10:44:40Z | 2023-12-30T18:05:12Z | false | false | false | [
"Template:節スタブ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Cite news",
"Template:Official",
"Template:Allcinema name",
"Template:定義リスト2",
"Template:Cite book",
"Template:Cite journal",
"Template:Ameba ブログ",
"Template:声優",
"Template:R",
"Template:東京俳優生活協同組合",
"Template:Normdaten",
"Template:仮リンク",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:ISBN2",
"Template:Twitter status2",
"Template:Twitter"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A8%E6%B0%B8%E3%81%BF%E3%83%BC%E3%81%AA |
3,670 | 森功至 |
森 功至(もり かつじ、本名同じ(旧芸名:森 深雪〈もり みゆき〉)、1945年7月10日 - )は、日本の声優、俳優、ナレーター。中華民国浙江省(現:中華人民共和国浙江省)生まれ、東京都中央区日本橋、文京区大塚仲町(現:東京都文京区大塚)出身。プラスワンカンパニー所属。
日本大学豊山高等学校中退。
かつては、俳協、劇団河、青二プロダクション、自らが代表を務めていたオフィスもりに所属していた。
中華民国浙江省(現:中華人民共和国浙江省)で生まれ、終戦の1ヵ月ほど前に父の腕に抱かれて、母に背負われて中国大陸を南、東に移動し、海に渡る。終戦後の2歳くらいの時に親に連れられて故郷の東京都に戻り、東京都中央区日本橋のビルの谷間に建てられていたわずか一間の掘っ建て小屋に住む。父は建築関係の仕事を見つけて懸命に就職し、その後一家は東京都文京区大塚仲町(現:東京都文京区大塚)に焼け残っていた土蔵を買い取って転居。
10歳の時にラジオドラマ『少年猿飛佐助』の主役の一般公募に親が応募するが、面接通知が届いたのが面接翌日で、ひどく落胆した。それを見た親に連れられて児童劇団の入団試験を受け、児童劇団こじかに所属。子役として活動した。劇団入団後の初仕事はラジオドラマ『宇宙人類ノバ』の主役。3年後、俳協の前身である太平洋テレビジョンに移る。最初のアテレコは『ビーバーちゃん(英語版)』のウォーリー役。15-6歳のころにNHKの時代劇『黒百合城の兄弟』に少年剣士役でレギュラー出演から俳優活動を始めるが、大人に言われるがままスタジオに行って演技の繰り返しから「この世界にいてもいいんだろうか」と不安になり、壁にぶち当たったりした。それが原因で、何回か役者を辞めた時期があり、俳協でデスクやマネージャー、『科学忍者隊ガッチャマン』放送終了後の1975年に30歳の時に金融会社のサラリーマンをやっていた経験がある。
顔出しの仕事も並行しながら『マッハGoGoGo』で主人公・三船剛を演じる。共演した大宮悌二、富山敬、愛川欽也らに影響を受け、「声の仕事を優先的にやりたい」と思い、富山が所属していて愛川が移籍したこともあって所属事務所を河の会に移す。
1970年 - 80年代のヒーローものに多数出演している。
元々は、当時の本名である田中深雪(たなか みゆき)で活動していたが、女性に間違えられることがあったため、田中雪弥(たなか せつや)の芸名を用いた。10代のときに軽自動車で交通違反をした際に、警察から本籍地に自身の本名である田中深雪の名前がないと連絡があって調べたところ、両親が籍を入れておらず戸籍上の姓が母方の姓である「森」であることが分かる。その後本名である森深雪(もり みゆき)で活動しようとしたが、森深雪という名が「森の中で深い雪に閉ざされ、一生陽の目を見ない名前」と姓名判断で言われたため、森功至(もり かつじ)の芸名を用いるようになり、その後裁判所で本名も森功至に改名した。
40歳を過ぎてナレーターとしての活動も開始。どうやって自分を生かしていけばいいんだろうかと考えていたが、企業プロモーションビデオのナレーションから、当時ワイドショーなどが放映され始めた時期で、生ナレーションをやらせてもらうようになった。初めて生ナレーションしたときには強いプレッシャーを感じ、全身の筋肉が硬直して原稿を持つ手が震えからペーパーノイズがマイクに乗るんじゃないかと思うような状態で、何を読んだのかまったく記憶に無いという。
2013年の第7回声優アワードで、タツノコプロ50周年としてシナジー賞を受賞。
50歳後半になって、所属していた青二プロダクションを退所し自らが代表を務めるオフィスもりを設立。オフィスもりの声優研究所であるVoice-1 アカデミーで講師を務め、後進の指導にあたっていたが、オフィスもりは2018年6月27日に東京地方裁判所から破産手続開始決定を受けた。
声種はテノール。
アニメ黎明期よりヒーローを演じ、活躍している。若い頃は『マッハGoGoGo』の三船剛、『サイボーグ009』の009/島村ジョー、『科学忍者隊ガッチャマン』の大鷲の健、『宇宙の騎士テッカマン』の南城二、『柔道讃歌』の巴突進太といったヒーロー役が多かったが、『アタックNo.1』の湯島二郎、『キューティーハニー』の早見青児、『エースをねらえ!』の藤堂貴之、『機動戦士ガンダム』のガルマ・ザビ、『J9シリーズ』、『美少女戦士セーラームーン』のネフライト、『銀河英雄伝説』のウォルフガング・ミッターマイヤー、『イウォーク物語』のゴルニーシュの部下など、問わず優しい美形キャラを担当することが多い。2008年放送の『RD 潜脳調査室』では、60代にして主人公・波留真理役に登板。同キャラクターの老年期のみならず青年期も演じた。2013年の『THE UNLIMITED 兵部京介』においても、同様に早乙女英治の青年期と老年期を演じている。
『マッハGoGoGo』出演当時、軽自動車免許が16歳で取得可能だったため、免許取得当日に購入した軽自動車をディーラーから受け取り、そのまま東京まで仕事に行ったことがある。
趣味は旅行、パソコン。特技はギター。1985年には未だ黎明期で非常にマイナーな時期のパソコン通信「アスキーネットacs実験システム」に「Makonosuke」のハンドル名で参加。ネットワーク活動を開始している。この彼の進取性は特筆に値する。やや遅れて参加した古谷徹が当初からカリスマ的存在だったのに対し、彼はその気取らない親しみのあるキャラクターで「気さくなオヤジ」的存在として、参加者の大きなウエイトを占める技術集団からの信望も厚かった。
森が『美少女戦士セーラームーン』で演じたネフライトは敵役ではあるが、物語の中で月野うさぎの親友・大阪なるとの間に恋が芽生えるというアニメオリジナルのストーリーが展開される。しかし、ネフライトはアニメの第24話で、ゾイサイトの配下の攻撃からなるを庇ったために致命傷を負い、なるに嘘をつき続けたことを詫びながら絶命してしまう(原作のネフライトはセーラージュピターに倒されている)。このシーンでは、なるを演じた柿沼紫乃が役に入り込みすぎたために号泣してしまい、何度もNGを出してしまうという出来事があった。柿沼は後に「森さんとスタッフの方々に大変迷惑をかけてしまった」と語ったが、森はこの一件に対して、「役者冥利に尽きる感じです」と高く評価している。
2008年4月6日放送の『大胆MAP』(顔を見てみたいアニメキャラクター30人全部見せちゃうよ! 春の撮れたて新作SP)に『機動戦士ガンダム』のガルマ・ザビ役、『科学忍者隊ガッチャマン』の大鷲の健役として紹介されたが、調査員の品川祐の「カメラの前で顔出しをして欲しい」との交渉に対して森本人が顔を出すことに難色を示し、横顔を出した状態で顔出しを行った。同日に更新された 「旧もりもり日記」 によると、「一家団欒の中で見るテレビではあのアニメの役をやっている森功至は出るべきではない。それが私の考え方であり拘りなのである」と述べていることから、森本人の「(テレビに顔を出すことによって)子供の夢を壊したくない」という考え方が垣間見える。
ただし、ナレーターを務めていた『マジカル頭脳パワー!!』で顔出しをしたことがあった。1999年4月22日に放送されたコーナー「いじわる実験室」において「私は赤い眼鏡と黄色い眼鏡と青い眼鏡をしています。さて私は誰でしょう?」という問題が出題された。「信号機」と言いそうな問題だが実際の答えは赤・黄・青の眼鏡をかけた森本人であり、ほとんどの回答者が誤答を連発しなかなか正解が出ないため森が説明した。また1999年9月16日に放送された最終回にも、総合演出の五味一男と談笑しているシーンが一瞬ながら公開された。2001年12月29日に放送された復活スペシャルの1週間前の12月22日に放送された『スーパースペシャル2001・総制作費30億!!日テレ年末年始スペシャルのオイシイ所ジョージが全て見せますペシャル』でも所ジョージ打倒の鉢巻きをしながら問題を出題している様子が流された。
2011年1月11日放送のフジテレビ『FNNスーパーニュース』やテレビ朝日『スーパーJチャンネル』などのニュース番組で、「全国の児童養護施設等に“伊達直人”名義でランドセルや現金等の寄付が送られているニュース」に関連し、「伊達直人の声を担当した事もある声優」との紹介でインタビュー形式で顔出しでコメントをしている姿が放映された。また、1月13日のフジテレビ『とくダネ!』にはスタジオに生出演。各地の寄付品に添えられていた「伊達直人からの手紙」の一部を朗読した。この騒動で、本来の担当声優である富山敬が既に故人で代役を担当した自分にコメントを求める取材が集中したことに対して恐縮し困惑したとの心境がブログで語られた。悩みに悩んだ結果、取材を受けたが、東京キー局すべてから取材を受けたことに対して「思ってもみなかったこと」との感想や、改めて「声のドリームセーラーマンだから今後もバラエティ番組に顔出ししないつもり」との心境を語った。
太字はメインキャラクター。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "森 功至(もり かつじ、本名同じ(旧芸名:森 深雪〈もり みゆき〉)、1945年7月10日 - )は、日本の声優、俳優、ナレーター。中華民国浙江省(現:中華人民共和国浙江省)生まれ、東京都中央区日本橋、文京区大塚仲町(現:東京都文京区大塚)出身。プラスワンカンパニー所属。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "日本大学豊山高等学校中退。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "かつては、俳協、劇団河、青二プロダクション、自らが代表を務めていたオフィスもりに所属していた。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "中華民国浙江省(現:中華人民共和国浙江省)で生まれ、終戦の1ヵ月ほど前に父の腕に抱かれて、母に背負われて中国大陸を南、東に移動し、海に渡る。終戦後の2歳くらいの時に親に連れられて故郷の東京都に戻り、東京都中央区日本橋のビルの谷間に建てられていたわずか一間の掘っ建て小屋に住む。父は建築関係の仕事を見つけて懸命に就職し、その後一家は東京都文京区大塚仲町(現:東京都文京区大塚)に焼け残っていた土蔵を買い取って転居。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "10歳の時にラジオドラマ『少年猿飛佐助』の主役の一般公募に親が応募するが、面接通知が届いたのが面接翌日で、ひどく落胆した。それを見た親に連れられて児童劇団の入団試験を受け、児童劇団こじかに所属。子役として活動した。劇団入団後の初仕事はラジオドラマ『宇宙人類ノバ』の主役。3年後、俳協の前身である太平洋テレビジョンに移る。最初のアテレコは『ビーバーちゃん(英語版)』のウォーリー役。15-6歳のころにNHKの時代劇『黒百合城の兄弟』に少年剣士役でレギュラー出演から俳優活動を始めるが、大人に言われるがままスタジオに行って演技の繰り返しから「この世界にいてもいいんだろうか」と不安になり、壁にぶち当たったりした。それが原因で、何回か役者を辞めた時期があり、俳協でデスクやマネージャー、『科学忍者隊ガッチャマン』放送終了後の1975年に30歳の時に金融会社のサラリーマンをやっていた経験がある。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "顔出しの仕事も並行しながら『マッハGoGoGo』で主人公・三船剛を演じる。共演した大宮悌二、富山敬、愛川欽也らに影響を受け、「声の仕事を優先的にやりたい」と思い、富山が所属していて愛川が移籍したこともあって所属事務所を河の会に移す。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "1970年 - 80年代のヒーローものに多数出演している。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "元々は、当時の本名である田中深雪(たなか みゆき)で活動していたが、女性に間違えられることがあったため、田中雪弥(たなか せつや)の芸名を用いた。10代のときに軽自動車で交通違反をした際に、警察から本籍地に自身の本名である田中深雪の名前がないと連絡があって調べたところ、両親が籍を入れておらず戸籍上の姓が母方の姓である「森」であることが分かる。その後本名である森深雪(もり みゆき)で活動しようとしたが、森深雪という名が「森の中で深い雪に閉ざされ、一生陽の目を見ない名前」と姓名判断で言われたため、森功至(もり かつじ)の芸名を用いるようになり、その後裁判所で本名も森功至に改名した。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "40歳を過ぎてナレーターとしての活動も開始。どうやって自分を生かしていけばいいんだろうかと考えていたが、企業プロモーションビデオのナレーションから、当時ワイドショーなどが放映され始めた時期で、生ナレーションをやらせてもらうようになった。初めて生ナレーションしたときには強いプレッシャーを感じ、全身の筋肉が硬直して原稿を持つ手が震えからペーパーノイズがマイクに乗るんじゃないかと思うような状態で、何を読んだのかまったく記憶に無いという。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "2013年の第7回声優アワードで、タツノコプロ50周年としてシナジー賞を受賞。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "50歳後半になって、所属していた青二プロダクションを退所し自らが代表を務めるオフィスもりを設立。オフィスもりの声優研究所であるVoice-1 アカデミーで講師を務め、後進の指導にあたっていたが、オフィスもりは2018年6月27日に東京地方裁判所から破産手続開始決定を受けた。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "声種はテノール。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "アニメ黎明期よりヒーローを演じ、活躍している。若い頃は『マッハGoGoGo』の三船剛、『サイボーグ009』の009/島村ジョー、『科学忍者隊ガッチャマン』の大鷲の健、『宇宙の騎士テッカマン』の南城二、『柔道讃歌』の巴突進太といったヒーロー役が多かったが、『アタックNo.1』の湯島二郎、『キューティーハニー』の早見青児、『エースをねらえ!』の藤堂貴之、『機動戦士ガンダム』のガルマ・ザビ、『J9シリーズ』、『美少女戦士セーラームーン』のネフライト、『銀河英雄伝説』のウォルフガング・ミッターマイヤー、『イウォーク物語』のゴルニーシュの部下など、問わず優しい美形キャラを担当することが多い。2008年放送の『RD 潜脳調査室』では、60代にして主人公・波留真理役に登板。同キャラクターの老年期のみならず青年期も演じた。2013年の『THE UNLIMITED 兵部京介』においても、同様に早乙女英治の青年期と老年期を演じている。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "『マッハGoGoGo』出演当時、軽自動車免許が16歳で取得可能だったため、免許取得当日に購入した軽自動車をディーラーから受け取り、そのまま東京まで仕事に行ったことがある。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "趣味は旅行、パソコン。特技はギター。1985年には未だ黎明期で非常にマイナーな時期のパソコン通信「アスキーネットacs実験システム」に「Makonosuke」のハンドル名で参加。ネットワーク活動を開始している。この彼の進取性は特筆に値する。やや遅れて参加した古谷徹が当初からカリスマ的存在だったのに対し、彼はその気取らない親しみのあるキャラクターで「気さくなオヤジ」的存在として、参加者の大きなウエイトを占める技術集団からの信望も厚かった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "森が『美少女戦士セーラームーン』で演じたネフライトは敵役ではあるが、物語の中で月野うさぎの親友・大阪なるとの間に恋が芽生えるというアニメオリジナルのストーリーが展開される。しかし、ネフライトはアニメの第24話で、ゾイサイトの配下の攻撃からなるを庇ったために致命傷を負い、なるに嘘をつき続けたことを詫びながら絶命してしまう(原作のネフライトはセーラージュピターに倒されている)。このシーンでは、なるを演じた柿沼紫乃が役に入り込みすぎたために号泣してしまい、何度もNGを出してしまうという出来事があった。柿沼は後に「森さんとスタッフの方々に大変迷惑をかけてしまった」と語ったが、森はこの一件に対して、「役者冥利に尽きる感じです」と高く評価している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2008年4月6日放送の『大胆MAP』(顔を見てみたいアニメキャラクター30人全部見せちゃうよ! 春の撮れたて新作SP)に『機動戦士ガンダム』のガルマ・ザビ役、『科学忍者隊ガッチャマン』の大鷲の健役として紹介されたが、調査員の品川祐の「カメラの前で顔出しをして欲しい」との交渉に対して森本人が顔を出すことに難色を示し、横顔を出した状態で顔出しを行った。同日に更新された 「旧もりもり日記」 によると、「一家団欒の中で見るテレビではあのアニメの役をやっている森功至は出るべきではない。それが私の考え方であり拘りなのである」と述べていることから、森本人の「(テレビに顔を出すことによって)子供の夢を壊したくない」という考え方が垣間見える。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "ただし、ナレーターを務めていた『マジカル頭脳パワー!!』で顔出しをしたことがあった。1999年4月22日に放送されたコーナー「いじわる実験室」において「私は赤い眼鏡と黄色い眼鏡と青い眼鏡をしています。さて私は誰でしょう?」という問題が出題された。「信号機」と言いそうな問題だが実際の答えは赤・黄・青の眼鏡をかけた森本人であり、ほとんどの回答者が誤答を連発しなかなか正解が出ないため森が説明した。また1999年9月16日に放送された最終回にも、総合演出の五味一男と談笑しているシーンが一瞬ながら公開された。2001年12月29日に放送された復活スペシャルの1週間前の12月22日に放送された『スーパースペシャル2001・総制作費30億!!日テレ年末年始スペシャルのオイシイ所ジョージが全て見せますペシャル』でも所ジョージ打倒の鉢巻きをしながら問題を出題している様子が流された。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "2011年1月11日放送のフジテレビ『FNNスーパーニュース』やテレビ朝日『スーパーJチャンネル』などのニュース番組で、「全国の児童養護施設等に“伊達直人”名義でランドセルや現金等の寄付が送られているニュース」に関連し、「伊達直人の声を担当した事もある声優」との紹介でインタビュー形式で顔出しでコメントをしている姿が放映された。また、1月13日のフジテレビ『とくダネ!』にはスタジオに生出演。各地の寄付品に添えられていた「伊達直人からの手紙」の一部を朗読した。この騒動で、本来の担当声優である富山敬が既に故人で代役を担当した自分にコメントを求める取材が集中したことに対して恐縮し困惑したとの心境がブログで語られた。悩みに悩んだ結果、取材を受けたが、東京キー局すべてから取材を受けたことに対して「思ってもみなかったこと」との感想や、改めて「声のドリームセーラーマンだから今後もバラエティ番組に顔出ししないつもり」との心境を語った。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "太字はメインキャラクター。",
"title": "出演"
}
] | 森 功至は、日本の声優、俳優、ナレーター。中華民国浙江省生まれ、東京都中央区日本橋、文京区大塚仲町出身。プラスワンカンパニー所属。 | {{半保護}}
{{Otheruses||ラグビー選手|森功至 (ラグビー選手)}}
{{声優
| 名前 = 森 功至
| ふりがな = もり かつじ
| 画像ファイル =
| 画像サイズ =
| 画像コメント =
| 本名 = 同じ{{R|声優事典 第二版}}(旧[[芸名]]:森 深雪〈もり みゆき〉)<ref name="seiyu">{{Cite book|和書 |author= |chapter=森 功至 |year=1994-01-06 |title=みんな声優になりたかった 神谷明と25人の声優たち |page=155-165 |publisher=オプトコミュニケーションズ |isbn = 4-07-214333-2}}</ref>
| 愛称 =
| 性別 = [[男性]]
| 出生地 = {{CHN1928-1949}}・[[浙江省 (中華民国)|浙江省]](現:{{PRC}}・[[浙江省]])<ref name="昭和声優列伝">{{Cite book|和書|author=勝田久|authorlink=勝田久|title=昭和声優列伝 テレビ草創期を声でささえた名優たち|chapter= file No.6 森功至|pages=142-148|publisher=[[駒草出版]]|isbn=978-4-905447-77-1|date= 2017-02-22}}</ref><ref name="anime24">{{Cite book|和書 |author=[[アニメージュ]]編集部 |chapter=森功至 一瞬に賭ける二枚目のニヒリズム|date=1981-07-31 |pages=55-60 |publisher=[[徳間書店]] |title=アニメ声優24時}}</ref>
| 出身地 = {{JPN}}・[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]、[[文京区]]大塚仲町(現:東京都文京区[[大塚 (文京区)|大塚]]){{R|昭和声優列伝}}
| 死没地 =
| 生年 = 1945
| 生月 = 7
| 生日 = 10
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 血液型 = [[ABO式血液型|B型]]<ref name="プラスワンカンパニー">{{Cite web|和書|url=http://plusone-company.co.jp/talent/mori-katsuji.html|title=森 功至|publisher=プラスワンカンパニー|accessdate=2019-09-20}}</ref>
| 身長 =
| 職業 = [[声優]]、[[俳優]]、[[ナレーター]]<ref name="twitter">{{Cite web|url=https://twitter.com/katsuji_mori|title=森 功至@katsuji_mori|accessdate=2019-09-26}}</ref>
| 事務所 = プラスワンカンパニー{{R|プラスワンカンパニー}}
| 配偶者 =
| 著名な家族 =
| 公式サイト = [http://plusone-company.co.jp/talent/mori-katsuji.html 森 功至|プラスワンカンパニー]
| 公称サイズ出典 = {{Cite book|和書|year=2002|title=[[日本タレント名鑑]]2002|page=430|publisher=VIPタイムズ社|isbn=4-9901242-0-0}}
| ref2name = talent
| 身長2 = 175{{R|プラスワンカンパニー}}
| 体重 = 65
| 活動期間 = [[1950年代]] -
| デビュー作 =
}}
'''森 功至'''(もり かつじ、本名同じ{{R|声優事典 第二版}}(旧[[芸名]]:森 深雪〈もり みゆき〉<ref name="seiyu" />)、[[1945年]][[7月10日]]{{R|昭和声優列伝}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://linkvod.myjcom.jp/artist/172194|title= 森功至|publisher=J:COMオンデマンド |accessdate=2023-11-02}}</ref> - )は、[[日本]]の[[声優]]、[[俳優]]、[[ナレーター]]{{R|twitter}}。[[中華民国]][[浙江省 (中華民国)|浙江省]](現:[[中華人民共和国]][[浙江省]])生まれ{{R|anime24}}、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]、[[文京区]]大塚仲町(現:東京都文京区[[大塚 (文京区)|大塚]])出身{{R|昭和声優列伝}}。プラスワンカンパニー所属{{R|プラスワンカンパニー}}。
== 略歴 ==
[[日本大学豊山中学校・高等学校|日本大学豊山高等学校]]{{R|talent}}中退<ref name="seiyu" />{{R|昭和声優列伝}}。
かつては、[[東京俳優生活協同組合|俳協]]、[[劇団河]]、[[青二プロダクション]]<ref name="seigura2">{{Cite web|和書|publisher=声優グランプリweb|url=http://seigura.com/senior/road/20131118_85/2.html|title=先輩から学ぼう!森功至の声優道 2|accessdate=2014-05-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140529052717/http://seigura.com/senior/road/20131118_85/2.html|archivedate=2013-05-23}}</ref>、自らが代表を務めていた[[オフィスもり]]<ref name="tsr">{{Cite web|和書|publisher=東京商工リサーチ|url=http://www.tsr-net.co.jp/news/tsr/20180704_.01html/|title=TSR速報 (有)オフィスもり|accessdate=2018-07-04}}</ref>に所属していた。
=== 生い立ち ===
[[中華民国]][[浙江省 (中華民国)|浙江省]](現:[[中華人民共和国]][[浙江省]])で生まれ{{R|anime24}}、終戦の1ヵ月ほど前に父の腕に抱かれて、母に背負われて[[中国大陸]]を南、東に移動し、海に渡る{{R|昭和声優列伝}}。終戦後の2歳くらいの時に親に連れられて故郷の[[東京都]]に戻り<ref>{{Twitter status2|katsuji_mori|1291230290191376385|2020年8月6日|accessdate=2022-12-15}}</ref>、東京都[[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]のビルの谷間に建てられていたわずか一間の掘っ建て小屋に住む{{R|昭和声優列伝}}。父は建築関係の仕事を見つけて懸命に就職し、その後一家は東京都[[文京区]]大塚仲町(現:東京都文京区[[大塚 (文京区)|大塚]])に焼け残っていた土蔵を買い取って転居{{R|昭和声優列伝}}。
=== キャリア ===
10歳の時に[[ラジオドラマ]]『少年猿飛佐助』の主役の一般公募に親が応募するが、面接通知が届いたのが面接翌日で、ひどく落胆した<ref name="seigura1">{{Cite web|和書|publisher=声優グランプリweb|url=http://seigura.com/senior/road/20131118_85/1.html|title=先輩から学ぼう!森功至の声優道 1|accessdate=2014-05-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140306145130/http://seigura.com/senior/road/20131118_85/1.html|archivedate=2014-03-06}}</ref>。それを見た親に連れられて児童劇団の入団試験を受け、児童劇団[[こじか]]<ref name="seiyu" />に所属<ref name="seigura1" />。[[子役]]として活動した<ref name="seigura1" />。劇団入団後の初仕事はラジオドラマ『宇宙人類ノバ』の主役<ref name="seiyu" /><ref>{{Twitter status2|katsuji_mori|1399358088893767683|2021年5月31日|accessdate=2022-12-15}}</ref>。3年後、俳協の前身である太平洋テレビジョンに移る<ref name="seigura1" />。最初のアテレコは『{{仮リンク|ビーバーちゃん|en| Leave It to Beaver}}』のウォーリー役<ref name="seiyu" />{{R|昭和声優列伝|anime24}}。15-6歳のころにNHKの時代劇『黒百合城の兄弟』に少年剣士役でレギュラー出演から俳優活動を始めるが、大人に言われるがままスタジオに行って演技の繰り返しから「この世界にいてもいいんだろうか」と不安になり、壁にぶち当たったりした{{R|昭和声優列伝}}<ref name="seigura1" />。それが原因で、何回か役者を辞めた時期があり、俳協でデスクや[[マネージャー]]{{refnest|group="注"|しかし『ビーバーちゃん』が再開されることになり、今度は放送局が[[TBSテレビ|TBS]]で局が変わればキャスティングも変わるというのが常識で「ンじゃ、もう一回やってみるか」、「“ビーバーちゃん”を他人に渡せるか!」とTBSに駆け付けたところ、「せめてオーディションだけでも」と頼みこんだ{{R|昭和声優列伝|anime24}}。その後、主役に決定し、その時に好意を寄せてくれていた女優と結婚したという{{R|昭和声優列伝}}。}}、『[[科学忍者隊ガッチャマン]]』放送終了後の[[1975年]]に30歳の時に金融会社のサラリーマン{{refnest|group="注"|勤めていた会社は[[ロッキード事件]]のあおりで倒産{{R|昭和声優列伝|anime24}}。たった三カ月で役者に逆戻りしたという{{R|昭和声優列伝|anime24}}。}}をやっていた経験がある<ref name="seigura1" />。
顔出しの仕事も並行しながら『[[マッハGoGoGo]]』で[[主人公]]・三船剛を演じる。共演した[[大宮悌二]]、[[富山敬]]、[[愛川欽也]]らに影響を受け、「声の仕事を優先的にやりたい」と思い、富山が所属していて愛川が移籍したこともあって所属事務所を[[劇団河|河の会]]に移す<ref name="seigura2" /><ref>{{Cite web|和書|publisher=マイナビニュース|url=https://news.mynavi.jp/article/20070811-mori/3|title=『マッハGoGoGo』放送開始40周年記念企画 - 主人公・三船剛を演じた声優の森功至氏 (3) 先輩たちが僕の人生に大きな影響を与えてくれた|accessdate=2014-05-28}}</ref>。
1970年 - 80年代のヒーローものに多数出演している。
元々は、当時の本名である田中深雪(たなか みゆき)で活動していたが、女性に間違えられることがあったため、田中雪弥(たなか せつや)の芸名を用いた。10代のときに軽自動車で交通違反をした際に、警察から本籍地に自身の本名である田中深雪の名前がないと連絡があって調べたところ、両親が籍を入れておらず戸籍上の姓が母方の姓である「森」であることが分かる。その後本名である森深雪(もり みゆき)で活動しようとしたが、森深雪という名が「森の中で深い雪に閉ざされ、一生陽の目を見ない名前」と[[姓名判断]]で言われたため、森功至(もり かつじ)の芸名を用いるようになり、その後裁判所で本名も森功至に改名した<ref name="seiyu" /><ref>{{Cite book|title=科学忍者隊ガッチャマンII サウンドトラック インタビューより|date=2007/04/04|year=|publisher=A音クラブ}}</ref>。
40歳を過ぎてナレーターとしての活動も開始。どうやって自分を生かしていけばいいんだろうかと考えていたが、企業プロモーションビデオの[[ナレーション]]から、当時[[ワイドショー]]などが放映され始めた時期で、生ナレーションをやらせてもらうようになった。初めて生ナレーションしたときには強いプレッシャーを感じ、全身の筋肉が硬直して原稿を持つ手が震えからペーパーノイズがマイクに乗るんじゃないかと思うような状態で、何を読んだのかまったく記憶に無いという<ref>{{Cite web|和書|publisher=声優グランプリweb|url=http://seigura.com/senior/road/20131118_85/3.html|title=先輩から学ぼう!森功至の声優道 3|accessdate=2014-05-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140529052453/http://seigura.com/senior/road/20131118_85/3.html|archivedate=2014-05-23}}</ref>。
=== 現在まで ===
[[2013年]]の第7回[[声優アワード]]で、[[タツノコプロ]]50周年としてシナジー賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|publisher=声優アワード|url=https://www.seiyuawards.jp/winning/winning_07/index.php|title=第七回声優アワード受賞者一覧|accessdate=2014-05-29}}</ref>。
50歳後半になって、所属していた青二プロダクションを退所し自らが代表を務める[[オフィスもり]]を設立<ref name="seigura2" />。オフィスもりの声優研究所であるVoice-1 アカデミーで講師を務め、後進の指導にあたっていたが<ref>{{Cite web|publisher=オフィスもり 声優研究所 Voice-1 アカデミー|url=http://www.office-mori.co.jp/academy/teacher.html|title=講師紹介|accessdate=2014-05-28}}</ref>、オフィスもりは2018年6月27日に[[東京地方裁判所]]から破産手続開始決定を受けた<ref name="tsr" />。
== 特色 ==
{{独自研究|section=1|date=2020年5月}}
[[音域#人声の音域|声種]]は[[テノール]]<ref>{{Cite book |和書 |title=日本音声製作者名鑑2007 |publisher=[[小学館]] |page=108|date=2007-03-25 |isbn=978-4-09-526302-1}}</ref>。
アニメ黎明期よりヒーローを演じ、活躍している<ref>{{Cite book |和書 |author=小川びい |title=こだわり声優事典'97 |publisher=[[徳間書店]] |series=ロマンアルバム |page= 141|date=1997-03-10 |isbn=4-19-720012-9}}</ref>。若い頃は『[[マッハGoGoGo]]』の三船剛、『[[サイボーグ009 (アニメ)#1966年 - 1968年|サイボーグ009]]』の009/島村ジョー、『[[科学忍者隊ガッチャマン]]』の大鷲の健、『[[宇宙の騎士テッカマン]]』の南城二、『[[柔道讃歌]]』の巴突進太といったヒーロー役が多かったが、『[[アタックNo.1]]』の湯島二郎、『[[キューティーハニー]]』の早見青児、『[[エースをねらえ!]]』の藤堂貴之、『[[機動戦士ガンダム]]』の[[ザビ家#ガルマ・ザビ|ガルマ・ザビ]]、『[[J9シリーズ]]』、『[[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーン]]』の[[ダーク・キングダム#ネフライト|ネフライト]]、『[[銀河英雄伝説 (アニメ)|銀河英雄伝説]]』の[[ウォルフガング・ミッターマイヤー]]、『[[イウォーク物語]]』のゴルニーシュの部下など、問わず優しい美形キャラを担当することが多い。2008年放送の『[[RD 潜脳調査室]]』では、60代にして主人公・波留真理役に登板。同キャラクターの老年期のみならず青年期も演じた。2013年の『[[THE UNLIMITED 兵部京介]]』においても、同様に早乙女英治の青年期と老年期を演じている。
== 人物 ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2011年5月}}
『[[マッハGoGoGo]]』出演当時、軽自動車免許が16歳で取得可能だったため{{#tag:ref|なお軽自動車免許は1968年9月1日に普通自動車免許に統合され、現在は廃止されている。|group="注"}}、免許取得当日に購入した軽自動車をディーラーから受け取り、そのまま東京まで仕事に行ったことがある<ref>{{Cite web|和書|publisher=マイナビニュース|url=https://news.mynavi.jp/article/20070811-mori/2|title=『マッハGoGoGo』放送開始40周年記念企画 - 主人公・三船剛を演じた声優の森功至氏 (2) 役作りは画を見ながら変えていく|accessdate=2014-05-28}}</ref>。
趣味は旅行、パソコン{{R|プラスワンカンパニー}}。特技はギター{{R|talent}}。1985年には未だ黎明期で非常にマイナーな時期のパソコン通信「アスキーネットacs実験システム」に「Makonosuke」のハンドル名で参加<ref>{{Cite web|和書|publisher=エキサイトニュース|url=http://www.excite.co.jp/News/game/20110718/Terrafor_news_fHlCkE9Cx8.html|title=【アニメ】「RD 潜脳調査室」一挙放映決定!(日刊テラフォー) |accessdate=2014-05-28}}</ref>。ネットワーク活動を開始している。この彼の進取性は特筆に値する。やや遅れて参加した[[古谷徹]]{{#tag:ref|ハンドル名は『[[聖闘士星矢]]』の主人公・[[天馬星座の星矢|ペガサス星矢]]に因んで「PEGASUS」。|group="注"}}が当初からカリスマ的存在だったのに対し、彼はその気取らない親しみのあるキャラクターで「気さくなオヤジ」的存在として、参加者の大きなウエイトを占める技術集団からの信望も厚かった。
森が『美少女戦士セーラームーン』で演じたネフライトは敵役ではあるが、物語の中で[[月野うさぎ]]の親友・大阪なるとの間に恋が芽生えるというアニメオリジナルのストーリーが展開される。しかし、ネフライトはアニメの第24話で、ゾイサイトの配下の攻撃からなるを庇ったために致命傷を負い、なるに嘘をつき続けたことを詫びながら絶命してしまう(原作のネフライトは[[木野まこと|セーラージュピター]]に倒されている)。このシーンでは、なるを演じた[[柿沼紫乃]]が役に入り込みすぎたために号泣してしまい、何度もNGを出してしまうという出来事があった。柿沼は後に「森さんとスタッフの方々に大変迷惑をかけてしまった」と語ったが、森はこの一件に対して、「役者冥利に尽きる感じです」と高く評価している。
[[2008年]][[4月6日]]放送の『[[大胆MAP]]』(顔を見てみたいアニメキャラクター30人全部見せちゃうよ! 春の撮れたて新作SP)に『[[機動戦士ガンダム]]』の[[ザビ家|ガルマ・ザビ]]役、『[[科学忍者隊ガッチャマン]]』の大鷲の健役として紹介されたが、調査員の[[品川祐]]の「カメラの前で顔出しをして欲しい」との交渉に対して森本人が顔を出すことに難色を示し、横顔を出した状態で顔出しを行った。同日に更新された [http://www.office-mori.co.jp/sunclip/page1.html 「旧もりもり日記」] によると、「一家団欒の中で見るテレビではあのアニメの役をやっている森功至は出るべきではない。それが私の考え方であり拘りなのである」と述べていることから、森本人の「(テレビに顔を出すことによって)子供の夢を壊したくない」という考え方が垣間見える{{#tag:ref|他に日記では「ナレーションとしての括りでこんな顔でも良ければ顔を出す(自分自身だから)」「アニメキャラであっても雑誌媒体なら顔を出す(その情報を知りたくてお金を払って買っているから)」「深夜放送ならアニメ宣伝でも顔を出す(子供が眠っている時間帯だから)」と綴られていた。|group="注"|name="JR-West"}}。
ただし、ナレーターを務めていた『[[マジカル頭脳パワー!!]]』で顔出しをしたことがあった<ref group="注" name="JR-West"/>。[[1999年]][[4月22日]]に放送されたコーナー「いじわる実験室」において「私は赤い眼鏡と黄色い眼鏡と青い眼鏡をしています。さて私は誰でしょう?」という問題が出題された。「[[交通信号機|信号機]]」と言いそうな問題だが実際の答えは赤・黄・青の眼鏡をかけた森本人であり{{#tag:ref|収録スタジオである[[日本テレビ放送網麹町分室|日本テレビ麹町Gスタジオ(現:日本テレビ麹町分室Gスタジオ)]]内で、実際に回答者から見える位置からナレーションしていた。|group="注"}}、ほとんどの回答者が誤答を連発しなかなか正解が出ないため森が説明した。また1999年[[9月16日]]に放送された最終回にも、総合演出の[[五味一男]]と談笑しているシーンが一瞬ながら公開された。[[2001年]][[12月29日]]に放送された復活スペシャルの1週間前の[[12月22日]]に放送された『[[スーパースペシャル|スーパースペシャル2001]]・総制作費30億!!日テレ年末年始スペシャルのオイシイ所ジョージが全て見せますペシャル』でも[[所ジョージ]]打倒の鉢巻きをしながら問題を出題している様子が流された。
[[2011年]][[1月11日]]放送の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[FNNスーパーニュース]]』や[[テレビ朝日]]『[[スーパーJチャンネル]]』などのニュース番組で、「全国の[[児童養護施設]]等に[[タイガーマスク運動|“伊達直人”名義でランドセルや現金等の寄付が送られているニュース]]」に関連し、「伊達直人の声を担当した事もある声優」との紹介でインタビュー形式で顔出しでコメントをしている姿が放映された<ref>{{Cite web|和書|publisher=goo TVトピック検索|url=http://tvtopic.goo.ne.jp/program/info/459122/index.html|title=『スーパーJチャンネル』(2011年1月11日放送)の番組概要ページ|accessdate=2014-05-28}}</ref>。また、1月13日の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[情報プレゼンター とくダネ!|とくダネ!]]』にはスタジオに生出演。各地の寄付品に添えられていた「伊達直人からの手紙」の一部を朗読した<ref>{{Cite web|和書|publisher=goo TVトピック検索|url=https://web.archive.org/web/20140529052943/http://tvtopic.goo.ne.jp/program/info/459471/index.html|title=『情報プレゼンター とくダネ!』(2011年1月13日放送)の番組概要ページ|accessdate=2014-05-28}}</ref>。この騒動で、本来の担当声優である富山敬が既に故人で代役を担当した自分にコメントを求める取材が集中したことに対して恐縮し困惑したとの心境がブログで語られた<ref>{{Cite web|和書|publisher=もりもり日記|url=http://morikatsuji.blog.fc2.com/blog-entry-145.html|title=タイガーマスク|accessdate=2014-05-29}}</ref>。悩みに悩んだ結果、取材を受けたが、東京キー局すべてから取材を受けたことに対して「思ってもみなかったこと」との感想や、改めて「声のドリームセーラーマンだから今後もバラエティ番組に顔出ししないつもり」との心境を語った<ref>{{Cite web|和書|publisher=もりもり日記|url=http://morikatsuji.blog.fc2.com/blog-entry-147.html|title=伊達直人と森功至|accessdate=2014-05-29}}</ref>。
== 出演 ==
'''太字'''はメインキャラクター。
=== テレビアニメ ===
{{dl2
| 1967年 |
* [[マッハGoGoGo#第1作|マッハGoGoGo(第1作)]]('''三船剛''') ※田中雪弥名義
| 1968年 |
* [[サイボーグ009 (アニメ)|サイボーグ009(第1作)]]('''009''' / '''島村ジョー'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/009/| title = サイボーグ009| publisher = 東映アニメーション| accessdate = 2016-06-02}}</ref>) ※田中雪弥名義
| 1969年 |
* [[アタックNo.1]]('''一ノ瀬努'''、竜二、湯島二郎、予告ナレーション)
* [[巨人の星 (アニメ)|巨人の星]]
| 1970年 |
* [[赤き血のイレブン]](青田光)
* [[男どアホウ甲子園]]('''岩風五郎'''〈初代〉)
* [[タイガーマスク]](1970年 - 1971年、'''伊達直人''' / '''タイガーマスク'''〈第31話 - 第39話〉、{{要出典範囲|ハンス・ストライザー、ロク、虎の穴の練習生|date=2022年3月}})
* [[ばくはつ五郎]](安西)
| 1971年 |
* [[アニメンタリー 決断]]
* [[アパッチ野球軍]](大学<ref>{{Cite web|和書| url = https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/apach/| title = アパッチ野球軍| publisher = 東映アニメーション| accessdate = 2016-06-12}}</ref>)
* [[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第2シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎(第2作)]](太郎、銀太)
* [[さすらいの太陽]](バンドのメンバー)
* [[さるとびエッちゃん]]
| 1972年 |
* [[海のトリトン]](イルカ)
* [[科学忍者隊ガッチャマン]](1972年 - 1974年、'''ケン'''{{R|科学忍者隊ガッチャマン}} / '''ガッチャマン''')
* [[アニメドキュメント ミュンヘンへの道]]
* [[ムーミン (アニメ)|ムーミン]](ピチャム)
* [[モンシェリCoCo]]('''ジェローム''')
| 1973年 |
* [[赤胴鈴之助]]
* [[エースをねらえ!]](1973年 - 1974年、'''藤堂貴之'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.tms-e.co.jp/alltitles/1970s/015101.html| title = エースをねらえ!| publisher = トムス・エンタテインメント| accessdate = 2016-06-01}}</ref>)
* [[キューティーハニー]](1973年 - 1974年、'''早見青児'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.toei-anim.co.jp/shop/dvd_recutie/cutie.html| title = キューティーハニー| publisher = 東映アニメーション| accessdate = 2016-05-23}}</ref>)
* [[荒野の少年イサム]]
* [[新造人間キャシャーン]](マリーノ)
* [[ミクロイドS]](リッキー、シナール)
| 1974年 |
* [[ゲッターロボ]](早田信一{{R|ゲッターロボ大全}})
* [[柔道讃歌]]('''巴突進太''')
* [[はじめ人間ギャートルズ]]
* [[魔女っ子メグちゃん]]
| 1975年 |
* [[アラビアンナイト シンドバッドの冒険]](胡椒が欲しい息子、船員、ハルシャー)
* [[イルカと少年 (アニメ)|イルカと少年]]('''ヤン少年'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://eiken-anime.jp/works/%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%81%A8%E5%B0%91%E5%B9%B4/| title = イルカと少年| publisher = エイケン オフィシャルサイト| accessdate = 2016-06-19}}</ref>)
* [[宇宙の騎士テッカマン]]('''南城二''' / '''テッカマン'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7586| title = 宇宙の騎士テッカマン| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-11-06}}</ref>)
* [[ガンバの冒険]](クリーク)
* [[ゲッターロボG]](坂崎{{R|ゲッターロボ大全}}、暴竜鬼(イサム){{R|ゲッターロボ大全}}、蛇王鬼{{R|ゲッターロボ大全}})
* [[勇者ライディーン]](ジャガー)
* [[ラ・セーヌの星]](ピオニー、アラン)
| 1976年 |
* [[恐竜探険隊ボーンフリー]]('''北山丈二''')
* [[タイムボカン]](ジェロニモ)
* [[ブロッカー軍団IVマシーンブラスター]](鉄也)
* [[UFOロボ グレンダイザー]](コマンダーイアラ)
| 1977年 |
* [[一発貫太くん]](勝田)
* [[恐竜大戦争アイゼンボーグ]]('''ナレーター'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20190306043852/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/935| title = 恐竜大戦争アイゼンボーグ| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-12-03}}</ref>、大村一人、ムサシ)
* [[超合体魔術ロボ ギンガイザー]]('''帝王カインダーク'''{{R|ギンガイザー}}、番人A、兵士B)
* [[ドカベン]]('''[[土井垣将]]'''{{R|ドカベン}})
* [[無敵超人ザンボット3]](1977年 - 1978年、'''神江宇宙太'''{{R|ザンボット3}})
* [[ヤッターマン]](ホセ)
| 1978年 |
* [[科学忍者隊ガッチャマンII]](1978年 - 1979年、'''大鷲の健'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://tatsunoko.co.jp/works_animation/archive/gatcha_2.html|title=作品データベース 科学忍者隊ガッチャマンII |publisher=[[タツノコプロ]]|accessdate=2022-12-08}}</ref>)
* [[女王陛下のプティアンジェ]](ジャン)
* [[新・エースをねらえ!]]('''藤堂貴之'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20141008114956/http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=76| title = 新・エースをねらえ!| publisher = トムス・エンタテインメント| accessdate = 2016-06-01}}</ref>)
* [[超電磁マシーン ボルテスV]](ベルナール)
* [[はいからさんが通る]]('''伊集院忍''' / '''サーシャ・ミハイロフ'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nippon-animation.co.jp/work/1301/| title = はいからさんが通る| publisher = 日本アニメーション| accessdate = 2016-06-03}}</ref>)
* [[無敵鋼人ダイターン3]](木戸川 / コマンダー・キドガー)
| 1979年 |
* [[円卓の騎士物語 燃えろアーサー]](ポール)
* [[科学忍者隊ガッチャマンF]](1979年 - 1980年、'''大鷲の健'''{{R|科学忍者隊ガッチャマンF}})
* [[科学冒険隊タンサー5]]('''ジョニー 霧野''')
* [[機動戦士ガンダム]]([[ザビ家#ガルマ・ザビ|ガルマ・ザビ]]、マーカー・クラン、アコース)
* [[サイボーグ009 (アニメ)|サイボーグ009(第2作)]](ヘンリー・ブラウン)
* [[ゼンダマン]](ジンギスカン、ジャマダ長政、ディンゴ)
* [[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん(テレビ朝日版第1期)]]
* [[ベルサイユのばら]](ロベスピエール)
| 1980年 |
* [[がんばれ元気]]('''関拳児''')
* [[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]](マスク)
* [[タイムパトロール隊オタスケマン]](シーサー)
* [[鉄腕アトム (アニメ第2作)]]('''アトラス''')
* [[トム・ソーヤーの冒険 (アニメ)|トム・ソーヤーの冒険]](アーサー・オコーナー)
| 1981年 |
* [[銀河旋風ブライガー]](1981年 - 1982年、'''スティーブン・ボウィー''')
* [[最強ロボ ダイオージャ]](スリム)
* [[釣りキチ三平]](哲也)
* [[ハロー!サンディベル]](アレック・ピーターソン記者{{R|ハロー!サンディベル}})
* [[ぼくらマンガ家 トキワ荘物語]]([[赤塚不二夫]])
* [[ヤットデタマン]](ターサン)
| 1982年 |
* [[あさりちゃん]](森野二浪、踏切番、プリンス、社員A)
* [[おちゃめ神物語コロコロポロン]](エピアルテス)
* [[機甲艦隊ダイラガーXV]]('''ワルター・ジャック'''{{R|ダイラガーXV}})
* [[銀河烈風バクシンガー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/104107/|title=銀河烈風バクシンガー : 作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-12-08}}</ref>('''佐馬之介・ドーディ〈かっ飛びの佐馬〉''')
* [[ゲームセンターあらし]](ミッキー)
* [[戦闘メカ ザブングル]](ビエル)
* [[パタリロ!]]{{R|パタリロ!}}(エディ、フー)
* [[魔境伝説アクロバンチ]](ヘンリー中尉)
| 1983年 |
* [[愛してナイト]](大川里美<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20180303110446/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/1526| title = 愛してナイト| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-11-04}}</ref>)
* [[銀河疾風サスライガー]]('''ビート・マッケンジー〈おとぼけビート〉''')
* [[光速電神アルベガス]](ロイド、玉三郎)
* [[ストップ!! ひばりくん!]](椎名)
* [[ナイン (漫画)|ナイン2 恋人宣言]](加納)
* [[プラレス3四郎]](笹本悟)
* [[まんが日本史 (日本テレビ)|まんが日本史]]([[道鏡]]、[[平将門]]、[[平宗盛]]、[[日蓮]]、[[足利義教]]、[[織田信雄]]、[[豊臣秀次|羽柴秀次]])
* [[みゆき (漫画)|みゆき]]('''香坂健二''')
* [[未来警察ウラシマン]](アレック)
| 1984年 |
* [[ガラスの仮面|ガラスの仮面(1984年)]]('''速水真澄'''〈2代目〉)
* [[大自然の魔獣バギ]](セメン・ボンド<ref>{{Cite news | url = https://tezukaosamu.net/jp/anime/60.html| title = 大自然の魔獣バギ| newspaper = | publisher = 手塚治虫公式サイト| date = | accessdate = 2016-05-03}}</ref>)
* [[ビデオ戦士レザリオン]]('''インスパイア'''、'''ギャリオ'''、第2部〈24話以降〉ナレーション)
| 1985年 |
* [[ダーティペア (アニメ)|ダーティペア]](ダニエル)
* [[超獣機神ダンクーガ]](バズル)
* [[北斗の拳 (テレビアニメ)|北斗の拳]](1985年 - 1986年、ザリア、[[シュウ (北斗の拳)|シュウ]])
* [[ルパン三世 PARTIII]](青龍)
| 1986年 |
* [[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第3シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎(第3作)]](記者、オサム)
* [[青春アニメ全集]](道久)
* [[ハイスクール!奇面組]](渡竹勝利)
* [[プロゴルファー猿]](ホワイトベア)
| 1987年 |
* [[聖闘士星矢 (アニメ)|聖闘士星矢]]([[白銀聖闘士#カペラ|カペラ]]、ジェミニ)
* [[ドラゴンボール (アニメ)|ドラゴンボール]](パンプット)
* [[トランスフォーマー ザ☆ヘッドマスターズ]](ウィアードウルフ{{R|ザ・ヘッドマスターズ}})
* [[北斗の拳2]](1987年 - 1988年、若きジュウケイ、シュウ)
| 1988年 |
* [[魁!!男塾]]('''赤石剛次''')
* [[新グリム名作劇場]](王子)
* [[闘将!!拉麵男]]('''ラーメンマン'''{{R|闘将!!拉麵男}})
* [[トランスフォーマー 超神マスターフォース]]([[メタルホーク (トランスフォーマー)|'''ホーク''' / '''メタルホーク''']]{{R|超神マスターフォース|トランスフォーマージェネレーション}})
| 1989年 |
* [[美味しんぼ]](1989年 - 1990年、松垣、沢矢選手)
* [[キテレツ大百科 (アニメ)|キテレツ大百科]](1989年 - 1991年、奉行、キテレツ斎〈青年期〉 / ジャポネ)
* [[戦え!超ロボット生命体 トランスフォーマーV]](ホーク)
* [[ドラゴンクエスト (アニメ)|ドラゴンクエスト]](ジキド将軍)
* [[ビリ犬なんでも商会]](大岩)
| 1990年 |
* [[ドラゴンボールZ]](ネイル)
| 1991年 |
* [[トラップ一家物語]]('''ヴァスナー神父''')
* [[21エモン]](主人)
* [[ハイスクールミステリー学園七不思議]](杉村完二)
* [[らんま1/2 熱闘編]](浦吉三吉)
| 1992年 |
* [[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーン]]('''[[ダーク・キングダム|ネフライト]]''')
| 1993年 |
* [[GS美神]](ブラドー伯爵)
* [[ツヨシしっかりしなさい]](ヤクザ)
| 1995年 |
* [[ご近所物語]]
| 2002年 |
* [[キディ・グレイド]](ルノー)
| 2003年 |
* [[京極夏彦 巷説百物語]](円海)
* [[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]](2003年 - 2009年、風見良輝、鍋井永貴)
| 2004年 |
* [[蒼穹のファフナー|蒼穹のファフナー Dead Aggressor]](ミツヒロ・バートランド)
| 2005年 |
* [[うえきの法則]]('''小林先生〈コバセン〉'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=うえきの法則|url=https://mv.avex.jp/ueki/cyara.html|title=キャラクター紹介|accessdate=2023-03-16}}</ref>)
* [[戦国英雄伝説 新釈 眞田十勇士 The Animation]]([[井伊直政|井伊兵部少輔直政]]<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20100724010514/http://www.sanada10.com/staffcast/index.htm| title = キャストリスト| publisher = 新釈 眞田十勇士 公式サイト| accessdate = 2016-06-12}}</ref>)
| 2008年 |
* [[RD 潜脳調査室]]('''波留真理''')
* [[テイルズ オブ ジ アビス]](モース)
* [[ヤッターマン (2008年のテレビアニメ)|ヤッターマン(第2作)]](三船剛、ガッチャマン / 大鷲の健)
* [[ロザリオとバンパイア CAPU2]](萌香父)
| 2009年 |
* [[ゴルゴ13]](デビッド・ロックフォード)
| 2010年 |
* [[刀語]](四季崎記紀)
* [[閃光のナイトレイド]]([[板垣征四郎]])
* [[ぬらりひょんの孫]]([[刑部狸|隠神刑部狸]])
* [[パンティ&ストッキングwithガーターベルト]](アーサー)
| 2011年 |
* [[SKET DANCE]](武光奮蔵)
| 2013年 |
* [[ガッチャマン クラウズ]](2013年 - 2015年、'''J・J・ロビンソン'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=ガッチャマン クラウズ|url=http://www.ntv.co.jp/GATCHAMAN_Crowds/cast/index.html|title=キャスト/スタッフ|accessdate=2013-06-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]|work=ガッチャマン クラウズ インサイト|url=https://www.ntv.co.jp/GC_insight/cast/index.html|title=キャスト・スタッフ|accessdate=2015-05-09}}</ref>) - 2シリーズ
* [[THE UNLIMITED 兵部京介]](早乙女英治)
* [[ポケットモンスター THE ORIGIN]]('''[[オーキド・ユキナリ|オーキド博士]]'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=ポケモン公式ツイッター|url=https://twitter.com/Pokemon_cojp/status/373369545689276416|title=【ニュース】10月2日(水)放送のオリジナルアニメ『ポケットモンスター ジ・オリジン』の声優情報を発表!|accessdate=2013-08-30}}</ref>)
| 2014年 |
* [[Z/X IGNITION]](綾瀬の父)
* [[それいけ!アンパンマン]](2014年 - 2023年、[[サンタクロース]]〈2代目〉)
| 2016年 |
* [[Bloodivores]](長老会)
| 2017年 |
* [[鬼平 (アニメ)|鬼平]](親英)<!-- 2017-03-21 -->
| 2018年 |
* [[Cutie Honey Universe]](如月猛<ref>{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20180323dog00m200060000c.html|title=キューティーハニー:新作テレビアニメで森功至が如月博士に 朴ロ美、小林ゆうも出演|work=まんたんウェブ|publisher=毎日新聞デジタル|date=2018-03-24|accessdate=2018-03-24}}</ref>)<!-- 2018-04-15 -->
| 2019年 |
* [[おどるモワイくん]]('''モワイくん'''<ref>{{Twitter status|mowaikun|1143655280472973317}}</ref>)<!-- 2019-07-02 -->
| 2021年 |
* [[遊☆戯☆王SEVENS]](アサナの曽祖父<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/broad_tvtokyo/program/detail/202101/23144_202101160730.html|title=遊戯王SEVENS(セブンス)「重騎(じゅうき)愛(め)づる姫君」|work=TVアニメ「遊戯王SEVENS」 テレビ東京 番組表|accessdate=2021-01-09}}</ref>)<!-- 2021-01-16 -->
* [[闘神機ジーズフレーム]](レイ・バーク将軍)<!-- 2021-10-12 -->
| 2022年 |
* [[惑星のさみだれ]]('''ロン=ユエ'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://hoshinosamidare.jp/cast|title=キャスト・スタッフ|website=TVアニメ『惑星のさみだれ』公式サイト|accessdate=2022-04-17}}</ref>)<!-- 2022-08-20 -->
* [[てっぺんっ!!!!!!!!!!!!!!!]](じいや)<!-- 2022-09-24 -->
| 2023年 |
* [[便利屋斎藤さん、異世界に行く]](王様)<!-- 2023-01-15 -->
* [[実は俺、最強でした?]](ジルク・オルテアス<ref>{{Cite web|url=https://jitsuhaoresaikyo-anime.com/cast-staff/|title=STAFF/CAST|website=TVアニメ「実は俺、最強でした?」公式サイト|accessdate=2023-06-09}}</ref>)<!-- 2023-07-02 -->
* [[聖剣学院の魔剣使い]](ネフィスガル)<!-- 2023-12-12 -->
}}
=== 劇場アニメ ===
{{dl2
| 1970年 |
* [[アタックNo.1#映画|アタックNo.1]](一ノ瀬努)
* アタックNo.1 涙の回転レシーブ(一ノ瀬努)
| 1971年 |
* アタックNo.1 涙の不死鳥(一ノ瀬努)
| 1975年 |
* [[これがUFOだ!空飛ぶ円盤]](トーマス・F・マンテル大尉)
| 1978年 |
* [[科学忍者隊ガッチャマン]]('''大鷲の健''')
| 1979年 |
* [[エースをねらえ!]](藤堂貴之<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20141006140509/http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=309| title = エースをねらえ! 劇場版| publisher = トムス・エンタテインメント| accessdate = 2016-06-01}}</ref>)
* [[野球狂の詩#アニメ映画|野球狂の詩 北の狼南の虎]](王島大介)
| 1980年 |
* [[森は生きている#1980年版|世界名作童話 森は生きている]](四月の精<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20180219031632/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/1143| title = 世界名作童話 森は生きている| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-10-30}}</ref>)
| 1981年 |
* [[機動戦士ガンダム]]('''ガルマ・ザビ''')
* ゆき
| 1982年 |
* [[あさりちゃん 愛のメルヘン少女]](王子)
* [[FUTURE WAR 198X年]](スミルノフ{{要出典|date=2022年9月}})
| 1983年 |
* [[戦闘メカ ザブングル#関連作品|ザブングル グラフィティ]](ビエル)
* [[はだしのゲン]](政二)
| 1985年 |
* [[オーディーン 光子帆船スターライト]](伊丹光男)
| 1986年 |
* [[アモン・サーガ]](アルカン)
| 1987年 |
* [[勝利投手 (映画)|勝利投手]](高橋記者)
* [[新メイプルタウン物語 パームタウン編 (1987年の映画)|新メイプルタウン物語 パームタウン編〜こんにちは!新しい町〜]](ジョージ)
* [[ダーティペア (アニメ)|ダーティペア]](カースン)
| 1988年 |
* [[機動戦士SDガンダム]](ガルマ)
* [[銀河英雄伝説 わが征くは星の大海]]('''ウォルフガング・ミッターマイヤー'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.madhouse.co.jp/works/1988-1987/works_movie_ginei.html| title = 銀河英雄伝説 わが征くは星の大海| publisher = マッドハウス| accessdate = 2016-05-22}}</ref>)
* [[魁!!男塾]](赤石剛次)
* [[聖闘士星矢 真紅の少年伝説]](ジャオウ)
* [[闘将!!拉麵男]]('''ラーメンマン''')
| 1989年 |
* [[聖闘士星矢 最終聖戦の戦士たち]](ベルゼバブ)
| 1990年 |
* [[ドラえもん のび太とアニマル惑星]](ニムゲの総長)
| 1993年 |
* [[銀河英雄伝説 新たなる戦いの序曲]](ウォルフガング・ミッターマイヤー)
* [[獣兵衛忍風帖]](半佐<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.madhouse.co.jp/works/1994-1993/works_movie_jyubei.html| title = 獣兵衛忍風帖| publisher = マッドハウス| accessdate = 2016-06-24}}</ref>)
| 2000年 |
* 機動戦士ガンダム 特別版(ガルマ・ザビ)
* 機動戦士ガンダムII 哀・戦士編 特別版(ガルマ・ザビ)
| 2004年 |
* [[名探偵コナン 銀翼の奇術師]](成沢文二郎)
| 2014年 |
* [[宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟]](桐生悟郎<ref>{{Cite book|和書 |author= |year=2015 |title=宇宙戦艦ヤマト2199 COMPLETE WORKS-全記録集-脚本集 |publisher=[[マッグガーデン]] |page=318 |isbn= }}</ref>)
| 2017年 |
* [[劇場版 はいからさんが通る 前編 〜紅緒、花の17歳〜]](ナレーション)<!-- 2017-11-11 -->
| 2018年 |
* [[フリクリ オルタナ]](デニス用賀<ref>{{Wayback|url=http://flcl-anime.com/alterna/caststaff/|title=STAFF&CAST|劇場版「フリクリ オルタナ」公式サイト|date=20190915082257}}</ref>)<!-- 2018-09-07 -->
}}
=== OVA ===
{{dl2
| 1988年 |
* [[機甲猟兵メロウリンク]](シュエップス)
* [[銀河英雄伝説 (アニメ)|銀河英雄伝説]]('''[[ウォルフガング・ミッターマイヤー]]'''<ref>{{Cite web | url = http://www.ginei.jp/character_g.htm| title = Character| publisher = 銀河英雄伝説 ON THE WEB| accessdate = 2016-06-21}}</ref>)
* [[遠山桜宇宙帖 奴の名はゴールド]]('''イオン・プレンマツ'''<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.tokuma.jp/eizo/shosai/17_toyama.html| title = 遠山桜宇宙帖 奴の名はゴールド| publisher = 徳間書店| accessdate = 2016-05-20}}</ref>)
| 1989年 |
* [[イース (OVA)|イース]](ダルク・ファクト)
* [[魔龍戦紀]](里椋)
| 1990年 |
* [[地上最強のエキスパートチーム G.I.ジョー|地上最強のエキスパートチーム G.I.ジョー ザ・ムービー]]('''ファルコン''')
* [[ロードス島戦記]](シャダム)
| 1991年 |
* [[ビー・バップ海賊版]]('''ヒロシ''')
| 1992年 |
* [[イース (OVA)|イース 天空の神殿〜アドル・クリスティンの冒険]](ダルク・ファクト)
| 1993年 |
* [[スターダストクルセイダース|ジョジョの奇妙な冒険]](1993年 - 2002年、'''[[ジャン=ピエール・ポルナレフ]]''')
| 1994年 |
* [[タイムボカン王道復古]]('''大鷲のケン'''、'''テッカマン'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://tatsunoko.co.jp/works_animation/archive/ova_timebokan_odo.html|title=作品データベース タイムボカン王道復古 |publisher=タツノコプロ|accessdate=2022-11-22}}</ref>)
| 1996年 |
* [[僕のセクシャルハラスメント]](ウィリアム・ロジャーズ / ビル)
| 2010年 |
* [[機動戦士ガンダムUC]](ダイナーの老主人) - 2016年に再編集作品『RE:0096』テレビ放送
| 2012年 |
* [[テイルズ オブ シンフォニア|テイルズ オブ シンフォニア THE ANIMATION 世界統合編]](オリジン)
}}
=== ゲーム ===
{{dl2
| 1989年 |
* [[イースI・II#PCエンジン版|イースI・II]](ダルク・ファクト)
* [[天外魔境 ZIRIA]](幻王丸、千葉シュウサク)
| 1993年 |
* [[ダンジョンエクスプローラーII]](フォルゴーン)
* [[マジクール]](フィンデル)
* [[魔物ハンター妖子#PCエンジン|魔物ハンター妖子 〜遠き呼び声〜]](グレン)
| 1994年 |
* [[美少女戦士セーラームーン (ゲーム)|美少女戦士セーラームーン]](ネフライト)
| 1996年 |
* [[GUNDAM 0079 THE WAR FOR EARTH]](ガルマ・ザビ)
* [[機動戦士ガンダム (PlayStation)|機動戦士ガンダム ver.2.0]](ガルマ・ザビ)
| 1997年 |
* 熱砂の惑星(マイク)
* [[雷弩機兵ガイブレイブ]](ゲゲン中隊長)
| 1998年 |
* [[SDガンダム GGENERATION]](1998年 - 2016年、[[ガルマ・ザビ]]、連邦パイロット / 兵〈ZERO・F〉) - 11作品{{Ras|『GGENERATION』<!-- 1998-08-06 -->(1998年)、『ZERO』<!-- 1999-08-12 -->(1999年)、『F』<!-- 2000-08-03 -->(2000年)、『F.I.F』<!-- 2001-05-02 -->(2001年)、『PORTABLE』<!-- 2006-08-03 -->(2006年)、『SPIRITS』<!-- 2007-11-29 -->(2007年)、『WARS』<!-- 2009-08-06 -->(2009年)、『WORLD』<!-- 2011-02-24 -->『3D』<!-- 2011-12-22 -->(2011年)、『OVER WORLD』<!-- 2012-09-27 -->(2012年)、『GENESIS』<!-- 2016-11-22 -->(2016年)}}
* [[機動戦士ガンダム ギレンの野望]](ガルマ・ザビ)
| 1999年 |
* [[スーパーロボット大戦コンプリートボックス]](ガルマ・ザビ、ラテル・アクロス)
| 2000年 |
* [[ガイアマスター]](ダンテ)
*[[機動戦士ガンダム (PlayStation 2)|機動戦士ガンダム]](ガルマ・ザビ)
* [[機動戦士ガンダム ギレンの野望 ジオンの系譜]](ガルマ・ザビ)
* [[決戦 (コーエー)|決戦]]([[石田三成]])
* [[タツノコファイト]](大鷲の健、テッカマン〈南城二〉)
* [[北斗の拳 世紀末救世主伝説]](シュウ)
| 2001年 |
* [[ラクガキ王国]](門番、帝国兵士)
* [[決戦II]]([[孫権]])
* [[スーパーロボット大戦α外伝]](スティーブン・ボウィー、ビエル)
| 2002年 |
* [[機動戦士ガンダム ギレンの野望 ジオン独立戦争記]](ガルマ・ザビ)
| 2003年 |
* [[激闘プロ野球 水島新司オールスターズVSプロ野球]](土井垣将)
* [[第2次スーパーロボット大戦α]](コマンダー・キドガー)
* [[ロックマンX7]]({{要出典範囲|シーダ、ウィンド・カラスティング|date=2022年9月}})
| 2004年 |
* [[スーパーロボット大戦GC]](ガルマ・ザビ、スティーブン・ボウィー、佐馬之介・ドーディ、ビート・マッケンジー)
| 2005年 |
* [[機動劇団はろ一座 ガンダム麻雀DS 親父にもアガられたことないのに!]](ガルマ・ザビ)
* [[魁!!男塾 (PlayStation 2)|魁!!男塾]](赤石剛次)
* [[ドラゴンボールZ3]](ネイル)
| 2006年 |
* [[うえきの法則|うえきの法則 倒すぜロベルト十団!!]](小林先生〈コバセン〉)
* [[スーパーロボット大戦GC#スーパーロボット大戦XO|スーパーロボット大戦XO]](ガルマ・ザビ、スティーブン・ボウィー、佐馬之介・ドーディ、ビート・マッケンジー)
| 2007年 |
* [[機動劇団はろ一座 ガンダム麻雀+Ζ さらにデキるようになったな!]](ガルマ・ザビ)
* [[ドラゴンボールZ スパーキング!メテオ]](ネイル)
* [[Purely 〜その狭い青空を見上げて〜]](河之辺叔夜)
| 2008年 |
* [[機動戦士ガンダム ギレンの野望 アクシズの脅威]](ガルマ・ザビ)
* [[タツノコ VS. CAPCOM CROSS GENERATION OF HEROES]](大鷲の健、テッカマン)
| 2009年 |
* [[機動戦士ガンダム ギレンの野望 アクシズの脅威V]](ガルマ・ザビ)
* [[スーパーロボット大戦NEO]](スティーブン・ボウィー)
| 2011年 |
* [[機動戦士ガンダム オンライン]](ガルマ)
* [[機動戦士ガンダム 新ギレンの野望]](ガルマ・ザビ)
| 2012年 |
* [[機動戦士ガンダム 木馬の軌跡]](ガルマ・ザビ)
| 2013年 |
* [[真・ガンダム無双]](ガルマ・ザビ)
* [[スーパーロボット大戦Operation Extend]](ガルマ・ザビ)
* [[真剣で私に恋しなさい!A]](津軽海経)
| 2016年 |
* 銀河英雄伝説タクティクス(ウォルフガング・ミッターマイヤー)
| 2018年 |
* [[スーパードラゴンボールヒーローズ]](ルシフェル)
| 2019年 |
* [[ガンダムネットワーク大戦]](ガルマ・ザビ)
}}
=== ドラマCD ===
* [[インフェリウス惑星戦史外伝 CONDITION GREEN]](アストラ)
* [[ヴァイスクロイツ|Weiß kreuz]]シリーズ(紫苑)
** Weiß kreuz Dramatic Collection II ENDLESS RAIN
** Weiß kreuz Dramatic Precious
* [[うえきの法則]]シリーズ('''小林先生(コバセン)''')
** CDドラマ うえきの法則 The Law Of Drama!. 容疑者・植木耕助の法則
** うえきの法則 The Law Of Robert's 10 ロベルト十団スペシャル
* [[エリア88]]('''神埼悟''')
* [[エロイカより愛をこめて]](ドラマレコード)(Z)
* オジサマ専科Vol.9 The Noble Class〜可憐な相続人〜('''美濃部綾人''')
* 5000光年の虎(将軍)
* [[CDドラマコレクションズ 三國志]](孫権仲謀)
* [[魁!!男塾|集英社カセットコミックシリーズ 魁!!男塾2 死闘!冥凰島決勝トーナメント]](蒼傑)
* [[花鎮の饗]](真木博人 / ナレーション)
* [[パラサイト・イヴ]](吉住貴嗣)
* [[未来放浪ガルディーン]](アナウンサー)
* [[有閑倶楽部]]('89年)('''菊正宗清四郎''')
=== オーディオブック ===
* 流(2017年、尊麟)
=== 吹き替え ===
==== 担当俳優 ====
{{dl2
| [[ヴィクター・ガーバー]] |
* [[アローバース]]('''マーティン・シュタイン''' / '''ファイヤーストーム''')
** [[THE FLASH/フラッシュ]]
** [[レジェンド・オブ・トゥモロー]]
** [[インベージョン! 最強ヒーロー外伝]]
* [[ナース・ジャッキー]](ナターマン)
| [[ジム・ブロードベント]] |
* [[ドクター・ドリトル (2020年の映画)|ドクター・ドリトル]](トーマス・バッジリー卿<ref>{{Cite web|和書|work=ドクター・ドリトル公式サイト|url= https://dr-dolittle.jp/news/2020/02/13/dolittle_0213/|title= 藤原啓治、小野大輔、朴璐美、中村悠一、斉藤壮馬、沢城みゆき、花澤香菜 、黒田崇矢、茅野愛衣、杉田智和、井上和彦、諏訪部順一、池田秀一、 森功至、大塚芳忠、大塚明夫、増田俊樹、武内駿輔、沢城千春ほか 総勢23名の超豪華人気声優陣が揃い踏み!|date=2020-02-13|accessdate=2020-02-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0114072|title=豪華すぎ!『ドクター・ドリトル』吹替版に藤原啓治、小野大輔、杉田智和、大塚明夫ら23名参加|work=シネマトゥデイ|date=2020-02-13|accessdate=2020-02-13}}</ref>)
* [[ハリー・ポッター (映画シリーズ)|ハリー・ポッターシリーズ]]([[ホラス・スラグホーン]])
** [[ハリー・ポッターと謎のプリンス (映画)|ハリー・ポッターと謎のプリンス]]<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20160714102635/https://kinro.jointv.jp/lineup/160610/| title = ハリー・ポッターと謎のプリンス| publisher = 金曜ロードSHOW!| accessdate = 2016-07-29}}</ref>
** [[ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1]]
** [[ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2]]
* [[ミス・シェパードをお手本に]](アンダーウッド警官) ※ソフト版
}}
==== 映画 ====
* [[アメリア 永遠の翼]]
* [[キャリー (2013年の映画)|キャリー]](ジョン<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.fukikaeru.com/archives/deta_201311_02.html| title = キャリー| publisher = ふきカエル大作戦!!| accessdate = 2017-08-29}}</ref>)
* [[殺し屋ハリー/華麗なる挑戦]](トニー)
* [[ゴーン・ガール]](ランド・エリオット〈[[デヴィッド・クレノン]]〉)
* [[ジャッカルの日 (映画)|ジャッカルの日]](キャロン〈[[デレク・ジャコビ]]〉)※日本テレビ版(思い出の復刻版ブルーレイに収録)
* [[ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル]](ヴリーク〈[[ティム・マシスン]]〉<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.fukikaeru.com/?p=8974| title = ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル| publisher = ふきカエル大作戦!!| date = 2018-03-30| accessdate = 2018-03-31}}</ref>)
* [[ジュラシック・ワールド/炎の王国]](シャーウッド上院議員〈ピーター・ジェイソン〉<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.fukikaeru.com/?p=9647| title = ジュラシック・ワールド/炎の王国| publisher = ふきカエル大作戦!!| accessdate = 2018-07-15}}</ref>)
* [[スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲]] ※劇場公開版(DVDリミテッドエディション収録)
* [[スピード・レーサー]](ベン・バーンズ〈[[リチャード・ラウンドトゥリー]]〉)
* [[スワットカッツ]](ドクター・バイパー)
* [[青年 (1962年の映画)]]([[ニック・アダムス (架空の人物)|ニック・アダムス]]〈[[リチャード・ベイマー]]〉)
* [[底抜け大学教授]]
* [[誰が為に鐘は鳴る]](アンドレス〈エリック・フェルダリー〉) ※TBS版
* [[隣の家の少女]](デヴィッド・モラン〈[[ウィリアム・アザートン]]〉)
* [[バットマン|バットマン オリジナル・ムービー]]([[ロビン (バットマン)|'''ディック・グレイソン''' / '''ロビン''']])※旧放映版
* [[パトリオット・デイ]](ジェフ・ピュジリーズ〈[[J・K・シモンズ]]〉)
* [[ヒットマン:エージェント47]](リトヴェンコ〈[[キアラン・ハインズ]]〉)
* [[マーズ・アタック!]](ドナルド・ケスラー教授〈[[ピアース・ブロスナン]]〉) ※ソフト版
* [[マペットの夢みるハリウッド]]([[ビッグバード (セサミストリート)|ビッグバード]]、美人コンテストの司会者〈[[エリオット・グールド]]〉)※[[レーザーディスク|LD]]版
* [[魔法の剣 キャメロット]](ライオネル<!-- 〈声:[[ガブリエル・バーン]]〉 -->)
* [[ミッドウェイ (1976年の映画)|ミッドウェイ]](トム・ガース少尉〈[[エドワード・アルバート]]〉) ※TBS版
* [[ミラーズ2]](マックスの父〈[[ウィリアム・カット]]〉)
* [[夜の大捜査線]] ※NET版(BD収録)
* [[ロビン・フッド (2010年の映画)|ロビン・フッド]](ウィリアム・マーシャル〈[[ウィリアム・ハート]]〉)
==== ドラマ ====
* [[アウトランダー (テレビドラマ)|アウトランダー]](コラム・マッケンジー〈ゲイリー・ルイス〉)
* [[エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY]]
* [[NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班]](大統領)
* [[刑事コロンボ]] アリバイのダイヤル(エリック・ワグナー〈[[ディーン・ストックウェル]]〉)
* [[コールドケース 迷宮事件簿|コールドケース6]](ジャック・ガルトン)
* [[THE TUDORS〜背徳の王冠〜]](ダーシー卿)
* [[新アウターリミッツ]](サム・スタイン〈[[マーク・ハミル]]〉)
* [[スパイ大作戦]] 一千万ドル強奪事件(刑務所診療所の受付)
* [[スペース1999]](トニー・ベルデッシ)※第2シーズンのみ
* [[ストーリーテラー (テレビドラマ)|ジム・ヘンソンのストーリーテラー]](看守 / 町触れの人〈ロビン・サマーズ〉、村の男たち)
* [[ZeroZeroZero 宿命の麻薬航路]](ドン・ミーノ〈アドリアーノ・キアラミダ〉<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.star-ch.jp/drama/zerozerozero/sid=1/p=c/|title=ZeroZeroZero 宿命の麻薬航路 キャスト&スタッフ|website=スター・チャンネル|accessdate=2021-09-06}}</ref>)
* [[ハリーズ・ロー 裏通り法律事務所|続ハリーズ・ロー 裏通り法律事務所]](スコット校長)
* [[逃亡者 (1963年のテレビドラマ)|逃亡者]] #114
* [[PERSON of INTEREST 犯罪予知ユニット]](ジャンニ・モレッティ〈[[マーク・マーゴリス]]〉、バーニー・サリヴァン刑事〈[[ダン・ヘダヤ]]〉)
* [[バーン・ノーティス 元スパイの逆襲]](ジェイコブ)
* [[フラグルロック]]
* [[ブルーブラッド 〜NYPD家族の絆〜]](フランク・ルッソ市長〈ブルース・アルトマン〉)
* [[ホワイトカラー (テレビドラマ)|ホワイトカラー]](リース・ヒューズ〈[[ジェームズ・レブホーン]]〉)
* [[マペット・ショー]](ウェイン)
* [[ロックフォードの事件メモ]]
==== アニメ ====
* [[アドベンチャー・タイム]]
* [[イエロー・サブマリン (映画)|イエロー・サブマリン]]('''[[ポール・マッカートニー]]''')
* [[スター・ウォーズシリーズ]]
** [[イウォーク物語]](ゴルニーシュの部下)※DVD版
** [[スター・ウォーズ ドロイドの大冒険]](ニルズ・ヨム)※DVD版
* [[ヘラクレス (TVシリーズ)|ヘラクレス]]
==== 人形劇 ====
* [[きかんしゃトーマス]](乗客、'''ジェームス'''、ジェレマイア・ジョブリング、男の乗客、作業長、ローリー2の運転手) ※フジテレビ版
** [[きかんしゃトーマス 魔法の線路|劇場版 きかんしゃトーマス 魔法の線路]]('''ジェームス''')
* [[キャプテン・スカーレット]]
** ホワイト大佐を守れ!(ボブ・リン、パイロット)
** 大統領を守れ!(管制官)
=== 特撮 ===
* [[SFドラマ 猿の軍団]](チンパニストの声)
* [[Xボンバー]](ハレーの声)
* [[恐竜大戦争アイゼンボーグ]](ナレーター、ムサシの声)
* [[恐竜探検隊ボーンフリー|恐竜探険隊ボーンフリー]](北山丈二の声)
* [[チビラくん]](ネコロンダー王国兵士B、ポニー(オス)の声) ※ネコロンダー王国兵士Bは顔出し出演
=== ラジオ ===
* [[FRIDAY SUPER COUNTDOWN 50|TOYOTA SUPER COUNTDOWN 50]](集計ルームでのレポート担当)
* ラジオドラマ・[[エメラルドドラゴン]](ティリダテス)
* 日曜バラエティ体当たり大放送(1979年-1980年 [[KBCラジオ]])※メインパーソナリティ
=== ナレーション ===
* [[NHKスペシャル|NHK特集]]「17年間休まなかった男〜衣笠祥雄の野球人生〜」(NHK、1986年)
* 決定版 SL大図鑑(NHK、2007年)
* [[タモリのボキャブラ天国]]
* [[ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャー これができたら100万円!!]]
* [[史上最強のメガヒットカラオケBEST100 完璧に歌って1000万円!!]]
* [[紺野美沙子の科学館]]
* [[発掘!あるある大事典]]→発掘!あるある大事典II
* [[ビートたけしのお笑いウルトラクイズ]]
* [[マジカル頭脳パワー!!]]
* [[スーパークイズスペシャル]]
* [[速報!歌の大辞テン]]
* [[いきなり!黄金伝説。]]
* [[よゐこの無人島0円生活]]
* [[信ジラレナイ99連発]]
* [[EZ!TV]]
* [[めざましテレビ]]
* [[めざましどようび]]
=== テレビドラマ ===
* [[まぼろし探偵]] 第23話「海王星から来た少年」(1959年) - 海王星の少年 ※田中深雪名義
* [[快傑ハリマオ]] 第4部「南蒙の虎」(1961年) - 少年カサル ※田中深雪名義
* 黒百合城の兄弟(1961年 - 1962年) ※田中雪弥名義
* [[月曜日の男]]「ある殺し屋の死」(1964年) ※田中雪弥名義
* [[特別機動捜査隊]] 第293話「飛び散る青春」(1967年) - 草間
=== バラエティ ===
* [[マジカル頭脳パワー!!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) ※1999年4月22日・9月16日放送分(最終回)にて数秒間顔出し出演
* [[スーパースペシャル|スーパースペシャル2001]]・総制作費30億!!日テレ年末年始スペシャルのオイシイ所ジョージが全て見せますペシャル(2001年12月22日、日本テレビ) ※VTRにて数秒間顔出し出演
=== 舞台 ===
* [[ふなっしー#舞台|レジェンドオブふなっしー]](2016年6月30日 - 7月31日、[[DMM VR THEATER]]) - バニャール 役(声の出演)<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2070813/full/|title=小島瑠璃子、ふなっしーと共演舞台で声優初挑戦「ヒロイン役、うれしいです!」|newspaper=ORICON STYLE|date=2016-04-27|accessdate=2016-04-27}}</ref>
=== CM ===
* [[クローバー (玩具メーカー)|クローバー]] ザンボット3 コンビネーションプログラムJr.(1977年)
* [[ビック東海]] チェスター・フィールド “暗黒神への挑戦”(1987年)
* [[バンダイ]] [[SDガンダムGX]](1994年)
=== その他 ===
* [[FNNスーパーニュース]]([[2011年]][[1月10日]] [[フジテレビジョン|フジテレビ]])
* [[スター・ツアーズ]](レッド・リーダー)
* [[スーパーJチャンネル]](2011年[[1月11日]] [[テレビ朝日]])
* [[ワイド!スクランブル]](2011年1月11日、テレビ朝日)
* [[朝日新聞]](2011年1月11日、「広がるタイガーマスク運動」朝刊35面、顔出し不可インタビュー)
: 「全国の児童養護施設等に“伊達直人”名義の匿名寄付が続くニュース」についての顔出しコメント(テレビ朝日では「初代タイガーマスク」と書かれているが、[[富山敬]]の代役出演である)。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注|2}}
{{Ras}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2
|refs=
<ref name="声優事典 第二版">{{Cite book|和書 |chapter= 男性篇 |date=1996-03-30 |editor= 掛尾良夫 |title=声優事典 第二版 |page=294-295 |publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn= 4-87376-160-3}}</ref>
<ref name="ゲッターロボ大全">{{Cite book |和書 |chapter=『ゲッターロボ』『ゲッターロボG』ゲスト・キャスト一覧 |date=1998-10-15 |editor=[[岩佐陽一]] |isbn=4-575-28885-3 |page=210 |publisher=[[双葉社]] |title=ゲッターロボ大全}}</ref>
<ref name="科学忍者隊ガッチャマン">{{Cite web|和書| accessdate=2022-12-08 | publisher=[[タツノコプロ]] | title=作品データベース 科学忍者隊ガッチャマン | url=https://tatsunoko.co.jp/works_animation/archive/gatchaman.html}}</ref>
<ref name="ギンガイザー">{{Cite web|和書| accessdate = 2016-06-03 | publisher = [[日本アニメーション]] | title = 超合体魔術ロボ ギンガイザー | url = https://www.nippon-animation.co.jp/work/1267/ | website= 日本アニメーションOFFICIAL SITE}}</ref>
<ref name="ドカベン">{{Cite web|和書| accessdate = 2016-08-02 | publisher = 日本アニメーション | title = ドカベン | url = https://www.nippon-animation.co.jp/work/1047/ | website = 日本アニメーションOFFICIAL SITE}}</ref>
<ref name="ザンボット3">{{Cite web | accessdate = 2023-02-19 | publisher = [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] | title = OUTLINE | url = http://zambot3.net/anime.html | website = 『無敵超人ザンボット3』公式サイト}}</ref>
<ref name="科学忍者隊ガッチャマンF">{{Cite web|和書| accessdate=2022-12-08 | publisher=タツノコプロ | title=作品データベース 科学忍者隊ガッチャマンF | url=https://tatsunoko.co.jp/works_animation/archive/gatcha_f.html}}</ref>
<ref name="ハロー!サンディベル">{{Cite web|和書| url= https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/sandybell/character/ |title= ハロー!サンディベル|キャラクター/キャスト| publisher=東映アニメーション| accessdate=2023-06-28}}</ref>
<ref name="ダイラガーXV">{{Cite web|和書| accessdate = 2023-01-11 | publisher = [[東映アニメーション]] | title = キャラクター/キャスト | url=https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/xv/character/ | website = 東映アニメーション作品ラインナップ | work=機甲艦隊ダイラガーXV}}</ref>
<ref name="ザ・ヘッドマスターズ">{{Cite web|和書|accessdate=2022-09-17 |publisher=東映アニメーション |title = キャラクター/キャスト |url=https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/headmasters/character/ |website = 東映アニメーション作品ラインナップ |work=トランスフォーマー・ザ・ヘッドマスターズ}}</ref>
<ref name="パタリロ!">{{Cite web|和書| url = https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7994| title = パタリロ!| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2023-06-20}}</ref>
<ref name="闘将!!拉麵男">{{Cite web|和書|accessdate=2022-09-17 |publisher=東映アニメーション |title = キャラクター/キャスト |url=https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/rahmen_man/character/ |website = 東映アニメーション作品ラインナップ |work=闘将!!拉麺男 (たたかえラーメンマン)}}</ref>
<ref name="超神マスターフォース">{{Cite web|和書|accessdate=2022-09-17 |publisher=東映アニメーション |title = キャラクター/キャスト |url=https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/masterforce/character/ |website = 東映アニメーション作品ラインナップ |work=トランスフォーマー 超神マスターフォース}}</ref>
<ref name="トランスフォーマージェネレーション">{{Cite book |和書|chapter=設定資料集 |date=2001-07-30 |editor=松田岳久 |isbn = 4-7669-3800-3 |page=110 |publisher=[[勁文社]] |series =ケイブンシャの大百科別冊 |title=トランスフォーマージェネレーション}}</ref>
}}
== 外部リンク ==
* [http://plusone-company.co.jp/talent/mori-katsuji.html 森功至] - プラスワンカンパニー
* [https://web.archive.org/web/20160916131216/http://ameblo.jp/katsuji-mori/ もりもり日記]
* [https://web.archive.org/web/19991006201633/http://www02.so-net.ne.jp/~mir/ MIR on Web.]
* {{Twitter|katsuji_mori}}
* [https://thetv.jp/person/0000026676/ 森功至のプロフィール・画像・写真 - WEBザテレビジョン]
* [https://seigura.com/directory/1272/ 森 功至|声優名鑑 - 声優グランプリweb]
* {{Kinejun name|86410}}
* {{Oricon name|id=222317}}
* {{Movie Walker name|id=81536}}
* {{映画.com name|id=73703}}
* {{allcinema name|117180}}
* {{JMDb name|id=0197840}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:もり かつし}}
[[Category:日本の男性声優]]
[[Category:日本の男優]]
[[Category:日本のナレーター]]
[[Category:日本の子役]]
[[Category:21世紀日本の実業家]]
[[Category:めざましシリーズ関係者]]
[[Category:過去の東京俳優生活協同組合所属者]]
[[Category:過去の青二プロダクション所属者]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:浙江省出身の人物]]
[[Category:1945年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-03-08T10:45:37Z | 2023-12-22T02:21:34Z | false | false | false | [
"Template:声優",
"Template:Cite web",
"Template:Movie Walker name",
"Template:独自研究",
"Template:Twitter status2",
"Template:Cite news",
"Template:Normdaten",
"Template:JMDb name",
"Template:仮リンク",
"Template:Dl2",
"Template:Reflist",
"Template:Ras",
"Template:Cite book",
"Template:Twitter",
"Template:Oricon name",
"Template:Allcinema name",
"Template:半保護",
"Template:Otheruses",
"Template:R",
"Template:Refnest",
"Template:雑多な内容の箇条書き",
"Template:Kinejun name",
"Template:映画.com name"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%8A%9F%E8%87%B3 |
3,671 | 吉田理保子 | 吉田 理保子(よしだ りほこ、1949年1月24日 - )は、日本の女性実業家、元声優。現在はディーカラーにキャスティング・コーディネーターとして在籍。
劇団こまどり、青二プロダクション、ぷろだくしょんバオバブを経て、81プロデュースに所属していた。
東京都出身で、4人兄妹の長女。東京都練馬区育ち。
子供の頃はバレリーナになろうと3歳からバレエをしていたが、「踊りには演技の勉強も必要だな」と思い出し、富士見高校時代は演劇部に所属していた。知り合いにテレビ局のプロデューサーがいたことがきっかけで、劇団こまどりに所属。
20歳ごろに、NHK教育テレビの番組『明るいなかま』に顔出しでレギュラー出演をする。だが、本人曰く「太ってきちゃって(笑)。そのままいけば結婚するシーンもさせてあげるという役だったのに、その話もなくなっちゃうくらい」「こんなに太っちゃったら映像はもう無理じゃない?」となり、フジテレビの人物の紹介で声優活動を開始する。アニメのデビュー作は『アンデルセン物語』。
1998年1月に声優業の第一線から引退する。理由については後に、洋画でいい役や面白い役を当時立て続けに担当できたことや、現場で共演者の芝居を観て「もっとこうすれば良くなるのに......」と感じるようになりマネージャーに向いているかもしれないと考えたこと、それまでにさまざまな役を演じ「やりきった」という気持ちが大きかったことを挙げている。
引退後はマネージャー職を経て、キャスティング・コーディネーター、声優講師などの活動に主に携わっている。声優業については過去に演じた役・再現など特殊なオファーが入った場合を除き、基本的にしない方針を採っている。
2006年より野沢雅子が独立して設立したオフィス野沢に移籍し、野沢のマネージャーを務めていた。2012年4月30日付けでオフィス野沢廃業後、メディアフォースに移籍しマネージャー業を務めていたが、2014年2月23日、メディアフォースの破産に伴い、同年3月より株式会社ディーカラーにて所属声優のキャスティングに関わる業務を行っている。
声種はメゾソプラノ。
声優としては1960年代末期から1990年代にかけて活躍。『アルプスの少女ハイジ』のクララなど当初は少女役が多かったが、1978年に『未来少年コナン』で大人の女性であるモンスリー、翌1979年には『ベルサイユのばら』でロザリー・ラ・モリエールを演じ芸域を広げた。主役級の代表作に、『魔女っ子メグちゃん』の神崎メグ、『まいっちんぐマチコ先生』麻衣マチコなどがある。
洋画吹き替えでは、『エイリアン3』のシガニー・ウィーバーや『ターミネーター2』のリンダ・ハミルトン、『女刑事キャグニー&レイシー』のシャロン・グレスなど芯の強い女性キャラクターを数多く演じた。
特技は日舞。趣味は読書、お酒、ゴルフ。
『アルプスの少女ハイジ』のクララについて、後に「ああいう役はめったに出会えなかった」「特別な役」であると共に、一番苦労した役だったと述べている。収録時に画がなく、何をやってるのか分からなくなるくらいダメ出しが多かったため、いつも「早くハイジは山に帰れ!」と思っていたといい、クララがハイジに再会した辺りから「やっと吹っ切れた」という。また、演技ができず悔し泣きをした経験もあり、「今は、そういう経験をしたから良かったんだと思いますけど」と語っている。
『魔女っ子メグちゃん』の神崎メグについては、クララとは対照的に男勝りで活発なため「本当に伸び伸びと地のままで演じさせていただいた感じでしたね」と語り、童心に戻れたように楽しく演じられた大好きな役だったという。
メグを演じていた頃、当時の所属事務所に小学校5年生の少年からファンレターが来た、内容は手紙の他に野球のユニフォーム姿などプライベート写真が同封されていた。明らかに吉田を異性として意識していたものであり、メグを演じる吉田のことを中学2年生くらいのお姉さんだと思い込んでいた様子だったという。
吉田の引退後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
太字はメインキャラクター。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "吉田 理保子(よしだ りほこ、1949年1月24日 - )は、日本の女性実業家、元声優。現在はディーカラーにキャスティング・コーディネーターとして在籍。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "劇団こまどり、青二プロダクション、ぷろだくしょんバオバブを経て、81プロデュースに所属していた。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "東京都出身で、4人兄妹の長女。東京都練馬区育ち。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "子供の頃はバレリーナになろうと3歳からバレエをしていたが、「踊りには演技の勉強も必要だな」と思い出し、富士見高校時代は演劇部に所属していた。知り合いにテレビ局のプロデューサーがいたことがきっかけで、劇団こまどりに所属。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "20歳ごろに、NHK教育テレビの番組『明るいなかま』に顔出しでレギュラー出演をする。だが、本人曰く「太ってきちゃって(笑)。そのままいけば結婚するシーンもさせてあげるという役だったのに、その話もなくなっちゃうくらい」「こんなに太っちゃったら映像はもう無理じゃない?」となり、フジテレビの人物の紹介で声優活動を開始する。アニメのデビュー作は『アンデルセン物語』。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "1998年1月に声優業の第一線から引退する。理由については後に、洋画でいい役や面白い役を当時立て続けに担当できたことや、現場で共演者の芝居を観て「もっとこうすれば良くなるのに......」と感じるようになりマネージャーに向いているかもしれないと考えたこと、それまでにさまざまな役を演じ「やりきった」という気持ちが大きかったことを挙げている。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "引退後はマネージャー職を経て、キャスティング・コーディネーター、声優講師などの活動に主に携わっている。声優業については過去に演じた役・再現など特殊なオファーが入った場合を除き、基本的にしない方針を採っている。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "2006年より野沢雅子が独立して設立したオフィス野沢に移籍し、野沢のマネージャーを務めていた。2012年4月30日付けでオフィス野沢廃業後、メディアフォースに移籍しマネージャー業を務めていたが、2014年2月23日、メディアフォースの破産に伴い、同年3月より株式会社ディーカラーにて所属声優のキャスティングに関わる業務を行っている。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "声種はメゾソプラノ。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "声優としては1960年代末期から1990年代にかけて活躍。『アルプスの少女ハイジ』のクララなど当初は少女役が多かったが、1978年に『未来少年コナン』で大人の女性であるモンスリー、翌1979年には『ベルサイユのばら』でロザリー・ラ・モリエールを演じ芸域を広げた。主役級の代表作に、『魔女っ子メグちゃん』の神崎メグ、『まいっちんぐマチコ先生』麻衣マチコなどがある。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "洋画吹き替えでは、『エイリアン3』のシガニー・ウィーバーや『ターミネーター2』のリンダ・ハミルトン、『女刑事キャグニー&レイシー』のシャロン・グレスなど芯の強い女性キャラクターを数多く演じた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "特技は日舞。趣味は読書、お酒、ゴルフ。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "『アルプスの少女ハイジ』のクララについて、後に「ああいう役はめったに出会えなかった」「特別な役」であると共に、一番苦労した役だったと述べている。収録時に画がなく、何をやってるのか分からなくなるくらいダメ出しが多かったため、いつも「早くハイジは山に帰れ!」と思っていたといい、クララがハイジに再会した辺りから「やっと吹っ切れた」という。また、演技ができず悔し泣きをした経験もあり、「今は、そういう経験をしたから良かったんだと思いますけど」と語っている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "『魔女っ子メグちゃん』の神崎メグについては、クララとは対照的に男勝りで活発なため「本当に伸び伸びと地のままで演じさせていただいた感じでしたね」と語り、童心に戻れたように楽しく演じられた大好きな役だったという。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "メグを演じていた頃、当時の所属事務所に小学校5年生の少年からファンレターが来た、内容は手紙の他に野球のユニフォーム姿などプライベート写真が同封されていた。明らかに吉田を異性として意識していたものであり、メグを演じる吉田のことを中学2年生くらいのお姉さんだと思い込んでいた様子だったという。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "吉田の引退後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。",
"title": "後任"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "太字はメインキャラクター。",
"title": "出演"
}
] | 吉田 理保子は、日本の女性実業家、元声優。現在はディーカラーにキャスティング・コーディネーターとして在籍。 | {{記事名の制約|title= 𠮷田理保子|disablerealtitle=yes}}
{{特殊文字}}
{{声優
| 名前 = 吉田 理保子
| ふりがな = よしだ りほこ
| 画像ファイル =
| 画像サイズ =
| 画像コメント =
| 本名 = 𠮷田 理保子(読みは同じ)
| 愛称 =
| 性別 = [[女性]]
| 出生地 =
| 出身地 = {{JPN}}・[[東京都]][[練馬区]]{{R|ジ・アニメ}}
| 死没地 =
| 生年 = 1949
| 生月 = 1
| 生日 = 24
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 血液型 = [[ABO式血液型|O型]]<ref name="goo人名事典">{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/吉田理保子/#person-110073766_|title=吉田理保子の解説|work=goo人名事典|accessdate=2022-01-11}}</ref><ref name="anime24">{{Cite book|和書 |author=[[アニメージュ]]編集部 |chapter=吉田理保子 話のわかる、ときには甘えられる"中姉御"|date=1981-07-31 |pages=159-164 |publisher=[[徳間書店]] |title=アニメ声優24時}}</ref>
| 身長 =
| 職業 = [[声優]]、[[実業家]]
| 事務所 =
| 配偶者 =
| 著名な家族 =
| 公式サイト =
| 公称サイズ出典 = {{Cite book|和書|author=|title=日本タレント名鑑(1997年版)|page=838|publisher=VIPタイムズ社 |isbn=|date=1997}}
| 身長2 = 160{{R|profile93}}<ref>{{Cite book|和書|author=|title=日本タレント名鑑(1998年版)|page=870|publisher=VIPタイムズ社 |isbn=|date=1998}}</ref>
| 体重 = 48
| 活動期間 = [[1960年代]] - [[1998年]]
| デビュー作 = 『[[アンデルセン物語]]』(アニメ)<br />『[[ペリー・メイスン]]』(吹き替え)
| 活動 =
| サイン =
}}
'''吉田 理保子'''(よしだ りほこ、[[1949年]][[1月24日]]{{R|goo人名事典|profile93}} - )は、[[日本]]の[[女性]][[実業家]]、元[[声優]]。現在は[[ディーカラー]]にキャスティング・コーディネーターとして在籍<ref name="twitter">{{Cite tweet|user=momolove63|number=442472390312751104|date=2014-03-09|title=3月より株式会社ディーカラーにてキャスティングコーディネイターとして仕事をしております。元メディアフォースの平川大輔(フリー)はじめ他の声優たちをこれからも応援よろしくお願い致します。|accessdate=2022-01-12}}</ref>。
== 来歴 ==
[[グループこまどり|劇団こまどり]]{{R|anime24|profile93|声優の世界|OUT}}、[[青二プロダクション]]{{R|ジ・アニメ|OUT}}、[[ぷろだくしょんバオバブ]]{{R|声優の世界|OUT}}を経て、[[81プロデュース]]に所属していた{{R|profile93}}。
[[東京都]]出身で、4人兄妹の長女{{R|profile93|fukikae}}。東京都[[練馬区]]育ち{{R|ジ・アニメ}}。
子供の頃は[[バレリーナ]]になろうと3歳から[[バレエ]]をしていたが、「踊りには演技の勉強も必要だな」と思い出し、[[富士見中学高等学校|富士見高校]]時代は演劇部に所属していた{{R|fukikae}}。知り合いに[[テレビ局]]の[[プロデューサー]]がいたことがきっかけで、[[グループこまどり|劇団こまどり]]に所属{{R|fukikae}}。
20歳ごろに、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]の番組『[[明るいなかま]]』に顔出しでレギュラー出演をする。だが、本人曰く「太ってきちゃって(笑)。そのままいけば[[結婚]]するシーンもさせてあげるという役だったのに、その話もなくなっちゃうくらい」「こんなに太っちゃったら映像はもう無理じゃない?」となり、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の人物の紹介で声優活動を開始する{{R|fukikae}}。アニメのデビュー作は『[[アンデルセン物語]]』{{R|fukikae}}。
[[1998年]]1月に声優業の第一線から引退する<ref name="reallive">{{Cite web|和書|url=https://npn.co.jp/article/detail/94678292 |title=【声優の履歴書】第49回 『魔女っ子メグちゃん』神崎メグ役、『まいっちんぐマチコ先生』マチ子先生役を演じた・吉田理保子 |publisher=リアルライブ |date=2013-12-26 |accessdate=2020-6-12 }}</ref>。理由については後に、洋画でいい役や面白い役を当時立て続けに担当できたことや、現場で共演者の芝居を観て「もっとこうすれば良くなるのに……」と感じるようになりマネージャーに向いているかもしれないと考えたこと、それまでにさまざまな役を演じ「やりきった」という気持ちが大きかったことを挙げている{{R|fukikae}}。
引退後はマネージャー職を経て、キャスティング・コーディネーター、声優講師などの活動に主に携わっている{{R|fukikae}}。声優業については過去に演じた役・再現など特殊なオファーが入った場合を除き、基本的にしない方針を採っている{{R|reallive}}。
[[2006年]]より[[野沢雅子]]が独立して設立した[[オフィス野沢]]に移籍し、野沢のマネージャーを務めていた。[[2012年]]4月30日付けでオフィス野沢廃業後、[[メディアフォース]]に移籍しマネージャー業を務めていた{{R|reallive}}が、[[2014年]]2月23日、メディアフォースの破産<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tsr-net.co.jp/news/tsr/20140225_01.html |title=(有)ドリーム・フォースほか1社 |publisher=東京商工リサーチ |date=2014-02-25 |accessdate=2023-02-23}}</ref>に伴い、同年3月より株式会社[[ディーカラー]]にて所属声優のキャスティングに関わる業務を行っている<ref name="twitter" />。
== 人物 ==
[[音域#人声の音域|声種]]は[[ソプラノ|メゾソプラノ]]{{R|声優の世界|OUT}}。
声優としては[[1960年代]]末期から[[1990年代]]にかけて活躍。『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]』のクララなど当初は少女役が多かったが、[[1978年]]に『[[未来少年コナン]]』で大人の女性であるモンスリー、翌[[1979年]]には『[[ベルサイユのばら]]』で[[ロザリー・ラ・モリエール]]を演じ芸域を広げた。主役級の代表作に、『[[魔女っ子メグちゃん]]』の神崎メグ、『[[まいっちんぐマチコ先生]]』麻衣マチコなどがある{{R|reallive}}。
洋画吹き替えでは、『[[エイリアン3]]』の[[シガニー・ウィーバー]]や『[[ターミネーター2]]』の[[リンダ・ハミルトン]]、『[[女刑事キャグニー&レイシー]]』の[[シャロン・グレス]]など芯の強い女性キャラクターを数多く演じた。
=== エピソード ===
特技は[[日本舞踊|日舞]]{{R|profile93}}。趣味は読書、お酒、ゴルフ{{R|OUT}}。
『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]』のクララについて、後に「ああいう役はめったに出会えなかった」「特別な役」であると共に、一番苦労した役だったと述べている。収録時に画がなく、何をやってるのか分からなくなるくらいダメ出しが多かったため、いつも「早くハイジは山に帰れ!」<ref group="注">クララが初登場したゼーゼマン家編のハイジは、[[ノスタルジア|ホームシック]]になっていたことに加え、ロッテンマイヤーの厳しい教育に耐えかねて[[夢遊病]]になってしまい、結局山に送り返された。</ref>と思っていたといい、クララがハイジに再会した辺りから「やっと吹っ切れた」という。また、演技ができず悔し泣きをした経験もあり、「今は、そういう経験をしたから良かったんだと思いますけど」と語っている{{R|fukikae}}。
『[[魔女っ子メグちゃん]]』の神崎メグについては、クララとは対照的に男勝りで活発なため「本当に伸び伸びと地のままで演じさせていただいた感じでしたね」と語り、童心に戻れたように楽しく演じられた大好きな役だったという{{R|fukikae}}。
メグを演じていた頃、当時の所属事務所に小学校5年生の少年からファンレターが来た、内容は手紙の他に野球のユニフォーム姿などプライベート写真が同封されていた。明らかに吉田を異性として意識していたものであり、メグを演じる吉田のことを中学2年生くらいのお姉さんだと思い込んでいた様子だったという{{R|OUT}}。
== 後任 ==
吉田の引退後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
{| class="wikitable sortable" style="font-size:small"
|-
!後任!!役名!!概要作品!!後任の初担当作品
|-
| rowspan="4" |[[吉田美保]]
| 早乙女ミチル
| 『[[ゲッターロボ]]』
| rowspan="3" |『[[スーパーロボット大戦コンプリートボックス]]』
|-
| グレース・マリア・フリード
| 『[[UFOロボ グレンダイザー]]』
|-
| ローレライ
| 『[[マジンガーZ]]』
|-
| 卯月美和
| 『[[鋼鉄ジーグ]]』
| 『[[第2次スーパーロボット大戦α]]』
|-
| [[松井菜桜子]]
| キャローン・キャル
| 『[[戦闘メカ ザブングル]]』
| 『[[スーパーロボット大戦α外伝]]』
|-
| [[渡辺久美子]]
| コマンダー・リサー
| 『[[無敵鋼人ダイターン3]]』
| 『[[スーパーロボット大戦A PORTABLE]]』
|-
| [[岡本茉利]]
| 神崎メグ
| 『[[魔女っ子メグちゃん]]』
| 『[[魔女っ子大作戦]]』
|-
| rowspan="2" |[[日髙のり子]]
| ツムちゃん
| rowspan="2" |『[[ざわざわ森のがんこちゃん]]』
| rowspan="2" | 1998年度放送分
|-
| ヒポ先生
|-
| [[戸田恵子]]
| リプリー
| 『[[エイリアン3]]』フジテレビ版
| 『[[エイリアン4]]』フジテレビ版<ref group="注"> 吉田の引退前もテレビ朝日版の吹き替えで担当していた。ただし、同作に登場するリプリーは、厳密には前作で吉田が演じたリプリーとは別の個体である。</ref>
|-
| [[野沢雅子]]
| シチューおばさん
|rowspan="3" |『[[それいけ!アンパンマン]]』
| 第605話Bパート
|-
| [[金田朋子]]
| ドロロンくん
| 第711話Aパート
|-
| [[半場友恵]]
| 空まめおばさん
| 第848話Bパート
|-
| [[甲斐田裕子]]
| マルゲリータ・ファブリ
| 『[[名探偵ポワロ|名探偵ポワロ イタリア貴族殺害事件]]』
| 完全版追加収録部分
|-
| [[山本百合子]]
| クララ
| 『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]』
|『[[教えて!トライさん]]』<ref>{{Cite web|work=声優グランプリweb |url=http://seigura.com/enjoy/directory/20150414_12274.html |title=山本百合子|声優名鑑 |accessdate=2017-05-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170616170938/http://seigura.com/enjoy/directory/20150414_12274.html|archivedate=2017-06-16}}</ref>
|-
|}
== 出演 ==
'''太字'''はメインキャラクター。
=== テレビアニメ ===
{{dl2
| 1971年 |
* [[アンデルセン物語]](村人)
* [[いなかっぺ大将]]
* [[国松さまのお通りだい]]
* [[さるとびエッちゃん]]
* [[天才バカボン (アニメ)|天才バカボン]]
* [[ふしぎなメルモ]](矢部千代子)
| 1972年 |
* [[海のトリトン]](クラゲ)
* [[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第2シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎(第2作)]](母親)
* [[科学忍者隊ガッチャマン]](マヤ)
* [[ど根性ガエル]](1972年 - 1973年、山田花子、天地ルミ{{R|富野由悠季}})
* [[マジンガーZ]]
* [[モンシェリCoCo]]
* [[ルパン三世 (TV第1シリーズ)]](リーサ)
| 1973年 |
* [[バビル2世]]
* [[ワンサくん]](ユキコ<ref>{{Cite web|和書|title=ワンサくん |publisher = 手塚治虫 公式サイト|url=https://tezukaosamu.net/jp/anime/42.html#chara|accessdate=2023-04-13}}</ref>、シロー)
* [[デビルマン]](牧村夫人)
* [[ミクロイドS]]
* [[ミラクル少女リミットちゃん]](竹下光子)
* [[空手バカ一代]](マヤ)
* [[新造人間キャシャーン]](ミリー)
* [[侍ジャイアンツ]]('''番場ユキ''')
* [[キューティーハニー]](1973年 - 1974年、'''夏子'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.toei-anim.co.jp/shop/dvd_recutie/cutie.html| title = キューティーハニー| publisher = [[東映アニメーション]]| accessdate = 2016-05-23}}</ref>)
* [[ドラえもん (1973年のテレビアニメ)|ドラえもん(日本テレビ版)]](ジャマ子)
* [[山ねずみロッキーチャック]](そよ風のおねえさん、うずらの子供)
| 1974年 |
* [[ゲッターロボ]](1974年 - 1975年、'''早乙女ミチル'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/getter/| title = ゲッターロボ| publisher = 東映アニメーション| accessdate = 2016-06-10}}</ref>)
* [[アルプスの少女ハイジ (アニメ) |アルプスの少女ハイジ]]('''クララ・ゼーゼマン'''、村人)
* [[はじめ人間ギャートルズ]]('''ピーコちゃん''')
* [[グレートマジンガー]](カオリ、戦闘獣ヘレナ、森山優子)
* [[てんとう虫の歌]](動物園の男の婚約者)
* [[魔女っ子メグちゃん]]('''神崎メグ'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/megu/| title = 魔女っ子メグちゃん| publisher = 東映アニメーション| accessdate = 2016-06-29}}</ref>)
* [[みつばちマーヤの冒険]](オトシブミのママ)
| 1975年 |
* [[アラビアンナイト シンドバットの冒険]]
* [[一休さん (テレビアニメ)|一休さん]]('''桔梗屋弥生'''〈2代目〉<ref>{{Cite web|和書| url = https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/ikkyu/| title = 一休さん| publisher = 東映アニメーション| accessdate = 2016-05-23}}</ref> ※第4話 - 第296話)
* [[ゲッターロボG]](1975年 - 1976年、'''早乙女ミチル'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/getter_g/| title = ゲッターロボG| publisher = 東映アニメーション| accessdate = 2016-06-12}}</ref>)
* [[鋼鉄ジーグ]]('''卯月美和''')
* [[少年徳川家康]]([[築山殿]])
* [[UFOロボ グレンダイザー]]('''グレース・マリア・フリード'''{{R|グレンダイザー}}、小川みゆき、白川カオリ、コマンダーマリーネ)
* [[勇者ライディーン]](岬百合香)
* [[ラ・セーヌの星]](アンジェリカ)
| 1976年 |
* [[母をたずねて三千里]](ロシータ)
* [[元祖天才バカボン]]
* [[ゴワッパー5 ゴーダム]](植木田ミト)
* [[大空魔竜ガイキング]](山中さゆり)
* [[タイムボカン]](カーレン)
* [[ハックルベリィの冒険]](キャサリン)
* [[ブロッカー軍団IVマシーンブラスター]](ヒロミ)
* [[ポールのミラクル大作戦]](虹の精)
* [[マグネロボ ガ・キーン]]('''花月舞〈パイロット版〉'''、幼少時の北条琴江)
* [[マシンハヤブサ]]('''西音寺さくら'''{{R|マシンハヤブサ}})
| 1977年 |
* [[あしたへアタック!]]('''一条明日香'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nippon-animation.co.jp/work/1264/| title = あしたへアタック!| publisher = [[日本アニメーション]]| accessdate = 2016-06-23}}</ref>)
* [[アローエンブレム グランプリの鷹]]('''香取梨恵'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/grandprix/| title = アローエンブレム グランプリの鷹| publisher = 東映アニメーション | accessdate = 2016-06-16}}</ref>)
* [[一発貫太くん]](京子)
* [[超電磁ロボ コン・バトラーV]](山部ゆき子{{R|コン・バトラーV}})
* [[氷河戦士ガイスラッガー]](志岐玲子)
* [[まんが日本絵巻]]([[那須与一]]〈少年時代〉、[[巴御前]])
* [[ヤッターマン]](ティターニア、ラン)
* [[惑星ロボ ダンガードA]]('''霧野リサ'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/danguard_a/| title = 惑星ロボ ダンガードA| publisher = 東映アニメーション| accessdate = 2016-06-01}}</ref>)
| 1978年 |
* [[宇宙海賊キャプテンハーロック]](エメラーダ)
* [[キャプテン・フューチャー]](ヌララ)
* [[女王陛下のプティアンジェ]](ローラ)
* [[エースをねらえ!|新・エースをねらえ!]](宝力冴子)
* [[宝島 (テレビアニメ)|宝島]](1978年 - 1979年、リリー<ref>{{Cite web|和書| url = https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7754| title = 宝島| website = [[メディア芸術データベース]] | publisher = [[文化庁]] |accessdate = 2021-09-08}}</ref>)
* [[はいからさんが通る]]('''北小路環'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7742|title=はいからさんが通る|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>、おひきずりさん)
* [[ペリーヌ物語]](パン屋)
* [[魔女っ子チックル]]('''小森チックル''')
* [[未来少年コナン]]('''モンスリー'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nippon-animation.co.jp/work/1295/| title = 未来少年コナン| publisher = 日本アニメーション| accessdate = 2016-06-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7219|title=未来少年コナン|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>)
* [[無敵鋼人ダイターン3]](コマンダー・リーサー)
| 1979年 |
* [[赤毛のアン (アニメ)|赤毛のアン]](フローラ・ジェーン)
* [[あしたの勇者たち]](三幌洋子)
* [[アニメーション紀行 マルコ・ポーロの冒険]]('''オルジェ''')
* [[科学冒険隊タンサー5]](ジョン)
* [[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]](ライザ、キャロル)
* [[サイボーグ009 (アニメ)|サイボーグ009(1979年版)]]([[フレイヤ]]、ペテル少年、スクナーA.B)
* [[ゼンダマン]](女帝)
* [[闘士ゴーディアン]]('''ロゼ'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7816| title = 闘士ゴーディアン| website = メディア芸術データベース | publisher = 文化庁 |accessdate = 2023-02-23}}</ref>)
* [[赤い鳥|日本名作童話シリーズ 赤い鳥のこころ]](鬼の奥さん)
* [[ベルサイユのばら]]('''[[ロザリー (ベルサイユのばら)|ロザリー]]'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7822| title = ベルサイユのばら| website = メディア芸術データベース | publisher = 文化庁 |accessdate = 2016-10-09}}</ref>)
* [[ルパン三世 (TV第2シリーズ)]](1979年 - 1980年、マーガレット、ウィルヘルム・ブリリア、クラウディア)
| 1980年 |
* [[宇宙大帝ゴッドシグマ]]('''ミナコ・マルチーノ'''、ジーラ)
* [[タイムパトロール隊オタスケマン]](ファラ)
* [[釣りキチ三平]](チーコ、ヘレン・ワトソン)
* [[鉄腕アトム (アニメ第2作)]](キャシー、リリィ)
* [[ニルスのふしぎな旅]](ダンフィンの姉)
* [[ムーの白鯨]]('''マドーラ''')<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7854|title=ムーの白鯨|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>
| 1981年 |
* [[おはよう!スパンク]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7913|title=おはよう!スパンク|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>(科子)
* [[怪物くん (カラーアニメ)|怪物くん(第2作)]](メフィスト)
* [[グリックの冒険]](フラック)
* [[太陽の使者 鉄人28号]](ラン)
* [[まいっちんぐマチコ先生]](1981年 - 1983年、'''麻衣マチ子''')<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7958|title=まいっちんぐマチコ先生|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url = https://pierrot.jp/archive/1980/tv80_02.html| title = まいっちんぐマチコ先生| publisher = ぴえろ公式サイト | accessdate = 2022-06-02}}</ref>
| 1982年 |
* [[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]](1982年 - 1984年、'''[[うる星やつらの登場人物#クラマ|クラマ]]''' 他)
* [[科学救助隊テクノボイジャー]](先生、母、ジュリアン)
* [[戦闘メカ ザブングル]](キャローン・キャル)
* [[太陽の子エステバン]](マリンチェ)<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C8013|title=太陽の子エステバン|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>
* [[とんでモン・ペ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C8009|title=とんでモン・ペ|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>('''加納麻紀''')
* [[忍者マン一平]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7276|title=忍者マン一平|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>(徳川先生、プッピー)
* [[南の虹のルーシー]]('''ケイト・ポップル'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nippon-animation.co.jp/work/1408/| title = 南の虹のルーシー| publisher = 日本アニメーション| accessdate = 2016-06-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7974|title=南の虹のルーシー|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>、'''ナレーション''')
* [[魔境伝説アクロバンチ]](サバの王女・シルビア)
* [[魔法のプリンセス ミンキーモモ]](マリー)
| 1983年 |
* [[アルプス物語 わたしのアンネット]](マリー・モレル)
* [[コブラ (アニメ)#スペースコブラ|スペースコブラ]]
* [[聖戦士ダンバイン]](ジャコバ・アオン、ベティ・フローズン<ref>{{Cite book |和書 |chapter=第1章 聖戦士たち --キャラクター&メカニック-- Character File |editor=BAD TASTE |title=聖戦士ダンバイン大全 |date=2004-03-05 |page=60 |publisher=[[双葉社]] |isbn=4-575-29653-8}}</ref>)
* [[超時空世紀オーガス]](ティナ・ヘンダーソン)<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7694|title=超時空世紀オーガス|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>
* [[ピュア島の仲間たち]](ミンタ)
* [[プラレス3四郎]](恵子)
| 1984年 |
* [[オヨネコぶーにゃん]]('''アレレ''')<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C8190|title=オヨネコぶーにゃん|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>
* [[Gu-Guガンモ]](半平太のママ、ドロシー・スカイラーク)
* [[小さな恋のものがたり]] チッチとサリー初恋の四季(トンコ)<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C8188|title=小さな恋のものがたり|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>
* [[牧場の少女カトリ]](ハンナ)
* [[森のトントたち]](エルミー)
| 1985年 |
* [[ハイスクール!奇面組]](宇留冴〈2代目〉、固岩鉄子)
* [[六三四の剣]](夏木佳代<ref>{{Cite web|和書| url = https://eiken-anime.jp/works/%E5%85%AD%E4%B8%89%E5%9B%9B%E3%81%AE%E5%89%A3/| title = 六三四の剣| publisher = [[エイケン (アニメ制作会社)|エイケン]] オフィシャルサイト| accessdate = 2016-06-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C8263|title=六三四の剣|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>)
* [[アルペンローゼ (漫画)|炎のアルペンローゼ]](フランソワーズ・ド・グールモン伯爵夫人)
* [[夢の星のボタンノーズ]](ブレスレッド夫人)
| 1986年 |
* [[愛少女ポリアンナ物語]](デラ・ウェザビー)
* [[オズの魔法使い (テレビアニメ)|オズの魔法使い]](コウノトリ)
* [[光の伝説]](石崎監督)<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7696|title=光の伝説|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>
* [[ボスコアドベンチャー]](ダミア)<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C8365|title=ボスコアドベンチャー|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>
| 1987年 |
* [[ウルトラB]](戸坂の母)
* [[エスパー魔美]](たばこ屋のおばさん)
* [[シティーハンター (アニメ)|シティーハンター]](エンジェル・ハート)
| 1988年 |
* [[小公子セディ]](サラ)
* [[トランスフォーマー 超神マスターフォース]]('''メガ''')
| 1989年 |
* [[青いブリンク]](女王)
* [[昆虫物語 みなしごハッチ]](1989年 - 1990年、ガのママ、スズメバチの女王、サーファ女王)
* [[美味しんぼ]](1989年 - 1991年、先生、田原、テルコ、二木輝子)
* [[おぼっちゃまくん]](ミボリン)
* [[機動警察パトレイバー]](高尾)
* [[ジャングル大帝|ジャングル大帝(新)]](マーサ)
* [[パラソルヘンべえ]](内木陽子)
* [[笑ゥせぇるすまん]](1989年 - 1990年、千子、女性)
| 1990年 |
* [[それいけ!アンパンマン]](1990年 - 1996年、ケシゴム先生〈初代〉、キュウリのモミモミさん〈初代〉、シチューおばさん〈初代〉、そらまめおばさん〈初代〉、ドロロンくん〈初代〉)
* [[チンプイ]](コスモス)
* [[魔神英雄伝ワタル2]](フトメン)
* [[私のあしながおじさん]](ジュリアの母)
| 1991年 |
* [[おにいさまへ…]](マリ子の母)
* [[おばけのホーリー]]('''マジョリーヌ''')
* [[きんぎょ注意報!]](千歳のママ)
* [[ゲッターロボ號]](聖月里美)
* [[21エモン]](リゲルの母)
* [[わたしとわたし ふたりのロッテ]](ルイーゼロッテ・ケルナー)
| 1992年 |
* [[お〜い!竜馬#テレビアニメ|お〜い!竜馬]](坂本伊予)
* [[チロリン村物語]](キャベツ)
* [[ママは小学4年生]]('''みらい'''{{R|ママは小学4年生}}、ソフィア・ヴィットーリ)
| 1993年 |
* [[恐竜惑星]]('''レイ'''、'''シル・カシム・シル'''、雪深き冬に生まれ白き破滅を超越する強き娘)
| 1994年 |
* [[モンタナ・ジョーンズ]](アガサ・ジョーンズ)
| 1995年 |
* [[愛天使伝説ウェディングピーチ]](ジュラ)
* [[あずきちゃん]](志乃)
* [[アリス探偵局]](白雪姫子の継母)
* [[空想科学世界ガリバーボーイ]](占い師、'''ハレルヤ'''、ヤッコ太夫)
* [[ヤン坊ニン坊トン坊|ヤンボウ ニンボウ トンボウ]](海賊の頭、王妃)
| 1996年 |
* [[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第4シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎(第4作)]](白粉婆)
* [[はりもぐハーリー]](カブリーヌ母)
* [[名犬ラッシー (世界名作劇場)|名犬ラッシー]](メリッサ・キャラクロー)
* [[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]](芦屋暎子)
| 1997年 |
* [[金田一少年の事件簿 (アニメ)|金田一少年の事件簿]](多岐川かほる)
* [[中華一番!]](パイ<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nippon-animation.co.jp/work/1773/| title = 中華一番!| publisher = 日本アニメーション| accessdate = 2016-06-29}}</ref>)
* [[白鯨伝説]](アイリーン)
}}
=== 劇場アニメ ===
{{dl2
| 1975年 |
* [[アンデルセン童話 にんぎょ姫]](スオミの姫)
* [[グレートマジンガー対ゲッターロボ]](早乙女ミチル)
* [[グレートマジンガー対ゲッターロボG 空中大激突]](早乙女ミチル)
| 1976年 |
* [[グレンダイザー ゲッターロボG グレートマジンガー 決戦! 大海獣]](早乙女ミチル)
| 1977年 |
* [[惑星ロボ ダンガードA#『惑星ロボ ダンガードA対昆虫ロボット軍団』|惑星ロボ ダンガードA対昆虫ロボット軍団]]('''霧野リサ'''<ref>{{Cite web|和書| url=https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/movie/movie_danguard_konchu/character/ | title=惑星ロボ ダンガードA対昆虫ロボット軍団|キャラクター/キャスト| publisher=東映アニメーション| accessdate=2022-12-17}}</ref>)
| 1978年 |
* 惑星ロボ ダンガードA 宇宙大海戦('''霧野リサ'''<ref>{{Cite web|和書| url=https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/movie/movie_uchudaikaisen_danguard/character/ | title=惑星ロボ ダンガードA 宇宙大海戦|キャラクター/キャスト| publisher=東映アニメーション| accessdate=2022-12-17}}</ref>)
| 1979年 |
* [[未来少年コナン]]('''モンスリー'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nippon-animation.co.jp/work/1330/| title = 未来少年コナン (劇場版)| publisher = 日本アニメーション| accessdate = 2016-06-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C409779|title=未来少年コナン|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>)
| 1980年 |
* [[家なき子 (アニメ)|家なき子]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C409791|title=家なき子|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>
* [[まことちゃん]](美香)
| 1981年 |
* [[グリックの冒険]](フラック)<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C409852|title=グリックの冒険|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>
| 1983年 |
* [[うる星やつら オンリー・ユー]]('''クラマ姫''')
| 1984年 |
* [[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]](トエト、少女)
* 未来少年コナン 巨大機ギガントの復活('''モンスリー'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nippon-animation.co.jp/work/1460/| title = 未来少年コナン 巨大機ギガントの復活| publisher = 日本アニメーション| accessdate = 2016-06-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C412191|title=未来少年コナン特別篇 巨大機ギガントの復活|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>)
| 1985年 |
* Gu-Guガンモ(半平太のママ)<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C409996|title=Gu-Guガンモ|website=メディア芸術データベース|publisher=文化庁|accessdate=2021-12-19}}</ref>
* [[ルパン三世 バビロンの黄金伝説]](ザクスカヤ)
| 1986年 |
* [[ウインダリア]](クンドリー)
| 1988年 |
* [[はれときどきぶた#アニメ映画|はれときどきぶた]](お母さん)
| 1989年 |
* [[ヴイナス戦記]](キャシー)
* [[ウルトラマンUSA]]('''スーザン・ランド''')
* [[ギャラガ (アニメ映画)|ギャラガ HYPER PSYCHIC GEO GARAGA]](ミン)
* [[それいけ!アンパンマン キラキラ星の涙]](氷の女王〈初代〉)
| 1990年 |
* [[ベルサイユのばら]](ジャンヌ)
| 1992年 |
* [[三国志 (アニメ映画)|三国志 第一部・英雄たちの夜明け]]([[貂蝉]])
| 1995年 |
* [[美少女戦士セーラームーンSuperS セーラー9戦士集結!ブラック・ドリーム・ホールの奇跡]](バディヤーヌ)
| 1996年 |
* [[金田一少年の事件簿 (1996年の映画)|金田一少年の事件簿 オペラ座館・新たなる殺人]](佐伯涼子)
}}
=== OVA ===
{{dl2
| 1986年 |
* [[那由他 (漫画)|那由他]](ソズ)
| 1989年 |
* [[極黒の翼バルキサス]](リアンの母)
| 1990年 |
* [[冒険!イクサー3]](ゴーレム)
| 1991年 |
* [[銀河英雄伝説 (アニメ)|銀河英雄伝説]]([[カール・グスタフ・ケンプ|ケンプ]]の妻)
* [[創竜伝]](鳥羽冴子)
| 1993年 |
* [[ドミニオン (漫画)|特捜戦車隊ドミニオン]](ウェザビー市長)
| 1994年 |
* [[Compiler]](アップロード)
| 1997年 |
* [[スレイヤーズ (アニメ)|スレイヤーズすぺしゃる]](ジョセフィーヌ)
}}
=== ゲーム ===
* [[エフェラ アンド ジリオラ ジ・エンブレム フロム ダークネス]](1991年、皇母、キリアン)
* [[シュヴァルツシルト (ゲーム)|スーパーシュヴァルツシルト]](1991年、レビユ・アメジスト)
* [[ライズ・オブ・ザ・ドラゴン]](1992年、ドロシー)※[[メガCD]]版
* [[未来少年コナン#ゲーム|未来少年コナン]](1992年、モンスリー)※[[PCエンジン]]版
* [[キューティーハニーFX]](1995年、パンサー=ゾラ)
=== 吹き替え ===
==== 女優 ====
{{定義リスト2
| [[シガニー・ウィーバー]] |
* [[エイリアン3]]('''[[エレン・リプリー]]''')※フジテレビ版
* [[ゴーストバスターズ2]]('''デイナ・バレット''')※フジテレビ版
* [[死と処女]]('''ポーリナ・エスコバル''')
}}
==== 映画 ====
* [[愛と追憶の日々]](ジャニス〈ケイト・チャールソン〉)
* {{仮リンク|愛に翼を|en|Paradise (1991 film)}}(サリー・パイク〈[[シーラ・マッカーシー]]〉)
* [[アウトロー (1976年の映画)|アウトロー]](ローズ〈[[ジョイス・ジェイムソン]]〉)※テレビ朝日版
* [[アガサ 愛の失踪事件]]
* [[悪魔たち、天使たち]]('''ローラ・マルティネス'''〈[[レイチェル・ティコティン]]〉)
* [[悪魔の植物人間]](ヘディ〈ジュリー・エーゲ〉)
* [[アニマル・ハウス]](バブス・ジャンセン)※テレビ朝日版
* [[アメリカン・グラフィティ]](ブダ〈ジャナ・ベラン〉、ボビー〈リン・マリー・スチュワート〉)※フジテレビ版・TBS版
* [[アリゲーター2]]('''クリスティーヌ・ホッジス'''〈[[ディー・ウォレス]]〉)※VHS版
* [[インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説]]('''ウィルヘルミーナ・スコット'''〈[[ケイト・キャプショー]]〉<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.thecinema.jp/program/01591 |title= インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説 |publisher=洋画専門チャンネル ザ・シネマ |accessdate=2023-11-25}}</ref>)※ソフト版
* [[エイリアン・ネイション]](カサンドラ)※テレビ朝日版
* [[エクスタミネーター]](ミーガン〈[[サマンサ・エッガー]]〉)※テレビ東京版
* [[エレファント・マン (映画)|エレファント・マン]](メリックの母)※TBS版
* [[オーメン]]('''ダミアン'''〈{{仮リンク|ハーヴェイ・スペンサー・スティーブンス|en|Harvey Spencer Stephens}}〉)※TBS版
* [[オール・ザット・ジャズ]](ヴィクトリア・ポーター)※[[レーザーディスク|LD]]版
* [[おかしな関係]](クレア〈[[ヘレン・シェイヴァー]]〉)
* [[オスロ国際空港/ダブル・ハイジャック]](スチュワーデス)
* [[お葬式だよ全員集合!]](テリー・スカンラン〈[[パメラ・リード]]〉)
* [[オンリー・ユー (1994年の映画)|オンリー・ユー]](ケイト・コルヴァッチ〈[[ボニー・ハント]]〉)
* [[カサノバ (1976年の映画)|カサノバ]](ジゼルダ〈ダニエラ・ガッティ〉、イザベラ、アンジェリーナ)
* [[カンニング・モンキー 天中拳]](リュウ・チェンピン)※フジテレビ版
* [[がんばれ!ベアーズ 特訓中]](ティミー・ルーパス、ルース、シーラ・ランシング)※日本テレビ版
* [[キャデラック・マン]](ティナ〈パメラ・リード〉)※VHS版
* {{仮リンク|キャプテン・キッドの宝島|en|George's Island (film)}}(バードウッド〈シーラ・マッカーシー〉)
* [[キャリー (1976年の映画)|キャリー]](クリス・ハーゲンソン〈[[ナンシー・アレン]]〉)
* [[禁じられた遊び]](ベルト・ドレ)※テレビ朝日版
* [[雲の中で散歩]](マリー・ホセ・アラゴン)
* [[クリフハンガー (映画)|クリフハンガー]](クリステル〈[[キャロライン・グッドール]]〉)※日本テレビ版
* [[グレート・ウォリアーズ/欲望の剣]](セリーヌ〈[[スーザン・ティレル]]〉)
* [[クレイマー、クレイマー]](フィリス・バーナード〈[[ジョベス・ウィリアムズ]]〉)※日本テレビ版
* [[刑事ジョー ママにお手あげ]](グウェン・ハーパー〈ジョベス・ウィリアムズ〉)※フジテレビ版
* [[刑事ジョン・ブック 目撃者]](ブックの姉)※フジテレビ版
* [[ゴーストハンターズ]](マルゴ)
* [[コードネームはファルコン]]
* [[恋人はパパ/ひと夏の恋]](ダイアナ〈[[フェイス・プリンス]]〉)
* [[氷の微笑]]('''キャサリン・トラメル'''〈[[シャロン・ストーン]]〉)※フジテレビ版
* [[告発の行方]]('''キャサリン'''〈[[ケリー・マクギリス]]〉)※フジテレビ版
* [[誤診 (映画)|誤診]](ローリ・ライミュラー〈[[メリル・ストリープ]]〉)
* [[サイコ (1960年の映画)|サイコ]](キャロライン)※フジテレビ版
* [[砂塵に血を吐け]](マリー〈ダニエラ・イグリオッツィ〉)
* [[殺人魚フライングキラー]](ウィルソン夫人)※テレビ朝日版
* [[殺人者たち]]
* [[ザ・ドライバー]](仲介人〈[[ロニー・ブレイクリー]]〉)※テレビ朝日版
* [[ザ・ビジター]](バーバラ・コリンズ〈ジョアンヌ・ネイル〉)
* [[ザ・フォッグ]](スティーヴィ・ウェイン〈[[エイドリアン・バーボー]]〉)※テレビ朝日版
* [[ザ・ペーパー]](アリシア・クラーク〈[[グレン・クローズ]]〉)
* [[さらばキューバ]](アレックス・プリード〈[[ブルック・アダムス (女優)|ブルック・アダムス]]〉)
* [[サルサ/灼熱のふたり]](ルナ〈ミランダ・ギャリソン〉)
* [[シー・デビル]](ルース・パチェット〈[[ロザンヌ・バー]]〉)※ソフト版
* [[地獄の女スナイパー]](リザ〈ターニー・ウェルチ〉)
* [[地獄のコマンド]](マクガイア〈メリッサ・プロフェット〉)
* [[シザーハンズ]](ジョイス〈[[キャシー・ベイカー]]〉)※ソフト版
* [[13日の金曜日シリーズ#13日の金曜日 PART3|13日の金曜日 PART3]](チリ)
* [[白いドレスの女]](メアリーアン・シンプソン)
* {{仮リンク|過ぎゆく夏|en|Shout (film)}}(モリー〈[[リンダ・フィオレンティーノ]]〉)
* [[スターダスト・メモリー]](イソベル〈[[マリー=クリスティーヌ・バロー]]〉)
* [[続・荒野の1ドル銀貨]](ロジータ〈[[ニエベス・ナバロ]]〉)※テレビ東京版
* [[卒業白書]](ジョエルの母〈[[ジャネット・キャロル]]〉)
* [[空の大怪獣Q]]('''セーラー・ジョエル'''〈[[キャンディ・クラーク]]〉)
* [[ターゲット (1985年の映画)|ターゲット]](ドナ・ロイド〈ゲイル・ハニカット〉)
* [[ターミネーター2]]('''サラ・コナー'''〈[[リンダ・ハミルトン]]〉)※フジテレビ版
* [[ダイ・ハード]]('''ホリー・マクレーン'''〈[[ボニー・ベデリア]]〉)※フジテレビ版
* [[ダイ・ハード2]](ホリー・マクレーン〈ボニー・ベデリア〉)※フジテレビ版
* {{仮リンク|ダイブ/深海からの帰還|no|Dykket}}(ソニア)
* [[タイム・アフター・タイム (映画)|タイム・アフター・タイム]](キャロル)
* [[ダニエル・スティール/ダディ〜父親・決断の瞬間〜]](サラ〈[[ケイト・マルグルー]]〉)※テレビ東京版
* [[007/黄金銃を持つ男 (映画)|007/黄金銃を持つ男]]('''アンドレア'''〈[[モード・アダムス]]〉)※TBS版
* [[007/カジノ・ロワイヤル (1967年の映画)|007/カジノ・ロワイヤル]](マタ・ボンド〈[[ジョアンナ・ペティット]]〉)※NET版
* 弾痕の掟/あるテロリストの死(イヴォンヌ・ランファン)
* ダンス・フィーバー(キム)
* [[ダンテズ・ピーク]]('''レイチェル・ワンド'''〈リンダ・ハミルトン〉)※ソフト版
* {{仮リンク|チャタレイ夫人の恋人 (1995年の映画)|label=チャタレイ夫人の恋人|en|Lady Chatterley (TV serial)}}(ボルトン夫人)
* [[デリンジャー (映画)|デリンジャー]](ビリー・フリチェット〈[[ミシェル・フィリップス]]〉)※TBS版
* [[デルタ・フォース (映画)|デルタ・フォース]](イングリッド〈[[ハンナ・シグラ]]〉)
* [[天地創造 (映画)|天地創造]]('''[[サラ]]'''〈[[エヴァ・ガードナー]]〉)※テレビ朝日版
* [[ドッグ・イン・パラダイス]](ジョバンナ〈メルセデス・アロンゾ〉)
* [[トップガン (映画)|トップガン]]('''チャーリー'''〈ケリー・マクギリス〉)※フジテレビ版
* [[トパーズ (1969年の映画)|トパーズ]](ホアニタ・デ・コルドバ〈[[カリン・ドール]]〉)※TBS版
* [[トレマーズ (映画)|トレマーズ]](ヘザー・ガンマー〈[[リーバ・マッキンタイア]]〉)※テレビ朝日版
* [[ナイト・オン・ザ・プラネット]](ヴィクトリア・スネリング〈[[ジーナ・ローランズ]]〉)
* [[ナイトメア・シティ (映画)|ナイトメア・シティ]](アンナ・ミラー〈[[ラウラ・トロッター]]〉)
* [[ナインハーフ]](娼婦)
* [[ナバロンの要塞 (映画)|ナバロンの要塞]](アンナ〈[[ジア・スカラ]]〉)※TBS版
* [[ニア・ダーク/月夜の出来事]](ダイヤモンドバック〈[[ジェニット・ゴールドスタイン]]〉)
* [[ニュー・シネマ・パラダイス]](中年期のマリア〈アントネラ・アッティーリ〉)※フジテレビ版
* {{仮リンク|ハーツ・アンド・マインズ/ベトナム戦争の真実|en|Hearts and Minds (film)}}(ヴォ・ティ姉妹、ケイ・ドヴォルスホック)
* [[ハーレム・ナイト]](ドミニク・ラ・ルー)※フジテレビ版
* [[バグジー (映画)|バグジー]]('''[[ヴァージニア・ヒル]]'''〈[[アネット・ベニング]]〉)
* [[バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3]]('''クララ・クレイトン'''〈[[メアリー・スティーンバージェン]]〉)※ソフト版
* [[バットマン (1966年の映画)|バットマン/オリジナル・ムービー]]([[キャットウーマン]]〈[[リー・メリーウェザー]]〉)※ソフト版
* [[引き裂かれたカーテン]](グレーテル・コスカ)※フジテレビ版
* [[ビッグ (映画)|ビッグ]](ジョッシュの母〈[[マーセデス・ルール]]〉)※ソフト版
* [[ビッグ・ガン]](カルロ、ヒルデ)※テレビ朝日版
* [[ファミリー (1983年の映画)|ファミリー]]('''ルシル・フレイ'''〈[[アン=マーグレット]]〉)※テレビ朝日版
* [[ファミリービジネス (映画)|ファミリービジネス]](エレイン〈ロザンナ・デ・ソート〉)
* [[ブラニガン]](ジェニー・サッチャー〈[[ジュディ・ギーソン]]〉)
* [[フランティック]](サンドラ・ウォーカー)※ソフト版
* [[フリック・ストーリー]](カトリーヌ〈[[クローディーヌ・オージェ]]〉)
* [[ブルース・ブラザース]]('''謎の女'''〈[[キャリー・フィッシャー]]〉)※フジテレビ旧録版・フジテレビ新録版
* [[プロムナイト]](ウェンディ〈[[アン=マリー・マーティン]]〉)
* {{仮リンク|ベイビー、ウォンテッド!|en|Funny About Love}}(メグ〈[[クリスティーン・ラーティ]]〉)
* ベイビー・トークシリーズ('''モリー'''〈[[カースティ・アレイ]]〉)※ソフト版
** [[ベイビー・トーク]]
** [[リトル★ダイナマイツ/ベイビー・トークTOO|ベイビー・トーク2/リトル★ダイナマイツ]]
** {{仮リンク|ワンダフル・ファミリー/ベイビー・トーク(3)|label=ベイビー・トーク3/ワンダフル・ファミリー|en|Look Who's Talking Now}}
* [[ペット・セマタリー|ペット・セメタリー]](レイチェル〈[[デニーズ・クロスビー]]〉)※ソフト版
* [[ポセイドン・アドベンチャー (映画)|ポセイドン・アドベンチャー]]('''リンダ・ロゴ'''〈[[ステラ・スティーヴンス]]〉)※テレビ朝日版
* [[ボディガード (1992年の映画)|ボディガード]](ニッキー)※フジテレビ版
* [[ポリスアカデミーシリーズ]](デビー・キャラハン〈[[レスリー・イースターブルック]]〉)※ソフト版
** ポリスアカデミー5/マイアミ特別勤務
** ポリスアカデミー6/バトルロイヤル
** ポリスアカデミー777/モスクワ大作戦!!
* [[ホワイトハウス狂騒曲]](ロレッタ〈[[シェリル・リー・ラルフ]]〉)※フジテレビ版
* [[マーズ・アタック!]]('''マーシャ・デイル'''〈グレン・クローズ〉)※ソフト版
* [[マイ・フレンド・フォーエバー]](ゲイル〈[[ダイアナ・スカーウィッド]]〉)※ソフト版
* [[マチルダ (1996年の映画)|マチルダ]](アガサ・トランチブル校長先生〈[[パム・フェリス]]〉)
* [[マディソン郡の橋 (映画)|マディソン郡の橋]]('''フランチェスカ・ジョンソン'''〈メリル・ストリープ〉)※ソフト版
* [[マンハッタン (映画)|マンハッタン]](エミリー)
* [[無防備都市]]('''ピーナ'''〈[[アンナ・マニャーニ]]〉)
* [[メジャーリーグ2]](レイチェル・フェルプス〈[[マーガレット・ホイットン]]〉)
* [[メル・ブルックス/珍説世界史PARTI]](ニンフ皇后〈[[マデリーン・カーン]]〉)
* [[燃えよデブゴン]](バー・ジェイ〈メグ・ラム〉)
* {{仮リンク|斗え! デブゴン|label=燃えよデブゴン 地獄の危機一髪|en|The Victim (1980 film)}}(ユーイー)
* [[燃えよドラゴン]](メイ・リン)※テレビ朝日版
* [[ヤング・シャーロック/ピラミッドの謎]](ドリブ夫人)※フジテレビ版
* [[ユーズド・カー]](バーバラ・ヒュークス)
* [[幽幻道士#幽幻道士2(1987年)|幽幻道士2]](シスター)
* [[ライオンハート (映画)|ライオンハー]]ト(シンシア)※テレビ東京版
* [[ライフ with マイキー]](ジーナ・ブリガンティ〈[[シンディ・ローパー]]〉)
* [[ラフ・カット (映画)|ラフ・カット]](ジリアン〈[[レスリー=アン・ダウン]]〉)
* [[流血の絆]](サリー・ホワイト〈[[ジル・クレイバーグ]]〉)
* [[ルーキー (映画)|ルーキー]](リースル〈[[ソニア・ブラガ]]〉)※ソフト版
* [[ロッキー・ホラー・ショー]](マジェンダ)
==== ドラマ ====
* {{仮リンク|悪魔の異形|en|Hammer House of Horror}} #1(ルシンダ・ジェソップ)
* [[アルフ (テレビドラマ)|アルフ]]('''ケート・タナー'''〈[[アン・シェディーン]]〉)
* [[アメリカン・ヒーロー]] #35(ブンブン)
* [[アンジェラ 15歳の日々]]#3(アンバー・バロン)
* [[X-ファイル]](サリー・ケンドリック/イヴ6号〈ハリエット・サンソム・ハリス、コチェック〈[[リンダ・ボイド]]〉)※ソフト版
* [[俺がハマーだ!]]
** シーズン1 #3(イサドラ)
** シーズン2 #6(アンジェリカ・デルモント)
* [[オン・ジ・エアー]](シルヴィア・ハドソン〈アン・ブルーム〉)
* [[女刑事キャグニー&レイシー]]('''クリス・キャグニー'''〈[[ロレッタ・スウィット]]〉/[[シャロン・グレス]])
* [[がんばれ!ベアーズ#テレビドラマ|がんばれ!ベアーズ]](ルーパス)
* [[刑事コロンボ|刑事コロンボシリーズ]]
** 刑事コロンボ 悪の温室(キャシー・グッドウィン〈サンドラ・スミス〉)※日本テレビ版
** 刑事コロンボ 5時30分の目撃者(ブレンダ〈グローリー・カウフマン〉)
** 刑事コロンボ 魔術師の幻想(デラ・サンティーニ〈シンシア・サイクス〉)
** 刑事コロンボ 殺しの序曲(ウェイトレス〈[[ジェイミー・リー・カーティス]]〉、受付嬢〈ミッツィ・ロジャース〉)
** 新・刑事コロンボ マリブビーチ殺人事件(マーサ・ロッカ夫人〈サンドラ・カリー〉)
* [[刑事スタスキー&ハッチ]] シーズン1 #11(ローラ・ブレナー)
* [[こちらブルームーン探偵社]] シーズン1 #2(秘書)
* [[ジェシカおばさんの事件簿]] シーズン3 #1(ケイティ・マッカラム)
* [[シャーロック・ホームズの冒険 (テレビドラマ)|シャーロック・ホームズの冒険]] 六つのナポレオン(ルクレチア・ヴェヌーチ〈[[マリーナ・サーティス]]〉)
* [[私立探偵マグナム]]
** シーズン1 #3(マイ・リン)
** シーズン2 #16(エレノア・グリーリー)
* [[新アウターリミッツ]](キャシー・クレス〈ヘレン・シェイヴァー〉)
* [[新スパイ大作戦]](暗殺者・コヨーテ・コイリーデール)
* {{仮リンク|新80日間世界一周|en|Around the World in 80 Days (miniseries)}}(サラ・ベルナール〈[[リー・レミック]]〉)※VHS版
* [[セサミストリート]](マリア)※スペシャル版
** [[ビッグバード 中国への旅]](女性店長)※スペシャル版
** [[美術館へ行こう〜メトロポリタン美術館のセサミストリート〜]]
** [[セサミストリート: 世界の国からハッピーニューイヤー]](ティッフィー)※スペシャル版
** [[エルモのクリスマス]]
* {{仮リンク|SOAP ソープ|en|Soap (TV series)}}(キャロル・デヴィッド)
* [[ダンディ2 華麗な冒険]] #14(プルー)
* [[チャーリーズ・エンジェル|地上最強の美女たち!チャーリーズ・エンジェル]]
** シーズン1 #9(セジウィック伍長)、#17(アヴリル)
** シーズン3 #5(イヴ・パーキンス)、#12(サリー・マイルズ)、#20(シシー・キャンフィールド)
* [[超音速攻撃ヘリ エアーウルフ]]
** シーズン2 #9(スチュワーデス)
** シーズン3 #11(サブリナ・クック)
* [[フラッシュ (DCコミックス)#『超音速ヒーロー ザ・フラッシュ』|超音速ヒーロー ザ・フラッシュ]](アルファ・ワン〈クレア・スタンズフィールド〉)※日本テレビ版
* [[追跡者 (1974年のテレビドラマ)|追跡者]](ベッツィ(キャサリン・ボーマン))、(スー・イングラム([[ファラ・フォーセット|ファラ・フォーセット・メジャース]]))
* [[特捜刑事マイアミ・バイス]]
** シーズン1 #2(ローソン夫人)
** シーズン2 #20(ブランカ・サンドヴァル)
** シーズン3 #3(イザベル・バチスタ)
** シーズン4 #7(ローナ・エイカーズ)
* [[特攻野郎Aチーム]]
** シーズン1 #13(トリッシュ・ブレネット〈[[ジョアンナ・カーンズ]]〉)
** シーズン3 #11(リナ)、#23(マリアン・ロジャース)
* [[ヒルストリート・ブルース]] シーズン1 #14(デニーズ・トンプソン)
* {{仮リンク|フェーム/青春の旅立ち|en|Fame (1982 TV series)}}(リディア・グラント)
* [[ブルーサンダー (映画)#テレビドラマ版|ブルーサンダー]] #2(サラ・オコンネル)
* [[ミス・マープル#ジョーン・ヒクソン版|ミス・マープル]] 復讐の女神(マッジ)
==== アニメ ====
* [[インセクターズ]](バクラ女王)
* [[X-メン|X-MEN]]('''ストーム''')
* [[ガミー・ベアの冒険]]('''グラミー''')
* [[キャッツ&カンパニー]](グランマ、マーシー)
* [[キャプテン・プラネット]](スカム)
* [[ザ・シンプソンズ]](モナ・シンプソン〈初代〉、ルシール・ボッツコウスキー、ラジオDJ)
* [[ピーナッツ (漫画)|スヌーピーとチャーリー]](シュローダー)
* [[地上最強のエキスパートチーム G.I.ジョー|地上最強のエキスパートチーム G.I.ジョー ザ・ムービー]](パイソナ)
* [[チップとデールの大作戦]](ママ、モンロービア)※新吹き替え版
* [[バットマン|電光石火バットマン]](セリーナ・カイル/キャットウーマン)
* [[バイカーマイス]]('''チャーリー''')
* [[ビアンカの大冒険]](メデューサ)
* [[Marx radio]](ブリテンハウス)
* [[まんが宇宙大作戦]](クリスティン・チャペル)
* [[ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ (1987年のアニメ)|ミュータント・タートルズ(テレビ東京版)]]
=== 特撮 ===
* [[アクマイザー3]](1975年、ダルニアの声)
* [[宇宙鉄人キョーダイン]](1976年、ルナの声)
=== テレビドラマ ===
* [[墨野隴人|大東京四谷怪談]](1978年、お岩の声)
=== ラジオ ===
* [[アニメトピア]](初代パーソナリティ)
=== CD ===
* 街角のカフェ(アナログ45回転)- アニメトピア主題歌で[[麻上洋子]]とのデュエット
* [[アニメトピア]](LP33回転)※パーソナリティ2人(吉田理保子、麻上洋子)が世界を旅するという番組
* [[CDシアター ドラゴンクエスト]](宿屋のおかみ)
* [[冒険!イクサー3|冒険!イクサー3 おまたせ、誕生!イクサー3]](ゴーレム)
* [[冒険!イクサー3|冒険!イクサー3 御意見無用!ネオス四天王の逆襲!!]](ゴーレム)
* [[MADARA転生編|摩陀羅・転生編]](鬼塚不二子)
* [[悠久幻想曲]]ドラマCD vol.1(魔女モフェウス)
=== 人形劇 ===
* アップルポップ(プルーラ<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20190803211554/https://lineblog.me/ai_orikasa/archives/13181100.html|title =アップルポップ|website=折笠愛 公式ブログ|date=2018-04-14|accessdate=2020-08-25}}</ref>)
* [[Xボンバー]](ブラディーマリー)
* [[真田十勇士 (NHK人形劇)|真田十勇士]]
* [[ざわざわ森のがんこちゃん]](ツムちゃん〈初代〉、ヒポ先生〈初代〉)
* [[のびのびノンちゃん]](ノンちゃんのお母さん)
* [[プリンプリン物語]](ピコピコ、マイヨー 他)
* [[紅孔雀]](かえで、桔梗)
* [[笛吹童子#人形劇|笛吹童子]](千鶴)
=== 舞台 ===
* [[飛べ!京浜ドラキュラ]](1982年12月/シアター・アプル、[[81プロデュース]] 提携公演)
=== その他コンテンツ ===
* 『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』(マナーCMナレーション)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2
|refs=
<ref name="fukikae">{{Cite web|和書|url=https://video.foxjapan.com/library/fukikae/interview/interview63/|title=フジテレビ「ゴールデン洋画劇場」版 シガニー・ウィーバー〈リプリー〉役 吉田理保子 インタビュー|work=吹替の帝王|publisher=20世紀フォックス ホーム エンターテイメント|accessdate=2022-12-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200830005917/https://video.foxjapan.com/library/fukikae/interview/interview63/|archivedate=2020-08-30}}</ref>
<ref name="profile93">{{Cite book|和書|year=1993|title=日本タレント名鑑'93|page=693|publisher=VIPタイムズ社}}</ref>
<ref name="ジ・アニメ">{{Cite journal|和書|date = 1981-07|title =声優クローズUP|journal = ジ・アニメ|issue = 1981年8月号|page =152|publisher = [[近代映画社]]}}</ref>
<ref name="OUT">{{Cite journal|和書|date = 1981-02-01|title = 声優インタビュー 吉田理保子さんの巻|journal = [[月刊OUT]]|issue = 1981年2月号 |pages = 77-82|publisher = [[みのり書房]]}}</ref>
<ref name="声優の世界">{{Cite book|和書|author=|title=声優の世界-アニメーションから外国映画まで |series = [[ファンタスティックコレクション]]別冊|page=109|publisher=[[朝日ソノラマ]]|isbn=|date=1979-10-30}}</ref>
<ref name="富野由悠季">{{Cite book|和書 |chapter=富野由悠季フィルモグラフィー([[原口正宏]]) |date=1999-06-09 |editor=植草信和 |isbn=4-87376-514-5 |pages=416 |publisher=[[キネマ旬報社]] |series = キネ旬ムック |title=富野由悠季 全仕事}}</ref>
<ref name="グレンダイザー">{{Cite web|和書| accessdate = 2023-06-02 | publisher = [[東映アニメーション]] | title = キャラクター/キャスト | url=https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/grendaizer/character/ | website = 東映アニメーション作品ラインナップ | work=UFOロボ グレンダイザー}}</ref>
<ref name="マシンハヤブサ">{{Cite web|和書| accessdate=2023-06-27 | publisher=[[東映アニメーション]] | title = キャラクター/キャスト | url=https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/hayabusa/character/ | website = 東映アニメーションラインナップ | work=マシンハヤブサ}}</ref>
<ref name="コン・バトラーV">{{Cite book |和書 |chapter=第1章 超電磁ロボ コン・バトラーV 各話解析 |date=2003-07-15 |editor=[[岩佐陽一]] |isbn=4-575-29575-2 |page=54 |publisher=[[双葉社]] |title=長浜忠夫ロマンロボットアニメの世界 コン・バトラーV ボルテスV ダイモス ダルタニアス大全}}</ref>
<ref name="ママは小学4年生">{{Cite web|和書| accessdate = 2022-12-31 | publisher = サンライズ | title = ママは小学4年生 | url = http://sunrise-world.net/titles/pickup_140.php | website = サンライズワールド}}</ref>
}}
== 外部リンク ==
* {{Twitter|momolove63}}
* [https://thetv.jp/person/0000024716/ 吉田理保子のプロフィール・画像・写真 - WEBザテレビジョン]
* {{Wayback|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/吉田理保子/#person-110073766_ |title=吉田理保子の解説 - goo人名事典 |date=20220111211029}}
* {{Kinejun name|86550}}
* {{Oricon name|200704}}
* {{Movie Walker name|81671}}
* {{映画.com name|75757}}
* {{Allcinema name|117384}}
* {{JMDb name|0076970}}
{{voice-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:よした りほこ}}
[[Category:日本の女性声優]]
[[Category:日本の女性実業家]]
[[Category:日本の芸能マネージャー]]
[[Category:過去の青二プロダクション所属者]]
[[Category:過去の81プロデュース所属者]]
[[Category:過去のぷろだくしょんバオバブ所属者]]
[[Category:メディアフォース|*よした りほこ]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1949年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-03-08T10:46:58Z | 2023-12-30T11:07:30Z | false | false | false | [
"Template:仮リンク",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Kinejun name",
"Template:記事名の制約",
"Template:Reflist",
"Template:Cite tweet",
"Template:Twitter",
"Template:Oricon name",
"Template:Movie Walker name",
"Template:映画.com name",
"Template:Allcinema name",
"Template:定義リスト2",
"Template:Normdaten",
"Template:Voice-stub",
"Template:Notelist2",
"Template:Wayback",
"Template:特殊文字",
"Template:R",
"Template:Dl2",
"Template:Cite web",
"Template:JMDb name",
"Template:声優"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E7%90%86%E4%BF%9D%E5%AD%90 |
3,672 | 米国立スーパーコンピュータ応用研究所 | 米国立スーパーコンピュータ応用研究所(べいこくりつスーパーコンピュータおうようけんきゅうじょ、英: National Center for Supercomputing Applications, NCSA)は、アメリカ合衆国イリノイ州のイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校にある研究所で、米国科学財団のスーパーコンピュータを扱う5つの施設のうちの1つである。スーパーコンピュータを利用した研究を主とするが、Mosaicと呼ばれるWebブラウザやNCSA HTTPdと呼ばれるWebサーバソフトウェアを出した研究所として知られている。
1983年、アーバナ・シャンペーン校の教職員であるラリー・スマールを先導に、米国科学財団に頼んでもいない提案を送ったことからこのセンターは建てられた。米国科学財団が1985年にスーパーコンピュータの施設への資金提供を発表し、翌年の1986年1月に初めてスーパーコンピュータはオンラインになった。NCSAの実質的な活動を開始したのもこのときであるため、設立は1986年1月とされている。
最初に、NCSAは事務所をWater Resources Bulidingに置いた。後に本部はアーバナ・シャンペーン校のキャンパスの周りに散らばり、2006年現在ではアーバナ・シャンペーン校の中に自前のビルに置かれているが、それはアーノルド・ベックマンの高度な科学や技術を扱う研究所として使われていた場所であった。その新しい本部は「NCSAビル」と呼ばれている。なお、スーパーコンピュータの施設はAdvanced Computation Buldingと呼ばれる施設に収容されている。
NCSAは大学、政府、民間会社、コミュニティ及び学校とともに、どのようにしてサイバーインフラストラクチャの利点を発見するか、というものを仕事としている。全米科学財団、イリノイ州、イリノイ大学及び産業のパートナー、そして他の連邦機関はNCSAを支援している。
NCSAのスーパーコンピューティングシステムBlue Watersは、ピーク時のパフォーマンスが1.3ペタFLOPS(1秒あたり1.3京回の浮動小数点演算)を超える程度である。
Mosaicは世界で初めての画像を扱えるウェブブラウザで、インターネットとWorld Wide Webの成長に重要な役割を果たした。このソフトはマーク・アンドリーセンとエリック・ビナによって作られ、後にその2人はNetscape Navigatorを開発した。また、スパイグラスのライセンスを受けて、マイクロソフトのInternet ExplorerもMosaicの基盤を利用していた。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "米国立スーパーコンピュータ応用研究所(べいこくりつスーパーコンピュータおうようけんきゅうじょ、英: National Center for Supercomputing Applications, NCSA)は、アメリカ合衆国イリノイ州のイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校にある研究所で、米国科学財団のスーパーコンピュータを扱う5つの施設のうちの1つである。スーパーコンピュータを利用した研究を主とするが、Mosaicと呼ばれるWebブラウザやNCSA HTTPdと呼ばれるWebサーバソフトウェアを出した研究所として知られている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "1983年、アーバナ・シャンペーン校の教職員であるラリー・スマールを先導に、米国科学財団に頼んでもいない提案を送ったことからこのセンターは建てられた。米国科学財団が1985年にスーパーコンピュータの施設への資金提供を発表し、翌年の1986年1月に初めてスーパーコンピュータはオンラインになった。NCSAの実質的な活動を開始したのもこのときであるため、設立は1986年1月とされている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "最初に、NCSAは事務所をWater Resources Bulidingに置いた。後に本部はアーバナ・シャンペーン校のキャンパスの周りに散らばり、2006年現在ではアーバナ・シャンペーン校の中に自前のビルに置かれているが、それはアーノルド・ベックマンの高度な科学や技術を扱う研究所として使われていた場所であった。その新しい本部は「NCSAビル」と呼ばれている。なお、スーパーコンピュータの施設はAdvanced Computation Buldingと呼ばれる施設に収容されている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "NCSAは大学、政府、民間会社、コミュニティ及び学校とともに、どのようにしてサイバーインフラストラクチャの利点を発見するか、というものを仕事としている。全米科学財団、イリノイ州、イリノイ大学及び産業のパートナー、そして他の連邦機関はNCSAを支援している。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "NCSAのスーパーコンピューティングシステムBlue Watersは、ピーク時のパフォーマンスが1.3ペタFLOPS(1秒あたり1.3京回の浮動小数点演算)を超える程度である。",
"title": "スーパーコンピュータの能力"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "Mosaicは世界で初めての画像を扱えるウェブブラウザで、インターネットとWorld Wide Webの成長に重要な役割を果たした。このソフトはマーク・アンドリーセンとエリック・ビナによって作られ、後にその2人はNetscape Navigatorを開発した。また、スパイグラスのライセンスを受けて、マイクロソフトのInternet ExplorerもMosaicの基盤を利用していた。",
"title": "スーパーコンピュータの能力"
}
] | 米国立スーパーコンピュータ応用研究所は、アメリカ合衆国イリノイ州のイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校にある研究所で、米国科学財団のスーパーコンピュータを扱う5つの施設のうちの1つである。スーパーコンピュータを利用した研究を主とするが、Mosaicと呼ばれるWebブラウザやNCSA HTTPdと呼ばれるWebサーバソフトウェアを出した研究所として知られている。 1983年、アーバナ・シャンペーン校の教職員であるラリー・スマールを先導に、米国科学財団に頼んでもいない提案を送ったことからこのセンターは建てられた。米国科学財団が1985年にスーパーコンピュータの施設への資金提供を発表し、翌年の1986年1月に初めてスーパーコンピュータはオンラインになった。NCSAの実質的な活動を開始したのもこのときであるため、設立は1986年1月とされている。 最初に、NCSAは事務所をWater Resources Bulidingに置いた。後に本部はアーバナ・シャンペーン校のキャンパスの周りに散らばり、2006年現在ではアーバナ・シャンペーン校の中に自前のビルに置かれているが、それはアーノルド・ベックマンの高度な科学や技術を扱う研究所として使われていた場所であった。その新しい本部は「NCSAビル」と呼ばれている。なお、スーパーコンピュータの施設はAdvanced Computation Buldingと呼ばれる施設に収容されている。 NCSAは大学、政府、民間会社、コミュニティ及び学校とともに、どのようにしてサイバーインフラストラクチャの利点を発見するか、というものを仕事としている。全米科学財団、イリノイ州、イリノイ大学及び産業のパートナー、そして他の連邦機関はNCSAを支援している。 | {{Expand English|date=2023年12月}}[[Image:New NCSA Building UIUC by Ragib.jpg|right|thumb|220px|NCSA Building, 1205 W. Clark St., Urbana, IL 61801. <small>Photo:[http://www.ragibhasan.com Ragib Hasan]</small>]]
'''米国立スーパーコンピュータ応用研究所'''(べいこくりつスーパーコンピュータおうようけんきゅうじょ、{{lang-en-short|National Center for Supercomputing Applications, NCSA}})は、[[アメリカ合衆国]][[イリノイ州]]の[[イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校]]にある[[研究所]]で、[[米国科学財団]]の[[スーパーコンピュータ]]を扱う5つの施設のうちの1つである。スーパーコンピュータを利用した研究を主とするが、[[NCSA Mosaic|Mosaic]]と呼ばれる[[ウェブブラウザ|Webブラウザ]]や[[NCSA HTTPd]]と呼ばれる[[Webサーバ]][[ソフトウェア]]を出した研究所として知られている。
[[1983年]]、アーバナ・シャンペーン校の教職員である[[ラリー・スマール]]を先導に、米国科学財団に頼んでもいない提案を送ったことからこのセンターは建てられた。米国科学財団が[[1985年]]にスーパーコンピュータの施設への資金提供を発表し、翌年の[[1986年]][[1月]]に初めてスーパーコンピュータはオンラインになった。NCSAの実質的な活動を開始したのもこのときであるため、設立は1986年1月とされている。
最初に、NCSAは事務所をWater Resources Bulidingに置いた。後に本部はアーバナ・シャンペーン校のキャンパスの周りに散らばり、[[2006年]]現在ではアーバナ・シャンペーン校の中に自前のビルに置かれているが、それは[[アーノルド・ベックマン]]の高度な科学や技術を扱う研究所として使われていた場所であった。その新しい本部は「NCSAビル」と呼ばれている。なお、スーパーコンピュータの施設はAdvanced Computation Buldingと呼ばれる施設に収容されている。
NCSAは大学、政府、民間会社、コミュニティ及び学校とともに、どのようにして[[サイバーインフラストラクチャ]]の利点を発見するか、というものを仕事としている。全米科学財団、イリノイ州、イリノイ大学及び産業のパートナー、そして他の連邦機関はNCSAを支援している。
== スーパーコンピュータの能力 ==
NCSAのスーパーコンピューティングシステム[[Blue Waters]]は、ピーク時のパフォーマンスが1.3ペタ[[FLOPS]](1秒あたり1.3京回の浮動小数点演算)を超える程度である<ref>[http://www.ncsa.illinois.edu/enabling/bluewaters ABOUT BLUE WATERS] 2016年2月27日参照</ref>。
=== Mosaic ===
{{Main|NCSA Mosaic}}
Mosaicは世界で初めての[[画像]]を扱える[[ウェブブラウザ]]で、[[インターネット]]と[[World Wide Web]]の成長に重要な役割を果たした。このソフトは[[マーク・アンドリーセン]]と[[エリック・ビナ]]によって作られ、後にその2人は[[Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)|Netscape Navigator]]を開発した。また、[[スパイグラス]]のライセンスを受けて、[[マイクロソフト]]の[[Internet Explorer]]もMosaicの基盤を利用していた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
*[[イリノイ大学]]
*[[NCSA HTTPd]]
== 外部リンク ==
* [http://www.ncsa.uiuc.edu 米国立スーパーコンピュータ応用研究所 (英語)]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:へいこくりつすうはあこんひゆうたけんきゆうしよ}}
[[Category:アメリカ合衆国の研究所]]
[[Category:計算機科学関連の組織]]
[[Category:スーパーコンピュータ]] | 2003-03-08T11:39:57Z | 2023-12-18T15:39:23Z | false | false | false | [
"Template:Lang-en-short",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E5%BF%9C%E7%94%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80 |
3,673 | ヨハネス・ファン・デル・ワールス | ヨハネス・ディーデリク・ファン・デル・ワールス(Johannes Diderik van der Waals, 1837年11月23日 - 1923年3月8日)は、オランダの物理学者。分子の大きさと分子間力を考慮した気体の状態方程式を発見し、1910年にオランダ人として3人目のノーベル物理学賞を受賞した。
ヨハネス・ファン・デル・ワールスの業績の重要さは以下の点にある。
他に、この研究を発展させた混合気体の理論や、液体の表面張力に関する研究もある。
彼の研究の始まりは分子運動論から理想気体の法則を導いたクラウジウスの論文である。これに触発され、二酸化炭素の状態を詳しく調べて臨界温度を求めていたアンドリューズの実験(1869年)を分子論的に説明できないかと考えた。そして、理想気体の状態方程式に分子間の引力(ファンデルワールス力)と分子の大きさをそれぞれ表す二つの定数(ファンデルワールス定数と呼ばれる)を導入することで実験結果を上手く説明できることを発見した。
分子間力や分子の大きさは気体によって異なるため、当初彼の発見した状態方程式の定数は気体ごとに異なった値を持っていた。しかし彼はさらに研究を進め、温度・圧力・体積の尺度を変えるだけで多くの気体や液体の性質が同じ状態方程式であらわされるという法則を導き出した。この成果によって、デュワーの水素液化やカメルリング・オネスのヘリウム液化の方法が開発された。
この後、ファンデルワールスの状態方程式の誤差を埋めるべく、クラウジウスほか多くの物理学者によって様々な方程式が提案されているが、分子間力と分子の大きさを考慮するというファン・デル・ワールスの直感は今でもそのまま残っている。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ヨハネス・ディーデリク・ファン・デル・ワールス(Johannes Diderik van der Waals, 1837年11月23日 - 1923年3月8日)は、オランダの物理学者。分子の大きさと分子間力を考慮した気体の状態方程式を発見し、1910年にオランダ人として3人目のノーベル物理学賞を受賞した。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "ヨハネス・ファン・デル・ワールスの業績の重要さは以下の点にある。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "他に、この研究を発展させた混合気体の理論や、液体の表面張力に関する研究もある。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "彼の研究の始まりは分子運動論から理想気体の法則を導いたクラウジウスの論文である。これに触発され、二酸化炭素の状態を詳しく調べて臨界温度を求めていたアンドリューズの実験(1869年)を分子論的に説明できないかと考えた。そして、理想気体の状態方程式に分子間の引力(ファンデルワールス力)と分子の大きさをそれぞれ表す二つの定数(ファンデルワールス定数と呼ばれる)を導入することで実験結果を上手く説明できることを発見した。",
"title": "略歴と業績"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "分子間力や分子の大きさは気体によって異なるため、当初彼の発見した状態方程式の定数は気体ごとに異なった値を持っていた。しかし彼はさらに研究を進め、温度・圧力・体積の尺度を変えるだけで多くの気体や液体の性質が同じ状態方程式であらわされるという法則を導き出した。この成果によって、デュワーの水素液化やカメルリング・オネスのヘリウム液化の方法が開発された。",
"title": "略歴と業績"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "この後、ファンデルワールスの状態方程式の誤差を埋めるべく、クラウジウスほか多くの物理学者によって様々な方程式が提案されているが、分子間力と分子の大きさを考慮するというファン・デル・ワールスの直感は今でもそのまま残っている。",
"title": "略歴と業績"
}
] | ヨハネス・ディーデリク・ファン・デル・ワールスは、オランダの物理学者。分子の大きさと分子間力を考慮した気体の状態方程式を発見し、1910年にオランダ人として3人目のノーベル物理学賞を受賞した。 ヨハネス・ファン・デル・ワールスの業績の重要さは以下の点にある。 彼の状態方程式は気体と液体を区別なく扱うことができた。これは気体と液体が連続であるということを示しており、全く新しい考え方であった。
彼の状態方程式は多くの気体・液体に当てはまり、きわめて普遍性が高かった。
この普遍性により、当時液化されていなかった水素やヘリウムの状態方程式を予言することができ、低温物理学への道が拓かれた。 他に、この研究を発展させた混合気体の理論や、液体の表面張力に関する研究もある。 | {{複数の問題
|出典の明記=2022年12月21日 (水) 05:46 (UTC)
|参照方法=2022年12月21日 (水) 05:46 (UTC)
|単一の出典=2022年12月21日 (水) 05:46 (UTC)
|ソートキー=人1923年没
}}
{{Infobox scientist
| name = Johannes van der Waals<br />ヨハネス・ファン・デル・ワールス
| image = Johannes Diderik van der Waals.jpg|250px
| image_size = 200px
| birth_date = {{Birth date|1837|11|23|df=y}}
| birth_place = {{NLD1815}} [[ライデン]]
| death_date = {{death date and age|1923|3|8|1837|11|23|df=y}}
| death_place = {{NED}} [[アムステルダム]]
| nationality = {{NED}}
| field = [[熱力学]]
| workplaces = [[アムステルダム大学]]
| alma_mater = [[ライデン大学]]
| doctoral_advisor =
| doctoral_students = [[ウィレム・ヘンドリック・ケーソン]]
| prizes = [[ノーベル物理学賞]](1910)
}}
{{thumbnail:begin}}
{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1910年|ノーベル物理学賞|気体および液体の状態方程式に関する研究}}
{{thumbnail:end}}
'''ヨハネス・ディーデリク・ファン・デル・ワールス'''(Johannes Diderik van der Waals, [[1837年]][[11月23日]] - [[1923年]][[3月8日]])は、[[オランダ]]の[[物理学者]]。[[分子]]の大きさと[[分子間力]]を考慮した[[気体]]の[[状態方程式 (熱力学)|状態方程式]]を発見し、[[1910年]]にオランダ人として3人目の[[ノーベル物理学賞]]を受賞した。
ヨハネス・ファン・デル・ワールスの業績の重要さは以下の点にある。
#彼の状態方程式は気体と[[液体]]を区別なく扱うことができた。これは気体と液体が連続であるということを示しており、全く新しい考え方であった。
#彼の状態方程式は多くの気体・液体に当てはまり、きわめて普遍性が高かった。
#この普遍性により、当時液化されていなかった[[水素]]や[[ヘリウム]]の状態方程式を予言することができ、[[低温物理学]]への道が拓かれた。
他に、この研究を発展させた混合気体の理論や、液体の[[表面張力]]に関する研究もある。
==略歴と業績==
*1837年11月23日、オランダの[[ライデン]]に生まれる。
**ほとんど独学で科学知識を身に付け、学校の先生になった。
*[[1862年]]から[[ライデン大学]]で聴講。
**[[ラテン語]]や[[ギリシア語]]ができないため正規の試験を受ける資格がなかったが、[[1865年]]まで余暇を見つけてはここで勉強していた。
*[[1864年]]、デヴェンターの中学校に赴任。のち、この町で中学校の校長になっている。
**それからしばらくして法改正により古典学の試験を免除され、[[ライデン大学]]に入学。
*[[1873年]]、『液体と気体の連続性について(''On the Continuity of the Liquid and Gaseous States'')』と題する博士論文を発表。
**この中で、分子間力と分子自身の体積を考慮し気体と液体の両方を含む状態方程式を示す。
**[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル|マクスウェル]]は、[[ネイチャー]]でこの論文を以下のように激賞している。
**:「ファン・デル・ワールスの名はまもなく分子科学の最先端に記されるであろう」
**:「この論文は[[オランダ語]]を勉強しようという気運を起こさせるであろう」
*[[1876年]]、新設されたアムステルダム大学の物理学教授に任命される。
**[[ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ|ファント・ホッフ]]や[[ユーゴー・ド・フリース|ド・フリース]]とともにこの大学の育成に努め、他からの招きを断って引退までとどまった。
*[[1890年]]、[[ウィラード・ギブズ|ギブズ]]の熱力学理論を分子系に用い、二成分系(混合気体)の理論を発表。
*[[1893年]]、表面張力に関する論文を発表。
**この論文による、「表面張力は<math> (T_c - T)^{\alpha} </math>に比例する」という式は[[ファンデルワールスの式]]と呼ばれている。
*[[1895年]]、熱力学ポテンシャルを運動論の立場から扱った論文を発表。
*1910年、「液体及び気体の物理学的状態に関する研究」によりノーベル物理学賞受賞。
*1923年3月9日、アムステルダムで死去。
*[[1937年]]、[[アムステルダム]]でファン・デル・ワールス生誕百年を記念する国際会議が開かれる。
===背景と影響===
彼の研究の始まりは分子運動論から理想気体の法則を導いた[[ルドルフ・クラウジウス|クラウジウス]]の論文である。これに触発され、[[二酸化炭素]]の状態を詳しく調べて[[臨界点|臨界温度]]を求めていた[[トーマス・アンドリューズ (科学者)|アンドリューズ]]の実験([[1869年]])を分子論的に説明できないかと考えた。そして、[[理想気体の状態方程式]]に分子間の引力([[ファンデルワールス力]])と分子の大きさをそれぞれ表す二つの定数([[ファンデルワールス定数]]と呼ばれる)を導入することで実験結果を上手く説明できることを発見した。
分子間力や分子の大きさは気体によって異なるため、当初彼の発見した状態方程式の定数は気体ごとに異なった値を持っていた。しかし彼はさらに研究を進め、温度・圧力・体積の尺度を変えるだけで多くの気体や液体の性質が同じ状態方程式であらわされるという法則を導き出した。この成果によって、デュワーの水素液化やカメルリング・オネスのヘリウム液化の方法が開発された。
この後、ファンデルワールスの状態方程式の誤差を埋めるべく、クラウジウスほか多くの物理学者によって様々な方程式が提案されているが、分子間力と分子の大きさを考慮するというファン・デル・ワールスの直感は今でもそのまま残っている。
==ファン・デル・ワールスの名がついた用語==
* [[ファンデルワールス力]]
* [[ファンデルワールス力#ファンデルワールス結合|ファンデルワールス結合]]
* [[ファンデルワールスの状態方程式]]
* [[ファンデルワールス半径]]
==関連項目==
{{Commonscat|Johannes Diderik van der Waals|ヨハネス・ファン・デル・ワールス}}
*[[状態方程式 (熱力学)|状態方程式]]
*[[低温物理学]]
*[[ルドルフ・クラウジウス]]
*[[ジェイムズ・デュワー]]
*[[ヘイケ・カメルリング・オネス]]
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
*[https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1910/waals-bio.html Johannes Diderik van der Waals - Biographical]
{{Reflist}}
{{ノーベル物理学賞受賞者 (1901年-1925年)}}
{{Authority control}}
{{デフォルトソート:ふあんてるわあるす よはねす}}
[[Category:ヨハネス・ファン・デル・ワールス|*]]
[[Category:オランダの物理学者]]
[[Category:オランダの化学者]]
[[Category:ノーベル物理学賞受賞者]]
[[Category:オランダのノーベル賞受賞者]]
[[Category:アムステルダム大学の教員]]
[[Category:オランダ王立芸術科学アカデミー会員]]
[[Category:アメリカ哲学協会会員]]
[[Category:プロイセン科学アカデミー会員]]
[[Category:ベルギー王立アカデミー会員]]
[[Category:ライデン大学出身の人物]]
[[Category:ライデン出身の人物]]
[[Category:1837年生]]
[[Category:1923年没]] | 2003-03-08T12:01:33Z | 2023-12-11T04:37:35Z | false | false | false | [
"Template:ノーベル物理学賞受賞者 (1901年-1925年)",
"Template:Infobox scientist",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Thumbnail:end",
"Template:Commonscat",
"Template:Authority control",
"Template:複数の問題",
"Template:Thumbnail:begin",
"Template:Thumbnail:ノーベル賞受賞者"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9 |
3,674 | 金属 | 金属(きんぞく、英: metal)とは、展性、塑性(延性)に富み機械工作が可能な、電気および熱の良導体であり、金属光沢という特有の光沢を持つ物質の総称である。水銀を例外として常温・常圧状態では透明ではない固体となり、液化状態でも良導体性と光沢性は維持される。
単体で金属の性質を持つ元素を「金属元素」と呼び、金属内部の原子同士は金属結合という陽イオンが自由電子を媒介とする金属結晶状態にある。周期表において、ホウ素、ケイ素、ヒ素、テルル、アスタチン(これらは半金属と呼ばれる)を結ぶ斜めの線より左に位置する元素が金属元素に当たる。異なる金属同士の混合物である合金、ある種の非金属を含む相でも金属様性質を示すものは金属に含まれる。
その性質から、以下の5つの特徴をすべて備えるものを金属と定義している。
ただし、金属元素以外でも特定環境下では金属状態となる可能性も指摘され、例えば常温で200GPaの高圧下では水素は金属様性質を帯びると推測されている。これを金属水素と呼称する。
金属を原子の化学結合で定義する場合、特有の金属結合で説明される。これは、カチオン化した金属元素が規則正しく並び、その間を自由電子が動き回りながら、これらがクーロン力で結びついている結合を指し、常温下でこのような結合状態にある物質を金属と定義している。
原子の配列は、ほとんどの場合、面心立方格子構造 (fcc)、体心立方格子構造 (bcc)、六方最密充填構造 (hcp) のいずれかを取り、元素の種類や同じ元素でも状態によってそれぞれの構造となる。この構造はそれぞれ原子充填率が異なり、金属の塑性変形に影響を与える。
自由電子理論では、金属とは陽子がつくる格子状立体の中を電子が自由に飛び回っている状態 (Drude, 1900)、自由電子の気体の中に鋼体球(陽イオン)が浸かっている状態 (Lorentz, 1923) という表現で、カチオンと電子雲が結合する様子と自由電子のふるまいを説明した。この自由電子の存在が金属の特徴をもたらす。物体に外部の力が加わってズレが生じた際、イオン結合の物質は静電反発が起こり壊れるのに対し、金属は自由電子が取り囲んでいるために結合が安定する。金属光沢は、自由電子がほとんどの可視光をはねかえす、実際は自由電子の集団が様々な波長の光を吸収し再放出するために、全体では反射し光沢を持っている様に見えることによる。導電性には、電荷を持つ電子が自由に動き回りながら電極間に電荷を受け渡すことで寄与している。
原子中の電子が取りうるエネルギーのレベルは、複数の原子が存在する状態下ではおのおのが重ならない電子軌道を取る。量子力学が要請するこの分裂によって生じる軌道は、金属においてアボガドロ数程度の原子が存在する状況ではエネルギーが低いところから順々に埋められ、最も高いエネルギー(フェルミエネルギー)を持つ電子が球状のフェルミ面を形成し、全体として定まった幅を持つ。これは「バンド構造」と呼ばれる(バンド理論)。このバンドには物質によっては電子が軌道を取りえない断絶したエネルギー領域(バンドギャップ、禁制帯)があり、電子が取りうる最大のエネルギー領域がこのバンドギャップ部分にあると、電子軌道はギャップよりも低く原子核に束縛される バンド領域(価電子帯、バレンスバンド)に詰まってしまい、電流は流れない。しかし金属にはこのバンドギャップが無いため、電子は自由に動くことができ、電流が流れる。
半導体は、このバンドギャップが1eV前後であるため、光や熱のエネルギーを加えることで電子の一部をバンドギャップよりもエネルギー位置が高いところにある伝導帯(コンダクションバンド)まで引き上げることができ、結果通電するようになる物質である。
系の自由度を規定するギブスの相律では、物質の状態は以下の式で示される。
金属の相律を考える際、わずかな圧力変化が及ぼす影響は無視してかまわないため、変数2が表す示強性のうち圧力を減らした次式を用いる。
純金属の成分 C {\displaystyle C} は1となるため、上式を変形すると
となり、 P {\displaystyle P} = 2 すなわち固相と液相が共存する状態での自由度 F {\displaystyle F} は0になる。これは、純金属が一定の融点を持つことを示す。一方、合金では C {\displaystyle C} は2、 F {\displaystyle F} は1となり、融け始める温度(固相線温度)と完全に融ける温度(液相線温度)が異なるため、固相線温度を融点と置いている。これら相の変化は、溶融状態の金属を徐々に冷却しながら凝固させ得られる冷却曲線から分析する。
この、一定である純金属の融点(凝固点)は、温度の定点として利用されている。国際温度目盛1990年改訂 (ITS-90) ではスズ、アルミニウム、金、銀などの凝固点が採用されている。融点から沸点の間で液体状になった金属、または狭義では室温付近で液体状になる金属を液体金属という。
金属は一般には硬いものとしてイメージされ、ひっかき硬さなどの意味に置いては実際に硬いものが多い。しかし、アルカリ金属やアルカリ土類金属のように柔らかいものもある。また、塑性という観点に立てば、むしろ金属は柔らかく(延性があり)加工しやすいのが特徴といえる。工業的に大量に利用されている理由も、強度と加工しやすさのバランスの良さにある。
塑性には、金属原子がどのような構造配列を持っているかも影響を与える。金属の塑性変形は原子密度が高い辷り面(すべりめん)と呼ばれる結晶面に沿って、原子の間隔が広く抵抗が少ないところから間隔が狭い方向(辷り方向)に起こる。この辷り面と辷り方向の組み合わせは「辷り系(すべりけい)」と呼ばれ、原子の構造配列によって数が異なる。それぞれの系の数は、fccが12、bccが48、hcpが4となる。ただし、bcc構造は原子密度が高い領域が無いため、辷りを起こすためには大きなせん断力が必要になる。このような理由から、fcc構造の金属は比較的簡単に塑性を起こし、bcc構造の金属は力が必要だが多様な形に変形させることができる。
金属材料の硬さ評価は、JIS規格にてブリネル硬さ、ビッカース硬さ、ロックウェル硬さ、ショア硬さの4種類の測定法が定められている。ブリネル硬さ試験は鋳物などに限られ、荷重の幅が広いビッカース硬さ試験は柔らかい金属から超硬合金まで対応が可能。ロックウェル硬さ試験は黄銅や焼入れ合金などで用いられる。
物質が相を固体、液体、気体に変えることを相変態というが、ほとんどの金属はこれ以外に固体状態で結晶構造を変える現象を起こし、これを「固相変態」、「同素変態」または単に「(金属の)変態」と言う。この変態は温度変化によって起こされ、大抵のケースでは低温のfccやhcp構造を取る金属が固有の温度(変態温度)でbcc構造へ変わる。しかし例外として鉄は特殊な変態を見せ、低温時のbcc構造(α-Fe)から、912°Cを境界にfcc構造(γ-Fe)へ変り、さらに加熱すると1400°Cでbcc構造 (δ-Fe) となる。これは、低温の鉄は磁性が強いために起こる現象と説明されており、この特性が鉄の用途を広げる理由ともなっている。
高温の金属が冷却されbcc構造になる変態を「マルテンサイト変態」と言い、これは開始温度 Ms で始まり終了温度 Mf で完了する。逆にbcc構造の金属を加熱し起こす変態は「逆変態」と呼ばれ、温度 As で始まり Af で完了する。これらの温度は Mf<Ms<As<Af の関係にある。
この変態を工学に応用する例には、原子力発電所で利用するウラン処理がある。668°C以下で斜方晶構造 (α-U) のウランは発電において鍛造や圧延加工を施し棒状に成形されるが、これには集合組織が形成されるため何度も加熱するうちに熱膨張を起こして数倍に伸びる。そこで、ウラン棒を加熱し正方晶構造 (β-U) へ変態させた上で急冷し、集合組織を除去する。これによって熱膨張を低減させることができる。
自由電子のふるまいによって、金属の熱伝導率と電気伝導率は高くなり、しかも比例する(ヴィーデマン=フランツ則)。金属は温度が下がると電気伝導性が上がり、逆に温度が上がると伝導性は減少する。これは温度の上昇に伴って伝導電子がより散乱されるためである。この性質から、絶対零度に向けて金属の電気抵抗はゼロになることを検証する過程で、超伝導が1911年にヘイケ・カメルリング・オネスによって発見された。超伝導となる温度(臨界温度、Tc)は金属によって異なり、例えばニオブは9.22K、アルミニウムは1.20Kとなる。
貴金属など一部を除き金属は本来、酸化や硫化された状態が安定している。工業利用では還元反応を用いて化合物を取り除いているが、自然な状態に置いた金属は再び酸素や硫黄などと結びつこうとする性質を持ち、錆や脆化が発生する。これらや、酸による反応などは一般に腐食と呼ばれる。腐食は、「化学的腐食」に相当する溶液による「湿食」や腐食性ガスがもたらす「乾食」がある。「電気化学腐食」は、合金を含め複数の金属が接触しているものに対し、電極の電位差から起きる腐食であり、イオン化傾向が強い金属が陽極(アノード)となって電解腐食(ガルバニ腐食)を起こす。
一方、化学的腐食のうち酸などが金属の表面を侵した段階で、この部分が酸化皮膜化してそれ以上の腐食が起こらなくなる現象がある。例えば鉄を希硝酸に漬けると溶解するが、硝酸濃度を上げ40%を超えると溶解速度は遅くなり始め、65%以上では溶解しなくなる。これは、鉄の表面に数10Å厚の不溶性である酸化鉄(II,III)が生成されるためである。このような状態となった金属を不動態と言う。
金属が酸素と結びつく酸化反応には、激しく起こるものと緩やかに進行するものがある。金属粉が酸化する場合、急な発熱や閃光を伴うことがあり、爆発事故に繋がる場合がある。この現象を逆利用したものがアルミニウム粉末を用いた溶接の手段であるテルミット法や、マグネシウムを利用する写真用フラッシュなどである。
塑性がある金属でも、過大な力が掛かれば破壊する。引張破壊を例にすると「脆性破壊」と「延性破壊」に分かれる。ぜい性破壊は亀裂を起因とするもので破壊箇所に塑性変形が見られず、金属の結晶面に沿って破壊が始まり、劈開(ヘキカイ)破面と呼ばれる断面が2km/秒という瞬時に金属に走って断裂する。これは部品設計上の問題が大きい。延性破壊は荷重のため金属が延伸し、その限界に達したところで断裂を起こす。そのため、破断部分に伸び細った様子が見られ、破断面にはディンプルと呼ばれる小さなくぼみが多数観察される。このような破壊に対し、破断面を観察し研究する分野はフラクトグラフィ(破面学)と呼ばれる。
一方で、破壊を引き起こさない程度の力が繰り返し同じ箇所に掛かるような時にも破壊が起こる。これは「金属疲労」もしくは単に「疲労」と呼ばれる。
金属の分類にはいくつかの方法がある。
金属を比重で分類する場合は、比重5を基準に下回るものを軽金属、上回るものを重金属と一般に呼ぶ。しかしこれはあまり厳密な定義ではなく、基準を比重4とする場合 もある。
貴金属と卑金属の分類にはさまざまな考え方がある。イオン化傾向から小さい金属を「貴金属」、大きいものを「卑金属」と呼ぶ概念、これに産出量の少なさや金属光沢の美しいもの(貴金属:precious metals)と大量産出されるもの(卑金属:base metals)を判断に加える概念 もある。貴金属は財貨となり、硬貨や貨幣経済を裏打ちする金本位制の基礎など、世界経済を支える役割を担った。また、卑金属から貴金属を生み出すことを目的とした錬金術は、化学の生みの親ともなった。
ほとんどの金属が持つ金属光沢は灰白色であるが、一部に、比較的はっきりした色相を有する金属がある。純金属では金や銅、合金では黄銅、丹銅などがある。なお表面が酸化、塩素化、窒化など化学反応を起こした場合、これらの化合物の色や、酸化発色などの構造色 によって変色することもある。
金属を汎用金属(コモンメタル、ベースメタル)と希少金属(レアメタル)に分ける分類もある。レアメタルの基準は以下の1-4のどれか一項目を満たし、かつ5番目の条件にあてはまるものを言う。
レアメタルは、典型元素15種類+希土類以外の遷移元素15種類+希土類金属(レアアースメタル)17種類の合計47種類があり、この中には半金属のホウ素、セレン、テルルも含まれる。これらレアメタルはクラーク数の少なさとは必ずしも一致せず、例えば銅は、地殻に含まれる量は少ないが古来青銅器が作られたように鉱石が発掘しやすく精錬も容易だった。
コモンメタルの定義は、「レアメタル以外の金属」「歴史的に文明を支えた鉄、銅、亜鉛、スズ、水銀、鉛、アルミニウム、金、銀の8種類」など複数ある。
以上のように「レア」と「コモン」の差は物質の絶対量ではなく、人類がいかに容易に調達できるか、需給バランスのギャップという点が強い。そのため、精錬技術の向上など製造プロセス革新によってレアメタルに分類される金属がコモンメタル化される可能性があり、その例としてチタンがコモンメタル化されつつある。
単一の金属を「純金属」という のに対し、複数の金属の化合物を「合金」という。合金は単体の金属が持たない性質を持つことがあり、工業用材料として用いられる金属は多くが合金である。
鉄を基礎とする合金(鉄基合金)は鉄鋼と呼ばれ、その潤沢な生産性を背景に様々な分野で活躍している。鉄鋼は本質的に鉄 (Fe) と炭素 (C) の合金であり、その微細組織は Fe-C 二元系が平衡状態にある物質と定義できる。鉄鋼の用途は構造部材が主流とするが、車両や船舶など輸送機械、発電、化学などのプラントや工作機械類、ばね、工具、金型など多岐にわたる。
鉄鋼はさらに別の金属を加えた改良が施され、クロムを加えて耐食性を付与した不銹鋼(ステンレス鋼)は100種類以上、優れた磁性を持つ磁石鋼、膨張など温度による影響を排除した不変鋼(インバー、バイメタルなど)、その他にも工具鋼や耐熱鋼、快削鋼など、多様な合金が上市されている。
本来は結晶相を持つ金属が、ある種の合金では規則的な格子を作らずガラスのように非晶性となることがあり、これはアモルファス金属と呼ばれる。1960年、金-シリコン合金で発見されたこの性質は、他に鉄系、アルミニウム系、コバルト系、ニッケル系、マグネシウム系などが知られる。
アモルファス金属は、強い磁性に機械的強度や耐食性に優れ、温度変化による熱膨張や剛性低下の係数が低い。アモルファス金属の製造法には複数の手法が提案されているが、工業的には直接合金を得られる溶融金属の急冷凝固法が優れている。
合金の中には、特殊な機能を持つ種類がある。ニッケル-チタンや鉄-マンガン-チタン合金などの形状記憶合金、相変態を利用した超弾性合金、金-銅-ジルコイル合金などの超塑性合金、マグネシウムなどを用いる水素吸蔵合金、結晶境界のずれを利用する制振合金などがある。水銀や高価なセシウムに替わる低融点の合金も研究されており、かつて開発されたウッドメタルの毒性を改良したガリンスタンなども提案されている。今後は、レアメタルの用途を代替する合金の開発などが求められている。
地球の環境下において、天然の状態で得られる純金属はごく少数に限られ、ほとんどは酸化物、硫化物、炭酸塩、ケイ酸塩、ヒ化物といった化合物となっている。これらから他の元素を排除して利用に耐えうる金属を取り出す手法を精錬、冶金と言う。その方法は加熱して行う乾式精錬法(乾式冶金法)と、電気分解(電解精錬)や溶液内で抽出する湿式精錬法(湿式冶金法)があり、これらは金属と他の元素間に働く結合力(親和力)などから選ばれる。
金属利用範囲の拡大に伴って高純度の金属が求められるようになり、これらに対応する精錬法も開発されている。ゾーンメルト法(帯域溶融法)は、溶融させた不純物を含む金属を徐々に冷やし、偏析を利用して純度を高める。
金属を工業材料として用いるには、まず溶融させて鋳型に流し込む鋳造から始まる。青銅器時代から用いられたこの金属加工法で作られた鋳物は、そのままでは粗く、不純物の遍在や鋳巣などがあり強度が低い。これらは金属部品の要求性能が高まるにつれ、塑性加工技術の進展や用いられる合金の改良などが施された。鉄では1947年に球状黒鉛鋳鉄、アルミニウム合金では1920年にシルミンの改良法が発案され、溶湯(ようとう、溶融状態の金属)処理法での強度改良に大きく寄与した。
製法も、砂型、金型、ダイカスト、精密鋳造など多種の手段が用いられるようになった。効率向上においては、連続鋳造法の基礎が1933年に発案され、1950年代にプロセス改良を経て実用的な技術として確立された。
金属に弾性限界を超える外的な力を与え、永久ひずみを起こして望む形状や寸法に加工することを塑性加工と言う。これには、加熱した状態で行う「熱間加工」と常温で行う「冷間加工」に分類され、前者は再結晶が伴い、後者は常温で再結晶する一部の金属を除いて再結晶化が起こらない。
塑性加工の手法には、圧延、引抜き、押出し、鍛造、深絞り、打抜きなどがあり、このような変形加工を通じて金属の不均一や粗い結晶粒の微細化が起こり、強靭さが増す。また、圧延などでは個々の結晶粒の方向性が揃いながら集合組織を形成するために、表面のエネルギー特性を高める効果もある。
金属硬度には、「焼入れ」も大きな影響を与える。これは、加熱した金属を急冷却させる工程で、変態を起こさせる暇を与えず水や油に投入して温度を下げ、高温時の結晶状態を維持する手段である。ただし焼入れのみではもろいため、「焼き戻し」という再加熱が対で行われる。この2工程を合わせて調質という。
鍛鉄や、金属を何度も折り曲げるなど外部から繰り返して力を加えると、金属は硬くなる。これは転位論で説明される格子欠陥のひとつ「転位」と呼ばれる原子配列の乱れが金属の塑性を起こす辷り面に生じ、これがやがて点欠陥に固着し、金属全体が動きにくくなる現象である。
人体は、カルシウムを含む6つの多量元素、ナトリウム、カリウム、マグネシウムを含む5つの少量元素で99.4%を構成されている。これに加え必須元素、微量元素が生命活動や酵素の活性などに使われている。
このような金属をつくる元素は宇宙の誕生とともに生成された訳ではない。ビッグバンが起こった後、当初宇宙に満ちていた元素は水素とヘリウムだけだったと考えられる。これが重力によって集まり、産まれた恒星の中でより重い元素は核融合を起こし生成された。ただし太陽程度の星では酸素までであり、より重い質量の恒星でも内部で生成される元素は鉄までに止まる。鉄よりも重い元素は超新星爆発のエネルギーを吸収して初めて核融合を成すといわれる。地球が鉄よりも重い金属元素を含み、それらを生物が生命活動に、そして人類がエネルギーとして放射性元素を利用していることは、すなわち太陽系、人類を含む生命を構成し活動を支える物質はかつて爆発し散らばった星のカケラが再集結したものであることを示し、金属の存在はそれを証明している。このことを指し、人類を始め地球生命は「星の子」 とも評される。
文明が金属を使用した太古の例では、イラクで出土した紀元前9500年頃の銅製ペンダントが見つかっている。しかしこれは天然にあった純銅をほぼそのまま利用したもので、以後続いた銅の利用は、銅が純粋な形(自然銅)で鉱石となって集まりやすく、しかも地球表面のいたるところに分布していたことが幸いした。この初期段階で利用された他の金属は、金や銀など酸素と結合しにくい貴金属に限られ、その絶対量も希少だった。
酸化物から金属を得る製錬技術は、世界四大文明が生まれ、人類が数百°C以上の熱源を制御する手段を得て初めて可能となった。紀元前2000頃のエジプトの壁画には足踏みふいごと鋳型が登場する。さらに、銅-砒素および銅-錫合金が発明され、融点を940°Cまで下げながら約3倍の強度を持つ青銅が古代中国大陸の殷王朝や地中海のミケーネ文明、ミノア文明および中東などを例に金属器が広く製造、使用されるようになり、青銅器時代が到来した。
地球上に豊富にある鉄は酸化された状態にあり、最古の利用例と言われるエジプトやメソポタミアで発見された紀元前5000-3000年前の鉄製品は、隕鉄を叩いて 製造されている。酸化鉄を加熱し還元反応を経る精錬は、諸説あるが 紀元前1650年頃のヒッタイトで始められ、彼らが持つ鉄製の武具は高い軍事力の裏打ちとなった。製鉄技術は約200年以上秘匿されてきたが、紀元前1200年頃に「海の民」にヒッタイトが滅ぼされると、製鉄技術の広範な伝播が始まった。なおヒッタイト秘術の真髄は、鉄の精錬そのものではなく炭素を含ませ鋼をつくる技術にあったと思われている。
金属精錬技術の普及とともに、金属は武器だけでなく農耕器具や生活用品にも広く用いられ、また貴金属類も装飾品などに使われている。金属の磁性は方位磁石から羅針盤へと発展し航海技術発展に寄与した。
18世紀以前、人類が使用していた金属は金や鉄、水銀など11種類だけであった。産業革命を迎えると採掘や精錬技術が進み、またドミトリ・メンデレーエフの周期表発表前後は新たな金属が続々と発見された。さらに19世紀以降には様々な化学実験や原子論など考察が金属にも加えられ、原子の構造が順次明らかとなった。20世紀には量子論など金属への根本理解がさらに深まり、さまざまな用途展開が行われている。
一部の金属は人体に強い毒性を持ち、必須、微量元素に当たる金属の中には過剰摂取で中毒症状を起こすものもある。公害の原因となったカドミウム(イタイイタイ病)、水銀(水俣病)や、グレアム・ヤング事件で使われたタリウムなどが知られる。江上不二夫は、このような元素類は海水中に含まれる濃度が低い点を指摘し、人類に繋がる生物が海中で発生した際に接触する機会がほとんど無く、進化の過程で解毒機構を獲得しなかったものと考察している。
2006年に起こったアレクサンドル・リトビネンコ暗殺事件で被害者の体内から検出された放射性元素のポロニウムは、純度50%での致死量は100万分の1グラムと言われる。ただしポロニウムは自然界に存在せず、原子炉で人為的にしか製造されない。
金属が生体に接触してアレルギー反応を示すことがあり、これは金属アレルギーと呼ばれIV型(遅延型)に分類される。金属そのものは抗原性を示さないがアレルゲンとなり、溶出した金属イオンが蛋白質と結合して抗原となる。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "金属(きんぞく、英: metal)とは、展性、塑性(延性)に富み機械工作が可能な、電気および熱の良導体であり、金属光沢という特有の光沢を持つ物質の総称である。水銀を例外として常温・常圧状態では透明ではない固体となり、液化状態でも良導体性と光沢性は維持される。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "単体で金属の性質を持つ元素を「金属元素」と呼び、金属内部の原子同士は金属結合という陽イオンが自由電子を媒介とする金属結晶状態にある。周期表において、ホウ素、ケイ素、ヒ素、テルル、アスタチン(これらは半金属と呼ばれる)を結ぶ斜めの線より左に位置する元素が金属元素に当たる。異なる金属同士の混合物である合金、ある種の非金属を含む相でも金属様性質を示すものは金属に含まれる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "その性質から、以下の5つの特徴をすべて備えるものを金属と定義している。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "ただし、金属元素以外でも特定環境下では金属状態となる可能性も指摘され、例えば常温で200GPaの高圧下では水素は金属様性質を帯びると推測されている。これを金属水素と呼称する。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "金属を原子の化学結合で定義する場合、特有の金属結合で説明される。これは、カチオン化した金属元素が規則正しく並び、その間を自由電子が動き回りながら、これらがクーロン力で結びついている結合を指し、常温下でこのような結合状態にある物質を金属と定義している。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "原子の配列は、ほとんどの場合、面心立方格子構造 (fcc)、体心立方格子構造 (bcc)、六方最密充填構造 (hcp) のいずれかを取り、元素の種類や同じ元素でも状態によってそれぞれの構造となる。この構造はそれぞれ原子充填率が異なり、金属の塑性変形に影響を与える。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "自由電子理論では、金属とは陽子がつくる格子状立体の中を電子が自由に飛び回っている状態 (Drude, 1900)、自由電子の気体の中に鋼体球(陽イオン)が浸かっている状態 (Lorentz, 1923) という表現で、カチオンと電子雲が結合する様子と自由電子のふるまいを説明した。この自由電子の存在が金属の特徴をもたらす。物体に外部の力が加わってズレが生じた際、イオン結合の物質は静電反発が起こり壊れるのに対し、金属は自由電子が取り囲んでいるために結合が安定する。金属光沢は、自由電子がほとんどの可視光をはねかえす、実際は自由電子の集団が様々な波長の光を吸収し再放出するために、全体では反射し光沢を持っている様に見えることによる。導電性には、電荷を持つ電子が自由に動き回りながら電極間に電荷を受け渡すことで寄与している。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "原子中の電子が取りうるエネルギーのレベルは、複数の原子が存在する状態下ではおのおのが重ならない電子軌道を取る。量子力学が要請するこの分裂によって生じる軌道は、金属においてアボガドロ数程度の原子が存在する状況ではエネルギーが低いところから順々に埋められ、最も高いエネルギー(フェルミエネルギー)を持つ電子が球状のフェルミ面を形成し、全体として定まった幅を持つ。これは「バンド構造」と呼ばれる(バンド理論)。このバンドには物質によっては電子が軌道を取りえない断絶したエネルギー領域(バンドギャップ、禁制帯)があり、電子が取りうる最大のエネルギー領域がこのバンドギャップ部分にあると、電子軌道はギャップよりも低く原子核に束縛される バンド領域(価電子帯、バレンスバンド)に詰まってしまい、電流は流れない。しかし金属にはこのバンドギャップが無いため、電子は自由に動くことができ、電流が流れる。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "半導体は、このバンドギャップが1eV前後であるため、光や熱のエネルギーを加えることで電子の一部をバンドギャップよりもエネルギー位置が高いところにある伝導帯(コンダクションバンド)まで引き上げることができ、結果通電するようになる物質である。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "系の自由度を規定するギブスの相律では、物質の状態は以下の式で示される。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "金属の相律を考える際、わずかな圧力変化が及ぼす影響は無視してかまわないため、変数2が表す示強性のうち圧力を減らした次式を用いる。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "純金属の成分 C {\\displaystyle C} は1となるため、上式を変形すると",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "となり、 P {\\displaystyle P} = 2 すなわち固相と液相が共存する状態での自由度 F {\\displaystyle F} は0になる。これは、純金属が一定の融点を持つことを示す。一方、合金では C {\\displaystyle C} は2、 F {\\displaystyle F} は1となり、融け始める温度(固相線温度)と完全に融ける温度(液相線温度)が異なるため、固相線温度を融点と置いている。これら相の変化は、溶融状態の金属を徐々に冷却しながら凝固させ得られる冷却曲線から分析する。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "この、一定である純金属の融点(凝固点)は、温度の定点として利用されている。国際温度目盛1990年改訂 (ITS-90) ではスズ、アルミニウム、金、銀などの凝固点が採用されている。融点から沸点の間で液体状になった金属、または狭義では室温付近で液体状になる金属を液体金属という。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "金属は一般には硬いものとしてイメージされ、ひっかき硬さなどの意味に置いては実際に硬いものが多い。しかし、アルカリ金属やアルカリ土類金属のように柔らかいものもある。また、塑性という観点に立てば、むしろ金属は柔らかく(延性があり)加工しやすいのが特徴といえる。工業的に大量に利用されている理由も、強度と加工しやすさのバランスの良さにある。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "塑性には、金属原子がどのような構造配列を持っているかも影響を与える。金属の塑性変形は原子密度が高い辷り面(すべりめん)と呼ばれる結晶面に沿って、原子の間隔が広く抵抗が少ないところから間隔が狭い方向(辷り方向)に起こる。この辷り面と辷り方向の組み合わせは「辷り系(すべりけい)」と呼ばれ、原子の構造配列によって数が異なる。それぞれの系の数は、fccが12、bccが48、hcpが4となる。ただし、bcc構造は原子密度が高い領域が無いため、辷りを起こすためには大きなせん断力が必要になる。このような理由から、fcc構造の金属は比較的簡単に塑性を起こし、bcc構造の金属は力が必要だが多様な形に変形させることができる。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "金属材料の硬さ評価は、JIS規格にてブリネル硬さ、ビッカース硬さ、ロックウェル硬さ、ショア硬さの4種類の測定法が定められている。ブリネル硬さ試験は鋳物などに限られ、荷重の幅が広いビッカース硬さ試験は柔らかい金属から超硬合金まで対応が可能。ロックウェル硬さ試験は黄銅や焼入れ合金などで用いられる。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "物質が相を固体、液体、気体に変えることを相変態というが、ほとんどの金属はこれ以外に固体状態で結晶構造を変える現象を起こし、これを「固相変態」、「同素変態」または単に「(金属の)変態」と言う。この変態は温度変化によって起こされ、大抵のケースでは低温のfccやhcp構造を取る金属が固有の温度(変態温度)でbcc構造へ変わる。しかし例外として鉄は特殊な変態を見せ、低温時のbcc構造(α-Fe)から、912°Cを境界にfcc構造(γ-Fe)へ変り、さらに加熱すると1400°Cでbcc構造 (δ-Fe) となる。これは、低温の鉄は磁性が強いために起こる現象と説明されており、この特性が鉄の用途を広げる理由ともなっている。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "高温の金属が冷却されbcc構造になる変態を「マルテンサイト変態」と言い、これは開始温度 Ms で始まり終了温度 Mf で完了する。逆にbcc構造の金属を加熱し起こす変態は「逆変態」と呼ばれ、温度 As で始まり Af で完了する。これらの温度は Mf<Ms<As<Af の関係にある。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "この変態を工学に応用する例には、原子力発電所で利用するウラン処理がある。668°C以下で斜方晶構造 (α-U) のウランは発電において鍛造や圧延加工を施し棒状に成形されるが、これには集合組織が形成されるため何度も加熱するうちに熱膨張を起こして数倍に伸びる。そこで、ウラン棒を加熱し正方晶構造 (β-U) へ変態させた上で急冷し、集合組織を除去する。これによって熱膨張を低減させることができる。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "自由電子のふるまいによって、金属の熱伝導率と電気伝導率は高くなり、しかも比例する(ヴィーデマン=フランツ則)。金属は温度が下がると電気伝導性が上がり、逆に温度が上がると伝導性は減少する。これは温度の上昇に伴って伝導電子がより散乱されるためである。この性質から、絶対零度に向けて金属の電気抵抗はゼロになることを検証する過程で、超伝導が1911年にヘイケ・カメルリング・オネスによって発見された。超伝導となる温度(臨界温度、Tc)は金属によって異なり、例えばニオブは9.22K、アルミニウムは1.20Kとなる。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "貴金属など一部を除き金属は本来、酸化や硫化された状態が安定している。工業利用では還元反応を用いて化合物を取り除いているが、自然な状態に置いた金属は再び酸素や硫黄などと結びつこうとする性質を持ち、錆や脆化が発生する。これらや、酸による反応などは一般に腐食と呼ばれる。腐食は、「化学的腐食」に相当する溶液による「湿食」や腐食性ガスがもたらす「乾食」がある。「電気化学腐食」は、合金を含め複数の金属が接触しているものに対し、電極の電位差から起きる腐食であり、イオン化傾向が強い金属が陽極(アノード)となって電解腐食(ガルバニ腐食)を起こす。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "一方、化学的腐食のうち酸などが金属の表面を侵した段階で、この部分が酸化皮膜化してそれ以上の腐食が起こらなくなる現象がある。例えば鉄を希硝酸に漬けると溶解するが、硝酸濃度を上げ40%を超えると溶解速度は遅くなり始め、65%以上では溶解しなくなる。これは、鉄の表面に数10Å厚の不溶性である酸化鉄(II,III)が生成されるためである。このような状態となった金属を不動態と言う。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "金属が酸素と結びつく酸化反応には、激しく起こるものと緩やかに進行するものがある。金属粉が酸化する場合、急な発熱や閃光を伴うことがあり、爆発事故に繋がる場合がある。この現象を逆利用したものがアルミニウム粉末を用いた溶接の手段であるテルミット法や、マグネシウムを利用する写真用フラッシュなどである。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "塑性がある金属でも、過大な力が掛かれば破壊する。引張破壊を例にすると「脆性破壊」と「延性破壊」に分かれる。ぜい性破壊は亀裂を起因とするもので破壊箇所に塑性変形が見られず、金属の結晶面に沿って破壊が始まり、劈開(ヘキカイ)破面と呼ばれる断面が2km/秒という瞬時に金属に走って断裂する。これは部品設計上の問題が大きい。延性破壊は荷重のため金属が延伸し、その限界に達したところで断裂を起こす。そのため、破断部分に伸び細った様子が見られ、破断面にはディンプルと呼ばれる小さなくぼみが多数観察される。このような破壊に対し、破断面を観察し研究する分野はフラクトグラフィ(破面学)と呼ばれる。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "一方で、破壊を引き起こさない程度の力が繰り返し同じ箇所に掛かるような時にも破壊が起こる。これは「金属疲労」もしくは単に「疲労」と呼ばれる。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "金属の分類にはいくつかの方法がある。",
"title": "金属の分類"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "金属を比重で分類する場合は、比重5を基準に下回るものを軽金属、上回るものを重金属と一般に呼ぶ。しかしこれはあまり厳密な定義ではなく、基準を比重4とする場合 もある。",
"title": "金属の分類"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "貴金属と卑金属の分類にはさまざまな考え方がある。イオン化傾向から小さい金属を「貴金属」、大きいものを「卑金属」と呼ぶ概念、これに産出量の少なさや金属光沢の美しいもの(貴金属:precious metals)と大量産出されるもの(卑金属:base metals)を判断に加える概念 もある。貴金属は財貨となり、硬貨や貨幣経済を裏打ちする金本位制の基礎など、世界経済を支える役割を担った。また、卑金属から貴金属を生み出すことを目的とした錬金術は、化学の生みの親ともなった。",
"title": "金属の分類"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ほとんどの金属が持つ金属光沢は灰白色であるが、一部に、比較的はっきりした色相を有する金属がある。純金属では金や銅、合金では黄銅、丹銅などがある。なお表面が酸化、塩素化、窒化など化学反応を起こした場合、これらの化合物の色や、酸化発色などの構造色 によって変色することもある。",
"title": "金属の分類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "金属を汎用金属(コモンメタル、ベースメタル)と希少金属(レアメタル)に分ける分類もある。レアメタルの基準は以下の1-4のどれか一項目を満たし、かつ5番目の条件にあてはまるものを言う。",
"title": "金属の分類"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "レアメタルは、典型元素15種類+希土類以外の遷移元素15種類+希土類金属(レアアースメタル)17種類の合計47種類があり、この中には半金属のホウ素、セレン、テルルも含まれる。これらレアメタルはクラーク数の少なさとは必ずしも一致せず、例えば銅は、地殻に含まれる量は少ないが古来青銅器が作られたように鉱石が発掘しやすく精錬も容易だった。",
"title": "金属の分類"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "コモンメタルの定義は、「レアメタル以外の金属」「歴史的に文明を支えた鉄、銅、亜鉛、スズ、水銀、鉛、アルミニウム、金、銀の8種類」など複数ある。",
"title": "金属の分類"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "以上のように「レア」と「コモン」の差は物質の絶対量ではなく、人類がいかに容易に調達できるか、需給バランスのギャップという点が強い。そのため、精錬技術の向上など製造プロセス革新によってレアメタルに分類される金属がコモンメタル化される可能性があり、その例としてチタンがコモンメタル化されつつある。",
"title": "金属の分類"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "単一の金属を「純金属」という のに対し、複数の金属の化合物を「合金」という。合金は単体の金属が持たない性質を持つことがあり、工業用材料として用いられる金属は多くが合金である。",
"title": "合金"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "鉄を基礎とする合金(鉄基合金)は鉄鋼と呼ばれ、その潤沢な生産性を背景に様々な分野で活躍している。鉄鋼は本質的に鉄 (Fe) と炭素 (C) の合金であり、その微細組織は Fe-C 二元系が平衡状態にある物質と定義できる。鉄鋼の用途は構造部材が主流とするが、車両や船舶など輸送機械、発電、化学などのプラントや工作機械類、ばね、工具、金型など多岐にわたる。",
"title": "合金"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "鉄鋼はさらに別の金属を加えた改良が施され、クロムを加えて耐食性を付与した不銹鋼(ステンレス鋼)は100種類以上、優れた磁性を持つ磁石鋼、膨張など温度による影響を排除した不変鋼(インバー、バイメタルなど)、その他にも工具鋼や耐熱鋼、快削鋼など、多様な合金が上市されている。",
"title": "合金"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "本来は結晶相を持つ金属が、ある種の合金では規則的な格子を作らずガラスのように非晶性となることがあり、これはアモルファス金属と呼ばれる。1960年、金-シリコン合金で発見されたこの性質は、他に鉄系、アルミニウム系、コバルト系、ニッケル系、マグネシウム系などが知られる。",
"title": "合金"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "アモルファス金属は、強い磁性に機械的強度や耐食性に優れ、温度変化による熱膨張や剛性低下の係数が低い。アモルファス金属の製造法には複数の手法が提案されているが、工業的には直接合金を得られる溶融金属の急冷凝固法が優れている。",
"title": "合金"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "合金の中には、特殊な機能を持つ種類がある。ニッケル-チタンや鉄-マンガン-チタン合金などの形状記憶合金、相変態を利用した超弾性合金、金-銅-ジルコイル合金などの超塑性合金、マグネシウムなどを用いる水素吸蔵合金、結晶境界のずれを利用する制振合金などがある。水銀や高価なセシウムに替わる低融点の合金も研究されており、かつて開発されたウッドメタルの毒性を改良したガリンスタンなども提案されている。今後は、レアメタルの用途を代替する合金の開発などが求められている。",
"title": "合金"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "地球の環境下において、天然の状態で得られる純金属はごく少数に限られ、ほとんどは酸化物、硫化物、炭酸塩、ケイ酸塩、ヒ化物といった化合物となっている。これらから他の元素を排除して利用に耐えうる金属を取り出す手法を精錬、冶金と言う。その方法は加熱して行う乾式精錬法(乾式冶金法)と、電気分解(電解精錬)や溶液内で抽出する湿式精錬法(湿式冶金法)があり、これらは金属と他の元素間に働く結合力(親和力)などから選ばれる。",
"title": "精錬と加工"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "金属利用範囲の拡大に伴って高純度の金属が求められるようになり、これらに対応する精錬法も開発されている。ゾーンメルト法(帯域溶融法)は、溶融させた不純物を含む金属を徐々に冷やし、偏析を利用して純度を高める。",
"title": "精錬と加工"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "金属を工業材料として用いるには、まず溶融させて鋳型に流し込む鋳造から始まる。青銅器時代から用いられたこの金属加工法で作られた鋳物は、そのままでは粗く、不純物の遍在や鋳巣などがあり強度が低い。これらは金属部品の要求性能が高まるにつれ、塑性加工技術の進展や用いられる合金の改良などが施された。鉄では1947年に球状黒鉛鋳鉄、アルミニウム合金では1920年にシルミンの改良法が発案され、溶湯(ようとう、溶融状態の金属)処理法での強度改良に大きく寄与した。",
"title": "精錬と加工"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "製法も、砂型、金型、ダイカスト、精密鋳造など多種の手段が用いられるようになった。効率向上においては、連続鋳造法の基礎が1933年に発案され、1950年代にプロセス改良を経て実用的な技術として確立された。",
"title": "精錬と加工"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "金属に弾性限界を超える外的な力を与え、永久ひずみを起こして望む形状や寸法に加工することを塑性加工と言う。これには、加熱した状態で行う「熱間加工」と常温で行う「冷間加工」に分類され、前者は再結晶が伴い、後者は常温で再結晶する一部の金属を除いて再結晶化が起こらない。",
"title": "精錬と加工"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "塑性加工の手法には、圧延、引抜き、押出し、鍛造、深絞り、打抜きなどがあり、このような変形加工を通じて金属の不均一や粗い結晶粒の微細化が起こり、強靭さが増す。また、圧延などでは個々の結晶粒の方向性が揃いながら集合組織を形成するために、表面のエネルギー特性を高める効果もある。",
"title": "精錬と加工"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "金属硬度には、「焼入れ」も大きな影響を与える。これは、加熱した金属を急冷却させる工程で、変態を起こさせる暇を与えず水や油に投入して温度を下げ、高温時の結晶状態を維持する手段である。ただし焼入れのみではもろいため、「焼き戻し」という再加熱が対で行われる。この2工程を合わせて調質という。",
"title": "精錬と加工"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "鍛鉄や、金属を何度も折り曲げるなど外部から繰り返して力を加えると、金属は硬くなる。これは転位論で説明される格子欠陥のひとつ「転位」と呼ばれる原子配列の乱れが金属の塑性を起こす辷り面に生じ、これがやがて点欠陥に固着し、金属全体が動きにくくなる現象である。",
"title": "精錬と加工"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "人体は、カルシウムを含む6つの多量元素、ナトリウム、カリウム、マグネシウムを含む5つの少量元素で99.4%を構成されている。これに加え必須元素、微量元素が生命活動や酵素の活性などに使われている。",
"title": "人と金属の関係"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "このような金属をつくる元素は宇宙の誕生とともに生成された訳ではない。ビッグバンが起こった後、当初宇宙に満ちていた元素は水素とヘリウムだけだったと考えられる。これが重力によって集まり、産まれた恒星の中でより重い元素は核融合を起こし生成された。ただし太陽程度の星では酸素までであり、より重い質量の恒星でも内部で生成される元素は鉄までに止まる。鉄よりも重い元素は超新星爆発のエネルギーを吸収して初めて核融合を成すといわれる。地球が鉄よりも重い金属元素を含み、それらを生物が生命活動に、そして人類がエネルギーとして放射性元素を利用していることは、すなわち太陽系、人類を含む生命を構成し活動を支える物質はかつて爆発し散らばった星のカケラが再集結したものであることを示し、金属の存在はそれを証明している。このことを指し、人類を始め地球生命は「星の子」 とも評される。",
"title": "人と金属の関係"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "文明が金属を使用した太古の例では、イラクで出土した紀元前9500年頃の銅製ペンダントが見つかっている。しかしこれは天然にあった純銅をほぼそのまま利用したもので、以後続いた銅の利用は、銅が純粋な形(自然銅)で鉱石となって集まりやすく、しかも地球表面のいたるところに分布していたことが幸いした。この初期段階で利用された他の金属は、金や銀など酸素と結合しにくい貴金属に限られ、その絶対量も希少だった。",
"title": "人と金属の関係"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "酸化物から金属を得る製錬技術は、世界四大文明が生まれ、人類が数百°C以上の熱源を制御する手段を得て初めて可能となった。紀元前2000頃のエジプトの壁画には足踏みふいごと鋳型が登場する。さらに、銅-砒素および銅-錫合金が発明され、融点を940°Cまで下げながら約3倍の強度を持つ青銅が古代中国大陸の殷王朝や地中海のミケーネ文明、ミノア文明および中東などを例に金属器が広く製造、使用されるようになり、青銅器時代が到来した。",
"title": "人と金属の関係"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "地球上に豊富にある鉄は酸化された状態にあり、最古の利用例と言われるエジプトやメソポタミアで発見された紀元前5000-3000年前の鉄製品は、隕鉄を叩いて 製造されている。酸化鉄を加熱し還元反応を経る精錬は、諸説あるが 紀元前1650年頃のヒッタイトで始められ、彼らが持つ鉄製の武具は高い軍事力の裏打ちとなった。製鉄技術は約200年以上秘匿されてきたが、紀元前1200年頃に「海の民」にヒッタイトが滅ぼされると、製鉄技術の広範な伝播が始まった。なおヒッタイト秘術の真髄は、鉄の精錬そのものではなく炭素を含ませ鋼をつくる技術にあったと思われている。",
"title": "人と金属の関係"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "金属精錬技術の普及とともに、金属は武器だけでなく農耕器具や生活用品にも広く用いられ、また貴金属類も装飾品などに使われている。金属の磁性は方位磁石から羅針盤へと発展し航海技術発展に寄与した。",
"title": "人と金属の関係"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "18世紀以前、人類が使用していた金属は金や鉄、水銀など11種類だけであった。産業革命を迎えると採掘や精錬技術が進み、またドミトリ・メンデレーエフの周期表発表前後は新たな金属が続々と発見された。さらに19世紀以降には様々な化学実験や原子論など考察が金属にも加えられ、原子の構造が順次明らかとなった。20世紀には量子論など金属への根本理解がさらに深まり、さまざまな用途展開が行われている。",
"title": "人と金属の関係"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "一部の金属は人体に強い毒性を持ち、必須、微量元素に当たる金属の中には過剰摂取で中毒症状を起こすものもある。公害の原因となったカドミウム(イタイイタイ病)、水銀(水俣病)や、グレアム・ヤング事件で使われたタリウムなどが知られる。江上不二夫は、このような元素類は海水中に含まれる濃度が低い点を指摘し、人類に繋がる生物が海中で発生した際に接触する機会がほとんど無く、進化の過程で解毒機構を獲得しなかったものと考察している。",
"title": "人と金属の関係"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2006年に起こったアレクサンドル・リトビネンコ暗殺事件で被害者の体内から検出された放射性元素のポロニウムは、純度50%での致死量は100万分の1グラムと言われる。ただしポロニウムは自然界に存在せず、原子炉で人為的にしか製造されない。",
"title": "人と金属の関係"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "金属が生体に接触してアレルギー反応を示すことがあり、これは金属アレルギーと呼ばれIV型(遅延型)に分類される。金属そのものは抗原性を示さないがアレルゲンとなり、溶出した金属イオンが蛋白質と結合して抗原となる。",
"title": "人と金属の関係"
}
] | 金属とは、展性、塑性(延性)に富み機械工作が可能な、電気および熱の良導体であり、金属光沢という特有の光沢を持つ物質の総称である。水銀を例外として常温・常圧状態では透明ではない固体となり、液化状態でも良導体性と光沢性は維持される。 単体で金属の性質を持つ元素を「金属元素」と呼び、金属内部の原子同士は金属結合という陽イオンが自由電子を媒介とする金属結晶状態にある。周期表において、ホウ素、ケイ素、ヒ素、テルル、アスタチン(これらは半金属と呼ばれる)を結ぶ斜めの線より左に位置する元素が金属元素に当たる。異なる金属同士の混合物である合金、ある種の非金属を含む相でも金属様性質を示すものは金属に含まれる。 | [[ファイル:Gallium1 640x480.jpg|thumb|250px|right|[[ガリウム]] の結晶。]]
[[ファイル:Lithium paraffin.jpg|thumb|250px|right|[[リチウム]]。[[原子番号]]が一番小さな金属]]
'''金属'''(きんぞく、{{lang-en-short|metal}})とは、[[展延性|展性]]、[[塑性]](延性)に富み[[機械]]工作が可能な、[[電気]]および[[熱]]の良導体であり、[[金属光沢]]という特有の[[光沢]]を持つ<ref>{{Cite book|和書|year=1999|title=広辞苑|edition=第五版第一刷|publisher=岩波書店|page=733|chapter=【金属光沢】|isbn=4-00-080113-9}}</ref>[[物質]]の総称である<ref name="koujien733">{{Cite book|和書|year=1999|title=広辞苑|edition=第五版第一刷|publisher=岩波書店|page=733|chapter=【金属】|isbn=4-00-080113-9}}</ref>。[[水銀]]を例外として[[常温]]・[[標準状態|常圧]]状態では[[透明]]ではない[[固体]]となり<ref name="koujien733" />、液化状態でも良導体性と光沢性は維持される<ref>{{Cite book|和書|year=1994|title=岩波理化学辞典|edition=第四版第九刷|publisher=岩波書店|pages=327-328|chapter=【金属】|isbn=4-00-080015-9}}</ref>。
[[単体]]で金属の性質を持つ[[元素]]を「[[金属元素]]」と呼び<ref>{{Cite book|和書|year=1999|title=広辞苑|edition=第五版第一刷|publisher=岩波書店|page=733|chapter=【金属元素】|isbn=4-00-080113-9}}</ref>、金属内部の[[原子]]同士は[[金属結合]]という[[陽イオン]]が[[自由電子]]を媒介とする[[金属結晶]]状態にある<ref>{{Cite book|和書|year=1999|title=広辞苑|edition=第五版第一刷|publisher=岩波書店|page=733|chapter=【金属結合】|isbn=4-00-080113-9}}</ref>。周期表において、[[ホウ素]]、[[ケイ素]]、[[ヒ素]]、[[テルル]]、[[アスタチン]](これらは[[半金属]]と呼ばれる)を結ぶ斜めの線より左に位置する元素が金属元素に当たる。異なる金属同士の混合物である[[合金]]、ある種の非金属を含む相でも金属様性質を示すものは金属に含まれる<ref name="koujien733" />。
== 定義 ==
=== 性質からの定義 ===
その性質から、以下の5つの特徴をすべて備えるものを金属と定義している<ref name="osawa1-1">[[#大澤|大澤p.11-35 I.金属の化学 1.金属とは]]</ref>。
# 常温の時固体である([[水銀]]を除く)。
# 塑性変形が容易で、展延加工ができる。
# 不透明で輝くような金属光沢がある。
# 電気および熱をよく伝導する。
# 水溶液中で[[カチオン]](陽イオン)となる。
ただし、金属元素以外でも特定環境下では金属状態となる可能性も指摘され、例えば常温で200[[ギガ|G]][[パスカル (単位)|Pa]]の[[高圧]]下では[[水素]]は金属様性質を帯びると推測されている。これを[[金属水素]]と呼称する<ref>{{Cite book|和書|year=1994|title=岩波理化学辞典|edition=第四版第九刷|publisher=岩波書店|page=329|chapter=【金属水素】|isbn=4-00-080015-9}}</ref>。
=== 化学結合からの定義 ===
金属を[[原子]]の[[化学結合]]で定義する場合、特有の[[金属結合]]で説明される。これは、カチオン化した金属元素が規則正しく並び、その間を自由電子が動き回りながら、これらが[[クーロン力]]で結びついている結合を指し、常温下でこのような結合状態にある物質を金属と定義している<ref name="osawa1-1" />。
原子の配列は、ほとんどの場合、[[面心立方格子構造]] (fcc)、[[体心立方格子構造]] (bcc)、[[六方最密充填構造]] (hcp) のいずれかを取り、元素の種類や同じ元素でも状態によってそれぞれの構造となる。この構造はそれぞれ原子充填率が異なり、金属の塑性変形に影響を与える<ref name="osawa1-1" /><ref name="kyutech9">{{Cite web|和書|url=http://genkai.matsc.kyutech.ac.jp/information/opencampus/9/index.htm|language=日本語|title=9.金属の不思議|publisher=[[九州工業大学]]マテリアル工学科オープンキャンパス|accessdate=2010-04-17}}</ref>。
[[ファイル:Kinzoku999.jpg|thumb|280px|right|外部の力が加わった際の、イオン結合と金属結合に起こる差異]]
自由電子理論では、金属とは陽子がつくる[[格子]]状[[立体]]の中を電子が自由に飛び回っている状態 (Drude, 1900)、自由電子の気体の中に鋼体球(陽イオン)が浸かっている状態 (Lorentz, 1923) という表現で、カチオンと[[電子雲]]が結合する様子と自由電子のふるまいを説明した<ref>{{Cite book|和書|date=2005年(初版1982年)|title=リー 無機化学|author=J.D.Lee、浜口博・菅野等 訳|edition=第一版第二十二刷|publisher=[[東京化学同人]]|page=81|chapter=2.結合と構造 金属中の結合の理論|isbn=4-00-080113-9}}</ref>。この自由電子の存在が金属の特徴をもたらす。物体に外部の力が加わってズレが生じた際、[[イオン結合]]の物質は静電反発が起こり壊れるのに対し、金属は自由電子が取り囲んでいるために結合が安定する<ref name="saitoh1-2">[[#齋藤|齋藤p.32-50 I.金属の化学 2.金属の物理的性質]]</ref>。金属光沢は、自由電子がほとんどの[[可視光]]をはねかえす、実際は自由電子の集団が様々な[[波長]]の光を吸収し再放出するために、全体では反射し光沢を持っている様に見えることによる<ref name="NewtonSP66884-20">{{Cite book|和書|author=編集長:水谷仁|coauthors= |year=2010|title=[[ニュートン (雑誌)|ニュートン]]別冊 完全図解「周期表」第2版|chapter=3.周期表を読み取ろう 金属の性質はなぜ生まれるのか?|pages=56-57|publisher=[[ニュートンプレス]]|location=東京都渋谷区代々木2-1-1新宿マインズタワー|isbn=978-4-315-51876-4}}</ref>。導電性には、[[電荷]]を持つ電子が自由に動き回りながら[[電極]]間に電荷を受け渡すことで寄与している<ref name="NewtonSP66884-20" />。
=== バンド理論における金属 ===
[[ファイル:BandGap-Comparison-withfermi-J.PNG|thumb|left|金属、[[半導体]]、[[絶縁体]]の[[バンド構造]]の模式図]]
原子中の電子が取りうるエネルギーのレベルは、複数の原子が存在する状態下ではおのおのが重ならない[[電子軌道]]を取る。[[量子力学]]が要請するこの分裂によって生じる軌道は、金属において[[アボガドロ数]]程度の原子が存在する状況ではエネルギーが低いところから順々に埋められ、最も高いエネルギー([[フェルミエネルギー]])を持つ電子が球状の[[フェルミ面]]を形成し、全体として定まった幅を持つ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sc.niigata-u.ac.jp/hasegawa/information/shibukai-m.html|language=日本語|title=Ce化合物の電子構造とフェルミ面|author=眞榮平孝裕、樋口雅彦、長谷川彰|publisher=[[新潟大学]]|accessdate=2010-04-17}}</ref>。これは「[[バンド構造]]」と呼ばれる([[バンド理論]])。このバンドには物質によっては電子が軌道を取りえない断絶したエネルギー領域([[バンドギャップ]]、禁制帯)があり、電子が取りうる最大のエネルギー領域がこのバンドギャップ部分にあると、電子軌道はギャップよりも低く原子核に束縛される<ref name="tohoku9">[[#東北大学|東北大学p.260-292 3.エネルギー、環境、情報分野の基盤をつくる材料 9.環境材料としての光触媒]]</ref> バンド領域(価電子帯、バレンスバンド)に詰まってしまい、電流は流れない。しかし金属にはこのバンドギャップが無いため、電子は自由に動くことができ、電流が流れる<ref name="tohoku2">[[#東北大学|東北大学p.44-87 1.材料学の基礎 2.物質の構造]]</ref>。
半導体は、このバンドギャップが1[[電子ボルト|eV]]前後であるため、光や熱のエネルギーを加えることで電子の一部をバンドギャップよりもエネルギー位置が高いところにある伝導帯(コンダクションバンド)まで引き上げることができ、結果通電するようになる物質である<ref name="tohoku2" />。
== 性質 ==
=== 融点 ===
[[系 (自然科学)|系]]の[[自由度]]を規定する[[ギブスの相律]]では、物質の状態は以下の式で示される。
: <math>F \, = C-P+2</math>
: ただし、
* <math>F</math> は、自由度(平衡状態中に取り得る外的因子の数)。
* <math>C</math> は、成分の数。
* <math>P</math> は、その体系中において存在する相の数。
金属の相律を考える際、わずかな圧力変化が及ぼす影響は無視してかまわないため、変数2が表す[[示強性]]のうち圧力を減らした次式を用いる。
: <math>F \, = C-P+1</math>
純金属の成分<math>C</math>は1となるため、上式を変形すると
: <math>F \, = 2-P</math>
となり、<math>P</math> = 2 すなわち[[固相]]と[[液相]]が共存する状態での自由度 <math>F</math> は0になる。これは、純金属が一定の[[融点]]を持つことを示す。一方、[[合金]]では <math>C</math> は2、<math>F</math> は1となり、融け始める温度(固相線温度)と完全に融ける温度(液相線温度)が異なるため、固相線温度を融点と置いている。これら[[相]]の変化は、溶融状態の金属を徐々に[[冷却]]しながら[[凝固]]させ得られる冷却曲線から分析する<ref name="osawa1-2">[[#大澤|大澤p.36-79 I.金属の化学2.やさしい金属学]]</ref>。
この、一定である純金属の融点([[凝固点]])は、温度の定点として利用されている。[[温度#国際温度目盛|国際温度目盛]]1990年改訂 (ITS-90) では[[スズ]]、[[アルミニウム]]、[[金]]、[[銀]]などの凝固点が採用されている<ref name="osawa1-2" />。[[融点]]から[[沸点]]の間で[[液体]]状になった金属、または狭義では室温付近で液体状になる金属を'''[[液体金属]]'''という<ref>[https://kotobank.jp/word/液体金属-1509603 液体金属](コトバンク)</ref><ref name=hokudai>[https://www.eng.hokudai.ac.jp/engineering/archive/2017-07/feature1707-03.html 液体金属実験が詳らかにする現象の「なぜ?」] 北海道大学大学院工学院 No.411[平成29年7月号]、著:エネルギー環境システム部門 流れ制御研究室 准教授 田坂 裕司</ref>。
=== 硬さ ===
金属は一般には硬いものとしてイメージされ、ひっかき硬さなどの意味に置いては実際に硬いものが多い。しかし、[[アルカリ金属]]や[[アルカリ土類金属]]のように柔らかいものもある。また、塑性という観点に立てば、むしろ金属は柔らかく(延性があり)加工しやすいのが特徴といえる。工業的に大量に利用されている理由も、強度と加工しやすさのバランスの良さにある。
[[ファイル:Slip system.gif|thumb|right|辷り(すべり)]]
塑性には、金属原子がどのような構造配列を持っているかも影響を与える。金属の塑性変形は原子密度が高い辷り面(すべりめん)と呼ばれる結晶面に沿って、原子の間隔が広く[[抵抗]]が少ないところから間隔が狭い方向(辷り方向)に起こる。この辷り面と辷り方向の組み合わせは「辷り系(すべりけい)」と呼ばれ、原子の構造配列によって数が異なる。それぞれの系の数は、fccが12、bccが48、hcpが4となる。ただし、bcc構造は原子密度が高い領域が無いため、辷りを起こすためには大きな[[せん断力]]が必要になる。このような理由から、fcc構造の金属は比較的簡単に塑性を起こし、bcc構造の金属は力が必要だが多様な形に変形させることができる<ref name="osawa1-1" />。
金属材料の硬さ評価は、JIS規格にて[[ブリネル硬さ]]、[[ビッカース硬さ]]、[[ロックウェル硬さ]]、[[ショア硬さ]]の4種類の測定法が定められている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.aichi-inst.jp/html/news/znews05/znews018p4.pdf|format=PDF|language=日本語|title=硬さ試験法|author=来川保紀|publisher=[[愛知県]]産業技術研究所|accessdate=2010-04-17}}</ref>。ブリネル硬さ試験は鋳物などに限られ、荷重の幅が広いビッカース硬さ試験は柔らかい金属から超硬合金まで対応が可能。ロックウェル硬さ試験は黄銅や焼入れ合金などで用いられる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.aichi-inst.jp/riyou/1060soudan/1062naruhodo/sou3201kinzai.html|language=日本語|title=金属の硬さを知りたいのですが、どのような方法があるのか教えてくさだい。|publisher=[[愛知県]]産業技術研究所|accessdate=2010-04-17}}</ref>。
=== 変態 ===
物質が[[相]]を[[固体]]、[[液体]]、[[気体]]に変えることを[[相変態]]というが、ほとんどの金属はこれ以外に固体状態で結晶構造を変える現象を起こし、これを「固相変態」、「同素変態」または単に「(金属の)変態」と言う。この変態は温度変化によって起こされ、大抵のケースでは低温のfccやhcp構造を取る金属が固有の温度(変態温度)でbcc構造へ変わる。しかし例外として[[鉄]]は特殊な変態を見せ、低温時のbcc構造([[フェライト相|α-Fe]])から、912℃を境界にfcc構造([[オーステナイト|γ-Fe]])へ変り、さらに加熱すると1400℃でbcc構造 ([[デルタフェライト|δ-Fe]]) となる。これは、低温の鉄は磁性が強いために起こる現象と説明されており、この特性が鉄の用途を広げる理由ともなっている<ref name="kyutech9" /><ref name="osawa1-2" />。
高温の金属が冷却されbcc構造になる変態を「[[マルテンサイト]]変態」と言い、これは開始温度 M<sub>s</sub> で始まり終了温度 M<sub>f</sub> で完了する。逆にbcc構造の金属を加熱し起こす変態は「逆変態」と呼ばれ、温度 A<sub>s</sub> で始まり A<sub>f</sub> で完了する。これらの温度は M<sub>f</sub><M<sub>s</sub><A<sub>s</sub><A<sub>f</sub> の関係にある<ref>{{Cite web|和書|url=http://safety-info.nifs.ac.jp/mailQA/m-A11.html|language=日本語|title=ご質問11:形状記憶合金?|publisher=[[自然科学研究機構]][[核融合科学研究所]](NIFS)|accessdate=2010-04-17}}</ref>。
この変態を[[工学]]に応用する例には、[[原子力発電所]]で利用する[[ウラン]]処理がある。668℃以下で[[斜方晶]]構造 (α-U) のウランは発電において鍛造や圧延加工を施し[[棒]]状に成形されるが、これには集合組織が形成されるため何度も加熱するうちに[[熱膨張]]を起こして数倍に伸びる。そこで、ウラン棒を加熱し[[正方晶]]構造 (β-U) へ変態させた上で急冷し、集合組織を除去する。これによって熱膨張を低減させることができる<ref name="osawa1-2" />。
=== 導体、超伝導 ===
自由電子のふるまいによって、金属の[[熱伝導率]]と[[電気伝導率]]は高くなり、しかも[[比例]]する([[ヴィーデマン=フランツ則]])。金属は[[温度]]が下がると電気伝導性が上がり、逆に温度が上がると伝導性は減少する<ref name="osawa1-1" />。これは温度の上昇に伴って[[伝導電子]]がより[[散乱]]されるためである<ref name="saitoh1-2" />。この性質から、[[絶対零度]]に向けて金属の[[電気抵抗]]はゼロになることを検証する過程で、[[超伝導]]が1911年に[[ヘイケ・カメルリング・オネス]]によって発見された。超伝導となる温度([[転移温度|臨界温度]]、Tc)は金属によって異なり、例えば[[ニオブ]]は9.22K、アルミニウムは1.20Kとなる<ref name="saitoh1-2" />。
=== 腐食 ===
{{See also|腐食}}
[[ファイル:Rust and dirt.jpg|thumb|200px|right|金属腐食の一例:[[錆]]]]
[[貴金属]]など一部を除き金属は本来、[[酸化]]や[[硫化]]された状態が安定している。工業利用では[[還元]]反応を用いて[[化合物]]を取り除いているが、自然な状態に置いた金属は再び[[酸素]]や[[硫黄]]などと結びつこうとする性質を持ち、[[錆]]や[[脆化]]が発生する。これらや、[[酸]]による反応などは一般に[[腐食]]と呼ばれる。腐食は、「化学的腐食」に相当する[[溶液]]による「湿食」や腐食性[[気体|ガス]]がもたらす「乾食」がある。「電気化学腐食」は、合金を含め複数の金属が接触しているものに対し、[[電極]]の[[電位]]差から起きる腐食であり、[[イオン化傾向]]が強い金属が陽極([[アノード]])となって[[電解腐食]](ガルバニ腐食)を起こす<ref name="osawa1-2" />。
一方、化学的腐食のうち酸などが金属の表面を侵した段階で、この部分が[[酸化皮膜]]化してそれ以上の腐食が起こらなくなる現象がある。例えば鉄を[[希硝酸]]に漬けると溶解するが、硝酸濃度を上げ40%を超えると溶解速度は遅くなり始め、65%以上では溶解しなくなる。これは、鉄の表面に数10[[オングストローム|Å]]厚の不溶性である[[酸化鉄(II,III)]]が生成されるためである。このような状態となった金属を[[不動態]]と言う<ref name="osawa1-2" />。
金属が酸素と結びつく酸化反応には、激しく起こるものと緩やかに進行するものがある。[[金属粉]]が酸化する場合、急な[[発熱]]や[[光|閃光]]を伴うことがあり、[[爆発]]事故に繋がる場合がある。この現象を逆利用したものが[[アルミニウム]]粉末を用いた[[溶接]]の手段である[[テルミット法]]や、[[マグネシウム]]を利用する[[写真]]用[[閃光電球|フラッシュ]]などである<ref name="osawa1-2" />。
=== 破壊 ===
[[ファイル:Ductility.svg|thumb|right|157px|丸い金属棒の[[引張試験]]結果の分類<br/>(a) 脆性破壊<br/>(b) 延性破壊<br/>(c) 完全な延性破壊]]
塑性がある金属でも、過大な力が掛かれば破壊する。引張破壊を例にすると「[[脆性破壊]]」と「[[延性破壊]]」に分かれる。ぜい性破壊は亀裂を起因とするもので破壊箇所に塑性変形が見られず、金属の結晶面に沿って破壊が始まり、劈開(ヘキカイ)破面と呼ばれる断面が2km/秒という瞬時に金属に走って断裂する。これは部品設計上の問題が大きい。延性破壊は荷重のため金属が延伸し、その限界に達したところで断裂を起こす。そのため、破断部分に伸び細った様子が見られ、破断面にはディンプルと呼ばれる小さなくぼみが多数観察される。このような破壊に対し、破断面を観察し研究する分野はフラクトグラフィ(破面学)と呼ばれる<ref name="osawa1-2" />。
一方で、破壊を引き起こさない程度の力が繰り返し同じ箇所に掛かるような時にも破壊が起こる。これは「[[金属疲労]]」もしくは単に「[[疲労 (材料)|疲労]]」と呼ばれる<ref name="osawa1-2" />。
== 金属の分類 ==
[[ファイル:Goldkey logo removed.jpg|thumb|200px|right|[[金]]:[[非鉄金属]]([[貴金属]]。レアメタルには含まれない。)、[[面心立方格子構造]]の結晶を持ち、比重では[[重金属]]の範疇に入る。有色金属。]]
金属の分類にはいくつかの方法がある<ref name="osawa1-1" /><ref name="saitoh1-5">[[#齋藤|齋藤p.91-110 I.金属の種類と性質 5.金属の種類]]</ref>。
=== 化学的性質による分類 ===
* [[典型金属]]:([[アルカリ金属]]:[[リチウム|Li]]、[[ナトリウム|Na]]、[[カリウム|K]]、[[ルビジウム|Rb]]、[[セシウム|Cs]]。[[アルカリ土類金属]]:[[カルシウム|Ca]]、[[ストロンチウム|Sr]]、[[バリウム|Ba]]、[[ラジウム|Ra]]。)
* [[マグネシウム族元素]]:[[ベリリウム|Be]]、[[マグネシウム|Mg]]、[[亜鉛|Zn]]、[[カドミウム|Cd]]、[[水銀|Hg]]
* [[アルミニウム族元素]]:[[アルミニウム|Al]]、[[ガリウム|Ga]]、[[インジウム|In]]
* [[希土類元素]]:[[イットリウム|Y]]、[[ランタン|La]]、[[セリウム|Ce]]、[[プラセオジム|Pr]]、[[ネオジム|Nd]]、[[サマリウム|Sm]]、[[ユウロピウム|Eu]]
* [[スズ族元素]]:[[チタン|Ti]]、[[ジルコニウム|Zr]]、[[スズ|Sn]]、[[ハフニウム|Hf]]、[[鉛|Pb]]、[[トリウム|Th]]
* [[鉄族元素]]:[[鉄|Fe]]、[[コバルト|Co]]、[[ニッケル|Ni]]
* [[土酸元素]]:[[バナジウム|V]]、[[ニオブ|Nb]]、[[タンタル|Ta]]
* [[クロム族元素]]:[[クロム|Cr]]、[[モリブデン|Mo]]、[[タングステン|W]]、[[ウラン|U]]
* [[マンガン族元素]]:[[マンガン|Mn]]、[[レニウム|Re]]
* [[貴金属]](銅族、貨幣金属<ref>{{Cite book|和書|date=2005年(初版1982年)|title=リー 無機化学|author=J.D.Lee、浜口博・菅野等 訳|edition=第一版第二十二刷|publisher=東京化学同人|pages=389-398|chapter=6.d-ブロック元素 銅族(貨幣金属)|isbn=4-00-080113-9}}</ref>):[[銅|Cu]]、[[銀|Ag]]、[[金|Au]]
* [[白金族元素]]:[[ルテニウム|Ru]]、[[ロジウム|Rh]]、[[パラジウム|Pd]]、[[オスミウム|Os]]、[[イリジウム|Ir]]、[[白金|Pt]]。
* [[放射性元素|天然放射性元素]]:[[ウラン|U]]および[[トリウム|Th]]を母体とする放射能壊変産物。U、Th、Ra、Rn、[[アクチノイド]] <ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chs.nihon-u.ac.jp/syllabus/syllabus/kagaku/57-290-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=放射化学Ⅱ|publisher=[[日本大学]]文理学部|accessdate=2010-04-17}}</ref>。
* [[超ウラン元素]]:[[ネプツニウム|Np]]、[[プルトニウム|Pu]]、[[アメリシウム|Am]]、[[キュリウム|Cm]]、[[バークリウム|Bk]]、[[カリホルニウム|Cf]]、[[アインスタイニウム|Es]]、[[フェルミウム|Fm]]、[[メンデレビウム|Md]]、[[ノーベリウム|No]]等、ウラン以降の元素<ref>{{Cite web|和書|url=http://semrl.t.u-tokyo.ac.jp/SUPERCOM/88/88_4.html|language=日本語|title=4.超ウラン・ネプツニウム化合物で初めて超伝導を発見_東北大、原研、阪大_|publisher=[[東京大学]]大学院工学系研究科 SUPERCOM |accessdate=2010-04-17}}</ref>。
[[ファイル:FCC crystal structure.svg|thumb|126px|right|[[面心立方格子構造]]]]
[[ファイル:BCC crystal structure.svg|thumb|126px|right|[[体心立方格子構造]]]]
[[ファイル:HCP crystal structure.svg|thumb|126px|right|[[六方最密充填構造]]]]
=== 金属結晶構造による分類 ===
* 面心立方格子構造 (fcc):Al、Ca、[[オーステナイト|γ-Fe]]、Ni、Cu、Rh、Pd、Ag、In、Ir、Pt、Au、Pb
* 体心立方格子構造 (bcc):Li、Na、K、β-Ti、V、Cr、[[フェライト相|α-Fe]]、[[デルタフェライト|δ-Fe]]、β-Sn、Ta、W
* 六方最密充填構造 (hcp):Be、Mg、α-Ti、Zn、Cd、Nd、Os、Tl
=== 工業材料分類 ===
; [[鉄鋼]]
* [[炭素鋼]]:機械構造用炭素鋼、一般構造用炭素鋼など
* [[合金鋼]]:[[クロム鋼]]、[[ニッケル鋼]]、不銹鋼([[ステンレス鋼]])、[[高速度鋼]]、[[工具鋼]]など
* [[鋳鉄]]:可鍛鋳鉄、球状黒鉛鋳鉄([[ダクタイル鋳鉄]])など
; [[非鉄金属]]
* 銅および合金
* アルミニウムおよび[[アルミニウム合金|合金]]
* ニッケルおよび合金
* 貴金属:Au、Ag、Pt
* 低融点金属:Sn、Pb、[[ビスマス|Bi]]
* その他:Mg、Ti、Znなど
=== 比重 ===
金属を[[比重]]で分類する場合は、比重5を基準に下回るものを[[軽金属]]、上回るものを[[重金属]]と一般に呼ぶ。しかしこれはあまり厳密な定義ではなく、基準を比重4とする場合<ref>{{Cite web|和書|url=http://syllabus.sic.shibaura-it.ac.jp/syllabus/2003/ko1/29070-C0270300.html|language=日本語|title=軽金属材料|publisher=[[芝浦工業大学]]|accessdate=2010-04-17}}</ref> もある<ref name="saitoh1-5" />。
* 主な軽金属と比重(比重5未満):Li (0.53)、Na (0.77)、K (0.86)、Ca (1.55)、Mg (1.74)、Be (1.85)、Al (2.70)、Ti (4.50)
* 主な重金属と比重(高比重8種):Ir (22.65)、Pt (21.4)、Au (19.3)、W (19.3)、U (19.1)、Hg (13.6)、Hf (13.3)、Pb (11.3)
=== 貴金属と卑金属 ===
貴金属と[[卑金属]]の分類にはさまざまな考え方がある。[[イオン化傾向]]から小さい金属を「貴金属」、大きいものを「卑金属」と呼ぶ概念<ref name="tohoku4">[[#東北大学|東北大学p.121-154 2. 社会基盤をつくる材料4.非鉄金属]]</ref>、これに産出量の少なさや金属光沢の美しいもの(貴金属:precious metals)と大量産出されるもの(卑金属:base metals)を判断に加える概念<ref>{{Cite book|和書|year=1989|title=日本語大事典|edition=第一刷|publisher=講談社|pages=450,1631|chapter=【貴金属】【卑金属】|isbn=4-06-121057-2}}</ref> もある。貴金属は財貨となり、[[硬貨]]や[[貨幣経済]]を裏打ちする[[金本位制]]の基礎など、[[世界経済]]を支える役割を担った<ref name="saitoh2-9">[[#齋藤|齋藤p.165-180 II.金属各論 9.金・銀・白金]]</ref>。また、卑金属から貴金属を生み出すことを目的とした[[錬金術]]は、化学の生みの親ともなった<ref name="saitoh2-9" />。
=== 有色金属 ===
[[File:Bi-crystal.jpg|thumb|right|120px|酸化発色したビスマスの結晶]]
ほとんどの金属が持つ金属光沢は灰白色であるが、一部に、比較的はっきりした[[色相]]を有する金属がある<ref name="osawa1-1" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://home.sato-gallery.com/education/kouza/metal_color_seminar.pdf|format=PDF|language=日本語|title=金属の色の物理的起源|publisher=[[東京農工大学]]|author=佐藤勝昭|accessdate=2011-11-24}}</ref>。純金属では金や銅、合金では[[黄銅]]、[[丹銅]]などがある。なお表面が酸化、[[塩素化]]、[[窒化]]など化学反応を起こした場合、これらの化合物の色や、酸化発色などの[[構造色]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nodai.ac.jp/agri/original/kinoukaihatu/structure_color/index.html|language=日本語|title=昆虫の色を利用する|publisher=[[東京農業大学]]|accessdate=2011-11-24}}</ref> によって変色することもある。
=== レアメタル ===
金属を汎用金属([[コモンメタル]]、ベースメタル)と希少金属([[レアメタル]])に分ける分類もある。レアメタルの基準は以下の1-4のどれか一項目を満たし、かつ5番目の条件にあてはまるものを言う<ref name="saitoh3-10">[[#齋藤|齋藤p.181-198 III.その他の金属の種類と性質 10.レアメタル]]</ref>。
# 存在する量が少ない
# 鉱床を作らず、広く薄く分布している
# 鉱床を作っても、特定の国や地域に限定されている
# 鉱物から取り出したり精製したりすることが難しい
# 現代の産業に欠かせない素材である
レアメタルは、典型元素15種類+希土類以外の[[遷移元素]]15種類+希土類金属(レアアースメタル)17種類の合計47種類があり、この中には半金属の[[ホウ素]]、[[セレン]]、[[テルル]]も含まれる。これらレアメタルは[[クラーク数]]の少なさとは必ずしも一致せず、例えば銅は、[[地殻]]に含まれる量は少ないが古来[[青銅器]]が作られたように[[鉱石]]が発掘しやすく精錬も容易だった<ref name="saitoh3-10" />。
コモンメタルの定義は、「レアメタル以外の金属」「歴史的に文明を支えた鉄、銅、亜鉛、スズ、水銀、鉛、アルミニウム、金、銀の8種類」など複数ある<ref name="saitoh3-10" />。
以上のように「レア」と「コモン」の差は物質の絶対量ではなく、人類がいかに容易に調達できるか、需給バランスのギャップという点が強い。そのため、精錬技術の向上など製造プロセス革新によってレアメタルに分類される金属がコモンメタル化される可能性があり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.okabe.iis.u-tokyo.ac.jp/docs/okabe_essays/essay_019_061222_060401_jsps.pdf|format=PDF|language=日本語|title=環境調和型アクティブメタルプロセスの開発|publisher=[[東京大学生産技術研究所]]|author=[[岡部徹 (材料学者)|岡部徹]]|accessdate=2010-04-17}}</ref>、その例としてチタンがコモンメタル化されつつある<ref>{{Cite web|和書|url=http://syllabus-pub.yz.yamagata-u.ac.jp/amenity/Keyword/KeywordWeb.aspx?nKeywordID=1172|language=日本語|title=レアメタル|publisher=[[山形大学]]データベースアメニティ研究所|accessdate=2010-04-17}}</ref>。
== 合金 ==
{{Main|合金}}
単一の金属を「純金属」という<ref name="osawa1-1" /> のに対し、複数の金属の[[化合物]]を「合金」という。合金は単体の金属が持たない性質を持つことがあり、工業用[[原材料|材料]]として用いられる金属は多くが合金である<ref name="osawa1-2" />。
=== 鉄鋼 ===
鉄を基礎とする合金(鉄基合金)は[[鉄鋼]]と呼ばれ、その潤沢な生産性を背景に様々な分野で活躍している。鉄鋼は本質的に鉄 (Fe) と炭素 (C) の合金であり、その微細組織は Fe-C 二元系が[[平衡状態]]にある物質と定義できる。鉄鋼の用途は構造部材が主流とするが、[[車両]]や[[船舶]]など[[輸送]]機械、[[発電]]、[[化学]]などのプラントや工作機械類、[[ばね]]、[[工具]]、[[金型]]など多岐にわたる<ref name="tohoku2-3">[[#東北大学|東北大学p.90-120 2.社会基盤を作る材料 3.鉄鋼材料]]</ref><ref name="osawa1-3">[[#大澤|大澤p.82-101 II.金属の材料 3.鉄鋼]]</ref>。
鉄鋼はさらに別の金属を加えた改良が施され、クロムを加えて耐食性を付与した不銹鋼([[ステンレス鋼]])は100種類以上、優れた磁性を持つ[[磁石]]鋼、膨張など温度による影響を排除した不変鋼([[インバー]]、[[バイメタル]]など)、その他にも工具鋼や耐熱鋼、快削鋼など、多様な合金が上市されている<ref name="osawa1-3" />。
=== アモルファス金属 ===
本来は結晶相を持つ金属が、ある種の合金では規則的な格子を作らず[[ガラス]]のように非晶性となることがあり、これは[[アモルファス金属]]と呼ばれる。1960年、金-シリコン合金で発見されたこの性質は、他に鉄系、アルミニウム系、コバルト系、ニッケル系、マグネシウム系などが知られる<ref name="osawa1-1" />。
アモルファス金属は、強い磁性に機械的強度や耐食性に優れ、温度変化による熱膨張や剛性低下の係数が低い。アモルファス金属の製造法には複数の手法が提案されているが、工業的には直接合金を得られる溶融金属の急冷凝固法が優れている<ref name="osawa1-1" />。
=== 機能性金属 ===
合金の中には、特殊な機能を持つ種類がある。ニッケル-チタンや鉄-マンガン-チタン合金などの[[形状記憶合金]]、相変態を利用した[[超弾性合金]]、金-銅-ジルコイル合金などの[[超塑性合金]]、マグネシウムなどを用いる[[水素吸蔵合金]]、結晶境界のずれを利用する[[制振合金]]などがある<ref name="saitoh1-5" />。水銀や高価なセシウムに替わる低融点の合金も研究されており、かつて開発された[[ウッドメタル]]の毒性を改良した[[ガリンスタン]]なども提案されている<ref name="saitoh3-11">[[#齋藤|齋藤p.199-211 III.その他の金属の種類と性質 11.その他の金属]]</ref>。今後は、レアメタルの用途を代替する合金の開発などが求められている<ref name="saitoh3-10" />。
== 精錬と加工 ==
{{Main|金属加工}}
=== 精錬 ===
地球の環境下において、天然の状態で得られる純金属はごく少数に限られ、ほとんどは[[酸化物]]、[[硫化物]]、[[炭酸塩]]、[[ケイ酸塩]]、[[ヒ化物]]といった化合物となっている。これらから他の元素を排除して利用に耐えうる金属を取り出す手法を[[精錬]]、[[冶金]]と言う。その方法は加熱して行う[[乾式精錬|乾式精錬法]](乾式冶金法)と、[[電気分解]]([[電解精錬]])や溶液内で抽出する[[湿式精錬|湿式精錬法]](湿式冶金法)があり、これらは金属と他の元素間に働く結合力(親和力)などから選ばれる<ref name="osawa1-1" />。
金属利用範囲の拡大に伴って高純度の金属が求められるようになり、これらに対応する精錬法も開発されている。[[ゾーンメルト法]](帯域溶融法)は、溶融させた不純物を含む金属を徐々に冷やし、[[偏析]]を利用して純度を高める<ref name="osawa1-1" />。
=== 鋳造 ===
金属を工業材料として用いるには、まず溶融させて[[鋳型]]に流し込む[[鋳造]]から始まる。青銅器時代から用いられたこの金属加工法で作られた[[鋳物]]は、そのままでは粗く、不純物の遍在や鋳巣などがあり強度が低い。これらは金属部品の要求性能が高まるにつれ、[[塑性加工]]技術の進展や用いられる合金の改良などが施された。鉄では1947年に[[ダクタイル鋳鉄|球状黒鉛鋳鉄]]、アルミニウム合金では1920年に[[シルミン]]の改良法が発案され、溶湯(ようとう、溶融状態の金属)処理法での強度改良に大きく寄与した<ref name="osawa3-8">[[#大澤|大澤p.145-153 III.金属の加工技術 8.鋳造技術]]</ref>。
製法も、砂型、[[金型]]、[[ダイカスト]]、精密鋳造など多種の手段が用いられるようになった。効率向上においては、連続鋳造法の基礎が1933年に発案され、1950年代にプロセス改良を経て実用的な技術として確立された<ref name="osawa3-8" />。
[[ファイル:Scene-de-forge-edo-p1000665.jpg|thumb|right|鍛造の一例:[[刀鍛冶]]]]
=== 塑性加工 ===
金属に弾性限界を超える外的な力を与え、永久ひずみを起こして望む形状や寸法に加工することを[[塑性加工]]と言う。これには、加熱した状態で行う「熱間加工」と常温で行う「冷間加工」に分類され、前者は再結晶が伴い、後者は常温で再結晶する一部の金属を除いて再結晶化が起こらない<ref name="osawa3-9">[[#大澤|大澤p.154-160 III.金属の加工技術 9.展伸加工技術]]</ref>。
塑性加工の手法には、[[圧延]]、引抜き、押出し、[[鍛造]]、深絞り、打抜きなどがあり、このような変形加工を通じて金属の不均一や粗い結晶粒の微細化が起こり、強靭さが増す。また、圧延などでは個々の結晶粒の方向性が揃いながら集合組織を形成するために、表面のエネルギー特性を高める効果もある<ref name="osawa3-9" />。
=== 硬化加工 ===
金属硬度には、「[[焼入れ]]」も大きな影響を与える。これは、加熱した金属を急[[冷却]]させる工程で、変態を起こさせる暇を与えず[[水]]や[[油]]に投入して温度を下げ、高温時の結晶状態を維持する手段である。ただし焼入れのみではもろいため、「焼き戻し」という再加熱が対で行われる。この2工程を合わせて調質という<ref name="osawa1-1" />。
鍛鉄や、金属を何度も折り曲げるなど外部から繰り返して力を加えると、金属は硬くなる。これは[[転位論]]で説明される格子欠陥のひとつ「転位」と呼ばれる原子配列の乱れが金属の塑性を起こす辷り面に生じ<ref group="2-">Frank-Readによる転位増殖源説/[[#大澤|大澤p.55]]</ref>、これがやがて点欠陥に固着し、金属全体が動きにくくなる現象である<ref name="osawa1-1" />。
== 人と金属の関係 ==
=== 宇宙と生命の関係 ===
人体は、[[カルシウム]]を含む6つの多量元素、[[ナトリウム]]、[[カリウム]]、[[マグネシウム]]を含む5つの少量元素で99.4%を構成されている。これに加え[[必須元素]]、[[微量元素]]が生命活動や[[酵素]]の活性などに使われている<ref name="saitoh1-4">[[#齋藤|齋藤p.73-90 I.金属の種類と性質 4.金属と生体]]</ref>。
このような金属をつくる元素は[[宇宙]]の誕生とともに生成された訳ではない。[[ビッグバン]]が起こった後、当初宇宙に満ちていた元素は水素と[[ヘリウム]]だけだったと考えられる。これが[[重力]]によって集まり、産まれた[[恒星]]の中でより重い元素は[[核融合]]を起こし生成された。ただし[[太陽]]程度の星では酸素までであり、より重い質量の恒星でも内部で生成される元素は鉄までに止まる。鉄よりも重い元素は[[超新星爆発]]のエネルギーを吸収して初めて核融合を成すといわれる<ref group="注">この箇所について[[#東北大学|『金属材料の最前線』]]は、「銅は鉱石中で酸化物として存在(p24)」と述べ、異なる見解を示している。同書は、[[ヨーロッパ]]の[[アルプス山脈|アルプス]][[氷河]]から発見された紀元前3300年頃の男性[[ミイラ]]が持っていた[[ハンマー]]に純銅の刃がついていたことを「謎(p24)」と表現している。</ref>。地球が鉄よりも重い金属元素を含み、それらを生物が生命活動に、そして人類がエネルギーとして放射性元素を利用していることは、すなわち[[太陽系]]、人類を含む生命を構成し活動を支える物質はかつて爆発し散らばった星のカケラが再集結したものであることを示し、金属の存在はそれを証明している。このことを指し、人類を始め地球生命は「星の子」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keio.ac.jp/ja/event/200810/kr7a430000009ub9.html|language=日本語|title=平成20年度 秋季港区民大学 人間と宇宙のかかわり‐2009年世界天文年‐|publisher=[[慶應義塾大学]]|accessdate=2010-04-17}}</ref> とも評される<ref>{{Cite book|和書|author=二間瀬敏史|authorlink=二間瀬敏史|date=2002年(初版1999年)|edition=第十五刷|title=ここまでわかった宇宙の謎|pages=91-100|publisher=[[講談社]]|isbn-=4-06-256398-3}}</ref>。
=== 金属利用 ===
文明が金属を使用した太古の例では、[[イラク]]で出土した紀元前9500年頃の銅製[[ペンダント]]が見つかっている<ref name="tohoku1-1">[[#東北大学|東北大学p.15-43 1.材料学の基礎 1.ようこそ材料学の世界へ]]</ref>。しかしこれは天然にあった純銅をほぼそのまま利用したもので、以後続いた銅の利用は、銅が純粋な形([[自然銅]])で鉱石となって集まりやすく、しかも[[地球]]表面のいたるところに分布していたことが幸いした<ref name="saitoh2-7">[[#齋藤|齋藤p.131-150 II.金属各論 7.銅とアルミニウム]]</ref><ref group="注">『[[ニュートン (雑誌)|ニュートン]]』別冊 完全図解「周期表」第2版では、このメカニズムはまだはっきりと解明されていないと述べられている。(p68)</ref>。この初期段階で利用された他の金属は、金や銀など酸素と結合しにくい貴金属に限られ、その絶対量も希少だった<ref name="tohoku1-1" />。
[[ファイル:AltechinesischeMuenzen.jpg|thumb|[[周]]時代の[[青銅]]製通貨]]
酸化物から金属を得る[[製錬]]技術は、[[世界四大文明]]が生まれ、人類が数百℃以上の[[熱源]]を制御する手段を得て初めて可能となった。紀元前2000頃のエジプトの[[壁画]]には足踏み[[ふいご]]と鋳型が登場する。さらに、銅-砒素および銅-錫合金が発明され、融点を940℃まで下げながら約3倍の強度を持つ[[青銅]]が古代中国大陸の[[殷]]王朝や[[地中海]]の[[ミケーネ文明]]、[[ミノア文明]]および[[中東]]などを例に[[金属器]]が広く製造、使用されるようになり、青銅器時代が到来した<ref name="tohoku1-1" />。
地球上に豊富にある鉄は酸化された状態にあり、最古の利用例と言われるエジプトや[[メソポタミア]]で発見された紀元前5000-3000年前の鉄製品は、[[隕鉄]]を叩いて<ref name="meiji">{{Cite web|和書|url=http://www.isc.meiji.ac.jp/~sano/htst/History_of_Technology/History_of_Iron_19990324.html|language=日本語|title=製鉄技術史(1)|publisher=[[明治大学]]佐野研究室|accessdate=2010-04-17}}</ref> 製造されている。酸化鉄を加熱し[[還元]]反応を経る精錬は、諸説あるが<ref name="meiji" /> 紀元前1650年頃の[[ヒッタイト]]で始められ、彼らが持つ鉄製の武具は高い[[軍事力]]の裏打ちとなった。製鉄技術は約200年以上秘匿されてきたが、紀元前1200年頃に「[[海の民]]」にヒッタイトが滅ぼされると、製鉄技術の広範な伝播が始まった。なおヒッタイト秘術の真髄は、鉄の精錬そのものではなく[[炭素]]を含ませ[[鋼]]をつくる技術にあったと思われている<ref name="tohoku1-1" />。
金属精錬技術の普及とともに、金属は武器だけでなく[[農耕]]器具や[[日用品|生活用品]]にも広く用いられ、また貴金属類も[[装飾品]]などに使われている<ref name="housou">{{Cite web|和書|url=http://www.isc.meiji.ac.jp/~sano/htst/History_of_Technology/History_of_Iron_19990324.html|language=日本語|title=生命と金属の世界(‘05)|publisher=[[放送大学]]教養学部|accessdate=2010-04-17}}</ref>。金属の[[磁性]]は[[方位磁石]]から[[羅針盤]]へと発展し[[航海]]技術発展に寄与した<ref name="tohoku1-1" />。
18世紀以前、人類が使用していた金属は金や鉄、水銀など11種類だけであった<ref group="2-">[[井口洋夫]]『金属の話』([[培風館]])/[[#東北大学|東北大学p.172]]</ref>。[[産業革命]]を迎えると採掘や精錬技術が進み、また[[ドミトリ・メンデレーエフ]]の[[周期表]]発表前後は新たな金属が続々と発見された。さらに19世紀以降には様々な化学実験や[[原子論]]など考察が金属にも加えられ、原子の構造が順次明らかとなった。20世紀には[[量子論]]など金属への根本理解がさらに深まり、さまざまな用途展開が行われている<ref name="tohoku1-1" />。
=== 人体への影響 ===
一部の金属は人体に強い毒性を持ち、必須、微量元素に当たる金属の中には過剰摂取で[[中毒]]症状を起こすものもある。[[公害]]の原因となった[[カドミウム]]([[イタイイタイ病]])、[[水銀]]([[水俣病]])や、[[グレアム・ヤング|グレアム・ヤング事件]]で使われた[[タリウム]]などが知られる。[[江上不二夫]]は、このような元素類は[[海水]]中に含まれる[[濃度]]が低い点を指摘し、人類に繋がる[[生物]]が海中で発生した際に接触する機会がほとんど無く、進化の過程で[[解毒]]機構を獲得しなかったものと考察している<ref name="saitoh1-4" /><ref>{{Cite book|和書|author=大島泰郎|authorlink=大島泰郎|year=1994|edition=第一刷|title=宇宙生物学とET探査|pages=129-131|publisher=[[朝日文庫]]|isbn=4-02-260798-X}}</ref>。
2006年に起こった[[アレクサンドル・リトビネンコ]][[暗殺]]事件で被害者の体内から検出された放射性元素の[[ポロニウム]]は、純度50%での致死量は100万分の1グラムと言われる。ただしポロニウムは自然界に存在せず、[[原子炉]]で人為的にしか製造されない<ref name="saitoh1-4" />。
金属が生体に接触して[[アレルギー]]反応を示すことがあり、これは[[金属アレルギー]]と呼ばれIV型(遅延型)に分類される。金属そのものは抗原性を示さないが[[アレルゲン]]となり、溶出した金属イオンが[[蛋白質]]と結合して抗原となる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.dent.niigata-u.ac.jp/hosp/allergy/kinnare.html|language=日本語|title=金属アレルギーってなに?|publisher=[[新潟大学]]歯学部|accessdate=2010-04-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://hospital.dent.aichi-gakuin.ac.jp/modules/008/index.php?content_id=20|language=日本語|title=口腔金属アレルギー外来|publisher=[[愛知学院大学]]歯学部|accessdate=2010-04-17}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
=== 脚注2 ===
本脚注は、出典書籍内で提示されている「出典」を示しています。<!-- 分ける必要ありますか? -->
{{Reflist|group="2-"}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=大澤直|date=2008年(初刷2006年)|edition=第一版第四刷|title=金属のおはなし|publisher=[[日本規格協会]]|isbn=978-4-542-90275-6|ref=大澤}}
* {{Cite book|和書|author=東北大学金属材料研究所|authorlink=東北大学金属材料研究所|year=2009|edition=第一刷|title=金属材料の最前線|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-257643-7|ref=東北大学}}
* {{Cite book|和書|author=齋藤勝裕|date=2009年(初版2008年)|edition=第一版第二刷|title=金属のふしぎ|publisher=[[ソフトバンククリエイティブ]]|isbn=978-4-7973-4792-0|ref=齋藤}}
== 関連項目 ==
{{commons|Category:Metals}}
{{Wiktionary|金属}}
*[[液体金属]]
* [[めっき]]
* [[機械材料]]
* [[炎色反応]]
* [[KEY to METALS]] - データベース
* [[金属量]]
== 外部リンク ==
* [http://www.jogmec.go.jp 石油天然ガス・金属鉱物資源機構]
** [http://www.jogmec.go.jp/mric_web/index.html VIRTUAL金属資源情報センター]
* {{Kotobank}}
{{半導体}}
{{Good article}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きんそく}}
[[Category:金属|*]]
[[Category:化学物質]]
[[Category:物質]] | 2003-03-08T12:10:39Z | 2023-12-03T16:36:20Z | false | false | false | [
"Template:Kotobank",
"Template:Good article",
"Template:Normdaten",
"Template:See also",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:半導体",
"Template:Cite book",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Notelist2",
"Template:Commons",
"Template:Wiktionary"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B1%9E |
3,675 | オットー・ハーン | オットー・ハーン(Otto Hahn, 1879年3月8日 - 1968年7月28日)は、ドイツの化学者・物理学者。主に放射線の研究を行い、原子核分裂を発見。1944年にノーベル化学賞を受賞。
1946年までカイザー・ヴィルヘルム協会最後の会長を務め、1948年から1960年までマックス・プランク協会会長を務めた。
ハーンは30年以上にわたってリーゼ・マイトナーと一緒に研究を行ってきたが、ユダヤ系であったマイトナーはナチスの迫害を避けるために1938年にスウェーデンに移らざるをえなくなった。その後も2人は連絡を取り合い、同年、ハーンはマイトナーに「ウランの原子核に中性子を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さい原子であるラジウムの存在が確認された。何が起きているのか意見を聞きたい」という手紙を送った。マイトナーは、甥で物理学者であるオットー・ロベルト・フリッシュと共に核分裂が起きたことを証明して、連名で発表した。
しかし、ハーンはナチスの圧力に負けマイトナーを外したため、マイトナーはノーベル化学賞の受賞を逸している。ハーンは、受賞のスピーチでもマイトナーの功績についてほとんど触れず、その後も核分裂を発見したのはマイトナーではなく、自分だと主張し続けた。
マイトナーはハーンへの手紙で「40年間の友情を裏切られた思い」と吐露している。
今日では、ハーンは核分裂の発見者であり、マイトナーは核分裂の概念の確立者であるとされている。
ハーンとマイトナーの名前はいずれも元素名に提案されたが、マイトナーの名前に由来するマイトネリウムだけが採用された。ハーンの名前に由来するハーニウムは正式採用されず、ドブニウムが正式な名称となった。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "オットー・ハーン(Otto Hahn, 1879年3月8日 - 1968年7月28日)は、ドイツの化学者・物理学者。主に放射線の研究を行い、原子核分裂を発見。1944年にノーベル化学賞を受賞。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "1946年までカイザー・ヴィルヘルム協会最後の会長を務め、1948年から1960年までマックス・プランク協会会長を務めた。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "ハーンは30年以上にわたってリーゼ・マイトナーと一緒に研究を行ってきたが、ユダヤ系であったマイトナーはナチスの迫害を避けるために1938年にスウェーデンに移らざるをえなくなった。その後も2人は連絡を取り合い、同年、ハーンはマイトナーに「ウランの原子核に中性子を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さい原子であるラジウムの存在が確認された。何が起きているのか意見を聞きたい」という手紙を送った。マイトナーは、甥で物理学者であるオットー・ロベルト・フリッシュと共に核分裂が起きたことを証明して、連名で発表した。",
"title": "マイトナーとの関係"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "しかし、ハーンはナチスの圧力に負けマイトナーを外したため、マイトナーはノーベル化学賞の受賞を逸している。ハーンは、受賞のスピーチでもマイトナーの功績についてほとんど触れず、その後も核分裂を発見したのはマイトナーではなく、自分だと主張し続けた。",
"title": "マイトナーとの関係"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "マイトナーはハーンへの手紙で「40年間の友情を裏切られた思い」と吐露している。",
"title": "マイトナーとの関係"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "今日では、ハーンは核分裂の発見者であり、マイトナーは核分裂の概念の確立者であるとされている。",
"title": "マイトナーとの関係"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "ハーンとマイトナーの名前はいずれも元素名に提案されたが、マイトナーの名前に由来するマイトネリウムだけが採用された。ハーンの名前に由来するハーニウムは正式採用されず、ドブニウムが正式な名称となった。",
"title": "マイトナーとの関係"
}
] | オットー・ハーンは、ドイツの化学者・物理学者。主に放射線の研究を行い、原子核分裂を発見。1944年にノーベル化学賞を受賞。 1946年までカイザー・ヴィルヘルム協会最後の会長を務め、1948年から1960年までマックス・プランク協会会長を務めた。 | {{otheruses|化学者・物理学者|原子力鉱物運搬船|オットー・ハーン (原子力船)}}
{{Infobox scientist
| name = Otto Hahn<br>オットー・ハーン
| image = Otto Hahn 1970.jpg
| image_size =200px
| caption = オットー・ハーン(撮影年不詳)
| birth_date = {{birth date|1879|03|08|df=yes}}
| birth_place = {{DEU1871}}・[[フランクフルト・アム・マイン]]
| death_date = {{death date and age|1968|07|28|1879|03|08|df=yes}}
| death_place = {{BRD}}・[[ゲッティンゲン]]
| nationality = {{GER}}
| field =
| work_institutions = [[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]]<br/>[[マギル大学]]<br/>[[フンボルト大学ベルリン]]<br/>[[マックス・プランク研究所]]
| alma_mater = [[フィリップ大学マールブルク]]
| doctoral_advisor =
| academic_advisors = [[ウィリアム・ラムゼー]]<br>[[アドルフ・フォン・バイヤー]]<br>[[アーネスト・ラザフォード]]<br>[[エミール・フィッシャー]]
| doctoral_students = [[フリッツ・シュトラスマン]]
| known_for =
| prizes = [[ノーベル化学賞]](1944)
| signature = Otto Hahn signature.svg
}}
{{thumbnail:begin}}
{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1944年|ノーベル化学賞|原子核分裂の発見}}
{{thumbnail:end}}
'''オットー・ハーン'''(Otto Hahn, [[1879年]][[3月8日]] - [[1968年]][[7月28日]])は、[[ドイツ]]の[[化学者]]・[[物理学者]]。主に[[放射線]]の研究を行い、[[核分裂反応|原子核分裂]]を発見。[[1944年]]に[[ノーベル化学賞]]を受賞<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/ハーン%28Otto+Hahn%29-1579164 |title = 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-01-07 }}</ref>。
[[1946年]]まで[[カイザー・ヴィルヘルム学術振興協会|カイザー・ヴィルヘルム協会]]最後の会長を務め、[[1948年]]から[[1960年]]まで[[マックス・プランク協会]]会長を務めた。
== 略歴 ==
* [[1904年]] - 放射性トリウムを発見
* [[1912年]] - カイザー・ヴィルヘルム化学研究部長
* [[1917年]] - [[プロトアクチニウム]]を発見
* [[1921年]] - [[ウラン]]の核異性体[[プロトアクチニウムの同位体|ウラニウムZ]]を発見
* [[1928年]] - [[カイザー・ヴィルヘルム学術振興協会|カイザー・ヴィルヘルム化学研究所]](1956年から[[ベルリン自由大学]]のオットー・ハーン記念ビル)の所長となる
* [[1938年]] - [[原子核分裂]]を発見
* [[1957年]] - [[王立協会外国人会員]]選出
== 受賞歴 ==
* [[1944年]] - ノーベル化学賞、[[コテニウス・メダル]]
* [[1949年]] - [[マックス・プランク・メダル]]
* [[1953年]] - [[パラケルスス賞|パラケルスス・メダル]]
* [[1958年]] - [[ヴィルヘルム・エクスナー・メダル]]
* [[1959年]] - [[ヘルムホルツ・メダル]]
* [[1966年]] - [[エンリコ・フェルミ賞]]
== マイトナーとの関係 ==
{{See also|核分裂の発見}}
ハーンは30年以上にわたって[[リーゼ・マイトナー]]と一緒に研究を行ってきたが、[[ユダヤ人|ユダヤ系]]であったマイトナーは[[ナチス]]の迫害を避けるために[[1938年]]に[[スウェーデン]]に移らざるをえなくなった。その後も2人は連絡を取り合い、同年、ハーンはマイトナーに「[[ウラン]]の[[原子核]]に[[中性子]]を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さい[[原子]]である[[ラジウム]]の存在が確認された。何が起きているのか意見を聞きたい」<ref>後にハーンは確認したのがラジウムではなくバリウムだったことを発見した。</ref>という手紙を送った。マイトナーは、甥で物理学者であるオットー・ロベルト・フリッシュと共に[[原子核分裂|核分裂]]が起きたことを証明して、連名で発表した。
しかし、ハーンはナチスの圧力に負けマイトナーを外したため、マイトナーはノーベル化学賞の受賞を逸している。ハーンは、受賞のスピーチでもマイトナーの功績についてほとんど触れず、その後も核分裂を発見したのはマイトナーではなく、自分だと主張し続けた。
マイトナーはハーンへの手紙で「40年間の友情を裏切られた思い」と吐露している。
今日では、ハーンは核分裂の発見者であり、マイトナーは核分裂の概念の確立者であるとされている。
ハーンとマイトナーの名前はいずれも元素名に提案されたが、マイトナーの名前に由来する[[マイトネリウム]]だけが採用された。ハーンの名前に由来するハーニウムは正式採用されず、[[ドブニウム]]が正式な名称となった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author=オットー・ハーン
|year=1977|month=9
|title=オットー・ハーン自伝
|others=[[山崎和夫]]訳
|publisher=みすず書房
|isbn=4-622-01647-8
|ref=ハーン(1977)}}
* {{Cite book|和書
|author=K・ホフマン
|year=2006|month=9
|title=オットー・ハーン-科学者の義務と責任とは-
|others=[[山崎正勝]]・[[小長谷大介]]・[[栗原岳史]]訳
|publisher=シュプリンガー・ジャパン
|isbn=4-431-71217-8}}
== 関連項目 ==
* [[オットー・ハーン賞]]
* [[オットー・ハーン・メダル]]
* [[オットー・ハーン平和メダル]]
* [[オットー・ハーン (原子力船)]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Otto Hahn}}
* {{Kotobank|ハーン(Otto Hahn)|2=大友詔雄}}
{{ノーベル化学賞受賞者 (1926年-1950年)}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はあん おつとお}}
[[Category:オットー・ハーン|*]]
[[Category:19世紀ドイツの化学者]]
[[Category:20世紀ドイツの化学者]]
[[Category:20世紀ドイツの物理学者]]
[[Category:ドイツの放射線研究者]]
[[Category:化学元素発見者]]
[[Category:ドイツのノーベル賞受賞者]]
[[Category:ノーベル化学賞受賞者]]
[[Category:エンリコ・フェルミ賞受賞者]]
[[Category:マックス・プランク・メダル受賞者]]
[[Category:ヴィルヘルム・エクスナー・メダル受賞者]]
[[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]]
[[Category:王立協会外国人会員]]
[[Category:DDR科学アカデミー会員]]
[[Category:ローマ教皇庁科学アカデミー会員]]
[[Category:国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員]]
[[Category:プロイセン科学アカデミー会員]]
[[Category:ゲッティンゲン科学アカデミー会員]]
[[Category:バイエルン科学アカデミー会員]]
[[Category:デンマーク王立科学アカデミー会員]]
[[Category:アッカデーミア・デイ・リンチェイ会員]]
[[Category:フリッツ・ハーバー研究所の人物]]
[[Category:ベルリン自由大学の教員]]
[[Category:マックス・プランク化学研究所の人物]]
[[Category:ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン出身の人物]]
[[Category:ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン出身の人物]]
[[Category:フランクフルト・アム・マイン出身の人物]]
[[Category:1879年生]]
[[Category:1968年没]] | 2003-03-08T12:18:42Z | 2023-12-24T03:17:11Z | false | false | false | [
"Template:Thumbnail:begin",
"Template:Thumbnail:end",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Commons",
"Template:Kotobank",
"Template:Thumbnail:ノーベル賞受賞者",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Normdaten",
"Template:Infobox scientist",
"Template:See also",
"Template:Otheruses",
"Template:Cite book",
"Template:ノーベル化学賞受賞者 (1926年-1950年)"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3 |
3,676 | 半導体 | 半導体とは、金属などの導体と、ゴムなどの絶縁体の中間の抵抗率を持つ物質である。半導体は、不純物の導入や熱や光・磁場・電圧・電流・放射線などの影響で、その導電性が顕著に変わる性質を持つ。この性質を利用して、トランジスタなどの半導体素子に利用されている。
半導体は、電気伝導性の良い金属などの導体と、電気抵抗率の大きい絶縁体の中間的な抵抗率をもつ物質である。代表的なものとしては元素半導体のケイ素、ゲルマニウム、化合物半導体のヒ化ガリウム、リン化ガリウム、リン化インジウムなどがある。
半導体の特徴は、固体のバンド理論によって説明される。
なお、バンド理論を用いれば、半導体とは、価電子帯を埋める電子の状態は完全に詰まっているものの、禁制帯を挟んで、伝導帯を埋める電子の状態は存在しない物質として定義される。
一般的に、抵抗は電流と電圧に関して比例的な関係を満たす、すなわちオームの法則が成り立つことからオーム性抵抗と呼ばれる。一方、電気回路においては、非オーム性抵抗素子はオーム性抵抗素子に劣らず重要である。
半導体が重要視される性質の一つは、半導体と金属、または半導体同士を適当に接触させることでさまざまな非オーム性抵抗が得られることにある。
具体的には、p型半導体とn型半導体をpn接合したダイオードや、n型半導体をp型半導体で挟んだ、もしくはp型半導体をn型半導体で挟んだトランジスタなどがある。太陽電池もpn接合を用いている。
半導体では通常、温度が上がると電気伝導性が増す。
室温では、キャリアが不純物原子から受ける束縛を離れて結晶中を動ける状態にある。言い方を変えれば、ドナーとアクセプターの原子は多くがイオン化しているが、温度が低下すると熱励起も弱くなり、不純物原子のクーロン引力による束縛の影響が相対的に大きくなる。キャリアが束縛を離れている温度の領域を飽和領域、あるいは出払い領域といい、キャリアが束縛を受ける温度領域を不純物領域という。また、温度を上昇させると価電子までもが熱励起され、キャリアの供給源となり、この温度領域を真性領域と呼ぶ。半導体素子として利用する場合は飽和領域が利用される。
逆バイアスされたpn接合などにおいて温度が上がりすぎると、キャリアの増加で電流が増加し、その抵抗発熱でさらに温度が上がる熱暴走が発生する。
半導体となる材料には以下のものがある。
半導体の材料としてグラフェンが注目されている。グラフェンは、炭素原子とその結合からできた蜂の巣のような六角形格子構造で、薄さはわずか 0.142 nm となっている。ダイヤモンド以上に炭素同士の結合が強く、平面内ではダイヤモンドより強い物質と考えられている。物理的にもとても強く、世界で最も引っ張りに強い。熱伝導も世界で最も良いとされ、電気の伝導度もトップクラスに良い物質である。 これらの特性から原子層半導体デバイスへの活用が期待される。
不純物や格子欠陥を全く含まない半導体を真性半導体と呼ぶ。真性半導体は、そのフェルミ準位は禁制帯の中央に位置し、全温度領域においてキャリアは価電子帯のエネルギーレベルにある電子の励起によってのみ供給されることから、電子回路に用いるような半導体素子としては使い難い。
半導体素子として用いることができるような半導体は、真性半導体にドーパントと呼ばれる微量の添加物を混ぜて不純物半導体とすることで作成する。このドープによって、半導体のキャリアである電子または正孔の密度が変化することとなるが、伝導現象を支配するキャリアとして電子が優勢である半導体をn型半導体、逆に正孔が優勢なものをp型半導体と呼ぶ。このような優勢なキャリアを多数キャリア、逆に劣勢なキャリアを少数キャリアと呼ぶ。n型半導体での多数キャリアは電子、少数キャリアは正孔である。p型半導体での多数キャリアは正孔、少数キャリアは電子である。 なお、p型半導体やn型半導体はドーピングしなければ作れないというわけではない。カーボンナノチューブはP型半導体として知られている。
n型半導体とは、電圧がかけられると伝導電子や自由電子、ほとんど自由な電子とも呼ばれる電子の移動によって電荷が運ばれる半導体である。価数の多い元素をドーピングすることで作られる。例えばシリコンやゲルマニウムの結晶に、ヒ素などの5価の原子を混ぜることでn型となる。
不純物の導入によって生成されたキャリアは、導入された不純物原子から受けるクーロン引力により束縛される。ただしその束縛は弱く、ゲルマニウムのn型半導体では、電子束縛エネルギー = -0.01 eV、ボーア半径 = 4.2 nm 程度であるため、結晶内の原子間距離 0.25 nm、室温での熱励起は約 0.025 eV 程度では単独原子の束縛を離れて結晶の原子同士間を自由に動き、これらの原子は互いの電子を共有する状態となる。 バンド構造で言えば通常、ドーパント原子は禁制帯の上端付近にドナー準位を形成し、そこから熱エネルギーにて伝導帯へ励起される。フェルミ準位は禁制帯中のドナー準位に近い位置になる。
電圧がかけられると正孔の移動によって電荷が運ばれる半導体である。価数の少ない元素をドーピングすることで作られる。例えばシリコン(4価)の結晶にホウ素などの3価の原子を混ぜることでp型となる。
電子が伝導帯側に遷移して価電子帯側の電子が不足することで生じる電子軌道上の空隙が正孔となる。結晶の原子同士間の自由電子が隣の正孔に移動することで正孔の位置は自由に移動でき、 電圧に応じて電子とは逆方向へ流れる。移動度は電子に比べて劣る。バンド構造で言えば、ドーパント原子は禁制帯の下端付近にアクセプター準位と呼ばれる空の準位を形成し、アクセプター準位へ価電子帯から熱エネルギーによって価電子が励起されることで、価電子帯に正孔が生じる。フェルミ準位は禁制帯中のアクセプター準位に近い位置になる。
1821年にトーマス・ゼーベックは半導体の特性の一つである熱電変換効果を発見した。
1839年にマイケル・ファラデーは硫化銀を加熱すると導電性が増し、冷やすと伝導性が低下する現象を発見した。
1839年にアレクサンドル・エドモン・ベクレルは薄い塩化銀で覆われた白金の電極を電解液に浸したものに光を照射時に電流が生じる光電効果を発見した。
1873年にウィロビー・スミスは光を照射するとセレンの電気抵抗が低下する事を発見した。
1874年にフェルディナント・ブラウンは硫化金属の伝導性と整流作用を観測したが、この効果は1835年に既にピエテル・サミュエル・ムンクがAnnalen der Physik und Chemieに記述しており、アーサー・シュスターは電線の表面の酸化銅の被膜に整流作用があることを発見していた。
1876年にウィリアム・グリルス・アダムスとリチャード・エヴァンス・デイはセレンの光電効果を観測した。
これらの事象を説明するためには20世紀前半の固体物理学の理論の構築を必要とした。
1878年にエドウィン・ホールは磁場のない時には等電位の部分が、磁場を印加すると電位差(ホール電圧)を生じるホール効果を発見した。
半導体を使用した素子は当初は理論が確立する前だったので手探りで製造された。
1880年にアレクサンダー・グラハム・ベルはセレンの感光特性を光線電話に使用した。
1883年に低効率で作動する太陽電池はチャールズ・フリッツによってセレンを塗布して金メッキを施した金属板を使用して製造された。これは1930年代以降、露出計として1970年代まで市販された。
1897年にジョゼフ・ジョン・トムソンによって電子が発見された。
1904年に硫化鉛製の高周波の点接触検波器の整流素子はジャガディッシュ・チャンドラ・ボースによって天然の方鉛鉱を使用した鉱石検波器として製造された。これは初期の鉱石ラジオに使用されて普及した。しかし、当時は作動の原理が不明で改良の方法も不明だった。
1906年にH.J. Roundは炭化珪素の結晶に電流を印加すると発光する現象を観測した。これは発光ダイオードの原型だった。
1922年にオレク・ロシェフも類似の現象を観測したが、当時はこの効果を実用化することができなかった。酸化銅とセレンを使用した電力整流器は1920年代に開発され、真空管整流器が普及するまで商業的に重要だった。
1922年にオレク・ロシェフは2接点式の負性抵抗増幅器を無線のために開発したが、彼は1942年にレニングラード包囲戦により38歳で餓死した。
第二次世界大戦前に赤外線の検出と光無線通信を目的とした素子が硫化鉛とセレン化鉛の材料で研究された。これらの素子は船舶や航空機の熱紋の捕捉と音声通話のために使用された。
およそ4000 MHz以上の周波数帯域では当時入手可能だった真空管では機能しなかったので点接触鉱石検波器はマイクロ波帯域を使用するレーダーの受信装置で使用された。戦争中には検波器を開発するために適した高純度のシリコン材料を製造するための研究開発が進められた。
検波器と電力整流器には信号の増幅は不可能だった。半導体増幅器の開発に多くの労力が費やされたが半導体材料への理論的な限界により失敗した。
1926年にユリウス・エドガー・リリエンフェルトは近代的な電界効果トランジスタの特許を取得したが、当時は実現しなかった。
1930年代には理論的には半導体による増幅器の出現はある程度予想されていたものの、実験の結果は芳しくなかった。これは当時の半導体の純度が低かったためで、半導体増幅器を実現するためには1950年代のゾーンメルト法の開発を待たなければならなかった。
1935年にO.Heilは半導体抵抗を面電極によって制御するMOSFETに類似の素子の特許を出願した。半導体(Te2、I2、Co2O3、V2O5 等)の両端に電極を取付け、その半導体上面に制御用電極を半導体ときわめて接近するが互いに接触しないように配置してこの電位を変化して半導体の抵抗を変化させることにより、増幅された信号を外部回路に取り出す素子だった。R. HilschとR. W. Pohlは1938年にKBr結晶とPt電極で形成した整流器のKBr結晶内に格子電極を埋め込んだ真空管の制御電極の構造を使用した素子構造で、このデバイスで初めて制御電極(格子電極として結晶内に埋め込んだ電極)に流した電流0.02 mA に対して陽極電流の変化0.4 mAの増幅を確認している。このデバイスは電子流の他にイオン電流の寄与もあって、素子の遮断周波数が1 Hz程度で実用上は低すぎた。
1938年にベル研究所のウィリアム・ショックレーとA. Holdenは半導体増幅器の開発に着手した。
1941年頃に最初のシリコン内のpn接合はRussell Ohlによって発見された。
1947年11月17日から1947年12月23日にかけてベル研究所でゲルマニウムのトランジスタの実験を試み、1947年12月16日に増幅作用が確認された。増幅作用の発見から1週間後の1947年12月23日がベル研究所の公式発明日となる。特許出願は、1948年2月26日にウェスタン・エレクトリック社によってジョン・バーディーンとウォルター・ブラッテンの名前で出願された。同年6月30日に新聞で発表された。この素子の名称はTransfer Resistorの略称で、社内で公募され、キャリアの注入でエミッターからコレクターへ電荷が移動する電流駆動型デバイスが入力と出力の間の転送する抵抗であることから、J.R.Pierseが「trans-sistor」としたことに由来す。
第二次世界大戦中にレーダーの開発に従事したドイツ人技術者のヘルベルト・マタレ(英語版)とHeinrich Welker達が戦後にフランスのウェスティングハウスの子会社に勤務して半導体の機能の研究を進めており、ゲルマニウム上で点接触の電極間での増幅作用を観測していた。ベル研究所が"トランジスタ"を発表後、まもなくMataréのグループは彼らの"Transistron"増幅器を発表した。
1948年6月26日にウィリアム・ショックレーはバイポーラトランジスタの特許を出願した。
日本国内ではトランジスタの開発のニュースが1948年中頃に伝わり、1948年10月には東北大学の渡辺寧、東京大学の久保、電気試験所、東芝、日本電気、日立などの研究者によるトランジスタ勉強会がスタートした。この勉強会は1949年4月には日本電子機械工業会の文部省研究費によるトランジスタ研究連絡会に発展した。1948年11月には日本電気の小林正次によって無線と実験誌に日本で最初のトランジスタに関する解説記事が掲載された。続いて日本物理学会誌の1949年7 - 8月号に東京大学の山下次郎、澁谷元一による解説論文が発表された。この時点では、バイポーラトランジスタの動作原理は日米ともにまだ完全には理解されていなかった。
1950年4月3日には東京工業大学で開催された日本物理学会分科会で、トランジスタに関する日本で最初のシンポジウムが開催され、電気試験所から分割された逓信省電気通信研究所の岩瀬、浅川は、高純度ゲルマニウム単結晶を使用した点接触型トランジスタの試作、動作確認に日本で初めて成功した。
1952年5月7日に集積回路の原型はイギリスのレーダー科学者ジェフリー・ダマーによって概念が発表されたものの、当時は製造技術が未熟で実現には至らなかった。その後、テキサス・インスツルメンツのジャック・キルビーによって「Miniaturized electronic circuits」は1959年2月に出願され、1964年6月にアメリカ合衆国特許第 3,138,743号が登録された。フェアチャイルドセミコンダクターのロバート・ノイスの考案した「Semiconductor device-and-lead structure」は1959年7月に出願され、1961年4月にアメリカ合衆国特許第 2,981,877号が登録された。
1954年1月に神戸工業(現在の富士通テン)から合金接合型のゲルマニウムトランジスタが発売され、同年7月にはソニーから成長接合型ゲルマニウムトランジスタが発売された。成長接合型トランジスタの不良品を調査する過程で江崎玲於奈によってエサキダイオードが開発された。
1959年にはフェアチャイルド・セミコンダクターでプレーナー技術が開発された。プレーナー技術は後に集積回路で使用される。
1960年代の初頭にはウェスティングハウスが当時、テキサスインスツルメンツ、フェアチャイルドとは独立して「Molectronics」という名称の集積回路の開発を進めていて1960年2月にSemiconductor Product誌に掲載された記事に触発されて電気試験所でも同年12月に見方次第ではマルチチップ構造のハイブリッドICともいえるゲルマニウムのペレット3個を約1 cm角の樹脂容器に平行に配列した集積回路の試作に成功した。
1990年、世界の半導体メーカーの売り上げで上位10社のうち6社は日本企業であった。しかしその後は日米半導体協定を経て急速な凋落を辿る。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "半導体とは、金属などの導体と、ゴムなどの絶縁体の中間の抵抗率を持つ物質である。半導体は、不純物の導入や熱や光・磁場・電圧・電流・放射線などの影響で、その導電性が顕著に変わる性質を持つ。この性質を利用して、トランジスタなどの半導体素子に利用されている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "半導体は、電気伝導性の良い金属などの導体と、電気抵抗率の大きい絶縁体の中間的な抵抗率をもつ物質である。代表的なものとしては元素半導体のケイ素、ゲルマニウム、化合物半導体のヒ化ガリウム、リン化ガリウム、リン化インジウムなどがある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "半導体の特徴は、固体のバンド理論によって説明される。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "なお、バンド理論を用いれば、半導体とは、価電子帯を埋める電子の状態は完全に詰まっているものの、禁制帯を挟んで、伝導帯を埋める電子の状態は存在しない物質として定義される。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "一般的に、抵抗は電流と電圧に関して比例的な関係を満たす、すなわちオームの法則が成り立つことからオーム性抵抗と呼ばれる。一方、電気回路においては、非オーム性抵抗素子はオーム性抵抗素子に劣らず重要である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "半導体が重要視される性質の一つは、半導体と金属、または半導体同士を適当に接触させることでさまざまな非オーム性抵抗が得られることにある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "具体的には、p型半導体とn型半導体をpn接合したダイオードや、n型半導体をp型半導体で挟んだ、もしくはp型半導体をn型半導体で挟んだトランジスタなどがある。太陽電池もpn接合を用いている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "半導体では通常、温度が上がると電気伝導性が増す。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "室温では、キャリアが不純物原子から受ける束縛を離れて結晶中を動ける状態にある。言い方を変えれば、ドナーとアクセプターの原子は多くがイオン化しているが、温度が低下すると熱励起も弱くなり、不純物原子のクーロン引力による束縛の影響が相対的に大きくなる。キャリアが束縛を離れている温度の領域を飽和領域、あるいは出払い領域といい、キャリアが束縛を受ける温度領域を不純物領域という。また、温度を上昇させると価電子までもが熱励起され、キャリアの供給源となり、この温度領域を真性領域と呼ぶ。半導体素子として利用する場合は飽和領域が利用される。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "逆バイアスされたpn接合などにおいて温度が上がりすぎると、キャリアの増加で電流が増加し、その抵抗発熱でさらに温度が上がる熱暴走が発生する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "半導体となる材料には以下のものがある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "半導体の材料としてグラフェンが注目されている。グラフェンは、炭素原子とその結合からできた蜂の巣のような六角形格子構造で、薄さはわずか 0.142 nm となっている。ダイヤモンド以上に炭素同士の結合が強く、平面内ではダイヤモンドより強い物質と考えられている。物理的にもとても強く、世界で最も引っ張りに強い。熱伝導も世界で最も良いとされ、電気の伝導度もトップクラスに良い物質である。 これらの特性から原子層半導体デバイスへの活用が期待される。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "不純物や格子欠陥を全く含まない半導体を真性半導体と呼ぶ。真性半導体は、そのフェルミ準位は禁制帯の中央に位置し、全温度領域においてキャリアは価電子帯のエネルギーレベルにある電子の励起によってのみ供給されることから、電子回路に用いるような半導体素子としては使い難い。",
"title": "半導体の型"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "半導体素子として用いることができるような半導体は、真性半導体にドーパントと呼ばれる微量の添加物を混ぜて不純物半導体とすることで作成する。このドープによって、半導体のキャリアである電子または正孔の密度が変化することとなるが、伝導現象を支配するキャリアとして電子が優勢である半導体をn型半導体、逆に正孔が優勢なものをp型半導体と呼ぶ。このような優勢なキャリアを多数キャリア、逆に劣勢なキャリアを少数キャリアと呼ぶ。n型半導体での多数キャリアは電子、少数キャリアは正孔である。p型半導体での多数キャリアは正孔、少数キャリアは電子である。 なお、p型半導体やn型半導体はドーピングしなければ作れないというわけではない。カーボンナノチューブはP型半導体として知られている。",
"title": "半導体の型"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "n型半導体とは、電圧がかけられると伝導電子や自由電子、ほとんど自由な電子とも呼ばれる電子の移動によって電荷が運ばれる半導体である。価数の多い元素をドーピングすることで作られる。例えばシリコンやゲルマニウムの結晶に、ヒ素などの5価の原子を混ぜることでn型となる。",
"title": "半導体の型"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "不純物の導入によって生成されたキャリアは、導入された不純物原子から受けるクーロン引力により束縛される。ただしその束縛は弱く、ゲルマニウムのn型半導体では、電子束縛エネルギー = -0.01 eV、ボーア半径 = 4.2 nm 程度であるため、結晶内の原子間距離 0.25 nm、室温での熱励起は約 0.025 eV 程度では単独原子の束縛を離れて結晶の原子同士間を自由に動き、これらの原子は互いの電子を共有する状態となる。 バンド構造で言えば通常、ドーパント原子は禁制帯の上端付近にドナー準位を形成し、そこから熱エネルギーにて伝導帯へ励起される。フェルミ準位は禁制帯中のドナー準位に近い位置になる。",
"title": "半導体の型"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "電圧がかけられると正孔の移動によって電荷が運ばれる半導体である。価数の少ない元素をドーピングすることで作られる。例えばシリコン(4価)の結晶にホウ素などの3価の原子を混ぜることでp型となる。",
"title": "半導体の型"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "電子が伝導帯側に遷移して価電子帯側の電子が不足することで生じる電子軌道上の空隙が正孔となる。結晶の原子同士間の自由電子が隣の正孔に移動することで正孔の位置は自由に移動でき、 電圧に応じて電子とは逆方向へ流れる。移動度は電子に比べて劣る。バンド構造で言えば、ドーパント原子は禁制帯の下端付近にアクセプター準位と呼ばれる空の準位を形成し、アクセプター準位へ価電子帯から熱エネルギーによって価電子が励起されることで、価電子帯に正孔が生じる。フェルミ準位は禁制帯中のアクセプター準位に近い位置になる。",
"title": "半導体の型"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1821年にトーマス・ゼーベックは半導体の特性の一つである熱電変換効果を発見した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1839年にマイケル・ファラデーは硫化銀を加熱すると導電性が増し、冷やすと伝導性が低下する現象を発見した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1839年にアレクサンドル・エドモン・ベクレルは薄い塩化銀で覆われた白金の電極を電解液に浸したものに光を照射時に電流が生じる光電効果を発見した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1873年にウィロビー・スミスは光を照射するとセレンの電気抵抗が低下する事を発見した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1874年にフェルディナント・ブラウンは硫化金属の伝導性と整流作用を観測したが、この効果は1835年に既にピエテル・サミュエル・ムンクがAnnalen der Physik und Chemieに記述しており、アーサー・シュスターは電線の表面の酸化銅の被膜に整流作用があることを発見していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1876年にウィリアム・グリルス・アダムスとリチャード・エヴァンス・デイはセレンの光電効果を観測した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "これらの事象を説明するためには20世紀前半の固体物理学の理論の構築を必要とした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1878年にエドウィン・ホールは磁場のない時には等電位の部分が、磁場を印加すると電位差(ホール電圧)を生じるホール効果を発見した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "半導体を使用した素子は当初は理論が確立する前だったので手探りで製造された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1880年にアレクサンダー・グラハム・ベルはセレンの感光特性を光線電話に使用した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1883年に低効率で作動する太陽電池はチャールズ・フリッツによってセレンを塗布して金メッキを施した金属板を使用して製造された。これは1930年代以降、露出計として1970年代まで市販された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1897年にジョゼフ・ジョン・トムソンによって電子が発見された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1904年に硫化鉛製の高周波の点接触検波器の整流素子はジャガディッシュ・チャンドラ・ボースによって天然の方鉛鉱を使用した鉱石検波器として製造された。これは初期の鉱石ラジオに使用されて普及した。しかし、当時は作動の原理が不明で改良の方法も不明だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1906年にH.J. Roundは炭化珪素の結晶に電流を印加すると発光する現象を観測した。これは発光ダイオードの原型だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1922年にオレク・ロシェフも類似の現象を観測したが、当時はこの効果を実用化することができなかった。酸化銅とセレンを使用した電力整流器は1920年代に開発され、真空管整流器が普及するまで商業的に重要だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1922年にオレク・ロシェフは2接点式の負性抵抗増幅器を無線のために開発したが、彼は1942年にレニングラード包囲戦により38歳で餓死した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦前に赤外線の検出と光無線通信を目的とした素子が硫化鉛とセレン化鉛の材料で研究された。これらの素子は船舶や航空機の熱紋の捕捉と音声通話のために使用された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "およそ4000 MHz以上の周波数帯域では当時入手可能だった真空管では機能しなかったので点接触鉱石検波器はマイクロ波帯域を使用するレーダーの受信装置で使用された。戦争中には検波器を開発するために適した高純度のシリコン材料を製造するための研究開発が進められた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "検波器と電力整流器には信号の増幅は不可能だった。半導体増幅器の開発に多くの労力が費やされたが半導体材料への理論的な限界により失敗した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1926年にユリウス・エドガー・リリエンフェルトは近代的な電界効果トランジスタの特許を取得したが、当時は実現しなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1930年代には理論的には半導体による増幅器の出現はある程度予想されていたものの、実験の結果は芳しくなかった。これは当時の半導体の純度が低かったためで、半導体増幅器を実現するためには1950年代のゾーンメルト法の開発を待たなければならなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1935年にO.Heilは半導体抵抗を面電極によって制御するMOSFETに類似の素子の特許を出願した。半導体(Te2、I2、Co2O3、V2O5 等)の両端に電極を取付け、その半導体上面に制御用電極を半導体ときわめて接近するが互いに接触しないように配置してこの電位を変化して半導体の抵抗を変化させることにより、増幅された信号を外部回路に取り出す素子だった。R. HilschとR. W. Pohlは1938年にKBr結晶とPt電極で形成した整流器のKBr結晶内に格子電極を埋め込んだ真空管の制御電極の構造を使用した素子構造で、このデバイスで初めて制御電極(格子電極として結晶内に埋め込んだ電極)に流した電流0.02 mA に対して陽極電流の変化0.4 mAの増幅を確認している。このデバイスは電子流の他にイオン電流の寄与もあって、素子の遮断周波数が1 Hz程度で実用上は低すぎた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1938年にベル研究所のウィリアム・ショックレーとA. Holdenは半導体増幅器の開発に着手した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1941年頃に最初のシリコン内のpn接合はRussell Ohlによって発見された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1947年11月17日から1947年12月23日にかけてベル研究所でゲルマニウムのトランジスタの実験を試み、1947年12月16日に増幅作用が確認された。増幅作用の発見から1週間後の1947年12月23日がベル研究所の公式発明日となる。特許出願は、1948年2月26日にウェスタン・エレクトリック社によってジョン・バーディーンとウォルター・ブラッテンの名前で出願された。同年6月30日に新聞で発表された。この素子の名称はTransfer Resistorの略称で、社内で公募され、キャリアの注入でエミッターからコレクターへ電荷が移動する電流駆動型デバイスが入力と出力の間の転送する抵抗であることから、J.R.Pierseが「trans-sistor」としたことに由来す。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦中にレーダーの開発に従事したドイツ人技術者のヘルベルト・マタレ(英語版)とHeinrich Welker達が戦後にフランスのウェスティングハウスの子会社に勤務して半導体の機能の研究を進めており、ゲルマニウム上で点接触の電極間での増幅作用を観測していた。ベル研究所が\"トランジスタ\"を発表後、まもなくMataréのグループは彼らの\"Transistron\"増幅器を発表した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1948年6月26日にウィリアム・ショックレーはバイポーラトランジスタの特許を出願した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "日本国内ではトランジスタの開発のニュースが1948年中頃に伝わり、1948年10月には東北大学の渡辺寧、東京大学の久保、電気試験所、東芝、日本電気、日立などの研究者によるトランジスタ勉強会がスタートした。この勉強会は1949年4月には日本電子機械工業会の文部省研究費によるトランジスタ研究連絡会に発展した。1948年11月には日本電気の小林正次によって無線と実験誌に日本で最初のトランジスタに関する解説記事が掲載された。続いて日本物理学会誌の1949年7 - 8月号に東京大学の山下次郎、澁谷元一による解説論文が発表された。この時点では、バイポーラトランジスタの動作原理は日米ともにまだ完全には理解されていなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1950年4月3日には東京工業大学で開催された日本物理学会分科会で、トランジスタに関する日本で最初のシンポジウムが開催され、電気試験所から分割された逓信省電気通信研究所の岩瀬、浅川は、高純度ゲルマニウム単結晶を使用した点接触型トランジスタの試作、動作確認に日本で初めて成功した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1952年5月7日に集積回路の原型はイギリスのレーダー科学者ジェフリー・ダマーによって概念が発表されたものの、当時は製造技術が未熟で実現には至らなかった。その後、テキサス・インスツルメンツのジャック・キルビーによって「Miniaturized electronic circuits」は1959年2月に出願され、1964年6月にアメリカ合衆国特許第 3,138,743号が登録された。フェアチャイルドセミコンダクターのロバート・ノイスの考案した「Semiconductor device-and-lead structure」は1959年7月に出願され、1961年4月にアメリカ合衆国特許第 2,981,877号が登録された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1954年1月に神戸工業(現在の富士通テン)から合金接合型のゲルマニウムトランジスタが発売され、同年7月にはソニーから成長接合型ゲルマニウムトランジスタが発売された。成長接合型トランジスタの不良品を調査する過程で江崎玲於奈によってエサキダイオードが開発された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1959年にはフェアチャイルド・セミコンダクターでプレーナー技術が開発された。プレーナー技術は後に集積回路で使用される。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1960年代の初頭にはウェスティングハウスが当時、テキサスインスツルメンツ、フェアチャイルドとは独立して「Molectronics」という名称の集積回路の開発を進めていて1960年2月にSemiconductor Product誌に掲載された記事に触発されて電気試験所でも同年12月に見方次第ではマルチチップ構造のハイブリッドICともいえるゲルマニウムのペレット3個を約1 cm角の樹脂容器に平行に配列した集積回路の試作に成功した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1990年、世界の半導体メーカーの売り上げで上位10社のうち6社は日本企業であった。しかしその後は日米半導体協定を経て急速な凋落を辿る。",
"title": "歴史"
}
] | 半導体とは、金属などの導体と、ゴムなどの絶縁体の中間の抵抗率を持つ物質である。半導体は、不純物の導入や熱や光・磁場・電圧・電流・放射線などの影響で、その導電性が顕著に変わる性質を持つ。この性質を利用して、トランジスタなどの半導体素子に利用されている。 | [[ファイル:Monokristalines Silizium für die Waferherstellung.jpg|サムネイル|upright=0.5|シリコン単結晶のインゴット]]
'''半導体'''(はんどうたい、[[英語|英]]: semiconductor)とは、金属などの[[電気伝導体|導体]]と、ゴムなどの[[絶縁体]]の中間の[[電気抵抗率|抵抗率]]を持つ物質である。半導体は、不純物の導入や[[熱]]や[[光]]・[[磁場]]・[[電圧]]・[[電流]]・[[放射線]]などの影響で、その導電性が顕著に変わる性質を持つ。この性質を利用して、[[トランジスタ]]などの[[半導体素子]]に利用されている。
== 概要 ==
[[ファイル:BandGap-Comparison-J.PNG|thumb|良導体(通常の[[金属]])、半導体・絶縁体における[[バンドギャップ]](禁制帯幅)の模式図。ある種の半導体では比較的容易に電子が[[伝導帯]]へと遷移することで電気伝導性を持つ[[伝導電子]]が生じる。金属ではエネルギーバンド内に空き準位があり、[[価電子]]がすぐ上の空き準位に移って伝導電子となるため、常に[[電気伝導性]]を示す。]]
[[ファイル:BandDiagram-Semiconductors-J.PNG|thumb|半導体の[[バンド構造]]の模式図。Eは電子の持つ[[エネルギー]]、kは[[波数]]。Egが[[バンドギャップ]]。半導体(や絶縁体)では、絶対零度で電子が入っている一番上のエネルギーバンドが電子で満たされており(充満帯)、その上に禁制帯を隔てて空帯がある([[伝導帯]])。]]
半導体は、電気伝導性の良い金属などの導体と、電気抵抗率の大きい[[絶縁体]]の中間的な抵抗率をもつ物質である。代表的なものとしては元素半導体の[[ケイ素]]、[[ゲルマニウム]]、化合物半導体の[[ヒ化ガリウム]]、[[リン化ガリウム]]、[[リン化インジウム]]などがある。
半導体の特徴は、固体の[[バンド理論]]によって説明される。
なお、バンド理論を用いれば、半導体とは、[[価電子帯]]を埋める電子の状態は完全に詰まっているものの、[[禁制帯]]を挟んで、[[伝導帯]]を埋める電子の状態は存在しない[[物質]]として定義される。
=== 非オーム性抵抗 ===
一般的に、抵抗は電流と電圧に関して比例的な関係を満たす、すなわち[[オームの法則]]が成り立つことからオーム性抵抗と呼ばれる。一方、電気回路においては、非オーム性抵抗素子はオーム性抵抗素子に劣らず重要である。
半導体が重要視される性質の一つは、半導体と金属、または半導体同士を適当に接触させることでさまざまな非オーム性抵抗が得られることにある<ref name="名前なし-1">[[半導体#シャイヴ(1961)|シャイヴ(1961)]] p.16</ref>。
具体的には、p型半導体とn型半導体をpn接合した[[ダイオード]]や、n型半導体をp型半導体で挟んだ、もしくはp型半導体をn型半導体で挟んだ[[トランジスタ]]などがある。[[太陽電池]]もpn接合を用いている。
=== 熱電効果 ===
半導体では通常、温度が上がると電気伝導性が増す。
室温では、キャリアが不純物原子から受ける束縛を離れて結晶中を動ける状態にある。言い方を変えれば、ドナーとアクセプターの原子は多くが[[イオン]]化しているが、温度が低下すると熱励起も弱くなり、不純物原子のクーロン引力による束縛の影響が相対的に大きくなる。キャリアが束縛を離れている温度の領域を'''飽和領域'''、あるいは'''出払い領域'''といい、キャリアが束縛を受ける温度領域を'''不純物領域'''という。また、温度を上昇させると価電子までもが熱励起され、キャリアの供給源となり、この温度領域を'''真性領域'''と呼ぶ。半導体素子として利用する場合は飽和領域が利用される。
逆バイアスされた[[pn接合]]などにおいて温度が上がりすぎると、キャリアの増加で電流が増加し、その抵抗発熱でさらに温度が上がる'''熱暴走'''が発生する。
=== 材料 ===
半導体となる材料には以下のものがある。
* IV族半導体:[[ケイ素|Si]]、[[ゲルマニウム|Ge]]、[[フラーレン]]、[[カーボンナノチューブ]]など
* [[化合物半導体]]
** [[II-VI族半導体]]:[[セレン化亜鉛|ZnSe]]、[[硫化カドミウム|CdS]]、[[酸化亜鉛|ZnO]]など
** [[III-V族半導体]]:[[ヒ化ガリウム|GaAs]]、[[リン化インジウム|InP]]、[[窒化ガリウム|GaN]]など
** IV族化合物半導体:[[SiC]]、[[シリコンゲルマニウム|SiGe]]など
** I-III-VI族半導体:CuInSe<sub>2</sub>などカルコパイライト系半導体
* [[有機半導体]]、[[導電性高分子]]
==== 原子層半導体デバイス ====
[[ファイル:グラフェンの分子構造.png|サムネイル|グラフェンの分子構造]]
半導体の材料として'''グラフェン'''が注目されている。グラフェンは、炭素原子とその結合からできた蜂の巣のような六角形格子構造で、薄さはわずか 0.142 [[ナノメートル|nm]] となっている。ダイヤモンド以上に炭素同士の結合が強く、平面内ではダイヤモンドより強い物質と考えられている。物理的にもとても強く、世界で最も引っ張りに強い。熱伝導も世界で最も良いとされ、電気の伝導度もトップクラスに良い物質である。 これらの特性から原子層半導体デバイスへの活用が期待される。
== 半導体の型 ==
不純物や[[格子欠陥]]を全く含まない半導体を[[真性半導体]]と呼ぶ。真性半導体は、その[[フェルミ準位]]は[[禁制帯]]の中央に位置し、全温度領域においてキャリアは[[価電子帯]]のエネルギーレベルにある電子の励起によってのみ供給されることから、電子回路に用いるような[[半導体素子]]としては使い難い。
半導体素子として用いることができるような半導体は、真性半導体に[[ドーパント]]と呼ばれる微量の添加物を混ぜて[[不純物半導体]]とすることで作成する。この[[ドープ]]によって、半導体のキャリアである電子または正孔の密度が変化することとなるが、伝導現象を支配するキャリアとして電子が優勢である半導体を[[n型半導体]]、逆に[[正孔]]が優勢なものを[[p型半導体]]と呼ぶ。このような優勢なキャリアを'''多数キャリア'''、逆に劣勢なキャリアを'''少数キャリア'''と呼ぶ。n型半導体での多数キャリアは電子、少数キャリアは正孔である。p型半導体での多数キャリアは正孔、少数キャリアは電子である。
なお、p型半導体やn型半導体はドーピングしなければ作れないというわけではない。[[カーボンナノチューブ]]はP型半導体として知られている。
=== n 型半導体 ===
[[ファイル:N-doped_Si.svg|thumb|'''n型半導体'''<br />シリコン(Si)に[[リン]](P)をドープした例である。5つの赤い丸がリン由来の[[価電子]]。1つだけ余った e<sup>-</sup> と書かれている電子が電荷の運び手となり結晶中を動く。]]
[[n型半導体]]とは、電圧がかけられると伝導電子や自由電子、[[ほとんど自由な電子]]とも呼ばれる電子の移動によって電荷が運ばれる半導体である。価数の多い元素をドーピングすることで作られる。例えば[[ケイ素|シリコン]]や[[ゲルマニウム]]の結晶に、[[ヒ素]]などの5価の原子を混ぜることでn型となる。
不純物の導入によって生成されたキャリアは、導入された不純物原子から受けるクーロン引力により束縛される。ただしその束縛は弱く、ゲルマニウムのn型半導体では、電子束縛エネルギー = -0.01 [[電子ボルト|eV]]、[[ボーア半径]] = 4.2 nm 程度であるため、結晶内の[[原子間距離]] 0.25 nm、室温での熱励起は約 0.025 eV 程度では単独原子の束縛を離れて結晶の原子同士間を自由に動き、これらの原子は互いの電子を共有する状態となる。
[[バンド構造]]で言えば通常、ドーパント原子は禁制帯の上端付近にドナー準位を形成し、そこから熱エネルギーにて伝導帯へ[[励起状態|励起]]される。[[フェルミエネルギー|フェルミ準位]]は禁制帯中のドナー準位に近い位置になる。
=== p 型半導体 ===
[[ファイル:P-doped_Si.svg|thumb|'''p型半導体'''<br />シリコン(Si)に[[ホウ素]](B)をドープした例。]]
電圧がかけられると正孔の移動によって電荷が運ばれる半導体である。価数の少ない元素をドーピングすることで作られる。例えばシリコン(4価)の結晶に[[ホウ素]]などの3価の原子を混ぜることでp型となる。
電子が伝導帯側に遷移して価電子帯側の電子が不足することで生じる電子軌道上の空隙が正孔となる。結晶の原子同士間の自由電子が隣の正孔に移動することで正孔の位置は自由に移動でき、
電圧に応じて電子とは逆方向へ流れる。移動度は電子に比べて劣る。バンド構造で言えば、ドーパント原子は禁制帯の下端付近にアクセプター準位と呼ばれる空の準位を形成し、アクセプター準位へ価電子帯から熱エネルギーによって価電子が励起されることで、価電子帯に正孔が生じる。フェルミ準位は禁制帯中のアクセプター準位に近い位置になる。
== 歴史 ==
1821年に[[トーマス・ゼーベック]]は半導体の特性の一つである[[ゼーベック効果|熱電変換効果]]を発見した。
1839年に[[マイケル・ファラデー]]は[[硫化銀]]を加熱すると[[導電性]]が増し、冷やすと伝導性が低下する現象を発見した。
1839年に[[アレクサンドル・エドモン・ベクレル]]は薄い[[塩化銀]]で覆われた[[白金]]の電極を電解液に浸したものに光を照射時に電流が生じる[[光電効果]]を発見した。
1873年にウィロビー・スミスは光を照射すると[[セレン]]の電気抵抗が低下する事を発見した。
1874年に[[フェルディナント・ブラウン]]は硫化金属の伝導性と整流作用を観測したが、この効果は1835年に既に[[ピエテル・サミュエル・ムンク]]がAnnalen der Physik und Chemieに記述しており、[[アーサー・シュスター]]は電線の表面の酸化銅の被膜に整流作用があることを発見していた。
1876年に[[ウィリアム・グリルス・アダムス]]と[[リチャード・エヴァンス・デイ]]はセレンの光電効果を観測した。
これらの事象を説明するためには20世紀前半の[[固体物理学]]の理論の構築を必要とした。
1878年に[[エドウィン・ホール]]は磁場のない時には等電位の部分が、磁場を印加すると電位差(ホール電圧)を生じる[[ホール効果]]を発見した。
半導体を使用した素子は当初は理論が確立する前だったので手探りで製造された。
1880年に[[アレクサンダー・グラハム・ベル]]は[[セレン]]の感光特性を[[光線電話]]に使用した。
1883年に低効率で作動する太陽電池は[[チャールズ・フリッツ]]によってセレンを塗布して金メッキを施した金属板を使用して製造された。これは1930年代以降、[[露出計]]として1970年代まで市販された。
1897年に[[ジョゼフ・ジョン・トムソン]]によって[[電子]]が発見された。
[[硫化鉛|1904年に硫化鉛]]製の高周波の点接触検波器の整流素子は[[ジャガディッシュ・チャンドラ・ボース]]によって天然の[[方鉛鉱]]を使用した[[鉱石検波器]]として製造された。これは初期の[[鉱石ラジオ]]に使用されて普及した。しかし、当時は作動の原理が不明で改良の方法も不明だった。
1906年にH.J. Roundは[[炭化珪素]]の結晶に電流を印加すると発光する現象を観測した。これは[[発光ダイオード]]の原型だった。
1922年に[[オレク・ロシェフ]]も類似の現象を観測したが、当時はこの効果を実用化することができなかった。[[酸化銅]]と[[セレン]]を使用した電力[[整流器]]は1920年代に開発され、真空管整流器が普及するまで商業的に重要だった。
1922年に[[オレク・ロシェフ]]は2接点式の[[負性抵抗]]増幅器を無線のために開発したが、彼は1942年に[[レニングラード包囲戦]]により38歳で餓死した。
第二次世界大戦前に[[赤外線]]の検出と[[光無線通信]]を目的とした素子が[[硫化鉛]]と[[セレン化鉛]]の材料で研究された。これらの素子は[[船舶]]や[[航空機]]の[[熱紋]]の捕捉と音声通話のために使用された。
およそ4000 [[メガヘルツ|MHz]]以上の周波数帯域では当時入手可能だった[[真空管]]では機能しなかったので点接触[[鉱石検波器]]は[[マイクロ波]]帯域を使用するレーダーの受信装置で使用された。戦争中には[[検波器]]を開発するために適した高純度のシリコン材料を製造するための研究開発が進められた。
[[検波器]]と電力[[整流器]]には信号の増幅は不可能だった。半導体増幅器の開発に多くの労力が費やされたが半導体材料への理論的な限界により失敗した。
1926年に[[ユリウス・エドガー・リリエンフェルト]]は近代的な[[電界効果トランジスタ]]の特許を取得したが、当時は実現しなかった。
1930年代には理論的には半導体による増幅器の出現はある程度予想されていたものの、実験の結果は芳しくなかった。これは当時の半導体の純度が低かったためで、半導体増幅器を実現するためには1950年代の[[ゾーンメルト法]]の開発を待たなければならなかった。
1935年にO.Heilは半導体抵抗を面電極によって制御する[[MOSFET]]に類似の素子の特許を出願した。半導体(Te<sub>2</sub>、I<sub>2</sub>、Co<sub>2</sub>O<sub>3</sub>、V<sub>2</sub>O<sub>5</sub> 等)の両端に電極を取付け、その半導体上面に制御用電極を半導体ときわめて接近するが互いに接触しないように配置してこの電位を変化して半導体の抵抗を変化させることにより、増幅された信号を外部回路に取り出す素子だった。R. HilschとR. W. Pohlは1938年にKBr結晶とPt電極で形成した整流器のKBr結晶内に格子電極を埋め込んだ真空管の制御電極の構造を使用した素子構造で、このデバイスで初めて制御電極(格子電極として結晶内に埋め込んだ電極)に流した電流0.02 [[ミリアンペア|mA]] に対して陽極電流の変化0.4 mAの増幅を確認している。このデバイスは電子流の他にイオン電流の寄与もあって、素子の[[遮断周波数]]が1 [[ヘルツ (単位)|Hz]]程度で実用上は低すぎた。
1938年に[[ベル研究所]]の[[ウィリアム・ショックレー]]とA. Holdenは半導体増幅器の開発に着手した。
1941年頃に最初のシリコン内の[[pn接合]]は[[:en:Russell Ohl|Russell Ohl]]によって発見された。
1947年11月17日から1947年12月23日にかけて[[ベル研究所]]で[[ゲルマニウム]]の[[トランジスタ]]の実験を試み、1947年12月16日に増幅作用が確認された。増幅作用の発見から1週間後の1947年12月23日がベル研究所の公式発明日となる。特許出願は、1948年2月26日に[[ウェスタン・エレクトリック]]社によって[[ジョン・バーディーン]]と[[ウォルター・ブラッテン]]の名前で出願された。同年6月30日に新聞で発表された。この素子の名称はTransfer Resistorの略称で、社内で公募され、キャリアの注入でエミッターからコレクターへ電荷が移動する電流駆動型デバイスが入力と出力の間の転送する抵抗であることから、J.R.Pierseが「trans-sistor」としたことに由来す。
第二次世界大戦中に[[レーダー]]の開発に従事したドイツ人技術者の{{仮リンク|ヘルベルト・マタレ|en|Herbert Mataré}}とHeinrich Welker達が戦後に[[フランス]]の[[ウェスティングハウス・エレクトリック|ウェスティングハウス]]の子会社に勤務して半導体の機能の研究を進めており、[[ゲルマニウム]]上で点接触の電極間での増幅作用を観測していた。[[ベル研究所]]が"[[トランジスタ]]"を発表後、まもなくMataréのグループは彼らの"Transistron"増幅器を発表した。
1948年6月26日に[[ウィリアム・ショックレー]]は[[バイポーラトランジスタ]]の特許を出願した。
日本国内ではトランジスタの開発のニュースが1948年中頃に伝わり、1948年10月には東北大学の[[渡辺寧]]、東京大学の久保、[[電気試験所]]、[[東芝]]、[[日本電気]]、[[日立製作所|日立]]などの研究者によるトランジスタ勉強会がスタートした。この勉強会は1949年4月には[[日本電子機械工業会]]の文部省研究費によるトランジスタ研究連絡会に発展した。1948年11月には[[日本電気]]の[[小林正次]]によって[[無線と実験]]誌に日本で最初のトランジスタに関する解説記事が掲載された。続いて日本物理学会誌の1949年7 - 8月号に東京大学の山下次郎、澁谷元一による解説論文が発表された。この時点では、[[バイポーラトランジスタ]]の動作原理は日米ともにまだ完全には理解されていなかった。
1950年4月3日には[[東京工業大学]]で開催された日本物理学会分科会で、トランジスタに関する日本で最初のシンポジウムが開催され、[[電気試験所]]から分割された[[逓信省]][[電気通信研究所]]の岩瀬、浅川は、高純度ゲルマニウム単結晶を使用した[[点接触型トランジスタ]]の試作、動作確認に日本で初めて成功した。
1952年5月7日に[[集積回路]]の原型はイギリスの[[レーダー]]科学者[[ジェフリー・ダマー]]によって概念が発表されたものの、当時は製造技術が未熟で実現には至らなかった。その後、[[テキサス・インスツルメンツ]]の[[ジャック・キルビー]]によって「Miniaturized electronic circuits」は1959年2月に出願され、1964年6月に{{US patent|3138743}}が登録された。[[フェアチャイルドセミコンダクター]]の[[ロバート・ノイス]]の考案した「Semiconductor device-and-lead structure」は1959年7月に出願され、1961年4月に{{US patent|2981877}}が登録された。
1954年1月に神戸工業(現在の富士通テン)から[[合金接合型トランジスタ|合金接合型]]のゲルマニウムトランジスタが発売され、同年7月には[[ソニー]]から[[成長接合型トランジスタ|成長接合型]]ゲルマニウムトランジスタが発売された。[[成長接合型トランジスタ]]の不良品を調査する過程で[[江崎玲於奈]]によって[[エサキダイオード]]が開発された。
1959年には[[フェアチャイルド・セミコンダクター]]で[[プレーナー型トランジスタ|プレーナー技術]]が開発された。プレーナー技術は後に[[集積回路]]で使用される。
1960年代の初頭にはウェスティングハウスが当時、[[テキサスインスツルメンツ]]、[[フェアチャイルド・セミコンダクター|フェアチャイルド]]とは独立して「Molectronics」という名称の[[集積回路]]の開発を進めていて1960年2月にSemiconductor Product誌に掲載された記事に触発されて[[電気試験所]]でも同年12月に見方次第ではマルチチップ構造のハイブリッドICともいえるゲルマニウムのペレット3個を約1 [[センチメートル|cm]]角の樹脂容器に平行に配列した集積回路の試作に成功した。
=== 半導体産業 ===
{{節スタブ|date=2023-06}}
1990年、世界の半導体メーカーの売り上げで上位10社のうち6社は日本企業であった。しかしその後は[[日米半導体協定]]を経て急速な凋落を辿る。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[集積回路]] - 半導体を使った電子部品
* [[信頼性工学]] - [[統計的仮説検定]]
* [[ハイテク]]
* [[半金属 (バンド理論)]]
* [[半導体産業]]
* [[半導体素子]] - 半導体を使った電子素子
* [[フィラデルフィア半導体指数]]
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2021年12月|section=1}}
* {{cite book | 和書 | author=大脇健一 | author2=有住徹弥 | editor= | title=トランジスタとその応用 | date=1955年3月 | publisher=電波技術社 | ref= }} - 日本で最初のトランジスタの書籍
* {{cite book|和書 |author=J.N.シャイヴ |editor=神山 雅英, 小林 秋男, 青木 昌治, 川路 紳治(共訳) |title=半導体工学 |year=1961 |publisher=[[岩波書店]] |ref=シャイヴ(1961) |doi=10.11501/2495256}}
* {{cite book|和書 |title=半導体の物理 |author=川村 肇 |year=1966 |publisher=槇書店 |series=新物理学進歩シリーズ3 |ref=川村(1966) |doi=10.11501/1378800}}
* {{cite book|和書 |title=トランジスタ・集積回路の技術史 |author=久保 脩治 |publisher=[[オーム社]] |year=1989 |ref=久保(1989) |isbn=4-274-03251-5}}
* {{Cite journal|author=江崎玲於奈|year=1979|title=半導体デバイスの誕生と発展|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/butsuri1946/34/3/34_3_203/_article/-char/ja/|journal=日本物理学会誌|volume=34 巻 3 号|pages=203-213}}
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks|q=no|commons=Category:{{Wd|property|P373}}}}
* [https://www.seaj.or.jp/semi/about_semi.html 半導体とは] - 日本半導体製造装置協会
* {{Kotobank}}
* [https://jernano.jp/column/774/ 注目の素材「グラフェン」とは] - JERNANO
{{半導体}}
{{Condensed matter physics topics}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:はんとうたい}}
[[Category:半導体|*]]
[[Category:電磁気学]]
[[Category:固体物理学]] | 2003-03-08T12:19:00Z | 2023-11-01T04:51:31Z | false | false | false | [
"Template:Condensed matter physics topics",
"Template:Normdaten",
"Template:仮リンク",
"Template:節スタブ",
"Template:Cite book",
"Template:Sisterlinks",
"Template:Kotobank",
"Template:半導体",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist",
"Template:Cite journal",
"Template:US patent",
"Template:Reflist",
"Template:参照方法"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%B0%8E%E4%BD%93 |
3,677 | 絶縁体 | 絶縁体(ぜつえんたい、英: insulator)は、電気あるいは熱を通しにくい性質を持つ物質の総称である。
電気を通しやすい導体(電気伝導体)に対して、不導体(ふどうたい)ともいう。自由電子を持たない物。絶縁体が電場中で電気的に分極する性質、誘電性に着目した場合、絶縁体を誘電体ともいう。絶縁体の価電子は原子と強く結合している。そのような物質が電気機器で絶縁物として使われ、電気伝導体を支持しつつそれ自体には電気が流れないようになっている。電柱や鉄塔に電線をとりつける碍子も絶縁物の一種である。
ガラス、紙、テフロンといった材料はよい絶縁物である。電気抵抗率で比較するとさらに抵抗が大きい絶縁物があり、電線や電気配線の絶縁に使われている。例えば、ゴム状の重合体や多くのプラスチックである。そのような材料は低電圧や中程度の電圧(数百から数千ボルトまで)の実用的かつ安全な絶縁物として使用できる。
絶縁体には電流が流れない。バンド理論において絶縁体は、半導体と同じく価電子帯と伝導帯の間にバンドギャップが存在する状態、またはその状態を示す物質である。金属などの電気伝導体では電子が励起して伝導帯に遷移することで電流が流れる。バンドギャップのためにそのような状態とならない物質が絶縁体である。半導体よりバンドギャップの値が大きいものが絶縁体でありその間に歴とした境界はない(モット絶縁体のような例外もある)。
絶縁は、電子に占有された最もエネルギー準位の高い価電子帯からその上にある次のバンド(伝導帯)までが大きなエネルギーギャップで隔てられているために起きる。ある十分に高い電圧(絶縁破壊電圧)がかかると、電子が伝導帯まで励起するのに十分なエネルギーが与えられる。一度この電圧を越えると、その材質は絶縁体であることをやめ、電荷が流れるようになる。しかし、そうなったときは一般に物理的または化学的に変化し、その材料の絶縁性は恒久的に損なわれる。
絶縁体には共有結合性やイオン結合性の強い物質に多い。ただし例外としてグラファイトは、層内の結合は強い共有結合であっても半金属である。電解液やプラズマのようにイオンを含む液体や気体では電子ではなくイオンが電荷を担うため、伝導体となる。
絶縁体は絶縁破壊という現象で損傷を受ける。絶縁物に電界を印加したとき、その物体の(バンドギャップエネルギーに比例する)しきい値を超えると、その絶縁体は電気抵抗を伴う抵抗器となり、破壊的な結果を伴うこともある。絶縁破壊の際、自由な電荷担体が強い電場によって加速され、それが衝突した原子をイオン化して電子を飛び出させるのに十分な速度となる。そのようにして自由になった電子とイオンも加速し別の原子に衝突するので、さらに電荷担体が生み出されるという連鎖反応(電子雪崩)が起きる。こうして絶縁体は瞬時に電荷担体で満たされ、電気抵抗値が低下する。空気における絶縁破壊はコロナ放電やアーク放電といった放電現象を伴う。 同様の絶縁破壊は任意の絶縁体に起こりうる。真空でも放電現象は起きるが、それは金属電極から電荷が放出されることによるもので、真空自体が電荷を生み出しているわけではない。
絶縁体は、電気配線やケーブルの柔軟な被覆によく使われている。また、空気も絶縁体なので、それを絶縁に利用することもある。高圧送電線はプラスチックなどのコーティングが現実的でないため、主に空気だけを絶縁に利用している。電線が互いに触れると短絡や火災の危険を生じる。同軸ケーブルの中心にある内部導体は中空の外部導体のちょうど真ん中になるよう絶縁体で支持されており、電磁波の反射を防いでいる。60ボルト以上の電圧がかかっている電線は感電によって人が死亡する危険性をはらんでいる。絶縁体をコーティングすることでそういった問題を防ぐことに役立っている。
被覆電線/ケーブルには電圧と温度の定格が存在する。アンペア容量は、その電線やケーブルが使用される環境に依存するので、定格化されていない。
プリント基板はエポキシ樹脂やファイバーグラスで出来ており、そういった絶縁体の板が銅の導体の層を支持している。電子部品にも絶縁体のエポキシ樹脂やフェノール樹脂で封入したものやガラスやセラミックでコーティングしたものもある。
トランジスタや集積回路などの半導体素子では、シリコンはドーピングによって導電性があるが、熱と酸素を加えることで部分的によい絶縁体とすることもできる。酸化したシリコンは石英すなわち二酸化ケイ素である。
変圧器やコンデンサを含む高電圧システムでは、放電を防ぐのに液体の絶縁オイルをよく利用する。絶縁破壊を防ぐために電位差の大きい空間を空気の代わりに絶縁オイルで満たす。また、セラミックまたはガラス製のホルダー(碍子)で電線を保持することもよくあるし、なんらかのガスや真空もよく使われる。電線と周囲との距離をとることで空気を絶縁体として利用することも多い。
送電用の電線は建物に入る部分以外ではむき出しであり、周囲の空気を絶縁体として利用している。電柱で支える部分で碍子を必要とする。変圧器や遮断器と接続する際にもそれらの容器と電線を絶縁するための絶縁体が必要とされる。そのような中空で中に導体を通す絶縁体を「套管 (bushing)」と呼ぶ。
放送用アンテナは電波塔として建てられることが多く、特にマスト構造のものは全体に高電圧がかかることでエネルギーを与えられるため、地面から絶縁されなければならない。そのためステアタイトを架台とすることが多い。それらは場合によっては400kVにも達するアンテナにかかる電圧に耐えるだけでなく、アンテナの重量にも耐える必要がある。マスト型アンテナには落雷もよくあるので、アークホーンと避雷器も必須である。
マスト型アンテナを支持する支線には、地面との短絡や感電を防ぐ耐張がいしを挿入する。また、支線が送信波長と共鳴しないよう何箇所かに絶縁体を挿入して、その長さが波長の約数にならないようにする。そのための絶縁体としては、セラミック製の玉がいしなどを使う(写真参照)。玉がいしは、張力ではなく圧縮力がかかるという利点があり、たとえそれが破壊されても支線自体はアンテナを支え続けられるという利点もある。
これらの碍子にはまた、過電圧保護装置を装備する必要がある。支線の碍子の寸法については支線の持つ静電容量を考慮する必要があり、マストが高いほど送信機によってアンテナにかかる電圧より静電気による電圧が大きくなり、支線を碍子で複数に分割にする必要性が高まる。その場合、地面にコイル経由で支線を接地するか、場合によっては直接接地する。
アンテナと無線機をつなぐ給電線(特に平衡型フィーダー線)は、金属の構造物から距離を保つ必要があることが多い。この場合の碍子を「隔離碍子 (standoff insulator)」と呼ぶ。
最も重要な絶縁体は空気である。電気機器には様々な固体・液体・気体の絶縁体が使われている。小型の変圧器・発電機・電動機では、薄い重合体ワニス層で絶縁したワイヤ(いわゆる「マグネットワイヤ」)を巻線に使う。それによって狭い空間でより多く巻くことができる。太い導体を巻く場合は、ファイバーグラスの絶縁テープで補強することが多い。巻いた後でワニスを浸透させて、放電を防ぎ電磁誘導による導線の振動を低減させることもある。大型の変圧器などでは、絶縁物として紙、木、ワニス、鉱油などを使っていることが多い。これらは100年以上に渡って使われ続けているが、経済性と性能のバランスが今でも最もよい。開閉装置の母線や遮断器ではガラス強化プラスチック絶縁体が使われることもあり、耐火性と漏電を防ぐという点で優れている。
1970年代初期以前に製造された機器では、石綿を圧縮した板を使っていることがある。石綿は電源周波数に最適な絶縁体だが、取り付けや修理の際に危険な繊維が空気中に飛散するため、取り扱いには注意を要する。フェルト状の石綿で被覆した電線が1920年代ごろから高温などの悪条件の環境で使われていた。例えばゼネラル・エレクトリックが "Deltabeston" という製品名で販売していたものがある。
高電圧装置の中には、六フッ化硫黄などの絶縁ガスを高圧に満たした中で動作させるよう設計されたものもある。
電源周波数や低周波で絶縁体としてよく使われる素材でも、誘電体であるために高周波では熱を持ち絶縁性能が落ちるものがある。
電線の絶縁用被覆としては、ポリエチレン、架橋ポリエチレン、ポリ塩化ビニル、カプトン、ゴム状重合体、油浸紙、テフロン、シリコーン、ETFEなどがある。より大きな電力ケーブルでは用途によっては無機絶縁銅被ケーブル(無機物のパウダーを圧縮した絶縁物を使ったケーブル)を使うこともある。
ポリ塩化ビニルのような柔軟な素材を絶縁に使う場合、600Vやそれ以下で通電中の回路に人間が直接触れるのを防ぐという目的もある。ポリ塩化ビニルは欧州連合の環境規制により経済的でなくなりつつあり、代替素材の採用が増えている。
携帯可能・可搬の電気機器はユーザーを感電から守るために絶縁されている。
クラス1の絶縁では「基礎絶縁」を基本とし、金属製の筐体や表面に出ている金属部分がアース線に繋がっていて、主要なサービスパネルから接地できるようになっている。電源プラグに第3のピンがあることで容易にクラス1だとわかる。
クラス2の絶縁では、「二重絶縁」を用いる。電気かみそり、ドライヤー、可搬型発電機などで使われているクラスである。基礎絶縁と追加絶縁を同時に施しており、どちらか一方のみでも感電を防ぐことができる。内部の電気部品は全て絶縁物で覆われていて、電気が流れているところに人間が触れないようになっている。欧州連合では、二重絶縁を施した機器には二重の四角形のシンボルがつけられている。
耐熱クラス(たいねつクラス)は、日本産業規格 (JIS) において、絶縁体を耐熱温度別に分類したものである。 「耐熱クラスY」、「耐熱クラス200」「耐熱クラスF種」などと呼称する。
かつて、180 °C を超える熱に耐える絶縁体はすべて「C種」とされていた。現在の JIS C 4003 では細分化され、上表の 250 °C を超えるものは 25 °C 間隔で耐熱クラスが設けられている。
→断熱材 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "絶縁体(ぜつえんたい、英: insulator)は、電気あるいは熱を通しにくい性質を持つ物質の総称である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "電気を通しやすい導体(電気伝導体)に対して、不導体(ふどうたい)ともいう。自由電子を持たない物。絶縁体が電場中で電気的に分極する性質、誘電性に着目した場合、絶縁体を誘電体ともいう。絶縁体の価電子は原子と強く結合している。そのような物質が電気機器で絶縁物として使われ、電気伝導体を支持しつつそれ自体には電気が流れないようになっている。電柱や鉄塔に電線をとりつける碍子も絶縁物の一種である。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "ガラス、紙、テフロンといった材料はよい絶縁物である。電気抵抗率で比較するとさらに抵抗が大きい絶縁物があり、電線や電気配線の絶縁に使われている。例えば、ゴム状の重合体や多くのプラスチックである。そのような材料は低電圧や中程度の電圧(数百から数千ボルトまで)の実用的かつ安全な絶縁物として使用できる。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "絶縁体には電流が流れない。バンド理論において絶縁体は、半導体と同じく価電子帯と伝導帯の間にバンドギャップが存在する状態、またはその状態を示す物質である。金属などの電気伝導体では電子が励起して伝導帯に遷移することで電流が流れる。バンドギャップのためにそのような状態とならない物質が絶縁体である。半導体よりバンドギャップの値が大きいものが絶縁体でありその間に歴とした境界はない(モット絶縁体のような例外もある)。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "絶縁は、電子に占有された最もエネルギー準位の高い価電子帯からその上にある次のバンド(伝導帯)までが大きなエネルギーギャップで隔てられているために起きる。ある十分に高い電圧(絶縁破壊電圧)がかかると、電子が伝導帯まで励起するのに十分なエネルギーが与えられる。一度この電圧を越えると、その材質は絶縁体であることをやめ、電荷が流れるようになる。しかし、そうなったときは一般に物理的または化学的に変化し、その材料の絶縁性は恒久的に損なわれる。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "絶縁体には共有結合性やイオン結合性の強い物質に多い。ただし例外としてグラファイトは、層内の結合は強い共有結合であっても半金属である。電解液やプラズマのようにイオンを含む液体や気体では電子ではなくイオンが電荷を担うため、伝導体となる。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "絶縁体は絶縁破壊という現象で損傷を受ける。絶縁物に電界を印加したとき、その物体の(バンドギャップエネルギーに比例する)しきい値を超えると、その絶縁体は電気抵抗を伴う抵抗器となり、破壊的な結果を伴うこともある。絶縁破壊の際、自由な電荷担体が強い電場によって加速され、それが衝突した原子をイオン化して電子を飛び出させるのに十分な速度となる。そのようにして自由になった電子とイオンも加速し別の原子に衝突するので、さらに電荷担体が生み出されるという連鎖反応(電子雪崩)が起きる。こうして絶縁体は瞬時に電荷担体で満たされ、電気抵抗値が低下する。空気における絶縁破壊はコロナ放電やアーク放電といった放電現象を伴う。 同様の絶縁破壊は任意の絶縁体に起こりうる。真空でも放電現象は起きるが、それは金属電極から電荷が放出されることによるもので、真空自体が電荷を生み出しているわけではない。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "絶縁体は、電気配線やケーブルの柔軟な被覆によく使われている。また、空気も絶縁体なので、それを絶縁に利用することもある。高圧送電線はプラスチックなどのコーティングが現実的でないため、主に空気だけを絶縁に利用している。電線が互いに触れると短絡や火災の危険を生じる。同軸ケーブルの中心にある内部導体は中空の外部導体のちょうど真ん中になるよう絶縁体で支持されており、電磁波の反射を防いでいる。60ボルト以上の電圧がかかっている電線は感電によって人が死亡する危険性をはらんでいる。絶縁体をコーティングすることでそういった問題を防ぐことに役立っている。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "被覆電線/ケーブルには電圧と温度の定格が存在する。アンペア容量は、その電線やケーブルが使用される環境に依存するので、定格化されていない。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "プリント基板はエポキシ樹脂やファイバーグラスで出来ており、そういった絶縁体の板が銅の導体の層を支持している。電子部品にも絶縁体のエポキシ樹脂やフェノール樹脂で封入したものやガラスやセラミックでコーティングしたものもある。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "トランジスタや集積回路などの半導体素子では、シリコンはドーピングによって導電性があるが、熱と酸素を加えることで部分的によい絶縁体とすることもできる。酸化したシリコンは石英すなわち二酸化ケイ素である。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "変圧器やコンデンサを含む高電圧システムでは、放電を防ぐのに液体の絶縁オイルをよく利用する。絶縁破壊を防ぐために電位差の大きい空間を空気の代わりに絶縁オイルで満たす。また、セラミックまたはガラス製のホルダー(碍子)で電線を保持することもよくあるし、なんらかのガスや真空もよく使われる。電線と周囲との距離をとることで空気を絶縁体として利用することも多い。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "送電用の電線は建物に入る部分以外ではむき出しであり、周囲の空気を絶縁体として利用している。電柱で支える部分で碍子を必要とする。変圧器や遮断器と接続する際にもそれらの容器と電線を絶縁するための絶縁体が必要とされる。そのような中空で中に導体を通す絶縁体を「套管 (bushing)」と呼ぶ。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "放送用アンテナは電波塔として建てられることが多く、特にマスト構造のものは全体に高電圧がかかることでエネルギーを与えられるため、地面から絶縁されなければならない。そのためステアタイトを架台とすることが多い。それらは場合によっては400kVにも達するアンテナにかかる電圧に耐えるだけでなく、アンテナの重量にも耐える必要がある。マスト型アンテナには落雷もよくあるので、アークホーンと避雷器も必須である。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "マスト型アンテナを支持する支線には、地面との短絡や感電を防ぐ耐張がいしを挿入する。また、支線が送信波長と共鳴しないよう何箇所かに絶縁体を挿入して、その長さが波長の約数にならないようにする。そのための絶縁体としては、セラミック製の玉がいしなどを使う(写真参照)。玉がいしは、張力ではなく圧縮力がかかるという利点があり、たとえそれが破壊されても支線自体はアンテナを支え続けられるという利点もある。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "これらの碍子にはまた、過電圧保護装置を装備する必要がある。支線の碍子の寸法については支線の持つ静電容量を考慮する必要があり、マストが高いほど送信機によってアンテナにかかる電圧より静電気による電圧が大きくなり、支線を碍子で複数に分割にする必要性が高まる。その場合、地面にコイル経由で支線を接地するか、場合によっては直接接地する。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "アンテナと無線機をつなぐ給電線(特に平衡型フィーダー線)は、金属の構造物から距離を保つ必要があることが多い。この場合の碍子を「隔離碍子 (standoff insulator)」と呼ぶ。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "最も重要な絶縁体は空気である。電気機器には様々な固体・液体・気体の絶縁体が使われている。小型の変圧器・発電機・電動機では、薄い重合体ワニス層で絶縁したワイヤ(いわゆる「マグネットワイヤ」)を巻線に使う。それによって狭い空間でより多く巻くことができる。太い導体を巻く場合は、ファイバーグラスの絶縁テープで補強することが多い。巻いた後でワニスを浸透させて、放電を防ぎ電磁誘導による導線の振動を低減させることもある。大型の変圧器などでは、絶縁物として紙、木、ワニス、鉱油などを使っていることが多い。これらは100年以上に渡って使われ続けているが、経済性と性能のバランスが今でも最もよい。開閉装置の母線や遮断器ではガラス強化プラスチック絶縁体が使われることもあり、耐火性と漏電を防ぐという点で優れている。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1970年代初期以前に製造された機器では、石綿を圧縮した板を使っていることがある。石綿は電源周波数に最適な絶縁体だが、取り付けや修理の際に危険な繊維が空気中に飛散するため、取り扱いには注意を要する。フェルト状の石綿で被覆した電線が1920年代ごろから高温などの悪条件の環境で使われていた。例えばゼネラル・エレクトリックが \"Deltabeston\" という製品名で販売していたものがある。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "高電圧装置の中には、六フッ化硫黄などの絶縁ガスを高圧に満たした中で動作させるよう設計されたものもある。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "電源周波数や低周波で絶縁体としてよく使われる素材でも、誘電体であるために高周波では熱を持ち絶縁性能が落ちるものがある。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "電線の絶縁用被覆としては、ポリエチレン、架橋ポリエチレン、ポリ塩化ビニル、カプトン、ゴム状重合体、油浸紙、テフロン、シリコーン、ETFEなどがある。より大きな電力ケーブルでは用途によっては無機絶縁銅被ケーブル(無機物のパウダーを圧縮した絶縁物を使ったケーブル)を使うこともある。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ポリ塩化ビニルのような柔軟な素材を絶縁に使う場合、600Vやそれ以下で通電中の回路に人間が直接触れるのを防ぐという目的もある。ポリ塩化ビニルは欧州連合の環境規制により経済的でなくなりつつあり、代替素材の採用が増えている。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "携帯可能・可搬の電気機器はユーザーを感電から守るために絶縁されている。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "クラス1の絶縁では「基礎絶縁」を基本とし、金属製の筐体や表面に出ている金属部分がアース線に繋がっていて、主要なサービスパネルから接地できるようになっている。電源プラグに第3のピンがあることで容易にクラス1だとわかる。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "クラス2の絶縁では、「二重絶縁」を用いる。電気かみそり、ドライヤー、可搬型発電機などで使われているクラスである。基礎絶縁と追加絶縁を同時に施しており、どちらか一方のみでも感電を防ぐことができる。内部の電気部品は全て絶縁物で覆われていて、電気が流れているところに人間が触れないようになっている。欧州連合では、二重絶縁を施した機器には二重の四角形のシンボルがつけられている。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "耐熱クラス(たいねつクラス)は、日本産業規格 (JIS) において、絶縁体を耐熱温度別に分類したものである。 「耐熱クラスY」、「耐熱クラス200」「耐熱クラスF種」などと呼称する。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "かつて、180 °C を超える熱に耐える絶縁体はすべて「C種」とされていた。現在の JIS C 4003 では細分化され、上表の 250 °C を超えるものは 25 °C 間隔で耐熱クラスが設けられている。",
"title": "電気の絶縁体"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "→断熱材",
"title": "熱の絶縁体"
}
] | 絶縁体は、電気あるいは熱を通しにくい性質を持つ物質の総称である。 | [[File:CintaAislanteElectricaRojaUnion.jpg|thumb|250px|]]
'''絶縁体'''(ぜつえんたい、{{lang-en-short|insulator}})は、[[電気]]あるいは[[熱]]を通しにくい性質を持つ[[物質]]の総称である。
== 電気の絶縁体 ==
[[ファイル:Insulator railways.jpg|thumb|鉄道用の[[セラミックス|セラミック]]製[[碍子]]]]
[[ファイル:Stripped wire.jpg|thumb|ポリエチレン絶縁電線]]
[[ファイル:600V CV 5.5sqmm.jpg|thumb|3芯の送電ケーブル。それぞれの芯線が異なる色の絶縁体で被覆され、全体を保護用の被覆で覆っている。]]
[[ファイル:MICCCable.jpg|thumb|ビニル被覆無機絶縁ケーブル。芯線は銅で2本ある。]]
[[ファイル:Coaxial cable cut.jpg|thumb|[[同軸ケーブル]]は誘電性の絶縁体で内部導体と外部導体とを絶縁している。]]
電気を通しやすい[[電気伝導体|導体]]([[電気伝導体]])に対して、'''不導体'''(ふどうたい)ともいう。[[自由電子]]を持たない物。絶縁体が電場中で[[誘電分極|電気的に分極]]する性質、誘電性に着目した場合、絶縁体を[[誘電体]]ともいう<ref>{{kotobank|誘電体|2=化学辞典 第2版}}</ref>。絶縁体の[[価電子]]は原子と強く結合している。そのような物質が電気機器で絶縁物として使われ、[[電気伝導体]]を支持しつつそれ自体には電気が流れないようになっている。[[電柱]]や[[鉄塔]]に[[電線]]をとりつける[[碍子]]も絶縁物の一種である。
[[ガラス]]、[[紙]]、[[ポリテトラフルオロエチレン|テフロン]]といった材料はよい絶縁物である。[[電気抵抗率]]で比較するとさらに抵抗が大きい絶縁物があり、[[電線]]や電気配線の絶縁に使われている。例えば、ゴム状の重合体や多くのプラスチックである。そのような材料は低電圧や中程度の電圧(数百から数千[[ボルト (単位)|ボルト]]まで)の実用的かつ安全な絶縁物として使用できる。
=== 固体における電気伝導の物理学 ===
絶縁体には[[電流]]が流れない。[[バンド理論]]において絶縁体は、[[半導体]]と同じく[[価電子帯]]と[[伝導帯]]の間に[[バンドギャップ]]が存在する状態、またはその状態を示す物質である。[[金属]]などの電気伝導体では電子が励起して伝導帯に遷移することで電流が流れる。バンドギャップのためにそのような状態とならない物質が絶縁体である。半導体よりバンドギャップの値が大きいものが絶縁体でありその間に歴とした境界はない([[モット絶縁体]]のような例外もある)。
絶縁は、電子に占有された最もエネルギー準位の高い[[価電子帯]]からその上にある次のバンド([[伝導帯]])までが大きなエネルギーギャップで隔てられているために起きる。ある十分に高い[[電圧]]([[絶縁破壊電圧]])がかかると、電子が伝導帯まで励起するのに十分なエネルギーが与えられる。一度この電圧を越えると、その材質は絶縁体であることをやめ、電荷が流れるようになる。しかし、そうなったときは一般に物理的または化学的に変化し、その材料の絶縁性は恒久的に損なわれる。
絶縁体には[[共有結合]]性や[[イオン結合]]性の強い物質に多い。ただし例外として[[グラファイト]]は、層内の結合は強い共有結合であっても[[半金属 (バンド理論)|半金属]]である。[[電解液]]や[[プラズマ]]のようにイオンを含む液体や気体では電子ではなく[[イオン]]が電荷を担うため、伝導体となる。
==== 絶縁破壊 ====
絶縁体は[[絶縁破壊]]という現象で損傷を受ける。絶縁物に電界を印加したとき、その物体の([[バンドギャップ]]エネルギーに比例する)しきい値を超えると、その絶縁体は[[電気抵抗]]を伴う[[抵抗器]]となり、破壊的な結果を伴うこともある。絶縁破壊の際、自由な[[電荷担体]]が強い[[電場]]によって加速され、それが衝突した原子を[[イオン化]]して電子を飛び出させるのに十分な速度となる。そのようにして自由になった電子とイオンも加速し別の原子に衝突するので、さらに電荷担体が生み出されるという[[連鎖反応]]([[電子雪崩]])が起きる。こうして絶縁体は瞬時に電荷担体で満たされ、電気抵抗値が低下する。空気における絶縁破壊はコロナ放電や[[電弧|アーク放電]]といった[[放電]]現象を伴う。 同様の絶縁破壊は任意の絶縁体に起こりうる。真空でも[[放電]]現象は起きるが、それは金属電極から電荷が放出されることによるもので、真空自体が電荷を生み出しているわけではない。
=== 用途 ===
絶縁体は、電気配線やケーブルの柔軟な被覆によく使われている。また、空気も絶縁体なので、それを絶縁に利用することもある。高圧送電線はプラスチックなどのコーティングが現実的でないため、主に空気だけを絶縁に利用している。電線が互いに触れると[[短絡]]や火災の危険を生じる。[[同軸ケーブル]]の中心にある内部導体は中空の外部導体のちょうど真ん中になるよう絶縁体で支持されており、電磁波の反射を防いでいる。{{要出典範囲|date=2023年8月|60}}[[ボルト (単位) |ボルト]]<ref>参考までに、「低圧電路地絡保護指針」では状況により25Vと50Vという値が示されている。</ref>以上の電圧がかかっている電線は[[感電]]によって人が死亡する危険性をはらんでいる。絶縁体をコーティングすることでそういった問題を防ぐことに役立っている。
被覆電線/ケーブルには電圧と温度の定格が存在する。[[アンペア]]容量は、その電線やケーブルが使用される環境に依存するので、定格化されていない。
[[プリント基板]]は[[エポキシ樹脂]]やファイバーグラスで出来ており、そういった絶縁体の板が銅の導体の層を支持している。[[電子部品]]にも絶縁体の[[エポキシ樹脂]]や[[フェノール樹脂]]で封入したものやガラスやセラミックでコーティングしたものもある。
[[トランジスタ]]や[[集積回路]]などの[[半導体素子]]では、シリコンはドーピングによって導電性があるが、熱と酸素を加えることで部分的によい絶縁体とすることもできる。酸化したシリコンは[[石英]]すなわち[[二酸化ケイ素]]である。
[[変圧器]]や[[コンデンサ]]を含む高電圧システムでは、放電を防ぐのに液体の絶縁オイルをよく利用する。[[絶縁破壊]]を防ぐために電位差の大きい空間を空気の代わりに絶縁オイルで満たす。また、セラミックまたはガラス製のホルダー([[碍子]])で電線を保持することもよくあるし、なんらかのガスや真空もよく使われる。電線と周囲との距離をとることで空気を絶縁体として利用することも多い。
=== 有線通信と送電における絶縁体 ===
[[ファイル:Ceramic electric insulator.jpg|thumb|right|150px|10kV用のセラミック製碍子]]
{{Main|がいし}}
[[送電]]用の電線は建物に入る部分以外ではむき出しであり、周囲の空気を絶縁体として利用している。[[電柱]]で支える部分で[[碍子]]を必要とする。[[変圧器]]や[[遮断器]]と接続する際にもそれらの容器と電線を絶縁するための絶縁体が必要とされる。そのような中空で中に導体を通す絶縁体を「套管 (bushing)」と呼ぶ。
=== アンテナの絶縁 ===
[[ファイル:Tamagaishi.jpg|thumb|玉がいし]]
[[放送]]用[[アンテナ]]は[[電波塔]]として建てられることが多く、特にマスト構造のものは全体に高電圧がかかることでエネルギーを与えられるため、地面から絶縁されなければならない。そのため[[ステアタイト]]を架台とすることが多い。それらは場合によっては400kVにも達するアンテナにかかる電圧に耐えるだけでなく、アンテナの重量にも耐える必要がある。マスト型アンテナには落雷もよくあるので、[[アークホーン]]と[[避雷器]]も必須である。
マスト型アンテナを支持する[[支線 (建築)|支線]]には、地面との短絡や感電を防ぐ[[がいし|耐張がいし]]を挿入する。また、支線が送信[[波長]]と[[共鳴]]しないよう何箇所かに絶縁体を挿入して、その長さが波長の約数にならないようにする。そのための絶縁体としては、セラミック製の玉がいしなどを使う(写真参照)。玉がいしは、張力ではなく圧縮力がかかるという利点があり、たとえそれが破壊されても支線自体はアンテナを支え続けられるという利点もある。
これらの碍子にはまた、過電圧保護装置を装備する必要がある。支線の碍子の寸法については支線の持つ静電容量を考慮する必要があり、マストが高いほど送信機によってアンテナにかかる電圧より静電気による電圧が大きくなり、支線を碍子で複数に分割にする必要性が高まる。その場合、地面にコイル経由で支線を接地するか、場合によっては直接[[接地]]する。
アンテナと無線機をつなぐ[[給電線]](特に平衡型[[フィーダー線]])は、金属の構造物から距離を保つ必要があることが多い。この場合の碍子を「隔離碍子 (standoff insulator)」と呼ぶ。
=== 電気機器の絶縁 ===
最も重要な絶縁体は空気である。電気機器には様々な固体・液体・気体の絶縁体が使われている。小型の[[変圧器]]・[[発電機]]・[[電動機]]では、薄い重合体ワニス層で絶縁したワイヤ(いわゆる「マグネットワイヤ」)を巻線に使う。それによって狭い空間でより多く巻くことができる。太い導体を巻く場合は、ファイバーグラスの[[絶縁テープ]]で補強することが多い。巻いた後で[[ワニス]]を浸透させて、[[放電]]を防ぎ電磁誘導による導線の振動を低減させることもある。大型の変圧器などでは、絶縁物として紙、木、ワニス、鉱油などを使っていることが多い。これらは100年以上に渡って使われ続けているが、経済性と性能のバランスが今でも最もよい。開閉装置の母線や[[遮断器]]ではガラス強化プラスチック絶縁体が使われることもあり、耐火性と漏電を防ぐという点で優れている。
1970年代初期以前に製造された機器では、[[石綿]]を圧縮した板を使っていることがある。石綿は電源周波数に最適な絶縁体だが、取り付けや修理の際に危険な繊維が空気中に飛散するため、取り扱いには注意を要する。フェルト状の石綿で被覆した電線が1920年代ごろから高温などの悪条件の環境で使われていた。例えば[[ゼネラル・エレクトリック]]が "Deltabeston" という製品名で販売していたものがある<ref>{{Cite book|url= https://books.google.co.jp/books?id=pf5MAAAAMAAJ&pg=RA1-PA822&lpg=RA1-PA822&dq=Deltabeston&source=web&ots=Qc-Y6umzIm&sig=j_XZBSlLWY509j3cSwaL1Vv4R74&redir_esc=y&hl=ja|title=EMF Electrical Year Book |author=Bernhard, Frank|year=1921|page=822|publisher=Electrical Trade Pub. Co.}}</ref>。
高電圧装置の中には、[[六フッ化硫黄]]などの絶縁ガスを高圧に満たした中で動作させるよう設計されたものもある。
電源周波数や低周波で絶縁体としてよく使われる素材でも、[[誘電体]]であるために高周波では熱を持ち絶縁性能が落ちるものがある。
[[電線]]の絶縁用被覆としては、[[ポリエチレン]]、[[架橋]]ポリエチレン、[[ポリ塩化ビニル]]、カプトン、ゴム状重合体、油浸紙、[[ポリテトラフルオロエチレン|テフロン]]、シリコーン、[[ETFE]]などがある。より大きな電力ケーブルでは用途によっては[[無機絶縁銅被ケーブル]](無機物のパウダーを圧縮した絶縁物を使ったケーブル)を使うこともある。
[[ポリ塩化ビニル]]のような柔軟な素材を絶縁に使う場合、600Vやそれ以下で通電中の回路に人間が直接触れるのを防ぐという目的もある。ポリ塩化ビニルは欧州連合の環境規制により経済的でなくなりつつあり、代替素材の採用が増えている。
==== 感電保護クラス ====
{{Main|感電保護クラス}}
携帯可能・可搬の電気機器はユーザーを[[感電]]から守るために絶縁されている。
クラス1の絶縁では「基礎絶縁」を基本とし、金属製の筐体や表面に出ている金属部分がアース線に繋がっていて、主要なサービスパネルから[[接地]]できるようになっている。[[配線用差込接続器|電源プラグ]]に第3のピンがあることで容易にクラス1だとわかる。
クラス2の絶縁では、「二重絶縁」を用いる。電気かみそり、ドライヤー、可搬型発電機などで使われているクラスである。基礎絶縁と追加絶縁を同時に施しており、どちらか一方のみでも[[感電]]を防ぐことができる。内部の電気部品は全て絶縁物で覆われていて、電気が流れているところに人間が触れないようになっている。[[欧州連合]]では、二重絶縁を施した機器には二重の四角形のシンボルがつけられている。
=== 耐熱クラス ===
'''耐熱クラス'''(たいねつクラス)は、[[日本産業規格]] (JIS) において、絶縁体を耐熱温度別に分類したものである。
「耐熱クラスY」、「耐熱クラス200」「耐熱クラスF種」などと呼称する。
{| class="wikitable"
|-
!耐熱クラス!!最高許容温度!!主要材料!!接着・充填材料
|-
|Y
|90 °C
| rowspan="2"|[[綿]]・[[紙]]・[[ポリエチレン]]・[[ポリ塩化ビニル]]・[[ゴム#天然ゴム|天然ゴム]]
|なし
|-
|A
|105 °C
|[[絶縁油]]・天然[[ワニス]]
|-
|E
|120 °C
|[[ポリエステル]]・[[エポキシ樹脂]]・[[メラミン樹脂]]・[[フェノール樹脂]]・[[ポリウレタン]]等の[[合成樹脂]]
|なし
|-
|B
|130 °C
| rowspan="3"|[[雲母|マイカ]]・[[石綿]]・[[ガラス繊維]]などの無機材料
|一般[[接着剤]]
|-
|F
|155 °C
|シリコンアルキド等の樹脂
|-
|H
|180 °C
|[[シリコーン]]樹脂
|-
|N
|200 °C
| rowspan="3"|生マイカ・石綿・[[陶磁器#磁器|磁器]]など
| rowspan="3"|なし
|-
|R
|220 °C
|-
|250
|250 °C
|}
かつて、180 °C を超える熱に耐える絶縁体はすべて「C種」とされていた。現在の JIS C 4003 では細分化され、上表の 250 °C を超えるものは 25 °C 間隔で耐熱クラスが設けられている。
== 熱の絶縁体 ==
→[[断熱材]]
== 脚注・出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*''Bullers of Milton'' Sue Taylor, Churnet Valley Books. 2003 ISBN 1-897949-96-0
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Electric insulator}}
* 電気の絶縁関連
** [[誘電体]]
** [[電気抵抗]]、[[電気抵抗率]]
** [[モット絶縁体]]
** [[絶縁破壊]]
** [[絶縁抵抗計]]
** [[がいし]]、[[鉄塔]]、[[変電所]]
* 熱の絶縁関連
** [[断熱材]]
** [[耐熱性]]
** [[熱絶縁施工技能士]]
== 外部リンク ==
* [http://www.insulators.info US Glass Insulators Reference Site]
* [http://www.nia.org/ National Insulator Association - US site]
* [http://teleramics.com/ Teleramics - specialises in UK telegraph insulators with a railway bias]
* [http://www.myinsulators.com/downtownseattle/ One person's obsession with US telephone pole insulators]
* [http://www.insulatorscanada.com/ Insulatorscanada]
* [http://reference.insulators.info/patents/ Insulator Patent Reference Library] - Contains over 2,800 US patents relating to electrical insulators and related items
* [http://www.myinsulators.com/hungary/ Hungarian Insulators]
* [http://www.hemingray.net Online Museum for Hemingray Glass Company items]
* [http://www.hemingray.info Hemingray Glass Insulator Database]
* [http://www.harkis.harting.com/WebHelp/EGds/WebHelp/GBgdsCreepage_and_clearance_distances.htm DIN Spec regarding creepage distance]
* {{kotobank}}
{{半導体}}
{{Condensed matter physics topics}}
{{DEFAULTSORT:せつえんたい}}
[[Category:電磁気学]]
[[Category:固体物理学]]
[[Category:物質]]
[[Category:熱]]
[[Category:誘電体]] | 2003-03-08T12:24:25Z | 2023-12-11T21:22:04Z | false | false | false | [
"Template:Lang-en-short",
"Template:Commonscat",
"Template:Reflist",
"Template:Kotobank",
"Template:Cite book",
"Template:半導体",
"Template:Condensed matter physics topics",
"Template:要出典範囲",
"Template:Main"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E7%B8%81%E4%BD%93 |
3,678 | ユーリイ・ガガーリン | ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン(ロシア語: Юрий Алексеевич Гагарин, ラテン文字転写: Yurii Alekseyevich Gagarin, 1934年3月9日 - 1968年3月27日)は、ソビエト連邦の軍人、パイロット、宇宙飛行士。最終階級は大佐。1961年、人類初の有人宇宙飛行としてボストーク1号に単身搭乗した人物である。
ガガーリンは1934年3月9日、モスクワ西方のスモレンスク州グジャーツク市に近い村クルシノで生まれた。両親はコルホーズの労働者であった。「労働者階級出身の英雄」というガガーリン像を強調するため「両親は農民であった」と語られている。もちろん労働階級出身であることは間違いではないが、実際のガガーリンの父親は教養のある腕利きの大工であり、母親もインテリで読書家であった。
彼は四人兄弟の三人目で、幼いガガーリンの世話は姉が行うこともあった。他のソ連国民同様、第二次世界大戦は一家に大きな苦しみをもたらした。兄と姉は1943年にドイツによりポーランドへ連れ去られ、強制労働に従事させられ、戦争が終わるまで戻らなかった。少年時代のガガーリンへの評価は、まじめで勉強家だが、茶目っ気もあるというものだった。やがて空軍から除隊してきた教師がガガーリンの学校で数学を教えることになったが、彼の授業をガガーリンは熱心に聞き、後の生き方に影響を与えることになる。
1950年にモスクワの金属工場の見習いとして働き出したガガーリンは優秀であったため、翌1951年には技術教育を受けるべくサラトフの学校へ送られた。そこで彼はエアロクラブに入り、軽飛行機での飛行を楽しんだが、徐々に飛ぶことの楽しさにとりつかれるようになった。1955年に工業学校を卒業したガガーリンはパイロットを志し、オレンブルクにあった空軍士官学校に入った。1957年にはオレンブルクで出会ったヴァレンチナ・ゴリチェヴァと結婚している。1957年の卒業後、ノルウェー国境に近いムルマンスクの基地に配属された。当時の記録によるとガガーリンの身長は158cmであった。
1959年、ソビエト連邦の宇宙開発が本格的に始まったことに伴って宇宙飛行士の選抜が始められ、翌1960年3月にはソビエト全土からガガーリンを含む20人の候補生がモスクワ近郊の基地へと配属された。ガガーリンは他の飛行士たちとともに、宇宙飛行に必要な身体的・精神的耐久性をテストされながら、厳しい訓練を受けた。6月18日にはボストーク宇宙船の開発者であるセルゲイ・コロリョフが候補生を招いて宇宙船を見せたが、このときガガーリンが開発陣や同僚に与えた印象は強いもので、有力候補の一人と見なされるようになった。
1961年4月の打ち上げに向けて飛行士の選考は進んでおり、1960年末には、候補者はガガーリンを含む6人にまで絞られた。このときの選考では、身長の低さが重要な要因となった。なぜなら、最初期のボストーク宇宙船は非常に小さく、大柄な人間が乗ることは困難であったからである。飛行予定まで1ヶ月となった3月初めには、パイロットの候補はガガーリンとゲルマン・チトフのどちらかに絞られた。二人とも訓練結果が優れており、既に1960年末の時点で候補生の間ではどちらかが飛行士に選ばれることは確実とみられていた。
4月8日に最終選考が行われ、ガガーリンが正飛行士、チトフが代替要員と決定された。この決定は政府の上層部によって行われ、翌4月9日に両名に伝達された。なぜガガーリンが選ばれたかについてはいくつかの説があるが、ガガーリンが労働者階級出身にあることに加え温和で社交的な人好きのする性格だったことや、「ユーリイ」というロシア的な名前、そして労働者階級出身の英雄という点を強調しやすい生い立ちなどが有力な要因とされている。選考に漏れたチトフは、同年8月にボストーク2号でガガーリンに次ぐ史上二番目の(軌道宇宙飛行を行なった)宇宙飛行士になっており、自ら機体を操縦して大気圏外で食事をするなどの実験を行い、その様子は記録映像に残されている。
1961年4月12日、ガガーリンはボストーク3KA-2で世界初の有人宇宙飛行に成功した。このときのコールサインは「ケードル(Кедр、ヒマラヤスギの意)」であった。飛行中「祖国は聞いている(ロシア語版)」という歌(エヴゲーニー・ドルマトフスキー作詞、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ作曲・作品86)を口ずさんで自分自身を元気づけていたといわれている。
飛行中、ガガーリンは自分が中尉から少佐に昇進(二階級特進)したというタス通信のニュースを聞いた。ガガーリンは喜んだが、このような発表を飛行中のガガーリンに伝えた本当の理由は、当時の技術ではガガーリンが生きて帰還できる可能性は低いと政府高官が考えていたからだと言われている。ガガーリンを乗せた宇宙船は、地球周回軌道に入り、大気圏外を1時間50分弱(108分間)で1周したのち大気圏再突入を行ない、高度7000mでガガーリンは座席ごとカプセルから射出されて、パラシュートで降下した。ボストーク1号にはカプセルごと安全に着陸できる装置はまだなく、乗員は安全上パラシュートで脱出せざるを得なかったのだが、1961年当時の国際航空連盟 (FAI) による高度記録の定義においては、飛行士は機体に搭乗したまま地上に到達する事が要求されており、このことが露見すると記録が剥奪される恐れがあったため、公式発表では宇宙船と共に着陸したとされ、ソ連はこの主張を押し通した。ガガーリンのパラシュートは、ソ連領内サラトフ州にあるスミロフカ村の外れに着地した。
地上に無事帰還すると、ガガーリンは一躍「時の人」となった。4月14日のモスクワ・赤の広場での記念式典では、ガガーリンはこのような計画を成功に導いたソ連共産党書記長ニキータ・フルシチョフとソ連共産党の偉大さを賞賛した。ガガーリンはフルシチョフのお気に入りとなり、フルシチョフ在任中はガガーリンとクレムリンの関係は良好だった。フルシチョフにとってガガーリンの成功は、通常兵器を犠牲にしてまで自ら推し進めた宇宙ロケット/弾道ミサイル増強計画の成果を示すものであった。
国内での式典が一段落した4月末から、ガガーリンはソビエトの宇宙計画の広告塔として世界を旅するようになった。ガガーリンは激変した自分の環境にもうまく適応したかのようであったが、連日続く式典や過酷なスケジュールのストレスなどから疲労がたまっていき、徐々に酒量が増えていった。1961年10月には、家族や同僚と休暇で訪れていたクリミア半島の保養地フォロス(ロシア語版)で、前日に起こしたモーターボートの事故の際に知り合った看護師の部屋にいるところを妻ヴァレンチナに踏み込まれ、二階のバルコニーから飛び降りて庭の縁石に額をぶつけ、眉の上に傷が残ることになった。
ガガーリンは宇宙開発の現場に戻ることを希望していたが、世界各国からの招待はそれからも続き、ガガーリンは世界中を歴訪した。1962年5月には日本を訪問し、東京など各地を回っている。重要人物となったガガーリンは身に危険の及ぶ可能性のある訓練飛行などを禁止され、多忙なスケジュールも相まってほとんど現場から離れたまま3年間を過ごした。それでも1963年12月には宇宙飛行士訓練センターの副所長に就任し、1964年3月にはジューコフスキー空軍技術アカデミーに入学して宇宙工学を学ぶなど、現場に戻るための努力は続けていた。
しかし1964年10月にフルシチョフが失脚すると、フルシチョフ派とみなされていたガガーリンの地位は大きく低下し、対外的な仕事は激減した。1966年1月には師といえるコロリョフが死去し、ガガーリンは大きな衝撃を受けた。また高い開発能力や組織運営能力を持つコロリョフの死により、ソ連の宇宙開発計画は次第に停滞していった。一方、対外的な仕事の減少は本来の職務に取り組む時間をガガーリンに与えることになり、またコロリョフの死によってさらに職務に精励するようになったガガーリンは訓練の再開を認められ、1967年には親友でもあるウラジーミル・コマロフが搭乗するソユーズ1号のバックアップ要員に選ばれることになった。しかしソユーズの試験は上手くいかず、ガガーリンをはじめとする飛行士や開発陣は飛行中止を進言したものの、それが政府に受け入れられることはなかった。試験飛行が1度も成功しないままソユーズが4月23日の出発の日を迎えた時、ガガーリンは宇宙服を着て「自分が乗る」とコマロフをかばったという。結果的にコマロフは宇宙船自動安定化システムの機能停止や大気圏突入時パラシュートが絡まるなどのトラブルで死亡してしまう。
コマロフの事故以降、英雄の身を案じた政府によってガガーリンは宇宙飛行ミッションから外され、自身が飛ぶ可能性はなくなった。このことにガガーリンは非常に落胆し、政府に嘆願書を送って復帰を求めたものの、決定が覆ることはなかった。1968年2月にはジューコフスキー空軍技術アカデミーで学位を取得し、管理者への道を歩み始めたものの、ガガーリンは新人パイロットだったときに宇宙計画に選抜されたため、飛行時間はさして長いものではなかった。このため、パイロットの指導のためにもあらためて飛行経験を積むことが必要になり、3月にはベテランの教官とともに飛行訓練を再開した。
1968年3月27日、ガガーリンは教官とともに搭乗したMiG-15UTIでキルジャチ付近を飛行中、墜落事故を起こし、死亡した。34歳没。
事故の正確な原因は長らく不明であり、政治的思惑が絡んだ人為的な事故説などの陰謀論も含めて噂されていた。ガガーリンが搭乗時に飲酒していたという噂も流れたが、彼は飛行前のメディカルチェックに合格しており、死後行われた調査でも飲酒を示す一切の証拠は見つからなかった。
陰謀論以外として、付近を飛行していた別の軍用機に巻き込まれたというものがある。1986年に発表された調査資料によれば、Su-11迎撃機が付近を高速飛行したため、その衝撃波に巻き込まれて操縦不能状態になった可能性が示唆されている。1988年のプラウダ紙の報道では、ガガーリンの近くを管制ミスのためMiG-21が通過し、事故を招いたという調査結果が取り上げられた。2005年に発表された新説では、コックピットの通気口が故障か前の搭乗者のミスで開いたままになっており、そこから酸素が漏れ出して低酸素状態になり、意識を失って操縦不能状態に陥ったとしている。
2011年4月に機密解除された当時のソ連政府調査委員会の報告書によると、気象観測用気球か鳥との衝突を避けようとして操縦不能に陥ったことが原因だったと結論付けられている。しかし、ガガーリンの同僚であり事故調査委員会にも参加していたアレクセイ・レオーノフはこの結論を否定し、また彼の証言として調査結果に記載された内容が捏造だったことを明かしている。レオーノフは2013年に、無許可で発進したSu-15が付近を通過し、それを回避しようとしたガガーリンのMiG-15が回避しきれず操縦不能に陥り、結果として墜落に至ったことが死因だったと語っている。レオーノフはまた、事故を引き起こしたSu-15のパイロットはソ連邦英雄であり、名前を公にしないことを条件に真相を明かすことを許されたとも述べている。
前人未到の宇宙に飛び立つ際に発した一言である。この言葉は、人類史の宇宙時代(英語版)の幕開けを告げる言葉として、東側諸国で歴史的な言葉となった。
また、それ以外の出発直前の会話も録音・文書化されており、ロケット設計者のセルゲイ・コロリョフとのジョークを交えた会話や、整備士の調整忘れの修正作業に関する会話、コントロールパネルのライトの一つが点灯しないのでハッチの調整が必要だと言われる場面等も残っている。これらの内容は、2011年4月にロシア政府によって公開された「ガガーリンの一生に関する700ページ以上に及ぶ文書」に掲載されている。
ガガーリンの言葉として知られる「地球は青かった」は、1961年4月13日付けの『イズベスチヤ』に掲載されたルポ(着陸地点にいたオストロウーモフ(Георгий ОСТРОУМОВ)記者によるもの)によれば、原文では "Небо очень и очень темное, а Земля голубоватая. " となっており、日本語訳では、「空はとても暗かった。一方、地球は青みがかっていた」となる。『朝日新聞』夕刊4月13日、『毎日新聞』夕刊4月13日、『読売新聞』朝刊4月13日は、この記事を基にしてガガーリンの言葉を伝えている。
ガガーリンの地球周回中の言葉として報道され、有名になったものとして「ここに神は見当たらない」というものがある。ガガーリンが飛行中に「見回してみても神はいない」といったとされているが、記録にはその種の発言は一切残されていない。これは同じソ連の宇宙飛行士のチトフが訪米した時にシアトルで記者団に向けて放った発言である。しかしながら日本以外では、この言葉の方が「地球は青かった」よりも有名である。他に「私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」という表現でもよく引き合いに出されている。
ガガーリンの親友であった宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフは著書『Two sides of the moon』(『アポロとソユーズ』p.295)の中でガガーリン自身が好んで語ったアネクドート(風刺ジョーク)として次の話を挙げている。
宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティにロシア正教のモスクワ総主教アレクシー1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。
しばらくしてフルシチョフがガガーリンに同じことを尋ねた。総主教との約束を思い出したガガーリンはさきほどとは違うことを答えた。
宇宙飛行中、ガガーリンが地上に「無重力状態は面白い。すべてが浮かんでいる」と通信してきた、当時は秘密扱いだった映像のテープが全ロシア・テレビラジオ放送研究所で発見され、2021年4月2日にロシアで放映された
ガガーリンが宇宙へ赴いた最初の人類であることは今でも疑問の余地がないが、いまだにロシアではガガーリン以前に二度有人宇宙飛行が試みられたが国境を越えて中国に着陸してしまう等で失敗し、隠蔽のために永遠の秘密とされたというデマが流れることがある。この話はしばしば著名な飛行機設計者セルゲイ・イリューシンの息子ウラジーミルの名前と結びつけて論じられる。ガガーリンの伝記『スターマン』(邦題『ガガーリン 世界初の宇宙飛行士、伝説の裏側で』)によれば、このような噂が広まった背景には、1961年3月25日に有人宇宙飛行に先駆けて行われた無人試験飛行で、人形を乗せ、通信のチェックを行うために人の声を吹き込んだテープをのせていたことが原因ではないかと推測している。ガガーリンは日本にも来たことがあるが、発言に不可解な面が目立った事から不審に見られ「秘匿している機密を守るための替え玉では」との報道もあった。これは糸川英夫がガガーリン本人と対談した際の個人的な感想を基にしたものであり、糸川の意見に対しては反論もなされている。
ガガーリンが人類初の宇宙飛行に成功した4月12日は宇宙飛行士の日としてソビエト連邦、およびロシア連邦の祝日となっている。この日が祝われるのはロシア国内だけではなく、世界各国でユーリーズナイトと呼ばれる宇宙イベントが開催される。さらに2011年4月7日には国連総会によってこの日が世界宇宙飛行の日に制定され、国際デーの一つとなっている。
ガガーリンはロシアの宇宙開発を象徴する人物であり、ロシアの偉人の一人とされている。ガガーリンの人類初の有人飛行から60周年に当たる2021年4月12日には、ロシア各地で記念行事が開催された。サラトフ州スミロフカ村近くのガガーリン記念公園には1週間前の4月5日に「ガガーリン記念館」が一部先行オープンし、12日にはロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチン、女性として人類初の宇宙飛行をしたワレンチナ・テレシコワ、サラトフ出身のヴャチェスラフ・ヴォロージンロシア連邦議会国家院 (ロシア)(下院)議長が、ガガーリン記念公園を訪問した。プーチンとテレシコワは遊歩道に記念植樹を行い、ガガーリンを讃えた。これに先立つ4月9日に国際宇宙ステーションに向けて打ち上げられた宇宙船も、彼にちなみ「ガガーリン」と名付けられた。
2023年5月にはロシアの宇宙開発活動に功績を残した人物を対象とした「ガガーリン勲章」が創設され、前出のテレシコワに対して飛行60周年となる同年6月に最初の受章者として授与が決定した。
ロシア国内にはガガーリンにちなんだ名称の地名や事物が複数存在する。ガガーリンの出生地であるスモレンスク州クルシノ村に近いグジャーツク市は、1968年のガガーリンの死去すぐにガガーリン市へと改名された。モスクワ近郊の星の町にある宇宙飛行士訓練センターは、1968年にユーリ・A・ガガーリン宇宙飛行士訓練センターと改称されている。ガガーリンを打ち上げたカザフスタンのバイコヌール宇宙基地第1発射台はその後も使用され続け、ガガーリン発射台と呼ばれている。サラトフに2019年開港した新空港は、サラトフ・ガガーリン空港と命名された。
ガガーリンを記念する施設としては、生地ガガーリン市に生家や記念館などを含んだ博物館が存在する。また、モスクワのレーニンスキー大通りには1980年7月、高さ45.2mのチタン製巨大ガガーリン像が建設された。
宇宙開発とは関わりのない分野でも使用されるケースがあり、アイスホッケーKHLのプレーオフトーナメント優勝チームに与えられる賞は、彼にちなんでガガーリン・カップと名付けられた。
これら以外に、ガガーリンの名を関したものに以下のものがある。
旧ソ連以外でもちなんだ命名物がある。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン(ロシア語: Юрий Алексеевич Гагарин, ラテン文字転写: Yurii Alekseyevich Gagarin, 1934年3月9日 - 1968年3月27日)は、ソビエト連邦の軍人、パイロット、宇宙飛行士。最終階級は大佐。1961年、人類初の有人宇宙飛行としてボストーク1号に単身搭乗した人物である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "ガガーリンは1934年3月9日、モスクワ西方のスモレンスク州グジャーツク市に近い村クルシノで生まれた。両親はコルホーズの労働者であった。「労働者階級出身の英雄」というガガーリン像を強調するため「両親は農民であった」と語られている。もちろん労働階級出身であることは間違いではないが、実際のガガーリンの父親は教養のある腕利きの大工であり、母親もインテリで読書家であった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "彼は四人兄弟の三人目で、幼いガガーリンの世話は姉が行うこともあった。他のソ連国民同様、第二次世界大戦は一家に大きな苦しみをもたらした。兄と姉は1943年にドイツによりポーランドへ連れ去られ、強制労働に従事させられ、戦争が終わるまで戻らなかった。少年時代のガガーリンへの評価は、まじめで勉強家だが、茶目っ気もあるというものだった。やがて空軍から除隊してきた教師がガガーリンの学校で数学を教えることになったが、彼の授業をガガーリンは熱心に聞き、後の生き方に影響を与えることになる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "1950年にモスクワの金属工場の見習いとして働き出したガガーリンは優秀であったため、翌1951年には技術教育を受けるべくサラトフの学校へ送られた。そこで彼はエアロクラブに入り、軽飛行機での飛行を楽しんだが、徐々に飛ぶことの楽しさにとりつかれるようになった。1955年に工業学校を卒業したガガーリンはパイロットを志し、オレンブルクにあった空軍士官学校に入った。1957年にはオレンブルクで出会ったヴァレンチナ・ゴリチェヴァと結婚している。1957年の卒業後、ノルウェー国境に近いムルマンスクの基地に配属された。当時の記録によるとガガーリンの身長は158cmであった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "1959年、ソビエト連邦の宇宙開発が本格的に始まったことに伴って宇宙飛行士の選抜が始められ、翌1960年3月にはソビエト全土からガガーリンを含む20人の候補生がモスクワ近郊の基地へと配属された。ガガーリンは他の飛行士たちとともに、宇宙飛行に必要な身体的・精神的耐久性をテストされながら、厳しい訓練を受けた。6月18日にはボストーク宇宙船の開発者であるセルゲイ・コロリョフが候補生を招いて宇宙船を見せたが、このときガガーリンが開発陣や同僚に与えた印象は強いもので、有力候補の一人と見なされるようになった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "1961年4月の打ち上げに向けて飛行士の選考は進んでおり、1960年末には、候補者はガガーリンを含む6人にまで絞られた。このときの選考では、身長の低さが重要な要因となった。なぜなら、最初期のボストーク宇宙船は非常に小さく、大柄な人間が乗ることは困難であったからである。飛行予定まで1ヶ月となった3月初めには、パイロットの候補はガガーリンとゲルマン・チトフのどちらかに絞られた。二人とも訓練結果が優れており、既に1960年末の時点で候補生の間ではどちらかが飛行士に選ばれることは確実とみられていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "4月8日に最終選考が行われ、ガガーリンが正飛行士、チトフが代替要員と決定された。この決定は政府の上層部によって行われ、翌4月9日に両名に伝達された。なぜガガーリンが選ばれたかについてはいくつかの説があるが、ガガーリンが労働者階級出身にあることに加え温和で社交的な人好きのする性格だったことや、「ユーリイ」というロシア的な名前、そして労働者階級出身の英雄という点を強調しやすい生い立ちなどが有力な要因とされている。選考に漏れたチトフは、同年8月にボストーク2号でガガーリンに次ぐ史上二番目の(軌道宇宙飛行を行なった)宇宙飛行士になっており、自ら機体を操縦して大気圏外で食事をするなどの実験を行い、その様子は記録映像に残されている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "1961年4月12日、ガガーリンはボストーク3KA-2で世界初の有人宇宙飛行に成功した。このときのコールサインは「ケードル(Кедр、ヒマラヤスギの意)」であった。飛行中「祖国は聞いている(ロシア語版)」という歌(エヴゲーニー・ドルマトフスキー作詞、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ作曲・作品86)を口ずさんで自分自身を元気づけていたといわれている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "飛行中、ガガーリンは自分が中尉から少佐に昇進(二階級特進)したというタス通信のニュースを聞いた。ガガーリンは喜んだが、このような発表を飛行中のガガーリンに伝えた本当の理由は、当時の技術ではガガーリンが生きて帰還できる可能性は低いと政府高官が考えていたからだと言われている。ガガーリンを乗せた宇宙船は、地球周回軌道に入り、大気圏外を1時間50分弱(108分間)で1周したのち大気圏再突入を行ない、高度7000mでガガーリンは座席ごとカプセルから射出されて、パラシュートで降下した。ボストーク1号にはカプセルごと安全に着陸できる装置はまだなく、乗員は安全上パラシュートで脱出せざるを得なかったのだが、1961年当時の国際航空連盟 (FAI) による高度記録の定義においては、飛行士は機体に搭乗したまま地上に到達する事が要求されており、このことが露見すると記録が剥奪される恐れがあったため、公式発表では宇宙船と共に着陸したとされ、ソ連はこの主張を押し通した。ガガーリンのパラシュートは、ソ連領内サラトフ州にあるスミロフカ村の外れに着地した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "地上に無事帰還すると、ガガーリンは一躍「時の人」となった。4月14日のモスクワ・赤の広場での記念式典では、ガガーリンはこのような計画を成功に導いたソ連共産党書記長ニキータ・フルシチョフとソ連共産党の偉大さを賞賛した。ガガーリンはフルシチョフのお気に入りとなり、フルシチョフ在任中はガガーリンとクレムリンの関係は良好だった。フルシチョフにとってガガーリンの成功は、通常兵器を犠牲にしてまで自ら推し進めた宇宙ロケット/弾道ミサイル増強計画の成果を示すものであった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "国内での式典が一段落した4月末から、ガガーリンはソビエトの宇宙計画の広告塔として世界を旅するようになった。ガガーリンは激変した自分の環境にもうまく適応したかのようであったが、連日続く式典や過酷なスケジュールのストレスなどから疲労がたまっていき、徐々に酒量が増えていった。1961年10月には、家族や同僚と休暇で訪れていたクリミア半島の保養地フォロス(ロシア語版)で、前日に起こしたモーターボートの事故の際に知り合った看護師の部屋にいるところを妻ヴァレンチナに踏み込まれ、二階のバルコニーから飛び降りて庭の縁石に額をぶつけ、眉の上に傷が残ることになった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "ガガーリンは宇宙開発の現場に戻ることを希望していたが、世界各国からの招待はそれからも続き、ガガーリンは世界中を歴訪した。1962年5月には日本を訪問し、東京など各地を回っている。重要人物となったガガーリンは身に危険の及ぶ可能性のある訓練飛行などを禁止され、多忙なスケジュールも相まってほとんど現場から離れたまま3年間を過ごした。それでも1963年12月には宇宙飛行士訓練センターの副所長に就任し、1964年3月にはジューコフスキー空軍技術アカデミーに入学して宇宙工学を学ぶなど、現場に戻るための努力は続けていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "しかし1964年10月にフルシチョフが失脚すると、フルシチョフ派とみなされていたガガーリンの地位は大きく低下し、対外的な仕事は激減した。1966年1月には師といえるコロリョフが死去し、ガガーリンは大きな衝撃を受けた。また高い開発能力や組織運営能力を持つコロリョフの死により、ソ連の宇宙開発計画は次第に停滞していった。一方、対外的な仕事の減少は本来の職務に取り組む時間をガガーリンに与えることになり、またコロリョフの死によってさらに職務に精励するようになったガガーリンは訓練の再開を認められ、1967年には親友でもあるウラジーミル・コマロフが搭乗するソユーズ1号のバックアップ要員に選ばれることになった。しかしソユーズの試験は上手くいかず、ガガーリンをはじめとする飛行士や開発陣は飛行中止を進言したものの、それが政府に受け入れられることはなかった。試験飛行が1度も成功しないままソユーズが4月23日の出発の日を迎えた時、ガガーリンは宇宙服を着て「自分が乗る」とコマロフをかばったという。結果的にコマロフは宇宙船自動安定化システムの機能停止や大気圏突入時パラシュートが絡まるなどのトラブルで死亡してしまう。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "コマロフの事故以降、英雄の身を案じた政府によってガガーリンは宇宙飛行ミッションから外され、自身が飛ぶ可能性はなくなった。このことにガガーリンは非常に落胆し、政府に嘆願書を送って復帰を求めたものの、決定が覆ることはなかった。1968年2月にはジューコフスキー空軍技術アカデミーで学位を取得し、管理者への道を歩み始めたものの、ガガーリンは新人パイロットだったときに宇宙計画に選抜されたため、飛行時間はさして長いものではなかった。このため、パイロットの指導のためにもあらためて飛行経験を積むことが必要になり、3月にはベテランの教官とともに飛行訓練を再開した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1968年3月27日、ガガーリンは教官とともに搭乗したMiG-15UTIでキルジャチ付近を飛行中、墜落事故を起こし、死亡した。34歳没。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "事故の正確な原因は長らく不明であり、政治的思惑が絡んだ人為的な事故説などの陰謀論も含めて噂されていた。ガガーリンが搭乗時に飲酒していたという噂も流れたが、彼は飛行前のメディカルチェックに合格しており、死後行われた調査でも飲酒を示す一切の証拠は見つからなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "陰謀論以外として、付近を飛行していた別の軍用機に巻き込まれたというものがある。1986年に発表された調査資料によれば、Su-11迎撃機が付近を高速飛行したため、その衝撃波に巻き込まれて操縦不能状態になった可能性が示唆されている。1988年のプラウダ紙の報道では、ガガーリンの近くを管制ミスのためMiG-21が通過し、事故を招いたという調査結果が取り上げられた。2005年に発表された新説では、コックピットの通気口が故障か前の搭乗者のミスで開いたままになっており、そこから酸素が漏れ出して低酸素状態になり、意識を失って操縦不能状態に陥ったとしている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2011年4月に機密解除された当時のソ連政府調査委員会の報告書によると、気象観測用気球か鳥との衝突を避けようとして操縦不能に陥ったことが原因だったと結論付けられている。しかし、ガガーリンの同僚であり事故調査委員会にも参加していたアレクセイ・レオーノフはこの結論を否定し、また彼の証言として調査結果に記載された内容が捏造だったことを明かしている。レオーノフは2013年に、無許可で発進したSu-15が付近を通過し、それを回避しようとしたガガーリンのMiG-15が回避しきれず操縦不能に陥り、結果として墜落に至ったことが死因だったと語っている。レオーノフはまた、事故を引き起こしたSu-15のパイロットはソ連邦英雄であり、名前を公にしないことを条件に真相を明かすことを許されたとも述べている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "前人未到の宇宙に飛び立つ際に発した一言である。この言葉は、人類史の宇宙時代(英語版)の幕開けを告げる言葉として、東側諸国で歴史的な言葉となった。",
"title": "ガガーリンの言葉"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また、それ以外の出発直前の会話も録音・文書化されており、ロケット設計者のセルゲイ・コロリョフとのジョークを交えた会話や、整備士の調整忘れの修正作業に関する会話、コントロールパネルのライトの一つが点灯しないのでハッチの調整が必要だと言われる場面等も残っている。これらの内容は、2011年4月にロシア政府によって公開された「ガガーリンの一生に関する700ページ以上に及ぶ文書」に掲載されている。",
"title": "ガガーリンの言葉"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ガガーリンの言葉として知られる「地球は青かった」は、1961年4月13日付けの『イズベスチヤ』に掲載されたルポ(着陸地点にいたオストロウーモフ(Георгий ОСТРОУМОВ)記者によるもの)によれば、原文では \"Небо очень и очень темное, а Земля голубоватая. \" となっており、日本語訳では、「空はとても暗かった。一方、地球は青みがかっていた」となる。『朝日新聞』夕刊4月13日、『毎日新聞』夕刊4月13日、『読売新聞』朝刊4月13日は、この記事を基にしてガガーリンの言葉を伝えている。",
"title": "ガガーリンの言葉"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ガガーリンの地球周回中の言葉として報道され、有名になったものとして「ここに神は見当たらない」というものがある。ガガーリンが飛行中に「見回してみても神はいない」といったとされているが、記録にはその種の発言は一切残されていない。これは同じソ連の宇宙飛行士のチトフが訪米した時にシアトルで記者団に向けて放った発言である。しかしながら日本以外では、この言葉の方が「地球は青かった」よりも有名である。他に「私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」という表現でもよく引き合いに出されている。",
"title": "ガガーリンの言葉"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ガガーリンの親友であった宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフは著書『Two sides of the moon』(『アポロとソユーズ』p.295)の中でガガーリン自身が好んで語ったアネクドート(風刺ジョーク)として次の話を挙げている。",
"title": "ガガーリンの言葉"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティにロシア正教のモスクワ総主教アレクシー1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。",
"title": "ガガーリンの言葉"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "しばらくしてフルシチョフがガガーリンに同じことを尋ねた。総主教との約束を思い出したガガーリンはさきほどとは違うことを答えた。",
"title": "ガガーリンの言葉"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "宇宙飛行中、ガガーリンが地上に「無重力状態は面白い。すべてが浮かんでいる」と通信してきた、当時は秘密扱いだった映像のテープが全ロシア・テレビラジオ放送研究所で発見され、2021年4月2日にロシアで放映された",
"title": "ガガーリンの言葉"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ガガーリンが宇宙へ赴いた最初の人類であることは今でも疑問の余地がないが、いまだにロシアではガガーリン以前に二度有人宇宙飛行が試みられたが国境を越えて中国に着陸してしまう等で失敗し、隠蔽のために永遠の秘密とされたというデマが流れることがある。この話はしばしば著名な飛行機設計者セルゲイ・イリューシンの息子ウラジーミルの名前と結びつけて論じられる。ガガーリンの伝記『スターマン』(邦題『ガガーリン 世界初の宇宙飛行士、伝説の裏側で』)によれば、このような噂が広まった背景には、1961年3月25日に有人宇宙飛行に先駆けて行われた無人試験飛行で、人形を乗せ、通信のチェックを行うために人の声を吹き込んだテープをのせていたことが原因ではないかと推測している。ガガーリンは日本にも来たことがあるが、発言に不可解な面が目立った事から不審に見られ「秘匿している機密を守るための替え玉では」との報道もあった。これは糸川英夫がガガーリン本人と対談した際の個人的な感想を基にしたものであり、糸川の意見に対しては反論もなされている。",
"title": "ガガーリンをめぐるデマ"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ガガーリンが人類初の宇宙飛行に成功した4月12日は宇宙飛行士の日としてソビエト連邦、およびロシア連邦の祝日となっている。この日が祝われるのはロシア国内だけではなく、世界各国でユーリーズナイトと呼ばれる宇宙イベントが開催される。さらに2011年4月7日には国連総会によってこの日が世界宇宙飛行の日に制定され、国際デーの一つとなっている。",
"title": "記念・顕彰"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ガガーリンはロシアの宇宙開発を象徴する人物であり、ロシアの偉人の一人とされている。ガガーリンの人類初の有人飛行から60周年に当たる2021年4月12日には、ロシア各地で記念行事が開催された。サラトフ州スミロフカ村近くのガガーリン記念公園には1週間前の4月5日に「ガガーリン記念館」が一部先行オープンし、12日にはロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチン、女性として人類初の宇宙飛行をしたワレンチナ・テレシコワ、サラトフ出身のヴャチェスラフ・ヴォロージンロシア連邦議会国家院 (ロシア)(下院)議長が、ガガーリン記念公園を訪問した。プーチンとテレシコワは遊歩道に記念植樹を行い、ガガーリンを讃えた。これに先立つ4月9日に国際宇宙ステーションに向けて打ち上げられた宇宙船も、彼にちなみ「ガガーリン」と名付けられた。",
"title": "記念・顕彰"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2023年5月にはロシアの宇宙開発活動に功績を残した人物を対象とした「ガガーリン勲章」が創設され、前出のテレシコワに対して飛行60周年となる同年6月に最初の受章者として授与が決定した。",
"title": "記念・顕彰"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ロシア国内にはガガーリンにちなんだ名称の地名や事物が複数存在する。ガガーリンの出生地であるスモレンスク州クルシノ村に近いグジャーツク市は、1968年のガガーリンの死去すぐにガガーリン市へと改名された。モスクワ近郊の星の町にある宇宙飛行士訓練センターは、1968年にユーリ・A・ガガーリン宇宙飛行士訓練センターと改称されている。ガガーリンを打ち上げたカザフスタンのバイコヌール宇宙基地第1発射台はその後も使用され続け、ガガーリン発射台と呼ばれている。サラトフに2019年開港した新空港は、サラトフ・ガガーリン空港と命名された。",
"title": "記念・顕彰"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ガガーリンを記念する施設としては、生地ガガーリン市に生家や記念館などを含んだ博物館が存在する。また、モスクワのレーニンスキー大通りには1980年7月、高さ45.2mのチタン製巨大ガガーリン像が建設された。",
"title": "記念・顕彰"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "宇宙開発とは関わりのない分野でも使用されるケースがあり、アイスホッケーKHLのプレーオフトーナメント優勝チームに与えられる賞は、彼にちなんでガガーリン・カップと名付けられた。",
"title": "記念・顕彰"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "これら以外に、ガガーリンの名を関したものに以下のものがある。",
"title": "記念・顕彰"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "旧ソ連以外でもちなんだ命名物がある。",
"title": "記念・顕彰"
}
] | ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンは、ソビエト連邦の軍人、パイロット、宇宙飛行士。最終階級は大佐。1961年、人類初の有人宇宙飛行としてボストーク1号に単身搭乗した人物である。 | {{基礎情報 軍人
| 氏名 = ユーリイ・ガガーリン
| 各国語表記 = {{lang|ru|Юрий Гагарин}}
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1934|3|9|no}}
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1934|3|9|1968|3|27}}
| 画像 = Gagarin in Sweden.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = [[スウェーデン]]を訪問した際のガガーリン(1964年)
| 生誕地 = {{SSR1923}}<br/>{{RUS1918}}、[[スモレンスク州]][[クルシノ]]
| 死没地 = {{SSR1955}}<br>{{RUSSR}}、ノヴォショロヴォ
| 所属組織 = {{flagicon image|Flag of the Soviet Air Force.svg}} [[ソ連空軍]]
| 軍歴 = [[1955年]] - [[1968年]]
| 最終階級 = [[大佐]]
| 署名 = [[File:Gagarin Signature.svg|150px]]
}}
'''ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン'''({{翻字併記|ru|Юрий Алексеевич Гагарин|Yurii Alekseyevich Gagarin}}, [[1934年]][[3月9日]] - [[1968年]][[3月27日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[軍人]]、[[パイロット (航空)|パイロット]]、[[宇宙飛行士]]。最終階級は[[大佐]]。[[1961年]]、人類初の[[有人宇宙飛行]]として[[ボストーク1号]]に単身搭乗した人物である。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[File:Yuri_Gagarin_parents_Home.jpg|thumb|left|クルシノにあるガガーリンの育った家。現在は博物館。]]
ガガーリンは1934年3月9日、[[モスクワ]]西方の[[スモレンスク州]][[ガガーリン (スモレンスク州)|グジャーツク市]]{{Efn|後述の通り、1968年に[[ガガーリン (スモレンスク州)|ガガーリン]]市に改称<ref name="anp"/>。}}に近い村[[クルシノ]]で生まれた。両親は[[コルホーズ]]の労働者であった。「[[労働者]]階級出身の英雄」というガガーリン像を強調するため「両親は[[農民]]であった」と語られている。もちろん労働階級出身であることは間違いではないが、実際のガガーリンの父親は教養のある腕利きの大工であり、母親もインテリで読書家であった{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=22-23}}。
彼は四人兄弟の三人目で、幼いガガーリンの世話は姉が行うこともあった。他のソ連国民同様、[[第二次世界大戦]]は一家に大きな苦しみをもたらした。兄と姉は[[1943年]]に[[ドイツ]]によりポーランドへ連れ去られ、強制労働に従事させられ、戦争が終わるまで戻らなかった{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=28-29}}。少年時代のガガーリンへの評価は、まじめで勉強家だが、茶目っ気もあるというものだった。やがて[[ソ連空軍|空軍]]から除隊してきた教師がガガーリンの学校で数学を教えることになったが、彼の授業をガガーリンは熱心に聞き、後の生き方に影響を与えることになる{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=33-35}}。
[[File:Gagarin town - Gagarin Memorial Museum 03.jpg|thumb|グジャーツク市(現:[[ガガーリン (スモレンスク州)|ガガーリン市]])にある学生時代に住んでいた家。現在は Gagarin Memorial Museum。]]
1950年にモスクワの金属工場の見習いとして働き出したガガーリンは優秀であったため、翌1951年には技術教育を受けるべく[[サラトフ]]の学校へ送られた{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=36-38}}。そこで彼はエアロクラブに入り、軽飛行機での飛行を楽しんだが、徐々に飛ぶことの楽しさにとりつかれるようになった{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=38-39}}。[[1955年]]に工業学校を卒業したガガーリンはパイロットを志し、[[オレンブルク]]にあった空軍[[士官学校]]に入った{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=39-41}}。[[1957年]]には[[オレンブルク]]で出会ったヴァレンチナ・ゴリチェヴァと結婚している{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=42-44}}。1957年の卒業後、[[ノルウェー]]国境に近い[[ムルマンスク]]の基地に配属された{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|p=45}}{{Efn|北欧上空の大気状態は不安定でパイロット泣かせの土地であった。}}。当時の記録によるとガガーリンの身長は158cmであった。
=== ソ連における宇宙開発 ===
[[File:Gagarin-skafander.jpg|thumb|150px|ガガーリンの[[SK-1宇宙服]]]]
[[1959年]]、[[ソビエト連邦の宇宙開発]]が本格的に始まったことに伴って宇宙飛行士の選抜が始められ、翌[[1960年]]3月にはソビエト全土からガガーリンを含む20人の候補生がモスクワ近郊の基地へと配属された{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|p=47-50}}。ガガーリンは他の飛行士たちとともに、宇宙飛行に必要な身体的・精神的耐久性をテストされながら、厳しい訓練を受けた。6月18日には[[ボストーク]]宇宙船の開発者である[[セルゲイ・コロリョフ]]が候補生を招いて宇宙船を見せたが、このときガガーリンが開発陣や同僚に与えた印象は強いもので、有力候補の一人と見なされるようになった{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|p=78-85}}。
1961年4月の打ち上げに向けて飛行士の選考は進んでおり、1960年末には、候補者はガガーリンを含む6人にまで絞られた。このときの選考では、身長の低さが重要な要因となった。なぜなら、最初期のボストーク宇宙船は非常に小さく、大柄な人間が乗ることは困難であったからである{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|p=115}}。飛行予定まで1ヶ月となった3月初めには、パイロットの候補はガガーリンと[[ゲルマン・チトフ]]のどちらかに絞られた{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|p=115}}。二人とも訓練結果が優れており、既に1960年末の時点で候補生の間ではどちらかが飛行士に選ばれることは確実とみられていた{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|p=86}}。
4月8日に最終選考が行われ、ガガーリンが正飛行士、チトフが代替要員と決定された。この決定は政府の上層部によって行われ、翌4月9日に両名に伝達された{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|p=123}}。なぜガガーリンが選ばれたかについてはいくつかの説があるが、ガガーリンが労働者階級出身にあることに加え温和で社交的な人好きのする性格だったことや、「ユーリイ」という[[ロシア]]的な名前、そして労働者階級出身の英雄という点を強調しやすい生い立ちなどが有力な要因とされている{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=124-125}}。選考に漏れたチトフは、同年8月に[[ボストーク2号]]でガガーリンに次ぐ史上二番目の([[軌道宇宙飛行]]を行なった)宇宙飛行士になっており{{Efn|[[アメリカ合衆国]]は[[弾道飛行]]をしたパイロットも「宇宙飛行士」に認定しており、[[アラン・シェパード]]と[[ガス・グリソム]]がガガーリンとチトフの間に弾道飛行を行なっている。}}、自ら機体を操縦して[[大気圏外]]で食事をするなどの実験を行い、その様子は記録映像に残されている。
=== 宇宙へ ===
[[File:Gagarin Capsule.jpg|thumb|ガガーリンの乗ったボストーク1号のカプセル]]
[[1961年]][[4月12日]]、ガガーリンは[[ボストーク1号|ボストーク3KA-2]]で世界初の有人宇宙飛行に成功した。このときのコールサインは「ケードル({{lang|ru|Кедр}}、[[ヒマラヤスギ]]の意)」であった。飛行中「{{ill2|祖国は聞いている|ru|Родина слышит}}」という歌([[エヴゲーニー・ドルマトフスキー]]作詞、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]作曲・作品86)を口ずさんで自分自身を元気づけていたといわれている<ref> [http://bunbun.boo.jp/okera/saso/sokoku_kiite.htm 祖国は聞いている] </ref>。
飛行中、ガガーリンは自分が[[中尉]]から[[少佐]]に昇進([[二階級特進]])したという[[タス通信]]のニュースを聞いた。ガガーリンは喜んだが、このような発表を飛行中のガガーリンに伝えた本当の理由は、当時の技術ではガガーリンが生きて帰還できる可能性は低いと政府高官が考えていたからだと言われている<ref>[http://spacesite.biz/ussrspace_vostok1.htm “東方”という名の宇宙船] - スペースサイト</ref>。ガガーリンを乗せた宇宙船は、[[地球周回軌道]]に入り、大気圏外を1時間50分弱(108分間<ref name="道新20210413">「ガガーリンあせぬ偉業 宇宙飛行60年 ロシアで肉声公開」『[[北海道新聞]]』朝刊2021年4月13日(国際面)</ref>)で1周したのち[[大気圏再突入]]を行ない、高度7000mでガガーリンは座席ごとカプセルから射出されて、[[パラシュート]]で降下した{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=170}}。ボストーク1号にはカプセルごと安全に着陸できる装置はまだなく、乗員は安全上パラシュートで脱出せざるを得なかったのだが、1961年当時の[[国際航空連盟]] (FAI) による高度記録の定義においては、飛行士は機体に搭乗したまま地上に到達する事が要求されており、このことが露見すると記録が剥奪される恐れがあったため、公式発表では宇宙船と共に着陸したとされ、ソ連はこの主張を押し通した{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=100-101}}。ガガーリンのパラシュートは、ソ連領内[[サラトフ州]]にあるスミロフカ村の外れに着地した{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=170}}。
=== 地球帰還後 ===
[[File:1961-04-19 First Pictures-Yuri Gagarin-selection.ogv|thumb|[[赤の広場]]での記念式典でフルシチョフの出迎えを受けるガガーリン(1961年4月)]]
地上に無事帰還すると、ガガーリンは一躍「時の人」となった。4月14日のモスクワ・[[赤の広場]]での記念式典では、ガガーリンはこのような計画を成功に導いた[[ソ連共産党書記長]][[ニキータ・フルシチョフ]]と[[ソ連共産党]]の偉大さを賞賛した{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=190-193}}。ガガーリンはフルシチョフのお気に入りとなり、フルシチョフ在任中はガガーリンと[[クレムリン]]の関係は良好だった{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=193}}。フルシチョフにとってガガーリンの成功は、通常兵器を犠牲にしてまで自ら推し進めた[[宇宙ロケット]]/[[弾道ミサイル]]増強計画の成果を示すものであった。
国内での式典が一段落した4月末から、ガガーリンはソビエトの宇宙計画の広告塔として世界を旅するようになった{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=196}}。ガガーリンは激変した自分の環境にもうまく適応したかのようであったが、連日続く式典や過酷なスケジュールのストレスなどから疲労がたまっていき、徐々に酒量が増えていった{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=242-243}}。[[1961年]]10月には、家族や同僚と休暇で訪れていた[[クリミア半島]]の保養地{{仮リンク|フォロス|ru|Форос}}で、前日に起こしたモーターボートの事故の際に知り合った看護師の部屋にいるところを妻ヴァレンチナに踏み込まれ、二階の[[バルコニー]]から飛び降りて庭の縁石に額をぶつけ、眉の上に傷が残ることになった{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=229-236}}。
ガガーリンは宇宙開発の現場に戻ることを希望していたが、世界各国からの招待はそれからも続き、ガガーリンは世界中を歴訪した{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=240-243}}。1962年5月には[[日本]]を訪問し、[[東京]]など各地を回っている<ref>[https://bizble.asahi.com/articles/2021040900056.html 【4月12日】60年前、ガガーリンが人類史上初の宇宙飛行] bizble転載の『朝日新聞』記事/ 2021年4月12日(2021年4月27日閲覧)</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20210425-GBXVU3JNYBM2ZO4XWONJBKVF74/ 【日曜に書く】論説顧問・斎藤勉「ガガーリン」60年後の憂鬱]『[[産経新聞]]』2021年4月25日(2021年4月27日閲覧)</ref>。重要人物となったガガーリンは身に危険の及ぶ可能性のある訓練飛行などを禁止され、多忙なスケジュールも相まってほとんど現場から離れたまま3年間を過ごした。それでも1963年12月には宇宙飛行士訓練センターの副所長に就任し、1964年3月にはジューコフスキー空軍技術アカデミーに入学して宇宙工学を学ぶなど、現場に戻るための努力は続けていた{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=248-254}}。
しかし1964年10月にフルシチョフが失脚すると、フルシチョフ派とみなされていたガガーリンの地位は大きく低下し、対外的な仕事は激減した{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=260-261}}。1966年1月には師といえるコロリョフが死去し、ガガーリンは大きな衝撃を受けた{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=270-274}}。また高い開発能力や組織運営能力を持つコロリョフの死により、ソ連の宇宙開発計画は次第に停滞していった。一方、対外的な仕事の減少は本来の職務に取り組む時間をガガーリンに与えることになり、またコロリョフの死によってさらに職務に精励するようになったガガーリンは訓練の再開を認められ、[[1967年]]には親友でもある[[ウラジーミル・コマロフ]]が搭乗する[[ソユーズ1号]]のバックアップ要員に選ばれることになった{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=274}}。しかしソユーズの試験は上手くいかず、ガガーリンをはじめとする飛行士や開発陣は飛行中止を進言したものの、それが政府に受け入れられることはなかった。試験飛行が1度も成功しないままソユーズが4月23日の出発の日を迎えた時、ガガーリンは宇宙服を着て「自分が乗る」とコマロフをかばったという。結果的にコマロフは宇宙船自動安定化システムの機能停止や大気圏突入時パラシュートが絡まるなどのトラブルで死亡してしまう{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=282-292}}。
コマロフの事故以降、英雄の身を案じた政府によってガガーリンは宇宙飛行ミッションから外され、自身が飛ぶ可能性はなくなった。このことにガガーリンは非常に落胆し、政府に嘆願書を送って復帰を求めたものの、決定が覆ることはなかった{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=296-297}}。1968年2月にはジューコフスキー空軍技術アカデミーで学位を取得し、管理者への道を歩み始めたものの、ガガーリンは新人パイロットだったときに宇宙計画に選抜されたため、飛行時間はさして長いものではなかった。このため、パイロットの指導のためにもあらためて飛行経験を積むことが必要になり、3月にはベテランの教官とともに飛行訓練を再開した{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=302-305}}。
=== 突然の事故死とその真相 ===
[[1968年]][[3月27日]]、ガガーリンは教官とともに搭乗した[[MiG-15 (航空機)|MiG-15UTI]]で[[キルジャチ]]付近を飛行中、墜落事故を起こし、死亡した。34歳没。
事故の正確な原因は長らく不明であり、政治的思惑が絡んだ人為的な事故説などの陰謀論も含めて噂されていた。ガガーリンが搭乗時に飲酒していたという噂も流れたが、彼は飛行前のメディカルチェックに合格しており、死後行われた調査でも飲酒を示す一切の証拠は見つからなかった{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=313-314}}。
陰謀論以外として、付近を飛行していた別の軍用機に巻き込まれたというものがある。1986年に発表された調査資料によれば、[[Su-11 (航空機)|Su-11]]迎撃機が付近を高速飛行したため、その[[衝撃波]]に巻き込まれて操縦不能状態になった可能性が示唆されている{{要出典|date = 2013-06-24}}。1988年の[[プラウダ]]紙の報道では、ガガーリンの近くを管制ミスのため[[MiG-21 (航空機)|MiG-21]]が通過し、事故を招いたという調査結果が取り上げられた<ref name="sorae 2013" />。[[2005年]]に発表された新説では、コックピットの通気口が故障か前の搭乗者のミスで開いたままになっており、そこから[[酸素]]が漏れ出して低酸素状態になり、意識を失って操縦不能状態に陥ったとしている<ref name="sorae 2013" />。
2011年4月に機密解除された当時のソ連政府調査委員会の報告書によると、気象[[観測気球|観測用気球]]か鳥との衝突を避けようとして操縦不能に陥ったことが原因だったと結論付けられている<ref name="sorae 2013" />。しかし、ガガーリンの同僚であり事故調査委員会にも参加していた[[アレクセイ・レオーノフ]]はこの結論を否定し、また彼の証言として調査結果に記載された内容が捏造だったことを明かしている<ref name="sorae 2013">{{cite news | url = http://www.sorae.info/031099/4926.html | title = アレクセイ・レオーノフ宇宙飛行士、ガガーリンの死の真相を明かす | date = 2013-06-19 | publisher = sorae.jp | accessdate = 2013-06-24}}</ref>。レオーノフは2013年に、無許可で発進した[[Su-15 (航空機)|Su-15]]が付近を通過し、それを回避しようとしたガガーリンのMiG-15が回避しきれず操縦不能に陥り、結果として墜落に至ったことが死因だったと語っている。レオーノフはまた、事故を引き起こしたSu-15のパイロットは[[ソ連邦英雄]]であり、名前を公にしないことを条件に真相を明かすことを許されたとも述べている<ref name="sorae 2013" />。
== ガガーリンの言葉 ==
=== 「さあ行こう」(Поехали! カナ表記:パイェーハリ) ===
{{Sound|Gagarin-Poyekhali.ogg|''パイェーハリ!''|ガガーリンの音声}}
前人未到の宇宙に飛び立つ際に発した一言である。この言葉は、人類史の{{ill2|宇宙時代|en|Space Age}}の幕開けを告げる言葉として、[[東側諸国]]で歴史的な言葉となった<ref name=Dushenko>{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=UZqhAAAAQBAJ&lpg=PT920&pg=PT920 |title=Большой словарь цитат и крылатых выражений |publisher=Litres |language=Russian |first=Константин |last=Душенко |date=2014 |isbn=978-5-699-40115-4}}</ref><ref>{{cite book |chapterurl=https://books.google.com/books?id=kMGlvz53P3cC&lpg=PT488&pg=PT440 |chapter=6.2 Он сказал «Поехали!» |title=108 минут, изменившие мир |publisher=Эксмо |language=Russian |first=Антон |last=Первушин |date=2011 |isbn=9785457022300}}</ref>。
また、それ以外の出発直前の会話も録音・文書化されており、ロケット設計者の[[セルゲイ・コロリョフ]]とのジョークを交えた会話や、整備士の調整忘れの修正作業に関する会話、コントロールパネルのライトの一つが点灯しないのでハッチの調整が必要だと言われる場面等も残っている。これらの内容は、2011年4月にロシア政府によって公開された「ガガーリンの一生に関する700ページ以上に及ぶ文書」に掲載されている<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2795288?pid=7058491|title=ガガーリンの世界初の有人宇宙飛行、打ち上げ直前の会話は?記録文書を公開|newspaper=[[フランス通信社|AFP通信]]|date=2011年4月11日|accessdate=2021-04-25}}</ref>。
[[File:Vostok 1 orbit english.png|thumb|ボストーク1号の飛行経路]]
=== 「地球は青かった」 ===
ガガーリンの言葉として知られる「地球は青かった」は、1961年4月13日付けの『[[イズベスチヤ]]』に掲載されたルポ(着陸地点にいたオストロウーモフ({{lang|Rus|Георгий ОСТРОУМОВ}})記者によるもの)によれば、原文では "{{lang|Rus|Небо очень и очень темное, а Земля голубоватая. }}" となっており<ref>[http://www.oldgazette.ru/izvestie/12041961/text2.html НАША РОДИНА ОТКРЫЛА НОВУЮ ЭРУ В ИСТОРИИ ЧЕЛОВЕЧЕСТВА] - イズベスチヤ(ロシア語)</ref>、日本語訳では、「空はとても暗かった。一方、地球は青みがかっていた」となる。『朝日新聞』夕刊4月13日、『[[毎日新聞]]』夕刊4月13日、『[[読売新聞]]』朝刊4月13日は、この記事を基にしてガガーリンの言葉を伝えている<!-- [http://hoshi-biyori.cocolog-nifty.com/star/2006/03/post_c04e.html] -->。
=== 「神はいなかった」 ===
ガガーリンの地球周回中の言葉として報道され、有名になったものとして「ここに神は見当たらない」というものがある。ガガーリンが飛行中に「見回してみても神はいない」といったとされているが、記録にはその種の発言は一切残されていない。これは同じソ連の宇宙飛行士の[[ゲルマン・チトフ|チトフ]]が訪米した時に[[シアトル]]で記者団に向けて放った発言である<ref>Soviet Cosmonaut Gherman Titov visits Seattle's Century 21 Exposition on May 5 and May 6, 1962 HistoryLink.org. Essay 10104.</ref>。しかしながら日本以外では、この言葉の方が「地球は青かった」よりも有名である。他に「私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」という表現でもよく引き合いに出されている。
ガガーリンの親友であった宇宙飛行士[[アレクセイ・レオーノフ]]は著書『Two sides of the moon』(『アポロとソユーズ』p.295)の中でガガーリン自身が好んで語った[[アネクドート]](風刺ジョーク)として次の話を挙げている。
<blockquote>
宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティに[[ロシア正教会|ロシア正教]]の[[モスクワ総主教]][[アレクシー1世]]が列席しており、ガガーリンに尋ねた。
:総主教「宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか」
:ガガーリン「見えませんでした」
:総主教「わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように」
しばらくして[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]がガガーリンに同じことを尋ねた。総主教との約束を思い出したガガーリンはさきほどとは違うことを答えた。
:ガガーリン「見えました」
:フルシチョフ「同志よ、神の姿が見えたことは誰にもいわないように」([[レーニン主義]]は宗教を否定している)
</blockquote>
[[ファイル:Jânio da Silva Quadros, presidência da República, condecora o major Iuri Alekseievitch Gagarin, em Brasília.jpg|サムネイル|[[ブラジル大統領]][[ジャニオ・クアドロス]]とガガーリン(1961年)]]
=== その他 ===
宇宙飛行中、ガガーリンが地上に「[[無重力状態]]は面白い。すべてが浮かんでいる」と通信してきた、当時は秘密扱いだった映像のテープが全ロシア・テレビラジオ放送研究所で発見され、2021年4月2日にロシアで放映された<ref name="道新20210413"/>
== ガガーリンをめぐるデマ ==
ガガーリンが宇宙へ赴いた最初の人類であることは今でも疑問の余地がないが、いまだにロシアではガガーリン以前に二度有人宇宙飛行が試みられたが国境を越えて中国に着陸してしまう等で失敗し、隠蔽のために永遠の秘密とされたというデマが流れることがある。この話はしばしば著名な飛行機設計者[[セルゲイ・イリューシン]]の息子[[ウラジーミル・イリューシン|ウラジーミル]]の名前と結びつけて論じられる<ref>[https://jp.rbth.com/science/83482-gagarin-hontou-ni-sekai-hatsu-no-hikoushi-ka 「ガガーリンは本当に世界初の宇宙飛行士だったのか」]ロシア・ビヨンド(2020年4月1日)2021年4月27日閲覧</ref>。ガガーリンの伝記『スターマン』(邦題『ガガーリン 世界初の宇宙飛行士、伝説の裏側で』)によれば、このような噂が広まった背景には、1961年3月25日に有人宇宙飛行に先駆けて行われた無人試験飛行で、人形を乗せ、通信のチェックを行うために人の声を吹き込んだテープをのせていたことが原因ではないかと推測している{{Sfn|ジェイミー・ドーラン|ピアーズ・ビゾニー|2013|pp=110-113}}。ガガーリンは日本にも来たことがあるが、発言に不可解な面が目立った事から不審に見られ「秘匿している機密を守るための替え玉では」との報道もあった。これは[[糸川英夫]]がガガーリン本人と対談した際の個人的な感想を基にしたものであり、糸川の意見に対しては反論もなされている<ref>{{Cite web|和書|author=江藤巌 |authorlink=江藤巌 |url=http://www.geocities.jp/uchyuu_kaihatsu_shi/shinbun/2005_11.pdf |title=宇宙開発史んぶん ヴォストーク遺聞〈3〉ガガーリン替え玉説 |date=2005-11 |website= |publisher= |format=pdf |accessdate= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110412123120/http://www.geocities.jp/uchyuu_kaihatsu_shi/shinbun/2005_11.pdf |archivedate=2011-04-12 |deadlinkdate=2023-06-17 }}</ref>。
== エピソード ==
* 地球生還後にフルシチョフから勲章を授与されるときに、ガガーリンの軍服の生地があまりに硬いためにフルシチョフは[[勲章]]をガガーリンの軍服に付けることができず、直接手渡したと言われている。真偽は不明だが、ソ連の重工業と軽工業の技術差を揶揄するときに使われている。
* ガガーリンのアイデアで、宇宙船の操縦室に[[熊]]の人形をぶら下げた。これは、無重量状態になったときに人形が宙に浮くので、ロケットエンジンによる加速を止め[[慣性]]と重力のみによる運動に移行した<!--宇宙に到達した--><!-- ←「宇宙に到達すると無重力状態になる」という典型的な間違いを助長する記述であり有害 -->のが一目瞭然だからである。この伝統は21世紀になった今でも続いている。
== 受賞歴 ==
[[File:Yuri Gagarin with awards.jpg|thumb|150px|多くの勲章を身につけたガガーリン]]
;政府から受け取った最初の宇宙飛行士としての報酬<ref>{{cite web|author= Светлана Самоделова|url=http://www.mk.ru/social/article/2010/04/11/466015-sekretnaya-premiya-yuriya-gagarina.html|title=Секретная премия Юрия Гагарина. За свой полет первый космонавт получил 15 тысяч рублей и кучу подарков|publisher=[[モスコフスキー・コムソモーレツ]] № 25325|date=12 апреля 2010 г.|accessdate=09.02.2018
|archiveurl=https://webcitation.org/6FsEMYsra |archivedate=2013-04-14}}</ref><ref name="nagrady">{{cite news|url=http://www.mcc.rsa.ru/cup50g_2.htm|title=Биография Ю.А. Гагарина|author=Роскосмос|publisher=RKA [[ミッションコントロールセンター]] (ЦУП)}}</ref>
:* 15000 ルーブル
:* [[GAZ]]社製の自動車{{ill2|GAZ M21 Volga|en|GAZ-21}}
:* 家具付きの家
:* 家族や親兄弟の服など
:
;称号の一部
:* [[ソ連邦英雄]](1961年4月14日)
:* [[ソ連操縦士=宇宙飛行士]](1961年6月27日)
:
;勲章の一部
:* [[レーニン勲章]](1961年4月14日)
:* [[カール・マルクス勲章]]([[ドイツ民主共和国]]、1963年10月22日)
:* [[ナイル勲章]](エジプト、1962年1月31日)
== ユーリイ・ガガーリンを扱った作品 ==
* 伝記映画『[[ガガーリン 世界を変えた108分]]』(原題:GAGARIN. PERVYY V KOSMOSE) - [[2013年]]ロシア作品。監督:[[パヴェル・パルホメンコ]]。主演:[[ヤロスラフ・ザルニン]]
== 記念・顕彰 ==
ガガーリンが人類初の宇宙飛行に成功した4月12日は[[宇宙飛行士の日]]としてソビエト連邦、およびロシア連邦の[[祝日]]となっている<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20210412/dde/007/030/042000c |title=「宇宙への第一歩」ロシアの誇り ガガーリンたたえ、きょうは「宇宙飛行士の日」初の有人飛行から60年|newspaper=毎日新聞|date=2021-4-12|accessdate=2021-4-14}}</ref>。この日が祝われるのはロシア国内だけではなく、世界各国で[[ユーリーズナイト]]と呼ばれる宇宙イベントが開催される<ref>[https://tenki.jp/suppl/rsakai/2019/04/11/28990.html 「4月12日は「宇宙飛行士の日」にちなみ、人類初の有人宇宙飛行と最新宇宙旅行のお話] - tenki.jp(2019年04月11日)2021年4月14日閲覧。</ref>。さらに2011年4月7日には[[国連総会]]によってこの日が[[世界宇宙飛行の日]]に制定され、国際デーの一つとなっている<ref>[https://www.un.org/en/observances/human-spaceflight-day International Day of Human Space Flight:12 April] 国際連合(英語、2021年4月14日閲覧)</ref>。
ガガーリンはロシアの宇宙開発を象徴する人物であり、ロシアの偉人の一人とされている<ref>{{Cite news|url=https://globe.asahi.com/article/14304383 |title=ガガーリンの偉業から60年 ロシアが譲れない宇宙大国のプライド|newspaper=朝日新聞|date=2021-03-30|accessdate=2021-4-14}}</ref>。ガガーリンの人類初の有人飛行から60周年に当たる2021年4月12日には、ロシア各地で記念行事が開催された<ref>{{Cite news|url=https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/382725|title=ロシア、英雄ガガーリンを誇示 初の有人宇宙飛行から60年|newspaper=[[北國新聞]]|date=2021-4-12|accessdate=2021-4-14}}</ref>。{{要出典範囲|[[サラトフ州]]スミロフカ村近くのガガーリン記念公園{{Efn|ガガーリンを乗せたボストーク1号が地球に着陸した地点。ガガーリンの生前に作られたガガーリン像や高さ30メートルの記念碑などがある。}}には1週間前の4月5日に「ガガーリン記念館」が一部先行オープンし、12日には[[ロシア連邦大統領]][[ウラジーミル・プーチン]]、女性として人類初の宇宙飛行をした[[ワレンチナ・テレシコワ]]、[[サラトフ]]出身の[[ヴャチェスラフ・ヴォロージン]][[ロシア連邦議会]][[国家院 (ロシア)]]([[下院]])議長が、ガガーリン記念公園を訪問した。プーチンとテレシコワは遊歩道に記念植樹を行い、ガガーリンを讃えた|date=2021-04}}。これに先立つ4月9日に[[国際宇宙ステーション]]に向けて打ち上げられた宇宙船も、彼にちなみ「ガガーリン」と名付けられた<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/5fe9e1f74cf5eb8b2bfb7b7a1ae7613604e1b2e5 米ロの3飛行士が宇宙基地着 「ガガーリン号」打ち上げ] 共同通信 2021年4月9日 2021年4月27日閲覧</ref>。
[[2023年]]5月にはロシアの宇宙開発活動に功績を残した人物を対象とした「ガガーリン勲章」が創設され、前出のテレシコワに対して飛行60周年となる同年6月に最初の受章者として授与が決定した<ref>{{Cite news|url=https://tass.com/society/1633379|title=Former cosmonaut Tereshkova becomes first holder of Russia’s new award, Order of Gagarin|newspaper=[[イタルタス通信]]|date=2023-06-16|accessdate=2023-06-17|language=en}}</ref>。
ロシア国内にはガガーリンにちなんだ名称の地名や事物が複数存在する。ガガーリンの出生地である[[スモレンスク州]]クルシノ村に近いグジャーツク市は、1968年のガガーリンの死去すぐに[[ガガーリン (スモレンスク州)|ガガーリン市]]へと改名された<ref>{{Cite news|url=https://globe.asahi.com/article/14327019|title=ソ連版スペースシャトル、ソユーズ、ガガーリン…宇宙大国ロシアをめぐる|newspaper=朝日新聞|date=2021-4-9|accessdate=2021-4-14}}</ref>。モスクワ近郊の[[スターシティ (ロシア)|星の町]]にある宇宙飛行士訓練センターは、1968年に[[ガガーリン宇宙飛行士訓練センター|ユーリ・A・ガガーリン宇宙飛行士訓練センター]]と改称されている<ref>[https://www.jaxa.jp/press/2004/06/20040616_sac_soyuz_j.html 国際宇宙ステーション搭乗日本人宇宙飛行士のソユーズ訓練修了について(報告)][[宇宙航空研究開発機構]](2004年6月16日)2021年4月14日閲覧</ref>。ガガーリンを打ち上げた[[カザフスタン]]の[[バイコヌール宇宙基地]]第1発射台はその後も使用され続け、[[ガガーリン発射台]]と呼ばれている<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/soyuz-1/|author=鳥嶋真也|title=砕け散った「コロリョフの十字架」 - いったいなにが起きたのか?|newspaper=[[マイナビニュース]]|date=2018-10-23|accessdate=2021-4-14}}</ref>。サラトフに2019年開港した新空港は、[[サラトフ・ガガーリン空港]]と命名された<ref>[https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/08/8695f0e87fc46685.html 沿ボルガ地域の工業都市サラトフに新しい国際空港が開所] [[日本貿易振興機構]] (JETRO、2019年08月28日)2021年4月17日閲覧</ref>。
ガガーリンを記念する施設としては、生地ガガーリン市に生家や記念館などを含んだ博物館が存在する<ref name="anp">{{Cite news|url=https://globe.asahi.com/article/14327019|title=ソ連版スペースシャトル、ソユーズ、ガガーリン…宇宙大国ロシアをめぐる|newspaper=朝日新聞|date=2021-4-9|accessdate=2021-4-27}}</ref>。また、モスクワの[[レーニンスキー大通り (モスクワ)|レーニンスキー大通り]]には1980年7月、高さ45.2mの[[チタン]]製巨大ガガーリン像が建設された<ref>https://jp.rbth.com/lifestyle/85083-moscow-tokudai-kinenhi-5 「モスクワの特大記念碑5選」ロシア・ビヨンド(2021年4月20日)2021年4月27日閲覧</ref>。
宇宙開発とは関わりのない分野でも使用されるケースがあり、[[アイスホッケー]][[KHL]]のプレーオフトーナメント優勝チームに与えられる賞は、彼にちなんで[[ガガーリン・カップ]]と名付けられた<ref>{{Cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/e1a52b9f62c3e2e248ac02762ceeb0fb6bb25366|title=【アイスホッケー】日本人宇宙飛行士の金井宣茂氏と一緒に、宇宙へ飛び立った物は?|author=加藤じろう|newspaper=[[Yahoo!ニュース]]|date=2017-12-18|accessdate=2021-4-17}}</ref>。
これら以外に、ガガーリンの名を関したものに以下のものがある。
* [[コスモノート・ユーリイ・ガガーリン]] - [[1971年]]に就役した衛星追跡船。
* [[ユジノサハリンスク#公園|ガガーリン記念文化公園]] - [[ユジノサハリンスク]]にある[[公園]]
旧ソ連以外でもちなんだ命名物がある。
*{{仮リンク|シテ・ガガーリン|en|Cité Gagarine}} - [[フランス]]・[[パリ]]郊外の[[イヴリー=シュル=セーヌ]]にあった集合住宅(1963年の竣工時には、ガガーリン本人が訪問した<ref>{{cite news |url=https://www.hindustantimes.com/world-news/goodbye-gagarin-paris-suburb-razes-communist-housing-estate/story-sHGZ2ONcsXISbdvvgsge8J.html |title='Goodbye Gagarin': Paris suburb razes Communist housing estate |date=2019-08-30 |newspaper=hindustantimes|access-date=2022-03-01|language=en}}</ref>)。老朽化のため、2019年に解体された<ref>{{cite web |url=https://www.rferl.org/a/gagarin-paris/30144543.html |title=Au Revoir, Gagarin: French Housing Named After Soviet Cosmonaut Coming Down |date=2019-09-03 |access-date=2022-03-01}}</ref>。この解体時期に撮影された映画が、『[[GAGARINE/ガガーリン]]』(2020年、日本での公開は2022年)である<ref>{{Cite news|url=https://www.cinemacafe.net/article/2021/11/18/75844.html|title=パリ郊外の団地を舞台に描く青春映画『GAGARINE/ガガーリン』公開決定|newspaper=シネマカフェ|date=2021-11-18|accessdate=2022-03-01}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=ガガーリン|translator=[[江川卓 (ロシア文学者)|江川 卓]]|title=宇宙への道|publisher=新潮社|series=ポケット・ライブラリ|date=1961-08-05|id={{NDLJP|2494116}}}}
*{{Cite book|和書|author=ユーリー・ガガーリン|translator=日本共産党中央委員会宣伝教育部|title=宇宙への道 : ユーリー・ガガーリンの手記|publisher=日本共産党中央委員会宣伝教育部|date=1961-08-20|id={{NDLJP|2494680}}}}
* 的川 泰宣 『月をめざした二人の科学者―アポロとスプートニクの軌跡』中公新書 ISBN 4-12-101566-5
*{{Cite book|和書|author1=ジェイミー・ドーラン|author2=ピアーズ・ビゾニー|translator=[[日暮雅通]]|title=ガガーリン 世界初の宇宙飛行士、伝説の裏側で|publisher=[[河出書房新社]]|date=2013|ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{commons|Юрий Алексеевич Гагарин}}
* [[宇宙開発競争]]
* [[ロケット・ミサイル技術の年表]]
* [[ソビエト連邦の宇宙開発]]
* [[宇宙に行った動物]]、[[有人宇宙飛行]]
== 外部リンク ==
* {{Cite web|和書|date=|url=http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/kaihatu_astronauts_gagarin.html |title=ユーリ・A・ガガーリン |publisher=[[JAXA]] / 宇宙情報センター |accessdate=2011-08-19}}
* [http://get-free-product.com/Documents/Gagarin.htm Yuri Gagarin Life, Flights, and Secrets!]
* [https://web.archive.org/web/20080315230319/http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/gagarin/doroga/obl.html 「宇宙への道」] ガガーリン著「宇宙への道」"{{lang|ru|Дорога в космос}}" をHTML化したもの(ロシア語)。写真・イラスト等もそのまま掲載。
* [http://spacesite.biz/ussrspace9.htm 「親父の背中」] 「ロシア宇宙開発史」中の1ページ。
* [http://yurisnight.jp/ Yuri's Night Japan]人類初の宇宙飛行を記念して行われる宇宙イベントの1つ。
* [https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030042_00000 NHKアーカイブス ソビエトが初の有人宇宙飛行] - 日本放送協会(NHK)
* {{Cite web|和書|date=2021-03-20 |url=https://jp.rbth.com/history/84968-1961-nen-roshia-no-yousu-syashin?__shares=off&utm_source=browser&utm_medium=push_notifications&utm_campaign=push_notifications |title=1961年のロシアの様子(写真特集) |publisher=[[ロシア新聞|ロシア・ビヨンド]] 日本語版 |accessdate=2021-03-20}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かかありん ゆうりい}}
[[Category:ソビエト連邦の宇宙飛行士]]
[[Category:ソビエト連邦のパイロット]]
[[Category:ソビエト連邦の空軍軍人]]
[[Category:ソビエト連邦英雄]]
[[Category:レーニン勲章受章者]]
[[Category:社会主義労働英雄 (ブルガリア)]]
[[Category:ゲオルギ・ディミトロフ勲章受章者]]
[[Category:カール・マルクス勲章受章者]]
[[Category:社会主義労働英雄 (チェコスロバキア)]]
[[Category:労働英雄 (ベトナム)]]
[[Category:クレメント・ゴットワルト勲章受章者]]
[[Category:第6回ソビエト連邦最高会議の代議員]]
[[Category:第7回ソビエト連邦最高会議の代議員]]
[[Category:クレムリンの壁墓所に埋葬された人物]]
[[Category:航空事故死した人物]]
[[Category:スモレンスク州出身の人物]]
[[Category:1934年生]]
[[Category:1968年没]]
[[Category:ボストーク計画の宇宙飛行士]] | 2003-03-08T12:28:31Z | 2023-10-31T21:51:55Z | false | false | false | [
"Template:仮リンク",
"Template:Reflist",
"Template:Cite book",
"Template:Notelist",
"Template:Cite web",
"Template:要出典",
"Template:Sound",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Commons",
"Template:基礎情報 軍人",
"Template:翻字併記",
"Template:Efn",
"Template:要出典範囲",
"Template:Cite news",
"Template:Normdaten",
"Template:Sfn",
"Template:Lang",
"Template:Ill2"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3 |
3,679 | ウィリアム・スミス・クラーク | ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark、1826年7月31日 - 1886年3月9日)は、アメリカ人の教育者。化学、植物学、動物学の教師。農学教育のリーダー。日本ではクラーク博士として知られる。日本における「お雇い外国人」の一人である。
1876年(明治9年)札幌農学校(現・北海道大学)開校。初代教頭。同大学では専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をした。
1826年7月31日、医師であったアサートン・クラークを父として、ハリエットを母としてマサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。1834年ころ一家はマサチューセッツ州のEasthamptonに引っ越した。ウィリストン神学校で教育を受け、1844年にアマースト大学に入学。Phi Beta Kappaの会員となる。1848年に同大学卒業。
1848年から1850年にウィリストン神学校で化学を教え、化学と植物学を学ぶべく、ドイツのゲッティンゲン大学へ留学、1852年に同大学で化学の博士号取得。社交的で誰からも好かれ、成績が非常に優秀であったので、同年、20代にして教師就任の要請を受けてアマースト大学教授となる。分析化学と応用化学を担当して教える(これは1867年まで担当する)。また化学だけでなく動物学と植物学も教え、計3つの専門を教えるという活躍をした。(動物学は1852年〜1858年、植物学は1854年〜1858年に担当)。
じきにクラークは農業教育を推進しはじめる。というのはゲッティンゲン大学で学んでいた時期にすでにそれに着目していたのである。1853年には新しく設立された科学と実践農学の学部の長になったが、これはあまりうまくゆかず、1857年には終了した。これによってクラークは、新しい農学教育を効果的に行うためには新しいタイプの教育組織が必要なのだということに気付いた。
マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長に就任した(初代と2代学長は開学前に辞任しているため、クラークが実質的な初代学長である)。 1860年〜1861年にHampshire Board of Agricultureの長(1871年〜1872年も再度就任)。
途中、南北戦争に参加することになり、クラークの学者としてのキャリアは一旦中断する。
アマースト大学で教えていた時期、学生の中に同大学初の日本人留学生がいたが、それは新島襄(同志社大学の創始者)である。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形をとった。
クラークはマサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま札幌農学校に移植して、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラムを導入した。明治政府(開拓使)は欧米の大学と遜色ないカリキュラムを採る札幌農学校に、国内で初めて学士の称号を授与する権限を与えた。
札幌農学校におけるクラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語で「President(校長)」と表記することが開拓使によって許可され、ほとんど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。
クラークは自ら模範となり、学生を鼓舞、激励するだけでなく、マサチューセッツ農科大学の教え子から生え抜きを後継者に据えて規律及び諸活動に厳格かつ高度な標準を作り出し、学生の自律的学習を促した。
9ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を構想するが資金が集まらず頓挫、生活費に困るようになっていたときに出資者を募って知人と共に鉱山会社「クラーク・ボスウェル社」を設立して7つの鉱山を買収、当初は大きな利益を上げたが、その知人が横領を繰り返し、果てに逃亡、設立から1年半で破産、負債は179万ドルだった。叔父から破産をめぐる訴訟を起こされ、裁判で罪に問われることはなかったが、晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去った。
彼は帰国した後も札幌での生活を忘れることはなく、死の間際には「札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も輝かしいときだった」と言い残したと伝えられる。彼の墓はアマースト町ダウンタウン内にあるウエスト・セメタリーにある。
ドイツ留学から帰国して数カ月後の1853年5月25日に、ハリエット・ウィリストン(Harriet Keopuolani Richards Williston)と結婚した。ハリエット・ウィリストンというのは、William RichardsとClarissaの間に生まれた娘で、William Richardsはハワイ王国へミッション(宣教)へ行った人物である。 1838年にハリエットと弟の Lymanはウィリストン神学校で教育を受けるべく、ハワイから送り出されたのであった。(妻の父親(義理の父)のWilliam Richardsは1847年にハワイで亡くなることになる) クラークは妻のハリエットの間に11人の子どもをもうけた。ただし、うち3人は生後1年以内に死亡した。
我らは信ずる、聖書が、人に対する神からの、言葉による唯一の直接的啓示であり、来たるべき栄光の生に向けての唯一の完全で誤りのない手引きであることを。
我らは信ずる、我らの慈悲深き創造主、我らの義なる至上の支配者でまた我らの最後の審判者である、唯一なる永遠の神を。
我らは信ずる、心から悔い、そして神の子イエスへの信仰によって罪の赦しを得るすべての者は、生涯にわたり聖霊によって恵み豊かに導かれ、天の父の絶えざる御心によって守られ、ついにはあがなわれた聖徒の歓喜と希望とが備えられることを。しかし福音の招きを拒むすべての者は、自らの罪の中に死に、かつ永遠に主の御前から追放されねばならぬことを。
我らは、地上の生涯にいかなる変転があっても、次の戒めを忘れず、これに従うことを約束する。
あなたは、心を尽くし精神を尽くし力を尽くし思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい。また自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。
あなたは、生物・無生物を問わず、いかなるものの彫像や肖像を崇拝してはならない。
あなたは、主なるあなたの神の名を、いたずらに口にしてはならない。
安息日を憶えてこれを聖きよく守りなさい。すべての不必要な労働を避け、その日を、できるだけ聖書の研究と自分および他の人の聖い生活への準備のために捧げなさい。
あなたは、あなたの両親および支配者に聞き従い、彼らを敬いなさい。
あなたは、殺人、姦淫、不純、盗み、ごまかしをしてはならない。
あなたは、隣り人に対して何の悪もしてはならない。
絶えず祈りなさい。
我らは、お互いに助けあい励ましあうために、ここに「イエスを信ずる者」の名のもとに一つの共同体を構成する。そして、聖書またはその他の宗教的書物や論文を読むため、話しあいのため、祈祷会のために、我らが生活を共にする間は、毎週一回以上集会に出席することを固く約束する。そして我らは心より願う、聖霊が明らかに我らの心の中にあって、我らの愛を励まし、我らの信仰を強め、救いに至らせる真理の知識に我らを導きくださることを。
札幌農学校1期生との別れの際に、北海道札幌郡月寒村島松駅逓所(現在の北広島市島松)でクラークが発したとされるクラークの言葉が、よく知られている。それは「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」として知られていた。しかし、この文言は、クラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の創作によるものだと考えられた時代があった。1期生の大島正健(後の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の学校長)による離別を描いた漢詩に、「青年奮起立功名」とあることから、これを逆翻訳したものとも言われた。
しかし、大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三郎が記録。安東が当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの言葉として、1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明した。安東によれば、全文は「Boys, be ambitious like this old man」であり、これは「この老いた私のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意味になる(ただし『恵林』には「Boys, be ambitions like this old man」と印刷されているが、「n」は「u」の誤植・倒置と思われる)。安東の発表の後、大島自身が内村鑑三編集の雑誌 Japan Christian Intelligencer, Vol.1, No.2 でのクラークについての記述で、全く同じ文章を使ったことも判明した。また大島は、次のように述べている。
この時に他にも「Boys, be ambitious in Christ (God)」と言ったという説もある。また「青年よ、利己のためや はかなき名声を求めることの野心を燃やすことなく、人間の本分をなすべく大望を抱け」と述べたという説がある。 クラークがアマースト大学在学中からambition, ambitiousという言葉を愛用し、かつクラークの人物の形容語として同様の言葉がよく使用されていたことは、近年のアメリカ側の研究で明らかになっており、島松の別れに居合わせていたブルックスが帰国後もこの惜別の言葉について自ら語り、否定していないことからも、ambitiousと言う言葉を用いたことは間違いないとみられる。
そして他にも「Boys be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement,not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.」(少年よ、大志を抱け。しかし金を求める大志であってはならない。利己心を求める大志であってはならない。名声という浮ついたものを求める大志であってはならない。人間としてあるべき全ての物を求める大志を抱きたまえ)と言われたという説もある。
クラークは学生にカレー以外のメニューの時の米飯を禁じ、パン食を推進したと言われ、カレーを日本に広めたのはクラークであるという説もある。しかし、『カレーなる物語』(吉田よし子、1992年)によれば、北海道大学には、当時のカレーに関する記録は1877年9月(クラーク離日後)のカレー粉3ダースの納入記録しか残っておらず、クラークの命令もあったのかどうかは不明とされる。ただし、1881年の寮食は、パンと肉、ライスカレーが隔日で提供されていたことは確認されている。クラークとカレーを結びつける文献として古いものは、『恵迪寮史』(1933年)があり、これによると、札幌農学校ではパン食が推進され、開学当時からカレー以外の米食が禁じられていたという。
北海道立文書館発行『赤れんが』81号(1984年)によれば、開拓使東京事務所では、クラーク訪日前の1872年からお雇い外国人向けにライスカレーやコーヒーが提供されていた。また、札幌農学校の前身である開拓使仮学校は、東京に設置されている。そもそも、北海道でパン食を推進したのは、クラークの前任者とされる開拓使顧問のホーレス・ケプロンであるとされ、札幌農学校とカレーとの関係は、クラーク以前の時代に遡る可能性もある。
「ライスカレー」という語はクラークが作ったという説もあるが、クラーク訪日前の開拓使の公文書『明治五年 開拓使公文録 八』(1872年)で、「タイスカレイ」(ライスカレーの意味)という語が使われている。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark、1826年7月31日 - 1886年3月9日)は、アメリカ人の教育者。化学、植物学、動物学の教師。農学教育のリーダー。日本ではクラーク博士として知られる。日本における「お雇い外国人」の一人である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "1876年(明治9年)札幌農学校(現・北海道大学)開校。初代教頭。同大学では専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をした。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "1826年7月31日、医師であったアサートン・クラークを父として、ハリエットを母としてマサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。1834年ころ一家はマサチューセッツ州のEasthamptonに引っ越した。ウィリストン神学校で教育を受け、1844年にアマースト大学に入学。Phi Beta Kappaの会員となる。1848年に同大学卒業。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "1848年から1850年にウィリストン神学校で化学を教え、化学と植物学を学ぶべく、ドイツのゲッティンゲン大学へ留学、1852年に同大学で化学の博士号取得。社交的で誰からも好かれ、成績が非常に優秀であったので、同年、20代にして教師就任の要請を受けてアマースト大学教授となる。分析化学と応用化学を担当して教える(これは1867年まで担当する)。また化学だけでなく動物学と植物学も教え、計3つの専門を教えるという活躍をした。(動物学は1852年〜1858年、植物学は1854年〜1858年に担当)。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "じきにクラークは農業教育を推進しはじめる。というのはゲッティンゲン大学で学んでいた時期にすでにそれに着目していたのである。1853年には新しく設立された科学と実践農学の学部の長になったが、これはあまりうまくゆかず、1857年には終了した。これによってクラークは、新しい農学教育を効果的に行うためには新しいタイプの教育組織が必要なのだということに気付いた。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長に就任した(初代と2代学長は開学前に辞任しているため、クラークが実質的な初代学長である)。 1860年〜1861年にHampshire Board of Agricultureの長(1871年〜1872年も再度就任)。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "途中、南北戦争に参加することになり、クラークの学者としてのキャリアは一旦中断する。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "アマースト大学で教えていた時期、学生の中に同大学初の日本人留学生がいたが、それは新島襄(同志社大学の創始者)である。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形をとった。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "クラークはマサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま札幌農学校に移植して、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラムを導入した。明治政府(開拓使)は欧米の大学と遜色ないカリキュラムを採る札幌農学校に、国内で初めて学士の称号を授与する権限を与えた。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "札幌農学校におけるクラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語で「President(校長)」と表記することが開拓使によって許可され、ほとんど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "クラークは自ら模範となり、学生を鼓舞、激励するだけでなく、マサチューセッツ農科大学の教え子から生え抜きを後継者に据えて規律及び諸活動に厳格かつ高度な標準を作り出し、学生の自律的学習を促した。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "9ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を構想するが資金が集まらず頓挫、生活費に困るようになっていたときに出資者を募って知人と共に鉱山会社「クラーク・ボスウェル社」を設立して7つの鉱山を買収、当初は大きな利益を上げたが、その知人が横領を繰り返し、果てに逃亡、設立から1年半で破産、負債は179万ドルだった。叔父から破産をめぐる訴訟を起こされ、裁判で罪に問われることはなかったが、晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去った。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "彼は帰国した後も札幌での生活を忘れることはなく、死の間際には「札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も輝かしいときだった」と言い残したと伝えられる。彼の墓はアマースト町ダウンタウン内にあるウエスト・セメタリーにある。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ドイツ留学から帰国して数カ月後の1853年5月25日に、ハリエット・ウィリストン(Harriet Keopuolani Richards Williston)と結婚した。ハリエット・ウィリストンというのは、William RichardsとClarissaの間に生まれた娘で、William Richardsはハワイ王国へミッション(宣教)へ行った人物である。 1838年にハリエットと弟の Lymanはウィリストン神学校で教育を受けるべく、ハワイから送り出されたのであった。(妻の父親(義理の父)のWilliam Richardsは1847年にハワイで亡くなることになる) クラークは妻のハリエットの間に11人の子どもをもうけた。ただし、うち3人は生後1年以内に死亡した。",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "我らは信ずる、聖書が、人に対する神からの、言葉による唯一の直接的啓示であり、来たるべき栄光の生に向けての唯一の完全で誤りのない手引きであることを。",
"title": "イエスを信ずる者の契約"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "我らは信ずる、我らの慈悲深き創造主、我らの義なる至上の支配者でまた我らの最後の審判者である、唯一なる永遠の神を。",
"title": "イエスを信ずる者の契約"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "我らは信ずる、心から悔い、そして神の子イエスへの信仰によって罪の赦しを得るすべての者は、生涯にわたり聖霊によって恵み豊かに導かれ、天の父の絶えざる御心によって守られ、ついにはあがなわれた聖徒の歓喜と希望とが備えられることを。しかし福音の招きを拒むすべての者は、自らの罪の中に死に、かつ永遠に主の御前から追放されねばならぬことを。",
"title": "イエスを信ずる者の契約"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "我らは、地上の生涯にいかなる変転があっても、次の戒めを忘れず、これに従うことを約束する。",
"title": "イエスを信ずる者の契約"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "あなたは、心を尽くし精神を尽くし力を尽くし思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい。また自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。",
"title": "イエスを信ずる者の契約"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "あなたは、生物・無生物を問わず、いかなるものの彫像や肖像を崇拝してはならない。",
"title": "イエスを信ずる者の契約"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "あなたは、主なるあなたの神の名を、いたずらに口にしてはならない。",
"title": "イエスを信ずる者の契約"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "安息日を憶えてこれを聖きよく守りなさい。すべての不必要な労働を避け、その日を、できるだけ聖書の研究と自分および他の人の聖い生活への準備のために捧げなさい。",
"title": "イエスを信ずる者の契約"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "あなたは、あなたの両親および支配者に聞き従い、彼らを敬いなさい。",
"title": "イエスを信ずる者の契約"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "あなたは、殺人、姦淫、不純、盗み、ごまかしをしてはならない。",
"title": "イエスを信ずる者の契約"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "あなたは、隣り人に対して何の悪もしてはならない。",
"title": "イエスを信ずる者の契約"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "絶えず祈りなさい。",
"title": "イエスを信ずる者の契約"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "我らは、お互いに助けあい励ましあうために、ここに「イエスを信ずる者」の名のもとに一つの共同体を構成する。そして、聖書またはその他の宗教的書物や論文を読むため、話しあいのため、祈祷会のために、我らが生活を共にする間は、毎週一回以上集会に出席することを固く約束する。そして我らは心より願う、聖霊が明らかに我らの心の中にあって、我らの愛を励まし、我らの信仰を強め、救いに至らせる真理の知識に我らを導きくださることを。",
"title": "イエスを信ずる者の契約"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "札幌農学校1期生との別れの際に、北海道札幌郡月寒村島松駅逓所(現在の北広島市島松)でクラークが発したとされるクラークの言葉が、よく知られている。それは「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」として知られていた。しかし、この文言は、クラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の創作によるものだと考えられた時代があった。1期生の大島正健(後の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の学校長)による離別を描いた漢詩に、「青年奮起立功名」とあることから、これを逆翻訳したものとも言われた。",
"title": "少年よ、大志を抱け この老人の如く"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "しかし、大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三郎が記録。安東が当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの言葉として、1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明した。安東によれば、全文は「Boys, be ambitious like this old man」であり、これは「この老いた私のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意味になる(ただし『恵林』には「Boys, be ambitions like this old man」と印刷されているが、「n」は「u」の誤植・倒置と思われる)。安東の発表の後、大島自身が内村鑑三編集の雑誌 Japan Christian Intelligencer, Vol.1, No.2 でのクラークについての記述で、全く同じ文章を使ったことも判明した。また大島は、次のように述べている。",
"title": "少年よ、大志を抱け この老人の如く"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "この時に他にも「Boys, be ambitious in Christ (God)」と言ったという説もある。また「青年よ、利己のためや はかなき名声を求めることの野心を燃やすことなく、人間の本分をなすべく大望を抱け」と述べたという説がある。 クラークがアマースト大学在学中からambition, ambitiousという言葉を愛用し、かつクラークの人物の形容語として同様の言葉がよく使用されていたことは、近年のアメリカ側の研究で明らかになっており、島松の別れに居合わせていたブルックスが帰国後もこの惜別の言葉について自ら語り、否定していないことからも、ambitiousと言う言葉を用いたことは間違いないとみられる。",
"title": "少年よ、大志を抱け この老人の如く"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "そして他にも「Boys be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement,not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.」(少年よ、大志を抱け。しかし金を求める大志であってはならない。利己心を求める大志であってはならない。名声という浮ついたものを求める大志であってはならない。人間としてあるべき全ての物を求める大志を抱きたまえ)と言われたという説もある。",
"title": "少年よ、大志を抱け この老人の如く"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "クラークは学生にカレー以外のメニューの時の米飯を禁じ、パン食を推進したと言われ、カレーを日本に広めたのはクラークであるという説もある。しかし、『カレーなる物語』(吉田よし子、1992年)によれば、北海道大学には、当時のカレーに関する記録は1877年9月(クラーク離日後)のカレー粉3ダースの納入記録しか残っておらず、クラークの命令もあったのかどうかは不明とされる。ただし、1881年の寮食は、パンと肉、ライスカレーが隔日で提供されていたことは確認されている。クラークとカレーを結びつける文献として古いものは、『恵迪寮史』(1933年)があり、これによると、札幌農学校ではパン食が推進され、開学当時からカレー以外の米食が禁じられていたという。",
"title": "クラークとカレー"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "北海道立文書館発行『赤れんが』81号(1984年)によれば、開拓使東京事務所では、クラーク訪日前の1872年からお雇い外国人向けにライスカレーやコーヒーが提供されていた。また、札幌農学校の前身である開拓使仮学校は、東京に設置されている。そもそも、北海道でパン食を推進したのは、クラークの前任者とされる開拓使顧問のホーレス・ケプロンであるとされ、札幌農学校とカレーとの関係は、クラーク以前の時代に遡る可能性もある。",
"title": "クラークとカレー"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "「ライスカレー」という語はクラークが作ったという説もあるが、クラーク訪日前の開拓使の公文書『明治五年 開拓使公文録 八』(1872年)で、「タイスカレイ」(ライスカレーの意味)という語が使われている。",
"title": "クラークとカレー"
}
] | ウィリアム・スミス・クラークは、アメリカ人の教育者。化学、植物学、動物学の教師。農学教育のリーダー。日本ではクラーク博士として知られる。日本における「お雇い外国人」の一人である。 1876年(明治9年)札幌農学校(現・北海道大学)開校。初代教頭。同大学では専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をした。 | {{出典の明記|date=2023年8月}}
{{独自研究|date=2023年8月}}
{{Infobox 人物
|氏名=ウィリアム・スミス・クラーク<br />William Smith Clark
|ふりがな=
|画像=William S. Clark.jpg
|画像サイズ=200px
|画像説明=
|出生名=
|生年月日=[[1826年]][[7月31日]]
|生誕地={{USA1822}} [[マサチューセッツ州]][[アッシュフィールド]]
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1826|7|31|1886|3|9}}
|死没地={{USA1877}} マサチューセッツ州[[アマースト (マサチューセッツ州)|アマースト]]
|国籍=<!-- {{JPN}} -->
|別名=
|職業=[[教育|教育者]]
|著名な実績=
|配偶者=ハリエット・ウィリストン
|署名=WilliamSClark.svg
}}
[[ファイル:Hitsujigaoka boys be.jpg|thumb|200px|<center>[[さっぽろ羊ヶ丘展望台]]のクラーク像</center>]]
'''ウィリアム・スミス・クラーク'''('''William Smith Clark'''、[[1826年]][[7月31日]] - [[1886年]][[3月9日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/William-Smith-Clark William Smith Clark American educator] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は、[[アメリカ合衆国|アメリカ人]]の[[教育|教育者]]。[[化学]]、[[植物学]]、[[動物学]]の教師。農学教育のリーダー。[[日本]]では'''クラーク博士'''として知られる。日本における「[[お雇い外国人]]」の一人である。
1876年(明治9年)[[札幌農学校]](現・[[北海道大学]])開校。初代[[教頭]]。同大学では専門の[[植物学]]だけでなく、[[自然科学]]一般を[[英語]]で教えた。この他、学生達に[[聖書]]を配り、[[キリスト教]]についても講じた。のちに学生たちは「[[イエス・キリスト|イエス]]を信じる者の[[誓約]]」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をした<ref>[http://www12.plala.or.jp/dokuritsu-kyokai/rekishi.html#2 イエスを信ずる者の契約] 札幌独立キリスト教会</ref>。
== 略歴 ==
1826年7月31日、医師であったアサートン・クラークを父として、ハリエットを母として[[マサチューセッツ州]][[アッシュフィールド (マサチューセッツ州)|アッシュフィールド]]で生まれる。1834年ころ一家はマサチューセッツ州の[[:en:Easthampton, Massachusetts|Easthampton]]に引っ越した。ウィリストン神学校で教育を受け、1844年に[[アマースト大学]]に入学。[[:en:Phi Beta Kappa|Phi Beta Kappa]]の会員となる。1848年に同大学卒業。
1848年から1850年にウィリストン神学校で化学を教え、化学と植物学を学ぶべく、ドイツの[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]へ留学、1852年に同大学で化学の博士号取得。社交的で誰からも好かれ、成績が非常に優秀であったので<ref name="trivia">{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2003 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 3 |publisher=講談社 }}</ref>、同年、20代にして教師就任の要請を受けてアマースト大学教授となる。分析化学と応用化学を担当して教える(これは1867年まで担当する)。また化学だけでなく動物学と植物学も教え、計3つの専門を教えるという活躍をした。(動物学は1852年〜1858年、植物学は1854年〜1858年に担当)。
じきにクラークは農業教育を推進しはじめる。というのはゲッティンゲン大学で学んでいた時期にすでにそれに着目していたのである。1853年には新しく設立された科学と実践農学の学部の長になったが、これはあまりうまくゆかず、1857年には終了した。これによってクラークは、新しい農学教育を効果的に行うためには新しいタイプの教育組織が必要なのだということに気付いた。
マサチューセッツ農科大学(現[[マサチューセッツ大学アマースト校]])第3代学長に就任した(初代と2代学長は開学前に辞任しているため、クラークが実質的な初代学長である)。 1860年〜1861年にHampshire Board of Agricultureの長(1871年〜1872年も再度就任)。
途中、[[南北戦争]]に参加することになり、クラークの学者としてのキャリアは一旦中断する。
アマースト大学で教えていた時期、学生の中に同大学初の日本人留学生がいたが、それは[[新島襄]](同志社大学の創始者)である。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、[[1876年]](明治9年)[[7月]]に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形をとった。
クラークはマサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま札幌農学校に移植して、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラムを導入した。[[明治政府]]([[開拓使]])は欧米の大学と遜色ないカリキュラムを採る札幌農学校に、国内で初めて[[学士]]の称号を授与する権限を与えた。
札幌農学校におけるクラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語で「President(校長)」と表記することが開拓使によって許可され、ほとんど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。
クラークは自ら模範となり、学生を鼓舞、激励するだけでなく、マサチューセッツ農科大学の教え子から生え抜きを後継者に据えて規律及び諸活動に厳格かつ高度な標準を作り出し、学生の自律的学習を促した<ref name=":0">赤石恵一「札幌農学校教頭W. S. Clarkの英語教育:自律支援的集団の創造」『英学史研究』49、71-103.</ref>。
9ヶ月の札幌滞在の後、翌年の[[1877年]]5月に離日した。帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を構想するが資金が集まらず頓挫、生活費に困るようになっていたときに出資者を募って知人と共に鉱山会社「クラーク・ボスウェル社」を設立して7つの鉱山を買収<ref name="trivia" />、当初は大きな利益を上げたが、その知人が横領を繰り返し、果てに逃亡、設立から1年半で破産、負債は179万ドルだった<ref name="trivia" />。叔父から破産をめぐる訴訟を起こされ、裁判で罪に問われることはなかったが<ref name="trivia" />、晩年は[[心臓病]]にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去った。
彼は帰国した後も札幌での生活を忘れることはなく、死の間際には「札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も輝かしいときだった」と言い残したと伝えられる。彼の墓は[[アマースト (マサチューセッツ州)|アマースト町]]ダウンタウン内にあるウエスト・セメタリーにある。
== 家族 ==
ドイツ留学から帰国して数カ月後の1853年5月25日に、ハリエット・ウィリストン(Harriet Keopuolani Richards Williston)と結婚した。ハリエット・ウィリストンというのは、[[:en:William Richards (missionary)|William Richards]]とClarissaの間に生まれた娘で、William Richardsはハワイ王国へミッション([[福音宣教|宣教]])へ行った人物である。 1838年にハリエットと弟の Lymanはウィリストン神学校で教育を受けるべく、ハワイから送り出されたのであった。(妻の父親(義理の父)のWilliam Richardsは1847年にハワイで亡くなることになる)
クラークは妻のハリエットの間に11人の子どもをもうけた。ただし、うち3人は生後1年以内に死亡した。
* 息子のアサートン・クラークは、後年マサチューセッツ農科大学の理事になった。
* 息子の[[ヒューバート・クラーク]]{{enlink|Hubert Lyman Clark}}は、[[ハーバード大学]]で動物学を研究した。
** ヒューバートの息子のウィリアム・クラークは、[[シンシナティ大学]]の英文科科長となった。
== イエスを信ずる者の契約 ==
{{Quotation
|ここに署名する札幌農学校の職員学生は、キリストの命じるところに従いキリストを告白すること、および十字架の死により我らの罪をあがなわれた貴き救い主に[[愛]]と感謝を捧げるために[[クリスチャン|キリスト者]]としてのすべての義務を真の忠誠をもって果たすことを願いつつ、また主の栄光のため、および主が代わって死にたもうた人々の救いのために、主の御国を人々の間に前進させることを熱望しつつ、ここに今より後、イエスの忠実なる弟子なるべきこと、および主の教えの文字と精神とに厳密に一致して生きるべきことを、神に対し、また相互に対して、厳粛に誓約する。さらに、ふさわしい機会があればいつでも、試験、[[洗礼]]、入会のため福音的教会に出向くことを約束する。
我らは信ずる、[[聖書]]が、人に対する神からの、言葉による唯一の直接的啓示であり、来たるべき栄光の生に向けての唯一の完全で誤りのない手引きであることを。
我らは信ずる、我らの慈悲深き創造主、我らの義なる至上の支配者でまた我らの最後の審判者である、唯一なる永遠の神を。
我らは信ずる、心から悔い、そして神の子イエスへの信仰によって罪の赦しを得るすべての者は、生涯にわたり[[聖霊]]によって恵み豊かに導かれ、天の父の絶えざる御心によって守られ、ついにはあがなわれた聖徒の歓喜と希望とが備えられることを。しかし[[福音]]の招きを拒むすべての者は、自らの罪の中に死に、かつ永遠に主の御前から追放されねばならぬことを。
我らは、地上の生涯にいかなる変転があっても、次の戒めを忘れず、これに従うことを約束する。
あなたは、心を尽くし精神を尽くし力を尽くし思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい。また自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。
あなたは、生物・無生物を問わず、いかなるものの彫像や肖像を崇拝してはならない。
あなたは、主なるあなたの神の名を、いたずらに口にしてはならない。
安息日を憶えてこれを聖きよく守りなさい。すべての不必要な労働を避け、その日を、できるだけ聖書の研究と自分および他の人の聖い生活への準備のために捧げなさい。
あなたは、あなたの両親および支配者に聞き従い、彼らを敬いなさい。
あなたは、殺人、姦淫、不純、盗み、ごまかしをしてはならない。
あなたは、隣り人に対して何の悪もしてはならない。
絶えず祈りなさい。
我らは、お互いに助けあい励ましあうために、ここに「イエスを信ずる者」の名のもとに一つの共同体を構成する。そして、聖書またはその他の宗教的書物や論文を読むため、話しあいのため、祈祷会のために、我らが生活を共にする間は、毎週一回以上集会に出席することを固く約束する。そして我らは心より願う、聖霊が明らかに我らの心の中にあって、我らの愛を励まし、我らの信仰を強め、救いに至らせる真理の知識に我らを導きくださることを。
|1877年3月5日 札幌にて ウィリアム・スミス・クラーク}}
== 少年よ、大志を抱け この老人の如く==
札幌農学校1期生との別れの際に、[[北海道]][[札幌郡]][[月寒村]][[旧島松駅逓所|島松駅逓所]](現在の[[北広島市]]島松)でクラークが発したとされるクラークの言葉が、よく知られている。それは「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」として知られていた。しかし、この文言は、クラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の創作によるものだと考えられた時代があった。1期生の[[大島正健]](後の甲府中学校(現[[山梨県立甲府第一高等学校|甲府第一高等学校]])の学校長)による離別を描いた[[漢詩]]に、「青年奮起立功名」とあることから、これを逆翻訳したものとも言われた。
しかし、大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、[[安東幾三郎]]が記録。安東が当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの言葉として、[[1894年]]ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明した。安東によれば、全文は「'''Boys, be ambitious like this old man'''」であり、これは「'''この老いた私のように、あなたたち若い人も野心的であれ'''」という意味になる(ただし『恵林』には「Boys, be ambitio'''n'''s like this old man」と印刷されているが、「n」は「u」の誤植・倒置と思われる)。安東の発表の後、大島自身が[[内村鑑三]]編集の雑誌 ''Japan Christian Intelligencer, Vol.1, No.2'' でのクラークについての記述で、全く同じ文章を使ったことも判明した。また大島は、次のように述べている。
{{Quotation
|先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子たち一人一人その顔をのぞき込んで、「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないように。では愈御別れじゃ、元気に暮らせよ。」といわれて生徒と一人々々握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、"Boys, be ambitious!" と叫ぶなり、長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林のかなたへ姿をかき消された。
|「クラーク先生とその弟子たち」}}
この時に他にも「'''Boys, be ambitious in Christ (God)'''」と言ったという説もある。また「青年よ、利己のためや はかなき名声を求めることの野心を燃やすことなく、人間の本分をなすべく大望を抱け」と述べたという説がある。<ref>また、「Boys, be ambitious」は、クラークの創作ではなく、{{要出典範囲|当時、彼の出身地の[[ニューイングランド]]地方でよく使われた別れの挨拶(「元気でな」の意)だった|date=2014年6月}}という説もある。</ref> クラークがアマースト大学在学中からambition, ambitiousという言葉を愛用し、かつクラークの人物の形容語として同様の言葉がよく使用されていたことは、近年のアメリカ側の研究で明らかになっており、島松の別れに居合わせていたブルックスが帰国後もこの惜別の言葉について自ら語り、否定していないことからも、ambitiousと言う言葉を用いたことは間違いないとみられる<ref name=":0" />。
そして他にも「Boys be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement,not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.」(少年よ、大志を抱け。しかし金を求める大志であってはならない。利己心を求める大志であってはならない。名声という浮ついたものを求める大志であってはならない。人間としてあるべき全ての物を求める大志を抱きたまえ)と言われたという説もある。<!-- 出典不明 実は、「少年よ、大志を抱け(Boys, be ambitious)」には続きがある。
"Boys, be ambitious!" Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for knowledge, for righteousness, and for the uplift of your people. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be. This was the message of William Smith Clark.
青年よ、大志を抱け。利己的栄達のためにでもなく、人呼んで名誉と称する空しきもののためにでもない。知識に対して、正義に対して、かつ国民の向上のために大志を持て。人としてまさにかくあるべき全てのことを達成せんとするために大志を抱け。-->
== クラークとカレー ==
クラークは学生に[[カレー_(代表的なトピック)|カレー]]以外のメニューの時の[[飯|米飯]]を禁じ、[[パン]]食を推進したと言われ、カレーを日本に広めたのはクラークであるという説もある。しかし、『カレーなる物語』([[吉田よし子]]、1992年)によれば、北海道大学には、当時のカレーに関する記録は1877年9月(クラーク離日後)のカレー粉3[[ダース]]の納入記録しか残っておらず、クラークの命令もあったのかどうかは不明とされる。ただし、1881年の寮食は、パンと[[食肉|肉]]、ライスカレーが隔日で提供されていたことは確認されている。クラークとカレーを結びつける文献として古いものは、『[[恵迪寮]]史』(1933年)があり、これによると、札幌農学校ではパン食が推進され、開学当時からカレー以外の米食が禁じられていたという。
[[北海道立文書館]]発行『赤れんが』81号(1984年)によれば、開拓使東京事務所では、クラーク訪日前の1872年からお雇い外国人向けにライスカレーや[[コーヒー]]が提供されていた。また、札幌農学校の前身である開拓使仮学校は、東京に設置されている。そもそも、北海道でパン食を推進したのは、クラークの前任者とされる開拓使顧問の[[ホーレス・ケプロン]]であるとされ、札幌農学校とカレーとの関係は、クラーク以前の時代に遡る可能性もある。
「ライスカレー」という語はクラークが作ったという説もあるが、クラーク訪日前の開拓使の公文書『明治五年 開拓使公文録 八』(1872年)で、「タイスカレイ」(ライスカレーの意味)という語が使われている。
== 第三者からの人物エピソード ==
* [[内村鑑三]]は、「後世への最大遺物」において、「ものを教える」技能を有し教育で貢献する人物の例として挙げ、農学校時代にクラークを第一級の学者であると思っていたが、米国に渡って聞いたらある学者に「クラークが植物学に付いて、口を利くなどとは不思議だ」と云って笑った人があります、と言い「先生、大分化(ばけ)の皮を現はした」とした<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/824443 後世への最大遺物] pp.95-96、コマ番号51/82、内村鑑三、[[東京独立雑誌]]社、明治32年12月(1899年12月)、[[国立国会図書館#国立国会図書館デジタルコレクション|国立国会図書館デジタルコレクション]]</ref>。しかし、内村は続けて、「しかしながら、とにかくアノ人は非常な力を持って居る。何であるか、即ち植物学を青年の頭のなかへ注ぎ込んで、植物学というInterest(インタレスト) を起す力を持った方であります。それゆえに植物学の先生としては非常に価値のあった人であります。故に学問さえすれば、我々が先生になれるという考を我々は持つべきでない。我々に思想さえあれば、我々が悉く先生になれるという考を抛却(ほうきゃく)して仕舞わねばならぬ。先生になる人は学問が出来るよりか、学問はなくてはなりませぬけれ共、学問が出来るよりか学問を青年に伝える事の出来る人でなければ往かぬ。<ref>[[鈴木範久]]、我々は後世に何を遺してゆけるのかー内村鑑三「後世への最大遺物」の話ー、pp.185-186、[[便利堂]]による初版本(1897年)の復刻写真版が見られる。、学術出版会(学術叢書)、ISBN 4-8205-9464-8、2005-05-25 第1刷発行</ref>」と評価している。
* 札幌農学校の校則について、[[開拓長官]]の[[黒田清隆]](後の内閣総理大臣)に「この学校に規則はいらない。“Be gentleman”([[紳士]]であれ)の一言があれば十分である」と進言したと言われている。それまで雁字搦めの徳目に縛られていたのと比べると、これはいかにも簡潔なことであった。しかし、何をして良いのか、何をしてはいけないのかは自分で判断しなければならないため、自由でありながら厳しいものとなっている。ただし、開校日にクラーク自身が学生に提示した学則は、これよりはるかに多い。これは、クラークの前任者である[[ホーレス・ケプロン]]の素案をそのまま使ったためとも言われている。
* 離日後も黒田清隆や教え子との間で手紙による交流を続けた。現在も多くの手紙が残っている。
== クラーク博士像 ==
{{Main2|クラーク博士像|クラーク像}}
== 主な教え子 ==
; 一期生(16人のみ)
:* [[佐藤昌介]](北海道帝国大学総長)
:* [[大島正健]](言語学者、旧制甲府中学校校長)
:* 内田瀞(牧場主)
:* [[黒岩四方之進]](牧場主)
:* [[伊藤一隆]](道庁勤務を経て石油会社経営。玄孫はタレント、歌手、女優、声優の[[中川翔子]])
:* [[渡瀬寅次郎]](教育者、種苗店経営)
:* [[柳本通義]](台湾官吏)
<!--二期生(18人)(クラークとは入れ違いになっており、彼が直接教えたことはない)
[[新渡戸稲造]]、[[広井勇]]、[[宮部金吾]]、[[内村鑑三]]、[[町村金弥]]-- 厳密には教え子ではない。-->
== 参考文献 ==
* {{Google books|coqg1GluRY0C|W.S.Clark: A Yankee in Hokkaido}}
* [https://ag.umass.edu/about/be-ambitious University of Massachusetts]
* [http://www.lib.hokudai.ac.jp/collections/clark/ W.S.クラーク博士関係文献]
* [http://ocw.hokudai.ac.jp/Heritage/PhysiologicalBotany/ 「植物生理学」講義ノート(1876年)]
* {{ASIN|4832930427|title=W.S.クラーク その栄光と挫折}} ISBN 978-4832930421:北大図書刊行会
* {{ASIN|4378021277|title=クラーク先生―札幌農学校の父 (少年少女伝記読みもの)}} ISBN 978-4378021270
* {{ASIN|4764265230|title=クラーク先生とその弟子たち}} ISBN 978-4764265233:大島正健
* [[逢坂信忢]](1956)『クラーク先生詳伝』丸善.
* マキ・J. M. (1978)『W. S.クラーク』北海道大学図書刊行会.
* 太田雄三(1979)『クラークの1年』昭和堂.
* 小枝弘和(2010)『William Smith Clarkの教育思想の研究』思文閣出版.
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 関連項目 ==
* [[北海道大学]] - 上述の通り、札幌農学校の初代教頭を務めた。
** [[札幌農学校第2農場|札幌農学校第二農場]]
** [[札幌市時計台|札幌農学校演武場]]
** [[北海道大学植物園]]
* [[クラーク記念国際高等学校]] - クラーク博士の意思を受け継ぎ、北海道から全国に開設された日本の通信制学校。国際自由学園が基となっており、クラークとの直接の関係性はないが、開校以来北海道大学出身の[[三浦雄一郎]]が校長を務めているほか、クラークの子孫とのゆかりが存在する。
* [[プロ野球マスターズリーグ]] - かつて日本のプロ野球OBがプロ野球のシーズンオフに行っていた野球のチームの一つであった「'''札幌アンビシャス'''」のチーム名は「Boys be ambitious」に由来する。
== 外部リンク ==
{{wikiquote|ウィリアム・スミス・クラーク}}
{{Commonscat|William S. Clark}}
* [https://web.archive.org/web/20201018130211/https://www.umassp.edu/administration/past-presidents/clark William Smith Clark] University of Massachusetts
* [http://www.famousamericans.net/williamsmithclark/ William Smith Clark] Famous Americans
* [https://web.archive.org/web/20130827144027/http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,892198,00.html Boys, be ambitious] Time 1959
** [http://www.lib.hokudai.ac.jp/collections/clark/boys-be-ambitious/ “Boys, be ambitious!”について]
* {{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20150505101548/http://www5.ocn.ne.jp/~homas/matsubara_kamishibai.pdf 紙芝居「さっぽろとクラーク博士」]}} 北海道マサチューセッツ協会
* [https://web.archive.org/web/20120402223618/http://www.library.umass.edu/spcoll/umarmot/?p=444 William Smith Clark] University of Massachusetts
* [https://web.archive.org/web/20131029201643/http://www.umass.edu/physicalplant/memorials/others/clark.html William Smith Clark Memorial] University of Massachusettsキャンパス内にある記念碑
* {{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20130616091710/http://www.library.umass.edu/spcoll/ead/murg3_1_c63.pdf William Smith Clark Papers]}} University of Massachusetts
* [https://web.archive.org/web/20120226052457/https://www.library.umass.edu/cgi-bin/aka/imagefinder.cgi?showpage=584&query=&search_collectiontitle_name= Digital Images Catalog] University of Massachusetts
{{札幌バンド}}
{{キリスト教 横}}
{{日本キリスト教史}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くらあく ういりあむ すみす}}
[[Category:ウィリアム・スミス・クラーク|*]]
[[Category:19世紀アメリカ合衆国の教育者]]
[[Category:19世紀日本の教育者]]
[[Category:マサチューセッツ大学アマースト校の教員]]
[[Category:アマースト大学の教員]]
[[Category:札幌農学校の教員]]
[[Category:札幌バンド]]
[[Category:開拓使の人物]]
[[Category:明治時代のお雇い外国人]]
[[Category:在日アメリカ人]]
[[Category:南北戦争の人物]]
[[Category:アマースト大学出身の人物]]
<!--[[Category:ゲッティンゲン大学出身の人物]]-->
[[Category:マサチューセッツ州の人物]]
[[Category:1826年生]]
[[Category:1886年没]] | 2003-03-08T12:31:58Z | 2023-12-01T09:00:02Z | false | false | false | [
"Template:Wikiquote",
"Template:Commonscat",
"Template:PDFlink",
"Template:ASIN",
"Template:Normdaten",
"Template:Google books",
"Template:独自研究",
"Template:Main2",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:札幌バンド",
"Template:出典の明記",
"Template:Enlink",
"Template:Quotation",
"Template:Cite book",
"Template:要出典範囲",
"Template:キリスト教 横",
"Template:日本キリスト教史",
"Template:Infobox 人物"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF |
3,682 | グラファイト | グラファイト(graphite、石墨、黒鉛)は、炭素から成る元素鉱物。六方晶系(結晶対称性はP63/mmc)、六角板状結晶。構造は亀の甲状の層状物質、層毎の面内は強い共有結合(sp的)で炭素間が繋がっているが、層と層の間(面間)は弱いファンデルワールス力で結合している。それゆえ、層状に剥離する(へき開完全)。電子状態は、半金属的である。
グラファイトが剥がれて厚さが原子1個分しかない単一層となったものはグラフェンと呼ばれ、金属と半導体の両方の性質を持つ。
採掘は、スリランカのサバラガムワ、メキシコのソノラ、カナダのオンタリオ州、北朝鮮、マダガスカル、アメリカのニューヨーク州などで商業的に行われている。日本でも、かつて富山県で千野谷黒鉛鉱山が稼働していた。
硬筆に使われることから石墨(せきぼく)の和名を持ち、鉱物名として使われることが多い。
元素分析以前には鉛を含むと思われており、ラテン語で鉛を意味する plumbum に由来する plumbago と呼ばれていた。このため、英語で black lead 、日本語でもこれを直訳して黒鉛(こくえん)とも呼ぶ。ただし、実際には鉛はまったく含まれていない。グラファイトという名は、それが判明したのち、plumbago という名が不適切とされたことで提案されたものである。
構造上、α黒鉛とβ黒鉛が存在し、両者の違いは黒鉛層構造の重なり具合の違いである。通常見られる黒鉛は、ほとんどがα黒鉛である。
同素体にダイヤモンド、フラーレン、カーボンナノチューブ、カーボンナノホーンがある。
常温、常圧ではダイヤモンドより、このグラファイトの方が安定な相 (Phase) である。しかしながら、ダイヤモンドとの間には、乗り越えるべきエネルギー差が非常に大きいため、普通の状態ではダイヤモンドからグラファイトになる(構造相転移)ことはない。
歴史的な産業利用は16世紀前半にイギリスの湖水地方で発見された石墨鉱床が最初で、長い間鉛筆を製造したが、その他にも耐火物質として、製鉄やイギリスがスペイン無敵艦隊を撃破した16世紀後半には、砲弾の鋳型に使われた。また、粘土などと混合させたうえで鉛筆の芯としても利用される。またガスケットとして、耐熱性が求められる場合や、軸受など潤滑と気密の役割を同時に持たせる場合に用いられる。
黒鉛層間の空隙に電子供与体あるいは電子受容体元素が侵入(インターカレーション)した層間化合物(そうかんかごうぶつ、intercalational compound)が知られており、これは成層化合物(せいそうかごうぶつ、lamellar compound)とも呼ばれる。
1926年に最初の層間化合物KC8が発見され、KC24、KC36なども知られている。他には黒鉛と、アルカリ金属元素、Br2、金属酸化物、典型元素の酸化物や硫化物とから形成される層間化合物も知られている。
KC8は300°Cで黒鉛にカリウム蒸気を作用させて製造し、外見はブロンズ色をしている。黒鉛に比してKC8の方が金属的性質が強く、これは還元試薬としても利用されている。LiC6はリチウムイオン電池の負極として用いられている。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "グラファイト(graphite、石墨、黒鉛)は、炭素から成る元素鉱物。六方晶系(結晶対称性はP63/mmc)、六角板状結晶。構造は亀の甲状の層状物質、層毎の面内は強い共有結合(sp的)で炭素間が繋がっているが、層と層の間(面間)は弱いファンデルワールス力で結合している。それゆえ、層状に剥離する(へき開完全)。電子状態は、半金属的である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "グラファイトが剥がれて厚さが原子1個分しかない単一層となったものはグラフェンと呼ばれ、金属と半導体の両方の性質を持つ。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "採掘は、スリランカのサバラガムワ、メキシコのソノラ、カナダのオンタリオ州、北朝鮮、マダガスカル、アメリカのニューヨーク州などで商業的に行われている。日本でも、かつて富山県で千野谷黒鉛鉱山が稼働していた。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "硬筆に使われることから石墨(せきぼく)の和名を持ち、鉱物名として使われることが多い。",
"title": "別名"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "元素分析以前には鉛を含むと思われており、ラテン語で鉛を意味する plumbum に由来する plumbago と呼ばれていた。このため、英語で black lead 、日本語でもこれを直訳して黒鉛(こくえん)とも呼ぶ。ただし、実際には鉛はまったく含まれていない。グラファイトという名は、それが判明したのち、plumbago という名が不適切とされたことで提案されたものである。",
"title": "別名"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "構造上、α黒鉛とβ黒鉛が存在し、両者の違いは黒鉛層構造の重なり具合の違いである。通常見られる黒鉛は、ほとんどがα黒鉛である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "同素体にダイヤモンド、フラーレン、カーボンナノチューブ、カーボンナノホーンがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "常温、常圧ではダイヤモンドより、このグラファイトの方が安定な相 (Phase) である。しかしながら、ダイヤモンドとの間には、乗り越えるべきエネルギー差が非常に大きいため、普通の状態ではダイヤモンドからグラファイトになる(構造相転移)ことはない。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "歴史的な産業利用は16世紀前半にイギリスの湖水地方で発見された石墨鉱床が最初で、長い間鉛筆を製造したが、その他にも耐火物質として、製鉄やイギリスがスペイン無敵艦隊を撃破した16世紀後半には、砲弾の鋳型に使われた。また、粘土などと混合させたうえで鉛筆の芯としても利用される。またガスケットとして、耐熱性が求められる場合や、軸受など潤滑と気密の役割を同時に持たせる場合に用いられる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "黒鉛層間の空隙に電子供与体あるいは電子受容体元素が侵入(インターカレーション)した層間化合物(そうかんかごうぶつ、intercalational compound)が知られており、これは成層化合物(せいそうかごうぶつ、lamellar compound)とも呼ばれる。",
"title": "層間化合物"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1926年に最初の層間化合物KC8が発見され、KC24、KC36なども知られている。他には黒鉛と、アルカリ金属元素、Br2、金属酸化物、典型元素の酸化物や硫化物とから形成される層間化合物も知られている。",
"title": "層間化合物"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "KC8は300°Cで黒鉛にカリウム蒸気を作用させて製造し、外見はブロンズ色をしている。黒鉛に比してKC8の方が金属的性質が強く、これは還元試薬としても利用されている。LiC6はリチウムイオン電池の負極として用いられている。",
"title": "層間化合物"
}
] | グラファイト(graphite、石墨、黒鉛)は、炭素から成る元素鉱物。六方晶系(結晶対称性はP63/mmc)、六角板状結晶。構造は亀の甲状の層状物質、層毎の面内は強い共有結合(sp2的)で炭素間が繋がっているが、層と層の間(面間)は弱いファンデルワールス力で結合している。それゆえ、層状に剥離する(へき開完全)。電子状態は、半金属的である。 グラファイトが剥がれて厚さが原子1個分しかない単一層となったものはグラフェンと呼ばれ、金属と半導体の両方の性質を持つ。 採掘は、スリランカのサバラガムワ、メキシコのソノラ、カナダのオンタリオ州、北朝鮮、マダガスカル、アメリカのニューヨーク州などで商業的に行われている。日本でも、かつて富山県で千野谷黒鉛鉱山が稼働していた。 | {{Otheruses|天然黒鉛|人造黒鉛|人造黒鉛}}
{{参照方法|date=2019年10月}}
{{Infobox 鉱物
| 鉱物名 = 石墨
| image = GraphiteUSGOV.jpg
| 画像キャプション = 石墨
| 分類 = 元素鉱物
| 色 = 黒色
| 組成 = C
| 硬度 = 1 - 2
| 比重 = 2.2
| 晶系 = 六方晶系
| 光沢 = 金属光沢
| 条痕 = 黒色
| 劈開 = 一方向に完全
| 蛍光 =
| 断口 = 不平坦状
}}
'''グラファイト'''(graphite{{Efn2|ギリシャ語で「書く」を意味する graphein にルーツを持っている<ref>{{Cite book |和書 |author=ロナルド・ルイス・ボネウィッツ |translator=[[青木正博]] |title=岩石と宝石の大図鑑 |date=2007-04 |publisher=[[誠文堂新光社]] |isbn=978-4-416-80700-2 |page=121}}</ref>。}}、'''石墨'''<ref name="terms">[[文部省]]『[[学術用語集]] 地学編』([[日本学術振興会]]、1984年、ISBN 4-8181-8401-2、[https://jglobal.jst.go.jp/ J-GLOBAL 科学技術総合リンクセンター])の表記は「(1) セキボク、石墨【[[鉱物]]】 (2) 黒鉛【[[鉱石]]】」。</ref>、'''黒鉛'''{{R|terms}})は、[[炭素]]から成る[[鉱物|元素鉱物]]。六方晶系([[空間群|結晶対称性]]は''P''6<sub>3</sub>/mmc)、[[六角板]]状[[結晶]]。構造は[[カメ|亀]]の[[甲羅|甲]]状の層状物質、層毎の面内は強い[[共有結合]](sp<sup>2</sup>的)で炭素間が繋がっているが、層と層の間(面間)は弱い[[ファンデルワールス力]]で結合している。それゆえ、層状に剥離する([[へき開]]完全)。[[電子]]状態は、[[半金属 (バンド理論)|半金属]]的である。
グラファイトが剥がれて厚さが原子1個分しかない単一層となったものは'''[[グラフェン]]'''と呼ばれ、[[金属]]と[[半導体]]の両方の性質を持つ。
素材としては、地中鉱物として得られる天然グラファイトと、コークスにタールやピッチを加えて練和・成形・焼成・超高温結晶化処理して得られる人造グラファイトに分けられる。
天然グラファイトの採掘は、[[中国]]、[[スリランカ]]の[[サバラガムワ州|サバラガムワ]]、[[メキシコ]]の[[ソノラ州|ソノラ]]、[[カナダ]]の[[オンタリオ州]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[マダガスカル]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ニューヨーク州]]などで商業的に行われている。日本でも、かつて[[富山県]]で[[千野谷黒鉛鉱山]]が稼働していた<ref>{{Cite book |和書 |author=大山の歴史編集委員会 |title=大山の歴史 |date=1990-03 |publisher=[[大山町 (富山県)|大山町]] |ncid=BN0500457X |page=513}}</ref>。
== 別名 ==
[[硬筆]](鉛筆やシャープペンシルの芯)に使われることから'''石墨'''(せきぼく)の和名を持ち、[[鉱物]]名として使われることが多い。
[[元素分析]]以前には[[鉛]]を含むと思われており、[[ラテン語]]で鉛を意味する plumbum に由来する plumbago と呼ばれていた。このため、英語で black lead 、日本語でもこれを直訳して'''黒鉛'''(こくえん)とも呼ぶ。ただし、実際には鉛はまったく含まれていない。グラファイトという名は、それが判明したのち、plumbago という名が不適切とされたことで提案されたものである。
== 構造 ==
構造上、α黒鉛とβ黒鉛が存在し、両者の違いは黒鉛層構造の重なり具合の違いである。通常見られる黒鉛は、ほとんどがα黒鉛である。
[[画像:黒鉛層構造.PNG|黒鉛層構造図]]{{-}}
[[同素体]]に[[ダイヤモンド]]、[[フラーレン]]、[[カーボンナノチューブ]]、[[カーボンナノホーン]]がある。
[[常温]]、[[常圧]]ではダイヤモンドより、このグラファイトの方が安定な[[相 (物質)|相]] (Phase) である。しかしながら、ダイヤモンドとの間には、乗り越えるべきエネルギー差が非常に大きいため、普通の状態ではダイヤモンドからグラファイトになる([[構造相転移]])ことはない。
== 用途 ==
グラファイトの特性として、耐熱性、自己潤滑性、導電性、熱伝導性、耐酸性、耐アルカリ性に優れている上に、アルミニュームより比重が小さく熱膨張率が小さい。これらの特性を要する多種多用な用途・製品に用いられている。
歴史的な産業利用は16世紀前半にイギリスの[[湖水地方]]で発見された石墨鉱床が最初で、長い間鉛筆を製造したが、その他にも耐火物質として、製鉄やイギリスがスペイン無敵艦隊を撃破した16世紀後半には、砲弾の鋳型に使われた。また、粘土などと混合させたうえで[[鉛筆]]の芯としても利用される。またガスケットとして、耐熱性が求められる場合や、[[軸受]]など[[潤滑]]と[[気密]]の役割を同時に持たせる場合に用いられる。
; [[原子核物理学]]分野
: [[軽水]]には劣るが[[中性子]]を減速でき、中性子の吸収も少ないので、世界最初の[[原子炉]]「[[シカゴ・パイル1号]]」では[[減速材]]として使用された。現在でも[[黒鉛炉]]の減速材として使用されている。
; [[工業]]分野
:; 潤滑剤
:: 黒鉛粉末は油分を含まないながらも潤滑性と導電性を有するため、埃が溜まりやすいゆえに多量の油分の使用が望ましくない箇所の潤滑に単独で用いられることもある。身近な例では、室内向けキーシリンダーの潤滑材に指定されている場合があり、電子機器のコネクタの[[接点復活剤]]や電子基板のパターンを補修する用途に用いられる場合もある。特に比較的高荷重な部位に用いるオイルや[[グリース]]などへ固体潤滑剤として黒鉛粉末が添加される場合もあり、似た特性を持つ[[二硫化モリブデン]]と併用して添加されることも多い。DIY工作におけるこうした用途での黒鉛粉末の入手元としては、芯の軟らかい鉛筆が手頃である。
:: 潤滑剤としての特性としては、[[二硫化モリブデン]]などに比べて[[摩擦係数]]や耐荷重性は劣るものの熱安定性に優れており、[[窒化ホウ素]]ほどではないが高温での使用が可能である。真空中では[[窒化ホウ素]]よりも遥かに高い温度まで使用できるが、二硫化モリブデンなどが真空中で大気中よりも低い摩擦係数を示すのに対し、グラファイトは逆に摩擦係数が上昇するために使用は高温部位に限られる。その潤滑性の高さから自動車用[[ワイパー]]ゴムに塗布されているもの(グラファイトゴム)があり、動作時の「ビビり」を低減する。撥水加工を施したフロントガラスに使用することにより、撥水被膜の劣化をある程度まで防ぐ。
:; 鉄への添加物
:: 炭素を含有する[[鋳鉄]]においては炭素がグラファイトとして晶出、その形状は冷却温度や合金成分によって異なり、グラファイトの形状により鋳鉄の特性や品質を左右する。その形状は一般的な鋳鉄、例えば[[ねずみ鋳鉄]]などにおいては片状となるが[[ダクタイル鋳鉄]]では球状となる。
:;複数の特性を活かした用途例
::金属電気精錬炉(アーク炉)の電極棒(耐熱性、導電性)
::電気鉄道車両のパンタグラフ摺り板、電動機電極ブラシ、車軸接地電極ブラシ(耐熱性、潤滑性、導電性)
::車両用ブレーキパッド(耐熱性、潤滑性)温度上昇時の性能低下が少ない。適度な潤滑性で衝撃や騒音、摩耗が小さい。
::帯電防止塗料や樹脂の基材(導電性、耐酸性、耐アルカリ性)電磁波シールド、レーダー波吸収塗料、防爆器具塗料など。
::耐熱塗料や耐熱樹脂の基材(耐熱性、熱伝導性、耐酸性、耐アルカリ性)耐久性と軽量化要求が非常に厳しい航空機、軍用機器、携帯用通信機の筐体や塗料、業務用携帯用のライトや電子機器の筐体や空冷フィンなど。
::耐火煉瓦の原材料、溶鉱炉や金属溶融炉の内面ライニングブロックや内面タイル(耐熱性、耐酸性、耐アルカリ性)左記特徴に加えて熱膨張率が小さいので、割損や剥離損傷を生じにくくメンテナンスコストを低減し、炉の寿命を延ばせる。
== 層間化合物 ==
黒鉛層間の空隙に[[電子供与体]]あるいは[[電子受容体]]元素が侵入([[インターカレーション]])した層間化合物(そうかんかごうぶつ、intercalational compound)が知られており、これは成層化合物(せいそうかごうぶつ、lamellar compound)とも呼ばれる。
[[1926年]]に最初の層間化合物{{Chem|KC|8}}が発見され、{{Chem|KC|24}}、{{Chem|KC|36}}なども知られている。他には黒鉛と、[[アルカリ金属]]元素、{{Chem|Br|2}}、[[酸化物|金属酸化物]]、[[典型元素]]の酸化物や硫化物とから形成される層間化合物も知られている。
{{Chem|KC|8}}は300℃で黒鉛に[[カリウム]][[蒸気]]を作用させて製造し、外見は[[ブロンズ]][[色]]をしている。黒鉛に比して{{Chem|KC|8}}の方が金属的性質が強く、これは還元試薬としても利用されている。{{Chem|LiC|6}}はリチウムイオン電池の負極として用いられている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{No footnotes|section=1|date=2019年10月}}
{{ページ番号|section=1|date=2019年10月}}
* {{Cite book |和書 |author=松原聰|authorlink=松原聰 |title=日本の鉱物 |date=2003-09 |publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]] |series=フィールドベスト図鑑, 15 |id={{ISBN2|4-05-402013-5}}、ISBN 978-4-05-402013-9 |ref={{SfnRef|松原|2003}}}}
* {{Cite book |和書 |author=荻野博 |title=典型元素の化合物 |date=2004-04 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波講座]] 現代化学への入門, 11 |id={{ISBN2|4-00-011041-1}}、ISBN 978-4-00-011041-9 |ref={{SfnRef|荻野|2004}}}}
* {{Cite book |和書 |editor=国立天文台|editor-link=国立天文台 |title=[[理科年表]] 平成19年 |date=2006-11-30 |publisher=[[丸善雄松堂|丸善]] |isbn=4-621-07763-5 |ref={{SfnRef|国立天文台|2006}}}}
* {{Cite book |和書 |author=エリック・シャリーン |translator=上原ゆうこ |title=図説世界史を変えた50の鉱物 |date=2013-02 |publisher=[[原書房]] |isbn=978-4-562-04871-7 |ref={{SfnRef|シャリーン|2013}}}}
== 関連項目 ==
* [[鉛筆]] - 鉛筆の芯は黒鉛と[[粘土]]及び各メーカーのノウハウによる化学物質により構成される。
* [[人造黒鉛]]
* [[鉱物]] - [[元素鉱物]]
* [[鉱物の一覧]]
* [[鉱石鉱物]]
* [[ダイヤモンド]]、[[フラーレン]]、[[カーボンナノチューブ]]、[[カーボンナノホーン]]、[[グラフェン]]、[[ナノグラフェン]]、[[グラフェンナノリボン]]
* [[物性物理]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Graphite|Graphite}}
{{Wiktionary|石墨|黒鉛}}
* [http://www.mindat.org/min-1740.html Graphite] (mindat.org) {{En icon}}
* [http://www.webmineral.com/data/Graphite.shtml Graphite Mineral Data] (webmineral.com) {{En icon}}
{{石炭}}
{{炭素の同素体}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:くらふあいと}}
[[Category:炭素の単体]]
[[Category:元素鉱物]]
[[Category:画材]]
[[Category:同素体]]
[[Category:電気伝導体]]
[[Category:減速材]]
[[Category:耐火物]] | 2003-03-08T12:43:14Z | 2023-10-25T03:14:15Z | false | false | false | [
"Template:炭素の同素体",
"Template:Infobox 鉱物",
"Template:Notelist2",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite book",
"Template:No footnotes",
"Template:Wiktionary",
"Template:Normdaten",
"Template:参照方法",
"Template:R",
"Template:Chem",
"Template:Reflist",
"Template:ページ番号",
"Template:石炭",
"Template:Otheruses",
"Template:Efn2",
"Template:En icon",
"Template:-",
"Template:Commons&cat"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%88 |
3,683 | アーサー・コナン・ドイル | アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(英語: Sir Arthur Ignatius Conan Doyle, KStJ, DL, [ˈɑːrθər ɪgˈneɪʃ(i)əs ˈkoʊnən / ˈkɑnən ˈdɔɪl] 発音例1 発音例2, 1859年5月22日 – 1930年7月7日)は、イギリスの作家、医師、政治活動家。
推理小説・歴史小説・SF小説などを多数著した。とりわけ『シャーロック・ホームズ』シリーズの著者として知られる。SF分野では『失われた世界』『毒ガス帯』などチャレンジャー教授が活躍する作品群を、また歴史小説でも『ホワイト・カンパニー(英語版)』やジェラール准将(英語版)シリーズなどを著している。
1902年にナイトに叙せられ、「サー」の称号を得た
1859年5月22日、スコットランド・エディンバラに測量士補チャールズ・ドイル(英語版)の息子として生まれた。アイルランド系・カトリックの家庭だった。大伯父から「コナン」の姓をもらい、ミドルネームのひとつとなる。祖父や伯父3人は成功者だったが、父は出世せず、のちにアルコール依存症になり精神病院に送られたため、幼少期・青年期の生活は苦しかった(→出生と出自)。
伯父たちの支援でイエズス会系の学校を出たあと、1876年にエジンバラ大学医学部に進学し、1881年に学位を得て卒業した(→学生時代)。大学卒業後、医師として診察所を開業した(→医師として)。
患者を待つ暇な時間を利用し、副業で小説を執筆して雑誌社に投稿するようになり、1887年にはシャーロック・ホームズシリーズの第一作である長編小説『緋色の研究』を発表している(→副業としての初期の執筆活動)。1889年に出版された歴史小説『マイカ・クラーク(英語版)』、1890年に出版されたホームズシリーズ第2作『四つの署名』、1891年に出版された歴史小説『ホワイト・カンパニー(英語版)』などで小説家として成功した(→小説家としての成功)。
1891年にはこれまでの診察所を閉めて、無資格の眼科医を始めたものの、患者はまったく来なかった。これをきっかけに執筆業一本に絞ることになった(→眼科への転身失敗と執筆業一本化)。
1891年から『ストランド・マガジン』で読み切りのホームズ短編小説の連載を始め、爆発的な人気を獲得した(→シャーロック・ホームズの大ヒット)。しかし彼は歴史小説を自分の本分と考えていたため、ホームズシリーズが著名になり過ぎるとホームズを倦厭するようになり、1893年発表の『最後の事件』においてホームズを死亡させた。その後、ナポレオン戦争時代を舞台にしたジェラール准将(英語版)シリーズの連載を開始した(→歴史小説を志向)。
1900年にボーア戦争が勃発すると医療奉仕団に医師の1人として参加して戦地に赴いた(→戦地医療奉仕活動)。同年10月に行われた解散総選挙(英語版)に与党自由統一党の候補としてエディンバラ・セントラル選挙区(英語版)から出馬し、戦争支持を訴えたが落選した(→総選挙に出馬するも落選)。ボーア戦争がゲリラ戦争と化して焦土作戦や強制収容所などイギリス軍の残虐行為への国内外の批判が高まっていく中、1902年には『南アフリカ戦争 原因と行い』を公刊して、イギリス軍の汚名を雪ぐことに尽力し、その功績で国王エドワード7世よりナイトに叙され、「サー」の称号を得た(→英軍擁護運動)。
1901年には久々のホームズ作品である長編小説『バスカヴィル家の犬』を発表した。この作品の事件の発生年は『最後の事件』より以前に設定され、死亡したと設定されたホームズの復活ではなかったが、1903年から再開されたホームズ短編連載ではホームズは生きていたと設定された(→ホームズの復活)。
彼は「自分にはホームズのような推理力はない」と語っていたが、「ジョージ・エダルジ事件」や「オスカー・スレイター事件」といった事件で、警察のずさんな捜査を暴き、犯人とされた人物の冤罪を晴らすことに尽力した(→冤罪事件への取り組み)。
1912年4月のタイタニック号沈没事件について、乗客・船員の英雄譚の実否をめぐって否定的なジョージ・バーナード・ショーと論争した(→タイタニック沈没事件をめぐる論争)。
1912年にはチャレンジャー教授シリーズの第1作である『失われた世界』、その翌年には第2作『毒ガス帯』を発表し、SF小説にも進出した(→チャレンジャー教授の創造と大戦前の動向)。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると政府や軍部の戦争遂行を全力で支援した。戦意高揚のための執筆活動や、各前線を回って士気を鼓舞する演説を行うことに努めた(→第一次世界大戦をめぐって)。
一次大戦前から心霊主義に関心を持っていたが、戦中の相次ぐ身内の戦死・病死により、戦後には心霊主義への傾斜をいっそう強めた。晩年の活動はほぼすべて心霊主義活動に捧げられた。1925年にはチャレンジャー教授が心霊主義に目覚める『霧の国』を発表した(→心霊主義、心霊主義活動の本格化)。
1930年7月7日に死去した(→死去)。
さまざまな分野の執筆を行ったが、推理小説シャーロック・ホームズシリーズの名声がもっとも高く、この作品を通じて後世の推理物のさまざまな原型を築いた(→評価)。政治思想面では、中世騎士道を基礎として、国家主義、帝国主義、反共主義、婦人参政権反対、離婚法改正賛成などの立場をとった(→政治思想)。クリケットをはじめとしてさまざまなスポーツに打ち込むスポーツマンでもあった(→スポーツマン)。先妻はルイーズ、後妻はジーン。先妻との間には1男1女、後妻との間には2男1女を儲けた(→家族)。
1859年5月22日、スコットランド労務局測量士補チャールズ・ドイル(英語版)とその妻メアリー(旧姓フォーリー)の長男として、スコットランド・エディンバラのピカーディ・プレイス(picardy place)11番地に生まれる。
チャールズ、メアリー夫妻の子供は全部で9人(無事育ったのは7人)で、うちアーサーと姉アネットは、大伯父にあたる美術批評家マイケル・コナンから「コナン」の姓をもらい、「コナン・ドイル」という複合姓になった。
父方のドイル家は14世紀にフランスからアイルランドへ移民したノルマン人の家系だった。敬虔なカトリックの一族だったため迫害を受けることが多かったという。
ドイル家が世間の注目を集めるようになったのは、アーサーの祖父であるジョン・ドイルがダブリンからロンドンに出てきて、"H.B." の筆名で著名な風刺画家となってからだった。ジョンの長男ジェームズ(英語版)は画家、次男リチャードはイラストレーター、三男ヘンリー(英語版)はアイルランド国立美術館館長としてそれぞれ成功を収めた。しかし五男であるチャールズ(アーサーの父)だけは一介の測量技師補から出世せず、しかもアルコール依存症だったため、1876年にはその仕事も失い、療養所(のちに精神病院)へ入れられた。そのため幼少期・青年期のアーサーは貧しい環境の中で育ったという。
母方のフォーリー家もフランスからアイルランドへ移住したカトリックであり、系図をさかのぼるとフランスから渡来した英国王室プランタジネット朝につながるという。母はそのことを常に誇りにしていたという。
裕福な伯父の支援で1868年にイングランド・ランカシャーにあるイエズス会系の寄宿学校ホダー学院に入学。1870年にはその上級学校であるストーニーハースト・カレッジ(英語版)に進学し、同校で5年間学んだ。スポーツ万能だったドイルは同校のクリケット部主将を務めているが、後年にドイルは同校の体罰の激しさやイエズス会教師の「救いようのない頑迷さ」を批判している。1875年にはドイツ語の勉強も兼ねてオーストリア・フェルトキルヒにあるイエズス会系の学校に1年間留学した。
オーストリアから帰国したころ、母メアリーは少しでも生活費を楽にするため、ある医師を間借り人として置いていた。この間借り人の影響を受けて医師を志すようになったドイルは、1876年にエジンバラ大学医学部に進学した。
5年にわたって同大学に在学したが、ドイルの回顧によれば「長く退屈な勉強の毎日。植物学、化学、解剖学、生理学、その他、大半は医療という技術には大してつながりのない必修科目の履修」という状況だったという。しかしここで知遇を得たジョセフ・ベル教授からは大きな影響を受けた。ベル教授はちょっとした特徴から患者の状況や経歴を言い当てる人物であり、ドイルは彼をモデルにして「シャーロック・ホームズ」の人物像を作り上げたという。また解剖学のウィリアム・ラザフォード(英語版)教授の豪快さはチャレンジャー教授の人物像のモデルになったという。
大学在学中、ダーウィンの進化論に共感を寄せたため、徐々にカトリックの信仰心から離れたという。
大学への通学路に古本屋街があったため、古本もよく読むようになった。タキトゥスやホメーロスなどの古典、クラレンドン伯爵の『イングランド反乱史』、スウィフトの『桶物語』、アラン=ルネ・ルサージュの『ジル・ブラース物語(フランス語版)』、サー・ウィリアム・テンプル准男爵のエッセイ、オリバー・ウェンデル・ホームズのエッセイ、トマス・マコーリーのエッセイ、エドガー・アラン・ポーの小説などに強い影響を受けたという。
スポーツにも積極的に参加した。相手を見つければすぐにボクシングの試合をし、またラグビー部ではフォワードを務めた。
当時ドイルの姉2人はポルトガルで働いて実家に仕送りしていたため、ドイルも仕送りしないのは長男として肩身が狭かったらしく、しばしば医師のもとでパートタイムの助手をし、また1880年には7か月にわたって捕鯨船に船医として乗船している。
1881年8月に医学士と外科修士の学位を取得したが、成績は並みだった。
大学卒業後の1881年10月にアフリカ汽船会社(英語版)に船医として就職した。10月末にリヴァプールから出航したアフリカ行きの汽船マユンバ号(SS Mayumba)に乗船したが、客が次々とマラリアに罹患してその治療に悪戦苦闘し、彼自身もマラリアを罹患して一時生死の境をさまよった。気候も暑くてたまらなかったという。1882年1月にリヴァプールへ戻ったころにはこれ以上アフリカ行きの汽船の船医を続ける気にはなれなくなっており、退職した。
このあと、ロンドンの伯父たちに会って支援を受けようとしたが、敬虔なカトリックである彼らは信仰心を失ったドイルを助けてはくれなかった。
1882年5月にはエジンバラ大学の同級生ジョージ・バッドに誘われて、プリマスのバッドの診察所の共同経営者となった。バッドの診察は型破りとして評判で客が多かったが、ドイルが診察を分担するようになってから客が減ってきたため、2か月もたたないうちに2人の関係は破局した。バッドが「ドイルの看板が外にあるから客が減るのだ」と非難してきたのを機にドイルはバッドと袂を分かつ決意を固めた。
1882年6月末からポーツマス郊外サウスシー(英語版)で診察所を個人開業するようになった。8年にわたって診察所を続けたが、その年収が300ポンドを超えた年はなかった。すでに医師が多くいる地域だったためこれ以上の成功は望めない状況だったという。スポーツが得意だったため地域社会にはすぐに溶け込み、ボウリング大会で優勝したり、クリケット・クラブの主将を務めたり、サッカー・クラブの立ち上げにも参加した。
1885年には病死した患者の姉であるルイーズ・ホーキンズと最初の結婚をした。
ドイルは患者を待つ時間を利用して短編小説を執筆し、雑誌社に投稿するようになった。1882年には『我が友、殺人者(My Friend the Murderer)』が『ロンドン・ソサエティ(英語版)』誌から10ポンドで買ってもらえた。ついで同年末には捕鯨船での体験を基にした『北極星号の船長(The Captain of the Pole-Star)』が『テンプル・バー(英語版)』誌に10ギニーで買ってもらえた。さらに1883年にはメアリー・セレストの事件に触発されて書いた『J・ハバクック・ジェフソンの遺書(英語版)』が『コーンヒル・マガジン(英語版)』誌に29ギニーで買ってもらえ、これはドイルの初期の執筆活動最大の成功となった。ただし買い取ってもらえるのは稀なケースで大半の作品は返却されていた。
短編小説は小金稼ぎになったが、作者名が掲載されないため、その場限りなのが難点だった。ドイルの自伝によれば、1885年の結婚後にこのまま短編を書き続けても進歩がないと思うようになり、単行本になるぐらいの長編小説を書こうと思い立ったという。はじめに『ガードルストーン会社(英語版)』という長編小説を書いたが、出版してくれる出版社がなかなか見つからず、刊行は1890年になった。
この後の1886年3月から4月にかけて執筆した長編小説がシャーロック・ホームズシリーズの第一作『緋色の研究』だった。これも出版社がなかなか見つからなかったが、1886年10月末にウォード・ロック社(英語版)に25ポンドという短編並みの安値で買い取ってもらった。同作品は1887年11月出版の『ビートンのクリスマス年鑑』に掲載された。その翌年には単行本化もされた。反響はほどほどというレベルだった。
『緋色の研究』出版までの間に『ガス・アンド・ウォーター・ガゼット』誌からの依頼でドイツ語の『ガスパイプ漏れの検査』を英語訳した。後年、コナン・ドイルは「世人は『緋色の研究』が私の仕事の突破口だと思うかもしれないが、そうではない。自分から頼んだのではなく出版社から依頼された初めての仕事という意味でこの翻訳が私の突破口となった」と語っている。
1887年7月から1888年初めにかけて、17世紀後半のモンマスの反乱を描いた歴史小説『マイカ・クラーク(英語版)』を執筆した。この作品はロングマン社(英語版)に買い取ってもらい、1889年2月に出版した。かなり評判がよく、1年の間に3版も重版を重ねている。後年ドイル自身も「この作品が自分の最初の出世作だった」と語っている。
1889年にアメリカ合衆国のJ.B.リピンコット(英語版)からの依頼でシャーロック・ホームズシリーズ第二作の長編小説『四つの署名』を執筆し、1890年2月に英米で出版された。この作品の評判もよかった。
『四つの署名』執筆後、14世紀を舞台にした歴史小説『ホワイト・カンパニー(英語版)』の執筆に戻った(この小説の執筆と歴史調査には2年かけていた)。『マイカ・クラーク』と『四つの署名』の評判がよかったため、コーンヒル社から雑誌掲載で200ポンド、単行本化で350ポンドという高い報酬で買ってもらえた。単行本は全3巻で出版されたが、非常によく売れ、コナン・ドイルの小説家としての名声を押し上げた。この本はのちに学校の歴史教育の教材にも使われており、それについてドイルは「長く読み伝えられ、イギリスの伝統が栄光に輝いてほしい」という感想を述べている。
1890年8月、ドイツ・ベルリンで開催された国際医学会においてロベルト・コッホが新しい結核治療法を発見したと発表した。気になったドイルはただちにベルリンへ向かったが、コッホの講演会チケットを手に入れることができなかった。諦めきれず、コッホの家に押しかけるも会ってもらえなかった。しかしコッホの講演会のメモを手に入れることはでき、これを読んだドイルは『デイリー・テレグラフ』紙に投稿して、コッホの研究は不完全で結果が出ていないと批判した。のちにコッホの研究の不十分さが判明したため、真っ先にそれを指摘した彼は誇らしい気分だったという。
このベルリン滞在時にドイルは突然眼科医になることを思い立った。1890年11月にサウスシーに戻って診察所を閉めると、1891年1月には妻を連れてオーストリア首都ウィーンへ移住し、眼科医の実習を受けた。しかしドイルのドイツ語能力は専門的授業を受けられるレベルではなかったため、すぐにも授業についていけなくなり、ウィーンでの眼科医資格取得を断念した。6か月の予定だった実習を2か月で切り上げ、1891年3月末にロンドンへ帰国した。
帰国後にはロンドンのモンタギュー・プレイス23番地の邸宅で暮らすとともに、アッパー・ウィンポール街において無資格の眼科医を始めた。しかしロンドンには資格を持った眼科医が大勢いたため、無資格の眼科医に診てもらおうなどという患者は現れなかった。ドイルはこの暇な時間を使って小説の執筆に励んだ。患者がまったく来ない眼科診察所は結局閉鎖することになり、執筆業一本に絞っていくことになった。
診察所を閉鎖するとサウス・ノーウッド(英語版)郊外テニスン・ロード12番地に移住した。
このころ、ドイルは同じ人物を主人公とした短編小説を読み切り連載で書くことを考えていた。その主人公として選ばれたのがシャーロック・ホームズだった。ホームズをシリーズ化することにしたのは、すでにホームズ作品を2つ出していたため(『緋色の研究』と『4つの署名』)、シリーズ化が一番容易だろうと判断したためだった。
こうして書かれたホームズ短編小説6編は1891年1月に発刊されたばかりの『ストランド・マガジン』誌に1作35ポンドで買ってもらえ、同誌1891年7月号から順次掲載された。この連載は初回から話題となり、ホームズシリーズは人気となり、『ストランド・マガジン』の販売数を押し上げた。好評にこたえてさらに6編のホームズ短編小説を書き、1892年1月号から連載された。この連載が終わった1892年6月、これまで発表された12編のホームズ短編小説が『シャーロック・ホームズの冒険』として単行本化された。
ドイルのもとにはホームズ読者の手紙が大量に届くようになったが、その大半はドイル宛てではなく、ホームズ宛てだったという(ドイルはホームズ宛ての手紙には「ドクター・ジョン・ワトスン」名義で「残念ながらホームズさんは留守でして」という返事を書いていたという)。またサインを求められることも多くなったが、それもやはり「コナン・ドイル」のサインではなく、「シャーロック・ホームズ」のサインを求められることが多かったという。
このころ、ドイルは『ブックマン(英語版)』誌において「シャーロック・ホームズについて全国からたくさんのお便りをもらうようになりました。あるときは学生から、あるときは熱心な読者の巡回セールスマンの方から。時には弁護士の方から法律の誤りを指摘されることもあります。シャーロックの若いころのことを知りたいといった手紙も多いです」と語っている。
しかしドイル当人は歴史小説が自分の本分と考えており、歴史小説家として名前を残したがっていた。そのためホームズの評判が高くなりすぎると、逆にホームズを倦厭するようになった。
最初のホームズ連載が終わると、ホームズを離れ、17世紀フランスのカルヴァン派への弾圧と彼らのアメリカ亡命を描いた歴史小説『亡命者(英語版)』の執筆を行った。1892年2月までに同作品を完成させ、『ストランド・マガジン』とアメリカ合衆国の『ハーパーズ・ニューマンリース』誌で発表し、1893年には単行本化された。それなりに売れたものの、すでにホームズ人気には及ばなかった。
『ストランド・マガジン』はドイルに歴史小説よりホームズシリーズの続編を書いてほしいと要請し続けていた。これに対してドイルは「1,000ポンドの報酬を出すならもう12編のホームズ短編を書いてもいい」という条件を提示した。破格の報酬を条件に出すことで『ストランド・マガジン』の方から諦めさせようとしたようだが、同誌はこの条件を本当に呑んでしまったため、書くしかなくなった。
こうして再び書かれた12編のホームズ短編小説は『ストランド・マガジン』1892年12月号から発表され、のちに『シャーロック・ホームズの回想』として単行本化された。しかしこの連載の最後である1893年12月号の『最後の事件』ではホームズをライヘンバッハの滝に落として死んだことにしてしまったため、物議をかもした。ドイルはこの連載が始まる前の母に宛てた手紙の中で「私はホームズを最後に殺すことでこの仕事を打ち切ることを考えています。彼のために私はほかのもっと素晴らしいことを考える余裕がなくなっているからです」と漏らしていた。
ホームズを死なせたドイルは、1894年からナポレオン戦争時代を描いた『ジェラール准将(英語版)』シリーズの執筆を開始した。最初の8編は1896年に『ジェラール准将の功績』として単行本化され、続く8編は1903年に『ジェラールの冒険』として単行本化されている。ジェラール准将シリーズもかなりの人気作品になったが、世間では依然ホームズシリーズの再開とホームズの復活を求める声が強かった。
南アフリカに帝国主義的野心を抱いていたソールズベリー侯爵内閣植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンは、南アフリカのボーア人国家トランスヴァール共和国を追い詰め、1899年10月に同国がイギリスに宣戦布告してくるよう持ち込んだ(第二次ボーア戦争)。しかしボーア人は住民として地の利を生かして戦い、侵攻してきたイギリス軍に大きな損害を与えていた。戦死者の増大を前にイギリス本国ではインド人など植民地人を代わりに戦わせ、イギリス人の人的損害を減らすべきことが盛んに主張されるようになった。
これに対してドイルは『タイムズ』紙で「植民地人の兵士を戦地に送るべきという意見が各方面で強まっているようだが、イギリス人が1人も戦地に行かないで植民地の人間に穴埋めさせるのは名誉に関わるのではないか」と主張するとともに、自身もイギリス軍に従軍する決意を固めた。従軍に反対する母への手紙の中でドイルは「私はあなたから愛国心を学びました。ですから私を責めないでください。兵士としてどの程度役にたてるかは分からないですが、自分は模範を示す人間として国に奉仕できると思います。思うに私はイギリスで誰よりも若者たち、特にスポーツを愛する若者に強い影響を与えることができると思います。だから若者の手本になることが重要なのです」と説得している。
しかしドイルはすでに40歳過ぎだったため、陸軍の兵役検査に落ちた。ドイルはやむなく従軍を諦めたが、代わりに50人の医療奉仕団を戦地に派遣するという友人ジョン・ラングマンの計画に医師の1人として参加することにした。
ドイルらラングマン医療奉仕団は1900年3月に英領ケープ植民地首都ケープランドに到着し、ロバーツ卿(英語版)率いるイギリス軍の進軍路をたどって負傷者・発病者の治療にあたった。ドイルも休む暇もなく献身的に働いた。
1900年6月、イギリス軍はトランスヴァール首都プレトリアを陥落させた。ドイルは占領下プレトリアでイギリス軍司令官ロバーツ卿と会見し、医療奉仕団の活躍を報告している。プレトリア陥落で戦争の大勢は決したかのように思われたので(実際にはゲリラ戦争と化してさらに2年続くが)、ドイルは今戦争についての総括の執筆を行うため、また近々行われると見られていた総選挙に出馬すべく、7月に帰国の途に就いた。
帰国後ただちに『大ボーア戦争(英語版)』を執筆したが、この著作はプレトリア陥落でボーア戦争は終結したという前提で書かれたものだったため、この後ボーア戦争が泥沼のゲリラ戦争と化していく中で時流にあっていないものになってしまった。
ドイルはボーア戦争以前から政界進出への意欲をマスコミ紙面で表明していた。
そのため1900年10月の解散総選挙(英語版)を前にして、与党である保守党・自由統一党も、野党である自由党も著名な作家であるドイルを自党の候補に擁立しようと誘いをかけた。ドイルは、自由統一党からの出馬を決めた。同党はジョゼフ・チェンバレンやデヴォンシャー公爵らアイルランド自治に反対する自由党議員が自由党から離党して作った政党であり、この頃には保守党と連立して与党を形成し、戦争支持を表明していた。
自由統一党執行部は与党候補の当選が安定している選挙区を用意すると言ってくれていたが、ドイルはそれを断って「スコットランド急進派の砦」と呼ばれ、与党候補の当選が困難と見られていたエディンバラ・セントラル選挙区(英語版)から出馬した。
同選挙区の自由党候補は出版業者ジョージ・マッケンジー・ブラウン(英語版)だったが、ドイルは自分と彼の間に社会問題や地元選挙区の関心事項について相違はないことを強調することで争点をボーア戦争の是非のみに持ち込み、そのうえで「南アフリカの明るい未来の見通し」や「大きな流れの真ん中で馬を変えることの危険性」を説き、与党支持を訴えた。
しかし、選挙日前日に福音派信者がドイルのことを「教皇派共謀者」「イエズス会密使」「プロテスタント信仰破壊者」と誹謗中傷するプラカードを持って行進し、これによってドイルは有権者から狂信的カトリックのように誤解され、選挙の流れが不利になったという(少なくともドイル本人はそう思っていた)。
選挙の結果はブラウンの3,028票に対してドイルは2,459票に留まり、落選であった。しかし前回選挙と比べると自由党候補の票を1,500票も減じた格好だったため、党は一定の成果があったと評価したようである。ちなみに総選挙全体の結果は与党の圧勝であった。
一方、ボーア戦争はゲリラ戦争と化していた、民家がゲリラの活動拠点になっていると見たイギリス軍は焦土作戦を実施した(1900年9月には、ゲリラが攻撃してきた地点から16キロ四方の村は焼き払ってよいとの方針が定められている)。イギリス軍の焦土作戦で焼け出されたボーア人の多くは強制収容所に送られたが、そこの環境は劣悪であり、2万人以上の人々が命を落としていった。
国内外でイギリス軍の残虐行為への批判が高まった。しかし大英帝国の拡大が世界に道徳と秩序をもたらすと信じるドイルは、こうした批判には徹底的に反論した。ドイルは1902年3月にもイギリス軍擁護の小冊子『南アフリカ戦争 原因と行い』を著した。この中で彼はイギリス軍の焦土作戦について「イギリス軍が民間人の家を焼くのは、そこがゲリラの拠点となった場合のみ」「責任は最初にゲリラ戦法を行った側(ボーア人)にある」と擁護した。強制収容所については「焼け出された婦女子を保護するのは文明国イギリスの義務である。収容所内では食糧もしっかり出されている。それにもかかわらず収容者の死亡率が高いのは病気のせいだが、イギリス軍内でも病死者が続出しており、差別的な取り扱いではない」と擁護した。またイギリス軍人によるボーア人婦女子強姦については「いかなる戦争でも女性は既婚・未婚問わず憎悪に晒される。避けられないことだ」と批判を一蹴する。
この小冊子は政府や戦争支持派から熱烈に支持され、発売から6週間で30万部を突破した。ドイルは自分のポケットマネーや募金で集めた資金を元手にして、この小冊子をできる限り多くの言語に翻訳して各国に配布し、イギリスの国際的な汚名を雪ぐことにも努めた。この活動を政府から評価され、1902年10月24日に国王エドワード7世からKnight Bachelorに叙され、以降「サー」の称号を使用できるようになった。また同時に名誉職のサリー州副統監にも任命された。
ボーア戦争から帰国して8か月ほど経った1901年3月にドイルは友人とノーフォークの温泉に行ったが、そこで友人からダートムーアに伝わる魔犬伝説を聞いた。興味を持ったドイルは現地調査を行ったうえで数か月間でホームズ長編小説『バスカヴィル家の犬』を書きあげた。この作品は『ストランド・マガジン』1901年8月号から8回に分けて連載された。
久々のホームズ作品の発表にホームズファンは大喜びしたが、これは物語の設定上死亡したことになっているホームズが復活したわけではなく、事件の発生日を『最後の事件』以前に設定したものだった。
ホームズ復活への熱望がますます高まる中、とうとうドイルもホームズを復活させる決意を固め、『ストランド・マガジン』1903年10月号から新連載された読み切りホームズ短編シリーズの第一作『空家の冒険』の中で、ホームズは「バリツ」なる日本武術を使って死なずに済んだと設定した。この新連載13編は1905年に『シャーロック・ホームズの生還』として単行本化されている。
『ストランド・マガジン』誌1906年7月号から『ホワイト・カンパニー』の姉妹編の歴史長編小説『サー・ナイジェル(英語版)』を発表した。ドイルはこれを自身の最高傑作と自負していた。
1906年には妻ルイーズが結核のために死去した。ドイルは1897年の出会いのときに一目ぼれをしたものの、妻を気遣ってプラトニックな関係に留めてきたジーン・レッキーと1907年に再婚した。これを機にクロウバラに移住して新婚生活を始めた。
ドイル自身は「自分にホームズのような推理力はない」と述べていたが、彼は以下の2つの事件において、冤罪を晴らすことに貢献した。
その最初の事件はバーミンガムに近いグレイト・ワーリー(英語版)で発生した「ジョージ・エダルジ事件」だった。これは1903年中、6か月にわたって同地の家畜の牛馬たちが何者かによって腹を裂かれて殺害された事件だった(傷口は浅かったものの長く、家畜たちは出血多量で死んでいた)。
地元警察から疑われたのは、インド系の弁護士ジョージ・エダルジだった。エダルジはこれまでも散々人種差別に晒され、地元警察や住民から忌み嫌われてきた人だった。上記の事件が発生するとエダルジを犯人と告発する怪文書が地元警察や住民に出回った。警察はこの怪文書もエダルジの自作自演と判断し、エダルジの自宅を家宅捜索した。そして血痕らしき小さなシミと馬の毛がついたスーツが発見されたとして、エダルジを家畜殺害の容疑者として逮捕した。怪文書の筆跡もエダルジの筆跡であると鑑定された。裁判にかけられたエダルジは有罪判決を受け、石切場での7年の重労働刑に処された。
しかし警察が依頼した筆跡鑑定官は別の事件の裁判でもいい加減な鑑定をしたことで悪名高い人物であり、しかもエダルジが石切場で重労働させられている間にも家畜が殺される事件が発生したため、エダルジ冤罪説が強まり、内務省に再審請求が殺到した。内務省は1906年10月にエダルジを仮釈放したものの、仮釈の理由を説明せず、有罪判決を取り消したわけではなかった。このやり口に憤慨したエダルジは新聞で自らの冤罪を訴えた。
これを読んで事件に関心を持ったドイルは、裁判記録を調べ、犯行現場を視察し、またエダルジ本人とも会見した。ドイルはエダルジと会った瞬間に彼の無罪を確信したという。ドイルがエダルジを訪問したとき、エダルジは眼を近づけて横にずらすように新聞を読んでいるところだったが、かつて眼科の勉強をしていたドイルは、この様子を見て彼がメガネでも矯正できないほどの強度の近視かつ乱視だと見抜いたという。そのため彼が闇夜の野原の中から家畜場や家畜の位置を特定して傷つけることなど不可能と考えたのだった。
ドイルは証拠の洗い直しを行い、警察のずさんな捜査の実態を次々と暴いた。エダルジが書いたと鑑定された怪文書を別の筆跡鑑定人のところに持ち込んだ結果、エダルジの筆跡ではないという鑑定結果を得られた。上着の馬の毛については、その衣服が警察署へ運ばれる途中に馬のなめし皮入りの袋に入れられたために付着しただけであると突き止めた。また、同じく衣服に付着していた血痕らしきシミについては「どんなに腕のいい暗殺者でも暗闇で馬を引き裂いて3ペンス銅貨2つの血痕しか付かないなどということはあり得ない」と問題視しなかった。
著名な作家コナン・ドイルが事件を出版したことで事件への国内外の注目は大いに高まった(アメリカ合衆国の『ニューヨーク・タイムズ』は一面で報道している)。そのためイギリス政府としてもこの事件をいい加減なままにしておくことはできなくなり、1907年春には事件の再調査を行う「エダルジ委員会」が設置された。しかしそのメンバーには警察に都合のいい人物が入れられていたため、委員会は家畜殺しについてエダルジの無罪を認めつつも、怪文書を書いた件については有罪を覆さなかった。その結果、エダルジは特赦を受けつつ、「ある程度までエダルジの責任」とされて、3年間の重労働刑についての刑事補償を認められなかった。ドイルはこれにがっかりし、役人のかばい合い体質を批判するとともに、この事件はイギリス裁判の汚点となるだろうと主張した。
1908年12月、スコットランド・グラスゴーでマリオン・ギルクリストという老女がダイヤモンドのブローチを奪われて撲殺された。警察が容疑者としたのはユダヤ系ドイツ人のオスカー・スレイターだった。スレイターはギャンブルや犯罪まがいのことに手を染めてきた素行の悪い人物だったうえ、この直前にダイヤモンドのブローチを質に入れており、しかも偽名で船に乗ってニューヨークに渡航していたため、一見して疑わしい人物だった。またユダヤ人だったため、人種的偏見を向けるのにも格好の標的だった。
警察の捜査は粗略というより、彼を犯人に仕立てあげようという悪意がこめられているものだった。たとえば、証人たちはあらかじめスレイターの写真を犯人の写真と言って見せつけられ、スレイターを犯人と証言するよう誘導されていた。唯一の物的証拠であるスレイターが質入れしたダイヤモンドのブローチはギルクリフトのものと一致せず、質入れした時期も殺人事件前だと判明したが、警察はそれらの情報を隠ぺいしていた。
ニューヨークにいるスレイターは当局から犯罪人引き渡しの脅迫を受けたため、自発的にイギリスに帰国し、逮捕されて裁判にかけられたが、警察による証拠の捏造と隠蔽、弁護士や裁判官の杜撰さによって死刑判決を受けてしまった。当時のスコットランドには刑事事件の上訴制度がなかったため、スレイターにできることはもはや国王エドワード7世に慈悲を乞うことだけだった。世論はスレイターに同情し、2万人もの減刑嘆願署名が集まり、恐らくその影響で死刑執行2日前に終身重労働刑に減刑された。
ドイルは1910年にこの事件の証拠の矛盾を扱ったウィリアム・ラフヘッド弁護士の小冊子を読んで事件を知り、冤罪事件との確信を強めたが、エダルジ事件での役人の結託・隠蔽にうんざりしていたため、今回はすぐに腰を上げようとはしなかった。
しかし調べれば調べるほど、エダルジ事件より酷い冤罪事件と分かり、結局彼は取り組む決意をした。1912年夏に小冊子『オスカー・スレイター事件』を出版した。この中でドイルはスレイターが偽名でアメリカに逃亡したのは、若い愛人と一緒にいることが妻にばれることを恐れて警察から逃れようとしたのではないことを指摘した。また凶器とされるスレイターが持っていた小型ハンマーについては「画鋲を抜いたり、小さな石炭のかけらをたたく以上のことをしたら限界を超える」と指摘した。またこの冤罪がユダヤ人に対する人種的偏見に根ざしている点も指摘した。
ドイルの介入で事件が注目を集める中、事件を担当した刑事ジョン・トレンチ警部補は良心の呵責に耐えかね、警察の方で証言を捏造したことを暴露した。しかし裁判所はこの暴露を再審理由として十分ではないとして却下し、しかもトレンチ警部補は警察上層部の圧力で解雇され、年金を打ち切られてしまった。警察の腐敗ぶりに愕然としたドイルは、『スペクテイター』誌において「この事件は警察の無能さと頑迷さの最高の一例として犯罪傑作集に不滅の名を留めるだろう」と語った。
その後、この事件についての動きは10年以上なかった。その間、スレイターは服役を続け、ドイルは再審請求を何度も司法当局に提出したが、取り合ってもらえない状況が続いた。
1925年2月、服役して16年になるスレイターは看守の目を盗んで釈放された囚人仲間を利用してドイルに助けを求める手紙を送った。これを読んだドイルは、再びこの問題に本腰を入れて取り組む決意を固めた。ドイルは1927年7月にジャーナリストのウィリアム・パークが出版したスレイターの無罪を訴える著作『オスカー・スレイターについての真実』に協力した。この本は世論に大きな影響を与え、この事件に関するマスコミの再調査が過熱した。1927年11月に『エンパイア・ニュース(英語版)』紙は、警察の用意した証人は警察から「スレイターを犯人と証言しろ」と脅迫されていたことを明らかにした。同紙のライバル紙『デイリー・ニュース』も、警察が証人に賄賂を送っていたことを明らかにした。マスコミの報道合戦で警察腐敗の実態がさらに暴露されることを恐れたイギリス政府は同時期に突然スレイターを釈放し、この問題を鎮静化させようとした。
スレイターは釈放されたものの、いまだ無罪と認められたわけではなかった。ドイルは間髪いれずスレイターの名誉回復および不当な刑罰に対する刑事補償の請求を行った。今回は再審が認められたが、スレイターには金がなかったため、裁判費用は支援者たちの募金およびドイルの1,000ポンドの資金援助で賄われた。裁判の結果、スレイターは公式に無罪と判決されたものの、刑事補償はわずか6,000ポンドしか払われず、18年にも及ぶ不当投獄に対するものとしては少なすぎた。しかも裁判費用を全額負担せねばならなかった(ドイルとしては刑事補償1万ポンド、裁判費用は全額国持ちが妥当と考えていた)。
ドイルはあくまで司法・警察の腐敗を正すために行動したのであって、スレイター個人の人柄が好きなわけではなかった(ドイルは強烈な国家主義者であり、スレイターのように不道徳な生活を送る根なし草のコスモポリタンは嫌いだった)ため、無罪判決を得た今、スレイターとは縁を切るつもりだった。彼がお礼として送ってきた贈り物もすべて返却している。またドイルはスレイターが支援者たちに裁判費用を返還しないことを批判した。ドイルにとっては大した金額ではなく自分への返還はどうでもよかったが、ほかの貧しい支援者たちに債務を押しつけようとしていることは許せなかった。ドイルはスレイターに「きみは私が今まで会った人間の中でももっとも恩知らずで愚かな人間だ」と批判する手紙を送っている。
1912年4月、タイタニック号沈没事件があった。マスコミ各紙がこぞって乗客や船員たちの英雄的行動やメロドラマを書きたてる中、文学者ジョージ・バーナード・ショーはその空気に反発し、噂や作り話を実際の英雄譚かのように書きたてるマスコミの扇情的体質を批判した。しかし、ドイルは友人をタイタニック事件で失っていたため、乗客・船員たちの英雄神話をぶち壊そうとするショーを許せなかった。ショーの主張を「つむじ曲がり的発想がひどすぎる」と批判した。
ショーは最初に出た40人乗り救命ボートに乗ったのが男10人、女2人だったことを指摘し、婦女子が優先的に助けられたという話は根拠がないと主張したが、ドイルはショーが「特殊な状況下で出た」1号ボートの例しか持ち出さないことを批判し、その次のボートには70人が乗り、うち65人が女性だったことを指摘し、婦女子優先は徹底されていたと反論した(現在ではタイタニックの乗客のうち、女子供は4人のうち3人までが生存し、男は5人のうち4人までが死んだことが判明している。したがってこの論争についてはドイルが正しかったことになる)。
またショーはエドワード・スミス船長の英雄譚(海を泳いで子供を救ったと報道されていた)はイギリス海運の問題点をうやむやにしたという点で「イギリス海運の勝利」と論じたが、ドイルは「スミス船長の英雄的行動は単なる事実であり、『イギリス海運の勝利』などとは何の関係もない。ショー氏がそう思っているだけである」と反論した。ちなみにショーはスミス船長の英雄譚を与太話と疑っていたが、ドイルは信じていた。
乗客がパニックにならないよう船が傾くまで演奏を続けたというタイタニックの楽団の英雄譚も、ショーが「混乱回避のために命令されてやらされただけで、この曲のせいで乗客に危機感が生まれず、助かるはずだった人も多く命を落とした」と批判したのに対して、ドイルは「仮に命令されたことだとしても、その賢明な命令や楽団員たちの英雄的行動の価値を少しも減じるものではない。混乱を避けることは正しいし、そういうやり方を取ったのは素晴らしい」と反論した。
ドイルには「桁外れに悲劇的な出来事には桁外れの英雄が必要」という信念があったため、英雄譚に誇張あるいは捏造があったとしても問題視しなかった。「この事件をイギリスの栄光を強調するのに利用したとの批判があるが、勇気と規律が最高の形で示されたと見てこれを名誉としなければ、我らは本当に敗戦国民になってしまう」「天才であるはずの人間が、その才能を使って自国民について誤ったことを伝え、公然と批判するのを見るのは何ともやりきれない。それは悲しみに沈む人々をさらに悲しませるだけの行為である」とドイルは語っている。
1912年には初のSF小説でチャレンジャー教授シリーズ第1作である『失われた世界』を公刊した。先史時代の生物が生存している南米アマゾンの台地をチャレンジャー教授が旅する物語である。ドイルの幻想的なイマジネーションが高く評価されている作品である。
さらに翌1913年には再びチャレンジャー教授を主人公とする『毒ガス帯』を執筆した。地球が毒ガス帯を通過し、チャレンジャー教授ら5人を除いた全人類が死に絶えたと思われたが、昏睡していただけだったという物語だが、ドイル研究家の中にはこの昏睡から目覚めた後の世界というのは心霊主義の「次の世界」のことで、つまりこの作品がドイルの心霊主義作品の第1作ではないかと指摘する者もいる。
1911年にはドイツとイギリスで行われた自動車レースのプリンツ・ハインリヒ・トライアル(英語版)に参加した。この際にドイルはドイツ軍人の間にイギリスとの開戦不可避との意識が高まっているのを感じ、イギリスの戦争準備が足りていないと憂うようになったという。
大戦直前には『危険!(英語版)』を著した。これはイギリスが「ノーランド」という架空の国と戦争になり、ノーランドの潜水艦が王立海軍をかわしてイギリス商船に大打撃を与え、イギリスは破れ去るという仮想戦記であるが、この著作はのちに一次大戦のドイツ潜水艦によるイギリス商船攻撃戦略を予見したものと評価され、ドイツ海軍大臣からドイルは「預言者」と呼ばれた。
1914年8月に第一次世界大戦が勃発するとドイルは愛国者として全面的に政府に戦争協力することを決意した。
ドイルは、全国に先駆けて地元クロウバラに「義勇軍」と称する民兵団を創設した。この組織は軍部からも注目され、のちに「第6近衛サセックス義勇連隊クロウバラ隊」として再編成された。ドイルは大戦全期を通じてこの部隊に一兵卒として所属していた。
政府と軍部は著名な作家であるドイルを徹底的に戦意高揚に利用する腹積もりであり、ドイルに各地の前線視察や従軍記執筆を依頼した。ドイルはそれらの要請を快諾し、各戦線を練り歩いて士気を鼓舞する演説を行った。ドイルはどこの戦線でも将兵から人気があったという。1915年からは戦記『フランス及びフランダースにおける戦闘(The British Campaign in France and Flanders)』の執筆を開始し、1920年までに全6巻で完成させた。大戦中のドイルはかつてないほどエネルギッシュに行動し、彼自身ものちに「自己の身体的絶頂期」と評している。
1916年末には強力な総力戦体制・戦時体制構築を目指すロイド・ジョージが首相に就任し、ドイルも政府から一層の戦争協力を求められるようになった。しかし軍部による社会監視も強化され、ドイルの書く歴史書も軍の検閲で修正・削除されることが多くなり、ドイルの苛立ちは募った。ロイド・ジョージを称える公式伝記を書くよう求められたこともあったが、ドイルには首相の伝記を書くことが目下の戦争遂行に必要とは思えなかったとして断っている。
ホームズ関連では、開戦前の1914年4月に書きあげた長編『恐怖の谷』が『ストランド』1914年9月号から9回にわたって連載された。また戦況が泥沼化している1917年にはホームズがドイツ軍スパイの裏をかくという内容の短編『最後の挨拶』を戦意高揚のために執筆した。この作品は同年9月の『ストランド』誌に掲載され、「シャーロック・ホームズの戦争での任務」という副題がつけられた。この作品と1908年から1913年にかけて発表されてきたホームズ短編は1917年に『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』として単行本化されている。
しかしドイルは盲目的に愛国旗振り役だけに徹したわけではなく、1916年には大戦に乗じて反乱(イースター蜂起)を起こしたアイルランド独立運動家サー・ロジャー・ケースメントの死刑執行延期の嘆願書に署名している(しかし功を奏せず、ケースメントは反逆罪でただちに処刑された)。
大戦中、ドイルは身内を多く失う悲劇に見舞われた。妻ジーンの弟マルコム・レッキーが最初に戦死し、ついで妹の夫や2人の甥が戦死した。1918年10月には26歳の長男キングズリーが前線で病死した。1919年2月には若い弟イニスも病死した。
ドイルは一次大戦前から心霊主義に関心を持っており、一次大戦での身内の死が原因で心霊主義に入ったとはいえないが、これをきっかけに心霊主義への傾斜を強めたことは確かなようである。1918年に著した最初の心霊主義に関する著作『新たなる啓示(The New Revelation)』の中でドイルは「戦争で多くの人の死に遭い、悲嘆を味わううちに、我々の愛する人は死後もなお生き続けているはずだとの確信に達した」と書いている。
一次大戦後のドイルは心霊主義の布教を自身の使命と心得るようになった。イギリスのみならずオーストラリア、アメリカ、ヨーロッパ諸国、南アフリカ、ローデシア、ケニアなどを訪問しては心霊主義の講演を行った。1925年にはパリで開かれた国際心霊主義者連盟(英語版)の会議の議長を務めた。一次大戦後にドイルが心霊主義布教のために費やした金額は25万ポンドを超えると言われている。
コティングリー(英語版)の2人の少女(15歳と9歳)が妖精の写真を撮ったと話題になった「コティングリー妖精事件」をめぐっては、ドイルはこの写真を本物と判断し、『ストランド・マガジン』1920年12月号に掲載させた。さらに1922年には『妖精の到来(The Coming of the Fairies)』というタイトルでこの件を本にして出版した。ドイルがこれを信じたのは、少女に偽造写真を作る技術などあるわけがないと考えたこともあった。この写真の真偽はその後、イギリスで延々と論争され続けたが、60年以上後の1983年に至って写真を撮った2人の少女(この時点ではもちろん2人とも老婆になっていた)がそろって本から妖精の絵を切り取って作った偽造写真であることを認めたため、最終的に決着した。
『ストランド・マガジン』1925年7月号から心霊主義小説『霧の国』の連載を開始した。頑なに心霊主義を受け入れないチャレンジャー教授が心霊主義に目覚める話であり、もちろんこの作品のチャレンジャー教授にはドイル本人が投影されている。またイギリスの心霊主義弾圧の法令を批判的に描いている。
『ストランド・マガジン』からの依頼でホームズ短編も執筆したが、この時期のホームズ作品はシャーロキアンからも精彩がないと評価されることが多い。もはやドイルにとってホームズは、心霊主義布教をやりやすくするための資金作りと名声維持の意味しかなくなっていたため、気持ちが十分に入っていなかったと言われている。またホームズ作品の舞台となるヴィクトリア朝とエドワード朝が作者にとって遠い過去の時代になってしまっていたことも原因と見られている。このころに書かれたホームズ短編作品は1927年に『シャーロック・ホームズの事件簿』として単行本化されている。
1929年にはアトランティス沈没を生き延びた人類が深海探査船に発見されるという内容のSF小説『マラコット深海(英語版)』を発表した。
ドイルは1920年代から心臓発作を起こすことが増え、医師から休養を勧められていたが、晩年のドイルは心霊主義布教を最優先にしたため医師の勧告を聞き入れず、積極的に心霊主義の講演に走り回り、執筆活動も続けた。1929年には心臓発作が頻発するようになり、1930年春に一時快方に向かったものの、夏になると再び悪化した。
死の直前の1930年7月1日には、ジェームズ1世時代に制定され、当時心霊主義弾圧のために再利用されるようになっていた「魔女法(英語版)」の撤廃を陳情すべく、内務大臣ジョン・ロバート・クラインスを訪問したが、これによって体力をかなり消耗させた。
1930年7月7日朝7時半、衰弱しきってクロウバラの自宅で寝ていた彼は、家族にベッドから窓際の椅子に移してもらった。そこからサセックスの田舎風景を眺めながら、また家族に看取られながら、8時半ごろに静かに息を引き取った。亡くなる数日前にドイルは「読者は私がたくさんの冒険をしたとお思いだろう。何より偉大で輝かしい冒険がこれから私を待っています」と記していた。
彼の死が世界に伝わると、世界中のファンから多くの弔電を受けた。大量の花束がドイル家に送られ、その輸送のための特別列車が手配されたほどだった。妻ジーンは夫同様、心霊主義に傾倒していたため、寂しくは思っても悲しくは思わなかったという。ジーンは「心霊はそれが宿っている肉体が滅びると、それを抜け出して次の世界へ移動する。だから夫は新しい心霊の世界で生き続けている」と述べた。そのため、7月11日に自宅で行われた葬儀も葬儀というより夏の園遊会のように行われたという。
ドイルの墓標には「鋼鉄のごとく真実で、刃のごとくまっすぐな、アーサー・コナン・ドイル。騎士、愛国者、医者、そして文学者(Steel true/Blade straight/Arthur Conan Doyle/Knight/Patriot, Physician, and man of letters.)」と刻まれている。
ドイルは晩年の1927年に「彼(ホームズ)のことは、もともとそんな気はなかったのに、随分長く書くことになった」「ありがたい友人たちがもっと読みたいとしきりに望むので、書くことを余儀なくされたのだ。おかげで本当に小粒な種から、こんな途方もないものに成長した」と述べている。
一度はホームズを死なせたこともあるドイルはしばしば「シャーロック・ホームズを嫌っていた男」と表現されるが、ドイルは後年に次のように語ってホームズと「和解」している。「ホームズを復活させたことについて、私はまったく後悔していない。こうした軽い作品を書くことにより、史実や詩、歴史小説、心霊現象研究の著作、劇作といったさまざまなジャンルの創作活動において、自分の限界を試し、発見する行為が、特に邪魔されたわけではないからである。もしホームズが最初からいなければ、私はこれ以上の仕事をしてこれなかっただろう。ただもっとシリアスな著作を認めてもらううえで彼が若干のお荷物になったということはあるかもしれない」。
ドイルは、当時の大多数のイギリス人と同様に熱狂的な帝国主義者であり、「大英帝国の拡大が道徳的善を推進する」と信じて疑わなかった。そのため1898年のイギリス軍のスーダン侵攻の際には『コロスコの悲劇』を著し、その中でマフディーの反乱を起こしてイギリス支配を脱却したマフディー教徒たちを「狂信的な専制者」と批判している。1900年から1902年にかけてのボーア戦争の際にもイギリス軍のさまざまな残虐行為の「弁護士」の役割を全力で果たし、その功績で国王エドワード7世よりナイトに叙された。選挙には自由統一党の候補として出馬したが、それは同党が最も強硬に帝国主義戦争を推進していたからだった。
ドイルの大英帝国観は彼の歴史小説の中に見える中世騎士道賛美とも相互補完していた。ドイルは騎士道の強者への賛美はそのまま世界最強国大英帝国への信奉、騎士道の弱者への思いやりはそのまま大英帝国の寛大な植民地政策に反映されていると考えていた。ちなみにベルギー王レオポルド2世による残虐なコンゴ植民地支配には批判的であり、その犯罪的統治を糾弾する『コンゴの犯罪(The Crime of the Congo)』を著している。
女性観も中世騎士道に根ざしており、男は強くあり、女性を保護しなければならないと考えていた。そのためドイルは、無意味な女性差別を廃することには賛成したが、女性が男性の分野に進出してくることには反対した。たとえば離婚事由をめぐって男女差別を規定していた離婚法の改正運動には積極的に協力したが、政治という男の世界への女性の進出を促す婦人参政権には強く反対した。ドイルは、婦人参政権について「女性に選挙権を持たせても何の益もない」「女性が政治運動をすること自体がおぞましく、女性らしくない」と論じている。そのためしばしば婦人参政権論者の憎悪の対象となり、1909年には自宅の郵便受けに硫酸を流し込まれたことがあった。1914年に訪米した際にも、あるアメリカ合衆国の新聞に「シャーロック来る。"狂気の女たち"のリンチに期待」という見出しをつけられた。
反共主義者であり、第一次世界大戦中にロシアで起きた共産革命を強く嫌悪した。ロシア革命について「まるで一人の強健な人物(帝政ロシア)が、突然目の前でドロドロの腐敗物(ソビエト連邦)と化してしまったかのようだ」「やがていくばくもなく共産主義政権は崩壊し、再び強固で健全なロシア人が甦るだろう」という感想を漏らしている。ドイルの後年の心霊主義傾倒は共産主義に対する反発もあったようである。また英国労働党の緩やかな社会主義も非英国的と見て嫌っていた。
ドイルは徹底した国粋主義者だったが、アメリカには好感を持っており、「アングロ・サクソン人が世界をリードすべき」「世界の未来は英米両国の結合にかかっている」と語っていた。1900年には『英米の融和(An Anglo-American Reunion)』という小論文を著し、この2国の結合が善意で実現できなければ、やがてロシアからの威嚇の防衛手段として無理やりその結合を成立させられることとなるであろうと予言した。
心霊主義は19世紀半ばから世界各地で盛んになっていた。イギリスにおける心霊主義の流行はヨーロッパやアジアでの流行に触発されてのものだったが、一度やってくるとイギリスが一番心霊主義の盛んな国となった。
ドイルと心霊主義の最初の出会いは、20歳のときの1880年にバーミンガムで行われた「死は全ての終わりか」という題の心霊主義講演を聞いたことだったが、この時のドイルは「唯物論者」だったといい、不信感をもって心霊話を聞いていたという。しかしやがて少なくない数の科学者が心霊術を認めていることを知ったドイルは、ケンブリッジ大学教授フレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤースが実在すると主張していたテレパシーを自ら実験した結果、それに成功したらしく、心霊現象に対して自分は頑固すぎたと反省したという。
その後、ドイルは降霊会に参加するようになった。最初に降霊を体験したときには、その霊がもたらした情報がでたらめだったのでドイルはがっかりしたが、2度目に降霊を体験をしたときには自分しか知らないことを言い当てられ、心霊が立証されたと感じたという。そしてその体験をした6年後の1893年11月に心霊現象研究協会に正式に入会するに至った。
冷静な論理の化身ホームズの生みの親が心霊主義組織に入会したことは一見矛盾して見えるため、当時も今もドイルにケチをつける者はこの点を批判したり嘲笑することが多いが、当時心霊主義はイギリス各界の権威ある人々から広く信じられていた。ドイルが入会したときの心霊現象研究協会の会長は、のちに首相となる政界の重鎮アーサー・バルフォアであり、哲学者ウィリアム・ジェームズ、博学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス、物理学者オリバー・ロッジ、化学者ウィリアム・クルックスなど名だたる科学者たちも参加していた。
このころのドイルはまださほど熱心に心霊主義を研究していたわけではなかったようである。前述したようにドイルの心霊主義への本格的傾倒は、身内の戦死が続出した第一次世界大戦後である。1920年代のドイルは体調が悪化し続けていたが、無理をしてでも心霊主義布教のために尽くしていた。自分の残りの人生はそのためだけに与えられていると思っていたという。
ドイルは生来体格がよかったこともあって、スポーツ好きだった。
とりわけクリケットが得意であり、メアリルボーン・クリケット・クラブ(英語版)の一員として、投手としても打者としても活躍した。ウィリアム・ギルバート・グレースからアウトを取ったこともあったという。
サッカーでも活躍し、40代までプレイし続けた。ゴルフやビリヤードもたしなんだ。
アマチュアのボクサーでもあり、かなり強かったという。ドイルはボクシングを「武器を使わないもっともフェアで男らしいスポーツ」と絶賛している。
ただドイル本人は自分のスポーツの腕前について「どれも専門的にやったわけではないから、何をやっても二流どまりだった」と謙虚に語っている。
ドイル当人にとっては「どちらかといえば程度の低い作品」であったシャーロック・ホームズシリーズの知名度がドイル作品の中では群を抜いている。『ストランド・マガジン』のホームズ担当編集員だったグリーンハウ・スミスは「シャーロック・ホームズとワトスン博士の名前はみんなにおなじみの名前であり、この2人の名は今や普通名詞化しています」「これはどんな作者でも誇りに思うような偉業です。シャーロック・ホームズは間違いなく、英語で書かれた小説の中でもっともなじみのある、もっとも広く知られた登場人物なのです」と語っている。
ホームズ作品の魅力はもちろんドイルの文才によるところが大きい。ドイルの文章は歯切れがよく、しかも平易で読みやすく、含蓄もある。日本においても英語授業の教材としてしばしば使用されている。物語の簡潔な構成力が高く評価されており、江戸川乱歩はドイルのことを「どちらかといえば短編作家」と評している。またドイルはホームズ作品を通じて、密室、暗号、ダイイング・メッセージ、毒殺・毒物、一人二役、替え玉死体、偽装殺人、意外な凶器、意外な隠し場所など、現代に至るまでの推理物の基本的なトリックのパターンをほぼすべて完成させた人物でもある。
一方、ホームズ以外の作品の知名度は低いと言わざるを得ず、ドイルが自身の傑作と考えていた『ホワイト・カンパニー(英語版)』や『ナイジェル卿の冒険(英語版)』といった歴史小説も現在ではほとんど読まれていない。
ドイルは『ストランド・マガジン』1903年10月号掲載の『最後の事件』で、ホームズがライヘンバッハの滝からモリアーティ教授と落ちながら助かった理由として、「日本武術バリツ」をホームズが身に着けていたためと設定した。また『ストランド・マガジン』1925年2月・3月号掲載の『高名な依頼人』では「聖武天皇」と「奈良の正倉院」を話題として出している。
ドイルが系統的に日本についての知識を有していたかは疑わしい。しかし中国分割をめぐってロシアと対立を深めるイギリスは、1902年に日本と対露を目的とした同盟を締結したため、以降イギリス人の日本への関心は高まっていた。そのため知識人層であるドイルが日本について断片的な知識を有していたとしても不思議ではない。
またドイルの幼馴染の友人には東京帝国大学教授ウィリアム・K・バートンがいた。工業化が急速に進展していた明治の日本は、近代的水道網の設備を急いでおり、バートンはそのための人材として1884年に日本政府から招かれていた。ドイルはバートンと写真を通じて仲がよく、バートンが日本にいる間、イギリスにある彼の預金通帳はドイルが預かっていた。そのような関係から2人は文通も多く、ドイルの日本に関する知識もこのバートンから仕入れられた可能性がある。
ドイルと会ったことがある日本人は確認されている限り2人である。1人は1909年から英国留学した英語教師の安藤貫一で、1910年1月にピカデリー・ホテルでドイルと会見している。ドイルは安藤にバートン教授の話や自分の作品の話をし、「ジェラール准将のごとき武勇伝が私は一番好きで歴史小説に心血を注いできたのに、期待したほどの反応はなく、むしろ探偵小説で予想外の成功を収めたのは意外だった」と語ったという。
もう1人は薩摩治郎八であり、彼は20歳のころの1921年にロンドン日本協会副会長アーサー・ディオシーの紹介でドイルと会見した。彼はドイルにアラビアのロレンスについて質問したという。
1885年にルイーズ・ホーキンズと最初の結婚をしたが、1906年に死別。翌1907年にジーン・レッキーと再婚する。
子供は全部で5人。ルイーズとの間に、長女マリー・ルイーズと長男アーサー・アレイン・キングスレイ(スペインかぜで1918年に死去)。ジーンとの間に、次男デニス・パーシー・スチュワート(グルジア貴族の娘と結婚し、アメリカ合衆国での派手な暮らしで破産同然となる)、三男エイドリアン・マルコム(英語版)(レーサー、探検家)、次女ジーン・レナ・アレット(幼いころから父親の心霊スポット行脚の旅に同行し、両親の死後、イギリス空軍の軍人になり、定年まで勤め上げる。夫も軍人)。三男のエイドリアンは、ジョン・ディクスン・カーの協力を得て、ホームズ・シリーズの続編をいくつか出版した。次男と三男は父親の財産で放蕩の限りを尽くし、父親の版権相続をめぐって一族内で裁判沙汰が絶えなかった。1997年に次女で末娘のジーンが亡くなったことで、コナンドイルの子孫は断絶した。
ドイル作品の版権は次男の死後、三男に引き継がれた。その一部は、次男の未亡人による裁判によって未亡人のものになったが、彼女の経済的破綻によりロイヤルバンク・オブ・スコットランドのものとなり、その後、個人に売却された。1980年にドイルの版権は英国のパブリック・ドメインになったが、アメリカ合衆国では著作権法により2023年まで保護されることになり、次女のジーンに引き継がれた。ジーンの死亡後は、その遺言により英国王立盲人協会 (RNIB)に譲渡されたが、のちにドイル家の傍系の相続人に売却された。
そしてシャーロック・ホームズシリーズの著作権は、2023年1月1日にすべてパブリックドメインになったとされている
延原謙訳『ドイル傑作集』全8巻(新潮文庫、1957年 - 1961年)が、ジャンル別に編纂したアンソロジーの構成。21世紀以降は新潮社で電子出版。21世紀に入り、ホームズ外典を含めた短編集『ドイル傑作集』全5冊が創元推理文庫で出版された。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(英語: Sir Arthur Ignatius Conan Doyle, KStJ, DL, [ˈɑːrθər ɪgˈneɪʃ(i)əs ˈkoʊnən / ˈkɑnən ˈdɔɪl] 発音例1 発音例2, 1859年5月22日 – 1930年7月7日)は、イギリスの作家、医師、政治活動家。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "推理小説・歴史小説・SF小説などを多数著した。とりわけ『シャーロック・ホームズ』シリーズの著者として知られる。SF分野では『失われた世界』『毒ガス帯』などチャレンジャー教授が活躍する作品群を、また歴史小説でも『ホワイト・カンパニー(英語版)』やジェラール准将(英語版)シリーズなどを著している。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "1902年にナイトに叙せられ、「サー」の称号を得た",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "1859年5月22日、スコットランド・エディンバラに測量士補チャールズ・ドイル(英語版)の息子として生まれた。アイルランド系・カトリックの家庭だった。大伯父から「コナン」の姓をもらい、ミドルネームのひとつとなる。祖父や伯父3人は成功者だったが、父は出世せず、のちにアルコール依存症になり精神病院に送られたため、幼少期・青年期の生活は苦しかった(→出生と出自)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "伯父たちの支援でイエズス会系の学校を出たあと、1876年にエジンバラ大学医学部に進学し、1881年に学位を得て卒業した(→学生時代)。大学卒業後、医師として診察所を開業した(→医師として)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "患者を待つ暇な時間を利用し、副業で小説を執筆して雑誌社に投稿するようになり、1887年にはシャーロック・ホームズシリーズの第一作である長編小説『緋色の研究』を発表している(→副業としての初期の執筆活動)。1889年に出版された歴史小説『マイカ・クラーク(英語版)』、1890年に出版されたホームズシリーズ第2作『四つの署名』、1891年に出版された歴史小説『ホワイト・カンパニー(英語版)』などで小説家として成功した(→小説家としての成功)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "1891年にはこれまでの診察所を閉めて、無資格の眼科医を始めたものの、患者はまったく来なかった。これをきっかけに執筆業一本に絞ることになった(→眼科への転身失敗と執筆業一本化)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "1891年から『ストランド・マガジン』で読み切りのホームズ短編小説の連載を始め、爆発的な人気を獲得した(→シャーロック・ホームズの大ヒット)。しかし彼は歴史小説を自分の本分と考えていたため、ホームズシリーズが著名になり過ぎるとホームズを倦厭するようになり、1893年発表の『最後の事件』においてホームズを死亡させた。その後、ナポレオン戦争時代を舞台にしたジェラール准将(英語版)シリーズの連載を開始した(→歴史小説を志向)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1900年にボーア戦争が勃発すると医療奉仕団に医師の1人として参加して戦地に赴いた(→戦地医療奉仕活動)。同年10月に行われた解散総選挙(英語版)に与党自由統一党の候補としてエディンバラ・セントラル選挙区(英語版)から出馬し、戦争支持を訴えたが落選した(→総選挙に出馬するも落選)。ボーア戦争がゲリラ戦争と化して焦土作戦や強制収容所などイギリス軍の残虐行為への国内外の批判が高まっていく中、1902年には『南アフリカ戦争 原因と行い』を公刊して、イギリス軍の汚名を雪ぐことに尽力し、その功績で国王エドワード7世よりナイトに叙され、「サー」の称号を得た(→英軍擁護運動)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1901年には久々のホームズ作品である長編小説『バスカヴィル家の犬』を発表した。この作品の事件の発生年は『最後の事件』より以前に設定され、死亡したと設定されたホームズの復活ではなかったが、1903年から再開されたホームズ短編連載ではホームズは生きていたと設定された(→ホームズの復活)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "彼は「自分にはホームズのような推理力はない」と語っていたが、「ジョージ・エダルジ事件」や「オスカー・スレイター事件」といった事件で、警察のずさんな捜査を暴き、犯人とされた人物の冤罪を晴らすことに尽力した(→冤罪事件への取り組み)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1912年4月のタイタニック号沈没事件について、乗客・船員の英雄譚の実否をめぐって否定的なジョージ・バーナード・ショーと論争した(→タイタニック沈没事件をめぐる論争)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "1912年にはチャレンジャー教授シリーズの第1作である『失われた世界』、その翌年には第2作『毒ガス帯』を発表し、SF小説にも進出した(→チャレンジャー教授の創造と大戦前の動向)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1914年に第一次世界大戦が勃発すると政府や軍部の戦争遂行を全力で支援した。戦意高揚のための執筆活動や、各前線を回って士気を鼓舞する演説を行うことに努めた(→第一次世界大戦をめぐって)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "一次大戦前から心霊主義に関心を持っていたが、戦中の相次ぐ身内の戦死・病死により、戦後には心霊主義への傾斜をいっそう強めた。晩年の活動はほぼすべて心霊主義活動に捧げられた。1925年にはチャレンジャー教授が心霊主義に目覚める『霧の国』を発表した(→心霊主義、心霊主義活動の本格化)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1930年7月7日に死去した(→死去)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "さまざまな分野の執筆を行ったが、推理小説シャーロック・ホームズシリーズの名声がもっとも高く、この作品を通じて後世の推理物のさまざまな原型を築いた(→評価)。政治思想面では、中世騎士道を基礎として、国家主義、帝国主義、反共主義、婦人参政権反対、離婚法改正賛成などの立場をとった(→政治思想)。クリケットをはじめとしてさまざまなスポーツに打ち込むスポーツマンでもあった(→スポーツマン)。先妻はルイーズ、後妻はジーン。先妻との間には1男1女、後妻との間には2男1女を儲けた(→家族)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1859年5月22日、スコットランド労務局測量士補チャールズ・ドイル(英語版)とその妻メアリー(旧姓フォーリー)の長男として、スコットランド・エディンバラのピカーディ・プレイス(picardy place)11番地に生まれる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "チャールズ、メアリー夫妻の子供は全部で9人(無事育ったのは7人)で、うちアーサーと姉アネットは、大伯父にあたる美術批評家マイケル・コナンから「コナン」の姓をもらい、「コナン・ドイル」という複合姓になった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "父方のドイル家は14世紀にフランスからアイルランドへ移民したノルマン人の家系だった。敬虔なカトリックの一族だったため迫害を受けることが多かったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ドイル家が世間の注目を集めるようになったのは、アーサーの祖父であるジョン・ドイルがダブリンからロンドンに出てきて、\"H.B.\" の筆名で著名な風刺画家となってからだった。ジョンの長男ジェームズ(英語版)は画家、次男リチャードはイラストレーター、三男ヘンリー(英語版)はアイルランド国立美術館館長としてそれぞれ成功を収めた。しかし五男であるチャールズ(アーサーの父)だけは一介の測量技師補から出世せず、しかもアルコール依存症だったため、1876年にはその仕事も失い、療養所(のちに精神病院)へ入れられた。そのため幼少期・青年期のアーサーは貧しい環境の中で育ったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "母方のフォーリー家もフランスからアイルランドへ移住したカトリックであり、系図をさかのぼるとフランスから渡来した英国王室プランタジネット朝につながるという。母はそのことを常に誇りにしていたという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "裕福な伯父の支援で1868年にイングランド・ランカシャーにあるイエズス会系の寄宿学校ホダー学院に入学。1870年にはその上級学校であるストーニーハースト・カレッジ(英語版)に進学し、同校で5年間学んだ。スポーツ万能だったドイルは同校のクリケット部主将を務めているが、後年にドイルは同校の体罰の激しさやイエズス会教師の「救いようのない頑迷さ」を批判している。1875年にはドイツ語の勉強も兼ねてオーストリア・フェルトキルヒにあるイエズス会系の学校に1年間留学した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "オーストリアから帰国したころ、母メアリーは少しでも生活費を楽にするため、ある医師を間借り人として置いていた。この間借り人の影響を受けて医師を志すようになったドイルは、1876年にエジンバラ大学医学部に進学した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "5年にわたって同大学に在学したが、ドイルの回顧によれば「長く退屈な勉強の毎日。植物学、化学、解剖学、生理学、その他、大半は医療という技術には大してつながりのない必修科目の履修」という状況だったという。しかしここで知遇を得たジョセフ・ベル教授からは大きな影響を受けた。ベル教授はちょっとした特徴から患者の状況や経歴を言い当てる人物であり、ドイルは彼をモデルにして「シャーロック・ホームズ」の人物像を作り上げたという。また解剖学のウィリアム・ラザフォード(英語版)教授の豪快さはチャレンジャー教授の人物像のモデルになったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "大学在学中、ダーウィンの進化論に共感を寄せたため、徐々にカトリックの信仰心から離れたという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "大学への通学路に古本屋街があったため、古本もよく読むようになった。タキトゥスやホメーロスなどの古典、クラレンドン伯爵の『イングランド反乱史』、スウィフトの『桶物語』、アラン=ルネ・ルサージュの『ジル・ブラース物語(フランス語版)』、サー・ウィリアム・テンプル准男爵のエッセイ、オリバー・ウェンデル・ホームズのエッセイ、トマス・マコーリーのエッセイ、エドガー・アラン・ポーの小説などに強い影響を受けたという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "スポーツにも積極的に参加した。相手を見つければすぐにボクシングの試合をし、またラグビー部ではフォワードを務めた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "当時ドイルの姉2人はポルトガルで働いて実家に仕送りしていたため、ドイルも仕送りしないのは長男として肩身が狭かったらしく、しばしば医師のもとでパートタイムの助手をし、また1880年には7か月にわたって捕鯨船に船医として乗船している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1881年8月に医学士と外科修士の学位を取得したが、成績は並みだった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "大学卒業後の1881年10月にアフリカ汽船会社(英語版)に船医として就職した。10月末にリヴァプールから出航したアフリカ行きの汽船マユンバ号(SS Mayumba)に乗船したが、客が次々とマラリアに罹患してその治療に悪戦苦闘し、彼自身もマラリアを罹患して一時生死の境をさまよった。気候も暑くてたまらなかったという。1882年1月にリヴァプールへ戻ったころにはこれ以上アフリカ行きの汽船の船医を続ける気にはなれなくなっており、退職した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "このあと、ロンドンの伯父たちに会って支援を受けようとしたが、敬虔なカトリックである彼らは信仰心を失ったドイルを助けてはくれなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1882年5月にはエジンバラ大学の同級生ジョージ・バッドに誘われて、プリマスのバッドの診察所の共同経営者となった。バッドの診察は型破りとして評判で客が多かったが、ドイルが診察を分担するようになってから客が減ってきたため、2か月もたたないうちに2人の関係は破局した。バッドが「ドイルの看板が外にあるから客が減るのだ」と非難してきたのを機にドイルはバッドと袂を分かつ決意を固めた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1882年6月末からポーツマス郊外サウスシー(英語版)で診察所を個人開業するようになった。8年にわたって診察所を続けたが、その年収が300ポンドを超えた年はなかった。すでに医師が多くいる地域だったためこれ以上の成功は望めない状況だったという。スポーツが得意だったため地域社会にはすぐに溶け込み、ボウリング大会で優勝したり、クリケット・クラブの主将を務めたり、サッカー・クラブの立ち上げにも参加した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1885年には病死した患者の姉であるルイーズ・ホーキンズと最初の結婚をした。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ドイルは患者を待つ時間を利用して短編小説を執筆し、雑誌社に投稿するようになった。1882年には『我が友、殺人者(My Friend the Murderer)』が『ロンドン・ソサエティ(英語版)』誌から10ポンドで買ってもらえた。ついで同年末には捕鯨船での体験を基にした『北極星号の船長(The Captain of the Pole-Star)』が『テンプル・バー(英語版)』誌に10ギニーで買ってもらえた。さらに1883年にはメアリー・セレストの事件に触発されて書いた『J・ハバクック・ジェフソンの遺書(英語版)』が『コーンヒル・マガジン(英語版)』誌に29ギニーで買ってもらえ、これはドイルの初期の執筆活動最大の成功となった。ただし買い取ってもらえるのは稀なケースで大半の作品は返却されていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "短編小説は小金稼ぎになったが、作者名が掲載されないため、その場限りなのが難点だった。ドイルの自伝によれば、1885年の結婚後にこのまま短編を書き続けても進歩がないと思うようになり、単行本になるぐらいの長編小説を書こうと思い立ったという。はじめに『ガードルストーン会社(英語版)』という長編小説を書いたが、出版してくれる出版社がなかなか見つからず、刊行は1890年になった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "この後の1886年3月から4月にかけて執筆した長編小説がシャーロック・ホームズシリーズの第一作『緋色の研究』だった。これも出版社がなかなか見つからなかったが、1886年10月末にウォード・ロック社(英語版)に25ポンドという短編並みの安値で買い取ってもらった。同作品は1887年11月出版の『ビートンのクリスマス年鑑』に掲載された。その翌年には単行本化もされた。反響はほどほどというレベルだった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "『緋色の研究』出版までの間に『ガス・アンド・ウォーター・ガゼット』誌からの依頼でドイツ語の『ガスパイプ漏れの検査』を英語訳した。後年、コナン・ドイルは「世人は『緋色の研究』が私の仕事の突破口だと思うかもしれないが、そうではない。自分から頼んだのではなく出版社から依頼された初めての仕事という意味でこの翻訳が私の突破口となった」と語っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1887年7月から1888年初めにかけて、17世紀後半のモンマスの反乱を描いた歴史小説『マイカ・クラーク(英語版)』を執筆した。この作品はロングマン社(英語版)に買い取ってもらい、1889年2月に出版した。かなり評判がよく、1年の間に3版も重版を重ねている。後年ドイル自身も「この作品が自分の最初の出世作だった」と語っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1889年にアメリカ合衆国のJ.B.リピンコット(英語版)からの依頼でシャーロック・ホームズシリーズ第二作の長編小説『四つの署名』を執筆し、1890年2月に英米で出版された。この作品の評判もよかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "『四つの署名』執筆後、14世紀を舞台にした歴史小説『ホワイト・カンパニー(英語版)』の執筆に戻った(この小説の執筆と歴史調査には2年かけていた)。『マイカ・クラーク』と『四つの署名』の評判がよかったため、コーンヒル社から雑誌掲載で200ポンド、単行本化で350ポンドという高い報酬で買ってもらえた。単行本は全3巻で出版されたが、非常によく売れ、コナン・ドイルの小説家としての名声を押し上げた。この本はのちに学校の歴史教育の教材にも使われており、それについてドイルは「長く読み伝えられ、イギリスの伝統が栄光に輝いてほしい」という感想を述べている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1890年8月、ドイツ・ベルリンで開催された国際医学会においてロベルト・コッホが新しい結核治療法を発見したと発表した。気になったドイルはただちにベルリンへ向かったが、コッホの講演会チケットを手に入れることができなかった。諦めきれず、コッホの家に押しかけるも会ってもらえなかった。しかしコッホの講演会のメモを手に入れることはでき、これを読んだドイルは『デイリー・テレグラフ』紙に投稿して、コッホの研究は不完全で結果が出ていないと批判した。のちにコッホの研究の不十分さが判明したため、真っ先にそれを指摘した彼は誇らしい気分だったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "このベルリン滞在時にドイルは突然眼科医になることを思い立った。1890年11月にサウスシーに戻って診察所を閉めると、1891年1月には妻を連れてオーストリア首都ウィーンへ移住し、眼科医の実習を受けた。しかしドイルのドイツ語能力は専門的授業を受けられるレベルではなかったため、すぐにも授業についていけなくなり、ウィーンでの眼科医資格取得を断念した。6か月の予定だった実習を2か月で切り上げ、1891年3月末にロンドンへ帰国した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "帰国後にはロンドンのモンタギュー・プレイス23番地の邸宅で暮らすとともに、アッパー・ウィンポール街において無資格の眼科医を始めた。しかしロンドンには資格を持った眼科医が大勢いたため、無資格の眼科医に診てもらおうなどという患者は現れなかった。ドイルはこの暇な時間を使って小説の執筆に励んだ。患者がまったく来ない眼科診察所は結局閉鎖することになり、執筆業一本に絞っていくことになった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "診察所を閉鎖するとサウス・ノーウッド(英語版)郊外テニスン・ロード12番地に移住した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "このころ、ドイルは同じ人物を主人公とした短編小説を読み切り連載で書くことを考えていた。その主人公として選ばれたのがシャーロック・ホームズだった。ホームズをシリーズ化することにしたのは、すでにホームズ作品を2つ出していたため(『緋色の研究』と『4つの署名』)、シリーズ化が一番容易だろうと判断したためだった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "こうして書かれたホームズ短編小説6編は1891年1月に発刊されたばかりの『ストランド・マガジン』誌に1作35ポンドで買ってもらえ、同誌1891年7月号から順次掲載された。この連載は初回から話題となり、ホームズシリーズは人気となり、『ストランド・マガジン』の販売数を押し上げた。好評にこたえてさらに6編のホームズ短編小説を書き、1892年1月号から連載された。この連載が終わった1892年6月、これまで発表された12編のホームズ短編小説が『シャーロック・ホームズの冒険』として単行本化された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ドイルのもとにはホームズ読者の手紙が大量に届くようになったが、その大半はドイル宛てではなく、ホームズ宛てだったという(ドイルはホームズ宛ての手紙には「ドクター・ジョン・ワトスン」名義で「残念ながらホームズさんは留守でして」という返事を書いていたという)。またサインを求められることも多くなったが、それもやはり「コナン・ドイル」のサインではなく、「シャーロック・ホームズ」のサインを求められることが多かったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "このころ、ドイルは『ブックマン(英語版)』誌において「シャーロック・ホームズについて全国からたくさんのお便りをもらうようになりました。あるときは学生から、あるときは熱心な読者の巡回セールスマンの方から。時には弁護士の方から法律の誤りを指摘されることもあります。シャーロックの若いころのことを知りたいといった手紙も多いです」と語っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "しかしドイル当人は歴史小説が自分の本分と考えており、歴史小説家として名前を残したがっていた。そのためホームズの評判が高くなりすぎると、逆にホームズを倦厭するようになった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "最初のホームズ連載が終わると、ホームズを離れ、17世紀フランスのカルヴァン派への弾圧と彼らのアメリカ亡命を描いた歴史小説『亡命者(英語版)』の執筆を行った。1892年2月までに同作品を完成させ、『ストランド・マガジン』とアメリカ合衆国の『ハーパーズ・ニューマンリース』誌で発表し、1893年には単行本化された。それなりに売れたものの、すでにホームズ人気には及ばなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "『ストランド・マガジン』はドイルに歴史小説よりホームズシリーズの続編を書いてほしいと要請し続けていた。これに対してドイルは「1,000ポンドの報酬を出すならもう12編のホームズ短編を書いてもいい」という条件を提示した。破格の報酬を条件に出すことで『ストランド・マガジン』の方から諦めさせようとしたようだが、同誌はこの条件を本当に呑んでしまったため、書くしかなくなった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "こうして再び書かれた12編のホームズ短編小説は『ストランド・マガジン』1892年12月号から発表され、のちに『シャーロック・ホームズの回想』として単行本化された。しかしこの連載の最後である1893年12月号の『最後の事件』ではホームズをライヘンバッハの滝に落として死んだことにしてしまったため、物議をかもした。ドイルはこの連載が始まる前の母に宛てた手紙の中で「私はホームズを最後に殺すことでこの仕事を打ち切ることを考えています。彼のために私はほかのもっと素晴らしいことを考える余裕がなくなっているからです」と漏らしていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ホームズを死なせたドイルは、1894年からナポレオン戦争時代を描いた『ジェラール准将(英語版)』シリーズの執筆を開始した。最初の8編は1896年に『ジェラール准将の功績』として単行本化され、続く8編は1903年に『ジェラールの冒険』として単行本化されている。ジェラール准将シリーズもかなりの人気作品になったが、世間では依然ホームズシリーズの再開とホームズの復活を求める声が強かった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "南アフリカに帝国主義的野心を抱いていたソールズベリー侯爵内閣植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンは、南アフリカのボーア人国家トランスヴァール共和国を追い詰め、1899年10月に同国がイギリスに宣戦布告してくるよう持ち込んだ(第二次ボーア戦争)。しかしボーア人は住民として地の利を生かして戦い、侵攻してきたイギリス軍に大きな損害を与えていた。戦死者の増大を前にイギリス本国ではインド人など植民地人を代わりに戦わせ、イギリス人の人的損害を減らすべきことが盛んに主張されるようになった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "これに対してドイルは『タイムズ』紙で「植民地人の兵士を戦地に送るべきという意見が各方面で強まっているようだが、イギリス人が1人も戦地に行かないで植民地の人間に穴埋めさせるのは名誉に関わるのではないか」と主張するとともに、自身もイギリス軍に従軍する決意を固めた。従軍に反対する母への手紙の中でドイルは「私はあなたから愛国心を学びました。ですから私を責めないでください。兵士としてどの程度役にたてるかは分からないですが、自分は模範を示す人間として国に奉仕できると思います。思うに私はイギリスで誰よりも若者たち、特にスポーツを愛する若者に強い影響を与えることができると思います。だから若者の手本になることが重要なのです」と説得している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "しかしドイルはすでに40歳過ぎだったため、陸軍の兵役検査に落ちた。ドイルはやむなく従軍を諦めたが、代わりに50人の医療奉仕団を戦地に派遣するという友人ジョン・ラングマンの計画に医師の1人として参加することにした。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ドイルらラングマン医療奉仕団は1900年3月に英領ケープ植民地首都ケープランドに到着し、ロバーツ卿(英語版)率いるイギリス軍の進軍路をたどって負傷者・発病者の治療にあたった。ドイルも休む暇もなく献身的に働いた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1900年6月、イギリス軍はトランスヴァール首都プレトリアを陥落させた。ドイルは占領下プレトリアでイギリス軍司令官ロバーツ卿と会見し、医療奉仕団の活躍を報告している。プレトリア陥落で戦争の大勢は決したかのように思われたので(実際にはゲリラ戦争と化してさらに2年続くが)、ドイルは今戦争についての総括の執筆を行うため、また近々行われると見られていた総選挙に出馬すべく、7月に帰国の途に就いた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "帰国後ただちに『大ボーア戦争(英語版)』を執筆したが、この著作はプレトリア陥落でボーア戦争は終結したという前提で書かれたものだったため、この後ボーア戦争が泥沼のゲリラ戦争と化していく中で時流にあっていないものになってしまった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ドイルはボーア戦争以前から政界進出への意欲をマスコミ紙面で表明していた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "そのため1900年10月の解散総選挙(英語版)を前にして、与党である保守党・自由統一党も、野党である自由党も著名な作家であるドイルを自党の候補に擁立しようと誘いをかけた。ドイルは、自由統一党からの出馬を決めた。同党はジョゼフ・チェンバレンやデヴォンシャー公爵らアイルランド自治に反対する自由党議員が自由党から離党して作った政党であり、この頃には保守党と連立して与党を形成し、戦争支持を表明していた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "自由統一党執行部は与党候補の当選が安定している選挙区を用意すると言ってくれていたが、ドイルはそれを断って「スコットランド急進派の砦」と呼ばれ、与党候補の当選が困難と見られていたエディンバラ・セントラル選挙区(英語版)から出馬した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "同選挙区の自由党候補は出版業者ジョージ・マッケンジー・ブラウン(英語版)だったが、ドイルは自分と彼の間に社会問題や地元選挙区の関心事項について相違はないことを強調することで争点をボーア戦争の是非のみに持ち込み、そのうえで「南アフリカの明るい未来の見通し」や「大きな流れの真ん中で馬を変えることの危険性」を説き、与党支持を訴えた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "しかし、選挙日前日に福音派信者がドイルのことを「教皇派共謀者」「イエズス会密使」「プロテスタント信仰破壊者」と誹謗中傷するプラカードを持って行進し、これによってドイルは有権者から狂信的カトリックのように誤解され、選挙の流れが不利になったという(少なくともドイル本人はそう思っていた)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "選挙の結果はブラウンの3,028票に対してドイルは2,459票に留まり、落選であった。しかし前回選挙と比べると自由党候補の票を1,500票も減じた格好だったため、党は一定の成果があったと評価したようである。ちなみに総選挙全体の結果は与党の圧勝であった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "一方、ボーア戦争はゲリラ戦争と化していた、民家がゲリラの活動拠点になっていると見たイギリス軍は焦土作戦を実施した(1900年9月には、ゲリラが攻撃してきた地点から16キロ四方の村は焼き払ってよいとの方針が定められている)。イギリス軍の焦土作戦で焼け出されたボーア人の多くは強制収容所に送られたが、そこの環境は劣悪であり、2万人以上の人々が命を落としていった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "国内外でイギリス軍の残虐行為への批判が高まった。しかし大英帝国の拡大が世界に道徳と秩序をもたらすと信じるドイルは、こうした批判には徹底的に反論した。ドイルは1902年3月にもイギリス軍擁護の小冊子『南アフリカ戦争 原因と行い』を著した。この中で彼はイギリス軍の焦土作戦について「イギリス軍が民間人の家を焼くのは、そこがゲリラの拠点となった場合のみ」「責任は最初にゲリラ戦法を行った側(ボーア人)にある」と擁護した。強制収容所については「焼け出された婦女子を保護するのは文明国イギリスの義務である。収容所内では食糧もしっかり出されている。それにもかかわらず収容者の死亡率が高いのは病気のせいだが、イギリス軍内でも病死者が続出しており、差別的な取り扱いではない」と擁護した。またイギリス軍人によるボーア人婦女子強姦については「いかなる戦争でも女性は既婚・未婚問わず憎悪に晒される。避けられないことだ」と批判を一蹴する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "この小冊子は政府や戦争支持派から熱烈に支持され、発売から6週間で30万部を突破した。ドイルは自分のポケットマネーや募金で集めた資金を元手にして、この小冊子をできる限り多くの言語に翻訳して各国に配布し、イギリスの国際的な汚名を雪ぐことにも努めた。この活動を政府から評価され、1902年10月24日に国王エドワード7世からKnight Bachelorに叙され、以降「サー」の称号を使用できるようになった。また同時に名誉職のサリー州副統監にも任命された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "ボーア戦争から帰国して8か月ほど経った1901年3月にドイルは友人とノーフォークの温泉に行ったが、そこで友人からダートムーアに伝わる魔犬伝説を聞いた。興味を持ったドイルは現地調査を行ったうえで数か月間でホームズ長編小説『バスカヴィル家の犬』を書きあげた。この作品は『ストランド・マガジン』1901年8月号から8回に分けて連載された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "久々のホームズ作品の発表にホームズファンは大喜びしたが、これは物語の設定上死亡したことになっているホームズが復活したわけではなく、事件の発生日を『最後の事件』以前に設定したものだった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ホームズ復活への熱望がますます高まる中、とうとうドイルもホームズを復活させる決意を固め、『ストランド・マガジン』1903年10月号から新連載された読み切りホームズ短編シリーズの第一作『空家の冒険』の中で、ホームズは「バリツ」なる日本武術を使って死なずに済んだと設定した。この新連載13編は1905年に『シャーロック・ホームズの生還』として単行本化されている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "『ストランド・マガジン』誌1906年7月号から『ホワイト・カンパニー』の姉妹編の歴史長編小説『サー・ナイジェル(英語版)』を発表した。ドイルはこれを自身の最高傑作と自負していた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1906年には妻ルイーズが結核のために死去した。ドイルは1897年の出会いのときに一目ぼれをしたものの、妻を気遣ってプラトニックな関係に留めてきたジーン・レッキーと1907年に再婚した。これを機にクロウバラに移住して新婚生活を始めた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ドイル自身は「自分にホームズのような推理力はない」と述べていたが、彼は以下の2つの事件において、冤罪を晴らすことに貢献した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "その最初の事件はバーミンガムに近いグレイト・ワーリー(英語版)で発生した「ジョージ・エダルジ事件」だった。これは1903年中、6か月にわたって同地の家畜の牛馬たちが何者かによって腹を裂かれて殺害された事件だった(傷口は浅かったものの長く、家畜たちは出血多量で死んでいた)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "地元警察から疑われたのは、インド系の弁護士ジョージ・エダルジだった。エダルジはこれまでも散々人種差別に晒され、地元警察や住民から忌み嫌われてきた人だった。上記の事件が発生するとエダルジを犯人と告発する怪文書が地元警察や住民に出回った。警察はこの怪文書もエダルジの自作自演と判断し、エダルジの自宅を家宅捜索した。そして血痕らしき小さなシミと馬の毛がついたスーツが発見されたとして、エダルジを家畜殺害の容疑者として逮捕した。怪文書の筆跡もエダルジの筆跡であると鑑定された。裁判にかけられたエダルジは有罪判決を受け、石切場での7年の重労働刑に処された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "しかし警察が依頼した筆跡鑑定官は別の事件の裁判でもいい加減な鑑定をしたことで悪名高い人物であり、しかもエダルジが石切場で重労働させられている間にも家畜が殺される事件が発生したため、エダルジ冤罪説が強まり、内務省に再審請求が殺到した。内務省は1906年10月にエダルジを仮釈放したものの、仮釈の理由を説明せず、有罪判決を取り消したわけではなかった。このやり口に憤慨したエダルジは新聞で自らの冤罪を訴えた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "これを読んで事件に関心を持ったドイルは、裁判記録を調べ、犯行現場を視察し、またエダルジ本人とも会見した。ドイルはエダルジと会った瞬間に彼の無罪を確信したという。ドイルがエダルジを訪問したとき、エダルジは眼を近づけて横にずらすように新聞を読んでいるところだったが、かつて眼科の勉強をしていたドイルは、この様子を見て彼がメガネでも矯正できないほどの強度の近視かつ乱視だと見抜いたという。そのため彼が闇夜の野原の中から家畜場や家畜の位置を特定して傷つけることなど不可能と考えたのだった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "ドイルは証拠の洗い直しを行い、警察のずさんな捜査の実態を次々と暴いた。エダルジが書いたと鑑定された怪文書を別の筆跡鑑定人のところに持ち込んだ結果、エダルジの筆跡ではないという鑑定結果を得られた。上着の馬の毛については、その衣服が警察署へ運ばれる途中に馬のなめし皮入りの袋に入れられたために付着しただけであると突き止めた。また、同じく衣服に付着していた血痕らしきシミについては「どんなに腕のいい暗殺者でも暗闇で馬を引き裂いて3ペンス銅貨2つの血痕しか付かないなどということはあり得ない」と問題視しなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "著名な作家コナン・ドイルが事件を出版したことで事件への国内外の注目は大いに高まった(アメリカ合衆国の『ニューヨーク・タイムズ』は一面で報道している)。そのためイギリス政府としてもこの事件をいい加減なままにしておくことはできなくなり、1907年春には事件の再調査を行う「エダルジ委員会」が設置された。しかしそのメンバーには警察に都合のいい人物が入れられていたため、委員会は家畜殺しについてエダルジの無罪を認めつつも、怪文書を書いた件については有罪を覆さなかった。その結果、エダルジは特赦を受けつつ、「ある程度までエダルジの責任」とされて、3年間の重労働刑についての刑事補償を認められなかった。ドイルはこれにがっかりし、役人のかばい合い体質を批判するとともに、この事件はイギリス裁判の汚点となるだろうと主張した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "1908年12月、スコットランド・グラスゴーでマリオン・ギルクリストという老女がダイヤモンドのブローチを奪われて撲殺された。警察が容疑者としたのはユダヤ系ドイツ人のオスカー・スレイターだった。スレイターはギャンブルや犯罪まがいのことに手を染めてきた素行の悪い人物だったうえ、この直前にダイヤモンドのブローチを質に入れており、しかも偽名で船に乗ってニューヨークに渡航していたため、一見して疑わしい人物だった。またユダヤ人だったため、人種的偏見を向けるのにも格好の標的だった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "警察の捜査は粗略というより、彼を犯人に仕立てあげようという悪意がこめられているものだった。たとえば、証人たちはあらかじめスレイターの写真を犯人の写真と言って見せつけられ、スレイターを犯人と証言するよう誘導されていた。唯一の物的証拠であるスレイターが質入れしたダイヤモンドのブローチはギルクリフトのものと一致せず、質入れした時期も殺人事件前だと判明したが、警察はそれらの情報を隠ぺいしていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "ニューヨークにいるスレイターは当局から犯罪人引き渡しの脅迫を受けたため、自発的にイギリスに帰国し、逮捕されて裁判にかけられたが、警察による証拠の捏造と隠蔽、弁護士や裁判官の杜撰さによって死刑判決を受けてしまった。当時のスコットランドには刑事事件の上訴制度がなかったため、スレイターにできることはもはや国王エドワード7世に慈悲を乞うことだけだった。世論はスレイターに同情し、2万人もの減刑嘆願署名が集まり、恐らくその影響で死刑執行2日前に終身重労働刑に減刑された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "ドイルは1910年にこの事件の証拠の矛盾を扱ったウィリアム・ラフヘッド弁護士の小冊子を読んで事件を知り、冤罪事件との確信を強めたが、エダルジ事件での役人の結託・隠蔽にうんざりしていたため、今回はすぐに腰を上げようとはしなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "しかし調べれば調べるほど、エダルジ事件より酷い冤罪事件と分かり、結局彼は取り組む決意をした。1912年夏に小冊子『オスカー・スレイター事件』を出版した。この中でドイルはスレイターが偽名でアメリカに逃亡したのは、若い愛人と一緒にいることが妻にばれることを恐れて警察から逃れようとしたのではないことを指摘した。また凶器とされるスレイターが持っていた小型ハンマーについては「画鋲を抜いたり、小さな石炭のかけらをたたく以上のことをしたら限界を超える」と指摘した。またこの冤罪がユダヤ人に対する人種的偏見に根ざしている点も指摘した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "ドイルの介入で事件が注目を集める中、事件を担当した刑事ジョン・トレンチ警部補は良心の呵責に耐えかね、警察の方で証言を捏造したことを暴露した。しかし裁判所はこの暴露を再審理由として十分ではないとして却下し、しかもトレンチ警部補は警察上層部の圧力で解雇され、年金を打ち切られてしまった。警察の腐敗ぶりに愕然としたドイルは、『スペクテイター』誌において「この事件は警察の無能さと頑迷さの最高の一例として犯罪傑作集に不滅の名を留めるだろう」と語った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "その後、この事件についての動きは10年以上なかった。その間、スレイターは服役を続け、ドイルは再審請求を何度も司法当局に提出したが、取り合ってもらえない状況が続いた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "1925年2月、服役して16年になるスレイターは看守の目を盗んで釈放された囚人仲間を利用してドイルに助けを求める手紙を送った。これを読んだドイルは、再びこの問題に本腰を入れて取り組む決意を固めた。ドイルは1927年7月にジャーナリストのウィリアム・パークが出版したスレイターの無罪を訴える著作『オスカー・スレイターについての真実』に協力した。この本は世論に大きな影響を与え、この事件に関するマスコミの再調査が過熱した。1927年11月に『エンパイア・ニュース(英語版)』紙は、警察の用意した証人は警察から「スレイターを犯人と証言しろ」と脅迫されていたことを明らかにした。同紙のライバル紙『デイリー・ニュース』も、警察が証人に賄賂を送っていたことを明らかにした。マスコミの報道合戦で警察腐敗の実態がさらに暴露されることを恐れたイギリス政府は同時期に突然スレイターを釈放し、この問題を鎮静化させようとした。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "スレイターは釈放されたものの、いまだ無罪と認められたわけではなかった。ドイルは間髪いれずスレイターの名誉回復および不当な刑罰に対する刑事補償の請求を行った。今回は再審が認められたが、スレイターには金がなかったため、裁判費用は支援者たちの募金およびドイルの1,000ポンドの資金援助で賄われた。裁判の結果、スレイターは公式に無罪と判決されたものの、刑事補償はわずか6,000ポンドしか払われず、18年にも及ぶ不当投獄に対するものとしては少なすぎた。しかも裁判費用を全額負担せねばならなかった(ドイルとしては刑事補償1万ポンド、裁判費用は全額国持ちが妥当と考えていた)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "ドイルはあくまで司法・警察の腐敗を正すために行動したのであって、スレイター個人の人柄が好きなわけではなかった(ドイルは強烈な国家主義者であり、スレイターのように不道徳な生活を送る根なし草のコスモポリタンは嫌いだった)ため、無罪判決を得た今、スレイターとは縁を切るつもりだった。彼がお礼として送ってきた贈り物もすべて返却している。またドイルはスレイターが支援者たちに裁判費用を返還しないことを批判した。ドイルにとっては大した金額ではなく自分への返還はどうでもよかったが、ほかの貧しい支援者たちに債務を押しつけようとしていることは許せなかった。ドイルはスレイターに「きみは私が今まで会った人間の中でももっとも恩知らずで愚かな人間だ」と批判する手紙を送っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "1912年4月、タイタニック号沈没事件があった。マスコミ各紙がこぞって乗客や船員たちの英雄的行動やメロドラマを書きたてる中、文学者ジョージ・バーナード・ショーはその空気に反発し、噂や作り話を実際の英雄譚かのように書きたてるマスコミの扇情的体質を批判した。しかし、ドイルは友人をタイタニック事件で失っていたため、乗客・船員たちの英雄神話をぶち壊そうとするショーを許せなかった。ショーの主張を「つむじ曲がり的発想がひどすぎる」と批判した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "ショーは最初に出た40人乗り救命ボートに乗ったのが男10人、女2人だったことを指摘し、婦女子が優先的に助けられたという話は根拠がないと主張したが、ドイルはショーが「特殊な状況下で出た」1号ボートの例しか持ち出さないことを批判し、その次のボートには70人が乗り、うち65人が女性だったことを指摘し、婦女子優先は徹底されていたと反論した(現在ではタイタニックの乗客のうち、女子供は4人のうち3人までが生存し、男は5人のうち4人までが死んだことが判明している。したがってこの論争についてはドイルが正しかったことになる)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "またショーはエドワード・スミス船長の英雄譚(海を泳いで子供を救ったと報道されていた)はイギリス海運の問題点をうやむやにしたという点で「イギリス海運の勝利」と論じたが、ドイルは「スミス船長の英雄的行動は単なる事実であり、『イギリス海運の勝利』などとは何の関係もない。ショー氏がそう思っているだけである」と反論した。ちなみにショーはスミス船長の英雄譚を与太話と疑っていたが、ドイルは信じていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "乗客がパニックにならないよう船が傾くまで演奏を続けたというタイタニックの楽団の英雄譚も、ショーが「混乱回避のために命令されてやらされただけで、この曲のせいで乗客に危機感が生まれず、助かるはずだった人も多く命を落とした」と批判したのに対して、ドイルは「仮に命令されたことだとしても、その賢明な命令や楽団員たちの英雄的行動の価値を少しも減じるものではない。混乱を避けることは正しいし、そういうやり方を取ったのは素晴らしい」と反論した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "ドイルには「桁外れに悲劇的な出来事には桁外れの英雄が必要」という信念があったため、英雄譚に誇張あるいは捏造があったとしても問題視しなかった。「この事件をイギリスの栄光を強調するのに利用したとの批判があるが、勇気と規律が最高の形で示されたと見てこれを名誉としなければ、我らは本当に敗戦国民になってしまう」「天才であるはずの人間が、その才能を使って自国民について誤ったことを伝え、公然と批判するのを見るのは何ともやりきれない。それは悲しみに沈む人々をさらに悲しませるだけの行為である」とドイルは語っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "1912年には初のSF小説でチャレンジャー教授シリーズ第1作である『失われた世界』を公刊した。先史時代の生物が生存している南米アマゾンの台地をチャレンジャー教授が旅する物語である。ドイルの幻想的なイマジネーションが高く評価されている作品である。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "さらに翌1913年には再びチャレンジャー教授を主人公とする『毒ガス帯』を執筆した。地球が毒ガス帯を通過し、チャレンジャー教授ら5人を除いた全人類が死に絶えたと思われたが、昏睡していただけだったという物語だが、ドイル研究家の中にはこの昏睡から目覚めた後の世界というのは心霊主義の「次の世界」のことで、つまりこの作品がドイルの心霊主義作品の第1作ではないかと指摘する者もいる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "1911年にはドイツとイギリスで行われた自動車レースのプリンツ・ハインリヒ・トライアル(英語版)に参加した。この際にドイルはドイツ軍人の間にイギリスとの開戦不可避との意識が高まっているのを感じ、イギリスの戦争準備が足りていないと憂うようになったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "大戦直前には『危険!(英語版)』を著した。これはイギリスが「ノーランド」という架空の国と戦争になり、ノーランドの潜水艦が王立海軍をかわしてイギリス商船に大打撃を与え、イギリスは破れ去るという仮想戦記であるが、この著作はのちに一次大戦のドイツ潜水艦によるイギリス商船攻撃戦略を予見したものと評価され、ドイツ海軍大臣からドイルは「預言者」と呼ばれた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "1914年8月に第一次世界大戦が勃発するとドイルは愛国者として全面的に政府に戦争協力することを決意した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "ドイルは、全国に先駆けて地元クロウバラに「義勇軍」と称する民兵団を創設した。この組織は軍部からも注目され、のちに「第6近衛サセックス義勇連隊クロウバラ隊」として再編成された。ドイルは大戦全期を通じてこの部隊に一兵卒として所属していた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "政府と軍部は著名な作家であるドイルを徹底的に戦意高揚に利用する腹積もりであり、ドイルに各地の前線視察や従軍記執筆を依頼した。ドイルはそれらの要請を快諾し、各戦線を練り歩いて士気を鼓舞する演説を行った。ドイルはどこの戦線でも将兵から人気があったという。1915年からは戦記『フランス及びフランダースにおける戦闘(The British Campaign in France and Flanders)』の執筆を開始し、1920年までに全6巻で完成させた。大戦中のドイルはかつてないほどエネルギッシュに行動し、彼自身ものちに「自己の身体的絶頂期」と評している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "1916年末には強力な総力戦体制・戦時体制構築を目指すロイド・ジョージが首相に就任し、ドイルも政府から一層の戦争協力を求められるようになった。しかし軍部による社会監視も強化され、ドイルの書く歴史書も軍の検閲で修正・削除されることが多くなり、ドイルの苛立ちは募った。ロイド・ジョージを称える公式伝記を書くよう求められたこともあったが、ドイルには首相の伝記を書くことが目下の戦争遂行に必要とは思えなかったとして断っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "ホームズ関連では、開戦前の1914年4月に書きあげた長編『恐怖の谷』が『ストランド』1914年9月号から9回にわたって連載された。また戦況が泥沼化している1917年にはホームズがドイツ軍スパイの裏をかくという内容の短編『最後の挨拶』を戦意高揚のために執筆した。この作品は同年9月の『ストランド』誌に掲載され、「シャーロック・ホームズの戦争での任務」という副題がつけられた。この作品と1908年から1913年にかけて発表されてきたホームズ短編は1917年に『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』として単行本化されている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "しかしドイルは盲目的に愛国旗振り役だけに徹したわけではなく、1916年には大戦に乗じて反乱(イースター蜂起)を起こしたアイルランド独立運動家サー・ロジャー・ケースメントの死刑執行延期の嘆願書に署名している(しかし功を奏せず、ケースメントは反逆罪でただちに処刑された)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "大戦中、ドイルは身内を多く失う悲劇に見舞われた。妻ジーンの弟マルコム・レッキーが最初に戦死し、ついで妹の夫や2人の甥が戦死した。1918年10月には26歳の長男キングズリーが前線で病死した。1919年2月には若い弟イニスも病死した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "ドイルは一次大戦前から心霊主義に関心を持っており、一次大戦での身内の死が原因で心霊主義に入ったとはいえないが、これをきっかけに心霊主義への傾斜を強めたことは確かなようである。1918年に著した最初の心霊主義に関する著作『新たなる啓示(The New Revelation)』の中でドイルは「戦争で多くの人の死に遭い、悲嘆を味わううちに、我々の愛する人は死後もなお生き続けているはずだとの確信に達した」と書いている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "一次大戦後のドイルは心霊主義の布教を自身の使命と心得るようになった。イギリスのみならずオーストラリア、アメリカ、ヨーロッパ諸国、南アフリカ、ローデシア、ケニアなどを訪問しては心霊主義の講演を行った。1925年にはパリで開かれた国際心霊主義者連盟(英語版)の会議の議長を務めた。一次大戦後にドイルが心霊主義布教のために費やした金額は25万ポンドを超えると言われている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "コティングリー(英語版)の2人の少女(15歳と9歳)が妖精の写真を撮ったと話題になった「コティングリー妖精事件」をめぐっては、ドイルはこの写真を本物と判断し、『ストランド・マガジン』1920年12月号に掲載させた。さらに1922年には『妖精の到来(The Coming of the Fairies)』というタイトルでこの件を本にして出版した。ドイルがこれを信じたのは、少女に偽造写真を作る技術などあるわけがないと考えたこともあった。この写真の真偽はその後、イギリスで延々と論争され続けたが、60年以上後の1983年に至って写真を撮った2人の少女(この時点ではもちろん2人とも老婆になっていた)がそろって本から妖精の絵を切り取って作った偽造写真であることを認めたため、最終的に決着した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "『ストランド・マガジン』1925年7月号から心霊主義小説『霧の国』の連載を開始した。頑なに心霊主義を受け入れないチャレンジャー教授が心霊主義に目覚める話であり、もちろんこの作品のチャレンジャー教授にはドイル本人が投影されている。またイギリスの心霊主義弾圧の法令を批判的に描いている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "『ストランド・マガジン』からの依頼でホームズ短編も執筆したが、この時期のホームズ作品はシャーロキアンからも精彩がないと評価されることが多い。もはやドイルにとってホームズは、心霊主義布教をやりやすくするための資金作りと名声維持の意味しかなくなっていたため、気持ちが十分に入っていなかったと言われている。またホームズ作品の舞台となるヴィクトリア朝とエドワード朝が作者にとって遠い過去の時代になってしまっていたことも原因と見られている。このころに書かれたホームズ短編作品は1927年に『シャーロック・ホームズの事件簿』として単行本化されている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "1929年にはアトランティス沈没を生き延びた人類が深海探査船に発見されるという内容のSF小説『マラコット深海(英語版)』を発表した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "ドイルは1920年代から心臓発作を起こすことが増え、医師から休養を勧められていたが、晩年のドイルは心霊主義布教を最優先にしたため医師の勧告を聞き入れず、積極的に心霊主義の講演に走り回り、執筆活動も続けた。1929年には心臓発作が頻発するようになり、1930年春に一時快方に向かったものの、夏になると再び悪化した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "死の直前の1930年7月1日には、ジェームズ1世時代に制定され、当時心霊主義弾圧のために再利用されるようになっていた「魔女法(英語版)」の撤廃を陳情すべく、内務大臣ジョン・ロバート・クラインスを訪問したが、これによって体力をかなり消耗させた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "1930年7月7日朝7時半、衰弱しきってクロウバラの自宅で寝ていた彼は、家族にベッドから窓際の椅子に移してもらった。そこからサセックスの田舎風景を眺めながら、また家族に看取られながら、8時半ごろに静かに息を引き取った。亡くなる数日前にドイルは「読者は私がたくさんの冒険をしたとお思いだろう。何より偉大で輝かしい冒険がこれから私を待っています」と記していた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "彼の死が世界に伝わると、世界中のファンから多くの弔電を受けた。大量の花束がドイル家に送られ、その輸送のための特別列車が手配されたほどだった。妻ジーンは夫同様、心霊主義に傾倒していたため、寂しくは思っても悲しくは思わなかったという。ジーンは「心霊はそれが宿っている肉体が滅びると、それを抜け出して次の世界へ移動する。だから夫は新しい心霊の世界で生き続けている」と述べた。そのため、7月11日に自宅で行われた葬儀も葬儀というより夏の園遊会のように行われたという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "ドイルの墓標には「鋼鉄のごとく真実で、刃のごとくまっすぐな、アーサー・コナン・ドイル。騎士、愛国者、医者、そして文学者(Steel true/Blade straight/Arthur Conan Doyle/Knight/Patriot, Physician, and man of letters.)」と刻まれている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "ドイルは晩年の1927年に「彼(ホームズ)のことは、もともとそんな気はなかったのに、随分長く書くことになった」「ありがたい友人たちがもっと読みたいとしきりに望むので、書くことを余儀なくされたのだ。おかげで本当に小粒な種から、こんな途方もないものに成長した」と述べている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "一度はホームズを死なせたこともあるドイルはしばしば「シャーロック・ホームズを嫌っていた男」と表現されるが、ドイルは後年に次のように語ってホームズと「和解」している。「ホームズを復活させたことについて、私はまったく後悔していない。こうした軽い作品を書くことにより、史実や詩、歴史小説、心霊現象研究の著作、劇作といったさまざまなジャンルの創作活動において、自分の限界を試し、発見する行為が、特に邪魔されたわけではないからである。もしホームズが最初からいなければ、私はこれ以上の仕事をしてこれなかっただろう。ただもっとシリアスな著作を認めてもらううえで彼が若干のお荷物になったということはあるかもしれない」。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "ドイルは、当時の大多数のイギリス人と同様に熱狂的な帝国主義者であり、「大英帝国の拡大が道徳的善を推進する」と信じて疑わなかった。そのため1898年のイギリス軍のスーダン侵攻の際には『コロスコの悲劇』を著し、その中でマフディーの反乱を起こしてイギリス支配を脱却したマフディー教徒たちを「狂信的な専制者」と批判している。1900年から1902年にかけてのボーア戦争の際にもイギリス軍のさまざまな残虐行為の「弁護士」の役割を全力で果たし、その功績で国王エドワード7世よりナイトに叙された。選挙には自由統一党の候補として出馬したが、それは同党が最も強硬に帝国主義戦争を推進していたからだった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "ドイルの大英帝国観は彼の歴史小説の中に見える中世騎士道賛美とも相互補完していた。ドイルは騎士道の強者への賛美はそのまま世界最強国大英帝国への信奉、騎士道の弱者への思いやりはそのまま大英帝国の寛大な植民地政策に反映されていると考えていた。ちなみにベルギー王レオポルド2世による残虐なコンゴ植民地支配には批判的であり、その犯罪的統治を糾弾する『コンゴの犯罪(The Crime of the Congo)』を著している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "女性観も中世騎士道に根ざしており、男は強くあり、女性を保護しなければならないと考えていた。そのためドイルは、無意味な女性差別を廃することには賛成したが、女性が男性の分野に進出してくることには反対した。たとえば離婚事由をめぐって男女差別を規定していた離婚法の改正運動には積極的に協力したが、政治という男の世界への女性の進出を促す婦人参政権には強く反対した。ドイルは、婦人参政権について「女性に選挙権を持たせても何の益もない」「女性が政治運動をすること自体がおぞましく、女性らしくない」と論じている。そのためしばしば婦人参政権論者の憎悪の対象となり、1909年には自宅の郵便受けに硫酸を流し込まれたことがあった。1914年に訪米した際にも、あるアメリカ合衆国の新聞に「シャーロック来る。\"狂気の女たち\"のリンチに期待」という見出しをつけられた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "反共主義者であり、第一次世界大戦中にロシアで起きた共産革命を強く嫌悪した。ロシア革命について「まるで一人の強健な人物(帝政ロシア)が、突然目の前でドロドロの腐敗物(ソビエト連邦)と化してしまったかのようだ」「やがていくばくもなく共産主義政権は崩壊し、再び強固で健全なロシア人が甦るだろう」という感想を漏らしている。ドイルの後年の心霊主義傾倒は共産主義に対する反発もあったようである。また英国労働党の緩やかな社会主義も非英国的と見て嫌っていた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "ドイルは徹底した国粋主義者だったが、アメリカには好感を持っており、「アングロ・サクソン人が世界をリードすべき」「世界の未来は英米両国の結合にかかっている」と語っていた。1900年には『英米の融和(An Anglo-American Reunion)』という小論文を著し、この2国の結合が善意で実現できなければ、やがてロシアからの威嚇の防衛手段として無理やりその結合を成立させられることとなるであろうと予言した。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "心霊主義は19世紀半ばから世界各地で盛んになっていた。イギリスにおける心霊主義の流行はヨーロッパやアジアでの流行に触発されてのものだったが、一度やってくるとイギリスが一番心霊主義の盛んな国となった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "ドイルと心霊主義の最初の出会いは、20歳のときの1880年にバーミンガムで行われた「死は全ての終わりか」という題の心霊主義講演を聞いたことだったが、この時のドイルは「唯物論者」だったといい、不信感をもって心霊話を聞いていたという。しかしやがて少なくない数の科学者が心霊術を認めていることを知ったドイルは、ケンブリッジ大学教授フレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤースが実在すると主張していたテレパシーを自ら実験した結果、それに成功したらしく、心霊現象に対して自分は頑固すぎたと反省したという。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "その後、ドイルは降霊会に参加するようになった。最初に降霊を体験したときには、その霊がもたらした情報がでたらめだったのでドイルはがっかりしたが、2度目に降霊を体験をしたときには自分しか知らないことを言い当てられ、心霊が立証されたと感じたという。そしてその体験をした6年後の1893年11月に心霊現象研究協会に正式に入会するに至った。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "冷静な論理の化身ホームズの生みの親が心霊主義組織に入会したことは一見矛盾して見えるため、当時も今もドイルにケチをつける者はこの点を批判したり嘲笑することが多いが、当時心霊主義はイギリス各界の権威ある人々から広く信じられていた。ドイルが入会したときの心霊現象研究協会の会長は、のちに首相となる政界の重鎮アーサー・バルフォアであり、哲学者ウィリアム・ジェームズ、博学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス、物理学者オリバー・ロッジ、化学者ウィリアム・クルックスなど名だたる科学者たちも参加していた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "このころのドイルはまださほど熱心に心霊主義を研究していたわけではなかったようである。前述したようにドイルの心霊主義への本格的傾倒は、身内の戦死が続出した第一次世界大戦後である。1920年代のドイルは体調が悪化し続けていたが、無理をしてでも心霊主義布教のために尽くしていた。自分の残りの人生はそのためだけに与えられていると思っていたという。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "ドイルは生来体格がよかったこともあって、スポーツ好きだった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "とりわけクリケットが得意であり、メアリルボーン・クリケット・クラブ(英語版)の一員として、投手としても打者としても活躍した。ウィリアム・ギルバート・グレースからアウトを取ったこともあったという。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "サッカーでも活躍し、40代までプレイし続けた。ゴルフやビリヤードもたしなんだ。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "アマチュアのボクサーでもあり、かなり強かったという。ドイルはボクシングを「武器を使わないもっともフェアで男らしいスポーツ」と絶賛している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "ただドイル本人は自分のスポーツの腕前について「どれも専門的にやったわけではないから、何をやっても二流どまりだった」と謙虚に語っている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "ドイル当人にとっては「どちらかといえば程度の低い作品」であったシャーロック・ホームズシリーズの知名度がドイル作品の中では群を抜いている。『ストランド・マガジン』のホームズ担当編集員だったグリーンハウ・スミスは「シャーロック・ホームズとワトスン博士の名前はみんなにおなじみの名前であり、この2人の名は今や普通名詞化しています」「これはどんな作者でも誇りに思うような偉業です。シャーロック・ホームズは間違いなく、英語で書かれた小説の中でもっともなじみのある、もっとも広く知られた登場人物なのです」と語っている。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "ホームズ作品の魅力はもちろんドイルの文才によるところが大きい。ドイルの文章は歯切れがよく、しかも平易で読みやすく、含蓄もある。日本においても英語授業の教材としてしばしば使用されている。物語の簡潔な構成力が高く評価されており、江戸川乱歩はドイルのことを「どちらかといえば短編作家」と評している。またドイルはホームズ作品を通じて、密室、暗号、ダイイング・メッセージ、毒殺・毒物、一人二役、替え玉死体、偽装殺人、意外な凶器、意外な隠し場所など、現代に至るまでの推理物の基本的なトリックのパターンをほぼすべて完成させた人物でもある。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "一方、ホームズ以外の作品の知名度は低いと言わざるを得ず、ドイルが自身の傑作と考えていた『ホワイト・カンパニー(英語版)』や『ナイジェル卿の冒険(英語版)』といった歴史小説も現在ではほとんど読まれていない。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "ドイルは『ストランド・マガジン』1903年10月号掲載の『最後の事件』で、ホームズがライヘンバッハの滝からモリアーティ教授と落ちながら助かった理由として、「日本武術バリツ」をホームズが身に着けていたためと設定した。また『ストランド・マガジン』1925年2月・3月号掲載の『高名な依頼人』では「聖武天皇」と「奈良の正倉院」を話題として出している。",
"title": "ドイルと日本"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "ドイルが系統的に日本についての知識を有していたかは疑わしい。しかし中国分割をめぐってロシアと対立を深めるイギリスは、1902年に日本と対露を目的とした同盟を締結したため、以降イギリス人の日本への関心は高まっていた。そのため知識人層であるドイルが日本について断片的な知識を有していたとしても不思議ではない。",
"title": "ドイルと日本"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "またドイルの幼馴染の友人には東京帝国大学教授ウィリアム・K・バートンがいた。工業化が急速に進展していた明治の日本は、近代的水道網の設備を急いでおり、バートンはそのための人材として1884年に日本政府から招かれていた。ドイルはバートンと写真を通じて仲がよく、バートンが日本にいる間、イギリスにある彼の預金通帳はドイルが預かっていた。そのような関係から2人は文通も多く、ドイルの日本に関する知識もこのバートンから仕入れられた可能性がある。",
"title": "ドイルと日本"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "ドイルと会ったことがある日本人は確認されている限り2人である。1人は1909年から英国留学した英語教師の安藤貫一で、1910年1月にピカデリー・ホテルでドイルと会見している。ドイルは安藤にバートン教授の話や自分の作品の話をし、「ジェラール准将のごとき武勇伝が私は一番好きで歴史小説に心血を注いできたのに、期待したほどの反応はなく、むしろ探偵小説で予想外の成功を収めたのは意外だった」と語ったという。",
"title": "ドイルと日本"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "もう1人は薩摩治郎八であり、彼は20歳のころの1921年にロンドン日本協会副会長アーサー・ディオシーの紹介でドイルと会見した。彼はドイルにアラビアのロレンスについて質問したという。",
"title": "ドイルと日本"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "1885年にルイーズ・ホーキンズと最初の結婚をしたが、1906年に死別。翌1907年にジーン・レッキーと再婚する。",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "子供は全部で5人。ルイーズとの間に、長女マリー・ルイーズと長男アーサー・アレイン・キングスレイ(スペインかぜで1918年に死去)。ジーンとの間に、次男デニス・パーシー・スチュワート(グルジア貴族の娘と結婚し、アメリカ合衆国での派手な暮らしで破産同然となる)、三男エイドリアン・マルコム(英語版)(レーサー、探検家)、次女ジーン・レナ・アレット(幼いころから父親の心霊スポット行脚の旅に同行し、両親の死後、イギリス空軍の軍人になり、定年まで勤め上げる。夫も軍人)。三男のエイドリアンは、ジョン・ディクスン・カーの協力を得て、ホームズ・シリーズの続編をいくつか出版した。次男と三男は父親の財産で放蕩の限りを尽くし、父親の版権相続をめぐって一族内で裁判沙汰が絶えなかった。1997年に次女で末娘のジーンが亡くなったことで、コナンドイルの子孫は断絶した。",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "ドイル作品の版権は次男の死後、三男に引き継がれた。その一部は、次男の未亡人による裁判によって未亡人のものになったが、彼女の経済的破綻によりロイヤルバンク・オブ・スコットランドのものとなり、その後、個人に売却された。1980年にドイルの版権は英国のパブリック・ドメインになったが、アメリカ合衆国では著作権法により2023年まで保護されることになり、次女のジーンに引き継がれた。ジーンの死亡後は、その遺言により英国王立盲人協会 (RNIB)に譲渡されたが、のちにドイル家の傍系の相続人に売却された。",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "そしてシャーロック・ホームズシリーズの著作権は、2023年1月1日にすべてパブリックドメインになったとされている",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "延原謙訳『ドイル傑作集』全8巻(新潮文庫、1957年 - 1961年)が、ジャンル別に編纂したアンソロジーの構成。21世紀以降は新潮社で電子出版。21世紀に入り、ホームズ外典を含めた短編集『ドイル傑作集』全5冊が創元推理文庫で出版された。",
"title": "おもな著作"
}
] | アーサー・イグナティウス・コナン・ドイルは、イギリスの作家、医師、政治活動家。 推理小説・歴史小説・SF小説などを多数著した。とりわけ『シャーロック・ホームズ』シリーズの著者として知られる。SF分野では『失われた世界』『毒ガス帯』などチャレンジャー教授が活躍する作品群を、また歴史小説でも『ホワイト・カンパニー』やジェラール准将シリーズなどを著している。 1902年にナイトに叙せられ、「サー」の称号を得た | {{Infobox 作家
| name = <!--氏名-->アーサー・コナン・ドイル<br />Arthur Conan Doyle
| image = <!--写真、肖像画等のファイル名-->Conan doyle.jpg
| image_size = <!--画像サイズ-->250px
| caption = <!--画像説明-->[[1914年]][[6月1日]]のコナン・ドイル
| pseudonym = <!--ペンネーム-->
| birth_name = <!--出生名-->
| birth_date = <!--{{生年月日と年齢|XXXX|XX|XX}}(省略不可)。-->[[1859年]][[5月22日]]
| birth_place = <!--生誕地、出身地-->{{SCO}}・[[エディンバラ]]
| death_date = <!--{{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}}-->{{死亡年月日と没年齢|1859|5|22|1930|7|7}}
| death_place = <!--死亡地-->{{ENG}}・[[クロウバラ]]
| resting_place = <!--墓地、埋葬地-->
| occupation = <!--職種-->[[作家]]、[[医師]]、[[政治活動家]]
| language = <!--著作時の言語-->[[英語]]
| nationality = <!--国籍-->{{GBR}}
| education = <!--受けた教育、習得した博士号など-->
| alma_mater = <!--出身校、最終学歴-->[[エディンバラ大学]]医学部
| period = <!--作家としての活動期間、処女作出版から最終出版まで-->
| genre = <!--全執筆ジャンル-->[[推理小説]]、[[歴史小説]]、[[サイエンス・フィクション|SF小説]]、政治・社会問題、[[心霊主義]]
| subject = <!--全執筆対象、主題(ノンフィクション作家の場合)-->
| movement = <!--作家に関連した、もしくは関わった文学運動-->
| religion = <!--信仰する宗教-->
| notable_works = <!--代表作-->[[シャーロック・ホームズシリーズ]]<br />[[チャレンジャー教授]]シリーズ<br />{{仮リンク|ジェラール准将|en|Brigadier Gerard}}シリーズ<br />『{{仮リンク|ホワイト・カンパニー|en|The White Company}}』([[1891年]])
| spouse = <!--配偶者-->[[ルイーズ・コナン・ドイル|ルイーズ]]([[1885年]]-[[1906年]])<br />[[ジーン・コナン・ドイル|ジーン]]([[1907年]]-[[1930年]])
| partner = <!--結婚していない仕事のパートナー(親族など)-->
| children = <!--子供の人数を記入。子供の中に著名な人物がいればその名前を記入する-->
| relations = <!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する-->
| influences = <!--影響を受けた作家名-->
| influenced = <!--影響を与えた作家名-->
| awards = <!--主な受賞歴-->[[ナイト]](1902年)
| debut_works = <!--処女作-->
| signature = <!--署名・サイン-->Arthur Conan Doyle Signature.svg
| website = <!--本人の公式ウェブサイト-->
| footnotes = <!--脚注・小話-->
}}
'''アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル'''<ref name="スタ(2010)40">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.40</ref>{{#tag:ref|Ignatiusは、'''イグナシウス'''<ref name="ピア(2012)274">[[#ピア(2012)|ピアソン(2012)]] p.274</ref>、Conan Doyleは、'''コーナン・ドイル'''とも表記される<ref>[[海野十三]]『四次元漂流』</ref><ref>[[松本清張]]『[[アムステルダム運河殺人事件]]』</ref>。なお英語圏の人名としてのIgnatiusは、一般には'''イグネシアス'''<ref>[[古森義久]] 「[http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/i/87/index1.html 今回の金融危機は「大恐慌」と比べて桁違いに軽症]」 日経BP</ref><ref>久野陽一 「イグネシアス・サンチョの静かな生活」 『十八世紀イギリス文学研究 第4号 - 交渉する文化と言語』</ref>、'''イグネイシャス'''<ref>[[大井浩二]]、「[https://hdl.handle.net/10236/5203 イグネイシャス・ドネリーの危機意識]」 紀要『人文論究』 1984年 34巻 1号 p.21-35, {{hdl|10236/5203}}, 関西学院大学</ref><ref>デイヴィッド・イグネイシャス([[真野明裕]]訳)『密盟』</ref>などと表記される。|group=注釈}}({{lang-en|''Sir'' Arthur Ignatius '''Conan Doyle'''}}, {{Post-nominals|post-noms=[[:en:Venerable Order of Saint John|KStJ]], [[副統監|DL]]}}, {{IPA|ˈɑː''r''θə''r'' ɪgˈneɪʃ(i)əs ˈkoʊnən / ˈkɑnən ˈdɔɪl}}<ref>[[リーダーズ英和辞典]]第3版</ref> [http://ja.forvo.com/word/arthur_ignatius_conan_doyle/ 発音例1] [http://it.heracleums.org/tools/pronunciation/en/of/arthur_ignatius_conan_doyle/ 発音例2], [[1859年]][[5月22日]] – [[1930年]][[7月7日]])は、[[イギリス]]の[[作家]]、[[医師]]、[[政治活動家]]。
[[推理小説]]・[[歴史小説]]・[[サイエンス・フィクション|SF小説]]などを多数著した。とりわけ[[シャーロック・ホームズシリーズ|『シャーロック・ホームズ』シリーズ]]の著者として知られる<ref>{{Cite web|和書|url=https://president.jp/articles/-/40561|title=130年前から「名探偵といえばホームズ」と言われる本当の理由 現代にも通用するキャラクター造形|publisher=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2020-11-20|accessdate=2020-11-24}}</ref>。SF分野では『[[失われた世界]]』『[[毒ガス帯]]』など[[チャレンジャー教授]]が活躍する作品群を、また歴史小説でも『{{仮リンク|ホワイト・カンパニー|en|The White Company}}』や{{仮リンク|ジェラール准将|en|Brigadier Gerard}}シリーズなどを著している。
[[1902年]]に[[ナイト]]に叙せられ、「[[サー]]」の称号を得た{{#tag:ref|ドイルは、[[ボーア戦争]]で批判を受けるイギリス軍を擁護した活動により、[[ナイト]]に叙され、''Sir Arthur Conan Doyle'' または ''Sir Arthur'' と呼ばれる資格を得た。日本語の文献では ''Sir'' を「卿」と訳すこともあるが、同じく「卿」と訳される ''Lord'' (侯爵から男爵の称号、また公爵・侯爵の庶子の[[儀礼称号]])とは異なる。「[[敬称#欧米の言語]]」の ''Sir'' の項を参照。|group=注釈}}
== 概要 ==
[[1859年]][[5月22日]]、[[スコットランド]]・[[エディンバラ]]に[[測量士]]補{{仮リンク|チャールズ・ドイル|en|Charles_Altamont_Doyle}}の息子として生まれた。[[アイルランド人|アイルランド系]]・[[カトリック]]の家庭だった。大伯父から「コナン」の姓をもらい、ミドルネームのひとつとなる。祖父や伯父3人は成功者だったが、父は出世せず、のちに[[アルコール依存症]]になり[[精神病院]]に送られたため、幼少期・青年期の生活は苦しかった(''→[[#出生と出自|出生と出自]]'')。
伯父たちの支援で[[イエズス会]]系の学校を出たあと、[[1876年]]に[[エジンバラ大学]]医学部に進学し、[[1881年]]に学位を得て卒業した(''→[[#学生時代|学生時代]]'')。大学卒業後、[[医師]]として診察所を開業した(''→[[#医師として|医師として]]'')。
患者を待つ暇な時間を利用し、副業で小説を執筆して雑誌社に投稿するようになり、[[1887年]]には[[シャーロック・ホームズシリーズ]]の第一作である長編小説『[[緋色の研究]]』を発表している(''→[[#副業としての初期の執筆活動|副業としての初期の執筆活動]]'')。[[1889年]]に出版された歴史小説『{{仮リンク|マイカ・クラーク|en|Micah Clarke}}』、[[1890年]]に出版されたホームズシリーズ第2作『[[四つの署名]]』、[[1891年]]に出版された歴史小説『{{仮リンク|ホワイト・カンパニー|en|The White Company}}』などで小説家として成功した(''→[[#小説家としての成功|小説家としての成功]]'')。
1891年にはこれまでの診察所を閉めて、無資格の眼科医を始めたものの、患者はまったく来なかった。これをきっかけに執筆業一本に絞ることになった(''→[[#眼科への転身失敗と執筆業一本化|眼科への転身失敗と執筆業一本化]]'')。
1891年から『[[ストランド・マガジン]]』で読み切りのホームズ短編小説の連載を始め、爆発的な人気を獲得した(''→[[#シャーロック・ホームズの大ヒット|シャーロック・ホームズの大ヒット]]'')。しかし彼は歴史小説を自分の本分と考えていたため、ホームズシリーズが著名になり過ぎるとホームズを倦厭するようになり、1893年発表の『[[最後の事件]]』においてホームズを死亡させた。その後、[[ナポレオン戦争]]時代を舞台にした{{仮リンク|ジェラール准将|en|Brigadier Gerard}}シリーズの連載を開始した(''→[[#歴史小説を志向|歴史小説を志向]]'')。
[[1900年]]に[[ボーア戦争]]が勃発すると医療奉仕団に医師の1人として参加して戦地に赴いた(''→[[#戦地医療奉仕活動|戦地医療奉仕活動]]'')。同年10月に行われた{{仮リンク|1900年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1900}}に与党[[自由統一党 (イギリス)|自由統一党]]の候補として{{仮リンク|エディンバラ・セントラル選挙区|en|Edinburgh Central (UK Parliament constituency)}}から出馬し、戦争支持を訴えたが落選した(''→[[#総選挙に出馬するも落選|総選挙に出馬するも落選]]'')。ボーア戦争が[[ゲリラ]]戦争と化して[[焦土作戦]]や[[強制収容所]]などイギリス軍の残虐行為への国内外の批判が高まっていく中、[[1902年]]には『南アフリカ戦争 原因と行い』を公刊して、イギリス軍の汚名を雪ぐことに尽力し、その功績で[[イギリスの君主|国王]][[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]より[[ナイト]]に叙され、「[[サー]]」の称号を得た(''→[[#英軍擁護運動|英軍擁護運動]]'')。
[[1901年]]には久々のホームズ作品である長編小説『[[バスカヴィル家の犬]]』を発表した。この作品の事件の発生年は『最後の事件』より以前に設定され、死亡したと設定されたホームズの復活ではなかったが、[[1903年]]から再開されたホームズ短編連載ではホームズは生きていたと設定された(''→[[#ホームズの復活|ホームズの復活]]'')。
彼は「自分にはホームズのような推理力はない」と語っていたが、「[[ジョージ・エダルジ]]事件」や「[[オスカー・スレイター事件]]」といった事件で、警察のずさんな捜査を暴き、犯人とされた人物の冤罪を晴らすことに尽力した(''→[[#冤罪事件への取り組み|冤罪事件への取り組み]]'')。
[[1912年]]4月の[[タイタニック (客船)|タイタニック号]][[タイタニック号沈没事故|沈没事件]]について、乗客・船員の英雄譚の実否をめぐって否定的な[[ジョージ・バーナード・ショー]]と論争した(''→[[#タイタニック沈没事件をめぐる論争|タイタニック沈没事件をめぐる論争]]'')。
1912年には[[チャレンジャー教授]]シリーズの第1作である『[[失われた世界]]』、その翌年には第2作『[[毒ガス帯]]』を発表し、[[SF小説]]にも進出した(''→[[#チャレンジャー教授の創造と大戦前の動向|チャレンジャー教授の創造と大戦前の動向]]'')。
[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が勃発すると政府や軍部の戦争遂行を全力で支援した。戦意高揚のための執筆活動や、各前線を回って士気を鼓舞する演説を行うことに努めた(''→[[#第一次世界大戦をめぐって|第一次世界大戦をめぐって]]'')。
一次大戦前から[[心霊主義]]に関心を持っていたが、戦中の相次ぐ身内の戦死・病死により、戦後には心霊主義への傾斜をいっそう強めた。晩年の活動はほぼすべて心霊主義活動に捧げられた。1925年にはチャレンジャー教授が心霊主義に目覚める『[[霧の国]]』を発表した(''→[[#心霊主義|心霊主義]]、[[#心霊主義活動の本格化|心霊主義活動の本格化]]'')。
[[1930年]][[7月7日]]に死去した(''→[[#死去|死去]]'')。
さまざまな分野の執筆を行ったが、推理小説[[シャーロック・ホームズシリーズ]]の名声がもっとも高く、この作品を通じて後世の推理物のさまざまな原型を築いた(''→[[#評価|評価]]'')。政治思想面では、中世[[騎士道]]を基礎として、[[国家主義]]、[[帝国主義]]、[[反共主義]]、[[婦人参政権]]反対、離婚法改正賛成などの立場をとった(''→[[#政治思想|政治思想]]'')。[[クリケット]]をはじめとしてさまざまなスポーツに打ち込むスポーツマンでもあった(''→[[#スポーツマン|スポーツマン]]'')。先妻は[[ルイーズ・コナン・ドイル|ルイーズ]]、後妻は[[ジーン・コナン・ドイル|ジーン]]。先妻との間には1男1女、後妻との間には2男1女を儲けた(''→[[#家族|家族]]'')。
== 生涯 ==
=== 出生と出自 ===
[[1859年]][[5月22日]]、[[スコットランド]]労務局[[測量士]]補{{仮リンク|チャールズ・ドイル|en|Charles_Altamont_Doyle}}とその妻メアリー(旧姓フォーリー)の長男として、スコットランド・[[エディンバラ]]のピカーディ・プレイス(picardy place)11番地に生まれる<ref name="スタ(2010)40">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.40</ref>。
チャールズ、メアリー夫妻の子供は全部で9人(無事育ったのは7人)で、うちアーサーと姉アネットは、大伯父にあたる美術批評家マイケル・コナンから「コナン」の姓をもらい、「コナン・ドイル」という複合姓になった<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.40/558</ref><ref name="カー(1993)39">[[#カー(1993)|カー(1993)]] p.39</ref>。
父方のドイル家は[[14世紀]]に[[フランス王国|フランス]]から[[アイルランド王国|アイルランド]]へ移民した[[ノルマン人]]の家系だった。敬虔な[[カトリック]]の一族だったため迫害を受けることが多かったという<ref name="シモ(1991)38">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.38</ref><ref name="カー(1993)33">[[#カー(1993)|カー(1993)]] p.33</ref>。
ドイル家が世間の注目を集めるようになったのは、アーサーの祖父である[[ジョン・ドイル (風刺画家)|ジョン・ドイル]]が[[ダブリン]]から[[ロンドン]]に出てきて、"H.B." の筆名で著名な風刺画家となってからだった<ref name="シモ(1991)38">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.38</ref>。ジョンの長男{{仮リンク|ジェームズ・ウィリアム・エドムンド・ドイル|label=ジェームズ|en|James William Edmund Doyle}}は画家、次男[[リチャード・ドイル|リチャード]]は[[イラストレーター]]、三男{{仮リンク|ヘンリー・エドワード・ドイル|label=ヘンリー|en|Henry Edward Doyle}}は[[アイルランド国立美術館]]館長としてそれぞれ成功を収めた。しかし五男であるチャールズ(アーサーの父)だけは一介の測量技師補から出世せず、しかも[[アルコール依存症]]だったため、[[1876年]]にはその仕事も失い、療養所(のちに精神病院)へ入れられた。そのため幼少期・青年期のアーサーは貧しい環境の中で育ったという<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.40-42/44</ref><ref>[[#ピア(2012)|ピアソン(2012)]] p.8-10/21/30/274-275</ref>。
母方のフォーリー家もフランスからアイルランドへ移住したカトリックであり、系図をさかのぼるとフランスから渡来した英国王室[[プランタジネット朝]]につながるという。母はそのことを常に誇りにしていたという<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.40-42</ref><ref name="河村(1991)30">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.30</ref>。
=== 学生時代 ===
[[File:Joseph Bell.jpg|180px|thumb|[[シャーロック・ホームズ]]のモデルである[[エジンバラ大学]]医学部教授[[ジョセフ・ベル]]]]
裕福な伯父の支援で[[1868年]]にイングランド・[[ランカシャー]]にある[[イエズス会]]系の寄宿学校ホダー学院に入学。[[1870年]]にはその上級学校である{{仮リンク|ストーニーハースト・カレッジ|en|Stonyhurst College}}に進学し、同校で5年間学んだ<ref name="スタ(2010)42">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.42</ref>。スポーツ万能だったドイルは同校の[[クリケット]]部主将を務めているが、後年にドイルは同校の体罰の激しさやイエズス会教師の「救いようのない頑迷さ」を批判している<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.42-43</ref>。[[1875年]]には[[ドイツ語]]の勉強も兼ねて[[オーストリア・ハンガリー帝国|オーストリア]]・[[フェルトキルヒ]]にあるイエズス会系の学校に1年間留学した<ref name="スタ(2010)43">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.43</ref>。
オーストリアから帰国したころ、母メアリーは少しでも生活費を楽にするため、ある医師を間借り人として置いていた。この間借り人の影響を受けて医師を志すようになったドイルは、[[1876年]]に[[エジンバラ大学]]医学部に進学した<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.45-46</ref>。
5年にわたって同大学に在学したが、ドイルの回顧によれば「長く退屈な勉強の毎日。植物学、化学、解剖学、生理学、その他、大半は医療という技術には大してつながりのない必修科目の履修」という状況だったという<ref name="シモ(1991)44">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.44</ref><ref name="ピア(2012)22">[[#ピア(2012)|ピアソン(2012)]] p.22</ref>。しかしここで知遇を得た[[ジョセフ・ベル]]教授からは大きな影響を受けた。ベル教授はちょっとした特徴から患者の状況や経歴を言い当てる人物であり<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.47-49</ref>、ドイルは彼をモデルにして「[[シャーロック・ホームズ]]」の人物像を作り上げたという<ref name="シモ(1991)166">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.166</ref>。また解剖学の{{仮リンク|ウィリアム・ラザフォード (生理学者)|label=ウィリアム・ラザフォード|en|William Rutherford (physiologist)}}教授の豪快さは[[チャレンジャー教授]]の人物像のモデルになったという<ref name="河村(1991)38">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.38</ref>。
大学在学中、[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]の[[進化論]]に共感を寄せたため、徐々にカトリックの信仰心から離れたという<ref name="スタ(2010)74">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.74</ref>。
大学への通学路に古本屋街があったため、古本もよく読むようになった<ref name="ピア(2012)22">[[#ピア(2012)|ピアソン(2012)]] p.22</ref>。[[タキトゥス]]や[[ホメーロス]]などの古典、[[エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)|クラレンドン伯爵]]の『イングランド反乱史』、[[ジョナサン・スウィフト|スウィフト]]の『[[桶物語]]』、[[アラン=ルネ・ルサージュ]]の『{{仮リンク|ジル・ブラース物語|fr|Histoire de Gil Blas de Santillane}}』、[[ウィリアム・テンプル (準男爵)|サー・ウィリアム・テンプル准男爵]]の[[エッセイ]]、[[オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニア|オリバー・ウェンデル・ホームズ]]のエッセイ、[[トーマス・マコーリー|トマス・マコーリー]]のエッセイ、[[エドガー・アラン・ポー]]の小説などに強い影響を受けたという<ref>[[#ピア(2012)|ピアソン(2012)]] p.23-24</ref>。
スポーツにも積極的に参加した。相手を見つければすぐに[[ボクシング]]の試合をし、また[[ラグビーユニオン|ラグビー]]部では[[ラグビーユニオンのポジション#フォワード (FW)|フォワード]]を務めた<ref name="ピア(2012)27">[[#ピア(2012)|ピアソン(2012)]] p.27</ref>。
当時ドイルの姉2人は[[ポルトガル王国|ポルトガル]]で働いて実家に仕送りしていたため、ドイルも仕送りしないのは長男として肩身が狭かったらしく、しばしば医師のもとでパートタイムの助手をし、また[[1880年]]には7か月にわたって[[捕鯨船]]に[[船医]]として乗船している<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.45/167</ref>。
[[1881年]]8月に医学士と外科修士の学位を取得したが、成績は並みだった<ref name="スタ(2010)67">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.67</ref>。{{-}}
=== 医師として ===
大学卒業後の[[1881年]]10月に{{仮リンク|アフリカ汽船会社|en|African Steamship Company}}に船医として就職した。10月末に[[リヴァプール]]から出航したアフリカ行きの汽船マユンバ号(SS Mayumba)に乗船したが、客が次々と[[マラリア]]に罹患してその治療に悪戦苦闘し、彼自身もマラリアを罹患して一時生死の境をさまよった。気候も暑くてたまらなかったという。[[1882年]]1月にリヴァプールへ戻ったころにはこれ以上アフリカ行きの汽船の船医を続ける気にはなれなくなっており、退職した<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.68-72</ref>。
このあと、ロンドンの伯父たちに会って支援を受けようとしたが、敬虔なカトリックである彼らは信仰心を失ったドイルを助けてはくれなかった<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.72-72</ref>。
1882年5月にはエジンバラ大学の同級生ジョージ・バッドに誘われて、[[プリマス]]のバッドの診察所の共同経営者となった。バッドの診察は型破りとして評判で客が多かったが、ドイルが診察を分担するようになってから客が減ってきたため、2か月もたたないうちに2人の関係は破局した。バッドが「ドイルの看板が外にあるから客が減るのだ」と非難してきたのを機にドイルはバッドと袂を分かつ決意を固めた<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.77-80</ref><ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.48-51/167</ref>。
1882年6月末から[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]郊外{{仮リンク|サウスシー|en|Southsea}}で診察所を個人開業するようになった<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.80-85</ref>。8年にわたって診察所を続けたが、その年収が300ポンドを超えた年はなかった<ref name="シモ(1991)53">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.53</ref>。すでに医師が多くいる地域だったためこれ以上の成功は望めない状況だったという<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.90-91</ref>。スポーツが得意だったため地域社会にはすぐに溶け込み、[[ボウリング]]大会で優勝したり、クリケット・クラブの主将を務めたり、サッカー・クラブの立ち上げにも参加した<ref name="スタ(2010)88">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.88</ref>。
[[1885年]]には病死した患者の姉である[[ルイーズ・コナン・ドイル|ルイーズ・ホーキンズ]]と最初の結婚をした<ref name="シモ(1991)56">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.56</ref>。{{-}}
=== 副業としての初期の執筆活動 ===
[[File:ArthurConanDoyle AStudyInScarlet annual.jpg|180px|thumb|[[1887年]]11月公刊の『[[ビートンのクリスマス年鑑]]』に掲載された『[[緋色の研究]]』]]
ドイルは患者を待つ時間を利用して短編小説を執筆し、雑誌社に投稿するようになった。[[1882年]]には『[[我が友、殺人者]](My Friend the Murderer)』が『{{仮リンク|ロンドン・ソサエティ|en|London Society}}』誌から10ポンドで買ってもらえた。ついで同年末には捕鯨船での体験を基にした『[[北極星号の船長]](The Captain of the Pole-Star)』が『{{仮リンク|テンプル・バー (雑誌)|en|Temple Bar (magazine)|label=テンプル・バー}}』誌に10[[ギニー]]で買ってもらえた。さらに[[1883年]]には[[メアリー・セレスト]]の事件に触発されて書いた『{{仮リンク|J・ハバクック・ジェフソンの証言|en|J. Habakuk Jephson's Statement|label=J・ハバクック・ジェフソンの遺書}}』が『{{仮リンク|コーンヒル・マガジン|en|The Cornhill Magazine}}』誌に29ギニーで買ってもらえ、これはドイルの初期の執筆活動最大の成功となった。ただし買い取ってもらえるのは稀なケースで大半の作品は返却されていた<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.91-92</ref>。
短編小説は小金稼ぎになったが、作者名が掲載されないため、その場限りなのが難点だった。ドイルの自伝によれば、1885年の結婚後にこのまま短編を書き続けても進歩がないと思うようになり、単行本になるぐらいの長編小説を書こうと思い立ったという<ref name="スタ(2010)101">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.101</ref>。はじめに『{{仮リンク|ガードルストーン会社|en|The Firm of Girdlestone}}』という長編小説を書いたが、出版してくれる出版社がなかなか見つからず<ref name="シモ(1991)53">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.53</ref>、刊行は[[1890年]]になった<ref name="スタ(2010)102">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.102</ref>。
この後の[[1886年]]3月から4月にかけて執筆した長編小説が[[シャーロック・ホームズシリーズ]]の第一作『[[緋色の研究]]』だった<ref name="スタ(2010)104">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.104</ref>。これも出版社がなかなか見つからなかったが、[[1886年]]10月末に{{仮リンク|ウォード・ロック社|en|Ward, Lock & Co.}}に25ポンドという短編並みの安値で買い取ってもらった。同作品は[[1887年]]11月出版の『[[ビートンのクリスマス年鑑]]』に掲載された。その翌年には単行本化もされた。反響はほどほどというレベルだった<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.112-113</ref>。
=== 小説家としての成功 ===
『緋色の研究』出版までの間に『ガス・アンド・ウォーター・ガゼット』誌からの依頼でドイツ語の『ガスパイプ漏れの検査』を英語訳した。後年、コナン・ドイルは「世人は『緋色の研究』が私の仕事の突破口だと思うかもしれないが、そうではない。自分から頼んだのではなく出版社から依頼された初めての仕事という意味でこの翻訳が私の突破口となった」と語っている<ref name="スタ(2010)114">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.114</ref>。
[[1887年]]7月から[[1888年]]初めにかけて、17世紀後半の[[モンマスの反乱]]を描いた歴史小説『{{仮リンク|マイカ・クラーク|en|Micah Clarke}}』を執筆した。この作品は{{仮リンク|ロングマン社|en|Longman}}に買い取ってもらい、[[1889年]]2月に出版した。かなり評判がよく、1年の間に3版も重版を重ねている。後年ドイル自身も「この作品が自分の最初の出世作だった」と語っている<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.114-115</ref>。
1889年に[[アメリカ合衆国]]の{{仮リンク|J.B.リピンコット|en|J. B. Lippincott & Co.}}からの依頼でシャーロック・ホームズシリーズ第二作の長編小説『[[四つの署名]]』を執筆し、[[1890年]]2月に英米で出版された。この作品の評判もよかった<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.135/141</ref>。
『四つの署名』執筆後、[[14世紀]]を舞台にした歴史小説『{{仮リンク|ホワイト・カンパニー|en|The White Company}}』の執筆に戻った(この小説の執筆と歴史調査には2年かけていた)。『マイカ・クラーク』と『四つの署名』の評判がよかったため、コーンヒル社から雑誌掲載で200ポンド、単行本化で350ポンドという高い報酬で買ってもらえた。単行本は全3巻で出版されたが、非常によく売れ、コナン・ドイルの小説家としての名声を押し上げた<ref name="スタ(2010)145">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.143-145</ref>。この本はのちに学校の歴史教育の教材にも使われており、それについてドイルは「長く読み伝えられ、イギリスの伝統が栄光に輝いてほしい」という感想を述べている<ref name="スタ(2010)145" />。
=== 眼科への転身失敗と執筆業一本化 ===
[[File:PortraitOfACD.JPG|180px|thumb|[[シドニー・パジェット]]が描いた1890年ごろのコナン・ドイル]]
[[1890年]]8月、[[ドイツ帝国|ドイツ]]・[[ベルリン]]で開催された国際医学会において[[ロベルト・コッホ]]が新しい[[結核]]治療法を発見したと発表した。気になったドイルはただちにベルリンへ向かったが、コッホの講演会チケットを手に入れることができなかった。諦めきれず、コッホの家に押しかけるも会ってもらえなかった。しかしコッホの講演会のメモを手に入れることはでき、これを読んだドイルは『[[デイリー・テレグラフ]]』紙に投稿して、コッホの研究は不完全で結果が出ていないと批判した。のちにコッホの研究の不十分さが判明したため、真っ先にそれを指摘した彼は誇らしい気分だったという<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.148-150</ref>。
このベルリン滞在時にドイルは突然[[眼科医]]になることを思い立った。1890年11月にサウスシーに戻って診察所を閉めると、[[1891年]]1月には妻を連れてオーストリア首都[[ウィーン]]へ移住し、眼科医の実習を受けた。しかしドイルのドイツ語能力は専門的授業を受けられるレベルではなかったため、すぐにも授業についていけなくなり、ウィーンでの眼科医資格取得を断念した。6か月の予定だった実習を2か月で切り上げ、1891年3月末にロンドンへ帰国した<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.58-59</ref><ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.151-154</ref>。
帰国後には[[ロンドン]]のモンタギュー・プレイス23番地の邸宅で暮らすとともに、アッパー・ウィンポール街において無資格の眼科医を始めた。しかしロンドンには資格を持った眼科医が大勢いたため、無資格の眼科医に診てもらおうなどという患者は現れなかった。ドイルはこの暇な時間を使って小説の執筆に励んだ。患者がまったく来ない眼科診察所は結局閉鎖することになり、執筆業一本に絞っていくことになった<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.155-156</ref><ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.59-60/</ref>。
診察所を閉鎖すると{{仮リンク|サウス・ノーウッド|en|South Norwood}}郊外テニスン・ロード12番地に移住した<ref name="スタ(2010)166">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.166</ref>。{{-}}
=== シャーロック・ホームズの大ヒット ===
[[File:Sherlock Holmes Portrait Paget.jpg|180px|thumb|[[シドニー・パジェット]]が描いた名探偵[[シャーロック・ホームズ]]]]
このころ、ドイルは同じ人物を主人公とした短編小説を読み切り連載で書くことを考えていた。その主人公として選ばれたのが[[シャーロック・ホームズ]]だった<ref name="河村(1991)75">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.75</ref>。ホームズをシリーズ化することにしたのは、すでにホームズ作品を2つ出していたため(『緋色の研究』と『4つの署名』)、シリーズ化が一番容易だろうと判断したためだった<ref name="スタ(2010)157">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.157</ref>。
こうして書かれたホームズ短編小説6編は[[1891年]]1月に発刊されたばかりの『[[ストランド・マガジン]]』誌に1作35ポンドで買ってもらえ、同誌1891年7月号から順次掲載された<ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.76/80</ref><ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.159-160</ref>。この連載は初回から話題となり、ホームズシリーズは人気となり、『ストランド・マガジン』の販売数を押し上げた<ref name="スタ(2010)162">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.162</ref>。好評にこたえてさらに6編のホームズ短編小説を書き、[[1892年]]1月号から連載された<ref name="河村(1991)80">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.80</ref>。この連載が終わった1892年6月、これまで発表された12編のホームズ短編小説が『[[シャーロック・ホームズの冒険]]』として単行本化された<ref name="スタ(2010)165">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.165</ref>。
ドイルのもとにはホームズ読者の手紙が大量に届くようになったが、その大半はドイル宛てではなく、ホームズ宛てだったという(ドイルはホームズ宛ての手紙には「ドクター・[[ジョン・H・ワトスン|ジョン・ワトスン]]」名義で「残念ながらホームズさんは留守でして」という返事を書いていたという)<ref name="スタ(2010)172">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.172</ref>。またサインを求められることも多くなったが、それもやはり「コナン・ドイル」のサインではなく、「シャーロック・ホームズ」のサインを求められることが多かったという<ref name="スタ(2010)172" />。
このころ、ドイルは『{{仮リンク|ブックマン (ロンドン)|en|The Bookman (London)|label=ブックマン}}』誌において「シャーロック・ホームズについて全国からたくさんのお便りをもらうようになりました。あるときは学生から、あるときは熱心な読者の巡回セールスマンの方から。時には弁護士の方から法律の誤りを指摘されることもあります。シャーロックの若いころのことを知りたいといった手紙も多いです」と語っている<ref name="スタ(2010)172" />。{{-}}
=== 歴史小説を志向 ===
[[File:Exploits of Brigadier Gerard.djvu|180px|thumb|『ジェラール准将の功績』]]
しかしドイル当人は歴史小説が自分の本分と考えており、歴史小説家として名前を残したがっていた。そのためホームズの評判が高くなりすぎると、逆にホームズを倦厭するようになった<ref name="河村(1991)80">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.80</ref><ref name="スタ(2010)168">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.168</ref>。
最初のホームズ連載が終わると、ホームズを離れ、17世紀フランスの[[カルヴァン派]]への弾圧と彼らのアメリカ亡命を描いた歴史小説『{{仮リンク|亡命者 (小説)|label=亡命者|en|The Refugees (novel)}}』の執筆を行った。[[1892年]]2月までに同作品を完成させ、『ストランド・マガジン』とアメリカ合衆国の『[[ハーパーズ・マガジン|ハーパーズ・ニューマンリース]]』誌で発表し、[[1893年]]には単行本化された。それなりに売れたものの、すでにホームズ人気には及ばなかった<ref name="スタ(2010)168">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.168</ref>。
『ストランド・マガジン』はドイルに歴史小説よりホームズシリーズの続編を書いてほしいと要請し続けていた。これに対してドイルは「1,000ポンドの報酬を出すならもう12編のホームズ短編を書いてもいい」という条件を提示した。破格の報酬を条件に出すことで『ストランド・マガジン』の方から諦めさせようとしたようだが、同誌はこの条件を本当に呑んでしまったため、書くしかなくなった<ref name="河村(1991)81">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.81</ref><ref name="スタ(2010)171">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.171</ref>。
こうして再び書かれた12編のホームズ短編小説は『ストランド・マガジン』[[1892年]]12月号から発表され、のちに『[[シャーロック・ホームズの回想]]』として単行本化された<ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.81-82</ref><ref name="スタ(2010)171" />。しかしこの連載の最後である[[1893年]]12月号の『[[最後の事件]]』ではホームズを[[ライヘンバッハの滝]]に落として死んだことにしてしまったため、物議をかもした<ref name="河村(1991)82">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.82</ref>。ドイルはこの連載が始まる前の母に宛てた手紙の中で「私はホームズを最後に殺すことでこの仕事を打ち切ることを考えています。彼のために私はほかのもっと素晴らしいことを考える余裕がなくなっているからです」と漏らしていた<ref name="河村(1991)81" />。
ホームズを死なせたドイルは、1894年から[[ナポレオン戦争]]時代を描いた『{{仮リンク|ジェラール准将|en|Brigadier Gerard}}』シリーズの執筆を開始した。最初の8編は[[1896年]]に『ジェラール准将の功績』として単行本化され、続く8編は[[1903年]]に『ジェラールの冒険』として単行本化されている。ジェラール准将シリーズもかなりの人気作品になったが、世間では依然ホームズシリーズの再開とホームズの復活を求める声が強かった<ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.82-84</ref>。{{-}}
=== ボーア戦争をめぐって ===
==== 戦地医療奉仕活動 ====
[[File:Ogden's Guinea Gold Cigarettes No. 326 Dr Conan Doyle.jpg|180px|thumb|[[1899年]]のコナン・ドイル]]
南アフリカに[[帝国主義]]的野心を抱いていた[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]内閣植民地大臣[[ジョゼフ・チェンバレン]]は、南アフリカの[[ボーア人]]国家[[トランスヴァール共和国]]を追い詰め、1899年10月に同国がイギリスに宣戦布告してくるよう持ち込んだ([[第二次ボーア戦争]])。しかしボーア人は住民として地の利を生かして戦い、侵攻してきたイギリス軍に大きな損害を与えていた。戦死者の増大を前にイギリス本国ではインド人など植民地人を代わりに戦わせ、イギリス人の人的損害を減らすべきことが盛んに主張されるようになった。
これに対してドイルは『[[タイムズ]]』紙で「植民地人の兵士を戦地に送るべきという意見が各方面で強まっているようだが、イギリス人が1人も戦地に行かないで植民地の人間に穴埋めさせるのは名誉に関わるのではないか」と主張するとともに、自身もイギリス軍に従軍する決意を固めた<ref name="スタ(2010)276">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.276</ref>。従軍に反対する母への手紙の中でドイルは「私はあなたから愛国心を学びました。ですから私を責めないでください。兵士としてどの程度役にたてるかは分からないですが、自分は模範を示す人間として国に奉仕できると思います。思うに私はイギリスで誰よりも若者たち、特にスポーツを愛する若者に強い影響を与えることができると思います。だから若者の手本になることが重要なのです」と説得している<ref name="スタ(2010)277">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.277</ref>。
しかしドイルはすでに40歳過ぎだったため、[[イギリス陸軍|陸軍]]の兵役検査に落ちた。ドイルはやむなく従軍を諦めたが、代わりに50人の医療奉仕団を戦地に派遣するという友人ジョン・ラングマンの計画に医師の1人として参加することにした<ref name="スタ(2010)279">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.279</ref><ref name="シモ(1991)74">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.74</ref>。
ドイルらラングマン医療奉仕団は1900年3月に[[ケープ植民地|英領ケープ植民地]]首都[[ケープ州|ケープランド]]に到着し、{{仮リンク|フレデリック・ロバーツ (初代ロバーツ伯爵)|label=ロバーツ卿|en|Frederick Roberts, 1st Earl Roberts}}率いるイギリス軍の進軍路をたどって負傷者・発病者の治療にあたった。ドイルも休む暇もなく献身的に働いた<ref name="シモ(1991)76">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.76</ref><ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.279-281</ref>。
1900年6月、イギリス軍はトランスヴァール首都[[プレトリア]]を陥落させた。ドイルは占領下プレトリアでイギリス軍司令官ロバーツ卿と会見し、医療奉仕団の活躍を報告している。プレトリア陥落で戦争の大勢は決したかのように思われたので(実際にはゲリラ戦争と化してさらに2年続くが)、ドイルは今戦争についての総括の執筆を行うため、また近々行われると見られていた総選挙に出馬すべく、7月に帰国の途に就いた<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.283-287</ref>。
帰国後ただちに『{{仮リンク|大ボーア戦争|en|The Great Boer War}}』を執筆したが、この著作はプレトリア陥落でボーア戦争は終結したという前提で書かれたものだったため、この後ボーア戦争が泥沼のゲリラ戦争と化していく中で時流にあっていないものになってしまった<ref name="シモ(1991)77">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.77</ref>。
==== 総選挙に出馬するも落選 ====
ドイルはボーア戦争以前から政界進出への意欲をマスコミ紙面で表明していた<ref name="スタ(2010)287">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.287</ref>。
そのため1900年10月の{{仮リンク|1900年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1900}}を前にして、与党である[[保守党 (イギリス)|保守党]]・[[自由統一党 (イギリス)|自由統一党]]も、野党である[[自由党 (イギリス)|自由党]]も著名な作家であるドイルを自党の候補に擁立しようと誘いをかけた。ドイルは、自由統一党からの出馬を決めた。同党は[[ジョゼフ・チェンバレン]]や[[スペンサー・キャヴェンディッシュ (第8代デヴォンシャー公爵)|デヴォンシャー公爵]]らアイルランド自治に反対する自由党議員が自由党から離党して作った政党であり、この頃には保守党と連立して与党を形成し、戦争支持を表明していた<ref name="スタ(2010)287" />。
自由統一党執行部は与党候補の当選が安定している選挙区を用意すると言ってくれていたが、ドイルはそれを断って「スコットランド急進派の砦」と呼ばれ、与党候補の当選が困難と見られていた{{仮リンク|エディンバラ・セントラル選挙区|en|Edinburgh Central (UK Parliament constituency)}}から出馬した<ref name="スタ(2010)287" />。
同選挙区の自由党候補は出版業者{{仮リンク|ジョージ・マッケンジー・ブラウン|en|George Mackenzie Brown}}だったが、ドイルは自分と彼の間に社会問題や地元選挙区の関心事項について相違はないことを強調することで争点をボーア戦争の是非のみに持ち込み、そのうえで「南アフリカの明るい未来の見通し」や「大きな流れの真ん中で馬を変えることの危険性」を説き、与党支持を訴えた<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.289-290</ref>。
しかし、選挙日前日に[[福音派]]信者がドイルのことを「[[教皇派]]共謀者」「[[イエズス会]]密使」「プロテスタント信仰破壊者」と誹謗中傷するプラカードを持って行進し、これによってドイルは有権者から狂信的カトリックのように誤解され、選挙の流れが不利になったという(少なくともドイル本人はそう思っていた)<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.291-292</ref>。
選挙の結果はブラウンの3,028票に対してドイルは2,459票に留まり、落選であった。しかし前回選挙と比べると自由党候補の票を1,500票も減じた格好だったため、党は一定の成果があったと評価したようである<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.292</ref>。ちなみに総選挙全体の結果は与党の圧勝であった。
==== 英軍擁護運動 ====
[[File:LizzieVanZyl.jpg|250px|thumb|イギリス軍が設置したボーア人強制収容所でやせ細る子供]]
一方、ボーア戦争はゲリラ戦争と化していた、民家がゲリラの活動拠点になっていると見たイギリス軍は[[焦土作戦]]を実施した(1900年9月には、ゲリラが攻撃してきた地点から16キロ四方の村は焼き払ってよいとの方針が定められている)<ref>[[#岡倉(2003)|岡倉(2003)]] p.142-143</ref>。イギリス軍の焦土作戦で焼け出されたボーア人の多くは[[強制収容所]]に送られたが、そこの環境は劣悪であり、2万人以上の人々が命を落としていった<ref>[[#岡倉(2003)|岡倉(2003)]] p.137-140/144</ref>。
国内外でイギリス軍の残虐行為への批判が高まった。しかし大英帝国の拡大が世界に道徳と秩序をもたらすと信じるドイルは、こうした批判には徹底的に反論した。ドイルは[[1902年]]3月にもイギリス軍擁護の小冊子『[[南アフリカ戦争 原因と行い]]』を著した。この中で彼はイギリス軍の焦土作戦について「イギリス軍が民間人の家を焼くのは、そこがゲリラの拠点となった場合のみ」「責任は最初にゲリラ戦法を行った側(ボーア人)にある」と擁護した。強制収容所については「焼け出された婦女子を保護するのは文明国イギリスの義務である。収容所内では食糧もしっかり出されている。それにもかかわらず収容者の死亡率が高いのは病気のせいだが、イギリス軍内でも病死者が続出しており、差別的な取り扱いではない」と擁護した。またイギリス軍人によるボーア人婦女子強姦については「いかなる戦争でも女性は既婚・未婚問わず憎悪に晒される。避けられないことだ」と批判を一蹴する<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.309-310</ref>。
この小冊子は政府や戦争支持派から熱烈に支持され、発売から6週間で30万部を突破した<ref name="岡倉(2003)199">[[#岡倉(2003)|岡倉(2003)]] p.199</ref>。ドイルは自分のポケットマネーや募金で集めた資金を元手にして、この小冊子をできる限り多くの言語に翻訳して各国に配布し、イギリスの国際的な汚名を雪ぐことにも努めた。この活動を政府から評価され、[[1902年]][[10月24日]]に国王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]から[[:en:Knight Bachelor|Knight Bachelor]]に叙され<ref>{{Cite web|url=https://www.thegazette.co.uk/London/issue/27494/page/7165|title=The London Gazette, Tuesday, November 11, 1902. Page 7165, Issue 27494.|accessdate=2018-7-11|authorlink=|publisher=[[ロンドン・ガゼット]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180710182718/https://www.thegazette.co.uk/London/issue/27494/page/7165|archivedate=2018-7-10}}</ref>、以降「[[サー]]」の称号を使用できるようになった<ref name="スタ(2010)311">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.311</ref><ref name="岡倉(2003)198-199">[[#岡倉(2003)|岡倉(2003)]] p.198-199</ref>{{#tag:ref|ドイルは、サーよりドクターの称号を好んでおり、当初ナイトを辞退しようと考えていたが、母から「ナイトを辞退するなど国王陛下への侮辱です」と叱責されたため、結局受け入れることになった。しかしドイルは尚も不満があり、ナイトに叙されて「サー」が名前に付いた直後に「私は新しい自分の姓がまだはっきり身に付かない新婚の女性みたいな気分だ。そしてまた私はどういうことなのか不明だが、サリー州副知事なるものにも任命された」と語っている。ドイルは後に『[[三人ガリデブ]]』の中でホームズにナイトを辞退させている<ref>[[#カー(1993)|カー(1993)]] p.281-283</ref>。|group=注釈}}。また同時に名誉職の[[サリー (イングランド)|サリー州]][[副統監]]にも任命された<ref name="カー(1993)283">[[#カー(1993)|カー(1993)]] p.283</ref>。{{-}}
=== ホームズの復活 ===
ボーア戦争から帰国して8か月ほど経った[[1901年]]3月にドイルは友人と[[ノーフォーク]]の温泉に行ったが、そこで友人から[[ダートムーア]]に伝わる魔犬伝説を聞いた。興味を持ったドイルは現地調査を行ったうえで数か月間でホームズ長編小説『[[バスカヴィル家の犬]]』を書きあげた。この作品は『ストランド・マガジン』1901年8月号から8回に分けて連載された<ref name="河村(1991)85">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.85</ref>。
久々のホームズ作品の発表にホームズファンは大喜びしたが、これは物語の設定上死亡したことになっているホームズが復活したわけではなく、事件の発生日を『最後の事件』以前に設定したものだった<ref name="河村(1991)85" />。
ホームズ復活への熱望がますます高まる中、とうとうドイルもホームズを復活させる決意を固め、『ストランド・マガジン』[[1903年]]10月号から新連載された読み切りホームズ短編シリーズの第一作『[[空家の冒険]]』の中で、ホームズは「[[バリツ]]」なる[[日本武術]]を使って死なずに済んだと設定した。この新連載13編は[[1905年]]に『[[シャーロック・ホームズの生還]]』として単行本化されている<ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.85-86</ref>。
『ストランド・マガジン』誌1906年7月号から『ホワイト・カンパニー』の姉妹編の歴史長編小説『{{仮リンク|サー・ナイジェル|en|Sir Nigel}}』を発表した。ドイルはこれを自身の最高傑作と自負していた<ref>[[#カー(1993)|カー(1993)]] p.303-304</ref>。
[[1906年]]には妻ルイーズが[[結核]]のために死去した。ドイルは[[1897年]]の出会いのときに一目ぼれをしたものの、妻を気遣って[[プラトニック]]な関係に留めてきた[[ジーン・コナン・ドイル|ジーン・レッキー]]と[[1907年]]に再婚した<ref name="シモ(1991)64-67">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.64-67</ref>。これを機に[[クロウバラ]]に移住して新婚生活を始めた<ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.100-101</ref>。
=== 冤罪事件への取り組み ===
ドイル自身は「自分にホームズのような推理力はない」と述べていたが、彼は以下の2つの事件において、冤罪を晴らすことに貢献した<ref name="スタ(2010)321">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.321</ref>。
==== エダルジ事件 ====
その最初の事件は[[バーミンガム]]に近い{{仮リンク|グレイト・ワーリー|en|Great Wyrley}}で発生した「ジョージ・エダルジ事件」だった。これは[[1903年]]中、6か月にわたって同地の家畜の牛馬たちが何者かによって腹を裂かれて殺害された事件だった(傷口は浅かったものの長く、家畜たちは出血多量で死んでいた)<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.321-322</ref>。
地元警察から疑われたのは、[[インド人|インド系]]の弁護士ジョージ・エダルジだった。エダルジはこれまでも散々人種差別に晒され、地元警察や住民から忌み嫌われてきた人だった。上記の事件が発生するとエダルジを犯人と告発する怪文書が地元警察や住民に出回った。警察はこの怪文書もエダルジの自作自演と判断し、エダルジの自宅を家宅捜索した。そして血痕らしき小さなシミと馬の毛がついたスーツが発見されたとして、エダルジを家畜殺害の容疑者として逮捕した。怪文書の筆跡もエダルジの筆跡であると鑑定された。裁判にかけられたエダルジは有罪判決を受け、[[石切場]]での7年の重労働刑に処された<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.321-323</ref><ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.89-92</ref>。
しかし警察が依頼した筆跡鑑定官は別の事件の裁判でもいい加減な鑑定をしたことで悪名高い人物であり<ref name="シモ(1991)92">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.92</ref>、しかもエダルジが石切場で重労働させられている間にも家畜が殺される事件が発生したため、エダルジ冤罪説が強まり、[[内務省 (イギリス)|内務省]]に再審請求が殺到した<ref name="スタ(2010)323">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.323</ref>。内務省は[[1906年]]10月にエダルジを仮釈放したものの、仮釈の理由を説明せず、有罪判決を取り消したわけではなかった。このやり口に憤慨したエダルジは新聞で自らの冤罪を訴えた<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.323-324</ref>。
これを読んで事件に関心を持ったドイルは、裁判記録を調べ、犯行現場を視察し、またエダルジ本人とも会見した。ドイルはエダルジと会った瞬間に彼の無罪を確信したという。ドイルがエダルジを訪問したとき、エダルジは眼を近づけて横にずらすように新聞を読んでいるところだったが、かつて眼科の勉強をしていたドイルは、この様子を見て彼がメガネでも矯正できないほどの強度の[[近視]]かつ[[乱視]]だと見抜いたという。そのため彼が闇夜の野原の中から家畜場や家畜の位置を特定して傷つけることなど不可能と考えたのだった<ref name="スタ(2010)324">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.324</ref><ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.94-95</ref>。
ドイルは証拠の洗い直しを行い、警察のずさんな捜査の実態を次々と暴いた。エダルジが書いたと鑑定された怪文書を別の筆跡鑑定人のところに持ち込んだ結果、エダルジの筆跡ではないという鑑定結果を得られた。上着の馬の毛については、その衣服が警察署へ運ばれる途中に馬のなめし皮入りの袋に入れられたために付着しただけであると突き止めた。また、同じく衣服に付着していた血痕らしきシミについては「どんなに腕のいい暗殺者でも暗闇で馬を引き裂いて3ペンス銅貨2つの血痕しか付かないなどということはあり得ない」と問題視しなかった<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.324-325</ref><ref name="シモ(1991)95">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.95</ref>。
著名な作家コナン・ドイルが事件を出版したことで事件への国内外の注目は大いに高まった(アメリカ合衆国の『[[ニューヨーク・タイムズ]]』は一面で報道している)。そのためイギリス政府としてもこの事件をいい加減なままにしておくことはできなくなり、[[1907年]]春には事件の再調査を行う「エダルジ委員会」が設置された。しかしそのメンバーには警察に都合のいい人物が入れられていたため、委員会は家畜殺しについてエダルジの無罪を認めつつも、怪文書を書いた件については有罪を覆さなかった。その結果、エダルジは特赦を受けつつ、「ある程度までエダルジの責任」とされて、3年間の重労働刑についての[[刑事補償]]を認められなかった。ドイルはこれにがっかりし、役人のかばい合い体質を批判するとともに、この事件はイギリス裁判の汚点となるだろうと主張した<ref name="スタ(2010)326">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.326</ref><ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.96-97</ref>。{{-}}
==== スレイター事件 ====
[[File:Oscar Slater 1908.jpg|180px|thumb|殺人事件で有罪判決を受け、18年服役したのち、ドイルらの支援を受けて再審無罪を勝ち取ったユダヤ系ドイツ人[[オスカー・スレイター事件|オスカー・スレイター]]]]
[[1908年]]12月、スコットランド・[[グラスゴー]]でマリオン・ギルクリストという老女がダイヤモンドのブローチを奪われて撲殺された。警察が容疑者としたのは[[ユダヤ人|ユダヤ系]][[ドイツ人]]の[[オスカー・スレイター事件|オスカー・スレイター]]だった。スレイターはギャンブルや犯罪まがいのことに手を染めてきた素行の悪い人物だったうえ、この直前にダイヤモンドのブローチを質に入れており、しかも偽名で船に乗ってニューヨークに渡航していたため、一見して疑わしい人物だった<ref name="名前なし-1">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.329-330</ref>。またユダヤ人だったため、人種的偏見を向けるのにも格好の標的だった<ref name="シモ(1991)97">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.97</ref>。
警察の捜査は粗略というより、彼を犯人に仕立てあげようという悪意がこめられているものだった。たとえば、証人たちはあらかじめスレイターの写真を犯人の写真と言って見せつけられ、スレイターを犯人と証言するよう誘導されていた。唯一の物的証拠であるスレイターが質入れしたダイヤモンドのブローチはギルクリフトのものと一致せず、質入れした時期も殺人事件前だと判明したが、警察はそれらの情報を隠ぺいしていた<ref name="名前なし-1"/>。
ニューヨークにいるスレイターは当局から[[犯罪人引渡し|犯罪人引き渡し]]の脅迫を受けたため、自発的にイギリスに帰国し、逮捕されて裁判にかけられたが、警察による証拠の捏造と隠蔽、弁護士や裁判官の杜撰さによって死刑判決を受けてしまった。当時のスコットランドには刑事事件の上訴制度がなかったため、スレイターにできることはもはや国王エドワード7世に慈悲を乞うことだけだった。世論はスレイターに同情し、2万人もの減刑嘆願署名が集まり、恐らくその影響で死刑執行2日前に終身重労働刑に減刑された<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.330-331</ref><ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.98-99</ref>。
ドイルは[[1910年]]にこの事件の証拠の矛盾を扱ったウィリアム・ラフヘッド弁護士の小冊子を読んで事件を知り、冤罪事件との確信を強めたが、エダルジ事件での役人の結託・隠蔽にうんざりしていたため、今回はすぐに腰を上げようとはしなかった<ref name="シモ(1991)99">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.99</ref><ref name="スタ(2010)331">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.331</ref>。
[[File:Oscar Slater's hammer.jpg|180px|thumb|left|警察により凶器と断定されたスレイターが所持していた小型ハンマー。ドイルはそれに疑問を呈した。]]
しかし調べれば調べるほど、エダルジ事件より酷い冤罪事件と分かり、結局彼は取り組む決意をした。[[1912年]]夏に小冊子『オスカー・スレイター事件』を出版した<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.99-100</ref><ref name="スタ(2010)331" />。この中でドイルはスレイターが偽名でアメリカに逃亡したのは、若い愛人と一緒にいることが妻にばれることを恐れて警察から逃れようとしたのではないことを指摘した。また凶器とされるスレイターが持っていた小型ハンマーについては「画鋲を抜いたり、小さな石炭のかけらをたたく以上のことをしたら限界を超える」と指摘した<ref name="スタ(2010)331" />。またこの冤罪がユダヤ人に対する人種的偏見に根ざしている点も指摘した<ref name="シモ(1991)100">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.100</ref>。
ドイルの介入で事件が注目を集める中、事件を担当した刑事ジョン・トレンチ警部補は良心の呵責に耐えかね、警察の方で証言を捏造したことを暴露した。しかし裁判所はこの暴露を再審理由として十分ではないとして却下し、しかもトレンチ警部補は警察上層部の圧力で解雇され、年金を打ち切られてしまった。警察の腐敗ぶりに愕然としたドイルは、『[[スペクテイター (1828年創刊の雑誌)|スペクテイター]]』誌において「この事件は警察の無能さと頑迷さの最高の一例として犯罪傑作集に不滅の名を留めるだろう」と語った<ref name="スタ(2010)331-332">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.331-332</ref>。
その後、この事件についての動きは10年以上なかった。その間、スレイターは服役を続け、ドイルは再審請求を何度も司法当局に提出したが、取り合ってもらえない状況が続いた<ref name="スタ(2010)508">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.508</ref>。
[[1925年]]2月、服役して16年になるスレイターは看守の目を盗んで釈放された囚人仲間を利用してドイルに助けを求める手紙を送った。これを読んだドイルは、再びこの問題に本腰を入れて取り組む決意を固めた<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.508-509</ref>。ドイルは[[1927年]]7月にジャーナリストのウィリアム・パークが出版したスレイターの無罪を訴える著作『オスカー・スレイターについての真実』に協力した。この本は世論に大きな影響を与え、この事件に関するマスコミの再調査が過熱した。1927年11月に『{{仮リンク|エンパイア・ニュース|en|Empire News}}』紙は、警察の用意した証人は警察から「スレイターを犯人と証言しろ」と脅迫されていたことを明らかにした。同紙のライバル紙『[[デイリー・ニューズ (イギリス)|デイリー・ニュース]]』も、警察が証人に賄賂を送っていたことを明らかにした。マスコミの報道合戦で警察腐敗の実態がさらに暴露されることを恐れたイギリス政府は同時期に突然スレイターを釈放し、この問題を鎮静化させようとした<ref name="名前なし-2">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.510-511</ref>。
スレイターは釈放されたものの、いまだ無罪と認められたわけではなかった。ドイルは間髪いれずスレイターの名誉回復および不当な刑罰に対する刑事補償の請求を行った。今回は再審が認められたが、スレイターには金がなかったため、裁判費用は支援者たちの募金およびドイルの1,000ポンドの資金援助で賄われた。裁判の結果、スレイターは公式に無罪と判決されたものの、刑事補償はわずか6,000ポンドしか払われず、18年にも及ぶ不当投獄に対するものとしては少なすぎた。しかも裁判費用を全額負担せねばならなかった(ドイルとしては刑事補償1万ポンド、裁判費用は全額国持ちが妥当と考えていた)<ref name="名前なし-2"/><ref name="シモ(1991)103">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.103</ref>。
ドイルはあくまで司法・警察の腐敗を正すために行動したのであって、スレイター個人の人柄が好きなわけではなかった(ドイルは強烈な国家主義者であり、スレイターのように不道徳な生活を送る根なし草の[[コスモポリタニズム|コスモポリタン]]は嫌いだった)ため、無罪判決を得た今、スレイターとは縁を切るつもりだった。彼がお礼として送ってきた贈り物もすべて返却している<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.100/103</ref>。またドイルはスレイターが支援者たちに裁判費用を返還しないことを批判した。ドイルにとっては大した金額ではなく自分への返還はどうでもよかったが、ほかの貧しい支援者たちに債務を押しつけようとしていることは許せなかった。ドイルはスレイターに「きみは私が今まで会った人間の中でももっとも[[恩|恩知らず]]で愚かな人間だ」と批判する手紙を送っている<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.513-514</ref><ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.103-104</ref>。
=== タイタニック沈没事件をめぐる論争 ===
[[File:G. B. Shaw from Bain Collection.jpg|180px|thumb|[[タイタニック (客船)|タイタニック号]]の英雄譚をめぐってドイルと論争した[[ジョージ・バーナード・ショー]](のちに[[ノーベル文学賞]]を受賞)]]
[[1912年]]4月、[[タイタニック号]]沈没事件があった。マスコミ各紙がこぞって乗客や船員たちの英雄的行動やメロドラマを書きたてる中、文学者[[ジョージ・バーナード・ショー]]はその空気に反発し、噂や作り話を実際の英雄譚かのように書きたてるマスコミの扇情的体質を批判した。しかし、ドイルは友人をタイタニック事件で失っていたため、乗客・船員たちの英雄神話をぶち壊そうとするショーを許せなかった。ショーの主張を「つむじ曲がり的発想がひどすぎる」と批判した<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.354-357</ref>。
ショーは最初に出た40人乗り救命ボートに乗ったのが男10人、女2人だったことを指摘し、婦女子が優先的に助けられたという話は根拠がないと主張したが、ドイルはショーが「特殊な状況下で出た」1号ボートの例しか持ち出さないことを批判し、その次のボートには70人が乗り、うち65人が女性だったことを指摘し、[[ウィメン・アンド・チルドレン・ファースト|婦女子優先]]は徹底されていたと反論した(現在ではタイタニックの乗客のうち、女子供は4人のうち3人までが生存し、男は5人のうち4人までが死んだことが判明している。したがってこの論争についてはドイルが正しかったことになる)<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.357-359</ref>。
またショーは[[エドワード・スミス]]船長の英雄譚(海を泳いで子供を救ったと報道されていた)はイギリス海運の問題点をうやむやにしたという点で「イギリス海運の勝利」と論じたが、ドイルは「スミス船長の英雄的行動は単なる事実であり、『イギリス海運の勝利』などとは何の関係もない。ショー氏がそう思っているだけである」と反論した。ちなみにショーはスミス船長の英雄譚を与太話と疑っていたが、ドイルは信じていた<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.359-360</ref>。
乗客がパニックにならないよう船が傾くまで演奏を続けたというタイタニックの楽団の英雄譚も、ショーが「混乱回避のために命令されてやらされただけで、この曲のせいで乗客に危機感が生まれず、助かるはずだった人も多く命を落とした」と批判したのに対して、ドイルは「仮に命令されたことだとしても、その賢明な命令や楽団員たちの英雄的行動の価値を少しも減じるものではない。混乱を避けることは正しいし、そういうやり方を取ったのは素晴らしい」と反論した<ref name="スタ(2010)361">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.361</ref>。
ドイルには「桁外れに悲劇的な出来事には桁外れの英雄が必要」という信念があったため、英雄譚に誇張あるいは捏造があったとしても問題視しなかった。「この事件をイギリスの栄光を強調するのに利用したとの批判があるが、勇気と規律が最高の形で示されたと見てこれを名誉としなければ、我らは本当に敗戦国民になってしまう」「天才であるはずの人間が、その才能を使って自国民について誤ったことを伝え、公然と批判するのを見るのは何ともやりきれない。それは悲しみに沈む人々をさらに悲しませるだけの行為である」とドイルは語っている<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.361-362</ref>。{{-}}
=== チャレンジャー教授の創造と大戦前の動向 ===
[[File:Frontispiece (The Lost World, 1912).jpg|250px|thumb|1912年の『[[失われた世界]]』でチャレンジャー教授に扮するドイル(中央)。ほか3人はマローン、サマリー教授、ロクストン卿<ref name="河村(1991)131">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.131</ref>。]]
[[1912年]]には初の[[SF小説]]で[[チャレンジャー教授]]シリーズ第1作である『[[失われた世界]]』を公刊した。先史時代の生物が生存している南米アマゾンの台地をチャレンジャー教授が旅する物語である<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.121-122</ref>。ドイルの幻想的なイマジネーションが高く評価されている作品である<ref name="シモ(1991)122">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.122</ref><ref name="河村(1991)140">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.140</ref>。
さらに翌[[1913年]]には再びチャレンジャー教授を主人公とする『[[毒ガス帯]]』を執筆した。地球が毒ガス帯を通過し、チャレンジャー教授ら5人を除いた全人類が死に絶えたと思われたが、昏睡していただけだったという物語だが<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.122-124</ref>、ドイル研究家の中にはこの昏睡から目覚めた後の世界というのは心霊主義の「次の世界」のことで、つまりこの作品がドイルの心霊主義作品の第1作ではないかと指摘する者もいる<ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.147-149</ref>。
[[1911年]]にはドイツとイギリスで行われた自動車レースの{{仮リンク|プリンツ・ハインリヒ・トライアル|en|Prinz-Heinrich-Fahrt}}に参加した。この際にドイルはドイツ軍人の間にイギリスとの開戦不可避との意識が高まっているのを感じ、イギリスの戦争準備が足りていないと憂うようになったという<ref name="シモ(1991)131">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.131</ref>。
大戦直前には『{{仮リンク|危険!|en|Danger! (short story)}}』を著した。これはイギリスが「ノーランド」という架空の国と戦争になり、ノーランドの[[潜水艦]]が[[王立海軍]]をかわしてイギリス商船に大打撃を与え、イギリスは破れ去るという仮想戦記であるが、この著作はのちに一次大戦の[[Uボート|ドイツ潜水艦]]による[[通商破壊|イギリス商船攻撃戦略]]を予見したものと評価され、ドイツ海軍大臣からドイルは「預言者」と呼ばれた<ref name="シモ(1991)132">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.132</ref>。{{-}}
=== 第一次世界大戦をめぐって ===
[[File:The Strand Magazine (cover), vol. 65, no. 321, September 1917.jpg|180px|thumb|『ストランド・マガジン』1917年9月号。ホームズがドイツ軍スパイの裏をかくという筋書きのホームズ短編小説『[[最後の挨拶]]』が掲載された。]]
1914年8月に[[第一次世界大戦]]が勃発するとドイルは愛国者として全面的に政府に戦争協力することを決意した<ref name="河村(1991)153">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.153</ref>。
ドイルは、全国に先駆けて地元クロウバラに「義勇軍」と称する民兵団を創設した。この組織は軍部からも注目され、のちに「第6近衛サセックス義勇連隊クロウバラ隊」として再編成された。ドイルは大戦全期を通じてこの部隊に一兵卒として所属していた<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.136-137</ref><ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.153-154</ref>。
政府と軍部は著名な作家であるドイルを徹底的に戦意高揚に利用する腹積もりであり、ドイルに各地の前線視察や従軍記執筆を依頼した。ドイルはそれらの要請を快諾し、各戦線を練り歩いて士気を鼓舞する演説を行った。ドイルはどこの戦線でも将兵から人気があったという<ref name="河村(1991)154">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.154</ref>。[[1915年]]からは戦記『フランス及びフランダースにおける戦闘(The British Campaign in France and Flanders)』の執筆を開始し、[[1920年]]までに全6巻で完成させた<ref name="シモ(1991)171">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.171</ref>。大戦中のドイルはかつてないほどエネルギッシュに行動し、彼自身ものちに「自己の身体的絶頂期」と評している<ref name="シモ(1991)143">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.143</ref>。
[[1916年]]末には強力な総力戦体制・戦時体制構築を目指す[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]が首相に就任し、ドイルも政府から一層の戦争協力を求められるようになった。しかし軍部による社会監視も強化され、ドイルの書く歴史書も軍の検閲で修正・削除されることが多くなり、ドイルの苛立ちは募った。ロイド・ジョージを称える公式伝記を書くよう求められたこともあったが、ドイルには首相の伝記を書くことが目下の戦争遂行に必要とは思えなかったとして断っている<ref name="スタ(2010)392">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.392</ref>。
ホームズ関連では、開戦前の1914年4月に書きあげた長編『[[恐怖の谷]]』が『ストランド』1914年9月号から9回にわたって連載された<ref name="河村(1991)87">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.87</ref><ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.394-395</ref>。また戦況が泥沼化している[[1917年]]にはホームズがドイツ軍スパイの裏をかくという内容の短編『[[最後の挨拶]]』を戦意高揚のために執筆した。この作品は同年9月の『ストランド』誌に掲載され、「シャーロック・ホームズの戦争での任務」という副題がつけられた<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.395-397</ref>。この作品と[[1908年]]から[[1913年]]にかけて発表されてきたホームズ短編は1917年に『[[シャーロック・ホームズ最後の挨拶]]』として単行本化されている<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.106/171</ref>。
しかしドイルは盲目的に愛国旗振り役だけに徹したわけではなく、[[1916年]]には大戦に乗じて反乱([[イースター蜂起]])を起こしたアイルランド独立運動家[[ロジャー・ケースメント|サー・ロジャー・ケースメント]]の死刑執行延期の嘆願書に署名している(しかし功を奏せず、ケースメントは反逆罪でただちに処刑された)<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.86-88</ref>。
大戦中、ドイルは身内を多く失う悲劇に見舞われた。妻ジーンの弟マルコム・レッキーが最初に戦死し<ref name="河村(1991)155">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.155</ref>、ついで妹の夫や2人の甥が戦死した<ref name="シモ(1991)143">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.143</ref>。[[1918年]]10月には26歳の長男キングズリーが前線で病死した。1919年2月には若い弟イニスも病死した<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.143-144</ref>。
=== 心霊主義活動の本格化 ===
ドイルは一次大戦前から[[心霊主義]]に関心を持っており、一次大戦での身内の死が原因で心霊主義に入ったとはいえないが、これをきっかけに心霊主義への傾斜を強めたことは確かなようである。[[1918年]]に著した最初の心霊主義に関する著作『[[新たなる啓示]](The New Revelation)』の中でドイルは「戦争で多くの人の死に遭い、悲嘆を味わううちに、我々の愛する人は死後もなお生き続けているはずだとの確信に達した」と書いている<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.144/171</ref>。
一次大戦後のドイルは心霊主義の布教を自身の使命と心得るようになった。イギリスのみならず[[オーストラリア]]、アメリカ、[[ヨーロッパ]]諸国、[[南アフリカ]]、[[ローデシア]]、[[ケニア]]などを訪問しては心霊主義の講演を行った<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.145-146</ref>。1925年にはパリで開かれた{{仮リンク|国際心霊主義者連盟|en|International Spiritualist Federation}}の会議の議長を務めた<ref name="シモ(1991)172">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.172</ref>。一次大戦後にドイルが心霊主義布教のために費やした金額は25万ポンドを超えると言われている<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.146-147</ref>。
{{仮リンク|コティングリー (ブレッドフォード)|label=コティングリー|en|Cottingley, Bradford}}の2人の少女(15歳と9歳)が妖精の写真を撮ったと話題になった「[[コティングリー妖精事件]]」をめぐっては、ドイルはこの写真を本物と判断し、『ストランド・マガジン』1920年12月号に掲載させた。さらに[[1922年]]には『[[妖精の到来]](The Coming of the Fairies)』というタイトルでこの件を本にして出版した<ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.167-170</ref><ref name="シモ(1991)147">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.147</ref>。ドイルがこれを信じたのは、少女に偽造写真を作る技術などあるわけがないと考えたこともあった<ref name="河村(1991)172">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.172</ref>。この写真の真偽はその後、イギリスで延々と論争され続けたが、60年以上後の[[1983年]]に至って写真を撮った2人の少女(この時点ではもちろん2人とも老婆になっていた)がそろって本から妖精の絵を切り取って作った偽造写真であることを認めたため、最終的に決着した<ref name="河村(1991)171">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.171</ref>。
『ストランド・マガジン』1925年7月号から心霊主義小説『[[霧の国]]』の連載を開始した。頑なに心霊主義を受け入れないチャレンジャー教授が心霊主義に目覚める話であり、もちろんこの作品のチャレンジャー教授にはドイル本人が投影されている。またイギリスの心霊主義弾圧の法令を批判的に描いている<ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.183-186</ref>。
『ストランド・マガジン』からの依頼でホームズ短編も執筆したが、この時期のホームズ作品は[[シャーロキアン]]からも精彩がないと評価されることが多い。もはやドイルにとってホームズは、心霊主義布教をやりやすくするための資金作りと名声維持の意味しかなくなっていたため、気持ちが十分に入っていなかったと言われている<ref name="河村(1991)182">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.182</ref>。またホームズ作品の舞台となる[[ヴィクトリア朝]]と[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード朝]]が作者にとって遠い過去の時代になってしまっていたことも原因と見られている<ref name="シモ(1991)106">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.106</ref>。このころに書かれたホームズ短編作品は1927年に『[[シャーロック・ホームズの事件簿]]』として単行本化されている<ref name="シモ(1991)172">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.172</ref>。
[[1929年]]には[[アトランティス]]沈没を生き延びた人類が深海探査船に発見されるという内容のSF小説『{{仮リンク|マラコット深海|en|The Maracot Deep}}』を発表した<ref name="シモ(1991)124">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.124</ref>。
=== 死去 ===
[[File:Grave of Sir Arthur Conan Doyle, All Saints Church, Minstead - geograph.org.uk - 1036150.jpg|180px|thumb|コナン・ドイルの墓]]
ドイルは[[1920年代]]から[[心臓発作]]を起こすことが増え、医師から休養を勧められていたが、晩年のドイルは心霊主義布教を最優先にしたため医師の勧告を聞き入れず、積極的に心霊主義の講演に走り回り、執筆活動も続けた<ref name="シモ(1991)146">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.146</ref>。[[1929年]]には心臓発作が頻発するようになり、[[1930年]]春に一時快方に向かったものの、夏になると再び悪化した<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.158-159</ref>。
死の直前の[[1930年]][[7月1日]]には、[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]時代に制定され、当時心霊主義弾圧のために再利用されるようになっていた「{{仮リンク|魔女法|en|Witchcraft Acts}}」の撤廃を陳情すべく、[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]][[ジョン・ロバート・クラインス]]を訪問したが、これによって体力をかなり消耗させた<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.542-543</ref>。
1930年[[7月7日]]朝7時半、衰弱しきってクロウバラの自宅で寝ていた彼は、家族にベッドから窓際の椅子に移してもらった。そこから[[サセックス]]の田舎風景を眺めながら、また家族に看取られながら、8時半ごろに静かに息を引き取った<ref name="スタ(2010)543">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.543</ref><ref>[[#カー(1993)|カー(1993)]] p.475-476</ref>。亡くなる数日前にドイルは「読者は私がたくさんの冒険をしたとお思いだろう。何より偉大で輝かしい冒険がこれから私を待っています」と記していた<ref name="スタ(2010)543" />。
彼の死が世界に伝わると、世界中のファンから多くの弔電を受けた。大量の花束がドイル家に送られ、その輸送のための特別列車が手配されたほどだった<ref name="河村(1991)189">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.189</ref>。妻ジーンは夫同様、心霊主義に傾倒していたため、寂しくは思っても悲しくは思わなかったという。ジーンは「心霊はそれが宿っている肉体が滅びると、それを抜け出して次の世界へ移動する。だから夫は新しい心霊の世界で生き続けている」と述べた<ref name="河村(1991)189" />。そのため、[[7月11日]]に自宅で行われた葬儀も葬儀というより夏の園遊会のように行われたという<ref name="河村(1991)188-189">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.188-189</ref>。
ドイルの墓標には「鋼鉄のごとく真実で、刃のごとくまっすぐな、アーサー・コナン・ドイル。騎士、愛国者、医者、そして文学者(Steel true/Blade straight/Arthur Conan Doyle/Knight/Patriot, Physician, and man of letters.)」と刻まれている<ref name="河村(1991)191">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.191</ref>。{{-}}
== 人物 ==
=== ドイルのホームズ観 ===
ドイルは晩年の[[1927年]]に「彼(ホームズ)のことは、もともとそんな気はなかったのに、随分長く書くことになった」「ありがたい友人たちがもっと読みたいとしきりに望むので、書くことを余儀なくされたのだ。おかげで本当に小粒な種から、こんな途方もないものに成長した」と述べている<ref name="スタ(2010)19">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.19</ref>。
一度はホームズを死なせたこともあるドイルはしばしば「シャーロック・ホームズを嫌っていた男」と表現されるが、ドイルは後年に次のように語ってホームズと「和解」している。「ホームズを復活させたことについて、私はまったく後悔していない。こうした軽い作品を書くことにより、史実や詩、歴史小説、心霊現象研究の著作、劇作といったさまざまなジャンルの創作活動において、自分の限界を試し、発見する行為が、特に邪魔されたわけではないからである。もしホームズが最初からいなければ、私はこれ以上の仕事をしてこれなかっただろう。ただもっとシリアスな著作を認めてもらううえで彼が若干のお荷物になったということはあるかもしれない」<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.21-22</ref>。
=== 政治思想 ===
[[File:Conandoylestatue.jpg|180px|thumb|[[クロウバラ]]にあるコナン・ドイル像]]
ドイルは、当時の大多数のイギリス人と同様に熱狂的な[[帝国主義|帝国主義者]]であり<ref name="河村(1991)133">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.133</ref>、「[[大英帝国]]の拡大が道徳的善を推進する」と信じて疑わなかった<ref name="シモ(1991)84">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.84</ref>。そのため[[1898年]]のイギリス軍の[[スーダン]]侵攻の際には『コロスコの悲劇』を著し、その中で[[マフディーの反乱]]を起こしてイギリス支配を脱却したマフディー教徒たちを「狂信的な専制者」と批判している<ref>[[#岡倉(2003)|岡倉(2003)]] p.195-196</ref>。[[1900年]]から[[1902年]]にかけての[[ボーア戦争]]の際にもイギリス軍のさまざまな残虐行為の「弁護士」の役割を全力で果たし、その功績で国王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]より[[ナイト]]に叙された<ref>[[#岡倉(2003)|岡倉(2003)]] p.198-199</ref>。選挙には[[自由統一党 (イギリス)|自由統一党]]の候補として出馬したが、それは同党が最も強硬に帝国主義戦争を推進していたからだった<ref name="シモ(1991)80">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.80</ref>。
ドイルの大英帝国観は彼の歴史小説の中に見える中世騎士道賛美とも相互補完していた。ドイルは騎士道の強者への賛美はそのまま世界最強国大英帝国への信奉、騎士道の弱者への思いやりはそのまま大英帝国の寛大な植民地政策に反映されていると考えていた<ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.132-133</ref>。ちなみに[[ベルギー王]][[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]]による[[コンゴ自由国|残虐なコンゴ植民地支配]]には批判的であり、その犯罪的統治を糾弾する『コンゴの犯罪(The Crime of the Congo)』を著している<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.88/170</ref>。
女性観も中世[[騎士道]]に根ざしており、男は強くあり、女性を保護しなければならないと考えていた<ref name="河村(1991)115">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.115</ref>。そのためドイルは、無意味な女性差別を廃することには賛成したが、女性が男性の分野に進出してくることには反対した。たとえば離婚事由をめぐって男女差別を規定していた離婚法の改正運動には積極的に協力したが、政治という男の世界への女性の進出を促す[[婦人参政権]]には強く反対した。ドイルは、婦人参政権について「女性に選挙権を持たせても何の益もない」「女性が政治運動をすること自体がおぞましく、女性らしくない」と論じている<ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.115-118</ref><ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.132-136</ref>。そのためしばしば婦人参政権論者の憎悪の対象となり、[[1909年]]には自宅の郵便受けに[[硫酸]]を流し込まれたことがあった。[[1914年]]に訪米した際にも、あるアメリカ合衆国の新聞に「シャーロック来る。"狂気の女たち"のリンチに期待」という見出しをつけられた<ref name="シモ(1991)132">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.132</ref>。
[[反共主義|反共主義者]]であり、第一次世界大戦中に[[ロシア帝国|ロシア]]で起きた[[ロシア革命|共産革命]]を強く嫌悪した。ロシア革命について「まるで一人の強健な人物(帝政ロシア)が、突然目の前でドロドロの腐敗物([[ソビエト連邦]])と化してしまったかのようだ」「やがていくばくもなく共産主義政権は崩壊し、再び強固で健全なロシア人が甦るだろう」という感想を漏らしている。ドイルの後年の心霊主義傾倒は[[共産主義]]に対する反発もあったようである<ref name="シモ(1991)158">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.158</ref>。また[[労働党 (イギリス)|英国労働党]]の緩やかな社会主義も非英国的と見て嫌っていた<ref name="シモ(1991)155">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.155</ref>。
ドイルは徹底した国粋主義者だったが、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]には好感を持っており、「[[アングロ・サクソン人]]が世界をリードすべき」「世界の未来は英米両国の結合にかかっている」と語っていた<ref name="岡倉(2003)194">[[#岡倉(2003)|岡倉(2003)]] p.194</ref>。1900年には『英米の融和(An Anglo-American Reunion)』という小論文を著し、この2国の結合が善意で実現できなければ、やがてロシアからの威嚇の防衛手段として無理やりその結合を成立させられることとなるであろうと予言した<ref name="カー(1993)256">[[#カー(1993)|カー(1993)]] p.256</ref>。{{-}}
=== 心霊主義 ===
[[File:Photo of Sir Arthur Conan Doyle with Spirit, by Ada Deane.jpg|180px|thumb|コナン・ドイルの心霊写真]]
[[心霊主義]]は[[19世紀]]半ばから世界各地で盛んになっていた。イギリスにおける心霊主義の流行はヨーロッパやアジアでの流行に触発されてのものだったが、一度やってくるとイギリスが一番心霊主義の盛んな国となった<ref name="スタ(2010)124">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.124</ref>。
ドイルと心霊主義の最初の出会いは、20歳のときの[[1880年]]に[[バーミンガム]]で行われた「死は全ての終わりか」という題の心霊主義講演を聞いたことだったが、この時のドイルは「[[唯物論]]者」だったといい、不信感をもって心霊話を聞いていたという<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.124-125</ref>。しかしやがて少なくない数の科学者が心霊術を認めていることを知ったドイルは、[[ケンブリッジ大学]]教授[[フレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤース]]が実在すると主張していた[[テレパシー]]を自ら実験した結果、それに成功したらしく、心霊現象に対して自分は頑固すぎたと反省したという<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.124-127</ref>。
その後、ドイルは降霊会に参加するようになった。最初に降霊を体験したときには、その霊がもたらした情報がでたらめだったのでドイルはがっかりしたが、2度目に降霊を体験をしたときには自分しか知らないことを言い当てられ、心霊が立証されたと感じたという<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.127-132</ref>。そしてその体験をした6年後の[[1893年]]11月に[[心霊現象研究協会]]に正式に入会するに至った<ref name="スタ(2010)208">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.208</ref>。
冷静な論理の化身ホームズの生みの親が心霊主義組織に入会したことは一見矛盾して見えるため、当時も今もドイルにケチをつける者はこの点を批判したり嘲笑することが多いが、当時心霊主義はイギリス各界の権威ある人々から広く信じられていた。ドイルが入会したときの心霊現象研究協会の会長は、のちに[[イギリスの首相|首相]]となる政界の重鎮[[アーサー・バルフォア]]であり、哲学者[[ウィリアム・ジェームズ]]、博学者[[アルフレッド・ラッセル・ウォレス]]、物理学者[[オリバー・ロッジ]]、化学者[[ウィリアム・クルックス]]など名だたる科学者たちも参加していた<ref>[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.208-209</ref>。
このころのドイルはまださほど熱心に心霊主義を研究していたわけではなかったようである<ref name="スタ(2010)214">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.214</ref>。[[#心霊主義活動の本格化|前述]]したようにドイルの心霊主義への本格的傾倒は、身内の戦死が続出した[[第一次世界大戦]]後である。[[1920年代]]のドイルは体調が悪化し続けていたが、無理をしてでも心霊主義布教のために尽くしていた。自分の残りの人生はそのためだけに与えられていると思っていたという<ref name="河村(1991)187">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.187</ref>。
=== スポーツマン ===
ドイルは生来体格がよかったこともあって、スポーツ好きだった<ref name="河村(1991)118">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.118</ref>。
とりわけ[[クリケット]]が得意であり、{{仮リンク|メアリルボーン・クリケット・クラブ|en|Marylebone Cricket Club}}の一員として、投手としても打者としても活躍した。[[ウィリアム・ギルバート・グレース]]からアウトを取ったこともあったという<ref name="シモ(1991)62">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.62</ref><ref name="ピア(2012)216">[[#ピア(2012)|ピアソン(2012)]] p.216</ref>。
[[サッカー]]でも活躍し、40代までプレイし続けた<ref name="シモ(1991)62">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.62</ref>。[[ゴルフ]]や[[ビリヤード]]もたしなんだ<ref name="ピア(2012)216">[[#ピア(2012)|ピアソン(2012)]] p.216</ref>。
アマチュアの[[ボクシング|ボクサー]]でもあり、かなり強かったという<ref name="シモ(1991)62">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.62</ref>。ドイルはボクシングを「武器を使わないもっともフェアで男らしいスポーツ」と絶賛している<ref name="河村(1991)119">[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.119</ref>。
ただドイル本人は自分のスポーツの腕前について「どれも専門的にやったわけではないから、何をやっても二流どまりだった」と謙虚に語っている<ref name="シモ(1991)62" />。
=== その他 ===
*身長は6フィート(1.83メートル)、体重は17ストーン(107.9キロ)あったという<ref name="シモ(1991)62">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.62</ref>。
*最新の技術に関心が深く、[[1903年]]という早い時期に[[自動車]]を所有し、また[[1906年]]には田舎の屋敷の敷地内に電動[[モノレール]]を走らせた<ref name="シモ(1991)84">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.84</ref>。
*肉体的健康への関心も深く、「世界一の力持ち」と呼ばれた[[ユージン・サンドウ]]の健康増強講座を受講していた<ref name="シモ(1991)84">[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.84</ref><ref name="ピア(2012)215">[[#ピア(2012)|ピアソン(2012)]] p.215</ref>。
== 評価 ==
ドイル当人にとっては「どちらかといえば程度の低い作品」であった[[シャーロック・ホームズシリーズ]]の知名度がドイル作品の中では群を抜いている。『ストランド・マガジン』のホームズ担当編集員だったグリーンハウ・スミスは「[[シャーロック・ホームズ]]と[[ジョン・H・ワトスン|ワトスン博士]]の名前はみんなにおなじみの名前であり、この2人の名は今や普通名詞化しています」「これはどんな作者でも誇りに思うような偉業です。シャーロック・ホームズは間違いなく、英語で書かれた小説の中でもっともなじみのある、もっとも広く知られた登場人物なのです」と語っている<ref name="スタ(2010)19">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.19</ref>。
ホームズ作品の魅力はもちろんドイルの文才によるところが大きい。ドイルの文章は歯切れがよく、しかも平易で読みやすく、含蓄もある。日本においても英語授業の教材としてしばしば使用されている<ref name="水野(2001)55">[[#水野(2001)|水野(2001)]] p.55</ref>。物語の簡潔な構成力が高く評価されており、[[江戸川乱歩]]はドイルのことを「どちらかといえば短編作家」と評している<ref name="水野(2001)56">[[#水野(2001)|水野(2001)]] p.56</ref>。またドイルはホームズ作品を通じて、[[密室]]、[[暗号]]、[[ダイイング・メッセージ]]、毒殺・毒物、一人二役、替え玉死体、偽装殺人、意外な凶器、意外な隠し場所など、現代に至るまでの推理物の基本的なトリックのパターンをほぼすべて完成させた人物でもある<ref name="水野(2001)57">[[#水野(2001)|水野(2001)]] p.57</ref>。
一方、ホームズ以外の作品の知名度は低いと言わざるを得ず<ref name="スタ(2010)551">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.551</ref>、ドイルが自身の傑作と考えていた『{{仮リンク|ホワイト・カンパニー|en|The White Company}}』や『{{仮リンク|ナイジェル卿の冒険|en|Sir Nigel}}』といった歴史小説も現在ではほとんど読まれていない<ref name="スタ(2010)9">[[#スタ(2010)|スタシャワー(2010)]] p.9</ref>。
== ドイルと日本 ==
ドイルは『ストランド・マガジン』1903年10月号掲載の『[[最後の事件]]』で、ホームズが[[ライヘンバッハの滝]]から[[ジェームズ・モリアーティ|モリアーティ教授]]と落ちながら助かった理由として、「日本武術[[バリツ]]」をホームズが身に着けていたためと設定した。また『ストランド・マガジン』1925年2月・3月号掲載の『[[高名な依頼人]]』では「[[聖武天皇]]」と「[[奈良]]の[[正倉院]]」を話題として出している<ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.196-197</ref>。
ドイルが系統的に日本についての知識を有していたかは疑わしい。しかし[[清|中国]]分割をめぐって[[ロシア帝国|ロシア]]と対立を深めるイギリスは、[[1902年]]に日本と対露を目的とした[[日英同盟|同盟]]を締結したため、以降イギリス人の日本への関心は高まっていた。そのため知識人層であるドイルが日本について断片的な知識を有していたとしても不思議ではない<ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.196/201-203</ref>。
またドイルの幼馴染の友人には[[東京帝国大学]]教授[[ウィリアム・K・バートン]]がいた。工業化が急速に進展していた明治の日本は、近代的水道網の設備を急いでおり、バートンはそのための人材として[[1884年]]に[[日本政府]]から招かれていた。ドイルはバートンと写真を通じて仲がよく、バートンが日本にいる間、イギリスにある彼の預金通帳はドイルが預かっていた。そのような関係から2人は文通も多く、ドイルの日本に関する知識もこのバートンから仕入れられた可能性がある<ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.196</ref>。
ドイルと会ったことがある日本人は確認されている限り2人である。1人は[[1909年]]から英国留学した英語教師の[[安藤貫一]]で、[[1910年]]1月にピカデリー・ホテルでドイルと会見している。ドイルは安藤にバートン教授の話や自分の作品の話をし、「ジェラール准将のごとき武勇伝が私は一番好きで歴史小説に心血を注いできたのに、期待したほどの反応はなく、むしろ探偵小説で予想外の成功を収めたのは意外だった」と語ったという<ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.206-207</ref>。
もう1人は[[薩摩治郎八]]であり、彼は20歳のころの[[1921年]]に[[ロンドン日本協会]]副会長[[アーサー・ディオシー]]の紹介でドイルと会見した。彼はドイルに[[トマス・エドワード・ローレンス|アラビアのロレンス]]について質問したという<ref>[[#河村(1991)|河村(1991)]] p.209-210</ref>。
== 家族 ==
[[File:Bundesarchiv Bild 102-10068, Schriftsteller Conan Doyle mit seinem Sohn.jpg|180px|thumb|ドイルと三男{{仮リンク|エイドリアン・コナン・ドイル|label=エイドリアン|en|Adrian Conan Doyle}}]]
[[1885年]]に[[ルイーズ・コナン・ドイル|ルイーズ・ホーキンズ]]と最初の結婚をしたが、[[1906年]]に死別。翌[[1907年]]に[[ジーン・コナン・ドイル|ジーン・レッキー]]と再婚する<ref>[[#シモ(1991)|シモン(1991)]] p.56/64-67</ref>。
子供は全部で5人。ルイーズとの間に、長女マリー・ルイーズと長男アーサー・アレイン・キングスレイ([[スペインかぜ]]で1918年に死去)。ジーンとの間に、次男デニス・パーシー・スチュワート([[ロシア帝国下のグルジア|グルジア貴族]]の娘と結婚し、アメリカ合衆国での派手な暮らしで破産同然となる)、三男{{仮リンク|エイドリアン・コナン・ドイル|label=エイドリアン・マルコム|en|Adrian Conan Doyle}}(レーサー、[[探検家]])、次女ジーン・レナ・アレット(幼いころから父親の心霊スポット行脚の旅に同行し、両親の死後、[[イギリス空軍]]の軍人になり、定年まで勤め上げる。夫も軍人)。三男のエイドリアンは、[[ジョン・ディクスン・カー]]の協力を得て、ホームズ・シリーズの続編をいくつか出版した。次男と三男は父親の財産で放蕩の限りを尽くし、父親の版権相続をめぐって一族内で裁判沙汰が絶えなかった。[[1997年]]に次女で末娘のジーンが亡くなったことで、コナンドイルの子孫は断絶した<ref>[http://www.independent.co.uk/news/obituaries/obituary-air-commandant-dame-jean-conan-doyle-1295551.html Obituary: Air Commandant Dame Jean Conan Doyle, The Independent 22 November 1997]</ref>。
ドイル作品の版権は次男の死後、三男に引き継がれた。その一部は、次男の未亡人による裁判によって未亡人のものになったが、彼女の経済的破綻により[[ロイヤルバンク・オブ・スコットランド]]のものとなり、その後、個人に売却された<ref>[http://www.sherlockholmesonline.org/index.htm Sir Arthur Conan Doyle Literary Estate]</ref>。[[1980年]]にドイルの版権は英国の[[パブリック・ドメイン]]になったが、アメリカ合衆国では著作権法により2023年まで保護されることになり、次女のジーンに引き継がれた。ジーンの死亡後は、その遺言により[[英国王立盲人協会|英国王立盲人協会 (RNIB)]]に譲渡されたが、のちにドイル家の傍系の相続人に売却された<ref>[http://www.nytimes.com/2010/01/19/books/19sherlock.html?pagewanted=all&_r=0 For the Heirs to Holmes, a Tangled Web, The New York Times, January 18, 2010]</ref>。{{-}}
そしてシャーロック・ホームズシリーズの著作権は、[[2023年]][[1月1日]]にすべて[[パブリックドメイン]]になったとされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/53297|title=「シャーロック・ホームズ」の小説等、1927年の作品が著作権切れに|accessdate=2023-01-05|publisher=ForbesJapan}}</ref>
== おもな著作 ==
{{Wikisource author||アーサー・コナン・ドイル}}
{{Wikiquote|アーサー・コナン・ドイル}}
=== シャーロック・ホームズシリーズ ===
*『[[緋色の研究]]』([[1887年]])
*『[[四つの署名]]』([[1890年]])
*『[[シャーロック・ホームズの冒険]]』([[1892年]]、短編集)
*『[[シャーロック・ホームズの思い出]]』([[1894年]]、短編集)
*『[[バスカヴィル家の犬]]』([[1901年]])
*『[[シャーロック・ホームズの帰還]]』([[1905年]]、短編集)
*『[[恐怖の谷]]』([[1914年]])
*『[[シャーロック・ホームズ最後の挨拶]]』([[1917年]]、短編集)
*『[[シャーロック・ホームズの事件簿]]』([[1927年]]、短編集)
=== チャレンジャー教授シリーズ ===
*『[[失われた世界]]』([[1912年]])
*『[[毒ガス帯]]』([[1913年]])
*『[[霧の国]]』([[1926年]])
=== ジェラール准将シリーズ ===
*『ジェラール准将の功績(The Exploits of Brigadier Gerard)』([[1896年]]、短編集){{#tag:ref|『勇将ジェラールの回想』[[上野景福]]訳、創元推理文庫|group=注釈}}
*『ジェラールの冒険(The Adventures of Gerard)』([[1903年]]、短編集){{#tag:ref|『勇将ジェラールの冒険』上野景福訳、創元推理文庫|group=注釈}}
=== ミステリ(ホームズ以外)作品 ===
*『ササッサ谷の怪』''The Mystery of Sassassa Valley'' - ドイル最初の発表作品。日本昔話の『おぶさりてえ』にも似た半ホラー半ミステリの短編(『ササッサ谷の怪─コナン・ドイル未紹介作品集1』小池滋監訳、中央公論社)
*『消えた臨急』(急行列車の紛失)''The Lost Special'' - 和訳が多く、複数の短編集に収録されている。(創元推理文庫『まだらの紐―ドイル傑作集1』ほか)
*『時計だらけの男』(女装好きの男) - 作中にホームズらしき探偵の描写がある。(新潮文庫『ドイル傑作集 I ミステリー編』ほか)
*『ガスタ山の医師』 - (新潮文庫『ドイル傑作集IV 冒険編』)
=== 恐怖小説 ===
*『大空の恐怖』''The Horror of the Heights'' - 草創期の飛行士が大空で出会った怪物との死闘を、手記の形で描く。(新潮文庫『ドイル傑作集 III 怪奇編』)
=== 海洋小説 ===
*『樽工場の怪』(たる工場の怪) - (新潮文庫『ドイル傑作集 II 海洋編』)
*『クルンバーの謎』''The Mystery of Cloomber'' - (新潮文庫『ドイル傑作集VI 海賊編』)
=== スポーツ小説 ===
*『クロックスリーの王者』 - (新潮文庫『ドイル傑作集VIII ボクシング編』)
*『バリモア公の失脚』(バリモア卿失脚の真相) - (新潮文庫『ドイル傑作集VIII ボクシング編』)
*『ファルコンブリッジ公』
*『ブローカスの暴れん坊』
*『旅団長の罪』
==== 短編概説 ====
[[延原謙]]訳『ドイル傑作集』全8巻([[新潮文庫]]、1957年 - 1961年)が、ジャンル別に編纂したアンソロジー<ref group="注釈">改訂版では、2巻が「海洋奇談編」から「海洋編」、3巻が「恐怖編」から「怪奇編」と替わるなど、副題の表現や収録作、そしてシリーズ構成に変更がある。</ref>の構成。21世紀以降は新潮社で電子出版。<br/>21世紀に入り、ホームズ外典を含めた短編集『ドイル傑作集』全5冊が[[創元推理文庫]]<ref group="注釈">[[北原尚彦]]・[[西崎憲]]編、2004年 - 2011年。単行版は翔泳社・全2巻。各・版元品切</ref>で出版された。
=== 歴史小説 ===
*『{{仮リンク|マイカ・クラーク|en|Micah Clarke}}』([[1889年]])
*『{{仮リンク|ホワイト・カンパニー|en|The White Company}}』([[1891年]]){{#tag:ref|『白衣の騎士団』笹野史隆訳、[[原書房]]|group=注釈}}
*『{{仮リンク|大いなる影|en|The Great Shadow}}([[1892年]]){{#tag:ref|『ナポレオンの影』笹野史隆訳、原書房|group=注釈}}
*『{{仮リンク|亡命者 (小説)|label=亡命者|en|The Refugees (novel)}}』([[1893年]])
*『{{仮リンク|ロドニー・ストーン|en|Rodney Stone}}』([[1896年]])
*『[[ベルナック伯父]](Uncle Bernac)』([[1897年]])
*『{{仮リンク|サー・ナイジェル|en|Sir Nigel}}』([[1906年]]){{#tag:ref|『ナイジェル卿の冒険』笹野史隆訳、原書房|group=注釈}}
=== その他の小説 ===
*『{{仮リンク|J・ハバクック・ジェフソンの遺書|en|J. Habakuk Jephson's Statement}}』([[1883年]]) - 『ドイル傑作集II-海洋奇談編』新潮文庫 所収<br/> ほかに『縞のある衣類箱』『ポールスター号船長』『たる工場の怪』『ジェランドの航海』『あの四角い小箱』
*『{{仮リンク|ガードルストーン会社|en|The Firm of Girdlestone}}』([[1890年]])
*『{{仮リンク|危険!|en|Danger! (short story)}}』([[1914年]])
*『{{仮リンク|マラコット深海|en|The Maracot Deep}}』([[1929年]]){{#tag:ref|『マラコット深海』[[大西尹明]]訳、創元推理文庫|group=注釈}}
=== ノンフィクション ===
*『{{仮リンク|大ボーア戦争|en|The Great Boer War}}』([[1900年]])
*『[[南アフリカ戦争 原因と行い]](The War in South Africa - Its Cause and Conduct)』([[1902年]])
*『[[魔法の扉をくぐれば]](Through the Magic Door)』([[1907年]]){{#tag:ref|『シャーロック・ホームズの読書談義』佐藤佐智子訳、大修館書店、1989年|group=注釈}}
*『[[コンゴの犯罪]](The Crime of the Congo)』([[1909年]])
*『[[オスカー・スレイター事件 (本)|オスカー・スレイター事件]](The Case of Oscar Slater)』([[1912年]])
*『[[フランス及びフランダースにおける戦闘]](The British Campaign in France and Flanders)』([[1916年]]-[[1920年]])
*『[[新たなる啓示]](The New Revelation)』([[1918年]]) {{#tag:ref|『コナン・ドイルの心霊学』[[近藤千雄]]訳、潮文社、新版2007年|group=注釈}}
*『[[妖精の到来]](The Coming of the Fairies)』([[1921年]]){{#tag:ref|『妖精の到来 コティングリー村の事件』[[井村君江]]訳、新版・アトリエサード、2021年|group=注釈}}
*『わが思い出と冒険(Memories and adventures)』([[1924年]]){{#tag:ref|『わが思い出と冒険-コナン・ドイル自伝』延原謙訳、新潮文庫、復刊1994年|group=注釈}}
*『[[心霊主義の歴史]](The History of Spiritualism)』([[1926年]])
*『未知の先端(The Edge of the Unknown)』([[1930年]]){{#tag:ref|『コナン・ドイルの心霊ミステリー』小泉純訳、ハルキ文庫(旧版『神秘の人』大陸書房)|group=注釈}}
=== 合作 ===
*『看護婦ヒルダ・ウェイド( A Woman with Great Tenacity of Purpose)』([[1900年]])
*:[[グラント・アレン]]が『ストランド・マガジン』に連載した女探偵もの。作者アレンの急逝により、最終部を友人ドイルが書き継いだ。没後出版の単行本は「グラント・アレン&アーサー・コナン・ドイル」名義。
**『ヒルダ・ウェード ― 目的のためには決してくじけない女性の物語』(平山雄一訳、盛林堂ミステリアス文庫、2018年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{reflist|20em}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=岡倉登志|authorlink=岡倉登志|date=2003年(平成15年)|title=ボーア戦争|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634647008|ref=岡倉(2003)}}
*{{Cite book|和書|author=ジョン・ディクスン・カー|authorlink=ジョン・ディクスン・カー|others=[[大久保康雄]]訳|year=1993|month=8|title=コナン・ドイル|series=[[ハヤカワ・ポケット・ミステリ|ハヤカワ・ミステリ]]|publisher=早川書房|isbn=4-15-000460-9|ref=カー(1993)}}
*{{Cite book|和書|author=河村幹夫|authorlink=河村幹夫|year=1991|month=7|title=コナン・ドイル――ホームズ・SF・心霊主義|series=講談社現代新書|publisher=講談社|isbn=4-06-149061-3|ref=河村(1991)}}
*{{Cite book|和書|author=ジュリアン・シモンズ|authorlink=ジュリアン・シモンズ|others=[[深町眞理子|深町真理子]]訳|year=1984|month=3|title=コナン・ドイル|publisher=東京創元社}}
**{{Cite book|和書|author=ジュリアン・シモンズ|authorlink=ジュリアン・シモンズ|others=深町真理子訳|year=1991|month=5|title=コナン・ドイル|series=創元推理文庫|publisher=東京創元社|isbn=4-488-10006-6|ref=シモ(1991)}}
*{{Cite book|和書|author=ダニエル・スタシャワー|authorlink=ダニエル・スタシャワー|others=[[日暮雅通]]訳|year=2010|month=1|title=コナン・ドイル伝|publisher=東洋書林|isbn=978-4-88721-760-7|ref=スタ(2010)}}
*{{Cite book|和書|author=ヘスキス・ピアソン||others=植村昌夫訳|year=2012|month=8|title=コナン・ドイル シャーロック・ホームズの代理人|publisher=平凡社|isbn=978-4582835762|ref=ピア(2012)}}
*{{Cite book|和書|author=水野雅士|authorlink=水野雅士|year=2001|month=6|title=シャーロッキアンへの道―登山口から5合目まで|publisher=青弓社|isbn=978-4787291462|ref=水野(2001)}}
== 関連文献 ==
*{{Cite book|和書|author=小林司|authorlink=小林司 (精神医学者)|coauthors=[[東山あかね]]|year=1999|month=7|title=シャーロック・ホームズの醜聞|publisher=[[晶文社]]|isbn=4-7949-6405-6}}
*{{Cite book|和書|author=ダニエル・スタシャワー ほか編|others=日暮雅通訳|year=2012|month=1|title=コナン・ドイル書簡集|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4-88721-796-6}}
*{{Cite book|和書|author=コナン・ドイル|others=[[延原謙]]訳|year=1994|month=3|origyear=1965|title=わが思い出と冒険――コナン・ドイル自伝|series=新潮文庫|publisher=新潮社|isbn=4-10-213414-X}}電子出版・新潮社(2016年より)
*{{Cite book|和書|author=コナン・ドイル|others=田中喜芳訳|year=2006|month=1|title=スターク・マンローからの手紙|publisher=河出書房新社|isbn=4-309-20454-6}}
**『スターク・マンローからの手紙』田中喜芳訳、改訂版・言視舎、2012年12月。ISBN 4-905369-48-7
*{{Cite book|和書|author=コナン・ドイル|others=[[近藤千雄]]訳|year=1992|month=2|title=コナン・ドイルの心霊学|series=[[新潮選書]]|publisher=新潮社|isbn=4-10-600415-1}}
**{{Cite book|和書|author=|others=近藤千雄訳|year=2002|month=11|title=コナン・ドイルの心霊学|edition=新装版|publisher=[[潮文社]]|isbn=4-8063-1364-5}}
**{{Cite book|和書|author=|others=近藤千雄訳|year=2007|month=12|title=コナン・ドイルの心霊学|edition=新装版|publisher=潮文社|isbn=4-8063-1425-0}}
*{{Cite book|和書|author=ロナルド・ピアソール|authorlink=ロナルド・ピアソール|others=[[小林司 (精神医学者)|小林司]]・[[島弘之]]訳|year=1983|month=1|title=シャーロック・ホームズの生れた家|series=新潮選書|publisher=新潮社}}
**{{Cite book|和書|author=|authorlink=|others=小林司・島弘之訳|year=1990|month=8|title=シャーロック・ホームズの生れた家|series=[[河出文庫]]|publisher=河出書房新社|isbn=4-309-46076-3}}
*{{Cite book|和書|author=水野雅士|authorlink=|year=2002|month=8|title=手塚治虫とコナン・ドイル|publisher=青弓社|isbn=4-7872-9159-9}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Arthur Conan Doyle}}
* [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person9.html ドイル アーサー・コナン:作家別作品リスト]([[青空文庫]])
* [https://221b.jp/ ホームズシリーズ全作の日本語訳]
* [http://www.visitbritain.jp/things-to-see-and-do/interests/history-and-heritage/artists-and-literary-britain/writers-and-poets/sir-arthur-conan-doyle.aspx/ 英国政府観光庁 - アーサー・コナン・ドイルゆかりの地]
* [http://www.gutenberg.org/ebooks/author/69 原文著作集]
* [http://gutenberg.net.au/ebooks03/0301051h.html 『スピリチャリズムの歴史』1924年(英語)]
* {{Kotobank|ドイル}}
{{Normdaten}}
{{Good article}}
{{デフォルトソート:といる ああさあ こなん}}
[[Category:アーサー・コナン・ドイル|*]]
[[Category:19世紀スコットランドの小説家]]
[[Category:20世紀スコットランドの小説家]]
[[Category:19世紀スコットランドの医師]]
[[Category:20世紀スコットランドの医師]]
[[Category:イギリスの推理作家]]
[[Category:イギリスのSF作家]]
[[Category:ゴシック・フィクション作家]]
[[Category:イギリス自由統一党の政治家]]
[[Category:ヴィクトリア朝の人物]]
[[Category:イギリスの反共主義者]]
[[Category:ボーア戦争]]
[[Category:心霊主義]]
[[Category:アイルランド系スコットランド人]]
[[Category:エディンバラ出身の人物]]
[[Category:エディンバラ大学出身の人物]]
[[Category:1859年生]]
[[Category:1930年没]]
[[Category:スポーツ選手出身の政治家]] | 2003-03-08T13:03:36Z | 2023-10-07T11:08:32Z | false | false | false | [
"Template:Lang-en",
"Template:Commonscat",
"Template:Good article",
"Template:IPA",
"Template:仮リンク",
"Template:-",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Kotobank",
"Template:Infobox 作家",
"Template:Notelist",
"Template:Post-nominals",
"Template:Wikisource author",
"Template:Wikiquote",
"Template:Cite web",
"Template:Cite book",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%AB |
3,686 | メモリ (曖昧さ回避) | メモリ (memory) は、英語で記憶または思い出のこと。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "メモリ (memory) は、英語で記憶または思い出のこと。",
"title": null
}
] | メモリ (memory) は、英語で記憶または思い出のこと。 | {{wikt|メモリ|memory|めもり}}
'''メモリ''' (memory) は、[[英語]]で[[記憶]]または[[思い出]]のこと。
==メモリ(メモリー)==
* [[コンピュータ]]において、情報の記憶を行う装置。 → [[記憶装置]]
** 記憶装置を構成する部品のこと。またはその部品の技術のこと。
*** [[主記憶装置]](メインメモリ)- 単に「メモリ」と呼ぶ場合はこれを指す場合が多い。
*** [[半導体メモリ]]
**** [[フラッシュメモリ]]
*** [[メモリカード]]
*** [[USBメモリ]]
*** [[磁気コアメモリ]]
*** [[磁気バブル#磁気バブルメモリ|磁気バブルメモリ]]
=== 作品 ===
; 楽曲
<!--詳細未記入につきCO *** [[Memory ゲーム]]-->
* [[メモリー (曲)]] - [[ミュージカル]]『[[キャッツ (ミュージカル)|キャッツ]]』の代表的なナンバー。150組を超える歌手によってレコーディングされている。
* メモリー - [[ClariS]]の楽曲。アルバム『[[BIRTHDAY (ClariSのアルバム)|BIRTHDAY]]』に収録。
* Memory - 歌手・[[上條ひとみ]]の2007年2月21日発売の4枚目のマキシシングル。
* [[MEMORY - 西城秀樹20歳の日記]] - [[西城秀樹]]のアルバム。
* [[Roadmade|memory]] - [[コブクロ]]のアルバム「Roadmade」収録曲。
; 映画
* [[MEMORY メモリー]]
==めもり==
*[[目盛り]]([[目盛]])
==関連項目==
* [[記憶 (曖昧さ回避)]]
{{Aimai}}
{{デフォルトソート:めもり}}
[[Category:英語の語句]]
[[Category:同名の作品]] | null | 2023-04-08T08:32:19Z | true | false | false | [
"Template:Wikt",
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%83%AA_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF) |
3,692 | 千葉駅 | 千葉駅(ちばえき)は、千葉県千葉市中央区新千葉一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・千葉都市モノレールの駅である。
京成電鉄の京成千葉駅と近接しており、乗換駅となっている。
東日本旅客鉄道(JR東日本)と千葉都市モノレールが乗り入れており、中央区新千葉一丁目に位置している。尚、隣接する京成電鉄の京成千葉駅は中央区新町250番地3に位置している。
千葉県の県庁所在地及び政令指定都市である千葉市の中心駅である。横須賀・総武快速線(総武線快速)、中央・総武緩行線(中央総武線各駅停車) 成田線、総武本線、外房線、内房線、千葉都市モノレール1号線、千葉都市モノレール2号線が乗り入れており、東京都心方面からの緩急分離運転区間の終点及び千葉県内各地へ向かう各路線が集結するジャンクション及びターミナル駅である。千葉都市モノレールの駅は、京成電鉄の京成千葉駅と一体的な造りとなっており、当駅のモノレール連絡通路からモノレール口を通ることで京成千葉線へも乗り換えが可能である。
当駅には駅ビル(ペリエ千葉)、複合施設(ウェストリオ)、ホテル(サンルート千葉)、センシティ(センシティタワー、そごう千葉店、オーロラモールジュンヌ)、商業施設(C-One)が入居・接続している。主に当駅東側から千葉中央駅にかけての中心市街地(富士見地区から中央地区)には企業のオフィスビル、銀行や商業施設、家電量販店などが林立する繁華街となっており、柏駅や船橋駅周辺などとともに千葉県有数の市場規模を誇る巨大商圏となっている。
当駅は2011年(平成23年)以前から建て替え工事が進められてきており、2016年(平成28年)11月20日、53年ぶりに新しい「千葉駅」として開業した。改札など駅機能を3階に集約することで、ターミナル駅として利便性も向上している。
駅西口には2013年(平成25年)10月1日に千葉都市計画事業千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業の中核施設として複合施設のウェストリオ(WESTRIO)が開業し、ホテル棟(WESTRIO1)と事務所棟(WESTRIO2・WESTRIO3)のビルが3棟並ぶ。2018年(平成30年)6月28日には千葉ステーションビル主体の駅ビル「ペリエ千葉(Perie)」が開業し、構内にはエキナカ(地上3、4階の2フロア)、改札外にはペリエ千葉の本館、ペリチカ、ストリート1、ストリート2と約8万3000平方メートル(地下1階 - 地上7階)の大規模な駅ビルが隣接している。
駅周辺は都市の国際競争力強化の観点から特に重要な地域として都市再生緊急整備地域に指定されており、千葉駅東口地区第一種市街地再開発事業、千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業(B工区) 等、更なる都市再開発事業が続いている。
事務管コードは▲431218を使用している。
JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は総武本線と外房線の2路線であり、このうち総武本線を当駅の所属線とし、外房線は当駅を起点としている。一方、当駅に乗り入れる運転系統は多岐にわたる。
総武本線は当駅から東京方面は錦糸町駅までが複々線となっており、快速線を走行する総武快速線と緩行線を走行する中央・総武線各駅停車がそれぞれ運転されている。総武快速線は一部列車が当駅より先(後述の各線)へ直通しているが、中央・総武線各駅停車は当駅を運転系統の起終点としている。なお、津田沼・当駅間が複線だった頃は、当駅より先に直通する各駅停車も運転されていた。現在では配線上、内房線や外房線、総武本線(銚子方面)や成田線へ直通することが不可能となり、折り返し運転のみが可能となっている。
東京都心方面へ向かう総武本線は、快速線を走る総武快速線と、緩行線を走る中央・総武線各駅停車の2系統が発着する。このうち、横須賀線・総武快速線は総武本線、成田線、鹿島線、外房線、内房線へ相互直通運転を実施している。
千葉県内各地へ向かう各路線は次の4系統が発着する。すべて横須賀線・総武快速線への相互直通運転を実施している。
千葉都市モノレールの駅は1号線と、当駅を起点とする2号線の乗換駅となっている。両線共通で「CM 03」の駅番号が設定されている。モノレール同士の乗換駅は日本国内では当駅と大阪モノレールの万博記念公園駅のみである。
当駅は京成電鉄「京成千葉駅」と相互乗換駅になっており、接続路線は京成千葉線である。当駅中央改札から出場して南口からそごう千葉店方面に向かうか、モノレール連絡口を通り京成千葉駅のモノレール口から入場することで乗り換えが可能である。
1963年(昭和38年)に移転するまでは、800 mほど成田方面寄りの千葉市民会館周辺(北緯35度36分56秒 東経140度7分12秒 / 北緯35.61556度 東経140.12000度 / 35.61556; 140.12000 (Old Chiba stastion))にあり、佐倉・銚子方面から船橋・東京方面と蘇我駅・安房鴨川駅方面の二またに分かれていた。そのため船橋・東京方面と蘇我・安房鴨川方面を結ぶ直通列車は、当駅でスイッチバックする形となっていた。
現在地に移転後は、船橋・東京方面から蘇我・安房鴨川方面と佐倉・銚子方面の二またに分かれる線形に改良された。駅全体がV字状になっているのはそのためである。千葉近隣の駅では大網駅も同様の変遷をたどっている。駅前広場も当時は非常に狭く、バス路線の大半は駅より離れた「要町」での発着となっていた。栄町は当時の千葉駅前から千葉県庁へのメインストリートに当たり、繁華街であった。千葉市民会館の近くに、旧駅の石碑が残っている。また、移転後の1965年(昭和40年)には旧駅よりもやや成田寄りに東千葉駅が新設されている。
JR東日本千葉支社は、2008年9月18日に、千葉駅とペリエ1となっている千葉駅ビルの建て替えを発表した(後述)。2010年7月時点で、駅構内のほとんどの店舗が閉店され本格的に工事が始まり、通路に天窓が建設され、7・8番線の一部階段が閉鎖されて使用できなくなっていた。また、西口改札外の歩道橋が早期に建て替えられていた。
現在地に移転する1963年以前の駅構造は、頭端式ホーム2面3線と島式ホーム1面2線の計3面5線(加えて複数の留置線を有していた)で、0番線は房総東線(現:外房線)、1番線は房総西線(現:内房線)、2番線は成田線、3番線は中央・総武線(各駅停車)、4番線は総武本線が使用していた。
駅長・助役配置の直営駅で、当駅と西千葉駅、本千葉駅、東千葉駅を管理している。また、当駅、稲毛駅、四街道駅で千葉営業統括センターを構成しており、当駅駅長はその所長も兼任する。島式ホーム5面10線を有する。1 - 6番線と7 - 10番線は、東側で駅ビル(駅本屋を兼ね、「ペリエ千葉」が入っている)を挟む形で分かれている。そのため、東側では5・6番線ホームと7・8番線ホームの距離が離れている。台地の斜面に位置しているため、西千葉駅・稲毛駅方向では橋上であるが、本千葉駅・東千葉駅方向は高架となっている。階数は東口側にある駅ビルが基準となっているため、各ホームは2階として扱われている。駅がこのような型になった理由については「歴史」を参照。
改札口は1 - 6番線と7 - 10番線の二又の間にある3階の中央改札口(東口・南口・千葉公園口・モノレール連絡口に接続)、西千葉駅方向の高架橋にある同じく3階の西改札口(西口・北口に接続)、更にペリエ千葉エキナカ4階にあるペリエ改札(ペリエ千葉4階に接続)の3ヶ所ある。西改札口は2018年3月3日より、始発から午前6時50分までの間は遠隔対応(インターホン対応は稲毛駅が行う)となり、改札係員は不在。一部の自動券売機のみ稼働している。ペリエ改札は午前10時から午後9時の間ICカード利用客のみ利用できる改札口で、終日無人となっており、Suicaチャージ機が設置されている。 コンコースは3階にあり、中央改札口に繋がる東側通路、西改札口に繋がる西側通路、その間にある中央通路で構成されている。東側通路には各ホーム行きのエスカレーターとエレベーターが、西側通路には7・8番線ホーム行きのエレベーターが設置されている。このうち中央通路と5 - 8番線ホームを結ぶエレベーターはペリエ千葉エキナカの4階へもつながっている。ペリエ千葉エキナカの4階へは、このエレベーターの他にエスカレーター3基と階段が設置されている。トイレは東側通路1・2番線側、中央通路9・10番線側、連絡通路の3箇所に、車椅子に対応した多機能トイレはこのうち東側通路1・2番線側と中央通路9・10番線側の2箇所にある。鉄道警察隊は東側通路9・10番線側にある。
(出典:JR東日本:駅構内図)
線路の配線状況により、1 - 6番線の線路と7 - 10番線の線路は東側では一切交差していない。そのため、直通先が多岐にわたっている総武快速線の東京方面行は終日3 - 10番線からランダムに発車している。
平日朝ラッシュ時において、東京方面の当駅始発列車を対象に一旦ドアを閉める整列乗車を行っている。下り列車は全て対象外である。
当駅では、発車ベル(当時主流のピロピロピロという電子音)が近隣から騒音であるとの苦情に応えて、JR東日本の主要駅としては初めて1988年(昭和63年)5月から同年8月7日まで30分間発車ベルを鳴らさないで運行を行う試験を行い、特に問題も生じなかったことから、そのまま試行期間の終了後に発車ベルを全面廃止した。
この試みは「静けさで心が和らぐ改善」などの肯定的な評価をされ、業界誌でも取り上げられるなど注目を集めた。同年10月には早くも市川駅や稲毛駅といった同じ千葉県内の駅のみならず、東京都内の新小岩駅など県外の駅にも広がることになり、後にJR駅の発車ベルが電子音からメロディに変わるきっかけともなった。その後これらの駅では発車メロディが相次いで導入されたが、当駅では現在も発車メロディを含めて鳴らしていない。
なお、中央・総武線各駅停車の全区間(三鷹駅 - 御茶ノ水駅 - 当駅間)と横須賀・総武快速線の一部区間(久里浜駅 - 東京駅 - 幕張駅間)は、ATOSが導入されており、1・2番線の西千葉寄りに出発時機表示機が設置されている。これに加え、2019年に3 - 10番線の西千葉寄りにも出発時機表示機が設置され、さらに2020年2月16日始発から全番線において自動放送が導入された。
2021年現在、ATOS型自動放送を導入しているなかで、発車メロディ等が使われていない唯一の駅である。また、3 - 10番線については、自動放送に戸閉放送がなく、駅員のマイクによる肉声放送の後、出発指示合図または乗降終了合図でドアが閉まる。
以下の表は当駅ホームの変遷を記したものである。
JR線のさらに上層に軌道がある高架駅で、千葉都市モノレールで唯一の2面4線を有する。ホームは4階にある。正面口が地上にあり、JR千葉駅東口と向かい合っている。モノレール駅の2階(JR駅の改札階(=3階)と同じ階層)にJR中央改札方面との連絡通路がある。また、3階(モノレール改札階)には中央改札口、南改札口、南口、駅事務室、車椅子対応トイレがあるほか、南口側に京成千葉駅モノレール改札口(深夜・早朝は閉鎖)や、そごう千葉店(4階)・センシティタワー(4階)方面との連絡通路がある。
改札内に3階のコンコースと4階の各ホームを結ぶエレベーター並びにエスカレーター(上り及び下り)がある(車椅子対応)。
改札外でエレベーターが1階(=地上階)、2階(JR連絡通路があり、JR駅の改札階(=3階)と同じ階層)及び3階(モノレール改札階)の間で稼働している(車椅子対応、写真参照)。改札外のエスカレーターには2つの系統がある。一方は2階のJR連絡通路と3階のモノレール改札コンコースを結ぶもの(上り及び下り)である(写真参照)。他方は1階(=地上階)の正面口、2階の中間コンコース、及び3階の改札コンコースを結ぶもの(上り及び下り)であり、正面口から行く場合には、中間コンコースで右折して乗り継ぐ。なお、JR連絡通路がある2階と、中間コンコースがある2階は分かれていて、互いにつながっていない。
千葉駅は、1995年8月に営業路線が千葉みなと駅まで延伸する以前には、千葉公園駅方向に約100 mよりの仮駅であったが、延伸時に現在の駅舎へ移行した。仮駅時代は、現在の駅舎の手前まで線路が延びていたため、それを利用して引き上げ線として使用、同時にホームも乗車専用と降車専用に分けていた。
また、「駅前の道路構造物は目障りで著しく景観を損ねる」として、JR東日本から250億円の迷惑料を請求され支払う事態になった逸話がある。前述の仮駅舎(23億円)や開業の遅れも重なってしまい、千葉都市モノレールは千葉駅関連の工事だけで300億円もの予定外費用を支出することになった。
ペリエ千葉、センシティ、そごう千葉店、オーロラモールジュンヌ、センシティタワー、ウェストリオ、シーワン、ミーオがある。京成千葉駅と千葉中央駅はこれらの施設を通して隣接している。
ペリエ千葉エキナカ
約8,000 m、3階と4階の2フロアに跨り、3階は約48店舗、4階は約13店舗の専門店を有する。
本館、ペリチカ、ストリート1、ストリート2合わせて約7万5000 m(地下1階 - 地上7階)の大規模な駅ビルが隣接している。
高架下ショッピングモール。外房線、内房線、京成千葉線の高架下に位置する。ペリエ千葉ストリート1から続いて、ミーオ1(Mio1)まで高架下でつながっている。千葉中央駅の抜け道にも利用可能である。
シーワンから高架下で続く、京成電鉄千葉中央駅西口側のショッピングセンター。外房線、内房線、京成千葉線の高架下に位置する。ミーオ1は1番街から6番街まである。
ミーオ1から千葉県庁方面(千葉中央駅東口)にあるショッピングセンター。2階は京成ホテルミラマーレと接続している。
千葉新町地区の再開発事業における施設建築物名称。
千葉新町第二地区の再開発事業における施設建築物名称。
千葉都市計画事業千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業の中核施設としてホテル棟と事務所棟のビル3棟が並ぶ。
当駅は駅弁専門店として改札内にリエイ「万葉軒 マンヨーケン」(旧:日本レストランエンタプライズ「駅弁屋 踊」)がある。主な駅弁は下記の通り。
年度全体の乗車人員を365(閏日が入る年度は366)で除して1日平均乗車人員を求めている。
近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。
当駅は千葉市中心部の北西端に位置し、東口・モノレール中央口より南東方の中央公園などの「中央」方面に向かう広い通り「千葉駅前大通り」が伸びる。これは、1963年(昭和38年)の千葉駅の現在地への移転に合わせ、周辺区画と共に整備されたもので、デパートやオフィスビルなどが多い。一方通行路や右折禁止の交差点が多く、客待ちをするタクシーの台数もかなり多い。駅前広場は東口・モノレール中央口・北口・西口にあり、各々バス・タクシー乗り場がある。特に東口・モノレール中央口前のバスターミナルは規模が大きく、路線バス用、一般車とタクシー用とレーンが分かれており、県都中心駅の性格を表している。
東口・モノレール中央口駅前にはデパートやショッピングセンターなどのビルが林立している。2018年(平成30年)からは、ペリエ千葉、そごう千葉店、シーワンを中心として「えきまつり」が開催されるようになった。 北口と西口は位置・構造の関係上、東口と比べ人出が少ない。北口は1990年代まで閑静な住宅街であったが現在は駅前広場が整備され、広い道幅の道路が開通しているほか、高等学校や大手予備校もあり学生は比較的多い。また、西口にも駅前広場が整備され、千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業(B工区)により、病院や商業施設の建設が予定されている。
東方向の先は関東屈指の歓楽街(栄町)、南東方向は中心部の繁華街(富士見・中央)、南方向(新町・新田町・新宿)はビルなどが混在する地域となっている。2010年代以降はパルコや三越といった大型商業施設が撤退し、中心市街地の空洞化が見られる。2020年代前半は駅前の大規模再開発が進んでおり、国税庁が2022年7月に発表した同年1月時点の路線価では本地域の上昇率が全国トップとなった。西方向(新千葉)と北方向(弁天)は駅から離れると閑静な住宅街が広がる。駅周辺は路上喫煙禁止地区になっている。
県庁・千葉県警察本部や千葉地方裁判所・千葉地方検察庁など国や県の機関とその関連施設は、歴史的に千葉市の中心部である千葉中央駅から本千葉駅にかけての一帯の東側、「長洲」や「市場町」にある。当駅からは徒歩で約20分かかるため、葭川公園駅(→千葉地検、千葉地裁)、県庁前駅(→県庁舎、県警本部)、本千葉駅(→県警本部、県庁舎)からの徒歩か、バスターミナルから千葉中央バスや小湊鉄道バスなどの路線バスを利用するほうが便利である。
当駅を中心とする以下、概ね半径1キロメートル(km)程度範囲内周辺の一般国道・都道府県道。
当駅を中心とする以下の各駅は概ね半径1キロメートル(km)程度範囲内にあるので、状況によっては徒歩での移動の方が早く到達する場合もある。
栄町駅、葭川公園駅、千葉中央駅付近は栄町駅周辺、葭川公園駅周辺、千葉中央駅周辺も参照。
東口・モノレール中央口駅前
富士見二丁目 - 千葉駅前大通り南西側 飲食店、ファストフード店、居酒屋などは駅前通りよりも南側の外房線・京成線沿いに多い。
中央
新町 - 京成千葉駅周辺
新田町
新千葉駅付近は新千葉駅も参照。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "千葉駅(ちばえき)は、千葉県千葉市中央区新千葉一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・千葉都市モノレールの駅である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "京成電鉄の京成千葉駅と近接しており、乗換駅となっている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "東日本旅客鉄道(JR東日本)と千葉都市モノレールが乗り入れており、中央区新千葉一丁目に位置している。尚、隣接する京成電鉄の京成千葉駅は中央区新町250番地3に位置している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "千葉県の県庁所在地及び政令指定都市である千葉市の中心駅である。横須賀・総武快速線(総武線快速)、中央・総武緩行線(中央総武線各駅停車) 成田線、総武本線、外房線、内房線、千葉都市モノレール1号線、千葉都市モノレール2号線が乗り入れており、東京都心方面からの緩急分離運転区間の終点及び千葉県内各地へ向かう各路線が集結するジャンクション及びターミナル駅である。千葉都市モノレールの駅は、京成電鉄の京成千葉駅と一体的な造りとなっており、当駅のモノレール連絡通路からモノレール口を通ることで京成千葉線へも乗り換えが可能である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "当駅には駅ビル(ペリエ千葉)、複合施設(ウェストリオ)、ホテル(サンルート千葉)、センシティ(センシティタワー、そごう千葉店、オーロラモールジュンヌ)、商業施設(C-One)が入居・接続している。主に当駅東側から千葉中央駅にかけての中心市街地(富士見地区から中央地区)には企業のオフィスビル、銀行や商業施設、家電量販店などが林立する繁華街となっており、柏駅や船橋駅周辺などとともに千葉県有数の市場規模を誇る巨大商圏となっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "当駅は2011年(平成23年)以前から建て替え工事が進められてきており、2016年(平成28年)11月20日、53年ぶりに新しい「千葉駅」として開業した。改札など駅機能を3階に集約することで、ターミナル駅として利便性も向上している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "駅西口には2013年(平成25年)10月1日に千葉都市計画事業千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業の中核施設として複合施設のウェストリオ(WESTRIO)が開業し、ホテル棟(WESTRIO1)と事務所棟(WESTRIO2・WESTRIO3)のビルが3棟並ぶ。2018年(平成30年)6月28日には千葉ステーションビル主体の駅ビル「ペリエ千葉(Perie)」が開業し、構内にはエキナカ(地上3、4階の2フロア)、改札外にはペリエ千葉の本館、ペリチカ、ストリート1、ストリート2と約8万3000平方メートル(地下1階 - 地上7階)の大規模な駅ビルが隣接している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "駅周辺は都市の国際競争力強化の観点から特に重要な地域として都市再生緊急整備地域に指定されており、千葉駅東口地区第一種市街地再開発事業、千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業(B工区) 等、更なる都市再開発事業が続いている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "事務管コードは▲431218を使用している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は総武本線と外房線の2路線であり、このうち総武本線を当駅の所属線とし、外房線は当駅を起点としている。一方、当駅に乗り入れる運転系統は多岐にわたる。",
"title": "乗り入れ路線"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "総武本線は当駅から東京方面は錦糸町駅までが複々線となっており、快速線を走行する総武快速線と緩行線を走行する中央・総武線各駅停車がそれぞれ運転されている。総武快速線は一部列車が当駅より先(後述の各線)へ直通しているが、中央・総武線各駅停車は当駅を運転系統の起終点としている。なお、津田沼・当駅間が複線だった頃は、当駅より先に直通する各駅停車も運転されていた。現在では配線上、内房線や外房線、総武本線(銚子方面)や成田線へ直通することが不可能となり、折り返し運転のみが可能となっている。",
"title": "乗り入れ路線"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "東京都心方面へ向かう総武本線は、快速線を走る総武快速線と、緩行線を走る中央・総武線各駅停車の2系統が発着する。このうち、横須賀線・総武快速線は総武本線、成田線、鹿島線、外房線、内房線へ相互直通運転を実施している。",
"title": "乗り入れ路線"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "千葉県内各地へ向かう各路線は次の4系統が発着する。すべて横須賀線・総武快速線への相互直通運転を実施している。",
"title": "乗り入れ路線"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "千葉都市モノレールの駅は1号線と、当駅を起点とする2号線の乗換駅となっている。両線共通で「CM 03」の駅番号が設定されている。モノレール同士の乗換駅は日本国内では当駅と大阪モノレールの万博記念公園駅のみである。",
"title": "乗り入れ路線"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "当駅は京成電鉄「京成千葉駅」と相互乗換駅になっており、接続路線は京成千葉線である。当駅中央改札から出場して南口からそごう千葉店方面に向かうか、モノレール連絡口を通り京成千葉駅のモノレール口から入場することで乗り換えが可能である。",
"title": "乗り入れ路線"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1963年(昭和38年)に移転するまでは、800 mほど成田方面寄りの千葉市民会館周辺(北緯35度36分56秒 東経140度7分12秒 / 北緯35.61556度 東経140.12000度 / 35.61556; 140.12000 (Old Chiba stastion))にあり、佐倉・銚子方面から船橋・東京方面と蘇我駅・安房鴨川駅方面の二またに分かれていた。そのため船橋・東京方面と蘇我・安房鴨川方面を結ぶ直通列車は、当駅でスイッチバックする形となっていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "現在地に移転後は、船橋・東京方面から蘇我・安房鴨川方面と佐倉・銚子方面の二またに分かれる線形に改良された。駅全体がV字状になっているのはそのためである。千葉近隣の駅では大網駅も同様の変遷をたどっている。駅前広場も当時は非常に狭く、バス路線の大半は駅より離れた「要町」での発着となっていた。栄町は当時の千葉駅前から千葉県庁へのメインストリートに当たり、繁華街であった。千葉市民会館の近くに、旧駅の石碑が残っている。また、移転後の1965年(昭和40年)には旧駅よりもやや成田寄りに東千葉駅が新設されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "JR東日本千葉支社は、2008年9月18日に、千葉駅とペリエ1となっている千葉駅ビルの建て替えを発表した(後述)。2010年7月時点で、駅構内のほとんどの店舗が閉店され本格的に工事が始まり、通路に天窓が建設され、7・8番線の一部階段が閉鎖されて使用できなくなっていた。また、西口改札外の歩道橋が早期に建て替えられていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "現在地に移転する1963年以前の駅構造は、頭端式ホーム2面3線と島式ホーム1面2線の計3面5線(加えて複数の留置線を有していた)で、0番線は房総東線(現:外房線)、1番線は房総西線(現:内房線)、2番線は成田線、3番線は中央・総武線(各駅停車)、4番線は総武本線が使用していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "駅長・助役配置の直営駅で、当駅と西千葉駅、本千葉駅、東千葉駅を管理している。また、当駅、稲毛駅、四街道駅で千葉営業統括センターを構成しており、当駅駅長はその所長も兼任する。島式ホーム5面10線を有する。1 - 6番線と7 - 10番線は、東側で駅ビル(駅本屋を兼ね、「ペリエ千葉」が入っている)を挟む形で分かれている。そのため、東側では5・6番線ホームと7・8番線ホームの距離が離れている。台地の斜面に位置しているため、西千葉駅・稲毛駅方向では橋上であるが、本千葉駅・東千葉駅方向は高架となっている。階数は東口側にある駅ビルが基準となっているため、各ホームは2階として扱われている。駅がこのような型になった理由については「歴史」を参照。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "改札口は1 - 6番線と7 - 10番線の二又の間にある3階の中央改札口(東口・南口・千葉公園口・モノレール連絡口に接続)、西千葉駅方向の高架橋にある同じく3階の西改札口(西口・北口に接続)、更にペリエ千葉エキナカ4階にあるペリエ改札(ペリエ千葉4階に接続)の3ヶ所ある。西改札口は2018年3月3日より、始発から午前6時50分までの間は遠隔対応(インターホン対応は稲毛駅が行う)となり、改札係員は不在。一部の自動券売機のみ稼働している。ペリエ改札は午前10時から午後9時の間ICカード利用客のみ利用できる改札口で、終日無人となっており、Suicaチャージ機が設置されている。 コンコースは3階にあり、中央改札口に繋がる東側通路、西改札口に繋がる西側通路、その間にある中央通路で構成されている。東側通路には各ホーム行きのエスカレーターとエレベーターが、西側通路には7・8番線ホーム行きのエレベーターが設置されている。このうち中央通路と5 - 8番線ホームを結ぶエレベーターはペリエ千葉エキナカの4階へもつながっている。ペリエ千葉エキナカの4階へは、このエレベーターの他にエスカレーター3基と階段が設置されている。トイレは東側通路1・2番線側、中央通路9・10番線側、連絡通路の3箇所に、車椅子に対応した多機能トイレはこのうち東側通路1・2番線側と中央通路9・10番線側の2箇所にある。鉄道警察隊は東側通路9・10番線側にある。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "線路の配線状況により、1 - 6番線の線路と7 - 10番線の線路は東側では一切交差していない。そのため、直通先が多岐にわたっている総武快速線の東京方面行は終日3 - 10番線からランダムに発車している。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "平日朝ラッシュ時において、東京方面の当駅始発列車を対象に一旦ドアを閉める整列乗車を行っている。下り列車は全て対象外である。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "当駅では、発車ベル(当時主流のピロピロピロという電子音)が近隣から騒音であるとの苦情に応えて、JR東日本の主要駅としては初めて1988年(昭和63年)5月から同年8月7日まで30分間発車ベルを鳴らさないで運行を行う試験を行い、特に問題も生じなかったことから、そのまま試行期間の終了後に発車ベルを全面廃止した。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "この試みは「静けさで心が和らぐ改善」などの肯定的な評価をされ、業界誌でも取り上げられるなど注目を集めた。同年10月には早くも市川駅や稲毛駅といった同じ千葉県内の駅のみならず、東京都内の新小岩駅など県外の駅にも広がることになり、後にJR駅の発車ベルが電子音からメロディに変わるきっかけともなった。その後これらの駅では発車メロディが相次いで導入されたが、当駅では現在も発車メロディを含めて鳴らしていない。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "なお、中央・総武線各駅停車の全区間(三鷹駅 - 御茶ノ水駅 - 当駅間)と横須賀・総武快速線の一部区間(久里浜駅 - 東京駅 - 幕張駅間)は、ATOSが導入されており、1・2番線の西千葉寄りに出発時機表示機が設置されている。これに加え、2019年に3 - 10番線の西千葉寄りにも出発時機表示機が設置され、さらに2020年2月16日始発から全番線において自動放送が導入された。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2021年現在、ATOS型自動放送を導入しているなかで、発車メロディ等が使われていない唯一の駅である。また、3 - 10番線については、自動放送に戸閉放送がなく、駅員のマイクによる肉声放送の後、出発指示合図または乗降終了合図でドアが閉まる。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "以下の表は当駅ホームの変遷を記したものである。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "JR線のさらに上層に軌道がある高架駅で、千葉都市モノレールで唯一の2面4線を有する。ホームは4階にある。正面口が地上にあり、JR千葉駅東口と向かい合っている。モノレール駅の2階(JR駅の改札階(=3階)と同じ階層)にJR中央改札方面との連絡通路がある。また、3階(モノレール改札階)には中央改札口、南改札口、南口、駅事務室、車椅子対応トイレがあるほか、南口側に京成千葉駅モノレール改札口(深夜・早朝は閉鎖)や、そごう千葉店(4階)・センシティタワー(4階)方面との連絡通路がある。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "改札内に3階のコンコースと4階の各ホームを結ぶエレベーター並びにエスカレーター(上り及び下り)がある(車椅子対応)。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "改札外でエレベーターが1階(=地上階)、2階(JR連絡通路があり、JR駅の改札階(=3階)と同じ階層)及び3階(モノレール改札階)の間で稼働している(車椅子対応、写真参照)。改札外のエスカレーターには2つの系統がある。一方は2階のJR連絡通路と3階のモノレール改札コンコースを結ぶもの(上り及び下り)である(写真参照)。他方は1階(=地上階)の正面口、2階の中間コンコース、及び3階の改札コンコースを結ぶもの(上り及び下り)であり、正面口から行く場合には、中間コンコースで右折して乗り継ぐ。なお、JR連絡通路がある2階と、中間コンコースがある2階は分かれていて、互いにつながっていない。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "千葉駅は、1995年8月に営業路線が千葉みなと駅まで延伸する以前には、千葉公園駅方向に約100 mよりの仮駅であったが、延伸時に現在の駅舎へ移行した。仮駅時代は、現在の駅舎の手前まで線路が延びていたため、それを利用して引き上げ線として使用、同時にホームも乗車専用と降車専用に分けていた。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "また、「駅前の道路構造物は目障りで著しく景観を損ねる」として、JR東日本から250億円の迷惑料を請求され支払う事態になった逸話がある。前述の仮駅舎(23億円)や開業の遅れも重なってしまい、千葉都市モノレールは千葉駅関連の工事だけで300億円もの予定外費用を支出することになった。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ペリエ千葉、センシティ、そごう千葉店、オーロラモールジュンヌ、センシティタワー、ウェストリオ、シーワン、ミーオがある。京成千葉駅と千葉中央駅はこれらの施設を通して隣接している。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ペリエ千葉エキナカ",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "約8,000 m、3階と4階の2フロアに跨り、3階は約48店舗、4階は約13店舗の専門店を有する。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "本館、ペリチカ、ストリート1、ストリート2合わせて約7万5000 m(地下1階 - 地上7階)の大規模な駅ビルが隣接している。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "高架下ショッピングモール。外房線、内房線、京成千葉線の高架下に位置する。ペリエ千葉ストリート1から続いて、ミーオ1(Mio1)まで高架下でつながっている。千葉中央駅の抜け道にも利用可能である。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "シーワンから高架下で続く、京成電鉄千葉中央駅西口側のショッピングセンター。外房線、内房線、京成千葉線の高架下に位置する。ミーオ1は1番街から6番街まである。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ミーオ1から千葉県庁方面(千葉中央駅東口)にあるショッピングセンター。2階は京成ホテルミラマーレと接続している。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "千葉新町地区の再開発事業における施設建築物名称。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "千葉新町第二地区の再開発事業における施設建築物名称。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "千葉都市計画事業千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業の中核施設としてホテル棟と事務所棟のビル3棟が並ぶ。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "当駅は駅弁専門店として改札内にリエイ「万葉軒 マンヨーケン」(旧:日本レストランエンタプライズ「駅弁屋 踊」)がある。主な駅弁は下記の通り。",
"title": "駅弁"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "年度全体の乗車人員を365(閏日が入る年度は366)で除して1日平均乗車人員を求めている。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "当駅は千葉市中心部の北西端に位置し、東口・モノレール中央口より南東方の中央公園などの「中央」方面に向かう広い通り「千葉駅前大通り」が伸びる。これは、1963年(昭和38年)の千葉駅の現在地への移転に合わせ、周辺区画と共に整備されたもので、デパートやオフィスビルなどが多い。一方通行路や右折禁止の交差点が多く、客待ちをするタクシーの台数もかなり多い。駅前広場は東口・モノレール中央口・北口・西口にあり、各々バス・タクシー乗り場がある。特に東口・モノレール中央口前のバスターミナルは規模が大きく、路線バス用、一般車とタクシー用とレーンが分かれており、県都中心駅の性格を表している。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "東口・モノレール中央口駅前にはデパートやショッピングセンターなどのビルが林立している。2018年(平成30年)からは、ペリエ千葉、そごう千葉店、シーワンを中心として「えきまつり」が開催されるようになった。 北口と西口は位置・構造の関係上、東口と比べ人出が少ない。北口は1990年代まで閑静な住宅街であったが現在は駅前広場が整備され、広い道幅の道路が開通しているほか、高等学校や大手予備校もあり学生は比較的多い。また、西口にも駅前広場が整備され、千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業(B工区)により、病院や商業施設の建設が予定されている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "東方向の先は関東屈指の歓楽街(栄町)、南東方向は中心部の繁華街(富士見・中央)、南方向(新町・新田町・新宿)はビルなどが混在する地域となっている。2010年代以降はパルコや三越といった大型商業施設が撤退し、中心市街地の空洞化が見られる。2020年代前半は駅前の大規模再開発が進んでおり、国税庁が2022年7月に発表した同年1月時点の路線価では本地域の上昇率が全国トップとなった。西方向(新千葉)と北方向(弁天)は駅から離れると閑静な住宅街が広がる。駅周辺は路上喫煙禁止地区になっている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "県庁・千葉県警察本部や千葉地方裁判所・千葉地方検察庁など国や県の機関とその関連施設は、歴史的に千葉市の中心部である千葉中央駅から本千葉駅にかけての一帯の東側、「長洲」や「市場町」にある。当駅からは徒歩で約20分かかるため、葭川公園駅(→千葉地検、千葉地裁)、県庁前駅(→県庁舎、県警本部)、本千葉駅(→県警本部、県庁舎)からの徒歩か、バスターミナルから千葉中央バスや小湊鉄道バスなどの路線バスを利用するほうが便利である。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "当駅を中心とする以下、概ね半径1キロメートル(km)程度範囲内周辺の一般国道・都道府県道。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "当駅を中心とする以下の各駅は概ね半径1キロメートル(km)程度範囲内にあるので、状況によっては徒歩での移動の方が早く到達する場合もある。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "栄町駅、葭川公園駅、千葉中央駅付近は栄町駅周辺、葭川公園駅周辺、千葉中央駅周辺も参照。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "東口・モノレール中央口駅前",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "富士見二丁目 - 千葉駅前大通り南西側 飲食店、ファストフード店、居酒屋などは駅前通りよりも南側の外房線・京成線沿いに多い。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "中央",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "新町 - 京成千葉駅周辺",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "新田町",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "新千葉駅付近は新千葉駅も参照。",
"title": "駅周辺"
}
] | 千葉駅(ちばえき)は、千葉県千葉市中央区新千葉一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・千葉都市モノレールの駅である。 京成電鉄の京成千葉駅と近接しており、乗換駅となっている。 | {{出典の明記|date=2021年1月}}
{{Otheruseslist|東日本旅客鉄道(JR東日本)、千葉都市モノレールの千葉駅|隣接する京成電鉄の駅|京成千葉駅|開業当時名称が千葉駅であった京成電鉄の駅|千葉中央駅}}
{{画像提供依頼|ホーム柵設置後の千葉都市モノレールのホーム|date=2022年10月|cat=鉄道|cat2=千葉県}}
{{駅情報
| 駅名 = 千葉駅
| 画像 = Chiba Station east 20100206.JPG
| pxl = 300
| 画像説明 = 千葉駅東口駅前広場(2010年2月)<br />JR駅舎はモノレールの背後にある。
| 地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|type3=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail|marker3=rail|marker-color=008000|marker-color2=2843ba|marker-color3=005aaa|coord={{coord|35|36|47|N|140|6|50|E}}|title=JR 千葉駅|coord2={{coord|35|36|44|N|140|6|51.5|E}}|title2=千葉都市モノレール 千葉駅|coord3={{coord|35|36|42.1|N|140|6|52|E}}|title3=京成千葉駅|frame-latitude=35.612615|frame-longitude=140.114272}}北(上)からJR、千葉都市モノレール、京成千葉駅
| よみがな = ちば
| ローマ字 = Chiba
| 所在地 = [[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]新千葉一丁目
| 所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本_2|駅詳細]])<br />[[千葉都市モノレール]]([[#千葉都市モノレール_2|駅詳細]])
| 乗換 = [[京成千葉駅]]([[京成千葉線]])
}}
{{座標一覧}}
{{Vertical_images_list
|幅=210px
|枠幅=210px
|1=JR Chiba Station South Exit.jpg
|2=南口(2019年12月)
|3=WESTRIO 20191101.jpg
|4=西口再開発ビル ウェストリオ(2019年11月)
|5=Chiba Station north_20191101.jpg
|6=北口(2019年11月)
|7=Stn_Chiba_(2017)-JR-Chiba_Park_Ent.jpg
|8=千葉公園口(2017年6月)
}}
'''千葉駅'''(ちばえき)は、[[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]新千葉一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[千葉都市モノレール]]の[[鉄道駅|駅]]である。
[[京成電鉄]]の[[京成千葉駅]]と近接しており、[[乗換駅]]となっている。
== 概要 ==
[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)と[[千葉都市モノレール]]が乗り入れており、[[中央区 (千葉市)|中央区]]新千葉一丁目に位置している。尚、隣接する[[京成電鉄]]の'''[[京成千葉駅]]'''は中央区新町250番地3に位置している。
千葉県の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]及び[[政令指定都市]]である千葉市の中心駅である。[[横須賀・総武快速線]](総武線快速)、[[中央・総武緩行線]](中央総武線各駅停車) [[成田線]]、[[総武本線]]、[[外房線]]、[[内房線]]、[[千葉都市モノレール1号線]]、[[千葉都市モノレール2号線]]が乗り入れており、[[東京]][[都心]]方面からの[[複々線#緩急分離運転|緩急分離]]運転区間の[[終点]]及び千葉県内各地へ向かう各路線が集結する[[ジャンクション (鉄道)|ジャンクション]]及び[[ターミナル駅]]である。千葉都市モノレールの駅は、京成電鉄の京成千葉駅と一体的な造りとなっており、当駅のモノレール連絡通路からモノレール口を通ることで京成千葉線へも乗り換えが可能である。
当駅には[[駅ビル]](ペリエ千葉)、複合施設(ウェストリオ)、[[ホテル]]([[サンルートホテルチェーン|サンルート]]千葉)、[[センシティ]]([[センシティタワー]]、[[そごう千葉店]]、[[オーロラモールジュンヌ]])、商業施設(C-One)が入居・接続している。主に当駅東側から千葉中央駅にかけての[[中心市街地]]([[富士見 (千葉市)|富士見地区]]から[[中央 (千葉市)|中央地区]])には企業の[[オフィスビル]]、[[銀行]]や商業施設、[[家電量販店]]などが林立する[[繁華街]]となっており、[[柏駅]]や[[船橋駅]]周辺などとともに千葉県有数の市場規模を誇る巨大[[商圏]]となっている<ref group="新聞" name="chibanippo/20170428">{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/404528|title=千葉駅新築開業、周辺滞在者16%増 そごうエリアに波及|newspaper=千葉日報|date=2017-04-28|accessdate=2019-03-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200812062709/https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/404528|archivedate=2020-08-12}}</ref>。
当駅は[[2011年]]([[平成]]23年)以前から建て替え工事が進められてきており、[[2016年]](平成28年)11月20日、53年ぶりに新しい「千葉駅」として開業した。改札など駅機能を3階に集約することで、ターミナル駅として利便性も向上している<ref>{{Cite web|和書|title=新しい「千葉駅」|千葉県|千葉市中央区|生活|交通|地域情報|チイコミ|url=https://chiicomi.com/r_news_detail?id=eab3f607-aee2-11e6-9669-a0369faf468c|website=chiicomi.com|accessdate=2019-03-26|language=ja}}</ref>。
駅西口には[[2013年]](平成25年)10月1日に千葉都市計画事業千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業の中核施設として複合施設のウェストリオ(WESTRIO)が開業し、ホテル棟(WESTRIO1)と事務所棟(WESTRIO2・WESTRIO3)のビルが3棟並ぶ<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=千葉駅西口再開発ビルA棟「WESTRIO(ウェストリオ)」トップページ|url=http://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/toshinseibi/toshin/westriotop-test.html|website=千葉市|accessdate=2019-03-26|language=ja|last=千葉市}}</ref><ref group="新聞" name="chibanippo/20130906">{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/local/155064|title=商業ビル3棟10月完成 駅前広場は来年3月末 JR千葉駅西口再開発事業|newspaper=千葉日報|date=2013-09-06|accessdate=2020-08-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200812065501/https://www.chibanippo.co.jp/news/local/155064|archivedate=2020-08-12}}</ref>。[[2018年]](平成30年)6月28日には[[千葉ステーションビル]]主体の駅ビル「ペリエ千葉(Perie)」が開業し、構内にはエキナカ(地上3、4階の2フロア)、改札外にはペリエ千葉の本館、ペリチカ、ストリート1、ストリート2と約8万3000[[平方メートル]](地下1階 - 地上7階)の大規模な駅ビルが隣接している<ref group="報道" name="pre1803_perie">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1803_perie.pdf|title=フードコートやバル・生鮮食品・惣菜・スイーツなど新たに87ショップが登場 ペリエ千葉2018年6月28日(木)グランドオープン!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社/千葉ステーションビル|date=2018-03-30|accessdate=2020-04-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200413155538/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1803_perie.pdf|archivedate=2020-04-14}}</ref><ref group="報道" name="pre1805_perie">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1805_perie.pdf|title=「食」に関するショップが充実。日々の生活を豊かにする「衣・食・住」のショップが揃います。 『ペリエ千葉』ついにグランドオープン! 2018年6月28日(木)オープンで87ショップが加わり全277ショップに。|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社/千葉ステーションビル|date=2018-05-25|accessdate=2020-04-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200413160043/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1805_perie.pdf|archivedate=2020-04-14}}</ref><ref group="新聞" name="chibanippo/20180702">{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/511511|title=「ペリエ千葉」全面開業 買い物客さらに集中 周辺へ人の流れ課題 千葉県都の将来像は|newspaper=千葉日報|date=2018-07-02|accessdate=2020-08-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200812062858/https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/511511|archivedate=2020-08-12}}</ref>。
駅周辺は[[都市]]の[[国際]][[競争力]]強化の観点から特に重要な地域として[[都市再生緊急整備地域]]に指定されており、千葉駅東口地区第一種市街地再開発事業<ref>{{Cite web|和書|title=千葉駅東口地区第一種市街地再開発事業|url=http://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/shigaichi/chibaeki-higasiguti-saikaihathu.html|website=千葉市|accessdate=2019-03-26|language=ja|last=千葉市}}</ref>、千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業(B工区)<ref>{{Cite web|和書|title=千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業(B工区)特定建築者の決定について|url=http://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/toshinseibi/toshin/nisiguchibkoukutokuteikennchikushanokettei.html|website=千葉市|accessdate=2019-03-26|language=ja|last=千葉市}}</ref> 等、更なる[[都市再開発]]事業が続いている。
[[事務管理コード|事務管コード]]は▲431218を使用している<ref>日本国有鉄道旅客局 (1984)『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』</ref>。
== 乗り入れ路線 ==
[[ファイル:Directions from Chiba Station.svg|thumb|当駅を発着するJR線の運転系統]]
JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は[[総武本線]]と[[外房線]]の2路線であり、このうち総武本線を当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]とし<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]] 1998年</ref>、外房線は当駅を[[起点]]としている。一方、当駅に乗り入れる運転系統は多岐にわたる。
総武本線は当駅から東京方面は[[錦糸町駅]]までが[[複々線]]となっており、[[急行線|快速線]]を走行する[[横須賀・総武快速線|総武快速線]]と[[急行線|緩行線]]を走行する[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]がそれぞれ運転されている。総武快速線は一部列車が当駅より先(後述の各線)へ直通しているが、中央・総武線各駅停車は当駅を運転系統の起終点としている。なお、津田沼・当駅間が[[複線]]だった頃は、当駅より先に直通する各駅停車も運転されていた。現在では配線上、[[内房線]]や[[外房線]]、[[総武本線]]([[銚子駅|銚子]]方面)や[[成田線]]へ直通することが不可能となり、折り返し運転のみが可能となっている。
東京都心方面へ向かう総武本線は、[[急行線|快速線]]を走る[[横須賀・総武快速線|総武快速線]]と、[[急行線|緩行線]]を走る[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]の2系統が発着する。このうち、横須賀線・総武快速線は総武本線、成田線、[[鹿島線]]、外房線、内房線へ[[相互直通運転]]を実施している。
* [[ファイル:JR JO line symbol.svg|15x15ピクセル|JO]] [[横須賀・総武快速線]](総武線快速):[[快速線]]を走行する総武本線の近距離電車。 - [[駅ナンバリング|駅番号]]「'''JO 28'''」
* [[ファイル:JR JB line symbol.svg|15x15ピクセル|JB]] [[中央・総武緩行線]](総武線各駅停車):緩行線を走行する総武本線の近距離電車。 - 駅番号「'''JB 39'''」
千葉県内各地へ向かう各路線は次の4系統が発着する。すべて横須賀線・総武快速線への相互直通運転を実施している。
* {{Color|#ffc20d|■}} [[総武本線]]:当駅から[[佐倉駅]]・[[成東駅]]経由で千葉県最東端である[[銚子市]]の[[銚子駅]]まで伸びる。
* {{Color|#00b261|■}} [[成田線]]:[[成田駅]]経由で銚子市の[[銚子駅]]まで伸びるほか、成田駅から[[成田空港駅]]に至る支線を持つ<!--ここでは当駅への乗り入れがない我孫子支線は言及しない-->。線路名称上は当駅 - [[佐倉駅]]間と[[松岸駅]] - 銚子駅間は総武本線への乗り入れ区間。
* {{Color|#ff6600|■}} [[外房線]]:[[房総半島]]の[[太平洋]]側([[茂原駅]]・[[上総一ノ宮駅]])経由で[[鴨川市]]の[[安房鴨川駅]]まで伸びる。
* {{Color|#00B2E5|■}} [[内房線]]:房総半島の[[東京湾]]側([[木更津駅]]・[[君津駅]]・[[館山駅]]等)経由で安房鴨川駅まで伸びる。線路名称上は当駅 - [[蘇我駅]]間は外房線への乗り入れ区間。
[[千葉都市モノレール]]の駅は[[千葉都市モノレール1号線|1号線]]と、当駅を起点とする[[千葉都市モノレール2号線|2号線]]の乗換駅となっている。両線共通で「'''CM 03'''」の駅番号が設定されている。モノレール同士の乗換駅は日本国内では当駅と[[大阪モノレール]]の[[万博記念公園駅 (大阪府)|万博記念公園駅]]のみである。
* [[ファイル:Number prefix Chiba monorail.svg|15px|千葉都市モノレール]] [[千葉都市モノレール1号線]]:JR東日本の[[千葉みなと駅]]から[[県庁前駅 (千葉県)|県庁前駅]]までを結ぶ路線。
* [[ファイル:Number prefix Chiba monorail.svg|15px|千葉都市モノレール]] [[千葉都市モノレール2号線]]:当駅からJR東日本の[[都賀駅]]を経由し同市[[若葉区]]の[[千城台駅]]までを結ぶ路線。
当駅は[[京成電鉄]]「'''[[京成千葉駅]]'''」と相互乗換駅になっており、接続路線は[[京成千葉線]]である。当駅中央改札から出場して南口から[[そごう千葉店]]方面に向かうか、モノレール連絡口を通り京成千葉駅のモノレール口から入場することで乗り換えが可能である。
== 歴史 ==
{{main|千葉市}}
[[ファイル:Chiba Station in Taisho era.JPG|thumb|[[大正]]期の千葉駅]]
[[1963年]]([[昭和]]38年)に移転するまでは、800 [[メートル|m]]ほど成田方面寄りの[[千葉市民会館]]周辺({{Coord|35|36|56|N|140|7|12|E|region:JP-12_type:railwaystation|name=Old Chiba stastion}})にあり、佐倉・銚子方面から[[船橋駅|船橋]]・東京方面と[[蘇我駅]]・[[安房鴨川駅]]方面の二またに分かれていた<ref group="新聞" name="news20200617">{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/local/698755|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210307153930/https://www.chibanippo.co.jp/news/local/698755|title=唯一、東武野田線柏駅に 千葉県内鉄道のスイッチバック【千葉地理学会連載 おもしろ半島ちばの地理再発見】|newspaper=千葉日報|publisher=千葉日報社|date=2020-06-17|accessdate=2021-03-07|archivedate=2021-03-07}}</ref><ref group="新聞" name="news20161206">{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXKZO10306880V01C16A2L83000/|title=「東京駅方面」だらけ 千葉駅が分かりにくい事情|date=2016-12-06|publisher=日経BP社|work=NIKKEI STYLE|accessdate=2020-06-30|archivedate=2019-05-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190502141958/https://style.nikkei.com/article/DGXKZO10306880V01C16A2L83000/}}</ref>。そのため船橋・東京方面と蘇我・安房鴨川方面を結ぶ直通列車は、当駅で[[スイッチバック]]する形となっていた<ref group="新聞" name="news20200617" /><ref group="新聞" name="news20161206"/><ref group="注釈">臨時列車などで稀に設定される佐倉・銚子方面と蘇我・安房鴨川方面とを直通する列車は、西千葉駅西方にある[[黒砂信号場]]でスイッチバックを行う。</ref>。
現在地に移転後は、船橋・東京方面から蘇我・安房鴨川方面と佐倉・銚子方面の二またに分かれる線形に改良された<ref group="新聞" name="news20200617" />。駅全体がV字状になっているのはそのためである。千葉近隣の駅では[[大網駅]]も同様の変遷をたどっている。駅前広場も当時は非常に狭く、[[路線バス|バス路線]]の大半は駅より離れた「要町」での発着となっていた。栄町は当時の千葉駅前から[[千葉県庁]]へのメインストリートに当たり、[[繁華街]]であった。[[千葉市民会館]]の近くに、旧駅の石碑が残っている。また、移転後の[[1965年]](昭和40年)には旧駅よりもやや成田寄りに[[東千葉駅]]が新設されている。
=== 年表 ===
==== JR東日本 ====
[[ファイル:Chiba map circa 1930.PNG|thumb|180px|[[1930年]]頃([[昭和]]初頭)の千葉市周辺地図 [[日本国有鉄道|国鉄]]千葉駅と京成千葉駅は現在と異なる位置にあり西院内通町(現在の栄町通り・ハミングロードパルサ)で繋がっていた]]
[[File:Chiba Station.1975.01.jpg|thumb|right|千葉駅周辺の空中写真(1975年1月撮影)<br />{{国土航空写真}}]]
* [[1894年]]([[明治]]27年)[[7月20日]]:[[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]の駅として開業<ref name="sone26">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=[[週刊朝日]]百科 |volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 |pages=16-19 |date=2010-01-17}}</ref>。[[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]]。
* [[1896年]](明治29年)[[2月25日]]:[[房総鉄道]]が乗り入れ<ref name="sone26" />。
* [[1907年]](明治40年)[[9月1日]]:総武鉄道・房総鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]、[[帝国鉄道庁]]の駅となる<ref name="sone26" />。
* [[1923年]]([[大正]]12年)[[9月1日]]:[[関東大震災]]により全壊<ref name="sone26" />。
* [[1945年]]([[昭和]]20年)[[6月10日]]:[[太平洋戦争]]下で[[日本本土空襲|空襲]]による被害を受ける<ref name="sone26" />。
* [[1963年]](昭和38年)[[4月28日]]:現在地の高架駅に移転<ref name="JTB_86-87" />。総武本線東京方面・外房線のスイッチバックを解消<ref name="sone26" />。ホームは4面8線で総武本線と成田線が共用だった<ref name="sone26" />。
* [[1971年]](昭和46年)[[4月1日]]:旅行センター開業<ref>交通年鑑昭和47年度内「交通日誌」</ref>。
* [[1975年]](昭和50年)[[5月10日]]:貨物の取扱を廃止([[鉄道駅#旅客駅|旅客駅]]となる)<ref name="JTB_86-87" />。
* [[1981年]](昭和56年)
** [[7月5日]]:[[津田沼駅]] - 千葉駅間[[複々線]]化。
** [[12月20日]]:[[西千葉駅]]寄りの[[連続立体交差事業|立体交差化]]完成。
* [[1984年]](昭和59年)2月1日:9・10番線ホームを増設。成田線ホームとなる<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』2001年3月号、22頁</ref><ref group="注釈">ただし、『国鉄全線各駅停車4関東510駅』185頁によれば、1983年(昭和58年)時点で9・10番線ホームは使用開始されており、その一方で7・8番線ホームが使用停止されている。</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone26" />。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[9月11日]]:東口に自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。
* [[1997年]](平成9年)
** [[2月19日]]:旧1階コンコースと3・4番線ホームとの間に車いす対応エスカレーターを設置し、供用開始<ref group="新聞" name="交通970220">{{Cite news |title=エスカレーター使用開始 JR千葉駅 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-02-20 |page=3 }}</ref>。
** [[3月4日]]:旧1階コンコースと1・2番線ホームとの間に車いす対応エスカレーターを設置し、供用開始{{R|交通970220|group="新聞"}}。
** [[3月19日]]:旧1階コンコースと5・6番線ホームとの間に車いす対応エスカレーターを設置し、供用開始{{R|交通970220|group="新聞"}}。
** 夏:旧1階コンコースと9・10番線ホームとの間に車いす対応エスカレーターを設置し、供用開始{{R|交通970220|group="新聞"}}。
** [[9月29日]]:旧1階コンコースと7・8番線ホームとの間に車いす対応エスカレーターを設置し、供用開始<ref group="新聞" name="朝日970930">{{Cite news|title=簡単操作で車いすOK JR千葉駅の新エスカレーター|newspaper=[[朝日新聞]]|date=1997-09-30|publisher=[[朝日新聞社]]|edition=東京地方版/千葉面(朝刊)}}</ref>。これにより全ホームにエスカレーターを設置{{R|朝日970930|group="新聞"}}。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)[[11月20日]]:現駅舎と3階[[駅ナカ]]商業施設「ペリエ千葉エキナカ」が開業。千葉都市モノレール千葉駅間および京成千葉駅との連絡通路が完成<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1610_20161028chiba.pdf|title=あたらしい千葉駅・ペリエ千葉エキナカが開業します|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社/千葉ステーションビル|date=2016-10-28|accessdate=2020-04-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200413155154/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1610_20161028chiba.pdf|archivedate=2020-04-14}}</ref><ref group="新聞">「[http://www.nikkei.com/article/DGXLASFK20H0W_Q6A121C1000000 JR千葉駅53年ぶり新装開業 「エキナカ」48店舗]」『[[日本経済新聞]]』2016年11月20日(同日閲覧)。</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/local/365003|title=乗り換え時間大幅短縮 20日開通、新たな玄関口 千葉駅JR・モノ連絡通路|newspaper=千葉日報|date=2016-11-12|accessdate=2020-08-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200812062303/https://www.chibanippo.co.jp/news/local/365003|archivedate=2020-08-12}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)
** [[4月27日]]:「ペリエ千葉エキナカ」の4階部分が完成し、全面開業<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.perie.co.jp/files/upload/1490320033073821100.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171029064902/http://www.perie.co.jp/files/upload/1490320033073821100.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ペリエ千葉エキナカ2017年4月27日(木)グランドオープン|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社/千葉ステーションビル|date=2017-03-24|accessdate=2020-05-19|archivedate=2017-10-29}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news |title=「ペリエ千葉エキナカ」商業施設グランドオープン |newspaper=『[[交通新聞]]』 |publisher=交通新聞社 |date=2017-05-01}}</ref><ref group="新聞" name="chibanippo/20170428" />。
** [[9月7日]]:駅ビル先行開業(2階以上)<ref group="報道" name="pre1504_kairyokouji">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1504_kairyokouji.pdf|title=千葉駅工事の遅延に伴い来年秋頃の開業を目指します|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2015-04-24|accessdate=2020-04-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200413160922/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1504_kairyokouji.pdf|archivedate=2020-04-14}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1707_perie0907opennewshop.1.pdf|title=ペリエ千葉(2 階~7 階)9月7日(木)新規オープン! 出店する全107ショップリストを公開!! 千葉県初出店は30ショップ 『BEAMS』や『東急ハンズ』など千葉市初出店大型ショップにも注目!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社/千葉ステーションビル|date=2017-07-10|accessdate=2020-04-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200413155435/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1707_perie0907opennewshop.1.pdf|archivedate=2020-04-14}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/local/436433|title=JR千葉駅ビル開業 107店、買い物客で活況 「集い、楽しめる施設に」|newspaper=千葉日報|date=2017-09-08|accessdate=2020-08-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200812063206/https://www.chibanippo.co.jp/news/local/436433|archivedate=2020-08-12}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[6月28日]]:駅ビル全面開業<ref group="報道" name="pre1803_perie" /><ref group="報道" name="pre1805_perie" /><ref group="報道" name="pre1504_kairyokouji" /><ref group="新聞" name="chibanippo/20180702" />。
* [[2020年]]([[令和]]2年)
** [[2月16日]]:[[東京圏輸送管理システム]](ATOS)を導入<ref name="atoschiba">{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5d7c6b57bc09a5fc5580292e.pdf|title=営業施策について提案を受ける!②|format=PDF|publisher=JR東労組千葉地方本部|date=2019-09-14|accessdate=2019-12-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191205005619/http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5d7c6b57bc09a5fc5580292e.pdf|archivedate=2019-12-05}}</ref>。
** [[3月31日]]:この日をもって[[びゅうプラザ]]が営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCD=989|title=駅の情報(千葉駅):JR東日本 |accessdate=2019-09-04|publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://archive.fo/HTq2q|archivedate=2019-09-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5cca8e7df1c059191ec0bba0.pdf|title=営業施策について提案される!|format=PDF|publisher=JR東労組千葉地方本部|date=2019-04-30|accessdate=2020-01-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200127150454/http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5cca8e7df1c059191ec0bba0.pdf|archivedate=2020-01-27}}</ref>。
** [[11月27日]]:JR東日本の改札内に駅ナカシェアオフィス「STATION BOOTH」が開業<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre2011_nextere.pdf|title=両国駅3番線にて「N'EX でテレワーク!」を実施します! ~臨時ホームと鉄道車両を活用したシェアオフィス実証実験~|format=PDF|page=3|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2020-11-18|accessdate=2020-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201118065844/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre2011_nextere.pdf|archivedate=2020-11-18}}</ref>。
==== 千葉都市モノレール ====
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[6月12日]]:千葉都市モノレール2号線開業<ref group="新聞" name="asahi1991612">{{Cite news |title = 千葉駅にモノレール |newspaper=『[[朝日新聞]]』 |date=1991-06-12 |author = |publisher=朝日新聞社 |page=18(夕刊)}}</ref><ref group="新聞" name="chibanippo1991612">{{Cite news |title=千葉都市モノレールが千葉駅乗り入れ 千城台~千葉駅間26分 きょう運転開始 |newspaper=[[千葉日報]]|publisher=千葉日報社 |pages=9-11 |date=1991-06-12}}</ref>。当初は約100 [[メートル|m]]千葉公園駅寄りの仮駅だった<ref name="JTB_86-87" />。
* [[1995年]](平成7年)[[8月1日]]:千葉都市モノレール1号線開業<ref group="新聞" name="chibanippo199582">{{Cite news |title=千葉駅~千葉みなと駅間が開業 千葉都市モノレール 華やかに記念式典 |newspaper=千葉日報|publisher=千葉日報社 |page=12 |date=1995-08-02}}</ref>。本駅もこの時に開業<ref name="JTB_86-87">{{Cite book|和書|author=三好好三|title=総武線 120年の軌跡 東京・千葉を走る列車と駅のあゆみ|others=|publisher=[[JTBパブリッシング]]|date=2014-03-01|isbn=9784533096310|pages=86-87}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)[[3月14日]]:千葉都市モノレールでICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/081222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150414235704/http://www.tokyu.co.jp/file/081222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2009年3月14日、新たに3事業者でPASMOがご利用いただけるようになります。|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2008-12-22|accessdate=2020-08-21|archivedate=2015-04-14}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)[[4月]]:駅改札内のトイレの改修工事(洋式化)完了。
* [[2017年]](平成29年)[[3月]]:駅改札外のトイレの改修工事(洋式化)と、車椅子用トイレの改修工事(多機能化)完了。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[8月31日]]:ホーム柵設置工事完了<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20190829chiba_home-saku/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200125004536/https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20190829chiba_home-saku/|title=ホーム柵の設置により千葉駅ホームの安全が向上します。|archivedate=2020-01-25|accessdate=2020-08-23|publisher=千葉都市モノレール|date=2019-08-29|language=日本語}}</ref>。
=== 千葉駅建て替え ===
[[東日本旅客鉄道千葉支社|JR東日本千葉支社]]は、[[2008年]][[9月18日]]に、千葉駅とペリエ1となっている千葉駅ビルの建て替えを発表した([[千葉駅#千葉駅建て替え|後述]])<ref group="新聞">{{Cite news|title=JR千葉駅建て替えへ 10年度までに着工 橋上化で歩きやすく|newspaper=千葉日報|publisher=千葉日報社|date=2008-09-19}}</ref>。2010年7月時点で、駅構内のほとんどの店舗が閉店され本格的に工事が始まり、通路に天窓が建設され、7・8番線の一部階段が閉鎖されて使用できなくなっていた。また、西口改札外の[[人道橋|歩道橋]]が早期に建て替えられていた。
現在地に移転する1963年以前の駅構造は、[[頭端式ホーム]]2面3線と島式ホーム1面2線の計3面5線(加えて複数の留置線を有していた)で、0番線は房総東線(現:外房線)、1番線は房総西線(現:内房線)、2番線は成田線、3番線は中央・総武線(各駅停車)、4番線は総武本線が使用していた。
<gallery>
JR Chiba sta 001.jpg|旧東口 出入口(2007年12月)
ChibaStnishi.jpg|旧西口(2005年7月)
Construction site of Westrio Chiba 20111220-2.jpg|建設中の西口再開発事業(2011年12月)
</gallery>
== 駅構造 ==
=== JR東日本 ===
{{駅情報
| 社色 = green
| 文字色 =
| 駅名 = JR 千葉駅
| 画像 = JR Chiba Station East Exit.jpg
| pxl = 300
| 画像説明 = 東口(2019年12月)
| よみがな = ちば
| ローマ字 = Chiba
| 電報略号 = チハ
| 所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
| 所在地 = [[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]新千葉一丁目1-1
| 座標 = {{coord|35|36|47|N|140|6|50|E|region:JP-12_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 千葉駅}}
| 開業年月日 = [[1894年]]([[明治]]27年)[[7月20日]]<ref name="sone26"/>
| 駅構造 = [[橋上駅]]・[[高架駅]]
| ホーム = 5面10線
| 乗車人員 = 94,864
| 乗降人員 =
| 統計年度 = 2022年
| 乗入路線数 = 6
| 所属路線1 = {{Color|#ffc20d|■}}[[総武本線]](稲毛方{{color|#0067c0|■}}[[横須賀・総武快速線|快速線]])<br />({{Color|#00b261|■}}[[成田線]]直通含む)
| 前の駅1 = JO 27 [[稲毛駅|稲毛]]
| 駅間A1 = 3.3
| 駅間B1 = 0.9
| 次の駅1 = [[東千葉駅|東千葉]] JO 29
| 駅番号1 = {{駅番号r|JO|28|#0067c0|1}}
| キロ程1 = 39.2
| 起点駅1 = [[東京駅|東京]]
| 所属路線2 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は総武本線)
| 隣の駅2 =
| 前の駅2 = JB 38 [[西千葉駅|西千葉]]
| 駅間A2 = 1.4
| 駅間B2 =
| 次の駅2 =
| 駅番号2 = {{駅番号r|JB|39|#ffd400|1}}
| キロ程2 = 39.2
| 起点駅2 = 東京
| 所属路線3 = {{Color|#ff6600|■}}[[外房線]]<br />({{Color|#00B2E5|■}}[[内房線]]直通含む)
| 隣の駅3 =
| 前の駅3 =
| 駅間A3 =
| 駅間B3 = 1.4
| 次の駅3 = [[本千葉駅|本千葉]]
| 駅番号3 =
| キロ程3 = 0.0
| 起点駅3 = 千葉
| 備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])<br />[[みどりの窓口]] 有
}}
[[駅長]]・[[助役 (鉄道)|助役]]配置の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]で、当駅と[[西千葉駅]]、[[本千葉駅]]、[[東千葉駅]]を管理している。また、当駅、[[稲毛駅]]、[[四街道駅]]で千葉営業統括センターを構成しており、当駅駅長はその所長も兼任する。[[プラットホーム#島式ホーム|島式ホーム]]5面10線を有する。1 - 6番線と7 - 10番線は、東側で[[駅ビル]]([[駅本屋]]を兼ね、「[[ペリエ (駅ビル)|ペリエ千葉]]」が入っている)を挟む形で分かれている。そのため、東側では5・6番線ホームと7・8番線ホームの距離が離れている。台地の斜面に位置しているため、[[西千葉駅]]・[[稲毛駅]]方向では[[橋上駅|橋上]]であるが、[[本千葉駅]]・[[東千葉駅]]方向は[[高架駅|高架]]となっている。階数は東口側にある駅ビルが基準となっているため、各ホームは2階として扱われている。駅がこのような型になった理由については「[[#歴史|歴史]]」を参照。
改札口は1 - 6番線と7 - 10番線の二又の間にある3階の中央改札口(東口・南口・[[千葉公園]]口・モノレール連絡口に接続)、西千葉駅方向の高架橋にある同じく3階の西改札口(西口・北口に接続)、更にペリエ千葉エキナカ4階にあるペリエ改札(ペリエ千葉4階に接続)の3ヶ所ある。西改札口は[[2018年]][[3月3日]]より、始発から午前6時50分までの間は遠隔対応(インターホン対応は[[稲毛駅]]が行う)となり、改札係員は不在。一部の自動券売機のみ稼働している<ref>{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/%ef%bd%8a%ef%bd%92%e5%8d%83%e8%91%89%e6%94%af%e7%a4%be-%ef%bc%97%e9%a7%85%e3%81%ae%e9%81%a0%e9%9a%94%e6%93%8d%e4%bd%9c%e7%84%a1%e4%ba%ba%e5%8c%96%e5%b0%8e%e5%85%a5%e3%81%a8%e9%8c%a6%e7%b3%b8%e7%94%ba/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190525173137/https://doro-chiba.org/nikkan/%ef%bd%8a%ef%bd%92%e5%8d%83%e8%91%89%e6%94%af%e7%a4%be-%ef%bc%97%e9%a7%85%e3%81%ae%e9%81%a0%e9%9a%94%e6%93%8d%e4%bd%9c%e7%84%a1%e4%ba%ba%e5%8c%96%e5%b0%8e%e5%85%a5%e3%81%a8%e9%8c%a6%e7%b3%b8%e7%94%ba/|title=JR千葉支社-7駅の遠隔操作=無人化導入と錦糸町駅の旅行業務委託を提案|archivedate=2019-05-25|date=2018-02-20|accessdate=2020-08-02|publisher=国鉄千葉動力車労働組合|language=日本語}}</ref>。ペリエ改札は午前10時から午後9時の間ICカード利用客のみ利用できる改札口で、終日無人となっており、Suicaチャージ機が設置されている{{Refnest|group="注釈"|JR東日本の通常の券売機や精算機とは異なり、500円チャージは不可。}}{{Refnest|group="注釈"|他2つの改札にある精算機が設置されていないため、改札機で自動精算できない場合は利用できない。}}。
[[コンコース]]は3階にあり、中央改札口に繋がる東側通路、西改札口に繋がる西側通路、その間にある中央通路で構成されている。東側通路には各ホーム行きの[[エスカレーター]]と[[エレベーター]]が、西側通路には7・8番線ホーム行きのエレベーターが設置されている。このうち中央通路と5 - 8番線ホームを結ぶエレベーターはペリエ千葉エキナカの4階へもつながっている。ペリエ千葉エキナカの4階へは、このエレベーターの他にエスカレーター3基{{Refnest|group="注釈"|上り2基と下り1基}}と階段が設置されている。トイレは東側通路1・2番線側、中央通路9・10番線側、連絡通路の3箇所に、車椅子に対応した多機能トイレはこのうち東側通路1・2番線側と中央通路9・10番線側の2箇所にある。[[鉄道警察隊]]は東側通路9・10番線側にある。
<gallery>
JRE-Chiba-STA Central-Gate.jpg|中央改札口(2021年10月)
JR Chiba Station West Gates (20210523).jpg|西改札口(2021年5月)
JR Chiba Station Perie Gates.jpg|4階のペリエ改札口(2019年12月)
Stn_Chiba_(2017)-JR-PERIE_3F_Ent.jpg|3階の西口と南口を結ぶ入口(2017年9月)
</gallery>
==== のりば ====
<!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠-->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
! 1・2
| [[ファイル:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
|style="text-align:center"|西行
|[[西船橋駅|西船橋]]・[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[新宿駅|新宿]]方面
|新宿方面行は[[御茶ノ水駅]]から [[ファイル:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央線へ直通<br />
|-
! 3・4
| {{Color|#00B2E5|■}} 内房線<ref group="注釈" name="内房線ダイヤ乱れ">ダイヤ乱れ時は{{Color|#ff6600|■}} 外房線の列車が発車することもある。</ref>
|rowspan="2" style="text-align:center"|下り
|[[木更津駅|木更津]]・[[館山駅|館山]]方面<br /> {{Color|red|□}} 特急「[[さざなみ (列車)|新宿さざなみ]]」(館山方面)
|
|-
! 5・6
| {{Color|#ff6600|■}} 外房線<ref group="注釈" name="外房線ダイヤ乱れ">ダイヤ乱れ時は{{Color|#00b2e5|■}} 内房線の列車が発車することもある。</ref>
|[[茂原駅|茂原]]・[[安房鴨川駅|安房鴨川]]・[[東金駅|東金]]方面<br />{{Color|red|□}} 特急「[[わかしお (列車)|新宿わかしお]]」(安房鴨川方面)
|東金方面行は[[大網駅]]から {{Color|#f15a22|■}} 東金線へ直通
|-
! 7・8
| {{Color|#ffc20d|■}} 総武本線
|rowspan="2" style="text-align:center"|下り
|[[佐倉駅|佐倉]]・[[八日市場駅|八日市場]]・[[銚子駅|銚子]]方面<br /> {{Color|red|□}} 特急「[[しおさい (列車)|しおさい]]」(銚子方面)
|一部{{Refnest|name="併結快速"|group="注釈"|総武本線普通四街道行き、快速佐倉行きの一部、快速成東行き(成田線快速成田空港行きと連結して運行)}}は9・10番線発着
|-
! 9・10
| {{Color|#00b261|■}} 成田線
|[[成田駅|成田]]・[[佐原駅|佐原]]・[[鹿島神宮駅|鹿島神宮]]方面<br /> {{Color|red|□}} 特急「[[成田エクスプレス]]」([[成田空港駅|成田空港]]方面)
|鹿島神宮方面行は佐原駅から {{Color|#c56e2e|■}} [[鹿島線]]へ直通
|-
! 3 - 6
|rowspan="2"| [[ファイル:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] [[横須賀・総武快速線|総武線(快速)]]
|rowspan="2" style="text-align:center"|上り
|[[東京駅|東京]]方面<br />{{Color|red|□}} 特急「新宿さざなみ」「新宿わかしお」(新宿方面)
|横浜・大船方面行は東京駅から [[ファイル:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 横須賀線へ直通<br /> {{Color|#00B2E5|■}} 内房線・ {{Color|#ff6600|■}} 外房線からの列車
|-
! 7 - 10
|東京方面<br /> {{Color|red|□}} 特急「しおさい」「成田エクスプレス」(東京方面)<br /> {{Color|red|□}} 特急「[[あずさ (列車)|あずさ]]」「[[富士回遊]]」([[大月駅|大月]]方面)
|横浜・大船方面行は東京駅から [[ファイル:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 横須賀線へ直通<br />{{Color|#ffc20d|■}} 総武本線・ {{Color|#00b261|■}} 成田線からの列車
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/989.html JR東日本:駅構内図])
* 外房線の下り本線は6番線、上り本線は3番線。総武本線の下り本線は10番線、上り本線は7番線。通過列車はこの両ホームを通過する。
<gallery>
JR Chiba Station Platform 1・2.jpg|1・2番線(総武線各駅停車)ホーム(2019年12月)
JR Chiba Station Platform 3・4.jpg|3・4番線(総武線快速・内房線)ホーム(2019年12月)
JR Chiba Station Platform 5・6.jpg|5・6番線(総武線快速・外房線)ホーム(2019年12月)
JR Chiba Station Platform 7・8.jpg|7・8番線(総武線快速・総武本線)ホーム(2019年12月)
JR Chiba Station Platform 9・10.jpg|9・10番線(総武線快速・成田線)ホーム(2019年12月)
</gallery>
==== 発車番線 ====
[[ファイル:Chiba Station May 2005-2.jpg|thumb|左に分かれるのが総武・成田線、右が外房・内房線(2005年5月、※写真は旧ホーム)]]
線路の配線状況により、1 - 6番線の線路と7 - 10番線の線路は東側では一切交差していない。そのため、直通先が多岐にわたっている総武快速線の東京方面行は終日3 - 10番線からランダムに発車している。
==== 整列乗車 ====
平日朝[[ラッシュ時]]において、東京方面の当駅始発列車を対象に一旦ドアを閉める整列乗車を行っている<ref group="注釈">夏休み期間中および年末年始は中止される。</ref>。下り列車は全て対象外である。
==== 発車ベル ====
当駅では、[[発車ベル]](当時主流のピロピロピロという電子音)が近隣から[[騒音]]であるとの苦情に応えて、JR東日本の主要駅としては初めて[[1988年]](昭和63年)[[5月]]から同年[[8月7日]]まで30分間発車ベルを鳴らさないで運行を行う試験を行い<ref group="新聞">{{Cite news|title=発車ベル廃止おおむね好評 JR千葉駅 駆け込みないが乗り遅れも|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=1988-08-19|page=13 朝刊}}</ref><ref group="新聞" name="chibanippo198883">{{Cite news |title=騒音苦情にこたえ 千葉駅が発車ベル廃止 JR東日本の主要駅で初 7日まで試行 |newspaper=『千葉日報』 |publisher=千葉日報社 |page=10 |date=1988-08-03}}</ref>、特に問題も生じなかったことから、そのまま試行期間の終了後に発車ベルを全面廃止した<ref group="新聞" name="chibanippo1988827">{{Cite news |title=こんにちは 発車予告ベル廃止した JR千葉駅長・板倉義和氏 |newspaper=『千葉日報』 |publisher=千葉日報社 |page=10 |date=1988-08-27}}</ref><ref group="新聞" name="asahi1988813">{{Cite news |title=ひと 発車予告ベルを全廃したJR千葉駅長 板倉義和さん |newspaper=『朝日新聞』 |publisher=朝日新聞社 |page=3 |date=1988-08-13}}</ref><ref group="新聞" name="mainichi198899">{{Cite news |title=ひと 電車の発車ベルを全廃したJR千葉駅長 板倉義和さん |newspaper=『[[毎日新聞]]』 |publisher=毎日新聞社 |page=4 |date=1988-09-09}}</ref>。
この試みは「静けさで心が和らぐ改善」などの肯定的な評価をされ<ref group="新聞" name="yomiuri19881113">{{Cite news |title=くろしお 静かな駅 |newspaper=『[[読売新聞]]』 |publisher=読売新聞社 |page=26 |date=1988-11-13}}</ref>、業界誌でも取り上げられるなど注目を集めた<ref name="kagawakeizai2014825">{{Cite journal |title=今月の話題 発車ベルを廃止したJR千葉駅の現状 |journal=『運輸界』 |issue=1988年10月 |pages=26-28 |publisher=[[中央書院]] |date=1988年10月}}</ref>。同年10月には早くも[[市川駅]]や[[稲毛駅]]といった同じ千葉県内の駅のみならず<ref group="新聞" name="chibanippo19881013">{{Cite news |title=発車ベル廃止 新小岩、市川、稲毛駅も |newspaper=『千葉日報』 |publisher=千葉日報社 |page=10 |date=1988-10-13}}</ref>、東京都内の[[新小岩駅]]など県外の駅にも広がることになり<ref group="新聞" name="chibanippo19881013"/>、後にJR駅の発車ベルが電子音からメロディに変わるきっかけともなった。その後これらの駅では[[発車メロディ]]が相次いで導入されたが、当駅では現在も発車メロディを含めて鳴らしていない。
なお、中央・総武線各駅停車の全区間([[三鷹駅]] - [[御茶ノ水駅]] - 当駅間)と横須賀・総武快速線の一部区間([[久里浜駅]] - 東京駅 - [[幕張駅]]間)は、[[東京圏輸送管理システム|ATOS]]が導入されており<ref>[http://www.jreast.co.jp/tesco/03_project/B010_p_atos/index.html 主要プロジェクト:東京圏輸送管理システム(ATOS)] - JR東日本 東京電気システム開発工事事務所(2019年12月17日閲覧)</ref>、1・2番線の西千葉寄りに出発時機表示機が設置されている。これに加え、2019年に3 - 10番線の西千葉寄りにも出発時機表示機が設置され、さらに[[2020年]][[2月16日]]始発から全番線において自動放送が導入された。
2021年現在、ATOS型自動放送を導入しているなかで、発車メロディ等が使われていない唯一の駅である。また、3 - 10番線については、自動放送に戸閉放送がなく、駅員のマイクによる肉声放送の後、出発指示合図または乗降終了合図でドアが閉まる。
==== 構内配線・信号設備等 ====
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!運転番線!!営業番線!!ホーム!!佐倉方面着発!!蘇我方面着発!!快速線東京方面着発!!緩行線御茶ノ水方面着発!!備考
|-
| style="text-align:center" |1|| style="text-align:center" |1|| rowspan="2" style="text-align:right" |10両分
| rowspan="6" |不可
| rowspan="2" |不可|| rowspan="2" |不可|| rowspan="2" |到着・出発可||緩行線上り主本線
|-
|style="text-align:center"|2||style="text-align:center"|2||緩行線下り主本線
|-
|style="text-align:center"|3||style="text-align:center"|3||style="text-align:right" rowspan="8"|15両分||rowspan="4"|到着・出発可||rowspan="10"|到着・出発可||rowspan="10"|不可||外房線上り主本線
|-
|style="text-align:center"|4||style="text-align:center"|4||style="text-align:right"|
|-
|style="text-align:center"|5||style="text-align:center"|5||style="text-align:right"|
|-
|style="text-align:center"|6||style="text-align:center"|6||style="text-align:left"|外房線下り主本線
|-
|style="text-align:center"|7||style="text-align:center"|7|| rowspan="4" style="text-align:left" |到着・出発可||rowspan="6"|不可||総武本線上り主本線
|-
|style="text-align:center"|8||style="text-align:center"|8||style="text-align:right"|
|-
|style="text-align:center"|9||style="text-align:center"|9||style="text-align:right"|
|-
|style="text-align:center"|10||style="text-align:center"|10||style="text-align:left"|総武本線下り主本線
|-
|style="text-align:center"|東1||style="text-align:center"| ||style="text-align:right" rowspan="2"|ホームなし
| rowspan="2" |不可||着発は10番線を経由
|-
|style="text-align:center"|東2||style="text-align:center"| ||style="text-align:left"|着発は10番線を経由
|}
* 主本線を発着する場合は通過が可能<ref name="vol4">{{Cite book|和書|author=今尾恵介|authorlink=今尾恵介|title=JR東日本全線【決定版】鉄道地図帳vol.4 水戸・千葉支社管内編|publisher=[[学研プラス]]|date=2010-03-19|isbn=978-4056057652}}</ref>。ただし緩行線[[御茶ノ水駅|御茶ノ水]]方面は不可<ref name="vol4" />。
* 東1・2番線と留置線は[[東千葉駅]]の北側にあるが、東千葉駅を含め全て千葉駅構内であり、長らく3 - 6番線の東京寄りホーム上にある「千葉駅[[信号扱所|信号所]]」で制御していた<ref name="vol4" />。2019年12月以降は千葉総合指令室での制御となっている<ref name="atoschiba" />。
* 東1・2番線は入出区車両のほか、貨物列車が待避で使用していたが、都賀方の分岐器が撤去されたため、2020年3月末現在待避は行えない。
* 7 - 10番線から留置線へは東1・2番線を経由し、佐倉方の引き上げ線で[[スイッチバック]]を行う<ref name="vol4" />。
* 総武線快速・各駅停車の夜間留置が設定されている。
==== 国鉄・JR線ホームの変遷 ====
以下の表は当駅ホームの変遷を記したものである。
; 移転前
{|class="wikitable" style="font-size:75%"
!時期
!第0ホーム
!第1ホーム
!第2ホーム
|-
| 終戦直後 -
|style="background-color:lightgray" |未設置
|1番線<br />{{Color|#00B2E5|■}}房総西線<br />{{Color|#ff6600|■}}房総東線 <br />2番線<br />{{color|#ffd400|■}}中央・総武線
|3番線<br />{{color|#ffd400|■}}中央・総武線<br />4番線<br />{{Color|#ffc20d|■}}総武本線<br />{{Color|#00b261|■}}成田線
|-
|1949年<br />8月31日 -
|5番線<br />{{Color|#ff6600|■}}房総東線
|rowspan=2|1番線<br />{{Color|#00B2E5|■}}房総西線<br />2番線<br />{{Color|#00b261|■}}成田線
|rowspan=2|3番線<br />{{color|#ffd400|■}}中央・総武線<br />4番線<br />{{Color|#ffc20d|■}}総武本線
|-
|時期不詳 -
|0番線<br />{{Color|#ff6600|■}}房総東線
|}
; 移転後
{|class="wikitable" style="font-size:75%"
!時期
!南側[[回送]]線
!第1ホーム
!第2ホーム
!第3ホーム
!第4ホーム
!北側回送線
!第5ホーム
|-
|1963年<br />4月28日 -
|rowspan=5|0番線<br />{{Color|#000|■}}回送線
| rowspan="6" |1・2番線<br />{{color|#ffd400|■}}中央・総武線
|3・4番線<br />{{Color|#00B2E5|■}}房総西線<br />{{color|#ffd400|■}}中央・総武線
|5・6番線<br />{{Color|#ff6600|■}}房総東線<br />{{color|#ffd400|■}}中央・総武線
|7・8番線<br />{{Color|#ffc20d|■}}総武本線<br />{{Color|#00b261|■}}成田線<br />{{color|#ffd400|■}}中央・総武線
|rowspan=3|9番線<br />{{Color|#000|■}}回送線
|rowspan="3" style="background-color:lightgray"|未設置
|-
|1972年<br />7月15日 -
|3・4番線<br />{{Color|#00B2E5|■}}内房線<br />{{Color|#0067c0|■}}総武線
|5・6番線<br />{{Color|#ff6600|■}}外房線<br />{{Color|#0067c0|■}}総武線
|7・8番線<br />{{Color|#ffc20d|■}}総武本線<br />{{Color|#00b261|■}}成田線<br />{{Color|#0067c0|■}}総武線
|-
|1980年<br />10月1日 -
| rowspan="4" |3・4番線<br />{{Color|#00B2E5|■}}内房線<br />{{Color|#0067c0|■}}横須賀・総武線
| rowspan="4" |5・6番線<br />{{Color|#ff6600|■}}外房線<br />{{Color|#0067c0|■}}横須賀・総武線
|7・8番線<br />{{Color|#ffc20d|■}}総武本線<br />{{Color|#00b261|■}}成田線<br />{{Color|#0067c0|■}}横須賀・総武線
|-
|1983年<br />4月4日 -
|7・8番線<br />使用停止
| rowspan="3" style="background-color:lightgray" |廃止
|9・10番線<br />{{Color|#ffc20d|■}}総武本線<br />{{Color|#00b261|■}}成田線<br />{{Color|#0067c0|■}}横須賀・総武線
|-
|1984年<br />2月1日 -
| rowspan="2" |7・8番線<br />{{Color|#ffc20d|■}}総武本線<br />{{Color|#0067c0|■}}横須賀・総武線
| rowspan="2" |9・10番線<br />{{Color|#00b261|■}}成田線<br />{{Color|#0067c0|■}}横須賀・総武線
|-
|2016年頃 -
|style="background-color:lightgray" |廃止
|}
===== 備考 =====
* 終戦直後の当駅は島式ホーム2面4線であった。
* 1949年8月31日に第0ホーム(5番線)を増設。国鉄時代は駅長室に近い方から着発番線を割り振っていたが、1番線よりも駅長室寄りに5番線が増設され、なおかつ従来の着発番線を変更しなかったため、5番線の隣が1番線となった。後に5番線は0番線に変更された。
* 1963年4月28日の移転当初は島式ホーム4面8線で、それを挟む形で貨物用の回送線が南北にそれぞれ1線ずつ敷かれていた。
* 1983年4月4日に北側回送線(9番線)を廃止し、その跡地に第5ホーム(9・10番線)を増設。それに伴い、第4ホーム(7・8番線)の使用を停止した。
* 1984年2月1日に第4ホーム(7・8番線)の使用を再開し、島式ホーム5面10線となった。
* 2016年頃に南側回送線(0番線)を廃止した。
==== その他 ====
* 千葉駅の駅中心キロ程はダブルメートルになっており、東京起点39k142m68=御茶ノ水起点38k550m00<ref>上条正人「第13回施工研究発表会 千葉駅改良に伴う構内配線計画について」『東工30(2)』(日本国有鉄道東京第一工事局編、1979年8月)5-20頁</ref> を示す札が10番線の線路脇に建植されている。
=== 千葉都市モノレール ===
{{駅情報
| 社色 = #2843ba
| 文字色 =
| 駅名 = 千葉都市モノレール 千葉駅
| 画像 = Stn_Chiba_(2020)-Mono-Main_Ent.jpg
| pxl = 300px
| 画像説明 = 千葉都市モノレール千葉駅正面口(2020年4月)
<!--中央改札口が軌道に沿った北東―南西方向であるのに対し、この出入口は軌道に直交する南東―北西方向であることから、「中央口」という呼称を避けています。 -->
| よみがな = ちば
| ローマ字 = Chiba
| 所属事業者 = [[千葉都市モノレール]]
| 駅番号 = {{駅番号r|CM|03|#0098cf|4||#185aa5}}
| 所在地 = [[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]新千葉一丁目1-1
| 座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|36|44|N|140|6|51.5|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=千葉都市モノレール 千葉駅}}
| 開業年月日 = [[1991年]]([[平成]]3年)[[6月12日]]<ref group="新聞" name="asahi1991612"/><ref group="新聞" name="chibanippo1991612"/>
| 駅構造 = [[高架駅]]
| ホーム = 2面4線
| 乗車人員 = 9,929<!--千葉市統計書-->
| 乗降人員 =
| 統計年度 = 2020年
| 乗入路線数 = 2
| 所属路線1 = {{Color|#2843ba|■}}[[千葉都市モノレール1号線|1号線]]
| 前の駅1 = CM02 [[市役所前駅 (千葉県)|市役所前]]
| 駅間A1 = 0.8
| 駅間B1 = 0.5
| 次の駅1 = [[栄町駅 (千葉県)|栄町]] CM16
| キロ程1 = 1.5
| 起点駅1 = [[千葉みなと駅|千葉みなと]]
| 所属路線2 = {{Color|#2843ba|■}}[[千葉都市モノレール2号線|2号線]]
| 前の駅2 = *(市役所前)
| 駅間A2 = -
| 駅間B2 = 1.1
| 次の駅2 = [[千葉公園駅|千葉公園]] CM04
| キロ程2 = 0.0
| 起点駅2 = 千葉
| 備考 =
| 備考全幅 = * 大半の列車が1号線[[千葉みなと駅]]まで乗り入れ
}}
JR線のさらに上層に軌道がある[[高架駅]]で、千葉都市モノレールで唯一の2面4線を有する。ホームは4階にある。正面口が地上にあり、JR千葉駅東口と向かい合っている。モノレール駅の2階(JR駅の改札階(=3階)と同じ階層)にJR中央改札方面との連絡通路がある。また、3階(モノレール改札階)には中央改札口、南改札口、南口、駅事務室、車椅子対応トイレがあるほか、南口側に[[京成千葉駅]]モノレール改札口(深夜・早朝は閉鎖)や、[[そごう千葉店]](4階)・[[センシティタワー]](4階)方面との連絡通路がある。
<gallery>
Monorail Chiba Station Central-Gate 20191225.jpg|中央改札口(2019年12月)
Monorail Chiba Station south-Gate 20191225.jpg|南改札口(2019年12月)
Monorail-Chiba-Sta south sogo 20191225.jpg|南口(2019年12月)<br />真上をモノレールが走る
Keisei Chiba Station Monorail-Gate 20191225.jpg|京成千葉駅モノレール改札口(2019年12月)
</gallery>
==== エレベーターとエスカレーター ====
改札内に3階のコンコースと4階の各ホームを結ぶエレベーター並びにエスカレーター(上り及び下り)がある({{要出典範囲|車椅子対応|date=2020年5月}})。
改札外でエレベーターが1階(=地上階)、2階(JR連絡通路があり、JR駅の改札階(=3階)と同じ階層)及び3階(モノレール改札階)の間で稼働している(車椅子対応、写真参照)。改札外のエスカレーターには2つの系統がある。一方は2階のJR連絡通路と3階のモノレール改札コンコースを結ぶもの(上り及び下り)である(写真参照)。他方は1階(=地上階)の正面口、2階の中間コンコース、及び3階の改札コンコースを結ぶもの(上り及び下り)であり、正面口から行く場合には、中間コンコースで右折して乗り継ぐ。なお、JR連絡通路がある2階と、中間コンコースがある2階は分かれていて、互いにつながっていない。
<gallery>
Stn_Chiba_(2017)-EV_Mono-JR_G.jpg|改札外のエレベーターの地上階部分(2017年6月)<br />左にJR千葉駅東口が見える
Stn_Chiba_(2017)-EV_Mono-JR_M.jpg|改札外のエレベーターのモノレール改札階部分(2017年6月)
Stn_Chiba_(2017)-ES_Mono-JR_M.jpg|JR連絡通路とモノレール改札コンコースを結ぶエスカレーター(2017年6月)
</gallery>
==== のりば ====
<!--実表記に合わせた-->
{|class="wikitable" rules="rows"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
!1
|[[ファイル:Number prefix Chiba monorail.svg|15px|千葉都市モノレール]] 1号線
|[[県庁前駅 (千葉県)|県庁前]]方面
|-
!2
|rowspan=2|[[ファイル:Number prefix Chiba monorail.svg|15px|千葉都市モノレール]] 2号線
|[[スポーツセンター駅|スポーツセンター]]・[[都賀駅|都賀]]・[[千城台駅|千城台]]方面
|-
!3
|rowspan="2"|[[千葉みなと駅|千葉みなと]]方面
|-
!4
|[[ファイル:Number prefix Chiba monorail.svg|15px|千葉都市モノレール]] 1号線
|}
<gallery>
Chiba-monorail-CM03-Chiba-station-platform-20190701-105742.jpg|1・2番線ホーム
Chiba-monorail-CM03-Chiba-station-platform-20190701-115810.jpg|3・4番線ホーム
</gallery>
==== その他 ====
千葉駅は、1995年8月に営業路線が千葉みなと駅まで延伸する以前には、[[千葉公園駅]]方向に約100 [[メートル|m]]よりの仮駅であったが、延伸時に現在の駅舎へ移行した。仮駅時代は、現在の駅舎の手前まで線路が延びていたため、それを利用して[[引き上げ線]]として使用、同時にホームも乗車専用と降車専用に分けていた。
また、「駅前の道路構造物は目障りで著しく景観を損ねる」として、JR東日本から250億円の迷惑料を請求され支払う事態になった逸話がある。前述の仮駅舎(23億円)や開業の遅れも重なってしまい、千葉都市モノレールは千葉駅関連の工事だけで300億円もの予定外費用を支出することになった<ref>{{Cite web|和書|title=千葉の歴史検証シリーズ44 千葉都市モノレール物語 3|url=http://www.chiba-shinbun.co.jp/0604_02.html|website=稲毛新聞|accessdate=2020-06-07|publisher=|date=2006-04-06}}</ref>。
{{-}}
=== 駅舎内の施設(駅ナカ・駅ビル) ===
ペリエ千葉、[[センシティ]]、[[そごう千葉店]]、[[オーロラモールジュンヌ]]、[[センシティタワー]]、ウェストリオ、シーワン、ミーオがある。[[京成千葉駅]]と[[千葉中央駅]]はこれらの施設を通して隣接している。
==== 改札内(JR東日本) ====
'''ペリエ千葉エキナカ'''
[[ファイル:Perie station building JR Chiba station 20191225.jpg|thumb|ペリエ千葉エキナカ(2フロア)]]
約8,000 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]]、3階と4階の2フロアに跨り、3階は約48店舗、4階は約13店舗の専門店を有する<ref group="報道" name="pre1803_perie" /><ref group="報道" name="pre1805_perie" />。
{{Div col}}
* 主な店舗
** [[NewDays]]
** [[マツモトキヨシ]]
** [[万葉軒]]
** [[諏訪商店|房の駅]]
** [[ピーターパン (製パン)|ピーターパンジュニア]]
** [[成田ゆめ牧場]] Cows Stand
** [[良品計画|無印良品]]
** [[アインファーマシーズ|アイン薬局]]
** [[くまざわ書店]]
** [[Zoff]]
** [[キュービーネット|キュービーハウス]]
** 東京ビジネスクリニック
{{Div col end}}
==== 改札外(JR東日本) ====
* NewDays
* [[みどりの窓口]]
* [[指定席券売機]]
* [[ビューアルッテ]]
==== 改札外(千葉都市モノレール) ====
* NewDays
* [[ミスタードーナツ]]
* 千葉県[[赤十字血液センター]]モノレール千葉駅[[献血|献血ルーム]]
* QBハウス
* [[ファミリーマート]] 京成千葉駅店
==== 駅ビル・商業施設 ====
; ペリエ千葉
[[ファイル:Perie Chiba station east 20191129.jpg|thumb|東口のペリエ千葉入口(右側が本館入口、左側がストリート1入口、奥へ進むと当駅南口・京成千葉駅・センシティ方面)]]
本館、ペリチカ、ストリート1、ストリート2合わせて約7万5000 m<sup>2</sup>(地下1階 - 地上7階)の大規模な駅ビルが隣接している<ref group="新聞">{{Cite news|title=ペリエ千葉:全面開業 食料品充実、利用層拡大に期待 街の回遊性向上へ/千葉|url=https://mainichi.jp/articles/20180629/ddl/k12/020/142000c|newspaper=毎日新聞|accessdate=2019-03-28|language=ja}}</ref>。
* 本館
** チバコトラボ(2階 - 3階) - 5つの常設ショップとイベントスペース<ref>{{Cite web|和書|title=JR千葉駅ペリエ千葉「チバコトラボ」房総半島の魅力が満載 (BiCYCLE CLUB) - LINEアカウントメディア|url=https://news.line.me/issue/oa-bicycleclub/0be7456594a8|website=LINE NEWS|accessdate=2019-03-28}}</ref>
** えきうえひろば(5階)
** [[ハンズ (小売業)|ハンズ]](6階)
** [[くまざわ書店]](6階)
** ペリエホール([[多目的ホール]])<ref>{{Cite web|和書|title=施設概要|url=https://www.perie.co.jp/chiba/periehall/outline/index.html|website=ペリエホール|accessdate=2019-03-28|language=ja}}</ref>(7階)
* ペリチカ - 約46店舗の専門店を有する。本館及びストリート1の地下に位置し、生鮮食品、グロッサリー、惣菜、和洋スイーツなどで構成。バルスタイルの飲食ゾーンも併設<ref group="報道" name="pre1803_perie" /><ref group="報道" name="pre1805_perie" />。
* ストリート1 - 約17店舗の専門店を有するファッションストリート。外房線、内房線、京成千葉線の高架下に位置する。シーワン(C-one)までつながっている。
* ストリート2 - 約22店舗の専門店を有する。総武本線、成田線の高架下に位置する。
; シーワン
[[ファイル:C-one chiba station 20191129.jpg|thumb|シーワン(C-one)]]
高架下ショッピングモール。外房線、内房線、京成千葉線の高架下に位置する。ペリエ千葉ストリート1から続いて、ミーオ1(Mio1)まで高架下でつながっている。千葉中央駅の抜け道にも利用可能である。
; ミーオ1
[[ファイル:Mio1 Chiba-Chūō Station 20191129.jpg|thumb|ミーオ1(Mio1)]]
シーワンから高架下で続く、京成電鉄千葉中央駅西口側のショッピングセンター。外房線、内房線、京成千葉線の高架下に位置する。ミーオ1は1番街から6番街まである。
* 京成ローザ10ウエスト
* [[アコレ]]
; ミーオ2
[[ファイル:Mio2 Chiba-Chūō Station 20191129.jpg|thumb|ミーオ2(Mio2)]]
ミーオ1から千葉県庁方面(千葉中央駅東口)にあるショッピングセンター。2階は京成ホテルミラマーレと接続している。
* [[京成ホテルミラマーレ]]
; センシティ ビルディング
[[ファイル:Keisei-Chiba-Sta.JPG|thumb|南口より接続する[[京成千葉駅]]西口・[[センシティ]](2016年12月)]]
千葉新町地区の再開発事業における施設建築物名称。
* センシティタワー
** 高さは約107 m(最高部)、約96 m(軒高)。階数は地下2階、地上23階、塔屋2階。1階部分が、センシティタワーとそごう千葉店本館のメインエントランスとなっている。また1階で[[京成千葉駅]]と、4階で千葉都市モノレール千葉駅とつながっている。
** みずほ銀行千葉支店
** [[みずほ信託銀行]]千葉支店
** [[SMBC信託銀行]]プレスティア千葉支店
** 千葉県中央旅券事務所
** [[みずほ証券]]千葉中央支店
** [[丸三証券]]千葉支店
* [[そごう千葉店]]本館
** 千葉[[ロフト (雑貨店)|ロフト]]
** [[三省堂書店]]
** [[山野楽器]]
; センシティ パークプラザ
千葉新町第二地区の再開発事業における施設建築物名称。
* オーロラモールジュンヌ
** 正式には「そごう千葉店オーロラモールジュンヌ」で、そごう千葉店の新館になる。オーロラモールジュンヌと隣接するそごう千葉店本館で[[オーロラシティ]]を構成し、センシティタワーとあわせてセンシティを構成する。内部呼称は「ジュンヌ館」。
; ウェストリオ
千葉都市計画事業千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業の中核施設としてホテル棟と事務所棟のビル3棟が並ぶ<ref name=":0" /><ref group="新聞" name="chibanippo/20130906" />。
* [[ホテルサンルート]]千葉
== 駅弁 ==
[[ファイル:Manyoken JR Chiba station 20191225.jpg|thumb|[[万葉軒]]([[駅弁]]専門店)]]
当駅は[[駅弁]]専門店として改札内に[[リエイ]]「[[万葉軒]] マンヨーケン<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.riei.co.jp/wp/wp-content/uploads/2019/01/Riei_Press_20190130.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190329011339/http://www.riei.co.jp/wp/wp-content/uploads/2019/01/Riei_Press_20190130.pdf|format=PDF|language=日本語|title=千葉駅構内に「万葉軒」が復活! ペリエ千葉に2月1日オープン! 2大ロングセラー駅弁・夢のコラボ 「トンかつ菜の花弁当」を期間限定販売します。|publisher=リエイ|date=2019-01-30|accessdate=2020-04-23|archivedate=2019-03-29}}</ref>」(旧:[[日本レストランエンタプライズ]]「駅弁屋 踊<ref>{{Cite web|和書|title=メニュー情報|駅弁屋 踊(千葉駅)|駅弁|NRE 株式会社日本レストランエンタプライズ|url=https://www.nre.co.jp/Default.aspx?TabId=229&brnid=102|website=日本レストランエンタプライズ|accessdate=2019-03-28|language=ja}}</ref>」)がある。主な駅弁は下記の通り<ref>{{Cite web|和書|title=万葉軒(マンヨーケン)|url=http://riei-manyoken.jp/menu|website=万葉軒(マンヨーケン)|accessdate=2022-03-13|language=ja}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=236}}</ref>。
* 万葉弁当
* やき肉弁当
* 菜の花弁当
* 万葉寿司
* ジャンボかつ弁当
* トンかつ弁当(500円駅弁<ref>{{Cite web|和書|author=望月崇史 |date=2016-12-29 |url=https://news.1242.com/article/109389 |title=千葉駅「トンかつ弁当」(500円)~リニューアルされた千葉駅のソウルフード駅弁【ライター望月の駅弁膝栗毛】 |publisher=[[ニッポン放送]] |accessdate=2019-06-28}}</ref>。JTB時刻表 2023年3月号では、580円と記載されている)
== 利用状況 ==
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''94,864人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。
*: JR東日本管内の駅では[[町田駅]]に次いで第30位である。[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]の中心駅であるが、千葉県内では[[西船橋駅]]・[[船橋駅]]・[[柏駅]]に次ぐ第4位である。ただし、この人数には、JR各線相互の乗り換え者数は含まれていないため、実際の駅利用者は数字以上に非常に多い。
* '''千葉都市モノレール''' - 2020年度の1日平均'''乗車'''人員は'''9,929人'''である。
*: 千葉都市モノレールの駅では、18駅中1位である。
=== 年度別1日平均乗車人員(1890年代 - 1930年代) ===
年度<ref group="備考">1897年・1898年・1900年・1901年・1905年・1906年については1月 - 12月の暦年</ref>全体の'''乗車'''人員を365(閏日が入る年度は366)で除して1日平均'''乗車'''人員を求めている。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="Prefecture"/>
!年度!!国鉄!!出典
|-
|1897年(明治30年)
|1,005
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806514 明治30年]</ref>
|-
|1898年(明治31年)
|<ref group="備考">総武鉄道:187,888人(1日平均:514人)・房総鉄道:87,652人(1日平均:240人)の合計値</ref>754
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806515 明治31年]</ref>
|-
|1900年(明治33年)
|636
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806516 明治33年]</ref>
|-
|1901年(明治34年)
|657
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806517 明治34年]</ref>
|-
|1905年(明治38年)
|<ref group="備考">総武鉄道:249,843人(1日平均:684人)・房総鉄道:8,412人(1日平均:23人)の合計値</ref>707
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806524 明治38年]</ref>
|-
|1906年(明治39年)
|<ref group="備考">総武鉄道:257,821人(1日平均706人)・房総鉄道:8,605人(1日平均:23人)の合計値</ref>729
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806526 明治39年]</ref>
|-
|1907年(明治40年)
|582
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806528 明治40年]</ref>
|-
|1908年(明治41年)
|986
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806529 明治41年]</ref>
|-
|1909年(明治42年)
|1,032
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806530 明治42年]</ref>
|-
|1910年(明治43年)
|1,073
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806531 明治43年]</ref>
|-
|1911年(明治44年)
|1,316
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972760 明治44年]</ref>
|-
|1912年(大正元年)
|1,135
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152331 大正元年]</ref>
|-
|1913年(大正{{0}}2年)
|1,212
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152349 大正2年]</ref>
|-
|1914年(大正{{0}}3年)
|1,175
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152377 大正3年]</ref>
|-
|1915年(大正{{0}}4年)
|1,163
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972765 大正4年]</ref>
|-
|1916年(大正{{0}}5年)
|1,225
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972772 大正5年]</ref>
|-
|1917年(大正{{0}}6年)
|1,434
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972779 大正6年]</ref>
|-
|1918年(大正{{0}}7年)
|1,624
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972784 大正7年]</ref>
|-
|1919年(大正{{0}}8年)
|2,065
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972789 大正8年]</ref>
|-
|1920年(大正{{0}}9年)
|2,251
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972796 大正9年]</ref>
|-
|1921年(大正10年)
|2,182
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972803 大正10年]</ref>
|-
|1922年(大正11年)
|2,097
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972807 大正11年]</ref>
|-
|1923年(大正12年)
|2,585
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972811 大正12年]</ref>
|-
|1924年(大正13年)
|2,738
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972818 大正13年]</ref>
|-
|1925年(大正14年)
|2,836
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/988687 大正14年]</ref>
|-
|1926年(昭和元年)
|2,850
|<ref group="千葉市勢要覧" name="S7" />
|-
|1927年(昭和{{0}}2年)
|2,749
|<ref group="千葉市勢要覧" name="S7" />
|-
|1928年(昭和{{0}}3年)
|2,761
|<ref group="千葉市勢要覧" name="S7" />
|-
|1929年(昭和{{0}}4年)
|2,916
|<ref group="千葉市勢要覧" name="S7" />
|-
|1930年(昭和{{0}}5年)
|2,788
|<ref group="千葉市勢要覧" name="S7">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1436946 昭和7年刊行] - 36頁</ref>
|-
|1931年(昭和{{0}}6年)
|2,718
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710285 昭和6年]</ref>
|-
|1932年(昭和{{0}}7年)
|2,709
|<ref group="千葉市勢要覧">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1465705 昭和10年版] - 35 - 36頁</ref>
|-
|1933年(昭和{{0}}8年)
|3,038
|<ref group="千葉市勢要覧" name="S11" />
|-
|1934年(昭和{{0}}9年)
|3,063
|<ref group="千葉市勢要覧" name="S11">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1462961 昭和11年版] - 57 - 58頁</ref>
|-
|1935年(昭和10年)
|3,816
|<ref group="千葉市勢要覧" name="S11" />
|-
|1936年(昭和11年)
|4,152
|<ref group="千葉市勢要覧" name="S14">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1437790 昭和14年版]</ref>
|-
|1937年(昭和12年)
|4,696
|<ref group="千葉市勢要覧" name="S14" />
|-
|1938年(昭和13年)
|5,507
|<ref group="千葉市勢要覧" name="S14" />
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1947年 - 2000年) ===
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="Prefecture"/>
!年度!!国鉄 /<br />JR東日本!!colspan="1" style="text-align:center" <!--バランスが悪くなるので消さないこと-->|千葉都市<br />モノレール!!出典
|-
|1947年(昭和22年)
|23,324
|rowspan="44" style="text-align:center" |未<br/>開<br/>業
|<ref group="千葉市勢要覧">昭和23年版 39頁</ref>
|-
|1948年(昭和23年)
|24,091
|<ref group="千葉市勢要覧">昭和24年版 30頁</ref>
|-
|1949年(昭和24年)
|19,828
|<ref group="千葉市勢要覧">昭和25年版 113頁</ref>
|-
|1950年(昭和25年)
|21,050
|<ref group="千葉市勢要覧">昭和26年版 125頁</ref>
|-
|1951年(昭和26年)
|23,380
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s27/index.html#13 昭和27年]</ref>
|-
|1952年(昭和27年)
|24,317
|<ref group="千葉市勢要覧">昭和28年版 199頁</ref>
|-
|1953年(昭和28年)
|25,634
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s29-2/index.html#13 昭和29年]</ref>
|-
|1954年(昭和29年)
|27,646
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s30/index.html#13 昭和30年]</ref>
|-
|1955年(昭和30年)
|29,053
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s31/#13 昭和31年]</ref>
|-
|1956年(昭和31年)
|31,607
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s32/index.html#13 昭和32年]</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|33,214
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s33/index.html#13 昭和33年]</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|34,649
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s34/index.html#13 昭和34年]</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|37,213
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s35/index.html#13 昭和35年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|40,395
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s36/index.html#13 昭和36年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|43,552
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s37/index.html#13 昭和37年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|47,425
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s38/index.html#13 昭和38年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|54,051
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s39/index.html#13 昭和39年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|60,927
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s40/index.html#13 昭和40年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|64,606
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s41/index.html#13 昭和41年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|68,986
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s42/index.html#13 昭和42年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|72,740
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s43/index.html#13 昭和43年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|77,193
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s44/index.html#13 昭和44年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|72,668
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s45/index.html#13 昭和45年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|73,000
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s46/index.html#13 昭和46年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|75,096
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s47/index.html#13 昭和47年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|80,368
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s48/index.html#13 昭和48年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|85,365
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s49/index.html#13 昭和49年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|89,833
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s50/index.html#13 昭和50年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|90,086
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s51/index.html#13 昭和51年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|92,993
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s52/index.html#13 昭和52年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|91,745
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s53/index.html#13 昭和53年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|91,014
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s54/index.html#13 昭和54年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|90,684
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s55/index.html#13 昭和55年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|90,590
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s56/index.html#13 昭和56年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|89,871
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s57/index.html#13 昭和57年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|87,884
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s58/index.html#13 昭和58年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|87,798
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s59/index.html#13 昭和59年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|88,438
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s60/index.html#13 昭和60年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|90,219
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s61/index.html#11 昭和61年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|87,537
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s62/index.html#11 昭和62年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|89,285
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s63/index.html#11 昭和63年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|92,924
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h1/index.html#11 平成元年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|93,883
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h02/index.html#11 平成2年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|96,537
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03/index.html#11 平成3年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|99,799
|<ref group="備考">1991年6月12日開業。開業日から翌年3月31日までの計294日間を集計したデータ。</ref>5,751
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04/index.html#11 平成4年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|102,214
|7,981
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05/index.html#11 平成5年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|108,462
|8,809
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06/index.html#11 平成6年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|108,112
|8,934
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07/index.html#11 平成7年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|108,388
|10,736
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08/index.html#11 平成8年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|108,385
|11,425
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09/index.html#11 平成9年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|106,001
|10,835
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10/index.html#11 平成10年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|106,529
|10,686
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11/index.html#11 平成11年]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>105,246
|10,675
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 平成12年]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>103,723
|10,573
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 平成13年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="Prefecture">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref><ref group="統計">[https://www.city.chiba.jp/shisei/gyokaku/toke/toke/index.html 千葉市統計書] - 千葉市</ref>
!年度
!colspan="1" style="text-align:center" |JR東日本
!colspan="1" style="text-align:center" <!--バランスが悪くなるので消さないこと--> |千葉都市<br />モノレール
!出典
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>103,590
|10,528
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 平成14年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>104,275
|10,508
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 平成15年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>104,748
|10,302
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 平成16年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>103,618
|10,115
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 平成17年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>103,401
|10,344
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18.html#11 平成18年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>105,746
|10,767
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19.html#11 平成19年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>106,901
|10,913
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20.html#11 平成20年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>107,122
|10,851
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 平成21年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>106,434
|10,978
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 平成22年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>105,777
|11,008
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 平成23年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>104,788
|10,369
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 平成24年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>104,646
|11,436
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 平成25年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>105,812
|11,286
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html#a11 平成26年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>103,592
|11,262
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html#a11 平成27年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>104,503
|11,406
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html#a11 平成28年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>105,205
|11,849
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html#a11 平成29年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>105,807
|12,569
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html#a11 平成30年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>108,121
|13,034
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 令和元年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>107,829
|13,183
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 令和2年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>81,445
|9,929
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r03/index.html#unyutuusin 令和3年]</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>86,911
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>94,864
|
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:千葉都市モノレール - panoramio (1).jpg|thumb|
200px|モノレール南口より接続するそごう千葉店(左)・センシティタワー(右)4階屋外テラス(2010年5月)]]
[[ファイル:Fahrt mit der Chiba Monorail 14(cropped).jpg|thumb|200px|モノレール車内より望む千葉中央公園方面 千葉駅前大通り(2018年4月)]]
[[ファイル:Chiba Central Arch.jpg|thumb|200px|千葉都市モノレール セントラルアーチ(奥が千葉駅方面)]]
[[ファイル:View from Chiba Prefectural Government Office Main Building, north side 001.jpg|thumb|200px|千葉県庁本庁舎より望む千葉駅方面(2012年8月)]]
当駅は千葉市中心部の北西端に位置し、東口・モノレール中央口より南東方の中央公園などの「中央」方面に向かう広い通り「千葉駅前大通り」が伸びる。これは、1963年(昭和38年)の千葉駅の現在地への移転に合わせ、周辺区画と共に整備されたもので、デパートやオフィスビルなどが多い。[[一方通行]]路や右折禁止の交差点が多く、客待ちをする[[日本のタクシー|タクシー]]の台数もかなり多い。駅前広場は東口・モノレール中央口・北口・西口にあり、各々[[日本のバス|バス]]・タクシー乗り場がある。特に東口・モノレール中央口前の[[バスターミナル]]は規模が大きく、[[路線バス]]用、一般車とタクシー用とレーンが分かれており、県都中心駅の性格を表している。
東口・モノレール中央口駅前にはデパートやショッピングセンターなどのビルが林立している。2018年(平成30年)からは、ペリエ千葉、そごう千葉店、シーワンを中心として「えきまつり」が開催されるようになった<ref group="新聞">[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO51820290V01C19A1L71000/ 千葉駅周辺の商業施設連携 第2回「えきまつり」17日まで開催]『日本経済新聞』2019年11月6日(千葉経済面)2019年12月17日閲覧</ref>。 北口と西口は位置・構造の関係上、東口と比べ人出が少ない。北口は[[1990年代]]まで閑静な住宅街であったが現在は駅前広場が整備され、広い道幅の道路が開通しているほか、[[高等学校]]や大手予備校もあり学生は比較的多い。また、西口にも駅前広場が整備され、千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業(B工区)により、病院や商業施設の建設が予定されている。
東方向の先は関東屈指の[[歓楽街]]([[栄町 (千葉市)|栄町]])、南東方向は中心部の[[繁華街]]([[富士見 (千葉市)|富士見]]・[[中央 (千葉市)|中央]])、南方向(新町・新田町・新宿)はビルなどが混在する地域となっている。[[2010年代]]以降は[[パルコ]]や[[三越]]といった大型商業施設が撤退し、中心市街地の空洞化が見られる。[[2020年代]]前半は駅前の[[都市再開発|大規模再開発]]が進んでおり、[[国税庁]]が2022年7月に発表した同年1月時点の[[路線価]]では本地域の上昇率が全国トップとなった<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/187046|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220702102738/https://www.tokyo-np.co.jp/article/187046|title=千葉県内路線価変動率 全国平均上回る0.8%|newspaper=東京新聞|date=2022-07-02|accessdate=2022-07-02|archivedate=2022-07-02}}</ref>。西方向(新千葉)と北方向(弁天)は駅から離れると閑静な[[住宅地|住宅街]]が広がる。駅周辺は[[路上喫煙禁止条例|路上喫煙禁止地区]]になっている。
県庁・[[千葉県警察]][[警察本部|本部]]や[[千葉地方裁判所]]・[[千葉地方検察庁]]など国や県の機関とその関連施設は、歴史的に千葉市の中心部である千葉中央駅から本千葉駅にかけての一帯の東側、「長洲」や「市場町」にある。当駅からは徒歩で約20分かかるため、[[葭川公園駅]](→千葉地検、千葉地裁)、[[県庁前駅 (千葉県)|県庁前駅]](→県庁舎、県警本部)、[[本千葉駅]](→県警本部、県庁舎)からの徒歩か、バスターミナルから[[千葉中央バス#現行一般路線|千葉中央バス]]や[[小湊鉄道塩田営業所#路線バス|小湊鉄道バス]]などの路線バスを利用するほうが便利である{{Refnest|group="注釈"|県庁前は100円区間の末端で現金、ICカードどちらも使用できる。}}。
=== 周辺交通 ===
[[ファイル:Chiba-ekimae Street 20120809-1.jpg|thumb|200px|千葉駅前大通り]]
[[ファイル:Chiba-Chūō Station 20120809.jpg|thumb|200px|京成電鉄千葉中央駅 京成ホテルミラマーレ]]
当駅を中心とする以下、概ね半径1キロメートル(km)程度範囲内周辺の[[一般国道]]・[[都道府県道]]。
* [[国道14号]]
* [[国道51号]]
* [[国道126号]]
* [[国道357号]]
* [[千葉県道40号東千葉停車場線]]
* [[千葉県道217号本千葉停車場線]]
当駅を中心とする以下の各駅は概ね半径1キロメートル(km)程度範囲内にあるので、状況によっては徒歩での移動の方が早く到達する場合もある。
* 東口・モノレール中央口
** [[栄町駅 (千葉県)|栄町駅]](千葉都市モノレール1号線) - 栄町(歓楽街)付近の最寄駅。
** [[葭川公園駅]](千葉都市モノレール1号線) - 中央公園付近の最寄駅。
* 東口・モノレール中央口・南口・モノレール南口
** [[京成千葉駅]](京成千葉線)
** [[千葉中央駅]](京成千葉線・千原線)
* 東口・モノレール中央口・北口・千葉公園口
** [[東千葉駅]](JR総武本線・成田線) - [[千葉市民会館]]など旧千葉駅付近の最寄駅。
* 西口
** [[新千葉駅]](京成千葉線) - 新千葉二丁目南部など住宅街の最寄駅。
** [[市役所前駅 (千葉県)|市役所前駅]](千葉都市モノレール1号線)
* 北口・千葉公園口
** [[千葉公園駅]](千葉都市モノレール2号線)
=== 東口・モノレール中央口 ===
[[ファイル:Chuo Park, Chuo-ku, Chiba 20120809.jpg|thumb|200px|千葉中央公園]]
[[ファイル:Mitsui Garden Hotel Chiba.JPG|thumb|200px|[[千葉中央ツインビル]]1号館]]
[[ファイル:Chiba City Culture Center.JPG|thumb|200px|千葉中央ツインビル2号館]]
栄町駅、葭川公園駅、千葉中央駅付近は[[栄町駅 (千葉県)#駅周辺|栄町駅周辺]]、[[葭川公園駅#駅周辺|葭川公園駅周辺]]、[[千葉中央駅#駅周辺|千葉中央駅周辺]]も参照。
'''東口・モノレール中央口駅前'''
* [[千葉ステーションビル|ペリエ]]千葉(Perie)
** [[駅レンタカー]]千葉営業所
* JR駅舎東口北(総武本線)寄り
** [[千葉市役所]]千葉駅連絡所
* 広場北寄り
** [[千葉中央警察署]]千葉駅前[[交番]]
* 千葉市文化交流プラザ(京葉銀行文化プラザ)(旧:[[メルパルク#郵便貯金地域文化活動支援施設|<span aria-label="ぱるる">ぱ・る・る</span>プラザ]]千葉)
** 千葉駅東口郵便局
* 千葉アジア会館
* 千葉駅前大通り郵便局
* [[ダイワロイネットホテルズ|ダイワロイネットホテル]]千葉駅前 - 2021年3月12日より、駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」の提携を開始(事前予約制)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stationwork.jp/user/notices-before|title=お知らせ一覧 > 3/12(金)よりダイワロイネットホテル4施設と提携開始!|publisher=STATION WORK|date=2021-03-11|accessdate=2021-03-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210318094835/https://www.stationwork.jp/user/notices-before|archivedate=2021-03-18}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210305_ho01.pdf|title=STATION WORKがダイワロイネットホテルズ14施設と提携スタート ~東京・神奈川・千葉エリアの14施設と連携開始、日本全国136カ所のネットワークへ~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道、ダイワロイヤル|date=2021-03-05|accessdate=2021-03-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210305080415/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210305_ho01.pdf|archivedate=2021-03-05}}</ref>
* [[京葉銀行]]本店営業部
* [[千葉興業銀行]]千葉駅前支店
* [[三井住友信託銀行]]千葉支店、千葉駅前支店
* [[野村證券]]千葉支店
* [[岡三証券]]千葉支店
* [[東日本電信電話|NTT東日本]][[フレッツ]]ショールーム
* [[駿台予備学校]]千葉校
'''富士見二丁目 - 千葉駅前大通り南西側'''
[[飲食店]]、[[ファーストフード|ファストフード]]店、[[居酒屋]]などは駅前通りよりも南側の外房線・京成線沿いに多い。
* [[ビックカメラ]]千葉駅前店<ref>{{Cite web|和書|title=ヨドバシ目の前に「ビック」 千葉駅前、販売競争激化も |url=https://nordot.app/959981198525726720 |website=共同通信 |date=2022-11-01 |access-date=2022-11-01}}</ref>
* [[C-one (千葉市)|シーワン]](C-one)
* 塚本大千葉ビル
** [[ヨドバシカメラ]]千葉店
** [[三菱UFJ銀行]]千葉支店・千葉中央支店
** [[東京スター銀行]]千葉支店
** [[あおぞら銀行]]千葉支店
** [[大創産業|ザ・ダイソー]]千葉駅前店
** [[三省堂書店]]カルチャーステーション千葉店
** [[NHK文化センター]]千葉教室
* [[千葉銀行]]千葉駅前支店
* [[三井住友銀行]]千葉支店
* [[大和証券]]千葉支店
* [[東京電力]]千葉支店
'''中央'''
* 千葉市中央区役所
* [[若葉郵便局]]([[ゆうちょ銀行]]若葉店併設)
* [[千葉中央ツインビル]](1号館) - [[三井ガーデンホテル]]のほか、[[三井グループ]]の支社([[三井不動産]])を中心とした企業が入居している。
** [[三井不動産ホテルマネジメント|三井ガーデンホテル千葉]]
* 千葉中央ツインビル(2号館)
** [[千葉銀行]]中央支店
** [[ちばぎん証券]](本店)
** [[千葉市文化センター]]<ref>{{Cite web|和書|title=公益財団法人 千葉市文化振興財団 千葉市文化センター|url=http://www.f-cp.jp/bunka.html|website=千葉市文化センター|accessdate=2019-08-22|publisher=}}</ref>
** [[千葉県道路公社]]<ref>{{Cite web|和書|title=千葉県道路公社|url=http://www.chiba-dourokousha.or.jp/|accessdate=2019-08-22|language=ja|publisher=}}</ref>
** [[千葉市民活動支援センター]]
** [[千葉県商工会議所連合会|千葉商工会議所連合会]](千葉商工会議所)
=== 南口・モノレール南口 ===
[[ファイル:Sogō Chiba.jpg|thumb|200px|そごう千葉本館]]
[[ファイル:Sen-City Tower.jpg|thumb|150px|センシティタワー]]
[[ファイル:Sogō Chiba, Aurora Mall JUNNU.jpg|thumb|150px|オーロラモールジュンヌ]]
'''新町 - 京成千葉駅周辺'''
* [[そごう千葉店]]
** 千葉[[ロフト (雑貨店)|ロフト]]
** [[三省堂書店]]
** [[山野楽器]]
* [[オーロラモールジュンヌ]]
* [[センシティタワー]]
** [[みずほ銀行]]千葉支店
** [[みずほ信託銀行]]千葉支店
** [[SMBC信託銀行]]プレスティア千葉支店
** 千葉県中央旅券事務所
** [[みずほ証券]]千葉中央支店
** [[丸三証券]]千葉支店
* [[公共職業安定所|ハローワーク]]ちば駅前プラザ
* 千葉新町郵便局
* [[三菱UFJモルガン・スタンレー証券]]千葉支店
* [[いちよし証券]]千葉支店
'''新田町'''
* [[横浜幸銀信用組合]]千葉支店
* 井上記念病院
* 三愛記念病院
=== 西口 ===
新千葉駅付近は[[新千葉駅]]も参照。
* ウェストリオ(WESTRIO)
** [[ホテルサンルート]]千葉
* [[東日本旅客鉄道千葉支社]]
* [[日本貨物鉄道関東支社]]千葉営業支店
* 千葉県農業会館
* 千葉調理師専門学校
* [[千葉日建工科専門学校]]
* [[明聖高等学校]]千葉校舎
* [[ホテルサンシティ]]千葉
* [[バーディーホテル]]千葉
* [[日本バプテスト・バイブル・フェローシップ]]千葉バイブル・バプテスト[[教会 (キリスト教)|教会]]
=== 北口・千葉公園口 ===
[[ファイル:Chiba Park with monorail.jpg|thumb|200px|[[千葉公園]]]]
[[ファイル:ChibaCityLibrary20100530.jpg|thumb|200px|[[千葉市中央図書館]]]]
* 千葉サイクル会館
* [[千葉市中央図書館]]
* [[学校法人大原学園]]
** 大原簿記公務員専門学校千葉校
** 大原医療秘書福祉専門学校千葉校
* [[植草学園大学附属高等学校]]
* [[クラーク記念国際高等学校]]千葉キャンパス
* [[千葉市立弁天小学校]]
* [[千葉信用金庫]]千葉駅北口支店
* [[中央労働金庫]]千葉支店
* [[全国労働者共済生活協同組合連合会|全労済]]千葉県本部会館
* [[スーパーホテル]]千葉駅前
* [[渋谷高等学院]]千葉校
* [[千葉公園]]
* [[アパホテル]]千葉駅前
== バス路線 ==
{{See|千葉駅のバス乗り場}}
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[ファイル:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
::: [[西千葉駅]] (JB 38) - '''千葉駅 (JB 39)'''
: [[ファイル:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 総武線(快速)・{{Color|#ffc20d|■}}総武本線・{{Color|#00b261|■}}成田線(成田線は[[佐倉駅]]まで総武本線)
:* 特急「[[しおさい (列車)|しおさい]]」停車駅、特急「[[成田エクスプレス]]」一部停車駅、特急「[[あずさ (列車)|あずさ]]」発着駅、特急「[[富士回遊]]」始発駅
:: {{Color|#f68b1e|■}}快速
::: [[稲毛駅]] (JO 27) - ([[黒砂信号場]]) - '''千葉駅 (JO 28)''' - [[都賀駅]] (JO 30)
:: {{Color|#ffc20d|■}}{{Color|#00b261|■}}普通(各駅停車)<!-- 房総地区では旅客案内上で両名称混在のため併記 -->
::: '''千葉駅 (JO 28)''' - [[東千葉駅]] (JO 29)
: [[ファイル:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 総武線(快速)・{{Color|#ff6600|■}}外房線・{{Color|#00B2E5|■}}内房線(内房線は[[蘇我駅]]まで外房線)
:* 臨時特急「[[さざなみ (列車)|新宿さざなみ]]」「[[わかしお (列車)|新宿わかしお]]」停車駅<!-- 臨時特急だが土休日運転のため掲載 -->
:: {{Color|#f68b1e|■}}快速
::: 稲毛駅 (JO 27) - (黒砂信号場) - '''千葉駅 (JO 28)''' - [[本千葉駅]]
:: {{Color|#ff6600|■}}{{Color|#00B2E5|■}}普通(各駅停車)
::: '''千葉駅 (JO 28)''' - 本千葉駅
: ※線路名称上の総武本線としての当駅の隣の駅は西千葉駅と東千葉駅であるが、双方の駅に停車する列車は存在しない。
; 千葉都市モノレール
: [[ファイル:Number prefix Chiba monorail.svg|15px|千葉都市モノレール]] 1号線
::: [[市役所前駅 (千葉県)|市役所前駅]](CM02) - '''千葉駅(CM03)''' - [[栄町駅 (千葉県)|栄町駅]](CM16)
: [[ファイル:Number prefix Chiba monorail.svg|15px|千葉都市モノレール]] 2号線
::: 市役所前駅(CM02) - '''千葉駅(CM03)''' - [[千葉公園駅]](CM04)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"|2}}
==== 出典 ====
{{Reflist|3}}
===== 報道発表資料 =====
{{Reflist|group="報道"|2}}
===== 新聞記事 =====
{{Reflist|group="新聞"|3}}
=== 利用状況 ===
; JRの1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; JR東日本の1999年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; JR・私鉄の統計データ
{{Reflist|group="統計"}}
; 千葉市勢要覧
{{Reflist|group="千葉市勢要覧"|17em}}
; 千葉県統計書・統計年鑑
{{Reflist|group="千葉県統計"|17em}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Chiba Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[黒砂信号場]]
* [[千葉駅のバス乗り場]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=989|name=千葉}}
* [https://chiba-monorail.co.jp/index.php/info-timetable/station-info/chiba-station/ 千葉都市モノレール 千葉駅]
{{鉄道路線ヘッダー}}
{{中央・総武緩行線}}
{{横須賀線・総武快速線}}
{{総武本線}}
{{成田線}}
{{外房線}}
{{内房線}}
{{千葉都市モノレール}}
{{鉄道路線フッター}}
{{DEFAULTSORT:ちは}}
[[Category:千葉駅|*]]
[[Category:千葉市中央区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 ち|は]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:総武本線]]
[[Category:横須賀・総武快速線]]
[[Category:中央・総武緩行線]]
[[Category:総武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:房総鉄道]]
[[Category:千葉都市モノレールの鉄道駅]]
[[Category:1894年開業の鉄道駅]]
[[Category:千葉県の駅ビル]] | 2003-03-08T14:49:03Z | 2023-11-15T08:10:03Z | false | false | false | [
"Template:Vertical images list",
"Template:Div col",
"Template:横須賀線・総武快速線",
"Template:Cite web",
"Template:Main",
"Template:国土航空写真",
"Template:Refnest",
"Template:Reflist",
"Template:Otheruseslist",
"Template:0",
"Template:総武本線",
"Template:成田線",
"Template:Color",
"Template:外房線",
"Template:内房線",
"Template:See",
"Template:鉄道路線ヘッダー",
"Template:中央・総武緩行線",
"Template:鉄道路線フッター",
"Template:画像提供依頼",
"Template:座標一覧",
"Template:Coord",
"Template:-",
"Template:出典の明記",
"Template:R",
"Template:Cite press release",
"Template:Cite book",
"Template:外部リンク/JR東日本駅",
"Template:千葉都市モノレール",
"Template:Cite journal",
"Template:Cite news",
"Template:Commonscat",
"Template:駅情報",
"Template:要出典範囲",
"Template:Div col end",
"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E9%A7%85 |
3,693 | ファンデルワールス力 | ファンデルワールス力(ファンデルワールスりょく、英: van der Waals force)は、原子、イオン、分子の間に働く力(分子間力)の一種である。ファンデルワールス力によって分子間に形成される結合を、ファンデルワールス結合(ファンデルワールスけつごう)と言う。
ファンデルワールス力の起源は、以下のとおりである。
結合による引力及び電荷を持つイオン間または、電荷を持つイオンと持たない中性の分子との静電気力は含まれない。
この力は、ヨハネス・ファン・デル・ワールスが実在気体の状態方程式を定式化した際に導入された凝縮力であり、それ故、彼の名を冠してファンデルワールス力と呼ばれる。
ファン・デル・ワールス自身はファンデルワールス力が発生する機構は示さなかったが、今日では励起双極子やロンドン分散力などが元になって引力が働くと考えられている。すなわち、巨視的には電気的に中性で、かつ双極子モーメントがほとんどない無極性な分子であっても、分子内の電子分布は、量子ゆらぎによって極性をもつことができる。これによって生じる電気双極子(双極子モーメント)が、同様にして出来た周りの分子の電気双極子同士と相互作用することによって凝集力を生じる。この様に動的に形成される双極子同士の引力を分散力と言う。これは、分散に関与する力という意味ではなく、分極率の振動数依存特性を分散特性と呼ぶことにちなむ名称である。
ロンドンは、上記の機構で分散力が働くことを示したので、電子の量子論的な挙動により自発的分極を起こすことに基づく分散力を、ロンドン分散力と呼ぶ。また、発生した他の分子の双極子は無極性分子の電子分布を偏向させ励起双極子を発生させる。
あるいは極性を持った(永久双極子を持つ)分子同士の双極子相互作用による引力も、ファンデルワールス力の範疇に入れる場合もある。
そして、ファンデルワールス結晶の中で分子間を結びつける力も、その主たるものはファンデルワールス力による。
電荷を持たない中性の原子あるいは分子が、主としてファンデルワールス力で凝集している場合を、化学結合の区分の一つとしてファンデルワールス結合と呼ぶ。永久双極子(双極子モーメント)を持つハロゲン化アルキルなど電荷的には中性であるが定常的に分極している物質の凝集も、必ずしも典型的なファンデルワールス力ではないが、ファンデルワールス結合の範疇に含める。それ故、ファンデルワールス結合の元になる分子間力という意味で、広義のファンデルワールス力が定義されることが多い。
理論的な(つまり狭義の)ファンデルワールス力は分子間に働く分散力で定義され、等方向性で原子間距離の7乗に反比例する力である。レナード・ジョーンズ型ポテンシャルの長距離方向のポテンシャルが6乗で増加するのは、このファンデルワールス力を表すためである。しかし、現実の分子は理論の想定する球体ではなくそれぞれ固有の構造をとるので、現実のファンデルワールス力も異方性を示す。すなわち分子の近傍においては分子の形状に応じて、つまりどの部分かあるいは方向によって、ファンデルワールス力の強弱が現れる。異方性が存在すると、結晶格子に配置する際に安定な状態が複数取りうるので、ファンデルワールス力の異方性は結晶多形の要因の一つとなる。
ファンデルワールス結合により形成された集合体は、ファンデルワールス錯体(ファンデルワールスさくたい、van der Waals complex)あるいはファンデルワールスクラスターと呼ばれる。ファンデルワールス錯体は、多数の分子で構成されるファンデルワールス結晶より、簡単なモデルで説明できる。このことから、ファンデルワールス結晶を理解するためのプロトタイプとして、多くの研究の対象となっている。
高分子化合物や分子クラスターにおいては、個々の原子のファンデルワールス結合は小さくても、分子量が膨大な為に結合エネルギーのうちファンデルワールス結合の占める部分が大きく、かつ支配的になる。その結果、水素結合やイオン結合など、他の結合の化学ポテンシャルと同じ影響力を持ち、疎水結合のように振舞うようになる。すなわち、疎水結合にはファンデルワールス力が間接的に作用している。
また、物体表面に分子が吸着する様式の一つとして物理吸着が存在するが、物理吸着は主としてファンデルワールス力で吸着しているのでファンデルワールス吸着(ファンデルワールスきゅうちゃく、van der Waals adsorption)とも呼ばれる。それ故、物理吸着はファンデルワールス結合の1形式と見なすことができる。ファンデルワールス吸着は固体表面とのファンデルワールス力と吸着分子間のファンデルワールス力のバランスにより吸着挙動が多様に変化するが、分子の熱運動と同程度のエネルギーしか持たないため温度が高くなると吸着量が著しく減少する。
ヤモリが四肢で壁や天井を歩けるのは、その四肢にある独特の構造が物理吸着力(つまりこのファンデルワールス力)を強くしているのではないかという説が検討され、2000年にカリフォルニア大のFullらにより、それぞれの足の裏にある約50万本もの剛毛が壁面の分子との間にファンデルワールス力を発生させることで接着していることが証明された。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ファンデルワールス力(ファンデルワールスりょく、英: van der Waals force)は、原子、イオン、分子の間に働く力(分子間力)の一種である。ファンデルワールス力によって分子間に形成される結合を、ファンデルワールス結合(ファンデルワールスけつごう)と言う。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "ファンデルワールス力の起源は、以下のとおりである。",
"title": "起源"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "結合による引力及び電荷を持つイオン間または、電荷を持つイオンと持たない中性の分子との静電気力は含まれない。",
"title": "起源"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "この力は、ヨハネス・ファン・デル・ワールスが実在気体の状態方程式を定式化した際に導入された凝縮力であり、それ故、彼の名を冠してファンデルワールス力と呼ばれる。",
"title": "物理化学的特性"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "ファン・デル・ワールス自身はファンデルワールス力が発生する機構は示さなかったが、今日では励起双極子やロンドン分散力などが元になって引力が働くと考えられている。すなわち、巨視的には電気的に中性で、かつ双極子モーメントがほとんどない無極性な分子であっても、分子内の電子分布は、量子ゆらぎによって極性をもつことができる。これによって生じる電気双極子(双極子モーメント)が、同様にして出来た周りの分子の電気双極子同士と相互作用することによって凝集力を生じる。この様に動的に形成される双極子同士の引力を分散力と言う。これは、分散に関与する力という意味ではなく、分極率の振動数依存特性を分散特性と呼ぶことにちなむ名称である。",
"title": "物理化学的特性"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "ロンドンは、上記の機構で分散力が働くことを示したので、電子の量子論的な挙動により自発的分極を起こすことに基づく分散力を、ロンドン分散力と呼ぶ。また、発生した他の分子の双極子は無極性分子の電子分布を偏向させ励起双極子を発生させる。",
"title": "物理化学的特性"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "あるいは極性を持った(永久双極子を持つ)分子同士の双極子相互作用による引力も、ファンデルワールス力の範疇に入れる場合もある。",
"title": "物理化学的特性"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "そして、ファンデルワールス結晶の中で分子間を結びつける力も、その主たるものはファンデルワールス力による。",
"title": "物理化学的特性"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "電荷を持たない中性の原子あるいは分子が、主としてファンデルワールス力で凝集している場合を、化学結合の区分の一つとしてファンデルワールス結合と呼ぶ。永久双極子(双極子モーメント)を持つハロゲン化アルキルなど電荷的には中性であるが定常的に分極している物質の凝集も、必ずしも典型的なファンデルワールス力ではないが、ファンデルワールス結合の範疇に含める。それ故、ファンデルワールス結合の元になる分子間力という意味で、広義のファンデルワールス力が定義されることが多い。",
"title": "ファンデルワールス結合"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "理論的な(つまり狭義の)ファンデルワールス力は分子間に働く分散力で定義され、等方向性で原子間距離の7乗に反比例する力である。レナード・ジョーンズ型ポテンシャルの長距離方向のポテンシャルが6乗で増加するのは、このファンデルワールス力を表すためである。しかし、現実の分子は理論の想定する球体ではなくそれぞれ固有の構造をとるので、現実のファンデルワールス力も異方性を示す。すなわち分子の近傍においては分子の形状に応じて、つまりどの部分かあるいは方向によって、ファンデルワールス力の強弱が現れる。異方性が存在すると、結晶格子に配置する際に安定な状態が複数取りうるので、ファンデルワールス力の異方性は結晶多形の要因の一つとなる。",
"title": "ファンデルワールス結合"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "ファンデルワールス結合により形成された集合体は、ファンデルワールス錯体(ファンデルワールスさくたい、van der Waals complex)あるいはファンデルワールスクラスターと呼ばれる。ファンデルワールス錯体は、多数の分子で構成されるファンデルワールス結晶より、簡単なモデルで説明できる。このことから、ファンデルワールス結晶を理解するためのプロトタイプとして、多くの研究の対象となっている。",
"title": "ファンデルワールス結合"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "高分子化合物や分子クラスターにおいては、個々の原子のファンデルワールス結合は小さくても、分子量が膨大な為に結合エネルギーのうちファンデルワールス結合の占める部分が大きく、かつ支配的になる。その結果、水素結合やイオン結合など、他の結合の化学ポテンシャルと同じ影響力を持ち、疎水結合のように振舞うようになる。すなわち、疎水結合にはファンデルワールス力が間接的に作用している。",
"title": "ファンデルワールス結合"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "また、物体表面に分子が吸着する様式の一つとして物理吸着が存在するが、物理吸着は主としてファンデルワールス力で吸着しているのでファンデルワールス吸着(ファンデルワールスきゅうちゃく、van der Waals adsorption)とも呼ばれる。それ故、物理吸着はファンデルワールス結合の1形式と見なすことができる。ファンデルワールス吸着は固体表面とのファンデルワールス力と吸着分子間のファンデルワールス力のバランスにより吸着挙動が多様に変化するが、分子の熱運動と同程度のエネルギーしか持たないため温度が高くなると吸着量が著しく減少する。",
"title": "ファンデルワールス結合"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ヤモリが四肢で壁や天井を歩けるのは、その四肢にある独特の構造が物理吸着力(つまりこのファンデルワールス力)を強くしているのではないかという説が検討され、2000年にカリフォルニア大のFullらにより、それぞれの足の裏にある約50万本もの剛毛が壁面の分子との間にファンデルワールス力を発生させることで接着していることが証明された。",
"title": "ファンデルワールス結合"
}
] | ファンデルワールス力は、原子、イオン、分子の間に働く力(分子間力)の一種である。ファンデルワールス力によって分子間に形成される結合を、ファンデルワールス結合(ファンデルワールスけつごう)と言う。 | {{出典の明記|date=2011年6月}}
'''ファンデルワールス力'''(ファンデルワールスりょく、{{lang-en-short|van der Waals force}})は<ref>{{GoldBookRef | file=V06597 |title=van der Waals forces | year=1994}}</ref>、[[原子]]、[[イオン]]、[[分子]]の間に働く力([[分子間力]])の一種である<ref>{{Cite web|和書|title=ファン・デル・ワールス力とは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E5%8A%9B-122524|website=コトバンク|accessdate=2020-11-02|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典|last=小項目事典,百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及}}</ref>。ファンデルワールス力によって分子間に形成される結合を、'''ファンデルワールス結合'''(ファンデルワールスけつごう)と言う。
== 起源 ==
ファンデルワールス力の起源は、以下のとおりである。
*配向力([[双極子]]と双極子の相互作用)
*誘起力(双極子とそれによる誘起双極子との相互作用)
*[[ロンドン分散力|分散力]](誘起双極子と誘起双極子との相互作用)
結合による引力及び[[電荷]]を持つ[[イオン]]間または、電荷を持つ[[イオン]]と持たない中性の分子との[[静電気力]]は含まれない。
== 物理化学的特性 ==
この力は、[[ヨハネス・ファン・デル・ワールス]]が実在気体の[[理想気体の状態方程式|状態方程式]]を定式化した際に導入された凝縮力であり、それ故、彼の名を冠して'''ファンデルワールス力'''と呼ばれる。<!-- 学術用語集 化学編にしたがいファンデルワールス力とする。人名はWikiのルールに従いファン・デル・ワールスとする。-->
[[ファイル:説明図 ファンデルワールス力1.png|thumb|300px|説明図 ファンデルワールス力の発生]]
ファン・デル・ワールス自身はファンデルワールス力が発生する機構は示さなかったが、今日では励起[[双極子]]や[[ロンドン分散力]]などが元になって引力が働くと考えられている。すなわち、巨視的には電気的に中性で、かつ[[双極子モーメント]]がほとんどない[[無極性]]な分子であっても、分子内の電子分布は、[[量子ゆらぎ]]によって極性をもつことができる。これによって生じる[[電気双極子]](双極子モーメント)が、同様にして出来た周りの分子の電気双極子同士と相互作用することによって凝集力を生じる。この様に動的に形成される双極子同士の引力を[[ロンドン分散力|分散力]]と言う。これは、分散に関与する力という意味ではなく、[[分極率]]の振動数依存特性を分散特性と呼ぶことにちなむ名称である。
ロンドンは、上記の機構で分散力が働くことを示したので、電子の量子論的な挙動により自発的分極を起こすことに基づく分散力を、[[ロンドン分散力]]と呼ぶ。また、発生した他の分子の双極子は無極性分子の電子分布を偏向させ励起双極子を発生させる。
あるいは極性を持った(永久双極子を持つ)分子同士の双極子相互作用による引力も、ファンデルワールス力の範疇に入れる場合もある。
そして、[[ファンデルワールス結晶]]の中で分子間を結びつける力も、その主たるものはファンデルワールス力による。
== ファンデルワールス結合 ==
電荷を持たない中性の原子あるいは分子が、主として'''ファンデルワールス力'''で凝集している場合を、[[化学結合]]の区分の一つとして'''ファンデルワールス結合'''と呼ぶ。永久双極子(双極子モーメント)を持つ[[ハロゲン化]][[アルカン|アルキル]]など電荷的には中性であるが定常的に分極している物質の凝集も、必ずしも典型的なファンデルワールス力ではないが、ファンデルワールス結合の範疇に含める。それ故、ファンデルワールス結合の元になる分子間力という意味で、広義のファンデルワールス力が定義されることが多い。
理論的な(つまり狭義の)ファンデルワールス力は分子間に働く分散力で定義され、等方向性で原子間距離の7乗に反比例する力である。[[レナード-ジョーンズ・ポテンシャル|レナード・ジョーンズ型ポテンシャル]]の長距離方向のポテンシャルが6乗で増加するのは、このファンデルワールス力を表すためである。しかし、現実の分子は理論の想定する球体ではなくそれぞれ固有の構造をとるので、現実のファンデルワールス力も異方性を示す。すなわち分子の近傍においては分子の形状に応じて、つまりどの部分かあるいは方向によって、ファンデルワールス力の強弱が現れる。異方性が存在すると、[[結晶格子]]に配置する際に安定な状態が複数取りうるので、ファンデルワールス力の異方性は結晶多形の要因の一つとなる。
=== ファンデルワールス錯体 ===
ファンデルワールス結合により形成された集合体は、'''ファンデルワールス錯体'''(ファンデルワールスさくたい、van der Waals complex)あるいは'''ファンデルワールスクラスター'''と呼ばれる。ファンデルワールス錯体は、多数の分子で構成される[[ファンデルワールス結晶]]より、簡単なモデルで説明できる。このことから、ファンデルワールス結晶を理解するためのプロトタイプとして、多くの研究の対象となっている。
=== 疎水結合 ===
[[高分子]]化合物や分子クラスターにおいては、個々の原子のファンデルワールス結合は小さくても、[[分子量]]が膨大な為に結合エネルギーのうちファンデルワールス結合の占める部分が大きく、かつ支配的になる。その結果、[[水素結合]]や[[イオン結合]]など、他の結合の化学ポテンシャルと同じ影響力を持ち、[[疎水結合]]のように振舞うようになる。すなわち、疎水結合にはファンデルワールス力が間接的に作用している。
=== ファンデルワールス吸着 ===
[[ファイル:Gecko Leaftail 1.jpg|サムネイル|ファンデルワールス吸着によって壁に張り付くヤモリ]]
また、物体表面に分子が[[吸着]]する様式の一つとして[[物理吸着]]が存在するが、物理吸着は主としてファンデルワールス力で吸着しているので'''ファンデルワールス吸着'''(ファンデルワールスきゅうちゃく、van der Waals adsorption)とも呼ばれる。それ故、物理吸着はファンデルワールス結合の1形式と見なすことができる。ファンデルワールス吸着は固体表面とのファンデルワールス力と吸着分子間のファンデルワールス力のバランスにより吸着挙動が多様に変化するが、分子の熱運動と同程度のエネルギーしか持たないため温度が高くなると吸着量が著しく減少する。
[[ヤモリ]]が四肢で壁や天井を歩けるのは、その四肢にある独特の構造が物理吸着力(つまりこのファンデルワールス力)を強くしているのではないかという説が検討され<ref>{{cite journal|author=Niewiarowski PH, Lopez S, Ge L, Hagan E, Dhinojwala A |year=2008|title= Sticky Gecko Feet: The Role of Temperature and Humidity|journal= PLoS ONE |volume=3|issue=5|pages=e2192|doi=10.1371/journal.pone.0002192 |pmid=18478106|pmc=2364659}}</ref>、2000年にカリフォルニア大のFullらにより、それぞれの足の裏にある約50万本もの剛毛が壁面の分子との間にファンデルワールス力を発生させることで接着していることが証明された。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連記事 ==
*[[分子間力]]
*[[化学結合]] - [[共有結合]], [[イオン結合]], [[水素結合]]
*[[疎水結合]]
*[[物性物理]]
{{化学結合}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふあんてるわあるすりよく}}
[[Category:力 (自然科学)]]
[[Category:原子]]
[[Category:分子]]
[[Category:化学結合]]
[[Category:ヨハネス・ファン・デル・ワールス]]
[[Category:化学のエポニム]] | 2003-03-08T14:51:05Z | 2023-10-24T13:04:42Z | false | false | false | [
"Template:化学結合",
"Template:Normdaten",
"Template:出典の明記",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Reflist",
"Template:GoldBookRef",
"Template:Cite web",
"Template:Cite journal"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E5%8A%9B |
3,696 | 曹洞宗 | 曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、中国禅宗の祖である達磨(5世紀後半 - 6世紀前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700年 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745年 - 828年)、雲巌曇晟(782年 - 841年)と4代下った洞山良价(807年 - 869年)によって創宗された。
日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つであり、始まりは鎌倉仏教の1つとしてでもあった。源が源家の御先祖様を祀る為に初めに作った寺は大佛寺と記載がある。曹洞宗の寺紋は久我家の家紋から永平寺の寺紋は久我竜胆の紋、後醍醐天皇が勅許した總持寺の寺紋は五七の桐紋。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とし、仏陀・悟りを開いた人・目覚めた人の教えであり、出家在家に拘らず求道者各自が悟りを開くことを標榜する。現代の日本曹洞宗は、日本における単一宗教宗派としては最大であり、14,000を超える寺院を有する。
中国曹洞宗は、洞山良价と彼の弟子である曹山本寂(840年 - 901年)を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったというのが定説の1つとなっている。また、道元(1200 - 1253年)をはじめ日本の禅宗では、洞曹宗の「曹」は曹山本寂ではなく、曹渓慧能(大鑒慧能、638 - 713年)から採られている、という解釈もなされている(道元がこのような解釈をした理由は、曹山本寂の系統分派は途絶えていて、道元が学んだのが雲居道膺(? - 902年)につながる系統であったためである)。
道元らが提唱した系譜は、前述した南方禅の慧能にさかのぼり、その弟子青原行思-石頭希遷-薬山惟儼-雲巌曇晟-洞山良价-....と継がれている法脈である。曹山本寂の系譜は四代伝承した後に絶伝した一方で、洞山良价の一系譜のみが現在まで途絶えずに伝わっている。洞山良价の禅学思想に基づき、曹洞宗の禅風は「万物皆虚幻、万法本源為佛性」となっている。
洞山良价から5代下った大陽警玄(943年 - 1027年)には弟子がいなかったため、師資の面授を経ずに付法相承する「代付」によって投子義青(1032年 - 1083年)へと嗣法がなされることで、北宋末における再興が成された。
次代の芙蓉道楷(1043年 - 1118年)の弟子の代になると、宋の南遷による南宋の成立に伴い、河北に留まる鹿門自覚(? - 1117年)の系統と、江南に下る丹霞子淳(? - 1119年)の系統に分かれた。
丹霞子淳の門下には、宏智正覚(1091 - 1157年)と真歇清了(1089年 - 1151年)がおり、宏智正覚は「黙照禅」を提唱し、「看話禅」を提唱する臨済宗の大慧宗杲(1089年 - 1163年)と対立したことや、多くの弟子を持ち「宏智派」を形成したことで知られ、他方の真歇清了の門下では3代下った天童如浄(1163年 - 1228年)から道元が日本へと曹洞宗を伝えた。宏智正覚の高弟であった自得慧暉(1097 - 1183年)の系統が、「宏智派」ではその後唯一、元末明初に至るまで、中国曹洞宗の法脈を保ち支えていくことになった。この「宏智派」の宗風は、東明慧日(1272 - 1340年)や東陵永璵(1285 - 1365年)によって日本にも伝えられ、鎌倉・京都の五山禅林にも大きな影響を与えた。
他方、河北に留まった鹿門自覚の系統は、普照一辨(青州希辨、1081年 - 1149年?)、大明僧宝(1114年 - 1173年)、王山覚体(1121年 - 1174年)、雪巌慧満(1136年 - 1206年)を経て、金代に万松行秀(1167年 - 1246年)が登場することで隆盛した。彼の弟子には、雪庭福裕(? - 1274年)、耶律楚材(1190年 - 1244年)、林泉従倫(? - ?年)などがいる。雪庭福裕は元代に皇帝クビライ(1215年 - 1294年)に認められ、「国師」に指名されると共に嵩山少林寺を任され中興の祖となった。現在の中国でも、嵩山少林寺(曹洞正宗)が華北地方の拠点とされている。
以上の主な法嗣は、以下のようになる。
日本仏教における曹洞宗は鎌倉時代に始まる。道元は、臨済宗黄龍派の明全に随身した後、共に宋に渡り、天童山で曹洞宗の天童如浄(長翁如浄)に師事して開悟(身心脱落)して修行が終わり、1227年に帰国した。
宗祖・洞山良价から道元までの法嗣は、
となる。
道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」として、セクショナリズム的な宗派を否定したため、弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じていた(禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示していた)。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。
後に奈良仏教の興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅(死没)後、次第に禅宗を標榜するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山紹瑾(1268年-1325年)とその後席峨山韶碩(1275年-1366年)の頃からである。
日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓慧能と洞山良价の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。
「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。第四祖瑩山の時代に男女平等・女人救済の思想を教義としたため武家の女性が曹洞宗の信者となった。曹洞宗の宗紋は久我竜胆車紋と五七桐紋である。
「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として釈迦を本尊と仰ぐが、各人が坐禅により万法に証せられる(悟る)ことを肝要とする。曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と同じく「只管打坐(しかんたざ)」(非思量の坐禅をすること)をもっぱらとしている(ただし、臨済宗のように公案禅をとる流派も一部にある。江戸時代のように多くの曹洞宗僧侶が、公案禅に参じた時もあった)。
『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』は、道元が帰国後、坐禅の仕方について著した指南書。四六駢儷体による表現がなされている。また、道元の著書である『正法眼蔵』は、道元の自らの悟り体験に基づき仏教全般について表現している。決して思惟による哲学ではない。
主によまれる経典
基本となる祖録
ご詠歌・和讃
正治2年(1200年)、京都久我家で生まれた道元は建保2年(1214年)出家し、園城寺・建仁寺で学ぶ。貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。天福元年(1233年)京都に興聖寺を開くが後に越前に移り、寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、宝治2-3年(1248年-1249年)、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。建長5年(1253年) 病により永平寺の貫首を弟子孤雲懐奘に譲り、京都で没する。
永平寺2世孤雲は道元が日ごろ大衆に語った法語をまとめた『正法眼蔵随聞記』を著し、道元の教えを記録し広めることにつとめた。道元の死後、遺風を守ろうとする保守派と、衆生教化のため法式も取り入れようとする開放派の対立が表面化する。文永4年(1267年)徹通義介に住職を譲るが、両派の対立が激化(三代相論)したため文永9年(1272年)孤雲が再任する。弘安3年(1280年)孤雲が没し徹通が再任するが内部対立を収拾できず、永仁元年(1293年)永平寺を出て大乗寺を開山する。
永平寺は4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。徹通の弟子瑩山紹瑾は1321年能登に總持寺を開山し、南朝後醍醐天皇より「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨を得る。応安5年(1372年)、永平寺も北朝後円融天皇から「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。總持寺開山瑩山紹瑾は弟子に恵まれ四哲と呼ばれた逸材を輩出した。
四哲の一人峨山韶碩も優れた弟子に恵まれた。太源宗真の門流は梅山聞本、如仲天誾などを輩出し、北陸東海に教線を拡大した。通幻寂霊も通幻十哲と呼ばれる優れた禅僧を輩出、了庵慧明は最乗寺を開き東国に、石屋真梁は大寧寺を開き中国地方に教線を拡大した。無底良韶は貞和4年(1348年)、東北地方初の曹洞宗寺院として正法寺を開き、弟弟子の月泉良印がそれを継いだ。
後花園天皇の頃には、ほとんど全国に普及するまでに成長した曹洞宗だが、応仁の乱以降は衰退していき、僧侶の俗化が進んだ。師僧選びは学徳より、地位や富が基準となり、法統の継承は寺院相続のための方便と化しつつあった。江戸時代に入ると、幕府や大名の支援で寺院そのものの復興が進むが、僧侶の頽廃は改まるどころか、ひどくなっていった。こうした中、月舟宗胡、卍山道白、面山瑞方らが立て直しに取り組む。特に卍山道白は、当時広まっていた、寺院の住職を継ぐことによって伝えられる法統(伽藍法)ではなく、道元が尊重した師僧から弟子へと伝えられる法統(人法)を重視する「宗統復古運動」を展開したことで知られる。また、「正法眼蔵」など宗典の研究、校訂、出版なども盛んに行われた。なお、元和元年(1615年)、江戸幕府より法度が出され永平寺と總持寺は大本山となり、奥州正法寺と九州大慈寺は本山から外れた。
21世紀初頭である現在、全国の曹洞宗寺院は「宗教法人曹洞宗」により包括されており、その本部事務所を「曹洞宗宗務庁」という。曹洞宗に所属する約15,000ヵ所寺は、永平寺派の「有道会」と總持寺派の「總和会」に所属が二分されている。
曹洞宗としての宗派の長を「管長」といい、大本山永平寺および大本山總持寺の貫首(住職)がそれぞれ2年毎交互に就任する(西暦の偶数年の1月20日付けで任期満了となり、翌1月21日付で交代となる。なお、管長が任期中に示寂の場合は、後任の貫首が残任期間まで管長を務める慣例となっている)。閣僚にあたる内局の部長7名も両派でほぼ半数ずつ、宗議会議員(定数72名)も36選挙区ごとに両派から1名ずつ選ばれる。教団運営は管長の元で、宗務と事務が庁議(責任役員会)の決定に基づき執行される。また、内局(宗務執行機関)、宗議会(議決機関)、審事院(監正機関)の三機関が置かれている。「宗教法人曹洞宗」の代表役員は宗務総長といい、宗務執行機関としての法人を代表し、その事務その他の宗務を総理する。
両大本山の住職を貫首といい、2人の貫首が2年交代で管長(宗門代表)となる。管長は、有資格者で立候補者から選挙によって選出される宗門最高の位階。
尊称として住んでいる場所にちなみ、永平寺貫首を不老閣猊下(ふろうかくげいか)、総持寺貫首を紫雲台猊下(しうんたいげいか)とも呼ぶ。
歴史的には正法寺(岩手県奥州市)が奥羽二州の本山、大慈寺(熊本県熊本市南区)が九州本山であった期間があるが、元和元年(1615年)の寺院法度により永平寺、總持寺のみが大本山となる。また、江戸時代に来日した明僧、東皐心越によって開かれた曹洞宗寿昌派は祇園寺(茨城県水戸市)を本山とした。心越の法系は道元と別系であったが明治維新後、合同した。
明治・大正時代の日本人の海外移住と共に、ハワイ・ブラジルなどに開教された。ペルーの慈恩寺は南米大陸最古の仏教寺院である。ヨーロッパでは弟子丸泰仙が教線の拡大に貢献し、2005年現在、それらの弟子たちが世界各地で布教活動を継続している。
この他、曹洞宗系の単立寺院が少数存在する。
多々良学園(2006年9月、設置者変更により高川学園高等学校・中学校となる)の破綻問題に関し、山口信用金庫と防府信用金庫から12億円の賠償を求める訴訟を2006年8月に起こされている。10月、山口地方裁判所から宗務庁ビルの仮差押命令が下った(仮差押自体は事実認定とは無関係に原告請求のみで可能で、被告の反論を要しない)。
2010年9月に行われた宗議会議員選挙で、岩手県選挙区で当選した住職が選挙前に有権者に相当する県内の住職に対して「献香」と称して現金を配っていたことが報道された。対立候補であった当時現職の住職も3000円相当の線香を配っていたという。ただし、曹洞宗の規則では選挙時の買収の禁止という項目は存在しない。また、公職ではないので公職選挙法の適用範囲でもない。一連の流れが表面化されたのは、宗議会議員候補者の勢力争いの一環。
曹洞宗(ヴェトナム語版)は越南(ベトナム)など他の漢字文化圏の国にも伝わっている。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、中国禅宗の祖である達磨(5世紀後半 - 6世紀前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700年 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745年 - 828年)、雲巌曇晟(782年 - 841年)と4代下った洞山良价(807年 - 869年)によって創宗された。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つであり、始まりは鎌倉仏教の1つとしてでもあった。源が源家の御先祖様を祀る為に初めに作った寺は大佛寺と記載がある。曹洞宗の寺紋は久我家の家紋から永平寺の寺紋は久我竜胆の紋、後醍醐天皇が勅許した總持寺の寺紋は五七の桐紋。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とし、仏陀・悟りを開いた人・目覚めた人の教えであり、出家在家に拘らず求道者各自が悟りを開くことを標榜する。現代の日本曹洞宗は、日本における単一宗教宗派としては最大であり、14,000を超える寺院を有する。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "中国曹洞宗は、洞山良价と彼の弟子である曹山本寂(840年 - 901年)を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったというのが定説の1つとなっている。また、道元(1200 - 1253年)をはじめ日本の禅宗では、洞曹宗の「曹」は曹山本寂ではなく、曹渓慧能(大鑒慧能、638 - 713年)から採られている、という解釈もなされている(道元がこのような解釈をした理由は、曹山本寂の系統分派は途絶えていて、道元が学んだのが雲居道膺(? - 902年)につながる系統であったためである)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "道元らが提唱した系譜は、前述した南方禅の慧能にさかのぼり、その弟子青原行思-石頭希遷-薬山惟儼-雲巌曇晟-洞山良价-....と継がれている法脈である。曹山本寂の系譜は四代伝承した後に絶伝した一方で、洞山良价の一系譜のみが現在まで途絶えずに伝わっている。洞山良价の禅学思想に基づき、曹洞宗の禅風は「万物皆虚幻、万法本源為佛性」となっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "洞山良价から5代下った大陽警玄(943年 - 1027年)には弟子がいなかったため、師資の面授を経ずに付法相承する「代付」によって投子義青(1032年 - 1083年)へと嗣法がなされることで、北宋末における再興が成された。",
"title": "中国における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "次代の芙蓉道楷(1043年 - 1118年)の弟子の代になると、宋の南遷による南宋の成立に伴い、河北に留まる鹿門自覚(? - 1117年)の系統と、江南に下る丹霞子淳(? - 1119年)の系統に分かれた。",
"title": "中国における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "丹霞子淳の門下には、宏智正覚(1091 - 1157年)と真歇清了(1089年 - 1151年)がおり、宏智正覚は「黙照禅」を提唱し、「看話禅」を提唱する臨済宗の大慧宗杲(1089年 - 1163年)と対立したことや、多くの弟子を持ち「宏智派」を形成したことで知られ、他方の真歇清了の門下では3代下った天童如浄(1163年 - 1228年)から道元が日本へと曹洞宗を伝えた。宏智正覚の高弟であった自得慧暉(1097 - 1183年)の系統が、「宏智派」ではその後唯一、元末明初に至るまで、中国曹洞宗の法脈を保ち支えていくことになった。この「宏智派」の宗風は、東明慧日(1272 - 1340年)や東陵永璵(1285 - 1365年)によって日本にも伝えられ、鎌倉・京都の五山禅林にも大きな影響を与えた。",
"title": "中国における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "他方、河北に留まった鹿門自覚の系統は、普照一辨(青州希辨、1081年 - 1149年?)、大明僧宝(1114年 - 1173年)、王山覚体(1121年 - 1174年)、雪巌慧満(1136年 - 1206年)を経て、金代に万松行秀(1167年 - 1246年)が登場することで隆盛した。彼の弟子には、雪庭福裕(? - 1274年)、耶律楚材(1190年 - 1244年)、林泉従倫(? - ?年)などがいる。雪庭福裕は元代に皇帝クビライ(1215年 - 1294年)に認められ、「国師」に指名されると共に嵩山少林寺を任され中興の祖となった。現在の中国でも、嵩山少林寺(曹洞正宗)が華北地方の拠点とされている。",
"title": "中国における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "以上の主な法嗣は、以下のようになる。",
"title": "中国における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "日本仏教における曹洞宗は鎌倉時代に始まる。道元は、臨済宗黄龍派の明全に随身した後、共に宋に渡り、天童山で曹洞宗の天童如浄(長翁如浄)に師事して開悟(身心脱落)して修行が終わり、1227年に帰国した。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "宗祖・洞山良价から道元までの法嗣は、",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」として、セクショナリズム的な宗派を否定したため、弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じていた(禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示していた)。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "後に奈良仏教の興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅(死没)後、次第に禅宗を標榜するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山紹瑾(1268年-1325年)とその後席峨山韶碩(1275年-1366年)の頃からである。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓慧能と洞山良价の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。第四祖瑩山の時代に男女平等・女人救済の思想を教義としたため武家の女性が曹洞宗の信者となった。曹洞宗の宗紋は久我竜胆車紋と五七桐紋である。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として釈迦を本尊と仰ぐが、各人が坐禅により万法に証せられる(悟る)ことを肝要とする。曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と同じく「只管打坐(しかんたざ)」(非思量の坐禅をすること)をもっぱらとしている(ただし、臨済宗のように公案禅をとる流派も一部にある。江戸時代のように多くの曹洞宗僧侶が、公案禅に参じた時もあった)。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』は、道元が帰国後、坐禅の仕方について著した指南書。四六駢儷体による表現がなされている。また、道元の著書である『正法眼蔵』は、道元の自らの悟り体験に基づき仏教全般について表現している。決して思惟による哲学ではない。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "主によまれる経典",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "基本となる祖録",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ご詠歌・和讃",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "正治2年(1200年)、京都久我家で生まれた道元は建保2年(1214年)出家し、園城寺・建仁寺で学ぶ。貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。天福元年(1233年)京都に興聖寺を開くが後に越前に移り、寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、宝治2-3年(1248年-1249年)、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。建長5年(1253年) 病により永平寺の貫首を弟子孤雲懐奘に譲り、京都で没する。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "永平寺2世孤雲は道元が日ごろ大衆に語った法語をまとめた『正法眼蔵随聞記』を著し、道元の教えを記録し広めることにつとめた。道元の死後、遺風を守ろうとする保守派と、衆生教化のため法式も取り入れようとする開放派の対立が表面化する。文永4年(1267年)徹通義介に住職を譲るが、両派の対立が激化(三代相論)したため文永9年(1272年)孤雲が再任する。弘安3年(1280年)孤雲が没し徹通が再任するが内部対立を収拾できず、永仁元年(1293年)永平寺を出て大乗寺を開山する。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "永平寺は4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。徹通の弟子瑩山紹瑾は1321年能登に總持寺を開山し、南朝後醍醐天皇より「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨を得る。応安5年(1372年)、永平寺も北朝後円融天皇から「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。總持寺開山瑩山紹瑾は弟子に恵まれ四哲と呼ばれた逸材を輩出した。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "四哲の一人峨山韶碩も優れた弟子に恵まれた。太源宗真の門流は梅山聞本、如仲天誾などを輩出し、北陸東海に教線を拡大した。通幻寂霊も通幻十哲と呼ばれる優れた禅僧を輩出、了庵慧明は最乗寺を開き東国に、石屋真梁は大寧寺を開き中国地方に教線を拡大した。無底良韶は貞和4年(1348年)、東北地方初の曹洞宗寺院として正法寺を開き、弟弟子の月泉良印がそれを継いだ。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "後花園天皇の頃には、ほとんど全国に普及するまでに成長した曹洞宗だが、応仁の乱以降は衰退していき、僧侶の俗化が進んだ。師僧選びは学徳より、地位や富が基準となり、法統の継承は寺院相続のための方便と化しつつあった。江戸時代に入ると、幕府や大名の支援で寺院そのものの復興が進むが、僧侶の頽廃は改まるどころか、ひどくなっていった。こうした中、月舟宗胡、卍山道白、面山瑞方らが立て直しに取り組む。特に卍山道白は、当時広まっていた、寺院の住職を継ぐことによって伝えられる法統(伽藍法)ではなく、道元が尊重した師僧から弟子へと伝えられる法統(人法)を重視する「宗統復古運動」を展開したことで知られる。また、「正法眼蔵」など宗典の研究、校訂、出版なども盛んに行われた。なお、元和元年(1615年)、江戸幕府より法度が出され永平寺と總持寺は大本山となり、奥州正法寺と九州大慈寺は本山から外れた。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "21世紀初頭である現在、全国の曹洞宗寺院は「宗教法人曹洞宗」により包括されており、その本部事務所を「曹洞宗宗務庁」という。曹洞宗に所属する約15,000ヵ所寺は、永平寺派の「有道会」と總持寺派の「總和会」に所属が二分されている。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "曹洞宗としての宗派の長を「管長」といい、大本山永平寺および大本山總持寺の貫首(住職)がそれぞれ2年毎交互に就任する(西暦の偶数年の1月20日付けで任期満了となり、翌1月21日付で交代となる。なお、管長が任期中に示寂の場合は、後任の貫首が残任期間まで管長を務める慣例となっている)。閣僚にあたる内局の部長7名も両派でほぼ半数ずつ、宗議会議員(定数72名)も36選挙区ごとに両派から1名ずつ選ばれる。教団運営は管長の元で、宗務と事務が庁議(責任役員会)の決定に基づき執行される。また、内局(宗務執行機関)、宗議会(議決機関)、審事院(監正機関)の三機関が置かれている。「宗教法人曹洞宗」の代表役員は宗務総長といい、宗務執行機関としての法人を代表し、その事務その他の宗務を総理する。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "両大本山の住職を貫首といい、2人の貫首が2年交代で管長(宗門代表)となる。管長は、有資格者で立候補者から選挙によって選出される宗門最高の位階。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "尊称として住んでいる場所にちなみ、永平寺貫首を不老閣猊下(ふろうかくげいか)、総持寺貫首を紫雲台猊下(しうんたいげいか)とも呼ぶ。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "歴史的には正法寺(岩手県奥州市)が奥羽二州の本山、大慈寺(熊本県熊本市南区)が九州本山であった期間があるが、元和元年(1615年)の寺院法度により永平寺、總持寺のみが大本山となる。また、江戸時代に来日した明僧、東皐心越によって開かれた曹洞宗寿昌派は祇園寺(茨城県水戸市)を本山とした。心越の法系は道元と別系であったが明治維新後、合同した。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "明治・大正時代の日本人の海外移住と共に、ハワイ・ブラジルなどに開教された。ペルーの慈恩寺は南米大陸最古の仏教寺院である。ヨーロッパでは弟子丸泰仙が教線の拡大に貢献し、2005年現在、それらの弟子たちが世界各地で布教活動を継続している。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "この他、曹洞宗系の単立寺院が少数存在する。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "多々良学園(2006年9月、設置者変更により高川学園高等学校・中学校となる)の破綻問題に関し、山口信用金庫と防府信用金庫から12億円の賠償を求める訴訟を2006年8月に起こされている。10月、山口地方裁判所から宗務庁ビルの仮差押命令が下った(仮差押自体は事実認定とは無関係に原告請求のみで可能で、被告の反論を要しない)。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2010年9月に行われた宗議会議員選挙で、岩手県選挙区で当選した住職が選挙前に有権者に相当する県内の住職に対して「献香」と称して現金を配っていたことが報道された。対立候補であった当時現職の住職も3000円相当の線香を配っていたという。ただし、曹洞宗の規則では選挙時の買収の禁止という項目は存在しない。また、公職ではないので公職選挙法の適用範囲でもない。一連の流れが表面化されたのは、宗議会議員候補者の勢力争いの一環。",
"title": "日本における曹洞宗"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "曹洞宗(ヴェトナム語版)は越南(ベトナム)など他の漢字文化圏の国にも伝わっている。",
"title": "越南(ベトナム)における曹洞宗"
}
] | 曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、中国禅宗の祖である達磨から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能の弟子の1人である青原行思から、石頭希遷、薬山惟儼、雲巌曇晟と4代下った洞山良价によって創宗された。 日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つであり、始まりは鎌倉仏教の1つとしてでもあった。源が源家の御先祖様を祀る為に初めに作った寺は大佛寺と記載がある。曹洞宗の寺紋は久我家の家紋から永平寺の寺紋は久我竜胆の紋、後醍醐天皇が勅許した總持寺の寺紋は五七の桐紋。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とし、仏陀・悟りを開いた人・目覚めた人の教えであり、出家在家に拘らず求道者各自が悟りを開くことを標榜する。現代の日本曹洞宗は、日本における単一宗教宗派としては最大であり、14,000を超える寺院を有する。 | {{出典の明記|date=2015年9月20日 (日) 07:15 (UTC)}}
[[File:Dongshan_Liangjie_Image_Zen.jpg|thumb|right|[[洞山良价]](悟本大師)]]
{{Infobox Chinese
| title = 曹洞宗
| c = 曹洞宗
| en = Caodong school
| p = Cáodòng zōng
| w = Ts'ao-tung-tsung
| kana = そうとうしゅう
}}
'''曹洞宗'''(そうとうしゅう)は、[[中国]]の[[禅宗五家]](曹洞、[[臨済宗|臨済]]、[[潙仰宗|潙仰]]、[[雲門宗|雲門]]、[[法眼宗|法眼]])の1つで、中国禅宗の祖である[[達磨]](5世紀後半 - 6世紀前半)から数えて6代目の[[南宗]]禅の祖・曹渓宝林寺の[[慧能]](638年 - 713年)の弟子の1人である[[青原行思]](? - 740年)から、[[石頭希遷]](700年 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745年 - 828年)、雲巌曇晟(782年 - 841年)と4代下った[[洞山良价]](807年 - 869年)によって創宗された。
[[日本の仏教|日本仏教]]においては[[禅宗]](曹洞宗・[[日本達磨宗]]・[[臨済宗]]・[[黄檗宗]]・[[普化宗]])の1つであり、始まりは[[鎌倉仏教]]の1つとしてでもあった。本山は[[永平寺]]([[福井県]])・[[總持寺]]([[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]])。専ら坐禅に徹する[[黙照禅]]であることを特徴とし、仏陀・悟りを開いた人・目覚めた人の教えであり、出家在家に拘らず求道者各自が悟りを開くことを標榜する。現代の日本曹洞宗は、日本における単一宗教宗派としては最大であり、14,000を超える寺院を有する<ref name=Bodiford />。
== 歴史 ==
中国曹洞宗は、[[洞山良价]]と彼の弟子である曹山本寂(840年 - 901年)を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったというのが定説の1つとなっている<ref name=heibonsha13>{{citation|和書||author=[[増永霊鳳]]||volume=13|title=曹洞宗|page=722|work=[[世界大百科事典]]|publisher=[[平凡社]]|origyear=1968|year=1969}}</ref><ref group="注">ただし、『洞山語録』によれば「洞山の玄風(=老子の教え。[[道教]])が広まる世に、諸方の宗匠を尊ぶ曹(仲間・同門)どおしをさして洞曹宗という」と意釈もされている。原文の和訳は「洞上の玄風、天下にしく、故に諸方の宗匠、ともにこれを推尊して洞曹宗という」。</ref>。また、[[道元]](1200 - 1253年)をはじめ日本の禅宗では、洞曹宗の「曹」は曹山本寂ではなく、曹渓[[慧能]](大鑒慧能、638 - 713年)から採られている、という解釈もなされている<ref name=heibonsha13/>(道元がこのような解釈をした理由は、曹山本寂の系統分派は途絶えていて、道元が学んだのが雲居道膺(? - 902年)につながる系統であったためである)。
道元らが提唱した系譜は、前述した南方禅の慧能にさかのぼり、その弟子[[青原行思]]-[[石頭希遷]]-薬山惟儼-雲巌曇晟-[[洞山良价]]-‥‥と継がれている法脈である。曹山本寂の系譜は四代伝承した後に絶伝した一方で、洞山良价の一系譜のみが現在まで途絶えずに伝わっている。洞山良价の禅学思想に基づき、曹洞宗の禅風は「万物皆虚幻、万法本源為佛性」となっている。
== 中国における曹洞宗 ==
[[File:Shitou Xiqian.jpg|thumb|right|[[石頭希遷]]僧]]
洞山良价から5代下った大陽警玄(943年 - 1027年)には弟子がいなかったため、師資の面授を経ずに付法相承する「代付」によって投子義青(1032年 - 1083年)へと嗣法がなされることで、[[北宋]]末における再興が成された<ref name=sato>佐藤秀孝、「[http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/24922/ 自得慧暉とその禅風]」『駒沢大学大学院仏教学研究会年報』 1980年 14巻 p.94, {{ncid|AN00093698}}, [[駒澤大学]]大学院仏教学研究会</ref>。
次代の芙蓉道楷(1043年 - 1118年)の弟子の代になると、宋の南遷による[[南宋]]の成立に伴い、河北に留まる鹿門自覚(? - 1117年)の系統と、江南に下る丹霞子淳(? - 1119年)の系統に分かれた。
丹霞子淳の門下には、[[宏智正覚]](1091 - 1157年)と[[真歇清了]](1089年 - 1151年)がおり、[[宏智正覚]]は「[[黙照禅]]」を提唱し、「[[看話禅]]」を提唱する[[臨済宗]]の[[大慧宗杲]](1089年 - 1163年)と対立したことや、多くの弟子を持ち「宏智派」を形成したことで知られ、他方の[[真歇清了]]の門下では3代下った[[天童如浄]](1163年 - 1228年)から道元が日本へと曹洞宗を伝えた。宏智正覚の高弟であった自得慧暉(1097 - 1183年)の系統が、「宏智派」ではその後唯一、[[元 (王朝)|元]]末[[明]]初に至るまで、中国曹洞宗の法脈を保ち支えていくことになった。この「宏智派」の宗風は、[[東明慧日]](1272 - 1340年)や[[東陵永璵]](1285 - 1365年)によって日本にも伝えられ、[[鎌倉]]・[[京都]]の[[五山]][[禅林]]にも大きな影響を与えた<ref name=sato />。
他方、河北に留まった鹿門自覚の系統は、普照一辨(青州希辨、1081年 - 1149年?)、大明僧宝(1114年 - 1173年)、王山覚体(1121年 - 1174年)、雪巌慧満(1136年 - 1206年)を経て、[[金 (王朝)|金]]代に万松行秀(1167年 - 1246年)が登場することで隆盛した。彼の弟子には、[[雪庭福裕]](? - 1274年)、[[耶律楚材]](1190年 - 1244年)、林泉従倫(? - ?年)などがいる。[[雪庭福裕]]は[[元 (王朝)|元]]代に[[皇帝]][[クビライ]](1215年 - 1294年)に認められ、「国師」に指名されると共に[[嵩山少林寺]]を任され中興の祖となった。現在の中国でも、嵩山少林寺(曹洞正宗)が華北地方の拠点とされている。
以上の主な法嗣は、以下のようになる。
* [[洞山良价]] - 雲居道膺 - 同安道丕 - 同安観志 - 梁山縁観 - 大陽警玄 - 投子義青 - 芙蓉道楷
** 鹿門自覚 - 普照一辨(青州希辨) - 大明僧宝 - 王山覚体 - 雪巌慧満 - 万松行秀 - [[雪庭福裕]]・・・
** 丹霞子淳
*** [[宏智正覚]](宏智派) - 自得慧暉・・・([[東明慧日]]・[[東陵永璵]])・・・
*** [[真歇清了]] - 天童宗玨 - 雪竇智鑑 - [[天童如浄]](- [[道元]])・・・
== 日本における曹洞宗 ==
[[File:DogenP2.JPG|thumb|250px|道元]]
[[日本の仏教|日本仏教]]における'''曹洞宗'''は[[鎌倉時代]]に始まる。道元は、[[臨済宗黄龍派]]の[[明全]]に随身した後、共に[[南宋|宋]]に渡り、[[天童山]]で曹洞宗の[[天童如浄]](長翁如浄)に師事して開悟(身心脱落)して修行が終わり、[[1227年]]に帰国した。
宗祖・[[洞山良价]]から道元までの[[法嗣]]は、
* 洞山良价 - 雲居道膺 - 同安道丕 - 同安観志 - 梁山縁観 - 大陽警玄 - 投子義青 - 芙蓉道楷 - 丹霞子淳 - 真歇清了 - 天童宗玨 - 雪竇智鑑 - 天童如浄 - 道元
となる。
道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」として、[[セクショナリズム]]的な宗派を否定したため、弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じていた([[禅宗]]の一派として見られることにすら拒否感を示していた)。どうしても名乗らなければならないのであれば「[[仏心宗]]」と称するようにと示したとも伝えられる。
後に[[奈良仏教]]の[[興福寺]]から迫害を受けた[[日本達磨宗]]の一派と合同したことをきっかけとして、道元の[[入滅]](死没)後、次第に禅宗を標榜するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖[[瑩山紹瑾]](1268年-1325年)とその後席[[峨山韶碩]](1275年-1366年)の頃からである。
日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓慧能と洞山良价の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。
「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、[[臨済宗]]が時の中央の[[武家政権]]に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。第四祖瑩山の時代に男女平等・女人救済の思想を教義としたため武家の女性が曹洞宗の信者となった<ref>『今日から役立つ仏教』95頁正木晃執筆</ref>。曹洞宗の宗紋は久我竜胆車紋と五七桐紋である。
=== 教義 ===
「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として[[釈迦]]を[[本尊]]と仰ぐが、各人が[[坐禅]]により万法に証せられる(悟る)ことを肝要とする。曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と同じく「'''只管打坐'''(しかんたざ)」(非思量の坐禅をすること)をもっぱらとしている(ただし、臨済宗のように[[公案]]禅をとる流派も一部にある。江戸時代のように多くの曹洞宗僧侶が、公案禅に参じた時もあった)。
『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』は、道元が帰国後、坐禅の仕方について著した指南書。[[四六駢儷体]]による表現がなされている。また、道元の著書である『[[正法眼蔵]]』は、道元の自らの悟り体験に基づき仏教全般について表現している。決して思惟による哲学ではない。
==== 主な経典 ====
主によまれる経典
* 『[[般若心経|摩訶般若波羅蜜多心経]]』
* 『[[妙法蓮華経]][[観音経|観世音菩薩普門品]]』
* 『[[妙法蓮華経]]如来寿量品』
* 『[[大悲心陀羅尼]]』
* 『甘露門』([[施餓鬼]]会に際し読む)
* 『参同契』
* 『宝鏡三昧』
* 『[[舎利礼文]]』
基本となる祖録
* 『[[正法眼蔵]]』 - 道元が著述(未完。後に弟子が編集)
* 『普勧坐禅儀』 - 道元の坐禅についての著述
* 『[[伝光録]]』 - 瑩山の[[提唱]]を側近がまとめたもの 歴代の祖師の行履と悟りの契機を記述している
* 『[[修証義]]』 - [[明治時代]]に『正法眼蔵』から文言を抽出して[[信者]]用に再編
[[ご詠歌]]・[[和讃]]
* 梅花流詠讃歌
* まごころに生きる([[南こうせつ]]作詞・作曲の曹洞宗詠歌)
=== 歴史 ===
{{節スタブ}}<!--三代争論、総持寺輪番、僧録、宗統復古、卍山・面山、総持寺移転、大内青巒、澤木興道、海外布教-->
[[正治]]2年([[1200年]])、京都[[久我家]]で生まれた道元は[[建保]]2年([[1214年]])出家し、[[園城寺]]・[[建仁寺]]で学ぶ。[[貞応]]2年([[1223年]]) 明全とともに博多から[[南宋]]に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の[[天童如浄]]より印可を受ける。[[天福 (日本)|天福]]元年([[1233年]])京都に[[興聖寺 (宇治市)|興聖寺]]を開くが後に越前に移り、[[寛元]]2年([[1244年]]) 傘松に[[永平寺|大佛寺]]を開く。寛元4年([[1246年]]) 大佛寺を[[永平寺]]に改め、[[宝治]]2-3年([[1248年]]-[[1249年]])、執権[[北条時頼]]、[[波多野義重]]らの招請により教化のため鎌倉に下向する。[[建長]]5年([[1253年]]) 病により永平寺の貫首を弟子[[孤雲懐奘]]に譲り、京都で没する。
永平寺2世孤雲は道元が日ごろ大衆に語った法語をまとめた『[[正法眼蔵随聞記]]』を著し、道元の教えを記録し広めることにつとめた。道元の死後、遺風を守ろうとする保守派と、衆生教化のため法式も取り入れようとする開放派の対立が表面化する。文永4年(1267年)[[徹通義介]]に住職を譲るが、両派の対立が激化([[三代相論]])したため[[文永]]9年([[1272年]])孤雲が再任する。弘安3年(1280年)孤雲が没し徹通が再任するが内部対立を収拾できず、永仁元年(1293年)永平寺を出て[[大乗寺]]を開山する。
永平寺は4世義演の晋住後は外護者[[波多野氏]]の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。徹通の弟子[[瑩山紹瑾]]は[[1321年]]能登に[[總持寺]]を開山し、南朝[[後醍醐天皇]]より「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨を得る。[[応安]]5年([[1372年]])、[[永平寺]]も北朝[[後円融天皇]]から「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。總持寺開山瑩山紹瑾は弟子に恵まれ'''四哲'''と呼ばれた逸材を輩出した。
四哲の一人[[峨山韶碩]]も優れた弟子に恵まれた。太源宗真の門流は[[梅山聞本]]、[[如仲天誾]]などを輩出し、北陸東海に教線を拡大した。[[通幻寂霊]]も'''通幻十哲'''と呼ばれる優れた禅僧を輩出、[[了庵慧明]]は[[最乗寺]]を開き東国に、[[石屋真梁]]は[[大寧寺]]を開き中国地方に教線を拡大した。[[無底良韶]]は[[貞和]]4年([[1348年]])、[[東北地方]]初の曹洞宗寺院として[[正法寺 (奥州市)|正法寺]]を開き、弟弟子の[[月泉良印]]がそれを継いだ。
[[後花園天皇]]の頃には、ほとんど全国に普及するまでに成長した曹洞宗だが、[[応仁の乱]]以降は衰退していき、僧侶の俗化が進んだ<ref>村上専精 『日本佛教史綱』(下巻) [[創元社]]、1939年</ref>。師僧選びは学徳より、地位や富が基準となり、法統の継承は寺院相続のための方便と化しつつあった。江戸時代に入ると、幕府や大名の支援で寺院そのものの復興が進むが、僧侶の頽廃は改まるどころか、ひどくなっていった。こうした中、[[月舟宗胡]]、[[卍山道白]]、[[面山瑞方]]らが立て直しに取り組む。特に[[卍山道白]]は、当時広まっていた、寺院の住職を継ぐことによって伝えられる法統(伽藍法)ではなく、道元が尊重した師僧から弟子へと伝えられる法統(人法)を重視する「宗統復古運動」を展開したことで知られる。また、「[[正法眼蔵]]」など宗典の研究、校訂、出版なども盛んに行われた<ref>[https://www.sotozen-net.or.jp/soto/history]{{リンク切れ|date=2023年5月}}</ref>。なお、[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])、[[江戸幕府]]より法度が出され[[永平寺]]と[[總持寺]]は大本山となり、奥州正法寺と九州[[大慈寺 (熊本市)|大慈寺]]は本山から外れた。
=== 宗政 ===
{{Infobox 組織
|名称 = [[宗教法人]] 曹洞宗 <br />{{lang-en|Religious Corporation "Sotoshu"}}
|画像 = [[File:Soto Building.jpg|150px]]
|画像サイズ = 150px
|画像説明 = 曹洞宗宗務庁<br />(及び経営している東京グランドホテル<ref>[http://www.tokyogrand.gr.jp/company/ 会社概要] 東京グランドホテル</ref>)
|略称 =
|標語 =
|前身 =
|後継 =
|設立 =
|種類 = [[宗教法人]]
|地位 =
|目的 =
|本部 = 105-8544 東京都港区芝2丁目5-2 2階 <ref name="organization"/>Tel.03-3454-5411(代表)
|会員数 =
|会長 = [[石附周行]]([[管長]]、[[總持寺]][[貫首]]、[[2022年]][[1月22日]]就任)
|人物 =
|機関 = 曹洞宗宗務庁
|提携 =
|設立者 =
|関連組織 = [[永平寺|大本山永平寺]], [[總持寺|大本山總持寺]]
|スタッフ =
|ボランティア =
|法人番号 = 9010405001419
|ウェブサイト = {{URL|https://www.sotozen-net.or.jp/}}<br />{{URL|https://www.sotozen.com/}}
}}
{{See also|曹洞宗内紛}}
21世紀初頭である現在、全国の曹洞宗寺院は「[[宗教法人]]曹洞宗」により包括されており、その本部事務所を「曹洞宗宗務庁」という<ref name="organization">[https://www.sotozen-net.or.jp/soto/system 機構] - 曹洞宗「曹洞禅ネット」公式ページ</ref>。曹洞宗に所属する約15,000ヵ所寺は、永平寺派の「有道会」と總持寺派の「[[總和会]]」に所属が二分されて<!-- おり、[[教務総長|宗務総長]]も両派が1期4年ごとに交代で担当して -->いる。
曹洞宗としての宗派の長を「管長」といい、[[永平寺|大本山永平寺]]および[[總持寺|大本山總持寺]]の貫首([[住職]])がそれぞれ2年毎交互に就任する(西暦の偶数年の[[1月20日]]付けで任期満了となり、翌[[1月21日]]付で交代となる。なお、管長が任期中に[[示寂]]の場合は、後任の貫首が残任期間まで管長を務める慣例となっている)。閣僚にあたる内局の部長7名も両派でほぼ半数ずつ、宗議会議員(定数72名)も36選挙区ごとに両派から1名ずつ選ばれる。教団運営は管長の元で、宗務と事務が庁議(責任役員会)の決定に基づき執行される。また、内局(宗務執行機関)、宗議会(議決機関)、審事院(監正機関)の三機関が置かれている。「宗教法人曹洞宗」の代表役員は[[教務総長|宗務総長]]といい、宗務執行機関としての法人を代表し、その事務その他の宗務を総理する。
=== 著名な寺院 ===
==== 大本山(根本道場) ====
両大本山の住職を貫首といい、2人の貫首が2年交代で[[管長]](宗門代表)となる。管長は、有資格者で立候補者から選挙によって選出される宗門最高の位階。
{| class="wikitable" style="margin:1em; font-size:90%; text-align:right"
|+ 本山と、所属する寺院数 <ref name=Bodiford> {{cite journal| last = Bodiford| first = William M. | year =2006 | title = Remembering Dōgen: Eiheiji and Dōgen Hagiography| journal = Society for Japanese Studies| volume = 32| issue = 1| pages = 1–21| issn = 1549-4721| pmid = | doi = 10.1353/jjs.2006.0003| bibcode = | s2cid = 144431743 | oclc =| id = | url = http://www.thezensite.com/ZenEssays/DogenStudies/Remembering_Dogen.html }}</ref>
! 本山 !! 江戸時代<br />(1750年代) !! 現代<br />(1980年代)
|-
|{{rh}}| [[File:Eiheiji08bs3200.jpg|200px|]]<br />[[永平寺]] || 148 || 1,300
|-
|{{rh}}| [[File:Sōjiji Mukaikaramon 2009.jpg|200px]]<br />[[總持寺]] || 16,200 || 13,850
|-
|{{rh}}| 総数 || 17,500 || 14,000
|}
尊称として住んでいる場所にちなみ、永平寺貫首を不老閣猊下(ふろうかくげいか)、総持寺貫首を紫雲台猊下(しうんたいげいか)とも呼ぶ。
* [[永平寺]] - [[福井県]][[吉田郡]][[永平寺町]]
** 貫首:[[南澤道人]](みなみさわ どうにん)禅師
** 寺紋:久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)
** [[寛元]]2年([[1244年]])に、道元が[[越前国|越前]]の[[波多野義重]]の要請で開く。
*** 永平寺東京別院([[長谷寺 (東京都港区)|長谷寺]]) - [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]
*** 永平寺名古屋別院 - [[愛知県]][[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]]代官町
*** 永平寺鹿児島出張所(紹隆寺) - [[鹿児島県]][[姶良市]]平松
* [[總持寺]] - [[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]
** 貫首:[[石附周行]](いしづきしゅうこう)禅師
** 寺紋:五七桐紋
** [[元亨]]元年([[1321年]])に、[[瑩山紹瑾]]が[[能登国|能登]]の[[定賢]]律師の要請で[[石川県]][[輪島市]][[門前町 (石川県)|門前町]]に開く。[[明治]]31年([[1898年]])に火災で焼失し、明治44年([[1911年]])に現在地に移転。
*** [[總持寺祖院]] - 明治38年([[1905年]])より元の地(石川県輪島市門前町)に復興
*** 總持寺北海道別院(法源寺) - [[北海道]][[松前郡]][[松前町 (北海道)|松前町]]松城
歴史的には[[正法寺 (奥州市)|正法寺]]([[岩手県]][[奥州市]])が奥羽二州の本山、[[大慈寺 (熊本市)|大慈寺]]([[熊本県]][[熊本市]][[南区 (熊本市)|南区]])が九州本山であった期間があるが、[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])の[[寺院法度]]により永平寺、總持寺のみが大本山となる。また、江戸時代に来日した明僧、[[東皐心越]]によって開かれた曹洞宗寿昌派は[[祇園寺 (水戸市)|祇園寺]]([[茨城県]][[水戸市]])を本山とした。心越の法系は道元と別系であったが明治維新後、合同した。
==== その他著名寺院 ====
{{Columns-list|2|
* [[菩提寺 (むつ市)|菩提寺]] - [[青森県]][[むつ市]]
* [[中野不動尊]] - [[福島県]][[福島市]]
* [[大中寺]] - [[栃木県]][[栃木市]]- 関三刹の一。
* [[總寧寺 (市川市)|總寧寺]] - [[千葉県]][[市川市]] - 関三刹の一。
* [[龍穏寺]] - [[埼玉県]][[入間郡]][[越生町]] - 関三刹の一。
* [[高岩寺]](とげぬき地蔵) - [[東京都]][[豊島区]]
* [[青松寺]] - 東京都[[港区 (東京都)|港区]] - [[江戸三箇寺]]の一。
* [[泉岳寺]] - 東京都港区 - 江戸三箇寺の一。
* [[総泉寺]] - 東京都[[板橋区]] - 江戸三箇寺の一。現在は[[単立]]。
* [[興禅寺 (横浜市南区)|興禅寺]] - [[神奈川県]][[横浜市]][[南区 (横浜市)|南区]]
* [[大船観音寺]] - 神奈川県鎌倉市
* [[瑞龍寺 (高岡市)|瑞龍寺]] - [[富山県]][[高岡市]]
* [[修禅寺]] - [[静岡県]][[伊豆市]]
* [[石雲院]] - 静岡県[[牧之原市]]
* [[医王寺 (新城市)|医王寺]] - [[愛知県]][[新城市]]
* [[詩仙堂|丈山寺]](詩仙堂) - [[京都府]][[京都市]]
* [[平等寺 (桜井市)|平等寺]] - [[奈良県]][[桜井市]]
}}
=== 僧堂 ===
{{See also|僧堂}}
==== 大本山僧堂 ====
* [[永平寺]] - [[福井県]][[永平寺町]]
* [[總持寺]] - [[神奈川県]][[横浜市]]
==== 専門僧堂 ====
{{Columns-list|2|
* 定光寺 - [[北海道]][[釧路市]]
* [[中央寺 (札幌市)|中央寺]] - 北海道[[札幌市]]
* [[正法寺 (奥州市)|正法寺]] - [[岩手県]][[奥州市]]
* [[善寳寺]] - [[山形県]][[鶴岡市]]
* [[長谷寺 (東京都港区)|長谷寺]](永平寺東京別院) - [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]
* [[最乗寺]] - 神奈川県[[南足柄市]]
* [[可睡斎]] - [[静岡県]][[袋井市]] - 東海大僧録。
* [[覚王山日泰寺|日泰寺]] - 愛知県[[名古屋市]]
* [[總持寺祖院]] - [[石川県]][[輪島市]]
* [[御誕生寺]] - 福井県[[越前市]]
* [[智源寺]] - 京都府[[宮津市]]
* [[洞松寺 (岡山県矢掛町)|洞松寺]] - [[岡山県]][[矢掛町]]
* [[瑞應寺 (新居浜市)|瑞應寺]] - [[愛媛県]][[新居浜市]]
* 安国寺 - 福岡県福岡市
* [[晧台寺]] - [[長崎県]][[長崎市]]
}}
==== 専門尼僧堂 ====
* 愛知専門尼僧堂 - [[愛知県]][[名古屋市]]
* 富山専門尼僧堂 - [[富山県]][[富山市]]
==== その他 ====
* 曹洞宗総合研究センター教化研修所 - [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]
=== 日本国外への布教 ===
[[明治]]・[[大正]]時代の日本人の海外移住と共に、[[ハワイ]]・[[ブラジル]]などに開教された。[[ペルー]]の[[慈恩寺 (ペルー)|慈恩寺]]は南米大陸最古の仏教寺院である。ヨーロッパでは[[弟子丸泰仙]]が教線の拡大に貢献し、2005年現在、それらの弟子たちが世界各地で布教活動を継続している。
=== 派生した教団 ===
* [[如来宗]](如来教) - [[享和]]2年([[1802年]])に『一尊如来きの』によって[[名古屋市|名古屋]]に開かれた。[[明治]]17年([[1884年]])以降、[[昭和]]26年([[1951年]])に[[宗教法人法]]の施行によって独立するまで曹洞宗の[[教会]]として活動。同宗の教義は[[金毘羅]]信仰や[[浄土]]信仰などの混生であり、曹洞宗本来の教えとは関連が薄い。
** 一尊教団 - 上記教団の分派。石川県金沢市を中心に活動。
* 救世教 - [[明治]]19年([[1886年]])、新潟<!--曖昧回避にLinkせず直接該当項目へLinkを-->の[[大道長安]]が曹洞宗から離脱して結成。大慈大悲の事実上の[[如来]]である[[観音菩薩]]を本尊として、自力他力を超えた観音妙力による現世救済を主張した。[[社会福祉]]に力を注ぎ全国に教線を拡大したが、明治41年([[1908年]])に大道長安が入寂すると後継者がいないこともあって急速に衰退。
* 法王教 - [[明治]]後期から[[大正]]期にかけて[[高田道見]]が推進した“通俗的”布教運動。道見は[[青松寺]]を拠点として参禅会や訪問法話会などの教化活動を続けていたが、大正期に入ってからは曹洞宗の教義にこだわらず、[[月刊誌]]などの出版物、講演会を通した[[在家仏教]]の振興に力を注ぎ、自らの活動に「法王大聖釈迦牟尼仏の本旨に基づく仏教」という意味で「法王教」の名を冠した。大正12年([[1923年]])、道見が入寂すると独自の教派名を冠した運動は終息した。なお、道見は最後まで曹洞宗の僧籍を保持していたため、「法王教」を独立した[[教団]]ではなく曹洞宗内の一運動であったとする見方が一般的である。高田道見(1858~1923)は、[[広島県]][[比婆郡]]敷島村(現・[[庄原市]])に生まれ、12歳で得度、曹洞宗専門本校進学を望んだが二度にわたり師の賛同が得られず断念、青松寺の雲水として僧俗一体の仏教青年会を組織、在家信者宅への出張講義や文筆活動などでの仏教伝道に励み、54歳で法王教を提唱した<ref>深瀬俊路, 「[https://doi.org/10.4259/ibk.39.770 明治期曹洞宗における宗教運動]」『印度學佛教學研究』 1990-1991年 39巻 2号 p.770-773, 日本印度学仏教学会, {{doi|10.4259/ibk.39.770}}, {{naid|110002661610}}。</ref>。
* [[三宝教団]] - [[昭和]]29年([[1954年]])、[[安谷白雲]]が曹洞宗から離脱して[[神奈川県]][[鎌倉市]]に結成。同教団は道元の教えを中核に置きながら、[[公案]]を取り入れるなど独自の修行法を構築。現在は一般在家者への坐禅指導を中心とし、海外にも参禅拠点がある。
この他、曹洞宗系の[[単立寺院]]が少数存在する。
=== 訴訟 ===
多々良学園(2006年9月、設置者変更により[[高川学園高等学校・中学校]]となる)の破綻問題に関し、[[山口信用金庫]]と[[防府信用金庫]]から12億円の賠償を求める訴訟を2006年8月に起こされている<ref>[https://web.archive.org/web/20111126124351/http://www.47news.jp/CN/200608/CN2006081501004176.html 曹洞宗に賠償請求 多々良学園破たんで]共同通信2006年8月16日</ref>。10月、山口地方裁判所から宗務庁ビルの仮差押命令が下った(仮差押自体は事実認定とは無関係に原告請求のみで可能で、被告の反論を要しない)。
=== 宗議会選挙での買収 ===
[[2010年]]9月に行われた宗議会議員選挙で、[[岩手県]]選挙区で当選した住職が選挙前に有権者に相当する県内の住職に対して「献香」と称して現金を配っていたことが報道された。対立候補であった当時現職の住職も3000円相当の線香を配っていたという<ref>{{cite news|title=曹洞宗選挙で買収 一関の住職、「有権者」に最大10万円|newspaper=河北新報|date=2011-01-30|url=http://www.kahoku.co.jp/news/2011/01/20110130t33013.htm|accessdate=2011-01-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110202155407/http://www.kahoku.co.jp/news/2011/01/20110130t33013.htm|archivedate=2011年2月2日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。ただし、曹洞宗の規則では選挙時の買収の禁止という項目は存在しない。また、公職ではないので公職選挙法の適用範囲でもない。一連の流れが表面化されたのは、宗議会議員候補者の勢力争いの一環。
=== 曹洞宗寺院出身の著名人 ===
* [[石川啄木]]
* [[藤子不二雄A]]
* [[針すなお]]
* [[ポール牧]]
* [[南こうせつ]]
* [[千厩ともゑ]]
* [[有馬嘉男]]
* [[内野聖陽]]
== 越南(ベトナム)における曹洞宗 ==
曹洞宗([[:vi:Tào Động tông|ヴェトナム語版]])は[[ベトナム|越南(ベトナム)]]など他の[[漢字文化圏]]の国にも伝わっている。
{{節スタブ}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献==
<!-- 参考文献:実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。) -->
* 『[[世界大百科事典]]』([[平凡社]])
== 関連項目 ==
<!-- 関連項目:本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク(姉妹プロジェクトリンク、言語間リンク)、ウィキリンク(ウィキペディア内部リンク)。可能なら本文内に埋め込んで下さい。-->
{{Buddhism portal}}
* [[禅宗]]
* [[日本の仏教]]
* [[愛知梅花三十三ヶ所観音霊場]]
* [[懺謝文]] - 日本曹洞宗が発表した戦争責任に対する見解と謝罪
* [[永平寺]]
* [[總持寺]]
* [[駒澤大学]]
* [[駒沢女子大学]]
* [[鶴見大学]]
* [[東北福祉大学]]
* [[愛知学院大学]]
* [[シャンティ国際ボランティア会]]
== 外部リンク ==
* [https://www.sotozen-net.or.jp/ 曹洞宗・曹洞禅ネット] - 公式サイト
** {{Facebook Page|id=曹洞宗/426119277488785|name=曹洞宗}} ※公式アカウント
* [https://www.sotozen.com/eng/ SOTOZEN.COM] - グローバルサイト(海外向け){{en icon}}{{de icon}}{{fr icon}}{{it icon}}{{es icon}}{{pt icon}}
** {{Facebook|SotoZenBuddhism.OFFICIAL|Soto Zen Buddhism Administrative Headquarters International Department}} ※グローバル公式アカウント{{en icon}}
** {{Twitter|SOTOZEN_pr|Soto Zen Official}} ※グローバル公式アカウント{{en icon}}
* [https://www.sousei.gr.jp/ 全国曹洞宗青年会] - 青年僧のサイト
** {{Facebook|zensousei|全国曹洞宗青年会}}
** {{YouTube|user=zensousei|zensousei|全国曹洞宗青年会}}
* [http://www.tokyogrand.gr.jp/ 東京グランドホテル]
* [https://www.sotozen-net.or.jp/tmp/kensaku.htm 曹洞宗関係文献目録 オンライン検索]
{{禅}}
{{Buddhism2}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:そうとうしゆう}}
[[Category:曹洞宗|*]]
[[Category:禅宗]]
[[Category:伝統宗派]]
[[Category:日本の仏教史|+そうとうしゆう]]
[[Category:東京都港区の組織]] | 2003-03-08T17:11:59Z | 2023-12-08T13:43:33Z | false | false | false | [
"Template:See also",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:YouTube",
"Template:禅",
"Template:Infobox 組織",
"Template:Buddhism2",
"Template:Buddhism portal",
"Template:De icon",
"Template:リンク切れ",
"Template:Doi",
"Template:Naid",
"Template:Cite news",
"Template:En icon",
"Template:It icon",
"Template:Reflist",
"Template:節スタブ",
"Template:Cite journal",
"Template:Infobox Chinese",
"Template:Facebook",
"Template:Citation",
"Template:Ncid",
"Template:Fr icon",
"Template:Es icon",
"Template:Pt icon",
"Template:出典の明記",
"Template:Notelist2",
"Template:Facebook Page",
"Template:Twitter",
"Template:Normdaten",
"Template:Columns-list"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%B4%9E%E5%AE%97 |
3,697 | 臨済宗 | 臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう、Linji school)は、中国の禅宗五家(臨済・潙仰・曹洞・雲門・法眼)の一つ。中国、日本、台湾、韓国などに信徒を持つ。
日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の一つ。また鎌倉仏教の一つである。曹洞宗が単一教団であるのに対して、十五派に分かれて活動している。
臨済宗は、その名の通り、会昌の廃仏後、唐末の宗祖臨済義玄(生年不詳 - 867年)に始まる。臨済は、中国禅宗の祖とされる達磨(5世紀後半 - 6世紀前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の一人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709年 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749年 - 814年)、黄檗希運(生年不詳 - 850年)と続く法系を嗣いだ。河北の地の臨済寺を拠点とし、新興の藩鎮勢力であった成徳軍節度使の王紹懿(中国語版、英語版)(生年不詳 - 866年、禅録では王常侍)を支持基盤として宗勢を伸張した。臨済は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。しかし、唐末五代の混乱した時期には、河北は5王朝を中心に混乱した地域であったため、宗勢が振るわなくなる。この時期の中心人物は、風穴延沼である。
臨済宗が再び活気に満ち溢れるようになるのは、北宋であり、石霜楚円の門下より、ともに江西を出自とする黄龍慧南と楊岐方会という、臨済宗の主流となる2派(黄龍派・楊岐派)を生む傑僧が出て、中国全土を席巻することとなった。
南宋になると、楊岐派に属する圜悟克勤(1063年 - 1135年)の弟子の大慧宗杲(1089年 - 1163年)が、浙江を拠点として大慧派を形成し、臨済宗の中の主流派となった。
宋代の大慧宗杲と曹洞宗の宏智正覚(1091年 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。
宗門では、ゴータマ・シッダールタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。その後、臨済宗は、宋代の中国に喫茶とともに渡り学んだ栄西(1141年 - 1215年)らによって、鎌倉時代初期以降に日本に伝えられ、様々な流派が成立した。栄西が伝えたのは黄龍派の教えだが、俊芿(1166年 - 1227年)が伝えた楊岐派の教えは、禅宗24流のうち20流をまでを占めるまでになった。なお、江戸時代に伝わった黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)を重んじる。釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。
同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、鎌倉幕府、室町幕府という時の武家政権との結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山、鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められているほか、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。しかしその後、足利氏の権勢とともに臨済宗も衰退していった。
江戸時代になって、白隠禅師(1686年 - 1769年)によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅とも言われている。そして、白隠は「中興の祖」として知られる。この時代、臨済宗で勢力を拡大したのは妙心寺派と大徳寺派であったが、白隠も妙心寺派の出である。妙心寺派はこのほか、愚堂東寔や一糸文守、無著道忠を輩出している。一方の大徳寺派では、沢庵宗彭が有名である。また、江戸時代は各宗派において学林が栄えた。臨済宗では妙心寺や大徳寺、京都五山、それに鎌倉五山などに学寮を設けられ、宗学の伝授と住職資格の付与を担った。
(なお、臨済宗外では、仏眼清遠から3代下った楊岐派7代目の蒙庵元聡の下で修行し、初めて楊岐派の法灯を日本へと伝えた真言宗泉涌寺派の祖・俊芿などもいる。)
法嗣という師匠から弟子へと悟りの伝達が続き現在に至る。師匠と弟子の重要なやりとりは、室内の秘密と呼ばれ師匠の部屋の中から持ち出されて公開されることはない。師匠と弟子のやりとりや、師匠の振舞を記録した禅語録から、抜き出したものが公案(判例)とよばれ、宋代からさまざまな集成が編まれてきたが、悟りは言葉では伝えられるものではなく、現代人の文章理解で読もうとすると公案自体が拒絶する。しかし、悟りに導くヒントになることがらの記録であり、禅の典籍はその創立時から現在に至るまで非常に多い。それとともに宋代以降、禅宗は看話禅(かんなぜん)という、禅語録を教材に老師が提要を講義する(提唱という)スタイルに変わり、臨済を初めとする唐代の祖師たちの威容は見られなくなった。師匠が肉体を去るときには少なくとも跡継ぎを選んで行くが、跡継ぎは必ずしも悟りを開いているとは限らず、その事は師匠とその弟子だけが知っている。新しい師匠が悟りを開いていなくとも、悟りを開いていた師匠の時代から数世代の間であれば、世代を越えて弟子が悟りを開くことは可能なため、その様な手段が取られる。師匠は、ひとりだけではなく複数の師匠を残して行くこともあれば、師匠の判断で跡を嗣ぐ師匠を残さずにその流れが終わることもある。いくつもの支流に分かれ、ある流れは消えて行き、その流れのいくつかが7世紀から現在まで伝わっている。
禅宗は悟りを開く事が目的とされており、知識ではなく、悟りを重んじる。 禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。 仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のことである。 悟りは師から弟子へと伝わるが、それは言葉(ロゴス)による伝達ではなく、坐禅、公案などの感覚的、身体的体験で伝承されていく。 いろいろな方法で悟りの境地を表現できるとされており、特に日本では、詩、絵画、建築などを始めとした分野で悟りが表現されている。
宋代以降公案の体系がまとめられ、擬似的に多くの悟りを起こさせ、宗門隆盛のために多くの禅僧の輩出を可能にした。公案は、禅語録から抽出した主に師と弟子の間の問答である。弟子が悟りを得る瞬間の契機を伝える話が多い。
公案は論理的、知的な理解を受け付けることが出来ない、人智の発生以前の無垢の境地での対話であり、考えることから解脱して、公案になり切るという比喩的境地を通してのみ知ることができる。これらの公案を、弟子を導くメソッド集としてまとめたのが公案体系であり、500から1900の公案が知られている。公案体系は師の家風によって異なる。
修行の初期段階に与えられる公案の例:
臨済宗の葬儀は故人を仏の弟子にするための式であり、授戒・念誦・引導などの構成からなる。また引導を渡す儀式の途中に導師が「喝」と叫ぶことがあるが、これはこの世に対する未練を取り除き、邪悪を祓う意味がある。松明に見立てた先の赤い棒を投げるのも、光明を照らし、迷いを断ち切る意味がある。引磬・太鼓・妙鉢などが用いられることが多い。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう、Linji school)は、中国の禅宗五家(臨済・潙仰・曹洞・雲門・法眼)の一つ。中国、日本、台湾、韓国などに信徒を持つ。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の一つ。また鎌倉仏教の一つである。曹洞宗が単一教団であるのに対して、十五派に分かれて活動している。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "臨済宗は、その名の通り、会昌の廃仏後、唐末の宗祖臨済義玄(生年不詳 - 867年)に始まる。臨済は、中国禅宗の祖とされる達磨(5世紀後半 - 6世紀前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の一人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709年 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749年 - 814年)、黄檗希運(生年不詳 - 850年)と続く法系を嗣いだ。河北の地の臨済寺を拠点とし、新興の藩鎮勢力であった成徳軍節度使の王紹懿(中国語版、英語版)(生年不詳 - 866年、禅録では王常侍)を支持基盤として宗勢を伸張した。臨済は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。しかし、唐末五代の混乱した時期には、河北は5王朝を中心に混乱した地域であったため、宗勢が振るわなくなる。この時期の中心人物は、風穴延沼である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "臨済宗が再び活気に満ち溢れるようになるのは、北宋であり、石霜楚円の門下より、ともに江西を出自とする黄龍慧南と楊岐方会という、臨済宗の主流となる2派(黄龍派・楊岐派)を生む傑僧が出て、中国全土を席巻することとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "南宋になると、楊岐派に属する圜悟克勤(1063年 - 1135年)の弟子の大慧宗杲(1089年 - 1163年)が、浙江を拠点として大慧派を形成し、臨済宗の中の主流派となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "宋代の大慧宗杲と曹洞宗の宏智正覚(1091年 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "宗門では、ゴータマ・シッダールタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。その後、臨済宗は、宋代の中国に喫茶とともに渡り学んだ栄西(1141年 - 1215年)らによって、鎌倉時代初期以降に日本に伝えられ、様々な流派が成立した。栄西が伝えたのは黄龍派の教えだが、俊芿(1166年 - 1227年)が伝えた楊岐派の教えは、禅宗24流のうち20流をまでを占めるまでになった。なお、江戸時代に伝わった黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)を重んじる。釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。",
"title": "日本における臨済宗"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、鎌倉幕府、室町幕府という時の武家政権との結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山、鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められているほか、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。しかしその後、足利氏の権勢とともに臨済宗も衰退していった。",
"title": "日本における臨済宗"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "江戸時代になって、白隠禅師(1686年 - 1769年)によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅とも言われている。そして、白隠は「中興の祖」として知られる。この時代、臨済宗で勢力を拡大したのは妙心寺派と大徳寺派であったが、白隠も妙心寺派の出である。妙心寺派はこのほか、愚堂東寔や一糸文守、無著道忠を輩出している。一方の大徳寺派では、沢庵宗彭が有名である。また、江戸時代は各宗派において学林が栄えた。臨済宗では妙心寺や大徳寺、京都五山、それに鎌倉五山などに学寮を設けられ、宗学の伝授と住職資格の付与を担った。",
"title": "日本における臨済宗"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "(なお、臨済宗外では、仏眼清遠から3代下った楊岐派7代目の蒙庵元聡の下で修行し、初めて楊岐派の法灯を日本へと伝えた真言宗泉涌寺派の祖・俊芿などもいる。)",
"title": "日本における臨済宗"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "法嗣という師匠から弟子へと悟りの伝達が続き現在に至る。師匠と弟子の重要なやりとりは、室内の秘密と呼ばれ師匠の部屋の中から持ち出されて公開されることはない。師匠と弟子のやりとりや、師匠の振舞を記録した禅語録から、抜き出したものが公案(判例)とよばれ、宋代からさまざまな集成が編まれてきたが、悟りは言葉では伝えられるものではなく、現代人の文章理解で読もうとすると公案自体が拒絶する。しかし、悟りに導くヒントになることがらの記録であり、禅の典籍はその創立時から現在に至るまで非常に多い。それとともに宋代以降、禅宗は看話禅(かんなぜん)という、禅語録を教材に老師が提要を講義する(提唱という)スタイルに変わり、臨済を初めとする唐代の祖師たちの威容は見られなくなった。師匠が肉体を去るときには少なくとも跡継ぎを選んで行くが、跡継ぎは必ずしも悟りを開いているとは限らず、その事は師匠とその弟子だけが知っている。新しい師匠が悟りを開いていなくとも、悟りを開いていた師匠の時代から数世代の間であれば、世代を越えて弟子が悟りを開くことは可能なため、その様な手段が取られる。師匠は、ひとりだけではなく複数の師匠を残して行くこともあれば、師匠の判断で跡を嗣ぐ師匠を残さずにその流れが終わることもある。いくつもの支流に分かれ、ある流れは消えて行き、その流れのいくつかが7世紀から現在まで伝わっている。",
"title": "伝統"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "禅宗は悟りを開く事が目的とされており、知識ではなく、悟りを重んじる。 禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。 仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のことである。 悟りは師から弟子へと伝わるが、それは言葉(ロゴス)による伝達ではなく、坐禅、公案などの感覚的、身体的体験で伝承されていく。 いろいろな方法で悟りの境地を表現できるとされており、特に日本では、詩、絵画、建築などを始めとした分野で悟りが表現されている。",
"title": "悟り"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "宋代以降公案の体系がまとめられ、擬似的に多くの悟りを起こさせ、宗門隆盛のために多くの禅僧の輩出を可能にした。公案は、禅語録から抽出した主に師と弟子の間の問答である。弟子が悟りを得る瞬間の契機を伝える話が多い。",
"title": "公案体系"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "公案は論理的、知的な理解を受け付けることが出来ない、人智の発生以前の無垢の境地での対話であり、考えることから解脱して、公案になり切るという比喩的境地を通してのみ知ることができる。これらの公案を、弟子を導くメソッド集としてまとめたのが公案体系であり、500から1900の公案が知られている。公案体系は師の家風によって異なる。",
"title": "公案体系"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "修行の初期段階に与えられる公案の例:",
"title": "公案体系"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "臨済宗の葬儀は故人を仏の弟子にするための式であり、授戒・念誦・引導などの構成からなる。また引導を渡す儀式の途中に導師が「喝」と叫ぶことがあるが、これはこの世に対する未練を取り除き、邪悪を祓う意味がある。松明に見立てた先の赤い棒を投げるのも、光明を照らし、迷いを断ち切る意味がある。引磬・太鼓・妙鉢などが用いられることが多い。",
"title": "葬儀式"
}
] | 臨済宗は、中国の禅宗五家(臨済・潙仰・曹洞・雲門・法眼)の一つ。中国、日本、台湾、韓国などに信徒を持つ。 日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の一つ。また鎌倉仏教の一つである。曹洞宗が単一教団であるのに対して、十五派に分かれて活動している。 | {{出典の明記|date=2015年9月20日 (日) 07:28 (UTC)}}
[[File:RinzaiGigen.jpg|thumb|right|[[臨済義玄]]]]
'''臨済宗'''(臨濟宗、りんざいしゅう、Linji school)は、[[中国]]の[[禅宗五家]](臨済・[[潙仰宗|潙仰]]・[[曹洞宗|曹洞]]・[[雲門宗|雲門]]・[[法眼宗|法眼]])の一つ。中国、日本、台湾、韓国などに信徒を持つ。
[[日本の仏教|日本仏教]]においては[[禅宗]]('''臨済宗'''・[[曹洞宗]]・[[日本達磨宗]]・[[黄檗宗]]・[[普化宗]])の一つ。また[[鎌倉仏教]]の一つである。曹洞宗が単一教団であるのに対して、十五派に分かれて活動している。
== 歴史 ==
臨済宗は、その名の通り、[[会昌の廃仏]]後、[[唐]]末の宗祖[[臨済義玄]](生年不詳 - 867年)に始まる。臨済は、中国禅宗の祖とされる[[達磨]](5世紀後半 - 6世紀前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の[[南宗]]禅の祖・曹渓宝林寺の[[慧能]](638年 - 713年)の弟子の一人である[[南嶽懐譲]](677年 - 744年)から、[[馬祖道一]](709年 - 788年、[[洪州宗]])、[[百丈懐海]](749年 - 814年)、[[黄檗希運]](生年不詳 - 850年)と続く法系を嗣いだ。[[河北省|河北]]の地の[[臨済寺 (河北省)|臨済寺]]を拠点とし、新興の[[藩鎮]]勢力であった成徳軍[[藩鎮|節度使]]の{{仮リンク|王紹懿|zh|王紹懿|en|Wang Shaoyi}}(生年不詳 - 866年、禅録では王常侍)を支持基盤として宗勢を伸張した。臨済は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。しかし、唐末[[五代十国時代|五代]]の混乱した時期には、河北は5王朝を中心に混乱した地域であったため、宗勢が振るわなくなる。この時期の中心人物は、[[風穴延沼]]である。
臨済宗が再び活気に満ち溢れるようになるのは、[[北宋]]であり、[[石霜楚円]]の門下より、ともに[[江西省|江西]]を出自とする黄龍慧南と楊岐方会という、臨済宗の主流となる2派([[黄龍派]]・[[楊岐派]])を生む傑僧が出て、中国全土を席巻することとなった。
[[南宋]]になると、楊岐派に属する[[圜悟克勤]](1063年 - 1135年)の弟子の[[大慧宗杲]](1089年 - 1163年)が、[[浙江省|浙江]]を拠点として[[大慧派]]を形成し、臨済宗の中の主流派となった。
[[宋 (王朝)|宋代]]の大慧宗杲と[[曹洞宗]]の[[宏智正覚]](1091年 - 1157年)の論争以来、[[曹洞宗]]の「[[黙照禅]]」に対して、[[公案]]に参究することにより見性しようとする「[[看話禅]]」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。
== 台湾における臨済宗 ==
* {{仮リンク|佛光山|zh|佛光山}} - 台湾における四大仏教宗派のひとつで、世界に200以上の寺を持つ。開祖の[[釈星雲]]は、普陀後寺(法雨寺)において第四十八代の臨済宗継承者とされる<ref>釋星雲著「僧事百講」第三冊:「我的家師叫作『上了下然』,用的是『了』字。那麼依偈語中『了悟心宗』的排序,我用的是『悟』字,所以我叫作『悟徹』;我的法名叫『今覺』,『悟徹』是我的內號。我收的徒弟,他們的內號,例如:心玄、[[釋心平|心平]]、[[釋心定|心定]]、[[釋心培|心培]],就用『心』字。從這個字號一看就知道,我們是屬於臨濟宗普陀派。」 {{Cite web |url=http://www.masterhsingyun.org/article/article.jsp?index=0&item=9&bookid=2c907d494b3ecd70014b5299b9b00007&ch=1&se=0&f=1 |title=存档副本 |access-date=2021-07-15 |archive-date=2021-07-15 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210715062005/http://books.masterhsingyun.org/ArticleDetail/artcle2390 |dead-url=no }}</ref><ref>依「宗教律諸宗演派」https://zh.m.wikisource.org/zh-hant/%E5%AE%97%E6%95%99%E5%BE%8B%E8%AB%B8%E5%AE%97%E6%BC%94%E6%B4%BE {{Wayback|url=https://zh.m.wikisource.org/zh-hant/%E5%AE%97%E6%95%99%E5%BE%8B%E8%AB%B8%E5%AE%97%E6%BC%94%E6%B4%BE |date=20210813023723 }} 記載,「普陀後寺從突空下通字派接續演四十八字:湛然法界,方廣嚴宏,彌滿本覺,了悟心宗。惟靈廓徹,體用周隆,聞思修學,止觀常融,傳持妙理,繼古賢公,信解行證,月朗天中。」可知釋星雲與其師釋志開為臨濟宗普陀後寺演派傳承。</ref>。
* [[法鼓山]] - 台湾における四大仏教宗派のひとつ。
* [[中台禅寺]] - 台湾における四大仏教宗派のひとつ。[[虚雲]]の弟子である石偉壽により創建。
* {{仮リンク|靈鷲山無生道場|zh|靈鷲山無生道場}}
== 日本における臨済宗 ==
[[File:Myoan-Eisai-Kennin-ji-Portrait.png|thumb|right|[[明菴栄西]]]]
宗門では、ゴータマ・シッダールタの教え([[悟り]])を直接に受け継いだ[[十大弟子|マハーカーシャパ]](迦葉)から28代目の[[ボーディダルマ]](菩提達磨)を得て[[インド]]から[[中国]]に伝えられた、ということになっている。その後、臨済宗は、宋代の中国に喫茶とともに渡り学んだ'''[[明菴栄西|栄西]]'''(1141年 - 1215年)らによって、[[鎌倉時代]]初期以降に日本に伝えられ、様々な流派が成立した。栄西が伝えたのは黄龍派の教えだが、[[俊芿]](1166年 - 1227年)が伝えた楊岐派の教えは、禅宗24流のうち20流をまでを占めるまでになった<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%87%A8%E6%B8%88%E5%AE%97-150337 臨済宗] -コトバンク</ref>。なお、[[江戸時代]]に伝わった[[黄檗宗]]も元来、中国臨済宗の一派である。師から弟子への[[悟り]]の伝達(法嗣、はっす)を重んじる。[[釈迦]]を本師釈迦如来大和尚と、[[ボーディダルマ]]を初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。
同じ禅宗の[[曹洞宗]]が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、[[鎌倉幕府]]、[[室町幕府]]という時の武家政権との結び付きが強かったのも特徴の1つで、[[京都五山]]、[[鎌倉五山]]のどちらも全て臨済宗の寺院で占められているほか、[[室町文化]]の形成にも多大な影響を与えた。しかしその後、[[足利氏]]の権勢とともに臨済宗も衰退していった<ref>村上専精 『日本佛教史綱(下巻)』 創元社、1939年、245頁</ref>。
江戸時代になって、[[白隠]]禅師(1686年 - 1769年)によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅とも言われている。そして、白隠は「中興の祖」として知られる。この時代、臨済宗で勢力を拡大したのは妙心寺派と大徳寺派であったが<ref>圭室諦成『日本佛教史概説』理想社出版部、1940年、360項</ref>、白隠も妙心寺派の出である。妙心寺派はこのほか、[[愚堂東寔]]や[[一糸文守]]、[[無著道忠]]を輩出している。一方の大徳寺派では、[[沢庵宗彭]]が有名である。また、江戸時代は各宗派において[[学林]]が栄えた。臨済宗では妙心寺や大徳寺、京都五山、それに鎌倉五山などに学寮を設けられ、宗学の伝授と住職資格の付与を担った<ref>圭室諦成『日本佛教史概説』理想社出版部、1940年、346項</ref>。
=== 主な法嗣の系統 ===
* [[臨済義玄]] - [[三聖慧然]]・[[興化存奨]] - [[南院慧顒]] - [[風穴延沼]] - [[首山省念]] - [[汾陽善昭]] - [[石霜楚円]](慈明禅師)
** [[黄龍慧南]](黄龍派)
*** [[晦堂祖心]] - [[死心悟新]]・[[霊源惟清]] - [[長霊守卓]] - [[無示介諶]] - [[心聞曇賁]] - [[雪庵従瑾]] - [[虚庵懐敞]] - '''[[明菴栄西|栄西]]'''(千光派・[[建仁寺]]派)
*** [[雲庵克文]] - [[兜率従悦]]・[[泐潭文準]]
*** [[東林常総]]
** [[楊岐方会]](楊岐派) - [[白雲守端]] - [[法演 (禅僧)|五祖法演]]
*** [[仏鑑慧懃]]
*** [[仏眼清遠]]
*** [[圜悟克勤]](仏果克勤)
**** [[大慧宗杲]](大慧派) - [[拙庵徳光]]
***** [[北礀居簡]] - [[物初大観]] - [[晦機元煕]]
****** [[東陽徳輝]] - '''[[中巌円月]]'''(中巌派)
****** [[笑隠大訢]] - [[用章廷俊]] - '''[[無我省吾]]'''
****** [[石室祖瑛]]
****** [[梅屋念常]]
***** [[浙翁如琰]] - [[偃渓広聞]]・[[大川普済]]
***** [[妙峰之善]] - [[蔵叟善珍]] - [[元叟行端]] - [[楚石梵琦]]
***** ('''[[大日房能忍]]'''([[日本達磨宗]]))
**** [[虎丘紹隆]](虎丘派) - [[応庵曇華]] - [[密庵咸傑]]
***** [[松源崇嶽]](松源派)
****** [[滅翁文礼]] - [[横川如珙]] - [[古林清茂]] - [[了庵清欲]]・[[竺仙梵僊]](竺仙派)・'''[[月林道皎]]'''・'''[[別源円旨]]'''・'''石室善玖'''
****** [[無得覚通]] - [[虚舟普度]] - [[虎巌浄伏]] - [[月江正印]]・[[明極楚俊]](明極派・燄慧派)・[[南楚師説]]・[[独孤淳朋]]・[[即休契了]] - '''[[愚中周及]]'''(愚中派・仏徳派・[[仏通寺]]派)
****** [[運庵普巌]]
******* [[虚堂智愚]] - [[霊石如芝]]・'''[[南浦紹明]]'''(大応派) - '''[[可翁宗然]]'''・'''[[宗峰妙超]]'''(大灯派・[[大徳寺]]派) - '''[[関山慧玄]]'''(関山派・[[妙心寺]]派)・'''[[徹翁義亨]]'''(徹翁派)
******* [[石帆惟衍]] - '''[[西礀子曇]]'''(西礀派・大通派)
****** [[掩室善開]] - [[石渓心月]] - '''[[大休正念]]'''(大休派・仏源派)・'''[[無象静照]]'''(法海派)
****** [[無明慧性]] - '''[[蘭渓道隆]]'''(大覚派・[[建長寺]]派) - '''[[約翁徳倹]]''' - '''[[寂室元光]]'''(円応派・[[永源寺]]派)
***** [[破庵祖先]](破庵派)
****** [[無準師範]](仏鑑禅師)
******* '''[[無学祖元]]'''(無学派・仏光派・[[円覚寺]]派) - '''[[高峰顕日]]''' - '''[[夢窓疎石]]'''([[天龍寺]]派・[[相国寺]]派)
******* '''[[円爾]]'''([[聖一派]]・[[東福寺]]派)
******* '''[[兀庵普寧]]'''(兀庵派・宗覚派) - '''[[東巌慧安]]'''
******* [[断橋妙倫]] - '''[[無関普門]]'''([[南禅寺]]派)
******* [[環渓惟一]] - '''[[鏡堂覚円]]'''(鏡堂派・大円派)
******* [[雪巌祖欽]](仰山祖欽)
******** [[高峰原妙]] - [[中峰明本]] - '''[[寂室元光]]'''([[永源寺]]派)
******** 鉄牛持定 - 絶学世誠 - '''古梅正友''' - '''[[無文元選]]'''([[方広寺 (浜松市)|方広寺]]派)
******* 別山祖智・石梁以忠・希叟紹曇・退耕徳寧・[[牧谿]]・西巌了恵 - 東巌浄日
****** 石田法薫 - 愚極智慧 - 竺田悟心・樵隠悟逸・'''[[清拙正澄]]'''(清拙派・大鑑派)
***** 曹源道生(曹源派) - 痴絶道冲 - 頑極行弥 - '''[[一山一寧]]'''(一山派) - '''[[雪村友梅]]''' - '''太清宗渭''' - '''太白真玄'''
*** 開福道寧 - 月庵善果 - 大洪祖証 - 月林師観 - [[無門慧開]] - '''[[心地覚心]]'''(無本覚心、法灯派) - '''[[慈雲妙意]]'''([[#国泰寺派|国泰寺派]])・'''[[孤峯覚明]]''' - '''[[抜隊得勝]]'''([[向嶽寺]]派)
(なお、臨済宗外では、仏眼清遠から3代下った楊岐派7代目の蒙庵元聡の下で修行し、初めて楊岐派の法灯を日本へと伝えた[[真言宗泉涌寺派]]の祖・[[俊芿]]などもいる。)
== 伝統 ==
'''法嗣'''という[[師匠]]から[[弟子]]へと[[悟り]]の伝達が続き現在に至る。師匠と弟子の重要なやりとりは、室内の秘密と呼ばれ師匠の部屋の中から持ち出されて公開されることはない。師匠と弟子のやりとりや、師匠の振舞を記録した[[語録|禅語録]]から、抜き出したものが公案(判例)とよばれ、宋代からさまざまな集成が編まれてきたが、悟りは言葉では伝えられるものではなく、現代人の文章理解で読もうとすると公案自体が拒絶する。しかし、悟りに導くヒントになることがらの記録であり、禅の[[典籍]]はその創立時から現在に至るまで非常に多い。それとともに宋代以降、禅宗は看話禅(かんなぜん)という、禅語録を教材に老師が提要を講義する([[提唱]]という)スタイルに変わり、臨済を初めとする唐代の祖師たちの威容は見られなくなった。師匠が肉体を去るときには少なくとも跡継ぎを選んで行くが、跡継ぎは必ずしも悟りを開いているとは限らず、その事は師匠とその弟子だけが知っている。新しい師匠が悟りを開いていなくとも、悟りを開いていた師匠の時代から数世代の間であれば、世代を越えて弟子が悟りを開くことは可能なため、その様な手段が取られる。師匠は、ひとりだけではなく複数の師匠を残して行くこともあれば、師匠の判断で跡を嗣ぐ師匠を残さずにその流れが終わることもある。いくつもの支流に分かれ、ある流れは消えて行き、その流れのいくつかが7世紀から現在まで伝わっている。
== 悟り ==
禅宗は悟りを開く事が目的とされており、知識ではなく、悟りを重んじる。
禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。
仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のことである。
悟りは師から弟子へと伝わるが、それは言葉(ロゴス)による伝達ではなく、坐禅、公案などの感覚的、身体的体験で伝承されていく。
いろいろな方法で悟りの境地を表現できるとされており、特に日本では、詩、絵画、建築などを始めとした分野で悟りが表現されている。
== 公案体系 ==
宋代以降公案の体系がまとめられ、擬似的に多くの悟りを起こさせ、宗門隆盛のために多くの禅僧の輩出を可能にした。[[公案]]は、禅語録から抽出した主に師と弟子の間の問答である。弟子が悟りを得る瞬間の契機を伝える話が多い。
公案は論理的、知的な理解を受け付けることが出来ない、人智の発生以前の無垢の境地での対話であり、考えることから解脱して、公案になり切るという比喩的境地を通してのみ知ることができる。これらの公案を、弟子を導くメソッド集としてまとめたのが公案体系であり、500から1900の公案が知られている。公案体系は師の家風によって異なる。
修行の初期段階に与えられる公案の例:
; [[狗子仏性]] - 「犬に仏性はありますか?」「無(む)」
: この背景には、仏教では誰でも知っている「全ての生き物は仏性を持っている」という[[涅槃経]]の知識があるが、その種の人を惑わす知識からの解脱を目的としている。
; [[隻手の声]] -「片手の拍手の音」
: 弟子は片手でする拍手の音を聞いてそれを師匠に示さなければならない。知的な理解では片手では拍手はできず音はしないが、そのような日常的感覚からの解脱を目的としている。
== 日本における宗派 ==
=== 建仁寺派 ===
{{main2|宗派については|臨済宗建仁寺派}}
* [[1191年]](建久2年)、[[中国]]・[[南宋|宋]]から帰国した[[明菴栄西|栄西]]により始まる。栄西は最初に禅の伝統を日本に伝えた。
* 本山は京都の[[建仁寺]]<ref>[http://www.kenninji.jp/ 建仁寺公式サイト]</ref>( [[1202年]](建仁2年)建立)。
=== 東福寺派 ===
{{main2|宗派については|臨済宗東福寺派}}
* [[1236年]]、宋に渡り帰国した[[円爾]](弁円)により京都で始まる。
* 本山は京都の[[東福寺]]<ref>[http://www.tofukuji.jp/ 東福寺公式サイト]</ref>。
* 戦国時代、毛利家の外交僧として活躍した[[安国寺恵瓊]]はこの宗派。
=== 建長寺派 ===
* [[1253年]]、鎌倉幕府五代執権・[[北条時頼]]が[[中国]]・[[南宋|宋]]から招いた[[蘭渓道隆]]により始まる。
* 本山は蘭渓道隆が開山した鎌倉の[[建長寺]]<ref>[http://www.kenchoji.com/ 建長寺公式サイト]</ref>。
=== 円覚寺派 ===
* [[1282年]]、中国から招かれた[[無学祖元]]により鎌倉で始まる。
* 本山は鎌倉の[[円覚寺]]<ref>[http://www.engakuji.or.jp/index.html 円覚寺公式サイト]</ref>。円覚寺は、無学祖元から[[高峰顕日]]・[[夢窓疎石]]へと受け継がれ日本の禅の中心となった時期もある。
* 明治以降の有名な禅師は、[[今北洪川]]・[[釈宗演]]・[[朝比奈宗源]]。禅を西洋に紹介した[[鈴木大拙]]は今北と釈宗演の両師の元に在家の居士として[[参禅]]した。また[[夏目漱石]]も釈宗演に参じており、その経験は「[[門 (小説)|門]]」に描かれている。
* [[釈宗演]]の法をついだ両忘庵[[釈宗活]]老師が日暮里の地に居士禅の両忘会を再興させ、両忘協会となり、若き日の[[平塚らいてう]]等が修行した。その後、両忘協会は[[人間禅]]となり居士専門の坐禅修行が続けられている。
=== 南禅寺派 ===
{{main2|宗派については|臨済宗南禅寺派}}
* [[1291年]]、[[無関普門]]により始まる。
* 本山は京都の[[南禅寺]]<ref>[http://nanzen.com/ 南禅寺公式サイト]</ref>。
=== 国泰寺派 ===
* [[1300年]]頃、[[慈雲妙意]]により始まる。
* 本山は明治時代に江戸無血開城の立役者として知られる幕臣・[[山岡鉄舟]]の尽力で再興した富山県高岡市にある[[国泰寺 (高岡市)|国泰寺]]。谷中の[[全生庵]]も山岡鉄舟が建立しており、国泰寺派である<ref>[http://www.theway.jp/zen/zenshoan_yurai.html 由来] 全生庵公式サイト</ref>。幕末からの官軍の人々を弔う場所は靖国神社があり、山岡は、官軍も、賊軍こと旧幕府軍もなく、国事に殉じた方々を分け隔てなく弔う場所を作りたいと考え、1883年(明治16年)に全生庵を創建したとされている<ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/local/ishikawa/news/20170911-OYTNT50187.html|title=読売文化フォーラム 「山岡鉄舟と北陸」|date=2017-09-09|newspaper=YOMIURI ONLINE|accessdate=2019-07-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170913140635/http://www.yomiuri.co.jp/local/ishikawa/news/20170911-OYTNT50187.html|archivedate=2017-09-13}}</ref>。
* 本山は富山県高岡市の[[国泰寺]]<ref>[https://www.kokutaiji.jp/ 国泰寺公式サイト]</ref>。
=== 大徳寺派 ===
* [[1315年]]、[[宗峰妙超]]により始まる。
* 本山は京都の[[大徳寺]]。[[室町時代]]には[[応仁の乱]]で荒廃したが、[[一休宗純]]が復興した。
=== 妙心寺派 ===
{{main2|宗派については|臨済宗妙心寺派}}
* [[1337年]]、[[関山慧玄]]により始まる。
* 本山は京都・花園の[[妙心寺]]<ref>[http://www.myoshinji.or.jp/ 妙心寺公式サイト]</ref>。塔頭寺院には、桂春院・春光院・退蔵院<ref>[http://www.taizoin.com/ 退蔵院公式サイト]</ref>・隣華院<ref>[http://www.rinkain.com/ 隣華院公式サイト]</ref>などがある。
* 末寺3,400余か寺を持つ臨済宗最大の宗派。[[白隠慧鶴]]もこの法系に属する。
=== 天龍寺派 ===
* [[1345年]]、[[夢窓疎石]]により始まる。
* 本山は京都・嵐山の[[天龍寺]]。
=== 永源寺派 ===
* [[1361年]]、[[寂室元光]]により始まる。
* 本山は[[滋賀県]][[東近江市]][[永源寺高野町]]にある[[永源寺]]。
* 末寺は滋賀県を中心に約150か寺。
* 明治13年(1880年)までは東福寺派に属した。
=== 向嶽寺派 ===
* [[1380年]]、[[抜隊得勝]]により始まる。
* 本山は[[山梨県]][[甲州市]]の[[向嶽寺]]。
* [[甲斐国]]塩山の向嶽寺を拠点とする向嶽寺派は鎌倉後期から南北朝時代にかけて武家政権と結んだ夢窓派と一線を画し、独自の宗風を築いた。向嶽寺派は[[無本覚心]]の弟子である[[孤峰覚明]]に師事した抜隊得勝により始まり、抜隊は永和4年(1378年)に入甲し、康暦2年(1380年)には守護[[武田氏]]の庇護を得て塩の山に向嶽庵(向嶽寺、山梨県甲州市塩山上於曽)を築いた。
* 向嶽寺派は抜隊の遺戒による厳格な戒律を定めていることが特徴で、抜隊の生前から法語などが刊行されている。
=== 相国寺派 ===
* [[1382年]]、[[夢窓疎石]]により始まる。
* 本山は足利義満により建立された京都の[[相国寺]]<ref>[http://www.shokoku-ji.or.jp/ 相国寺公式サイト]</ref>。
* 末寺は日本各地に約100か寺。[[鹿苑寺]](金閣寺)・[[慈照寺]](銀閣寺)は当派に属する。
=== 方広寺派 ===
* [[1384年]]、[[無文元選]]により始まる。
* 本山は[[静岡県]][[浜松市]][[北区 (浜松市)|北区]]引佐町奥山の[[方広寺 (浜松市)|方広寺]]<ref>[http://www.houkouji.or.jp/ 方広寺公式サイト]</ref>。
* 末寺は静岡県を中心に約170か寺。
* [[1904年]](明治37年)までは南禅寺派に属した。
=== 佛通寺派 ===
* [[1397年]]、[[愚中周及]]により始まる。
* 本山は広島県三原市の[[佛通寺]]<ref>[http://www.buttsuji.or.jp/ 佛通寺公式サイト]</ref>。
* 末寺は広島県内を中心に約50か寺。
* [[1905年]](明治38年)までは天龍寺派に属した。
=== 興聖寺派 ===
* [[1603年]]、[[虚応円耳]]により始まる。
* 本山は京都の[[興聖寺 (京都市)|興聖寺]]。
* [[1953年]](昭和28年)までは相国寺派に属した。
* [[臨済宗黄檗宗連合各派合議所|臨黄合議所]]に非加盟。
== 葬儀式 ==
臨済宗の葬儀は故人を仏の弟子にするための式であり、授戒・念誦・引導などの構成からなる。また引導を渡す儀式の途中に導師が「喝」と叫ぶことがあるが、これはこの世に対する未練を取り除き、邪悪を祓う意味がある。松明に見立てた先の赤い棒を投げるのも、光明を照らし、迷いを断ち切る意味がある。引磬・太鼓・妙鉢などが用いられることが多い。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
<!-- 関連項目:本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク(姉妹プロジェクトリンク、言語間リンク)、ウィキリンク(ウィキペディア内部リンク)。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 -->
{{Buddhism portal}}
{{Commonscat|Rinzai school}}
* [[日本の仏教]]
* [[五山]]
* [[禅林墨跡]]
* [[黄檗宗]] - 共同で[[財団法人#公益財団法人|公益財団法人]]である「禅文化研究所」を設立・運営、公式[[ウェブサイト]]「臨済宗 黄檗宗 公式サイト」(臨黄寺院ネットワーク)を開設・運営している。
== 外部リンク ==
* [http://www.rinnou.net/ 臨済宗 黄檗宗 公式サイト] - 臨黄寺院ネットワーク運営委員会
* [https://www.zenbunka.or.jp/ 公益財団法人 禅文化研究所]
* [http://iriz.hanazono.ac.jp/ 花園大学国際禅学研究所]
{{禅}}
{{Buddhism2}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:りんさいしゆう}}
[[Category:臨済宗|*]]
[[Category:禅宗]]
[[Category:仏教の宗派]]
[[Category:伝統宗派]]
[[Category:日本の仏教史|+りんさい]]<!--伝統宗派としての歴史の記述。-->
[[pl:Linji (szkoła chan)]] | 2003-03-08T17:12:13Z | 2023-12-21T13:24:18Z | false | false | false | [
"Template:Main2",
"Template:Cite news",
"Template:Buddhism portal",
"Template:Normdaten",
"Template:Cite web",
"Template:Wayback",
"Template:Commonscat",
"Template:禅",
"Template:出典の明記",
"Template:仮リンク",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Buddhism2"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E5%AE%97 |
3,699 | 携帯型ゲーム | 携帯型ゲーム(けいたいがたゲーム)は携帯可能なサイズに小型化された家庭用ゲーム機である携帯ゲーム機(英: handheld game console)において動作するゲームソフトや市場全般を指す分類。携帯用ゲームとも呼ばれる。また携帯ゲーム機は携帯型ゲーム機および携帯用ゲーム機とも呼ばれる。
スマートデバイスなどの携帯機器は含まれないことが多く、ソフト内蔵型のいわゆる電子ゲームは「含む」「含まない」に分かれる場合もある。
1976年にアメリカにおいてマテルが世界初の携帯型電子ゲーム機「Mattel Auto Race」を発売した。同社が翌1977年に発売した『Mattel Football』はヒット商品となり、各社から様々な製品が登場した。その一部は日本にも輸入された他、日本国産のものも各種登場した。1980年に発売された任天堂の「ゲーム&ウオッチ」シリーズは日本国内1,300万台と大ヒット商品となった。
当時は電子ゲームと呼ばれる携帯型ゲームが主流だった。これはゲームソフト自体が本体の内蔵部品に書き込まれており、別のゲームソフトが必要になったときには本体も含めて新しいものを購入しなければならなかった。表示装置も登場人物などの形状の点滅箇所があらかじめ決められている程度の今から見ればごく簡易的なものだった。1979年にカートリッジ交換式であり、メディア交換型の携帯型ゲーム機としては世界初である「Microvision」がMilton Bradley Company社から発売される。日本においては1985年に登場した「ゲームポケコン」が初のカートリッジ交換式ゲーム機である。
1989年に任天堂が発売した「ゲームボーイ」は安価な本体価格と熱中度の高い『テトリス』の効果で売り切れが続出するほど爆発的にヒットした。そこそこの性能で安価・軽量であり、乱暴に扱われがちな携帯機器(児童向け玩具)にあって足元に落下させた程度では簡単には破損しない丈夫さや電池切れを余り気にせず利用できた。1990年代半ばに入ると売上が頭打ちとなり、一時市場から姿を消す寸前までになるが『ポケットモンスター 赤・緑』を発売後、小学生を中心に広がり売上ランキングで1年以上に渡り上位にランクインし続ける大ヒットとなる。それをきっかけに市場は活気を取り戻し『マリオのピクロス』などがスマッシュヒットした。スーパーゲームボーイはスーパーファミコンを利用してゲームボーイのゲーム画面をテレビに表示させる形式を取ることで、当時のカラー液晶画面が抱えていた欠点の改善を図ったものである。また、据え置き型ゲームとのデータ連動を実現させる64GBパック、携帯電話と接続したネットワークサービスを受けられるモバイルアダプタGBなど従来にはなかった遊び方も示されるようになった。
ソフトウェア内蔵型の電子ゲームについては、いわゆる「ミニテトリス」といったキーホルダー大の商品や、1996年にバンダイの『たまごっち』が10代の女性を中心に大ヒットし社会現象にまで発展した。その後もハドソンの『てくてくエンジェル』、任天堂の『ポケットピカチュウ』を初めとする万歩計と一体化した機種などが発売された。
しかし2010年代にはスマートフォンの普及により携帯ゲーム機市場は衰退に向かった。また米国のように、もともと据え置き機やPCゲームが人気の市場もある。その一方でSteam Deckのような携帯型ゲーミングPCや「携帯可能な据え置き機」として作られたNintendo Switchなどの新しい動きも出ている。
ゲーム機を考察する上でテレビを使用した据え置き型のテレビゲーム機とは対比される。携帯用途のため本体が小型で持ち運びしやすい。自宅だけでなく外出先でも容易に利用できる。コントローラが本体に一体化している。表示装置が内蔵されている。もっぱら液晶ディスプレイが用いられる。PSPのうち、PSP-2000/PSP-3000型およびPSP goはテレビに接続し、映像を出力させることもできる。PSPではUMDを採用しているが、ゲームソフトのメディアはROMカートリッジを用いるものが多い。ソフトがハードに内蔵されて取り替えられなかったりデータ転送で外部から読み込むなど、本体がメディアを兼ねるものもある。PSPのメモリースティック PRO Duo、ニンテンドー3DSのSDメモリーカードなど内蔵のメモリーカードにデータを書き込めるのもあり、メモリーカードリーダライタとパソコンを接続することでセーブデータや写真などを取り込み、バックアップできるものもある。動画・静止画・音楽鑑賞、ビデオ・オン・デマンド、電子ブックリーダー、インターネット閲覧(ウェブブラウザ)などデジタルメディアプレーヤー/ポータブルメディアプレーヤーの機能も持つようになった。
消費電力の少ない電子部品を使用している。そのため同時期のテレビゲーム機と比較すると性能は劣るが、その差は以前よりは縮まっている。電源は電池。初期の小型機ではボタン型電池または乾電池が主流であったが、性能の向上により消費電力が増大してきたため、2000年代以降は専用のバッテリー(リチウムイオン二次電池)を用いるのが主流となった。PSP go・PS Vitaは本体にバッテリーが内蔵され、ユーザーの手で交換することができない。
本体およびソフトが、同時期に発売されたテレビゲーム機と比較すると安価なものが多い。テレビゲームは家族と共同で所有しているケースも多いが、携帯型ゲームは本体・ソフトともたいてい一人で専有している。ちょっとした時間に遊ぶことが多いため、ゲームのルールや操作方法がすぐに理解できるゲームソフトが比較的多い。個人での本体やソフトウェアの専有意識があることから、通信機能を利用し、対戦やキャラクターの交換などにより、他者とのコミュニケーションをとることのできる機能を盛り込んだソフトも多い。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "携帯型ゲーム(けいたいがたゲーム)は携帯可能なサイズに小型化された家庭用ゲーム機である携帯ゲーム機(英: handheld game console)において動作するゲームソフトや市場全般を指す分類。携帯用ゲームとも呼ばれる。また携帯ゲーム機は携帯型ゲーム機および携帯用ゲーム機とも呼ばれる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "スマートデバイスなどの携帯機器は含まれないことが多く、ソフト内蔵型のいわゆる電子ゲームは「含む」「含まない」に分かれる場合もある。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "1976年にアメリカにおいてマテルが世界初の携帯型電子ゲーム機「Mattel Auto Race」を発売した。同社が翌1977年に発売した『Mattel Football』はヒット商品となり、各社から様々な製品が登場した。その一部は日本にも輸入された他、日本国産のものも各種登場した。1980年に発売された任天堂の「ゲーム&ウオッチ」シリーズは日本国内1,300万台と大ヒット商品となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "当時は電子ゲームと呼ばれる携帯型ゲームが主流だった。これはゲームソフト自体が本体の内蔵部品に書き込まれており、別のゲームソフトが必要になったときには本体も含めて新しいものを購入しなければならなかった。表示装置も登場人物などの形状の点滅箇所があらかじめ決められている程度の今から見ればごく簡易的なものだった。1979年にカートリッジ交換式であり、メディア交換型の携帯型ゲーム機としては世界初である「Microvision」がMilton Bradley Company社から発売される。日本においては1985年に登場した「ゲームポケコン」が初のカートリッジ交換式ゲーム機である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "1989年に任天堂が発売した「ゲームボーイ」は安価な本体価格と熱中度の高い『テトリス』の効果で売り切れが続出するほど爆発的にヒットした。そこそこの性能で安価・軽量であり、乱暴に扱われがちな携帯機器(児童向け玩具)にあって足元に落下させた程度では簡単には破損しない丈夫さや電池切れを余り気にせず利用できた。1990年代半ばに入ると売上が頭打ちとなり、一時市場から姿を消す寸前までになるが『ポケットモンスター 赤・緑』を発売後、小学生を中心に広がり売上ランキングで1年以上に渡り上位にランクインし続ける大ヒットとなる。それをきっかけに市場は活気を取り戻し『マリオのピクロス』などがスマッシュヒットした。スーパーゲームボーイはスーパーファミコンを利用してゲームボーイのゲーム画面をテレビに表示させる形式を取ることで、当時のカラー液晶画面が抱えていた欠点の改善を図ったものである。また、据え置き型ゲームとのデータ連動を実現させる64GBパック、携帯電話と接続したネットワークサービスを受けられるモバイルアダプタGBなど従来にはなかった遊び方も示されるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "ソフトウェア内蔵型の電子ゲームについては、いわゆる「ミニテトリス」といったキーホルダー大の商品や、1996年にバンダイの『たまごっち』が10代の女性を中心に大ヒットし社会現象にまで発展した。その後もハドソンの『てくてくエンジェル』、任天堂の『ポケットピカチュウ』を初めとする万歩計と一体化した機種などが発売された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "しかし2010年代にはスマートフォンの普及により携帯ゲーム機市場は衰退に向かった。また米国のように、もともと据え置き機やPCゲームが人気の市場もある。その一方でSteam Deckのような携帯型ゲーミングPCや「携帯可能な据え置き機」として作られたNintendo Switchなどの新しい動きも出ている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "ゲーム機を考察する上でテレビを使用した据え置き型のテレビゲーム機とは対比される。携帯用途のため本体が小型で持ち運びしやすい。自宅だけでなく外出先でも容易に利用できる。コントローラが本体に一体化している。表示装置が内蔵されている。もっぱら液晶ディスプレイが用いられる。PSPのうち、PSP-2000/PSP-3000型およびPSP goはテレビに接続し、映像を出力させることもできる。PSPではUMDを採用しているが、ゲームソフトのメディアはROMカートリッジを用いるものが多い。ソフトがハードに内蔵されて取り替えられなかったりデータ転送で外部から読み込むなど、本体がメディアを兼ねるものもある。PSPのメモリースティック PRO Duo、ニンテンドー3DSのSDメモリーカードなど内蔵のメモリーカードにデータを書き込めるのもあり、メモリーカードリーダライタとパソコンを接続することでセーブデータや写真などを取り込み、バックアップできるものもある。動画・静止画・音楽鑑賞、ビデオ・オン・デマンド、電子ブックリーダー、インターネット閲覧(ウェブブラウザ)などデジタルメディアプレーヤー/ポータブルメディアプレーヤーの機能も持つようになった。",
"title": "特徴と傾向"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "消費電力の少ない電子部品を使用している。そのため同時期のテレビゲーム機と比較すると性能は劣るが、その差は以前よりは縮まっている。電源は電池。初期の小型機ではボタン型電池または乾電池が主流であったが、性能の向上により消費電力が増大してきたため、2000年代以降は専用のバッテリー(リチウムイオン二次電池)を用いるのが主流となった。PSP go・PS Vitaは本体にバッテリーが内蔵され、ユーザーの手で交換することができない。",
"title": "特徴と傾向"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "本体およびソフトが、同時期に発売されたテレビゲーム機と比較すると安価なものが多い。テレビゲームは家族と共同で所有しているケースも多いが、携帯型ゲームは本体・ソフトともたいてい一人で専有している。ちょっとした時間に遊ぶことが多いため、ゲームのルールや操作方法がすぐに理解できるゲームソフトが比較的多い。個人での本体やソフトウェアの専有意識があることから、通信機能を利用し、対戦やキャラクターの交換などにより、他者とのコミュニケーションをとることのできる機能を盛り込んだソフトも多い。",
"title": "特徴と傾向"
}
] | 携帯型ゲーム(けいたいがたゲーム)は携帯可能なサイズに小型化された家庭用ゲーム機である携帯ゲーム機において動作するゲームソフトや市場全般を指す分類。携帯用ゲームとも呼ばれる。また携帯ゲーム機は携帯型ゲーム機および携帯用ゲーム機とも呼ばれる。 スマートデバイスなどの携帯機器は含まれないことが多く、ソフト内蔵型のいわゆる電子ゲームは「含む」「含まない」に分かれる場合もある。 | {{otheruses||ソフト内蔵型の場合|電子ゲーム}}
[[File:Game-Boy-FL.png|thumb|[[任天堂]]の初代[[ゲームボーイ]]([[1989年]])]]
{{コンピュータゲームのサイドバー}}
'''携帯型ゲーム'''(けいたいがたゲーム)は携帯可能なサイズに小型化された[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]である'''携帯ゲーム機'''{{R|PortableGame}}({{lang-en-short|handheld game console}})において動作する[[ゲームソフト]]や市場全般を指す分類<ref name=PortableGame>[http://www.sophia-it.com/content/%E6%90%BA%E5%B8%AF%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%A9%9F 携帯ゲーム機とは]</ref>。'''携帯用ゲーム'''<ref>「[https://archive.is/20120708215237/http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0/ コンピュータ・ゲーム](2012年7月8日時点の[[archive.is|アーカイブ]])」 [[Yahoo!百科事典]]([[日本大百科全書]])、2010年10月30日閲覧。</ref>とも呼ばれる。また携帯ゲーム機は'''携帯型ゲーム機'''および'''携帯用ゲーム機'''{{R|PortableGame}}とも呼ばれる。
[[スマートデバイス]]などの[[携帯機器]]は含まれないことが多く、ソフト内蔵型のいわゆる[[電子ゲーム]]は「含む」「含まない」に分かれる場合もある。
== 歴史 ==
{{Main|コンピュータゲームの歴史}}
[[1976年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]において[[マテル]]が世界初の携帯型[[電子ゲーム]]機「[[Mattel Auto Race]]」を発売した。同社が翌[[1977年]]に発売した『Mattel Football』はヒット商品となり、各社から様々な製品が登場した。その一部は日本にも輸入された他、日本国産のものも各種登場した。[[1980年]]に発売された[[任天堂]]の「[[ゲーム&ウオッチ]]」シリーズは日本国内1,300万台と大ヒット商品となった<ref name="jetro">{{PDF|[https://web.archive.org/web/20110409150200/http://www.jetro.go.jp/jfile/report/05001299/05001299_001_BUP_0.pdf 日本貿易振興機構 - 日本のテレビゲーム産業の動向]}}(2011年4月9日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。
当時は電子ゲームと呼ばれる携帯型ゲームが主流だった。これは[[ゲームソフト]]自体が本体の内蔵部品に書き込まれており、別のゲームソフトが必要になったときには本体も含めて新しいものを購入しなければならなかった。表示装置も登場人物などの形状の点滅箇所があらかじめ決められている程度の今から見ればごく簡易的なものだった。[[1979年]]に[[ロムカセット|カートリッジ]]交換式であり、メディア交換型の携帯型ゲーム機としては世界初である「[[Microvision]]」が[[w:Milton Bradley Company|Milton Bradley Company]]社から発売される。日本においては1985年に登場した「[[ゲームポケコン]]」が初のカートリッジ交換式ゲーム機である。
[[1989年]]に任天堂が発売した「[[ゲームボーイ]]」は安価な本体価格と熱中度の高い『[[テトリス]]』の効果で売り切れが続出するほど爆発的にヒットした<ref name="jetro" />。そこそこの性能で安価・軽量であり、乱暴に扱われがちな携帯機器(児童向け[[玩具]])にあって足元に落下させた程度では簡単には破損しない丈夫さや電池切れを余り気にせず利用できた<ref>[http://newsphere.jp/entertainment/20140422-4/ “ソーシャルゲームの先駆者” ゲームボーイ発売25周年を迎え、海外メディア改めて絶賛]</ref>。1990年代半ばに入ると売上が頭打ちとなり、一時市場から姿を消す寸前までになるが『[[ポケットモンスター 赤・緑]]』を発売後、小学生を中心に広がり売上ランキングで1年以上に渡り上位にランクインし続ける大ヒットとなる。それをきっかけに市場は活気を取り戻し『[[マリオのピクロス]]』などがスマッシュヒットした。[[スーパーゲームボーイ]]は[[スーパーファミコン]]を利用してゲームボーイのゲーム画面をテレビに表示させる形式を取ることで、当時のカラー液晶画面が抱えていた欠点の改善を図ったものである。また、据え置き型ゲームとのデータ連動を実現させる[[64GBパック]]、[[携帯電話]]と接続したネットワークサービスを受けられる[[モバイルアダプタGB]]など従来にはなかった遊び方も示されるようになった。
ソフトウェア内蔵型の電子ゲームについては、いわゆる「[[テトリス|ミニテトリス]]」といった[[キーホルダー]]大の商品や、[[1996年]]に[[バンダイ]]の『[[たまごっち]]』が10代の女性を中心に大ヒットし[[社会現象]]にまで発展した。その後も[[ハドソン]]の『[[てくてくエンジェル]]』、任天堂の『[[ポケットピカチュウ]]』を初めとする[[万歩計]]と一体化した機種などが発売された。
しかし2010年代には[[スマートフォン]]の普及により携帯ゲーム機市場は衰退に向かった。また米国のように、もともと据え置き機やPCゲームが人気の市場もある<ref>[http://www.zaikei.co.jp/article/20130717/141128.html 米国ではゲーマーの多くが据え置き型ゲーム機やPCでゲームを楽しんでいる]</ref><ref>[http://www.gamecast-blog.com/archives/65747932.html ゲーム機の覇権はiOSへ…? 2013年のQ1、iOS単体のゲーム売り上げが専用携帯ゲーム機の合計を上回る]</ref>。その一方で[[Steam Deck]]のような携帯型ゲーミングPCや「携帯可能な据え置き機」として作られた[[Nintendo Switch]]などの新しい動きも出ている。
== 年表 ==
{{Main|ゲーム機|ゲーム機一覧}}
<!--
* [[1980年]]
** [[ゲーム&ウオッチ]]([[任天堂]])
* [[1985年]]
** [[ゲームポケコン]]([[エポック社]])
* [[1989年]]
** [[ゲームボーイ]](任天堂)
** [[Atari Lynx]]([[アタリ (企業)|アタリ]])
* [[1990年]]
** [[ゲームギア]]([[セガ]])
** [[PCエンジンGT]]([[日本電気ホームエレクトロニクス|NECホームエレクトロニクス]])
* [[1996年]]
** [[ゲームボーイポケット]](任天堂)
* [[1998年]]
** [[ゲームボーイライト]](任天堂)
** [[ゲームボーイカラー]](任天堂)
** [[ネオジオポケット]]([[SNK (1978年設立の企業)|SNK]])
** [[ドリームキャスト|ビジュアルメモリ]](セガ)
* [[1999年]]
** [[ネオジオポケットカラー]](SNK)
** [[ワンダースワン]]([[バンダイ]])
** [[PocketStation]]([[ソニー・コンピュータエンタテインメント]])
* [[2000年]]
** [[ワンダースワンカラー]](バンダイ)
* [[2001年]]
** [[ゲームボーイアドバンス]](任天堂)
** [[ポケモンミニ]]([[ポケモン (企業)|ポケモン]])
* [[2002年]]
** [[スワンクリスタル]](バンダイ)
* [[2003年]]
** [[ゲームボーイアドバンスSP]](任天堂)
* [[2004年]]
** [[PlayStation Portable]](ソニー・コンピュータエンタテインメント)
** [[ニンテンドーDS]](任天堂)
* [[2005年]]
** [[ゲームボーイミクロ]](任天堂)
* [[2006年]]
** [[ニンテンドーDS Lite]](任天堂)
* [[2008年]]
** [[ニンテンドーDSi]](任天堂)
* [[2009年]]
** [[PlayStation Portable go]](ソニー・コンピュータエンタテインメント)
** [[ニンテンドーDSi|ニンテンドーDSi LL]](任天堂)
* [[2011年]]
** [[ニンテンドー3DS]](任天堂)
** [[PlayStation Vita]](ソニー・コンピュータエンタテインメント)
* [[2012年]]
** [[ニンテンドー3DS|ニンテンドー3DS LL]](任天堂)
* [[2014年]]
** [[Newニンテンドー3DS]](任天堂)
** [[Newニンテンドー3DS|Newニンテンドー3DS LL]](任天堂)
* [[2016年]]
** [[ニンテンドー2DS]](任天堂)
* [[2017年]]
** [[Nintendo Switch]](任天堂)※ハイブリッドゲーム機
** [[Newニンテンドー2DS LL]](任天堂)
-->
== 特徴と傾向 ==
[[ゲーム機]]を考察する上でテレビを使用した据え置き型の[[テレビゲーム]]機とは対比される。携帯用途のため本体が小型で持ち運びしやすい。自宅だけでなく外出先でも容易に利用できる。コントローラが本体に一体化している。表示装置が内蔵されている。もっぱら[[液晶ディスプレイ]]が用いられる。[[PlayStation Portable|PSP]]のうち、PSP-2000/PSP-3000型および[[PlayStation Portable go|PSP go]]はテレビに接続し、映像を出力させることもできる。PSPでは[[ユニバーサル・メディア・ディスク|UMD]]を採用しているが、ゲームソフトのメディアは[[ロムカセット|ROMカートリッジ]]を用いるものが多い。ソフトがハードに内蔵されて取り替えられなかったりデータ転送で外部から読み込むなど、本体がメディアを兼ねるものもある。PSPの[[メモリースティック|メモリースティック PRO Duo]]、[[ニンテンドー3DS]]の[[SDメモリーカード]]など内蔵の[[メモリーカード]]にデータを書き込めるのもあり、[[メモリーカードリーダライタ]]と[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]を接続することでセーブデータや写真などを取り込み、[[バックアップ]]できるものもある。[[動画]]・[[画像|静止画]]・[[音楽]][[鑑賞]]、[[ビデオ・オン・デマンド]]、[[電子ブックリーダー]]、[[インターネット]]閲覧([[ウェブブラウザ]])など[[デジタルメディアプレーヤー]]/[[ポータブルメディアプレーヤー]]の機能も持つようになった<ref>[https://web.archive.org/web/20151109032124/http://www.jp.playstation.com/psvita/hardware/application/index.html アプリケーション](2015年11月9日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref><ref>[http://www.jp.playstation.com/psvita/remoteplay/ PS4のポータブル版がついに登場!?]</ref>。
消費電力の少ない電子部品を使用している。そのため同時期のテレビゲーム機と比較すると性能は劣るが、その差は以前よりは縮まっている。電源は[[電池]]。初期の小型機では[[ボタン型電池]]または[[乾電池]]が主流であったが、性能の向上により消費電力が増大してきたため、[[2000年代]]以降は専用の[[二次電池|バッテリー]]([[リチウムイオン二次電池]])を用いるのが主流となった。[[PlayStation Portable go|PSP go]]・[[PlayStation Vita|PS Vita]]は本体にバッテリーが内蔵され、ユーザーの手で交換することができない。
本体およびソフトが、同時期に発売されたテレビゲーム機と比較すると安価なものが多い。テレビゲームは家族と共同で所有しているケースも多いが、携帯型ゲームは本体・ソフトともたいてい一人で専有している。ちょっとした時間に遊ぶことが多いため、ゲームのルールや操作方法がすぐに理解できるゲームソフトが比較的多い。個人での本体やソフトウェアの専有意識があることから、通信機能を利用し、対戦や[[キャラクター]]の交換などにより、他者との[[コミュニケーション]]をとることのできる機能を盛り込んだソフトも多い。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[日本におけるゲーム機戦争]]
* [[携帯電話ゲーム]]
* [[Nintendo Switch]] - 公式には据置型ゲーム機とされているが、携帯型ゲーム機の特徴も併せ持つ。なお、後に登場した[[Nintendo Switch Lite]]は一部の機能をオミットして携帯専用に仕立てたもので、公式にも携帯型ゲーム機とされている。
{{コンピュータゲームのジャンル}}
{{Computer sizes}}
{{Video-game-stub}}
{{DEFAULTSORT:けいたいかたけえむ}}
[[Category:携帯型ゲーム機|*]]
[[Category:情報機器]] | 2003-03-08T18:14:52Z | 2023-09-09T08:01:37Z | false | false | false | [
"Template:Video-game-stub",
"Template:コンピュータゲームのサイドバー",
"Template:R",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:PDF",
"Template:Otheruses",
"Template:Reflist",
"Template:コンピュータゲームのジャンル",
"Template:Computer sizes"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%90%BA%E5%B8%AF%E5%9E%8B%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0 |
3,703 | 京都線 | 京都線(きょうとせん) | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "京都線(きょうとせん)",
"title": null
}
] | 京都線(きょうとせん) | '''京都線'''(きょうとせん)
; 鉄道路線
:* [[近鉄京都線]]
:* [[阪急京都本線]]および同線の支線を含めた総称。
:* [[山陰本線]]のうち京都駅 - 綾部駅間の<!--1909年から1912年までの-->旧称。[[嵯峨野線]]も参照。
; バス路線
:* [[近鉄バス京都営業所#京都線|近鉄バス京都線]] - 廃止された[[近鉄バス]]のバス路線。
; 道路
:* [[阪神高速8号京都線]] - 現在の[[第二京阪道路]]のうち鴨川東インターチェンジ - 伏見インターチェンジ間の旧称。
== 関連項目 ==
* [[JR京都線]](じぇいあーるきょうとせん) - [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[東海道本線]]のうち京都駅 - 大阪駅間の愛称。
{{Aimai}}
{{DEFAULTSORT:きようとせん}}
[[Category:京都府の交通]] | null | 2022-01-02T20:09:20Z | true | false | false | [
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%B7%9A |
3,704 | 半金属 | 半金属(はんきんぞく、英: metalloid)とは、元素の分類において金属と非金属の中間の性質を示す物質のことである。その定義は曖昧であり、決定的な定義や分類基準は存在せず、様々な方法によって分類が試みられている。
一般的にはホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルルの6元素が半金属とされ、セレン、ポロニウム、アスタチンの3元素がしばしば加えられる。炭素やリンなどは通常半金属とはされないものの、その同素体にはグラファイトや黒リンのような半金属性を有しているものが存在する。これらの半金属元素は周期表上において、おおよそホウ素からポロニウムまでを繋ぐライン上に現れるが、その境界線の引き方にもまた多くの議論がある。
半金属に特徴的な性質としては脆性、半導体性、金属光沢、酸化物の示す両性などが挙げられ、半金属のイオン化エネルギーや電気陰性度の値は一定の範囲に収まる。半金属の単体もしくはその化合物は、ガラスや半導体、合金の構成元素として広く利用されている。
元素は通常、その一般的な化学的、物理的性質によって金属もしくは非金属に分類される。しかしながら、いくつかの元素はその中間の性質を有していたり、両方の性質を併せ持ったりしているために、その特性による分類が困難となる。そのため、これらの元素はしばしば半金属として分類される。半金属を表すmetalloidの語は、ラテン語で金属を意味する metallum および、ギリシア語で形状もしくは外観が類似していることを意味するoeidesの語に由来する。日本語では半金属の他に、准金属、亜金属、またはそのままメタロイドとも呼ばれる。半金属は金属と非金属の間で曖昧な緩衝地帯を形成する分類基準であると説明される。
半金属は通常、金属および非金属と並び立つ元素の第三の分類であると考えられているが、その包含する元素は、場合によっては(半金属ではなく)金属に分類されたり、(半金属ではなく)非金属に分類されたり、あるいは半金属に分類されながら、半金属という分類自体が金属・非金属いずれかのサブカテゴリであるとみなされたりする。
半金属という用語には、普遍的に合意された厳格な定義は存在せず、個々の元素の分類は「任意である」とされる。しかしながら、以下に示す金属-半金属-非金属の物理的、化学的性質の表のように、金属および非金属の性質と比較することで半金属の性質が浮かび上がる。これらは一般的な共通点を抽出しているので、いくつかの例外が存在している。
上記の物理的、化学的性質のうち、脆さもしくは半導体性、またはその両方は、著しく特徴的な半金属の指標として用いられてきた。しかし半導体性については、半金属に分類される元素の内ほとんどのものが半導体性を示すものの全ての元素が必ずしも半導体性を示すというわけではなく、「半金属」は周期表上において特定の元素の化学的、物理的(物質的)、電子的な性質に関連した化学的な概念であるのに対して、「半導体」は元素と化合物を含む素材の電子特性に関連した物理学的な概念であり、半金属と半導体は全く別の概念である。また、例えば半金属酸化物が両生を示すような、著しく際立った化学的な二重のふるまいもまた、これまでに用いられてきた半金属の基準の一つであり、半金属は全てが金属光沢を示す固体であるとされている。
その他の性質は元素によって異なっている。半金属の見せる金属的な性質はいくつかの特徴の組み合わせである点に注意が必要であり、ホークスは、ある元素が半金属に属するか否かは、その元素が半金属に関連する性質をどの程度示すのかに基づいて元素毎に個別に審査することを提唱している。
マスタートンとスロウィンスキは、半金属のイオン化エネルギーは200 kJ/mol周辺、電気陰性度は2.0周辺に集まっておりそれらは一般的に半導体であるが、(バンド理論における半金属である)アンチモンとヒ素は、金属のそれに近似した電気伝導度を有していると記述した。彼らの示す半金属の3つの特性は、右表のように6つの一般的な半金属に対して当てはまる。セレンおよびポロニウムはおそらくこの表からは排除され、アスタチンは含まれない。
他の定量的な特徴として空間充填率があり、一般的な半金属は34から41の間の空間充填率を示す。各半金属の空間充填率は、ホウ素:38 %、ケイ素およびゲルマニウム:34 %、ヒ素:38.5 %、アンチモン:41 %、テルル:36.4 %である。これらの値は、大部分の金属の空間充填率が通常80%以上であり少なくとも68 %よりも高いことと比較して低い。しかし、非金属と分類される黒鉛の17 %や硫黄の19.2 %、ヨウ素の23.9 %、黒リンの28.5 %よりは高く、しばしば半金属として分類されるセレンも28.5 %である。
一般的な半金属は、0.85から1.1、平均1.0のゴールドハマー・ハーツフェルド基準を有している。
通常半金属として分類される元素は電気陰性度が1.9から2.2の間に集まっている。電気陰性度が大きな元素は電子が強く原子に引きつけられているためs軌道のエネルギーが非常に低くなり、ns軌道とnp軌道のエネルギー差が大きくなるため電子が局在化した共有結合性のワイドバンドギャップ(すなわち絶縁体)であるような非金属的な性質が現れる。逆に、電気陰性度が小さな元素は電子が原子に引きつけられる力が弱いためs軌道のエネルギーが高くなり、ns軌道とnp軌道のエネルギー差が小さくなるため電子が非局在化した金属結合性のバンドギャップの無い(すなわち導体)金属的な性質が現れる。半金属元素の1.9から2.2という電気陰性度はちょうどこの両者の中間に位置するためns軌道とnp軌道のエネルギー差が中程度となり、したがって一部の電子が非局在化した共有結合性と金属結合性を併せ持つ中程度のバンドギャップ(すなわち半導体)という半金属元素特有の性質が現れる。
ホウ素が半金属性を示す理由は、その大きなイオン化エネルギーにも起因している。ホウ素の第一イオン化エネルギーは8.296 eVと比較的大きく、そのためホウ素はイオン化してイオン結合を形成することなく共有結合性の結合を形成する。したがって、単体においてもホウ素原子どうしは共有結合性の強い結合で結びついており、自由電子として導電性に寄与できる電子が少ないため導電性を示すものの導電性は低いという半金属に特有な性質が現れる。
前述のように半金属という用語には普遍的に合意された厳格な定義は存在しないため、どの元素が半金属に含まれるかはその分類を行う者の考える基準によって変動する。例えば、エムズリーによる分類ではゲルマニウム、ヒ素、アンチモンおよびテルルの4つの元素のみが半金属とされた一方で、セルウッドによる分類ではホウ素、アルミニウム、ケイ素、ガリウム、ゲルマニウム、ヒ素、スズ、アンチモン、テルル、ビスマス、ポロニウムおよびアスタチンの12元素が半金属とされた。このように個々の半金属の分類における元素の組み合わせはその基準の不明瞭さによって多くのバリエーションが存在するものの、どのようなバリエーションにおいてもいくつかの元素は共通して半金属とされる傾向がある。周期表上において金属元素から非金属元素へと向かう間には元素の性質の連続的な変化が多かれ少なかれ存在しているため、半金属を分類するための標準的な基準が欠如しているということが必ずしも問題になるわけではなく、その連続的な変化の部分を取り扱う半金属という集合は元素の分類という目的にきちんと適合している。
以下の6元素は、元素の分類において一般的に半金属として分類される。
これに加えて、しばしばセレン、ポロニウム、アスタチンが半金属とされることがある。しばしばホウ素は、単独でもしくはケイ素とともに半金属から除外され、テルルもよく除外される。また、アンチモン、ポロニウム、アスタチンを半金属に加えることに疑問が呈されることもある。
半金属に合意された定義がないため、水素、ベリリウム、炭素、窒素、アルミニウム、リン、硫黄、亜鉛、ガリウム、スズ、ヨウ素、鉛、ビスマスおよびラドンが時折半金属として分類される。
半金属 (metalloid) という用語は、以下の性質を示すのにも用いられていた。
多くの化学者や関連する科学の専門家によって、金属と非金属の中間に位置する元素の分類という概念はしばしば拡張され、通常半金属であるとは認められない元素が半金属に含まれることがある。
1935年、フェルネリウスとロビーは、炭素、リン、セレンおよびヨウ素を、ホウ素、ケイ素、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウムおよび当時未発見だった原子番号85番の元素(その5年後の1940年に作られたアスタチン)とともに元素の中間的な分類に含めた。ゲルマニウムは、当時はまだ伝導性に乏しい金属であると考えられていたため、この中間的な元素の分類からは除外された。
1954年、サボーとラカトシュは、ベリリウムとアルミニウムをホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウム、アスタチンとともに半金属のリストに含めた。
1957年、サンダーソンは、炭素、リン、セレンおよびヨウ素をホウ素、ケイ素、ヒ素、テルルおよびアスタチンとともに、特定の金属特性を有する元素の中間的な分類の一部として含め、ゲルマニウム、アンチモン、ポロニウムは金属に含めた。
最近の事例では、2007年、ペティは、炭素、リン、セレン、スズおよびビスマスをホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウムおよびアスタチンとともに半金属のリストに含めた。
これらのような一般的な半金属の近くに位置する元素は通常は金属もしくは非金属として分類されるが、しばしば半金属に近い (near-metalloid)などと呼ばれる。
アルミニウム、スズおよびビスマスのようにこの緩やかなカテゴリーに入れられた金属には、例えば、変わった充填構造を取る、分子もしくは重合状態において共有結合を取る、両性金属としてふるまうといった性質を示す傾向がみられる。それらはまた、弱い金属 (weak metals)、貧金属 (poor metals)、ポスト遷移金属 (post-transition metals)もしくは、これらの金属における前述の不完全な金属的性質を意図してセミメタル (semimetals)などとして言及され、このような分類グループは一般には周期表の同一領域を指し示しているが、必ずしも同一の元素を相互に含んでいるというわけではない。
非金属に含まれる元素のうち、炭素、リン、セレン、ヨウ素は、それらの環境条件が熱力学的に最も安定した形状(炭素ではグラファイト、リンでは黒リン、セレンでは灰色セレンなど)において、金属光沢、半導体性(例えば中程度の電気伝導度、比較的狭いバンドギャップ、光感受性)、伝導体もしくは価電子帯の非局在性を示す。これらの元素は半金属的、半金属性を示す、半金属のような、いくらか半金属(的)、金属的性質を有している、などと評される。
いくつかの元素では、同じ元素の同素体であっても異なる性質(金属的、半金属的もしくは非金属的)を示すことがある。例えば、炭素の同素体のうち、ダイヤモンドは明らかに非金属であるが、グラファイトは半金属に特有の限定的な電気伝導度を示す。リン、セレン、スズおよびビスマスも金属もしくは半金属もしくは非金属的なふるまいを示す同素体を有している。そのため櫻井らは、半金属性は元素に固有のものではなく単体に固有の性質であると注記した。
セレンは半金属もしくは非金属としてのふるまいを示し、それらの境界線上に位置する元素である。
セレンの最も安定した同素体は六方晶系の結晶構造を取る灰色セレンであり、単斜晶系の結晶構造をとる赤色セレンと比較して数桁高い電気伝導度を示すことから「金属セレン」と呼ばれている。セレンの金属的な性質は、光沢、結晶構造(直鎖状の結合の中にわずかに金属結合が含まれていると考えられている)、溶融したセレンを引抜加工することによって細い糸状にすることができる性質、「非金属に特有な高酸化数状態」において電気抵抗が発生する性質、そしてトリヒドロキシセレニウム(IV)の過塩素酸塩であるSe(OH)3ClO4の形の加水分解された陽イオンの塩の存在などによって示される。
セレンの非金属的性質は、脆さ、バンド構造(半導体性)、10から高純度品で10 S·cmという低い電気伝導度(それは非金属である臭素の(7.95×10 S·cmに相当もしくはさらに低い)、比較的高い電気陰性度(修正ポーリングスケールで2.55)、液体状態においても保持される半導体性、そしてセレンの非金属陰イオン形であるSe、SeO2−3、SeO2−4における化学反応、発煙硫酸に溶解した際に硫黄やテルルと同じくSe2+8のような環状ポリカチオンを形成する能力などによって示される。
ポロニウムはいくつかの性質において明確に金属的であり、その金属的な性質は、ポロニウムの多くの塩類の性質、水溶液中において形成するバラ色のPo陽イオンの存在、そしてポロニウムの2つの同素体における金属的な電気伝導度によって示される。しかしながら、Poのアニオンを含んだ多数の金属ポロニウム化物を形成するように、非金属的な性質も示す。
アスタチンは非金属もしくは半金属に分類される。通常は非金属として分類されるが、いくつかの著しい金属的な性質を有している。1940年、アスタチン原子の合成に直結した初期の研究者はアスタチンは金属であると考えていた。その後の1949年の言及では、アスタチンは還元するのが難しく最も不活性な非金属であり、同様に酸化するのが難しく比較的貴な金属であるとされていた。1950年には、アスタチンはハロゲンであるため活性な非金属であるとも言及された。
アスタチンの非金属的な性質としては以下のものがある。
アスタチンの金属的な性質としては以下のものがある。
アルミニウムは、その光沢、可鍛性および延性、高い熱および電気の伝導率、最密充填構造を取ることなどから、通常は金属として分類される。しかしながらアルミニウムは以下のような金属としては珍しい性質をいくらか有しており、しばしばアルミニウムを半金属として分類する根拠とされる。
ストットは、金属的な物理的性質を有するものの、いくつかの非金属的な化学的性質も有する弱い金属であるとアルミニウムを分類した。スティールは、アルミニウムの両性酸化物を形成し、多くの共有結合性の化合物を形成する性質は弱い金属に類似しているが、それでもアルミニウムは高い負の電極電位を有する、強く電気的に陽性な金属であると、アルミニウムの化学的なふるまいをやや逆説的に記した。
半金属としてのアルミニウムの理解は、その多くの金属的な性質と、金属と非金属の境界線に隣接した元素が半金属であるという記憶を呼び戻すために、アルミニウムがその代表的な例外であるということを重要視するために、しばしば議論される。
半金属は周期表上において、金属と非金属との境界線の両端に集まる。それらの元素は一般的に、左下に向かうほど金属的な性質が増し、右上に向かうほど非金属的な性質が増す。この境界線が規則的な階段で表現される場合、それらのグループにとって最も臨界温度の高い元素(アルミニウム、ゲルマニウム、アンチモン、ポロニウム)が境界線の直下に位置することになる。この境界線は、金属-非金属線 (metal-nonmetal line)、半金属線 (metalloid line)、半金属線 (semimetal line)、ジントル境界 (Zintl border)、ジントル線 (Zintl line)などと呼ばれる。後ろの2つは、1941年にフリッツ・ラーベスによって命名された第13族元素と第14族元素との間に引かれた垂直線(ジントル相(英語版))および、通常周期表上で第14族元素より右側に位置する元素と金属元素によって形成される塩のような化合物と、第13族元素と金属元素によって形成される金属間化合物とを区別するのに使用される境界線も意味する。
このような金属と非金属を分割する境界線の概念は、少なくとも1869年より古い文献において記述されている。1891年、ウォーカーは金属と非金属の境界として周期表上に斜めの直線を引いて「図表化」したものを公表した。1906年、アレクサンダー・スミス(英語版)は、彼の非常に影響力のある教科書Introduction to General Inorganic Chemistryにおいて、非金属を残りの元素から分離するジグザグの線を周期表上に含めた。
1923年、アメリカの化学者であるホーレス・グローブス・デミングは、彼の書いた教科書General Chemistry: An elementary surveyにおいて、金属と非金属を分離する階段状の線を短周期表(メンデレーエフの周期表)および各族を18列に並べた通常の周期表のそれぞれに含めた。1928年、メルクは当時アメリカの学校で広く流布していたデミングの18列の周期表を配布する準備を行い、1930年代までにはデミングの周期表は化学のハンドブックや百科事典にまで掲載されるようになった。それはまた、サージェント・ウェルチ(英語版)社によって長年配布され続けた。
一部の著者は、金属と非金属の境界線に接している元素を半金属としては分類せず、その代り、例えば境界線の左側に接する元素を若干の非金属的性質を示す、対して右側に接する元素を若干の金属的性質を示すといった注釈をした。このような対となった分類は、金属や非金属の間の結合の種類を決定するための単純な規則の確立を容易にすることができる。他の著者は、いくつかの元素を半金属と分類することが半金属は周期表上の境界線上で急に一体として変化するのではなく、その性質が徐々に変化していくことが強調されるという事を提示した。時折、金属と非金属の間の境界線は、金属と半金属および半金属と非金属をそれぞれ分割する2本の境界線とされることもある。
いくつかの周期表では、金属と非金属の形式的な境界線が無くとも半金属元素を区別する。その場合、境界線の代わりに斜めの帯もしくは広がった領域のような左上から右下に走る範囲で示され、それはヒ素の周りに集まる。メンデレーエフは、金属と非金属の間に明確な境界を引くことは不可能であり、そこにはいくつもの中間的な物質が存在しているという見解を示した。いくつかの他の出典は、境界線の混乱や曖昧さを注記し、見かけ上不定であると示唆し、その妥当性に対する反論の論拠を提供し、そしてその誤解を招き、論争となり、またはおおよその性質としてのコメントが行われた。デミング自身も、この境界線を正確には引けないことを注記した。
ヒ素やアンチモンのような一般的な半金属は、それらの純粋な単体で構造材として用いるには脆すぎる。一般的な半金属の典型的な用途としては以下に示すように、ガラス質の酸化物としての用途、合金の構成元素もしくは添加剤としての用途、半導体の構成元素もしくはそのドーパントとしての用途などが挙げられる。
半金属元素の酸化物である酸化ホウ素 (B2O3)、二酸化ケイ素 (SiO2)、二酸化ゲルマニウム (GeO2)、三酸化二ヒ素 (As2O3)および三酸化アンチモン (Sb2O3)はガラス質を形成する。二酸化テルル (TeO2)もまたガラス質を形成するが、そのためには結晶の形成を避けるために焼入れを行うか、もしくは不純物を添加剤としてを加える必要がある。これらの化合物は、化学用や家庭用、産業用のガラス製品において実用されており、特にゲルマニウムおよびテルルは光学ガラスとして利用されている。
1914年、Deschは、特定の非金属元素は明確に金属的な性質の化合物を形成することが出来、これらの元素はしたがって合金の組成として組み込むことが可能であるかもしれないと書き記した。彼は合金の構成元素として、特にケイ素、ヒ素およびテルルを想定していた。後にPhillipsとWilliamsは、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモンの貧金属との混合物はおそらく最良の合金であるとされると記した。
半金属元素を合金に加えることで、その融点を下げる方向に制御することができる。また、その合金の融点 (Tm)に対するガラス転移温度 (Tg)の比 (Tg/Tm)を大きくすることで非晶質な合金を形成することができるため、半金属元素を加えて融点を下げるということは非晶質な合金が得やすくなることを意味している。
ホウ素は遷移金属との間で、MnB (n>2の場合)の組成の金属間化合物および合金を形成する事ができる。このような合金もしくは金属間化合物は、最密に充填された金属原子の隙間にホウ素原子が入り込む形で形成される。Sandersonは、ケイ素は自然な状態においては半金属であるが、金属との合金を形成する能力においては完全に金属的に見えるとコメントした。鉄、コバルト、ニッケルの3元合金にホウ素およびケイ素を添加することで、透磁性の大きな非晶質の軟磁性合金を形成することができる。このような合金は保磁力が低いためにヒステリシス損を低く抑えることが可能となり、非晶質合金であることに起因して電気抵抗が大きいため渦電流損も低く抑えられる。これらの性質を利用して、磁気ヘッドや電気トランスの鉄芯のような軟磁気性が要求される用途において有用な材料として広く用いられている。ゲルマニウムは多くの金属元素と合金を形成することができ、その中で最も重要なものとして第11族元素(銅族元素)との合金が挙げられる。ヒ素はプラチナや銅を含む金属と合金を形成することができる。アンチモンは活字合金(アンチモンを最高25 wt%含んだ鉛合金)やピューター(アンチモンを最高20 wt%含んだスズ合金)に代表されるように、合金の構成元素としてよく知られている。テルルは銅との合金として利用される。1973年のアメリカ地質調査所の報告によれば、当時のテルル生産量のおよそ18 %は銅-テルル合金(テルルを40から50 %含む)および鉄-テルル合金(テルルを50から58 %含む)向けに販売されていた。
全ての一般的な半金属もしくはそれらの化合物は、半導体もしくは固体電子工学産業における用途が見つけられている。その代表的な例としてケイ素は半導体の主要用途の一つである太陽電池材料として広く利用されており、テルルの化合物であるテルル化カドミウムも低コストな太陽電池材料として実用化されている。ホウ素はその高い融点と、不純物の導入および制御、保持の困難さに起因して単結晶を得ることが相対的に難しかったため、ホウ素が半導体として利用され始めたのは他の半金属元素よりも遅かった。
As2Se3やSb2Te3のようなIV-V族化合物半導体は、ガラス質を形成する低融点半導体として利用される。また、InSbやBixSb1-xのような半金属合金は、バンドギャップの非常に小さな(InSbで0.17 eV)微小ギャップ半導体として利用される。Mg2SiやMg2GeのようなII-IV族半導体もバンドギャップが狭い。
固体で溶融する可鍛性の物質であるという古代における金属の概念は、プラトンの『ティマイオス』(紀元前360年)やアリストテレスの『気象学』に見られる。強く金属的な性質を示す物質を、金属的な性質が劣っている物質(例えば亜鉛、アンチモン、ビスマス、輝安鉱、黄鉄鉱、方鉛鉱など)から分離するための分類システム構築の試みは、偽ゲベル(英語版) (1310年)、バジル・バレンタイン(英語版)の(Conclusiones)、パラケルスス、ヘルマン・ブールハーフェの(Elementa Chemiæ 1733年)などによって行われ、これらは半金属 (semi-metals)もしくは偽金属(bastard metals)と呼ばれた。1735年、イェオリ・ブラントは可鍛性の有無をこの分類の原則とすることを提言し、その原則に従って水銀を金属から分離した。ルドルフ・ヴォーゲル (Institutiones Chemiæ 1755年)およびビュフォン (Histoire naturelle des Minéraux 1785年)も同様の見解を示した。その後の1759-60年、ブラウンによって冷却による水銀の凝固が観察され、それが1783年にハチンズとヘンリー・キャヴェンディッシュによって確認されたため、水銀の可鍛性が明らかとなり水銀は金属に含まれるようになった。しかし、これらの脆く、不完全な金属であるという非金属の概念は、アントワーヌ・ラヴォアジエの「革命的」な『化学原論』が出版された1789年以降、徐々に放棄された。
1807年、金属と金属に類似した物質との古い分類を復活させる試みにおいてヒルマンとサイモンは、新しく発見された元素であるナトリウムおよびカリウムが水よりも軽く、多くの化学者が金属として分類することに賛成しなかったことから、これらの元素に言及するために半金属という用語を用いることを提言したが、化学者のコミュニティーに無視された。
1811年もしくは1812年、イェンス・ベルセリウスは、非金属元素がオキソアニオンを形成する能力(例えばクロムがクロム酸イオンCrO4を形成するように多くの金属がオキソアニオンを形成するのと同様に、例えば硫黄が硫酸イオンSO4を形成するように非金属元素もオキソアニオンを形成する)に関して半金属と呼称した。ベルセリウスの用いた半金属という語の用法は広く採用されたが、それはその後の論評者らによって直観に反する、誤用される、妥当でない、もしくは説得力がないと評価された。1825年、ベルセリウスのTextbook of Chemistryの改定されたドイツ語版において、ベルセリウスは自らが定義した半金属の概念を3種類に再分割した。1つは常に気体である「gazloyta」(水素、窒素、酸素)、1つは真の半金属「metalloid」(硫黄、リン、炭素、ホウ素、ケイ素)、そしてもう1つは塩を形成する「halogenia」(フッ素、塩素、臭素、ヨウ素)である。1845年に発行されたA dictionary of science, literature and artにおいて、ベルセリウスによる元素の分類は「I. gazolytes; II. halogens; III. metalloids(一定の側面においては金属に類似しているが、他は広く異なっている); IV. metals」と表された。
1844年、ジャクソンは金属に類似しているが、いくつかの性質が欠損しているという現在の半金属の概念と類似した意味を半金属の用語に与えた。1864年、非金属の分類のために使用されていた半金属という用語は最高機関によって依然として認可されていたが、その使用は必ずしも適切ではなく、半金属の用語はより正確であるヒ素のような他の元素への適用も考慮されていた。1866年という早い年代に、一部の著者は非金属元素への言及のための用語として、「半金属」よりもむしろ「非金属」という語を使用していた。1876年、チルデンは酸素、塩素、フッ素のような元素に半金属という用語を与えるような慣例が非論理的であるにもかかわらず非常に一般的であることに反対して抗議し、それまでの分類に代わって元素を真の金属であるbasigenic、半金属であるimperfect metals、非金属であるoxigenicの3つに分割した。1888年になっても、金属、非金属、半金属という元素の分類は、依然として金属と半金属という分類よりも特殊な分類であると考えられており、潜在的な混乱の原因であった。
1911年、ビーチは半金属について以下のように説明した。
1917年ごろ、ミズーリ州薬剤師審議会は以下のように記した。
1920年代間、半金属という用語の2つの意味は流行の移り変わりを受けているように見えた。コーチはA Dictionary of Chemical Termsにおいて、「半金属」とは「非金属」の古くすたれた言い方であると定義した。一方でWebster 's New International Dictionaryにおいては、非金属を言及するための半金属という用語の使用は、ヒ素やアンチモン、テルルのような典型的な金属に類似した元素へ何らかの方法で適用される基準として注記された。半金属という用語の使用は、その後1940年までの間大きく流動していた。半金属の用語を中間もしくは境界線上の元素に対して適用するという合意は、続く1940年から1960年の間には起こらなかった。
1947年、ライナス・ポーリングは、彼の古典的かつ影響力のあるテキストであるGeneral chemistry: An introduction to descriptive chemistry and modern chemical theoryにおいて、半金属についての言及を行った。ポーリングは半金属を中間的な性質を有する元素である...ホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウムを含み、[周期表上で]斜めの領域を占領していると記述した。1959年、国際純正・応用化学連合 (IUPAC)は、たとえ半金属という用語が非金属の概念を意味する用語としてフランス人などの間でいまだ使われているとしても、半金属という用語は非金属を表すために用いてはならないと勧告した。
1970年、IUPACはさらに、半金属 (metalloid)という用語は異なる言語において継続的に一貫性なく使用されているため半金属 (metalloid)という用語を放棄するように勧告し、金属、半金属 (semimetal)、非金属の用語を代わりに用いることを提案した。しかしながら2010年現在では、バンド理論における半金属 (semi-metal)という用語と明確に区別ができるため、元素の分類における「semimetal」という用語の使用は「metalloid」という用語よりもむしろ少なくなっている。「metalloid」という用語はこのような奇妙で中間的な性質の元素を正確に説明しており、「metalloid」という用語が時代遅れであるという言及はナンセンスであると評された。
バンド理論における半金属(Semi-metal、以下本節においてセミメタルという)はフェルミエネルギーが、価電子帯の最上部と、伝導帯の最下部を横切っている状態(価電子帯と伝導帯が僅かに重なっている)、またはその状態を示す物質。この場合、価電子帯最上部にホールができ、伝導帯最下部は電子が占有している。金属より電気伝導度(電気伝導率)は低い。セミメタルとしては、グラファイト、ヒ素、アンチモン、ビスマスなどがある。
温度と電気伝導との関係は、金属と同じで温度が下がるほど電気伝導は良くなる(電気伝導度が上がる)。セミメタルの特徴としては、キャリアが少ない、有効質量が小さい、反磁性磁化率や誘電率が大きいことなどが挙げられる。
なお、ハーフメタリックという用語は、ここで述べたセミメタルとは別の概念である。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "半金属(はんきんぞく、英: metalloid)とは、元素の分類において金属と非金属の中間の性質を示す物質のことである。その定義は曖昧であり、決定的な定義や分類基準は存在せず、様々な方法によって分類が試みられている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "一般的にはホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルルの6元素が半金属とされ、セレン、ポロニウム、アスタチンの3元素がしばしば加えられる。炭素やリンなどは通常半金属とはされないものの、その同素体にはグラファイトや黒リンのような半金属性を有しているものが存在する。これらの半金属元素は周期表上において、おおよそホウ素からポロニウムまでを繋ぐライン上に現れるが、その境界線の引き方にもまた多くの議論がある。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "半金属に特徴的な性質としては脆性、半導体性、金属光沢、酸化物の示す両性などが挙げられ、半金属のイオン化エネルギーや電気陰性度の値は一定の範囲に収まる。半金属の単体もしくはその化合物は、ガラスや半導体、合金の構成元素として広く利用されている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "元素は通常、その一般的な化学的、物理的性質によって金属もしくは非金属に分類される。しかしながら、いくつかの元素はその中間の性質を有していたり、両方の性質を併せ持ったりしているために、その特性による分類が困難となる。そのため、これらの元素はしばしば半金属として分類される。半金属を表すmetalloidの語は、ラテン語で金属を意味する metallum および、ギリシア語で形状もしくは外観が類似していることを意味するoeidesの語に由来する。日本語では半金属の他に、准金属、亜金属、またはそのままメタロイドとも呼ばれる。半金属は金属と非金属の間で曖昧な緩衝地帯を形成する分類基準であると説明される。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "半金属は通常、金属および非金属と並び立つ元素の第三の分類であると考えられているが、その包含する元素は、場合によっては(半金属ではなく)金属に分類されたり、(半金属ではなく)非金属に分類されたり、あるいは半金属に分類されながら、半金属という分類自体が金属・非金属いずれかのサブカテゴリであるとみなされたりする。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "半金属という用語には、普遍的に合意された厳格な定義は存在せず、個々の元素の分類は「任意である」とされる。しかしながら、以下に示す金属-半金属-非金属の物理的、化学的性質の表のように、金属および非金属の性質と比較することで半金属の性質が浮かび上がる。これらは一般的な共通点を抽出しているので、いくつかの例外が存在している。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "上記の物理的、化学的性質のうち、脆さもしくは半導体性、またはその両方は、著しく特徴的な半金属の指標として用いられてきた。しかし半導体性については、半金属に分類される元素の内ほとんどのものが半導体性を示すものの全ての元素が必ずしも半導体性を示すというわけではなく、「半金属」は周期表上において特定の元素の化学的、物理的(物質的)、電子的な性質に関連した化学的な概念であるのに対して、「半導体」は元素と化合物を含む素材の電子特性に関連した物理学的な概念であり、半金属と半導体は全く別の概念である。また、例えば半金属酸化物が両生を示すような、著しく際立った化学的な二重のふるまいもまた、これまでに用いられてきた半金属の基準の一つであり、半金属は全てが金属光沢を示す固体であるとされている。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "その他の性質は元素によって異なっている。半金属の見せる金属的な性質はいくつかの特徴の組み合わせである点に注意が必要であり、ホークスは、ある元素が半金属に属するか否かは、その元素が半金属に関連する性質をどの程度示すのかに基づいて元素毎に個別に審査することを提唱している。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "マスタートンとスロウィンスキは、半金属のイオン化エネルギーは200 kJ/mol周辺、電気陰性度は2.0周辺に集まっておりそれらは一般的に半導体であるが、(バンド理論における半金属である)アンチモンとヒ素は、金属のそれに近似した電気伝導度を有していると記述した。彼らの示す半金属の3つの特性は、右表のように6つの一般的な半金属に対して当てはまる。セレンおよびポロニウムはおそらくこの表からは排除され、アスタチンは含まれない。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "他の定量的な特徴として空間充填率があり、一般的な半金属は34から41の間の空間充填率を示す。各半金属の空間充填率は、ホウ素:38 %、ケイ素およびゲルマニウム:34 %、ヒ素:38.5 %、アンチモン:41 %、テルル:36.4 %である。これらの値は、大部分の金属の空間充填率が通常80%以上であり少なくとも68 %よりも高いことと比較して低い。しかし、非金属と分類される黒鉛の17 %や硫黄の19.2 %、ヨウ素の23.9 %、黒リンの28.5 %よりは高く、しばしば半金属として分類されるセレンも28.5 %である。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "一般的な半金属は、0.85から1.1、平均1.0のゴールドハマー・ハーツフェルド基準を有している。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "通常半金属として分類される元素は電気陰性度が1.9から2.2の間に集まっている。電気陰性度が大きな元素は電子が強く原子に引きつけられているためs軌道のエネルギーが非常に低くなり、ns軌道とnp軌道のエネルギー差が大きくなるため電子が局在化した共有結合性のワイドバンドギャップ(すなわち絶縁体)であるような非金属的な性質が現れる。逆に、電気陰性度が小さな元素は電子が原子に引きつけられる力が弱いためs軌道のエネルギーが高くなり、ns軌道とnp軌道のエネルギー差が小さくなるため電子が非局在化した金属結合性のバンドギャップの無い(すなわち導体)金属的な性質が現れる。半金属元素の1.9から2.2という電気陰性度はちょうどこの両者の中間に位置するためns軌道とnp軌道のエネルギー差が中程度となり、したがって一部の電子が非局在化した共有結合性と金属結合性を併せ持つ中程度のバンドギャップ(すなわち半導体)という半金属元素特有の性質が現れる。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "ホウ素が半金属性を示す理由は、その大きなイオン化エネルギーにも起因している。ホウ素の第一イオン化エネルギーは8.296 eVと比較的大きく、そのためホウ素はイオン化してイオン結合を形成することなく共有結合性の結合を形成する。したがって、単体においてもホウ素原子どうしは共有結合性の強い結合で結びついており、自由電子として導電性に寄与できる電子が少ないため導電性を示すものの導電性は低いという半金属に特有な性質が現れる。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "前述のように半金属という用語には普遍的に合意された厳格な定義は存在しないため、どの元素が半金属に含まれるかはその分類を行う者の考える基準によって変動する。例えば、エムズリーによる分類ではゲルマニウム、ヒ素、アンチモンおよびテルルの4つの元素のみが半金属とされた一方で、セルウッドによる分類ではホウ素、アルミニウム、ケイ素、ガリウム、ゲルマニウム、ヒ素、スズ、アンチモン、テルル、ビスマス、ポロニウムおよびアスタチンの12元素が半金属とされた。このように個々の半金属の分類における元素の組み合わせはその基準の不明瞭さによって多くのバリエーションが存在するものの、どのようなバリエーションにおいてもいくつかの元素は共通して半金属とされる傾向がある。周期表上において金属元素から非金属元素へと向かう間には元素の性質の連続的な変化が多かれ少なかれ存在しているため、半金属を分類するための標準的な基準が欠如しているということが必ずしも問題になるわけではなく、その連続的な変化の部分を取り扱う半金属という集合は元素の分類という目的にきちんと適合している。",
"title": "半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "以下の6元素は、元素の分類において一般的に半金属として分類される。",
"title": "半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "これに加えて、しばしばセレン、ポロニウム、アスタチンが半金属とされることがある。しばしばホウ素は、単独でもしくはケイ素とともに半金属から除外され、テルルもよく除外される。また、アンチモン、ポロニウム、アスタチンを半金属に加えることに疑問が呈されることもある。",
"title": "半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "半金属に合意された定義がないため、水素、ベリリウム、炭素、窒素、アルミニウム、リン、硫黄、亜鉛、ガリウム、スズ、ヨウ素、鉛、ビスマスおよびラドンが時折半金属として分類される。",
"title": "半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "半金属 (metalloid) という用語は、以下の性質を示すのにも用いられていた。",
"title": "半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "多くの化学者や関連する科学の専門家によって、金属と非金属の中間に位置する元素の分類という概念はしばしば拡張され、通常半金属であるとは認められない元素が半金属に含まれることがある。",
"title": "半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1935年、フェルネリウスとロビーは、炭素、リン、セレンおよびヨウ素を、ホウ素、ケイ素、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウムおよび当時未発見だった原子番号85番の元素(その5年後の1940年に作られたアスタチン)とともに元素の中間的な分類に含めた。ゲルマニウムは、当時はまだ伝導性に乏しい金属であると考えられていたため、この中間的な元素の分類からは除外された。",
"title": "半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1954年、サボーとラカトシュは、ベリリウムとアルミニウムをホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウム、アスタチンとともに半金属のリストに含めた。",
"title": "半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1957年、サンダーソンは、炭素、リン、セレンおよびヨウ素をホウ素、ケイ素、ヒ素、テルルおよびアスタチンとともに、特定の金属特性を有する元素の中間的な分類の一部として含め、ゲルマニウム、アンチモン、ポロニウムは金属に含めた。",
"title": "半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "最近の事例では、2007年、ペティは、炭素、リン、セレン、スズおよびビスマスをホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウムおよびアスタチンとともに半金属のリストに含めた。",
"title": "半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "これらのような一般的な半金属の近くに位置する元素は通常は金属もしくは非金属として分類されるが、しばしば半金属に近い (near-metalloid)などと呼ばれる。",
"title": "半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "アルミニウム、スズおよびビスマスのようにこの緩やかなカテゴリーに入れられた金属には、例えば、変わった充填構造を取る、分子もしくは重合状態において共有結合を取る、両性金属としてふるまうといった性質を示す傾向がみられる。それらはまた、弱い金属 (weak metals)、貧金属 (poor metals)、ポスト遷移金属 (post-transition metals)もしくは、これらの金属における前述の不完全な金属的性質を意図してセミメタル (semimetals)などとして言及され、このような分類グループは一般には周期表の同一領域を指し示しているが、必ずしも同一の元素を相互に含んでいるというわけではない。",
"title": "半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "非金属に含まれる元素のうち、炭素、リン、セレン、ヨウ素は、それらの環境条件が熱力学的に最も安定した形状(炭素ではグラファイト、リンでは黒リン、セレンでは灰色セレンなど)において、金属光沢、半導体性(例えば中程度の電気伝導度、比較的狭いバンドギャップ、光感受性)、伝導体もしくは価電子帯の非局在性を示す。これらの元素は半金属的、半金属性を示す、半金属のような、いくらか半金属(的)、金属的性質を有している、などと評される。",
"title": "半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "いくつかの元素では、同じ元素の同素体であっても異なる性質(金属的、半金属的もしくは非金属的)を示すことがある。例えば、炭素の同素体のうち、ダイヤモンドは明らかに非金属であるが、グラファイトは半金属に特有の限定的な電気伝導度を示す。リン、セレン、スズおよびビスマスも金属もしくは半金属もしくは非金属的なふるまいを示す同素体を有している。そのため櫻井らは、半金属性は元素に固有のものではなく単体に固有の性質であると注記した。",
"title": "半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "セレンは半金属もしくは非金属としてのふるまいを示し、それらの境界線上に位置する元素である。",
"title": "しばしば半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "セレンの最も安定した同素体は六方晶系の結晶構造を取る灰色セレンであり、単斜晶系の結晶構造をとる赤色セレンと比較して数桁高い電気伝導度を示すことから「金属セレン」と呼ばれている。セレンの金属的な性質は、光沢、結晶構造(直鎖状の結合の中にわずかに金属結合が含まれていると考えられている)、溶融したセレンを引抜加工することによって細い糸状にすることができる性質、「非金属に特有な高酸化数状態」において電気抵抗が発生する性質、そしてトリヒドロキシセレニウム(IV)の過塩素酸塩であるSe(OH)3ClO4の形の加水分解された陽イオンの塩の存在などによって示される。",
"title": "しばしば半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "セレンの非金属的性質は、脆さ、バンド構造(半導体性)、10から高純度品で10 S·cmという低い電気伝導度(それは非金属である臭素の(7.95×10 S·cmに相当もしくはさらに低い)、比較的高い電気陰性度(修正ポーリングスケールで2.55)、液体状態においても保持される半導体性、そしてセレンの非金属陰イオン形であるSe、SeO2−3、SeO2−4における化学反応、発煙硫酸に溶解した際に硫黄やテルルと同じくSe2+8のような環状ポリカチオンを形成する能力などによって示される。",
"title": "しばしば半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ポロニウムはいくつかの性質において明確に金属的であり、その金属的な性質は、ポロニウムの多くの塩類の性質、水溶液中において形成するバラ色のPo陽イオンの存在、そしてポロニウムの2つの同素体における金属的な電気伝導度によって示される。しかしながら、Poのアニオンを含んだ多数の金属ポロニウム化物を形成するように、非金属的な性質も示す。",
"title": "しばしば半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "アスタチンは非金属もしくは半金属に分類される。通常は非金属として分類されるが、いくつかの著しい金属的な性質を有している。1940年、アスタチン原子の合成に直結した初期の研究者はアスタチンは金属であると考えていた。その後の1949年の言及では、アスタチンは還元するのが難しく最も不活性な非金属であり、同様に酸化するのが難しく比較的貴な金属であるとされていた。1950年には、アスタチンはハロゲンであるため活性な非金属であるとも言及された。",
"title": "しばしば半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "アスタチンの非金属的な性質としては以下のものがある。",
"title": "しばしば半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "アスタチンの金属的な性質としては以下のものがある。",
"title": "しばしば半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "アルミニウムは、その光沢、可鍛性および延性、高い熱および電気の伝導率、最密充填構造を取ることなどから、通常は金属として分類される。しかしながらアルミニウムは以下のような金属としては珍しい性質をいくらか有しており、しばしばアルミニウムを半金属として分類する根拠とされる。",
"title": "しばしば半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ストットは、金属的な物理的性質を有するものの、いくつかの非金属的な化学的性質も有する弱い金属であるとアルミニウムを分類した。スティールは、アルミニウムの両性酸化物を形成し、多くの共有結合性の化合物を形成する性質は弱い金属に類似しているが、それでもアルミニウムは高い負の電極電位を有する、強く電気的に陽性な金属であると、アルミニウムの化学的なふるまいをやや逆説的に記した。",
"title": "しばしば半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "半金属としてのアルミニウムの理解は、その多くの金属的な性質と、金属と非金属の境界線に隣接した元素が半金属であるという記憶を呼び戻すために、アルミニウムがその代表的な例外であるということを重要視するために、しばしば議論される。",
"title": "しばしば半金属とされる元素"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "半金属は周期表上において、金属と非金属との境界線の両端に集まる。それらの元素は一般的に、左下に向かうほど金属的な性質が増し、右上に向かうほど非金属的な性質が増す。この境界線が規則的な階段で表現される場合、それらのグループにとって最も臨界温度の高い元素(アルミニウム、ゲルマニウム、アンチモン、ポロニウム)が境界線の直下に位置することになる。この境界線は、金属-非金属線 (metal-nonmetal line)、半金属線 (metalloid line)、半金属線 (semimetal line)、ジントル境界 (Zintl border)、ジントル線 (Zintl line)などと呼ばれる。後ろの2つは、1941年にフリッツ・ラーベスによって命名された第13族元素と第14族元素との間に引かれた垂直線(ジントル相(英語版))および、通常周期表上で第14族元素より右側に位置する元素と金属元素によって形成される塩のような化合物と、第13族元素と金属元素によって形成される金属間化合物とを区別するのに使用される境界線も意味する。",
"title": "位置と区別"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "このような金属と非金属を分割する境界線の概念は、少なくとも1869年より古い文献において記述されている。1891年、ウォーカーは金属と非金属の境界として周期表上に斜めの直線を引いて「図表化」したものを公表した。1906年、アレクサンダー・スミス(英語版)は、彼の非常に影響力のある教科書Introduction to General Inorganic Chemistryにおいて、非金属を残りの元素から分離するジグザグの線を周期表上に含めた。",
"title": "位置と区別"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1923年、アメリカの化学者であるホーレス・グローブス・デミングは、彼の書いた教科書General Chemistry: An elementary surveyにおいて、金属と非金属を分離する階段状の線を短周期表(メンデレーエフの周期表)および各族を18列に並べた通常の周期表のそれぞれに含めた。1928年、メルクは当時アメリカの学校で広く流布していたデミングの18列の周期表を配布する準備を行い、1930年代までにはデミングの周期表は化学のハンドブックや百科事典にまで掲載されるようになった。それはまた、サージェント・ウェルチ(英語版)社によって長年配布され続けた。",
"title": "位置と区別"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "一部の著者は、金属と非金属の境界線に接している元素を半金属としては分類せず、その代り、例えば境界線の左側に接する元素を若干の非金属的性質を示す、対して右側に接する元素を若干の金属的性質を示すといった注釈をした。このような対となった分類は、金属や非金属の間の結合の種類を決定するための単純な規則の確立を容易にすることができる。他の著者は、いくつかの元素を半金属と分類することが半金属は周期表上の境界線上で急に一体として変化するのではなく、その性質が徐々に変化していくことが強調されるという事を提示した。時折、金属と非金属の間の境界線は、金属と半金属および半金属と非金属をそれぞれ分割する2本の境界線とされることもある。",
"title": "位置と区別"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "いくつかの周期表では、金属と非金属の形式的な境界線が無くとも半金属元素を区別する。その場合、境界線の代わりに斜めの帯もしくは広がった領域のような左上から右下に走る範囲で示され、それはヒ素の周りに集まる。メンデレーエフは、金属と非金属の間に明確な境界を引くことは不可能であり、そこにはいくつもの中間的な物質が存在しているという見解を示した。いくつかの他の出典は、境界線の混乱や曖昧さを注記し、見かけ上不定であると示唆し、その妥当性に対する反論の論拠を提供し、そしてその誤解を招き、論争となり、またはおおよその性質としてのコメントが行われた。デミング自身も、この境界線を正確には引けないことを注記した。",
"title": "位置と区別"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ヒ素やアンチモンのような一般的な半金属は、それらの純粋な単体で構造材として用いるには脆すぎる。一般的な半金属の典型的な用途としては以下に示すように、ガラス質の酸化物としての用途、合金の構成元素もしくは添加剤としての用途、半導体の構成元素もしくはそのドーパントとしての用途などが挙げられる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "半金属元素の酸化物である酸化ホウ素 (B2O3)、二酸化ケイ素 (SiO2)、二酸化ゲルマニウム (GeO2)、三酸化二ヒ素 (As2O3)および三酸化アンチモン (Sb2O3)はガラス質を形成する。二酸化テルル (TeO2)もまたガラス質を形成するが、そのためには結晶の形成を避けるために焼入れを行うか、もしくは不純物を添加剤としてを加える必要がある。これらの化合物は、化学用や家庭用、産業用のガラス製品において実用されており、特にゲルマニウムおよびテルルは光学ガラスとして利用されている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1914年、Deschは、特定の非金属元素は明確に金属的な性質の化合物を形成することが出来、これらの元素はしたがって合金の組成として組み込むことが可能であるかもしれないと書き記した。彼は合金の構成元素として、特にケイ素、ヒ素およびテルルを想定していた。後にPhillipsとWilliamsは、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモンの貧金属との混合物はおそらく最良の合金であるとされると記した。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "半金属元素を合金に加えることで、その融点を下げる方向に制御することができる。また、その合金の融点 (Tm)に対するガラス転移温度 (Tg)の比 (Tg/Tm)を大きくすることで非晶質な合金を形成することができるため、半金属元素を加えて融点を下げるということは非晶質な合金が得やすくなることを意味している。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ホウ素は遷移金属との間で、MnB (n>2の場合)の組成の金属間化合物および合金を形成する事ができる。このような合金もしくは金属間化合物は、最密に充填された金属原子の隙間にホウ素原子が入り込む形で形成される。Sandersonは、ケイ素は自然な状態においては半金属であるが、金属との合金を形成する能力においては完全に金属的に見えるとコメントした。鉄、コバルト、ニッケルの3元合金にホウ素およびケイ素を添加することで、透磁性の大きな非晶質の軟磁性合金を形成することができる。このような合金は保磁力が低いためにヒステリシス損を低く抑えることが可能となり、非晶質合金であることに起因して電気抵抗が大きいため渦電流損も低く抑えられる。これらの性質を利用して、磁気ヘッドや電気トランスの鉄芯のような軟磁気性が要求される用途において有用な材料として広く用いられている。ゲルマニウムは多くの金属元素と合金を形成することができ、その中で最も重要なものとして第11族元素(銅族元素)との合金が挙げられる。ヒ素はプラチナや銅を含む金属と合金を形成することができる。アンチモンは活字合金(アンチモンを最高25 wt%含んだ鉛合金)やピューター(アンチモンを最高20 wt%含んだスズ合金)に代表されるように、合金の構成元素としてよく知られている。テルルは銅との合金として利用される。1973年のアメリカ地質調査所の報告によれば、当時のテルル生産量のおよそ18 %は銅-テルル合金(テルルを40から50 %含む)および鉄-テルル合金(テルルを50から58 %含む)向けに販売されていた。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "全ての一般的な半金属もしくはそれらの化合物は、半導体もしくは固体電子工学産業における用途が見つけられている。その代表的な例としてケイ素は半導体の主要用途の一つである太陽電池材料として広く利用されており、テルルの化合物であるテルル化カドミウムも低コストな太陽電池材料として実用化されている。ホウ素はその高い融点と、不純物の導入および制御、保持の困難さに起因して単結晶を得ることが相対的に難しかったため、ホウ素が半導体として利用され始めたのは他の半金属元素よりも遅かった。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "As2Se3やSb2Te3のようなIV-V族化合物半導体は、ガラス質を形成する低融点半導体として利用される。また、InSbやBixSb1-xのような半金属合金は、バンドギャップの非常に小さな(InSbで0.17 eV)微小ギャップ半導体として利用される。Mg2SiやMg2GeのようなII-IV族半導体もバンドギャップが狭い。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "固体で溶融する可鍛性の物質であるという古代における金属の概念は、プラトンの『ティマイオス』(紀元前360年)やアリストテレスの『気象学』に見られる。強く金属的な性質を示す物質を、金属的な性質が劣っている物質(例えば亜鉛、アンチモン、ビスマス、輝安鉱、黄鉄鉱、方鉛鉱など)から分離するための分類システム構築の試みは、偽ゲベル(英語版) (1310年)、バジル・バレンタイン(英語版)の(Conclusiones)、パラケルスス、ヘルマン・ブールハーフェの(Elementa Chemiæ 1733年)などによって行われ、これらは半金属 (semi-metals)もしくは偽金属(bastard metals)と呼ばれた。1735年、イェオリ・ブラントは可鍛性の有無をこの分類の原則とすることを提言し、その原則に従って水銀を金属から分離した。ルドルフ・ヴォーゲル (Institutiones Chemiæ 1755年)およびビュフォン (Histoire naturelle des Minéraux 1785年)も同様の見解を示した。その後の1759-60年、ブラウンによって冷却による水銀の凝固が観察され、それが1783年にハチンズとヘンリー・キャヴェンディッシュによって確認されたため、水銀の可鍛性が明らかとなり水銀は金属に含まれるようになった。しかし、これらの脆く、不完全な金属であるという非金属の概念は、アントワーヌ・ラヴォアジエの「革命的」な『化学原論』が出版された1789年以降、徐々に放棄された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1807年、金属と金属に類似した物質との古い分類を復活させる試みにおいてヒルマンとサイモンは、新しく発見された元素であるナトリウムおよびカリウムが水よりも軽く、多くの化学者が金属として分類することに賛成しなかったことから、これらの元素に言及するために半金属という用語を用いることを提言したが、化学者のコミュニティーに無視された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1811年もしくは1812年、イェンス・ベルセリウスは、非金属元素がオキソアニオンを形成する能力(例えばクロムがクロム酸イオンCrO4を形成するように多くの金属がオキソアニオンを形成するのと同様に、例えば硫黄が硫酸イオンSO4を形成するように非金属元素もオキソアニオンを形成する)に関して半金属と呼称した。ベルセリウスの用いた半金属という語の用法は広く採用されたが、それはその後の論評者らによって直観に反する、誤用される、妥当でない、もしくは説得力がないと評価された。1825年、ベルセリウスのTextbook of Chemistryの改定されたドイツ語版において、ベルセリウスは自らが定義した半金属の概念を3種類に再分割した。1つは常に気体である「gazloyta」(水素、窒素、酸素)、1つは真の半金属「metalloid」(硫黄、リン、炭素、ホウ素、ケイ素)、そしてもう1つは塩を形成する「halogenia」(フッ素、塩素、臭素、ヨウ素)である。1845年に発行されたA dictionary of science, literature and artにおいて、ベルセリウスによる元素の分類は「I. gazolytes; II. halogens; III. metalloids(一定の側面においては金属に類似しているが、他は広く異なっている); IV. metals」と表された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1844年、ジャクソンは金属に類似しているが、いくつかの性質が欠損しているという現在の半金属の概念と類似した意味を半金属の用語に与えた。1864年、非金属の分類のために使用されていた半金属という用語は最高機関によって依然として認可されていたが、その使用は必ずしも適切ではなく、半金属の用語はより正確であるヒ素のような他の元素への適用も考慮されていた。1866年という早い年代に、一部の著者は非金属元素への言及のための用語として、「半金属」よりもむしろ「非金属」という語を使用していた。1876年、チルデンは酸素、塩素、フッ素のような元素に半金属という用語を与えるような慣例が非論理的であるにもかかわらず非常に一般的であることに反対して抗議し、それまでの分類に代わって元素を真の金属であるbasigenic、半金属であるimperfect metals、非金属であるoxigenicの3つに分割した。1888年になっても、金属、非金属、半金属という元素の分類は、依然として金属と半金属という分類よりも特殊な分類であると考えられており、潜在的な混乱の原因であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1911年、ビーチは半金属について以下のように説明した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1917年ごろ、ミズーリ州薬剤師審議会は以下のように記した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1920年代間、半金属という用語の2つの意味は流行の移り変わりを受けているように見えた。コーチはA Dictionary of Chemical Termsにおいて、「半金属」とは「非金属」の古くすたれた言い方であると定義した。一方でWebster 's New International Dictionaryにおいては、非金属を言及するための半金属という用語の使用は、ヒ素やアンチモン、テルルのような典型的な金属に類似した元素へ何らかの方法で適用される基準として注記された。半金属という用語の使用は、その後1940年までの間大きく流動していた。半金属の用語を中間もしくは境界線上の元素に対して適用するという合意は、続く1940年から1960年の間には起こらなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1947年、ライナス・ポーリングは、彼の古典的かつ影響力のあるテキストであるGeneral chemistry: An introduction to descriptive chemistry and modern chemical theoryにおいて、半金属についての言及を行った。ポーリングは半金属を中間的な性質を有する元素である...ホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウムを含み、[周期表上で]斜めの領域を占領していると記述した。1959年、国際純正・応用化学連合 (IUPAC)は、たとえ半金属という用語が非金属の概念を意味する用語としてフランス人などの間でいまだ使われているとしても、半金属という用語は非金属を表すために用いてはならないと勧告した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1970年、IUPACはさらに、半金属 (metalloid)という用語は異なる言語において継続的に一貫性なく使用されているため半金属 (metalloid)という用語を放棄するように勧告し、金属、半金属 (semimetal)、非金属の用語を代わりに用いることを提案した。しかしながら2010年現在では、バンド理論における半金属 (semi-metal)という用語と明確に区別ができるため、元素の分類における「semimetal」という用語の使用は「metalloid」という用語よりもむしろ少なくなっている。「metalloid」という用語はこのような奇妙で中間的な性質の元素を正確に説明しており、「metalloid」という用語が時代遅れであるという言及はナンセンスであると評された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "バンド理論における半金属(Semi-metal、以下本節においてセミメタルという)はフェルミエネルギーが、価電子帯の最上部と、伝導帯の最下部を横切っている状態(価電子帯と伝導帯が僅かに重なっている)、またはその状態を示す物質。この場合、価電子帯最上部にホールができ、伝導帯最下部は電子が占有している。金属より電気伝導度(電気伝導率)は低い。セミメタルとしては、グラファイト、ヒ素、アンチモン、ビスマスなどがある。",
"title": "バンド理論における半金属"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "温度と電気伝導との関係は、金属と同じで温度が下がるほど電気伝導は良くなる(電気伝導度が上がる)。セミメタルの特徴としては、キャリアが少ない、有効質量が小さい、反磁性磁化率や誘電率が大きいことなどが挙げられる。",
"title": "バンド理論における半金属"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "なお、ハーフメタリックという用語は、ここで述べたセミメタルとは別の概念である。",
"title": "バンド理論における半金属"
}
] | 半金属とは、元素の分類において金属と非金属の中間の性質を示す物質のことである。その定義は曖昧であり、決定的な定義や分類基準は存在せず、様々な方法によって分類が試みられている。 一般的にはホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルルの6元素が半金属とされ、セレン、ポロニウム、アスタチンの3元素がしばしば加えられる。炭素やリンなどは通常半金属とはされないものの、その同素体にはグラファイトや黒リンのような半金属性を有しているものが存在する。これらの半金属元素は周期表上において、おおよそホウ素からポロニウムまでを繋ぐライン上に現れるが、その境界線の引き方にもまた多くの議論がある。 半金属に特徴的な性質としては脆性、半導体性、金属光沢、酸化物の示す両性などが挙げられ、半金属のイオン化エネルギーや電気陰性度の値は一定の範囲に収まる。半金属の単体もしくはその化合物は、ガラスや半導体、合金の構成元素として広く利用されている。 | {{Otheruses|元素の分類としての半金属|バンド理論における半金属|半金属 (バンド理論)}}
{| class="wikitable" cellspacing="0" cellpadding="2" style="float:right; text-align:center; width:26em; margin: 0 0 0.5em 0.5em"
|-
! style="width:1em" |
! style="width:5em" | [[第13族元素|13]]
! style="width:5em" | [[第14族元素|14]]
! style="width:5em" | [[第15族元素|15]]
! style="width:5em" | [[第16族元素|16]]
! style="width:5em" | [[第17族元素|17]]
|-
! [[第2周期元素|2]]
| style="background:#baffba; border-left:4px solid grey; border-bottom:4px solid grey;" | <div style="font-size:16px">B</div><div style="font-size:11px">[[ホウ素]]</div>
| style="background:#ffffba;" | <div style="font-size:16px">C</div><div style="font-size:11px">[[炭素]]</div>
| style="background:#ffffff;" | <div style="font-size:16px">N</div><div style="font-size:11px">窒素</div>
| style="background:#ffffff;" | <div style="font-size:16px">O</div><div style="font-size:11px">酸素</div>
| style="background:#ffffff;" | <div style="font-size:16px">F</div><div style="font-size:11px">フッ素</div>
|-
! [[第3周期元素|3]]
| style="background:#ffffba; border-right:4px solid grey; border-top:4px solid grey;" | <div style="font-size:16px">Al</div><div style="font-size:11px">[[アルミニウム]]</div>
| style="background:#baffba; border-left:4px solid grey; border-bottom:4px solid grey;" | <div style="font-size:16px">Si</div><div style="font-size:11px">[[ケイ素]]</div>
| style="background:#ffffff;" | <div style="font-size:16px">P</div><div style="font-size:11px">リン</div>
| style="background:#ffffff;" | <div style="font-size:16px">S</div><div style="font-size:11px">硫黄</div>
| style="background:#ffffff;" | <div style="font-size:16px">Cl</div><div style="font-size:11px">塩素</div>
|-
! [[第4周期元素|4]]
| style="background:#ffffff;" | <div style="font-size:16px">Ga</div><div style="font-size:11px">ガリウム</div>
| style="background:#baffba; border-right:4px solid grey; border-top:4px solid grey;" | <div style="font-size:16px">Ge</div><div style="font-size:11px">[[ゲルマニウム]]</div>
| style="background:#baffba; border-left:4px solid grey; border-bottom:4px solid grey;" | <div style="font-size:16px">As</div><div style="font-size:11px">[[ヒ素]]</div>
| style="background:#ffbadc;" | <div style="font-size:16px">Se</div><div style="font-size:11px">[[セレン]]</div>
| style="background:#ffffff;" | <div style="font-size:16px">Br</div><div style="font-size:11px">臭素</div>
|-
! [[第5周期元素|5]]
| style="background:#ffffff;" | <div style="font-size:16px">In</div><div style="font-size:11px">インジウム</div>
| style="background:#ffffff;" | <div style="font-size:16px">Sn</div><div style="font-size:11px">スズ</div>
| style="background:#baffba; border-right:4px solid grey; border-top:4px solid grey;" | <div style="font-size:16px">Sb</div><div style="font-size:11px">[[アンチモン]]</div>
| style="background:#baffba; border-left:4px solid grey; border-bottom:4px solid grey;" | <div style="font-size:16px">Te</div><div style="font-size:11px">[[テルル]]</div>
| style="background:#ffffff;" | <div style="font-size:16px">I</div><div style="font-size:11px">ヨウ素</div>
|-
! [[第6周期元素|6]]
| style="background:#ffffff;" | <div style="font-size:16px">Tl</div><div style="font-size:11px">タリウム</div>
| style="background:#ffffff;" | <div style="font-size:16px">Pb</div><div style="font-size:11px">鉛</div>
| style="background:#ffffff;" | <div style="font-size:16px">Bi</div><div style="font-size:11px">ビスマス</div>
| style="background:#badcff; border-right:4px solid grey; border-top:4px solid grey;" | <div style="font-size:16px">Po</div><div style="font-size:11px">[[ポロニウム]]</div>
| style="background:#badcff;" | <div style="font-size:16px">At</div><div style="font-size:11px">[[アスタチン]]</div>
|-
| colspan="6" style="text-align:left; font-size:90%" | [[周期表]]の[[Pブロック元素|Pブロック]]で半金属とされる元素。パーセンテージは{{仮リンク|半金属の分類リスト文献の一覧|en|lists of metalloids}}において半金属として扱われている割合の平均値である。
{{legend|#baffba|一般的 (93%)}}
{{legend|#badcff|よくある (44%)}}
{{legend|#ffbadc|あまりない (24%)}}
{{legend|#ffffba|まれ (9%)}}
<div class="legend"><span style="display:inline-block; width:1.5em; height:1.5em; margin:1px 0; border:0px; border-left:4px solid grey; border-bottom:4px solid grey; background-color:#e8e8e8;"> </span> <span style="">{{仮リンク|金属と非金属の境界線|en|dividing line between metals and nonmetals}}の典型的な例。</span></div>
|}
'''半金属'''(はんきんぞく、{{lang-en-short|metalloid}})とは、[[元素]]の分類において[[金属]]と[[非金属]]の中間の性質を示す物質のことである。その定義は曖昧であり、決定的な定義や分類基準は存在せず、様々な方法によって分類が試みられている。
一般的には[[ホウ素]]、[[ケイ素]]、[[ゲルマニウム]]、[[ヒ素]]、[[アンチモン]]、[[テルル]]の6元素が半金属とされ、[[セレン]]、[[ポロニウム]]、[[アスタチン]]の3元素がしばしば加えられる。[[炭素]]や[[リン]]などは通常半金属とはされないものの、その[[同素体]]には[[グラファイト]]や黒リンのような半金属性を有しているものが存在する。これらの半金属元素は周期表上において、おおよそホウ素からポロニウムまでを繋ぐライン上に現れるが、その境界線の引き方にもまた多くの議論がある。
半金属に特徴的な性質としては脆性、[[半導体]]性、[[金属光沢]]、酸化物の示す[[両性 (化学)|両性]]などが挙げられ、半金属の[[イオン化エネルギー]]や[[電気陰性度]]の値は一定の範囲に収まる。半金属の単体もしくはその化合物は、[[ガラス]]や[[半導体]]、[[合金]]の構成元素として広く利用されている。
== 分類 ==
元素は通常、その一般的な化学的、物理的性質によって金属もしくは非金属に分類される。しかしながら、いくつかの元素はその中間の性質を有していたり<ref>[[#Deming_&_Hendricks_1942|Deming & Hendricks 1942, p. 170]]</ref>、両方の性質を併せ持ったりしているために<ref>[[#Butler_1930|Butler 1930, p. 23]]</ref>、その特性による分類が困難となる<ref>[[#ITC1908|International Textbook Company 1908, p. 21]]</ref><ref>[[#Hill2000|Hill & Holman 2000, p. 41]]</ref>。そのため、これらの元素はしばしば半金属として分類される。半金属を表すmetalloidの語は、[[ラテン語]]で金属を意味する'' metallum ''および、[[ギリシア語]]で形状もしくは外観が類似していることを意味する''oeides''の語に由来する<ref>[[#OED1989|''Oxford English Dictionary'' 1989, 'metalloid']]</ref><ref>[[#GGH2003|Gordh, Gordh & Headrick 2003, p. 753]]</ref>。日本語では半金属の他に、准金属<ref name=sakurai33>[[#sakurai2003|櫻井、鈴木、中尾 (2003)、33頁。]]</ref>、亜金属<ref>[[#murata2004|村田 (2004)、248頁。]]</ref>、またはそのままメタロイド<ref>[[#imai1988|今井、大竹 (1988)、15頁。]]</ref>とも呼ばれる。半金属は金属と非金属の間で曖昧な緩衝地帯を形成する分類基準であると説明される{{#tag:ref|半金属の曖昧さについては、例えばルヴレ<ref>[[#Rouvray1995|Rouvray 1995, p. 546]]. ルヴレは金属、半金属および非金属の重なり合う領域は元素の[[電気伝導度]]による分類を用いることで、厳しく白黒をはっきりさせる方法論よりもよりよく現実を反映させることができると提示した。</ref>、コブとフェタロフ<ref>[[#Cobb2005|Cobb & Fetterolf 2005, p. 64]]: ''金属と非金属の境界はむしろ曖昧であり、ジグザグの階段線近傍の元素は半金属と呼ばれ、それは必ずしもいずれかの定義とは合致しないことを意味している。''</ref>、フィレット<ref>[[#Fellet2011|Fellet 2011]]: ''化学は色々と曖昧な定義のものがある''</ref>らによる言及がある。半金属という分類を「緩衝地帯 (buffer zone) に見立てる用例はロコウにみられる<ref>[[#Rochow1977|Rochow 1977, p. 14]]</ref>。半金属を単一の基準によって分類する例としては、電気伝導度を用いたメイハンとマイヤーズ<ref>[[#Mahan1987|Mahan & Myers 1987, p. 682]]</ref>、[[電気陰性度]]を用いたミースラーとタール<ref>Miessler & Tarr 2004, p. 243</ref>、酸化物の酸-塩基性によって分類したハットンとディカーソンなどがある<ref>[[#Hutton1970|Hutton & Dickerson 1970, p. 162]]</ref>。ニーン、ロジャーズおよびシンプソンは、元素の構造もしくは酸との反応性のような、個々の基準を用いることをさらに提言している<ref>[[#Kneen1972|Kneen, Rogers and Simpson 1972, p. 219]]</ref>。複数の基準を用いた例としては、マスタートンとスロウィンスキーによる[[イオン化エネルギー]]と電気陰性度、電気的ふるまいの3つの並列的な基準によって半金属を分類した例がみられる<ref>[[#Masterton1977|Masterton & Slowinski 1977, p. 160]]</ref>。|group="注釈"}}。
半金属は通常、金属および非金属と並び立つ元素の第三の分類であると考えられている<ref name=roher>Roher 2001, pp. 4–6</ref>が、その包含する元素は、場合によっては(半金属ではなく)金属に分類されたり<ref name=tyler>Tyler 1948, p. 105</ref><ref>Reilly 2002, pp. 5–6</ref>、(半金属ではなく)非金属に分類されたり<ref>[[#Hampel1976|Hampel & Hawley 1976, p. 174]]</ref>、あるいは半金属に分類されながら、半金属という分類自体が金属・非金属いずれかのサブカテゴリであるとみなされたりする<ref>[[#Goodrich1844|Goodrich 1844, p. 264]]</ref><ref>[[#TheChemical1897|WA Tilden' 1897, p. 189]]</ref><ref name=h191>[[#Hampel1976|Hampel & Hawley 1976, p. 191]]</ref><ref>[[#Lewis1993|Lewis 1993, p. 835]]</ref><ref name=herold>[[#Hérold2006|Hérold 2006, pp. 149–150]]</ref>{{#tag:ref|オーダーベルグは[[存在論]]的な根拠を基に、金属でないならばすべて非金属であり、したがって半金属は全て非金属に含まれると主張した<ref>[[#Oderberg2007|Oderberg 2007, p. 97]]</ref>。|group="注釈"}}。
== 性質 ==
半金属という用語には、普遍的に合意された厳格な定義は存在せず<ref name=goldsmith>[[#Goldsmith1982|Goldsmith 1982, p. 526]]</ref><ref name="hawkes">[[#Hawkes2001|Hawkes 2001, p. 1686]]</ref>、個々の元素の分類は「任意である」とされる<ref>[[#Sharp1981|Sharp 1981, p. 299]]</ref>。しかしながら、以下に示す金属-半金属-非金属の物理的、化学的性質の表のように、金属および非金属の性質と比較することで半金属の性質が浮かび上がる<ref>[[#Kneen1972|Kneen, Rogers & Simpson, 1972, p. 263]]</ref>{{#tag:ref|特に断りの無い限り、以下の表の金属および半金属に関するデータはKneen, Rogers & Simpson, 1972による。また、金属および非金属の列に見られる網掛けは、半金属の性質との間に明確な共通点があることを示している。|group="注釈"}}。これらは一般的な共通点を抽出しているので、いくつかの例外が存在している。
=== 物理的性質 ===
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+ 物理的性質
! 性質 !! 金属 !! style="background-color: gainsboro;" | 半金属 !! 非金属
|-
! 形状
| style="background-color: gainsboro;" | 固体(室温もしくはそれに近い温度において、[[ガリウム]]、[[水銀]]、[[セシウム]]、[[フランシウム]]のような少数の金属は液体。)<ref>[[#Stoker2010|Stoker 2010, p. 62]]</ref><ref>[[#Chang2002|Chang 2002, p. 304]]. Changはフランシウムの融点をおよそ23 {{℃}}と推定している。</ref>
| style="background-color: gainsboro;" | 固体<ref name="Rochow 1966, p. 4">[[#Rochow1966|Rochow 1966, p. 4]]</ref>
| 主に気体<ref>[[#Hunt2000|Hunt 2000, p. 256]]</ref>、周期表において金属と非金属の境界線近くに位置するものは液体もしくは固体{{#tag:ref|境界線近くに位置する窒素は例外的に気体である。|group="注釈"}}
|-
! 外観
| style="background-color: gainsboro;" | 特徴的な[[光沢]]([[金属光沢]])
| style="background-color: gainsboro;" | 金属光沢<ref name="Rochow 1966, p. 4" />
| 無色、赤、黄、緑、黒もしくは中間色<ref>[[#Pottenger1976|Pottenger & Bowes 1976, p. 138]]</ref>{{#tag:ref|黒リン、ヨウ素のような金属光沢を有するものも一部存在する。|group="注釈"}}
|-
! 同素体
| 多くは金属性の同素体([[ビスマス]]、[[スズ]]は半導体性の同素体を有する)
| style="background-color: gainsboro;" | いくつかの特徴的な同素体を有し<ref>[[#Deming1952|Deming 1952, p. 394]]</ref>、それらは金属性および非金属性の性質を有する<ref name="ReferenceA">[[#Hultgren1966|Hultgren 1966, p. 648]]</ref>
| [[酸素]]、[[硫黄]]は非金属性の同素体を有し、周期表において金属と非金属の境界線近くに位置する[[炭素]]や[[リン]]、[[セレン]]はより金属性の同素体を有する
|-
! 密度
| アルカリ金属のようなわずかな例外を除き高い<ref>[[#Sisler1973|Sisler 1973, p. 89]]</ref>
| style="background-color: gainsboro;" | 周期表上において隣接した[[卑金属]]よりは低いが、非金属よりは高い<ref name="herold" />{{#tag:ref|ただし第2周期のベリリウム、ホウ素、炭素間では例外的に卑金属であるベリリウムの密度が最も低くなり、ホウ素と炭素の密度は同程度である。|group="注釈"}}
| 低い
|-
! 弾性
| 固体状態において弾性があり、延性および可鍛性を有する
| style="background-color: gainsboro;" | 弾力がなく脆い<ref name="McQuarrie85">[[#McQuarrie1987|McQuarrie & Rock 1987, p. 85]]</ref>
| style="background-color: gainsboro;" | 固体状態において弾力がなく脆い
|-
! 電気伝導度
| 高く良好{{#tag:ref|最も低い[[マンガン]]で6.9 × 10<sup>3</sup> S•cm<sup>–1</sup>、最も高い[[銀]]で6.3 × 10<sup>5</sup>である<ref>[[#Desai1984|Desai, James & Ho 1984, p. 1160]]</ref><ref>[[#Matula1979|Matula 1979, p. 1260]]</ref>。|group="注釈"}}
| style="background-color: gainsboro;" | 中程度に良好<ref>[[#Choppin1972|Choppin & Johnsen 1972, p. 351]]</ref>{{#tag:ref|最も低い[[ホウ素]]で1.5 × 10<sup>–6</sup> S•cm<sup>–1</sup>、最も高い[[ヒ素]]で3.9 × 10<sup>4</sup>の伝導度を示す<ref>[[#Schaefer1968|Schaefer 1968, p. 76]]</ref><ref>[[#Carapella1968|Carapella 1968, p. 30]]</ref>。[[セレン]]を半金属に含めるならば、半金属の電気伝導度の最低値は10<sup>–9</sup>から10<sup>–12</sup> S•cm<sup>–1</sup>スケールとなる<ref>[[#Glazov1969|Glazov, Chizhevskaya & Glagoleva 1969 p. 86]]</ref><ref name="名前なし-1">[[#Kozyrev1959|Kozyrev 1959, p. 104]]</ref><ref name="名前なし-2">[[#Chizhikov1968|Chizhikov & Shchastlivyi 1968, p. 25]]</ref>。|group="注釈"}}
| 中程度に悪い{{#tag:ref|電気伝導度の低い気体元素で<10<sup>–18</sup> S•cm<sup>–1</sup>、最も高い[[グラファイト]]で3 × 10<sup>3</sup>の伝導度を示す<ref>[[#Bogoroditskii1967|Bogoroditskii & Pasynkov 1967, p. 77]]</ref><ref>[[#Jenkins1976|Jenkins & Kawamura 1976, p. 88]]</ref>。|group="注釈"}}
|-
! 液体時の電気伝導度<ref name="名前なし-3">[[#Rao1986|Rao & Ganguly 1986]]</ref>
| style="background-color: gainsboro;" | 固体時と同様に高く良好
| style="background-color: gainsboro;" | 液状では金属と同様に高く良好<ref name=edwards>[[#Edwards1983|Edwards & Sienko 1983, p. 691]]</ref><ref>[[#Anita1998|Anita 1998]]</ref>
| 固体時と同様に中程度に悪い
|-
! 熱伝導率
| 中程度もしくは高い<ref>[[#Cverna2002|Cverna 2002, p.1]]</ref>
| style="background-color: gainsboro;" | [[ケイ素]]は高いものの、大部分は中程度<ref name=McQuarrie85/><ref>[[#Cordes1973|Cordes & Scaheffer 1973, p. 79]]</ref>
| 非常に低い<ref>[[#Hill2000|Hill & Holman 2000, p. 42]]</ref>、もしくは非常に高い<ref>[[#Tilley2004|Tilley 2004, p. 487]]</ref>
|-
! 結晶構造
| 高い配位数を取る密な結晶構造
| style="background-color: gainsboro;" |中程度の配位数を取る比較的疎な結晶構造であり<ref>[[#Wiberg2001|Wiberg 2001, p. 143]]</ref>、金属の密な結晶構造とは対照的である<ref>Gupta et al. 2005, p. 502</ref>
| 低い配位数を取る
|-
! 溶解時の状態
| 一般的に溶解すると体積が増える<ref name=wilson1966p260>[[#Wilson1966|Wilson 1966, p. 260]]</ref>
| style="background-color: gainsboro;" | ほとんどの金属<ref>[[#Habashi2003|Habashi 2003, p. 73]]</ref>と異なり、体積が減少する<ref>[[#Wittenberg1972|Wittenberg 1972, p. 4526]]</ref>
| 一般的に溶解すると体積が増える<ref name=wilson1966p260/>
|-
! 溶融エンタルピー
| style="background-color: gainsboro;" | 高い
| style="background-color: gainsboro;" | 他の最密充填構造を取る金属と比較して<ref>[[#Slough1972|Slough 1972, p. 362]]</ref>しばしば異常に高い<ref>[[#Wilson1965|Wilson 1965, p. 502]]</ref>
| 低い
|-
! バンド構造
| 半金属的(semi-metal、[[半金属 (バンド理論)]]参照)なバンド構造を持つ[[ビスマス]]以外は金属的
| style="background-color: gainsboro;" | 半導体、[[アンチモン]]および[[ヒ素]]は半金属<ref name=h191/><ref>Wulfsberg 2000, p. 620</ref>
| 半導体もしくは絶縁体<ref name=Swalin>[[#Swalin1962|Swalin 1962, p. 216]]</ref>
|-
! 電子のふるまい
| [[自由電子]]
| style="background-color: gainsboro;" |
* [[価電子]]は金属ほどには自由に非局在化しておらず、[[共有結合]]性の結合がかなりの割合を占めている<ref>[[#Russell1981|Russell 1981, p. 628]]</ref>
* ゴールドハマー・ハーツフェルド基準{{#tag:ref|ゴールドハマー・ハーツフェルド基準とは、固体もしくは液体の元素において、ある位置に置かれた個々の原子の価電子を保持している力と、その同一の電子に対して作用している原子間の相互作用によって生じる力との比を示す尺度である。原子間の相互作用によって生じる力が価電子を保持している力と同等もしくはより大きければ、価電子の遍歴(電子が自由電子的にふるまう)が示されて金属的な挙動が予測され<ref>[[#Herzfeld1927|Herzfeld 1927]]</ref><ref>[[#Edwards2000|Edwards 2000, pp. 100–103]]</ref>、そうでなければ非金属的な挙動が予測される。古典的な理論に基づくが<ref>[[#Edwards1999|Edwards 1999, p. 416]]</ref>ハーツフェルド基準は元素の金属的な性質の発現に対して、比較的単純な一次合理性を提供している<ref name="edwards695">[[#Edwards1983|Edwards & Sienko 1983, p. 695]]</ref>。|group="注釈"}}に対して、金属から非金属にまたがる比率を有する<ref name="edwards" /><ref name="edwards2010">[[#Edwards2010|Edwards et al. 2010]]</ref>。
| 非自由電子。ただし炭素の同素体であるグラファイトなどは自由電子を有している<ref>[[#ono2002|小野、松井 (2002)、12頁。]]</ref>。
|}
=== 化学的性質 ===
{| class="wikitable" style="font-size: 90%;"
|+ 化学的性質
! 性質 !! 金属 !! style="background-color: gainsboro;" | 半金属 !! 非金属{{#tag:ref|水素やハロゲン元素、希ガス元素はここに挙げた性質から外れることがある。例えば水素はアニオンよりもプロトンを形成しやすく、ハロゲンはイオン結合性の塩も多く形成する。|group="注釈"}}
|-
! 一般的なふるまい
| 金属的
| style="background-color: gainsboro;" | 非金属的<ref>[[#Bailar1989|Bailar et al. 1989, p. 742]]</ref>
| style="background-color: gainsboro;" | 非金属的
|-
! イオン化エネルギー
| 比較的低い
| style="background-color: gainsboro;" | 中程度<ref>[[#Metcalfe1966|Metcalfe, Williams & Castka 1966, p. 72]]</ref>、通常金属と非金属の中間値を取る<ref>[[#Chang1994|Chang 1994, p. 311]]</ref>
| 高い
|-
! 電気陰性度
| 低い
| style="background-color: gainsboro;" | ポーリングの電気陰性度(Allredの改定値)において2に近い電気陰性度を有しており<ref>[[#Pauling1988|Pauling 1988, p. 183]]</ref>、アレンの電気陰性度においては1.9から2.2という狭い範囲の電気陰性度を有している<ref>[[#Mann2000|Mann et al. 2000, p. 2783]]</ref>
| 高い
|-
! イオン生成
| 陽イオン([[カチオン]])を生成する傾向がある
| style="background-color: gainsboro;" |
* 通常の非金属と比較して水中でアニオンを形成する傾向が低下する<ref>[[#Cox2004|Cox 2004, p. 27]]</ref>
* [[溶液化学]]は[[オキソアニオン]]の形成および反応に支配される<ref>[[#Hiller1960|Hiller & Herber 1960, p. 225]]</ref><ref>[[#Beveridge1997|Beveridge et al. 1997, p. 185]]</ref>
| style="background-color: gainsboro;" | 陰イオン([[アニオン]])を生成する傾向がある
|-
! 結合
| 共有結合は滅多に形成しない
| style="background-color: gainsboro;" | イオン結合性化合物および共有結合性化合物のどちらも形成することができる<ref name="Young RV 2000, p. 849" />
| 多くは共有結合を形成する
|-
! 酸化数
| ほぼ常に正の酸化数を取る
| style="background-color: gainsboro;" | 正もしくは負の酸化数を取る<ref>[[#Bailar1989|Bailar et al. 1989, p. 417]]</ref>
| style="background-color: gainsboro;" | 正もしくは負の酸化数を取る
|-
! 金属との混合
| style="background-color: gainsboro;" | 合金を与える
| style="background-color: gainsboro;" | 合金を形成することができる<ref name="ReferenceA" /><ref>[[#Bassett1966|Bassett et al. 1966, p. 602]]</ref><ref name="Young RV 2000, p. 849">[[#Young2000|Young & Sessine 2000, p. 849]]</ref>
| イオン性化合物もしくは侵入型化合物を形成する
|-
! 酸化物
|
* 低級酸化物はイオン性、塩基性
* 高級酸化物は共有結合性が強くなり、酸性
* ごくわずかにガラス質を形成する<ref>[[#Martienssen2005|Martienssen & Warlimont 2005, p. 257]]</ref>
| style="background-color: gainsboro;" |
* 高分子構造を取り<ref>[[#Brasted1974|Brasted 1974, p. 814]]</ref>、両性もしくは弱酸性になる傾向がある<ref name="Rochow 1966, p. 4" /><ref>[[#Atkins2006|Atkins 2006, pp. 8, 122–23]]</ref>
* ガラス質を形成する(ホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルル)<ref>[[#Sidorov1960|Sidorov 1960]]</ref>
|
* 共有結合性、酸性
* リン、硫黄、セレンはガラス質<ref name="名前なし-4">[[#Rao2002|Rao 2002, p. 22]]</ref>
|-
! ハロゲン化物(特に塩化物)
|
* イオン性
* 水溶性 (加水分解ではない)
| style="background-color: gainsboro;" |
* 共有結合性、揮発性<ref>[[#Caven1906|Caven & Lander 1906, p. 146]]</ref><ref>[[#Rochow1966|Rochow 1966, pp. 28–29]]</ref>
* 部分的に可逆的な加水分解をする<ref>[[#Dunstan1968|Dunstan 1968, pp. 408, 438]]</ref>
|
* 共有結合性
* 水によって加水分解する
|-
! 水素化物
|
* 活性な金属は融点の高い固体のイオン結合性水素化物を形成する
* [[遷移金属]]は金属水素化物を形成する
* 卑金属は共有結合性の水素化物を形成する
| style="background-color: gainsboro;" | 共有結合性の水素化物を形成する<ref>[[#Rochow1966|Rochow 1966, p. 34]]</ref>
| 気体もしくは液体の共有結合性水素化物を形成する
|-
! 有機金属化合物
| style="background-color: gainsboro;" | 多くの形を取る
| style="background-color: gainsboro;" | 形成することができる<ref>[[#Rock1974|Rock & Gerhold 1974, pp. 535, 537]]</ref>
| 形成しない
|}
=== 特徴 ===
[[ファイル:Polycrystalline-germanium.jpg|thumb|150px|典型的な半金属であるゲルマニウム。半金属の特徴である金属光沢がみられる。]]
上記の物理的、化学的性質のうち、脆さ<ref>[[#Nickelès|Nickelès 1861]]</ref><ref>[[#United1966|United States Air Force Medical Service 1966, p. 3-3]]</ref>もしくは半導体性<ref>[[#Schaffter2006|Schaffter 2006, p. 46]]</ref>、またはその両方<ref>[[#Remy1956|Remy 1956, p. 1]]</ref>は、著しく特徴的な半金属の指標として用いられてきた。しかし半導体性については、半金属に分類される元素の内ほとんどのものが半導体性を示すものの全ての元素が必ずしも半導体性を示すというわけではなく<ref>[[#Rochow1966|Rochow 1966, p. 14]]</ref>、「半金属」は[[周期表]]上において特定の元素の化学的、物理的(物質的)、電子的な性質に関連した化学的な概念であるのに対して、「半導体」は元素と化合物を含む素材の電子特性に関連した物理学的な概念であり<ref>[[#Malerba1985|Malerba 1985, p. 13]]</ref>、半金属と半導体は全く別の概念である。また、例えば半金属酸化物が[[両性 (化学)|両生]]を示すような、著しく際立った化学的な二重のふるまいもまた、これまでに用いられてきた半金属の基準の一つであり<ref>[[#Johnston1992|Johnston 1992, p. 57]]</ref>、半金属は全てが金属光沢を示す固体であるとされている<ref>[[#Boikess1985|Boikess & Edelson 1985, p. 85]]</ref>。
その他の性質は元素によって異なっている<ref>[[#Aldridge1998|Aldridge 1998, p. 290]]</ref>。半金属の見せる金属的な性質はいくつかの特徴の組み合わせである点に注意が必要であり、ホークスは、ある元素が半金属に属するか否かは、その元素が半金属に関連する性質をどの程度示すのかに基づいて元素毎に個別に審査することを提唱している<ref name="hawkes" />。
=== 半定量的な特徴付け ===
{| class="wikitable" style="font-size:90%;float:right;clear:right;width:25em;margin-left:1.4em;"
|-
! 元素 !! イオン化エネルギー !! 電気陰性度 !! バンド構造
|-
| B
| style="text-align:right" | 191
| style="text-align:right" | 2.04
| 半導体
|- style="background-color:Gainsboro"
| Si
| style="text-align:right" | 187
| style="text-align:right" | 1.90
| 半導体
|-
| Ge
| style="text-align:right" | 182
| style="text-align:right" | 2.01
| 半導体
|- style="background-color:Gainsboro"
| As
| style="text-align:right" | 225
| style="text-align:right" | 2.18
| 半金属
|-
| Sb
| style="text-align:right" | 198
| style="text-align:right" | 2.05
| 半金属
|- style="background-color:Gainsboro"
| Te
| style="text-align:right" | 207
| style="text-align:right" | 2.10
| 半導体
|-
| '''平均'''
| style="text-align:right" | 198
| style="text-align:right" | 2.05
|
|-
| colspan="4" style="text-align:left;" |一般的な半金属と、それらのイオン化エネルギー (kcal/mol)<ref>[[#NIST2010|NIST 2010]]. NISTにおいてイオン化エネルギーの値はeVで与えられているが、上記の表ではkcal/molに換算されている。</ref>、ポーリングの電気陰性度(オールレッドの改定値)およびバンド構造(周囲の状況が最も熱力学的に安定した状態での値)<ref>[[#Berger1997|Berger 1997]]</ref><ref>[[#Lovett1977|Lovett 1977, p. 3]]</ref>の表。
|}
マスタートンとスロウィンスキは、半金属の[[イオン化エネルギー]]は200 kJ/mol周辺、電気陰性度は2.0周辺に集まっておりそれらは一般的に半導体であるが、''(バンド理論における半金属である)アンチモンとヒ素は、金属のそれに近似した電気伝導度を有している''と記述した<ref>[[#Masterton1977|Masterton & Slowinski 1977, p. 160]]。彼らは半金属としてホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモンおよびテルルをリストアップし、ポロニウムおよびアスタチンは通常半金属として分類されるが''それらの化学的および物理的性質についてまだあまり知られておらず、そのような分類はむしろ任意でなければならない''と付け加えてコメントしている。</ref>。彼らの示す半金属の3つの特性は、右表のように6つの一般的な半金属に対して当てはまる。セレンおよびポロニウムはおそらくこの表からは排除され、アスタチンは含まれない{{#tag:ref|セレンのイオン化エネルギーは226 kcal/molであり、しばしば半導体性を示すが、電気陰性度は2.55と比較的高い。ポロニウムのイオン化エネルギーは196 kcal/molであり、電気陰性度は2.0 ENであるが、金属的なバンド構造を有する<ref>[[#Kraig2004|Kraig, Roundy & Cohen 2004, p. 412]]</ref><ref>[[#Alloul2010|Alloul 2010, p. 83]]</ref>。アスタチンのイオン化エネルギーは推定210±10 kcal/mol<ref>[[#NIST2011|NIST 2011]] NISTは9.2±0.4 eV = 212.2±9.224 kcal/molの値を与えるFinkelnburg & Humbach (1955)を引用している。</ref>、電気陰性度は2.2であるが、そのバンド構造は確実性の大きな範囲では知られていない。|group="注釈"}}。
他の定量的な特徴として[[空間充填率]]があり、一般的な半金属は34から41の間の空間充填率を示す。各半金属の空間充填率は、ホウ素:38 %、ケイ素およびゲルマニウム:34 %、ヒ素:38.5 %、アンチモン:41 %、テルル:36.4 %である<ref>[[#VanSetten2007|Van Setten et al. 2007, pp. 2460–61]] (ホウ素)</ref><ref>[[#Russell2005|Russell & Lee 2005, p. 7]] (ケイ素、ゲルマニウム)</ref><ref name="Pearson">[[#Pearson1972|Pearson 1972, p. 264]] (ヒ素、アンチモン、テルル;黒リンも)</ref>。これらの値は、大部分の金属の空間充填率が通常80%以上であり少なくとも68 %よりも高いことと比較して低い<ref>[[#Russell2005|Russell & Lee 2005, p. 1]]</ref>{{#tag:ref|[[ガリウム]]は金属としては珍しく、丁度39 %の空間充填率を有している<ref>[[#Russell2005|Russell & Lee 2005, pp. 6‒7, 387]]</ref>。他の顕著な値としては、[[ビスマス]]の42.9 %<ref name="Pearson" />、液体である[[水銀]]の58.5 %<ref>[[#Okakjima1972|Okakjima & Shomoji 1972, p. 258]]</ref>がある。|group="注釈"}}。しかし、非金属と分類される[[黒鉛]]の17 %<ref>[[#Kitaĭgorodskiĭ1961|Kitaĭgorodskiĭ 1961, p. 108]]</ref>や硫黄の19.2 %<ref name="Neuburger">[[#Neuburger1936|Neuburger 1936]]</ref>、ヨウ素の23.9 %<ref name="Neuburger" />、黒リンの28.5 %<ref name="Pearson" />よりは高く、しばしば半金属として分類されるセレンも28.5 %<ref name="Neuburger" />である。
一般的な半金属は、0.85から1.1、平均1.0のゴールドハマー・ハーツフェルド基準を有している<ref name=edwards695/><ref name=edwards2010/>。
=== 半金属性の発現 ===
通常半金属として分類される元素は電気陰性度が1.9から2.2の間に集まっている。電気陰性度が大きな元素は電子が強く原子に引きつけられているためs軌道のエネルギーが非常に低くなり、ns軌道とnp軌道のエネルギー差が大きくなるため電子が局在化した共有結合性のワイドバンドギャップ(すなわち絶縁体)であるような非金属的な性質が現れる。逆に、電気陰性度が小さな元素は電子が原子に引きつけられる力が弱いためs軌道のエネルギーが高くなり、ns軌道とnp軌道のエネルギー差が小さくなるため電子が非局在化した金属結合性のバンドギャップの無い(すなわち導体)金属的な性質が現れる。半金属元素の1.9から2.2という電気陰性度はちょうどこの両者の中間に位置するためns軌道とnp軌道のエネルギー差が中程度となり、したがって一部の電子が非局在化した共有結合性と金属結合性を併せ持つ中程度のバンドギャップ(すなわち半導体)という半金属元素特有の性質が現れる<ref>[[#miyoshi1998|三吉 (1998)、30頁。]]</ref>。
ホウ素が半金属性を示す理由は、その大きなイオン化エネルギーにも起因している。ホウ素の第一イオン化エネルギーは8.296 eVと比較的大きく、そのためホウ素はイオン化してイオン結合を形成することなく共有結合性の結合を形成する<ref>[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)、285頁。]]</ref>。したがって、単体においてもホウ素原子どうしは共有結合性の強い結合で結びついており、[[自由電子]]として導電性に寄与できる電子が少ないため導電性を示すものの導電性は低いという半金属に特有な性質が現れる<ref name=sakurai33/>。
== 半金属とされる元素 ==
=== 変動性 ===
前述のように半金属という用語には普遍的に合意された厳格な定義は存在しないため、どの元素が半金属に含まれるかはその分類を行う者の考える基準によって変動する。例えば、エムズリーによる分類ではゲルマニウム、ヒ素、アンチモンおよびテルルの4つの元素のみが半金属とされた<ref>[[#Emsley1971|Emsley 1971, p. 1]]</ref>一方で、セルウッドによる分類ではホウ素、アルミニウム、ケイ素、ガリウム、ゲルマニウム、ヒ素、スズ、アンチモン、テルル、ビスマス、ポロニウムおよびアスタチンの12元素が半金属とされた<ref>[[#Selwood1965|Selwood 1965, pp. 166, inside back cover]]</ref>。このように個々の半金属の分類における元素の組み合わせはその基準の不明瞭さによって多くのバリエーションが存在するものの、どのようなバリエーションにおいてもいくつかの元素は共通して半金属とされる傾向がある<ref>[[#Chatt1951|Chatt 1951, p. 417]]: ''金属と半金属の間の境界線は明瞭ではない…''</ref><ref>[[#Burrows2009|Burrows et al. 2009, p. 1192]]: ''元素を金属、半金属および非金属として記載する事には利便性があるが、その変わり目は正確ではない。''.</ref>。周期表上において金属元素から非金属元素へと向かう間には元素の性質の連続的な変化が多かれ少なかれ存在しているため、半金属を分類するための標準的な基準が欠如しているということが必ずしも問題になるわけではなく、その連続的な変化の部分を取り扱う半金属という集合は元素の分類という目的にきちんと適合している<ref>[[#Kneen1972|Kneen et al. 1972, pp. 218–220]]</ref>。
=== 一般的に半金属とされる元素 ===
[[File:Antimony-4.jpg|thumb|150px|アンチモンの単体]]
以下の6元素は、元素の分類において一般的に半金属として分類される<ref name=goldsmith/><ref name=hawkes/><ref>[[#Boylan1962|Boylan 1962, p. 493]]</ref><ref>[[#Sherman1966|Sherman & Weston 1966, p. 64]]</ref><ref>[[#Wulfsberg1991|Wulfsberg 1991, p. 201]]</ref><ref>[[#Kotz2009|Kotz, Treichel & Weaver 2009, p. 62]]</ref>。
* [[ホウ素]]
* [[ケイ素]]
* [[ゲルマニウム]]
* [[ヒ素]]
* [[アンチモン]]
* [[テルル]]
これに加えて、しばしば[[セレン]]、[[ポロニウム]]、[[アスタチン]]が半金属とされることがある<ref name=hawkes/><ref>[[#Segal1989|Segal 1989, p. 965]]</ref><ref>[[#McMurray2009|McMurray & Fay 2009, p. 767]]</ref>。しばしばホウ素は、単独でもしくはケイ素とともに半金属から除外され<ref>[[#Bucat1983|Bucat 1983, p. 26]]</ref><ref>[[#Brown2007|Brown c. 2007]]</ref>、テルルもよく除外される<ref name="Swift EH 1962, p. 100">[[#Swift1962|Swift & Schaefer 1962, p. 100]]</ref>。また、アンチモン、ポロニウム、アスタチンを半金属に加えることに疑問が呈されることもある<ref name=hawkes/><ref name="Hawkes 2010">[[#Hawkes2010|Hawkes 2010]]</ref><ref name=wilson>[[#Holt2007|Holt, Rinehart & Wilson c. 2007]]</ref>。
=== その他の半金属 ===
半金属に合意された定義がないため、[[水素]]<ref>[[#Tilden1876|Tilden 1876, pp. 172, 198–201]]</ref><ref>[[#Smith1994|Smith 1994, p. 252]]</ref><ref>[[#Bodner1993|Bodner & Pardue 1993, p. 354]]</ref>、[[ベリリウム]]<ref>[[#Bassett1966|Bassett et al. 1966, p. 127]]</ref>、[[炭素]]<ref>[[#Kent1950|Kent 1950, pp. 1–2]]</ref><ref>[[#Clark1960|Clark 1960, p. 588]]</ref><ref name=warrena>[[#Warren1981|Warren & Geballe 1981]]</ref>、[[窒素]]<ref name=rausch>[[#Rausch1960|Rausch 1960]]</ref>、[[アルミニウム]]<ref>[[#Cobb2005|Cobb & Fetterolf 2005, p. 64]]</ref><ref>[[#Metcalfe1982|Metcalfe, Williams & Castka 1982, p. 585]]</ref>、[[リン]]<ref name=warrena/><ref>[[#Thayer1977|Thayer 1977, p. 604]]</ref>、[[硫黄]]<ref name=warrena/><ref>[[#Chalmers1959|Chalmers 1959, p. 72]]</ref><ref>[[#United1965|United States Bureau of Naval Personnel 1965, p. 26]]</ref>、[[亜鉛]]<ref>[[#Siebring1967|Siebring 1967, p. 513]]</ref>、[[ガリウム]]<ref>[[#Wiberg2001|Wiberg 2001, p. 282]]</ref>、[[スズ]]、[[ヨウ素]]<ref name=rausch/><ref name=friend>[[#Friend1953|Friend 1953, p. 68]]</ref>、[[鉛]]<ref>[[#Murray1928|Murray 1928, p. 1295]]</ref>、[[ビスマス]]<ref name="Swift EH 1962, p. 100" />および[[ラドン]]<ref>[[#Hampel&H1966|Hampel & Hawley 1966, p. 950]]</ref><ref>[[#Stein1985|Stein 1985]]</ref><ref>[[#Stein1987|Stein 1987, pp. 240, 247–248]]</ref>が時折半金属として分類される<ref>[[#Dunstan1968|Dunstan 1968, pp. 310, 409]]. Dunstanはベリリウム、アルミニウム、ゲルマニウム (おそらく)、ヒ素、セレン (おそらく)スズ、アンチモン、テルル、鉛、ビスマスおよびポロニウムを半金属としてリストアップした (pp. 310, 323, 409, 419)。</ref>。
半金属 (metalloid) という用語は、以下の性質を示すのにも用いられていた。
* 金属光沢と電気伝導度を示す両性元素。例えば、ヒ素、アンチモン、[[バナジウム]]、[[クロム]]、[[モリブデン]]、[[タングステン]]、スズ、鉛、アルミニウム<ref>[[#Hatcher1949|Hatcher 1949, p. 223]]</ref>。
* しばしば[[卑金属]]とされる元素<ref>[[#Taylor1960|Taylor 1960, p. 614]]</ref>。
* 金属と合金を形成することができる<ref>[[#Considine1984|Considine & Considine 1984, p. 568]]</ref><ref>[[#Cegielski1998|Cegielski 1998, p. 147]]</ref><ref>[[#TheAmerican2005|''The American heritage science dictionary 2005'' p. 397]]</ref>、もしくは金属に混ぜることで性質を変えることができる<ref>[[#Woodward1948|Woodward 1948, p. 1]]</ref>非金属元素。例えば窒素、炭素。
=== 半金属に近い元素 ===
多くの化学者や関連する科学の専門家によって、金属と非金属の中間に位置する元素の分類という概念はしばしば拡張され、通常半金属であるとは認められない元素が半金属に含まれることがある。
1935年、フェルネリウスとロビーは、炭素、リン、セレンおよびヨウ素を、ホウ素、ケイ素、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウムおよび当時未発見だった[[原子番号]]85番の元素(その5年後の1940年に作られたアスタチン)とともに元素の中間的な分類に含めた<ref>[[#Fernelius1935|Fernelius & Robey 1935, p. 54]]</ref>。ゲルマニウムは、当時はまだ伝導性に乏しい金属であると考えられていたため、この中間的な元素の分類からは除外された<ref name="Haller EE 2006, p. 3">[[#Haller_2006|Haller 2006, p. 3]]</ref>。
1954年、サボーとラカトシュは、ベリリウムとアルミニウムをホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウム、アスタチンとともに半金属のリストに含めた<ref>[[#Szabó1954|Szabó & Lakatos 1954, p. 133]]</ref>。
1957年、サンダーソンは、炭素、リン、セレンおよびヨウ素をホウ素、ケイ素、ヒ素、テルルおよびアスタチンとともに、''特定の金属特性''を有する元素の中間的な分類の一部として含め、ゲルマニウム、アンチモン、ポロニウムは金属に含めた<ref>[[#Sanderson1957|Sanderson 1957]]</ref>{{#tag:ref|Sandersonは金属と半金属を分類するための簡易的な基準を''[[水素]]を一つの例外として、原子の最外殻における電子の数がその元素の周期数(その核の[[量子数#主量子数|主量子数]]に等しい)と同数もしくは少なければ、全ての元素は金属である。水素および他の全ての元素は非金属である。しかし、最外殻の電子数がその主量子数よりも1(もしくは2)大きければ、それらは若干の金属的な性質を示すかもしれない。''と提示した。[[ラドン]]は、当時はまだ[[第18族元素|希ガス]]は化合物を形成することができないと考えられていたため、その見た目の適格性(主量子数6に対して最外殻電子数8)にもかかわらず、Sandersonのやや金属的な元素のリストから外された。1962年に初の希ガス元素の化合物が合成されたのち、1969年という早い時期からラドンによる陽イオンとしてのふるまいに関する言及がみられる。(Stein 1969;<ref>[[#Stein1969|Stein 1969]]</ref> Pitzer 1975;<ref>[[#Pitzer1975|Pitzer 1975]]</ref> Schrobilgen 2011<ref>[[#Schrobilgen2011|Schrobilgen 2011]]: ''ラドンの化学的性質は金属フッ化物のそれと類似しており、また、半金属元素としての周期表上の位置と一致している。''</ref>).|group="注釈"}}。
最近の事例では、2007年、ペティは、炭素、リン、セレン、スズおよびビスマスをホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウムおよびアスタチンとともに半金属のリストに含めた<ref>[[#Petty2007|Petty 2007, p. 25]]</ref>。
これらのような一般的な半金属の近くに位置する元素は通常は金属もしくは非金属として分類されるが、しばしば半金属に近い (''near-metalloid'')などと呼ばれる<ref>[[#Reid2002|Reid 2002]] Reidはアルミニウム、炭素、リンを''near metalloids''と言及した。</ref><ref>[[#Carr2011|Carr 2011]] Carrは炭素、リン、セレン、スズおよびビスマスを''near metalloids''と言及した。</ref>。
アルミニウム、スズおよびビスマスのようにこの緩やかなカテゴリーに入れられた金属には、例えば、変わった充填構造を取る<ref>[[#Russell2005|Russell & Lee 2005, p. 5]]</ref>、分子もしくは重合状態において共有結合を取る<ref>[[#Parish1977|Parish 1977, pp. 178, 192–3]]</ref>、両性金属としてふるまう<ref>[[#Eggins1972|Eggins 1972, p. 66]]</ref><ref>[[#Rayner2006|Rayner-Canham & Overton 2006, pp. 29–30]]</ref>といった性質を示す傾向がみられる。それらはまた、弱い金属 (''weak metals'')<ref>[[#Stott1956|Stott 1956, pp. 99–106; 107]]</ref><ref>[[#Rayner2006|Rayner-Canham & Overton 2006, pp. 29–30]]: ''特に陰イオンを形成するような半金属に特有な化学的性質を示す、境界線に最も近い金属の下位分類がある。これら9つの『化学的に弱い金属』は、ベリリウム、アルミニウム、亜鉛、ガリウム、スズ、鉛、アンチモン、ビスマス、およびポロニウムである。''T</ref>、貧金属 (''poor metals'')<ref>[[#Hill2000|Hill & Holman 2000, p. 40]]</ref><ref>[[#Farrell2007|Farrell & Van Sicien 2007, p. 1442]]: ''その単純さのために、我々は重要な共有結合性もしくは結合の方向性を持つものを意味する貧金属という用語を用いる。''</ref>、ポスト遷移金属 (''post-transition metals'')<ref name=Whitten2007>[[#Whitten2007|Whitten et al. 2007, p. 868]]</ref><ref name="Cox 2004, p. 185">[[#Cox2004|Cox 2004, p. 185]]</ref>{{#tag:ref|アルミニウムはしばしばポスト遷移金属に数えられる<ref name=Whitten2007/>が、ポスト遷移金属とはされない場合もある<ref name="Cox 2004, p. 185" />。|group="注釈"}}もしくは、これらの金属における前述の不完全な金属的性質を意図してセミメタル (''semimetals'')などとして言及され、このような分類グループは一般には周期表の同一領域を指し示しているが、必ずしも同一の元素を相互に含んでいるというわけではない。
[[File:Iodinecrystals.JPG|thumb|200px|単体のヨウ素。非金属ではあるが金属光沢が見られる。]]
非金属に含まれる元素のうち、炭素<ref>[[#Bailar1989|Bailar et al. 1989, p. 742–3]]</ref><ref>[[#Atkins2006|Atkins 2006, pp. 320–21]]</ref>、リン<ref>[[#Rochow1966|Rochow 1966, p. 7]]</ref><ref>[[#Taniguchi1984|Taniguchi et al. 1984, p. 867]]: ''…黒リン…[は]むしろ基底状態において非局在化された広い価電子帯によって特徴付けられる。''</ref><ref>[[#Morita1986|Morita 1986, p. 230]]</ref><ref>[[#Carmalt1998|Carmalt & Norman 1998, pp. 1–38]]: ''リンは…従っていくつかの半金属的性質を有することが期待される。''.</ref><ref>[[#Du2010|Du et al. 2010]] [[ファンデルワールス力]]および[[分子間力#双極子相互作用|ケーソム相互作用]]に起因する黒リンの層間相互作用は、単層のバンドギャップが大きい(計算値0.75 eV)のとは対照的に、バルク素材ではバンドギャップがより狭くなる(計算値0.19 eV、実測値0.3 eV)ことに寄与していると考えられる。</ref>、セレン<ref name="Craig 2003" /><ref>[[#Oberleas1999|Oberleas, Harland & Harland 1999, p. 168]]</ref>、ヨウ素<ref>[[#Steudel1977|Steudel 1977, p. 240]]</ref><ref>[[#Segal1989|Segal 1989, p. 481]]: ''ヨウ素はいくつかの金属的性質を示す…''.</ref><ref>[[#Jain2005|Jain 2005, p. 1458]]</ref>は、それらの環境条件が熱力学的に最も安定した形状(炭素では[[グラファイト]]、リンでは黒リン{{#tag:ref|白リンは最も一般的かつ工業的に重要であり<ref>[[#Eagleson1994|Eagleson 1994, p. 820]]</ref>、容易に得ることができる同素体であるため、リンの標準的な同素体は白リンである<ref>[[#Oxtoby2008|Oxtoby, Gillis & Campion 2008, p. 508]]</ref>。しかしながら、白リンはリンの同素体の中で最も熱力学的に不安定であるのみならず、揮発性、反応性もまた最も高い<ref>[[#Greenwood2002|Greenwood & Earnshaw 2002, pp. 479, 482]]</ref>。|group="注釈"}}、セレンでは灰色セレンなど)において、金属光沢、半導体性(例えば中程度の電気伝導度<ref name="Lutz 2011, p. 16">[[#Lutz2011|Lutz 2011, p. 16]]</ref>、比較的狭いバンドギャップ<ref>[[#Yacobi1990|Yacobi & Holt 1990, p. 10]]</ref><ref>[[#Wiberg2001|Wiberg 2001, p. 160]]</ref>、光感受性<ref name="Lutz 2011, p. 16" />)、伝導体もしくは価電子帯の非局在性を示す。これらの元素は''半金属的''、半金属性を示す、半金属のような、いくらか半金属(的)、金属的性質を有している、などと評される。
=== 同素体 ===
いくつかの元素では、同じ元素の同素体であっても異なる性質(金属的、半金属的もしくは非金属的)を示すことがある。例えば、炭素の同素体のうち、[[ダイヤモンド]]は明らかに非金属であるが、グラファイトは半金属に特有の限定的な電気伝導度を示す<ref name=sakurai33/>。リン、セレン、スズおよびビスマスも金属もしくは半金属もしくは非金属的なふるまいを示す同素体を有している。そのため櫻井らは、半金属性は元素に固有のものではなく単体に固有の性質であると注記した<ref name=sakurai33/>。
== しばしば半金属とされる元素 ==
=== セレン===
セレンは半金属もしくは非金属としてのふるまいを示し、それらの境界線上に位置する元素である<ref>[[#Young2010|Young et al. 2010, p. 9]]</ref><ref name="Craig 2003">[[#Craig2003|Craig 2003, p. 391]] セレンは「ほとんど半金属」であるため、この書籍では半金属に含まれている。</ref>{{#tag:ref|Rochow (1957, p. 224),<ref>[[#Rochow1957|Rochow 1957]]</ref>、後の1966に彼が書いたモノグラフ''The metalloids''<ref>[[#Rochow1966|Rochow 1966]]</ref>において、''いくつかの点でセレンは半金属のようにふるまい、テルルは確実にそうである''と述べた|group=注釈}}。
[[File:SeBlackRed.jpg|thumb|200px|左:灰色セレン(金属的)、右:赤色セレン(非金属的)]]
セレンの最も安定した同素体は六方晶系の[[結晶構造]]を取る灰色セレンであり、単斜晶系の結晶構造をとる赤色セレンと比較して数桁高い電気伝導度を示すことから「金属セレン」と呼ばれている<ref>[[#Moss1952|Moss 1952, p. 192]]</ref>。セレンの金属的な性質は、[[光沢]]<ref name="Glinka 1965, p. 356">[[#Glinka1965|Glinka 1965, p. 356]]</ref>、[[結晶構造]](直鎖状の結合の中にわずかに金属結合が含まれていると考えられている)<ref>[[#Evans1966|Evans 1966, pp. 124–5]]</ref>、溶融したセレンを引抜加工することによって細い糸状にすることができる性質<ref>[[#Regnault1853|Regnault 1853, p. 208]]</ref>、「非金属に特有な高酸化数状態」において電気抵抗が発生する性質<ref>[[#Scott1962|Scott & Kanda 1962, p. 311]]</ref>、そしてトリヒドロキシセレニウム(IV)の過塩素酸塩であるSe(OH)<sub>3</sub><sup>+</sup>ClO<sub>4</sub><sup>–</sup>の形の[[加水分解]]された陽イオンの塩の存在<ref>[[#Arlman1939|Arlman 1939]]</ref><ref name="Berger 1997, pp. 86–87" />などによって示される。
セレンの非金属的性質は、脆さ<ref name="Glinka 1965, p. 356" />、バンド構造(半導体性)<ref name="Berger 1997, pp. 86–87">[[#Berger1997|Berger 1997, pp. 86–87]]</ref>、10<sup>−9</sup>から高純度品で10<sup>−12</sup> S·cm<sup>−1</sup>という低い電気伝導度<ref>[[#Glazov1969|Glazov, Chizhevskaya & Glagoleva 1969, p. 86]]</ref><ref name="名前なし-1"/><ref name="名前なし-2"/>(それは非金属である臭素の(7.95{{e|–12}} S·cm<sup>−1</sup>に相当もしくはさらに低い<ref>[[#Chao1964|Chao & Stenger 1964]]</ref>)、比較的高い電気陰性度<ref>[[#Synder1966|Synder 1966, p. 242]]</ref>(修正ポーリングスケールで2.55)、液体状態においても保持される半導体性、そしてセレンの非金属陰イオン形であるSe<sup>2–</sup>、SeO{{su|b=3|p=2−}}、SeO{{su|b=4|p=2−}}における化学反応<ref>[[#Fritz2008|Fritz & Gjerde 2008, p. 235]]</ref>、[[発煙硫酸]]に溶解した際に硫黄やテルルと同じくSe{{su|b=8|p=2+}}のような環状ポリカチオンを形成する能力<ref>[[#Cotton1999|Cotton et al. 1999, pp. 496, 503–504]]</ref>などによって示される。
=== ポロニウム ===
ポロニウムはいくつかの性質において明確に金属的であり<ref name="Cotton FA 1999, p. 502">[[#Cotton1999|Cotton et al. 1999, p. 502]]</ref>、その金属的な性質は、ポロニウムの多くの塩類の性質、水溶液中において形成するバラ色のPo<sup>2+</sup>陽イオンの存在<ref>[[#Wiberg2001|Wiberg 2001, p. 594]]</ref>、そしてポロニウムの2つの同素体における金属的な電気伝導度<ref name="Cotton FA 1999, p. 502" />によって示される。しかしながら、Po<sup>2–</sup>のアニオンを含んだ多数の金属[[ポロニウム化物]]を形成するように、非金属的な性質も示す<ref>[[#Barrett2003|Barrett 2003, p. 119]]</ref>。
=== アスタチン ===
アスタチンは非金属もしくは半金属に分類される<ref>[[#Harding2002|Harding, Johnson & Janes 2002, p. 61]]</ref>。通常は非金属として分類されるが<ref name="Hawkes 2010" /><ref name=wilson/><ref name="News, p. 14">[[#Hawkes1999|Hawkes 1999]]</ref><ref>[[#Roza2009|Roza 2009, p. 12]]</ref>、いくつかの著しい金属的な性質を有している<ref>[[#Keller1985|Keller 1985]]</ref>。1940年、アスタチン原子の合成に直結した初期の研究者はアスタチンは金属であると考えていた<ref>[[#Vasáros1985|Vasáros & Berei 1985, p. 109]]</ref>。その後の1949年の言及では、アスタチンは還元するのが難しく最も不活性な非金属であり、同様に酸化するのが難しく比較的[[貴金属|貴]]な金属であるとされていた<ref>Haissinsky & Coche 1949, p. 400</ref>。1950年には、アスタチンは[[ハロゲン]]であるため活性な非金属であるとも言及された<ref>Brownlee et al. 1950, p. 173</ref>。
アスタチンの非金属的な性質としては以下のものがある。
* バスタノフは0.7 [[電子ボルト|eV]]というアスタチンの[[バンドギャップ]]の計算値を与え<ref>Batsanov 1971, p. 811</ref>、この値は非金属のものと一致している。伝導帯と価電子帯が切り離されているためアスタチンは絶縁体もしくは半導体である<ref name=Swalin/><ref>Feng & Lin 2005, p. 157</ref>。
* アスタチンは非金属のように液体状態である温度範囲が狭く<ref>Borst 1982, pp. 465, 473</ref>、融点575 [[ケルビン|K]]、沸点610 Kであると推定されている。
* アスタチンの水溶液中の化学的ふるまいは、様々な陰イオン種の形成に特徴づけられる<ref>Schwietzer & Pesterfield 2010, pp. 258–260</ref>。
* アスタチンの既知の化合物としてアスタチン化物 (XAt)、アスタチン酸塩 (XAtO<sub>3</sub>)および1価の[[ハロゲン間化合物]]があり、それらの性質はハロゲンであり非金属でもある<ref>Olmsted & Williams GM 1997, p. 328</ref><ref>Daintith 2004, p. 277</ref>[[ヨウ素]]の化合物に類似している<ref name="News, p. 14" />。
アスタチンの金属的な性質としては以下のものがある。
* サムソノフは''典型的な金属のように、アスタチンは強酸酸性溶液から[[硫化水素]]にすらも沈殿させられ、硫酸溶液からはアスタチンが遊離する形で置換させられ、電気分解によって陰極上に堆積させられる。''ということを観察した<ref>Samsonov 1968, p. 590</ref>。
* レスラーは、アスタチンの(重)金属的な傾向の更なる兆候について、''[[擬ハロゲン|擬ハロゲン化物]]、アスタチン陽イオンの錯体、3価のアスタチン陰イオンの錯体ならびに様々な有機溶媒との錯体の形成。''を挙げた<ref>Rossler 1985, pp. 143–144</ref>。
* ラオおよびガングリーは、42 kJ/molよりも大きい[[蒸発熱]]を持つ元素は液体状態において金属的である点に着目した<ref name="名前なし-3"/>。そのような元素はホウ素{{#tag:ref|ホウ素が液体状態で金属的な電気伝導率を示すかは文献によって一致していない。Krishnan他は、液体ホウ素が金属のようにふるまうとし<ref>Krishnan et al. 1998</ref>、Glorieux他は、液体ホウ素はその低い電気伝導度に基き半導体として特徴づけられるとし<ref>Glorieux, Saboungi & Enderby 2001</ref>、Millot他は、液体ホウ素の輻射率は金属のそれと一致していないと報告した<ref>Millot et al. 2002</ref>。|group="注釈"}}、ケイ素、ゲルマニウム、アンチモン、セレンおよびテルルが含まれる。ヴァサロスおよびベレイは、2価のアスタチンの蒸発熱をこれらの元素の中で最も低い50 kJ/molであると見積もった<ref>[[#Vasáros1985|Vasáros & Berei 1985, p. 117]]</ref>。このことから、アスタチンは液体状態において金属的である。2価のヨウ素の蒸発熱は41.17 kJ/molであり<ref>[[#Kaye1973|Kaye & Laby 1973, p. 228]]</ref>、42 kJ/molという金属的な性質を示す閾値にわずかに足りていない。
* チャンピオン他は、アスタチンは強酸酸性溶液中においてAt<sup>+</sup>およびAtO<sup>+</sup>として安定して存在し、陽イオンとしてのふるまいを示すとした<ref>[[#Champion2010|Champion et al. 2010]]</ref>。
* Siekierskiとバージェスは、目に見えるほどの大きさに凝集したアスタチンはその激しい放射能による熱で直ちに完全に蒸発してしまう<ref>[[#Emsley2003|Emsley 2003, p. 48]]</ref>が、もし凝集相を形成することができるならばアスタチンは金属であるだろうと推定、主張した<ref>[[#Siekierski2002|Siekierski & Burgess 2002, pp. 65, 122]]</ref>。
=== アルミニウム ===
[[File:Aluminium oxide.jpg|thumb|200px|酸化アルミニウム。半金属元素の酸化物に特徴的な両性を示す。]]
アルミニウムは、その光沢、可鍛性および延性、高い熱および電気の伝導率、最密充填構造を取ることなどから、通常は金属として分類される。しかしながらアルミニウムは以下のような金属としては珍しい性質をいくらか有しており、しばしばアルミニウムを半金属として分類する根拠とされる<ref name="Metcalfe et al. 1974, p. 539">[[#Metcalfe1974|Metcalfe et al. 1974, p. 539]]</ref>。
* アルミニウムの結晶構造には、金属のような無方向性の結合ではなく、方向性の結合が存在する証拠がみられる<ref>[[#Ogata2002|Ogata, Li & Yip 2002]]</ref><ref>[[#Boyer2004|Boyer et al. 2004, p. 1023]]</ref><ref>[[#Russell2005|Russell & Lee 2005, p. 359]]</ref>。
* いくつかの化合物においてはAl<sup>3+</sup>陽イオンを形成するが、他のほとんどの結合は共有結合である<ref>[[#Cooper1968|Cooper 1968, p. 25]]</ref><ref>[[#Henderson2000|Henderson 2000, p. 5]]</ref><ref>[[#Silberberg2002|Silberberg 2002, p. 312]]</ref>。
* 両性酸化物を形成し、条件次第でガラス質を形成する<ref name="名前なし-4"/>。
* アルミン酸陰イオンを形成し<ref name="Metcalfe et al. 1974, p. 539" />、そのふるまいは非金属的な性質であると考えられている<ref name="Hamm 1969, p. 653">[[#Hamm1969|Hamm 1969, p. 653]]</ref>。
ストットは、金属的な物理的性質を有するものの、いくつかの非金属的な化学的性質も有する弱い金属であるとアルミニウムを分類した<ref>[[#Stott1956|Stott 1956, p. 100]]</ref>。スティールは、アルミニウムの両性酸化物を形成し、多くの共有結合性の化合物を形成する性質は弱い金属に類似しているが、それでもアルミニウムは高い負の[[標準電極電位|電極電位]]を有する、強く電気的に陽性な金属であると、アルミニウムの化学的なふるまいをやや逆説的に記した<ref>[[#Steele1966|Steele 1966, p. 60]]</ref>。
半金属としてのアルミニウムの理解は、その多くの金属的な性質と、金属と非金属の境界線に隣接した元素が半金属であると<ref name=wilson />いう記憶を呼び戻すために、アルミニウムがその代表的な例外であるということを重要視するために、しばしば議論される<ref>[[#Daub1996|Daub & Seese 1996]], pp. 70, 109: ''アルミニウムは半金属ではなく、大部分は金属的な性質を有しているため金属である''</ref><ref>[[#Denniston2004|Denniston, Topping & Caret 2004, p. 57]]: ''アルミニウム (Al)は半金属でなく金属に分類されることに注意''</ref><ref>[[#Hasan2009|Hasan 2009, p. 16]]: ''アルミニウムは半金属の特徴を有しておらず、むしろ金属のそれである''</ref>。
== 位置と区別 ==
[[File:Periodic table.svg|thumb|300px|一般的な周期表。半金属は[[鶯色]]で表されている。]]
半金属は周期表上において、金属と非金属との境界線の両端に集まる。それらの元素は一般的に、左下に向かうほど金属的な性質が増し、右上に向かうほど非金属的な性質が増す。この境界線が規則的な階段で表現される場合、それらのグループにとって最も[[臨界点|臨界温度]]の高い元素(アルミニウム、ゲルマニウム、アンチモン、ポロニウム)が境界線の直下に位置することになる<ref>[[#Horvath1973|Horvath 1973, p. 336]]</ref>。この境界線は、''金属-非金属線 (metal-nonmetal line)''<ref>[[#Tarendash2001|Tarendash 2001, p. 78]]</ref>、''半金属線 (metalloid line)''<ref>[[#Thompson1999|Thompson 1999]]</ref><ref>[[#DiSalvo2000|DiSalvo 2000, p. 1800]]</ref>、''半金属線 (semimetal line)''<ref>[[#Whitley2009|Whitley 2009]]</ref>、''ジントル境界 (Zintl border)''<ref>[[#King2005|King 2005, p. 6006]]</ref>、''ジントル線 (Zintl line)''<ref>[[#Herchenroeder1988|Herchenroeder & Gschneidner 1988]]</ref><ref>[[#DeGraef2007|De Graef & McHenry 2007, p. 34]]</ref>{{#tag:ref|サックスはこの境界線を、''[[ハドリアヌスの長城]]のようなギザギザの線…ヒ素やセレンのようないくつかの半金属から金属を分離する壁である''と評した<ref>[[#Sacks2001|Sacks 2001, pp. 191, 194]]</ref>。|group="注釈"}}などと呼ばれる。後ろの2つは、1941年に[[フリッツ・ラーベス]]によって命名された[[第13族元素]]と[[第14族元素]]との間に引かれた垂直線({{仮リンク|ジントル相|en|Zintl phase}})<ref>[[#Kniep1996|Kniep 1996, p. xix]]</ref>および、通常周期表上で第14族元素より右側に位置する元素と金属元素によって形成される塩のような化合物と、第13族元素と金属元素によって形成される金属間化合物とを区別するのに使用される境界線<ref>[[#Nordell1999|Nordell & Miller 1999, p. 579]]</ref>も意味する。
このような金属と非金属を分割する境界線の概念は、少なくとも1869年より古い文献において記述されている<ref>[[#Hinrichs1869|Hinrichs 1869, p. 115]] ヒリンクスはその記事において、原子量によって並べられた周期表に含めたが、金属と非金属の境界線は示さなかった。むしろ彼は、''元素もしくはその化合物の特性は、単純な線に囲われたグループを形成する。炭素、ヒ素、テルルを通して引かれた線は、金属光沢を持つものと持たないものとに元素を分割する。気体状の元素は単独で小さなグループを形成し、塩素がその境界線を形成する。また、他の性質のための境界線が引かれるかもしれない。''と書き記した。</ref>。1891年、ウォーカーは金属と非金属の境界として周期表上に斜めの直線を引いて「図表化」したものを公表した<ref>[[#Walker1891|Walker 1891, p. 252]]</ref>。1906年、{{仮リンク|アレクサンダー・スミス|en|Alexander Smith (chemist)}}は、彼の非常に影響力のある<ref>[[#Miles1976|Miles & Gould 1976, p. 444]]: ''彼が1906年に出したIntroduction to General Inorganic Chemistryは20世紀の第1四半期の間で化学分野における最も重要な教科書のうちの1冊である''</ref>教科書''Introduction to General Inorganic Chemistry''において、非金属を残りの元素から分離するジグザグの線を周期表上に含めた<ref>[[#Smith1906|Smith 1906, pp. 408, 410]]</ref>。
1923年、アメリカの化学者であるホーレス・グローブス・デミングは、彼の書いた教科書''General Chemistry: An elementary survey''において、金属と非金属を分離する階段状の線を短周期表([[ドミトリ・メンデレーエフ|メンデレーエフ]]の周期表)および各族を18列に並べた通常の周期表のそれぞれに含めた<ref>[[#Deming1923|Deming 1923, pp. 160, 165]]</ref>。1928年、[[メルク]]は当時アメリカの学校で広く流布していたデミングの18列の周期表を配布する準備を行い、1930年代までにはデミングの周期表は化学のハンドブックや百科事典にまで掲載されるようになった。それはまた、{{仮リンク|サージェント・ウェルチ|en|Sargent-Welch}}社によって長年配布され続けた<ref>[[#Abraham1994|Abraham, Coshow & Fix, W 1994, p. 3]]</ref><ref>[[#Emsley1985|Emsley 1985, p. 36]]</ref><ref>[[#Fluck1988|Fluck 1988, p. 432]]</ref>。
一部の著者は、金属と非金属の境界線に接している元素を半金属としては分類せず、その代り、例えば境界線の左側に接する元素を''若干の非金属的性質を示す''、対して右側に接する元素を''若干の金属的性質を示す''といった注釈をした<ref name="Hamm 1969, p. 653" />。このような対となった分類は、金属や非金属の間の結合の種類を決定するための単純な規則の確立を容易にすることができる<ref name=roher/>。他の著者は、いくつかの元素を半金属と分類することが''半金属は周期表上の境界線上で急に一体として変化するのではなく、その性質が徐々に変化していくことが強調される''という事を提示した<ref name=brown>[[#Brown2006|Brown & Holme 2006, p. 57]]</ref>。時折、金属と非金属の間の境界線は、金属と半金属および半金属と非金属をそれぞれ分割する2本の境界線とされることもある<ref name=brown/><ref name="Swenson">[[#Swenson2005|Swenson 2005]]</ref>。
いくつかの周期表では、金属と非金属の形式的な境界線が無くとも半金属元素を区別する。その場合、境界線の代わりに斜めの帯もしくは広がった領域<ref>[[#Chedd1969|Chedd 1969, pp. 12–13]]</ref>のような左上から右下に走る範囲で示され、それはヒ素の周りに集まる。メンデレーエフは、''金属と非金属の間に明確な境界を引くことは不可能であり、そこにはいくつもの中間的な物質が存在している''という見解を示した<ref>[[#Mendeléeff1897|Mendeléeff 1897, p. 23]]</ref>。いくつかの他の出典は、境界線の混乱や曖昧さを注記し<ref>[[#Mackay1989|Mackay & Mackay 1989, p. 24]]</ref><ref>[[#Norman1997|Norman 1997, p. 31]]</ref>、見かけ上不定であると示唆し<ref>[[#Whitten2003|Whitten, Davis & Peck 2003, p. 1140]]</ref>、その妥当性に対する反論の論拠を提供し<ref name=roher />、そしてその誤解を招き、論争となり、またはおおよその性質としてのコメントが行われた<ref name=hawkes /><ref>[[#Kotz2005|Kotz, Treichel & Weaver 2005, pp. 79–80]]</ref><ref>[[#Housecroft2006|Housecroft & Constable 2006, p. 322]]</ref>。デミング自身も、この境界線を正確には引けないことを注記した<ref>[[#Deming1923|Deming 1923, p. 381]]</ref>。
== 用途 ==
{{Main2|半金属元素の個別の用途については「[[:category:半金属]]」内の各元素記事も}}
ヒ素やアンチモンのような一般的な半金属は、それらの純粋な単体で構造材として用いるには脆すぎる<ref>[[#Russell2005|Russell & Lee 2005, pp. 421, 423]]</ref>。一般的な半金属の典型的な用途としては以下に示すように、[[ガラス]]質の酸化物としての用途、[[合金]]の構成元素もしくは添加剤としての用途、[[半導体]]の構成元素もしくはその[[ドーパント]]としての用途などが挙げられる。
=== ガラス ===
[[File:Fibreoptic.jpg|thumb|200px|高純度二酸化ケイ素で造られた[[光ファイバー]]]]
半金属元素の酸化物である[[酸化ホウ素]] (B<sub>2</sub>O<sub>3</sub>)、[[二酸化ケイ素]] (SiO<sub>2</sub>)、[[二酸化ゲルマニウム]] (GeO<sub>2</sub>)、[[三酸化二ヒ素]] (As<sub>2</sub>O<sub>3</sub>)および[[三酸化アンチモン]] (Sb<sub>2</sub>O<sub>3</sub>)はガラス質を形成する。[[二酸化テルル]] (TeO<sub>2</sub>)もまたガラス質を形成するが、そのためには結晶の形成を避けるために[[焼入れ]]を行うか、もしくは不純物を添加剤としてを加える必要がある<ref>[[#Kaminow2002|Kaminow & Li 2002, p. 118]]</ref>。これらの化合物は、化学用や家庭用、産業用のガラス製品において実用されており<ref>[[#Deming1925|Deming 1925, pp. 330]] (As<sub>2</sub>O<sub>3</sub>), 418 (B<sub>2</sub>O<sub>3</sub>; SiO<sub>2</sub>; Sb<sub>2</sub>O<sub>3</sub>)</ref><ref>[[#Witt1968|Witt & Gatos 1968, p. 242]] (GeO<sub>2</sub>)</ref>、特にゲルマニウムおよびテルルは[[光学ガラス]]として利用されている<ref>[[#Eagleson1994|Eagleson 1994, p. 421]] (GeO<sub>2</sub>)</ref><ref>[[#Rothenberg1976|Rothenberg 1976, 56, 118‒119]] (TeO<sub>2</sub>)</ref>。
=== 合金 ===
1914年、Deschは、''特定の非金属元素は明確に金属的な性質の化合物を形成することが出来、これらの元素はしたがって合金の組成として組み込むことが可能であるかもしれない''と書き記した。彼は合金の構成元素として、特にケイ素、ヒ素およびテルルを想定していた。後にPhillipsとWilliamsは、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモンの貧金属との混合物は''おそらく最良の合金であるとされる''と記した<ref>[[#Phillips1965|Phillips & Williams 1965, p. 620]]</ref>。
半金属元素を合金に加えることで、その融点を下げる方向に制御することができる。また、その合金の融点 (Tm)に対するガラス転移温度 (Tg)の比 (Tg/Tm)を大きくすることで非晶質な合金を形成することができるため、半金属元素を加えて融点を下げるということは非晶質な合金が得やすくなることを意味している<ref>[[#bron2008|第16回ホウ素ホウ化物および関連物質国際会議組織委員会 (2008)、291頁。]]</ref>。
ホウ素は遷移金属との間で、M<sub>''n''</sub>B (''n''>2の場合)の組成の[[金属間化合物]]および合金を形成する事ができる<ref>[[#Vanderput1998|Van der Put 1998, p. 123]]</ref>。このような合金もしくは金属間化合物は、最密に充填された金属原子の隙間にホウ素原子が入り込む形で形成される<ref>[[#CW1987|コットン、ウィルキンソン (1987)、290頁。]]</ref>。Sandersonは、ケイ素は''自然な状態においては半金属であるが、金属との合金を形成する能力においては完全に金属的に見える''とコメントした<ref>[[#Sanderson1960|Sanderson 1960, p. 83]]</ref>。鉄、コバルト、ニッケルの3元合金にホウ素およびケイ素を添加することで、透磁性の大きな非晶質の軟磁性合金を形成することができる<ref>[[#Davis2002|Davis (2002)、407頁。]]</ref>。このような合金は保磁力が低いために[[鉄損|ヒステリシス損]]を低く抑えることが可能となり、非晶質合金であることに起因して電気抵抗が大きいため渦電流損も低く抑えられる。これらの性質を利用して、磁気ヘッドや電気トランスの鉄芯のような軟磁気性が要求される用途において有用な材料として広く用いられている<ref>[[#bron2008|第16回ホウ素ホウ化物および関連物質国際会議組織委員会 (2008)、293-294頁。]]</ref>。ゲルマニウムは多くの金属元素と合金を形成することができ、その中で最も重要なものとして[[第11族元素]](銅族元素)との合金が挙げられる<ref>[[#Klug1958|Klug & Brasted 1958, p. 199]]</ref>。ヒ素は[[プラチナ]]や[[銅]]を含む金属と合金を形成することができる<ref>[[#Good1813|Good et al. 1813]]</ref>。アンチモンは[[活字合金]](アンチモンを最高25 wt%含んだ鉛合金)や[[ピューター]](アンチモンを最高20 wt%含んだスズ合金)に代表されるように、合金の構成元素としてよく知られている<ref>[[#Russell2005|Russell & Lee 2005, pp. 423‒4; 405‒6]]</ref>。テルルは銅との合金として利用される。1973年の[[アメリカ地質調査所]]の報告によれば、当時のテルル生産量のおよそ18 %は銅-テルル合金(テルルを40から50 %含む)および鉄-テルル合金(テルルを50から58 %含む)向けに販売されていた<ref>[[#Davidson1973|Davidson & Lakin 1973, p. 627]]</ref>。
=== 半導体および電子素材 ===
[[File:Solar cell.png|thumb|200px|ケイ素を用いた太陽電池]]
全ての一般的な半金属もしくはそれらの化合物は、半導体もしくは固体[[電子工学]]産業における用途が見つけられている<ref>[[#Berger1997|Berger 1997, p. 91]]</ref><ref>[[#Hampel1968|Hampel 1968, passim]]</ref>。その代表的な例としてケイ素は半導体の主要用途の一つである[[太陽電池]]材料として広く利用されており、テルルの化合物である[[テルル化カドミウム]]も低コストな太陽電池材料として実用化されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.enecho.meti.go.jp/energy/jutaku/22-3.pdf|title=平成22年度 新エネルギー等導入促進基礎調査 住宅用太陽光発電システムの普及促進に係る調査報書|author=三菱総合研究所|publisher=[[資源エネルギー庁]]|page=250|accessdate=2011-12-15}}</ref>。ホウ素はその高い融点と、不純物の導入および制御、保持の困難さに起因して[[単結晶]]を得ることが相対的に難しかったため、ホウ素が半導体として利用され始めたのは他の半金属元素よりも遅かった<ref>[[#Rochow1966|Rochow 1966, p. 41]]</ref><ref>[[#Berger1997|Berger 1997, pp. 42‒43]]</ref>。
As<sub>2</sub>Se<sub>3</sub>やSb<sub>2</sub>Te<sub>3</sub>のようなIV-V族化合物半導体は、ガラス質を形成する低融点半導体として利用される。また、InSbやBi<sub>x</sub>Sb<sub>1-x</sub>のような半金属合金は、バンドギャップの非常に小さな(InSbで0.17 eV)微小ギャップ半導体として利用される。Mg<sub>2</sub>SiやMg<sub>2</sub>GeのようなII-IV族半導体もバンドギャップが狭い<ref>[[#Davis2002|Davis (2002)、260頁。]]</ref>。
== 歴史 ==
=== 1800年以前 ===
[[File:Pouring liquid mercury bionerd.jpg|thumb|200px|水銀は常温で液体であるという金属としては特殊な性質から、以前は半金属として分類されていた。]]
固体で溶融する可鍛性の物質であるという古代における金属の概念は、[[プラトン]]の『[[ティマイオス]]』([[紀元前]]360年)や[[アリストテレス]]の『気象学』に見られる<ref>[[#Cornford1937|Cornford 1937, pp. 249–50]]</ref><ref>[[#Obrist1990|Obrist 1990, pp. 163–64]]</ref>。強く金属的な性質を示す物質を、金属的な性質が劣っている物質(例えば亜鉛、アンチモン、ビスマス、[[輝安鉱]]、[[黄鉄鉱]]、[[方鉛鉱]]など)から分離するための分類システム構築の試みは、{{仮リンク|偽ゲベル|en|Pseudo-Geber}} (1310年)、{{仮リンク|バジル・バレンタイン|en|Basil Valentine}}<ref group="注釈">伝承では1392年生まれ</ref>の''(Conclusiones)''、[[パラケルスス]]<ref group="注釈">1493もしくは1494年生まれ</ref>、[[ヘルマン・ブールハーフェ]]の(''Elementa Chemiæ'' 1733年)などによって行われ、これらは半金属 (semi-metals)もしくは偽金属(bastard metals)と呼ばれた<ref name="Paul 1865, p. 933">[[#Paul1865|Paul 1865, p. 933]]</ref><ref>[[#Roscoe1894|Roscoe & Schorlemmer 1894, pp. 3–4]]</ref>。1735年、[[イェオリ・ブラント]]は可鍛性の有無をこの分類の原則とすることを提言し、その原則に従って水銀を金属から分離した。ルドルフ・ヴォーゲル (''Institutiones Chemiæ'' 1755年)および[[ビュフォン]] (''Histoire naturelle des Minéraux'' 1785年)も同様の見解を示した。その後の1759-60年、ブラウンによって冷却による水銀の凝固が観察され、それが1783年にハチンズと[[ヘンリー・キャヴェンディッシュ]]によって確認されたため<ref>[[#Jungnickel1996|Jungnickel & McCormmach 1996, p. 279–281]]</ref>、水銀の可鍛性が明らかとなり水銀は金属に含まれるようになった<ref name="Paul 1865, p. 933" />。しかし、これらの脆く、不完全な金属であるという非金属の概念<ref>[[#Craig1849|Craig 1849]]</ref><ref>[[#Roscoe1894|Roscoe & Schorlemmer 1894, pp. 1–2]]</ref>は、[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]の「革命的」<ref>Strathern 2000, p. 239</ref>な『化学原論』が出版された1789年以降、徐々に放棄された<ref name=r4>[[#Roscoe1894|Roscoe & Schormlemmer 1894, p. 4]]</ref>。
=== 1800年から1950年代まで ===
1807年、''金属と金属に類似した物質との古い分類を復活させる試み''<ref>[[#Tweney1935|Tweney & Shirshov 1935]]</ref>においてヒルマンとサイモンは、新しく発見された元素である[[ナトリウム]]および[[カリウム]]が水よりも軽く、多くの化学者が金属として分類することに賛成しなかったことから、これらの元素に言及するために半金属という用語を用いることを提言したが、化学者のコミュニティーに無視された<ref name=goldsmith/>。
1811年もしくは1812年、[[イェンス・ベルセリウス]]は、非金属元素が[[オキソアニオン]]を形成する能力(例えば[[クロム]]が[[クロム酸塩|クロム酸イオン]]CrO<sub>4</sub><sup>2-</sup>を形成するように多くの金属がオキソアニオンを形成するのと同様に、例えば硫黄が[[硫酸塩|硫酸イオン]]SO<sub>4</sub><sup>2-</sup>を形成するように非金属元素もオキソアニオンを形成する)に関して半金属と呼称した<ref>[[#Partington1964|Partington 1964, p. 168]]</ref><ref name="J. Berzelius', pp. 248">[[#Bache1832|Bache 1832, p. 250]]</ref>。ベルセリウスの用いた半金属という語の用法は広く採用されたが<ref name=goldsmith/>、それはその後の論評者らによって直観に反する<ref name="J. Berzelius', pp. 248" />、誤用される<ref name=r4/>、妥当でない<ref>[[#Glinka1958|Glinka 1958, p. 76]]</ref>、もしくは説得力がない<ref name=herold/>と評価された。1825年、ベルセリウスの''Textbook of Chemistry''の改定されたドイツ語版において、ベルセリウスは自らが定義した半金属の概念を3種類に再分割した。1つは常に気体である「gazloyta」(水素、窒素、酸素)、1つは真の半金属「metalloid」(硫黄、リン、炭素、ホウ素、ケイ素)、そしてもう1つは塩を形成する「halogenia」(フッ素、塩素、臭素、ヨウ素)である<ref>[[#Berzelius1825|Berzelius 1825, p. 168]]</ref>。1845年に発行された''A dictionary of science, literature and art''において、ベルセリウスによる元素の分類は「I. gazolytes; II. halogens; III. metalloids(''一定の側面においては金属に類似しているが、他は広く異なっている''); IV. metals」と表された<ref>[[#Brande1945|Brande & Cauvin 1945, p. 223]]</ref>。
1844年、ジャクソンは''金属に類似しているが、いくつかの性質が欠損している''という現在の半金属の概念と類似した意味を半金属の用語に与えた<ref>[[#Jackson1844|Jackson 1844, p. 368]]</ref>。1864年、非金属の分類のために使用されていた半金属という用語は''最高機関によって''依然として認可されていたが、その使用は必ずしも適切ではなく、半金属の用語はより正確であるヒ素のような他の元素への適用も考慮されていた<ref>[[#Thechemical1864|''The Chemical News and Journal of Physical Science'' 1864]]</ref>。1866年という早い年代に、一部の著者は非金属元素への言及のための用語として、「半金属」よりもむしろ「非金属」という語を使用していた<ref name="名前なし-5">[[#Thechemical1888|''The Chemical News and Journal of Physical Science'' 1888]]</ref>。1876年、チルデンは''酸素、塩素、フッ素のような元素に半金属という用語を与えるような慣例が非論理的であるにもかかわらず非常に一般的である''ことに反対して抗議し、それまでの分類に代わって元素を真の金属である''basigenic''、半金属である''imperfect metals''、非金属である''oxigenic''の3つに分割した<ref>[[#Tilden1876|Tilden 1876, p. 198]]</ref>。1888年になっても、金属、非金属、半金属という元素の分類は、依然として金属と半金属という分類よりも特殊な分類であると考えられており、潜在的な混乱の原因であった<ref name="名前なし-5"/>。
1911年、ビーチは半金属について以下のように説明した<ref>[[#Beach1911|Beach 1911]]</ref>。
{{Quote|化学における'''半金属'''(金属に類似したグループ)、非金属元素とも。硫黄、リン、フッ素、塩素、ヨウ素、臭素、ケイ素、ホウ素、炭素、窒素、水素、酸素およびセレンの13元素が含まれる。半金属と金属との間の区別はわずかである。前者はセレンとリンを除いて'金属的'な光沢を持たず、熱および電気の伝導性に乏しく、通常光を反射せず、陽イオンを形成しないため、これらの試験を達成しない。この用語は、金属と非金属の明瞭な境界線が存在しないという理由のために、非金属という語の代わりにもたらされた新しい語法であるらしく、そのため'金属に類似した'もしくは'金属のような'[という分類]は、純粋に電気陰性な'非金属'という分類よりも良い説明である。当初、それは常温で固体の非金属に適用されていた。|Beach 1911|''The Americana: A universal reference library''}}
1917年ごろ、ミズーリ州薬剤師審議会は以下のように記した。
{{Quote|金属は熱および電気の優れた導体であり、光を強く反射し、電気的に陽性であるという点において半金属[つまり非金属]とは異なっていると言われている。半金属はそれらの性質の全てではないものの1つ以上を有しているかもしれない。ヨウ素はその金属的な外観によって、最も一般的な半金属の実例である。|Mayo 1917|''American Druggist and Pharmaceutical Record'', vol. 65, no. 4,p. 55}}
1920年代間、半金属という用語の2つの意味は流行の移り変わりを受けているように見えた。コーチは''A Dictionary of Chemical Terms''において、「半金属」とは「非金属」の古くすたれた言い方であると定義した<ref>[[#Couch1920|Couch 1920, p. 128]]</ref>{{#tag:ref|コーチもその著書のp. 128において、''金属と、[若干の金属的性質を備えた分類としての]非金属の間には明確な境界線が存在しない''とコメントしている([]内補足)。|group="注釈"}}。一方で''Webster 's New International Dictionary''においては、非金属を言及するための半金属という用語の使用は、ヒ素やアンチモン、テルルのような典型的な金属に類似した元素へ何らかの方法で適用される基準として注記された<ref>[[#Websters1926|''Webster's New International Dictionary'' 1926, p. 1359]]</ref>。半金属という用語の使用は、その後1940年までの間大きく流動していた。半金属の用語を中間もしくは境界線上の元素に対して適用するという合意は、続く1940年から1960年の間には起こらなかった<ref name=goldsmith/>。
1947年、[[ライナス・ポーリング]]は、彼の古典的<ref>[[#Lundgren2000|Lundgren & Bensaude-Vincent 2000, p. 409]]</ref>かつ影響力のある<ref>[[#Greenberg2007|Greenberg 2007, p. 562]]</ref>テキストである''General chemistry: An introduction to descriptive chemistry and modern chemical theory''において、半金属についての言及を行った。ポーリングは半金属を''中間的な性質を有する元素である…ホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウムを含み、[周期表上で]斜めの領域を占領している''と記述した<ref>[[#Pauling1947|Pauling 1947, p. 65]]</ref>。1959年、[[国際純正・応用化学連合]] (IUPAC)は、たとえ半金属という用語が非金属の概念を意味する用語としてフランス人などの間でいまだ使われているとしても、''半金属という用語は非金属を表すために用いてはならない''と勧告した<ref>[[#IUPAC1959|IUPAC 1959, p. 10]]</ref><ref name=friend/>。
=== 1960年代以降 ===
1970年、IUPACはさらに、半金属 (metalloid)という用語は異なる言語において継続的に一貫性なく使用されているため半金属 (metalloid)という用語を放棄するように勧告し、金属、半金属 (semimetal)、非金属の用語を代わりに用いることを提案した<ref name=friend/><ref>[[#IUPAC1971|IUPAC 1971, p. 11]]</ref>。しかしながら2010年現在では、バンド理論における半金属 (semi-metal)という用語と明確に区別ができるため、元素の分類における「semimetal」という用語の使用は「metalloid」という用語よりもむしろ少なくなっている<ref>[[#Atkins2010|Atkins 2010, p. 20]]</ref>。「metalloid」という用語は''このような奇妙で中間的な性質の元素を正確に説明''しており、「metalloid」という用語が時代遅れであるという言及は''ナンセンス''であると評された<ref>[[#Gray2010|Gray 2010]]</ref>。
== バンド理論における半金属 ==
{{main|半金属 (バンド理論)}}
[[バンド理論]]における'''半金属'''(Semi-metal、以下本節において'''セミメタル'''という)は[[フェルミエネルギー]]が、[[価電子帯]]の最上部と、[[伝導帯]]の最下部を横切っている状態(価電子帯と伝導帯が僅かに重なっている)、またはその状態を示す物質。この場合、価電子帯最上部にホールができ、伝導帯最下部は電子が占有している<ref>[[#JIM1990|日本金属学会 (1990) 209頁。]]</ref>。[[金属]]より[[電気伝導度]](電気伝導率)は低い。セミメタルとしては、[[グラファイト]]、[[ヒ素]]、[[アンチモン]]、[[ビスマス]]などがある<ref>[[#JIM1990|日本金属学会 (1990) 201-202頁。]]</ref>。
[[温度]]と電気伝導との関係は、金属と同じで温度が下がるほど電気伝導は良くなる(電気伝導度が上がる)。セミメタルの特徴としては、[[電荷担体|キャリア]]が少ない<ref>[[#JIM1990|日本金属学会 (1990) 201頁。]]</ref>、[[有効質量]]が小さい<ref>[[#JIM1990|日本金属学会 (1990) 277頁。]]</ref>、反磁性[[磁化率]]<ref>[[#fusiya2008|伏屋 (2008) 565-578頁。]]</ref>や[[誘電率]]が大きい<ref>[[#JIM1990|日本金属学会 (1990) 225頁。]]</ref>ことなどが挙げられる。
なお、[[ハーフメタリック]]という用語は、ここで述べたセミメタルとは別の概念である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{reflist|20em}}
== 参考文献 ==
=== 和書 ===
{{Div col|cols=2}}
* {{Cite book|和書|author=今井弘、大竹伝雄|year=1988|title=新一般化学|publisher=化学同人|ref=imai1988|isbn=4759801863}}
* {{Cite book|和書|author=小野廣紀、松井徳光|year=2002|title=わかる化学|publisher=化学同人|ref=ono2002|isbn=4759809201}}
* {{Cite book|和書|author=F.A. コットン, G. ウィルキンソン|others=中原 勝儼|title=コットン・ウィルキンソン無機化学(上)|publisher=培風館|year=1987|edition=原書第4版|isbn=4563041920|ref=CW1987}}
* {{Cite book|和書|author=櫻井武、鈴木晋一郎、中尾安男|year=2003|title=ベーシック無機化学|publisher=化学同人|ref=sakurai2003|isbn=4759809031}}
* {{Cite book|和書|author=James L. Davis|year=2002|title=Intermediate Technical Japanese: Readings and Grammatical Patterns(中級科学技術日本語)|series=Technical Japanese series|publisher=Univ of Wisconsin|ref=Davis2002|isbn=0299185540}}
* {{Cite book|和書|title=半導体と半金属 基礎と応用|editor=[[日本金属学会]]編|series=金属物性基礎講座|year=1990|publisher=アグネ技術センター|isbn=4750708119|ref=JIM1990}}
* {{Cite journal|和書|title= ビスマス研究 温故知新 : 固体中ディラック電子とバンド間磁場効|author=伏屋雄紀|year=2008|journal=固体物性|publisher=物性研究刊行会|volume=90|issue=4|pages=537-597|url=https://hdl.handle.net/2433/142656|ref=fusiya2008}}
* {{Cite book|和書||author=第16回ホウ素ホウ化物および関連物質国際会議組織委員会|year=2008|title=ホウ素・ホウ化物および関連物質の基礎と応用|series=新材料・新素材シリーズ|publisher=シーエムシー出版|ref=bron2008|isbn=4882319551}}
* {{Cite book|和書|author=三吉克彦|year=1998|title=はじめて学ぶ大学の無機化学|publisher=化学同人|ref=miyoshi1998|isbn=4759807985}}
* {{Cite book|和書|author=村田徳治|year=2004|title=化学はなぜ環境を汚染するのか|publisher=環境コミュニケーションズ|ref=murata2004|isbn=4874891373}}
{{Div col end}}
=== 洋書 ===
{{Div col|cols=2}}
*<span id="Abraham1994"></span>{{Cite web|author=Abraham M, Coshow, D, Fix, W|year=1994|url=http://dwb4.unl.edu/chem_source_pdf/PERD.pdf|title=Periodicity: A source book module|publisher=Chemsource, Inc.|location=New York|7=|format=PDF|page=p. 3|accessdate=2011-11-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120514182242/http://dwb4.unl.edu/chem_source_pdf/PERD.pdf|archivedate=2012年5月14日|deadlinkdate=2017年9月}} version 1.0.
* {{Cite book|author=Aldridge BG|year=1998|title=Science interactions: Course 2|edition=3rd ed.|publisher=Glencoe/McGraw-Hill|isbn=0028281578|ref=Aldridge1998}}
* {{Cite book|author=Alloul H|year=2010|title=Introduction to the physics of electrons in solids|publisher=Springer-Verlag|location=Berlin|isbn=3642135641|ref=Alloul2010}}
* {{Citation|author=Anita M|year=1998|title=Levitating liquid boron|journal=Phys. Rev. Focus|volume=vol.2|issue=no.4|doi=10.1103/PhysRevFocus.2.4|ref=Anita1998}}
* {{Citation|author=Arlman EJ|year=1939|title=The complex compounds P(OH)<sub>4</sub>.ClO<sub>4</sub> and Se(OH)<sub>3</sub>.ClO<sub>4</sub>|journal=Recueil des Travaux Chimiques des Pays-Bas|volume=vol. 58|issue=no. 10|pages=pp. 871–874|doi=10.1002/recl.19390581004|ref=Arlman1939}}
* {{Cite book|author=Atkins P, Overton T, Rourke J, Weller M, Armstrong F|year=2006|title=Shriver & Atkins' inorganic chemistry|edition=4th ed.|publisher=Oxford University Press|location=Oxford|isbn=0716748789|ref=Atkins2006}} (和訳:『シュライバー・アトキンス 無機化学 上・下』、田中勝久、平尾 一之、北川 進 翻訳、東京化学同人 (2008)、ISBN 4807906674, ISBN 4807906682)
* {{Cite book|author=Atkins P, Overton T, Rourke J, Weller M, Armstrong F|year=2010|title=Shriver & Atkins' inorganic chemistry|edition=5th ed.|publisher=Oxford University Press|location=Oxford|isbn=1429218207|ref=Atkins2010}}
* {{Citation|author=Bache AD|year=1832|title=An essay on chemical nomenclature, prefixed to the treatise on chemistry; by J. J. Berzelius|journal=American Journal of Science|volume=vol. 22|pages=pp. 248–277|ref=Bache1832}}
* {{Cite book|author=Bailar JC, Moeller T, Kleinberg J, Guss CO, Castellion ME, Metz C|year=1989|title=Chemistry|edition=3rd ed.|publisher=Harcourt Brace Jovanovich|location=San Diego|isbn=0155064606|ref=Bailar1989}}
* {{Cite book|author=Barrett J|year=2003|url=https://books.google.co.jp/books?id=3pdgmlb08d4C&pg=PA119&redir_esc=y&hl=ja|title=Inorganic chemistry in aqueous solution|publisher=The Royal Society of Chemistry|location=Cambridge|isbn=085404471X|ref=Barrett2003}}
* {{Cite book|author=Bassett LG, Bunce SC, Carter AE, Clark HM, Hollinger HB|year=1966|title=Principles of chemistry|publisher=Prentice-Hall|location=Englewood Cliffs, NJ|oclc=327761|ref=Bassett1966}}
* {{Cite book|editor=Beach FC|year=1911|title=The Americana: A universal reference library|publisher=Scientific American Compiling Department|location=New York|volume=vol. XIII|oclc=34404384|ref=Beach1911}}
* {{Cite book|author=Berger LI|year=1997|title=Semiconductor materials|publisher=CRC Press, Boca Raton|location=Florida|isbn=0849389127|ref=Berger1997}}
* {{Cite book|author=Berzelius JJ|year=1825|title=Lehrbuch der chemie (Textbook of chemistry)|volume=vol. 1|issue=pt. 1|othors=trans. F Wöhle|publisher=Arnold|location=Dresden|ref=Berzelius1825}}
* {{Cite book|author=Beveridge TJ, Hughes MN, Lee H, Leung KT, Poole RK, Savvaidis I, Silver S, Trevors JT|year=1997|chapter=Metal–microbe interactions: Contemporary approaches|editor=RK Poole|title=Advances in microbial physiology|volume=vol. 38|publisher=Academic Press|location=San Diego|pages=pp. 177–243|isbn=0120277387|ref=Beveridge1997}}
* {{Cite book|author=Bodner GM, Pardue HL|year=1993|title=Chemistry, an experimental science|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|isbn=0471593869|ref=Bodner1993}}
* {{Cite book|author=Bogoroditskii NP, Pasynkov VV|year=1967|title=Radio and electronic materials|publisher=Iliffe Books|location=London|oclc=2102014|ref=Bogoroditskii1967}}
* {{Cite book|author=Boikess RS, Edelson E|year=1985|title=Chemical principles|edition=3rd ed.|publisher=Harper & Row|location=New York|isbn=0060408057|ref=Boikess1985}}
* {{Citation|author=Boyer RD, Li J, Ogata S, Yip S|year=2004|title=Analysis of shear deformations in Al and Cu: empirical potentials versus density functional theory|journal=Modelling and Simulation in Materials Science and Engineering|volume=vol. 12|issue=no. 5|pages=pp. 1017–1029|doi=10.1088/0965-0393/12/5/017|ref=Boyer2004}}
* {{Cite book|author=Boylan PJ|year=1962|title=Elements of chemistry|publisher=Allyn & Bacon|location=Boston|oclc=1727911|ref=Boylan1962}}
* {{Cite book|author=Brande WT, Cauvin J|year=1945|title=A dictionary of science, literature and art|publisher=Harper & Brothers|location=New York|ref=Brande1945}}
* {{Cite book|author=Brasted RC|year=1974|chapter=Oxygen group elements and their compounds|title=The New Encyclopaedia Britannica|volume=vol. 13|publisher=Encyclopaedia Britannica|location=Chicago|pages=pp. 809–824|isbn=0852292902|ref=Brasted1974}}
* {{Cite book|author=Brown L, Holme T|year=2006|url=https://books.google.co.jp/books?id=ScwseMQKBQEC&pg=PA57&redir_esc=y&hl=ja|title=Chemistry for engineering students|publisher=Thomson Brooks/Cole|location=Belmont CA|isbn=0495017183|ref=Brown2006}}
* {{Cite web|author=Brown WP c.|year=2007|work=The properties of semi-metals or metalloids|url=http://www.docbrown.info/page03/3_34ptable.htm|title=Doc Brown's chemistry: Introduction to the periodic table|accessdate=2011-10-28|ref=Brown2007}}
* {{Cite book|editor=Bucat RB|year=1983|title=Elements of chemistry: Earth, air, fire & water, vol. 1|publisher=Australian Academy of Science|location=Canberra|isbn=0858471132|ref=Bucat1983}}
* {{Cite book|author=Butler JAV|year=1930|title=The chemical elements and their compounds: An introduction to the study of inorganic chemistry from modern standpoints|publisher=Macmillan|location=London|oclc=4644183|ref=Butler_1930}}
* {{Cite book|author=Carapella SC|year=1968|chapter=Arsenic|editor=CA Hampel|title=The encyclopedia of the chemical elements|publisher=Reinhold|location=New York|pages=pp. 29–32|oclc=449569|ref=Carapella1968}}
* {{Cite book|author=Caven RM, Lander GD|year=1906|title=Systematic inorganic chemistry from the standpoint of the periodic law: a text-book for advanced students|publisher=Blackie & Son|location=London|ref=Caven1906}}
* {{Cite book|author=Burrows A, Holman J, Parsons A, Pilling G, Price G|year=2009|title=Chemistry<sup>3</sup>: Introducing inorganic, organic and physical chemistry|publisher=Oxford University|location=Oxford|isbn=0199277893|ref=Burrows2009}}
* {{Cite web|author=Carr K|year=2011|url=http://www.ehow.co.uk/info_8414516_types-metalloids.html|title=What are types of metalloids?|accessdate=2011-11-03|ref=Carr2011}}
* {{Cite book|author=Carmalt CJ, Norman NC|year=1998|chapter=Arsenic, antimony and bismuth: Some general properties and aspects of periodicity|editor=NC Norman|title=Chemistry of arsenic, antimony, and bismuth|publisher=Blackie Academic & Professional|location=London|pages=pp. 1–38|isbn=075140389X|ref=Carmalt1998}}
* {{Cite book|author=Cegielski C|year=1998|title=Yearbook of science and the future|publisher=Encyclopaedia Britannica|location=Chicago|isbn=0852296576|ref=Cegielski1998}}
* {{Cite book|author=Chalmers B|year=1959|title=Physical metallurgy|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|oclc= 490129344|ref=Chalmers1959}}
* {{Citation|author=Champion J, Alliot C, Renault E, Mokili BM, Chérel M, Galland Nl, Montavon G|year=2010|title=Astatine standard redox potentials and speciation in acidic medium|journal=The Journal of Physical Chemistry A|volume=vol. 114|issue=no. 1|pages=pp. 576–582|doi=10.1021/jp9077008|ref=Champion2010}}
* {{Cite book|author=Chang R|year=1994|title=Chemistry|edition=5th (international) ed.|publisher=McGraw-Hill|location=New York|isbn=0070110034|ref=Chang1994}}
* {{Cite book|author=Chang R|year=2002|title=Chemistry|edition=7th ed.|publisher=McGraw Hill|location=Boston|isbn=0071120726|ref=Chang2002}}
* {{Citation|author=Chao MS, Stenger VA|year=1964|title=Some physical properties of highly purified bromine|journal=Talanta|volume=vol. 11|issue=no. 2|pages=pp. 271–281|doi=10.1016/0039-9140(64)80036-9|ref=Chao1964}}
* {{Citation|author=Chatt J|year=1951|chapter=Metal and metalloid compounds of the alkyl radicals|editor=EH Rodd|title=Chemistry of carbon compounds: A modern comprehensive treatise|volume=vol. 1|issue=part A|publisher=Elsevier, Amsterdam|pages=417‒458|oclc=542597|ref=Chatt1951}}
* {{Cite book|author=Chedd G|year=1969|title=Half-way elements: The technology of metalloids|publisher=Doubleday|location=New York|oclc=10453|ref=Chedd1969}}
* {{Cite book|author=Chizhikov DM, Shchastlivyi VP|year=1968|title=Selenium and selenides|others=translated by EM Elkin, from the Russian|publisher=Collet’s|location=London|isbn=0569035287|ref=Chizhikov1968}}
* {{Cite book|author=Choppin GR, Johnsen RH|year=1972|title=Introductory chemistry|publisher=Addison-Wesley, Reading|location=Massachusetts|oclc=315371|ref=Choppin1972}}
* {{Cite book|author=Clark GL|year=1960|title=The encyclopedia of chemistry|publisher=Reinhold|location=New York|ref=Clark1960}}
* {{Cite book|author=Cobb C, Fetterolf ML|year=2005|title=The joy of chemistry|publisher=Prometheus Books|location=New York|isbn= 1591022312|ref=Cobb2005}}
* {{Cite book|author=Cornford FM|year=1937|title=Plato's cosmology: the Timaeus of Plato translated with a running commentary by Francis Macdonald Cornford|publisher=Routledge and Kegan Paul|location=London|isbn=0766186660|ref=Cornford1937}}
* {{Cite book|editor=Considine DM, Considine GD|year=1984|chapter=Metalloid|title=Van Nostrand Reinhold Encylopedia of Chemistry|edition=4th ed.|publisher=Van Nostrand Reinhold|location=New York|isbn=0471615250|ref=Considine1984}}
* {{Cite book|author=Cooper DG|year=1968|title=The periodic table|edition=4th ed.|publisher=Butterworths|locaton=London|isbn=0408620005|ref=Cooper1968}}
* {{Cite book|author=Cordes EH, Scaheffer R|year=1973|title=Chemistry|publisher=Harper & Row|location=New York|isbn=006041359X|ref=Cordes1973}}
* {{Cite book|author=Cotton FA, Wilkinson G, Murillo CA, Bochmann|year=1999|title=Advanced inorganic chemistry|edition=6th ed.|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|isbn=0471199575|ref=Cotton1999}}
* {{Cite book|author=Couch JF|year=1920|title=A dictionary of chemical terms|publisher=D Van Nostrand|location=New York|oclc=301249878|ref=Couch1920}}
* {{Cite book|author=Cox PA|year=2004|title=Inorganic chemistry|edition=2nd ed.|publisher=Instant notes series, Bios Scientific|location=London|isbn=1859962890|ref=Cox2004}}
* {{Cite book|author=Craig J|year=1849|title=A new universal etymological technological, and pronouncing dictionary of the English language|volume=vol. II|publisher=Henry George Collins|location=London|ref=Craig1849}}
* {{Cite book|author=Craig PJ|year=2003|title=Organometallic compounds in the environment|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|isbn=0471899933|ref=Craig2003}}
* {{Cite book|author=Cverna F|year=2002|title=ASM ready reference: Thermal properties of metals|publisher=ASM International, Materials Park|location=Ohio|isbn=0871707683|ref=Cverna2002}}
* {{Cite book|author=Daub GW, Seese WS|year=1996|title=Basic chemistry|edition=7th ed.|publisher=Prentice Hall|location=New York|isbn=0133844307|ref=Daub1996}}
* {{Cite book|author=Davidson DF, Lakin HW|year=1973|chapter=Tellurium|editor=DA Brobst, WP Pratt|title=United States mineral resources|series=Geological survey professional paper|volume=820|publisher=United States Government Printing Office|location=Washington|pages=pp. 627–630|ref=Davidson1973}}
* {{Cite book|author=De Graef M, McHenry ME|year=2007|url=https://books.google.co.jp/books?id=nJHSqEseuIUC&pg=PA34&redir_esc=y&hl=ja|title=Structure of materials: an introduction to crystallography, diffraction and symmetry|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|isbn=0521651514|ref=DeGraef2007}}
* {{Cite book|author=Deming HG|year=1923|title=General chemistry: An elementary survey|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|oclc=4966028|ref=Deming1923}}
* {{Cite book|author=Deming HG|year=1925|title=General chemistry: An elementary survey|edition=2nd ed.|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|oclc=12762792|ref=Deming1925}}
* {{Cite book|author=Deming HG, Hendricks BC |year=1942|title=Introductory college chemistry: a course for beginners|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|oclc=1902604|ref=Deming_&_Hendricks_1942}}
* {{Cite book|author=Deming HG|year=1952|title=General chemistry: An elementary survey|edition=6th ed.|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|oclc=252572077|ref=Deming1952}}
* {{Cite book|author=Denniston KJ, Topping JJ, Caret RL|year=2004|title=General, organic, and biochemistry|edition=5th ed.|publisher=McGraw-Hill|location=New York|isbn=0072920033|ref=Denniston2004}}
* {{Citation|author=Desai PD, James HM, Ho CY|year=1984|title=Electrical resistivity of aluminum and manganese|journal=Journal of Physical and Chemical Reference Data|volume=vol. 13|issue=no. 4|pages=pp. 1131–1172|doi=10.1063/1.555725|ref=Desai1984}}
* {{Citation|author=DiSalvo FJ|year=2000|title=Challenges and opportunities in solid-state chemistry|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=vol. 72|issue=no. 10|pages=pp. 1799–1807|doi=10.1351/pac200072101799|ref=DiSalvo2000}}
* {{Citation|author=Du Y, Ouyang C, Shi S, Lei M|year=2010|title=Ab initio studies on atomic and electronic structures of black phosphorus|journal=Journal of Applied Physics|volume=vol. 107|pages=pp. 093718-1|doi=10.1063/1.3386509|ref=Du2010}}
* {{Cite book|author=Dunstan S|year=1968|title=Principles of chemistry|publisher=D. Van Nostrand Company|location=London|oclc=645304|ref=Dunstan1968}}
* {{Cite book|author=Eagleson M|year=1994|title=Concise encyclopedia chemistry|publisher=Walter de Gruyter|location=Berlin|isbn=0899254578|ref=Eagleson1994}}
* {{Citation|author=Edwards PP, Sienko MJ|year=1983|title=On the occurrence of metallic character in the periodic table of the elements|journal=Journal of Chemical Education|volume=vol. 60|issue=no. 9|page=p. 691|doi=10.1021ed060p691|ref=Edwards1983}}
* {{Cite book|author=Edwards PP|year=1999|chapter=Chemically engineering the metallic, insulating and superconducting state of matter|editor=KR Seddon, M Zaworotko|title=Crystal engineering: The design and application of functional solids|publisher=Kluwer Academic|location=Dordrecht|pages=pp. 409–431|isbn=9780792359050|ref=Edwards1999}}
* {{Cite book|author=Edwards PP|year=2000|chapter=What, why and when is a metal?|editor=N Hall|title=The New Chemistry|publisher=Cambridge University|location=Cambridge|pages=pp. 85–114|isbn=0521452244|ref=Edwards2000}}
* {{Citation|author=Edwards PP, Lodge MTJ, Hensel F, Redmer R|year=2010|title=…a metal conducts and a non-metal doesn't'|journal=Philosophical Transactions of the Royal Society A: Mathematical, Physical and Engineering Sciences|volume=vol. 368|pages=pp. 941–965|doi=10.1098rsta.2009.0282|ref=Edwards2010}}
* {{Citation|author=Edwards PP, Sienko MJ|year=1983|title=On the occurrence of metallic character in the periodic table of the elements|journal=Journal of Chemical Education|volume=vol. 60|issue=no. 9page=p. 691|doi=10.1021ed060p691|ref=Edwards1983}}
* {{Cite book|author=Eggins BR|year=1972|title=Chemical structure and reactivity|publisher=MacMillan|location=London|isbn=0333081455|ref=Eggins1972}}
* {{Cite book|author=Emsley J|year=1971|title=The inorganic chemistry of the non-metals|publisher=Methuen Educational|location=London|isbn=0423861204|ref=Emsley1971}}
* {{Citation|author=Emsley J|year=1985|title=Mendeleyev’s dream table|journal=New Scientist|issue=7 March|pages=pp. 32–36|ref=Emsley1985}}
* {{Cite book|author=Emsley J|year=2003|url=https://books.google.co.jp/books?id=j-Xu07p3cKwC&pg=PA48&redir_esc=y&hl=ja|title=Nature's building blocks: An A–Z guide to the elements|publisher=Oxford University Press|location=Oxford|isbn=0198503407|ref=Emsley2003}}
* {{Cite book|author=E S C Weiner, J A Simpson|editor=Oxford University Press|title=Oxford English Dictionary|year=1989|edition=2nd ed.|publisher=[[オックスフォード大学|Oxford University]]|location=Oxford|oclc=17648714|isbn=0198611862|ref=OED1989}}
* {{Cite book|author=Evans RC|year=1966|title=An introduction to crystal chemistry|publisher=Cambridge University|location=Cambridge|oclc=603639404|ref=Evans1966}}
* {{Citation|author=Farrell HH, Van Sicien CD|year=2007|title=Binding energy, vapor pressure, and melting point of semiconductor nanoparticles|journal=Journal of Vacuum Science Technology B|volume=vol. 25|issue=no. 4|pages=pp. 1441–1447|doi=10.1116/1.2748415|ref=Farrell2007}}
* {{Citation|author=Fellet M|date=2011-07-28|title=Redefining hydrogen bonds, the givers of life|journal=[[ニュー・サイエンティスト|New Scientist]]|volume=30|issue=No. 2823|url=http://www.newscientist.com/article/mg21128234.100-redefining-hydrogen-bonds-the-givers-of-life.html|ref=Fellet2011}}
* {{Citation|author=Fernelius WC, Robey RF|year=1935|title=The nature of the metallic state|journal=Journal of Chemical Education|volume=vol. 12|issue=no. 2|pages=pp. 53–68|doi=10.1021/ed012p53|ref=Fernelius1935}}
* {{Citation|author=Fluck E|year=1988|title=New notations in the period table|journal=Pure & Applied Chemistry|volume=vol. 60|issue=no. 3|pages=pp. 431–436|doi=10.1351/pac198860030431|ref=Fluck1988}}
* {{Cite book|author=Friend JN|year=1953|title=Man and the chemical elements|edition=1st ed.|publisher=Charles Scribner's Sons|location=New York|oclc=1005706|ref=Friend1953}}
* {{Cite book|author=Fritz JS, Gjerde DT|year=2008|url=https://books.google.co.jp/books?id=oelxCiw03WUC&pg=PA235&redir_esc=y&hl=ja|title=Ion chromatography|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|isbn=3527613250|ref=Fritz2008}}
* {{Cite book|author=Glazov VM, Chizhevskaya SN, Glagoleva NN|year=1969|title=Liquid semiconductors|publisher=Plenum|location=New York|oclc=2112|ref=Glazov1969}}
* {{Cite book|author=Glinka N|year=1958|title=General chemistry|publisher=Foreign Languages Publishing House|location=Moscow|oclc=8792066|ref=Glinka1958}}
* {{Cite book|author=Glinka N|year=1965|title=General chemistry|publisher=trans. D Sobolev, Gordon & Breach|location=New York|oclc=2811789|ref=Glinka1965}}
* {{Citation|author=Goldsmith RH|year=1982|title=Metalloids|journal=Journal of Chemical Education|volume=vol. 59|issue=no. 6|pages=pp. 526–527|doi=10.1021/ed059p526|ref=Goldsmith1982}}
* {{Cite book|author=Good JM, Gregory O, Bosworth N|year=1813|chapter=Arsenicum|title=Pantologia: a new cyclopedia…of essays, treatises, and systems…with a general dictionary of arts, sciences, and words…|publisher=Kearsely|location=London|ref=Good1813}}
* {{Cite book|author=Goodrich BG|year=1844|title=A glance at the physical sciences|publisher=Bradbury, Soden & Co.|location=Boston|oclc=3956877|ref=Goodrich1844}}
* {{Cite book|author=Gordh G, Headrick D|year=2003|title=A dictionary of entomology|publisher=CABI Publishing|location=Wallingford|isbn=0851996558|ref=GGH2003}}
* {{Cite web|author=Gray T|year=2010|url=http://theodoregray.com/periodictable/Elements/Metalloids/index.s7.html|title='Metalloids (7)'|accessdate=2011-11-06|ref=Gray2010}}
* {{Cite book|author=Greenberg A|year=2007|title=From alchemy to chemistry in picture and story|publisher=John Wiley & Sons|location=Hoboken, NJ|isbn=0471751545|ref=Greenberg2007}}
* {{Cite book|author=Greenwood NN, Earnshaw A|year=2002|title=Chemistry of the elements|edition=2nd ed.|publisher=Butterworth-Heinemann|isbn=0080379419|ref=Greenwood2002}}
* {{Cite book|author=Gupta A, Awana VPS, Samanta SB, Kishan H, Narlikar AV|year=2005|chapter=Disordered superconductors|editor=AV Narlikar|title=Frontiers in superconducting materials|publisher=Springer-Verlag|location=Berlin|page=p. 502|isbn=3540245138}}
* {{Cite book|author=Habashi F|year=2003|title=Metals from ores: an introduction to extractive metallurgy|publisher=Métallurgie Extractive Québec, Sainte Foy|location=Québec|isbn=2922686043|ref=Habashi2003}}
*<span id="Haller_2006"></span>{{Cite web|author=Haller EE|year=2006|title=Germanium: From its discovery to SiGe devices|url=http://www.osti.gov/bridge/servlets/purl/922705-bthJo6/922705.pdf|accessdate=2011-11-03}}
* {{Cite book|author=Hamm DI|year=1969|title=Fundamental concepts of chemistry|publisher=Meredith Corporation|location=New York|isbn=0390406511|ref=Hamm1969}}
* {{Cite book|author=Hampel CA, Hawley GG|year=1966|title=The encyclopedia of chemistry|edition=3rd ed.|publisher=Van Nostrand Reinhold|location=New York|isbn=0442230958|ref=Hampel&H1966}}
* {{Cite book|editor=Hampel CA|year=1968|title=The encyclopedia of the chemical elements|publisher=Reinhold|location=New York|oclc=449569|ref=Hampel1968}}
* {{Cite book|author=Hampel CA, Hawley GG|year=1976|title=Glossary of chemical terms|publisher=Van Nostrand Reinhold|location=New York|isbn=0442232381|ref=Hampel1976}}
* {{Cite book|author=Harding C, Johnson DA, Janes R|year=2002|url=https://books.google.co.jp/books?id=W0HW8wgmQQsC&pg=PA61&redir_esc=y&hl=ja|title=Elements of the p block|publisher=Royal Society of Chemistry|location=Cambridge|isbn=0854046909|ref=Harding2002}}
* {{Cite book|author=Hasan H|year=2009|title=The boron elements: Boron, aluminum, gallium, indium, thallium|publisher=The Rosen Publishing Group|location=New York|isbn=1435853334|ref=Hasan2009}}
* {{Cite book|author=Hatcher WH|year=1949|title=An introduction to chemical science|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|oclc=1572558|ref=Hatcher1949}}
* {{Citation|author=Hawkes SJ|year=1999|title=Polonium and astatine are not semimetals|journal=Chem 13 News|issue=February|page=p. 14|ref=Hawkes1999}}
* {{Citation|Hawkes SJ|year=2001|title=Semimetallicity|journal=Journal of Chemical Education|volume=vol. 78|issue=no. 12|pages=pp. 1686–87|doi=10.1021/ed078p1686|ref=Hawkes2001}}
* {{Citation|author=Hawkes SJ|year=2010|title=Polonium and astatine are not semimetals|journal=Journal of Chemical Education|volume=vol. 87|issue=no. 8|page=p. 783|doi=10.1021ed100308w|ref=Hawkes2010}}
* {{Cite book|author=Henderson M|year=2000|title=Main group chemistry|publisher=The Royal Society of Chemistry|location=Cambridge|isbn=978-1-84755-128-3|ref=Henderson2000}}
* {{Citation|author=Herchenroeder JW, Gschneidner KA|year=1988|title=Stable, metastable and nonexistent allotropes|journal=Journal of Phase Equilibria|volume=vol. 9|issue=no. 1|pages=pp. 2–12|doi=10.1007/BF02877443|ref=Herchenroeder1988}}
* {{Citation|author=Hérold A|year=2006|url=http://depa.pquim.unam.mx/amyd/archivero/An_arrangement_of_the_chemical_elements_5006.pdf|title=An arrangement of the chemical elements in several classes inside the periodic table according to their common properties|journal=Comptes Rendus Chimie|volume=vol. 9|pages=pp. 148–153|doi=10.1016/j.crci.2005.10.002|ref=Hérold2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120215003543/http://depa.pquim.unam.mx/amyd/archivero/An_arrangement_of_the_chemical_elements_5006.pdf|archivedate=2012年2月15日|deadlinkdate=2017年9月}}
* {{Citation|author=Herzfeld K|year=1927|title=On atomic properties which make an element a metal|journal=Physical Review|volume=vol. 29|issue=no. 5|pages=pp. 701–705|doi=10.1103PhysRev.29.701|ref=Herzfeld1927}}
* {{Cite book|author=Hill G, Holman J|year=2000|title=Chemistry in context|edition=5th ed.|publisher=Nelson Thornes|location=Cheltenham|isbn=0174482760|ref=Hill2000}}
* {{Cite book|author=Hiller LA, Herber RH|year=1960|title=Principles of chemistry|publisher=McGraw-Hill|location=New York|oclc=269641|ref=Hiller1960}}
* {{Citation|author=Hinrichs GD|year=1869|title=On the classification and the atomic weights of the so-called chemical elements, with particular reference to Stas’s determinations|journal=Proceedings of the American Association for the Advancement of Science|volume=vol. 18|pages=pp. 112–124|ref=Hinrichs1869}}
* {{Cite book|author=Hultgren HH|year=1966|chapter=Metalloids|editor=GL Clark & GG Hawley|title=The encyclopedia of inorganic chemistry|edition=2nd ed.|publisher=Reinhold Publishing|location=New York|ref=Hultgren1966}}
* {{Cite web|author=Holt, Rinehart, Wilson c.|year=2007|url=http://go.hrw.com/resources/go_sc/periodic/Po_At_Metalloids.pdf|title=Why polonium and astatine are not metalloids in HRW texts|accessdate=2011-10-28|ref=Holt2007}}
* {{Citation|author=Horvath|year=1973|title=Critical temperature of elements and the periodic system|journal=Journal of Chemical Education|volume=vol. 50|issue=no. 5|pages=pp. 335–336|doi=10.1021/ed050p335|ref=Horvath1973}}
*<span id=""></span>{{Cite book|author=Housecroft CE, Constable EC|year=2006|title=Chemistry|edition=3rd ed.|publisher=Pearson Education|location=Harlow, England|isbn=0131275674|ref=Housecroft2006}}
* {{Cite book|author=Hunt A|year=2000|title=The complete A-Z chemistry handbook|edition=2nd ed.|publisher=Hodder & Stoughton|location=London|isbn=0340872713|ref=Hunt2000}}
* {{Cite book|author=Hutton W, Dickerson RE|year=1970title=A study guide to chemical principles|publisher=Benjamin|location=New York|isbn=0805347259|ref=Hutton1970}}
* {{Cite book|editor=International Textbook Company|year=1908|title=International library of technology: a series of textbooks for persons engaged in the engineering professions and trades, or for those who desire information concerning them|volume=vol. 6, part 2|publisher=International textbook Co|location=Scranton, PA|oclc=620366|ref=ITC1908}}
* {{Cite book|author=IUPAC|year=1959title=Nomenclature of inorganic chemistry|edition=1st ed.|publisher=Butterworths|location=London|ref=IUPAC1959}}
* {{Cite web|author=IUPAC|year=1971|url=http://www.iupac.org/publications/pac/pdf/1971/pdf/2801x0001.pdf|title=Nomenclature of inorganic chemistry|edition=2nd ed.|publisher=Butterworths|location=London|accessdate=2011-11-06|ref=IUPAC1971}}
* {{Cite book|author=Jackson CT|year=1844|title=Final report of the geology and mineralogy of the State of New Hampshire, with contributions towards the improvement of agriculture and metallurgy|publisher=Carroll & Baker|location=Concord, New Hampshire|ref=Jackson1844}}
* {{Cite book|editor=Jain M|year=2005|chapter=Group 17 elements [Halogen family]|title=Competition Science Vision|month=January|publisher=Pratiyogita Darpan|pages=pp. 1455–1461|ref=Jain2005}}
* {{Cite book|author=Jenkins GM, Kawamura K|year=1976|title=Polymeric carbons—carbon fibre, glass and char|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|isbn=0521106788|ref=Jenkins1976}}
* {{Cite book|author=Johnston FJ|year=1992|chapter=Metalloid|title=McGraw-Hill encyclopedia of science & technology|edition=7th ed.|volume=vol. 11|publisher=McGraw-Hill|location=New York|isbn=0079092063|ref=Johnston1992}}
* {{Cite book|author=Jungnickel C, McCormmach R|year=1996|title=Cavendish|publisher=American Philisophical Society|location=Philadelphia|isbn=0871692201|ref=Jungnickel1996}}
* {{Cite book|editor=Kaminow IP, Li T|year=2002|title=Optical fiber telecommunications|volume=Volume IVA|publisher=Academic Press|location=San Diego|isbn=0123951720|ref=Kaminow2002}}
* {{Cite book|author=Kaye GWC, Laby TH|year=1973|title=Tables of physical and chemical constants|edition=14th ed.|publisher=Longman|location=London|isbn=0582463262 |ref=Kaye1973}}
* {{Cite book|author=Keller C|year=1985|chapter=preface|editor=Kugler HK, Keller C|title=Gmelin handbook of inorganic and organometallic chemistry|edition=8th ed.|publisher=At Astatine, Springer-Verlag|location=Berlin|isbn=3540934847|ref=Keller1985}}
* {{Cite book|author=Kent W|year=1950|title=Kent's mechanical engineers' handbook|edition=12th ed.|volume=vol. 1|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|ref=Kent1950}}
* {{Cite book|editor=King RB|year=2005|title=Encyclopedia of inorganic chemistry|edition=2nd ed.|publisher=John Wiley & Sons|location=Chichester|page=p. 6006|isbn=0470860782|ref=King2005}}
* {{Cite book|author=Kitaĭgorodskiĭ AI|year=1961|title=Organic chemical crystallography|publisher=Consultants Bureau|location=New York|oclc=229281|ref=Kitaĭgorodskiĭ1961}}
* {{Cite book|author=Klug HP, Brasted RC|year=1958|title=Comprehensive inorganic chemistry: The elements and compounds of group IV A|publisher=Van Nostrand|location=New York|oclc=278243974|ref=Klug1958}}
* {{Cite book|author=Kneen WR, Rogers MJW, Simpson P|year=1972|title=Chemistry: Facts, patterns, and principles|publisher=Addison-Wesley|location=London|isbn=0201037785|ref=Kneen1972}}
* {{Cite book|author=Kniep R|year=1996|chapter=Eduard Zintl: His life and scholarly work|editor=SM Kauzlarich|title=Chemistry, structure and bonding of Zintl phases and ions|publisher=VCH|location=New York|pages=pp. xvii–xxx|isbn=1560819006|ref=Kniep1996}}
* {{Cite book|author=Kotz JC, Treichel P, Weaver GC|year=2005|title=Chemistry & chemical reactivity|edition=6th ed.|publisher=Brooks/Cole|location=Belmont, CA|isbn=053499766X|ref=Kotz2005}}
* {{Cite book|author=Kotz JC, Treichel P, Weaver GC|year=2009|title=Chemistry & chemical reactivity|edition=7th ed.|publisher=Brooks/Cole|location=Belmont, CA|isbn=1439041318|ref=Kotz2009}}
* {{Citation|author=Kozyrev PT|year=1959|title=Deoxidized selenium and the dependence of its electrical conductivity on pressure. II, Physics of the solid state|volume=vol. 1|pages=pp. 102–110|ref=Kozyrev1959}} [[ロシア科学アカデミー|ソビエト連邦科学アカデミー]]の[[学術雑誌]]である''Solid State Physics (Fizika tverdogo tela)''の英訳
* {{Citation|author=Kraig RE, Roundy D, Cohen ML|year=2004|title=A study of the mechanical and structural properties of polonium|journal=Solid State Communications|volume=vol. 129|issue=issue 6|month=Feb|pages=pp. 411–413|doi=10.1016/j.ssc.2003.08.001|ref=Kraig2004}}
* {{Cite book|author=Lewis RJ|year=1993|title=Hawley's condensed chemical dictionary|edition=12th ed.|publisher=Van Nostrand Reinhold|location=New York|isbn=0442011318|ref=Lewis1993}}
* {{Cite book|author=Lovett DR|year=1977|title=Semimetals & narrow-bandgap semi-conductors|publisher=Pion|location=London|isbn=0850860601|ref=Lovett1977}}
* {{Cite book|author=Lundgren A, Bensaude-Vincent B|year=2000|url=https://books.google.co.jp/books?id=9Wki6iUlkvUC&pg=PA409&redir_esc=y&hl=ja|title=Communicating chemistry: textbooks and their audiences, 1789–1939|publisher=Science History|location=Canton, MA|isbn=0881352748|ref=Lundgren2000}}
* {{Cite book|author=Lutz J, Schlangenotto H, Scheuermann U, De Doncker R|year=2011|title=Semiconductor power devices: Physics, characteristics, reliability|publisher=Springer-Verlag|location=Berlin|isbn=3642111246|ref=Lutz2011}}
* {{Cite book|author=Mackay KM, Mackay RA|year=1989|title=Introduction to modern inorganic chemistry|edition=4th ed.|publisher=Blackie|location=Glasgow|isbn=0134884876|ref=Mackay1989}}
* {{Cite book|author=Mahan BH, Myers RJ|year=1987|title=University chemistry|edition=4th ed.|publisher=Benjamin/Cumming|location=Menlo Park|isbn=9780201058468|ref=Mahan1987}}
* {{Cite book|author=Malerba F|year=1985|title=The semiconductor business: The economics of rapid growth and decline|publisher=Frances Pinter|location=London|isbn=0299104605|ref=Malerba1985}}
* {{Citation|author=Mann JB, Meek TL, Allen LC|year=2000|title=Configuration energies of the main group elements|journal=Journal of the American Chemical Society|volume=vol. 122|issue=no. 12|pages=pp 2780–2783|doi=10.1021ja992866e|ref=Mann2000}}
* {{Cite book|author=Martienssen W, Warlimont H|year=2005|title=Springer handbook of condensed matter and materials data|volume=vol. 1|publisher=Springer|location=Berlin|isbn=3540443762|ref=Martienssen2005}}
* {{Cite book|author=Masterton WL, Slowinski EJ|year=1977|title=Chemical principles|edition=4th ed.|publisher=W. B. Saunders|location=Philadelphia|isbn=0721661734|ref=Masterton1977}}
* {{Citation|author=Matula RA|year=1979|title=Electrical resistivity of copper, gold, palladium, and silver|journal=Journal of Physical and Chemical Reference Data|volume=vol. 8|issue=no. 4|pages=pp. 1147–1298|doi=10.1063/1.555614|ref=Matula1979}}
* {{Cite book|author=McMurray J, Fay RC|year=2009|title=General chemistry: Atoms first|publisher=Prentice Hall|location=Upper Saddle River, NJ|isbn=0321571630|ref=McMurray2009}}
* {{Cite book|author=McQuarrie DA, Rock PA|year=1987|title=General chemistry|edition=3rd ed.|publisher=WH Freeman|location=New York|isbn=071671910X|ref=McQuarrie1987}}
* {{Cite book|author=Mendeléeff DI|year=1897|title=The principles of chemistry|edition=5th ed.|others=trans. G Kamensky|editor=AJ Greenaway|publisher=Longmans, Green & Co.|location=London|ref=Mendeléeff1897}}
* {{Cite book|author=Metcalfe HC, Williams JE, Castka JF|year=1966|title=Modern chemistry|edition=3rd ed.|publisher=Holt, Rinehart and Winston|location=New York|oclc=316853384|ref=Metcalfe1966}}
* {{Cite book|author=Metcalfe HC, Williams JE, Castka JF|year=1974|title=Modern chemistry|publisher=Holt, Rinehart and Winston|location=New York|isbn=0030726905|ref=Metcalfe1974}}
* {{Cite book|author=Metcalfe HC, Williams JE, Castka JF|year=1982|title=Modern chemistry|edition=rev. ed.|publisher=Holt, Rinehart and Winston Publishers|location=New York|isbn=0035799102|ref=Metcalfe1982}}
* {{Cite book|author=Miles WD, Gould RF|year=1976|title=American chemists and chemical engineers|volume=vol. 1|publisher=American Chemical Society|location=Washington|isbn=0841202788|ref=Miles1976}}
* {{Citation|author=Morita A|year=1986|title=Semiconducting black phosphorus|journal=Journal of Applied Physics A|volume=vol. 39|pages=pp. 227–242|doi=10.1007/BF00617267|ref=Morita1986}}
* {{Cite book|author=Moss TS|year=1952|title=Photoconductivity in the elements|publisher=Butterworths Scientific Publications|location=London|oclc=3178623|ref=Moss1952}}
* {{Citation|author=Murray JF|year=1928|title=Cable-sheath corrosion|jpurnal=Electrical World|volume=92|issue=Dec 29|pages=pp. 1295–1297|ref=Murray1928}}
* {{Citation|author=Neuburger MC|year=1936|title=Gitterkonstanten für das Jahr 1936|journal=Zeitschrift für Kristallographie|volume=93|pages=1‒36|ref=Neuburger1936}}
* {{Citation|url=http://www.nist.gov/pml/data/ion_energy.cfm|publisher=National Institute of Standards and Technology (NIST)|year=2010|title=Ground levels and ionization energies for neutral atoms|author=WC Martin, A Musgrove, S Kotochigova, JE Sansonetti|ref=NIST2010}}
* {{Citation|author=Nickelès J|year=1861|title=On a new characteristic of the so-called semi-metals|journal=American Journal of Science|volume=82|page=416|isbn=1145289800|ref=Nickelès}}
* {{Citation|url=http://webbook.nist.gov/cgi/cbook.cgi?ID=C7440688&Units=SI&Mask=20|publisher=National Institute of Standards and Technology (NIST)|year=2011|title=Astatine|ref=NIST2011}}
* {{Cite journal|author=Nordell KJ, Miller GJ|year=1999|title=Linking intermetallics and Zintl compounds: An investigation of ternary trielides (Al, Ga, In) forming the NaZn<sub>13</sub> structure type|journal=Inorganic Chemistry|volume=38|issue=3|pages=579–590|doi=10.1021/ic980772k|ref=Nordell1999}}
* {{Cite book|author=Norman NC|year=1997|title=Periodicity and the s- and p-block elements|publisher=Oxford University|location=Oxford|isbn=0198559615|ref=Norman1997}}
* {{Cite book|author=Oberleas D, Harland BF, Harland B|year=1999|title=Minerals: Nutrition and metabolism|publisher=Vantage Press|location=New York|isbn=0533130867|ref=Oberleas1999}}
* {{Cite book|author=Obrist B|year=1990|title=Constantine of Pisa. The book of the secrets of alchemy: a mid-13th century survey of natural science|publisher=E J Brill|location=Leiden, The Netherlands|isbn=9004092889|ref=Obrist1990}}
* {{Cite book|author=Oderberg DS|year=2007|title=Real essentialism|publisher=Routledge|location=New York|isbn=9780415323642|ref=Oderberg2007}}
* {{Citation|author=Ogata S, Li J, Yip S|year=2002|title=Ideal pure shear strength of aluminium and copper|journal=Science|volume=298|issue=25 October|pages=pp. 807–810|ref=Ogata2002}}
* {{Citation|author=Okakjima Y, Shomoji M|year=1972|title=Viscosity of dilute amalgams|journal=Transactions of the Japan Institute of Metals|publisher=日本金属学会|volume=13|issue=4|pages=255-258|url=https://doi.org/10.2320/matertrans1960.13.255|doi=10.2320/matertrans1960.13.255|ref=Okakjima1972}}
* {{Cite book|author=Oxtoby DW, Gillis HP, Campion A|year=2008|title=Principles of modern chemistry|edition=6th ed.|publisher=Thomson Brooks/Cole|location=Belmont, CA|isbn=0534493661|ref=Oxtoby2008}}
* {{Cite book|author=Parish RV|year=1977|title=The metallic elements|publisher=Longman|location=London|isbn=0582442788|ref=Parish1977}}
* {{Cite book|author=Partington JR|year=1964|title=A history of chemistry|volume=4|publisher=Macmillan|location=London|oclc=494498416|ref=Partington1964}}
* {{Cite book|author=Paul BH|year=1865|chapter=Metals and metallöids|editor=H Watts|title=A dictionary of chemistry and the allied branches of other science|volume=3|publisher=Longman, Green, Roberts & Green|location=London|pages=pp. 933–946|ref=Paul1865}}
* {{Cite book|author=Pauling L|year=1947|title=General chemistry: An introduction to descriptive chemistry and modern chemical theory|publisher=WH Freeman|location=San Francisco|oclc=594651708|ref=Pauling1947}}
* {{Cite book|author=Pauling L|year=1988|url=https://books.google.co.jp/books?id=EpxSzteNvMYC&pg=PA183&redir_esc=y&hl=ja|title=General chemistry|publisher=Dover Publications|location=NY|isbn=0486656225|ref=Pauling1988}}
* {{Cite book|author=Pearson WB|year=1972|title=The crystal chemistry and physics of metals and alloys|publisher=Wiley-Interscience|location=New York|isbn=0471675407|ref=Pearson1972}}
* {{Cite book|author=Petty MC|year=2007|title=Molecular electronics: From principles to practice|volume=22|series=Wiley series in materials for electronic and optoelectronic applications|publisher=John Wiley and Sons|location=New York|isbn=0470013079|ref=Petty2007}}
* {{Cite book|author=Phillips CSG, Williams RJP|year=1965|title=Inorganic chemistry, I: Principles and non-metals|publisher=Clarendon Press|location=Oxford|ref=Phillips1965}}
* {{Citation|author=Pitzer K|year=1975|title=Fluorides of radon and elements 118|journal=Journal of the Chemical Society, Chemical Communications|volume=18|pages=760–761|ref=Pitzer1975}}
* {{Cite book|author=Pottenger FM, Bowes EE|year=1976|title=Fundamentals of chemistry|publisher=Scott, Foresman and Co., Glenview,|location=Illinois|isbn=0673078760|ref=Pottenger1976}}
* {{Citation|author=Rao CNR, Ganguly P|year=1986|title=A new criterion for the metallicity of elements|journal=Solid State Communications|volume=57|issue=1|pages=5–6|doi=10.1016/0038-1098(86)90659-9|ref=Rao1986}}
* {{Cite book|author=Rao KY|year=2002|title=Structural chemistry of glasses|publisher=Elsevier|location=Oxford|isbn=0080439586|ref=Rao2002}}
* {{Citation|author=Rausch MD|year=1960|title=Cyclopentadienyl compounds of metals and metalloids|journal=Journal of Chemical Education|volume= 37|issue=11|pages=568–578|doi=10.1021/ed037p568|ref=Rausch1960}}
* {{Cite book|author=Rayner-Canham G, Overton T|year=2006|title=Descriptive inorganic chemistry|edition=4th ed.|publisher=WH Freeman|location=New York|isbn=0716789639|ref=Rayner2006}}
* {{Cite book|author=Regnault MV|year=1853|title=Elements of chemistry|volume=1|edition=2nd ed.|publisher=Clark & Hesser|location=Philadelphia|oclc=5540669|ref=Regnault1853}}
* <span id="Reid2002"></span>{{Cite patent|inventor-first=Reid|inventor-last=JS|year=2002|title=Mems with flexible portions made of novel materials|country-code = US|issue-date=2002|patent-number=7071520}}
* {{Cite book|author=Remy H|year=1956|title=Treatise on inorganic chemistry|volume=II|publisher=Elsevier|location=Amsterdam|oclc=555095|ref=Remy1956}}
* {{Cite book|author=Rock PA & Gerhold GA|year=1974|title=Chemistry: Principles and applications|publisher=WB Saunders|location=Philadelphia|isbn=0721676308|ref=Rock1974}}
* {{Cite book|author=Rochow EG|year=1957|title=The chemistry of organometallic compounds|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|oclc=266317|ref=Rochow1957}}
* {{Cite book|author=Rochow EG|year=1966|title=The metalloids|publisher=DC Heath and Company|location=Boston|oclc=187280|ref=Rochow1966}}
* {{Cite book|author=Rochow EG|year=1977|title=Modern descriptive chemistry|publisher=Saunders|location=Philadelphia|isbn=0721676286|ref=Rochow1977}}
* {{Cite book|author=Roscoe HE, Schorlemmer FRS|year=1894|title=A treatise on chemistry: Volume II: The metals|publisher=D Appleton|location=New York|ref=Roscoe1894}}
* {{Cite book|author=Rothenberg GB|year=1976|title=Glass technology, recent developments|publisher=Noyes Data Corporation|location=Park Ridge, NJ|isbn=0815506090|ref=Rothenberg1976}}
* {{Citation|author=Rouvray DH|year=1995|title=That fuzzy feeling in chemistry|journal=Chemistry in Britain|volume=31|issue=|pages=544-546|ref=Rouvray1995}}{{OCLC|001554042}}
* {{Cite book|author=Roza G|year=2009|url=https://books.google.co.jp/books?id=alWPulJ2V44C&pg=PA12&redir_esc=y&hl=ja|title=Bromine|publisher=Rosen Publishing|location=New York|isbn=1435850688|ref=Roza2009}}
* {{Cite book|author=Russell JB|year=1981|title=General chemistry|publisher=McGraw-Hill|location=Auckland|isbn=0070543100|ref=Russell1981}}
* {{Cite book|author=Russell AM, Lee KLyear=2005|title=Structure-property relations in nonferrous metals|publisher=Wiley-Interscience|location=New York|isbn=047164952X|ref=Russell2005}}
* {{Cite book|author=Sacks O|year=2001|title=Uncle Tungsten: Memories of a chemical boyhood|publisher=Alfred A. Knopf|location=New York|isbn=0375404481|ref=Sacks2001}}
* {{Citation|author=Sanderson RT|year=1957|title=An electronic distinction between metals and nonmetals|journal=Journal of Chemical Education|volume=vol. 34|issue=no. 5|page=p. 229|doi=10.1021/ed034p229|ref=Sanderson1957}}
* {{Cite book|author=Sanderson RT|year=1960|title=Chemical periodicity|publisher=Reinhold Publishing|location=New York|oclc=547329|ref=Sanderson1960}}
* {{Cite book|author=Schaefer JC|year=1968|chapter=Boron|editor=CA Hampel|title=The encyclopedia of the chemical elements|publisher= Reinhold|location=New York|pages=pp. 73–81|oclc=449569|ref=Schaefer1968}}
* {{Cite book|author=Schaffter SR|year=2006|title=The chemistry student's companion|publisher=Birmingham Laboratories Press|location=Reseda|isbn=1411692470|ref=Schaffter2006}}
* {{Cite web|author=Schrobilgen GJ|year=2011|work=radon (Rn)|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/489337/radon|title=Encyclopædia Britannica|ref=Schrobilgen2011|accessdate=2011-11-03}}
* {{Cite book|author=Scott EC, Kanda FA|year=1962|title=The nature of atoms and molecules: A general chemistry|publisher=Harper & Row|location=New York|oclc=301723145|ref=Scott1962}}
* {{Cite book|author=Segal BG|year=1989|title=Chemistry: experiment and theory|edition=2nd ed.|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|isbn=0471849294|ref=Segal1989}}
* {{Cite book|author=Selwood PW|year=1965|title=General chemistry|edition=4th ed.|publisher=Holt, Rinehart and Winston|location=New York|oclc=622944386|ref=Selwood1965}}
* {{Cite book|author=Sharp DWA|year=1981|chapter=Metalloids|title=Miall's dictionary of chemistry|edition= 5th ed|publisher=Longman|location=Harlow|isbn=0582351529|ref=Sharp1981}}
* {{Cite book|author=Sherman E, Weston GJ|year=1966|title=Chemistry of the non-metallic elements|publisher=Pergamon Press|location=New York|oclc=407761|ref=Sherman1966}}
* {{Citation|author=Sidorov TA|year=1960|title=The connection between structural oxides and their tendency to glass formation|journal=Glass and Ceramics|volume=vol. 17|issue=no. 11|pages=pp. 599–603|doi=10.1007BF00670116|ref=Sidorov1960}}
* {{Cite book|author=Siebring BR|year=1967|title=Chemistry|publisher=MacMillan|location=New York|ref=Siebring1967}}
* {{Cite book|author=Siekierski S, Burgess J|year=2002|title=Concise chemistry of the elements|publisher=Horwood|location=Chichester|isbn=1898563713|ref=Siekierski2002}}
* {{Cite book|author=Silberberg MS|year=2002|title=Chemistry: the molecular nature of matter and change|edition=3rd ed.|publisher=McGraw-Hill|location=New York|isbn=0072396814|ref=Silberberg2002}}
* {{Cite book|author=Sisler HH|year=1973|title=Electronic structure, properties, and the periodic law|publisher=Van Nostrand|location=New York|isbn=0317087827|ref=Sisler1973}}
* {{Cite book|author=Slough W|year=1972|chapter=Discusssion of session 2b: Crystal structure and bond mechanism of metallic compounds|editor=O Kubaschewski|title=Metallurgical chemistry, proceedings of a symposium held at Brunel University and the National Physical Laboratory on the 14, 15 and 16 July 1971|publisher=Her Majesty's Stationery Office [for the] National Physical Laboratory|location=London|isbn=011480026X|ref=Slough1972}}
* {{Cite book|author=Smith A|year=1906|title=Introduction to general inorganic chemistry|publisher=The Century Company|location=New York|oclc=1907925|ref=Smith1906}}
* {{Cite book|author=Smith R|year=1994|title=Conquering chemistry|edition=2nd ed.|publisher=McGraw-Hill|location=Sydney|isbn=0074701460|ref=Smith1994}}
* {{Cite book|author=Steele D|year=1966|title=The chemistry of the metallic elements|publisher=Pergamon Press|location=Oxford|oclc=407741|ref=Steele1966}}
* {{Citation|author=Stein L|year=1969|title=Oxidized radon in halogen fluoride solutions|journal=Journal of the American Chemical Society|volume=vol. 19|issue=no. 19|pages=pp. 5396–5397|doi=10.1021/ja01047a042|ref=Stein1969}}
* {{Citation|author=Stein L|year=1985|title=New evidence that radon is a metalloid element: ion-exchange reactions of cationic radon|journal=Journal of the Chemical Society, Chemical Communications|volume=vol. 22|pages=pp. 1631–1632|doi=10.1039/C39850001631|ref=Stein1985}}
* {{Cite book|author=Stein L|year=1987|chapter=Chemical properties of radon|editor=PK Hopke|title=Radon and its decay products: Occurrence, properties, and health effects|publisher=American Chemical Society|location=Washington DC|pages=pp. 240–251|isbn=0841210152|ref=Stein1987}}
* {{Cite book|author=Steudel R|year=1977|title=Chemistry of the non-metals: With an introduction to atomic structure and chemical bonding|publisher=Walter de Gruyter|location=Berlin|isbn=3110048825|ref=Steudel1977}}
* {{Cite book|author=Stoker HS|year=2010|title=General, organic, and biological chemistry|edition=5th ed|publisher=Brooks/Cole, Cengage Learning|location=Belmont CA|isbn=0547152817|ref=Stoker2010}}
* {{Cite book|author=Stott RW|year=1956|title=A companion to physical and inorganic chemistry|publisher=Longmans, Green and Co.|location=London|ref=Stott1956}}
* {{Cite book|author=Swalin RA|year=1962|title=Thermodynamics of solids|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|oclc=1516800|ref=Swalin1962}}
* {{Cite web|author=Swenson J|year=2005|url=http://www.newton.dep.anl.gov/askasci/chem03/chem03687.htm|title=Classification of noble gases|publisher=Ask a scientist, Chemistry archive|accessdate=2011-11-06|ref=Swenson2005}}
* {{Cite book|author=Swift EH, Schaefer WP|year=1962|title=Qualitative elemental analysis|publisher=WH Freeman|location=San Francisco|isbn=0716701197|ref=Swift1962}}
* {{Cite book|author=Synder MK|year=1966|title=Chemistry: structure and reactions|publisher=Holt, Rinehart and Winston|location=New York|oclc=1175588|ref=Synder1966}}
* {{Citation|author=Szabó ZG, Lakatos B|year=1954|title=The new form of the periodic table and new periodic functions|journal=Acta Chimica Academiae Scientiarum Hungaricae|volume=IV 2–4|page=p. 133|ref=Szabó1954}}
* {{Citation|author=Taniguchi M, Suga S, Seki M, Sakamoto H, Kanzaki H, Akahama Y, Endo S, Terada S, Narita S|year=1984|title=Core-exciton induced resonant photemission in the covalent semiconductor black phosphorus|journal=Solid State Communications|volume=vo1. 49|issue=no. 9|pages=pp. 867–870|ref=Taniguchi1984}}
* {{Cite book|author=Tarendash AS|year=2001|url=https://books.google.co.jp/books?id=aOij0MVjsy0C&pg=PA78&redir_esc=y&hl=ja|title=Let's review: Chemistry, the physical setting|series=Barron's Educational Series|publisher=Hauppauge|location=New York|isbn=0764116649|ref=Tarendash2001}}
* {{Cite book|author=Taylor MD|year=1960|title=First principles of chemistry|publisher=D. Van Nostrand, Princeton|location=New Jersey|oclc=538016|ref=Taylor1960}}
* {{Citation|author=Thayer JS|year=1977|title=Teaching bio-organometal chemistry. I. The metalloids|journal=Journal of Chemical Education|volume=vol. 54|issue=no. 10|pages=pp. 604–06|doi=10.1021/ed054p604|ref=Thayer1977}}
* {{Cite book|author=Tilden WA|year=1876|title=Introduction to the study of chemical philosophy|publisher=D. Appleton and Co.|location=New York|ref=Tilden1876}}
* {{Cite book|author=Tilley RJD|year=2004|title=Understanding solids: The science of materials|edition=4th ed.|publisher=John Wiley|location=New York|isbn=0470852755|ref=Tilley2004}}
* {{Cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=yKUagx8PB_EC&pg=PA397&redir_esc=y&hl=ja|title=The American heritage science dictionary 2005|rditer=American Heritage Dictionaries|publisher=Houghton Mifflin Harcourt|location=Boston|isbn=0618455043|ref=TheAmerican2005}}
* {{Citation|journal=The Chemical News|year=1897|title=Notices of books: A manual of chemistry, theoretical and practical|author=WA Tilden'|volume=vol. 75|issue=no. 1951|page=p. 189|ref=TheChemical1897}}
* {{Citation|journal=The Chemical News and Journal of Physical Science|year=1864|title=Notices of books: Manual of the metalloids|issue=Jan 9|page=p. 22|ref=Thechemical1864}}
* {{Citation|journal=The Chemical News and Journal of Physical Science|year=1888|title=Books received: The students’ hand book of chemistry|issue=Jan 6|page=p. 11|ref=Thechemical1888}}
* {{Cite web|author=Thompson R|year=1999|title=Re: What is the metalloid line and where is it located on the Periodic Table?|url=http://www.madsci.org/posts/archives/1999-01/915517377.Ch.r.html|publisher=MadSci Network|accessdate=2011-11-06|ref=Thompson1999}}
* {{Cite book|author=Tweney CF, Shirshov IP|year=1935|title=Hutchinson’s technical & scientific encyclopaedia|volume=vol. 3|publisher=Macmillan|location=London|oclc=1105813|ref=Tweney1935}}
* {{Cite book|author=United States Bureau of Naval Personnel|year=1965|title=Shipfitter 3 & 2|publisher=US Government Printing Office|location=Washington|oclc=8084449|ref=United1965}}
* {{Cite book|author=United States Air Force Medical Service|year=1966|title=The pharmacy technician|publisher=Department of the Air Force|location=Washington|page=p. 3-3|oclc=556677310|ref=United1966}}
* {{Cite book|author=Van der Put PJ|year=1998|title=The inorganic chemistry of materials: how to make things out of elements|publisher=Plenum|location=New York|isbn=0306457318|ref=Vanderput1998}}
* {{Citation|author=Van Setten MJ, Uijttewaal MA, de Wijs GA, Groot RA|year=2007|url=http://zernike.eldoc.ub.rug.nl/FILES/root/2007/JAmChemSocvSetten/2007JAmChemSocvSetten.pdf|title=Thermodynamic stability of boron: The role of defects and zero point motion|journal=Journal of the American Chemical Society|volume=vol. 129|issue=no. 9|pages=pp. 2458‒65|doi=10.1021/ja0631246|ref=VanSetten2007|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120426082753/http://zernike.eldoc.ub.rug.nl/FILES/root/2007/JAmChemSocvSetten/2007JAmChemSocvSetten.pdf|archivedate=2012年4月26日|deadlinkdate=2017年9月}}
* {{Cite book|author=Vasáros L, Berei K|year=1985|chapter=General properties of astatine|editor=Kugler HK, Keller C|title=Gmelin handbook of inorganic and organometallic chemistry|edition=8th ed.|publisher=At Astatine, Springer-Verlag|location=Berlin|isbn=3540934847|ref=Vasáros1985}}
* {{Citation|author=Walker J|year=1891|title=On the periodic tabulation of the elements|journal=The Chemical News|volume=vol. LXIII|issue=no. 1644, May 29|pages=pp. 251–253|ref=Walker1891}}
* {{Citation|author=Warren J, Geballe T|year=1981|title=Research opportunities in new energy-related materials|journal=Materials Science and Engineering|volume=vol. 50|issue=no. 2|doi=10.1016/0025-5416(81)90177-4|ref=Warren1981}}
*<span id=""></span>{{Cite book|author=Webster|title=Webster's New International Dictionary|year=1926|chapter=metalloid|publisher=G & C Merriam|location=Springfield, Mass|ref=Websters1926}}
* {{Cite web|author=Whitley K|year=2009|url=http://www.chemprofessor.com/outline4b.htm|title=Periodic table: Metals, non-metals, and semi-metals|accessdate=2011-11-06|ref=Whitley2009|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120516013438/http://www.chemprofessor.com/outline4b.htm|archivedate=2012年5月16日|deadlinkdate=2017年9月}}
* {{Cite book|author=Whitten KW, Davis RE, Peck LM|year=2003|title=A qualitative analysis supplement|edition=7th ed.|publisher=Thomson Brooks/Cole|location=Belmont, CA|isbn=0534408761|ref=Whitten2003}}
* {{Cite book|author=Whitten KW, Davis RE, Peck LM, Stanley GG|year=2007|title=Chemistry|edition=8th ed.|publisher=Thomson Brooks/Cole|location=Belmont, CA|isbn=0495105945|ref=Whitten2007}}
* {{Cite book|author=Wiberg N|year=2001|url=https://books.google.co.jp/books?id=Mtth5g59dEIC&printsec=frontcover&redir_esc=y&hl=ja|title=Inorganic chemistry|publisher=Academic Press|location=San Diego|isbn=0123526515|ref=Wiberg2001}}
* {{Citation|author=Wilson JR|year=1965|title=The structure of liquid metals and alloys|journal=Metallurgical reviews|volume=vol. 10|page=p. 502|url=http://www.ingentaconnect.com/content/maney/mtlr/1965/00000010/00000001/art00007|ref=Wilson1965}}
* {{Cite book|author=Wilson AH|year=1966|title=Thermodynamics and statistical mechanics|publisher=Cambridge University|location=Cambridge|oclc=1538433|ref=Wilson1966}}
* {{Cite book|author=Witt AF, Gatos HC|year=1968|chapter=Germanium|editor=CA Hampel|title=The encyclopedia of the chemical elements|publisher=Reinhold|location=New York|pages=pp. 237‒244|ref=Witt1968}}
* {{Citation|author=Wittenberg LJ|year=1972|title=Volume contraction during melting; emphasis on lanthanide and actinide metals|journal=The Journal of Chemical Physics|volume=vol. 56|issue=no. 9|page=p. 4526|doi=10.1063/1.1677899|ref=Wittenberg1972}}
* {{Cite book|author=Woodward WE|year=1948|title=Engineering metallurgy|publisher=Constable|location=London|oclc=1444940|ref=Woodward1948}}
* {{Cite book|author=Wulfsberg G|year=1991|url=https://books.google.co.jp/books?id=JoNUVLrNg14C&pg=PA201&redir_esc=y&hl=ja|title=Principles of descriptive inorganic chemistry|publisher=Brooks/Cole|location=Monterey CA|isbn=0935702660|ref=Wulfsberg1991}}
* {{Cite book|author=Yacobi BG, Holt DB|year=1990|title=Cathodoluminescence microscopy of inorganic solids|publisher=Plenum|location=New York|isbn=0306433141|ref=Yacobi1990}}
* {{Cite book|author=Young TF, Finley K, Adams WF, Besser J, Hopkins WD, Jolley D, McNaughton E, Presser TS, Shaw DP, Unrine J|year=2010|chapter=What you need to know about selenium|editor=PM Chapman, WJ Adams, M Brooks, CJ Delos, SN Luoma, WA Maher, H Ohlendorf, TS Presser, P Shaw |title=Ecological assessment of selenium in the aquatic environment|publisher=CRC, Boca Raton|location=Florida|pages=pp.7–45|isbn=1439826773|ref=Young2010}}
* {{Cite book|author=Young RV|editor=Sessine S|year=2000|title=World of chemistry|publisher=Gale Group, Farmington Hills|location=Michigan|isbn=0787636509|ref=Young2000}}
{{Div col end}}
== 関連項目 ==
* [[物性物理]]
* [[バンド計算]]
* [[第一原理バンド計算]]
* [[金属]]
* [[半導体]]
* [[絶縁体]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
<!-- 参考用に +cat -->
{{Good article}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はんきんそく}}
[[Category:半金属|*]]
[[Category:金属]]
[[Category:物質]]
[[Category:バンド計算]] | 2003-03-09T01:47:03Z | 2023-11-15T08:47:08Z | false | false | false | [
"Template:E",
"Template:Cite web",
"Template:仮リンク",
"Template:Main2",
"Template:Div col",
"Template:Cite patent",
"Template:OCLC",
"Template:Good article",
"Template:Normdaten",
"Template:Legend",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Su",
"Template:Quote",
"Template:Main",
"Template:Reflist",
"Template:Cite book",
"Template:Div col end",
"Template:Otheruses",
"Template:Kotobank",
"Template:℃",
"Template:Cite journal",
"Template:Citation",
"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E9%87%91%E5%B1%9E |
3,707 | ハッシュ関数 | ハッシュ関数 (ハッシュかんすう、英語: hash function) あるいは要約関数とは、任意のデータから、別の(多くの場合は短い固定長の)値を得るための操作、または、その様な値を得るための関数のこと。ハッシュ関数から得られた値のことを要約値やハッシュ値または単にハッシュという。
ハッシュ関数は、主に検索の高速化やデータ比較処理の高速化、さらには改竄の検出に使われる。例えば、データベース内の項目を探したり、大きなファイル内で重複しているレコードや似ているレコードを検出したり、核酸の並びから類似する配列を探したりといった場合に利用できる。
ハッシュ関数は、チェックサム、チェックディジット、フィンガープリント、誤り訂正符号、暗号学的ハッシュ関数などと関係がある。それぞれ用途が異なり、異なった形で設計・最適化されている。
ハッシュ関数の入力を「キー (key)」と呼ぶ。得られるハッシュ値は、2つ以上のキーから同じ値が得られることがある。これを衝突という。多くの場合、衝突の発生は最小限に抑えるのが望ましい。そのため、ハッシュ値の出現頻度は一様になるように設計しなければならない。
ハッシュ関数は特にハッシュテーブルで使われ、与えられた検索キー(例えばキーワード)から素早くデータレコード(辞書でのキーワードの定義)を探すのに使われる。ハッシュ関数は検索キーをハッシュにマッピングする。ハッシュをインデックスとして対応するレコードの格納位置が分かる。さらにハッシュテーブルは連想配列や動的集合の実装に使われる。
一般にハッシュ関数は複数の異なるキーを同じインデックスにマッピングする可能性がある。したがって、ハッシュテーブルの各スロットは(明示的か暗黙かはともかく)単一のレコードではなくレコードの集合に対応していることが多い。このため、ハッシュテーブルの各スロットを「バケット (bucket)」、ハッシュ値を「バケットインデックス」とも呼ぶ。
したがって、ハッシュ関数はレコードの位置のヒントでしかない。つまり、探すための出発点を教えるだけである。それでも、半分以上埋まったテーブルで良いハッシュ関数を使えば、検索対象をせいぜい1つか2つのエントリに減らすことができる。
ハッシュ関数は、低速な記憶媒体に格納された巨大なデータセットのためのキャッシュを構築するのに使うことがある。ハッシュテーブルと似ているが、キャッシュであるため、衝突が発生しても古い方のアイテムを消去するか本来の媒体に書き戻せばよいという特徴がある。
ハッシュ関数はブルームフィルタの基本的構成要素である。ブルームフィルタはキーが集合に含まれるかどうかを近似的に表すコンパクトなデータ構造である。
巨大なソートされていないファイルから重複したレコードを探す場合、各レコードをハッシュ関数に入力して配列 T のインデックスを得て、各バケット T[i] にハッシュ値が i になった全レコードの番号をリストの形で集める。この配列が完成すると、重複したレコードは必ず同じバケットに存在しているはずである。そこで、リストの要素数が2つ以上のバケット全てについて実際のレコードを求めて比較することで、重複レコードを探すことができる。配列が適切な大きさであれば、この方法が他のどんな方法(ファイルをソートし、隣り合うレコードを比較していく方法など)よりも高速な場合が多い。
ハッシュ関数は、キーが似ているが全く同一ではない場合のレコード検索にも使える。この場合の入力は1つのキーか、似たようなキーを持つ巨大ファイル内の2つのレコードである。このためには、似たようなキーを与えられたとき、最大でも m しか違わないハッシュ値(m は小さい整数で例えば1か2)を生成するハッシュ関数を必要とする。このようなハッシュ関数を使って全レコードに関するハッシュテーブル T を構築すると、似たようなレコードは同じバケットか近いバケットに格納されることになる。すると各バケット T[i] について、-m から m の範囲の k で表されるバケット T[i+k] に格納されているレコード群を相互に比較すればよい。
この応用として声紋アルゴリズムと呼ばれる技法がある。これを使うと音声ファイルの巨大なコレクションから似たようなエントリを探すことができる(MusicBrainzの楽曲ラベリングサービスで使われている)。この場合のハッシュ関数は、ノイズやタイミングの違いや音量の違いといった差異をなるべく無視できるようなものであることが望ましい。
同じ技法は巨大な文字列の集まりから同じ部分か類似する部分を見つけ出すのに応用できる。例えば、文書リポジトリや遺伝子データベースなどに応用できる。この場合、入力文字列群を多数の小さな部分に分割し、それらに対してハッシュ関数を適用して上述してきたような技法で同じ部分や類似の部分を探す。
ラビン-カープ文字列検索アルゴリズムは比較的高速な文字列検索アルゴリズムで、平均でO(n)の時間で動作する。このアルゴリズムは文字列の比較にハッシュ関数を使っている。
この原理は、コンピュータグラフィックスや計算幾何学を代表とする様々な分野で、2次元平面や3次元空間でのいわゆる類似性問題を解くのに使われている。例えば、多数の点から最も近い2つの点を探すとか、一連の形状から類似した形状を探すとか、画像データベースから類似する画像を探すなどの用途である。これらの用途では、あらゆる入力は何らかの距離空間にあり、ハッシュ関数はその空間を格子状に分割するものと解釈できる。このときに使用するテーブルは2次元以上の配列であり(グリッドファイルなどと呼ぶ)、ハッシュ関数はその次元数に対応した一連のインデックスを返す。このようなハッシュ技法を幾何学的ハッシュなどと呼ぶ。幾何学的ハッシュは電気通信でのベクトル量子化でも使われており、多次元の信号を符号化し圧縮するために使われている。
例えば、「ある文書が正確かどうか検証したいが、その文書そのものを記録・比較したくない」場合を考える。ここでもしこの文書を代表する数値(文書の要約)を数学的に作り出すことができれば、この要約だけを記録し、比較すれば良いことになる。このような要約を作る操作がハッシュ化である。
より具体的に、今、ハッシュ関数として、「5字ごとに1字を選択し、その列を並べたものをハッシュ値とする」という操作を選択したとすると、このハッシュ関数によって、元の文書を1/5に短縮することができる。しかしこの方法では、
という問題がある。そこで、このようなことが確率論的に現実には起こりにくくなるようなハッシュ関数を工夫をする必要がある。
通常は元データのバイナリ表現を使い、それを複雑に操作し数十~数百ビットのハッシュ値を作る。
改竄の検出を行う場合は、単純なハッシュ関数アルゴリズムを用いると、容易に同じハッシュ値を求めることができるため、安全に設計されたハッシュ関数を用いる必要がある。
ハッシュ関数は非可逆変換であるため、ハッシュ値から元の値を容易には復元できないという特徴がある。そのため、認証サーバは、パスワードをハッシュ化して保存することが推奨される。このようにすれば、サーバ内の認証情報を窃取された場合であっても、キーを知られるリスクを減らすことができる。
良いハッシュ関数は、一般に以下のような特性を満たす必要がある。なお、関連する概念(暗号学的ハッシュ関数、チェックサムなど)では要求は異なる。
他の手法に比べてハッシュ関数を用いた手法をより有利にするには、ハッシュ関数の計算コストが十分小さくなければならない。例えば、n個の要素のあるソート済みテーブルにある要素を挿入する場合、二分探索では log2 n 回のキーの比較を必要とする。したがって、ハッシュテーブルを使った手法が二分探索よりも効率的であるためには、ハッシュ関数が1つのキーからハッシュ値を計算するコストが log2 n 回のキー比較のコストよりも小さくなければならない。暗号学的ハッシュ関数は、そういう意味では時間がかかりすぎる。
ハッシュを使った手法は決定的でなければならない。つまり、ある入力が与えられたとき、生成するハッシュ値は常に同じでなければならない。言い換えれば、数学的な意味で関数になっていなければならない。したがってハッシュ関数は、時刻などに基づいた擬似乱数のような外部パラメータに依存してはならない。また、ハッシュ対象オブジェクトのメモリアドレスが処理中に変化する可能性があるなら(ガベージコレクションが行われるシステムでは変化する可能性がある)、それもパラメータとして利用することはできないが、時にはアドレス変更と同時にハッシュのやり直しを行うこともある。
良いハッシュ関数は、考えられる入力範囲が出力範囲全体になるべく一様に分布するようにマッピングを行う。つまり、出力範囲のそれぞれのハッシュ値はほぼ同じ確率で生成されるべきである。このような条件があるのは、異なる入力が同じハッシュ値にマッピングされてしまう「衝突」が発生すると、ハッシュに基づく各種技法のコストは衝突発生回数と共に増大するためである。あるハッシュ値が他のハッシュ値より生成されやすいなら、参照操作で衝突しているエントリ間でどれが探しているエントリかを調べる作業が基本的に大きな部分を占めることになる。
注意しなければならないのは、「一様分布」が必要なのであって「無作為」である必要はないという点である。よい無作為化関数はハッシュ関数にも適していることが多いが、ハッシュ関数が無作為化関数である必要はない。
ハッシュテーブルには可能な入力のうちのごく一部が格納されているということが多い。例えば、ある会の会員名簿には100人ほどの会員の名前が並んでいるが、それはこの世に存在する人名のごく一部である。その場合、一様性はほぼ全ての典型的な部分集合に対して成り立てばよいのであって、全ての可能なエントリ全体の集合に対して成り立たせる必要はない。
言い換えれば、典型的な m 個のレコードの集合を n 個のバケットにマッピングする場合、1つのバケットに対応するレコード数が m/n より大きくなる可能性をなるべく小さくすればよい。特に m が n より小さい場合、一部のバケットだけが1つまたはせいぜい2つのレコードを格納するようにすべきである。理想的な完全ハッシュ関数では、各バケットには最大でも1つのレコードしか格納されない。しかし、n が m よりずっと大きくても、衝突を完全に無くすことはできない(誕生日のパラドックスを参照)。
ハッシュ関数を評価する場合、ハッシュ値の分布の一様性はカイ二乗検定で評価できる。
多くの用途では、プログラムを実行するたびにハッシュ値の範囲は変化するし、場合によっては1回の実行中にも範囲が変化することもある(ハッシュテーブルを拡張する必要が生じた場合など)。そのような場合、ハッシュ関数は2つのパラメータを入力する必要がある。1つは入力データ z で、もう1つは生成可能なハッシュ値の数 n である。
よくある方式は、非常に大きな値域(例えば 0 から 2−1)のハッシュ関数を用意し、その出力を n で割った余りを最終的な出力とする。n が2のべき乗なら、割り算ではなくビットマスクやビットシフトで代替できる。この方式を採用するなら、ハッシュ関数は n がいくつであっても、0 から n−1 の間でハッシュ値が一様に分布するようなものを選択する必要がある。関数によっては、奇数や素数など特定の n でないと余りが一様分布にならないこともある。
用途によっては、入力データに比較目的には不適切な特徴が含まれていることがある。例えば、英語の個人名を参照するとき、大文字と小文字を区別しない方がよい。そのようなデータをハッシュ関数の入力にする場合、データの同値関係基準を考慮すべきであり、同じと見なされる入力には同じハッシュ値を生成すべきである。
(等しいデータではなく)類似するデータを探索する用途では、ハッシュ関数は可能な限り連続となっているべきである。少しだけ異なる入力に対しては、同じハッシュ値かごく近いハッシュ値を生成すべきである。
なお、連続性はチェックサムや暗号学的ハッシュ関数などにとっては不適切な特性である。ハッシュ関数に連続性が必要となる用途は、線型探索を使うハッシュテーブルなどの用途である。
ハッシュ関数の選択は、その用途における入力データの性質や確率分布に大きく左右される。
ハッシュ対象のデータが十分に小さいなら、入力データそのものをハッシュ値として使うこともできる(何らかのバイナリを整数として再解釈する)。このような自明なハッシュ関数(恒等関数)の計算コストは事実上ゼロである。
「十分に小さい」の意味は、ハッシュテーブルに割り当てられるメモリ量に依存する。2008年現在、典型的なPCでは1GB程度のメモリが利用可能で、30ビット程度のハッシュ値なら扱える。ただし、多くの場合そこまで大きなハッシュテーブルは必要としない。例えば、英文の文字列の大文字/小文字の変換をするとき、各文字をバイナリ符号化したものを使い、その文字符号を整数のインデックスとしてテーブルを参照すると対応する変換後の文字符号が得られるようにするという方法が考えられる(例えば、'A' には 'a'、'8' には '8' を返すなど)。それぞれの文字が8ビットで表されていれば(ASCIIまたはISO Latin 1)、テーブルのエントリ数は 2 = 256 個だけとなるし、Unicodeの場合でも 17×2 = 1114112 エントリである。
同じ技法は 'us' とか 'ja' のような2文字国名コードを実際の国名にマッピングする場合(26=676 エントリ)、アメリカの5桁の郵便番号を地名にマッピングする場合(10万エントリ)などに利用できる。不正なデータ値(例えば国名コードなら 'xx'、ZIPコードなら 00000)に対応するエントリは未定義とされたり、何らかの 'null' 値にマッピングすることになるだろう。
ハッシュ関数が単射の場合、すなわち正しい入力に対して必ず異なるハッシュ値が対応する場合、これを完全 (perfect) だという。このような関数を使えば、1つのハッシュテーブルで目的のエントリを直接探すことができ、それ以外の探索の手間が生じない。
完全ハッシュ関数は、入力される範囲が予め分かっていて変化しない場合のみ成立する。例えば英語の月の名前を0から11の整数にマッピングするとか、ある辞書に掲載されている単語にハッシュ値を割り当てるといった場合である。入力の集合を与えられると、それに対応した完全ハッシュ関数を実行する最適化されたサブルーチンを出力する生成器がいくつか存在する(例えば、GNU gperf)。
n 個のキーに対する完全ハッシュ関数が最小 (minimal) であるとは、その値域が n 個の連続な整数(通常 0 から n-1)の場合である。単に参照が単純化されるだけでなく、ハッシュテーブルもコンパクトになり、空きスロットができない。最小完全ハッシュ関数は単なる完全ハッシュ関数よりも求めるのが難しくなる。
入力が制限された長さの文字列(例えば、電話番号、自動車のナンバー、送り状番号など)で、個々の入力値は独立にかつ一様な確率で発生する場合、ハッシュ関数は個々のハッシュ値にだいたい同じ個数の入力値をマッピングすればよい。例えば、入力 z が 0 から N−1 の範囲の整数、出力 h が 0 から n−1 の範囲の整数で、N が n より大きいとする。するとハッシュ関数としては、h = z mod n ( z を n で割った余り)、h = (z × n) ÷ N (z を n/N 倍して整数に丸めた値)、などの式が考えられる。
入力の出現確率が一様でない場合や、独立性がない場合は、上のような単純な方式ではうまくいかない。例えば、あるスーパーマーケットの利用者は地理的に近い場所に集中しているため、電話番号の先頭数桁は同じになってしまう。その場合、(z × n) ÷ N の式では元の数値の上の桁が残るため、衝突が多発する。一方、z mod n の式では、末尾側の桁が残るため、この場合のハッシュ値の分布はこちらの方がよい。
データが非常に長い(または可変長の)文字列の場合(人名、URL、電子メールの中身など)、その分布は一様でないことが多く、複雑な依存関係が存在することが多い。例えば、自然言語の文章では文字の分布は全く一様ではないし、文字の並び方にも相関関係があり、その言語に特有の性質を持っている。その場合、ハッシュ関数は文字列内の全文字を何らかの形で使用し、しかもそれぞれの文字を異なった形で使用するのが望ましい。
そのようなデータをハッシュ値に変換する典型的手法は、入力を小さな単位(数ビット、数バイト、数ワードなど)の並び b[1], b[2], ..., b[m] に分割し、それを順に以下のように結合していく。
この手法は、テキストのチェックサムやフィンガープリントのアルゴリズムにも利用されている。状態変数 S は32ビットか64ビットの符号無し整数である。例の場合、S0 は 0 でよいし、G(S,n) は単に S mod n でよい。最適な F の選択は難しい問題で、データの性質にも依存する。データ単位 b[k] が1ビットなら、F(S,b) は例えば次のようになる。
ここで highbit(S) は S の最上位ビットを意味し、'*' 演算子は符号無しの整数の乗算でオーバーフローを無視する操作を表す。'^' はビット単位の排他的論理和演算を表し、P は適当な固定のワードである。
多くの場合ヒューリスティクスを利用して、汎用のハッシュ関数よりも特定用途で衝突を削減できるハッシュ関数を設計できる。例えば、入力が FILE0000.CHK、FILE0001.CHK、FILE0002.CHK などのファイル名で、多くの場合このような一連の番号が名前に含まれているとする。すると、ファイル名から番号部分 k を抜き出し、k mod n をハッシュ値とすれば、ほぼ最適な結果が得られる。言うまでもないが、特定の入力に最適化したハッシュ関数は、それ以外の分布を示す入力に対しては非常に悪い結果を生じる。
チェックサムやフィンガープリント用のアルゴリズムをハッシュ関数として採用することもできる。それらのアルゴリズムの一部は、任意長の文字列データ z から32ビットまたは64ビットのビット列を生成するので、そこから 0 から n-1 のハッシュ値を容易に抽出できる。
この手法は、ハッシュ値の範囲 n がチェックサムやフィンガープリント関数の値域より十分小さい場合に限って、十分一様に分布するハッシュ値を生成する。しかし、一部のチェックサムは雪崩効果が弱いため、用途によっては不向きである。よく使われているCRC32チェックサムは、上位16ビットだけがハッシュ用途に使える。さらに言えば、入力の各ビットはCRC32の1つのビットにのみ影響を与える。したがって、32ビットのチェックサムをそのままハッシュ値に利用する場合は十分な注意が必要である。
Secure Hash Algorithmのような暗号学的ハッシュ関数は、チェックサムやフィンガープリントよりも強力な一様性を保証するので、汎用ハッシュ関数としても最適である。
しかし暗号化などの用途以外では、その計算コストが高いため利点が打ち消されてしまう。しかし、悪意ある者がキーを選んでもハッシュ値が一様に分布するという特性がある。このためDoS攻撃からサービスを保護する助けとなる場合もある。
暗号学的ハッシュ関数の安全性を議論する場合、以下の3種類について議論を行う。
原像計算困難性(Preimage Resistance)とは、与えられたハッシュ値に対して、そのハッシュ値を出力するようなハッシュ関数への入力を求めることが困難であるような性質を言う。ただし、異なる入力から同じハッシュ値が得られるため、そのハッシュ値を得られる入力を1つ求めればよい。
第2原像計算困難性(Second Preimage Resistance)とは、与えられた入力値に対して、その入力値をハッシュ関数へ入力したときのハッシュ値と同じハッシュ値を出力する入力値を求めることが困難であるような性質を言う。
衝突困難性(Collision Resistance)とは、同じハッシュ値を与える2つの入力値を求めることが困難であるような性質を言うのである。
ハッシュ関数に衝突が多い場合、原像計算困難性を満たさないハッシュ関数では、任意の入力値からハッシュ値を得られるため、第2原像計算困難性を満たさない。また、第2原像計算困難性を満たさないハッシュ関数では、衝突困難性を満たさない。すなわち、
である。
"hash" という用語は、本来の「切り刻んで混ぜる」という意味からの類推で使われるようになった。実際、合同操作を行う典型的なハッシュ関数は、入力の定義域を多数の部分に「切り刻み」、キーの分布が値域で一様になるように「混ぜた」形で出力する。
ドナルド・クヌースによれば、この用語を最初に使ったのはIBMの Hans Peter Luhn で、1953年1月の社内メモで使っていた。そして、Robert Morris が学会誌 Communications of the ACM に掲載した論文でこの用語を使い、単なるジャーゴンから正式な専門用語に昇格した。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ハッシュ関数 (ハッシュかんすう、英語: hash function) あるいは要約関数とは、任意のデータから、別の(多くの場合は短い固定長の)値を得るための操作、または、その様な値を得るための関数のこと。ハッシュ関数から得られた値のことを要約値やハッシュ値または単にハッシュという。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "ハッシュ関数は、主に検索の高速化やデータ比較処理の高速化、さらには改竄の検出に使われる。例えば、データベース内の項目を探したり、大きなファイル内で重複しているレコードや似ているレコードを検出したり、核酸の並びから類似する配列を探したりといった場合に利用できる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "ハッシュ関数は、チェックサム、チェックディジット、フィンガープリント、誤り訂正符号、暗号学的ハッシュ関数などと関係がある。それぞれ用途が異なり、異なった形で設計・最適化されている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "ハッシュ関数の入力を「キー (key)」と呼ぶ。得られるハッシュ値は、2つ以上のキーから同じ値が得られることがある。これを衝突という。多くの場合、衝突の発生は最小限に抑えるのが望ましい。そのため、ハッシュ値の出現頻度は一様になるように設計しなければならない。",
"title": "衝突"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "ハッシュ関数は特にハッシュテーブルで使われ、与えられた検索キー(例えばキーワード)から素早くデータレコード(辞書でのキーワードの定義)を探すのに使われる。ハッシュ関数は検索キーをハッシュにマッピングする。ハッシュをインデックスとして対応するレコードの格納位置が分かる。さらにハッシュテーブルは連想配列や動的集合の実装に使われる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "一般にハッシュ関数は複数の異なるキーを同じインデックスにマッピングする可能性がある。したがって、ハッシュテーブルの各スロットは(明示的か暗黙かはともかく)単一のレコードではなくレコードの集合に対応していることが多い。このため、ハッシュテーブルの各スロットを「バケット (bucket)」、ハッシュ値を「バケットインデックス」とも呼ぶ。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "したがって、ハッシュ関数はレコードの位置のヒントでしかない。つまり、探すための出発点を教えるだけである。それでも、半分以上埋まったテーブルで良いハッシュ関数を使えば、検索対象をせいぜい1つか2つのエントリに減らすことができる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "ハッシュ関数は、低速な記憶媒体に格納された巨大なデータセットのためのキャッシュを構築するのに使うことがある。ハッシュテーブルと似ているが、キャッシュであるため、衝突が発生しても古い方のアイテムを消去するか本来の媒体に書き戻せばよいという特徴がある。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "ハッシュ関数はブルームフィルタの基本的構成要素である。ブルームフィルタはキーが集合に含まれるかどうかを近似的に表すコンパクトなデータ構造である。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "巨大なソートされていないファイルから重複したレコードを探す場合、各レコードをハッシュ関数に入力して配列 T のインデックスを得て、各バケット T[i] にハッシュ値が i になった全レコードの番号をリストの形で集める。この配列が完成すると、重複したレコードは必ず同じバケットに存在しているはずである。そこで、リストの要素数が2つ以上のバケット全てについて実際のレコードを求めて比較することで、重複レコードを探すことができる。配列が適切な大きさであれば、この方法が他のどんな方法(ファイルをソートし、隣り合うレコードを比較していく方法など)よりも高速な場合が多い。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "ハッシュ関数は、キーが似ているが全く同一ではない場合のレコード検索にも使える。この場合の入力は1つのキーか、似たようなキーを持つ巨大ファイル内の2つのレコードである。このためには、似たようなキーを与えられたとき、最大でも m しか違わないハッシュ値(m は小さい整数で例えば1か2)を生成するハッシュ関数を必要とする。このようなハッシュ関数を使って全レコードに関するハッシュテーブル T を構築すると、似たようなレコードは同じバケットか近いバケットに格納されることになる。すると各バケット T[i] について、-m から m の範囲の k で表されるバケット T[i+k] に格納されているレコード群を相互に比較すればよい。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "この応用として声紋アルゴリズムと呼ばれる技法がある。これを使うと音声ファイルの巨大なコレクションから似たようなエントリを探すことができる(MusicBrainzの楽曲ラベリングサービスで使われている)。この場合のハッシュ関数は、ノイズやタイミングの違いや音量の違いといった差異をなるべく無視できるようなものであることが望ましい。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "同じ技法は巨大な文字列の集まりから同じ部分か類似する部分を見つけ出すのに応用できる。例えば、文書リポジトリや遺伝子データベースなどに応用できる。この場合、入力文字列群を多数の小さな部分に分割し、それらに対してハッシュ関数を適用して上述してきたような技法で同じ部分や類似の部分を探す。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ラビン-カープ文字列検索アルゴリズムは比較的高速な文字列検索アルゴリズムで、平均でO(n)の時間で動作する。このアルゴリズムは文字列の比較にハッシュ関数を使っている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "この原理は、コンピュータグラフィックスや計算幾何学を代表とする様々な分野で、2次元平面や3次元空間でのいわゆる類似性問題を解くのに使われている。例えば、多数の点から最も近い2つの点を探すとか、一連の形状から類似した形状を探すとか、画像データベースから類似する画像を探すなどの用途である。これらの用途では、あらゆる入力は何らかの距離空間にあり、ハッシュ関数はその空間を格子状に分割するものと解釈できる。このときに使用するテーブルは2次元以上の配列であり(グリッドファイルなどと呼ぶ)、ハッシュ関数はその次元数に対応した一連のインデックスを返す。このようなハッシュ技法を幾何学的ハッシュなどと呼ぶ。幾何学的ハッシュは電気通信でのベクトル量子化でも使われており、多次元の信号を符号化し圧縮するために使われている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "例えば、「ある文書が正確かどうか検証したいが、その文書そのものを記録・比較したくない」場合を考える。ここでもしこの文書を代表する数値(文書の要約)を数学的に作り出すことができれば、この要約だけを記録し、比較すれば良いことになる。このような要約を作る操作がハッシュ化である。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "より具体的に、今、ハッシュ関数として、「5字ごとに1字を選択し、その列を並べたものをハッシュ値とする」という操作を選択したとすると、このハッシュ関数によって、元の文書を1/5に短縮することができる。しかしこの方法では、",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "という問題がある。そこで、このようなことが確率論的に現実には起こりにくくなるようなハッシュ関数を工夫をする必要がある。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "通常は元データのバイナリ表現を使い、それを複雑に操作し数十~数百ビットのハッシュ値を作る。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "改竄の検出を行う場合は、単純なハッシュ関数アルゴリズムを用いると、容易に同じハッシュ値を求めることができるため、安全に設計されたハッシュ関数を用いる必要がある。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ハッシュ関数は非可逆変換であるため、ハッシュ値から元の値を容易には復元できないという特徴がある。そのため、認証サーバは、パスワードをハッシュ化して保存することが推奨される。このようにすれば、サーバ内の認証情報を窃取された場合であっても、キーを知られるリスクを減らすことができる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "良いハッシュ関数は、一般に以下のような特性を満たす必要がある。なお、関連する概念(暗号学的ハッシュ関数、チェックサムなど)では要求は異なる。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "他の手法に比べてハッシュ関数を用いた手法をより有利にするには、ハッシュ関数の計算コストが十分小さくなければならない。例えば、n個の要素のあるソート済みテーブルにある要素を挿入する場合、二分探索では log2 n 回のキーの比較を必要とする。したがって、ハッシュテーブルを使った手法が二分探索よりも効率的であるためには、ハッシュ関数が1つのキーからハッシュ値を計算するコストが log2 n 回のキー比較のコストよりも小さくなければならない。暗号学的ハッシュ関数は、そういう意味では時間がかかりすぎる。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ハッシュを使った手法は決定的でなければならない。つまり、ある入力が与えられたとき、生成するハッシュ値は常に同じでなければならない。言い換えれば、数学的な意味で関数になっていなければならない。したがってハッシュ関数は、時刻などに基づいた擬似乱数のような外部パラメータに依存してはならない。また、ハッシュ対象オブジェクトのメモリアドレスが処理中に変化する可能性があるなら(ガベージコレクションが行われるシステムでは変化する可能性がある)、それもパラメータとして利用することはできないが、時にはアドレス変更と同時にハッシュのやり直しを行うこともある。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "良いハッシュ関数は、考えられる入力範囲が出力範囲全体になるべく一様に分布するようにマッピングを行う。つまり、出力範囲のそれぞれのハッシュ値はほぼ同じ確率で生成されるべきである。このような条件があるのは、異なる入力が同じハッシュ値にマッピングされてしまう「衝突」が発生すると、ハッシュに基づく各種技法のコストは衝突発生回数と共に増大するためである。あるハッシュ値が他のハッシュ値より生成されやすいなら、参照操作で衝突しているエントリ間でどれが探しているエントリかを調べる作業が基本的に大きな部分を占めることになる。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "注意しなければならないのは、「一様分布」が必要なのであって「無作為」である必要はないという点である。よい無作為化関数はハッシュ関数にも適していることが多いが、ハッシュ関数が無作為化関数である必要はない。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ハッシュテーブルには可能な入力のうちのごく一部が格納されているということが多い。例えば、ある会の会員名簿には100人ほどの会員の名前が並んでいるが、それはこの世に存在する人名のごく一部である。その場合、一様性はほぼ全ての典型的な部分集合に対して成り立てばよいのであって、全ての可能なエントリ全体の集合に対して成り立たせる必要はない。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "言い換えれば、典型的な m 個のレコードの集合を n 個のバケットにマッピングする場合、1つのバケットに対応するレコード数が m/n より大きくなる可能性をなるべく小さくすればよい。特に m が n より小さい場合、一部のバケットだけが1つまたはせいぜい2つのレコードを格納するようにすべきである。理想的な完全ハッシュ関数では、各バケットには最大でも1つのレコードしか格納されない。しかし、n が m よりずっと大きくても、衝突を完全に無くすことはできない(誕生日のパラドックスを参照)。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ハッシュ関数を評価する場合、ハッシュ値の分布の一様性はカイ二乗検定で評価できる。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "多くの用途では、プログラムを実行するたびにハッシュ値の範囲は変化するし、場合によっては1回の実行中にも範囲が変化することもある(ハッシュテーブルを拡張する必要が生じた場合など)。そのような場合、ハッシュ関数は2つのパラメータを入力する必要がある。1つは入力データ z で、もう1つは生成可能なハッシュ値の数 n である。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "よくある方式は、非常に大きな値域(例えば 0 から 2−1)のハッシュ関数を用意し、その出力を n で割った余りを最終的な出力とする。n が2のべき乗なら、割り算ではなくビットマスクやビットシフトで代替できる。この方式を採用するなら、ハッシュ関数は n がいくつであっても、0 から n−1 の間でハッシュ値が一様に分布するようなものを選択する必要がある。関数によっては、奇数や素数など特定の n でないと余りが一様分布にならないこともある。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "用途によっては、入力データに比較目的には不適切な特徴が含まれていることがある。例えば、英語の個人名を参照するとき、大文字と小文字を区別しない方がよい。そのようなデータをハッシュ関数の入力にする場合、データの同値関係基準を考慮すべきであり、同じと見なされる入力には同じハッシュ値を生成すべきである。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "(等しいデータではなく)類似するデータを探索する用途では、ハッシュ関数は可能な限り連続となっているべきである。少しだけ異なる入力に対しては、同じハッシュ値かごく近いハッシュ値を生成すべきである。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "なお、連続性はチェックサムや暗号学的ハッシュ関数などにとっては不適切な特性である。ハッシュ関数に連続性が必要となる用途は、線型探索を使うハッシュテーブルなどの用途である。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ハッシュ関数の選択は、その用途における入力データの性質や確率分布に大きく左右される。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ハッシュ対象のデータが十分に小さいなら、入力データそのものをハッシュ値として使うこともできる(何らかのバイナリを整数として再解釈する)。このような自明なハッシュ関数(恒等関数)の計算コストは事実上ゼロである。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "「十分に小さい」の意味は、ハッシュテーブルに割り当てられるメモリ量に依存する。2008年現在、典型的なPCでは1GB程度のメモリが利用可能で、30ビット程度のハッシュ値なら扱える。ただし、多くの場合そこまで大きなハッシュテーブルは必要としない。例えば、英文の文字列の大文字/小文字の変換をするとき、各文字をバイナリ符号化したものを使い、その文字符号を整数のインデックスとしてテーブルを参照すると対応する変換後の文字符号が得られるようにするという方法が考えられる(例えば、'A' には 'a'、'8' には '8' を返すなど)。それぞれの文字が8ビットで表されていれば(ASCIIまたはISO Latin 1)、テーブルのエントリ数は 2 = 256 個だけとなるし、Unicodeの場合でも 17×2 = 1114112 エントリである。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "同じ技法は 'us' とか 'ja' のような2文字国名コードを実際の国名にマッピングする場合(26=676 エントリ)、アメリカの5桁の郵便番号を地名にマッピングする場合(10万エントリ)などに利用できる。不正なデータ値(例えば国名コードなら 'xx'、ZIPコードなら 00000)に対応するエントリは未定義とされたり、何らかの 'null' 値にマッピングすることになるだろう。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ハッシュ関数が単射の場合、すなわち正しい入力に対して必ず異なるハッシュ値が対応する場合、これを完全 (perfect) だという。このような関数を使えば、1つのハッシュテーブルで目的のエントリを直接探すことができ、それ以外の探索の手間が生じない。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "完全ハッシュ関数は、入力される範囲が予め分かっていて変化しない場合のみ成立する。例えば英語の月の名前を0から11の整数にマッピングするとか、ある辞書に掲載されている単語にハッシュ値を割り当てるといった場合である。入力の集合を与えられると、それに対応した完全ハッシュ関数を実行する最適化されたサブルーチンを出力する生成器がいくつか存在する(例えば、GNU gperf)。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "n 個のキーに対する完全ハッシュ関数が最小 (minimal) であるとは、その値域が n 個の連続な整数(通常 0 から n-1)の場合である。単に参照が単純化されるだけでなく、ハッシュテーブルもコンパクトになり、空きスロットができない。最小完全ハッシュ関数は単なる完全ハッシュ関数よりも求めるのが難しくなる。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "入力が制限された長さの文字列(例えば、電話番号、自動車のナンバー、送り状番号など)で、個々の入力値は独立にかつ一様な確率で発生する場合、ハッシュ関数は個々のハッシュ値にだいたい同じ個数の入力値をマッピングすればよい。例えば、入力 z が 0 から N−1 の範囲の整数、出力 h が 0 から n−1 の範囲の整数で、N が n より大きいとする。するとハッシュ関数としては、h = z mod n ( z を n で割った余り)、h = (z × n) ÷ N (z を n/N 倍して整数に丸めた値)、などの式が考えられる。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "入力の出現確率が一様でない場合や、独立性がない場合は、上のような単純な方式ではうまくいかない。例えば、あるスーパーマーケットの利用者は地理的に近い場所に集中しているため、電話番号の先頭数桁は同じになってしまう。その場合、(z × n) ÷ N の式では元の数値の上の桁が残るため、衝突が多発する。一方、z mod n の式では、末尾側の桁が残るため、この場合のハッシュ値の分布はこちらの方がよい。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "データが非常に長い(または可変長の)文字列の場合(人名、URL、電子メールの中身など)、その分布は一様でないことが多く、複雑な依存関係が存在することが多い。例えば、自然言語の文章では文字の分布は全く一様ではないし、文字の並び方にも相関関係があり、その言語に特有の性質を持っている。その場合、ハッシュ関数は文字列内の全文字を何らかの形で使用し、しかもそれぞれの文字を異なった形で使用するのが望ましい。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "そのようなデータをハッシュ値に変換する典型的手法は、入力を小さな単位(数ビット、数バイト、数ワードなど)の並び b[1], b[2], ..., b[m] に分割し、それを順に以下のように結合していく。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "この手法は、テキストのチェックサムやフィンガープリントのアルゴリズムにも利用されている。状態変数 S は32ビットか64ビットの符号無し整数である。例の場合、S0 は 0 でよいし、G(S,n) は単に S mod n でよい。最適な F の選択は難しい問題で、データの性質にも依存する。データ単位 b[k] が1ビットなら、F(S,b) は例えば次のようになる。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ここで highbit(S) は S の最上位ビットを意味し、'*' 演算子は符号無しの整数の乗算でオーバーフローを無視する操作を表す。'^' はビット単位の排他的論理和演算を表し、P は適当な固定のワードである。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "多くの場合ヒューリスティクスを利用して、汎用のハッシュ関数よりも特定用途で衝突を削減できるハッシュ関数を設計できる。例えば、入力が FILE0000.CHK、FILE0001.CHK、FILE0002.CHK などのファイル名で、多くの場合このような一連の番号が名前に含まれているとする。すると、ファイル名から番号部分 k を抜き出し、k mod n をハッシュ値とすれば、ほぼ最適な結果が得られる。言うまでもないが、特定の入力に最適化したハッシュ関数は、それ以外の分布を示す入力に対しては非常に悪い結果を生じる。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "チェックサムやフィンガープリント用のアルゴリズムをハッシュ関数として採用することもできる。それらのアルゴリズムの一部は、任意長の文字列データ z から32ビットまたは64ビットのビット列を生成するので、そこから 0 から n-1 のハッシュ値を容易に抽出できる。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "この手法は、ハッシュ値の範囲 n がチェックサムやフィンガープリント関数の値域より十分小さい場合に限って、十分一様に分布するハッシュ値を生成する。しかし、一部のチェックサムは雪崩効果が弱いため、用途によっては不向きである。よく使われているCRC32チェックサムは、上位16ビットだけがハッシュ用途に使える。さらに言えば、入力の各ビットはCRC32の1つのビットにのみ影響を与える。したがって、32ビットのチェックサムをそのままハッシュ値に利用する場合は十分な注意が必要である。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "Secure Hash Algorithmのような暗号学的ハッシュ関数は、チェックサムやフィンガープリントよりも強力な一様性を保証するので、汎用ハッシュ関数としても最適である。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "しかし暗号化などの用途以外では、その計算コストが高いため利点が打ち消されてしまう。しかし、悪意ある者がキーを選んでもハッシュ値が一様に分布するという特性がある。このためDoS攻撃からサービスを保護する助けとなる場合もある。",
"title": "ハッシュ関数のアルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "暗号学的ハッシュ関数の安全性を議論する場合、以下の3種類について議論を行う。",
"title": "ハッシュ関数の安全性"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "原像計算困難性(Preimage Resistance)とは、与えられたハッシュ値に対して、そのハッシュ値を出力するようなハッシュ関数への入力を求めることが困難であるような性質を言う。ただし、異なる入力から同じハッシュ値が得られるため、そのハッシュ値を得られる入力を1つ求めればよい。",
"title": "ハッシュ関数の安全性"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "第2原像計算困難性(Second Preimage Resistance)とは、与えられた入力値に対して、その入力値をハッシュ関数へ入力したときのハッシュ値と同じハッシュ値を出力する入力値を求めることが困難であるような性質を言う。",
"title": "ハッシュ関数の安全性"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "衝突困難性(Collision Resistance)とは、同じハッシュ値を与える2つの入力値を求めることが困難であるような性質を言うのである。",
"title": "ハッシュ関数の安全性"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ハッシュ関数に衝突が多い場合、原像計算困難性を満たさないハッシュ関数では、任意の入力値からハッシュ値を得られるため、第2原像計算困難性を満たさない。また、第2原像計算困難性を満たさないハッシュ関数では、衝突困難性を満たさない。すなわち、",
"title": "ハッシュ関数の安全性"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "である。",
"title": "ハッシュ関数の安全性"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "\"hash\" という用語は、本来の「切り刻んで混ぜる」という意味からの類推で使われるようになった。実際、合同操作を行う典型的なハッシュ関数は、入力の定義域を多数の部分に「切り刻み」、キーの分布が値域で一様になるように「混ぜた」形で出力する。",
"title": "語源"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ドナルド・クヌースによれば、この用語を最初に使ったのはIBMの Hans Peter Luhn で、1953年1月の社内メモで使っていた。そして、Robert Morris が学会誌 Communications of the ACM に掲載した論文でこの用語を使い、単なるジャーゴンから正式な専門用語に昇格した。",
"title": "語源"
}
] | ハッシュ関数 あるいは要約関数とは、任意のデータから、別の(多くの場合は短い固定長の)値を得るための操作、または、その様な値を得るための関数のこと。ハッシュ関数から得られた値のことを要約値やハッシュ値または単にハッシュという。 ハッシュ関数は、主に検索の高速化やデータ比較処理の高速化、さらには改竄の検出に使われる。例えば、データベース内の項目を探したり、大きなファイル内で重複しているレコードや似ているレコードを検出したり、核酸の並びから類似する配列を探したりといった場合に利用できる。 ハッシュ関数は、チェックサム、チェックディジット、フィンガープリント、誤り訂正符号、暗号学的ハッシュ関数などと関係がある。それぞれ用途が異なり、異なった形で設計・最適化されている。 | {{出典の明記|date=2018-06-23}}
{{Otheruses|ハッシュ関数|プログラミング言語における配列|連想配列}}
[[ファイル:Hash table 4 1 1 0 0 1 0 LL.svg|thumb|240px|right|ハッシュ関数で名前と0から15までの整数をマッピングしている。"John Smith" と "Sandra Dee" のハッシュ値が衝突している。]]
'''ハッシュ関数''' (ハッシュかんすう、{{lang-en|links=no|hash function}}) あるいは'''要約関数'''<ref>https://kotobank.jp/word/要約関数-653412</ref>とは、任意のデータから、別の(多くの場合は短い固定長の)値を得るための操作、または、その様な値を得るための関数のこと。ハッシュ関数から得られた値のことを'''要約値'''や'''ハッシュ値'''または単に'''ハッシュ'''という。
ハッシュ関数は、主に検索の高速化やデータ比較処理の高速化、さらには[[改竄]]の検出に使われる。例えば、[[データベース]]内の項目を探したり、大きな[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]内で重複しているレコードや似ているレコードを検出したり、[[核酸]]の並びから類似する配列を探したりといった場合に利用できる。
ハッシュ関数は、[[チェックサム]]、[[チェックディジット]]、[[指紋 (公開鍵暗号)|フィンガープリント]]、[[誤り検出訂正|誤り訂正符号]]、[[暗号学的ハッシュ関数]]などと関係がある。それぞれ用途が異なり、異なった形で設計・最適化されている。
== 衝突 ==
ハッシュ関数の入力を「キー (key)」と呼ぶ。得られるハッシュ値は、2つ以上のキーから同じ値が得られることがある。これを[[衝突 (計算機科学)|衝突]]という。多くの場合、衝突の発生は最小限に抑えるのが望ましい。そのため、ハッシュ値の出現頻度は一様になるように設計しなければならない。
==用途==
=== ハッシュテーブル ===
ハッシュ関数は特に[[ハッシュテーブル]]で使われ、与えられた[[主キー|検索キー]](例えばキーワード)から素早くデータレコード([[辞典|辞書]]でのキーワードの定義)を探すのに使われる。ハッシュ関数は検索キーをハッシュにマッピングする。ハッシュをインデックスとして対応するレコードの格納位置が分かる。さらにハッシュテーブルは[[連想配列]]や[[動的集合]]の実装に使われる。
一般にハッシュ関数は複数の異なるキーを同じインデックスにマッピングする可能性がある。したがって、ハッシュテーブルの各スロットは(明示的か暗黙かはともかく)単一のレコードではなくレコードの[[集合]]に対応していることが多い。このため、ハッシュテーブルの各スロットを「バケット (bucket)」、ハッシュ値を「バケットインデックス」とも呼ぶ。
したがって、ハッシュ関数はレコードの位置のヒントでしかない。つまり、探すための出発点を教えるだけである。それでも、半分以上埋まったテーブルで良いハッシュ関数を使えば、検索対象をせいぜい1つか2つのエントリに減らすことができる。
=== キャッシュ ===
ハッシュ関数は、低速な記憶媒体に格納された巨大なデータセットのための[[キャッシュ (コンピュータシステム)|キャッシュ]]を構築するのに使うことがある。ハッシュテーブルと似ているが、キャッシュであるため、衝突が発生しても古い方のアイテムを消去するか本来の媒体に書き戻せばよいという特徴がある。
=== ブルームフィルタ ===
ハッシュ関数は[[ブルームフィルタ]]の基本的構成要素である。ブルームフィルタはキーが集合に含まれるかどうかを近似的に表すコンパクトなデータ構造である。
=== 重複レコードの検出 ===
巨大な[[ソート]]されていないファイルから重複したレコードを探す場合、各レコードをハッシュ関数に入力して配列 ''T'' のインデックスを得て、各バケット ''T''[''i''] にハッシュ値が ''i'' になった全レコードの番号を[[リスト (抽象データ型)|リスト]]の形で集める。この配列が完成すると、重複したレコードは必ず同じバケットに存在しているはずである。そこで、リストの要素数が2つ以上のバケット全てについて実際のレコードを求めて比較することで、重複レコードを探すことができる。配列が適切な大きさであれば、この方法が他のどんな方法(ファイルをソートし、隣り合うレコードを比較していく方法など)よりも高速な場合が多い。
=== 類似レコードの探索 ===
ハッシュ関数は、キーが似ているが全く同一ではない場合のレコード検索にも使える。この場合の入力は1つのキーか、似たようなキーを持つ巨大ファイル内の2つのレコードである。このためには、似たようなキーを与えられたとき、最大でも ''m'' しか違わないハッシュ値(''m'' は小さい整数で例えば1か2)を生成するハッシュ関数を必要とする。このようなハッシュ関数を使って全レコードに関するハッシュテーブル ''T'' を構築すると、似たようなレコードは同じバケットか近いバケットに格納されることになる。すると各バケット ''T''[''i''] について、-''m'' から ''m'' の範囲の ''k'' で表されるバケット ''T''[''i''+''k''] に格納されているレコード群を相互に比較すればよい。
この応用として[[スペクトログラム|声紋]]アルゴリズムと呼ばれる技法がある。これを使うと[[音声ファイルフォーマット|音声ファイル]]の巨大なコレクションから似たようなエントリを探すことができる([[MusicBrainz]]の楽曲ラベリングサービスで使われている)。この場合のハッシュ関数は、ノイズやタイミングの違いや音量の違いといった差異をなるべく無視できるようなものであることが望ましい<ref name="AudioHash1">[http://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/download?doi=10.1.1.16.2893&rep=rep1&type=pdf "Robust Audio Hashing for Content Identification"] by Jaap Haitsma, Ton Kalker and Job Oostveen</ref>。
=== 類似部分文字列の探索 ===
同じ技法は巨大な文字列の集まりから同じ部分か類似する部分を見つけ出すのに応用できる。例えば、文書リポジトリや[[生物学データベース|遺伝子データベース]]などに応用できる。この場合、入力文字列群を多数の小さな部分に分割し、それらに対してハッシュ関数を適用して上述してきたような技法で同じ部分や類似の部分を探す。
[[ラビン-カープ文字列検索アルゴリズム]]は比較的高速な[[文字列検索アルゴリズム]]で、平均で[[ランダウの記号|O(''n'')]]の時間で動作する。このアルゴリズムは文字列の比較にハッシュ関数を使っている。
=== 幾何学的ハッシュ ===
この原理は、[[コンピュータグラフィックス]]や[[計算幾何学]]を代表とする様々な分野で、2次元平面や3次元空間でのいわゆる[[類似性問題]]を解くのに使われている。例えば、多数の点から[[最接近点探索|最も近い2つの点]]を探すとか、一連の形状から類似した形状を探すとか、画像データベースから類似する[[画像]]を探すなどの用途である。これらの用途では、あらゆる入力は何らかの[[距離空間]]にあり、ハッシュ関数はその空間を格子状に分割するものと解釈できる。このときに使用するテーブルは2次元以上の配列であり([[グリッドファイル]]などと呼ぶ)、ハッシュ関数はその次元数に対応した一連のインデックスを返す。このようなハッシュ技法を[[幾何学的ハッシュ]]などと呼ぶ。幾何学的ハッシュは[[電気通信]]での[[ベクトル量子化]]でも使われており、多次元の信号を[[符号]]化し[[データ圧縮|圧縮]]するために使われている。
=== 改竄の検出 ===
例えば、「ある文書が正確かどうか検証したいが、その文書そのものを記録・比較したくない」場合を考える。ここでもしこの文書を代表する数値(文書の要約)を数学的に作り出すことができれば、この要約だけを記録し、比較すれば良いことになる。このような要約を作る操作がハッシュ化である。
より具体的に、今、ハッシュ関数として、「5字ごとに1字を選択し、その列を並べたものをハッシュ値とする」という操作を選択したとすると、このハッシュ関数によって、元の文書を1/5に短縮することができる。しかしこの方法では、
*うまく間に適当な文字を入れて、別の文書を作ることが出来る。
*推測から元の文書も復元できてしまう事もある。
*短い定型的文章では、異なる文書から同じ要約が出来てしまうこともあり得る([[衝突 (計算機科学)|衝突]]、コリジョン)。
*1万字の文章では、要約だけで2000文字になる
という問題がある。そこで、このようなことが[[確率論]]的に現実には起こりにくくなるようなハッシュ関数を工夫をする必要がある。
通常は元データの[[バイナリ]]表現を使い、それを複雑に操作し数十~数百ビットのハッシュ値を作る。
<!-- が、もっと長い事(MD5など)もある。// 削除しました。MD5のハッシュ値は128bitですから。 -->
改竄の検出を行う場合は、単純なハッシュ関数アルゴリズムを用いると、容易に同じハッシュ値を求めることができるため、安全に設計されたハッシュ関数を用いる必要がある。
=== パスワードの保護 ===
ハッシュ関数は非可逆変換であるため、ハッシュ値から元の値を容易には復元できないという特徴がある。そのため、認証サーバは、パスワードをハッシュ化して保存することが推奨される。このようにすれば、サーバ内の認証情報を窃取された場合であっても、キーを知られるリスクを減らすことができる。
== 特性 ==
良いハッシュ関数は、一般に以下のような特性を満たす必要がある。なお、関連する概念(暗号学的ハッシュ関数、チェックサムなど)では要求は異なる。
=== 低コスト ===
他の手法に比べてハッシュ関数を用いた手法をより有利にするには、ハッシュ関数の計算コストが十分小さくなければならない。例えば、''n''個の要素のあるソート済みテーブルにある要素を挿入する場合、[[二分探索]]では log<sub>2</sub> ''n'' 回のキーの比較を必要とする。したがって、ハッシュテーブルを使った手法が二分探索よりも効率的であるためには、ハッシュ関数が1つのキーからハッシュ値を計算するコストが log<sub>2</sub> ''n'' 回のキー比較のコストよりも小さくなければならない。暗号学的ハッシュ関数は、そういう意味では時間がかかりすぎる{{要出典|date=2009年7月}}。
=== 決定性 ===
ハッシュを使った手法は[[決定的アルゴリズム|決定的]]でなければならない。つまり、ある入力が与えられたとき、生成するハッシュ値は常に同じでなければならない。言い換えれば、数学的な意味で[[関数 (数学)|関数]]になっていなければならない。したがってハッシュ関数は、時刻などに基づいた[[擬似乱数]]のような外部パラメータに依存してはならない。また、ハッシュ対象オブジェクトのメモリアドレスが処理中に変化する可能性があるなら([[ガベージコレクション]]が行われるシステムでは変化する可能性がある)、それもパラメータとして利用することはできないが、時にはアドレス変更と同時にハッシュのやり直しを行うこともある。
=== 一様性 ===
良いハッシュ関数は、考えられる入力範囲が出力範囲全体になるべく一様に分布するようにマッピングを行う。つまり、出力範囲のそれぞれのハッシュ値はほぼ同じ[[確率]]で生成されるべきである。このような条件があるのは、異なる入力が同じハッシュ値にマッピングされてしまう「衝突」が発生すると、ハッシュに基づく各種技法のコストは衝突発生回数と共に増大するためである。あるハッシュ値が他のハッシュ値より生成されやすいなら、参照操作で衝突しているエントリ間でどれが探しているエントリかを調べる作業が基本的に大きな部分を占めることになる。
注意しなければならないのは、「一様分布」が必要なのであって「無作為」である必要はないという点である。よい無作為化関数はハッシュ関数にも適していることが多いが、ハッシュ関数が無作為化関数である必要はない。
ハッシュテーブルには可能な入力のうちのごく一部が格納されているということが多い。例えば、ある会の会員名簿には100人ほどの会員の名前が並んでいるが、それはこの世に存在する人名のごく一部である。その場合、一様性はほぼ全ての典型的な部分集合に対して成り立てばよいのであって、全ての可能なエントリ全体の集合に対して成り立たせる必要はない。
言い換えれば、典型的な ''m'' 個のレコードの集合を ''n'' 個のバケットにマッピングする場合、1つのバケットに対応するレコード数が ''m/n'' より大きくなる可能性をなるべく小さくすればよい。特に ''m'' が ''n'' より小さい場合、一部のバケットだけが1つまたはせいぜい2つのレコードを格納するようにすべきである。理想的な[[完全ハッシュ関数]]では、各バケットには最大でも1つのレコードしか格納されない。しかし、''n'' が ''m'' よりずっと大きくても、衝突を完全に無くすことはできない([[誕生日のパラドックス]]を参照)。
ハッシュ関数を評価する場合、ハッシュ値の分布の一様性は[[カイ二乗検定]]で評価できる<ref>Bret Mulvey, [http://bretm.home.comcast.net/~bretm/hash/ Hash Functions]. Accessed April 11, 2009</ref>。
=== 可変な値域 ===
多くの用途では、プログラムを実行するたびにハッシュ値の範囲は変化するし、場合によっては1回の実行中にも範囲が変化することもある(ハッシュテーブルを拡張する必要が生じた場合など)。そのような場合、ハッシュ関数は2つのパラメータを入力する必要がある。1つは入力データ ''z'' で、もう1つは生成可能なハッシュ値の数 ''n'' である。
よくある方式は、非常に大きな値域(例えば 0 から 2<sup>32</sup>−1)のハッシュ関数を用意し、その出力を ''n'' で割った[[合同式|余り]]を最終的な出力とする。''n'' が2のべき乗なら、割り算ではなく[[ビットマスク]]や[[ビット演算|ビットシフト]]で代替できる。この方式を採用するなら、ハッシュ関数は ''n'' がいくつであっても、0 から ''n''−1 の間でハッシュ値が一様に分布するようなものを選択する必要がある。関数によっては、[[奇数]]や[[素数]]など特定の ''n'' でないと余りが一様分布にならないこともある。
=== データ正規化 ===
用途によっては、入力データに比較目的には不適切な特徴が含まれていることがある。例えば、英語の個人名を参照するとき、大文字と小文字を区別しない方がよい。そのようなデータをハッシュ関数の入力にする場合、データの[[同値関係]]基準を考慮すべきであり、同じと見なされる入力には同じハッシュ値を生成すべきである。
=== 連続性 ===
(等しいデータではなく)類似するデータを探索する用途では、ハッシュ関数は可能な限り[[連続 (数学)|連続]]となっているべきである。少しだけ異なる入力に対しては、同じハッシュ値かごく近いハッシュ値を生成すべきである。
'''なお、連続性はチェックサムや暗号学的ハッシュ関数などにとっては不適切な特性である。'''ハッシュ関数に連続性が必要となる用途は、[[線型探索]]を使うハッシュテーブルなどの用途である。
== ハッシュ関数のアルゴリズム ==
ハッシュ関数の選択は、その用途における入力データの性質や[[確率分布]]に大きく左右される。
=== 簡単なハッシュ関数 ===
ハッシュ対象のデータが十分に小さいなら、入力データそのものをハッシュ値として使うこともできる(何らかのバイナリを整数として再解釈する)。このような自明なハッシュ関数([[恒等関数]])の計算コストは事実上ゼロである。
「十分に小さい」の意味は、ハッシュテーブルに割り当てられるメモリ量に依存する。2008年現在、典型的なPCでは1GB程度のメモリが利用可能で、30ビット程度のハッシュ値なら扱える。ただし、多くの場合そこまで大きなハッシュテーブルは必要としない。例えば、英文の[[文字列]]の大文字/小文字の変換をするとき、各文字をバイナリ符号化したものを使い、その文字符号を整数のインデックスとしてテーブルを参照すると対応する変換後の文字符号が得られるようにするという方法が考えられる(例えば、'A' には 'a'、'8' には '8' を返すなど)。それぞれの文字が8ビットで表されていれば([[ASCII]]または[[ISO/IEC 8859-1|ISO Latin 1]])、テーブルのエントリ数は 2<sup>8</sup> = 256 個だけとなるし、[[Unicode]]の場合でも 17×2<sup>16</sup> = 1114112 エントリである。
同じ技法は 'us' とか 'ja' のような[[ISO 3166-1 alpha-2|2文字国名コード]]を実際の国名にマッピングする場合(26<sup>2</sup>=676 エントリ)、アメリカの5桁の郵便番号を地名にマッピングする場合(10万エントリ)などに利用できる。不正なデータ値(例えば国名コードなら 'xx'、ZIPコードなら 00000)に対応するエントリは未定義とされたり、何らかの 'null' 値にマッピングすることになるだろう。
=== 完全ハッシュ関数 ===
[[ファイル:Hash table 4 1 1 0 0 0 0 LL.svg|thumb|240px|right|4つの人名についての完全ハッシュ関数]]
ハッシュ関数が[[単射]]の場合、すなわち正しい入力に対して必ず異なるハッシュ値が対応する場合、これを'''[[完全ハッシュ関数|完全]]''' (perfect) だという。このような関数を使えば、1つのハッシュテーブルで目的のエントリを直接探すことができ、それ以外の探索の手間が生じない。
完全ハッシュ関数は、入力される範囲が予め分かっていて変化しない場合のみ成立する。例えば英語の月の名前を0から11の整数にマッピングするとか、ある辞書に掲載されている単語にハッシュ値を割り当てるといった場合である。入力の集合を与えられると、それに対応した完全ハッシュ関数を実行する最適化された[[サブルーチン]]を出力する生成器がいくつか存在する(例えば、GNU gperf)。
=== 最小完全ハッシュ関数 ===
[[ファイル:Hash table 4 1 0 0 0 0 0 LL.svg|thumb|240px|right|4つの人名についての最小完全ハッシュ関数]]
''n'' 個のキーに対する完全ハッシュ関数が'''最小''' (minimal) であるとは、その値域が ''n'' 個の連続な整数(通常 0 から ''n''-1)の場合である。単に参照が単純化されるだけでなく、ハッシュテーブルもコンパクトになり、空きスロットができない。最小完全ハッシュ関数は単なる完全ハッシュ関数よりも求めるのが難しくなる。
=== 一様に分布するデータのハッシュ技法 ===
入力が制限された長さの[[文字列]](例えば、[[電話番号]]、自動車の[[ナンバープレート|ナンバー]]、[[送り状]]番号など)で、個々の入力値は[[独立 (確率論)|独立]]にかつ[[離散一様分布|一様]]な確率で発生する場合、ハッシュ関数は個々のハッシュ値にだいたい同じ個数の入力値をマッピングすればよい。例えば、入力 ''z'' が 0 から ''N''−1 の範囲の整数、出力 ''h'' が 0 から ''n''−1 の範囲の整数で、''N'' が ''n'' より大きいとする。するとハッシュ関数としては、''h'' = ''z'' '''mod''' ''n'' ( ''z'' を ''n'' で割った余り)、''h'' = (''z'' × ''n'') ÷ ''N'' (''z'' を ''n''/''N'' 倍して整数に丸めた値)、などの式が考えられる。
=== その他の分布のデータのハッシュ技法 ===
入力の出現確率が一様でない場合や、独立性がない場合は、上のような単純な方式ではうまくいかない。例えば、ある[[スーパーマーケット]]の利用者は地理的に近い場所に集中しているため、電話番号の先頭数桁は同じになってしまう。その場合、(''z'' × ''n'') ÷ ''N'' の式では元の数値の上の桁が残るため、衝突が多発する。一方、''z'' '''mod''' ''n'' の式では、末尾側の桁が残るため、この場合のハッシュ値の分布はこちらの方がよい。
=== 可変長データのハッシュ技法 ===
データが非常に長い(または可変長の)[[文字列]]の場合(人名、[[Uniform Resource Locator|URL]]、電子メールの中身など)、その分布は一様でないことが多く、複雑な依存関係が存在することが多い。例えば、[[自然言語]]の文章では[[キャラクタ (コンピュータ)|文字]]の分布は全く一様ではないし、文字の並び方にも相関関係があり、その言語に特有の性質を持っている。その場合、ハッシュ関数は文字列内の全文字を何らかの形で使用し、しかもそれぞれの文字を異なった形で使用するのが望ましい。
そのようなデータをハッシュ値に変換する典型的手法は、入力を小さな単位(数[[ビット]]、数[[バイト (情報)|バイト]]、数[[ワード]]など)の並び ''b''[1], ''b''[2], …, ''b''[''m''] に分割し、それを順に以下のように結合していく。
<syntaxhighlight lang="ruby">
def make_hash(S0, b)
S <- S0 // 状態を初期化
for k in 1..m do // 入力データ単位をスキャン:
S <- F(S, b[k]) // データ単位 k を状態に結合
end
return G(S, n) // 状態からハッシュ値を抽出
end
</syntaxhighlight>
この手法は、テキストのチェックサムやフィンガープリントのアルゴリズムにも利用されている。状態変数 ''S'' は32ビットか64ビットの符号無し整数である。例の場合、''S0'' は 0 でよいし、''G''(''S'',''n'') は単に ''S'' '''mod''' ''n'' でよい。最適な ''F'' の選択は難しい問題で、データの性質にも依存する。データ単位 ''b''[''k''] が1ビットなら、''F''(''S'',''b'') は例えば次のようになる。
<syntaxhighlight lang="ruby">
def F(S, b)
return if highbit(S) == 0 then
2 * S + b
else
(2 * S + b) ^ P
end
</syntaxhighlight>
ここで ''highbit''(''S'') は ''S'' の最上位ビットを意味し、'<tt>*</tt>' 演算子は符号無しの整数の乗算でオーバーフローを無視する操作を表す。'<tt>^</tt>' はビット単位の[[排他的論理和]]演算を表し、''P'' は適当な固定のワードである<ref name="bro2">A. Z. Broder. Some applications of Rabin's fingerprinting method. In Sequences II: Methods in Communications, Security, and Computer Science, pages 143--152. Springer-Verlag, 1993</ref>。
=== 特定用途のハッシュ関数 ===
多くの場合[[ヒューリスティクス]]を利用して、汎用のハッシュ関数よりも特定用途で衝突を削減できるハッシュ関数を設計できる。例えば、入力が <tt>FILE0000.CHK</tt>、<tt>FILE0001.CHK</tt>、<tt>FILE0002.CHK</tt> などのファイル名で、多くの場合このような一連の番号が名前に含まれているとする。すると、ファイル名から番号部分 ''k'' を抜き出し、''k'' '''mod''' ''n'' をハッシュ値とすれば、ほぼ最適な結果が得られる。言うまでもないが、特定の入力に最適化したハッシュ関数は、それ以外の分布を示す入力に対しては非常に悪い結果を生じる。
=== ハッシュとしてのチェックサム関数 ===
チェックサムやフィンガープリント用のアルゴリズムをハッシュ関数として採用することもできる。それらのアルゴリズムの一部は、任意長の文字列データ ''z'' から32ビットまたは64ビットのビット列を生成するので、そこから 0 から ''n''-1 のハッシュ値を容易に抽出できる。
この手法は、ハッシュ値の範囲 ''n'' がチェックサムやフィンガープリント関数の値域より十分小さい場合に限って、十分一様に分布するハッシュ値を生成する。しかし、一部のチェックサムは[[雪崩効果]]が弱いため、用途によっては不向きである。よく使われている[[巡回冗長検査|CRC32]]チェックサムは、上位16ビットだけがハッシュ用途に使える。さらに言えば、入力の各ビットはCRC32の1つのビットにのみ影響を与える。したがって、32ビットのチェックサムをそのままハッシュ値に利用する場合は十分な注意が必要である<ref>Bret Mulvey, ''[http://home.comcast.net/~bretm/hash/8.html Evaluation of CRC32 for Hash Tables]'', in ''[http://home.comcast.net/~bretm/hash/ Hash Functions]''. Accessed April 10, 2009.</ref>。
=== 暗号学的ハッシュ関数 ===
[[Secure Hash Algorithm]]のような[[暗号学的ハッシュ関数]]は、チェックサムやフィンガープリントよりも強力な一様性を保証するので、汎用ハッシュ関数としても最適である。
しかし[[暗号化]]などの用途以外では、その計算コストが高いため利点が打ち消されてしまう<ref>Bret Mulvey, ''[http://home.comcast.net/~bretm/hash/9.html Evaluation of SHA-1 for Hash Tables]'', in ''[http://home.comcast.net/~bretm/hash/ Hash Functions]''. Accessed April 10, 2009.</ref>。しかし、悪意ある者がキーを選んでもハッシュ値が一様に分布するという特性がある。このため[[DoS攻撃]]からサービスを保護する助けとなる場合もある。
==ハッシュ関数の安全性==
暗号学的ハッシュ関数の安全性を議論する場合、以下の3種類について議論を行う。
===原像計算困難性===
原像計算困難性(Preimage Resistance)とは、与えられたハッシュ値に対して、そのハッシュ値を出力するようなハッシュ関数への入力を求めることが困難であるような性質を言う。ただし、異なる入力から同じハッシュ値が得られるため、そのハッシュ値を得られる入力を1つ求めればよい。
===第2原像計算困難性===
第2原像計算困難性(Second Preimage Resistance)とは、与えられた入力値に対して、その入力値をハッシュ関数へ入力したときのハッシュ値と同じハッシュ値を出力する入力値を求めることが困難であるような性質を言う。
===衝突困難性===
衝突困難性(Collision Resistance)とは、同じハッシュ値を与える2つの入力値を求めることが困難であるような性質を言うのである。
===それぞれの困難性の関係===
ハッシュ関数に衝突が多い場合、原像計算困難性を満たさないハッシュ関数では、任意の入力値からハッシュ値を得られるため、第2原像計算困難性を満たさない。また、第2原像計算困難性を満たさないハッシュ関数では、衝突困難性を満たさない。すなわち、
:原像計算困難 ⊃ 第2原像計算困難 ⊃ 衝突困難
である。
== 語源 ==
"hash" という用語は、本来の「切り刻んで混ぜる」という意味からの類推で使われるようになった。実際、[[合同式|合同]]操作を行う典型的なハッシュ関数は、入力の定義域を多数の部分に「切り刻み」、キーの分布が値域で一様になるように「混ぜた」形で出力する。
[[ドナルド・クヌース]]によれば、この用語を最初に使ったのは[[IBM]]の [[:en:Hans Peter Luhn|Hans Peter Luhn]] で、1953年1月の社内メモで使っていた。そして、[[:en:Robert Morris (cryptographer)|Robert Morris]] が学会誌 Communications of the ACM に掲載した論文でこの用語を使い、単なる[[ジャーゴン]]から正式な専門用語に昇格した<ref name="knuth">{{cite book|author=[[ドナルド・クヌース|Knuth, Donald]]|year=1973|title=[[The Art of Computer Programming]], volume 3, Sorting and Searching|pages=506–542}}</ref>。
== 脚注・出典 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary pipe|ハッシュ関数}}
* [[ブルームフィルタ]]
* [[ハッシュテーブル]] - [[分散ハッシュテーブル]]
* [[HMAC]]
* [[ラビン-カープ文字列検索アルゴリズム]]
* [[暗号理論]]
* [[暗号学的ハッシュ関数]]
* {{仮リンク|HAVAL|en|HAVAL}}
* [[剰余]]
* [[連想配列]]
* [[一方向性関数]]
* [[衝突 (計算機科学)]]
* {{仮リンク|オープンアドレス法|en|Open addressing}}([[クローズドハッシュ法]])
== 外部リンク ==
=== 解説 ===
*[https://burtleburtle.net/bob/hash/index.html Hash Functions and Block Ciphers] by Bob Jenkins
*[http://www.concentric.net/~Ttwang/tech/inthash.htm Integer Hash Function] by Thomas Wang
*{{Wayback|url=http://www.geocities.com/drone115b/Goulburn06.pdf |title=The Goulburn Hashing Function |date=20090319175044}} ([[Portable Document Format|PDF]]) by Mayur Patel
*[http://www.azillionmonkeys.com/qed/hash.html Hash Functions] by Paul Hsieh
=== 実装 ===
*[https://www.gnu.org/software/gperf/gperf.html GNU gperf]
*[https://www.partow.net/programming/hashfunctions/index.html General purpose hash function algorithms (C/C++/Pascal/Java/Python/Ruby)]
*[https://sites.google.com/site/murmurhash/ The Murmur Hash Function] by Austin Appleby
*[http://herbert.gandraxa.com/herbert/hsh.asp HSH 11/13] by Herbert Glarner
*[http://isthe.com/chongo/tech/comp/fnv/ FNV] Fowler, Noll, Vo Hash Function
*[http://www.qdecoder.org/goto/qHash.html qDecoder's C/C++ hash functions] — オープンソースのライブラリ
=== オンラインハッシュ生成 ===
*[http://www.sinfocol.org/herramientas/hashes.php Hash Generator] オンラインのハッシュ生成器 (md2,md4,md5,sha1,tiger,snefru,ripemd,whirlpool,haval...)
*[http://hash.stephan-brumme.com/ Ajax-based Hash Generator] オンラインのハッシュ生成器。文字入力の度にハッシュ値を計算する。
*[http://rogeriopvl.com/hashr hashr] オンラインのハッシュ生成器。40以上のハッシュアルゴリズムを選択できる。
{{データ構造}}
{{cryptography navbox|hash}}
{{DEFAULTSORT:はつしゆかんすう}}
[[Category:ハッシュ関数|*]]
[[Category:検索アルゴリズム]]
[[Category:誤り検出訂正]] | 2003-03-09T05:36:58Z | 2023-08-03T17:44:40Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:Otheruses",
"Template:要出典",
"Template:データ構造",
"Template:Wayback",
"Template:Cryptography navbox",
"Template:Lang-en",
"Template:Reflist",
"Template:Cite book",
"Template:Wiktionary pipe",
"Template:仮リンク"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E9%96%A2%E6%95%B0 |
3,708 | パズルゲーム | パズルゲームとは、一般にはパズルをコンピューターゲームでプレイできるよう作られたゲームソフトのことを言い、パズルそのものとは緩やかに区別される。コンピュータゲームのジャンルの一つ。PZLという略表記もまま使われる。
従来のパズルがコンピューターゲームとして提供されることにより、操作の簡便さ、設問数や視聴覚面の充実、再挑戦のしやすさ、プレイ環境の手軽さ、実力に応じた難易度設定が可能、自動的な解答のチェックなどのメリットを得ることができた。
またコンピューターによる処理能力を活かし、アクション性や敗北条件などを付け加えることで対戦要素やステージクリアモード(俗に言うストーリーモード)を採り入れて、従来のパズルでは不可能だった遊び方をコンピューターゲームで実現している。これにより現実世界では不可能な表現を用いたパズルが登場したり、アクションパズルなど古来の「パズル」にはなかったジャンルも生まれたりしている。
家庭用ゲーム機のパッケージソフトでは、1本数千円といった価格に見合ったボリュームを提供することが難しいため、ユーザーや支持者がかなり限定されるジャンルではあるが、テトリスなど社会現象にもなったソフトも存在する。
一方、パソコン向けのフリーウェアやブラウザゲーム、携帯電話・インターネット対応の携帯ゲーム機・スマートフォンなどの端末で需要が多いカジュアルゲームでは、手軽に遊べるパズルが人気ジャンルとして定着した。
詰碁や詰将棋、テトリス・マッチ3ゲームなど古典的なパズルも依然人気があるが、2000年代後半にプロセッサの処理能力が上がると物理シミュレーションを利用してオブジェクトの複雑な動きを表現するパズルが登場したり(「Angry Birds」「グーの惑星」など)、タッチパネル・ジャイロセンサーなど新しい入力方法を活用したパズルも開発されるようになった。
3DCGを利用した3次元のパズル要素を持つゲームは、2次元に比べて複雑な思考が要求されるためか、あまり受け入れられていない。3DCGを駆使したゲームでもパズル自体は平面上で展開される場合が多い。
また、コンピューターゲーム以外の分野において、スライディングブロックパズル、知恵の輪、ハノイの塔などの、ゲームの要素をもつ数学パズルを指すことがある。
また、以上に挙げたものは市販品であるが、個人作のフリーソフトでも数多くのパズルゲームが出回っており、Vアプリにも移植されたアクションパズル「みすてぃっく☆ばる〜ん」などが知られている。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "パズルゲームとは、一般にはパズルをコンピューターゲームでプレイできるよう作られたゲームソフトのことを言い、パズルそのものとは緩やかに区別される。コンピュータゲームのジャンルの一つ。PZLという略表記もまま使われる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "従来のパズルがコンピューターゲームとして提供されることにより、操作の簡便さ、設問数や視聴覚面の充実、再挑戦のしやすさ、プレイ環境の手軽さ、実力に応じた難易度設定が可能、自動的な解答のチェックなどのメリットを得ることができた。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "またコンピューターによる処理能力を活かし、アクション性や敗北条件などを付け加えることで対戦要素やステージクリアモード(俗に言うストーリーモード)を採り入れて、従来のパズルでは不可能だった遊び方をコンピューターゲームで実現している。これにより現実世界では不可能な表現を用いたパズルが登場したり、アクションパズルなど古来の「パズル」にはなかったジャンルも生まれたりしている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "家庭用ゲーム機のパッケージソフトでは、1本数千円といった価格に見合ったボリュームを提供することが難しいため、ユーザーや支持者がかなり限定されるジャンルではあるが、テトリスなど社会現象にもなったソフトも存在する。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "一方、パソコン向けのフリーウェアやブラウザゲーム、携帯電話・インターネット対応の携帯ゲーム機・スマートフォンなどの端末で需要が多いカジュアルゲームでは、手軽に遊べるパズルが人気ジャンルとして定着した。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "詰碁や詰将棋、テトリス・マッチ3ゲームなど古典的なパズルも依然人気があるが、2000年代後半にプロセッサの処理能力が上がると物理シミュレーションを利用してオブジェクトの複雑な動きを表現するパズルが登場したり(「Angry Birds」「グーの惑星」など)、タッチパネル・ジャイロセンサーなど新しい入力方法を活用したパズルも開発されるようになった。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "3DCGを利用した3次元のパズル要素を持つゲームは、2次元に比べて複雑な思考が要求されるためか、あまり受け入れられていない。3DCGを駆使したゲームでもパズル自体は平面上で展開される場合が多い。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "また、コンピューターゲーム以外の分野において、スライディングブロックパズル、知恵の輪、ハノイの塔などの、ゲームの要素をもつ数学パズルを指すことがある。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "また、以上に挙げたものは市販品であるが、個人作のフリーソフトでも数多くのパズルゲームが出回っており、Vアプリにも移植されたアクションパズル「みすてぃっく☆ばる〜ん」などが知られている。",
"title": "主なパズルゲーム"
}
] | パズルゲームとは、一般にはパズルをコンピューターゲームでプレイできるよう作られたゲームソフトのことを言い、パズルそのものとは緩やかに区別される。コンピュータゲームのジャンルの一つ。PZLという略表記もまま使われる。 従来のパズルがコンピューターゲームとして提供されることにより、操作の簡便さ、設問数や視聴覚面の充実、再挑戦のしやすさ、プレイ環境の手軽さ、実力に応じた難易度設定が可能、自動的な解答のチェックなどのメリットを得ることができた。 またコンピューターによる処理能力を活かし、アクション性や敗北条件などを付け加えることで対戦要素やステージクリアモード(俗に言うストーリーモード)を採り入れて、従来のパズルでは不可能だった遊び方をコンピューターゲームで実現している。これにより現実世界では不可能な表現を用いたパズルが登場したり、アクションパズルなど古来の「パズル」にはなかったジャンルも生まれたりしている。 家庭用ゲーム機のパッケージソフトでは、1本数千円といった価格に見合ったボリュームを提供することが難しいため、ユーザーや支持者がかなり限定されるジャンルではあるが、テトリスなど社会現象にもなったソフトも存在する。 一方、パソコン向けのフリーウェアやブラウザゲーム、携帯電話・インターネット対応の携帯ゲーム機・スマートフォンなどの端末で需要が多いカジュアルゲームでは、手軽に遊べるパズルが人気ジャンルとして定着した。 詰碁や詰将棋、テトリス・マッチ3ゲームなど古典的なパズルも依然人気があるが、2000年代後半にプロセッサの処理能力が上がると物理シミュレーションを利用してオブジェクトの複雑な動きを表現するパズルが登場したり、タッチパネル・ジャイロセンサーなど新しい入力方法を活用したパズルも開発されるようになった。 3DCGを利用した3次元のパズル要素を持つゲームは、2次元に比べて複雑な思考が要求されるためか、あまり受け入れられていない。3DCGを駆使したゲームでもパズル自体は平面上で展開される場合が多い。 また、コンピューターゲーム以外の分野において、スライディングブロックパズル、知恵の輪、ハノイの塔などの、ゲームの要素をもつ数学パズルを指すことがある。 | {{出典の明記|date=2021年4月}}
{{Pathnav|frame=1|コンピュータゲームのジャンル}}
[[Image:Paint by numbers Animation.gif|right|thumb|250px|[[お絵かきロジック]]完成までの流れ([[GIFアニメ]])]]
'''パズルゲーム'''とは、一般には[[パズル]]を[[コンピューターゲーム]]でプレイできるよう作られた[[ゲームソフト]]のことを言い、パズルそのものとは緩やかに区別される。[[コンピュータゲームのジャンル]]の一つ。'''PZL'''という略表記もまま使われる。
従来のパズルがコンピューターゲームとして提供されることにより、操作の簡便さ、設問数や視聴覚面の充実、再挑戦のしやすさ、プレイ環境の手軽さ、実力に応じた難易度設定が可能、自動的な解答のチェックなどのメリットを得ることができた。
またコンピューターによる処理能力を活かし、アクション性や敗北条件などを付け加えることで対戦要素やステージクリアモード(俗に言うストーリーモード)を採り入れて、従来のパズルでは不可能だった遊び方をコンピューターゲームで実現している。これにより現実世界では不可能な表現を用いたパズルが登場したり、[[アクションパズル]]など古来の「パズル」にはなかったジャンルも生まれたりしている。
家庭用[[ゲーム機]]のパッケージソフトでは、1本数千円といった価格に見合ったボリュームを提供することが難しいため、ユーザーや支持者がかなり限定されるジャンルではあるが、[[テトリス]]など社会現象にもなったソフトも存在する。
一方、パソコン向けの[[フリーウェア]]や[[ブラウザゲーム]]、[[携帯電話]]・インターネット対応の携帯ゲーム機・[[スマートフォン]]などの端末で需要が多い[[カジュアルゲーム]]では、手軽に遊べるパズルが人気ジャンルとして定着した。
[[詰碁]]や[[詰将棋]]、テトリス・[[マッチ3ゲーム]]など古典的なパズルも依然人気があるが、2000年代後半にプロセッサの処理能力が上がると物理シミュレーションを利用してオブジェクトの複雑な動きを表現するパズルが登場したり(「[[Angry Birds]]」「[[グーの惑星]]」など)、[[タッチパネル]]・[[ジャイロセンサー]]など新しい入力方法を活用したパズルも開発されるようになった。
[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]を利用した3次元のパズル要素を持つゲームは、2次元に比べて複雑な思考が要求されるためか、あまり受け入れられていない。3DCGを駆使したゲームでもパズル自体は平面上で展開される場合が多い。
また、コンピューターゲーム以外の分野において、[[スライディングブロックパズル]]、[[知恵の輪]]、[[ハノイの塔]]などの、[[ゲーム]]の要素をもつ[[数学パズル]]を指すことがある<ref>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%95%B0%E5%AD%A6%E3%83%91%E3%82%BA%E3%83%AB/ 数学パズル - Yahoo!百科事典]{{リンク切れ|date=2021年4月}}</ref>。
==主なパズルゲーム==
[[Image:Sokoban_ani.gif|thumb|倉庫番形式のパズルの正解(動画)]]
[[File:Mahjongg.png|thumb|[[上海 (ゲーム)|上海]]]]
{{See also|パズルコンピュータゲームの一覧}}
*[[倉庫番]]
*[[さめがめ]]
*[[ライツアウト]]
*[[XI (ゲーム)|XI]]
*[[I.Q]]
*[[ムサピィのチョコマーカー]]
*[[インクレディブルマシーン]]シリーズ
*[[ピクロス (ゲームソフト)|ピクロス]]
*[[ことばのパズル もじぴったん]]
*[[ょすみん。]]
*[[ヨッシーのクッキー]]
*[[GUNPEY]]
*[[クォース]]
*[[アクションパズル]]
**[[エッガーランド]]
**[[カービィのきらきらきっず]]
**[[ソロモンの鍵 (ゲーム)|ソロモンの鍵]]
**[[直感ヒトフデ]]
**[[パズループ]]
**[[パズルボブル]]
**[[FLAPPY]]
**[[レミングス]]
*[[落ち物パズル]]
**[[テトリス]]
**[[ぷよぷよ]]
**[[Dr.マリオ]]
**[[ヨッシーのたまご]]
**[[ドロップキューブ]]
**[[対戦ぱずるだま]]
**[[コラムス]]
**[[ルミネス]]
**[[スーパーパズルファイターIIX]]
**[[ハットリス]]
**[[パネルでポン]]
**[[ボンブリス]]
**[[マジカルドロップ]]
**[[メテオス]]
*[[麻雀]]牌をモチーフとしたパズル
**[[上海 (ゲーム)|上海]]
**[[四川省 (ゲーム)|四川省]]
また、以上に挙げたものは市販品であるが、個人作の[[フリーウェア|フリーソフト]]でも数多くのパズルゲームが出回っており、[[S!アプリ|Vアプリ]]にも移植されたアクションパズル「[[みすてぃっく☆ばる〜ん]]」などが知られている。
== 脚注 ==
{{reflist}}
{{コンピュータゲームのジャンル}}
{{video-game-stub}}
{{DEFAULTSORT:はするけえむ}}
[[Category:パズルゲーム|*]] | 2003-03-09T06:33:05Z | 2023-09-20T11:55:28Z | false | false | false | [
"Template:See also",
"Template:Reflist",
"Template:リンク切れ",
"Template:コンピュータゲームのジャンル",
"Template:Video-game-stub",
"Template:出典の明記",
"Template:Pathnav"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BA%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0 |
3,710 | インドの観光地の一覧 | インドの観光地の一覧は、インド国内の観光地の一覧である。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "インドの観光地の一覧は、インド国内の観光地の一覧である。",
"title": null
}
] | インドの観光地の一覧は、インド国内の観光地の一覧である。 | '''インドの観光地の一覧'''は、[[インド]]国内の観光地の一覧である。
== インドの世界遺産 ==
{{see|インドの世界遺産}}
== 世界遺産に含まれないインドの観光地 ==
*[[アンベール城]]
*[[祇園精舎]] - [[平家物語]]に出てくる言葉の由来
*[[ゴア州|ゴア]] - 西洋人の多く訪れる[[砂浜|ビーチ]]を中心とした[[リゾート]](「ゴアの聖堂と修道院」は世界遺産に登録されている)
*[[八大聖地]] - 仏教の[[聖地]]
*[[ハワー・マハル]] - [[マハラジャ]]によって建造された[[宮殿]]
*[[ビービー・カー・マクバラー]] - [[アウラングゼーブ]]の妃の廟
*[[ファティー・ラフバール砲]] - [[17世紀]]に利用された大砲
{{DEFAULTSORT:いんとのかんこうちのいちらん}}
[[Category:アジアの地理の一覧]]
[[Category:インドの観光地|*]]
[[Category:インド関連一覧|かんこうち]] | null | 2023-05-23T08:08:21Z | false | false | false | [
"Template:See"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E8%A6%B3%E5%85%89%E5%9C%B0%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
3,711 | グル・ナーナク | グル・ナーナク(ਗੁਰੂ ਨਾਨਕ , 1469年4月15日 - 1539年9月22日)は、シク教の教祖にして初代グル(尊師)。シク教では、歴代グルの全員がグル・ナーナクの聖性と宗教的権威を継承していると考えられている。グル・ナーナクの誕生日には、各地でお祭りが行なわれる。
シク教では宗教指導者をグル(尊師)と呼ぶため、グル・ナーナク(あるいはナーナク師)という呼称が一般的であるが、神格化されたグル・ナーナク・デヴ( パンジャブ語発音)という尊称もある。また、日本語文献ではグル・ナナク(あるいはナナク師)という表記も散見される。
ラーホール(現在のパキスタンの都市、インドとの国境近く)近郊のタールワンディー村で、ヒンドゥー教徒の両親の元に生まれた。
その後シク教の開祖となり、インドのパンジャーブ地方で布教活動を行った。
彼は第2代グルに息子を選ばずに、信仰心のあついアンガドを指名した。この決定に反発した息子は独立してウダーシー派を結成した。
身分差別の激しいカースト制には否定的であり、また礼拝後には男女貴賎を問わず、すべての人が同じ場所に座り同じ食べ物を分けあう事を奨励した。これはヒンドゥー教がカーストが異なると一緒に食事をしないことに対する批判である。
宗教改革者カビールとイスラーム神秘主義スーフィズムの影響を受けている。カビールの思想とグル・ナーナクの思想は大変似ているが、違う点はカビールがタントラ(密教)の影響を受けているのに対し、グル・ナーナクにはそれがないことである。カビールと対面したかどうかはカビールの生没年がはっきりしないこともあって、学者によって意見が異なるが、現在主流の説では1440年誕生で1516年死亡なので、これなら出会った可能性はあることになる。
グル・ナーナクの教える神は形がなく、人格を持ち、慈愛深く、一神教で、偶像を持たず、定まった神の名前を持たない、つまりアラーもヴィシュヌも同じ神の異名にすぎないということである。
グル・ナーナクは数珠を首にかけ、頭にターバンを巻きヒンドゥー教とイスラーム教の両方の身なりをしていた。 グル・ナーナクの教えをヒンドゥー教とイスラーム教の折衷であるという人がいるが、ナーナクはヒンドゥー教でもなくイスラーム教でもない諸宗教の本質を追求したのである。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "グル・ナーナク(ਗੁਰੂ ਨਾਨਕ , 1469年4月15日 - 1539年9月22日)は、シク教の教祖にして初代グル(尊師)。シク教では、歴代グルの全員がグル・ナーナクの聖性と宗教的権威を継承していると考えられている。グル・ナーナクの誕生日には、各地でお祭りが行なわれる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "シク教では宗教指導者をグル(尊師)と呼ぶため、グル・ナーナク(あるいはナーナク師)という呼称が一般的であるが、神格化されたグル・ナーナク・デヴ( パンジャブ語発音)という尊称もある。また、日本語文献ではグル・ナナク(あるいはナナク師)という表記も散見される。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "ラーホール(現在のパキスタンの都市、インドとの国境近く)近郊のタールワンディー村で、ヒンドゥー教徒の両親の元に生まれた。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "その後シク教の開祖となり、インドのパンジャーブ地方で布教活動を行った。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "彼は第2代グルに息子を選ばずに、信仰心のあついアンガドを指名した。この決定に反発した息子は独立してウダーシー派を結成した。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "身分差別の激しいカースト制には否定的であり、また礼拝後には男女貴賎を問わず、すべての人が同じ場所に座り同じ食べ物を分けあう事を奨励した。これはヒンドゥー教がカーストが異なると一緒に食事をしないことに対する批判である。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "宗教改革者カビールとイスラーム神秘主義スーフィズムの影響を受けている。カビールの思想とグル・ナーナクの思想は大変似ているが、違う点はカビールがタントラ(密教)の影響を受けているのに対し、グル・ナーナクにはそれがないことである。カビールと対面したかどうかはカビールの生没年がはっきりしないこともあって、学者によって意見が異なるが、現在主流の説では1440年誕生で1516年死亡なので、これなら出会った可能性はあることになる。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "グル・ナーナクの教える神は形がなく、人格を持ち、慈愛深く、一神教で、偶像を持たず、定まった神の名前を持たない、つまりアラーもヴィシュヌも同じ神の異名にすぎないということである。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "グル・ナーナクは数珠を首にかけ、頭にターバンを巻きヒンドゥー教とイスラーム教の両方の身なりをしていた。 グル・ナーナクの教えをヒンドゥー教とイスラーム教の折衷であるという人がいるが、ナーナクはヒンドゥー教でもなくイスラーム教でもない諸宗教の本質を追求したのである。",
"title": "思想"
}
] | グル・ナーナクは、シク教の教祖にして初代グル(尊師)。シク教では、歴代グルの全員がグル・ナーナクの聖性と宗教的権威を継承していると考えられている。グル・ナーナクの誕生日には、各地でお祭りが行なわれる。 | [[ファイル:GuruNanakFresco-Goindwal.jpg|250px|サムネイル|グル・ナーナクのフレスコ画]]
'''グル・ナーナク'''(ਗੁਰੂ ਨਾਨਕ , [[1469年]][[4月15日]]<ref>{{Kotobank|ナーナク}}</ref> - [[1539年]][[9月22日]]<ref>[https://southasia.ucla.edu/religions/gurus-saints/guru-nanak/ Guru Nanak] MANAS | UCLA Social Sciences Computing</ref>)は、[[シク教]]の[[教祖]]にして初代[[グル]](尊師)。シク教では、歴代グルの全員がグル・ナーナクの聖性と宗教的権威を継承していると考えられている。グル・ナーナクの誕生日には、各地でお祭りが行なわれる。
== 名称 ==
シク教では宗教指導者を[[グル]](尊師)と呼ぶため、グル・ナーナク(あるいはナーナク師)という呼称が一般的であるが、神格化された'''グル・ナーナク・デヴ'''({{audio|Guru Nanak Dev.ogg|パンジャブ語発音|help=no}})という尊称もある。また、日本語文献ではグル・ナナク(あるいはナナク師)という表記も散見される。
[[ファイル:Sikh Gurus with Bhai Bala and Bhai Mardana.jpg|250px|サムネイル|中央上に座るのがグル・ナーナク]]
== 略歴 ==
[[ラホール|ラーホール]](現在の[[パキスタン]]の都市、[[インド]]との国境近く)近郊のタールワンディー村で、[[ヒンドゥー教]]徒の両親の元に生まれた。
その後シク教の開祖となり、[[インド]]の[[パンジャーブ]]地方で布教活動を行った。
彼は第2代グルに息子を選ばずに、信仰心のあつい[[グル・アンガド|アンガド]]を指名した。この決定に反発した息子は独立して[[ウダーシー派]]を結成した。
== 思想 ==
身分差別の激しい[[カースト]]制には否定的であり、また礼拝後には男女貴賎を問わず、すべての人が同じ場所に座り同じ食べ物を分けあう事を奨励した。これはヒンドゥー教がカーストが異なると一緒に食事をしないことに対する批判である。
宗教改革者[[カビール]]と[[イスラーム]]神秘主義[[スーフィズム]]の影響を受けている。カビールの思想とグル・ナーナクの思想は大変似ているが、違う点はカビールが[[タントラ教|タントラ]](密教)の影響を受けているのに対し、グル・ナーナクにはそれがないことである。カビールと対面したかどうかはカビールの生没年がはっきりしないこともあって、学者によって意見が異なるが、現在主流の説では[[1440年]]誕生で[[1516年]]死亡なので、これなら出会った可能性はあることになる。
グル・ナーナクの教える神は形がなく、人格を持ち、慈愛深く、[[一神教]]で、偶像を持たず、定まった神の名前を持たない、つまり[[アッラーフ|アラー]]も[[ヴィシュヌ]]も同じ神の異名にすぎないということである。
グル・ナーナクは数珠を首にかけ、頭にターバンを巻きヒンドゥー教とイスラーム教の両方の身なりをしていた。
グル・ナーナクの教えをヒンドゥー教とイスラーム教の折衷であるという人がいるが、ナーナクはヒンドゥー教でもなくイスラーム教でもない諸宗教の本質を追求したのである。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Guru_Nanak_Dev}}
* [[シク教]]
* [[ヴェーダの宗教]]
* [[アブラハムの宗教]]
* シク教経典『グル・グラント・サーヒブ』日本語全訳1430ページ 日本シク教団
https://translate.google.com/translate?hl=ja&sl=en&u=https://www.sikhnet.com/oldsikhnet/sggs/translation/&prev=search&pto=aue
*[http://www.srigranth.org/servlet/gurbani.gurbani?Action=Page&Param=1&g=1&h=1&r=1&t=1&p=0&k=0 ]
{{Indian Philosophy}}
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:なあなく くる}}
[[Category:インドの宗教家]]
[[Category:シク教]]
[[Category:1469年生]]
[[Category:1539年没]]
[[Category:宗教・宗派の開祖]] | null | 2021-05-23T14:03:39Z | false | false | false | [
"Template:Audio",
"Template:Reflist",
"Template:Kotobank",
"Template:Commonscat",
"Template:Indian Philosophy",
"Template:Authority control"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%AF |
3,712 | 電子工学 | 電子工学(でんしこうがく、英: electronics)は、電気工学の一部ないし隣接分野である。
様々な領域の範囲にまたがるものであるため定義は緩やかだが、概ね電子の真空中や固体物質中の挙動から生じる現象を工学的に利用するものと言える。これらは電子デバイスと呼ばれ、例えば次のようなものである。
通信、信号処理、電子計算機による情報処理、制御、計測など、応用分野を技術的に担保する技術分野である。
電気工学と対比させた場合、電気工学が電気現象全般を対象とするのに対し、電子工学は能動素子による増幅動作、スイッチング動作をはじめ、前述のような部分に焦点を当てている点が特徴である。 歴史的経緯から電子工学の起点は小電力の通信、信号処理が対象領域であったが、大電力用素子のパワーエレクトロニクスの発展により電力制御用途にも利用範囲が拡大している。
半導体、磁性体、誘電体等の物性を利用するため物性物理学、材料科学と関係が深い。また製造技術においては物理化学が応用される。
応用面では回路の構成において電子回路学が存在する。
能動素子をはじめとする前述各分野を電子工学の領域として扱うとするならば、その起源は後述の通り20世紀初頭に求めることが出来る。 日本語の語としての「電子工学」は、1940年の日本工学大会における電気学会会長八木秀次の講演題目「電子工学の躍進」が初出とみられる。この講演で八木は「今後、電子管の応用は目覚ましく発展する。無線・電話・ラジオ・写真伝送・テレビジョンをはじめとして、国民の日常生活にまで侵入すると予期される」と述べており、電子管(真空管)による能動素子を念頭に置いていたものと考えられる。
リー・ド・フォレストが機械的でなく電気的に増幅可能な能動素子の真空管である三極管を発明した1906年ごろ、電気工学から電子工学が派生的に出現した。 1950年頃まで通信工学とほぼ同義であり、通信用途での送信機と受信機の回路構成、それらに使用する真空管についての研究が中心であった。 固体増幅素子としては1920年代からの先駆的研究に続き、1947-48年にトランジスタが発明されている。 1959年にはシリコンでのプレーナー技術が開発され、集積回路開発への道が開かれた。 集積回路はデジタル型の論理演算による電子計算機の発展につながり、今日の情報社会の基となった。
高周波発振については、電子管による高周波大出力発信分野の利用のほか、1950年代にメーザー、レーザーが開発され、量子力学による電子のエネルギー準位間の遷移を基にしたデバイスが登場した。 またスイッチング動作の周波数源としての水晶振動子(1921年)、圧電素子による周波数フィルタ(1960年代~)等も電子工学の範疇と考えられる。
パワーエレクトロニクス分野ではサイリスタ(1957年)の登場により、小電力信号で大電力電流が制御可能となったことが起源である。
超電導材料を絶縁体を挟んで接合したジョセフソン素子は1962年に発明されている。高速スイッチング動作、磁気検出への利用が可能である。
表示装置の分野では1897年にブラウン(ドイツ)が陰極線管を発明し、それを元に1907年にロージング(ロシア)が映像表示装置を発明した。1968年に液晶ディスプレイが、1970年代初頭にプラズマディスプレイが開発された。
電磁的情報記録では磁気記録としてポールセンのワイヤーレコーダー(1898年)が登場し、1907年には直流バイアス方式が発明され、情報記録への利用はこの頃に起源を求めることが出来る。 その後記録媒体が磁気テープ(1940年代前半実用化)、ハードディスク(1956年登場)に移っている。 磁気記録は当初は電子工学の分野とは意識されなかったが、記録容量の拡大に伴って磁区が微細化して磁性体の微視的な挙動に研究の関心が移ったことから、次第に電子工学の範疇と認識されるようになった。 情報記録方式としては交流バイアス方式(1938年)、垂直磁気記録方式(1975年)が登場している。 この他情報記録デバイスとして半導体素子から発展したフラッシュメモリー(NOR型1980年、NAND型1986年発明)も存在する。 情報記録媒体自体は物理的なものであるが、読み出しに前述のレーザーを用いるものとしてレーザーディスク (LD)、コンパクトディスク (CD)、DVD、ブルーレイディスク (BD)がある。
以下では電子工学の応用としての電子回路と電子機器について述べる。
電子機器はその機能を実現する機能ブロックとしての電子回路の集まりとして構成されている。 電子回路は増幅回路、発振回路、フィルタ回路など意図した機能を果たすように構成されている。 電子回路は回路素子が個別の部品として何らかの配線部品(プリント基板にはんだ付けするなど)で相互接続され実装される場合と、集積回路の形で複合的に実現される場合がある。 個別部品としてよく見られる電子部品としては、コンデンサ、抵抗器、ダイオード、トランジスタなどがある。 電子部品はトランジスタやサイリスタなどの能動素子と、抵抗器やコンデンサなどの受動素子に分類される。 個別部品と集積回路は排他的な物ではなく、機能として必要に応じて使い分けられる。同じ基板上に併存することもある。
電子機器・システムは次の部分に分けられる。
テレビ受像機を例に挙げると、入力はアンテナやケーブルテレビから得られた放送信号である。テレビ受像機内部の信号処理回路は、放送信号から輝度や色や音声の情報を取り出す。出力は、電気信号をブラウン管やスピーカーによって映像や音声の形態に変換することによって実現される。
電子回路や装置は、アナログとデジタルに分類される。両者の橋渡しを担当するアナログ-デジタル変換回路と、デジタル-アナログ変換回路もある。
ラジオ受信機などのアナログ電子機器の多くは、数種類の基本回路の組み合わせで構成されている。アナログ回路は連続的な範囲の電圧を使う。
電子回路は1個から数千個の部品で構成されるため、これまでに考案されたアナログ回路は使用している部品の違いを考慮すれば膨大な数になる。
アナログ回路には線型回路もあるが、非線型な効果を持つミキサ回路、変調回路なども多数存在する。アナログ回路の典型例として、真空管やトランジスタを使用した増幅回路、演算増幅回路、発振回路などがある。
最近では完全にアナログだけの回路は滅多にない。アナログ回路であっても性能を改善するためにデジタル回路やマイクロプロセッサ技術を利用していることが多い。そのような回路は一般に "Mixed Signal" と呼ばれる。
アナログ回路もデジタル回路も線型な素子と非線型な素子を使っているため、区別の難しい場合もある。例えばコンパレータは連続的に変化する電圧を入力としながら、デジタル回路のような2つの電圧レベルのどちらかを出力する。
デジタル回路はいくつかの離散的な電圧レベルをとる電子回路である。デジタル回路はブール論理を物理的に実装した最も一般的な形態であり、すべてのデジタルコンピュータの基盤である。ほとんどのデジタル回路は2つの電圧レベルをとり、"Low"(0) と "High"(1) として使用する。"Low" は0V付近ということが多く、"High" は電源電圧に依存して決まる。
コンピュータ、デジタルクォーツ時計、プログラマブルロジックコントローラ(生産工程の制御で使用)などはすべてデジタル回路で構成されている。他にはデジタルシグナルプロセッサもある。
基本回路としては以下が挙げられる。
高集積部品としては以下が挙げられる。
電子回路は熱を発生するため、誤動作を防ぎ長期間の信頼性を確保するには放熱が重要となる。放熱技法としてはヒートシンクやファンによる空冷、コンピュータの放熱に見られる水冷などがある。放熱システムの設計にあたっては、対流、熱伝導、熱エネルギー放射などを利用する。
電子回路にはノイズが付き物である。この場合のノイズとは、電気信号に重なっている好ましくない変動で、電気信号の内容である情報を不明瞭にする傾向がある。ノイズは回路に起因する信号の歪みとは異なる。ノイズは電磁気や熱によって発生し、回路の温度を低く保てば低減させることができる。その他のノイズとしてはショットノイズなどがあるが、これは電子回路の物理特性の限界に起因するため、除去できない。
今日のエレクトロニクス設計技師は、電源回路、半導体素子(トランジスタなど)、集積回路といった既存の要素を組み合わせて電子回路を設計する。その際に使用するEDA(電子設計自動化)ソフトウェアは、回路エディタ機能やプリント基板設計機能を備えている。
電子部品を相互接続するに当たっては、さまざまな技法が長年使われてきた。例えば、初期の電子システムでは部品を木製の板(ブレッドボード)に固定し、それらを空中配線することで回路を構成していた。他にもコードウッド型配線(図参照)やワイヤラッピングなどが古くから使われてきた。現在ではガラスエポキシ基板などのプリント基板が主流で、より安価な紙フェノール基板(黄色から茶色の色が特徴)も使われている。近年、電子機器は処分時のリサイクルや健康・環境への配慮から、有害物質の使用が規制される流れにあり、欧州連合 (EU) のRoHS指令やWEEE指令が2006年7月に施行されたのをはじめ、各国においても類似の制度が制定・検討されている。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "電子工学(でんしこうがく、英: electronics)は、電気工学の一部ないし隣接分野である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "様々な領域の範囲にまたがるものであるため定義は緩やかだが、概ね電子の真空中や固体物質中の挙動から生じる現象を工学的に利用するものと言える。これらは電子デバイスと呼ばれ、例えば次のようなものである。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "通信、信号処理、電子計算機による情報処理、制御、計測など、応用分野を技術的に担保する技術分野である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "電気工学と対比させた場合、電気工学が電気現象全般を対象とするのに対し、電子工学は能動素子による増幅動作、スイッチング動作をはじめ、前述のような部分に焦点を当てている点が特徴である。 歴史的経緯から電子工学の起点は小電力の通信、信号処理が対象領域であったが、大電力用素子のパワーエレクトロニクスの発展により電力制御用途にも利用範囲が拡大している。",
"title": "総論"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "半導体、磁性体、誘電体等の物性を利用するため物性物理学、材料科学と関係が深い。また製造技術においては物理化学が応用される。",
"title": "総論"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "応用面では回路の構成において電子回路学が存在する。",
"title": "総論"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "能動素子をはじめとする前述各分野を電子工学の領域として扱うとするならば、その起源は後述の通り20世紀初頭に求めることが出来る。 日本語の語としての「電子工学」は、1940年の日本工学大会における電気学会会長八木秀次の講演題目「電子工学の躍進」が初出とみられる。この講演で八木は「今後、電子管の応用は目覚ましく発展する。無線・電話・ラジオ・写真伝送・テレビジョンをはじめとして、国民の日常生活にまで侵入すると予期される」と述べており、電子管(真空管)による能動素子を念頭に置いていたものと考えられる。",
"title": "総論"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "リー・ド・フォレストが機械的でなく電気的に増幅可能な能動素子の真空管である三極管を発明した1906年ごろ、電気工学から電子工学が派生的に出現した。 1950年頃まで通信工学とほぼ同義であり、通信用途での送信機と受信機の回路構成、それらに使用する真空管についての研究が中心であった。 固体増幅素子としては1920年代からの先駆的研究に続き、1947-48年にトランジスタが発明されている。 1959年にはシリコンでのプレーナー技術が開発され、集積回路開発への道が開かれた。 集積回路はデジタル型の論理演算による電子計算機の発展につながり、今日の情報社会の基となった。",
"title": "総論"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "高周波発振については、電子管による高周波大出力発信分野の利用のほか、1950年代にメーザー、レーザーが開発され、量子力学による電子のエネルギー準位間の遷移を基にしたデバイスが登場した。 またスイッチング動作の周波数源としての水晶振動子(1921年)、圧電素子による周波数フィルタ(1960年代~)等も電子工学の範疇と考えられる。",
"title": "総論"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "パワーエレクトロニクス分野ではサイリスタ(1957年)の登場により、小電力信号で大電力電流が制御可能となったことが起源である。",
"title": "総論"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "超電導材料を絶縁体を挟んで接合したジョセフソン素子は1962年に発明されている。高速スイッチング動作、磁気検出への利用が可能である。",
"title": "総論"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "表示装置の分野では1897年にブラウン(ドイツ)が陰極線管を発明し、それを元に1907年にロージング(ロシア)が映像表示装置を発明した。1968年に液晶ディスプレイが、1970年代初頭にプラズマディスプレイが開発された。",
"title": "総論"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "電磁的情報記録では磁気記録としてポールセンのワイヤーレコーダー(1898年)が登場し、1907年には直流バイアス方式が発明され、情報記録への利用はこの頃に起源を求めることが出来る。 その後記録媒体が磁気テープ(1940年代前半実用化)、ハードディスク(1956年登場)に移っている。 磁気記録は当初は電子工学の分野とは意識されなかったが、記録容量の拡大に伴って磁区が微細化して磁性体の微視的な挙動に研究の関心が移ったことから、次第に電子工学の範疇と認識されるようになった。 情報記録方式としては交流バイアス方式(1938年)、垂直磁気記録方式(1975年)が登場している。 この他情報記録デバイスとして半導体素子から発展したフラッシュメモリー(NOR型1980年、NAND型1986年発明)も存在する。 情報記録媒体自体は物理的なものであるが、読み出しに前述のレーザーを用いるものとしてレーザーディスク (LD)、コンパクトディスク (CD)、DVD、ブルーレイディスク (BD)がある。",
"title": "総論"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "以下では電子工学の応用としての電子回路と電子機器について述べる。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "電子機器はその機能を実現する機能ブロックとしての電子回路の集まりとして構成されている。 電子回路は増幅回路、発振回路、フィルタ回路など意図した機能を果たすように構成されている。 電子回路は回路素子が個別の部品として何らかの配線部品(プリント基板にはんだ付けするなど)で相互接続され実装される場合と、集積回路の形で複合的に実現される場合がある。 個別部品としてよく見られる電子部品としては、コンデンサ、抵抗器、ダイオード、トランジスタなどがある。 電子部品はトランジスタやサイリスタなどの能動素子と、抵抗器やコンデンサなどの受動素子に分類される。 個別部品と集積回路は排他的な物ではなく、機能として必要に応じて使い分けられる。同じ基板上に併存することもある。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "電子機器・システムは次の部分に分けられる。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "テレビ受像機を例に挙げると、入力はアンテナやケーブルテレビから得られた放送信号である。テレビ受像機内部の信号処理回路は、放送信号から輝度や色や音声の情報を取り出す。出力は、電気信号をブラウン管やスピーカーによって映像や音声の形態に変換することによって実現される。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "電子回路や装置は、アナログとデジタルに分類される。両者の橋渡しを担当するアナログ-デジタル変換回路と、デジタル-アナログ変換回路もある。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "ラジオ受信機などのアナログ電子機器の多くは、数種類の基本回路の組み合わせで構成されている。アナログ回路は連続的な範囲の電圧を使う。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "電子回路は1個から数千個の部品で構成されるため、これまでに考案されたアナログ回路は使用している部品の違いを考慮すれば膨大な数になる。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "アナログ回路には線型回路もあるが、非線型な効果を持つミキサ回路、変調回路なども多数存在する。アナログ回路の典型例として、真空管やトランジスタを使用した増幅回路、演算増幅回路、発振回路などがある。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "最近では完全にアナログだけの回路は滅多にない。アナログ回路であっても性能を改善するためにデジタル回路やマイクロプロセッサ技術を利用していることが多い。そのような回路は一般に \"Mixed Signal\" と呼ばれる。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "アナログ回路もデジタル回路も線型な素子と非線型な素子を使っているため、区別の難しい場合もある。例えばコンパレータは連続的に変化する電圧を入力としながら、デジタル回路のような2つの電圧レベルのどちらかを出力する。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "デジタル回路はいくつかの離散的な電圧レベルをとる電子回路である。デジタル回路はブール論理を物理的に実装した最も一般的な形態であり、すべてのデジタルコンピュータの基盤である。ほとんどのデジタル回路は2つの電圧レベルをとり、\"Low\"(0) と \"High\"(1) として使用する。\"Low\" は0V付近ということが多く、\"High\" は電源電圧に依存して決まる。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "コンピュータ、デジタルクォーツ時計、プログラマブルロジックコントローラ(生産工程の制御で使用)などはすべてデジタル回路で構成されている。他にはデジタルシグナルプロセッサもある。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "基本回路としては以下が挙げられる。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "高集積部品としては以下が挙げられる。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "電子回路は熱を発生するため、誤動作を防ぎ長期間の信頼性を確保するには放熱が重要となる。放熱技法としてはヒートシンクやファンによる空冷、コンピュータの放熱に見られる水冷などがある。放熱システムの設計にあたっては、対流、熱伝導、熱エネルギー放射などを利用する。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "電子回路にはノイズが付き物である。この場合のノイズとは、電気信号に重なっている好ましくない変動で、電気信号の内容である情報を不明瞭にする傾向がある。ノイズは回路に起因する信号の歪みとは異なる。ノイズは電磁気や熱によって発生し、回路の温度を低く保てば低減させることができる。その他のノイズとしてはショットノイズなどがあるが、これは電子回路の物理特性の限界に起因するため、除去できない。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "今日のエレクトロニクス設計技師は、電源回路、半導体素子(トランジスタなど)、集積回路といった既存の要素を組み合わせて電子回路を設計する。その際に使用するEDA(電子設計自動化)ソフトウェアは、回路エディタ機能やプリント基板設計機能を備えている。",
"title": "電子回路と電子機器"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "電子部品を相互接続するに当たっては、さまざまな技法が長年使われてきた。例えば、初期の電子システムでは部品を木製の板(ブレッドボード)に固定し、それらを空中配線することで回路を構成していた。他にもコードウッド型配線(図参照)やワイヤラッピングなどが古くから使われてきた。現在ではガラスエポキシ基板などのプリント基板が主流で、より安価な紙フェノール基板(黄色から茶色の色が特徴)も使われている。近年、電子機器は処分時のリサイクルや健康・環境への配慮から、有害物質の使用が規制される流れにあり、欧州連合 (EU) のRoHS指令やWEEE指令が2006年7月に施行されたのをはじめ、各国においても類似の制度が制定・検討されている。",
"title": "電子回路と電子機器"
}
] | 電子工学は、電気工学の一部ないし隣接分野である。 様々な領域の範囲にまたがるものであるため定義は緩やかだが、概ね電子の真空中や固体物質中の挙動から生じる現象を工学的に利用するものと言える。これらは電子デバイスと呼ばれ、例えば次のようなものである。 半導体素子または電子管等による能動素子で構成される増幅動作(回路)またはスイッチング動作(回路)
スイッチング動作から論理演算回路に関する領域が発展した。
メーザー、レーザーの高周波発振
プラズマの利用
電気磁気現象による情報記録も、論理演算のデジタル情報記録と磁気記録素子の微細化により電子工学の領域と認識されるようになった。
超伝導材料、ジョセフソン素子
ブラウン管・液晶・プラズマによる表示装置
量子コンピューターに用いられる量子演算素子 通信、信号処理、電子計算機による情報処理、制御、計測など、応用分野を技術的に担保する技術分野である。 | [[File:Arduino ftdi chip-1.jpg|thumb|right|250px|電子部品の[[表面実装]]]]
'''電子工学'''(でんしこうがく、{{lang-en-short|electronics}}<ref name="art">Horowitz, P., & Hill, W. (1989). The art of electronics. Cambridge Univ. Press.</ref>)は、[[電気工学]]の一部ないし隣接分野である。
様々な領域の範囲にまたがるものであるため定義は緩やかだが、概ね電子の真空中や固体物質中の挙動から生じる現象を工学的に利用するものと言える。これらは[[電子デバイス]]と呼ばれ、例えば次のようなものである。
* [[半導体素子]]または[[電子管]]等による[[能動素子]]で構成される[[増幅回路|増幅動作(回路)]]またはスイッチング動作(回路)
*: スイッチング動作から論理演算回路に関する領域が発展した。
* [[メーザー]]、[[レーザー]]の高周波発振
* [[プラズマ]]の利用
* 電気磁気現象による情報記録も、論理演算のデジタル情報記録と磁気記録素子の微細化により電子工学の領域と認識されるようになった。
* [[超伝導]]材料、[[ジョセフソン素子]]
* [[ブラウン管]]・[[液晶]]・プラズマによる表示装置
* [[量子コンピューター]]に用いられる量子演算素子
通信、[[信号処理]]、電子計算機による[[情報処理]]、制御、計測など、応用分野を技術的に担保する技術分野である。
== 総論 ==
=== 他分野との関係 ===
[[電気工学]]と対比させた場合、電気工学が電気現象全般を対象とするのに対し、<ref>Cogdell, J. R., & Cogdell, J. R. (1996). Foundations of electrical engineering. Prentice Hall.</ref>電子工学は能動素子による増幅動作、スイッチング動作をはじめ、前述のような部分に焦点を当てている点が特徴である。<ref name="art"/>
<!-- [[電力]]の利用や応用、[[電源]]と[[受動素子]]で構成される -->
歴史的経緯から電子工学の起点は小電力の通信、信号処理が対象領域であったが、大電力用素子の[[パワーエレクトロニクス]]の発展により電力制御用途にも利用範囲が拡大している。
半導体、磁性体、誘電体等の物性を利用するため[[物性物理学]]、[[材料科学]]と関係が深い。また製造技術においては[[物理化学]]が応用される。
応用面では[[電気回路|回路]]の構成において[[電子回路]]学が存在する。<ref>牛田明夫, & 田中衛. (2002). 電子回路シミュレーション, コロナ社.</ref><ref>堀川宗之. (2016). 医・生物学系のための電気・電子回路. コロナ社.</ref><ref>電子回路の基礎, 村田正著, 共立出版刊,(1989 年 4 月 10 日発行), </ref>
=== 歴史 ===
能動素子をはじめとする前述各分野を電子工学の領域として扱うとするならば、その起源は後述の通り20世紀初頭に求めることが出来る。
日本語の語としての「電子工学」は、1940年の日本工学大会における電気学会会長[[八木秀次]]の講演題目「電子工学の躍進」が初出とみられる。この講演で八木は「今後、電子管の応用は目覚ましく発展する。無線・電話・ラジオ・写真伝送・テレビジョンをはじめとして、国民の日常生活にまで侵入すると予期される」と述べており、電子管(真空管)による能動素子を念頭に置いていたものと考えられる<ref>[https://emira-t.jp/ejinden/997/ 「世界中で普及したテレビアンテナの生みの親・八木秀次【後編】」EMIRA]</ref>。
<!--
特にテレビジョン技術は放送局からの放送のみに留まらず、他のいろいろな方面に役立つだろう。社会に大きな貢献を成すことに期待をかけてよいことは疑う余地のないところである」
「将来、中性子工学なる新分野(現在の原子力工学)が発展して、驚くべき社会的変革が始まるだろう」
-->
[[リー・ド・フォレスト]]が機械的でなく電気的に[[増幅]]可能な能動素子の[[真空管]]である[[三極管]]を発明した1906年ごろ、電気工学から電子工学が派生的に出現した。<ref>De Forest, L. (1906). The audion: a new receiver for wireless telegraphy. Proceedings of the American Institute of Electrical Engineers, 25(10), 719-747.</ref>
1950年頃まで[[通信工学]]とほぼ同義であり、通信用途での[[送信機]]と[[受信機]]の回路構成、それらに使用する[[真空管]]についての研究が中心であった。
固体増幅素子としては1920年代からの先駆的研究に続き、1947-48年に[[トランジスタ]]が発明されている。<ref>Bardeen, J., & Brattain, W. H. (1948). The transistor, a semi-conductor triode. Physical Review, 74(2), 230.</ref><ref>Riordan, M., Hoddeson, L., & Herring, C. (1999). The invention of the transistor. In More Things in Heaven and Earth (pp. 563-578). Springer, New York, NY.</ref><ref>Brinkman, W. F., Haggan, D. E., & Troutman, W. W. (1997). A history of the invention of the transistor and where it will lead us. IEEE Journal of Solid-State Circuits, 32(12), 1858-1865.</ref>
1959年にはシリコンでの[[プレーナー型トランジスタ |プレーナー技術]]が開発され、<ref>[プレナー型トランジスタ誕生から50年--シリコンバレーで記念式典(2009年5月) https://japan.zdnet.com/article/20392843/8/]</ref>[[集積回路]]開発への道が開かれた。
集積回路はデジタル型の論理演算による電子計算機の発展につながり、今日の情報社会の基となった。
高周波発振については、電子管による高周波大出力発信分野の利用のほか、1950年代にメーザー、レーザーが開発され、[[量子力学]]による電子のエネルギー準位間の遷移を基にしたデバイスが登場した。
またスイッチング動作の周波数源としての[[水晶振動子]](1921年)、[[圧電素子]]による周波数[[フィルタ回路|フィルタ]](1960年代~)等も電子工学の範疇と考えられる。
[[パワーエレクトロニクス]]分野<ref>Erickson, R. W., & Maksimovic, D. (2007). Fundamentals of power electronics. Springer Science & Business Media.</ref>では[[サイリスタ]](1957年)の登場により、<ref>Arsov, G. L., & Mirčevski, S. (2010). The sixth decade of the thyristor. FACULTY OF ELECTRICAL ENGINEERING UNIVERSITY OF BANJA LUKA, 3.</ref>小電力信号で大電力電流が制御可能となったことが起源である。
[[超電導]]材料を絶縁体を挟んで接合した[[ジョセフソン素子]]は1962年に発明されている。<ref>B. D. Josephson: Phys. Lett., 1 (1962) 251.</ref>高速スイッチング動作、磁気検出への利用が可能である。<ref>中村彬. (1974). ジョゼフソン素子の応用. 応用物理, 43(11), 1151-1156.</ref>
表示装置の分野では1897年にブラウン(ドイツ)が陰極線管を発明し、それを元に1907年にロージング(ロシア)が映像表示装置を発明した。1968年に[[液晶ディスプレイ]]が、<ref>堀浩雄. (1999). 液晶ディスプレイの歴史. 応用物理, 68(4), 435-441.</ref>1970年代初頭に[[プラズマディスプレイ]]が開発された。<ref>内池平樹. (1998). プラズマディスプレイパネル カラープラズマディスプレイの動作原理. 真空, 41(7), 595-602.</ref><ref>篠田傳, & 粟本健司. (2006). プラズマディスプレイパネルの歴史と発展. 応用物理, 75(1), 5-15.</ref>
電磁的情報記録では[[磁気記録]]として[[ヴォルデマール・ポールセン|ポールセン]]の[[ワイヤーレコーダー]](1898年)が登場し、1907年には直流バイアス方式が発明され、情報記録への利用はこの頃に起源を求めることが出来る。<ref>君塚 雅憲 {{PDFlink|[http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/073.pdf 「テープレコーダーの技術系統化調査」]}} 国立科学博物館技術の系統化調査報告 第17集(2012年)</ref>
その後記録媒体が[[磁気テープ]](1940年代前半実用化)、<ref>中村慶久. (2009). 磁気記録―直近 40 年の進歩と将来―. 電子情報通信学会論文誌 C, 92(8), 412-427.</ref><ref>岩崎俊一. (1982). 磁気記録の動向. 応用物理, 51(10), 1167-1172.</ref>[[ハードディスク]](1956年登場<ref>原武生. (2003). ハードディスク概説. 電気学会誌, 123(9), 606-609.</ref>)に移っている。
磁気記録は当初は電子工学の分野とは意識されなかったが、記録容量の拡大に伴って磁区が微細化して磁性体の微視的な挙動に研究の関心が移ったことから、次第に電子工学の範疇と認識されるようになった。
情報記録方式としては[[磁気記録#交流バイアス|交流バイアス方式]](1938年)、[[垂直磁気記録方式]](1975年)が登場している。<ref>岩崎俊一. (1985). 垂直磁気記録. 日本物理学会誌, 40(6), 411-419.</ref><ref>岩崎俊一. (1983). 垂直磁気記録. テレビジョン学会誌, 37(8), 618-625.</ref>
この他情報記録デバイスとして[[半導体素子]]から発展した[[フラッシュメモリー]](NOR型1980年、NAND型1986年発明<ref>Aritome, S. (2015). NAND flash memory technologies. John Wiley & Sons.</ref>)も存在する。<ref>久米均. (1996). フラッシュメモリー技術. 応用物理, 65(11), 1114-1124.</ref><ref>舛岡富士雄. (1994). フラッシュメモリーの動向. テレビジョン学会誌, 48(1), 50-56.</ref>
情報記録媒体自体は物理的なものであるが、読み出しに前述のレーザーを用いるものとして[[レーザーディスク]] (LD)、[[コンパクトディスク]] (CD)、[[DVD]]、[[ブルーレイディスク]] (BD)<ref>渡辺俊夫. (2004). ブルーレイディスク (< 特集> 光る・輝く・伝える). 日本機械学会誌, 107(1030), 714-715.</ref>がある。
== 電子回路と電子機器 ==
以下では電子工学の応用としての電子回路と電子機器について述べる。
=== 電子機器と電子部品 ===
[[電子機器]]はその機能を実現する機能ブロックとしての[[電子回路]]の集まりとして構成されている。
電子回路は[[増幅回路]]、[[発振回路]]、[[フィルタ回路]]など意図した機能を果たすように構成されている。
電子回路は回路素子が個別の部品として何らかの[[配線部品]]([[プリント基板]]に[[はんだ]]付けするなど)で相互接続され実装される場合と、[[集積回路]]の形で複合的に実現される場合がある。
個別部品としてよく見られる電子部品としては、[[コンデンサ]]、[[抵抗器]]、[[ダイオード]]、[[トランジスタ]]などがある。
電子部品はトランジスタや[[サイリスタ]]などの[[能動素子]]と、抵抗器やコンデンサなどの[[受動素子]]に分類される。
個別部品と集積回路は排他的な物ではなく、機能として必要に応じて使い分けられる。同じ基板上に併存することもある。
=== 回路の種類 ===
電子機器・システムは次の部分に分けられる。
# 入力 - [[電子]]的・[[機械]]的な[[センサ]](または変換器)で、[[温度]]、[[圧力]]、電磁場等の物理量をシステムの外部から取得し、電流信号や電圧信号に変換する。
# 信号処理回路 - 組み合わされた電子素子により信号を操作し、解釈したり、変換したりする。
# 出力 - [[アクチュエータ]]や他の素子(変換器も含む)により、電流・電圧信号をシステム外の利用者にとって有用な形態に再変換する。
[[テレビ受像機]]を例に挙げると、入力は[[アンテナ]]や[[ケーブルテレビ]]から得られた放送信号である。テレビ受像機内部の信号処理回路は、放送信号から[[輝度信号|輝度]]や[[色信号|色]]や[[音声信号|音声]]の情報を取り出す。出力は、電気信号を[[ブラウン管]]や[[スピーカー]]によって映像や音声の形態に変換することによって実現される。
電子回路や装置は、アナログとデジタルに分類される。両者の橋渡しを担当する[[アナログ-デジタル変換回路]]と、[[デジタル-アナログ変換回路]]もある。
==== アナログ回路 ====
{{Main|アナログ回路}}
[[File:HitachiJ100A.jpg|right|thumb|250px|周波数可変[[インバータ]] J100(日立)]]
[[ラジオ]]受信機などの[[アナログ]]電子機器の多くは、数種類の基本回路の組み合わせで構成されている。[[アナログ回路]]は連続的な範囲の電圧を使う。<ref>宮田武雄. (2004). 速解 電子回路-アナログ回路の基礎と設計, コロナ社.</ref>
電子回路は1個から数千個の部品で構成されるため、これまでに考案されたアナログ回路は使用している部品の違いを考慮すれば膨大な数になる。
アナログ回路には[[線型回路]]もあるが、<ref>Tse, C. K. (1998). Linear circuit analysis. Addison-Wesley.</ref>非線型な効果を持つミキサ回路、変調回路なども多数存在する。アナログ回路の典型例として、真空管やトランジスタを使用した[[増幅回路]]、[[オペアンプ|演算増幅回路]]、<ref>角田秀夫. (1983). 実用オペアンプ回路. 東京電機大学出版局.</ref><ref>堀桂太郎. (2006). オペアンプの基礎マスター. 電気書院.</ref><ref>谷本茂. (1980). オペアンプ実戦技術. 誠 文堂新光社, 東京, 115.</ref>[[発振回路]]などがある。
最近では完全にアナログだけの回路は滅多にない。アナログ回路であっても性能を改善するためにデジタル回路や[[マイクロプロセッサ]]技術を利用していることが多い。そのような回路は一般に "Mixed Signal" と呼ばれる。
アナログ回路もデジタル回路も線型な素子と非線型な素子を使っているため、区別の難しい場合もある。例えば[[コンパレータ]]は連続的に変化する電圧を入力としながら、デジタル回路のような2つの電圧レベルのどちらかを出力する。
==== デジタル回路 ====
{{Main|デジタル回路}}
[[デジタル回路]]はいくつかの離散的な電圧レベルをとる電子回路である。デジタル回路は[[ブール論理]]を物理的に実装した最も一般的な形態であり、すべての[[デジタルコンピュータ]]の基盤である。<ref>Gregg, J. (1998). Ones and zeros: Understanding Boolean algebra, digital circuits, and the logic of sets. Wiley-IEEE press.</ref>ほとんどのデジタル回路は2つの電圧レベルをとり、"Low"(0) と "High"(1) として使用する。"Low" は0V付近ということが多く、"High" は電源電圧に依存して決まる。
[[コンピュータ]]、[[デジタル時計|デジタル]][[クォーツ時計]]、[[プログラマブルロジックコントローラ]](生産工程の制御で使用<ref>Reis, R. A., & Webb John, W. (1998). Programmable logic controllers: principles and applications (Vol. 4). Prentice Hall.</ref>)などはすべて[[デジタル]]回路で構成されている。他には[[デジタルシグナルプロセッサ]]もある。<ref>天野文雄, & 小林登. (1997). DSP: ディジタルシグナルプロセッサとは. 電気学会誌, 118(1), 30-33.</ref><ref>持田侑宏, 石井六哉, & 小野定康. (1990). ディジタル・シグナル・プロセッサの現状. 電気学会論文誌 D (産業応用部門誌), 110(2), 92-98.</ref><ref>西原明法. (1990). ディジタルシグナルプロセッサ (DSP). サーキットテクノロジ, 5(5), 292-297.</ref>
基本回路としては以下が挙げられる。
* [[論理回路]]
* [[加算器]]
* [[乗算器]]
* [[フリップフロップ]]
* [[カウンタ (電子回路)|カウンタ]]
* [[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]
* [[マルチプレクサ]]
* [[シュミットトリガ]]
高集積部品としては以下が挙げられる。
* [[マイクロプロセッサ]]
* [[マイクロコントローラ]]
* [[ASIC]] (Application-specific integrated circuit)
* [[デジタルシグナルプロセッサ]] (DSP)
* [[FPGA]] (Field-programmable gate array)
=== 放熱 ===
[[File:Low efficiency fins.png|right|thumb|250px|熱設計支援ソフトウェア (FloTherm)<ref>{{URL|https://www.mentorg.co.jp/products/mechanical/flotherm/}}</ref> によるヒートシンクのシミュレーション]]
{{See also|ヒートシンク}}
電子回路は[[熱]]を発生するため、誤動作を防ぎ長期間の信頼性を確保するには放熱が重要となる。放熱技法としては[[ヒートシンク]]や[[送風機|ファン]]による空冷、[[CPUの冷却装置|コンピュータの放熱]]に見られる[[水冷]]などがある。放熱システムの設計にあたっては、[[対流]]、[[熱伝導]]、熱エネルギー[[放射]]などを利用する。
=== ノイズ ===
電子回路にはノイズが付き物である。この場合のノイズとは、電気信号に重なっている好ましくない変動で、電気信号の内容である情報を不明瞭にする傾向がある<ref>IEEE Dictionary of Electrical and Electronics Terms ISBN 978-0-471-42806-0</ref>。ノイズは回路に起因する信号の歪みとは異なる。ノイズは電磁気や熱によって発生し、回路の温度を低く保てば低減させることができる。その他のノイズとしては[[ショット雑音|ショットノイズ]]などがあるが、これは電子回路の物理特性の限界に起因するため、除去できない。
=== CAD(コンピュータ支援設計) ===
[[File:FreePCB screenshot.png|right|thumb|250px|プリント基板設計用EDAソフトの例(FreePCB)<ref>{{URL|https://www.freepcb.com/}}</ref>]]
{{Main|EDA (半導体)}}
今日のエレクトロニクス設計技師は、[[電源回路]]、[[半導体素子]]([[トランジスタ]]など)、[[集積回路]]といった既存の要素を組み合わせて[[電子回路]]を[[回路設計|設計]]する。その際に使用する[[EDA (半導体)|EDA]](電子設計自動化)ソフトウェアは、回路エディタ機能や[[プリント基板]]設計機能を備えている。<ref>Darringer, J., Davidson, E., Hathaway, D. J., Koenemann, B., Lavin, M., Morrell, J. K., ... & Trevillyan, L. (2000). EDA in IBM: past, present, and future. IEEE Transactions on Computer-Aided Design of Integrated Circuits and Systems, 19(12), 1476-1497.</ref><ref>Gulati, K., & Khatri, S. P. (2010). Hardware acceleration of EDA algorithms. Springer.</ref>
=== 組み立て技法 ===
[[File:Cordwoodcircuit.agr.jpg|right|thumb|250px|コードウッド型配線]]
電子部品を相互接続するに当たっては、さまざまな技法が長年使われてきた。例えば、初期の電子システムでは部品を木製の板([[ブレッドボード]])に固定し、それらを[[空中配線]]することで回路を構成していた。他にもコードウッド型配線(図参照)や[[ワイヤラッピング]]などが古くから使われてきた。現在では[[FR4|ガラスエポキシ基板]]などの[[プリント基板]]が主流で、より安価な紙フェノール基板(黄色から茶色の色が特徴)も使われている。近年、電子機器は処分時のリサイクルや健康・環境への配慮から、有害物質の使用が規制される流れにあり、[[欧州連合]] (EU) の[[RoHS]]指令<ref>Chien, M. K., & Shih, L. H. (2007). Relationship between management practice and organisation performance under European Union directives such as RoHS: A case-study of the electrical and electronic industry in Taiwan. African Journal of Environmental Science and Technology, 1(3), 37-48.</ref>や[[WEEE指令]]<ref>Gottberg, A., Morris, J., Pollard, S., Mark-Herbert, C., & Cook, M. (2006). Producer responsibility, waste minimisation and the WEEE Directive: Case studies in eco-design from the European lighting sector. Science of the total environment, 359(1-3), 38-56.</ref>が2006年7月に施行されたのをはじめ、<ref>Yu, J., Welford, R., & Hills, P. (2006). Industry responses to EU WEEE and ROHS Directives: Perspectives from China. Corporate Social Responsibility and Environmental Management, 13(5), 286-299.</ref><ref>Wright, R., & Elcock, K. (2006). The RoHS and WEEE directives: environmental challenges for the electrical and electronic products sector. Environmental Quality Management, 15(4), 9-24.</ref>各国においても類似の制度が制定・検討されている<ref>{{Cite book|和書|url=https://www.env.go.jp/recycle/report/h17-02/index.html|title=製品中の有害物質に起因する環境負荷の低減方策に関する調査検討報告書|publisher=環境省/日本環境衛生センター|date=2005-7}}</ref>。
== 団体 ==
; 学会
:* [[IEEE]] (Institute of Electrical and Electronics Engineers)
:* [[電子情報通信学会]]
; 業界団体
:* [[電子工業会|EIA]](アメリカ電子工業会)
:* JEITA([[電子情報技術産業協会]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|author=Paul Horowitz and Winfield Hill|title=The Art of Electronics|edition=Second|year=1989|publisher=Cambridge University Press|isbn=9780521370950}}
* [http://nanohub.org/resources/1500 Online course on ''Computational Electronics''] on Nanohub.org
== 関連項目 ==
{{Portal|エレクトロニクス}}
* [[エレクトロニクス用語一覧]]
* [[電気工学]]・[[電気計測工学]]・[[電力工学]]・[[電磁気学]]
* [[通信工学]]・[[無線工学]]・[[伝送工学]]・[[交換工学]]
* [[コンピュータ]]・[[情報工学]]・[[計算機工学]]
* [[制御工学]]・[[メカトロニクス]]・[[デジタル制御工学]]・[[ロボット工学]]
* [[パワーエレクトロニクス]]・[[光エレクトロニクス]]
* [[電気音響工学]]
* [[電子工作]]
* [[マイクロエレクトロニクス]]
* [[超微細電子工学]](ナノエレクトロニクス)・[[ナノテクノロジー]]
* [[分子エレクトロニクス]](モレキュラーエレクトロニクス)
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Electronics}}
* [https://www.jeita.or.jp/japanese/ 社団法人電子情報技術産業協会(JEITA)]
* [https://www.iee.jp/ 電気学会]
* [https://www.ieice.org/jpn_r/index.html 電子情報通信学会]
** [https://www.ieice-hbkb.org/portal/ 電子情報通信学会 知識ベース 知識の森]
* {{Kotobank}}
{{Engineering fields}}
{{新技術|topics=yes|electronics=yes}}{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てんしこうかく}}
[[Category:電子工学|*]]
[[Category:エレクトロニクス|*]] | 2003-03-09T07:28:58Z | 2023-12-20T21:20:47Z | false | false | false | [
"Template:新技術",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Citation",
"Template:Portal",
"Template:Kotobank",
"Template:Normdaten",
"Template:Main",
"Template:Reflist",
"Template:Engineering fields",
"Template:URL",
"Template:Cite book",
"Template:Commonscat",
"Template:Lang-en-short",
"Template:See also",
"Template:PDFlink"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E5%B7%A5%E5%AD%A6 |
3,713 | 黒岩重吾 | 黒岩 重吾(くろいわ じゅうご、1924年2月25日 - 2003年3月7日)は、日本の小説家。社会派推理小説、風俗小説、古代史を題材にした歴史小説で活躍した。
大阪市生まれ。父方の祖先は和歌山県新宮市の廻船問屋。父は大同電力の電気技師、母は植村正久の弟子の牧師で名古屋の金城女学校で教頭も務めた池田勤之助の娘で、重吾は安治川発電所の社宅で生まれた。小学生の頃はキリスト教の日曜学校に通わされたが、結局信者にはならなかった。 大阪の府立中学受験に失敗し、旧制宇陀中学(現・奈良県立大宇陀高等学校)に入学し、4年で終了して同志社大学の予科に入学。同志社大学在学中に学徒出陣し、北満に出征する。
ソ連国境に近い綏芬河の町で終戦を迎え、厳しい逃避行の末、1946年に朝鮮に辿り着き、内地へ帰還した。この時の体験が創作の原点になる。同志社大学復学して、弁護士を目指して法学部入学し、闇ブローカー業も行いながら1947年卒業。この頃太宰治や織田作之助を愛読した。日本勧業証券(現みずほ証券)に入社。
1949年に「北満病棟記」を書き、『週刊朝日』の記録文学コンクールに入選、以後作家を志して中短編を書き溜めながら、同人誌「文学者」のグループに参加した。『サンデー毎日』の千葉亀雄賞に珊瑚十五のペンネームで応募した「虚数と詩人」が選外佳作。ドッジ政策により株相場で大失敗し、家財を売り払って株の情報屋となり、次いで「証券新報」設立に参加する。
1953年、悪食を試み、腐った肉を食べたことで小児麻痺を発病し、子供の頃からのかかりつけの中之島の回生病院に入院。以後3年間入院生活を送り、その間大学ノートで小説を書き続け、また退院後も脚に後遺症が残った。その間にスターリン暴落で多額の借金も抱えて、父の家や和歌山の祖父の土地も売り払った。帰るべきところがなくなったために、退院後は釜ヶ崎(あいりん地区)のドヤ街、飛田商店街に近い東田町に移り住み、トランプ占い、キャバレーの呼び込み、「水道産業新聞」編集長などさまざまな職業を経験。飛田の娼婦たちとも顔なじみになる。キャバレーの宣伝の仕事でホステス募集のキャッチフレーズを書く仕事をしていたせいで、小説の題名を考えるのが上手くなったという。夕刊紙のコントやラジオ小説に応募をして収入を得て、また闘病記を婦人雑誌に採用され原稿料を受け取ったが掲載はされなかった。
1958年に「ネオンと三角帽子」が『サンデー毎日』大衆文芸コンクールに入選、発表。1959年源氏鶏太の紹介で司馬遼太郎と知り合い「近代説話」の同人となり、1960年に「青い火花」が「週刊朝日」「宝石」共催の懸賞に佳作入選。この選考委員だった中島河太郎の紹介で、企業の内幕を題材にした本格的な推理小説『休日の断崖』を書き下ろしで刊行し、直木賞候補となる。
翌1961年に釜ヶ崎を舞台にした多様な人間模様に取り組んだ『背徳のメス』直木賞を受賞、続いて社会企業の問題を取り上げた『真昼の罠』『脂のしたたり』などを発表、松本清張に続く社会派推理小説作家として、「現代人の孤独と陥没の意識にふれる」作品で注目された。やがて「西成モノ」を主に、金銭欲・権力欲に捕らわれた人間の内面を巧みに抉った風俗小説、普通小説作家として活躍した。売れっ子となってからは月に七、八百の執筆をこなしていた。また推理小説については当時「なぞの意味を、トリックや犯人当てに限らず、社会のなぞを、人間のなぞを推理的に追求していくのも、推理小説に入れていただくならば、私は社会派推理作家なる言葉を誇りたい」と語っている。1962年9月には山中湖事件を取材中に突然上半身麻痺を起こし、飛行機で大阪に運ばれて3ヶ月入院したが、その間も長編の連載は休まなかった。
1963年、日本推理作家協会関西支部長に就任。『裸の背徳者』や、戦災孤児をテーマにした全5部の大作『さらば星座』などの作品がある。従軍時の体験をもとにした戦地小説として短編「兵隊と人間の間」「相剋」執筆。1960年代からはヨーロッパやハワイなど海外に足を運び、「シャンゼリゼ裏通り」(1973年)、「サンマルタン運河」(1974年)、「アムスのじゃが芋」(1975年)、「セーヌ川の畔」(1976年)などの海外を舞台にした短編も執筆。株の知識が活かされた、企業を舞台にした小説『大いなる変身』もある。夫の愛人の存在に苦しむ妻を描いた短編「夜の波」(1967年)は、中国語版『日本当代短篇小説選』(莽永彬訳、1982年)に収録され、「黒岩作品の主人公生き方や作品に流れる人間の悲しさ、正義感などに感銘、単なる風俗小説ではない」と評された。今東光に縁のある作家による野良犬会に参加。1日100本以上吸うヘビースモーカーだったが、1970年頃に東京のホテルで倒れたのを機に、柴田錬三郎に「誓いを破ったなら、軽蔑して絶交してほしい」と宣言して禁煙し、10年後から量を減らして喫煙を再開したがこれもやめてしまった。
1970年代後半から、以前より関心のあった古代史を舞台にした歴史小説の執筆を始める。少年時代に百舌鳥古墳群、古市古墳群など古代史の舞台となった場所で遊んで育ち、宇陀中学では当時「わが校は日本発祥の地にある」と強調されており、また飛鳥を中心にして古墳を利用するなどの軍事練習をしていたこと、1972年の高松塚古墳壁画の発見を契機とした古代史ブームに触発されたのがあったのが執筆の動機だった。
1976年に『歴史と人物』編集長に勧められて、壬申の乱での大海人皇子(天武天皇)と大友皇子(弘文天皇)の争いを題材にした『天の川の太陽』を連載する。続いて推古天皇が即位するまでの蘇我馬子と物部守屋の闘争の時代を描く『紅蓮の女王』を『黒岩重吾長編小説全集』月報に連載し、こちらが先に完結して刊行された。その後大化の改新前夜の時代を舞台に蘇我入鹿を主人公にし『落日の皇子』を執筆。『日と影の王子』では聖徳太子の生涯、『天翔る白日』は天武朝期における大津皇子の悲劇的な生涯を描いている。これらは、『日本書紀』『古事記』を独自に読解し、また舞台となった土地にも取材し、時に通説と異なる独自の歴史解釈や想像も盛り込んでいる。
『天の川の太陽』については「激動期に生きた人間の物語」「大海人皇子に仕えた舎人達も主人公といって良い」と自身で語っている。『弓削道鏡』では、『続日本紀』などをもとに道鏡の栄達への道のりと孝謙天皇との関係を描き、「ひとりの無位の青年が、ふつうなら手のとどきようもない女性と愛恋におちる。その過程と結末を描く純愛物語です」と語った。
これらの執筆の方法について「私なりに勉強してきた二十数年の知識を土台に、時にイマジネーションを駆使して推理し、分析するということです。そうでなければ作家である私が古代史の謎に取り組む意味がない」、及び「やはり人物に対する人間的な共感ですね。それが湧いてこなかったら、いくら歴史的に見て面白い題材でも、事件や人物に関するイメージがはっきりしてこない」「滅びるのがわかってて、大きな流れの中で自分なりに必死に抵抗している姿というか、生きざまの方を僕は書きたいですね」と述べている。 『日と影の王子』終章では、作者独自の見解として厩戸王子が十七条憲法を作ったかどうか、大王の地位に就いたが蘇我入鹿の圧力で政治から身を引いたのではないかといった自説も述べたのに続いて、歴史に関するエッセイで様々な説を述べ、1991年に見瀬丸山古墳の内部が撮影された際には、「私の推古女帝観がが根底から揺らぐような事実が判明した。」と、自説の見直しもしている。また古代史ブームについては、高度成長期を過ぎた日本での「時代の流れの中で生まれた日本人の血と日本民族特有の知的欲求の産物」とも述べている。これら古代史小説は、古代の中国や朝鮮半島の情勢の影響を考慮した独特の歴史解釈と、現代小説とも共通する人間分析が特徴となっている。
1980年に『天の川の太陽』で吉川英治文学賞を受賞、1992年には一連の古代歴史ロマンにより菊池寛賞を、「古代に材をとり巷説伝承を越えて、雄大な構想と艶やかな情感で、時代に光芒を放つ新しい人間像を創出した一連の歴史ロマンに対して」として受賞している。他の代表的な作品に『白鳥の王子ヤマトタケル』などがある。1984年から直木賞選考委員。奈良文学賞選考委員も務めた。
自伝的小説として、宇陀中学時代を振り返る「春の傷」(1993年)、流行作家時代に趣味のクルーザーで釣りをしながら様々な想念に耽る「ボート物語」(1992年)、長年交流があるノンフィクションライターで長編小説『廃虚の唇』『詐欺師の旅』の題材を得たともいうS氏についての「霧の跫音」(1993年)、「霧の顔」(1993年)、86歳で亡くなった母の死を振り返る「或る戦士」(1991年)、「脳死の残映」(1994年)なども執筆した。
2003年、肝不全により死去。死後に書斎から、入院中に完成させた『闇の左大臣 石上朝臣麻呂』の連載最終回の原稿が発見され、陳舜臣、田辺聖子、津本陽、北方謙三の追悼文とともに掲載された。
1970年代からクルーザーによる遊泳、釣りを趣味としていたが、1994年に紀淡海峡沖で貨物船との衝突事故により命を落としかけたのを機に、クルーザーはやめた。人物評として、水上勉「文壇のどの徒党にも属さない一匹狼」、瀬戸内晴美「きゃしゃで繊細で、どこか痛々しい感じのする外貌をもつが、実はタフでねばり強く、けんかに強く、女にも強いスーパーマンである。しかし神経だけは外貌のごとく繊細である」がある。大阪で生まれ育ったが、東京出身の母の影響で大阪弁よりは標準語に近い喋り方と言われた。 弟は1969年に黒岩竜太のペンネームでオール讀物新人賞入選するが、数作を発表後に小説から離れた。妻黒岩秀子による自伝的エッセイとして『女房の狸寝入り』(集英社 2000年)がある。 弟子に難波利三がおり、難波が『てんのじ村』で第91回直木賞候補となった際、連城三紀彦の単独受賞でもおかしくなかったところを黒岩が猛烈に後押しして難波の同時受賞を実現した。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "黒岩 重吾(くろいわ じゅうご、1924年2月25日 - 2003年3月7日)は、日本の小説家。社会派推理小説、風俗小説、古代史を題材にした歴史小説で活躍した。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "大阪市生まれ。父方の祖先は和歌山県新宮市の廻船問屋。父は大同電力の電気技師、母は植村正久の弟子の牧師で名古屋の金城女学校で教頭も務めた池田勤之助の娘で、重吾は安治川発電所の社宅で生まれた。小学生の頃はキリスト教の日曜学校に通わされたが、結局信者にはならなかった。 大阪の府立中学受験に失敗し、旧制宇陀中学(現・奈良県立大宇陀高等学校)に入学し、4年で終了して同志社大学の予科に入学。同志社大学在学中に学徒出陣し、北満に出征する。",
"title": "生涯と作品"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "ソ連国境に近い綏芬河の町で終戦を迎え、厳しい逃避行の末、1946年に朝鮮に辿り着き、内地へ帰還した。この時の体験が創作の原点になる。同志社大学復学して、弁護士を目指して法学部入学し、闇ブローカー業も行いながら1947年卒業。この頃太宰治や織田作之助を愛読した。日本勧業証券(現みずほ証券)に入社。",
"title": "生涯と作品"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "1949年に「北満病棟記」を書き、『週刊朝日』の記録文学コンクールに入選、以後作家を志して中短編を書き溜めながら、同人誌「文学者」のグループに参加した。『サンデー毎日』の千葉亀雄賞に珊瑚十五のペンネームで応募した「虚数と詩人」が選外佳作。ドッジ政策により株相場で大失敗し、家財を売り払って株の情報屋となり、次いで「証券新報」設立に参加する。",
"title": "生涯と作品"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "1953年、悪食を試み、腐った肉を食べたことで小児麻痺を発病し、子供の頃からのかかりつけの中之島の回生病院に入院。以後3年間入院生活を送り、その間大学ノートで小説を書き続け、また退院後も脚に後遺症が残った。その間にスターリン暴落で多額の借金も抱えて、父の家や和歌山の祖父の土地も売り払った。帰るべきところがなくなったために、退院後は釜ヶ崎(あいりん地区)のドヤ街、飛田商店街に近い東田町に移り住み、トランプ占い、キャバレーの呼び込み、「水道産業新聞」編集長などさまざまな職業を経験。飛田の娼婦たちとも顔なじみになる。キャバレーの宣伝の仕事でホステス募集のキャッチフレーズを書く仕事をしていたせいで、小説の題名を考えるのが上手くなったという。夕刊紙のコントやラジオ小説に応募をして収入を得て、また闘病記を婦人雑誌に採用され原稿料を受け取ったが掲載はされなかった。",
"title": "生涯と作品"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "1958年に「ネオンと三角帽子」が『サンデー毎日』大衆文芸コンクールに入選、発表。1959年源氏鶏太の紹介で司馬遼太郎と知り合い「近代説話」の同人となり、1960年に「青い火花」が「週刊朝日」「宝石」共催の懸賞に佳作入選。この選考委員だった中島河太郎の紹介で、企業の内幕を題材にした本格的な推理小説『休日の断崖』を書き下ろしで刊行し、直木賞候補となる。",
"title": "生涯と作品"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "翌1961年に釜ヶ崎を舞台にした多様な人間模様に取り組んだ『背徳のメス』直木賞を受賞、続いて社会企業の問題を取り上げた『真昼の罠』『脂のしたたり』などを発表、松本清張に続く社会派推理小説作家として、「現代人の孤独と陥没の意識にふれる」作品で注目された。やがて「西成モノ」を主に、金銭欲・権力欲に捕らわれた人間の内面を巧みに抉った風俗小説、普通小説作家として活躍した。売れっ子となってからは月に七、八百の執筆をこなしていた。また推理小説については当時「なぞの意味を、トリックや犯人当てに限らず、社会のなぞを、人間のなぞを推理的に追求していくのも、推理小説に入れていただくならば、私は社会派推理作家なる言葉を誇りたい」と語っている。1962年9月には山中湖事件を取材中に突然上半身麻痺を起こし、飛行機で大阪に運ばれて3ヶ月入院したが、その間も長編の連載は休まなかった。",
"title": "生涯と作品"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "1963年、日本推理作家協会関西支部長に就任。『裸の背徳者』や、戦災孤児をテーマにした全5部の大作『さらば星座』などの作品がある。従軍時の体験をもとにした戦地小説として短編「兵隊と人間の間」「相剋」執筆。1960年代からはヨーロッパやハワイなど海外に足を運び、「シャンゼリゼ裏通り」(1973年)、「サンマルタン運河」(1974年)、「アムスのじゃが芋」(1975年)、「セーヌ川の畔」(1976年)などの海外を舞台にした短編も執筆。株の知識が活かされた、企業を舞台にした小説『大いなる変身』もある。夫の愛人の存在に苦しむ妻を描いた短編「夜の波」(1967年)は、中国語版『日本当代短篇小説選』(莽永彬訳、1982年)に収録され、「黒岩作品の主人公生き方や作品に流れる人間の悲しさ、正義感などに感銘、単なる風俗小説ではない」と評された。今東光に縁のある作家による野良犬会に参加。1日100本以上吸うヘビースモーカーだったが、1970年頃に東京のホテルで倒れたのを機に、柴田錬三郎に「誓いを破ったなら、軽蔑して絶交してほしい」と宣言して禁煙し、10年後から量を減らして喫煙を再開したがこれもやめてしまった。",
"title": "生涯と作品"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1970年代後半から、以前より関心のあった古代史を舞台にした歴史小説の執筆を始める。少年時代に百舌鳥古墳群、古市古墳群など古代史の舞台となった場所で遊んで育ち、宇陀中学では当時「わが校は日本発祥の地にある」と強調されており、また飛鳥を中心にして古墳を利用するなどの軍事練習をしていたこと、1972年の高松塚古墳壁画の発見を契機とした古代史ブームに触発されたのがあったのが執筆の動機だった。",
"title": "生涯と作品"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1976年に『歴史と人物』編集長に勧められて、壬申の乱での大海人皇子(天武天皇)と大友皇子(弘文天皇)の争いを題材にした『天の川の太陽』を連載する。続いて推古天皇が即位するまでの蘇我馬子と物部守屋の闘争の時代を描く『紅蓮の女王』を『黒岩重吾長編小説全集』月報に連載し、こちらが先に完結して刊行された。その後大化の改新前夜の時代を舞台に蘇我入鹿を主人公にし『落日の皇子』を執筆。『日と影の王子』では聖徳太子の生涯、『天翔る白日』は天武朝期における大津皇子の悲劇的な生涯を描いている。これらは、『日本書紀』『古事記』を独自に読解し、また舞台となった土地にも取材し、時に通説と異なる独自の歴史解釈や想像も盛り込んでいる。",
"title": "生涯と作品"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "『天の川の太陽』については「激動期に生きた人間の物語」「大海人皇子に仕えた舎人達も主人公といって良い」と自身で語っている。『弓削道鏡』では、『続日本紀』などをもとに道鏡の栄達への道のりと孝謙天皇との関係を描き、「ひとりの無位の青年が、ふつうなら手のとどきようもない女性と愛恋におちる。その過程と結末を描く純愛物語です」と語った。",
"title": "生涯と作品"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "これらの執筆の方法について「私なりに勉強してきた二十数年の知識を土台に、時にイマジネーションを駆使して推理し、分析するということです。そうでなければ作家である私が古代史の謎に取り組む意味がない」、及び「やはり人物に対する人間的な共感ですね。それが湧いてこなかったら、いくら歴史的に見て面白い題材でも、事件や人物に関するイメージがはっきりしてこない」「滅びるのがわかってて、大きな流れの中で自分なりに必死に抵抗している姿というか、生きざまの方を僕は書きたいですね」と述べている。 『日と影の王子』終章では、作者独自の見解として厩戸王子が十七条憲法を作ったかどうか、大王の地位に就いたが蘇我入鹿の圧力で政治から身を引いたのではないかといった自説も述べたのに続いて、歴史に関するエッセイで様々な説を述べ、1991年に見瀬丸山古墳の内部が撮影された際には、「私の推古女帝観がが根底から揺らぐような事実が判明した。」と、自説の見直しもしている。また古代史ブームについては、高度成長期を過ぎた日本での「時代の流れの中で生まれた日本人の血と日本民族特有の知的欲求の産物」とも述べている。これら古代史小説は、古代の中国や朝鮮半島の情勢の影響を考慮した独特の歴史解釈と、現代小説とも共通する人間分析が特徴となっている。",
"title": "生涯と作品"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "1980年に『天の川の太陽』で吉川英治文学賞を受賞、1992年には一連の古代歴史ロマンにより菊池寛賞を、「古代に材をとり巷説伝承を越えて、雄大な構想と艶やかな情感で、時代に光芒を放つ新しい人間像を創出した一連の歴史ロマンに対して」として受賞している。他の代表的な作品に『白鳥の王子ヤマトタケル』などがある。1984年から直木賞選考委員。奈良文学賞選考委員も務めた。",
"title": "生涯と作品"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "自伝的小説として、宇陀中学時代を振り返る「春の傷」(1993年)、流行作家時代に趣味のクルーザーで釣りをしながら様々な想念に耽る「ボート物語」(1992年)、長年交流があるノンフィクションライターで長編小説『廃虚の唇』『詐欺師の旅』の題材を得たともいうS氏についての「霧の跫音」(1993年)、「霧の顔」(1993年)、86歳で亡くなった母の死を振り返る「或る戦士」(1991年)、「脳死の残映」(1994年)なども執筆した。",
"title": "生涯と作品"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "2003年、肝不全により死去。死後に書斎から、入院中に完成させた『闇の左大臣 石上朝臣麻呂』の連載最終回の原稿が発見され、陳舜臣、田辺聖子、津本陽、北方謙三の追悼文とともに掲載された。",
"title": "生涯と作品"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1970年代からクルーザーによる遊泳、釣りを趣味としていたが、1994年に紀淡海峡沖で貨物船との衝突事故により命を落としかけたのを機に、クルーザーはやめた。人物評として、水上勉「文壇のどの徒党にも属さない一匹狼」、瀬戸内晴美「きゃしゃで繊細で、どこか痛々しい感じのする外貌をもつが、実はタフでねばり強く、けんかに強く、女にも強いスーパーマンである。しかし神経だけは外貌のごとく繊細である」がある。大阪で生まれ育ったが、東京出身の母の影響で大阪弁よりは標準語に近い喋り方と言われた。 弟は1969年に黒岩竜太のペンネームでオール讀物新人賞入選するが、数作を発表後に小説から離れた。妻黒岩秀子による自伝的エッセイとして『女房の狸寝入り』(集英社 2000年)がある。 弟子に難波利三がおり、難波が『てんのじ村』で第91回直木賞候補となった際、連城三紀彦の単独受賞でもおかしくなかったところを黒岩が猛烈に後押しして難波の同時受賞を実現した。",
"title": "生涯と作品"
}
] | 黒岩 重吾は、日本の小説家。社会派推理小説、風俗小説、古代史を題材にした歴史小説で活躍した。 | {{Infobox 作家
| name = {{ruby|黒岩 重吾|くろいわ じゅうご}}
| image = Kuroiwa Jyuugo.jpg
| caption = <small>文藝春秋社『別冊文藝春秋』第80号(1962)より</small>
| birth_date = [[1924年]][[2月25日]]
| birth_place = {{JPN}}・[[大阪府]][[大阪市]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1924|2|25|2003|3|7}}
| death_place =
| occupation = [[小説家]]
| nationality = {{JPN}}
| period =
| genre =
| subject =
| movement =
| notable_works = 『背徳のメス』(1960年)<br />『[[天の川の太陽]]』(1979年)<br />『落日の王子 [[蘇我入鹿]]』(1982年)<br />『天風の彩王 [[藤原不比等]]』(1997年)<br />『[[中大兄皇子]]伝』(2001年)
| awards = [[直木三十五賞]](1960年)<br />[[吉川英治文学賞]](1980年)<br />[[紫綬褒章]](1991年)<br />[[菊池寛賞]](1992年)
| debut_works =
}}
'''黒岩 重吾'''(くろいわ じゅうご、[[1924年]][[2月25日]] - [[2003年]][[3月7日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。[[社会派推理小説]]、風俗小説、[[古代史]]を題材にした[[歴史小説]]で活躍した。
== 生涯と作品 ==
=== 生い立ち・青年時代 ===
[[大阪市]]生まれ。父方の祖先は[[和歌山県]][[新宮市]]の[[船問屋|廻船問屋]]<ref>『私の父、私の母PartⅡ』[[中央公論社]]、1996年、69頁</ref>。父は[[大同電力]]の電気技師、母は[[植村正久]]の弟子の牧師で[[名古屋]]の[[金城女学校]]で教頭も務めた池田勤之助の娘で、重吾は[[安治川発電所]]の社宅で生まれた<ref>[[磯貝勝太郎]]「解説」(『木枯らしの手帳』講談社文庫 1997年)</ref>。小学生の頃はキリスト教の日曜学校に通わされたが、結局信者にはならなかった<ref name=hitoni>『人に定めなし</ref>。
大阪の府立中学受験に失敗し、旧制宇陀中学(現・[[奈良県立大宇陀高等学校]])に入学し、4年で終了して[[同志社大学]]の予科に入学。同志社大学在学中に[[学徒出陣]]し、[[満州|北満]]に出征する。
[[ソ連]]国境に近い[[綏芬河市|綏芬河]]の町で終戦を迎え、厳しい逃避行の末、1946年に[[朝鮮]]に辿り着き、[[内地]]へ帰還した。この時の体験が創作の原点になる。同志社大学復学して、弁護士を目指して[[法学部]]入学し、闇ブローカー業も行いながら1947年卒業。この頃[[太宰治]]や[[織田作之助]]を愛読した。日本勧業証券(現[[みずほ証券]])に入社。
1949年に「北満病棟記」を書き、『[[週刊朝日]]』の記録文学コンクールに入選、以後作家を志して中短編を書き溜めながら、[[同人誌]]「文学者」のグループに参加した。『[[サンデー毎日]]』の[[千葉亀雄]]賞に珊瑚十五のペンネームで応募した「虚数と詩人」が選外佳作。[[ドッジ・ライン|ドッジ政策]]により株相場で大失敗し、家財を売り払って株の情報屋となり、次いで「証券新報」設立に参加する。
1953年、悪食を試み、腐った肉を食べたことで[[急性灰白髄炎|小児麻痺]]を発病し、子供の頃からのかかりつけの[[中之島 (大阪府)|中之島]]の回生病院に入院。以後3年間入院生活を送り、その間大学ノートで小説を書き続け、また退院後も脚に後遺症が残った<ref name=togarashi/>。その間に[[スターリン暴落]]で多額の借金も抱えて、父の家や和歌山の祖父の土地も売り払った。帰るべきところがなくなったために、退院後は[[釜ヶ崎]]([[あいりん地区]])の[[ドヤ街]]、[[飛田本通商店街|飛田商店街]]に近い東田町に移り住み、トランプ占い、キャバレーの呼び込み、「[[水道産業新聞]]」編集長などさまざまな職業を経験。飛田の娼婦たちとも顔なじみになる。キャバレーの宣伝の仕事でホステス募集のキャッチフレーズを書く仕事をしていたせいで、小説の題名を考えるのが上手くなったという<ref name=kareha>『青い枯葉』光文社文庫 2019年([[山前譲]]「解説」)</ref>。夕刊紙のコントやラジオ小説に応募をして収入を得て、また闘病記を婦人雑誌に採用され原稿料を受け取ったが掲載はされなかった<ref>「飛田界隈と私」(『西成山王ホテル』ちくま文庫 2018年)</ref>。
=== 作家活動 ===
1958年に「ネオンと三角帽子」が『[[サンデー毎日]]』大衆文芸コンクールに入選、発表。1959年[[源氏鶏太]]の紹介で[[司馬遼太郎]]と知り合い「[[近代説話]]」の同人となり、1960年に「青い火花」が「週刊朝日」「[[宝石 (雑誌)|宝石]]」共催の懸賞に佳作入選。この選考委員だった[[中島河太郎]]の紹介で、企業の内幕を題材にした本格的な[[推理小説]]『休日の断崖』を書き下ろしで刊行し、[[直木三十五賞|直木賞]]候補となる<ref name=kareha/>。
翌1961年に釜ヶ崎を舞台にした多様な人間模様に取り組んだ『背徳のメス』直木賞を受賞、続いて社会企業の問題を取り上げた『真昼の罠』『脂のしたたり』などを発表、[[松本清張]]に続く[[社会派推理小説]]作家として、「現代人の孤独と陥没の意識にふれる」作品で注目された<ref>『腐った太陽』角川文庫(尾崎秀樹「解説」)</ref>。やがて「[[西成区|西成]]モノ」を主に、金銭欲・権力欲に捕らわれた人間の内面を巧みに抉った風俗小説、普通小説作家として活躍した<ref>[[中島河太郎]]「社会派の展開」(『現代の推理小説 4 社会派の展開』立風書房 1971年)</ref>。売れっ子となってからは月に七、八百の執筆をこなしていた<ref name=togarashi>『とうがらしの夢』</ref>。また推理小説については当時「なぞの意味を、トリックや犯人当てに限らず、社会のなぞを、人間のなぞを推理的に追求していくのも、推理小説に入れていただくならば、私は社会派推理作家なる言葉を誇りたい」と語っている<ref>「わが小説」朝日新聞1962年3月27日、[[山前譲]]「解説」(『処女受胎』角川文庫 1991年)</ref>。1962年9月には山中湖事件を取材中に突然上半身麻痺を起こし、飛行機で大阪に運ばれて3ヶ月入院したが、その間も長編の連載は休まなかった。
1963年、[[日本推理作家協会]]関西支部長に就任。『裸の背徳者』や、[[戦災孤児]]をテーマにした全5部の大作『[[さらば星座]]』などの作品がある。従軍時の体験をもとにした戦地小説として短編「兵隊と人間の間」「相剋」<ref>「兵隊と人間の間」『オール讀物』1965年8月号、「相剋」『別冊文藝春秋』1968年6月号(いずれも『廃墟と残月』所収)</ref>執筆。1960年代からはヨーロッパやハワイなど海外に足を運び、「シャンゼリゼ裏通り」(1973年)、「サンマルタン運河」(1974年)、「アムスのじゃが芋」(1975年)、「セーヌ川の畔」(1976年)などの海外を舞台にした短編も執筆。株の知識が活かされた、企業を舞台にした小説『大いなる変身』もある<ref name=komatsu>『大いなる変身』角川文庫([[小松伸六]]「解説」)</ref>。夫の愛人の存在に苦しむ妻を描いた短編「夜の波」(1967年)は、中国語版『日本当代短篇小説選』(莽永彬訳、1982年)に収録され、「黒岩作品の主人公生き方や作品に流れる人間の悲しさ、正義感などに感銘、単なる風俗小説ではない」と評された<ref>『夜の波』角川文庫、1987年(清原康正「解説」)</ref>。[[今東光]]に縁のある作家による野良犬会に参加。1日100本以上吸うヘビースモーカーだったが、1970年頃に東京のホテルで倒れたのを機に、[[柴田錬三郎]]に「誓いを破ったなら、軽蔑して絶交してほしい」と宣言して禁煙し、10年後から量を減らして喫煙を再開したがこれもやめてしまった<ref name=togarashi/><ref name=hitoni/>。
=== 古代史小説 ===
1970年代後半から、以前より関心のあった[[古代]]史を舞台にした[[歴史小説]]の執筆を始める。少年時代に[[百舌鳥古墳群]]、[[古市古墳群]]など古代史の舞台となった場所で遊んで育ち、宇陀中学では当時「わが校は日本発祥の地にある」と強調されており、また[[飛鳥]]を中心にして古墳を利用するなどの軍事練習をしていたこと、1972年の[[高松塚古墳]]壁画の発見を契機とした古代史ブームに触発されたのがあったのが執筆の動機だった<ref name=ozaki>[[尾崎秀樹]]・黒岩重吾「対談『紅蓮の女王』の背景」(『紅蓮の女王』中公文庫 1981年)</ref><ref>[[清原康正]]『歴史・時代小説ベスト113』中公文庫 2001年</ref>。
1976年に『歴史と人物』編集長に勧められて、[[壬申の乱]]での大海人皇子([[天武天皇]])と大友皇子([[弘文天皇]])の争いを題材にした『天の川の太陽』を連載する。続いて[[推古天皇]]が即位するまでの[[蘇我馬子]]と[[物部守屋]]の闘争の時代を描く『紅蓮の女王』を『黒岩重吾長編小説全集』月報に連載し、こちらが先に完結して刊行された。その後[[大化の改新]]前夜の時代を舞台に[[蘇我入鹿]]を主人公にし『落日の皇子』を執筆。『日と影の王子』では[[聖徳太子]]の生涯、『天翔る白日』は[[天武天皇|天武朝]]期における[[大津皇子]]の悲劇的な生涯を描いている。これらは、『[[日本書紀]]』『[[古事記]]』を独自に読解し、また舞台となった土地にも取材し、時に通説と異なる独自の歴史解釈や想像も盛り込んでいる。
『天の川の太陽』については「激動期に生きた人間の物語」「大海人皇子に仕えた舎人達も主人公といって良い」<ref>「古代史小説への私の視点」(『聖徳太子 日と影の王子 4』文春文庫 1990年 尾崎秀樹「解説」)</ref>と自身で語っている。『弓削道鏡』では、『[[続日本紀]]』などをもとに[[道鏡]]の栄達への道のりと[[孝謙天皇]]との関係を描き、「ひとりの無位の青年が、ふつうなら手のとどきようもない女性と愛恋におちる。その過程と結末を描く純愛物語です」と語った<ref>倉本四郎「解説」(『弓削道鏡(下)』文春文庫 1995年)</ref>。
これらの執筆の方法について「私なりに勉強してきた二十数年の知識を土台に、時にイマジネーションを駆使して推理し、分析するということです。そうでなければ作家である私が古代史の謎に取り組む意味がない<ref>『古代日本への探検』</ref>」、及び「やはり人物に対する人間的な共感ですね。それが湧いてこなかったら、いくら歴史的に見て面白い題材でも、事件や人物に関するイメージがはっきりしてこない」「滅びるのがわかってて、大きな流れの中で自分なりに必死に抵抗している姿というか、生きざまの方を僕は書きたいですね」<ref name=ozaki/>と述べている。
『日と影の王子』終章では、作者独自の見解として厩戸王子が[[十七条憲法]]を作ったかどうか、[[大王 (ヤマト王権)|大王]]の地位に就いたが[[蘇我入鹿]]の圧力で政治から身を引いたのではないかといった自説も述べたのに続いて、歴史に関するエッセイで様々な説を述べ、1991年に[[見瀬丸山古墳]]の内部が撮影された際には、「私の推古女帝観がが根底から揺らぐような事実が判明した。」<ref>「斑鳩の雨」(『日本経済新聞』1993年12月5日)</ref>と、自説の見直しもしている。また古代史ブームについては、高度成長期を過ぎた日本での「時代の流れの中で生まれた日本人の血と日本民族特有の知的欲求の産物」<ref>「古代史ブームについて」(『聖徳太子 日と影の王子 4』文春文庫 1990年 尾崎秀樹「解説」)</ref>とも述べている。これら古代史小説は、古代の[[中国]]や[[朝鮮半島]]の情勢の影響を考慮した独特の歴史解釈と、現代小説とも共通する人間分析が特徴となっている<ref name=kiyoharasadaijin/>。
1980年に『[[天の川の太陽]]』で[[吉川英治文学賞]]を受賞、1992年には一連の古代歴史ロマンにより[[菊池寛賞]]を、「古代に材をとり巷説伝承を越えて、雄大な構想と艶やかな情感で、時代に光芒を放つ新しい人間像を創出した一連の歴史ロマンに対して」として受賞している。他の代表的な作品に『白鳥の王子ヤマトタケル』などがある。1984年から直木賞選考委員。奈良文学賞選考委員も務めた。
自伝的小説として、宇陀中学時代を振り返る「春の傷」(1993年)、流行作家時代に趣味のクルーザーで釣りをしながら様々な想念に耽る「ボート物語」(1992年)、長年交流があるノンフィクションライターで長編小説『廃虚の唇』『詐欺師の旅』の題材を得たともいうS氏についての「霧の跫音」(1993年)、「霧の顔」(1993年)、86歳で亡くなった母の死を振り返る「或る戦士」(1991年)、「脳死の残映」(1994年)なども執筆した<ref>いずれも『木枯しの手帳』所収</ref>。
2003年、[[肝不全]]により死去。死後に書斎から、入院中に完成させた『闇の左大臣 石上朝臣麻呂』の連載最終回の原稿が発見され、[[陳舜臣]]、[[田辺聖子]]、[[津本陽]]、[[北方謙三]]の追悼文とともに掲載された<ref name=kiyoharasadaijin>清原康正解説『闇の左大臣 石上朝臣麻呂』集英社文庫 2006年</ref>。
1970年代からクルーザーによる遊泳、釣りを趣味としていたが、1994年に[[紀淡海峡]]沖で貨物船との衝突事故により命を落としかけたのを機に、クルーザーはやめた<ref name=hitoni/>。人物評として、[[水上勉]]「文壇のどの徒党にも属さない一匹狼」、[[瀬戸内晴美]]「きゃしゃで繊細で、どこか痛々しい感じのする外貌をもつが、実はタフでねばり強く、けんかに強く、女にも強いスーパーマンである。しかし神経だけは外貌のごとく繊細である」がある<ref name=komatsu/>。大阪で生まれ育ったが、東京出身の母の影響で[[大阪弁]]よりは[[標準語]]に近い喋り方と言われた。
弟は1969年に黒岩竜太のペンネームで[[オール讀物新人賞]]入選するが、数作を発表後に小説から離れた。妻黒岩秀子による自伝的エッセイとして『女房の狸寝入り』(集英社 2000年)がある。
弟子に[[難波利三]]がおり、難波が『てんのじ村』で第91回[[直木賞]]候補となった際、[[連城三紀彦]]の単独受賞でもおかしくなかったところを黒岩が猛烈に後押しして難波の同時受賞を実現した<ref>川口則弘『直木賞物語』[[バジリコ]]、2014年、309~312頁</ref>。
== 受賞歴 ==
* [[1958年]] - 第54回[[サンデー毎日]]大衆文芸賞。
* [[1960年]] - 『背徳のメス』で第44回[[直木賞]]。
* [[1980年]] - 『[[天の川の太陽]]』で第14回[[吉川英治文学賞]]。
* [[1991年]] - [[紫綬褒章]]。
* [[1992年]] - 第40回[[菊池寛賞]]。
== 作品リスト ==
=== 1960年代 ===
*『休日の断崖』浪速書房 のち春陽文庫 1960年 [[角川文庫]]、[[新潮文庫]]、広済堂文庫
*『背徳のメス』[[中央公論社]] 1960年 のち新潮文庫、講談社文庫、角川文庫、[[中公文庫]]
*『相場師』東方社 1960年 (短編集)「賭博の街」春陽文庫
*『青い火花』東方社 1961年 「生きた造花」春陽文庫
*『腐った太陽』浪速書房 1961年 のち春陽文庫、角川文庫、ケイブンシャ文庫
*『飛田ホテル』[[講談社]] 1961年(短編集、表題作『別冊文藝春秋』1961年4月号など) のち角川文庫、「墓地の俳優」[[東方社]]
*『落日の群像』[[新潮社]] 1961年(短編集) のち[[講談社文庫]]
*『強迫者』中央公論社 1962年, 改題『死火山の肌』角川文庫
*『真昼の罠』新潮社(ポケット・ライブラリ) 1962年(『[[週刊新潮]]』1961年7月-1962年1月)のち文庫
*『脂のしたたり』講談社 1962年(『[[週刊現代]]』1961年4月-1962年3月) のち角川文庫、広済堂文庫
*『肌は死なない』文藝春秋新社(ポケット文春) 1962年(『[[オール讀物]]』1962年2-6月)
*『影を燃やせ』講談社 1962年(『[[講談倶楽部]]』1961年8月-1962年8月)のち文庫
*『深夜の競走』角川書店 1962年
*『天の踊り』文藝春秋新社 1962年(『[[大阪新聞]]』1961年9月-1962年5月)のち春陽文庫、角川文庫
*『どぼらや人生』集英社 1963年(エッセイ集)のち講談社文庫
*『法王の牙』中央公論社 1963年
*『鎖と歯』[[文藝春秋新社]](ポケット文春) 1963年 のち角川文庫
*『洞の花』講談社 1963年
*『[[廃虚の唇]]』[[光文社]]([[カッパ・ノベルス]]) 1963年(『[[週刊読売]]』1962年4月-1963年4月)のち角川文庫
*『女の小箱』光文社(カッパ・ノベルス) 1963年(地方紙 1962年2月-1963年1月)のち文春文庫
*『象牙の穴』新潮社 1963年(『[[小説新潮]]』1963年1-12月) のち角川文庫、新潮文庫
*『虹の十字架』集英社 1963年
*『愛の装飾』講談社 1963年(『[[週刊女性]]』1963年1-9月)のち角川文庫、講談社文庫
*『太陽を這う』講談社 1964年(『[[週刊現代]]』1963年1-11月) のち文庫
*『夜の聖書』集英社 1964年(『女性セブン』1963年12月-1964年8月) のち文庫
*『翳りある微笑』集英社 1964年(『[[マドモアゼル]]』1963年10月-1964年5月) のち文春文庫
*『隠花の露』中央公論社 1964年
*『女予言者』東方社 1964年, 改題『沼の宿』角川文庫
*『花を喰う虫』新潮社 1965年 のち角川文庫
*『太陽の素顔』集英社 1965年(『[[週刊明星]]』1964年11-1965年10月) のち文庫
*『昼と夜の巡礼』講談社 1965年(『日本』1964年1-12月) のち角川文庫、中公文庫
*『飾られた穴』文藝春秋新社(ポケット文春) 1965年(『オール讀物』1965年1-4月) のち文庫
*『花を喰う虫』新潮社 1965年 (『[[週刊新潮]]』1964年1-11月) のち角川文庫
*『同伴者』講談社 1965年
*『西成山王ホテル』講談社 1965年(『小説現代』1968年3月-1969年2月号) のち角川文庫
*『夜間飛行』光文社(カッパ・ノベルス)1965年(『[[女性自身]]』1964年8月-1965年5月) のち文春文庫
*『裸の背徳者』文藝春秋新社 1965年(『別冊文藝春秋』1965年7月) のち文庫
*『深海パーティ』文藝春秋新社(ポケット文春) 1966年(『[[漫画読本]]』1965年1-4月)のち集英社文庫
*『人形の足跡』東方社 1966年, 改題『機械の野望』角川文庫
*『沼の花影』光文社(カッパ・ノベルス) 1966年
*『炎は若い』文藝春秋(ポケット文春) 1966年(『[[週刊女性]]』1965年7月-1966年4月)のち文庫
*『影の旅行者』文藝春秋(ポケット文春) 1966年(『[[週刊文春]]』1965年5月-1966年5月)
*『花と骨群』講談社 1966年 のち文庫
*『昼下りの階段』講談社 1966年(『週刊現代』1965年1-12月) のち角川文庫
*『女の熱帯』新潮社 1966年(『[[婦人生活]]』1965年1-12月) のち角川文庫
*『肌と金』[[サンケイ新聞]]出版局 1967年(『[[週刊サンケイ]]』1966年1-11月) のち角川文庫
*『闇の航跡』光文社(カッパ・ノベルス)1967年(『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』1966年4-7月) のち集英社文庫、ケイブンシャ文庫
*『煮えた欲情』講談社(ロマン・ブックス)1967年 「砂の巣」文庫
*『背信の炎』講談社(ロマン・ブックス) 1967年 のち角川文庫
*『女の氷河』光文社(カッパ・ノベルス) 1967年(地方紙1965年9月-1966年7月)のち集英社文庫
*『飢えた渦』集英社 1967年(『週刊明星』1966年7月-1967年9月) のち文庫
*『墓標との契約』東方社 1967年, 改題『木枯しの女』角川文庫
*『夕陽ホテル』新潮社 1967年 のち集英社文庫、ケイブンシャ文庫
*『花園への咆哮』[[毎日新聞社]] 1967年(『サンデー毎日』1966年7月-1967年7月) のち角川文庫
*『心斎橋幻想』講談社(ロマン・ブックス) 1967年 のち文庫
*『病葉の踊り』講談社(ロマン・ブックス) 1967年 のち文庫
*『一日未亡人』講談社(ロマン・ブックス) 1967年 のち文庫
*『鼓笛隊』(「小説新潮」に発表) 1967年<ref>日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1968年版」に収録される。</ref>
*『幻との契約』文藝春秋 1968年
*『衣裳に棲む虫』文藝春秋(ポケット文春) 1968年(『週刊文春』1967年10月-1968年7月)のち講談社文庫
*『幻の広告』春陽文庫 1968年, 改題『水の中の砂漠』角川文庫
*『紅ある流星』講談社 1968年(『[[ヤングレディ]]』1966年4月-1967年3月) のち集英社文庫、ケイブンシャ文庫
*『造花の値段』東方社 1968年 のち角川文庫
*『処女受胎』東方社 1968年(短編集、表題作『小説新潮』1964年9月号など) のち角川文庫
*『孤猿の途』講談社 1968年(『小説現代』1966年7-8月) のち中公文庫
*『別居夫人』東方社 1968年, 改題『ガラスの庭』角川文庫
*『乾いた湖底』講談社 1968年
*『朝を待つ女』春陽文庫 1968年 のち講談社文庫
*『人間を売る』講談社 1968年(『週刊現代』1967年1月-1968年1月) のち文庫
*『神の爪跡』文藝春秋 1968年
*『人間の宿舎』文藝春秋 1969年(『[[別冊文藝春秋]]』1969年1月) のち文庫
*『夜の駐車場』サンケイ新聞社出版局 1969年(『週刊サンケイ』1968年3月-1969年2月) のち角川文庫
*『汚れた巣』講談社 1969年
*『陥没の季節』文藝春秋 1969年
*『闇を走れ』集英社 1969年(『[[週刊プレイボーイ]]』1968年1-12月) のち文庫
*『夜のない日々 横断歩道』新潮社 1969年(『週刊新潮』1968年1-12月) のち角川文庫
*『花と獣の間』集英社 1969年, 改題『青ざめた装飾』角川文庫
*『夜の波』[[桃源社]](ポピュラー・ブックス) 1969年(短編集)
*『星と蛇の像』桃源社(ポピュラー・ブックス) 1969年
*『夜の水藻』講談社 1969年
=== 1970年代 ===
*『砂漠の太陽』報知新聞社 1970年 のち集英社文庫
*『氷った果実』桃源社(ポピュラー・ブックス) 1970年 のち角川文庫
*『男の市場』講談社 1970(『週刊現代』1969年7月-1970年7月) のち文庫
*『人間の鎖』学習研究社 1970年 のち角川文庫
*『幻花の牙』桃源社(ポピュラー・ブックス) 1970年 のち角川文庫
*『蒼ざめた虹』新潮社 1970年、改題『夜の光芒』角川文庫
*『男蔦』講談社 1970年 「夜の水藻」講談社文庫
*『双頭の蛇』集英社 1970年
*『詐欺師の旅』光文社(カッパ・ノベルス) 1970年(『[[小説宝石]]』1969年4月-1970年2月)のち角川文庫
*『女の樹林』サンケイ新聞社出版局 1970年 のち角川文庫
*『涙谷の蘚苔植物』講談社 1971年
*『花汁の囁き』文藝春秋 1971年
*『華やかな亀裂』文藝春秋(ポケット文春) 1971年(『週刊女性』1970年1月-1971年1月)のち文庫
*『背徳の伝道者』中央公論社 1971年 のち文庫
*『夜の挨拶』集英社 1971年(『週刊プレイボーイ』1970年1月-1971年9月) のち文庫
*『巨大な墓標』サンケイ新聞社出版局 1971年(『週刊サンケイ』1970年1-12月) のち角川文庫
*『夜の防波堤』桃源社(ポピュラー・ブックス) 1971年 のち角川文庫
*『花壇の孤愁』桃源社(ポピュラー・ブックス) 1972年
*『砂を這う蔦』新潮社 1972年(『小説新潮』1972年4-6月) のち講談社文庫
*『大いなる変身』サンケイ新聞社出版局 1972年(『週刊サンケイ』1971年7月-1972年9月) のち角川文庫
*『ガラスの橋』講談社 1972年
*『場外の王者』集英社 1972年(『[[週刊ポスト]]』1971年1-12月) のち角川文庫
*『黒い巡礼』文藝春秋 1972年, 改題『幻想花』角川文庫
*『闇の肌』光文社 1972年(『小説宝石』1971年6月-1972年10月)
*『消えない影』サンケイ新聞社出版局 1973年
*『罠の冠』集英社 1973年
*『影に棲む蛇』実業之日本社 1973年(『週刊小説』1972年2月-1973年3月) のち集英社文庫
*『女の太陽』集英社 1973-75年 のち文庫
*『幻の漂泊詩人』桃源社 1973年, 改題『人形の部屋』角川文庫
*『さ迷える占師』桃源社 1973年, 改題『夜の波』角川文庫
*『蒼ざめた蜃気楼』講談社 1973年, 改題『濁流の花』角川文庫
*『果てしない影』文藝春秋 1973年(『週刊言論』1972年1-11月) のち文庫
*『西成海道ホテル』講談社 1974年(『小説現代』1973年5月-1974年1月) のち文庫
*『カオスの星屑』文藝春秋 1974年(書き下ろし) のち文庫
*『影の旅行者』文藝春秋 1974年 のち文庫
*『白夜の花』中央公論社 1974年
<!--『夜の太陽』(『週刊明星』1972年7月-1974年12月)-->
*『ビハインド・ハードロック』中央公論社 1975年 のち角川文庫
*『西成涙通りに舞う』講談社年 1975 のち文庫
*『どかんたれ人生』毎日新聞社 1975年 (エッセイ集)(『サンデー毎日』1974年1-12月) のち集英社文庫
*『我が炎死なず』いんなあとりっぷ社 1975年(『いんなあとりっぷ』1973年3月-1975年5月) のち講談社文庫
*『女の宴』新潮社 1975年(『小説新潮』1974年1-12月) のち角川文庫
*『肌は死なない』文藝春秋 1975年 のち文庫
*『幻への疾走』実業之日本社 1975年(『週刊小説』1974年1月-1975年8月) のち集英社文庫
*『石に咲く花』光文社(カッパ・ノベルス) 1975年 のち文庫
*『夜なき亀裂』角川書店 1976年(『[[野性時代]]』1975年5月-1976年3月) のち文庫
*『茜雲の渦』光文社(カッパ・ノベルス) 1976年 (『小説宝石』1975年1月-1976年1月) のち集英社文庫
*『斑点のある唄』講談社 1976年
*『アムスのじゃが芋』集英社 1976年
*『西成十字架通り』毎日新聞社 1976年(『小説サンデー毎日』1976年4-11月) のち角川文庫
*『ガラスの棺』桃源社 1977年, 改題『朽ちたホテル』角川文庫
*『機械の野望』桃源社 (ポピュラー・ブックス) 1977年
*『古狼の賦』桃源社 (ポピュラー・ブックス) 1977年
*『[[さらば星座]]』集英社 1977-89年 のち文庫
**濁流の巻(『週刊ポスト』1975年11月-1977年10月)
**波濤の巻(『週刊ポスト』1977年10月-1979年9月)
**奔流の巻(『週刊ポスト』1981年8月-)
*『終着駅の女』集英社 1977年(短編集) のち文庫
*『夜の遺書』青樹社 1977年 のち角川文庫
*『夜の突風』桃源社(ポピュラー・ブックス) 1977年
*『訣別の時』新潮社 1977年(書き下ろし) のち講談社文庫
*『贅沢な被葬者』光文社(カッパ・ノベルス) 1977年 のち文庫
*『サンマルタン運河』桃源社(ポピュラー・ブックス) 1978年
*『薄暮の笛』桃源社(ポピュラー・ブックス) 1978年
*『幻の歩道橋』青樹社 1978年 「開かない花」講談社文庫
*『黒い雪』中央公論社 1978年(短編集) のち文庫
*『モンマルトルの陽と風』文藝春秋 1978年 のち文庫
*『されど吾あり(わが人生観)』大和書房 1978年
*『翳りある座席』実業之日本社 1978年(『週刊小説』1977年1月-1978年6月) のち集英社文庫
*『黒いレンズ』中央公論社 1979年(短編集) のち文庫
=== 1980年代 ===
*『飛田残月』中央公論社 1980年 のち文庫
*『霧の中の異邦人』文藝春秋 1980年 のち文庫
*『夜の湖』集英社 1981年 のち文庫
*『霧の鎖』毎日新聞社 1981年(『サンデー毎日』1979年6月-1981年9月) のち文春文庫
*『旅人宿 エッセイ集』実業之日本社 1982年(『週刊小説』1980年1月-1981年12月)
*『とうがらしの夢 重吾放談』講談社 1982年(エッセイ集、『[[日刊ゲンダイ]]』1981年11月17日-1982年5月1日)
*『現代家族』中央公論社 1983年(『[[中央公論]]』1981年1月-) のち文庫
*『明日なき巡礼たち』講談社ノベルス 1983年 のち文庫
*『真昼の闇』角川書店 1984年
*『雲の鎖』集英社 1984年 のち文庫
*『残雪の門』朝日新聞社 1985年 のち文春文庫
*『潮の墓標』講談社 1986年 のち文庫
=== 1990年代以後 ===
*『顔のない扉』ベストセラーズ 1990年 のち角川文庫
*『廃墟と残月』1990年 角川書店(角川文庫オリジナル短編集)
*『波の虹』悠思社 1992年 のち角川文庫
*『木枯しの手帳』講談社 1994年(短編集) のち文庫
*『生きてきた道 私の履歴書』集英社 1997年
*『雨毒』1998年、講談社 のち文庫
*『落日はぬばたまに燃えゆ』1999年、集英社 のち文庫
*『闇からの声』文藝春秋 2001年
*『人に定めなし』角川書店 2003年 のち文庫(エッセイ集)
*『黒岩重吾のどかんたれ人生塾』集英社 2003年 のち文庫(『[[週刊ヤングジャンプ]]』連載)
*『とっておきの手紙』たちばな出版 2004年
=== 古代史小説・評論 ===
*『紅蓮の女王 小説[[推古天皇|推古女帝]]』光文社 1978年(『黒岩重吾長編小説全集』月報 1976年11月-)のち中公文庫
*『[[天の川の太陽]]』([[壬申の乱]])中央公論社 1979年(『[[歴史と人物]]』1976年1月-1979年6月)のち文庫
*『落日の王子 [[蘇我入鹿]]』文藝春秋 1982年(『別冊文藝春秋』1980年7月-1981年12月)のち文庫
*『古代史の迷路を歩く』中央公論社 1982年(エッセイ、『歴史と人物』1980年1月-) のち文庫
*『天翔ける白日 小説[[大津皇子]]』中央公論社 1983年 のち文庫
*『古代史の謎を探る』大和書房 1986年(エッセイ)
*『[[聖徳太子]] 日と影の王子』文藝春秋 1987年(『日本経済新聞』夕刊 1985年9月4日-1986年12月27日) のち文庫
*『古代史への旅』講談社 1988年(エッセイ)
*『北風に起つ [[継体天皇|継体]]戦争と[[蘇我稲目]]』中央公論社 1988年 のち文庫
*『剣は湖都に燃ゆ 壬申の乱秘話』文藝春秋 1990年(短編集) のち文庫
*『白鳥の王子[[ヤマトタケル]]』角川書店 1990年 - 2000年 のち文庫
*『謎の古代女性たち』中央公論社 1991年(エッセイ、『別冊婦人公論』1989年春号-1991年冬号) のち文庫
*『古代浪漫紀行 [[邪馬台国]]から大和王権への道』勁文社 1991年(エッセイ) のち講談社文庫、「古代史を読み直す」PHP文庫
*『茜に燃ゆ 小説[[額田王]]』中央公論社 1992年 のち文庫
*『[[道鏡|弓削道鏡]]』文藝春秋 1992年 のち文庫
*『磐舟の光芒 [[物部守屋]]と[[蘇我馬子]]』講談社 1993年
*『古代日本への探険』PHP研究所 1993年(エッセイ)「古代史の真相」PHP文庫
*『影刀 壬申の乱ロマン』文藝春秋 1994年(短編集) のち文庫
*『斑鳩王の慟哭』中央公論社 1995年(『小説中公』1993年1月-1995年1月)のち文庫
*『鬼道の女王卑弥呼』文藝春秋 1996年 のち文庫
*『東征伝』(日本武尊)角川書店 1997年
*『天風の彩王 [[藤原不比等]]』講談社 1997年 のち文庫
*『謎が謎を呼ぶ古代を解く』PHP研究所 1999年 「古代史を解く九つの謎」文庫
*『女龍王[[神功皇后]]』1999年、新潮社 のち文庫
*『[[斑鳩宮]]始末記』文藝春秋 2000年 のち文庫
*『「日出づる処の天子」は謀略か 東アジアと聖徳太子』集英社新書 2000年
*『[[天智天皇|中大兄皇子]]伝』講談社 2001年 のち文庫
*『[[雄略天皇|ワカタケル]]大王』文藝春秋 2002年、のち文庫
*『子麻呂が奔る』文藝春秋 2002年 のち文庫
*『[[役小角]]仙道剣』新潮社 2003年 のち文庫
*『闇の左大臣 [[石上麻呂|石上朝臣麻呂]]』集英社 2003年(『[[小説すばる]]』2001年7月号-2003年5月号) のち文庫
===共編著===
*日本の名随筆 夜 作品社、1988
*[[藤ノ木古墳]]と六世紀 被葬者は誰か [[大和岩雄]]共著 大和書房 1989.2
*藤ノ木古墳の主は誰か 黒岩重吾推理ドキュメント NHK取材班 日本放送出版協会 1989.5
*卑弥呼と邪馬台国 大和岩雄共著 大和書房 1992.12
*邪馬台国の時代 大和岩雄共著 大和書房 1997.9
===作品集===
*『黒岩重吾傑作シリーズ』全7巻 講談社 1965-1966
*『黒岩重吾全集』全18巻 講談社 1967-1968
*『黒岩重吾傑作集成』全18巻 桃源社 1973-1974
*『黒岩重吾長編小説全集』全20巻 光文社 1976-1978
== 原作作品==
===ドラマ化作品===
; 黒岩重吾シリーズ([[関西テレビ放送|関西テレビ]])
: 休日の断崖(1961年9月5日 - 11月28日)
: 脂のしたたり(1961年12月5日 - 1962年2月27日)
: ※いずれも主演は[[天知茂]]。
; 廃虚の唇
: [[1964年]][[4月2日]] - [[9月24日]]、[[テレビ朝日|NETテレビ]]
: 出演:天知茂、[[高城丈二]]、[[上月左知子]]
; 夜間飛行
: [[1965年]][[9月20日]] - [[12月31日]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]
: 出演:[[市川靖子]]、[[葉山良二]]、[[松本克平 (俳優)|松本克平]]、[[香月美奈子]]
; 女の小箱
: [[1975年]][[10月2日]] - [[1976年]][[1月1日]]、[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]
: 出演:[[小川眞由美|小川真由美]]、[[児玉清]]、[[滝田裕介]]、[[市原悦子]]、[[野際陽子]]
; 黒岩重吾シリーズ([[毎日放送]])
: 女の樹林([[1979年]][[10月6日]] - [[11月17日]])
: 水の中の砂漠(1979年[[11月24日]] - [[12月29日]])
: 裂けた星([[1980年]][[1月5日]]、[[1月12日]])
: 愛の装飾(1980年[[1月19日]] - [[2月23日]])
: 女の熱帯(1980年[[3月1日]] - [[3月29日]])
: 出演:[[いしだあゆみ]]、[[村井国夫]]、[[江波杏子]]、[[高橋幸治]]
; 水曜ドラマスペシャル 夏の特選サスペンス(4)「詐欺師の旅」
: [[1986年]][[8月27日]]21:02-22:54、[[TBSテレビ|TBS]]系
: 演出:中村瑞貴、脚本:松木ひろし、田口耕三
: 出演:[[石立鉄男]](悟郎)、[[春川ますみ]]、[[左とん平]]、[[二宮さよ子]]、[[殿山泰司]](伝太郎)、松本ちえこ(久子)、[[ケーシー高峰]]、松岡ふたみ(菊江)、[[錦野旦|にしきのあきら]](高田)
===映画化作品===
;背徳のメス
: [[1961年]]、[[松竹]]
: 監督:[[野村芳太郎]]、脚本:[[新藤兼人]]、撮影:川又昴、音楽:[[芥川也寸志]]
: 出演:[[田村高廣]](植秀人)、[[高千穂ひづる]](加納伊津子)、[[瞳麗子]](有吉妙子)、[[久我美子]](佐藤信子)、[[松井康子]](大場綾子)、[[葵京子]](葉月景子)、[[山村聰|山村聡]](西沢直之)、[[加藤嘉]](林院長)、[[城所英夫]](安井)、[[倉多爽平|倉田爽平]](斎賀)
; 真昼の罠
: [[1962年]]、[[大映]]
: 監督:[[富本壮吉]]、脚本:[[高岩肇]]、撮影:[[小原譲治]]
: 出演:[[田宮二郎]](藤悟)、[[叶順子 (女優) |叶順子]](霞尚子)、[[高松英郎]](夕崎部長)、[[村上不二夫]](見山課長)、[[弓恵子]](遠山恵美子)、[[角梨枝子]](赤塚弥生)、[[渋沢詩子]](守屋那須江)、[[小沢栄太郎]](霞雄介)、[[中条静夫]](田所警部)、[[夏木章]](大木部長刑事)、[[高村栄一]](大賀社長)、[[伊東光一]](堂本常務)、[[星ひかる]](園田)、[[緋桜陽子]](絹代)
; 「女の小箱」より 夫が見た
: [[1964年]]、大映
: 原作:女の小箱
: 監督:[[増村保造]]、脚本:高岩肇・[[野上龍雄]]、音楽:[[山内正]]
: 出演:[[若尾文子]](川代那美子)、[[川崎敬三]](川代誠造)、田宮二郎(石塚健一郎)、[[岸田今日子]](西条洋子)、[[江波杏子]](青山エミ)、[[千波丈太郎]](吉野元男)、[[町田博子]](津村光枝)、小沢栄太郎(大曽根大作)
; 花を喰う蟲
: [[1967年]]、[[日活]]
: 監督:[[西村昭五郎]]、脚本:[[中島丈博]]、撮影:[[安藤庄平]]
: 出演:[[二谷英明]](香本雅樹)、[[太地喜和子]](青木奈美)、[[郷鍈治]](陸宗夫)、[[花ノ本寿]](五井裕一)、[[月丘千秋]](高富絹子)、[[梶芽衣子]](斎村妙子)、[[小高雄二]](白井)、[[清水将夫]](五井惣一)、[[富田仲次郎]](斎村唯夫)、[[浜村純]](佐伯)、[[深江章喜]](花守)、[[飯沼慧]](沖本)
== その他 ==
=== ドキュメンタリー ===
* 名作をポケットに 司馬遼太郎 梟(ふくろう)の城(2002年、[[NHK BSプレミアム|NHK BS]])- 案内役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www4.nhk.or.jp/pcafe/x/2021-04-19/10/10677/2325644/ |title=名作をポケットに 司馬遼太郎 梟(ふくろう)の城 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/gypOC |archivedate=2021-04-19 |accessdate=2021-04-21}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==参考文献==
* 紅蓮の女王 小説推古天皇 (上記)
*自筆年譜(『落日の群像』[[講談社文庫]] 1982年)
*[[大村彦次郎]]『文壇挽歌物語』[[筑摩書房]] 2011年
== 外部リンク ==
* {{NHK人物録|D0009072337_00000}}
{{-}}
{{Writer-stub}}
{{直木賞|第44回}}
{{吉川英治文学賞|第14回}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くろいわ しゆうこ}}
[[Category:黒岩重吾|*]]
[[Category:20世紀日本の小説家]]
[[Category:日本の推理作家]]
[[Category:日本の歴史小説家]]
[[Category:紫綬褒章受章者]]
[[Category:直木賞受賞者]]
[[Category:菊池寛賞受賞者]]
[[Category:みずほフィナンシャルグループの人物]]
[[Category:急性灰白髄炎の人物]]
[[Category:私の履歴書の登場人物]]
[[Category:同志社大学出身の人物]]
[[Category:大阪市出身の人物]]
[[Category:1924年生]]
[[Category:2003年没]] | 2003-03-09T07:31:47Z | 2023-12-05T20:39:32Z | false | false | false | [
"Template:Normdaten",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:-",
"Template:直木賞",
"Template:吉川英治文学賞",
"Template:Infobox 作家",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:NHK人物録",
"Template:Writer-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B2%A9%E9%87%8D%E5%90%BE |
3,715 | フロッピーディスク | フロッピーディスク (英: Floppy disk, floppy diskette) は、磁気ディスクの一種で、磁性体を塗布・蒸着した樹脂製小円盤を樹脂製の保護ケースに入れたものである。
「フロッピー」「FD」と略称されることもある。生産数は2000年頃にピークに達したが、その後はコンピュータの情報を記録できるDVDなど他の媒体やハードディスクドライブ (HDD) が普及したため、企業が生産から撤退した。一部では使い続けられているが、耐用年数前のデータ移行(マイグレーション作業)も日本の国立国会図書館などにより行われている。
本来は記録媒体(メディア)が「フロッピーディスク」または「フロッピーディスクメディア」で、駆動装置(駆動し読み書きする装置)が「フロッピーディスクドライブ」(FDD) と呼ばれる。両者とも略して「フロッピー」などと呼ばれることも多い。また「フロッピィディスク」「フロッピィ」のように書き表すこともある。俗称の「フロッピーディスク」(floppy disk) が普及したが(レトロニム)、日本産業規格 (JIS) の用語集では「フレキシブルディスク」と「フレキシブルディスクカートリッジ」である。
最初のフロッピーディスクは1971年に米国企業IBMが開発した。当時の名称は「フレキシブル・ディスケット」(flexible diskette) または「ディスケット」で、IBMの登録商標となった。IBMは2015年時点で一般向けには「フロッピーディスク」の用語も併用している。かつては3 1/2インチ型媒体を使用する読取装置を「3.5型駆動機構」と呼んでいた。
なお、「フレキシブル」も「フロッピー」も“柔らかい”の意味で命名されたもので、登場当初はメディアの構造が薄いディスクを薄い保護ケースに包んだ薄く柔らかいものであったためである。これに対して、従来の硬い磁気ディスクは「ハードディスク」や「ハードドライブ」と呼ばれるようになった。
磁気ディスクの一種で、駆動装置からの取り外しが可能(リムーバブル)な記録媒体(メディア)である。磁性体を塗布した厚さ0.075ミリメートルのプラスチック円盤を駆動装置で回転させ、円盤の片面ないしは両面に同心円状に信号を記録する。円盤に記録された信号の読み書きはフロッピーディスクコントローラ(英語版)を介して行う。
現時点で一般的なハードディスクとは異なり、駆動装置から媒体を取り外すことができることが特徴である。ディスクの直径により、8インチ、5 1/4 (5.25) インチ、3 1/2 (3.5) インチの3種が主に知られる。1969年に読み取り専用の8インチフロッピーディスクが生まれてから1990年代末にかけて、小型コンピュータのデータの記録に広く用いられた。
その後、小型コンピュータの性能の向上により、扱うデータの容量も増大したため、CDやDVD、BDなどの記録型光ディスクドライブがパソコンに標準搭載されるようになり、2000年頃以降は徐々に廃れていった。1998年に発売されたiMacはCD-ROMドライブのみを標準搭載し、フロッピーディスクドライブは廃止された。2000年頃よりノートパソコンで、続いてデスクトップタイプでもフロッピーディスクドライブを内蔵していない製品が増えた。このような製品でOSインストール時のドライバの組み込みバックアップや復元作業など何らかの事情でフロッピーディスクを使う必要がある場合、USB接続による外付けのドライブを利用する。2000年代後半頃には市販のパソコンではほぼ搭載されなくなり、自作パソコンでも非対応のマザーボードが出回るなど、事実上レガシーデバイス扱いとなっている。代替メディアとしては、記録型CD・DVD・BD、USBメモリ、SDメモリーカード等の各種メディアがあり、配布、保管などの役割を分けて普及している。また、ネットワークの発達によって、物理的な媒体をデータ交換に使用すること自体が減少した。
現在でもBIOSのメニューのみで認識させられる数少ないメディアである。一部では需要があり、SDカードやメモリースティック、コンパクトフラッシュ、スマートメディアなどのカードリーダーと3.5インチフロッピードライブを一つにまとめた製品が販売されている。
磁気ヘッドがメディアに接触する際、ヘッドの接触痕跡がメディアに残る。この痕跡はヘッド毎にユニークであるといわれる。記憶媒体の中では磁気テープと並び、読み取りの痕跡が媒体に残る数少ないメディアである。
フロッピーディスク自体は2011年3月のソニー撤退により生産終了した。ドライブは一部のメーカーが在庫や再生品を販売している。
また3.5インチ型は最も普及していたことから、現在でもファイルの保存などに使われるマークの図柄(アイコン)として、多くのソフトでその形がモデルにされ、Unicodeにもフロッピーディスクの絵文字(💾、U+1F4BE)がある。
しかし、2013年の調査では、米国の小学5年までの子供のうち、保存アイコンが何の絵であるかを理解している者は14%しかおらず アイコンのデザインを変更する動きもあり、フロッピーディスクをモチーフとしたアイコンは姿を消しつつある。
円盤(ベース)の直径、ないしその外側の正方形状の外装の辺の長さで分類される。主要な仕様を挙げれば200mm≒8インチ、130mm≒5.25インチ、90mm≒3.5インチなどがある。5.25インチは5インチと呼ばれることも多い(3.5インチについては、同時期に3インチ前後の仕様が複数提唱されていた経緯から、誤解を避けるために3インチと呼ばれることは稀である)。
先行製品の磁気ディスクでは金属ベースだったこともあり(初期には)ディスクを剥き出しで扱うものもあったが、フロッピーディスクではその名の通り薄い樹脂のベースであるため、ほぼ全てのものが、おおよそ正方形の外装から取り出さず、常に入れたまま使うようになっている。駆動とアクセスのために、外装の中央と、1箇所に放射状の穴が開いている。
外装は主要な仕様では、8インチと5.25インチのものは薄く弱い樹脂製、3.5インチでは硬質のハードケースになっている。他の仕様もだいたいそのどちらかに似ている。内側には不織布による内張りがある。3.5インチのケースのヘッドアクセス用の穴がある部分は、金属またはプラスチック製のシャッターで保護される。シャッターはディスクドライブ内部でスライドして開き、閉じるときはケース内のばねの力で閉じる。
外装は「エンベロープ」とも「ジャケット」とも呼ばれるが、ディスクの一部とも言えるこの外装ではなく、8インチや5.25インチのディスクにおいて、保管時にそのさらに外側に被せる、1方向が開いた袋(紙製が多かった)のこともまた「エンベロープ」とも「ジャケット」とも呼ばれることがあり、混同に注意を要する。円盤が入っている正方形状の外装は紙製ではない。
最初期にソニーが発売した3.5インチディスクドライブはシャッター自動開閉機能がなく、ディスクの出し入れ前後に手でシャッターをスライドさせて開閉する必要があった。やがてドライブにシャッター自動開閉機能が搭載されたが、その頃は自動開閉機能のないドライブとの互換のために、手でシャッターを開けると開けた位置でロックされ、"PINCH"と書かれた部分(肩部分)をつまむとロックが解除されてシャッターが閉じるという機構のディスクが発売された。このディスクは自動開閉機能搭載のドライブには手でシャッターを開けずに挿入することができた。やがて自動開閉機能が一般的になり、開けたままロックできる機構は消えていった。
日本ではSIを使用し、計量法の関係上、正式な製品名称では、サイズを具体的にインチで表現することが禁じられており、サイズはmmで表し、インチの数字については「型」といった表現の使用が見られる。例:
5インチ、90mm 3.5インチの一般的な2HDのメディアでは、約1.2-1.4MBの容量があり、90mm 3.5インチのものが主流となった。さらなる小型化を試みる動きもあり、80mm 3インチや65mm 2.5インチも発表されたが、計測器など一部機器の記録メディアとしての利用にとどまり、主流にはならなかった。また、大容量化を試みた製品も数多く存在していた。概要を大容量フロッピーディスクの節に記す。
1枚で1MB程度という容量は、現在のように画像や音声データを扱う用途では不足する。しかしフロッピーの代替となる標準メディアがなかなか現れなかった。また、かつてのPC/AT互換機では唯一の起動可能 (Bootable) かつ読み書き可能なリムーバブルメディアだった。そのため、主に起動用や一部周辺機器のデバイスドライバなど、少量のデータの受け渡し用として広く普及した。なお、類似のものに、クイックディスクやスーパーディスクなどがあるが、普及することはなかった。
読み込みのみを許可し、書き込みを禁止する設定ができ、「書き込み禁止」または「ライトプロテクト」と言う。その書き込み禁止の操作は各メディアにより異なる。
ノッチを元に戻す、シールを剥がす、シールを貼るなどの逆操作を行えば、再び書き込み可能状態になる。
ディスクドライブは、ノッチまたはシールの位置に配置したスイッチまたは光センサ(多くはフォトインタラプタ)で、書き込み禁止の状態を判別する。
他のディスクメディアと基本的には同様であるが、簡単に説明する。ディスクには、片面であれば1枚、両面であれば2枚の「サーフェース」がある。(各)サーフェースには、同心円状に独立した多数の「トラック」がある(スパイラル状のディスクもあるが稀)。各トラックは一定の角度毎に複数の「セクタ」に分けられている。フロッピーではほぼ全てのディスクが線速度一定ではなく角速度一定のため、内周と外周で記録密度が異なる。セクタ位置の判別において、各セクタの開始角度に対応する内周の記憶領域外の位置に穴(インデックスホール)が開けてあり、光学センサで検出するなどといった機械的方式がハードセクタ方式、第1セクタの位置のみ穴があり後続セクタの位置を各トラックの物理フォーマットにより磁気パターンで検出する方式がソフトセクタ方式である。
読み書きの処理が行われるタイミングによっては、論理的には連続したセクタを、物理的には1セクタおき、あるいは数セクタおきに配置すると、前のセクタを読み込んで処理をした後に、ちょうどタイミング良く次のセクタの読み出し位置に来て、連続して読み書き可能にできることがある。この技法をインターリービングという(インターリーブ#ディスク・ストレージでのインターリーブ)。同様の理屈でトラックごとに第1セクタの位置をずらす手法もある。
フロッピーディスクの容量表記には2進接頭辞が使用される場合が多い。しかし1.44MBなど一部に独特の表記もあり、1.44MBは1.44×1000×1024バイトである。詳細はメガバイト#概要を参照。また各種フォーマットの容量についての詳細は下記#フォーマットを参照。
3.5インチの2DDと2HDは、磁性体の品質の要件(塗布厚など)と、2HDのみ外側ケースに穴(HD検知孔)が開いている以外の差はない。
3.5インチの2HCと2HDについては、メディア自体は全く同じ2HDであり、物理フォーマット(ローレベルフォーマット)が違うだけである。具体的には1トラックあたりのセクター数の違いである。PC-9800シリーズで用いられる2HDフォーマットとはこれに加えて1セクターあたりのバイト数(セクター長)とトラック数も異なる。フロッピーディスクでは物理フォーマットという言葉は、ハードウェア形式を指す用語ではなく、論理フォーマットの一段下のレベルのフォーマットを意味し、セクター長やトラック数などのパターンのマッピングを指すものである。
なお、一時期の日本では1.44MBフォーマットの2HDが「2HC」と呼ばれることがあったが、誤りである。
フロッピーディスクは磁気ディスクの一種なので、磁気に弱い。ある程度以上に強力な磁石を近づけると、記録されている情報は破壊されてしまう。ホコリなどの異物の付着や汚れにも弱く、記録面が汚れると情報が読み取れなくなり、破壊に至ることがある。また、高温多湿や紫外線も嫌う。
常に磁気ヘッドと接触した状態で読み書きを行うために少しずつ摩耗し、利用には限度がある。アクセス時以外にはヘッドをディスクから分離する機構のドライブもあるが、現在はヘッドとディスクが常に接触するドライブが一般的である。
摩耗が重なるとディスクの磁気が弱まり、記録された情報を維持できなくなる。ただし、その磨耗は一般使用では無視できるレベルである。JISでは1トラックにつき300万回は使用できる耐久性を持たせるよう定められている。
フロッピーディスクは、適切な使用と保管をしていれば既存の磁気テープメディア同様、(理論上)100年程度は情報を維持できるとされる。しかし、雑に扱うと、破壊に至る可能性が高くなるデリケートな記録媒体であり、保管方法によっては数年程度で読み込み不良となる場合もある。寿命を延ばすには、磁気、埃、汚れ、高温多湿、紫外線を避ける保管方法が必須となる。
元々フロッピーディスクのようなフレキシブルな円盤に磁気情報を記録させようとする報告は1960年代からあり、例えばピアソンの研究報告では容量12.5KB、40トラック、回転速度は1800rpmでヘッドは非接触式のものであった。
1970年、IBMによってIBM System/370のIPLローダーとして8インチのIBM23 (23FD-2) フロッピーディスクが開発された。容量は80キロバイト。1972年にはやはりIBMから新たなIBM33フロッピーディスクが開発され、翌年発表のIBM 3740データ入力システム用であった。これは容量400KB、ディスケット1枚で1900枚のパンチカードに匹敵するデータを格納できる、当時としては画期的なものであり、フロッピーディスクの基本にあたる。その後ディスクを両面化し容量を800KBとしたIBM43フロッピーディスクとなり、さらに倍密度化して1.6MBのIBM53フロッピーディスクが登場する。その後小型コンピュータやワードプロセッサの記憶媒体として利用されていく。
初期の8ビットや16ビットパソコン用としても1980年代後半前後まで使われていた。
ミニフロッピーディスクとも呼ばれる。デスクの上に載せるには8インチフロッピーディスクドライブは大きすぎると考えられ、その小型化が要求されたのだという。
シュガートが興したメーカーである米シュガートアソシエイツは1976年に、SA-400と呼ばれる5.25インチのディスクとドライブを発表・発売した。当初は容量が109.4KB(1S、片面単密)と小さく、さらにすでに利用されている8インチ(SA-800シリーズ)ドライブとは物理的にも電気信号的にも互換性がなかったが大いにヒットした。なお1980年には両面・倍密度として容量を約4倍の437.5KBとしたSA450が発売されている。
また小型化により、コンピュータへのドライブの内蔵も可能となった。また小型化に伴い容量は一時的に減少している。
1978年にApple ComputerのApple IIでは容量100KBのドライブが採用された。これはSA-400からコントローラ基板を抜いたモデルである兄弟機SA-390。これは、Apple IIではコントローラはアップル独自の物を利用していたことによる。ただし、実機のドライブ銘板がSA-390ではなく、SA-400のままの個体も多数存在した。
その後、フロッピーディスクはコンピュータにとって必要不可欠なものとなり、広く普及していった。
5.25インチのディスクは1D(片面倍密度)や2D(両面倍密度)などに発展し、2DD(両面倍密度倍トラック)を経て、やがて主流となる2HD(両面高密度)に至る。日本では電電公社(現在のNTT)が5.25インチ2HDドライブの開発を行なってきたため、発表当時は電電公社フォーマットドライブとも言われた。これは容量が約1.2MBで、電気的にも8インチドライブと互換性をとっており、8インチドライブからの代替が可能だったのもスムーズな移行につながった。ごく古いMS-DOS等の5.25インチ2HD用ディスクフォーマットを持たないオペレーティングシステム (OS) でも、これを8インチ2Dディスク用フォーマットで代用できた。
ただし信頼性は8インチディスク同様に問題があり、磁気に弱く、外装も変形しやすく、それに入った磁性体は、常にヘッド部が露出し、さらに磁性体を塗布した円盤の中央部も露出している。このため保管時は専用の封筒を用いねばならない。また開口部からは常に塵や埃が内部に侵入する危険性があり、その他その脆弱性により取り扱いには相当な注意を払うことが要求されているものであった。
なおヘッドと磁性体は接触製であるため摩耗が心配されるが、これは当時1トラックの連続使用で100万パス(360rpmで46時間)が保証されていた。また、ドライブが磁性体の円盤中央部をクランプしチャッキングする際の精度やその部分の耐久性も弱点であった。
1980年にソニーが3.5インチ (90mm) のディスクを開発し、1981年発売の英文ワープロ「シリーズ35」の外部記録媒体として採用・発売した。8インチや5.25インチのフロッピーディスクは薄い樹脂製の袋に磁気ディスクが収められていたが、3.5インチではプラスチック製の硬質なケースに改められた。金属製のスライドカバーがあり、5.25インチディスクと比べ磁性面が接触から守られた。
1982年に発売された同社製のSMC-70からパソコンにも搭載されるようになり、1983年にヒューレット・パッカードがHP-150に採用したほか、ソニーも同年にMSXで採用し、アップルもMacintoshに採用した。PC9801 U以降の98シリーズやAtari ST、Amigaにも採用された。
ソニーは1985年に未フォーマット時1.6MB、フォーマット時1.44MBの「2HD」のディスクを開発し、1987年にIBMがPS/2に採用してPC互換機もこれに追従。1988年までに3.5インチディスクの販売枚数は5.25インチを超えた。
1991年に2.88MBの超高密度2EDを採用したNeXTcubeやNeXTstation、IBM PS/2モデル57などが販売されたがこのフォーマットは普及しなかった。
この後3.5インチフロッピーディスクは大いに普及し、最盛期では世界市場で1995年にディスクが年間約45億枚、2002年にはドライブが年間約14000台製造された。1993年頃からCD-ROMが普及しディスクの生産枚数が減少。ドライブも2002年をピークに生産数が減少した。アップルは1998年にフロッピー非搭載のiMacを発売して話題になった。
1980年 ソニーの英文ワープロ「シリーズ35」の外部記録媒体として採用。翌年発売。
1982年 ソニーのパーソナルコンピュータSMC-70に搭載。
1983年提唱のMSXが、1984年5月の発売時までに3.5インチに一本化されたこともあり、日本ではホビー用途の機種や、ワープロ専用機では普及が早かった。しかし、3.5インチのメディアは5.25インチより高価で、ゲームなどパッケージソフトの価格にも同封媒体による差があった。パソコン関連雑誌の付録メディアについては「露出した金属を流通させてはならない」という付録に関する規制のため、3.5インチのメディアを付録として使用することが出来なかった。シャッターのプラスチック化は、価格よりもこの対策が主要因である。なお、チャッキング部分は露出していないため、金属製のままとされた。なお、後にはディスクと同じ厚さのボール紙で囲うことで金属部分を露出させないように対処した。
また、ビジネス用途では、日本電気 (NEC) 製PC-9800シリーズなどの中期までは、互換性を重視して5.25インチが主流だった。だが、ホビーユースではいずれの16ビットパソコンも3.5インチを採用したため、両者間のデータ共有が少なからぬ問題となった。結局、家庭用では安価な3.5インチFDD標準搭載のホビーユースモデルに5.25インチFDDを外付けする手法で対応した。さらには、EPSON PCシリーズの一部では、3.5インチFDDと5.25インチFDDの両方を標準搭載したパソコンも発売された。
1984年1月、Apple ComputerのMacintoshが3.5インチ (400K) を採用したのを皮切りに、世界的にも各社が3.5インチを用いるようになった。1986年、IBMはIBM PC Convertibleで3.5インチ2DD (720KB) を採用。1987年にはPS/2とPS/55の全モデルで3.5インチを採用。下位機種は2DD (720KB)、上位機種は2DD (720KB) および2HD (1.44MB) を搭載した。後の上位機種には2ED (2.88MB) も追加された。
この2HD (1.44MB) のフォーマットは2DD (720KB) のフォーマットを単純に2倍にした形である。5インチでの電電公社フォーマットをベースにした国産各社の3.5インチの2HD (1.2M) フォーマット(正確には1.21MBや1.23MBなど)とは互換性が無く、相互に読み書きできなかった。ただし、PS/2やPS/55は企業向けが中心であり、また当時のPC/AT互換機はまだ5.25インチが主流であり、2ED (2.88MB) はNeXTstationなどのワークステーションに採用された程度で、あまり普及しなかったため、影響は限られていた。
しかし、1990年にDOS/Vが登場して1991年にOADGも3.5インチを推奨し、3.5インチ標準搭載のPC/AT互換機が一般家庭を含めて日本で本格的に普及すると、日本(PC-9800シリーズ、FMRシリーズ、FM TOWNSなど)と世界(PC/AT互換機)では両者で標準となった3.5インチの2HDフォーマットで互換性が無いという問題の影響が拡大し、PC/AT互換機の普及の過程で混乱があった。当初は、両者に共通のフォーマットである2DD (720KB) のフロッピーディスクや、ネットワークなどを利用したデータ交換が行われた。中には日本IBMのPS/55Zのようにオプションで1.2MBフォーマットのディスク読み出しに対応したドライブを搭載可能とした機種も存在した。次第に、3モードフロッピーディスクドライブ (720KB, 1.2MB, 1.44MB) が両者に普及した。
2000年代後半から他の大容量電子媒体の登場に伴い、3.5インチFDの売り上げは大幅に落ち込んだ。2009年春に日立マクセル(現・マクセルホールディングス)と三菱化学メディアがFD生産から撤退。最後までFD生産を続けたソニーも、2011年3月に中華人民共和国のメーカーに委託しているFDの生産を終了した。
ソニーから発売されていた3.5インチFDのパッケージには長らく「世界の3.5フロッピーはソニーから始まった SINCE 1980」と記されていた。
当初、フロッピーディスクは磁性体の塗布技術に難点があり、不良率が高かった。しかし、特定OS用の初期化作業時に全品検査する方式が導入されると、不良率が激減した。さらに、磁性体の塗布技術が向上し、1990年代前半には品質が安定した。その後は大容量化が図れず、日本ではコスト削減から製造ラインの国外移設により、品質も低下した。
1990年代中盤には、雑誌や本の付録に3.5インチディスクが使われることもあったものの、1990年代後半には、すでにフロッピーディスクは容量、速度、信頼性のいずれも時代遅れとなっていた。光磁気ディスク、フロプティカルディスク、ZIP、jazなど、より高速大容量の媒体もあったが、フロッピーディスクは起動用ディスクとして使え、ほぼすべてのコンピューターで共通に使える利点が大きく、長らく使われ続けた。
おおむね2000年頃までフロッピーディスクは盛んに使われていたが、読み書き速度も高速で大容量かつ低価格なフラッシュメモリ(特にUSBメモリ、およびSDメモリーカード(SDHC以上))が普及したこと、フロッピーディスク以外の記憶媒体(CD/DVD-ROMなど)からでもOSの起動やセットアップができるようになったことから、フロッピーディスクは徐々に廃れていった。また、本の付録としての使用はより薄くて大量生産が可能なCD/DVD-ROMなどに移行し、また出版社や著者のWebサイト上でのファイル公開という代替手段ができている。
ただし、自作機市場では2010年頃まで一定の需要があり、自らシステムメンテナンスを行う自作機ユーザーは、フロッピーディスクを「最後の起動手段」として常識的に搭載してきた。だが、近年のWindowsでは、フロッピー起動ではNTFSの読み書きをするには上級の知識と技術が必要なため、この意味での搭載の意味は薄くなった。
DSP版Windowsのライセンスはハードウェアとのセット(OSとハードウェアを一体製品)で販売されているため、過去にはフロッピーディスクドライブとのセットが見られた。これは、フロッピードライブは今後発展がないと推測されるため交換する必要がなく、ライセンスを維持したまま他のパーツを自由に交換することができる上に安価であるためである。この販売手法が、フロッピーディスクドライブインターフェイスを搭載しないマザーボードが主流となったのちにも一部で継続され、DSP版Windowsを廉価に販売および購入する方法の一つになっていた。フロッピーディスクドライブの製造が各社で終息したことやマザーボードからFDインターフェースが廃止になったこと及び、2010年2月よりフロッピーディスクドライブとのセット販売が禁止されたことにより、この方法での販売も収束した。その他の需要と問題点については後述するレガシーシステムとしてのフロッピーディスクを参照。
フロッピーディスクの磁性体特性は、規格に定められているか、あるいはデファクトスタンダードとして定着しており、メディアの差別化は磁性体をフィルムに固定するバインダーと呼ばれる接着剤に工夫を凝らしていた。磁性体の剥離を最小限に抑えヘッドの清浄性を保つもの、導電性を持たせて埃の付着を防止したもの等があった。
なお、経年劣化した古いメディアをドライブに挿入するとヘッドにカビが付着し、他メディア読み取りも不可となる事例がある。対処法としては経時したメディアを使用する時に白い粉が噴いていないか確認することが挙げられる。
フロッピーディスクの記憶容量を増やすために、フロッピーディスクと上位互換を持ついくつかの製品が開発されたこともある。それらを総称して大容量フロッピーディスクという。しかしそれぞれ専用のディスクと専用のドライブが必要で、製品間の互換性もないため、普及しなかったものがほとんどである。
前述の自作機パーツとしての用途が廃れた後も、刺繍機、現金自動預け払い機、医療機器、航空機関連の機器など既存の機器を使い続ける業界では需要があったが、機材の更新により姿を消しつつある。
日本国内では2011年3月以前にソニーが生産と販売を終了したが、エレコムではフロッピーディスク用のケースが2022年時点でも一定数売れているため販売を継続している。
官公庁では2022年現在もデータの受け渡しに利用されている。オンライン申請への切り替えが進んでいるが、法令による指定やフロッピーディスクにしか対応していない民間事業者が残っているなどの理由で利用を継続している。厚生労働省では医薬品や医療機器の承認審査の受付でフロッピーディスクを指定していたため、オンライン申請が可能となった2022年現在でも「FD申請」という名称で運用している。2020年時点でオンラインかコンパクトディスクでの申請が大多数であるが、一部の企業からフロッピーディスクしか対応できないという申し出があるため、データの破損があることを通知した上で受付を継続している。日本では2022年時点でフロッピーディスクなど、特定の記録媒体による提出を求める法令が約1900条項あることから、これらの改正を予定している。
民間では西陣織では、織機に紋様の織り出し方を指示する紋意匠図の製作と製織の過程で、以前は「紋紙」と呼ばれる孔開き厚紙(歴史的には、コンピュータ以前の時代から使われていたパンチカードの由来である、イギリスで発明された織機のシステムそのものである)を使っていたが、1980年代に紋紙に代わって電子的な形式が制定され(コンピュータ柄システム)フロッピーディスクを使う機器が普及した。その後フロッピーディスクの生産打ち切りに伴い、ほとんどの織機が使えなくなるおそれを生じている。このような問題に対応するために京都市産業技術研究所でシステムが開発され、2011年から西陣織セミナーが開催されている。銀行ではオンラインへの移行を促しフロッピーディスクによる受け渡しを廃止しているが、官公庁のみ特別に対応している例がある。
アメリカ合衆国連邦政府でも、2016年になっても核兵器の運用部門にはフロッピーディスクが使われており、それらを始めとする旧式システムの維持管理に、年間600億ドル(約6兆6000億円)以上も費やされることが問題となっていた。2019年になり、戦略司令部は「フロッピーディスクデバイスを『安全性の高いSSD記憶装置』に置き換えた。」とアナウンスした。
アメリカ国防総省は、一刻も速くフロッピーディスクの使用を停止する方針を発表しているが、新システム構築のために用意された投資額は、旧システム維持費用の3分の1以下に留まっており、「簡単に言えば現在も機能しているため」旧システムは使われ続けている。これらは同省固有の現象ではなく、財務省やホワイトハウスでもフロッピーディスクや、1950年代のコンピュータプログラムが使われ続けている。
これら旧システムには、2015年ごろまではインターネットから遮断され、サイバー攻撃の影響を受けないこと、長年使用されてきた信頼性と確実性は、新規システムを上回るなどの利点が指摘されていた。ただし、2015年段階で新品のフロッピーディスクの入手は困難となっており、アメリカ政府も専門の業者を通じて中古品を購入していることが伝えられている。またメディアの耐久性や容量、セキュリティの高いオンラインストレージの登場もあり、上記のように置き換えが進んでいる。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "フロッピーディスク (英: Floppy disk, floppy diskette) は、磁気ディスクの一種で、磁性体を塗布・蒸着した樹脂製小円盤を樹脂製の保護ケースに入れたものである。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "「フロッピー」「FD」と略称されることもある。生産数は2000年頃にピークに達したが、その後はコンピュータの情報を記録できるDVDなど他の媒体やハードディスクドライブ (HDD) が普及したため、企業が生産から撤退した。一部では使い続けられているが、耐用年数前のデータ移行(マイグレーション作業)も日本の国立国会図書館などにより行われている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "本来は記録媒体(メディア)が「フロッピーディスク」または「フロッピーディスクメディア」で、駆動装置(駆動し読み書きする装置)が「フロッピーディスクドライブ」(FDD) と呼ばれる。両者とも略して「フロッピー」などと呼ばれることも多い。また「フロッピィディスク」「フロッピィ」のように書き表すこともある。俗称の「フロッピーディスク」(floppy disk) が普及したが(レトロニム)、日本産業規格 (JIS) の用語集では「フレキシブルディスク」と「フレキシブルディスクカートリッジ」である。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "最初のフロッピーディスクは1971年に米国企業IBMが開発した。当時の名称は「フレキシブル・ディスケット」(flexible diskette) または「ディスケット」で、IBMの登録商標となった。IBMは2015年時点で一般向けには「フロッピーディスク」の用語も併用している。かつては3 1/2インチ型媒体を使用する読取装置を「3.5型駆動機構」と呼んでいた。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "なお、「フレキシブル」も「フロッピー」も“柔らかい”の意味で命名されたもので、登場当初はメディアの構造が薄いディスクを薄い保護ケースに包んだ薄く柔らかいものであったためである。これに対して、従来の硬い磁気ディスクは「ハードディスク」や「ハードドライブ」と呼ばれるようになった。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "磁気ディスクの一種で、駆動装置からの取り外しが可能(リムーバブル)な記録媒体(メディア)である。磁性体を塗布した厚さ0.075ミリメートルのプラスチック円盤を駆動装置で回転させ、円盤の片面ないしは両面に同心円状に信号を記録する。円盤に記録された信号の読み書きはフロッピーディスクコントローラ(英語版)を介して行う。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "現時点で一般的なハードディスクとは異なり、駆動装置から媒体を取り外すことができることが特徴である。ディスクの直径により、8インチ、5 1/4 (5.25) インチ、3 1/2 (3.5) インチの3種が主に知られる。1969年に読み取り専用の8インチフロッピーディスクが生まれてから1990年代末にかけて、小型コンピュータのデータの記録に広く用いられた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "その後、小型コンピュータの性能の向上により、扱うデータの容量も増大したため、CDやDVD、BDなどの記録型光ディスクドライブがパソコンに標準搭載されるようになり、2000年頃以降は徐々に廃れていった。1998年に発売されたiMacはCD-ROMドライブのみを標準搭載し、フロッピーディスクドライブは廃止された。2000年頃よりノートパソコンで、続いてデスクトップタイプでもフロッピーディスクドライブを内蔵していない製品が増えた。このような製品でOSインストール時のドライバの組み込みバックアップや復元作業など何らかの事情でフロッピーディスクを使う必要がある場合、USB接続による外付けのドライブを利用する。2000年代後半頃には市販のパソコンではほぼ搭載されなくなり、自作パソコンでも非対応のマザーボードが出回るなど、事実上レガシーデバイス扱いとなっている。代替メディアとしては、記録型CD・DVD・BD、USBメモリ、SDメモリーカード等の各種メディアがあり、配布、保管などの役割を分けて普及している。また、ネットワークの発達によって、物理的な媒体をデータ交換に使用すること自体が減少した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "現在でもBIOSのメニューのみで認識させられる数少ないメディアである。一部では需要があり、SDカードやメモリースティック、コンパクトフラッシュ、スマートメディアなどのカードリーダーと3.5インチフロッピードライブを一つにまとめた製品が販売されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "磁気ヘッドがメディアに接触する際、ヘッドの接触痕跡がメディアに残る。この痕跡はヘッド毎にユニークであるといわれる。記憶媒体の中では磁気テープと並び、読み取りの痕跡が媒体に残る数少ないメディアである。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "フロッピーディスク自体は2011年3月のソニー撤退により生産終了した。ドライブは一部のメーカーが在庫や再生品を販売している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "また3.5インチ型は最も普及していたことから、現在でもファイルの保存などに使われるマークの図柄(アイコン)として、多くのソフトでその形がモデルにされ、Unicodeにもフロッピーディスクの絵文字(💾、U+1F4BE)がある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "しかし、2013年の調査では、米国の小学5年までの子供のうち、保存アイコンが何の絵であるかを理解している者は14%しかおらず アイコンのデザインを変更する動きもあり、フロッピーディスクをモチーフとしたアイコンは姿を消しつつある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "円盤(ベース)の直径、ないしその外側の正方形状の外装の辺の長さで分類される。主要な仕様を挙げれば200mm≒8インチ、130mm≒5.25インチ、90mm≒3.5インチなどがある。5.25インチは5インチと呼ばれることも多い(3.5インチについては、同時期に3インチ前後の仕様が複数提唱されていた経緯から、誤解を避けるために3インチと呼ばれることは稀である)。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "先行製品の磁気ディスクでは金属ベースだったこともあり(初期には)ディスクを剥き出しで扱うものもあったが、フロッピーディスクではその名の通り薄い樹脂のベースであるため、ほぼ全てのものが、おおよそ正方形の外装から取り出さず、常に入れたまま使うようになっている。駆動とアクセスのために、外装の中央と、1箇所に放射状の穴が開いている。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "外装は主要な仕様では、8インチと5.25インチのものは薄く弱い樹脂製、3.5インチでは硬質のハードケースになっている。他の仕様もだいたいそのどちらかに似ている。内側には不織布による内張りがある。3.5インチのケースのヘッドアクセス用の穴がある部分は、金属またはプラスチック製のシャッターで保護される。シャッターはディスクドライブ内部でスライドして開き、閉じるときはケース内のばねの力で閉じる。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "外装は「エンベロープ」とも「ジャケット」とも呼ばれるが、ディスクの一部とも言えるこの外装ではなく、8インチや5.25インチのディスクにおいて、保管時にそのさらに外側に被せる、1方向が開いた袋(紙製が多かった)のこともまた「エンベロープ」とも「ジャケット」とも呼ばれることがあり、混同に注意を要する。円盤が入っている正方形状の外装は紙製ではない。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "最初期にソニーが発売した3.5インチディスクドライブはシャッター自動開閉機能がなく、ディスクの出し入れ前後に手でシャッターをスライドさせて開閉する必要があった。やがてドライブにシャッター自動開閉機能が搭載されたが、その頃は自動開閉機能のないドライブとの互換のために、手でシャッターを開けると開けた位置でロックされ、\"PINCH\"と書かれた部分(肩部分)をつまむとロックが解除されてシャッターが閉じるという機構のディスクが発売された。このディスクは自動開閉機能搭載のドライブには手でシャッターを開けずに挿入することができた。やがて自動開閉機能が一般的になり、開けたままロックできる機構は消えていった。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "日本ではSIを使用し、計量法の関係上、正式な製品名称では、サイズを具体的にインチで表現することが禁じられており、サイズはmmで表し、インチの数字については「型」といった表現の使用が見られる。例:",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "5インチ、90mm 3.5インチの一般的な2HDのメディアでは、約1.2-1.4MBの容量があり、90mm 3.5インチのものが主流となった。さらなる小型化を試みる動きもあり、80mm 3インチや65mm 2.5インチも発表されたが、計測器など一部機器の記録メディアとしての利用にとどまり、主流にはならなかった。また、大容量化を試みた製品も数多く存在していた。概要を大容量フロッピーディスクの節に記す。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1枚で1MB程度という容量は、現在のように画像や音声データを扱う用途では不足する。しかしフロッピーの代替となる標準メディアがなかなか現れなかった。また、かつてのPC/AT互換機では唯一の起動可能 (Bootable) かつ読み書き可能なリムーバブルメディアだった。そのため、主に起動用や一部周辺機器のデバイスドライバなど、少量のデータの受け渡し用として広く普及した。なお、類似のものに、クイックディスクやスーパーディスクなどがあるが、普及することはなかった。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "読み込みのみを許可し、書き込みを禁止する設定ができ、「書き込み禁止」または「ライトプロテクト」と言う。その書き込み禁止の操作は各メディアにより異なる。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ノッチを元に戻す、シールを剥がす、シールを貼るなどの逆操作を行えば、再び書き込み可能状態になる。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ディスクドライブは、ノッチまたはシールの位置に配置したスイッチまたは光センサ(多くはフォトインタラプタ)で、書き込み禁止の状態を判別する。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "他のディスクメディアと基本的には同様であるが、簡単に説明する。ディスクには、片面であれば1枚、両面であれば2枚の「サーフェース」がある。(各)サーフェースには、同心円状に独立した多数の「トラック」がある(スパイラル状のディスクもあるが稀)。各トラックは一定の角度毎に複数の「セクタ」に分けられている。フロッピーではほぼ全てのディスクが線速度一定ではなく角速度一定のため、内周と外周で記録密度が異なる。セクタ位置の判別において、各セクタの開始角度に対応する内周の記憶領域外の位置に穴(インデックスホール)が開けてあり、光学センサで検出するなどといった機械的方式がハードセクタ方式、第1セクタの位置のみ穴があり後続セクタの位置を各トラックの物理フォーマットにより磁気パターンで検出する方式がソフトセクタ方式である。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "読み書きの処理が行われるタイミングによっては、論理的には連続したセクタを、物理的には1セクタおき、あるいは数セクタおきに配置すると、前のセクタを読み込んで処理をした後に、ちょうどタイミング良く次のセクタの読み出し位置に来て、連続して読み書き可能にできることがある。この技法をインターリービングという(インターリーブ#ディスク・ストレージでのインターリーブ)。同様の理屈でトラックごとに第1セクタの位置をずらす手法もある。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "フロッピーディスクの容量表記には2進接頭辞が使用される場合が多い。しかし1.44MBなど一部に独特の表記もあり、1.44MBは1.44×1000×1024バイトである。詳細はメガバイト#概要を参照。また各種フォーマットの容量についての詳細は下記#フォーマットを参照。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "3.5インチの2DDと2HDは、磁性体の品質の要件(塗布厚など)と、2HDのみ外側ケースに穴(HD検知孔)が開いている以外の差はない。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "3.5インチの2HCと2HDについては、メディア自体は全く同じ2HDであり、物理フォーマット(ローレベルフォーマット)が違うだけである。具体的には1トラックあたりのセクター数の違いである。PC-9800シリーズで用いられる2HDフォーマットとはこれに加えて1セクターあたりのバイト数(セクター長)とトラック数も異なる。フロッピーディスクでは物理フォーマットという言葉は、ハードウェア形式を指す用語ではなく、論理フォーマットの一段下のレベルのフォーマットを意味し、セクター長やトラック数などのパターンのマッピングを指すものである。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "なお、一時期の日本では1.44MBフォーマットの2HDが「2HC」と呼ばれることがあったが、誤りである。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "フロッピーディスクは磁気ディスクの一種なので、磁気に弱い。ある程度以上に強力な磁石を近づけると、記録されている情報は破壊されてしまう。ホコリなどの異物の付着や汚れにも弱く、記録面が汚れると情報が読み取れなくなり、破壊に至ることがある。また、高温多湿や紫外線も嫌う。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "常に磁気ヘッドと接触した状態で読み書きを行うために少しずつ摩耗し、利用には限度がある。アクセス時以外にはヘッドをディスクから分離する機構のドライブもあるが、現在はヘッドとディスクが常に接触するドライブが一般的である。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "摩耗が重なるとディスクの磁気が弱まり、記録された情報を維持できなくなる。ただし、その磨耗は一般使用では無視できるレベルである。JISでは1トラックにつき300万回は使用できる耐久性を持たせるよう定められている。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "フロッピーディスクは、適切な使用と保管をしていれば既存の磁気テープメディア同様、(理論上)100年程度は情報を維持できるとされる。しかし、雑に扱うと、破壊に至る可能性が高くなるデリケートな記録媒体であり、保管方法によっては数年程度で読み込み不良となる場合もある。寿命を延ばすには、磁気、埃、汚れ、高温多湿、紫外線を避ける保管方法が必須となる。",
"title": "規格・構造など"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "元々フロッピーディスクのようなフレキシブルな円盤に磁気情報を記録させようとする報告は1960年代からあり、例えばピアソンの研究報告では容量12.5KB、40トラック、回転速度は1800rpmでヘッドは非接触式のものであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1970年、IBMによってIBM System/370のIPLローダーとして8インチのIBM23 (23FD-2) フロッピーディスクが開発された。容量は80キロバイト。1972年にはやはりIBMから新たなIBM33フロッピーディスクが開発され、翌年発表のIBM 3740データ入力システム用であった。これは容量400KB、ディスケット1枚で1900枚のパンチカードに匹敵するデータを格納できる、当時としては画期的なものであり、フロッピーディスクの基本にあたる。その後ディスクを両面化し容量を800KBとしたIBM43フロッピーディスクとなり、さらに倍密度化して1.6MBのIBM53フロッピーディスクが登場する。その後小型コンピュータやワードプロセッサの記憶媒体として利用されていく。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "初期の8ビットや16ビットパソコン用としても1980年代後半前後まで使われていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ミニフロッピーディスクとも呼ばれる。デスクの上に載せるには8インチフロッピーディスクドライブは大きすぎると考えられ、その小型化が要求されたのだという。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "シュガートが興したメーカーである米シュガートアソシエイツは1976年に、SA-400と呼ばれる5.25インチのディスクとドライブを発表・発売した。当初は容量が109.4KB(1S、片面単密)と小さく、さらにすでに利用されている8インチ(SA-800シリーズ)ドライブとは物理的にも電気信号的にも互換性がなかったが大いにヒットした。なお1980年には両面・倍密度として容量を約4倍の437.5KBとしたSA450が発売されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "また小型化により、コンピュータへのドライブの内蔵も可能となった。また小型化に伴い容量は一時的に減少している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1978年にApple ComputerのApple IIでは容量100KBのドライブが採用された。これはSA-400からコントローラ基板を抜いたモデルである兄弟機SA-390。これは、Apple IIではコントローラはアップル独自の物を利用していたことによる。ただし、実機のドライブ銘板がSA-390ではなく、SA-400のままの個体も多数存在した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "その後、フロッピーディスクはコンピュータにとって必要不可欠なものとなり、広く普及していった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "5.25インチのディスクは1D(片面倍密度)や2D(両面倍密度)などに発展し、2DD(両面倍密度倍トラック)を経て、やがて主流となる2HD(両面高密度)に至る。日本では電電公社(現在のNTT)が5.25インチ2HDドライブの開発を行なってきたため、発表当時は電電公社フォーマットドライブとも言われた。これは容量が約1.2MBで、電気的にも8インチドライブと互換性をとっており、8インチドライブからの代替が可能だったのもスムーズな移行につながった。ごく古いMS-DOS等の5.25インチ2HD用ディスクフォーマットを持たないオペレーティングシステム (OS) でも、これを8インチ2Dディスク用フォーマットで代用できた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ただし信頼性は8インチディスク同様に問題があり、磁気に弱く、外装も変形しやすく、それに入った磁性体は、常にヘッド部が露出し、さらに磁性体を塗布した円盤の中央部も露出している。このため保管時は専用の封筒を用いねばならない。また開口部からは常に塵や埃が内部に侵入する危険性があり、その他その脆弱性により取り扱いには相当な注意を払うことが要求されているものであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "なおヘッドと磁性体は接触製であるため摩耗が心配されるが、これは当時1トラックの連続使用で100万パス(360rpmで46時間)が保証されていた。また、ドライブが磁性体の円盤中央部をクランプしチャッキングする際の精度やその部分の耐久性も弱点であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1980年にソニーが3.5インチ (90mm) のディスクを開発し、1981年発売の英文ワープロ「シリーズ35」の外部記録媒体として採用・発売した。8インチや5.25インチのフロッピーディスクは薄い樹脂製の袋に磁気ディスクが収められていたが、3.5インチではプラスチック製の硬質なケースに改められた。金属製のスライドカバーがあり、5.25インチディスクと比べ磁性面が接触から守られた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1982年に発売された同社製のSMC-70からパソコンにも搭載されるようになり、1983年にヒューレット・パッカードがHP-150に採用したほか、ソニーも同年にMSXで採用し、アップルもMacintoshに採用した。PC9801 U以降の98シリーズやAtari ST、Amigaにも採用された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ソニーは1985年に未フォーマット時1.6MB、フォーマット時1.44MBの「2HD」のディスクを開発し、1987年にIBMがPS/2に採用してPC互換機もこれに追従。1988年までに3.5インチディスクの販売枚数は5.25インチを超えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1991年に2.88MBの超高密度2EDを採用したNeXTcubeやNeXTstation、IBM PS/2モデル57などが販売されたがこのフォーマットは普及しなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "この後3.5インチフロッピーディスクは大いに普及し、最盛期では世界市場で1995年にディスクが年間約45億枚、2002年にはドライブが年間約14000台製造された。1993年頃からCD-ROMが普及しディスクの生産枚数が減少。ドライブも2002年をピークに生産数が減少した。アップルは1998年にフロッピー非搭載のiMacを発売して話題になった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1980年 ソニーの英文ワープロ「シリーズ35」の外部記録媒体として採用。翌年発売。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1982年 ソニーのパーソナルコンピュータSMC-70に搭載。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1983年提唱のMSXが、1984年5月の発売時までに3.5インチに一本化されたこともあり、日本ではホビー用途の機種や、ワープロ専用機では普及が早かった。しかし、3.5インチのメディアは5.25インチより高価で、ゲームなどパッケージソフトの価格にも同封媒体による差があった。パソコン関連雑誌の付録メディアについては「露出した金属を流通させてはならない」という付録に関する規制のため、3.5インチのメディアを付録として使用することが出来なかった。シャッターのプラスチック化は、価格よりもこの対策が主要因である。なお、チャッキング部分は露出していないため、金属製のままとされた。なお、後にはディスクと同じ厚さのボール紙で囲うことで金属部分を露出させないように対処した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "また、ビジネス用途では、日本電気 (NEC) 製PC-9800シリーズなどの中期までは、互換性を重視して5.25インチが主流だった。だが、ホビーユースではいずれの16ビットパソコンも3.5インチを採用したため、両者間のデータ共有が少なからぬ問題となった。結局、家庭用では安価な3.5インチFDD標準搭載のホビーユースモデルに5.25インチFDDを外付けする手法で対応した。さらには、EPSON PCシリーズの一部では、3.5インチFDDと5.25インチFDDの両方を標準搭載したパソコンも発売された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1984年1月、Apple ComputerのMacintoshが3.5インチ (400K) を採用したのを皮切りに、世界的にも各社が3.5インチを用いるようになった。1986年、IBMはIBM PC Convertibleで3.5インチ2DD (720KB) を採用。1987年にはPS/2とPS/55の全モデルで3.5インチを採用。下位機種は2DD (720KB)、上位機種は2DD (720KB) および2HD (1.44MB) を搭載した。後の上位機種には2ED (2.88MB) も追加された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "この2HD (1.44MB) のフォーマットは2DD (720KB) のフォーマットを単純に2倍にした形である。5インチでの電電公社フォーマットをベースにした国産各社の3.5インチの2HD (1.2M) フォーマット(正確には1.21MBや1.23MBなど)とは互換性が無く、相互に読み書きできなかった。ただし、PS/2やPS/55は企業向けが中心であり、また当時のPC/AT互換機はまだ5.25インチが主流であり、2ED (2.88MB) はNeXTstationなどのワークステーションに採用された程度で、あまり普及しなかったため、影響は限られていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "しかし、1990年にDOS/Vが登場して1991年にOADGも3.5インチを推奨し、3.5インチ標準搭載のPC/AT互換機が一般家庭を含めて日本で本格的に普及すると、日本(PC-9800シリーズ、FMRシリーズ、FM TOWNSなど)と世界(PC/AT互換機)では両者で標準となった3.5インチの2HDフォーマットで互換性が無いという問題の影響が拡大し、PC/AT互換機の普及の過程で混乱があった。当初は、両者に共通のフォーマットである2DD (720KB) のフロッピーディスクや、ネットワークなどを利用したデータ交換が行われた。中には日本IBMのPS/55Zのようにオプションで1.2MBフォーマットのディスク読み出しに対応したドライブを搭載可能とした機種も存在した。次第に、3モードフロッピーディスクドライブ (720KB, 1.2MB, 1.44MB) が両者に普及した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2000年代後半から他の大容量電子媒体の登場に伴い、3.5インチFDの売り上げは大幅に落ち込んだ。2009年春に日立マクセル(現・マクセルホールディングス)と三菱化学メディアがFD生産から撤退。最後までFD生産を続けたソニーも、2011年3月に中華人民共和国のメーカーに委託しているFDの生産を終了した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ソニーから発売されていた3.5インチFDのパッケージには長らく「世界の3.5フロッピーはソニーから始まった SINCE 1980」と記されていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "当初、フロッピーディスクは磁性体の塗布技術に難点があり、不良率が高かった。しかし、特定OS用の初期化作業時に全品検査する方式が導入されると、不良率が激減した。さらに、磁性体の塗布技術が向上し、1990年代前半には品質が安定した。その後は大容量化が図れず、日本ではコスト削減から製造ラインの国外移設により、品質も低下した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1990年代中盤には、雑誌や本の付録に3.5インチディスクが使われることもあったものの、1990年代後半には、すでにフロッピーディスクは容量、速度、信頼性のいずれも時代遅れとなっていた。光磁気ディスク、フロプティカルディスク、ZIP、jazなど、より高速大容量の媒体もあったが、フロッピーディスクは起動用ディスクとして使え、ほぼすべてのコンピューターで共通に使える利点が大きく、長らく使われ続けた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "おおむね2000年頃までフロッピーディスクは盛んに使われていたが、読み書き速度も高速で大容量かつ低価格なフラッシュメモリ(特にUSBメモリ、およびSDメモリーカード(SDHC以上))が普及したこと、フロッピーディスク以外の記憶媒体(CD/DVD-ROMなど)からでもOSの起動やセットアップができるようになったことから、フロッピーディスクは徐々に廃れていった。また、本の付録としての使用はより薄くて大量生産が可能なCD/DVD-ROMなどに移行し、また出版社や著者のWebサイト上でのファイル公開という代替手段ができている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ただし、自作機市場では2010年頃まで一定の需要があり、自らシステムメンテナンスを行う自作機ユーザーは、フロッピーディスクを「最後の起動手段」として常識的に搭載してきた。だが、近年のWindowsでは、フロッピー起動ではNTFSの読み書きをするには上級の知識と技術が必要なため、この意味での搭載の意味は薄くなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "DSP版Windowsのライセンスはハードウェアとのセット(OSとハードウェアを一体製品)で販売されているため、過去にはフロッピーディスクドライブとのセットが見られた。これは、フロッピードライブは今後発展がないと推測されるため交換する必要がなく、ライセンスを維持したまま他のパーツを自由に交換することができる上に安価であるためである。この販売手法が、フロッピーディスクドライブインターフェイスを搭載しないマザーボードが主流となったのちにも一部で継続され、DSP版Windowsを廉価に販売および購入する方法の一つになっていた。フロッピーディスクドライブの製造が各社で終息したことやマザーボードからFDインターフェースが廃止になったこと及び、2010年2月よりフロッピーディスクドライブとのセット販売が禁止されたことにより、この方法での販売も収束した。その他の需要と問題点については後述するレガシーシステムとしてのフロッピーディスクを参照。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "フロッピーディスクの磁性体特性は、規格に定められているか、あるいはデファクトスタンダードとして定着しており、メディアの差別化は磁性体をフィルムに固定するバインダーと呼ばれる接着剤に工夫を凝らしていた。磁性体の剥離を最小限に抑えヘッドの清浄性を保つもの、導電性を持たせて埃の付着を防止したもの等があった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "なお、経年劣化した古いメディアをドライブに挿入するとヘッドにカビが付着し、他メディア読み取りも不可となる事例がある。対処法としては経時したメディアを使用する時に白い粉が噴いていないか確認することが挙げられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "フロッピーディスクの記憶容量を増やすために、フロッピーディスクと上位互換を持ついくつかの製品が開発されたこともある。それらを総称して大容量フロッピーディスクという。しかしそれぞれ専用のディスクと専用のドライブが必要で、製品間の互換性もないため、普及しなかったものがほとんどである。",
"title": "大容量版"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "前述の自作機パーツとしての用途が廃れた後も、刺繍機、現金自動預け払い機、医療機器、航空機関連の機器など既存の機器を使い続ける業界では需要があったが、機材の更新により姿を消しつつある。",
"title": "レガシー化"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "日本国内では2011年3月以前にソニーが生産と販売を終了したが、エレコムではフロッピーディスク用のケースが2022年時点でも一定数売れているため販売を継続している。",
"title": "レガシー化"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "官公庁では2022年現在もデータの受け渡しに利用されている。オンライン申請への切り替えが進んでいるが、法令による指定やフロッピーディスクにしか対応していない民間事業者が残っているなどの理由で利用を継続している。厚生労働省では医薬品や医療機器の承認審査の受付でフロッピーディスクを指定していたため、オンライン申請が可能となった2022年現在でも「FD申請」という名称で運用している。2020年時点でオンラインかコンパクトディスクでの申請が大多数であるが、一部の企業からフロッピーディスクしか対応できないという申し出があるため、データの破損があることを通知した上で受付を継続している。日本では2022年時点でフロッピーディスクなど、特定の記録媒体による提出を求める法令が約1900条項あることから、これらの改正を予定している。",
"title": "レガシー化"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "民間では西陣織では、織機に紋様の織り出し方を指示する紋意匠図の製作と製織の過程で、以前は「紋紙」と呼ばれる孔開き厚紙(歴史的には、コンピュータ以前の時代から使われていたパンチカードの由来である、イギリスで発明された織機のシステムそのものである)を使っていたが、1980年代に紋紙に代わって電子的な形式が制定され(コンピュータ柄システム)フロッピーディスクを使う機器が普及した。その後フロッピーディスクの生産打ち切りに伴い、ほとんどの織機が使えなくなるおそれを生じている。このような問題に対応するために京都市産業技術研究所でシステムが開発され、2011年から西陣織セミナーが開催されている。銀行ではオンラインへの移行を促しフロッピーディスクによる受け渡しを廃止しているが、官公庁のみ特別に対応している例がある。",
"title": "レガシー化"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国連邦政府でも、2016年になっても核兵器の運用部門にはフロッピーディスクが使われており、それらを始めとする旧式システムの維持管理に、年間600億ドル(約6兆6000億円)以上も費やされることが問題となっていた。2019年になり、戦略司令部は「フロッピーディスクデバイスを『安全性の高いSSD記憶装置』に置き換えた。」とアナウンスした。",
"title": "レガシー化"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "アメリカ国防総省は、一刻も速くフロッピーディスクの使用を停止する方針を発表しているが、新システム構築のために用意された投資額は、旧システム維持費用の3分の1以下に留まっており、「簡単に言えば現在も機能しているため」旧システムは使われ続けている。これらは同省固有の現象ではなく、財務省やホワイトハウスでもフロッピーディスクや、1950年代のコンピュータプログラムが使われ続けている。",
"title": "レガシー化"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "これら旧システムには、2015年ごろまではインターネットから遮断され、サイバー攻撃の影響を受けないこと、長年使用されてきた信頼性と確実性は、新規システムを上回るなどの利点が指摘されていた。ただし、2015年段階で新品のフロッピーディスクの入手は困難となっており、アメリカ政府も専門の業者を通じて中古品を購入していることが伝えられている。またメディアの耐久性や容量、セキュリティの高いオンラインストレージの登場もあり、上記のように置き換えが進んでいる。",
"title": "レガシー化"
}
] | フロッピーディスク は、磁気ディスクの一種で、磁性体を塗布・蒸着した樹脂製小円盤を樹脂製の保護ケースに入れたものである。 「フロッピー」「FD」と略称されることもある。生産数は2000年頃にピークに達したが、その後はコンピュータの情報を記録できるDVDなど他の媒体やハードディスクドライブ (HDD) が普及したため、企業が生産から撤退した。一部では使い続けられているが、耐用年数前のデータ移行(マイグレーション作業)も日本の国立国会図書館などにより行われている。 | {{Otheruses|[[磁気ディスク]]|その他の用法|フロッピー}}
{{出典の明記|date=2022年4月}}
{{更新|date=2015年7月17日 (金) 23:25 (UTC)}}
[[ファイル:Floppy disk 2009 G1.jpg|thumb|250px|左から8[[インチ]]、5インチ、3.5インチのフロッピーディスク]]
[[ファイル:Floppy Disk Drives 8 5 3.jpg|thumb|250px|左から8インチ、5インチ、3.5インチのフロッピーディスクドライブ]]
[[ファイル:FDD-Cardreader.jpg|thumb|200px|フロッピーディスクドライブと一体化した[[メモリーカードリーダライタ|カードリーダー]]]]
'''フロッピーディスク''' ({{Lang-en-short|Floppy disk}}, floppy diskette) は、[[磁気ディスク]]の一種で、[[磁性体]]を塗布・蒸着した[[合成樹脂|樹脂]]製小円盤を樹脂製の保護ケースに入れたものである。
「フロッピー」「FD」と略称されることもある。生産数は2000年頃にピークに達したが、その後は[[コンピュータ]]の情報を記録できる[[DVD]]など他の媒体や[[ハードディスクドライブ]] (HDD) が普及したため、企業が生産から撤退した。一部では使い続けられているが<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=4630万円誤送金で脚光浴びた「フロッピーディスク」 絶滅どころか公的機関でいまだ“現役”の事情〈dot.〉 |url=https://dot.asahi.com/articles/-/40363 |website=AERA dot. (アエラドット) |date=2022-05-19 |access-date=2022-05-19 |last=米倉昭仁}}</ref>、耐用年数前の[[データ移行]](マイグレーション作業)も[[日本]]の[[国立国会図書館]]などにより行われている<ref>【ニュースの門】フロッピー重宝 しぶとく残る『[[読売新聞]]』朝刊2021年6月17日</ref>。
== 名称 ==
本来は記録媒体(メディア)が「'''フロッピーディスク'''」または「フロッピーディスクメディア」で、駆動装置(駆動し読み書きする装置)が「フロッピーディスクドライブ」(FDD) と呼ばれる。両者とも略して「'''フロッピー'''」などと呼ばれることも多い。また「'''フロッピィディスク'''」「'''フロッピィ'''」のように書き表すこともある。俗称の「フロッピーディスク」(floppy disk) が普及したが([[レトロニム]])、[[日本産業規格]] (JIS) の用語集では「フレキシブルディスク」と「フレキシブルディスクカートリッジ」である。
最初のフロッピーディスクは[[1971年]]に[[アメリカ合衆国|米国]]企業[[IBM]]が開発した<ref>[http://www-03.ibm.com/ibm/history/exhibits/vintage/vintage_4506VV2132.html Diskette - IBM Archives]</ref>。当時の名称は「フレキシブル・ディスケット」(flexible diskette) または「'''ディスケット'''」<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=MFGj_PT_clIC&printsec=frontcover&dq=IBM's+360+and+Early+370+Systems&redir_esc=y&hl=ja IBM's 360 and early 370 systems] (Emerson W. Pugh, Lyle R. Johnson, John H. Palmer) p520, p615.</ref>で、IBMの登録[[商標]]となった。IBMは2015年時点で一般向けには「フロッピーディスク」の用語も併用している<ref>例:[http://www-03.ibm.com/ibm/history/ibm100/us/en/ The Floppy Disk - IBM100]</ref>。かつては3 1/2インチ型媒体を使用する読取装置を「3.5型駆動機構」と呼んでいた。
なお、「フレキシブル」も「フロッピー」も“柔らかい”の意味<ref group = *>フロッピー (floppy) とは「だらりとした」「締まりのない」または「元気のない」「弱い」を意味する[[英語]]の[[形容詞]]で、[[日本語]]のニュアンスとしては「ふにゃふにゃしたもの」「ぐにゃりとしたもの」が近い。</ref>で命名されたもので、登場当初はメディアの構造が薄いディスクを薄い保護ケースに包んだ薄く柔らかいものであったためである。これに対して、従来の硬い[[磁気ディスク]]は「[[ハードディスクドライブ|ハードディスク]]」や「ハードドライブ」と呼ばれるようになった。
== 概要 ==
磁気ディスクの一種で、駆動装置からの取り外しが可能(リムーバブル)な記録媒体(メディア)である。磁性体を塗布した厚さ0.075ミリメートルの[[プラスチック]]円盤を駆動装置で回転させ、円盤の片面ないしは両面に同心円状に信号を記録する。円盤に記録された信号の読み書きは{{仮リンク|フロッピーディスクコントローラ|en|Floppy-disk controller}}を介して行う。
現時点で一般的な[[ハードディスク]]とは異なり、駆動装置から媒体を取り外すことができることが特徴である。ディスクの直径により、8[[インチ]]、5 1/4 (5.25) インチ、3 1/2 (3.5) インチの<!--「インチ」だから分数の方が良い?-->3種が主に知られる。[[1969年]]に読み取り専用の8インチフロッピーディスクが生まれてから[[1990年代]]末にかけて、小型コンピュータのデータの記録に広く用いられた。
その後、小型コンピュータの性能の向上により、扱うデータの容量も増大したため、[[コンパクトディスク|CD]]や[[DVD]]、[[Blu-ray Disc|BD]]などの記録型[[光ディスク]]ドライブが[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]に標準搭載されるようになり、2000年頃以降は徐々に廃れていった。[[1998年]]に発売された[[iMac]]はCD-ROMドライブのみを標準搭載し、フロッピーディスクドライブは廃止された。2000年頃より[[ノートパソコン]]で、続いてデスクトップタイプでもフロッピーディスクドライブを内蔵していない製品が増えた。このような製品で[[オペレーティングシステム|OS]]インストール時のドライバの組み込みバックアップや復元作業など何らかの事情でフロッピーディスクを使う必要がある場合、[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]接続による外付けのドライブを利用する。2000年代後半頃には市販のパソコンではほぼ搭載されなくなり、[[自作パソコン]]でも非対応のマザーボードが出回るなど、事実上[[レガシーデバイス]]扱いとなっている。代替メディアとしては、記録型CD・DVD・BD、USBメモリ、[[SDメモリーカード]]等の各種メディアがあり、配布、保管などの役割を分けて普及している。また、ネットワークの発達によって、物理的な媒体をデータ交換に使用すること自体が減少した。
現在でも[[Basic Input/Output System|BIOS]]のメニューのみで認識させられる数少ないメディアである。一部では需要があり、SDカードや[[メモリースティック]]、[[コンパクトフラッシュ]]、[[スマートメディア]]などの[[メモリーカードリーダライタ|カードリーダー]]と3.5インチフロッピードライブを一つにまとめた製品が販売されている。
[[File:Floppy Disk Drive reading.ogv|thumb|200px|3.5インチ型での磁気ヘッド動作]]
磁気ヘッドがメディアに接触する際、ヘッドの接触痕跡がメディアに残る。この痕跡はヘッド毎にユニークであるといわれる。記憶媒体の中では[[磁気テープ]]と並び、読み取りの痕跡が媒体に残る数少ないメディアである。
フロッピーディスク自体は2011年3月の[[ソニー]]撤退により生産終了した。ドライブは一部のメーカーが在庫や再生品を販売している。
また3.5インチ型は最も普及していたことから、現在でもファイルの保存などに使われるマークの図柄([[アイコン]])として、多くのソフトでその形がモデルにされ、[[Unicode]]にもフロッピーディスクの絵文字(💾、U+1F4BE)がある。
しかし、2013年の調査では、米国の小学5年までの子供のうち、保存アイコンが何の絵であるかを理解している者は14%しかおらず
<ref>{{citation|url=http://www.teachhub.com/first-infographic-made-kids-national-library-week|title=The First Infographic Made by Kids!|author=Joe Federer|publisher=TechHUB.com|year=2013}}</ref>アイコンのデザインを変更する動きもあり、フロッピーディスクをモチーフとしたアイコンは姿を消しつつある<ref>[https://corobuzz.com/archives/146037 「ついにこの日が…」保存のマークといえばフロッピーじゃろ?いや、時代が動いていた] COROBUZZ(2019年12月6日配信)2021年7月24日閲覧</ref>。
== 規格・構造など ==
=== サイズ ===
円盤(ベース)の直径、ないしその外側の正方形状の外装の辺の長さで分類される。主要な仕様を挙げれば'''200mm'''≒'''8インチ'''、'''130mm'''≒'''5.25インチ'''、'''90mm'''≒'''3.5インチ'''などがある。5.25インチは'''5インチ'''と呼ばれることも多い(3.5インチについては、同時期に3インチ前後の仕様が複数提唱されていた経緯から、誤解を避けるために3インチと呼ばれることは稀である)。
先行製品の磁気ディスクでは金属ベースだったこともあり(初期には)ディスクを剥き出しで扱うものもあったが、フロッピーディスクではその名の通り薄い樹脂のベースであるため、ほぼ全てのものが、おおよそ正方形の外装から取り出さず、常に入れたまま使うようになっている。駆動とアクセスのために、外装の中央と、1箇所に放射状の穴が開いている。
外装は主要な仕様では、8インチと5.25インチのものは薄く弱い樹脂製、3.5インチでは硬質のハードケースになっている。他の仕様もだいたいそのどちらかに似ている。内側には[[不織布]]による内張りがある。3.5インチのケースのヘッドアクセス用の穴がある部分は、金属またはプラスチック製のシャッターで保護される。シャッターはディスクドライブ内部でスライドして開き、閉じるときはケース内の[[ばね]]の力で閉じる。
外装は「エンベロープ」とも「ジャケット」とも呼ばれるが、ディスクの一部とも言えるこの外装ではなく、8インチや5.25インチのディスクにおいて、保管時にそのさらに外側に被せる、1方向が開いた袋(紙製が多かった)のこともまた「エンベロープ」とも「ジャケット」とも呼ばれることがあり、混同に注意を要する。円盤が入っている正方形状の外装は紙製ではない。
最初期にソニーが発売した3.5インチディスクドライブはシャッター自動開閉機能がなく、ディスクの出し入れ前後に手でシャッターをスライドさせて開閉する必要があった。やがてドライブにシャッター自動開閉機能が搭載されたが、その頃は自動開閉機能のないドライブとの互換のために、手でシャッターを開けると開けた位置でロックされ、"PINCH"と書かれた部分(肩部分)をつまむとロックが解除されてシャッターが閉じるという機構のディスクが発売された。このディスクは自動開閉機能搭載のドライブには手でシャッターを開けずに挿入することができた。やがて自動開閉機能が一般的になり、開けたままロックできる機構は消えていった。
日本では[[国際単位系|SI]]を使用し、[[計量法]]の関係上、正式な製品名称では、サイズを具体的に[[インチ]]で表現することが禁じられており、サイズは[[ミリメートル|mm]]で表し、インチの数字については「型」といった表現の使用が見られる。例:
* 3.5インチ:90mmまたは3.5型
* 5/5.25インチ:130mmまたは5/5.25型
5インチ、90mm 3.5インチの一般的な2HDのメディアでは、約1.2-1.4MBの容量があり、90mm 3.5インチのものが主流となった。さらなる小型化を試みる動きもあり、80mm 3インチや65mm 2.5インチも発表されたが、[[計測器]]など一部機器の記録メディアとしての利用にとどまり、主流にはならなかった。また、大容量化を試みた製品も数多く存在していた。概要を[[#大容量フロッピーディスク|大容量フロッピーディスク]]の節に記す。
1枚で1MB程度という容量は、現在のように画像や音声データを扱う用途では不足する。しかしフロッピーの代替となる標準メディアがなかなか現れなかった。また、かつての[[PC/AT互換機]]では唯一の起動可能 (Bootable) かつ読み書き可能なリムーバブルメディアだった。そのため、主に起動用や一部周辺機器の[[デバイスドライバ]]など、少量のデータの受け渡し用として広く普及した。なお、類似のものに、[[クイックディスク]]や[[スーパーディスク]]などがあるが、普及することはなかった。
=== ライトプロテクト ===
読み込みのみを許可し、書き込みを禁止する設定ができ、「書き込み禁止」または「ライトプロテクト」と言う。その書き込み禁止の操作は各メディアにより異なる。
* 90mm/3.5インチディスク - ライトプロテクトノッチをスライドさせ、窓が空いた状態にする
* 130mm/5.25インチディスク - 外装の切り欠きにライトプロテクトシールを貼る
* 200mm/8インチディスク - 外装の定位置に切り欠きを作成する
ノッチを元に戻す、シールを剥がす、シールを貼るなどの逆操作を行えば、再び書き込み可能状態になる。
ディスクドライブは、ノッチまたはシールの位置に配置したスイッチまたは光センサ(多くは[[フォトインタラプタ]])で、書き込み禁止の状態を判別する。
=== セクタと容量 ===
他のディスクメディアと基本的には同様であるが、簡単に説明する。ディスクには、片面であれば1枚、両面であれば2枚の「サーフェース」がある。(各)サーフェースには、同心円状に独立した多数の「[[トラック (記録媒体)|トラック]]」がある(スパイラル状のディスクもあるが稀)。各トラックは一定の角度毎に複数の「[[ディスクセクタ|セクタ]]」に分けられている。フロッピーではほぼ全てのディスクが線速度一定ではなく角速度一定のため、内周と外周で記録密度が異なる。セクタ位置の判別において、各セクタの開始角度に対応する内周の記憶領域外の位置に穴(インデックスホール)が開けてあり、光学センサで検出するなどといった機械的方式がハードセクタ方式、第1セクタの位置のみ穴があり<ref group = *>3.5インチでは中心部にあるハブ自体に位置決めがある。</ref>後続セクタの位置を各トラックの物理フォーマットにより磁気パターンで検出する方式がソフトセクタ方式である。
<gallery>
File:Disk-structure2.svg|ディスクの構造<br />A.[[トラック (記録媒体)|トラック]]<br />C.セクタ(ディスクセクタ)
</gallery>
読み書きの処理が行われるタイミングによっては、論理的には連続したセクタを、物理的には1セクタおき、あるいは数セクタおきに配置すると、前のセクタを読み込んで処理をした後に、ちょうどタイミング良く次のセクタの読み出し位置に来て、連続して読み書き可能にできることがある。この技法をインターリービングという([[インターリーブ#ディスク・ストレージでのインターリーブ]])。同様の理屈でトラックごとに第1セクタの位置をずらす手法もある。
フロッピーディスクの容量表記には[[2進接頭辞]]が使用される場合が多い。しかし1.44MBなど一部に独特の表記もあり、1.44MBは1.44×1000×1024バイトである。詳細は[[メガバイト#概要]]を参照。また各種フォーマットの容量についての詳細は下記[[#フォーマット]]を参照。
==== 3.5インチフロッピーディスクの2DD、2HC、2HDの物理的な違い ====
[[ファイル:IBM 3.5-inch DD and HD diskettes.jpg|サムネイル|3.5インチ2DDディスクと2HDディスク]]
3.5インチの2DDと2HDは、磁性体の品質の要件(塗布厚など)と、2HDのみ外側ケースに穴(HD検知孔)が開いている以外の差はない。
3.5インチの2HCと2HDについては、メディア自体は全く同じ2HDであり、物理フォーマット(ローレベル[[フォーマット (ストレージ)|フォーマット]])が違うだけである。具体的には1トラックあたりのセクター数の違いである。PC-9800シリーズで用いられる2HDフォーマットとはこれに加えて1セクターあたりのバイト数(セクター長)とトラック数も異なる。フロッピーディスクでは物理フォーマットという言葉は、ハードウェア形式を指す用語ではなく、論理フォーマットの一段下のレベルのフォーマットを意味し、[[ディスクセクタ|セクター]]長や[[トラック (記録媒体)|トラック]]数などのパターンのマッピングを指すものである。
なお、一時期の日本では1.44MBフォーマットの2HDが「2HC」と呼ばれることがあったが、誤りである<ref>『[[Oh!FM|Oh!FM TOWNS]]』([[SBクリエイティブ|ソフトバンク]])1993年7月号、60頁。</ref>。
=== 耐久性・寿命 ===
フロッピーディスクは磁気ディスクの一種なので、磁気に弱い。ある程度以上に強力な[[磁石]]を近づけると、記録されている情報は破壊されてしまう。[[埃|ホコリ]]などの異物の付着や汚れにも弱く、記録面が汚れると情報が読み取れなくなり、破壊に至ることがある。また、高温多湿や[[紫外線]]も嫌う。
常に[[磁気ヘッド]]と接触した状態で読み書きを行うために少しずつ[[摩耗]]し、利用には限度がある。アクセス時以外にはヘッドをディスクから分離する機構のドライブもあるが、{{いつ範囲|現在|date=2019年6月28日 (金) 08:13 (UTC)}}はヘッドとディスクが常に接触するドライブが一般的である。
摩耗が重なるとディスクの磁気が弱まり、記録された情報を維持できなくなる。ただし、その磨耗は一般使用では無視できるレベルである。JISでは1トラックにつき300万回は使用できる耐久性を持たせるよう定められている。
フロッピーディスクは、適切な使用と保管をしていれば既存の[[磁気テープ]]メディア同様、(理論上)100年程度は情報を維持できるとされる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jria.org/use_save/fd/flp_06.html |title=フロッピーディスクは何年も使えるものでしょうか? |accessdate=2010年7月2日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130315045251/http://www.jria.org/use_save/fd/flp_06.html |archivedate=2013年3月15日 }} - 社団法人 日本記録メディア工業会</ref>{{sfn|中山|2010|p=93}}。しかし、雑に扱うと、破壊に至る可能性が高くなるデリケートな記録媒体であり、保管方法によっては数年程度で読み込み不良となる場合もある。寿命を延ばすには、磁気、[[埃]]、汚れ、高温多湿、[[紫外線]]を避ける保管方法が必須となる。
== 歴史 ==
{{main|フロッピーディスクの歴史}}
元々フロッピーディスクのようなフレキシブルな円盤に磁気情報を記録させようとする報告は1960年代からあり、例えばピアソンの研究報告では容量12.5KB、40トラック、回転速度は1800[[rpm (単位)|rpm]]でヘッドは非接触式のものであった{{sfn|中山|2010|p=54}}。
=== 8インチ ===
[[ファイル:Floppy disk8inch.jpg|thumb|200px|8[[インチ]]型フロッピーディスク]]
[[1970年]]、[[IBM]]<!--のエンジニア[[アラン・F・シュガート]]率いるチーム-->によって[[System/370|IBM System/370]]の[[IPL]]ローダーとして8インチのIBM23 (23FD-2) フロッピーディスクが開発された{{sfn|中山|2010|p=24, 55}}。容量は80キロバイト{{sfn|中山|2010|p=24}}。1972年にはやはりIBMから新たなIBM33フロッピーディスクが開発され、翌年発表の[[IBM 3740|IBM 3740データ入力システム]]用であった。これは容量400KB、ディスケット1枚で1900枚の[[パンチカード]]に匹敵するデータを格納できる、当時としては画期的なものであり、フロッピーディスクの基本にあたる{{sfn|中山|2010|p=24, 55}}。その後ディスクを両面化し容量を800KBとしたIBM43フロッピーディスクとなり{{sfn|中山|2010|p=24}}、さらに倍密度化して1.6MBのIBM53フロッピーディスクが登場する{{sfn|中山|2010|p=25}}{{sfn|中山|2010|p=28}}。その後小型コンピュータや[[ワードプロセッサ]]の記憶媒体として利用されていく{{sfn|中山|2010|p=56}}。
初期の8ビットや16ビットパソコン用としても[[1980年代]]後半前後{{要出典|date=2014-9}}まで使われていた。
=== 5.25インチ ===
[[ファイル:Floppy_disk_5.25_inch.JPG|thumb|200px|5.25インチ型フロッピーディスク]]
'''ミニフロッピーディスク'''とも呼ばれる。デスクの上に載せるには8インチフロッピーディスクドライブは大きすぎると考えられ、その小型化が要求されたのだという{{sfn|中山|2010|p=57}}。
シュガートが興したメーカーである米[[シュガートアソシエイツ]]は[[1976年]]に、SA-400と呼ばれる5.25インチのディスクとドライブを発表・発売した<ref group="*">製造はデータ・カセットメーカーである[[インフォメーションターミナル]]が行った。</ref>{{sfn|中山|2010|p=25, 57, 58}}。当初は容量が109.4KB(1S、片面単密)と小さく{{sfn|中山|2010|p=25, 28}}、{{要出典範囲|さらにすでに利用されている8インチ(SA-800シリーズ)ドライブとは物理的にも電気信号的にも[[互換性]]がなかったが|date=2014-9}}大いにヒットした{{sfn|中山|2010|p=25}}。なお1980年には両面・倍密度として容量を約4倍の437.5KBとしたSA450が発売されている{{sfn|中山|2010|p=28}}。
また小型化により、コンピュータへのドライブの内蔵も可能となった{{sfn|中山|2010|p=57}}。また小型化に伴い容量は一時的に減少している{{sfn|中山|2010|p=58}}。
[[1978年]]に[[Apple|Apple Computer]]の[[Apple II]]では容量100KBのドライブが採用された{{sfn|中山|2010|p=29-30}}。{{要出典範囲|これはSA-400からコントローラ基板を抜いたモデルである兄弟機SA-390。これは、Apple IIではコントローラはアップル独自の物を利用していたことによる。ただし、実機のドライブ[[銘板]]がSA-390ではなく、SA-400のままの個体も多数存在した。|date=2012-9}}
その後、フロッピーディスクはコンピュータにとって必要不可欠なものとなり、広く普及していった{{sfn|中山|2010|p=57-58}}。
5.25インチのディスクは1D(片面倍密度)や2D(両面倍密度)などに発展し、2DD(両面倍密度倍トラック)を経て、やがて主流となる2HD(両面高密度)に至る。日本では[[日本電信電話公社|電電公社]](現在の[[日本電信電話|NTT]])が5.25インチ2HDドライブの開発を行なってきたため、発表当時は'''電電公社フォーマット'''ドライブとも言われた。これは容量が約1.2MBで、電気的にも8インチドライブと互換性をとっており、8インチドライブからの代替が可能だったのもスムーズな移行につながった。ごく古い[[MS-DOS]]等の5.25インチ2HD用ディスクフォーマットを持たない[[オペレーティングシステム]] (OS) でも、これを8インチ2Dディスク用フォーマットで代用できた。
ただし信頼性は8インチディスク同様に問題があり{{sfn|中山|2010|p=58}}、磁気に弱く、外装も変形しやすく、それに入った磁性体は、常にヘッド部が露出し{{sfn|中山|2010|p=81-82, 86}}、さらに磁性体を塗布した円盤の中央部も露出している。このため保管時は専用の封筒を用いねばならない{{sfn|中山|2010|p=81-82}}。また開口部からは常に塵や埃が内部に侵入する危険性があり、その他その脆弱性により取り扱いには相当な注意を払うことが要求されているものであった{{sfn|中山|2010|p=82}}。
なおヘッドと磁性体は接触製であるため摩耗が心配されるが、これは当時1トラックの連続使用で100万パス(360rpmで46時間)が保証されていた{{sfn|中山|2010|p=84}}。また、ドライブが磁性体の円盤中央部をクランプしチャッキングする際の精度やその部分の耐久性も弱点であった{{sfn|中山|2010|p=86, 88}}。
=== 3.5インチ ===
[[ファイル:Floppydisk 90mm(3.5inch).jpg|thumb|200px|3.5インチ型フロッピーディスク]]
[[ファイル:Diskettenlaufwerk.jpg|thumb|200px|3.5インチ型フロッピーディスクドライブ]]
[[File:Opengemaakte 3½-inch diskette.JPG|thumb|3.5インチフロッピーディスクの内部]]
[[1980年]]に[[ソニー]]が3.5インチ (90mm) の'''マイクロフロッピーディスク'''を開発し、[[1981年]]発売の英文ワープロ「シリーズ35」の外部記録媒体として採用・発売した{{sfn|中山|2010|p=71, 93}}。8インチや5.25インチのフロッピーディスクは薄い樹脂製の袋に磁気ディスクが収められていたが、3.5インチではプラスチック製の硬質なケースに改められた。金属製のスライドカバーがあり、5.25インチディスクと比べ磁性面が接触から守られた。
[[1982年]]に発売された同社製の[[SMC-70]]からパソコンにも搭載されるようになり、1983年に[[ヒューレット・パッカード]]が[[HP-150]]に採用したほか、ソニーも同年に[[MSX]]で採用し、アップルも[[Macintosh]]に採用した。[[PC-9800シリーズ|PC9801 U]]以降の98シリーズや[[Atari ST]]、[[Amiga]]にも採用された。
ソニーは[[1985年]]に未フォーマット時1.6MB、フォーマット時1.44MBの「2HD」のディスクを開発し、[[1987年]]にIBMが[[IBM PS/2|PS/2]]に採用して[[PC/AT互換機|PC互換機]]もこれに追従。1988年までに3.5インチディスクの販売枚数は5.25インチを超えた<ref>1991 DISK/TREND REPORT, FLEXIBLE DISK DRIVES, Figure 2</ref>。
1991年に2.88MBの超高密度2EDを採用した[[NeXTcube]]や[[NeXTstation]]、[[IBM PS/2モデル57]]などが販売されたがこのフォーマットは普及しなかった。
この後3.5インチフロッピーディスクは大いに普及し、最盛期では世界市場で1995年にディスクが年間約45億枚、2002年にはドライブが年間約14000台製造された{{sfn|中山|2010|p=130}}。1993年頃から[[CD-ROM]]が普及しディスクの生産枚数が減少。ドライブも2002年をピークに生産数が減少した。アップルは1998年にフロッピー非搭載の[[iMac]]を発売して話題になった。
=== 年譜 ===
{{更新|date=2015年7月|section=1}}
1980年 ソニーの英文ワープロ「シリーズ35」の外部記録媒体として採用。翌年発売。
1982年 ソニーのパーソナルコンピュータSMC-70に搭載。
[[1983年]]提唱の[[MSX]]が、1984年5月の発売時までに3.5インチに一本化されたこともあり、日本では[[ホビーパソコン|ホビー用途の機種]]や、[[ワードプロセッサ|ワープロ]]専用機では普及が早かった。しかし、3.5インチのメディアは5.25インチより高価で、ゲームなどパッケージソフトの価格にも同封媒体による差があった。パソコン関連雑誌の付録メディアについては「露出した金属を流通させてはならない」という付録に関する規制のため、3.5インチのメディアを付録として使用することが出来なかった。シャッターのプラスチック化は、価格よりもこの対策が主要因である。なお、チャッキング部分は露出していないため、金属製のままとされた。なお、後にはディスクと同じ厚さの[[ボール紙]]で囲うことで金属部分を露出させないように対処した。
また、ビジネス用途では、[[日本電気]] (NEC) 製[[PC-9800シリーズ]]などの中期までは、互換性を重視して5.25インチが主流だった。だが、ホビーユースではいずれの16ビットパソコンも3.5インチを採用したため、両者間のデータ共有が少なからぬ問題となった。結局、家庭用では安価な3.5インチFDD標準搭載のホビーユースモデルに5.25インチFDDを外付けする手法で対応した。さらには、[[EPSON PCシリーズ]]の一部では、3.5インチFDDと5.25インチFDDの両方を標準搭載したパソコンも発売された。
1984年1月、[[Apple|Apple Computer]]の[[Macintosh]]が3.5インチ (400K) を採用したのを皮切りに、世界的にも各社が3.5インチを用いるようになった。[[1986年]]、[[IBM]]は[[IBM PCコンバーティブル|IBM PC Convertible]]で3.5インチ2DD (720KB) を採用。[[1987年]]には[[IBM PS/2|PS/2]]と[[PS/55]]の全モデルで3.5インチを採用。下位機種は2DD (720KB)、上位機種は2DD (720KB) および'''2HD (1.44MB)''' を搭載した。後の上位機種には2ED (2.88MB) も追加された。
この2HD (1.44MB) のフォーマットは2DD (720KB) のフォーマットを単純に2倍にした形である。5インチでの電電公社フォーマットをベースにした国産各社の3.5インチの2HD (1.2M) フォーマット(正確には1.21MBや1.23MBなど)とは互換性が無く、相互に読み書きできなかった。ただし、PS/2やPS/55は企業向けが中心であり、また当時の[[PC/AT互換機]]はまだ5.25インチが主流であり、2ED (2.88MB) は[[NeXTstation]]などのワークステーションに採用された程度で、あまり普及しなかったため、影響は限られていた。
しかし、[[1990年]]に[[DOS/V]]が登場して[[1991年]]に[[OADG]]も3.5インチを推奨し、3.5インチ標準搭載の[[PC/AT互換機]]が一般家庭を含めて日本で本格的に普及すると、日本([[PC-9800シリーズ]]、[[FMRシリーズ]]、[[FM TOWNS]]など)と世界(PC/AT互換機)では両者で標準となった3.5インチの2HDフォーマットで互換性が無いという問題の影響が拡大し、PC/AT互換機の普及の過程で混乱があった。当初は、両者に共通のフォーマットである2DD (720KB) のフロッピーディスクや、ネットワークなどを利用したデータ交換が行われた。中には日本IBMのPS/55Zのようにオプションで1.2MBフォーマットのディスク読み出しに対応したドライブを搭載可能とした機種も存在した。次第に、[[3モードフロッピーディスクドライブ]] (720KB, 1.2MB, 1.44MB) が両者に普及した。
{{Main|3モードフロッピーディスクドライブ}}
[[2000年代]]後半から他の大容量[[電子媒体]]の登場に伴い、3.5インチFDの売り上げは大幅に落ち込んだ。[[2009年]]春に日立マクセル(現・[[マクセルホールディングス]])と[[三菱化学メディア]]がFD生産から撤退。最後までFD生産を続けた[[ソニー]]も、[[2011年]][[3月]]に[[中華人民共和国]]のメーカーに委託しているFDの生産を終了した。
ソニーから発売されていた3.5インチFDのパッケージには長らく「'''世界の3.5フロッピーはソニーから始まった SINCE 1980'''」と記されていた<ref>{{ASIN|B00008B4QI|title=SONY 2HD フロッピーディスク DOS/V用 Windowsフォーマット 3.5インチ ブラック 10枚入り 10MF2HDQDVB}}<br />{{ASIN|B00FILMJS2|title=ソニー(SONY) 2DD アンフォーマット 3.5型 フロッピーディスク 10枚 プラスチックケース入}}<br />(パッケージ写真を参照)</ref>。
=== その他の規格 ===
[[Image:Maxell Compact Floppy Disk CF2-D 20050125.jpg|thumb|200px|3インチ型フロッピーディスク]]
[[ファイル:Video Floppy Disk - front (gabbe).jpg|thumb|200px|2インチ型フロッピーディスク]]
; 4インチ
: 1983年に、IBMが「デミディスケット (Demi Diskette)」という名称で発表。トラックにより回転数を変え、ビット密度を一定にした。また、外装の対角線上で磁気ヘッドを接触させる珍しいレイアウトを採用していた。片面単密度でフォーマット容量250KB。試作のみで製造中止。
; 3.8インチ
: [[キヤノン]]製{{sfn|中山|2010|p=103}}。
; 3.25インチ
: 米国のダイサン製。5.25インチフロッピーディスクをそのままサイズダウンしたもの{{sfn|中山|2010|p=102}}。
; 3インチ
: コンパクトフロッピーとも呼ばれる。1981年に、松下電器産業(現・[[パナソニック]])、[[日立製作所]]、[[日立マクセル]]の3社が規格を発表。片面40トラック、250KBアンフォーマットなど、初めから5.25インチと互換が取れるように設計されていた。3社を中心に、日本でフロッピーディスクの標準化を進めたが、Macintosh、IBM PCが3.5インチを採用し、廃れていった。3.5インチフロッピーディスクより厚い長方形のケースに入ったもので、ケースの内側に読み取り部分のシャッターがある。。実際に各社から発売されたメディアは両面を使うことができ、ディスクを裏返して挿入するドライブや、ディスクを裏返すことなく両面を読み取れるドライブが発売されていた。[[日立製作所|日立家電販売株式会社]]の[[ベーシックマスター]]シリーズ用の外付けドライブMP-3370(79,800円{{Sfn |ASCII 1983年5月号|p=21}})や、[[シャープ]][[X1 (コンピュータ)|X1D]]{{Sfn |ASCII 1983年12月号|p=101}}などに採用されている。
; 2.5インチ
: [[オリベッティ]]が電子式タイプライターの補助記憶装置として販売。容量は8KB{{sfn|中山|2010|p=60}}。
: その他全く別の規格で、三協精機(現・[[ニデックインスツルメンツ]])より8KBまたは16KBのものが、東京電気(現・[[東芝テック]])からも16KBのものが製品化された。
: また、[[シャープ]]の[[ポケットコンピュータ]]向けに、[[クイックディスク]]方式を模した独自のフォーマットで、補助記憶装置[[CE-140F]]が製品化された。
; 2インチ
: 1981年にソニーが発表した[[電子スチルビデオカメラ|ビデオフロッピーディスク]]をデータ用に使用したもの。ソニーのワープロ「PRODUCE」シリーズに使われた。パソコンでは標準搭載された機種は存在しなかったが、PC-9800シリーズ用の外付けドライブがある。
; [[クイックディスク]]
: 1984年に、[[ミツミ電機]]が発表。2.8インチで片面64KB(裏返して使用可能)。渦巻状のトラックでランダムアクセス不可。詳細は「[[クイックディスク]]」を参照。
; [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]
: 1986年に[[任天堂]]が開発した、[[コンシューマーゲーム]]機である[[ファミリーコンピュータ]](ファミコン)用の磁気ディスクシステム。容量は112kB。クイックディスクのケース形状を変更し、任天堂の独自規格としたもの。
=== その後 ===
当初、フロッピーディスクは磁性体の塗布技術に難点があり、不良率が高かった。しかし、特定OS用の初期化作業時に全品検査する方式が導入されると、不良率が激減した。さらに、磁性体の塗布技術が向上し、1990年代前半には品質が安定した。その後は大容量化が図れず、日本ではコスト削減から製造ラインの国外移設により、品質も低下した。
1990年代中盤には、雑誌や本の付録に3.5インチディスクが使われることもあったものの、1990年代後半には、すでにフロッピーディスクは容量、速度、信頼性のいずれも時代遅れとなっていた。[[光磁気ディスク]]、[[フロプティカルディスク]]、[[ZIP (記憶媒体)|ZIP]]、[[jaz]]など、より高速大容量の媒体もあったが、フロッピーディスクは起動用ディスクとして使え、ほぼすべてのコンピューターで共通に使える利点が大きく、長らく使われ続けた。
おおむね2000年頃までフロッピーディスクは盛んに使われていたが、読み書き速度も高速で大容量かつ低価格な[[フラッシュメモリ]](特に[[USBフラッシュドライブ|USBメモリ]]、および[[SDメモリーカード]]([[SDメモリーカード#SDHC|SDHC]]以上))が普及したこと、フロッピーディスク以外の[[記憶媒体]](CD/DVD-ROMなど)からでもOSの起動やセットアップができるようになったことから、フロッピーディスクは徐々に廃れていった。また、本の付録としての使用はより薄くて大量生産が可能なCD/DVD-ROMなどに移行し、また出版社や著者のWebサイト上でのファイル公開という代替手段ができている。
ただし、[[自作パソコン|自作機]]市場では2010年頃まで一定の需要があり、自らシステムメンテナンスを行う自作機ユーザーは、フロッピーディスクを「最後の起動手段」として常識的に搭載してきた。だが、近年の[[Microsoft Windows|Windows]]では、フロッピー起動では[[NT File System|NTFS]]の読み書きをするには上級の知識と技術が必要なため、この意味での搭載の意味は薄くなった。
[[Delivery Service Partner|DSP]]版Windowsのライセンスはハードウェアとのセット(OSとハードウェアを一体製品)で販売されているため、過去にはフロッピーディスクドライブとのセットが見られた。これは、フロッピードライブは今後発展がないと推測されるため交換する必要がなく、ライセンスを維持したまま他のパーツを自由に交換することができる上に安価であるためである。この販売手法が、フロッピーディスクドライブ[[インターフェイス]]を搭載しない[[マザーボード]]が主流となったのちにも一部で継続され、DSP版Windowsを廉価に販売および購入する方法の一つになっていた。フロッピーディスクドライブの製造が各社で終息したことやマザーボードからFDインターフェースが廃止になったこと及び、2010年2月よりフロッピーディスクドライブとのセット販売が禁止された<ref>{{Cite web|和書|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/hotline/20091107/etc_ms.html|title=【 2009年11月7日号 】 DSP版WindowsのFDDセットが2月に終了?|accessdate=2019-08-14|publisher=[[インプレス]]|website=[[Impress_Watch#サイト一覧|AKIBA PC Hotline!]]}}</ref>ことにより、この方法での販売も収束した。その他の需要と問題点については後述する[[#レガシーシステムとしてのフロッピーディスク|レガシーシステムとしてのフロッピーディスク]]を参照。
フロッピーディスクの{{要出典|磁性体特性は、規格に定められているか、あるいは[[デファクトスタンダード]]として定着しており、|date=2019年12月9日月曜日}}メディアの差別化は磁性体をフィルムに固定するバインダーと呼ばれる接着剤に工夫を凝らしていた。磁性体の剥離を最小限に抑えヘッドの清浄性を保つもの、導電性を持たせて埃の付着を防止したもの等があった。
なお、経年劣化した古いメディアをドライブに挿入するとヘッドに[[カビ]]が付着し、他メディア読み取りも不可となる事例がある。対処法としては経時したメディアを使用する時に白い粉が噴いていないか確認することが挙げられる。
== 大容量版 ==
フロッピーディスクの記憶容量を増やすために、フロッピーディスクと[[上位互換]]を持ついくつかの製品が開発されたこともある。それらを総称して'''大容量フロッピーディスク'''という。しかしそれぞれ専用のディスクと専用の[[ドライブ]]が必要で、製品間の互換性もないため、普及しなかったものがほとんどである。
* [[ZIP (記憶媒体)|ZIP]]:フロッピーディスクとの互換性はない。100MB、250MB
* [[スーパーディスク]]:120MB(当初、LS-120と呼ばれた)、240MB
** [[スーパーディスク#概要|FD32MB]] - 2HD媒体を使い特殊フォーマットで32MB詰めこむ。
* [[High Capacity Floppy Disk]] ({{仮リンク|HiFD|en|HiFD}})
* [[フロプティカルディスク]]
* [[Ultra High Capacity]] (UHC)
* [[UHD144]] (it)
== 各ハードウェア規格の開発元 ==
* フロッピーディスク(8インチ):[[1970年]]、[[IBM]]
* ミニフロッピーディスク(5.25インチ):[[1976年]]、[[シュガートアソシエイツ]]
* 4インチ:IBM(試作のみ)
* マイクロフロッピーディスク(3.5インチ):[[1980年]]、[[ソニー]]
* コンパクトフロッピーディスク(3インチ):[[日立製作所]]
* [[電子スチルビデオカメラ|ビデオフロッピーディスク]](2インチ):ソニー、[[キヤノン]]
== 関連する日本産業規格 ==
* [[JIS X 0603]]:情報交換用フレキシブルディスクカートリッジのラベルとファイル構成
* [[JIS X 0605]]:情報交換用フレキシブルディスクカートリッジのボリュームとファイル構成
* [[JIS X 6221]], [[JIS X 6223]], [[JIS X 6226]], [[JIS X 6226]]:90ミリメートルフレキシブルディスクカートリッジ
* [[JIS X 6222]], [[JIS X 6224]], [[JIS X 6225]]:90ミリメートルフレキシブルディスクカートリッジのトラックフォーマット
== フォーマット ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2016年6月}}
=== IBMフォーマット ===
{{see also|IBM形式フロッピーディスク}}
=== 一般的なフォーマットの例 ===
; 200mm 8インチ
* 片面単密度(IBMの「Diskette 1」:約243kB)
* 両面単密度(IBMの「Diskette 2」:約493kB)
* 両面倍密度(IBMの「Diskette 2D」:約985kB)
** 初期には片面単密度、後には両面倍密度が多く利用された。セクタ長など幾つかのバリエーションがある。
** ソフトセクターが一般的であるが、一部の[[オフィスコンピュータ]]や[[メインフレーム]]ではハードセクター方式もあった。
** IBM汎用コンピュータでは、77個のシリンダの内、0番目をインデックスとして末尾の2つを予備用として利用するため、実際にデータとして使えるのは74個のシリンダである。MS-DOSなどでは、77個すべて使える。
** [[1995年]]頃に生産はほぼ終了している。
; 130mm 5.25インチ
* 片面単密度 - 1S (1 sided Single density):約70kB
* 片面倍密度 - 1D (1 sided Double density):約140 - 160kB
* 両面倍密度 - 2D (2 sided Double density):約320 - 360kB
* 両面倍密度倍トラック - 2DD (2 sided Double density Double track):約640 - 720kB
* 両面高密度(8インチ2D相当) - 2HD (2 sided High density Double track):約1 - 1.2MB
* 両面超高密度倍トラック - 2ED (2 sided Extra high density Double track):約2.5MB
** [[IBM PC]]、[[IBM PC XT|PC/XT]]は両面倍密度360kBが一般的、IBM PC/ATは360kBに加え、2HC(IBMの「5.25" Diskette 2HC」)と称する1MB記録が採用された
** Apple IIは独自フォーマットを施すことで1Sながら約143kB(インデックスホールを検知しないため、書き込みノッチを切るだけで両面使用できた)
** NEC [[PC-8800シリーズ]]、[[富士通]][[FM-7]]/[[FM-8|8]]/[[FM-11|11初期型 (ST/AD/EX)]]、[[シャープ]][[X1 (コンピュータ)|X1]]等は2D (320kB) が一般的。PC-8801mkIIMRで2D/2HD (1MB) 両用ドライブが採用された。
** NEC [[PC-100]]は2D (360kB) が採用された。
** NEC [[PC-9800シリーズ|PC-9801]]Fで2DD (640kB)、PC-9801Mで2HD (1MB)、PC-98XAおよびPC-9801VMで2DD/2HD両用ドライブがそれぞれ採用された。
** 富士通[[FM-11|FM-11後期型(AD2/BS以降)]]で2HD (1MB)、[[FM-16β]]および[[FMRシリーズ]]で2DD (640kB)/2HD両用ドライブがそれぞれ採用された。
** シャープ[[X68000]]で2DD (640kB)/2HD (1MB) 両用ドライブが採用された。
** 2EDは、富士通[[OASYS]]の業務用モデルの一部などで採用されたが、3.5インチ2EDと異なりほとんど普及しなかった。
** ソフトセクターが一般的であるが、一部の[[オフィスコンピュータ]]や[[メインフレーム]]および初期のパーソナルコンピュータ(NorthStar Horizonなど)ではハードセクター方式もあった。
** [[2001年]]頃に生産はほぼ終了している。
; 90mm 3.5インチ
* 片面倍密度(1D:約140 - 160kB)
* 両面倍密度(2D:約320 - 360kB)
* 片面倍密度倍トラック(1DD:約320 - 360kB)
* 両面倍密度倍トラック(2DD:約640 - 720kB)
* 両面高密度(2HD:約985kB/1.23MB/1.44MB他|2HC:約1.21MB|[[IBM形式フロッピーディスク|IBM形式]]でフォーマットした場合は、200mm 8インチ2Dに相当する)
* 両面超高密度倍トラック(2ED - 2 sided Extra high density Double track:約2.88MB)
* 両面3倍密度3倍トラック(2TD - 2 sided Triple Density triple track:約9.3MB)
** NEC [[PC-6600シリーズ|PC-6601]]で1D (140kB) が、PC-6601SRで1DD (320kB) が採用された。
** 富士通[[FM-77]]で2D (320kB) が、FM77AV後期型(AV40/20以降)で2DDが採用された。
** [[MSX]]で1DD (360kB)/2DD (720kB) が採用された。日本では早期に2DDに移行したが、欧州では廉価な1DDドライブが発売されたため1DDが普及した。
** [[IBM PCコンバーティブル|IBM PC Convertible]]や[[IBM JX]]で2DD (720kB) が採用された。
** [[IBM PS/2|IBM Personal System/2 (PS/2)]] で2HD (1.44MB) が採用された。
** NEC [[PC-9800シリーズ|PC-9801]]Uで2DD (640/720kB)、PC-9801UVで2HD (1MB)/2DD両用ドライブが採用された。
*** 2HD (1.44MB) を読み書き可能にした3モードFDDが採用されたのは、初代[[PC-9821シリーズ|PC-9821]]からだった。
** 富士通FMRシリーズおよび[[FM TOWNS]]で2DD (640kB)/2HD (1MB) 両用ドライブがそれぞれ採用された。
** シャープX68000 Compactで2DD (640kB)/2HD (1MB) 両用ドライブが採用された。
** {{いつ範囲|現在|date=2019年6月28日 (金) 08:13 (UTC)}}の主流サイズである。
** 2HD (1.23MB) を[[PC-9800シリーズ|98]]フォーマット、2HD (1.44MB) を[[DOS/V]]フォーマットと呼ぶこともある。
** 2HD (1.21MB) は[[東芝]]の[[J-3100]]シリーズ・初期の[[ダイナブック (東芝)|DynaBook]]が標準フォーマットとして採用していた。ただし、当時の同機では2HD (1.44MB) をサポートしていなかったなど、5.25インチのフォーマットをそのまま3.5インチに縮小したという表現の方がより正しい。5.25インチの2HC形式と互換性がある。
** 2EDは東芝が普及に力を入れたが、ドライブが普及しなかったことや、[[MS-DOS]]でサポートされたのはVer.5からだったこともあり、あまり一般的ではない。ただし、2世代目以降の[[NeXTcube]]・[[NeXTstation]]では、初代NeXTcubeの5インチMOに代わる記憶媒体として、ハードディスクドライブとともに標準搭載された。なお、2EDはDynaBookではサポートされなかったが、[[富士通]][[FMRシリーズ]]・[[FM TOWNS]]の[[Basic Input/Output System|BIOS]]ではサポートされていた。
*** 日本国内で3モードドライブといえば1.44MB/1.23MB/720KBを指すのが一般的だが、世界では2.88MB/1.44MB/720KBの事を指していた。そのため、少し古い[[マザーボード]]の[[Basic Input/Output System|BIOS]]で3モード設定を行なうと、不具合を生じる事がある。最近のものは日本仕様になっている(2.88MBには別の設定がある)ため、問題は起こりづらい。
** 2TDは、[[日本電気]] (NEC) のPC-88VA3のみに採用されたドライブで、レーザー刻印によるオプティカルトラックガイドがついたメディアを使用する。
** 2HD (1.23MB) に関しては、PC-9800版MS-DOSのFORMATコマンドで1.25MBと表示されていたために、1.23MBではなく1.25MBと表現されることも多かった。
** Macintoshは独自フォーマットを施すことで片面 (1DD) で400KB、両面 (2DD) で800KBを実現した。外周から16シリンダ毎にセクタ数が減っていき回転数が上がるZCAV方式で、エンコードはGCR方式。2HDの物理フォーマットは1.44MB(ファイルシステムは異なる)で、ユーティリティを使用すればWindows上でもアクセスできる。
*** アップル純正ディスクは、当初は2DDが白色でシャッターにDouble Sidedの表記、2HDは灰色でアップルマークとHigh Density、400K/800Kドライブへ挿入禁止のマークがあった。2HDに、2DDにはない挿入禁止マークがあるのは、2DDは400Kドライブで認識でき『両面ディスクです』と表示される(読み書きはできないので取り出すか初期化するかを選択する)が、2HDは400K/800Kどちらのドライブでも認識できず未フォーマットと同じく『読めません』と表示されるためである。
*** 片面および両面ディスクは[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]接続のドライブではZCAVにもGCRエンコードにも対応できないため[[Classic Mac OS]]上でもアクセスできず、アクセスするにはドライブを搭載した当時の機種が必要になる。そのため、両面ディスクにアクセスでき[[macOS|Mac OS X]]の稼動する機種は初期のG3のみと非常に限られる。PowerBook G3ではそれ以降もFDDのオプションがあったため、Power Mac G3よりも長くサポートされた。
=== 3.5インチフロッピーディスク各形式の詳細 ===
{| class="wikitable"
|-
!形式名!!回転数
([[Rpm (単位)|RPM]])
!アンフォーマット<br />容量!!フォーマット<br />容量!!セクタサイズ
([[バイト (情報)|バイト]])
!セクタ数!!ヘッド数!!シリンダ数!!備考
|-
|style="text-align:left" |1D形式|| rowspan="5"|300|||250KB|||160[[キビバイト|KiB]]|| rowspan="8"|512|| rowspan="2"|8|||1|| rowspan="3" |40||rowspan="6"|日本独自
|-
|style="text-align:left" |2D形式(日本の初期8bitパソコン)|| rowspan="4"|500KB|||320KiB|||2
|-
|style="text-align:left" |2D形式(PC/AT互換機)|||360KiB|||9|||2
|-
|style="text-align:left" |1DD形式|||320KiB|||8|| rowspan="2"|1|| rowspan="5"|80
|-
|style="text-align:left" |1DD形式|||360KiB|||9
|-
|style="text-align:left" |2DD形式(日本の初期パソコン)|| rowspan="2"|300<ref group= * name="PC-9801">PC-9800シリーズでは一部機種を除き360rpm。</ref>|| rowspan="2"|1.00MB|||640KiB|||8|| rowspan="8"|2
|-
|style="text-align:left" |2DD形式(大抵のパソコン)|||720KiB|||9|||
|-
|style="text-align:left" |2HC形式(俗称)|| rowspan="2"|360|| rowspan="2"|1.60MB|||1200KiB|||15|| rowspan="2" |日本独自
|-
|style="text-align:left" |2HD形式(日本のパソコン)|||1232KiB|||1024|||8|||77
|-
|style="text-align:left" |2HD形式(PC/AT互換機)|||300|||2.00MB|||1440KiB|||512|||18|||80|||
|-
|style="text-align:left" |2HD形式(IBM形式/H型)|||360|||1.60MB|| rowspan="2"|985KB|| rowspan="2"|256|| rowspan="2"|26|| rowspan="2"|77|| rowspan="2" |日本独自
|-
|style="text-align:left" |2HD形式(三菱IBM形式)|| rowspan="2"|300|||2.00MB
|-
|style="text-align:left" |2ED形式|||4.00MB|||2880KiB|| rowspan="6"|512|||36|| rowspan="4"|80|||
|-
|style="text-align:left" |1DD形式(Mac 片面)|| rowspan="2"|394~
590
||500KB|||400KiB|| rowspan="2"|12~8|||1|||
|-
|style="text-align:left" |2DD形式(Mac 両面)|||1.00MB|||800KiB|| rowspan="4"|2|||
|-
|style="text-align:left" |2HD形式(Mac 高密度)|||300|||2.00MB|||1440KiB|||18|||
|-
|style="text-align:left" |2TD形式(NEC一部機種)|||360|||12.5MB|||9.3MB|||38|||240||rowspan="2"|日本独自
|-
|style="text-align:left" |2HD形式 (FD32MB)|| colspan="2"|N.A|||約32MB|||53~36|||777
|}
;参考
{| class="wikitable"
|-
!形式名!!回転数
([[Rpm (単位)|RPM]])
!アンフォーマット<br />容量!!フォーマット<br />容量!!セクタサイズ
([[バイト (情報)|バイト]])
!セクタ数!!ヘッド数!!シリンダ数!!備考
|-
|style="text-align:left" |8インチ1S形式(汎用機)|| rowspan="5"|360|||400KB|||243KB|| rowspan="2"|128|| rowspan="3"|26|||1|| rowspan="3"|77|||
|-
|8インチ2S形式(汎用機)
|800KB
|493KB
| rowspan="4" |2
|
|-
|style="text-align:left" |8インチ2D形式(汎用機)|| rowspan="3"|1.60MB|||985KB|||256|||
|-
|style="text-align:left" |5.25インチ2HC形式 ([[PC/AT]])|||1200KiB|||512|||15|||80|||
|-
|style="text-align:left" |5.25インチ2HD形式(PC-9800シリーズ)|||1232KiB|||1024|||8|||77|| rowspan="3"|日本独自
|-
|style="text-align:left" |5.25インチ1S形式 (SA-400)|| rowspan="2"|300|||100KB|||80KB|||256|| rowspan="2"|18|||1|| rowspan="2"|35
|-
|style="text-align:left" |5.25インチ2D形式 (SA-450)|||400KB|||320KB|||512|||2
|}
== レガシー化 ==
前述の自作機パーツとしての用途が廃れた後も、[[刺繍]]機、[[現金自動預け払い機]]、医療機器、航空機関連の機器など既存の機器を使い続ける業界では需要があったが、機材の更新により姿を消しつつある。
日本国内では[[2011年]]3月以前にソニーが生産と販売を終了<ref>{{Cite web|和書|date=2010年4月23日 |url=https://www.sony.jp/rec-media/info/20100423.html |title=3.5型フロッピーディスク販売終了のお知らせ |publisher=ソニー |accessdate=2019-08-12}}</ref><ref name="GBS">{{Cite web|date=2015/11/29|url=http://www.greatbigstory.com/stories/floppy-disks-are-still-a-thing|title=Floppy Disks Are (Sort Of) Still A Thing
|publisher=Great Big Story|accessdate=2016-07-29}}</ref>したが、[[エレコム]]ではフロッピーディスク用のケースが2022年時点でも一定数売れているため販売を継続している<ref name=":0" />。
官公庁では2022年現在もデータの受け渡しに利用されている<ref>{{Cite web|和書|title=警視庁フロッピーディスクを紛失 区営住宅申し込み者情報記録|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211227/k10013405651000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-12-27|last=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「生きとったんかワレ」──“フロッピーディスク”がトレンド入り 「コロナ給付金」送金ミス報道で |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2204/22/news184.html |website=ITmedia NEWS |date=2022-04-22 |access-date=2022-04-22 |language=ja}}</ref><ref name=":0" />。オンライン申請への切り替えが進んでいるが、法令による指定やフロッピーディスクにしか対応していない民間事業者が残っているなどの理由で利用を継続している<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=フロッピー提出求める法令1900条項 河野デジタル相、全廃に意欲 |url=https://mainichi.jp/articles/20220830/k00/00m/010/146000c |website=毎日新聞 |access-date=2022-08-31 |language=ja}}</ref>。[[厚生労働省]]では医薬品や医療機器の承認審査の受付でフロッピーディスクを指定していたため、オンライン申請が可能となった2022年現在でも「FD申請」という名称で運用している<ref>{{Cite web|和書|title=FD申請 医薬品医療機器等の承認・許可等 厚生労働省 |url=https://web.fd-shinsei.go.jp/ |website=web.fd-shinsei.go.jp |access-date=2022-05-19}}</ref>。2020年時点でオンラインかコンパクトディスクでの申請が大多数であるが、一部の企業からフロッピーディスクしか対応できないという申し出があるため、データの破損があることを通知した上で受付を継続している<ref name=":0" />。日本では2022年時点でフロッピーディスクなど、特定の記録媒体による提出を求める法令が約1900条項あることから、これらの改正を予定している<ref name=":1" />。
民間では[[西陣織]]では、[[織機]]に紋様の織り出し方を指示する紋意匠図の製作と製織の過程で、以前は「紋紙」と呼ばれる孔開き厚紙(歴史的には、コンピュータ以前の時代から使われていた[[パンチカード]]の由来である、イギリスで発明された織機のシステムそのものである)を使っていたが、1980年代に紋紙に代わって電子的な形式が制定され([[CGS ジャカードフォーマット|コンピュータ柄システム]])フロッピーディスクを使う機器が普及した。その後フロッピーディスクの生産打ち切りに伴い、ほとんどの織機が使えなくなるおそれを生じている<ref>{{Cite web|和書|date=2011-11-24|url=http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201111240059.html|title=消えるFD、西陣直撃 織機9割今も使用|publisher=朝日新聞|accessdate=2012-09-07}}{{リンク切れ|date=March 2018}}</ref>。このような問題に対応するために京都市産業技術研究所でシステムが開発され、[[2011年]]から西陣織セミナーが開催されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://chie-yugo.com/past_event_2011/2011/10/821 |title=平成23年度 京都市伝統産業技術者研修 第1回西陣織セミナーの開催について |accessdate=2012年12月15日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131214014047/http://chie-yugo.com/past_event_2011/2011/10/821 |archivedate=2013年12月14日 }}</ref>。銀行ではオンラインへの移行を促しフロッピーディスクによる受け渡しを廃止しているが、官公庁のみ特別に対応している例がある<ref name=":0" />。
[[アメリカ合衆国連邦政府]]でも、[[2016年]]になっても[[核兵器]]の運用部門にはフロッピーディスクが使われており、それらを始めとする旧式システムの維持管理に、年間600億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]](約6兆6000億円)以上も費やされることが問題となっていた<ref name="cnn">{{Cite web|date=2016-05-28|url=http://www.cnn.co.jp/tech/35083371.html|title=米軍の核ミサイル運用、「フロッピーディスク」にいまだ依存|publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]|accessdate=2016-06-16}}</ref>。2019年になり、[[アメリカ戦略軍|戦略司令部]]は「フロッピーディスクデバイスを『安全性の高い[[ソリッドステートドライブ|SSD記憶装置]]』に置き換えた。」とアナウンスした<ref>{{Cite web|title=The US nuclear forces’ Dr. Strangelove-era messaging system finally got rid of its floppy disks|url=https://www.c4isrnet.com/air/2019/10/17/the-us-nuclear-forces-dr-strangelove-era-messaging-system-finally-got-rid-of-its-floppy-disks/|website=C4ISRNET|date=2019-10-18|accessdate=2019-10-21|language=en-US|first=Valerie|last=Insinna}}</ref>。
[[アメリカ国防総省]]は、一刻も速くフロッピーディスクの使用を停止する方針を発表しているが、新システム構築のために用意された投資額は、旧システム維持費用の3分の1以下に留まっており、「簡単に言えば現在も機能しているため」旧システムは使われ続けている<ref>{{Cite web|和書|date=2016-05-26|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3088372|title=米軍、核兵器運用に今も8インチフロッピー使用|publisher=AFP|accessdate=2016-06-16}}</ref>。これらは同省固有の現象ではなく、[[アメリカ合衆国財務省|財務省]]{{R|cnn}}や[[ホワイトハウス]]<ref>{{Cite web|和書|date=2015-11-14|url=https://www.huffingtonpost.jp/2015/11/13/obsolete-technology-list_n_8562094.html|title=フロッピーディスクからカセットテープまで 2015年でも現役なレトロテクノロジーとは|publisher=ハフィントン・ポスト|accessdate=2016-06-16}}</ref>でもフロッピーディスクや、[[1950年代]]の[[コンピュータプログラム]]が使われ続けている。
これら旧システムには、2015年ごろまでは[[インターネット]]から遮断され、[[サイバー攻撃]]の影響を受けないこと、長年使用されてきた信頼性と確実性は、新規システムを上回るなどの利点が指摘されていた<ref>{{Cite web|date=2015/09/26|url=http://www.digitaltrends.com/computing/why-do-floppy-disks-still-exist-the-world-isnt-ready-to-move-on/|title=Think the floppy disk is dead? Think again! Here’s why it still stands between us and a nuclear apocalypse|publisher=DIGITAL TRENDS|accessdate=2016-07-29}}</ref>。ただし、2015年段階で新品のフロッピーディスクの入手は困難となっており、アメリカ政府も専門の業者を通じて中古品を購入していることが伝えられている<ref>{{Cite web|和書|date=2015-12-07 |url=https://gigazine.net/news/20151207-floppydisk-com-president-interview/ |title=フロッピーディスクの販売を続ける社長へのミニインタビューがネットで公開中 |publisher=[[GIGAZINE]] |accessdate=2019-08-12}}</ref>。またメディアの耐久性や容量、セキュリティの高いオンラインストレージの登場もあり、上記のように置き換えが進んでいる<ref name=":0" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{出典の明記|section=1|date=2019年6月28日 (金) 08:13 (UTC)}}
{{Reflist|group = *}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
=== 参考文献 ===
* {{Citation|和書|last=中山|first=正行|author-link=中山正之|date=2010-11-30|year=2010|title=世界を変えた1枚のディスク: 3.5インチフロッピーディスク開発物語 |publisher=[[角川学芸出版]]|isbn=978-4-0465-3725-6}} - 著者は3.5インチFDの開発者、工学博士の中山正之。p.28には中山の論文『技術文脈の融合と技術開発』([[吉川弘之]] 監修『新工学知-2 技術知の本質 文脈性と創造性』[[東京大学出版会]]、1997年5月21日、{{ISBN2|978-4-13-065112-7}}、第一部)が初出。
*{{Cite journal|和書|journal=ASCII 1983年5月号 |volume=7 |issue=5 |publisher=アスキー出版 |year=1983 |month=4 |ref={{sfnref|ASCII 1983年5月号}} }}
*{{Cite journal|和書|journal=ASCII 1983年12月号 |volume=7 |issue=12 |publisher=アスキー出版 |year=1983 |month=12 |isbn= |ref={{sfnref|ASCII 1983年12月号}} }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Floppy disk}}
{{Wikinews|フロッピーディスクの利用率は26.7% - アイシェア調査|date=2008年11月20日}}
* [[スマートメディア]] (Solid State Floppy Disk Card)
* [[ブートディスク]]
* [[中松義郎]] - フロッピーディスクの発明者と主張している。中松が取得する一部の特許についてIBMと中松が非独占的特許使用契約を結んでいるが、IBM側は発明に関わるものではないとしている。
{{Basic computer components}}
{{補助記憶装置}}
{{ディスクイメージ}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ふろつひいていすく}}
[[Category:磁気ディスク]]
[[Category:コンピュータストレージメディア]]
[[Category:アメリカ合衆国の発明]] | 2003-03-09T07:59:17Z | 2023-11-28T01:15:46Z | false | false | false | [
"Template:Normdaten",
"Template:Otheruses",
"Template:Lang-en-short",
"Template:仮リンク",
"Template:いつ範囲",
"Template:Cite journal",
"Template:Basic computer components",
"Template:Sfn",
"Template:ISBN2",
"Template:ディスクイメージ",
"Template:出典の明記",
"Template:Main",
"Template:要出典",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
"Template:Commonscat",
"Template:補助記憶装置",
"Template:要出典範囲",
"Template:雑多な内容の箇条書き",
"Template:Citation",
"Template:ASIN",
"Template:更新",
"Template:R",
"Template:Reflist",
"Template:Wikinews",
"Template:See also",
"Template:リンク切れ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AF |
3,716 | 総武線 | 総武線(そうぶせん):鉄道路線名称。以下の項目に大別される。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "総武線(そうぶせん):鉄道路線名称。以下の項目に大別される。",
"title": null
}
] | 総武線(そうぶせん):鉄道路線名称。以下の項目に大別される。 総武線 (国有鉄道線路名称)… 本線を中核とする鉄道路線群および系統路線の総称→国鉄・JR線路名称一覧#総武線の部
総武線 (事業基本計画線名)
総武本線
総武本線 (支線)→中央・総武緩行線
総武本線 (貨物支線)
越中島支線
新金貨物線
総武線 (旅客案内上)
総武線 (快速)→横須賀・総武快速線
総武線 (各駅停車)→中央・総武緩行線 | '''総武線'''(そうぶせん):鉄道路線名称。以下の項目に大別される。
* 総武線 (国有鉄道線路名称)… 本線を中核とする鉄道路線群および系統路線の総称→[[国鉄・JR線路名称一覧#総武線の部]]
* 総武線 (事業基本計画線名)
** [[総武本線]]
** 総武本線 (支線)→[[中央・総武緩行線]]
** 総武本線 (貨物支線)
*** [[越中島支線]]
*** [[新金貨物線]]
* 総武線 (旅客案内上)
** 総武線 (快速)→[[横須賀・総武快速線]]
** 総武線 (各駅停車)→[[中央・総武緩行線]]
== 関連項目 ==
* [[総武 (曖昧さ回避)]]
<!-- == 脚注 ==
;注釈
<references group="注" />
;出典
{{Reflist}} -->
{{aimai}}
{{デフォルトソート:そうふせん}}
[[Category:総武本線]]
[[Category:同名の交通]] | 2003-03-09T08:41:36Z | 2023-12-20T03:33:34Z | true | false | false | [
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E6%AD%A6%E7%B7%9A |
3,718 | プリペイドカード | プリペイドカード(英: prepaid card 略語:プリカもしくはプリペ)とは、予め入金して積み立てておく形(前払い)で一定金額の価値を有し、商品やサービスを提供してもらう権利のあるカード型の有価証券(金券)。プリペイドカードはトラベラーズチェックなどと同じく前払式決済の一種である。ただし、クレジットカードや預金口座から即時引き落とされるデビットカードとは異なる。
デビットカードと混同されやすいが、プリペイドカードの場合には入金した後は出金して現金化することができないタイプも多いので、注意が必要である。
また、プリペイドカードは未成年でも発行することができる物もある。
プリペイドカードとは次のような特徴を有する磁気カードなどのカード類である。
事前に代金を支払って購入するもので、商品券と異なり、残額がゼロになるまで繰り返し利用できる。発行者側には、使用完了までの間に資金運用が可能、少額決済のために釣り銭の用意や販売機等に投入された硬貨の回収の手間が省けるなどの利点がある。また利用者側には、小銭を持ち歩く必要がなく、軽くて持ち歩きやすい、カードによってはプレミアム(おまけ)やポイント還元により現金での決済より有利、などの利点がある。
基本的には磁気で記録するカードであるため、記録するデータ量がさほど多くなく、また市販のカードリーダ/ライタで偽造が行いやすい。そのため、偽造カードの流通が大きな社会問題となっており、高額カードの発売および利用停止(テレホンカード(NTT)やオレンジカード(JRグループ)など)や、さらにプリペイドカードシステムそのものが廃止(ハイウェイカード(旧・道路関係四公団)、オレンジカード、ふみカード(日本の郵便局)など)されたものもある。
偽造対策のために開発されたICカードの一部や、国際ブランドのプリペイドカードでは、繰り返し代金を追加して利用できるカードもあり、一部の電子マネーに相似する。
また、モバイラーズチェックのように、磁気式ではなく、スクラッチカード(英語版)印刷で一意の番号を記入したカードもある。これらのカードは、購入後、一意の番号を携帯電話等に登録して購入金額分の利用権を登録する形で利用する。また、コンビニエンスストアなどでは金券類などの盗難対策として、チケット用紙ないしは感熱式のレシートなど、シートに登録用の番号を印字して発行されていたが、最近ではプリペイドカードの裏面のバーコードをPOSレジに通し、購入処理が行われたことによってプリペイドカードの残高が有効になるシステム(POSA〈Point Of Sales Activation、POSアクティベーション〉方式)が導入されたことにより、カード式での販売が再び行われるようになった。
カードは多種多様に富んだデザインの物が発行されており、チャージが出来ないものは残額を使い切ったあとは使用用途が無くなる。使用済みプリペイドカードは回収してリサイクルされて別のプラスチック製品の原料になるほか、コレクターが収集目的で買い取る事がある。これを利用して、援助団体が発展途上国への援助活動などの活動資金の資金源として使用済みプリペイドカードを回収している事がある。また、一部のプリペイドカード採用事業者では、使用済みカードを特定枚数集めて特定金額の未使用カード1枚と交換するシステムを実施している事業者がある。
クレジットカードの場合と異なり、基本的にチャージ済み残高の不正使用(偽造も含まれる)や、プリペイドカードの紛失・盗難・障害に関する補償は無い。カード使用の際も、基本的に信用照会、与信照会は行われず、残高チェックだけが行われる。ただし、ブランドによっては、個人情報を登録しなくても利用できるカードにおける個人情報の登録や、特定の有料会員サービスを事前に契約しておくと、紛失や不正使用分が補償されるサービスもある。
基本的に無記名式のプリペイドカードは残高再発行は不能である。記名式(名義あり)であっても、プリペイドカードでは残高再発行に対応しないブランドが多数である。
ブランドカード型のプリペイドカードは、クレジットカードと同様に裏面の署名欄があるが、ここに署名するだけでは不正使用等に対する補償はされない。
プリペイドカードでオートチャージ機能を使用している場合、不正使用、盗難や紛失が発覚した場合には速やかに利用停止措置を取る必要がある。この点は、プリペイド(前払い)式の電子マネーと仕組みはほぼ同様である。詳細は「電子マネー」参照。
なお、ブランドカード型のものでは、ICカード対応によりカード自体の偽造防止対応が進んでいる。それ以外のハウス型カードでは磁気カードのままの物も多数ある。
アメリカ合衆国はプリペイドカードの先進国となった国であり1976年に地下鉄で利用されたのが始まりである。
プリペイドカードについて米国では州により規制が異なる。プリペイドカード発行のための法的な資格要件が定められておらず所持人に対する特別の保護もないところもあるが、州の法律によって発行条件が厳格に規制され発行主体の倒産時の所持人保護について規定している州もある。
アメリカでは詐欺まがいの使用できないテレホンカードが流通して社会問題になったことがある。
ブランドプリペイドカードとしては、日本では発行、販売されていないアメリカンエキスプレスのプリペイドカードも存在する。
日本では1982年に旧電電公社がテレホンカードを発行したのが最初とされている。
プリペイドカードの多くは資金決済に関する法律、それに基づく政令である資金決済に関する法律施行令(平成二十二年政令第十九号)、内閣府令である前払式支払手段に関する内閣府令(平成二十二年内閣府令第三号)によって規制される前払式支払手段の一種である。日本では1989年(平成元年)の前払式証票の規制等に関する法律により法規制が行われ同法はプリペイドカード法と呼ばれていた。前払式証票の規制等に関する法律に代わって2010年(平成22年)に施行されたのが資金決済に関する法律である。
資金決済に関する法律、前払式支払手段に関する内閣府令によって、通常、発行主体は内閣総理大臣(財務局)への届出か申請を必要とし、毎年3月・9月末時点で発行したカードの未使用残高が1000万円を超える場合、残高の半分以上の発行保証金を供託しておく義務などを負う。ただし、交通機関の回数券などは別の制度によって保全され、ハイウェイカードなどのような特殊法人が発行するものは、この法律の適用から除外されている。
日本ではこれらの法令のほかプリペイドカード取引標準約款及び加盟店規約例も定められている。
下記のものがあるが、その他に、SBI新生銀行等の外貨預金利用者を対象に、当該口座からチャージして国外で引き出すためのプリペイドカードも発行されている。
下記2サービスは海外で始まったサービスで、現在は日本からアカウントの登録、カードの申し込みが可能。複数の通貨を容易に扱えるマルチカレンシー口座の残高から支払われるカード(口座紐づけ)という事で、扱い上は「デビットカード」となっているが、日本の従来の銀行や信用金庫といった金融機関の口座と直接紐づけするという意味ではなく、そのサービスのアカウント内・アプリ内の口座にVISA/Masterのクレジットカードか一般の金融機関からの銀行振込にて資金をチャージしてからカードを使うので、日本ではブランドデビットというよりはブランドプリペイドのイメージに近い。
上記プリペイドカード一覧内のキャッシュパスポートのように、海外専用で国内の店舗では一切使えないカードも存在する中、RevolutとTransferWiseのカードは海外発のサービスながら日本国内の店舗でも利用できる。
バーチャルカードとはインターネット上の決済のみで使えるカードである。下記のものの他、三菱UFJニコスやオリエントコーポレーション、ジャックス等が、すでに自社のクレジット会員を対象として、クレジットのショッピング枠からチャージして、本来のクレジットの会員番号とは別の番号でネット決済できるプリペイド式のバーチャルカードが設定されている。
国際ブランドが付与されているが追加チャージ機能がないカード。テレホンカード等の使い切りタイプはハウスカードにあたる為後述の欄参照。
ハウスカードとは決済に使用できる対象が特定の会社の製品やサービスに限定されているものをいう。
※アルファベット順、五十音順(後継カードがある場合のみ直下に掲載する場合がある)
上記の他、交通系のカードが多数存在する。
VISA・MasterCardなど、国際ブランドが付与されていて、クレジットカードと同じように使用できるプリペイドカードをブランドプリペイドカード(ブランドプリカ)と呼ぶことがある。
これらのカードは実店舗で利用できるようにカードを発行するタイプと、ネットショップでの利用を前提としてカードそのものは発行せずにカード番号の発行のみを行うバーチャルタイプのカードが存在する。
カードによっては店頭に置いてあるカードに署名をすればすぐに入金して利用できるタイプのものもあり、これらのカードには表面の契約者名の部分に『CARD HOLDER』や『CARD MEMBER』など、個人名が記載されていない事がある。端末機器に名前が表示される、あるいは伝票に名前が印字される場合はカードに記載されたこのような名前が表示あるいは印字される。
残高以上の決済がされないように利用の都度信用照会による確認が必要なため、クレジットカードとは異なり信用照会端末やインターネット以外での決済には対応していないことが多く、インプリンタによる決済ができないようにカード番号などのエンボス加工がされていないものがほとんどである(ただし手書きで処理可能な場合はそれで決済できてしまうこともある)。
支払いしようとした金額がカード残高を超えた場合、信用照会が通らないため利用することが出来ず、カード決済の性格上、他の決済手段と併用して支払うことも出来ない(不足分を現金で決済することが可能な店舗もごく稀に存在する)。その他、定期的に支払いを行う処理(公共料金の月額利用料の支払い等)や、決済金額がその場で確定しない処理(ガソリンスタンドにおける給油料金の支払い)には利用できないが、例外としてKyash Cardやバンドルカードプラスではデポジットを預かることでガソリンスタンドに対応、au PAY プリペイドカードは出光興産のガソリンスタンドのうち出光ブランドあるいは出光ブランドから転換されたapollostationでのみ利用可能。飛行機の機内販売や、高速道路の料金所はその時点ではオフライン扱いの取引の為、利用が出来ない。
上記でもあるように公共料金や会員サイト等の定額支払いには利用できないのは勿論であるが、ネット通販等でその時限りの決済の場合でもエラー表示となり利用できないケースも少なくない。ブランドプリペイドやブランドデビットは、カードの性質上ネット通販での購入申し込み時の信用照会、商品発送時の本決済の二重引き落としが発生するリスクがあり、こういったトラブルを避けるために本当のクレジットカードのみ受け付けるように設定されているものと思われる。ブランドカードは頭4桁〜8桁で発行会社やカードの種類が決まっているためそれらを受け付けないようにされているか、多くのブランドプリペイドで11円以上でないと決済出来ないようになっている事から、カード番号登録や購入申し込み時に10円以下の承認を取って利用可能カードか判別する通称「1円オーソリ」を実施しているサイトの可能性が高い。なお、実質利用できるサイトでの利用で二重決済が発生してしまった場合でも、本決済以外の利用承認分は店舗からの正式な請求データーが送られない為に、期間は数日から1か月以上要するがその分の残高が復活するとされている。
1度入金した残高は現金での払い戻しに対応していないものがほとんどだが、手数料を支払うことにより残高を現金で引き出すことが可能なものもある。
2016年以降、国外での決済やATM引出に対応するカードの場合は、個人番号を届け出ないと発行できない場合がある(あるいは、発行可能であっても国内利用のみに制限される場合もある)。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "プリペイドカード(英: prepaid card 略語:プリカもしくはプリペ)とは、予め入金して積み立てておく形(前払い)で一定金額の価値を有し、商品やサービスを提供してもらう権利のあるカード型の有価証券(金券)。プリペイドカードはトラベラーズチェックなどと同じく前払式決済の一種である。ただし、クレジットカードや預金口座から即時引き落とされるデビットカードとは異なる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "デビットカードと混同されやすいが、プリペイドカードの場合には入金した後は出金して現金化することができないタイプも多いので、注意が必要である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "また、プリペイドカードは未成年でも発行することができる物もある。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "プリペイドカードとは次のような特徴を有する磁気カードなどのカード類である。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "事前に代金を支払って購入するもので、商品券と異なり、残額がゼロになるまで繰り返し利用できる。発行者側には、使用完了までの間に資金運用が可能、少額決済のために釣り銭の用意や販売機等に投入された硬貨の回収の手間が省けるなどの利点がある。また利用者側には、小銭を持ち歩く必要がなく、軽くて持ち歩きやすい、カードによってはプレミアム(おまけ)やポイント還元により現金での決済より有利、などの利点がある。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "基本的には磁気で記録するカードであるため、記録するデータ量がさほど多くなく、また市販のカードリーダ/ライタで偽造が行いやすい。そのため、偽造カードの流通が大きな社会問題となっており、高額カードの発売および利用停止(テレホンカード(NTT)やオレンジカード(JRグループ)など)や、さらにプリペイドカードシステムそのものが廃止(ハイウェイカード(旧・道路関係四公団)、オレンジカード、ふみカード(日本の郵便局)など)されたものもある。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "偽造対策のために開発されたICカードの一部や、国際ブランドのプリペイドカードでは、繰り返し代金を追加して利用できるカードもあり、一部の電子マネーに相似する。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "また、モバイラーズチェックのように、磁気式ではなく、スクラッチカード(英語版)印刷で一意の番号を記入したカードもある。これらのカードは、購入後、一意の番号を携帯電話等に登録して購入金額分の利用権を登録する形で利用する。また、コンビニエンスストアなどでは金券類などの盗難対策として、チケット用紙ないしは感熱式のレシートなど、シートに登録用の番号を印字して発行されていたが、最近ではプリペイドカードの裏面のバーコードをPOSレジに通し、購入処理が行われたことによってプリペイドカードの残高が有効になるシステム(POSA〈Point Of Sales Activation、POSアクティベーション〉方式)が導入されたことにより、カード式での販売が再び行われるようになった。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "カードは多種多様に富んだデザインの物が発行されており、チャージが出来ないものは残額を使い切ったあとは使用用途が無くなる。使用済みプリペイドカードは回収してリサイクルされて別のプラスチック製品の原料になるほか、コレクターが収集目的で買い取る事がある。これを利用して、援助団体が発展途上国への援助活動などの活動資金の資金源として使用済みプリペイドカードを回収している事がある。また、一部のプリペイドカード採用事業者では、使用済みカードを特定枚数集めて特定金額の未使用カード1枚と交換するシステムを実施している事業者がある。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "クレジットカードの場合と異なり、基本的にチャージ済み残高の不正使用(偽造も含まれる)や、プリペイドカードの紛失・盗難・障害に関する補償は無い。カード使用の際も、基本的に信用照会、与信照会は行われず、残高チェックだけが行われる。ただし、ブランドによっては、個人情報を登録しなくても利用できるカードにおける個人情報の登録や、特定の有料会員サービスを事前に契約しておくと、紛失や不正使用分が補償されるサービスもある。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "基本的に無記名式のプリペイドカードは残高再発行は不能である。記名式(名義あり)であっても、プリペイドカードでは残高再発行に対応しないブランドが多数である。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "ブランドカード型のプリペイドカードは、クレジットカードと同様に裏面の署名欄があるが、ここに署名するだけでは不正使用等に対する補償はされない。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "プリペイドカードでオートチャージ機能を使用している場合、不正使用、盗難や紛失が発覚した場合には速やかに利用停止措置を取る必要がある。この点は、プリペイド(前払い)式の電子マネーと仕組みはほぼ同様である。詳細は「電子マネー」参照。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "なお、ブランドカード型のものでは、ICカード対応によりカード自体の偽造防止対応が進んでいる。それ以外のハウス型カードでは磁気カードのままの物も多数ある。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国はプリペイドカードの先進国となった国であり1976年に地下鉄で利用されたのが始まりである。",
"title": "米国のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "プリペイドカードについて米国では州により規制が異なる。プリペイドカード発行のための法的な資格要件が定められておらず所持人に対する特別の保護もないところもあるが、州の法律によって発行条件が厳格に規制され発行主体の倒産時の所持人保護について規定している州もある。",
"title": "米国のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "アメリカでは詐欺まがいの使用できないテレホンカードが流通して社会問題になったことがある。",
"title": "米国のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ブランドプリペイドカードとしては、日本では発行、販売されていないアメリカンエキスプレスのプリペイドカードも存在する。",
"title": "米国のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "日本では1982年に旧電電公社がテレホンカードを発行したのが最初とされている。",
"title": "日本のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "プリペイドカードの多くは資金決済に関する法律、それに基づく政令である資金決済に関する法律施行令(平成二十二年政令第十九号)、内閣府令である前払式支払手段に関する内閣府令(平成二十二年内閣府令第三号)によって規制される前払式支払手段の一種である。日本では1989年(平成元年)の前払式証票の規制等に関する法律により法規制が行われ同法はプリペイドカード法と呼ばれていた。前払式証票の規制等に関する法律に代わって2010年(平成22年)に施行されたのが資金決済に関する法律である。",
"title": "日本のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "資金決済に関する法律、前払式支払手段に関する内閣府令によって、通常、発行主体は内閣総理大臣(財務局)への届出か申請を必要とし、毎年3月・9月末時点で発行したカードの未使用残高が1000万円を超える場合、残高の半分以上の発行保証金を供託しておく義務などを負う。ただし、交通機関の回数券などは別の制度によって保全され、ハイウェイカードなどのような特殊法人が発行するものは、この法律の適用から除外されている。",
"title": "日本のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "日本ではこれらの法令のほかプリペイドカード取引標準約款及び加盟店規約例も定められている。",
"title": "日本のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "下記のものがあるが、その他に、SBI新生銀行等の外貨預金利用者を対象に、当該口座からチャージして国外で引き出すためのプリペイドカードも発行されている。",
"title": "日本のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "下記2サービスは海外で始まったサービスで、現在は日本からアカウントの登録、カードの申し込みが可能。複数の通貨を容易に扱えるマルチカレンシー口座の残高から支払われるカード(口座紐づけ)という事で、扱い上は「デビットカード」となっているが、日本の従来の銀行や信用金庫といった金融機関の口座と直接紐づけするという意味ではなく、そのサービスのアカウント内・アプリ内の口座にVISA/Masterのクレジットカードか一般の金融機関からの銀行振込にて資金をチャージしてからカードを使うので、日本ではブランドデビットというよりはブランドプリペイドのイメージに近い。",
"title": "日本のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "上記プリペイドカード一覧内のキャッシュパスポートのように、海外専用で国内の店舗では一切使えないカードも存在する中、RevolutとTransferWiseのカードは海外発のサービスながら日本国内の店舗でも利用できる。",
"title": "日本のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "バーチャルカードとはインターネット上の決済のみで使えるカードである。下記のものの他、三菱UFJニコスやオリエントコーポレーション、ジャックス等が、すでに自社のクレジット会員を対象として、クレジットのショッピング枠からチャージして、本来のクレジットの会員番号とは別の番号でネット決済できるプリペイド式のバーチャルカードが設定されている。",
"title": "日本のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "国際ブランドが付与されているが追加チャージ機能がないカード。テレホンカード等の使い切りタイプはハウスカードにあたる為後述の欄参照。",
"title": "日本のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ハウスカードとは決済に使用できる対象が特定の会社の製品やサービスに限定されているものをいう。",
"title": "日本のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "※アルファベット順、五十音順(後継カードがある場合のみ直下に掲載する場合がある)",
"title": "日本のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "上記の他、交通系のカードが多数存在する。",
"title": "日本のプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "VISA・MasterCardなど、国際ブランドが付与されていて、クレジットカードと同じように使用できるプリペイドカードをブランドプリペイドカード(ブランドプリカ)と呼ぶことがある。",
"title": "国際ブランドタイプのプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "これらのカードは実店舗で利用できるようにカードを発行するタイプと、ネットショップでの利用を前提としてカードそのものは発行せずにカード番号の発行のみを行うバーチャルタイプのカードが存在する。",
"title": "国際ブランドタイプのプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "カードによっては店頭に置いてあるカードに署名をすればすぐに入金して利用できるタイプのものもあり、これらのカードには表面の契約者名の部分に『CARD HOLDER』や『CARD MEMBER』など、個人名が記載されていない事がある。端末機器に名前が表示される、あるいは伝票に名前が印字される場合はカードに記載されたこのような名前が表示あるいは印字される。",
"title": "国際ブランドタイプのプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "残高以上の決済がされないように利用の都度信用照会による確認が必要なため、クレジットカードとは異なり信用照会端末やインターネット以外での決済には対応していないことが多く、インプリンタによる決済ができないようにカード番号などのエンボス加工がされていないものがほとんどである(ただし手書きで処理可能な場合はそれで決済できてしまうこともある)。",
"title": "国際ブランドタイプのプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "支払いしようとした金額がカード残高を超えた場合、信用照会が通らないため利用することが出来ず、カード決済の性格上、他の決済手段と併用して支払うことも出来ない(不足分を現金で決済することが可能な店舗もごく稀に存在する)。その他、定期的に支払いを行う処理(公共料金の月額利用料の支払い等)や、決済金額がその場で確定しない処理(ガソリンスタンドにおける給油料金の支払い)には利用できないが、例外としてKyash Cardやバンドルカードプラスではデポジットを預かることでガソリンスタンドに対応、au PAY プリペイドカードは出光興産のガソリンスタンドのうち出光ブランドあるいは出光ブランドから転換されたapollostationでのみ利用可能。飛行機の機内販売や、高速道路の料金所はその時点ではオフライン扱いの取引の為、利用が出来ない。",
"title": "国際ブランドタイプのプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "上記でもあるように公共料金や会員サイト等の定額支払いには利用できないのは勿論であるが、ネット通販等でその時限りの決済の場合でもエラー表示となり利用できないケースも少なくない。ブランドプリペイドやブランドデビットは、カードの性質上ネット通販での購入申し込み時の信用照会、商品発送時の本決済の二重引き落としが発生するリスクがあり、こういったトラブルを避けるために本当のクレジットカードのみ受け付けるように設定されているものと思われる。ブランドカードは頭4桁〜8桁で発行会社やカードの種類が決まっているためそれらを受け付けないようにされているか、多くのブランドプリペイドで11円以上でないと決済出来ないようになっている事から、カード番号登録や購入申し込み時に10円以下の承認を取って利用可能カードか判別する通称「1円オーソリ」を実施しているサイトの可能性が高い。なお、実質利用できるサイトでの利用で二重決済が発生してしまった場合でも、本決済以外の利用承認分は店舗からの正式な請求データーが送られない為に、期間は数日から1か月以上要するがその分の残高が復活するとされている。",
"title": "国際ブランドタイプのプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1度入金した残高は現金での払い戻しに対応していないものがほとんどだが、手数料を支払うことにより残高を現金で引き出すことが可能なものもある。",
"title": "国際ブランドタイプのプリペイドカード"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2016年以降、国外での決済やATM引出に対応するカードの場合は、個人番号を届け出ないと発行できない場合がある(あるいは、発行可能であっても国内利用のみに制限される場合もある)。",
"title": "国際ブランドタイプのプリペイドカード"
}
] | プリペイドカードとは、予め入金して積み立てておく形(前払い)で一定金額の価値を有し、商品やサービスを提供してもらう権利のあるカード型の有価証券(金券)。プリペイドカードはトラベラーズチェックなどと同じく前払式決済の一種である。ただし、クレジットカードや預金口座から即時引き落とされるデビットカードとは異なる。 デビットカードと混同されやすいが、プリペイドカードの場合には入金した後は出金して現金化することができないタイプも多いので、注意が必要である。 また、プリペイドカードは未成年でも発行することができる物もある。 | {{Redirect|プリカ|[[サッカースウェーデン代表|スウェーデン代表]]のサッカー選手|ラデ・プリカ}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年3月
| 更新 = 2021年3月
}}
{{雑多な内容の箇条書き|date=2017年6月}}
'''プリペイドカード'''({{lang-en-short|prepaid card}} [[略語]]:プリカもしくはプリペ)とは、予め入金して積み立てておく形(前払い)で一定金額の価値を有し、商品やサービスを提供してもらう権利のある[[カード]]型の[[有価証券]]([[金券]])。プリペイドカードは[[トラベラーズチェック]]などと同じく前払式決済の一種である<ref name="ritsumeikan134" />。ただし、[[クレジットカード]]や[[預金]]口座から即時引き落とされる[[デビットカード]]とは異なる。
デビットカードと混同されやすいが、プリペイドカードの場合には入金した後は出金して現金化することができないタイプも多いので、注意が必要である。
また、プリペイドカードは未成年でも発行することができる物もある。
== 概説 ==
プリペイドカードとは次のような特徴を有する[[磁気ストライプカード|磁気カード]]などのカード類である<ref name="ritsumeikan131">{{Cite book |和書 |author=立命館大学人文科学研究所 |year=1997 |title=立命館大学人文科学研究所研究叢書 9 消費者法の比較法的研究 |page=131}}</ref>。
#消費者が商品(サービス)の購入に先立って一定の利用価値を電磁的に記録したカードを購入すること(前払い方式)<ref name="ritsumeikan131" />
#消費者の商品(サービス)の購入時に購入金額分が電磁的な記録から減算されること<ref name="ritsumeikan131" />
#カードと使用者の関係が特定されない無記名証券であり流通性を有すること<ref name="ritsumeikan131" />
事前に代金を支払って購入するもので、[[商品券]]と異なり、残額がゼロになるまで繰り返し利用できる。発行者側には、使用完了までの間に資金運用が可能、少額決済のために釣り銭の用意や販売機等に投入された硬貨の回収の手間が省けるなどの利点がある。また利用者側には、[[小銭]]を持ち歩く必要がなく、軽くて持ち歩きやすい、カードによっては[[プレミアム]](おまけ)やポイント還元により現金での決済より有利、などの利点がある。
基本的には[[磁気]]で記録するカードであるため、記録するデータ量がさほど多くなく、また市販のカードリーダ/ライタで偽造が行いやすい。そのため、偽造カードの流通が大きな社会問題となっており、高額カードの発売および利用停止([[テレホンカード]]([[NTT]])や[[オレンジカード]]([[JRグループ]])など)や、さらにプリペイドカードシステムそのものが廃止([[ハイウェイカード]](旧・[[道路関係四公団]])、オレンジカード、[[ふみカード]]([[日本の郵便局]])など)されたものもある。
偽造対策のために開発された[[ICカード]]の一部や、国際ブランドのプリペイドカードでは、繰り返し代金を追加して利用できるカードもあり、一部の[[電子マネー]]に相似する。
また、[[モバイラーズチェック]]のように、磁気式ではなく、{{仮リンク|スクラッチカード|en|Scratchcard}}印刷で一意の番号を記入したカードもある。これらのカードは、購入後、一意の番号を[[携帯電話]]等に登録して購入金額分の利用権を登録する形で利用する。また、[[コンビニエンスストア]]などでは金券類などの盗難対策として、チケット用紙ないしは感熱式のレシートなど、シートに登録用の番号を印字して発行されていたが、最近ではプリペイドカードの裏面のバーコードを[[販売時点情報管理|POSレジ]]に通し、購入処理が行われたことによってプリペイドカードの残高が有効になるシステム('''POSA'''〈'''P'''oint '''O'''f '''S'''ales '''A'''ctivation、POS[[アクティベーション]]〉方式)が導入されたことにより、カード式での販売が再び行われるようになった。
カードは多種多様に富んだデザインの物が発行されており、チャージが出来ないものは残額を使い切ったあとは使用用途が無くなる。使用済みプリペイドカードは回収してリサイクルされて別のプラスチック製品の原料になるほか、コレクターが収集目的で買い取る事がある。これを利用して、援助団体が[[発展途上国]]への援助活動などの活動資金の資金源として使用済みプリペイドカードを回収している事がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.aosyakyo.or.jp/volunteer/katudo/mijika/mij_04.html |title=身近な活動(使用済みプリペイドカード) |publisher=[http://aosyakyo.or.jp/ 青森県社会福祉協議会] |accessdate=2013-7-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090529021214/http://www.aosyakyo.or.jp/volunteer/katudo/mijika/mij_04.html |archivedate=2009年5月29日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。また、一部のプリペイドカード採用事業者では、使用済みカードを特定枚数集めて特定金額の未使用カード1枚と交換するシステムを実施している事業者がある。<!---青森県などに展開するコインランドリー「クロワッサン」など--->
=== 紛失、不正使用など ===
[[クレジットカード]]の場合と異なり、基本的にチャージ済み残高の不正使用('''偽造'''も含まれる)や、プリペイドカードの紛失・盗難・障害に関する'''補償は無い'''<ref group="注">障害については対応が分かれる場合もある。</ref>。カード使用の際も、基本的に信用照会、与信照会は行われず、残高チェックだけが行われる。ただし、ブランドによっては、個人情報を登録しなくても利用できるカードにおける個人情報の登録や、特定の有料会員サービスを事前に契約しておくと、紛失や不正使用分が補償されるサービスもある。
基本的に無記名式のプリペイドカードは残高再発行は不能である。記名式(名義あり)であっても、'''プリペイドカードでは残高再発行に対応しない'''ブランドが多数である。
ブランドカード型のプリペイドカードは、クレジットカードと同様に裏面の署名欄があるが、ここに署名するだけでは不正使用等に対する補償はされない。
プリペイドカードでオートチャージ機能を使用している場合、不正使用、盗難や紛失が発覚した場合には速やかに利用停止措置を取る必要がある。この点は、プリペイド(前払い)式の電子マネーと仕組みはほぼ同様である。詳細は「[[電子マネー]]」参照。
なお、ブランドカード型のものでは、[[ICカード]]対応によりカード自体の偽造防止対応が進んでいる。それ以外のハウス型カードでは磁気カードのままの物も多数ある。
== 米国のプリペイドカード ==
[[アメリカ合衆国]]はプリペイドカードの先進国となった国であり[[1976年]]に地下鉄で利用されたのが始まりである<ref name="ritsumeikan131" />。
プリペイドカードについて米国では州により規制が異なる。プリペイドカード発行のための法的な資格要件が定められておらず所持人に対する特別の保護もないところもあるが、州の法律によって発行条件が厳格に規制され発行主体の倒産時の所持人保護について規定している州もある<ref>{{Cite book |和書 |author=立命館大学人文科学研究所 |year=1997 |title=立命館大学人文科学研究所研究叢書 9 消費者法の比較法的研究 |page=133}}</ref>。
アメリカでは詐欺まがいの使用できない[[テレホンカード]]が流通して社会問題になったことがある<ref name="ritsumeikan134">{{Cite book |和書 |author=立命館大学人文科学研究所 |year=1997 |title=立命館大学人文科学研究所研究叢書 9 消費者法の比較法的研究 |page=134}}</ref>。
ブランドプリペイドカードとしては、日本では発行、販売されていないアメリカンエキスプレスのプリペイドカードも存在する。
== 日本のプリペイドカード ==
日本では[[1982年]]に[[日本電信電話公社|旧電電公社]]が[[テレホンカード]]を発行したのが最初とされている<ref name="ritsumeikan131" />。
プリペイドカードの多くは[[資金決済に関する法律]]、それに基づく政令である資金決済に関する法律施行令(平成二十二年政令第十九号)、内閣府令である前払式支払手段に関する内閣府令(平成二十二年内閣府令第三号)によって規制される前払式支払手段の一種である。日本では1989年(平成元年)の[[前払式証票の規制等に関する法律]]により法規制が行われ同法はプリペイドカード法と呼ばれていた<ref name="ritsumeikan132">{{Cite book |和書 |author=立命館大学人文科学研究所 |year=1997 |title=立命館大学人文科学研究所研究叢書 9 消費者法の比較法的研究 |page=132}}</ref>。前払式証票の規制等に関する法律に代わって2010年(平成22年)に施行されたのが資金決済に関する法律である。
資金決済に関する法律、前払式支払手段に関する内閣府令によって、通常、発行主体は[[内閣総理大臣]]([[財務局]])への届出か申請を必要とし、毎年3月・9月末時点で発行したカードの未使用残高が1000万円を超える場合、残高の半分以上の発行保証金を供託しておく義務などを負う<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF176JG0X11C22A0000000/|title=私の電子マネー戻ってくる? 発行元スーパー、突然閉店 |publisher=日本経済新聞 |date=2022-12-19 |accessdate=2023-06-06}}</ref>。ただし、[[交通機関]]の[[回数乗車券|回数券]]<!--(バス共通カード、オレンジカード、その他)として-->などは別の制度によって保全され、ハイウェイカードなどのような[[特殊法人]]が発行するものは、この法律の適用から除外されている。
日本ではこれらの法令のほかプリペイドカード取引標準約款及び加盟店規約例も定められている<ref name="ritsumeikan132" />。
=== 汎用型リロードタイプ ===
下記のものがあるが、その他に、[[SBI新生銀行]]等の外貨預金利用者を対象に、当該口座からチャージして国外で引き出すためのプリペイドカードも発行されている。
* [[JAL Global WALLET]]([[日本航空]]、[[JALペイメント・ポート]]) - [[マスターカード|MasterCard]]プリペイドとして使用可能となっている[[JALマイレージバンク]]の会員カード。[[個人番号]]の登録を要する。
* ANAマイレージクラブ ANA JCBプリペイドカード([[全日本空輸]]、[[ジェーシービー]]) - JCBプリペイドとして使用可能となっている[[ANAマイレージクラブ]]の会員カード。
* ANAマイレージクラブ ANA VISAプリペイドカード([[全日本空輸]]、[[三井住友カード]]) - VISAプリペイドとして使用可能となっているANAマイレージクラブの会員カード。
* [[LINE (アプリケーション)#LINE Pay|LINE Pay]] カード<ref>[https://pay.line.me/portal/jp/about/pay-card LINE Pay カードの紹介]</ref> - LINEで独自に展開していたLINE Payのサービスに[[ジェーシービー|JCB]]のプリペイドカードの仕組みを利用して実店舗での利用を可能にしたもの。サービス開始当初は利用普及を目的に利用金額の2%分のポイントが還元されていたが、2018年6月1日利用分からは利用実績に応じてポイント還元率が最大2%となるようにサービスが変更された。2020年12月22日、後述のVISAブランドのカードへの移行により、新規発行を終了。当初、発行済みのカードは券面上の期限まで利用できると発表していたが、有効期限に関わらず2023年10月末日を以って終了する。<ref>{{Cite web|和書|title=【重要なお知らせ】LINE Payカードを利用した各種サービス終了について |url=https://linepay.officialblog.jp/archives/34320596.html |website=LINE Pay 公式ブログ |date=2023-07-28 |access-date=2023-10-10 |language=ja}}</ref>
* Visa LINE Payプリペイドカード(LINE、[[三井住友カード]]) - 上記カードに変わり、2020年12月より新たに始まったLINE Payのプリペイドカード。上記JCBブランドのカードとは違い、リアルカードは発行していないバーチャルカードではあるが、iDに対応しているので、スマートフォンでApple PayやGoogle Payに登録して街中のiD加盟店で利用する事が出来る。
* Money T Global([[JTB|ジェイティービー]]→[[アプラス]]) - VISA、国外利用専用カード。ICなしのカード所有者については、切り替えの申し込みをしなかった場合は、有効期限を切り上げて使用不可、廃止の手続きを取った。[[2018年]]8月、発行主体がジェイティービーからアプラスに移行となった。
* NEO MONEY([[クレディセゾン]]) - Visa/銀聯、国外利用専用カード。Visaは、日本国内対応型と国外専用型がある(国外専用型を発行した既存会員は、希望により日本国内対応型に切換が可能)。銀聯は、国外専用のみ。チャージは[[セブン銀行]]のATM(VISAのみ、自社ATMも可能)を利用するが、指定されたいくつかの銀行・信用金庫の口座のいずれかに振り込む形でも可能。2021年9月30日を以ってサービス終了。<ref>{{Cite web|和書|title=プリペイドカード「NEO MONEY」サービス終了のお知らせ {{!}} クレジットカードはセゾンカード |url=https://www.saisoncard.co.jp/customer-support/information/rsn60k9u1u/ |website=クレジットカードは永久不滅ポイントのセゾンカード |access-date=2023-04-10 |language=ja}}</ref>
* NETeller Prepaid MasterCard(Optimal Payments) - NETellerの英国地域の拠点で発行され、日本国内住所でも申込入手可能であったが、一度撤退の後の2018年10月末から再度日本市場に参入していたが、2020年4月21日に再度日本から撤退。その時点で残っている残高の銀行振込での出金のみ対応し、プリペイドカード等のサービスは日本で利用できなくなった。以前は国外発行のMasterCardの引き出しができるATM([[コンビニATM]]等)を利用すれば、日本円での引き出しが可能で、国外発行・発送で日本国内からの申し込みができる数少ないカードであった<ref>{{Cite web|和書|title=ネッテラー 日本から再度撤退 {{!}} オンラインカジノおすすめ比較|url=https://casino-love.com/netellernews/20200227/|website=casino-love.com|date=2020-02-27JST12:32:20+09:00|accessdate=2021-02-09|language=ja|last=author}}</ref>。
* [[Visa]] トラベルプリペイドカード Global Money([[トラベルバンク]]) - 2009年7月、[[JTB]]グループのトラベルバンクが発売。日本国外のVisa加盟店、Visa提携ATMで利用ができ、トラベラーズチェックに替わる商品であり、電子マネー的性格を持つ。新規の申込み受付は2012年3月で終了。
* WebMoney Card([[ウェブマネー|auペイメント]]) - ウェブマネーポイントをMasterCardブランドのプリペイドカードとして使えるようにしたもの。後述のau PAY プリペイドは、当カードのインフラを採用している。チャージも[[au (携帯電話)#販売店|auショップ]]で行える。
* [[au PAY]] プリペイドカード([[KDDI]]、[[沖縄セルラー電話]]、auペイメント) - 2014年5月、[[au (携帯電話)|au]]から提供が始まったMasterCardブランドのプリペイドカード。[[ウェブマネー]]との併用も可能。当初は、単にau WALLETと称していたが、後に[[KDDIフィナンシャルサービス]]が発行する、au WALLET クレジットカード(クレジットは、VISAブランド、マスターカードブランドで発行)が発行開始されたため、区別のためにau WALLET プリペイドカードとなった(auショップのカウンターのほか、店舗によっては自動チャージ機で可能。また、一部金融機関のインターネットバンキングからのチャージも可能)。さらにその後、au WALLETがau PAYにリブランドされたため本カードも再度改称し現名称に。
* [[dカード]] プリペイド([[NTTドコモ]]、[[三井住友カード]]) - [[dポイントクラブ|dポイント]]カードにMasterCardプリペイドと[[iD (クレジット決済サービス)|iD]]プリペイド機能を搭載したもの。1回線に対して1枚発行可能。
* mijica([[ゆうちょ銀行]]、[[クレディセゾン]]) - [[2017年]][[1月23日]]より、[[仙台市]]と[[熊本市]]に所在するゆうちょ銀行直営店および一部[[郵便局]]の貯金窓口で、地域限定で発行開始された、Visaプリペイドカード。その後、[[札幌市]]と[[千葉県]]が追加。キャッシュカード発行手続済みのゆうちょ銀行の総合口座通帳を有する12歳以上の顧客であれば、即時発行する。仙台市のカードは[[むすび丸]]が、熊本市のカードには[[くまモン]]のデザインが施されている。その後、公式サイトでの申し込みにより全国対応となったが、甚大な不正送金被害が発生した為に2020年9月中旬に送金機能の取扱いを停止、同年9月28日までに被害者への補償を完了、その後の調査により公式サイトへの不正アクセスが発生していたことが判明したために、同年10月3日に公式サイトの停止及び新規申し込みを停止。当該事件では2021年6月に初の逮捕者が出ており、[[中華人民共和国|中国]]系組織が関与している疑いがある<ref>[https://mainichi.jp/articles/20210624/k00/00m/040/078000c ゆうちょ銀行「ミヂカ」不正利用容疑 全国初の逮捕 中国人組織関与か] 毎日新聞 2021年6月24日</ref>。発行済みのカードはチャージと支払い等の限られた機能のみ2022年夏ごろまで利用出来るが、2022年春頃に新たなブランドデビットカードへ移行予定<ref>{{Cite web|和書|title=mijicaに関する今後の方針について-ゆうちょ銀行|url=https://www.jp-bank.japanpost.jp/news/2020/news_id001627.html|website=www.jp-bank.japanpost.jp|accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* 楽天銀行プリペイドカード(JCB)([[楽天銀行]]) - 楽天銀行の口座を利用している楽天会員が発行できる、JCBプリペイドカード。楽天銀行の口座残高からチャージを行う。いったんチャージした残高は、楽天銀行の口座には戻すことができない。
* アクアカード ([[コメリキャピタル]]) - JCBプリペイドとして使用可能となっている、[[コメリ]]店舗ないしはコメリ.net利用者向けの[[ポイントプログラム|ポイントカード]]機能つきのメンバーズカードで、チャージはコメリのレジのみ可能。入会金100円(税込)が発行時にかかる。<ref>{{Cite web|和書|title=コメリカード/カードのご案内 - アクアカード(JCBブランド付) |url=https://www.komeri-card.com/card/aqua_card/ |website=www.komeri-card.com |access-date=2023-04-10}}</ref>
* [[キャッシュパスポート]](マスターカードプリペイドマネージメントサービシーズジャパン) - 国外利用専用カード、[[マスターカード]]ブランド
* ココカラクラブカード(クレディセゾン) - [[ココカラファインヘルスケア]]運営の各ブランドの店舗で発行される、VISAプリペイド機能付のポイントカード。2022年10月31日を以ってVISA加盟店での利用を終了。ココカラファイングループでのプリペイド利用も2023年4月30日を以って終了し、以降はポイントカードのみの扱いとなる。<ref>{{Cite web|和書|title=ココカラクラブカードについて|ドラッグストアのココカラファイン |url=https://www.cocokarafine.co.jp/f/dsf_clubcard |website=【ココカラクラブ】ドラッグストアのココカラファイン |access-date=2023-04-10 |language=ja}}</ref>
* [[ソフトバンク]]カード([[SBペイメントサービス]]) - VISAプリペイドカードと[[Tポイント]]カードを兼ねる<ref>[[Visa#日本の加盟店契約会社]]</ref>。なお、同音異義語となる「SoftBankカード」は、[[クレディセゾン]]が発行するクレジットカードであり、このカードとは別物となる。後に、バーチャルカードも同一会員番号で発行。これに伴い、実体のある有効期限後の更新カードは550円(税込)での有償発行となった(Tポイントカードとしては、期限が切れていても利用可能)。
* テイツーカード(カードフレックスジャパン、[[アプラス]]) - [[テイツー]]が運営する古書店やリサイクルショップで利用可能な、[[ポイントプログラム|ポイントカード]]機能一体型のVISAプリペイドカード。テイツーの完全子会社であるカードフレックスジャパンの事業継続性の問題から発行停止となり、有効期限に到達しないものもポイントカードのみのものに順次切替がなされ、カードフレックスジャパンも2017年に会社清算。
* [[ドコモ口座]] Visaプリペイドカード([[NTTドコモ]]) - ドコモ口座利用者向けのサービスで、もとはネット決済用のワンタイムカードとして、バーチャルカードのみであったが、実体のあるカードの発行の開始にともない、有料で希望者に発行されるカード。2021年10月25日を以って、d払いアプリへの統合により終了。<ref>{{Cite web|和書|title=報道発表資料 : 「d払い」アプリに「ドコモ口座」の機能を統合 {{!}} お知らせ {{!}} NTTドコモ |url=https://www.docomo.ne.jp/info/news_release/2021/08/30_01.html |website=www.docomo.ne.jp |access-date=2023-04-10 |language=ja}}</ref>
* [[パルコ]]プリカ(クレディセゾン)<ref>[http://prica.parco.jp/ パルコプリカ - パルコのプリペイドカード]</ref> - 調布パルコ・福岡パルコで発行されるVISAプリペイドカード。チャージは発行店に設置されているチャージ機か全国の[[ゆうちょ銀行]]ATMからの現金チャージ、またはセゾンカード・UCカードによるクレジットチャージのみ。利用する店舗に関わらず、利用金額の0.5%が翌月10日にプリペイド残高にキャッシュバックされる。2020年1月30日でサービス終了し、有効期限内のものでも使用できなくなった。
* ピコカ(クレディセゾン) - [[デリシア (スーパーマーケット)|デリシアおよびユーパレット]]利用者向けのVISAプリペイド機能付きポイントカード。デリシア・ユーパレット店頭および[[八十二銀行]]のATMによる現金チャージとクレジットチャージに対応。2022年5月31日を以って終了。<ref>{{Cite web|和書|title=ピコカVISAプリペイドサービス終了のお知らせ |url=https://www.delicia-web.co.jp/news/%e3%83%94%e3%82%b3%e3%82%abvisa%e3%83%97%e3%83%aa%e3%83%9a%e3%82%a4%e3%83%89%e3%82%b5%e3%83%bc%e3%83%93%e3%82%b9%e7%b5%82%e4%ba%86%e3%81%ae%e3%81%8a%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%9b/ |website=デリシア -DELiCiA- |access-date=2023-04-10 |language=ja}}</ref>
* マネパカード([[マネーパートナーズグループ|マネーパートナーズ]]) - マネーパートナーズが発行するMasterCardブランドのプリペイドカード。同社で[[外国為替|FX]]取引がある場合は、その[[スプレッド]]を出金時に充当可能。当初は国外利用専用だったが、[[2016年]]6月からは、切換なしで日本国内での決済利用に対応した。2023年6月30日を以ってカードの利用を終了、同年12月30日のサポートデスク終了を以って全サービス終了予定。<ref>{{Cite web|和書|title=プリペイドカード「Manepa Card」サービス終了のお知らせ 【Manepa Card マネパカード】 |url=https://card.manepa.jp/information/important/1209275_1581.html |website=card.manepa.jp |access-date=2023-04-10}}</ref>
* ローソンおさいふ[[Ponta]]<ref>[http://www.osaifuponta.lawson.co.jp おさいふPonta]</ref>([[クレディセゾン]]) - JCBプリペイドとしてライセンスされ、スキミング防止の為にホロマグネットストライプを施したJCBロゴが付いた、JCBプリペイドカード。2020年8月17日でサービス終了。その後は期間限定の申し込み制で終了日までに使い切れなかった残高の払い戻しが行われ、銀行振込で返金された。
* 旅プリカ([[JCB]]) - JCBプリペイド。JTBトラベルポイントの会員が発行できる。日本国内でのみ利用でき、チャージ(提携店を除くグループ店舗(PTSトラベルナビを含む)や[[Pay-easy]]、[[ジェーシービー|JCB]]のクレジット、[[ローソン]]のレジから行う。2021年1月4日サービス終了。同年1月6日から3月31日までが払戻対応期間となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jtb.co.jp/myjtb/tabiprica/|title=旅プリカサービス終了のお知らせ|accessdate=20210204|publisher=}}</ref>。
* [[Kyash]](Kyash)- VISAブランド。アプリ上のバーチャルカードと、リアルカードの両者が存在する。更にリアルカードも2種類あり、本人確認不要で発行でき、国内のVISA加盟店と海外のVISA加盟オンラインサイトで利用できるKyash Card Liteと、海外リアル店舗でも利用できるKyash Cardの2種類。個人間での残高の送金も可能。なお、Liteの方はカード番号等が表に印字されている磁気カードなのに対し、Kyash CardはICチップ付きでカード番号が裏面に印字されたタイプとなる<ref>{{Cite web|和書|title=選べるカードタイプ - Kyash (キャッシュ)|url=https://kyash.co/products/card-lineup|website=kyash.co|accessdate=2021-02-03|language=ja}}</ref>。
* [[バンドルカード]](カンム) - VISAブランド。アプリ上のバーチャルカードと、リアルカードの両者が存在する。ポイントは一切つかない。
* かぞくのおさいふ([[三井住友カード]])- VISAブランド。家族が子供のカードにチャージ出来たりと、家族や未成年の子供の利用を想定したサービス。本会員が6歳から発行可能<ref>{{Cite web|和書|title=かぞくのおさいふ|クレジットカードの三井住友VISAカード|url=https://www.smbc-card.com/prepaid/kazokunoosaifu/index.jsp|website=三井住友カード|accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* SMTOWN VISAPREPAID(SMBCファイナンス)- VISAブランド。サービスは日本語で、日本人向けのカードではあるが、韓流男性アイドルのデザインが選べたり、韓国のソウル市にあるSMTOWNというショッピングモールで特典が受けられるという、韓流ファン向けのカード<ref>{{Cite web|title=SMTOWN VISA PREPAID|url=https://shop-smtown.jp/category/prepaid/|website=shop-smtown.jp|accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* Vポイントアプリ([[三井住友カード]])- VISAブランド。バーチャルカードの発行が出来るアプリ。Apple PayとGoogle PayにてVisaのタッチ決済およびiD扱いで利用できるので、リアル店舗での加盟店も少なくはない<ref>{{Cite web|和書|title=スマートフォンアプリ「Vポイント」|クレジットカードの三井住友VISAカード|url=https://www.smbc-card.com/mem/for_vpointapp/index.jsp#secCont3|website=三井住友カード|accessdate=2023-03-07}}</ref>。
* BANKIT([[アプラス]])- VISAブランド。アプラスが提供するプリペイドカードアプリで、バーチャルカードとリアルカードを扱っている<ref>{{Cite web|和書|title=BANKIT(バンキット)アプリ型プリペイドカード ~お金のこと もっともっとカンタンに~ | アプラス 新生銀行グループ|url=https://www.bankit.jp/service/|website=www.bankit.jp|accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* ultra pay カード(ULTRA) - VISAブランド。オンライン決済のみの「でじなカード」、国内リアル店舗と、海外オンラインサイトで使える「そとなカード」、世界中のリアル店舗も可能となる「そとなカード+」の3種類を扱っている、株式会社ULTRAによるプリペイドカードアプリ<ref>{{Cite web|和書|title=株式会社ULTRA|url=https://ultra-pay.co.jp/company/|website=ultra pay カード|date=2020-03-03|accessdate=2021-02-03|language=ja}}</ref>。
* 助太刀カード(クレディセゾン)- VISAブランドのカードではあるが、助太刀という施工工事等を行う業者やフリーの職人と顧客の仲介をするアプリで、顧客から支払ってもらった工事代金がチャージされるプリペイドカードなので、一般消費者ではなく、助太刀に登録している業者や職人向けのカードとなる<ref>{{Cite web|和書|title=助太刀カード - アプリでかんたん申込み。工事代金がチャージできるカード|url=https://suke-dachi.jp/card/|website=助太刀カード - アプリでかんたん申込み。工事代金がチャージできるカード|accessdate=2021-02-03|language=ja}}</ref>。
* Bizプリカ(TOMOWEL Payment Service)- Master Cardブランドの法人向けプリペイドカード。一例としては、経理課等の管理部門が営業課等の従業員に持たせているカードにチャージして、経費や必要備品等の購入でカードが利用されたら、管理部門の登録メールアドレスに通知が届くという仕組みを構築している<ref>{{Cite web|和書|title=法人向けプリペイドカード「Bizプリカ」|TOMOWEL Payment Service|url=https://bizpreca.jp/|website=bizpreca.jp|accessdate=2021-02-03}}</ref>。
*B/43(株式会社スマートバンク)- VISAブランド。カードを利用したら公式のアプリ上で自動的に家計簿が出来る事を売りにしている。カードはエンボスレスで、表面にはB/43ロゴとVISAロゴしか載っていないシンプルなデザインで、16桁のカード番号等はすべて裏面に印字されている<ref>{{Cite web|和書|title=B/43 {{!}} ラクして予算管理!家計簿プリカ|url=https://b43.jp/|website=B/43|accessdate=2021-05-18|language=ja}}</ref>。
*MIXI M(旧:6gram、[[MIXI|株式会社MIXI]])- VISA、JCBブランドのバーチャルカード、VISAブランドのリアルカードを発行可能で、アプリ上で友達や家族等からグループを作りお金を出し合う事も可能。申し込みは招待制の為、すでに会員となっている人から紹介を受ける必要がある。チャージはVISA、Masterブランドのクレジットカード、一部の銀行口座、Apple payから。カードはすけるトンという名称がつけられている通り、上部のデザイン兼磁気ストライプ部分より下が透明になっている非常に珍しいデザイン。リアルカードは店頭での磁気、IC、NFC(タッチ決済)に対応しているが、番号は公開されておらず、オンライン決済にはバーチャルカードを利用する形となる。また、バーチャルカードのみでも、Apple PayやGoogle PayへQUICPay+として登録して、実店舗での決済も可能<ref>{{Cite web|和書|title=6gram|ロクグラム - Visa/JCB加盟店で使えるプリペイドカード|url=https://6gr.am/|website=6gram|accessdate=2021-06-17|language=ja}}</ref>。
* IDARE(オリコ、株式会社Fivot)- VISAブランド。残高に対し最大年率2%相当のボーナスが付与される<ref>{{Cite web|和書|title=IDARE、スマート積立アプリへ リニューアルース|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000078718.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2023-08-03}}</ref><ref>{{Cite web|title=IDARE|url=https://idare.jp/|website=idare.jp|accessdate=2021-06-29}}</ref>。
* Pollet(Pollet)- VISAブランド。バーチャルカードとリアルカード(Pollet Million)が発行可能で、複数の[[ポイントサイト]]や物品買取によるチャージが可能だった。2020年1月末日でカード機能が終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://polletcorp.zendesk.com/hc/ja/articles/4402999584397|title=Polletからのお知らせ - よくある質問|accessdate=2021-08-25|publisher=Pollet}}</ref>。
* POINT WALLET VISA PREPAID([[セレス]])- VISAブランド。ポイントサイトの「[[モッピー (ポイントサイト)|モッピー]]」のポイントがチャージでき、カードを利用するとモッピーのポイントが0.5%還元させる。2022年5月末日にサービス終了<ref>{{Cite web|url=https://ceres-inc.jp/business/prepaid/|title=POINT WALLET VISA PREPAID|accessdate=2021-08-25|publisher=セレス}}</ref>。
* EVERING(株式会社EVERING)- VISAブランド。エブリングと読む、NFC(タッチ決済)専用のスマートリング。要は指に装着してNFC対応の決済端末にかざして利用する「指輪型VISAプリペイド」。元々イギリスで始まったサービスで、日本では2021年5月より販売開始。他のプリペイドカードが発行料無料や数百円程度の入会金なのに対し、こちらは税込み19,800円(2023年4月現在)のEVERINGを購入する所から始まる。正確に指のサイズをはかりたい場合は、税込み2,200円のリングサイザー3本セットを先に購入する事も可能で、この場合はリング本体代金2,000円分の割引クーポンが付いてくる。チャージにはクレジットカードしか利用できないので、そもそもクレジットカードを持っていない人には向かないサービスである。<ref>{{Cite web|和書|title=EVERING リングサイザー3本セット |url=https://store.evering.jp/item/EVERING_RINGGAUGE.html |website=EVERING |access-date=2023-04-10 |language=ja}}</ref>
=== 海外送金・マルチカレンシー口座サービスのデビットカード ===
下記2サービスは海外で始まったサービスで、現在は日本からアカウントの登録、カードの申し込みが可能。複数の通貨を容易に扱えるマルチカレンシー口座の残高から支払われるカード(口座紐づけ)という事で、扱い上は「デビットカード」となっているが、日本の従来の銀行や信用金庫といった金融機関の口座と直接紐づけするという意味ではなく、そのサービスのアカウント内・アプリ内の口座にVISA/Masterのクレジットカードか一般の金融機関からの銀行振込にて資金をチャージしてからカードを使うので、日本ではブランドデビットというよりはブランドプリペイドのイメージに近い。
上記プリペイドカード一覧内のキャッシュパスポートのように、海外専用で国内の店舗では一切使えないカードも存在する中、RevolutとTransferWiseのカードは海外発のサービスながら日本国内の店舗でも利用できる。
* Revolut - レボリュートと読む。2015年にイギリスで始まったサービスで、日本では2020年から対応を開始した。アメリカ、オーストラリア、シンガポールにも進出済みのサービスな為、別通貨への両替や海外送金も容易にできる上に、VISAブランドのリアルカードを扱っている。当初はカード番号が一般のクレジットカードのように表面にエンボス加工されていたが、現在ではカード番号が裏面に印字されたタイプとなった。また、日本ではサービス開始当初はVISAとMasterブランドのクレジットカードからしかチャージ出来なかったが、現在では銀行振込にも対応した<ref>{{Cite web|和書|title=お金を管理する優れた方法|url=https://www.revolut.com/ja-JP|website=www.revolut.com|accessdate=2021-02-03|language=en-gb}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=Revolut(レボリュート):日本上陸!口座開設方法・手数料をかんたん解説|url=https://transferwise.com/jp/blog/how-to-use-revolut|website=TransferWise|date=2020-09-24|accessdate=2021-02-03|language=ja-JP}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=次世代の金融サービス「Revolut」の魅力を探る~前編~|url=https://money-bu-jpx.com/news/article027316/|website=東証マネ部!|date=2020-11-06|accessdate=2021-02-03|language=ja}}</ref>。
* Wiseデビットカード - 旧名称TransferWise(トランスファーワイズ)。こちらも海外送金や他通貨への両替等が容易にできる会社が発行しているカードで、Mastercardブランド。デビットカードと名付けられてはいるが、アカウントに資金のチャージをしてから使うので、上記のRevolut共に日本ではブランドプリペイドカードのイメージに近い。カードはICチップ付きのカードだが、右下に日本のテレホンカードのようなくぼみがあるデザインとなっている<ref>{{Cite web|url=https://transferwise.com/jp|title=transferwise|accessdate=20210213|publisher=}}</ref>。
=== バーチャルカード ===
バーチャルカードとはインターネット上の決済のみで使えるカードである。下記のものの他、[[三菱UFJニコス]]や[[オリエントコーポレーション]]、[[ジャックス (信販)|ジャックス]]等が、すでに自社のクレジット会員を対象として、クレジットのショッピング枠からチャージして、本来のクレジットの会員番号とは別の番号でネット決済できるプリペイド式のバーチャルカードが設定されている。
* V-Preca([[ライフカード]]) - Visaバーチャルカード。コンビニで、[[POSA]]による実体のあるカードの購入も可能。
=== 使い切りタイプ ===
国際ブランドが付与されているが追加チャージ機能がないカード。テレホンカード等の使い切りタイプはハウスカードにあたる為後述の欄参照。
* バニラVisaギフトカード(インコム・ジャパン) - 日本ではインコム・ジャパンにより発行されているカードタイプのVISA商品券。販売店のレジで、金額申告制により3000円以上の希望金額分の購入(初回チャージ)が出来、残高はVISA加盟店で利用できるが追加でのチャージは出来ない。その代わりに、クレジットカードのような審査もなければ、他のプリペイドカードのような免許証の提出、送信と言ったような最低限の本人確認等も一切なく、販売店の棚から取ってレジで買うだけで入手出来るのでプレゼントに最適である。ネットでの利用は初回に限り公式サイトでの認証が必要で、携帯電話番号を用いたSMSに認証用パスワードが届く<ref>{{Cite web|和書|title=利用方法 {{!}} バニラ Visa ギフトカード|url=https://www.vvgift.jp/gift/howto.html|accessdate=2021-02-03|language=ja}}</ref>。
=== ハウスカード ===
ハウスカードとは決済に使用できる対象が特定の会社の製品やサービスに限定されているものをいう。
※アルファベット順、五十音順(後継カードがある場合のみ直下に掲載する場合がある)
[[ファイル:SOFTBANK prepaid 3,000yen.jpg|thumb|150px|SoftBankプリペイドカード3,000円分の両面]]
[[ファイル:Tosho card 500.jpg|thumb|150px|図書カード]]
* [[Amazon.co.jp|Amazonショッピングカード・Amazonギフト券]] - [[Amazon.co.jp|Amazon]]/Javariで利用できるカード。
* Amebaプリペイドカード - [[サイバーエージェント]]が運営する「[[Ameba (ネットサービス)|Ameba]]」での決済に使われる。
* Aoca - クスリのアオキ専用<ref>{{Cite web|和書|title=アオキメンバーズカード – あなたのまちのクスリのアオキ |url=https://www.kusuri-aoki.co.jp/aoki-card/ |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* apollostation キャッシュプリカ(旧:出光キャッシュプリカ、[[出光クレジット]]) - [[出光興産]]のガソリンスタンドで利用できるカード。apollostation キャッシュプリカは一部店舗を除きブランドを問わず利用できるが、旧カードの出光キャッシュプリカでは出光ブランド店および出光ブランドから転換したapollostation店でのみ利用可能<ref>[https://www.sapporo-apollo.co.jp/2021/04/01/【出光&シェル】新ブランド「apollostation」誕生!相互/ 【出光&シェル】2021年4月「apollostation」誕生でどう変わる?カード・ポイント・決裁ツール 相互利用スタートのまとめ {{!}} 札幌アポロ株式会社]</ref>。
* [[Brastel ブラステルスマートフォンカード]] - リチャージ式国際電話カード。
* [[CDMAぷりペイド|CDMAぷりペイドカード]] - [[Au (携帯電話)|au]]([[KDDI]]/[[沖縄セルラー電話]])。携帯電話用。
* [[CoGCa]] - [[シジシージャパン|CGCグループ]]加盟一部企業の店舗のみで利用可能。[[ポイントカード]]としては発行チェーン店(カード表面に加盟店のロゴが入っている)のみの完全ハウスカード。プリペイドカード機能は発行しているチェーン店間であれば相互利用可能。
* Comicaカード - [[ソフトバンク]]。主に国際電話用。
* CosmoGold コスモゴールドカード - リチャージ式国際電話カード。
* [[ENEOS]]プリカ - クオカードと相互利用できるカード。
* EZOCA - 北海道で展開するポイントカードサービスで、EZOマネーという電子マネー機能が付与されており、道内のEZOマネー加盟店で利用できる<ref>{{Cite web|和書|title=EZOCA エゾカ |url=https://ezoca.jp/ |website=EZOCA エゾカ |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* GREEプリペイドカード - GREEコインプリペイドカード。[[GREE]]での決済に使われる。
* goca - ゴウカと読む。綿半グループ各店で利用可能<ref>{{Cite web|和書|title=綿半グループ |url=https://watahan.jp/ |website=綿半グループ |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* HALOCA - スーパーマーケット「ハローズ」専用<ref>{{Cite web|和書|title=スーパーマーケット ハローズ |url=https://www.halows.com/service/haloca/ |website=www.halows.com |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* [[HMV|HMV ギフトカード]] - [[HMV]]で利用できるカード。チャージ式と使い切りのものがある。
* iTunes Card・AppStore Card - [[Apple]] [[iTunes]]の[[iTunes Store]]で販売されている有料App購入時の決済に使われる。
* JA-SSプリカ - クオカードと相互利用できるカード。
* JCB PREMO([[ジェーシービー]]) - コンビニや一部の地銀・第二地銀系のJCBフランチャイジーのカード会社で、POSAによる実体のあるカードの購入も可能。
* KDDI - OKカード。 PIN販売方式国際電話カード。
* [[KDDIスーパーワールドカード]] - KDDI。主に国際電話用。
* LaCuCa - スーパーマーケット「ライフ」専用<ref>{{Cite web|和書|title=電子マネー機能付きポイントカード LaCuCa {{!}} 株式会社ライフコーポレーション |url=http://www.lifecorp.jp/service/lacuca/ |website=www.lifecorp.jp |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* Lu Vitカード - ホームセンターのバローグループのプリペイドカードであるが、JCB PREMOも付与されている。
* [[ドン・キホーテ (企業)#majica|majica]]([[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]])
* masaca!! - サンリブグループ専用<ref>{{Cite web|和書|title=サンリブグループ |url=https://www.sunlive.co.jp/ |website=www.sunlive.co.jp |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* MEEMO - ホームセンターDCMグループ各店で利用可能。共通ポイントカードのマイボに付与されている電子マネー<ref>{{Cite web|和書|title=サービス概要 – マイボフェローズ |url=https://co.myvot.fun/service_summary/ |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* Mobageモバコインカード ([[DeNA]]) - [[Mobage]]や[[Yahoo!モバゲー]]での決済に使われる。
* maruca - 丸久グループ専用<ref>{{Cite web|和書|title=マルカカード {{!}} 株式会社丸久 |url=http://www.mrk09.co.jp/shopinfo/marucacard/ |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* NC Pプラスカード(NCおびひろ)- 北海道帯広市のカード会社NCおびひろのクレジットカード会員専用のカード。同社のクレジットカードを利用した際に付与されたポイントがチャージされる仕組みとなっており、従来の一定のポイントに達した際に紙の商品券と交換する手間がなくなったメリットがある。NC Pプラスカード加盟店にて利用可能で、一般のクレジットカードやブランドプリペイドカードの時同様、端末でクレジットカード決済を選択し、磁気スワイプして一括払いすることで決済が可能。他都市日商連加盟店では利用不可なほか、コープさっぽろ、サツドラ、イトーヨーカドー、イオン北海道などシステムの関係上道内のNCカード及びNCおびひろ加盟店でも利用できないチェーン店が一部存在する<ref>{{Cite web|和書|title=NCPプラスカード,NCおびひろ |url=https://www.ncobihiro.co.jp/ |website=www.ncobihiro.co.jp |accessdate=2021-02-03 |language=ja |last=ncobihiro}}</ref>。
* Pecoma - 主に北海道で展開するコンビニエンスストア「セイコーマート」で利用できるカードで、セコマ会員証兼用<ref>{{Cite web|和書|title=PECOMA {{!}} セイコーマート |url=https://www.seicomart.co.jp/clubcard/pecoma.html |website=www.seicomart.co.jp |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* [[クオカード|QUOカード]] - 株式会社クオカードが発行、販売している使い切りタイプのプリペイドカード。テレホンカードのような薄い磁気カードであり、大手コンビニやガソリンスタンド等の加盟店で利用できる。ENEOSで販売されているENEOSプリカ、JA-SSで販売されているJA-SSプリペイドカードNというタイプも存在し、通常のクオカードは両ガソリンスタンドで利用できるのに対し、各ガソリンスタンドから販売されているタイプはライバル社では利用できない。コンビニ等のガソリンスタンド以外のクオカード加盟店では通常のクオカード同様に利用可能(利用の際もENEOSプリカ等ではなくクオカードとして申告)また、現在ではスマートフォンアプリにて利用できるQUOカードPayというデジタルタイプも存在するが、こちらは画面上のバーコードを読み取っての決済となる為、従来のQUOカードとは加盟店数が違う<ref>{{Cite web|和書|title=【公式】ギフトといえばQUOカード(クオカード) |url=https://www.quocard.com/ |website=ギフトといえばQUOカード |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ENEOSプリカ|カード情報|ENEOS |url=https://www.eneos.co.jp/consumer/ss/card/preca/ |website=ENEOS |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=JA-SSプリペイドカード|カードラインナップ|JA-SS |url=https://www.zennoh.or.jp/ja-ss/card/prepaid.html |website=www.zennoh.or.jp |accessdate=2021-02-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=もらって、うれしい。デジタルギフト |url=https://www.quocard.com/pay/ |website=QUOカードPay |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* rabbica - [[アララ]]株式会社のシステムを採用した全日食チェーンのプリペイドカード。ただ、全日食チェーン加盟会社でもこのカードにも別途加盟しないといけないので、利用可能店舗はまだまだ少なく、全日食チェーンのロゴが掲示されている店舗でも使えるとは限らないが、サービス開始から徐々に加盟店は増えていっている<ref>{{Cite web|和書|title=全日食チェーンに加盟するスーパーマーケット9社が10月の消費増税に向け自社専用キャッシュレス決済を導入 {{!}} arara inc. |url=https://www.arara.com/news/press/entry6122/ |website=arara |date=2019-09-10 |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* SB Callingカード(エスビーサイバーパス) - 主に国際電話用。
* SkyWorld - スカイワールド。リチャージ式国際電話カード。
* Steam プリペイドカード - ゲームサイトSteam専用のカード<ref>{{Cite web|和書|title=Steamプリペイドカードとは |url=https://steam.degica.com/about-prepaid |website=steam.degica.com |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* SushiCa - 元気寿司グループ各店で利用可能<ref>{{Cite web|和書|title=元気寿司株式会社|SushiCa 元気寿司オリジナル電子マネー |url=https://www.genkisushi.co.jp/sushica/ |website=www.genkisushi.co.jp |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* U.P.カード(出光クレジット) - [[宇佐美鉱油]]のガソリンスタンドで利用できるカード。
* Vivaplus ビバプラス - リチャージ式国際電話カード。
* [[Windowsストア|Windowsストアギフトカード]](マイクロソフト) - 下記のXbox ギフトカードとデザインは異なるが効果は同じ。
* [[マイクロソフトポイント|Xbox ギフトカード]]([[マイクロソフト]]) - 旧・「マイクロソフトポイントカード」。現地通貨移行に伴い、Xbox ギフトカードに名称変更。[[Xbox Live]]および[[Windowsストア]]で販売されている有料ソフト購入時の決済に使われる。ただし、Windowsストアで対応しているのは[[Windows 8.1]]、および[[Windows RT|Windows RT 8.1]]以降のWindowsが搭載([[インストール]])されたパソコン及びタブレットが対象。Xbox Liveでは[[Xbox 360]]に限定される。
* アークスRARAプリカ(出光クレジット) - カード自体は出光クレジットが発行に携わっている。主に北海道で複数ブランドのスーパーマーケットと各地方の運営会社が加盟しているアークスグループ各店で利用できるプリペイドカード。旧ラルズグループの頃から使われていたポイントカードの名称「RARAカード」の名を継承している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.idemitsucard.com/preca/lineup/rarapreca/index.html |title=アークスRARAプリカ |accessdate=20210203 |publisher=}}</ref>。
* あいプラスカード - さとうグループのポイントカード。楽天Edy付き<ref>{{Cite web|和書|title=あいプラスカードについて {{!}} 北近畿最大の流通サービス企業 さとうグループ |url=https://www.sato-kyoto.com/i_card/ipluscard.html |website=www.sato-kyoto.com |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* アゼリアカード(クレディセゾン)- カード自体はクレディセゾンが発行する、アゼリア専用のカード<ref>{{Cite web|和書|title=アゼリアカード - 入会金・年会費無料 - |url=https://www.saisoncard.co.jp/azalea/ |website=クレジットカードは永久不滅ポイントのセゾンカード |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* アルプスポイントカード - スーパーアルプスのカード。楽天Edy付き<ref>{{Cite web|和書|title=ポイントカード {{!}} スーパーアルプス |url=http://superalps.info/card |website=superalps.info |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* イオンギフトカード([[イオンリテール]])
* イデックスプリカ - イデックスグループが運営するガソリンスタンド専用<ref>{{Cite web|和書|title=特典豊富なプリペイドカード「イデックスプリカ」誕生♪ {{!}} 新出光 新着情報 |url=https://news.idex.co.jp/irm/78/ |website=news.idex.co.jp |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* オカモトプリカ - オカモトグループが運営するガソリンスタンド専用<ref>{{Cite web|和書|title=オカモトプリカ {{!}} オカモトセルフ |url=https://okamoto-self.com/okamoto_plica |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* [[クリエイトSDホールディングス#プリペイドカード|おさいふHippo]] - [[クリエイトSDホールディングス|クリエイトS・D]]専用<ref>{{Cite web|和書|title=クリエイトS・Dのサービス {{!}} サービス内容 {{!}} ドラッグストア クリエイト エス・ディー |url=https://www.create-sd.co.jp/service/tabid/79/Default.aspx |website=www.create-sd.co.jp |access-date=2022-12-01}}</ref>。
* [[オッズカード]](JRAシステムサービス) - [[中央競馬]] ([[日本中央競馬会|JRA]]) の[[競馬場]]や[[場外勝馬投票券発売所|WINS]]に備え付けてあるオッズボックス(オッズが書かれた紙を印刷・発行する端末)専用のプリペイドカード。
* 関西スーパーおさいふカード - 関西スーパーオリジナルのカードではあるが、地方スーパーのカードにしては珍しく楽天Edyが付与されているので、一般の楽天Edy加盟店での支払いにも対応している<ref>{{Cite web|和書|title=関西スーパー~おさいふカード~ |url=http://www.kansaisuper.co.jp/?mode=html&page=service9&ServiceName=saifu |website=www.kansaisuper.co.jp |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* [[ファミリーマート|サークルKサンクス]]プレカード - サークルK・サンクスにて利用可能なカード{{efn2|2018年をもってファミリーマートに統合されたため、統合以降はファミリーマート店頭で利用することになる<ref>[https://www.quocard.com/important/1310/ サークルK・サンクス店舗のファミリーマート店舗へのブランド転換に伴うカード利用について] 株式会社クオカード</ref>。}}。
* サンコーしあわせプリカカード - 富山県高岡市のサンコー各店で利用可能<ref>{{Cite web|和書|title=お知らせ・イベント情報 {{!}} サンコースーパー |url=http://www.sanko-super.jp/info.html |website=www.sanko-super.jp |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* 神鉄食彩館カード - しんてつ食彩館各店で利用可能<ref>{{Cite web|和書|title=食彩館~生鮮スーパー~ショッピングカード |url=http://shintetsu-ep.co.jp/card.html |website=shintetsu-ep.co.jp |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* スターバックスカード - スターバックスコーヒー専用<ref>{{Cite web|和書|title=スマートに楽しむ / スターバックス カード |スターバックス コーヒー ジャパン |url=https://www.starbucks.co.jp/howto/card/ |website=www.starbucks.co.jp |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* 西友ショッピングカード - [[西友]]
* [[シンプルスタイル (ソフトバンク)|ソフトバンクプリペイドカード]] ([[ソフトバンク]]) - 携帯電話用。
* ため得カード - 北海道のモダ石油専用。プラスチックカードではなく、テレホンカードのような薄い磁気カード<ref>{{Cite web|和書|title=ため得カード|モダグループ |url=https://www.moda.co.jp/card/tametoku/ |website=www.moda.co.jp |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* モダクラブカード - 北海道のモダ石油専用。プラスチック製で上記のため得カードの後継にあたる。2022年中頃から順次移行が進められており、将来的には完全に移行する予定。ため得カードでは券面に残高が記載されていたが、モダクラブカードは公式サイトで番号を入力することで残高の確認が可能。<ref>{{Cite web|和書|title=MODA CLUB|モダグループ |url=https://www.moda.co.jp/sp/modaclub/ |website=www.moda.co.jp |access-date=2022-12-19}}</ref>
* タリーズカード - タリーズコーヒー専用<ref>{{Cite web|和書|title=TULLY'S CARD{{!}}TULLY'S COFFEE - タリーズコーヒー |url=https://www.tullys.co.jp/cpn/tullyscard/ |website=www.tullys.co.jp |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* ちょこっとカード - 北海道のコープさっぽろの電子マネー付組合員証。店舗及びカードの運営元が生協の為に「組合員証」という位置づけだが、一般の店舗で言う会員証やポイントカードと同じ位置づけである。500ポイント毎に自動的にチャージされるオートチャージ機能も備えている。初めて発行する際は組合員証の申し込み(コープさっぽろの組合員になる)という意味合いもあるため、出資金の支払いが必要となる<ref>{{Cite web|和書|title=コープさっぽろ |url=http://www.sapporo.coop/ |website=www.sapporo.coop |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* [[テレホンカード]]([[東日本電信電話|NTT東日本]]・[[西日本電信電話|西日本]]) - 公衆電話用。
* 電子マネー機能付きハッピーカード - エコスグループ各店で利用可能<ref>{{Cite web|和書|title=各種取り扱いサービスについて エコスグループ |url=https://www.eco-s.co.jp/ |website=エコスグループ |accessdate=2021-02-03 |language=jp}}</ref>。
* 東方インターナショナル - リチャージ式国際電話カード。
* [[全国共通図書券|図書カード]] - 磁気カードのものからQRコードのものへ変遷している。
* [[知カード]] - 廃止されている。
* トライアルプリペイドカード - ディスカウントチェーンのトライアル専用のカードで、ポイントカード兼用。以前はプリペイドカード機能がないポイントカードのみの発行だったが、リニューアル後にプリペイド機能が追加となり、旧カードからのポイント移行期間を経て旧ポイントカードは廃止された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.trial-net.co.jp/prepaid/ |title=トライアルプリペイドカード |accessdate=20210203 |publisher=}}</ref>。
* SU-PAY - ディスカウントチェーンのトライアルからリリースされている、スマホの決済アプリ。現行で対応している金融機関口座からのチャージ、決済が可能。画面上に表示するバーコードを読み取って決済する方式。ただ、地方金融機関は対応数が少ない。<ref>{{Cite web|和書|url=https://su-pay.jp/ |website=su-pay.jp |access-date=2022-12-19 |title=SU-PAY TRIALのスマホ決済アプリ}}</ref>
* トリトンバリューカード - 北海道で有名な回転寿司トリトン等を運営する北一食品グループ各店で利用可能<ref>{{Cite web|和書|title=バリューカード |url=http://kita1.co.jp/valuecard/ |website=北一食品株式会社 |accessdate=2021-02-03 |language=ja-JP}}</ref>。
* ナショナルプリカ - 大阪のスーパーナショナル専用<ref>{{Cite web|和書|title=ナショナルプリカ {{!}} スーパーナショナル |url=http://www.supernational.co.jp/preca/ |website=www.supernational.co.jp |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* [[ニンテンドーeショップ|ニンテンドープリペイドカード]]([[任天堂]]) - [[Wii]]の『[[Wiiショッピングチャンネル]]』及び[[ニンテンドーDSi]]の『[[ニンテンドーDSiショップ]]』及び[[ニンテンドー3DS]]の『[[ニンテンドーeショップ]]』で販売されている有料ソフト購入時の決済に使われる。旧[[ニンテンドーポイント|ニンテンドーポイントプリペイドカード]]。
* パッキーカード([[日本レジャーカードシステム]])・パニーカード([[日本ゲームカード]]) - [[CR機]]と呼ばれる[[パチンコ]]機でプレイする際に必要となる貸し玉プリペイドカード。[[1990年]]に導入された。
* ひまわりカードプラス - 広島県のププレひまわり専用<ref>{{Cite web|和書|title=ひまわりカードプラス {{!}} ひまわりNEWS |url=https://himawarinews.com/ |website= ひまわりNEWS |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* フィールさくらカード - 愛知県等に展開するスーパーマーケット、フラッシュフーズフィール専用<ref>{{Cite web|和書|title=フィールさくらカード |url=https://feel-corp.jp/card/sakuracard.html |website=フィールコーポレーション |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>
* [[PLAZA|プラザスタイル ギフトカード]] - [[PLAZA]]で利用できるカード。
* プリケーカード、プリティカード([[ツーカー]] (KDDI)) - 2008年3月31日、ツーカーのサービス終了に伴い廃止。
* [[PlayStation Store|プレイステーションストアカード]]([[ソニー]]) — [[PlayStation Store]]で販売されている有料ソフト購入時の決済に使われる。旧プレイステーションネットワークカード。
* フレカプラス - ダイイチ(北海道)の電子マネー機能付きポイントカード。
* プレシャスカード - 上島珈琲店等のUCCグループの店舗専用<ref>{{Cite web|和書|title=PRECIOUS MEMBERS・CARD|上島珈琲店 |url=http://www.ueshima-coffee-ten.jp/precious |website=上島珈琲店 |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* ポテトカード - 北海道の斜里ポテト協同組合が発行するプリペイド機能付きポイントカード。知床・斜里地方の加盟店にて利用可能。かつて存在したオホーツクカードを継承した経緯があり、旧オホーツクカードはポテトカードと交換する措置が取られた<ref>{{Cite web|和書|title=斜里町でのお買い物はポテトカードで!!<斜里ポテト協同組合> |url=http://www.potatocard.com/ |website=www.potatocard.com |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* マイカイクラブ電子マネーサービス - ディスカウントスーパーロヂャース専用<ref>{{Cite web|和書|title=ディスカウントスーパー ロヂャース - マイカイクラブ電子マネーサービス 利用規約 |url=https://www.rogers.co.jp/mykaiclub/ |website=www.rogers.co.jp |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* マキヤプリカポイントカード - 静岡県のマキヤという会社がFC運営している業務スーパーで利用可能<ref>{{Cite web|和書|title=マキヤポイントカード - 業務スーパー |url=https://www.makiya-group.co.jp/gyomu/point/ |website=www.makiya-group.co.jp |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* [[日本マクドナルド#現金以外の支払方法|マックカード]] - [[日本マクドナルド]]全店舗にて利用可能なカード<ref group="注">ただし、本カードは使い切りタイプで券面以下の決済で使用された場合は現金で釣り銭が支払われるので[[商品券]]としての性格が強い。</ref>。
* マツモトプリカ - 京都のスーパーマツモト専用<ref>{{Cite web|和書|title=マツモトプリカ|スーパーマツモト |url=http://www.super-matsumoto.co.jp/preca/ |website=www.super-matsumoto.co.jp |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* まるごうおさいふプリカ - まるごう専用<ref>{{Cite web|和書|title=株式会社 丸合ホームページ {{!}} まるごう おさいプリカ |url=https://www.marugo.or.jp/card/index.html |website=www.marugo.or.jp |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* 万惣カード - 広島県の[[万惣|万惣グループ]]のスーパーで利用可能<ref>{{Cite web|和書|title=万惣カード|スーパーマーケット アルゾ・万惣・マルシェー |url=http://www.alzo.co.jp/card/ |website=www.alzo.co.jp |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* ミスタードーナツカード - ミスタードーナツ専用<ref>{{Cite web|和書|title=ミスタードーナツカード|お楽しみ|ミスタードーナツ |url=https://www.misterdonut.jp/enjoy/mdcard/ |website=www.misterdonut.jp |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* モスカード - モスバーガー専用<ref>{{Cite web|和書|title=モスカード {{!}} モスバーガー公式サイト |url=https://www.mos.jp/mosca/ |website=モスバーガー |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* モ〜ちゃんカード - なかやま牧場が運営するスーパーマーケット「ハート」各店で利用可能<ref>{{Cite web|和書|title=「こころ」の通ったスーパーへ。|スーパーハート |url=https://heart.nakayama-farm.jp/ |website=スーパーハート |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* [[楽天グループ|楽天ポイントギフトカード]] - [[楽天グループ|楽天]]で利用できる楽天スーパーポイントのカード。
* 楽得マプリ - 京都のマツヤスーパー専用<ref>{{Cite web|和書|title=楽得マプリ {{!}} マツヤスーパー |url=http://www.matsuyasuper.co.jp/mapuri/ |accessdate=2021-02-03 |language=ja |first=Copyright (C) Matsuya Super All Rights Reserved / |last=http://www.matsuyasuper.co.jp}}</ref>。
* リラプリ - 北海道エネルギー(通称 道エネ)のガソリンスタンド専用<ref>{{Cite web|和書|title=リラプリ – 北海道エネルギー株式会社 |url=https://www.do-ene.jp/car-support/rilapri/ |accessdate=2021-02-03 |language=ja}}</ref>。
* リンカ - 生鮮市場バリューリンク専用<ref>{{Cite web|和書|title=ポイントサービス {{!}} 地域密着型生鮮食品スーパーマーケット【生鮮市場 バリューリンク】 |url=http://market-link.jp/pointservice/ |website=market-link.jp |accessdate=2021-02-03}}</ref>。
* ワールドプリペイドカード - [[NTTコミュニケーションズ]]。主に国際電話用。
上記の他、交通系のカードが多数存在する。
{{main|乗車カード}}
=== 発行を終了したカード ===
* [[テレホンカード#ICテレホンカード|ICテレホンカード]](NTT東日本・NTT西日本) - 2006年3月末に利用停止。
* [[オレンジカード]] - JRグループが販売し、駅券売機での乗車券購入の際に利用できた。テレホンカードのような薄い磁気カードであり、[[2013年]][[3月31日]]で終売した<ref>{{Cite web|和書|title=オレンジカードの発売終了について:JR西日本|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2012/12/page_2950.html|website=www.westjr.co.jp|accessdate=2021-02-03|language=ja}}</ref>。
* [[ふみカード]](旧[[郵政省]]→[[郵政事業庁]]→[[日本郵政公社]]→現[[郵便事業]]) - [[切手]]、[[葉書]]、郵便料金の納付。2003年4月以降販売中止、[[2006年]][[9月30日]]廃止。
* [[モバイラーズチェック]]カード - [[NTTドコモ]]。2012年3月31日に販売終了。
* [[ユーカード]] - 出光の[[ガソリンスタンド]]や日本マクドナルドなどで使えた。[[2003年]][[3月]]で廃止。
* [[ソフトバンクプリペイドサービス|プリペイドカード、pjカード]] - (当時・ソフトバンクモバイル)。廃止されている。
== 国際ブランドタイプのプリペイドカード ==
{{See also|ブランドプリカ}}
VISA・MasterCardなど、国際ブランドが付与されていて、クレジットカードと同じように使用できるプリペイドカードを'''ブランドプリペイドカード'''(ブランドプリカ)と呼ぶことがある。
これらのカードは実店舗で利用できるようにカードを発行するタイプと、ネットショップでの利用を前提としてカードそのものは発行せずにカード番号の発行のみを行うバーチャルタイプのカードが存在する。
カードによっては店頭に置いてあるカードに署名をすればすぐに入金して利用できるタイプのものもあり、これらのカードには表面の契約者名の部分に『CARD HOLDER』や『CARD MEMBER』など、個人名が記載されていない事がある。端末機器に名前が表示される、あるいは伝票に名前が印字される場合はカードに記載されたこのような名前が表示あるいは印字される。
残高以上の決済がされないように利用の都度[[信用照会]]による確認が必要なため、[[クレジットカード]]とは異なり[[信用照会端末]]やインターネット以外での決済には対応していないことが多く、[[インプリンタ]]による決済ができないようにカード番号などのエンボス加工がされていないものがほとんどである(ただし手書きで処理可能な場合はそれで決済できてしまうこともある)。
支払いしようとした金額がカード残高を超えた場合、信用照会が通らないため利用することが出来ず、カード決済の性格上、他の決済手段と併用して支払うことも出来ない(不足分を現金で決済することが可能な店舗もごく稀に存在する)。その他、[[リカーリング・トランザクション|定期的に支払いを行う処理(公共料金の月額利用料の支払い等)]]や、決済金額がその場で確定しない処理(ガソリンスタンドにおける給油料金の支払い)には利用できないが、例外としてKyash Cardやバンドルカードプラスでは[[デポジット]]を預かることでガソリンスタンドに対応<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyash.co/information/20210528 |title=ガソリンスタンドでKyash Cardが利用可能になります - Kyash お知らせ |accessdate=2023-06-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://support.vandle.jp/hc/ja/articles/115011200648 |title=宿泊施設・ガソリンスタンド・航空券購入・adobe、google play store 等で支払金額と違う金額が残高から引かれた – バンドルカード サポート |accessdate=2023-07-12}}</ref>、au PAY プリペイドカードは出光興産のガソリンスタンドのうち出光ブランドあるいは出光ブランドから転換されたapollostationでのみ利用可能。飛行機の機内販売や、高速道路の料金所はその時点ではオフライン扱いの取引の為、利用が出来ない。
上記でもあるように公共料金や会員サイト等の定額支払いには利用できないのは勿論であるが、ネット通販等でその時限りの決済の場合でもエラー表示となり利用できないケースも少なくない。ブランドプリペイドやブランドデビットは、カードの性質上ネット通販での購入申し込み時の信用照会、商品発送時の本決済の二重引き落としが発生するリスクがあり、こういったトラブルを避けるために本当のクレジットカードのみ受け付けるように設定されているものと思われる。ブランドカードは頭4桁〜8桁で発行会社やカードの種類が決まっているためそれらを受け付けないようにされているか、多くのブランドプリペイドで11円以上でないと決済出来ないようになっている事から、カード番号登録や購入申し込み時に10円以下の承認を取って利用可能カードか判別する通称「1円オーソリ」を実施しているサイトの可能性が高い。なお、実質利用できるサイトでの利用で二重決済が発生してしまった場合でも、本決済以外の利用承認分は店舗からの正式な請求データーが送られない為に、期間は数日から1か月以上要するがその分の残高が復活するとされている。
1度入金した残高は現金での払い戻しに対応していないものがほとんどだが、手数料を支払うことにより残高を現金で引き出すことが可能なものもある。
[[2016年]]以降、国外での決済やATM引出に対応するカードの場合は、[[個人番号]]を届け出ないと発行できない場合がある(あるいは、発行可能であっても国内利用のみに制限される場合もある)。
== 局所的に使用されるプリペイドカード ==
* 社員食堂や売店などの特定の会社の社内でのみ通用するカード
* [[洗車機]]、[[コインランドリー]]、[[ゲームセンター]]、[[病院]]、[[ホテル]]の有料[[テレビ]]、[[大学生協]]などの[[複写機|コピー機]]など特定場所の機器を使用する際、使用料を支払うための専用カード
** 病院に設置してある[[テレビ]]の視聴用カードは通常1枚1,000円で20時間テレビ視聴可能で度数式が主流である。1枚1,000円で4日間使用できる「定期券式テレビカード」も存在する。病室のテレビ以外に[[冷蔵庫]]や[[洗濯機]]等に使用できる場合もある。退院時には精算機で精算できるところが増えてきた。
* 特定の[[ガソリンスタンド]]のみで使用できる給油専用、洗車専用プリペイドカード
** カードの購入(入金)金額によって、ガソリン代金が数円程度割引されて給油できることが多いが、同じブランドのガソリンスタンドでも他の販売店では使用出来ないことがほとんどである。
* [[アメリカ軍]]兵士が使用している軍用カード、[[軍用手票]]の代わりとして[[1990年代]]から導入されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Stored-value cards}}
* [[退蔵益]]
* [[回数券]]
** [[回数乗車券]]
* [[商品券]]
* [[電子マネー]]
* [[デビットカード]]
* [[金券]]
* [[乗車カード]]
* [[前払式証票発行協会]]
* [[前払式証票の規制等に関する法律]]
* [[資金決済に関する法律]]
* [[キャッシュアウト]]
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ふりへいとかあと}}
[[Category:決済手段]]
[[Category:プリペイドカード|*]] | 2003-03-09T08:58:22Z | 2023-11-17T10:47:53Z | false | false | false | [
"Template:See also",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Normdaten",
"Template:Redirect",
"Template:複数の問題",
"Template:仮リンク",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist2",
"Template:Cite book",
"Template:Commonscat",
"Template:雑多な内容の箇条書き",
"Template:Efn2"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89 |
3,719 | 果実 | 果実(かじつ、英: fruit)とは、雌しべの子房およびそれに付随する構造が成熟したものであり、内部には種子が含まれる。果実は基本的に内部の種子を保護し、またしばしば効率的な種子散布のための構造・機構をもつ。果実において、子房壁に由来する部分は果皮とよばれる。成熟した状態で果皮が液質・多肉質なものは液果(図1a)、果皮が乾燥しているものは乾果とよばれ、また乾果のうち成熟しても裂開しないものは閉果(図1b, c)、成熟すると裂開するものは裂開果(図1d)とよばれる。果実はふつう1つの花の1個の雌しべに由来し、このような果実は単果とよばれる。一方、キイチゴのように1つの花の複数の雌しべに由来するものは集合果、パイナップルのように複数の花に由来するものは複合果(多花果)とよばれる。また、花托(雌しべなどがついている茎の部分)や花被など子房以外に由来する構造が多くを占めている果実は、偽果とよばれる。
人間はさまざまな果実を食用としており、その中で甘みがあるものは果物(くだもの)、野菜とされるものは果菜(かさい)とよばれる。また、特に果物のことを果実とよんでいることもある。果実は、一般語として実(み)ともよばれるが、この語は大型の種子を意味することもある(トチの"実"、イチョウの"実"など)。
被子植物では、種子となる構造である胚珠が雌しべの中に包まれている。雌しべにおいて、胚珠が含まれる部分は、子房(ovary)とよばれる(下図2a)。花粉が雌しべの柱頭に付着(受粉)すると、そこから花粉管を伸ばし、子房中の胚珠に達する。胚珠の中には雌性配偶体である胚嚢(胚のう)が形成され、その中に卵細胞がつくられる。卵細胞は花粉管を通じて送り込まれた精細胞と合体(受精)し、受精卵は次世代である胚となり、これを含む胚珠は種子となる。また胚珠(種子)を含む雌しべの子房は成熟し、果実となる(下図2e)。果実が発達するきっかけは胚珠が受精することによる植物ホルモンの変化であり、受精できなかった雌しべはふつう枯れてしまう。しかし受精することなしに果実が発達することがあり、単為結果(単為結実)とよばれる(例: バナナ、パイナップル、イチジク、ブドウなどの園芸品種)。
果実の大きさは極めて多様である。栽培されるセイヨウカボチャの中には極めて大きな果実をつくるものがあり、最大では直径3.56メートル (m)、最重では1,226キログラム (kg) のものが知られている。一方、最小の果実はミジンコウキクサ属のものであり、直径0.3ミリメートル (mm)、重さ70マイクログラム (μg) しかない。1個の果実に含まれる種子の数もさまざまであり、1個の種子を含むものから、100万個以上の微小な種子を含むものまである。
果実において、雌しべの子房壁が成熟した部分は、果皮(かひ; pericarp, fruit coat)とよばれる。果皮は基本的に3層からなり、外果皮(exocarp)、中果皮(mesocarp)、内果皮(endocarp)とよばれるが、これらの分化が不明瞭なこともある(上図2b–d)。また果皮が肉質である場合は、果肉(sarcocarp)ともよばれる。子房下位の花(萼片や花弁、雄しべの基部よりも下に子房が位置している花)では、子房が花托(下記参照)に包まれている。そのため、このような花から形成された果実においては、果皮の外側に花托に由来する部分が存在し、偽果皮とよばれることもあるが、その区分はふつう不明瞭であり、特に区別せず果皮とよばれることが多い。イネ科の果実(穎果)では、果皮が種皮と合着している。果皮は種子を包んでいるが、ヤブラン属やジャノヒゲ属(キジカクシ科)などでは果皮がすぐに脱落し、種子が裸出した状態で成長する。
花において、花被片や雄しべ、雌しべなどの花要素がついている茎の先端部分は、花托(かたく)とよばれる。また複数の花がついている茎先端が広がった部分は、花床(かしょう)とよばれる。ただし花托・花床を区別せず、共に花床とよんでいることも多い。花托・花床は、果実になった状態では果托・果床とよばれることがある。リンゴやイチゴでは花托に由来する部分が(下図3a)、イチジクでは花床に由来する部分が(下図3b)、果実の大部分を占めている。このように花托や花床、さらに花被など子房以外の要素が大部分を占める果実は、偽果ともよばれる。
茎についている果実の柄は果柄(pedicel)、複数の果実がついている共通の柄は果梗(peduncle)とよばれる(上図3c, d)。果柄・果梗は、ふつう花の花柄・花梗に由来するが、花後に雌しべの基部が伸長して柄になるものでは、果柄と花柄は一致しない。
花のついた茎全体または茎に対する花のつき方は、花序(inflorescence)とよばれる。花が果実になった状態では、果序(infructescence)ともよばれる。
果実は、果皮の状態や心皮(雌しべを構成する葉的要素)の数などに基づいてさまざまな型に類別される。熟した状態で果皮が乾燥しているものは乾果(かんか; dry fruit)とよばれる。乾果は、果皮が裂開する裂開果と裂開しない閉果(非裂開果)に分けられる。一方、果皮が柔らかく水分を含むものを液果(えきか; 多肉果、sap fruit)とよばれる。また1個の花の1個の雌しべに由来する果実は単果とよばれ、1個の花の複数の雌しべに由来する果実がまとまった構造は集合果とよばれる。単果と集合果はいずれも1個の花に由来するため単花果とよばれ、一方で複数の花の雌しべに由来するまとまった構造は複合果(多花果)とよばれる。果実のうち、雌しべの子房に由来する部分が大部分を占めるものは真果、子房以外の要素が大部分を占める果実は偽果ともよばれる。
乾果のうち、成熟すると裂開して種子を露出するものは裂開果(れっかいか; dehiscent fruit)とよばれる。裂開する場所はふつう決まっており、心皮の両縁が接する線(内縫線、腹縫線、inner suture, ventral suture)や心皮の中軸にあたる線(外縫線、背縫線、outer suture, dorsal suture)、心皮どうしが接する線などであることが多い。裂開果の場合、果実から出た種子が散布される単位となる。
乾果のうち、成熟しても裂開しないものは閉果(へいか; 非裂開果、indehiscent fruit)とよばれる。閉果の場合、種子を含む果実が散布単位となる。
複数の心皮からなり、心皮ごとに分離して複数の単位に分離する果実は分離果(ぶんりか; schizocarp)とよばれる。分離する単位は分果(ぶんか; mericarp, coccus)とよばれる。乾果であり、分果が裂開しないもの(上図7c)と裂開するもの(上図7d)があるが、前者のみを分離果とすることもある。分果が裂開するものはフウロソウ科、コクサギやサンショウ(ミカン科)に、分果が裂開しないものはハマビシ科、ニガキ科、ゼニアオイ(アオイ科)、ヤエムグラ属(アカネ科)、ムラサキ科、シソ科、セリ科などに見られる。またセリ科などの果実は2つの分果がぶら下がった形になり、特に双懸果(そうけんか)(cremocarp)ともよばれる。
果皮が柔らかく多肉質・多汁質である果実は、液果(多肉果、sap fruit)とよばれる。基本的に裂開しないが、アケビ(アケビ科)のように裂開する例もある。
1個の花はふつう1個の雌しべ(子房)をもつが、これに由来する独立した果実は単果(simple fruit)とよばれる。一方、1個の花が複数の雌しべ(子房)をもつことがあり(個々の雌しべは1心皮からなり、このような状態は離生心皮とよばれる)、これに由来する複数の果実がまとまった構造となる場合、集合果(aggregate fruit)とよばれる。ただし、どの程度まとまっていれば集合果と呼べるのか明確な定義があるわけではない。集合果には、以下のようなものがある。
1個の花の1個または複数の雌しべ(子房)に由来する果実は、単花果(monothalamic fruit)とよばれる。一方、複数の花に由来する果実がまとまった構造となる場合、複合果(または多花果、collective fruit, polyanthocarp)とよばれる。ただし、どの程度まとまっていれば複合果と呼べるのか明確な定義があるわけではない。複合果は、それを構成する果実の型や、付随する構造に基づいて以下のように類別される。
基本的に、果実は雌しべの子房(種子になる構造である胚珠を含む部分)が発達して形成された構造であり、これが大部分を占める果実は真果(true fruit)とよばれる。一方で、花托や花被など子房以外に由来する構造が多くを占めている果実は、偽果(仮果、副果、accessory fruit, anthocarp, false fruit)とよばれる(図11)。ほとんどの果実は子房以外の構造を含むが、その程度はさまざまであり、子房以外の構造をどの程度含むものを偽果とするかは明瞭な基準があるわけではない。「偽果」には「ニセモノの果実」という語感があるが、偽果は真の果実の部分(子房に由来する部分)を含んでおり、果実の一型として扱われる。
上記のナシ状果、バラ状果、イチゴ状果、ハス状果、イチジク状果では、それぞれの花がついた花托や多数の花がついた花床(花托、花床は花がついた茎の先端部)が発達して果実の大部分を占めており、典型的な偽果である。またクワ状果では複合果を構成する個々の真果の部分が液質化した花被に包まれた偽果であるが、他にもイシミカワ(タデ科)やシラタマノキ属(ツツジ科)などに同様の例が見られる(下図12a)。グミ属(グミ科)やオシロイバナ(オシロイバナ科)の果実も萼筒の基部が真果の部分を包んで偽果となっている(下図12b, c)。オナモミ属(キク科)では複数の雌花に由来する複数の痩果が、刺だらけの総苞で包まれた偽果を形成する(下図12d)。
生物学的に、果実は雌しべの子房が発達したものであり、そのため雌しべをもつ植物群である被子植物に特有の器官である。裸子植物は胚珠(種子)を包む雌しべをもたないため、裸子植物は果実をもたない。しかし、裸子植物でも種子を囲んだ器官が発達して果実様の構造を形成することが多く、このような構造が"果実"とよばれることがある。
裸子植物の球果類(針葉樹)は、基本的に、向軸側に胚珠をつけた鱗片が軸に多数集まって球果(まつかさ、cone, strobile)を形成する。球果の鱗片はふつう木化しており、乾湿運動によって開閉して種子を放出する(下図13a)。ビャクシン属(ヒノキ科)の球果では鱗片が肉質になり、裂開しない液果状の球果を形成する(下図13b)。このような球果は、漿質球果(しょうしつきゅうか; 肉質球果、freshy cone, galbulus)とよばれる。マキ科では、鱗片が肉質化して套皮(とうひ、epimatium)とよばれる構造となり、1個の種子を包んでいる(下図13c)。さらにイヌマキなどでは、種子のついた枝("花托"、種托)が多肉質になる。またグネツム属やマオウ属では、胚珠を包む苞が肉質化して液果状になる(下図13d)。
イチイ属やカヤ属(イチイ科)では、胚珠の基部の構造が発達して仮種皮となり、種子の基部または全体を覆うようになる(上図13e)。このような構造は仮種皮果(arillocarpium)ともよばれる。
ソテツ目やイチョウ目では、種皮が3層に分化し、外層が肉質化する(上図13f)。この種子は液果に似ているため、"実"とよばれることもあるが、実際には種子である。このような種子は種子果(seminicarpium)ともよばれる。またイヌガヤ(イチイ科)でも、種皮外層が多肉質になる。
通常は動けない種子植物にとって、親植物から離れて分布拡大できる時期は、種子の段階である。種子が散布されること(種子散布)は、裸地に植物が生えてくることや、植生が次第に遷移していくことで認識できる。被子植物では種子は果実に包まれた状態で形成されるが、裂開果では果実から放出された種子が、閉果では種子を含む果実が、それぞれ散布単位となる。果実は、効率的な種子散布のための構造・機能をもつことがある。
風によって果実・種子が散布される様式は、風散布とよばれる。風散布される果実は、翼をもつ例と綿毛をもつ例がある。カエデ(ムクロジ科)やアキニレ(ニレ科)、シラカンバ(カバノキ科)など果皮が翼状になった例(翼果とよばれる; 下図14a)や、スイバ(タデ科)やツクバネウツギ(スイカズラ科)のように果実に付随する花被が翼状になっている例、シナノキ(アオイ科)やツクバネ(ビャクダン科)のように苞が翼状になっている例(下図14b)がある。また果実が綿毛をもつ例も見られ、タンポポなどキク科の多くでは萼に由来する冠毛が(下図14c)、クレマチス(キンポウゲ科)では花柱に生えた毛が、ススキ(イネ科)では花序の基部に生えた毛が(下図14d)発達している。裂開果において種子が散布される場合でも、果実の開口部が小さく上部にあるなど、強い風や振動によってのみ種子が散布されるようになっているものがある(風靡散布)(下図14e)。
水辺に生育する植物の中には、水によって果実・種子が散布されるものがある(水散布)。コナギ(ミズアオイ科)やハス(ハス科)、クサネム(マメ科)、タカサブロウ(キク科)などの果実は比重が軽く、水に浮いて散布される(下図15a)。ジュズダマ(イネ科)やオナモミ(キク科)では、果実を包む苞が特殊化して浮遊するようになっている(上図12d, 下図15b)。またオモダカ(オモダカ科)の果実には翼があり、水中で流される(下図15c)。ココヤシ(ヤシ科)やハマゴウ(シソ科)の果実は核果であり、硬化した内果皮で種子が包まれていることから、海水に耐えて海面を浮いて散布される(海流散布)(下図15d)。ネコノメソウ(ユキノシタ科)やフデリンドウ(リンドウ科)の果実は、上向きに裂開し雨粒を受けて種子が散布される(雨滴散布)(下図15e)。
大型の動物に付着し、種子散布される様式は付着散布(動物付着散布)とよばれる。かぎ状の突起などによって動物に付着するものとして、果皮にかぎ毛をもつヌスビトハギ(マメ科)、ミズタマソウ(アカバナ科; 下図16a)、ヤエムグラ(アカネ科)、ヤブジラミ(セリ科; 下図16b)、花柱由来のかぎをもつミズヒキ(タデ科)やダイコンソウ(バラ科; 図9b)、萼由来のかぎをもつハエドクソウ(ハエドクソウ科)やセンダングサ(キク科; 下図16c)、苞に由来するかぎをもつイノコヅチ、果実を包む総苞に多数のとげをもつオナモミ(キク科; 上図12d)などがある。また粘液によって動物に付着するものとして、果実表面から粘液を分泌するノブキ(キク科; 上図16d)、冠毛から粘液を分泌するヌマダイコン(キク科)、総苞から粘液を分泌するメナモミ(キク科)、芒から粘液を分泌するチヂミザサ(イネ科; 下図16e)などがある。特に付着のための構造をもたない果実でも、小型のものは泥などによって動物に付着し、散布されることがあると考えられている。
哺乳類や鳥類に食べられ、排出されることで種子散布される様式は、被食散布(動物被食散布、周食散布、糞散布)とよばれる(下図17a)。このような果実は、動物にとって魅力ある可食部と適度な大きさをもち、また内部の種子は消化されないように厚い種皮をもっていたり、硬化した内果皮で包まれていたり(核果)、粘質の物質をまとっていたりする。大きな種子を少数含むものから、小さな種子を多数含むものまである。可食部の質や果実の大きさ、色、匂い、果実のつく高さや落下しやすさなどに多様性があり、それぞれ捕食者である動物に合わせている。特に鳥類に被食されるものと哺乳類に被食されるものでは色(鳥類用果実には赤や黒のものが多い)や匂い(哺乳類用果実は強い匂いをもつものが多い)などに違いがあるが、鳥類・哺乳類双方に対応しているものもある。被食散布される果実は内部の種子の発芽を抑制する物質が含んでいることがあり、この場合、動物に食べられて排出されることで初めて種子が発芽できるようになる。未熟期の果実は、色が変わっていないことや有毒・不味成分を含むことで食べられないようにしている。ただし可食部をほとんどもたない果実や種子が目立つ色をしており、十分な可食部をもつ果実に擬態(果実擬態)していると考えられている例もある。また被食散布される果実は、一斉に成熟するタイプと、長期に渡って少数ずつ成熟するタイプがあることが知られている。さらに年ごとによって果実の生産量が大きく変動することも知られており、食害昆虫の増加を抑えるためであると考えられている。果皮が多肉質である液果は、被食散布される。クワ(クワ科)やグミ(グミ科)、シラタマノキ(ツツジ科)では、子房ではなく果実を包む花被が多肉質の可食部になる(上図12a, b, 下図17b)。イチゴ(バラ科)では隆起した花托が、バラ(バラ科)ではつぼ状になった花托が、ケンポナシ(クロウメモドキ科; 下図17c)では花がついた枝が、イチジク(クワ科)では多数の花がついたつぼ状の花床がそれぞれ可食部になる。他にも、果実ではなく種子の付属物(種皮、仮種皮など)が可食部となっている例もある。またイネ科やカヤツリグサ科、ヒユ科、タデ科、シロツメクサなど特に被食散布のための構造をもたない小型の果実が、ウシやシカ、カモ類などの草食動物が葉や茎を食べる際に一緒に取り込まれ、消化されずに排出されることがあり、このような散布も重要であることが示唆されている。
クリやコナラ(ブナ科)、ハシバミ(カバノキ科)、オニグルミ(クルミ科)、エゴノキ(エゴノキ科)などの果実は、果皮が硬く木化しており、内部に大きな種子を含む。リスやネズミ、シジュウカラ、カケスなどの動物はこのような果実を収集・輸送・貯蔵し、内部の種子を食用とするが、貯蔵されながら食べ残された果実はそこで発芽することができる(貯食散布、食べ残し散布)(上図17d)。
一部の植物では種子や果実にエライオソームとよばれるアリが好む物質の塊がついており、アリによって収穫、巣まで運ばれることで種子散布される。このような種子散布様式はアリ散布とよばれ、多くは種子にエライオソームをつけているが、ホトケノザ(シソ科)やカナムグラ(アサ科)、アオスゲ(カヤツリグサ科)のように果実にエライオソームをつけている例もある(上図17e)。
果実の中には、自動的に種子を射出する機構を備えているものがあり、このような種子散布は自動散布(自力散布、自発分散、自力射出散布)とよばれる。シキミ(マツブサ科)やスミレ(スミレ科)、カラスノエンドウ(マメ科)、ゲンノショウコ(フウロソウ科)などでは、果実の果皮が乾燥・収縮することで種子を弾き飛ばす(上図18a–d)。またホウセンカ(ツリフネソウ科)やムラサキケマン(ケシ科)では果皮の細胞の膨圧上昇によって果実がはじけ、種子を弾き飛ばす(上図18e)。
人間は、さまざまな果実を食用に利用している。穀物であるイネ、コムギ、トウモロコシ(イネ科)、豆類であるダイズ、アズキ、インゲンマメ(マメ科)などは、種子に含まれる胚乳や子葉が主な食用部とされるが、種子を伴う果実の状態で収穫される。またこれら穀物や豆類は、人間の食用だけではなく飼料としても重要である。主に果皮部が食用とされる果実のうち、ミカン、リンゴ、ブドウなど木本に実り一般的に甘いものは果物、キュウリ、エンドウ、トマトなど草本に実り野菜として利用されるものは果菜とよばれる(下図19a, b)。また、果物のことを特に「果実」とよんでいることもある。生産分野では木本に実るものを果物(果実)としており、スイカやイチゴなど草本に実るものは「果実的野菜」とよばれることがあるが、消費分野ではこのような果実も果物として扱われる。ブドウなどの果実は、直接食用とされるだけではなく、アルコール飲料の原料としても利用される(下図19c)。
オリーブ(クスノキ科)やアブラヤシ(ヤシ科)の果皮から得られた油は、食用油やせっけんなどに利用される(上図19d)。ハゼノキ(ウルシ科)の果実の果皮から得られた油脂(木蝋、ハゼ蝋)は、和ろうそくなどに用いられる。
クチナシ(アカネ科; 下図20a)、ミカン(ミカン科; 下図20b)、ナツメ(クロウメモドキ科)などの果実は、生薬とされることがある。ケシ(ケシ科)の未熟果実から得られた乳液(乾燥させた乳液はアヘン)にはモルヒネなどのアルカロイドが含まれ、薬用として利用されており、また麻薬ともされる(下図20c)。
カボチャやヒョウタン(ウリ科)、ココヤシ(ヤシ科)などの果実は飾りや容器に加工され(上図20d)、またヘチマ(ウリ科)やココヤシの果実から得られる繊維もさまざまに利用される。クチナシなどの果実は、染料として利用されることもある。園芸や生け花において、果実を鑑賞対象とすることがあり、このような植物は実物(みもの)ともよばれ、日本で利用される例としてセンリョウ(センリョウ科)やナンテン(メギ科)、サンキライ(サルトリイバラ科)などがある(上図20e)。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "果実(かじつ、英: fruit)とは、雌しべの子房およびそれに付随する構造が成熟したものであり、内部には種子が含まれる。果実は基本的に内部の種子を保護し、またしばしば効率的な種子散布のための構造・機構をもつ。果実において、子房壁に由来する部分は果皮とよばれる。成熟した状態で果皮が液質・多肉質なものは液果(図1a)、果皮が乾燥しているものは乾果とよばれ、また乾果のうち成熟しても裂開しないものは閉果(図1b, c)、成熟すると裂開するものは裂開果(図1d)とよばれる。果実はふつう1つの花の1個の雌しべに由来し、このような果実は単果とよばれる。一方、キイチゴのように1つの花の複数の雌しべに由来するものは集合果、パイナップルのように複数の花に由来するものは複合果(多花果)とよばれる。また、花托(雌しべなどがついている茎の部分)や花被など子房以外に由来する構造が多くを占めている果実は、偽果とよばれる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "人間はさまざまな果実を食用としており、その中で甘みがあるものは果物(くだもの)、野菜とされるものは果菜(かさい)とよばれる。また、特に果物のことを果実とよんでいることもある。果実は、一般語として実(み)ともよばれるが、この語は大型の種子を意味することもある(トチの\"実\"、イチョウの\"実\"など)。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "被子植物では、種子となる構造である胚珠が雌しべの中に包まれている。雌しべにおいて、胚珠が含まれる部分は、子房(ovary)とよばれる(下図2a)。花粉が雌しべの柱頭に付着(受粉)すると、そこから花粉管を伸ばし、子房中の胚珠に達する。胚珠の中には雌性配偶体である胚嚢(胚のう)が形成され、その中に卵細胞がつくられる。卵細胞は花粉管を通じて送り込まれた精細胞と合体(受精)し、受精卵は次世代である胚となり、これを含む胚珠は種子となる。また胚珠(種子)を含む雌しべの子房は成熟し、果実となる(下図2e)。果実が発達するきっかけは胚珠が受精することによる植物ホルモンの変化であり、受精できなかった雌しべはふつう枯れてしまう。しかし受精することなしに果実が発達することがあり、単為結果(単為結実)とよばれる(例: バナナ、パイナップル、イチジク、ブドウなどの園芸品種)。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "果実の大きさは極めて多様である。栽培されるセイヨウカボチャの中には極めて大きな果実をつくるものがあり、最大では直径3.56メートル (m)、最重では1,226キログラム (kg) のものが知られている。一方、最小の果実はミジンコウキクサ属のものであり、直径0.3ミリメートル (mm)、重さ70マイクログラム (μg) しかない。1個の果実に含まれる種子の数もさまざまであり、1個の種子を含むものから、100万個以上の微小な種子を含むものまである。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "果実において、雌しべの子房壁が成熟した部分は、果皮(かひ; pericarp, fruit coat)とよばれる。果皮は基本的に3層からなり、外果皮(exocarp)、中果皮(mesocarp)、内果皮(endocarp)とよばれるが、これらの分化が不明瞭なこともある(上図2b–d)。また果皮が肉質である場合は、果肉(sarcocarp)ともよばれる。子房下位の花(萼片や花弁、雄しべの基部よりも下に子房が位置している花)では、子房が花托(下記参照)に包まれている。そのため、このような花から形成された果実においては、果皮の外側に花托に由来する部分が存在し、偽果皮とよばれることもあるが、その区分はふつう不明瞭であり、特に区別せず果皮とよばれることが多い。イネ科の果実(穎果)では、果皮が種皮と合着している。果皮は種子を包んでいるが、ヤブラン属やジャノヒゲ属(キジカクシ科)などでは果皮がすぐに脱落し、種子が裸出した状態で成長する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "花において、花被片や雄しべ、雌しべなどの花要素がついている茎の先端部分は、花托(かたく)とよばれる。また複数の花がついている茎先端が広がった部分は、花床(かしょう)とよばれる。ただし花托・花床を区別せず、共に花床とよんでいることも多い。花托・花床は、果実になった状態では果托・果床とよばれることがある。リンゴやイチゴでは花托に由来する部分が(下図3a)、イチジクでは花床に由来する部分が(下図3b)、果実の大部分を占めている。このように花托や花床、さらに花被など子房以外の要素が大部分を占める果実は、偽果ともよばれる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "茎についている果実の柄は果柄(pedicel)、複数の果実がついている共通の柄は果梗(peduncle)とよばれる(上図3c, d)。果柄・果梗は、ふつう花の花柄・花梗に由来するが、花後に雌しべの基部が伸長して柄になるものでは、果柄と花柄は一致しない。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "花のついた茎全体または茎に対する花のつき方は、花序(inflorescence)とよばれる。花が果実になった状態では、果序(infructescence)ともよばれる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "果実は、果皮の状態や心皮(雌しべを構成する葉的要素)の数などに基づいてさまざまな型に類別される。熟した状態で果皮が乾燥しているものは乾果(かんか; dry fruit)とよばれる。乾果は、果皮が裂開する裂開果と裂開しない閉果(非裂開果)に分けられる。一方、果皮が柔らかく水分を含むものを液果(えきか; 多肉果、sap fruit)とよばれる。また1個の花の1個の雌しべに由来する果実は単果とよばれ、1個の花の複数の雌しべに由来する果実がまとまった構造は集合果とよばれる。単果と集合果はいずれも1個の花に由来するため単花果とよばれ、一方で複数の花の雌しべに由来するまとまった構造は複合果(多花果)とよばれる。果実のうち、雌しべの子房に由来する部分が大部分を占めるものは真果、子房以外の要素が大部分を占める果実は偽果ともよばれる。",
"title": "果実の分類"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "乾果のうち、成熟すると裂開して種子を露出するものは裂開果(れっかいか; dehiscent fruit)とよばれる。裂開する場所はふつう決まっており、心皮の両縁が接する線(内縫線、腹縫線、inner suture, ventral suture)や心皮の中軸にあたる線(外縫線、背縫線、outer suture, dorsal suture)、心皮どうしが接する線などであることが多い。裂開果の場合、果実から出た種子が散布される単位となる。",
"title": "果実の分類"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "乾果のうち、成熟しても裂開しないものは閉果(へいか; 非裂開果、indehiscent fruit)とよばれる。閉果の場合、種子を含む果実が散布単位となる。",
"title": "果実の分類"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "複数の心皮からなり、心皮ごとに分離して複数の単位に分離する果実は分離果(ぶんりか; schizocarp)とよばれる。分離する単位は分果(ぶんか; mericarp, coccus)とよばれる。乾果であり、分果が裂開しないもの(上図7c)と裂開するもの(上図7d)があるが、前者のみを分離果とすることもある。分果が裂開するものはフウロソウ科、コクサギやサンショウ(ミカン科)に、分果が裂開しないものはハマビシ科、ニガキ科、ゼニアオイ(アオイ科)、ヤエムグラ属(アカネ科)、ムラサキ科、シソ科、セリ科などに見られる。またセリ科などの果実は2つの分果がぶら下がった形になり、特に双懸果(そうけんか)(cremocarp)ともよばれる。",
"title": "果実の分類"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "果皮が柔らかく多肉質・多汁質である果実は、液果(多肉果、sap fruit)とよばれる。基本的に裂開しないが、アケビ(アケビ科)のように裂開する例もある。",
"title": "果実の分類"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1個の花はふつう1個の雌しべ(子房)をもつが、これに由来する独立した果実は単果(simple fruit)とよばれる。一方、1個の花が複数の雌しべ(子房)をもつことがあり(個々の雌しべは1心皮からなり、このような状態は離生心皮とよばれる)、これに由来する複数の果実がまとまった構造となる場合、集合果(aggregate fruit)とよばれる。ただし、どの程度まとまっていれば集合果と呼べるのか明確な定義があるわけではない。集合果には、以下のようなものがある。",
"title": "果実の分類"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1個の花の1個または複数の雌しべ(子房)に由来する果実は、単花果(monothalamic fruit)とよばれる。一方、複数の花に由来する果実がまとまった構造となる場合、複合果(または多花果、collective fruit, polyanthocarp)とよばれる。ただし、どの程度まとまっていれば複合果と呼べるのか明確な定義があるわけではない。複合果は、それを構成する果実の型や、付随する構造に基づいて以下のように類別される。",
"title": "果実の分類"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "基本的に、果実は雌しべの子房(種子になる構造である胚珠を含む部分)が発達して形成された構造であり、これが大部分を占める果実は真果(true fruit)とよばれる。一方で、花托や花被など子房以外に由来する構造が多くを占めている果実は、偽果(仮果、副果、accessory fruit, anthocarp, false fruit)とよばれる(図11)。ほとんどの果実は子房以外の構造を含むが、その程度はさまざまであり、子房以外の構造をどの程度含むものを偽果とするかは明瞭な基準があるわけではない。「偽果」には「ニセモノの果実」という語感があるが、偽果は真の果実の部分(子房に由来する部分)を含んでおり、果実の一型として扱われる。",
"title": "果実の分類"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "上記のナシ状果、バラ状果、イチゴ状果、ハス状果、イチジク状果では、それぞれの花がついた花托や多数の花がついた花床(花托、花床は花がついた茎の先端部)が発達して果実の大部分を占めており、典型的な偽果である。またクワ状果では複合果を構成する個々の真果の部分が液質化した花被に包まれた偽果であるが、他にもイシミカワ(タデ科)やシラタマノキ属(ツツジ科)などに同様の例が見られる(下図12a)。グミ属(グミ科)やオシロイバナ(オシロイバナ科)の果実も萼筒の基部が真果の部分を包んで偽果となっている(下図12b, c)。オナモミ属(キク科)では複数の雌花に由来する複数の痩果が、刺だらけの総苞で包まれた偽果を形成する(下図12d)。",
"title": "果実の分類"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "生物学的に、果実は雌しべの子房が発達したものであり、そのため雌しべをもつ植物群である被子植物に特有の器官である。裸子植物は胚珠(種子)を包む雌しべをもたないため、裸子植物は果実をもたない。しかし、裸子植物でも種子を囲んだ器官が発達して果実様の構造を形成することが多く、このような構造が\"果実\"とよばれることがある。",
"title": "裸子植物の\"果実\""
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "裸子植物の球果類(針葉樹)は、基本的に、向軸側に胚珠をつけた鱗片が軸に多数集まって球果(まつかさ、cone, strobile)を形成する。球果の鱗片はふつう木化しており、乾湿運動によって開閉して種子を放出する(下図13a)。ビャクシン属(ヒノキ科)の球果では鱗片が肉質になり、裂開しない液果状の球果を形成する(下図13b)。このような球果は、漿質球果(しょうしつきゅうか; 肉質球果、freshy cone, galbulus)とよばれる。マキ科では、鱗片が肉質化して套皮(とうひ、epimatium)とよばれる構造となり、1個の種子を包んでいる(下図13c)。さらにイヌマキなどでは、種子のついた枝(\"花托\"、種托)が多肉質になる。またグネツム属やマオウ属では、胚珠を包む苞が肉質化して液果状になる(下図13d)。",
"title": "裸子植物の\"果実\""
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "イチイ属やカヤ属(イチイ科)では、胚珠の基部の構造が発達して仮種皮となり、種子の基部または全体を覆うようになる(上図13e)。このような構造は仮種皮果(arillocarpium)ともよばれる。",
"title": "裸子植物の\"果実\""
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ソテツ目やイチョウ目では、種皮が3層に分化し、外層が肉質化する(上図13f)。この種子は液果に似ているため、\"実\"とよばれることもあるが、実際には種子である。このような種子は種子果(seminicarpium)ともよばれる。またイヌガヤ(イチイ科)でも、種皮外層が多肉質になる。",
"title": "裸子植物の\"果実\""
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "通常は動けない種子植物にとって、親植物から離れて分布拡大できる時期は、種子の段階である。種子が散布されること(種子散布)は、裸地に植物が生えてくることや、植生が次第に遷移していくことで認識できる。被子植物では種子は果実に包まれた状態で形成されるが、裂開果では果実から放出された種子が、閉果では種子を含む果実が、それぞれ散布単位となる。果実は、効率的な種子散布のための構造・機能をもつことがある。",
"title": "種子散布との関わり"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "風によって果実・種子が散布される様式は、風散布とよばれる。風散布される果実は、翼をもつ例と綿毛をもつ例がある。カエデ(ムクロジ科)やアキニレ(ニレ科)、シラカンバ(カバノキ科)など果皮が翼状になった例(翼果とよばれる; 下図14a)や、スイバ(タデ科)やツクバネウツギ(スイカズラ科)のように果実に付随する花被が翼状になっている例、シナノキ(アオイ科)やツクバネ(ビャクダン科)のように苞が翼状になっている例(下図14b)がある。また果実が綿毛をもつ例も見られ、タンポポなどキク科の多くでは萼に由来する冠毛が(下図14c)、クレマチス(キンポウゲ科)では花柱に生えた毛が、ススキ(イネ科)では花序の基部に生えた毛が(下図14d)発達している。裂開果において種子が散布される場合でも、果実の開口部が小さく上部にあるなど、強い風や振動によってのみ種子が散布されるようになっているものがある(風靡散布)(下図14e)。",
"title": "種子散布との関わり"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "水辺に生育する植物の中には、水によって果実・種子が散布されるものがある(水散布)。コナギ(ミズアオイ科)やハス(ハス科)、クサネム(マメ科)、タカサブロウ(キク科)などの果実は比重が軽く、水に浮いて散布される(下図15a)。ジュズダマ(イネ科)やオナモミ(キク科)では、果実を包む苞が特殊化して浮遊するようになっている(上図12d, 下図15b)。またオモダカ(オモダカ科)の果実には翼があり、水中で流される(下図15c)。ココヤシ(ヤシ科)やハマゴウ(シソ科)の果実は核果であり、硬化した内果皮で種子が包まれていることから、海水に耐えて海面を浮いて散布される(海流散布)(下図15d)。ネコノメソウ(ユキノシタ科)やフデリンドウ(リンドウ科)の果実は、上向きに裂開し雨粒を受けて種子が散布される(雨滴散布)(下図15e)。",
"title": "種子散布との関わり"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "大型の動物に付着し、種子散布される様式は付着散布(動物付着散布)とよばれる。かぎ状の突起などによって動物に付着するものとして、果皮にかぎ毛をもつヌスビトハギ(マメ科)、ミズタマソウ(アカバナ科; 下図16a)、ヤエムグラ(アカネ科)、ヤブジラミ(セリ科; 下図16b)、花柱由来のかぎをもつミズヒキ(タデ科)やダイコンソウ(バラ科; 図9b)、萼由来のかぎをもつハエドクソウ(ハエドクソウ科)やセンダングサ(キク科; 下図16c)、苞に由来するかぎをもつイノコヅチ、果実を包む総苞に多数のとげをもつオナモミ(キク科; 上図12d)などがある。また粘液によって動物に付着するものとして、果実表面から粘液を分泌するノブキ(キク科; 上図16d)、冠毛から粘液を分泌するヌマダイコン(キク科)、総苞から粘液を分泌するメナモミ(キク科)、芒から粘液を分泌するチヂミザサ(イネ科; 下図16e)などがある。特に付着のための構造をもたない果実でも、小型のものは泥などによって動物に付着し、散布されることがあると考えられている。",
"title": "種子散布との関わり"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "哺乳類や鳥類に食べられ、排出されることで種子散布される様式は、被食散布(動物被食散布、周食散布、糞散布)とよばれる(下図17a)。このような果実は、動物にとって魅力ある可食部と適度な大きさをもち、また内部の種子は消化されないように厚い種皮をもっていたり、硬化した内果皮で包まれていたり(核果)、粘質の物質をまとっていたりする。大きな種子を少数含むものから、小さな種子を多数含むものまである。可食部の質や果実の大きさ、色、匂い、果実のつく高さや落下しやすさなどに多様性があり、それぞれ捕食者である動物に合わせている。特に鳥類に被食されるものと哺乳類に被食されるものでは色(鳥類用果実には赤や黒のものが多い)や匂い(哺乳類用果実は強い匂いをもつものが多い)などに違いがあるが、鳥類・哺乳類双方に対応しているものもある。被食散布される果実は内部の種子の発芽を抑制する物質が含んでいることがあり、この場合、動物に食べられて排出されることで初めて種子が発芽できるようになる。未熟期の果実は、色が変わっていないことや有毒・不味成分を含むことで食べられないようにしている。ただし可食部をほとんどもたない果実や種子が目立つ色をしており、十分な可食部をもつ果実に擬態(果実擬態)していると考えられている例もある。また被食散布される果実は、一斉に成熟するタイプと、長期に渡って少数ずつ成熟するタイプがあることが知られている。さらに年ごとによって果実の生産量が大きく変動することも知られており、食害昆虫の増加を抑えるためであると考えられている。果皮が多肉質である液果は、被食散布される。クワ(クワ科)やグミ(グミ科)、シラタマノキ(ツツジ科)では、子房ではなく果実を包む花被が多肉質の可食部になる(上図12a, b, 下図17b)。イチゴ(バラ科)では隆起した花托が、バラ(バラ科)ではつぼ状になった花托が、ケンポナシ(クロウメモドキ科; 下図17c)では花がついた枝が、イチジク(クワ科)では多数の花がついたつぼ状の花床がそれぞれ可食部になる。他にも、果実ではなく種子の付属物(種皮、仮種皮など)が可食部となっている例もある。またイネ科やカヤツリグサ科、ヒユ科、タデ科、シロツメクサなど特に被食散布のための構造をもたない小型の果実が、ウシやシカ、カモ類などの草食動物が葉や茎を食べる際に一緒に取り込まれ、消化されずに排出されることがあり、このような散布も重要であることが示唆されている。",
"title": "種子散布との関わり"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "クリやコナラ(ブナ科)、ハシバミ(カバノキ科)、オニグルミ(クルミ科)、エゴノキ(エゴノキ科)などの果実は、果皮が硬く木化しており、内部に大きな種子を含む。リスやネズミ、シジュウカラ、カケスなどの動物はこのような果実を収集・輸送・貯蔵し、内部の種子を食用とするが、貯蔵されながら食べ残された果実はそこで発芽することができる(貯食散布、食べ残し散布)(上図17d)。",
"title": "種子散布との関わり"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "一部の植物では種子や果実にエライオソームとよばれるアリが好む物質の塊がついており、アリによって収穫、巣まで運ばれることで種子散布される。このような種子散布様式はアリ散布とよばれ、多くは種子にエライオソームをつけているが、ホトケノザ(シソ科)やカナムグラ(アサ科)、アオスゲ(カヤツリグサ科)のように果実にエライオソームをつけている例もある(上図17e)。",
"title": "種子散布との関わり"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "果実の中には、自動的に種子を射出する機構を備えているものがあり、このような種子散布は自動散布(自力散布、自発分散、自力射出散布)とよばれる。シキミ(マツブサ科)やスミレ(スミレ科)、カラスノエンドウ(マメ科)、ゲンノショウコ(フウロソウ科)などでは、果実の果皮が乾燥・収縮することで種子を弾き飛ばす(上図18a–d)。またホウセンカ(ツリフネソウ科)やムラサキケマン(ケシ科)では果皮の細胞の膨圧上昇によって果実がはじけ、種子を弾き飛ばす(上図18e)。",
"title": "種子散布との関わり"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "人間は、さまざまな果実を食用に利用している。穀物であるイネ、コムギ、トウモロコシ(イネ科)、豆類であるダイズ、アズキ、インゲンマメ(マメ科)などは、種子に含まれる胚乳や子葉が主な食用部とされるが、種子を伴う果実の状態で収穫される。またこれら穀物や豆類は、人間の食用だけではなく飼料としても重要である。主に果皮部が食用とされる果実のうち、ミカン、リンゴ、ブドウなど木本に実り一般的に甘いものは果物、キュウリ、エンドウ、トマトなど草本に実り野菜として利用されるものは果菜とよばれる(下図19a, b)。また、果物のことを特に「果実」とよんでいることもある。生産分野では木本に実るものを果物(果実)としており、スイカやイチゴなど草本に実るものは「果実的野菜」とよばれることがあるが、消費分野ではこのような果実も果物として扱われる。ブドウなどの果実は、直接食用とされるだけではなく、アルコール飲料の原料としても利用される(下図19c)。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "オリーブ(クスノキ科)やアブラヤシ(ヤシ科)の果皮から得られた油は、食用油やせっけんなどに利用される(上図19d)。ハゼノキ(ウルシ科)の果実の果皮から得られた油脂(木蝋、ハゼ蝋)は、和ろうそくなどに用いられる。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "クチナシ(アカネ科; 下図20a)、ミカン(ミカン科; 下図20b)、ナツメ(クロウメモドキ科)などの果実は、生薬とされることがある。ケシ(ケシ科)の未熟果実から得られた乳液(乾燥させた乳液はアヘン)にはモルヒネなどのアルカロイドが含まれ、薬用として利用されており、また麻薬ともされる(下図20c)。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "カボチャやヒョウタン(ウリ科)、ココヤシ(ヤシ科)などの果実は飾りや容器に加工され(上図20d)、またヘチマ(ウリ科)やココヤシの果実から得られる繊維もさまざまに利用される。クチナシなどの果実は、染料として利用されることもある。園芸や生け花において、果実を鑑賞対象とすることがあり、このような植物は実物(みもの)ともよばれ、日本で利用される例としてセンリョウ(センリョウ科)やナンテン(メギ科)、サンキライ(サルトリイバラ科)などがある(上図20e)。",
"title": "人間との関わり"
}
] | 果実とは、雌しべの子房およびそれに付随する構造が成熟したものであり、内部には種子が含まれる。果実は基本的に内部の種子を保護し、またしばしば効率的な種子散布のための構造・機構をもつ。果実において、子房壁に由来する部分は果皮とよばれる。成熟した状態で果皮が液質・多肉質なものは液果(図1a)、果皮が乾燥しているものは乾果とよばれ、また乾果のうち成熟しても裂開しないものは閉果、成熟すると裂開するものは裂開果(図1d)とよばれる。果実はふつう1つの花の1個の雌しべに由来し、このような果実は単果とよばれる。一方、キイチゴのように1つの花の複数の雌しべに由来するものは集合果、パイナップルのように複数の花に由来するものは複合果(多花果)とよばれる。また、花托(雌しべなどがついている茎の部分)や花被など子房以外に由来する構造が多くを占めている果実は、偽果とよばれる。 人間はさまざまな果実を食用としており、その中で甘みがあるものは果物(くだもの)、野菜とされるものは果菜(かさい)とよばれる。また、特に果物のことを果実とよんでいることもある。果実は、一般語として実(み)ともよばれるが、この語は大型の種子を意味することもある(トチの"実"、イチョウの"実"など)。 | {{Otheruses|植物の果実|その他の用法|果実 (曖昧さ回避)}}
'''果実'''(かじつ、[[英語|英]]: fruit)とは、[[雌しべ]]の[[子房]]およびそれに付随する構造が成熟したものであり、内部には[[種子]]が含まれる。果実は基本的に内部の[[種子]]を保護し、またしばしば効率的な[[種子散布]]のための構造・機構をもつ。果実において、子房壁に由来する部分は[[果皮]]とよばれる。成熟した状態で果皮が液質・多肉質なものは[[#液果|液果]](図1a)、果皮が乾燥しているものは[[#果実の分類|乾果]]とよばれ、また乾果のうち成熟しても裂開しないものは[[#閉果|閉果]](図1b, c)、成熟すると裂開するものは[[#裂開果|裂開果]](図1d)とよばれる。果実はふつう1つの[[花]]の1個の雌しべに由来し、このような果実は単果とよばれる。一方、[[キイチゴ]]のように1つの花の複数の雌しべに由来するものは[[#単果と集合果|集合果]]、[[パイナップル]]のように複数の花に由来するものは[[#単花果と複合果|複合果(多花果)]]とよばれる。また、[[花托]](雌しべなどがついている茎の部分)や[[花被]]など子房以外に由来する構造が多くを占めている果実は、[[#真果と偽果|偽果]]とよばれる。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = ガマズミ1006 Viburnum dilatatum.JPG
| caption1 = '''1a'''. [[ガマズミ]]では、果実([[#液果|液果]])が鳥に食べられることで種子散布される。
| image2 = 2017-04-24 Taraxacum seedhead.jpg
| caption2 = '''1b'''. [[タンポポ]]の果実([[#閉果|痩果]])は綿毛([[冠毛]])をつけており、風で散布される。
| image3 = Les Plantes Cultivades. Cereals. Imatge 3219.jpg
| caption3 = '''1c'''. [[コムギ]]の果実([[#閉果|穎果]])では果皮と種皮が合着している。
| image4 = Fritillaria pudica mature seed pod with seeds.jpg
| caption4 = '''1d'''. [[バイモ属]]の果実([[#裂開果|蒴果]])は裂開して種子を放出する。
}}
人間はさまざまな果実を食用としており、その中で甘みがあるものは[[果物]](くだもの)、野菜とされるものは[[果菜]](かさい)とよばれる。また、特に果物のことを果実とよんでいることもある。果実は、一般語として'''実'''(み)ともよばれるが、この語は大型の種子を意味することもある([[トチノキ|トチ]]の"実"、[[イチョウ]]の"実"など)<ref name="コトバンク_実">{{Cite Kotobank|word=実|encyclopedia=デジタル大辞泉|accessdate=2023-05-05}}</ref><ref name="コトバンク_トチの実">{{Cite Kotobank|word=トチの実|encyclopedia=栄養・生化学辞典|accessdate=2023-05-22}}</ref><ref name="コトバンク_銀杏">{{Cite Kotobank|word=銀杏|encyclopedia=デジタル大辞泉|accessdate=2023-05-22}}</ref>。
== 構造 ==
{{seealso|{{ill2|果実の解剖学|en|Fruit anatomy}}}}<!--あまり参考になる内容ではないような気がしますが...-->
[[被子植物]]では、[[種子]]となる構造である[[胚珠]]が[[雌しべ]]の中に包まれている<ref name="キャンベル30">{{cite book|author=池内昌彦, 伊藤元己, 箸本春樹 & 道上達男 (監訳)|year=2018|chapter=被子植物の生殖的適応には花と果実がある|editor=|title=キャンベル生物学 原書11版|publisher=丸善出版|isbn=978-4621302767|pages=739–747}}</ref>。雌しべにおいて、胚珠が含まれる部分は、子房(ovary)とよばれる<ref name="キャンベル30" />(下図2a)。[[花粉]]が雌しべの[[柱頭 (植物学)|柱頭]]に付着(受粉)すると、そこから花粉管を伸ばし、子房中の胚珠に達する。胚珠の中には雌性配偶体である胚嚢(胚のう)が形成され、その中に[[卵細胞]]がつくられる<ref name="キャンベル30" />。卵細胞は花粉管を通じて送り込まれた精細胞と合体(受精)し、受精卵は次世代である胚となり、これを含む胚珠は種子となる。また胚珠(種子)を含む雌しべの子房は成熟し、'''果実'''となる<ref name="キャンベル30" /><ref name="コトバンク_果実(植物)">{{Cite Kotobank|word=果実(植物)|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2023-05-10}}</ref>(下図2e)。果実が発達するきっかけは胚珠が受精することによる[[植物ホルモン]]の変化であり、受精できなかった雌しべはふつう枯れてしまう<ref name="テイツ2017果実">{{cite book|author=L. テイツ, E. ザイガー, I.M. モーラー & A. マーフィー (編)|year=2017|chapter=果実の発達と登熟|editor=|title=植物生理学・発生学 原著第6版|publisher=講談社|isbn=978-4061538962|pages=654–662}}</ref><ref name="キャンベル38">{{cite book|author=池内昌彦, 伊藤元己, 箸本春樹 & 道上達男 (監訳)|year=2018|chapter=果実の形態と機能|editor=|title=キャンベル生物学 原書11版|publisher=丸善出版|isbn=978-4621302767|pages=949–951}}</ref>。しかし受精することなしに果実が発達することがあり、[[単為結果]](単為結実)とよばれる(例: [[バナナ]]、[[パイナップル]]、[[イチジク]]、[[ブドウ]]などの園芸品種)<ref name="生物学辞典5単為結果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=単為結果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=880}}</ref>。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = EB1911 Flower - pistil of Primula.jpg
| caption1 = '''2a'''. [[雌しべ]]の模式図: st = 柱頭、s = 花柱、o = 子房
| image2 = Pericarp (PSF).png
| caption2 = '''2b'''. 果実([[#液果|核果]])の模式図: 1 = [[内果皮]](木化している)、2 = [[種子]]、3 = 中果皮(多肉質)、4 = 外果皮
| image3 = Haselnuss.jpg
| caption3 = '''2c'''. [[セイヨウハシバミ]](ヘーゼルナッツ; [[カバノキ科]])の果実([[#閉果|堅果]])を割ったもの: 果皮が硬く木化しており、内部に1個の種子を含む。
| image4 = Hornungia petraea sl79.jpg
| caption4 = '''2d'''. {{Snamei|Hornungia petraea}}([[アブラナ科]])の裂開した果実([[#裂開果|角果]]): 果皮は薄く乾燥している。
}}
{{multiple image
| total_width = 800
| header = 2e. <span style="font-weight:400;">トマトの花から果実への発達</span>
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Fleur.JPG
| image2 = Fleur2.JPG
| image3 = Fleur3.JPG
| image4 = Fleur4.JPG
| image5 = Tomato on its stem.jpg
}}
果実の大きさは極めて多様である。栽培される[[セイヨウカボチャ]]の中には極めて大きな果実をつくるものがあり、最大では直径3.56[[メートル]] (m)、最重では1,226[[キログラム]] (kg) のものが知られている<ref>{{Cite web|author=Sanj Atwal|date=2022-08-11|url=https://www.guinnessworldrecords.com/news/2022/8/five-of-the-heaviest-and-fattest-fruits-ever-grown-712748|title=Five of the heaviest and fattest fruits ever grown|website=|publisher=Guinness World Records|accessdate=2023-07-14}}</ref>。一方、最小の果実は[[ミジンコウキクサ属]]のものであり、直径0.3[[ミリメートル]] (mm)、重さ70[[マイクログラム]] (µg) しかない<ref>{{Cite web|author=Armstrong, W.P.|date=|url=https://www.waynesword.net/plfeb96.htm|title=The World's Smallest Fruit|website=[https://www.waynesword.net/index.htm Wayne's Word]|publisher=|accessdate=2023-07-14}}</ref>。1個の果実に含まれる種子の数もさまざまであり、1個の種子を含むものから、100万個以上の微小な種子を含むものまである<ref name="コトバンク_ラン">{{Cite Kotobank|word=ラン(蘭)|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2023-05-22}}</ref>。
果実において、[[雌しべ]]の子房壁が成熟した部分は、'''[[果皮]]'''(かひ; pericarp, fruit coat)とよばれる<ref name="清水2001" /><ref name="山崎1984" /><ref name="辞典5果実">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=果実|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=215}}</ref><ref name="コトバンク_果皮">{{Cite Kotobank|word=果皮|encyclopedia=|accessdate=2022-12-03}}</ref><ref name="Beck2005">{{cite book|author=Beck, C. B.|year=2005|chapter=Fruit development and the role of fruits in seed dispersal|editor=|title=An Introduction to Plant Structure and Development|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0521837408|pages=367–369}}</ref>。果皮は基本的に3層からなり、'''外果皮'''(exocarp)、'''中果皮'''(mesocarp)、'''内果皮'''(endocarp)とよばれるが、これらの分化が不明瞭なこともある<ref name="清水2001" /><ref name="辞典5果実" /><ref name="コトバンク_果皮" /><ref name="Beck2005" />(上図2b–d)。また果皮が肉質である場合は、'''[[果肉]]'''(sarcocarp)ともよばれる<ref name="清水2001" />。子房下位の花([[萼片]]や[[花弁]]、[[雄しべ]]の基部よりも下に子房が位置している花)では、子房が[[花托]](下記参照)に包まれている。そのため、このような花から形成された果実においては、果皮の外側に花托に由来する部分が存在し、偽果皮とよばれることもあるが、その区分はふつう不明瞭であり、特に区別せず果皮とよばれることが多い<ref name="清水2001" /><ref name="コトバンク_果皮" />。[[イネ科]]の果実([[穎果]])では、果皮が種皮と合着している<ref name="清水2001" /><ref name="辞典5果実" />。果皮は種子を包んでいるが、[[ヤブラン属]]や[[ジャノヒゲ属]]([[キジカクシ科]])などでは果皮がすぐに脱落し、種子が裸出した状態で成長する<ref name="鈴木2012" />。
[[花]]において、[[花被片]]や雄しべ、[[雌しべ]]などの花要素がついている[[茎]]の先端部分は、[[花托]](かたく)とよばれる<ref name="清水2001花托" />。また複数の花がついている茎先端が広がった部分は、[[花床]](かしょう)とよばれる<ref name="清水2001花托">{{cite book|author=清水建美|year=2001|chapter=|title=図説 植物用語事典|publisher=八坂書房|isbn=978-4896944792|page=28}}</ref>。ただし花托・花床を区別せず、共に花床とよんでいることも多い<ref name="辞典5花床">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=花床|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=217}}</ref><ref name="コトバンク_花托">{{Cite Kotobank|word=花托|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2023-05-12}}</ref>。花托・花床は、果実になった状態では'''果托'''・'''果床'''とよばれることがある<ref name="金浜1988">{{Cite journal|author=金浜耕基 & 斎藤隆|year=1988|title=キュウリの曲がり果における炭水化物の分布と 14C-光合成産物の取り込み|journal=園芸學會雜誌|volume=57|issue=3|pages=448-453|doi=10.2503/jjshs.57.448}}</ref><ref name="ウィッフィン1997">{{Cite book|author=トレバー・ウィッフィン|year=1997|chapter=モニミア科|editor=|title=週刊朝日百科 植物の世界 9|publisher=|isbn=9784023800106|pages=89–92}}</ref>。[[リンゴ]]や[[イチゴ]]では花托に由来する部分が(下図3a)、[[イチジク]]では花床に由来する部分が(下図3b)、果実の大部分を占めている。このように花托や花床、さらに[[花被]]など子房以外の要素が大部分を占める果実は、[[#真果と偽果|偽果]]ともよばれる<ref name="テイツ2017果実" /><ref name="清水2001" /><ref name="清水2004" /><ref name="生物学辞典_偽果" />。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Potentilla hebiichigo (fruits s2).jpg
| caption1 = '''3a'''. [[ヘビイチゴ]]([[バラ科]])の[[イチゴ状果]]: 球形に肥大した[[花托]](果托)の表面に多数の[[痩果]](赤色)がついている。
| image2 = Breva ficus carica.jpg
| caption2 = '''3b'''. [[イチジク]]([[クワ科]])の[[イチジク状果]]: 多数の花に由来する多数の[[痩果]]がついた壺状の[[花床]](果床)が肉質化している。
| image3 = 20170613Capsella_bursa-pastoris1.jpg
| caption3 = '''3c'''. [[ナズナ]]([[アブラナ科]])の果序: 個々の果実([[角果]])は果柄をもち、多数の果実が共通の果梗についている。
| image4 = Kernlose Weintrauben.jpg
| caption4 = '''3d'''. [[ブドウ]]([[ブドウ科]])の果序: 個々の果実([[液果]])は果柄をもち、多数の果実が共通の果梗についている。
}}
[[茎]]についている果実の柄は'''果柄'''(pedicel)、複数の果実がついている共通の柄は'''果梗'''(peduncle)とよばれる<ref name="清水2001" />(上図3c, d)。果柄・果梗は、ふつう花の花柄・花梗に由来するが、花後に雌しべの基部が伸長して柄になるものでは<ref name="FOC">{{Cite web|author=|date=|url=http://www.efloras.org/florataxon.aspx?flora_id=2&taxon_id=10047|title=Annonaceae|website=Flora of China|publisher=Missouri Botanical Garden and Harvard University Herbaria|accessdate=2022-07-31}}</ref><ref name="植田1997">{{Cite book|author=植田邦彦|year=1997|chapter=バンレイシ科|editor=|title=週刊朝日百科 植物の世界 9|publisher=|isbn=9784023800106|pages=100–107}}</ref>、果柄と花柄は一致しない。
[[花]]のついた[[茎]]全体または茎に対する花のつき方は、[[花序]](inflorescence)とよばれる<ref name="清水2001花序">{{cite book|author=清水建美|year=2001|chapter=花序|title=図説 植物用語事典|publisher=八坂書房|isbn=978-4896944792|page=76}}</ref>。花が果実になった状態では、'''果序'''(infructescence)ともよばれる<ref name="清水2001花序" />。
== 果実の分類 ==
果実は、[[果皮]]の状態や心皮([[雌しべ]]を構成する葉的要素)の数などに基づいてさまざまな型に類別される<ref name="清水2001">{{cite book|author=清水建美|year=2001|chapter=果実|title=図説 植物用語事典|publisher=八坂書房|isbn=978-4896944792|pages=92–110}}</ref><ref name="平凡社">{{Cite book|author=|year=2015|chapter=植物用語の図解|editor=大橋広好, 門田裕一, 邑田仁, 米倉浩司, 木原浩 (編)|title=改訂新版 日本の野生植物 1|publisher=平凡社|isbn=978-4582535310|pages=10–17}}</ref><ref name="山崎1984">{{Cite book|author=|year=1984|chapter=1. 果実|editor=山崎敬 (編集), 本田正次 (監修)|title=現代生物学大系 7a2 高等植物A2|publisher=中山書店|isbn=978-4521121710|pages=101–110}}</ref><ref name="清水2004">{{Cite book|author=清水晶子|year=2004|chapter=果実と種子|editor=大場秀章|title=絵でわかる植物の世界|publisher=講談社|isbn=978-4061547544|pages=95–106}}</ref><ref name="原1986">{{Cite book|author=原襄・西野栄正・福田泰二|year=1986|chapter=果実|editor=|title=植物観察入門 花・茎・葉・根|publisher=培風館|isbn=978-4563038427|pages=47–68}}</ref><ref name="原1994">{{Cite book|author=原襄|year=1994|chapter=果実と種子の多様性|editor=|title=植物形態学|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254170863|pages=166–169}}</ref>。熟した状態で[[果皮]]が乾燥しているものは'''乾果'''(かんか; dry fruit)とよばれる。乾果は、果皮が裂開する[[#裂開果|裂開果]]と裂開しない[[#閉果|閉果]](非裂開果<ref name="原1994" />)に分けられる。一方、果皮が柔らかく水分を含むものを'''[[#液果|液果]]'''(えきか; 多肉果、sap fruit)とよばれる{{efn2|name="液果"}}。また1個の花の1個の雌しべに由来する果実は'''単果'''とよばれ、1個の花の複数の雌しべに由来する果実がまとまった構造は'''[[#単果と集合果|集合果]]'''とよばれる。単果と集合果はいずれも1個の花に由来するため'''単花果'''とよばれ、一方で複数の花の雌しべに由来するまとまった構造は'''[[#単花果と複合果|複合果]]'''(多花果)とよばれる。果実のうち、雌しべの子房に由来する部分が大部分を占めるものは'''真果'''、子房以外の要素が大部分を占める果実は'''[[#真果と偽果|偽果]]'''ともよばれる。
=== 裂開果 ===
乾果のうち、成熟すると裂開して[[種子]]を露出するものは'''裂開果'''(れっかいか; dehiscent fruit)とよばれる<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="清水2004" /><ref name="原1986" /><ref name="原1994" />。裂開する場所はふつう決まっており、心皮の両縁が接する線(内縫線、腹縫線、inner suture, ventral suture)や心皮の中軸にあたる線(外縫線、背縫線、outer suture, dorsal suture)、心皮どうしが接する線などであることが多い<ref name="清水2001" />。裂開果の場合、果実から出た[[種子]]が散布される単位となる。
:; [[袋果]]<span style="font-weight:400;">(たいか; 蓇葖、follicle)<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="清水2004" /><ref name="原1986" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="生物学辞典_袋果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=袋果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=846}}</ref><ref name="濱1958">{{Cite book|author=濱健夫|year=1958|chapter=果実の分類|editor=|title=植物形態学|publisher=コロナ社|isbn=978-4339075540|pages=285–295}}</ref></span>
:: 1心皮からなり、ふつう内縫線または外縫線で裂開する(下図4a)。[[シキミ属]]([[マツブサ科]])や[[モクレン属]]([[モクレン科]])、 [[トリカブト属]]、[[オダマキ属]]([[キンポウゲ科]])、[[ベンケイソウ科]]、[[カツラ科]]、[[シモツケ属]]([[バラ科]])、[[ゴンズイ]]([[ミツバウツギ科]])、[[ガガイモ]]([[キョウチクトウ科]])などに見られる<ref name="清水2001" /><ref name="鈴木2012">{{cite book|author=鈴木庸夫・高橋冬・安延尚文|year=2012|chapter=|editor=|title=草木の種子と果実|publisher=誠文堂新光社|isbn=978-4-416-71219-1|pages=22–249}}</ref>。
:; [[豆果]]<span style="font-weight:400;">(とうか; 莢果、legume)<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="清水2004" /><ref name="原1986" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="生物学辞典_豆果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=豆果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=976}}</ref><ref name="コトバンク_豆果">{{Cite Kotobank|word=豆果|encyclopedia=|accessdate=2022-06-03}}</ref></span>
:: 1心皮からなり、基本的に内縫線と外縫線両方で裂けて2片に分かれる(下図4b)。豆果における果皮は、莢(さや)ともよばれる。1線のみで裂開するなど厳密には豆果の定義に当てはまらないものもあるが、[[マメ科]]の多くで見られる果実は豆果とよばれる。構造的に豆果と同一であるが、裂開せずに種子を1個含む単位に分断する果実は、'''[[節果]]'''(分節果、節莢果、loment)とよばれる<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="生物学辞典_節果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=節果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=787}}</ref>(下図4c)。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Cercidiphyllum japonicum 02-02.19.jpg
| caption1 = '''4a'''. [[カツラ (植物)|カツラ]]([[カツラ科]])の裂開した[[袋果]]
| image2 = Cajanus cajan MHNT.BOT.2015.2.47.jpg
| caption2 = '''4b'''. [[キマメ]]([[マメ科]])の裂開した[[豆果]]と[[種子]]
| image3 = Aeschynomene indica pod.jpg
| caption3 = '''4c'''. [[クサネム]](マメ科)の[[節果]]
| image4 = Hibiscus syriacus capsule hoarfrost -20200101-RM-102111.jpg
| caption4 = '''4d'''. [[ムクゲ]]([[アオイ科]])の裂開した[[蒴果]]
}}
:; [[蒴果]]<span style="font-weight:400;">(さく果、capsule)<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="清水2004" /><ref name="原1986" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="生物学辞典_蒴果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=蒴果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=536}}</ref><ref name="コトバンク_蒴果">{{Cite Kotobank|word=蒴果|encyclopedia=|accessdate=2022-05-06}}</ref></span>
:: 複数の心皮からなり、複数の種子を含む裂開果(上図4d)。[[ドクダミ]]([[ドクダミ科]])、[[カンアオイ]]([[ウマノスズクサ科]])、[[ヤマユリ]]([[ユリ科]])、[[エビネ]]([[ラン科]])、[[カキツバタ]]([[アヤメ科]])、[[スズメノヤリ]]([[イグサ科]])、[[ツユクサ]]([[ツユクサ科]])、[[スミレ]]([[スミレ科]])、[[アカメガシワ]]([[トウダイグサ科]])、[[カタバミ]]([[カタバミ科]])、[[マツヨイグサ]]([[アカバナ科]])、[[フヨウ]]([[アオイ科]])、[[ハコベ]]([[ナデシコ科]])、[[ノリウツギ]]([[アジサイ科]])、[[ヤブツバキ]]([[ツバキ科]])、[[アセビ]]([[ツツジ科]])、[[フデリンドウ]]([[リンドウ科]])、[[オオイヌノフグリ]]([[オオバコ科]])、[[アサガオ]]([[ヒルガオ科]])、[[ハコネウツギ]]([[スイカズラ科]])などに見られる<ref name="鈴木2012" />。裂開様式に基づいていくつかに類別され、特に横に裂開して上部が蓋のようにとれるものは'''[[蓋果]]'''(がいか; pyxidium, pyxis, circumscissile capsule; 下図5a)、先端や側壁に孔が開くものは'''[[孔開蒴果]]'''(poricidal capsule, porose capsule; 下図5b)とよばれる<ref name="清水2001" /><ref name="生物学辞典_蒴果" /><ref name="山崎1984" />。
:; [[角果]] <span style="font-weight:400;">(かくか)<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="門田2017">{{cite book|author=門田裕一|year=2017|chapter=アブラナ科|editor=大橋広好, 門田裕一, 邑田仁, 米倉浩司, 木原浩 (編)|title=改訂新版 日本の野生植物 4|publisher=平凡社|isbn=978-4582535341|pages=45–71}}</ref></span>
:: 2心皮性で間に隔膜(隔壁、replum)があり、これを残して縦に2片に裂開する。蒴果の1型であるが、[[アブラナ科]]の特徴であり、特に角果とよばれる。角果のうち長さが幅の2–3倍以上のものは'''長角果'''(silique, siliqua)とよばれ、[[アブラナ]]や[[オランダガラシ]]、[[タネツケバナ]]などに見られる(下図5c)。一方、長さが幅の2–3倍以下で扁平なものは'''短角果'''(silicle, silicule)とよばれ、[[ナズナ]]や[[グンバイナズナ]]などに見られる(下図5d)。[[ダイコン]]の果実は角果と同じ構造だが裂開せず、1種子を含む部分ごとに分節するので'''節長果''' (biloment) ともよばれる<ref name="山崎1984" /><ref name="非動物散布">{{Cite web|和書|author=福原達人|date=|url=https://staff.fukuoka-edu.ac.jp/fukuhara/keitai/8-2.html|title=8-2. 非動物散布|website=植物形態学|publisher=福岡教育大学|accessdate=2023-05-20}}</ref><ref name="節長果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=節長果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=793}}</ref>(下図5e)。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = 6H-diGangi-Purslane-Seed-Pods.jpg
| caption1 = '''5a'''. [[スベリヒユ]]([[スベリヒユ科]])の[[蓋果]]
| image2 = Papaver open zaadkleppen.jpg
| caption2 = '''5b'''. [[ケシ]]([[ケシ科]])の[[孔開蒴果]]
| image3 = Diplotaxis tenuifolia sl4.jpg
| caption3 = '''5c'''. [[ロドウガラシ]]([[アブラナ科]])の[[長角果]]
| image4 = Lepidium perfoliatum sl32.jpg
| caption4 = '''5d'''. {{Snamei|Lepidium}}(アブラナ科)の[[短角果]]
| image5 = Radishfruit.jpg
| caption5 = '''5e'''. [[ダイコン]](アブラナ科)の[[節長果]]
}}
=== 閉果 ===
乾果のうち、成熟しても裂開しないものは'''閉果'''(へいか; 非裂開果、indehiscent fruit)とよばれる<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="清水2004" /><ref name="原1986" /><ref name="原1994" />。閉果の場合、[[種子]]を含む果実が散布単位となる。
:; [[痩果]]<span style="font-weight:400;">(そうか; achene, akene)<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="清水2004" /><ref name="原1986" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="生物学辞典_痩果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=痩果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=822}}</ref></span>
:: 1種子を密に包んでいるが、果皮と種皮が合着していない果実であり、果実が種子のように見える(下図6a)。狭義には1心皮のものに限るが、ふつう複数の心皮に由来するものも含まれる。[[センニンソウ]]([[キンポウゲ科]])や[[ヤブマオ]]([[イラクサ科]])、[[シモツケソウ]]([[バラ科]])、[[ケヤキ]]([[ニレ科]])、[[カナムグラ]]([[アサ科]])、[[スイバ]]([[タデ科]])などに見られる<ref name="鈴木2012" />。また[[キク科]]や[[オミナエシ]]([[スイカズラ科]])などに見られる、下位子房(子房は[[花托]]に包まれている)に由来する痩果は、'''下位痩果'''(かいそうか; 菊果、cypsela)とよばれることもある<ref name="清水2001" /><ref name="生物学辞典_痩果" /><ref name="山崎1984" /><ref name="清水2004" /><ref name="原1986" />(下図6b)。
:; [[穎果]]<span style="font-weight:400;">(えいか; 穀果、caryopsis{{efn2|name="caryopsis"|複数形は caryopses または caryopsides<ref>{{Cite web|author=|date=|url=https://www.wordsense.eu/caryopsis/|title=caryopsis|website=WordSense Online Dictionary|publisher=|accessdate=2022-05-03}}</ref>。}})<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="清水2004" /><ref name="原1986" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="生物学辞典_穎果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=穎果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=117}}</ref><ref name="コトバンク_穎果">{{Cite Kotobank|word=穎果|encyclopedia=|accessdate=2023-04-29}}</ref></span>
:: 痩果の1型ともされるが、果皮と種皮が癒合している(下図6c)。ふつう特殊化した葉である内穎や護穎に包まれている。[[イネ科]]に見られる。
:; {{anchors|胞果}}胞果<span style="font-weight:400;">(ほうか; utricle)<ref name="清水2001" /> </span>
:: 複数の心皮からなり、1種子をゆるく包む乾果(下図6d)。[[イノコズチ]]や[[アカザ]]、[[ホウレンソウ]]([[ヒユ科]])に見られる。[[ケイトウ属]](ヒユ科)の胞果は横裂して裂開するため、横裂胞果(pyxidium, circumciscissile utricle)とよばれる。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Sanguisorba_officinalisseeds.jpg
| caption1 = '''6a'''. [[ワレモコウ属]]([[バラ科]])の[[痩果]]
| image2 = Taraxacum sect Ruderalia14 ies.jpg
| caption2 = '''6b'''. [[タンポポ]]([[キク科]])の[[痩果]](下位痩果)
| image3 = Triticum aestivum-grajnoj.jpg
| caption3 = '''6c'''. [[コムギ]]([[イネ科]])の[[穎果]]
| image4 = Spinach seeds round.jpg
| caption4 = '''6d'''. [[ホウレンソウ]]([[ヒユ科]])の胞果
}}
:; [[堅果]]<span style="font-weight:400;">(けんか; nut, glans)<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="生物学辞典_堅果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=堅果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=415}}</ref><ref name="コトバンク_堅果">{{Cite Kotobank|word=堅果|encyclopedia=|accessdate=2022-05-03}}</ref></span>
:: 複数の心皮からなり、1種子を含む乾果であり、果皮は木化して硬い(下図7a)。[[ブナ科]]、[[イヌシデ]]([[カバノキ科]])、[[シナノキ]]([[アオイ科]])などに見られる。ブナ科では1から数個の堅果の基部または全体が[[総苞]]に由来する殻斗(かくと)で包まれており、特に'''[[殻斗果]]'''ともよばれる。[[タデ科]]などに見られる小型のものは'''小堅果'''(しょうけんか; nutlet, nucula, nucule, nuculanium)ともよばれるが、痩果との区別は不明瞭でこれに含めることも多い。
:; [[翼果]]<span style="font-weight:400;">(よくか; 翅果、samara, key, key fruit)<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="原1986" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="生物学辞典_翼果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=翼果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=1428}}</ref></span>
:: 果皮の一部が花後に成長して翼になる乾果(下図7b)。[[ユリノキ]]([[モクレン科]])、[[フサザクラ]]([[フサザクラ科]])、[[ハルニレ]]([[ニレ科]])、[[シラカンバ]]([[カバノキ科]])、[[トネリコ]]([[モクセイ科]])などに見られる。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Bellotas de encina.jpg
| caption1 = '''7a'''. [[セイヨウヒイラギガシ]]([[ブナ科]])の[[堅果]]
| image2 = Acer pseudoplatanus5 ies.jpg
| caption2 = '''7b'''. [[セイヨウカジカエデ]]([[ムクロジ科]])の[[翼果]](分離果でもある)
| image3 = 0975-Stachys sylvatica-Zlín 7.12.JPG
| caption3 = '''7c'''. [[イヌゴマ属]]([[シソ科]])の[[分離果]]
| image4 = Geranium molle (s. str.) sl26.jpg
| caption4 = '''7d'''. [[ヤワゲフウロ]]([[フウロソウ科]])の[[分離果]]
}}
=== 分離果 ===
{{main|分離果}}
複数の心皮からなり、心皮ごとに分離して複数の単位に分離する果実は'''分離果'''(ぶんりか; schizocarp)とよばれる<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="原1986" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="生物学辞典_分離果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=分離果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=1254}}</ref>。分離する単位は'''分果'''(ぶんか; mericarp, coccus{{efn2|name="coccus"|複数形は cocci<ref>{{Cite web|author=|date=|url=https://www.wordsense.eu/coccus/|title=coccus|website=WordSense Online Dictionary|publisher=|accessdate=2022-05-06}}</ref>。}})とよばれる。乾果であり、分果が裂開しないもの(上図7c)と裂開するもの(上図7d)があるが、前者のみを分離果とすることもある。分果が裂開するものは[[フウロソウ科]]、[[コクサギ]]や[[サンショウ]]([[ミカン科]])に、分果が裂開しないものは[[ハマビシ科]]、[[ニガキ科]]、[[ゼニアオイ]]([[アオイ科]])、[[ヤエムグラ属]]([[アカネ科]])、[[ムラサキ科]]、[[シソ科]]、[[セリ科]]などに見られる。また[[セリ科]]などの果実は2つの分果がぶら下がった形になり、特に'''双懸果'''(そうけんか)(cremocarp)ともよばれる<ref name="清水2001" />。
=== 液果 ===
{{main|液果}}
果皮が柔らかく多肉質・多汁質である果実は、'''液果'''{{efn2|name="液果"|広義の液果は果皮が多肉質・多汁質である果実を全て含み多肉果と同義である(核果などを含む)が、狭義の液果は中果皮・内果皮が液質な漿果と同義である<ref name="平凡社" /><ref name="岩瀬2004">{{Cite book|author=岩瀬徹・大野啓一|year=2004|chapter=いろいろな果実|editor=|title=写真で見る植物用語|publisher=全国農村教育協会|isbn=978-4881371077|pages=118–126}}</ref>。}}('''多肉果'''、sap fruit)とよばれる<ref name="清水2001" /><ref name="山崎1984" /><ref name="清水2004" /><ref name="原1986" /><ref name="原1994" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="生物学辞典_液果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=液果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=123}}</ref>。基本的に裂開しないが、アケビ(アケビ科)のように裂開する例もある<ref name="原1986" />。
:; [[漿果]]<span style="font-weight:400;">(しょうか; berry, bacca{{efn2|name="bacca"|複数形は baccae<ref>{{Cite web|author=|date=|url=https://www.merriam-webster.com/dictionary/bacca|title=bacca|website=Merriam-Webster Dictionary|publisher=|accessdate=2022-12-14}}</ref>。}})<ref name="清水2001" /><ref name="原1986" /><ref name="生物学辞典_漿果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=漿果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=653}}</ref>(真正液果、狭義の液果<ref name="平凡社" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" />)</span>
:: 中果皮も内果皮も多肉質になる液果(下図8a)。1心皮からなるものを単漿果(simple berry)、複数の心皮からなるものを複漿果(compound berry)として分けることもある。[[マツブサ]]([[マツブサ科]])、[[アボカド]]([[クスノキ科]])、[[ナンテン]]([[メギ科]])、[[ブドウ]]([[ブドウ科]])、[[イイギリ]]([[ヤナギ科]])、[[ヨウシュヤマゴボウ]]([[ヤマゴボウ科]])、[[キウイフルーツ|キウイ]]([[マタタビ科]])、[[ヒサカキ]]([[ツバキ科]])、[[クチナシ]]([[アカネ科]])、[[トマト]]([[ナス科]])、[[ヤツデ]]([[ウコギ科]])、[[スイカズラ]]([[スイカズラ科]])などに見られる。
:; [[ミカン状果]]<span style="font-weight:400;">(柑果、hesperidium{{efn2|name="hesperidium"|複数形は hesperidia<ref>{{Cite web|author=|date=|url=https://www.merriam-webster.com/dictionary/hesperidium|title=hesperidium|website=Merriam-Webster Dictionary|publisher=|accessdate=2022-12-14}}</ref>。}})<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="生物学辞典_ミカン状果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=ミカン状果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=1352}}</ref></span>
:: 複数の心皮からなる液果であり、油細胞を含む外果皮(フラベド、flavedo)、海綿状の中果皮(アルベド、albedo)、膜質の内果皮からなる(下図8b)。内果皮の内側には果汁に富んだ毛をもつ。[[ミカン]]、[[オレンジ]]、[[レモン]]、[[ライム]]、[[グレープフルーツ]]など[[ミカン科]]ミカン連に見られる。漿果の1型ともされる。
:; [[ウリ状果]]<span style="font-weight:400;">(瓜状果、瓠果、瓢果、pepo)<ref name="清水2001" /><ref name="コトバンク_瓜状果">{{Cite Kotobank|word=瓜状果|encyclopedia=|accessdate=2022-12-03}}</ref></span>
:: 3心皮からなる液果であり、花托筒が外果皮と癒合して硬化し、中果皮と内果皮が多肉質で海綿状になる(下図8c)。[[ウリ科]]に見られる。漿果の1型ともされる。
:; [[ナシ状果]]<span style="font-weight:400;">(リンゴ状果、梨果、仁果、pome)<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="原1986" /><ref name="生物学辞典_ナシ状果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=ナシ状果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=1025}}</ref><ref name="池田2016">{{cite book|author=池田博・池谷祐幸・勝本俊雄|year=2016|chapter=バラ科|editor=大橋広好, 門田裕一, 邑田仁, 米倉浩司, 木原浩 (編)|title=改訂新版 日本の野生植物 3|publisher=平凡社|isbn=978-4582535334|pages=23–88}}</ref><ref name="コトバンク_仁果類">{{Cite Kotobank|word=仁果類|encyclopedia=|accessdate=2022-12-08}}</ref></span>
:: 複数の心皮からなる液果であり、子房を包む花托が多肉質になる(下図8d)。[[リンゴ]]、[[ナシ]]、[[ビワ]]、[[クサボケ]]、[[ズミ]]、[[シャリンバイ]]、[[ナナカマド]]など[[バラ科]]ナシ連に見られる。漿果の1型ともされる。
:; [[核果]]<span style="font-weight:400;">(かくか; 石果、drupe)<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="原1986" /><ref name="山崎1984" /><ref name="岩瀬2004" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="生物学辞典_石果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=石果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=781}}</ref><ref name="コトバンク_核果">{{Cite Kotobank|word=核果|encyclopedia=|accessdate=2022-12-08}}</ref></span>
:: 中果皮は多肉質だが、内果皮が硬化して種子を包んでいる液果(下図8e)。種子を包んだ内果皮は核(stone, putamen)とよばれる。[[アオツヅラフジ]]([[ツヅラフジ科]])、[[ユズリハ]]([[ユズリハ科]])、[[サクランボ]]、[[ウメ]]、[[モモ]]([[バラ科]])、[[エノキ]]([[アサ科]])、[[ヤマモモ]]([[ヤマモモ科]])、[[ムクロジ]]([[ムクロジ科]])、[[センダン]]([[センダン科]])、[[マンゴー]]([[ウルシ科]])、[[ハナミズキ]]([[ミズキ科]])、[[マンリョウ]]([[サクラソウ科]])、[[アオキ]]([[ガリア科]])、[[コーヒーノキ]]([[アカネ科]])、[[オリーブ]]([[モクセイ科]])、[[ニワトコ]]([[ガマズミ科]])などに見られる<ref name="鈴木2012" />。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Bright red tomato and cross section02.jpg
| caption1 = '''8a'''. [[トマト]]([[ナス科]])の[[漿果]]
| image2 = Perpendicular orange.png
| caption2 = '''8b'''. [[オレンジ]]([[ミカン科]])の[[ミカン状果]]
| image3 = Cantaloupe 2.jpg
| caption3 = '''8c'''. [[メロン]]([[ウリ科]])の[[ウリ状果]]
| image4 = Pome Nos.jpg
| caption4 = '''8d'''. [[リンゴ]]([[バラ科]])の[[ナシ状果]]{{efn2|name="ナシ状果"|1 - 果柄、2 - [[種子]]、3 - [[内果皮]]、4 - 中・外果皮、5 - [[雄しべ]]や[[萼]]の跡、6, 7 - [[花托]]が発達した部分}}
| image5 = Prunus - Tophit plus.JPG
| caption5 = '''8e'''. [[スモモ亜属|プラム]](バラ科)の[[核果]]
}}
=== 単果と集合果 ===
{{main|集合果}}
1個の花はふつう1個の雌しべ(子房)をもつが、これに由来する独立した果実は'''単果'''(simple fruit)とよばれる<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" />。一方、1個の花が複数の雌しべ(子房)をもつことがあり(個々の雌しべは1心皮からなり、このような状態は離生心皮とよばれる)、これに由来する複数の果実がまとまった構造となる場合、'''集合果'''(aggregate fruit)とよばれる<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="生物学辞典_集合果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=集合果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=621}}</ref>。ただし、どの程度まとまっていれば集合果と呼べるのか明確な定義があるわけではない<ref name="山崎1984" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" />。集合果には、以下のようなものがある。
:; [[集合果#集合袋果|集合袋果]]<span style="font-weight:400;">(follicetum, etaerio of follicles)<ref name="清水2001" /><ref name="Kew2004" /><ref name="Spjut" /></span>
:: 1つの花に由来する複数の袋果が集合したもの(下図9a)。[[モクレン属]]([[モクレン科]])や[[オダマキ属]]([[キンポウゲ科]])、[[ユキヤナギ]]、[[シモツケ]]([[バラ科]])、[[ヤマグルマ属]]([[ヤマグルマ科]])などに見られる。
:; [[集合果#集合痩果|集合痩果]]<span style="font-weight:400;">(achenetum, etaerio of achenes)<ref name="清水2001" /><ref name="Kew2004" /><ref name="Spjut" /></span>
:: 1つの花に由来する複数の痩果が集合したもの(下図9b)。[[キンポウゲ属]]([[キンポウゲ科]])や[[ダイコンソウ]]、[[ヤマブキ]]、[[キジムシロ]]([[バラ科]])に見られる。
:; [[バラ状果]]<span style="font-weight:400;">(cynarrhodium{{efn2|name="cynarrhodium"|複数形は cynarrhodia<ref name="清水2001" />。}})<ref name="清水2001" /><ref name="Kew2004" /><ref name="Spjut" /><ref name="生物学辞典_バラ状果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=バラ状果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=1115}}</ref></span>
:: 壺状の花托が肥大し、その中に複数の痩果がある集合果(下図9c)。偽果である。[[バラ属]]([[バラ科]])に見られる。
:; [[イチゴ状果]]<span style="font-weight:400;">(glandetum, etaerio)<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="Kew2004" /><ref name="Spjut" /></span>
:: 花托が肥大して液質になり、表面に多数の痩果がついた集合果(下図9d)。偽果である。[[オランダイチゴ属]]や[[ヘビイチゴ]]([[バラ科]]) に見られる。
:; [[ハス状果]]<span style="font-weight:400;">(nelumboid aggregate fruit)<ref name="清水2001" /><ref name="山崎1984" /></span>
:: 肥大して漏斗状になった花托に多数の孔があり、その孔に1個ずつ堅果(痩果ともされる)が埋まっている集合果(下図9e)。偽果である。[[ハス属]]([[ハス科]])に見られる。
:; [[集合果#集合漿果|集合漿果]]<span style="font-weight:400;">(baccetum, etaerio of berries)<ref name="清水2001" /><ref name="Kew2004" /><ref name="Spjut" /></span>
:: 1つの花に由来する複数の[[漿果]]からなる集合果(下図9f)。[[マツブサ属]]や[[バンレイシ属]]などに見られる。
:; [[集合果#集合核果|集合核果]]<span style="font-weight:400;">(drupetum, etaerio of drupelets)<ref name="清水2001" /><ref name="山崎1984" /><ref name="平凡社" /><ref name="Kew2004" /><ref name="Spjut" /></span>
:: 1つの花に由来する複数の[[核果]](小核果 drupelet)からなる集合果(下図9g)。[[キイチゴ属]]([[バラ科]])などに見られ、特に'''[[キイチゴ状果]]'''ともよばれる。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Magnolia grandiflora (6).JPG
| caption1 = '''9a'''. [[タイサンボク]]([[モクレン科]])の[[集合袋果]](赤いものは種子)
| image2 = Potentilla neumanniana - mildew ies.jpg
| caption2 = '''9b'''. [[ダイコンソウ属]]([[バラ科]])の[[集合痩果]]
| image3 = Nype (1567597122).jpg
| caption3 = '''9c'''. [[バラ]]([[バラ科]])の[[バラ状果]]
| image4 = Garden strawberry (Fragaria × ananassa).jpg
| caption4 = '''9d'''. [[イチゴ]](バラ科)の[[イチゴ状果]]
}}
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Wuppertal Elisenhöhe 2018 172.jpg
| caption1 = '''9e'''. [[ハス]]([[ハス科]])の[[ハス状果]]
| image2 = Sugar apple with cross section sl.jpg
| caption2 = '''9f'''. [[バンレイシ]]([[バンレイシ科]])の[[集合漿果]]
| image3 = Close-up of raspberries on bush.jpg
| caption3 = '''9g'''. [[ラズベリー]]([[バラ科]])の[[キイチゴ状果]]
}}
=== 単花果と複合果 ===
{{main|複合果}}
1個の花の1個または複数の雌しべ(子房)に由来する果実は、'''単花果'''(monothalamic fruit)とよばれる<ref name="清水2001" />。一方、複数の花に由来する果実がまとまった構造となる場合、'''複合果'''(または'''多花果'''、collective fruit, polyanthocarp)とよばれる<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="山崎1984" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="生物学辞典_集合果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=集合果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=621}}</ref>。ただし、どの程度まとまっていれば複合果と呼べるのか明確な定義があるわけではない<ref name="山崎1984" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" />。複合果は、それを構成する果実の型や、付随する構造に基づいて以下のように類別される。
:; [[複合果#袋果型多花果|袋果型多花果]]<span style="font-weight:400;">(folliconum, multiple fruit of follicles)<ref name="清水2001" /><ref name="Kew2004" /><ref name="Spjut" /></span>
:: 個々の花が[[袋果]]になり、それが多数集まっているもの(下図10a)。[[バンクシア]]([[ヤマモガシ科]])などに見られる。
:; [[複合果#蒴果型多花果|蒴果型多花果]]<span style="font-weight:400;">(capsiconum, multiple fruit of capsules)<ref name="清水2001" /><ref name="Kew2004" /><ref name="Spjut" /></span>
:: 個々の花が[[蒴果]]になり、それが多数集まっているもの(下図10b)。[[ドクダミ]]([[ドクダミ科]])、[[フウ属]]([[フウ科]])、[[ヤナギ科]]、[[タニワタリノキ属]]([[アカネ科]])などに見られる。
:; [[複合果#痩果型多花果|痩果型多花果]]<span style="font-weight:400;">(achenosum, multiple fruit of achenes)<ref name="清水2001" /><ref name="Kew2004" /><ref name="Spjut" /></span>
:: 個々の花が[[痩果]]になり、それが多数集まっているもの(下図10c)。[[スズカケノキ属]]([[スズカケノキ科]])や[[ナベナ属]]([[スイカズラ科]])などに見られる。
:; [[クワ状果]]<span style="font-weight:400;">(桑果)<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /></span>
:: 個々の花が[[痩果]]になり、肥厚・多肉化した花被で包まれ、それが多数集まっているもの(下図10d)。[[クワ属]]([[クワ科]])に見られる。
:; [[イチジク状果]]<span style="font-weight:400;">(陰花果、syconium)<ref name="清水2001" /><ref name="平凡社" /><ref name="生物学辞典_イチジク状花序">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=イチジク状花序|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=71}}</ref></span>
:: 壺状で多肉質の果序の中に多数の[[痩果]]があるもの(下図10e)。[[イチジク属]] ([[クワ科]]) に見られる。
:; [[複合果#ストロビル|ストロビル]]<span style="font-weight:400;">(葎果、strobile)<ref name="清水2001" /></span>
:: 果軸(花序軸)に多数の[[苞]](果苞)がつき、それぞれの腋に[[痩果]]または[[小堅果]]がついたもの(下図10f)。[[カバノキ属]]や[[ハンノキ属]]([[カバノキ科]])、[[カラハナソウ]]、[[カナムグラ属]]([[アサ科]])などに見られる。strobile という用語は、裸子植物球果類(針葉樹)の球果(まつぼっくり)に対しても用いられる用語であるが、裸子植物は雌しべ(子房)をもたないため、この球果は果実ではない。
:; [[複合果#漿果型多花果|漿果型多花果]]<span style="font-weight:400;">(multiple fruit of berries)<ref name="清水2001" /></span>
:: 個々の花が[[漿果]](中果皮、内果皮が液質になる果実)になり、それが多数集まっているもの。[[サトイモ科]]、[[サルトリイバラ科]]などに見られる。漿果型多花果に加えてクワ状果や核果型多花果など液質になる複合果(多花果)は sorosus (sorosis, coenocarpium) ともよばれ、果皮のみではなく[[花托]]や[[苞]]も液質になる[[パイナップル]]([[パイナップル科]])の複合果(下図10g)も含まれる<ref name="Kew2004">{{Cite book|author=Stuppy, W.|year=2004|chapter=|editor=|title=Glossary of Seed and Fruit Morphological Terms|publisher=Seed Conservation Department, Royal Botanic Gardens, Kew, Wakehurst Place|isbn=|pages=1–24}}</ref><ref name="Spjut">{{Cite web|author=Spjut, R.W.|date=2015|url=http://www.worldbotanical.com/fruit_types.htm|title=A Systematic Treatment of Fruit Types|website=The World Botanical Associates Web Page|publisher=|accessdate=2022-06-22}}</ref>。
:; [[複合果#核果型多花果|核果型多花果]]<span style="font-weight:400;">(multiple fruit of drupelets)<ref name="清水2001" /></span>
:: 個々の花が[[核果]](中果皮が液質、内果皮が硬化している果実)になり、それが多数集まっているもの(下図10h)。ヤマボウシ(ミズキ科)、[[ヤエヤマアオキ]]([[アカネ科]])などに見られる。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = B telmatiaea 25 gnangarra cropped.jpg
| caption1 = '''10a'''. [[バンクシア]]([[ヤマモガシ科]])の[[複合果#袋果型多花果|袋果型多花果]]
| image2 = Gumball - American Sweetgum - Liquidambar styraciflua, Julie Metz Wetlands, Woodbridge, Virginia (27002510369).jpg
| caption2 = '''10b'''. [[モミジバフウ]]([[フウ科]])の[[複合果#蒴果型多花果|蒴果型多花果]]
| image3 = (ms) Platanus × hispanica 6.jpg
| caption3 = '''10c'''. [[モミジバスズカケノキ]]([[スズカケノキ科]])の[[複合果#痩果型多花果|痩果型多花果]]
| image4 = Mûre noire (Morus nigra).jpg
| caption4 = '''10d'''. [[クロミグワ]]([[クワ科]])の[[クワ状果]]
}}
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Feige-Schnitt.png
| caption1 = '''10e'''. [[イチジク]]([[クワ科]])の[[イチジク状果]]
| image2 = クマシデ果穂.jpg
| caption2 = '''10f'''. [[クマシデ]]([[カバノキ科]])の[[複合果#ストロビル|ストロビル]]
| image3 = Pineapple and cross section.jpg
| caption3 = '''10g'''. [[パイナップル]]([[パイナップル科]])の多花果
| image4 = Wzwz tree 01e.jpg
| caption4 = '''10h'''. [[ヤマボウシ]]([[ミズキ科]])の[[複合果#核果型多花果|核果型多花果]]
}}
=== 真果と偽果 ===
{{main|偽果}}
[[ファイル:Pseudocarps (2943643065).jpg|thumb|right|300px|'''11'''. 典型的な偽果:(左から)[[セイヨウナシ]]、[[イチジク]]、[[イチゴ]]]]
基本的に、果実は[[雌しべ]]の子房([[種子]]になる構造である[[胚珠]]を含む部分)が発達して形成された構造であり、これが大部分を占める果実は'''真果'''(true fruit)とよばれる<ref name="清水2001" /><ref name="山崎1984" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="生物学辞典_真果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=真果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=688}}</ref>。一方で、花托や花被など子房以外に由来する構造が多くを占めている果実は、'''偽果'''(仮果、副果、accessory fruit, anthocarp, false fruit)とよばれる<ref name="清水2001" /><ref name="山崎1984" /><ref name="コトバンク_果実(植物)" /><ref name="生物学辞典_偽果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=偽果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=278}}</ref><ref name="和泉2014">{{Cite book|author=和泉秀彦・三宅義明・舘和彦 (編)|year=2014|chapter=|editor=|title=栄養科学ファウンデーションシリーズ 5 食品学|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254616552|pages=82–84}}</ref>(図11)。ほとんどの果実は子房以外の構造を含むが、その程度はさまざまであり、子房以外の構造をどの程度含むものを偽果とするかは明瞭な基準があるわけではない。「偽果」には「ニセモノの果実」という語感があるが、偽果は真の果実の部分(子房に由来する部分)を含んでおり、果実の一型として扱われる<ref name="清水2001" /><ref name="原1986" />。
上記の[[ナシ状果]]、[[バラ状果]]、[[イチゴ状果]]、[[ハス状果]]、[[イチジク状果]]では、それぞれの花がついた[[花托]]や多数の花がついた[[花床]](花托、花床は花がついた茎の先端部)が発達して果実の大部分を占めており、典型的な偽果である<ref name="清水2001" />。また[[クワ状果]]では[[複合果]]を構成する個々の真果の部分が液質化した[[花被]]に包まれた偽果であるが<ref name="清水2001" />、他にも[[イシミカワ]]([[タデ科]])や[[シラタマノキ属]]([[ツツジ科]])などに同様の例が見られる<ref name="多田2010花被多肉">{{Cite book|author=多田多恵子|year=2010|chapter=イシミカワ、ドクウツギ|editor=|title=身近な草木の実とタネハンドブック|publisher=文一総合出版|isbn=978-4829910757|pages=91, 115}}</ref><ref name="小林2007被食" />(下図12a)。[[グミ属]]([[グミ科]])や[[オシロイバナ]]([[オシロイバナ科]])の果実も[[萼筒]]の基部が真果の部分を包んで偽果となっている<ref name="小林2007被食" /><ref name="多田2010グミ">{{Cite book|author=多田多恵子|year=2010|chapter=アキグミ|editor=|title=身近な草木の実とタネハンドブック|publisher=文一総合出版|isbn=978-4829910757|page=122}}</ref><ref name="鈴木2012オシロイバナ">{{cite book|author=鈴木庸夫・高橋冬・安延尚文|year=2012|chapter=オシロイバナ|editor=|title=草木の種子と果実|publisher=誠文堂新光社|isbn=978-4-416-71219-1|page=110}}</ref><ref name="生物学辞典_堅果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=堅果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=415}}</ref>(下図12b, c)。[[オナモミ属]]([[キク科]])では複数の雌花に由来する複数の[[痩果]]が、刺だらけの[[総苞]]で包まれた偽果を形成する<ref name="多田2010オオオナモミ">{{Cite book|author=多田多恵子|year=2010|chapter=オオオナモミ|editor=|title=身近な草木の実とタネハンドブック|publisher=文一総合出版|isbn=978-4829910757|page=79}}</ref>(下図12d)。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Persicaria perfoliata 7.JPG
| caption1 = '''12a'''. [[イシミカワ]]([[タデ科]])の果実は、肉質化した[[花被]]で包まれた偽果になる。
| image2 = Elaeagnus multiflora (8084537643).jpg
| caption2 = '''12b'''. [[ナツグミ]]([[グミ科]])の果実は肉質化した萼筒基部で包まれた偽果になる。
| image3 = Mirabilis jalapa seeds.JPG
| caption3 = '''12c'''. [[オシロイバナ]]([[オシロイバナ科]])の果実は硬化した萼筒基部で包まれた偽果になる。
| image4 = Xanthium orientale s. lat. sl89.jpg
| caption4 = '''12d'''. [[オオオナモミ]]([[キク科]])は、2個の果実(痩果)が[[総苞]]で包まれた偽果になる。
}}
== 裸子植物の"果実" ==
生物学的に、果実は[[雌しべ]]の[[子房]]が発達したものであり、そのため雌しべをもつ植物群である[[被子植物]]に特有の器官である。[[裸子植物]]は[[胚珠]]([[種子]])を包む雌しべをもたないため、裸子植物は果実をもたない。しかし、裸子植物でも種子を囲んだ器官が発達して果実様の構造を形成することが多く、このような構造が"果実"とよばれることがある<ref name="清水2001" />。
裸子植物の[[球果類]]([[針葉樹]])は、基本的に、[[向軸側]]に[[胚珠]]をつけた鱗片が軸に多数集まって'''[[球果]]'''(まつかさ、cone, strobile)を形成する<ref name="清水2001" /><ref name="生物学辞典_球果">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=球果|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=308}}</ref>。球果の鱗片はふつう木化しており、乾湿運動によって開閉して[[種子]]を放出する<ref name="コトバンク_球果">{{Cite Kotobank|word=球果|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2023-05-03}}</ref>(下図13a)。[[ビャクシン属]]([[ヒノキ科]])の球果では鱗片が肉質になり、裂開しない液果状の球果を形成する(下図13b)。このような球果は、'''漿質球果'''(しょうしつきゅうか; 肉質球果、freshy cone, galbulus)とよばれる<ref name="清水2001" /><ref name="生物学辞典_球果" />。[[マキ科]]では、鱗片が肉質化して'''套皮'''(とうひ、epimatium{{efn2|name="epimatium"|複数形は epimatia<ref name="清水2001" />。}})とよばれる構造となり、1個の種子を包んでいる<ref name="清水2001" /><ref name="大橋2015マキ科" />(下図13c)。さらに[[イヌマキ]]などでは、種子のついた枝("花托"、種托)が多肉質になる<ref name="杉本1987">{{Cite book|author=杉本順一|translator=|year=|chapter=イヌマキ|editor=|title=世界の針葉樹|publisher=井上書店|ncid=BN01674934|pages=138–139}}</ref><ref name="大橋2015マキ科">{{cite book|author=大橋広好|year=2015|chapter=マキ科|editor=大橋広好, 門田裕一, 邑田仁, 米倉浩司, 木原浩 (編)|title=改訂新版 日本の野生植物 1|publisher=平凡社|isbn=978-4582535310|pages=34–35}}</ref>。また[[グネツム属]]や[[マオウ属]]では、[[胚珠]]を包む[[苞]]が肉質化して液果状になる<ref name="清水2001" />(下図13d)。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Cincinnati – Spring Grove Cemetery & Arboretum “Korean Pine Tree - Double Cones” (27215364826).jpg
| caption1 = '''13a'''. [[チョウセンゴヨウ]]([[マツ科]])の[[球果]]
| image2 = Juniperus communis fruits - Keila.jpg
| caption2 = '''13b'''. [[セイヨウネズ]]([[ヒノキ科]])の漿質球果
| image3 = Podocarpus macrophyllus (seed s3).jpg
| caption3 = '''13c'''. [[イヌマキ]]([[マキ科]])の套皮で包まれた[[種子]]と赤く発達した種托
| image4 = Ephedra distachya Russia cones 2.jpg
| caption4 = '''13d'''. {{Snamei|Ephedra distachya}}([[マオウ科]])の苞で包まれた種子
| image5 = Taxus cuspidata fruits (4x5).JPG
| caption5 = '''13e'''. [[イチイ]]([[イチイ科]])の仮種皮果
| image6 = Ginkgo biloba 007.jpg
| caption6 = '''13f'''. [[イチョウ]]([[イチョウ科]])の種子果
}}
[[イチイ属]]や[[カヤ属]]([[イチイ科]])では、[[胚珠]]の基部の構造が発達して[[仮種皮]]となり、種子の基部または全体を覆うようになる<ref name="清水2001" /><ref name="大橋2015イチイ科" />(上図13e)。このような構造は'''仮種皮果'''(arillocarpium{{efn2|name="arillocarpium"|複数形は arillocarpia<ref name="清水2001" />。}})ともよばれる<ref name="清水2001" />。
[[ソテツ目]]や[[イチョウ目]]では、種皮が3層に分化し、外層が肉質化する(上図13f)。この種子は液果に似ているため、"実"とよばれることもあるが、実際には種子である。このような種子は'''種子果'''(seminicarpium{{efn2|name="seminicarpium"|複数形は seminicarpia<ref name="清水2001" />。}})ともよばれる<ref name="清水2001" />。また[[イヌガヤ]]([[イチイ科]])でも、種皮外層が多肉質になる<ref name="大橋2015イチイ科">{{cite book|author=大橋広好|year=2015|chapter=イチイ科|editor=大橋広好, 門田裕一, 邑田仁, 米倉浩司, 木原浩 (編)|title=改訂新版 日本の野生植物 1|publisher=平凡社|isbn=978-4582535310|pages=42–44}}</ref>。
== 種子散布との関わり ==
通常は動けない[[種子植物]]にとって、親植物から離れて分布拡大できる時期は、[[種子]]の段階である<ref name="岡本1992">{{Cite journal|author=岡本素治|year=1992|title=果実の形態にみる種子散布 (総説)|journal=植物分類, 地理|volume=43|issue=2|pages=155-166|doi=10.18942/bunruichiri.KJ00001078987}}</ref>。種子が散布されること([[種子散布]])は、裸地に植物が生えてくることや、植生が次第に遷移していくことで認識できる。被子植物では種子は果実に包まれた状態で形成されるが、[[#裂開果|裂開果]]では果実から放出された種子が、[[#閉果|閉果]]では種子を含む果実が、それぞれ散布単位となる。果実は、効率的な種子散布のための構造・機能をもつことがある。
=== 風散布 ===
[[風]]によって果実・種子が散布される様式は、風散布とよばれる<ref name="非動物散布" /><ref name="鈴木2012散布様式" /><ref name="小林2007風">{{Cite book|author=小林正明|year=2007|chapter=風を利用する|editor=|title=花からたねへ 種子散布を科学する|publisher=全国農村教育協会|isbn=978-4881371251|pages=48–102}}</ref><ref name="多田2010風">{{Cite book|author=多田多恵子|year=2010|chapter=風散布|editor=|title=身近な草木の実とタネハンドブック|publisher=文一総合出版|isbn=978-4829910757|pages=8–51}}</ref>。風散布される果実は、翼をもつ例と綿毛をもつ例がある。[[カエデ]]([[ムクロジ科]])や[[アキニレ]]([[ニレ科]])、[[シラカンバ]]([[カバノキ科]])など[[果皮]]が翼状になった例([[翼果]]とよばれる; 下図14a)や、[[スイバ]]([[タデ科]])や[[ツクバネウツギ]]([[スイカズラ科]])のように果実に付随する[[花被]]が翼状になっている例、[[シナノキ]]([[アオイ科]])や[[ツクバネ]]([[ビャクダン科]])のように[[苞]]が翼状になっている例(下図14b)がある<ref name="非動物散布" /><ref name="岡本1992" /><ref name="小林2007風" /><ref name="多田2010風" />。また果実が綿毛をもつ例も見られ、[[タンポポ]]など[[キク科]]の多くでは[[萼]]に由来する冠毛が(下図14c)、[[クレマチス]]([[キンポウゲ科]])では花柱に生えた毛が、[[ススキ]]([[イネ科]])では花序の基部に生えた毛が(下図14d)発達している<ref name="非動物散布" /><ref name="小林2007風" /><ref name="多田2010風" />。裂開果において種子が散布される場合でも、果実の開口部が小さく上部にあるなど、強い風や振動によってのみ種子が散布されるようになっているものがある(風靡散布)<ref name="岡本1992" /><ref name="非動物散布" />(下図14e)。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Birkensamenp.jpg
| caption1 = '''14a'''. [[シラカンバ]]([[カバノキ科]])の[[翼果]]
| image2 = Tilia cordata MHNT.BOT.2004.0.780.jpg
| caption2 = '''14b'''. [[フユボダイジュ]]([[アオイ科]])の果実と[[苞]]
| image3 = Dandelion seed head closeup.jpg
| caption3 = '''14c'''. 冠毛をつけた[[タンポポ]]([[キク科]])の果実([[痩果]])
| image4 = Miscanthus sinensis5.jpg
| caption4 = '''14d'''. 毛をつけた[[ススキ]]([[イネ科]])の果実([[穎果]])
| image5 = Papaver dubium subsp. dubium + Papaver rhoeas sl1.jpg
| caption5 = '''14e'''. [[ナガミヒナゲシ]]([[ケシ科]])の果実は強風で揺れて種子が撒き散らされる。
}}
=== 水散布 ===
水辺に生育する植物の中には、水によって果実・種子が散布されるものがある(水散布)<ref name="岡本1992" /><ref name="小林2007水">{{Cite book|author=小林正明|year=2007|chapter=水を利用する|editor=|title=花からたねへ 種子散布を科学する|publisher=全国農村教育協会|isbn=978-4881371251|pages=195–215}}</ref><ref name="多田2010水">{{Cite book|author=多田多恵子|year=2010|chapter=風散布|editor=|title=身近な草木の実とタネハンドブック|publisher=文一総合出版|isbn=978-4829910757|pages=52–59}}</ref>。[[コナギ]]([[ミズアオイ科]])や[[ハス]]([[ハス科]])、[[クサネム]]([[マメ科]])、[[タカサブロウ]]([[キク科]])などの果実は比重が軽く、水に浮いて散布される<ref name="岡本1992" /><ref name="小林2007水" /><ref name="多田2010水" />(下図15a)。[[ジュズダマ]]([[イネ科]])や[[オナモミ]]([[キク科]])では、果実を包む[[苞]]が特殊化して浮遊するようになっている<ref name="岡本1992" /><ref name="小林2007水" /><ref name="多田2010水" />(上図12d, 下図15b)。また[[オモダカ]]([[オモダカ科]])の果実には翼があり、水中で流される<ref name="小林2007水" />(下図15c)。[[ココヤシ]]([[ヤシ科]])や[[ハマゴウ]]([[シソ科]])の果実は[[核果]]であり、硬化した内果皮で種子が包まれていることから、海水に耐えて海面を浮いて散布される(海流散布)<ref name="岡本1992" /><ref name="小林2007水" /><ref name="鈴木2012海流">{{cite book|author=鈴木庸夫・高橋冬・安延尚文|year=2012|chapter=流れ着く種子 & 果実たち|editor=|title=草木の種子と果実|publisher=誠文堂新光社|isbn=978-4-416-71219-1|pages=252–257}}</ref><ref name="澤田2005">{{Cite journal|author=澤田佳宏 & 津田智|year=2005|title=日本の暖温帯に生育する海浜植物14種の海流散布の可能性|journal=植生学会誌|volume=22|issue=1|pages=53-61|doi=10.15031/vegsci.22.53}}</ref>(下図15d)。[[ネコノメソウ]]([[ユキノシタ科]])や[[フデリンドウ]]([[リンドウ科]])の果実は、上向きに裂開し雨粒を受けて種子が散布される(雨滴散布)<ref name="非動物散布" /><ref name="小林2007水" /><ref name="多田2010水" />(下図15e)。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = D85 3729 Lotus Photographed by Trisorn Triboon 12.jpg
| caption1 = '''15a'''. [[ハス]]([[ハス科]])のハス状果およびその中の堅果(痩果)は水に浮く。
| image2 = Coix lacryma-jobi Łzawnica ogrodowa 2018-10-06 02.jpg
| caption2 = '''15b'''. [[ジュズダマ]]([[イネ科]])の[[穎果]]は硬化した[[苞]]で包まれ、水に浮く。
| image3 = Alisma plantago-aquatica sl12.jpg
| caption3 = '''15c'''. [[サジオモダカ]]([[オモダカ科]])の痩実は扁平で水に流される。
| image4 = Surf vs Coconut (8727097111).jpg
| caption4 = '''15d'''. [[ココヤシ]]([[ヤシ科]])の[[核果]]は海流散布される。
| image5 = Gentiana_zollingeri_(seed).jpg
| caption5 = '''15e'''. [[フデリンドウ]]([[リンドウ科]])の[[蒴果]]は上向きに裂開して雨粒を受ける。
}}
=== 付着散布 ===
大型の動物に付着し、種子散布される様式は付着散布(動物付着散布)とよばれる<ref name="岡本1992" /><ref name="鈴木2012散布様式" /><ref name="小林2007付着">{{Cite book|author=小林正明|year=2007|chapter=かぎで動物にくっ付いて、粘液で動物にくっ付いて|editor=|title=花からたねへ 種子散布を科学する|publisher=全国農村教育協会|isbn=978-4881371251|pages=172–194}}</ref><ref name="多田2010付着">{{Cite book|author=多田多恵子|year=2010|chapter=動物散布 付着|editor=|title=身近な草木の実とタネハンドブック|publisher=文一総合出版|isbn=978-4829910757|pages=70–84}}</ref><ref name="動物付着散布">{{Cite web|和書|author=福原達人|date=|url=https://staff.fukuoka-edu.ac.jp/fukuhara/keitai/8-3.html|title=8-3. 動物付着散布|website=植物形態学|publisher=福岡教育大学|accessdate=2023-05-20}}</ref>。かぎ状の突起などによって動物に付着するものとして、果皮にかぎ毛をもつ[[ヌスビトハギ]]([[マメ科]])、[[ミズタマソウ]]([[アカバナ科]]; 下図16a)、[[ヤエムグラ]]([[アカネ科]])、[[ヤブジラミ]]([[セリ科]]; 下図16b)、[[花柱]]由来のかぎをもつ[[ミズヒキ]]([[タデ科]])や[[ダイコンソウ]]([[バラ科]]; 図9b)、[[萼]]由来のかぎをもつ[[ハエドクソウ]]([[ハエドクソウ科]])や[[センダングサ]]([[キク科]]; 下図16c)、[[苞]]に由来するかぎをもつ[[イノコヅチ]]、果実を包む[[総苞]]に多数のとげをもつ[[オナモミ]](キク科; 上図12d)などがある<ref name="岡本1992" /><ref name="小林2007付着" /><ref name="多田2010付着" /><ref name="動物付着散布" />。また粘液によって動物に付着するものとして、果実表面から粘液を分泌する[[ノブキ]](キク科; 上図16d)、[[冠毛]]から粘液を分泌するヌマダイコン(キク科)、総苞から粘液を分泌するメナモミ(キク科)、[[芒]]から粘液を分泌する[[チヂミザサ]]([[イネ科]]; 下図16e)などがある<ref name="小林2007付着" /><ref name="多田2010付着" /><ref name="動物付着散布" />。特に付着のための構造をもたない果実でも、小型のものは泥などによって動物に付着し、散布されることがあると考えられている<ref name="岡本1992" /><ref name="多田2010付着" /><ref name="動物付着散布" />。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Circaea canadensis SS-004.jpg
| caption1 = '''16a'''. [[ミズタマソウ属]]([[アカバナ科]])の果実にはかぎ毛が密生してる。
| image2 = Torilis japonica (s. str.) sl10.jpg
| caption2 = '''16b'''. [[ヤブジラミ]]([[セリ科]])の[[分離果]](双懸果)にはかぎが密生してる。
| image3 = Bidens tripartita 2018-10-04 2526.jpg
| caption3 = '''16c'''. 服についた[[タウコギ]]([[キク科]])の果実
| image4 = Adenocaulon_himalaicum_nobuki03.JPG
| caption4 = '''16d'''. [[ノブキ]](キク科)の果実(痩果)は粘液を分泌する。
| image5 = Oplismenus aemulus spikelet4 (8239257653).jpg
| caption5 = '''16e'''. [[チヂミザサ属]]([[イネ科]])の果実([[頴果]])
}}
=== 被食散布 ===
[[哺乳類]]や[[鳥類]]に食べられ、排出されることで[[種子散布]]される様式は、被食散布(動物被食散布、周食散布、糞散布)とよばれる<ref name="岡本1992" /><ref name="鈴木2012散布様式" /><ref name="小林2007被食">{{Cite book|author=小林正明|year=2007|chapter=動物に食べられて|editor=|title=花からたねへ 種子散布を科学する|publisher=全国農村教育協会|isbn=978-4881371251|pages=105–158}}</ref><ref name="多田2010被食">{{Cite book|author=多田多恵子|year=2010|chapter=動物散布 被食|editor=|title=身近な草木の実とタネハンドブック|publisher=文一総合出版|isbn=978-4829910757|pages=85–149}}</ref><ref name="動物被食散布">{{Cite web|和書|author=福原達人|date=|url=https://staff.fukuoka-edu.ac.jp/fukuhara/keitai/8-4.html|title=8-4. 動物被食散布|website=植物形態学|publisher=福岡教育大学|accessdate=2023-05-20}}</ref><ref name="トーマス2001">{{Cite book|author=ピーター・トーマス|translator=|year=2001|chapter=|title=樹木学|publisher=築地書館|isbn=978-4806712244|page=131}}</ref>(下図17a)。このような果実は、動物にとって魅力ある可食部と適度な大きさをもち、また内部の種子は消化されないように厚い種皮をもっていたり、硬化した内果皮で包まれていたり([[核果]])、粘質の物質をまとっていたりする<ref name="岡本1992" /><ref name="小林2007被食" />。大きな種子を少数含むものから、小さな種子を多数含むものまである<ref name="岡本1992" /><ref name="小林2007被食" />。可食部の質や果実の大きさ、色、匂い、果実のつく高さや落下しやすさなどに多様性があり、それぞれ捕食者である動物に合わせている<ref name="岡本1992" /><ref name="小林2007被食" />。特に鳥類に被食されるものと哺乳類に被食されるものでは色(鳥類用果実には赤や黒のものが多い)や匂い(哺乳類用果実は強い匂いをもつものが多い)などに違いがあるが、鳥類・哺乳類双方に対応しているものもある<ref name="岡本1992" /><ref name="小林2007被食" /><ref name="多田2010被食" /><ref name="日本森林学会2003">{{Cite book|author=日本森林学会|year=2003|chapter=|editor=|title=森林の百科|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254470338|page=217}}</ref>。被食散布される果実は内部の種子の発芽を抑制する物質が含んでいることがあり、この場合、動物に食べられて排出されることで初めて種子が発芽できるようになる<ref name="原1994" /><ref name="鈴木2012散布様式">{{cite book|author=鈴木庸夫・高橋冬・安延尚文|year=2012|chapter=|editor=|title=草木の種子と果実|publisher=誠文堂新光社|isbn=978-4-416-71219-1|pages=16–20}}</ref><ref name="小林2007被食" />。未熟期の果実は、色が変わっていないことや有毒・不味成分を含むことで食べられないようにしている<ref name="岡本1992" /><ref name="小林2007被食" />。ただし可食部をほとんどもたない果実や[[種子]]が目立つ色をしており、十分な可食部をもつ果実に擬態(果実擬態)していると考えられている例もある<ref name="岡本1992" /><ref name="小林2007被食" />。また被食散布される果実は、一斉に成熟するタイプと、長期に渡って少数ずつ成熟するタイプがあることが知られている<ref name="岡本1992" />。さらに年ごとによって果実の生産量が大きく変動することも知られており、食害昆虫の増加を抑えるためであると考えられている<ref name="小林2007被食" />。果皮が多肉質である[[#液果|液果]]は、被食散布される<ref name="小林2007被食" /><ref name="多田2010被食" /><ref name="動物被食散布" />。[[クワ]]([[クワ科]])や[[グミ (植物)|グミ]]([[グミ科]])、[[シラタマノキ]]([[ツツジ科]])では、子房ではなく果実を包む花被が多肉質の可食部になる<ref name="小林2007被食" /><ref name="多田2010被食" /><ref name="動物被食散布" />(上図12a, b, 下図17b)。[[イチゴ]](バラ科)では隆起した花托が、バラ(バラ科)ではつぼ状になった花托が、[[ケンポナシ]]([[クロウメモドキ科]]; 下図17c)では花がついた枝が、[[イチジク]](クワ科)では多数の花がついたつぼ状の花床がそれぞれ可食部になる<ref name="小林2007被食" /><ref name="多田2010被食" /><ref name="動物被食散布" />。他にも、果実ではなく[[種子]]の付属物(種皮、仮種皮など)が可食部となっている例もある<ref name="小林2007被食" />。また[[イネ科]]や[[カヤツリグサ科]]、[[ヒユ科]]、[[タデ科]]、[[シロツメクサ]]など特に被食散布のための構造をもたない小型の果実が、[[ウシ]]や[[シカ]]、[[カモ科|カモ類]]などの草食動物が葉や茎を食べる際に一緒に取り込まれ、消化されずに排出されることがあり、このような散布も重要であることが示唆されている<ref name="岡本1992" /><ref name="小林2007被食" />。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = CedarWaxwingeatingberries09.jpg
| caption1 = '''17a'''. [[ヒメレンジャク]]に食べられる[[セイヨウカンボク]]([[ガマズミ科]])の果実([[核果]])
| image2 = Coriaria myrtifolia 000187017O.jpg
| caption2 = '''17b'''. [[ドクウツギ属]]([[ドクウツギ科]])の果実では花被が可食部になる。
| image3 = Hovenia dulcis in Ceret Park São Paulo 001.jpg
| caption3 = '''17c'''. [[ケンポナシ]]([[クロウメモドキ科]])では果実がついた枝が膨らんで可食部になる。
| image4 = White-tailed Antelope Squirrel DSC4931aavv.jpg
| caption4 = '''17d'''. [[堅果]]を運ぶ[[レイヨウジリス属]]
| image5 = Humulus japonicus (huja).jpg
| caption5 = '''17e'''. [[エライオソーム]]をつけた[[カナムグラ]]([[アサ科]])の果実([[痩果]])
}}
=== 貯食散布 ===
[[クリ]]や[[コナラ]]([[ブナ科]])、[[ハシバミ]]([[カバノキ科]])、[[オニグルミ]]([[クルミ科]])、[[エゴノキ]]([[エゴノキ科]])などの果実は、果皮が硬く木化しており、内部に大きな種子を含む<ref name="小林2007貯食" /><ref name="多田2010貯食" />。[[リス]]や[[ネズミ]]、[[シジュウカラ]]、[[カケス]]などの動物はこのような果実を収集・輸送・貯蔵し、内部の種子を食用とするが、貯蔵されながら食べ残された果実はそこで発芽することができる(貯食散布、食べ残し散布)<ref name="岡本1992" /><ref name="動物被食散布" /><ref name="小林2007貯食">{{Cite book|author=小林正明|year=2007|chapter=食べ残し散布|editor=|title=花からたねへ 種子散布を科学する|publisher=全国農村教育協会|isbn=978-4881371251|pages=159–167}}</ref><ref name="多田2010貯食">{{Cite book|author=多田多恵子|year=2010|chapter=動物散布 貯食|editor=|title=身近な草木の実とタネハンドブック|publisher=文一総合出版|isbn=978-4829910757|pages=150–161}}</ref>(上図17d)。
=== アリ散布 ===
一部の植物では[[種子]]や果実に[[エライオソーム]]とよばれる[[アリ]]が好む物質の塊がついており、[[アリ]]によって収穫、巣まで運ばれることで種子散布される<ref name="Lengyel2010">{{Cite journal|author=Lengyel, S., Gove, A. D., Latimer, A. M., Majer, J. D. & Dunn, R. R.|year=2010|title=Convergent evolution of seed dispersal by ants, and phylogeny and biogeography in flowering plants: a global survey|journal=Perspectives in Plant Ecology, Evolution and Systematics|volume=12|issue=1|pages=43-55|doi=10.1016/j.ppees.2009.08.001}}</ref><ref name="中西1988">{{Cite journal|author=中西弘樹|year=1988|title=日本の暖温帯に分布するアリ散布植物|journal=日本生態学会誌|volume=38|issue=2|pages=169-176|doi=10.18960/seitai.38.2_169}}</ref><ref name="小林2007アリ散布">{{Cite book|author=小林正明|year=2007|chapter=アリに運ばせる(アリ散布)|editor=|title=花からたねへ 種子散布を科学する|publisher=全国農村教育協会|isbn=978-4881371251|pages=167–171}}</ref><ref name="多田2010アリ散布">{{Cite book|author=多田多恵子|year=2010|chapter=アリ散布|editor=|title=身近な草木の実とタネハンドブック|publisher=文一総合出版|isbn=978-4829910757|pages=162–165}}</ref>。このような種子散布様式はアリ散布とよばれ、多くは種子にエライオソームをつけているが、[[ホトケノザ]]([[シソ科]])や[[カナムグラ]]([[アサ科]])、[[アオスゲ]]([[カヤツリグサ科]])のように果実にエライオソームをつけている例もある<ref name="動物被食散布" /><ref name="Lengyel2010" /><ref name="中西1988" /><ref name="小林2007アリ散布" /><ref name="多田2010アリ散布" />(上図17e)。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Illicium anisatum (fruits s11).jpg
| caption1 = '''18a'''. [[シキミ]]([[マツブサ科]])の果実(集合袋果)は種子を弾き飛ばす。
| image2 = Viola_biflora_07.jpg
| caption2 = '''18b'''. [[キバナノコマノツメ]]([[スミレ科]])の果実(蒴果)は種子を弾き飛ばす。
| image3 = Wisteria floribunda MHNT.BOT.2008.1.38.jpg
| caption3 = '''18c'''. [[フジ (植物)|フジ]](マメ科)の果実(豆果)は2片に割れて種子をはじき飛ばす。
| image4 = Geranium_sanguineum02.jpg
| caption4 = '''18d'''. [[フウロソウ属]]([[フウロソウ科]])の果実は巻き上がって種子を飛ばす。
| image5 = Impatiens_glandulifera.ogv
| caption5 = '''18e'''. 種子を自動散布する[[オニツリフネソウ]]([[ツリフネソウ科]])の果実
}}
=== 自動散布 ===
果実の中には、自動的に[[種子]]を射出する機構を備えているものがあり、このような種子散布は自動散布(自力散布<ref name="岩瀬2004散布">{{Cite book|author=岩瀬徹・大野啓一|year=2004|chapter=種子(果実)の散布|editor=|title=写真で見る植物用語|publisher=全国農村教育協会|isbn=978-4881371077|pages=127–133}}</ref>、自発分散<ref name="生物学辞典_種子分散">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=種子分散|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=635}}</ref>、自力射出散布<ref name="非動物散布" />)とよばれる<ref name="非動物散布" /><ref name="多田2010自動散布">{{Cite book|author=多田多恵子|year=2010|chapter=自動散布|editor=|title=身近な草木の実とタネハンドブック|publisher=文一総合出版|isbn=978-4829910757|pages=60–69}}</ref>。[[シキミ]]([[マツブサ科]])や[[スミレ]]([[スミレ科]])、[[カラスノエンドウ]]([[マメ科]])、[[ゲンノショウコ]]([[フウロソウ科]])などでは、果実の[[果皮]]が乾燥・収縮することで種子を弾き飛ばす<ref name="多田2010自動散布" /><ref name="小林2007自動散布">{{Cite book|author=小林正明|year=2007|chapter=はじき飛ばす|editor=|title=花からたねへ 種子散布を科学する|publisher=全国農村教育協会|isbn=978-4881371251|pages=217–238}}</ref><ref name="非動物散布" />(上図18a–d)。また[[ホウセンカ]]([[ツリフネソウ科]])や[[ムラサキケマン]]([[ケシ科]])では果皮の[[細胞]]の膨圧上昇によって果実がはじけ、種子を弾き飛ばす<ref name="多田2010自動散布" /><ref name="小林2007自動散布" /><ref name="非動物散布" />(上図18e)。
== 人間との関わり ==
人間は、さまざまな果実を食用に利用している。[[穀物]]{{efn2|name="穀物"|狭義にはイネ科のもの(禾穀類)に限るが、広義にはマメ科のもの(菽穀類)や[[ソバ]]([[タデ科]])、[[キノア]]([[ヒユ科]])を含む<ref name="コトバンク_穀物" />。}}である[[イネ]]、[[コムギ]]、[[トウモロコシ]]([[イネ科]])、[[豆類]]である[[ダイズ]]、[[アズキ]]、[[インゲンマメ]]([[マメ科]])などは、種子に含まれる胚乳や子葉が主な食用部とされるが<ref name="コトバンク_穀物">{{Cite Kotobank|word=穀物|encyclopedia=|accessdate=2023-05-12}}</ref>、種子を伴う果実の状態で収穫される。またこれら穀物や豆類は、人間の食用だけではなく飼料としても重要である<ref name="コトバンク_飼料">{{Cite Kotobank|word=飼料|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2023-05-12}}</ref>。主に[[果皮]]部が食用とされる果実のうち、[[ミカン]]、[[リンゴ]]、[[ブドウ]]など[[木本]]に実り一般的に甘いものは'''[[果物]]'''、[[キュウリ]]、[[エンドウ]]、[[トマト]]など[[草本]]に実り[[野菜]]として利用されるものは'''[[果菜]]'''とよばれる<ref name="和泉2014" /><ref name="梶浦2009">{{Cite book|author=梶浦一郎|translator=|year=2009|chapter=果物として利用する栽培植物|editor=石井龍一・岩槻邦男・竹中明夫・土橋豊・長谷部光泰・矢原徹一・和田正三|title=植物の百科事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4-254-17137-2|pages=347–349}}</ref><ref name="飛騨2009">{{Cite book|author=飛騨健一|translator=|year=2009|chapter=野菜として利用する栽培植物|editor=石井龍一・岩槻邦男・竹中明夫・土橋豊・長谷部光泰・矢原徹一・和田正三|title=植物の百科事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4-254-17137-2|pages=341–346}}</ref><ref name="コトバンク_果菜類">{{Cite Kotobank|word=果菜類|encyclopedia=|accessdate=2022-12-20}}</ref><ref name="コトバンク_果物">{{Cite Kotobank|word=果物|encyclopedia=|accessdate=2023-05-12}}</ref><ref name="コトバンク_果菜">{{Cite Kotobank|word=果菜|encyclopedia=デジタル大辞泉|accessdate=2022-12-20}}</ref><ref name="青葉2000">{{Cite book|author=青葉高|translator=|year=2000|chapter=果菜類|editor=|title=日本の野菜|publisher=八坂書房|isbn=978-4-89694-457-0|pages=23–117}}</ref>(下図19a, b)。また、果物のことを特に「果実」とよんでいることもある<ref name="コトバンク_果実">{{Cite Kotobank|word=果実|encyclopedia=デジタル大辞泉|accessdate=2023-05-05}}</ref><ref name="食品成分データベース">{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://fooddb.mext.go.jp/|title=食品成分データベース|website=|publisher=文部科学省|accessdate=2023-05-10}}</ref><ref name="総務省">{{Cite book|author=|translator=|year=|chapter=第2章 部門別概念・定義・範囲|editor=|title=|publisher=[[総務省]]|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000291351.pdf|page=168}}</ref>。生産分野では木本に実るものを果物(果実)としており、[[スイカ]]や[[イチゴ]]など[[草本]]に実るものは「果実的野菜」とよばれることがあるが<ref name="=野菜類の区分">{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.maff.go.jp/j/heya/sodan/1205/05a.html|title=野菜類の区分はどのようになっているのか教えてください。|website=|publisher=農林水産省|accessdate=2022-12-22}}</ref><ref name="飛騨2009" /><ref name="梶浦2009" />、消費分野ではこのような果実も果物として扱われる<ref name="和泉2014" />。[[ブドウ]]などの果実は、直接食用とされるだけではなく、[[アルコール飲料]]の原料としても利用される<ref name="コトバンク_果実酒">{{Cite Kotobank|word=果実酒|encyclopedia=|accessdate=2023-05-12}}</ref>(下図19c)。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Municipal Market of São Paulo city.jpg
| caption1 = '''19a'''. さまざまな果物([[ブラジル]])
| image2 = Vegetables 0006.JPG
| caption2 = '''19b'''. さまざまな果菜
| image3 = Red and white wine 12-2015.jpg
| caption3 = '''19c'''. 赤ワインと白ワイン
| image4 = Olea europaea g2.jpg
| caption4 = '''19d'''. 収穫されたオリーブ(イタリア)
}}
[[オリーブ]]([[クスノキ科]])や[[アブラヤシ]]([[ヤシ科]])の果皮から得られた油は、[[食用油]]や[[せっけん]]などに利用される<ref name="コトバンク_オリーブ油">{{Cite Kotobank|word=オリーブ油|encyclopedia=|accessdate=2023-05-12}}</ref><ref name="コトバンク_パーム油">{{Cite Kotobank|word=パーム油|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2023-05-12}}</ref>(上図19d)。[[ハゼノキ]]([[ウルシ科]])の果実の果皮から得られた油脂(木蝋、ハゼ蝋)は、[[和ろうそく]]などに用いられる<ref name="コトバンク_木蝋">{{Cite Kotobank|word=木蝋|encyclopedia=|accessdate=2023-05-12}}</ref>。
[[クチナシ]]([[アカネ科]]; 下図20a)、[[ミカン]]([[ミカン科]]; 下図20b)、[[ナツメ]]([[クロウメモドキ科]])などの果実は、生薬とされることがある<ref name="日本漢方生薬製剤協会">{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.nikkankyo.org/seihin/seihin3.htm|title=生薬一覧|website=|publisher=日本漢方生薬製剤協会|accessdate=2023-05-12}}</ref>。[[ケシ]]([[ケシ科]])の未熟果実から得られた乳液(乾燥させた乳液はアヘン)には[[モルヒネ]]などの[[アルカロイド]]が含まれ、薬用として利用されており、また[[麻薬]]ともされる<ref name="コトバンク_ケシ">{{Cite Kotobank|word=ケシ|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2023-05-12}}</ref>(下図20c)。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = W kutinasi4121.jpg
| caption1 = '''20a'''. クチナシ([[アカネ科]])の果実は生薬や染料に利用される。
| image2 = PRC Xinhui Mandarin orange peels a.jpg
| caption2 = '''20b'''. [[陳皮]]([[ミカン]]の果皮を乾燥させたもの)は生薬とされる。
| image3 = Opium pod cut to demonstrate fluid extraction1.jpg
| caption3 = '''20c'''. [[ケシ]]([[ケシ科]])の若い果実と乳液
| image4 = GasparWorkshop046.jpg
| caption4 = '''20d'''. [[ヒョウタン]]([[ウリ科]])の果実を加工したもの
| image5 = Nandina domestica kz03.jpg
| caption5 = '''20e'''. [[ナンテン]]([[メギ科]])の果実
}}
[[カボチャ]]や[[ヒョウタン]]([[ウリ科]])、[[ココヤシ]]([[ヤシ科]])などの果実は飾りや容器に加工され<ref name="コトバンク_カボチャ">{{Cite Kotobank|word=カボチャ|encyclopedia=本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2023-05-12}}</ref><ref name="コトバンク_ヒョウタン">{{Cite Kotobank|word=ヒョウタン|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2023-05-12}}</ref><ref name="コトバンク_ココヤシ">{{Cite Kotobank|word=ココヤシ|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2023-05-12}}</ref>(上図20d)、また[[ヘチマ]](ウリ科)やココヤシの果実から得られる繊維もさまざまに利用される<ref name="コトバンク_ヘチマ">{{Cite Kotobank|word=ヘチマ|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2023-05-12}}</ref><ref name="コトバンク_ココヤシ" />。[[クチナシ]]などの果実は、染料として利用されることもある<ref name="コトバンク_クチナシ">{{Cite Kotobank|word=クチナシ|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2023-05-12}}</ref>。園芸や生け花において、果実を鑑賞対象とすることがあり、このような植物は実物(みもの)ともよばれ、日本で利用される例として[[センリョウ]]([[センリョウ科]])や[[ナンテン]]([[メギ科]])、[[サンキライ]]([[サルトリイバラ科]])などがある<ref name="コトバンク_実物">{{Cite Kotobank|word=実物|encyclopedia=デジタル大辞泉|accessdate=2023-05-07}}</ref>(上図20e)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* {{ill2|種なし果実|en|Seedless fruit}}
* [[果実食主義]]
* {{ill2|果実食動物|en|Frugivore}} - 果実を主食とする動物。
* {{ill2|料理用果物の一覧|en|List of culinary fruits}}
* {{ill2|果物アレルギー|en|Fruit allergy}}、{{ill2|ナッツアレルギー|en|Tree nut allergy}}
* {{ill2|マスト (植物学)|en|Mast (botany)}} - 野生動物や家畜のえさとなる果実の総称。植物繁殖同調現象(mast seeding)などが見られる。
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Fruit|Fruit}}
* {{Kotobank}}
* {{Cite web|和書|author=福原達人|date=|url=http://staff.fukuoka-edu.ac.jp/fukuhara/keitai/index.html|title=植物形態学|website=|publisher=福岡教育大学|accessdate=2023-04-23}}
*: [http://staff.fukuoka-edu.ac.jp/fukuhara/keitai/7-2.html 7-2. 雌しべと心皮], [http://staff.fukuoka-edu.ac.jp/fukuhara/keitai/7-3.html 7-3. 子房の位置と果実], [http://staff.fukuoka-edu.ac.jp/fukuhara/keitai/8-1.html 8-1. 種子散布と散布体]
* {{Cite web|author=Armstrong, W.P.|date=|url=http://www.waynesword.net/index.htm|title=Wayne's Word|website=|publisher=|accessdate=2023-04-23}}(英語)
*: [https://www.waynesword.net/fruitid1.htm Identification Of Major Fruit Types], [https://www.waynesword.net/termfr1.htm Fruit Terminology Part 1], [https://www.waynesword.net/termfr2.htm Part 2], [http://www.waynesword.net/termfr3.htm Part 3], [https://www.waynesword.net/termfr4.htm Part 4]
{{果実}}
{{植物学}}
{{Normdaten}}
{{Good article}}
{{DEFAULTSORT:かしつ}}
[[Category:果実|*]]
[[Category:果物]]
[[Category:植物形態学]]
[[Category:受粉]] | 2003-03-09T09:16:33Z | 2023-12-15T13:33:49Z | false | false | false | [
"Template:Multiple image",
"Template:Seealso",
"Template:Cite web",
"Template:果実",
"Template:Normdaten",
"Template:Main",
"Template:Notelist2",
"Template:Reflist",
"Template:Cite journal",
"Template:Commons&cat",
"Template:Anchors",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite Kotobank",
"Template:Ill2",
"Template:Kotobank",
"Template:植物学",
"Template:Otheruses",
"Template:Efn2",
"Template:Cite book",
"Template:Good article"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%9C%E5%AE%9F |
3,720 | 遠藤周作 | 遠藤 周作(えんどう しゅうさく、1923年〈大正12年〉3月27日 - 1996年〈平成8年〉9月29日)は、日本の小説家。日本ペンクラブ会長。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
12歳の時カトリック教会で受洗。評論から小説に転じ、「第三の新人」に数えられた。その後『海と毒薬』でキリスト教作家としての地位を確立。日本の精神風土とキリスト教の相克をテーマに、神の観念や罪の意識、人種問題を扱って高い評価を受けた。ユーモア小説や「狐狸庵」シリーズなどの軽妙なエッセイでも人気があった。
父親の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごした。帰国後の12歳の時に伯母の影響でカトリック夙川教会で洗礼を受けた。1941年上智大学予科入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表した(1942年同学中退)。
その後、慶應義塾大学文学部仏文科に入学。慶大卒業後は、1950年にフランスのリヨンへ留学。帰国後は批評家として活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞し、小説家として脚光を浴びた。第三の新人の一人。キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『海と毒薬』『沈黙』『侍』『深い河』などがある。1960年代初頭に大病を患い、その療養のため町田市玉川学園に転居してからは「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富むエッセイも多く手掛けた。
無類の悪戯好きとしても知られ、全員素人による劇団「樹座」や素人囲碁集団「宇宙棋院」など作家活動以外のユニークな活動を行う一方で、数々の大病の体験を基にした「心あたたかな病院を願う」キャンペーンや日本キリスト教芸術センターを立ち上げるなどの社会的な活動も数多く行った。
『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。グレアム・グリーンの熱烈な支持が知られ、ノーベル文学賞候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、受賞を逃したと言われる。
1923年3月27日、東京府北豊島郡西巣鴨町(現在の東京都豊島区北大塚)に、第三銀行に勤めていた銀行員遠藤常久と東京音楽学校ヴァイオリン科の学生郁(旧姓・竹井)の次男として生まれた。父・常久は東京帝国大学独法科在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。
かつて鳥取県東伯郡浅津村下浅津(現・湯梨浜町下浅津)にあった遠藤家は、江戸時代に鳥取の池田家に御典医として仕え、維新後同地に移り住んだ開業医だった。明治後期から終戦後まで当地で医業に当たったのは遠藤河津三で、花見村長和田(現・湯梨浜町長和田)には出張診療所も設け繁盛した。しかし、河津三には子どもがなかったため、鳥取市生まれの常久を養子に迎えた。 父・常久は後に安田工業の社長などを歴任する実業家となる。軽井沢の泉の里に持っていた別荘から白水甲二という筆名を編み出し、『きりしたん大名 大友宗麟』という作品を遺している。
母・郁は現在の岡山県笠岡市出身で、岡山県の土豪竹井党を遠祖に持つ。後に周作は、この遠祖の地(現在の岡山県井原市美星町中世夢が原歴史公園)に「血の故郷」と題した石碑を建立している。
1926年、常久の転勤(第三銀行から安田銀行)で、一家は満洲関東州大連に移る。1929年に遠藤は大連市大広場小学校に入学。この頃、郁が指先を血まみれにしながらヴァイオリンを練習する姿や満人のお手伝いさんに優しくする姿を見て敬意を抱く一方、常久からは勉強がよく出来る正介と比較して説教されることが多く、強烈な劣等生意識を抱いた。小学校4年のときに、作文「どじょう」が大連新聞に載る。1932年前後に常久に愛人が出来てから両親の仲が微妙になりはじめ、遠藤は暗い少年時代を送った。翌1933年、遠藤が10歳のときに両親は離婚した。ただし、正式な協議離婚届を提出したのは1937年で、その直後に常久は郁を常久の父・遠藤河津三の養女として迎え入れている。その数ヵ月後に常久は16歳下の女性と再婚した。
遠藤は郁に連れられて帰国し、伯母(郁の姉)の家で同居生活を始めた。同年8月に兵庫県神戸市の六甲小学校に転入。この頃から伯母の影響で西宮市にあるカトリック夙川教会聖テレジア大聖堂に一家で通い始めるようになった。カトリックの公教要理を学び始めるようになると、一家は教会に近い池の畔に転居した。
1935年、遠藤は私立灘中学校に入学。宝塚市にある小林聖心女子学院で音楽教師として勤め始めた郁がそこの聖堂で5月29日に洗礼を受け、6月23日には兄弟そろってカトリック夙川教会聖テレジア大聖堂で洗礼を受けた。郁の洗礼名はマリア、周作の洗礼名はパウロ。
正介の勉強指導の成果もあり、灘中入学当初は優秀生徒のクラスに入ったが、映画狂・読書狂・ジョーク好きなど様々な要因により、徐々に成績が低下、卒業前には成績最下位のクラスに在籍していた。江戸時代の滑稽本を好み、特に十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に熱中し、弥次喜多に憧れ、自分も彼のような人物になりたいと考えていた。
1939年に一家は宝塚市仁川月見ヶ丘に転居した。この時すでに、正介は四修で第一高等学校に合格し、寮生活を始めている。この頃、郁は宗教的・精神的支柱になったドイツ人宣教師ペトロ・ヘルツォークと出会い、新居に併設した音楽レッスン場を聖書講話やミサの場として開放するようになる。
遠藤は1939年に正介の影響もあり、四修で三高を受験するが敢えなく失敗している。1940年、再び三高を受験するが失敗、広島高も失敗。この為、阿川弘之等の広高出身者に対しては尊敬の念を抱いていたらしい。遠藤は同年に183名中141番の成績で灘中学校を卒業し、浪人生活に入った。なお、同年、正介が一高を卒業し東京帝国大学法学部に入学。正介は郁の帰国から数年遅れて帰国した常久の、世田谷経堂の家に身を寄せている。
1941年に再び広島高などを受験して失敗。同年4月に上智大学予科甲類(独語)に入学するが、翌1942年2月9日に退学している。同年、浪速高と姫路高と甲南高を受け、全て失敗している。この頃に肺を病み、喀血している。
遠藤は郁にこれ以上の経済的負担をかけることを恐れ、1942年に東京帝大を卒業し逓信省へ入省した正介の仲介で、常久の家に移った。常久が出した同居の条件は「旧制高校か医学部予科のどちらか」に入学することだった。しかし、遠藤は東京外国語学校、日本医科大学予科、東京慈恵会医科大学予科、日本大学医学部予科に不合格となり、慶應義塾大学医学部予科には自信がなかったため、常久に告げず同大の文学部予科を受験、補欠合格。翌1943年4月に慶應義塾大学文学部予科に入学する。医学部予科を受験したものと思っていた常久は真相を知らされ激怒、遠藤を勘当した。
生活基盤を失った遠藤は、友人の利光松男宅に居候し、家庭教師などのアルバイトで生活費を稼ぐことになった。まもなく、吉満義彦が舎監を務めるカトリックの学生寮白鳩寮に入寮した。学生寮での生活は、遠藤にとって初めての開けた世界だった。吉満の影響でジャック・マリタン(英語版)、寮内で出来た友人松井慶訓の影響でリルケなどを読み耽った。また、吉満の紹介で、亀井勝一郎、堀辰雄などと知り合うことになった。堀辰雄との出会いは、ひとつの転機となり、自他ともに認める劣等生だった遠藤は猛烈な勢いで読書を始め、一夜にして勉強家と化した。
第二次世界大戦の日本の戦局の悪化に伴い、徐々に予科での授業は少なくなり、その期間、川崎の勤労動員の工場などで働くことを余儀なくされた。寮内での影響を多大に受けたフランス志向にさらに拍車を掛けたのが、下北沢で偶然購入した佐藤朔の『フランス文学素描』で、1945年4月に、慶應義塾大学文学部仏文科(佐藤朔が講師を務めていた)に進学した。この頃、戦局の悪化は日本国内にも大きな被害を与えるようになっていた。後の大作家・遠藤周作を生み出す土台となった白鳩寮は東京大空襲で焼失した。なお、遠藤は徴兵検査では第一乙種だったが、肋膜炎などで入隊期間が大幅にずれ、入隊直前に終戦を迎えた。
終戦後は大学に戻り、ジョルジュ・ベルナノス、フランソワ・モーリアックなどのフランスのカトリック文学に傾倒した。大学の一年先輩の安岡章太郎との知遇も得た。1946年になり、遠藤が慶應義塾大学文学部仏文科に入学したのを知った常久は、態度を軟化させ勘当を撤回した。学生寮から焼け出されて再び生活基盤を失っていた遠藤は、この誘いを受けて常久の家に戻った。
1947年12月、初めて書いた評論「神々と神と」が神西清に認められて、角川書店の『四季』第5号に掲載され、批評家としてデビューした。その後、佐藤朔の推挙で評論「カトリック作家の問題」を『三田文学』上で発表したのをきっかけに、佐藤朔の推挙で『三田文学』、神西清の推挙で『高原』などで評論を多数発表している。1948年末もしくは1949年初頭には正式に『三田文学』同人となり、柴田錬三郎、原民喜、丸岡明、山本健吉、堀田善衛との知遇を得ている。
1948年に慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。卒業論文は「ネオ・トミズムにおける詩論」。松竹大船撮影所の助監督試験を受けたが、敢えなく不採用に終わっている。その後、佐藤朔の紹介で鎌倉文庫の嘱託として働き始め、また、ペトロ・ヘルツォーク神父が主催する雑誌『カトリック・ダイジェスト』の編集作業に、正介・郁(小林聖心女子学院を依願退職して上京した)とともに携わっている。同年、評論活動とこれらの仕事の合間に、小林聖心女子学院のシスターから依頼を受けて、初の戯曲「サウロ」を書き上げている。
1950年6月4日、遠藤はフランスのカトリック文学をさらに学ぶため、戦後初のフランスへの留学生として渡欧した。フランス船マルセイエーズ号(英語版)で横浜港を出航し、7月5日にマルセイユに着く。新学期までルーアンの建築家ロビンヌ家に滞在し、9月にリヨン大学に入学した。
留学時代には勉強の合間に通常の評論活動に加え、フランスでの見聞などをエッセイや小説風のルポルタージュにまとめた。それらは大久保房男の厚意で『群像』、そして『カトリック・ダイジェスト』誌などで発表された。
1951年夏にはフランソワ・モーリアックの『テレーズ・デスケルゥ(フランス語版)』の舞台になったフランス南西部ランド地方を徒歩旅行するなどし、フランスでの生活を満喫したが、翌1952年初夏に肺結核を起こし、吐血。6月から8月までコンブルー(英語版))の国際学生療養所に入所する。退所後にパリに移ったものの12月に再び肺結核が悪化し、ジュルダン病院に入院した。病状の悪化でフランスでの生活に見きりをつけ、リヨン大学の博士論文の作成を断念する。翌1953年1月に、日本船赤城丸で帰国の途に着いた。翌月に日本着。
帰国後、遠藤は企業家岡田幸三郎の長女、慶應義塾大学文学部仏文科に在籍していた岡田順子と交際を始めた。体調は相変わらず優れなかったが、7月に留学時代のエッセイをまとめた『フランスの大学生』を早川書房から処女出版し、批評家の道をゆっくりながら踏み出した。12月に敬愛する母が脳溢血で急死する悲劇に見舞われた。
遠藤は書簡や日記によれば、留学から帰国直前、フランスの7歳下の女子学生と交際していた。その女性は遠藤が結婚したと聞き、1966年フランス語講師として北海道大学に赴任した。遠藤は彼女に『沈黙』のフランス語訳をすすめた。彼女は1970年に帰国し、1971年乳がんのために死去した。41歳。
1954年4月から文化学院の講師を務めた。安岡章太郎の紹介で、谷田昌平とともに構想の会に参加し、小島信夫、近藤啓太郎、庄野潤三、進藤純孝、三浦朱門、吉行淳之介らとの知遇を得た。
遠藤はこの年から、本格的に作家として活動を始める。奥野健男の依頼で現代評論に創刊号から参加するなど駆け出しとしては上々と思われた。
1954年末に執筆した、初の小説「アデンまで」は仲間内で高い評価を受けた。続いて執筆した小説「白い人」は、翌1955年7月に、一足飛びに第33回芥川賞を受賞した。同年9月、岡田順子と2年半の交際を実らせ、結婚した。交際当初、岡田の父岡田幸三郎は「文士風情」「肺に病気を抱えている」などの理由でこれを認めなかったが、遠藤周作の文章を早い時期から評価し、なおかつ、岡田家とも繋がりがあったフランス文学者小林正が説得に当たったという。結婚後は、一時期父の家に順子夫人が家入りする形で同居したが、まもなく世田谷松原に転居した。1956年6月、長男の龍之介が誕生しささやかにも家庭を築き始めると、遠藤の父に対する敵意は本格的な物になっていった。芥川賞を受賞し、作家としては順風満帆な駆け出しかと思えたが、当時の生活は決して楽なものではなかったという。1956年から上智大学文学部の講師を務めた。
1957年、九州大学生体解剖事件(相川事件)を主題にした小説「海と毒薬」(文学界、6・8・10月)を発表し、小説家としての地位を確立した。『海と毒薬』は、翌1958年4月に文藝春秋新社から出版され、12月に第5回新潮社文学賞、第12回毎日出版文化賞を受賞した。
9月末にアジア・アフリカ作家会議に出席するため、伊藤整、加藤周一、野間宏らとともに渡ソ。10月にソ連のタシケントでの会議に参加した後、モスクワを廻り、12月に帰国した。同1958年、第六次三田文学に編集委員として参加。他の委員は堀田善衛、梅田晴夫、安岡章太郎、白井浩司、柴田錬三郎、庄司総一。
1959年11月には、マルキ・ド・サドの勉強/さらに理解を深めるために、順子夫人を同伴して、フランスに旅行した。遠藤はこの時に、マルキ・ド・サドの研究家、ジルベール・レリー(フランス語版))、ピエール・クロソウスキーとの知遇を得た。その後、イギリス、スペイン、イタリア、ギリシャからエルサレムを廻り、翌1960年1月に帰国した。
帰国後に体調を崩し、4月に肺結核が再発した。東京大学伝染病研究所病院に入院し、治療を試みたがなかなか回復せず、年末に慶應義塾大学病院に転院した。翌1961年に、3度にわたり肺の手術を行った(1月7日、1月21日前後、12月末)。危険度が高い3度目の手術の前日、とある見舞い客が持ってきた紙で出来た踏絵を見たという。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復した。翌1962年5月にようやく退院することになった。
1966年には代表作『沈黙』を発表している。同作で第二回谷崎潤一郎賞を受賞する。同年に第七次三田文学で編集長となる。
1968年、長野県軽井沢町に別荘を建てる。別荘は近所の北杜夫や矢代静一ら作家仲間たちとの交流の場となる。なお軽井沢に初めて訪れたのは、大学在学中に病気療養中の堀辰雄を訪ねたときである。
1973年『死海のほとり』発表。
1973年、評伝『イエスの生涯』発表。
1978年、評伝『キリストの誕生』を発表する。第三十回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞する。
1979年、『マリー・アントワネットの生涯』発表。
1980年、『侍』で第三十三回野間文芸賞を受賞する。
1980年代から「武功夜話」をベースにした小説『反逆』を読売新聞に連載(1988年1月26日 - 1989年2月7日)、同じく小説『決戦の時』を山陽新聞などに連載(1989年7月30日 - 1990年5月31日)、同じく小説『男の一生』を日本経済新聞に連載した(1990年9月1日 - 1991年9月13日)。この3作品は遠藤周作の戦国三部作と呼ばれる。
1993年『深い河』発表。この小説は冒頭から「シンクロニシティ」を扱っている。なお「シンクロニシティ」については、1992年8月「朝日新聞」に連載していた随筆「万華鏡」の「人生の偶然」において、F・D・ピート(英語版)の『シンクロニシティ』を絶賛し、それにより同書がベストセラーに躍り出るという事が起きている(「シンクロニシティ」を良い意味で取り上げることはカトリック作家としては異例の事態であったが、遠藤によるオカルトへの好意的言及はエッセイやホラー小説の分野では古くから行われている)。
1993年5月に腹膜透析の手術を行った。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。最初はなかなか苦痛に耐えられず、愚痴や泣き言を繰り返していたが、自分とヨブの境遇を重ね合わせ、「ヨブ記の評論を書く」と決心してからはそれがなくなった。
1995年『深い河』を原作として、インドの母なる大河ガンジス(ガンガー)を舞台に、愛と悪と魂の救済がテーマとする映画が公開される。撮影にあたりインド政府の協力により、日本映画初のインドでの長期ロケーションが実現している。
1996年4月、腎臓病治療のため慶應義塾大学病院に入院、同年9月に脳出血。同月28日には昼食を喉に詰まらせ、肺に誤嚥し呼吸停止に陥った。それはすぐに取り除かれたが、そこから病原菌が広がり、肺炎を併発した。それは肺を片方しか持たない人間には致命的な事態だった。翌9月29日午後6時36分、肺炎による呼吸不全で同病院で死去した。73歳だった。
絶筆は三田文学1996年夏季号に掲載された佐藤朔の追悼文(口述)だった。ヨブ記の評論を書く希望は遂に叶えられなかった。
スポーツ新聞は、遠藤の死を「狐狸庵先生逝く」という見出しで報じた。葬儀は麹町の聖イグナチオ教会で行われた。教会は人で溢れ、行列は麹町通りにまで達した。生前の本人の遺志で『沈黙』と『深い河』の2冊が棺の中に入れられた。カトリック府中墓地に埋葬された。2015年12月に聖イグナチオ教会の地下納骨堂に移された。
その後遺族や親交のあった関係者により文学館の建設構想が進められ、2000年5月に『沈黙』の舞台となった長崎県西彼杵郡外海町(現・長崎市)に「外海町立遠藤周作文学館」が開館した。
キリスト教は遠藤文学の最大のテーマであり、神学者ではなく、神学教育は受けていないにも関わらず、また、必ずしも正統とは言い難い思想もあるにも関わらず、日本のキリスト教分野を代表する人物とされている。小説以外の形式でも、「私のイエス」「私にとって神とは」などを発表しており、キリスト教関係者の間でもしばしば賛否両論含めた論評の対象になる。
遠藤は家がカトリックであり、旧制中学時代にカトリックの洗礼を受けている。さらに1950年からフランス留学をしている。この留学の時に感じ、そして遠藤の人生最大のテーマとなった葛藤が「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」であった。遠藤は後年、自分の信仰に関する思索を、「だぶだぶの洋服を和服に仕立て直す作業」と表現している。このテーマは最期まで貫かれており、晩年の「深い河」へもつながっていく。
キリスト教の持つ最大の救いの能力は、聖書に描かれるゴルゴダを登るキリストであるとしている。罪人として拷問の末汚れにまみれ、自分を磔る十字架を背負い、しかも衆人から激しい罵声を浴びつけられる姿が歴史上もっともみじめな、しかし美しい人間であるとしている。誰にも認められず、汚く惨めな自分をどこまでも無限に傍らにいて見守る人、それがキリストであるとしている。この特徴的なキリスト教解釈は高い評価と共に、異端であるとも見做されることもある。
遠藤は戦国時代から江戸時代にかけてのいわゆるキリシタン時代に強い関心を持ち、小説・評伝などの数多くの作品を残している。ジョセフ・キャラや小西行長など、実在の人物を下敷きにした作品も多い。
「沈黙」「侍」などは日本にやってきた宣教師をモチーフに描かれている。宣教師たちが長年の努力でいくらかの信者を集めたにもかかわらず、彼らは社会が変わればあるいは空気が変わるだけで全く簡単に棄教してしまう。このことが何故なのか、キリスト教社会にとっては決定的に理解しがたい日本人像であった。...キリスト教の原理を理解し守っていた日本人信者は実は現世や来世で単に幸せになりたいだけであり、キリスト教にとっての神の教えの真の尊さは関係がなかったのである。教義を理解していても真の信仰は無かったのである。
日本人は結局、個人もしくは(これが重要だが)集団として現世・来世に不利益と思えば思想そのものを大きく変更しても構わない、この原理は日本人に取りあらゆる哲学や宗教原理よりも強いことが生々しく描かれる。そして信者(実は信仰していないにもかかわらず)や宣教師は日本社会そのものに棄教(『沈黙』)に追い詰められたり、死(『侍』)に追いやられたり、堕落(『黄色い人』)に追いやられてしまう。
遠藤は、キリシタン時代に関心を持つ理由として自らが戦争時代に敵性宗教を信じる者として差別を受けた経験があったからとしている。
現世利益的な日本人像は『海と毒薬』で人体実験をする医師・看護師らとして描かれている。これらに関わっている人間は、良心の呵責を感じながらも、誰でもあるような人生の移り変わりのたまたまのタイミングで人体実験への参加を呼びかけられ、強い反発もせずに漫然と関わってしまう。このことも結局キリスト教の様な倫理的性質をもつ行動原理が日本人には存在せず、集団心理で平凡な人格の持ち主たちがなんとなくに非道に転んでしまうことを主張している。
日本人とキリスト教の矛盾に苦しんでいた遠藤は、晩年の作品『深い河』において「日本人のもつべきキリスト教像」「汎世界的なキリスト教像」を提示している。
遠藤は元来から、キリスト教のみを至上の宗教とする、排他的な思想の持ち主ではなかった。西洋のキリスト教が唱えてきた、キリスト教を唯一の正しい宗教であるとする考えとの乖離は、キリスト教信徒である遠藤にとって大きな矛盾となっていたのである。
そんな遠藤にとって衝撃を与えたのは、イギリスの宗教哲学者ジョン・ヒックの宗教多元論であった。あらゆる諸宗教を等しく価値あるものとみなすこの思想は、遠藤が苦しんでいた矛盾を解決する光となった。
遠藤が興味を惹かれていたインドを舞台にして、新たなキリスト教像を提示したこの作品は、大きな反響を巻き起こした。熊井啓監督によって映画化され、また、歌手の宇多田ヒカルは、この作品に影響を受け、「Deep River」という楽曲を発表している。
幼少時に抱いたエディプス・コンプレックスは後年まで後を引き、様々な作品に影響を与えた。
母は東京音楽学校ヴァイオリン科にいたこともあり、芸術に対しても自分に対しても厳しい人だった。父とは異なるタイプの厳格さを持ち、子供たち(周作・正介)を叱ることこそしなかったが、ただひとつ「それはホーリィ(英語版)ではない」という言葉を子供たちにかけた。それは子供心に非常にこたえる言葉だったが、不思議と素直にそれを受け入れる事ができた。子供たちは母を慕った。
父が母を棄てた事をどうしても許せず、死に目に会えなかった母に対する贖罪の意識と、順子夫人と結婚し一児をもうけ家庭を築き、その大事さを実感した事があいまって、別居後は父を激しく敵視・憎悪した。
父との和解をすすめた順子夫人を「両親の揃った家にぬくぬくと育ったお前に、俺の苦しみなんて分かってたまるか」と斬り捨て、兄が急死した時には「俺は孤児になった、孤児になった」と嘆き、悲しんだ。
1977年、兄が急死した後「母と同じ墓に入りたい」という兄の生前の希望を叶えるため、母の墓を掘り起こし、火葬場で遺体を焼いて、お骨にし骨壺に入れた。兄の墓が出来るまでの猶予期間、遠藤周作はその骨壺を預かる事になり、その骨壺を音楽会に持ち込み、「母」と音楽会を楽しんだ。子供の頃に母に連れられていったヤッシャ・ハイフェッツの来日公演の記憶は鮮明に残っていた。実際には喧嘩をする事も多かったが、長い年月をかけて、母の記憶は美化・純化されていた。
父の晩年には、「親父も孤独な奴だということがわかったよ。自分の女房と、息子たちの子供時代の話ができないのは辛いだろうな」と、その意識を軟化させ、入院中の父を見舞うようになった。しかし、義母(父の再婚相手)に対しては、「親父をおじいちゃんと呼んでもいいけれど、二度目の母のことをおばあちゃんと呼ぶな」と、順子夫人と息子・龍之介に強制し、義母を「おやじのかみさん」と呼び続けた。
1980年代半ばから始めた「心あたたかな医療」運動は、自らの大病歴から生まれたものでもあったが、それを提唱する直接のきっかけとなったのは「お手伝いさんの死」だった。20代半ばのお手伝いさんが骨髄ガンで亡くなった。医者から1ヶ月の命と宣告され、お手伝いさんが入院した時、遠藤自身も、蓄膿の手術の後で、上顎ガンの疑いがあるということで、検査のため同じ病院に入院していた。不確定な死の陰に怯える男が、確実に死ぬと分かっている彼女のために出来ることは、彼女に嘘をついて励ますこととせめて、安楽に死なせてやってほしいと交渉することだけだった。自らも、彼女の苦しみを少しでも和らげるためならと禁煙を決意、実行した。
彼女の死後/自らの上顎ガンの疑いが晴れた後、延命治療の方法論や医者の無神経から発する行為に疑問を抱き、それらは是正すべきものであるという「心あたたかな医療」運動を展開した。現在、その活動は確かに引き継がれ、根を張り始めている。
1963年に駒場から町田市玉川学園に転居したころから、雅号を「雲谷斎狐狸庵山人」とする。「狐狸庵」とは「狐狸庵閑話」が関西弁で「こりゃあかんわ(=これはダメだな)」の意味のシャレである(狐狸庵とは、一般には、遠藤周作が40代を過ごすことになった自称柿生の山里(正確には玉川学園)の庵(住まい)をさすものと認識されているが、随筆の中で、柿生に移る前の東京都渋谷区の住いをはじめて狐狸庵と称したとしており、柿生の狐狸庵は新しい狐狸庵であるとしている)。1978年10月に『アップダウンクイズ』(毎日放送)に出演した際には、「狐狸庵」の由来として「町田に引っ越したところ、周りが山と林ばかりだった」ことと「ある随筆を頼まれて全く書けなかったことがあり『こりゃあかんわ』と思った」ことの2つがあると語っている。
滋賀県の懇意にしていた料亭を狐狸庵を琵琶湖にかけてもじって「湖里庵」と命名している。
純文学作家・遠藤は、カトリックと日本人との関わりを歴史的経緯の中で追求していくよう学生時代の恩師や先輩から勧められたことを小説家としての出発点とし、かつライフワークとして取り組んだ。一方、謹厳な宗教分野のテーマを追求する純文学作家としての姿を自ら離れ、いわゆるぐーたら物を中心とした身辺雑記等を書き連ねる随筆作家としての自身が創造した別のキャラクター(花鳥風月を愛し、ぐうたらでなまけものの権化、しかし言いたいことは言う)が狐狸庵山人ということになった。
ただしいずれの分野の作品もすべて公式には遠藤周作著で統一されているので、作品中で自称しているだけのユーモアである。
親友の北杜夫らとともにユーモア文学ないしユーモア作品と呼ばれる数々の随筆群を発表し、この分野の旗手と目されブームを築いたこと、またTVのCMに「狐狸庵先生遠藤周作」としてたびたび登場した経緯から、世間一般に周知されることとなった。
したがって遠藤の純文学作品が取り上げられるときに限っては「狐狸庵山人」や「狐狸庵先生」という呼称は用いられることはない。文学以外の分野では、素人劇団「樹座(きざ)」や音痴しか入団できない合唱団「コール・パパス」、素人囲碁集団「宇宙棋院」を組織したりと活動は多岐に亙った。
さくらももこは遠藤周作と対談した際、どんな真面目な内容か緊張していたが、年齢を10歳偽るなど最初から最後まで掴みどころのないジョークで翻弄されてしまい、最後に渡された「ぼくの電話番号」に翌日電話するように言われて約束通り電話したところ、それは東京ガスの営業所の番号であったというエピソードをエッセイで語っている。
なお、遠藤は中間小説の分野ではユーモア、ナンセンスもの以外にホラー、サスペンスも得意とした。専門のエンタテインメント作家のものに比べると(スキルの面での難点も見られるが)いずれも異色であり、うち2作が映画化されるなど人気も高い。これは純文学作家遠藤周作とも狐狸庵先生とも異なる第3の顔と見なすこともできる。
遠藤は、ヨーロッパで触れたキリスト教が父性原理を強調するあまり日本人の霊性に合わないと不満を持ち、キリスト教を日本の精神的風土に根付かせようと試みた。遠藤自身はそれを「日本人としてキリスト教信徒であることが,ダブダブの西洋の洋服を着せられたように着苦しく,それを体に合うように調達することが自分の生涯の課題であった」と語っている。
晩年にはジョン・ヒックの提唱する宗教多元主義と出会って影響を受け、『深い河』の登場人物である大津を通して「神(イエス)は愛、命のぬくもり、もしくはトマトでもタマネギと呼んでもいい」といっている。
このため、遠藤に対するカトリック教会での評価は賛否が大きく分かれることとなった。
遠藤と共にフランスで学んだ井上洋治神父は、「遠藤周作氏の著作『死海のほとり』と『イエスの生涯』は、そのイエス像に賛成すると否とにかかわらず、初めて深く日本の精神的風土にキリスト教がっちりとかみ合った作品だと言えるでしょう」と高く評価している。また、カトリック新聞にも遠藤が「キリスト教を広めた」という評価する記事が掲載された。
サレジオ会のアロイジオ・デルコル神父は、1978年12月24日のクリスマスのテレビ番組で「キリストは奇跡をしたといわれるが、じっさいは無力で何の奇跡もしなかったのである」という自説を『イエスの生涯』、『キリストの誕生』、『沈黙』等で書いたと遠藤が語ったことに対し、「遠藤氏の文学は、キリスト教や聖書をテーマにしたにしても、布教にとって大きなマイナスであり、とくに非キリスト者にとっては、”ゆがめられたキリスト教”紹介したにすぎない」と評している。
遠藤が踏絵のキリストの顔が「早くふむがいい。それでいいのだ。私が存在するのは、お前たちの弱さのために、あるのだ」と言っている気がしたとカトリック新聞1972年1月23日付の記事に書いたことに対し、フェデリコ・バルバロ神父は反論を書いている。
キリストは、人間世界の現実と、人間の考え方や生き方について、大抵の場合、思いもよらない、時には人をぎょっとさせ、不安に陥し入れるような冷酷とも思われる解答を提出している。本当のことを言えば、われわれには、決してキリストを理解し切ることはできないはずである。それは、キリストの叫びの次元が、われわれのとはちがうからである。
キリストは、人間の目と同時に神の目を、人間の心と同時に神の心をもっていた。したがって遠藤氏の言うキリストは、かれ自身の次元にとどまるキリストにすぎないという強い印象を私はうけている。
しかしながら、遠藤は初期の留学経験などから西欧との深い溝、そして日本人と(東洋的)汎神論の避け難い結合を意識し、キリスト教という宗教を文化背景に持たない日本において、救い主キリストが日本人にどのように提示され得るかという問題意識を持つに至った。この認識、そして第2公会議における「すべての民族の独自性は伝統文化に照らし合わせ適応され受け入れられる」(教会の宣教活動に関する教令)という宣言を考慮することなしに、『沈黙』から『侍』に至る彼の母性的な「同伴者イエス」のビジョンを理解することが難しい、ということを、上に引用された批判は計らずも明らかにしているのである。
※便宜上、タイトルは英語に統一。言語圏ごとにタイトルは異なる。
2010年4月25日、未完成の中編小説が書かれたノートが長崎市の遠藤周作文学館で発見されたことが報じられた。
2020年2月、長崎市遠藤周作文学館で未発表の完成した小説「影に対して」が発見された。1963年3月より後、40歳以降に執筆されたと推測される、自伝的作品。
短編作品数篇を併録し、同年10月に新潮社から単行本化された。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "遠藤 周作(えんどう しゅうさく、1923年〈大正12年〉3月27日 - 1996年〈平成8年〉9月29日)は、日本の小説家。日本ペンクラブ会長。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "12歳の時カトリック教会で受洗。評論から小説に転じ、「第三の新人」に数えられた。その後『海と毒薬』でキリスト教作家としての地位を確立。日本の精神風土とキリスト教の相克をテーマに、神の観念や罪の意識、人種問題を扱って高い評価を受けた。ユーモア小説や「狐狸庵」シリーズなどの軽妙なエッセイでも人気があった。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "父親の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごした。帰国後の12歳の時に伯母の影響でカトリック夙川教会で洗礼を受けた。1941年上智大学予科入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表した(1942年同学中退)。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "その後、慶應義塾大学文学部仏文科に入学。慶大卒業後は、1950年にフランスのリヨンへ留学。帰国後は批評家として活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞し、小説家として脚光を浴びた。第三の新人の一人。キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『海と毒薬』『沈黙』『侍』『深い河』などがある。1960年代初頭に大病を患い、その療養のため町田市玉川学園に転居してからは「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富むエッセイも多く手掛けた。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "無類の悪戯好きとしても知られ、全員素人による劇団「樹座」や素人囲碁集団「宇宙棋院」など作家活動以外のユニークな活動を行う一方で、数々の大病の体験を基にした「心あたたかな病院を願う」キャンペーンや日本キリスト教芸術センターを立ち上げるなどの社会的な活動も数多く行った。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。グレアム・グリーンの熱烈な支持が知られ、ノーベル文学賞候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、受賞を逃したと言われる。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "1923年3月27日、東京府北豊島郡西巣鴨町(現在の東京都豊島区北大塚)に、第三銀行に勤めていた銀行員遠藤常久と東京音楽学校ヴァイオリン科の学生郁(旧姓・竹井)の次男として生まれた。父・常久は東京帝国大学独法科在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "かつて鳥取県東伯郡浅津村下浅津(現・湯梨浜町下浅津)にあった遠藤家は、江戸時代に鳥取の池田家に御典医として仕え、維新後同地に移り住んだ開業医だった。明治後期から終戦後まで当地で医業に当たったのは遠藤河津三で、花見村長和田(現・湯梨浜町長和田)には出張診療所も設け繁盛した。しかし、河津三には子どもがなかったため、鳥取市生まれの常久を養子に迎えた。 父・常久は後に安田工業の社長などを歴任する実業家となる。軽井沢の泉の里に持っていた別荘から白水甲二という筆名を編み出し、『きりしたん大名 大友宗麟』という作品を遺している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "母・郁は現在の岡山県笠岡市出身で、岡山県の土豪竹井党を遠祖に持つ。後に周作は、この遠祖の地(現在の岡山県井原市美星町中世夢が原歴史公園)に「血の故郷」と題した石碑を建立している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1926年、常久の転勤(第三銀行から安田銀行)で、一家は満洲関東州大連に移る。1929年に遠藤は大連市大広場小学校に入学。この頃、郁が指先を血まみれにしながらヴァイオリンを練習する姿や満人のお手伝いさんに優しくする姿を見て敬意を抱く一方、常久からは勉強がよく出来る正介と比較して説教されることが多く、強烈な劣等生意識を抱いた。小学校4年のときに、作文「どじょう」が大連新聞に載る。1932年前後に常久に愛人が出来てから両親の仲が微妙になりはじめ、遠藤は暗い少年時代を送った。翌1933年、遠藤が10歳のときに両親は離婚した。ただし、正式な協議離婚届を提出したのは1937年で、その直後に常久は郁を常久の父・遠藤河津三の養女として迎え入れている。その数ヵ月後に常久は16歳下の女性と再婚した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "遠藤は郁に連れられて帰国し、伯母(郁の姉)の家で同居生活を始めた。同年8月に兵庫県神戸市の六甲小学校に転入。この頃から伯母の影響で西宮市にあるカトリック夙川教会聖テレジア大聖堂に一家で通い始めるようになった。カトリックの公教要理を学び始めるようになると、一家は教会に近い池の畔に転居した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1935年、遠藤は私立灘中学校に入学。宝塚市にある小林聖心女子学院で音楽教師として勤め始めた郁がそこの聖堂で5月29日に洗礼を受け、6月23日には兄弟そろってカトリック夙川教会聖テレジア大聖堂で洗礼を受けた。郁の洗礼名はマリア、周作の洗礼名はパウロ。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "正介の勉強指導の成果もあり、灘中入学当初は優秀生徒のクラスに入ったが、映画狂・読書狂・ジョーク好きなど様々な要因により、徐々に成績が低下、卒業前には成績最下位のクラスに在籍していた。江戸時代の滑稽本を好み、特に十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に熱中し、弥次喜多に憧れ、自分も彼のような人物になりたいと考えていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1939年に一家は宝塚市仁川月見ヶ丘に転居した。この時すでに、正介は四修で第一高等学校に合格し、寮生活を始めている。この頃、郁は宗教的・精神的支柱になったドイツ人宣教師ペトロ・ヘルツォークと出会い、新居に併設した音楽レッスン場を聖書講話やミサの場として開放するようになる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "遠藤は1939年に正介の影響もあり、四修で三高を受験するが敢えなく失敗している。1940年、再び三高を受験するが失敗、広島高も失敗。この為、阿川弘之等の広高出身者に対しては尊敬の念を抱いていたらしい。遠藤は同年に183名中141番の成績で灘中学校を卒業し、浪人生活に入った。なお、同年、正介が一高を卒業し東京帝国大学法学部に入学。正介は郁の帰国から数年遅れて帰国した常久の、世田谷経堂の家に身を寄せている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1941年に再び広島高などを受験して失敗。同年4月に上智大学予科甲類(独語)に入学するが、翌1942年2月9日に退学している。同年、浪速高と姫路高と甲南高を受け、全て失敗している。この頃に肺を病み、喀血している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "遠藤は郁にこれ以上の経済的負担をかけることを恐れ、1942年に東京帝大を卒業し逓信省へ入省した正介の仲介で、常久の家に移った。常久が出した同居の条件は「旧制高校か医学部予科のどちらか」に入学することだった。しかし、遠藤は東京外国語学校、日本医科大学予科、東京慈恵会医科大学予科、日本大学医学部予科に不合格となり、慶應義塾大学医学部予科には自信がなかったため、常久に告げず同大の文学部予科を受験、補欠合格。翌1943年4月に慶應義塾大学文学部予科に入学する。医学部予科を受験したものと思っていた常久は真相を知らされ激怒、遠藤を勘当した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "生活基盤を失った遠藤は、友人の利光松男宅に居候し、家庭教師などのアルバイトで生活費を稼ぐことになった。まもなく、吉満義彦が舎監を務めるカトリックの学生寮白鳩寮に入寮した。学生寮での生活は、遠藤にとって初めての開けた世界だった。吉満の影響でジャック・マリタン(英語版)、寮内で出来た友人松井慶訓の影響でリルケなどを読み耽った。また、吉満の紹介で、亀井勝一郎、堀辰雄などと知り合うことになった。堀辰雄との出会いは、ひとつの転機となり、自他ともに認める劣等生だった遠藤は猛烈な勢いで読書を始め、一夜にして勉強家と化した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦の日本の戦局の悪化に伴い、徐々に予科での授業は少なくなり、その期間、川崎の勤労動員の工場などで働くことを余儀なくされた。寮内での影響を多大に受けたフランス志向にさらに拍車を掛けたのが、下北沢で偶然購入した佐藤朔の『フランス文学素描』で、1945年4月に、慶應義塾大学文学部仏文科(佐藤朔が講師を務めていた)に進学した。この頃、戦局の悪化は日本国内にも大きな被害を与えるようになっていた。後の大作家・遠藤周作を生み出す土台となった白鳩寮は東京大空襲で焼失した。なお、遠藤は徴兵検査では第一乙種だったが、肋膜炎などで入隊期間が大幅にずれ、入隊直前に終戦を迎えた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "終戦後は大学に戻り、ジョルジュ・ベルナノス、フランソワ・モーリアックなどのフランスのカトリック文学に傾倒した。大学の一年先輩の安岡章太郎との知遇も得た。1946年になり、遠藤が慶應義塾大学文学部仏文科に入学したのを知った常久は、態度を軟化させ勘当を撤回した。学生寮から焼け出されて再び生活基盤を失っていた遠藤は、この誘いを受けて常久の家に戻った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1947年12月、初めて書いた評論「神々と神と」が神西清に認められて、角川書店の『四季』第5号に掲載され、批評家としてデビューした。その後、佐藤朔の推挙で評論「カトリック作家の問題」を『三田文学』上で発表したのをきっかけに、佐藤朔の推挙で『三田文学』、神西清の推挙で『高原』などで評論を多数発表している。1948年末もしくは1949年初頭には正式に『三田文学』同人となり、柴田錬三郎、原民喜、丸岡明、山本健吉、堀田善衛との知遇を得ている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1948年に慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。卒業論文は「ネオ・トミズムにおける詩論」。松竹大船撮影所の助監督試験を受けたが、敢えなく不採用に終わっている。その後、佐藤朔の紹介で鎌倉文庫の嘱託として働き始め、また、ペトロ・ヘルツォーク神父が主催する雑誌『カトリック・ダイジェスト』の編集作業に、正介・郁(小林聖心女子学院を依願退職して上京した)とともに携わっている。同年、評論活動とこれらの仕事の合間に、小林聖心女子学院のシスターから依頼を受けて、初の戯曲「サウロ」を書き上げている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1950年6月4日、遠藤はフランスのカトリック文学をさらに学ぶため、戦後初のフランスへの留学生として渡欧した。フランス船マルセイエーズ号(英語版)で横浜港を出航し、7月5日にマルセイユに着く。新学期までルーアンの建築家ロビンヌ家に滞在し、9月にリヨン大学に入学した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "留学時代には勉強の合間に通常の評論活動に加え、フランスでの見聞などをエッセイや小説風のルポルタージュにまとめた。それらは大久保房男の厚意で『群像』、そして『カトリック・ダイジェスト』誌などで発表された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1951年夏にはフランソワ・モーリアックの『テレーズ・デスケルゥ(フランス語版)』の舞台になったフランス南西部ランド地方を徒歩旅行するなどし、フランスでの生活を満喫したが、翌1952年初夏に肺結核を起こし、吐血。6月から8月までコンブルー(英語版))の国際学生療養所に入所する。退所後にパリに移ったものの12月に再び肺結核が悪化し、ジュルダン病院に入院した。病状の悪化でフランスでの生活に見きりをつけ、リヨン大学の博士論文の作成を断念する。翌1953年1月に、日本船赤城丸で帰国の途に着いた。翌月に日本着。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "帰国後、遠藤は企業家岡田幸三郎の長女、慶應義塾大学文学部仏文科に在籍していた岡田順子と交際を始めた。体調は相変わらず優れなかったが、7月に留学時代のエッセイをまとめた『フランスの大学生』を早川書房から処女出版し、批評家の道をゆっくりながら踏み出した。12月に敬愛する母が脳溢血で急死する悲劇に見舞われた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "遠藤は書簡や日記によれば、留学から帰国直前、フランスの7歳下の女子学生と交際していた。その女性は遠藤が結婚したと聞き、1966年フランス語講師として北海道大学に赴任した。遠藤は彼女に『沈黙』のフランス語訳をすすめた。彼女は1970年に帰国し、1971年乳がんのために死去した。41歳。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1954年4月から文化学院の講師を務めた。安岡章太郎の紹介で、谷田昌平とともに構想の会に参加し、小島信夫、近藤啓太郎、庄野潤三、進藤純孝、三浦朱門、吉行淳之介らとの知遇を得た。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "遠藤はこの年から、本格的に作家として活動を始める。奥野健男の依頼で現代評論に創刊号から参加するなど駆け出しとしては上々と思われた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1954年末に執筆した、初の小説「アデンまで」は仲間内で高い評価を受けた。続いて執筆した小説「白い人」は、翌1955年7月に、一足飛びに第33回芥川賞を受賞した。同年9月、岡田順子と2年半の交際を実らせ、結婚した。交際当初、岡田の父岡田幸三郎は「文士風情」「肺に病気を抱えている」などの理由でこれを認めなかったが、遠藤周作の文章を早い時期から評価し、なおかつ、岡田家とも繋がりがあったフランス文学者小林正が説得に当たったという。結婚後は、一時期父の家に順子夫人が家入りする形で同居したが、まもなく世田谷松原に転居した。1956年6月、長男の龍之介が誕生しささやかにも家庭を築き始めると、遠藤の父に対する敵意は本格的な物になっていった。芥川賞を受賞し、作家としては順風満帆な駆け出しかと思えたが、当時の生活は決して楽なものではなかったという。1956年から上智大学文学部の講師を務めた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1957年、九州大学生体解剖事件(相川事件)を主題にした小説「海と毒薬」(文学界、6・8・10月)を発表し、小説家としての地位を確立した。『海と毒薬』は、翌1958年4月に文藝春秋新社から出版され、12月に第5回新潮社文学賞、第12回毎日出版文化賞を受賞した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "9月末にアジア・アフリカ作家会議に出席するため、伊藤整、加藤周一、野間宏らとともに渡ソ。10月にソ連のタシケントでの会議に参加した後、モスクワを廻り、12月に帰国した。同1958年、第六次三田文学に編集委員として参加。他の委員は堀田善衛、梅田晴夫、安岡章太郎、白井浩司、柴田錬三郎、庄司総一。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1959年11月には、マルキ・ド・サドの勉強/さらに理解を深めるために、順子夫人を同伴して、フランスに旅行した。遠藤はこの時に、マルキ・ド・サドの研究家、ジルベール・レリー(フランス語版))、ピエール・クロソウスキーとの知遇を得た。その後、イギリス、スペイン、イタリア、ギリシャからエルサレムを廻り、翌1960年1月に帰国した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "帰国後に体調を崩し、4月に肺結核が再発した。東京大学伝染病研究所病院に入院し、治療を試みたがなかなか回復せず、年末に慶應義塾大学病院に転院した。翌1961年に、3度にわたり肺の手術を行った(1月7日、1月21日前後、12月末)。危険度が高い3度目の手術の前日、とある見舞い客が持ってきた紙で出来た踏絵を見たという。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復した。翌1962年5月にようやく退院することになった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1966年には代表作『沈黙』を発表している。同作で第二回谷崎潤一郎賞を受賞する。同年に第七次三田文学で編集長となる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1968年、長野県軽井沢町に別荘を建てる。別荘は近所の北杜夫や矢代静一ら作家仲間たちとの交流の場となる。なお軽井沢に初めて訪れたのは、大学在学中に病気療養中の堀辰雄を訪ねたときである。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1973年『死海のほとり』発表。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1973年、評伝『イエスの生涯』発表。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1978年、評伝『キリストの誕生』を発表する。第三十回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1979年、『マリー・アントワネットの生涯』発表。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1980年、『侍』で第三十三回野間文芸賞を受賞する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1980年代から「武功夜話」をベースにした小説『反逆』を読売新聞に連載(1988年1月26日 - 1989年2月7日)、同じく小説『決戦の時』を山陽新聞などに連載(1989年7月30日 - 1990年5月31日)、同じく小説『男の一生』を日本経済新聞に連載した(1990年9月1日 - 1991年9月13日)。この3作品は遠藤周作の戦国三部作と呼ばれる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1993年『深い河』発表。この小説は冒頭から「シンクロニシティ」を扱っている。なお「シンクロニシティ」については、1992年8月「朝日新聞」に連載していた随筆「万華鏡」の「人生の偶然」において、F・D・ピート(英語版)の『シンクロニシティ』を絶賛し、それにより同書がベストセラーに躍り出るという事が起きている(「シンクロニシティ」を良い意味で取り上げることはカトリック作家としては異例の事態であったが、遠藤によるオカルトへの好意的言及はエッセイやホラー小説の分野では古くから行われている)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1993年5月に腹膜透析の手術を行った。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。最初はなかなか苦痛に耐えられず、愚痴や泣き言を繰り返していたが、自分とヨブの境遇を重ね合わせ、「ヨブ記の評論を書く」と決心してからはそれがなくなった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1995年『深い河』を原作として、インドの母なる大河ガンジス(ガンガー)を舞台に、愛と悪と魂の救済がテーマとする映画が公開される。撮影にあたりインド政府の協力により、日本映画初のインドでの長期ロケーションが実現している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1996年4月、腎臓病治療のため慶應義塾大学病院に入院、同年9月に脳出血。同月28日には昼食を喉に詰まらせ、肺に誤嚥し呼吸停止に陥った。それはすぐに取り除かれたが、そこから病原菌が広がり、肺炎を併発した。それは肺を片方しか持たない人間には致命的な事態だった。翌9月29日午後6時36分、肺炎による呼吸不全で同病院で死去した。73歳だった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "絶筆は三田文学1996年夏季号に掲載された佐藤朔の追悼文(口述)だった。ヨブ記の評論を書く希望は遂に叶えられなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "スポーツ新聞は、遠藤の死を「狐狸庵先生逝く」という見出しで報じた。葬儀は麹町の聖イグナチオ教会で行われた。教会は人で溢れ、行列は麹町通りにまで達した。生前の本人の遺志で『沈黙』と『深い河』の2冊が棺の中に入れられた。カトリック府中墓地に埋葬された。2015年12月に聖イグナチオ教会の地下納骨堂に移された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "その後遺族や親交のあった関係者により文学館の建設構想が進められ、2000年5月に『沈黙』の舞台となった長崎県西彼杵郡外海町(現・長崎市)に「外海町立遠藤周作文学館」が開館した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "キリスト教は遠藤文学の最大のテーマであり、神学者ではなく、神学教育は受けていないにも関わらず、また、必ずしも正統とは言い難い思想もあるにも関わらず、日本のキリスト教分野を代表する人物とされている。小説以外の形式でも、「私のイエス」「私にとって神とは」などを発表しており、キリスト教関係者の間でもしばしば賛否両論含めた論評の対象になる。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "遠藤は家がカトリックであり、旧制中学時代にカトリックの洗礼を受けている。さらに1950年からフランス留学をしている。この留学の時に感じ、そして遠藤の人生最大のテーマとなった葛藤が「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」であった。遠藤は後年、自分の信仰に関する思索を、「だぶだぶの洋服を和服に仕立て直す作業」と表現している。このテーマは最期まで貫かれており、晩年の「深い河」へもつながっていく。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "キリスト教の持つ最大の救いの能力は、聖書に描かれるゴルゴダを登るキリストであるとしている。罪人として拷問の末汚れにまみれ、自分を磔る十字架を背負い、しかも衆人から激しい罵声を浴びつけられる姿が歴史上もっともみじめな、しかし美しい人間であるとしている。誰にも認められず、汚く惨めな自分をどこまでも無限に傍らにいて見守る人、それがキリストであるとしている。この特徴的なキリスト教解釈は高い評価と共に、異端であるとも見做されることもある。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "遠藤は戦国時代から江戸時代にかけてのいわゆるキリシタン時代に強い関心を持ち、小説・評伝などの数多くの作品を残している。ジョセフ・キャラや小西行長など、実在の人物を下敷きにした作品も多い。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "「沈黙」「侍」などは日本にやってきた宣教師をモチーフに描かれている。宣教師たちが長年の努力でいくらかの信者を集めたにもかかわらず、彼らは社会が変わればあるいは空気が変わるだけで全く簡単に棄教してしまう。このことが何故なのか、キリスト教社会にとっては決定的に理解しがたい日本人像であった。...キリスト教の原理を理解し守っていた日本人信者は実は現世や来世で単に幸せになりたいだけであり、キリスト教にとっての神の教えの真の尊さは関係がなかったのである。教義を理解していても真の信仰は無かったのである。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "日本人は結局、個人もしくは(これが重要だが)集団として現世・来世に不利益と思えば思想そのものを大きく変更しても構わない、この原理は日本人に取りあらゆる哲学や宗教原理よりも強いことが生々しく描かれる。そして信者(実は信仰していないにもかかわらず)や宣教師は日本社会そのものに棄教(『沈黙』)に追い詰められたり、死(『侍』)に追いやられたり、堕落(『黄色い人』)に追いやられてしまう。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "遠藤は、キリシタン時代に関心を持つ理由として自らが戦争時代に敵性宗教を信じる者として差別を受けた経験があったからとしている。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "現世利益的な日本人像は『海と毒薬』で人体実験をする医師・看護師らとして描かれている。これらに関わっている人間は、良心の呵責を感じながらも、誰でもあるような人生の移り変わりのたまたまのタイミングで人体実験への参加を呼びかけられ、強い反発もせずに漫然と関わってしまう。このことも結局キリスト教の様な倫理的性質をもつ行動原理が日本人には存在せず、集団心理で平凡な人格の持ち主たちがなんとなくに非道に転んでしまうことを主張している。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "日本人とキリスト教の矛盾に苦しんでいた遠藤は、晩年の作品『深い河』において「日本人のもつべきキリスト教像」「汎世界的なキリスト教像」を提示している。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "遠藤は元来から、キリスト教のみを至上の宗教とする、排他的な思想の持ち主ではなかった。西洋のキリスト教が唱えてきた、キリスト教を唯一の正しい宗教であるとする考えとの乖離は、キリスト教信徒である遠藤にとって大きな矛盾となっていたのである。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "そんな遠藤にとって衝撃を与えたのは、イギリスの宗教哲学者ジョン・ヒックの宗教多元論であった。あらゆる諸宗教を等しく価値あるものとみなすこの思想は、遠藤が苦しんでいた矛盾を解決する光となった。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "遠藤が興味を惹かれていたインドを舞台にして、新たなキリスト教像を提示したこの作品は、大きな反響を巻き起こした。熊井啓監督によって映画化され、また、歌手の宇多田ヒカルは、この作品に影響を受け、「Deep River」という楽曲を発表している。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "幼少時に抱いたエディプス・コンプレックスは後年まで後を引き、様々な作品に影響を与えた。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "母は東京音楽学校ヴァイオリン科にいたこともあり、芸術に対しても自分に対しても厳しい人だった。父とは異なるタイプの厳格さを持ち、子供たち(周作・正介)を叱ることこそしなかったが、ただひとつ「それはホーリィ(英語版)ではない」という言葉を子供たちにかけた。それは子供心に非常にこたえる言葉だったが、不思議と素直にそれを受け入れる事ができた。子供たちは母を慕った。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "父が母を棄てた事をどうしても許せず、死に目に会えなかった母に対する贖罪の意識と、順子夫人と結婚し一児をもうけ家庭を築き、その大事さを実感した事があいまって、別居後は父を激しく敵視・憎悪した。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "父との和解をすすめた順子夫人を「両親の揃った家にぬくぬくと育ったお前に、俺の苦しみなんて分かってたまるか」と斬り捨て、兄が急死した時には「俺は孤児になった、孤児になった」と嘆き、悲しんだ。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "1977年、兄が急死した後「母と同じ墓に入りたい」という兄の生前の希望を叶えるため、母の墓を掘り起こし、火葬場で遺体を焼いて、お骨にし骨壺に入れた。兄の墓が出来るまでの猶予期間、遠藤周作はその骨壺を預かる事になり、その骨壺を音楽会に持ち込み、「母」と音楽会を楽しんだ。子供の頃に母に連れられていったヤッシャ・ハイフェッツの来日公演の記憶は鮮明に残っていた。実際には喧嘩をする事も多かったが、長い年月をかけて、母の記憶は美化・純化されていた。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "父の晩年には、「親父も孤独な奴だということがわかったよ。自分の女房と、息子たちの子供時代の話ができないのは辛いだろうな」と、その意識を軟化させ、入院中の父を見舞うようになった。しかし、義母(父の再婚相手)に対しては、「親父をおじいちゃんと呼んでもいいけれど、二度目の母のことをおばあちゃんと呼ぶな」と、順子夫人と息子・龍之介に強制し、義母を「おやじのかみさん」と呼び続けた。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "1980年代半ばから始めた「心あたたかな医療」運動は、自らの大病歴から生まれたものでもあったが、それを提唱する直接のきっかけとなったのは「お手伝いさんの死」だった。20代半ばのお手伝いさんが骨髄ガンで亡くなった。医者から1ヶ月の命と宣告され、お手伝いさんが入院した時、遠藤自身も、蓄膿の手術の後で、上顎ガンの疑いがあるということで、検査のため同じ病院に入院していた。不確定な死の陰に怯える男が、確実に死ぬと分かっている彼女のために出来ることは、彼女に嘘をついて励ますこととせめて、安楽に死なせてやってほしいと交渉することだけだった。自らも、彼女の苦しみを少しでも和らげるためならと禁煙を決意、実行した。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "彼女の死後/自らの上顎ガンの疑いが晴れた後、延命治療の方法論や医者の無神経から発する行為に疑問を抱き、それらは是正すべきものであるという「心あたたかな医療」運動を展開した。現在、その活動は確かに引き継がれ、根を張り始めている。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "1963年に駒場から町田市玉川学園に転居したころから、雅号を「雲谷斎狐狸庵山人」とする。「狐狸庵」とは「狐狸庵閑話」が関西弁で「こりゃあかんわ(=これはダメだな)」の意味のシャレである(狐狸庵とは、一般には、遠藤周作が40代を過ごすことになった自称柿生の山里(正確には玉川学園)の庵(住まい)をさすものと認識されているが、随筆の中で、柿生に移る前の東京都渋谷区の住いをはじめて狐狸庵と称したとしており、柿生の狐狸庵は新しい狐狸庵であるとしている)。1978年10月に『アップダウンクイズ』(毎日放送)に出演した際には、「狐狸庵」の由来として「町田に引っ越したところ、周りが山と林ばかりだった」ことと「ある随筆を頼まれて全く書けなかったことがあり『こりゃあかんわ』と思った」ことの2つがあると語っている。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "滋賀県の懇意にしていた料亭を狐狸庵を琵琶湖にかけてもじって「湖里庵」と命名している。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "純文学作家・遠藤は、カトリックと日本人との関わりを歴史的経緯の中で追求していくよう学生時代の恩師や先輩から勧められたことを小説家としての出発点とし、かつライフワークとして取り組んだ。一方、謹厳な宗教分野のテーマを追求する純文学作家としての姿を自ら離れ、いわゆるぐーたら物を中心とした身辺雑記等を書き連ねる随筆作家としての自身が創造した別のキャラクター(花鳥風月を愛し、ぐうたらでなまけものの権化、しかし言いたいことは言う)が狐狸庵山人ということになった。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ただしいずれの分野の作品もすべて公式には遠藤周作著で統一されているので、作品中で自称しているだけのユーモアである。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "親友の北杜夫らとともにユーモア文学ないしユーモア作品と呼ばれる数々の随筆群を発表し、この分野の旗手と目されブームを築いたこと、またTVのCMに「狐狸庵先生遠藤周作」としてたびたび登場した経緯から、世間一般に周知されることとなった。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "したがって遠藤の純文学作品が取り上げられるときに限っては「狐狸庵山人」や「狐狸庵先生」という呼称は用いられることはない。文学以外の分野では、素人劇団「樹座(きざ)」や音痴しか入団できない合唱団「コール・パパス」、素人囲碁集団「宇宙棋院」を組織したりと活動は多岐に亙った。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "さくらももこは遠藤周作と対談した際、どんな真面目な内容か緊張していたが、年齢を10歳偽るなど最初から最後まで掴みどころのないジョークで翻弄されてしまい、最後に渡された「ぼくの電話番号」に翌日電話するように言われて約束通り電話したところ、それは東京ガスの営業所の番号であったというエピソードをエッセイで語っている。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "なお、遠藤は中間小説の分野ではユーモア、ナンセンスもの以外にホラー、サスペンスも得意とした。専門のエンタテインメント作家のものに比べると(スキルの面での難点も見られるが)いずれも異色であり、うち2作が映画化されるなど人気も高い。これは純文学作家遠藤周作とも狐狸庵先生とも異なる第3の顔と見なすこともできる。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "遠藤は、ヨーロッパで触れたキリスト教が父性原理を強調するあまり日本人の霊性に合わないと不満を持ち、キリスト教を日本の精神的風土に根付かせようと試みた。遠藤自身はそれを「日本人としてキリスト教信徒であることが,ダブダブの西洋の洋服を着せられたように着苦しく,それを体に合うように調達することが自分の生涯の課題であった」と語っている。",
"title": "カトリックの評価"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "晩年にはジョン・ヒックの提唱する宗教多元主義と出会って影響を受け、『深い河』の登場人物である大津を通して「神(イエス)は愛、命のぬくもり、もしくはトマトでもタマネギと呼んでもいい」といっている。",
"title": "カトリックの評価"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "このため、遠藤に対するカトリック教会での評価は賛否が大きく分かれることとなった。",
"title": "カトリックの評価"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "遠藤と共にフランスで学んだ井上洋治神父は、「遠藤周作氏の著作『死海のほとり』と『イエスの生涯』は、そのイエス像に賛成すると否とにかかわらず、初めて深く日本の精神的風土にキリスト教がっちりとかみ合った作品だと言えるでしょう」と高く評価している。また、カトリック新聞にも遠藤が「キリスト教を広めた」という評価する記事が掲載された。",
"title": "カトリックの評価"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "サレジオ会のアロイジオ・デルコル神父は、1978年12月24日のクリスマスのテレビ番組で「キリストは奇跡をしたといわれるが、じっさいは無力で何の奇跡もしなかったのである」という自説を『イエスの生涯』、『キリストの誕生』、『沈黙』等で書いたと遠藤が語ったことに対し、「遠藤氏の文学は、キリスト教や聖書をテーマにしたにしても、布教にとって大きなマイナスであり、とくに非キリスト者にとっては、”ゆがめられたキリスト教”紹介したにすぎない」と評している。",
"title": "カトリックの評価"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "遠藤が踏絵のキリストの顔が「早くふむがいい。それでいいのだ。私が存在するのは、お前たちの弱さのために、あるのだ」と言っている気がしたとカトリック新聞1972年1月23日付の記事に書いたことに対し、フェデリコ・バルバロ神父は反論を書いている。",
"title": "カトリックの評価"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "キリストは、人間世界の現実と、人間の考え方や生き方について、大抵の場合、思いもよらない、時には人をぎょっとさせ、不安に陥し入れるような冷酷とも思われる解答を提出している。本当のことを言えば、われわれには、決してキリストを理解し切ることはできないはずである。それは、キリストの叫びの次元が、われわれのとはちがうからである。",
"title": "カトリックの評価"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "キリストは、人間の目と同時に神の目を、人間の心と同時に神の心をもっていた。したがって遠藤氏の言うキリストは、かれ自身の次元にとどまるキリストにすぎないという強い印象を私はうけている。",
"title": "カトリックの評価"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "しかしながら、遠藤は初期の留学経験などから西欧との深い溝、そして日本人と(東洋的)汎神論の避け難い結合を意識し、キリスト教という宗教を文化背景に持たない日本において、救い主キリストが日本人にどのように提示され得るかという問題意識を持つに至った。この認識、そして第2公会議における「すべての民族の独自性は伝統文化に照らし合わせ適応され受け入れられる」(教会の宣教活動に関する教令)という宣言を考慮することなしに、『沈黙』から『侍』に至る彼の母性的な「同伴者イエス」のビジョンを理解することが難しい、ということを、上に引用された批判は計らずも明らかにしているのである。",
"title": "カトリックの評価"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "※便宜上、タイトルは英語に統一。言語圏ごとにタイトルは異なる。",
"title": "作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "2010年4月25日、未完成の中編小説が書かれたノートが長崎市の遠藤周作文学館で発見されたことが報じられた。",
"title": "未発表作品"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "2020年2月、長崎市遠藤周作文学館で未発表の完成した小説「影に対して」が発見された。1963年3月より後、40歳以降に執筆されたと推測される、自伝的作品。",
"title": "未発表作品"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "短編作品数篇を併録し、同年10月に新潮社から単行本化された。",
"title": "未発表作品"
}
] | 遠藤 周作は、日本の小説家。日本ペンクラブ会長。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 12歳の時カトリック教会で受洗。評論から小説に転じ、「第三の新人」に数えられた。その後『海と毒薬』でキリスト教作家としての地位を確立。日本の精神風土とキリスト教の相克をテーマに、神の観念や罪の意識、人種問題を扱って高い評価を受けた。ユーモア小説や「狐狸庵」シリーズなどの軽妙なエッセイでも人気があった。 | {{複数の問題
| 独自研究 = 2017年2月
| 大言壮語 = 2020年10月
}}
{{Infobox 作家
| name = 遠藤 周作<br />(えんどう しゅうさく)
| image = Shūsaku Endō.jpg
| image_size = 180px
| caption = [[1954年]]
| birth_date = [[1923年]][[3月27日]]
| birth_place = {{JPN}} [[東京府]][[北豊島郡]][[西巣鴨町]]<br />(現 [[東京都]][[豊島区]][[北大塚]])
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1923|3|27|1996|9|29}}
| death_place = {{JPN}} [[東京都]][[新宿区]][[信濃町 (新宿区)|信濃町]] [[慶應義塾大学病院]]<ref name="ismedia">{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/mwimgs/0/f/-/img_0fd9f8ab813393dc05d2af0945e6b79e847910.jpg|title=史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか|publisher=現代ビジネス|date=2011-08-17|accessdate=2019-12-22}}</ref>
| resting_place =
| occupation = [[小説家]]
| language = [[日本語]]
| nationality = {{JPN}}
| education = [[学士]]([[文学]])
| alma_mater = [[慶應義塾大学]][[仏文科]]
| period = [[1953年]] - [[1996年]]
| genre = [[小説]]<br/>[[随筆]]<br/>[[文芸評論]]<br/>[[戯曲]]
| subject = [[キリスト教]]
| movement = [[第三の新人]]
| notable_works = {{Plainlist|
*『白い人』(1955年)
*『[[海と毒薬]]』(1958年)
*『[[わたしが・棄てた・女]]』(1964年)
*『[[沈黙 (遠藤周作)|沈黙]]』(1966年)
*『イエスの生涯』(1973年)
*『キリストの誕生』(1978年)
*『[[侍 (小説)|侍]]』(1980年)
*『[[深い河]]』(1993年)}}
| awards = {{Plainlist|
*[[芥川龍之介賞]](1955年)
*[[新潮社文学賞]](1958年)
*[[毎日出版文化賞]](1958年)
*[[谷崎潤一郎賞]](1966年)
*[[読売文学賞]](1979年)
*[[日本芸術院賞]](1979年)
*[[野間文芸賞]](1980年)
*[[毎日芸術賞]](1994年)
*[[文化勲章]](1995年)}}
| debut_works =
| spouse =
| children = [[遠藤龍之介]](長男)
| relations = {{Plainlist|
*[[遠藤常久 (実業家)|遠藤常久]](父)
*[[遠藤正介]](兄)
*[[岡田幸三郎]](岳父)}}
}}
'''遠藤 周作'''(えんどう しゅうさく、[[1923年]]〈[[大正]]12年〉[[3月27日]] - [[1996年]]〈[[平成]]8年〉[[9月29日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。[[日本ペンクラブ]]会長。[[日本芸術院]]会員、[[文化功労者]]、[[文化勲章]]受章者。
12歳の時[[カトリック]]教会で[[洗礼|受洗]]。評論から小説に転じ、「[[第三の新人]]」に数えられた。その後『海と毒薬』でキリスト教作家としての地位を確立。日本の精神風土とキリスト教の相克をテーマに、神の観念や罪の意識、人種問題を扱って高い評価を受けた。ユーモア小説や「狐狸庵」シリーズなどの軽妙なエッセイでも人気があった。
== 来歴・人物 ==
父親の仕事の都合で幼少時代を[[満州|満洲]]で過ごした。帰国後の12歳の時に伯母の影響で[[カトリック夙川教会]]で[[洗礼]]を受けた。1941年[[上智大学]][[大学予科|予科]]入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表した(1942年同学中退)。
その後、[[慶應義塾大学]][[文学部]][[仏文科]]に入学。慶大卒業後は、1950年に[[フランス]]の[[リヨン]]へ留学。帰国後は[[批評家]]として活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」が[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞し、小説家として脚光を浴びた。[[第三の新人]]の一人。キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『[[海と毒薬]]』『[[沈黙 (遠藤周作)|沈黙]]』『[[侍 (小説)|侍]]』『[[深い河]]』などがある。[[1960年代]]初頭に大病を患い、その療養のため[[町田市]][[玉川学園]]に転居してからは「'''狐狸庵山人'''(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富む[[エッセイ]]も多く手掛けた。
無類の悪戯好きとしても知られ、全員素人による劇団「[[樹座]]」や素人囲碁集団「宇宙棋院」など作家活動以外のユニークな活動を行う一方で、数々の大病の体験を基にした「心あたたかな病院を願う」キャンペーンや[[日本キリスト教芸術センター]]を立ち上げるなどの社会的な活動も数多く行った。
『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。[[グレアム・グリーン]]の熱烈な支持が知られ、[[ノーベル文学賞]]候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、受賞を逃したと言われる。
== 生涯 ==
=== 出自 ===
1923年3月27日、[[東京府]][[北豊島郡]][[西巣鴨町]](現在の[[東京都]][[豊島区]][[北大塚]])に、[[第三国立銀行|第三銀行]]に勤めていた銀行員[[遠藤常久 (実業家)|遠藤常久]]と[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]ヴァイオリン科の学生郁(旧姓・竹井)の次男として生まれた。父・常久は[[東京大学|東京帝国大学]]独法科在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の[[遠藤正介|正介]]、その2年後に次男の周作が誕生した。
かつて[[鳥取県]][[東伯郡]][[浅津村]]下浅津(現・[[湯梨浜町]]下浅津)にあった遠藤家は、[[江戸時代]]に[[鳥取]]の[[池田氏|池田家]]に御典医として仕え、維新後同地に移り住んだ開業医だった。[[明治]]後期から[[終戦]]後まで当地で医業に当たったのは遠藤河津三で、[[花見村]]長和田(現・湯梨浜町長和田)には出張診療所も設け繁盛した。しかし、河津三には子どもがなかったため、鳥取市生まれの常久を養子に迎えた<ref>{{Cite journal |和書 |journal=広報ゆりはま |issue=2007年1月号 |date=2007 |url=http://www.yurihama.jp/kouhou/19/19-1/HTML/y_hon.html |title=遠藤周作氏のルーツ |publisher=鳥取県東伯郡湯梨浜町|editor=湯梨浜町企画情報課 |accessdate=2019-03-15}}</ref>。
父・常久は後に[[安田工業 (金属製品)|安田工業]]の社長などを歴任する実業家となる。軽井沢の泉の里に持っていた別荘から白水甲二という筆名を編み出し、『きりしたん大名 大友宗麟』という作品を遺している。
母・郁は現在の[[岡山県]][[笠岡市]]出身で、岡山県の[[土豪]][[竹井党]]を遠祖に持つ。後に周作は、この遠祖の地(現在の岡山県[[井原市]]美星町[[中世夢が原]]歴史公園)に「血の故郷」と題した石碑を建立している。
=== 幼少時代 ===
1926年、常久の転勤(第三銀行から[[安田銀行]])で、一家は[[満州|満洲]]関東州[[大連市|大連]]に移る。1929年に遠藤は大連市大広場小学校に入学。この頃、郁が指先を血まみれにしながら[[ヴァイオリン]]を練習する姿や[[満人]]のお手伝いさんに優しくする姿を見て敬意を抱く一方、常久からは勉強がよく出来る正介と比較して説教されることが多く、強烈な劣等生意識を抱いた。小学校4年のときに、作文「どじょう」が大連新聞に載る。1932年前後に常久に愛人が出来てから両親の仲が微妙になりはじめ、遠藤は暗い少年時代を送った。翌1933年、遠藤が10歳のときに両親は離婚した。ただし、正式な協議離婚届を提出したのは1937年で、その直後に常久は郁を常久の父・遠藤河津三の養女として迎え入れている。その数ヵ月後に常久は16歳下の女性と再婚した。
遠藤は郁に連れられて帰国し、伯母(郁の姉)の家で同居生活を始めた。同年8月に[[兵庫県]][[神戸市]]の[[神戸市立六甲小学校|六甲小学校]]に転入。この頃から伯母の影響で[[西宮市]]にある[[カトリック夙川教会]]聖テレジア大聖堂に一家で通い始めるようになった。カトリックの公教要理を学び始めるようになると、一家は教会に近い池の畔に転居した。
1935年、遠藤は私立[[灘中学校・高等学校|灘中学校]]に入学。[[宝塚市]]にある[[小林聖心女子学院]]で音楽教師として勤め始めた郁がそこの聖堂で5月29日に洗礼を受け、6月23日には兄弟そろってカトリック夙川教会聖テレジア大聖堂で洗礼を受けた。郁の[[霊名|洗礼名]]はマリア、周作の洗礼名はパウロ。
正介の勉強指導の成果もあり、灘中入学当初は優秀生徒のクラスに入ったが、映画狂・読書狂・ジョーク好きなど様々な要因により、徐々に成績が低下、卒業前には成績最下位のクラスに在籍していた。江戸時代の滑稽本を好み、特に[[十返舎一九]]の『[[東海道中膝栗毛]]』に熱中し、弥次喜多に憧れ、自分も彼のような人物になりたいと考えていた。
1939年に一家は宝塚市仁川月見ヶ丘に転居した。この時すでに、正介は[[飛び級#日本における歴史|四修]]で[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]に合格し、寮生活を始めている。この頃、郁は宗教的・精神的支柱になったドイツ人宣教師[[星井巌|ペトロ・ヘルツォーク]]と出会い、新居に併設した音楽レッスン場を聖書講話やミサの場として開放するようになる。
=== 学生時代(1939年 - 1949年) ===
遠藤は1939年に正介の影響もあり、[[飛び級#日本における歴史|四修]]で[[第三高等学校 (旧制)|三高]]{{Sfn|加藤|2006|p=不明}}{{要ページ番号|date=2019年3月15日 (金) 14:06 (UTC)}}を受験するが敢えなく失敗している。1940年、再び三高を受験するが失敗、広島高も失敗。この為、[[阿川弘之]]等の広高出身者に対しては尊敬の念を抱いていたらしい{{要出典|date=2010年6月}}。遠藤は同年に183名中141番の成績で灘中学校を卒業し、浪人生活に入った。なお、同年、正介が一高を卒業し東京帝国大学法学部に入学。正介は郁の帰国から数年遅れて帰国した常久の、世田谷経堂の家に身を寄せている。
1941年に再び広島高などを受験して失敗。同年4月に[[上智大学]][[大学予科|予科]]甲類(独語)に入学するが、翌1942年2月9日に退学している{{efn2|遠藤周作は上智大学時代のことに触れられることを極度に嫌がった。浪人時代の回想エッセイなどを数多く発表しているが、上智時代の事には全く触れていない。自作年譜にも載せていない徹底ぶりである。この時期の評論は[[加藤宗哉]]が詳しい。}}。同年、[[浪速高等学校 (旧制)|浪速高]]と[[姫路高等学校 (旧制)|姫路高]]と[[甲南高等学校 (旧制)|甲南高]]を受け、全て失敗している。この頃に肺を病み、喀血している。
遠藤は郁にこれ以上の経済的負担をかけることを恐れ、1942年に東京帝大を卒業し[[逓信省]]へ入省した正介の仲介で、常久の家に移った。常久が出した同居の条件は「[[旧制高等学校|旧制高校]]か[[医科大学|医学部]]予科のどちらか」に入学することだった。しかし、遠藤は[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]]、[[日本医科大学]]予科、[[東京慈恵会医科大学]]予科、[[日本大学]]医学部予科に不合格となり、[[慶應義塾大学]]医学部予科には自信がなかったため、常久に告げず同大の文学部予科を受験、補欠合格。翌1943年4月に慶應義塾大学文学部予科に入学する。医学部予科を受験したものと思っていた常久は真相を知らされ激怒、遠藤を勘当した。
生活基盤を失った遠藤は、友人の[[利光松男]]宅に居候し、[[家庭教師]]などのアルバイトで生活費を稼ぐことになった。まもなく、[[吉満義彦]]が舎監を務めるカトリックの学生寮[[白鳩寮]]に入寮した。学生寮での生活は、遠藤にとって初めての開けた世界だった。吉満の影響で{{仮リンク|ジャック・マリタン|en|Jacques Maritain|preserve=1}}、寮内で出来た友人松井慶訓の影響で[[ライナー・マリア・リルケ|リルケ]]などを読み耽った。また、吉満の紹介で、[[亀井勝一郎]]、[[堀辰雄]]などと知り合うことになった。堀辰雄との出会いは、ひとつの転機となり、自他ともに認める劣等生だった遠藤は猛烈な勢いで読書を始め、一夜にして勉強家と化した。
[[第二次世界大戦]]の日本の戦局の悪化に伴い、徐々に予科での授業は少なくなり、その期間、[[川崎市|川崎]]の[[勤労動員]]の工場などで働くことを余儀なくされた。寮内での影響を多大に受けたフランス志向にさらに拍車を掛けたのが、[[下北沢]]で偶然購入した[[佐藤朔]]の『フランス文学素描』で、1945年4月に、慶應義塾大学文学部仏文科(佐藤朔が講師を務めていた)に進学した。この頃、戦局の悪化は日本国内にも大きな被害を与えるようになっていた。後の大作家・遠藤周作を生み出す土台となった白鳩寮は[[東京大空襲]]で焼失した。なお、遠藤は[[徴兵検査]]では第一乙種だったが、[[肋膜炎]]などで入隊期間が大幅にずれ、入隊直前に終戦を迎えた。
終戦後は大学に戻り、[[ジョルジュ・ベルナノス]]、[[フランソワ・モーリアック]]などのフランスの[[カトリック文学]]に傾倒した。大学の一年先輩の[[安岡章太郎]]との知遇も得た。1946年になり、遠藤が慶應義塾大学文学部仏文科に入学したのを知った常久は、態度を軟化させ勘当を撤回した。学生寮から焼け出されて再び生活基盤を失っていた遠藤は、この誘いを受けて常久の家に戻った。
1947年12月、初めて書いた評論「神々と神と」が[[神西清]]に認められて、角川書店の『四季』第5号に掲載され、批評家としてデビューした。その後、佐藤朔の推挙で評論「カトリック作家の問題」を『[[三田文学]]』上で発表したのをきっかけに、佐藤朔の推挙で『三田文学』、神西清の推挙で『[[高原 (雑誌)|高原]]』などで評論を多数発表している。1948年末もしくは1949年初頭には正式に『三田文学』[[同人]]となり、[[柴田錬三郎]]、[[原民喜]]、[[丸岡明]]、[[山本健吉]]、[[堀田善衛]]との知遇を得ている。
1948年に慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。卒業論文は「[[新トマス主義|ネオ・トミズム]]における詩論」。[[松竹]]大船撮影所の助監督試験を受けたが、敢えなく不採用に終わっている{{efn2|この試験の際に採用されたのが[[鈴木清順]]である。}}。その後、佐藤朔の紹介で[[鎌倉文庫]]の嘱託として働き始め、また、[[星井巌|ペトロ・ヘルツォーク]]神父が主催する雑誌『[[カトリック・ダイジェスト]]』の編集作業に、正介・郁(小林聖心女子学院を依願退職して上京した)とともに携わっている。同年、評論活動とこれらの仕事の合間に、小林聖心女子学院のシスターから依頼を受けて、初の戯曲「サウロ」を書き上げている。
=== 留学時代(1950年 - 1953年) ===
1950年6月4日、遠藤はフランスのカトリック文学をさらに学ぶため、戦後初のフランスへの留学生として渡欧した。フランス船{{仮リンク|マルセイエーズ号|en|MV Bianca C}}で横浜港を出航し、7月5日にマルセイユに着く。新学期まで[[ルーアン]]の建築家ロビンヌ家に滞在し、9月に[[リヨン大学]]に入学した。
留学時代には勉強の合間に通常の評論活動に加え、フランスでの見聞などをエッセイや小説風のルポルタージュにまとめた。それらは[[大久保房男]]の厚意で『群像』、そして『カトリック・ダイジェスト』誌などで発表された。
1951年夏には[[フランソワ・モーリアック]]の『{{仮リンク|テレーズ・デスケルゥ|fr|Thérèse Desqueyroux}}』の舞台になったフランス南西部[[ランド県|ランド地方]]を徒歩旅行するなどし、フランスでの生活を満喫したが、翌1952年初夏に[[肺結核]]を起こし、吐血。6月から8月まで{{仮リンク|コンブルー|en|Combloux}})の国際学生療養所に入所する。退所後に[[パリ]]に移ったものの12月に再び肺結核が悪化し、ジュルダン病院に入院した。病状の悪化でフランスでの生活に見きりをつけ、[[リヨン大学]]の博士論文の作成を断念する。翌1953年1月に、日本船[[赤城丸]]で帰国の途に着いた。翌月に日本着。
帰国後、遠藤は企業家[[岡田幸三郎]]の長女、慶應義塾大学文学部仏文科に在籍していた岡田順子と交際を始めた。体調は相変わらず優れなかったが、7月に留学時代のエッセイをまとめた『フランスの大学生』を[[早川書房]]から処女出版し、批評家の道をゆっくりながら踏み出した。12月に敬愛する母が[[脳溢血]]で急死する悲劇に見舞われた。
遠藤は書簡や日記によれば、留学から帰国直前、フランスの7歳下の女子学生と交際していた。その女性は遠藤が結婚したと聞き、1966年フランス語講師として北海道大学に赴任した。遠藤は彼女に『沈黙』のフランス語訳をすすめた。彼女は1970年に帰国し、1971年乳がんのために死去した。41歳<ref>桑原真夫『フランソワーズ・パストル』論創社 2022年</ref>。
=== 駆け出し作家時代(1954年 - 1962年) ===
1954年4月から[[文化学院]]の講師を務めた。[[安岡章太郎]]の紹介で、谷田昌平とともに構想の会に参加し、[[小島信夫]]、[[近藤啓太郎]]、[[庄野潤三]]、[[進藤純孝]]、[[三浦朱門]]、[[吉行淳之介]]らとの知遇を得た。
遠藤はこの年から、本格的に作家として活動を始める。[[奥野健男]]の依頼で[[現代評論]]に創刊号から参加するなど駆け出しとしては上々と思われた。
1954年末に執筆した、初の小説「アデンまで」は仲間内で高い評価を受けた。続いて執筆した小説「白い人」は、翌1955年7月に、一足飛びに第33回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞した。同年9月、岡田順子と2年半の交際を実らせ、結婚した。交際当初、岡田の父[[岡田幸三郎]]は「文士風情」「肺に病気を抱えている」などの理由でこれを認めなかったが、遠藤周作の文章を早い時期から評価し、なおかつ、岡田家とも繋がりがあった[[フランス文学者]]小林正が説得に当たったという。結婚後は、一時期父の家に順子夫人が家入りする形で同居したが、まもなく[[世田谷 (世田谷区)|世田谷]]松原に転居した。1956年6月、長男の龍之介が誕生しささやかにも家庭を築き始めると、遠藤の父に対する敵意は本格的な物になっていった。芥川賞を受賞し、作家としては順風満帆な駆け出しかと思えたが、当時の生活は決して楽なものではなかったという。1956年から[[上智大学]]文学部の講師を務めた。
1957年、[[九州大学生体解剖事件]](相川事件)を主題にした小説「海と毒薬」(文学界、6・8・10月)を発表し、小説家としての地位を確立した{{efn2|「海と毒薬」に対する一部からの反発は強く、発表後、遠藤家に「死ね」と書かれた[[血書]]や、「日本の恥部を抉ってどうするつもりだ」という[[脅迫状]]、果てには[[日本刀]]が送り付けられた。}}。『海と毒薬』は、翌1958年4月に[[文藝春秋]]新社から出版され、12月に第5回[[新潮社文学賞]]、第12回[[毎日出版文化賞]]を受賞した。
9月末に[[アジア・アフリカ作家会議]]に出席するため、[[伊藤整]]、[[加藤周一]]、[[野間宏]]らとともに渡ソ。10月に[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[タシケント]]での会議に参加した後、[[モスクワ]]を廻り、12月に帰国した。同1958年、第六次[[三田文学]]に編集委員として参加。他の委員は[[堀田善衛]]、[[梅田晴夫]]、[[安岡章太郎]]、[[白井浩司]]、[[柴田錬三郎]]、[[庄司総一]]<ref name="戸板">戸板康二『思い出す顔』(講談社)P.54{{Full citation needed |date=2019-03-15 |title=この書籍は単行本と文庫があるが、どちらのp.54なのか不明。}}</ref>。
1959年11月には、[[マルキ・ド・サド]]の勉強/さらに理解を深めるために、順子夫人を同伴して、フランスに旅行した。遠藤はこの時に、マルキ・ド・サドの研究家、{{仮リンク|ジルベール・レリー|fr|Gilbert Lely}})、[[ピエール・クロソウスキー]]との知遇を得た。その後、[[イギリス]]、[[スペイン]]、[[イタリア]]、[[ギリシャ]]から[[エルサレム]]を廻り、翌1960年1月に帰国した。
帰国後に体調を崩し、4月に[[肺結核]]が再発した。東京大学伝染病研究所病院に入院し、治療を試みたがなかなか回復せず、年末に慶應義塾大学病院に転院した。翌1961年に、3度にわたり肺の手術を行った(1月7日、1月21日前後、12月末)。危険度が高い3度目の手術の前日、とある見舞い客が持ってきた紙で出来た[[踏絵]]を見たという。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復した。翌1962年5月にようやく退院することになった。
=== 1963年以降 ===
1966年には代表作『[[沈黙 (遠藤周作)|沈黙]]』を発表している。同作で第二回[[谷崎潤一郎賞]]を受賞する。同年に第七次[[三田文学]]で編集長となる<ref name="戸板" />。
1968年、[[長野県]][[軽井沢町]]に[[別荘]]を建てる。別荘は近所の[[北杜夫]]や[[矢代静一]]ら作家仲間たちとの交流の場となる<ref name ="kinenkan">“[http://www.city.nagasaki.lg.jp/endou/lecture/detail.php?id=28 第28回文学講座(H27.2.2)]”遠藤周作文学館(長崎市)</ref>。なお軽井沢に初めて訪れたのは、大学在学中に病気療養中の[[堀辰雄]]を訪ねたときである<ref name ="kinenkan"/>。
1973年『死海のほとり』発表。
1973年、評伝『イエスの生涯』発表。
1978年、評伝『キリストの誕生』を発表する。第三十回[[読売文学賞]](評論・伝記賞)を受賞する。
1979年、『マリー・アントワネットの生涯』発表。
1980年、『侍』で第三十三回[[野間文芸賞]]を受賞する。
1980年代から「武功夜話」をベースにした小説『反逆』を読売新聞に連載(1988年1月26日 - 1989年2月7日)、同じく小説『決戦の時』を山陽新聞などに連載(1989年7月30日 - 1990年5月31日)、同じく小説『男の一生』を日本経済新聞に連載した(1990年9月1日 - 1991年9月13日)。この3作品は遠藤周作の戦国三部作と呼ばれる。
1993年『[[深い河]]』発表。この小説は冒頭から「[[シンクロニシティ]]」を扱っている。なお「シンクロニシティ」については、1992年8月「朝日新聞」に連載していた随筆「万華鏡」の「人生の偶然」において、{{仮リンク|F・D・ピート|en|F. David Peat}}の『シンクロニシティ』を絶賛し、それにより同書がベストセラーに躍り出るという事が起きている(「シンクロニシティ」を良い意味で取り上げることはカトリック作家としては異例の事態であったが、遠藤によるオカルトへの好意的言及はエッセイやホラー小説の分野では古くから行われている)。
1993年5月に[[腹膜透析]]の手術を行った。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。最初はなかなか苦痛に耐えられず、愚痴や泣き言を繰り返していたが、自分と[[ヨブ]]の境遇を重ね合わせ、「[[ヨブ記]]の評論を書く」と決心してからはそれがなくなった。
1995年『深い河』を原作として、インドの母なる大河ガンジス(ガンガー)を舞台に、愛と悪と魂の救済がテーマとする映画が公開される。撮影にあたりインド政府の協力により、日本映画初のインドでの長期ロケーションが実現している。
1996年4月、腎臓病治療のため[[慶應義塾大学病院]]に入院<ref>大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)50頁</ref>、同年9月に脳出血<ref name="ismedia" />。同月28日には昼食を喉に詰まらせ、肺に誤嚥し呼吸停止に陥った。それはすぐに取り除かれたが、そこから病原菌が広がり、肺炎を併発した。それは肺を片方しか持たない人間には致命的な事態だった。翌9月29日午後6時36分、[[肺炎]]による呼吸不全で同病院で死去した。73歳だった<ref name="ismedia" />。
[[絶筆]]は三田文学1996年夏季号に掲載された[[佐藤朔]]の追悼文([[口述]])だった。[[ヨブ記]]の評論を書く希望は遂に叶えられなかった。
=== 死後(1996年 - ) ===
スポーツ新聞は、遠藤の死を'''「狐狸庵先生逝く」'''という見出しで報じた。葬儀は[[麹町]]の[[聖イグナチオ教会]]で行われた。教会は人で溢れ、行列は[[国道20号|麹町通り]]にまで達した。生前の本人の遺志で『沈黙』と『深い河』の2冊が棺の中に入れられた。カトリック府中墓地に埋葬された。2015年12月に聖イグナチオ教会の地下納骨堂に移された。
その後遺族や親交のあった関係者により文学館の建設構想が進められ、[[2000年]]5月に『沈黙』の舞台となった[[長崎県]][[西彼杵郡]][[外海町]](現・[[長崎市]])に「外海町立[[遠藤周作文学館]]」が開館した。
== 作風 ==
=== テーマとしてのキリスト教 ===
{{節スタブ}}
[[キリスト教]]は遠藤文学の最大のテーマであり、神学者ではなく、神学教育は受けていないにも関わらず、また、必ずしも正統とは言い難い思想もあるにも関わらず、日本のキリスト教分野を代表する人物とされている。小説以外の形式でも、「私のイエス」「私にとって神とは」などを発表しており、キリスト教関係者の間でもしばしば賛否両論含めた論評の対象になる。
====日本人とキリスト教の矛盾====
遠藤は家が[[カトリック教会|カトリック]]であり、旧制中学時代にカトリックの洗礼を受けている。さらに1950年からフランス留学をしている。この留学の時に感じ、そして遠藤の人生最大のテーマとなった葛藤が'''「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」'''であった。遠藤は後年、自分の信仰に関する思索を、「だぶだぶの洋服を和服に仕立て直す作業」と表現している。このテーマは最期まで貫かれており、晩年の「深い河」へもつながっていく。
====キリスト教の持つ救済の力====
キリスト教の持つ最大の救いの能力は、聖書に描かれるゴルゴダを登るキリストであるとしている。罪人として拷問の末汚れにまみれ、自分を磔る十字架を背負い、しかも衆人から激しい罵声を浴びつけられる姿が歴史上もっともみじめな、しかし美しい人間であるとしている。誰にも認められず、汚く惨めな自分をどこまでも無限に傍らにいて見守る人、それがキリストであるとしている。この特徴的なキリスト教解釈は高い評価と共に、異端であるとも見做されることもある。
====キリシタン時代====
遠藤は戦国時代から江戸時代にかけてのいわゆるキリシタン時代に強い関心を持ち、小説・評伝などの数多くの作品を残している。[[ジュゼッペ・キアラ|ジョセフ・キャラ]]や[[小西行長]]など、実在の人物を下敷きにした作品も多い。
「沈黙」「侍」などは日本にやってきた宣教師をモチーフに描かれている。宣教師たちが長年の努力でいくらかの信者を集めたにもかかわらず、彼らは社会が変わればあるいは空気が変わるだけで全く簡単に棄教してしまう。このことが何故なのか、キリスト教社会にとっては決定的に理解しがたい日本人像であった。…キリスト教の原理を理解し守っていた日本人信者は実は現世や来世で単に幸せになりたいだけであり、キリスト教にとっての神の教えの真の尊さは関係がなかったのである。教義を理解していても真の信仰は無かったのである。
日本人は結局、個人もしくは(これが重要だが)集団として現世・来世に不利益と思えば思想そのものを大きく変更しても構わない、この原理は日本人に取りあらゆる哲学や宗教原理よりも強いことが生々しく描かれる。そして信者(実は信仰していないにもかかわらず)や宣教師は日本社会そのものに棄教(『沈黙』)に追い詰められたり、死(『侍』)に追いやられたり、堕落(『黄色い人』)に追いやられてしまう。
遠藤は、キリシタン時代に関心を持つ理由として自らが戦争時代に敵性宗教を信じる者として差別を受けた経験があったからとしている。
====『[[海と毒薬]]』において====
現世利益的な日本人像は『海と毒薬』で人体実験をする医師・看護師らとして描かれている。これらに関わっている人間は、良心の呵責を感じながらも、誰でもあるような人生の移り変わりのたまたまのタイミングで人体実験への参加を呼びかけられ、強い反発もせずに漫然と関わってしまう。このことも結局キリスト教の様な倫理的性質をもつ行動原理が日本人には存在せず、集団心理で平凡な人格の持ち主たちがなんとなくに非道に転んでしまうことを主張している。
====『[[深い河]]』において====
日本人とキリスト教の矛盾に苦しんでいた遠藤は、晩年の作品『深い河』において「日本人のもつべきキリスト教像」「汎世界的なキリスト教像」を提示している。
遠藤は元来から、キリスト教のみを至上の宗教とする、排他的な思想の持ち主ではなかった。西洋のキリスト教が唱えてきた、キリスト教を唯一の正しい宗教であるとする考えとの乖離は、キリスト教信徒である遠藤にとって大きな矛盾となっていたのである。
そんな遠藤にとって衝撃を与えたのは、イギリスの宗教哲学者[[ジョン・ヒック]]の[[宗教多元論]]であった。あらゆる諸宗教を等しく価値あるものとみなすこの思想は、遠藤が苦しんでいた矛盾を解決する光となった。
遠藤が興味を惹かれていたインドを舞台にして、新たなキリスト教像を提示したこの作品は、大きな反響を巻き起こした。[[熊井啓]]監督によって映画化され、また、歌手の[[宇多田ヒカル]]は、この作品に影響を受け、「[[DEEP RIVER|Deep River]]」という楽曲を発表している。
=== エディプス・コンプレックスと「母なるもの」 ===
幼少時に抱いた[[エディプス・コンプレックス]]は後年まで後を引き、様々な作品に影響を与えた。
母は[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]ヴァイオリン科にいたこともあり、芸術に対しても自分に対しても厳しい人だった。父とは異なるタイプの厳格さを持ち、子供たち(周作・[[遠藤正介|正介]])を叱ることこそしなかったが、ただひとつ「それは{{仮リンク|ホーリィ|en|Holy}}ではない」{{Sfn|遠藤|2000|p=不明}}{{要ページ番号|date=2019年3月15日 (金) 14:06 (UTC)}}という言葉を子供たちにかけた。それは子供心に非常にこたえる言葉だったが、不思議と素直にそれを受け入れる事ができた。子供たちは母を慕った。
父が母を棄てた事をどうしても許せず、死に目に会えなかった母に対する贖罪の意識と、順子夫人と結婚し一児をもうけ家庭を築き、その大事さを実感した事があいまって、別居後は父を激しく敵視・憎悪した。
父との和解をすすめた順子夫人を「両親の揃った家にぬくぬくと育ったお前に、俺の苦しみなんて分かってたまるか」{{Sfn|遠藤|2000|p=不明}}{{要ページ番号|date=2019年3月15日 (金) 14:06 (UTC)}}と{{要出典範囲|date=2012年9月|斬り捨て}}、兄が急死した時には「俺は孤児になった、孤児になった」{{Sfn|遠藤|2000|p=不明}}{{要ページ番号|date=2019年3月15日 (金) 14:06 (UTC)}}と嘆き、悲しんだ。
1977年、兄が急死した後「母と同じ墓に入りたい」という兄の生前の希望を叶えるため、母の墓を掘り起こし{{efn2|1953年死去、当時はまだ土葬だった。}}、火葬場で遺体を焼いて、お骨にし骨壺に入れた。兄の墓が出来るまでの猶予期間、遠藤周作はその骨壺を預かる事になり、その骨壺を音楽会に持ち込み、「母」と音楽会を楽しんだ。子供の頃に母に連れられていった[[ヤッシャ・ハイフェッツ]]の来日公演の記憶は鮮明に残っていた。実際には喧嘩をする事も多かったが、長い年月をかけて、母の記憶は美化・純化されていた。
父の晩年には、「親父も孤独な奴だということがわかったよ。自分の女房と、息子たちの子供時代の話ができないのは辛いだろうな」{{Sfn|遠藤|2000|p=不明}}{{要ページ番号|date=2019年3月15日 (金) 14:06 (UTC)}}と、その意識を軟化させ、入院中の父を見舞うようになった。しかし、義母(父の再婚相手)に対しては、「親父をおじいちゃんと呼んでもいいけれど、二度目の母のことをおばあちゃんと呼ぶな」{{Sfn|遠藤|2000|p=不明}}{{要ページ番号|date=2019年3月15日 (金) 14:06 (UTC)}}と、順子夫人と息子・龍之介に強制し、義母を「おやじのかみさん」と呼び続けた。
=== 「心あたたかな医療」 ===
{{節スタブ}}
1980年代半ばから始めた「心あたたかな医療」運動は、自らの大病歴から生まれたものでもあったが、それを提唱する直接のきっかけとなったのは「お手伝いさんの死」だった。20代半ばのお手伝いさんが[[骨髄ガン]]で亡くなった。医者から1ヶ月の命と宣告され、お手伝いさんが入院した時、遠藤自身も、[[蓄膿]]の手術の後で、[[上顎ガン]]の疑いがあるということで、検査のため同じ病院に入院していた。不確定な死の陰に怯える男が、確実に死ぬと分かっている彼女のために出来ることは、彼女に嘘をついて励ますこととせめて、安楽に死なせてやってほしいと交渉することだけだった。自らも、彼女の苦しみを少しでも和らげるためならと[[禁煙]]を決意、実行した。
彼女の死後/自らの上顎ガンの疑いが晴れた後、延命治療の方法論や医者の無神経から発する行為に疑問を抱き、それらは是正すべきものであるという「心あたたかな医療」運動を展開した。現在、その活動は確かに引き継がれ、根を張り始めている。
=== 「狐狸庵」先生としての遠藤周作 ===
1963年に駒場から[[町田市]]玉川学園に転居したころから、雅号を「雲谷斎狐狸庵山人」とする。「狐狸庵」とは「狐狸庵閑話」が関西弁で「こりゃあかんわ(=これはダメだな)」の意味のシャレである(狐狸庵とは、一般には、遠藤周作が40代を過ごすことになった自称柿生の山里(正確には玉川学園)の庵(住まい)をさすものと認識されているが、随筆の中で、柿生に移る前の東京都渋谷区の住いをはじめて狐狸庵と称したとしており、柿生の狐狸庵は新しい狐狸庵であるとしている)。[[1978年]]10月に『[[アップダウンクイズ]]』([[毎日放送]])に出演した際には、「狐狸庵」の由来として「町田に引っ越したところ、周りが山と林ばかりだった」ことと「ある随筆を頼まれて全く書けなかったことがあり『こりゃあかんわ』と思った」ことの2つがあると語っている。
[[滋賀県]]の懇意にしていた[[料亭]]を狐狸庵を[[琵琶湖]]にかけてもじって「湖里庵」と命名している。
純文学作家・遠藤は、カトリックと日本人との関わりを歴史的経緯の中で追求していくよう学生時代の恩師や先輩から勧められたことを小説家としての出発点とし、かつライフワークとして取り組んだ。一方、謹厳な宗教分野のテーマを追求する純文学作家としての姿を自ら離れ、いわゆるぐーたら物を中心とした身辺雑記等を書き連ねる随筆作家としての自身が創造した別のキャラクター(花鳥風月を愛し、ぐうたらでなまけものの権化、しかし言いたいことは言う)が狐狸庵山人ということになった。
ただしいずれの分野の作品もすべて公式には遠藤周作著で統一されているので、作品中で自称しているだけのユーモアである。
親友の北杜夫らとともにユーモア文学ないしユーモア作品と呼ばれる数々の随筆群を発表し、この分野の旗手と目されブームを築いたこと、またTVのCMに「狐狸庵先生遠藤周作」としてたびたび登場した経緯から、世間一般に周知されることとなった。
したがって遠藤の純文学作品が取り上げられるときに限っては「狐狸庵山人」や「狐狸庵先生」という呼称は用いられることはない。文学以外の分野では、素人劇団「樹座(きざ)」や[[音痴]]しか入団できない[[合唱]]団「コール・パパス」、素人[[囲碁]]集団「宇宙棋院」を組織したりと活動は多岐に亙った。
[[さくらももこ]]は遠藤周作と対談した際、どんな真面目な内容か緊張していたが、年齢を10歳偽るなど最初から最後まで掴みどころのないジョークで翻弄されてしまい、最後に渡された「ぼくの電話番号」に翌日電話するように言われて約束通り電話したところ、それは[[東京ガス]]の営業所の番号であったというエピソードをエッセイで語っている<ref>さくらももこ『さるのこしかけ』(集英社、1992年)25-30頁。</ref>。
なお、遠藤は中間小説の分野ではユーモア、ナンセンスもの以外にホラー、サスペンスも得意とした。専門のエンタテインメント作家のものに比べると(スキルの面での難点も見られるが)いずれも異色であり、うち2作が映画化されるなど人気も高い。これは純文学作家遠藤周作とも狐狸庵先生とも異なる第3の顔と見なすこともできる。
== カトリックの評価 ==
{{独自研究|section=1|date=2017年2月}}
遠藤は、ヨーロッパで触れたキリスト教が父性原理を強調するあまり日本人の霊性に合わないと不満を持ち、キリスト教を日本の精神的風土に根付かせようと試みた{{sfn|兼子|1995|pp=27-28}}。遠藤自身はそれを「日本人としてキリスト教信徒であることが,ダブダブの西洋の洋服を着せられたように着苦しく,それを体に合うように調達することが自分の生涯の課題であった」と語っている<ref>遠藤周作文学全集 vol. 12所収,「合わない洋服」(1967)</ref>。
晩年には[[ジョン・ヒック]]の提唱する[[宗教多元主義]]と出会って影響を受け、『深い河』の登場人物である大津を通して「神(イエス)は愛、命のぬくもり、もしくはトマトでもタマネギと呼んでもいい」といっている{{Sfn|長谷川(間瀬)|2008|p=79-100}}。
このため、遠藤に対するカトリック教会での評価は賛否が大きく分かれることとなった。
遠藤と共にフランスで学んだ[[井上洋治]]神父は、「遠藤周作氏の著作『死海のほとり』と『イエスの生涯』は、そのイエス像に賛成すると否とにかかわらず、初めて深く日本の精神的風土にキリスト教がっちりとかみ合った作品だと言えるでしょう」{{sfn|兼子|1995|p=28}}と高く評価している。また、カトリック新聞にも遠藤が「キリスト教を広めた」という評価する記事が掲載された<ref>カトリック新聞 1979年4月8日付 </ref>。
[[サレジオ会]]の[[アロイジオ・デルコル]]神父は、1978年12月24日の[[クリスマス]]のテレビ番組で「キリストは奇跡をしたといわれるが、じっさいは無力で何の奇跡もしなかったのである」という自説を『イエスの生涯』、『キリストの誕生』、『沈黙』等で書いたと遠藤が語ったことに対し、「遠藤氏の文学は、キリスト教や聖書をテーマにしたにしても、布教にとって大きなマイナスであり、とくに非キリスト者にとっては、”ゆがめられたキリスト教”紹介したにすぎない」と評している<ref>ご存じですか 41 キリスト者の信条 踏絵について デルコル神父・フェデリコバルバロ神父著 世のひかり社, 4-6頁{{Full citation needed |date=2019-03-15 |title=刊行年不明。2人目の著者の姓は「バルバロ」のみなのではないか、「ご存知ですか」はシリーズ名のようにも見える等の疑問点あるが、正確な書誌情報が不明。}}</ref>。
遠藤が踏絵のキリストの顔が「早くふむがいい。それでいいのだ。私が存在するのは、お前たちの弱さのために、あるのだ」と言っている気がしたとカトリック新聞1972年1月23日付の記事に書いたことに対し、[[フェデリコ・バルバロ]]神父は反論を書いている。
{{quotation|遠藤氏の場合、自分や肉親のいのちを救わんがために、踏絵に足をのせた人々に向かって、キリストだったら何を言うであろうかと、氏自身キリストに代わって答えたつもりであろう。遠藤氏は、自分の肩には重すぎる荷を、せおったのではあるまいか。その荷は、氏のみならず、誰にとっても重すぎるにちがいない。
キリストは、人間世界の現実と、人間の考え方や生き方について、大抵の場合、思いもよらない、時には人をぎょっとさせ、不安に陥し入れるような冷酷とも思われる解答を提出している。本当のことを言えば、われわれには、決してキリストを理解し切ることはできないはずである。それは、キリストの叫びの次元が、われわれのとはちがうからである。
キリストは、人間の目と同時に神の目を、人間の心と同時に神の心をもっていた。したがって遠藤氏の言うキリストは、かれ自身の次元にとどまるキリストにすぎないという強い印象を私はうけている。
<ref>ご存じですか 41 キリスト者の信条 踏絵について デルコル神父・フェデリコバルバロ神父著 世のひかり社, 25-26頁</ref>。}}
しかしながら、遠藤は初期の留学経験などから西欧との深い溝、そして日本人と(東洋的)汎神論の避け難い結合を意識し、キリスト教という宗教を文化背景に持たない日本において、救い主キリストが日本人にどのように提示され得るかという問題意識を持つに至った{{Sfn|長谷川(間瀬)|2008|p=79-100}}。この認識、{{独自研究範囲|そして第2公会議における「すべての民族の独自性は伝統文化に照らし合わせ適応され受け入れられる」(教会の宣教活動に関する教令)という宣言を考慮することなしに、『沈黙』から『侍』に至る彼の母性的な「同伴者イエス」のビジョンを理解することが難しい、ということを、上に引用された批判は計らずも明らかにしているのである|date=2017年2月}}<!--<ref>[http://www.tokibo.co.jp/vitalite/pdf/no22/v22p11faith.pdf 『──日本人とキリスト教── 遠藤周作の魂』奥村 一郎]</ref>-->。
== 略年譜 ==
* 1923年(大正12年)
:3月27日 - 東京巣鴨に生まれる。
* 1926年(大正15年・昭和元年)
:父の転勤により、[[満州|満洲]]関東州、[[大連市|大連]]に移る。
* 1929年(昭和4年)
:大連市の大広場小学校に入学。
* 1933年(昭和8年)
:父母の[[離婚]]により母に連れられて兄とともに日本に帰国し[[神戸市]]の六甲小学校に転校する。
* 1935年(昭和10年)
:私立[[灘中学校・高等学校|灘中学校]]に入学。
:4月 - 母は宝塚市の[[小林聖心女子学院小学校・中学校・高等学校|小林聖心女子学院]]の音楽教師になり5月29日[[受洗]]。
:6月 - 周作も兄とともに[[西宮市]]の[[夙川カトリック教会]]で受洗。[[霊名|洗礼名]]ポール。
* 1940年(昭和15年)
:灘中学校卒業。
* 1941年(昭和16年)
:4月 - [[上智大学]]予科甲類に入学し籍を置くが、なお旧制高校をめざして受験勉強を続ける。
* 1942年(昭和17年)
:2月 - 上智大学予科を退学。旧制高校受験の失敗が続くが、母の経済的負担を考え、経堂の父の家に移る。
* 1943年(昭和18年)
: - [[慶應義塾大学]]文学部予科に入学。しかし父が命じた[[医学部]]を受けなかったため[[勘当]]され、父の家を出てアルバイト生活を続ける。友人宅にころがりこんだ後、学生寮に入る。
* 1945年(昭和20年)
:慶應義塾大学文学部仏文科に進学。
* 1946年(昭和21年)
:父の家に戻る。
* 1947年(昭和22年)
:12月 - 処女評論『神々と神と』が[[神西清]]に認められ、『四季』第5号(角川書店)に掲載。
* 1948年(昭和23年)
:3月 - 慶應義塾大学仏文科卒業。[[松竹]]大船撮影所の助監督採用試験に失敗。
* 1949年(昭和24年)
:6月 - [[鎌倉文庫]]の[[嘱託社員|嘱託]]になり、外国文学辞典編纂に従事したが、同社はまもなく[[倒産]]。カトリック・ダイジェスト社で働く。[[三田文学]][[同人]]になる。
* 1950年(昭和25年)
:6月 - 戦後初のフランスへの留学生として渡欧。
:10月 - [[リヨン大学]]に入学。
* 1951年(昭和26年)
:夏 - [[モーリヤック]]の『テレーズ・デスケイルウ』の舞台であるランド地方を徒歩旅行。
* 1953年(昭和28年)
:パリに移る。体調を崩し入院。
:2月 - 帰国。
:7月 - 『フランスの大学生』を早川書房より刊行。
:12月 - 母郁死去。
* 1954年(昭和29年)
:4月 - [[文化学院]]の講師を務める。[[安岡章太郎]]の紹介で[[構想の会]]に参加し、知己を広げる。[[奥野健男]]の紹介で[[現代評論]]に参加し、6・12月号に『マルキ・ド・サド評伝』を発表。
:11月、三田文学に処女小説『アデンまで』を発表。
* 1955年(昭和30年)
:7月 - 『[[白い人]]』で第33回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞。
:9月 - [[岡田幸三郎]]の長女、順子と結婚。父の家で短期間同居の後、世田谷区松原に転居。
* 1956年(昭和31年)
:6月 - 長男[[遠藤龍之介|龍之介]]誕生。上智大学文学部の講師を務める。
* 1958年(昭和33年)
:10月 - アジア・アフリカ作家会議に参加。
:12月 - 『[[海と毒薬]]』で第5回[[新潮社文学賞]]、第12回[[毎日出版文化賞]]を受賞。
* 1959年(昭和34年)
:11月 - [[マルキ・ド・サド]]の勉強/さらに理解を深めるために夫人を同伴してフランスに旅行、翌年1月に帰国。
* 1960年(昭和35年)
:4月 - 帰国後に体調を崩し、東京大学伝染病研究所病院に入院。年末に慶應義塾大学病院に転院。
* 1961年(昭和36年)
:1月 - 3回にわたり肺の手術を行なう。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。
* 1962年(昭和37年)
: - 5月、退院。
* 1963年(昭和38年)
:3月 - [[町田市]][[玉川学園]]に転居。新居を「狐狸庵」と名付け、以降「狐狸庵山人」という雅号を使い始める。
* 1965年(昭和40年)
: - 新潮社の書き下ろし小説『[[沈黙 (遠藤周作)|沈黙]]』制作のための下調べ/取材で、[[三浦朱門]]とともに長崎・平戸を数回旅行。
* 1966年(昭和41年)
:3月 - 『[[沈黙 (遠藤周作)|沈黙]]』を刊行。
:成城大学の講師を務める( - 1969年)
:5月 - [[劇団雲]]で戯曲『黄金の国』(演出:[[芥川比呂志]])初演。
:10月、『沈黙』で第2回[[谷崎潤一郎賞]]を受賞。
* 1967年(昭和42年)
:8月、ポルトガル大使[[アルマンド・マルチンス]]の招待を受け、[[アルブフェイラ|アウブフェーラ]]で行われた[[ヴァンサン・ド・ポール|聖ヴィンセント]]の300年祭で記念講演。その後、[[リスボン]]、パリ、[[ローマ]]を廻り、9月に帰国。
* 1968年(昭和43年)
: - 三田文学の編集長に就任( - 1969年)。
:4月 - 劇団「樹座」を立ち上げ、[[紀伊國屋ホール]]で[[ウィリアム・シェークスピア]]の『[[ロミオとジュリエット]]』を上演。
* 1969年(昭和44年)
:1月 - 新潮社の書き下ろし小説『薔薇の館・黄金の国』制作のための下調べ/取材で、[[イスラエル]]に旅行し、2月に帰国。
:4月 - アメリカ国務省の招待を受け、アメリカに旅行し、5月に帰国。
* 1970年(昭和45年)
:4月 - [[矢代静一]]、[[阪田寛夫]]、[[井上洋治]]とともにイスラエルに旅行し、5月に帰国。
* 1971年(昭和46年)
:11月 - 戯曲『メナム川の日本人』制作のための下調べ/取材で、タイのアユタヤに旅行。その後、[[ベナレス]]、[[イスタンブール]]、ストックホルム、パリを廻り、同月帰国。[[ローマ教皇庁|ローマ法皇庁]]から[[聖シルベストロ教皇騎士団勲章|シルベストリー勲章]]を受ける。
* 1972年(昭和47年)
:3月 - [[ローマ教皇|ローマ法王]]謁見のため、[[三浦朱門]]、[[曽野綾子]]とともにローマを旅行。その後、書きかけの小説『死海のほとり』を仕上げるため、イスラエルに立ち寄り、4月に帰国。
:5月 - [[中央教育審議会]]の委員を引き受ける<ref>「有吉氏らが委員に 新中教審の18氏決る」『朝日新聞』昭和47年(1972年)5月30日夕刊、3版、3面</ref>。
:10月 - 日本文芸家協会常任理事に就任。遠藤周作作品が欧米で翻訳され始める。この年には『海と毒薬』が[[イギリス]]で、『沈黙』がオランダ、スウェーデン、スペイン、ノルウェー、フランス、ポーランドで翻訳出版された。
* 1973年(昭和48年)
:3月 - 「遠藤周作氏と行くヨーロッパ演劇の旅」で、ロンドン、パリ、ミラノ、スペイン([[アンダルシア州]])を廻り、4月に帰国。
* 1974年(昭和49年)
:5月 - 仕事場を代々木富ヶ谷に移す。
:10月 - 新潮社の書き下ろし小説『彼の生き方』制作のための下調べ/取材で、メキシコに旅行し、同月に帰国。
* 1975年(昭和50年)
: - 2月、北杜夫、[[阿川弘之]]とともにロンドン、フランクフルト、ブリュッセルで在留日本人のための講演旅行、同月に帰国。
* 1976年(昭和51年)
:1月 - [[面白半分]]の編集長に就任( - 6月)。
:6月 - 『鉄の首枷-小西行長伝』の取材で[[大韓民国]]へ旅行し、[[豊浦]]、[[釜山広域市|釜山]]、[[鎮海区 (昌原市)|熊川]]、[[慶州]]、[[蔚山広域市|蔚山]]を廻り、同月帰国。9月には[[ジャパン・ソサエティー|ジャパン・ソサエティ]]の招待を受け、アメリカに旅行。ニューヨーク]講演した後、ロサンゼルス、サンフランシスコを廻り、同月帰国。
:12月 - [[ピエトゥシャック賞]]を受賞。授賞式参加のため、[[ポーランド]]の[[ワルシャワ]]に旅行、その後[[オシフィエンチム|アウシュヴィッツ]]を見学し、同月に帰国。
* 1977年(昭和52年)
:1月 - 芥川賞選考委員に就任( - 1987年)。
:5月 - 兄死去。
* 1978年(昭和53年)
:6月 - 『イエスの生涯』で[[国際ダグ・ハマーショルド賞]]を受賞。
* 1979年(昭和54年)
:2月 - 『キリストの誕生』で第30回[[読売文学賞]]評論・伝記賞を受賞。『王国への道-山田長政』の取材でタイのアユタヤに旅行し、同月帰国。
:3月 - [[中華人民共和国]]に旅行。46年ぶりに幼少時代の想い出の地[[大連市|大連]]を訪れる。同月帰国。
:4月 - 翻訳出版のトラブル解消のため、イギリスロンドンに旅行。その後、パリ、ローマを廻り、同月帰国。[[日本芸術院賞]]を受賞<ref>『朝日新聞』1979年3月6日([[朝日新聞東京本社|東京本社]]発行)朝刊、22頁。</ref>。
* 1980年(昭和55年)
:5月 - 劇団「樹座」のニューヨーク公演。ジャパン・ソサエティで『カルメン』を上演。『侍』で第33回[[野間文芸賞]]を受賞。
* 1981年(昭和56年) - [[日本芸術院]]会員になる。
* 1985年(昭和60年)
:4月 - イギリス、スウェーデン、フィンランドを旅行し、同月に帰国。ロンドンのホテルで[[グレアム・グリーン]]と鉢合わせし、文学論を交わした。
:6月 - [[日本ペンクラブ]]第10代会長に就任( - 1989年)。[[サンタクララ大学]]の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。その後、[[カリフォルニア大学]]の[[ジャック=マリタン・アンド・トーマス=モア研究所]]で講演を行ない、同月に帰国。
* 1986年(昭和61年)
:2月 - 代々木富ヶ谷の仕事場を仮住まいにする。劇団「樹座」のロンドン公演。ジャネッタ・コクラン劇場で『蝶々夫人』を上演。
:11月 - 台湾の[[輔仁大学]]の招待を受け、台湾に旅行。「宗教と文学の会」で講演を行い、同月に帰国。
* 1987年(昭和62年)
:5月 - [[ジョージタウン大学]]の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行し、同月帰国。
:10月 - [[韓国文化院]]の招待を受け、大韓民国に旅行し、同月帰国。[[尹興吉]]との知遇を得る。
* 1988年(昭和63年)
:4月 - 夫人を同伴してロンドンに旅行し、同月帰国。
:8月 - [[国際ペンクラブ]]のソウル大会出席のため、大韓民国に旅行し、翌月帰国。[[文化功労者]]に選出される。
* 1989年(昭和64年・[[平成]]元年)
:12月 - 父[[遠藤常久 (実業家)|常久]]死去。
* 1990年(平成2年)
:2月 - 『深い河』の制作のための下調べ/取材で、インドに旅行し、同月帰国。
:7月 - 仕事場を上大崎に移す。
:10月 - アメリカの[[キャンピオン賞]]を受賞。
* 1991年(平成3年)
:1月、三田文学会理事長に就任( - 1995年)。
:5月 - {{仮リンク|ジョン・キャロル大学|en|John Carroll University}}の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。その後、[[マーティン・スコセッシ]]と『沈黙』の映画化について話し合い、同月帰国。
:12月 - [[輔仁大学]]の名誉博士号を受けるため、台湾に旅行、同月帰国。
* 1993年(平成5年)
:5月 - [[腹膜透析]]の手術を行う。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。以後、入退院を繰り返すことになる。
* 1995年(平成7年)
:9月 - 脳内出血で[[順天堂大学病院]]に入院。
:11月 - [[文化勲章]]受章。
:12月 - 退院。
* 1996年(平成8年)
:4月 - 腎臓病治療のため、[[慶應義塾大学病院]]に入院。
:9月29日 - 午後6時36分、肺炎による呼吸不全で死去。
== 家族・親族 ==
=== 遠藤家 ===
;([[鳥取県]]、[[東京都]])
;家系
* '''初代・元衛(元哲)'''
:遠藤家は代々東分知家の御医師で、初代を元衛(元哲)といい、[[鳥取]]の町医師であった{{efn2|医師[[森納]]によれば「[[医師]]の諸身分について、江戸時代には封建制上の身分によって大別すれば、[[藩医]]・町医師・在医師の区別があった。藩医は、[[藩]]によって召し抱えられた医師である。それに準ずる身分として[[鳥取藩]]の場合、東西両分知家と着座家に召し抱えられた医師、即ち陪臣医があった。藩医・陪臣医は俗に“[[御典医]]”と呼ばれ、[[武士]]身分の処遇をうけた。町医師は、鳥取城下・[[米子市|米子]]・[[倉吉市|倉吉]]等の町で[[町奉行]]支配を受けた[[町人|町民]]医師である。藩医には御医師、無足医師の区別があった。御医師は城詰を命ぜられた医師である。藩臣の礼席上の地位では、御近習の次席に置かれたので、御近習医師とも呼ばれた。次に、[[士分]]格医師の初級の者が無足医師である。町医師から抜擢されて藩に召し抱えられ士分取り立てとなった際、まず無足医師とされ、五人扶持を与えられるのが普通であった{{Sfn|森|1993|pp=15-16}}。}}が[[宝暦]]14年(1764年)3月四代[[池田澄延]]に召抱えられ、名も元哲と改めた{{Sfn|森|1985|p=98}}。明和3年(1766年)侍医となり四人扶持を受けた{{Sfn|森|1985|p=98}}。続いて五代[[池田延俊]]の侍医となり、明和9年(1772年)に詰江戸を命ぜられ、二十俵支配と詰高五俵の二十五俵の加増を受けた{{Sfn|森|1985|p=98}}。
* '''二代目・玄益'''
:元哲に医師とする男子なく、藩医[[真嶋三随]]の甥である玄益を養子とした{{Sfn|森|1985|p=98}}。[[安永]]4年(1775年)6月病没した{{Sfn|森|1985|p=98}}。玄益は養子のため、三人扶持を受けて[[家督]]相続し、[[天明]]8年(1788年)より藩邸や城中勤務をした{{Sfn|森|1985|p=98}}。勤務良好とあって翌[[寛政]]元年(1789年)には四人扶持となっている{{Sfn|森|1985|p=98}}。そして御近習医師に昇格し、詰江戸を命ぜられ寛政6年まで江戸三田邸に勤務した{{Sfn|森|1985|p=98}}。その後も度々江戸詰を命ぜられ五人扶持二十五俵の加増となり、寛政12年(1800年)3月から七代[[池田仲雅]]の御匕代役をした。[[享和]]2年に諸役から退き[[文化 (元号)|文化]]7年(1810年)正月に病没した{{Sfn|森|1985|p=98}}。
* '''三代目・玄里'''
: 三代玄里は玄益の実子で四人扶持を継いだ。[[文政]]2年(1819年)より藩邸、城中勤務をし、江戸詰も度々命ぜられている{{Sfn|森|1985|p=98}}。[[安政]]2年(1855年)同じ東分知家医師であった石原玄碩長男の隼見を養子とした{{Sfn|森|1985|p=98}}。玄里は翌安政3年(1856年)9月病没した{{Sfn|森|1985|p=98}}。
* '''四代目・玄益'''
: 四代玄益は父玄碩や本藩の[[藩医]]大島秀洞(本道、二〇〇石)に学んでおり、医術もよくできた{{Sfn|森|1985|p=98}}。養子のため四人扶持十九俵を受けたが、翌年より城中勤務となり、安政6年(1859年)には九代[[池田仲立]]の御匕役{{efn2|医師[[森納]]によれば「御近習医師の筆頭が御匕役で、[[内科学|内科]]の医師のうち特に業務の勝れた者が選ばれた。御匕役は大体2人か3人で、[[藩主]]の日常の健康管理、投薬、膳部の毒味などに当たった{{Sfn|森|1993|p=17}}。}}を勤めた{{Sfn|森|1985|p=98}}。
: 玄益に子供がなく[[慶応]]2年(1866年)6月中村鼎斎の門人で、[[邑美郡]]田島村の岡田新左衛門の子である岡田謙三を[[養子]]に入れた{{Sfn|森|1985|p=98}}。[[明治]]元年(1868年)よりその謙三に代番勤めをさせている{{Sfn|森|1985|p=98}}。しかし明治2年(1869年)より再び藩に勤務している{{Sfn|森|1985|p=98}}。[[明治維新|維新]]後の経歴は明らかでないが、河村郡下浅津村で開業していた{{Sfn|森|1985|p=98}}。そして医業のかたわら創立して間もない浅津学校の[[訓導]]兼[[校長]]を勤めた{{Sfn|森|1985|p=99}}。明治13年(1880年)に没した{{Sfn|森|1985|p=99}}。
* '''謙三の子たち'''
: 謙三の子に又蔵、河津三、隼見の三子がいた{{Sfn|森|1985|p=99}}。又蔵は[[医師]]とならず[[東京大学|東大]]理学部を卒業して早稲田の[[数学]]の教師となり、三男隼見は、東大経済学部を卒業して[[三菱商事]]に勤務した{{Sfn|森|1985|p=99}}。
* '''謙三の二男河津三'''
: 二男河津三は、岡山の三高医学部を卒業して東京に出て済生学舎で修行し明治33年(1900年)[[医術開業試験|開業試験]]に合格した{{Sfn|森|1985|p=99}}。一時横浜十全病院に勤めたのち明治35年(1902年)下浅津村に帰り、父の跡をついで医業をした{{Sfn|森|1985|p=99}}。医業は多忙を極め、その上、需められ東郷池の向う花見村長和田に出張診療所を設けて日夜診療に明け暮れたという{{Sfn|森|1985|p=99}}。河津三は郡医師会理事もつとめ、戦時中は満州開拓団の医師として2年ばかり夫婦で渡満し、帰国後再び浅津、長和田地区の診療をした{{Sfn|森|1985|p=99}}。[[昭和]]24年(1949年)2月病没した{{Sfn|森|1985|p=99}}。
;家庭
* 父 '''[[遠藤常久 (実業家)|常久]]'''(銀行員)
: 養子[[遠藤常久 (実業家)|常久]]は医師とならず東大法学部を卒業して安田銀行に勤務した{{Sfn|森|1985|p=99}}。
* 母 '''郁'''
* 義母 '''秀子''' - 父親の再婚相手。
* 兄 '''[[遠藤正介|正介]]'''
:東京大学法学部卒、[[日本電信電話公社|電電公社]]総務理事。
* 妻 '''順子'''(実業家[[岡田幸三郎]]の娘。俳優[[岡田英次]]の従妹)
:[[東洋英和女学院中学部・高等部|東洋英和女学院]]、慶應義塾大学仏文科卒業。夫周作の死後、思い出を語った作品を残している(『夫・遠藤周作を語る』(聞き手鈴木秀子、文春文庫)、『夫の宿題』(2冊、PHP)ほか)。2021年1月16日、93歳で死去<ref>{{Cite web2 |url=https://nordot.app/742913696405897216?c=39546741839462401 |title=故遠藤周作氏の妻、遠藤順子さん死去 文学館建設に尽力 |df=ja |date=2021-03-12 |publisher=長崎新聞 |archiveurl=https://archive.md/sk3Jo |url-status=live |archivedate=2023-01-30 |accessdate=2023-01-30}}</ref>。
* 長男 '''[[遠藤龍之介|龍之介]]'''
:芥川賞受賞にちなんで龍之介と命名。[[フジテレビジョン]]に入社し、現在[[社長]]<ref name="cyzo10746"/><ref>[https://www.asahi.com/articles/ASM5F6FQ7M5FUCVL028.html フジテレビ社長に遠藤周作氏長男 「騒動」時に広報部長 2019年5月13日20時17分] - 『[[朝日新聞]]』</ref><ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201905130000745.html フジ新社長の遠藤龍之介氏「高卒社長誕生」デマ語る {{Nowiki|[2019年5月14日5時1分]}}] - 『[[日刊スポーツ]]』</ref>。父周作との子どものころの約束は3つあり「うそをつかない。ともだちを裏切らない。弱い人間を馬鹿にしない」だった。また会話は、敬語を用い、周作からは含みを残す言い回しや比喩を用いた表現を常としたとの回想がある。
== 作品一覧 ==
=== 日本 ===
*『フランスの大学生』(1953年、[[早川書房]])のち[[角川文庫]]、ぶんか社文庫
*『カトリック作家の問題』(1954年、早川書房)
*『[[堀辰雄]]』(1955年、一古堂)「堀辰雄覚書」講談社文芸文庫
*『白い人・黄色い人』(1955年、[[講談社]])のち文庫、[[新潮文庫]]、[[講談社文芸文庫]]
*『神と悪魔』(1956年、現代文芸社)
*『青い小さな葡萄』(1956年、[[新潮社]])のち[[講談社文庫]]、文芸文庫
*『タカシのフランス一周』(1957年、[[白水社]])
*『恋することと愛すること』(1957年、[[実業之日本社]])
*『月光のドミナ』(1958年、[[東京創元社]])のち新潮文庫
*『[[海と毒薬]]』(1958年、[[文藝春秋]]新社)のち角川文庫、講談社文庫、新潮文庫
*『恋愛論ノート』(1958年、東都書房)
*『恋の絵本』(1959年、[[平凡出版]])のち[[大和書房]]・女性論文庫
*『おバカさん』(1959年、[[中央公論社]])のち角川文庫、[[中公文庫]]、ぶんか社文庫
*『蜘蛛 周作恐怖譚』(1959年、新潮社)
*『若い日の恋愛ノート』(1960年、[[青春出版社]])「恋愛とは何か」角川文庫
*『新鋭文学叢書6 遠藤周作集』(1960年、[[筑摩書房]])
*『火山』(1960年、文藝春秋新社)のち角川文庫
*『あまりに碧い空』(1960年、新潮社)
*『聖書のなかの女性たち』(1960年、[[角川書店]])のち講談社文庫
*『ヘチマくん』(1961年、新潮社)のち角川文庫
*『結婚』(1962年、講談社)のち文庫
*『宗教と文学』(1963年、南北社)
*『[[わたしが・棄てた・女]]』(1964年、文藝春秋新社)のち講談社文庫、改版2012
*『浮世風呂』(1964年、講談社)
*『一・二・三!』(1964年、中央公論社)のち文庫
*『偽作』(1964年、[[東方社]])
*『留学』(1965年、文藝春秋新社)のち新潮文庫
*『狐狸庵閑話』(1965年、[[桃源社]])のち新潮文庫『狐狸庵閑話』(「古今百馬鹿」「現代の快人物」も併録)
*『哀歌』(1965年、講談社)のち文庫、文芸文庫
*『[[沈黙 (遠藤周作)|沈黙]]』(1966年、新潮社)のち文庫
*『金と銀』(1966年、[[佼成出版社]])のち[[文春文庫]]
*『楽天主義のすすめ』(1966年、青春出版社)
*『協奏曲』(1966年、講談社)のち文庫
*『さらば、夏の光よ』(1966年、桃源社)のち講談社文庫
*『闇のよぶ声』(1966年、[[光文社]])のち角川文庫、ぶんか社文庫
*『ぐうたら生活入門』(1967年、未央書房)のち角川文庫
*『キリシタン時代の知識人-背教と殉教』(1967年、[[日本経済新聞社]])
*『現代の快人物-狐狸庵閑話巻之弐』(1967年、桃源社)のち角川文庫
*『[[どっこいショ]]』(1967年、講談社)のち文庫
*『私の影法師』(1967年、桂書房)
*『古今百馬鹿-狐狸庵閑話巻之参』(1967年、桃源社)のち角川文庫
*『影法師』(1968年、新潮社)のち文庫
*『快男児・怪男児』(1968年、講談社)
*『それ行け狐狸庵』(1969年、文藝春秋)のち文庫
*『遠藤周作ユーモア小説集』(1969年、講談社)のち文庫
*『[[大変だァ]]』(1969年、新潮社)のち文庫
*『薔薇の館・黄金の国』(1969年、新潮社)
*『楽天大将』(1969年、講談社)のち文庫
*『遠藤周作怪奇小説集』(1970年、講談社)のち文庫
*『愛情論-幸福の手帖』(1970年、虎見書房)
*『遠藤周作の本』(1970年、KK[[ベストセラーズ]])
*『石の声』(1970年、[[冬樹社]])
*『切支丹の里』(1971年、[[人文書院]])のち中公文庫
*『母なるもの』(1971年、新潮社)のち文庫
*『黒ん坊』(1971年、[[毎日新聞社]])のち角川文庫
*『埋もれた古城』(1971年、新潮社)のち[[集英社文庫]]
*『遠藤周作シナリオ集』(1971年、講談社)
*『ただいま浪人』(1972年、講談社)のち文庫
*『狐狸庵雑記帳』(1972年、毎日新聞社)
*『ぐうたら人間学』(1972年、講談社)のち文庫(狐狸庵閑話)
*『牧歌』(1972年、番町書房)のち新潮文庫
*『狐狸庵型』(1973年、番町書房)のち角川文庫
*『灯のうるむ頃』(1973年、講談社)のち角川文庫
*『ぐうたら愛情学』(1973年、講談社)のち文庫(狐狸庵閑話)
*『死海のほとり』(1973年、新潮社)のち文庫
*『メナム河の日本人』(1973年、新潮社)
*『ぐうたら会話集』(1973年、角川書店)のち文庫
*『イエスの生涯』(1973年、新潮社)のち文庫
*『遠藤周作第二ユーモア小説集』(1973年、講談社)のち文庫
*『ぐうたら好奇学』(1974年、講談社)
*『ピエロの歌』(1974年、新潮社)のち文庫
*『周作快談』(1974年、毎日新聞社)
*『口笛をふく時』(1974年、講談社)のち文庫
*『うちの女房、うちの息子』(1974年、講談社)
*『喜劇 新四谷怪談』(1974年、新潮社)
*『最後の殉教者』(1974年、講談社)のち文庫
*『恋愛作法』(1974年、いんなあとりっぷ社)
*『日本人を語る』(1974年、[[小学館]])
*『君たちの悩みにまじめにお答えします』(1975年、[[集英社]])
*『彼の生き方』(1975年、新潮社)のち文庫
*『この人たちの考え方』(1975年、[[読売新聞社]])
*『身上相談』(1975年、毎日新聞社)「小説身上相談」文春文庫
*『ぼくたちの洋行』(1975年、講談社)のち文庫
*『吾が顔を見る能はじ』(1975年、北洋社)
*『観客席から』(1975年、番町書房)「観客席から 私の大好きな映画と芝居」角川文庫
*『続・日本人を語る』(1975年、小学館)
*『遠藤周作ミステリー小説集』(1975年、講談社)
*『ボクは好奇心のかたまり』(1976年、新潮社)のち文庫
*『勇気ある言葉』(1976年、毎日新聞社)のち集英社文庫
*『私のイエス-日本人のための聖書入門』(1976年、[[祥伝社]])
*『砂の城』(1976年、[[主婦の友社]])のち新潮文庫
*『[[悲しみの歌]]』(1977、新潮社)のち文庫
*『鉄の首枷-[[小西行長]]伝』(1977年、中央公論社)のち文庫、ぶんか社文庫
*『走馬燈-その人たちの人生』(1977年、毎日新聞社)のち新潮文庫
*『旅は道づれ世は情け』(1977年、番町書房)
*『自選作家の旅』(1977年、[[山と渓谷社]])
*『日本人はキリスト教を信じられるか』(1977年、講談社)
*『愛情セミナー』(1977年、集英社文庫)
*『白い風船』(1977年、[[教育出版]]6年生国語教科書昭和52年度版)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/shou/kokugo/document/ducu2/docu206/118.html |title=過去の教科書 昭和52年度版 |access-date=2022.11.30 |publisher=教育出版}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=所蔵調査 教科書に載った遠藤周作著「白い風船」について |url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000027984 |website=レファレンス協同データベース |access-date=2022-11-30 |language=ja |last=国立国会図書館}}</ref>
*『ウスバかげろう日記』(1978年、文藝春秋)のち文庫、河出文庫
*『人間のなかのX』(1978年、中央公論社)のち文庫
*『キリストの誕生』(1978年、新潮社)のち文庫
*『ぐうたら会話集』第2-3集(1978、80年、角川書店)のち文庫
*『王妃[[マリー・アントワネット]]』全3巻(1979-80年、朝日新聞社)のち新潮文庫
**[[マリー・アントワネット (ミュージカル)]] - 2006年に[[ミュージカル]]化され、[[ブレーメン]]にてドイツ語でも上演された。
*『銃と十字架』(1979年、中央公論社)のち文庫([[ペトロ岐部]])
*『十一の色硝子』(1979年、新潮社)のち文庫
*『異邦人の立場から』(1979年、現代の随想 日本書籍)のち講談社文芸文庫
*『お茶を飲みながら』(1979年、小学館)のち集英社文庫
*『ぐうたら社会学』(1979年、集英社文庫
*『結婚論』(1980年、主婦の友社)
*『天使』(1980年、角川書店)のち文庫
*『[[侍 (小説)|侍]]』(1980年、新潮社)のち文庫
*『狐狸庵二十面相』(1980年、文藝春秋)
*『父親』〈上・下〉(1980年、講談社)のち集英社文庫、講談社文庫、集英社文庫
*『かくれ切支丹』(1980年、角川書店)
*『作家の日記』(1980年、[[作品社]])のち講談社文庫、福武文庫、講談社文芸文庫
*『遠藤周作による遠藤周作』(1980年、青銅社)
*『[[真昼の悪魔]]』(1980年、新潮社)のち文庫
*『狐狸庵うちあけ話』(1981年、集英社文庫)
*『愛と人生をめぐる断想』(1981年、[[文化出版局]])のち[[光文社文庫]]
*『王国への道-[[山田長政]]』(1981年、[[平凡社]])のち新潮文庫
*『名画・イエス巡礼』(1981年、文藝春秋)「イエス巡礼」文庫
*『女の一生』(1982年、朝日新聞社)のち新潮文庫
*『足のむくまま 気のむくまま』(1982年、文藝春秋)のち文庫
*『自分をどう愛するか〈生活編〉』(1982年、青春出版社)のち文庫
*『冬の優しさ』(1982年、文化出版局)のち新潮文庫
*『あべこべ人間』(1982年、集英社)のち文庫
*『遠藤周作と考える-幸福、人生、宗教について』(1982年、[[PHP研究所]])
*『悪霊の午後』(1983年、講談社)のち文庫
*『私にとって神とは』(1983年、光文社)のち文庫
*『よく学び、よく遊び』(1983年、小学館)のち集英社文庫
*『イエス・キリスト』(1983年、新潮社) - 『イエスの生涯』『キリストの誕生』の合本
*『イエスに邂った女たち』(1983年、講談社)のち文庫
*『自分づくり-自分をどう愛するか〈生き方編〉』(1984年、青春出版社)のち文庫
*『私の愛した小説』(1985年、新潮社)のち文庫 - 「[[テレーズの罪|テレーズ・デスケルウ]]」作品論と訳
*『何でもない話』(1985年、講談社)のち文庫
*『ほんとうの私を求めて』(1985年、海竜社)のち集英社文庫
*『宿敵』〈上・下〉(1985年、角川書店)のち文庫([[小西行長]]・[[加藤清正]])
*『心の夜想曲(1986年、文藝春秋)のち文庫
*『ひとりを愛し続ける本』(1986年、青春出版社)のち講談社文庫
*『スキャンダル』(1986年、新潮社)のち文庫
*『風の肉声』(1986年、大和出版)
*『私が見つけた名治療家32人』(1986年、祥伝社)
*『遠藤周作のあたたかな医療を考える』(1986年、読売出版社)
*『あなたの中の秘密のあなた』(1986年、ハーレクイン・エンタープライズ支社)のち[[PHP文庫]]
*『男感覚女感覚の知り方』(1986年、青春出版社)のち文庫
*『わが恋う人は』(1987年、講談社)のち文庫
*『死について考える-この世界から次の世界へ』(1987年、光文社)のち文庫
*『ピアノ協奏曲二十一番』(1987年、文藝春秋)のち文庫
*『眠れぬ夜に読む本』(1987年、光文社)のち文庫
*『あまのじゃく人間へ』(1987年、青春出版社)のち文庫
*『妖女のごとく』(1987年、講談社)のち文庫 ([[長崎俊一]]監督で「妖女の時代」として映画化)
*『こころの不思議、神の領域』(1988年、PHP研究所)のち文庫
*『ファーストレディ』〈上・下〉(1988年、新潮社)のち文庫
*『その夜のコニャック』(1988年、文藝春秋)のち文庫
*『“逆さま流”人間学』(1989年、青春出版社)「らくらく人間学 逆さまに見れば何んでも面白くなる」文庫
*『春は馬車に乗って』(1989年、文藝春秋)のち文庫
*『こんな治療法もある』(1989年、講談社)
*『反逆』〈上・下〉(1989年、講談社)のち文庫 ([[織田信長]])
*『落第坊主の履歴書』(1989年、日本経済新聞社)のち文春文庫、日経文芸文庫([[私の履歴書]])
*『変るものと変らぬもの』(1990年、文藝春秋)のち文庫
*『心の海を探る』(1990年、[[プレジデント社]])のち角川文庫
*『考えすぎ人間』(1990年、青春出版社)のち文庫
*『生き上手 死に上手』(1991年、海竜社)のち文春文庫
*『決戦の時』〈上・下〉(1991年、講談社)のち文庫(織田信長、[[生駒吉乃]])
*『男の一生』〈上・下〉(1991年、日本経済新聞社)のち文春文庫、日経文芸文庫 ([[前野長康]])
*『ヘンな自分を愛しなさい』青春出版社、1991 「ちょっと幸福論 あなたの中の未知のあなたへ」文庫
*『心の砂時計』(1992年、文藝春秋)のち文庫
*『王の挽歌』〈上・下〉(1992年、新潮社)のち文庫 ([[大友義鎮|大友宗麟]])
*『異国の友人たちに』(1992年、読売新聞社)
*『狐狸庵 歴史の夜話』(1992年、牧羊社)のちPHP文庫
*『万華鏡』(1993年、朝日新聞社)のち朝日文芸文庫
*『[[深い河]]』(1993年、講談社)のち文庫
*『心の航海図』(1994年、文藝春秋)のち文庫
*『女』(1995年、講談社)のち文春文庫
*『戦国夜話』(1996年、小学館)
*『風の十字路』(1996年7月、小学館)
*『なつかしき人々』1・2(1996年、小学館)
*『生きる勇気が湧いてくる本』(1996年、騎虎書房)のち祥伝社黄金文庫、青志社
*『最後の花時計』(1997年、文藝春秋)のち文庫
*『無鹿』(1997年、文藝春秋)のち文庫
*『好奇心は永遠なり』(1997年、講談社)
*『「深い河」創作日記』(1997年、講談社)のち文庫、講談社文芸文庫
*『夫婦の一日』(1997年、新潮社)のち文庫
*『心のふるさと』(1997年、文藝春秋)のち文庫
*『ルーアンの丘』(1998年、[[PHP研究所]])のち増補版
*『信じる勇気が湧いてくる本』(1998年、祥伝社)のち黄金文庫
*『愛する勇気が湧いてくる本』(1998年、[[三笠書房]])のち黄金文庫
*『十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。』(2006年、海竜社)のち新潮文庫
*『遠藤周作短篇名作選』(2012年、講談社文芸文庫)
*『人生の踏絵』(2017年、新潮社)のち文庫
*『沈黙の声』(2017年、青志社)、1992年時の著作
*『影に対して―母をめぐる物語』(2020年、新潮社)のち文庫
*『秋のカテドラル―遠藤周作初期短篇集』(2021年、[[河出書房新社]])
*『薔薇色の門 誘惑―遠藤周作初期中篇』(2021年、河出書房新社)
*『稔と仔犬 青いお城―遠藤周作初期童話』(2022年、河出書房新社)
*『善人たち』(2022年、新潮社)、戯曲集
*『フランスの街の夜―遠藤周作初期エッセイ』(2022年、河出書房新社)
*『現代誘惑論―遠藤周作初期エッセイ』(2023年、河出書房新社)
*『ころび切支丹―遠藤周作初期エッセイ』(2023年、河出書房新社)
*『人生を抱きしめる―遠藤周作初期エッセイ』(2023年、河出書房新社)
;講演録
* CD版 遠藤周作講演選集〈全6巻〉[[アートデイズ]]、2002年3月、新版2017年
* CD版 日本人とキリスト教ほか、新潮社、新版2010年
==== 作品集 ====
*『遠藤周作文庫』〈全51冊〉(1974-78年、講談社)
*『遠藤周作文学全集』〈全11巻〉(1975年、新潮社)
*『遠藤周作歴史小説集』(全7巻、1996年、講談社)
*『遠藤周作文学全集』(全15巻、1999-2000年、新潮社)
*『'''遠藤周作全日記'''』(2018年、河出書房新社、2巻組)
==== 対談ほかの共著 ====
*『遠藤周作のまごころ問答』(1967年、コダマプレス)
*『周作口談』(1968年、[[朝日新聞社]])「ぐうたら交遊録」講談社、1973年
*『狐狸庵 vs マンボウ』(1974年、講談社) - 共著:[[北杜夫]] のち文庫
*『狐狸庵 vs マンボウ PART II』(1975年、講談社) - 共著:北杜夫 のち文庫
*『ぐうたら怠談』(1973年、毎日新聞社)
*『怠談 ユーモア対談集』(1975年、番町書房)
*『周作怠談・12の招待状』(1979年、主婦の友社)
*『僕のコーヒーブレイク 遠藤周作対談録』(1981年、主婦の友社)
*『生きる学校 対談』(1984年、文藝春秋)
*『快人探検 遠藤周作対談』(1984年、青人社)
*『狐狸庵が教える「対話術」』(1985年、光文社)のち文庫
*『狐狸庵が教える「対談学」 その方法と実地指導』(1986年、光文社)
*『新 ぐうたら怠談』(1987年、光文社)
*『まず微笑』[[曽野綾子]]、[[三浦朱門]]共著、PHP文庫、1988年
*『遠藤周作と語る-日本人とキリスト教』(1988年、[[女子パウロ会]])
*『人生の同伴者』聞き手[[佐藤泰正]](1991年、春秋社)のち新潮文庫
*『狐狸庵対談 快女・快男・怪話』(1991年、文藝春秋)のち文庫
*『対論 たかが信長 されど信長』(1992年、文藝春秋)のち文庫
*編『 キリスト教ハンドブック(1993年、[[三省堂]])
*『「遠藤周作」とShusaku Endo』(1994年、[[春秋社]])
*『「深い河」をさぐる』(1994年、文藝春秋)のち文庫
==== 作詞 ====
* おっさんのバラード([[1978年]]、[[キングレコード]]、歌:[[藤田まこと]])
=== 海外 ===
{{節スタブ}}
※便宜上、タイトルは英語に統一。言語圏ごとにタイトルは異なる。
* 海と毒薬 ''The Sea and Poison''(1972年、イギリス)
* 沈黙 ''Silence''(1972年、オランダ・スウェーデン・スペイン・ノルウェー・フランス・ポーランド)
* おバカさん ''Wonderful Fool''(1974年、イギリス、Peter Owen Publishers)
* イエスの生涯 ''A Life of Jesus''(1978年、イタリア、クエリニアナ出版社)
* 火山 ''Volcano''(1978年、イギリス、Peter Owen Publishers)
* わたしが・棄てた・女 ''The Girl I Left Behind''(1978年、ポーランド、パックス出版社)
* 口笛をふく時 ''When I Whistle''(1979年、イギリス、Peter Owen Publishers)
* イエスの生涯 ''A Life of Jesus''(1979年、アメリカ、ポーリスト出版社)
* 侍 ''The Samurai''(1982年、イギリス、Peter Owen Publishers)
* 十一の色硝子 ''Stained Glass Elegies''(1984年、イギリス、Peter Owen Publishers)
* スキャンダル ''Scandal''(1988年、イギリス、Peter Owen Publishers)
* 留学 ''Foreign Studies''(1989年、イギリス、Peter Owen Publishers)
* 深い河 ''Deep River''
== メディア ==
=== 主な出演===
;テレビ番組
:*[[ほんものは誰だ?!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、解答者)
:*[[わくわく動物ランド]]([[TBSテレビ|TBS]]、解答者・初期)
:*[[すばらしき仲間]]([[CBCテレビ|中部日本放送]]制作・TBS系列、[[北杜夫]]と[[佐藤愛子 (作家)|佐藤愛子]]と共演)
:*[[アップダウンクイズ]]([[MBSテレビ|毎日放送]]制作・TBS系列、15周年記念大会決勝・シルエットクイズのゲスト)
:*[[木曜ドラマストリート]]「孤独な週末」([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) ほか
:*[[大変だァ]](1970年、[[テレビ朝日|NETテレビ]]系) - 医者役([[カメオ出演]])
:
;CM
:*[[ネスレ]] [[ネスカフェ]]ゴールドブレンドCM(1972年。2008年のCMは合成映像で[[唐沢寿明]]と共演。)<ref>{{Cite book|和書|editor=[[全日本シーエム放送連盟|全日本CM協議会]]|title=CM25年史|publisher=[[講談社]]|date=1978-01-15|pages=245 - 246|id={{NDLJP|12025175/127}}}}</ref>
:*[[キヤノン]] 電子漢字字典(1982年)
:*[[ホテルハマツ]] 開業スタッフ募集(1990年)
:*[[日本電気|NEC]] [[文豪|文豪MINI5SH]] CM(1992年)
:
;映画
:*[[わたしが・棄てた・女|私が棄てた女]](1969年、日活) - 医者役([[カメオ出演]])
:*[[千夜一夜物語 (1969年の映画)|千夜一夜物語]](1969年、日本ヘラルド) - 女奴隷市の野次馬役([[友情出演]])
:
;ドキュメンタリー
:*[[ETV特集]]「遠藤周作 封印された原稿」(2021年10月9日、[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]])<ref>{{Cite web2 |url=https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/X4M5N3P45Q/ |title=遠藤周作 封印された原稿 |df=ja |url-status=dead |date=2021-10-09 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/Nirwg |archivedate=2021-10-01 |accessdate=2021-10-15}}</ref>
:*[[こころの時代]]「遠藤周作没後25年 遺作『深い河』をたどる、前編・後編」(2021年10月31日、11月7日、NHK Eテレ)<ref>{{Cite web2 |url=https://www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6973/episode/te/8NZW59MP4X/ |title=遠藤周作没後25年 遺作『深い河』をたどる 「前編 日本人のキリスト教を求めて」 |date=2021-10-31 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/iVmN7 |df=ja |url-status=dead |archivedate=2021-10-28 |accessdate=2021-10-28}}</ref><ref>{{Cite web2 |url=https://www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6973/episode/te/J7NR8JR9X1/ |title=遠藤周作没後25年 遺作『深い河』をたどる 「後編 宗教の壁を越える“玉ねぎ”」 |df=ja |date=2021-11-07 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/dOJnf |url-status=dead |archivedate=2021-11-05 |accessdate=2021-11-05}}</ref>
== 未発表作品 ==
[[2010年]][[4月25日]]、未完成の中編小説が書かれたノートが長崎市の遠藤周作文学館で発見されたことが報じられた<ref>{{Cite web|和書|url=http://news.yahoo.co.jp/pickup/1929716 |title=遠藤周作の未発表作見つかる(2010年4月25日(日)掲載) - Yahoo!ニュース |publisher=Yahoo Japan Corporation. |accessdate=2019-03-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304205945/http://news.yahoo.co.jp/pickup/1929716 |archivedate=2016-03-04}}</ref>。
2020年2月、長崎市遠藤周作文学館で未発表の完成した小説「影に対して」が発見された<ref>{{Cite web|和書|title=遠藤周作さん未発表小説発見 長崎の文学館 完成状態では初|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/620744/|website=西日本新聞ニュース|accessdate=2020-10-01|language=ja}}</ref>。1963年3月より後、40歳以降に執筆されたと推測される<ref>{{Cite journal|author=川崎友理子|year=2020|title=遠藤周作未発表小説「影に対して」について|journal=三田文学|volume=夏季号|page=50}}</ref>、自伝的作品。
短編作品数篇を併録し、同年10月に新潮社から単行本化された<ref>{{Cite web|和書|title=遠藤周作 『影に対して―母をめぐる物語―』 {{!}} 新潮社|url=https://www.shinchosha.co.jp/book/303524/|website=www.shinchosha.co.jp|accessdate=2020-11-14|language=ja}}</ref>。
== 関連人物 ==
* [[ジョルジュ・ネラン]] - ガストン・ボナパルト(『おバカさん』、『[[悲しみの歌]]』、『[[深い河]]』に登場する人物)のモデルとなった神父
* [[廣石廉二]] - 遠藤周作研究者
* [[阿川弘之]] - 旧知の仲で、よくエッセイの中で、登場し「瞬間湯沸かし器」と遠藤は評している。
* [[北杜夫]] - 旧知の仲で、共著を2冊出している。
* [[三浦朱門]] ‐ 『わが友遠藤周作 ある日本的キリスト教徒の生涯』(PHP研究所、1997年)がある。
* [[安岡章太郎]] - 学生時代以来の親友で、遠藤の影響でカトリックへ入信。
* [[佐藤愛子 (作家)|佐藤愛子]]- 旧知の友人。遠藤が骨折入院したときに見栄を張って[[松坂慶子]]の名前で花束を届けるよう依頼したが、直後に会った際に怪我の具合も訊かずに即代金を請求された旨、エッセイに記している。真偽は明らかでない。
* [[古山高麗雄]]お互い芥川賞作家の古山とは古くからの友人で競馬の師匠として述べている
* [[吉行淳之介]]
* [[加賀乙彦]]
* [[篠田正浩]]
* [[さくらももこ]] - 生前、遠藤周作と会食をした際、散々からかわれたと著書で述べている。
* [[瀬戸内寂聴]]
* [[堀辰雄]]
* [[原民喜]]
* [[柴田錬三郎]] - 先輩作家で、遠縁に当たる。遠藤は彼の家に居候していたこともあるほか「君(遠藤)が黒ミサで生まれた子にしろと言ったから[[眠狂四郎]]の設定が決まった」(柴田が雑誌で遠藤と対談した際の発言)という。
* [[梅崎春生]] - 戦後間もない、学生時代に「ランボォ」という店で初めて会ったらしい。互いにいたずらの腕を競い合った。梅崎春生の死後、色んな思い出話をエッセーで遠藤は語っている。
* [[山口トキコ]] - テレビ、ラジオでも活躍中の女医。彼女の学生時代、遠藤の「トキちゃん肛門科医になったらどうだい?」の言葉に大きな感銘を受ける。
* [[橋本武]] - [[灘中学校]]時代の国語教師。「[[週刊読売]]」1974年4月6日号にて遠藤と対談(対談は『伝説の灘校教師が教える一生役立つ学ぶ力』(日本実業出版社 2012年)p.201-214に再録されている)。
* [[松村禎三]] - 『沈黙』を自身の台本でオペラ化した([[沈黙 (オペラ)]] を参照)。
* [[青島広志]] - 『黄金の国』を自身の台本でオペラ化した<ref>{{Cite web|和書|url=https://opera.tosei-showa-music.ac.jp/search/Record/WORK-00002 |title=作品情報 - 黄金の国 |publisher= 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター |accessdate=2019-03-15}}</ref>。
* [[竹中直人]] - コメディアンとして売れ始めた頃、ものまねのレパートリーとしていた。
* [[松坂慶子]] - 劇団樹座の演出を担当。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em|refs=
<ref name="cyzo10746">[https://www.cyzo.com/2012/06/post_10746_entry.html 「高卒社長が誕生の可能性も!?」フジテレビ“次期社長レース”の行方]、日刊サイゾー、2012年6月11日</ref>
}}
=== 作家・作品ガイド ===
* 『遠藤周作の世界』(1997年9月、朝日出版社)
* 『遠藤周作のすべて』(文春文庫、1998年)
* 『文豪ナビ 遠藤周作』(新潮文庫、2023年)
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2019年3月15日 (金) 07:06 (UTC)|section=1}}
* [[橋本武]]『伝説の灘校教師が教える一生役立つ学ぶ力』(2012年2月、日本実業出版社)ISBN 9784534049124
* {{Cite book |和書 |author=遠藤順子|title=夫・遠藤周作を語る |publisher=文藝春秋|date=2000-09 |series=文春文庫 |ref={{SfnRef|遠藤|2000}} }}
* {{Cite book |和書 |author=加藤宗哉|authorlink=加藤宗哉|title=遠藤周作 |publisher=慶應義塾大学出版会 |date=2006-10 |isbn=4766412907 |ref={{SfnRef|加藤|2006}} }}
* {{Cite journal |和書 |author=兼子盾夫 |format=PDF |url=http://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/04/1995_22_hikaku_07_kaneko.pdf |title=日本におけるキリスト教受容の問題──遠藤の『沈黙』から『深い河』まで|journal=比較思想研究 |publisher=大正大学 |issue=22 |page=27-33 |date=1995 |ref={{SfnRef|兼子|1995}} }}
* {{Cite journal |和書 |author=長谷川(間瀬)恵美|title=遠藤周作の文学における宗教的視点|journal=金城学院大学キリスト教文化研究所紀要|editor=金城学院大学キリスト教文化研究所紀要編集委員会|issue=12 |page=79-100 |date=2008 |url=http://www.kinjo-u.ac.jp/kibunken/document/12_hasegawa.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180329001206/http://www.kinjo-u.ac.jp:80/kibunken/document/12_hasegawa.pdf |archivedate=2018-03-29 |format=PDF |ref={{SfnRef|長谷川(間瀬)|2008}} }}
* {{Cite book |和書 |author=森納 |date=1985 |title=因伯の医師たち 続 |publisher= |isbn= |ref={{SfnRef|森|1985}} }}
* {{Cite book |和書 |author=森納 |date=1993-12 |title=因伯洋学史話 |publisher=富士書店 |isbn= |ref={{SfnRef|森|1993}} }}
<!--* 『[[沈黙 (遠藤周作)|沈黙]]』をめぐるエピソード-->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Shūsaku Endō}}
{{ウィキポータルリンク|文学|[[画像:Open book 01.svg|none|34px]]}}
*[[レフ・トルストイ]]
*[[神戸文学館]]
== 外部リンク ==
* [http://www.city.nagasaki.lg.jp/endou/ 遠藤周作文学館ホームページ]
* [http://bungeikan.jp/domestic/detail/128/ 白い人](日本ペンクラブ:電子文藝館)
* {{NHK人物録|D0009072158_00000}}
* {{Kotobank}}
* 「[https://www.city.sapporo.jp/kodomo/assist/column1902.html 子ども時代に感じた不思議さ・おもしろさから]」(国語教科書に掲載された短編『白い風船』の紹介:[https://www.city.sapporo.jp/kenko/index.html 札幌市健康・福祉・子育て])
{{芥川賞|第33回}}
{{谷崎潤一郎賞|第2回}}
{{毎日芸術賞}}
{{日本芸術院賞}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:えんとう しゆうさく}}
[[Category:遠藤周作|*]]
[[Category:20世紀日本の小説家]]
[[Category:日本の文芸評論家]]
[[Category:日本の宗教評論家]]
[[Category:学士号取得者]]
[[Category:20世紀日本の劇作家]]
[[Category:キリスト教小説家]]
[[Category:キリスト教弁証家]]
[[Category:日本ペンクラブ会長]]
[[Category:芥川賞受賞者]]
[[Category:谷崎潤一郎賞受賞者]]
[[Category:読売文学賞受賞者]]
[[Category:日本藝術院賞受賞者]]
[[Category:日本藝術院会員]]
[[Category:文化勲章受章者]]
[[Category:上智大学の教員]]
[[Category:日本のカトリック教会の信者]]
[[Category:私の履歴書の登場人物]]
[[Category:灘中学校・高等学校出身の人物]]
[[Category:慶應義塾大学出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1923年生]]
[[Category:1996年没]] | 2003-03-09T09:44:52Z | 2023-12-16T16:34:04Z | false | false | false | [
"Template:Normdaten",
"Template:Commonscat",
"Template:日本芸術院賞",
"Template:独自研究範囲",
"Template:Full citation needed",
"Template:谷崎潤一郎賞",
"Template:節スタブ",
"Template:要出典範囲",
"Template:Notelist2",
"Template:要ページ番号",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Quotation",
"Template:参照方法",
"Template:Infobox 作家",
"Template:独自研究",
"Template:Kotobank",
"Template:毎日芸術賞",
"Template:Cite journal",
"Template:Cite web2",
"Template:Cite web",
"Template:Cite book",
"Template:仮リンク",
"Template:Reflist",
"Template:Nowiki",
"Template:芥川賞",
"Template:複数の問題",
"Template:要出典",
"Template:ウィキポータルリンク",
"Template:NHK人物録",
"Template:Sfn",
"Template:Efn2"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%91%A8%E4%BD%9C |
3,724 | 受粉 | 受粉(じゅふん)とは、種子植物において花粉が雌性器官に到達すること。被子植物では雌蕊(しずい、めしべ)の先端(柱頭)に花粉が付着することを指し、裸子植物では大胞子葉の胚珠の珠孔に花粉が達することを指す。
花粉は葯と呼ばれる器官で形成される。葯は通常は雄蕊(ゆうずい、おしべ)の先端にある。裸子植物では葯は多数の花粉嚢が雄蕊の上に付く形で葯が形成され、被子植物では雄蕊の先端に葯壁で分離される形で2つの半葯から形成される。葯が開くと花粉が外に放出され、雌蕊に到達すると受粉・受精する。同一個体内での受粉を自家受粉、他の個体の花粉による受粉を他家受粉という。受粉過程でどのように花粉が移動するかによって、種子植物の受粉様式は花粉媒介者の助けを要しない自動自家受粉や、媒介者の種類を冠した風媒、水媒、動物媒(虫媒、鳥媒など)などに分類できる。裸子植物の大部分は風媒花である。
被子植物では、自家不和合性・雌雄異熟 (dichogamy) ・異形花柱性といった自家受粉・自家受精を防ぐ機構が発達した植物種も存在する。それらの機構は近親交配を妨げることにより、遺伝的多様性を維持する役割を持っていると考えられる。
受粉は英語"pollination"の翻訳語であり、ほかに授粉・送粉(そうふん)・花粉媒介(かふんばいかい)の用語も用いられる。受粉の研究は植物学・園芸学・動物学・生態学・進化生物学など多くの学術分野に関連しており、受粉に関する専門的な学術分野としては送粉生態学(花生態学・受粉生態学)、受粉生物学(送粉生物学)および花粉学"palynology"などがある。
以下、本記事では特に断りが無い限り、被子植物の受粉について記述する。被子植物では、受粉後に花粉から花粉管が伸び、それが柱頭組織中に進入して胚珠に到達し、卵細胞が花粉管の中の精核と融合することで受精が成立する。
自ら動くことに制約のある植物は花粉媒介を他の媒体に依存することが多い。その媒体の種類によって受粉様式は風媒、水媒、動物媒、自動同花受粉などに分けられる。種子植物は約90%が動物媒受粉であり、残り10%が非生物的媒介による受粉であると推定されている。受粉様式は種子植物の進化上で重要であり、花の形質(送粉シンドローム)に反映されている。動物媒の受粉様式は動物と植物の共進化の例として研究がなされている。また、植物と動物の関係は、受粉様式だけでなく種子散布まで含めた共生関係にあるものがある。なお、同一種でも複数の受粉様式が起こっており、必ずしも品種と受粉様式が1対1で対応するわけではないことに注意する必要がある。
自然状態で受粉させることを自然受粉と呼ぶのに対し、人間が人為的に受粉させることを人工授粉という。詳細は人工授粉の項を参照。
花の受粉様式の中には、自殖といって同一個体の中で自身が生成した花粉を自身で受粉するものがある。これが自家受粉である。一般に植物は自分で移動できないから別個体同士で受粉するには、外部の何らかの手段に頼って花粉を移動させる必要がある。しかしそれには不確実性があるため、自殖するほうが確実である。また新しい領域に侵入する場合、自殖が可能であれば単一の個体で繁殖できるが、そうでなければ同時に複数の個体が進出しない限り次の世代を残せない。そのため自殖を行う植物も一定数存在する。特に、繁殖機会が1回しかない1年草では、同じ花の中で自家受粉を行う同花受粉の道を選択しているものがある。一方で、遺伝的多様性を維持し、近交弱勢を避けるためには他家受粉が有利である。特に基本的に片方の性のみを持つ動物の近親交配と異なり、植物においては同一個体内での近親交配であるから、自殖により適応度が下がる可能性は高い。したがって進化によってそうした特徴を排除し、自殖を避け他植を促進するものも多い。
日本のスミレ属 Viola では、通常の虫媒花を開花させた後に閉鎖花を着け、花弁を開くことなく同花受粉で種子を形成することが知られており、また、オニバスは水中で自己受粉をして身をむすぶ閉鎖花と水面に浮かんで通常の花を咲かせる開放花をともに咲かせるが、種子の結実率は閉鎖花のほうが高いことが報告されている。 開放花であっても同花受粉の機構を持つ植物がある。それらを田中 (1993)は、雄動同花受粉(雄蕊が動いて受粉:タチイヌノフグリ)・雌動同花受粉(雌蕊が動いて受粉:アキノノゲシ)・両動同花受粉(雄蕊も雌蕊も動いて受粉:オシロイバナ)・不動同花受粉(雄蕊と雌蕊が開花のときに動いた状態で受粉:メヒシバ)に分類している。
非生物的媒介として風媒 (anemophily) と水媒 (hydrophily) がある。裸子植物の大部分と一部の被子植物が風媒受粉である。裸子植物の一部に生じた虫媒の植物から被子植物が進化した。風媒の被子植物は虫媒から再び風媒に戻ったものと考えられている。水媒はほとんどが水生植物でみられるが、すべての水生植物が水媒による送粉を行うわけではない。
風媒花は目立たない花であることが多く、香りも少ない。花の構造としては雌蕊(めしべ)・雄蕊(おしべ)とも花の外部に露出して、花粉を受けやすくあるいは放出しやすくなっているものが多い。また花粉は乾燥していることが多い。被子植物についてはそうではないものの、裸子植物については生産する花粉量が虫媒花よりも多い傾向にある。これらは風媒に適応した特徴である。 水媒花は水との位置関係で、水上を送粉するもの、水中を送粉するもの、水面を送粉するものに分けられる。
自然界で受粉(送粉)を行う動物を送粉者と呼ぶ。動物媒花では、目につきやすい色や特有の香りの花を咲かせたり、蜜や花粉を餌として提供したりすることによって動物に自身の存在を示す。動物が餌を探すために花を見つけるため、森林や熱帯といった複雑な植物社会において動物媒による送粉をとる種が多い。
送粉者の種類は約20万種あると推定されており、その大部分は昆虫である。昆虫による送粉を虫媒 (entomophily) と呼び、虫媒花はハチとアリ(膜翅目)・コウチュウ(鞘翅目)・チョウとガ(鱗翅目)・アブとハエ(双翅目)などの昆虫を引き寄せる。そのために、目につきやすい色や特有の香りの花を咲かせたり、蜜や花粉を提供するなどの戦略をとる。また、昆虫類が知覚できる紫外線領域の色も用いて昆虫を誘引している花もある。進化的には虫媒花の原型は、送粉者に花粉を食べさせる虫媒植物であったと考えられている。
その他の動物媒"zoophily"としては、鳥類・コウモリなどの脊椎動物によるものがあり、約1,000種が送粉者であると考えられている。鳥類は昆虫に比べて体が大きく、また多量の蜜を必要とするため花間を積極的に飛び回るので、花粉の移動を考える上では貢献度が高いとされる。送粉を行う脊椎動物の例としてはハチドリ・オオコウモリ類・オーストラリアにおける有袋類がある。コウモリを送粉者とするように適応した植物は白い花弁と強い香りを持つ傾向があり、鳥類を送粉者として適応した植物は赤い花弁を発達させ香りは持たない傾向がある。
受粉には自家受粉と他家受粉があるが、同一個体内でも自家受粉する花も他家受粉する花もある。
以下に花の形態・特徴と自家受粉・他家受粉の関連を示すが、閉鎖花でない場合はすべての花が自家受粉であるわけでもなく、雌雄異株あるいは自家不和合性でない場合はすべての花が他家受粉であるわけでもない。
受粉に関する科学的研究はSprengelによる『花の構造と受精』(1793年)から始まったとされる。19世紀にはダーウィンによる『蘭の受精』(1862年)・『受精の研究』(1876年)が刊行され、この分野の発展に刺激を与えた。この時期に受粉方法の記録・分類が行われ、受粉様式が風媒・水媒・動物媒・閉花同花受粉などに整理された。
20世紀に入ると、送粉生態学は生物学分野で重んじられることがなくなり、再び脚光を浴びるのは1950年代以降である。1955年にはドイツのKuglerにより『花生態学』、1966年にはアメリカのFægriとPijlによる『受粉生態学原理』などが著されて研究が盛んになった。
その後、動物行動学・進化生物学分野の知見を取り入れることにより、送粉生態学から受粉生物学へと発展し、20世紀末には受粉に関する総合学術分野としての送粉生態学・受粉生物学が確立している。
2016年、水中においては動物が介在しないとされていたが、無脊椎動物による媒介が確認された。
ポリネーターガーデン(Pollinator_garden)とは、特定の蜜や花粉を生産する植物を育て、ポリネーターと呼ばれる花粉媒介者・送粉昆虫を呼び寄せることを意図して設計された庭園。
花粉媒介者は人間が食べる3口のうち1口の生産を助けているため、これらの種をサポートする方法である。 花粉媒介者のための庭園であるとみなされるためには、蜜を出すさまざまな花、花粉媒介者のための巣・避難所を提供する植物を配し、農薬を使用しないことである。
ポリネーターガーデンでは、植物群は野生の受粉媒介者を呼び寄せることを目的として栽培される。受粉は植物が種子を生産するための生殖過程である。ある花の雄部の花粉が、同種の別の花の雌部に移動すると、受精が起こる。受精すると、花は実と種を作る。全ての顕花植物の90%近くが動物によって受粉される。これらの受粉媒介者の種の大半はハチやチョウなどの昆虫であるが、動物の受粉媒介者には、他に特定の種の鳥や哺乳類などもいる。
花粉媒介者は人間の食糧生産に重要な役割を果たしており、ポリネーターガーデンは重要な花粉媒介者種を支援し保護する方法でもある。受粉は150以上の食用作物、米国内ならば栽培されている果物、野菜、ナッツ類のほとんどが花粉媒介者に依存しているとみられているが、現在、多くの花粉媒介者種が脅かされ減少の一途を辿っている。2007年、全米研究会議は、全昆虫受粉媒介種の40%が現在絶滅の危機にあると結論付けた。花粉媒介者の減少の原因としては、生息地の喪失、農薬への暴露、外来植物の蔓延による食料源の喪失などが挙げられる。花粉媒介者の生息地を保護せず、新しい生息地を作らない場合、植物の受粉不足は最終的に人間に影響を与えることになる。花粉媒介者が減少すると、農業の収穫量も減少し、受粉がなければ人間の主たる栄養源は苦しむことになる。さらに、作物以外の植物種の80~95%も何らかの受粉を必要とするため、危機に瀕しているのは作物だけではないのである。しかし、研究によると、ある地域に自生する受粉媒介植物の割合が増えると、受粉媒介者の活動も活発になることが分かっている。
花粉媒介植物の植栽には、いくつかの注意点がある。鳥、ハチ、チョウなど、園芸家がどのような種類の受粉媒介者を引き寄せたいのかによって、これらの種に適した蜜、花粉、幼虫の宿主となる植物を選ぶ必要があるし、自生種のプラントを選ぶよう勧めがある。つまり在来種の植物は、特定の気候や生育条件に最適に適応するように進化し、しばしば受粉媒介者固有の関係を築いてきた(例:オオカバマダラとミルクウィードなど)。さらに、自生の植物を選べば、周囲の自生植物が外来種に駆逐されることはないのである。
| [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "受粉(じゅふん)とは、種子植物において花粉が雌性器官に到達すること。被子植物では雌蕊(しずい、めしべ)の先端(柱頭)に花粉が付着することを指し、裸子植物では大胞子葉の胚珠の珠孔に花粉が達することを指す。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "花粉は葯と呼ばれる器官で形成される。葯は通常は雄蕊(ゆうずい、おしべ)の先端にある。裸子植物では葯は多数の花粉嚢が雄蕊の上に付く形で葯が形成され、被子植物では雄蕊の先端に葯壁で分離される形で2つの半葯から形成される。葯が開くと花粉が外に放出され、雌蕊に到達すると受粉・受精する。同一個体内での受粉を自家受粉、他の個体の花粉による受粉を他家受粉という。受粉過程でどのように花粉が移動するかによって、種子植物の受粉様式は花粉媒介者の助けを要しない自動自家受粉や、媒介者の種類を冠した風媒、水媒、動物媒(虫媒、鳥媒など)などに分類できる。裸子植物の大部分は風媒花である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "被子植物では、自家不和合性・雌雄異熟 (dichogamy) ・異形花柱性といった自家受粉・自家受精を防ぐ機構が発達した植物種も存在する。それらの機構は近親交配を妨げることにより、遺伝的多様性を維持する役割を持っていると考えられる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "受粉は英語\"pollination\"の翻訳語であり、ほかに授粉・送粉(そうふん)・花粉媒介(かふんばいかい)の用語も用いられる。受粉の研究は植物学・園芸学・動物学・生態学・進化生物学など多くの学術分野に関連しており、受粉に関する専門的な学術分野としては送粉生態学(花生態学・受粉生態学)、受粉生物学(送粉生物学)および花粉学\"palynology\"などがある。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "以下、本記事では特に断りが無い限り、被子植物の受粉について記述する。被子植物では、受粉後に花粉から花粉管が伸び、それが柱頭組織中に進入して胚珠に到達し、卵細胞が花粉管の中の精核と融合することで受精が成立する。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "自ら動くことに制約のある植物は花粉媒介を他の媒体に依存することが多い。その媒体の種類によって受粉様式は風媒、水媒、動物媒、自動同花受粉などに分けられる。種子植物は約90%が動物媒受粉であり、残り10%が非生物的媒介による受粉であると推定されている。受粉様式は種子植物の進化上で重要であり、花の形質(送粉シンドローム)に反映されている。動物媒の受粉様式は動物と植物の共進化の例として研究がなされている。また、植物と動物の関係は、受粉様式だけでなく種子散布まで含めた共生関係にあるものがある。なお、同一種でも複数の受粉様式が起こっており、必ずしも品種と受粉様式が1対1で対応するわけではないことに注意する必要がある。",
"title": "受粉様式"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "自然状態で受粉させることを自然受粉と呼ぶのに対し、人間が人為的に受粉させることを人工授粉という。詳細は人工授粉の項を参照。",
"title": "受粉様式"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "花の受粉様式の中には、自殖といって同一個体の中で自身が生成した花粉を自身で受粉するものがある。これが自家受粉である。一般に植物は自分で移動できないから別個体同士で受粉するには、外部の何らかの手段に頼って花粉を移動させる必要がある。しかしそれには不確実性があるため、自殖するほうが確実である。また新しい領域に侵入する場合、自殖が可能であれば単一の個体で繁殖できるが、そうでなければ同時に複数の個体が進出しない限り次の世代を残せない。そのため自殖を行う植物も一定数存在する。特に、繁殖機会が1回しかない1年草では、同じ花の中で自家受粉を行う同花受粉の道を選択しているものがある。一方で、遺伝的多様性を維持し、近交弱勢を避けるためには他家受粉が有利である。特に基本的に片方の性のみを持つ動物の近親交配と異なり、植物においては同一個体内での近親交配であるから、自殖により適応度が下がる可能性は高い。したがって進化によってそうした特徴を排除し、自殖を避け他植を促進するものも多い。",
"title": "受粉様式"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "日本のスミレ属 Viola では、通常の虫媒花を開花させた後に閉鎖花を着け、花弁を開くことなく同花受粉で種子を形成することが知られており、また、オニバスは水中で自己受粉をして身をむすぶ閉鎖花と水面に浮かんで通常の花を咲かせる開放花をともに咲かせるが、種子の結実率は閉鎖花のほうが高いことが報告されている。 開放花であっても同花受粉の機構を持つ植物がある。それらを田中 (1993)は、雄動同花受粉(雄蕊が動いて受粉:タチイヌノフグリ)・雌動同花受粉(雌蕊が動いて受粉:アキノノゲシ)・両動同花受粉(雄蕊も雌蕊も動いて受粉:オシロイバナ)・不動同花受粉(雄蕊と雌蕊が開花のときに動いた状態で受粉:メヒシバ)に分類している。",
"title": "受粉様式"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "非生物的媒介として風媒 (anemophily) と水媒 (hydrophily) がある。裸子植物の大部分と一部の被子植物が風媒受粉である。裸子植物の一部に生じた虫媒の植物から被子植物が進化した。風媒の被子植物は虫媒から再び風媒に戻ったものと考えられている。水媒はほとんどが水生植物でみられるが、すべての水生植物が水媒による送粉を行うわけではない。",
"title": "受粉様式"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "風媒花は目立たない花であることが多く、香りも少ない。花の構造としては雌蕊(めしべ)・雄蕊(おしべ)とも花の外部に露出して、花粉を受けやすくあるいは放出しやすくなっているものが多い。また花粉は乾燥していることが多い。被子植物についてはそうではないものの、裸子植物については生産する花粉量が虫媒花よりも多い傾向にある。これらは風媒に適応した特徴である。 水媒花は水との位置関係で、水上を送粉するもの、水中を送粉するもの、水面を送粉するものに分けられる。",
"title": "受粉様式"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "自然界で受粉(送粉)を行う動物を送粉者と呼ぶ。動物媒花では、目につきやすい色や特有の香りの花を咲かせたり、蜜や花粉を餌として提供したりすることによって動物に自身の存在を示す。動物が餌を探すために花を見つけるため、森林や熱帯といった複雑な植物社会において動物媒による送粉をとる種が多い。",
"title": "受粉様式"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "送粉者の種類は約20万種あると推定されており、その大部分は昆虫である。昆虫による送粉を虫媒 (entomophily) と呼び、虫媒花はハチとアリ(膜翅目)・コウチュウ(鞘翅目)・チョウとガ(鱗翅目)・アブとハエ(双翅目)などの昆虫を引き寄せる。そのために、目につきやすい色や特有の香りの花を咲かせたり、蜜や花粉を提供するなどの戦略をとる。また、昆虫類が知覚できる紫外線領域の色も用いて昆虫を誘引している花もある。進化的には虫媒花の原型は、送粉者に花粉を食べさせる虫媒植物であったと考えられている。",
"title": "受粉様式"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "その他の動物媒\"zoophily\"としては、鳥類・コウモリなどの脊椎動物によるものがあり、約1,000種が送粉者であると考えられている。鳥類は昆虫に比べて体が大きく、また多量の蜜を必要とするため花間を積極的に飛び回るので、花粉の移動を考える上では貢献度が高いとされる。送粉を行う脊椎動物の例としてはハチドリ・オオコウモリ類・オーストラリアにおける有袋類がある。コウモリを送粉者とするように適応した植物は白い花弁と強い香りを持つ傾向があり、鳥類を送粉者として適応した植物は赤い花弁を発達させ香りは持たない傾向がある。",
"title": "受粉様式"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "受粉には自家受粉と他家受粉があるが、同一個体内でも自家受粉する花も他家受粉する花もある。",
"title": "自家受粉と他家受粉"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "以下に花の形態・特徴と自家受粉・他家受粉の関連を示すが、閉鎖花でない場合はすべての花が自家受粉であるわけでもなく、雌雄異株あるいは自家不和合性でない場合はすべての花が他家受粉であるわけでもない。",
"title": "自家受粉と他家受粉"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "受粉に関する科学的研究はSprengelによる『花の構造と受精』(1793年)から始まったとされる。19世紀にはダーウィンによる『蘭の受精』(1862年)・『受精の研究』(1876年)が刊行され、この分野の発展に刺激を与えた。この時期に受粉方法の記録・分類が行われ、受粉様式が風媒・水媒・動物媒・閉花同花受粉などに整理された。",
"title": "研究史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "20世紀に入ると、送粉生態学は生物学分野で重んじられることがなくなり、再び脚光を浴びるのは1950年代以降である。1955年にはドイツのKuglerにより『花生態学』、1966年にはアメリカのFægriとPijlによる『受粉生態学原理』などが著されて研究が盛んになった。",
"title": "研究史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "その後、動物行動学・進化生物学分野の知見を取り入れることにより、送粉生態学から受粉生物学へと発展し、20世紀末には受粉に関する総合学術分野としての送粉生態学・受粉生物学が確立している。",
"title": "研究史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "2016年、水中においては動物が介在しないとされていたが、無脊椎動物による媒介が確認された。",
"title": "研究史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ポリネーターガーデン(Pollinator_garden)とは、特定の蜜や花粉を生産する植物を育て、ポリネーターと呼ばれる花粉媒介者・送粉昆虫を呼び寄せることを意図して設計された庭園。",
"title": "ポリネーターガーデン"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "花粉媒介者は人間が食べる3口のうち1口の生産を助けているため、これらの種をサポートする方法である。 花粉媒介者のための庭園であるとみなされるためには、蜜を出すさまざまな花、花粉媒介者のための巣・避難所を提供する植物を配し、農薬を使用しないことである。",
"title": "ポリネーターガーデン"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ポリネーターガーデンでは、植物群は野生の受粉媒介者を呼び寄せることを目的として栽培される。受粉は植物が種子を生産するための生殖過程である。ある花の雄部の花粉が、同種の別の花の雌部に移動すると、受精が起こる。受精すると、花は実と種を作る。全ての顕花植物の90%近くが動物によって受粉される。これらの受粉媒介者の種の大半はハチやチョウなどの昆虫であるが、動物の受粉媒介者には、他に特定の種の鳥や哺乳類などもいる。",
"title": "ポリネーターガーデン"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "花粉媒介者は人間の食糧生産に重要な役割を果たしており、ポリネーターガーデンは重要な花粉媒介者種を支援し保護する方法でもある。受粉は150以上の食用作物、米国内ならば栽培されている果物、野菜、ナッツ類のほとんどが花粉媒介者に依存しているとみられているが、現在、多くの花粉媒介者種が脅かされ減少の一途を辿っている。2007年、全米研究会議は、全昆虫受粉媒介種の40%が現在絶滅の危機にあると結論付けた。花粉媒介者の減少の原因としては、生息地の喪失、農薬への暴露、外来植物の蔓延による食料源の喪失などが挙げられる。花粉媒介者の生息地を保護せず、新しい生息地を作らない場合、植物の受粉不足は最終的に人間に影響を与えることになる。花粉媒介者が減少すると、農業の収穫量も減少し、受粉がなければ人間の主たる栄養源は苦しむことになる。さらに、作物以外の植物種の80~95%も何らかの受粉を必要とするため、危機に瀕しているのは作物だけではないのである。しかし、研究によると、ある地域に自生する受粉媒介植物の割合が増えると、受粉媒介者の活動も活発になることが分かっている。",
"title": "ポリネーターガーデン"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "花粉媒介植物の植栽には、いくつかの注意点がある。鳥、ハチ、チョウなど、園芸家がどのような種類の受粉媒介者を引き寄せたいのかによって、これらの種に適した蜜、花粉、幼虫の宿主となる植物を選ぶ必要があるし、自生種のプラントを選ぶよう勧めがある。つまり在来種の植物は、特定の気候や生育条件に最適に適応するように進化し、しばしば受粉媒介者固有の関係を築いてきた(例:オオカバマダラとミルクウィードなど)。さらに、自生の植物を選べば、周囲の自生植物が外来種に駆逐されることはないのである。",
"title": "ポリネーターガーデン"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "参考資料"
}
] | 受粉(じゅふん)とは、種子植物において花粉が雌性器官に到達すること。被子植物では雌蕊(しずい、めしべ)の先端(柱頭)に花粉が付着することを指し、裸子植物では大胞子葉の胚珠の珠孔に花粉が達することを指す。 花粉は葯と呼ばれる器官で形成される。葯は通常は雄蕊(ゆうずい、おしべ)の先端にある。裸子植物では葯は多数の花粉嚢が雄蕊の上に付く形で葯が形成され、被子植物では雄蕊の先端に葯壁で分離される形で2つの半葯から形成される。葯が開くと花粉が外に放出され、雌蕊に到達すると受粉・受精する。同一個体内での受粉を自家受粉、他の個体の花粉による受粉を他家受粉という。受粉過程でどのように花粉が移動するかによって、種子植物の受粉様式は花粉媒介者の助けを要しない自動自家受粉や、媒介者の種類を冠した風媒、水媒、動物媒(虫媒、鳥媒など)などに分類できる。裸子植物の大部分は風媒花である。 被子植物では、自家不和合性・雌雄異熟 (dichogamy) ・異形花柱性といった自家受粉・自家受精を防ぐ機構が発達した植物種も存在する。それらの機構は近親交配を妨げることにより、遺伝的多様性を維持する役割を持っていると考えられる。 受粉は英語"pollination"の翻訳語であり、ほかに授粉・送粉(そうふん)・花粉媒介(かふんばいかい)の用語も用いられる。受粉の研究は植物学・園芸学・動物学・生態学・進化生物学など多くの学術分野に関連しており、受粉に関する専門的な学術分野としては送粉生態学(花生態学・受粉生態学)、受粉生物学(送粉生物学)および花粉学"palynology"などがある。 以下、本記事では特に断りが無い限り、被子植物の受粉について記述する。被子植物では、受粉後に花粉から花粉管が伸び、それが柱頭組織中に進入して胚珠に到達し、卵細胞が花粉管の中の精核と融合することで受精が成立する。 | [[ファイル:Bombus Bumblebee (Bestoevning).jpg|thumb|220px|[[虫媒花|虫媒]]の例: [[ヒマワリ]]では[[ハナバチ]]が蜜を集める際に受粉を行なう]]
'''受粉'''(じゅふん)とは、[[種子植物]]において[[花粉]]が雌性器官に到達すること。[[被子植物]]では[[雌蕊]](しずい、めしべ)の先端(柱頭)に花粉が付着することを指し、[[裸子植物]]では大胞子葉の[[胚珠]]の珠孔に花粉が達することを指す{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=216}}。
花粉は[[葯]]と呼ばれる器官で形成される{{Sfn|日本育種学会|2005|p=657}}。葯は通常は[[雄蕊]](ゆうずい、おしべ)の先端にある{{Sfn|日本育種学会|2005|p=657}}。裸子植物では葯は多数の花粉嚢が雄蕊の上に付く形で葯が形成され、被子植物では雄蕊の先端に葯壁で分離される形で2つの半葯から形成される{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=329}}。葯が開くと花粉が外に放出され{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=94}}、雌蕊に到達すると受粉・[[受精]]する{{Sfn|日本育種学会|2005|p=287}}。同一[[個体]]内での受粉を'''自家受粉'''{{Sfn|日本育種学会|2005|p=245}}{{efn|同一[[クローン|クローン個体間]]([[遺伝子型]]が同じ個体)または近交系として維持されている系統の個体間の受粉を「準自家受粉」(個体間自家受粉)として、自家受粉に含めることもある。その場合、個体内自家受粉は「正自家受粉」として区別する{{Sfn|日本育種学会|2005|p=288}}。また、正自家受粉は、同一の花の中での受粉である'''同花受粉'''と、同一個体の違う花の間の受粉である'''隣花受粉'''に分けられる{{Sfn|日本育種学会|2005|p=245}}{{Sfn|日本育種学会|2005|p=288}}。}}、他の個体の花粉による受粉を'''他家受粉'''{{efn|きょうだい交配・品種間交配など(以上種内他家受粉)、種間他家受粉、属間他家受粉がある{{Sfn|日本育種学会|2005|p=288}}。}}という{{Sfn|日本育種学会|2005|p=245}}。受粉過程でどのように花粉が移動するかによって、種子植物の受粉様式は花粉媒介者の助けを要しない[[#自家受粉|自動自家受粉]]や{{Sfn|日本育種学会|2005|p=260}}、媒介者の種類を冠した[[風媒花|風媒]]、水媒、[[送粉者|動物媒]]([[虫媒花|虫媒]]、鳥媒など)などに分類できる{{Sfn|日本育種学会|2005|p=287}}。裸子植物の大部分は風媒花である{{Sfn|由井|1989|p=25}}{{efn|裸子植物のうち[[グネツム綱|グネツム目]] や[[ソテツ類|ソテツ目]]には虫媒と考えられる生物種が含まれる<ref>{{Cite journal|author=横山潤|year=2010|title=送粉共生系とひろがる送粉昆虫の世界|journal=昆虫と自然|volume=45|issue=8|pages=4-11}}</ref><!-- 該当部分は他文献からの引用(つまり孫引き)となっているが、無料で読めるのは冒頭2ページのみであり出典を確認できなかった。 --><ref>中山剛 "BotanyWEB"「[http://www.biol.tsukuba.ac.jp/~algae/BotanyWEB/pollination.html 送粉・受粉]-動物媒」</ref>。}}。
被子植物では、[[自家不和合性 (植物)|自家不和合性]]・雌雄異熟 ([[:en:Dichogamy|dichogamy]]) ・異形花柱性といった自家受粉・自家受精を防ぐ機構が発達した植物種も存在する{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=163}}{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=172}}{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=14}}。それらの機構は近親交配を妨げることにより、[[遺伝的多様性]]を維持する役割を持っていると考えられる{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=163}}。
'''受粉'''{{Sfn|日本遺伝学会|1993|p=547}}{{Sfn|日本植物学会|1990|p=527}}{{Sfn|日本育種学会|2005|p=287}}<!-- <ref name="breeding">日本育種学会編『植物育種学辞典』</ref> -->は英語"pollination"の翻訳語であり、ほかに'''授粉'''{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=178}}{{Sfn|日本育種学会|2005|p=287}}・'''[[送粉者|送粉]]'''(そうふん){{Sfn|日本花粉学会|1994|p=178}}{{Sfn|日本遺伝学会|1993|p=547}}{{Sfn|日本植物学会|1990|p=527}}{{Sfn|日本育種学会|2005|p=287}}・'''花粉媒介'''(かふんばいかい){{Sfn|日本花粉学会|1994|p=82}}{{Sfn|日本動物学会|1988|p=912}}の用語も用いられる{{efn|一般的には'''受粉'''であるが、植物が受動的に花粉を受けることを「受粉」、花粉が媒体を介して被子植物の柱頭・裸子植物の胚珠に移動することを「授粉」と区別することもある{{要出典|date=2021年3月}}。従来、ポリネーションとも表記されていたこれらの現象について、中野治房が「送粉」と言う用語を1966年に提案し、花粉学会・生態学会などで用いられるようになっている{{Sfn|日本育種学会|2005|p=287-288}}{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=216}}。しかしながら、漢字表記の意味に応じて、同一文献中でもそれぞれの表記を使い分けることがある{{Sfn|田中|1993|p=9}}。}}。受粉の研究は[[植物学]]・[[園芸学]]・[[動物学]]・[[生態学]]・[[進化生物学]]など多くの学術分野に関連しており、受粉に関する専門的な学術分野としては送粉生態学(花生態学・受粉生態学)、受粉生物学(送粉生物学)および花粉学"[[:en:Palynology|palynology]]"などがある。
以下、本記事では特に断りが無い限り、被子植物の受粉について記述する。被子植物では、受粉後に花粉から[[花粉管]]が伸び、それが柱頭組織中に進入して胚珠に到達し、卵細胞が花粉管の中の精核と融合することで受精が成立する。
== 受粉様式 ==
[[ファイル:Cryptomeria japonica cones.jpg|thumb|right|250px|風媒花の例:[[スギ]]の雄花と雌花]]
[[ファイル:Ceratophyllum demersum (inflorescence).jpg|thumb|right|250px|水媒花の例:雄花をつけた[[マツモ]]]]
[[File:Strawberry flower and bee.JPG|thumb|right|250px|虫媒花の例:ビニールハウス内の[[イチゴ]]の花と[[ミツバチ]]]]
[[ファイル:Hylocharis cyanus.jpg|thumb|right|250px|吸蜜する[[シロアゴサファイアハチドリ]] (''Hylocharis cyanus'')]]
[[ファイル:Bee-pollinating-strawberryflower-chiba-2019-3-10.webm|thumb|right|250px|[[イチゴ]]の花と[[ミツバチ]]]]
自ら動くことに制約のある植物は花粉媒介を他の媒体に依存することが多い<ref>{{Cite journal|author=小沼 明弘|year=2017|title=花を訪れる昆虫はなぜ農業に必要か?|url=https://www.naro.go.jp/publicity_report/publication/files/no111_6.pdf|journal=ニュース 農業と環境|volume=111|pages=6-11|publisher=農研機構|accessdate=2021-03-25|format=PDF}}</ref>{{Sfn|大原|2004|p=161}}。その媒体の種類によって受粉様式は[[風媒花|風媒]]、水媒、[[送粉者|動物媒]]、自動同花受粉などに分けられる{{Sfn|日本育種学会|2005|p=287}}。種子植物は約90%が動物媒受粉であり、残り10%が非生物的媒介による受粉であると推定されている<ref name="USFS">米国農務省森林局[http://www.fs.fed.us/wildflowers/pollinators/documents/factsheet_pollinator.pdf Pollinator Factsheet]</ref>。受粉様式は種子植物の[[進化]]上で重要であり、[[花]]の形質([[送粉シンドローム]]{{efn|受粉様式に合わせて特化した花の形質、または形質の組合せ<ref>[[:en:Knut Fægri|Fægri, K.]] and L. van der Pijl. ''The Principles of Pollination Ecology.'' (3rd ed.) New York: Pergamon Press, 1979. ISBN 0080213383)</ref>。}})に反映されている。動物媒の受粉様式は動物と植物の[[共進化]]の例として研究がなされている{{Sfn|種生物学会|2008|p=10-11}}。また、植物と動物の関係は、受粉様式だけでなく[[種子散布]]まで含めた[[共生]]関係にあるものがある{{Sfn|日本育種学会|2005|p=151}}。なお、同一種でも複数の受粉様式が起こっており、必ずしも品種と受粉様式が1対1で対応するわけではないことに注意する必要がある{{Sfn|日本育種学会|2005|p=574}}。
自然状態で受粉させることを自然受粉と呼ぶのに対し、[[人間]]が人為的に受粉させることを人工授粉という{{Sfn|日本育種学会|2005|p=312}}。詳細は[[人工授粉]]の項を参照。
=== 自家受粉 ===
花の受粉様式の中には、自殖といって同一個体の中で自身が生成した花粉を自身で受粉するものがある。これが自家受粉である{{Sfn|大原|2004|p=160}}{{efn|自殖・他殖 - 自己花粉で受精する場合を自殖(自家生殖)"autogamy"、他家花粉で受精する場合を他殖(他家生殖)"allogamy"という{{Sfn|日本育種学会|2005|p=253}}。}}。一般に植物は自分で移動できないから別個体同士で受粉するには、外部の何らかの手段に頼って花粉を移動させる必要がある。しかしそれには不確実性があるため、自殖するほうが確実である{{Sfn|大原|2004|p=161}}。また新しい領域に侵入する場合、自殖が可能であれば単一の個体で繁殖できるが、そうでなければ同時に複数の個体が進出しない限り次の世代を残せない{{Sfn|大原|2004|p=161-162}}。そのため自殖を行う植物も一定数存在する。特に、繁殖機会が1回しかない1年草では、同じ花の中で自家受粉を行う同花受粉の道を選択しているものがある{{Sfn|田中|1993|p=126,144-145}}。一方で、[[遺伝的多様性]]を維持し、近交弱勢を避けるためには他家受粉が有利である{{Sfn|大原|2004|p=162}}。特に基本的に片方の性のみを持つ動物の近親交配と異なり、植物においては同一個体内での近親交配であるから、自殖により適応度が下がる可能性は高い{{Sfn|大原|2004|p=162}}。したがって進化によってそうした特徴を排除し、自殖を避け他植を促進するものも多い{{Sfn|大原|2004|p=163}}。
日本の[[スミレ属]] ''Viola'' では、通常の[[虫媒花]]を開花させた後に[[閉鎖花]]を着け、花弁を開くことなく同花受粉で種子を形成することが知られており{{Sfn|田中|1993|p=127}}、また、[[オニバス]]は水中で自己受粉をして身をむすぶ閉鎖花と水面に浮かんで通常の花を咲かせる開放花をともに咲かせるが、種子の結実率は閉鎖花のほうが高いことが報告されている<ref>{{Cite journal|author=中村 肇|year=2014|title=名古屋市で生育が再確認されたオニバスの記録|url=https://www.city.nagoya.jp/kankyo/cmsfiles/contents/0000103/103464/Nagoya_biodiversity_1st-1_33-48.pdf|journal=なごやの生物多様性|volume=1|pages=33-48|accessdate=2021-03-28|format=PDF|ISSN=2188-2541}}</ref><ref>{{Cite journal|author=角野康郎|year=1984|title=兵庫県播磨地方のオニバス群落|url=http://mizukusakenjp.sakura.ne.jp/dmo69416/wp-content/uploads/2019/09/BWPSJ017_13|journal=水草研究会報|volume=17|accessdate=2021-03-28|format=PDF}}</ref>。
開放花であっても同花受粉の機構を持つ植物がある。それらを田中 (1993){{Sfn|田中|1993}}は、雄動同花受粉(雄蕊が動いて受粉:[[タチイヌノフグリ]])・雌動同花受粉(雌蕊が動いて受粉:[[アキノノゲシ]])・両動同花受粉(雄蕊も雌蕊も動いて受粉:[[オシロイバナ]])・不動同花受粉(雄蕊と雌蕊が開花のときに動いた状態で受粉:[[メヒシバ]])に分類している。
=== 非生物的媒介 ===
非生物的媒介として[[風媒花|風媒]] (anemophily) と[[水媒]] (hydrophily) がある<ref>{{Cite journal|last=八坂|first=通泰|year=2007|title=森林植物の開花結実特性の解明とその保全管理に関する研究|url=https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010742090|journal=北海道林業試験場研究報告|volume=44|pages=1-44|publisher=農林水産省 農林水産技術会議事務局筑波産学連携支援センター|ISSN=09103945}}</ref>。裸子植物の大部分と一部の被子植物が風媒受粉である{{Sfn|井上|湯本|1992|p=226}}。裸子植物の一部に生じた虫媒の植物から被子植物が[[進化]]した。風媒の被子植物は虫媒から再び風媒に戻ったものと考えられている{{Sfn|田中|1993|p=101-102}}{{Sfn|岩槻|加藤|2000|p=301}}。水媒はほとんどが[[水生植物]]でみられるが、すべての水生植物が水媒による送粉を行うわけではない{{Sfn|井上|湯本|1992|p=33}}。
風媒花は目立たない花であることが多く、香りも少ない{{Sfn|日本育種学会|2005|p=573}}。花の構造としては雌蕊(めしべ)・雄蕊(おしべ)とも花の外部に露出して、花粉を受けやすくあるいは放出しやすくなっているものが多い{{Sfn|日本育種学会|2005|p=573}}。また花粉は乾燥していることが多い。被子植物についてはそうではないものの、裸子植物については生産する花粉量が虫媒花よりも多い傾向にある{{Sfn|日本育種学会|2005|p=574}}。<!-- また花粉相互の粘着力が少ない<ref name="nakayama1">中山剛 "BotanyWEB"「[http://www.biol.tsukuba.ac.jp/~algae/BotanyWEB/pollination.html 送粉・受粉] - 風媒花」</ref>。 -->これらは風媒に適応した特徴である。
<!-- 一時的に退避<ref name="nakayama1">中山剛 "BotanyWEB"「[http://www.biol.tsukuba.ac.jp/~algae/BotanyWEB/pollination.html 送粉・受粉] - 風媒花」</ref>
<ref name="nakayama2">中山剛 "BotanyWEB"「[http://www.biol.tsukuba.ac.jp/~algae/BotanyWEB/zoophily.html 動物媒]」</ref> -->
水媒花は水との位置関係で、水上を送粉するもの{{Efn|花粉を乗せた葯や花びらが水面を移動し、花粉自体は水につからない{{Sfn|井上|湯本|1992|p=224}}。}}、水中を送粉するもの、水面を送粉するものに分けられる{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=195}}{{Sfn|井上|湯本|1992|p=224}}。
=== 動物媒 ===
{{Main|送粉者}}
自然界で受粉(送粉)を行う動物を[[送粉者]]と呼ぶ{{Sfn|日本育種学会|2005|p=117}}。動物媒花では、目につきやすい色や特有の香りの花を咲かせたり、[[蜜]]や花粉を餌として提供したりすることによって動物に自身の存在を示す{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=218}}。動物が餌を探すために花を見つけるため、森林や熱帯といった複雑な植物社会において動物媒による送粉をとる種が多い{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=218}}。<!-- <ref name="nakayama2">中山剛 "BotanyWEB"「[http://www.biol.tsukuba.ac.jp/~algae/BotanyWEB/zoophily.html 動物媒]」</ref>。 -->
送粉者の種類は約20万種あると推定されており<ref name="USFS" />、その大部分は[[昆虫類|昆虫]]である{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=251}}。昆虫による送粉を[[虫媒花|虫媒]] (entomophily) と呼び、虫媒花は[[ハチ]]と[[アリ]]([[ハチ目|膜翅目]])・コウチュウ([[甲虫類|鞘翅目]])・[[チョウ]]と[[ガ]]([[チョウ目|鱗翅目]])・[[アブ]]と[[ハエ]]([[ハエ目|双翅目]])などの昆虫を引き寄せる{{Sfn|日本育種学会|2005|p=429}}。そのために、目につきやすい色や特有の香りの花を咲かせたり、[[蜜]]や花粉を提供するなどの戦略をとる{{Sfn|日本育種学会|2005|p=428}}。また、昆虫類が知覚できる[[紫外線]]領域の色も用いて昆虫を誘引している花もある{{Sfn|田中|1993|p=73-75}}。進化的には虫媒花の原型は、送粉者に花粉を食べさせる虫媒植物であったと考えられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.kagoshima.jp/bc05/hakubutsukan/event/exhibition/documents/45975_20150722090044-1.pdf|title=花と昆虫の進化|accessdate=2021-03-27|publisher=鹿児島県立博物館|format=PDF|author=金井賢一|work=鹿児島の自然だより 110号}}</ref>。
その他の動物媒"[[:en:Zoophily|zoophily]]"としては、鳥類・コウモリなどの[[脊椎動物]]によるものがあり、約1,000種が送粉者であると考えられている<ref name="USFS" />。鳥類は昆虫に比べて体が大きく、また多量の蜜を必要とするため花間を積極的に飛び回るので、花粉の移動を考える上では貢献度が高いとされる{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=217}}。送粉を行う脊椎動物の例としては[[ハチドリ]]・[[オオコウモリ亜目|オオコウモリ類]]・オーストラリアにおける有袋類{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=217}}{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=241}}がある。コウモリを送粉者とするように適応した植物は白い花弁と強い香りを持つ傾向があり{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=241}}、鳥類を送粉者として適応した植物は赤い花弁を発達させ{{Sfn|日本育種学会|2005|p=432}}香りは持たない傾向がある<ref>米国農務省森林局[http://www.fs.fed.us/wildflowers/pollinators/syndromes.shtml Pollinator Syndromes]</ref>。
; 植物と送粉者の共進化
: 非生物的な受粉の最初の化石記録は、[[石炭紀]]後期の[[シダ種子植物]]に遡る{{要出典|date=2021年3月}}。キカデオイデアという中生代に繁栄した裸子植物が虫媒されていたという証拠がある{{Sfn|田中|1993|p=101}}。多くの花粉化石は、現代の動物媒介される花粉に類似した特徴を示している{{要出典|date=2021年3月}}。また、鞘翅目とハエの化石の腸内容物・翅の構造および摂食器官の形態は、彼らが初期の送粉者として働いたことを示唆している{{要出典|date=2021年3月}}。
: [[白亜紀]]の間、昆虫類と被子植物は共進化した<ref>{{Cite journal|author=佐藤和弘|year=2008|title=生命と地球Ⅱ - 総論としての生命の多様性 -|journal=青森公立大学紀要|volume=14|issue=1|pages=23-38}}</ref>。原初の被子植物は蜜を分泌しなかったと思われるが、その後花に蜜腺が生じた進化は、昆虫類と被子植物の間の共進化を示唆している{{Sfn|菊沢|1995|p=19-20}}。
== 自家受粉と他家受粉 ==
受粉には自家受粉と他家受粉があるが、同一個体内でも自家受粉する花も他家受粉する花もある{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=224}}。
以下に花の形態・特徴と自家受粉・他家受粉の関連を示す<ref>日本育種学会編『植物育種学辞典』288ページの図表、および田中肇『花に秘められたなぞを解くために』155-156ページを基に作成。</ref>が、閉鎖花でない場合はすべての花が自家受粉であるわけでもなく、雌雄異株あるいは自家不和合性でない場合はすべての花が他家受粉であるわけでもない。
* 閉鎖花(花弁が開かない花){{Sfn|日本花粉学会|1994|p=304}} - 閉花自家受粉(同花受粉)
* 開放花(花弁が開く花){{Sfn|日本花粉学会|1994|p=43}}
** 単性花(雄花と雌花が分かれている){{Sfn|日本花粉学会|1994|p=232}}{{Sfn|日本育種学会|2005|p=416}}
*** 雌雄異株(雄花と雌花をつける個体が別{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=172}}) - 他家受粉
*** 雌雄同株(同一個体に雄花・雌花・両性花のうち2種類以上が同時にある{{Sfn|日本育種学会|2005|p=272}}) - 自家受粉・他家受粉
** 両性花(一つの花に[[雌蕊]]と[[雄蕊]]がある{{Sfn|日本育種学会|2005|p=685}})
*** 異形花(個体によって花の形状が異なるもの{{Sfn|日本育種学会|2005|p=30}}) - 他家受粉
*** 同形花
**** [[自家不和合性 (植物)|自家不和合性]] - 他家受粉
**** [[雌雄異熟]] - 他家受粉および隣花受粉{{efn|隣花受粉 - 同一個体の別の花による受粉。自家受粉の一種。}}
**** 上記以外の同形花 - 自家受粉・他家受粉
* 有性生殖に関与しない花
** 生理的不稔{{efn|不稔性(ふねんせい) - 発芽して次の世代の植物を残す種子を生産できない性質のこと{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=299}}。}}の花([[倍数性|三倍体]]など)
** 形態的不稔の花([[キク科]]植物の舌状花など){{Sfn|田中|1993|p=155}}
** [[単為生殖]]をする花([[セイヨウタンポポ]]・[[ヒメジオン]]など){{Sfn|田中|1993|p=155-156}}
== 自家受粉・自家受精を防ぐ機構 ==
; 自家不和合性
: 受粉した花粉が受精することができる性質を'''和合性'''と呼ぶ{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=351}}。一般には、両親が遠縁であるほど受精の成功率が低く、逆に近いほど高くなる傾向にある{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=302}}<!-- 他の[[種 (分類学)|生物種]]および[[属 (分類学)|属]]以上に離れた植物の花粉は和合性が低く、受粉しても受精あるいは正常[[種子]]形成に至らないことが多い -->{{efn|同属異種の交雑については、自然状態または人為交配での受精に至ることがあり、種間雑種の形成が種子植物の[[進化]]や[[育種]]に寄与している例も多い([[コムギ]]やアブラナ科植物など)。また、[[ラン科|ラン]]では属間雑種も珍しい例ではない。{{要出典|date=2021年3月}}}}。このような現象は異種間の[[生殖的隔離]]の役割を果たしている{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=302}}。受粉しても子孫を残せない性質は'''不和合性'''と呼ばれ、花粉管の不発芽、花粉管の伸長停止、受精胚の崩壊などが観察される{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=302}}。また、種子が得られ発芽に至る場合でも[[実生]]が正常に発育しない場合も含め広義の不和合性とする場合もある{{要出典|date=2021年3月}}。
: 同一植物種内においても自家受粉を阻害するような不和合性が観察されることがあり、'''[[自家不和合性 (植物)|自家不和合性]]'''と呼ばれている{{Sfn|日本育種学会|2005|p=245}}{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=163}}。[[近親交配]]を阻止し{{Sfn|日本育種学会|2005|p=246}}、遺伝的な多様性を確保するための機構であると考えられている{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=163}}。自家不和合性は同形花型(胞子体型および配偶子型)、異形花型に分けられる{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=302}}。
; 雌雄異熟
: [[雌雄異熟]]とは、一つの株の中の雌性器官あるいは雌性花の受粉可能時期と、雄性器官あるいは雄性花の花粉放出時期が異なる現象である{{Sfn|日本育種学会|2005|p=266}}{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=172}}。雌性器官あるいは雌性花が先に受粉可能になることを[[雌性先熟]]、雄性器官あるいは雄性花が先に花粉を放出できる状態になる場合を[[雄性先熟]]という{{Sfn|日本育種学会|2005|p=266}}。雌蕊と雄蕊が成熟する時期が異なることで、自花受粉を避ける機構として機能している{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=172}}。但し通常一つの植物には複数の花が咲くから、異なる花の間での自家受粉は可能となることがある{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=172}}。
; 異形花柱性
: 両性花の中には個体によって雌蕊や雄蕊の形が異なる異形花柱性をもつものがある。例えば[[サクラソウ]]や[[ソバ]]には2種類の花(二形花)があり、[[ミソハギ]]には3種類の花(三形花)がある{{Sfn|日本育種学会|2005|p=30}}。これらの花では同じ形の花同士での受精が成立しないため、結果的に異なる形状の花同士で受粉したものが次の世代を残すため、他家受粉が促進される{{Sfn|日本育種学会|2005|p=30}}{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=14}}。雌雄異株よりも受粉が成功しやすいことが指摘されている{{Sfn|田中|1993|p=147-148}}。
; 雌雄異株
: [[イチョウ]]・[[スイバ]]・[[アオキ (植物)|アオキ]]など雄花と雌花が着く個体が異なる植物では、必然的に他家受粉が行われる{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=172}}。多年草および木本植物にみられ、1年草では観察されない{{Sfn|田中|1993|p=144-145}}。
== 研究史 ==
受粉に関する科学的研究は[[:en:Christian Konrad Sprengel|Sprengel]]による『花の構造と受精』(1793年)から始まったとされる{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=217}}。19世紀には[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]による『蘭の受精』(1862年)・『受精の研究』(1876年)が刊行され、この分野の発展に刺激を与えた{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=180-181}}{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=217}}{{efn|花生態学(送粉生態学)の祖はSprengelとされ、受粉生物学の祖はDawinとされる{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=180-181}}。}}。この時期に受粉方法の記録・分類が行われ、受粉様式が風媒・水媒・動物媒・閉花同花受粉などに整理された{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=217}}。
20世紀に入ると、送粉生態学は生物学分野で重んじられることがなくなり、再び脚光を浴びるのは1950年代以降である。1955年にはドイツのKuglerにより『花生態学』、1966年にはアメリカの[[:en:Knut Fægri|Fægri]]とPijlによる『受粉生態学原理』<ref>Fægri, K. and L. van der Pijl. ''The Principles of Pollination Ecology.'' (1st ed.) New York: Pergamon Press, 1966.</ref>などが著されて研究が盛んになった。{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=217}}
その後、動物行動学・進化生物学分野の知見を取り入れることにより、送粉生態学から受粉生物学へと発展し、20世紀末には受粉に関する総合学術分野としての送粉生態学・受粉生物学が確立している{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=217-218}}{{Sfn|日本花粉学会|1994|p=180-181}}。
2016年、水中においては動物が介在しないとされていたが、無脊椎動物による媒介が確認された<ref>{{Cite web |url=https://www.nature.com/articles/ncomms12980 |title=Experimental evidence of pollination in marine flowers by invertebrate fauna |access-date=2022-08-17 |last=van Tussenbroek |first=Brigitta I. |date=2016-09-29 |website=Nature Communications |pages=12980 |language=en |doi=10.1038/ncomms12980}}</ref>。
== ポリネーターガーデン ==
[[File:Smithsonian Pollinator Garden in June (19274685058).jpg|thumb|[[スミソニアン博物館]]のミルクウィード]]
[[File:Hood River Valley Public Pollinator Garden - 52098202667.jpg|thumb|[[オレゴン州]][[:en:Hood River Valley]]のパブリック・ポリネーター・ガーデン]]
[[File:Sugarlands Visitor Center Pollinator Garden, May 2018--Andrea Walton (41173590290).jpg|thumb|[[グレート・スモーキー山脈国立公園]]のシュガーランズ・ビジターセンター・ポリネーター・ガーデン、テネシー州ガリンバーグ]]
[[File:Bumblebees on anise hyssop.jpg|thumb|[[マサチューセッツ州]]のアニスヒソップ・ガーデンで餌を食べるポリネーターたち]]
[[File:Flower-arrangement-victoria-BC.jpg|thumb|ポリネーター・ガーデン([[ブリティッシュコロンビア州]]Victoria)]]
[[File:Colorful flowers (2717762652).jpg|thumb|ポリネーターガーデン品種例([[アイスランド]]・[[レイキャビク]])]]
ポリネーターガーデン(Pollinator_garden)<ref>朝田 くに子(2018)ポリネーターガーデンの植栽と管理 : 蜜源ガーデンづくり5年間の成果と課題 グリーン・エージ 2018年7月号</ref>とは、特定の[[蜜]]や[[花粉]]を生産する植物を育て、ポリネーターと呼ばれる花粉媒介者・送粉昆虫を呼び寄せることを意図して設計された[[庭園]]<ref>{{Cite book|isbn=978-1603426954|title=Attracting Native Pollinators: The Xerces Society Guide to Conserving North American Bees and Butterflies and Their Habitat |date=26 February 2011 }}</ref>。
花粉媒介者は人間が食べる3口のうち1口の生産を助けているため、これらの種をサポートする方法である<ref>{{Cite news |title=Ready to join the butterfly garden movement? |url=https://torontosun.com/life/homes/ready-to-join-the-butterfly-garden-movement |date=13 August 2021|first=Mark|last=Wessel |access-date=2022-10-05 |newspaper=Toronto Sun |language=en-CA}}</ref>。
花粉媒介者のための庭園であるとみなされるためには、蜜を出すさまざまな花、花粉媒介者のための巣・避難所を提供する植物を配し、[[農薬]]を使用しないことである<ref>{{cite book|isbn=978-1-60469-598-4|title=Gardening for Butterflies: How You Can Attract and Protect Beautiful, Beneficial Insects|author=[[Xerces Society]]. |date=23 March 2016 }}</ref><ref name=":3">{{Cite book |last=Knepp |first=T |url=https://permanent.fdlp.gov/gpo58962/Attracting_Pollinators_to_Your_Garden.pdf |title=Attracting pollinators to your garden |publisher=Usian Fish & Wildlife Service |year=2011}}</ref>。
{{main|:en:Pollinator_garden}}
=== 背景 ===
ポリネーターガーデンでは、植物群は野生の受粉媒介者を呼び寄せることを目的として栽培される。受粉は植物が種子を生産するための生殖過程である<ref name=":2">{{Cite book |last=Mason |first=Kenneth A. |url=https://www.worldcat.org/oclc/1048029539 |title=Biology |date=2020 |others=Jonathan B. Losos, Tod Duncan, Peter H. Raven, George B. Johnson |isbn=978-1-260-16961-4 |edition=Twelfth |location=New York, NY |oclc=1048029539}}</ref>。ある花の雄部の花粉が、同種の別の花の雌部に移動すると、受精が起こる<ref name=":2" /><ref name=":32">{{Cite book|last=Knepp|first=T |url=https://permanent.fdlp.gov/gpo58962/Attracting_Pollinators_to_Your_Garden.pdf|title=Attracting pollinators to your garden|publisher=U.S. Fish & Wildlife Service|year=2011}}</ref>。受精すると、花は実と種を作る<ref name=":4">{{Cite book|last=Reel |first=Susan|url=http://www.nancyseiler.com/wp-content/uploads/2010/09/Pollination_FINAL1-Lo-Res.pdf |title=Attracting Pollinators to Your Garden Using Native Plants |publisher=U.S Fish & Wildlife Service|year=2011}}</ref><ref name=":32" />。全ての[[顕花植物]]の90%近くが動物によって受粉される<ref name=":0">{{Cite journal |last=FUKASE |first=J. |title=Increased Pollinator Activity in Urban Gardens with More Native Flora |date=2016-01-28 |journal=Applied Ecology and Environmental Research |volume=14 |issue=1 |pages=297-310 |doi=10. 15666/aeer/1401_297310 |issn=1589-1623|doi-access=free }}</ref>。これらの受粉媒介者の種の大半はハチやチョウなどの[[昆虫]]であるが、[[動物]]の受粉媒介者には、他に特定の種の[[鳥]]や[[哺乳類]]などもいる<ref name=":4" /><ref name=":32" />。
=== 目的 ===
花粉媒介者は人間の食糧生産に重要な役割を果たしており、ポリネーターガーデンは重要な花粉媒介者種を支援し保護する方法でもある<ref name=":0" />。受粉は150以上の食用作物、米国内ならば栽培されている果物、野菜、ナッツ類のほとんどが花粉媒介者に依存しているとみられているが、現在、多くの花粉媒介者種が脅かされ減少の一途を辿っている<ref name=":32" />。2007年、全米研究会議は、全昆虫受粉媒介種の40%が現在絶滅の危機にあると結論付けた<ref name=":1">{{Cite book |last=Council |first=National Research |url=https://nap.nationalacademies.org/catalog/11761/status-of-pollinators-in-north-america |title=Status of Pollinators in North America |date=2006-10-18 |isbn=978-0-309-10289-6 |language=en |doi=10. 17226/11761}}</ref>。花粉媒介者の減少の原因としては、生息地の喪失、農薬への暴露、外来植物の蔓延による食料源の喪失などが挙げられる<ref name=":1" />。花粉媒介者の生息地を保護せず、新しい生息地を作らない場合、植物の受粉不足は最終的に人間に影響を与えることになる。花粉媒介者が減少すると、農業の収穫量も減少し<ref>{{Cite journal |last1=Aizen |first1=Marcelo A. |last2=Garibaldi |first2=Lucas A. |last3=Cunningham |first3=Saul A. |last4=Klein |first4=Alexandra M. |date=2009-04-01 |title=How much does agriculture depend on pollinators? Lessons from long-term trends in crop production |url=https://doi.org/10.1093/aob/mcp076 |journal=Annals of Botany |volume=103 |issue=9 |pages=1579–1588 |doi=10.1093/aob/mcp076 |issn=1095-8290 |pmc=2701761 |pmid=19339297}}</ref>、受粉がなければ人間の主たる栄養源は苦しむことになる<ref>{{cite journal|doi=10.1098/rspb.2006.3721|title=Importance of pollinators in changing landscapes for world crops |year=2007 |last1=Klein |first1=Alexandra-Maria |last2=Vaissière |first2=Bernard E. |last3=Cane |first3=James H. |last4=Steffan-Dewenter |first4=Ingolf |last5=Cunningham |first5=Saul A. |last6=Kremen |first6=Claire |last7=Tscharntke |first7=Teja |journal=Proceedings of the Royal Society B: Biological Sciences |volume=274 |issue=1608 |pages=303–313 |pmid=17164193 |pmc=1702377 }}</ref><ref>{{cite journal|doi=10.1371/journal.pone.0021363|doi-access=free |title=Contribution of Pollinator-Mediated Crops to Nutrients in the Human Food Supply |year=2011 |last1=Eilers |first1=Elisabeth J. |last2=Kremen |first2=Claire |last3=Smith Greenleaf |first3=Sarah |last4=Garber |first4=Andrea K. |last5=Klein |first5=Alexandra-Maria |journal=PLOS ONE |volume=6 |issue=6 |pages=e21363 |pmid=21731717 |pmc=3120884 |bibcode=2011PLoSO...621363E }}</ref>。さらに、作物以外の植物種の80~95%も何らかの受粉を必要とするため、危機に瀕しているのは作物だけではないのである。しかし、研究によると、ある地域に自生する受粉媒介植物の割合が増えると、受粉媒介者の活動も活発になることが分かっている<ref>{{cite journal|doi=10.1016/j.cois.2015 .05.008|title=Bee nutrition and floral resource restoration |year=2015 |last1=Vaudo |first1=Anthony D. |last2=Tooker |first2=John F. |last3=Grozinger |first3=Christina M. |}}</ref>。
=== 植栽の注意点 ===
花粉媒介植物の植栽には、いくつかの注意点がある。鳥、ハチ、チョウなど、園芸家がどのような種類の受粉媒介者を引き寄せたいのかによって、これらの種に適した蜜、花粉、幼虫の宿主となる植物を選ぶ必要があるし<ref name=":4" /><ref name=":5">{{Cite journal |last1=Majewska |first1=Ania A. |last2=Altizer |first2=Sonia |date=28 December 2018 |title=Planting gardens to support insect pollinators |url=https://conbio.onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/cobi.13271 |journal=Conservation Biology |volume=34 |issue=1 |pages=15-25 |doi=10.1111/cobi.13271|pmid=30593718 |s2cid=58541392 }}</ref>、自生種のプラントを選ぶよう勧めがある<ref name=":4" />。つまり在来種の植物は、特定の気候や生育条件に最適に適応するように進化し、しばしば受粉媒介者固有の関係を築いてきた(例:オオカバマダラとミルクウィードなど)<ref name=":32" /><ref name=":4" />。さらに、自生の植物を選べば、周囲の自生植物が[[外来種]]に駆逐されることはないのである<ref>{{Cite journal |last1=Johnson |first1=Anna L |last2=Fetters |first2=Andrea M |last3=Ashman |first3=Tia-Lynn |date=19 June 2017 |title=Considering the unintention consequences of pollinator gardens for urban native plants: is the road to extinction paved with good intentions? |journal=New Phytologist |volume=215 |issue=4 |pages=1298-1305 |doi=10.1111/nph.14656|pmid=28626951 |doi-access=free }}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考資料 ==
* [[チャールズ・ダーウィン]](1862)『蘭の受精』 - {{Citation| last =Darwin | first = Charles | year =1862 | title =On the various contrivances by which British and foreign orchids are fertilised by insects, and on the good effects of intercrossing. | publication-place = London | publisher = John Murray | url =http://darwin-online.org.uk/content/frameset?viewtype=text&itemID=F800&pageseq=1 | accessdate =2009-02-20}}
* チャールズ・ダーウィン(1876)『受精の研究』『植物の受精』ISBN 978-4829901236 - {{Citation | last =Darwin | first = Charles | year =1876 | title =The effects of cross and self fertilisation in the vegetable kingdom. | publication-place = London | publisher = John Murray | url =http://darwin-online.org.uk/content/frameset?itemID=F1249&viewtype=text&pageseq=1 | accessdate =2009-02-20}}
* {{Cite book|和書|title=花粉学事典|url=https://www.worldcat.org/oclc/674669128|publisher=朝倉書店|date=1994-12-10|isbn=4-254-17088-2|oclc=674669128|editor=[[日本花粉学会]]|ref={{SfnRef|日本花粉学会|1994}}}}
<!-- 日本花粉学会編『花粉学事典(初版)』朝倉書店、1994年。(新装版2008年 ISBN 978-4254171389) -->
* {{Cite book|和書|edition=増訂版|title=学術用語集 遺伝学編|url=https://www.worldcat.org/oclc/30142211|publisher=丸善|date=1993-08-31|location=東京|isbn=4-621-03805-2|oclc=30142211|others=[[文部省]]、[[日本遺伝学会]]|ref={{SfnRef|日本遺伝学会|1993}}}}
<!-- 日本遺伝学会編『学術用語集〈遺伝学編〉』丸善、1993年、増訂版。ISBN 978-4621038055。 -->
* {{Cite book|和書|edition=増訂版|title=学術用語集 植物学編|publisher=丸善|year=1990-03-20|location=東京|isbn=4-621-03376-X|others=[[文部省]]、[[日本植物学会]]|ref={{SfnRef|日本植物学会|1990}}}}
<!-- 日本植物学会編『学術用語集〈植物学編〉』丸善、1990年、増訂版。ISBN 978-4621035344。 -->
* {{Cite book|和書|edition=増訂版|title=学術用語集 動物学編|publisher=丸善|date=1988-03-31|year=1988|location=東京|isbn=4-621-03256-9|others=[[文部省]]、[[日本動物学会]]|ref={{SfnRef|日本動物学会|1988}}}}
<!-- 日本動物学会編『学術用語集〈動物学編〉』丸善、1988年、増訂版。ISBN 978-4621035337。 -->
<!-- * 日本育種学会編『植物育種学辞典』培風館、2005年。ISBN 978-4563077884。 -->
* {{Cite book|和書|title=植物育種学事典|url=https://www.worldcat.org/oclc/676515848|publisher=[[培風館]]|date=2005-09-08|location=東京|isbn=4-563-07788-7|oclc=676515848|editor=[[日本育種学会]]|year=2005|ref={{SfnRef|日本育種学会|2005}}}}
* {{Cite book|和書|title=共進化の生態学 生物間相互作用が織りなす多様性|publisher=文一総合出版|year=2008|date=2008-03-31|location=東京都|isbn=978-4-8299-1069-6|oclc=676253822|editor=種生物学会|others=横山潤, 堂囿いくみ|ref={{SfnRef|種生物学会|2008}}}}
* {{Cite book|和書|title=昆虫を誘い寄せる戦略 - 植物の繁殖と共生|publisher=平凡社|date=1992-11-04|year=1992|isbn=4-582-50023-4|oclc=675000572|last=井上|first=健|last2=湯本|first2=貴和|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|title=植物生態学ーPlanet ecologyー|url=https://www.worldcat.org/oclc/675554829|publisher=朝倉書店|year=2004|location=東京|isbn=4-254-17119-6|oclc=675554829|last=甲山|first=隆司|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|ref=harv|year=2004|last=大原|date=2004-12-10|first=雅|chapter=5. 繁殖過程と遺伝的構造|title=植物生態学 ーPlanet Ecologyー|publisher=[[朝倉書店]]|pages=156-188|ISBN=4-254-17119-6}}
* {{Cite book|和書|title=植物の世界|url=https://www.worldcat.org/oclc/674426711|publisher=東京大学出版会|date=2000-03-15|isbn=4-13-064237-5|oclc=674426711|last=岩槻|first=邦男|last2=加藤|first2=雅啓|ref=harv|series=「多様性の植物学」①}}
* {{Cite book|和書|title=植物の繁殖生態学|publisher=蒼樹書房|year=1995|date=1995-10-25|isbn=4-7891-3054-1|oclc=674233587|first=喜八郎|last=菊沢|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|title=花に秘められたなぞを解くために|url=https://www.worldcat.org/oclc/675376332|publisher=農村文化社|isbn=4-931205-15-1|oclc=675376332|last=田中|first=肇|year=1993|date=1993-09-01|ref=harv}}
* {{Cite journal|last=由井|first=正敏|year=1989|date=1989-03|title=資源としての森林動物と森林の遺伝資源保続に果す役割|url=https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2030390095.pdf|journal=農林水産技術研究ジャーナル|volume=12|issue=3|pages=23-28|accessdate=2021-03-25|format=PDF|issn=03879240|ref=harv}}
* {{Cite web|author=米国農務省森林局|authorlink=:en:United States Forest Service|url=http://www.fs.fed.us/wildflowers/pollinators/documents/factsheet_pollinator.pdf|title=Pollinator Factsheet|work=[http://www.fs.fed.us/wildflowers/ Celebrating Wildflowers]|format=pdf|language=英語|accessdate=2009-01-28}}
* {{Cite web|author=米国農務省森林局|url=http://www.fs.fed.us/wildflowers/pollinators/syndromes.shtml|title=Pollinator Syndromes|work=Celebrating Wildflowers|language=英語|accessdate=2009-01-31}}
== 関連項目 ==
{{commons|Category:Pollination}}
* [[花]] / [[雌蕊]] / [[雄蕊]] / [[花粉]]
* [[送粉者]] / [[盗蜜]] / [[花粉食動物]] / [[蜜食動物]]
* [[共進化]]
* [[人工授粉]]
* [[受精#種子植物の受精]] / [[被子植物#重複受精]]
== 外部リンク ==
* [http://wwwsoc.nii.ac.jp/psj3/index.htm 日本花粉学会]
* [http://www.esj.ne.jp/esj/ 日本生態学会]
* {{PDFlink|[http://www.fruit.affrc.go.jp/publication/hokoku/no06/fruit6_03.pdf アンズおよびスモモ類の花粉の染色率と発芽率の品種間差異]}}
*{{コトバンク}}
{{植物学}}
{{Good article}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しゆふん}}
[[Category:受粉|*]]
[[Category:植物の生殖]]
[[Category:植物の性]]
[[Category:生態学]]
[[Category:植物生理学]] | 2003-03-09T11:07:33Z | 2023-11-15T16:00:07Z | false | false | false | [
"Template:Cite book",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Main",
"Template:Notelist",
"Template:Cite news",
"Template:Citation",
"Template:Commons",
"Template:PDFlink",
"Template:Good article",
"Template:Sfn",
"Template:要出典",
"Template:Cite journal",
"Template:Normdaten",
"Template:Efn",
"Template:Cite web",
"Template:コトバンク",
"Template:植物学",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%97%E7%B2%89 |
3,725 | エディンバラ | エディンバラ(英語: Edinburgh、スコットランド・ゲール語: Dùn Éideann)は、スコットランドの首都であり、ロージアン地方の首府。日本語では「エジンバラ」とも表記される。人口は48万人。
スコットランドの東岸、フォース湾に面するこの都市は、スコットランドにおける政治と文化の中心であり、グラスゴーと共に2大都市の一角を占める。旧市街と新市街の美しい町並みは、ユネスコの世界遺産に登録されていて、旧跡など観光資源が豊富である。街の中心にカールトン・ヒルと呼ばれる小高い丘があり、街を一望できる。毎年8月にはエディンバラ・フェスティバルと呼ばれる芸術祭典が行われ、多くの観光客で賑わう。学術都市でもあり、世界的な名門であるエディンバラ大学がある。
地名は「エドウィンの城」の意味。一方、ブリトン人のゲール語で険しい丘を意味するエディンと後に攻略したアングル人が、砦を意味するバラを付けたとする見解がある。火山の溶岩の上に形成された城郭都市であり地盤が強固である。
スコットランドのローランドに位置するエディンバラは北にフォース湾が控え、西へ100kmほどにグラスゴーがある。
地質時代のデボン紀から石炭紀にかけて、約4億年前に初めて火山活動が発生した。3億5000万年前に2回目の火山活動で火山円錐丘が作られ、2億8500万年前に岩脈、そして2億5000年前に地震が起こり、200万年前には氷河におおわれた。二度の火山活動で噴出した玄武岩溶岩の上に街が出来ている。町の目印となるキャッスル・ロックは、ほぼ左右対称の円筒状の玄武岩でできており、450フィートの高さがある。
エディンバラ城の場所やアーサーの玉座(Arthur's Seat)と呼ばれる岩山は溶岩が氷河に削り取られた後の残丘である。
他のスコットランドの都市と同様、その緯度に似合わずエディンバラも温和な海洋性気候である。冬は零下になることは余り無い。夏の最高気温は22 °Cだが、メキシコ湾流による南西風が強いことで知られる。雨は年間を通じ多い。10月から5月にかけて北海からの東風が冷たい乾いた嵐となることがある。
ケッペンの気候区分では西岸海洋性気候(Cfb)に属する。
古くから行政府・商都として栄え、金融業や小売業が強い。19世紀頃までは、銀行業・出版業・醸造業が主力産業だった。現代でも、金融業や学術や研究機関関連の産業が盛んである。金融センターとしては、イギリスではロンドンに次ぐ規模である。
エディンバラ大学は、イギリスないし欧州屈指の名門大学。哲学者のデイヴィッド・ヒューム、経済学者のアダム・スミス、科学者のチャールズ・ダーウィン、ジェームズ・クラーク・マクスウェル、小説家のアーサー・コナン・ドイルなど数多くの学者、文化人を輩出している。
エディンバラの中心駅はウェーバリー駅で、ロンドンのキングス・クロス駅までインターシティで約4時間30分。
市内では路線バスおよびトラムが運行されている。
1956年11月16日にトラムが廃止されたが近年、トラムシステムの有用性が再認識され再び復活する運びとなった。当初の開業予定は2011年7月だったが予定より遅れて2014年5月31日に開通。エディンバラ空港とヨークプレイス間を結んでいる。更なる延伸も予定されている。当初の予算は512万ポンドで現在の予想では600万ポンドを超えると見られている。
2011年の開業予定で2007年にスコットランド議会で建設が可決されたが同年9月に政権が交代して計画は中止された。滑走路の下にトンネルを掘って高速で連絡する予定だった。
この街のカフェ The Elephant House で作家J・K・ローリングがハリー・ポッターと賢者の石を書き上げたという話は有名。また、物語に登場する「ホグワーツ魔法魔術学校(ホグワーツ城)」はエディンバラ城がモデルだといわれているが、作者は否定している。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "エディンバラ(英語: Edinburgh、スコットランド・ゲール語: Dùn Éideann)は、スコットランドの首都であり、ロージアン地方の首府。日本語では「エジンバラ」とも表記される。人口は48万人。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "スコットランドの東岸、フォース湾に面するこの都市は、スコットランドにおける政治と文化の中心であり、グラスゴーと共に2大都市の一角を占める。旧市街と新市街の美しい町並みは、ユネスコの世界遺産に登録されていて、旧跡など観光資源が豊富である。街の中心にカールトン・ヒルと呼ばれる小高い丘があり、街を一望できる。毎年8月にはエディンバラ・フェスティバルと呼ばれる芸術祭典が行われ、多くの観光客で賑わう。学術都市でもあり、世界的な名門であるエディンバラ大学がある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "地名は「エドウィンの城」の意味。一方、ブリトン人のゲール語で険しい丘を意味するエディンと後に攻略したアングル人が、砦を意味するバラを付けたとする見解がある。火山の溶岩の上に形成された城郭都市であり地盤が強固である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "スコットランドのローランドに位置するエディンバラは北にフォース湾が控え、西へ100kmほどにグラスゴーがある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "地質時代のデボン紀から石炭紀にかけて、約4億年前に初めて火山活動が発生した。3億5000万年前に2回目の火山活動で火山円錐丘が作られ、2億8500万年前に岩脈、そして2億5000年前に地震が起こり、200万年前には氷河におおわれた。二度の火山活動で噴出した玄武岩溶岩の上に街が出来ている。町の目印となるキャッスル・ロックは、ほぼ左右対称の円筒状の玄武岩でできており、450フィートの高さがある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "エディンバラ城の場所やアーサーの玉座(Arthur's Seat)と呼ばれる岩山は溶岩が氷河に削り取られた後の残丘である。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "他のスコットランドの都市と同様、その緯度に似合わずエディンバラも温和な海洋性気候である。冬は零下になることは余り無い。夏の最高気温は22 °Cだが、メキシコ湾流による南西風が強いことで知られる。雨は年間を通じ多い。10月から5月にかけて北海からの東風が冷たい乾いた嵐となることがある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "ケッペンの気候区分では西岸海洋性気候(Cfb)に属する。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "古くから行政府・商都として栄え、金融業や小売業が強い。19世紀頃までは、銀行業・出版業・醸造業が主力産業だった。現代でも、金融業や学術や研究機関関連の産業が盛んである。金融センターとしては、イギリスではロンドンに次ぐ規模である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "エディンバラ大学は、イギリスないし欧州屈指の名門大学。哲学者のデイヴィッド・ヒューム、経済学者のアダム・スミス、科学者のチャールズ・ダーウィン、ジェームズ・クラーク・マクスウェル、小説家のアーサー・コナン・ドイルなど数多くの学者、文化人を輩出している。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "エディンバラの中心駅はウェーバリー駅で、ロンドンのキングス・クロス駅までインターシティで約4時間30分。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "市内では路線バスおよびトラムが運行されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1956年11月16日にトラムが廃止されたが近年、トラムシステムの有用性が再認識され再び復活する運びとなった。当初の開業予定は2011年7月だったが予定より遅れて2014年5月31日に開通。エディンバラ空港とヨークプレイス間を結んでいる。更なる延伸も予定されている。当初の予算は512万ポンドで現在の予想では600万ポンドを超えると見られている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "2011年の開業予定で2007年にスコットランド議会で建設が可決されたが同年9月に政権が交代して計画は中止された。滑走路の下にトンネルを掘って高速で連絡する予定だった。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "この街のカフェ The Elephant House で作家J・K・ローリングがハリー・ポッターと賢者の石を書き上げたという話は有名。また、物語に登場する「ホグワーツ魔法魔術学校(ホグワーツ城)」はエディンバラ城がモデルだといわれているが、作者は否定している。",
"title": "その他"
}
] | エディンバラは、スコットランドの首都であり、ロージアン地方の首府。日本語では「エジンバラ」とも表記される。人口は48万人。 | {{Otheruses}}
{{Infobox settlement
<!--See the Table at Infobox Settlement for all fields and descriptions of usage-->
|name = エディンバラ
|other_name = <small>[[スコットランド語]]: Edinburgh/Embra/Enburrie</small>
|native_name = <small>[[スコットランド・ゲール語]]: Dùn Èideann</small>
|nickname = "Auld Reekie", "Athens of the North"
|settlement_type = [[スコットランドの地方行政区画|単一自治体]] & [[シティ・ステータス (イギリス)|都市]]<!--For Town or Village (Leave blank for the default City)-->
|motto = "Nisi Dominus Frustra" <small>''"Except the Lord in vain"'' associated with Edinburgh since 1647, it is a normal heraldic contraction of a verse from the 127th Psalm, "Except the Lord build the house, they labour in vain that build it. Except the Lord keep the city, the watchman waketh but in vain"</small>
<!-- images and maps ---------->
|image_skyline = EdinburghMontage.png
|imagesize = 250px
|image_caption = 時計回りに上から、[[カールトン・ヒル]]からの景色、[[エディンバラ大学]]、[[エディンバラ旧市街]]、[[エディンバラ城]]及びカールトン・ヒルから臨む[[:en:Princes Street|Princes Street]].
|image_flag = Flag of Edinburgh.svg
|flag_size =
|image_seal =
|seal_size =
|image_shield = Arms of Edinburgh.png
|shield_link =
|shield_size =
|image_blank_emblem =
|blank_emblem_type =
|blank_emblem_size =
|blank_emblem_link =
|image_map = City of Edinburgh in Scotland.svg
|mapsize =
|map_caption =
|image_map1 =
|mapsize1 =
|map_caption1 =
|image_dot_map =
|dot_mapsize =
|dot_map_caption =
|dot_x = |dot_y =
|pushpin_map =Scotland Edinburgh#United Kingdom Edinburgh#Scotland
|pushpin_label_position = <!-- the position of the pushpin label: left, right, top, bottom, none -->
|pushpin_map_caption =エディンバラの位置
|pushpin_mapsize =
|pushpin_relief = 1
|mapframe = {{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=270|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}}
<!-- Location ------------------>
|subdivision_type = 国
|subdivision_name = {{GBR}}
|subdivision_type1 = [[イギリスのカントリー|カントリー]]
|subdivision_name1 = {{SCO}}
|subdivision_type2 =
|subdivision_name2 =
|subdivision_type3 = [[:en:Lieutenancy areas of Scotland|レフテナンシー・エリア]]
|subdivision_name3 = エディンバラ
|subdivision_type4 = 市役所
|subdivision_name4 = エディンバラ・シティ・センター
<!-- Politics ----------------->
|government_footnotes =
|government_type =[[スコットランドの地方行政区画|単一自治体]]、[[シティ・ステータス (イギリス)|都市]]
|leader_title =市政
|leader_name ={{仮リンク|シティ・オブ・エディンバラ・カウンシル|en|Politics of Edinburgh}}
|leader_title1 =[[:en:List of Lord Provosts of Edinburgh|市長]]
|leader_name1 =ドナルド・ウィルソン
|leader_title2 ={{仮リンク|スコットランド議会議員|en|4th Scottish Parliament}}
|leader_name2 ={{Collapsible list |title=[[:en:Politics of Edinburgh#Scottish Parliament|6人]] |[[:en:Ash Denham|アッシュ・デナム]] ([[スコットランド国民党|SNP]]) |[[:en:Ruth Davidson|ルース・デービッドソン]] ([[スコットランド保守党|C]]) |[[:en:Daniel Johnson (politician)|ダニエル・ジョンソン]] ([[スコットランド労働党|L]]) |[[:en:Gordon MacDonald (Scottish politician)|ゴードン・マクドナルド]] (SNP) |[[:en:Ben Macpherson (politician)|ベン・マクファーソン]] (SNP) |[[:en:Alex Cole-Hamilton|アレックス・コール=ハミルトン]] ([[スコットランド自由民主党|LD]]) |}}
|leader_title3 =[[:en:List of MPs elected in the United Kingdom general election, 2010|英国議会議員]]:
|leader_name3 ={{Collapsible list |title=[[:en:Politics of Edinburgh#Parliament of the United Kingdom|5人]] |[[:en:Joanna Cherry|ジョアンナ・チェリー]] (SNP) |[[:en:Tommy Sheppard|トミー・シェパード]] (SNP) |[[:en:Ian Murray (British politician)|イアン・マレー]] (L) |[[:en:Deidre Brock|ダイドル・ブロック]] (SNP) |[[:en:Michelle Thomson|ミシェル・トムソン]] (無所属)}}
|leader_title4 =
|leader_name4 =
|established_title = 創立
|established_date = 7世紀
|established_title2 = [[自由都市]]
|established_date2 = 1125年
|established_title3 = 市政移行
|established_date3 = 1889年
<!-- Area --------------------->
|area_magnitude =
|unit_pref = <!--Enter: Imperial, if Imperial (metric) is desired-->
|area_footnotes =
|area_total_km2 = 264
|area_land_km2 = <!--See table @ Template:Infobox Settlement for details on automatic unit conversion-->
|area_water_km2 =
|area_total_sq_mi = <!-- ALL fields dealing with a measurements are subject to automatic unit conversion-->
|area_land_sq_mi =
|area_water_sq_mi =
|area_water_percent =
|area_urban_km2 =
|area_urban_sq_mi =
|area_metro_km2 =
|area_metro_sq_mi =
|area_blank1_title =
|area_blank1_km2 =
|area_blank1_sq_mi =
<!-- Population ----------------------->
|population_as_of =2012年
|population_footnotes =<ref>{{cite web|url=http://www.gro-scotland.gov.uk/files2/stats/council-area-data-sheets/city-of-edinburgh-factsheet.pdf |title=City of Edinburgh factsheet |publisher=gro-scotland.gov.uk|accessdate=17 September 2013 |format=PDF }}</ref>
|population_note =
|population_total = 482640
|population_density_km2 =1828
|population_density_sq_mi =
|population_county =
|population_density_county_km2 =
|population_density_county_sq_mi =
|population_urban =
|population_density_urban_km2 =
|population_density_urban_sq_mi =
|population_blank1_title =
|population_blank1 =
|population_density_blank1_title =
|population_density_blank1_km2 =
|population_density_blank1_sq_mi =
|population_blank2_title =
|population_blank2 =
|population_density_blank2_km2 =
|population_density_blank2_sq_mi =
|population_blank3_title =
|population_blank3 = <!-- General information --------------->
|timezone = [[グリニッジ標準時]]
|utc_offset = +0
|timezone_DST = [[英国夏時間]]
|utc_offset_DST = +1
|latd=55 |latm=56 |lats=58 |latNS=N
|longd=3 |longm=9 |longs=37 |longEW=W
|elevation_footnotes = <!--for references: use tags-->
|elevation_m =
|elevation_ft =
<!-- Area/postal codes & others -------->
|postal_code_type = 郵便地域
|postal_code =[[:en:EH postcode area|EH]]
|area_code =0131
|blank_name =[[ISO 3166-2:GB|ISO 3166-2]]
|blank_info =GB-EDH
|blank1_name =[[:en:ONS coding system|ONSコード]]
|blank1_info =00QP
|blank2_name =[[:en:British national grid reference system|英式座標]]
|blank2_info ={{gbmappingsmall|NT275735}}
|blank3_name =[[:en:Nomenclature of Territorial Units for Statistics|NUTS]] 3
|blank3_info = UKM25
|blank4_name =
|blank4_info =
|website = [http://www.edinburgh.gov.uk/ www.edinburgh.gov.uk]<br />[http://www.edinburgh-inspiringcapital.com/ www.edinburgh-inspiringcapital.com]
|footnotes =
}}
[[File:Arthurs seat edinburgh.jpg|thumb|right|旧市街と[[アーサーの玉座]]]]
'''エディンバラ'''({{lang-en|links=no|Edinburgh}}<ref group="注釈">{{IPA-en|ˈɛdɪnbərə||edinburgh.ogg}}</ref>、{{lang-gd|links=no|Dùn Éideann}}<ref group="注釈">{{IPA-gd|ˈt̪uːn ˈɛːtʲɛn̪ˠ|}}</ref>)は、[[スコットランド]]の首都であり、[[ロージアン|ロージアン地方]]の首府。日本語では「'''エジンバラ'''」とも表記される。人口は48万人。
==概要==
[[スコットランド]]の東岸、[[フォース湾]]に面するこの都市は、スコットランドにおける政治と文化の中心であり、[[グラスゴー]]と共に2大都市の一角を占める。旧市街と新市街の美しい町並みは、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されていて、旧跡など観光資源が豊富である。街の中心に[[カールトン・ヒル]]と呼ばれる小高い丘があり、街を一望できる。毎年8月には[[エディンバラ・フェスティバル]]と呼ばれる芸術祭典が行われ、多くの観光客で賑わう。学術都市でもあり、世界的な名門である[[エディンバラ大学]]がある。
===地名===
地名は「エドウィンの城」の意味。一方、[[ブリトン人]]の[[ゲール語]]で険しい丘を意味するエディンと後に攻略した[[アングル人]]が、砦を意味するバラを付けたとする見解がある。火山の溶岩の上に形成された[[城郭都市]]であり地盤が強固である。
==地理==
===位置===
スコットランドのローランドに位置するエディンバラは北にフォース湾が控え、西へ100kmほどに[[グラスゴー]]がある。
===地形===
[[地質時代]]の[[デボン紀]]から[[石炭紀]]にかけて、約4億年前に初めて火山活動が発生した。3億5000万年前に2回目の火山活動で火山円錐丘が作られ、2億8500万年前に[[岩脈]]、そして2億5000年前に地震が起こり、200万年前には[[氷河]]におおわれた。二度の火山活動で噴出した[[玄武岩]]溶岩の上に街が出来ている。町の目印となるキャッスル・ロックは、ほぼ左右対称の円筒状の玄武岩でできており、450[[フィート]]の高さがある。
エディンバラ城の場所や[[アーサーの玉座]]([[:en:Arthur's Seat, Edinburgh|Arthur's Seat]])と呼ばれる岩山は溶岩が氷河に削り取られた後の残丘である。
[[File:View of Edinburgh from Blackford Hill 2.jpg|700px|center|南から見た市街地 左エディンバラ城 右アーサーの玉座]]
===気候===
他のスコットランドの都市と同様、その緯度に似合わずエディンバラも温和な海洋性気候である。冬は零下になることは余り無い。夏の最高気温は22 ℃だが、メキシコ湾流による南西風が強いことで知られる。雨は年間を通じ多い。10月から5月にかけて[[北海]]からの東風が冷たい乾いた嵐となることがある。
[[ケッペンの気候区分]]では[[西岸海洋性気候]](Cfb)に属する。
{{Weather box
|location = エディンバラ (Royal Botanic Gardens)
|metric first = yes
|single line = yes
|Jan record high C = 15.0
|Feb record high C = 15.2
|Mar record high C = 20.0
|Apr record high C = 22.8
|May record high C = 29.0
|Jun record high C = 27.8
|Jul record high C = 30.0
|Aug record high C = 31.4
|Sep record high C = 26.7
|Oct record high C = 24.4
|Nov record high C = 17.3
|Dec record high C = 15.4
|year record high C = 31.4
|Jan high C = 7.0
|Feb high C = 7.5
|Mar high C = 9.5
|Apr high C = 11.8
|May high C = 14.7
|Jun high C = 17.2
|Jul high C = 19.1
|Aug high C = 18.9
|Sep high C = 16.5
|Oct high C = 13.1
|Nov high C = 9.6
|Dec high C = 7.0
|year high C =
|Jan low C = 1.4
|Feb low C = 1.5
|Mar low C = 2.8
|Apr low C = 4.3
|May low C = 6.8
|Jun low C = 9.7
|Jul low C = 11.5
|Aug low C = 11.4
|Sep low C = 9.4
|Oct low C = 6.5
|Nov low C = 3.7
|Dec low C = 1.3
|year low C =
|Jan record low C = −15.5
|Feb record low C = −11.7
|Mar record low C = −11.1
|Apr record low C = −6.1
|May record low C = −2.4
|Jun record low C = 1.1
|Jul record low C = 4.4
|Aug record low C = 2.2
|Sep record low C = -1.1
|Oct record low C = -3.7
|Nov record low C = −8.3
|Dec record low C = −11.5
|year record low C = −15.5
|Jan precipitation mm = 67.5
|Feb precipitation mm = 47.0
|Mar precipitation mm = 51.7
|Apr precipitation mm = 40.5
|May precipitation mm = 48.9
|Jun precipitation mm = 61.3
|Jul precipitation mm = 65.0
|Aug precipitation mm = 60.2
|Sep precipitation mm = 63.7
|Oct precipitation mm = 75.6
|Nov precipitation mm = 62.1
|Dec precipitation mm = 60.8
|year precipitation mm =
|Jan sun = 53.5
|Feb sun = 78.5
|Mar sun = 114.8
|Apr sun = 144.6
|May sun = 188.4
|Jun sun = 165.9
|Jul sun = 172.2
|Aug sun = 161.5
|Sep sun = 128.8
|Oct sun = 101.2
|Nov sun = 71.0
|Dec sun = 46.2
|year sun =
|Jan rain days = 12.5
|Feb rain days = 9.4
|Mar rain days = 9.9
|Apr rain days = 8.8
|May rain days = 9.6
|Jun rain days = 9.6
|Jul rain days = 9.5
|Aug rain days = 9.7
|Sep rain days = 10.2
|Oct rain days = 12.4
|Nov rain days = 11.2
|Dec rain days = 11.4
|year rain days=
|source 1 = Met Office<ref>{{cite web
| url=http://www.metoffice.gov.uk/public/weather/climate/royal-botanic-gardens-edinburgh#?tab=climateTables
| title=Mean Royal Botanic Gardens Edinburgh Climatic Averages 1981–2010
| publisher=Met Office
| accessdate=22 December 2012}}</ref>
| date=October 2011
}}
===人口===
*推計総数:488,050人(2016年)
*年齢構成:15歳未満13.97%、15〜24歳15.68%、25〜64歳55.74%、65歳以上14.61% (2007年)
==歴史==
{{Main|エディンバラの歴史}}<br />
==対外関係==
===姉妹都市・提携都市===
{{colbegin|2}}
*{{Flagicon|GER}} [[ミュンヘン]]([[ドイツ]])
*{{Flagicon|ITA}} [[フィレンツェ]]([[イタリア]])
*{{Flagicon|FRA}} [[ニース]]([[フランス]])
*{{Flagicon|CAN}} [[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]([[カナダ]])
*{{Flagicon|UKR}} [[キーウ]]([[ウクライナ]])
*{{Flagicon|DEN}} [[オールボー]]([[デンマーク]])
*{{Flagicon|USA}} [[サンディエゴ]]([[アメリカ合衆国]])
*{{Flagicon|NZL}} [[ダニーディン]]([[ニュージーランド]])
*{{Flagicon|POL}} [[クラクフ]]([[ポーランド]])
*{{Flagicon|JPN}} [[京都府]]([[日本国]])
*{{Flagicon|CHN}} [[西安市]]([[中華人民共和国]])
*{{Flagicon|ESP}} [[セゴビア]]([[スペイン]])
{{colend}}
===外国公館===
====総領事館====
*[[在エディンバラ日本国総領事館]]
==経済==
古くから行政府・[[商都]]として栄え、金融業や小売業が強い。19世紀頃までは、銀行業・出版業・醸造業が主力産業だった。現代でも、金融業や学術や研究機関関連の産業が盛んである。金融センターとしては、[[イギリス]]では[[ロンドン]]に次ぐ規模である。
==教育==
===大学===
[[エディンバラ大学]]は、イギリスないし欧州屈指の名門大学。哲学者の[[デイヴィッド・ヒューム]]、経済学者の[[アダム・スミス]]、科学者の[[チャールズ・ダーウィン]]、ジェームズ・クラーク・マクスウェル、小説家の[[アーサー・コナン・ドイル]]など数多くの学者、文化人を輩出している。
*[[エディンバラ大学]]
*[[ヘリオット・ワット大学]]
==交通==
[[File:Trams at St Andrew Square, Edinburgh (geograph 3996542).jpg|thumb|200px|[[エディンバラ・トラム]]]]
[[File:Edinburgh tramway map.svg|thumb|200px|[[エディンバラ・トラム]]路線図]]
===空路===
====空港====
*[[エディンバラ空港]]が中心部から10km西に位置している。[[ロンドン]]の[[ヒースロー空港]]・[[ガトウィック空港]]まで約1時間。アムステルダム、フランクフルト、パリなどのヨーロッパの主要空港行きの便がある。
===鉄道===
====鉄道路線====
エディンバラの中心駅は[[エディンバラ・ウェイヴァリー駅|ウェーバリー駅]]で、ロンドンの[[キングス・クロス駅]]まで[[インターシティ]]で約4時間30分。
====トラム====
市内では路線バスおよび[[路面電車|トラム]]が運行されている。
{{Main|エディンバラ・トラム}}
*[[エディンバラ・トラム]]
1956年11月16日にトラムが廃止されたが近年、トラムシステムの有用性が再認識され再び復活する運びとなった。当初の開業予定は2011年7月だったが予定より遅れて2014年5月31日に開通。エディンバラ空港とヨークプレイス間を結んでいる。更なる延伸も予定されている。当初の予算は512万ポンドで現在の予想では600万ポンドを超えると見られている。
===道路===
====高速道路====
;エディンバラ・エアポートレイルリンク
2011年の開業予定で2007年に[[スコットランド議会]]で建設が可決されたが同年9月に政権が交代して計画は中止された。滑走路の下にトンネルを掘って高速で連絡する予定だった。
===自転車===
*市内には[[自転車タクシー]]の乗り場もある。
==観光==
[[File:Edinburgh Castle Rock.jpg|thumb|200px|エディンバラ城]]
[[File:High Street, Edinburgh.JPG|thumb|200px|ロイヤル・マイルの街並み]]
===名所・旧跡===
* [[エディンバラ城]] - エディンバラ城は切り立った岩山の上に立つ要塞で、その起源を7世紀までさかのぼることができる。日曜日を除く毎日13時になると、城の大砲が鳴り響く。エディンバラ・フェスティバルの期間中、城の前の広場にてミリタリー・タトゥーと呼ばれる軍楽隊パレードが行われる。
* [[:en:Royal Mile|ロイヤル・マイル]] - エディンバラ城とホリールードハウス宮殿を結ぶ通り。石畳の通りに沿って老舗のパブや教会、お土産屋が並ぶ<ref>{{cite web|url= https://www.visitbritain.com/jp/ja/roiyarumairuthe-royal-mileedeinbara |title=The Royal Mile|publisher=VisitBritain|accessdate=2020-5-30}}</ref>。
** [[セント・ジャイルズ大聖堂|聖ジャイルズ大聖堂]]はエディンバラの[[守護聖人]]・[[アエギディウス (聖人)|聖ジャイルス]](St. Giles)から名付けられた。[[スコットランド国教会]]の本部で[[イギリス指定建造物#スコットランド|スコットランドのA級建造物]]にも指定されていて、自由に入場できる。
* [[ホリールード宮殿|ホリールードハウス宮殿]] - エリザベス女王の避暑地。VIPが不在時は一般公開されている。
* [http://www.nicholsonspubs.co.uk/theconandoyleedinburgh/ パブ コナンドイル] - 店の近くには[[シャーロック・ホームズ]]の像が建っている。もう一体はロンドンのベーカーストリートにある。
* [[グレーフライアーズ・ボビー]] - イギリス版の忠犬ハチ公。エディンバラ城の南東の通り(George IV Bridge)に像が立っている。
* [[:en:Holyrood_Park|ホーリールード公園]] - ホリールードハウス宮殿の南側にある丘。切り立った崖が壮観。頂上に登るには、宮殿から見える登山口ではなく、東側へ進んで裏手側より登るのが近道。
* [[カールトン・ヒル]] - 線路を挟み、ホリーヒル公園の北側にある公園。記念碑や旧天文台などが頂上にある。そこから見える360度のパノラマは絶景である。
* エディンバラ動物園 - 動物たちに、動物園としては比較的自由な振る舞いをさせることで知られている。[[ペンギン]]の飼育に関しては世界でさきがけ的な存在である。1913年からペンギンの飼育を始め、1919年には南大西洋地域以外では初めての繁殖に成功。1951年から続くイベント「 ペンギン・パレード」では、決められた時刻にペンギンの檻の扉を開け、ペンギンたちを園内の通路で散歩させる<ref>{{cite web|url= https://www6.nhk.or.jp/sekaimachi/archives/data.html?fid=140107|title=世界ふれあい街歩き エディンバラ|accessdate=2020-5-31|publisher=NHK}}</ref>。
* [[クレイグミラー城|クレイグ・ミラー城]] - エディンバラ郊外にある城跡古い箇所は15世紀の建築も残っている。<ref>{{Cite book|edition=Rev. ed|title=The Scottish chateau : the country house of Renaissance Scotland|url=https://www.worldcat.org/oclc/55614479|publisher=Sutton|date=2004|location=Stroud|isbn=0750935278|oclc=55614479|last=McKean, Charles.}}</ref>
=== 博物館・美術館 ===
* [[スコットランド博物館]]
* [[スコットランド国立美術館]]
* [[スコットランド国立肖像画美術館]]
* [[スコットランド国立近代美術館]]
{{-}}
==文化・名物==
[[File:Murrayfield Autumn 2017.jpg|thumb|200px|[[マレーフィールド・スタジアム]]]]
===スポーツ===
====サッカー====
:[[スコティッシュ・プレミアシップ]]のチーム[[ハート・オブ・ミドロシアンFC]]と[[ハイバーニアン]]の本拠地である。
====ラグビー====
:[[エディンバラ・ラグビー]] - [[プロ14]]に参加する[[スコットランド]]の[[ラグビーユニオン]]。[[マレーフィールド・スタジアム]]をホームスタジアムとしている。
{{-}}
==関係者==
{{main|[[:en:List_of_Edinburgh_people#List of Edinburgh people|List of Edinburgh people]]}}
===出身著名人===
{{See|Category:エディンバラ出身の人物}}
{{colbegin|2}}
* [[グレアム・ベル|アレクサンダー・グラハム・ベル]]:発明家
* [[アダム・スミス]]:啓蒙家、経済学者「[[国富論]]」
* [[ジョン・ネイピア]]:数学者([[対数]])
* [[ジョゼフ・リスター]]:外科医(無菌手術)
* [[ジェームズ・シンプソン]]:産科医(麻酔)
* [[ジェームズ・リンド]]:軍医、疫学者、「衛生学の父」
* [[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]:物理学者、「電磁波」「[[マクスウェルの方程式]]」
* [[ショーン・コネリー]]:俳優
* [[:en:Shirley Manson|シャーリー・マンソン]]:ミュージシャン。[[ガービッジ]]のボーカル。
* [[ベイ・シティ・ローラーズ]]:バンド
* [[ケイティー・タンストール]]:歌手
* [[アーサー・コナン・ドイル]]:作家
* [[ジェイムズ・ボズウェル]]:作家
* [[イアン・ランキン]]:作家
* [[ウォルター・スコット]]:作家・詩人
* [[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]]:作家
* [[アーヴィン・ウェルシュ]]:作家
* [[グレアム・スーネス]]:サッカー選手
* [[トニー・ブレア]]:元[[イギリスの首相|英国首相]]
* [[イアン・リチャードソン]]:俳優
* [[デイヴィッド・ヒューム]]:哲学者、歴史学者、政治思想家
* [[ジョン・ノックス]]:宗教改革者
* [[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]:スコットランド女王
* [[クリス・ホイ]]:自転車選手
* [[ダレン・フレッチャー]]:サッカー選手
* [[ユエン・ブレムナー]]:俳優
* [[ケン・ブキャナン]]:元プロボクシング統一世界ライト級王者
{{colend}}
===居住その他ゆかりある人物===
* [[ユーニス・ゲイソン]]:女優
== その他 ==
この街のカフェ The Elephant House で作家[[J・K・ローリング]]が[[ハリー・ポッターと賢者の石]]を書き上げたという話は有名。また、物語に登場する「[[ホグワーツ魔法魔術学校]](ホグワーツ城)」は[[エディンバラ城]]がモデルだといわれているが、作者は否定している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Edinburgh|Edinburgh}}
* 政府
** [http://www.edinburgh.gov.uk/ エディンバラ市役所] {{en icon}}
* 日本政府
** [https://www.edinburgh.uk.emb-japan.go.jp/indexj.htm 在エディンバラ日本国総領事館] {{ja icon}}
* 観光
** [http://www.edinburgh.org/ エディンバラ観光局] {{en icon}}
** [http://www.visitbritain.jp/destinations/scotland/edinburgh.aspx 英国政府観光庁 - エディンバラ] {{ja icon}}
* 宿泊施設
** [http://www.greatbase.co.uk/ Greatbase Edinburgh]
{{イギリスのシティの一覧}}
{{スコットランドの地方行政区画}}
{{コモンウェルスゲームズ開催都市}}
{{世界歴史都市連盟加盟都市}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:えていんはら}}
[[Category:エディンバラ|*えていんはら]]
[[Category:スコットランドの都市]]
[[Category:スコットランドの観光地]]
[[Category:スコットランドのカウンシル・エリア]]
[[Category:スコットランドのディストリクト]]
[[Category:世界歴史都市連盟]] | null | 2023-05-22T07:21:27Z | false | false | false | [
"Template:Weather box",
"Template:Colbegin",
"Template:-",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist",
"Template:Ja icon",
"Template:イギリスのシティの一覧",
"Template:Infobox settlement",
"Template:コモンウェルスゲームズ開催都市",
"Template:Cite book",
"Template:Commons&cat",
"Template:En icon",
"Template:世界歴史都市連盟加盟都市",
"Template:Lang-gd",
"Template:Lang-en",
"Template:Main",
"Template:Flagicon",
"Template:Colend",
"Template:See",
"Template:IPA-en",
"Template:IPA-gd",
"Template:Otheruses",
"Template:Reflist",
"Template:スコットランドの地方行政区画",
"Template:Normdaten",
"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%A9 |
3,727 | 誤り検出訂正 | 誤り検出訂正(あやまりけんしゅつていせい)またはエラー検出訂正 (error detection and correction/error check and correct) とは、データに符号誤り(エラー)が発生した場合にそれを検出、あるいは検出し訂正(前方誤り訂正)することである。検出だけをする誤り検出またはエラー検出と、検出し訂正する誤り訂正またはエラー訂正を区別することもある。また改竄検出を含める場合も含めない場合もある。誤り検出訂正により、記憶装置やデジタル通信・信号処理の信頼性が確保されている。
一般に誤り検出訂正では、k 単位長(k ビット、k バイト など)の符号を、n = m + k 単位長の符号語に変換する。これを (n, k) 符号、あるいは、符号形式を添えて (n, k) ××符号などと呼ぶ(誤り訂正符号"Error Correction Code"を特にECCと略す)。符号語は、最小ハミング距離が d > 1、つまり、互いに少なくとも d 単位が異なっていて、この冗長性を利用して前方誤り訂正が可能となる。dを添えて、(n, k, d) 符号ともいう。
適切な (n, k, d) 符号は、符号語あたり d - 1 単位の誤りを検出でき、[(d - 1) / 2] 単位([ ] は床関数)の誤りを訂正できる。d ≦ 2 ならば、誤り訂正能力は [(d - 1) / 2] = 0 となり、単なる誤り検出となる。ただし、データの消失に対しては、つまり誤り位置がわかっているときは、d 単位の消失を訂正できる。これを特に消失訂正と呼ぶ。単なる誤り訂正も、最低 1 単位の消失訂正能力を持つ。
たとえば、(2, 1, 2) 符号であるミラーリングは、
となる。(3, 1, 3) 符号である三重ミラーリングでは、誤り検出能力と消失訂正能力が2となり、誤り訂正能力1も得る。
双方向の通信では、前方誤り訂正ができなくても誤り検出さえできれば、送信者に再送を要求することで実質的に誤りを訂正できる。これを自動的におこなう仕組みを、自動再送要求 (ARQ, Automatic Repeat reQuest) と呼ぶ。
誤りには、
の2種類がある。
多くの誤り検出・訂正は、全体の誤り率が許容範囲でも、バースト誤りに対しては、1つのブロックに多くの誤りが集中するため、対応できない。そこで、符号の順序を入れ替え、同じブロックのデータを分散させ、バースト誤りが1つのブロックに集中しないようにする。この技術をインターリーブという。
切り替え動作、フェージングなどが原因。%SESを評価尺度に用いるのに適している。
熱雑音などが原因。BERを評価尺度に用いるのに適している。
特に音声や映像など、人間の感覚に訴える信号のディジタル化されたデータで真の値から多少の誤差が許容される場合、誤り検出は可能でも誤り訂正が不可能(訂正能力を超えている)かまたは誤り訂正が実装されていないとき、元のデータ自身に含まれる冗長性を利用して欠落データを予測して置き換えることがある。これを特に誤り補正 (error compensation) と呼んで区別する。補正されたデータは真の値と一致するとは限らないが、真の値から許容される誤差内にあると期待される。CDなどでは、誤り補正がデータ読み取り誤りに対する「最後の手段」として使われている。
誤り補正では、一般には、近傍の標本に重み付けをした和、すなわちフィルタを畳み込んだ値を予測値(補正値)とする。特に、直前・直後の標本を使うものを、以下のように呼ぶ。
誤り補正は原信号自身に含まれる冗長性を使うため、データ圧縮、特に非可逆圧縮と同種の原理に基づいている。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "誤り検出訂正(あやまりけんしゅつていせい)またはエラー検出訂正 (error detection and correction/error check and correct) とは、データに符号誤り(エラー)が発生した場合にそれを検出、あるいは検出し訂正(前方誤り訂正)することである。検出だけをする誤り検出またはエラー検出と、検出し訂正する誤り訂正またはエラー訂正を区別することもある。また改竄検出を含める場合も含めない場合もある。誤り検出訂正により、記憶装置やデジタル通信・信号処理の信頼性が確保されている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "一般に誤り検出訂正では、k 単位長(k ビット、k バイト など)の符号を、n = m + k 単位長の符号語に変換する。これを (n, k) 符号、あるいは、符号形式を添えて (n, k) ××符号などと呼ぶ(誤り訂正符号\"Error Correction Code\"を特にECCと略す)。符号語は、最小ハミング距離が d > 1、つまり、互いに少なくとも d 単位が異なっていて、この冗長性を利用して前方誤り訂正が可能となる。dを添えて、(n, k, d) 符号ともいう。",
"title": "誤り検出と誤り訂正"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "適切な (n, k, d) 符号は、符号語あたり d - 1 単位の誤りを検出でき、[(d - 1) / 2] 単位([ ] は床関数)の誤りを訂正できる。d ≦ 2 ならば、誤り訂正能力は [(d - 1) / 2] = 0 となり、単なる誤り検出となる。ただし、データの消失に対しては、つまり誤り位置がわかっているときは、d 単位の消失を訂正できる。これを特に消失訂正と呼ぶ。単なる誤り訂正も、最低 1 単位の消失訂正能力を持つ。",
"title": "誤り検出と誤り訂正"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "たとえば、(2, 1, 2) 符号であるミラーリングは、",
"title": "誤り検出と誤り訂正"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "となる。(3, 1, 3) 符号である三重ミラーリングでは、誤り検出能力と消失訂正能力が2となり、誤り訂正能力1も得る。",
"title": "誤り検出と誤り訂正"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "双方向の通信では、前方誤り訂正ができなくても誤り検出さえできれば、送信者に再送を要求することで実質的に誤りを訂正できる。これを自動的におこなう仕組みを、自動再送要求 (ARQ, Automatic Repeat reQuest) と呼ぶ。",
"title": "誤り検出と誤り訂正"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "誤りには、",
"title": "バースト誤りとランダム誤り"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "の2種類がある。",
"title": "バースト誤りとランダム誤り"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "多くの誤り検出・訂正は、全体の誤り率が許容範囲でも、バースト誤りに対しては、1つのブロックに多くの誤りが集中するため、対応できない。そこで、符号の順序を入れ替え、同じブロックのデータを分散させ、バースト誤りが1つのブロックに集中しないようにする。この技術をインターリーブという。",
"title": "バースト誤りとランダム誤り"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "切り替え動作、フェージングなどが原因。%SESを評価尺度に用いるのに適している。",
"title": "バースト誤りとランダム誤り"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "熱雑音などが原因。BERを評価尺度に用いるのに適している。",
"title": "バースト誤りとランダム誤り"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "特に音声や映像など、人間の感覚に訴える信号のディジタル化されたデータで真の値から多少の誤差が許容される場合、誤り検出は可能でも誤り訂正が不可能(訂正能力を超えている)かまたは誤り訂正が実装されていないとき、元のデータ自身に含まれる冗長性を利用して欠落データを予測して置き換えることがある。これを特に誤り補正 (error compensation) と呼んで区別する。補正されたデータは真の値と一致するとは限らないが、真の値から許容される誤差内にあると期待される。CDなどでは、誤り補正がデータ読み取り誤りに対する「最後の手段」として使われている。",
"title": "誤り補正"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "誤り補正では、一般には、近傍の標本に重み付けをした和、すなわちフィルタを畳み込んだ値を予測値(補正値)とする。特に、直前・直後の標本を使うものを、以下のように呼ぶ。",
"title": "誤り補正"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "誤り補正は原信号自身に含まれる冗長性を使うため、データ圧縮、特に非可逆圧縮と同種の原理に基づいている。",
"title": "誤り補正"
}
] | 誤り検出訂正(あやまりけんしゅつていせい)またはエラー検出訂正 とは、データに符号誤り(エラー)が発生した場合にそれを検出、あるいは検出し訂正(前方誤り訂正)することである。検出だけをする誤り検出またはエラー検出と、検出し訂正する誤り訂正またはエラー訂正を区別することもある。また改竄検出を含める場合も含めない場合もある。誤り検出訂正により、記憶装置やデジタル通信・信号処理の信頼性が確保されている。 | {{参照方法|date=2018年1月}}
'''誤り検出訂正'''(あやまりけんしゅつていせい)または'''エラー検出訂正''' (error detection and correction/error check and correct) とは、[[データ]]に'''符号誤り'''(エラー)が発生した場合にそれを検出、あるいは検出し訂正([[前方誤り訂正]])することである。検出だけをする'''誤り検出'''または'''エラー検出'''と、検出し訂正する'''誤り訂正'''または'''エラー訂正'''を区別することもある。また[[改竄検出]]を含める場合も含めない場合もある。誤り検出訂正により、[[記憶装置]]や[[デジタル]]通信・信号処理の信頼性が確保されている。
== 誤り検出と誤り訂正 ==
一般に誤り検出訂正では、k 単位長(k [[ビット]]、k [[バイト (情報)|バイト]] など)の符号を、n = m + k 単位長の符号語に変換する。これを (n, k) 符号、あるいは、符号形式を添えて (n, k) ××符号などと呼ぶ(誤り訂正符号"Error Correction Code"を特に'''ECC'''と略す)。符号語は、最小[[ハミング距離]]が d > 1、つまり、互いに少なくとも d 単位が異なっていて、この[[冗長性 (情報理論)|冗長性]]を利用して[[前方誤り訂正]]が可能となる。dを添えて、(n, k, d) 符号ともいう。
適切な (n, k, d) 符号は、符号語あたり d - 1 単位の誤りを検出でき、[(d - 1) / 2] 単位([ ] は[[床関数]])の誤りを訂正できる。d ≦ 2 ならば、誤り訂正能力は [(d - 1) / 2] = 0 となり、単なる誤り検出となる。ただし、データの消失に対しては、つまり誤り位置がわかっているときは、d 単位の消失を訂正できる。これを特に[[消失訂正]]と呼ぶ。単なる誤り訂正も、最低 1 単位の消失訂正能力を持つ。
たとえば、(2, 1, 2) 符号である[[ミラーリング]]は、
* どちらかに誤りが起これば検出できるが、両方に起これば検出できない。(誤り検出能力1)
* どちらか(どちらかはわからない)に誤りが起これば訂正できない。(誤り訂正能力0)
* どちらかが消失すれば訂正できるが、両方に起これば訂正できない。(消失訂正能力1)
となる。(3, 1, 3) 符号である[[誤り検出訂正#誤り検出と誤り訂正|三重ミラーリング]]では、誤り検出能力と消失訂正能力が2となり、誤り訂正能力1も得る。
双方向の[[通信]]では、[[前方誤り訂正]]ができなくても誤り検出さえできれば、送信者に再送を要求することで実質的に誤りを訂正できる。これを自動的におこなう仕組みを、[[自動再送要求]] (ARQ, Automatic Repeat reQuest) と呼ぶ。
== バースト誤りとランダム誤り ==
誤りには、
* 短い区間に多数の誤りが集中するバースト誤り
* 散発的に単独で誤りが発生するランダム誤り
の2種類がある。
多くの誤り検出・訂正は、全体の誤り率が許容範囲でも、バースト誤りに対しては、1つのブロックに多くの誤りが集中するため、対応できない。そこで、符号の順序を入れ替え、同じブロックのデータを分散させ、バースト誤りが1つのブロックに集中しないようにする。この技術を[[インターリーブ]]という。
=== バースト誤り ===
切り替え動作、[[フェージング]]などが原因。%SESを評価尺度に用いるのに適している。
=== ランダム誤り ===
[[熱雑音]]などが原因。[[符号誤り率|BER]]を評価尺度に用いるのに適している。
== 誤り補正 ==
特に音声や映像など、人間の感覚に訴える信号のディジタル化されたデータで真の値から多少の[[誤差]]が許容される場合、誤り検出は可能でも誤り訂正が不可能(訂正能力を超えている)かまたは誤り訂正が実装されていないとき、元のデータ自身に含まれる冗長性を利用して欠落データを予測して置き換えることがある。これを特に'''誤り補正''' (error compensation) と呼んで区別する。補正されたデータは真の値と一致するとは限らないが、真の値から許容される誤差内にあると期待される。[[コンパクトディスク|CD]]などでは、誤り補正がデータ読み取り誤りに対する「最後の手段」として使われている。
誤り補正では、一般には、近傍の標本に重み付けをした和、すなわちフィルタを畳み込んだ値を予測値(補正値)とする。特に、直前・直後の標本を使うものを、以下のように呼ぶ。
: <math>x_n = \frac{1}{2} (x_{n - 1} + x_{n + 1})</math> - 平均値補間
: <math>x_n = x_{n - 1} \,</math> - 前値ホールド
: <math>x_n = x_{n + 1} \,</math> - 後値ホールド
誤り補正は原信号自身に含まれる冗長性を使うため、[[データ圧縮]]、特に[[非可逆圧縮]]と同種の原理に基づいている。
== 誤り検出・訂正の例 ==
=== 誤り検出 ===
* [[ブロック符号]]
** 2重化
*** [[バックアップ]]
*** [[ミラーリング]] - [[RAID]]-1
*** [[一方向誤り訂正]] (FEC, forward error correction)
** [[パリティビット|パリティ符号]](パリティチェック) - [[シリアル通信]]、RAID-3/4/5/6
*** [[垂直パリティチェック]] (VRC)
*** [[水平パリティチェック]] (LRC)
** [[定比率符号]](l out of n 符号)
** [[チェックサム]]
*** [[群計数チェック]]
*** [[Luhnアルゴリズム]]
** [[巡回符号]]
*** [[巡回冗長検査]] (CRC) - [[フロッピーディスク]]、[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]
==== ハッシュ(参考) ====
* [[暗号学的ハッシュ関数]] - 誤り検出の代用にしたり、改ざん防止と誤り検出を兼ねることがある。(改ざんや盗聴ではなく)ノイズの影響のみを考慮する場合、[[脆弱性]]があっても問題ない。
** MD [[MD4]] - [[MD5]]
** [[Secure Hash Algorithm]] - [[SHA-1]] - [[SHA-2]] (SHA-224, SHA-256, SHA-384, SHA-512) - [[SHA-3]]
=== 誤り訂正 ===
* ブロック符号
** 多重化
*** 反復符号 (repetition code)
** 縦横パリティ
** [[ハミング符号]] - [[Random Access Memory|RAM]]、RAID-2
** [[巡回符号]]
*** [[巡回ハミング符号]]
*** [[ゴレイ符号]]
**** [[2元ゴレイ符号]] ([[:en:Binary Golay code|binary Golay code]])
*** [[BCH符号]] - 自動車無線(43,31)、衛星ラジオ(63,56)
**** [[リード・ソロモン符号]](RS符号、RSC)
***** [[CIRC]]([[:en:Cross-Interleaved Reed-Solomon Coding|Cross-Interleaved Reed-Solomon Code]])- [[コンパクトディスク|CD]]
***** リードソロモン積符号 (RSP符号) - DAT
*** [[差集合巡回符号]]
**** 短縮化差集合巡回符号 - 文字放送(272,190)
*** [[ファイア符号]] - [[ハードディスク]]
** [[疎グラフ符号]]
*** [[ターボ符号]] ([[:en:Turbo code|turbo code]])
*** [[低密度パリティ検査符号]] (LDPC) - [[10ギガビット・イーサネット|10GBASE-T]] (IEEE 802.3an)、[[Mobile WiMAX]] (IEEE 802.16e)
* [[畳み込み符号]]([[:en:Convolutional code|convolutional code]])
** [[:en:Hagelbarger code|Hagelbarger code]]
** [[最尤復号符号]]、[[ビタビアルゴリズム]]([[:en:Viterbi Algorithm|Viterbi Algorithm]])
== 参考図書 ==
* 宮川 洋、岩垂 好裕、今井 秀樹:「コンピュータ基礎講座 18 符号理論」、昭晃堂、ISBN 978-4785630065(1973年)。
* 嵩 忠雄:「符号理論」、コロナ社 (1975年)。
* 嵩 忠雄:「情報と符号の理論入門」、昭晃堂、ISBN 978-4785620264(1989年12月)。
* 今井 秀樹:「符号理論」、電子情報通信学会、ISBN 978-4885520907 (1990年3月)。
* 汐崎 陽:「情報・符号理論の基礎」、国民科学社、ISBN 978-4875535041 (1991年4月)。
* 藤原 良、神保 雅一:「符号と暗号の数理」、共立出版、ISBN 978-4320026612 (1993年10月)。
* 江藤 良純、金子 敏信 (監修):「誤り訂正符号とその応用」、オーム社、ISBN 978-4274034862(1996年12月)。
* 平沢 茂一、西島 利尚:「符号理論入門」、培風館、ISBN 978-4563014834 (1999年11月)。
* 福村晃夫、後藤宗弘:「算術符号理論」、 コロナ社、ISBN 978-4339003314 (2000年)。
* 内田 興二:「有限体と符号理論」 (臨時別冊・数理科学、SGCライブラリ-5)、サイエンス社 (2000年)。
* 情報理論とその応用学会 (編) :「符号理論とその応用」、培風館、ISBN 978-4563014537 (2003年7月)。
* J.ユステセン、T.ホーホルト:「誤り訂正符号入門」、森北出版、ISBN 978-4627817111 (2005年9月30日)。
* 濱田 昇:「情報理論と符号理論」、共立出版、ISBN 978-4320121645 (2006年10月)。
* 坂庭 好一、渋谷 智治:「代数系と符号理論入門」、コロナ社、ISBN 978-4339024463 (2010年4月)。
* 植松 友彦:「代数系と符号理論」、オーム社、ISBN 978-4274502743 (2010年4月9日)。
* 西村 芳一:「データの符号化技術と誤り訂正の基礎」、CQ出版; 改訂新版、ISBN 978-4789846400 (2010年7月1日)。
* 和田山 正:「誤り訂正技術の基礎」、森北出版、ISBN 978-4627817319 (2010年7月6日)。
* 汐崎 陽:「情報・符号理論の基礎」、オーム社、ISBN 978-4274210075(2011年3月1日)。
* 先名 健一:「例題で学ぶ符号理論入門」、森北出版、ISBN 978-4627817418 (2011年7月15日)。
* 神谷 幸宏、川島 幸之助: 「情報・符号理論 ―ディジタル通信の基礎を学ぶ―」、オーム社、ISBN 978-4274503870 (2012年3月24日)。
* 萩原学:「符号理論: デジタルコミュニケーションにおける数学」、日本評論社、ISBN 978-4535786646(2012年8月10日)。
* G.A.ジョーンズ、J.M.ジョーンズ: 「情報理論と符号理論」、丸善出版、ISBN 978-4621063422 (2012年7月17日)。
* Henning Stichtenoth、新妻 弘 (訳):「代数関数体と符号理論」、共立出版、ISBN 978-4320110458 (2013年8月24日)。
* 楫 勇一:「情報・符号理論」、オーム社、ISBN 978-4274213175 (2013年10月26日)。
* 萩原 学:「進化する符号理論」、日本評論社、ISBN 978-4535787971 (2016年9月9日)。
== 関連項目 ==
* [[前方誤り訂正]]
* [[消失訂正]]
* [[改竄]]
* [[改竄検出]]
* [[符号理論]]
* [[認証]]
* [[ガロア体]]
* [[RAID]]
* [[チェックディジット]]
* [[冗長性 (情報理論)|冗長化]]
<!--*[[シャノン限界]]([[:en:Shannon limit|Shannon limit]])--><!--赤リンク-->
* [[ECCメモリ]]
{{DEFAULTSORT:あやまりけんしゆつ}}
[[Category:誤り検出訂正|*]]
[[Category:通信工学]]
[[Category:安全]]
[[Category:数学に関する記事]] | null | 2022-10-21T10:57:32Z | false | false | false | [
"Template:参照方法"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A4%E3%82%8A%E6%A4%9C%E5%87%BA%E8%A8%82%E6%AD%A3 |
3,728 | PCI | PCI | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "PCI",
"title": null
}
] | PCI コンピュータ用拡張バスアーキテクチャ、Peripheral Component Interconnect(PCIバス)の略称
コンピュータネットワーク機器メーカー、プラネックスコミュニケーションズ(PLANEX COMMUNICATIONS Inc.)の略称
PSAグループ傘下の会社。生産設備の設計、製造、調整、その他EUメーカーの厳しい要求に応える機械、ツール、プロトタイプ部品の製造を行う。
日本の総合建設コンサルタント会社。パシフィックコンサルタンツインターナショナルの略称。
経皮的冠動脈インターベンション の略称。
イタリアにかつて存在した政党。イタリア共産党の略称。
イタリア共産主義党が前項のイタリア共産党の理念を引き継ぐとして改名した名称。イタリア共産党 (2016-)。
PCI DSS は、 クレジットカード情報および取り引き情報を保護するグローバルセキュリティ基準。
PCI SSC は、クレジットカードのセキュリティ基準 の管理を目的とした組織。 | '''PCI'''
*コンピュータ用拡張[[バスアーキテクチャ]]、'''[[Peripheral Component Interconnect]]'''('''PCIバス''')の略称
*[[コンピュータネットワーク]]機器メーカー、'''[[プラネックスコミュニケーションズ]]'''('''PLANEX COMMUNICATIONS Inc.''')の略称
*[[PSA・プジョーシトロエン|PSAグループ]]傘下の会社。生産設備の設計、製造、調整、その他EUメーカーの厳しい要求に応える機械、ツール、プロトタイプ部品の製造を行う。
*日本の総合[[建設コンサルタント]]会社。'''[[パシフィックコンサルタンツインターナショナル]]'''の略称。
*[[経皮的冠動脈形成術|経皮的冠動脈インターベンション]] ('''Percutaneous Coronary Intervention''')の略称。
*[[イタリア]]にかつて存在した政党。'''[[イタリア共産党]]'''('''Partito Comunista Italiano''')の略称。
**イタリア共産主義党が前項のイタリア共産党の理念を引き継ぐとして改名した名称。[[イタリア共産党 (2016-)]]。
*'''[[PCI DSS]]''' (Payment Card Industry Data Security Standard) は、 クレジットカード情報および取り引き情報を保護するグローバルセキュリティ基準。
*'''[[PCI SSC]]''' (Payment Card Industry Security Standards Council) は、クレジットカードのセキュリティ基準 (PCI DSS) の管理を目的とした組織。
{{aimai}} | null | 2021-03-24T08:47:28Z | true | false | false | [
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/PCI |
3,730 | Peripheral Component Interconnect | Peripheral Component Interconnect(ペリフェラル コンポーネント インターコネクト、PCI)は、コンピュータのプロセッサと周辺機器との間の通信を行うためのバスアーキテクチャの一つ。
おおむね2000年代初頭を中心とした前後数年間において、PCIバスはパーソナルコンピュータ(パソコン)またはワークステーション、サーバ、オフィスコンピュータ用の拡張カードを増設するための業界標準のバスとして広く採用されていたが、2004年に登場した後継規格のPCI Expressが、まずグラフィックカードの分野で急速に普及し、その他の拡張カードも2010年代中盤頃にかけて次第に代替されていった。
PCIバスは、当初CPUアーキテクチャに全く依存しないデバイス間を結ぶ内部高速バスLocal Glueless Busとして、1991年にインテルから提案された。
その当時、PC/AT互換機においては、標準の拡張バスであるISAバス(いわゆるATバス)が低速、かつバス調停機能が存在しなかったため、高速なデバイス(VGAやLAN、SCSI等)の接続、マルチタスクオペレーティングシステムの運用などの際にボトルネックになっていた。
そのため、全く新しい設計の16/32ビットバスであるMCAバス、ISAバスを拡張しそれに対する上位互換機能を備えた32ビットバスであるEISAバス、i486のメモリバスをそのまま引き出したVLバスなどが登場したが、MCAバスは高度なバス調停機能を持つがISAバスとの互換性が無く、また特許権の問題からIBM以外にはほとんど普及せず、EISAバスは高度なバス調停機能による高価格化とISA互換によるデータ転送速度の不足、VLバスは転送速度は充分(50 MHz駆動時200 MB/s)だがi486アーキテクチャに強く依存し互換性・安定性が不十分でバス調停機能は存在しなかった。
このため、インテルの提案を受けた各社から、ISAを代替する高速な標準汎用バスとしてLocal Glueless Busを外部バス化する要求が多く寄せられた。
この要求に対し、PC/AT互換機やPC-9821シリーズへの実装を目的とした機種依存仕様の追加、64ビットバスへの拡張対応、拡張スロット形状を含めた最終の形に近いPCIバスの仕様が、インテルを中心として策定された。
PCIバスは、策定当初からアーキテクチャに依存しない汎用高速バスとして設計されていたが、PC/AT互換機における標準バスとしての地位が約束されていた訳ではなかった。このため、PCIバスを搭載した初期のマザーボードにはEISAバスとVLバスも搭載するという変則的な製品やVLバス上にPCIブリッジを実装する製品も存在した。
PCIバスはワークステーションやサーバ、オフィスコンピュータなどの方面にも同時に取り入れられていった。この方面ではEISAバス、APバス、VMEバスなどを使用していたが、特にコンピュータグラフィックや衛星画像処理などで大規模な画像データを表示する必要に迫られたり、大規模なデータを取り扱うSCSI等にいちはやく取り入れられていった。同時に、i486系のCPUを持つワークステーションのみならず、R4400、R10000等、MIPS系のRISC型CPUを持つワークステーションやサーバ等でも利用できるよう、PCIコントローラーが開発され実装されていった。サーバなどのボードの拡張を容易にするため、PCIブリッジと呼ばれる外部筐体にPCIバスを拡張するコントローラーも開発され、i486系、MIPS系のサーバに使用されている。
2002年には、PCIとAGPの後継規格であるPCI Expressが発表される。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "Peripheral Component Interconnect(ペリフェラル コンポーネント インターコネクト、PCI)は、コンピュータのプロセッサと周辺機器との間の通信を行うためのバスアーキテクチャの一つ。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "おおむね2000年代初頭を中心とした前後数年間において、PCIバスはパーソナルコンピュータ(パソコン)またはワークステーション、サーバ、オフィスコンピュータ用の拡張カードを増設するための業界標準のバスとして広く採用されていたが、2004年に登場した後継規格のPCI Expressが、まずグラフィックカードの分野で急速に普及し、その他の拡張カードも2010年代中盤頃にかけて次第に代替されていった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "PCIバスは、当初CPUアーキテクチャに全く依存しないデバイス間を結ぶ内部高速バスLocal Glueless Busとして、1991年にインテルから提案された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "その当時、PC/AT互換機においては、標準の拡張バスであるISAバス(いわゆるATバス)が低速、かつバス調停機能が存在しなかったため、高速なデバイス(VGAやLAN、SCSI等)の接続、マルチタスクオペレーティングシステムの運用などの際にボトルネックになっていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "そのため、全く新しい設計の16/32ビットバスであるMCAバス、ISAバスを拡張しそれに対する上位互換機能を備えた32ビットバスであるEISAバス、i486のメモリバスをそのまま引き出したVLバスなどが登場したが、MCAバスは高度なバス調停機能を持つがISAバスとの互換性が無く、また特許権の問題からIBM以外にはほとんど普及せず、EISAバスは高度なバス調停機能による高価格化とISA互換によるデータ転送速度の不足、VLバスは転送速度は充分(50 MHz駆動時200 MB/s)だがi486アーキテクチャに強く依存し互換性・安定性が不十分でバス調停機能は存在しなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "このため、インテルの提案を受けた各社から、ISAを代替する高速な標準汎用バスとしてLocal Glueless Busを外部バス化する要求が多く寄せられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "この要求に対し、PC/AT互換機やPC-9821シリーズへの実装を目的とした機種依存仕様の追加、64ビットバスへの拡張対応、拡張スロット形状を含めた最終の形に近いPCIバスの仕様が、インテルを中心として策定された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "PCIバスは、策定当初からアーキテクチャに依存しない汎用高速バスとして設計されていたが、PC/AT互換機における標準バスとしての地位が約束されていた訳ではなかった。このため、PCIバスを搭載した初期のマザーボードにはEISAバスとVLバスも搭載するという変則的な製品やVLバス上にPCIブリッジを実装する製品も存在した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "PCIバスはワークステーションやサーバ、オフィスコンピュータなどの方面にも同時に取り入れられていった。この方面ではEISAバス、APバス、VMEバスなどを使用していたが、特にコンピュータグラフィックや衛星画像処理などで大規模な画像データを表示する必要に迫られたり、大規模なデータを取り扱うSCSI等にいちはやく取り入れられていった。同時に、i486系のCPUを持つワークステーションのみならず、R4400、R10000等、MIPS系のRISC型CPUを持つワークステーションやサーバ等でも利用できるよう、PCIコントローラーが開発され実装されていった。サーバなどのボードの拡張を容易にするため、PCIブリッジと呼ばれる外部筐体にPCIバスを拡張するコントローラーも開発され、i486系、MIPS系のサーバに使用されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "2002年には、PCIとAGPの後継規格であるPCI Expressが発表される。",
"title": "歴史"
}
] | Peripheral Component Interconnectは、コンピュータのプロセッサと周辺機器との間の通信を行うためのバスアーキテクチャの一つ。 | {{出典の明記|date=2020-07}}
[[ファイル:pci-slots.jpg|thumb|right|[[マザーボード]]にある32[[ビット]]PCIバススロット]]
[[ファイル:64bitpci.jpg|thumb|right|64ビットPCIスロット]]
'''Peripheral Component Interconnect'''(ペリフェラル コンポーネント インターコネクト、'''PCI''')は、[[コンピュータ]]の[[プロセッサ]]と[[周辺機器]]との間の[[通信]]を行うための[[バス (コンピュータ)|バス]][[アーキテクチャ]]の一つ。
== 概要 ==
おおむね2000年代初頭を中心とした前後数年間において、'''PCIバス'''は[[パーソナルコンピュータ]](パソコン)または[[ワークステーション]]、[[サーバ]]、[[オフィスコンピュータ]]用の[[拡張カード]]を増設するための業界標準のバスとして広く採用されていたが、2004年に登場した後継規格の[[PCI Express]]が、まず[[ビデオカード|グラフィックカード]]の分野で急速に普及し、その他の拡張カードも2010年代中盤頃にかけて次第に代替されていった。
== 規格 ==
* [[2003年]]時点の最新バージョンはPCI 3.0である。
* 一般のパソコンではPCI 2.3準拠の 32ビットの33 [[MHz]]、帯域幅[[半二重]]132 [[ビット毎秒#バイト毎秒|MB/s]]<ref>''PCI Local Bus Specification Revision 2.2'', [[PCI Special Interest Group]], 1998, p. 4</ref>、5 [[ボルト|V]]信号のPCIバスが採用されていた。64ビット/66 MHz PCIやさらに高速な[[PCI-X]]は高価で、一部の[[Power Mac]]などに搭載された以外は、[[シリアルATA]]や[[ギガビット・イーサネット|1000BASE-T]]の登場で32ビット/33 MHz PCI帯域幅の限界が目立つようになって[[PCI Express]]への移行に至るまで[[サーバ]]、[[ワークステーション]]などでの採用にとどまった。
* 動作[[クロック]]は最大33 MHzまたは最大66 MHzで下限クロック数は規定されていない。
** これはPCIの動作単位がクロックではなく実時間(例:Output Delayはクロック立ち上がりより12[[ナノ秒]]後)で規定されている為である。
* [[バス幅]]は32ビットまたは64ビットで、1バスセグメント内で32デバイスをサポートする。それよりも多くのデバイスを接続する場合は、PCIバス-PCIバスブリッジを使用しバスセグメントを拡張するか、バスコントローラそのものを増設しセグメント数を増やす。
** {{要出典|範囲=PCI規格を提唱したIntelのガイドラインで示された、|date=2020年5月}}拡張スロットの電気的負荷を考慮した値は、1バスセグメント内で10デバイスまで。ただし、拡張スロットは33 MHzの場合2デバイス、66 MHzの場合4デバイス扱いで、チップセットなどのバスコントローラも1デバイスないしは2デバイスとして扱われるため、1バスセグメントで最大4スロットまでの実装が可能となる。<ref>ただし、これは一定の余裕を確保した値である。そのため、PCIバス全盛期のPC/AT互換機用マザーボードでは基板の回路設計を工夫してバスの負荷を軽減し、{{要出典|範囲=4スロット前提のIRQルーティングを拡張・整合させる回路を付加することで、|date=2020年5月}}最大6スロットの32ビット33 MHz PCIバススロットを1バスセグメント接続で実装する製品が多数存在した。</ref>。
** 32ビットスロットに64ビットの拡張カードを挿入して使用することやその逆も可能であるように設計されている。ただしこれはバス設計に於いてであって、挿入するカードがその互換性を持っているか否かは別問題であり、特に64ビットカードを32ビットスロットに装着した場合、宙に浮いた32ビット分の処理はカード側の処理(すなわち設計)に依る。
* 信号[[電圧]]は5 Vまたは3.3 Vであり、カードの切り欠き、スロット突起の有無により誤挿入を防止している。
**PCIカードの表を正面に見て右にだけ切り欠きがあるものが5 V信号専用、左にのみ切り欠きがあるものは3.3 V信号専用、左右に切り欠きが有るものは5 V信号と3.3 V信号の両方に対応している。
* PCIデバイスは、各々のベンダが固有の[[PCI ID]]を持つ。
* マザーボードや相性にもよるが、[[Accelerated_Graphics_Port|AGP]]コネクタの隣に位置するPCIコネクタはリソース等の競合が起こる事があり、正常に動作しない場合は、別のPCIスロットを使用して再確認する事が推奨されている。大型のクーラーを装備するビデオカードの場合、隣のPCIスロットが物理的に使えないこともしばしばである。
* 特に規定があるわけではないが、スロットのコネクタ色は白色が多い。
* [[Industry_Standard_Architecture|ISAバス]]とは、部品を実装する面が向きが逆であり、ATXの縦型ケースでは、部品面が下になる。これはAGP、PCI-EXpressにも引き継がれた。<!--、後年、放熱面では不利となった。--><!--左記はタワー(縦型)ケースPOV-->
*ISAバスとPCIバスが混在した時期においては、隣接するISAバスとPCIバスは、PCケースのブラケット取り付け部分を共用するために、同時には使えないことが多かった。このためPCI, ISA3本ずつでも、PCI2, ISA2, PCI/ISA1と表記される事もあった。
== 歴史 ==
[[ファイル:Scsiboard01.jpg|thumb|right|PCIバスに接続するタイプの拡張カード(Adaptec社製SCSIカード、AHA-2940)<br/>画像手前の端子部をPCIバススロットに挿入する]]
'''PCIバス'''は、当初[[CPU]]アーキテクチャに全く依存しないデバイス間を結ぶ内部高速バス{{Lang|en|'''Local Glueless Bus'''}}として、[[1991年]]に[[インテル]]から提案された。
その当時、[[PC/AT互換機]]においては、標準の拡張バスである[[Industry Standard Architecture|ISA]]バス(いわゆるATバス)が低速、かつ[[バス調停]]機能が存在しなかったため、高速なデバイス([[Video Graphics Array|VGA]]や[[Local Area Network|LAN]]、[[Small Computer System Interface|SCSI]]等)の接続、[[マルチタスク]][[オペレーティングシステム]]の運用などの際にボトルネックになっていた。
そのため、全く新しい設計の16/32ビットバスである[[Micro Channel Architecture|MCA]]バス、ISAバスを拡張しそれに対する上位互換機能を備えた32ビットバスである[[Extended Industry Standard Architecture|EISA]]バス、[[Intel 486|i486]]の[[メモリ]]バスをそのまま引き出した[[VESA ローカルバス|VLバス]]などが登場したが、MCAバスは高度なバス調停機能を持つがISAバスとの互換性が無く、また特許権の問題から[[IBM]]以外にはほとんど普及せず、EISAバスは高度なバス調停機能による高価格化とISA互換によるデータ[[転送速度]]の不足、VLバスは転送速度は充分(50 MHz駆動時200 MB/s)だがi486アーキテクチャに強く依存し互換性・安定性が不十分でバス調停機能は存在しなかった。
このため、インテルの提案を受けた各社から、ISAを代替する高速な標準汎用バスとして{{Lang|en|Local Glueless Bus}}を外部バス化する要求が多く寄せられた。
この要求に対し、[[PC/AT互換機]]や[[PC-9821シリーズ]]への実装を目的とした機種依存仕様の追加、64ビットバスへの拡張対応、拡張スロット形状を含めた最終の形に近いPCIバスの仕様が、インテルを中心として策定された。
PCIバスは、策定当初からアーキテクチャに依存しない汎用高速バスとして設計されていたが、[[PC/AT互換機]]における標準バスとしての地位が約束されていた訳ではなかった。このため、PCIバスを搭載した初期の[[マザーボード]]にはEISAバスとVLバスも搭載するという変則的な製品やVLバス上にPCIブリッジを実装する製品も存在した。
PCIバスはワークステーションやサーバ、オフィスコンピュータなどの方面にも同時に取り入れられていった。この方面ではEISAバス、[[APバス]]、[[VMEバス]]などを使用していたが、特にコンピュータグラフィックや衛星画像処理などで大規模な画像データを表示する必要に迫られたり、大規模なデータを取り扱うSCSI等にいちはやく取り入れられていった。同時に、i486系のCPUを持つワークステーションのみならず、[[R4000|R4400]]、[[R10000]]等、[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]系の[[RISC]]型CPUを持つワークステーションやサーバ等でも利用できるよう、PCIコントローラーが開発され実装されていった。サーバなどのボードの拡張を容易にするため、PCIブリッジと呼ばれる外部筐体にPCIバスを拡張するコントローラーも開発され、i486系、[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]系のサーバに使用されている。
2002年には、PCIと[[Accelerated Graphics Port|AGP]]の後継規格である[[PCI Express]]が発表される。
[[ファイル:Minipci.jpg|thumb|right|ノートパソコン用に小型化されたmini-PCI]]
[[ファイル:PCI-X Ethernet.jpg|thumb|right|PCI-Xイーサネットカード]]
[[ファイル:Gigabyte GV-NX62TC256D8 Rev 1.0.jpg|thumb|right|後継規格 PCI Expressビデオカード]]
; [[1991年]] 原案である「{{Lang|en|Local Glueless Bus}}」が発表。
: 「{{Lang|en|PCI Local Bus}}」として規格化すべく PCI SIG が設立された。
; [[1992年]] PCI 1.0策定。
: 内部接続バスとしての仕様のみ規定され、見切り発車などとも言われた。
; [[1993年]] PCI 2.0策定。
: 64bit規格、コネクタ仕様等が制定され、製品への本格的な実装が開始された。
; [[1994年]] PCI 2.1へ改訂。
: Delayed Transactionの明文化、PCIバスブリッジや66 MHzの仕様が盛り込まれる。
; [[1999年]] PCI 2.2へ改訂。
: {{Lang|en|MSI (Message Signaled Interrupt)}} というサイドバンド信号線無しで割り込み通知等の機能が追加され、これに準拠した別ケーブル無しでの[[Wake-on-LAN|WOL]]対応[[イーサネット]]カードや[[PCカード|PCMCIA]]インタフェースが販売された。
; [[2000年]] PCI 2.3へ改訂。
: 5 V信号のみで動作する拡張カードの廃止。5 V信号で動作するマザーボード側スロットは引き続き仕様に含まれる。
; [[2002年]] PCI 3.0制定。
: 5 V信号で動作するマザーボード側スロットの廃止。5 V信号と3.3 V信号の双方に対応する拡張カードは引き続き仕様に含まれる。
; [[2002年]] 派生規格 [[PCI-X]] 1.0b 及び PCI-X 2.0制定。
: 64bit PCIの後継規格で、1バスセグメント内で66 MHzなら4本、100 MHzなら2本、133 MHz動作なら1本のスロットが使用可能などの機能拡張が行われている。
: PCI-X 2.0では、信号電圧の1.5 Vへの動的変更を行うことで、DDR ({{Lang|en|Double Data Rate}}:倍速)やQDR({{Lang|en|Quad Data Rate}} : 4倍速)でのデータ転送をサポートする。
; [[2002年]] 後継規格 [[PCI Express]] 1.0制定。
: プロトコルと信号が混在していたPCIを見直し、各層を完全に分割し、スケーラビリティを確保した規格。これ以降のPCの標準汎用拡張バスとなった。
; [[2003年]] [[ExpressCard]]策定。
: [[PCカード]]におけるPCI Express派生規格としてExpressCardが策定され、一時期はPCカードスロットの置き換えが進められた。しかしビジネス向けノートでは旧来のPCカードの需要が根強かったことや、急速に小型化が進んだ[[ネットブック]]ではUSBやメモリーカード用スロットで済まされるケースが目立ったこともあり、結果的にPCカードほどは普及せずに衰退した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈・出典 ===
{{Reflist}}
== 参考 ==
{{Further reading}}
*{{Cite journal|和書|journal=MMRC Discussion Paper |volume=163 |year=2007 |month=4 |publisher=東京大学ものづくり経営研究センター |last=立本 |first=博文 |title=PCのバス・アーキテクチャの変遷と競争優位:なぜ互換機メーカは、IBM プラットフォームを乗り越えられたのか? ―IBM がプラットフォームリーダシップを失うまで― |url=http://merc.e.u-tokyo.ac.jp/mmrc/dp/pdf/MMRC163_2007.pdf |format=PDF |ref={{Sfnref|立本|2007a}}}}
*{{Cite journal|和書|journal=MMRC Discussion Paper |volume=171 |year=2007 |month=7 |publisher=東京大学ものづくり経営研究センター |last=立本 |first=博文 |title=PCのバス・アーキテクチャの変遷と競争優位 ―なぜ Intel は、プラットフォーム・リーダシップを獲得できたか― |url=http://merc.e.u-tokyo.ac.jp/mmrc/dp/pdf/MMRC171_2007.pdf |format=PDF |ref={{Sfnref|立本|2007b}}}}
== 関連項目 ==
* [[PCI Express]] - 後継規格
* {{仮リンク|PCI設定空間|en|PCI configuration space}}
* [[Accelerated Graphics Port]] (AGP)
* [[Extended Industry Standard Architecture]] (EISA)
* [[Industry Standard Architecture]] (ISA)
* [[Micro Channel Architecture]] (MCA)
* [[VESA ローカルバス]](VLバス)
* [[APバス]]
* [[XTバス]]
* [[ロープロファイルPCI]]
* [[コンパクトPCI]]
* [[周辺機器|ペリフェラル]]
* [[コンポーネント]]
* {{仮リンク|インターコネクト|en|Interconnect (integrated circuits)|redirect=1}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* [https://pcisig.com/ PCI-SIG]
{{コンピュータバス}}
{{Normdaten}}
[[Category:コンピュータバス]]
[[Category:長大な項目名]] | null | 2023-01-08T11:13:35Z | false | false | false | [
"Template:要出典",
"Template:Lang",
"Template:Further reading",
"Template:仮リンク",
"Template:Commonscat",
"Template:出典の明記",
"Template:Reflist",
"Template:Cite journal",
"Template:コンピュータバス",
"Template:Normdaten",
"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Peripheral_Component_Interconnect |
3,731 | U2 | U2(ユーツー)は、アイルランドのロックバンドである。『グラミー賞』22回受賞(46回ノミネート)、アーティストグループでのグラミー賞世界最多受賞記録を保持している。
1980年のデビューから現在に至るまで活動休止は勿論、オリジナル・メンバーの脱退や変更もなく活動しており、これまでに発表した作品は世界中のファンから支持されており数多くの賞を受賞している。
中でもグラミー賞獲得数22作品は“ロック・バンド史上最多”且つ、“グループアーティスト史上最多”となっている。 2005年には「ロックの殿堂」入りもしている。
世界に渦巻く社会問題を楽曲のテーマとしている。宗教紛争や反核運動、アパルトヘイトなどの人権問題、薬物依存症などについてメッセージ性の強い曲を発表、チャリティー・イベントにも積極的に参加している。特に、メンバーの中でボノはアフリカの貧困救済やアムネスティ・インターナショナル、ジュビリー2000、ONE Campaignなどの慈善事業に深く関わっており、2006年にはアフリカの後天性免疫不全症候群(AIDS)対策プログラム支援ブランド「RED」を設立するなど、人権と社会正義のために運動している。
また、コンサートの規模や動員数でも世界最大・最高のバンドであり、『Vertigo Tour』は2005年のコンサート収益1位を記録。『U2 360° Tour』は、2011年のコンサート収益1位を記録し、“歴史上で最も成功したアーティストグループツアー”として認定されている。
なお、これまで1位となっていた記録も、同じくU2が1987年9月25日に〈Joshua Tree Tour〉のフィラデルフィア公演で樹立した86,145人となっており、U2自身が記録を塗り替えたこととなる。また、歴代動員記録の3位までをU2が独占しており、彼らの人気を改めて窺わせる結果となっている。
その他、ピンク・フロイドやバックストリート・ボーイズが名を連ねる歴代5位までの観客動員記録リストは以下の通り。
〈米国での単独公演動員記録〉
1. U2:97,014人(2009年10月25日、カリフォルニア州ローズ・ボウル・スタジアム)
2. U2:86,145人(1987年9月25日、ペンシルヴァニア州ジョンF・ケネディ・スタジアム)
3. U2:84,754人(2009年9月29日、メリーランド州フェデックスフィールド)
4. PINK FLOYD:75,250人(1994年5月29日、オハイオ州オハイオ州立大学スタジアム)
5. BACKSTREET BOYS:73,337人(2000年2月19日、ジョージア州ジョージア・ドーム)
米経済誌フォーブスが2011年6月に発表した「世界中で最も稼いでいるミュージシャン」では、1億9,500万ドル(日本円に換算すると約156億円)になり第1位とされた。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第22位にランクインしている。
ウォール・ストリート・ジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド」にて16位。
トータル・アルバム・セールスは、1億7,000万枚超と言われている。
バンド名の由来については、アメリカの偵察機「U-2」、ドイツの潜水艦「II型Uボート」、「You too」(ファンへのシンパシーを表す)などの諸説があった。
彼らはアマチュア時代「FEEDBACK」や「THE HYPE」と名乗っていたが、アダムの知り合いのグラフィックデザイナーが考えた新バンド名案のひとつに「U2」があった。特に意味はなく、ジ・エッジは「いろいろあった候補の中で一番マシなもの」という程度で使ってみたが、時間が経つにつれどんどん好きになっていったという。ボノは「U2の魅力はその曖昧さにある。解釈の仕方は無限だろ」と語っている。アダムは文字1個に数字1個だから、ポスターの中に大きく書くことができるし、宣伝文句の中にも滑り込ませやすいと指摘している。
ちなみに、1991年発表の『アクトン・ベイビー』収録曲の「ズー・ステーション」は実在するベルリン動物園駅(ドイツ語でZoologischer Garten)を指し、この駅の路線名は「U2(地下鉄2号線)」である。
1976年、アイルランド・ダブリンのマウント・テンプル高校の掲示板にラリー・マレン・ジュニアがバンドメンバー募集の貼り紙を出した。これを知ったポール・ヒューソン(ボノ)、アダム・クレイトン、エヴァンス兄弟(兄ディック、弟デイヴ(ジ・エッジ))が集まり、5人で活動を始めたのがバンド結成のきっかけである。ドラムのラリーとギターのジ・エッジは少年の頃から演奏していたが、アダムはベースをろくに弾けず、アンプを持っているという理由でバンドに入った。ボノはギター希望だったが、楽器を持っていなかったのでボーカルになった。
当初のバンド名は「フィードバック(Feedback)」や「ザ・ハイプ(The Hype)」を経て、ディックが脱退した1978年に「U2」と決まった。その後、リムリックで行われたLimerick Civic Week Pop '78というタレントコンテストで優勝。1979年にはCBSアイルランドと契約して、「Out Of Control」「Stories For Boys」「Boy/Girl」の3曲入りシングル「スリー」をアイルランド国内で1,000枚限定でリリースし、IREチャートで19位に食い込む。1979年から1980年にかけてイギリスとアイルランドで精力的にツアーを行った結果、ついにアイランド・レコードと契約を交わした。
1980年2月、アイルランド国内でシングル「アナザー・デイ」(Another Day)を発表。5月に契約したアイランド・レコードからシングル「11オクロック・ティック・タック」(11 O'Clock Tick-Tock)でデビュー。スティーブ・リリーホワイトのプロデュースで1枚目のアルバム『ボーイ』(Boy)を発表。
1981年に2枚目のアルバム『アイリッシュ・オクトーバー』(October)、1983年に3枚目のアルバム『WAR(闘)』(War)を発表した。『WAR(闘)』のアルバムタイトルは母国アイルランドにおけるカトリックとプロテスタントの宗教対立に対して、不偏の非暴力主義をアピールしている。アルバム収録曲の「ニュー・イヤーズ・デイ」(New Year's Day)はポーランド民主化運動の独立自主管理労働組合「連帯」について取り上げた曲で、バンド初の全英シングルチャートトップ10入りとなった。「ブラディ・サンデー」(Sunday Bloody Sunday)は北アイルランド問題の「血の日曜日事件」を取り上げ、アイルランド共和軍(IRA)の活動を批判する立場を示した。このため、IRA支持者から脅迫されたこともあったという。『WAR(闘)』はバンド初の全英アルバムチャート1位を獲得し、バンドは多くの支持を集める結果になった。さらに、精力的なライブ活動などによりバンドの人気はイギリスやヨーロッパ大陸のみならず、アメリカへと拡大した。
アメリカの音楽雑誌『ローリング・ストーン』は、U2を1983年度の「最優秀バンド」に選出している。同年11月にはツアー最終公演地として日本を訪れ、初の日本公演を行った。来日時にはフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演し、「ニュー・イヤーズ・デイ」を披露した。
社会問題や宗教観をストレートに表現する音楽スタイルは、当時のポストパンク(ニュー・ウェイヴ)と呼ばれた世代の中で異彩を放っていた。この初期3作品のディスクジャケットには、上半身裸の少年(ピーター・ローウェン)の写真が使用されている。
1984年、エチオピア飢餓救済を目指すバンド・エイドのチャリティーシングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」(Do They Know It's Christmas)にボノとアダム・クレイトンが参加。その後、ボノはアフリカ諸国の経済的自立を支援する様々な国際的プロジェクトに関与している。
1984年10月に4枚目のアルバム『焰』(The Unforgettable Fire)を発表。原題の『Unforgettable Fire』とは広島・長崎への原爆投下を生き抜いた被爆者達が描いた絵画のタイトルで、絵画を見たメンバーが感銘を受けて名づけられたものである。元ロキシー・ミュージックのブライアン・イーノと弟子のダニエル・ラノワをプロデューサーに迎えてサウンドも深化し、このコンビはその後も重要な共同作業者となる。シングル「プライド」(Pride (In The Name Of Love))はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)へのトリビュート・ソングであり、全英シングルチャート3位のヒットとなった。
1985年にはウェンブリー・スタジアムで行われたチャリティーイベント『ライヴエイド』に出演したが、ボノが観客席に降りてしまい、3曲歌う予定が2曲で時間切れになってしまった。大舞台でアクシデントにメンバーは意気消沈したが、クイーンと並ぶ熱いパフォーマンスと称賛され、世界中にテレビ中継されたことで大ブレイクするきっかけになった。
1987年3月に5枚目のアルバム『ヨシュア・トゥリー』(The Joshua Tree)を発表。全英・全米チャート1位(全英アルバムチャート・Billboard 200)を獲得し、イギリス音楽史上最速で売れたアルバムとなり、世界各国でNo.1ヒットを記録した。シングルカットされた「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」(With Or Without You)、「終わりなき旅」(I Still Haven't Found What I'm Looking For)はBillboard Hot 100で1位となった。ライブツアーの規模も、アリーナクラスからスタジアムクラスに拡大した。また、ロビー・ロバートソンのソロ・アルバム『ロビー・ロバートソン』にメンバー全員が参加した。
1988年にはアメリカツアーのドキュメンタリー映画『魂の叫び』を公開し、同名のアルバムも発表。ボブ・ディランやB.B.キング、ヴァン・ダイク・パークスらが参加した。先行シングルの「ディザイアー」(Desire)は初の全英シングルチャート1位を獲得した。1989年には2度目の日本公演が開催され、スペシャルゲストにB.B.キングを迎えて行われた。
この時期の音楽スタイルはアメリカのルーツ・ミュージックに傾倒し、ロックの源流であるブルースやゴスペル、ソウルなどブラック・ミュージックの要素が積極的に取り入れられた。
東西ドイツ統一による影響のあるベルリンで制作されたアルバム『アクトン・ベイビー』(Achtung Baby)を1991年に発表。それまでのバンド・スタイルを大きく転換させ、ビッグ・ビートやテクノなどの音楽ジャンルを取り入れた内容になっている。この点についてボノは「このアルバムは4人の男がヨシュア・トゥリーを切り倒している音だ」と述べている。この音楽路線は、1993年発表の『ZOOROPA』(Zooropa)、1997年発表の『ポップ』(Pop)へと続いていく。1990年代以降ライブがより大規模になり、スタジアム・ロック・バンドとしての地位を構築していった。
1992年、グリーンピースのセラフィールド抗議活動に参加し、放射線防護服を着てビートルズの『ヘルプ!』(Help!)のジャケットを真似るパフォーマンスを行った。
1993年に『ZOO TV TOUR JAPAN』と題して東京ドームで日本公演を開催。『ZOO TV TOUR』の最終公演となった。
1995年、映画『バットマン フォーエヴァー』(Batman Forever)に主題歌「ホールド・ミー、スリル・ミー、キス・ミー、キル・ミー」(Hold Me,Thrill Me,Kiss Me,Kill Me)を提供。また、ブライアン・イーノと「パッセンジャーズ」(Passengers)名義で制作したアルバム『パッセンジャーズ:オリジナル・サウンドトラックス1』(Original Soundtracks 1)を発表。オペラ歌手ルチアーノ・パヴァロッティがフィーチャーされており、ビル・カーター制作のドキュメンタリー番組『Miss Sarajevo』を元にサラエヴォ包囲について取り上げた「ミス・サラエボ」(Miss Sarajevo)はシングルカットされた。さらに、ボノとジ・エッジは映画『007 ゴールデンアイ』(007 GoldenEye)主題歌として「ゴールデンアイ」(GoldenEye)をティナ・ターナーに提供した。
1998年には『POPMART TOUR』で来日。3月6日にボノがテレビ朝日系報道番組『ニュースステーション』に生出演し、およそ15分間に渡るインタビューに答えた。同年秋には初のベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブU2 1980-1990』(The Best of 1980–1990)を発表する。日本ではフジテレビ系列のドラマ『眠れる森』挿入歌に「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」が使用された。
2000年、ボノ原作でヴィム・ヴェンダース監督による映画『ミリオンダラー・ホテル』(The Million Dollar Hotel)が公開(日本公開は2001年)。サウンドトラック制作や主題歌「ザ・グラウンド・ビニース・ハー・フィート」(The Ground Beneath Her Feet)も提供した(サルマン・ラシュディ著の同名小説中の詩に曲をつけたもの)。同年秋にはブライアン・イーノとダニエル・ラノワを再びプロデューサーに迎えたアルバム『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』(All That You Can't Leave Behind)を発表。“原点回帰”とも言えるバンド感のあるサウンドになっており、世界的にヒットした。シングル「ビューティフル・デイ」(Beautiful Day)は、全英シングルチャート1位となった。2001年には『Elevation Tour』を開催し、地元アイルランド公演はスレイン城で開催し8万人を集めた。
2002年、『第36回スーパーボウル』のハーフタイムショーに出演。2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件で犠牲者となった全員の氏名をスクリーンに映し、追悼の意を表した。同年秋にはベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブU2 1990-2000』(The Best of 1990–2000)を発表。アルバムにも収録されている新曲「ザ・ハンズ・ザット・ビルト・アメリカ」(The Hands That Built America)が映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』(Gangs of New York)主題歌に起用された。
2003年9月から番組最終回となる2004年3月まで、テレビ朝日系報道番組『ニュースステーション』へ楽曲の使用許可を下し、オープニングテーマの「約束の地」(Where The Streets Have No Name)など、各コーナーでU2の曲が使用された。
2004年にはアルバム『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』(How To Dismantle An Atomic Bomb)を発表。プロデューサーにスティーブ・リリーホワイトが復帰した。先行シングルの「ヴァーティゴ」(Vertigo)はApple「iPod」CMソング起用され、全英シングルチャート1位となった。日本でも、日本テレビ系番組『スポーツうるぐす』のテーマ曲になった。また、iTunes Store限定で『ザ・コンプリート・U2』(The Complete U2)が音楽配信された。
2005年、「ヴァーティゴ」に続き「サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン」(Sometimes You Can't Make It On Your Own)が全英シングルチャート1位を獲得する。7月にはチャリティー・コンサート『LIVE 8』に出演した。メアリー・J. ブライジはアルバム『ザ・ブレイクスルー』でボノと「ワン」でデュエットしており、翌年にはシングルカットされて全英シングルチャート2位とヒットした。
2006年、レナード・コーエン(Leonard Cohen)のドキュメンタリー映画『アイム・ユア・マン』(I'm Your Man)サウンドトラックにレナードとコラボレーションした曲「タワー・オブ・ソング」(Tower Of Song)を提供。同年秋には前年8月に発生したハリケーン・カトリーナで被害に遭ったニューオリンズのミュージシャン達を救うため、グリーン・デイと「セインツ・アー・カミング」(Saints Are Coming。オリジナルは1978年発表のザ・スキッズ)のカバー曲を発売。すべての収益を寄付した。また、ベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブU2 18シングルズ』(U218 Singles)を発表。同年冬には8年ぶりとなる日本公演をさいたまスーパーアリーナで行った。これは、同年春に日産スタジアムで開催予定であったライヴが、「メンバーの家族の病気」という理由により延期されたため行われた振替公演であった。来日時の11月29日にボノは安倍晋三(第90代内閣総理大臣)を表敬訪問し、総理へサングラスをプレゼント。アフリカの感染症問題に対する日本の貢献について高く評価し、今後も世界をリードすることに期待していると述べた。また、TBS系報道番組『筑紫哲也 NEWS23』ではボノがインタビューを受けた。12月1日にはテレビ朝日系音楽番組『ミュージックステーション』にはバンドで出演した。日本のテレビ番組に出演するのはボノが8年ぶり、バンドとしては23年ぶりのことであった。
2008年、『Vertigo Tour』の模様を収録した3D映画『U2 3D』を世界公開(日本公開は2009年)。
2009年1月、バラク・オバマの大統領就任式『祝賀コンサート』に出演。キング牧師が「I Have a Dream」の演説を行ったリンカーン記念館で、「プライド」と「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」(City Of Blinding Lights)を披露した。2月にはアルバム『ノー・ライン・オン・ザ・ホライゾン』(No Line On The Horizon)を発表。ボノは「巡礼をテーマにしたより瞑想的なアルバム」と表現した。『U2 360° Tour』がスタートした。8月にはジ・エッジがジミー・ペイジ(レッド・ツェッペリン)、ジャック・ホワイト(元ザ・ホワイト・ストライプス)と共演した映画『ゲット・ラウド ジ・エッジ、ジミー・ペイジ、ジャック・ホワイト×ライフ×ギター』が公開(日本公開は2011年)。10月には『ベルリンの壁崩壊20周年記念式典』にバンドで出演しブランデンブルク門前でパフォーマンスした。12月から公開された映画『マイ・ブラザー』(日本公開は2010年)主題歌として「ウィンター」(Winter)を提供した。
2011年、東日本大震災で被災された方々への支援を目的としたコンピレーション・アルバム『ソングス・フォー・ジャパン』(Songs For Japan)へ「ウォーク・オン」(Walk On)を提供する。6月、ボノとジ・エッジが音楽を担当したブロードウェイ・ミュージカル『スパイダーマン:ターン・オフ・ザ・ダーク』(Spider-Man: Turn Off The Dark)が公開された。また、前年にボノの負傷により出演キャンセルしたイギリスのロック・フェスティバル『グラストンベリー・フェスティバル』にヘッドライナーとして出演した。
2012年、発売20周年を記念して2011年末にデラックス盤を含む複数種でリマスター再発売された『アクトン・ベイビー』(Achtung Baby)がBillboard 200で再び1位を獲得。2013年にはネルソン・マンデラの著書を原作とした映画『マンデラ 自由への長い道』主題歌に「オーディナリー・ラブ」(Ordinary Love)を提供した。
2014年2月、配信曲「インヴィジブル」(Invisible)を発表。配信開始24時間限定で無料ダウンロードできた。これは、バンク・オブ・アメリカが期間中ダウンロード1件につき上限200万ドル(約2億400万円)まで1ドルずつ「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」に寄付を行うという取り決めになっていて、結果300万ドル(約3億600万円)を越える寄付金を集めることに成功したと報じられた。5月、アメリカの楽器メーカーフェンダーは、ボノとジ・エッジが取締役に就任したと発表した。
9月、カリフォルニア州クパチーノで開かれたアップルのイベントにメンバーが登場し、アルバム『ソングス・オブ・イノセンス』(Songs of Innocence)を全世界のiTunes Store利用者に無料配信することが発表された。5億人とも言われるユーザーに配信されたが、突如ライブラリに追加される仕組みにはユーザーの混乱を招き苦情もあったため、アップル側が削除ツールを公開する対策を講じた。無料配信された10月中旬までにおよそ8,100万人のユーザーがストリーミングし、およそ1,600万人のユーザーがダウンロードしたとされている。10月にはCD盤が発表された。
2015年、前篇後篇2部作となる映画『ソロモンの偽証』主題歌に「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」を提供。日本映画へは初の楽曲提供となった。
ライヴでは毎回異なるコンセプトでパフォーマンスを行い、独創的なステージセットやコンサートの規模、動員数、収益が話題となるバンドである。2006年にアメリカの雑誌『スピン』から「世界で最も良いライブを行う25バンド 第1位」に選出されている。
1992年から1993年にかけて行った『ZOO TV TOUR』ではステージ上に巨大なテレビを多数設置し、パフォーマンスに合わせて異なる映像やメッセージを流した。また、ドイツ車「トラバント」を照明として使用したり、会場の中央にまで花道を置くステージ設計など、当時としては画期的なステージセットであった。ライヴ中にはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争下のサラエヴォを衛星中継で結び、包囲された市民の惨状を観客に伝えた。他には衛星中継でルー・リードと共演をしたこともあった。またMCでは、ボノが開催地のどこかへ電話をかけるコーナーがあり、フランスのミッテラン大統領(当時)、ドイツのコール首相(当時)、アメリカのホワイトハウス(ブッシュ大統領(当時)には繋いでもらえず)、大統領候補であったビル・クリントン(本人との会話に成功)などのほか、ピザ屋にピザ1万枚の宅配を注文したこともあった。1993年12月9日・10日に東京ドームで行われた日本公演では、初日が横綱曙(当時)、2日目は117番(NTTの時報ダイヤル)相手に「マドンナにつないでくれ」と言っていた(マドンナは当時来日中だった)。
1997年から1998年に開催した『POPMART TOUR』では、高さ17m×幅51mの巨大スクリーンとミラーボール式のレモンのオブジェなど、総額約180億円もの費用をかけたスタジアム・ツアーとなった。ボスニア紛争停戦合意後の1997年には、北大西洋条約機構(NATO)平和維持軍監視下のサラエヴォで『POPMART TOUR』を開催。入場料収入の全額をボスニアの戦争孤児支援基金「ウォー・チャイルド」へ寄付した。
2001年に開催した『Elevation Tour』や、2005年から2006年に開催した『Vertigo Tour』では一見するとシンプルなステージに戻ったかのように見えたが、最先端の装置・照明・映像を駆使しており、バンドのこだわりが感じられる内容と演出になっていた。
2009年から2011年にかけて開催した『U2 360° TOUR』は、全110公演の興行収入が約7億3,614万ドル、観客総動員数が726万8,430人というこれまでに報道されたどのコンサートよりも高い数字を記録した。このツアーの成功で、改めてU2の世界的人気が根強いことを証明しただけでなく、通常よりも25%増しの観客を動員できる『ザ・クロウ』(The Claw、鉤爪)と名づけられた巨大なステージセット運営が成功したということになった。
U2が少年期に大きく影響を受けたのは、ザ・フー、ザ・クラッシュ、テレヴィジョン、ラモーンズ、ビートルズ、ジョイ・ディヴィジョン、スージー・アンド・ザ・バンシーズ, エルヴィス・プレスリー、パティ・スミス や クラフトワーク。
ほか | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "U2(ユーツー)は、アイルランドのロックバンドである。『グラミー賞』22回受賞(46回ノミネート)、アーティストグループでのグラミー賞世界最多受賞記録を保持している。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "1980年のデビューから現在に至るまで活動休止は勿論、オリジナル・メンバーの脱退や変更もなく活動しており、これまでに発表した作品は世界中のファンから支持されており数多くの賞を受賞している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "中でもグラミー賞獲得数22作品は“ロック・バンド史上最多”且つ、“グループアーティスト史上最多”となっている。 2005年には「ロックの殿堂」入りもしている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "世界に渦巻く社会問題を楽曲のテーマとしている。宗教紛争や反核運動、アパルトヘイトなどの人権問題、薬物依存症などについてメッセージ性の強い曲を発表、チャリティー・イベントにも積極的に参加している。特に、メンバーの中でボノはアフリカの貧困救済やアムネスティ・インターナショナル、ジュビリー2000、ONE Campaignなどの慈善事業に深く関わっており、2006年にはアフリカの後天性免疫不全症候群(AIDS)対策プログラム支援ブランド「RED」を設立するなど、人権と社会正義のために運動している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "また、コンサートの規模や動員数でも世界最大・最高のバンドであり、『Vertigo Tour』は2005年のコンサート収益1位を記録。『U2 360° Tour』は、2011年のコンサート収益1位を記録し、“歴史上で最も成功したアーティストグループツアー”として認定されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "なお、これまで1位となっていた記録も、同じくU2が1987年9月25日に〈Joshua Tree Tour〉のフィラデルフィア公演で樹立した86,145人となっており、U2自身が記録を塗り替えたこととなる。また、歴代動員記録の3位までをU2が独占しており、彼らの人気を改めて窺わせる結果となっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "その他、ピンク・フロイドやバックストリート・ボーイズが名を連ねる歴代5位までの観客動員記録リストは以下の通り。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "〈米国での単独公演動員記録〉",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1. U2:97,014人(2009年10月25日、カリフォルニア州ローズ・ボウル・スタジアム)",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "2. U2:86,145人(1987年9月25日、ペンシルヴァニア州ジョンF・ケネディ・スタジアム)",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "3. U2:84,754人(2009年9月29日、メリーランド州フェデックスフィールド)",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "4. PINK FLOYD:75,250人(1994年5月29日、オハイオ州オハイオ州立大学スタジアム)",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "5. BACKSTREET BOYS:73,337人(2000年2月19日、ジョージア州ジョージア・ドーム)",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "米経済誌フォーブスが2011年6月に発表した「世界中で最も稼いでいるミュージシャン」では、1億9,500万ドル(日本円に換算すると約156億円)になり第1位とされた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第22位にランクインしている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ウォール・ストリート・ジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド」にて16位。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "トータル・アルバム・セールスは、1億7,000万枚超と言われている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "バンド名の由来については、アメリカの偵察機「U-2」、ドイツの潜水艦「II型Uボート」、「You too」(ファンへのシンパシーを表す)などの諸説があった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "彼らはアマチュア時代「FEEDBACK」や「THE HYPE」と名乗っていたが、アダムの知り合いのグラフィックデザイナーが考えた新バンド名案のひとつに「U2」があった。特に意味はなく、ジ・エッジは「いろいろあった候補の中で一番マシなもの」という程度で使ってみたが、時間が経つにつれどんどん好きになっていったという。ボノは「U2の魅力はその曖昧さにある。解釈の仕方は無限だろ」と語っている。アダムは文字1個に数字1個だから、ポスターの中に大きく書くことができるし、宣伝文句の中にも滑り込ませやすいと指摘している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "ちなみに、1991年発表の『アクトン・ベイビー』収録曲の「ズー・ステーション」は実在するベルリン動物園駅(ドイツ語でZoologischer Garten)を指し、この駅の路線名は「U2(地下鉄2号線)」である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1976年、アイルランド・ダブリンのマウント・テンプル高校の掲示板にラリー・マレン・ジュニアがバンドメンバー募集の貼り紙を出した。これを知ったポール・ヒューソン(ボノ)、アダム・クレイトン、エヴァンス兄弟(兄ディック、弟デイヴ(ジ・エッジ))が集まり、5人で活動を始めたのがバンド結成のきっかけである。ドラムのラリーとギターのジ・エッジは少年の頃から演奏していたが、アダムはベースをろくに弾けず、アンプを持っているという理由でバンドに入った。ボノはギター希望だったが、楽器を持っていなかったのでボーカルになった。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "当初のバンド名は「フィードバック(Feedback)」や「ザ・ハイプ(The Hype)」を経て、ディックが脱退した1978年に「U2」と決まった。その後、リムリックで行われたLimerick Civic Week Pop '78というタレントコンテストで優勝。1979年にはCBSアイルランドと契約して、「Out Of Control」「Stories For Boys」「Boy/Girl」の3曲入りシングル「スリー」をアイルランド国内で1,000枚限定でリリースし、IREチャートで19位に食い込む。1979年から1980年にかけてイギリスとアイルランドで精力的にツアーを行った結果、ついにアイランド・レコードと契約を交わした。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1980年2月、アイルランド国内でシングル「アナザー・デイ」(Another Day)を発表。5月に契約したアイランド・レコードからシングル「11オクロック・ティック・タック」(11 O'Clock Tick-Tock)でデビュー。スティーブ・リリーホワイトのプロデュースで1枚目のアルバム『ボーイ』(Boy)を発表。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1981年に2枚目のアルバム『アイリッシュ・オクトーバー』(October)、1983年に3枚目のアルバム『WAR(闘)』(War)を発表した。『WAR(闘)』のアルバムタイトルは母国アイルランドにおけるカトリックとプロテスタントの宗教対立に対して、不偏の非暴力主義をアピールしている。アルバム収録曲の「ニュー・イヤーズ・デイ」(New Year's Day)はポーランド民主化運動の独立自主管理労働組合「連帯」について取り上げた曲で、バンド初の全英シングルチャートトップ10入りとなった。「ブラディ・サンデー」(Sunday Bloody Sunday)は北アイルランド問題の「血の日曜日事件」を取り上げ、アイルランド共和軍(IRA)の活動を批判する立場を示した。このため、IRA支持者から脅迫されたこともあったという。『WAR(闘)』はバンド初の全英アルバムチャート1位を獲得し、バンドは多くの支持を集める結果になった。さらに、精力的なライブ活動などによりバンドの人気はイギリスやヨーロッパ大陸のみならず、アメリカへと拡大した。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "アメリカの音楽雑誌『ローリング・ストーン』は、U2を1983年度の「最優秀バンド」に選出している。同年11月にはツアー最終公演地として日本を訪れ、初の日本公演を行った。来日時にはフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演し、「ニュー・イヤーズ・デイ」を披露した。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "社会問題や宗教観をストレートに表現する音楽スタイルは、当時のポストパンク(ニュー・ウェイヴ)と呼ばれた世代の中で異彩を放っていた。この初期3作品のディスクジャケットには、上半身裸の少年(ピーター・ローウェン)の写真が使用されている。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1984年、エチオピア飢餓救済を目指すバンド・エイドのチャリティーシングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」(Do They Know It's Christmas)にボノとアダム・クレイトンが参加。その後、ボノはアフリカ諸国の経済的自立を支援する様々な国際的プロジェクトに関与している。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1984年10月に4枚目のアルバム『焰』(The Unforgettable Fire)を発表。原題の『Unforgettable Fire』とは広島・長崎への原爆投下を生き抜いた被爆者達が描いた絵画のタイトルで、絵画を見たメンバーが感銘を受けて名づけられたものである。元ロキシー・ミュージックのブライアン・イーノと弟子のダニエル・ラノワをプロデューサーに迎えてサウンドも深化し、このコンビはその後も重要な共同作業者となる。シングル「プライド」(Pride (In The Name Of Love))はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)へのトリビュート・ソングであり、全英シングルチャート3位のヒットとなった。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1985年にはウェンブリー・スタジアムで行われたチャリティーイベント『ライヴエイド』に出演したが、ボノが観客席に降りてしまい、3曲歌う予定が2曲で時間切れになってしまった。大舞台でアクシデントにメンバーは意気消沈したが、クイーンと並ぶ熱いパフォーマンスと称賛され、世界中にテレビ中継されたことで大ブレイクするきっかけになった。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1987年3月に5枚目のアルバム『ヨシュア・トゥリー』(The Joshua Tree)を発表。全英・全米チャート1位(全英アルバムチャート・Billboard 200)を獲得し、イギリス音楽史上最速で売れたアルバムとなり、世界各国でNo.1ヒットを記録した。シングルカットされた「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」(With Or Without You)、「終わりなき旅」(I Still Haven't Found What I'm Looking For)はBillboard Hot 100で1位となった。ライブツアーの規模も、アリーナクラスからスタジアムクラスに拡大した。また、ロビー・ロバートソンのソロ・アルバム『ロビー・ロバートソン』にメンバー全員が参加した。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1988年にはアメリカツアーのドキュメンタリー映画『魂の叫び』を公開し、同名のアルバムも発表。ボブ・ディランやB.B.キング、ヴァン・ダイク・パークスらが参加した。先行シングルの「ディザイアー」(Desire)は初の全英シングルチャート1位を獲得した。1989年には2度目の日本公演が開催され、スペシャルゲストにB.B.キングを迎えて行われた。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "この時期の音楽スタイルはアメリカのルーツ・ミュージックに傾倒し、ロックの源流であるブルースやゴスペル、ソウルなどブラック・ミュージックの要素が積極的に取り入れられた。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "東西ドイツ統一による影響のあるベルリンで制作されたアルバム『アクトン・ベイビー』(Achtung Baby)を1991年に発表。それまでのバンド・スタイルを大きく転換させ、ビッグ・ビートやテクノなどの音楽ジャンルを取り入れた内容になっている。この点についてボノは「このアルバムは4人の男がヨシュア・トゥリーを切り倒している音だ」と述べている。この音楽路線は、1993年発表の『ZOOROPA』(Zooropa)、1997年発表の『ポップ』(Pop)へと続いていく。1990年代以降ライブがより大規模になり、スタジアム・ロック・バンドとしての地位を構築していった。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1992年、グリーンピースのセラフィールド抗議活動に参加し、放射線防護服を着てビートルズの『ヘルプ!』(Help!)のジャケットを真似るパフォーマンスを行った。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1993年に『ZOO TV TOUR JAPAN』と題して東京ドームで日本公演を開催。『ZOO TV TOUR』の最終公演となった。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1995年、映画『バットマン フォーエヴァー』(Batman Forever)に主題歌「ホールド・ミー、スリル・ミー、キス・ミー、キル・ミー」(Hold Me,Thrill Me,Kiss Me,Kill Me)を提供。また、ブライアン・イーノと「パッセンジャーズ」(Passengers)名義で制作したアルバム『パッセンジャーズ:オリジナル・サウンドトラックス1』(Original Soundtracks 1)を発表。オペラ歌手ルチアーノ・パヴァロッティがフィーチャーされており、ビル・カーター制作のドキュメンタリー番組『Miss Sarajevo』を元にサラエヴォ包囲について取り上げた「ミス・サラエボ」(Miss Sarajevo)はシングルカットされた。さらに、ボノとジ・エッジは映画『007 ゴールデンアイ』(007 GoldenEye)主題歌として「ゴールデンアイ」(GoldenEye)をティナ・ターナーに提供した。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1998年には『POPMART TOUR』で来日。3月6日にボノがテレビ朝日系報道番組『ニュースステーション』に生出演し、およそ15分間に渡るインタビューに答えた。同年秋には初のベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブU2 1980-1990』(The Best of 1980–1990)を発表する。日本ではフジテレビ系列のドラマ『眠れる森』挿入歌に「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」が使用された。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2000年、ボノ原作でヴィム・ヴェンダース監督による映画『ミリオンダラー・ホテル』(The Million Dollar Hotel)が公開(日本公開は2001年)。サウンドトラック制作や主題歌「ザ・グラウンド・ビニース・ハー・フィート」(The Ground Beneath Her Feet)も提供した(サルマン・ラシュディ著の同名小説中の詩に曲をつけたもの)。同年秋にはブライアン・イーノとダニエル・ラノワを再びプロデューサーに迎えたアルバム『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』(All That You Can't Leave Behind)を発表。“原点回帰”とも言えるバンド感のあるサウンドになっており、世界的にヒットした。シングル「ビューティフル・デイ」(Beautiful Day)は、全英シングルチャート1位となった。2001年には『Elevation Tour』を開催し、地元アイルランド公演はスレイン城で開催し8万人を集めた。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2002年、『第36回スーパーボウル』のハーフタイムショーに出演。2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件で犠牲者となった全員の氏名をスクリーンに映し、追悼の意を表した。同年秋にはベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブU2 1990-2000』(The Best of 1990–2000)を発表。アルバムにも収録されている新曲「ザ・ハンズ・ザット・ビルト・アメリカ」(The Hands That Built America)が映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』(Gangs of New York)主題歌に起用された。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2003年9月から番組最終回となる2004年3月まで、テレビ朝日系報道番組『ニュースステーション』へ楽曲の使用許可を下し、オープニングテーマの「約束の地」(Where The Streets Have No Name)など、各コーナーでU2の曲が使用された。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2004年にはアルバム『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』(How To Dismantle An Atomic Bomb)を発表。プロデューサーにスティーブ・リリーホワイトが復帰した。先行シングルの「ヴァーティゴ」(Vertigo)はApple「iPod」CMソング起用され、全英シングルチャート1位となった。日本でも、日本テレビ系番組『スポーツうるぐす』のテーマ曲になった。また、iTunes Store限定で『ザ・コンプリート・U2』(The Complete U2)が音楽配信された。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2005年、「ヴァーティゴ」に続き「サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン」(Sometimes You Can't Make It On Your Own)が全英シングルチャート1位を獲得する。7月にはチャリティー・コンサート『LIVE 8』に出演した。メアリー・J. ブライジはアルバム『ザ・ブレイクスルー』でボノと「ワン」でデュエットしており、翌年にはシングルカットされて全英シングルチャート2位とヒットした。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2006年、レナード・コーエン(Leonard Cohen)のドキュメンタリー映画『アイム・ユア・マン』(I'm Your Man)サウンドトラックにレナードとコラボレーションした曲「タワー・オブ・ソング」(Tower Of Song)を提供。同年秋には前年8月に発生したハリケーン・カトリーナで被害に遭ったニューオリンズのミュージシャン達を救うため、グリーン・デイと「セインツ・アー・カミング」(Saints Are Coming。オリジナルは1978年発表のザ・スキッズ)のカバー曲を発売。すべての収益を寄付した。また、ベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブU2 18シングルズ』(U218 Singles)を発表。同年冬には8年ぶりとなる日本公演をさいたまスーパーアリーナで行った。これは、同年春に日産スタジアムで開催予定であったライヴが、「メンバーの家族の病気」という理由により延期されたため行われた振替公演であった。来日時の11月29日にボノは安倍晋三(第90代内閣総理大臣)を表敬訪問し、総理へサングラスをプレゼント。アフリカの感染症問題に対する日本の貢献について高く評価し、今後も世界をリードすることに期待していると述べた。また、TBS系報道番組『筑紫哲也 NEWS23』ではボノがインタビューを受けた。12月1日にはテレビ朝日系音楽番組『ミュージックステーション』にはバンドで出演した。日本のテレビ番組に出演するのはボノが8年ぶり、バンドとしては23年ぶりのことであった。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2008年、『Vertigo Tour』の模様を収録した3D映画『U2 3D』を世界公開(日本公開は2009年)。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2009年1月、バラク・オバマの大統領就任式『祝賀コンサート』に出演。キング牧師が「I Have a Dream」の演説を行ったリンカーン記念館で、「プライド」と「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」(City Of Blinding Lights)を披露した。2月にはアルバム『ノー・ライン・オン・ザ・ホライゾン』(No Line On The Horizon)を発表。ボノは「巡礼をテーマにしたより瞑想的なアルバム」と表現した。『U2 360° Tour』がスタートした。8月にはジ・エッジがジミー・ペイジ(レッド・ツェッペリン)、ジャック・ホワイト(元ザ・ホワイト・ストライプス)と共演した映画『ゲット・ラウド ジ・エッジ、ジミー・ペイジ、ジャック・ホワイト×ライフ×ギター』が公開(日本公開は2011年)。10月には『ベルリンの壁崩壊20周年記念式典』にバンドで出演しブランデンブルク門前でパフォーマンスした。12月から公開された映画『マイ・ブラザー』(日本公開は2010年)主題歌として「ウィンター」(Winter)を提供した。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2011年、東日本大震災で被災された方々への支援を目的としたコンピレーション・アルバム『ソングス・フォー・ジャパン』(Songs For Japan)へ「ウォーク・オン」(Walk On)を提供する。6月、ボノとジ・エッジが音楽を担当したブロードウェイ・ミュージカル『スパイダーマン:ターン・オフ・ザ・ダーク』(Spider-Man: Turn Off The Dark)が公開された。また、前年にボノの負傷により出演キャンセルしたイギリスのロック・フェスティバル『グラストンベリー・フェスティバル』にヘッドライナーとして出演した。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2012年、発売20周年を記念して2011年末にデラックス盤を含む複数種でリマスター再発売された『アクトン・ベイビー』(Achtung Baby)がBillboard 200で再び1位を獲得。2013年にはネルソン・マンデラの著書を原作とした映画『マンデラ 自由への長い道』主題歌に「オーディナリー・ラブ」(Ordinary Love)を提供した。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2014年2月、配信曲「インヴィジブル」(Invisible)を発表。配信開始24時間限定で無料ダウンロードできた。これは、バンク・オブ・アメリカが期間中ダウンロード1件につき上限200万ドル(約2億400万円)まで1ドルずつ「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」に寄付を行うという取り決めになっていて、結果300万ドル(約3億600万円)を越える寄付金を集めることに成功したと報じられた。5月、アメリカの楽器メーカーフェンダーは、ボノとジ・エッジが取締役に就任したと発表した。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "9月、カリフォルニア州クパチーノで開かれたアップルのイベントにメンバーが登場し、アルバム『ソングス・オブ・イノセンス』(Songs of Innocence)を全世界のiTunes Store利用者に無料配信することが発表された。5億人とも言われるユーザーに配信されたが、突如ライブラリに追加される仕組みにはユーザーの混乱を招き苦情もあったため、アップル側が削除ツールを公開する対策を講じた。無料配信された10月中旬までにおよそ8,100万人のユーザーがストリーミングし、およそ1,600万人のユーザーがダウンロードしたとされている。10月にはCD盤が発表された。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2015年、前篇後篇2部作となる映画『ソロモンの偽証』主題歌に「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」を提供。日本映画へは初の楽曲提供となった。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ライヴでは毎回異なるコンセプトでパフォーマンスを行い、独創的なステージセットやコンサートの規模、動員数、収益が話題となるバンドである。2006年にアメリカの雑誌『スピン』から「世界で最も良いライブを行う25バンド 第1位」に選出されている。",
"title": "ライブの特徴"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1992年から1993年にかけて行った『ZOO TV TOUR』ではステージ上に巨大なテレビを多数設置し、パフォーマンスに合わせて異なる映像やメッセージを流した。また、ドイツ車「トラバント」を照明として使用したり、会場の中央にまで花道を置くステージ設計など、当時としては画期的なステージセットであった。ライヴ中にはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争下のサラエヴォを衛星中継で結び、包囲された市民の惨状を観客に伝えた。他には衛星中継でルー・リードと共演をしたこともあった。またMCでは、ボノが開催地のどこかへ電話をかけるコーナーがあり、フランスのミッテラン大統領(当時)、ドイツのコール首相(当時)、アメリカのホワイトハウス(ブッシュ大統領(当時)には繋いでもらえず)、大統領候補であったビル・クリントン(本人との会話に成功)などのほか、ピザ屋にピザ1万枚の宅配を注文したこともあった。1993年12月9日・10日に東京ドームで行われた日本公演では、初日が横綱曙(当時)、2日目は117番(NTTの時報ダイヤル)相手に「マドンナにつないでくれ」と言っていた(マドンナは当時来日中だった)。",
"title": "ライブの特徴"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1997年から1998年に開催した『POPMART TOUR』では、高さ17m×幅51mの巨大スクリーンとミラーボール式のレモンのオブジェなど、総額約180億円もの費用をかけたスタジアム・ツアーとなった。ボスニア紛争停戦合意後の1997年には、北大西洋条約機構(NATO)平和維持軍監視下のサラエヴォで『POPMART TOUR』を開催。入場料収入の全額をボスニアの戦争孤児支援基金「ウォー・チャイルド」へ寄付した。",
"title": "ライブの特徴"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2001年に開催した『Elevation Tour』や、2005年から2006年に開催した『Vertigo Tour』では一見するとシンプルなステージに戻ったかのように見えたが、最先端の装置・照明・映像を駆使しており、バンドのこだわりが感じられる内容と演出になっていた。",
"title": "ライブの特徴"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2009年から2011年にかけて開催した『U2 360° TOUR』は、全110公演の興行収入が約7億3,614万ドル、観客総動員数が726万8,430人というこれまでに報道されたどのコンサートよりも高い数字を記録した。このツアーの成功で、改めてU2の世界的人気が根強いことを証明しただけでなく、通常よりも25%増しの観客を動員できる『ザ・クロウ』(The Claw、鉤爪)と名づけられた巨大なステージセット運営が成功したということになった。",
"title": "ライブの特徴"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "U2が少年期に大きく影響を受けたのは、ザ・フー、ザ・クラッシュ、テレヴィジョン、ラモーンズ、ビートルズ、ジョイ・ディヴィジョン、スージー・アンド・ザ・バンシーズ, エルヴィス・プレスリー、パティ・スミス や クラフトワーク。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ほか",
"title": "受賞歴"
}
] | U2(ユーツー)は、アイルランドのロックバンドである。『グラミー賞』22回受賞(46回ノミネート)、アーティストグループでのグラミー賞世界最多受賞記録を保持している。 | {{otheruses|アイルランド出身のロックバンド}}
{{Infobox Musician
| 名前 = U2
| 画像 = U2 on main stage Experience and Innocence Tour in Berlin 8-31-18.jpg
| 画像説明 = [[メルセデス・ベンツ・アレーナ]]公演にて(2018年8月31日)
| 画像サイズ = 280px
| 背景色 = band
| 別名 = {{Plainlist|
* フィードバック(1976年 - 1977年)
* ザ・ハイプ(1977年 - 1978年)
}}
| 出身地 = {{IRL}} [[ダブリン]]
| ジャンル = {{hlist-comma|[[オルタナティヴ・ロック]]<ref>{{cite book |editor-last= Hochman |editor-first= Steve |year= 1999 |title= Popular Musicians: Sonny and Cher-ZZ Top |publisher= Salem Press |page= 1104 |isbn= 978-0-893-56990-7 }}</ref><ref>{{cite book |last= Kallen |first= Stuart A. |year= 2012 |title= The History of Alternative Rock |location= New York |publisher= Greenhaven Publishing |page= 82 |isbn= 978-1-420-50972-4 }}</ref>|[[アリーナ・ロック]]<ref>{{cite book |last= Knowles |first= Christopher |year= 2010 |title= The Secret History of Rock 'n' Roll |publisher= Viva Editions |page= 88 |isbn= 978-1-573-44564-1 }}</ref>|[[ポストパンク]]<ref>{{cite book |last= Kootnikoff |first= David |year= 2010 |title=U2: A Musical Biography |publisher= Greenwood Press |page= 30 |isbn= 978-0-313-36523-2 }}</ref>|[[ロックンロール]]<ref name="allmusic">{{Cite web |last= Erlewine |first= Stephen Thomas |authorlink= スティーヴン・トマス・アールワイン |title= U2 Biography, Songs, & Albums |url={{AllMusic|artist|u2-mn0000219203/biography|pure_url=yes}} |website=[[オールミュージック|AllMusic]] |publisher= RhythmOne |accessdate= 2020-12-15 |language=en }}</ref>}}
| 活動期間 = [[1976年]] -
| レーベル = {{Plainlist|
* {{Hlist-comma|{{Flagicon|IRL}} [[アイランド・レコード|アイランド]]|[[インタースコープ・レコード|インタースコープ]]|[[コロムビア・レコード|CBSアイルランド]]}}
* {{Flagicon|JPN}} [[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]
}}
| 事務所 =
| 共同作業者 =
| 公式サイト = [https://www.u2.com/index/home U2公式サイト]
| メンバー = {{Plainlist|
* [[ボノ]]
* [[ジ・エッジ]]
* [[アダム・クレイトン]]
* [[ラリー・マレン・ジュニア]]
}}
| 旧メンバー = {{Plainlist|
* ディック・エヴァンス
* イヴァン・マコーミック
}}
}}
'''U2'''は、[[アイルランド]]の[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロックバンド]]である。『[[グラミー賞]]』22回受賞(46回ノミネート)<ref>https://www.grammy.com/grammys/artists/u2</ref>、アーティストグループでのグラミー賞世界最多受賞記録を保持している<ref>{{Cite web|title=Who Has Won the Most Grammys Ever?|url=https://www.instyle.com/news/most-grammys-all-time|website=InStyle.com|accessdate=2019-02-04|language=en}}</ref>。
== 概要 ==
[[1980年]]のデビューから現在に至るまで活動休止は勿論、オリジナル・メンバーの脱退や変更もなく活動しており、これまでに発表した作品は世界中のファンから支持されており数多くの賞を受賞している。
中でもグラミー賞獲得数22作品は“ロック・バンド史上最多”且つ、“グループアーティスト史上最多”となっている<ref>{{Cite web|title=Who Has Won the Most Grammys Ever?|url=https://www.instyle.com/news/most-grammys-all-time|website=InStyle.com|accessdate=2019-04-14|language=en}}</ref>。
[[2005年]]には「[[ロックの殿堂]]」入りもしている<ref>{{cite web |url=http://rockhall.com/inductees/u2/bio/ |title=U2:The Rock and Roll Hall of Fame and Museum |language=英語 |publisher=[[ロックの殿堂]] |accessdate=2014-07-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100317150139/http://rockhall.com/inductees/u2/bio/|archivedate=2010-03-17}}</ref>。
世界に渦巻く[[社会問題]]を楽曲のテーマとしている。[[宗教紛争]]や[[反核運動]]、[[アパルトヘイト]]などの[[人権問題]]、[[薬物依存症]]などについてメッセージ性の強い曲を発表、[[チャリティー]]・イベントにも積極的に参加している。特に、メンバーの中で[[ボノ]]は[[アフリカ]]の貧困救済や[[アムネスティ・インターナショナル]]、[[ジュビリー2000]]、[[ONE Campaign]]などの慈善事業に深く関わっており、[[2006年]]にはアフリカの[[後天性免疫不全症候群]](AIDS)対策プログラム支援ブランド「RED」を設立するなど、人権と[[社会正義]]のために運動している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jcie.or.jp/fgfj/06/red.html |title=U2ボノ氏がエイズ対策のための新ブランド「RED(レッド)」設立を発表 |date=2006-01 |publisher=世界基金支援日本委員会 |accessdate=2014-07-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jcie.or.jp/fgfj/productred/ |title=プロダクト(RED) |publisher=世界基金支援日本委員会 |accessdate=2014-07-20}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.red.org/en/ |title=(RED) |language=英語 |accessdate=2014-07-20}}</ref>。
また、コンサートの規模や動員数でも世界最大・最高のバンドであり、『Vertigo Tour』は2005年のコンサート収益1位を記録<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000016122 |title=U2、'05年米ツアー収益No.1! |date=2005-12-14 |publisher=[[BARKS]] |accessdate=2014-07-17}}</ref>。『U2 360° Tour』は、[[2011年]]のコンサート収益1位を記録し、“歴史上で最も成功したアーティストグループツアー”として認定されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/1775 |title=■U2■ 『360』が歴史上もっとも成功したツアーに |date=2011-04-12 |publisher=ビルボード・ジャパン |accessdate=2014-07-17}}</ref>。
なお、これまで1位となっていた記録も、同じくU2が[[1987年]]9月25日に〈Joshua Tree Tour〉の[[フィラデルフィア]]公演で樹立した86,145人となっており、U2自身が記録を塗り替えたこととなる。また、歴代動員記録の3位までをU2が独占しており、彼らの人気を改めて窺わせる結果となっている。
その他、[[ピンク・フロイド]]や[[バックストリート・ボーイズ]]が名を連ねる歴代5位までの観客動員記録リストは以下の通り。
〈米国での単独公演動員記録〉
1. U2:97,014人([[2009年]]10月25日、[[カリフォルニア州]]ローズ・ボウル・スタジアム)
2. U2:86,145人([[1987年]]9月25日、[[ペンシルベニア州|ペンシルヴァニア州]][[ジョン・F・ケネディ・スタジアム|ジョンF・ケネディ・スタジアム]])
3. U2:84,754人(2009年9月29日、[[メリーランド州]][[フェデックスフィールド]])
4. PINK FLOYD:75,250人([[1994年]]5月29日、[[オハイオ州]][[オハイオ州立大学]]スタジアム)
5. BACKSTREET BOYS:73,337人([[2000年]]2月19日、[[ジョージア州]][[ジョージア・ドーム]])
米経済誌[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]が2011年6月に発表した「世界中で最も稼いでいるミュージシャン」では、1億9,500万[[ドル]](日本円に換算すると約156億[[円 (通貨)|円]])になり第1位とされた<ref>{{cite news |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0033140 |title=世界中で最も稼いでいるミュージシャンはU2!レディー・ガガはショーのコスト高で水をあけられる、米フォーブス誌 |date=2011-06-18 |publisher=シネマトゥデイ |accessdate=2014-07-17}}</ref>。
「[[ローリング・ストーン]]の選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第22位にランクインしている<ref>{{cite web |url=http://www.rollingstone.com/music/lists/100-greatest-artists-of-all-time-19691231/u2-20110420 |title=100 Greatest Artists : U2 |language=英語 |publisher=[[ローリング・ストーン]] |accessdate=2014-07-17}}</ref>。
[[ウォール・ストリート・ジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド」|ウォール・ストリート・ジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド]]」にて16位。
トータル・アルバム・セールスは、1億7,000万枚超と言われている<ref>{{Cite web|title=Former U2 manager Paul McGuinness: Cracking crime on the Côte d’Azur|url=https://www.irishtimes.com/life-and-style/people/former-u2-manager-paul-mcguinness-cracking-crime-on-the-c%C3%B4te-d-azur-1.2237369|website=The Irish Times|accessdate=2019-04-14|language=en|first=Lara|last=Marlowe}}</ref>。
=== バンド名の由来 ===
バンド名の由来については、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[偵察機]]「[[U-2 (航空機)|U-2]]」、[[ドイツ]]の[[潜水艦]]「[[II型Uボート]]」、「''You too''」(ファンへのシンパシーを表す)などの諸説があった。
彼らはアマチュア時代「FEEDBACK」や「THE HYPE」と名乗っていたが、アダムの知り合いの[[グラフィックデザイナー]]が考えた新バンド名案のひとつに「U2」があった<ref name="BY U2 P44">{{Cite book |和書 |author=ニール・マコーミック |translator=前むつみ |year=2006 |title=U2 BY U2 |publisher=[[シンコーミュージック・エンタテイメント]] |pages=44-45 |isbn=4-401-63041-6}}</ref>。特に意味はなく、ジ・エッジは「いろいろあった候補の中で一番マシなもの<ref name="BY U2 P44"/>」という程度で使ってみたが、時間が経つにつれどんどん好きになっていったという。ボノは「U2の魅力はその曖昧さにある。解釈の仕方は無限だろ<ref name="BY U2 P44"/>」と語っている。アダムは文字1個に数字1個だから、ポスターの中に大きく書くことができるし、宣伝文句の中にも滑り込ませやすいと指摘している。
ちなみに、1991年発表の『[[アクトン・ベイビー]]』収録曲の「ズー・ステーション」は実在する[[ベルリン動物園駅]](ドイツ語でZoologischer Garten)を指し、この駅の路線名は「U2([[ベルリン地下鉄2号線|地下鉄2号線]])」である。
== メンバー ==
{| class="wikitable" style="font-size: small; text-align:center;"
|-
| style="width:25%;"| [[File:Bono, Buenos Aires, 2011 Fixed Version.jpg|130px]]
| style="width:25%;"| [[File:The Edge 360 Tour Foxboro 2009.jpg|130px]]
| style="width:25%;"| [[File:Adam Clayton rdblk.jpg|170px]]
| style="width:25%;"| [[File:LarryMullenjr.jpg|140px]]
|-
! [[ボノ]]<br />([[:en:Bono|Bono]])<br />[[ボーカル]]、[[ギター]]<br />[[1960年]][[5月10日]]生まれ
! [[ジ・エッジ]]<br />([[:en:The Edge|The Edge]])<br />[[ギター]]、[[ピアノ]]<br />[[1961年]][[8月8日]]生まれ
! [[アダム・クレイトン]]<br />([[:en:Adam Clayton|Adam Clayton]])<br />[[ベース (弦楽器)|ベース]]<br />1960年[[3月13日]]生まれ
! [[ラリー・マレン・ジュニア]]<br />([[:en:Larry Mullen, Jr.|Larry Mullen, Jr.]])<br />[[ドラムセット|ドラムス]]、[[パーカッション]]<br />1961年[[10月31日]]生まれ
|}
== 来歴 ==
=== バンド結成からメジャーデビューまで ===
[[1976年]]、[[アイルランド]]・[[ダブリン]]のマウント・テンプル高校の掲示板に[[ラリー・マレン・ジュニア]]がバンドメンバー募集の貼り紙を出した<ref name="biography">{{Cite web|和書|url=https://www.universal-music.co.jp/u2/biography/ |title=BIOGRAPHY - U2 |publisher=[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]] |accessdate=2014-07-17}}</ref>。これを知ったポール・ヒューソン([[ボノ]])、[[アダム・クレイトン]]、エヴァンス兄弟(兄ディック、弟デイヴ([[ジ・エッジ]]))が集まり、5人で活動を始めたのがバンド結成のきっかけである。ドラムのラリーとギターのジ・エッジは少年の頃から演奏していたが、アダムはベースをろくに弾けず、アンプを持っているという理由でバンドに入った。ボノはギター希望だったが、楽器を持っていなかったのでボーカルになった。
当初のバンド名は「フィードバック(Feedback)」や「ザ・ハイプ(The Hype)」を経て、ディックが脱退した1978年に「U2」と決まった。その後、[[リムリック]]で行われたLimerick Civic Week Pop '78というタレントコンテストで優勝。1979年にはCBSアイルランドと契約して、「Out Of Control」「Stories For Boys」「Boy/Girl」の3曲入りシングル「[[スリー (アルバム)|スリー]]」をアイルランド国内<ref group="注">イギリスでのリリースはレコード会社に断られた。</ref>で1,000枚限定でリリースし、IREチャートで19位に食い込む。1979年から1980年にかけてイギリスとアイルランドで精力的にツアーを行った結果、ついに[[アイランド・レコード]]と契約を交わした<ref name="biography"/>。
=== 1980年 - 1983年 ===
[[File:U2 21081983 01 800b.jpg|thumb|258px|ボノ(1983年)]]
[[1980年]]2月、アイルランド国内でシングル「[[アナザー・デイ (U2の曲)|アナザー・デイ]]」(''Another Day'')を発表。5月に契約したアイランド・レコードからシングル「[[11オクロック・ティック・タック]]」(''11 O'Clock Tick-Tock'')でデビュー<ref name="biography"/>。スティーブ・リリーホワイトのプロデュースで1枚目のアルバム『[[ボーイ (アルバム)|ボーイ]]』(''Boy'')を発表。
1981年に2枚目のアルバム『[[アイリッシュ・オクトーバー]]』(''October'')、1983年に3枚目のアルバム『[[WAR(闘)]]』(''War'')を発表した。『WAR(闘)』のアルバムタイトルは母国アイルランドにおける[[カトリック教会|カトリック]]と[[プロテスタント]]の宗教対立に対して、不偏の非暴力主義をアピールしている。アルバム収録曲の「[[ニュー・イヤーズ・デイ]]」(''New Year's Day'')は[[ポーランド民主化運動]]の[[独立自主管理労働組合「連帯」]]について取り上げた曲で、バンド初の[[全英シングルチャート]]トップ10入りとなった<ref name="occ">{{cite web |url=http://www.officialcharts.com/artist/_/u2/ |title=U2 discography |language=英語 |publisher=The Official Charts Company(OCC) |accessdate=2014-07-17}}</ref>。「[[ブラディ・サンデー (U2の曲)|ブラディ・サンデー]]」(''Sunday Bloody Sunday'')は[[北アイルランド問題]]の「[[血の日曜日事件 (1972年)|血の日曜日事件]]」を取り上げ、[[アイルランド共和軍]](IRA)の活動を批判する立場を示した。このため、IRA支持者から脅迫されたこともあったという。『WAR(闘)』はバンド初の[[全英アルバムチャート]]1位を獲得し<ref name="occ"/>、バンドは多くの支持を集める結果になった。さらに、精力的なライブ活動などによりバンドの人気は[[イギリス]]や[[ヨーロッパ大陸]]のみならず、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へと拡大した。
アメリカの音楽雑誌『[[ローリング・ストーン]]』は、U2を1983年度の「最優秀バンド」に選出している。同年11月にはツアー最終公演地として日本を訪れ、初の日本公演を行った。来日時には[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系音楽番組『[[夜のヒットスタジオ]]』に出演し、「ニュー・イヤーズ・デイ」を披露した。
社会問題や宗教観をストレートに表現する音楽スタイルは、当時の[[ポストパンク]]([[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]])と呼ばれた世代の中で異彩を放っていた。この初期3作品の[[ディスクジャケット]]には、上半身裸の少年(ピーター・ローウェン<ref group="注">ボノの友人でヴァージン・プルーンズ(''Virgin Prunes'')のメンバーでもあったグッギの弟。</ref>)の写真が使用されている<ref group="注">『WAR(闘)』以降のジャケット写真は[[アントン・コービン]]が撮影している。また、U2の写真集や[[ミュージック・ビデオ]]も手掛けるなど、主にビジュアル面での貢献が大きい。
</ref>。
=== 1984年 - 1989年 ===
1984年、[[エチオピア]]飢餓救済を目指す[[バンド・エイド]]のチャリティーシングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」(''Do They Know It's Christmas'')にボノとアダム・クレイトンが参加。その後、ボノはアフリカ諸国の経済的自立を支援する様々な国際的プロジェクトに関与している。
1984年10月に4枚目のアルバム『[[焰 (アルバム)|焰]]』(''The Unforgettable Fire'')を発表。原題の『''Unforgettable Fire''』とは広島・長崎への原爆投下を生き抜いた被爆者達が描いた絵画のタイトルで、絵画を見たメンバーが感銘を受けて名づけられたものである。元[[ロキシー・ミュージック]]の[[ブライアン・イーノ]]と弟子の[[ダニエル・ラノワ]]をプロデューサーに迎えてサウンドも深化し、このコンビはその後も重要な共同作業者となる。シングル「[[プライド (U2の曲)|プライド]]」(''Pride (In The Name Of Love)'')は[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]](キング牧師)へのトリビュート・ソングであり、全英シングルチャート3位のヒットとなった<ref name="occ"/>。
1985年には[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー・スタジアム]]で行われたチャリティーイベント『[[ライヴエイド]]』に出演したが<ref name="biography"/>、ボノが観客席に降りてしまい、3曲歌う予定が2曲で時間切れになってしまった。大舞台でアクシデントにメンバーは意気消沈したが、[[クイーン (バンド)|クイーン]]と並ぶ熱いパフォーマンスと称賛され<ref>『U2 BY U2』、164頁。</ref>、世界中にテレビ中継されたことで大ブレイクするきっかけになった。
1987年3月に5枚目のアルバム『[[ヨシュア・トゥリー]]』(''The Joshua Tree'')を発表。全英・全米チャート1位(全英アルバムチャート・[[Billboard 200]])を獲得し<ref name="occ"/><ref name="allmusic" />、イギリス音楽史上最速で売れたアルバムとなり、世界各国でNo.1ヒットを記録した。シングルカットされた「[[ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー]]」(''With Or Without You'')、「終わりなき旅」(''I Still Haven't Found What I'm Looking For'')は[[Billboard Hot 100]]で1位となった<ref name="allmusic"/>。ライブツアーの規模も、アリーナクラスからスタジアムクラスに拡大した。また、[[ロビー・ロバートソン]]のソロ・アルバム『[[ロビー・ロバートソン (アルバム)|ロビー・ロバートソン]]』にメンバー全員が参加した。
1988年にはアメリカツアーのドキュメンタリー映画『[[魂の叫び]]』を公開し<ref group="注">監督の[[フィル・ジョアノー]]は1999年公開の映画『ウィズアウト・ユー』(''Entropy'')でもU2を取り上げ、[[スティーヴン・ドーフ]]がU2のPV監督という主人公を演じた。劇中では『POPMART TOUR』の模様が映り、ボノとラリー・マレン・ジュニアが本人役で[[カメオ出演]]している。</ref>、同名のアルバムも発表。[[ボブ・ディラン]]や[[B.B.キング]]、[[ヴァン・ダイク・パークス]]らが参加した。先行シングルの「ディザイアー」(''Desire'')は初の全英シングルチャート1位を獲得した<ref name="occ"/>。1989年には2度目の日本公演が開催され、スペシャルゲストにB.B.キングを迎えて行われた。
この時期の音楽スタイルはアメリカの[[ルーツ・ミュージック]]に傾倒し、ロックの源流である[[ブルース]]や[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]、[[ソウル (音楽)|ソウル]]など[[ブラック・ミュージック]]の要素が積極的に取り入れられた。
=== 1990年 - 1999年 ===
[[File:Bono as The Fly Cleveland 1992.jpg|thumb|258px|『ZOO TV TOUR』でのボノ(1992年)]]
[[ドイツ再統一|東西ドイツ統一]]による影響のある[[ベルリン]]で制作されたアルバム『[[アクトン・ベイビー]]』(''Achtung Baby'')を1991年に発表。それまでのバンド・スタイルを大きく転換させ、[[ビッグ・ビート]]や[[テクノ (ダンスミュージック)|テクノ]]などの音楽ジャンルを取り入れた内容になっている。この点についてボノは「このアルバムは4人の男がヨシュア・トゥリーを切り倒している音だ」と述べている<ref name="biography"/>。この音楽路線は、1993年発表の『[[ZOOROPA]]』(''Zooropa'')、1997年発表の『[[ポップ (アルバム)|ポップ]]』(''Pop'')へと続いていく。1990年代以降ライブがより大規模になり、[[スタジアム・ロック]]・バンドとしての地位を構築していった。
1992年、[[グリーンピース (NGO)|グリーンピース]]の[[セラフィールド]]抗議活動に参加し、[[放射線防護服]]を着て[[ビートルズ]]の『[[ヘルプ! (ビートルズのアルバム)|ヘルプ!]]』(''Help!'')のジャケットを真似るパフォーマンスを行った。
1993年に『ZOO TV TOUR JAPAN』と題して[[東京ドーム]]で日本公演を開催。『ZOO TV TOUR』の最終公演となった。
1995年、映画『[[バットマン フォーエヴァー]]』(''Batman Forever'')に主題歌「ホールド・ミー、スリル・ミー、キス・ミー、キル・ミー」(''Hold Me,Thrill Me,Kiss Me,Kill Me'')を提供。また、ブライアン・イーノと「パッセンジャーズ」(''Passengers'')名義で制作したアルバム『パッセンジャーズ:オリジナル・サウンドトラックス1』(''Original Soundtracks 1'')を発表。オペラ歌手[[ルチアーノ・パヴァロッティ]]がフィーチャーされており、ビル・カーター制作のドキュメンタリー番組『Miss Sarajevo』を元に[[サラエヴォ包囲]]について取り上げた「ミス・サラエボ」(''Miss Sarajevo'')は[[シングルカット]]された。さらに、ボノとジ・エッジは映画『[[007 ゴールデンアイ]]』(''007 GoldenEye'')主題歌として「ゴールデンアイ」(''GoldenEye'')を[[ティナ・ターナー]]に提供した。
1998年には『POPMART TOUR』で来日。3月6日にボノが[[テレビ朝日]]系報道番組『[[ニュースステーション]]』に生出演し、およそ15分間に渡るインタビューに答えた。同年秋には初の[[ベスト・アルバム]]『[[ザ・ベスト・オブU2 1980-1990]]』(''The Best of 1980–1990'')を発表する。日本では[[フジテレビ系列]]のドラマ『[[眠れる森]]』挿入歌に「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」が使用された。
=== 2000年 - 2011年 ===
[[File:U2 in the heart.jpg|thumb|258px|『Elevation Tour』の様子(2001年)]]
2000年、ボノ原作で[[ヴィム・ヴェンダース]]監督による映画『[[ミリオンダラー・ホテル]]』(''The Million Dollar Hotel'')が公開(日本公開は2001年)<ref group="注">[[ヴィム・ヴェンダース]]監督はU2のミュージック・ビデオを撮影したり、U2がヴィム・ヴェンダース監督の映画主題歌を提供するなど関係が深い。</ref>。[[サウンドトラック]]制作や主題歌「ザ・グラウンド・ビニース・ハー・フィート」(''The Ground Beneath Her Feet'')も提供した([[サルマン・ラシュディ]]著の同名小説中の詩に曲をつけたもの)。同年秋にはブライアン・イーノとダニエル・ラノワを再びプロデューサーに迎えたアルバム『[[オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド]]』(''All That You Can't Leave Behind'')を発表。“原点回帰”とも言えるバンド感のあるサウンドになっており、世界的にヒットした。シングル「[[ビューティフル・デイ (U2の曲)|ビューティフル・デイ]]」(''Beautiful Day'')は、全英シングルチャート1位となった<ref name="occ"/>。2001年には『Elevation Tour』を開催し、地元アイルランド公演はスレイン城で開催し8万人を集めた。
2002年、『[[第36回スーパーボウル]]』のハーフタイムショーに出演。2001年9月11日に起きた[[アメリカ同時多発テロ事件]]で犠牲者となった全員の氏名をスクリーンに映し、追悼の意を表した。同年秋にはベスト・アルバム『[[ザ・ベスト・オブU2 1990-2000]]』(''The Best of 1990–2000'')を発表。アルバムにも収録されている新曲「ザ・ハンズ・ザット・ビルト・アメリカ」(''The Hands That Built America'')が映画『[[ギャング・オブ・ニューヨーク]]』(''Gangs of New York'')主題歌に起用された。
2003年9月から番組最終回となる2004年3月まで、テレビ朝日系報道番組『ニュースステーション』へ楽曲の使用許可を下し、オープニングテーマの「約束の地」(''Where The Streets Have No Name'')など、各コーナーでU2の曲が使用された。
2004年にはアルバム『[[原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム]]』(''How To Dismantle An Atomic Bomb'')を発表。プロデューサーにスティーブ・リリーホワイトが復帰した。先行シングルの「[[ヴァーティゴ (曲)|ヴァーティゴ]]」(''Vertigo'')は[[Apple]]「[[iPod]]」CMソング起用され<ref group="注">U2が自らの楽曲をCMソングに起用することを了承したのは、この時が初めてであった。</ref>、全英シングルチャート1位となった<ref name="occ"/>。日本でも、日本テレビ系番組『[[スポーツうるぐす]]』のテーマ曲になった。また、[[iTunes Store]]限定で『ザ・コンプリート・U2』(''The Complete U2'')が[[音楽配信]]された。
[[File:Bono & Macca.jpg|thumb|258px|left|『LIVE 8』出演時のボノ(右は[[ポール・マッカートニー]])]]
2005年、「ヴァーティゴ」に続き「サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン」(''Sometimes You Can't Make It On Your Own'')が全英シングルチャート1位を獲得する。7月にはチャリティー・コンサート『[[LIVE 8]]』に出演した。[[メアリー・J. ブライジ]]はアルバム『ザ・ブレイクスルー』でボノと「[[ワン (U2の曲)|ワン]]」で[[デュエット]]しており、翌年にはシングルカットされて全英シングルチャート2位とヒットした<ref>{{cite web |url=http://www.officialcharts.com/artist/_/mary%20j%20blige/ |title=MARY J BLIGE {{!}} Artist |language=英語 |publisher=Official Charts Company(OCC) |accessdate=2014-07-20}}</ref>。
2006年、[[レナード・コーエン]](''Leonard Cohen'')のドキュメンタリー映画『アイム・ユア・マン』(''I'm Your Man'')サウンドトラックにレナードとコラボレーションした曲「タワー・オブ・ソング」(''Tower Of Song'')を提供。同年秋には前年8月に発生した[[ハリケーン・カトリーナ]]で被害に遭ったニューオリンズのミュージシャン達を救うため、[[グリーン・デイ]]と「[[セインツ・アー・カミング]]」(''Saints Are Coming''。オリジナルは1978年発表の[[ザ・スキッズ]])のカバー曲を発売。すべての収益を寄付した。また、ベスト・アルバム『[[ザ・ベスト・オブU2 18シングルズ]]』(''U218 Singles'')を発表。同年冬には8年ぶりとなる日本公演を[[さいたまスーパーアリーナ]]で行った。これは、同年春に日産スタジアムで開催予定であったライヴが、「メンバーの家族の病気」という理由により延期されたため行われた振替公演であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20140819090554/http://www.mtvjapan.com/news/music/11528 |title=U2が来日公演を延期 |date=2006-03-09 |work=MTV JAPAN |accessdate=2014-07-17}}</ref>。来日時の11月29日にボノは[[安倍晋三]](第90代[[内閣総理大臣]])を表敬訪問し、総理へサングラスをプレゼント。アフリカの感染症問題に対する日本の貢献について高く評価し、今後も世界をリードすることに期待していると述べた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kantei.go.jp/jp/abephoto/2006/11/29u2.html |title=安倍総理の動き-U2ボノ氏の表敬- |date=2006-11-29 |work=内閣官房内閣広報室 |publisher=[[総理大臣官邸|首相官邸]] |accessdate=2014-08-15}}</ref>。また、[[TBSテレビ|TBS]]系報道番組『[[筑紫哲也 NEWS23]]』ではボノがインタビューを受けた。12月1日にはテレビ朝日系音楽番組『[[ミュージックステーション]]』にはバンドで出演した。日本のテレビ番組に出演するのはボノが8年ぶり、バンドとしては23年ぶりのことであった。
2008年、『Vertigo Tour』の模様を収録した[[立体映画|3D映画]]『[[U2 3D]]』を世界公開(日本公開は2009年)<ref>{{cite web |url=http://www.u23dmovie.com/ |title=U2 3D: The First Live-Action 3D Concert Movie, Featuring U2 |language=英語 |accessdate=2014-07-17}}</ref>。
[[File:Bono Edge Foxboro 09212009 U2360.jpg|thumb|258px|[[フォックスボロ (マサチューセッツ州)|フォックスボロ]]公演でのボノとジ・エッジ(2009年)]]
2009年1月、[[バラク・オバマ]]の[[2009年バラク・オバマ大統領就任式|大統領就任式]]『[[ウィ・アー・ワン:オバマ就任祝典|祝賀コンサート]]』に出演<ref group="注">バラク・オバマは民主党予備選時や大統領指名受諾演説時にU2の曲を使用していた。</ref>。キング牧師が「[[I Have a Dream]]」の演説を行った[[リンカーン記念館]]で、「プライド」と「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」(''City Of Blinding Lights'')を披露した。2月にはアルバム『[[ノー・ライン・オン・ザ・ホライゾン]]』(''No Line On The Horizon'')を発表。ボノは「巡礼をテーマにしたより瞑想的なアルバム」と表現した<ref>{{Cite news|title=From Fez to Dublin and beyond, via presidents and royalty, Sean O'Hagan charts the making of the new U2 album|url=https://www.theguardian.com/music/2009/feb/15/u2-no-line-on-the-horizon|work=The Observer|date=2009-02-15|accessdate=2019-04-14|issn=0029-7712|language=en-GB|first=Sean|last=O'Hagan}}</ref>。『U2 360° Tour』がスタートした<ref>{{Cite web|title=WebCite query result|url=https://webcitation.org/5kjG6jJcy?url=http://www.rollingstone.com/news/story/26841404/inside_u2s_plans_to_rock_stadiums_around_the_globe|website=www.webcitation.org|accessdate=2019-04-14}}</ref>。8月にはジ・エッジが[[ジミー・ペイジ]]([[レッド・ツェッペリン]])、[[ジャック・ホワイト]](元[[ザ・ホワイト・ストライプス]])と共演した映画『[[ゲット・ラウド ジ・エッジ、ジミー・ペイジ、ジャック・ホワイト×ライフ×ギター]]』が公開(日本公開は2011年)<ref>{{Cite web|和書|url=http://getloud.asmik-ace.co.jp/ |title=映画『ゲット・ラウド ジ・エッジ、ジミー・ペイジ、ジャック・ホワイト×ライフ×ギター』公式サイト |language=日本語 |accessdate=2014-07-18}}</ref>。10月には『ベルリンの壁崩壊20周年記念式典』にバンドで出演し[[ブランデンブルク門]]前でパフォーマンスした<ref>{{Cite web|和書|url=https://rockinon.com/news/detail/27346 |title=ベルリンの壁崩壊から20年 U2らが公演 |date=2009-11-06 |work=RO69 |publisher=[[ロッキング・オン]] |accessdate=2014-07-20}}</ref>。12月から公開された映画『[[マイ・ブラザー (2009年の映画)|マイ・ブラザー]]』(日本公開は2010年)主題歌として「ウィンター」(''Winter'')を提供した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/76583/full/ |title=CD収録、音楽配信の予定なし 映画でしか聴けないU2の書下ろし新曲 |date=2010-05-26 |publisher=ORICON STYLE |accessdate=2014-07-18}}</ref>。
2011年、[[東日本大震災]]で被災された方々への支援を目的としたコンピレーション・アルバム『[[ソングス・フォー・ジャパン]]』(''Songs For Japan'')へ「ウォーク・オン」(''Walk On'')を提供する<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20110402061736/http://www.mtvjapan.com/news/think/18933 |title=U2、マドンナ、エミネム…世界的アーティストが日本のために集結! |date=2011-03-28 |work=MTV JAPAN |accessdate=2014-07-17}}</ref>。6月、ボノとジ・エッジが音楽を担当したブロードウェイ・ミュージカル『スパイダーマン:ターン・オフ・ザ・ダーク』(''Spider-Man: Turn Off The Dark'')が公開された<ref>{{Cite web|和書|url=https://rockinon.com/news/detail/53940 |title=ボノとエッジによる『スパイダーマン』のブロードウェイ版ミュージカル、大ヒットの兆し? |date=2011-06-30 |work=RO69 |publisher=ロッキング・オン |accessdate=2014-07-19}}</ref>。また、前年にボノの負傷により出演キャンセルしたイギリスの[[ロック・フェスティバル]]『[[グラストンベリー・フェスティバル]]』に[[ヘッドライナー (コンサート)|ヘッドライナー]]として出演した<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20100526000240/http://www.mtvjapan.com/news/music/17786 |title=U2のボノが緊急手術、ツアーを延期 |date=2010-05-24 |publisher=MTV JAPAN |accessdate=2014-07-17}}</ref>。
=== 2012年 - ===
2012年、発売20周年を記念して2011年末にデラックス盤を含む複数種でリマスター再発売された『アクトン・ベイビー』(''Achtung Baby'')がBillboard 200で再び1位を獲得<ref name="allmusic"/>。2013年には[[ネルソン・マンデラ]]の著書を原作とした映画『[[マンデラ 自由への長い道]]』主題歌に「オーディナリー・ラブ」(''Ordinary Love'')を提供した。
2014年2月、配信曲「インヴィジブル」(''Invisible'')を発表。配信開始24時間限定で無料ダウンロードできた<ref>{{Cite web|和書|url=https://rockinon.com/news/detail/96496 |title=U2、新曲"Invisible (RED) Edit Version"の無料ダウンロードを24時間限定で実施中 |date=2014-02-03 |work=RO69 |publisher=ロッキング・オン |accessdate=2014-07-20}}</ref>。これは、[[バンク・オブ・アメリカ]]が期間中ダウンロード1件につき上限200万ドル(約2億400万円)まで1ドルずつ「[[世界エイズ・結核・マラリア対策基金]]」に寄付を行うという取り決めになっていて、結果300万ドル(約3億600万円)を越える寄付金を集めることに成功したと報じられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://rockinon.com/news/detail/96731 |title=U2の新曲"Invisible"、3億円以上のエイズ撲滅資金を集めることに成功する |date=2014-02-06 |work=RO69 |publisher=ロッキング・オン |accessdate=2014-07-20}}</ref>。5月、アメリカの楽器メーカー[[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]]は、ボノとジ・エッジが取締役に就任したと発表した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.fender.jp/topics/other/001716.php |title=U2のボノとジ・エッジ、フェンダー社の役員に就任 |date=2014-05-30 |publisher=フェンダー・ジャパン |accessdate=2014-07-20}}</ref>。
9月、[[カリフォルニア州]][[クパチーノ (カリフォルニア州)|クパチーノ]]で開かれたアップルのイベントにメンバーが登場し、アルバム『[[ソングス・オブ・イノセンス (U2のアルバム)|ソングス・オブ・イノセンス]]』(''Songs of Innocence'')を全世界のiTunes Store利用者に無料配信することが発表された<ref>{{cite press release |url=https://www.apple.com/jp/pr/library/2014/09/09Apple-U2-Release-Songs-of-Innocence-Exclusively-for-iTunes-Store-Customers.html |title=Apple Press Info |date=2014-09-09 |language=日本語 |publisher=[[Apple]] |accessdate=2014-11-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000107578 |title=U2、最新アルバム『Songs of Innocence』を全世界5億人以上のiTunes利用者に無料配信 |date=2014-09-10 |publisher=BARKS |accessdate=2014-11-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPKBN0H508Z20140910 |title=アップルイベントにU2出演、iTunesで新アルバム無料配信 |date=2014-09-10 |publisher=[[ロイター]] |accessdate=2014-09-15}}</ref>。5億人とも言われるユーザーに配信されたが、突如ライブラリに追加される仕組みにはユーザーの混乱を招き苦情もあったため、アップル側が削除ツールを公開する対策を講じた<ref>{{Cite web|和書|url=https://rockinon.com/news/detail/109865 |title=無料配信中のU2新作、アップルが削除ツールを公開 |date=2014-09-16 |work=RO69 |publisher=ロッキング・オン |accessdate=2014-11-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1409/18/news052.html |title=Appleのプレゼント作戦が裏目 U2新譜「無料でも欲しくない」 苦情殺到 (1/3) |date=2014-09-18 |work=[[ITmedia]] |accessdate=2014-11-16}}</ref>。無料配信された10月中旬までにおよそ8,100万人のユーザーが[[ストリーミング]]し、およそ1,600万人のユーザーが[[ダウンロード]]したとされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1410/10/news108.html |title=Apple提供のU2無料アルバム、累計ダウンロード数は2600万回 |date=2014-10-10 |work=ITmedia |accessdate=2014-11-16}}</ref>。10月にはCD盤が発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://rockinon.com/feat/u2_201411/ |title=『ソングス・オブ・イノセンス』リリース記念。U2が成し遂げた「5つの革命」とキャリア徹底総括! |work=RO69 |publisher=ロッキング・オン |accessdate=2014-11-16}}</ref>。
2015年、前篇後篇2部作となる映画『[[ソロモンの偽証]]』主題歌に「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」を提供<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.universal-music.co.jp/u2/news/2015-02-5/ |title=U2の名曲「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」が日本映画史上最強 ヒューマン・ミステリー超大作「ソロモンの偽証」の主題歌に大決定! |date=2015-02-05 |publisher=ユニバーサルミュージック |accessdate=2015-02-15}}</ref>。日本映画へは初の楽曲提供となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://solomon-movie.jp/ |title=映画『ソロモンの偽証』オフィシャルサイト |publisher=「ソロモンの偽証」製作委員会 |accessdate=2015-02-15}}</ref>。
== ライブの特徴 ==
[[File:U2 Trabant @ Hard Rock Cafe Berlin.jpg|thumb|200px|『ZOO TV TOUR』で照明として使用された「トラバント」]]
ライヴでは毎回異なるコンセプトでパフォーマンスを行い、独創的なステージセットやコンサートの規模、動員数、収益が話題となるバンドである。2006年にアメリカの雑誌『[[スピン (雑誌)|スピン]]』から「世界で最も良いライブを行う25バンド 第1位」に選出されている<ref>{{cite web |url=http://www.spin.com/articles/25-greatest-live-bands-now/ |title=25 Greatest Live Bands Now! |language=英語 |work=SPIN |publisher=SpinMedia |accessdate=2014-07-20}}</ref>。
1992年から1993年にかけて行った『ZOO TV TOUR』ではステージ上に巨大なテレビを多数設置し、パフォーマンスに合わせて異なる映像やメッセージを流した。また、ドイツ車「[[トラバント]]」を照明として使用したり、会場の中央にまで花道を置くステージ設計など、当時としては画期的なステージセットであった。ライヴ中には[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]下の[[サラエヴォ]]を衛星中継で結び、包囲された市民の惨状を観客に伝えた。他には衛星中継で[[ルー・リード]]と共演をしたこともあった。またMCでは、ボノが開催地のどこかへ電話をかけるコーナーがあり、フランスの[[フランソワ・ミッテラン|ミッテラン]]大統領(当時)、ドイツの[[ヘルムート・コール|コール]]首相(当時)、アメリカの[[ホワイトハウス]]([[ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]]大統領(当時)には繋いでもらえず)、大統領候補であった[[ビル・クリントン]](本人との会話に成功)などのほか、ピザ屋にピザ1万枚の宅配を注文したこともあった。1993年12月9日・10日に東京ドームで行われた日本公演では、初日が[[横綱]][[曙太郎|曙]](当時)、2日目は117番([[NTTグループ|NTT]]の[[時報]]ダイヤル)相手に「[[マドンナ (歌手)|マドンナ]]につないでくれ」と言っていた(マドンナは当時来日中だった)。
[[File:U2 PopMart Tour, Belfast, August 1997 (01).jpg|thumb|258px|left|『POPMART TOUR』のステージセット]]
1997年から1998年に開催した『POPMART TOUR』では、高さ17m×幅51mの巨大スクリーンとミラーボール式のレモンのオブジェなど、総額約180億円もの費用をかけたスタジアム・ツアーとなった。[[ボスニア]]紛争停戦合意後の1997年には、[[北大西洋条約機構]](NATO)平和維持軍監視下のサラエヴォで『POPMART TOUR』を開催。入場料収入の全額をボスニアの戦争孤児支援基金「ウォー・チャイルド」へ寄付した。
[[File:U2 360 tour stage Zagreb 2.JPG|thumb|258px|『U2 360° Tour』のステージセット]]
2001年に開催した『Elevation Tour』や、2005年から2006年に開催した『Vertigo Tour』では一見するとシンプルなステージに戻ったかのように見えたが、最先端の装置・照明・映像を駆使しており、バンドのこだわりが感じられる内容と演出になっていた。
2009年から2011年にかけて開催した『U2 360° TOUR』は、全110公演の興行収入が約7億3,614万ドル、観客総動員数が726万8,430人というこれまでに報道されたどのコンサートよりも高い数字を記録した。このツアーの成功で、改めてU2の世界的人気が根強いことを証明しただけでなく、通常よりも25%増しの観客を動員できる『ザ・クロウ』(''The Claw''、鉤爪)と名づけられた巨大なステージセット運営が成功したということになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/2070 |title=■U2■ 過去最大級のコンサート・ツアーが記録更新づくめで終了 |date=2011-08-01 |work=Billboard JAPAN |publisher=[[ビルボード]] |accessdate=2014-07-17}}</ref>。
== 影響 ==
U2が少年期に大きく影響を受けたのは、[[ザ・フー]]<ref>ニール・マコーミック (2006)『U2 BY U2』 113</ref>、[[ザ・クラッシュ]]<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/2600669.stm|title=Clash Star Strummer Dies|website=BBC News |date=27 December 2002|access-date=18 June 2010}}</ref>、[[テレヴィジョン (バンド)|テレヴィジョン]]<ref name="RStone397">{{cite magazine|url=https://www.rollingstone.com/music/music-news/blessed-are-the-peacemakers-u2-102912/|title=Blessed Are the Peacemakers|magazine=Rolling Stone|last=Henke|first=James|date=9 June 1983 |access-date=2 July 2018|issue=397|pages=11–14}}</ref>、[[ラモーンズ]]<ref name="Walker">{{cite news|url=http://content.time.com/time/arts/article/0,8599,107223,00.html?internalid=ACA|title=Eulogy: Bono Remembers Joey Ramone|author=Bono|website=Time|date=April 2001|access-date=23 March 2016}}</ref>、[[ビートルズ]]<ref>{{cite web| url = http://www.theage.com.au/articles/2003/07/24/1058853193517.html | date = 26 July 2003| title = Saint Bono | website=The Age | access-date =7 January 2008 | location=Melbourne}}</ref>、[[ジョイ・ディヴィジョン]]<ref>''NewOrderStory'' [DVD]. Warner Bros., 2005.</ref>、[[スージー・アンド・ザ・バンシーズ]]<ref>{{cite web|first=Bjørn |last=Hammershaug|url=https://tidal.com/magazine/article/age-of-innocence-u2s-dublin-beginnings/1-9360|title=Age of Innocence: U2’s Dublin Beginnings|publisher=Tidal.com|date=23-10-2014 |access-date=1-12-2021`|quote=[Bono]: I still think that I sing like Siouxsie from The Banshees on the first two U2 albums.}}<br />{{cite book|first=Dan|last=Martin|title=The Gospel According to U2 - Part Two [Bono interview] |publisher=[[ニュー・ミュージカル・エクスプレス|NME]] |date=5-01-2005|quote=[Bono]: I wanted to check where I was to where I am. So I went back and listened to all the music that made me want to be in a band, right from the Buzzcocks, Siouxsie and the Banshees, Echo & The Bunnymen, all that stuff. And what was interesting is, that was what a lot of people in bands now are listening to anyway. So in a funny way, it made us completely contemporary."}}<br />{{cite book|first=Elvis |last=Costello |title=Spectacle: Elvis Costello with Bono and The Edge of U2|publisher=Sundance Channel |date=9 December 2009|quote=[The Edge]: I think we were influenced a lot by music that was rooted in Europe, the German sort of sensibility, the music of Neu! and Kraftwerk, which was about a different sort of way of using chord changes and a sort of nihilistic approach to the backbeat", "and the UK bands", "like [Siouxsie and] the Banshees, probably Echo & the Bunnymen" "and Magazine"}}</ref>, [[エルヴィス・プレスリー]]<ref>{{cite magazine|title=The Immortals – The Greatest Artists of All Time: Elvis Presley |author=Bono |magazine=Rolling Stone |date=15 April 2004}}</ref>、[[パティ・スミス]]<ref>{{cite magazine|title=Bono – The Rolling Stone Interview |magazine=Rolling Stone |first=Jann |last=Wenner |date=3 November 2005}}</ref> や [[クラフトワーク]]<ref>{{cite web|url=https://www.rollingstone.com/music/music-news/9-biggest-revelations-in-bonos-bbc-interview-about-u2-172174/|title=9 Biggest Revelations in Bono's 'BBC' Interview About U2|website=Rolling Stone|first=Jason|last=Newman|date=3 February 2014|access-date=5 July 2018}}</ref>。
== ディスコグラフィ ==
{{Main|U2の作品}}
=== スタジオ・アルバム ===
* 『[[ボーイ (アルバム)|ボーイ]]』 - ''[[:en:Boy (album)|Boy]]''(1980年)
* 『[[アイリッシュ・オクトーバー]]』 - ''[[:en:October (U2 album)|October]]''(1981年)
* 『[[WAR(闘)]]』 - ''[[:en:War (U2 album)|War]]''(1983年)
* 『[[焰 (アルバム)|焰]]』 - ''[[:en:The Unforgettable Fire|The Unforgettable Fire]]''(1984年)
* 『[[ヨシュア・トゥリー]]』 - ''[[:en:The Joshua Tree|The Joshua Tree]]''(1987年)
* 『[[魂の叫び]]』 - ''[[:en:Rattle and Hum|Rattle and Hum]]''(1988年)
* 『[[アクトン・ベイビー]]』 - ''[[:en:Achtung Baby|Achtung Baby]]''(1991年)
* 『[[ZOOROPA]]』 - ''[[:en:Zooropa|Zooropa]]''(1993年)
* 『[[ポップ (アルバム)|ポップ]]』 - ''[[:en:Pop (U2 album)|Pop]]''(1997年)
* 『[[オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド]]』 - ''[[:en:All That You Can't Leave Behind|All That You Can't Leave Behind]]''(2000年)
* 『[[原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム]]』 - ''[[:en:How to Dismantle an Atomic Bomb|How to Dismantle an Atomic Bomb]]''(2004年)
* 『[[ノー・ライン・オン・ザ・ホライゾン]]』 - ''[[:en:No Line on the Horizon|No Line on the Horizon]]''(2009年)
* 『[[ソングス・オブ・イノセンス (U2のアルバム)|ソングス・オブ・イノセンス]]』 - ''[[:en:Songs of Innocence (U2 album)|Songs of Innocence]]''(2014年)
* 『[[ソングス・オブ・エクスペリエンス (U2のアルバム)|ソングス・オブ・エクスペリエンス]]』 - ''[[:en:Songs of Experience (U2 album)|Songs of Experience]]''(2017年)
=== ライブ・アルバム ===
* 『[[ブラッド・レッド・スカイ=四騎=]]』 - ''[[:en:Under a Blood Red Sky|Under a Blood Red Sky]]''(1983年)
=== コンピレーション・アルバム ===
* 『[[ザ・ベスト・オブU2 1980-1990]]』 - ''[[:en:The Best of 1980–1990|The Best of 1980–1990]]''(1998年)
* 『[[ザ・ベスト・オブU2 1990-2000]]』 - ''[[:en:The Best of 1990–2000|The Best of 1990–2000]]''(2002年)
* 『[[ザ・ベスト・オブU2 18シングルズ]]』 - ''[[:en:U218 Singles|U218 Singles]]''(2006年)
== 受賞歴 ==
;1987年
* [[MTV Video Music Awards]]「ビューワーズ・チョイス」(「[[ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー]]」)
;1988年
* 第30回グラミー賞「年間最優秀アルバム賞」・「最優秀ロック・パフォーマンス デュオ/グループ」(『[[ヨシュア・トゥリー]]』)<ref name="grammy">{{cite web |url=http://www.grammy.com/artist/u2 |title=U2 {{!}} GRAMMY.com |language=英語 |work=GRAMMY.com |publisher=[[ナショナル・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス]](NARAS) |accessdate=2014-07-22}}</ref>
* 第2回[[日本ゴールドディスク大賞]]【洋楽】「ザ・ベスト・アルバム・オブ・ザ・イヤー」ロック・フォーク(グループ)部門(『ヨシュア・トゥリー』)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.golddisc.jp/award/02/index.html#gd02_13 |title=第2回日本ゴールドディスク大賞 |publisher=[[日本レコード協会]](RIAJ) |accessdate=2014-07-22}}</ref>
* [[ブリット・アワード]]「ベスト・インターナショナル・グループ」<ref name="britawards">{{cite web |url=http://www.brits.co.uk/artist/u2 |title=U2 |language=英語 |work=BRIT Awards |publisher=[[英国レコード産業協会]] |accessdate=2014-07-22}}</ref>
;1989年
* ブリット・アワード「ベスト・インターナショナル・グループ」<ref name="britawards"/>
* 第31回グラミー賞「最優秀ロック・パフォーマンス・デュオ/グループ」(「ディザイアー」)、「ベスト・パフォーマンス・ミュージック・ビデオ」(「約束の地」)<ref name="grammy"/>
* [[ジュノー賞]]「インターナショナル・エンターテイナー・オブ・ザ・イヤー」<ref name="juno">{{cite web |url=http://junoawards.ca/awards/artist-summary/?artist_name=U2&submit=Search |title=Artist Summary |language=英語 |work=[[ジュノー賞]] |publisher=カナディアン・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス |accessdate=2014-11-16}}</ref>
* MTV Video Music Awards「ベスト・ビデオ・フロム・ア・フィルム」(「[[ラヴ・カムズ・トゥ・タウン]]」)
;1990年
* ブリット・アワード「ベスト・インターナショナル・グループ」<ref name="britawards"/>
;1992年
* MTV Video Music Awards「ベスト・グループ・ビデオ」・「ベスト・スペシャル・エフェクツ・イン・ア・ビデオ」(「リアル・シング」)
;1993年
* ブリット・アワード「ベスト・ライブ・アクト」<ref name="britawards"/>
* 第35回グラミー賞「最優秀ロック・パフォーマンス・デュオ/グループ」(『[[アクトン・ベイビー]]』)<ref name="grammy"/>
* ジュノー賞「インターナショナル・エンターテイナー・オブ・ザ・イヤー」<ref name="juno"/>
;1994年
* [[第36回グラミー賞]]「最優秀オルタナティヴ・ミュージック・アルバム賞」(『[[ZOOROPA]]』)<ref name="grammy"/>
;1995年
* [[第37回グラミー賞]]「最優秀ロング・フォーム・ミュージック・ビデオ」(『Zoo TV:ライブ・フロム・シドニー』)<ref name="grammy"/>
* MTV Video Music Awards「インターナショナル・ビューワーズ・チョイス」(「ホールド・ミー、スリル・ミー、キス・ミー、キル・ミー」)
;1998年
* ブリット・アワード「ベスト・インターナショナル・グループ」<ref name="britawards"/>
;2001年
* ブリット・アワード「ベスト・インターナショナル・グループ」・「アウトスタンディング・コントリビューション・トゥ・ミュージック」<ref name="britawards"/>
* [[第43回グラミー賞]]「年間最優秀レコード賞」・「年間最優秀楽曲賞」・「最優秀ロック・パフォーマンス・デュオ/グループ」(「[[ビューティフル・デイ (U2の曲)|ビューティフル・デイ]])<ref name="grammy"/>
* MTV Video Music Awards「ビデオ・ヴァンガード・アワード」
;2002年
* [[第44回グラミー賞]]「年間最優秀レコード賞」(「ウォーク・オン」)、「最優秀ポップ・パフォーマンス賞デュオ/グループ」(「スタック・イン・ア・モーメント」)、「最優秀ロック・パフォーマンス・デュオ/グループ」(「エレヴェイション」)、「最優秀ロック・アルバム賞」(『[[オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド]]』)<ref name="grammy"/>
* [[アメリカン・ミュージック・アワード]]「インターネット・ファン・アワード」
;2003年
* [[第60回ゴールデングローブ賞]]「主題歌賞」(「ザ・ハンズ・ザット・ビルト・アメリカ」)<ref>{{cite web |url=http://www.hfpa.org/browse/?param=/year/2002 |title=The 60th Annual Golden Globe Awards (2003) |language=英語 |work=OFFICIAL WEBSITE OF THE GOLDEN GLOBE AWARDS |publisher=[[ハリウッド外国人映画記者協会]](HFPA) |accessdate=2014-07-22}}</ref>
;2005年
* 第31回[[ピープルズ・チョイス・アワード]]「フェイバリット・ミュージック・グループ/バンド」<ref name="universalmedia2005">{{Cite web|和書|url=https://www.universal-music.co.jp/u2/news/2012-01-2005media/ |title=2005年のメディア情報 - U2 |publisher=ユニバーサルミュージック |accessdate=2014-07-22}}</ref>
* 2005 NRJ Awards「功労賞」<ref name="universalmedia2005"/>
* [[第47回グラミー賞]]「最優秀ロック・パフォーマンス・デュオ/グループ」・「最優秀ロック楽曲賞」・「最優秀ショート・フォーム・ミュージック・ビデオ」(「[[ヴァーティゴ (曲)|ヴァーティゴ]]」)<ref name="grammy"/>
* 第17回[[ワールド・ミュージック・アワード]]「ワールド・ベスト・セリング・ロック・アクト」<ref name="universalmedia2005"/>
* [[ビルボード・ミュージック・アワード]]「トップ・ツアリング・アーティスト」、「トップ・ドロー」、「トップ・ボックススコア」
;2006年
* [[第48回グラミー賞]]「年間最優秀アルバム賞」・「最優秀ロック・アルバム賞」(『[[原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム]]』)、「年間最優秀楽曲賞」・「最優秀ロック・パフォーマンス・デュオ/グループ」(「サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン」)、「最優秀ロック楽曲賞」(「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」)<ref name="grammy"/>
* [[アムネスティ・インターナショナル]]「良心の大使賞」<ref name="universalmedia2006">{{Cite web|和書|url=https://www.universal-music.co.jp/u2/news/2012-01-2006media/ |title=2006年のメディア情報 - U2 |publisher=ユニバーサルミュージック |accessdate=2014-07-22}}</ref>
;2007年
* 第19回ワールド・ミュージック・アワード「ベスト・セリング・アイリッシュ・アーティスト」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.universal-music.co.jp/u2/news/2012-01-2007media/ |title=2007年のメディア情報 - U2 |publisher=ユニバーサルミュージック |accessdate=2014-07-22}}</ref>
;2011年
* ビルボード・ミュージック・アワード「トップ・ツアリング・アーティスト」
* Qアワード2011「特別アクト賞」<ref>{{Cite web|和書|url=http://news.aol.jp/2011/10/28/q-awards-2011/ |title=Q Awards 2011 授賞式 |date=2011-10-28 |work=Aol News. |publisher=[[AOL]] |accessdate=2014-07-22}}</ref>
;2012年
* [[ビルボード・ミュージック・アワード2012]]「トップ・ツアリング・アーティスト」
;2014年
* [[第71回ゴールデングローブ賞]]「主題歌賞」(「オーディナリー・ラブ」)<ref>{{cite web |url=http://www.hfpa.org/browse/?param=/year/2013 |title=The 71st Annual Golden Globe Awards (2014) |language=英語 |work=OFFICIAL WEBSITE OF THE GOLDEN GLOBE AWARDS |publisher=ハリウッド外国人映画記者協会(HFPA) |accessdate=2014-07-22}}</ref>
ほか
== 来日公演 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!width="150"|年
!width="200"|日
!width="400"|場所
|-
!colspan="3"|JAPAN TOUR '83<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.udo.co.jp/Special/history/1983.html |title=History of UDO Artists 1983 |publisher=[[ウドー音楽事務所]] |accessdate=2014-07-16}}</ref>
|-
|rowspan="6"|1983年
|11月22日
|[[フェスティバルホール]]
|-
|11月23日
|瀬戸市文化センター(愛知県)
|-
|11月26日
|rowspan="2"|[[渋谷公会堂]]
|-
|11月27日
|-
|11月29日
|[[東京厚生年金会館]]
|-
|11月30日
|[[中野サンプラザ]]
|-
!colspan="3"|LOVE COMES TO TOWN TOUR WITH B.B. KING<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.udo.co.jp/Special/history/1989.html |title=History of UDO Artists 1989 |publisher=ウドー音楽事務所 |accessdate=2014-07-16}}</ref>
|-
|rowspan="6"|1989年
|11月23日
|[[横浜アリーナ]]
|-
|11月25日
|rowspan="2"|[[東京ドーム]]
|-
|11月26日
|-
|11月28日
|rowspan="3"|[[大阪城ホール]]
|-
|11月29日
|-
|12月1日
|-
!colspan="3"|ZOO TV TOUR JAPAN<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.udo.co.jp/Special/history/1993.html |title=History of UDO Artists 1993 |publisher=ウドー音楽事務所 |accessdate=2014-07-16}}</ref>
|-
|rowspan="2"|1993年
|12月9日
|rowspan="2"|東京ドーム
|-
|12月10日
|-
!colspan="3"|POPMART TOUR
|-
|rowspan="2"|1998年
|3月5日
|東京ドーム
|-
|3月11日
|[[大阪ドーム]]
|-
!colspan="3"|VERTIGO//2006 JAPAN
|-
|rowspan="4"|2006年
|<del>4月4日</del>
|<del>[[横浜国際総合競技場]]</del><br>(アーティスト側の都合により、11月に延期)
|-
|11月29日(振替公演)
|rowspan="3"|[[さいたまスーパーアリーナ]]
|-
|11月30日(振替公演)
|-
|12月4日(振替公演)
|-
!colspan="4"|THE JOSHUA TREE TOUR 2019<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.u2japan2019.com |title=公演情報|U2、13年ぶり奇跡の来日公演決定! |publisher=[[ライブ・ネイション|LIVE NATION JAPAN]] |accessdate=2019-05-31}}</ref>
|-
|rowspan="2"|2019年
|12月4日
|rowspan="2"|さいたまスーパーアリーナ
|-
|12月5日
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書|title=The U2 File |publisher=ロッキング・オン |date=1992-12 |isbn=4-947599-22-7}}
* {{cite book|和書|author=ビル・グラハム著/川原真理子訳 |title=スーパーロックガイド/U2全曲解説 |publisher=シンコーミュージック・エンタテイメント |date=1995-11 |isbn=4-401-61513-1}}
* {{cite book|和書|author=スーザン・ブラック著/中野園子訳 |title=ボノ語録 |publisher=シンコーミュージック・エンタテイメント|date=1998-03 |isbn=4-401-61592-1}}
* {{cite book|和書|author=スティーブ・ストックマン著/尾崎梓訳 |title=U2 魂の歌を求めて WALK ON: THE SPIRITUAL JOURNEY OF U2 |publisher=岳陽舎|date=2004-12 |isbn=4-90773752-1}}
* {{cite book|和書|title=スローガン「Artist file 10 U2 FILE」 |publisher=[[シンコーミュージック・エンタテイメント]] |date=2005-04 |isbn=4-401-61913-7}}
* {{cite book|和書|author=ミーシュカ・アサイアス著/五十嵐正、上西園誠訳 |title=ボノ インタビューズ |publisher=リットーミュージック |date=2006-04 |isbn=4-8456-1300-X}}
* {{cite book|和書|author=和久井光司 |title=地球音楽ライブラリー U2 |publisher=東京エフエム音楽出版 |date=2006-05 |isbn=4-88745-157-1}}
* {{cite book|和書|author=U2/前むつみ監訳/久保田祐子ほか訳 |title=U2 BY U2 |publisher=シンコーミュージック・エンタテイメント |date=2006-11 |isbn=4-401-63041-6}}
* {{cite book|和書|author=マット・マギー著/神田由布子訳 |title=U2ダイアリー/終わりなき旅の記録|publisher=ブルース・インターアクションズ |date=2009-03 |isbn=978-4-86020-319-1}}
== 関連項目 ==
{{commons&cat|U2|U2 (band)}}
{{ウィキポータルリンク|音楽}}
* [[ミュージシャン一覧 (グループ)]]
* [[ポピュラー音楽の音楽家一覧 (グループ)]]
* [[ロックミュージシャンの一覧]]
* [[グラミー賞受賞者一覧]]
* [[ロックの殿堂入り受賞者の一覧]]
* {{仮リンク|史上最も売り上げたミュージックアーティスト一覧|en|List_of_best-selling_music_artists}}
* {{仮リンク|史上最も成功したコンサートツアー一覧|en|List_of_highest-grossing_concert_tours}}
== 外部リンク ==
;オフィシャルウェブサイト
:* {{Official website|https://www.u2.com/index/home|U2.com}} {{en icon}}
:<!-- バグ回避。「Help:箇条書き」を参照。 -->
;レコード会社ウェブサイト
:* [https://www.universal-music.co.jp/u2/ U2] - [[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]] {{ja icon}}
:<!-- バグ回避。「Help:箇条書き」を参照。 -->
;YouTube
:* {{YouTube|user=U2official|U2}}
:* {{YouTube|user=U2VEVO|U2VEVO}}
:<!-- バグ回避。「Help:箇条書き」を参照。 -->
;Facebook・Twitter・MySpace
:* {{facebook|u2|U2}} {{en icon}}
:* {{twitter|U2|U2}} {{en icon}}
:* {{MySpace|u2|U2}} {{en icon}}
:<!-- バグ回避。「Help:箇条書き」を参照。 -->
{{U2}}
{{アイルランド関連の項目}}
{{ニュースステーション}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ゆうつう}}
[[Category:U2|*]]
[[Category:アイルランドの音楽グループ]]
[[Category:オルタナティヴ・ロック・バンド]]
[[Category:ポストパンク・バンド]]
[[Category:アイランド・レコードのアーティスト]]
[[Category:グラミー賞受賞者]]
[[Category:ブリット・アワード受賞者]]
[[Category:ケネディ・センター名誉賞受賞者]]
[[Category:ロックの殿堂入りの人物]]
[[Category:4人組の音楽グループ]]
[[Category:1976年に結成した音楽グループ]] | 2003-03-09T15:45:41Z | 2023-12-23T01:53:36Z | false | false | false | [
"Template:En icon",
"Template:U2",
"Template:Normdaten",
"Template:Main",
"Template:Cite news",
"Template:Commons&cat",
"Template:ウィキポータルリンク",
"Template:アイルランド関連の項目",
"Template:Reflist",
"Template:仮リンク",
"Template:Official website",
"Template:Twitter",
"Template:Facebook",
"Template:MySpace",
"Template:ニュースステーション",
"Template:Infobox Musician",
"Template:Notelist2",
"Template:Cite book",
"Template:Cite press release",
"Template:Ja icon",
"Template:YouTube",
"Template:Otheruses",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
"Template:Cite magazine"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/U2 |
3,732 | パイソン | パイソン (Python) | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "パイソン (Python)",
"title": null
}
] | パイソン (Python) 神話上、もしくは現実の大蛇の呼称。うわばみ。
ギリシア神話の蛇神、ピュトンの英語読み。
爬虫綱有鱗目ニシキヘビ科に属する構成種に対しての英名。もしくはニシキヘビ属の属名。
上記の大蛇にちなんで命名された呼称。
モンティ・パイソン - イギリスのコメディユニット。
空飛ぶモンティ・パイソン - モンティ・パイソンの出演するBBCのコメディ番組。
Python - スクリプト言語。上記コメディ番組にちなむ。
コルト・パイソン - 回転式拳銃。
パイソン (ミサイル)
MPL-97 パイソン - アニメ『機動警察パトレイバー』に登場するロボット。⇒機動警察パトレイバーの登場メカ#パイソン。 | '''パイソン''' (Python)
* [[神話]]上、もしくは現実の大蛇の呼称。[[うわばみ]]。
** ギリシア神話の蛇神、[[ピュトン]]の英語読み。
** 爬虫綱有鱗目[[ニシキヘビ科]]に属する構成種に対しての英名。もしくは[[ニシキヘビ属]]の属名。
* 上記の大蛇にちなんで命名された呼称。
** [[モンティ・パイソン]] - [[イギリス]]のコメディユニット。
*** [[空飛ぶモンティ・パイソン]] - モンティ・パイソンの出演する[[英国放送協会|BBC]]のコメディ番組。
** [[Python]] - [[スクリプト言語]]。上記コメディ番組にちなむ。
** [[コルト・パイソン]] - [[回転式拳銃]]。
** [[パイソン (ミサイル)]]
** MPL-97 パイソン - [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]『[[機動警察パトレイバー]]』に登場する[[ロボット]]。⇒[[機動警察パトレイバーの登場メカ#パイソン]]。
{{aimai}}
{{DEFAULTSORT:はいそん}} | null | 2022-04-18T12:18:36Z | true | false | false | [
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3 |
3,733 | ジャバ | ジャバ(ジャヴァ、ジャワ) | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ジャバ(ジャヴァ、ジャワ)",
"title": null
}
] | ジャバ(ジャヴァ、ジャワ) | '''ジャバ'''(ジャヴァ、ジャワ)
== Java、JAVA ==
{{Wiktionary|Java}}
* [[ジャワ島]] - [[インドネシア]]の中心となる島。首都[[ジャカルタ]]が存在する。
* [[ジャヴァ (ダンス)]] - [[20世紀]]初頭に[[フランス]]で発展した[[舞踊]]。
* [[ジャヴァグループ]] - [[神戸市]]に本社を置く総合[[アパレル]]企業。
* 艦船名
** [[ジャバ (帆走フリゲート)]] - [[19世紀]][[イギリス海軍]]の[[軍艦]](HMS Java)。
** [[ジャワ (軽巡洋艦)]] - [[オランダ海軍]]の[[ジャワ級軽巡洋艦|ジャワ級]][[軽巡洋艦]]1番艦。
* JAVA PIPEGUARD (洗剤) - 米国SC Johnson & Son, Inc.(日本法人は[[ジョンソン (会社)|ジョンソン]]株式会社)の風呂釜洗浄剤。日本における登録商標(第1681553号他)は“ジャバ”。
* クライスラー・JAVA(英語版[[:en:Chrysler Java|Chrysler Java]]) - [[クライスラー]]社(当時[[ダイムラー・クライスラー]])の[[コンセプトカー]]。
<!--
* JAVA - [[特定非営利活動法人|NPO法人]]「動物実験の廃止を求める会」の略称('''J'''apan '''A'''nti-'''V'''ivisection '''A'''ssociation)。
* JAVA - 株式会社ジャバ ディーディーアンドエーの展開する[[洗車場]]
-->
* [[ジャワカレー]] - [[ハウス食品]]のカレールゥの名称。
* [[ジャワティ]] - [[大塚ベバレジ]]の清涼飲料水の名称。
=== コンピュータ ===
* [[Java]] - [[サン・マイクロシステムズ]]が開発する[[オブジェクト指向プログラミング|オブジェクト指向]][[プログラミング言語]]の1つ。
** [[Javaプラットフォーム]] - Javaで記述されたプログラムや以下に示すプログラムを動かす為のプラットフォームの総称。
*** [[Java Runtime Environment]](Java実行環境)- Javaを動かすために必要なソフトウェア群。
*** [[Java仮想マシン]](Java Virtual Machine) - Javaで記述されたプログラムを動かすプログラム。
*** [[Java Platform, Standard Edition]] - 一般的なコンピュータ向けのAPI.
*** [[Java Platform, Micro Edition]] - 携帯電話や組み込みシステム向けのAPI.
*** [[Javaアプレット]] - ウェブブラウザ上で動作するJava.
*** [[:Category:Javaプラットフォーム]] - その他、Javaと関連する記事の一覧。
* [[JavaScript]] - スクリプト言語。上記のJavaとは技術面で全く関係をもたない。
== Jabba ==
* [[ジャバ・ザ・ハット]] - 映画『[[スター・ウォーズ]]』シリーズの登場人物。
== JABA ==
* [[日本野球連盟]](Japan Amateur Baseball Association)の略称。
== ジャバ ==
* [[山形市馬見ヶ崎プール ジャバ]] - [[山形県]][[山形市]]にあるプール施設。
{{Aimai}}
{{デフォルトソート:しやは}}
[[Category:同名の船]] | 2003-03-10T01:19:54Z | 2023-10-08T13:52:23Z | true | false | false | [
"Template:Wiktionary",
"Template:Wikibooks",
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%90 |
3,735 | 京都駅 |
京都駅(きょうとえき)は、京都府京都市下京区にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・近畿日本鉄道(近鉄)・京都市交通局(京都市営地下鉄)の駅。
現存の原広司設計の烏丸口の駅ビルは「京都駅ビル」と呼ばれ、1997年に完成した4代目駅舎である。
京都府内では唯一の新幹線停車駅である。京都市の玄関口であり、観光の拠点となっているターミナル駅である。京都都市圏の中心駅として各社局線乗換の通勤・通学客もあり、1日平均の乗降人員は約50万人。JR西日本管内の駅では乗車人員が大阪駅に次いで2番目に多く、定期券率は64%である。
東海道新幹線の全列車が停車するほか、JR西日本は寝台特急「サンライズ出雲」「サンライズ瀬戸」を除く全列車が停車し、北陸・山陰・関西空港・南紀(和歌山)・中部方面、近鉄は奈良・橿原神宮・伊勢志摩方面など、各地を結ぶ特急列車が発着する。
1997年竣工の烏丸口の駅ビルは、百貨店・ホテル・劇場などで構成される複合商業ビルである。ガラス張りの前衛的な駅ビルは原広司による設計で、ブルネル賞奨励賞を受賞した。
正面の烏丸口のバスターミナル直下には市内最初の地下街であるポルタがあり、市営地下鉄の改札口と直結している。駅周辺はオフィスや大型商業施設、観光客向けのホテルなどが集積するが、当駅は市街地南部の八条通付近に位置しているため、京都市の中心市街地である四条通(四条河原町・四条烏丸)とは離れた場所に立地している。
以下の合計4社局が乗り入れている。
JR西日本・JR東海の駅は特定都区市内制度における「京都市内」の駅であり、運賃計算の中心駅となっている。
JR西日本の駅はICOCA、近鉄と地下鉄の駅はICOCAの他PiTaPaおよびスルッとKANSAI対応各種カードの利用エリアに含まれており、それぞれ相互利用可能な各カードにも対応している。
JR東海の東海道新幹線では、EXサービス(EX予約・スマートEX)で予約を行い、交通系ICカードの登録を行えば利用可能。
1874年に開業した神戸駅 - 大阪駅間の鉄道を東に延伸する形で、1877年2月5日に開業した。開業と同時期に西南戦争が勃発し、すぐに軍事輸送用として用いられたという。通過式の構造を持っていたが、数年間は終着駅として機能した。
駅が設置された八条通付近は旧来の繁華街である三条通などからは遠く離れた寂れた地域だった。立地は路線形状の都合や用地買収の観点から決定された。
1880年、鉄道は大津駅まで延伸されたが、この時のルートは東山にトンネルを掘削する技術がまだなかったことから、現在のJR奈良線を稲荷駅周辺まで南下した後、現在の名神高速道路が走っている敷地を通って、大津駅へと向かうものとなった(大津駅の項目も参照)。
その後、 1895年に奈良鉄道(現:奈良線)、1897年に京都鉄道(現:山陰本線)が開通し、市内の路面電車(京都市電)も乗り入れるようになり、当駅周辺は急速に発展していった。 1921年(大正10年)8月1日に東海道本線のルートが東山トンネル・新逢坂山トンネルの開通によって馬場駅(現在の膳所駅) - 当駅間で変更・短縮されることになった際に、奈良線の当駅 - 桃山駅が旧東海道本線を経由したルートに変更された。また、1928年(昭和3年)には廃止された旧奈良線のルートを利用して近鉄京都線が当駅まで開業した。
東海道新幹線の建設に際し新幹線京都駅をどこに設置するかについては、計画段階では3つの案があった。1つ目は京都駅の南約2kmの奈良線稲荷駅付近に設置する「南案」、2つ目は現駅に併設する「併設案」、3つ目は五条通の地下を通し烏丸五条(現烏丸線五条駅)付近に設置する「北案」である。最終的に地元の強い要望もあり、1960年4月に京都駅へ併設することが決定した。建設用地確保のため、駅の南側にあった機関車留置線などは駅の東側へ、客車留置線は新設の向日町運転区(のちの京都総合運転所)に移転した。それでも若干用地が不足したため、新幹線駅は八条通の上空に最大12m程度張り出している。
また、新幹線の速達種別である超特急(ひかり号)は京都駅を通過する計画だったが、京都市長高山義三、京都市会、京都商工会議所など政財界は停車させるよう強く陳情した。さらに、1963年7月には運輸大臣綾部健太郎も超特急の京都駅停車を支持した。結局開業まで1ヶ月少々となった1964年8月18日に、ようやく超特急の京都駅停車が正式決定した。
1877年(明治10年)2月5日開業の初代駅舎は赤煉瓦のモダンな建物で、完成祝賀会には明治天皇が行幸している。駅舎が七条通に面していたことから「七条ステーション」や「七条停車場」と呼ばれた。2代目以降の京都駅より少しだけ北側にあった。
1914年(大正3年)、大正天皇の御大典にあわせて2代目駅舎が渡辺節の設計により初代駅舎の南側に建設された。敷地を確保するため、駅全体が南に移設され、貨物ヤードや機関区は駅西方の梅小路に移転した。初代駅舎の跡地は駅前広場の拡張に使われた。
1950年(昭和25年)11月18日午前4時頃、駅舎食堂の従業員が更衣室に設置されたアイロンの電源を切らずに帰宅したことが原因で出火し、2代目駅舎は全焼した。この事件に関しては、その晩に夜警業務を行っていた従業員が業務上失火罪で有罪判決を受けている。
3代目駅舎は、1951年(昭和26年)に着工し、1952年(昭和27年)に完成した。鉄筋コンクリート造の2階建てで、中央に8階建ての塔を備えたものである。駅舎の設計については、2代目駅舎のデザインをそのままに再建する案、日本様式のデザインにする案、現代的デザインにする案などがあったが、最終的にコンクリートを多用した機能主義的デザインが採用された。駅舎に近い1番のりばは電車化を見据え30cm嵩上げされた。
1990(平成2)年にJR京都駅改築に関するコンペが開催。翌1991(平成3)年コンペ審査で原広司案が最優秀作品に決定した。1997(平成9)年の9月11日に地上16階地下3階の4代目駅舎として、京都駅ビルがグランドオープンした。
京都駅開業後、東海道本線の線路により京都駅周辺が南北に分断されることが問題視された。1930年(昭和5年)12月16日に、京都市会は「京都駅及び東海道線,山陰線の高架要望に関する意見書」を可決し、同時に「京都駅及び鉄道線高架式実行委員会」を設置して京都府・京都商工会議所と共に運動を開始した。しかしその後、戦中・戦後の混乱期に運動は断絶した。
1950年(昭和25年)11月に駅舎が焼失したことを契機に運動が再興し、「京都市内国鉄改築に関する委員会」が設立された。同委員会は1952年(昭和27年)8月5日に「国鉄高架並びに電化促進に関する委員会」と名称変更され、電化を含めた国鉄線全般の改良運動へと形を変えた。
1956年(昭和31年)11月9日に米原までの電化が実現し改めて高架化が争点となったが、100億円と見積もられた工費の地元負担について京都市が2割を主張したのに対し、国鉄は5割を要求したことで折り合わず実現しなかった。
また、東海道新幹線の駅が京都駅に併設されることが決定してからも再び高架化運動が盛り上がったが、結局実現しないまま現在に至る。なお、高架化運動中に建築された3代目駅舎や東海道新幹線の京都駅は、将来の高架化に支障しないように設計されている。
この市街地の分断という問題は堀川通や河原町通がそれぞれ1964年(昭和39年)、2009年(平成21年)に拡幅されたこと等により徐々に改善が図られている。
近鉄京都線の前身は奈良電気鉄道であり、同社が京都駅への乗入れを最初に計画時は、高架式を採用して東海道線を跨線し、北口(烏丸口)側に駅を設ける予定としていた。
しかし、昭和天皇即位の礼が実施されるのに間に合わせる必要があったこと、それに予算の問題もあって、当面は仮設駅として、現在地に地上で京都駅南側に駅を建設した。その後、仮設置の予定であった駅設備は北側まで移されることもなく、東海道新幹線の建設時に国鉄の要請を受けて駅を高架化し、現在のように新幹線駅の真下にホームが設けられる構造となった。それまで保有していた北口までの免許は、仮設駅として設置している現在の位置を本設駅とすることにより、取り消されている。
2007年から2012年にかけては、近鉄の主要ターミナル整備計画により駅のリニューアルが行われた。1階にあった八条改札口跡地に「近鉄名店街」を増床し、「近鉄名店街みやこみち」と名を改めて2008年10月9日にリニューアルオープンした。また、新たに4番線を増設し、その直上には2011年10月に「ホテル近鉄京都駅」がオープンしている(2019年4月に名称を「都シティ 近鉄京都駅」に変更)。
便宜上、京都市電京都駅前電停の歴史についてもここで触れる。
同電停には伏見線(のちに河原町線に編入)、堀川線、烏丸線が乗り入れていた。
現在のJR在来線と東海道新幹線の駅は、かつては同じ日本国有鉄道(国鉄)の駅であったが、国鉄分割民営化後は在来線がJR西日本、新幹線がJR東海の管轄に分かれ、駅長もJR西日本とJR東海で別に配置されている。
なお、JR西日本の駅は管理駅として山科駅と梅小路京都西駅を管轄しているが、山科駅は地区駅長が配置され、一定の権限を持っている。夜間滞泊の設定もある。
JR京都駅の事務管コードは▲610116、京都市内の事務管コードは▲619902である。
先述の通り1番のりばは欠番となっている。0番のりばの西側が30番のりばで、その北側に山陰線の31〜34番のりばがある。
方面表記は2020年6月30日現在の「JRおでかけネット」の駅構内図に即している。また、特急列車専用ホームは、当該特急の直通路線名で案内されているのでそれに合わせた。
基本的に、0 - 3番のりばが東海道本線上り(湖西線・草津線直通を含む)、4 - 7番のりばが東海道本線下り、8 - 10番のりばが奈良線、30番のりばが関空特急「はるか」、31番 - 33番のりばが山陰本線、11・12番線が東海道新幹線上り、13・14番線が同新幹線下りに用いられている。
2022年3月6日に2番線、10月19日に5番線にホームドアが設置された。
発着する特急については後述する。
(出典:JR西日本:構内図)
2020年(令和2年)6月30日現在、のりばは上記のように案内されているが、細かく分けると以下のように使用されている。
※ JR西日本 京都駅の構内鉄道配線図(注意 巾600px)を表示するには、右の [表示] をクリックされたい。
当駅は、山陰方面へ向かう「スーパーはくと」、関空特急「はるか」、山陰本線経由で北近畿方面へ向かう各種特急の起点となっている。(ただし、「はるか」の一部は野洲駅または草津駅を始発・終着駅とする)また、大阪駅発着の北陸・飛騨行きの特急も停車する。
在来線の出入口は、北側地上に「烏丸中央口」、南北自由通路に通じる西側橋上駅舎上に「西口」、地下自由通路に通じる地下1階に「地下東口」、南東側地上に「八条東口」、山陰線30番・31番乗り場ホームからビックカメラJR京都駅店2階に直結する「西洞院口(にしのとういんぐち)」がある。北側地下1階に存在した「地下中央口」は、2022年12月25日をもって閉鎖された。
乗り換えは、烏丸口のバス利用者は「烏丸中央口」、八条口のバス利用者は「八条東口」「新幹線八条口」など、近鉄線へは西口、地下鉄へは地下東口が至近である。
他の京都市内にある各線の駅や大都市の主要駅と比べると、烏丸中央口は駅前のターミナル(バス・タクシーのりば)が広くゆとりがあるのが特徴である。
主な駅弁は下記の通り。
JR東海の京都駅は東海道新幹線のみであり、JR西日本の駅の南側にある高架駅である。
東海道新幹線の全営業列車の停車駅であるが、発着駅 (始発列車や終着列車を担う駅) ではない。島式ホーム2面4線を持ち通過線はない。ただし中央側の2線は低速通過線として使用可能な構造である。新大阪方には京都駅前後区間専用の保守基地と横取装置がある。
ホーム(および新幹線車内)の乗り換え案内放送では、かつては地下鉄線はアナウンスされなかったが、2015年3月14日のダイヤ改正よりアナウンスされるようになった。
各ホームにはエレベーターが設置されており、11・12番線のエレベーターは1階の新幹線八条口に繋がっている。
コンコースには東海キヨスクの店舗もある。
出入口は、南側地上に「新幹線八条口」、南東側地上に「新幹線八条東口」、新幹線コンコース西側に「新幹線中央口」がある。
在来線と新幹線は「中央のりかえ口」と「東のりかえ口」を介して乗り換えできる。近鉄線へは新幹線中央口、地下鉄へは新幹線八条東口が最寄りである。
2016年3月10日にホームへの可動式安全柵の設置が完了した。
なお、ホームの南側(八条口側)にはJR東海の駅舎があるが、これは新幹線開通時に建設されたもので近鉄・新幹線のホーム下にあり、規模は小さく、新しい京都駅ビル建設の際も南北自由通路の設置やJR線と近鉄線の改札を完全分離化したことと、在来線の自動券売機が八条東口に集約され、JR東海の機種(地紋がJR東海の物で、左上に□に「海」の記述がありながら「西日本会社線」と表記)から烏丸口と同様のJR西日本の機種に変更された。
改札業務がJR東海からJR西日本(関連会社の委託を含む)に移管されたこと以外は大きな変更はなかった。
(出典:JR東海:駅構内図)
頭端式ホーム4面4線を有する高架駅で、ホーム有効長は6両編成分である。新幹線ホームの下に位置し、ホーム全体が覆われている構造上、特急車両の喫煙室は当駅停車中は使用禁止となる。
1997年にJR京都駅4代目駅舎が竣工して南北自由通路が通行可能になる以前には、烏丸口に有人個別対応の券売窓口が存在していた。
また中央口改札には、開業当初から長らく(国鉄→)JR京都駅の構内に入り込む形で乗換用の改札機があったが、現京都駅ビル建設および同駅南北自由通路設置に合わせて、両社の乗換改札口は完全に分離された。そして、2007年12月1日には駅リニューアルの一環として1階の八条口改札・切符売り場が廃止され、定期券売り場、駅営業所等を含めて2階改札口(中央口)に移転、集約された。駅長配置駅である。
(出典:近鉄:駅構内図)
島式ホーム1面2線を有する地下駅である。
改札口は北改札(有人)、中央1改札(有人)、中央2改札(無人)、南改札(無人)の4か所で、奈良線以外のJR在来線への乗り換えは中央2改札が、JR奈良線・新幹線および近鉄線との乗り換えは南改札が便利である。JR線の東側の地下で南北方向に交差しているため、南北自由通路からのアクセスは悪い。
(出典:京都市営地下鉄:構内図)
京都駅の駅舎のうち、JR西日本の烏丸中央口側のものを「京都駅ビル」と呼ぶ。
地上16階、地下3階 (高さ60m)、敷地面積38,000m2、延床面積は238,000m2、東西の長さは470mにおよび、鉄道駅の駅舎としては日本有数の規模である。1997年に完成し、新しい京都市の顔となりつつある。大阪駅の大阪ステーションシティ、名古屋駅のJRセントラルタワーズや札幌駅のJRタワーなど、その後のJR各社のターミナル駅再開発の先駆け的存在でもある。
現在の駅舎は4代目に当たる。1952年に竣工した鉄筋コンクリート造の3代目駅舎は、駅が発展するとともに増築に次ぐ増築を重ねたため、地下街を含む商店街や連絡通路などを含めると構内の構造は複雑化し、不便なものになっていた。また駅舎本体にも老朽化に伴う種々の問題が生じて来た。そこで、抜本的対策として駅ビルの新築が計画された。これは1994年の平安遷都1200年記念事業の一環でもあった。
京都駅ビル(JR西日本)は、日本の鉄道駅舎としては異例の国際指名コンペ方式で行われ、新駅ビル設計者には原広司、安藤忠雄、池原義郎、黒川紀章、ジェームス・スターリング、ベルナール・チュミ、ペーター・ブスマン(wikidata)の7名の複数の建築家が指名された。設計審査の結果、先ず原広司案、安藤忠雄案、スターリング案の3案に絞り込まれ、さらなる協議を経て、梅田スカイビルなどの作品で知られる原広司の案が最終案として採用された。
京都駅周辺は高さ120mまでの建築物が建築可能となる特例措置が設けられているが、高さ制限の緩和は古都の景観を損なうものとして反対意見も根強かったため、建物の巨大さ、高さに起因する圧迫感を回避し、いかに周辺環境との調和を図るかが作品の評価のポイントとなった。採用された原広司案は、最大高さを60mに抑えた上で、南北方向の道路に合わせて建物を分割して視線を通すなど、圧迫感を回避するような配慮が随所に見られる。
採用にいたらなかった諸案の概要は次の通り。
この他、駅ビル建設に反対した市民グループは、寺社風木造建築の駅舎で、周辺の商店を保護するため、大型商業施設をテナントに入れないという独自の案を提唱し、当時駅ビル問題を扱った『NNNドキュメント』(日本テレビ系列・当該回は読売テレビ制作)でも紹介されていた。
京都駅ビルは、東側にJR西日本ホテルズのホテルグランヴィア京都、西側に百貨店のジェイアール京都伊勢丹が位置する。その間の中央コンコースは、4000枚のガラスを使用した正面と大屋根で覆う広々とした吹き抜け(横幅147m、奥行29m、高さ50m)になっている。吹き抜けの最上部には地上45mの空中径路が通っている。
吹き抜けから東西へは渓谷状の階段が設けられている。伊勢丹側の大階段は段数171段、高低差は11階建てビルに相当する35m、全長は70mある。大階段はコンサートや、毎年2月の「JR京都駅ビル大階段駆け上がり大会」(主催:KBS京都)などイベント会場としても利用されるほか、カップルや観光客の憩いの場ともなっている。また、非常時の避難経路となることも想定されている。
京都駅ビルの延床面積238,000mの内訳は、駅施設が約12,000m、ホテルグランヴィア京都が約70,000m、百貨店などの商業施設が約88,000m、「美術館・えきKYOTO」などの文化施設が約11,000m、駐車場が約37,000m、行政関係施設などが約38,000m、となっている。他都市の大規模な駅ビルの場合、面積のかなりの部分を企業向けの賃貸オフィスに割いていることが多いのに対して、京都駅ビルはそうした部分をほとんど持たない。
その後、嵯峨野線ホーム亀岡寄り側付近は京都駅NKビル(JR西日本不動産開発)が増築され、新しく改札口(西洞院口)を設けた。この改札口は、同ビルに出店した家電量販店のビックカメラ京都店の内部に取り込まれている。(その後、閉店のため閉鎖)
京都駅ビルは、規模の巨大さとデザインの斬新さにより、建設時はもちろん建築後もその評価には賛否がある。建設当時には、京都・まちづくり市民会議などが中心になって、激しい反対運動が起こった。また1990年代初頭、京都仏教会はこの駅ビル建設に「景観が悪くなる」という趣旨で強く反対していた。
京都駅ビルの中央エリアは巨大な吹き抜けのコンコースで、アーチ形のガラス屋根が半開き状態であることから、強風の際は駅舎内に雨、雪が入り込むことがある。
2018年9月4日の台風21号上陸時には中央コンコースのガラス屋根が構内へ落下し、男女3人が負傷する事故が発生した。
2023年1月24日の大雪時には、構内を利用客が傘をさして移動する模様がSNSで話題になった。ネットメディアのBusiness Journalは「鉄道会社関係者」の話として、ガラス屋根の落下防止措置や、雪や雨などが構内に入らないようする対策が求められるとし、災害に対する脆弱性を指摘した。
2007年8月23日、京都駅ビルの西側、JR嵯峨野線ホームの亀岡寄り側付近に京都駅NKビルが増築された。延床面積は約10,200m2。同ビルには家電量販店ビックカメラ京都店が出店した。同ビルの中にはJR嵯峨野線プラットホーム(30・31番のりば)に直結する改札口(JR京都駅西洞院口)が新設され(この改札口はビックカメラの売場内部に直結している)、京都寄り車両に乗客が集中する嵯峨野線の混雑緩和が図られている。
年度別乗降・乗車人員数は下表の通り。
各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。
各年度の利用状況は次の通り。
周辺は大型商業地域並びに観光客向けのホテルが多く立ち並んでいる。ただし、駅建設当時に市街地の外縁部で土地の確保や線路の敷設がしやすかったことから、中心市街地の四条通や三条通からは外れた七条通付近に当駅が設置された(その後八条通北側の現在地に移転)。そのため、京都随一の繁華街である四条河原町からは約2kmほど距離が離れており、当地へは阪急京都線の京都河原町駅や京阪本線の祇園四条駅が最寄りである。当駅から四条河原町や市内に点在する観光地へはバスや地下鉄に乗り換える必要がある。
駅の北側に位置している。当駅の表玄関であり、京都駅ビルや地下街も烏丸口に位置している。
駅付帯施設など
名所・旧跡など
公共施設
企業・金融機関など
駅の南側に位置している。
南東北・関東・中部・中国・四国・九州方面の高速バス路線が発着している。また市内を縦横に結ぶ路線バスの起点や定期観光バスの出発地でもあり、多数のバスが発着している。
京都駅前停留所にて発着する。
なお烏丸口を経由する一般路線バスは、他にも京阪バス308号経路(西本願寺 - 京都駅八条口)があるが、この系統は準循環的な経路を採り、京都駅烏丸口前を通るルートではあるものの、全便が停車せずに通過となる。ただし同じ京都駅の八条口に向かう系統であるので、そのまま乗車すれば大回りにはなるものの、京都駅自体にたどり着くことはできる。
烏丸口よりやや東側に離れている、京都センチュリーホテル北隣のザ・サウザンド キョウト(京都第2タワーホテル跡地に開業)入口前の構内に設置されている。
南北自由通路に近い京都駅八条口と八条東口に近い京都駅八条口アバンティ前の2つの停留所がある。
国鉄時代から自動車駅として独立した窓口が設置されていた。
インフォマティックの一部便が発着。但し、実際の停留所は七条通の京都ヨドバシ駐車場出入口付近となる。
近鉄バスが共同運行している路線(一部を除く)などが発着する。下記路線のうち発車場所と到着場所が異なる路線もある。
上記以外のツアーバスから移行した路線が発着。かつては近鉄八条口付近の「八条口観光バス駐車場」から発着していた便もあったが、駅前広場再開発に伴い撤去されたため、2015年2月26日から2017年1月31日までこれらの路線は地下鉄十条駅付近の『京都鴨川十条(タイムズ鴨川西)』に発着していた。2017年2月1日からは京都アバンティ前に整備された新たな観光バス駐車場に発着している。また、WILLER GROUPが近隣に降車専用の停留所『京都駅ホテルセントノーム京都前』を設置している。
国道1号イオンモールKYOTO沿いに設置。
※東海道新幹線の列車および在来線特急・急行の停車駅は各列車記事を参照。括弧内の英数字は駅番号を示す。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "京都駅(きょうとえき)は、京都府京都市下京区にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・近畿日本鉄道(近鉄)・京都市交通局(京都市営地下鉄)の駅。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "現存の原広司設計の烏丸口の駅ビルは「京都駅ビル」と呼ばれ、1997年に完成した4代目駅舎である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "京都府内では唯一の新幹線停車駅である。京都市の玄関口であり、観光の拠点となっているターミナル駅である。京都都市圏の中心駅として各社局線乗換の通勤・通学客もあり、1日平均の乗降人員は約50万人。JR西日本管内の駅では乗車人員が大阪駅に次いで2番目に多く、定期券率は64%である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "東海道新幹線の全列車が停車するほか、JR西日本は寝台特急「サンライズ出雲」「サンライズ瀬戸」を除く全列車が停車し、北陸・山陰・関西空港・南紀(和歌山)・中部方面、近鉄は奈良・橿原神宮・伊勢志摩方面など、各地を結ぶ特急列車が発着する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "1997年竣工の烏丸口の駅ビルは、百貨店・ホテル・劇場などで構成される複合商業ビルである。ガラス張りの前衛的な駅ビルは原広司による設計で、ブルネル賞奨励賞を受賞した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "正面の烏丸口のバスターミナル直下には市内最初の地下街であるポルタがあり、市営地下鉄の改札口と直結している。駅周辺はオフィスや大型商業施設、観光客向けのホテルなどが集積するが、当駅は市街地南部の八条通付近に位置しているため、京都市の中心市街地である四条通(四条河原町・四条烏丸)とは離れた場所に立地している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "以下の合計4社局が乗り入れている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "JR西日本・JR東海の駅は特定都区市内制度における「京都市内」の駅であり、運賃計算の中心駅となっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "JR西日本の駅はICOCA、近鉄と地下鉄の駅はICOCAの他PiTaPaおよびスルッとKANSAI対応各種カードの利用エリアに含まれており、それぞれ相互利用可能な各カードにも対応している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "JR東海の東海道新幹線では、EXサービス(EX予約・スマートEX)で予約を行い、交通系ICカードの登録を行えば利用可能。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1874年に開業した神戸駅 - 大阪駅間の鉄道を東に延伸する形で、1877年2月5日に開業した。開業と同時期に西南戦争が勃発し、すぐに軍事輸送用として用いられたという。通過式の構造を持っていたが、数年間は終着駅として機能した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "駅が設置された八条通付近は旧来の繁華街である三条通などからは遠く離れた寂れた地域だった。立地は路線形状の都合や用地買収の観点から決定された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1880年、鉄道は大津駅まで延伸されたが、この時のルートは東山にトンネルを掘削する技術がまだなかったことから、現在のJR奈良線を稲荷駅周辺まで南下した後、現在の名神高速道路が走っている敷地を通って、大津駅へと向かうものとなった(大津駅の項目も参照)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "その後、 1895年に奈良鉄道(現:奈良線)、1897年に京都鉄道(現:山陰本線)が開通し、市内の路面電車(京都市電)も乗り入れるようになり、当駅周辺は急速に発展していった。 1921年(大正10年)8月1日に東海道本線のルートが東山トンネル・新逢坂山トンネルの開通によって馬場駅(現在の膳所駅) - 当駅間で変更・短縮されることになった際に、奈良線の当駅 - 桃山駅が旧東海道本線を経由したルートに変更された。また、1928年(昭和3年)には廃止された旧奈良線のルートを利用して近鉄京都線が当駅まで開業した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "東海道新幹線の建設に際し新幹線京都駅をどこに設置するかについては、計画段階では3つの案があった。1つ目は京都駅の南約2kmの奈良線稲荷駅付近に設置する「南案」、2つ目は現駅に併設する「併設案」、3つ目は五条通の地下を通し烏丸五条(現烏丸線五条駅)付近に設置する「北案」である。最終的に地元の強い要望もあり、1960年4月に京都駅へ併設することが決定した。建設用地確保のため、駅の南側にあった機関車留置線などは駅の東側へ、客車留置線は新設の向日町運転区(のちの京都総合運転所)に移転した。それでも若干用地が不足したため、新幹線駅は八条通の上空に最大12m程度張り出している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "また、新幹線の速達種別である超特急(ひかり号)は京都駅を通過する計画だったが、京都市長高山義三、京都市会、京都商工会議所など政財界は停車させるよう強く陳情した。さらに、1963年7月には運輸大臣綾部健太郎も超特急の京都駅停車を支持した。結局開業まで1ヶ月少々となった1964年8月18日に、ようやく超特急の京都駅停車が正式決定した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1877年(明治10年)2月5日開業の初代駅舎は赤煉瓦のモダンな建物で、完成祝賀会には明治天皇が行幸している。駅舎が七条通に面していたことから「七条ステーション」や「七条停車場」と呼ばれた。2代目以降の京都駅より少しだけ北側にあった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1914年(大正3年)、大正天皇の御大典にあわせて2代目駅舎が渡辺節の設計により初代駅舎の南側に建設された。敷地を確保するため、駅全体が南に移設され、貨物ヤードや機関区は駅西方の梅小路に移転した。初代駅舎の跡地は駅前広場の拡張に使われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1950年(昭和25年)11月18日午前4時頃、駅舎食堂の従業員が更衣室に設置されたアイロンの電源を切らずに帰宅したことが原因で出火し、2代目駅舎は全焼した。この事件に関しては、その晩に夜警業務を行っていた従業員が業務上失火罪で有罪判決を受けている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "3代目駅舎は、1951年(昭和26年)に着工し、1952年(昭和27年)に完成した。鉄筋コンクリート造の2階建てで、中央に8階建ての塔を備えたものである。駅舎の設計については、2代目駅舎のデザインをそのままに再建する案、日本様式のデザインにする案、現代的デザインにする案などがあったが、最終的にコンクリートを多用した機能主義的デザインが採用された。駅舎に近い1番のりばは電車化を見据え30cm嵩上げされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1990(平成2)年にJR京都駅改築に関するコンペが開催。翌1991(平成3)年コンペ審査で原広司案が最優秀作品に決定した。1997(平成9)年の9月11日に地上16階地下3階の4代目駅舎として、京都駅ビルがグランドオープンした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "京都駅開業後、東海道本線の線路により京都駅周辺が南北に分断されることが問題視された。1930年(昭和5年)12月16日に、京都市会は「京都駅及び東海道線,山陰線の高架要望に関する意見書」を可決し、同時に「京都駅及び鉄道線高架式実行委員会」を設置して京都府・京都商工会議所と共に運動を開始した。しかしその後、戦中・戦後の混乱期に運動は断絶した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1950年(昭和25年)11月に駅舎が焼失したことを契機に運動が再興し、「京都市内国鉄改築に関する委員会」が設立された。同委員会は1952年(昭和27年)8月5日に「国鉄高架並びに電化促進に関する委員会」と名称変更され、電化を含めた国鉄線全般の改良運動へと形を変えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1956年(昭和31年)11月9日に米原までの電化が実現し改めて高架化が争点となったが、100億円と見積もられた工費の地元負担について京都市が2割を主張したのに対し、国鉄は5割を要求したことで折り合わず実現しなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "また、東海道新幹線の駅が京都駅に併設されることが決定してからも再び高架化運動が盛り上がったが、結局実現しないまま現在に至る。なお、高架化運動中に建築された3代目駅舎や東海道新幹線の京都駅は、将来の高架化に支障しないように設計されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "この市街地の分断という問題は堀川通や河原町通がそれぞれ1964年(昭和39年)、2009年(平成21年)に拡幅されたこと等により徐々に改善が図られている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "近鉄京都線の前身は奈良電気鉄道であり、同社が京都駅への乗入れを最初に計画時は、高架式を採用して東海道線を跨線し、北口(烏丸口)側に駅を設ける予定としていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "しかし、昭和天皇即位の礼が実施されるのに間に合わせる必要があったこと、それに予算の問題もあって、当面は仮設駅として、現在地に地上で京都駅南側に駅を建設した。その後、仮設置の予定であった駅設備は北側まで移されることもなく、東海道新幹線の建設時に国鉄の要請を受けて駅を高架化し、現在のように新幹線駅の真下にホームが設けられる構造となった。それまで保有していた北口までの免許は、仮設駅として設置している現在の位置を本設駅とすることにより、取り消されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2007年から2012年にかけては、近鉄の主要ターミナル整備計画により駅のリニューアルが行われた。1階にあった八条改札口跡地に「近鉄名店街」を増床し、「近鉄名店街みやこみち」と名を改めて2008年10月9日にリニューアルオープンした。また、新たに4番線を増設し、その直上には2011年10月に「ホテル近鉄京都駅」がオープンしている(2019年4月に名称を「都シティ 近鉄京都駅」に変更)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "便宜上、京都市電京都駅前電停の歴史についてもここで触れる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "同電停には伏見線(のちに河原町線に編入)、堀川線、烏丸線が乗り入れていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "現在のJR在来線と東海道新幹線の駅は、かつては同じ日本国有鉄道(国鉄)の駅であったが、国鉄分割民営化後は在来線がJR西日本、新幹線がJR東海の管轄に分かれ、駅長もJR西日本とJR東海で別に配置されている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "なお、JR西日本の駅は管理駅として山科駅と梅小路京都西駅を管轄しているが、山科駅は地区駅長が配置され、一定の権限を持っている。夜間滞泊の設定もある。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "JR京都駅の事務管コードは▲610116、京都市内の事務管コードは▲619902である。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "先述の通り1番のりばは欠番となっている。0番のりばの西側が30番のりばで、その北側に山陰線の31〜34番のりばがある。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "方面表記は2020年6月30日現在の「JRおでかけネット」の駅構内図に即している。また、特急列車専用ホームは、当該特急の直通路線名で案内されているのでそれに合わせた。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "基本的に、0 - 3番のりばが東海道本線上り(湖西線・草津線直通を含む)、4 - 7番のりばが東海道本線下り、8 - 10番のりばが奈良線、30番のりばが関空特急「はるか」、31番 - 33番のりばが山陰本線、11・12番線が東海道新幹線上り、13・14番線が同新幹線下りに用いられている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2022年3月6日に2番線、10月19日に5番線にホームドアが設置された。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "発着する特急については後述する。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "(出典:JR西日本:構内図)",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2020年(令和2年)6月30日現在、のりばは上記のように案内されているが、細かく分けると以下のように使用されている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "※ JR西日本 京都駅の構内鉄道配線図(注意 巾600px)を表示するには、右の [表示] をクリックされたい。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "当駅は、山陰方面へ向かう「スーパーはくと」、関空特急「はるか」、山陰本線経由で北近畿方面へ向かう各種特急の起点となっている。(ただし、「はるか」の一部は野洲駅または草津駅を始発・終着駅とする)また、大阪駅発着の北陸・飛騨行きの特急も停車する。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "在来線の出入口は、北側地上に「烏丸中央口」、南北自由通路に通じる西側橋上駅舎上に「西口」、地下自由通路に通じる地下1階に「地下東口」、南東側地上に「八条東口」、山陰線30番・31番乗り場ホームからビックカメラJR京都駅店2階に直結する「西洞院口(にしのとういんぐち)」がある。北側地下1階に存在した「地下中央口」は、2022年12月25日をもって閉鎖された。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "乗り換えは、烏丸口のバス利用者は「烏丸中央口」、八条口のバス利用者は「八条東口」「新幹線八条口」など、近鉄線へは西口、地下鉄へは地下東口が至近である。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "他の京都市内にある各線の駅や大都市の主要駅と比べると、烏丸中央口は駅前のターミナル(バス・タクシーのりば)が広くゆとりがあるのが特徴である。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "主な駅弁は下記の通り。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "JR東海の京都駅は東海道新幹線のみであり、JR西日本の駅の南側にある高架駅である。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "東海道新幹線の全営業列車の停車駅であるが、発着駅 (始発列車や終着列車を担う駅) ではない。島式ホーム2面4線を持ち通過線はない。ただし中央側の2線は低速通過線として使用可能な構造である。新大阪方には京都駅前後区間専用の保守基地と横取装置がある。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ホーム(および新幹線車内)の乗り換え案内放送では、かつては地下鉄線はアナウンスされなかったが、2015年3月14日のダイヤ改正よりアナウンスされるようになった。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "各ホームにはエレベーターが設置されており、11・12番線のエレベーターは1階の新幹線八条口に繋がっている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "コンコースには東海キヨスクの店舗もある。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "出入口は、南側地上に「新幹線八条口」、南東側地上に「新幹線八条東口」、新幹線コンコース西側に「新幹線中央口」がある。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "在来線と新幹線は「中央のりかえ口」と「東のりかえ口」を介して乗り換えできる。近鉄線へは新幹線中央口、地下鉄へは新幹線八条東口が最寄りである。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2016年3月10日にホームへの可動式安全柵の設置が完了した。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "なお、ホームの南側(八条口側)にはJR東海の駅舎があるが、これは新幹線開通時に建設されたもので近鉄・新幹線のホーム下にあり、規模は小さく、新しい京都駅ビル建設の際も南北自由通路の設置やJR線と近鉄線の改札を完全分離化したことと、在来線の自動券売機が八条東口に集約され、JR東海の機種(地紋がJR東海の物で、左上に□に「海」の記述がありながら「西日本会社線」と表記)から烏丸口と同様のJR西日本の機種に変更された。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "改札業務がJR東海からJR西日本(関連会社の委託を含む)に移管されたこと以外は大きな変更はなかった。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "(出典:JR東海:駅構内図)",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "頭端式ホーム4面4線を有する高架駅で、ホーム有効長は6両編成分である。新幹線ホームの下に位置し、ホーム全体が覆われている構造上、特急車両の喫煙室は当駅停車中は使用禁止となる。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1997年にJR京都駅4代目駅舎が竣工して南北自由通路が通行可能になる以前には、烏丸口に有人個別対応の券売窓口が存在していた。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "また中央口改札には、開業当初から長らく(国鉄→)JR京都駅の構内に入り込む形で乗換用の改札機があったが、現京都駅ビル建設および同駅南北自由通路設置に合わせて、両社の乗換改札口は完全に分離された。そして、2007年12月1日には駅リニューアルの一環として1階の八条口改札・切符売り場が廃止され、定期券売り場、駅営業所等を含めて2階改札口(中央口)に移転、集約された。駅長配置駅である。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "(出典:近鉄:駅構内図)",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "島式ホーム1面2線を有する地下駅である。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "改札口は北改札(有人)、中央1改札(有人)、中央2改札(無人)、南改札(無人)の4か所で、奈良線以外のJR在来線への乗り換えは中央2改札が、JR奈良線・新幹線および近鉄線との乗り換えは南改札が便利である。JR線の東側の地下で南北方向に交差しているため、南北自由通路からのアクセスは悪い。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "(出典:京都市営地下鉄:構内図)",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "京都駅の駅舎のうち、JR西日本の烏丸中央口側のものを「京都駅ビル」と呼ぶ。",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "地上16階、地下3階 (高さ60m)、敷地面積38,000m2、延床面積は238,000m2、東西の長さは470mにおよび、鉄道駅の駅舎としては日本有数の規模である。1997年に完成し、新しい京都市の顔となりつつある。大阪駅の大阪ステーションシティ、名古屋駅のJRセントラルタワーズや札幌駅のJRタワーなど、その後のJR各社のターミナル駅再開発の先駆け的存在でもある。",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "現在の駅舎は4代目に当たる。1952年に竣工した鉄筋コンクリート造の3代目駅舎は、駅が発展するとともに増築に次ぐ増築を重ねたため、地下街を含む商店街や連絡通路などを含めると構内の構造は複雑化し、不便なものになっていた。また駅舎本体にも老朽化に伴う種々の問題が生じて来た。そこで、抜本的対策として駅ビルの新築が計画された。これは1994年の平安遷都1200年記念事業の一環でもあった。",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "京都駅ビル(JR西日本)は、日本の鉄道駅舎としては異例の国際指名コンペ方式で行われ、新駅ビル設計者には原広司、安藤忠雄、池原義郎、黒川紀章、ジェームス・スターリング、ベルナール・チュミ、ペーター・ブスマン(wikidata)の7名の複数の建築家が指名された。設計審査の結果、先ず原広司案、安藤忠雄案、スターリング案の3案に絞り込まれ、さらなる協議を経て、梅田スカイビルなどの作品で知られる原広司の案が最終案として採用された。",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "京都駅周辺は高さ120mまでの建築物が建築可能となる特例措置が設けられているが、高さ制限の緩和は古都の景観を損なうものとして反対意見も根強かったため、建物の巨大さ、高さに起因する圧迫感を回避し、いかに周辺環境との調和を図るかが作品の評価のポイントとなった。採用された原広司案は、最大高さを60mに抑えた上で、南北方向の道路に合わせて建物を分割して視線を通すなど、圧迫感を回避するような配慮が随所に見られる。",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "採用にいたらなかった諸案の概要は次の通り。",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "この他、駅ビル建設に反対した市民グループは、寺社風木造建築の駅舎で、周辺の商店を保護するため、大型商業施設をテナントに入れないという独自の案を提唱し、当時駅ビル問題を扱った『NNNドキュメント』(日本テレビ系列・当該回は読売テレビ制作)でも紹介されていた。",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "京都駅ビルは、東側にJR西日本ホテルズのホテルグランヴィア京都、西側に百貨店のジェイアール京都伊勢丹が位置する。その間の中央コンコースは、4000枚のガラスを使用した正面と大屋根で覆う広々とした吹き抜け(横幅147m、奥行29m、高さ50m)になっている。吹き抜けの最上部には地上45mの空中径路が通っている。",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "吹き抜けから東西へは渓谷状の階段が設けられている。伊勢丹側の大階段は段数171段、高低差は11階建てビルに相当する35m、全長は70mある。大階段はコンサートや、毎年2月の「JR京都駅ビル大階段駆け上がり大会」(主催:KBS京都)などイベント会場としても利用されるほか、カップルや観光客の憩いの場ともなっている。また、非常時の避難経路となることも想定されている。",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "京都駅ビルの延床面積238,000mの内訳は、駅施設が約12,000m、ホテルグランヴィア京都が約70,000m、百貨店などの商業施設が約88,000m、「美術館・えきKYOTO」などの文化施設が約11,000m、駐車場が約37,000m、行政関係施設などが約38,000m、となっている。他都市の大規模な駅ビルの場合、面積のかなりの部分を企業向けの賃貸オフィスに割いていることが多いのに対して、京都駅ビルはそうした部分をほとんど持たない。",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "その後、嵯峨野線ホーム亀岡寄り側付近は京都駅NKビル(JR西日本不動産開発)が増築され、新しく改札口(西洞院口)を設けた。この改札口は、同ビルに出店した家電量販店のビックカメラ京都店の内部に取り込まれている。(その後、閉店のため閉鎖)",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "京都駅ビルは、規模の巨大さとデザインの斬新さにより、建設時はもちろん建築後もその評価には賛否がある。建設当時には、京都・まちづくり市民会議などが中心になって、激しい反対運動が起こった。また1990年代初頭、京都仏教会はこの駅ビル建設に「景観が悪くなる」という趣旨で強く反対していた。",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "京都駅ビルの中央エリアは巨大な吹き抜けのコンコースで、アーチ形のガラス屋根が半開き状態であることから、強風の際は駅舎内に雨、雪が入り込むことがある。",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "2018年9月4日の台風21号上陸時には中央コンコースのガラス屋根が構内へ落下し、男女3人が負傷する事故が発生した。",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "2023年1月24日の大雪時には、構内を利用客が傘をさして移動する模様がSNSで話題になった。ネットメディアのBusiness Journalは「鉄道会社関係者」の話として、ガラス屋根の落下防止措置や、雪や雨などが構内に入らないようする対策が求められるとし、災害に対する脆弱性を指摘した。",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "2007年8月23日、京都駅ビルの西側、JR嵯峨野線ホームの亀岡寄り側付近に京都駅NKビルが増築された。延床面積は約10,200m2。同ビルには家電量販店ビックカメラ京都店が出店した。同ビルの中にはJR嵯峨野線プラットホーム(30・31番のりば)に直結する改札口(JR京都駅西洞院口)が新設され(この改札口はビックカメラの売場内部に直結している)、京都寄り車両に乗客が集中する嵯峨野線の混雑緩和が図られている。",
"title": "京都駅ビル"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "年度別乗降・乗車人員数は下表の通り。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "各年度の利用状況は次の通り。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "周辺は大型商業地域並びに観光客向けのホテルが多く立ち並んでいる。ただし、駅建設当時に市街地の外縁部で土地の確保や線路の敷設がしやすかったことから、中心市街地の四条通や三条通からは外れた七条通付近に当駅が設置された(その後八条通北側の現在地に移転)。そのため、京都随一の繁華街である四条河原町からは約2kmほど距離が離れており、当地へは阪急京都線の京都河原町駅や京阪本線の祇園四条駅が最寄りである。当駅から四条河原町や市内に点在する観光地へはバスや地下鉄に乗り換える必要がある。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "駅の北側に位置している。当駅の表玄関であり、京都駅ビルや地下街も烏丸口に位置している。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "駅付帯施設など",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "名所・旧跡など",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "公共施設",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "企業・金融機関など",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "駅の南側に位置している。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "南東北・関東・中部・中国・四国・九州方面の高速バス路線が発着している。また市内を縦横に結ぶ路線バスの起点や定期観光バスの出発地でもあり、多数のバスが発着している。",
"title": "バスターミナル"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "京都駅前停留所にて発着する。",
"title": "バスターミナル"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "なお烏丸口を経由する一般路線バスは、他にも京阪バス308号経路(西本願寺 - 京都駅八条口)があるが、この系統は準循環的な経路を採り、京都駅烏丸口前を通るルートではあるものの、全便が停車せずに通過となる。ただし同じ京都駅の八条口に向かう系統であるので、そのまま乗車すれば大回りにはなるものの、京都駅自体にたどり着くことはできる。",
"title": "バスターミナル"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "烏丸口よりやや東側に離れている、京都センチュリーホテル北隣のザ・サウザンド キョウト(京都第2タワーホテル跡地に開業)入口前の構内に設置されている。",
"title": "バスターミナル"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "南北自由通路に近い京都駅八条口と八条東口に近い京都駅八条口アバンティ前の2つの停留所がある。",
"title": "バスターミナル"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "国鉄時代から自動車駅として独立した窓口が設置されていた。",
"title": "バスターミナル"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "インフォマティックの一部便が発着。但し、実際の停留所は七条通の京都ヨドバシ駐車場出入口付近となる。",
"title": "バスターミナル"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "近鉄バスが共同運行している路線(一部を除く)などが発着する。下記路線のうち発車場所と到着場所が異なる路線もある。",
"title": "バスターミナル"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "上記以外のツアーバスから移行した路線が発着。かつては近鉄八条口付近の「八条口観光バス駐車場」から発着していた便もあったが、駅前広場再開発に伴い撤去されたため、2015年2月26日から2017年1月31日までこれらの路線は地下鉄十条駅付近の『京都鴨川十条(タイムズ鴨川西)』に発着していた。2017年2月1日からは京都アバンティ前に整備された新たな観光バス駐車場に発着している。また、WILLER GROUPが近隣に降車専用の停留所『京都駅ホテルセントノーム京都前』を設置している。",
"title": "バスターミナル"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "国道1号イオンモールKYOTO沿いに設置。",
"title": "バスターミナル"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "※東海道新幹線の列車および在来線特急・急行の停車駅は各列車記事を参照。括弧内の英数字は駅番号を示す。",
"title": "隣の駅"
}
] | 京都駅(きょうとえき)は、京都府京都市下京区にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・近畿日本鉄道(近鉄)・京都市交通局(京都市営地下鉄)の駅。 現存の原広司設計の烏丸口の駅ビルは「京都駅ビル」と呼ばれ、1997年に完成した4代目駅舎である。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{Otheruses|JR(西日本・東海)、近鉄、京都市営地下鉄の駅|その他の「京都駅」|京都駅 (曖昧さ回避)}}
{{駅情報
|駅名 = 京都駅
|よみがな = きょうと
|ローマ字 = Kyōto
|画像 = 130609 Kyoto Station Kyoto Japan03s3.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 烏丸口(駅の北側)から見た京都駅ビル(2013年6月)
|地図={{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center
|type=point|type2=point|type3=point|type4=point
|marker=rail|marker2=rail|marker3=rail|marker4=rail-metro
|coord={{coord|34|59|7.65|N|135|45|27.92|E}}|marker-color=0072bc|title=JR西日本 京都駅
|coord2={{coord|34|59|4.6|N|135|45|30.5|E}}|marker-color2=f77321|title2=JR東海 京都駅東海道新幹線ホーム
|coord3={{coord|34|59|4.82|N|135|45|27.05|E}}|marker-color3=dc143c|title3=近鉄 京都駅
|coord4={{coord|34|59|7.97|N|135|45|36.44|E}}|marker-color4=3cb371|title4=京都市営地下鉄 京都駅
}}
|所在地 = [[京都市]][[下京区]]
|所属事業者 = [[西日本旅客鉄道]](JR西日本・[[#JR西日本|駅詳細]])<br />[[東海旅客鉄道]](JR東海・[[#JR東海|駅詳細]])<br />[[近畿日本鉄道]](近鉄・[[#近畿日本鉄道_2|駅詳細]])<br />[[京都市交通局]]([[京都市営地下鉄]]・[[#京都市営地下鉄|駅詳細]])
}}{{座標一覧}}
'''京都駅'''(きょうとえき)は、[[京都府]][[京都市]][[下京区]]にある、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)・[[東海旅客鉄道]](JR東海)・[[近畿日本鉄道]](近鉄)・[[京都市交通局]]([[京都市営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]。
現存の[[原広司]]設計の烏丸口の[[駅ビル]]は「'''京都駅ビル'''」と呼ばれ、[[1997年]]に完成した4代目駅舎である<ref name="京都駅ビル">{{Cite web|和書|title=京都駅ビルについて |url=https://www.kyoto-station-building.co.jp/about/ |website= 京都駅ビル Kyoto Station Building |publisher=京都駅ビル開発株式会社 |access-date=2023-01-29 |language=ja}}</ref><ref name="tn20210911">{{Cite web|和書|title=【今日は何の日?】京都駅ビルがグランドオープン |url=https://trafficnews.jp/post/42977 |website=[[乗りものニュース]] |date=2021-09-11|accessdate=2023-01-25 |language=ja}}</ref>。
== 概要 ==
[[京都府]]内では唯一の[[新幹線]]停車駅である。[[京都市]]の玄関口であり、観光の拠点となっている[[ターミナル駅]]である。[[京都都市圏]]の中心駅として各社局線乗換の通勤・通学客もあり<ref>{{Cite web|和書|title=JR京都駅を中心とした京都都市圏における南北鉄道軸の整備改善|url=http://www.jscekc.civilnet.or.jp/secretaries/general/gijutsu/2001/index.htm|work=平成13年度土木学会関西支部技術賞|accessdate=2021-04-11}}</ref>、1日平均の[[乗降人員]]は約50万人。JR西日本管内の駅では乗車人員が[[大阪駅]]に次いで2番目に多く<ref>{{Cite web|和書|title=なんでもランキング:JR西日本 |url=https://www.westjr.co.jp/fan/ranking/ |website=www.westjr.co.jp |access-date=2022-09-27 |language=ja}}</ref>、定期券率は64%である<ref>令和3年京都府統計書より、西日本旅客鉄道の乗車人員47,557千人のうち定期は30,497千人</ref>。
[[東海道新幹線]]の全列車が停車するほか、JR西日本は[[寝台列車|寝台特急]]「[[サンライズ出雲]]」「[[サンライズ瀬戸]]」を除く全列車が停車し、[[北陸地方|北陸]]・[[山陰地方|山陰]]・[[関西国際空港|関西空港]]・[[南紀]]([[和歌山県|和歌山]])・[[中部地方|中部]]方面、[[近鉄京都線|近鉄]]は[[奈良市|奈良]]・[[橿原神宮]]・[[伊勢志摩]]方面など、各地を結ぶ[[特別急行列車|特急列車]]が発着する。
[[1997年]]竣工の烏丸口の[[駅ビル]]は、[[百貨店]]・[[ホテル]]・[[劇場]]などで構成される[[複合商業施設|複合商業ビル]]である<ref name="京都駅ビル" />。ガラス張りの前衛的な駅ビルは[[原広司]]による設計で、[[ブルネル賞]]奨励賞を受賞した<ref name="京都駅ビル" />。
正面の[[#烏丸口|烏丸口]]の[[バスターミナル]]直下には市内最初の[[地下街]]である[[京都駅前地下街ポルタ|ポルタ]]があり、[[京都市営地下鉄烏丸線|市営地下鉄]]の改札口と直結している。駅周辺はオフィスや大型商業施設、観光客向けのホテルなどが集積するが<ref>{{Cite web|和書|title=主要都市の高度利用地地価動向報告(地価LOOKレポート)|url=https://www.mlit.go.jp/totikensangyo/totikensangyo_fr4_000045.html|accessdate=2021-04-11}}</ref>、当駅は市街地南部の[[八条通]]付近に位置しているため、京都市の[[中心市街地]]である[[四条通]]([[四条河原町]]・[[四条烏丸]])とは離れた場所に立地している。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Kyoto Station-1a.jpg|東側、ホテル・劇場棟(2017年7月)
Kyoto Station-2.jpg|中央、中央コンコース棟(2017年7月)
Kyoto Station-3a.jpg|西側、デパート・専門店・グルメ・駐車場棟(2017年7月)
</gallery>
=== 乗り入れ路線 ===
以下の合計4社局が乗り入れている。
* JR西日本:[[在来線]]各線 - [[アーバンネットワーク]]エリアに属し、合計5方面の列車が発着する。東海道本線と山陰本線には同社による独自の路線愛称が付けられている。
** [[東海道本線]] - 当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]となっている{{sfn|石野|1998|p=34}}。[[米原駅|米原]]方面は「[[琵琶湖線]]」、[[大阪駅|大阪]]方面は「[[JR京都線]]」の愛称で案内されている。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JR-A31'''。
*** 1駅隣の[[山科駅]]から分岐する[[湖西線]]の列車もすべて当駅へ直通している。湖西線の駅番号は'''JR-B31'''。
** [[山陰本線]] - 当駅が起点。[[園部駅]]まで「[[嵯峨野線]]」の愛称で案内されている。駅番号は'''JR-E01'''。
** [[奈良線]] - 正式な起点は反対側の[[木津駅 (京都府)|木津駅]]だが、列車運行上は当駅が起点となっている。木津駅から[[関西本線]]([[大和路線]])に乗り入れて[[奈良駅]]まで至る。駅番号は'''JR-D01'''。
* JR東海:[[東海道新幹線]] - 全種別全列車が停車する。
* 近畿日本鉄道(近鉄):[[近鉄京都線|京都線]] - 当駅が起点。当駅と奈良県の[[大和西大寺駅]]とを結ぶ路線であり、JR西日本の奈良線と競合関係にある。大和西大寺駅から[[近鉄奈良線]]に直通して[[近鉄奈良駅]]に至る[[近鉄特急|特急]]のほか、[[近鉄橿原線]]やさらに[[近鉄大阪線]]・[[近鉄山田線|山田線]]などに直通して[[三重県]]の[[伊勢志摩]]方面に向かう[[近鉄特急]]も設定されている。駅番号は'''B01'''<ref>{{Cite press release|和書|title=駅ナンバリングを全線で実施します|publisher=近畿日本鉄道|date=2015-08-19|url=http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hpyouu.pdf|format=pdf|accessdate=2016-02-26}}</ref>。
* 京都市交通局:[[京都市営地下鉄烏丸線]] - 駅番号は'''K11'''<ref name="chikatetsu">{{Cite book|和書|title = 完全版 世界の地下鉄|editor=日本地下鉄協会 |editor-link=日本地下鉄協会|publisher = [[ぎょうせい]]|date = 2020-10-14|isbn = 978-4-324-10876-5|pages = 17}}</ref>。
JR西日本・JR東海の駅は[[特定都区市内]]制度における「京都市内」の駅であり、運賃計算の中心駅となっている。
=== 乗車カード対応 ===
JR西日本の駅は[[ICOCA]]、近鉄と地下鉄の駅はICOCAの他[[PiTaPa]]および[[スルッとKANSAI]]対応各種カードの利用エリアに含まれており、それぞれ相互利用可能な各カードにも対応している。
JR東海の東海道新幹線では、EXサービス([[エクスプレス予約#EX-ICサービス|EX予約]]・[[エクスプレス予約#スマートEX|スマートEX]])で予約を行い、交通系ICカードの登録を行えば利用可能。
== 歴史 ==
[[1874年]]に開業した[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]] - [[大阪駅]]間の鉄道を東に延伸する形で{{efn|京都側の終着駅は1876年7月 - 9月は向日町駅、同年9月から京都駅開業までは大宮通仮停車場だった<ref>{{Cite web|和書|title=大阪駅進化論|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/05_vol_103/history.html |website=JR西日本 |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |accessdate=2023-04-16 |language=ja}}</ref>。}}、[[1877年]][[2月5日]]に開業<ref name="京都鉄博">{{Cite web|和書|url=https://www.kyotorailwaymuseum.jp/museum-report/kyoto-station-140anniversary/ |title=ミュージアムレポート「京都駅開業140周年記念企画展 洛中洛外鉄道絵巻 京の都の鉄道史」|website=[[京都鉄道博物館]] |publisher=[[公益財団法人]][[交通文化振興財団]] |date=2017-04-28 |accessdate=2023-08-11 }}</ref>した。開業と同時期に[[西南戦争]]が勃発し、すぐに軍事輸送用として用いられたという<ref>{{Cite book |和書 |publisher =京都新聞社|year = 1984|title = 写真でみる京都100年|page = 72-127|url =https://dl.ndl.go.jp/pid/9575757/ }}</ref>。通過式の構造を持っていたが、数年間は終着駅として機能した。
駅が設置された[[八条通]]付近は旧来の[[繁華街]]である[[三条通]]などからは遠く離れた寂れた地域だった。立地は[[線形 (路線)|路線形状]]の都合や用地買収の観点から決定された。
[[1880年]]、鉄道は[[大津駅]]まで延伸されたが、この時のルートは[[東山 (京都府)|東山]]に[[トンネル]]を掘削する技術がまだなかったことから、現在のJR[[奈良線]]を[[稲荷駅]]周辺まで南下した後、現在の[[名神高速道路]]が走っている敷地を通って、大津駅へと向かうものとなった([[大津駅]]の項目も参照)。
その後、 1895年に[[奈良鉄道]](現:[[奈良線]]{{efn|当時は京都駅付近では現在の近鉄京都線の敷地を通っていた。}})、1897年に京都鉄道(現:[[山陰本線]])が開通し、市内の[[路面電車]]([[京都市電]])も乗り入れるようになり、当駅周辺は急速に発展していった。
[[1921年]](大正10年)[[8月1日]]に東海道本線のルートが[[逢坂山トンネル#東山トンネル・新逢坂山トンネル|東山トンネル・新逢坂山トンネル]]の開通によって馬場駅(現在の[[膳所駅]]) - 当駅間で変更・短縮されることになった際に、奈良線の当駅 - 桃山駅が旧東海道本線を経由したルートに変更された。また、1928年(昭和3年)には廃止された旧奈良線のルートを利用して[[近鉄京都線]]が当駅まで開業した。
[[東海道新幹線]]の建設に際し新幹線京都駅をどこに設置するかについては、計画段階では3つの案があった。1つ目は京都駅の南約2kmの奈良線[[稲荷駅]]付近に設置する「南案」、2つ目は現駅に併設する「併設案」、3つ目は[[五条通]]の地下を通し烏丸五条(現[[烏丸線]][[五条駅 (京都府)|五条駅]])付近に設置する「北案」である<ref>{{Cite book |和書 |author = 運輸観光技術協会|year = 1964|title = 事典 東海道新幹線|page = 31-32|url = https://dl.ndl.go.jp/pid/1380619/ }}</ref>。最終的に地元の強い要望もあり、1960年4月に京都駅へ併設することが決定した<ref name=shinkansendoboku>{{Cite book |和書 |author = 日本国有鉄道|year = 1964|publisher = 東海道新幹線支社|title = 東海道新幹線工事誌 土木編|page = 179-182|url = https://dl.ndl.go.jp/pid/2507029/ }}</ref>。建設用地確保のため、駅の南側にあった機関車留置線などは駅の東側へ、客車留置線は新設の向日町運転区(のちの[[京都総合運転所]])に移転した{{efn|東海道新幹線開業後は、東京 - 山陽方面の列車がほぼ全て京都・新大阪発着に短縮される予定で、それらに用いる車両の留置場所を確保する必要もあった<ref name=shinkansendoboku/>。}}。それでも若干用地が不足したため、新幹線駅は[[八条通]]の上空に最大12m程度張り出している<ref name=kinki1962>{{Cite book |和書 |author = 近畿開発資料集成編集委員会 編|year = 1962|title = 近畿開発の計画 1962 第5分冊 B|page = 3-4|publisher=大阪都市協会|url = https://dl.ndl.go.jp/pid/2500185/ }}</ref>。
また、新幹線の速達種別である超特急(ひかり号)は京都駅を通過する計画だったが、[[京都市長]][[高山義三]]、[[京都市会]]、[[京都商工会議所]]など政財界は停車させるよう強く陳情した。さらに、1963年7月には[[運輸大臣]][[綾部健太郎]]も超特急の京都駅停車を支持した。結局開業まで1ヶ月少々となった1964年8月18日に、ようやく超特急の京都駅停車が正式決定した<ref>{{Cite book |和書 |publisher = 夕刊京都新聞社|year = 1966|title = 戦後京の二十年|page = 243-244|url = https://dl.ndl.go.jp/pid/3448788/ }}</ref>。
{{main|鉄道と政治#京都駅}}
=== 駅舎 ===
[[1877年]]([[明治]]10年)[[2月5日]]開業の初代駅舎は赤煉瓦のモダンな建物で、完成祝賀会には[[明治天皇]]が[[行幸]]している。駅舎が[[七条通]]に面していたことから「七条ステーション」や「七条停車場」と呼ばれた{{efn|『[[鉄道唱歌]]』東海道篇46番に「東寺の塔を左にて とまれば七條ステーシヨン 京都々々と呼びたつる 驛夫のこゑも勇ましや」という歌詞がある。}}<ref>{{Cite journal |和書 |title =下京や今は昔の物語--京都・七条大宮|author = 糸井通浩|year = 1991-1|journal = 大学時報|volume = 48|issue = 264|page = 136-137|url = https://dl.ndl.go.jp/pid/7884212/ }}</ref>。2代目以降の京都駅より少しだけ北側にあった<ref name="京都駅ビル" />。
[[1914年]](大正3年)、[[大正天皇]]の[[即位の礼|御大典]]にあわせて2代目駅舎が[[渡辺節]]の設計により初代駅舎の南側に建設された<ref name="京都駅ビル" />。敷地を確保するため、駅全体が南に移設され、[[貨物ヤード]]や[[機関区]]は駅西方の梅小路に移転した<ref>{{Cite book |和書 |author = 西部鐵道管理局|year = 1917|title = 京都停車場改良工事紀要 |page = 17|url = https://dl.ndl.go.jp/pid/1904235/ }}</ref>。初代駅舎の跡地は[[広場#交通広場と駅前広場|駅前広場]]の拡張に使われた。
1950年(昭和25年)11月18日午前4時頃、駅舎食堂の従業員が更衣室に設置されたアイロンの電源を切らずに帰宅したことが原因で出火し、2代目駅舎は全焼した<ref>{{Cite web|和書|title=昭和25年11月18日 京都駅火災|url= https://www.city.kyoto.lg.jp/shobo/page/0000159286.html |website=京都市消防局 |access-date=2023-03-04 |language=ja}}</ref>。この事件に関しては、その晩に夜警業務を行っていた従業員が[[放火及び失火の罪|業務上失火罪]]で有罪判決を受けている<ref>{{Cite web|和書|title=最高裁判所判例集 事件番号 昭和30(あ)4124|url= https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50466 |website=裁判所 |access-date=2023-04-16 |language=ja}}</ref>。
3代目駅舎は、1951年(昭和26年)に着工し、1952年(昭和27年)に完成した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyotorailwaymuseum.jp/museum-report/kyoto-station-140anniversary/ |title=第2回企画展 京都駅開業140周年記念企画展 |access-date=2023-11-10 |publisher=京都鉄道博物館}}</ref>。鉄筋コンクリート造の2階建てで、中央に8階建ての塔を備えたものである<ref name="京都駅ビル" />。駅舎の設計については、2代目駅舎のデザインをそのままに再建する案、日本様式のデザインにする案、現代的デザインにする案などがあったが、最終的にコンクリートを多用した[[機能主義 (建築)|機能主義]]的デザインが採用された<ref name=kotsugijutsu56>{{Cite book |和書 |author = 交通協力会|year = 1951-3|title = 交通技術|volume = 56|page = 102-104|url = https://dl.ndl.go.jp/pid/2248405/ }}</ref>。駅舎に近い1番のりばは電車化を見据え30cm嵩上げされた<ref>{{Cite book |和書 |author = 交通協力会|year = 1952-4|title = 交通技術|volume = 68|page = 130-134|url = https://dl.ndl.go.jp/pid/2248417/ }}</ref>。
1990(平成2)年にJR京都駅改築に関するコンペが開催。翌1991(平成3)年コンペ審査で[[原広司]]案が最優秀作品に決定した<ref name="京都駅ビル" />。1997(平成9)年の9月11日に地上16階地下3階の4代目駅舎として、京都駅ビルがグランドオープンした<ref name="tn20210911"/>。
{{main|#京都駅ビル}}
=== 駅高架化運動 ===
京都駅開業後、東海道本線の線路により京都駅周辺が南北に分断されることが問題視された。1930年(昭和5年)12月16日に、[[京都市会]]は「京都駅及び東海道線,山陰線の高架要望に関する意見書」を可決し、同時に「京都駅及び鉄道線高架式実行委員会」を設置して京都府・京都商工会議所と共に運動を開始した。しかしその後、戦中・戦後の混乱期に運動は断絶した。
1950年(昭和25年)11月に駅舎が焼失したことを契機に運動が再興し、「京都市内国鉄改築に関する委員会」が設立された。同委員会は1952年(昭和27年)8月5日に「国鉄高架並びに電化促進に関する委員会」と名称変更され、電化を含めた国鉄線全般の改良運動へと形を変えた<ref name=kyotokensetsu/>。
1956年(昭和31年)11月9日に米原までの電化が実現し改めて高架化が争点となったが、100億円と見積もられた工費の地元負担について京都市が2割を主張したのに対し、国鉄は5割を要求したことで折り合わず実現しなかった<ref name=kyotokensetsu>{{Cite book |和書 |author = 建設局小史編さん委員会|year = 1983|title = 建設行政のあゆみ : 京都市建設局小史|publisher = 京都市建設局|page = 102-103|url = https://dl.ndl.go.jp/pid/9671879 }}</ref>。
また、東海道新幹線の駅が京都駅に併設されることが決定してからも再び高架化運動が盛り上がったが、結局実現しないまま現在に至る<ref>{{Cite book |和書 |author = 日本展望編集委員会|year = 1964|publisher = 毎日新聞社|title = 日本展望 1961年版|page = 338|url = https://dl.ndl.go.jp/pid/2471543/ }}</ref>。なお、高架化運動中に建築された3代目駅舎や東海道新幹線の京都駅は、将来の高架化に支障しないように設計されている<ref name="kotsugijutsu56" /><ref name="shinkansendoboku" />。
この市街地の分断という問題は[[堀川通]]や[[河原町通]]がそれぞれ1964年(昭和39年)、2009年(平成21年)に拡幅されたこと等により徐々に改善が図られている。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
First Kyoto Station.jpg|初代駅舎(1880年頃)
Kyoto station.jpg|初代駅舎時代のホーム
Kyoto Station Early Showa.jpg|2代目駅舎(1914年 - 1950年)
JGR Kyoto station and C10 steam locomotive in 1938.jpg|2代目駅舎時代のホーム。駅舎と同時に建築された軒飾り付きの上屋は現存する(1938年)
Kyoto-station Fire 1950.jpg|炎上する2代目駅舎(1950年)
Kyoto Station (building of the third) Kyoto,JAPAN.jpg|3代目駅舎(1952年 - 1993年)
Kyoto Station aerial photo 19461002.jpg|京都駅周辺の白黒空中写真(1946年10月)
Kyōto Station.1967.jpg|京都駅周辺の白黒空中写真(1967年5月){{国土航空写真}}
Kyoto Station aerial photo 19750107.jpg|京都駅周辺のカラー空中写真(1975年1月)
</gallery>
=== 年表 ===
* [[1876年]]([[明治]]9年)[[9月5日]]:大宮通仮停車場(現在の[[京都貨物駅]]付近) - [[向日町駅]]間の[[鉄道省|官設鉄道]]が仮開業{{sfn|石野|1998|p=34}}。
* [[1877年]](明治10年)
** [[2月5日]]:京都停車場('''京都駅''')が開業<ref name="京都鉄博"/>。これに伴い大宮通仮停車場を廃止{{sfn|石野|1998|p=34}}。明治天皇を迎えて鉄道開業式を挙行。
* [[1879年]](明治12年)[[8月18日]]:官設鉄道が当駅から[[大谷駅 (滋賀県)|大谷駅]]まで延伸{{sfn|石野|1998|p=351}}。この路線はその後[[大津駅]](後の[[びわ湖浜大津駅|浜大津駅]])まで延伸され、さらに後には[[東海道本線]]の一部となった。
* [[1895年]](明治28年)[[9月5日]]:[[奈良鉄道]](現在の[[奈良線]])が当駅 - [[伏見駅 (京都府)|伏見駅]]間を開業させて乗り入れ{{sfn|石野|1998|p=351}}。
* [[1897年]](明治30年)
** [[4月1日]]:奈良鉄道の京都駅を'''七条駅'''として分離{{sfn|石野|1998|p=351}}。
** [[11月16日]]:[[京都鉄道]](現在の[[山陰本線]])が大宮駅(のちに廃止)から延伸して当駅に乗り入れ{{sfn|石野|1998|p=298}}。
* [[1905年]](明治38年)[[2月7日]]:奈良鉄道が[[関西鉄道]]に事業譲渡。七条駅は関西鉄道の駅となる。
* [[1907年]](明治40年)
** [[8月1日]]:京都鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]{{sfn|石野|1998|p=298}}。
** [[10月1日]]:関西鉄道が国有化{{sfn|石野|1998|p=352}}。七条駅は国有鉄道の駅となる。
* [[1908年]](明治41年)[[6月1日]]:旧・奈良鉄道の七条駅を当駅に統合{{sfn|石野|1998|p=352}}。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:国有鉄道の線路名称制定。新橋駅(のちの[[汐留駅 (国鉄)|汐留駅]]) - 当駅 - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]間は東海道本線、旧・奈良鉄道の路線は奈良線、旧・京都鉄道の路線は京都線となる。
* [[1912年]](明治45年)[[1月31日]]:線路名称改定。京都線が山陰本線に編入される。
* [[1913年]]([[大正]]2年)[[6月21日]]:[[貨物駅|貨物の取り扱い]]を新設の[[京都貨物駅|梅小路駅]]に分離。
* [[1914年]](大正3年)[[8月15日]]:2代目駅舎の使用を開始。木造[[ルネサンス様式]]の建物で豪華な[[貴賓室]]を備えていた。最終的に[[1915年]][[10月]]完成<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mtm.or.jp/pavilion/collection/tenji/page01.html|title=【展示品】二代目京都駅シャンデリア|accessdate=2016-02-26|publisher=交通科学博物館}}</ref>。
* [[1921年]](大正10年)[[8月1日]]:[[逢坂山トンネル#東山トンネル・新逢坂山トンネル|新逢坂山トンネル]]の完成により、馬場駅(現在の[[膳所駅]]) - 当駅間を新線に切り替える。同時に奈良線旧線(伏見駅 - 当駅間)が廃止され{{sfn|石野|1998|p=352}}、[[桃山駅]] - [[稲荷駅]]間に新線を建設し、東海道本線旧線(稲荷駅 - 当駅間)を奈良線に編入。
* [[1934年]]([[昭和]]9年)[[1月8日]]:駅構内で呉海兵団入営臨時列車の見送り客圧死事故([[京都駅跨線橋転倒事故]])が発生。
* [[1950年]](昭和25年)[[11月18日]]:駅構内の[[食堂]]からアイロンの不始末により出火し、駅舎が全焼<ref group="N">「作暁京都駅全焼 給仕がアイロンで不始末」『日本経済新聞』昭和25年11月19日2面</ref>。
* [[1952年]](昭和27年)[[5月27日]]:3代目駅舎が完成し、使用を開始。
* [[1964年]](昭和39年)[[10月1日]]:[[東海道新幹線]]の京都駅が開業{{sfn|石野|1998|p=59}}。
* [[1970年]](昭和45年)10月1日:東海道本線で[[新快速]]の運転が開始され、当駅が東側の終点となる。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:日中時間帯の[[快速列車]]が[[高槻駅]]まで各駅に停車することに伴い、この時間帯の当駅始発・終着の普通の運行を廃止。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、新幹線部分を[[東海旅客鉄道]](JR東海){{sfn|石野|1998|p=59}}、在来線部分を[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が継承{{sfn|石野|1998|p=34}}。
* [[1988年]](昭和63年)
** [[3月13日]]:路線愛称の制定により、東海道本線の当駅 - [[米原駅]]間および[[北陸本線]]の米原駅 - [[長浜駅]]間で「[[琵琶湖線]]」、東海道本線の当駅 - [[大阪駅]]間で「[[JR京都線]]」、山陰本線の当駅 - [[園部駅]]間で「[[嵯峨野線]]」の愛称を使用開始。
** [[10月1日]]:総工費3億円をかけて4月から建設していた山陰3・4番のりば(現在の32・33番のりば)を使用開始<ref>{{Cite journal | 和書 | author = 金森仁志 | title = 山陰線京都駅新ホーム完成 | journal = 鉄道ピクトリアル | issue = 506 | year = 1989 | month = 1 | pages = 126 | publisher = 電気車研究会}}</ref>。
* [[1989年]](平成元年)[[7月22日]]:[[くろしお (列車)|スーパーくろしお]]の一部が当駅への乗り入れが開始される<ref>{{Cite journal|和書| author = 寺本光照|title=関西発の名列車 山陽最急行からトライライトエクスプレスまで|page=168|publisher=JTBパブリッシング}}</ref>。
* [[1990年]](平成2年)[[10月26日]]:奈良線用ホーム8・9番のりばを増設。従来の8番のりばを10番のりばに呼称変更<ref>{{Cite journal|和書|date=1992-02|title=TOPIC PHOTOS|journal=鉄道ピクトリアル|page=94|publisher=電気車研究会|number=539}}</ref>。
* [[1992年]](平成4年)10月1日:旧1番線を廃止してホームを築造し、貨物通過線として使用していた旧2番線を旅客線として、1番のりばを拡幅<ref group="N">{{Cite news |title=京都駅1番ホームを拡幅 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-10-03 |page=1 }}</ref>。
* [[1993年]](平成5年)
** 10月1日:駅ビル建設のため、プレハブの仮設駅舎の使用を開始<ref group="N">{{Cite news |title=仮駅舎 来月オープン JR西日本 新京都駅ビル建設で |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-09-18 |page=1 }}</ref>。
** 12月:駅ビル建設着工<ref>https://www.kyoto-station-building.co.jp/about/</ref>
* [[1994年]](平成6年)
** [[9月4日]]:山陰1番のりばを「はるかホーム」に、山陰2 - 4番のりばを山陰1 - 3番のりばに呼称変更。
** [[12月3日]]:「はるかホーム」を30番のりばに、山陰1 - 3番のりばを31 - 33番のりばに呼称変更。
* [[1997年]](平成9年)
** [[6月28日]]:烏丸東口および八条東口に[[自動改札機]]を設置し、供用開始<ref name="JRR1998-185">[[#JRR1998|『JR気動車客車編成表 98年版』 185頁]]</ref>。
** [[7月12日]]:4代目駅舎となる新・京都駅ビルが完成<ref name="RF440">{{Cite journal|和書 |date=1997-12|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=37|issue=12|page=53|publisher=[[交友社]]}}</ref>。駅部分の供用が開始される{{R|JRR1998-185}}。[[エレベーター]]、[[エスカレーター]]、[[電光掲示板]]の使用を開始。在来線に[[接近メロディ]]導入。在来線改札口と近鉄京都駅との[[改札]]を分離。中央口、西口、地下中央口に[[自動改札機]]設置{{R|JRR1998-185}}。
** 8月1日:全国でも珍しい、京都駅と京都駅ビルの専属マスコットキャラクター「テット」と「スカーラ」を制定。
** [[9月1日]]:駅ビル開業を控えて日中の当駅始発・終着の普通列車の運行を復活。
** [[9月11日]]:京都駅ビルが全面開業{{R|JRR1998-185}}<ref group="N">{{Cite news|title=JR7社14年のあゆみ|newspaper=[[交通新聞]]|date=2001-04-02|publisher=交通新聞社|page=9}}</ref>。[[ジェイアール京都伊勢丹]]が開業{{R|JRR1998-185}}<ref name="RF440" />。
* [[1998年]](平成10年)
** [[3月4日]]:新幹線の改札口に自動改札機を設置<ref>[[#JRR1998|『JR気動車客車編成表 98年版』 184頁]]</ref>。
** [[12月1日]]:京都駅・京都駅ビルのマスコットキャラクター「テット」と「スカーラ」が初お目見えする。以降、2002年春まで春・夏・冬の季節毎と毎週土日にキャラクターがショウやグリーティングを行う。
* [[2002年]](平成14年)
** [[3月23日]]:1番のりばを0番のりばに呼称変更<ref group="注釈">『JR時刻表』2002年6月号(交通新聞社、No.470)の当駅構内図による。</ref>。
** [[7月29日]]:[[運行管理システム (JR西日本)#JR京都・神戸線システム|JR京都・神戸線運行管理システム]]導入。
* [[2003年]](平成15年)[[11月1日]]:JR西日本で[[ICカード]]「[[ICOCA]]」の利用が可能となることに伴い、当駅でも供用を開始する。
* [[2007年]](平成19年)
** [[3月18日]]:6・7番のりばのホームかさ上げによる段差解消工事と0番のりばの[[待合室]]の設置工事が完成。[[駅自動放送]]を更新。
** 4月1日:自動券売機が[[タッチパネル]]式のものに交換される。
** [[8月23日]]:JR京都駅NKビルが開業。[[ビックカメラ]]JR京都駅店が入店。店内に嵯峨野線ホーム(30・31番のりば)と直結する改札口の西洞院口を開設。
* [[2008年]](平成20年)
** [[2月13日]]:南北自由通路の西側橋上(西口改札前)に「スバコ(SUVACO)・ジェイアール京都伊勢丹」が開業<ref>「時の灯」と「スバコ・ジェイアール京都伊勢丹」[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1173461_799.html プレスリリース]{{リンク切れ|date=2019-06-03}}</ref>。
** [[3月30日]]:[[アーバンネットワーク#異常時情報提供ディスプレイ|異常時情報提供ディスプレイ]]が設置される(使用開始は4月1日)。
* [[2009年]](平成21年)[[7月20日]]:[[嵯峨野線]]の当駅 - [[丹波口駅]]間が複線化される。ただし京都駅構内の一部は単線のままである。
* [[2015年]](平成27年)
** [[3月12日]]:入線警告音の見直しに伴い、在来線ホームの[[接近メロディ]]を音質見直し版に変更<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2015/03/page_6933.html 琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線・大阪環状線の駅のホームで使用している「入線警告音」の音質を見直します]</ref>。
** [[12月21日]]:8・9番のりばを拡幅。
* [[2016年]](平成28年)
** [[3月10日]]:新幹線ホームにおいて、[[ホームドア|可動式ホーム柵]]の設置が完了。
** [[3月26日]]:[[ダイヤ改正]]に伴い、特急「[[しなの (列車)|しなの]]」の乗り入れが廃止される<ref>{{Cite web|和書|url = https://plus.chunichi.co.jp/blog/ito/article/264/4711/|title = 3月ダイヤ改正で、大阪「しなの」が最長特急から陥落|website = 中日新聞Web|archiveurl = https://web.archive.org/web/20200614021642/https://plus.chunichi.co.jp/blog/ito/article/264/4711/|date = 2016-02-11|archivedate = 2020-06-14|accessdate = 2022-02-18}}</ref><ref group="N">{{Cite news|url = https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000006477|title = さよなら、大阪発着「しなの」 25日最後の運行|publisher = 北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ(信濃毎日新聞)|date = 2016-03-24|accessdate = 2022-02-18}}</ref>。また、西口の改札内に電光掲示板が増設される。
** [[11月10日]]:8・9番のりばのエスカレーターが供用開始。奈良線ホームのエレベーターが移設される。
** [[12月11日]]:0番のりばの軌道かさ下げによるホーム段差解消工事が完了。
* [[2017年]](平成29年)
** [[1月20日]]:奈良線ホームの改良工事が完成。
** 2月16日:中央口および西口の改札内コンコースの電光掲示板の一部がフルカラーのものに交換される。
** 6月1日:地下東口の改札内コンコースに電光掲示板が新設される。
** [[6月17日]]:周遊型[[臨時列車|臨時]][[寝台列車]]「[[TWILIGHT EXPRESS 瑞風]]」の停車駅となる。
* [[2018年]](平成30年)
** [[3月17日]]:在来線に[[駅ナンバリング]]が導入される<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2016/07/page_8973.html 近畿エリアの12路線 のべ300駅に「駅ナンバー」を導入します!]</ref>。
** 9月4日:[[平成30年台風第21号|台風21号]]の影響により天井のガラス板が落下し、数人が怪我をする事故が発生。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[9月11日]]:当駅を始発・終着とする特急「[[WEST EXPRESS 銀河]]」の運行を開始<ref group="N">{{Cite news|url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63677410Q0A910C2LKA000/|title = 気軽に鉄道旅 JR西日本の観光寝台「銀河」デビュー|newspaper = 日本経済新聞|date = 2020-09-12|accessdate = 2022-02-18}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
** 3月6日:2番のりばに[[ホームドア|昇降式ホーム柵]]が設置され、供用開始<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2022/02/page_19509.html ~駅のホームの安全性向上にむけて~ 京都駅2番のりばの昇降式ホーム柵、新今宮駅4番のりばの可動式ホーム柵を使用開始します。]</ref>。
** 10月19日:5番のりばに昇降式ホーム柵が設置され、供用開始<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2022/10/page_21079.html ~駅のホームの安全性向上にむけて~ 京都駅5番のりばの昇降式ホーム柵を使用開始します。]</ref>。
** [[12月25日]]:地下中央口改札を閉鎖<ref group="N" name="kyoto-np/221225">{{Cite news|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/946220|title=JR京都駅で「最もマイナーな改札口」閉鎖へ かつては「京の空の玄関口」|newspaper=京都新聞|date=2022-12-25|accessdate=2023-01-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230108161315/https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/946220|archivedate=2023-01-08}}</ref>。
=== 近畿日本鉄道 ===
近鉄京都線の前身は[[奈良電気鉄道]]であり、同社が京都駅への乗入れを最初に計画時は、高架式を採用して東海道線を跨線し、北口(烏丸口)側に駅を設ける予定としていた。
しかし、[[昭和天皇]][[即位の礼]]が実施されるのに間に合わせる必要があったこと、それに予算の問題もあって、当面は仮設駅として、現在地に地上で京都駅南側に駅を建設した{{efn|結局京都駅まで路線が開業したのは1928年11月15日であり、同月10日に実施された即位の礼には間に合わなかった<ref name=sone03/>。}}。その後、仮設置の予定であった駅設備は北側まで移されることもなく、[[東海道新幹線]]の建設時に国鉄の要請を受けて駅を高架化し、現在のように新幹線駅の真下にホームが設けられる構造となった<ref name="kintetsu291">{{Cite book|和書|author=近畿日本鉄道株式会社|title=近畿日本鉄道 100年のあゆみ|date=2010-12|publisher=近畿日本鉄道|pages=291-292|id={{全国書誌番号|21906373}}}}</ref>。それまで保有していた北口までの免許は、仮設駅として設置している現在の位置を本設駅とすることにより、取り消されている<ref name="sone03">{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 大手私鉄|series=週刊朝日百科|date=2010-08-29|publisher=[[朝日新聞出版]]|pages=12-13|volume=3号 近畿日本鉄道 2|isbn=978-4-02-340133-4}}</ref>。
[[2007年]]から[[2012年]]にかけては、近鉄の主要ターミナル整備計画により駅のリニューアルが行われた<ref>{{Cite press release|和書|title=京都駅ターミナル整備計画の概要について|format=PDF|publisher=近畿日本鉄道|date=2007-03-01|url=http://www.kintetsu.jp/news/files/kyouto20070301.pdf}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=京都駅ターミナル整備工事の概要と進捗について|format=PDF|publisher=近畿日本鉄道|date=2008-03-06|url=http://www.kintetsu.jp/news/files/20080306kyototerminal.pdf}}</ref>。1階にあった八条改札口跡地に「近鉄名店街」を増床し、「'''近鉄名店街みやこみち'''」と名を改めて[[2008年]][[10月9日]]にリニューアルオープンした<ref name="kintetsu551">{{Cite book|和書|author=近畿日本鉄道株式会社|title=近畿日本鉄道 100年のあゆみ|date=2010-12|publisher=近畿日本鉄道|pages=551-552|id={{全国書誌番号|21906373}}}}</ref>。また、新たに4番線を増設し、その直上には[[2011年]][[10月]]に「'''ホテル近鉄京都駅'''」がオープンしている([[2019年]]4月に名称を「'''[[都シティ 近鉄京都駅]]'''」に変更<ref>[https://www.miyakohotels.ne.jp/file.jsp?id=137640 都ホテルズ&リゾーツ ブランド再編について] - 近鉄グループホールディングス・近鉄・都ホテルズ 2018年8月3日(2018年12月9日閲覧)</ref>)。
==== 年表 ====
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[11月15日]]:奈良電気鉄道が当駅 - [[桃山御陵前駅]]間を開業させた際に仮設駅として設置<ref name=sone03/>。
* [[1948年]](昭和23年)[[7月30日]]:3号線の新設工事が竣工。
* [[1963年]](昭和38年)
** [[9月1日]]:高架化<ref name=sone03/>。
** [[10月1日]]:奈良電気鉄道の会社合併に伴い、[[近畿日本鉄道]][[近鉄京都線|京都線]]の駅となる<ref name=sone03/>。
* [[1964年]](昭和39年)[[11月5日]]:駅1階部分に「近鉄名店街」オープン<ref name=kintetsu291/>。
* [[1998年]]([[平成]]10年):[[発車標]]をフルカラーLED方式に変更<ref group="N">{{Cite news |title=私鉄西から東から 近鉄の新型列車行先案内装置 フルカラーLED採用 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-10-13 |page=2 }}</ref>。
* [[2005年]](平成17年)[[2月24日]]:駅構内での列車案内の放送を自動放送に切り替え。
* [[2006年]](平成18年)
** [[3月6日]]:非常通報装置を設置。
** [[6月1日]]:[[ICカード]]対応の[[のりこし精算機|乗り越し精算機]]を設置。
** [[6月26日]]:近鉄京都駅改良工事に伴い、3番線の停止位置を西側の[[東寺駅|東寺]]寄りに約1両分20メートル移動。
* [[2007年]](平成19年)
** [[4月1日]]:[[ICカード]]「[[PiTaPa]]」の利用が可能となる。
** [[9月22日]]:近鉄京都駅改良工事に伴い、中央改札口を約10メートルホーム寄りに移動。
** [[11月30日]]:近鉄京都駅改良工事に伴い、八条口改札口を閉鎖。近鉄名店街の営業休止<ref name=kintetsu551/>。
* [[2008年]](平成20年)[[10月9日]]:近鉄名店街を、「近鉄名店街 みやこみち」としてリニューアルオープン<ref name=kintetsu551/>。
* [[2012年]](平成24年)[[3月14日]]:4番線が供用開始<ref group="N">{{Cite web|和書|url = http://www.kyoto-np.co.jp/economy/article/20120309000147|title = 近鉄京都駅ホーム新設 4線化工事終え混雑に対処|publisher = 京都新聞|deadlinkdate = 2022年2月|archiveurl = https://web.archive.org/web/20120309220134/http://kyoto-np.co.jp/economy/article/20120309000147|date = 2012-03-09|archivedate = 2012-03-09|accessdate = 2022-02-18}}</ref>。従来1番線のみの発着であった特急は1・2番線両方からの発着となる。
* [[2015年]](平成27年)[[12月]]下旬:[[駅自動放送]]に英語案内を、[[発車標|LED発車標]]に英語案内や[[駅ナンバリング]]をそれぞれ追加。
=== 京都市電・京都市営地下鉄 ===
便宜上、[[京都市電]]京都駅前電停の歴史についてもここで触れる。
同電停には[[京都市電伏見線|伏見線]](のちに[[京都市電河原町線|河原町線]]に編入)、[[京都市電堀川線|堀川線]]、[[京都市電烏丸線|烏丸線]]が乗り入れていた。
==== 年表 ====
* [[1895年]]([[明治]]28年)[[2月1日]]:[[京都電気鉄道]](のち[[京都市電]]に統合)の[[京都市電伏見線|伏見線]]七条停車場(後の京都駅八条口)- 下油掛(後の京橋)間が開業。
* [[1901年]](明治34年)[[4月12日]]:伏見線が京都駅前電停まで延伸。
* [[1904年]](明治37年)[[12月28日]]:京都電気鉄道[[京都市電堀川線|堀川線]]が四条西洞院から延伸し京都駅前に乗り入れ。
* [[1912年]](明治45年)[[6月11日]]:[[京都市電烏丸線]]が開業<ref name="sone04">{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集)|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄|series=週刊朝日百科|date=2011-04-03|publisher=[[朝日新聞出版]]|pages=22-23|volume=4号 京福電気鉄道・叡山電鉄・嵯峨野観光鉄道・京都市交通局}}</ref>。
* [[1918年]]([[大正]]7年)[[7月1日]]:京都電気鉄道が[[京都市]]に買収され、京都市電の路線となる<ref name=sone04/>。
* [[1929年]]([[昭和]]4年)[[1月16日]]:京都市電伏見線が[[京都市電河原町線|河原町線]]に編入される。
* [[1961年]](昭和36年)[[8月1日]]:京都市電堀川線(通称:北野線)が廃止<ref name=sone04/>。
* [[1977年]](昭和52年)[[10月1日]]:京都市電烏丸線の残存区間(京都駅前 - 烏丸七条)が廃止。
* [[1978年]](昭和53年)10月1日:京都市電が全廃(河原町線も廃止)<ref name=sone04/>。これにより、京都駅前電停は廃止となる。
* [[1981年]](昭和56年)[[5月29日]]:[[京都市営地下鉄]][[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]]の当駅 - [[北大路駅]]間の開通と同時に地下鉄京都駅が開業<ref name=sone04/><ref group="N" name="asa20210529">{{Cite news|url = https://www.asahi.com/articles/ASP5X7JN3P5XPLZB00L.html|title = 京都の地下鉄が開業40年 コロナ直撃、運賃上げ議論も|newspaper = [[朝日新聞デジタル]]|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210529013721/https://www.asahi.com/articles/ASP5X7JN3P5XPLZB00L.html|date = 2021-05-29|archivedate = 2021-05-29|accessdate = 2022-02-18}}</ref>。
* [[1988年]](昭和63年)[[6月11日]]:京都市営地下鉄烏丸線の当駅 - [[竹田駅 (京都府)|竹田駅]]間が延伸開業<ref name=sone04/>。
* [[2007年]]([[平成]]19年)[[4月1日]]:[[乗車カード|ICカード]]「[[PiTaPa]]」の利用が可能となる。
* [[2012年]](平成24年)[[9月25日]]:[[Kotochika|Kotochika京都]]が北改札側に開業。
* [[2013年]](平成25年)[[3月1日]]:Kotochika京都が中央改札口側に開業。
* [[2015年]](平成27年)[[12月12日]]:地下鉄線ホームに[[可動式ホーム柵]]が設置され、使用を開始<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』2016年3月号、106頁。</ref>。
== 駅構造 ==
[[ファイル:Kyoto Station aerial photo 20200819.jpg|thumb|空中写真(2020年8月)]]
現在のJR在来線と東海道新幹線の駅は、かつては同じ[[日本国有鉄道]](国鉄)の駅であったが、[[国鉄分割民営化]]後は在来線がJR西日本、新幹線がJR東海の管轄に分かれ、駅長もJR西日本とJR東海で別に配置されている。
なお、JR西日本の駅は管理駅として[[山科駅]]と[[梅小路京都西駅]]を管轄しているが、山科駅は地区駅長が配置され、一定の権限を持っている。[[夜間滞泊]]の設定もある。
JR京都駅の[[事務管理コード|事務管コード]]は▲610116、京都市内の事務管コードは▲619902である<ref>日本国有鉄道旅客局(1984)『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』。</ref>。
=== JR西日本 ===
{{駅情報
|社色 =#0072bc
|文字色 =
|駅名 = JR西日本 京都駅
|画像 = JR West Kyōto Station JR Line Central Gate.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 中央口改札(2022年12月)
|よみがな = きょうと
|ローマ字 = Kyōto
|電報略号 = キト
|所属事業者 = [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
|所在地 = [[京都市]][[下京区]]東塩小路町901
|座標 = {{Coord|34|59|7.65|N|135|45|27.92|E|type:railwaystation_region:JP|display=inline,title|name=JR西日本 京都駅}}
|開業年月日 = [[1877年]]([[明治]]10年)[[2月6日]]
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 9面14線
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 149,406<!--データで見るJR西日本、京都府統計書による-->
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 4
|所属路線1 = {{JR西路線記号|K|A}} [[東海道本線]]([[琵琶湖線]]・[[JR京都線]])<br />({{JR西路線記号|K|B}} [[湖西線]]直通含む)
|前の駅1 = *JR-A30/B30 [[山科駅|山科]]
|駅間A1 = 5.5
|駅間B1 = 2.5
|次の駅1 = [[西大路駅|西大路]] JR-A32*
|駅番号1 ={{Color box|white|JR-A31}}(琵琶湖線・JR京都線)<br />{{Color box|white|JR-B31}}(湖西線)
|キロ程1 = 513.6 km([[東京駅|東京]]起点)<br />[[米原駅|米原]]から67.7
|起点駅1 =
|所属路線2 = {{JR西路線記号|K|E}} [[山陰本線]]([[嵯峨野線]])
|駅間B2 = 1.7
|次の駅2 = [[梅小路京都西駅|梅小路京都西]] JR-E02
|駅番号2 = {{Color box|white|JR-E01}}
|キロ程2 = 0.0
|起点駅2 = 京都
|所属路線3 = {{JR西路線記号|K|D}} [[奈良線]]
|駅間B3 = 1.1
|次の駅3 = [[東福寺駅|東福寺]] JR-D02
|キロ程3 = 34.7 km([[木津駅 (京都府)|木津]]起点)<br />[[奈良駅|奈良]]から41.7
|駅番号3 = {{Color box|white|JR-D01}}
|起点駅3 =
|備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])<br />[[みどりの窓口]] 有<br />[[みどりの券売機プラス]] 設置駅<br />[[ファイル:JR area KYO.png|15px|京]] [[特定都区市内|京都市内]]駅(中心駅)
|備考全幅 = * 当駅から山科方は琵琶湖線、西大路方はJR京都線の愛称が与えられる。当駅 - 西大路間に[[京都貨物駅]]有(当駅から1.8km)
}}
* JR西日本の在来線各線は[[地上駅]]であり、東海道本線(JR京都線・琵琶湖線)・湖西線用の[[島式ホーム]]3面6線と[[単式ホーム]]1面1線、構内西側に山陰本線(嵯峨野線)用の[[頭端式ホーム]]3面4線、南側に奈良線用の頭端式ホーム2面3線(このうち1線のみ大阪方面に延びている)を持つ。
* 各ホームは西側[[橋上駅|橋上駅舎]]と東側改札内地下通路で結ばれている。橋上駅舎から各ホームには[[エレベーター]]が設置されている。停車場に分類される。
* 北側の烏丸中央口に面しているホームは、全長558mで[[鉄道に関する日本一の一覧|日本一]]長いホームとして知られているが、0番のりば(旧1番のりば)のホーム自体の長さは323mであり、残りの部分は西端に切り欠きホームとして設けられている30番のりば(235m)である。この30番のりばは[[関西空港駅|関西空港]]行きの特急「[[はるか (列車)|はるか]]」専用で、[[1994年]][[9月4日]]の運転開始当初は「はるかホーム」という名称が付けられていた。なお、4代目の新駅ビル建設に際して旧1番のりばを取り壊し、現0番のりばのホーム拡幅に利用している。
* 以前は、運行管理上は、現0番線が2番線、現2番線が4番線、現7番線が11番線と呼ばれていたが、[[2002年]][[7月29日]]の[[運行管理システム (JR西日本)#JR京都・神戸線システム|運行管理システム]]の導入の際に線路呼称を変え、運転線路名と旅客案内上ののりば名を一致させた。これに伴い、東海道本線上り通過線である1番線は、ホームとしては欠番になっている。
* また、東海道本線の下り通過線は2002年7月29日の運行管理システムの導入の際に廃止されており、当駅を通過する[[吹田貨物ターミナル駅|吹田]]方面行きの[[貨物列車]]は6番または7番のりばを通過する。
* 西側にある山陰本線ホームは、以前は「山陰1・2番のりば」、[[1989年]]のホーム増設後は「山陰1 - 4番のりば」と呼ばれており、[[機回し線]](電化後に撤去)が敷設されていたが、1994年[[12月3日]]にホーム番号の呼び名が整理され、「はるかホーム」を含めて30 - 34番のりばと呼ぶようになった。30番台にしたのは、山陰本線の「さん」にかけたものである<ref name="trnv">{{Cite web|和書|url=http://www.westjr.co.jp/fan/blog/article/2013/01/page_3190.html|title=京都駅 ホーム番号のトリビア|accessdate=2013-01-31|date=2013-01-31|work=広報だより「トレナビ」|publisher=JR西日本}}</ref><ref group="N">大阪日日新聞「街の駅再発見 京都駅」[http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/machinoeki/machi0307071.html 街の駅再発見 京都駅] - 大阪日日新聞</ref>。このうち34番のりばは、日本一大きい数字のホーム番号である<ref name="trnv" />。旧駅ビル時代は[[待合室]]が存在したが、その後長らくは、6・7番のりばにある小さな列車待ちスペース以外は、待合室は存在しなかったが、[[2007年]][[3月18日]]に、長距離列車の発着の多い0番のりばにも待合室が設置された。
==== のりば ====
先述の通り1番のりばは欠番となっている。0番のりばの西側が30番のりばで、その北側に山陰線の31〜34番のりばがある。
方面表記は[[2020年]][[6月30日]]現在の「JRおでかけネット」の駅構内図に即している。また、特急列車専用ホームは、当該特急の直通路線名で案内されているのでそれに合わせた。
基本的に、0 - 3番のりばが東海道本線上り(湖西線・草津線直通を含む)、4 - 7番のりばが東海道本線下り、8 - 10番のりばが奈良線、30番のりばが関空特急「はるか」、31番 - 33番のりばが山陰本線、11・12番線が東海道新幹線上り、13・14番線が同新幹線下りに用いられている。
2022年3月6日に2番線、10月19日に5番線にホームドアが設置された<ref>{{Cite web|和書|title=JR西日本のホームドア:京都駅2・5番のりばの昇降式ホーム柵|url=https://ycs3120.com/platform-doors/12099/ |website=YCS-info|accessdate=2023-07-1|date|2021-11-13}}</ref>。
発着する特急については[[#発着する在来線優等列車|後述]]する。
<!--方面表記は、JR西日本(JRおでかけネット)の「構内図」の記載に準拠-->
{| class="wikitable"
!のりば!!路線!!行先!!備考
|-
!rowspan="3"|0
|[[ファイル:JR Central Takayama Line.svg|17px|CG]] [[高山本線|高山線]] 特急
|[[高山駅|高山]]方面
|「[[ひだ (列車)|ひだ]]」
|-
|[[北陸本線|北陸線]] 特急
|[[福井駅 (福井県)|福井]]・[[金沢駅|金沢]]方面
|[[サンダーバード (列車)|「サンダーバード」・「ビジネスサンダーバード」]]
|-
|rowspan="2"|[[File:JRW kinki-A.svg|17px|A]] [[琵琶湖線]]([[東海道本線]])
|rowspan="2"|[[大津駅|大津]]・[[草津駅 (滋賀県)|草津]]・[[米原駅|米原]]方面
|特急「[[びわこエクスプレス]]」・「はるか」<br /> [[File:JRW kinki-C.svg|17px|C]] [[草津線]]直通列車、一部新快速
|-
!rowspan="2"|2・3
|一部0番のりば
|-
|[[File:JRW kinki-B.svg|17px|B]] [[湖西線]]
|[[堅田駅|堅田]]・[[近江今津駅|近江今津]]方面
|基本的に3番のりばを使用することが多い
|-
!4・5
|rowspan="2"|[[File:JRW kinki-A.svg|17px|A]] [[JR京都線]](東海道本線)
|[[高槻駅|高槻]]・[[大阪駅|大阪]]・[[三ノ宮駅|三ノ宮]]方面
|一部6・7番のりば
|-
!rowspan="4"|6・7
|[[新大阪駅|新大阪]]・大阪方面
|特急「サンダーバード」<br />「びわこエクスプレス」、一部新快速
|-
|[[File:JRW kinki-W.svg|17px|W]] [[きのくに線]]([[紀勢本線]]) 特急
|[[和歌山駅|和歌山]]・[[白浜駅|白浜]]・[[新宮駅|新宮]]方面
|「[[くろしお (列車)|くろしお]]」
|-
|[[智頭急行智頭線|智頭急行線]]経由 [[File:JRW san-A.svg|17px|A]] [[山陰本線|山陰線]] 特急
|[[鳥取駅|鳥取]]・[[倉吉駅|倉吉]]方面
|「[[スーパーはくと]]」
|-
|[[File:JRW kinki-S.svg|17px|S]] [[関西空港線]] 特急
|[[天王寺駅|天王寺]]・[[関西空港駅|関西空港]]方面
|野洲・草津方面からの「[[はるか (列車)|はるか]]」
|-
!8 - 10
|[[File:JRW kinki-D.svg|17px|D]] [[奈良線]]
|[[東福寺駅|東福寺]]・[[宇治駅 (JR西日本)|宇治]]・[[奈良駅|奈良]]方面
|
|-
!30
|[[File:JRW kinki-S.svg|17px|S]] 関西空港線 特急
|天王寺・関西空港方面
|京都始発の「はるか」
|-
!31
|[[File:JRW kinki-E.svg|17px|E]] [[嵯峨野線]]([[山陰本線]]) 特急
|[[福知山駅|福知山]]・[[城崎温泉駅|城崎温泉]]・[[天橋立駅|天橋立]]・[[東舞鶴駅|東舞鶴]]方面
|「[[きのさき]]」「[[はしだて (列車)|はしだて]]」「[[まいづる (列車)|まいづる]]」<br>一部30番のりば
|-
!32・33
|rowspan="2"|[[File:JRW kinki-E.svg|17px|E]] 嵯峨野線(山陰本線)
|[[二条駅|二条]]・[[嵯峨嵐山駅|嵯峨嵐山]]・[[亀岡駅|亀岡]]・[[園部駅|園部]]方面
|一部31番のりば
|-
!34
|style="text-align:center;" colspan="2"|降車専用ホーム
|}
(出典:[https://www.jr-odekake.net/eki/premises?id=0610116 JR西日本:構内図])
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
JR West Kyōto Station JR Line Platform 0.jpg|0番のりばホーム(2022年12月)
JR West Kyōto Station JR Line Platform 2・3.jpg|2・3番のりばホーム(2022年12月)
JR West Kyōto Station JR Line Platform 4・5.jpg|4・5番のりばホーム(2022年12月)
JR West Kyōto Station JR Line Platform 6・7.jpg|6・7番のりばホーム(2022年12月)
JR West Kyōto Station JR Line Platform 8・9.jpg|8・9番のりばホーム(2022年12月)
JR West Kyōto Station JR Line Platform 10.jpg|10番のりばホーム(2022年12月)
JR West Kyōto Station JR Line Platform 30・31.jpg|30・31番のりばホーム(2022年12月)
JR West Kyōto Station JR Line Platform 32・33.jpg|32・33番のりばホーム(2022年12月)
JR West Kyōto Station JR Line Platform 34.jpg|34番のりばホーム(2022年12月)
</gallery>
[[2020年]](令和2年)[[6月30日]]現在、のりばは上記のように案内されているが、細かく分けると以下のように使用されている。
* [[琵琶湖線]]の[[新快速]]・[[普通列車|普通]]と、[[湖西線]]の新快速・平日夕方の快速は基本的に2番のりばを使用するが、平日朝の琵琶湖線・湖西線に直通する新快速と、夕ラッシュ時に[[草津線]]に直通する普通は0番のりばを使用する。3番のりばは湖西線の普通および土曜日・休日の[[快速列車|快速]](当駅始発)、当駅で新快速の接続待ちを行う琵琶湖線の普通が使用する。
** 2017年3月3日までは、大阪発9時台に、前4両が湖西線近江今津・敦賀行き、後ろ8両が当駅止まりになる運用があったが、6日からは12両で近江今津まで行くようになった。
** 2023年現在も平日大阪発7時台の新快速で、0番乗り場にて分割し、前4両が湖西線経由敦賀行き、後ろ8両が琵琶湖線米原行きとなる列車がある。この列車のみ後ろ8両が先行する前4両と山科駅で接続を取って先に発車する。
* [[JR京都線]]方面の列車は、普通電車([[京阪神緩行線]])は基本的に4番のりば、その他の電車は5番のりばから発車する。ただし、毎日朝と平日夕方の新快速は6・7番のりばから発車する。
* 特急列車については関空特急「[[はるか (列車)|はるか]]」を除き、北陸方面「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」・米原方面「[[びわこエクスプレス]]」・高山方面「[[ひだ (列車)|ひだ]]」は0番のりば、鳥取方面[[スーパーはくと]]」・「白浜方面[[くろしお (列車)|くろしお]]」・[[大阪駅|大阪]]行きの「サンダーバード」「びわこエクスプレス」「ひだ」は6・7番のりばを使用する。
* 関空特急「はるか」は原則として行き止まりの30番のりばを専用ホームとして使用するが、野洲・[[草津駅 (滋賀県)|草津]]発の列車に限り6・7番のりばを使用する。野洲行きの「はるか」は0番のりばを使用する。
* 0番のりばは、「スーパーはくと」・「くろしお」などの当駅止まりの列車も到着し、列車によっては「はるか」用の30番のりばに到着するものもある。
* 6・7番のりばは琵琶湖線・湖西線・草津線からの当駅止まりの列車も到着する。その多くは[[京都総合運転所]]への[[回送]]になる。
* [[2006年]][[3月17日]]まで運行されていた[[東京駅|東京]]発の寝台特急「[[サンライズ出雲|出雲]]」は、東海道本線から[[山陰本線]]への直通が2番線以外では不可能であったため、2番のりばから発着していた。
* 大阪方面から奈良線へ直通する[[臨時列車]]は、2・3番のりばを使用する。
;JR西日本 京都駅 構内配線図
<div class="NavFrame" style="border: none; text-align: left; font-size: 100%">
<div class="NavHead" style="background: transparent; text-align: left; font-weight: normal">
<small> ※ JR西日本 京都駅の構内鉄道配線図('''注意 巾600px''')を表示するには、右の [表示] をクリックされたい。</small>
</div>
<div class="NavContent">
{{駅配線図|image=Rail_Tracks_map_JR-W_Kyoto_Station.svg
|title=西日本旅客鉄道 京都駅 構内配線略図
|width=600px
|up=<small>{{JR西路線記号|K|D}}[[奈良線]]<br />[[宇治駅 (JR西日本)|宇治]]、[[木津駅 (京都府)|木津]]、[[奈良駅|奈良]]方面</small>
|up-align=left
|left=<small>{{JR西路線記号|K|A}}[[東海道本線]]([[琵琶湖線]])<br />[[山科駅#JR西日本|山科]]、[[米原駅|米原]]方面<br />{{JR西路線記号|K|B}}[[湖西線]]<br />[[近江今津駅|近江今津]]、[[福井駅 (福井県)|福井]]、[[金沢駅|金沢]]方面</small>
|left-valign=middle
|right=<small>■貨物線<br />[[京都貨物駅]]方面<br />{{JR西路線記号|K|A}}東海道本線([[JR京都線]])<br />[[高槻駅|高槻]]、[[大阪駅|大阪]]、[[姫路駅|姫路]]方面<br />{{JR西路線記号|K|E}}[[山陰本線]]([[嵯峨野線]])<br />[[亀岡駅|亀岡]]・[[福知山駅|福知山]]方面</small>
|right-valign=middle
|down=
|down-align=
|source=以下を参考に作成<br /> * 「JR西日本 東海道本線 米原-神戸間 線路配線略図」、「特集 東海道本線2」、『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』 第48巻1号(通巻第561号) 2008年1月号、折込、[[交友社]]、2008年 (主要部分)<br /> * [[川島令三]]、『東海道ライン 全線・全駅・全配線 第6巻 米原駅 - 大阪エリア』ISBN 978-406-270016-0、17・18頁、 [[講談社]]、2009年 (側線・入線方向等)<br /> * [http://www.jr-odekake.net/eki/premises.php?id=0610110 JR西日本公式ホームページ JRおでかけネット - 京都駅 - 構内図] (のりば番号)
|note=<small>※ 白線クロスハッチは降車専用ホーム<br />※ 周辺で隣接または交差する他事業者線は本図では省略した。<br />※ 山陰本線(嵯峨野線)は2009年に[[複線]]化されているが、本図記載部分の配線は変わらない。構内の端で[[単線]]から複線となる。</small>}}
</div></div>
==== 発着する在来線優等列車 ====
当駅は、山陰方面へ向かう「[[スーパーはくと]]」、関空特急「[[はるか (列車)|はるか]]」、山陰本線経由で北近畿方面へ向かう各種特急の起点となっている。(ただし、「はるか」の一部は野洲駅または草津駅を始発・終着駅とする)また、大阪駅発着の北陸・飛騨行きの特急も停車する。
* 北陸方面
** 特急「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」([[大阪駅]] - [[金沢駅]]・[[和倉温泉駅]])
* 東海道・高山線方面
** 特急「[[ひだ (列車)|ひだ]]」(大阪駅 - [[高山駅]]。上り下り1日各1本のみ。大阪発着列車には[[富山駅|富山]]直通はない)
** 特急「[[びわこエクスプレス]]」(大阪駅 - [[米原駅]])平日のみ上り2本下り1本。
* 山陰方面([[智頭急行智頭線|智頭急行線]]経由)
** 特急「[[スーパーはくと]]」(京都駅 - [[鳥取駅]]・[[倉吉駅]])
* 阪和線
** 関空特急「[[はるか (列車)|はるか]]」(野洲駅・草津駅・京都駅 - [[関西空港駅]])
** 特急「[[くろしお (列車)|くろしお]]」(京都駅 - 和歌山駅・白浜駅・新宮駅) 上り下り1日各1本のみ。
* 北近畿方面([[山陰本線]]・[[舞鶴線]]・[[京都丹後鉄道宮福線]]・[[京都丹後鉄道宮豊線]]経由)
** 特急「[[きのさき (列車)|きのさき]]」(京都駅 - [[福知山駅]]・[[豊岡駅 (兵庫県)|豊岡駅]]・[[城崎温泉駅]])
** 特急「[[はしだて (列車)|はしだて]]」(京都駅 - 福知山駅 - [[天橋立駅]] - 豊岡駅)京都発着の特急「[[まいづる (列車)|まいづる]]」に併結。
** 特急「[[まいづる (列車)|まいづる]]」(京都駅 - [[綾部駅]] - [[東舞鶴駅]])
==== 出入口 ====
在来線の出入口は、北側地上に「烏丸中央口」、南北自由通路に通じる西側[[橋上駅|橋上駅舎]]上に「西口」、地下自由通路に通じる地下1階に「地下東口」、南東側地上に「八条東口」、山陰線30番・31番乗り場ホームから[[ビックカメラ]]JR京都駅店2階に直結する「西洞院口(にしのとういんぐち)」がある。北側地下1階に存在した「地下中央口」は、2022年12月25日をもって閉鎖された<ref group="N" name="kyoto-np/221225" />。
乗り換えは、烏丸口のバス利用者は「烏丸中央口」、八条口のバス利用者は「八条東口」「新幹線八条口」など、近鉄線へは西口、地下鉄へは地下東口が至近である。
他の京都市内にある各線の駅や大都市の主要駅と比べると、烏丸中央口は駅前のターミナル(バス・タクシーのりば)が広くゆとりがあるのが特徴である。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
JR Kyoto sta 001.jpg|烏丸中央口(2009年4月)
JR West Kyōto Station JR Line West Gate.jpg|西口改札(2022年12月)
JR West Kyōto Station JR Line Underground East Gate.jpg|地下東口改札(2022年12月)
JR West Kyōto Station JR Line Hachijō East Gate.jpg|八条東口改札(2022年12月)
JR West Kyōto Station JR Line Nishinotōin Gate.jpg|西洞院口改札(2022年12月)
JR West Kyōto Station JR Line Underground Central Gate.jpg|地下中央口改札(当時、2022年12月)
</gallery>
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Kyoto Station building-3.jpg|駅ビル内観(2017年7月)
Kyoto Kyoto Station Blick in den Bahnhof 1.jpg|駅ビル大階段付近(2018年7月)
Kyoto Station social distancing message 20211225191502.jpg|コロナ禍中、[[社会距離拡大戦略|社会的距離]]を促す大階段の[[ライトアップ]](2021年12月)
</gallery>
==== 駅弁 ====
主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=48,186-187}}</ref>。
{{Div col||20em}}
* 京都牛膳
* 特製幕之内御膳
* 牛めし 近江
* 二段重 海~金目と鯖の煮魚
* 八角弁当
* 厚切りロースとんかつ弁当
* 二段重 山~鶏とだし巻き卵
* 牛カルビ焼肉重
* 品川貝づくし
* 東海道新幹線弁当
* ひと手間かけた からあげ弁当
* 六甲山縦走弁当
* おむすび弁当
* ハローキティ新幹線弁当
* 肉めし
* 八角弁当
* あっちっちかにめしとすきやき重
* 神戸のすきやきとステーキ弁当
* ひっぱりだこ飯
* パンダくろしお弁当
{{Div col end}}
==== その他 ====
* 南北自由通路を南(または南西)に八条通を跨ぐ形で延伸する計画があったが、[[京都市役所#財政|財政難]]などの理由で頓挫した<ref group="N">[http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20110309000056 公共交通優先へ京都駅南口再編 京都市、整備計画まとめる] - 京都新聞(2011年3月9日付)</ref>。
* 国鉄時代から民営化後の初期まで(1993年3月まで)は、西明石駅から当駅までが禁煙区間であり、当駅より東では車内での喫煙が認められていた。
=== JR東海 ===
{{駅情報
|社色 = #f77321
|文字色 =
|駅名 = JR東海 京都駅
|画像 = JR Central Kyōto Station Shinkansen Central Gate.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 中央口改札(2022年12月)
|よみがな= きょうと
|ローマ字= Kyōto
|所在地 = [[京都市]][[下京区]]東塩小路高倉町8-3*
|座標 =
|所属事業者 = [[東海旅客鉄道]](JR東海)
|所属路線 = {{Color|mediumblue|■}}[[東海道新幹線]]
|前の駅 = [[米原駅|米原]]
|駅間A = 67.7
|駅間B = 39.0
|次の駅 = [[新大阪駅|新大阪]]
|駅番号 =
|キロ程 = 513.6
|起点駅 = [[東京駅|東京]]
|電報略号 = キト
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面4線
|開業年月日 = [[1964年]]([[昭和]]39年)[[10月1日]]
|乗車人員 = 32,000
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|駅長配置駅]](管理駅)<br />[[ファイル:JR area KYO.png|15px|京]] [[特定都区市内|京都市内]]駅(中心駅)
|備考全幅 = * 正式な所在地。一部ホームは[[南区 (京都市)|南区]]にもまたがる。
}}
JR東海の京都駅は東海道新幹線のみであり、JR西日本の駅の南側にある[[高架駅]]である。
東海道新幹線の全営業列車の停車駅であるが、発着駅 (始発列車や終着列車を担う駅) ではない。島式ホーム2面4線を持ち通過線はない。ただし中央側の2線は低速通過線として使用可能な構造である。新大阪方には京都駅前後区間専用の保守基地と[[分岐器#乗越分岐器|横取装置]]がある。
ホーム(および新幹線車内)の乗り換え案内放送では、かつては地下鉄線はアナウンスされなかったが、2015年3月14日の[[ダイヤ改正]]よりアナウンスされるようになった。
各ホームには[[エレベーター]]が設置されており、11・12番線のエレベーターは1階の新幹線八条口に繋がっている。
コンコースには[[東海キヨスク]]の店舗もある。
出入口は、南側地上に「新幹線八条口」、南東側地上に「新幹線八条東口」、新幹線コンコース西側に「新幹線中央口」がある。
在来線と新幹線は「中央のりかえ口」と「東のりかえ口」を介して乗り換えできる。近鉄線へは新幹線中央口、地下鉄へは新幹線八条東口が最寄りである。
2016年3月10日にホームへの[[ホームドア|可動式安全柵]]の設置が完了した<ref group="N">{{Cite news|title=JR東海 東海道新幹線可動柵の設置完了|newspaper=[[交通新聞]]|date=2016-03-09|publisher=交通新聞社}}</ref>。
なお、ホームの南側(八条口側)にはJR東海の駅舎があるが、これは新幹線開通時に建設されたもので近鉄・新幹線のホーム下にあり、規模は小さく、新しい京都駅ビル建設の際も南北自由通路の設置やJR線と近鉄線の改札を完全分離化したことと、在来線の自動券売機が八条東口に集約され、JR東海の機種(地紋がJR東海の物で、左上に□に「海」の記述がありながら「西日本会社線」と表記)から烏丸口と同様のJR西日本の機種に変更された。
改札業務がJR東海からJR西日本(関連会社の委託を含む)に移管されたこと以外は大きな変更はなかった。
==== のりば ====
<!--方面表記は、JR東海の「駅構内図」の記載に準拠-->
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!行先
|-
!11・12
| rowspan="2" |[[File:Shinkansen jrc.svg|17px]] 東海道新幹線
| style="text-align:center;" |上り
|[[東京駅|東京]]方面
|-
!13・14
| style="text-align:center;" |下り
|[[新大阪駅|新大阪]]・[[博多駅|博多]]方面
|}
(出典:[https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/kyoto/map.html JR東海:駅構内図])
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
JR Central Kyōto Station Shinkansen Hachijō Gate.jpg|八条口改札(2022年12月)
JR Central Kyōto Station Shinkansen Hachijō East Gate.jpg|八条東口改札(2022年12月)
Kyōto Station East Transfer Gate.jpg|東のりかえ口(2022年12月)
Kyōto Station Central Transfer Gate.jpg|中央のりかえ口(2022年12月)
JR Central Kyōto Station Shinkansen Platform 11・12.jpg|11・12番線ホーム(2022年12月)
JR Central Kyōto Station Shinkansen Platform 13・14.jpg|13・14番線ホーム(2022年12月)
Tokaido Shinkansen Kyoto station railway track maintenancea line 01.jpg|保守基地線と保線車両(13・14番線先端)(2008年1月)
</gallery>
=== 近畿日本鉄道 ===
{{駅情報
|社色 = crimson
|駅名 = 近鉄 京都駅
|画像 = Kintetsu-Kyoto-STA Gate.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 中央改札口(2021年12月)
|よみがな = きょうと
|ローマ字 = Kyoto
|電報略号 = キト
|駅間B = 0.9
|次の駅 = [[東寺駅|東寺]] B02
|駅番号 = {{近鉄駅番号|B|01}}
|所属事業者 = [[近畿日本鉄道]](近鉄)
|所属路線 = {{近鉄駅番号|B}} [[近鉄京都線|京都線]]
|キロ程 = 0.0
|起点駅 = 京都
|所在地 = [[京都市]][[下京区]]東塩小路釜殿町31-1
|座標 = {{Coord|34|59|4.82|N|135|45|27.05|E|type:railwaystation_region:JP|name=近鉄 京都駅}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 4面4線
|開業年月日 = [[1928年]]([[昭和]]3年)[[11月15日]]
|廃止年月日 =
|乗降人員 = 69,950
|統計年度 = [[2022年]]([[令和]]4年)
|備考 =
}}
[[頭端式ホーム]]4面4線を有する[[高架駅]]で、ホーム[[有効長]]は6両編成分である。新幹線ホームの下に位置し、ホーム全体が覆われている構造上、特急車両の喫煙室は当駅停車中は使用禁止となる<ref>[https://www.kintetsu.co.jp/gyoumu/smoking/ 特急列車の全席禁煙化等について] - 近畿日本鉄道</ref>。
[[1997年]]にJR京都駅4代目駅舎が竣工して南北自由通路が通行可能になる以前には、烏丸口に有人個別対応の券売窓口が存在していた。
また中央口改札には、開業当初から長らく(国鉄→)JR京都駅の構内に入り込む形で乗換用の改札機があったが、現京都駅ビル建設および同駅南北自由通路設置に合わせて、両社の乗換改札口は完全に分離された。そして、[[2007年]][[12月1日]]には駅リニューアルの一環として1階の八条口改札・切符売り場が廃止され、[[定期乗車券|定期券]]売り場、駅営業所等を含めて2階改札口(中央口)に移転、集約された。駅長配置駅である。
==== のりば ====
<!--方面表記は、近鉄の「駅構内図」の記載に準拠-->
{| class="wikitable"
!のりば<!-- 事業者側による呼称。近鉄は主要駅を中心に「○番のりば」と呼称 --->!!路線!!行先
|-
!1 - 4
|{{近鉄駅番号|B}} 京都線
|[[近鉄奈良駅|近鉄奈良]]・[[橿原神宮前駅|橿原神宮前]]・[[吉野駅 (奈良県)|吉野]]・伊勢志摩方面
|}
(出典:[https://www.kintetsu.co.jp/soukatsu/kounai/kyoto.html 近鉄:駅構内図])
{| class="wikitable"
|+種別ごとののりば表
!のりば
!特急
!急行
!各駅停車
|-
!1
| rowspan="2" |終日
| rowspan="2" |早朝・深夜
|早朝・深夜
|-
!2
|朝のみ
|-
!3
| rowspan="2" | -
|終日にわたって使用
|主に朝夕
|-
!4
|朝・夕
|終日にわたって使用
|}
* 1・2番線は[[近鉄特急|特急]]専用ホームであるが、朝および深夜時間帯は一般種別の列車も使用する<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/railway/Dia/pdf/160319/500501.pdf 近鉄京都駅の駅掲出時刻表]}}(2016年3月19日変更)- 近畿日本鉄道公式ウェブサイト、2016年3月29日閲覧</ref>。
* 1・2・3番線は乗降分離型となっている。ホーム配置は南から1番線乗車ホーム、1番線降車・2番線乗車ホーム、2番線・3番線降車ホーム、3番線乗車・4番線乗降車ホームの順である。
* 2022年4月29日からは19200系あをによしが使用を開始した<ref>{{Cite web|和書|title=近鉄19200系「あをによし」が営業運転を開始|鉄道ニュース|2022年4月29日掲載|鉄道ファン・railf.jp |url=https://railf.jp/news/2022/04/29/202500.html |website=鉄道ファン・railf.jp |access-date=2022-04-29 |language=ja}}</ref>。
* 準急は到着列車のみ。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
近鉄京都駅 - panoramio.jpg|ホーム(2010年1月)
</gallery>
=== 京都市営地下鉄 ===
{{駅情報
|社色 = #3cb371
|駅名 = 京都市営地下鉄 京都駅
|画像 = Kyoto station subway entrance 01.JPG
|pxl = 300
|画像説明 = 地下鉄1番出入口
|よみがな = きょうと
|ローマ字 = Kyoto<!-- 交通局HPの路線図の表記に合わせる。-->
|副駅名 =
|前の駅 = K10 [[五条駅 (京都府)|五条]]
|駅間A = 1.0
|駅間B = 0.8
|次の駅 = [[九条駅 (京都府)|九条]] K12
|駅番号 = {{駅番号r|K|11|#3cb371|6}}<ref name="chikatetsu"/>
|所属事業者 = [[京都市交通局]]([[京都市営地下鉄]])
|所属路線 = [[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]]
|キロ程 = 10.3
|起点駅 = [[国際会館駅|国際会館]]
|所在地 = [[京都市]][[下京区]]東塩小路町
|座標 = {{Coord|34|59|7.97|N|135|45|36.44|E|type:railwaystation_region:JP|name=京都市営地下鉄 京都駅}}
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1981年]]([[昭和]]56年)[[5月29日]]<ref group="N" name="asa20210529"/>
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = 83,366
|統計年度 = 2021年<!---京都市交通事業白書(事業概要)--->
|備考 =
}}
島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]である。
改札口は北改札(有人)、中央1改札(有人)、中央2改札(無人)、南改札(無人)の4か所で、奈良線以外のJR在来線への乗り換えは中央2改札が、JR奈良線・新幹線および近鉄線との乗り換えは南改札が便利である。JR線の東側の地下で南北方向に交差しているため、南北自由通路からのアクセスは悪い。
==== のりば ====
<!--方面表記は、京都市営地下鉄の「構内図」の記載に準拠--->
{| class="wikitable"
!のりば<!-- 事業者側による呼称。京都市交通局は「○番のりば」と呼称 --->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
| rowspan="2" |[[File:Subway KyotoKarasuma.svg|15px]] 烏丸線
| style="text-align:center;" |下り
|[[竹田駅 (京都府)|竹田]]・[[近鉄奈良駅|奈良]]方面
|-
!2
| style="text-align:center;" |上り
|[[国際会館駅|国際会館]]方面
|}
(出典:[https://www2.city.kyoto.lg.jp/kotsu/tikadia/hyperdia/menu0221.htm 京都市営地下鉄:構内図])
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Entrance of Kyoto Station (Kyoto Municipal Subway) 2.jpg|中央1改札(2019年2月)
Kyoto station subway 01.JPG|可動式ホーム柵が設置されたプラットホーム(2016年3月)
</gallery>
{{-}}
== 京都駅ビル ==
京都駅の駅舎のうち、JR西日本の烏丸中央口側のものを「'''京都駅ビル'''」と呼ぶ。
地上16階、地下3階 (高さ60m)、敷地面積38,000m²、延床面積は238,000m²、東西の長さは470mにおよび、鉄道駅の駅舎としては日本有数の規模である。[[1997年]]に完成し、新しい京都市の顔となりつつある。[[大阪駅]]の[[大阪ステーションシティ]]、[[名古屋駅]]の[[JRセントラルタワーズ]]や[[札幌駅]]の[[JRタワー]]など、その後のJR各社の[[ターミナル駅]]再開発の先駆け的存在でもある。
現在の駅舎は4代目に当たる。[[1952年]]に竣工した[[鉄筋コンクリート]]造の3代目駅舎は、駅が発展するとともに増築に次ぐ増築を重ねたため、[[地下街]]を含む[[商店街]]や連絡通路などを含めると構内の構造は複雑化し、不便なものになっていた。また駅舎本体にも老朽化に伴う種々の問題が生じて来た。そこで、抜本的対策として[[駅ビル]]の新築が計画された。これは[[1994年]]の[[平安京|平安遷都1200年]]記念事業の一環でもあった<ref name="RF440" />。
=== 京都駅ビルの設計 ===
京都駅ビル(JR西日本)は、日本の鉄道駅舎としては異例の[[建築設計競技|国際指名コンペ]]方式で行われ、新駅ビル設計者には[[原広司]]、[[安藤忠雄]]、[[池原義郎]]、[[黒川紀章]]、[[ジェームズ・スターリング (建築家)|ジェームス・スターリング]]、[[ベルナール・チュミ]]、{{仮リンク|ペーター・ブスマン|wikidata|Q2074208}}の7名の複数の[[建築家]]が指名された。設計審査の結果、先ず原広司案、安藤忠雄案、スターリング案の3案に絞り込まれ、さらなる協議を経て、[[梅田スカイビル]]などの作品で知られる原広司の案が最終案として採用された。
京都駅周辺は高さ120mまでの建築物が建築可能となる特例措置が設けられているが、高さ制限の緩和は古都の景観を損なうものとして反対意見も根強かったため、建物の巨大さ、高さに起因する圧迫感を回避し、いかに周辺環境との調和を図るかが作品の評価のポイントとなった。採用された原広司案は、最大高さを60mに抑えた上で、南北方向の道路に合わせて建物を分割して視線を通すなど、圧迫感を回避するような配慮が随所に見られる。
採用にいたらなかった諸案の概要は次の通り。
* 安藤忠雄案:線路上に巨大な屋根を架けてその上を広大な広場とし、さらにそこをまたぐようにして[[羅城門]]をイメージした逆凹字形の駅舎を建設する。
* ペーター・ブスマン案:屋根部分を長大な弓形に湾曲させ、北面には[[京町家]]を意識して高さ31mに揃えた軒先線を設ける。
* 池原義郎案:烏丸通の正面側を巨大な門形とし、そこから中央部に向かって階段状に高さを下げ、さらに西側に向かって上昇させる。
* 黒川紀章案:羅城門を意識した高さ120mの門型の超高層建築。圧倒的な重量感と黒色の配色の威圧感が賛否両論を呼んだ。
* ジェームズ・スターリング案:空間を3分割し、西側に高さ120mの円筒形のホテルを建てる。
* ベルナール・チュミ案:駅舎を南北に分割し、北側は31mのスカイラインを強調してその上に「京の七口」を意識した7本のタワーを建てる。南側は45mのスカイラインで揃える。
この他、駅ビル建設に反対した市民グループは、寺社風木造建築の駅舎で、周辺の商店を保護するため、大型商業施設をテナントに入れないという独自の案を提唱し、当時駅ビル問題を扱った『[[NNNドキュメント]]』([[日本テレビ系列]]・当該回は読売テレビ制作)でも紹介されていた。
=== 京都駅ビルの構造 ===
京都駅ビルは、東側に[[JR西日本ホテルズ]]の'''[[ホテルグランヴィア京都]]'''、西側に[[百貨店]]の[[ジェイアール西日本伊勢丹|'''ジェイアール京都伊勢丹''']]が位置する。その間の中央コンコースは、4000枚のガラスを使用した正面と[[大屋根]]で覆う広々とした吹き抜け(横幅147m、奥行29m、高さ50m)になっている。吹き抜けの最上部には地上45mの'''空中径路'''が通っている。
*中央コンコースの巨大な吹き抜け空間は、映画『[[ガメラ3 邪神覚醒]]』では[[ガメラ]]とイリスの決戦の舞台とされ、怪獣映画では初の屋内戦が繰り広げられた。なお、設定上ではガメラ・イリス双方の身長とも京都駅より大きい。
吹き抜けから東西へは渓谷状の階段が設けられている。伊勢丹側の'''大階段'''は段数171段、高低差は11階建てビルに相当する35m、全長は70mある。大階段はコンサートや、毎年2月の「[[JR京都駅ビル大階段駆け上がり大会]]」(主催:[[京都放送|KBS京都]])などイベント会場としても利用されるほか、カップルや観光客の憩いの場ともなっている。また、非常時の避難経路となることも想定されている。
京都駅ビルの延床面積238,000m<sup>2</sup>の内訳は、駅施設が約12,000m<sup>2</sup>、ホテルグランヴィア京都が約70,000m<sup>2</sup>、百貨店などの商業施設が約88,000m<sup>2</sup>、「'''美術館・えきKYOTO'''」などの文化施設が約11,000m<sup>2</sup>、駐車場が約37,000m<sup>2</sup>、行政関係施設などが約38,000m<sup>2</sup>、となっている。他都市の大規模な駅ビルの場合、面積のかなりの部分を企業向けの[[オフィスビル|賃貸オフィス]]に割いていることが多いのに対して、京都駅ビルはそうした部分をほとんど持たない。
その後、嵯峨野線ホーム亀岡寄り側付近は'''京都駅NKビル'''([[JR西日本不動産開発]])が増築され、新しく改札口(西洞院口)を設けた。この改札口は、同ビルに出店した[[家電量販店]]の[[ビックカメラ]]京都店の内部に取り込まれている。(その後、閉店のため閉鎖)
==== 建築・設計 ====
* 建築設計:[[原広司]] / アトリエファイ建築研究所
* 施工:京都駅ビル建設工事[[共同企業体|JV]]([[大林組|大林]]・[[鉄建建設|鉄建]]・[[大鉄工業|大鉄]]他JV)
* 竣工:1997年
* 用途:駅舎・複合施設
* 構造:鉄骨造+鉄骨[[鉄筋コンクリート]]造
* 階数:地上16階、地下3階 (高さ60m、横幅470m、奥行80m)
* 敷地面積:38,000m<sup>2</sup>
* 建築面積:32,400m<sup>2</sup>
* 延床面積:238,000m<sup>2</sup>
* 所在地:京都府京都市下京区烏丸通塩小路下る東塩小路町901番地
* 第40回[[建築業協会]]賞受賞
==== ジェイアール京都伊勢丹 ====
{{main|ジェイアール西日本伊勢丹}}
==== 駅ビルに対する賛否両論 ====
京都駅ビルは、規模の巨大さとデザインの斬新さにより、建設時はもちろん建築後もその評価には賛否がある。建設当時には、[[京都・まちづくり市民会議]]などが中心になって、激しい反対運動が起こった。また[[1990年代]]初頭、[[京都仏教会]]はこの駅ビル建設に「景観が悪くなる」という趣旨で強く反対していた。
; 賞賛意見
: 単なる交通ターミナルではなくさまざまな機能が盛り込まれており、京都の新しい中心核を創り上げている。巨大な吹き抜け空間と大階段など、未来指向のデザインに溢れており、これほどまでに人目を引く駅舎は日本では他に例を見ず、今や京都の新しい観光スポットとしてもすっかり定着した。こうした斬新な建築は、新しいものと歴史あるものとが調和をもって共存する京都に相応しい。
; 批判意見
: 採用された設計案では圧迫感を回避するような配慮が随所に見られるが、根本的な解決になっているとは言い難い部分がある。ハーフミラーのガラスやアルミパネルを多用した造形も歴史ある古都の景観を破壊している。高さ60mの巨大建築は京都を分断する衝立のようなものであり、京都の南北の一体化を阻害している<ref group="N">{{Cite news |title=全面開場した京都駅ビル 存在語らぬ巨大“ついたて” |newspaper=[[朝日新聞]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=1997-10-09 |page=17(夕刊)}}</ref>。観光客向けに和風デザインが望ましいのではないか<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/141698?page=3 |title=外国人ガッカリ!日本の鉄道「期待外れ」10選 |publisher=東洋経済 |accessdate=2023-06-02}}</ref>。
==== 構造上の問題 ====
京都駅ビルの中央エリアは巨大な吹き抜けの[[コンコース]]で、アーチ形のガラス屋根が半開き状態であることから、強風の際は駅舎内に雨、雪が入り込むことがある<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=「巨大な欠陥構造物」京都駅ビル、構内で猛吹雪が発生、過去にガラス屋根落下事故も |url=https://biz-journal.jp/2023/01/post_331924.html |website=ビジネスジャーナル/Business Journal {{!}} ビジネスの本音に迫る |access-date=2023-01-25 |author=Business Journal編集部}}</ref>。
2018年9月4日の[[平成30年台風第21号|台風21号]]上陸時には中央コンコースのガラス屋根が構内へ落下し、男女3人が負傷する事故が発生した<ref>{{Cite press release|title=ガラス屋根の一部が落下した件について|publisher=JR西日本|date=2018-9-5|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/09/page_12985.html|language=ja|accessdate=2023-04-03}}</ref>。
2023年1月24日の大雪時には、構内を利用客が傘をさして移動する模様がSNSで話題になった<ref>{{Cite web|和書|title=京都駅構内が雪まみれ……! 猛烈な勢いで雪が吹き込む事態が発生しネットで注目集める |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2301/25/news142.html |website=ねとらぼ |date=2023-01-25 |access-date=2023-01-25}}</ref>。ネットメディアのBusiness Journalは「鉄道会社関係者」の話として、ガラス屋根の落下防止措置や、雪や雨などが構内に入らないようする対策が求められるとし、災害に対する脆弱性を指摘した<ref name=":2" />。
=== JR京都駅NKビル(JR西日本) ===
[[2007年]][[8月23日]]、京都駅ビルの西側、JR[[嵯峨野線]]ホームの[[亀岡駅|亀岡]]寄り側付近に'''京都駅NKビル'''が増築された。延床面積は約10,200m²。同ビルには[[家電量販店]][[ビックカメラ]]京都店が出店した。同ビルの中にはJR嵯峨野線プラットホーム(30・31番のりば)に直結する改札口(JR京都駅西洞院口)が新設され(この改札口はビックカメラの売場内部に直結している)、京都寄り車両に乗客が集中する嵯峨野線の混雑緩和が図られている。
== 利用状況 ==
* '''JR西日本''' - 2022年度の1日平均の[[乗車人員]]は'''149,406人'''<!--データで見るJR西日本より。-->である。
*: 同社の駅では[[大阪駅]]に次ぐ第2位。京都府内のJR西日本の駅の中では最多。
* '''JR東海''' - 2022年度の1日平均の乗車人員は'''32,000人'''<!--JR東海ファクトシートより。-->である。新幹線の利用者数は東京駅、新大阪駅、名古屋駅に次いで多い<ref>{{Cite web|和書|url=https://company.jr-central.co.jp/ir/factsheets/_pdf/factsheets2023-02-03.pdf |title=乗車人員ベスト10駅(1日当たり) |publisher=東海旅客鉄道 |accessdate=2023-07-31}}</ref>。
* '''京都市営地下鉄''' - 2021年度の1日平均の[[乗降人員]]は'''83,366人'''である。市営地下鉄京都駅の客数であり、[[近鉄京都線]]・[[近鉄奈良線]]と直通する列車の乗降客を含む<ref name="subwaytoukei2018">京都市交通事業白書</ref><!--京都市交通事業白書(事業概要)より。-->。
*: 同局の駅では第1位。2019年度までは概ね増加傾向だった。
* '''近畿日本鉄道''' - 2022年11月8日の乗降人員は'''69,950人'''である。近鉄京都駅の客数であり、市営地下鉄烏丸線と直通する列車の乗降客を含まない<ref>[https://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/i.html 近畿日本鉄道 駅別一日乗降人員(調査日:令和4年11月8日(火))]</ref>。
*: 同社の駅では[[大阪阿部野橋駅]]、[[鶴橋駅]]、[[大阪難波駅]]、[[近鉄名古屋駅]]に次ぐ第5位。2021年度の年間推計乗降人員は'''26,092千人'''であり、1日平均では'''71,485人'''となる。いずれの数値も、京都府内の近鉄の駅、及び京都府内の私鉄の駅では最多の利用客数であり、2019年度までは横ばいだった。
年度別乗降・乗車人員数は下表の通り。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
!rowspan="3"| 年度
!colspan="2"| JR東海<ref group="注釈">2003年度は「都市交通年報 平成17年版」(財団法人 運輸政策研究機構)より、「各駅旅客発着通過状況(中京交通圏)」に記載された数値について、定期外と定期を加算し、365日で除して算出。他の年度は [https://web.archive.org/web/20170923095821/http://www.pref.kyoto.jp/tokei/yearly/tokeisyo/tsname/tsg1001.html 京都府統計書] より、記載された数値を当該年度の日数で除して算出。<!--2003年度から2006年度はネット上の記載なし(当時のJR東海の方針)--></ref>
!colspan="2"| JR西日本<ref group="注釈">2017年度は{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/|title=データで見るJR西日本|accessdate=2017-09-23|publisher=西日本旅客鉄道}}他の年度は [http://www.pref.kyoto.jp/tokei/yearly/tokeisyo/tsname/tsg1001.html 京都府統計書] より、記載された数値を当該年度の日数で除して算出。</ref>
! colspan="3" |京都市営地下鉄<ref>京都市交通事業白書 [http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/cmsfiles/contents/0000073/73257/hakusyo20.pdf#page=65 平成20年度版]、[http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/cmsfiles/contents/0000073/73257/hakusyo25.pdf#page=94 平成25年度版]、[https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/cmsfiles/contents/0000073/73257/hakusyo29.pdf 平成29年度版]</ref><ref>{{Cite web|和書|title = 地下鉄・市バスお客様1日80万人に向けた取組状況について|url = https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/cmsfiles/contents/0000253/253609/powerpoint.pdf |accessdate = 2019-06-17|format = PDF}}</ref>
! colspan="5" | 近畿日本鉄道<ref group="注釈" name="kintetsu">1日平均乗降人員は年間の数値を各年の日数で除して算出。年間乗降人員は、京都市が近鉄からの報告を基にまとめた統計表より、記載された乗客(定期外+定期)と降客(定期外+定期)の数値を合算。</ref><ref>[https://www2.city.kyoto.lg.jp/sogo/toukei/Publish/YearBook/index.html 京都市統計ポータル/京都市統計書] 第8章 都市施設 07 私鉄市内駅乗降客数(JRを除く)</ref>
|-
!rowspan="2" style="white-space:nowrap;"| 1日平均<br />乗車人員
!rowspan="2"| 増加率
!rowspan="2" style="white-space:nowrap;"| 1日平均<br />乗車人員
!rowspan="2"| 増加率
! rowspan="2" style="white-space:nowrap;" | 1日平均<br />乗車人員
!rowspan="2"| 1日平均<br />乗降人員
! rowspan="2" |増加率
!colspan="2"| 特定日<ref>近畿日本鉄道ウェブサイトより。2005年:“[https://web.archive.org/web/20071030054545/http://www.kintetsu.jp/kouhou/corporation/koutsu/i.html 駅別乗降人員 京都線 伊賀線]”2007年10月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年:“[http://www.kintetsu.jp/kouhou/corporation/koutsu/i.html 駅別乗降人員 京都線]”。2012年以降:“[http://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/i.html 駅別乗降人員 京都線]”。</ref>
!rowspan="2"| 1日平均<br />乗降人員
! rowspan="2" |増加率
!rowspan="2"| 年間<br />乗降人員
|-
! 調査日 !! style="white-space:nowrap;" | 乗降人員
|-
| style="white-space:nowrap;"| 1991年(平成{{0}}3年)
| ||
| 132,672 |||| 50,279
| 99,437
|
| || || 128,940
| || 47,192,000
|-
| 1992年(平成{{0}}4年)
| 25,482 ||
| 139,419 || 5.1%|| 50,493
| 100,367
|0.9%
| || || 129,364
|0.3%|| 47,218,000
|-
| 1993年(平成{{0}}5年)
| 25,623 || 0.6%
| 144,545 || 3.7%|| 51,721
| 102,573
|2.2%
| || || 129,099
| -0.2%|| 47,121,000
|-
| 1994年(平成{{0}}6年)
| 24,659 || -3.8%
| 147,953 || 2.4%||
|
|
| || ||
| ||
|-
| 1995年(平成{{0}}7年)
| 25,253 || 2.4%
| 151,904 || 2.7%||
|
|
| || ||
| ||
|-
| 1996年(平成{{0}}8年)
| 26,166 || 3.6%
| 155,995 || 2.7%||
|
|
| || ||
| ||
|-
| 1997年(平成{{0}}9年)
| 25,926 || -0.9%
| 163,463 || 4.8%|| 54,344
|
|
| || || 124,488
| || 45,438,000
|-
| 1998年(平成10年)
| 25,150 || -3.0%
| 163,803 || 0.2%|| 52,139
|
|
| || || 123,293
| -1.0%|| 45,002,000
|-
| 1999年(平成11年)
| 24,472 || -2.7%
| 162,287 || -0.9%|| 52,120
| 103,393
|
| || || 121,260
| -1.6%|| 44,260,000
|-
| 2000年(平成12年)
| 24,753 || 1.1%
| 164,712 || 1.5%|| 53,010
| 105,267
|1.8%
| || || 119,633
| -1.3%|| 43,666,000
|-
| 2001年(平成13年)
| 24,666 || -0.4%
| 167,416 || 1.6%|| 54,540
| 108,281
|2.9%
| || || 116,071
| -3.0%|| 42,336,000
|-
| 2002年(平成14年)
| 24,579 || -0.4%
| 169,378 || 1.2%|| 54,331
| 107,936
| -0.3%
| || || 113,019
| -2.6%|| 41,252,000
|-
| 2003年(平成15年)
| 26,958 || 9.7%
| 171,653 || 1.3%|| 54,641
| 108,450
|0.5%
| || || 110,882
| -1.9%|| 40,472,000
|-
| 2004年(平成16年)
| 29,120 || 8.0%
| 173,934 || 1.3%|| 53,699
| 106,435
| -1.9%
| || || 108,727
| -1.9%|| 39,794,000
|-
| 2005年(平成17年)
| 30,921 || 6.2%
| 176,403 || 1.4%|| 53,133
| 105,704
| -0.7%
| style="text-align:left;"| 11月8日 || 89,420 || 108,512
| -0.2%|| 39,607,000
|-
| 2006年(平成18年)
| 32,263 || 4.3%
| 179,156 || 1.6%|| 53,262
| 105,327
| -0.4%
| style="text-align:center;"| - || || 108,907
|0.4%|| 39,751,000
|-
| 2007年(平成19年)
| 33,637 || 4.3%
| 180,413 || 0.7%|| 53,077
| 104,650
| -0.6%
| style="text-align:center;"| - || || 108,014
| -0.8%|| 39,425,000
|-
| 2008年(平成20年)
| 33,255 || -1.1%
| 182,534 || 1.2%|| 52,572
| 103,659
| -0.9%
| style="text-align:left;white-space:nowrap;"| 11月18日 || 90,194 || 107,801
| -0.2%|| 39,455,000
|-
| 2009年(平成21年)
| 31,066 || -6.6%
| 179,882 || -1.5%|| 51,590
| 102,292
| -1.3%
| style="text-align:center;"| - || || 102,945
| -4.5%|| 37,575,000
|-
| 2010年(平成22年)
| 31,726 || 2.1%
| 183,715 || 2.1%|| 53,144
| 105,771
|3.4%
| style="text-align:left;"| 11月9日 || 87,880 || 103,611
|0.6%|| 37,818,000
|-
| 2011年(平成23年)
| 32,093 || 1.1%
| 185,983 || 1.2%|| 53,707
| 106,891
|1.1%
| style="text-align:center;"| - || || 101,181
| -2.3%|| 36,931,000
|-
| 2012年(平成24年)
| 33,414 || 4.1%
| 189,486 || 1.9%|| 55,017
| 109,499
|2.4%
| style="text-align:left;"| 11月13日 || 80,732 || 100,910
| -0.3%|| 36,933,000
|-
| 2013年(平成25年)
| 34,490 || 3.1%
| 194,927 || 2.9%|| 56,963
| 113,361
|3.5%
| style="text-align:center;"| - || || 99,471
| -1.4%|| 36,307,000
|-
| 2014年(平成26年)
| 35,173 || 2.0%
| 193,972 || -0.5%|| 58,888
| 117,205
|3.4%
| style="text-align:center;"| - || || 100,762
|1.3%|| 36,778,000
|-
| 2015年(平成27年)
| 37,066 || 5.4%
| 200,044 || 3.1%|| 61,045
| 121,475
|3.6%
| style="text-align:left;"| 11月10日 || 82,414 || 101,705
|0.9%|| 37,224,000
|-
| 2016年(平成28年)
| 37,630 || 1.5%
| 200,426 || 0.2%|| 61,993
| 123,360
|1.6%
| style="text-align:center;"| - || || 101,973
|0.3%|| 37,220,000
|-
| 2017年(平成29年)
| 38,748 || 3.0%
| 203,296 || 1.4%|| 62,988
| 125,341
|1.6%
| style="text-align:center;"| - || || 102,137
|0.2%|| 37,280,000
|-
| 2018年(平成30年)
| 39,227 || 1.2%
| 200,426 || -1.4%
| 64,718 || 128,783 || 2.7%
| style="text-align:left;"| 11月13日 || 83,478 || 100,929
| -1.2% || 36,839,000
|-
| 2019年(令和元年)
| 36,566 || -6.8%
| 195,082 || -2.7%
| 65,463 || 130,295 || 1.7%
| style="text-align:center;"| - || || 100,874
| -0.1% || 36,920,000
|-
| 2020年(令和{{0}}2年)
| 14,384 || -60.8%
| 127,178 || -34.8%
| 36,647 || 73,533 || -43.6%
| style="text-align:center;"| - || || 63,085
| -37.5% || 23,026,000
|-
| 2021年(令和{{0}}3年)
| 19,318 || 34.3%
| 130,294 || 2.5%
| 41,451 || 83,366 || 13.4%
| style="text-align:left;"| 11月9日 || 63,506 || 71,485
| 13.3% || 26,092,000
|-
| 2022年(令和{{0}}4年)
| 32,000 || 65.6%
| 149,406 || 14.7%
| || ||
| style="text-align:left;"| 11月8日 || 69,950 ||
| ||
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1900年代—1940年代) ===
各年度の1日平均乗車人員は下表の通り<ref group="注釈" name="kokutetsu">[https://www2.city.kyoto.lg.jp/sogo/toukei/Publish/YearBook/Archives/ 京都市統計書] より、記載された数値を当該年度の日数で除して算出。1908年までは東海道線京都駅と関西線七条駅の乗客数の合計。</ref>。
{| class="wikitable"
|-
! 年度 !! 1日平均乗車人員
|-
| 1906年(明治39年) ||style="text-align:right;"| 5,285
|-
| 1907年(明治40年) ||style="text-align:right;"| 6,244
|-
| 1908年(明治41年) ||style="text-align:right;"| 6,179
|-
| 1909年(明治42年) ||style="text-align:right;"| 6,731
|-
| 1910年(明治43年) ||style="text-align:right;"| 6,412
|-
| 1911年(明治44年) ||style="text-align:right;"| 6,466
|-
| 1912年(大正 元年) ||style="text-align:right;"| 5,181
|-
| 1913年(大正{{0}}2年) ||style="text-align:right;"| 5,125
|-
| 1914年(大正{{0}}3年) ||style="text-align:right;"| 4,835
|-
| 1915年(大正{{0}}4年) ||style="text-align:right;"| 7,098
|-
| 1916年(大正{{0}}5年) ||style="text-align:right;"| 3,756
|-
| 1917年(大正{{0}}6年) ||style="text-align:right;"| 6,808
|-
| 1918年(大正{{0}}7年) ||style="text-align:right;"| 8,130
|-
| 1919年(大正{{0}}8年) ||style="text-align:right;"| 9,430
|-
| 1920年(大正{{0}}9年) ||style="text-align:right;"| 10,302
|-
| 1921年(大正10年) ||style="text-align:right;"| 11,621
|-
| 1922年(大正11年) ||style="text-align:right;"| 13,044
|-
| 1923年(大正12年) ||style="text-align:right;"| 14,629
|-
| 1924年(大正13年) ||style="text-align:right;"| 15,867
|-
| 1925年(大正14年) ||style="text-align:right;"| 16,136
|-
| 1926年(昭和 元年) ||style="text-align:right;"| 17,042
|-
| 1927年(昭和{{0}}2年) ||style="text-align:right;"| 16,903
|-
| 1928年(昭和{{0}}3年) ||style="text-align:right;"| 20,108
|-
| 1929年(昭和{{0}}4年) ||style="text-align:right;"| 16,990
|-
| 1930年(昭和{{0}}5年) ||style="text-align:right;"| 17,523
|-
| 1931年(昭和{{0}}6年) ||style="text-align:right;"| 17,160
|-
| 1932年(昭和{{0}}7年) ||style="text-align:right;"| 17,105
|-
| 1933年(昭和{{0}}8年) ||style="text-align:right;"| 17,932
|-
| 1934年(昭和{{0}}9年) ||style="text-align:right;"| 18,574
|-
| 1935年(昭和10年) ||style="text-align:right;"| 19,833
|-
| 1936年(昭和11年) ||style="text-align:right;"| 21,113
|-
| 1937年(昭和12年) ||style="text-align:right;"| 16,784
|-
| 1938年(昭和13年) ||style="text-align:right;"| 18,539
|-
| 1939年(昭和14年) ||style="text-align:right;"| 27,757
|-
| 1940年(昭和15年) ||style="text-align:right;"| 32,603
|-
| 1941年(昭和16年) ||style="text-align:right;"| 36,760
|-
| 1943年(昭和18年) ||style="text-align:right;"| 43,782
|-
| 1946年(昭和21年) ||style="text-align:right;"| 50,844
|}
=== 年度別利用状況(1950年代—1980年代) ===
各年度の利用状況は次の通り<ref group="注釈" name="kokutetsu" /><ref group="注釈" name="kintetsu" />。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
! rowspan="2" | 年度 !! 日本国有鉄道 !! 近畿日本鉄道
|-
! 1日平均<br />乗車人員 !! 1日平均<br />乗降人員
|-
| 1950年(昭和25年) || 54,592 || style="text-align:center;" | -
|-
| 1955年(昭和30年) || 71,818 || style="text-align:center;" | -
|-
| 1960年(昭和35年) || 88,547 || style="text-align:center;" | -
|-
| 1965年(昭和40年) || 89,566 || 40,268
|-
| 1970年(昭和45年) || 99,608 || 72,153
|-
| 1975年(昭和50年) || 118,385 || 102,553
|-
| 1980年(昭和55年) || 114,313 || 110,063
|-
| 1985年(昭和60年) || 133,864 || 128,570
|}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:Kyoto Station aerial photo 20200819 large.jpg|thumb|駅周辺の空中写真(2020年8月)]]
周辺は大型商業地域並びに観光客向けの[[ホテル]]が多く立ち並んでいる。ただし、駅建設当時に市街地の外縁部で土地の確保や線路の敷設がしやすかったことから、[[中心市街地]]の[[四条通]]や[[三条通]]からは外れた[[七条通]]付近に当駅が設置された(その後[[八条通]]北側の現在地に移転)<ref>{{Cite web|和書|title=「京都駅」が市街地中心部にないことの理由と利点 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/608665 |website=東洋経済オンライン |date=2022-08-24 |access-date=2023-02-02 |language=ja}}</ref>。そのため、京都随一の[[繁華街]]である[[四条河原町]]からは約2kmほど距離が離れており、当地へは[[阪急京都本線|阪急京都線]]の[[京都河原町駅]]や[[京阪本線]]の[[祇園四条駅]]が最寄りである。当駅から四条河原町や市内に点在する観光地へはバスや地下鉄に乗り換える必要がある。
=== 烏丸口 ===
[[ファイル:Kyoto Kyoto Station Blick auf den Kyoto Tower 1.jpg|thumb|烏丸口前の商業地域と京都タワー]]
[[File:Porta 01.JPG|thumb|烏丸口地下に広がる地下街「Porta」 (2016年3月)]]
駅の北側に位置している。当駅の表玄関であり、京都駅ビルや[[地下街]]も烏丸口に位置している。
'''駅付帯施設など'''
* 京都駅ビル
** [[ジェイアール西日本伊勢丹|ジェイアール京都伊勢丹]]
** 京都駅ビル専門店街 The CUBE
** [[ホテルグランヴィア京都]]
** [[京都劇場]]
** 美術館「えき」Kyoto
** [[ラーメン#ラーメンのフードテーマパーク|京都拉麺小路]]
** [[ホビーセンターカトー|KATO京都駅店]]
** [[NHKエンタープライズ#ショップ運営|NHKキャラクターショップ]]
* [[京都駅前地下街ポルタ]]
* 京都駅前[[バスターミナル]]
'''名所・旧跡など'''
* [[京都タワー]]
* [[東本願寺]](真宗本廟) - [[真宗大谷派]]の本山。
'''公共施設'''
* 京都市下京区総合庁舎 - 下京区役所などが入居している。
* [[キャンパスプラザ京都]]
* 京都駅前[[運転免許]]更新センター - 旧[[七条警察署]]跡。
* ハローワーク京都七条([[公共職業安定所]])
* 京都府[[赤十字血液センター]] [[献血]]ルーム京都駅前
'''企業・金融機関など'''
* [[京都中央郵便局]]
** [[ゆうちょ銀行]]京都店
* [[京都ヨドバシ]] - [[ヨドバシカメラ]]マルチメディア京都などが入居する[[複合商業施設]]。旧 [[近鉄百貨店]]京都店跡。
* [[オムロン]] 本社
* [[新阪急ホテル#京都新阪急ホテル|京都新阪急ホテル]]
* [[法華クラブ|ホテル法華クラブ京都]]
* [[関西電力]] 京都支社 - [[京都電燈]]時代の1937年に本社ビルとして建設された建物をそのまま使用している。
** [[関西電力送配電]] 京都支社
* [[リーガロイヤルホテル京都]]
==== 西洞院口 ====
* [[ビックカメラ]]JR京都駅店(JR京都駅NKビル)
=== 八条口 ===
[[ファイル:Kyoto station Shinkansen under girder foodmall "Omotenasi-koji".jpg|thumb|新幹線階下のアスティロード・おもてなし小路]]
[[ファイル:Kyoto station foodmall "Miyakomichi".jpg|thumb|新幹線階下の近鉄名店街みやこみち]]
駅の南側に位置している。
; 駅付帯施設など
* 定期観光バスターミナル
* 高速バスターミナル
; 名所・旧跡など
* [[東寺]](教王護国寺) - [[東寺真言宗]]の総本山。
; 公共施設
* [[京都市上下水道局]]
* 京都市南図書館
; 企業・金融機関など
* [[京都アバンティ]] - 京都市による初の再開発事業として設置された複合商業施設<ref>[http://www.city.kyoto.lg.jp/kensetu/page/0000016449.html 京都駅南口地区第一種市街地再開発事業] - 京都市情報館(京都市公式サイト、2012年2月18日閲覧)</ref>。
** [[ホテル京阪|ホテル京阪京都グランデ]]
* [[イオンモールKYOTO]]
* 京都駅八条口郵便局
* [[PHP研究所]] 本社
* [[都ホテル 京都八条]]
== バスターミナル ==
[[南東北]]・[[関東地方|関東]]・[[中部地方|中部]]・[[中国地方|中国]]・[[四国]]・[[九州]]方面の[[高速バス]]路線が発着している。また市内を縦横に結ぶ路線バスの起点や[[京都定期観光バス|定期観光バス]]の出発地でもあり、多数のバスが発着している。
=== 路線バス ===
==== 烏丸口 ====
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
[[ファイル:Kyoto station bus terminal 01.JPG|thumb|烏丸口市バスターミナル(2016年3月)]]
[[ファイル:Kyoto station bus terminal 02.JPG|thumb|行き先を表示する大きな液晶ディスプレイが各バス停ごとに設置されている(2016年3月)]]
'''京都駅前'''停留所にて発着する。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!方面!!系統・行先
|-
!colspan="4" style="text-align:center;"|Aのりば
|-
!A1
|rowspan="3" style="text-align:center;"|[[京都市営バス|京都市バス]]
|style="text-align:center;"|[[平安神宮]]・[[慈照寺|銀閣寺]]方面
|{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス九条営業所#5号系統|'''5号系統''']]:[[国際会館駅]]・岩倉操車場
|-
!A2
|style="text-align:center;"|[[河原町通]]方面
|{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス西賀茂営業所#4・特4号系統|'''4号系統''']]:[[賀茂別雷神社|上賀茂神社]]<br />{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス錦林出張所#17号系統|'''17号系統''']]:銀閣寺・[[京都市営バス烏丸営業所錦林出張所|錦林車庫]]<br />{{Color|orange|■}}[[京都市営バス九条営業所#205・快速205号系統|'''205号系統''']]:[[北大路バスターミナル]]方面
|-
!A3
|style="text-align:center;"|[[千本通]]方面
|{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス九条営業所#6号系統|'''6号系統''']]:鷹峯[[源光庵]]・玄琢<br />{{Color|orange|■}}[[京都市営バス烏丸営業所#206号系統|'''206号系統''']]:北大路バスターミナル方面
|-
!colspan="4" style="text-align:center;"|Bのりば
|-
!B1
|rowspan="3" style="text-align:center;"|京都市バス
|style="text-align:center;"|[[堀川通]]方面
|{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス西賀茂営業所#9号系統|'''9号系統''']]:[[京都市営バス西賀茂営業所|西賀茂車庫]]
|-
!B2
|style="text-align:center;"|
|{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス九条営業所#50号系統|'''50号系統''']]:[[立命館大学]]<br />{{Color|#0033ff|■}}'''快速立命館''':[[北野白梅町駅|北野白梅町]]・立命館大学
|-
!B3
|style="text-align:center;"|西大路通方面
|{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス錦林出張所#86号系統|'''86号系統''']]・{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス九条営業所#88号系統|'''88号系統''']]:[[京都水族館|水族館]]・[[京都鉄道博物館|鉄道博物館]]<br />{{Color|orange|■}}205号系統:北大路バスターミナル方面<br />{{Color|orange|■}}[[京都市営バス九条営業所#208号系統|'''208号系統''']]:[[京都市営バス九条営業所|九条車庫]]方面
|-
!colspan="4" style="text-align:center;"|Cのりば
|-
!C1
|style="text-align:center;"|京都市バス
|style="text-align:center;"|[[九条通]]方面
|{{Color|orange|■}}'''205号・快速205号系統''':九条車庫
|-
!rowspan="2"|C2
|style="text-align:center;"|[[京阪京都交通]]
|style="text-align:center;"|
|■[[京阪京都交通亀岡営業所#国道線|'''2系統''']]:[[亀岡駅]]・[[保津川下り]]乗船場<br />■[[京阪京都交通西京営業所#洛西発着|'''14系統''']]:長峰<br />■[[京阪京都交通西京営業所#イオンモール京都桂川線|'''15系統''']]:[[桂川駅 (京都府)|JR桂川駅]]<br />■[[京阪京都交通西京営業所#桂坂線|'''26系統・28系統''']]:[[桂坂ニュータウン|桂坂中央]]<br />■'''26B系統''':桂坂中央・桂イノベーションパーク前<br />■'''28A系統''':[[京都成章高等学校|京都成章高校]]<br />■'''21系統''':坂中央(桂イノベーションパーク前)<br />■'''27系統''':桂坂中央(国道沓掛)<br />■'''21A系統''':桂坂中央・京都成章高校<br />■'''直行93系統''':[[京都リサーチパーク]]4号館前
|-
|style="text-align:center;"|[[丹後海陸交通]]
|style="text-align:center;"|
|■'''丹海快速バス''':[[宮津駅|宮津]]・[[天橋立]]・[[間人]]
|-
!C3
|style="text-align:center;"|[[京都バス]]
|style="text-align:center;"|
|■[[京都バス高野営業所#大原線|'''17系統・特17系統・18系統''']]:[[八瀬比叡山口駅|八瀬]]・[[大原 (京都市)|大原]]
|-
!C4
|rowspan="3" style="text-align:center;"|京都市バス
|style="text-align:center;"|洛南・[[伏見区|伏見]]・久世方面
|{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス横大路営業所#16号系統|'''16号系統''']]:京都駅八条口アバンティ前<br />{{Color|black|□}}[[京都市営バス横大路営業所#19号系統|'''19号系統''']]:[[京都市営バス横大路営業所|横大路車庫]]前<br />{{Color|black|□}}[[京都市営バス洛西営業所#42号系統|'''42号系統''']]:[[洛西口駅|阪急洛西口駅]]<br />{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス洛西営業所#78号系統|'''78号系統''']]:[[久世工業団地]]<br />{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス横大路営業所#81号系統|'''81号系統''']]:横大路車庫前 / [[中書島駅|京阪中書島]]・[[伏見港公園]]<br />{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス横大路営業所#南5号系統|'''南5号系統''']]:[[竹田駅 (京都府)|竹田駅東口]]・横大路車庫前
|-
!C5
|style="text-align:center;"|洛西・[[東映太秦映画村|映画村]]方面
|{{Color|black|□}}[[京都市営バス洛西営業所#33・特33号系統|'''33号系統・特33号系統''']]・[[京都市営バス洛西営業所#73号系統|'''73号系統''']]:[[洛西バスターミナル]]<br />{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス梅津営業所#75号系統|'''75号系統''']]:[[映画村]]・山越
|-
!rowspan="3"|C6
|style="text-align:center;"|
|{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス洛西営業所#28号系統|'''28号系統''']]:[[嵐山]]・[[大覚寺]]
|-
|style="text-align:center;"|京都バス
|style="text-align:center;"|
|■[[京都バス嵐山営業所#比叡山線(比叡山ドライブバス)|'''51系統''']]{{Smaller|([[比叡山ドライブウェイ|比叡山ドライブ]]バス)}}:[[比叡山頂駅|比叡山頂]]<br />■[[京都バス嵐山営業所#京都駅線|'''72系統''']]:嵐山・[[清滝 (京都市)|清滝]]<br />■'''73系統''':嵐山・[[西芳寺|苔寺]]・[[華厳寺 (京都市)|すず虫寺]]<br />■'''75系統''':有栖川<br />■'''76系統''':[[嵐山駅 (阪急)|阪急嵐山駅]]<br />■[[京都バス嵐山営業所#五条線|'''83系統''']]:嵐山・苔寺・[[華厳寺 (京都市)|すず虫寺]]
|-
|style="text-align:center;"|[[京阪バス]]
|style="text-align:center;"|
|■[[京阪バス山科営業所#京都比叡山線(比叡山ドライブバス)|'''57号経路'''{{Smaller|(比叡山ドライブバス)}}]]:比叡山頂
|-
!colspan="4" style="text-align:center;"|Dのりば
|-
!D1
|rowspan="3" style="text-align:center;"|京都市バス
|style="text-align:center;"|[[清水寺]]・[[祇園]]・<br />平安神宮・銀閣寺方面
|(発着するバスはなし)
|-
!D2
|style="text-align:center;"|東山通方面
|{{Color|#0033ff|■}}'''86号系統''':祇園・三条京阪<br />{{Color|#0033ff|■}}'''88号系統''':[[東福寺]]・京都駅八条口<br />{{Color|orange|■}}'''206号系統''':北大路バスターミナル方面<br />{{Color|orange|■}}'''208号系統''':東福寺・九条車庫方面
|-
!D3
|style="text-align:center;"|御室方面
|{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス梅津営業所#26号系統|'''26号系統''']]:[[仁和寺|御室仁和寺]]・山越
|-
!colspan="4" style="text-align:center;"|JRのりば
|-
!JR1
|rowspan="3" style="text-align:center;"|[[西日本ジェイアールバス]]
|style="text-align:center;"|
|'''高速バス''':東京・横浜・金沢・富山・静岡・名古屋・津山・出雲・徳島・高松方面
|-
!JR2
|style="text-align:center;"|
|'''高速バス''':さいたま・金沢・舞鶴・広島・松山・高知方面
|-
!JR3
|style="text-align:center;"|
|'''[[高雄・京北線]]''':栂ノ尾・周山
|-
!colspan="4" style="text-align:center;"|定期観光バスのりば
|-
!
|style="text-align:center;"|京阪バス
|style="text-align:center;"|
|■'''定期観光バス'''
|}
なお烏丸口を経由する一般路線バスは、他にも[[京阪バス洛南営業所|京阪バス308号経路]]{{efn|2020年12月7日廃止<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.keihanbus.jp/pdf/t2020/local_20201207_yama_raku.pdf|title=2020年12月7日(月)ダイヤ改定について|publisher = 京阪バス|date=2020-11-30|accessdate=2020-11-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201130052915/https:/www.keihanbus.jp/pdf/t2020/local_20201207_yama_raku.pdf|archivedate=2020-11-30}}</ref>。}}(西本願寺 - 京都駅八条口)があるが、この系統は準循環的な経路を採り、京都駅烏丸口前を通るルートではあるものの、全便が停車せずに通過となる。ただし同じ京都駅の八条口に向かう系統であるので、そのまま乗車すれば大回りにはなるものの、京都駅自体にたどり着くことはできる。
==== ザ・サウザンド 京都 ====
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から記載しないでください。-->
烏丸口よりやや東側に離れている、京都センチュリーホテル北隣の[[ザ・サウザンド キョウト]](京都第2タワーホテル跡地に開業)入口前の構内に設置されている。
* 京阪バス
** ■[[京阪バス洛南営業所|'''300号経路''']]{{Smaller|(ステーションループバス)}}:梅小路・ホテルエミオン京都、[[七条駅|七条京阪前]]
==== 八条口 ====
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
南北自由通路に近い'''京都駅八条口'''と八条東口に近い'''京都駅八条口アバンティ前'''の2つの停留所がある<ref>[http://www.city.kyoto.lg.jp/kensetu/page/0000178520.html 京都市:3・4・180八条通 (京都駅八条口駅前広場整備事業)]</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先
|-
! colspan="3" style="text-align:center;" |京都駅八条口 停留所
|-
!E1
|style="text-align:center;"|ケイルック
|■'''[[京都らくなんエクスプレス]]''':[[油小路通|油小路]][[大手筋]] / [[京都パルスプラザ]]・[[京セラ]]前<br />■'''京大病院ライナーhoop(フープ)''':[[京都大学医学部附属病院|京大病院]]前・[[京都大学]]前
|-
!E2
|style="text-align:center;"|[[プリンセスライン]]
|■'''11・12・18号系統''':[[京都女子大学]]前
|-
!F1
|rowspan="2" style="text-align:center;"|京都市バス
|{{Color|#0033ff|■}}'''71・特71号系統''':四条大宮・[[松尾橋]]<br />{{Color|#0033ff|■}}'''78号系統''':[[久世工業団地]]<br />{{Color|#0033ff|■}}'''105号系統''':[[伏見稲荷大社|稲荷大社]]・[[竹田駅 (京都府)|竹田駅]]東口<br />{{Color|#0033ff|■}}'''急行105号系統''':稲荷大社・[[横大路車庫]]前
|-
!F2
|{{Color|#0033ff|■}}'''16号系統''':[[南区 (京都市)|南区]]総合庁舎<br />{{Color|black|□}}'''19号系統''':[[中書島]]・横大路車庫前<br />{{Color|#0033ff|■}}'''84号系統''':[[太秦天神川駅]]<br />{{Color|#0033ff|■}}'''88号系統''':東福寺・京都駅
|-
!rowspan="2"|F3
|style="text-align:center;"|[[京阪京都交通]]
|■'''フラワーライン''':[[七条駅|京阪七条]]
|-
|style="text-align:center;"|[[近鉄バス]]<br />(その他バスとの共同運行)
|■'''高速バス''':([[#高速バス(八条口)|下部参照]])
|-
!rowspan="2"|G1
|style="text-align:center;"|京都市バス
|{{Color|#0033ff|■}}'''16号系統''':東寺西門・南区総合庁舎<br />{{Color|black|□}}'''19号'''・{{Color|#0033ff|■}}'''78・105号系統''':京都駅<br />{{Color|#0033ff|■}}'''71・特71・84・88号系統''':[[京都市営バス九条営業所|九条車庫]]
|-
|style="text-align:center;"|[[京阪京都交通]]
|■'''フラワーライン''':[[光華女子学園]]
|-
!G2
|style="text-align:center;"|[[WILLER EXPRESS]]・<br/>[[日本中央バス]]・<br/>[[豊鉄バス]]・[[大阪バス]]<br>(その他バスとの共同運行)
|■'''高速バス''':([[#高速バス(八条口)|下部参照]])
|-
!rowspan="2"|G3
|style="text-align:center;"|[[大阪空港交通]]
|■[[リムジンバス|'''空港リムジンバス''']]:[[大阪国際空港|大阪(伊丹)空港]]
|-
|style="text-align:center;"|[[南海バス]]・[[阪急バス]]<br/>・[[アルピコ交通]]・<br/>[[しずてつジャストライン]]<br/>(その他バスとの共同運行)
|■'''高速バス''':([[#高速バス(八条口)|下部参照]])
|-
! colspan="3" style="text-align:center;" |京都駅八条口アバンティ前(市バス)・京都駅八条口ホテル京阪京都グランデ前(その他バス)停留所
|-
!H1
|style="text-align:center;"|京阪バス
|■'''[[ダイレクトエクスプレス直Q京都号]]''':[[松井山手駅]]・[[京田辺市]]役所・[[大阪国際大学]]・[[摂南大学]]北口・[[星田駅]]方面<br /> / [[大阪シティエアターミナル|なんば(OCAT)]] / [[ホテル京阪 ユニバーサル・タワー]]
|-
!H2
|rowspan="2" style="text-align:center;"|京阪バス・[[遠鉄バス|遠州鉄道]]<br />(その他バスとの共同運行)
|■'''定期観光バス'''<br />■[[リムジンバス|'''空港リムジンバス''']]:[[関西国際空港]]<br />■'''京都高野山線''':奥の院([[高野山]])<br />■'''高速バス''':([[#高速バス(八条口)|下部参照]])
|-
!H3
|■'''リムジンバスおりば'''<br />■'''高速バス''':([[#高速バス(八条口)|下部参照]])
|-
!rowspan="2"|H4
|style="text-align:center;"|京阪バス
|■[[京阪バス山科営業所|'''301号経路''']]:[[醍醐寺]]<br />■[[京阪バス山科営業所|'''303号経路・直通''']]:[[京都橘大学]]<br />■[[京阪バス山科営業所|'''305号経路''']]:合場川
|-
|style="text-align:center;"|京阪バス・[[奈良交通]]共同運行
|■'''[[京都けいはんな線]]''':学研[[けいはんなプラザ]]方面
|-
!H5
|style="text-align:center;"|[[京都市営バス|京都市バス]]
|{{Color|#0033ff|■}}'''16・[[京都市営バス九条営業所#71・特71号系統|71・特71]]・88号系統''':京都駅八条口<br />{{Color|black|□}}'''19号'''・{{Color|#0033ff|■}}'''78・81号系統''':京都駅<br />{{Color|orange|■}}'''202・207号系統''':九条車庫
|-
!H6
|style="text-align:center;"|京阪バス
|■[[京阪バス洛南営業所|'''26号経路''']]:[[淀駅|京阪淀駅]]方面<br />■'''311号経路''':大宅<br />■'''312号経路''':醍醐バスターミナル・[[京阪六地蔵]]
|-
!H7
|rowspan="3" style="text-align:center;"|京都市バス
|{{Color|#0033ff|■}}'''16号系統''':南区総合庁舎<br />{{Color|black|□}}'''19号系統''':[[中書島]]・[[横大路車庫]]前<br />{{Color|#0033ff|■}}'''71・特71号系統''':[[四条大宮]]・[[松尾橋]]<br />{{Color|#0033ff|■}}'''78号系統''':久世工業団地<br />{{Color|#0033ff|■}}'''81号系統''':中書島・横大路車庫前<br />{{Color|#0033ff|■}}'''88号系統''':[[東福寺]]・京都駅
|-
!I1
|{{Color|#0033ff|■}}[[京都市営バス横大路営業所#84号系統|'''84号系統''']]:[[太秦天神川駅]]前
|-
!I2
|{{Color|#0033ff|■}}'''84号系統''':[[京都市営バス九条営業所|九条車庫]]
|}
=== 高速バス(烏丸口) ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
==== 烏丸口(JRバスのりば) ====
国鉄時代から[[自動車駅]]として独立した窓口が設置されていた。
* 東京([[道の駅もっくる新城]]・[[東名御殿場]]・[[東名厚木]]・[[東名江田]]・[[池尻大橋駅|池尻大橋]]・[[バスタ新宿]])・東京駅・TDL)方面: [[ドリーム号 (東京 - 京阪神)|「ドリームルリエ号」・「プレミアムドリーム号」・「グランドリーム号」・「青春エコドリーム号」]]・[[東海道昼特急号|「グラン昼特急号」・「青春昼特急号」]] ([[西日本ジェイアールバス|西日本JRバス]]・[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]])
* 町田・横浜方面: [[ハーバーライト号|「青春ドリーム横浜号」・「横浜グラン昼特急大阪号]]」 (西日本JRバス)
* 浜松・静岡方面: 「[[京阪神ドリーム静岡号]]」 (西日本JRバス・[[ジェイアール東海バス|JR東海バス]])
* 大垣・名古屋方面: [[名神ハイウェイバス]] (西日本JRバス・JR東海バス・[[名鉄バス]]・[[名阪近鉄バス]])
* 福井・金沢方面: 「[[北陸ハイウェイバス|北陸道青春昼特急大阪号]]」 (西日本JRバス)
* 金沢・富山・和倉温泉方面: [[北陸道昼特急大阪号|「北陸道グラン昼特急大阪号」・「百万石ドリーム大阪号」・「北陸青春ドリーム大阪号」]] (西日本JRバス)
* 長野・佐久・軽井沢方面:「青春ドリーム信州号」(西日本JRバス・JRバス関東)
* [[有馬温泉]]方面:「有馬エクスプレス京都号」 (西日本JRバス)
* [[神戸三田プレミアム・アウトレット]]方面:「神戸三田プレミアム・アウトレット京都号」 (西日本JRバス)
* 津山方面: 「[[津山エクスプレス京都号]]」 (西日本JRバス・[[神姫バス]])
* 広島方面: [[京都 - 広島・徳山線|「青春昼特急広島号」・「青春ドリーム広島号」]] ([[中国ジェイアールバス|中国JRバス]]・西日本JRバス)
* [[淡路島]]・徳島方面: 「[[阿波エクスプレス京都号]]」 (西日本JRバス・[[ジェイアール四国バス|JR四国バス]]・京阪バス・[[徳島バス]])
* 松山・八幡浜方面: 「[[松山エクスプレス号]]」 (西日本JRバス・JR四国バス)
* 高松方面: 「[[高松エクスプレス京都号]]」 (西日本JRバス・JR四国バス・[[四国高速バス]]・京阪バス)
* 高知・須崎方面: 「[[高知エクスプレス号]]」 (西日本JRバス・JR四国バス)
* 松江・出雲方面: [[グラン昼特急出雲号|「グラン昼特急出雲号」・「グランドリーム出雲号」]](中国JRバス)
* 舞鶴方面: 「[[〜海の京都〜舞鶴赤れんがエクスプレス号]]」 ([[京都交通 (舞鶴)|京都交通]])
* 鳥取方面: 「[[鳥取エクスプレス京都号]]」 ([[日本交通 (鳥取県)|日本交通]])
* 米子方面: 「[[米子エクスプレス京都号]]」(京阪バス・日本交通)
==== 烏丸口(民営バスのりば) ====
* 宮津・京丹後方面: 「丹海快速バス」 ([[丹後海陸交通]])
* 福山・尾道方面: 「[[みやこライナー]]」 (京阪京都交通・中国バス)
==== 新阪急ホテル前 ====
* 上高地方面: 「[[さわやか信州号]]」 (アルピコ交通)
==== 京都ヨドバシ ====
[[桜交通|インフォマティック]]の一部便が発着。但し、実際の停留所は七条通の京都ヨドバシ駐車場出入口付近となる。
* 高尾・新宿方面:「さくら高速バス」(インフォマティック)
=== 高速バス(八条口) ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
==== E2 ====
* 横浜桜木町・新宿・東京駅・海浜幕張方面:「アミー号」([[山一サービス]])
==== F3 ====
近鉄バスが共同運行している路線(一部を除く)などが発着する。下記路線のうち発車場所と到着場所が異なる路線もある。
* 仙台方面:「[[フォレスト号 (大阪 - 仙台線)|フォレスト号]]」([[近鉄バス]]・[[宮城交通]])
* 郡山・福島方面:「[[ギャラクシー号]]」(近鉄バス・[[福島交通]])
* 栃木・宇都宮方面:「[[とちの木号]]」(近鉄バス・[[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]])
* つくば・土浦・水戸方面:「[[よかっぺ関西号|よかっぺ号(よかっぺ関西号)]]」(近鉄バス・[[関東鉄道]])
* 横浜駅・東京駅方面:「[[フライングライナー号|フライングライナー]]」(近鉄バス・[[東北急行バス]])
* 河口湖・富士吉田方面:「[[フジヤマライナー]]」(近鉄バス・[[富士急バス]])
* 御殿場駅・新松田・小田原方面:「[[フジヤマライナー|金太郎号]]」(近鉄バス・[[富士急湘南バス]])
* 甲府方面:「[[クリスタルライナー]]」(近鉄バス・[[山梨交通]])
* 上田・佐久・軽井沢方面:「[[千曲川ライナー]]」(近鉄バス・[[千曲バス]])
* 郡上八幡・高山方面:「[[ウエストライナー]]」(近鉄バス・[[濃飛乗合自動車]])
* 三井アウトレットパーク滋賀竜王行き(近鉄バス)
* 中村・宿毛方面:「しまんとブルーライナー」(近鉄バス・[[高知西南交通]])
* 長崎方面:「[[オランダ号]]」(近鉄バス)
* 熊本方面:「[[サンライズ号 (高速バス)|サンライズ号]]」「あそ☆くま号」(近鉄バス・[[九州産交バス]])
* 山口方面:「[[カルスト号]]」(近鉄バス・[[防長交通]])
* 八尾方面: 「八尾・京都特急線」 (近鉄バス)
* 別府・大分方面: 「[[SORIN号]]」 (近鉄バス・[[大分バス]])
* 滋賀方面: 「三井アウトレットシャトル」(近鉄バス)
* 岡山・倉敷方面: 「[[京都エクスプレス (京都 - 岡山・倉敷線)|京都エクスプレス]]」 ([[両備ホールディングス|両備バス]]・[[下津井電鉄]]・京阪京都交通)
==== G2 ====
* [[長田駅 (大阪府)|東大阪長田駅]]・[[高井田中央駅]]・[[布施駅|東大阪布施駅]]・[[大坂城|大阪城]]・[[ホテルニューオータニ大阪]]方面: 「[[大阪バス#京都特急ニュースター号|京都特急ニュースター号]]」 ([[大阪バス]]・[[京都観光バス]])
* 東京駅・秋葉原・王子方面:「[[大阪バス#東京特急ニュースター号|東京特急ニュースター号]]」(大阪バス・[[東京バス]])
* 広島方面/関東方面/博多方面/新潟方面/松山方面/静岡方面: 「[[WILLER EXPRESS]]」(WILLER GROUP)
* [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]・[[さいたま新都心]]・佐野・高崎・前橋方面: 「シルクライナー」([[日本中央バス]])
* 豊川・豊橋方面: 「[[ほの国号 (豊橋 - 京都線)|ほの国号]]」 ([[豊鉄バス]])
==== G3 ====
* 立川方面: [[シャルム号|神戸・大阪・京都 - 立川線]] ([[南海バス]]・[[山陽バス]])
* 成田空港・銚子方面: [[大阪 - 銚子線|なんば・京都⇔秋葉原・成田空港・銚子]] (南海バス・[[千葉交通]])
* 鎌倉・藤沢方面: 高速バス鎌倉線 (南海バス・[[和歌山バス]])
* 長野・湯田中方面: [[長電バス#京都・大阪/USJ・神戸線|大阪・京都 - 長野・湯田中線]] (南海バス・[[長電バス]])
* 柏崎・長岡・三条方面: [[堺・なんば・京都 - 柏崎・長岡線|堺・なんば・京都 - 柏崎・長岡・三条線]] (南海バス・[[越後交通]])
* 鶴岡・酒田方面: 大阪・京都 - 鶴岡・酒田線 (南海バス・[[庄内交通]])
* 長野方面: 「[[アルペン長野号]]」 (アルピコ交通<ref group="注釈">[[川中島バス|長野支社]]担当。</ref><ref group="注釈" name="night">夜行便のみ停車し、昼行便は停車しない。</ref>)
* 松本方面: 「[[アルペン松本号]]」 (阪急バス・アルピコ交通<ref group="注釈">[[松本電鉄バス|松本本社]]担当。</ref>・[[松本電鉄バス|アルピコ交通大阪]]<ref group="注釈" name="night"/>)
* 諏訪・茅野方面: 「アルペン諏訪号」 (アルピコ交通<ref group="注釈">[[諏訪バス|中南信支社]]担当。</ref>・アルピコ交通大阪<ref group="注釈" name="night"/>)
* 砺波・富山方面: [[富山 - 大阪線]] (阪急バス・[[富山地方鉄道]]<ref group="注釈" name="night"/>)
* 新潟方面: 「[[おけさ号]]」 (阪急バス・[[新潟交通]])
* 静岡・清水方面: 静岡大阪線(京都・大阪ライナー) ([[しずてつジャストライン]])
* 大阪国際空港方面:「大阪空港リムジンバス」([[大阪空港交通]])
==== H2 - H3 ====
* 関西国際空港方面 ([[関西空港交通]]・[[大阪空港交通]]・京阪バス)
* 新宿・渋谷・東京方面: 「[[東京ミッドナイトエクスプレス京都号]]」 (京阪バス・[[関東バス]])
* 上野・東京スカイツリー・東京ディズニーランド・千葉方面: ([[千葉中央バス]])([[きょうと号#撤退路線]]も参照)
* 浜松方面:「[[e-LineR#京都イーライナー|京都イーライナー]]」([[遠鉄バス|遠州鉄道]])
* 四日市・津方面: [[京都 - 四日市・津・伊勢線|京都 - 四日市・津線]] (京阪バス・[[三重交通]])
** 伊勢行きは2014年3月31日をもって廃止
* 伊賀上野方面: [[伊賀京都高速バス|京都 - 伊賀上野線]] (三重交通)
* 有馬温泉方面 (京阪バス・阪急バス)
* [[万博記念公園駅 (大阪府)|万博記念公園駅]]・[[ネスタリゾート神戸]]方面 (京阪バス)
* 松山方面: 「[[京都エクスプレス (京都 - 松山線)|京都エクスプレス]]」 (京阪バス・[[伊予鉄バス]])
==== 京都アバンティ前 ====
上記以外の[[ツアーバス]]から移行した路線が発着。かつては近鉄八条口付近の「八条口観光バス駐車場」から発着していた便もあったが、駅前広場再開発に伴い撤去されたため、2015年2月26日から2017年1月31日までこれらの路線は[[十条駅 (京都市営地下鉄)|地下鉄十条駅]]付近の『京都鴨川十条(タイムズ鴨川西)』に発着していた。2017年2月1日からは京都アバンティ前に整備された新たな観光バス駐車場に発着している。また、WILLER GROUPが近隣に降車専用の停留所『京都駅ホテルセントノーム京都前』を設置している。
* 博多方面:「ロイヤルエクスプレス」([[ハーツエージェントプロモーション|ロイヤルバス]])
* 博多方面/山形方面:「オリオンバス」([[オー・ティー・ビー]])
* 博多方面:「TenryoLINER」([[天領バス]])
* 新宿・横浜方面:「キラキラ号」([[桜交通]])
* TDL方面:「NETWORK」([[中央交通 (大阪府)|中央交通バス]])
* TDL/TDS方面:「LimonBus」([[神姫バス|神姫観光バス]])
* 東京方面:「ナイトライナー」([[東京富士交通]])
* 東京方面([[武元重機|サンシャインエクスプレス]])
* 長野・松本・伊那方面「花バス観光」([[トラビスジャパン]])
* 池袋・東京駅方面/小倉・博多・佐世保方面:「ユタカライナー」([[ユタカ交通]])
==== 京都VIPラウンジ ====
[[国道1号]][[イオンモールKYOTO]]沿いに設置。
* 川崎・秋葉原・東京・新宿・東京ディズニーランド・千葉・王子・さいたま新都心・志木・大宮方面:「VIPライナー」([[平成エンタープライズ]]・平成コミュニティバス)
== 隣の駅 ==
※東海道新幹線の列車および在来線特急・急行の停車駅は各列車記事を参照。括弧内の英数字は駅番号を示す。
;西日本旅客鉄道(JR西日本)
:[[File:JRW kinki-A.svg|17px|A]] JR京都線・琵琶湖線(東海道本線)、[[File:JRW kinki-B.svg|17px|B]] 湖西線
:*特急「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」「[[はるか (列車)|はるか]]」「[[ひだ (列車)|ひだ]]」「[[びわこエクスプレス]]」停車駅、「[[くろしお (列車)|くろしお]]」「[[スーパーはくと]]」発着駅
::{{Color|#0072bc|■}}新快速
:::[[山科駅]] (JR-A30/JR-B30) - '''京都駅 (JR-A31/JR-B31)''' - [[高槻駅]] (JR-A38)
::{{Color|#f60|■}}快速(朝の時間帯のみ運転。琵琶湖線内は普通として運転)
:::山科駅 (JR-A30/JR-B30) - '''京都駅 (JR-A31/JR-B31)''' - [[長岡京駅]] (JR-A35)
::{{Color|#999|■}}普通(高槻駅 - [[西明石駅]]間は快速となる普通電車を含む)
:::山科駅 (JR-A30/JR-B30) - '''京都駅 (JR-A31/JR-B31)''' - [[西大路駅]] (JR-A32)
:[[File:JRW kinki-E.svg|17px|E]] 嵯峨野線(山陰本線)
:*特急「[[きのさき (列車)|きのさき]]」「[[はしだて (列車)|はしだて]]」「[[まいづる (列車)|まいづる]]」発着駅
::{{Color|#f60|■}}快速
:::'''京都駅 (JR-E01)''' - [[二条駅]] (JR-E04)
::{{Color|#999|■}}普通
:::'''京都駅 (JR-E01)''' - [[梅小路京都西駅]] (JR-E02)
::* かつては当駅と丹波口駅の間に大宮駅が存在した。また、[[1994年]]には「第11回[[全国都市緑化フェア]]」に伴い、当駅と丹波口駅の間に臨時駅として[[京都貨物駅#緑化フェア梅小路駅|緑化フェア梅小路駅]]が設置されていた。
:[[File:JRW kinki-D.svg|17px|D]] 奈良線
::{{Color|#f60|■}}みやこ路快速・{{Color|#f60|■}}快速・{{Color|#00a497|■}}区間快速・{{Color|#999|■}}普通
:::'''京都駅 (JR-D01)''' - [[東福寺駅]] (JR-D02)
:※各路線の物理的な隣駅は、普通の停車駅と同様である。ただし、東海道本線の京都駅 - 西大路駅間には貨物専用の[[京都貨物駅]]がある。
;東海旅客鉄道(JR東海)
:[[File:Shinkansen jrc.svg|17px]] 東海道新幹線<!--上記の表記を見れば判るかと-->
:::[[米原駅]] - ([[栗東信号場]]) - '''京都駅''' - ([[鳥飼信号場]])- [[新大阪駅]]
;近畿日本鉄道
:{{近鉄駅番号|B}} 京都線
:*{{Color|#f04|'''□'''}}[[近鉄特急|特急発着駅]]
::{{Color|#f80|■}}急行・{{Color|#093|■}}準急(到着列車のみ)・{{Color|#03c|■}}普通
:::'''京都駅 (B01)''' - [[東寺駅]] (B02)
::*[[1946年]]まで、当駅と東寺駅の間に[[八条駅]]が存在した。
::2003年までに存在していた[[快速急行]]の奈良方面の隣駅は「[[竹田駅 (京都府)|竹田駅]] (B05)」であった。
;京都市営地下鉄
:[[File:Subway KyotoKarasuma.svg|15px]] 烏丸線
:::[[五条駅 (京都府)|五条駅]] (K10) - '''京都駅 (K11)''' - [[九条駅 (京都府)|九条駅]] (K12)
=== かつて存在した路線 ===
;[[鉄道省]](国有鉄道)
:奈良線(旧線)
:::'''京都駅''' - 東寺仮停車場
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
==== 新聞などの報道 ====
{{Reflist|group="N"|2}}
==== その他 ====
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|editor=石野哲|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|ref = {{sfnref|石野|1998}} }}
* {{Cite book |和書 |date=1998-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '98年版 |chapter=JR年表 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-119-8|ref=JRR1998}}
== 関連項目 ==
{{commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[日本一の一覧]]
* [[ジェイアール京都伊勢丹]]
* [[ホテルグランヴィア京都]]
* [[原広司]] / [[ポストモダン建築]]
* [[そうだ 京都、行こう。]] - JR東海の広告
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR西日本駅|0610116|京都}}
* [https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/kyoto/ 京都駅] - 東海旅客鉄道
* [https://www.kintetsu.co.jp/station/station_info/station05005.html 京都駅] - 近畿日本鉄道
* [https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000009812.html 京都市営地下鉄烏丸線京都駅] - 京都市交通局
* [https://www.kyoto-station-building.co.jp/ 京都駅ビル Kyoto Station Building] - 京都駅ビル開発株式会社
* [https://www.jrwd.co.jp/tenant/search/?p=252 JR京都駅NKビル] - JR西日本不動産開発
{{京都駅}}
{{鉄道路線ヘッダー}}
{{東海道新幹線}}
{{北陸新幹線}}
{{琵琶湖線}}
{{JR京都線}}
{{湖西線}}
{{嵯峨野線}}
{{奈良線}}
{{近鉄京都線}}
{{京都市営地下鉄烏丸線}}
{{名神ハイウェイバス}}
{{鉄道路線フッター}}
{{近畿の駅百選}}
{{Normdaten}}
{{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect=七条駅 (関西鉄道)|日本の鉄道駅 し|奈良鉄道の鉄道駅|関西鉄道の鉄道駅}}
{{DEFAULTSORT:きようと}}
[[Category:京都駅|*]]
[[Category:京都市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 き|ようと]]
[[Category:西日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東海旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:京都鉄道|きようとえき]]
[[Category:近畿日本鉄道の鉄道駅]]
[[Category:奈良電気鉄道の鉄道駅]]
[[Category:京都市交通局の鉄道駅]]
[[Category:琵琶湖線|きようとえき]]
[[Category:JR京都線|きようとえき]]
[[Category:東海道新幹線|きようとえき]]
[[Category:1877年開業の鉄道駅]]
[[Category:明治時代の京都]]
[[Category:下京区の交通|きようとえき]]
[[Category:日本国有鉄道の自動車駅]]
[[Category:第40回BCS賞|きようとえき]]
[[Category:京都府の駅ビル|きようとえき]]
[[Category:1997年竣工の日本の建築物|きようとえき]]
[[Category:下京区の建築物|きようとえき]]
[[Category:原広司|きようとえき]] | 2003-03-10T01:42:03Z | 2023-11-28T16:42:05Z | false | false | false | [
"Template:嵯峨野線",
"Template:近畿の駅百選",
"Template:近鉄駅番号",
"Template:Smaller",
"Template:Cite news",
"Template:リンク切れ",
"Template:Commonscat",
"Template:北陸新幹線",
"Template:琵琶湖線",
"Template:Normdaten",
"Template:座標一覧",
"Template:0",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite book",
"Template:鉄道路線ヘッダー",
"Template:PDFlink",
"Template:京都駅",
"Template:奈良線",
"Template:Pp-vandalism",
"Template:駅情報",
"Template:国土航空写真",
"Template:駅配線図",
"Template:Cite journal",
"Template:鉄道路線フッター",
"Template:Sfn",
"Template:Div col",
"Template:Color",
"Template:湖西線",
"Template:近鉄京都線",
"Template:外部リンク/JR西日本駅",
"Template:Otheruses",
"Template:Efn",
"Template:R",
"Template:仮リンク",
"Template:Reflist",
"Template:Main",
"Template:Div col end",
"Template:-",
"Template:Cite web",
"Template:Cite press release",
"Template:京都市営地下鉄烏丸線",
"Template:名神ハイウェイバス",
"Template:東海道新幹線",
"Template:JR京都線",
"Template:リダイレクトの所属カテゴリ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E9%A7%85 |
3,737 | ジャワ島 | ジャワ島(ジャワとう、インドネシア語: Jawa、英語: Java)は、インドネシアを構成する島の一つ。世界一人口の多い島でインドネシアの首都「ジャカルタ」がある。スマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する。形状は東西に細長い。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ジャワ島には4つの州と2つの特別州がある。
首都ジャカルタが存在する。人口は約1億5160万人(2020年)で、インドネシアのみならず、世界第一位の人口を有する島である。人口密度も1,171人/kmと高い。過剰人口や貧困問題はオランダ支配下の19世紀前半に始まる。ジャワ島は、古代から東南アジアにおいて人口分布の核心地であったと考えられる。ジャワ島の西部にスンダ人、中部と東部にジャワ人、東部の一部(マドゥラ島とその対岸)にマドゥラ人が住み、狭義の「ジャワ」はこれらのうちのジャワ人地域である。
隣島のバリ島はヒンドゥー教信者中心の島であり、宗教上の違いから両島は民族的に若干の対立関係にある。
ジャワ古代史は、7世紀以前を西部ジャワ時代(4世紀:タルマヌガラ王国、7世紀:スンダ王国(英語版))、8世紀から10世紀前半までを中部ジャワ時代(8世紀:古マタラム王国・シャイレーンドラ朝)、その後の10世紀前半から16世紀初めまでを東部ジャワ時代に大きく分け、東部ジャワ時代の前半の3世紀をクディリ時代(西ジャワにはヒンドゥー国家のパジャジャラン王国(1579年滅亡)があったことが明らかになっている)、後半の3世紀をシンガサリ・マジャパヒト時代と呼んでいる。このように分けるのは王都の変遷、つまり権力と文化の中心地が移ったためである。Kerajaan Kahuripan、Kerajaan Janggala、Kerajaan Kadiriなどが建国された。
世界史的に16世紀初めまでを古代と呼ぶのには違和感があるが、文献などは15世紀までは古代ジャワ語で書かれており、また、支配的な宗教であったヒンドゥー教や大乗仏教が16世紀前後にイスラムに代わることなどによる。
イスラム王朝として、ドゥマク王国、チルボン王国(英語版)(西ジャワ)、バンテン王国(バンテン地方)、パジャン王国(英語版)(スラカルタ)、マタラム王国(ジョグジャカルタ)が相次いで建国された。また、Kerajaan Kalinyamat、Kerajaan Sumedang Larang、Kerajaan Blambanganなどの非イスラム王国が建国された。
1511年、ポルトガルがマラッカ王国と戦争になると、ドゥマク王国のファタヒラー(インドネシア語版)(Pati Unus)が援軍として駆けつけたが、1512年8月にマラッカは陥落した(マラッカ占領 (1511年)(英語版))。 1520年からアチェ王国のアラウッディン・アルカハル(英語版)が貿易の独占を狙って、三度に渡ってジョホール王国やポルトガル領マラッカ(ポルトガル語版)と戦争になった。この時は、オスマン帝国のスレイマン1世が艦隊を派遣してアチェ王国に加勢したが、成功しなかった。 1514年からポルトガルはマラッカで売る人身売買を目的として明朝の屯門(現香港屯門区)を占拠していたが、朝貢国マラッカを失うと第一次屯門の戦い(英語版)(1521年)と第二次屯門の戦い(英語版)(1521年)の二度にわたって明朝が攻めて撃退した。1522年、ポルトガルとパジャジャラン王国の関係を断ち切らせるために、ドゥマク王国のファタヒラーの艦隊がポルトガル艦隊と西部ジャワで海戦を行なった。勝ったドゥマク王国は、1527年6月22日にスンダ・クラパ(Sunda Kelapa、「スンダ族のココナッツ」の意味)の町の名前を「ジャヤカルタ」(Jayakarta、「勝利」の意味)に改名した。1557年、ポルトガルは明朝からマカオの居留権を得て日本との貿易を開始した。日本人がジャガタラに進出する切っ掛けとなった。
その後、バンテン王国がスンダ海峡の交易路の支配者となって繁栄したが、1596年にオランダ商人のコンパニエ・ファン・フェレ(遠方会社)が資金を出し、コルネリス・ドゥ・ハウトマン(英語版)が香料の買い付けにバンテン王国を訪れた。オランダ人とジャワ人の間で公式書類が交わされ、三世紀半に及ぶ両国の関係が始まった。しかし、和親同盟ではなく惨い植民地支配であった。1602年、オランダ東インド会社がジャワ島に進出し、オランダによる植民地化の時代が始まる。1606年、ポルトガルとオランダ東インド会社がタンジュン・トゥアン(英語版)を巡ってラチャド岬の戦い(英語版)を行ない、ポルトガルが勝利して香辛料貿易独占の足がかりとなった。
親オランダ政策をとったスルタン・ハジ(英語版)は、反オランダ派の父スルタン・アグン・ティルタヤサ(英語版)との内戦に勝利したものの、1619年にオランダ東インド会社のヤン・ピーテルスゾーン・クーンがバンテン王国を管理下に置き、「ジャヤカルタ」は「バタヴィア」(Batavia、古代オランダの呼称)と改名されることになった。1623年、モルッカ諸島のアンボイナ島でアンボイナ事件が起こり、オランダ東インド会社が香辛料貿易を独占することになった。イギリスは東インドの制海権を失って香辛料貿易が頓挫すると、南インドのフランス領ポンディシェリ占領を目指してカーナティック戦争を開始することになった。1641年、オランダ東インド会社がジョホール王国の援助を得てポルトガル領マラッカを占領し(マラッカの戦い (1641年)(英語版))、オランダ領マラッカ(ポルトガル語版)とした。1667年、第二次英蘭戦争(英語版)の講和条約・ブレダの和約で、ニューアムステルダム(現ニューヨーク)とバンダ諸島のラン島を交換した。
18世紀の3次にわたるジャワ継承戦争(第1次ジャワ継承戦争(インドネシア語版)、第2次ジャワ継承戦争(インドネシア語版)、第3次ジャワ継承戦争(インドネシア語版))と華僑虐殺事件の結果、マタラム王国は4分割されてジャワ島全域がオランダ東インド会社の支配下に置かれた。
欧州でナポレオン戦争が戦われている中、1811年にイギリスの攻撃を受け占領され、トーマス・ラッフルズジャワ副知事による植民地化政策が進められたが、フランス帝国の崩壊後は、フランスに対抗させるためネーデルラント連合王国に返還され、1824年には、英蘭協約でオランダ領マラッカとスマトラ島のイギリス植民地を交換し、イギリスの海峡植民地が完成するとともに、ジャワ島を含む島嶼部のオランダへの帰属が確定した。1825年、マタラム王族のディポヌゴロがオランダへの反乱を起こすが、1830年に鎮圧されている(ジャワ戦争)。
第二次世界大戦で、オランダ本国がナチス・ドイツの占領下になると、1942年に、蘭印作戦で日本軍がジャワ島を占領した。長きにわたるオランダの圧政が同じアジア人の日本軍によって制圧され、スバラヤ市に入城する日本軍の戦車隊や日本兵をジャワ島の人々がジュンポール(万歳、一番よい)という親指を立てる最大限の歓迎を示す仕草で迎えた。これら日本を大歓迎する現地の人々の写真は日本の敗戦後GHQの検閲(プレスコード)により封印された。
島の形状は棒状で、西北西から東南東に東西 1040km にわたって延びる。南北 300km にわたるが、島の幅自体は最も広いところでも 200km にとどまる。最西端はカンクアン岬、最東端はバリ島の西端よりも東に延びる。スンダ海峡をはさんで北西のスマトラ島、バリ海峡をはさんで東のバリ島と向かいあう。
ユーラシアプレートにインド・オーストラリアプレートがもぐりこむプレート境界に位置するため、南に250km の位置にはスンダ海溝(ジャワ海溝)が形成されている。地震多発地帯であり、火山も多い。主な火山は西からクラカタウ、スラメット山 (3432m)、ムラピ山 (2968m)、スメル山 (3676m)、ブロモ山 (2329m)、ラウ山 (3332m)、イジェン火山 (2799 m)である。山地や丘陵が多い。このため川は急流が多く、ラフティングなどのアウトドア・アクティビティが盛んである。
ジャワ島西部は熱帯雨林気候、中部より東はモンスーン気候で、自然環境からいっても西部のスンダ地方はスマトラの続きであって、ジャワとは異なる。さらにジャワでは古くから水田耕作が生業であったのに対して、スンダでの水田耕作はオランダ支配下に入った18世紀から始まった。
人口100万人を超える都市は、ジャカルタ、スラバヤ、バンドン、スマランの4つである。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ジャワ島(ジャワとう、インドネシア語: Jawa、英語: Java)は、インドネシアを構成する島の一つ。世界一人口の多い島でインドネシアの首都「ジャカルタ」がある。スマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する。形状は東西に細長い。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ジャワ島には4つの州と2つの特別州がある。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "首都ジャカルタが存在する。人口は約1億5160万人(2020年)で、インドネシアのみならず、世界第一位の人口を有する島である。人口密度も1,171人/kmと高い。過剰人口や貧困問題はオランダ支配下の19世紀前半に始まる。ジャワ島は、古代から東南アジアにおいて人口分布の核心地であったと考えられる。ジャワ島の西部にスンダ人、中部と東部にジャワ人、東部の一部(マドゥラ島とその対岸)にマドゥラ人が住み、狭義の「ジャワ」はこれらのうちのジャワ人地域である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "隣島のバリ島はヒンドゥー教信者中心の島であり、宗教上の違いから両島は民族的に若干の対立関係にある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "ジャワ古代史は、7世紀以前を西部ジャワ時代(4世紀:タルマヌガラ王国、7世紀:スンダ王国(英語版))、8世紀から10世紀前半までを中部ジャワ時代(8世紀:古マタラム王国・シャイレーンドラ朝)、その後の10世紀前半から16世紀初めまでを東部ジャワ時代に大きく分け、東部ジャワ時代の前半の3世紀をクディリ時代(西ジャワにはヒンドゥー国家のパジャジャラン王国(1579年滅亡)があったことが明らかになっている)、後半の3世紀をシンガサリ・マジャパヒト時代と呼んでいる。このように分けるのは王都の変遷、つまり権力と文化の中心地が移ったためである。Kerajaan Kahuripan、Kerajaan Janggala、Kerajaan Kadiriなどが建国された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "世界史的に16世紀初めまでを古代と呼ぶのには違和感があるが、文献などは15世紀までは古代ジャワ語で書かれており、また、支配的な宗教であったヒンドゥー教や大乗仏教が16世紀前後にイスラムに代わることなどによる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "イスラム王朝として、ドゥマク王国、チルボン王国(英語版)(西ジャワ)、バンテン王国(バンテン地方)、パジャン王国(英語版)(スラカルタ)、マタラム王国(ジョグジャカルタ)が相次いで建国された。また、Kerajaan Kalinyamat、Kerajaan Sumedang Larang、Kerajaan Blambanganなどの非イスラム王国が建国された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "1511年、ポルトガルがマラッカ王国と戦争になると、ドゥマク王国のファタヒラー(インドネシア語版)(Pati Unus)が援軍として駆けつけたが、1512年8月にマラッカは陥落した(マラッカ占領 (1511年)(英語版))。 1520年からアチェ王国のアラウッディン・アルカハル(英語版)が貿易の独占を狙って、三度に渡ってジョホール王国やポルトガル領マラッカ(ポルトガル語版)と戦争になった。この時は、オスマン帝国のスレイマン1世が艦隊を派遣してアチェ王国に加勢したが、成功しなかった。 1514年からポルトガルはマラッカで売る人身売買を目的として明朝の屯門(現香港屯門区)を占拠していたが、朝貢国マラッカを失うと第一次屯門の戦い(英語版)(1521年)と第二次屯門の戦い(英語版)(1521年)の二度にわたって明朝が攻めて撃退した。1522年、ポルトガルとパジャジャラン王国の関係を断ち切らせるために、ドゥマク王国のファタヒラーの艦隊がポルトガル艦隊と西部ジャワで海戦を行なった。勝ったドゥマク王国は、1527年6月22日にスンダ・クラパ(Sunda Kelapa、「スンダ族のココナッツ」の意味)の町の名前を「ジャヤカルタ」(Jayakarta、「勝利」の意味)に改名した。1557年、ポルトガルは明朝からマカオの居留権を得て日本との貿易を開始した。日本人がジャガタラに進出する切っ掛けとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "その後、バンテン王国がスンダ海峡の交易路の支配者となって繁栄したが、1596年にオランダ商人のコンパニエ・ファン・フェレ(遠方会社)が資金を出し、コルネリス・ドゥ・ハウトマン(英語版)が香料の買い付けにバンテン王国を訪れた。オランダ人とジャワ人の間で公式書類が交わされ、三世紀半に及ぶ両国の関係が始まった。しかし、和親同盟ではなく惨い植民地支配であった。1602年、オランダ東インド会社がジャワ島に進出し、オランダによる植民地化の時代が始まる。1606年、ポルトガルとオランダ東インド会社がタンジュン・トゥアン(英語版)を巡ってラチャド岬の戦い(英語版)を行ない、ポルトガルが勝利して香辛料貿易独占の足がかりとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "親オランダ政策をとったスルタン・ハジ(英語版)は、反オランダ派の父スルタン・アグン・ティルタヤサ(英語版)との内戦に勝利したものの、1619年にオランダ東インド会社のヤン・ピーテルスゾーン・クーンがバンテン王国を管理下に置き、「ジャヤカルタ」は「バタヴィア」(Batavia、古代オランダの呼称)と改名されることになった。1623年、モルッカ諸島のアンボイナ島でアンボイナ事件が起こり、オランダ東インド会社が香辛料貿易を独占することになった。イギリスは東インドの制海権を失って香辛料貿易が頓挫すると、南インドのフランス領ポンディシェリ占領を目指してカーナティック戦争を開始することになった。1641年、オランダ東インド会社がジョホール王国の援助を得てポルトガル領マラッカを占領し(マラッカの戦い (1641年)(英語版))、オランダ領マラッカ(ポルトガル語版)とした。1667年、第二次英蘭戦争(英語版)の講和条約・ブレダの和約で、ニューアムステルダム(現ニューヨーク)とバンダ諸島のラン島を交換した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "18世紀の3次にわたるジャワ継承戦争(第1次ジャワ継承戦争(インドネシア語版)、第2次ジャワ継承戦争(インドネシア語版)、第3次ジャワ継承戦争(インドネシア語版))と華僑虐殺事件の結果、マタラム王国は4分割されてジャワ島全域がオランダ東インド会社の支配下に置かれた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "欧州でナポレオン戦争が戦われている中、1811年にイギリスの攻撃を受け占領され、トーマス・ラッフルズジャワ副知事による植民地化政策が進められたが、フランス帝国の崩壊後は、フランスに対抗させるためネーデルラント連合王国に返還され、1824年には、英蘭協約でオランダ領マラッカとスマトラ島のイギリス植民地を交換し、イギリスの海峡植民地が完成するとともに、ジャワ島を含む島嶼部のオランダへの帰属が確定した。1825年、マタラム王族のディポヌゴロがオランダへの反乱を起こすが、1830年に鎮圧されている(ジャワ戦争)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦で、オランダ本国がナチス・ドイツの占領下になると、1942年に、蘭印作戦で日本軍がジャワ島を占領した。長きにわたるオランダの圧政が同じアジア人の日本軍によって制圧され、スバラヤ市に入城する日本軍の戦車隊や日本兵をジャワ島の人々がジュンポール(万歳、一番よい)という親指を立てる最大限の歓迎を示す仕草で迎えた。これら日本を大歓迎する現地の人々の写真は日本の敗戦後GHQの検閲(プレスコード)により封印された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "島の形状は棒状で、西北西から東南東に東西 1040km にわたって延びる。南北 300km にわたるが、島の幅自体は最も広いところでも 200km にとどまる。最西端はカンクアン岬、最東端はバリ島の西端よりも東に延びる。スンダ海峡をはさんで北西のスマトラ島、バリ海峡をはさんで東のバリ島と向かいあう。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ユーラシアプレートにインド・オーストラリアプレートがもぐりこむプレート境界に位置するため、南に250km の位置にはスンダ海溝(ジャワ海溝)が形成されている。地震多発地帯であり、火山も多い。主な火山は西からクラカタウ、スラメット山 (3432m)、ムラピ山 (2968m)、スメル山 (3676m)、ブロモ山 (2329m)、ラウ山 (3332m)、イジェン火山 (2799 m)である。山地や丘陵が多い。このため川は急流が多く、ラフティングなどのアウトドア・アクティビティが盛んである。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "ジャワ島西部は熱帯雨林気候、中部より東はモンスーン気候で、自然環境からいっても西部のスンダ地方はスマトラの続きであって、ジャワとは異なる。さらにジャワでは古くから水田耕作が生業であったのに対して、スンダでの水田耕作はオランダ支配下に入った18世紀から始まった。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "人口100万人を超える都市は、ジャカルタ、スラバヤ、バンドン、スマランの4つである。",
"title": "地理"
}
] | ジャワ島は、インドネシアを構成する島の一つ。世界一人口の多い島でインドネシアの首都「ジャカルタ」がある。スマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する。形状は東西に細長い。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ジャワ島には4つの州と2つの特別州がある。 | {{Redirect|ジャワ|他のジャワ(ジャバ)|ジャバ}}
{{出典の明記|date=2011年11月}}
{{Infobox 島
| 島名=ジャワ島
| 画像 = Java_Locator.svg
| 座標 = {{Coord|7|29|30|S|110|00|16|E|type:isle_region:ID_scale:5000000|display=inline,title|name=ジャワ島}}
| 面積 = 126,700
| 標高 = 3,676
| 諸島 =[[大スンダ列島]]
| 最大都市 = [[ジャカルタ]]
| 海域 = [[インド洋]]、[[ジャワ海]]
| 国 = {{IDN}}
}}
{{Location map | Indonesia Java
| lat_deg = 6 | lat_min = 12 | lat_sec = 0 | lat_dir = S
| lon_deg = 106 | lon_min = 48 | lon_sec = 0 | lon_dir = E
| label = '''ジャカルタ'''
| position = right
| mark =
| marksize = 10
| width = 280
| caption = ジャワ島の地形図
| alt = ジャワ島の地形図
| relief = 1
}}
[[ファイル:Java-Map.jpg|サムネイル|280px|18世紀初頭のジャワ島の地図]]
'''ジャワ島'''(ジャワとう、{{lang-id|Jawa}}、{{lang-en|Java}})は、[[インドネシア]]を構成する[[島]]の一つ。[[島の一覧 (人口順)|世界一人口の多い島]]でインドネシアの[[首都]]「[[ジャカルタ]]」がある。[[スマトラ島]]などとともに、[[大スンダ列島]]を形成する。形状は東西に細長い。[[スマトラ島]]の東、[[カリマンタン島]]の南、[[バリ島]]の西に位置する。ジャワ島には4つの[[州]]と2つの特別州がある。
== 概要 ==
[[首都]][[ジャカルタ]]が存在する。[[人口]]は約1億5160万人(2020年)<ref>{{Cite web |url=https://setkab.go.id/hasil-sensus-penduduk-2020-bps-meski-lambat-ada-pergeseran-penduduk-antarpulau/#:~:text=Dengan%20luas%20sekitar%207%20persen,(3%2C17%20persen). |title=Sekretariat Kabinet Republik Indonesia | Hasil Sensus Penduduk 2020; BPS: Meski Lambat, Ada Pergeseran Penduduk Antarpulau |date=23 January 2021 |access-date=2022-12-05 |archive-date=2022-12-05 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221205235937/https://setkab.go.id/hasil-sensus-penduduk-2020-bps-meski-lambat-ada-pergeseran-penduduk-antarpulau/#:~:text=Dengan%20luas%20sekitar%207%20persen,(3%2C17%20persen). |url-status=live }}</ref>で、インドネシアのみならず、世界第一位の人口を有する島である。人口密度も1,171人/km{{sup|2}}と高い。過剰人口や貧困問題は[[オランダ]]支配下の19世紀前半に始まる。ジャワ島は、古代から[[東南アジア]]において人口分布の核心地であったと考えられる。ジャワ島の西部に[[スンダ族|スンダ人]]、中部と東部に[[ジャワ人]]、東部の一部([[マドゥラ島]]とその対岸)に[[マドゥラ族|マドゥラ人]]が住み、狭義の「ジャワ」はこれらのうちのジャワ人地域である。
隣島のバリ島はヒンドゥー教信者中心の島であり、宗教上の違いから両島は民族的に若干の対立関係にある。
== 歴史 ==
=== 古代 ===
{{Seealso|[[:id:Kerajaan Salakanagara|Kerajaan Salakanagara]]|[[:id:Kerajaan Sunda Galuh|Kerajaan Sunda Galuh]]}}
ジャワ古代史は、[[7世紀]]以前を'''西部ジャワ時代'''([[4世紀]]:[[タルマヌガラ王国]]、[[7世紀]]:{{仮リンク|スンダ王国|en|Sunda Kingdom}})、[[8世紀]]から[[10世紀]]前半までを'''中部ジャワ時代'''([[8世紀]]:[[古マタラム王国]]・[[シャイレーンドラ朝]])、その後の10世紀前半から[[16世紀]]初めまでを'''東部ジャワ時代'''に大きく分け、東部ジャワ時代の前半の3世紀を'''[[クディリ王国|クディリ]]時代'''([[西ジャワ州|西ジャワ]]にはヒンドゥー国家の[[パジャジャラン王国]]([[1579年]]滅亡)があったことが明らかになっている)、後半の3世紀を'''[[シンガサリ王国|シンガサリ]]・[[マジャパヒト王国|マジャパヒト]]時代'''と呼んでいる。このように分けるのは王都の変遷、つまり権力と文化の中心地が移ったためである。[[:id:Kerajaan Kahuripan|Kerajaan Kahuripan]]、[[:id:Kerajaan Janggala|Kerajaan Janggala]]、[[:id:Kerajaan Kadiri|Kerajaan Kadiri]]などが建国された。
[[世界史]]的に16世紀初めまでを古代と呼ぶのには違和感があるが、文献などは15世紀までは古代[[ジャワ語]]で書かれており、また、支配的な[[宗教]]であった[[ヒンドゥー教]]や[[大乗仏教]]が16世紀前後に[[イスラム]]に代わることなどによる。
=== イスラムの到来 ===
イスラム王朝として、[[ドゥマク王国]]、{{仮リンク|チルボン王国|en|Sultanate of Cirebon}}([[西ジャワ州|西ジャワ]])、[[バンテン王国]]([[バンテン州|バンテン地方]])、{{仮リンク|パジャン王国|en|Kingdom of Pajang}}([[スラカルタ]])、[[マタラム王国]]([[ジョグジャカルタ特別州|ジョグジャカルタ]])が相次いで建国された。また、[[:id:Kerajaan Kalinyamat|Kerajaan Kalinyamat]]、[[:id:Kerajaan Sumedang Larang|Kerajaan Sumedang Larang]]、[[:id:Kerajaan Blambangan|Kerajaan Blambangan]]などの非イスラム王国が建国された。
=== ポルトガルの到来 ===
[[1511年]]、[[ポルトガル]]が[[マラッカ王国]]と戦争になると、ドゥマク王国の{{仮リンク|ファタヒラー|id|Fatahillah}}({{lang|id|Pati Unus}})が援軍として駆けつけたが、[[1512年]]8月にマラッカは陥落した({{仮リンク|マラッカ占領 (1511年)|en|Capture of Malacca (1511)}})。
[[1520年]]から[[アチェ王国]]の{{仮リンク|アラウッディン・アルカハル|en|Alauddin al-Kahar}}が貿易の独占を狙って、三度に渡って[[ジョホール王国]]や{{仮リンク|ポルトガル領マラッカ|pt|Malaca Portuguesa}}と戦争になった。この時は、[[オスマン帝国]]の[[スレイマン1世]]が艦隊を派遣してアチェ王国に加勢したが、成功しなかった。
[[1514年]]からポルトガルはマラッカで売る人身売買を目的として[[明|明朝]]の[[屯門]](現[[香港]][[屯門区]])を占拠していたが、朝貢国マラッカを失うと{{仮リンク|第一次屯門の戦い|en|First Battle of Tamao}}([[1521年]])と{{仮リンク|第二次屯門の戦い|en|Second Battle of Tamao}}([[1521年]])の二度にわたって明朝が攻めて撃退した。[[1522年]]、[[ポルトガル]]とパジャジャラン王国の関係を断ち切らせるために、ドゥマク王国のファタヒラーの艦隊がポルトガル艦隊と西部ジャワで海戦を行なった。勝ったドゥマク王国は、[[1527年]][[6月22日]]に[[ジャカルタ|スンダ・クラパ]]({{lang|id|Sunda Kelapa}}、「[[スンダ族]]の[[ココナッツ]]」の意味)の町の名前を「ジャヤカルタ」({{lang|id|Jayakarta}}、「勝利」の意味)に改名した。[[1557年]]、ポルトガルは明朝から[[マカオ]]の居留権を得て[[日本]]との貿易を開始した。[[日本人]]が[[バタヴィア|ジャガタラ]]に進出する切っ掛けとなった。
=== オランダの到来 ===
その後、バンテン王国が[[スンダ海峡]]の交易路の支配者となって繁栄したが、[[1596年]]にオランダ商人のコンパニエ・ファン・フェレ(遠方会社)が資金を出し、{{仮リンク|コルネリス・ドゥ・ハウトマン|en|Cornelis de Houtman}}が[[香料]]の買い付けにバンテン王国を訪れた。オランダ人とジャワ人の間で公式書類が交わされ、三世紀半に及ぶ両国の関係が始まった。しかし、和親同盟ではなく惨い植民地支配であった<ref>[[サイモン・ウィンチェスター]]著、柴田裕之訳『クラカトアの大噴火 -世界の歴史を動かした火山-』早川書房 2004年 27ページ)</ref>。[[1602年]]、[[オランダ東インド会社]]がジャワ島に進出し、オランダによる植民地化の時代が始まる。[[1606年]]、ポルトガルとオランダ東インド会社が{{仮リンク|タンジュン・トゥアン|en|Tanjung Tuan}}<ref group="注釈">現[[ポート・ディクソン]]の南にある岬で、[[マラッカ海峡]]の[[香辛料貿易]]における海の関所の役割をしていた。</ref>を巡って{{仮リンク|ラチャド岬の戦い|en|Battle of Cape Rachado}}を行ない、ポルトガルが勝利して[[香辛料貿易]]独占の足がかりとなった。
親オランダ政策をとった{{仮リンク|アブドゥルカハル|en|Abu Nasr Abdul Kahhar|label=スルタン・ハジ}}は、反オランダ派の父スルタン・{{仮リンク|アグン|en|Ageng|label=アグン・ティルタヤサ}}との内戦に勝利したものの、[[1619年]]にオランダ東インド会社の[[ヤン・ピーテルスゾーン・クーン]]がバンテン王国を管理下に置き、「ジャヤカルタ」は「[[バタヴィア]]」({{lang|nl|Batavia}}、古代オランダの呼称)と改名されることになった。[[1623年]]、[[モルッカ諸島]]の[[アンボイナ島]]で[[アンボイナ事件]]が起こり、オランダ東インド会社が[[香辛料貿易]]を独占することになった。[[イギリス]]は東インドの制海権を失って香辛料貿易が頓挫すると、[[南インド]]のフランス領[[ポンディシェリ]]占領を目指して[[カーナティック戦争]]を開始することになった。[[1641年]]、オランダ東インド会社が[[ジョホール王国]]の援助を得てポルトガル領マラッカを占領し({{仮リンク|マラッカの戦い (1641年)|en|Battle of Malacca (1641)}})、{{仮リンク|オランダ領マラッカ|pt|Dutch Malacca}}とした。[[1667年]]、{{仮リンク|第二次英蘭戦争|en|Second Anglo-Dutch War|redirect=1}}の講和条約・[[ブレダの和約]]で、[[ニューアムステルダム]](現[[ニューヨーク]])とバンダ諸島の[[ラン島]]を交換した。
[[18世紀]]の3次にわたる[[ジャワ継承戦争]]({{仮リンク|第1次ジャワ継承戦争|id|Perang Tahta Jawa Pertama}}、{{仮リンク|第2次ジャワ継承戦争|id|Perang Tahta Jawa Kedua}}、{{仮リンク|第3次ジャワ継承戦争|id|Perang Tahta Jawa Ketiga}})と[[華僑虐殺事件 (バタヴィア)|華僑虐殺事件]]の結果、[[マタラム王国]]は4分割されてジャワ島全域がオランダ東インド会社の支配下に置かれた。
=== イギリスの襲来 ===
欧州で[[ナポレオン戦争]]が戦われている中、[[1811年]]に[[イギリス]]の攻撃を受け占領され、[[トーマス・ラッフルズ]]ジャワ[[副知事]]による植民地化政策が進められたが、[[フランス帝国]]の崩壊後は、フランスに対抗させるため[[ネーデルラント連合王国]]に返還され、[[1824年]]には、[[英蘭協約]]でオランダ領マラッカとスマトラ島のイギリス植民地を交換し、イギリスの[[海峡植民地]]が完成するとともに、ジャワ島を含む島嶼部のオランダへの帰属が確定した。1825年、マタラム王族の[[ディポヌゴロ]]がオランダへの反乱を起こすが、1830年に鎮圧されている([[ジャワ戦争]])。
=== 日本軍による占領 ===
[[第二次世界大戦]]で、オランダ本国が[[ナチス・ドイツ]]の占領下になると、[[1942年]]に、[[蘭印作戦#ジャワ島の戦い|蘭印作戦]]で[[日本軍]]がジャワ島を占領した。長きにわたるオランダの圧政が同じアジア人の日本軍によって制圧され、スバラヤ市に入城する日本軍の戦車隊や日本兵をジャワ島の人々がジュンポール(万歳、一番よい)という親指を立てる最大限の歓迎を示す仕草で迎えた<ref name="mizu">{{Harvnb|水間|2013|pp=49-50}}</ref>。これら日本を大歓迎する現地の人々の写真は日本の敗戦後[[GHQ]]の検閲([[プレスコード]])により封印された<ref name="mizu"/>。
== 地理 ==
[[ファイル:Semeru Bromo Temple.JPG|thumb|left|240x240px|ブロモ山]]
島の形状は棒状で、西北西から東南東に東西 1040km にわたって延びる。南北 300km にわたるが、島の幅自体は最も広いところでも 200km にとどまる。最西端はカンクアン岬、最東端は[[バリ島]]の西端よりも東に延びる。[[スンダ海峡]]をはさんで北西の[[スマトラ島]]、[[バリ海峡]]をはさんで東のバリ島と向かいあう。[[ファイル:Citatih,_sukabumi,_west_java_1_Anna_Martadiningrat.jpg|200x200px|thumb|西ジャワでは急流でのラフティングが盛ん]][[ユーラシアプレート]]に[[インド・オーストラリアプレート]]がもぐりこむプレート境界に位置するため、南に250km の位置にはスンダ海溝([[ジャワ海溝]])が形成されている。地震多発地帯であり、[[火山]]も多い。主な火山は西から[[クラカタウ]]、[[スラメット山]] (3432m)、[[ムラピ山]] (2968m)、[[スメル山]] (3676m)、[[ブロモ山]] (2329m)、[[ラウ山]] (3332m)、[[イジェン山|イジェン火山]] (2799 m)である。山地や丘陵が多い。このため川は急流が多く、[[ラフティング]]などの[[アウトドア・アクティビティ]]が盛んである。
ジャワ島西部は[[熱帯雨林気候]]、中部より東は[[モンスーン気候]]で、自然環境からいっても西部のスンダ地方はスマトラの続きであって、ジャワとは異なる。さらにジャワでは古くから水田耕作が生業であったのに対して、スンダでの水田耕作は[[オランダ]]支配下に入った18世紀から始まった。
{{wide image|Sulfur mining in Kawah Ijen - Indonesia - 20110608.jpg|600px|イジェンの火山湖}}
=== 行政区分 ===
[[ファイル:Java map.png|right|220px|thumb|'''ジャワ島の地図''' 1から6は第1級地方自治体の名称を表す]]
*[[ジャカルタ|ジャカルタ首都特別州]] - インドネシアの首都で同国最大の都市。
*[[ジョグジャカルタ|ジョグジャカルタ特別州]] - 今も王宮がある古都で、「ジャワ人のふるさと」と言われる。[[世界遺産]]の[[プランバナン寺院群]]がある<ref group="注釈">同じく世界遺産の[[ボロブドゥール寺院遺跡群]]もジョグジャカルタからのアクセスになるが、所在地は中部ジャワ州になる。</ref>。
*[[バンテン州]] - ジャワ島の最も西にあり、[[2000年]]に西ジャワ州より分離
*[[西ジャワ州]]
*[[中部ジャワ州]]
*[[東ジャワ州]]
=== 主要都市 ===
人口100万人を超える都市は、ジャカルタ、スラバヤ、バンドン、スマランの4つである。
*[[ジャカルタ]] - 首都で経済の中心地。近郊を含む都市的地域の人口は世界第2位。
*[[ボゴール]] - ジャカルタの南にある。植民地時代に[[避暑地]]として建設された。世界最大級の植物園である[[ボゴール植物園]]がある。-
*[[スラバヤ]] - ジャカルタに次ぐインドネシア第2の都市。貿易港として重要。
*[[バンドン (インドネシア)|バンドン]](バンドゥン) - [[アジア・アフリカ会議|バンドン会議]]で有名。高地にあり冷涼で学園都市でもある。
*[[スマラン]] - [[オランダ]]植民地時代からの貿易港がある商業都市。
*[[ジョグジャカルタ]] - インドネシアの古都で、ジャワ人の心の故郷と言われ、芸術や観光が盛ん。王宮がある。
*[[スラカルタ]](ソロ) - 王宮あり。ジョグジャカルタより古い歴史がある。ジョグジャカルタとともにジャワの伝統文化の中心地。
*[[マラン (東ジャワ州)|マラン]] - 東ジャワの[[パリ]]と称され、高地にあり冷涼で学園都市でもある。
*[[チルボン]] - 工業原料の輸出が盛んなチルボン港がある。ソロやジョグジャと少し違った[[ガムラン]]がある。
*[[バニュワンギ]] - [[バリ島]]の対岸の町。ここのガムランはソロやジョグジャの様な中部ジャワ様式のガムランと区別して「東部ジャワ様式」といわれる事もある。
=== 世界遺産 ===
*[[ウジュン・クロン国立公園]]
*[[サンギラン初期人類遺跡]]
*[[プランバナン寺院群]]
*[[ボロブドゥール寺院遺跡群]]
== 文化 ==
*[[ジャワ語]]
*[[イスラム教]]
*[[バラモン教]]
*[[バティック]]
*[[ジャワ・ガムラン]]
*[[ワヤン・クリ]]
== その他 ==
* [[Java]] - [[プログラミング言語|コンピュータプログラミング言語。]]ジャワ島の[[ジャワコーヒー]]から名付けられたとされる。
* [[ジャワカレー]] - [[ハウス食品]]のカレールゥ。南国風の辛いカレーのイメージで、南の島「ジャワ島」の「ジャワ」を取って名付けている。CMでは「ジャワ原人」と歌っていた時もあった<ref>[https://housefoods.jp/inquiry/qa/answer_09_02.html 製造元のハウス食品の説明]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|author=[[水間政憲]] |date=2013-08 |title=ひと目でわかる「アジア解放」時代の日本精神 |publisher=[[PHP研究所]] |isbn=978-4569813899 |ref={{Harvid|水間|2013}}}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|東南アジア|[[ファイル:SE-asia.png|45px|Portal:東南アジア]]}}
{{ウィキポータルリンク|地理|[[ファイル:Gnome-globe.svg|34px|Portal:地理]]}}
{{commons&cat|Java|Java}}
{{wikivoyage|Java|ジャワ島{{en icon}}}}
{{wikisource|ジャワ風景}}
*[[ジャワ原人]]
*[[ジャバニカ米]]
*[[オランダ東インド会社]]
*[[ジャワ島中部地震]]
*[[ジャワ島南西沖地震]]
*[[戦場のメリークリスマス]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{インドネシアの地方行政区画}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:しやわとう}}
[[Category:ジャワ島|*]]
[[Category:インドネシアの島]]
[[Category:大スンダ列島]]
{{indonesia-stub}} | 2003-03-10T02:57:51Z | 2023-12-01T22:16:19Z | false | false | false | [
"Template:仮リンク",
"Template:Lang",
"Template:ウィキポータルリンク",
"Template:Kotobank",
"Template:Location map",
"Template:Sup",
"Template:Notelist",
"Template:Reflist",
"Template:Harvnb",
"Template:Citation",
"Template:Wikivoyage",
"Template:Redirect",
"Template:Seealso",
"Template:Wide image",
"Template:Wikisource",
"Template:インドネシアの地方行政区画",
"Template:Indonesia-stub",
"Template:出典の明記",
"Template:Lang-id",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
"Template:Commons&cat",
"Template:Normdaten",
"Template:Infobox 島",
"Template:Lang-en"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%AF%E5%B3%B6 |
3,738 | ジャワコーヒー | ジャワコーヒーはインドネシアのジャワ島を産地とするコーヒー豆。または、そのコーヒー豆でいれたコーヒー。
飲用にあたっては、コーヒー豆の焙煎度が深く、また超微粉になるように豆を粉砕する。
ドリップのフイルターを用いると目詰まりするので、カップにコーヒー粉を適量注ぎ、直接お湯を加えてかき混ぜる。粉が底に沈むのを待ってから、その上澄みを飲む。
見た目は濃く、苦そうだが、香り高く飲み易い。
ジャワにおけるコーヒー栽培の歴史は、インドネシアのオランダ領東インド時代にさかのぼる。オランダによってインド産のアラビカ種のコーヒーの苗木がジャワに持ち込まれたのは17世紀末だと伝えられるが、本格的に栽培が始まるのは、1830年に東インドに導入された強制栽培期以降のことである。
以後、コーヒーは東インドの有力輸出品目の地位を獲得し、オランダの植民地経済の重要な収入源となったが、19世紀末の農業恐慌、1930年代の経済恐慌により、東インドのコーヒー栽培は大打撃をうけた。
インドネシア独立後はコーヒー生産も徐々に回復し、ジャワだけでなく、スマトラ(マンデリン)、バリ、スラウェシ(トラジャ)などの各地で栽培が盛んである。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ジャワコーヒーはインドネシアのジャワ島を産地とするコーヒー豆。または、そのコーヒー豆でいれたコーヒー。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "飲用にあたっては、コーヒー豆の焙煎度が深く、また超微粉になるように豆を粉砕する。",
"title": "飲用"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "ドリップのフイルターを用いると目詰まりするので、カップにコーヒー粉を適量注ぎ、直接お湯を加えてかき混ぜる。粉が底に沈むのを待ってから、その上澄みを飲む。",
"title": "飲用"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "見た目は濃く、苦そうだが、香り高く飲み易い。",
"title": "飲用"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "ジャワにおけるコーヒー栽培の歴史は、インドネシアのオランダ領東インド時代にさかのぼる。オランダによってインド産のアラビカ種のコーヒーの苗木がジャワに持ち込まれたのは17世紀末だと伝えられるが、本格的に栽培が始まるのは、1830年に東インドに導入された強制栽培期以降のことである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "以後、コーヒーは東インドの有力輸出品目の地位を獲得し、オランダの植民地経済の重要な収入源となったが、19世紀末の農業恐慌、1930年代の経済恐慌により、東インドのコーヒー栽培は大打撃をうけた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "インドネシア独立後はコーヒー生産も徐々に回復し、ジャワだけでなく、スマトラ(マンデリン)、バリ、スラウェシ(トラジャ)などの各地で栽培が盛んである。",
"title": "歴史"
}
] | ジャワコーヒーはインドネシアのジャワ島を産地とするコーヒー豆。または、そのコーヒー豆でいれたコーヒー。 | {{出典の明記|date=2020-03-31}}
[[Image:Cofffeebeans aging a.jpg|thumb|350px|焙煎前のコーヒー豆。右から、摘みたて、乾燥後、乾燥から1年後のもの(ジャワ島西部のバンドン)]]
'''ジャワコーヒー'''は[[インドネシア]]の[[ジャワ島]]を産地とする[[コーヒー豆]]。または、そのコーヒー豆でいれた[[コーヒー]]。
== 飲用 ==
[[Image:Coffeeroasting woodfired.jpg|thumb|200px|木材を燃料にして鋳鉄製のロースターでコーヒー豆を焙煎している(バンドン)]]
飲用にあたっては、コーヒー豆の[[焙煎]]度が深く、また超微粉になるように豆を粉砕する。
ドリップのフイルターを用いると目詰まりするので、カップにコーヒー粉を適量注ぎ、直接お湯を加えてかき混ぜる。粉が底に沈むのを待ってから、その上澄みを飲む。
見た目は濃く、苦そうだが、香り高く飲み易い。
== 歴史 ==
ジャワにおけるコーヒー栽培の歴史は、[[インドネシア]]の[[オランダ領東インド]]時代にさかのぼる。[[オランダ]]によって[[インド]]産のアラビカ種のコーヒーの苗木がジャワに持ち込まれたのは[[17世紀]]末だと伝えられるが、本格的に栽培が始まるのは、[[1830年]]に東インドに導入された[[強制栽培制度]]以降のことである。
以後、コーヒーは東インドの有力[[輸出]]品目の地位を獲得し、[[オランダ]]の[[植民地]]経済の重要な収入源となったが、[[19世紀]]末の農業恐慌、[[1930年代]]の経済恐慌により、東インドのコーヒー栽培は大打撃をうけた。
インドネシア独立後はコーヒー生産も徐々に回復し、ジャワだけでなく、[[スマトラ島|スマトラ]]([[マンデリン]])、[[バリ島|バリ]]、[[スラウェシ島|スラウェシ]]([[トラジャ族#コーヒー|トラジャ]])などの各地で栽培が盛んである[https://didaktikonline.com/ 。]
== 備考 ==
* [[アメリカ合衆国|アメリカ]]では、コーヒー(coffee)のことをジャワ(java)と言う場合がある。
* [[プログラム言語]]の[[Java]]の名称の由来ともなった。<!--その由来についてお詳しい方がいらっしゃったら加筆をお願いします-->
== 関連項目 ==
* [[コーヒー]]
* [[インドネシア]]
* [[ジャワ島]]
{{コーヒーの銘柄}}
{{food-stub}}
{{DEFAULTSORT:しやわこひ}}
[[Category:ジャワ島]]
[[category:コーヒー]] | 2003-03-10T03:03:39Z | 2023-12-30T03:15:28Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:コーヒーの銘柄",
"Template:Food-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC |
3,739 | 観音菩薩 | 観音菩薩(かんのん ぼさつ、梵: Avalokiteśvara)は、仏教の菩薩の一尊。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、観自在菩薩(かんじざいぼさつ)、救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)など多数の別名がある。一般的に「観音さま」とも呼ばれる。
観音菩薩の起源や性別には定説がない。
友松圓諦は『般若心経講話』(1956年)の中で、「どこか、観自在菩薩の信仰のつよい地方、また、密教の呪文が珍重されていた地方」に起源を求めた。
岩本裕はインド土着の女神が仏教に取り入れられた可能性を示唆しており、エローラ石窟群、サールナートなどインドの仏教遺跡においても観音菩薩像と思しき仏像が発掘されている。
ゾロアスター教においてアフラ・マズダーの娘とされる女神アナーヒターやスプンタ・アールマティとの関連も指摘されている。
サンスクリットのアヴァローキテーシュヴァラ(Avalokiteśvara)を、玄奘は「観察された(avalokita )」と「自在者(īśvara)」の合成語と解釈し「観自在」と訳した。鳩摩羅什訳では「観世音」であったが、玄奘は「古く光世音、観世音、観世音自在などと漢訳しているのは、全てあやまりである」といっている。
一方で、中央アジアで発見された古いサンスクリットの『法華経』では、アヴァローキタスヴァラ(avalokitasvara)となっており、これに沿えば「観察された(avalokita)」+「音・声(svara)」と解され、また古訳では『光世音菩薩』の訳語もあることなどから、異なるテキストだった可能性は否定できない。なお、現在発見されている写本に記された名前としては、avalokitasvaraがもっとも古形であり、ローケーシュ・チャンドラはこの表記が原形であったとしている。
観音菩薩という呼び名は、唐の太宗皇帝の忌み名が世民であったため改称された。一般的には観世音菩薩の略号と解釈されている。
日本語の「カンノン」は「観音」の呉音読みであり、連声によって「オン」が「ノン」になったものである。
『観音経』などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっている。また、『般若心経』の冒頭に登場する菩薩でもあり、般若の智慧の象徴ともなっている。浄土教では『観無量寿経』の説くところにより阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に安置されることも多い。観音菩薩は大慈大悲を本誓とする。中国では六朝時代から霊験記(傅亮『光世音応験記』、張演『続観世音応験記』、陸杲『繫観世音応験記』)が遺され、日本では飛鳥時代から造像例があり、現世利益と結びつけられて、時代・地域を問わず広く信仰されている。
観音の在す住処・浄土は、ポータラカ(Potalaka、補陀落)といい、実叉難陀訳『大方広仏華厳経』と般若訳『大方広仏華厳経』には、南インドの摩頼矩吒国の補怛洛伽(Potalaka)であると説かれる。
偽経『観世音菩薩往生浄土本縁経』によると、過去世において長那(ちょうな)というバラモンの子の早離(そうり)であったとされる。彼には速離(そくり)という兄弟がおり、のちの勢至菩薩だという。早離と速離は騙されて無人島に捨てられ、餓死したが、早離は餓死する寸前に「生まれ変わったら自分たちのように苦しんでいる人たちを救いたい」と誓願を立てたため、観音菩薩になったという。なお、父の長那は未来に釈迦として生まれ変わった。
チベット仏教では、チベットの国土に住む衆生は「観音菩薩の所化」と位置づけられ、チベット仏教の四大宗派に数えられるゲルグ派の高位の化身ラマで、民間の信仰を集めているダライ・ラマは、観音菩薩(千手千眼十一面観音)の化身とされている。居城であるラサのポタラ宮の名は、観音の浄土である、ポータラカ(Potalaka、補陀落)に因む。チベットでは、観音菩薩はチェンレジー(spyan ras gzigs)として知られるが、これは「観自在」を意味する「spyan ras gzigs dbang phyug」を省略したものである。
観音菩薩は男性と女性の両方の姿を取ることから、欧米の研究者のあいだではジェンダー・フリーの体現者であると解釈され、評価されている。しかしながら、本来は男性であったと考えられる。
例えば、松原哲明は、梵名のアヴァローキテーシュヴァラが男性名詞であること、華厳経に「勇猛なる男子(丈夫)、観世音菩薩」と書かれていることから、本来男性であったと述べている。植木雅俊も、
という事実を挙げ、観音の女性化はインドではなく中国において起きたこと、中国での観音菩薩は男尊女卑の儒教倫理に悩む人たちがすがるものであったこと、例えば、世継ぎの男子を生めない妻は離縁されて当然という儒教(『礼記』の「嫁して三年、子なきは去る」)の男尊女卑の考えに苦しんだ女性たちは、観音に祈れば男児が授かるという現世利益的な観音信仰を広く受け入れたこと、を指摘している。
たしかに、中国では「慈母観音」などという言葉から示されるように、俗に女性と見る向きが多い。また、例えば地蔵菩薩を観音と同じ大悲闡提の一対として見る場合が多く、地蔵が男性の僧侶形の像容であるのに対し、観音は女性的な顔立ちの像容も多いことからそのように見る場合が多い。観音経では「婦女身得度者、即現婦女身而為説法」と、女性に対しては女性に変身して説法することもあるため、次第に性別は無いものとして捉えられるようになった。また後代に至ると観音を女性と見る傾向が多くなった。これは中国における観音信仰の一大聖地である普陀落山(浙江省・舟山群島)から東シナ海域や黄海にまで広まったことで、その航海安全を祈念する民俗信仰や道教の媽祖信仰などの女神と結び付いたためと考えられている。
また、妙荘王の末女である妙善という女性が尼僧として出家、成道し、観音菩薩となったという説話が十二世紀頃に中国全土に流布し、『香山宝巻』の成立によって王女妙善説話が定着、美しい女性としての観音菩薩のイメージが定着したとする説もある。
観音について説かれた仏教経典は数多いが、最古かつ最も有名なのは妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五、別名「観音経」である。後述の三十三身普門示現もこの教典の長行に説かれている。この略本と考えられている十句観音経や、十一面観音について説かれた十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経がよく読誦される経典である。
これらの経典は、普門品偈文(観音経)に、「衆生、困厄を被りて、無量の苦、身に逼(せま)らんに、観音の妙智の力は、能く世間の苦を救う。(観音は)神通力を具足し、広く智の方便を修して、十方の諸(もろもろ)の国土に。刹として身を現ぜざることなし。種々の諸の悪趣。地獄・鬼・畜生。生・老・病・死の苦は、以て漸く悉く滅せしむ。」とあるように、観音の慈悲が広く、優れた現世利益を持つことを述べている点が共通している。
観音が世を救済するに、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という。法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれている。なお、観音経とは別に、密教経典『摂無礙経』にも三十三身の記載があり、両者は細部が異なる。(下記参照)
西国三十三所観音霊場、三十三間堂などに見られる「33」という数字はここに由来する。なお「三十三観音」(後述)とは、この法華経の所説に基づき、中国及び近世の日本において信仰されるようになったものであって、法華経の中にこれら33種の観音の名称が登場するわけではない。
この普門示現の考え方から、六観音、七観音、十五尊観音、三十三観音など多様多種な別身を派生するに至った。
このため、観音像には基本となる聖観音(しょうかんのん)の他、密教の教義により作られた、十一面観音、千手観音など、変化(へんげ)観音と呼ばれる様々な形の像がある。阿弥陀如来の脇侍としての観音と異なり、独尊として信仰される観音菩薩は、現世利益的な信仰が強い。そのため、あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂の超人間的な姿に表されることが多い。 その元となったのが三十三応現身像と言われている。 応現身とは相手に応じて様々な姿に変わることをいう。
『観音経』の観音三十三応現身の種類及び、対応する仏尊、三十三観音を以下に図とする。
『観音経』観音三十三身の絵図。『観音経絵解』(1866年刊)より。
真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音という組み合わせになっている。
なお、千手観音は経典においては千本の手を有し、それぞれの手に一眼をもつとされているが、実際に千本の手を表現することは造形上困難であるために、唐招提寺金堂像や葛井寺の乾漆千手観音坐像などわずかな例外を除いて、42本の手で「千手」を表す像が多い。観世音菩薩が千の手を得た謂われとしては、伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』がある。この経の最後に置かれた大悲心陀羅尼は現在でも中国や日本の禅宗寺院で読誦されている。
観音が衆生教化のために変じ給える七身。真言系の六観音に天台系の不空羂索観音を加える。
三十三観音(次項参照)のうち、白衣、葉衣、水月、楊柳、阿摩提、多羅、青頸、琉璃、龍頭、持経、円光、遊戯、蓮臥、瀧見、施薬の15の変化身をいう。
以下に列挙した三十三観音の名称は、天明3年(1783年)に刊行された絵師の土佐秀信が著した『仏像図彙』(ぶつぞうずい)という書物に所載のものである。この中には白衣(びゃくえ)観音、多羅尊観音のようにインド起源のものもあるが、中国や日本で独自に発達したものもあり、その起源は様々である。白衣観音、楊柳観音のように、禅宗系の仏画や水墨画の好画題としてしばしば描かれるものもあるが、大部分の観音は単独での造像はまれである。
三十三観音の名称
現在のスリランカの仏教は上座部仏教で占められているもの、かつては大乗仏教や密教が勢力を持っていた時代があり、「ナータ」(観音菩薩)や「サマン」(普賢菩薩)への信仰が存在した。15世紀のスリランカにおいて図像の作成者によって用いられた図像学についてのサンスクリット文献は観音菩薩(ナータ)における以下の示現を記述している。なお、これらは南インドのヒンドゥー教における「アーガマ」の伝統からの輸入である。
平和のモニュメントとして昭和時代以降、日本各地で観音菩薩像が造られた。その多くは女性的な顔立ちで、頭部と両肩を布でおおい、全身白塗りである。これは中国明代の白磁の白衣観音の影響があるという(君島彩子『観音像とは何か』 2021年 青弓社) | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "観音菩薩(かんのん ぼさつ、梵: Avalokiteśvara)は、仏教の菩薩の一尊。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、観自在菩薩(かんじざいぼさつ)、救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)など多数の別名がある。一般的に「観音さま」とも呼ばれる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "観音菩薩の起源や性別には定説がない。",
"title": "起源"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "友松圓諦は『般若心経講話』(1956年)の中で、「どこか、観自在菩薩の信仰のつよい地方、また、密教の呪文が珍重されていた地方」に起源を求めた。",
"title": "起源"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "岩本裕はインド土着の女神が仏教に取り入れられた可能性を示唆しており、エローラ石窟群、サールナートなどインドの仏教遺跡においても観音菩薩像と思しき仏像が発掘されている。",
"title": "起源"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "ゾロアスター教においてアフラ・マズダーの娘とされる女神アナーヒターやスプンタ・アールマティとの関連も指摘されている。",
"title": "起源"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "サンスクリットのアヴァローキテーシュヴァラ(Avalokiteśvara)を、玄奘は「観察された(avalokita )」と「自在者(īśvara)」の合成語と解釈し「観自在」と訳した。鳩摩羅什訳では「観世音」であったが、玄奘は「古く光世音、観世音、観世音自在などと漢訳しているのは、全てあやまりである」といっている。",
"title": "名称の由来"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "一方で、中央アジアで発見された古いサンスクリットの『法華経』では、アヴァローキタスヴァラ(avalokitasvara)となっており、これに沿えば「観察された(avalokita)」+「音・声(svara)」と解され、また古訳では『光世音菩薩』の訳語もあることなどから、異なるテキストだった可能性は否定できない。なお、現在発見されている写本に記された名前としては、avalokitasvaraがもっとも古形であり、ローケーシュ・チャンドラはこの表記が原形であったとしている。",
"title": "名称の由来"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "観音菩薩という呼び名は、唐の太宗皇帝の忌み名が世民であったため改称された。一般的には観世音菩薩の略号と解釈されている。",
"title": "名称の由来"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "日本語の「カンノン」は「観音」の呉音読みであり、連声によって「オン」が「ノン」になったものである。",
"title": "名称の由来"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "『観音経』などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっている。また、『般若心経』の冒頭に登場する菩薩でもあり、般若の智慧の象徴ともなっている。浄土教では『観無量寿経』の説くところにより阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に安置されることも多い。観音菩薩は大慈大悲を本誓とする。中国では六朝時代から霊験記(傅亮『光世音応験記』、張演『続観世音応験記』、陸杲『繫観世音応験記』)が遺され、日本では飛鳥時代から造像例があり、現世利益と結びつけられて、時代・地域を問わず広く信仰されている。",
"title": "信仰・位置づけ"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "観音の在す住処・浄土は、ポータラカ(Potalaka、補陀落)といい、実叉難陀訳『大方広仏華厳経』と般若訳『大方広仏華厳経』には、南インドの摩頼矩吒国の補怛洛伽(Potalaka)であると説かれる。",
"title": "信仰・位置づけ"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "偽経『観世音菩薩往生浄土本縁経』によると、過去世において長那(ちょうな)というバラモンの子の早離(そうり)であったとされる。彼には速離(そくり)という兄弟がおり、のちの勢至菩薩だという。早離と速離は騙されて無人島に捨てられ、餓死したが、早離は餓死する寸前に「生まれ変わったら自分たちのように苦しんでいる人たちを救いたい」と誓願を立てたため、観音菩薩になったという。なお、父の長那は未来に釈迦として生まれ変わった。",
"title": "信仰・位置づけ"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "チベット仏教では、チベットの国土に住む衆生は「観音菩薩の所化」と位置づけられ、チベット仏教の四大宗派に数えられるゲルグ派の高位の化身ラマで、民間の信仰を集めているダライ・ラマは、観音菩薩(千手千眼十一面観音)の化身とされている。居城であるラサのポタラ宮の名は、観音の浄土である、ポータラカ(Potalaka、補陀落)に因む。チベットでは、観音菩薩はチェンレジー(spyan ras gzigs)として知られるが、これは「観自在」を意味する「spyan ras gzigs dbang phyug」を省略したものである。",
"title": "信仰・位置づけ"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "観音菩薩は男性と女性の両方の姿を取ることから、欧米の研究者のあいだではジェンダー・フリーの体現者であると解釈され、評価されている。しかしながら、本来は男性であったと考えられる。",
"title": "性別"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "例えば、松原哲明は、梵名のアヴァローキテーシュヴァラが男性名詞であること、華厳経に「勇猛なる男子(丈夫)、観世音菩薩」と書かれていることから、本来男性であったと述べている。植木雅俊も、",
"title": "性別"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "という事実を挙げ、観音の女性化はインドではなく中国において起きたこと、中国での観音菩薩は男尊女卑の儒教倫理に悩む人たちがすがるものであったこと、例えば、世継ぎの男子を生めない妻は離縁されて当然という儒教(『礼記』の「嫁して三年、子なきは去る」)の男尊女卑の考えに苦しんだ女性たちは、観音に祈れば男児が授かるという現世利益的な観音信仰を広く受け入れたこと、を指摘している。",
"title": "性別"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "たしかに、中国では「慈母観音」などという言葉から示されるように、俗に女性と見る向きが多い。また、例えば地蔵菩薩を観音と同じ大悲闡提の一対として見る場合が多く、地蔵が男性の僧侶形の像容であるのに対し、観音は女性的な顔立ちの像容も多いことからそのように見る場合が多い。観音経では「婦女身得度者、即現婦女身而為説法」と、女性に対しては女性に変身して説法することもあるため、次第に性別は無いものとして捉えられるようになった。また後代に至ると観音を女性と見る傾向が多くなった。これは中国における観音信仰の一大聖地である普陀落山(浙江省・舟山群島)から東シナ海域や黄海にまで広まったことで、その航海安全を祈念する民俗信仰や道教の媽祖信仰などの女神と結び付いたためと考えられている。",
"title": "性別"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "また、妙荘王の末女である妙善という女性が尼僧として出家、成道し、観音菩薩となったという説話が十二世紀頃に中国全土に流布し、『香山宝巻』の成立によって王女妙善説話が定着、美しい女性としての観音菩薩のイメージが定着したとする説もある。",
"title": "性別"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "観音について説かれた仏教経典は数多いが、最古かつ最も有名なのは妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五、別名「観音経」である。後述の三十三身普門示現もこの教典の長行に説かれている。この略本と考えられている十句観音経や、十一面観音について説かれた十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経がよく読誦される経典である。",
"title": "所依経典(観音経)"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "これらの経典は、普門品偈文(観音経)に、「衆生、困厄を被りて、無量の苦、身に逼(せま)らんに、観音の妙智の力は、能く世間の苦を救う。(観音は)神通力を具足し、広く智の方便を修して、十方の諸(もろもろ)の国土に。刹として身を現ぜざることなし。種々の諸の悪趣。地獄・鬼・畜生。生・老・病・死の苦は、以て漸く悉く滅せしむ。」とあるように、観音の慈悲が広く、優れた現世利益を持つことを述べている点が共通している。",
"title": "所依経典(観音経)"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "観音が世を救済するに、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という。法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれている。なお、観音経とは別に、密教経典『摂無礙経』にも三十三身の記載があり、両者は細部が異なる。(下記参照)",
"title": "普門示現"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "西国三十三所観音霊場、三十三間堂などに見られる「33」という数字はここに由来する。なお「三十三観音」(後述)とは、この法華経の所説に基づき、中国及び近世の日本において信仰されるようになったものであって、法華経の中にこれら33種の観音の名称が登場するわけではない。",
"title": "普門示現"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "この普門示現の考え方から、六観音、七観音、十五尊観音、三十三観音など多様多種な別身を派生するに至った。",
"title": "普門示現"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "このため、観音像には基本となる聖観音(しょうかんのん)の他、密教の教義により作られた、十一面観音、千手観音など、変化(へんげ)観音と呼ばれる様々な形の像がある。阿弥陀如来の脇侍としての観音と異なり、独尊として信仰される観音菩薩は、現世利益的な信仰が強い。そのため、あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂の超人間的な姿に表されることが多い。 その元となったのが三十三応現身像と言われている。 応現身とは相手に応じて様々な姿に変わることをいう。",
"title": "普門示現"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "『観音経』の観音三十三応現身の種類及び、対応する仏尊、三十三観音を以下に図とする。",
"title": "普門示現"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "『観音経』観音三十三身の絵図。『観音経絵解』(1866年刊)より。",
"title": "普門示現"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音という組み合わせになっている。",
"title": "普門示現"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "なお、千手観音は経典においては千本の手を有し、それぞれの手に一眼をもつとされているが、実際に千本の手を表現することは造形上困難であるために、唐招提寺金堂像や葛井寺の乾漆千手観音坐像などわずかな例外を除いて、42本の手で「千手」を表す像が多い。観世音菩薩が千の手を得た謂われとしては、伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』がある。この経の最後に置かれた大悲心陀羅尼は現在でも中国や日本の禅宗寺院で読誦されている。",
"title": "普門示現"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "観音が衆生教化のために変じ給える七身。真言系の六観音に天台系の不空羂索観音を加える。",
"title": "普門示現"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "三十三観音(次項参照)のうち、白衣、葉衣、水月、楊柳、阿摩提、多羅、青頸、琉璃、龍頭、持経、円光、遊戯、蓮臥、瀧見、施薬の15の変化身をいう。",
"title": "普門示現"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "以下に列挙した三十三観音の名称は、天明3年(1783年)に刊行された絵師の土佐秀信が著した『仏像図彙』(ぶつぞうずい)という書物に所載のものである。この中には白衣(びゃくえ)観音、多羅尊観音のようにインド起源のものもあるが、中国や日本で独自に発達したものもあり、その起源は様々である。白衣観音、楊柳観音のように、禅宗系の仏画や水墨画の好画題としてしばしば描かれるものもあるが、大部分の観音は単独での造像はまれである。",
"title": "普門示現"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "三十三観音の名称",
"title": "普門示現"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "現在のスリランカの仏教は上座部仏教で占められているもの、かつては大乗仏教や密教が勢力を持っていた時代があり、「ナータ」(観音菩薩)や「サマン」(普賢菩薩)への信仰が存在した。15世紀のスリランカにおいて図像の作成者によって用いられた図像学についてのサンスクリット文献は観音菩薩(ナータ)における以下の示現を記述している。なお、これらは南インドのヒンドゥー教における「アーガマ」の伝統からの輸入である。",
"title": "スリランカにおける八示現"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "平和のモニュメントとして昭和時代以降、日本各地で観音菩薩像が造られた。その多くは女性的な顔立ちで、頭部と両肩を布でおおい、全身白塗りである。これは中国明代の白磁の白衣観音の影響があるという(君島彩子『観音像とは何か』 2021年 青弓社)",
"title": "観音菩薩を祀る主な寺院"
}
] | 観音菩薩は、仏教の菩薩の一尊。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、観自在菩薩(かんじざいぼさつ)、救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)など多数の別名がある。一般的に「観音さま」とも呼ばれる。 | {{Redirect|観音様}}
{{Redirect|観音}}
{{統合文字|薩}}
{{Infobox Buddha
|名= 観音菩薩
|梵名= アヴァローキテーシュヴァラ
|別名= 光世音菩薩<br />観世音菩薩<br />観自在菩薩<br />救世菩薩<br />円通教主<ref>新版 禅学大辞典 p113</ref><br/ >円通大士など多数
|画像= [[ファイル:Sanjusangendo Thousand-armed Kannon.JPG|250px]]
|説明文= 木造千手観音坐像(京都・三十三間堂)
|経典= 『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品第二十五<ref>[{{NDLDC|818267/56}} [[国立国会図書館]]デジタルコレクション 鳩摩羅什訳『妙法蓮華経 : 冠註』「『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品第二十五」]</ref>(『観音経』)<br />
仏馱跋陀羅訳『大方広仏華厳経』巻五十一<br />
竺難提訳『請観世音消伏毒害陀羅尼呪経』<br />
曇無讖訳『悲華経』巻三<br />
般剌蜜帝訳『楞厳経』巻六
|主要経典注釈書=
|信仰=
|関連項目= [[阿弥陀如来]]・[[勢至菩薩]]
}}
[[ファイル:九蓮観音菩薩像-Guanyin as the Nine-Lotus Bodhisattva MET DT204712.jpg|代替文=|サムネイル|315x315ピクセル|白衣観音図]]
'''観音菩薩'''(かんのん ぼさつ、{{lang-sa-short|Avalokiteśvara}})は、[[仏教]]の[[菩薩]]の一尊。'''観世音菩薩'''(かんぜおんぼさつ)、'''観自在菩薩'''(かんじざいぼさつ)、'''救世菩薩'''(くせぼさつ・ぐせぼさつ)など多数の別名がある。一般的に「観音さま」とも呼ばれる。
== 起源 ==
観音菩薩の起源や性別には定説がない。
[[友松円諦|友松圓諦]]は『般若心経講話』(1956年)の中で、「どこか、観自在菩薩の信仰のつよい地方、また、密教の呪文が珍重されていた地方」に起源を求めた。
[[岩本裕]]はインド土着の女神が仏教に取り入れられた可能性を示唆しており<ref>坂本幸男・岩本裕訳注『法華経』岩波文庫下巻 (1969年) pp.408-409.</ref>、[[エローラ石窟群]]、[[サールナート]]などインドの仏教遺跡においても観音菩薩像と思しき仏像が発掘されている。
[[ゾロアスター教]]において[[アフラ・マズダー]]の娘とされる女神[[アナーヒター]]や[[スプンタ・アールマティ]]との関連も指摘されている<ref>関根俊一 編『仏尊の事典 - 壮大なる仏教宇宙の仏たち』学習研究社〈New sight mook. Books esoterica. エソテリカ事典シリーズ 1〉1997年4月、ISBN 978-4-05-601347-4、62頁。</ref>。
== 名称の由来 ==
サンスクリットのアヴァローキテーシュヴァラ({{IAST|Avalokiteśvara}})を、[[玄奘]]は「観察された({{IAST|avalokita }})」と「自在者({{IAST|īśvara}})」の[[合成語]]と解釈し「観自在」と訳した<ref>『大唐西域記』巻三「中有阿縛盧枳低湿伐羅菩薩像(唐言「観自在」。合字連声、梵語如上。分文散音、即「阿縛盧枳多」訳曰「観」、「伊湿伐羅」訳曰「自在」。)」</ref>。[[鳩摩羅什]]訳では「観世音」であったが、玄奘は「古く光世音、観世音、観世音自在などと漢訳しているのは、全てあやまりである」といっている。<ref name="名前なし-1">[[#松原・三木1999|松原・三木1999]] {{要ページ番号|date=2015-11-03}}</ref>
一方で、中央アジアで発見された古い[[サンスクリット]]の『法華経』では、アヴァローキタスヴァラ({{IAST|avalokitasvara}})となっており、これに沿えば「観察された({{IAST|avalokita}})」+「音・声({{IAST|svara}})」と解され、また古訳では『光世音菩薩』の訳語もあることなどから、異なるテキストだった可能性は否定できない。なお、現在発見されている写本に記された名前としては、{{IAST|avalokitasvara}}がもっとも古形であり<ref>[[#山中2010|山中2010]] p.120</ref>、[[ローケーシュ・チャンドラ]]はこの表記が原形であったとしている<ref>{{cite journal|author=Lokesh Chandra |date=1984 |title=The Origin of Avalokitesvara |url=http://www.indologica.com/volumes/vol13/vol13_art13_CHANDRA.pdf |journal=Indologica Taurinenaia |volume=XIII (1985-1986) |pages=189–190 |publisher=International Association of Sanskrit Studies |accessdate=2016-07-31 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140606205922/http://www.indologica.com/volumes/vol13/vol13_art13_CHANDRA.pdf |archivedate=2014-06-06 }}</ref>。
観音菩薩という呼び名は、唐の[[太宗 (唐)|太宗]]皇帝の忌み名が世民であったため改称された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/20200110waseda-nakano.html |title=中国の皇帝たち - 日本人と中国人を知るための教養講座 |access-date=2023-03-09}}</ref>。一般的には観世音菩薩の略号と解釈されている。<ref>大宮司朗『仏尊の図鑑』{{full|date=2015-11-03}}</ref>
日本語の「カンノン」は「観音」の[[呉音]]読みであり、[[連声]]によって「オン」が「ノン」になったものである。
== 信仰・位置づけ ==
[[File:Standing Kannon Bosatsu (Avalokitesvara), Heian period, Japan.jpg|thumb|観音菩薩、12世紀、[[平安時代]]、[[東京国立博物館]]蔵]]
『'''[[観音経]]'''』などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっている。また、『[[般若心経]]』の冒頭に登場する菩薩でもあり、[[般若]]の智慧の象徴ともなっている。[[浄土教]]では『[[観無量寿経]]』の説くところにより[[阿弥陀如来]]の脇侍として[[勢至菩薩]]と共に安置されることも多い。観音菩薩は大慈大悲を本誓とする。中国では[[六朝時代]]から霊験記(傅亮『光世音応験記』、張演『続観世音応験記』、陸杲『繫観世音応験記』)が遺され、日本では[[飛鳥時代]]から造像例があり、[[現世利益]]と結びつけられて、時代・地域を問わず広く信仰されている。
観音の在す住処・浄土は、ポータラカ({{IAST|Potalaka}}、[[補陀落]])といい、実叉難陀訳『大方広仏[[華厳経]]』と般若訳『大方広仏華厳経』には、南インドの摩頼矩吒国の補怛洛伽({{IAST|Potalaka}})であると説かれる。
偽経『[[観世音菩薩往生浄土本縁経]]』によると、過去世において長那(ちょうな)という[[バラモン]]の子の早離(そうり)であったとされる。彼には速離(そくり)という兄弟がおり、のちの勢至菩薩だという。早離と速離は騙されて無人島に捨てられ、餓死したが、早離は餓死する寸前に「生まれ変わったら自分たちのように苦しんでいる人たちを救いたい」と誓願を立てたため、観音菩薩になったという<ref group="注釈">無人島に捨てられた理由は、継母による育児放棄であるとか、誘拐犯によるものだとか、諸本により一定しない。[[平康頼]]の『[[宝物集]]』では、子供二人は生母と死別し、継母が二人の子供を殺害しようとして、海藻取りだと騙して連れ出し、無人島に置き去りにしたとしている。なお、松原泰道『般若心経入門』では、出典を南伝華厳経とする。</ref>。なお、父の長那は未来に釈迦として生まれ変わった<ref group="注釈">『[[宝物集]]』では、子供二人の生母は阿弥陀如来の前世であり、阿弥陀三尊像の脇侍が観音・勢至なのはその因縁に依るという。</ref>。
=== チベット仏教における位置づけ ===
[[チベット仏教]]では、チベットの国土に住む衆生は「観音菩薩の所化」と位置づけられ、チベット仏教の四大宗派に数えられる[[ゲルグ派]]の高位の[[化身ラマ]]で、民間の信仰を集めている[[ダライ・ラマ]]は、観音菩薩(千手千眼十一面観音<ref group="注釈">曼荼羅の研究家として知られる[[田中公明]]によると、「千手観音」の千手を描く姿は中国で描かれたのが最初で、インドにはその作例は見られないとしている。</ref>)の化身とされている。居城である[[ラサ]]の[[ポタラ宮]]の名は、観音の浄土である、ポータラカ({{IAST|Potalaka}}、補陀落)に因む。チベットでは、観音菩薩は'''チェンレジー'''({{unicode|spyan ras gzigs}})として知られるが、これは「観自在」を意味する「{{unicode|spyan ras gzigs dbang phyug}}」を省略したものである。
== 性別 ==
[[ファイル:Maruyama-kanon 丸山観音 DSCF2080.JPG|250px|thumb|right|[[古代]]より広く[[信仰]]を集め、日本では各地に建立されることが多い観音像]]
観音菩薩は男性と女性の両方の姿を取ることから、欧米の研究者のあいだではジェンダー・フリーの体現者であると解釈され、評価されている<ref>植木雅俊『仏教、本当の教え』(中公新書、2011年)p.174</ref>。しかしながら、本来は男性であったと考えられる。
例えば、[[松原哲明]]は、梵名のアヴァローキテーシュヴァラが男性名詞であること、華厳経に「勇猛なる男子(丈夫)、観世音菩薩」と書かれていることから、本来男性であったと述べている<ref name="名前なし-1"/>。[[植木雅俊]]も、
#[[ガンダーラ]]の観音菩薩の彫刻は、ほとんどが口ひげをたくわえている。
#『法華経』のサンスクリット原典(ケルン・南条本)の第31偈には、観音が導師となる阿弥陀仏の浄土に女性は誰も生まれてこない、と書いてある。なお、この部分は鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』にはないと言っている。しかし立正大学の三友健容博士によると、1~27偈までは観自在菩薩についての記述であるが、28~33偈は、後代に追加されたものであり。鳩摩羅什訳の底本は、現存の写本より古いものであり、1~27偈までである。博士によると28~33偈は、「観自在菩薩」と「[[世自在王仏]]」がサンスクリット語で発音が似ている事から、法華経に誤って混入した浄土思想である。と発表した。
#『法華経』のサンスクリット原典では、観音は16の姿を現すとされ、その全てが男性である。
#『法華経』の初期の漢訳である [[竺法護]]訳『正法華経』(286年)では、観音は17の姿を現すとされ、その全てが男性である。
#ところが[[鳩摩羅什]]訳『妙法蓮華経』(406年。現在、最も普及している法華経)では観音は「三十三身」を現すとされ、そのうち7つが女性の姿である。
という事実を挙げ、'''観音の女性化はインドではなく中国において起きた'''こと、'''中国での観音菩薩は男尊女卑の儒教倫理に悩む人たちがすがるものであった'''こと、例えば、世継ぎの男子を生めない妻は離縁されて当然という儒教(『礼記』の「嫁して三年、子なきは去る」)の男尊女卑の考えに苦しんだ女性たちは、観音に祈れば男児が授かるという現世利益的な観音信仰を広く受け入れたこと、を指摘している<ref>植木雅俊『仏教、本当の教え』(中公新書、2011年)pp.174-181</ref>。
たしかに、中国では「慈母観音」などという言葉から示されるように、俗に女性と見る向きが多い。<!-- 根拠不明、コメントアウト
これには則天武后の影響を指摘する声もある。-->また、例えば[[地蔵菩薩]]を観音と同じ[[一闡提#大悲闡提|大悲闡提]]の一対として見る場合が多く、地蔵が男性の僧侶形の像容であるのに対し、観音は女性的な顔立ちの像容も多いことからそのように見る場合が多い<ref>[[#松原・三木1999|松原・三木1999]] {{要ページ番号|date=2015-11-03}}。松原哲明によれば一般的には女性だと誤解されており、大正期の岡本かの子等は、各宗教の神々でミスコンを行った場合、観世音菩薩はミス仏教だろうと主張しているが、れっきとした男性だと念押ししている。ただし、岡本も観音が男性であることは確かだが、女性として見たいと主張している{{要ページ番号|date=2015-11-03}}。</ref>。観音経では「婦女身得度者、即現婦女身而為説法」と、女性に対しては女性に変身して説法することもあるため、次第に性別は無いものとして捉えられるようになった。また後代に至ると観音を女性と見る傾向が多くなった。これは中国における観音信仰の一大聖地である[[補陀落|普陀落山]](浙江省・[[舟山群島]])から東シナ海域や黄海にまで広まったことで、その航海安全を祈念する民俗信仰や[[道教]]の[[媽祖]]信仰などの女神と結び付いたためと考えられている{{要出典|date=2015年11月3日 (火) 14:30 (UTC)}}。
また、妙荘王の末女である[[妙善]]という女性が[[尼僧]]として出家、成道し、観音菩薩となったという説話が十二世紀頃に中国全土に流布し、『[[香山宝巻]]』の成立によって王女妙善説話が定着、美しい女性としての観音菩薩のイメージが定着したとする説もある<ref>[[平木康平]]『[https://ci.nii.ac.jp/naid/40000306746 媽祖と観音--中国母神の研究-2-]』, 大阪府立大学紀要 人文・社会科学 (32), p54-55, 1984</ref>。
== 所依経典(観音経) ==
[[File:Kannon Gyō or Avalokitesvara Sutra 観音経 Published in Edo Era.jpg|400px|thumb|観音経。江戸時代の経本の、[[法華経|妙法蓮華経]]観世音菩薩普門品第二十五の最後の部分。これは読誦用の「両点本」で、経文(漢文)の右側に「真読」(経文を呉音で直読するためのふりがな)を、左側に「訓読」(経文を漢文訓読で読み下すための訓点)が表記されている。]]
観音について説かれた仏教経典は数多いが、最古かつ最も有名なのは[[妙法蓮華経]][[観世音菩薩普門品]]第二十五、別名「観音経」である。<ref>岩本・坂本『法華経』1976、岩波書店{{full|date=2015-11-03}}<!--上中下巻のどれか?-->。長行と偈文に分かれている。なお、[[#松原1972|松原1972]]のように、普門品偈文のみを取り出して「観音経」という場合もある。</ref>後述の三十三身普門示現もこの教典の長行に説かれている。この略本と考えられている[[十句観音経]]や、十一面観音について説かれた[[十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経]]がよく読誦される経典である。<ref group="注釈">この他、変化観音関係でよく読誦される教典として、千手観音の陀羅尼である[[大悲心陀羅尼]]や、准胝観音経などがある{{要出典|date=2015-11-03}}。</ref>
これらの経典は、普門品偈文(観音経)に、「衆生、困厄を被りて、無量の苦、身に逼(せま)らんに、観音の妙智の力は、能く世間の苦を救う。(観音は)神通力を具足し、広く智の方便を修して、十方の諸(もろもろ)の国土に。刹として身を現ぜざることなし。種々の諸の悪趣。地獄・鬼・畜生。生・老・病・死の苦は、以て漸く悉く滅せしむ。」<ref group="注釈">書き下しは平田真純『大聖歓喜天礼拝作法』待乳山本龍院、2002{{Full|date=2015-11-03}}に依った。句読はやや改めた。</ref>とあるように、観音の慈悲が広く、優れた現世利益を持つことを述べている点が共通している。
== 普門示現 ==
[[ファイル:Kuan-yan bodhisattva, Northern Sung dynasty, China, c. 1025, wood, Honolulu Academy of Arts.jpg|thumb|180px|中国の観音菩薩像(北宋時代)]]
観音が世を救済するに、広く衆生の[[機根]](性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という。法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれている。<ref group="注釈">三十三身は法華経の鳩摩羅什訳で初めて出現しており、サンスクリット原文では数が少ない。なお、三十三身を仏像として造像する例もあり、鎌倉長谷寺に十一面観音像の脇侍として作られた三十三身像が現存しており、神奈川県の重要文化財に指定されている他、東京の護国寺、塩船観音寺に作例が残る。</ref>なお、観音経とは別に、密教経典『摂無礙経』にも三十三身の記載があり、両者は細部が異なる。(下記参照)
[[西国三十三所|西国三十三所観音霊場]]、[[三十三間堂]]などに見られる「33」という数字はここに由来する。なお「三十三観音」(後述)とは、この法華経の所説に基づき、中国及び近世の日本において信仰されるようになったものであって、法華経の中にこれら33種の観音の名称が登場するわけではない。
この普門示現の考え方から、六観音、七観音、十五尊観音、三十三観音など多様多種な別身を派生するに至った。
このため、観音像には基本となる'''聖観音(しょうかんのん)'''の他、密教の教義により作られた、[[十一面観音]]、[[千手観音]]など、<ref>東京国立博物館資料調査室長の石田尚豊の研究による{{要ページ番号|date=2015-11-03}}。石田によれば、既に白鳳時代にかなりの密教経典が読まれていた記録があり、十一面観音や千手観音の登場する教典が招来されているという。</ref>'''変化(へんげ)観音'''と呼ばれる様々な形の像がある。阿弥陀如来の脇侍としての観音と異なり、独尊として信仰される観音菩薩は、現世利益的な信仰が強い。そのため、あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂の超人間的な姿に表されることが多い{{要出典|date=2015-11-03}}。
その元となったのが[[三十三応現身像]]と言われている。
応現身とは相手に応じて様々な姿に変わることをいう{{要出典|date=2015-11-03}}。
『観音経』の観音三十三応現身の種類及び、対応する仏尊、三十三観音を以下に図とする。<ref group="注釈">三十三身の分け方は鎌田茂雄『観音経講話』{{要ページ番号|date=2015-11-03}}及び大栗道栄『図説観音経入門』{{要ページ番号|date=2015-11-03}}に従った。三十三観音との対応は土佐秀信『仏像図彙』{{要ページ番号|date=2015-11-03}}より。</ref>
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|-
! !! 『観音経』の観音三十三身の種類 !! 対応する仏尊 !! 三十三観音<ref group="注釈">三十三身の分け方は鎌田茂雄『観音経講話』{{要ページ番号|date=2015-11-03}}及び大栗道栄『図説観音経入門』{{要ページ番号|date=2015-11-03}}に従った。三十三観音との対応は土佐秀信『仏像図彙』{{要ページ番号|date=2015-11-03}}より</ref> !! 『摂無礙経』の観音三十三身の種類
|-
! 1
| 仏身 || [[阿弥陀如来]](観自在王如来) || 青頸(しょうきょう)観音 || 仏身(ぶっしん)
|-
! 2
| [[辟支仏]](びゃくしぶつ)身 || || 水月観音 || 辟支仏身(びゃくしぶつしん)
|-
! 3
| [[声聞]](しょうもん)身 || || 持経(じきょう)観音 || 声聞身(しょうもんしん)
|-
! 4
| 梵王身 || [[梵天]] || 徳王観音 || 大梵王身(だいぼんおうしん)
|-
! 5
| 帝釈(たいしゃく)身 || [[帝釈天]] || 葉衣(ようえ)観音 || 帝釈身(たいしゃくしん)
|-
! 6
| 自在天身 || [[他化自在天]] || 瑠璃観音 || 自在天身(じざいてんしん)
|-
! 7
| 大自在天身 || [[大自在天]] || 普悲(ふひ)観音 || 大自在天身(だいじざいてんしん)
|-
! 8
| 天大将軍身 || 不明<ref group="注釈">この尊格は定説がない。大栗は帝釈天の命を受けて世間をパトロールし、賞罰を定める尊格だとするが、異説もある{{要ページ番号|date=2015-11-03}}。</ref> || 威徳(いとく)観音 || 天大将軍身(てんだいしょうぐんしん)
|-
! 9
| 毘沙門身 || [[毘沙門天]] || 阿摩提(あまだい)観音 || 毘沙門身(びしゃもんしん)
|-
! 10
| 小王身<ref>観音信者の国王や大名{{要出典|date=2015-11-03}}。鎌田茂雄は[[アショーカ王]]や[[楠木正成]]のような人物だとしている{{要ページ番号|date=2015-11-03}}。</ref> || || 蓮臥(れんが)観音 || 小王身(しょうおうしん)
|-
! 11
| 長者身{{refnest|group="注釈"|人格者の資産家で判断が正しく世間の役に立っている人のこと<ref name="名前なし-2">[[#大栗2001|大栗2001]] {{要ページ番号|date=2015-11-03}}</ref>。}} || || 衆宝(しゅうほう)観音 || 長者身(ちょうじゃしん)
|-
! 12
| 居士(こじ)身|| || 六時観音 || 居士身(こじしん)
|-
! 13
| 宰官身|| || 一葉観音 || 宰官身(さいかんしん)
|-
! 14
| [[婆羅門]]身|| || 合掌観音 || 婆羅門身(ばらもんしん)
|-
! 15
| [[比丘]](びく)身|| || || 比丘身(びくしん)
|-
! 16
| [[比丘尼]]身|| || 15、16をまとめて白衣(びゃくい)観音 || 比丘尼身(びくにしん)
|-
! 17
| [[優婆塞]](うばそく)身|| || || 優婆塞身(うばそくしん)
|-
! 18
| [[優婆夷]](うばい)身|| || || 優婆夷身(うばいしん)
|-
! 19
| 長者婦女身|| || 馬郎婦(ばろうふ)観音 || 人身(じんしん)
|-
! 20
| 居士婦女身|| || || 非人身(ひじんしん)
|-
! 21
| 宰官婦女身|| || || 婦女身(ふじょしん)
|-
! 22
| 婆羅門婦女身|| || || 童目天女身(どうもくてんにょしん)
|-
! 23
| 童男身|| || || 童男身(どうなんしん)
|-
! 24
| 童女身|| || 23、24をまとめて持蓮(じれん)観音 || 童女身(どうにょしん)
|-
! 25
| 天身 || いわゆる[[天龍八部衆]] || || 天身(てんしん)
|-
! 26
| 竜身|| || || 龍身(りゅうしん)
|-
! 27
| [[夜叉]](やしゃ)身|| || 25から27までをまとめて龍頭(りゅうず)観音に配当 || 夜叉身(やしゃしん)
|-
! 28
| [[乾闥婆]](けんだつば)身|| || || 乾闥婆身(けんだつばしん)
|-
! 29
| [[阿修羅]]身|| || || 阿修羅身(あしゅらしん)
|-
! 30
| [[迦楼羅]](かるら)身|| || || 迦樓羅身(かるらしん)
|-
! 31
| [[緊那羅]](きんなら)身|| || || 緊那羅身(きんならしん)
|-
! 32
| [[摩睺羅伽]](まごらが)身|| || || 摩睺羅伽身(まごらがしん)
|-
! 33
| 執金剛身 || [[執金剛神]]{{refnest|group="注釈"|[[不動明王]]と同じ尊格とする<ref name="名前なし-2"/>。}} || 不二(ふに)観音 || 執金剛身(しゅうこんごうしん)
|}
『観音経』観音三十三身の絵図。『観音経絵解』(1866年刊)より。
<gallery>
File:観音と居士 Avalokitasvara and Householder.jpg|12. [[居士]]
File:観音と夜叉 Avalokitasvara and Yaksa.jpg|27. [[夜叉]]
File:観音と乾闥婆 Avalokitasvara and Gandharva.jpg|28. [[乾闥婆]]
File:観音と阿修羅 Avalokitasvara and Asura.jpg|29. [[阿修羅]]
File:観音と迦楼羅 Avalokitasvara and Garuda.jpg|30. [[迦楼羅]]
File:観音と緊那羅 Avalokitasvara and Kimnara.jpg|31. [[緊那羅]]
File:観音と摩睺羅伽 Avalokitasvara and Mahoraga.jpg|32. [[摩睺羅伽]]
</gallery>
=== 六観音 ===
真言系では[[聖観音]]、[[十一面観音]]、[[千手観音]]、[[馬頭観音]]、[[如意輪観音]]、[[准胝観音]]を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに[[不空羂索観音]]を加えて六観音とする。六観音は[[六道|六道輪廻]](ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音という組み合わせになっている。
なお、千手観音は経典においては千本の手を有し、それぞれの手に一眼をもつとされているが、実際に千本の手を表現することは造形上困難であるために、[[唐招提寺]]金堂像や[[葛井寺#文化財|葛井寺]]の乾漆千手観音坐像などわずかな例外を除いて、42本の手で「千手」を表す像が多い。観世音菩薩が千の手を得た謂われとしては、伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』がある。この経の最後に置かれた[[大悲心陀羅尼]]は現在でも中国や日本の禅宗寺院で読誦されている。
=== 七観音 ===
観音が衆生教化のために変じ給える七身。真言系の六観音に天台系の不空羂索観音を加える。
=== 十五尊観音 ===
三十三観音(次項参照)のうち、白衣、葉衣、水月、楊柳、阿摩提、多羅、青頸、琉璃、龍頭、持経、円光、遊戯、蓮臥、瀧見、施薬の15の変化身をいう。
=== 三十三観音 ===
以下に列挙した三十三観音の名称は、天明3年(1783年)に刊行された絵師の土佐秀信が著した『仏像図彙』(ぶつぞうずい)という書物に所載のものである。この中には白衣(びゃくえ)観音、多羅尊観音のようにインド起源のものもあるが、中国や日本で独自に発達したものもあり、その起源は様々である。白衣観音、楊柳観音のように、禅宗系の仏画や水墨画の好画題としてしばしば描かれるものもあるが、大部分の観音は単独での造像はまれである。
三十三観音の名称
{{div col|colwidth=17em}}
# [[楊柳観音|楊柳]](ようりゅう)
# [[龍頭観音|龍頭]](りゅうず)
# [[持経観音|持経]](じきょう)
# [[円光観音|円光]](えんこう)
# [[遊戯観音|遊戯]](ゆげ)
# [[白衣観音|白衣]](びゃくえ)
# [[蓮臥観音|蓮臥]](れんが)
# [[滝見観音|滝見]](たきみ)
# [[施薬観音|施薬]](せやく)
# [[魚籃観音|魚籃]](ぎょらん)
# [[徳王観音|徳王]](とくおう)
# [[水月観音|水月]](すいげつ)
# [[一葉観音|一葉]](いちよう)<ref group="注釈">[[道元]]が感得した尊格とされる{{要出典|date=2015-11-03}}。</ref>
# [[青頚観音|青頚]](しょうけい)
# [[威徳観音|威徳]](いとく)
# [[延命観音|延命]](えんめい)
# [[衆宝観音|衆宝]](しゅうほう)
# 岩戸(いわと)
# [[能静観音|能静]](のうじょう)
# [[阿耨観音|阿耨]](あのく)
# [[阿摩提観音|阿摩提]](あまだい)
# [[葉衣観音|葉衣]](ようえ)
# [[瑠璃観音|瑠璃]](るり)
# [[多羅尊観音|多羅尊]](たらそん)
# [[蛤蜊観音|蛤蜊]](こうり、はまぐり)
# [[六時観音|六時]](ろくじ)
# [[普悲観音|普悲]](ふひ)
# [[馬郎婦観音|馬郎婦]](めろうふ)<ref group="注釈">読みは「ばろうふ」とも。魚籃観音と同一説もある{{要出典|date=2015-11-03}}。</ref>
# [[合掌観音|合掌]](がっしょう)
# [[一如観音|一如]](いちにょ)
# [[不二観音|不二]](ふに)
# [[持蓮観音|持蓮]](じれん)
# [[灑水観音|灑水]](しゃすい)
{{div col end}}
== スリランカにおける八示現 ==
現在の[[スリランカの仏教]]は[[上座部仏教]]で占められているもの、かつては大乗仏教や[[密教]]が勢力を持っていた時代があり、「ナータ」(観音菩薩)や「サマン」([[普賢菩薩]])への信仰が存在した。[[15世紀]]のスリランカにおいて図像の作成者によって用いられた図像学についてのサンスクリット文献{{efn|文献自体が書かれたのは9世紀から12世紀<ref name="sarath_nath"/>。}}は観音菩薩(ナータ)における以下の示現を記述している<ref name="sarath_nath">{{Cite web |author=Sarath Chandrajeewa |url=http://artsrilanka.org/essays/bodhisattva/index.html |title=BODHISATTVA AVALOKITESVARA FROM VEHERAGALA |publisher=Art Sri Lanka |language=英語 |accessdate=2012-02-21 }}</ref>。なお、これらは[[南インド]]のヒンドゥー教における「[[アーガマ (ヒンドゥー教)|アーガマ]]」の伝統からの輸入である<ref name="sarath_nath"/>。
# [[シヴァ]]・ナータ ({{IAST|Śivanātha}})
# [[ブラフマー]]・ナータ ({{IAST|Brahmānātha}})
# [[ヴィシュヌ]]・ナータ ({{IAST|Viṣṇunātha}})
# ガウリ・ナータ ({{IAST|Gaurinātha}})
# {{仮リンク|マツィエーンドラ・ナータ|en|Matsyendranatha}} ({{IAST|Matsyendranātha}})
# バドラ・ナータ ({{IAST|Bhadranātha}})
# バウッダ・ナータ ({{IAST|Bauddhanātha}})
# [[:en:Gana|ガナ]]・ナータ ({{IAST|Gaṇanātha}})
== 真言 ==
<!--真言のカタカナ表記や発音は宗派・寺院によって多少の違いはある。-->
[[File:Bodhisattva Cintāmaṇicakra, Kamakura period, Japan.jpg|thumb|如意輪観音坐像 附像内納入品、1275年、[[鎌倉時代]]、[[東京国立博物館]]蔵]]
* [[聖観音]] - '''オン・アロリキャ・ソワカ''' {{lang|sa|om ālolik svāhā}}<ref>「唵 阿<small>去引</small> 嚧<small>引</small> 力 迦<small>半音</small> 婆嚩<small>二合引</small>賀<small>引</small>」(不空譯『觀自在菩薩心眞言一印念誦法』)</ref> / {{lang|sa|om ārolik svāhā}}{{efn|観音菩薩の心真言「アロリキャ」の「ロ」は伝統的な[[梵字|悉曇文字]]で書かれた悉曇真言本ではruまたはroであり、『文殊儀軌経』のサンスクリット本でも観音菩薩の心真言はārolikである{{Sfn|堀内|1953|pages=6-7}}。「アロリキャ」がālolikなのかārolikなのかや、その語源・意味は学術的にも未解決の問題となっている{{Sfn|堀内|1953|pages=6-7}}。}}
* [[十一面観音]] - '''オン・ロケイ・ジンバ・ラ・キリク・ソワカ''' / '''オン・マカ・キャロニキャ・ソワカ'''
* [[千手観音]] - '''オン・バザラ・タラマ・キリク'''
* [[如意輪観音]] - '''オン・ハンドメイ・シンダ・マニ・ジンバ・ラ・ウン'''
* [[准胝観音]] - '''オン・シャレイ・ソレイ・ソンデイ・ソワカ''' {{lang|sa|oṃ cale cūle cundī svāhā}}
* [[不空羂索観音]] - '''オン・アボキャ・ビジャシャ・ウン・ハッタ''' / '''オン・ハンドマダラ・アボキャ・ジャヤデイ・ソロソロ・ソワカ''' / '''オン・アモキャ・ハラチカタ・ウンウン・ハッタ・ソワカ'''
* [[馬頭観音]] - '''オン・アミリト・ドハンバ・ウン・ハッタ'''
* [[白衣観音]] - '''オン・シベイテイ・シベイテイ・ハンダラ・バシニ・ソワカ'''
* [[楊柳観音]] - '''オン・バザラダラマ・ベイサジャ・ラジャヤ・ソワカ'''
* [[六字大明呪]] - '''オム・マ・ニ・ペ・メ・フム'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tibethouse.jp/about/culture/ommanipadmehum/ |publisher=ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 |title=チベットについて>チベットと文化>くらしの中の信仰(オム・マニ・ペメ・フム)|accessdate=2015-09-16 }}</ref> / '''オーム・マニ・ペーメエ・フーム'''<ref>『岩波仏教辞典』第二版、pp.121-122「唵麼抳鉢訥銘吽」、p.184「観音信仰」。</ref> {{lang|sa|oṃ maṇi padme hūṃ}}<ref>『岩波仏教辞典』第二版、pp.121-122「唵麼抳鉢訥銘吽」。</ref>
== 観音菩薩を祀る主な寺院 ==
* 栃木・[[中禅寺 (日光市)|中禅寺]](立木観音堂) - 千手観音(重要文化財)
* 栃木・[[大谷寺 (宇都宮市)|大谷寺]] - 千手観音(大谷磨崖仏)(特別史跡、重要文化財)
* 栃木・[[寺山観音寺]] - 千手観音及両脇侍像(重要文化財)
* 東京・[[浅草寺]] - 聖観音(秘仏の像など複数、うち一体台東区指定文化財)<ref group="注釈">本尊の聖観音像は絶対秘仏。この他千手観音像を含め複数の観音像があり、本尊と同じ形の「裏観音像」は開堂中は拝観可能。露座の聖観音坐像が台東区指定文化財。</ref>
* 東京・[[護国寺]] - 如意輪観音
* 東京・[[品川寺]] - 水月観音、聖観音
* 東京・[[塩船観音寺]] - 千手観音([[東京都指定有形文化財]])
* 神奈川・[[長谷寺 (鎌倉市)|長谷寺]] - 十一面観音(神奈川県指定重要文化財)
* 神奈川・[[弘明寺]] - 十一面観音(重要文化財)
* 神奈川・[[大船観音寺]] - [[白衣観音]]
* 静岡・[[礼拝山興亜観音]] -興亜観音
* 福井・[[羽賀寺]] - 十一面観音(重要文化財)
* 福井・[[馬居寺]] - 馬頭観音(重要文化財)
* 滋賀・[[石山寺]] - 如意輪観音(重要文化財)
* 滋賀・[[向源寺]](渡岸寺) - 十一面観音(国宝)
* 滋賀・[[櫟野寺]] - 十一面観音(重要文化財)
* 京都・[[松尾寺 (舞鶴市)|松尾寺]] - 馬頭観音
* 京都・[[広隆寺]] - 不空羂索観音(国宝)、千手観音(立像)(国宝)、聖観音(重要文化財)、如意輪観音(重要文化財)、千手観音(坐像)(重要文化財)
* 京都・[[清水寺]] - 千手観音(本堂)、千手観音(奥の院)(重要文化財)
* 京都・[[三十三間堂]] - 千手観音(国宝・[[湛慶]]作)、千手観音1,001躯(重要文化財)
* 京都・[[六波羅蜜寺]] - 十一面観音(国宝)
* 京都・[[大雲寺 (京都市)|大雲寺]] - 十一面観音(行基作)
* 京都・[[観音寺 (京田辺市)|観音寺]] - 十一面観音(国宝)
* 京都・[[醍醐寺]](上醍醐) - 如意輪観音(重要文化財)、准胝観音
* 京都・[[大報恩寺]] - 聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音(六体とも重要文化財、[[肥後別当定慶]]作)
* 大阪・[[大聖観音寺]](あびこ観音) - 聖観音
* 大阪・[[四天王寺]] - 救世観音
* 大阪・[[観心寺]] - 如意輪観音(国宝)
* 大阪・[[葛井寺]] - 千手観音(国宝)
* 大阪・[[道明寺 (藤井寺市)|道明寺]] - 十一面観音(国宝)
* 兵庫・[[中山寺 (宝塚市)|中山寺]] - 十一面観音(重要文化財)
* 兵庫・[[神呪寺]] - 如意輪観音(重要文化財)、聖観音(重要文化財)
* 兵庫・[[斑鳩寺 (兵庫県太子町)|斑鳩寺]] - 如意輪観音(重要文化財)
* 兵庫・[[須磨寺]] - 聖観音
* 奈良・[[法隆寺]] - [[百済観音]](国宝)、夢違観音(国宝)、救世観音(国宝)、九面観音(国宝)
* 奈良・[[興福寺]] - 不空羂索観音(南円堂、国宝)、千手観音(旧食堂本尊、国宝)
* 奈良・[[薬師寺]] - 聖観音(国宝)
* 奈良・[[唐招提寺]] - 千手観音(国宝)
* 奈良・[[法華寺]] - 十一面観音(国宝)
* 奈良・[[長谷寺]] - 十一面観音(重要文化財)
* 奈良・[[室生寺]] - 十一面観音(国宝)
* 奈良・[[東大寺]] - 十一面観音([[東大寺二月堂|二月堂]])、不空羂索観音([[東大寺法華堂|法華堂]](三月堂)、国宝)、如意輪観音([[東大寺大仏殿|金堂]]、重要文化財)
* 奈良・[[大安寺]] - 十一面観音、馬頭観音、楊柳観音、聖観音、不空羂索観音(以上全て重要文化財)
* 奈良・[[聖林寺]] - 十一面観音(国宝)
* 奈良・[[岡寺]] - 如意輪観音(重要文化財)
* 和歌山・[[道成寺]] - 千手観音(国宝)
* 和歌山・[[金剛三昧院]] - 十一面観音(重要文化財)
* 和歌山・[[補陀洛山寺]] - 千手観音(重要文化財)
* 福岡・[[観世音寺]] - 聖観音、十一面観音、馬頭観音、不空羂索観音(以上重要文化財)
平和のモニュメントとして昭和時代以降、日本各地で観音菩薩像が造られた。その多くは女性的な顔立ちで、頭部と両肩を布でおおい、全身白塗りである。これは中国明代の白磁の白衣観音の影響があるという(君島彩子『観音像とは何か』 2021年 青弓社)
== 古典小説における観音菩薩 ==
; 『[[西遊記]]』
: ストーリー全般にわたって、[[釈迦如来]]の命を受けて[[三蔵法師]]守護のため何回も登場する。これは三蔵法師のモデルである[[玄奘三蔵]]が[[般若心経]]を携えて西方に旅したという伝説からヒントを得たものされる。
; 『[[封神演義]]』
: 仏教の観音菩薩が[[明]]代に[[道教]]に取り込まれて[[慈航道人|慈航真人]]となったのであるが、ほぼ同じ時代に完成された小説『封神演義』には'''慈航道人'''なるキャラクターが登場し、後に観音菩薩になったとしている(作中では[[殷]]の滅亡から1000年後の事としている)。普陀山落伽洞に住み、観音菩薩の持物である水瓶の様な宝貝「瑠璃瓶」を使う。後に観音菩薩の乗り物となる金毛犼の金光仙を捕えている。さらに、この小説では[[文殊菩薩]]、[[普賢菩薩]]も[[仙人]]として登場し(それぞれ作中では、[[文殊広法天尊]]と[[普賢真人]])、後に仏教の菩薩になったなどとしている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal |和書
|author = 石田尚豊
|authorlink =
|title = 日本の[[密教美術]]の展開
|date = 1975
|publisher = 平河出版
|journal = 月刊密教講座
|volume = 第1巻
|number = 第3号
|naid =
|ncid = AN0007422X
|pages =
|ref = 石田1975 }}
* {{Cite book |和書 |author=大栗道栄 |title=図説「観音経」入門 - 法華経全章〈28品〉解説付 |publisher=鈴木出版 |date=2001-07 |isbn=978-4-7902-1100-6 |ref=大栗2001 }}
** のち『ポケット観音さまの教え』と改題し中経の文庫。[[KADOKAWA]]([[中経出版]])、2009年6月、ISBN 978-4-8061-3374-2。
* {{Cite book |和書 |author=鎌田茂雄|authorlink=鎌田茂雄 |title=観音経講話 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社学術文庫]] 1000 |date=1991-11 |isbn=978-4-06-159000-7 }}
* {{Cite book |和書 |author1=松原哲明|authorlink1=松原哲明|author2=三木童心 |title=やさしい仏像入門 |publisher=[[新星出版社]] |date=1999-05 |isbn=978-4-405-07563-4 |ref=松原・三木1999 }}
* {{Cite book |和書 |author=松原泰道 |title=観音経入門 - もう一人の自分の発見 |publisher=[[祥伝社]] |series=ノン・ブック 35 |date=1972-08 |id={{全国書誌番号|75063228}}、{{NCID|BN04517262}} |ref=松原1972 }}
** のち『観音経入門 - 悩み深き人のために』と改題し祥伝社新書。祥伝社、2010年6月、ISBN 978-4-396-11204-2。
* {{Cite journal |和書
|author = 山中行雄
|authorlink =
|title = ガンダーラにおける阿弥陀信仰についての一考察
|date = 2010-03
|publisher = 佛教大学
|journal = 佛教大学総合研究所紀要
|volume =
|number = 17
|naid = 110007974172
|pages = 115-126
|url = http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/soken17/SK017L115.pdf
|format = PDF
|accessdate = 2012-09-14
|ref = 山中2010 }}
* {{Cite journal |和書
|author = 堀内寛仁
|authorlink =
|title = 文殊儀軌契印品について (再説)
|date = 1953
|publisher = 密教研究会
|journal = 密教文化
|volume = 1953
|number = 21
|naid =
|pages = 1-16
|url = https://doi.org/10.11168/jeb1947.1953.1
|format =
|accessdate = 2021-03-02
|ref = {{SfnRef|堀内|1953}} }}
*{{Cite book|和書|author=中村 元ほか編|year=2002|month=10|title=岩波仏教辞典|edition=第二版|publisher=岩波書店|isbn=4-00-080205-4 }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Guanyin}}
* [[仏の一覧]]
* [[観音経]]
* [[十句観音経]]
* [[真言]]
* [[大観音]]
* [[馬頭観音]]
* [[日本三大観音]]
* [[修二会]]
* [[ダライ・ラマ]](観音菩薩の化身とされている)
* [[観音寺 (曖昧さ回避)]]
* [[南山海上観音聖像]]
{{Buddhism2}}
{{西遊記}}
{{Authority control}}
{{デフォルトソート:かんのんほさつ}}
[[Category:観音菩薩|*]]
[[Category:路傍の神仏]]
[[Category:仏教の神仏]]
[[Category:道教の神]]
[[Category:西遊記]] | 2003-03-10T03:27:40Z | 2023-12-02T11:33:43Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:Buddhism2",
"Template:Authority control",
"Template:IAST",
"Template:Unicode",
"Template:Full",
"Template:Notelist",
"Template:Cite journal",
"Template:Redirect",
"Template:要出典",
"Template:Lang",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite book",
"Template:西遊記",
"Template:統合文字",
"Template:Infobox Buddha",
"Template:Refnest",
"Template:Efn",
"Template:仮リンク",
"Template:要ページ番号",
"Template:Cite web",
"Template:Commonscat",
"Template:Lang-sa-short",
"Template:Div col",
"Template:Div col end"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9 |
3,741 | あゆみゆい | あゆみ ゆい(2月3日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。みずがめ座。血液型はA型。
1987年、第4回なかよし新人まんが賞入選「ひまわりイリュージョン」で、『なかよしデラックス』(講談社)夏の号にてデビュー。代表作は『デリシャス!』、『明日のナージャ』。
1990年代の『なかよし』(講談社)を代表する漫画家。繊細な線、柔らかなタッチで描く。原作の連載が多い。影響を受けた漫画として上原きみこの漫画を挙げている。趣味はテディベア集めで、作中にも度々テディベアが登場する。
デビュー前にあさぎり夕の元でアシスタント経験あり。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "あゆみ ゆい(2月3日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。みずがめ座。血液型はA型。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "1987年、第4回なかよし新人まんが賞入選「ひまわりイリュージョン」で、『なかよしデラックス』(講談社)夏の号にてデビュー。代表作は『デリシャス!』、『明日のナージャ』。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "1990年代の『なかよし』(講談社)を代表する漫画家。繊細な線、柔らかなタッチで描く。原作の連載が多い。影響を受けた漫画として上原きみこの漫画を挙げている。趣味はテディベア集めで、作中にも度々テディベアが登場する。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "デビュー前にあさぎり夕の元でアシスタント経験あり。",
"title": "来歴"
}
] | あゆみ ゆいは、日本の漫画家。東京都出身。みずがめ座。血液型はA型。 | '''あゆみ ゆい'''([[2月3日]]<ref name="profile">[http://games.nakayosi-net.com/mfile/mangaka/ayumiyui.html デジなか-まんが家情報]より(2010年2月1日閲覧){{リンク切れ|date=2018年12月}}</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]]出身<ref name="profile" />。[[みずがめ座]]<ref name="profile" />。[[ABO式血液型|血液型]]はA型<ref name="profile" />。
== 来歴 ==
[[1987年]]、第4回[[なかよし新人まんが賞]]入選「ひまわりイリュージョン」で、『[[なかよし|なかよしデラックス]]』([[講談社]])夏の号にてデビュー。代表作は『[[デリシャス!]]』、『[[明日のナージャ]]』。
[[1990年代]]の『[[なかよし]]』(講談社)を代表する漫画家。繊細な線、柔らかなタッチで描く。原作の連載が多い。影響を受けた漫画として[[上原きみ子|上原きみこ]]の漫画を挙げている<ref name="profile" />。趣味は[[テディベア]]集めで、作中にも度々テディベアが登場する。
デビュー前に[[あさぎり夕]]の元でアシスタント経験あり<ref>[http://rooma.jugem.cc/?eid=206#sequel 30年も前の話(2018年12月4日閲覧)]</ref>。
== 年譜 ==
*[[1987年]] - 『なかよしデラックス』に掲載された「ひまわりイリュージョン」でデビュー。
*[[1995年]] - 『[[ようこそ!微笑寮へ]]』が[[ドラマCD]]化。
*[[1996年]] - 『[[デリシャス!]]』のメニューが[[ガスト (ファミリーレストラン)|ガスト]]で販売。
*[[2003年]] - アニメ作品『[[明日のナージャ]]』の漫画版を担当。
*[[2004年]] - 漫画家活動を休止。
*[[2011年]] - [[東日本大震災]][[東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」|チャリティ同人誌「pray for Japan」]]にイラストを寄稿<ref>。[http://koge.kokage.cc/earthquake/ 東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」]</ref>
== 著作 ==
=== 漫画 ===
* ひまわりイリュージョン(『[[なかよし|なかよしデラックス]]』1987年夏の号)
* とまどいの放課後(『なかよしデラックス』1987年6号)
* ときめきバレンタイン(『[[なかよし]]』1988年2月号)
* ラストシーンのあなたは…(『なかよしデラックス』1988年4号)
* あじさい色のシーン(『なかよし』1988年6月号)
* 夏色列車(『なかよし』1988年増刊号)
* 迷子の恋愛(『なかよし』1988年10月号)
* 一瞬のなかのあいつ(『なかよしデラックス』1988年冬の号)
* [[ときめきの法則]](『なかよし』1989年4月号 - 8月号、全5回)
* パールの気持ち(『なかよしデラックス』1989年5号)
* 恋月夜(『なかよしデラックス』1989年6号)
* [[時計じかけのエトランゼ]](『なかよし』1990年1月号 - 4月号、全4回)
* ステキにKISSして(『なかよしデラックス』1990年4号)
* 少女の童話(『なかよしデラックス』1990年5号)
* [[えんじぇる・まじっく]](『なかよし』1991年1月号)
* [[卒業〜泣かないで〜]](『なかよしデラックス』1991年2号)
* [[うぇるかむ!]](『なかよし』1991年5月号 - 1992年3月号、全11回) - 原作:[[芳村杏]]
* トワイライト待夢(『なかよしデラックス』1992年4号)
* [[チム・チム・チェリー!]]
**第1話 ちっちゃな乳母がやってきた(『[[るんるん (講談社)|るんるん]]』1992年夏休み号)
**第2話 恋しちゃったリズ(『るんるん』1993年冬休み号)
**第3話 ハッピーは ないしょ ないしょ(『るんるん』1993年5月号)
**第4話 シェリーと小さな友だち(『るんるん』1993年7月号)
**第5話 真夜中のランデブー(『るんるん』1993年9月号)
**第6話 秋の日-ゆずり葉のお話(『るんるん』1993年11月号)
**第7話 メリー・メリー・クリスマス(『るんるん』1994年1月号)
**第8話 テディ・ベア パニック!(『るんるん』1994年3月号)
**第9話 メグとリズ 乳母になる(『るんるん』1995年3月号)
**第10話 いつかオトナになったら(『るんるん』1994年5月号)
**第11話 ミッドナイト・サマードリーム(『るんるん』1995年7月号)
**第12話 さびしがりやの……(『るんるん』1994年3月号)
**第13話 「おかえりなさい」(『るんるん』1994年11月号)
**第14話 ゆううつな トキも あるよね(『るんるん』1995年11月号)
**第15話 ウキウキするもの探しにいこう!(『るんるん』1996年3月号)
**第16話 いつか りっぱな乳母に…(『るんるん』1996年11月号)
**第17話 恋がはじまるとき(『るんるん』1997年7月号)
**第18話 あなたの たいせつなものは なんですか?(『るんるん』1997年11月号)
**第19話 たくさんのコドモたち(『るんるん』1998年1月号)
* [[太陽にスマッシュ!]](『なかよし』1993年1月号 - 8月号、全8回)
* [[ようこそ!微笑寮へ]](『なかよし』1994年3月号 - 1996年2月号、全24回) - 原作:[[遠藤察男]]
* [[デリシャス!]] - 原作:[[小林深雪]]
**MENU 1 お料理上手なアイドル誕生!?(『なかよし』1996年4月号)
**MENU 2 ドキドキ!りんごのTV初出演(『なかよし』1996年5月号)
**MENU 3 りんごの『チム・チム・チェリー!』大作戦(『なかよし』1996年6月号)
**MENU 4 公開生放送は大パニック(『なかよし』1996年7月号)
**MENU 5 夏休みの「つめたい体験」!?(『なかよし』1996年8月号)
**MENU 6 一臣のピンチをバナナが救う!?(『なかよし』1996年9月号)
**MENU 7 りんごのベリー・ハッピー・バースデイ(『なかよし』1996年10月号)
**MENU 8 アリスのティー・パーティーで料理バトル!(『なかよし』1996年11月号)
**MENU 9 クリスマスケーキはだれと食べる?(『なかよし』1996年12月号)
**MENU 10 新春特番で和菓子対決!(『なかよし』1997年1月号)
**MENU 11 バレンタインに告白します!(『なかよし』1997年2月号)
**MENU 12 ひなまつりに交際宣言!(『なかよし』1997年3月号)
**MENU 13 一臣にささげるバラ色ケーキ(『なかよし』1997年4月号)
**MENU 14 カルシウムがたりない!(『なかよし』1997年5月号)
**MENU 15 恋がはじまるビスケット(『なかよし』1997年6月号)
**MENU 16 胸さわぎのシューアイス(『なかよし』1997年7月号)
**MENU 17 メロンの気持ち(『なかよし』1997年8月号)
**MENU 18 りんごと一臣とレストラン(『なかよし』1997年9月号)
**MENU 19 ハロウィンでどっきり(『なかよし』1997年10月号)
**MENU 20 白雪姫のりんご(『なかよし』1997年11月号)
**MENU 21 マシュマロのキス(『なかよし』1997年12月号)
**MENU 22 さよなら『デリシャス・タイム』(『なかよし』1998年1月号)
**MENU 23 ピクニックへいこう!(『なかよし』1998年3月号)
**MENU 24 春をつげる野菜サラダ(『なかよし』1998年4月号)
**MENU 25 朝ごはん、ちゃんと食べてる?(『なかよし』1998年5月号)
**MENU 26 ふたりでお茶を(『なかよし』1998年6月号)
**MENU 27 星に願いを(『なかよし』1998年7月号)
**MENU 28 トロピカルフルーツ・パーティ(『なかよし』1998年8月号)
**MENU 29 スポーツの秋 ロマンスの秋(『なかよし』1998年9月号)
**MENU 30 失恋にはカステラ(『なかよし』1998年10月号)
**MENU 31 スープでなかなおり(『なかよし』1998年11月号)
**MENU 32 ラスト・クリスマス(『なかよし』1998年12月号)
**MENU 33 お別れのサンドウィッチ(『なかよし』1999年1月号)
**MENU 34 手づくりのウエディング・ケーキ(『なかよし』1999年2月号)
**MENU 35 世界でいちばんおいしいメニュー(『なかよし』1999年3月号)
**あわせてデリシャス!(『なかよし増刊なつやすみランド』1997年8月号)
**番外編 エプロン そのフリルに魅せられた者(『なかよし増刊はるやすみランド』1998年4月号)
**番外編 朱菜のホラーパーティー(『なかよし増刊なつやすみランド』1998年8月号)
* I wish…(『なかよし増刊なつやすみランド』1998年8月号)
* 吠える大捜査線(『なかよし』1999年2月号・3月号)
* コイスルココロ(『なかよし』1999年9月号)
* [[ぜんまいじかけのティナ]](『なかよし』1999年11月号 - 2001年2月号、全15回) - 原作:[[明貴美加]]
**番外編 かえる姫のために(『なかよし増刊なつやすみランド』2000年8月号)
* デビピッピ(『なかよし増刊はるやすみランド』2001年4月号)
* 手の中の宇宙(『なかよし増刊ふゆやすみランド』2002年1月号)
* ヒトメボレ前線(『なかよし増刊はるやすみランド』2002年4月号)
* [[め〜め〜る〜]](『なかよし増刊なつやすみランド』2002年8月号)
* [[明日のナージャ]](『なかよし』2003年3月号 - 2004年2月号、全12回) - 原作:[[東堂いづみ]]
=== 挿し絵 ===
* スーパーガールのゆううつ([[なぶらひみ]]、[[講談社X文庫ティーンズハート]])
* 異星人 ハンバーガーデート(なぶらひみ、講談社X文庫ティーンズハート)
* ロックンロール ゴットバアちゃん(なぶらひみ、講談社X文庫ティーンズハート)
* おしかけデストロイヤー(なぶらひみ、講談社X文庫ティーンズハート)
* うぇるかむ!([[芳村杏]]、講談社X文庫ティーンズハート)
* デリシャス! スイート・クッキング - 世界でいちばんおいしいデザート([[小林深雪]]、講談社KCデラックス)
== アニメ化・CD化 ==
=== CD ===
* [[ようこそ!微笑寮へ]](登場人物名の横にあるのは[[声優]]名)
**間島麻琴 - [[丹下桜]]
**橘誠 - [[山口勝平]]
**鈴ヶ丘美笛 - [[松下美由紀]]
**藤井さより - [[冬馬由美]]
**太 - [[難波圭一]]
**一郎太 - [[檜山修之]]
=== アニメ ===
* [[明日のナージャ]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://rooma.jugem.cc/ ・*・Room-A らくがき部屋・*・] - 本人サイト
* {{Twitter|room_Ayumiyui|あゆみゆい@RoomA}}
* [http://games.nakayosi-net.com/mfile/mangaka/ayumiyui.html デジなか-まんが家情報] - 講談社によるページ。プロフィールを掲載。
* {{マンガ図書館Z作家|347}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あゆみ ゆい}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:生年非公表]]
[[Category:存命人物]] | null | 2023-02-20T23:30:23Z | false | false | false | [
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:リンク切れ",
"Template:Twitter",
"Template:マンガ図書館Z作家",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%86%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%84 |
3,744 | ジ・エッジ | ジ・エッジ(The Edge、1961年8月8日 - )は、イングランド生まれ、アイルランド育ちのロック・ミュージシャンで、U2のギタリストである。本名はデヴィッド・ヒューウェル・エヴァンス (David Howell Evans) 。ウェールズ系である。
「ジ・エッジ」というステージネームの由来は、本人の説明によれば、顔や鼻の形が角立っているからだという。
『ローリング・ストーン』誌の2003年8月号のカバーストーリー「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第24位、2011年の改訂版では第38位。
ロンドンで生まれ、幼い頃にアイルランドのダブリンに引っ越す。ギターやピアノを習い始め、手先が器用なためギターを自作したこともあった。高校時代、兄ディックと共にアマチュアバンド結成に加わり、1979年にU2としてシングル・デビューする。なお、ディックはデビュー前に脱退し、ヴァージン・プルーンズのメンバーになっている。以後もU2のメンバーとして活動を続ける。演奏法や器材の研究を重ね、空間的な音作りを追求。1980年代後半の『ヨシュア・トゥリー』『魂の叫び』などで、独自の演奏スタイルを確立した。『ZOOROPA』ではプロデュースにも参加している。
私生活では、1983年に結婚して、その後3人の子供が生まれるが、1996年に離婚。2002年に再婚し、2児をもうけている。2人目の妻モーリー・スタインバーグは振付師で、U2の「ZOO TV TOUR」にベリーダンサーとして出演している時に知り合った。
過去のライブ映像やインタビューなどで使用が確認されているものを挙げる。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ジ・エッジ(The Edge、1961年8月8日 - )は、イングランド生まれ、アイルランド育ちのロック・ミュージシャンで、U2のギタリストである。本名はデヴィッド・ヒューウェル・エヴァンス (David Howell Evans) 。ウェールズ系である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "「ジ・エッジ」というステージネームの由来は、本人の説明によれば、顔や鼻の形が角立っているからだという。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "『ローリング・ストーン』誌の2003年8月号のカバーストーリー「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第24位、2011年の改訂版では第38位。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "ロンドンで生まれ、幼い頃にアイルランドのダブリンに引っ越す。ギターやピアノを習い始め、手先が器用なためギターを自作したこともあった。高校時代、兄ディックと共にアマチュアバンド結成に加わり、1979年にU2としてシングル・デビューする。なお、ディックはデビュー前に脱退し、ヴァージン・プルーンズのメンバーになっている。以後もU2のメンバーとして活動を続ける。演奏法や器材の研究を重ね、空間的な音作りを追求。1980年代後半の『ヨシュア・トゥリー』『魂の叫び』などで、独自の演奏スタイルを確立した。『ZOOROPA』ではプロデュースにも参加している。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "私生活では、1983年に結婚して、その後3人の子供が生まれるが、1996年に離婚。2002年に再婚し、2児をもうけている。2人目の妻モーリー・スタインバーグは振付師で、U2の「ZOO TV TOUR」にベリーダンサーとして出演している時に知り合った。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "過去のライブ映像やインタビューなどで使用が確認されているものを挙げる。",
"title": "使用機材"
}
] | ジ・エッジは、イングランド生まれ、アイルランド育ちのロック・ミュージシャンで、U2のギタリストである。本名はデヴィッド・ヒューウェル・エヴァンス。ウェールズ系である。 「ジ・エッジ」というステージネームの由来は、本人の説明によれば、顔や鼻の形が角立っているからだという。 『ローリング・ストーン』誌の2003年8月号のカバーストーリー「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第24位、2011年の改訂版では第38位。 | {{Infobox Musician
| Name = ジ・エッジ
| Img = U2 in Miami, Jun 11 2017 (34483638933).jpg
| Img_capt = ジ・エッジ(2017年)
| Img_size =
| Landscape =
| Background = instrumentalist
| Birth_name = David Howell Evans
| Alias =
| Born = {{生年月日と年齢|1961|8|8}}<br />{{ENG}}、[[ロンドン]]
| Died =
| Instrument = [[ギター]]<br />[[ピアノ]]<br />[[スティール・ギター]]
| Genre = [[ロック (音楽)|ロック]]、[[ポスト・パンク]]<br />[[オルタナティヴ・ロック]]
| Occupation = [[ミュージシャン]]、[[作曲家]]
| Years_active = [[1978年]]-
| Label = [[アイランド・レコード]]
| Associated_acts = [[U2]], パッセンジャーズ
| URL = [https://www.u2.com/ U2.com]
| Notable_instruments = [[ギブソン・エクスプローラー]]<br />[[フェンダー・ストラトキャスター]]<br />[[ギブソン・レスポール]]<br />[[フェンダー・テレキャスター]]<br />グレッチ・カントリー・ジェントルマン<br />[[エピフォン・カジノ]]<br />リッケンバッカー・330/12
}}
'''ジ・エッジ'''(The Edge、[[1961年]][[8月8日]] - )は、[[イングランド]]生まれ、[[アイルランド]]育ちの[[ロック (音楽)|ロック]]・[[ミュージシャン]]で、[[U2]]の[[ギタリスト]]である。本名はデヴィッド・ヒューウェル・エヴァンス (David Howell Evans) 。[[ウェールズ]]系である。
「ジ・エッジ」というステージネームの由来は、本人の説明によれば、顔や鼻の形が角立っているからだという。
『[[ローリング・ストーン]]』誌の2003年8月号のカバーストーリー「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第24位、2011年の改訂版では第38位。
== 来歴 ==
[[ファイル:Dik Evans 2011.jpg|thumb|left|120px|兄のディック・エヴァンス(2011年)]]
[[ロンドン]]で生まれ、幼い頃に[[アイルランド]]の[[ダブリン]]に引っ越す。[[ギター]]や[[ピアノ]]を習い始め、手先が器用なためギターを自作したこともあった。高校時代、兄ディックと共にアマチュアバンド結成に加わり、[[1979年]]にU2としてシングル・デビューする。なお、ディックはデビュー前に脱退し、[[ヴァージン・プルーンズ]]のメンバーになっている。以後もU2のメンバーとして活動を続ける。演奏法や器材の研究を重ね、空間的な音作りを追求。1980年代後半の『[[ヨシュア・トゥリー]]』『[[魂の叫び]]』などで、独自の演奏スタイルを確立した。『[[ZOOROPA]]』ではプロデュースにも参加している。
私生活では、1983年に結婚して、その後3人の子供が生まれるが、1996年に離婚。2002年に再婚し、2児をもうけている。2人目の妻モーリー・スタインバーグは振付師で、U2の「[[ZOO TV TOUR]]」に[[ベリーダンス|ベリーダンサー]]として出演している時に知り合った。
== U2以外の音楽活動 ==
* 1983年、ジャー・ウォブル(元[[パブリック・イメージ・リミテッド|PIL]])や[[ホルガー・シューカイ]]との連名で、ミニ・アルバム『Snake Charmer』発表。
* 1986年、映画『Captive』の音楽を制作。この時、デビュー前の[[シネイド・オコナー]]と共演。
* 1988年、[[ロイ・オービソン]]のアルバム『[[ミステリー・ガール]]』(発売は1989年)に、[[ボノ]]と共作した楽曲「She's A Mystery To Me」提供。
* 1992年、[[ロン・ウッド]]のアルバム『[[スライド・オン・ディス]]』に、ギタリストとしてゲスト参加。
* 1995年、[[ティナ・ターナー]]に、ボノと共作した楽曲「GoldenEye」提供、映画『[[007 ゴールデンアイ]]』の主題歌となる。
* 2004年、テレビ・シリーズ『[[バットマン]]』のテーマ曲を演奏。
* 2009年、三世代のギタリストのドキュメンタリー映画『[[ゲット・ラウド ジ・エッジ、ジミー・ペイジ、ジャック・ホワイト×ライフ×ギター]]』に[[ジミー・ペイジ]]、[[ジャック・ホワイト]]とともに出演。
* 2010年、ミュージカル『[[スパイダーマン]]』の音楽をボノとともに担当。
== 演奏 ==
{{節スタブ}}
; ギター
:;[[エフェクター]]
::最大の特徴は、[[ディレイ (音響機器)|ディレイ]]を駆使したプレイである。[[コルグ]]・SDD-300やTC2290等のディレイと[[ヴォックス (楽器メーカー)|ヴォックス]]・AC30を組み合わせ、[[ミュート (ギター)#カッティング|カッティング]]や[[アルペジオ]]、[[フラジオレット#ギターでのフラジオレット(ハーモニクス)|ハーモニクス]]を多用したサウンドはU2の代名詞となっており、『[[焰 (アルバム)|焰]]』、『[[ヨシュア・トゥリー]]』等で特に顕著にみられる。また、Herdimの[[ピック]]を横向きにして滑り止めの部分で[[ピック奏法|ピッキング]]していることも独特の音色に影響を与えているとされる。その後も多様なエフェクターを使った音作りに熱心に取り組み、「[[ミステリアス・ウェイズ]]」や「エレヴェイション」等、数々の独創的な音色を生み出している。
::U2のヴォーカルである[[ボノ]]は、エッジのプレイスタイルについて次のように述べている。「ほとんどのリードギタリストは[[音階|スケール]]を練習する。家で指板相手にトレーニングするんだ。でもエッジの場合は、毎日、何時間もアンプやギター・エフェクターのつまみをいじくり回してる。エッジのエフェクター次第で、尋常なサウンドが尋常じゃないサウンドへと変貌するんだ。安っぽい金属から黄金を作り出す錬金術的な要素が含まれているのさ」<ref>U2/前むつみ監訳/久保田祐子ほか訳 『U2 BY U2』 シンコーミュージック・エンタテイメント 227頁。</ref>
:;その他
::初期の頃には[[和音|コード]]に工夫を加え、3度の音を弾かず、ルート音と5度の音のみのコードを弾いていた。これは、キー自体を曖昧にし、いろいろなメロディが乗るようにするためだという<ref>『U2 BY U2』U2/前むつみ監訳/久保田 祐子ほか訳 シンコーミュージック・エンタテイメント 72頁より</ref>。また、シンプルでクリアな響きにするためにコードから特定の音を取り除くという工夫も行っていた。
[[ファイル:U2 in Tampa, Jun 14 2017 (34543393723).jpg|thumb|right|160px|キーボードを弾くジ・エッジ]]
; ヴォーカル
: U2の多くの曲でバック・コーラスとして重要な役割を果たしている。また、「セカンズ」では一部のパートでリード・ヴォーカルを担当した。その後、「ヴァン・ディマンズ・ランド」「ナム」といった、エッジがメイン・ヴォーカルの曲も生まれた。
; キーボード
: キャリアの初期から、キーボードも演奏してきた。「[[ニュー・イヤーズ・デイ]]」、「[[焰 (U2の曲)|焔]]」、「ユア・ブルー・ルーム」、「モーメント・オブ・サレンダー」をライヴで演奏する時、ギターとキーボードを交互に弾く。
; ベース
: 『[[WAR(闘)]]』収録の「40」では、[[アダム・クレイトン]]に代わり[[エレクトリックベース|ベース]]を担当している。
== 使用機材 ==
過去のライブ映像やインタビューなどで使用が確認されているものを挙げる<ref>{{Cite web |url=http://www.musicradar.com/news/guitars/u2-exclusive-the-edges-stage-setup-revealed-223342 |title=U2 Exclusive: The Edge's stage setup revealed |publisher=MusicRadar |accessdate=2014-10-29}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://twitpic.com/qa6e2 |title=Twitpic / 360FromTheEdge |publisher=Twitpic |accessdate=2015-1-19}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://twitpic.com/b5bb3 |title=Twitpic / 360FromTheEdge |publisher=Twitpic |accessdate=2015-1-19}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.facebook.com/CustomAudioElectronics/posts/492482584201508 |title=If you happen to catch the BOA/RED U2 commercial... - Custom Audio Electronics | Facebook |publisher=Facebook |accessdate=2015-1-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://blog.musette-japan.com/archives/mission/index_4.html |title=Missionアーカイブ: From LA |accessdate=2015-1-19}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.facebook.com/CustomAudioElectronics/photos/a.714463265336771.1073741828.247331765383259/714463638670067/ |title=NAMM Seminar Photos - Custom Audio Electronics | Facebook |publisher=Facebook |accessdate=2015-4-5}}</ref>。
=== ギター ===
{| Border="0"
| valign="top" |
; [[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]]
* 1976年製 [[ギブソン・エクスプローラー|エクスプローラー]] (ナチュラル)
: 18歳のときにニューヨークの楽器店で初めて購入したギター。ルックスに一目惚れしたが、音も弾き心地も気に入ったという。それ以降エッジを象徴するギターとして愛用されている。
* 1976年製 エクスプローラー (ナチュラル) (スペア)
* 1973年製 [[ギブソン・レスポール|レスポール]]・カスタム (クリーム)
* 1975年製 レスポール・カスタム (クリーム)
: [[スティーヴ・ジョーンズ]]の『[[勝手にしやがれ!!]]』でのサウンドが欲しいため、色まで同じギターを買ったという。2007年に[[w:en:Music Rising|ミュージック・ライジング]]のチャリティー・オークションで24万ドルで落札された。
* 2008年製 レスポール・カスタム レプリカ (クリーム)
* 2005年製 レスポール Mardi Gras Motif Limited Edition
: [[ハリケーン・カトリーナ]]で被災したミュージシャンを支援するプロジェクトである「[[w:en:Music Rising|ミュージック・ライジング]]」のためにギブソンが作った限定モデル。
* 2006年製 レスポール Mardi Gras Motif Limited Edition
* 1956年製レスポール・ゴールドトップ
:ライブでは主に「夢の涯てまでも」で使用。
* 1981年製 レスポール・スタンダード (ブルー)
* 1983年製 レスポール・スタンダード (ゴールド)
* 1966年製 [[ギブソン・SG|SG]]スタンダード (チェリー)
: ライブでは主に「エレヴェイション」で使用。
* 1965年製 SGスタンダード (ペルハム・ブルー)
* ソネックス 180 デラックス (ブラック)
* 1958年製 ES-295 (ゴールド)
* 1950年代製 ES-330 (タバコ)
* 1961年製 ES-335 (タバコ)
* 2008年製 SJ-200 (ブロンド)
* 2006年製 SJ-200 [[ピート・タウンゼント]]モデル (ブロンド)
* 2005年製 J-45 (サンバースト)
; [[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]]
* 1973年製 [[フェンダー・ストラトキャスター|ストラトキャスター]] メイプル・ネック (ブラック)
: エクスプローラーの次に購入した生涯2本目のギター。ピックガードとピックアップカバーがブラックのものに交換されている。最近のライブでは主に「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネイム(約束の地)」で使用。
* 1974年製 ストラトキャスター メイプル・ネック (ブラック)
* 1976年製 ストラトキャスター メイプル・ネック (ブラック)
* 1962年製 ストラトキャスター ローズウッド・ネック (タバコ)
* 1968年製 ストラトキャスター ローズウッド・ネック (タバコ)
* 1964年製 ストラトキャスター ローズウッド・ネック (ナチュラル)
* 1973年製 ストラトキャスター メイプル・ネック (クリーム)
* 1980年代製 ストラトキャスター (チェリー・サンバースト)
* 1989年製 ストラトキャスター [[エリック・クラプトン]]モデル メイプル・ネック (骸骨と蛇のペイント)
* 1989年製 ストラトキャスター エリック・クラプトンモデル ローズウッド・ネック (レッド)
* 1989年製 ストラトキャスター エリック・クラプトンモデル (イエロー)
* ジ・エッジ・[[フェンダー・ストラトキャスター|ストラト]] (シグネチャーモデル)
* 1975年製 [[フェンダー・テレキャスター|カスタム・テレキャスター]] (ブラウン)
* 1966年製 [[フェンダー・テレキャスター|テレキャスター]] メイプル・ネック (クリーム)
* 1969年製 テレキャスター メイプル・ネック (クリーム)
* 1974年製 テレキャスター メイプル・ネック (ブラック)
* 1975年製 テレキャスター ローズウッド・ネック (ブロンド)
* 1994年製 テレキャスター 日本製 (アークティック・ホワイト)
* 2009年製 テレキャスター アメリカン・ヴィンテージ・シリーズ '52モデル (サンバースト)
* 1966年製 テレキャスター メイプル・ネック w/Hipshot B-Bender (アクア・スパークル)
* 1975年製 [[フェンダー・テレキャスター・カスタム|テレキャスター・カスタム]] メイプル・ネック (ウォルナット)
* 1975年製 テレキャスター・カスタム メイプル・ネック (ブラック)
* 1975年製 テレキャスター・カスタム ローズウッド・ネック (ブロンド)
*[[フェンダー・ジャガー|ジャガー]]
| valign="top" |
; その他
* [[グレッチ]] 1963年製 [[チェット・アトキンス]]・カントリー・ジェントルマン (ウォルナット)
* グレッチ 1968年製 チェット・アトキンス・カントリー・ジェントルマン (ウォルナット)
* グレッチ 2009年製 チェット・アトキンス・カントリー・ジェントルマン (ウォルナット)
* グレッチ 1959年製 カントリー・クラブ 6101 (サンバースト)
* グレッチ 2009年製 G6136 ファルコン (ブラック)
* グレッチ ホワイト・ファルコン
* グレッチ デュオ・ジェット (ブラック)
* [[リッケンバッカー]] 1966年製 330/12 (ファイアーグロー)
* リッケンバッカー 1966年製 330/12 (ファイアーグロー) (スペア)
* リッケンバッカー 1967年製 330/12 (メイプル)
* リッケンバッカー 1967年製 330/12 (メイプル) (スペア)
* リッケンバッカー 1968年製 [[リッケンバッカー・325|325]] (ブラック)
* [[エピフォン]] 1962年製 [[エピフォン・カジノ|カジノ]] (サンバースト)
* エピフォン 1964年製 カジノ w/ビグスビー (サンバースト)
* エピフォン シェラトン
* エピフォン "[[w:en:Music Rising|ミュージック・ライジング]]" レスポール・スタンダード
* エピフォン 1966年製 テキサン (サンバースト)
* エピフォン Electar
* [[フェルナンデス (楽器メーカー)|フェルナンデス]] ディケード・エリート
* フェルナンデス 2003年製 ネイティブ
* フェルナンデス 2009年製 レトロ・ロケット
* [[マーティン (楽器メーカー)|マーティン]] 1972年製 D12-28 (ナチュラル)
* マーティン 2009年製 D12-28 (ナチュラル)
* [[Line 6]] 2005年製 ヴァリアックス・アコースティック (レッド/ブラック)
* Line 6 ヴァリアックス・アコースティック (シルバー)
* [[モーグ・シンセサイザー|モーグ]] 2009年製 MG-001 (タバコ・サンバースト)
* DANVEL NELSON ストラトキャスター・タイプ
* [[w:en:Bond Electraglide|Bond Electraglide]]
ほか
|}
=== アンプ ===
[[Image:EdgeAC30.jpg|thumb|エッジの1964年製ヴォックス・AC30TB (U2 360° ツアー)]]
* 1964年製 ヴォックス AC30TB グレー・パネル (メイン)
* 1970年代製 ヴォックス AC30TB グレー・パネル
* 1972年製 ヴォックス AC30TB グレー・パネル
* 1974年製 ヴォックス AC30TB レッド・パネル
* 1957年製 フェンダー ツイード・デラックス w/ジェンセンスピーカー
* 1958年製 フェンダー ツイード・デラックス w/ヴォックススピーカー
* 1959年製 フェンダー ツイード・デラックス
* 1956年製 フェンダー ハーバード w/ヴォックススピーカー
* フェンダー ブルース・ジュニア
* 2008年製 [[マーシャル (アンプ)|マーシャル]] 1987X
* 1966年製 4x12 クローズドバックキャビネット w/セレッション製ヴィンテージスピーカー
* ランドール RG80 112 SC
* [[ローランド・JC-120|ローランド JC-120]] (キーボード)
=== エフェクター ===
; ラック
* Furman Pro Rack Power (x2)
* コルグ SDD-2000
* コルグ SDD-3000 (x3)<ref>{{Cite web |url=http://www.korg.com/jp/products/effects/sdd3000_pedal/index.php |title=SDD-3000 PEDAL PROGRAMMABLE DIGITAL DELAY - Korg |publisher=Korg |accessdate=2015-2-27}}</ref>
* Line 6 DM4 Pro (カスタムメイド) (x2)
: 『[[原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム]]』のレコーディングで愛用したDM4をラックエフェクトとしてツアーでも使いたいと考えたためにLine 6社に製作を依頼したもの。フロントパネルには"Custom Built for the Edge"の文字がある。レコーディングでは11台のDM4にプリセットを保存していた<ref>{{Cite web |url=http://line6.com/news/general/122 |title=Edge Hits the Road with Custom DM4 Pro |publisher=Line 6 |accessdate=2014-10-29}}</ref>。
* [[w:en:TC Electronic|TC]] 2290 (x4)
* Line 6 Pod Pro (x2)
* コルグ A3 (x2)
: 『[[アクトン・ベイビー]]』の製作の際に導入。「[[ミステリアス・ウェイズ]]」をはじめとする多くの曲で重要な役割を果たした<ref>{{Cite web |url=http://www2.gibson.com/News-Lifestyle/Features/en-us/reinventing-u2-making-of-achtung-baby-1026-2012.aspx |title=Reinventing U2: The Making of “Achtung Baby” |publisher=Gibson |accessdate=2015-1-21}}</ref>。
* [[Eventide]] H3000
* Line 6 Echo Pro
* [[w:en:Lexicon (company)|Lexicon]] PCM80
* Lexicon PCM70
* Custom Audio Electronics AMS Interface
* [[AMS (音響機器メーカー)|AMS]] S-DMX (x2)
* Custom Audio Electronics Remote Wah
* Custom Audio Electronics Dual Stereo Mixer
* Rocktron Bradshaw DVC Pedal VCA
* Custom Audio Electronics Amp Selector
* Custom Audio Electronics Patch Point
* Skrydstrup MR9 (x3)
* Skyrdstrup System Interface
* Electrix Filter Factory
* Fractal Audio Axe-Fx II
* Fractal Audio Axe-Fx XL
* Universal Audio UA2-610
; ペダル
* Durham Electronics SexDrive
* [[ボス (企業)|ボス]] CS-3
* [[w:en:DigiTech|DigiTech]] Synth Wah
* [[w:en:Digitech Whammy|DigiTech WH-1]]
* [[w:en:Death By Audio|Death By Audio]] Harmonic Transformer
* Death By Audio Fuzz Gun
* [[エレクトロ・ハーモニクス]] POG
* Line 6 DM4
* Death By Audio Soundwave Breakdown
* ボス NS-2
* ボス GE-7
* Skrydstrup Bufferooster
* ボス FA-1
* [[ソバット]] Drive Breaker
* Rab Fuzz
: Kay FuzztoneをCryBabyの筐体に収めたもの。「エレヴェイション」で使用。
* Keeley TS-9 Mod Plus
* ボス TU-2
* エレクトロ・ハーモニクス デラックス・メモリー・マン
* TC Electronic Parametric EQ
* ボス SD-1
* ボス OD-2
* MXR ダイナ・コンプ
* [[アンペグ]] スクランブラー
* Fuzz Face
* ボス FBM-1
* MXR MC-402
* LAL NOISE EFFECTS Cyber Psychic Parametric Oscillo Filter
* モーグ Mooger Fooger MuRF
* モーグ Mooger Fooger MF-102
* エレクトロ・ハーモニクス Holier Grail
* [[w:en:Lovetone|Lovetone]] Meatball
* Lovetone Doppelganger
* Lovetone Big Cheese
* エレクトロ・ハーモニクス [[w:en:Big Muff|Big Muff Pi]]
* ボス PW-2
* コルグ SDD-3000 Pedal<ref>{{Cite web |url=http://www.korg.com/jp/products/effects/sdd3000_pedal/index.php |title=SDD-3000 PEDAL PROGRAMMABLE DIGITAL DELAY - Korg |publisher=Korg |accessdate=2015-2-27}}</ref>
* エレクトロ・ハーモニクス POG2
* Strymon Big Sky
* Dunlop MXR/CAE Boost/Line Driver
* [[Eventide]] H9
* Diamond Vibrato
* Malekko Vibrato
* [[w:en:DigiTech|DigiTech]] DL-8
* Rotosound RFB1
* Line 6 M5
=== コントローラー類 ===
* Skrydstrup SC1 + SC1 エクステンション + Extension Plus
* ボス FV-300L
*:ワウやリバーブのコントロールに使用。
* Custom Audio Electronics RS-T
* Mission Engineering EP1-R
* ボス FV-500L
=== 弦 ===
* [[ダダリオ]] EXL110 XL Reg Lite .10-.46
* ダダリオ EXL115 XL Blues Jazz .11-.49
* ダダリオ EXL116 XL Medium Top Heavy .11-.52
* ダダリオ EXL 140 Light Top/Heavy Bottom .10-.52
* ダダリオ EXL 150 Light Elec 12 String .10-.46
* ダダリオ Phosphor Bronze Wound EJ15 Extra Light .10-.47
* ダダリオ Phosphor Bronze Wound EJ26 Custom Light .11-.52
* マーティン MSP 400 Bronze .10-.47
* マーティン MSP 4050 Bronze Custom Light .11-.52
* マーティン M500 Extra Light Acoustic Bronze 12 String .10-.47
* アーニーボール P02233 12 String Electric .009-.046
=== その他 ===
* [[ヤマハ・CPシリーズ|ヤマハ CP80]]
* EBOW Chrome and Plastic Electronic Bow
* ピーターソン V-SAM チューナー
* ボス TU-12
* ダンドレア ミディアム・ナイロン・ピック
* ハーディム ミディアム・ナイロン・ピック
* ジムダンロップ ブラス・フル・スライド
* レヴィース レザー・ストラップ
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commons|The Edge}}
* [https://www.u2.com/ U2.com] - U2公式サイト{{en icon}}
* {{Twitter|360fromtheedge|The Edge}}
{{U2}}
{{ゴールデングローブ賞 主題歌賞}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:しえつし}}
[[Category:U2のメンバー]]
[[Category:アイルランドのギタリスト]]
[[Category:リードギタリスト]]
[[Category:ケネディ・センター名誉賞受賞者]]
[[Category:ウェールズ系アイルランド人]]
[[Category:バーキング・アンド・ダゲナム区出身の人物]]
[[Category:1961年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-03-10T07:43:07Z | 2023-10-18T06:27:40Z | false | false | false | [
"Template:Infobox Musician",
"Template:節スタブ",
"Template:Cite web",
"Template:Commons",
"Template:En icon",
"Template:Reflist",
"Template:Twitter",
"Template:U2",
"Template:ゴールデングローブ賞 主題歌賞",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%B8 |
3,746 | 陸軍記念日 | 陸軍記念日(りくぐんきねんび)とは、一般に陸軍の勝戦を祝う記念日。
戦前日本では、3月10日であった。これは、1905年(明治38年)3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領して奉天城に入城した日である。1906年(明治39年)3月10日が第1回陸軍記念日である。これに対して同じ日露戦争の日本海海戦で帝国海軍が勝利した5月27日が海軍記念日と定められていた。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説がある。当時の日本で、この記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており、この噂が後になって事実であるかのように出回っていた。日本には事実とする書籍や資料が存在するが、アメリカ側の資料では確認できない。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "陸軍記念日(りくぐんきねんび)とは、一般に陸軍の勝戦を祝う記念日。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "戦前日本では、3月10日であった。これは、1905年(明治38年)3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領して奉天城に入城した日である。1906年(明治39年)3月10日が第1回陸軍記念日である。これに対して同じ日露戦争の日本海海戦で帝国海軍が勝利した5月27日が海軍記念日と定められていた。",
"title": "戦前日本"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説がある。当時の日本で、この記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており、この噂が後になって事実であるかのように出回っていた。日本には事実とする書籍や資料が存在するが、アメリカ側の資料では確認できない。",
"title": "戦前日本"
}
] | 陸軍記念日(りくぐんきねんび)とは、一般に陸軍の勝戦を祝う記念日。 | [[Image:Imperial Japanese Army Commemoration Day in 1944.JPG|thumb|200px|1944年の陸軍記念日式典。奥の建物は[[朝日新聞東京本社]](東京・有楽町、現:[[有楽町センタービル|有楽町マリオン]])]]
'''陸軍記念日'''(りくぐんきねんび)とは、一般に[[陸軍]]の勝戦を祝う[[記念日]]。
== 戦前日本 ==
[[大日本帝国|戦前日本]]では、[[3月10日]]であった。これは、[[1905年]]([[明治]]38年)3月10日に、[[日露戦争]]の[[奉天会戦]]で[[大日本帝国陸軍]]が勝利し、[[奉天]](現在の[[瀋陽]])を占領して奉天城に入城した日である。[[1906年]](明治39年)3月10日が第1回陸軍記念日である<ref>1943年(昭和18年)2月23日、日本の[[陸軍省]]は「[[撃ちてし止まむ]] 陸軍省 第三十八回 陸軍記念日」と書かれているポスターを印刷し、配布したので、1906年(明治39年)3月10日が第1回陸軍記念日である</ref>。これに対して同じ日露戦争の[[日本海海戦]]で[[帝国海軍]]が勝利した[[5月27日]]が[[海軍記念日]]と定められていた。
[[1945年]]([[昭和]]20年)3月10日の[[東京大空襲]]は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説がある。当時の日本で、この記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており、この噂が後になって事実であるかのように出回っていた。日本には事実とする書籍や資料が存在するが{{要出典|date=2021年4月}}、アメリカ側の資料では確認できない。
== 世界 ==
* [[アメリカ合衆国]]:[[4月6日]]([[1950年]]以後廃止、5月の第3土曜日の軍隊記念日(Armed Forces Day)に統合)
* [[チリ]]:[[9月19日]](Día de las Glorias del Ejército)
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[軍隊記念日]]
* [[海軍記念日]]
* [[陸軍記念日を祝う歌]]
{{Japanese-history-stub}}
{{DEFAULTSORT:りくくんきねんひ}}
[[Category:記念日]]
[[Category:大日本帝国陸軍]] | null | 2023-06-19T05:21:06Z | false | false | false | [
"Template:要出典",
"Template:Reflist",
"Template:Japanese-history-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5 |
3,747 | 阪急電鉄 |
阪急電鉄株式会社(はんきゅうでんてつ、英: Hankyu Corporation)は、大阪の梅田を中心に、大阪と神戸・宝塚・京都などを結ぶ鉄道を経営する会社。阪急阪神ホールディングスの子会社で、阪急阪神東宝グループ(旧・阪急東宝グループ)の中核事業会社である。略称は阪急。他の関西の大手私鉄同様に阪急電車とも呼ばれる。日本の大手私鉄の一つである。
本社は大阪府大阪市北区、登記上の本店所在地は大阪府池田市栄町1番1号(阪急宝塚本線池田駅の所在地)である。平均利用者数約177万人/日、営業キロは143.6 km(第二種鉄道事業区間含む)に及ぶ。また、女性のみの団員で構成される劇団「宝塚歌劇団」を運営していることでも知られる(「その他の事業」の節も参照)。
三水会及びみどり会の会員企業であり三和グループに属している。なお阪急阪神東宝グループのメンバーでみどり会の加盟企業は他に東宝・阪急阪神百貨店・阪急阪神ホテルズ・阪急阪神不動産があるが、三水会の加盟企業は阪急電鉄のみである。
阪急電鉄が運営している鉄道事業は、1907年(明治40年)に設立された箕面有馬電気軌道が、1910年(明治43年)3月10日に現在の宝塚本線・箕面線にあたる梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 宝塚駅間、石橋駅(現在の石橋阪大前駅) - 箕面公園駅(現在の箕面駅)間を開業したのが始まり。当時の箕面有馬電気軌道は阪神電気鉄道(大阪-神戸)など既に発展している都市間を結ぶ路線と異なり、郊外の田園地帯を走る路線であったため、乗客数は少なく経営基盤は貧弱であった。実質的な創業者である小林一三は鉄道需要を創出して経営を安定させるため沿線開発に力を入れた。当時、人口増加が著しかった大阪市は過密化や工場の公害によって住環境が悪化していた。そこで郊外の自然豊かな沿線に住宅地を新たに作り、その居住者を電車で都心へと運ぶアイディアを考案し、路線建設時にもともと地価の安かった沿線の土地を買い上げ、日本初の住宅ローンを活用した戸建て住宅地の分譲販売を行った。また終点の宝塚周辺では大阪方面からの客を呼び込むために宝塚新温泉、宝塚唱歌隊(後の少女歌劇団、現在の宝塚歌劇団)などの事業を多角的に展開し、現在では当たり前にもなった鉄道会社が沿線開発を行って、自ら鉄道需要の創出を行うという考えの基礎を作り上げた。
続いて阪神間の輸送に参入。1918年(大正7年)、社名を阪神急行電鉄に改称。後に正式社名にも採用され現在まで続く略称の「阪急」はこれに由来する。阪神間に参入したことで、以後既に阪神間で都市間連絡電車を営業していた阪神電気鉄道とは競合関係となる一方で駅間隔などで棲み分けがなされ、協調関係ともなった。1920年(大正9年)に神戸本線十三駅 - 神戸駅(後の上筒井駅)間を開業し、1936年(昭和11年)には神戸三宮に新たに設けた神戸駅(後の三宮駅、現在の神戸三宮駅)へ高架線で乗り入れた。
なお、「電鉄」という語は、「電気鉄道」という語を商号に使用することに、鉄道省があくまで軌道法準拠の「電気軌道」であることを根拠として難色を示したことから、対策として小林一三が考え出した語で、以後軌道法監督下の各社が高速電気鉄道への脱皮を図る際に有効活用されることとなった。
1929年(昭和4年)に梅田駅に世界初となるターミナルデパート(駅直結型百貨店)である阪急百貨店を開業した。当時の百貨店業界は三越や大丸など江戸時代からの老舗の呉服店が百貨店に転換することが一般的であり、鉄道会社が運営する電鉄系百貨店の先駆けとなった。
このように阪急並びに創業者の小林一三は鉄道事業に留まらず、百貨店・スーパーマーケットなどの流通事業、沿線の住宅開発(不動産事業)、宝塚歌劇団、ホテル・レジャー事業(1924年 - 1988年にはプロ野球球団の経営)といった多角経営を行った。これらの事業は本業の鉄道事業とともにシナジー効果を高め、阪急の多角経営(=小林一三モデル)は日本の私鉄(特に大手私鉄)や国鉄から民営化したJRの経営モデルとして多大な影響を与えた。
1943年(昭和18年)、陸上交通事業調整法により京阪電気鉄道と合併、京阪神急行電鉄となる(この経緯については「阪神急行電鉄#京阪電気鉄道の統合と分離」も参照)。なお、このとき公式の略称は「阪急」のまま変わらず、「京阪」の略称も引き続き使用され、大阪市電の電停名でも「阪急阪神前」(梅田)・「京阪前」(天満橋)・「京阪神急行前」(天六)などと、混用されていた。
戦後の1949年(昭和24年)、旧・京阪電鉄は京阪神急行電鉄からの分離、独立に舵を切り始めた。その際に行われた役員会において、1944年(昭和19年)から行われていた新京阪線電車の梅田駅乗り入れを踏まえ、日本国有鉄道も加わった協議の結果、京阪神地域の将来を見据えて、「実質的な新京阪線の神戸・宝塚への延伸」という考え方から、新京阪の路線は阪急側へ割譲されることとなった。1949年(昭和24年)12月、旧京阪電鉄の京阪本線・交野線・宇治線・京津線・石山坂本線の5路線が分離されて京阪電気鉄道(現在の京阪ホールディングス)として再発足した。京阪神急行電鉄に残った新京阪線はこの時に京都本線となった。
1959年(昭和34年)、梅田駅 - 十三駅間が3複線化され、京都本線のターミナル駅が天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅)から梅田駅になる。十三線は京都本線へ編入された。
1967年(昭和42年)に千里山線が北千里駅まで延長され千里線と改称された。1973年(昭和48年)、阪急電鉄に社名を変更した。
1992年(平成4年)、後にスルッとKANSAIへ発展するラガールカードによるストアードフェアシステム「ラガールスルー」を開始する。
しかし、バブル崩壊で小林公平が主導した茶屋町地区などの再開発事業(ちゃやまちアプローズ)の失敗による巨額の損失を蒙った。追い討ちをかけるように、1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災では、神戸本線・伊丹線・今津(北)線などが甚大な被害を受けたが、同年6月12日にほぼ全線が復旧、1998年(平成10年)には伊丹駅も再建された。
震災以降も、生産年齢人口の減少や娯楽の多様化、少子高齢化などの影響により輸送人員は減少。不動産・ホテル事業の再編や、宝塚新温泉以来90年以上の歴史を持つ遊園地「宝塚ファミリーランド」の閉園、ポートアイランドにあった「神戸ポートピアランド」からの事業撤退(その後暫くは神戸市の手で運営を継続ののち、2006年閉園)など、グループ事業の再編が進められる。その集大成として、2005年(平成17年)4月1日に、旧・阪急電鉄から鉄道、不動産、レジャー、流通の4事業を分割承継する新・阪急電鉄(阪急電鉄分割準備(株)〈1989年設立〉から商号変更)と、ホテル経営を統括する阪急ホテルマネジメント、旅行業の阪急交通社の直営事業会社2社の合わせて3社に再編し、旧・阪急電鉄は持株会社として阪急ホールディングスに移行した(2006年10月1日には阪神電気鉄道と経営統合し、阪急ホールディングスは阪急阪神ホールディングスとなった。詳しくは「阪急・阪神経営統合」を参照)。
2007年(平成19年)10月19日に創業100年、2010年(平成22年)3月10日に開業100年を迎えた。
コーポレートマークとも呼ばれる現社章は1992年9月のVI(ビジュアル・アイデンティティ)導入時に制定された。阪急電鉄イニシャルの「H」を花のイメージでかたどり、新しい領域へ挑戦する成長力・若々しさを表現している。基本カラーとしてワインレッドの指定があり、これをHankyuレッドと呼称する。
旧社章は京阪神急行電鉄時代に制定されたもので、大阪市(澪標)と神戸市の市章を重ねて「阪・神」をシンボライズした意匠はさらに阪神急行電鉄時代にまで遡ることができる。京阪神急行電鉄の社章はこれに京都市の旧き章(現・京都市略章)を象った円で囲ったもので、現在阪急バスがこれに類似した社章を使用している。
阪急電鉄では、鉄道事業のことを「都市交通事業」と呼称し、同社都市交通事業本部の管轄下に置いている。
大きく神戸線・宝塚線・京都線の3つに分けられ、それぞれに本線とそれに付随する支線を有する。基幹路線である神戸本線・宝塚本線・京都本線の3本線の列車が発着する大阪梅田駅は阪急電鉄の最大のターミナル駅であり、グループ会社の商業施設やオフィスビルといった各種施設が集中していることから駅周辺は「阪急村」とも呼ばれる。京阪神急行電鉄という旧社名や、神戸線と京都線の路線名が示すように、関西の大手私鉄では唯一京阪神の3都市全てに自社路線を持つ。
神戸本線の支線として甲陽線、今津線、伊丹線があり、宝塚本線の支線として箕面線、京都本線の支線として千里線、嵐山線がある。以前は「...本線」を、「...線」と略して表記していたが、2010年3月14日における京都本線のダイヤ改正以降、本線系統の路線においては『京都本線』『宝塚本線』『神戸本線』と正式な表記で統一されている。また、神戸線と宝塚線は、車両をほとんど共有している(詳細は後述)ことから、まとめて「神宝線」と呼称されることがある(かつて軌道法に基づく路線であったことから「軌道線」とも呼称されたことがあった)。ラインカラーは、ホームの発車番線や駅の運賃表などに使用されるほか、かつては行先板でも使用されていた。2013年12月21日から駅ナンバリングが導入された。
2020年時点において阪急で最も新しい区間は、神戸高速線を除くと1967年開業の千里線 千里山駅 - 北千里駅間であり、営業路線は全て明治・大正・昭和時代に開業している。関西大手私鉄では唯一、平成時代に新路線の開業がなかった。
神戸本線は神戸高速線に自社の営業線として直通している。宝塚本線は能勢電鉄と、京都本線・千里線は大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) 堺筋線と相互直通運転を行っている。詳細は「他社線との直通運転」参照。
このほか、宝塚本線 十三 - 宝塚間、神戸本線 十三 - 西宮北口間、今津(北)線 宝塚 - 西宮北口間の環状区間を「環状線」と呼称する場合がある。かつては各駅の運賃表周辺に掲出されていた注意書きなどにもその記述が見られたが、同区間で環状運転は行われていないほか、「環状線」の呼称はJR大阪環状線をイメージさせることもあり、積極的には用いられていない。運賃計算における注意書きや企画乗車券・定期乗車券の有効区間表示などでわずかに確認できる程度である。
阪急の路線にはトンネルがほとんど存在しない。工期と費用がかさみ、明治 - 大正時代の土木技術では危険が大きかったため、意図的にトンネル工事を避けたためである。宝塚本線はトンネルを必要とするルートを避けた結果、カーブの多い路線となった。また神戸本線の住吉川周辺では1938年の阪神大水害で甚大な被害が発生。そのため住吉川の河床や堤防が高く改修されたが、その際もトンネルは掘削はおこなわず、住吉川を乗り越える形で線路を復旧させたため急な勾配が存在する。現在でもトンネルは第二種鉄道事業区間(神戸高速線)を除くと全線で3か所しか存在せず、そのうち2か所は京都本線の西院 - 京都河原町間と千里線の天神橋筋六丁目付近の地下線へ通じる入口で、出入口がある純粋なトンネルは千里線の南千里 - 山田間の千里トンネルただ一つである。なお、直通運転を行っている能勢電鉄には数多くのトンネルがある。
そのほか、関西の大手私鉄としては唯一の特徴として、以下のようなものがある。
阪神急行電鉄と京阪電気鉄道が合併して京阪神急行電鉄が発足した際に旧京阪電気鉄道から(交野線は京阪神急行電鉄発足翌年の1945年に京阪子会社の交野電気鉄道から)継承した路線。いずれも、1949年に京阪神急行電鉄から分離発足した京阪電気鉄道へ譲渡された。詳しくは「京阪電気鉄道#路線」を参照。
停車駅や運行区間など詳しくは、各種別および各路線の記事を参照のこと。
2023年2月12日現在、阪急電鉄において設定されている列車種別は次の9種別である。
以下は臨時列車のみ
過去には下記の種別があった。
関西の大手私鉄では唯一「区間急行」など、「区間...」といった区間種別名称での旅客案内を行っていない。ダイヤグラム上での正式な列車種別としては、一部区間で各駅に停車する列車という意味ではなく一部区間を運転する列車の意味で用いられ、区間急行(宝塚本線の雲雀丘花屋敷発着の急行列車)、区間準急(大阪梅田発雲雀丘花屋敷着の準急列車)、区間普通(神戸・宝塚・京都各本線の途中駅折り返し普通列車)が存在している。ただし、公式ホームページにおいては、この「区間...」という表記をしている。宝塚本線の日生エクスプレスについても、設定当初の正式な列車種別は「特急」であったが、直通特急設定後は「直通特急」となっている。
毎年春・秋の行楽期には嵐山方面への臨時列車を走らせている。
列車種別は先頭車両前面の通過標識灯や種別表示器(方向幕)で識別できる。 正面の種別・行先表示は他社とは異なり、『行先』・『種別』と逆の表示になっている。
通過標識灯の点灯パターンは以下の通りである。
急行の点灯パターンは近畿日本鉄道と同じである。
方向幕は以下の通りである(廃止種別含む)。
電車の行先表示に方向幕が普及した高度経済成長以後も、関西の大手私鉄では運行標識板(行先板、標識板、種別板などとも呼ばれる)を好んで使用し、駅の売店でもミニサボが発売されている程であったが、阪急はここでもこだわりのある特筆性で知られ、宝塚ファミリーランド電車館や、保育社のカラーブックス『阪急』でも、各種の運行標識板が紹介されていた。
歴代の全デザインを解説する事は困難なため、ここではポートピア'81(神戸ポートアイランド博覧会)の開催に合わせた1981年(昭和56年)3月1日、各路線・種別・運転区間によりバラバラだった仕様を、一部の臨時列車用を除いて統一、運行標識板廃止まで使用されたデザイン(以下「新デザイン」)について説明する。また新デザインのモデルとなった一世代前のデザイン(以下「旧デザイン」)についても、簡単に説明する。
新造時からの方向幕の設置は、戦前の車両では2代目500系などにも存在したほか、1967年に地下鉄直通用として登場した3300系にも例があるが、戦後特定の列車に限らず幅広く使用される汎用通勤車の正面という条件に限定すれば、1976年に登場した6000系からで、1975年に試作された2200系と同じ形状である。2300系以降の製造年度が若い車両も設置が行われていったが、関西の大手私鉄では阪急のみが、方向幕設置車と未設置車で標識灯の位置が干渉するため、標識灯の移設という改造も必要とされた。使用車両の関係上、阪急京都線と名古屋鉄道が、大手私鉄の主要路線で運行標識板を常用していた、最晩年の鉄道となった。
神戸三宮駅は2010年10月1日より阪急と神戸高速鉄道の共同使用駅から阪急の単独駅となった。
数値は公式サイト上の「駅別乗降人員」による。1月から12月までの通年平均である。Osaka Metroが管理する千里線天神橋筋六丁目駅は、乗降人員のカウントから除かれている。
は、右欄の乗降人員と比較して増()、減()を表す。
神戸本線、宝塚本線、京都本線の始発駅である大阪梅田駅は、首都圏を除く大手私鉄のターミナル駅で最大の乗降人員を記録している。ただし、大阪梅田駅における京都本線の乗降人員は神戸本線や宝塚本線に比べて少ない。これは、京都本線が大阪梅田駅から淡路駅まで西側に迂回する線形となっているほか、南方駅で地下鉄御堂筋線(西中島南方駅)、淡路駅で千里線(地下鉄堺筋線)に接続し、大阪梅田駅を介さないで大阪市内と京都、千里を結ぶバイパスルートが確保されていることによる。
神戸本線は平均駅間距離が約2kmと長いが、神戸市内は東海道本線(JR神戸線)と並走するため、神戸三宮駅を除いて乗降人員が3万人を下回る。今津線と接続する西宮北口駅は阪急西宮ガーデンズの最寄り駅であり、乗降人員は2019年まで10万人を上回っていた。武庫之荘駅は急行通過駅でありながら伊丹線と接続する塚口駅よりも乗降人員が多く、朝夕ラッシュ時は急行の停車駅に加えて同駅にも停車する通勤急行を運行することで多客に対応している。西宮北口駅から神戸三宮駅の間には特急停車駅が夙川駅・岡本駅の2つあるが、いずれもJR線との競合対策のための停車という意味合いが強く、前述の武庫之荘駅・塚口駅のほか各駅停車以外はいずれも通過する園田駅の数字も下回る。
宝塚本線は豊中駅から川西能勢口駅までの各駅で乗降人員が4万人を上回っていた。主力種別の急行は十三駅から豊中駅まで通過した後、各駅停車になることでこれらの駅への利便性を確保している。ラッシュ時は急行のほかに特急「日生エクスプレス」と通勤特急が運転され、混雑の平準化が図られている。
京都本線の烏丸駅は、地下鉄烏丸線と連絡することから大阪梅田駅を除いた同線の駅では最も利用者が多く、終点である京都河原町駅以上の数値となっている。他にも茨木市駅・高槻市駅・桂駅といった特急停車駅の乗降人員が多い。上新庄駅はかつて各駅停車のみ停車していたが、2007年から準急停車駅に、2010年から快速(現・急行)停車駅になった。
箕面有馬電気軌道(箕有)、および、その後身の阪神急行電鉄(阪急)によって敷設された神戸線・宝塚線(神宝線)と、北大阪電気鉄道、および、その後身の新京阪鉄道によって敷設された京都線とでは、その成り立ちが異なるため、車両規格に違いがある。統一の動きが何度かあったが、いまのところ実現に至っていない。
車体の塗装は全車両一貫して「阪急マルーン」が用いられている。ただし時代が下るとともにこの標準化は進んでおり、昭和前半までは「茶色」といってもおかしくない車両でもあったことが、残されたカラー写真から確認できる。内装についても木目調の化粧板やゴールデンオリーブ色のアンゴラ山羊の毛のシートを採用するなど統一が図られている。
阪急と相互直通運転を行うOsaka Metro堺筋線の東吹田検車場が京都本線内(相川駅 - 正雀駅間)にある。
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。下表には鉄道駅バリアフリー料金10円を含む。2023年4月1日改定。
大阪梅田駅 - 中津駅・十三駅間の運賃計算上のキロ数は事後処理が煩雑になることを防ぐため移転前の営業キロ数をそのまま適用している(営業キロに0.4 kmを足して計算する)。
神戸高速線は阪急が第2種鉄道事業者となる区間も含めて別途運賃が設定されている。神戸高速線の運賃の詳細は「神戸高速線#運賃」を参照。神戸本線と跨って乗車する場合は、神戸三宮駅を境界として運賃を合算する形になる。
2023年4月1日から、グループの阪神電気鉄道と同時に、全駅へのホームドア設置などのバリアフリー設備の整備を推進のため、普通運賃・通勤定期運賃に鉄道駅バリアフリー料金制度による料金の上乗せ(普通運賃は10円、通勤定期は1か月で380円)を実施している。
有効な乗車券を持たずに、十三駅 - 大阪梅田駅 - 十三駅と乗車する折り返し乗車は不正乗車にあたる。なにわ淀川花火大会(旧・平成淀川花火大会)の際であっても大阪梅田折り返し乗車をする場合にも、乗車券は
の2枚を十三駅で購入しなければならないとされている。大阪梅田駅折り返し乗車で有効な乗車券がない場合、係員の承諾を得ずに大阪梅田駅で折り返し乗車すると不正乗車になる。
全駅で能勢電鉄各駅に加え、神戸高速線経由山陽電気鉄道(1998年2月15日に相互乗り入れが中止となった後も発売を継続している)・神戸電鉄各駅への連絡乗車券がそれぞれ購入できるほか、加えて京都線系統のほとんどの駅ではこれら3点のほかに天神橋筋六丁目駅経由Osaka Metro各駅への連絡乗車券、そしてさらにはこれを応用したOsaka Metro堺筋線天下茶屋駅経由南海空港線関西空港駅への連絡乗車券も購入できる(ただし後者2点は南方駅もしくは大阪梅田駅で乗り換えて利用することはできない)。
以下の種類の回数券を磁気カード式で発売していたが、2023年4月30日限りで発売を終了した(身体障がい者・知的障がい者用用特別割引回数券は発売継続、他社で発売される阪急線との連絡回数券は引き続き利用可能)。
有効期限は発売日から3か月後の末日まで。なお、昼間時間帯とは10 - 16時の間に入場・精算使用することを指す。土休日には土休日ダイヤで運転する平日(お盆・年末年始期間)も含む。
能勢電鉄・神戸高速・山陽電鉄・神戸電鉄連絡は普通回数券・ハーフ時差回数券・ハーフ土休日回数券のみの発売である。
複数人で使用する場合は、乗車前に券売機で回数券券片に引き換える必要がある。カードから引き換えた券片の有効期限は2018年10月1日以降、引き換え当日限りとなっている。
阪急線内のきっぷタイプの回数券は、2018年9月30日をもって発売を終了した(発売済みのものは有効期限まで使用可能)。
2007年4月1日より、阪急電鉄と阪神電気鉄道で同額となる区間(2019年10月1日改定時点では190円、270円、280円、320円、380円、400円)のすべての回数券については、有効期間内であれば阪神でも利用可能となった(阪急・阪神経営統合によるサービス向上策の一環として実施)。ただしそのままでは利用できず、阪神の路線で利用する際は入場前に青色の券売機で阪神の回数券に引き換える必要がある。また、阪神の同額の回数券も同様に使用前に赤色の券売機で阪急の回数券に引き換えて阪急で使用可能である。2007年のこの取り扱い開始当時は180円、260円、310円区間が対象だったが、2009年3月20日より阪神なんば線の開業で阪神に270円区間が出現したため、270円区間回数券も同様の取り扱いを開始した。2014年4月1日の運賃改定で190円、270円、280円、320円、370円区間(それぞれ旧180円、260円、270円、310円、360円区間で、370円区間は新規)に変更され、2019年10月1日の運賃改定で370円区間に代わって380円区間、新規に400円区間でも同様の取り扱いを開始した。
阪神での回数券発売終了に伴い、2022年9月30日をもって、阪神との間で実施していた回数券引き換えサービスは終了した。
阪急では乗り越し精算の際、回数券を1枚のみ券面に記載された額面の金券として使用することができる。例えば、480円区間を、280円の普通乗車券(または回数券)で入場・乗車した場合、出場時に200円の回数券をもって乗り越し精算をすることができる。不利を承知で合計金額が過剰になる場合も使用できる(例:540円区間を280円の普通乗車券(または回数券)で入場、出場時に280円の回数券をもって乗り越し精算)が、この時は改札機・精算機の利用はできず、係員窓口で精算する必要がある。また 2枚重ね対応改札機では入場済みの回数券と未使用の回数券を2枚重ねて投入可能であるが、Osaka Metro管理の天神橋筋六丁目駅は2枚重ね投入することはできず、改札内の阪急用精算機で出場証と引き換えなければならない。
2008年12月29日に偽造レインボーカード(当時の大阪市交通局のスルッとKANSAI対応カード)の使用が発覚したため、2009年2月から3月にかけて自動券売機の改修が行われ、ラガールカードを含むスルッとKANSAI対応カードでの回数券および回数カードへの引き換えができなくなった。
2018年10月1日より、阪急と阪神の回数券の取り扱いを変更したため、それまできっぷタイプとカードタイプの回数券を発売していたが、きっぷタイプの回数券を発売終了とし、カードタイプの回数券のみの発売となった。この変更によりカードタイプの模様変更も行われている。阪急と阪神で相互で実施している回数券引き換えサービスの有効期間を回数券の有効期限から、引き換え当日限りと変更した。また、時差回数券は10時から16時が利用可能時間であったが、初発から16時までと変更になった。
以下の各項目を参照。
これ以外にも、各種乗車カード・企画乗車券が発売されている。
ラガールカード等のスルッとKANSAI対応カードやレールウェイカードでカードに印字される符号については、花隈駅のみKK、それ以外の駅はHKであった。
関西の大手私鉄では唯一、運賃の他に特別料金が必要な列車(臨時を含む)や車両の運行歴がなかった。ただし、2021年には京都本線において有料車両を検討しているとの報道がなされたほか、(検討路線を明確に指していないが)親会社の2020年度決算説明資料 においても「有料座席指定サービスの導入等の検討を進めるなど、収益の確保に向けた取組も行っていく。」との文言があった。
2022年10月の同年12月ダイヤ改正のニュースリリースで、2024年から京都本線の特急・通勤特急・準特急の一部車両を座席指定にする予定であると発表され、2023年10月6日の2024年夏に導入する新型車両2300系・2000系のニュースリリースで、京都線用の2300系について大阪方4両目に同社初となる座席指定サービス車両を導入することが発表された。この時点ではサービス内容についての詳細は明かされなかったが、同年11月21日に座席指定サービスの名称が「PRiVACE」(プライベース)に決定したと発表された。サービスコンセプトは「日常の“移動時間”を、プライベートな空間で過ごす“自分時間”へ」。PRiVACEの名前は、Private(プライベート)とPlace(場所)から取られ、"自分時間"が過ごせるプライベート空間を表現したという。対象車両は新導入の2300系と一部の9300系で、2024年夏より京都線の特急・準特急・通勤特急で順次サービスを開始するとしている。
阪急電鉄では、鉄道事業(都市交通事業)以外に不動産事業やエンタテインメント・コミュニケーション事業(創遊事業)・流通事業をそれぞれ行っており、鉄道事業(都市交通事業)に匹敵する売上や営業利益をあげている。
かつては不動産事業本部と、阪急不動産が統括し、西宮北口駅にある大型ショッピングセンター「阪急西宮ガーデンズ」の開発や梅田エリアにある「梅田阪急ビル」や「NU茶屋町」・「グランフロント大阪(大阪駅北地区)」などの開発を手掛けたほか、国際文化公園都市(愛称:彩都)予定地の山林に土地を保有していた。
住宅事業のうち、分譲マンションの開発に関しては子会社の阪急不動産が、分譲戸建の開発に関しては阪神電気鉄道(不動産事業本部)が、それぞれ行っていた。
2018年4月1日、阪急不動産の株式を親会社の阪急阪神ホールディングスに譲渡した上で、阪急電鉄不動産事業本部及び阪神電気鉄道の不動産事業本部と経営統合して、阪急阪神不動産株式会社とした。
創遊事業本部が統括し、女性のみで構成される宝塚歌劇団の運営や関連子会社を有する。なお、宝塚歌劇団自体は阪急電鉄の組織の一つである。
また、鉄道事業者では唯一、総務省より東経110度CS委託放送事業者認定を受けており、2002年より宝塚歌劇団専門チャンネル「タカラヅカ・スカイ・ステージ」を放送していたが、2011年4月1日、番組制作・編成や送出・送信管理を担当していた子会社の宝塚クリエイティブアーツに放送事業者の地位を承継している。
その他の関連事業会社として、阪急コミュニケーションズという阪急阪神ホールディングス連結子会社が存在していた(阪急電鉄が100 %出資)。元々は大阪市で阪急電鉄創遊事業本部コミュニケーション事業部として阪急電鉄沿線の観光ガイド本・グルメ本や宝塚歌劇団の機関誌『歌劇』、『宝塚GRAPH』、『宝塚おとめ』、演劇専門月刊雑誌『レプリーク』、阪急電車関係の書籍・絵本等を発行していたが、2003年7月に『ニューズウィーク日本版』、『フィガロジャポン』、『Pen』などを発行していたTBSブリタニカの事業(百科事典事業を除く)と阪急電鉄創遊事業本部コミュニケーション事業部の事業を統合して発足した。本社はTBSブリタニカ時代から継承して東京都目黒区に置き、大阪市北区の阪急電鉄本社ビル内(TOKKの編集部門・広告部門と宝塚歌劇団関連誌の広告部門)と宝塚市の宝塚大劇場内(宝塚歌劇団関連書籍・雑誌の編集部門)にも事務所を構えていた。2014年10月1日をもって事業再編により、宝塚歌劇団関係の書籍出版事業を宝塚クリエイティブアーツに、TOKKなどの阪急電車関係の書籍出版事業を阪急アドエージェンシーにそれぞれ譲渡し、残った出版事業をCCCメディアハウスに分割した上で同社株式をカルチュア・コンビニエンス・クラブに譲渡した。
都市交通事業本部のえきまち事業部が統括している。駅構内のコンビニアズナスや、日本の中堅書店であるブックファーストを運営していたエキ・リテール・サービス阪急阪神(ブックファースト運営当時は阪急リテールズ)を傘下に持つ(ただし、コンビニ事業は2019年8月にエイチ・ツー・オー リテイリンググループへ譲渡)。
なお、関西私鉄で初めて駅構内に立ち食いそば・うどん店を設けたのは阪急電鉄である(阪急そば。2019年4月に平野屋へ事業譲渡し運営から撤退、若菜そばへ名称変更)。
アズナスは2021年6月21日付けでローソンのフランチャイズ店舗へ転換することを発表した。これにより、アズナスブランドは消滅し、2021年11月24日アズナスexp宝塚店閉店により、阪急阪神の駅構内コンビニは全てローソンとして存続、営業することになった。
阪急ホールディングス(現・阪急阪神ホールディングス)として持株会社となる前の旧・阪急電鉄は1924年から1929年までの宝塚運動協会、そして1936年から1988年まで阪急ブレーブス(後にオリックス・ブレーブス、現在はオリックス・バファローズ)というプロ野球球団を持ち、それらの本拠地(専用球場)として宝塚球場、阪急西宮球場(後の阪急西宮スタジアム、2002年に閉鎖)を所有していた。
関西の私鉄では「○○電車」という呼称が定着しており、車内放送や駅の掲示、ウェブサイトにおいても「○○電車」という愛称が使用されているが、阪急電鉄は公式には「阪急電車」とは案内してこなかった。これは1992年の創業85周年を機に、会社側が公式な通称を「阪急電鉄」と変更したためである。
以後2016年12月まで、旅客案内の際は、「本日も阪急電鉄をご利用いただきましてありがとうございます」のように「阪急電鉄」と称していた。
ただし乗客の間では今でも「阪急電車」「阪急線」「阪急」という略称が多く使われる。有川浩の同名小説のタイトルにも使用されている。京都市営地下鉄四条駅、大阪地下鉄梅田駅といった、他社局の駅での乗り換え案内表示も、「阪急電車」となっている。阪急側でもグッズ・刊行物では時折「阪急電車」を使用する例がある。
2017年1月1日から、車内放送において、これまでの「阪急電鉄」という呼称に代えて「本日も阪急電車をご利用いただきまして...」という言い回しに改められている。ただし、グループ内の阪神電気鉄道や、Osaka Metroなどの車内放送では「阪急線」と案内している。
阪急電鉄は、「電気鉄道」という呼称を「電鉄」と省略し正式な社名とした(当時の社名は「阪神急行電鉄」)日本で最初の鉄道会社である(「歴史」節も参照)。
待避線を有する駅や終着駅は別として、上下本線に挟まれたタイプの島式ホームが元々極めて少なかった。
1963年に烏丸駅が開業し、また東海道新幹線の建設に伴い上牧駅が現ホームに移設されるまで、上下本線に挟まれた島式ホームは中津駅と春日野道駅しか存在しなかった。
1963年の2駅のあと永らく上下本線に挟まれた島式ホームは現れなかったが、1984年の池田駅を皮切りに、川西能勢口駅(1992年)、豊中駅と岡町駅(1997年)、三国駅(2000年)の各駅(いずれも宝塚本線)が高架化の際に島式ホームに改築されており、島式ホームも僅かながらに増加している。ただ、21世紀に入って新たに開業した洛西口駅、摂津市駅、西山天王山駅(ともに京都本線)はコスト面から相対式ホームで開業している(洛西口駅は後に相対式ホームで高架化)。
なお、2016年4月時点で施工中である京都本線淡路駅・崇禅寺駅、千里線柴島駅・下新庄駅の各駅における高架化事業においては、千里線の2駅のみ島式ホームとなる予定(淡路駅は現状と同じく上下本線ともに島式ホームとなる)。
阪急電鉄では、携帯電話の電源オフを終日ルールづけた車両「携帯電話電源オフ車両」を全列車に設定している。2003年(平成15年)6月10日から1か月間限定で試験導入、同年7月11日から本格的に導入した。また京都線に直通する地下鉄堺筋線や同じ阪急阪神東宝グループの能勢電鉄・神戸電鉄でも導入されている。またこの「携帯電話電源オフ車両」についてのアナウンスは、車掌によって異なることがある。オフ車両導入当初は先頭車両と最後尾車両がそれに指定されていたが、2007年(平成19年)10月29日から下記のように変更された。
なお、2014年7月15日に携帯電話電源オフ車両を廃止し(堺筋線や能勢電鉄・神戸電鉄も同時)、以降は「優先座席付近では、混雑時は電源オフ」とした。
もう一つ、阪急電鉄の独自ルールとして特筆されたものが「全席優先座席」である。阪急電鉄では「特定の席にこだわらず、すべての座席で譲り合いの精神を」とのことから、特定の座席を優先座席と指定することを廃止して1999年(平成11年)4月から「全席優先座席」を導入していた。阪急電鉄で「携帯電話電源オフ車両」が設定されたのは、同業他社が「優先座席付近では携帯電話の電源をオフ」というルールを導入したが阪急では前述のとおり、特定の優先座席の指定がなかったためである。ただし、地下鉄堺筋線から乗り入れている大阪市交(当時)66系電車はこの間も優先座席の設置を継続しており、「携帯電話電源オフ車両」導入時は、優先座席付近で携帯電話の電源を切ることを義務付けない形として対応した。
ところが、阪急電鉄側の思惑とは裏腹にこの「全席優先座席」は浸透せず、ほとんど座席の譲り合いが行われていないという現状を受け、2007年(平成19年)6月末の阪急阪神ホールディングスの株主総会で再設置の要望があったのを機に全席優先座席を見直すことになり、同年10月29日に「全席優先座席」は廃止され、再び「優先座席」を設置した。「携帯電話電源オフ車両」は継続され、大阪市交66系電車同様に優先座席付近で携帯電話の電源を切ることを義務付けない形とした。
しかし、優先座席の設置箇所は基本的に各車両の「梅田を前方としたときの最後尾座席」(すなわち神戸・宝塚・京都寄り)であるのだが、運転台、もしくは運転台跡が存在する車両はそれらの逆側(梅田寄り)の座席となっており、中間に運転台およびその廃止改造を行った車両が含まれる編成(神戸線の8032Fなど)だと、優先座席が車両前方にあったり後方にあったりで、統一されていないという懸念があった。
2014年7月からは、携帯電話電源オフ車両の廃止に合わせ、各車両の優先座席の設置箇所を運転台の位置にかかわらず神戸・宝塚・京都寄りに統一し、あわせて優先座席の色を赤紫色に順次変更している。
主要携帯電話会社の公衆無線LANは、2013年には天神橋筋六丁目駅を除き、神戸高速線の花隈駅を含む全駅で利用できるようになった。利用できる無線LANは「阪神電気鉄道#公衆無線LAN」を参照。同年12月21日には訪日旅行者向け無料公衆無線LANサービス「HANKYU-HANSHIN WELCOME WiFi」も、天神橋筋六丁目駅を除き、花隈駅を含む全駅で開始された。
2018年には、京都線の9300系と観光列車「京とれいん」の車内で、無料公衆無線LANサービス「HANKYU-TRAIN FREE Wi-Fi」「HANKYU-HANSHIN WELCOME WiFi」の提供を開始した。2019年から京都線で運行を開始した「京とれいん 雅洛」では、これらの無料公衆無線LANサービスが利用できるほか、前方展望映像専用のWi-Fiサービスもある。
2007年11月28日に阪急電鉄は、鉄道向け自動改札システムの開発・実用化に関して、電気・電子・情報・通信分野における世界最大の学会であるIEEE(アメリカ電気電子学会)より、「IEEEマイルストーン」に認定され、同システムを共同で研究・開発してきた、大阪大学・オムロン・近畿日本鉄道と共に受賞したと発表した。1967年に自動改札機の試験導入が行われた千里線の北千里駅には、受賞記念の銘板が設置されている。
日本の鉄道事業者で初めて改札口を設けないフリーパスゲート「学生専用出口」を1965年に甲陽線甲陽園駅を皮切りに一部の駅で開設した(制服着用が条件)。1969年には「通勤専用出口」を塚口駅、池田駅、富田駅に設置した。1994年の「フェアライドシステム」導入後も定期券の出場記録がなくても入場可能とする対応であり、現在も王子公園駅や相川駅などにある。ただし磁気定期券のみ対象でICカード式の定期券には非対応のため、ほとんどの学生が改札機を用いて出場している。雲雀丘花屋敷駅には雲雀丘学園中学校・高等学校に直結している専用の改札口がある(自動改札機が設置されている)。
阪急電車情報誌として、古くから『阪急沿線』→『Linea(リネア)』を発行してきたが、『Linea』は1990年代後半に『TOKK』に統合された(『TOKK』は『Linea』とは別に存在)。現在はTOKK毎月1日発行分の最終ページの前のページに『Linea』というコーナーで存続している。また各線でダイヤ改正を行ったときは改正ほぼ一週間前に時刻表が掲載された臨時増刊が必ず行われる。『Linea』では1990年から1994年まで「FREPPY(フレッピー)」という猫のようなマスコットキャラクターが存在した(愛称の「FREPPY」は公募により決定)。
阪急電鉄の企業CMは、主に自社の社員としての身分も有する宝塚歌劇団の団員が主に出演(過去には阪急ブレーブスの選手も出演)するが、まれに宝塚以外のタレントが出演する場合がある。
今津線の仁川駅を最寄駅とする中央競馬の阪神競馬場では、阪急杯として重賞競走が行われるほか、阪神競馬開催時に様々なイベントを実施する。阪神競馬開催時には仁川発西宮北口行きの普通列車や、仁川発大阪梅田行きの臨時急行が運転される。
また、神戸線の園田駅を最寄駅とする地方競馬の園田競馬場への無料送迎バスは同じ阪急阪神東宝グループに属する、阪急バスが担当している。
阪急阪神東宝グループに属する全企業の一覧は「阪急阪神東宝グループ」を参照。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "阪急電鉄株式会社(はんきゅうでんてつ、英: Hankyu Corporation)は、大阪の梅田を中心に、大阪と神戸・宝塚・京都などを結ぶ鉄道を経営する会社。阪急阪神ホールディングスの子会社で、阪急阪神東宝グループ(旧・阪急東宝グループ)の中核事業会社である。略称は阪急。他の関西の大手私鉄同様に阪急電車とも呼ばれる。日本の大手私鉄の一つである。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "本社は大阪府大阪市北区、登記上の本店所在地は大阪府池田市栄町1番1号(阪急宝塚本線池田駅の所在地)である。平均利用者数約177万人/日、営業キロは143.6 km(第二種鉄道事業区間含む)に及ぶ。また、女性のみの団員で構成される劇団「宝塚歌劇団」を運営していることでも知られる(「その他の事業」の節も参照)。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "三水会及びみどり会の会員企業であり三和グループに属している。なお阪急阪神東宝グループのメンバーでみどり会の加盟企業は他に東宝・阪急阪神百貨店・阪急阪神ホテルズ・阪急阪神不動産があるが、三水会の加盟企業は阪急電鉄のみである。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "阪急電鉄が運営している鉄道事業は、1907年(明治40年)に設立された箕面有馬電気軌道が、1910年(明治43年)3月10日に現在の宝塚本線・箕面線にあたる梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 宝塚駅間、石橋駅(現在の石橋阪大前駅) - 箕面公園駅(現在の箕面駅)間を開業したのが始まり。当時の箕面有馬電気軌道は阪神電気鉄道(大阪-神戸)など既に発展している都市間を結ぶ路線と異なり、郊外の田園地帯を走る路線であったため、乗客数は少なく経営基盤は貧弱であった。実質的な創業者である小林一三は鉄道需要を創出して経営を安定させるため沿線開発に力を入れた。当時、人口増加が著しかった大阪市は過密化や工場の公害によって住環境が悪化していた。そこで郊外の自然豊かな沿線に住宅地を新たに作り、その居住者を電車で都心へと運ぶアイディアを考案し、路線建設時にもともと地価の安かった沿線の土地を買い上げ、日本初の住宅ローンを活用した戸建て住宅地の分譲販売を行った。また終点の宝塚周辺では大阪方面からの客を呼び込むために宝塚新温泉、宝塚唱歌隊(後の少女歌劇団、現在の宝塚歌劇団)などの事業を多角的に展開し、現在では当たり前にもなった鉄道会社が沿線開発を行って、自ら鉄道需要の創出を行うという考えの基礎を作り上げた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "続いて阪神間の輸送に参入。1918年(大正7年)、社名を阪神急行電鉄に改称。後に正式社名にも採用され現在まで続く略称の「阪急」はこれに由来する。阪神間に参入したことで、以後既に阪神間で都市間連絡電車を営業していた阪神電気鉄道とは競合関係となる一方で駅間隔などで棲み分けがなされ、協調関係ともなった。1920年(大正9年)に神戸本線十三駅 - 神戸駅(後の上筒井駅)間を開業し、1936年(昭和11年)には神戸三宮に新たに設けた神戸駅(後の三宮駅、現在の神戸三宮駅)へ高架線で乗り入れた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "なお、「電鉄」という語は、「電気鉄道」という語を商号に使用することに、鉄道省があくまで軌道法準拠の「電気軌道」であることを根拠として難色を示したことから、対策として小林一三が考え出した語で、以後軌道法監督下の各社が高速電気鉄道への脱皮を図る際に有効活用されることとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "1929年(昭和4年)に梅田駅に世界初となるターミナルデパート(駅直結型百貨店)である阪急百貨店を開業した。当時の百貨店業界は三越や大丸など江戸時代からの老舗の呉服店が百貨店に転換することが一般的であり、鉄道会社が運営する電鉄系百貨店の先駆けとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "このように阪急並びに創業者の小林一三は鉄道事業に留まらず、百貨店・スーパーマーケットなどの流通事業、沿線の住宅開発(不動産事業)、宝塚歌劇団、ホテル・レジャー事業(1924年 - 1988年にはプロ野球球団の経営)といった多角経営を行った。これらの事業は本業の鉄道事業とともにシナジー効果を高め、阪急の多角経営(=小林一三モデル)は日本の私鉄(特に大手私鉄)や国鉄から民営化したJRの経営モデルとして多大な影響を与えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1943年(昭和18年)、陸上交通事業調整法により京阪電気鉄道と合併、京阪神急行電鉄となる(この経緯については「阪神急行電鉄#京阪電気鉄道の統合と分離」も参照)。なお、このとき公式の略称は「阪急」のまま変わらず、「京阪」の略称も引き続き使用され、大阪市電の電停名でも「阪急阪神前」(梅田)・「京阪前」(天満橋)・「京阪神急行前」(天六)などと、混用されていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "戦後の1949年(昭和24年)、旧・京阪電鉄は京阪神急行電鉄からの分離、独立に舵を切り始めた。その際に行われた役員会において、1944年(昭和19年)から行われていた新京阪線電車の梅田駅乗り入れを踏まえ、日本国有鉄道も加わった協議の結果、京阪神地域の将来を見据えて、「実質的な新京阪線の神戸・宝塚への延伸」という考え方から、新京阪の路線は阪急側へ割譲されることとなった。1949年(昭和24年)12月、旧京阪電鉄の京阪本線・交野線・宇治線・京津線・石山坂本線の5路線が分離されて京阪電気鉄道(現在の京阪ホールディングス)として再発足した。京阪神急行電鉄に残った新京阪線はこの時に京都本線となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1959年(昭和34年)、梅田駅 - 十三駅間が3複線化され、京都本線のターミナル駅が天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅)から梅田駅になる。十三線は京都本線へ編入された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "1967年(昭和42年)に千里山線が北千里駅まで延長され千里線と改称された。1973年(昭和48年)、阪急電鉄に社名を変更した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1992年(平成4年)、後にスルッとKANSAIへ発展するラガールカードによるストアードフェアシステム「ラガールスルー」を開始する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "しかし、バブル崩壊で小林公平が主導した茶屋町地区などの再開発事業(ちゃやまちアプローズ)の失敗による巨額の損失を蒙った。追い討ちをかけるように、1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災では、神戸本線・伊丹線・今津(北)線などが甚大な被害を受けたが、同年6月12日にほぼ全線が復旧、1998年(平成10年)には伊丹駅も再建された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "震災以降も、生産年齢人口の減少や娯楽の多様化、少子高齢化などの影響により輸送人員は減少。不動産・ホテル事業の再編や、宝塚新温泉以来90年以上の歴史を持つ遊園地「宝塚ファミリーランド」の閉園、ポートアイランドにあった「神戸ポートピアランド」からの事業撤退(その後暫くは神戸市の手で運営を継続ののち、2006年閉園)など、グループ事業の再編が進められる。その集大成として、2005年(平成17年)4月1日に、旧・阪急電鉄から鉄道、不動産、レジャー、流通の4事業を分割承継する新・阪急電鉄(阪急電鉄分割準備(株)〈1989年設立〉から商号変更)と、ホテル経営を統括する阪急ホテルマネジメント、旅行業の阪急交通社の直営事業会社2社の合わせて3社に再編し、旧・阪急電鉄は持株会社として阪急ホールディングスに移行した(2006年10月1日には阪神電気鉄道と経営統合し、阪急ホールディングスは阪急阪神ホールディングスとなった。詳しくは「阪急・阪神経営統合」を参照)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2007年(平成19年)10月19日に創業100年、2010年(平成22年)3月10日に開業100年を迎えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "コーポレートマークとも呼ばれる現社章は1992年9月のVI(ビジュアル・アイデンティティ)導入時に制定された。阪急電鉄イニシャルの「H」を花のイメージでかたどり、新しい領域へ挑戦する成長力・若々しさを表現している。基本カラーとしてワインレッドの指定があり、これをHankyuレッドと呼称する。",
"title": "社章"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "旧社章は京阪神急行電鉄時代に制定されたもので、大阪市(澪標)と神戸市の市章を重ねて「阪・神」をシンボライズした意匠はさらに阪神急行電鉄時代にまで遡ることができる。京阪神急行電鉄の社章はこれに京都市の旧き章(現・京都市略章)を象った円で囲ったもので、現在阪急バスがこれに類似した社章を使用している。",
"title": "社章"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "阪急電鉄では、鉄道事業のことを「都市交通事業」と呼称し、同社都市交通事業本部の管轄下に置いている。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "大きく神戸線・宝塚線・京都線の3つに分けられ、それぞれに本線とそれに付随する支線を有する。基幹路線である神戸本線・宝塚本線・京都本線の3本線の列車が発着する大阪梅田駅は阪急電鉄の最大のターミナル駅であり、グループ会社の商業施設やオフィスビルといった各種施設が集中していることから駅周辺は「阪急村」とも呼ばれる。京阪神急行電鉄という旧社名や、神戸線と京都線の路線名が示すように、関西の大手私鉄では唯一京阪神の3都市全てに自社路線を持つ。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "神戸本線の支線として甲陽線、今津線、伊丹線があり、宝塚本線の支線として箕面線、京都本線の支線として千里線、嵐山線がある。以前は「...本線」を、「...線」と略して表記していたが、2010年3月14日における京都本線のダイヤ改正以降、本線系統の路線においては『京都本線』『宝塚本線』『神戸本線』と正式な表記で統一されている。また、神戸線と宝塚線は、車両をほとんど共有している(詳細は後述)ことから、まとめて「神宝線」と呼称されることがある(かつて軌道法に基づく路線であったことから「軌道線」とも呼称されたことがあった)。ラインカラーは、ホームの発車番線や駅の運賃表などに使用されるほか、かつては行先板でも使用されていた。2013年12月21日から駅ナンバリングが導入された。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2020年時点において阪急で最も新しい区間は、神戸高速線を除くと1967年開業の千里線 千里山駅 - 北千里駅間であり、営業路線は全て明治・大正・昭和時代に開業している。関西大手私鉄では唯一、平成時代に新路線の開業がなかった。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "神戸本線は神戸高速線に自社の営業線として直通している。宝塚本線は能勢電鉄と、京都本線・千里線は大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) 堺筋線と相互直通運転を行っている。詳細は「他社線との直通運転」参照。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "このほか、宝塚本線 十三 - 宝塚間、神戸本線 十三 - 西宮北口間、今津(北)線 宝塚 - 西宮北口間の環状区間を「環状線」と呼称する場合がある。かつては各駅の運賃表周辺に掲出されていた注意書きなどにもその記述が見られたが、同区間で環状運転は行われていないほか、「環状線」の呼称はJR大阪環状線をイメージさせることもあり、積極的には用いられていない。運賃計算における注意書きや企画乗車券・定期乗車券の有効区間表示などでわずかに確認できる程度である。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "阪急の路線にはトンネルがほとんど存在しない。工期と費用がかさみ、明治 - 大正時代の土木技術では危険が大きかったため、意図的にトンネル工事を避けたためである。宝塚本線はトンネルを必要とするルートを避けた結果、カーブの多い路線となった。また神戸本線の住吉川周辺では1938年の阪神大水害で甚大な被害が発生。そのため住吉川の河床や堤防が高く改修されたが、その際もトンネルは掘削はおこなわず、住吉川を乗り越える形で線路を復旧させたため急な勾配が存在する。現在でもトンネルは第二種鉄道事業区間(神戸高速線)を除くと全線で3か所しか存在せず、そのうち2か所は京都本線の西院 - 京都河原町間と千里線の天神橋筋六丁目付近の地下線へ通じる入口で、出入口がある純粋なトンネルは千里線の南千里 - 山田間の千里トンネルただ一つである。なお、直通運転を行っている能勢電鉄には数多くのトンネルがある。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "そのほか、関西の大手私鉄としては唯一の特徴として、以下のようなものがある。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "阪神急行電鉄と京阪電気鉄道が合併して京阪神急行電鉄が発足した際に旧京阪電気鉄道から(交野線は京阪神急行電鉄発足翌年の1945年に京阪子会社の交野電気鉄道から)継承した路線。いずれも、1949年に京阪神急行電鉄から分離発足した京阪電気鉄道へ譲渡された。詳しくは「京阪電気鉄道#路線」を参照。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "停車駅や運行区間など詳しくは、各種別および各路線の記事を参照のこと。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2023年2月12日現在、阪急電鉄において設定されている列車種別は次の9種別である。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "以下は臨時列車のみ",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "過去には下記の種別があった。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "関西の大手私鉄では唯一「区間急行」など、「区間...」といった区間種別名称での旅客案内を行っていない。ダイヤグラム上での正式な列車種別としては、一部区間で各駅に停車する列車という意味ではなく一部区間を運転する列車の意味で用いられ、区間急行(宝塚本線の雲雀丘花屋敷発着の急行列車)、区間準急(大阪梅田発雲雀丘花屋敷着の準急列車)、区間普通(神戸・宝塚・京都各本線の途中駅折り返し普通列車)が存在している。ただし、公式ホームページにおいては、この「区間...」という表記をしている。宝塚本線の日生エクスプレスについても、設定当初の正式な列車種別は「特急」であったが、直通特急設定後は「直通特急」となっている。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "毎年春・秋の行楽期には嵐山方面への臨時列車を走らせている。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "列車種別は先頭車両前面の通過標識灯や種別表示器(方向幕)で識別できる。 正面の種別・行先表示は他社とは異なり、『行先』・『種別』と逆の表示になっている。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "通過標識灯の点灯パターンは以下の通りである。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "急行の点灯パターンは近畿日本鉄道と同じである。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "方向幕は以下の通りである(廃止種別含む)。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "電車の行先表示に方向幕が普及した高度経済成長以後も、関西の大手私鉄では運行標識板(行先板、標識板、種別板などとも呼ばれる)を好んで使用し、駅の売店でもミニサボが発売されている程であったが、阪急はここでもこだわりのある特筆性で知られ、宝塚ファミリーランド電車館や、保育社のカラーブックス『阪急』でも、各種の運行標識板が紹介されていた。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "歴代の全デザインを解説する事は困難なため、ここではポートピア'81(神戸ポートアイランド博覧会)の開催に合わせた1981年(昭和56年)3月1日、各路線・種別・運転区間によりバラバラだった仕様を、一部の臨時列車用を除いて統一、運行標識板廃止まで使用されたデザイン(以下「新デザイン」)について説明する。また新デザインのモデルとなった一世代前のデザイン(以下「旧デザイン」)についても、簡単に説明する。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "新造時からの方向幕の設置は、戦前の車両では2代目500系などにも存在したほか、1967年に地下鉄直通用として登場した3300系にも例があるが、戦後特定の列車に限らず幅広く使用される汎用通勤車の正面という条件に限定すれば、1976年に登場した6000系からで、1975年に試作された2200系と同じ形状である。2300系以降の製造年度が若い車両も設置が行われていったが、関西の大手私鉄では阪急のみが、方向幕設置車と未設置車で標識灯の位置が干渉するため、標識灯の移設という改造も必要とされた。使用車両の関係上、阪急京都線と名古屋鉄道が、大手私鉄の主要路線で運行標識板を常用していた、最晩年の鉄道となった。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "神戸三宮駅は2010年10月1日より阪急と神戸高速鉄道の共同使用駅から阪急の単独駅となった。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "数値は公式サイト上の「駅別乗降人員」による。1月から12月までの通年平均である。Osaka Metroが管理する千里線天神橋筋六丁目駅は、乗降人員のカウントから除かれている。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "は、右欄の乗降人員と比較して増()、減()を表す。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "神戸本線、宝塚本線、京都本線の始発駅である大阪梅田駅は、首都圏を除く大手私鉄のターミナル駅で最大の乗降人員を記録している。ただし、大阪梅田駅における京都本線の乗降人員は神戸本線や宝塚本線に比べて少ない。これは、京都本線が大阪梅田駅から淡路駅まで西側に迂回する線形となっているほか、南方駅で地下鉄御堂筋線(西中島南方駅)、淡路駅で千里線(地下鉄堺筋線)に接続し、大阪梅田駅を介さないで大阪市内と京都、千里を結ぶバイパスルートが確保されていることによる。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "神戸本線は平均駅間距離が約2kmと長いが、神戸市内は東海道本線(JR神戸線)と並走するため、神戸三宮駅を除いて乗降人員が3万人を下回る。今津線と接続する西宮北口駅は阪急西宮ガーデンズの最寄り駅であり、乗降人員は2019年まで10万人を上回っていた。武庫之荘駅は急行通過駅でありながら伊丹線と接続する塚口駅よりも乗降人員が多く、朝夕ラッシュ時は急行の停車駅に加えて同駅にも停車する通勤急行を運行することで多客に対応している。西宮北口駅から神戸三宮駅の間には特急停車駅が夙川駅・岡本駅の2つあるが、いずれもJR線との競合対策のための停車という意味合いが強く、前述の武庫之荘駅・塚口駅のほか各駅停車以外はいずれも通過する園田駅の数字も下回る。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "宝塚本線は豊中駅から川西能勢口駅までの各駅で乗降人員が4万人を上回っていた。主力種別の急行は十三駅から豊中駅まで通過した後、各駅停車になることでこれらの駅への利便性を確保している。ラッシュ時は急行のほかに特急「日生エクスプレス」と通勤特急が運転され、混雑の平準化が図られている。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "京都本線の烏丸駅は、地下鉄烏丸線と連絡することから大阪梅田駅を除いた同線の駅では最も利用者が多く、終点である京都河原町駅以上の数値となっている。他にも茨木市駅・高槻市駅・桂駅といった特急停車駅の乗降人員が多い。上新庄駅はかつて各駅停車のみ停車していたが、2007年から準急停車駅に、2010年から快速(現・急行)停車駅になった。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "箕面有馬電気軌道(箕有)、および、その後身の阪神急行電鉄(阪急)によって敷設された神戸線・宝塚線(神宝線)と、北大阪電気鉄道、および、その後身の新京阪鉄道によって敷設された京都線とでは、その成り立ちが異なるため、車両規格に違いがある。統一の動きが何度かあったが、いまのところ実現に至っていない。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "車体の塗装は全車両一貫して「阪急マルーン」が用いられている。ただし時代が下るとともにこの標準化は進んでおり、昭和前半までは「茶色」といってもおかしくない車両でもあったことが、残されたカラー写真から確認できる。内装についても木目調の化粧板やゴールデンオリーブ色のアンゴラ山羊の毛のシートを採用するなど統一が図られている。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "阪急と相互直通運転を行うOsaka Metro堺筋線の東吹田検車場が京都本線内(相川駅 - 正雀駅間)にある。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。下表には鉄道駅バリアフリー料金10円を含む。2023年4月1日改定。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "大阪梅田駅 - 中津駅・十三駅間の運賃計算上のキロ数は事後処理が煩雑になることを防ぐため移転前の営業キロ数をそのまま適用している(営業キロに0.4 kmを足して計算する)。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "神戸高速線は阪急が第2種鉄道事業者となる区間も含めて別途運賃が設定されている。神戸高速線の運賃の詳細は「神戸高速線#運賃」を参照。神戸本線と跨って乗車する場合は、神戸三宮駅を境界として運賃を合算する形になる。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2023年4月1日から、グループの阪神電気鉄道と同時に、全駅へのホームドア設置などのバリアフリー設備の整備を推進のため、普通運賃・通勤定期運賃に鉄道駅バリアフリー料金制度による料金の上乗せ(普通運賃は10円、通勤定期は1か月で380円)を実施している。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "有効な乗車券を持たずに、十三駅 - 大阪梅田駅 - 十三駅と乗車する折り返し乗車は不正乗車にあたる。なにわ淀川花火大会(旧・平成淀川花火大会)の際であっても大阪梅田折り返し乗車をする場合にも、乗車券は",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "の2枚を十三駅で購入しなければならないとされている。大阪梅田駅折り返し乗車で有効な乗車券がない場合、係員の承諾を得ずに大阪梅田駅で折り返し乗車すると不正乗車になる。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "全駅で能勢電鉄各駅に加え、神戸高速線経由山陽電気鉄道(1998年2月15日に相互乗り入れが中止となった後も発売を継続している)・神戸電鉄各駅への連絡乗車券がそれぞれ購入できるほか、加えて京都線系統のほとんどの駅ではこれら3点のほかに天神橋筋六丁目駅経由Osaka Metro各駅への連絡乗車券、そしてさらにはこれを応用したOsaka Metro堺筋線天下茶屋駅経由南海空港線関西空港駅への連絡乗車券も購入できる(ただし後者2点は南方駅もしくは大阪梅田駅で乗り換えて利用することはできない)。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "以下の種類の回数券を磁気カード式で発売していたが、2023年4月30日限りで発売を終了した(身体障がい者・知的障がい者用用特別割引回数券は発売継続、他社で発売される阪急線との連絡回数券は引き続き利用可能)。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "有効期限は発売日から3か月後の末日まで。なお、昼間時間帯とは10 - 16時の間に入場・精算使用することを指す。土休日には土休日ダイヤで運転する平日(お盆・年末年始期間)も含む。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "能勢電鉄・神戸高速・山陽電鉄・神戸電鉄連絡は普通回数券・ハーフ時差回数券・ハーフ土休日回数券のみの発売である。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "複数人で使用する場合は、乗車前に券売機で回数券券片に引き換える必要がある。カードから引き換えた券片の有効期限は2018年10月1日以降、引き換え当日限りとなっている。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "阪急線内のきっぷタイプの回数券は、2018年9月30日をもって発売を終了した(発売済みのものは有効期限まで使用可能)。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2007年4月1日より、阪急電鉄と阪神電気鉄道で同額となる区間(2019年10月1日改定時点では190円、270円、280円、320円、380円、400円)のすべての回数券については、有効期間内であれば阪神でも利用可能となった(阪急・阪神経営統合によるサービス向上策の一環として実施)。ただしそのままでは利用できず、阪神の路線で利用する際は入場前に青色の券売機で阪神の回数券に引き換える必要がある。また、阪神の同額の回数券も同様に使用前に赤色の券売機で阪急の回数券に引き換えて阪急で使用可能である。2007年のこの取り扱い開始当時は180円、260円、310円区間が対象だったが、2009年3月20日より阪神なんば線の開業で阪神に270円区間が出現したため、270円区間回数券も同様の取り扱いを開始した。2014年4月1日の運賃改定で190円、270円、280円、320円、370円区間(それぞれ旧180円、260円、270円、310円、360円区間で、370円区間は新規)に変更され、2019年10月1日の運賃改定で370円区間に代わって380円区間、新規に400円区間でも同様の取り扱いを開始した。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "阪神での回数券発売終了に伴い、2022年9月30日をもって、阪神との間で実施していた回数券引き換えサービスは終了した。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "阪急では乗り越し精算の際、回数券を1枚のみ券面に記載された額面の金券として使用することができる。例えば、480円区間を、280円の普通乗車券(または回数券)で入場・乗車した場合、出場時に200円の回数券をもって乗り越し精算をすることができる。不利を承知で合計金額が過剰になる場合も使用できる(例:540円区間を280円の普通乗車券(または回数券)で入場、出場時に280円の回数券をもって乗り越し精算)が、この時は改札機・精算機の利用はできず、係員窓口で精算する必要がある。また 2枚重ね対応改札機では入場済みの回数券と未使用の回数券を2枚重ねて投入可能であるが、Osaka Metro管理の天神橋筋六丁目駅は2枚重ね投入することはできず、改札内の阪急用精算機で出場証と引き換えなければならない。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2008年12月29日に偽造レインボーカード(当時の大阪市交通局のスルッとKANSAI対応カード)の使用が発覚したため、2009年2月から3月にかけて自動券売機の改修が行われ、ラガールカードを含むスルッとKANSAI対応カードでの回数券および回数カードへの引き換えができなくなった。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2018年10月1日より、阪急と阪神の回数券の取り扱いを変更したため、それまできっぷタイプとカードタイプの回数券を発売していたが、きっぷタイプの回数券を発売終了とし、カードタイプの回数券のみの発売となった。この変更によりカードタイプの模様変更も行われている。阪急と阪神で相互で実施している回数券引き換えサービスの有効期間を回数券の有効期限から、引き換え当日限りと変更した。また、時差回数券は10時から16時が利用可能時間であったが、初発から16時までと変更になった。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "以下の各項目を参照。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "これ以外にも、各種乗車カード・企画乗車券が発売されている。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "ラガールカード等のスルッとKANSAI対応カードやレールウェイカードでカードに印字される符号については、花隈駅のみKK、それ以外の駅はHKであった。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "関西の大手私鉄では唯一、運賃の他に特別料金が必要な列車(臨時を含む)や車両の運行歴がなかった。ただし、2021年には京都本線において有料車両を検討しているとの報道がなされたほか、(検討路線を明確に指していないが)親会社の2020年度決算説明資料 においても「有料座席指定サービスの導入等の検討を進めるなど、収益の確保に向けた取組も行っていく。」との文言があった。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2022年10月の同年12月ダイヤ改正のニュースリリースで、2024年から京都本線の特急・通勤特急・準特急の一部車両を座席指定にする予定であると発表され、2023年10月6日の2024年夏に導入する新型車両2300系・2000系のニュースリリースで、京都線用の2300系について大阪方4両目に同社初となる座席指定サービス車両を導入することが発表された。この時点ではサービス内容についての詳細は明かされなかったが、同年11月21日に座席指定サービスの名称が「PRiVACE」(プライベース)に決定したと発表された。サービスコンセプトは「日常の“移動時間”を、プライベートな空間で過ごす“自分時間”へ」。PRiVACEの名前は、Private(プライベート)とPlace(場所)から取られ、\"自分時間\"が過ごせるプライベート空間を表現したという。対象車両は新導入の2300系と一部の9300系で、2024年夏より京都線の特急・準特急・通勤特急で順次サービスを開始するとしている。",
"title": "鉄道事業(都市交通事業)"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "阪急電鉄では、鉄道事業(都市交通事業)以外に不動産事業やエンタテインメント・コミュニケーション事業(創遊事業)・流通事業をそれぞれ行っており、鉄道事業(都市交通事業)に匹敵する売上や営業利益をあげている。",
"title": "その他の事業"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "かつては不動産事業本部と、阪急不動産が統括し、西宮北口駅にある大型ショッピングセンター「阪急西宮ガーデンズ」の開発や梅田エリアにある「梅田阪急ビル」や「NU茶屋町」・「グランフロント大阪(大阪駅北地区)」などの開発を手掛けたほか、国際文化公園都市(愛称:彩都)予定地の山林に土地を保有していた。",
"title": "その他の事業"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "住宅事業のうち、分譲マンションの開発に関しては子会社の阪急不動産が、分譲戸建の開発に関しては阪神電気鉄道(不動産事業本部)が、それぞれ行っていた。",
"title": "その他の事業"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "2018年4月1日、阪急不動産の株式を親会社の阪急阪神ホールディングスに譲渡した上で、阪急電鉄不動産事業本部及び阪神電気鉄道の不動産事業本部と経営統合して、阪急阪神不動産株式会社とした。",
"title": "その他の事業"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "創遊事業本部が統括し、女性のみで構成される宝塚歌劇団の運営や関連子会社を有する。なお、宝塚歌劇団自体は阪急電鉄の組織の一つである。",
"title": "その他の事業"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "また、鉄道事業者では唯一、総務省より東経110度CS委託放送事業者認定を受けており、2002年より宝塚歌劇団専門チャンネル「タカラヅカ・スカイ・ステージ」を放送していたが、2011年4月1日、番組制作・編成や送出・送信管理を担当していた子会社の宝塚クリエイティブアーツに放送事業者の地位を承継している。",
"title": "その他の事業"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "その他の関連事業会社として、阪急コミュニケーションズという阪急阪神ホールディングス連結子会社が存在していた(阪急電鉄が100 %出資)。元々は大阪市で阪急電鉄創遊事業本部コミュニケーション事業部として阪急電鉄沿線の観光ガイド本・グルメ本や宝塚歌劇団の機関誌『歌劇』、『宝塚GRAPH』、『宝塚おとめ』、演劇専門月刊雑誌『レプリーク』、阪急電車関係の書籍・絵本等を発行していたが、2003年7月に『ニューズウィーク日本版』、『フィガロジャポン』、『Pen』などを発行していたTBSブリタニカの事業(百科事典事業を除く)と阪急電鉄創遊事業本部コミュニケーション事業部の事業を統合して発足した。本社はTBSブリタニカ時代から継承して東京都目黒区に置き、大阪市北区の阪急電鉄本社ビル内(TOKKの編集部門・広告部門と宝塚歌劇団関連誌の広告部門)と宝塚市の宝塚大劇場内(宝塚歌劇団関連書籍・雑誌の編集部門)にも事務所を構えていた。2014年10月1日をもって事業再編により、宝塚歌劇団関係の書籍出版事業を宝塚クリエイティブアーツに、TOKKなどの阪急電車関係の書籍出版事業を阪急アドエージェンシーにそれぞれ譲渡し、残った出版事業をCCCメディアハウスに分割した上で同社株式をカルチュア・コンビニエンス・クラブに譲渡した。",
"title": "その他の事業"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "都市交通事業本部のえきまち事業部が統括している。駅構内のコンビニアズナスや、日本の中堅書店であるブックファーストを運営していたエキ・リテール・サービス阪急阪神(ブックファースト運営当時は阪急リテールズ)を傘下に持つ(ただし、コンビニ事業は2019年8月にエイチ・ツー・オー リテイリンググループへ譲渡)。",
"title": "その他の事業"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "なお、関西私鉄で初めて駅構内に立ち食いそば・うどん店を設けたのは阪急電鉄である(阪急そば。2019年4月に平野屋へ事業譲渡し運営から撤退、若菜そばへ名称変更)。",
"title": "その他の事業"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "アズナスは2021年6月21日付けでローソンのフランチャイズ店舗へ転換することを発表した。これにより、アズナスブランドは消滅し、2021年11月24日アズナスexp宝塚店閉店により、阪急阪神の駅構内コンビニは全てローソンとして存続、営業することになった。",
"title": "その他の事業"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "阪急ホールディングス(現・阪急阪神ホールディングス)として持株会社となる前の旧・阪急電鉄は1924年から1929年までの宝塚運動協会、そして1936年から1988年まで阪急ブレーブス(後にオリックス・ブレーブス、現在はオリックス・バファローズ)というプロ野球球団を持ち、それらの本拠地(専用球場)として宝塚球場、阪急西宮球場(後の阪急西宮スタジアム、2002年に閉鎖)を所有していた。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "関西の私鉄では「○○電車」という呼称が定着しており、車内放送や駅の掲示、ウェブサイトにおいても「○○電車」という愛称が使用されているが、阪急電鉄は公式には「阪急電車」とは案内してこなかった。これは1992年の創業85周年を機に、会社側が公式な通称を「阪急電鉄」と変更したためである。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "以後2016年12月まで、旅客案内の際は、「本日も阪急電鉄をご利用いただきましてありがとうございます」のように「阪急電鉄」と称していた。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "ただし乗客の間では今でも「阪急電車」「阪急線」「阪急」という略称が多く使われる。有川浩の同名小説のタイトルにも使用されている。京都市営地下鉄四条駅、大阪地下鉄梅田駅といった、他社局の駅での乗り換え案内表示も、「阪急電車」となっている。阪急側でもグッズ・刊行物では時折「阪急電車」を使用する例がある。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "2017年1月1日から、車内放送において、これまでの「阪急電鉄」という呼称に代えて「本日も阪急電車をご利用いただきまして...」という言い回しに改められている。ただし、グループ内の阪神電気鉄道や、Osaka Metroなどの車内放送では「阪急線」と案内している。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "阪急電鉄は、「電気鉄道」という呼称を「電鉄」と省略し正式な社名とした(当時の社名は「阪神急行電鉄」)日本で最初の鉄道会社である(「歴史」節も参照)。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "待避線を有する駅や終着駅は別として、上下本線に挟まれたタイプの島式ホームが元々極めて少なかった。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "1963年に烏丸駅が開業し、また東海道新幹線の建設に伴い上牧駅が現ホームに移設されるまで、上下本線に挟まれた島式ホームは中津駅と春日野道駅しか存在しなかった。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "1963年の2駅のあと永らく上下本線に挟まれた島式ホームは現れなかったが、1984年の池田駅を皮切りに、川西能勢口駅(1992年)、豊中駅と岡町駅(1997年)、三国駅(2000年)の各駅(いずれも宝塚本線)が高架化の際に島式ホームに改築されており、島式ホームも僅かながらに増加している。ただ、21世紀に入って新たに開業した洛西口駅、摂津市駅、西山天王山駅(ともに京都本線)はコスト面から相対式ホームで開業している(洛西口駅は後に相対式ホームで高架化)。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "なお、2016年4月時点で施工中である京都本線淡路駅・崇禅寺駅、千里線柴島駅・下新庄駅の各駅における高架化事業においては、千里線の2駅のみ島式ホームとなる予定(淡路駅は現状と同じく上下本線ともに島式ホームとなる)。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "阪急電鉄では、携帯電話の電源オフを終日ルールづけた車両「携帯電話電源オフ車両」を全列車に設定している。2003年(平成15年)6月10日から1か月間限定で試験導入、同年7月11日から本格的に導入した。また京都線に直通する地下鉄堺筋線や同じ阪急阪神東宝グループの能勢電鉄・神戸電鉄でも導入されている。またこの「携帯電話電源オフ車両」についてのアナウンスは、車掌によって異なることがある。オフ車両導入当初は先頭車両と最後尾車両がそれに指定されていたが、2007年(平成19年)10月29日から下記のように変更された。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "なお、2014年7月15日に携帯電話電源オフ車両を廃止し(堺筋線や能勢電鉄・神戸電鉄も同時)、以降は「優先座席付近では、混雑時は電源オフ」とした。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "もう一つ、阪急電鉄の独自ルールとして特筆されたものが「全席優先座席」である。阪急電鉄では「特定の席にこだわらず、すべての座席で譲り合いの精神を」とのことから、特定の座席を優先座席と指定することを廃止して1999年(平成11年)4月から「全席優先座席」を導入していた。阪急電鉄で「携帯電話電源オフ車両」が設定されたのは、同業他社が「優先座席付近では携帯電話の電源をオフ」というルールを導入したが阪急では前述のとおり、特定の優先座席の指定がなかったためである。ただし、地下鉄堺筋線から乗り入れている大阪市交(当時)66系電車はこの間も優先座席の設置を継続しており、「携帯電話電源オフ車両」導入時は、優先座席付近で携帯電話の電源を切ることを義務付けない形として対応した。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "ところが、阪急電鉄側の思惑とは裏腹にこの「全席優先座席」は浸透せず、ほとんど座席の譲り合いが行われていないという現状を受け、2007年(平成19年)6月末の阪急阪神ホールディングスの株主総会で再設置の要望があったのを機に全席優先座席を見直すことになり、同年10月29日に「全席優先座席」は廃止され、再び「優先座席」を設置した。「携帯電話電源オフ車両」は継続され、大阪市交66系電車同様に優先座席付近で携帯電話の電源を切ることを義務付けない形とした。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "しかし、優先座席の設置箇所は基本的に各車両の「梅田を前方としたときの最後尾座席」(すなわち神戸・宝塚・京都寄り)であるのだが、運転台、もしくは運転台跡が存在する車両はそれらの逆側(梅田寄り)の座席となっており、中間に運転台およびその廃止改造を行った車両が含まれる編成(神戸線の8032Fなど)だと、優先座席が車両前方にあったり後方にあったりで、統一されていないという懸念があった。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "2014年7月からは、携帯電話電源オフ車両の廃止に合わせ、各車両の優先座席の設置箇所を運転台の位置にかかわらず神戸・宝塚・京都寄りに統一し、あわせて優先座席の色を赤紫色に順次変更している。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "主要携帯電話会社の公衆無線LANは、2013年には天神橋筋六丁目駅を除き、神戸高速線の花隈駅を含む全駅で利用できるようになった。利用できる無線LANは「阪神電気鉄道#公衆無線LAN」を参照。同年12月21日には訪日旅行者向け無料公衆無線LANサービス「HANKYU-HANSHIN WELCOME WiFi」も、天神橋筋六丁目駅を除き、花隈駅を含む全駅で開始された。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "2018年には、京都線の9300系と観光列車「京とれいん」の車内で、無料公衆無線LANサービス「HANKYU-TRAIN FREE Wi-Fi」「HANKYU-HANSHIN WELCOME WiFi」の提供を開始した。2019年から京都線で運行を開始した「京とれいん 雅洛」では、これらの無料公衆無線LANサービスが利用できるほか、前方展望映像専用のWi-Fiサービスもある。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "2007年11月28日に阪急電鉄は、鉄道向け自動改札システムの開発・実用化に関して、電気・電子・情報・通信分野における世界最大の学会であるIEEE(アメリカ電気電子学会)より、「IEEEマイルストーン」に認定され、同システムを共同で研究・開発してきた、大阪大学・オムロン・近畿日本鉄道と共に受賞したと発表した。1967年に自動改札機の試験導入が行われた千里線の北千里駅には、受賞記念の銘板が設置されている。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "日本の鉄道事業者で初めて改札口を設けないフリーパスゲート「学生専用出口」を1965年に甲陽線甲陽園駅を皮切りに一部の駅で開設した(制服着用が条件)。1969年には「通勤専用出口」を塚口駅、池田駅、富田駅に設置した。1994年の「フェアライドシステム」導入後も定期券の出場記録がなくても入場可能とする対応であり、現在も王子公園駅や相川駅などにある。ただし磁気定期券のみ対象でICカード式の定期券には非対応のため、ほとんどの学生が改札機を用いて出場している。雲雀丘花屋敷駅には雲雀丘学園中学校・高等学校に直結している専用の改札口がある(自動改札機が設置されている)。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "阪急電車情報誌として、古くから『阪急沿線』→『Linea(リネア)』を発行してきたが、『Linea』は1990年代後半に『TOKK』に統合された(『TOKK』は『Linea』とは別に存在)。現在はTOKK毎月1日発行分の最終ページの前のページに『Linea』というコーナーで存続している。また各線でダイヤ改正を行ったときは改正ほぼ一週間前に時刻表が掲載された臨時増刊が必ず行われる。『Linea』では1990年から1994年まで「FREPPY(フレッピー)」という猫のようなマスコットキャラクターが存在した(愛称の「FREPPY」は公募により決定)。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "阪急電鉄の企業CMは、主に自社の社員としての身分も有する宝塚歌劇団の団員が主に出演(過去には阪急ブレーブスの選手も出演)するが、まれに宝塚以外のタレントが出演する場合がある。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "今津線の仁川駅を最寄駅とする中央競馬の阪神競馬場では、阪急杯として重賞競走が行われるほか、阪神競馬開催時に様々なイベントを実施する。阪神競馬開催時には仁川発西宮北口行きの普通列車や、仁川発大阪梅田行きの臨時急行が運転される。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "また、神戸線の園田駅を最寄駅とする地方競馬の園田競馬場への無料送迎バスは同じ阪急阪神東宝グループに属する、阪急バスが担当している。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "阪急阪神東宝グループに属する全企業の一覧は「阪急阪神東宝グループ」を参照。",
"title": "関係企業"
}
] | 阪急電鉄株式会社は、大阪の梅田を中心に、大阪と神戸・宝塚・京都などを結ぶ鉄道を経営する会社。阪急阪神ホールディングスの子会社で、阪急阪神東宝グループ(旧・阪急東宝グループ)の中核事業会社である。略称は阪急。他の関西の大手私鉄同様に阪急電車とも呼ばれる。日本の大手私鉄の一つである。 本社は大阪府大阪市北区、登記上の本店所在地は大阪府池田市栄町1番1号(阪急宝塚本線池田駅の所在地)である。平均利用者数約177万人/日、営業キロは143.6 km(第二種鉄道事業区間含む)に及ぶ。また、女性のみの団員で構成される劇団「宝塚歌劇団」を運営していることでも知られる(「その他の事業」の節も参照)。 三水会及びみどり会の会員企業であり三和グループに属している。なお阪急阪神東宝グループのメンバーでみどり会の加盟企業は他に東宝・阪急阪神百貨店・阪急阪神ホテルズ・阪急阪神不動産があるが、三水会の加盟企業は阪急電鉄のみである。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{Otheruses|2005年4月より「阪急電鉄株式会社」を名乗っている会社および、旧社から継承した阪急電鉄の各事業|1973年4月から2005年3月まで「阪急電鉄株式会社」を名乗っていた会社|阪急阪神ホールディングス}}
{{Pathnav|阪急阪神東宝グループ|阪急阪神ホールディングス|frame=1}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 阪急電鉄株式会社
| 英文社名 = Hankyu Corporation<ref name="gaiyo">[https://www.hankyu.co.jp/company/gaiyo.html 会社概要] - 阪急電鉄、2020年1月17日閲覧</ref>
| ロゴ = [[File:Hankyu with word.svg|230px]]
| 画像 = [[File:Hankyu-Corp-headoffice-01.jpg|220px]]
| 画像説明 = 本社([[阪急電鉄本社ビル]])
{{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=270|marker=college}}
| 種類 = [[株式会社]]
| 市場情報 =
| 略称 = 阪急、阪急電車
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 530-8389
| 本社所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]][[芝田 (大阪市)|芝田]]一丁目16番1号
| 本店郵便番号 = 563-0056
| 本店所在地 = 大阪府[[池田市]]栄町1番1号(※1)
| 設立 = [[1989年]]([[平成]]元年)[[12月7日]](※2)<br />(株式会社アクトシステムズ)
| 業種 = 陸運業
| 代表者 = [[嶋田泰夫]]([[代表取締役]][[社長]])
| 事業内容 = 都市交通事業(旅客鉄道事業)<br />不動産事業<br />創遊事業(エンタテインメント・コミュニケーション事業)<br />流通事業 他
| 資本金 = 1億円<ref name="hhyuho" />
| 発行済株式総数 = 800株<ref name="hhyuho" />
| 売上高 = 1589億41百万円<br />(2022年3月期<ref name="kessan">{{PDFlink|[https://www.hankyu.co.jp/company/kessan/pdf/33.pdf 第33期決算公告]}}</ref>)
| 営業利益 = 193億93百万円<br />(2022年3月期<ref name="kessan" />)
| 純利益 = 126億68百万円<br />(2022年3月期<ref name="kessan" />)
| 純資産 = 2115億29百万円<br />(2022年3月31日現在<ref name="kessan" />)
| 総資産 = 1兆1019億1百万円<br />(2022年3月31日現在<ref name="kessan" />)
| 従業員数 = 3,052人(2021年3月31日現在)<ref name="hhyuho" />
| 決算期 = [[3月31日]]
| 主要株主 = [[阪急阪神ホールディングス]] 100 [[パーセント|%]]<br />(2021年3月31日現在<ref name="hhyuho">[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/docs/146db908e8e1fc722941c2933fbb123826599351.pdf 阪急阪神ホールディングス 第183期有価証券報告書]</ref>)
| 主要子会社 =
| 関係する人物 = [[岩下清周]]<br />[[小林一三]]<br />[[佐藤博夫]]<br />[[太田垣士郎]]<br />[[清水雅]]<br />[[小林米三]]<br />[[小林公平]]<br />[[小林公一]]<br />[[杉山健博]]
| 外部リンク = [https://www.hankyu.co.jp/ 阪急電鉄公式サイト]
| 特記事項 = ※1:登記上の本店所在地。[[池田駅 (大阪府)|池田駅]]にある。<br />※2:[[2005年]][[4月1日]]、同日に純粋持株会社に移行した(旧)阪急電鉄株式会社(現商号は阪急阪神ホールディングス株式会社)より吸収分割にて事業を承継、阪急電鉄分割準備株式会社より現商号に変更(分割準備会社であったのは不動産事業における宅地建物取引業免許の事前取得を要したことによる)。創立は[[1907年]][[10月19日]]。
}}
'''阪急電鉄株式会社'''(はんきゅうでんてつ、{{Lang-en-short|Hankyu Corporation}}<ref name="gaiyo" />)は、[[大阪市|大阪]]の[[梅田]]を中心に、大阪と[[神戸市|神戸]]・[[宝塚市|宝塚]]・[[京都市|京都]]などを結ぶ[[鉄道]]を経営する会社。[[阪急阪神ホールディングス]]の子会社で、[[阪急阪神東宝グループ]](旧・[[阪急東宝グループ]])の中核事業会社である。略称は'''阪急'''。他の[[関西私鉄|関西の大手私鉄]]同様に'''[[#阪急電車という呼称|阪急電車]]'''とも呼ばれる。日本の[[大手私鉄]]の一つである。
本社は[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]、登記上の本店所在地は大阪府[[池田市]][[栄町 (池田市)|栄町]]1番1号([[阪急宝塚本線]][[池田駅 (大阪府)|池田駅]]の所在地)である。平均利用者数約177万人/日、営業キロは143.6 km(第二種鉄道事業区間含む)に及ぶ。また、[[女性]]のみの団員で構成される劇団「[[宝塚歌劇団]]」を運営していることでも知られる(「[[#その他の事業|その他の事業]]」の節も参照)。
[[三水会]]及び[[みどり会]]の会員企業であり[[三和グループ]]に属している<ref name="六大企業集団の無機能化">[[田中彰 (経済学者)|田中彰]]、「[[doi:10.14988/pa.2017.0000013201|六大企業集団の無機能化: ポストバブル期における企業間ネットワークのオーガナイジング]]」『同志社商学』 2013年 64巻 5号 p.330-351, {{doi|10.14988/pa.2017.0000013201}}。</ref><ref name="みどり会メンバー会社一覧">[http://www.midorikai.co.jp/member.html メンバー会社一覧 - みどり会]</ref>。なお阪急阪神東宝グループのメンバーでみどり会の加盟企業は他に[[東宝]]・[[エイチ・ツー・オー リテイリング|阪急阪神百貨店]]・[[阪急阪神ホテルズ]]・[[阪急阪神不動産]]があるが<ref name="みどり会メンバー会社一覧"/>、三水会の加盟企業は阪急電鉄のみである<ref name="六大企業集団の無機能化"/>。
== 歴史 ==
阪急電鉄が運営している鉄道事業は、[[1907年]](明治40年)に設立された'''[[箕面有馬電気軌道]]'''が、[[1910年]](明治43年)[[3月10日]]に現在の[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[阪急箕面線|箕面線]]にあたる梅田駅(現在の[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]) - [[宝塚駅]]間、石橋駅(現在の[[石橋阪大前駅]]) - 箕面公園駅(現在の[[箕面駅]])間を開業したのが始まり。当時の箕面有馬電気軌道は[[阪神電気鉄道]](大阪-神戸)など既に発展している都市間を結ぶ路線と異なり、[[郊外]]の田園地帯を走る路線であったため、乗客数は少なく経営基盤は貧弱であった。実質的な創業者である[[小林一三]]は鉄道需要を創出して経営を安定させるため沿線開発に力を入れた。当時、人口増加が著しかった大阪市は過密化や工場の公害によって住環境が悪化していた。そこで郊外の自然豊かな沿線に住宅地を新たに作り、その居住者を電車で都心へと運ぶアイディアを考案し、路線建設時にもともと地価の安かった沿線の土地を買い上げ、日本初の[[住宅ローン]]を活用した戸建て住宅地の分譲販売を行った<ref>{{Cite web|和書|title=様々な生活文化を創り出したアイデアマン「小林一三」|阪急電鉄|url=https://www.hankyu.co.jp/cont/ichizo/column1.html|website=阪急電鉄鉄道駅ナカ沿線おでかけ情報|accessdate=2020-10-17|language=ja}}</ref>。また終点の宝塚周辺では大阪方面からの客を呼び込むために宝塚新温泉、宝塚唱歌隊(後の少女歌劇団、現在の宝塚歌劇団)などの事業を多角的に展開し、現在では当たり前にもなった鉄道会社が沿線開発を行って、自ら鉄道需要の創出を行うという考えの基礎を作り上げた。
続いて阪神間の輸送に参入。[[1918年]](大正7年)、社名を'''[[阪神急行電鉄]]'''に改称。後に正式社名にも採用され現在まで続く略称の「'''阪急'''」はこれに由来する。阪神間に参入したことで、以後既に阪神間で[[インターアーバン|都市間連絡電車]]を営業していた阪神電気鉄道とは競合関係となる一方で駅間隔などで棲み分けがなされ、協調関係ともなった。[[1920年]](大正9年)に[[阪急神戸本線|神戸本線]][[十三駅]] - 神戸駅(後の[[上筒井駅]])間を開業し、[[1936年]](昭和11年)には神戸[[三宮]]に新たに設けた神戸駅(後の三宮駅、現在の[[三宮駅|神戸三宮駅]])へ高架線で乗り入れた。<!-- 神戸市との対立の件は阪神急行電鉄に移動 -->
{{要出典範囲|なお、「電鉄」という語は、「電気鉄道」という語を商号に使用することに、[[鉄道省]]があくまで[[軌道法]]準拠の「電気軌道」であることを根拠として難色を示したことから、対策として小林一三が考え出した語で、以後軌道法監督下の各社が高速電気鉄道への脱皮を図る際に有効活用されることとなった。|date=2022年1月}}
1929年(昭和4年)に梅田駅に世界初となる[[ターミナルデパート]](駅直結型[[百貨店]])である[[阪急百貨店]]を開業した。当時の百貨店業界は[[三越]]や[[大丸]]など[[江戸時代]]からの老舗の[[呉服店]]が百貨店に転換することが一般的であり、鉄道会社が運営する電鉄系百貨店の先駆けとなった。
このように阪急並びに創業者の小林一三は鉄道事業に留まらず、百貨店・スーパーマーケットなどの流通事業、沿線の住宅開発(不動産事業)、宝塚歌劇団、ホテル・レジャー事業(1924年 - 1988年にはプロ野球球団の経営)といった多角経営を行った。これらの事業は本業の鉄道事業とともに[[相乗効果|シナジー効果]]を高め、阪急の多角経営(=小林一三モデル)は日本の私鉄(特に[[大手私鉄]])や[[日本国有鉄道|国鉄]]から[[国鉄分割民営化|民営化]]した[[JR]]の経営モデルとして多大な影響を与えた。
[[1943年]](昭和18年)、[[陸上交通事業調整法]]により[[京阪電気鉄道]]と合併、'''京阪神急行電鉄'''となる(この経緯については「[[阪神急行電鉄#京阪電気鉄道の統合と分離]]」も参照)。なお、このとき公式の略称は「阪急」のまま変わらず、「京阪」の略称も引き続き使用され、[[大阪市電]]の電停名でも「阪急阪神前」([[梅田]])・「京阪前」([[天満橋]])・「京阪神急行前」([[天六]])などと、混用されていた。
戦後の[[1949年]](昭和24年)、旧・京阪電鉄は京阪神急行電鉄からの分離、独立に舵を切り始めた。その際に行われた役員会において、[[1944年]](昭和19年)から行われていた<!--京阪の子会社の →当時すでに直営化-->新京阪線電車の梅田駅乗り入れを踏まえ、{{要出典|[[日本国有鉄道]]も加わった協議の結果|date=2020年5月}}、京阪神地域の将来を見据えて、「実質的な新京阪線の神戸・宝塚への延伸」という考え方から、新京阪の路線は阪急側へ割譲されることとなった。1949年(昭和24年)12月、旧京阪電鉄の[[京阪本線]]・[[京阪交野線|交野線]]・[[京阪宇治線|宇治線]]・[[京阪京津線|京津線]]・[[京阪石山坂本線|石山坂本線]]の5路線が分離されて京阪電気鉄道(現在の[[京阪ホールディングス]])として再発足した{{Efn|鋼索線は別会社の運営で1944年(昭和19年)に廃止されており、京阪直営で復活したのは分離後。}}。京阪神急行電鉄に残った新京阪線はこの時に[[阪急京都本線|京都本線]]となった。
[[1959年]](昭和34年)、梅田駅 - 十三駅間が[[複々線|3複線]]化され、京都本線の[[ターミナル駅]]が天神橋駅(現在の[[天神橋筋六丁目駅]])から梅田駅になる。十三線は京都本線へ編入された。
[[1967年]](昭和42年)に千里山線が[[北千里駅]]まで延長され[[阪急千里線|千里線]]と改称された。[[1973年]](昭和48年)、'''阪急電鉄'''に社名を変更した。
[[1992年]](平成4年)、後に[[スルッとKANSAI]]へ発展する[[ラガールカード]]による[[乗車カード|ストアードフェアシステム]]「[[ラガールカード|ラガールスルー]]」を開始する。
しかし、[[バブル経済|バブル]]崩壊で[[小林公平]]が主導した[[茶屋町 (大阪市)|茶屋町]]地区などの再開発事業([[ちゃやまちアプローズ]])の失敗による巨額の損失を蒙った。追い討ちをかけるように、[[1995年]](平成7年)1月17日の[[阪神・淡路大震災]]では、神戸本線・伊丹線・今津(北)線などが甚大な被害を受けたが、同年6月12日にほぼ全線が復旧、[[1998年]](平成10年)には[[伊丹駅 (阪急)|伊丹駅]]も再建された。
震災以降も、生産年齢人口の減少や娯楽の多様化、[[少子化|少子]][[高齢化社会|高齢化]]などの影響により輸送人員は減少。不動産・ホテル事業の再編や、宝塚新温泉以来90年以上の歴史を持つ遊園地「[[宝塚ファミリーランド]]」の閉園、[[ポートアイランド]]にあった「[[神戸ポートピアランド]]」からの事業撤退(その後暫くは[[神戸市]]の手で運営を継続ののち、[[2006年]]閉園)など、グループ事業の再編が進められる。その集大成として、[[2005年]](平成17年)[[4月1日]]に、旧・阪急電鉄から鉄道、不動産、レジャー、流通の4事業を分割承継する新・阪急電鉄(阪急電鉄分割準備(株)〈1989年設立〉から商号変更)と、ホテル経営を統括する[[阪急ホテルマネジメント]]、旅行業の[[阪急交通社]]の直営事業会社2社の合わせて3社に再編し、旧・阪急電鉄は[[持株会社]]として阪急ホールディングスに移行した(2006年10月1日には[[阪神電気鉄道]]と経営統合し、阪急ホールディングスは[[阪急阪神ホールディングス]]となった。詳しくは「[[阪急・阪神経営統合]]」を参照)。
[[2007年]](平成19年)[[10月19日]]に創業100年、[[2010年]](平成22年)3月10日に開業100年を迎えた。
=== 年表 ===
==== 箕面有馬電気軌道 ====
* [[1906年]](明治39年)[[1月15日]] 箕面有馬電気鉄道創立発起人会設立。
* [[1907年]](明治40年)
** [[6月1日]] 箕面有馬電気軌道に社名変更。
** [[10月19日]] 箕面有馬電気軌道創立総会開催。
* [[1909年]](明治42年)[[9月25日]] 新淀川橋梁が竣工。
* [[1910年]](明治43年)
** [[2月22日]] 宝塚本線梅田(現在の大阪梅田) - 宝塚間、箕面線石橋(現在の石橋阪大前) - 箕面間が竣工。
** [[3月10日]] 宝塚本線梅田 - 宝塚間、箕面線石橋 - 箕面間が開業。
** [[3月13日]] 池田車庫において開業式典を挙行。
** 6月 池田室町住宅地の売出しを開始。当時珍しい[[月賦]]方式による住宅販売。
** [[7月1日]] 電灯電力供給事業を開始。詳細は[[関西私鉄の電力供給事業]]を参照。
** [[11月1日]] 箕面動物園が開園。
* [[1911年]](明治44年)
** [[5月1日]] 宝塚新温泉(後の[[宝塚ファミリーランド]])開業。
** [[10月16日]] 宝塚本線、および箕面支線で貨物営業を開始。
* [[1912年]](明治45年)7月1日 宝塚新温泉内にパラダイスを新設。
* [[1913年]](大正2年)7月1日 宝塚唱歌隊(現在の[[宝塚歌劇団]])を組織。
* [[1914年]](大正3年)[[4月1日]] 宝塚新温泉余興場において歌劇上演を開始。
* [[1916年]](大正5年)[[3月31日]] 箕面動物園を廃止(閉園)。
==== 阪神急行電鉄 ====
[[ファイル:Hankyu Department.JPG|right|thumb|200px|阪急百貨店うめだ本店<br />(建替え工事開始前)]]
[[ファイル:Hankyu Umeda Osaka Japan June 2005 A.jpg|right|thumb|200px|旧阪急梅田駅コンコース<br />※現存せず]]
* [[1918年]](大正7年)
** [[2月4日]] 商号を阪神急行電鉄株式会社に変更。阪神急行電鉄の略称として「阪急」、「阪急電鉄」の名称が用いられるようになる。
** [[5月23日]] 東京[[帝国劇場]]において宝塚少女歌劇団の初公演を実施。
* [[1919年]](大正8年)[[1月6日]] [[宝塚音楽学校|宝塚音楽歌劇学校]]を創立。
* [[1920年]](大正9年)
** [[7月16日]] 神戸本線 十三 - 神戸(後の上筒井)間、伊丹線が開業。
** [[11月1日]] 阪急ビル(旧館)が竣工。
** [[11月5日]] 阪急ビル2階に食堂を開設。
* [[1921年]](大正10年)
** [[4月1日]] [[北大阪電気鉄道]](1923年に[[新京阪鉄道]]へ事業譲渡)が十三 - [[豊津駅 (大阪府)|豊津]]間(現在の京都本線・千里線の一部)を開業。
** [[9月2日]] 西宝線(現在の今津線の一部)宝塚 - 西宮北口間が開業。
** [[10月26日]] 北大阪電気鉄道が豊津 - [[千里山駅|千里山]]間を開業。
* [[1924年]](大正13年)
** [[7月15日]] 宝塚大劇場が竣工。
** [[10月1日]] 甲陽線開業。
* [[1925年]](大正14年)
** [[6月1日]] 梅田阪急ビル(旧館)の2・3階に阪急直営マーケット(阪急百貨店の前身)を開業。
** [[10月15日]] 新京阪鉄道(1930年に(旧)[[京阪電気鉄道]]に合併)が天神橋(現在の天神橋筋六丁目) - 淡路間(現在の千里線の一部)を開業。
* [[1926年]](大正15年)[[5月14日]] [[宝塚ホテル]]開業。
** [[7月5日]] 梅田 - 十三間が高架[[複々線]]化。神戸本線・宝塚本線の分離運転を開始。旧線は[[阪急北野線|北野線]]として営業を継続。
** [[12月18日]] 西宮北口 - 今津間開業。西宝線が全線開業し、路線名を今津線と改称。
* [[1928年]](昭和3年)
** [[1月16日]] 新京阪鉄道が淡路 - 高槻町(現在の[[高槻市駅|高槻市]])間を開業(現在の京都本線)。
** 11月1日 新京阪鉄道が高槻町 - 京都西院(現在の[[西院駅|西院]])を開業。
** [[11月9日]] 新京阪鉄道が桂 - 嵐山間を開業(現在の嵐山線)。
* [[1929年]](昭和4年)
** [[3月28日]] 梅田阪急ビル(新館)の第1期工事が竣工。
** [[4月15日]] 梅田阪急ビル(新館)に[[阪急百貨店]]が開店、阪急直営マーケットを閉店。
** [[7月10日]] [[六甲山ホテル]]開業。
* [[1931年]](昭和6年)
** [[3月31日]](旧)京阪電気鉄道が新京阪線 西院 - 京阪京都(現在の[[大宮駅 (京都府)|大宮]])間開業。関西初の地下鉄道の開業。
** 10月15日 阪急神崎川ゴルフ場を開場。
** [[12月1日]] 梅田阪急ビルの第2期工事が竣工。
* [[1932年]](昭和7年)
** 8月 演劇、映画の興行を主たる目的として、東京宝塚劇場(現在の[[東宝]])を設立。
** [[11月20日]] 梅田阪急ビルの第3期工事が竣工。
* [[1935年]](昭和10年)
** [[1月25日]] 宝塚大劇場が全焼。
** 4月1日 全焼した宝塚大劇場を復興。
* [[1936年]](昭和11年)
** [[1月23日]] 阪急職業野球団(後の阪急ブレーブスの前身。現在の[[オリックス・バファローズ]])を結成。
** [[2月26日]] 梅田阪急ビルの第4期工事が竣工。
** 3月31日 神戸阪急ビルが竣工。
** 4月1日 神戸本線 西灘(現在の[[王子公園駅|王子公園]]) - 神戸(現在の神戸三宮)間が開業し全通。西灘 - 上筒井間は上筒井線として存続。
* [[1937年]](昭和12年)[[5月1日]] 阪急西宮球場(後の西宮スタジアム)の開場式を挙行。
* [[1940年]](昭和15年)[[5月20日]] 上筒井線廃止。
* [[1942年]](昭和17年)4月1日 国家総動員法及び配電統制令に基づき設立された[[関西配電]]に電灯電力供給業務を譲渡。
==== 京阪神急行電鉄 ====
* [[1943年]](昭和18年)[[10月1日]] 阪神急行電鉄が京阪電気鉄道を合併、京阪神急行電鉄株式会社に商号変更。
* [[1945年]](昭和20年)
** [[5月1日]] 交野電気鉄道の事業を譲り受け、交野線とする。
** [[12月21日]] [[奈良電気鉄道]](一部列車はさらに[[近畿日本鉄道]])からの京阪線への直通運転を奈良電気鉄道の車両による片乗り入れで開始。
* [[1946年]](昭和21年)[[11月20日]] 生産部を日興殖産(現在の[[阪急産業]])として分社化。
* [[1947年]](昭和22年)
** [[3月7日]] 百貨店を阪急百貨店(事業は現在の[[阪急阪神百貨店]]、法人は[[エイチ・ツー・オー リテイリング]])として分社化。
** 4月1日 京阪線車両の奈良電気鉄道への直通運転を開始。片乗り入れから相互乗り入れに変更。同時に宇治線全線も新たに直通運転区間となる。
* [[1949年]](昭和24年)
** [[1月1日]] 北野線を休止。
** [[12月1日]] 京阪線・交野線・宇治線・京津線・石山坂本線を(新)京阪電気鉄道(法人としては現在の[[京阪ホールディングス]])として分離。新京阪線を京都本線に改称。
* [[1959年]](昭和34年)[[2月18日]] 梅田 - 十三間が3複線化。
* [[1963年]](昭和38年)[[6月17日]] 京都本線大宮 - 河原町(現在の京都河原町)間開業。
* [[1967年]](昭和42年)
** [[3月1日]] 千里山線が千里線に改称、北千里駅まで開通。北千里駅に日本初の本格的な[[自動改札機]]設置。
** 10月8日 神戸線 [[架線|電車線]]電圧を1500 [[ボルト (単位)|V]]に昇圧。
* [[1968年]](昭和43年)[[4月7日]] 神戸本線が[[神戸高速鉄道]]・[[山陽電気鉄道]]と相互直通運転開始。
* [[1969年]](昭和44年)
** 8月24日 宝塚線 電車線電圧1500 Vに昇圧。
** [[12月6日]] 千里線・京都本線が[[Osaka Metro堺筋線|大阪市営地下鉄堺筋線]]と相互直通運転開始。
==== 阪急電鉄 ====
[[ファイル:Hankyu-6000-HM.jpg|right|thumb|200px|[[阪急阪神ホールディングス]]誕生記念ヘッドマークを掲出した6000系電車。雲雀丘花屋敷駅ホームにて]]
* [[1973年]](昭和48年)
** [[4月1日]] 阪急電鉄株式会社に商号変更。
** [[11月23日]] 梅田駅の移転拡張工事が完成。
* [[1975年]](昭和50年)[[7月31日]] 京都本線で[[阪急6300系電車|6300系]]が運行開始。
* [[1978年]](昭和53年)3月10日 神戸線・宝塚線が[[軌道法]]による軌道から[[地方鉄道法]]による鉄道に変更。
* [[1981年]](昭和56年)3月1日 運行標識板の仕様を全面的に統一した。詳細は[[#運行標識板]]を参照。
* [[1982年]](昭和57年)3月29日 宝塚線で10両連結運転開始。
* [[1983年]](昭和58年)7月1日 全駅に自動改集札機を導入完了。
* [[1984年]](昭和59年)
** 3月25日 今津線が西宮北口駅で分断。
** 5月5日 神戸本線[[六甲駅]]で山陽車両の回送列車と阪急車両の高速神戸発梅田行の特急列車が衝突、脱線。負傷者72名([[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#阪急神戸線六甲駅列車衝突事故|六甲駅列車衝突事故]])。
* [[1985年]](昭和60年)11月18日 神戸線・京都線で10両連結運転開始。
* [[1986年]](昭和61年)
** 自社車両の全面冷房化を達成(大手私鉄では同じグループとなった阪神電気鉄道に次いで2番目)
** 4月1日 日本初の自動定期券発売機を設置<ref>{{Cite news |title=カードで購入OK 自動定期券発売機 梅田駅に来月導入 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1986-03-20 |page=1 }}</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[12月31日]] 大晦日の[[終夜運転]]を全線で開始(ただし開始後数年間は千里線天神橋筋六丁目駅 - 淡路駅間は対象外)。
* [[1988年]](昭和63年)
** 神戸高速線での第二種鉄道事業開始。
** [[11月4日]] 阪急ブレーブスの経営権をオリエント・リース(現在の[[オリックス (企業)|オリックス]])に譲渡。
* [[1989年]](平成元年)
** 1月1日 宝塚本線で[[阪急8000系電車|8000系]]が運行開始。
** 4月1日 [[プリペイドカード]]「[[ラガールカード]]」導入。
** [[12月7日]] 株式会社アクトシステムズが設立。この会社は一旦休眠会社となり、後に分社・持株会社化の準備のための完全子会社・阪急電鉄分割準備株式会社(現在の阪急電鉄)となる
* [[1992年]](平成4年)
** 4月1日 ストアードフェアシステム「ラガールスルー」開始。
** 9月1日 [[コーポレートアイデンティティ]]を導入し、新社章を制定。
** 10月19日 本社を大阪市北区[[芝田 (大阪市)|芝田]]に移転<ref>{{Cite web|和書|url=http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/company/nempu4.html |title=阪急阪神ホールディングス株式会社/事業年譜 |publisher=阪急阪神ホールディングス |accessdate=2018-11-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140106184435/http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/company/nempu4.html |archivedate=2014-01-06}}</ref><ref>{{Cite news |title=新本社ビルが竣工 阪急電鉄 19日から業務開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-10-09 |page=1 }}</ref>。
* [[1994年]](平成6年)[[9月1日]] 日本初の[[不正乗車]]防止システム「フェアライドシステム」を導入。終日有効だった入場券が入場後2時間まで有効となる{{Efn|フェアライドシステム導入までは、乗り越し精算機を自動化したところ同じ定期券で繰り返し精算できるようになっていたため、入出札記録が無い状態でもキセル乗降車が可能になっていた。入場券は時間制限はなく購入後はその日の終電までに入場でき、入場後は終電まで出場可能であった。システム導入でキセル乗降車が減った。}}。
* [[1995年]](平成7年)
** [[1月17日]] [[阪神・淡路大震災]]で各線に被害。同年[[1月23日]]までに京都本線、宝塚本線、神戸本線の一部などで運転再開。
** [[2月5日]] 今津線が全線復旧。
** [[3月1日]] 甲陽線が全線復旧。
** [[3月11日]] 伊丹線が新伊丹 - 伊丹(仮駅)間で運行再開。
** [[6月12日]] 神戸本線が全線復旧。
** [[9月1日]] 運賃改定に伴い時差回数券、土休日回数券導入。
* [[1996年]](平成8年)
** [[1月1日]] 「ジェントルサウンドサービス」の一環として、駅・車内での案内を変更(詳細は[[#特記事項|特記事項]]参照)。
** [[3月20日]] 「ラガールスルー」を改良した関西圏の共通乗車カードシステム「[[スルッとKANSAI]]」開始。
* [[1997年]](平成9年)[[11月17日]] 宝塚本線で[[能勢電鉄]]日生中央駅まで乗り入れを行う直通特急[[日生エクスプレス]]の運転を開始。<!--11月16日(日曜日)のダイヤ改正で平日運転の列車として設定された。つまり11月17日月曜日が運転初日。-->
* [[1998年]](平成10年)
** [[2月15日]] 山陽電気鉄道との相互直通運転を中止、神戸本線は新開地までの運転に。
** [[10月1日]] 今津(南)線、甲陽線で[[ワンマン運転]]を開始<ref>{{Cite news |title=阪急 今津、甲陽線ワンマン運転 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-09-16 |page=1 }}</ref>。
** [[11月21日]] 伊丹駅本駅が完成。伊丹(仮駅) - 伊丹間は単線で運転再開。
* [[1999年]](平成11年)
** [[3月6日]] 伊丹(仮駅) - 伊丹間が複線運転再開、震災から実に4年ぶりに完全復旧。
** 4月1日 全路線の全車両で[[優先席|優先座席]]を廃止(全車両の全座席を優先座席化)<ref name=交通1999-0126>{{Cite news |title=阪急4月から 全席を優先座席に 高齢化や妊婦らの要望に対応 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1999-01-26 |page=3 }}</ref>。
** 12月16日 継続定期券発売機能付新型券売機導入(デビットカード対応は2000年3月6日から)。
* [[2000年]](平成12年)12月 [[総務省]]より[[日本における衛星放送|東経110度CSデジタル放送]]における[[委託放送事業者]]の認定を受ける<ref name="ER200705211N2">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER200705211N2.pdf 「タカラヅカ・スカイ・ステージ」が開局5周年を迎えます]}} - 阪急電鉄、2007年5月21日</ref>。
* [[2001年]](平成13年)
** 3月1日 インターネットによる新規通勤定期券予約サービス「eていき」開始。
** 10月1日 回数券カード発売(これまでの切符式は2018年9月まで併売)。
* [[2002年]](平成14年)
** 7月1日 [[委託放送事業者]]として、SKY PerfecTV!2(現在の[[スカパー! (東経110度BS・CSデジタル放送)|スカパー!]])において[[TAKARAZUKA SKY STAGE]]を開局<ref name="ER200705211N2"/>。
** 10月1日 京都本線で[[女性専用車両]]を2か月間限定で試験導入。6300系の特急・通勤特急・快速特急のみに設定。同年[[12月2日]]から本格導入。
* [[2003年]](平成15年)
** [[6月10日]] 携帯電話の電源オフを終日ルールづけた車両「[[#携帯電話電源オフ車両|携帯電話 電源オフ車両]]」を全列車で試験的に導入。[[7月11日]]から本格導入。
** [[10月14日]] 京都本線で特急車[[阪急9300系電車|9300系]]が運行開始<ref>{{Cite journal |和書 |publisher=鉄道ジャーナル社 |journal=鉄道ジャーナル |volume=通巻第446号 |issue=2003年12月号 |pages=89 }}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)
** [[3月29日]] 休眠子会社となっていた株式会社アクトシステムズを阪急電鉄分割準備株式会社に商号変更。旧阪急電鉄の持株会社化への準備始まる。
** [[7月1日]] [[大阪市営地下鉄]](現・[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]])との共同使用駅である[[天神橋筋六丁目駅]]に阪急初となる[[駅ナンバリング]]導入<ref>{{Cite journal|和書|title=鉄道記録帳|journal=RAIL FAN|date=2004年10月号|issue=10|volume=51|publisher=鉄道友の会|page=27}}</ref>{{Efn|name="ten6-number"|大阪市営地下鉄としての駅番号(堺筋線はK11)のみ付与。}}。
** [[8月1日]] 非接触型ICカード[[PiTaPa]]による乗車サービスを開始。[[STACIAカード|HANA PLUSカード]]発行。
* [[2005年]](平成17年)4月1日 阪急電鉄・阪急ホテルマネジメント・阪急交通社の各社を直轄する持株会社、阪急ホールディングスに移行。同日付けで鉄道・不動産等の事業は[[会社分割]]によって阪急電鉄分割準備株式会社に承継させた上で同社の商号を(新)阪急電鉄株式会社に変更、旧阪急電鉄の商号を阪急ホールディングス株式会社に変更。
* [[2006年]](平成18年)
** [[1月21日]] JR西日本の[[ICOCA]]で鉄道路線が利用可能になる。<!--(宝塚駅、川西能勢口駅、塚口駅、伊丹駅、梅田駅では[[JR福知山線脱線事故]]の振り替え輸送により使用したことがあるのでICOCAの利用を再開したことになる) -->
** 7月1日 PiTaPa対応カードを用いた「IC定期券サービス([[PiTaPa#交通料金割引|PiTaPa定期サービス]])」を開始。
** 7月31日 神戸本線で[[阪急9000系電車|9000系]]が運行開始。
** 10月1日 親会社の阪急ホールディングスが[[阪神電気鉄道]]との経営統合に伴い[[阪急阪神ホールディングス]]株式会社に商号変更(詳細は「[[阪急・阪神経営統合]]」を参照)。
* [[2007年]](平成19年)
** 9月18日 宝塚本線でも9000系が運行開始。
** 10月1日 HANA PLUSカードに代わり、[[STACIAカード]]発行開始。
** [[10月29日]] 全路線の全車両に優先座席を再設置。合わせて携帯電話電源オフ車両の場所を一部変更<ref name="hhhd20071017">{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER200710172N2.pdf 2007年10月29日(月)より、『優先座席』を設定します。また、『携帯電話電源オフ車両』の設定車両を変更します。]}} - 阪急阪神ホールディングス、2007年10月17日</ref>。
* [[2010年]](平成22年)
** [[3月10日]] 開業100周年を迎える。
** [[3月14日]] これまでの路線図における「京都線」「宝塚線」「神戸線」という表記をそれぞれ、「京都本線」「宝塚本線」「神戸本線」に統一。
** 10月1日 神戸高速線 新開地 - 西代間の第二種鉄道事業廃止。
* [[2011年]](平成23年)
** 4月 主要16駅にシースルー型改札「ごあんないカウンター」を設置、全駅で「駅係員よびだしインターホン」・旅客案内ディスプレイの使用を開始<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201002252N1.pdf 次の100年に向けてさらに「安全・安心・快適」な駅を目指します]}} - 阪急電鉄プレスリリース 2010年2月25日</ref>。
** 4月1日 TAKARAZUKA SKY STAGEにおける委託放送事業者の地位を、宝塚クリエイティブアーツに委譲。
** 9月1日 全駅の構内において、喫煙ルームを除いて終日全面禁煙になる<ref>{{PDFlink|[http://rail.hankyu.co.jp/files/other/20110705.pdf 9月1日から阪急電鉄の全駅で「喫煙ルーム」以外は全面禁煙とします]}} - 阪急電鉄プレスリリース 2011年7月5日</ref>。
* [[2013年]](平成25年)
** [[1月1日]] [[前照灯]]の[[昼間点灯|終日点灯]]を開始。関西大手私鉄では、[[近畿日本鉄道]]に次いで2例目の実施。
** [[3月23日]] [[交通系ICカード全国相互利用サービス|IC乗車カード全国相互利用]]開始により[[Kitaca]]、[[PASMO]]、[[Suica]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が鉄道路線で利用可能になる。
** [[11月28日]] 神戸本線で[[阪急1000系電車 (2代)|1000系]](2代目)が運行開始<ref name="specialsite">{{Cite web|和書|url=http://rail.hankyu.co.jp/hankyu1000/|title=阪急電鉄1000系スペシャルサイト|publisher=阪急電鉄|accessdate=30 November 2013}}</ref>。
** [[12月21日]] 天神橋筋六丁目駅{{Efn|name="ten6-number"}}を除く全駅に[[駅ナンバリング]]導入<ref name="hhhd20130430">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201304306N1.pdf 〜すべてのお客様に、よりわかりやすく〜「西山天王山」駅開業にあわせて、「三宮」「服部」「中山」「松尾」4駅の駅名を変更し、全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年4月30日</ref><ref name="毎日20131219">{{Cite news |title=阪急電鉄:21日から駅名変更 宝塚線、中山駅→中山観音駅 神戸線、三宮駅→神戸三宮駅 京都線新駅開業に合わせ |newspaper=[[毎日新聞]](朝刊) |publisher=[[毎日新聞社]] |page=(地方版/兵庫)p.24 |date=2013-12-19 }}</ref>。三宮駅を神戸三宮、服部駅を[[服部天神駅]]、中山駅を[[中山観音駅]]、松尾駅を[[松尾大社駅]]にそれぞれ改称<ref name="hhhd20130430" />。
** [[12月25日]] 宝塚本線で1000系が運行開始<ref name="specialsite" />。
* [[2014年]](平成26年)
** 3月1日 [[角和夫]]が社長を退任し会長に、[[中川喜博]]が社長に就任<ref>{{PDFlink|[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/43.pdf 代表取締役社長の交代並びに役員人事について(2014年3月1日付)]}} - 2013年12月3日</ref>。
** [[3月30日]] 京都本線で[[阪急1300系電車 (2代)|1300系]](2代目)が運行開始<ref name="specialsite" />。
** [[7月15日]] 「携帯電話 電源オフ車両」を廃止。また優先座席の配置などを一部変更し、携帯電話の取り扱いを「混雑時の優先座席付近は電源OFF」に変更。
* [[2017年]](平成29年)
** 4月1日
*** 阪急・阪神・能勢・北急専用の磁気カード「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」を発売<ref name="hhhd20161227">{{PDFlink|[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/4717.pdf スルッとKANSAI対応共通磁気カードの発売終了に伴い 阪急電鉄・阪神電気鉄道・能勢電鉄・北大阪急行電鉄 4社共通の磁気カード「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」を2017年4月1日より発売します]}} - 阪急阪神ホールディングス、2016年12月27日</ref>。スルッとKANSAI対応の「ラガールカード」は3月31日限りで発売終了<ref>{{PDFlink|[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/4298.pdf 阪急電鉄・阪神電気鉄道・能勢電鉄・北大阪急行電鉄の4社におけるスルッとKANSAI対応カードの取扱いについて]}} - 阪急阪神ホールディングス、2016年7月1日</ref>。
*** 4月1日 JR西日本や京阪電気鉄道・大阪モノレール・神戸市交通局との、PiTaPaと[[ICOCA]]による連絡定期券を発売開始<ref>{{PDFlink|[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/4792.pdf 本年4月1日から「PiTaPa IC連絡定期券」の発売範囲を拡大します]}} - 阪急阪神ホールディングス、2017年12月3日</ref>。
*** 4月1日 中川喜博が社長を退任し、後任の社長に[[神戸電鉄]]の社長を務めた[[杉山健博]]が就任<ref>{{PDFlink|[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/4843.pdf 代表取締役・取締役の人事、執行役員の選任ならびに部室長の人事について(4月1日付)]}} - 阪急阪神ホールディングス、2017年2月23日</ref>(6月には阪急阪神ホールディングスの社長にも就任<ref>{{PDFlink|[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/5002.pdf 阪急阪神ホールディングスにおける代表取締役・取締役・監査役の人事および執行役員の選任について]}} - 阪急阪神ホールディングス、2017年4月26日</ref>)。
* [[2018年]](平成30年)
** 1月31日 阪急阪神グループ4社以外での、レールウェイカード・スルッとKANSAI対応カードの自動改札機での共通利用を終了(券売機・精算機での利用は引き続き可能)<ref>[http://www.hankyu.co.jp/topics/details/741.html 2月1日からの「ラガールカード」および「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」のご利用エリアの変更について] - 阪急電鉄、2018年2月1日</ref>。
** 4月1日 この日に[[大阪市交通局]]が民営化されて発足したOsaka MetroとのIC連絡定期券を「PiTaPa」で発売開始<ref>{{PDFlink|[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/5674.pdf ICカードによる連絡定期券の発売開始について]}} - 阪急阪神ホールディングス、2018年1月26日</ref>。
** 4月1日 不動産事業を[[阪急阪神不動産]]へ譲渡{{Efn|name="hankyu20180202"|ただし、阪急電鉄本体にも不動産事業本部に代わって「不動産部」という部署が設置された<ref>{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/5688.pdf 阪急電鉄における業務組織の一部改正ならびに役員人事について(4月1日付)]}} - 阪急電鉄、2018年2月2日</ref>。}}。
* [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年)
** 3月1日 阪急電鉄においてICカード「ICOCA」、および「ICOCA定期券」を発売開始<ref name="hhhd20190124-6540">{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/6540_9719f67ca7946709accb9f6741348717f791bbce.pdf 阪急、阪神、能勢、北急におけるICOCAおよびICOCA定期券の発売開始日について]}} - 阪急阪神ホールディングス、2019年1月24日</ref>。
** [[9月30日]] 阪急阪神グループ4社でのレールウェイカード([[2月28日]]に発売終了)・ラガールカードの自動改札機での共通利用を終了<ref name="hhhd20190124-6542">{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/6542_711be614e7968d9cac3b6747f2824aa55dce5103.pdf 「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」の発売終了、改札機での利用終了と払い戻しについて(阪急電鉄)]}} - 阪急阪神ホールディングス、2019年1月24日</ref>。
** 10月1日 梅田駅、河原町駅、石橋駅をそれぞれ大阪梅田駅、京都河原町駅、石橋阪大前駅に改称<ref>{{PDFlink|[https://www.hankyu.co.jp/files/upload/pdf/2019-07-30.pdf 「梅田」「河原町」「石橋」の駅名を10月1日に変更します。]}} - 阪急電鉄、2019年7月30日</ref>。
* [[2020年]](令和2年)11月23日 神戸本線[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#阪急神戸線踏切脱線事故|六甲駅東側の高羽踏切で軽ワゴン車と列車が衝突し、脱線]]。六甲駅周辺での2度目の脱線事故となる。夙川駅 - 新開地駅間の上下線が翌日24日午前9時21分まで運転見合わせ。
* [[2021年]](令和3年)3月13日 この日のダイヤ改正から冊子の「[[時刻表#一覧|ポケット時刻表]]」の配布を廃止<ref>[https://nordot.app/778159339905597440 ポケット時刻表が相次ぎ廃止、なぜ?] 47NEWS、2021年6月21日閲覧。</ref>。
* [[2022年]](令和4年)12月17日 各線でダイヤ改正。快速急行の列車種別名称を「[[準特急]]」に変更<ref name="press_20221012">{{Cite press release|和書|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/dd2e3f9dbc4759095b47e378f4d54e59336a79ac.pdf|title=2022年12月17日(土)初発より阪急全線(神戸線・宝塚線・京都線)でダイヤ改正を実施 ~2024年に京都線で座席指定サービスを開始します~|date=2022年10月12日|publisher=阪急電鉄株式会社|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221012051939/https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/dd2e3f9dbc4759095b47e378f4d54e59336a79ac.pdf|archivedate=2022年10月12日|url-status=live}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** 4月1日 [[鉄道駅バリアフリー料金制度]]を導入<ref>{{Cite press release|和書|title=全駅にホーム柵を設置するとともに、全駅のバリアフリー化を目指します ~鉄道駅バリアフリー料金制度を活用し、バリアフリー設備の整備を推進します~|publisher=阪急電鉄|date=2022-08-03|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/8ca451b46bdab9736eafb3ad51759b31563ab31f.pdf|format=PDF|access-date=2023-05-01}}</ref>。「阪急電車ポイント還元サービス」を開始<ref name="hankyu20220808">{{Cite press release|和書|title=ICOCAによる「阪急電車ポイント還元サービス」の開始と回数券および往復乗車券の発売終了について|publisher=阪急電鉄|date=2022-08-08|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/94e4d8433449c449756fdbaedc967feb112c5851.pdf|format=PDF|access-date=2023-05-01}}</ref>。
** 4月30日 回数券・往復乗車券の発売をこの日で終了(身体障がい者・知的障がい者用用特別割引回数券は発売継続)<ref name="hankyu20220808" />。
** 5月1日 喫煙ルーム閉鎖に伴い、全駅の構内において、終日全面禁煙になる<ref>[https://www.hankyu.co.jp/topics/details/1508.html お客様用喫煙ルーム 閉鎖のお知らせ] - 阪急電鉄、2023年5月1日</ref>。
* [[2024年]](令和6年)
** 夏頃:京都本線で2300系、神戸本線・宝塚本線で2000系が運行開始<ref name="press_20231006" />。
** 夏頃:京都本線の特急・通勤特急・準特急に[[座席指定席|座席指定サービス]]「PRiVACE」(プライベース)を導入(予定)<ref name="press_20221012"/><ref name="press_20231121">{{Cite press release|title=~ 日常の“移動時間”を、プライベートな空間で過ごす“自分時間”へ ~ 当社初の座席指定サービスの名称を『PRiVACE(プライベース)』に決定! 2024年夏頃に、京都線に導入します|publisher=阪急電鉄|date=2023-11-21|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/4b965935fed5a38c5b499f13fed43496e5299637.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-11-22}}</ref>。
<!-- 長い記述や各路線・各駅固有のトピックは要約したり、この記事の他の節や各路線・各駅の記事に移動したりすることがあります。-->
<!-- 駅の開業・廃止、阪神・淡路大震災の復旧過程は各路線の記事へ、持ち株会社化の件の詳細は上へ移動しました。-->
<!-- 分割準備会社については登記簿で確認しています -->
== 社章 ==
'''コーポレートマーク'''とも呼ばれる現社章は1992年9月の[[コーポレートアイデンティティ|VI]](ビジュアル・アイデンティティ)導入時に制定された。阪急電鉄イニシャルの「H」を花のイメージでかたどり、新しい領域へ挑戦する成長力・若々しさを表現している。基本カラーとして[[ワインレッド]]の指定があり、これを'''Hankyuレッド'''と呼称する<ref>阪急阪神ホールディングス株式会社グループ経営企画部(編)『100年のあゆみ 通史』、阪急阪神ホールディングス、2008年、153頁</ref>。
旧社章は京阪神急行電鉄時代に制定されたもので、[[大阪市]]([[澪標]])と[[神戸市]]の市章を重ねて「阪・神」をシンボライズした意匠はさらに阪神急行電鉄時代にまで遡ることができる。京阪神急行電鉄の社章はこれに[[京都市]]の旧き章(現・京都市略章)を象った円で囲ったもので、現在[[阪急バス]]がこれに類似した社章を使用している。
<gallery style="font-size:90%;">
Hankyu Railway Logo.svg|社章(VI)<br />(1992 - 現行)
Hanshin Express Railway logomark.svg|阪神急行電鉄社章<br />(1918 - 1943)
Keihanshin.rogo.png|京阪神急行電鉄社章<br />(1943 - 1992)
Hankyu-Bus-Logo.png|(参考)阪急バス社章
</gallery>
== 鉄道事業(都市交通事業) ==
阪急電鉄では、鉄道事業のことを「'''都市交通事業'''」と呼称し、同社都市交通事業本部の管轄下に置いている。
=== 路線 ===
[[ファイル:Hankyu-Umeda-STA_Home.jpg|thumb|right|240px|大阪梅田駅ホーム(神戸本線側からの撮影・手前から神戸本線・宝塚本線・京都本線の各ホーム)]]
大きく神戸線・宝塚線・京都線の3つに分けられ、それぞれに本線とそれに付随する支線を有する。基幹路線である[[阪急神戸本線|神戸本線]]・[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[阪急京都本線|京都本線]]の3本線の列車が発着する[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]は阪急電鉄の最大の[[ターミナル駅]]であり、[[阪急阪神東宝グループ|グループ会社]]の商業施設やオフィスビルといった各種施設が集中していることから駅周辺は「[[阪急村]]」とも呼ばれる。京阪神急行電鉄という旧社名や、神戸線と京都線の路線名が示すように、関西の大手私鉄では唯一[[京阪神]]の3都市全てに自社路線を持つ{{Efn|[[近畿日本鉄道]]は京阪神のうち京都市と大阪市に自社路線を持つが、神戸市には[[近鉄奈良線]]が[[阪神なんば線]]経由で[[阪神本線]]に直通して[[神戸三宮駅]]まで乗り入れている。}}。
神戸本線の支線として甲陽線、今津線、伊丹線があり、宝塚本線の支線として箕面線、京都本線の支線として千里線、嵐山線がある。以前は「…本線」<!--や「…支線」-->を、「…線」と略して表記していたが、[[2010年]][[3月14日]]における京都本線の[[ダイヤ改正]]以降、本線系統の路線においては『京都本線』『宝塚本線』『神戸本線』と正式な表記で統一されている。また、神戸線と宝塚線は、車両をほとんど共有している(詳細は[[#車両|後述]])ことから、まとめて「[[神宝線]]」と呼称されることがある(かつて[[軌道法]]に基づく路線であったことから「軌道線」とも呼称されたことがあった)。[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は、ホームの発車番線や駅の運賃表などに使用されるほか、かつては行先板でも使用されていた。2013年12月21日から[[駅ナンバリング]]が導入された<ref name="hhhd20130430" /><ref name="毎日20131219"/><ref name="hhhd20130605">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201306051N2.pdf 阪急京都線 大山崎駅〜長岡天神駅間で建設中の『西山天王山駅』を2013年12月21日に開業します!]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年6月5日。</ref>。
2020年時点において阪急で最も新しい区間は、神戸高速線を除くと1967年開業の千里線 千里山駅 - 北千里駅間であり、営業路線は全て明治・大正・昭和時代に開業している。関西大手私鉄では唯一、[[平成]]時代に新路線の開業がなかった{{Efn|関西大手私鉄の他4社は平成時代に開業した路線があり、京阪電気鉄道は1989年10月開業の[[京阪鴨東線|鴨東線]]と2008年10月開業の[[京阪中之島線|中之島線]]、阪神電気鉄道は2009年3月開業の[[阪神なんば線]]、[[南海電気鉄道]]は1994年6月開業の[[南海空港線|空港線]]、近畿日本鉄道は2006年3月開業の[[近鉄けいはんな線|けいはんな線]]([[生駒駅]] - [[学研奈良登美ヶ丘駅]]間)が該当する。なお関西以外の大手私鉄では、[[東武鉄道]](東武伊勢崎線の線増〈複々線化〉扱いで2003年に開業した押上駅 - 曳舟駅間を除く)と[[西日本鉄道]]が平成期の開業路線がない。}}。
==== 現有路線 ====
* {{Color|#007ac4|■}} 神戸線 (ラインカラー:港町神戸の海からブルー)
**[[ファイル:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|21px|HK]] [[阪急神戸本線|神戸本線]]:[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田]] - [[三宮駅|神戸三宮]]
** [[ファイル:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|21px|HK]] [[阪急神戸高速線|神戸高速線]]:神戸三宮 - [[新開地駅|新開地]] (阪急が[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種事業者]]として列車を運行、[[神戸高速鉄道]]が[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種事業者]]として線路など施設を保有)
** [[ファイル:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|21px|HK]] [[阪急伊丹線|伊丹線]]:[[塚口駅 (阪急)|塚口]] - [[伊丹駅 (阪急)|伊丹]]
** [[ファイル:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|21px|HK]] [[阪急今津線|今津線]]:[[宝塚駅|宝塚]] - [[今津駅 (兵庫県)|今津]] ([[西宮北口駅]]で運行系統が分かれており、宝塚 - 西宮北口は今津(北)線、西宮北口 - 今津は今津(南)線と呼ばれる)
** [[ファイル:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|21px|HK]] [[阪急甲陽線|甲陽線]]:[[夙川駅|夙川]] - [[甲陽園駅|甲陽園]]
* {{Color|#f26627|■}} 宝塚線 (ラインカラー:箕面の紅葉からオレンジ)
**[[ファイル:Number prefix Hankyu Takarazuka line.svg|21px|HK]] [[阪急宝塚本線|宝塚本線]]:大阪梅田 - 宝塚
** [[ファイル:Number prefix Hankyu Takarazuka line.svg|21px|HK]] [[阪急箕面線|箕面線]]:[[石橋阪大前駅|石橋阪大前]] - [[箕面駅|箕面]]
* {{Color|#2a9b50|■}} 京都線 (ラインカラー:古都京都の木々からグリーン)
**[[ファイル:Number prefix Hankyu Kyōto line.svg|21px|HK]] [[阪急京都本線|京都本線]]:[[十三駅|十三]] - [[京都河原町駅|京都河原町]](大阪梅田 - 十三は正確には宝塚本線に乗り入れる形をとっている)
** [[ファイル:Number prefix Hankyu Kyōto line.svg|21px|HK]] [[阪急千里線|千里線]]:[[天神橋筋六丁目駅|天神橋筋六丁目]] - [[北千里駅|北千里]]
** [[ファイル:Number prefix Hankyu Kyōto line.svg|21px|HK]] [[阪急嵐山線|嵐山線]]:[[桂駅|桂]] - [[嵐山駅 (阪急)|嵐山]]
神戸本線は神戸高速線に自社の営業線として直通している。宝塚本線は能勢電鉄と、京都本線・千里線は[[Osaka Metro堺筋線|大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) 堺筋線]]と相互直通運転を行っている。詳細は「[[#他社線との直通運転|他社線との直通運転]]」参照。
[[ファイル:Hankyu Corporation Linemap.svg|thumb|none|700px|路線図]]
このほか、宝塚本線 十三 - 宝塚間、神戸本線 十三 - 西宮北口間、今津(北)線 宝塚 - 西宮北口間の環状区間を「環状線」と呼称する場合がある。かつては各駅の運賃表周辺に掲出されていた注意書きなどにもその記述が見られたが、同区間で環状運転は行われていないほか、「環状線」の呼称はJR[[大阪環状線]]をイメージさせることもあり、積極的には用いられていない。運賃計算における注意書きや企画乗車券・定期乗車券の有効区間表示などでわずかに確認できる程度である<ref>[https://www.hankyu.co.jp/ticket/otoku/21/ 阪急電鉄 初詣乗車券のご案内](ぐるっと初詣パスなどに記載がある)</ref>。
===== 路線の特徴 =====
阪急の路線には[[トンネル]]がほとんど存在しない。工期と費用がかさみ、明治 - 大正時代の土木技術では危険が大きかったため、意図的にトンネル工事を避けたためである{{要出典|date=2019年12月}}。宝塚本線はトンネルを必要とするルートを避けた結果、カーブの多い路線となった。また神戸本線の[[住吉川 (兵庫県)|住吉川]]周辺では[[1938年]]の[[阪神大水害]]で甚大な被害が発生。そのため住吉川の河床や堤防が高く改修されたが、その際もトンネルは掘削はおこなわず、住吉川を乗り越える形で線路を復旧させたため急な勾配が存在する。現在でもトンネルは第二種鉄道事業区間(神戸高速線)を除くと全線で3か所しか存在せず、そのうち2か所は京都本線の西院 - 京都河原町間と千里線の天神橋筋六丁目付近の地下線へ通じる入口で、出入口がある純粋なトンネルは千里線の南千里 - 山田間の千里トンネルただ一つである。なお、直通運転を行っている[[能勢電鉄]]には数多くのトンネルがある。
そのほか、関西の大手私鉄としては唯一の特徴として、以下のようなものがある。
* [[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]に自社路線がない。ただし、同区内を通る地下鉄堺筋線で、京都本線・千里線から乗り入れる阪急の車両を見ることができる。
* 京都・大阪・神戸の3都市の地下鉄事業者([[京都市営地下鉄]]・[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]・[[神戸市営地下鉄]])との乗り換え駅がある{{Efn|近鉄も自社路線で京都・大阪・[[名古屋市営地下鉄|名古屋]]の地下鉄事業者と直接乗り換えできるほか、阪神直通列車を利用すれば、神戸三宮駅で神戸市営地下鉄と直接乗り換えできる。日本全国の大手私鉄では、[[東急電鉄]]も自社路線で複数都市の地下鉄事業者([[東京地下鉄|東京メトロ]]、[[都営地下鉄]]、[[横浜市営地下鉄]])と直接乗り換えできる。}}。
==== 廃止路線 ====
* [[阪急北野線|北野線]]:梅田 - [[北野駅 (大阪府)|北野]] (1949年1月1日休止)
* [[阪急上筒井線|上筒井線]]:[[王子公園駅|西灘]] - [[上筒井駅|上筒井]] (1940年5月20日廃止)
* [[阪急神戸高速線|神戸高速線]]:新開地 - [[西代駅|西代]] (阪急が[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種事業者]]として列車を運行、[[神戸高速鉄道]]が[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種事業者]]として線路など施設を保有。2009年から営業休止、2010年10月1日廃止。なお、第二種事業者が阪神電鉄のみになっただけであるので、路線そのものが廃止されたわけではない<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/K1201007161N2.pdf 神戸高速線における鉄道事業許可変更日の決定について]}} - 阪急阪神ホールディングス、2010年7月16日。</ref>)。
==== 京阪電気鉄道への譲渡路線 ====
[[ファイル:Keihan Electric Railway Linemap.svg|thumb|right|300px|現在の京阪電気鉄道の路線の大半は、京阪神急行電鉄として一度統合後、再び分離された。]]
阪神急行電鉄と京阪電気鉄道が合併して京阪神急行電鉄が発足した際に旧京阪電気鉄道から(交野線は京阪神急行電鉄発足翌年の1945年に京阪子会社の交野電気鉄道から)継承した路線。いずれも、1949年に京阪神急行電鉄から分離発足した[[京阪電気鉄道]]へ譲渡された。詳しくは「[[京阪電気鉄道#路線]]」を参照。
*[[京阪本線]]:[[天満橋駅|天満橋]] - [[三条駅 (京都府)|三条]]間
**[[京阪交野線|交野線]]:[[枚方市駅|枚方市]] - [[私市駅|私市]]間
**[[京阪宇治線|宇治線]]:[[中書島駅|中書島]] - [[宇治駅 (京阪)|宇治]]間
*[[京阪大津線|大津線]]
**[[京阪京津線|京津線]]:三条 - [[びわ湖浜大津駅|浜大津]]間
**[[京阪石山坂本線|石山坂本線]]:[[石山寺駅|石山寺]] - [[坂本比叡山口駅|坂本]]間
==== 計画線・未成線 ====
* [[阪急新大阪連絡線|新大阪連絡線]]
** [[淡路駅|淡路]] - [[新大阪駅|新大阪]] - 十三
** 新大阪 - [[神崎川駅|神崎川]]
**: いずれも1961年事業免許取得。新大阪 - 十三を除く区間(淡路 - 新大阪 と 新大阪 - 神崎川)は、2003年3月1日付けで事業免許廃止となった<ref>{{Cite press release |和書 |title=鉄道事業許可(新大阪連絡線の一部区間)の廃止繰上について |publisher=阪急電鉄 |date=2003-02-21 |url=http://holdings.hankyu.co.jp:80/ir/data/HD200302214N1.pdf |format=PDF |accessdate=2019-01-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060629064342/http://holdings.hankyu.co.jp:80/ir/data/HD200302214N1.pdf |archivedate=2006-06-29}}</ref>(「[[新大阪駅#歴史]]」を参照)。
* [[阪急千里線|千里山線(千里線)]]
** [[天神橋筋六丁目駅|天神橋]] - [[天満駅|天満]]
**: 1959年2月事業免許取得。1966年、[[Osaka Metro堺筋線|大阪市交通局6号線]](堺筋線)建設計画を受け、同線との相互直通運転に切り替え<ref>『高速鉄道第6号線の建設計画について』(1966年10月、大阪市交通局総務部)</ref><ref>『[[都市交通審議会|都市交通審議会答申第3号]]』</ref>。
** [[南千里駅|南千里]] - [[桜井駅 (大阪府)|桜井]]
**: 1961年12月26日事業免許取得、1972年12月27日免許失効<ref name="moriguchi-p179">森口誠之『鉄道未成線を歩く 〈私鉄編〉』JTB、2001年、p.179</ref>。
* [[阪急伊丹線|伊丹線]]
** [[尼崎駅 (阪神)|尼崎]] - [[塚口駅 (阪急)|塚口]]、[[伊丹駅 (阪急)|伊丹]] - [[宝塚駅|宝塚]]
**: 1924年5月19日に軌道特許取得、2005年軌道特許失効。
* 曽根新線
** 神崎川 - [[曽根駅 (大阪府)|曽根]]
**: 1948年4月19日に軌道特許取得、2005年軌道特許失効。
* 梅田 - [[野江駅|野江]]
*: 箕面有馬電気軌道時代の1909年2月3日に軌道特許取得、1917年5月17日軌道特許失効<ref name="moriguchi-p179" />。
<!-- 春日野道 - 三宮間の地下化計画(地下鉄乗り入れ線)や伊丹空港線については“具体的な計画”が両社局から発表されてから記述を。また、単独の新線扱いとなった場合は独立した路線記事としてもよいですが、神戸本線の付け替えまたは枝線扱いとなった場合は単独の路線記事にする必要はありません。-->
* [[なにわ筋連絡線]]
** [[大阪駅|大阪]](地下駅)(仮称時:[[北梅田駅|北梅田]])- 十三
**: 2017年5月23日に[[なにわ筋線]]についての大阪府・大阪市・西日本旅客鉄道(JR西日本)・南海電気鉄道(南海)・阪急電鉄(阪急)の5者共同リリースの中で、「国と連携しながら整備に向けた調査・検討を進めます」と事業の推進について言及された<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/05/page_10496.html|title=なにわ筋線の整備に向けて|publisher=大阪府・大阪市・西日本旅客鉄道・南海電気鉄道・阪急電鉄|date=2017-05-23|accessdate=2017-06-12}}</ref>。
=== 列車種別 ===
''停車駅や運行区間など詳しくは、各種別および各路線の記事を参照のこと。''
2023年2月12日現在、阪急電鉄において設定されている[[列車種別]]は次の9種別である。
* [[快速特急]] - [[阪急京都本線|京都本線]]([[京とれいん|京とれいん 雅洛]]。土曜・休日のみ運転)
* [[特別急行列車|特急]]- [[阪急神戸本線|神戸本線]]・京都本線
* 特急「[[日生エクスプレス]]」 - [[阪急宝塚本線|宝塚本線]](平日朝に大阪梅田[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田]]行き・夜に[[日生中央]]行きのみ運転)
* [[列車種別#通勤種別|通勤特急]] - 神戸本線(平日朝のみ)・宝塚本線(平日朝に大阪梅田行きのみ)・京都本線(平日朝・夜のみ運転)
* [[準特急]] - 神戸本線(早朝・深夜のみ運転)・京都本線(朝・夜のみ運転)
* [[急行列車|急行]] - 神戸本線(朝・深夜のみ運転)・宝塚本線・京都本線(平日早朝に大阪梅田行き、平日夜に京都河原町行きのみ運転)
* [[列車種別#通勤種別|通勤急行]] - 神戸本線(平日朝に大阪梅田行き、夜に神戸三宮行きのみ運転)
* [[準急列車|準急]] - 神戸本線・[[阪急今津線|今津線]](平日朝に大阪梅田行きのみ運転)・宝塚本線(平日朝に大阪梅田行きのみ運転)・京都本線・[[阪急千里線|千里線]]・[[Osaka Metro堺筋線]]
* [[普通列車|普通]] - 全線
以下は臨時列車のみ
* [[阪急京都本線#嵐山線直通臨時列車|直通特急]] - 春・秋の行楽期に運転される[[阪急嵐山線|嵐山線]]直通の[[臨時列車]](西宮北口駅発着で運転)
過去には下記の種別があった。
* [[列車種別#通勤種別|通勤準急]] - 宝塚本線・[[阪急箕面線|箕面線]](2015年3月21日のダイヤ改正をもって廃止され、宝塚本線の準急に統合)
* [[快速列車|快速]] - 京都本線(2022年12月17日のダイヤ改正で停車駅に西京極を追加の上で急行に名称変更)
* [[快速急行]] - 神戸本線・京都本線(2022年12月17日のダイヤ改正で準特急に名称変更)
* [[快速特急|快速特急A]] - 京都本線([[京とれいん]]。土曜・休日のみ運転。[[十三駅]]を通過していた。2022年12月17日のダイヤ改正に先立ち、同月11日の運行をもって廃止)
関西の大手私鉄では唯一「区間急行」など、「区間…」といった区間種別名称での旅客案内を行っていない。ダイヤグラム上での正式な列車種別としては、一部区間で各駅に停車する列車という意味ではなく一部区間を運転する列車の意味で用いられ、区間急行(宝塚本線の[[雲雀丘花屋敷駅|雲雀丘花屋敷]]発着の急行列車)、区間準急(大阪梅田発雲雀丘花屋敷着の準急列車)、区間普通(神戸・宝塚・京都各本線の途中駅折り返し普通列車)が存在している。ただし、公式ホームページにおいては、この「区間…」という表記をしている。宝塚本線の日生エクスプレスについても、設定当初の正式な列車種別は「特急」であったが、直通特急設定後は「直通特急」となっている。
毎年春・秋の行楽期には嵐山方面への臨時列車を走らせている。
==== 列車愛称 ====
; 運行中の列車
:* [[日生エクスプレス]] … 大阪梅田 - 日生中央間に運行されている能勢電鉄直通の特急列車。
:* [[阪急京都本線#嵐山線直通臨時列車|さがの]] … 2011年から大阪梅田 - 嵐山間に運行されている臨時快速特急。
:: なお、2008年より西宮北口 - 嵐山間に運行されている、神戸本線・京都本線・嵐山線直通の臨時直通特急(2018年からは「[[阪急7000系電車#京とれいん 雅洛|京とれいん 雅洛]]」を使用)には列車愛称は付けられていない。
; 過去の列車
: 梅田は現在の大阪梅田、京都は現在の大宮、河原町は現在の京都河原町。
:*[[いい古都エクスプレス]] … 2001年から2009年まで梅田 - 河原町間に運行されていた臨時列車。登場当初は臨時特急として、晩年は快速列車として運行。
:* [[嵯峨野エクスプレス]] … 1992年より2000年まで梅田 - 嵐山間に運行されていた臨時急行。
:* [[阪急箕面線|ほたる]] … かつて6月の平日夕方ラッシュ時に運行されていた梅田 - 箕面間の定期準急。
:* [[阪急京都本線#歌劇特急|歌劇特急]] … 1950年から1968年まで京都(1963年からは河原町) - 宝塚間に今津線経由で運行されていた直通特急。
:* [[阪急神戸本線#臨時特急|ドルフィン]] … 1998年に運行された梅田 - 須磨浦公園間直通の臨時列車。
:* [[阪急千里線#大阪万博輸送列車|EXPO準急]] … 1970年の[[日本万国博覧会|大阪万博]]開催時に梅田・[[動物園前駅|動物園前]] - 北千里間で運行されていた臨時準急。
:* [[阪急千里線#大阪万博輸送列車|EXPO直通]] … EXPO準急同様1970年の大阪万博開催時に、神戸本線方面・宝塚本線方面 - 北千里間で運行されていた臨時列車。
:* [[阪急京都本線#嵐山線直通臨時列車|おぐら]] … 2011年から2018年まで河原町 - 嵐山間に運行されていた臨時快速特急。
:* [[阪急京都本線#嵐山線直通臨時列車|あたご]] … 2011年から2018年まで高速神戸 - 嵐山間に運行されていた神戸本線・京都本線・嵐山線直通の臨時直通特急。
:* [[阪急京都本線#嵐山線直通臨時列車|とげつ]] … 2011年から2018年まで宝塚 - 嵐山間に運行されていた今津(北)線・神戸本線・京都本線・嵐山線直通の臨時直通特急。
:* [[阪急京都本線#嵐山線直通臨時列車|ほづ]] … 2011年から2018年まで天下茶屋 - 嵐山間に運行されていた堺筋線・千里線・京都本線・嵐山線直通の臨時直通特急。
==== 列車種別の表示 ====
列車種別は先頭車両前面の[[通過標識灯]]や[[方向幕|種別表示器(方向幕)]]で識別できる。
正面の種別・行先表示は他社とは異なり、『行先』・『種別』と逆の表示になっている。
[[通過標識灯]]の点灯パターンは以下の通りである。
* 正面から見て両側が点灯 - 快速特急・特急・特急日生エクスプレス・通勤特急・準特急・回送・臨時・貸切・試運転
* 正面から見て右側が点灯 - 急行・通勤急行・準急
* 無点灯 - 普通
急行の点灯パターンは[[近畿日本鉄道]]と同じである。
方向幕は以下の通りである(廃止種別含む)。
* {{Colors|white|red|赤地に白字}} - 特急・通勤特急・準特急・臨時特急・快速特急・直通特急・回送・臨時・貸切・試運転・救援
* {{Colors|red|white|白地に赤字}} - 快速特急A
* {{Colors|black|orange|橙地に黒字}} - 快速急行・急行・通勤急行・臨時急行・臨時快速急行(「<sup>臨時</sup>快速急行」と表記。かつては京都本線での大晦日終夜運転などで掲示したことがあったが、現在は定期列車と同じく「快速急行」と掲示<ref>[http://railf.jp/news/2015/08/17/210000.html 阪急「京とれいん」による臨時快速急行を運転] - [[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]、2015年8月17日</ref>)
* {{Colors|white|green|緑地に白字}} - 通勤準急・準急・旧快速
* {{Colors|white|#0099cc|青地に白字}} - 快速
* {{Colors|white|black|黒地に白字}} - 普通・行き先
==== 運行標識板 ====
{{画像提供依頼|著名な運行標識板|date=2022年8月|cat=鉄道}}
電車の行先表示に[[方向幕]]が普及した[[高度経済成長]]以後も、関西の大手私鉄では[[行先標|運行標識板]](行先板、標識板、種別板などとも呼ばれる)を好んで使用し、駅の売店でもミニサボが発売されている程であったが、阪急はここでもこだわりのある特筆性で知られ、[[宝塚ファミリーランド]]電車館や、[[保育社]]の[[カラーブックス]]『阪急』でも、各種の運行標識板が紹介されていた。
歴代の全デザインを解説する事は困難なため、ここではポートピア'81([[神戸ポートアイランド博覧会]])の開催に合わせた[[1981年]](昭和56年)3月1日、各路線・種別・運転区間によりバラバラだった仕様を、一部の臨時列車用を除いて統一、運行標識板廃止まで使用されたデザイン(以下「新デザイン」)について説明する。また新デザインのモデルとなった一世代前のデザイン(以下「旧デザイン」)についても、簡単に説明する。
; 旧デザイン時代からの共通説明
: 形状は普通以外が円、普通のみ長方形。
: 本線と支線でデザインは同じ。
: 営業列車用の運行標識板は、たとえ片道運転であっても、阪急では古くから両区間の運転駅名を必ず記している(例えば京阪では駅名を左にしか書かない行先板が存在した)。
: 複数の内容を表示する場合、表と裏に別の表示を描く(南海)、板の一部にコの字枠を設けて一部の表示を変更できる(阪神、京阪)などの方法が存在するが、阪急では上下にめくることで、2-3枚の違う表示を可能にしている運行標識板が存在した。この場合走行中の揺れを防ぐため、右上に銀色の留め金が露出していた。
<gallery>
Hankyu 2851 March 1976.jpg|車両は2800系。京都線特急は新旧どちらも両側に付けるが、新デザイン登場前から方向幕を使用する6300系で運行されていたため、新デザインが見られる機会は稀だった。
19761019hankyu5200bw.jpg|神戸線 特急 従系統。神戸線旧デザインの優等列車は、ほとんどが縦2文字だった。車両は5200系。
Noseden 500 series.jpg|能勢電鉄譲渡後の500系だが、普通 主系統の基本は阪急時代と同じ。
Hankyu 810.jpg|宝塚線「池田 大阪 間」運転本数の多い普通 従系統は、この様な紺色地に白字だった。車両は810系。
Hankyu 1300.jpg|京都・千里線 普通「大阪梅田 北千里 間」このデザインは、新デザインでは従系統に使われた。車両は1300系。
</gallery>
; 新デザインの共通説明
: ターミナル駅の「神戸三宮」「大阪」「大阪梅田」「京都」などの表記を、当時の正式駅名の「三宮」「梅田」「河原町」に統一。
:: 旧デザインでは右側が上りだったが、新デザインでは京都線のみ左側を上りとしたため、「梅田」がすべて右側となった。
:: [[阪急西宮スタジアム]]や[[阪神競馬場]]によって波動輸送の多かった神戸線の臨時列車には、駅名を記さない旧デザインが存在したが、新デザインでは全てが駅名入りとなった。
: 終点までを運行する主系統と、途中駅や別路線まで運行する従系統では、旧デザインでもある程度統一された違いが存在したが、新デザインではこれをさらに統一した。
:: 神戸線は物理的に明確な終点が存在しないため、種別毎に特急=須磨浦公園駅、急行=神戸高速線内、準急=宝塚駅、普通=三宮駅を主系統とした。
<gallery>
Hankyu 5200 limitedexpress 5241 sonoda.jpg|神戸線 特急 従系統。車両は5200系。円形標識板の右上に見える金具は、前述の複数表示めくり用の留め金。
Hankyu 5315 approaching Umeda.jpg|京都線 急行 主系統。車両は5300系。
Hankyu 5000 local 5001 sonoda.jpg|神戸線 普通 主系統。車両は5000系。
1992-1-28-hankyu5200.jpg|今津線 普通 従系統唯一の色反転「宝塚南口-西宮北口」。車両は5200系。
Hankyu2070-19920126b.JPG|非旅客列車用。車両は2000系。
</gallery>
; 特急
: 京都線旧デザインを基本とし、種別部が赤地に白字。
:: 主系統は、駅名部が旧デザインと若干異なり、白地に駅名が黒字で矢印が赤。
:: 従系統は、駅名部が黒地に白字。
: 通勤特急と臨時特急は、旧デザインと同じ最上部に「通勤」「臨時」の白字が入った。
; 急行
: 宝塚線旧デザインを基本とした。
:: 主系統は、白地に赤い(急)1文字となった。これは京阪や南海でも見られた、関西でなじみの深いデザインである。
:: 従系統は、主系統に赤い縁取り。
: 臨時急行は、(臨急)の縦長2文字が旧デザインと同じだが、前述の駅名が入った事で、他は新デザイン従系統と同じ。
: 嵐山線臨時急行は、春は桜・秋はもみじの背景が旧デザインと同じ。他は新デザイン主系統と同じ。
: その後「快速」「通勤準急」などの新種別が登場した際は、特急・準急と同じレイアウトとなったため、結果的に急行のみが異なるデザインのまま、最後まで存在した。
; 準急
: 旧デザインから一新。特急新デザインと同じレイアウトで、カラーは緑一色となった。
:: 主系統は、種別部が緑地に白字、駅名部が白地に緑字。
:: 従系統は、種別部が白地に緑字、駅名部が緑地に白字。つまり主系統の全面反転。
: 箕面線臨時準急は、もみじの背景が旧デザインと同じ・文字は新デザインと同じ配置ですべて黄色・駅名の箕面を「みのお」と表記した事で、旧デザインと新デザインで唯一、まったく同じデザインとなった。
: なお[[1997年]]から京都線に新設された快速は、デザイン・色とも準急と同じため、誤乗が発生したが、運行標識板の修正は行われなかった。
; 普通
: 旧デザインから一新。[[#路線]]で解説しているラインカラーが採用された。
: 駅名の間に、旧デザインは「間」の字があったが、新デザインはラインカラーによる縦線。
:: 主系統は、ラインカラーで縁取り。
:: 従系統は、左下と右下に三角の縁。
: 京都・千里線の「北千里-梅田」と(基本レイアウトは主系統)、新デザイン変更後の1990年に登場した今津北線「宝塚南口-西宮北口」(基本レイアウトは従系統)は誤乗防止のため、普通の新デザインでは唯一、全面反転したカラーリングとなった。
: 神戸高速鉄道まで直通する「高速神戸-梅田」と「新開地-梅田」は上下に、山陽まで直通する「須磨浦公園-梅田」は左右に、平たい三角の飾り。これも旧デザインからの反映である。
; 旅客列車以外
: 駅名が無い点以外は、急行新デザイン従系統と同じ。
: 「回送」「試運転」など、2文字以上書かれる場合は横書き。
新造時からの[[方向幕]]の設置は、戦前の車両では[[阪急500形電車 (2代)|2代目500系]]などにも存在したほか、[[1967年]]に地下鉄直通用として登場した[[阪急3300系電車|3300系]]にも例があるが、戦後特定の列車に限らず幅広く使用される汎用通勤車の正面という条件に限定すれば、[[1976年]]に登場した[[阪急6000系電車|6000系]]からで、[[1975年]]に試作された[[阪急2200系電車|2200系]]と同じ形状である。2300系以降の製造年度が若い車両も設置が行われていったが、関西の大手私鉄では阪急のみが、方向幕設置車と未設置車で標識灯の位置が干渉するため、標識灯の移設という改造も必要とされた。使用車両の関係上、阪急京都線と[[名古屋鉄道]]が、大手私鉄の主要路線で運行標識板を常用していた、最晩年の鉄道となった。
=== 他社線との直通運転 ===
* [[大阪市高速電気軌道]] (Osaka Metro):京都本線・千里線と[[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]]が相互乗り入れ。
** Osaka Metroの車両の乗り入れは原則として高槻市駅・北千里駅までだが、イベントで[[阪急嵐山線|嵐山線]][[嵐山駅 (阪急)|嵐山駅]]まで乗り入れた実績がある。
** 平日朝ラッシュ(下り列車のみ)、夕ラッシュ(上り列車のみ)および土休日の日中時間帯には京都河原町駅まで直通する準急が運転されている。また、前述の直通特急運行期間中、「ほづ」が、嵐山駅まで運行される。いずれも阪急車のみの運用。
* [[山陽電気鉄道]]:2010年10月1日以降山陽の一部列車が神戸高速線に片乗り入れ。1998年までは阪急の車両も神戸本線から[[神戸高速鉄道]]東西線(神戸高速線<!--2010年の運行形態変更前も第二種鉄道事業者としての路線名は西代まで阪急の「神戸高速線」ではあった-->)を経由して[[山陽電気鉄道本線]]の[[須磨浦公園駅]]まで乗り入れ、山陽の車両も神戸本線六甲駅まで乗り入れ。
** 同年以降も山陽の車両は阪急の神戸三宮駅まで乗り入れているが、山陽も第二種鉄道事業者であった神戸高速鉄道東西線への乗り入れという扱いをとっていた。2010年10月1日より神戸高速鉄道の運営形態の変更(山陽の第二種鉄道事業廃止)により、山陽側からの営業上の直通運転が[[阪神神戸高速線]]経由で新開地駅・高速神戸駅を経て阪急神戸高速線神戸三宮駅への片乗り入れのみながら復活したことになった。山陽の車両は神戸三宮駅での折り返しの際、大阪梅田側にも数百メートルながら神戸本線を構内運転ではあるが走行する。なお、1998年までは六甲駅から[[御影駅 (阪急)|御影駅]]西側の待避線まで回送され折り返しが行われていた。
* [[能勢電鉄]]:宝塚本線と相互乗り入れ(2014年7月31日までは片乗り入れ)。
** 能勢電鉄は阪急阪神東宝グループの一員で、2003年以降は車体塗色も阪急と同じくマルーン一色になっている。また、尾灯が下部に移設されその付近の銀色の帯が特徴の改造された編成もある。
** 能勢電鉄の車両(元は阪急の車両)は車両検査やイベントの際に平井車庫や正雀車庫まで入線している。ただし、2014年に譲渡した[[阪急6000系電車|6000系]]1編成(6002編成)のみが、同年8月1日より恒常的に宝塚本線内列車や箕面線で運用されている。また、車内の路線図も宝塚線のものを使用している。
<gallery>
大阪市営66系電車.jpg|Osaka Metro 堺筋線 [[大阪市交通局66系電車|66系]]
Nose-Series5100 5137.jpg|能勢電鉄[[阪急5100系電車|5100系]]
</gallery>
=== 共同使用駅 ===
* [[天神橋筋六丁目駅]]([[大阪市高速電気軌道]]の管轄駅)
* [[川西能勢口駅]](阪急の管轄駅、[[能勢電鉄]]との共同)
* [[高速神戸駅]]([[阪神電気鉄道]]の管轄駅)
* [[新開地駅]](同上、阪神電気鉄道と[[神戸電鉄]]との3社共同)
[[三宮駅|神戸三宮駅]]は[[2010年]][[10月1日]]より阪急と[[神戸高速鉄道]]の[[共同使用駅]]から阪急の単独駅となった。
=== 乗降人員上位30駅 ===
数値は公式サイト上の「駅別乗降人員」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hankyu.co.jp/station/passenger.html|title=駅別乗降人員|accessdate=2021-09-05|format=|publisher=阪急電鉄}}</ref>による。1月から12月までの通年平均である。Osaka Metroが管理する千里線[[天神橋筋六丁目駅]]は、乗降人員のカウントから除かれている。
{{↑}}{{↓}}は、右欄の乗降人員と比較して増({{↑}})、減({{↓}})を表す。
{|class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:right;"
|-
!style="width:1em;"|順位
!style="width:7em;"|駅名
!style="width:7em;"|路線名
!style="width:11em;"|所在地
!style="width:6em;"|2020年
!style="width:6em;"|2019年
!style="width:6em;"|2018年
!style="width:6em;"|2017年
!style="width:6em;"|2016年
!特記事項
|-
!1
|style="text-align:left;"|[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#007ac4|■}}[[阪急神戸本線|神戸本線]]<br/>{{Color|#f26627|■}}[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]<br/>{{Color|#2a9b50|■}}[[阪急京都本線|京都本線]]
|style="text-align:left;"|[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]
|{{↓}} 356,742
|{{↑}} 512,887
|{{↓}} 508,862
|{{↑}} 510,643
|505,359
|style="text-align:left;"|関西私鉄の駅で第1位
|-
!2
|style="text-align:left;"|[[西宮北口駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#007ac4|■}}神戸本線<br/>{{Color|#007ac4|■}}[[阪急今津線|今津線]]
|style="text-align:left;"|[[兵庫県]][[西宮市]]
|{{↓}} 75,419
|{{↑}} 103,925
|{{↓}} 100,207
|{{↑}} 100,359
|99,441
|
|-
!3
|style="text-align:left;"|[[三宮駅|神戸三宮駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#007ac4|■}}神戸本線<br/>{{Color|#007ac4|■}}[[阪急神戸高速線|神戸高速線]]
|style="text-align:left;"|兵庫県[[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]
|{{↓}} 73,451
|{{↑}} 105,849
|{{↓}} 105,176
|{{↓}} 106,816
|108,868
|style="text-align:left;"|神戸三宮駅以西各駅発着の人員は含まない
|-
!4
|style="text-align:left;"|[[烏丸駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2a9b50|■}}京都本線
|style="text-align:left;"|[[京都府]][[京都市]][[下京区]]
|{{↓}} 56,083
|{{↑}} 82,325
|{{↑}} 80,508
|{{↑}} 79,934
|78,825
|
|-
!5
|style="text-align:left;"|[[十三駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#007ac4|■}}神戸本線<br/>{{Color|#f26627|■}}宝塚本線<br/>{{Color|#2a9b50|■}}京都本線
|style="text-align:left;"|大阪府大阪市[[淀川区]]
|{{↓}} 53,483
|{{↑}} 68,706
|{{↑}} 68,361
|{{↑}} 68,183
|67,039
|
|-
!6
|style="text-align:left;"|[[京都河原町駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2a9b50|■}}京都本線
|style="text-align:left;"|京都府京都市下京区
|{{↓}} 50,039
|{{↑}} 78,595
|{{↓}} 77,379
|{{↑}} 78,477
|77,488
|
|-
!7
|style="text-align:left;"|[[高槻市駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2a9b50|■}}京都本線
|style="text-align:left;"|大阪府[[高槻市]]
|{{↓}} 44,354
|{{↑}} 57,928
|{{↓}} 57,819
|{{↑}} 58,812
|58,125
|
|-
!8
|style="text-align:left;"|[[茨木市駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2a9b50|■}}京都本線
|style="text-align:left;"|大阪府[[茨木市]]
|{{↓}} 43,958
|{{↓}} 57,191
|{{↓}} 58,002
|{{↑}} 59,000
|58,165
|
|-
!9
|style="text-align:left;"|[[武庫之荘駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#007ac4|■}}神戸本線
|style="text-align:left;"|兵庫県[[尼崎市]]
|{{↓}} 38,900
|{{↑}} 49,963
|{{↑}} 48,895
|{{↑}} 48,733
|48,451
|
|-
!10
|style="text-align:left;"|[[上新庄駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2a9b50|■}}京都本線
|style="text-align:left;"|大阪府大阪市[[東淀川区]]
|{{↓}} 37,404
|{{↑}} 47,593
|{{↓}} 47,530
|{{↑}} 47,599
|47,361
|
|-
!11
|style="text-align:left;"|[[塚口駅 (阪急)|塚口駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#007ac4|■}}神戸本線<br/>{{Color|#007ac4|■}}[[阪急伊丹線|伊丹線]]
|style="text-align:left;"|兵庫県尼崎市
|{{↓}} 36,200
|{{↑}} 47,193
|{{↓}} 46,738
|{{↑}} 47,351
|47,031
|
|-
!12
|style="text-align:left;"|[[豊中駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#f26627|■}}宝塚本線
|style="text-align:left;"|大阪府[[豊中市]]
|{{↓}} 36,191
|{{↓}} 47,483
|{{↓}} 47,500
|{{↑}} 47,953
|47,662
|
|-
!13
|style="text-align:left;"|[[池田駅 (大阪府)|池田駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#f26627|■}}宝塚本線
|style="text-align:left;"|大阪府[[池田市]]
|{{↓}} 34,831
|{{↑}} 46,169
|{{↓}} 45,543
|{{↑}} 46,063
|45,315
|
|-
!14
|style="text-align:left;"|[[桂駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2a9b50|■}}京都本線<br/>{{Color|#2a9b50|■}}[[阪急嵐山線|嵐山線]]
|style="text-align:left;"|京都府京都市[[西京区]]
|{{↓}} 33,559
|{{↑}} 45,103
|{{↓}} 45,028
|{{↑}} 45,634
|45,435
|
|-
!15
|style="text-align:left;"|[[川西能勢口駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#f26627|■}}宝塚本線
|style="text-align:left;"|兵庫県[[川西市]]
|{{↓}} 32,445
|{{↑}} 44,636
|{{↓}} 44,229
|{{↑}} 44,249
|43,205
|style="text-align:left;"|能勢電鉄線内発着の人員は含まない
|-
!16
|style="text-align:left;"|[[石橋阪大前駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#f26627|■}}宝塚本線
|style="text-align:left;"|大阪府池田市
|{{↓}} 32,125
|{{↑}} 44,802
|{{↓}} 44,310
|{{↑}} 44,794
|44,444
|
|-
!17
|style="text-align:left;"|[[宝塚駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#f26627|■}}宝塚本線<br/>{{Color|#007ac4|■}}今津線
|style="text-align:left;"|兵庫県[[宝塚市]]
|{{↓}} 31,869
|{{↑}} 45,315
|{{↓}} 45,141
|{{↓}} 46,046
|46,061
|
|-
!18
|style="text-align:left;"|[[淡路駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2a9b50|■}}京都本線<br/>{{Color|#2a9b50|■}}[[阪急千里線|千里線]]
|style="text-align:left;"|大阪府大阪市東淀川区
|{{↓}} 30,991
|{{↑}} 36,866
|{{↑}} 32,971
|{{↑}} 32,849
|32,572
|
|-
!19
|style="text-align:left;"|[[南茨木駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2a9b50|■}}京都本線
|style="text-align:left;"|大阪府茨木市
|{{↓}} 30,138
|{{↑}} 40,604
|{{↓}} 40,364
|{{↓}} 40,886
|41,145
|
|-
!20
|style="text-align:left;"|[[蛍池駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#f26627|■}}宝塚本線
|style="text-align:left;"|大阪府豊中市
|{{↓}} 29,841
|{{↑}} 41,690
|{{↑}} 40,467
|{{↑}} 39,869
|39,688
|
|-
!21
|style="text-align:left;"|[[西院駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2a9b50|■}}京都本線
|style="text-align:left;"|京都府京都市[[右京区]]
|{{↓}} 28,798
|{{↑}} 40,522
|{{↑}} 39,946
|{{↑}} 39,606
|37,897
|
|-
!22
|style="text-align:left;"|[[南方駅 (大阪府)|南方駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2a9b50|■}}京都本線
|style="text-align:left;"|大阪府大阪市淀川区
|{{↓}} 27,982
|{{↓}} 36,578
|{{↑}} 37,323
|{{↑}} 37,234
|36,363
|
|-
!23
|style="text-align:left;"|[[園田駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#007ac4|■}}神戸本線
|style="text-align:left;"|兵庫県尼崎市
|{{↓}} 23,758
|{{↑}} 30,496
|{{↓}} 30,246
|{{↑}} 30,701
|30,532
|
|-
!24
|style="text-align:left;"|[[庄内駅 (大阪府)|庄内駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#f26627|■}}宝塚本線
|style="text-align:left;"|大阪府豊中市
|{{↓}} 22,190
|{{↑}} 28,243
|{{↓}} 28,119
|{{↑}} 28,301
|28,013
|
|-
!25
|style="text-align:left;"|[[三国駅 (大阪府)|三国駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#f26627|■}}宝塚本線
|style="text-align:left;"|大阪府大阪市東淀川区
|{{↓}} 20,699
|{{↑}} 25,449
|{{↑}} 24,922
|{{↑}} 24,887
|24,276
|
|-
!26
|style="text-align:left;"|[[夙川駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#007ac4|■}}神戸本線<br/>{{Color|#007ac4|■}}[[阪急甲陽線|甲陽線]]
|style="text-align:left;"|兵庫県西宮市
|{{↓}} 20,465
|{{↑}} 27,345
|{{↓}} 27,263
|{{↑}} 27,485
|27,299
|
|-
!27
|style="text-align:left;"|[[六甲駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#007ac4|■}}神戸本線
|style="text-align:left;"|兵庫県神戸市[[灘区]]
|{{↓}} 20,370
|{{↑}} 29,523
|{{↓}} 29,233
|{{↓}} 29,516
|29,566
|
|-
!28
|style="text-align:left;"|[[岡本駅 (兵庫県)|岡本駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#007ac4|■}}神戸本線
|style="text-align:left;"|兵庫県神戸市[[東灘区]]
|{{↓}} 19,297
|{{↑}} 28,105
|{{↓}} 27,865
|{{↑}} 28,009
|27,905
|
|-
!29
|style="text-align:left;"|[[逆瀬川駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#007ac4|■}}今津線
|style="text-align:left;"|兵庫県宝塚市
|{{↓}} 18,745
|{{↑}} 24,500
|{{↓}} 24,284
|{{↑}} 24,614
|24,483
|
|-
!30
|style="text-align:left;"|[[服部天神駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#f26627|■}}宝塚本線
|style="text-align:left;"|大阪府豊中市
|{{↓}} 18,744
|{{↑}} 23,920
|{{↓}} 23,695
|{{↑}} 23,909
|23,889
|
|}
神戸本線、宝塚本線、京都本線の始発駅である大阪梅田駅は、首都圏を除く大手私鉄のターミナル駅で最大の乗降人員を記録している。ただし、大阪梅田駅における京都本線の乗降人員は神戸本線や宝塚本線に比べて少ない。これは、京都本線が大阪梅田駅から淡路駅まで西側に迂回する線形となっているほか、南方駅で[[Osaka Metro御堂筋線|地下鉄御堂筋線]]([[西中島南方駅]])、淡路駅で千里線(地下鉄堺筋線)に接続し、大阪梅田駅を介さないで大阪市内と京都、千里を結ぶバイパスルートが確保されていることによる。
神戸本線は平均駅間距離が約2kmと長いが、神戸市内は[[東海道本線]]([[JR神戸線]])と並走するため、神戸三宮駅を除いて乗降人員が3万人を下回る。今津線と接続する西宮北口駅は[[阪急西宮ガーデンズ]]の最寄り駅であり、乗降人員は2019年まで10万人を上回っていた。武庫之荘駅は急行通過駅でありながら伊丹線と接続する塚口駅よりも乗降人員が多く、朝夕ラッシュ時は急行の停車駅に加えて同駅にも停車する通勤急行を運行することで多客に対応している。西宮北口駅から神戸三宮駅の間には特急停車駅が夙川駅・岡本駅の2つあるが、いずれもJR線との競合対策のための停車という意味合いが強く、前述の武庫之荘駅・塚口駅のほか各駅停車以外はいずれも通過する園田駅の数字も下回る。
宝塚本線は豊中駅から川西能勢口駅までの各駅で乗降人員が4万人を上回っていた。主力種別の急行は十三駅から豊中駅まで通過した後、各駅停車になることでこれらの駅への利便性を確保している。ラッシュ時は急行のほかに特急「日生エクスプレス」と通勤特急が運転され、混雑の平準化が図られている。
京都本線の烏丸駅は、[[京都市営地下鉄烏丸線|地下鉄烏丸線]]と連絡することから大阪梅田駅を除いた同線の駅では最も利用者が多く、終点である京都河原町駅以上の数値となっている。他にも茨木市駅・高槻市駅・桂駅といった特急停車駅の乗降人員が多い。上新庄駅はかつて各駅停車のみ停車していたが、2007年から準急停車駅に、2010年から快速(現・急行)停車駅になった。
=== 車両 ===
{{Main|阪急電鉄の車両形式}}
[[箕面有馬電気軌道]](箕有)、および、その後身の[[阪神急行電鉄]](阪急)によって敷設された神戸線・宝塚線([[神宝線]])と、[[北大阪電気鉄道]]、および、その後身の[[新京阪鉄道]]<ref group="注釈">京阪電気鉄道の子会社。</ref>によって敷設された京都線とでは、その成り立ちが異なるため、車両規格に違いがある。統一の動きが何度かあったが、いまのところ実現に至っていない。
車体の塗装は全車両一貫して「[[阪急マルーン]]」が用いられている。ただし時代が下るとともにこの標準化は進んでおり、昭和前半までは「茶色」といってもおかしくない車両でもあったことが、残されたカラー写真から確認できる。内装についても木目調の化粧板や[[色名一覧 (こ)|ゴールデンオリーブ]]色の[[モヘヤ|アンゴラ山羊の毛]]のシートを採用するなど統一が図られている。
; 神宝線の車両
<gallery>
Hankyu 6004F.jpg|[[阪急6000系電車|6000系]]<br />([[山本駅 (兵庫県)|山本駅]] ‐ [[雲雀丘花屋敷駅]]間)
Hankyu-Series7000-7117.jpg|[[阪急7000系電車|7000系]]<br />([[王子公園駅]])
Hankyu-Series8000-8100.jpg|[[阪急8000系電車|8000系]]<br />(王子公園駅)
Hankyu-Series9000-9100.jpg|[[阪急9000系電車|9000系]]<br />(王子公園駅)
Hankyu-Series1000-1110.jpg|[[阪急1000系電車 (2代)|1000系(2代)]]<br/>(王子公園駅)
</gallery>
; 京都線の車両
<gallery>
阪急電鉄3300系.jpg|[[阪急3300系電車|3300系]]
阪急電鉄5300系.jpg|[[阪急5300系電車|5300系]]
阪急電鉄8300系.jpg|[[阪急8300系電車|8300系]]<br/>(南茨木駅 ‐ 茨木市駅間)
Hankyu-Series9300-Kyoto-Line.jpg|[[阪急9300系電車|9300系]]<br/>(南茨木駅 ‐ 茨木市駅間)
Hankyu 1400 at Takatsuki-shi Station.jpg|[[阪急1300系電車 (2代)|1300系(2代)]]<br/>(高槻市駅)
Hankyu-6353F.JPG |[[阪急6300系電車|6300系]]<br/>([[桂駅]])
</gallery>
; 神宝線から京都線に転属した車両
<gallery>
阪急電鉄7000系7006F 京とれいん雅洛.jpg|7000系7006F「[[京とれいん|京とれいん雅洛]]」<br/>(桂駅)
</gallery>
=== 車両基地 ===
* [[西宮車庫]](神戸本線)
* [[平井車庫]](宝塚本線)
* [[阪急電鉄正雀工場|正雀車庫・正雀工場]](京都本線)
* [[桂車庫]](京都本線)
阪急と相互直通運転を行うOsaka Metro堺筋線の[[東吹田検車場]]が京都本線内([[相川駅]] - [[正雀駅]]間)にある。
=== 乗務員区所 ===
* 西宮北口乗務区(神戸本線・今津線・伊丹線・甲陽線・神戸高速線)
* 雲雀丘花屋敷乗務区(宝塚本線・箕面線)
* 桂乗務区(京都本線・嵐山線)
* 淡路乗務区(京都本線・千里線)
=== 運賃 ===
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。下表には[[鉄道駅バリアフリー料金制度|鉄道駅バリアフリー料金]]10円を含む。2023年4月1日改定<ref name="hankyu20220803" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hankyu.co.jp/files/upload/topics/230117Bar/230117_ft.pdf|format=PDF|title=鉄道駅バリアフリー料金加算後の改定普通運賃(大人)|publisher=阪急電鉄|date=2022-08-03|access-date=2023-03-31}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!style="width:6em;"|キロ程!!運賃(円)!!style="width:6em;"|キロ程!!運賃(円)
|-
|1 - 4||170||34 - 42||390
|-
|5 - 9||200||43 - 51||410
|-
|10 - 14||240||52 - 60||480
|-
|15 - 19||280||61 - 70||540
|-
|20 - 26||290||71 - 76||640
|-
|27 - 33||330|| ||
|}
大阪梅田駅 - 中津駅・十三駅間の運賃計算上のキロ数は事後処理が煩雑になることを防ぐため移転前の営業キロ数をそのまま適用している(営業キロに0.4 kmを足して計算する)。
* 大阪梅田駅 - 中津駅間 (0.9 km) は1.3 kmで計算
* 大阪梅田駅 - 十三駅間 (2.4 km) は2.8 kmで計算
神戸高速線は阪急が第2種鉄道事業者となる区間も含めて別途運賃が設定されている。神戸高速線の運賃の詳細は「[[神戸高速線#運賃]]」を参照。神戸本線と跨って乗車する場合は、神戸三宮駅を境界として運賃を合算する形になる。
2023年4月1日から、グループの阪神電気鉄道と同時に、全駅への[[ホームドア]]設置などの[[バリアフリー]]設備の整備を推進のため、普通運賃・通勤定期運賃に[[鉄道駅バリアフリー料金制度]]による料金の上乗せ(普通運賃は10円、通勤定期は1か月で380円)を実施している<ref name="hankyu20220803">{{Cite press release|和書|title=全駅にホーム柵を設置するとともに、 全駅のバリアフリー化を目指します。 ~鉄道駅バリアフリー料金制度を活用し、バリアフリー設備の整備を推進します~|publisher=阪急電鉄|date=2022-08-03|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/0037bfbfeff40ab146d7214f44d721a9d5e1417b.pdf|format=PDF|access-date=2022-08-04}}</ref>。
==== 大阪梅田駅での折り返し乗車 ====
有効な乗車券を持たずに、十三駅 - 大阪梅田駅 - 十三駅と乗車する折り返し乗車は[[不正乗車]]にあたる。{{要出典|範囲=[[なにわ淀川花火大会]](旧・平成淀川花火大会)の際であっても大阪梅田折り返し乗車をする場合にも、乗車券は|date=2018年8月}}
:{{要出典|範囲=1. 十三駅 - 大阪梅田駅|date=2018年8月}}
:{{要出典|範囲=2. 大阪梅田駅 - (本来の行先の駅)|date=2018年8月}}
{{要出典|範囲=の2枚を十三駅で購入しなければならないとされている<ref group="注釈">[https://www.hankyu.co.jp/pdf/ticket/traveler/01_ryoryaku.pdf#page=21 阪急電鉄旅客営業規則 第40条第3項]。運賃を計算する場合に使用するキロ程は、(中略)旅客の乗車経路が折返しとなるときは折返しとなる駅において、打ち切って計算する。</ref>{{Efn|阪急電鉄旅客営業規則 第18条第1項。発駅にて購入する場合、大阪梅田駅からの乗車券は同規則 第14条第1項により'''特別補充券'''になる。}}|date=2018年8月}}。{{要出典|範囲=大阪梅田駅折り返し乗車で有効な乗車券がない場合、<u>係員の承諾を得ずに</u>大阪梅田駅で折り返し乗車すると不正乗車になる<ref group="注釈">[https://www.hankyu.co.jp/pdf/ticket/traveler/01_ryoryaku.pdf#page=33 阪急電鉄旅客営業規則 第71条] 定期券以外の乗車券は、次の各号の1に該当する場合は、全券片を無効として回収する。…… 「(9) <u>係員の承諾を得ないで</u>、'''乗車券の券面に表示された区間以外を乗車'''したとき。」に該当。</ref>|date=2018年8月}}。
:* 鉄道事業者都合の折り返し乗車として、2008年度より実施している神戸線・宝塚線⇔京都線の直通臨時列車の運転に際し、一時期十三駅で折り返しができなかったため、梅田駅(現在の大阪梅田駅)にてそれを行っていたこともあったが、この場合は、梅田駅までの折り返し乗車で複乗となる十三駅 - 梅田駅間の運賃は支払う必要がなかった。
==== 他社路線との連絡乗車券 ====
全駅で[[能勢電鉄]]各駅に加え、[[神戸高速線]]経由[[山陽電気鉄道]](1998年2月15日に相互乗り入れが中止となった後も発売を継続している)・[[神戸電鉄]]各駅への連絡乗車券がそれぞれ購入できるほか、加えて京都線系統のほとんどの駅ではこれら3点のほかに[[天神橋筋六丁目駅]]経由[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]各駅への連絡乗車券、そしてさらにはこれを応用した[[Osaka Metro堺筋線]][[天下茶屋駅]]経由[[南海電気鉄道|南海]][[南海空港線|空港線]][[関西空港駅]]への連絡乗車券も購入できる(ただし後者2点は南方駅もしくは大阪梅田駅で乗り換えて利用することはできない)。
==== 回数券 ====
以下の種類の[[回数乗車券|回数券]]を磁気カード式で発売していたが、2023年4月30日限りで発売を終了した(身体障がい者・知的障がい者用用特別割引回数券は発売継続、他社で発売される阪急線との連絡回数券は引き続き利用可能)<ref name="hankyu20220808" />。
有効期限は発売日から3か月後の末日まで。なお、昼間時間帯とは10 - 16時の間に入場・精算使用することを指す。土休日には土休日ダイヤで運転する平日(お盆・年末年始期間)も含む。
* 普通回数券 - 10回分の金額で11回、20回分の金額で22回乗車可能。
* 時差回数券 - 平日昼間・土休日有効。10回分の金額で12回乗車可能。
* ハーフ時差回数券 - 5回分の金額で6回乗車可能。時差回数券のハーフ版。
* 土・休日回数券 - 土休日有効。10回分の金額で14回乗車可能。
* ハーフ土・休日回数券 - 5回分の金額で7回乗車可能。土・休日回数券のハーフ版。
能勢電鉄・神戸高速・山陽電鉄・神戸電鉄連絡は普通回数券・ハーフ時差回数券・ハーフ土休日回数券のみの発売である。
複数人で使用する場合は、乗車前に券売機で回数券券片に引き換える必要がある。カードから引き換えた券片の有効期限は2018年10月1日以降、引き換え当日限りとなっている<ref name="hhhd20180426">{{PDFlink|[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/5907_a123bca646657928f0881965468c0541992dd0d8.pdf 回数券(きっぷ式)の発売終了および回数券カードから引き換えた回数券の有効期限の変更について(阪急電鉄)]}} - 阪急阪神ホールホールディングス、2018年4月26日</ref>。
阪急線内のきっぷタイプの回数券は、2018年9月30日をもって発売を終了した(発売済みのものは有効期限まで使用可能)<ref name="hhhd20180426" />。
2007年4月1日より、阪急電鉄と阪神電気鉄道で同額となる区間(2019年10月1日改定時点では190円、270円、280円、320円、380円、400円)のすべての回数券については、有効期間内であれば阪神でも利用可能となった([[阪急・阪神経営統合]]によるサービス向上策の一環として実施)。ただしそのままでは利用できず、阪神の路線で利用する際は入場前に青色の[[自動券売機|券売機]]で阪神の回数券に引き換える必要がある。また、阪神の同額の回数券も同様に使用前に赤色の券売機で阪急の回数券に引き換えて阪急で使用可能である。2007年のこの取り扱い開始当時は180円、260円、310円区間が対象だったが、2009年3月20日より[[阪神なんば線]]の開業で阪神に270円区間が出現したため、270円区間回数券も同様の取り扱いを開始した。2014年4月1日の運賃改定で190円、270円、280円、320円、370円区間(それぞれ旧180円、260円、270円、310円、360円区間で、370円区間は新規)に変更され、2019年10月1日の運賃改定で370円区間に代わって380円区間、新規に400円区間でも同様の取り扱いを開始した。
阪神での回数券発売終了に伴い、2022年9月30日をもって、阪神との間で実施していた回数券引き換えサービスは終了した<ref>{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20220310-tosikoutu-kaisuukenhaisi.pdf |title=回数乗車券の発売終了とICOCAによるポイントサービスの実施について |publisher=阪神電気鉄道 |date=2022-03-10 |accessdate=2022-03-10 }}</ref>。
阪急では乗り越し精算の際、回数券を1枚のみ券面に記載された額面の金券として使用することができる。例えば、480円区間を、280円の普通乗車券(または回数券)で入場・乗車した場合、出場時に200円の回数券をもって[[不足賃|乗り越し精算]]をすることができる。不利を承知で合計金額が過剰になる場合も使用できる(例:540円区間を280円の普通乗車券(または回数券)で入場、出場時に280円の回数券をもって乗り越し精算)が、この時は改札機・精算機の利用はできず、係員窓口で精算する必要がある。また 2枚重ね対応改札機では入場済みの回数券と未使用の回数券を2枚重ねて投入可能であるが、Osaka Metro管理の天神橋筋六丁目駅は2枚重ね投入することはできず、改札内の阪急用精算機で出場証と引き換えなければならない。
2008年12月29日に偽造[[レインボーカード]](当時の大阪市交通局の[[スルッとKANSAI]]対応カード)の使用が発覚したため、2009年2月から3月にかけて自動券売機の改修が行われ、ラガールカードを含むスルッとKANSAI対応カードでの回数券および回数カードへの引き換えができなくなった<ref>[http://rail.hankyu.co.jp/info/lagare_info.html 5,000円ラガールカード(小児2,500円)の発売中止およびスルッとKANSAIカードによる回数券の発売中止について] - 阪急電鉄</ref>。
2018年10月1日より、阪急と阪神の回数券の取り扱いを変更したため、それまできっぷタイプとカードタイプの回数券を発売していたが、きっぷタイプの回数券を発売終了とし、カードタイプの回数券のみの発売となった。この変更によりカードタイプの模様変更も行われている。阪急と阪神で相互で実施している回数券引き換えサービスの有効期間を回数券の有効期限から、引き換え当日限りと変更した。また、時差回数券は10時から16時が利用可能時間であったが、初発から16時までと変更になった。
==== 乗車カード・企画乗車券 ====
以下の各項目を参照。
* [[STACIAカード]](阪急阪神グループ発行の[[PiTaPa]]カード)
* [[ICOCA]](プリペイド式IC乗車カード。2019年発売開始)
* [[阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード]](2019年2月28日発売終了。2019年9月30日で自動改札機での取り扱いを終了)
* [[ラガールカード]](2017年3月31日発売終了。以後も阪急・阪神・能勢電鉄・北大阪急行電鉄の改札機に限って利用できたが2019年9月30日にそれも終了)
* [[阪急阪神1dayパス]]
* [[OSAKA海遊きっぷ]]
* [[大阪周遊パス]]
* [[高野山1dayチケット]]
* [[奈良・斑鳩1dayチケット]]
* [[いい古都チケット]]
* [[古代ロマン飛鳥 日帰りきっぷ]]
これ以外にも、各種乗車カード・企画乗車券が発売されている。
ラガールカード等の[[スルッとKANSAI]]対応カードやレールウェイカードでカードに印字される符号については、[[花隈駅]]のみ'''KK'''{{Efn|[[神戸高速鉄道]]('''K'''obe '''K'''osoku)より。ただし、正式な英語表記は"KOBE RAPID TRANSIT RAILWAY"である。}}、それ以外の駅は'''HK'''であった。
==== 座席指定サービス予定 ====
関西の大手私鉄では唯一、運賃の他に特別料金が必要な列車(臨時を含む)や車両の運行歴がなかった{{Efn|日本全国の大手私鉄においては、阪急の他に[[相模鉄道]]もない。団体臨時列車を除けば阪神電気鉄道もない。2017年8月19日までは京阪電気鉄道もなかった。また[[西日本鉄道]]もないが、有料車両を導入する計画がある。}}。ただし、2021年には京都本線において有料車両を検討しているとの報道がなされたほか、(検討路線を明確に指していないが)親会社の2020年度決算説明資料<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/docs/d940f29897b99afdf293286e8cb40cf11b0ca1f5.pdf|title=阪急阪神ホールディングスグループ 2020年度(2021年3月期)決算説明会資料|accessdate=2021-09-05|format=PDF|publisher=阪急阪神ホールディングス}}</ref> においても「有料座席指定サービスの導入等の検討を進めるなど、収益の確保に向けた取組も行っていく。」との文言があった。
2022年10月の同年12月ダイヤ改正のニュースリリースで、2024年から京都本線の特急・通勤特急・準特急の一部車両を座席指定にする予定であると発表され<ref name="press_20221012"/>、2023年10月6日の2024年夏に導入する新型車両2300系・2000系のニュースリリースで、京都線用の2300系について大阪方4両目に同社初となる座席指定サービス車両を導入することが発表された<ref name="press_20231006">{{Cite press release|title=新型車両2300系・2000系を2024年夏より導入します|publisher=阪急電鉄|date=2023-10-06|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/4b965935fed5a38c5b499f13fed43496e5299637.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-11-22}}</ref>。この時点ではサービス内容についての詳細は明かされなかったが、同年11月21日に座席指定サービスの名称が「PRiVACE」(プライベース)に決定したと発表された<ref name="press_20231121" />。サービスコンセプトは「日常の“移動時間”を、プライベートな空間で過ごす“自分時間”へ」。PRiVACEの名前は、Private(プライベート)とPlace(場所)から取られ、"自分時間"が過ごせるプライベート空間を表現したという。対象車両は新導入の2300系と一部の9300系で、2024年夏より京都線の特急・準特急・通勤特急で順次サービスを開始するとしている<ref name="press_20231121" />。
== その他の事業 ==
阪急電鉄では、鉄道事業(都市交通事業)以外に不動産事業やエンタテインメント・コミュニケーション事業(創遊事業)・流通事業をそれぞれ行っており、鉄道事業(都市交通事業)に匹敵する売上や営業利益をあげている<ref>{{PDFlink|[http://dentetsu.hankyu.co.jp/kessan/pdf/19.pdf 平成20年3月期決算]}}</ref>。
=== 不動産事業 ===
{{Main|阪急阪神不動産}}
[[ファイル:Hankyu Nishinomiya Gardens 20100429-001.jpg|thumb|200px|阪急電鉄が開発した大型ショッピングセンター[[阪急西宮ガーデンズ]]]]
かつては不動産事業本部と、阪急不動産が統括し、西宮北口駅にある大型ショッピングセンター「[[阪急西宮ガーデンズ]]」の開発や[[キタ|梅田エリア]]にある「[[大阪梅田ツインタワーズ・ノース|梅田阪急ビル]]」や「[[NU茶屋町]]」・「[[グランフロント大阪]]([[大阪駅北地区]])」などの開発を手掛けたほか、[[国際文化公園都市]](愛称:彩都)予定地の山林に土地を保有していた<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/KS200804031N3.pdf 特別損失の計上及び業績予想の修正に関するお知らせ]}} - 阪急阪神ホールディングス、2008年4月3日。</ref>。
住宅事業のうち、分譲マンションの開発に関しては子会社の阪急不動産が、分譲戸建の開発に関しては[[阪神電気鉄道]]([[阪神電気鉄道#不動産事業|不動産事業本部]])が、それぞれ行っていた。
2018年4月1日、阪急不動産の株式を親会社の[[阪急阪神ホールディングス]]に譲渡した上で、阪急電鉄不動産事業本部及び阪神電気鉄道の不動産事業本部と経営統合して、'''阪急阪神不動産株式会社'''とした<ref>[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/5507.pdf 阪急阪神ホールディングスグループ 不動産事業の再編及び連結子会社(孫会社)の異動・商号変更について] - 阪急阪神ホールディングス 2017年11月2日(2017年11月2日閲覧)</ref>{{Efn| name="hankyu20180202"}}。
=== エンタテインメント・コミュニケーション事業(創遊事業) ===
[[ファイル:Takarazuka grand theater01s3200.jpg|thumb|200px|阪急電鉄のエンタテインメント・コミュニケーション事業をの中核をなす[[宝塚歌劇団]]の公演が行われる[[宝塚大劇場]]]]
創遊事業本部が統括し、<!--主に-->女性のみで構成される[[宝塚歌劇団]]の運営や関連子会社を有する。なお、宝塚歌劇団自体は阪急電鉄の組織の一つである。
また、鉄道事業者では唯一、[[総務省]]より[[日本における衛星放送|東経110度CS]][[委託放送事業者]]認定を受けており、2002年より宝塚歌劇団専門チャンネル「[[TAKARAZUKA SKY STAGE|タカラヅカ・スカイ・ステージ]]」を放送していたが、2011年4月1日、番組制作・編成や送出・送信管理を担当していた子会社の[[宝塚クリエイティブアーツ]]に放送事業者の地位を承継している。
その他の関連事業会社として、[[阪急コミュニケーションズ]]という阪急阪神ホールディングス連結子会社が存在していた(阪急電鉄が100 %出資)。元々は大阪市で阪急電鉄創遊事業本部コミュニケーション事業部として阪急電鉄沿線の観光ガイド本・グルメ本や宝塚歌劇団の機関誌『歌劇』、『宝塚GRAPH』、『宝塚おとめ』、演劇専門月刊雑誌『レプリーク』、阪急電車関係の書籍・絵本等を発行していたが、2003年7月に『[[ニューズウィーク]]日本版』、『[[フィガロジャポン]]』、『[[Pen (雑誌)|Pen]]』などを発行していた[[TBSブリタニカ]]の事業(百科事典事業を除く)と阪急電鉄創遊事業本部コミュニケーション事業部の事業を統合して発足した。本社はTBSブリタニカ時代から継承して東京都目黒区に置き、大阪市北区の[[阪急電鉄本社ビル]]内([[TOKK]]の編集部門・広告部門と宝塚歌劇団関連誌の広告部門)と宝塚市の宝塚大劇場内(宝塚歌劇団関連書籍・雑誌の編集部門)にも事務所を構えていた。2014年10月1日をもって事業再編により、宝塚歌劇団関係の書籍出版事業を'''宝塚クリエイティブアーツ'''に、TOKKなどの阪急電車関係の書籍出版事業を'''阪急アドエージェンシー'''にそれぞれ譲渡し、残った出版事業を'''CCCメディアハウス'''に分割した上で同社株式を[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ]]に譲渡した<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/2779.pdf 出版事業に関する事業再編について]}} - 阪急電鉄、阪急コミュニケーションズ、2014年7月31日</ref>。
==== 過去運営していたチャンネル ====
* Ch.290 [[TAKARAZUKA SKY STAGE]] - 標準画質ながら[[アスペクト比]]16:9の画角情報を付加して放送。『[[阪急・浪漫沿線]]』等の番組では「制作・著作 '''阪急阪神東宝グループ''' '''阪急電鉄株式会社'''」のクレジットが表示される。
* Ch.101 TAKARAZUKA SKY STAGE プロモ - データ放送。2009年3月16日放送終了。
=== 流通事業 ===
[[ファイル:Book1st Umeda 2nd.JPG|thumb|200px|阪急リテールズが運営していた日本の中堅書店[[ブックファースト]]]]
都市交通事業本部のえきまち事業部が統括している。駅構内のコンビニ[[アズナス]]や、日本の中堅書店である[[ブックファースト]]を運営していた[[エキ・リテール・サービス阪急阪神]](ブックファースト運営当時は阪急リテールズ)を傘下に持つ(ただし、コンビニ事業は2019年8月に[[エイチ・ツー・オー リテイリング]]グループへ譲渡)。
なお、関西私鉄で初めて駅構内に[[立ち食いそば・うどん店]]を設けたのは阪急電鉄である([[阪急そば]]。2019年4月に平野屋へ事業譲渡し運営から撤退、'''若菜そば'''へ名称変更)。
アズナスは2021年6月21日付けで[[ローソン]]のフランチャイズ店舗へ転換することを発表した。これにより、アズナスブランドは消滅し、2021年11月24日アズナスexp宝塚店閉店により、阪急阪神の駅構内コンビニは全てローソンとして存続、営業することになった<ref>[https://www.asnas.net/pdf/topic/562.60d2e9b5aa638.pdf 駅ナカコンビニ・駅売店の 株式会社ローソンのフランチャイズ店舗への転換について] - 株式会社アズナス 2021年6月24日(2022年1月5日閲覧)</ref>。
== 特記事項 ==
<!-- 実態や「阪急電鉄」というキーワードで検索・リンクされることを考慮して、球団関係含め旧・阪急電鉄のことであっても削除しない。-->
=== プロ野球球団 ===
阪急ホールディングス(現・[[阪急阪神ホールディングス]])として持株会社となる前の旧・阪急電鉄は[[1924年]]から[[1929年]]までの[[宝塚運動協会]]、そして[[1936年]]から[[1988年]]まで阪急ブレーブス(後にオリックス・ブレーブス、現在は[[オリックス・バファローズ]])という[[プロ野球]]球団を持ち、それらの本拠地([[専用球場]])として[[宝塚球場]]、阪急西宮球場(後の[[阪急西宮スタジアム]]、[[2002年]]に閉鎖)を所有していた。
=== 阪急電車という呼称 ===
関西の[[私鉄]]では「○○[[電車]]」という呼称が定着しており、[[車内放送]]や駅の掲示、ウェブサイトにおいても「○○電車」という愛称が使用されているが、阪急電鉄は公式には「'''阪急電車'''」とは案内してこなかった。これは[[1992年]]の創業85周年を機に、会社側が公式な通称を「阪急電鉄」と変更したためである。
以後2016年12月まで、旅客案内の際は、「本日も阪急電鉄をご利用いただきましてありがとうございます」のように「阪急電鉄」と称していた。
ただし乗客の間では今でも「阪急電車」「阪急線」「阪急」という略称が多く使われる。[[有川浩]]の[[阪急電車 (小説)|同名小説のタイトル]]にも使用されている。[[京都市営地下鉄]][[四条駅]]、[[大阪市高速電気軌道|大阪地下鉄]][[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]といった、他社局の駅での乗り換え案内表示も、「'''阪急電車'''」となっている。阪急側でもグッズ・刊行物では時折「阪急電車」を使用する例がある。
2017年1月1日から、車内放送において、これまでの「阪急電鉄」という呼称に代えて「本日も'''阪急電車'''をご利用いただきまして…」という言い回しに改められている。ただし、グループ内の[[阪神電気鉄道]]や、[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]などの車内放送では「阪急線」と案内している。
阪急電鉄は、「電気鉄道」という呼称を「電鉄」と省略し正式な社名とした(当時の社名は「阪神急行電鉄」)日本で最初の鉄道会社である(「[[#歴史|歴史]]」節も参照)。
=== ホームの呼称 ===
* 一般的にホームの呼び方は「○'''番'''線」「○'''番'''のりば」だが、阪急電鉄では「○'''号'''線」という呼び方である(子会社の[[能勢電鉄]]も同様)。これは「○番線」が社内での構内配線に対しての呼び方であるためである。ただし、例外的に[[三宮駅#駅構造|神戸三宮駅]]では「○'''番ホーム'''」、[[高速神戸駅]]および[[新開地駅]]では関西の鉄道事業者で一般的な「○'''番のりば'''」という呼び方をしている。
* ホームが2本しかない駅では島式・対向式に関係なく原則として自動放送でホーム番号を言わず、「皆様、まもなく、大阪梅田方面に向かう電車が到着します」のように、行き先の方面で表現する。
** 例外的にホームが3本以上ある駅でも番号を言わない場合もある(京都本線の駅や、優等列車通過駅に多い。例:[[園田駅]]、[[相川駅]]、[[茨木市駅]]、[[高槻市駅]]、[[桂駅]])。ただし、この中には車両が入線してくる時の放送では「○号線に到着の電車は…」とホームの案内も含めて案内される駅もある。
** また、[[仁川駅]]では[[阪神競馬場|阪神競馬]]開催時の臨時列車の関係で回送車の発着があるため行き先すら付かない。かつては[[正雀駅]]も配線の関係上1つのホームから両方向の列車が出るため行き先が付かなかったが、列車案内装置・放送機器の更新により2008年2月から優等列車停車駅並みの詳細放送に変更された。
* 淡路駅には1号線が無く、2 - 5号線のみとなっている。1954年までは1号線が存在し、大阪側のターミナルが天神橋駅(現在の[[天神橋筋六丁目駅]])だった頃に淡路 - 十三間の列車に使用されていたためで、社内業務にも乗客にも混乱となることを防ぐために、1号線廃止の際に番号を順送りしなかった経緯がある。なお、正雀駅にも1号線ホームがないが、これは別の理由による([[正雀駅#駅構造]]を参照)。また、桂駅には1号線の隣に「C号線」がある。もともとは、隣接する桂車庫のC号線であったものを、ホームを設置して駅としたものである。番号を順送りしなかった点で、1号線のない淡路駅と同じ理由である。
=== 駅名 ===
{{Main2|駅名の案内方法については「[[#駅・車内での案内|駅・車内での案内]]」の節を}}
* 自社の全駅([[共同使用駅]]を含む)の正式駅名はすべて[[漢字]]表記であり、2016年現在、[[片仮名]](「ヶ」なども含む)・[[平仮名]]・[[アルファベット]]・[[アラビア数字]]など漢字以外の文字および記号([[括弧]]や[[中黒]]など)を正式駅名に含む駅が一切存在しない。これは日本の大手私鉄では阪急電鉄のみである{{Efn|日本の大手私鉄では、アルファベットは[[京浜急行電鉄]]の[[YRP野比駅]]で、アラビア数字は[[京成電鉄]]の[[空港第2ビル駅]]で、括弧は[[西日本鉄道]]の[[西鉄福岡(天神)駅]]で、中黒は[[名古屋鉄道]]の[[徳重・名古屋芸大駅]]などで採用例がある。}}。過去には「蛍ヶ池駅」(現在の[[蛍池駅]]。改称時期不詳)や「桜井ノ駅駅」(現在の[[水無瀬駅]]。1948年改称)、「[[中ノ庄駅]]」(現在は京阪電鉄の駅)などの例が存在したが、いずれも改称や経営分離により解消されている。なお乗り入れ先である能勢電鉄には平仮名表記を含む駅([[一の鳥居駅]]など)が複数あるが、乗り入れ列車である特急日生エクスプレスはそのいずれの駅にも停車しない。
* 関西の大手私鉄では唯一、直通先も含めて「[[河内国|河内]]…」と名の付く駅を通らない{{Efn|そもそも阪急が乗り入れる[[令制国]]は直通先含めても[[摂津国]](大阪府と兵庫県)と[[山城国]](京都府)の2国のみ。}}。
=== きわめて少なかった島式ホーム ===
待避線を有する駅や終着駅は別として、上下本線に挟まれたタイプの[[島式ホーム]]が元々極めて少なかった。
[[1963年]]に[[烏丸駅]]が開業し、また[[東海道新幹線]]の建設に伴い[[上牧駅 (大阪府)|上牧駅]]が現ホームに移設されるまで{{Efn|この時、新幹線の「線路」を走った初の営業列車が阪急京都本線の列車であった<ref>[https://news.mynavi.jp/article/trivia-99/ 鉄道トリビア (99) 東海道新幹線の線路で最初の営業運転をした電車は阪急電車だった] - マイナビニュース、2011年5月21日</ref>。「[[東海道新幹線#新幹線の線路を先に走った阪急電車]]」参照。}}、上下本線に挟まれた島式ホームは[[中津駅 (阪急)|中津駅]]と[[春日野道駅 (阪急)|春日野道駅]]しか存在しなかった。
1963年の2駅のあと永らく上下本線に挟まれた島式ホームは現れなかったが、[[1984年]]の[[池田駅 (大阪府)|池田駅]]を皮切りに、[[川西能勢口駅]]([[1992年]])、[[豊中駅]]と[[岡町駅]]([[1997年]])、[[三国駅 (大阪府)|三国駅]]([[2000年]])の各駅(いずれも宝塚本線)が[[高架駅|高架]]化の際に島式ホームに改築されており、島式ホームも僅かながらに増加している。ただ、21世紀に入って新たに開業した[[洛西口駅]]、[[摂津市駅]]、[[西山天王山駅]](ともに京都本線)はコスト面から[[相対式ホーム]]で開業している(洛西口駅は後に相対式ホームで高架化)。
なお、2016年4月時点で施工中である京都本線[[淡路駅]]・[[崇禅寺駅]]、千里線[[柴島駅]]・[[下新庄駅]]の各駅における高架化事業においては、千里線の2駅のみ島式ホームとなる予定(淡路駅は現状と同じく上下本線ともに島式ホームとなる)。
=== 駅・車内での案内 ===
* 駅の案内サインに関しては関西圏の大手私鉄にしては珍しく、さらにはいち早くほぼ全駅で[[ユニバーサルデザイン]]の[[ピクトグラム]]を導入している。
* 2013年12月21日の京都線ダイヤ改正まで[[天神橋筋六丁目駅]]に停車する列車は、「次は天神橋筋六丁目、天六です」といったアナウンスをしていた。略称を最初に言う車掌が多い中、珍しい例である。
* 大阪梅田、神戸三宮、宝塚といった[[西日本旅客鉄道|JR]]線に接続する駅の次駅案内放送は、旧[[日本国有鉄道|国鉄]]時代から2013年12月21日の京都線ダイヤ改正までは一貫してJR線への案内をしていなかった。ただし2006 - 2007年のダイヤ改正で路線図に関してのみ表記するようになっている。
** なお、大阪市交通局は堺筋線[[扇町駅 (大阪府)|扇町駅]]をJR大阪環状線([[天満駅]])への乗り換え駅として案内しているが、阪急電車の路線図にはその旨が記載されていない。
** 淡路駅はおおさか東線の[[JR淡路駅]]と、川西能勢口駅は福知山線の[[川西池田駅]]と乗り換え可能となっているが、いずれも、阪急側からは乗り換え案内は行われていない。JR側では、いずれも阪急線への乗り換え案内が行われる。
** 同時に途中駅を含めた各駅で「出口は左(右)側です。」と出口案内を行うようになった{{Efn|ただし、南海電鉄とは異なり「扉にご注意下さい」とは言わない。}}(車掌によっては「'''お'''出口は左(右)側です。」や「'''左(右)側の扉が開きます'''。」という場合もある)。また、終着駅到着時は「車内にお忘れ物のないよう左(右)側からお降りください。」から「車内にお忘れ物のないようご注意下さい。出口は左(右)側です。」に改められた(車掌によってはこの2文を倒置して案内する場合もある)。
* [[駅自動放送|駅構内の自動放送]]はタレントの[[片山光男]]と[[丸子由美]]が担当している。2013年現在、丸子が駅構内の自動放送を演じる唯一の事業者となる{{Efn|片山と対なる女性のナレーションは[[河本俊美]]が多い。}}。
* [[1996年]](平成8年)[[1月1日]]、「ジェントルサウンドサービス」の一環として、駅・車内での案内を変更した。具体的には自社線内での車掌の手笛による発車合図を原則廃止。優等列車の停車駅の案内を「○○から、○○まで停まりません」(発車後)「次は○○まで停まりません」(到着時)から「○○の次は、○○に停まります」(発車後)「次は○○に停まります」(到着時)に変更された。また、次駅の案内を「次は○○でございます」から「次の停車駅は○○でございます」に、また案内回数を主要駅を除き原則1回としたが、[[2005年]](平成17年)[[10月1日]]から車内での案内放送を「次の停車駅は○○でございます」から「次は○○、○○です」に再度変更している。[[2006年]](平成18年)10月1日からは神戸本線・宝塚本線で、さらに[[2007年]](平成19年)3月16日からは京都本線の駅ホームでの案内放送を「ただいま到着の電車は各駅停車梅田行きでございます」から「ただいま到着の電車は各駅停車大阪梅田行きです」に変更している<ref>[http://hankyu-net.com/news/0610sta.html 参考リンク]{{リンク切れ|date=2012年3月}}</ref>。
** 各線の起点・終点駅では接近放送を流していなかったが、2012年の放送内容の更新より、列車の接近放送を流すようになった。
* 新開地駅については「神戸新開地」のようにアナウンスする。大阪梅田・京都河原町・神戸三宮の3駅もそれぞれ梅田・河原町・三宮と称していた時から「大阪梅田」「京都河原町」「神戸三宮」とアナウンスしていた。
** ただし「神戸新開地」の呼称は大阪府内(大阪梅田駅・十三駅)のみ実施し、塚口駅以西の兵庫県内では正式駅名の「新開地」行きとしてアナウンスされる。また、神戸高速線内の上り列車では「阪急神戸三宮」「阪急大阪梅田」とアナウンスされる。
* [[車内放送|車内自動放送]]については、最初に導入したのが[[ワンマン運転]]を行う甲陽線と今津南線(西宮北口 - 今津間)で、それ以外では京都線を走る[[観光列車]]の「[[京とれいん]]」・「[[京とれいん#京とれいん雅洛|京とれいん雅洛]]」のみで行われていた。2020年3月14日からは京都線9300系と嵐山線6300系で車内自動放送が導入され、2021年4月3日からは神戸線・今津北線・千里線、同年11月6日からは宝塚線・箕面線と能勢電鉄線直通の日生エクスプレスでも開始した(甲陽線・今津南線では同時に英語放送を追加)。なお、阪急の場合は近鉄などで見られる携帯[[タブレット (コンピュータ)|タブレット端末]]を車両側のコネクタに装着する方式ではなく、あらかじめ乗務員室の車掌台上に固定されたタッチパネル式装置を車掌が操作する方式としている<ref>{{Cite tweet|author=阪急電鉄 【公式】 |user=hankyu_ex |number=1239373384552570880 |title=おやおや、9300系の車掌さんスペースに、何か付いていますね。 |date=2020-03-16 |accessdate=2020-06-10}}</ref>{{Efn|通常は各編成の大阪側または京都・神戸側先頭車に設置されているが、7000系や8300系などの2+6両を組成する編成ではそれに加えて、通常は中間に封じ込められている大阪側3両目(6両編成側の大阪側先頭車)にも放送装置が設置されている。このため、2両の増結編成は大阪側先頭車のみ放送装置が設置され、先頭に立たない京都・神戸側先頭車は未設置のままである。}}。自動放送の声優は日本語を元[[FM802]]アナウンサーの[[下間都代子]]、英語を[[ジャネット・マリー・バンティング]]が担当している<ref>[https://cdn.hankyu-app.com/content/article/2022/article_10.html 【阪急沿線おしらべ係 第41回】阪急電車内の自動放送の声はどんな人が担当している?] - 阪急電鉄、2023年3月5日 </ref>。接続列車の案内とマナー・啓発案内については引き続き車掌の肉声で行う。
* 下の写真にあるように、現行の[[駅名標]]の駅名表示は、ひらがな表示を大きくしている。1986年3月より車両の方向幕に英字を追加したのと相前後して、同年よりひらがな表示が大きな駅名標が使用開始されたが、それまでの駅名標は漢字表示のほうが大きく、ひらがな表示がないものであった。それ以前の駅名標は縦書き表示と、他社線とは一線を画していた(これは[[能勢電鉄]]も同様だった)。また、近隣の他社線に同名の駅がある場合は「阪急」と記載することが多いが、駅ナンバリング導入後に交換された物では削除されている。
** 関西大手私鉄では2000年代以降、漢字表示のほうが大きいタイプの駅名標が増えたが{{Efn|2021年時点で関西大手私鉄でひらがな表示が大きい駅名標を用いているのは[[南海電気鉄道]]のみ、他の日本の大手私鉄では[[東武鉄道]]、[[西日本鉄道]]のみとなっている。}}、阪急では「子供に分かりやすくするため」、「十三駅、夙川駅などの難読駅名が多い」という理由から、漢字表示のほうが大きいタイプに交換されることはなく、駅名標を更新して大幅に書体を変えても、ひらがな表示が大きいタイプであることは踏襲されている{{Efn|[[能勢電鉄]]も同様の理由で2014年に駅名標を新タイプに交換したが、ひらがな表示が大きいことは引き継がれている。}}。
<gallery widths="280px" heights="160px" perrow="4">
Hankyu Takarazuka Station 1984 Scan10041.JPG|1. 阪急電鉄の駅名標の例(1984年当時の[[宝塚駅]])。1986年までの駅名標は漢字とローマ字の表記しかなかった。
HK-Nishinomiya-kitaguchiStation-1.JPG|2. 阪急電鉄の駅名標の例([[阪急西宮ガーデンズ]]開業前の西宮北口駅)。1986年に採用を開始。2000年代前半頃までに作られた案内サイン等の書体には、主に「[[ナール]]」が用いられている。
西宮北口駅駅名標.JPG|3. 阪急電鉄の駅名標の例(阪急西宮ガーデンズ開業後の西宮北口駅)。2.とフォントや英字表記などが異なる。矢印もホームの進行方向のみの記載になった。
Kobe-sannomiya Station Hankyu (03) IMG 3177 20140105.JPG|4. 阪急電鉄の駅名標の例(駅ナンバリング導入後の神戸三宮駅)。書体は「ナール」に代わって「[[イワタ]]UD丸ゴシック」が用いられている。
</gallery>
=== 携帯電話電源オフ車両 ===
阪急電鉄では、[[携帯電話]]の電源オフを終日ルールづけた車両「[[優先席#携帯電話電源オフ車両|携帯電話電源オフ車両]]」を全列車に設定している。2003年(平成15年)6月10日から1か月間限定で試験導入、同年7月11日から本格的に導入した。また京都線に直通する[[Osaka Metro堺筋線|地下鉄堺筋線]]や同じ阪急阪神東宝グループの[[能勢電鉄]]・[[神戸電鉄]]でも導入されている。<!-- ただ、[[阪急6300系電車|6300系]]では携帯電話オフ車両に公衆電話が付いているという矛盾が発生している。←電話することを禁じているわけではなくて、そもそも携帯電話から漏れる電波が問題なのでオフにしましょうということなので特に矛盾というわけではない。-->またこの「携帯電話電源オフ車両」についてのアナウンスは、車掌によって異なることがある。オフ車両導入当初は先頭車両と最後尾車両がそれに指定されていたが、2007年(平成19年)10月29日から下記のように変更された<ref name="hhhd20071017" />。
* 設定車両:1車両(神戸・宝塚・京都・北千里・伊丹・箕面・川西能勢口側の先頭車両)
なお、2014年7月15日に携帯電話電源オフ車両を廃止し(堺筋線や能勢電鉄・神戸電鉄も同時)、以降は「優先座席付近では、混雑時は電源オフ」とした<ref name="hhhd20140625">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/2709.pdf 列車内における携帯電話の取り扱いを変更します]}} - 阪急電鉄、2014年6月25日</ref><ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/2708.pdf 優先座席付近での携帯電話使用マナーを「混雑時には電源をお切りください」に変更します]}} - 関西鉄道協会共同プレスリリース、2014年6月25日</ref>。
=== 優先座席 ===
{{See also|優先席#優先座席の是非}}
もう一つ、阪急電鉄の独自ルールとして特筆されたものが「全席優先座席」である。阪急電鉄では「特定の席にこだわらず、すべての座席で譲り合いの精神を」とのことから、特定の座席を[[優先席|優先座席]]と指定することを廃止して[[1999年]](平成11年)4月から「全席優先座席」を導入していた{{R|交通1999-0126}}。阪急電鉄で「携帯電話電源オフ車両」が設定されたのは、同業他社が「優先座席付近では携帯電話の電源をオフ」というルールを導入したが阪急では前述のとおり、特定の優先座席の指定がなかったためである。ただし、地下鉄堺筋線から乗り入れている[[大阪市交通局|大阪市交]](当時)[[大阪市交通局66系電車|66系電車]]はこの間も優先座席の設置を継続しており、「携帯電話電源オフ車両」導入時は、優先座席付近で携帯電話の電源を切ることを義務付けない形として対応した。
ところが、阪急電鉄側の思惑とは裏腹にこの「全席優先座席」は浸透せず、ほとんど座席の譲り合いが行われていないという現状を受け、[[2007年]](平成19年)6月末の阪急阪神ホールディングスの株主総会で再設置の要望があったのを機に全席優先座席を見直すことになり、同年10月29日に「全席優先座席」は廃止され、再び「優先座席」を設置した<ref>[https://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20071017000361 「全席で譲り合い」挫折/阪急電鉄が優先席復活へ] - 四国新聞、2017年10月17日</ref><ref name="hhhd20071017" />。「携帯電話電源オフ車両」は継続され、大阪市交66系電車同様に優先座席付近で携帯電話の電源を切ることを義務付けない形とした。
しかし、優先座席の設置箇所は基本的に各車両の「梅田を前方としたときの最後尾座席」(すなわち神戸・宝塚・京都寄り)であるのだが、運転台、もしくは運転台跡が存在する車両はそれらの逆側(梅田寄り)の座席となっており、中間に運転台およびその[[運転台撤去車|廃止改造]]を行った車両が含まれる編成(神戸線の8032Fなど)だと、優先座席が車両前方にあったり後方にあったりで、統一されていないという懸念があった。
2014年7月からは、携帯電話電源オフ車両の廃止に合わせ、各車両の優先座席の設置箇所を運転台の位置にかかわらず神戸・宝塚・京都寄りに統一し、あわせて優先座席の色を赤紫色に順次変更している<ref name="hhhd20140625" />。
=== 公衆無線LAN (Wi-Fi) ===
主要携帯電話会社の[[公衆無線LAN]]は、2013年には天神橋筋六丁目駅を除き、神戸高速線の[[花隈駅]]を含む全駅で利用できるようになった<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/K1201302272N2.pdf 〜主要携帯電話会社3社すべてのサービスが利用可能に!〜 鉄道駅の「公衆無線LANサービス」サービスの拡大について]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年2月27日。</ref>。利用できる無線LANは「[[阪神電気鉄道#公衆無線LAN]]」を参照。同年12月21日には訪日旅行者向け無料公衆無線LANサービス「HANKYU-HANSHIN WELCOME WiFi」も、天神橋筋六丁目駅を除き、花隈駅を含む全駅で開始された<ref>{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/KS201312171N1.pdf 海外からの訪日旅行者向けの無料公衆無線LANサービス「HANKYU-HANSHIN WELCOME Wi-Fi」を12月21日から開始します!]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年12月17日</ref>。
2018年には、京都線の9300系と観光列車「京とれいん」の車内で、無料公衆無線LANサービス「HANKYU-TRAIN FREE Wi-Fi」「HANKYU-HANSHIN WELCOME WiFi」の提供を開始した<ref>{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/6370_02e2516ad8ecc8980fc4945bf1e0f7c011a30337.pdf 2018年11月3日(土・祝)から、京都線9300系車両と観光特急「京とれいん」において車内無料Wi-Fiサービスを開始します]}} - 阪急阪神ホールディングス、2018年10月25日</ref>。2019年から京都線で運行を開始した「京とれいん 雅洛」では、これらの無料公衆無線LANサービスが利用できるほか、前方展望映像専用のWi-Fiサービスもある<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20190506-kyotraingaraku/ 阪急電鉄「京とれいん 雅洛」特別料金不要、話題の観光列車に乗車] - マイナビニュース、2019年5月6日</ref>。
=== 自動改札 ===
[[2007年]][[11月28日]]に阪急電鉄は、鉄道向け[[自動改札機|自動改札システム]]の開発・実用化に関して、電気・電子・情報・通信分野における世界最大の学会である[[IEEE]](アメリカ電気電子学会)より、「[[IEEEマイルストーン]]」に認定され、同システムを共同で研究・開発してきた、[[大阪大学]]・[[オムロン]]・[[近畿日本鉄道]]と共に受賞したと発表した。[[1967年]]に自動改札機の試験導入が行われた千里線の[[北千里駅]]には、受賞記念の銘板が設置されている。
=== 学生専用出口 ===
日本の鉄道事業者で初めて改札口を設けないフリーパスゲート「学生専用出口」を[[1965年]]に甲陽線[[甲陽園駅]]を皮切りに一部の駅で開設した([[制服]]着用が条件)。[[1969年]]には「通勤専用出口」を[[塚口駅 (阪急)|塚口駅]]、[[池田駅 (大阪府)|池田駅]]、[[富田駅 (大阪府)|富田駅]]に設置した。[[1994年]]の「フェアライドシステム」導入後も定期券の出場記録がなくても入場可能とする対応であり、現在も[[王子公園駅]]や[[相川駅]]などにある。ただし磁気定期券のみ対象でICカード式の定期券には非対応のため、ほとんどの学生が改札機を用いて出場している。[[雲雀丘花屋敷駅]]には[[雲雀丘学園中学校・高等学校]]に直結している専用の改札口がある(自動改札機が設置されている)。
=== 広報 ===
阪急電車情報誌として、古くから『阪急沿線』→『Linea(リネア)』を発行してきたが、『Linea』は[[1990年代]]後半に『[[TOKK]]』に統合された(『TOKK』は『Linea』とは別に存在)。現在はTOKK毎月1日発行分の最終ページの前のページに『Linea』というコーナーで存続している。また各線でダイヤ改正を行ったときは改正ほぼ一週間前に時刻表が掲載された臨時増刊が必ず行われる。『Linea』では1990年から1994年まで「FREPPY(フレッピー)」という[[ネコ|猫]]のようなマスコットキャラクターが存在した(愛称の「FREPPY」は公募により決定)。
=== CMキャラクター ===
阪急電鉄の企業[[コマーシャルメッセージ|CM]]は、主に自社の社員としての身分も有する宝塚歌劇団の団員が主に出演(過去には阪急ブレーブスの選手も出演)するが、まれに宝塚以外のタレントが出演する場合がある。
* [[若村麻由美]](ラガールスルー運用開始)
* [[西田ひかる]] (HANA PLUS PiTaPa)
* [[中谷美紀]](嵐山)
* [[天海祐希]]
* [[星野伸之]]
=== 競馬との関係 ===
今津線の[[仁川駅]]を最寄駅とする[[日本中央競馬会|中央競馬]]の[[阪神競馬場]]では、[[阪急杯]]として重賞競走が行われるほか、阪神競馬開催時に様々なイベントを実施する。阪神競馬開催時には仁川発西宮北口行きの普通列車や、仁川発大阪梅田行きの臨時急行が運転される。
また、神戸線の[[園田駅]]を最寄駅とする[[地方競馬]]の[[園田競馬場]]への無料送迎バスは同じ[[阪急阪神東宝グループ]]に属する、[[阪急バス]]が担当している。
=== その他 ===
* 登記上の本店を大阪府[[池田市]]に置いていることから、池田市を所管する豊能税務署の法人税ランクでは常にトップである。
* かつて、宝塚本線では[[正月三が日]]に限り、沿線の寺社への初詣客に対応するため日中は「臨時ダイヤ」を編成していた。[[1990年代]]までは急行・普通に加えて臨時特急を増発し、のちに[[大阪梅田駅 (阪急)|梅田]] - [[宝塚駅|宝塚]]間の急行と普通をそれぞれ10分間隔(実質5分間隔)で運転する形態がとられたものの、[[2016年]]以降は臨時ダイヤは編成されていない。なお、京都本線でも昼間の特急が増発されるまでは正月三が日に限り、特急・急行を増発していた時期もあった。
* 朝夕のラッシュ時などの[[押し屋|駅案内業務の臨時案内係]](アルバイト)として'''学生班'''が設けられている。その名の通り、大学生と専門学校生が雇用対象([[予備校]]生は対象外)である。
* 阪急では公共性を重視する観点から、ゴシップ[[週刊誌]]の[[車内広告|中吊り広告]]を一切掲示していない<ref>[https://news.mynavi.jp/article/trivia-102/ 大手私鉄の車内にあって阪急電鉄にはないもの、それは何!?] マイナビニュース 2011年6月11日</ref>。
* 乗車マナーの向上のためのキャラクター「マナーアップ戦隊マナブンジャー」を制定している。
* 大正時代の沿線開発では、[[伊丹市]]に本社を置く[[小西酒造]]の支援を受ける形で沿線開発もなされたため両社の結びつきは深い。今でも駅構内などの小西酒造の「白雪」ブランドの広告看板が多いのは、その名残である。
* 関西の大手私鉄では唯一、[[自動券売機]]は[[日本語]]機能のみで[[英語]]を含めた[[外国語]]機能は無かったが{{Efn|代わりに、日本語機能でも英語表記が併記されている。}}、一部の駅で交換が進む新型の自動券売機では英語を含めた4か国語の機能が付いた。
== 関係企業 ==
阪急阪神東宝グループに属する全企業の一覧は「[[阪急阪神東宝グループ]]」を参照。
* [[阪神電気鉄道]]
** [[阪神タイガース]]
* [[エイチ・ツー・オー リテイリング]]
** [[エイチ・ツー・オー リテイリング|阪急阪神百貨店]]([[阪急百貨店]])
** [[阪急オアシス]]
* [[東宝]]
* [[阪急阪神不動産]]
* 阪急電鉄グループ
** [[能勢電鉄]]
** [[北大阪急行電鉄]]
** [[神戸電鉄]]
** [[北神急行電鉄]]
** [[神戸高速鉄道]]
** [[阪急バス]]
** [[神鉄バス]]
** [[丹後海陸交通]]
** [[阪急タクシー]]
** [[阪急交通社]]
** [[関西テレビ放送]] - [[フジニュースネットワーク|FNN]]・[[フジネットワーク|FNS]]の[[準キー局]]。[[産経新聞]]・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]をはじめとする[[フジサンケイグループ]]にも近い。
** [[阪急コミュニケーションズ]] - 旧TBSブリタニカ。ただし百科事典事業を除く。
** [[アルナ車両]]
** [[Jトラストフィナンシャルサービス|ステーションファイナンス]] - 2009年、[[Jトラスト]]に経営権譲渡。
** [[梅田芸術劇場|シアター・ドラマシティ]]
** 阪急設計コンサルタント(旧アーバン・エース)
** [[森組]] - 2007年、[[長谷工コーポレーション]]に経営権譲渡。
** [[オーエス]] - 東宝グループでもある。
** [[東京楽天地]] - 東宝グループでもある。
* [[下津井電鉄]] - 阪急電鉄が資本参加しているが、関係は比較的希薄であり、むしろ同じ地元の[[両備バス]]との関係が良好である。
* [[全但バス]] - かつて阪急電鉄の関連会社であった。
* [[池田泉州銀行]] - 阪急阪神ホールディングスが大株主で、阪急電鉄の駅構内に設置している[[現金自動預け払い機|ATM]]「PatSat」の管理銀行。
* [[毎日放送]] - 開局に携わっている。また、『[[日曜劇場]]』の新作の広告を車内に掲載している。
* [[エフエム大阪]] (FM OH!) <!--FM OH!は会社名ではなく放送局の愛称--> - 阪急阪神ホールディングスが株主になっている。また、現在SDD(ストップ・ドランク・ドライビング)プロジェクト([[飲酒運転]]をやめる運動)のスポンサーに阪急阪神東宝グループとして参加。
* [[兵庫エフエム放送|Kiss-FM KOBE]]<!-- 株式会社Kiss-FM KOBE時代 --> - 時期は不明だが、過去に提供番組があった。
== 阪急電鉄に関するメディアとコンテンツ ==
=== 提供番組 ===
==== テレビ番組 ====
* [[エンター・ザ・ミュージック]]([[BSテレビ東京|BSテレ東]]) - 現行の提供番組で、出入りはあるが、放送開始から一貫して提供しており、宝塚歌劇団の公演のコマーシャルが流される。
* [[三井住友VISA太平洋マスターズ]]([[TBSテレビ|TBS]]) - [[2015年]]度よりの現行の提供番組で、宝塚歌劇団の公演のコマーシャルが流される(30秒×2本)。
* [[阪急ドラマシリーズ]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]]) - 1965年から1994年まで放送されており、関西テレビと[[フジテレビジョン|フジテレビ]]では阪急電鉄グループがスポンサーとなっていた。[[ロケーション撮影|ロケ地]]は阪急沿線で、特に宝塚本線・今津線・神戸本線沿線が多かった。
* [[MBSナウ]] - [[毎日放送]](MBSテレビ)で放送されていたニュース番組。
* [[宝塚歌劇舞台中継 (関西テレビ)|宝塚歌劇舞台中継]](関西テレビ)
==== ラジオ番組 ====
* [[MBSタイガースライブ#ブレーブス・ダイナミック・アワー|ブレーブス・ダイナミック・アワー]] - 阪急百貨店とともに提供し[[MBSラジオ]]で放送された[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]の試合中継・情報番組。
* 60歳からげんきKOBE - [[ラジオ関西]]にて日曜朝に放送されている番組。
=== 映画・映像ソフト ===
* [[She's Rain]] - 1993年公開の映画。ストーリーがほぼ全般に亘って阪急沿線で展開する。
* [[火垂るの墓]](アニメ映画) - 映画の冒頭、清太と節子を乗せた電車が駅ビルを出てゆくシーンは、阪急電車が阪急神戸駅(現在の神戸三宮駅)を出発し、[[神戸阪急ビル]](通称:阪急会館)の2階部分から出てくるというシチュエーションである。なお、神戸阪急ビルは1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災により甚大な被害を受けたため、後日取り壊された。
* 栄光の車両たちと阪急の100年 - DVDソフト。ナレーション:[[羽川英樹]](第1章 - 第5章・第7章 - 第10章)、[[村田好夫]](第6章)
=== 小説 ===
* [[阪急電車 (小説)|阪急電車]] - [[有川浩]]の今津線を舞台とした小説作品集。後に『[[阪急電車 (小説)#映画|阪急電車 片道15分の奇跡]]』のタイトルで映画化され、2011年4月29日(関西のみ4月23日)に一般公開された。なお、映画の制作には阪急電鉄のほか阪急阪神東宝グループの関西テレビ放送も関わっている。
* [[決戦・日本シリーズ]] - [[かんべむさし]]の短編小説。阪急、阪神、両社沿線の様子や文化の違いを風刺した作品。
* [[涼宮ハルヒシリーズ]] - [[谷川流]]のライトノベル、及びそれを原作としたメディアミックス作品。西宮市内を中心とした沿線が舞台のモデルとなっており、アニメ版では劇中で阪急電車を利用するシーンも描かれている。作者の谷川も西宮市の沿線出身。
=== 楽曲 ===
* [[三国駅 (aikoの曲)|三国駅]] - [[aiko]]の楽曲。阪急宝塚本線の[[三国駅 (大阪府)|三国駅]]が舞台である。
* [[Shiny+|始まりの場所]] - [[寿美菜子]]の楽曲。歌詞にある「あずき色した電車」とは阪急電車のことである。
* [[コレサワ#ディスコグラフィ|阪急電車と2DK]] - [[コレサワ]]の楽曲。コレサワは京都本線沿線の摂津市出身。
* [[NMB48の楽曲一覧|阪急電車]] - [[NMB48]]の楽曲。歌詞に快速が出てくることから京都本線と思われる。メンバーの[[山本彩]](2018年11月卒業)は京都本線沿線出身。
=== 漫画・アニメ ===
* [[劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション 裂空の訪問者 デオキシス]] - 2004年公開の[[ポケットモンスター (劇場版)|劇場版ポケットモンスター]]の[[アニメ映画]]作品。阪急電鉄との間でタイアップして、映画が公開された2004年の夏休み期間中に[[スタンプラリー]]を行った<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER200407161N1.pdf 「夏キャンペーンイベント2004」を開催!〜貸切列車やスタンプラリーなど、イベント満載〜]}}(プレスリリース),阪急電鉄株式会社,(2004年7月16日)</ref>。
* [[交響詩篇エウレカセブン]] - 2005年に[[毎日放送]](MBS)・[[TBSテレビ|TBS]]系で放送された[[テレビアニメ]]。阪急電鉄との間でタイアップして、アニメが放送された2005年のゴールデンウィーク期間中に[[スタンプラリー]]を行った<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER200504131N2.pdf 毎日放送の新アニメ番組『交響詩篇エウレカセブン』とのタイアップ企画 「阪急電鉄 春のスタンプラリー 〜交響詩篇エウレカセブン〜」を開催します!]}}(プレスリリース),株式会社毎日放送・阪急電鉄株式会社,(2005年4月13日)</ref>。
* [[劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者]] - 2005年公開の[[鋼の錬金術師]]のアニメ映画作品。阪急電鉄との間でタイアップして、映画が公開された2005年の夏休み期間中にスタンプラリーなどを行った<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER200507052N1.pdf 劇場版「鋼の錬金術師 シャンバラを征く者」とのタイアップ企画 夏のスタンプラリーを開催します]}}(プレスリリース),阪急電鉄株式会社,(2005年7月5日)</ref>。
* [[NARUTO -ナルト-]] - テレビアニメ。下記のアニメ映画作品と阪急電鉄と能勢電鉄・阪神電気鉄道との間でタイアップして、それぞれの映画が公開された夏休み期間中にスタンプラリーなどを行った。
**[[劇場版 NARUTO -ナルト- 大興奮!みかづき島のアニマル騒動だってばよ]](2006年)<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER200606221N1.pdf 劇場版「NARUTO-ナルト- 大興奮!みかづき島のアニマル騒動(パニック)だってばよ」とのタイアップイベント 夏のスタンプラリーを開催します]}}(プレスリリース),阪急電鉄株式会社,(2006年6月22日)</ref>
** [[ROAD TO NINJA -NARUTO THE MOVIE-]](2012年)<ref name="スタンプラリー2012">{{Cite press release|和書|title=-映画とタイアップ!「スタンプラリー」同時開催- 「夏休みスタンプラリーパス」を発売します|publisher=阪急電鉄、阪神電気鉄道、能勢電鉄|date=2012-06-20|url=http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/K1201206204N2.pdf}}</ref>
* [[仮面ライダーシリーズ]] - テレビ番組。2007年より2011年まで下記の映画作品と阪急電鉄および能勢電鉄・阪神電気鉄道との間でタイアップして、それぞれの映画が公開された夏休み期間中にスタンプラリーなどを行った。
** [[劇場版 仮面ライダー電王 俺、誕生!]](2007年)<ref name="holdings20080621">{{Cite press release|和書|title=「劇場版 仮面ライダー電王 俺、誕生!」「Yes!プリキュア5」ミュージカルショー・TV番組とのタイアップ企画 夏のスタンプラリーを開催します|publisher=阪急電鉄、阪神電気鉄道、能勢電鉄|date=2007-06-21|url=http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/K1200706211N2.pdf}}</ref>
** [[劇場版 仮面ライダーキバ 魔界城の王]](2008年)<ref name="スタンプラリー2008">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/K1200806201N2.pdf 夏のスタンプラリーを開催します〜「夏休みスタンプラリーパス」も同時発売〜]}}(プレスリリース),阪急電鉄株式会社・阪神電気鉄道株式会社・能勢電鉄株式会社,(2008年6月20日)</ref>
** [[劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー]](2009年)<ref name="スタンプラリー2009">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/K1200906231N2.pdf 阪急電鉄、阪神電気鉄道、能勢電鉄 共同企画 夏のスタンプラリーを開催します]}}(プレスリリース),阪急電鉄株式会社・阪神電気鉄道株式会社・能勢電鉄株式会社,(2009年6月23日)</ref>
** [[仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモリ]](2010年)<ref name="スタンプラリー2010">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/K1201006252N2.pdf 阪急電鉄開業100周年、摂津市駅開業、阪神なんば線1周年記念イベント 阪急電鉄、阪神電気鉄道、能勢電鉄 共同企画 夏のスタンプラリーを開催します]}}(プレスリリース),阪急電鉄株式会社・阪神電気鉄道株式会社・能勢電鉄株式会社,(2010年6月25日)</ref>
** [[劇場版 仮面ライダーオーズ WONDERFUL 将軍と21のコアメダル]](2011年)<ref name="スタンプラリー2011">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/K1201106302N2.pdf 阪急電鉄、阪神電気鉄道、能勢電鉄 共同企画夏のスタンプラリーを開催します]}}(プレスリリース),阪急電鉄株式会社・阪神電気鉄道株式会社・能勢電鉄株式会社,(2011年6月30日)</ref>
* [[プリキュアシリーズ]] - テレビアニメ。2007年より2011年まで下記のテレビアニメ及びアニメ映画作品と阪急電鉄および能勢電鉄・阪神電気鉄道との間でタイアップして、それぞれの映画が公開された夏休み期間中にスタンプラリーなどを行った。
** [[Yes!プリキュア5]]・[[映画 Yes!プリキュア5 鏡の国のミラクル大冒険!]](2007年)<ref name="holdings20080621" />
** [[映画 Yes!プリキュア5GoGo! お菓子の国のハッピーバースディ♪]](2008年)<ref name="スタンプラリー2008"/>
** [[映画 フレッシュプリキュア! おもちゃの国は秘密がいっぱい!?]](2009年)<ref name="スタンプラリー2009"/>
** [[映画 ハートキャッチプリキュア! 花の都でファッションショー…ですか!?]](2010年)<ref name="スタンプラリー2010"/>
** [[映画 スイートプリキュア♪ とりもどせ! 心がつなぐ奇跡のメロディ♪]](2011年)<ref name="スタンプラリー2011"/>
* [[ジュエルペット スウィーツダンスプリンセス]] - 2012年公開の[[ジュエルペット]]のアニメ映画作品。阪急電鉄および能勢電鉄・阪神電気鉄道との間でタイアップして、映画が公開された2012年の夏休み期間中にスタンプラリーなどを行った<ref name="スタンプラリー2012"/>
<!-- ノート参照
=== ゲーム ===
*[[くすり指の教科書 |くすり指の教科書2]] - 登場キャラクターの名字は駅名から採られている。
-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[梅田]]
* [[阪急村]]
* [[新京阪鉄道]]
* [[宝塚歌劇団]]
* [[宝塚音楽学校]]
* [[千里国際学園]]
* [[アズナス|アズナス(asnas)]]
* [[阪神間モダニズム]]
* [[阪急マルーン]]
* [[松岡修造]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Hankyu Railway}}
* [https://www.hankyu.co.jp/ 阪急電鉄公式サイト]
** [https://www.hankyu.co.jp/company/ 阪急電鉄 会社情報]
* {{YouTube|channel=UCly6FCcclDVBobU3L41-wQQ|【公式】阪急電車ファン全員集合!}}
* {{Twitter|hankyu_ex|阪急電鉄【公式】}}
* {{Facebook|hankyu.ex}}
* {{Mediaarts-db}}
{{Navboxes
|list=
{{スルッとKANSAI}}
{{ICOCA}}
{{大手私鉄}}
{{阪急阪神東宝グループ}}
{{阪急百貨店}}
{{東宝}}
{{宝塚歌劇団}}
{{みどり会}}
}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:はんきゆうてんてつ}}
[[Category:大手私鉄・準大手私鉄]]
[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:日本の芸能プロダクション]]
[[Category:日本のコングロマリット]]
[[Category:宝塚歌劇団|* はんきゆうてんてつ]]
[[Category:阪急電鉄|*はんきゆうてんてつ]]
[[Category:阪急阪神東宝グループ|*]]
[[Category:阪神間モダニズム]]
[[Category:大阪市北区の企業]]
[[Category:池田市の企業]]
[[Category:梅田]]
[[Category:三和グループ]]
[[Category:みどり会]]
[[Category:京阪グループの歴史]]<!--新京阪・京都線の関係で掲載-->
[[Category:1989年設立の企業]]
[[Category:20世紀の日本の設立]]
[[Category:かつて存在した日本の軌道事業者]]
[[Category:かつて存在した日本の書店]]
[[Category:小林一三]] | 2003-03-10T08:45:45Z | 2023-12-15T12:01:02Z | false | false | false | [
"Template:↓",
"Template:Main2",
"Template:Color",
"Template:Cite press release",
"Template:Cite tweet",
"Template:Reflist",
"Template:Facebook",
"Template:Commonscat",
"Template:Main",
"Template:See also",
"Template:Cite web",
"Template:YouTube",
"Template:Twitter",
"Template:Mediaarts-db",
"Template:Normdaten",
"Template:↑",
"Template:Lang-en-short",
"Template:要出典",
"Template:画像提供依頼",
"Template:PDFlink",
"Template:Cite journal",
"Template:基礎情報 会社",
"Template:要出典範囲",
"Template:R",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite news",
"Template:Pathnav",
"Template:Colors",
"Template:Otheruses",
"Template:Efn",
"Template:Notelist",
"Template:Doi",
"Template:リンク切れ",
"Template:Navboxes",
"Template:Pp-vandalism"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E6%80%A5%E9%9B%BB%E9%89%84 |
3,748 | 渥美清 | 渥美 清(あつみ きよし、1928年〈昭和3年〉3月10日 - 1996年〈平成8年〉8月4日)は、日本のコメディアン、俳優、歌手。本名:田所 康雄(たどころ やすお)。
代表作『男はつらいよ』シリーズで、柴又育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車 寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。
没後に国民栄誉賞を受賞している。
1928年3月10日(土曜日)、東京府東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)で、地方新聞の新聞記者をしていた父・友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母・タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。
1934年11月、板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居し、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であり、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。そのため学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。
1940年に板橋城山高等小学校に入学。第二次世界大戦中の1942年に旧制私立巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出され軍用機のラジエーターを造(ママ)っていたとされる。堀切直人は、巣鴨中学校には進学しておらず志村坂上の東京管楽器の町工場に就職したとしている。旧制1945年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は桝屋一家に身を寄せていた、と語ったことがある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。永六輔によれば、戦後焼け跡の金属を換金し、秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループに永も参加していたが、そのグループのリーダーが渥美清であったとのこと。
進学についても異説があり(下記「人物・経歴についての異説」参照)、10代のころは船乗りを志しその中でも司厨員志望で大日本船舶運営会へ願書まで出したが、母親に猛反対されたため断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。芸名については諸説あり、当初の芸名は小説の主人公からとった「渥美悦郎」であったが、川崎で小さな劇団の「パンツの臭いを嗅ぐ男」というバラエティショーに出たとき司会者が「渥美清の方が名前が通りやすい」と変えてしまったという。また「清く美しくあっ(渥)たかくあれ」という意味で名づけられたという説もある。
1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館の下働きを経て、『阿部定一代記』でのチョイ役で舞台初出演。1951年、東京浅草六区のストリップ劇場「百万弗劇場」(建物疎開した観音劇場の跡)の専属コメディアンとなる。2年後の1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。またこの頃、浅草の銭湯で、のちにシナリオライターとなる早坂暁(当時は大学生)と知り合い、親しくなる。(後述参照)。1954年、肺結核で右肺を切除し埼玉のサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われ、右肺を無くしたことでそれまでのドタバタ喜劇ができなくなった。退院後の1956年の秋、今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に三か月入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。
1956年に日本テレビ連続ドラマ「すいれん夫人とバラ娘」で主役の朝丘雪路のダメ助手役でテレビ初出演。1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一・関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。7年後に寅さん一家を組むことになる倍賞千恵子、森川信との共演である。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、丹波哲郎、三國連太郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。特に好きだったのはタンザニアのホテルから見るキリマンジャロで一日中眺めていることもあったという。
1969年3月17日(月曜日)、正子夫人と島根県出雲大社で結婚式を内々だけで挙げる。披露宴はホテルニューオータニで仲の良かったスター、友人、映画記者番や雑誌記者を招いて行った。41歳の時だった。
当初は、松竹より東映の方が渥美喜劇の売り出しに熱心で、東映で"喜劇路線"を敷こうとした岡田茂プロデューサー(のち、東映社長)に引き抜かれ、岡田が登用した瀬川昌治監督の『喜劇急行列車』(1967年)他「列車シリーズ」などに主演した。岡田茂は「渥美清は、実は私が東映東京撮影所の所長をしていた昭和37年(1962年)に一年間面倒をみたことがあるんです。それで『喜劇急行列車』など何本か撮ったんですが、どうしても東映では喜劇は伸びない。それで『渥美君、俺は君で5本やったが駄目だった。作品がよくてこれでは君にも悪いから、ひとつ松竹へ行け』と。ちょうど松竹から是非にという話があり『松竹に行った方が君にはプラスだ』ということで向こうに行ったんですが、結局は良かった。『男はつらいよ』なんて10年に一編出るか出ないかですよ。ああいう幸運なのは。一つのシリーズで48本(1996年当時)もやったというのは有り得ないことです」などと述べている。東映とは水が合わなかったが、東映での出演作としては股旅映画の最高傑作ともいわれる『沓掛時次郎 遊侠一匹』(加藤泰監督、1966年)の身延の朝吉役は名演として知られる。この時期の主演作品としては他に、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)などがある。
最後に舞台へ上がったのは1966年の5月に新宿コマ劇場で行われた翻訳ミュージカル「南太平洋」のルーサー・ビリス役でそれ以降二度と舞台を踏むことはなかったが、1991年の常盤座の閉幕の時行われた「関敬六劇団」さよなら公演の千秋楽フィナーレで俳優全員が舞台挨拶を行った時突然舞台に上がって「ご苦労さん」と関とあいさつをし、観客に手を振った。
1968年10月3日から半年間、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』が放送され、脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回の「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」という結末に視聴者からの抗議が殺到したことから、翌1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹が映画を製作。これが堅調な観客動員と高い評価を受けてシリーズ化。当初は54万人程度だった観客動員は徐々に伸びて第8作では148万人と大ヒット水準まで飛躍。以降、しばしば200万人を超えるなど松竹の屋台骨を支え続けるほどの大ヒットが続く。国民的スターとなった渥美清は、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に亘って演じ続けることになる。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。
1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作する。1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品はのちに長く続く人気番組『土曜ワイド劇場』の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『旅路の果て』が、1979年には『まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズほどの成功は収めることができなかった。唯一1977年『八つ墓村』でそれまでのイメージを一新して名探偵「金田一耕助」役を演じ松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を(松竹との関係が悪化していた)角川春樹事務所と東宝に抑えられていたため1本きりとなったことが大きな岐路となる。
1979年4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得た。1980年代以降になると、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていった。1988年に紫綬褒章を受章。その後は主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった。
晩年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目(1989年12月公開)以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは減少し、晩年は立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目(1991年12月公開)のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったが、この頃にはもうスタッフをはじめ、どんなに声をかけられてももう一切人には挨拶をしなかったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。46作頃からは、2日撮影したら2日休養を置くスケジュールを組んだが午後3時頃からは声の調子が落ちてしまい録音の鈴木功は「つらくなってきた」と語っている。48作では午前中には割と強かった渥美の体調を考慮し、撮影は午前9時から始まり午後1時ごろまでには終了。それくらいのスケジュールでないともう撮れない状態だった、と山田は語っている。
最後に関係者が渥美清と会ったのは、1996年6月27日(若しくは6月30日)に代官山のレストラン・小川軒の会合で山田洋次の紫綬褒章受章の祝いを兼ねた次作の話し合いで、山田洋次、倍賞千恵子、渥美のスケジュールを管理していた制作主任の峰順一、松竹の大西氏らスタッフ10人と会食し、薄いステーキとはいえペロリと平らげたという。
病気については、1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺への転移が認められた。主治医からは、第47作への出演は不可能だと言われていたがなんとか出演し、48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。1996年6月27日、若しくは6月30日の代官山レストランでの食事の際に第49作制作の件で高知ロケを承諾し、撮影を控えていた中、亡くなる一週間前に「呼吸が苦しい」と家族に訴え即手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。1996年8月4日午後5時10分、転移性肺癌のため文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去した。68歳没。
「戒名はつけるな」「最期は家族だけで看取ること」「世間には荼毘に付したあと、知らせること」「騒ぎになったときは、長男の健太郎ひとりで対応すること」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の町屋斎場で荼毘に付された。最初に連絡を受けたのは山田監督ともいわれ、8月5日に監督と松竹の宣伝部の大西が駆け付けた時にはすでにお骨になっていた。おばちゃん役の三崎千恵子のもとには8月6日(小林によると8月7日)の午前10時ごろ、さくら役の倍賞の下へは同6日の夜中に連絡が入ったとされる。訃報は8月7日に松竹から公表された。男はつらいよの第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』が実質の遺作となった。
8月13日に「渥美清さんとお別れする会」が松竹大船撮影所第9ステージで開かれた。柴又の江戸川土手を模した祭壇の前に献花台が置かれ、2万1000人(3万人とも、3万5000人とも)が集まり、参列者の行列は1キロ離れた大船駅まで続いた。浅丘ルリ子、奥山融、関敬六、倍賞千恵子、早坂暁、山田洋次(下記文章)らが弔辞を読んだ。
死後、「『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えた」との理由で、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。俳優での受賞は、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。
1997年8月4日には大船撮影所で一周忌献花式が開かれた。東京・柴又の団子屋「くるまや」のセット撮影に使われた第9ステージが会場となり、山田洋次や倍賞千恵子らが出席した。
2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の9位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第4位になった。さらに、「映画館をいっぱいにしたマネーメイキング・スターは誰だ!」日本編では第1位。
渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。
巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、卒業していたのかしていないのかだけでなく、在籍の有無ですら公式には何とも言えないという。ただし、何人かのOBの証言によれば、「在籍はしていたが、卒業はしていない」とのことである。
大学についても異説があり、中央大学予科に入ったとする説、そもそも中央大学には入っておらず学歴を詐称していたという説、テキ屋稼業で都合がいいため中大予科の角帽をかぶっていたという説、天ぷら学生として角帽を被っていたという説、中央大学商学部に入学したという説がある。中央大学説は関敬六が慶應義塾大学、谷幹一が早稲田大学、渥美清が中央大学という設定の芝居を行ったことがきっかけでそれをその後も踏襲したとも言われている。
『男はつらいよ』の「寅さん」の演技で社交性のある闊達さを印象付けていたが、実像は共演者やスタッフと真摯に向き合う一方で、公私混同を非常に嫌い、プライベートでは他者との交わりを避ける傾向だった。ロケ先での、撮影協力した地元有志が開く宴席にあまり顔を出さなかったものの、第48作では瀬戸内町主催のホテルの歓迎会に町の人を呼び、渥美清もグレーのジャージ上下とサンダル姿で30分ほど出席している。
家族構成は妻と子供2人だが、原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることが多かった。長男の田所健太郎が「親族の立場」で公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。渥美自身の結婚式は親族だけでささやかに行い、芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表することはなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。披露宴には、仕事仲間などは関敬六、谷幹一が出席し、司会はTBSの渥美番の杉山真太郎で『泣いてたまるか』の関係でTBSの番組宣伝部が担当した。渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は「新珠三千代さんごめんなさい」との迷コメントを出した。
渥美は亡くなるまでプライベートを芸能活動の仕事に持ち込まなかったため、自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされておらず、「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友として知られる黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという。
脚本家・早坂暁とは20代に銭湯で知り合い、早坂を「ギョウさん」と呼んで、終生の友であった。渥美は常に「ギョウさん、俺も連れてってちょうだいよ」と早坂との旅行を大変楽しみにしていた。東京生まれのため田舎を持たない渥美にとって、特に早坂の故郷である愛媛県北条市(現・松山市)や、沖合いにある「北条鹿島」はお気に入りで何度も同行している。早坂作のNHKドラマ『花へんろ』(早坂の自伝的ドラマ)ではナレーションを担当した。これらの事情が、実現しなかった第49作『寅次郎花へんろ』の元になった。渥美の死後発見された晩年の手帳には「......旅行に行こう。家族とギョウさんにも声かけて一緒に行こう......」と綴ってあった。早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられないことを危惧しており、そのことはお別れ会の弔辞でも語っている(後記)。
1985年頃、渥美は尾崎放哉を演じたいと早坂に相談していたが、NHKが先に「海も暮れきる 小豆島の放哉」を放送したためその話は流れることになった。早坂が書いた「首人形-方哉の島」の脚本が完成したのは1993年で既に癌に侵されていてやれる体力がなく渥美は机に置いた脚本を見つめたまま一言も発しなかったという。吉村昭の小説をもとにしたドラマはNHK松山放送局が1985年に制作・放映している。NHKの放送後、急遽題材を種田山頭火に変更することになり、渥美と早坂は今度は山頭火の取材旅行に訪れ、脚本も完成したにもかかわらず、クランクイン寸前になって、突然渥美から制作のNHKに「山頭火」降板の申し出があった。渥美降板により主役がフランキー堺となったこのドラマ『山頭火・なんでこんなに淋しい風ふく』は、モンテカルロ国際テレビ祭(脚本部門ゴールデンニンフ=最優秀賞)を受賞し、フランキー堺は同最優秀主演男優賞を受賞している。早坂は渥美に、初期のテレビドラマ『泣いてたまるか』や、上記土曜ワイド劇場第1回作品の『田舎刑事』シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。
映画においては山田洋次、野村芳太郎両監督とは別に、『沓掛時次郎 遊侠一匹 』『祇園祭』『スクラップ集団』『あゝ声なき友 』『おかしな奴』の脚本を書いた鈴木尚之とのコンビも長い。なお渥美は、早坂と、関敬六、山田洋次らは46作目「寅次郎の縁談」(1993年公開)の撮影の合間を縫って放哉の墓参り、小豆島尾崎放哉記念館(土庄町)の建設現場へ訪れている。
上記著書の小林信彦は1960年代前半に放送作家として渥美と知り合い、独身時代はお互いの部屋で徹夜で語り合うなど親しい仲であった。
渥美は松竹新喜劇の藤山寛美を高く評価しており、寛美の公演のパンフレットに渥美のコメントとして「私は藤山寛美という役者の芝居を唯、客席で観るだけで、楽屋には寄らずに帰える。帰る途すがら、好かったなー、上手いなー、憎たらしいなあー、一人大切に其の余韻をかみしめる事にしている」と書いていた。寛美も渥美が客席に来ていることを知ると、舞台で「おい、横丁のトラ公な、まだ帰ってこんのか?」と言うアドリブを発していた。非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていたが、「寅さん」とはまったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らにはほとんど気づかれなかったという。
山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2・3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している。
増村保造の映画『セックス・チェック 第二の性』を基にして作中男性だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男性だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。この構想はすでに早坂暁によって「渥美清子の青春」として、1968年にシナリオ化されている。
黒柳徹子は、プライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、『夢であいましょう』で共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。因みにそれを報道したスポーツ紙には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をした時の写真が掲載された。これは当時マスコミがその写真しか得られなかったためである。黒柳は2006年は渥美の死去から10年と節目の年であったためか、渥美の事を話すこともしばしばあった。また森繁久彌は渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。
永六輔とは少年時代からの旧知であり、本人曰く渥美は永も所属した不良グループのボスだったという。また渥美が役者を目指すようになったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導されたことがあり、その時の刑事に「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われたことが役者を目指すきっかけになったとのことである。
田中秀征によるとスナックの経営者から買い取った田中の著書『自民党解体論』を熱心に読んでくれたという。
その他、プライベートでの交流があった芸能人として笹野高史、柄本明がいる。2人とも「男はつらいよ」シリーズの常連出演者で、芝居を見に行ったり、バーに飲みに行くこともあったという。笹野は『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』以来山田作品の常連となるが、最初に山田監督へ笹野を紹介したのは渥美自身であった。
布袋寅泰は、渥美と同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然エレベーターの乗り口で会った際、渥美から「旅ですか?」と話しかけられ、とっさに「はい。北へ」と答えたのをきっかけに、正月に「つまらないものですが、台所の隅にでも飾ってやってください」と、『男はつらいよ』のカレンダーを部屋まで届けてくれたという。
長男の田所健太郎は、ニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に「父 田所康雄 職業 俳優」と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の時代劇の斬られ役と思っていたが、当時ニッポン放送に存在した新入社員の仕事を見る「父兄参観日」に渥美清が彼の父親として来社し社内は騒然となったという。健太郎は、講談社『月刊現代』2002年8月号の記事『七回忌を前に初めて書かれるエピソード、寅でも渥美清でもない父・田所康雄の素顔』で、渥美が健太郎の食器・食事に対する扱いに突然激高し、激しい暴行を何度も加える等のドメスティック・バイオレンスが家族へ日常的に行われていたとも告白している。
晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、文春文庫 2010年)に詳しく紹介されている。
秋野の著作によると、同じ浅草仲間の八波むと志が交通事故を起こし死亡したことがきっかけで、絶対に車を所有せず終生ハンドルを握らなかったという。
倍賞によると「渥美が最後に病院に入っていた時、まるでお別れを告げるようにいろいろな人に電話をかけていたようで、夜中だったため電話を取ることが出来なかった」と著作で語っている。同様のことは付け人だった篠原靖治も述べており、篠原によると7月の入院前に突然渥美からかかってきた電話が最後の会話だった、と話している。渥美自身共演したおじちゃん役の森川信を始め、芸能人の通夜や葬式には一切出席しなかったが、唯一出席しマスコミの取材に答えたのが1995年10月に亡くなった高羽哲夫の通夜であった。
※印作品は生前の映像を使用したライブラリ出演。
男はつらいよシリーズ以外の映画
父 友次郎:1884年〜1956年10月31日 行年72、戒名は釈友教信士 母 タツ:1892年〜1970年6月13日 行年78、戒名は釈妙達信女 兄 健一郎 1925年〜1947年5月12日 行年22、戒名は釈義健道信士 妻 正子 長男 田所健太郎 株式会社ニッポン放送に所属していたラジオディレクター。主な担当番組に伊集院光のOh!デカナイト、(有)チェリーベルがある。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。 長女 幸恵 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "渥美 清(あつみ きよし、1928年〈昭和3年〉3月10日 - 1996年〈平成8年〉8月4日)は、日本のコメディアン、俳優、歌手。本名:田所 康雄(たどころ やすお)。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "代表作『男はつらいよ』シリーズで、柴又育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車 寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "没後に国民栄誉賞を受賞している。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "1928年3月10日(土曜日)、東京府東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)で、地方新聞の新聞記者をしていた父・友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母・タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "1934年11月、板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居し、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であり、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。そのため学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "1940年に板橋城山高等小学校に入学。第二次世界大戦中の1942年に旧制私立巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出され軍用機のラジエーターを造(ママ)っていたとされる。堀切直人は、巣鴨中学校には進学しておらず志村坂上の東京管楽器の町工場に就職したとしている。旧制1945年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は桝屋一家に身を寄せていた、と語ったことがある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。永六輔によれば、戦後焼け跡の金属を換金し、秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループに永も参加していたが、そのグループのリーダーが渥美清であったとのこと。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "進学についても異説があり(下記「人物・経歴についての異説」参照)、10代のころは船乗りを志しその中でも司厨員志望で大日本船舶運営会へ願書まで出したが、母親に猛反対されたため断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。芸名については諸説あり、当初の芸名は小説の主人公からとった「渥美悦郎」であったが、川崎で小さな劇団の「パンツの臭いを嗅ぐ男」というバラエティショーに出たとき司会者が「渥美清の方が名前が通りやすい」と変えてしまったという。また「清く美しくあっ(渥)たかくあれ」という意味で名づけられたという説もある。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館の下働きを経て、『阿部定一代記』でのチョイ役で舞台初出演。1951年、東京浅草六区のストリップ劇場「百万弗劇場」(建物疎開した観音劇場の跡)の専属コメディアンとなる。2年後の1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。またこの頃、浅草の銭湯で、のちにシナリオライターとなる早坂暁(当時は大学生)と知り合い、親しくなる。(後述参照)。1954年、肺結核で右肺を切除し埼玉のサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われ、右肺を無くしたことでそれまでのドタバタ喜劇ができなくなった。退院後の1956年の秋、今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に三か月入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1956年に日本テレビ連続ドラマ「すいれん夫人とバラ娘」で主役の朝丘雪路のダメ助手役でテレビ初出演。1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一・関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。7年後に寅さん一家を組むことになる倍賞千恵子、森川信との共演である。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、丹波哲郎、三國連太郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。特に好きだったのはタンザニアのホテルから見るキリマンジャロで一日中眺めていることもあったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1969年3月17日(月曜日)、正子夫人と島根県出雲大社で結婚式を内々だけで挙げる。披露宴はホテルニューオータニで仲の良かったスター、友人、映画記者番や雑誌記者を招いて行った。41歳の時だった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "当初は、松竹より東映の方が渥美喜劇の売り出しに熱心で、東映で\"喜劇路線\"を敷こうとした岡田茂プロデューサー(のち、東映社長)に引き抜かれ、岡田が登用した瀬川昌治監督の『喜劇急行列車』(1967年)他「列車シリーズ」などに主演した。岡田茂は「渥美清は、実は私が東映東京撮影所の所長をしていた昭和37年(1962年)に一年間面倒をみたことがあるんです。それで『喜劇急行列車』など何本か撮ったんですが、どうしても東映では喜劇は伸びない。それで『渥美君、俺は君で5本やったが駄目だった。作品がよくてこれでは君にも悪いから、ひとつ松竹へ行け』と。ちょうど松竹から是非にという話があり『松竹に行った方が君にはプラスだ』ということで向こうに行ったんですが、結局は良かった。『男はつらいよ』なんて10年に一編出るか出ないかですよ。ああいう幸運なのは。一つのシリーズで48本(1996年当時)もやったというのは有り得ないことです」などと述べている。東映とは水が合わなかったが、東映での出演作としては股旅映画の最高傑作ともいわれる『沓掛時次郎 遊侠一匹』(加藤泰監督、1966年)の身延の朝吉役は名演として知られる。この時期の主演作品としては他に、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)などがある。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "最後に舞台へ上がったのは1966年の5月に新宿コマ劇場で行われた翻訳ミュージカル「南太平洋」のルーサー・ビリス役でそれ以降二度と舞台を踏むことはなかったが、1991年の常盤座の閉幕の時行われた「関敬六劇団」さよなら公演の千秋楽フィナーレで俳優全員が舞台挨拶を行った時突然舞台に上がって「ご苦労さん」と関とあいさつをし、観客に手を振った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "1968年10月3日から半年間、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』が放送され、脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回の「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」という結末に視聴者からの抗議が殺到したことから、翌1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹が映画を製作。これが堅調な観客動員と高い評価を受けてシリーズ化。当初は54万人程度だった観客動員は徐々に伸びて第8作では148万人と大ヒット水準まで飛躍。以降、しばしば200万人を超えるなど松竹の屋台骨を支え続けるほどの大ヒットが続く。国民的スターとなった渥美清は、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に亘って演じ続けることになる。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作する。1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品はのちに長く続く人気番組『土曜ワイド劇場』の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『旅路の果て』が、1979年には『まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズほどの成功は収めることができなかった。唯一1977年『八つ墓村』でそれまでのイメージを一新して名探偵「金田一耕助」役を演じ松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を(松竹との関係が悪化していた)角川春樹事務所と東宝に抑えられていたため1本きりとなったことが大きな岐路となる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1979年4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得た。1980年代以降になると、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていった。1988年に紫綬褒章を受章。その後は主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "晩年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目(1989年12月公開)以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは減少し、晩年は立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目(1991年12月公開)のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったが、この頃にはもうスタッフをはじめ、どんなに声をかけられてももう一切人には挨拶をしなかったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。46作頃からは、2日撮影したら2日休養を置くスケジュールを組んだが午後3時頃からは声の調子が落ちてしまい録音の鈴木功は「つらくなってきた」と語っている。48作では午前中には割と強かった渥美の体調を考慮し、撮影は午前9時から始まり午後1時ごろまでには終了。それくらいのスケジュールでないともう撮れない状態だった、と山田は語っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "最後に関係者が渥美清と会ったのは、1996年6月27日(若しくは6月30日)に代官山のレストラン・小川軒の会合で山田洋次の紫綬褒章受章の祝いを兼ねた次作の話し合いで、山田洋次、倍賞千恵子、渥美のスケジュールを管理していた制作主任の峰順一、松竹の大西氏らスタッフ10人と会食し、薄いステーキとはいえペロリと平らげたという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "病気については、1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺への転移が認められた。主治医からは、第47作への出演は不可能だと言われていたがなんとか出演し、48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。1996年6月27日、若しくは6月30日の代官山レストランでの食事の際に第49作制作の件で高知ロケを承諾し、撮影を控えていた中、亡くなる一週間前に「呼吸が苦しい」と家族に訴え即手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。1996年8月4日午後5時10分、転移性肺癌のため文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去した。68歳没。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "「戒名はつけるな」「最期は家族だけで看取ること」「世間には荼毘に付したあと、知らせること」「騒ぎになったときは、長男の健太郎ひとりで対応すること」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の町屋斎場で荼毘に付された。最初に連絡を受けたのは山田監督ともいわれ、8月5日に監督と松竹の宣伝部の大西が駆け付けた時にはすでにお骨になっていた。おばちゃん役の三崎千恵子のもとには8月6日(小林によると8月7日)の午前10時ごろ、さくら役の倍賞の下へは同6日の夜中に連絡が入ったとされる。訃報は8月7日に松竹から公表された。男はつらいよの第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』が実質の遺作となった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "8月13日に「渥美清さんとお別れする会」が松竹大船撮影所第9ステージで開かれた。柴又の江戸川土手を模した祭壇の前に献花台が置かれ、2万1000人(3万人とも、3万5000人とも)が集まり、参列者の行列は1キロ離れた大船駅まで続いた。浅丘ルリ子、奥山融、関敬六、倍賞千恵子、早坂暁、山田洋次(下記文章)らが弔辞を読んだ。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "死後、「『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えた」との理由で、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。俳優での受賞は、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1997年8月4日には大船撮影所で一周忌献花式が開かれた。東京・柴又の団子屋「くるまや」のセット撮影に使われた第9ステージが会場となり、山田洋次や倍賞千恵子らが出席した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の9位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第4位になった。さらに、「映画館をいっぱいにしたマネーメイキング・スターは誰だ!」日本編では第1位。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、卒業していたのかしていないのかだけでなく、在籍の有無ですら公式には何とも言えないという。ただし、何人かのOBの証言によれば、「在籍はしていたが、卒業はしていない」とのことである。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "大学についても異説があり、中央大学予科に入ったとする説、そもそも中央大学には入っておらず学歴を詐称していたという説、テキ屋稼業で都合がいいため中大予科の角帽をかぶっていたという説、天ぷら学生として角帽を被っていたという説、中央大学商学部に入学したという説がある。中央大学説は関敬六が慶應義塾大学、谷幹一が早稲田大学、渥美清が中央大学という設定の芝居を行ったことがきっかけでそれをその後も踏襲したとも言われている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "『男はつらいよ』の「寅さん」の演技で社交性のある闊達さを印象付けていたが、実像は共演者やスタッフと真摯に向き合う一方で、公私混同を非常に嫌い、プライベートでは他者との交わりを避ける傾向だった。ロケ先での、撮影協力した地元有志が開く宴席にあまり顔を出さなかったものの、第48作では瀬戸内町主催のホテルの歓迎会に町の人を呼び、渥美清もグレーのジャージ上下とサンダル姿で30分ほど出席している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "家族構成は妻と子供2人だが、原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることが多かった。長男の田所健太郎が「親族の立場」で公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。渥美自身の結婚式は親族だけでささやかに行い、芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表することはなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。披露宴には、仕事仲間などは関敬六、谷幹一が出席し、司会はTBSの渥美番の杉山真太郎で『泣いてたまるか』の関係でTBSの番組宣伝部が担当した。渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は「新珠三千代さんごめんなさい」との迷コメントを出した。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "渥美は亡くなるまでプライベートを芸能活動の仕事に持ち込まなかったため、自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされておらず、「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友として知られる黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "脚本家・早坂暁とは20代に銭湯で知り合い、早坂を「ギョウさん」と呼んで、終生の友であった。渥美は常に「ギョウさん、俺も連れてってちょうだいよ」と早坂との旅行を大変楽しみにしていた。東京生まれのため田舎を持たない渥美にとって、特に早坂の故郷である愛媛県北条市(現・松山市)や、沖合いにある「北条鹿島」はお気に入りで何度も同行している。早坂作のNHKドラマ『花へんろ』(早坂の自伝的ドラマ)ではナレーションを担当した。これらの事情が、実現しなかった第49作『寅次郎花へんろ』の元になった。渥美の死後発見された晩年の手帳には「......旅行に行こう。家族とギョウさんにも声かけて一緒に行こう......」と綴ってあった。早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられないことを危惧しており、そのことはお別れ会の弔辞でも語っている(後記)。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1985年頃、渥美は尾崎放哉を演じたいと早坂に相談していたが、NHKが先に「海も暮れきる 小豆島の放哉」を放送したためその話は流れることになった。早坂が書いた「首人形-方哉の島」の脚本が完成したのは1993年で既に癌に侵されていてやれる体力がなく渥美は机に置いた脚本を見つめたまま一言も発しなかったという。吉村昭の小説をもとにしたドラマはNHK松山放送局が1985年に制作・放映している。NHKの放送後、急遽題材を種田山頭火に変更することになり、渥美と早坂は今度は山頭火の取材旅行に訪れ、脚本も完成したにもかかわらず、クランクイン寸前になって、突然渥美から制作のNHKに「山頭火」降板の申し出があった。渥美降板により主役がフランキー堺となったこのドラマ『山頭火・なんでこんなに淋しい風ふく』は、モンテカルロ国際テレビ祭(脚本部門ゴールデンニンフ=最優秀賞)を受賞し、フランキー堺は同最優秀主演男優賞を受賞している。早坂は渥美に、初期のテレビドラマ『泣いてたまるか』や、上記土曜ワイド劇場第1回作品の『田舎刑事』シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "映画においては山田洋次、野村芳太郎両監督とは別に、『沓掛時次郎 遊侠一匹 』『祇園祭』『スクラップ集団』『あゝ声なき友 』『おかしな奴』の脚本を書いた鈴木尚之とのコンビも長い。なお渥美は、早坂と、関敬六、山田洋次らは46作目「寅次郎の縁談」(1993年公開)の撮影の合間を縫って放哉の墓参り、小豆島尾崎放哉記念館(土庄町)の建設現場へ訪れている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "上記著書の小林信彦は1960年代前半に放送作家として渥美と知り合い、独身時代はお互いの部屋で徹夜で語り合うなど親しい仲であった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "渥美は松竹新喜劇の藤山寛美を高く評価しており、寛美の公演のパンフレットに渥美のコメントとして「私は藤山寛美という役者の芝居を唯、客席で観るだけで、楽屋には寄らずに帰える。帰る途すがら、好かったなー、上手いなー、憎たらしいなあー、一人大切に其の余韻をかみしめる事にしている」と書いていた。寛美も渥美が客席に来ていることを知ると、舞台で「おい、横丁のトラ公な、まだ帰ってこんのか?」と言うアドリブを発していた。非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていたが、「寅さん」とはまったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らにはほとんど気づかれなかったという。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2・3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "増村保造の映画『セックス・チェック 第二の性』を基にして作中男性だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男性だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。この構想はすでに早坂暁によって「渥美清子の青春」として、1968年にシナリオ化されている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "黒柳徹子は、プライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、『夢であいましょう』で共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。因みにそれを報道したスポーツ紙には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をした時の写真が掲載された。これは当時マスコミがその写真しか得られなかったためである。黒柳は2006年は渥美の死去から10年と節目の年であったためか、渥美の事を話すこともしばしばあった。また森繁久彌は渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "永六輔とは少年時代からの旧知であり、本人曰く渥美は永も所属した不良グループのボスだったという。また渥美が役者を目指すようになったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導されたことがあり、その時の刑事に「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われたことが役者を目指すきっかけになったとのことである。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "田中秀征によるとスナックの経営者から買い取った田中の著書『自民党解体論』を熱心に読んでくれたという。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "その他、プライベートでの交流があった芸能人として笹野高史、柄本明がいる。2人とも「男はつらいよ」シリーズの常連出演者で、芝居を見に行ったり、バーに飲みに行くこともあったという。笹野は『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』以来山田作品の常連となるが、最初に山田監督へ笹野を紹介したのは渥美自身であった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "布袋寅泰は、渥美と同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然エレベーターの乗り口で会った際、渥美から「旅ですか?」と話しかけられ、とっさに「はい。北へ」と答えたのをきっかけに、正月に「つまらないものですが、台所の隅にでも飾ってやってください」と、『男はつらいよ』のカレンダーを部屋まで届けてくれたという。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "長男の田所健太郎は、ニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に「父 田所康雄 職業 俳優」と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の時代劇の斬られ役と思っていたが、当時ニッポン放送に存在した新入社員の仕事を見る「父兄参観日」に渥美清が彼の父親として来社し社内は騒然となったという。健太郎は、講談社『月刊現代』2002年8月号の記事『七回忌を前に初めて書かれるエピソード、寅でも渥美清でもない父・田所康雄の素顔』で、渥美が健太郎の食器・食事に対する扱いに突然激高し、激しい暴行を何度も加える等のドメスティック・バイオレンスが家族へ日常的に行われていたとも告白している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、文春文庫 2010年)に詳しく紹介されている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "秋野の著作によると、同じ浅草仲間の八波むと志が交通事故を起こし死亡したことがきっかけで、絶対に車を所有せず終生ハンドルを握らなかったという。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "倍賞によると「渥美が最後に病院に入っていた時、まるでお別れを告げるようにいろいろな人に電話をかけていたようで、夜中だったため電話を取ることが出来なかった」と著作で語っている。同様のことは付け人だった篠原靖治も述べており、篠原によると7月の入院前に突然渥美からかかってきた電話が最後の会話だった、と話している。渥美自身共演したおじちゃん役の森川信を始め、芸能人の通夜や葬式には一切出席しなかったが、唯一出席しマスコミの取材に答えたのが1995年10月に亡くなった高羽哲夫の通夜であった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "※印作品は生前の映像を使用したライブラリ出演。",
"title": "出演"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "男はつらいよシリーズ以外の映画",
"title": "出演"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "父 友次郎:1884年〜1956年10月31日 行年72、戒名は釈友教信士 母 タツ:1892年〜1970年6月13日 行年78、戒名は釈妙達信女 兄 健一郎 1925年〜1947年5月12日 行年22、戒名は釈義健道信士 妻 正子 長男 田所健太郎 株式会社ニッポン放送に所属していたラジオディレクター。主な担当番組に伊集院光のOh!デカナイト、(有)チェリーベルがある。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。 長女 幸恵",
"title": "親族"
}
] | 渥美 清は、日本のコメディアン、俳優、歌手。本名:田所 康雄。 代表作『男はつらいよ』シリーズで、柴又育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車 寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。 没後に国民栄誉賞を受賞している。 | {{出典の明記|date=2017年10月18日 (水) 09:24 (UTC)|ソートキー=人1996年没}}
{{TVWATCH}}
{{ActorActress
| 芸名 = 渥美 清
| ふりがな = あつみ きよし
| 画像ファイル = Chunichi1967-11-27-1.jpg
| 画像サイズ = 180px
| 画像コメント =<small>『[[中日新聞]]』1967年11月27日付夕刊</small>
| 本名 = 田所 康雄(たどころ やすお)
| 別名義 = 風天(俳号)
| 出身地 = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[下谷区]]<br />(現・[[東京都]][[台東区]])
| 死没地 = {{JPN}}・東京都[[文京区]]([[順天堂大学医学部附属順天堂医院]])
| 国籍 =
| 民族 =
| 身長 = 169 [[センチメートル|cm]]
| 血液型 = [[ABO式血液型|B型]]
| 生年 = 1928
| 生月 = 3
| 生日 = 10
| 没年 = 1996
| 没月 = 8
| 没日 = 4
| 職業 = [[俳優]]、[[コメディアン]]、[[演歌歌手]]
| ジャンル = [[映画]]・[[テレビドラマ]]・[[舞台]]
| 活動期間 = [[1946年]] - [[1996年]]
| 活動内容 =
| 配偶者 = あり
| 著名な家族 = 田所友次郎(父)<br />田所タツ(母)<br />田所健一郎(兄)<br />[[田所健太郎]](長男)
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = '''テレビドラマ'''<br />『[[渥美清の泣いてたまるか]]』<br />『[[こんな男でよかったら]]』<hr>'''映画'''<br />『[[拝啓天皇陛下様]]』<br />『[[喜劇急行列車]]』<br />『[[喜劇団体列車]]』<br />『[[喜劇初詣列車]]』<br />『[[スクラップ集団]]』<br />『[[男はつらいよ]]』シリーズ<br />『[[キネマの天地]]』
| 日本アカデミー賞 =
| フィルムフェア賞 =
| ブルーリボン賞 = '''主演男優賞'''<br />[[1982年]]『[[男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋]]』『[[男はつらいよ 花も嵐も寅次郎]]』
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| その他の賞 = '''[[キネマ旬報賞]]'''<br />'''男優賞'''<br />[[1969年]]『[[男はつらいよ (映画)|男はつらいよ]]』 <hr />'''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''男優主演賞'''<br />[[1969年]]『男はつらいよ』『[[続・男はつらいよ]]』 <hr />'''[[日刊スポーツ映画大賞]]'''<br />'''主演男優賞'''<br />[[1988年]]『[[男はつらいよ 寅次郎物語]]』 <hr />'''[[芸術選奨]]'''<br />[[1972年]] '''文部大臣賞'''<br />[[1988年]] [[紫綬褒章]]<br />[[1996年]] [[国民栄誉賞]]
| 備考 =
}}
'''渥美 清'''(あつみ きよし、[[1928年]]〈[[昭和]]3年〉[[3月10日]] - [[1996年]]〈[[平成]]8年〉[[8月4日]])は、[[日本]]の[[コメディアン]]、[[俳優]]、[[歌手]]。本名:田所 康雄(たどころ やすお)。
代表作『[[男はつらいよ]]』シリーズで、[[柴又]]育ちの[[的屋|テキ屋]]で風来坊の主人公「車 寅次郎」を演じ、「'''寅さん'''」として広く国民的人気を博した昭和の名優。
没後に[[国民栄誉賞]]を受賞している<ref>「小林2000」p.21</ref>。
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
1928年3月10日([[土曜日]])、[[東京府]][[東京市]][[下谷区]]車坂町(現・[[東京都]][[台東区]][[上野]]七丁目)で、地方[[新聞]]の[[記者|新聞記者]]をしていた父・友次郎と、元[[小学校教員|小学校教諭]]で内職の封筒貼りをする母・タツとの間に次男として生まれる<ref>「小林2000」、p.20</ref>。兄に健一郎がいる。
[[1934年]]11月、[[板橋区立板橋第一小学校|板橋尋常小学校]]に入学。[[1936年]]、一家で[[板橋区]][[清水町 (板橋区)|志村清水町]]に[[引越し|転居]]し、[[板橋区立志村第一小学校|志村第一尋常小学校]]へ転入。[[在籍者 (学習者)|小学生]]時代はいわゆる[[欠食児童]]であり、[[病弱]]で小児腎臓炎、小児関節炎{{R|chi158}}、膀胱カタル等の様々な[[病気|病]]を患っていた。そのため学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日[[ラジオ]]に耳を傾け[[徳川夢声]]や[[落語]]を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。
[[1940年]]に板橋城山高等小学校{{efn|板橋区の記録にこのような名前の学校はない。志村尋常高等小学校(現在の[[板橋区立志村小学校]])の誤り(「小林2000」p.368)、もしくは通称と考えられる。}}に入学。[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]]に旧制私立[[巣鴨中学校・高等学校|巣鴨中学校]]に入学するが、学徒動員で板橋の[[工廠|軍需工場]]へ駆り出され軍用機のラジエーターを造(ママ)っていたとされる<ref>『渥美清わがフーテン人生』、p.13</ref>。堀切直人は、巣鴨中学校には進学しておらず志村坂上の東京管楽器の町工場に就職したとしている{{R|hori43}}。旧制[[1945年]]に同校を卒業するも、[[3月10日]]の[[東京大空襲]]で自宅が被災し焼け出される。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋や[[テキ屋]]の手伝いもしていた<ref>{{Cite web|和書|title=「渥美清」強烈な印象!天性のコメディアン<第2回>浅草六区芸能伝|月刊浅草ウェブ|url=https://gekkan-asakusa.com/asakusa-rokku-geinouden2/|website=月刊浅草ウェブ【毎日10時更新!】伝統と革新の交差点「浅草」の魅力を配信|accessdate=2021-06-16|language=ja}}</ref>(親友の[[谷幹一]]に、かつて自分は桝屋一家{{efn|昭和31年5月末日現在の「関東香具師諸団体組織系統要覧」によると枡屋一家は関東の香具師の団体で、主たる勢力範囲は上野、神田である<ref>[[藤田五郎]]『任侠百年史』笠倉出版社、1980年、p.657</ref>。}}に身を寄せていた、と語ったことがある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。[[永六輔]]によれば、戦後焼け跡の金属を換金し、[[秋葉原]]で部品を買い[[鉱石ラジオ]]を組み立てるグループに永も参加していたが、そのグループのリーダーが渥美清であったとのこと<ref>西東書房の経営者であった七条兼三の右腕で秋葉原の露店を仕切った野田誠一([[秋葉原ラジオ会館]]副社長)は霊岸島桝屋宇佐美分家多田三代目菅佐原由之助親分の元若い衆である</ref>。
=== 役者稼業 ===
[[File:Eiga-Hyoron-1963-February-1.jpg|thumb|200px|『[[映画評論 (雑誌)|映画評論]]』1963年2月号より。]]
進学についても異説があり(下記「人物・経歴についての異説」参照)、10代のころは[[船員|船乗り]]を志しその中でも[[船員|司厨員]]志望で[[船舶運営会|大日本船舶運営会]]へ願書まで出したが<ref>渥美2003、pp.9-10</ref><ref>『寅さんは生きている』p.118</ref>、母親に猛反対されたため断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り[[コメディアン|喜劇俳優]]の道を歩むことになった。芸名については諸説あり、当初の芸名は小説の主人公からとった「渥美悦郎」であったが、川崎で小さな劇団の「パンツの臭いを嗅ぐ男」というバラエティショーに出たとき司会者が「渥美清の方が名前が通りやすい」と変えてしまったという<ref name="『渥美清わがフーテン人生』、p.54">『渥美清わがフーテン人生』、p.54</ref>。また「'''清'''く'''美'''しくあっ('''渥''')たかくあれ」という意味で名づけられたという説もある<ref>週刊テレビ番組(東京ポスト)1984年4月20日号「芸名由来記」70頁</ref>。
[[1946年]]には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館の下働きを経て{{R|chi158}}、『阿部定一代記』{{efn|『阿部サダ一代記』とする資料もある<ref>『渥美清わがフーテン人生』、p.53</ref>。}}でのチョイ役で舞台初出演<ref>吉岡1997、p.52-54</ref>。[[1951年]]、東京[[浅草六区]]の[[ストリップ (性風俗)|ストリップ]]劇場「百万弗劇場」(建物[[疎開]]した[[観音劇場]]の跡)の専属コメディアンとなる<ref name="『渥美清わがフーテン人生』、p.54"/>。2年後の[[1953年]]には、[[フランス座]]へ移籍<ref>吉岡1997、p.56</ref>。この頃のフランス座は、[[長門勇]]、[[東八郎]]、[[関敬六]]など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として[[井上ひさし]]が出入りしていた。またこの頃、[[浅草]]の[[銭湯]]で、のちにシナリオライターとなる[[早坂暁]](当時は大学生)と知り合い、親しくなる。(後述参照)。[[1954年]]、[[肺結核]]で[[肺|右肺]]を切除し埼玉の[[サナトリウム]]で約2年間の療養生活を送る<ref>『渥美清わがフーテン人生』、pp.72-92</ref><ref>堀切直人2007、p.68 最初の三か月は規定に従ってフランス座が給料を支給していたがそれ以降は医療扶助けと芸人のカンパだった。</ref>。このサナトリウムでの療養体験が後の[[人生観]]に多大な影響を与えたと言われ、右肺を無くしたことでそれまでのドタバタ喜劇ができなくなった<ref>堀切直人2007、p.75</ref>。退院後の1956年の秋、今度は胃腸を患い中野の[[立正佼成会附属佼成病院|立正佼成会病院]]に三か月入院する<ref>堀切直人2007、p.76 この入院中に父親が亡くなっている。</ref>。再復帰後は[[酒]]や[[タバコ|煙草]]、[[コーヒー]]さえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた<ref>『渥美清わがフーテン人生』、p.94</ref><ref>吉岡1997、p.104</ref>。
[[1956年]]に日本テレビ連続ドラマ「すいれん夫人とバラ娘」で主役の[[朝丘雪路]]のダメ助手役でテレビ初出演{{R|chi158}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASL5N01PYL5MUEHF00T.html |title=(寅さんの伝言)朝丘雪路さん板の人間土足で舞台上がらず |date=2018-01-01 |publisher=朝日新聞 |archiveurl=https://archive.ph/wip/B9ADR |archivedate=2021-05-27 |accessdate=2021-05-27}}</ref><ref>吉岡1997、p.106 、本書には「睡蓮」とあるが「すいれん」が正しい</ref>。[[1958年]]に『おトラさん大繁盛』で[[映画]]にデビュー。[[1959年]]にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一・関敬六と[[スリーポケッツ]]を結成{{R|chi158}}。しかし、数ヵ月後には脱退している。[[1961年]]から[[1966年]]までNHKで放映された『[[夢であいましょう]]』、『[[若い季節 (テレビドラマ)|若い季節]]』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。1961年、[[井上和男]]監督の『水溜まり』で倍賞千恵子と初共演している<ref>{{Cite news|和書 |title=私の履歴書 倍賞千恵子 |newspaper=日本経済新聞 東京朝刊 |date=2023-12-06|page=44 |publisher=日本経済新聞社 }}</ref>。[[1962年]]公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初[[主演]]を務める。7年後に寅さん一家を組むことになる[[倍賞千恵子]]、[[森川信]]との共演である。同年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]連続ドラマ『[[大番]]』でのギューちゃん役がうける。同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てた[[シーン]]とも言われている。当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『[[切腹 (映画)|切腹]]』([[仲代達矢]]、[[岩下志麻]]、[[丹波哲郎]]、[[三國連太郎]])の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。[[1963年]]の[[野村芳太郎]]監督の映画『[[拝啓天皇陛下様]]』で「[[片仮名]]しか書けず、[[軍隊]]を[[天国]]と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。[[1965年]]公開の、[[羽仁進]]監督の『ブワナ・トシの歌』では[[アフリカ]]各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、[[アフリカ]]の魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる{{efn|アフリカについての逸話は『きょうも涙の日が落ちる』(渥美2003、pp.9-66)や『渥美清わがフーテン人生』(『渥美清わがフーテン人生』、pp.99-154)に詳しい。著書によると47歳の段階で5回(渥美2003、p.83)、『渥美清わがフーテン人生』では48歳で6回、『寅さんは生きている』では生涯6回で50歳を過ぎてからは訪れることはなかったと書かれ(『渥美清わがフーテン人生』、p.107)(『寅さんは行きている』pp.116-119)、1998年9月6日放送日本テレビ「[[知ってるつもり?!]]・渥美清」では十数回と述べられている。}}。特に好きだったのはタンザニアのホテルから見るキリマンジャロで一日中眺めていることもあったという<ref>『寅さんは生きている』p.119</ref>。
1969年3月17日([[月曜日]])、正子夫人と島根県[[出雲大社]]で結婚式を内々だけで挙げる<ref>{{Cite journal|和書|title= ボクのカミサンです / 渥美清|journal=[[婦人生活]]|volume=23|issue=7|publisher=[[婦人生活社]]|date=1969-05-01|pages=47 - 50|id={{NDLJP|2324736/22}}}}</ref>{{R|ike16}}<ref>「寅さんは生きている」、p.21、p.68</ref>。披露宴は[[ホテルニューオータニ]]で仲の良かったスター、友人、映画記者番や雑誌記者を招いて行った{{R|ike16}}<ref>「寅さんは生きている」pp.68-71</ref>。41歳の時だった。
当初は、[[松竹]]より[[東映]]の方が渥美喜劇の売り出しに熱心で{{R|キネ旬19969|実業界199611}}、東映で"[[喜劇]]路線"を敷こうとした<!---{{R|悔いなき}}--->{{R|実業界199611}}<ref>{{Cite journal | 和書 | author = [[富司純子]]他 |issue= 2011年8月号 | title = 鎮魂、映画の昭和 <small>岡田茂他</small>| journal = [[映画芸術]]| publisher = 編集プロダクション映芸 | page = 132 }}</ref>[[岡田茂 (東映)|岡田茂]][[映画プロデューサー|プロデューサー]](のち、東映社長)に引き抜かれ{{R|実業界199611|悔いなき}}<ref>[https://archive.is/ydXUe 引き抜き、タイトル付け、リストラ…岡田茂氏「伝説」の数々 スポーツ報知2011年5月10日(archive)]</ref>、岡田が登用した<!---<ref name="悔いなき" />--->[[瀬川昌治]]監督の『[[喜劇急行列車]]』([[1967年]])他「[[喜劇急行列車#東映列車シリーズ|列車シリーズ]]」などに主演した{{R|実業界199611|悔いなき}}<ref>{{Cite book | 和書 | title = 素晴らしき哉 映画人生! | author = [[瀬川昌治]] | publisher = [[清流出版]] | year = 2012 |isbn=978-4-86029-380-2 | pages = 167-168、172-173頁 }}</ref><ref>[http://www.flowerwild.net/2008/02/2008-02-06_181116.php 瀬川昌治と喜劇役者たち〜エノケンからたけしまで - flowerwild.net ──瀬川昌治インタビュー vol.2]</ref>。岡田茂は「渥美清は、実は私が[[東映東京撮影所]]の所長をしていた昭和37年(1962年)に一年間面倒をみたことがあるんです。それで『喜劇急行列車』など何本か撮ったんですが、どうしても東映では喜劇は伸びない。それで『渥美君、俺は君で5本やったが駄目だった。作品がよくてこれでは君にも悪いから、ひとつ松竹へ行け』と。ちょうど松竹から是非にという話があり『松竹に行った方が君にはプラスだ』ということで向こうに行ったんですが、結局は良かった。『男はつらいよ』なんて10年に一編出るか出ないかですよ。ああいう幸運なのは。一つのシリーズで48本(1996年当時)もやったというのは有り得ないことです」などと述べている{{R|実業界199611}}。東映とは水が合わなかったが{{R|キネ旬19969}}、東映での出演作としては[[時代小説#股旅物|股旅]][[日本映画|映画]]の最高傑作ともいわれる<ref>{{Cite book | 和書 | title = ぴあシネマクラブ 邦画編 1998-1999| publisher = [[ぴあ]] | year = 1998 |isbn=4-89215-904-2 | page = 240 }}</ref>『[[沓掛時次郎 遊侠一匹]]』([[加藤泰]]監督、[[1966年]])の身延の朝吉役は名演として知られる{{R|キネ旬19969}}<ref>{{Cite book | 和書 | title = 日本映画人名事典 男優篇〈上巻〉 | publisher = キネマ旬報社 | year = 1996 |isbn=4-87376-188-3 | page = 51 }}{{Cite book | 和書 | title = 鈴木尚之 人とシナリオ | author = [[日本シナリオ作家協会]] [[鈴木尚之]] 人とシナリオ出版委員会 | publisher = 日本シナリオ作家協会 | year = 1998 |isbn=4-915048-08-X | pages = 30-31 }}{{Cite book | 和書 | title = にっぽん脚本家クロニクル | chapter = 掛札昌裕 | author = [[桂千穂]] | publisher = [[青人社]] | year = 1996 | isbn=4-88296-801-0 | page = 735 }}</ref>。この時期の主演作品としては他に、[[TBSテレビ|TBS]]のテレビドラマ『[[渥美清の泣いてたまるか]]』(1966年)などがある。
最後に舞台へ上がったのは1966年の5月に新宿コマ劇場で行われた翻訳ミュージカル「南太平洋」のルーサー・ビリス役でそれ以降二度と舞台を踏むことはなかったが<ref>「小林2000」p.369</ref>、1991年の[[常盤座]]の閉幕の時行われた「関敬六劇団」さよなら公演の千秋楽フィナーレで俳優全員が舞台挨拶を行った時突然舞台に上がって「ご苦労さん」と関とあいさつをし、観客に手を振った<ref>「寅さんは生きている」p.59</ref>{{efn|その時の実際の写真が、『寅さんは生きている』p.57に掲載されている。}}。
=== 車寅次郎 ===
[[ファイル:Kuruma torajirou.jpg|thumb|200px|柴又駅前に立つ'''車寅次郎'''の銅像]]
1968年[[10月3日]]から半年間、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]にて、テレビドラマ『[[男はつらいよ#テレビドラマ|男はつらいよ]]』が放送され、脚本は[[山田洋次]]と[[森崎東]]が担当した。最終回の「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」という結末に視聴者からの抗議が殺到したことから<ref>堀切直人2007、p.142</ref>、翌1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、[[松竹]]が映画を製作。これが堅調な観客動員と高い評価を受けてシリーズ化。当初は54万人程度だった観客動員は徐々に伸びて第8作では148万人と大ヒット水準まで飛躍。以降、しばしば200万人を超えるなど松竹の屋台骨を支え続けるほどの大ヒットが続く。国民的スターとなった渥美清は、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に亘って演じ続けることになる。映画のシリーズでは最多記録の作品として[[ギネス世界記録|ギネスブック]]にも載るなどの記録を成し遂げた。
[[1972年]]、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『[[あゝ声なき友]]』を自身主演で製作する。[[1975年]]、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。[[1977年]]には[[テレビ朝日]]製作の[[土曜ワイド劇場]]『[[田舎刑事]] 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品はのちに長く続く人気番組『土曜ワイド劇場』の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回[[文化庁]][[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され[[1978年]]に『旅路の果て』が、[[1979年]]には『まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズほどの成功は収めることができなかった。唯一1977年『[[八つ墓村 (1977年の映画)|八つ墓村]]』でそれまでのイメージを一新して名探偵「[[金田一耕助]]」役を演じ松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を(松竹との関係が悪化していた)角川春樹事務所と東宝に抑えられていたため1本きりとなったことが大きな岐路となる。
1979年[[4月14日]]に[[日本放送協会|NHK]]で放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では[[作曲家]]、[[古賀政男]]の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得た。1980年代以降になると、『[[男はつらいよ]]』シリーズ以外の[[主演]]は無くなっていった。[[1988年]]に[[紫綬褒章]]を受章{{R|chi158}}。その後は主演以外での参加も次第に減っていき、[[1993年]]に公開された映画『[[学校 (映画)|学校]]』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった。
=== 晩年、死 ===
晩年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目(1989年12月公開)以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは減少し、晩年は立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目(1991年12月公開)のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への[[挨拶]]を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったが、この頃にはもうスタッフをはじめ、どんなに声をかけられてももう一切人には挨拶をしなかったという{{R|yoshimura1997}}。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。46作頃からは、2日撮影したら2日休養を置くスケジュールを組んだが午後3時頃からは声の調子が落ちてしまい録音の鈴木功は「つらくなってきた」と語っている{{R|yoshimura1997}}。48作では午前中には割と強かった渥美の体調を考慮し、撮影は午前9時から始まり午後1時ごろまでには終了。それくらいのスケジュールでないともう撮れない状態だった、と山田は語っている{{R|yoshimura1997}}。
最後に関係者が渥美清と会ったのは、1996年6月27日(若しくは6月30日<ref>篠原のみ30日と書いている。篠原2019、p.174</ref>)に代官山のレストラン・小川軒の会合で山田洋次の紫綬褒章受章の祝いを兼ねた次作の話し合いで、山田洋次、倍賞千恵子、渥美のスケジュールを管理していた制作主任の峰順一、松竹の大西氏らスタッフ10人と会食し、薄いステーキとはいえペロリと平らげたという{{R|yoshimura1997}}<ref>『寅さんは生きている』pp.344-355</ref><ref>「50周年!男はつらいよぴあ」p.25、倍賞千恵子インタビュー</ref><ref>拝啓 渥美清様2006、p.242、p.261。この時の写真が同ページに掲載されており生前最後の写真とされている</ref>。
病気については、[[1991年]]に[[肝癌|肝臓癌]]が見つかり、[[1994年]]には肺への[[転移 (医学)|転移]]が認められた。主治医からは、第47作への出演は不可能だと言われていたがなんとか出演し、48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。[[1996年]][[6月27日]]、若しくは[[6月30日]]の代官山レストランでの食事の際に第49作制作の件で[[高知県|高知]]ロケを承諾し{{R|yoshimura1997}}<ref>篠原(2019)、p.174。あくまで「こんなオレでもいいんだね」と言ったとされる。</ref>、撮影を控えていた中、亡くなる一週間前に「呼吸が苦しい」と家族に訴え即[[手術]]を受けたものの<ref>篠原(2019)、p.204</ref>、[[悪性腫瘍|癌]]の転移が広がり手遅れの状態だった。1996年8月4日午後5時10分、[[肺癌|転移性肺癌]]のため[[文京区]]の[[順天堂大学医学部附属順天堂医院]]にて死去した。{{没年齢|1928|3|10|1996|8|4}}。
「[[戒名]]はつけるな」「最期は家族だけで看取ること」「世間には荼毘に付したあと、知らせること」「騒ぎになったときは、長男の健太郎ひとりで対応すること」という渥美の遺言により<ref>篠原(2019)、p.184</ref>、家族だけで[[密葬]]を行い、遺体は東京都[[荒川区]]内の[[町屋斎場]]で荼毘に付された。最初に連絡を受けたのは山田監督ともいわれ<ref>篠原(2019)、p.189</ref>、8月5日に<ref>小林2016、p.428</ref>監督と松竹の宣伝部の大西が駆け付けた時にはすでにお骨になっていた<ref>篠原(2019)、p.190</ref><ref>『寅さんは生きている』p.122</ref>。おばちゃん役の三崎千恵子のもとには8月6日(小林によると8月7日<ref>小林2016、p.427</ref>)の午前10時ごろ<ref>篠原2019、pp.172-173</ref>、さくら役の倍賞の下へは同6日の夜中に連絡が入ったとされる<ref>倍賞1997、p.14</ref>。訃報は[[8月7日]]に松竹から公表された。男はつらいよの第48作『[[男はつらいよ 寅次郎紅の花]]』が実質の遺作となった。
[[8月13日]]に「渥美清さんとお別れする会」が[[松竹大船撮影所]]第9ステージ<ref name="松竹百十年史">{{Cite book|和書|author= |title=松竹百十年史 |date=2006-02 |page=461 |publisher=松竹 |NCID=BA78851713 |ID={{全国書誌番号|21114533}}}}</ref>で開かれた。柴又の江戸川土手を模した祭壇の前に献花台が置かれ<ref name="松竹百十年史" />、2万1000人<ref name="朝日夕刊19960814">{{Cite news|和書|title=「寅さん」の大きさずしり 庶民のユートピア お別れの会に長い列 |newspaper=朝日新聞 |edition=夕刊 |date=1996-08-14 |page=7}}</ref><ref name="朝日夕刊19960813">{{Cite news |和書 |title=寅さんと2万人が別れ 渥美清さんとお別れする会 鎌倉・大船撮影所 |newspaper=朝日新聞 |edition=夕刊 |date=1996-08-13 |page=11}}</ref>(3万人<ref name="松竹百十年史" />とも、3万5000人<ref name="神奈川新聞19960814">{{Cite news|和書|title=寅さん 永遠の別れ 松竹大船撮影所 |newspaper=神奈川新聞 |date=1996-08-14 |page=25}}</ref>とも)が集まり、参列者の行列は1キロ離れた[[大船駅]]まで続いた<ref name="松竹百十年史" /><ref name="神奈川新聞19960814" />。浅丘ルリ子<ref name="朝日夕刊19960814" />、[[奥山融]]<ref name="朝日夕刊19960813" />、[[関敬六]]<ref name="朝日夕刊19960813" />、倍賞千恵子<ref name="朝日夕刊19960814" />、早坂暁<ref name="朝日夕刊19960814" />、山田洋次<ref name="朝日夕刊19960813" />(下記文章)らが弔辞を読んだ<ref>『この世の景色(早坂暁)』pp.148-152</ref><ref>『寅さんは生きている(日刊スポーツ新聞社文化部)』pp.202-204</ref>。
{{quotation| 僕の立場としてはまず、皆さんにお礼を申し上げなくてはならないと思います。今日は足の便の悪いこの土地までよくお出かけくださいました。渥美さんのお別れの会は、葬儀場ではなく27年間寅さんを作り続けた撮影所で僕たちスタッフの手で行いたいと考え、会社にお願いしてこのような形にさせていただいた次第です。先ほどからこちらで演奏してくれているのは、寅さんシリーズの第1作からそのほとんど全部を、山本直純さんの美しい音楽を演奏してくれたプレーヤーの方々です。<br /> 今から5年前、大分県の日田市にロケをした「寅次郎の休日」のころから、渥美さんの体の衰えが目立つようになりました。46作、松坂慶子さんに出てもらった「寅次郎の縁談」では、瀬戸内海の小島の急な坂を上がり下りするのがとても辛そうだったことをよく覚えています。去年の秋に亡くなったカメラマンの高羽さんと渥美さんは同じ病気で、2人の間には特別な情報の交換があって、それを高羽さんの口から聞くという辛い形で、僕は渥美さんの病状が決して油断できないことを知っていました。<br /> もうそろそろ幕を引かねばいけない。渥美さんを寅さんという、のんきで、陽気な男を演じるという辛い仕事から解放させてあげなければいけないと、しょっちゅう思いました。しかし、4分の1世紀にわたって松竹の正月映画の定番であり続けた寅さんがなくなるということがあまりにも問題であったこと。そしてもう一つは、毎年秋口になると家族のように親しいスタッフが集まって、正月映画をにぎやかに作るという楽しみを打ち切るのが辛くて、もう1作だけ、いやもう1作なんとかという思いで47作、48作を作ったのです。後で伺えば、渥美さんのドクターは、この遺作に渥美さんが出演できたことは奇跡に近いと言っておられたそうです。渥美さんはどんなにきつかったか。ああ、悪いことをした・・・僕は今、後悔をしています。<br /> 7月に入院して肺の手術をしたけど、その経過が思わしくなくて渥美さんはとても苦しんだそうです。ベッドの上で起き上がるのがやっとで、それもうつむいたままで両手で机の端をきつく握りしめて、その机をきつく握りしめて、その机がカタカタと音を立てて震えていたそうです。あの渥美さんをなぜそんな、そんなに苦しめるのか・・・僕は天を恨みます。<br /> 渥美さん、長い間辛い思いをさせてすいませんでした。でも、僕とそして僕たちスタッフは、あなたにめぐり会えて幸せでした。今日、この会場にいる、あるいは、表で汗だらけになって車や弔問客の整理にかけずり回っている僕のスタッフを代表して、今あなたにお礼を言います。27年間にわたって寅さん映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。<br /> 渥美さん、本当にありがとう。}}
死後、「『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えた」との理由で、[[日本政府]]から渥美に[[国民栄誉賞]]が贈られた。俳優での受賞は、[[1984年]]に死去した[[長谷川一夫]]に次いで2人目である。
[[1997年]][[8月4日]]には大船撮影所で一周忌献花式が開かれた<ref name="朝日夕刊19970804">{{Cite news|和書|title=寅さん、突然の旅立ちから1年 松竹大船撮影所でファンら献花 |newspaper=朝日新聞 |edition=夕刊 |date=1997-08-04 |page=15}}</ref>。東京・柴又の団子屋「くるまや」のセット撮影に使われた第9ステージが会場となり<ref name="朝日夕刊19970804" />、山田洋次や倍賞千恵子らが出席した<ref name="朝日夕刊19970804" />。
[[2000年]]に発表された『[[キネマ旬報]]』の「[[キネマ旬報20世紀の映画スター|20世紀の映画スター]]・男優編」で日本男優の9位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第4位になった。さらに、「[[キネマ旬報20世紀の映画スター#マネーメイキング・スター|映画館をいっぱいにしたマネーメイキング・スターは誰だ!]]」日本編では第1位。
== 人物 ==
=== 経歴についての異説 ===
渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、[[経歴]]にはいくつかの異説がある。[[小林信彦]]著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、[[1940年]]に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。[[1942年]]に卒業し、14歳で志村坂上の[[東京管楽器]]に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。
[[巣鴨中学校・高等学校|巣鴨学園]]関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、卒業していたのかしていないのかだけでなく、在籍の有無ですら公式には何とも言えないという。ただし、何人かのOBの証言によれば、「在籍はしていたが、卒業はしていない」とのことである。
大学についても異説があり、[[中央大学]]予科に入ったとする説{{R|chi158}}、そもそも中央大学には入っておらず学歴を詐称していたという説{{R|hori43}}、テキ屋稼業で都合がいいため中大予科の角帽をかぶっていたという説<ref>吉岡1997、p.44</ref>、天ぷら学生{{efn|天ぷら学生とは、大学の学籍がないにも関わらず制服や帽子を被りあたかも学生になりすまして講義を受けたり大学に通う学生のこと(日本俗語辞典より)。}}として角帽を被っていたという説<ref>池田1990、p.158</ref>、[[中央大学]][[商学部]]<ref>『讀賣年鑑』第1973巻、670ページ</ref>に入学したという説がある。中央大学説は[[関敬六]]が[[慶應義塾大学]]、[[谷幹一]]が[[早稲田大学]]、渥美清が中央大学という設定の芝居を行ったことがきっかけでそれをその後も踏襲したとも言われている<ref>秋野(2017)、p173。pp.178-182。秋野によると当時の[[アサヒグラフ]]にも中央大学卒と記されていた</ref>。
=== 実像 ===
『男はつらいよ』の「寅さん」の演技で社交性のある闊達さを印象付けていたが、実像は共演者やスタッフと真摯に向き合う一方で、公私混同を非常に嫌い、プライベートでは他者との交わりを避ける傾向だった。ロケ先での、撮影協力した地元有志が開く宴席にあまり顔を出さなかったものの、第48作では瀬戸内町主催のホテルの歓迎会に町の人を呼び、渥美清もグレーのジャージ上下とサンダル姿で30分ほど出席している<ref>『寅さんは生きている』pp.128-129</ref>{{efn|病に侵されるまでは地元の人々との交流があり、DVDのメイキングシーン(第8作等)やスナップ写真として残されている<ref>『寅さんは生きている』p.6</ref>。}}。
家族構成は妻と子供2人だが、[[原宿]]に「勉強部屋」として、自分個人用の[[マンション]]を借りており、そこに一人籠っていることが多かった。長男の田所健太郎が「親族の立場」で公の場に顔を出すのは渥美の死後だった{{R|nhk100}}{{efn|それ以前に健太郎が[[ニッポン放送]]のディレクターなどの立場で公式の場に出る際は、渥美の長男であることを社外では一切伏せていた。}}。渥美自身の結婚式は親族だけでささやかに行い、芸能記者の[[鬼沢慶一]]は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表することはなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。披露宴には、仕事仲間などは[[関敬六]]、[[谷幹一]]が出席し、司会はTBSの渥美番の[[杉山真太郎]]で『泣いてたまるか』の関係でTBSの番組宣伝部が担当した<ref>「寅さんは生きている」p.69。披露宴の妻正子さん、関、谷の写真も写っている</ref>。渥美は[[新珠三千代]]の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は「新珠三千代さんごめんなさい」との迷コメントを出した。
渥美は亡くなるまでプライベートを芸能活動の仕事に持ち込まなかったため、自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされておらず、「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友として知られる[[黒柳徹子]]、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった{{efn|放送業界に身を置いていた健太郎も、父に関しては一切伏せていたため、渥美の関係者がニッポン放送関連の仕事で健太郎と面識があったとしても、親族であることは知らなかった。}}。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている{{R|nhk100}}。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという{{R|nhk100}}。
脚本家・[[早坂暁]]とは20代に銭湯で知り合い、早坂を「ギョウさん」と呼んで、終生の友であった。渥美は常に「ギョウさん、俺も連れてってちょうだいよ」と早坂との旅行を大変楽しみにしていた。東京生まれのため田舎を持たない渥美にとって、特に早坂の故郷である[[愛媛県]][[北条市]](現・[[松山市]])や、沖合いにある「[[北条鹿島]]」はお気に入りで何度も同行している。早坂作のNHKドラマ『[[花へんろ]]』(早坂の自伝的ドラマ)ではナレーションを担当した{{Efn|渥美の死後に制作された第4部(『新・花へんろ』)では[[桂枝雀 (2代目)|2代目桂枝雀]]が担当した<ref>{{Cite news|和書|title=『花へんろ』第4部は難産 NHKの名作ドラマ 9年ぶり制作 5-6月6回放送|newspaper=読売新聞夕刊|date=1997-04-08|page=7}}</ref>。}}。これらの事情が、実現しなかった第49作『寅次郎花へんろ』の元になった<ref>風天(フーテン): 渥美清のうた p176</ref>。渥美の死後発見された晩年の手帳には「……旅行に行こう。家族とギョウさんにも声かけて一緒に行こう……」と綴ってあった。早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられないことを危惧しており、そのことはお別れ会の弔辞でも語っている(後記)。
1985年頃、渥美は[[尾崎放哉]]を演じたいと早坂に相談していたが<ref>堀切直人2007、pp.193-194</ref>、NHKが先に「海も暮れきる 小豆島の放哉」を放送したためその話は流れることになった。早坂が書いた「首人形-方哉の島」の脚本が完成したのは1993年で既に癌に侵されていてやれる体力がなく渥美は机に置いた脚本を見つめたまま一言も発しなかったという<ref>『寅さんは生きている」p.88-91</ref>。吉村昭の小説をもとにしたドラマは[[NHK松山放送局]]が1985年に制作・放映している{{efn|『海も暮れきる~小豆島の放哉~』1985年8月1日放映、放哉役は[[橋爪功]]で、第23回[[ギャラクシー賞]]奨励賞を受賞。}}。NHKの放送後、急遽題材を[[種田山頭火]]に変更することになり、渥美と早坂は今度は山頭火の取材旅行に訪れ、脚本も完成したにもかかわらず、クランクイン寸前になって、突然渥美から制作のNHKに「山頭火」降板の申し出があった。渥美降板により主役が[[フランキー堺]]となったこのドラマ『山頭火・なんでこんなに淋しい風ふく』は、[[モンテカルロ国際テレビ祭]](脚本部門ゴールデンニンフ=最優秀賞)を受賞し、フランキー堺は同最優秀主演男優賞を受賞している。早坂は渥美に、初期のテレビドラマ『泣いてたまるか』や、上記土曜ワイド劇場第1回作品の『田舎刑事』シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。
映画においては山田洋次、野村芳太郎両監督とは別に、『沓掛時次郎 遊侠一匹 』『祇園祭』『スクラップ集団』『あゝ声なき友 』『おかしな奴』の脚本を書いた[[鈴木尚之]]とのコンビも長い。なお渥美は、早坂と、関敬六、山田洋次らは46作目「寅次郎の縁談」(1993年公開)の撮影の合間を縫って放哉の墓参り、[[小豆島尾崎放哉記念館]]([[土庄町]])の建設現場へ訪れている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/kagawa/feature/CO041911/20220715-OYTAT50000/ |title=幻の「渥美放哉」 |publisher=読売新聞 |date=2022/07/15 05:00 |accessdate=2022-07-17}}</ref>。
上記著書の[[小林信彦]]は1960年代前半に放送作家として渥美と知り合い、独身時代はお互いの部屋で徹夜で語り合うなど親しい仲であった<ref>小林2016、pp.9-22</ref>。
渥美は[[松竹新喜劇]]の[[藤山寛美]]を高く評価しており、寛美の公演のパンフレットに渥美のコメントとして「私は藤山寛美という[[役者]]の[[芝居]]を唯、客席で観るだけで、[[楽屋]]には寄らずに帰える。帰る途すがら、好かったなー、上手いなー、憎たらしいなあー、一人大切に其の余韻をかみしめる事にしている」と書いていた。寛美も渥美が客席に来ていることを知ると、[[舞台]]で「おい、横丁のトラ公な、まだ帰ってこんのか?」と言うアドリブを発していた<ref>[[小林信彦]]『おかしな男 渥美清』(新潮文庫、2000年、pp.326-328)</ref>。非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていたが、「寅さん」とはまったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らにはほとんど気づかれなかったという。
[[山田洋次]]は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、[[台本]]を2・3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している<ref>「男はつらいよ DVD BOX」(松竹、2008年10月発売)、監督の特典インタビューにて(2008年収録)</ref>。
[[増村保造]]の映画『[[セックス・チェック 第二の性]]』を基にして作中男性だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男性だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。この構想はすでに[[早坂暁]]によって「渥美清子の青春」として、1968年にシナリオ化されている<ref>シナリオ作家協会発行「シナリオ」1968年8月号収録</ref>。
黒柳徹子は、プライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、『[[夢であいましょう]]』で共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。因みにそれを報道したスポーツ紙には、フランス座時代に幕間の[[コント]]で黒柳が小学生の頃いつも呼んでいた[[チンドン屋]]の格好をした時の写真が掲載された。これは当時マスコミがその写真しか得られなかったためである。黒柳は[[2006年]]は渥美の死去から10年と節目の年であったためか、渥美の事を話すこともしばしばあった。また[[森繁久彌]]は渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。
[[永六輔]]とは少年時代からの旧知であり、本人曰く渥美は永も所属した不良グループのボスだったという。また渥美が[[役者]]を目指すようになったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導されたことがあり、その時の刑事に「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われたことが[[役者]]を目指すきっかけになったとのことである<ref>「寅さんは生きている」p.54</ref>{{efn|上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、[[テキ屋]]稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のきっかけとなったとされている。}}。
[[田中秀征]]によるとスナックの経営者から買い取った田中の著書『自民党解体論』を熱心に読んでくれたという<ref>https://www.tanakashusei.jp/%E5%AF%B8%E8%A9%B1%E5%AF%B8%E8%A9%95/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E5%9B%9E-%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E8%A7%A3%E4%BD%93%E8%AB%96-%E3%81%A8%E7%A7%81/</ref>。
その他、プライベートでの交流があった芸能人として[[笹野高史]]、[[柄本明]]がいる。2人とも「男はつらいよ」シリーズの常連出演者で、芝居を見に行ったり、バーに飲みに行くこともあったという。笹野は『[[男はつらいよ 柴又より愛をこめて]]』以来山田作品の常連となるが、最初に山田監督へ笹野を紹介したのは渥美自身であった。
[[布袋寅泰]]は、渥美と同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然エレベーターの乗り口で会った際、渥美から「旅ですか?」と話しかけられ、とっさに「はい。北へ」と答えたのをきっかけに、正月に「つまらないものですが、台所の隅にでも飾ってやってください」と、『男はつらいよ』のカレンダーを部屋まで届けてくれたという<ref>[https://www.hotei.com/blog/2010/01/post-195.html 寅ちゃんと寅さん](2010年1月1日) - 布袋寅泰公式ブログ</ref>。
長男の田所健太郎は、[[ニッポン放送]]の入社試験の際、履歴書の家族欄に「父 田所康雄 職業 俳優」と書いたことから、採用担当者は[[大部屋俳優]]の時代劇の斬られ役と思っていたが、当時ニッポン放送に存在した新入社員の仕事を見る「父兄参観日」に渥美清が彼の父親として来社し社内は騒然となったという<ref>『寅さんは生きている』pp.25-26</ref>。健太郎は、[[講談社]]『[[月刊現代]]』2002年8月号の記事『七回忌を前に初めて書かれるエピソード、寅でも渥美清でもない父・田所康雄の素顔』で、渥美が健太郎の食器・食事に対する扱いに突然激高し、激しい暴行を何度も加える等の[[ドメスティック・バイオレンス]]が家族へ日常的に行われていたとも告白している。
晩年は[[俳句]]を趣味としていて『アエラ句会』([[AERA]]主催)において「風天」の[[俳号]]でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、[[文春文庫]] 2010年)に詳しく紹介されている。
秋野の著作によると、同じ浅草仲間の[[八波むと志]]が交通事故を起こし死亡したことがきっかけで、絶対に車を所有せず終生ハンドルを握らなかったという<ref>秋野(2017)、pp.134-135。但し下記の出演作品にあるように運転手役には何回か就いている</ref>。
倍賞によると「渥美が最後に病院に入っていた時、まるでお別れを告げるようにいろいろな人に電話をかけていたようで、夜中だったため電話を取ることが出来なかった」と著作で語っている<ref>>倍賞1997、pp.17-18</ref>。同様のことは付け人だった篠原靖治も述べており、篠原によると7月の入院前に突然渥美からかかってきた電話が最後の会話だった、と話している<ref>>篠原2019、pp.169-170</ref>。渥美自身共演したおじちゃん役の[[森川信]]を始め、芸能人の通夜や葬式には一切出席しなかったが、唯一出席しマスコミの取材に答えたのが1995年10月に亡くなった高羽哲夫の通夜であった<ref>篠原2019、pp.188-1190</ref><ref>小林2016、p.411</ref>。
== 出演 ==
=== 映画 ===
*[[男はつらいよ]]シリーズ(1969年 - 1995年、1997年、2019年 全50作)- 車寅次郎
**[[男はつらいよ (映画)|男はつらいよ]](1969年)
** [[続・男はつらいよ]](1969年)
** [[男はつらいよ フーテンの寅]](1970年)
** [[新・男はつらいよ]](1970年)
** [[男はつらいよ 望郷篇]](1970年)
** [[男はつらいよ 純情篇]](1971年)
** [[男はつらいよ 奮闘篇]](1971年)
** [[男はつらいよ 寅次郎恋歌]](1971年)
** [[男はつらいよ 柴又慕情]](1972年)
** [[男はつらいよ 寅次郎夢枕]](1972年)
** [[男はつらいよ 寅次郎忘れな草]](1973年)
** [[男はつらいよ 私の寅さん]](1973年)
** [[男はつらいよ 寅次郎恋やつれ]](1974年)
** [[男はつらいよ 寅次郎子守唄]](1974年)
** [[男はつらいよ 寅次郎相合い傘]](1975年)
** [[男はつらいよ 葛飾立志篇]](1975年)
** [[男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け]](1976年)
** [[男はつらいよ 寅次郎純情詩集]](1976年)
** [[男はつらいよ 寅次郎と殿様]](1977年)
** [[男はつらいよ 寅次郎頑張れ!]](1977年)
** [[男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく]](1978年)
** [[男はつらいよ 噂の寅次郎]](1978年)
** [[男はつらいよ 翔んでる寅次郎]](1979年)
** [[男はつらいよ 寅次郎春の夢]](1979年)
** [[男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花]](1980年)
** [[男はつらいよ 寅次郎かもめ歌]](1980年)
** [[男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎]](1981年)
** [[男はつらいよ 寅次郎紙風船]](1981年)
** [[男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋]](1982年)
** [[男はつらいよ 花も嵐も寅次郎]](1982年)
** [[男はつらいよ 旅と女と寅次郎]](1983年)
** [[男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎]](1983年)
** [[男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎]](1984年)
** [[男はつらいよ 寅次郎真実一路]](1984年)
** [[男はつらいよ 寅次郎恋愛塾]](1985年)
** [[男はつらいよ 柴又より愛をこめて]](1985年)
** [[男はつらいよ 幸福の青い鳥]](1986年)
** [[男はつらいよ 知床慕情]](1987年)
** [[男はつらいよ 寅次郎物語]](1987年)
** [[男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日]](1988年)
** [[男はつらいよ 寅次郎心の旅路]](1989年)
** [[男はつらいよ ぼくの伯父さん]](1989年)
** [[男はつらいよ 寅次郎の休日]](1990年)
** [[男はつらいよ 寅次郎の告白]](1991年)
** [[男はつらいよ 寅次郎の青春]](1992年)
** [[男はつらいよ 寅次郎の縁談]](1993年)
** [[男はつらいよ 拝啓車寅次郎様]](1994年)
** [[男はつらいよ 寅次郎紅の花]](1995年)
** [[男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇]](1997年)※
** [[男はつらいよ お帰り 寅さん]](2019年)※
※印作品は生前の映像を使用したライブラリ出演。
'''男はつらいよシリーズ以外の映画'''
[[File:Kiyoshi Atsumi Studio Still from Haikei Tenno Heika Sama 1963 Scan10003 161022.jpg|thumb|180px|『[[拝啓天皇陛下様]]』(1963年)]]
*若社長と爆発娘(1960年)- 大井社長
*唄祭ロマンス道中(1960年)- 三吉
*縞の背広の親分衆(1961年)- 胴脇
*腰抜け女兵騒動(1961年)- 三木本二等兵
*[[水溜り]](1961年)- 中年の男
*抱いて頂戴(1961年)- 教祖
* [[アトミックのおぼん|漫画横丁 アトミックのおぼん]]- マッハのズラ公
**[[漫画横丁 アトミックのおぼん スリますわヨの巻]](1961年)
**[[漫画横丁 アトミックのおぼん 女親分対決の巻]](1961年)
*地獄に真紅な花が咲く(1961年)- ドスキンの政
*[[図々しい奴]](1961年)- 衛兵司令
*投資令嬢(1961年)- 野崎
*東海一の若親分(1961年)- 関東綱五郎
*伴淳・森繁のおったまげ村物語(1961年)- 西向の三八
*[[南の島に雪が降る]](1961年)- 青田上等兵
*[[喜劇 にっぽんのお婆あちゃん]](1962年)- お巡りさん
*若き日の次郎長 東海道のつむじ風(1962年)- 関東綱五郎
*大江戸評判記 美男の顔役(1962年)- 暗闇の丑松
*喜劇団地親分(1962年)- 佐々木
*サラリーマン一心太助(1962年)- 葵光男
*おったまげ人魚物語(1962年)- 銀二
*東京さのさ娘(1962年)- 杉本勘太郎
*あいつばかりが何故もてる(1962年)- 小山田善六
*[[太平洋の翼]](1963年)- 丹下一飛曹{{R|全史536}}
*[[歌え若人達]](1963年)- 運転手
*[[無宿人別帳#映画|無宿人別帳]](1963年)- 市兵衛
*つむじ風(1963年)- 陣内陣太郎
*[[拝啓天皇陛下様]](1963年)- 山田正助
**[[続・拝啓天皇陛下様]](1964年)- 山口善助
*女弥次喜多 タッチ旅行(1963年)- 大八
*おかしな奴(1963年)- 三遊夢歌笑
*[[馬鹿まるだし]](1964年)- 万やん
*現代金儲け物語(1964年)- 上野留吉
*拝啓総理大臣様(1964年)- 鶴川角丸
*僕はボディガード(1964年)- 北一平
*散歩する霊柩車(1964年)- 毛利三郎
* 風来忍法帖 - 悪源太なり平
**[[風来忍法帖]](1965年)
**風来忍法帖 八方破れ(1968年)
*ブワナ・トシの歌(1965年)- トシ(片岡俊男)
*望郷と掟(1966年)- 山根
*[[何処へ (石坂洋次郎の小説)|何処へ]](1966年)- 野口長太郎
*[[沓掛時次郎 遊侠一匹]](1966年)- 身延の朝吉
*[[かあちゃんと11人の子ども]](1966年)- 吉田貞治
* 列車シリーズ
**[[喜劇急行列車]](1967年)- 青木吾一
**[[喜劇団体列車]](1967年)- 山川彦一
**[[喜劇初詣列車]](1968年)- 上田新作
*父子草(1967年)- 平井義太郎
*[[男なら振りむくな]](1967年)- 山角のおやじ
*経営学入門より ネオン太平記(1968年)- ゲイボーイ・カオル
*喜劇爬虫類(1968年)- 関元三郎
*[[燃えつきた地図#映画|燃えつきた地図]](1968年)- 田代
*白昼堂々(1968年)- 渡辺勝次
*[[祇園祭 (1968年の映画)|祇園祭]](1968年)- 伊平
*[[スクラップ集団]](1968年)- ホース
*[[でっかいでっかい野郎]](1969年)- 南田松次郎
*喜劇 女は度胸(1969年)- 桃山勉吉
*ひばり・橋の花と喧嘩(1969年)- 参竜斉清山
*明日また生きる(1970年)- 木村
*喜劇 男は愛嬌(1970年)- オケラの五郎
*[[トラ・トラ・トラ!]](1970年)- 炊事兵 ※日本公開版のみ
*[[家族 (映画)|家族]](1970年)- 連絡船の男
*[[あゝ声なき友]](1972年)- 西山民次
*[[故郷 (1972年の映画)|故郷]](1972年)- 松下松太郎
*東京ド真ン中(1974年)- 安夫の叔父・金之助
*[[砂の器#映画|砂の器]](1974年)- ひかり座の支配人
*[[ビューティフル・ピープル ゆかいな仲間]](1974年)- 日本語版ナレーター
*[[同胞 (映画)|同胞]](1975年)- 消防団団長
*友情(1975年)- 矢沢源太郎
*[[幸福の黄色いハンカチ]](1977年)- 渡辺勝次
*[[八つ墓村 (1977年の映画)|八つ墓村]](1977年)- [[金田一耕助]]
*[[皇帝のいない八月]](1978年)- 久保
*[[俺たちの交響楽]](1979年)- 西本
*[[遙かなる山の呼び声]](1980年)- 近藤
*[[キネマの天地]](1986年)- 喜八
*[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]](1987年)- ナレーター
*[[ダウンタウン・ヒーローズ]](1988年)- 春之助
*[[学校 (映画)|学校]](1993年)- 八百屋の親父
=== テレビドラマ ===
<!--単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照-->
[[File:Shosetsu-Club-1963-February-1.jpg|260px|thumb|<small>NHK『[[若い季節 (テレビドラマ)|若い季節]]』。左から渥美清、[[黒柳徹子]]、[[横山通乃|横山道代]]。</small>]]
*すいれん夫人とバラ娘(1957、日本テレビ) - 女探偵(朝丘雪路)のダメ助手役。渥美清のテレビドラマ初出演作。
*[[あんみつ姫#中原美紗緒版|あんみつ姫]](1958年 - 1960年、[[TBSテレビ|KR]])- 奴せんべい
*[[セールスマン水滸伝]](1959年 - 1961年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
*[[若い季節 (テレビドラマ)|若い季節]](1961年 - 1964年、[[日本放送協会|NHK]])- 平吉
*[[大番 (小説)#テレビドラマ|大番]](1962年 - 1963年、フジテレビ)- 赤羽丑之助
*[[四重奏 (テレビドラマ)|四重奏]](1964年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
*[[日曜劇場|東芝日曜劇場]](TBS、多数出演)
*[[ヨーイドン (1965年のテレビドラマ)|ヨーイドン]](1965年、フジテレビ)
*[[人形佐七捕物帳 (1965年のテレビドラマ)|人形佐七捕物帳]](1965年、NHK)- きんちゃくの辰五郎
*[[渥美清の泣いてたまるか]](1966年 - 1968年、[[TBSテレビ|TBS]])
*とし子さん 第七話(1966年、TBS / 国際放映)- 栗田
*[[おもろい夫婦]](1966年 - 1968年、フジテレビ)- 三遊亭歌笑
*[[くいしんぼ]](1967年、フジテレビ)
*[[不信のとき#1968年版|不信のとき]](1968年、日本テレビ)- ナレーション
*[[男はつらいよ#テレビドラマ|男はつらいよ]](1968年 - 1969年、フジテレビ)- 車寅次郎
*大きい目小さい目(1968年 - 1969年、TBS)
*[[渥美清の父ちゃんがゆく]](1969年、フジテレビ)
*[[おんなの劇場]] [[出雲の女]](1969年、フジテレビ)- 大関史郎
*[[すかぶら大将]](1969年、フジテレビ)- 轟鉄太郎
*[[おれの義姉さん]](1970年、フジテレビ)- 沖熊吉
*からすなぜ泣くの (1971年、NHK) - 鈴木大成
*[[おかしな夫婦]](1971年 - 1972年、フジテレビ)- 宗木五郎 (モデルは[[棟方志功]])
*むかしも今も(1972年、NET)- 直吉
*[[こんな男でよかったら]](1973年、[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]])- 余七五郎
*ヨイショ(1974年6月 - 11月、TBS)
*[[田舎刑事]](1977年 - 1979年、[[テレビ朝日]]) - 杉山松次郎
*[[ゆく年くる年 (民間放送テレビ)|ゆく年くる年]](1977年、フジテレビ)- 総合司会
*[[雲を翔びこせ]](1978年、TBS)- ナレーション
*放蕩かっぽれ節 (1978年、TBS)
*[[女たちの忠臣蔵]](1979年、TBS)- 長吉
* 幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040166_00000 |title=ドラマ 幾山河は越えたれど-昭和のこころ・古賀政男 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/MQ9oT |archivedate=2021-04-26 |accessdate=2021-04-27}}</ref>(1979年、NHK)- [[古賀政男]]
* [[天皇の料理番]](1980年10月 - 1981年3月、TBS)- ナレーション
* [[木曜ゴールデンドラマ]]「花嫁の父」(1981年4月23日、よみうりテレビ)- 輪田平吉
* [[花へんろ]]シリーズ(1985年 - 1988年、NHK)- ナレーション
=== 舞台 ===
*「南太平洋」- ルーサー・ビリス役
*「南の島に雪が降る」
=== ラジオ ===
*『渥美清 ローマンス劇場』
*『渥美清の男性諸君』
:いずれも「一慶・美雄の『[[夜はともだち]]』」内包番組([[TBSラジオ]] / 1976年〜1978年)
=== 音楽番組 ===
*[[第14回NHK紅白歌合戦]](1963年、NHK) - 応援ゲスト
=== CM ===
*[[コダック]]
*[[ハナマルキ]]
*[[エーザイ]]
*[[フマキラー]]「ベープ」(アニメCMで渥美清として登場)
*[[ブリヂストン]] 新・回転理論技術「DONUTS(ドーナツ)」 専属キャラクター{{efn|1995年から逝去後の1997年まで、「'''ニッポンのタイヤが変わります'''」のキャッチフレーズでCM出演していた。またこのCMは放映時期の季節に合わせて、渥美の服装と背景が変化した。}}
*[[ロート製薬]] 「[[パンシロン]]」{{efn|幼少時代の[[沢田聖子]]と共演(父親役の渥美清が沢田を肩車するシーン)したバージョンがあった。ちなみに渥美は前出のブリヂストンのCMと同じく晩年に「パンシロン新胃腸薬」のCMに復帰出演していたことがある。}}
*[[サントリー]]「サントリー生ビール ナマ樽」
*[[中外製薬]]「[[バルサン]]」
*[[いすゞ自動車]] 「[[いすゞ・エルフ|エルフ]]」
*[[東洋水産]] 「マルちゃんきつねうどん」
*[[日本アイ・ビー・エム]] 「[[IBMマルチステーション5550]]」
*[[ソフトバンクテレコム|日本テレコム]]
*[[国民年金基金]]
*[[朝日新聞]]{{efn|CMのキャッチコピーは「'''歴史は、あっちこっちでつくられる。'''」。[[コピーライター]]の神様と称される[[仲畑貴志]]の手によるものである。}}
*[[パイオニア]]「[[DVDレコーダー]]」(没後に製作)
== 音楽作品 ==
=== シングル ===
*彼奴ばかりがなぜもてる(1962年)
*恋すれど恋すれど物語/もててもてて困ってしまう(1963年、SA-1040)
*泣いてたまるか(TBS連続テレビドラマ「泣いてたまるか」主題歌)(B面:若いぼくたち/ミュージカル・アカデミー)(1966年5月10日)
*オー大和魂(TBS連続テレビドラマ「大和魂くん」主題歌)(B面:雨の降る日は天気が悪い)(1968年10月)
*男はつらいよ(フジテレビ連続テレビドラマ「男はつらいよ」主題歌、松竹映画「男はつらいよ」主題歌、アニメ『男はつらいよ〜寅次郎忘れな草〜』主題歌)(B面:チンガラホケキョーの唄)(1970年2月10日)
*ごめんくださいお訪ねします(松竹映画「あゝ声なき友」主題歌)(B面:あゝ声なき友)(1972年3月25日)
*さくらのバラード(歌:倍賞千恵子)(B面:寅さんの子守唄)(1972年4月10日)
*こんな男でよかったら(B面:ひとは誰でも)([[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]ドラマ「[[こんな男でよかったら]]」)(1973年4月5日)
*いつかはきっと(掛け声:山田パンダ)(TBSテレビドラマ「ヨイショ」主題歌)(B面:遠くへ行きたい)(1974年8月25日)
*寅さん音頭(B面:赤とんぼ)(1975年7月5日)
*祭りのあと(B面:駅弁唱歌)(1975年9月5日)
*渥美清の啖呵売I(B面:渥美清の啖呵売りII)(1976年6月25日)
*浅草日記(B面:すかんぽの唄)(1977年6月25日)
*今日はこれでおしまい (B面:着流し小唄)(1977年10月25日)
*DISCO・翔んでる寅さん(B面:寅さん音頭)(1979年7月25日)
=== アルバム ===
*渥美清が歌う哀愁の日本軍歌集(1968年12月5日)
*渥美清が歌う哀愁の昭和叙情曲集(1970年4月)
*噫々戦友の詩(きけわだつみのこえ)より(1971年)
*男はつらいよフーテンの寅と発します!(1971年11月)
*男はつらいよ名場面集(第一集)
*男はつらいよ名場面集(第二集)
*男はつらいよ名場面集(第三集)(1974年)
*渥美清ベストヒット28(1976年)
== 編著書 ==
*[[サンデー毎日]] 編集部編『渥美清わがフーテン人生』([[毎日新聞社]]、1996年)
*渥美清『きょうも涙の日が落ちる 渥美清のフーテン人生論』(展望社、2003年)
*森英介編『赤とんぼ 渥美清句集』(本阿弥書店、2009年)
== 親族 ==
父 友次郎:[[1884年]]〜[[1956年]]10月31日 [[行年]]72、[[戒名]]は釈友教[[信士]]<br />
母 タツ:[[1892年]]〜[[1970年]]6月13日 行年78、戒名は釈妙達[[信女]]<br />
兄 健一郎 [[1925年]]〜[[1947年]]5月12日 行年22、戒名は釈義健道信士<br />
妻 正子<br />
長男 [[田所健太郎]] 株式会社[[ニッポン放送]]に所属していたラジオ[[ディレクター]]。主な担当番組に[[伊集院光のOh!デカナイト]]、[[(有)チェリーベル]]がある。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。<br />
長女 幸恵
;[[山岡和美]]
:元ニッポン放送アナウンサー、長男の妻。
== 渥美清を演じた人物 ==
=== テレビドラマ ===
*[[南原清隆]] - 『[[渥美清のあぁ、青春日記]]』(1997年9月24日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-32275|title=渥美清のああ、青春日記 国民的英雄「寅さん」の過去に迫る!死の恐怖を乗り越え愛と友情に生きた日々|accessdate=2016-08-22|publisher=[[テレビドラマデータベース]]}}</ref>
*[[中村獅童 (2代目)|中村獅童]] - 『[[トットてれび]]』(2016年、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2067514/full/|title=満島ひかり、黒柳徹子役に決定 NHKドラマ『トットてれび』出演者発表|publisher=ORICON STYLE|date=2016-02-26|accessdate=2016-02-26}}</ref>
*[[柄本佑|柄本祐]] - 没後20年ドキュメンタリードラマ 『おかしな男〜寅さん夜明け前 渥美清の青春〜』(2016年8月4日、[[NHK BSプレミアム]])(主演)
*[[山崎樹範]] - 『[[トットちゃん!]]』(2017年、[[テレビ朝日]])
=== ものまね([[そっくりさん]]) ===
*[[原一平]] - 渥美本人も生前から認めていた、唯一の渥美清公認のものまね芸人。寅さんのものまねをする際に着用する衣装は渥美本人が映画で実際に使っていたのを譲り受けた物である。
*[[佐々木つとむ]] - 1970年代に人気を博した。
*フランクさな寅 - ([https://web.archive.org/web/20070928200719/http://will02.com/cgi/blog/sanatora/index.cgi フランクさな寅ブログ]) 広島県で活躍している「広島の寅さん」。TSSのローカルドラマ「[[親子笑劇場電太郎一家]]」にドラ猫のドラ役で出演していた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2
|refs=
<ref name="全史536">{{Harvnb|東宝特撮映画全史|1983|pp=536-537|loc=「主要特撮作品配役リスト」}}</ref>
<ref name="ike16">池田1990、p.16</ref>
<ref name="悔いなき">{{Cite book|和書|title=悔いなきわが映画人生:東映と、共に歩んだ50年|author=岡田茂|authorlink=岡田茂 (東映)|publisher=財界研究所|year=2001|isbn=4-87932-016-1|pages=145-146}}</ref>
<ref name="hori43">堀切直人2007、p.43</ref>
<ref name="yoshimura1997">吉村(2017)、pp.381-384。吉村の山田インタビューより</ref>
<ref name="chi158">『知識ゼロからの寅さん入門』、p.158</ref>
<ref name="キネ旬19969">{{Cite journal|和書|author=石坂昌三|issue=1996年9月下旬号|title=評伝・渥美清 『寅さん』渥美清の軌跡|journal=[[キネマ旬報]]|page=65}}</ref>
<ref name="実業界199611">{{Cite journal|和書|author=油井宏之|issue=1996年11月号|title=多チャンネル時代到来で注目される"映画界"の雄『東映』発展の足跡 東映会長・岡田茂インタビュー 『デジタル時代を迎えても即応型の東映は大丈夫だ』|journal=実業界|publisher=実業界|pages=104–105頁}}</ref>
<ref name="nhk100">NHK『[[100年インタビュー]]』(山田洋次の回想より){{出典無効|date=2022年3月}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=東宝特撮映画全史|others=監修 [[田中友幸]]|date=1983-12-10|publisher=[[東宝]]出版事業室|isbn=4-924609-00-5|ref={{SfnRef|東宝特撮映画全史|1983}}}}
*池田荘太郎「男はつらいよ」うちあけ話(主婦と生活社、1990)
*さらば友よ([[関敬六]]、ザ・マサダ、1996年)
*吉岡範明『渥美清 役者もつらいよ』(双葉社、1996)
*日刊スポーツ新聞社文化部編『寅さんは生きている』([[朝日ソノラマ]]、1997)
*倍賞千恵子『お兄ちゃん』(廣済堂出版、1997)
*生きてんの精いっぱい 人間・渥美清(篠原靖治、主婦と生活社、1997年)
*渥美清晩節、その愛と死:最後の付き人が見守った「寅さん」一四年間の真実(篠原靖治、祥伝社、2003年)
**最後の付き人が見た 渥美清 最後の日々:「寅さん」一四年間の真実(篠原靖治、祥伝社黄金文庫、2019年)
*渥美清の伝言(NHK「渥美清の伝言」制作班編、KTC中央出版、1999年)
*おかしな男 渥美清([[小林信彦]]、新潮社、2000年)
**おかしな男 渥美清(小林信彦、[[新潮文庫]]、2003年)
**おかしな男 渥美清(小林信彦、[[ちくま文庫]]、2016年)
*拝啓 渥美清様([[読売新聞]]社会部編、[[中央公論新社]]、2000年)
**拝啓 渥美清様(読売新聞社会部編、[[中公文庫]]、2006年)
*知られざる渥美清([[大下英治]]、[[廣済堂出版|廣済堂]]文庫、2002年)
*渥美清 浅草・話芸・寅さん([[堀切直人]]、[[晶文社]]、2007年)
*渥美清の肘突き:人生ほど素敵なショーはない([[福田陽一郎]]、[[岩波書店]]、2008年)
*吉村英夫『「男はつらいよ」の世界』(集英社、2017)
*私が愛した渥美清([[秋野太作]]、光文社、2017年)
*文人たちの俳句(坂口昌弘、本阿弥書店、2014年)
*「50周年!男はつらいよ ぴあ」([[ぴあ]]、2019)
*川本三郎監修、岡本直樹・藤井勝彦著『知識ゼロからの寅さん入門』(幻冬舎、2019)
== 関連項目 ==
* [[柴又八幡神社古墳]] - 2001年8月4日(渥美の命日)に出土した人物埴輪頭部が、車寅次郎に似ているとして「寅さん埴輪」と呼ばれている。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kiyoshi_Atsumi}}
*[https://www.katsushika-kanko.com/tora/ 柴又寅さん記念館(葛飾区)公式ホームページ]
*{{Tvdrama-db name}}
*{{jmdb name |0025570 }}
*{{allcinema name |121757 }}
*{{kinejun name |85879 }}
*{{Movie Walker name|id=81021|name=渥美清}}
*{{imdb name |id=0040910 |name=渥美清 }}
*{{NHK人物録|D0009070454_00000}}
{{国民栄誉賞}}
{{男はつらいよ}}
{{毎日芸術賞}}
{{キネマ旬報ベスト・テン主演男優賞}}
{{ブルーリボン賞主演男優賞}}
{{毎日映画コンクール男優主演賞}}
{{日刊スポーツ映画大賞主演男優賞}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:あつみ きよし}}
[[Category:渥美清|*]]
[[Category:日本の男優]]
[[Category:日本の男性コメディアン]]
[[Category:演歌歌手]]
[[Category:ヤクザ映画の俳優]]
[[Category:日本のラジオパーソナリティ]]
[[Category:日本のナレーター]]
[[Category:松竹の俳優]]
[[Category:日本クラウンのアーティスト]]
[[Category:紫綬褒章受章者]]
[[Category:国民栄誉賞受賞者]]
[[Category:日本のカトリック教会の信者]]
[[Category:結核に罹患した人物]]
[[Category:肺癌で亡くなった人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1928年生]]
[[Category:1996年没]] | 2003-03-10T08:49:01Z | 2023-12-09T00:28:21Z | false | false | false | [
"Template:Imdb name",
"Template:Cite web",
"Template:Cite journal",
"Template:Kinejun name",
"Template:ブルーリボン賞主演男優賞",
"Template:毎日映画コンクール男優主演賞",
"Template:没年齢",
"Template:Allcinema name",
"Template:国民栄誉賞",
"Template:Quotation",
"Template:男はつらいよ",
"Template:キネマ旬報ベスト・テン主演男優賞",
"Template:Commonscat",
"Template:Tvdrama-db name",
"Template:日刊スポーツ映画大賞主演男優賞",
"Template:出典の明記",
"Template:TVWATCH",
"Template:Efn",
"Template:Movie Walker name",
"Template:ActorActress",
"Template:R",
"Template:Notelist",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Normdaten",
"Template:Cite book",
"Template:Jmdb name",
"Template:毎日芸術賞",
"Template:Cite news",
"Template:NHK人物録"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A5%E7%BE%8E%E6%B8%85 |
3,749 | Java Platform, Standard Edition | Java Platform, Standard Edition または Java SE は、多くのJavaプラットフォームプログラムで利用されるJava APIの集合体である。Java仮想マシン、APIなどから構成される。バージョン1.2からバージョン5.0までは Java 2 Platform, Standard Edition または J2SE と呼ばれていた(詳細はJavaバージョン履歴を参照)。
J2SEバージョン1.4 (Merlin) 以降、Java SEプラットフォームはJava Community Process (JCP) の下で開発されている。JSR 59はJ2SE 1.4の包括仕様であり、JSR 176はJ2SE 5.0 (Tiger) を、JSR 270はJava SE 6 (Mustang) を規定している。Java SE 7 (Dolphin) はJSR 336の下でリリースされた。
Java SEでは標準的な機能のみが定められており、サーバ関連の機能についてはJava SEを拡張した企業向けのエディションであるJakarta EE(旧称: Java Platform, Enterprise Edition / Java EE)にて定義されている。
下記は主要なJava SEパッケージの説明である。全てのパッケージリストはJava SE 9 API Javadocsを参照。
Javaの基本的なパッケージ。
パッケージ java.lang は、言語とランタイム(実行)システムに緊密な基本的なクラスとインタフェースを含む。これはクラス階層を形成する基底クラス、言語仕様に密接な型、基本的な例外、数学関数、スレッド、セキュリティ関数、下位にあるネイティブシステムに関する情報も含む。
java.langの主なクラス:
java.langのクラスはソースファイルでimport宣言をせずとも自動的にインポートされる。
java.lang.refパッケージは、他の可能な許可するアプリケーションとJava仮想マシン (JVM) ガベージコレクタとの間の限定的な相互関係よりも柔軟な参照型を提供する。それは重要なパッケージであり、それに"java.lang"で始まる名前を与えた言語設計者のための言語として十分に中核をなしたが、それはいくぶん特殊目的であり多くの開発者は使わない。このパッケージはJ2SE1.2から追加された。
Javaは多くのガベージコレクトされたプログラミング言語より柔軟な参照システムを持ち、ガベージコレクションに特別な振る舞いを許可する。Javaにある通常の(言語組み込みの)参照は「強参照 (strong reference)」として知られている。java.lang.refパッケージは3つの弱い参照型(ソフト参照SoftReference、弱参照WeakReference、ファントム参照PhantomReference)を定義している。各々の参照型は特殊な用途のために設計されている。
SoftReference はキャッシュを実装するために使われている。オブジェクトは強到達可能 (strongly reachable) つまり強参照によって到達可能ではないが、ソフト到達可能 (softly reachable) と呼ばれるソフト参照によって参照されている。ソフト到達可能なオブジェクトはガベージコレクタの自由裁量によってガベージコレクトされるかもしれない。これは一般的にソフト到達可能なオブジェクトは空きメモリが少ないときのみガベージコレクトされるだろうということを意味する。ところが、それはガベージコレクタの自由裁量にある。意味的に言えば、ソフト参照は「メモリが必要とされなくなるまでこのオブジェクトを保持せよ」ということを意味する。
WeakReference は弱マップを実装するために使われている。強到達可能またはソフト到達可能でなく弱参照によって参照されているオブジェクトは、弱到達可能 (weakly reachable) と呼ばれる。弱到達可能なオブジェクトは次の回収サイクルの間にガベージコレクトされる。この振る舞いはクラスjava.util.WeakHashMapによって使われている。プログラマは弱マップにキー/値ペアを挿入でき、キーがどこからも到達可能でなくなるかどうかを心配する必要がなく、オブジェクトがメモリを占有する可能性を心配しなくてよい。意味的に言えば、弱参照は「他にそれを参照するものが無いときはこのオブジェクトを除去せよ」を意味する。
PhantomReference はガベージコレクションにマークされているオブジェクトを参照するために使われており、ファイナライズされているが、未だに再利用されていない。オブジェクトは強、ソフト、弱到達可能でないが、ファントム到達可能 (phantom reachable) と呼ばれるファントム参照によって参照されている。これはファイナライゼーションメカニズムのみによって可能なものよりもより柔軟なクリーンナップを可能にする。意味的に言えば、ファントム参照は「このオブジェクトは長い間必要とされなくなりコレクトされる準備をしている状態でファイナライズされている。」を意味する。
これらの各々の参照型はReferenceクラスを継承し、リファレント(指示対象オブジェクト)(または、もし参照がクリアされているか参照型がファントムであるならばnull)への強参照を返すget()メソッド および、リファレンスをクリアするclear()メソッドを提供する。
java.lang.ref もまた参照型が変わるオブジェクトを保持するために上記で検討された各々のアプリケーションが使われるクラスReferenceQueueを定義する。 Referenceが生成されるとき、それは任意にリファレンスキューに登録される。アプリケーションは到達可能性状態の変化した参照を得るためのリファレンスキューを監視する。
参照型とリファレンスキューのより首尾よい説明は"Reference Objects and Garbage Collection" を参照。
リフレクションはJavaコード調査や、実行時のJavaコンポーネントやリフレクトされたメンバを使用する上での「リフレクト」を可能にするJava APIの構成要素である。このパッケージにあるクラスは、java.lang.Classとjava.lang.Packageに加えて、デバッガやインタプリタ、オブジェクトインスペクタ(調査)、クラスブラウザのようなアプリケーション、オブジェクトシリアライゼーションやJavaBeansのようなサービスに適合し、(その実行クラスを基礎とする)ターゲットとなるオブジェクトのpublicメンバまたは与えられたクラスによって宣言されたメンバにアクセスする必要がある。このパッケージはJDK1.1より追加された。
リフレクションはインスタンスによって使われ、それらの名前を使ってメソッドを呼び出す、動的プログラミングを許可する着想である。クラス、インタフェース、メソッド、フィールド、コンストラクタはすべて実行時に見つけて利用することができる。メタデータによってサポートされているリフレクションはそのプログラムの近くにあるJVMである。そこにはリフレクションによって呼び出された二つの技術がある。
Discoveryはだいたいオブジェクトから始まり、Classのオブジェクトを取得するObject.getClass()メソッドを呼び出す。Classオブジェクトはクラスの中身を発見する数種のメソッドを持つ。以下にその例を示す:
Classオブジェクトは「クラスリテラル」(e.g. MyClass.class) を使用すること、またはメンバのシンボル名を使うことで得られる (e.g. Class.forName("mypackage.MyClass"))。Classオブジェクト、メンバMethod、Constructor、Fieldオブジェクト、などの名前による発見を通して得られる。例:
Method、Constructor、Fieldオブジェクトはクラスのメンバを表現した動的アクセスで利用することができる。例:
Object...引数に留まるものはメソッドによって渡される。(もしMethodオブジェクトが静的メソッドである場合は第一Object引数が無視されてnullとなることがある。)
java.lang.reflectパッケージもまた静的メソッドを含み配列オブジェクトを巧みに扱うArrayクラスと、J2SE1.3以降登場した、特定のインタフェースを実装したプロキシクラスの動的生成をサポートするProxyクラスを提供する。
Proxyクラスの実装はInvocationHandlerインタフェースを実装した補給オブジェクトによって提供される。
InvocationHandlerの invoke(Object, Method, Object[]) メソッドはプロキシオブジェクトで呼び出された各々のメソッドに呼ばれる。—第一引数はプロキシオブジェクト、第二引数はプロキシによって実装されたインタフェースメソッドMethodオブジェクト、第三引数はインタフェースメソッドへ渡す引数の配列である。invoke()メソッドはプロキシインタフェースメソッドを飛ぶコードを戻り値として含むObjectを戻り値として返す。
java.ioパッケージは入出力(I/O)をサポートするクラスを含む。 パッケージにあるクラスは本来ストリーム指向である。; しかしながら、ランダムアクセスファイル (コンピュータ)としてのクラスもまた提供されている。パッケージで中心となるクラスはそれぞれバイトストリームの読み書きを行う抽象クラスであるInputStreamとOutputStreamである。このパッケージもまた多数のファイルシステムとの相互作用をサポートする多少の様々なクラスを持っている。
ストリームクラスはストリームクラスに特色を加えたベースとなるサブクラスを拡張したDecoratorパターンに沿っている。ベースとなるストリームクラスのサブクラスはたいてい以下の特質を用いて名付けられる。:
ストリームサブクラスはXxxが特色を記述しStreamTypeがInputStream、OutputStream、Reader、Writerのような名前をもつパターンXxxStreamTypeを使って名付けられる。
以下の表はjava.ioパッケージが直にサポートする送信元/送信先を示す:
他の標準ライブラリパッケージは、java.net.Socket.getInputStream()メソッドやJava EEのjavax.servlet.ServletOutputStreamクラスが返すInputStreamのような他の送信先としてストリーム実装を提供する。
データ型ハンドリング、ストリームデータのプロセッシングやフィルタリングはストリームフィルタを通してできあがっている。フィルタクラスはすべて、コンストラクタの引数としてもう一つの互換ストリームオブジェクトを受け入れ、追加された特色とともに囲まれたストリームをデコレート(decorate)する。ベースとなるフィルタクラスFilterInputStream、FilterOutputStream、FilterReader、FilterWriterを拡張することでフィルタは生成される。
ReaderとWriterクラスは真に、バイトを文字にコンバートするためのデータストリームで追加処理を行うバイトストリームである。それらはJ2SE5.0から登場した静的メソッドjava.nio.charset.Charset.defaultCharset()によって返されるCharsetを使う。InputStreamReaderクラスはInputStreamをReaderへとコンバートし、OutputStreamWriterクラスはOutputStreamをWriterへコンバートする。これら双方のクラスは特別に役立つ文字エンコーディングを許可するコンストラクタを持っている—もしエンコーディングが指定されていなければ、プラットフォームにあるデフォルトエンコーディングを使用する。
以下の表はjava.ioパッケージを直にサポートする他の処理、フィルタを示す。これらのクラスはすべてFilterクラスに相当するものを継承している。
RandomAccessFileクラスはファイルのランダムアクセス読み書きをサポートする。このクラスはファイル内の次の読込または書込命令を行うバイトオフセットを表現するファイルポインタを使用する。ファイルポインタは読み書きによって無条件に動かされ、 seek(long)またはskipBytes(int)メソッドによって明確になる。 ファイルポインタのカレントポジションはgetFilePointer()メソッドによって返される。
File クラスはファイルシステムのファイルやディレクトリパスを表現する。 Fileオブジェクトはファイル、ディレクトリの生成、削除、リネームや「読み取り専用」や「最終更新タイムスタンプ」のようなファイル属性操作をサポートする。File オブジェクトはファイルとディレクトリを含むすべてのリストを得るために使われるディレクトリを表現することができる。 FileDescriptor クラスはバイトの送信元または廃棄先(送信先)を表現するファイル記述子である。一般的にこれはファイルであるが、コンソールやネットワークソケットにすることもできる。 FileDescriptor オブジェクトはFile ストリームを生成するために使われている。それらは File ストリーム、java.net ソケットやデータグラムソケットから得られる。
J2SE 1.4では、パッケージjava.nio (NIO または New I/O) がメモリマップドI/O、ときどき劇的にベターなパフォーマンスを得る基本ハードウェアと、よりいっそう親密な入出力命令を容易にするサポートが追加された。java.nio パッケージはバッファ型サポートを提供する。サブパッケージ java.nio.charset は文字データとは異なる文字エンコーディングサポートを提供する。サブパッケージ java.nio.channels はファイルやソケットのようなI/O命令演算能力がある資格を与える接続を表現する「チャネル」サポートを提供する。java.nio.channels パッケージもまたファイルのきめ細かいロックサポートを提供する。
java.math package (剰余演算を含む)多倍長精度の演算をサポートし暗号鍵を生成するための多倍長の素数生成を提供する。 以下にパッケージのメインクラスを示す:
java.net パッケージは他の共通トランザクションと同じくらい良質のHTTPリクエストネットワーク向けに特別なI/Oルーチンを提供する。
java.text パッケージは文字列をパースするルーチンを実装し、様々な自然言語、ロケールに依存したパースをサポートする。
java.utilパッケージの中心である集約したオブジェクトデータ構造。 パッケージに含まれているものは、デザインパターンを非常に考慮したデータ構造階層、コレクションAPI(コンテナ)である。
Javaアプレット生成をサポートするために作られたjava.appletパッケージはネットワーク越しにダウンロードされた保護されたサンドボックス上で動くアプリケーションを許可する。セキュリティ制約は簡単にサンドボックスに適用される。開発者は、例えば、それが安全であることを示すために、アプレットに電子署名を適用することができる。(ローカルハードドライブにアクセスするような)制限された処理を行うアプレットの許可を認めるため、そういう行為をユーザに許し、サンドボックスの制限を部分的または全て取り払う。デジタル証明書はThawteやEntrustのような機関によって発行される。
java.beansパッケージに含まれているものは開発やbean操作のための様々なクラスであり、JavaBeansアーキテクチャによって定義された再利用コンポーネントである。アーキテクチャはコンポーネントのプロパティ操作やそれらのプロパティが変更されたときの発火イベントのメカニズムを提供する。
java.beansにあるAPIの多くはbeanが結合、カスタマイズ、操作されうるbean編集ツールによる使用として書かれている。beanエディタのとあるタイプは、IDEにあるGUIデザイナである。
The Abstract Windowing Toolkit(AWT)は基本的なGUI命令をサポートするルーチンを含み、 基礎を成すネィティブシステムから基本的なウィンドウズを使用する。Java API(GNUのlibgcjのような)多くの独自実装は何もかも実装しているがしかし、AWTは多くのサーバサイドアプリケーションで使われていない。このパッケージもまたJava 2DグラフィックAPIを含んでいる。
java.rmi パッケージは異なるJVM上にある2つのJavaアプリケーション間でのRPCをサポートする Java Remote Method Invocationを提供する。
メッセージダイジェストアルゴリズムを含んでいるセキュリティサポートはjava.security に含まれている。
JDBC API (SQLデータベース接続で使用)の実装はjava.sqlパッケージにまとめられている。
アプリケーション間のリモート間通信を提供し、RMI over IIOPプロトコルを使用する。このプロトコルはRMIとCORBAと連携させる。
general inter ORB protocolを使用するアプリケーション間のリモート間通信をサポートし、CORBAの他のフィーチャーをサポートする。RMIとRMI-IIOPと同じく、このパッケージは(通常、ネットワーク経由で)他の仮想マシン上で動いているオブジェクトのリモートメソッドを呼ぶためにある。 すべての通信可能性からCORBAは様々なプログラミング言語でもっともポータブルである。しかしながら、それはCORBAを理解することをもいくぶん難しくしている。
Swingはプラットフォーム非依存のウィジェット・ツールキットを提供するjava.awtを基礎とするルーチンの集合である。Swingは下層のネイティブOS独自のGUIサポートに頼る代わりに、ユーザインタフェースコンポーネントをレンダリングするために2次元描画ルーチンを使用する。
GUI上のウィジェットが下層のネイティブシステムから模倣することができるように、Swingは着脱可能なルック・アンド・フィール (PLAFs; pluggable looks and feels) をサポートする。システム全体に行き渡っているデザインパターン、特にMVCパターンの改良版は、機能と外観との間の結合度を緩めている。1点、統一されていないのは、(J2SE 1.3現在において)フォントがJavaではなく下層のネイティブシステムによって描画されるということであり、これによりテキスト移植性を限定してしまっている。次善策としては、ビットマップフォントを使うことが挙げられる。一般的に「レイアウト」が使用され、これは要素をクロスプラットフォームかつ審美眼的に一貫したGUIに保つ。
様々なウェブブラウザやウェブボットの記述に関して使われる、エラー耐性のあるHTMLパーサを提供する。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "Java Platform, Standard Edition または Java SE は、多くのJavaプラットフォームプログラムで利用されるJava APIの集合体である。Java仮想マシン、APIなどから構成される。バージョン1.2からバージョン5.0までは Java 2 Platform, Standard Edition または J2SE と呼ばれていた(詳細はJavaバージョン履歴を参照)。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "J2SEバージョン1.4 (Merlin) 以降、Java SEプラットフォームはJava Community Process (JCP) の下で開発されている。JSR 59はJ2SE 1.4の包括仕様であり、JSR 176はJ2SE 5.0 (Tiger) を、JSR 270はJava SE 6 (Mustang) を規定している。Java SE 7 (Dolphin) はJSR 336の下でリリースされた。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "Java SEでは標準的な機能のみが定められており、サーバ関連の機能についてはJava SEを拡張した企業向けのエディションであるJakarta EE(旧称: Java Platform, Enterprise Edition / Java EE)にて定義されている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "下記は主要なJava SEパッケージの説明である。全てのパッケージリストはJava SE 9 API Javadocsを参照。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "Javaの基本的なパッケージ。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "パッケージ java.lang は、言語とランタイム(実行)システムに緊密な基本的なクラスとインタフェースを含む。これはクラス階層を形成する基底クラス、言語仕様に密接な型、基本的な例外、数学関数、スレッド、セキュリティ関数、下位にあるネイティブシステムに関する情報も含む。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "java.langの主なクラス:",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "java.langのクラスはソースファイルでimport宣言をせずとも自動的にインポートされる。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "java.lang.refパッケージは、他の可能な許可するアプリケーションとJava仮想マシン (JVM) ガベージコレクタとの間の限定的な相互関係よりも柔軟な参照型を提供する。それは重要なパッケージであり、それに\"java.lang\"で始まる名前を与えた言語設計者のための言語として十分に中核をなしたが、それはいくぶん特殊目的であり多くの開発者は使わない。このパッケージはJ2SE1.2から追加された。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "Javaは多くのガベージコレクトされたプログラミング言語より柔軟な参照システムを持ち、ガベージコレクションに特別な振る舞いを許可する。Javaにある通常の(言語組み込みの)参照は「強参照 (strong reference)」として知られている。java.lang.refパッケージは3つの弱い参照型(ソフト参照SoftReference、弱参照WeakReference、ファントム参照PhantomReference)を定義している。各々の参照型は特殊な用途のために設計されている。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "SoftReference はキャッシュを実装するために使われている。オブジェクトは強到達可能 (strongly reachable) つまり強参照によって到達可能ではないが、ソフト到達可能 (softly reachable) と呼ばれるソフト参照によって参照されている。ソフト到達可能なオブジェクトはガベージコレクタの自由裁量によってガベージコレクトされるかもしれない。これは一般的にソフト到達可能なオブジェクトは空きメモリが少ないときのみガベージコレクトされるだろうということを意味する。ところが、それはガベージコレクタの自由裁量にある。意味的に言えば、ソフト参照は「メモリが必要とされなくなるまでこのオブジェクトを保持せよ」ということを意味する。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "WeakReference は弱マップを実装するために使われている。強到達可能またはソフト到達可能でなく弱参照によって参照されているオブジェクトは、弱到達可能 (weakly reachable) と呼ばれる。弱到達可能なオブジェクトは次の回収サイクルの間にガベージコレクトされる。この振る舞いはクラスjava.util.WeakHashMapによって使われている。プログラマは弱マップにキー/値ペアを挿入でき、キーがどこからも到達可能でなくなるかどうかを心配する必要がなく、オブジェクトがメモリを占有する可能性を心配しなくてよい。意味的に言えば、弱参照は「他にそれを参照するものが無いときはこのオブジェクトを除去せよ」を意味する。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "PhantomReference はガベージコレクションにマークされているオブジェクトを参照するために使われており、ファイナライズされているが、未だに再利用されていない。オブジェクトは強、ソフト、弱到達可能でないが、ファントム到達可能 (phantom reachable) と呼ばれるファントム参照によって参照されている。これはファイナライゼーションメカニズムのみによって可能なものよりもより柔軟なクリーンナップを可能にする。意味的に言えば、ファントム参照は「このオブジェクトは長い間必要とされなくなりコレクトされる準備をしている状態でファイナライズされている。」を意味する。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "これらの各々の参照型はReferenceクラスを継承し、リファレント(指示対象オブジェクト)(または、もし参照がクリアされているか参照型がファントムであるならばnull)への強参照を返すget()メソッド および、リファレンスをクリアするclear()メソッドを提供する。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "java.lang.ref もまた参照型が変わるオブジェクトを保持するために上記で検討された各々のアプリケーションが使われるクラスReferenceQueueを定義する。 Referenceが生成されるとき、それは任意にリファレンスキューに登録される。アプリケーションは到達可能性状態の変化した参照を得るためのリファレンスキューを監視する。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "参照型とリファレンスキューのより首尾よい説明は\"Reference Objects and Garbage Collection\" を参照。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "リフレクションはJavaコード調査や、実行時のJavaコンポーネントやリフレクトされたメンバを使用する上での「リフレクト」を可能にするJava APIの構成要素である。このパッケージにあるクラスは、java.lang.Classとjava.lang.Packageに加えて、デバッガやインタプリタ、オブジェクトインスペクタ(調査)、クラスブラウザのようなアプリケーション、オブジェクトシリアライゼーションやJavaBeansのようなサービスに適合し、(その実行クラスを基礎とする)ターゲットとなるオブジェクトのpublicメンバまたは与えられたクラスによって宣言されたメンバにアクセスする必要がある。このパッケージはJDK1.1より追加された。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "リフレクションはインスタンスによって使われ、それらの名前を使ってメソッドを呼び出す、動的プログラミングを許可する着想である。クラス、インタフェース、メソッド、フィールド、コンストラクタはすべて実行時に見つけて利用することができる。メタデータによってサポートされているリフレクションはそのプログラムの近くにあるJVMである。そこにはリフレクションによって呼び出された二つの技術がある。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "Discoveryはだいたいオブジェクトから始まり、Classのオブジェクトを取得するObject.getClass()メソッドを呼び出す。Classオブジェクトはクラスの中身を発見する数種のメソッドを持つ。以下にその例を示す:",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "Classオブジェクトは「クラスリテラル」(e.g. MyClass.class) を使用すること、またはメンバのシンボル名を使うことで得られる (e.g. Class.forName(\"mypackage.MyClass\"))。Classオブジェクト、メンバMethod、Constructor、Fieldオブジェクト、などの名前による発見を通して得られる。例:",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "Method、Constructor、Fieldオブジェクトはクラスのメンバを表現した動的アクセスで利用することができる。例:",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "Object...引数に留まるものはメソッドによって渡される。(もしMethodオブジェクトが静的メソッドである場合は第一Object引数が無視されてnullとなることがある。)",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "java.lang.reflectパッケージもまた静的メソッドを含み配列オブジェクトを巧みに扱うArrayクラスと、J2SE1.3以降登場した、特定のインタフェースを実装したプロキシクラスの動的生成をサポートするProxyクラスを提供する。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "Proxyクラスの実装はInvocationHandlerインタフェースを実装した補給オブジェクトによって提供される。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "InvocationHandlerの invoke(Object, Method, Object[]) メソッドはプロキシオブジェクトで呼び出された各々のメソッドに呼ばれる。—第一引数はプロキシオブジェクト、第二引数はプロキシによって実装されたインタフェースメソッドMethodオブジェクト、第三引数はインタフェースメソッドへ渡す引数の配列である。invoke()メソッドはプロキシインタフェースメソッドを飛ぶコードを戻り値として含むObjectを戻り値として返す。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "java.ioパッケージは入出力(I/O)をサポートするクラスを含む。 パッケージにあるクラスは本来ストリーム指向である。; しかしながら、ランダムアクセスファイル (コンピュータ)としてのクラスもまた提供されている。パッケージで中心となるクラスはそれぞれバイトストリームの読み書きを行う抽象クラスであるInputStreamとOutputStreamである。このパッケージもまた多数のファイルシステムとの相互作用をサポートする多少の様々なクラスを持っている。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ストリームクラスはストリームクラスに特色を加えたベースとなるサブクラスを拡張したDecoratorパターンに沿っている。ベースとなるストリームクラスのサブクラスはたいてい以下の特質を用いて名付けられる。:",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ストリームサブクラスはXxxが特色を記述しStreamTypeがInputStream、OutputStream、Reader、Writerのような名前をもつパターンXxxStreamTypeを使って名付けられる。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "以下の表はjava.ioパッケージが直にサポートする送信元/送信先を示す:",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "他の標準ライブラリパッケージは、java.net.Socket.getInputStream()メソッドやJava EEのjavax.servlet.ServletOutputStreamクラスが返すInputStreamのような他の送信先としてストリーム実装を提供する。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "データ型ハンドリング、ストリームデータのプロセッシングやフィルタリングはストリームフィルタを通してできあがっている。フィルタクラスはすべて、コンストラクタの引数としてもう一つの互換ストリームオブジェクトを受け入れ、追加された特色とともに囲まれたストリームをデコレート(decorate)する。ベースとなるフィルタクラスFilterInputStream、FilterOutputStream、FilterReader、FilterWriterを拡張することでフィルタは生成される。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ReaderとWriterクラスは真に、バイトを文字にコンバートするためのデータストリームで追加処理を行うバイトストリームである。それらはJ2SE5.0から登場した静的メソッドjava.nio.charset.Charset.defaultCharset()によって返されるCharsetを使う。InputStreamReaderクラスはInputStreamをReaderへとコンバートし、OutputStreamWriterクラスはOutputStreamをWriterへコンバートする。これら双方のクラスは特別に役立つ文字エンコーディングを許可するコンストラクタを持っている—もしエンコーディングが指定されていなければ、プラットフォームにあるデフォルトエンコーディングを使用する。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "以下の表はjava.ioパッケージを直にサポートする他の処理、フィルタを示す。これらのクラスはすべてFilterクラスに相当するものを継承している。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "RandomAccessFileクラスはファイルのランダムアクセス読み書きをサポートする。このクラスはファイル内の次の読込または書込命令を行うバイトオフセットを表現するファイルポインタを使用する。ファイルポインタは読み書きによって無条件に動かされ、 seek(long)またはskipBytes(int)メソッドによって明確になる。 ファイルポインタのカレントポジションはgetFilePointer()メソッドによって返される。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "File クラスはファイルシステムのファイルやディレクトリパスを表現する。 Fileオブジェクトはファイル、ディレクトリの生成、削除、リネームや「読み取り専用」や「最終更新タイムスタンプ」のようなファイル属性操作をサポートする。File オブジェクトはファイルとディレクトリを含むすべてのリストを得るために使われるディレクトリを表現することができる。 FileDescriptor クラスはバイトの送信元または廃棄先(送信先)を表現するファイル記述子である。一般的にこれはファイルであるが、コンソールやネットワークソケットにすることもできる。 FileDescriptor オブジェクトはFile ストリームを生成するために使われている。それらは File ストリーム、java.net ソケットやデータグラムソケットから得られる。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "J2SE 1.4では、パッケージjava.nio (NIO または New I/O) がメモリマップドI/O、ときどき劇的にベターなパフォーマンスを得る基本ハードウェアと、よりいっそう親密な入出力命令を容易にするサポートが追加された。java.nio パッケージはバッファ型サポートを提供する。サブパッケージ java.nio.charset は文字データとは異なる文字エンコーディングサポートを提供する。サブパッケージ java.nio.channels はファイルやソケットのようなI/O命令演算能力がある資格を与える接続を表現する「チャネル」サポートを提供する。java.nio.channels パッケージもまたファイルのきめ細かいロックサポートを提供する。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "java.math package (剰余演算を含む)多倍長精度の演算をサポートし暗号鍵を生成するための多倍長の素数生成を提供する。 以下にパッケージのメインクラスを示す:",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "java.net パッケージは他の共通トランザクションと同じくらい良質のHTTPリクエストネットワーク向けに特別なI/Oルーチンを提供する。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "java.text パッケージは文字列をパースするルーチンを実装し、様々な自然言語、ロケールに依存したパースをサポートする。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "java.utilパッケージの中心である集約したオブジェクトデータ構造。 パッケージに含まれているものは、デザインパターンを非常に考慮したデータ構造階層、コレクションAPI(コンテナ)である。",
"title": "一般的なパッケージ"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "Javaアプレット生成をサポートするために作られたjava.appletパッケージはネットワーク越しにダウンロードされた保護されたサンドボックス上で動くアプリケーションを許可する。セキュリティ制約は簡単にサンドボックスに適用される。開発者は、例えば、それが安全であることを示すために、アプレットに電子署名を適用することができる。(ローカルハードドライブにアクセスするような)制限された処理を行うアプレットの許可を認めるため、そういう行為をユーザに許し、サンドボックスの制限を部分的または全て取り払う。デジタル証明書はThawteやEntrustのような機関によって発行される。",
"title": "特殊パッケージ"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "java.beansパッケージに含まれているものは開発やbean操作のための様々なクラスであり、JavaBeansアーキテクチャによって定義された再利用コンポーネントである。アーキテクチャはコンポーネントのプロパティ操作やそれらのプロパティが変更されたときの発火イベントのメカニズムを提供する。",
"title": "特殊パッケージ"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "java.beansにあるAPIの多くはbeanが結合、カスタマイズ、操作されうるbean編集ツールによる使用として書かれている。beanエディタのとあるタイプは、IDEにあるGUIデザイナである。",
"title": "特殊パッケージ"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "The Abstract Windowing Toolkit(AWT)は基本的なGUI命令をサポートするルーチンを含み、 基礎を成すネィティブシステムから基本的なウィンドウズを使用する。Java API(GNUのlibgcjのような)多くの独自実装は何もかも実装しているがしかし、AWTは多くのサーバサイドアプリケーションで使われていない。このパッケージもまたJava 2DグラフィックAPIを含んでいる。",
"title": "特殊パッケージ"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "java.rmi パッケージは異なるJVM上にある2つのJavaアプリケーション間でのRPCをサポートする Java Remote Method Invocationを提供する。",
"title": "特殊パッケージ"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "メッセージダイジェストアルゴリズムを含んでいるセキュリティサポートはjava.security に含まれている。",
"title": "特殊パッケージ"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "JDBC API (SQLデータベース接続で使用)の実装はjava.sqlパッケージにまとめられている。",
"title": "特殊パッケージ"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "アプリケーション間のリモート間通信を提供し、RMI over IIOPプロトコルを使用する。このプロトコルはRMIとCORBAと連携させる。",
"title": "特殊パッケージ"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "general inter ORB protocolを使用するアプリケーション間のリモート間通信をサポートし、CORBAの他のフィーチャーをサポートする。RMIとRMI-IIOPと同じく、このパッケージは(通常、ネットワーク経由で)他の仮想マシン上で動いているオブジェクトのリモートメソッドを呼ぶためにある。 すべての通信可能性からCORBAは様々なプログラミング言語でもっともポータブルである。しかしながら、それはCORBAを理解することをもいくぶん難しくしている。",
"title": "特殊パッケージ"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "Swingはプラットフォーム非依存のウィジェット・ツールキットを提供するjava.awtを基礎とするルーチンの集合である。Swingは下層のネイティブOS独自のGUIサポートに頼る代わりに、ユーザインタフェースコンポーネントをレンダリングするために2次元描画ルーチンを使用する。",
"title": "特殊パッケージ"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "GUI上のウィジェットが下層のネイティブシステムから模倣することができるように、Swingは着脱可能なルック・アンド・フィール (PLAFs; pluggable looks and feels) をサポートする。システム全体に行き渡っているデザインパターン、特にMVCパターンの改良版は、機能と外観との間の結合度を緩めている。1点、統一されていないのは、(J2SE 1.3現在において)フォントがJavaではなく下層のネイティブシステムによって描画されるということであり、これによりテキスト移植性を限定してしまっている。次善策としては、ビットマップフォントを使うことが挙げられる。一般的に「レイアウト」が使用され、これは要素をクロスプラットフォームかつ審美眼的に一貫したGUIに保つ。",
"title": "特殊パッケージ"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "様々なウェブブラウザやウェブボットの記述に関して使われる、エラー耐性のあるHTMLパーサを提供する。",
"title": "特殊パッケージ"
}
] | Java Platform, Standard Edition または Java SE は、多くのJavaプラットフォームプログラムで利用されるJava APIの集合体である。Java仮想マシン、APIなどから構成される。バージョン1.2からバージョン5.0までは Java 2 Platform, Standard Edition または J2SE と呼ばれていた(詳細はJavaバージョン履歴を参照)。 J2SEバージョン1.4 (Merlin) 以降、Java SEプラットフォームはJava Community Process (JCP) の下で開発されている。JSR 59はJ2SE 1.4の包括仕様であり、JSR 176はJ2SE 5.0 (Tiger) を、JSR 270はJava SE 6 (Mustang) を規定している。Java SE 7 (Dolphin) はJSR 336の下でリリースされた。 Java SEでは標準的な機能のみが定められており、サーバ関連の機能についてはJava SEを拡張した企業向けのエディションであるJakarta EEにて定義されている。 下記は主要なJava SEパッケージの説明である。全てのパッケージリストはJava SE 9 API Javadocsを参照。 | {{出典の明記|date=2021-06}}
{{要改訳|date=2019-05}}
{{Java platforms}}
'''Java Platform, Standard Edition''' または '''Java SE''' は、多くの[[Javaプラットフォーム]]プログラムで利用される[[Java]] [[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]の集合体である。[[Java仮想マシン]]、[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]などから構成される。バージョン1.2からバージョン5.0までは Java 2 Platform, Standard Edition または J2SE と呼ばれていた(詳細は[[Javaバージョン履歴]]を参照)。
J2SEバージョン1.4 (Merlin) 以降、Java SEプラットフォームは[[Java Community Process]] (JCP) の下で開発されている。JSR 59はJ2SE 1.4の包括仕様であり、JSR 176はJ2SE 5.0 (Tiger) を、JSR 270はJava SE 6 (Mustang) を規定している。Java SE 7 (Dolphin) はJSR 336の下でリリースされた。
Java SEでは標準的な機能のみが定められており、[[サーバ]]関連の機能についてはJava SEを拡張した企業向けのエディションである[[Jakarta EE]](旧称: Java Platform, Enterprise Edition / Java EE)にて定義されている。
下記は主要なJava SEパッケージの説明である。全てのパッケージリストは{{Javadoc:SE}}を参照。
== 一般的なパッケージ ==
=== {{Javadoc:SE|package=java.lang|java/lang}} ===
[[Java]]の基本的なパッケージ。
[[パッケージ (Java)|パッケージ]] <code>java.lang</code> は、言語と[[ランタイムライブラリ|ランタイム(実行)]]システムに緊密な基本的な[[クラス (コンピュータ)|クラス]]と[[インタフェース (抽象型)|インタフェース]]を含む。これは[[階層構造|クラス階層]]を形成する基底クラス、言語仕様に密接な型、基本的な[[例外処理|例外]]、数学関数、[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]、セキュリティ関数、下位にあるネイティブシステムに関する情報も含む。
<code>java.lang</code>の主なクラス:
* {{Javadoc:SE|java/lang|Object}} – 全てのクラス階層の頂点に立つクラス。関連項目として、[[Javaの文法#Objectクラスのメソッド]]を参照。
* {{Javadoc:SE|java/lang|Enum}} – [[列挙型|列挙クラス]]の基本クラス (J2SE 5.0以降)。
* {{Javadoc:SE|java/lang|Class}} – Javaの型情報の根幹となるクラス。特に[[リフレクション (情報工学)|リフレクション]]システムで重要な役割を果たす。
* {{Javadoc:SE|java/lang|Throwable}} – 例外クラス階層の基底クラスとなるクラス。
* {{Javadoc:SE|java/lang|Error}}, {{Javadoc:SE|java/lang|Exception}}, {{Javadoc:SE|java/lang|RuntimeException}} – 各例外型の[[スーパークラス (計算機科学)|基底クラス]]。<code>RuntimeException</code>はthrowやthrows宣言をせずとも実行時に起こる例外を指すクラスの[[スーパークラス (計算機科学)|スーパークラス]]であり、<code>Exception</code>の[[サブクラス (計算機科学)|サブクラス]]でもある。<code>Exception</code>、<code>Error</code>は<code>Throwable</code>のサブクラス。
* {{Javadoc:SE|java/lang|Thread}} – 薄く抽象化されたスレッドの操作を提供するクラス。
* {{Javadoc:SE|java/lang|String}} – [[文字列]]と[[リテラル|文字列リテラル]]を表現するクラス。
* {{Javadoc:SE|java/lang|StringBuffer}}, {{Javadoc:SE|java/lang|StringBuilder}} – 文字列操作機能を提供するクラス。<code>StringBuilder</code>はJ2SE 5.0以降。
* {{Javadoc:SE|java/lang|Comparable}} – 総称的な比較とオブジェクトの大小関係を判定することができる[[インタフェース (抽象型)|インタフェース]] (J2SE 1.2以降)。
* {{Javadoc:SE|java/lang|Iterable}} – 総称的な反復子とで[[foreach文|拡張<code>for</code>]][[ループ (プログラミング)|ループ]]を使用可能にするインタフェース (J2SE 5.0以降)。
* {{Javadoc:SE|java/lang|ClassLoader}}, {{Javadoc:SE|java/lang|Process}}, {{Javadoc:SE|java/lang|Runtime}}, {{Javadoc:SE|java/lang|SecurityManager}}, {{Javadoc:SE|java/lang|System}} – クラスの[[ライブラリ#動的リンク|動的ロード]]、外部[[プロセス]]の生成、時刻などを問い合わせるホスト環境、[[情報セキュリティポリシー]]の執行などを管理する「システムオペレーション」を提供するクラス。
* {{Javadoc:SE|java/lang|Math}}, {{Javadoc:SE|java/lang|StrictMath}} – <code>sin</code> ([[正弦]])、<code>cos</code> ([[余弦]])、<code>sqrt</code> ([[平方根]]) などの数学関数を提供するクラス。実行環境に依存しない演算結果を保証する<code>StrictMath</code>はJ2SE 1.3以降。
* [[プリミティブ型]]を[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]]として[[カプセル化]]するための[[プリミティブラッパークラス]]。
* 言語レベルもしくは他の共通例外としてスローされる例外基底クラス。{{要説明|date=2021-07}}
<code>java.lang</code>のクラスは[[ソースファイル]]でimport宣言をせずとも自動的にインポートされる。
==== {{Javadoc:SE|package=java.lang.ref|java/lang/ref}} ====
<code>java.lang.ref</code>パッケージは、他の可能な許可するアプリケーションと[[Java仮想マシン]] (JVM) [[ガベージコレクション|ガベージコレクタ]]との間の限定的な相互関係よりも柔軟な[[参照 (情報工学)|参照]]型を提供する。それは重要なパッケージであり、それに"java.lang"で始まる名前を与えた言語設計者のための言語として十分に中核をなしたが、それはいくぶん特殊目的であり多くの開発者は使わない。このパッケージはJ2SE1.2から追加された。
Javaは多くのガベージコレクトされた[[プログラミング言語]]より柔軟な[[参照 (情報工学)|参照]]システムを持ち、ガベージコレクションに特別な振る舞いを許可する。Javaにある通常の(言語組み込みの)参照は「強参照 ({{Lang|en|strong reference}})」として知られている。<code>java.lang.ref</code>パッケージは3つの[[弱い参照]]型('''ソフト参照'''<code>SoftReference</code>、'''弱参照'''<code>WeakReference</code>、'''ファントム参照'''<code>PhantomReference</code>)を定義している。各々の参照型は特殊な用途のために設計されている。
'''{{Javadoc:SE|java/lang/ref|SoftReference}}''' は[[キャッシュ (コンピュータシステム)|キャッシュ]]を実装するために使われている。オブジェクトは強到達可能 ({{Lang|en|strongly reachable}}) つまり強参照によって到達可能ではないが、ソフト到達可能 ({{Lang|en|softly reachable}}) と呼ばれるソフト参照によって参照されている。ソフト到達可能なオブジェクトはガベージコレクタの自由裁量によってガベージコレクトされるかもしれない。これは一般的にソフト到達可能なオブジェクトは空きメモリが少ないときのみガベージコレクトされるだろうということを意味する。ところが、それはガベージコレクタの自由裁量にある。意味的に言えば、ソフト参照は「メモリが必要とされなくなるまでこのオブジェクトを保持せよ」ということを意味する。
'''{{Javadoc:SE|java/lang/ref|WeakReference}}''' は弱マップを実装するために使われている。強到達可能またはソフト到達可能でなく弱参照によって参照されているオブジェクトは、弱到達可能 ({{Lang|en|weakly reachable}}) と呼ばれる。弱到達可能なオブジェクトは次の回収サイクルの間にガベージコレクトされる。この振る舞いはクラス{{Javadoc:SE|package=java.util|java/util|WeakHashMap}}によって使われている。プログラマは弱マップにキー/値ペアを挿入でき、キーがどこからも到達可能でなくなるかどうかを心配する必要がなく、オブジェクトがメモリを占有する可能性を心配しなくてよい。意味的に言えば、弱参照は「他にそれを参照するものが無いときはこのオブジェクトを除去せよ」を意味する。
'''{{Javadoc:SE|java/lang/ref|PhantomReference}}''' はガベージコレクションにマークされているオブジェクトを参照するために使われており、[[ファイナライザ|ファイナライズ]]されているが、未だに再利用されていない。オブジェクトは強、ソフト、弱到達可能でないが、ファントム到達可能 ({{Lang|en|phantom reachable}}) と呼ばれるファントム参照によって参照されている。これはファイナライゼーションメカニズムのみによって可能なものよりもより柔軟なクリーンナップを可能にする。意味的に言えば、ファントム参照は「このオブジェクトは長い間必要とされなくなりコレクトされる準備をしている状態でファイナライズされている。」を意味する。
これらの各々の参照型は{{Javadoc:SE|java/lang/ref|Reference}}クラスを継承し、リファレント(指示対象オブジェクト)(または、もし参照がクリアされているか参照型がファントムであるならば<code>null</code>)への強参照を返す{{Javadoc:SE|name=get()|java/lang/ref|Reference|get()}}[[メソッド (計算機科学)|メソッド]] および、リファレンスをクリアする{{Javadoc:SE|name=clear()|java/lang/ref|Reference|clear()}}メソッドを提供する。
<code>java.lang.ref</code> もまた参照型が変わるオブジェクトを保持するために上記で検討された各々のアプリケーションが使われるクラス{{Javadoc:SE|java/lang/ref|ReferenceQueue}}を定義する。
<code>Reference</code>が生成されるとき、それは任意にリファレンスキューに登録される。アプリケーションは到達可能性状態の変化した参照を得るためのリファレンスキューを監視する。
参照型とリファレンスキューのより首尾よい説明は''"[http://java.sun.com/developer/technicalArticles/ALT/RefObj/index.html Reference Objects and Garbage Collection]"'' を参照。
==== {{Javadoc:SE|package=java.lang.reflect|java/lang/reflect}} ====
[[リフレクション (情報工学)|リフレクション]]はJavaコード調査や、実行時のJavaコンポーネントやリフレクトされたメンバを使用する上での「リフレクト」を可能にする[[Java]] APIの構成要素である。このパッケージにあるクラスは、<code>java.lang.Class</code>と{{Javadoc:SE|package=java.lang|java/lang|Package}}に加えて、[[デバッガ]]や[[インタプリタ]]、オブジェクト[[インスペクタ]](調査)、[[クラスブラウザ]]のようなアプリケーション、オブジェクト[[シリアライズ|シリアライゼーション]]や[[JavaBeans]]のようなサービスに適合し、(その実行クラスを基礎とする)ターゲットとなるオブジェクトのpublicメンバまたは与えられたクラスによって宣言されたメンバにアクセスする必要がある。このパッケージはJDK1.1より追加された。
リフレクションはインスタンスによって使われ、それらの名前を使ってメソッドを呼び出す、[[動的プログラミング言語|動的プログラミング]]を許可する着想である。クラス、インタフェース、メソッド、[[フィールド (計算機科学)|フィールド]]、[[コンストラクタ]]はすべて実行時に見つけて利用することができる。[[メタデータ]]によってサポートされているリフレクションはそのプログラムの近くにあるJVMである。そこにはリフレクションによって呼び出された二つの技術がある。
# ''Discovery'' はオブジェクトやクラスの取得に関わり、メンバ、スーパークラス、実装されたインタフェースとそのとき発見された要素を使う可能性の発見に関わる。
# ''Use by name'' は要素のシンボル名呼び出し始めて、名付けられた要素を使用する。
===== Discovery =====
Discoveryはだいたいオブジェクトから始まり、<code>Class</code>のオブジェクトを取得する{{Javadoc:SE|java/lang|Object|getClass()}}メソッドを呼び出す。<code>Class</code>オブジェクトはクラスの中身を発見する数種のメソッドを持つ。以下にその例を示す:
* {{Javadoc:SE|name=getMethods()|java/lang|Class|getMethods()}} – クラスまたはインタフェースのpublicメソッドすべてを{{Javadoc:SE|java/lang/reflect|Method}}オブジェクトの配列として返す。
* {{Javadoc:SE|name=getConstructors()|java/lang|Class|getConstructors()}} – クラスのpublicコンストラクタすべてを{{Javadoc:SE|java/lang/reflect|Constructor}}の配列として返す。
* {{Javadoc:SE|name=getFields()|java/lang|Class|getFields()}} – クラスまたはインタフェースのpublicフィールドすべてを{{Javadoc:SE|java/lang/reflect|Field}}オブジェクトの配列として返す。
* {{Javadoc:SE|name=getClasses()|java/lang|Class|getClasses()}} – クラスまたはインタフェースのメンバ(e.g. [[内部クラス]])としてのpublicなクラスまたはインタフェースすべてを<code>Class</code>の配列として返す。
* {{Javadoc:SE|name=getSuperclass()|java/lang|Class|getSuperclass()}} – クラスまたはインタフェースのスーパークラスを<code>Class</code>オブジェクトを返す。インタフェースの場合は常に<code>null</code>を返す。
* {{Javadoc:SE|name=getInterfaces()|java/lang|Class|getInterfaces()}} – クラスまたはインタフェースによって実装されているすべてのインタフェースを<code>Class</code>オブジェクトの配列として返す。
===== Use by name =====
<code>Class</code>オブジェクトは「クラス[[リテラル]]」(e.g. <code>MyClass.class</code>) を使用すること、またはメンバのシンボル名を使うことで得られる (e.g. {{Javadoc:SE|name=Class.forName("mypackage.MyClass")|java/lang|Class|forName(java.lang.String)}})。<code>Class</code>オブジェクト、メンバ<code>Method</code>、<code>Constructor</code>、<code>Field</code>オブジェクト、などの名前による発見を通して得られる。例:
* {{Javadoc:SE|name=getMethod("methodName", Class...)|java/lang|Class|getMethod(java.lang.String,java.lang.Class...)}} – <code>Method</code>オブジェクトを返す。<code>Class...</code>引数によって特定される引数を受け入れるクラスまたはインタフェースの"methodName"という名のpublicメソッドを表現する。
* {{Javadoc:SE|name=getConstructor(Class...)|java/lang|Class|getConstructor(java.lang.Class...)}} – <code>Class...</code>引数によって特定される引数を受け入れるクラスのpublicコンストラクタを表現する<code>Constructor</code>オブジェクトを返す。
* {{Javadoc:SE|name=getField("fieldName")|java/lang|Class|getField(java.lang.String)}} – クラスまたはインタフェースの名前が"fieldName"であるpublicフィールドを表現する<code>Field</code>オブジェクトを返す。
<code>Method</code>、<code>Constructor</code>、<code>Field</code>オブジェクトはクラスのメンバを表現した動的アクセスで利用することができる。例:
* {{Javadoc:SE|name=Field.get(Object)|java/lang/reflect|Field|get(java.lang.Object)}} – <code>get()</code>に渡したオブジェクトのインスタンスからフィールドの値を含む<code>Object</code>を返す。もし<code>Field</code>オブジェクトがstaticフィールドを表現するときは、<code>Object</code>引数は無視されて<code>null</code>となることがある。)
* {{Javadoc:SE|name=Method.invoke(Object, Object...)|java/lang/reflect|Method|invoke(java.lang.Object,java.lang.Object...)}} – <code>invoke()</code>に渡した第一<code>Object</code>引数をインスタンスとしてメソッド呼び出しの結果を含む<code>Object</code>を返す。
<code>Object...</code>引数に留まるものはメソッドによって渡される。(もし<code>Method</code>オブジェクトが[[静的メソッド]]である場合は第一<code>Object</code>引数が無視されて<code>null</code>となることがある。)
* {{Javadoc:SE|name=Constructor.newInstance(Object...)|java/lang/reflect|Constructor|newInstance(java.lang.Object...)}} – コンストラクタによって呼び出されて新たに作られた<code>Object</code>インスタンスを返す。<code>Object...</code>引数はコンストラクタへ渡される。({{Javadoc:SE|name=newInstance()|java/lang|Class|newInstance()}}によって呼び出されることもできるクラスとしての引数無しコンストラクタに注意すること。)
===== [[配列]]と[[プロキシ]] =====
<code>java.lang.reflect</code>パッケージもまた静的メソッドを含み配列オブジェクトを巧みに扱う{{Javadoc:SE|java/lang/reflect|Array}}クラスと、J2SE1.3以降登場した、特定のインタフェースを実装したプロキシクラスの動的生成をサポートする{{Javadoc:SE|java/lang/reflect|Proxy}}クラスを提供する。
<code>Proxy</code>クラスの実装は{{Javadoc:SE|java/lang/reflect|InvocationHandler}}インタフェースを実装した補給オブジェクトによって提供される。
<code>InvocationHandler</code>の {{Javadoc:SE|name=invoke(Object, Method, Object<nowiki>[]</nowiki>)|java/lang/reflect|InvocationHandler|invoke(java.lang.Object,java.lang.reflect.Method,java.lang.Object<nowiki>[]</nowiki>)}} メソッドはプロキシオブジェクトで呼び出された各々のメソッドに呼ばれる。—第一引数はプロキシオブジェクト、第二引数はプロキシによって実装されたインタフェースメソッド<code>Method</code>オブジェクト、第三引数はインタフェースメソッドへ渡す引数の配列である。<code>invoke()</code>メソッドはプロキシインタフェースメソッドを飛ぶコードを戻り値として含む<code>Object</code>を戻り値として返す。
=== {{Javadoc:SE|package=java.io|java/io}} ===
<code>java.io</code>パッケージは[[入出力|入出力(I/O)]]をサポートするクラスを含む。 パッケージにあるクラスは本来[[ストリーム (プログラミング)|ストリーム指向]]である。; しかしながら、[[ランダムアクセス]][[ファイル (コンピュータ)]]としてのクラスもまた提供されている。パッケージで中心となるクラスはそれぞれ[[バイトストリーム]]の読み書きを行う抽象[[クラス (コンピュータ)|クラス]]である{{Javadoc:SE|java/io|InputStream}}と{{Javadoc:SE|java/io|OutputStream}}である。このパッケージもまた多数の[[ファイルシステム]]との相互作用をサポートする多少の様々なクラスを持っている。
==== ストリーム ====
ストリームクラスはストリームクラスに特色を加えたベースとなるサブクラスを拡張した[[Decoratorパターン]]に沿っている。ベースとなるストリームクラスのサブクラスはたいてい以下の特質を用いて名付けられる。:
* ストリームデータの送信元/送信先
* ストリームへ書き込まれた/読み込むデータ型
* ストリームデータ上で行われる追加処理やフィルタリング
ストリームサブクラスは<code>''Xxx''</code>が特色を記述し<code>''StreamType''</code>が<code>InputStream</code>、<code>OutputStream</code>、<code>Reader</code>、<code>Writer</code>のような名前をもつ[[パターン]]<code>''XxxStreamType''</code>を使って名付けられる。
以下の表は<code>java.io</code>パッケージが直にサポートする送信元/送信先を示す:
{| class="wikitable" style="margin:1em auto"
|+java.ioパッケージが直にサポートする送信元/送信先
|-
! align=left| 送信元/送信先 !! 接頭辞 !! ストリーム型 !! 入出力 || クラス
|-
| [[バイト (情報)]] [[配列]] (<code>byte[]</code>) || <code>ByteArray</code> || byte || in, out
| {{Javadoc:SE|java/io|ByteArrayInputStream}}, {{Javadoc:SE|java/io|ByteArrayOutputStream}}
|-
| 文字配列 (<code>char[]</code>) || <code>CharArray</code> || char || in, out
| {{Javadoc:SE|java/io|CharArrayReader}}, {{Javadoc:SE|java/io|CharArrayWriter}}
|-
| [[ファイル (コンピュータ)|ファイル]] || <code>File</code> || byte, char || in, out
| {{Javadoc:SE|java/io|FileInputStream}}, {{Javadoc:SE|java/io|FileOutputStream}}, {{Javadoc:SE|java/io|FileReader}}, {{Javadoc:SE|java/io|FileWriter}}
|-
| [[文字列]] (<code>[[StringBufferとStringBuilder|StringBuffer]]</code>) || <code>String</code> || char || in, out
| {{Javadoc:SE|java/io|StringReader}}, {{Javadoc:SE|java/io|StringWriter}}
|-
| [[スレッド (コンピュータ)|スレッド]] (<code>Thread</code>) || <code>Piped</code> || byte, char || in, out
| {{Javadoc:SE|java/io|PipedInputStream}}, {{Javadoc:SE|java/io|PipedOutputStream}}, {{Javadoc:SE|java/io|PipedReader}}, {{Javadoc:SE|java/io|PipedWriter}}
|}
他の標準ライブラリパッケージは、{{Javadoc:SE|package=java.net|java/net|Socket|getInputStream()}}メソッドやJava EEの{{Javadoc:EE|package=javax.servlet|javax/servlet|ServletOutputStream}}クラスが返す<code>InputStream</code>のような他の送信先としてストリーム実装を提供する。
データ型ハンドリング、ストリームデータのプロセッシングやフィルタリングはストリーム[[フィルタ (ソフトウェア)|フィルタ]]を通してできあがっている。フィルタクラスはすべて、コンストラクタの引数としてもう一つの互換ストリームオブジェクトを受け入れ、追加された特色とともに囲まれたストリームをデコレート(''decorate'')する。ベースとなるフィルタクラス{{Javadoc:SE|java/io|FilterInputStream}}、{{Javadoc:SE|java/io|FilterOutputStream}}、{{Javadoc:SE|java/io|FilterReader}}、{{Javadoc:SE|java/io|FilterWriter}}を拡張することでフィルタは生成される。
<code>Reader</code>と<code>Writer</code>クラスは真に、バイトを文字にコンバートするためのデータストリームで追加処理を行うバイトストリームである。それらはJ2SE5.0から登場した静的メソッド{{Javadoc:SE|package=java.nio.charset|java/nio/charset|Charset|defaultCharset()}}によって返される{{Javadoc:SE|java/nio/charset|Charset}}を使う。{{Javadoc:SE|java/io|InputStreamReader}}クラスは<code>InputStream</code>を<code>Reader</code>へとコンバートし、{{Javadoc:SE|java/io|OutputStreamWriter}}クラスは<code>OutputStream</code>を<code>Writer</code>へコンバートする。これら双方のクラスは特別に役立つ文字エンコーディングを許可するコンストラクタを持っている—もしエンコーディングが指定されていなければ、プラットフォームにあるデフォルトエンコーディングを使用する。
以下の表は<code>java.io</code>パッケージを直にサポートする他の処理、フィルタを示す。これらのクラスはすべて<code>Filter</code>クラスに相当するものを継承している。
{| class="wikitable" style="margin:1em auto"
|+java.ioパッケージを直にサポートする他の処理、フィルタ
|-
! align=left| 命令 !! 接頭辞 !! ストリーム型 !! 入出力 !! クラス
|-
| [[バッファ|バッファリング]] || <code>Buffered</code> || byte, char || in, out
| {{Javadoc:SE|java/io|BufferedInputStream}}, {{Javadoc:SE|java/io|BufferedOutputStream}}, {{Javadoc:SE|java/io|BufferedReader}}, {{Javadoc:SE|java/io|BufferedWriter}}
|-
| 「プッシュバック」 最後の値を読む || <code>Pushback</code> || byte, char || in
| {{Javadoc:SE|java/io|PushbackInputStream}}, {{Javadoc:SE|java/io|PushbackReader}}
|-
| 読込/書込 [[プリミティブ型]] || <code>Data</code> || byte || in, out
| {{Javadoc:SE|java/io|DataInputStream}}, {{Javadoc:SE|java/io|DataOutputStream}}
|-
| [[直列化]](シリアライズ) (読込/書込オブジェクト) || <code>Object</code> || byte || in, out
| {{Javadoc:SE|java/io|ObjectInputStream}}, {{Javadoc:SE|java/io|ObjectOutputStream}}
|}
==== ランダムアクセス ====
{{Javadoc:SE|java/io|RandomAccessFile}}クラスはファイルの''[[ランダムアクセス]]''読み書きをサポートする。このクラスはファイル内の次の読込または書込命令を行うバイトオフセットを表現する''[[ファイルポインタ]]''を使用する。ファイルポインタは読み書きによって無条件に動かされ、
{{Javadoc:SE|name=seek(long)|java/io|RandomAccessFile|seek(long)}}または{{Javadoc:SE|name=skipBytes(int)|java/io|RandomAccessFile|skipBytes(int)}}メソッドによって明確になる。
ファイルポインタのカレントポジションは{{Javadoc:SE|name=getFilePointer()|java/io|RandomAccessFile|getFilePointer()}}メソッドによって返される。
==== ファイルシステム ====
{{Javadoc:SE|java/io|File}} クラスは[[ファイルシステム]]の[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]や[[ディレクトリ]][[パス (コンピュータ)|パス]]を表現する。 <code>File</code>オブジェクトはファイル、ディレクトリの生成、削除、リネームや「読み取り専用」や「最終更新[[タイムスタンプ]]」のような[[ファイル属性]]操作をサポートする。<code>File</code> オブジェクトはファイルとディレクトリを含むすべてのリストを得るために使われるディレクトリを表現することができる。
{{Javadoc:SE|java/io|FileDescriptor}} クラスはバイトの送信元または廃棄先(送信先)を表現する[[ファイル記述子]]である。一般的にこれはファイルであるが、[[コンソール]]や[[ネットワークソケット]]にすることもできる。 <code>FileDescriptor</code> オブジェクトは<code>File</code> ストリームを生成するために使われている。それらは <code>File</code> ストリーム、<code>java.net</code> ソケットや[[データグラム]]ソケットから得られる。
=== {{Javadoc:SE|package=java.nio|java/nio}} ===
J2SE 1.4では、パッケージ<code>java.nio</code> (NIO または New I/O) が[[メモリマップドI/O]]、ときどき劇的にベターなパフォーマンスを得る基本ハードウェアと、よりいっそう親密な[[入出力]]命令を容易にするサポートが追加された。<code>java.nio</code> パッケージはバッファ型サポートを提供する。サブパッケージ {{Javadoc:SE|package=java.nio.charset|java/nio/charset}} は文字データとは異なる[[文字コード|文字エンコーディング]]サポートを提供する。サブパッケージ {{Javadoc:SE|package=java.nio.channels|java/nio/channels}} はファイルやソケットのようなI/O命令演算能力がある資格を与える接続を表現する「[[チャネル・コントローラ|チャネル]]」サポートを提供する。<code>java.nio.channels</code> パッケージもまたファイルのきめ細かい[[ロック (情報工学)|ロック]]サポートを提供する。
=== {{Javadoc:SE|package=java.math|java/math}} ===
[[java.math|java.math package]] ([[剰余]]演算を含む)多倍長精度の演算をサポートし[[暗号]]鍵を生成するための多倍長の[[素数]]生成を提供する。 以下にパッケージのメインクラスを示す:
* {{Javadoc:SE|java/math|BigDecimal}} – 任意精度の符号付き10進数を提供する。 <code>BigDecimal</code> は<code>RoundingMode</code>を通して誤差の揺るまいをコントロールすることができる。
* {{Javadoc:SE|java/math|BigInteger}} – 任意精度の整数を提供する。 <code>BigInteger</code>による演算は、約21億桁もの巨大な数値を扱わない限り、[[算術オーバーフロー]]や[[桁落ち]]を生じない。標準数値演算に加えて、これは[[剰余演算]]、[[最大公約数|GCD]]計算、[[素数判定]]、[[素数]]生成、[[ビット演算]]など他様々な演算を提供する。
* {{Javadoc:SE|java/math|MathContext}} – 数値演算の精度などのルール設定を[[カプセル化]]する。
* {{Javadoc:SE|java/math|RoundingMode}} – 8つの丸め誤差を提供する[[列挙型]]である。
=== {{Javadoc:SE|package=java.net|java/net}} ===
<code>java.net</code> パッケージは他の共通トランザクションと同じくらい良質の[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]リクエストネットワーク向けに特別なI/Oルーチンを提供する。
=== {{Javadoc:SE|package=java.text|java/text}} ===
<code>java.text</code> パッケージは文字列をパースするルーチンを実装し、様々な自然言語、ロケールに依存したパースをサポートする。
=== {{Javadoc:SE|package=java.util|java/util}} ===
<code>java.util</code>パッケージの中心である集約したオブジェクト[[データ構造]]。
パッケージに含まれているものは、[[デザインパターン]]を非常に考慮したデータ構造階層、[[コンテナ (データ型)|コレクションAPI]]([[コンテナ (データ型)|コンテナ]])である。
== 特殊パッケージ ==
=== {{Javadoc:SE|package=java.applet|java/applet}} ===
{{main|Javaアプレット}}
[[Javaアプレット]]生成をサポートするために作られた<code>java.applet</code>パッケージはネットワーク越しにダウンロードされた保護された[[サンドボックス (セキュリティ)|サンドボックス]]上で動くアプリケーションを許可する。セキュリティ制約は簡単にサンドボックスに適用される。開発者は、例えば、それが安全であることを示すために、アプレットに[[電子署名]]を適用することができる。(ローカルハードドライブにアクセスするような)制限された処理を行うアプレットの許可を認めるため、そういう行為をユーザに許し、サンドボックスの制限を部分的または全て取り払う。デジタル証明書は[[Thawte]]や[[Entrust]]のような機関によって発行される。
=== {{Javadoc:SE|package=java.beans|java/beans}} ===
{{main|JavaBeans}}
<code>java.beans</code>パッケージに含まれているものは開発やbean操作のための様々なクラスであり、[[JavaBeans|JavaBeansアーキテクチャ]]によって定義された再利用コンポーネントである。アーキテクチャはコンポーネントのプロパティ操作やそれらのプロパティが変更されたときの発火イベントのメカニズムを提供する。
<code>java.beans</code>にあるAPIの多くはbeanが結合、カスタマイズ、操作されうるbean編集ツールによる使用として書かれている。beanエディタのとあるタイプは、[[統合開発環境|IDE]]にある[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]デザイナである。
=== {{Javadoc:SE|package=java.awt|java/awt}} ===
{{main|Abstract Windowing Toolkit}}
The [[Abstract Windowing Toolkit]](AWT)は基本的な[[GUI]]命令をサポートするルーチンを含み、
基礎を成すネィティブシステムから基本的なウィンドウズを使用する。Java API(GNUの[[libgcj]]のような)多くの独自実装は何もかも実装しているがしかし、AWTは多くの[[サーバサイド]]アプリケーションで使われていない。このパッケージもまた[[Java 2D]]グラフィックAPIを含んでいる。
=== {{Javadoc:SE|package=java.rmi|java/rmi}} ===
{{main|Java Remote Method Invocation}}
<code>java.rmi</code> パッケージは異なるJVM上にある2つのJavaアプリケーション間での[[遠隔手続き呼出し|RPC]]をサポートする [[Java Remote Method Invocation]]を提供する。
=== {{Javadoc:SE|package=java.security|java/security}} ===
メッセージダイジェストアルゴリズムを含んでいるセキュリティサポートは<code>java.security</code> に含まれている。
=== {{Javadoc:SE|package=java.sql|java/sql}} ===
{{main|Java Database Connectivity}}
[[Java Database Connectivity|JDBC]] API ([[SQL]][[データベース]]接続で使用)の実装は<code>java.sql</code>パッケージにまとめられている。
=== {{Javadoc:SE|package=javax.rmi|javax/rmi}} ===
{{main|RMI-IIOP}}
アプリケーション間のリモート間通信を提供し、[[RMI]] over [[IIOP]][[通信プロトコル|プロトコル]]を使用する。このプロトコルはRMIと[[CORBA]]と連携させる。
=== {{Javadoc:SE|package=org.omg.CORBA|org/omg/CORBA}} ===
{{main|CORBA}}
[[GIOP|general inter ORB protocol]]を使用するアプリケーション間のリモート間通信をサポートし、[[CORBA]]の他の[[フィーチャー]]をサポートする。[[Java Remote Method Invocation|RMI]]と[[RMI-IIOP]]と同じく、このパッケージは(通常、ネットワーク経由で)他の[[仮想機械|仮想マシン]]上で動いているオブジェクトのリモートメソッドを呼ぶためにある。 すべての通信可能性からCORBAは様々なプログラミング言語でもっともポータブルである。しかしながら、それはCORBAを理解することをもいくぶん難しくしている。
=== {{Javadoc:SE|package=javax.swing|javax/swing}} ===
{{main|Swing}}
[[Swing]]はプラットフォーム非依存の[[ウィジェット・ツールキット]]を提供する<code>java.awt</code>を基礎とするルーチンの集合である。Swingは下層のネイティブ[[オペレーティングシステム|OS]]独自の[[GUI]]サポートに頼る代わりに、[[ユーザインタフェース]][[コンポーネント]]をレンダリングするために2次元描画ルーチンを使用する。
GUI上のウィジェットが下層のネイティブシステムから模倣することができるように、Swingは着脱可能な[[ルック・アンド・フィール]] ({{lang|en|PLAFs; pluggable looks and feels}}) をサポートする。システム全体に行き渡っている[[デザインパターン]]、特に[[Model View Controller|MVC]]パターンの改良版は、機能と外観との間の[[結合度]]を緩めている。1点、統一されていないのは、(J2SE 1.3現在において)フォントがJavaではなく下層のネイティブシステムによって描画されるということであり、これによりテキスト移植性を限定してしまっている。次善策としては、[[ビットマップ]]フォントを使うことが挙げられる。一般的に「[[レイアウト]]」が使用され、これは要素をクロスプラットフォームかつ審美眼的に一貫したGUIに保つ。
=== {{Javadoc:SE|package=javax.swing.text.html.parser|javax/swing/text/html/parser}} ===
様々な[[ウェブブラウザ]]や[[インターネットボット|ウェブボット]]の記述に関して使われる、エラー耐性のある[[HyperText Markup Language|HTML]]パーサを提供する。
== 関連項目 ==
{{Wikibooks|Java|Java}}
* [[Java]]
** [[Java#エディション]](Java SE、Java EE、Java MEなど)
** [[Java#バージョン履歴]]
* [[Javaバージョン履歴]]
* [[Jakarta EE]] - Javaの企業サーバーシステム向けエディション(旧称: Java EE)
* [[Java Platform, Micro Edition]] (Java ME) - Javaの[[組み込みシステム]]向けエディション
* [[Java Card]] - Javaの[[ICカード]]向けエディション
== 外部リンク ==
{{Wikibooks|Java|Java}}
* [http://www.oracle.com/technetwork/jp/java/javase/overview/ Oracle - Java SE]{{リンク切れ|date=2021-07}} {{Ja icon}}
** [https://docs.oracle.com/javase/jp/9/ Oracle JDK 9ドキュメント] {{Ja icon}}
** [https://docs.oracle.com/javase/jp/9/docs/api/overview-summary.html Java SEバージョン9 API仕様] {{Ja icon}}
* [https://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=336 JSR 336] (Java SE 7) {{En icon}}
* [https://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=270 JSR 270] (Java SE 6) {{En icon}}
* [https://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=176 JSR 176] (J2SE 5.0) {{En icon}}
* [https://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=59 JSR 59] (J2SE 1.4) {{En icon}}
{{Java}}
{{Sun Microsystems}}
[[Category:Java]]
[[Category:Javaプラットフォーム|Platform, Standard Edition]]
[[Category:Java specification requests|Platform, Standard Edition]] | null | 2023-04-20T16:29:58Z | false | false | false | [
"Template:要改訳",
"Template:要説明",
"Template:Lang",
"Template:Wikibooks",
"Template:En icon",
"Template:Java",
"Template:Java platforms",
"Template:Javadoc:SE",
"Template:出典の明記",
"Template:Javadoc:EE",
"Template:Sun Microsystems",
"Template:Main",
"Template:リンク切れ",
"Template:Ja icon"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Java_Platform,_Standard_Edition |
3,750 | しりあがり寿 | しりあがり 寿(しりあがり ことぶき、1958年1月1日 - )は、日本の漫画家。静岡県静岡市葵区出身。男性。神戸芸術工科大学特任教授、横浜美術大学客員教授、日本大学藝術学部非常勤講師。本名は望月寿城(もちづき としき)。妻は漫画家の西家ヒバリ。
代表作は『真夜中の弥次さん喜多さん』、『弥次喜多 in DEEP』など。
白土三平や貸本ホラー漫画などをネタにした漫画マニア向けのパロディ作品や、『流星課長』などのシュールなサラリーマン物などを手がけ、独特のギャグ漫画家として評価を獲得する。
現在では時事ネタ、家庭ネタ、サラリーマンネタ、果てには哲学的なテーマまで幅広く扱い、ギャグによって文学の領域にまで達した漫画家として評価が高い。
青林工藝舎発行の『アックス』に2002年から2004年まで連載した「ジャカランダ」は、登場人物に主人公すら設定せず、ある日突然生えてきた一本の巨樹ジャカランダによって徹底的に東京が崩壊する阿鼻叫喚の地獄絵図だけを300ページに渡り描き、ラストに人類再生へと続く希望を見せ、物語は終了するという特異な漫画作品も描いている。芸人の鳥居みゆきは、「のうのうと生きてちゃいけないな」と本作への衝撃を語っている。
非常にラフで、一見描き殴りのような「ヘタウマ」絵を描く漫画家として知られるが、生前の手塚治虫に「この人は実はものすごく絵がうまい人だ」と評され、時事ネタとしてアニメ調の画風でネタを描いた事がある。その手塚治虫に2作目の『エレキな春』では真似が出来ないと言わしめた。
自身の事務所である「有限会社さるやまハゲの助」の新年会として行われる社内ロックフェスティバル「しりあがり寿 presents 新春! (有)さるハゲロックフェスティバル」(通称:さるフェス)を、新宿Loftにて毎年、一般公開している。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "しりあがり 寿(しりあがり ことぶき、1958年1月1日 - )は、日本の漫画家。静岡県静岡市葵区出身。男性。神戸芸術工科大学特任教授、横浜美術大学客員教授、日本大学藝術学部非常勤講師。本名は望月寿城(もちづき としき)。妻は漫画家の西家ヒバリ。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "代表作は『真夜中の弥次さん喜多さん』、『弥次喜多 in DEEP』など。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "白土三平や貸本ホラー漫画などをネタにした漫画マニア向けのパロディ作品や、『流星課長』などのシュールなサラリーマン物などを手がけ、独特のギャグ漫画家として評価を獲得する。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "現在では時事ネタ、家庭ネタ、サラリーマンネタ、果てには哲学的なテーマまで幅広く扱い、ギャグによって文学の領域にまで達した漫画家として評価が高い。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "青林工藝舎発行の『アックス』に2002年から2004年まで連載した「ジャカランダ」は、登場人物に主人公すら設定せず、ある日突然生えてきた一本の巨樹ジャカランダによって徹底的に東京が崩壊する阿鼻叫喚の地獄絵図だけを300ページに渡り描き、ラストに人類再生へと続く希望を見せ、物語は終了するという特異な漫画作品も描いている。芸人の鳥居みゆきは、「のうのうと生きてちゃいけないな」と本作への衝撃を語っている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "非常にラフで、一見描き殴りのような「ヘタウマ」絵を描く漫画家として知られるが、生前の手塚治虫に「この人は実はものすごく絵がうまい人だ」と評され、時事ネタとしてアニメ調の画風でネタを描いた事がある。その手塚治虫に2作目の『エレキな春』では真似が出来ないと言わしめた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "自身の事務所である「有限会社さるやまハゲの助」の新年会として行われる社内ロックフェスティバル「しりあがり寿 presents 新春! (有)さるハゲロックフェスティバル」(通称:さるフェス)を、新宿Loftにて毎年、一般公開している。",
"title": "人物"
}
] | しりあがり 寿は、日本の漫画家。静岡県静岡市葵区出身。男性。神戸芸術工科大学特任教授、横浜美術大学客員教授、日本大学藝術学部非常勤講師。本名は望月寿城。妻は漫画家の西家ヒバリ。 | {{存命人物の出典明記|date=2016年3月8日 (火) 08:16 (UTC)}}
'''しりあがり 寿'''(しりあがり ことぶき、[[1958年]][[1月1日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[静岡県]][[静岡市]][[葵区]]出身。男性。[[神戸芸術工科大学]]特任教授、[[横浜美術大学]]客員教授、[[日本大学藝術学部]]非常勤講師。本名は'''望月寿城'''(もちづき としき)。妻は漫画家の[[西家ヒバリ]]。
== 人物 ==
代表作は『[[真夜中の弥次さん喜多さん]]』、『[[弥次喜多 in DEEP]]』など。
[[白土三平]]や[[貸本]]ホラー漫画などをネタにした漫画マニア向けのパロディ作品や、『[[流星課長]]』などのシュールなサラリーマン物などを手がけ、独特のギャグ漫画家として評価を獲得する{{要出典|date=2016年3月8日 (火) 08:16 (UTC)}}。
現在では[[時事]]ネタ、[[家庭]]ネタ、[[サラリーマン]]ネタ、果てには哲学的なテーマまで幅広く扱い、ギャグによって文学の領域にまで達した漫画家として評価が高い{{要出典|date=2016年3月8日 (火) 08:16 (UTC)}}。
[[青林工藝舎]]発行の『[[アックス (雑誌)|アックス]]』に2002年から2004年まで連載した「ジャカランダ」は、登場人物に主人公すら設定せず、ある日突然生えてきた一本の巨樹[[ジャカランダ属|ジャカランダ]]によって徹底的に東京が崩壊する阿鼻叫喚の地獄絵図だけを300ページに渡り描き、ラストに人類再生へと続く希望を見せ、物語は終了するという特異な漫画作品も描いている。芸人の[[鳥居みゆき]]は、「のうのうと生きてちゃいけないな」と本作への衝撃を語っている{{要出典|date=2016年3月8日 (火) 08:16 (UTC)}}。
非常にラフで、一見描き殴りのような「[[ヘタウマ]]」絵を描く漫画家として知られるが、生前の[[手塚治虫]]に「この人は実はものすごく絵がうまい人だ」と評され、時事ネタとしてアニメ調の画風でネタを描いた事がある<!--ダ・ヴィンチ2007年7月号「オーイ・メメントモリ」-->。その手塚治虫に2作目の『エレキな春』では真似が出来ないと言わしめた{{要出典|date=2016年3月8日 (火) 08:16 (UTC)}}。
自身の事務所である「有限会社さるやまハゲの助」の新年会として行われる社内ロックフェスティバル「しりあがり寿 presents 新春! (有)さるハゲロックフェスティバル」(通称:さるフェス)を、[[ロフト (ライブハウス)#新宿ロフト|新宿Loft]]にて毎年、一般公開している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.saruhage.com/sarufes/sarufes16/ |title=しりあがり寿presents 新春! (有)さるハゲロックフェスティバル'16 |publisher=Shiriagari Kotobuki , SARUYAMA HAGENOSUKE Co,.Ltd. |accessdate=2016-3-8}}</ref>。
== 略歴 ==
* [[1977年]] [[静岡県立静岡高等学校]]を卒業後、[[多摩美術大学]]デザイン科グラフィックデザイン専攻入学。漫画研究会で[[喜国雅彦]]、[[祖父江慎]]、[[しゅりんぷ小林]]らと知り合う。
* [[1981年]] [[麒麟麦酒|キリンビール]]に入社(学校推薦)。[[ハートランドビール]]、[[キリン一番搾り生ビール|一番搾り]]などのマーケティングを担当<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASN8L6QZ2N8HUKJH00K.html|title=しりあがり寿さん、冨嶽三十六景のパロディーを伝授|publisher=朝日新聞デジタル|date=2020-08-19|accessdate=2020-10-17}}</ref>。キリン入社後から漫画を描き始める。
* [[1994年]] 36歳でキリンを退社し独立する。
* [[2000年]] 『時事おやじ2000』、『ゆるゆるオヤジ』により第46回[[文藝春秋漫画賞]]を受賞。
* [[2001年]] 『弥次喜多 in DEEP』([[エンターブレイン]])で第5回[[手塚治虫文化賞]]「マンガ優秀賞」を受賞。[[横浜美術短期大学]]非常勤講師。
* [[2002年]][[4月1日]] [[朝日新聞]]夕刊にて4コマ漫画『[[地球防衛家のヒトビト]]』を連載開始。
* [[2002年]] 『流星課長』([[松尾スズキ]]、[[小日向しえ]])が[[庵野秀明]]によりショートビデオ化。
* [[2005年]] 『[[真夜中の弥次さん喜多さん#映画|真夜中の弥次さん喜多さん]]』([[長瀬智也]]、[[中村七之助 (2代目)|中村七之助]]主演)が[[宮藤官九郎]]により映画化。横浜美術短期大学で漫画論の講師もしていた。
* [[2006年]] [[静岡市]][[葵区]]のPRキャラクター「あおいくん」をデザインする。
* [[2006年]] [[神戸芸術工科大学]]メディア表現学科特任教授。
* [[2014年]] 春の叙勲で[[紫綬褒章]]受章<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNZO70487860X20C14A4CR8000/?s=5|title=春の褒章684人・23団体 ソチ五輪金メダル羽生さんら|accessdate=2023-05-11|publisher=[[日本経済新聞]]|date =2014-04-28}}</ref>。
* [[2021年]]6月23日から29日 個展「しりあがり寿展「あらがったり、あらがわなかったり。」」を[[伊勢丹新宿店]]本館6階のアートギャラリーにて開催<ref name="natalie20210619">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/433254|title=焼き絵・墨絵・陶芸…しりあがり寿の個展が新宿で開催、作者在廊日も|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-06-19|accessdate=2021-06-19}}</ref>。焼き絵や墨絵、陶芸、4コマ漫画を陶器にした作品が展示{{R|natalie20210619}}。
== 主な作品 ==
=== 単行本 ===
* 『エレキな春』白泉社 (1985/07) ISBN 978-4592130581
** 『エレキな春』文庫版 白泉社 (1998/03) ISBN 978-4592885023
* 『おらあロココだ』白泉社 (1987/02) ISBN 978-4592131045
**『おらあロココだ!』文庫版 白泉社 (1998/06) ISBN 978-4592885047
*『夜明ケ』白泉社 (1990/04) ISBN 978-4592131359
* 『コイソモレ先生』[[青林堂]] (1993/01) ISBN 978-4792602192
**『コイソモレ先生』文庫版 筑摩書房 ちくま文庫 (2002/10) ISBN 978-4480037770
**『続コイソモレ先生』ゼスト (1998/10) ISBN 978-4883770533
* 『カモン!恐怖』白泉社 (1993/11) ISBN 978-4592131571
** 『カモン!恐怖』文庫版 筑摩書房 ちくま文庫 (1999/07) ISBN 978-4480034885
*「ヒゲのOL薮内笹子」シリーズ
** 『[[ヒゲのOL薮内笹子]]』竹書房 (1996/03) ISBN 978-4812450345
**『続・ヒゲのOL薮内笹子』1巻 竹書房 (1998/12) ISBN 978-4812452707
**『続・ヒゲのOL薮内笹子』2巻 竹書房 (2000/06) ISBN 978-4812453971
**『真・ヒゲのOL藪内笹子』1巻 エンターブレイン (2003/03) ISBN 978-4757711761
**『真・ヒゲのOL藪内笹子』2巻 エンターブレイン (2003/07) ISBN 978-4757715233
**『真・ヒゲのOL藪内笹子』3巻 エンターブレイン (2004/2/25) ISBN 978-4757717732
**『ヒゲのOL藪内笹子 完全版 春』文庫版 KADOKAWA/エンターブレイン (2009/1/26) ISBN 978-4047296992
**『ヒゲのOL藪内笹子 完全版 夏』文庫版 KADOKAWA/エンターブレイン (2009/1/26) ISBN 978-4047297005
**『ヒゲのOL藪内笹子 完全版 秋』文庫版 KADOKAWA/エンターブレイン (2009/3/23) ISBN 978-4047297012
**『ヒゲのOL藪内笹子 完全版 冬』文庫版 KADOKAWA/エンターブレイン (2009/3/23) ISBN 978-4047297029
* 『白いガクラン―文芸部長白雪姫男の詩』新潮社 (1996/01) ISBN 978-4106030482
* 『少年マーケッター五郎』竹書房 (1996/04) ISBN 978-4812450468
* 『流星課長』竹書房 (1996/02) ISBN 978-4812450284
* 『O.SHI.GO.TO』マガジンハウス (1998/06) ISBN 978-4838709663
**『O.SHI.GO.TO 上』新丁版 マガジンハウス (2010/3/25) ISBN 978-4838720866
**『O.SHI.GO.TO 下』新丁版 マガジンハウス (2010/4/22) ISBN 978-4838720989
* 『ドウブツマンガ』朝日新聞社 (1998/11) ISBN 978-4023302402
* 「時事おやじ」シリーズ アスキー 1999〜2000年
**『時事おやじ』1巻 アスキー (1999/02) ISBN 978-4757203112
**『時事おやじ』2巻 アスキー (1999/02) ISBN 978-4757203129
**『時事おやじ (2000) 』アスキー (2000/03) ISBN 978-4757206991
* 『[[真夜中の弥次さん喜多さん]]』エンターブレイン (2005/3/25) ISBN 978-4757722156
* 「弥次喜多 in DEEP」シリーズ 全8巻
**『弥次喜多 in DEEP』1巻 アスキー (1998/08) ISBN 978-4757201545
**『弥次喜多 in DEEP』2巻 エンターブレイン; 改訂版 (2001/06) ISBN 978-4757704930
**『弥次喜多 in DEEP』3巻 エンターブレイン; 改訂版 (2001/06) ISBN 978-4757704947
**『弥次喜多 in DEEP』4巻 エンターブレイン; 改訂版 (2001/06) ISBN 978-4757704954
**『弥次喜多 in DEEP』5巻 エンターブレイン (2001/1/1) ISBN 978-4757702622
**『弥次喜多 in DEEP』6巻 エンターブレイン (2001/08) ISBN 978-4757705401
**『弥次喜多 in DEEP』7巻 エンターブレイン (2002/03) ISBN 978-4757707672
**『弥次喜多 in DEEP』8巻 エンターブレイン (2003/01) ISBN 978-4757710115
*「弥次喜多 in DEEP」廉価版 全4巻
**『弥次喜多 in DEEP 廉価版 』1巻 エンターブレイン (2005/3/25) ISBN 978-4757722163
**『弥次喜多 in DEEP 廉価版 』2巻 エンターブレイン (2005/3/25) ISBN 978-4757722170
**『弥次喜多 in DEEP 廉価版 』3巻 エンターブレイン (2005/4/25) ISBN 978-4757722446
**『弥次喜多 in DEEP 廉価版 』4巻 エンターブレイン (2005/4/25) ISBN 978-4757722453
* 『ゆるゆるオヤジ―フライング翼子』文藝春秋 (1999/07) ISBN 978-4160999190
* 『しりあがり寿のお蔵出し』イースト・プレス (1999/5/1) ISBN 978-4872571653
* 『女装社員薔薇のヴァネッサ』マガジンハウス (2000/5/1) ISBN 978-4838712205
* 『リストラ軍師大前鷹山』白泉社 (2001/09) ISBN 978-4592132820
* 『恋の狩人―白いガクラン 2』新潮社 (2000/03) ISBN 978-4106030567
* 『真夜中の水戸黄門』エンターブレイン (2005/3/25) ISBN 978-4757722156
* 「真夜中のヒゲの弥次さん喜多さん」シリーズ
** 『真夜中の弥次さん喜多さん』1巻 マガジンハウス (1996/06) ISBN 978-4838708055
** 『真夜中の弥次さん喜多さん』2巻 マガジンハウス (1997/10) ISBN 978-4838709137
** 『合本 真夜中の弥次さん喜多さん』マガジンハウス (2005/3/17) ISBN 978-4838715749
** 『小説 真夜中の弥次さん喜多さん』河出書房新社 (2005/3/5)ISBN 978-4309407395
** 『真夜中のヒゲの弥次さん喜多さん』1巻 エンターブレイン (2005/10/24) ISBN 978-4757724792
* 『ア○ス』ソフトマジック (2001/12) ISBN 978-4921181390
* 『瀕死のエッセイスト』ソフトマジック (2002/03) ISBN 978-4921181444
*『サラリーマンの魂』白泉社 (1988/12) ISBN 978-4592730606
**『サラリーマンの魂』文庫版 扶桑社 (1994/10) ISBN 978-4594015268
*「[[地球防衛家のヒトビト]]」シリーズ 全3巻
** 『地球防衛家のヒトビト』1巻 朝日新聞社 (2004/6/18) ISBN 978-4022579249
** 『地球防衛家のヒトビト』2巻 朝日新聞社 (2006/03) ISBN 978-4022501714
** 『地球防衛家のヒトビト』3巻 朝日新聞社 (2007/4/6) ISBN 978-4022502759
* 『しりあがり寿の多重人格アワー』中央公論社 (1996/08) ISBN 978-4120026010
* 『"徘徊老人"ドン・キホーテ』朝日新聞社 (2001/06) ISBN 978-4023302464
* 『おやじ画報』[[青林堂]] (2001/07) ISBN 978-4792603496
* 『景気ばくはつ。』エンターブレイン (2002/03) ISBN 978-4757706347
* 『筋肉おやじとアブラミくん』イラスト(共著 [[増田晶文]])マガジンハウス (2004/10/1) ISBN 978-4838715336
* 『スキヤキ・ウエスタンジャンゴ』上下 2007年
**上巻 小学館 (2007/8) ISBN 978-4091814807
**下巻 小学館 (2007/10) ISBN 978-4091815941
* 『はしるチンチン (えほんのぼうけん)』岩崎書店 (2009/4/18) ISBN 978-4265070220
* 『そこはいきどまりだよ。』エンターブレイン (2009/8/26) ISBN 978-4757749986
* 『人並みといふこと』大和書房 (2008/7/24) ISBN 978-4479391777
* 『でも、まぁいいか。』エンターブレイン (2009/8/26) ISBN 978-4757749993
* 『ぞんざいな存在』エンターブレイン (2010/1/29) ISBN 978-4047263383
* 『ファンタジー、おじさんをつつむ。』エンターブレイン (2004/2/25) ISBN 978-4757717749
* 『ゲロゲロブースカ』エンターブレイン (2007/9/25) ISBN 978-4757733503
**『ゲロゲロプースカ 新装版』エンターブレイン (2012/5/25) ISBN 978-4047281547
* 『オーイ・メメントモリ』メディアファクトリー (2006/5/23) ISBN 978-4840113854
** 『オーイ・メメントモリ 完全版』メディアファクトリー (2012/8/23) ISBN 978-4840147187
* 『方舟』[[太田出版]] (2000/12/1) ISBN 978-4872335545
* 『青い目の岡っ引きヘンリー捕物帳』小池書院 (2008/5/20) ISBN 978-4862253064
* 『ジャカランダ』[[青林工藝舎]] (2005/06) ISBN 978-4883791835
** 『ジャカランダ』新装版 青林工藝舎 (2011/11/11) ISBN 978-4883793549
* 『しりあがり寿 自選爆笑短編集 のっぴょぴょー』講談社 (2005/4/22) ISBN 978-4063349979
* 『なんでもポン太』[[太田出版]] (2003/1/1) ISBN 978-4872337396
* 『おやじ時評』洋泉社 (2004/11) ISBN 978-4896918694
* 『双子のオヤジ』[[青林工藝舎]] (2002/01) ISBN 978-4883791019
**『双子のオヤジ』新装版 青林工藝舎 (2012/1/30) ISBN 978-4883793587
* 『ゲバラちえ子の革命的日常』中央公論新社 (2007/04) ISBN 978-4120038259
* 『みらいのゆくすえ』春風社 (2011/12/9) ISBN 978-4861102943
* 『川下り 双子のオヤジ』エンターブレイン (2013/5/30) ISBN 978-4047288591
* 『表現したい人のためのマンガ入門』講談社 (2006/7/19) ISBN 978-4061498471
* 『ねつでやすんでいるキミへ (えほんのぼうけん)』岩崎書店 (2013/3/15) ISBN 978-4265081233
* 『あの日からのマンガ』エンターブレイン (2011/7/25) ISBN 978-4047274747
* 『黒き川』KADOKAWA/エンターブレイン (2015/3/11) ISBN 978-4047302419
* 『ノアの阿呆舟』KADOKAWA/エンターブレイン (2015/3/25) ISBN 978-4047303188
* 『アレキサンダー遠征』KADOKAWA/エンターブレイン (2015/3/25) ISBN 978-4047303171
* 『そして、カナタへ。』KADOKAWA/エンターブレイン (2015/6/25) ISBN 978-4047305342
* 『あの日からの憂鬱』KADOKAWA/エンターブレイン (2015/3/11) ISBN 978-4047302402
* 『おとぎの国のメメントモリ』KADOKAWA/メディアファクトリー (2015/9/25) ISBN 978-4040679204
* 『しりあがり寿の現代美術 回・転・界』[[求龍堂]] (2016/7/8) ISBN 978-4763016195
*『くる日もくる日もコロナのマンガ』KADOKAWA/エンターブレイン(2021/3/12)
=== その他作品 ===
* [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]「[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]」 オープニングアニメ(2作目)
* テックウィン([[エンターブレイン]]発行雑誌)「さるやまハゲの助アワー」 連載・監修
* [[明和電機]]シンボルマークデザイン
* 気の遠くなる宇宙論([[メディアファクトリー]]発行 [[佐藤勝彦 (物理学者)|佐藤勝彦]]との共著)
* [[日本放送協会|NHK]][[みんなのうた]]「タチツテト手を」「とのさまガエル」 キャラクターデザイン
* [[古文単語ゴロ565|大学受験古文単語ゴロ565]]([[アルス工房]]発行 [[星雲社]]発売 [[板野博行]]著 [[挿絵]]一部担当)
* 特ダネ!プースカ(au Ezチャンネル)
* [[小学館]] ゲーム攻略本 任天堂公式ガイドブック [[スーパーマリオワールド]] ― Super Mario bros.4(コラムと絵)
* 小学館 ゲーム攻略本 「任天堂公式ガイドブック [[ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣|ファイアーエムブレム]]百科」(コラムと絵)
* 小学館 ゲーム攻略本 「任天堂公式ガイドブック [[ファイアーエムブレム 紋章の謎]]」 (絵と文章)
* [[アスペクト (企業)|アスペクト]] ゲーム攻略本「[[ポケットモンスター]]図鑑」(挿絵)
* [[ほぼ日刊イトイ新聞]] 「[[言いまつがい]]」(挿絵)
* [[秘密の音園]]イメージキャラクターをデザイン
* ([[オレンジページ]]発行雑誌)「オレンジページ」の『おつきあい研究所(ラボ)』ページ内連載(コママンガ)『OH.MY.DO.コメーワクちゃん』
* ([[東京ニュース通信社]]発行雑誌)「TVBros.2週間TV番組テレビブロス」内のクロブロスページ中にある連載一コママンガ「はなくそ時評」
* [[任天堂]] [[メイド イン 俺]] サンプル4コママンガ
* [[集英社]][[Vジャンプ]]「[[我輩はゲームである。]]」文:[[えのきどいちろう]](挿絵)
*[[スチャダラパー]]「WILD FANCY ALLIANCE」アルバムジャケット
*[[したまちコメディ映画祭in台東]] [http://www.shitacome.jp/2008/ 第1回したまちコメディ映画祭in台東](絵)
* したまちコメディ大賞2009(審査員)
* しりあがり寿・超協力 [[:en:Logos Panic|ロゴスパニック ごあいさつ]]([[ポピー (玩具メーカー)|ユタカ]]、[[スーパーファミコン|SFC]]、1995年11月17日)
** 監修・キャラクターデザイン 自身初となるテレビゲーム作品。
*[[CANTA]]「きらきら」「めらめら」アルバムジャケット
* [[NISSAN あ、安部礼司〜BEYOND THE AVERAGE|あ、安部礼司]]([[エフエム東京|TOKYO FM]]系[[ラジオドラマ]]原作)
* いっしょテレビ - [[雑誌]]「[[デジタルTVガイド]]」([[東京ニュース通信社]])[[目次]][[ページ]]に連載中。妻の西家ヒバリと月替わりで掲載。
* ピノキヲ - [[有頂天 (バンド)|有頂天]]のCDブックレット「BECAUSE」に収録
* [[静岡朝日テレビ]] [[ピエール瀧のしょんないTV]]
== 出演テレビ番組 ==
* [[踊る!さんま御殿!!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、1997年)
* [[タモリ倶楽部]]([[テレビ朝日]])
** 「勝手にリニューアル デザイン変えさせて頂きます」1996年3月29日 - 新しい標識のデザインを考える企画。
** 「広辞苑 完全マンガ化計画」1997年11月28日
*BSマンガ夜話 W3 NHK BS2 2002年4月2日
* [[課外授業ようこそ先輩]]「キャラクターを創ろう」(NHK総合テレビジョン、2002年10月27日) - 小学生を相手に特別授業を行った。
* [[こころの時代]] ~宗教・人生~ シリーズ 私にとっての「3.11」 「あの日からの「マンガ」を読む」 ([[NHK総合テレビジョン]]、2013年3月3日)
* [[デザインあ]] #118、#119([[NHK教育テレビジョン]]、2017年1月14日、2月4日)
== 映画出演 ==
* [[キューティーハニー (映画)|キューティーハニー]]([[2004年]])
* [[恋の門]](2004年)
* [[クワイエットルームにようこそ]]([[2007年]])
== CM ==
* [[ローソン]]「秋の新作お弁当」([[2000年]])
* [[トンボ鉛筆]]([[2006年]])
== アシスタント ==
* [[河井克夫]]
* [[安永知澄]]
* [[平川雄一]]
* [[鳥羽ジャングル]]
== Web上で見ることの出来る漫画 ==
* [http://www.roumap.com/erabikata/ しりあがり寿の選び方分かんないっす。]
== 関連番組 ==
* [[BSマンガ夜話]]「弥次喜多in DEEP」(2003年5月29日 NHK BS2) - 本人出演なし。ゲストは[[高橋源一郎]]と[[さとう珠緒]]。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{Official website|http://www.saruhage.com/|ほーい! さるやまハゲの助}}(公式サイト)
* [https://web.archive.org/web/20070503212202/http://video.nifty.com/cs/user/video_profile/detail/uid_0000000518/1.htm @niftyビデオ共有](本人の投稿ビデオ)
*{{Twitter|shillyxkotobuki|しりあがり寿}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しりあかり ことふき}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:新聞連載の漫画家]]
[[Category:ガロ]]
[[Category:アックス]]
[[Category:神戸芸術工科大学の教員]]
[[Category:日本大学の教員]]
[[Category:横浜美術短期大学の教員]]
[[Category:静岡県立静岡高等学校出身の人物]]
[[Category:多摩美術大学出身の人物]]
[[Category:紫綬褒章受章者]]
[[Category:キリングループの人物]]
[[Category:みんなのうたの映像制作者]]
[[Category:静岡市出身の人物]]
[[Category:1958年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] | 2003-03-10T08:53:13Z | 2023-10-04T05:09:06Z | false | false | false | [
"Template:Official website",
"Template:Normdaten",
"Template:存命人物の出典明記",
"Template:要出典",
"Template:R",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Cite news",
"Template:Twitter"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%82%8A%E3%81%82%E3%81%8C%E3%82%8A%E5%AF%BF |
3,751 | 放送 | 放送(ほうそう、英: broadcasting, 英: transmission)とは、電気通信を用いて、音声・映像(動画)・文字などで表現された情報を、「1対多」の形で送信すること。
「館内放送」「車内放送」といった語用もあるが、日本語で単に「放送」といった場合、多くはラジオ放送およびテレビジョン放送、すなわち受信機等の媒体(メディア)へ向けた電磁波による番組の送信を指す。本項目ではこの放送番組を送信する放送について記述する。
放送を行う主体とその機器等を合わせて放送局(ほうそうきょく)と呼ぶ。
放送事業は、その運営主体別に国営放送、公共放送、民間放送に分類される。日本に例を取ると、日本放送協会(NHK)と放送大学学園が公共放送に該当する。なお日本において日本国政府が運営する国営放送は存在しないが、在日米軍の運営によるAFNが日本の領内に放送局を設置している。
コミュニケーションの観点から見た場合、放送は、対面(フェイス・トゥ・フェイス)で行われるものではなく、通信であることから、隔地間で行う「テレコミュニケーション」である。
また、コミュニケーションは、構造別に「1対1」と「1対多」に分類できるが、放送はおおむね「1対多」を想定して行われる。特にラジオ放送・テレビ放送は、不特定かつ多数の大衆(英: mass マス)を相手に行うのでマスコミュニケーションである。
さらに、コミュニケーションは、方向別に「双方向コミュニケーション」と「一方向コミュニケーション」に分類できるが、放送は、基本的には送信側から受信側へ向けた一方向のコミュニケーションである。
特にテレビの放送番組を送出することを「放映する」と表現する場合がある。NHK放送文化研究所によると、「放映」はテレビ番組全般を放送する意味と、映画番組を放送する意味とに用いられ、「放映」を用いた場合その範囲や区別がはっきりしないため、NHKでは原則として「放送」を使い「放映」は使わない。
第一次世界大戦後のアメリカではレコードが普及するとともに、軍事利用されていた無線の使用制限が解除され、無線機メーカーとレコード製造会社が放送事業を計画するようになった。ペンシルベニア州ピッツバーグのウェスティングハウス電気製造会社の技術者フランク・コンラッドの実験局「8XK」を母体に世界初の商業放送局「KDKA(英語版)」が開設され、1920年11月2日、ウォレン・ハーディング大統領の当選を伝えた。ただし、実際にはアマチュア無線家が運営する小規模の放送が既に実施されていた。
アメリカの放送事業は、ラジオ放送による受信機の売上、および放送で流される音楽のレコードの売上で経営されていた。しかし、放送がスタートした時期のレコードは録音時間が3分程度しかなく、レコードを交換するタイミングで商業広告が入るスタイルとなった。
その後、アメリカでは多数の放送局が設立され、それが連結して商業ネットワークがつくられるようになった。
アメリカで多数の放送局が設立されるようになると、イギリス政府内では大量生産による安価な受信機がアメリカから流入するのではないかとの懸念があり、国土の狭いイギリスでアメリカと同じように多くの放送局が競合すれば経営難に陥ることが予想されたため政府主導による免許制とすることが好ましいと考えられていた。
1922年、マルコーニ無線電信会社(英語版)などがイギリス政府の意向を受けて「英国放送協会(BBC)」の設立に合意し、政府はBBCの経営安定のため受信料を徴収することを特許した。
英国放送協会(BBC)は2034年を目処に伝送路をインターネットへ移行させ、地上波放送電波を返上(停波)することを検討している 。
とりあえず以下を参照のこと。
とりあえず以下を参照のこと。
日本では放送事業を規制していた法規としては「放送用私設無線電信電話規則」というものがあった。同規則に代わり、1950年(昭和25年)に放送法が新しく制定・公布された。
放送法では「公衆によって直接受信されることを目的とする電気通信の送信」(放送法第2条1)と定義した。(ちなみに「電気通信」というのは、英語圏では通用しない概念で、日本(やアジアの一部の国)の行政用語である。)
根拠となる法律により以下のように区分される。一般的に「放送」という場合、放送法(以下、「法」と略す。)に基づく放送を指す。
促音の表記は原文ママ
新聞・雑誌などの他のメディアと比較して、放送には特殊な位置づけが与えられている。理由の一つは「電波の有限性(利用出来る電波の周波数帯域は限られている。)」というものがあげられる。 また、放送は音声(テレビであれば映像も含まれる。)で情報を伝えるメディアであり、生放送・生中継が出来ることから即効性もある。それゆえ、放送は他のメディアに比較し国民の思想・世論・人格形成などに与える影響が特に強いと考えられている。そこで、放送の中立性をはじめとして青少年の健全育成に配慮し、公共の福祉の為にこれを活用する必要があるとされる。 そのため、放送事業は、放送法により規制され、総務省(従前は郵政省)によって周波数の割当てを受ける免許事業(許認可事項)であり、勝手に放送事業を行ってはならないとされていた。しかし、2010年(平成22年)の平成22年法律第65号(平成23年6月30日施行)により放送法が改正され、放送局の免許を受けた者が自ら放送事業を営む特定地上基幹放送事業者、後述の#放送法令適用外の放送のほか、認定基幹放送事業者は総務大臣の認定、一般放送事業者は総務大臣の登録又は総務大臣若しくは都道府県知事への届出により放送の業務を行うことができることとなった。
ちなみにアメリカでは届出制である。
放送系とは、同一の放送番組の放送を同時に行うことのできる放送局の総体 (法第2条の2第2項第3号)を表す。
同一の放送番組の基幹放送を同時に受信できることが相当と認められる一定の区域(法第91条第2項第2号)。基幹放送普及計画により放送系毎に定められる。
放送を行う事業者を放送事業者という。そのうち、放送法第92条において、「特定基幹放送事業者、及び基幹放送局提供事業者は、その基幹放送局を用いて行う基幹放送に係る放送対象地域において、当該放送があまねく受信できるように努めるものとする」と規定されている。 飛地、地形上の制約、物理的制約その他によりこの規定を達成していない主な放送事業者は次の通り(†は平成新局)。
など、平成新局のほとんどが規定を達成できていない。また、平成新局は資金面が乏しいことから2006年以降の地上デジタル放送の中継局整備であまり多く設置することが出来ず、CS再送信やIP放送に任せてしまおうと検討する放送局があったが、総務省や地元自治体などの支援(建設費用の一部を助成すること)によりアナログ未開局地域を含めて先発局と同等の数で設置が進められてきている。逆に放送対象地域外に電波が飛んでいる場合がある(スピルオーバー現象。IP放送の場合方式によれば全国からの受信を可能にしてしまうおそれがある)。デジタル放送の電界強度次第ではアナログでは難視聴状態でもデジタルでは鮮明に受信できる可能性も地域によって出てくる。なお、ラジオ(AM/FM・短波)放送については上記以外のFM局でも山間部などの辺境地の多くは難聴や聴取不可となる地域も多い。AMの場合、送信所・中継局の設置に波長の関係から送信鉄塔自体が高くなり、その高い鉄塔を支えるためのワイヤー設置等で広大な土地が必要とする関係から、中継局を多く設置できず、民放を中心に放送対象地域全域をカバー出来ていないケースが多く、一方で高出力局を中心にスピルオーバーが起こっている既存の親局・中継局が多いことから、既存の親局・中継局の増力はスピルオーバーをなお一層拡大させる問題があるため、増力を実施できるケースはほとんど無いのが実情である。
一の基幹放送局の放送に係る区域。一般的にいえば、標準の受信設備で放送を良好に受信できると想定される区域(強・中電界地域)のことであり、地上波電界強度により機械的に定まる。これらは総務省令基幹放送局の開設の根本的基準第2条第1項第15号で規定されている。 放送対象地域が放送系毎に定められるのに対し、放送区域は無線局(送信所)毎に定められる。 例えば地上アナログテレビジョン放送の場合、電界強度が3mV/m(70dBμ)以上である区域、地上デジタルテレビジョン放送の場合、地上波電界強度が1mV/m(60dBμ)以上である区域が放送区域である。これは、UHFテレビ放送の場合アナログ放送は地上4mの高さ、デジタル放送は地上10mの高さで14〜20素子程度のUHF八木・宇田アンテナを設置した場合の受信できる範囲に相当する。移動体端末で1セグメント放送受信の場合、地上10m未満の高さでの受信となるため、放送区域内でも受信時に電界強度が弱い場合は受信できない。逆に放送区域外でも環境によっては受信が容易な場合も多い。地上波のFM放送・テレビ放送の場合、パラスタックアンテナ(大型でアンテナの設置・維持管理が困難である欠点があったが、最近は設置・維持管理を容易にしようと小型で遠距離受信可能なアンテナ(マスプロ電工の「LS14TMH」、DXアンテナの「UBL-62DA」、八木アンテナの「US-LD14CR」など)が発売されている。)をアナログ放送は地上4mを超える高さ、デジタル放送は地上10mを超える高さに設置することによって放送区域外(弱電界地域)でも良好に受信できる場合がある。場合によってはアンテナと受信機の間に受信ブースターを取り付ける。
放送が影響力の大きいメディアであることをかんがみ、基幹放送事業者、認定放送持株会社並びに基幹放送局提供事業者への外資規制が設けられている。
これに抵触した特定地上基幹放送事業者あるいは基幹放送局提供事業者に対して、総務大臣は改善命令や電波法第75条第1項に基づく無線局免許の取消しの処分を行わなければならない。但し無線局免許の残存期間中はその状況を勘案し、免許を取り消さないことができる(電波法第75条第2項)ため、抵触しても必ずしも取消しになるとは限らない(当然ながら、その状況下での免許更新はできない。)。
同様に、これに抵触した認定基幹放送事業者及び認定放送持株会社に対しては、総務大臣はその認定を取り消すことができる(法第104条、第166条第1項第1号)としている。
これらを防ぐための防衛措置として、外国人からの株式の名義書換請求を拒否することを認めている(法第116条、第125条、第161条)。
なお一般放送事業者に関してはこのような規定がなく、基幹放送事業を兼業している、あるいは無線局免許を受けている場合を除き、外資支配を理由とした事業者登録の抹消、若しくは業務の停止処分を受けることはない。
ビル内、事業所内などに備え付けたスピーカーに、有線、場合によっては無線の通信設備により、一斉送信をして連絡や呼び出しなどに使われる。これらも放送法においては一般放送の定義に含まれるが、受信障害対策中継放送、微弱電力無線通信設備(ワイヤレスマイクの一部等)、単一の構内に完結する自営有線電気通信設備(構内放送)やこれに類似する車両・船舶・航空機内の有線電気通信設備(車内放送等)、引込端子数が50以下の有線電気通信設備により行われる有線一般放送(その全てが同時再放送又は共同聴取業務であるものその他これに類するものとして総務大臣が別に告示するものに限る。)などは、原則として放送法の適用除外となり、放送法上の登録・届出手続を要しない。
但し、有料放送業務や協会放送受信契約締結義務など、放送法またはこれに基づく政省令や技術基準において「除外の除外」条項を設けている場合や、有線電気通信法における有線電気通信設備、消防法における非常用放送設備などの他法令による規制あるいは基準が設けられている事がある点に注意が必要。また、受信障害対策中継放送については、電波法に基づく無線局免許が必要であるほか、基幹放送普及計画などの放送法の一部の規定の適用を受ける。
なお在日米軍による無線放送(AFN)は、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う電波法の特例に関する法律に基づき日米地位協定に定めるところによる。
小学校、中学校、高等学校などの学校には、校内向けの放送設備が整えられている。児童、生徒や教員がこれを使い、全校生徒への連絡等に利用する。これを校内放送と言う。 利便性から、その設備を使用しての特定の生徒への呼び出しや連絡に使用される場合もある。 児童、生徒の委員会活動として一般的に放送委員会や、それに類する組織が設けられており、これらに所属する児童、生徒を放送委員という。放送委員は、全校朝礼の放送設備の準備、昼休みにいわゆるお昼の放送、下校時刻を知らせる放送や、運動会など学校行事の放送を行う。 設備の整っている学校では、校内でテレビ中継のようなこと(学校内での各教室への映像配信)ができる場合もある。 これら校内放送を基にし、中高生のメディアリテラシーの実践の場として、アナウンスや、朗読、ラジオ番組やテレビ番組の技術等を競うNHK杯全国高校放送コンテストや、NHK杯全国中学校放送コンテストが開催されている。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "放送(ほうそう、英: broadcasting, 英: transmission)とは、電気通信を用いて、音声・映像(動画)・文字などで表現された情報を、「1対多」の形で送信すること。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "「館内放送」「車内放送」といった語用もあるが、日本語で単に「放送」といった場合、多くはラジオ放送およびテレビジョン放送、すなわち受信機等の媒体(メディア)へ向けた電磁波による番組の送信を指す。本項目ではこの放送番組を送信する放送について記述する。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "放送を行う主体とその機器等を合わせて放送局(ほうそうきょく)と呼ぶ。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "放送事業は、その運営主体別に国営放送、公共放送、民間放送に分類される。日本に例を取ると、日本放送協会(NHK)と放送大学学園が公共放送に該当する。なお日本において日本国政府が運営する国営放送は存在しないが、在日米軍の運営によるAFNが日本の領内に放送局を設置している。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "コミュニケーションの観点から見た場合、放送は、対面(フェイス・トゥ・フェイス)で行われるものではなく、通信であることから、隔地間で行う「テレコミュニケーション」である。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "また、コミュニケーションは、構造別に「1対1」と「1対多」に分類できるが、放送はおおむね「1対多」を想定して行われる。特にラジオ放送・テレビ放送は、不特定かつ多数の大衆(英: mass マス)を相手に行うのでマスコミュニケーションである。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "さらに、コミュニケーションは、方向別に「双方向コミュニケーション」と「一方向コミュニケーション」に分類できるが、放送は、基本的には送信側から受信側へ向けた一方向のコミュニケーションである。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "特にテレビの放送番組を送出することを「放映する」と表現する場合がある。NHK放送文化研究所によると、「放映」はテレビ番組全般を放送する意味と、映画番組を放送する意味とに用いられ、「放映」を用いた場合その範囲や区別がはっきりしないため、NHKでは原則として「放送」を使い「放映」は使わない。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦後のアメリカではレコードが普及するとともに、軍事利用されていた無線の使用制限が解除され、無線機メーカーとレコード製造会社が放送事業を計画するようになった。ペンシルベニア州ピッツバーグのウェスティングハウス電気製造会社の技術者フランク・コンラッドの実験局「8XK」を母体に世界初の商業放送局「KDKA(英語版)」が開設され、1920年11月2日、ウォレン・ハーディング大統領の当選を伝えた。ただし、実際にはアマチュア無線家が運営する小規模の放送が既に実施されていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "アメリカの放送事業は、ラジオ放送による受信機の売上、および放送で流される音楽のレコードの売上で経営されていた。しかし、放送がスタートした時期のレコードは録音時間が3分程度しかなく、レコードを交換するタイミングで商業広告が入るスタイルとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "その後、アメリカでは多数の放送局が設立され、それが連結して商業ネットワークがつくられるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "アメリカで多数の放送局が設立されるようになると、イギリス政府内では大量生産による安価な受信機がアメリカから流入するのではないかとの懸念があり、国土の狭いイギリスでアメリカと同じように多くの放送局が競合すれば経営難に陥ることが予想されたため政府主導による免許制とすることが好ましいと考えられていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "1922年、マルコーニ無線電信会社(英語版)などがイギリス政府の意向を受けて「英国放送協会(BBC)」の設立に合意し、政府はBBCの経営安定のため受信料を徴収することを特許した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "アメリカ合衆国の放送"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "英国放送協会(BBC)は2034年を目処に伝送路をインターネットへ移行させ、地上波放送電波を返上(停波)することを検討している 。",
"title": "イギリスの放送"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "とりあえず以下を参照のこと。",
"title": "イギリスの放送"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "とりあえず以下を参照のこと。",
"title": "フランスの放送"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "日本では放送事業を規制していた法規としては「放送用私設無線電信電話規則」というものがあった。同規則に代わり、1950年(昭和25年)に放送法が新しく制定・公布された。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "放送法では「公衆によって直接受信されることを目的とする電気通信の送信」(放送法第2条1)と定義した。(ちなみに「電気通信」というのは、英語圏では通用しない概念で、日本(やアジアの一部の国)の行政用語である。)",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "根拠となる法律により以下のように区分される。一般的に「放送」という場合、放送法(以下、「法」と略す。)に基づく放送を指す。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "促音の表記は原文ママ",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "新聞・雑誌などの他のメディアと比較して、放送には特殊な位置づけが与えられている。理由の一つは「電波の有限性(利用出来る電波の周波数帯域は限られている。)」というものがあげられる。 また、放送は音声(テレビであれば映像も含まれる。)で情報を伝えるメディアであり、生放送・生中継が出来ることから即効性もある。それゆえ、放送は他のメディアに比較し国民の思想・世論・人格形成などに与える影響が特に強いと考えられている。そこで、放送の中立性をはじめとして青少年の健全育成に配慮し、公共の福祉の為にこれを活用する必要があるとされる。 そのため、放送事業は、放送法により規制され、総務省(従前は郵政省)によって周波数の割当てを受ける免許事業(許認可事項)であり、勝手に放送事業を行ってはならないとされていた。しかし、2010年(平成22年)の平成22年法律第65号(平成23年6月30日施行)により放送法が改正され、放送局の免許を受けた者が自ら放送事業を営む特定地上基幹放送事業者、後述の#放送法令適用外の放送のほか、認定基幹放送事業者は総務大臣の認定、一般放送事業者は総務大臣の登録又は総務大臣若しくは都道府県知事への届出により放送の業務を行うことができることとなった。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ちなみにアメリカでは届出制である。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "放送系とは、同一の放送番組の放送を同時に行うことのできる放送局の総体 (法第2条の2第2項第3号)を表す。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "同一の放送番組の基幹放送を同時に受信できることが相当と認められる一定の区域(法第91条第2項第2号)。基幹放送普及計画により放送系毎に定められる。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "放送を行う事業者を放送事業者という。そのうち、放送法第92条において、「特定基幹放送事業者、及び基幹放送局提供事業者は、その基幹放送局を用いて行う基幹放送に係る放送対象地域において、当該放送があまねく受信できるように努めるものとする」と規定されている。 飛地、地形上の制約、物理的制約その他によりこの規定を達成していない主な放送事業者は次の通り(†は平成新局)。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "など、平成新局のほとんどが規定を達成できていない。また、平成新局は資金面が乏しいことから2006年以降の地上デジタル放送の中継局整備であまり多く設置することが出来ず、CS再送信やIP放送に任せてしまおうと検討する放送局があったが、総務省や地元自治体などの支援(建設費用の一部を助成すること)によりアナログ未開局地域を含めて先発局と同等の数で設置が進められてきている。逆に放送対象地域外に電波が飛んでいる場合がある(スピルオーバー現象。IP放送の場合方式によれば全国からの受信を可能にしてしまうおそれがある)。デジタル放送の電界強度次第ではアナログでは難視聴状態でもデジタルでは鮮明に受信できる可能性も地域によって出てくる。なお、ラジオ(AM/FM・短波)放送については上記以外のFM局でも山間部などの辺境地の多くは難聴や聴取不可となる地域も多い。AMの場合、送信所・中継局の設置に波長の関係から送信鉄塔自体が高くなり、その高い鉄塔を支えるためのワイヤー設置等で広大な土地が必要とする関係から、中継局を多く設置できず、民放を中心に放送対象地域全域をカバー出来ていないケースが多く、一方で高出力局を中心にスピルオーバーが起こっている既存の親局・中継局が多いことから、既存の親局・中継局の増力はスピルオーバーをなお一層拡大させる問題があるため、増力を実施できるケースはほとんど無いのが実情である。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "一の基幹放送局の放送に係る区域。一般的にいえば、標準の受信設備で放送を良好に受信できると想定される区域(強・中電界地域)のことであり、地上波電界強度により機械的に定まる。これらは総務省令基幹放送局の開設の根本的基準第2条第1項第15号で規定されている。 放送対象地域が放送系毎に定められるのに対し、放送区域は無線局(送信所)毎に定められる。 例えば地上アナログテレビジョン放送の場合、電界強度が3mV/m(70dBμ)以上である区域、地上デジタルテレビジョン放送の場合、地上波電界強度が1mV/m(60dBμ)以上である区域が放送区域である。これは、UHFテレビ放送の場合アナログ放送は地上4mの高さ、デジタル放送は地上10mの高さで14〜20素子程度のUHF八木・宇田アンテナを設置した場合の受信できる範囲に相当する。移動体端末で1セグメント放送受信の場合、地上10m未満の高さでの受信となるため、放送区域内でも受信時に電界強度が弱い場合は受信できない。逆に放送区域外でも環境によっては受信が容易な場合も多い。地上波のFM放送・テレビ放送の場合、パラスタックアンテナ(大型でアンテナの設置・維持管理が困難である欠点があったが、最近は設置・維持管理を容易にしようと小型で遠距離受信可能なアンテナ(マスプロ電工の「LS14TMH」、DXアンテナの「UBL-62DA」、八木アンテナの「US-LD14CR」など)が発売されている。)をアナログ放送は地上4mを超える高さ、デジタル放送は地上10mを超える高さに設置することによって放送区域外(弱電界地域)でも良好に受信できる場合がある。場合によってはアンテナと受信機の間に受信ブースターを取り付ける。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "放送が影響力の大きいメディアであることをかんがみ、基幹放送事業者、認定放送持株会社並びに基幹放送局提供事業者への外資規制が設けられている。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "これに抵触した特定地上基幹放送事業者あるいは基幹放送局提供事業者に対して、総務大臣は改善命令や電波法第75条第1項に基づく無線局免許の取消しの処分を行わなければならない。但し無線局免許の残存期間中はその状況を勘案し、免許を取り消さないことができる(電波法第75条第2項)ため、抵触しても必ずしも取消しになるとは限らない(当然ながら、その状況下での免許更新はできない。)。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "同様に、これに抵触した認定基幹放送事業者及び認定放送持株会社に対しては、総務大臣はその認定を取り消すことができる(法第104条、第166条第1項第1号)としている。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "これらを防ぐための防衛措置として、外国人からの株式の名義書換請求を拒否することを認めている(法第116条、第125条、第161条)。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "なお一般放送事業者に関してはこのような規定がなく、基幹放送事業を兼業している、あるいは無線局免許を受けている場合を除き、外資支配を理由とした事業者登録の抹消、若しくは業務の停止処分を受けることはない。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ビル内、事業所内などに備え付けたスピーカーに、有線、場合によっては無線の通信設備により、一斉送信をして連絡や呼び出しなどに使われる。これらも放送法においては一般放送の定義に含まれるが、受信障害対策中継放送、微弱電力無線通信設備(ワイヤレスマイクの一部等)、単一の構内に完結する自営有線電気通信設備(構内放送)やこれに類似する車両・船舶・航空機内の有線電気通信設備(車内放送等)、引込端子数が50以下の有線電気通信設備により行われる有線一般放送(その全てが同時再放送又は共同聴取業務であるものその他これに類するものとして総務大臣が別に告示するものに限る。)などは、原則として放送法の適用除外となり、放送法上の登録・届出手続を要しない。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "但し、有料放送業務や協会放送受信契約締結義務など、放送法またはこれに基づく政省令や技術基準において「除外の除外」条項を設けている場合や、有線電気通信法における有線電気通信設備、消防法における非常用放送設備などの他法令による規制あるいは基準が設けられている事がある点に注意が必要。また、受信障害対策中継放送については、電波法に基づく無線局免許が必要であるほか、基幹放送普及計画などの放送法の一部の規定の適用を受ける。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "なお在日米軍による無線放送(AFN)は、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う電波法の特例に関する法律に基づき日米地位協定に定めるところによる。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "小学校、中学校、高等学校などの学校には、校内向けの放送設備が整えられている。児童、生徒や教員がこれを使い、全校生徒への連絡等に利用する。これを校内放送と言う。 利便性から、その設備を使用しての特定の生徒への呼び出しや連絡に使用される場合もある。 児童、生徒の委員会活動として一般的に放送委員会や、それに類する組織が設けられており、これらに所属する児童、生徒を放送委員という。放送委員は、全校朝礼の放送設備の準備、昼休みにいわゆるお昼の放送、下校時刻を知らせる放送や、運動会など学校行事の放送を行う。 設備の整っている学校では、校内でテレビ中継のようなこと(学校内での各教室への映像配信)ができる場合もある。 これら校内放送を基にし、中高生のメディアリテラシーの実践の場として、アナウンスや、朗読、ラジオ番組やテレビ番組の技術等を競うNHK杯全国高校放送コンテストや、NHK杯全国中学校放送コンテストが開催されている。",
"title": "日本"
}
] | 放送とは、電気通信を用いて、音声・映像(動画)・文字などで表現された情報を、「1対多」の形で送信すること。 「館内放送」「車内放送」といった語用もあるが、日本語で単に「放送」といった場合、多くはラジオ放送およびテレビジョン放送、すなわち受信機等の媒体(メディア)へ向けた電磁波による番組の送信を指す。本項目ではこの放送番組を送信する放送について記述する。 | {{出典の明記|date=2012年3月9日 (金) 07:36 (UTC)}}
{{wiktionary}}
'''放送'''(ほうそう、{{Lang-en-short|broadcasting}}<ref>[https://www.lexico.com/definition/broadcasting broadcasting] Oxford and I'mが? Dictionary on Lexico.com</ref>, {{Lang-en-short|transmission}}<ref>[https://www.lexico.com/definition/transmission transmission] Oxford Dictionary on Lexico.com</ref>)とは、[[電気通信]]を用いて、[[音声]]・映像([[動画]])・[[文字]]などで表現された[[情報]]を、「1対多」の形で送信すること。
「館内放送」「[[車内放送]]」といった語用もあるが、日本語で単に「放送」といった場合、多くは[[ラジオ放送]]および[[テレビジョン放送]]、すなわち受信機等の[[媒体]]([[メディア (媒体)|メディア]])へ向けた[[電磁波]]による[[番組]]の送信を指す。本項目ではこの放送番組を送信する放送について記述する。
== 概説 ==
=== 放送の主体と分類 ===
放送を行う主体とその機器等を合わせて'''[[放送局]]'''(ほうそうきょく)と呼ぶ。
放送事業は、その運営主体別に[[国営放送]]、[[公共放送]]、[[民間放送]]に分類される。[[日本]]に例を取ると、[[日本放送協会]](NHK)と[[放送大学学園]]が公共放送に該当する。なお日本において[[日本国政府]]が運営する国営放送は存在しないが、[[在日米軍]]の運営による[[AFN]]が日本の領内に放送局を設置している。
=== 放送のコミュニケーション論 ===
[[コミュニケーション]]の観点から見た場合、放送は、対面(フェイス・トゥ・フェイス)で行われるものではなく、[[通信]]であることから、隔地間で行う「テレコミュニケーション」である。
また、コミュニケーションは、構造別に「1対1」と「1対多」に分類できるが、放送はおおむね「1対多」を想定して行われる。特にラジオ放送・テレビ放送は、不特定かつ多数の[[大衆]]({{Lang-en-short|mass}} マス)を相手に行うので[[マスコミュニケーション]]である。
さらに、コミュニケーションは、方向別に「双方向コミュニケーション」と「一方向コミュニケーション」に分類できるが、放送は、基本的には送信側から受信側へ向けた一方向のコミュニケーションである<ref group="注">この弱点を補うために、放送番組では、希望する観覧者をスタジオに招き、場合によっては出演させたり、[[郵便]]・[[電話]]・[[インターネット]]または放送技術上の処理([[双方向番組]])などを利用して聴取者・視聴者の意見を紹介したりする、といった試みも行われてきている。それでも放送を学問的に分類する時は基本的には「一方向のコミュニケーション」に分類する。</ref>。
=== 語用のありかた ===
特に[[テレビ番組|テレビの放送番組]]を送出することを「放映する」と表現する場合がある。[[NHK放送文化研究所]]<ref>「[http://www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/kotoba_qq_00100101.html NHK放送文化研究所]」 NHKオンライン、2000年10月1日{{リンク切れ|date=2022-07}}</ref>によると、「放映」はテレビ番組全般を放送する意味と、映画番組を放送する意味とに用いられ、「放映」を用いた場合その範囲や区別がはっきりしないため、NHKでは原則として「放送」を使い「放映」は使わない。
== 歴史 ==
{{Main|{{仮リンク|放送の歴史|en|History of broadcasting}}}}
=== アメリカ ===
[[第一次世界大戦]]後のアメリカでは[[レコード]]が普及するとともに、軍事利用されていた[[無線通信|無線]]の使用制限が解除され、無線機メーカーとレコード製造会社が放送事業を計画するようになった<ref name="minerva38">原麻里子、柴山哲也編著『公共放送BBCの研究』[[ミネルヴァ書房]]、2011年、38頁</ref>。[[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]の[[ウェスティングハウス・エレクトリック|ウェスティングハウス電気製造会社]]の技術者[[フランク・コンラッド]]の実験局「8XK」を母体に世界初の商業放送局「{{仮リンク|KDKA|en|KDKA (AM)}}」が開設され、[[1920年]][[11月2日]]、[[ウォレン・ハーディング]]大統領の当選を伝えた<ref name="minerva38" />。ただし、実際には[[アマチュア無線家]]が運営する小規模の放送が既に実施されていた<ref name="minerva38" />。
アメリカの放送事業は、[[ラジオ放送]]による受信機の[[売上]]、および放送で流される音楽の[[レコード]]の売上で経営されていた<ref name="minerva38" />。しかし、放送がスタートした時期のレコードは録音時間が3分程度しかなく、レコードを交換するタイミングで商業広告が入るスタイルとなった<ref name="minerva38" />。
その後、アメリカでは多数の[[放送局]]が設立され、それが連結して[[ネットワーク_(放送)|商業ネットワーク]]がつくられるようになった<ref name="minerva38" />。
=== イギリス ===
アメリカで多数の放送局が設立されるようになると、[[イギリス政府]]内では大量生産による安価な受信機がアメリカから流入するのではないかとの懸念があり、国土の狭いイギリスでアメリカと同じように多くの放送局が競合すれば経営難に陥ることが予想されたため政府主導による免許制とすることが好ましいと考えられていた<ref name="minerva39">原麻里子、柴山哲也編著『公共放送BBCの研究』[[ミネルヴァ書房]]、2011年、39頁</ref>。
[[1922年]]、{{仮リンク|マルコーニ無線電信会社|en|Marconi Company}}などがイギリス政府の意向を受けて「[[英国放送協会]](BBC)」の設立に合意し、政府はBBCの経営安定のため受信料を徴収することを特許した<ref name="minerva39" />。
== アメリカ合衆国の放送 ==
{{節スタブ|date=2020年3月}}
{{Main|{{仮リンク|アメリカ合衆国の放送|en|Broadcasting in the United States}}}}
{{Seealso|{{仮リンク|アメリカ合衆国のラジオ放送|en|Radio in the United States}}|{{仮リンク|アメリカ合衆国のテレビ放送|en|Television in the United States}}}}
== イギリスの放送 ==
{{節スタブ|date=2020年3月}}
[[英国放送協会]](BBC)は[[2034年]]を目処に[[伝送路]]をインターネットへ移行させ、地上波放送電波を返上(停波)することを検討している<ref>{{Cite web|和書|author=内田泰 |date=2019-11-21 |url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01096/00001/ |title=遅延もはや地デジ並み、「NHK同時配信、BBC電波返上」議論の裏に映像配信の急速進化(有料記事)|publisher=[[日経BP|日経クロステック]] |accessdate=2021-08-26}}</ref> 。
とりあえず以下を参照のこと。
* {{仮リンク|イギリスの公共放送|en|Public service broadcasting in the United Kingdom}}
* {{仮リンク|イギリスのラジオ放送|en|Radio in the United Kingdom}}
* {{仮リンク|イギリスのテレビ放送|en|Television in the United Kingdom}}
== フランスの放送 ==
{{節スタブ|date=2020年3月}}
とりあえず以下を参照のこと。
* {{仮リンク|フランスのラジオ放送|fr|Radio en France}}
* {{仮リンク|フランスのテレビ放送|fr|Télévision en France}}
== 日本 ==
=== 歴史 ===
{{節スタブ|date=2020年3月}}
日本では放送事業を規制していた法規としては「[[放送用私設無線電信電話規則]]」というものがあった。同規則に代わり、[[1950年]](昭和25年)に[[放送法]]が新しく制定・公布された。
=== 法令による定義 ===
放送法では「[[公衆]]によって直接受信されることを目的とする電気通信の送信」(放送法第2条1)と定義した。(ちなみに「[[電気通信]]」というのは、英語圏では通用しない概念で、日本(やアジアの一部の国)の行政用語である。)
=== 法令に基づく放送 ===
{{Law|section=1}}
==== 法令による区分 ====
根拠となる[[法律]]により以下のように区分される。一般的に「放送」という場合、[[放送法]](以下、「法」と略す。)に基づく放送を指す。
; 放送法による区分
* 放送 - 公衆によつて直接受信されることを目的とする[[電気通信]]の送信(法第2条第1号)
** [[基幹放送]] - [[電波法]]の規定により放送をする[[無線局]]に専ら又は優先的に割り当てられるものとされた[[電波の周波数による分類|周波数]]の[[電波]]を使用する放送(法第2条第2号)
*** 衛星基幹放送 - [[人工衛星]]の[[放送局]]を用いて行われる基幹放送(法第2条第13号)
*** 移動受信用地上基幹放送 - 自動車その他陸上を移動するものに設置して使用し、又は携帯して使用するための受信設備により受信される事を目的とする基幹放送であつて、衛星基幹放送以外のもの(法第2条第14号)
*** 地上基幹放送 - 基幹放送であつて、衛星基幹放送及び移動受信用地上基幹放送以外のもの(法第2条第15号)
** 一般放送 - 基幹放送以外の放送(法第2条第3号)
*** 衛星一般放送 - [[人工衛星局]]、[[衛星基幹放送試験局]]、及び衛星基幹放送を行う[[実用化試験局]]を用いて行われる一般放送([[放送法施行規則]](以下、「施行規則」と略す。)第2条第3号)
*** 有線一般放送 - 有線電気通信を用いて行われる一般放送(施行規則第2条第4号)
**** 有線テレビジョン放送 - テレビジョンによる有線一般放送(施行規則第2条第5号)
**** (有線テレビジョン放送以外の有線一般放送 - 定義条文なし)
*** 地上一般放送 - 一般放送であつて、衛星一般放送及び有線一般放送以外のもの(施行規則第2条第4号の2)
; [[著作権法]]による区分
* 放送 - [[公衆送信]]のうち、公衆によつて同一の内容の送信が同時に受信されることを目的として行う無線通信の送信(法第2条第8号)
* 有線放送 - 公衆送信のうち、公衆によつて同一の内容の送信が同時に受信されることを目的として行う有線電気通信の送信(法第2条第9号の2)
<small>[[促音]]の表記は[[原文ママ]]</small>
==== 放送の地位 ====
[[新聞]]・[[雑誌]]などの他の[[メディア (媒体)|メディア]]と比較して、放送には特殊な位置づけが与えられている。理由の一つは「電波の有限性(利用出来る電波の周波数帯域は限られている。)」というものがあげられる。
また、放送は音声(テレビであれば映像も含まれる。)で情報を伝えるメディアであり、[[生放送]]・生中継が出来ることから即効性もある。それゆえ、放送は他のメディアに比較し国民の思想・世論・人格形成などに与える影響が特に強いと考えられている。そこで、放送の中立性をはじめとして青少年の健全育成に配慮し、[[公共の福祉]]の為にこれを活用する必要があるとされる。
そのため、放送事業は、放送法により規制され、[[総務省]](従前は[[郵政省]])によって周波数の割当てを受ける[[免許]]事業(許認可事項)であり、勝手に放送事業を行ってはならないとされていた。しかし、[[2010年]](平成22年)の平成22年法律第65号(平成23年6月30日施行)により放送法が改正され、放送局の免許を受けた者が自ら放送事業を営む特定地上[[基幹放送事業者]]、後述の[[#放送法令適用外の放送]]のほか、認定基幹放送事業者は総務大臣の認定<ref>放送法第93条第1項。</ref>、[[一般放送事業者]]は総務大臣の登録<ref>放送法第126条第1項。</ref>又は総務大臣若しくは都道府県知事への届出<ref>放送法第133条第1項。</ref>により放送の業務を行うことができることとなった。
ちなみに[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では届出制である{{要出典|date=2017年12月}}。
==== 放送系 ====
放送系とは、同一の放送番組の放送を同時に行うことのできる放送局の総体 (法第2条の2第2項第3号)を表す。
* [[親局]] - 放送対象地域ごとの放送系のうち最も中心的な機能を果たす放送局([[基幹放送用周波数使用計画]]第1 総則1 (2))
* [[中継局]] - 親局以外の放送局(同計画第1 総則1 (3))[[コールサイン]]を有する中継局もある。
==== 放送対象地域 ====
{{main|放送対象地域}}
同一の放送番組の基幹放送を同時に受信できることが相当と認められる一定の区域(法第91条第2項第2号)。[[基幹放送普及計画]]により[[#放送系|放送系]]毎に定められる。
* [[コミュニティ放送]] - 一の市町村の一部の区域(当該区域が他の市町村の一部の区域に隣接する場合は、その区域を併せた区域とし、当該区域が他の市町村の一部の区域に隣接し、かつ、当該隣接する区域が他の市町村の一部の区域に隣接し、住民のコミュニティとしての一体性が認められる場合には、その区域を併せた区域とする。)(施行規則別表第5号(注)12)。
* ローカル放送 - 県域放送の他に広域放送が存在する。また、[[外国語放送]]を行う放送局([[MegaNet]]の4局(うち、[[愛知国際放送]]は[[2010年]]廃止))は、告示<ref>[https://www.tele.soumu.go.jp/horei/law_honbun/00004690.html 平成7年郵政省告示第52号 一般放送事業者の行う超短波放送のうちの外国語放送を行う放送局の放送対象地域](総務省電波利用ホームページ 総務省電波関係法令集)</ref>により[[市区町村]]及び[[国際空港]]単位で規定されている。[[放送大学学園]]の地上放送では関東広域圏のうち授業実施予定地域とされている。また[[NHK放送センター|NHK東京総合デジタルテレビジョン]]は関東広域圏のうち、茨城県、栃木県及び群馬県は含まない形とされている<ref>[https://www.tele.soumu.go.jp/horei/law_honbun/00004680.html 基幹放送普及計画(昭和63年郵政省告示第660号)](総務省電波利用ホームページ)</ref>。
** [[県域放送]] - [[都道府県]]の各区域。
**: ただし、[[滋賀県]]と[[京都府]](民放中波のみ)、[[岡山県]]と[[香川県]](民放テレビのみ)、[[鳥取県]]と[[島根県]](民放テレビ、民放中波及び民放FM)、[[佐賀県]]と[[長崎県]](民放中波のみ)については、それぞれの府県の区域を併せた区域。
** [[広域放送]] - 関東広域圏・中京広域圏・近畿広域圏
* [[全国放送]]
* [[内外放送]]
* [[国際放送]]
===== 放送対象地域の一部をカバーしていない放送事業者 =====
放送を行う[[事業者]]を[[放送事業者]]という。そのうち、放送法第92条において、「特定基幹放送事業者、及び[[基幹放送局提供事業者]]は、その基幹放送局を用いて行う基幹放送に係る放送対象地域において、当該放送があまねく受信できるように努めるものとする」と規定されている。
飛地、地形上の制約、物理的制約その他によりこの規定を達成していない主な放送事業者は次の通り(†は[[平成新局]])。
* [[FM NORTH WAVE]]†(網走エリア全域と札幌・函館・室蘭・旭川・帯広・釧路エリアの各一部地域で聴取不可。radikoにより聴取可能。)
* [[エフエム福島|ふくしまFM]]†(会津地方西部で聴取不可。radikoにより聴取可能。)
* [[TBSラジオ]]、[[文化放送]]、[[ニッポン放送]]、[[エフエム東京|TOKYO FM]]([[小笠原諸島]]で聴取不可。)
** このうち、TOKYO FMについては現在既設の小笠原村営光ファイバーケーブルを使用した防災放送受信機により聴くことができる。また、下記の[[J-WAVE]]を含めた民放各局はradikoにより、聴取可能となっている。
* [[J-WAVE]]([[伊豆大島]]を除く[[東京都島嶼部]]ではradikoにより聴取可能。)
* [[山口朝日放送]]†(未だに視聴不可の地域も残されている。)
* [[あいテレビ]]†、[[愛媛朝日テレビ]]†(未だに視聴不可の地域も残されている。)
* [[エフエム長崎|fm nagasaki]]([[長崎市]]東部・[[西海市]]・[[対馬市]]・[[壱岐市]]・[[五島市]]などで聴取不可。これらの地域でもradikoにより聴取可能。)
* [[大分朝日放送]]†(未だに視聴不可の地域も残されている。)
* [[エフエム鹿児島|μFM]]†([[薩南諸島]]で聴取不可。radikoにより聴取可能。)
* [[NHK沖縄放送局]](ラジオ第2・FM [[大東諸島]]で聴取不可。)
** これまで聴取困難とされていたNHK沖縄放送局〈ラジオ第1のみ〉、琉球放送ラジオ〈RBCiラジオ〉、[[ラジオ沖縄]]についてはFM波による中継局が[[2007年]][[4月1日]]に開局しこの困難も解消された。また、NHKラジオ第2・FMについてはラジオ第1とともに2011年9月1日に開始した「NHKネットラジオ らじる★らじる」によりこの困難は解消された(当初は関東地方の放送内容のみの配信であったため本来の九州・沖縄ブロックおよび沖縄県域のローカル放送は聴取できなかったが、後に福岡放送局の番組内容も聴取可能となった。)。
* [[エフエム沖縄|FM OKINAWA]]([[宮古列島]]を除く[[先島諸島]]と[[大東諸島]]で聴取不可。radikoにより聴取可能。)
など、平成新局のほとんどが規定を達成できていない。また、平成新局は資金面が乏しいことから2006年以降の地上デジタル放送の中継局整備であまり多く設置することが出来ず、CS再送信や[[IP放送]]に任せてしまおうと検討する放送局があったが、総務省や地元自治体などの支援(建設費用の一部を助成すること)によりアナログ未開局地域を含めて先発局と同等の数で設置が進められてきている。逆に放送対象地域外に電波が飛んでいる場合がある([[スピルオーバー]]現象。IP放送の場合方式によれば全国からの受信を可能にしてしまうおそれがある)。デジタル放送の電界強度次第ではアナログでは難視聴状態でもデジタルでは鮮明に受信できる可能性も地域によって出てくる。なお、ラジオ(AM/FM・短波)放送については上記以外のFM局でも山間部などの辺境地の多くは難聴や聴取不可となる地域も多い。AMの場合、送信所・中継局の設置に波長の関係から送信鉄塔自体が高くなり、その高い鉄塔を支えるためのワイヤー設置等で広大な[[土地]]が必要とする関係から、中継局を多く設置できず、民放を中心に放送対象地域全域をカバー出来ていないケースが多く、一方で高出力局を中心にスピルオーバーが起こっている既存の親局・中継局が多いことから、既存の親局・中継局の増力はスピルオーバーをなお一層拡大させる問題があるため、増力を実施できるケースはほとんど無いのが実情である。
==== 放送区域 ====
{{main|放送区域}}
一の基幹放送局の放送に係る区域。一般的にいえば、標準の受信設備で放送を良好に受信できると想定される区域(強・中電界地域)のことであり、地上波[[電界強度]]により機械的に定まる。これらは総務省令[[基幹放送局の開設の根本的基準]]第2条第1項第15号で規定されている。
放送対象地域が[[#放送系|放送系]]毎に定められるのに対し、放送区域は無線局(送信所)毎に定められる。
例えば[[NTSC|地上アナログテレビジョン放送]]の場合、電界強度が3mV/m(70dBµ)以上である区域、[[地上デジタルテレビジョン放送]]の場合、地上波電界強度が1mV/m(60dBµ)以上である区域が放送区域である。これは、UHFテレビ放送の場合アナログ放送は地上4mの高さ、デジタル放送は地上10mの高さで14〜20素子程度のUHF[[八木・宇田アンテナ]]を設置した場合の受信できる範囲に相当する。移動体端末で[[ワンセグ|1セグメント放送]]受信の場合、地上10m未満の高さでの受信となるため、放送区域内でも受信時に電界強度が弱い場合は受信できない。逆に放送区域外でも環境によっては受信が容易な場合も多い。地上波のFM放送・テレビ放送の場合、[[パラスタックアンテナ]](大型でアンテナの設置・維持管理が困難である欠点があったが、最近は設置・維持管理を容易にしようと小型で遠距離受信可能なアンテナ([[マスプロ電工]]の「LS14TMH」、[[DXアンテナ]]の「UBL-62DA」、[[八木アンテナ (企業)|八木アンテナ]]の「US-LD14CR」など)が発売されている。)をアナログ放送は地上4mを超える高さ、デジタル放送は地上10mを超える高さに設置することによって放送区域外(弱電界地域)でも良好に受信できる場合がある。場合によってはアンテナと受信機の間に[[受信ブースター]]を取り付ける。
==== 放送事業者等の外資規制 ====
放送が影響力の大きいメディアであることをかんがみ、[[放送事業者#基幹放送事業者|基幹放送事業者]]、認定[[放送持株会社]]並びに[[受託放送事業者|基幹放送局提供事業者]]への[[外資規制]]が設けられている。
* [[放送事業者#基幹放送事業者|特定地上基幹放送事業者]] - [[外国人]]が業務を執行する[[役員]]に就任すること及び5分の1以上の議決権を保有することを制限(電波法第5条第4項)。
* [[放送事業者#基幹放送事業者|認定基幹放送事業者]] - 外国人が業務を執行する役員に就任することを制限。認定地上基幹放送事業者にあっては、加えて5分の1以上の議決権を保有することを制限(法第93条第1項第6号)。
* 認定放送持株会社 - 外国人が業務を執行する役員に就任すること及び5分の1以上の議決権を保有することを制限(法第159条第2項第5号)
* 基幹放送局提供事業者 - 外国人が代表者に就任すること、役員のうち3分の1以上を占めること及び3分の1以上の議決権を保有することを制限(電波法第5条第1項、通常の無線局と同じ規制)。
これに抵触した特定地上基幹放送事業者あるいは基幹放送局提供事業者に対して、総務大臣は改善命令や電波法第75条第1項に基づく無線局免許の取消しの'''処分を行わなければならない'''。但し無線局免許の残存期間中はその状況を勘案し、免許を'''取り消さないことができる'''(電波法第75条第2項)ため、抵触しても必ずしも取消しになるとは限らない(当然ながら、その状況下での免許更新はできない。)。
同様に、これに抵触した認定基幹放送事業者及び認定放送持株会社に対しては、総務大臣はその認定を'''取り消すことができる'''(法第104条、第166条第1項第1号)としている。
これらを防ぐための防衛措置として、外国人からの[[株式]]の名義書換請求を拒否することを認めている(法第116条、第125条、第161条)。
なお[[一般放送事業者]]に関してはこのような規定がなく、基幹放送事業を兼業している、あるいは無線局免許を受けている場合を除き、外資支配を理由とした事業者登録の抹消、若しくは業務の停止処分を受けることはない。
=== 放送法令適用外の放送 ===
{{Main2|[[Public Address|パブリック・アドレス]](公衆伝達)も}}
==== 適用除外 ====
ビル内、事業所内などに備え付けたスピーカーに、有線、場合によっては無線の通信設備により、一斉送信をして連絡や呼び出しなどに使われる。これらも放送法においては一般放送の定義に含まれるが、[[受信障害対策中継放送]]、[[微弱無線局|微弱電力無線通信設備]]([[ワイヤレスマイク]]の一部等)、単一の構内に完結する自営有線電気通信設備(構内放送)やこれに類似する車両・船舶・航空機内の有線電気通信設備([[車内放送]]等)、引込端子数が50以下の有線電気通信設備により行われる有線一般放送(その全てが同時再放送又は共同聴取業務であるものその他これに類するものとして総務大臣が別に告示するものに限る。)などは、原則として放送法の適用除外となり、放送法上の登録・届出手続を要しない<ref>放送法第176条第1項、放送法施行規則第214条第1項。</ref>。
但し、有料放送業務や[[NHK受信料|協会放送受信契約締結義務]]など、放送法またはこれに基づく政省令や技術基準において「除外の除外」条項を設けている場合や、[[有線電気通信法]]における有線電気通信設備、[[消防法]]における非常用放送設備などの他法令による規制あるいは基準が設けられている事がある点に注意が必要。また、[[受信障害対策中継放送]]については、電波法に基づく無線局免許が必要であるほか、[[基幹放送普及計画]]などの放送法の一部の規定の適用を受ける<ref>放送法第176条第2項及び第3項。</ref>。
なお在日米軍による無線放送(AFN)は、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う電波法の特例に関する法律]]に基づき[[日米地位協定]]に定めるところによる。
==== 校内放送 ====
[[小学校]]、[[中学校]]、[[高等学校]]などの[[学校]]には、校内向けの放送設備が整えられている。児童、生徒や教員がこれを使い、全校生徒への連絡等に利用する。これを校内放送と言う。
利便性から、その設備を使用しての特定の生徒への呼び出しや連絡に使用される場合もある。
児童、生徒の委員会活動として一般的に'''放送委員会'''や、それに類する組織が設けられており、これらに所属する児童、生徒を'''放送委員'''という。放送委員は、全校朝礼の放送設備の準備、昼休みにいわゆるお昼の放送、下校時刻を知らせる放送や、運動会など学校行事の放送を行う。<!--その昔NHKがニュースの最後などに「〜。えぬえいちけい」というアナウンスを付けていたのを真似して、放送の最後にたとえば山田小学校放送委員会なら「わいえいちあい」と付けたりする-->
設備の整っている学校では、校内でテレビ中継のようなこと(学校内での各教室への映像配信)ができる場合もある。
これら校内放送を基にし、中高生のメディアリテラシーの実践の場として、アナウンスや、朗読、ラジオ番組やテレビ番組の技術等を競う[[NHK杯全国高校放送コンテスト]]や、[[NHK杯全国中学校放送コンテスト]]が開催されている。
== 関連項目 ==
=== コンテンツ ===
{{colbegin||20em}}
* [[報道]]、[[情報]]、[[教養]]、[[娯楽]]
* [[テレビショッピング]]
* [[政見放送]]
* [[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]
* [[ニュース系列]]
* [[ラジオネットワーク]]
* [[ローカル番組]]
* [[ケーブルテレビ]]
* [[エアチェック]]([[録画]]・[[録音]])
{{colend}}
=== 放送方式など ===
{{colbegin||20em}}
* [[電波の周波数による分類]]
* (カラーテレビの)[[世界の放送方式]]
* [[コンポジット映像信号|コンポジット]][[映像信号]]種類([[NTSC]]、[[PAL]]、[[SECAM]])
* [[ラジオ]]、[[テレビ]]
* [[音声多重放送]]
* [[文字多重放送]]
* [[クローズドキャプション]]
* [[試験放送]]
* [[フィラー]]
* [[アマチュア無線]](アマチュア無線TV)
{{colend}}
=== 災害関連 ===
* [[緊急警報放送]]、[[イベント放送局]]、[[臨時災害放送局]]
=== 衛星・デジタル関連 ===
* [[ハイビジョン]]
* [[衛星放送]]
* [[ISDB]]
* [[衛星データ放送]]
* [[地上デジタルテレビジョン放送]]
* [[地上デジタル音声放送]]
* [[サイマル放送]]
=== ユビキタスネットワーク ===
* [[インターネット放送]]([[動画共有サービス]]、[[ビデオ・オン・デマンド]])
=== 有線系 ===
* [[ケーブルテレビ]]、[[有線ラジオ放送]]
* [[IP放送]]
* [[光放送]]
* [[有線役務利用放送]]
* [[電気通信役務利用放送法]]
* [[区域外再放送]]
=== マスコミ・放送倫理 ===
* [[メディア (媒体)]]-[[マスメディア]]
* [[放送倫理・番組向上機構]](BPO)
* [[放送禁止用語]]
* [[マスメディアの集中排除]]
* [[表現の自主規制]]
=== 制作関連 ===
* [[生放送]]
* [[ジャパンコンソーシアム]]
* スタッフ({{ill2|テレビスタッフ|en|Television crew}}、[[アナウンサー]])
* [[視聴率]] - [[聴取率]]
* [[スタジオ]]
* [[かつて日本に存在した放送局]]
* [[苫米地英俊]] - 「放送」という造語の発案者<ref>『[[博士も知らないニッポンのウラ]]』 30 「超天才Dr.苫米地英人の「洗脳」秘録 苫米地英人」</ref>。
=== その他 ===
* [[国際放送]]、[[短波放送]]
* [[海賊放送]]
* [[通信と放送の融合]]
* [[放送事故]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{通信と放送に関する制度}}
{{コミュニケーション学}}
{{Telecommunications}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ほうそう}}
[[Category:放送|*]]
[[Category:電気通信]] | 2003-03-10T09:29:09Z | 2023-11-22T16:29:12Z | false | false | false | [
"Template:Main2",
"Template:Colend",
"Template:Kotobank",
"Template:出典の明記",
"Template:節スタブ",
"Template:Law",
"Template:Colbegin",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist2",
"Template:通信と放送に関する制度",
"Template:Normdaten",
"Template:仮リンク",
"Template:要出典",
"Template:Ill2",
"Template:Reflist",
"Template:リンク切れ",
"Template:Cite web",
"Template:Main",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Seealso",
"Template:コミュニケーション学",
"Template:Telecommunications",
"Template:Wiktionary"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E9%80%81 |
Subsets and Splits
No community queries yet
The top public SQL queries from the community will appear here once available.